ラヴクラフト全集〈3〉
H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳
[#改ページ]
戸口にあらわれたもの The Thing on the Doorstep
[#改ページ]
1
いかにもわたしは親友の頭に六発の弾丸を射ちこんだ。しかしこの陳述によって、親友を殺したのがわたしではないことを示したいと願っている。最初はわたしも狂人と呼ばれるだろう――わたしが狙撃した、アーカム療養所の入院患者より狂っていると。その後これを読んでくださる方の幾人かは、陳述の各部を比較考察し、既知の事実と照らしあわせ、あの恐怖の証拠――戸口にあらわれたもの――に直面した後、はたしてわたしには別の考え方ができただろうかと思ってくださることだろう。
あのときまで、わたしもまた、自分がかかわっていた法外な事件に、狂気以外の何物も読みとってはいなかった。いまですら、自分がたぶらかされたのではなかったか――はたして自分は正気を保っているのか――と自問する始末だ。わたしにはわからない。しかしエドワード・ダービイとアセナス・ダービイについて、奇怪なことをあれこれ口にする者がいるし、無神経な警官たちでさえ、あの恐ろしい最後の訪問を解釈するにあたって途方にくれている。警官たちは説得力もないままに、解雇された召使たちの企てた気味の悪い冗談か見せしめだという説をたてようとしたが、彼らとしても心のなかでは、真相がきわめて恐ろしく、また信じられないものであることを知っているのだ。
だからわたしは、エドワード・ダービイを殺したのがわたしではないといおう。むしろわたしはエドワードの仇をうち、そうすることで、生かしめておけば人類すべてにいいようもない恐怖を解き放ちかねない、恐るべき怪異を地上から抹殺したのだ。われわれが日常歩む道のごく近くに、影のつどう暗黒地帯が存在し、ときとして邪悪な霊が押しいってくる。そうなったとき、そのことを知る者は、結果を考えるまえに攻撃にうってでなければならない。
わたしはエドワード・ピックマン・ダービイの生涯を知っている。わたしより八つ年下だが、きわめて早熟で、エドワードが八歳、わたしが十六歳の頃から、わたしたちには共通点が数多くあった。神童という言葉がいかにもふさわしいエドワードは、七歳のときに、まわりの家庭教師たちをたまげさせる、ほとんど病的ともいえる傾向の、陰気で現実離れした詩を書いていた。ときならぬ才能の早咲きには、おそらく個人教授をうけたことと、外にも出されず家のなかで大切に育てられたことが関係しているのだろう。ひとり息子であるうえに、生まれつき体が弱く、溺愛《できあい》する両親はこれに驚いて、常に手もとに置いて放さなかった。ダービイは乳母といっしょでなければ外出することも許されず、他の子供たちと自由奔放に遊べる機会はほとんどなかった。明らかにこういったことのすべてが、想像を唯一自由への道とする少年に、一風変わったひそやかな内的生活の発達をうながしたのだろう。
ともかく、少年エドワードの学識といったら、異様なくらいけたはずれで、すらすら書きあげるものが、遙かに年上のわたしの心をうっとりとさせるのだった。ちょうどその頃、わたしはいささかグロテスクな気味のある絵画に心をかたむけていて、この年下の少年に、珍しい同種の気質を見いだした。わたしたちは影と驚異に対する愛情をともにもっていたが、その背後にあったものは、紛れもなく、わたしたちの住んでいた、古びて、朽ちゆかんとする、そこはかとなく恐ろしい街だった。すなわち、ひしめきあってたわむ駒形切妻屋根と崩れゆくジョージア風の欄干とを、ひそかに囁くミスカトニック河のそばで幾世紀にもわたってはりだしている、魔女の呪いと伝説が巣食う街、アーカムのことである。
歳月が流れるにつれ、わたしは建築に興味を寄せ、エドワードの悪魔的な詩をまとめた本の挿絵を担当する計画は放棄したが、そのことでわたしたちの友情にひびが入るようなことはなかった。若きエドワード・ダービイの奇妙な才能は人目を惹くほどに発揮され、十八歳をむかえた年、悪夢のような叙情詩がまとめられ、『アザトホースその他の恐怖』の表題のもとに刊行されたときには、一大センセーションを巻きおこした。エドワードは悪名高いボードレール風の詩人、ジャスティン・ジョブリイと文通していた。ジョブリイは『石碑の人びと』を発表し、ハンガリーの邪悪で忌《いま》わしい村を訪れた後、一九二六年に精神病院で悲鳴をあげながら死んだのである。
しかしながら、エドワード・ダービイは猫かわいがりされて育ったため、独立心と処世の面では、その成長もはなはだそこなわれていた。健康状態は良くなっていたが、両親の過保護によって、何でも人に頼るという子供じみた態度を、身についた習性にしてしまい、ひとりで旅をすることもなければ、何かを自分ひとりで決めたり、責任をもってやったりすることもなかった。実業界や専門職の分野において互角に人とわたりあえるはずのないことは、早くからわかっていたけれども、両親はこれを悲劇にさせないだけの十分な財産をもっていた。エドワードは成人しても、人を誤らせるような子供じみた外見を保っていた。髪はブロンド、目はブルー、子供さながらのいかにもさわやかな顔色をしていた。何度となく口髭を生やそうとしたが、よく見てようやく認められる程度にしか生えなかった。声は穏やかではっきりしており、およそ運動というものをしたことがないので、中年の二段腹とまではいかないまでも、愛くるしい肥り方をしていた。上背があり、目鼻だちもととのっているので、ひとり閉じこもっては本ばかり読んでいるような内気さがなければ、けっこう伊達男として名をあげていたことだろう。
両親は毎年夏になるとエドワードを外国に連れて行ったが、エドワードはヨーロッパ人の思考や表現のうわべの面に、すぐにとびついたものだった。ポオに似た才能はますますデカダン派のほうにむけられ、他の芸術的感性や熱望は不十分にしか目覚めなかった。当時わたしたちはよく激論をたたかわせた。わたしはハーヴァードを卒業し、ボストンの建築事務所で実務を学び、結婚をして、ようやくひとりだちをするためにアーカムにもどってきていた――父が健康のためにフロリダに移っていたので、わたしはソールトンストール街にある実家に住んでいた。エドワードは毎晩のように訪ねてきたものだが、おかげでわたしは、いつしかエドワードを家族の一員として考えるようにまでなった。エドワードは呼鈴やノッカーを独特のやり方でならすものだから、そのならし方は紛れもない信号になってしまい、わたしは夕食後いつも、耳に馴染んだ信号、勢いよく三回ならし、すこし間を置いてからもう二回ならすという信号はないかと、耳をすましたものだった。わたしのほうはそれほど頻繁にダービイの家には行かなかったが、行くときまって、着々と増加する蔵書に、世に知られない著作があるのを知って、うらやましく思ったものだ。
両親が下宿住まいを許そうとしなかったので、エドワード・ダービイはアーカムのミスカトニック大学で単位を取得した。十六歳で入学し、英仏文学を専攻して、数学と科学以外はすべて優秀な成績をあげながら、全課程を三年で終了した。ほかの学生とはほとんどつきあわなかったが、前衛的な学生やボヘミアン連には羨望《せんぼう》の目をむけて、見かけだけの「いかした」話し方や意味のない冷笑的な態度をまねたり、いかがわしい振舞を思いきって身につけようと思ったりした。
エドワードの目指したものは、当時も現在もミスカトニック大学付属図書館が大いに名を高めている、世に隠れた魔術的伝承のほとんど熱狂的ともいえる愛好家になることだった。これまで常に、幻想と怪奇の表面的なものだけに思いをめぐらしていたエドワードは、子孫を導いたり迷わせたりするため途方もない大昔から残されている、実在の謎と神秘に深く探りをいれることになった。恐るべき『エイボンの書』、フォン・ユンツトの『無名祭祀書』、狂えるアラブ人アブドゥル・アルハザードの禁断の書『ネクロノミコン』等に目をとおしたが、そういった書物を読んだことは両親にも話さなかった。わたしのひとり息子が生まれたとき、エドワードは二十歳だった。わたしが彼にちなんでエドワード・ダービイ・アプトンと名づけると、うれしそうな顔をしてくれた。
二十五歳になる頃には、エドワード・ダービイはけたはずれな学者になっていて、詩人や幻想小説の作家としてもかなり名を高めていたものの、社交性と責任感の欠如が作品を派生的なもの、衒学《げんがく》的なものにさせてしまい、これが文学的成長の足をひっぱっていた。おそらくわたしが一番の親友だったのだろう。わたしがエドワードに、生命理論にかかわるつきせぬ話題の宝庫を見いだしている一方、エドワードは両親に委ねたくないと思う問題に対して、わたしの助言をあてにしていた。あいかわらず独身のままだったが、独身主義であったというよりは、内気と惰性的な性向に加えて、両親の保護をうけていた事情によるのだろう。社交界にもほんのおざなりにしか顔をださなかった。戦争が勃発すると、健康と根深い臆病さから家に閉じこもった。わたしは将校任命辞令をうけてプラッツバーグに行ったが、外地におもむくことはなかった。
こうしたまま歳月がすぎ去り、エドワードが三十五のときに母親が亡くなり、エドワードは数ヵ月間、奇態な神経症におちいって何をすることもできずにいた。しかし父親にヨーロッパへ連れて行かれると、どんな効果があったのかはわからないが、どうにか立ちなおった。その後は、何か目に見えないきずなからいくらか脱けだしたかのように、一種異様なまでの昂揚感をおぼえているようだった。もう中年に達していたにもかかわらず、大学の進歩派≠フ連中とつきあいはじめ、きわめて放埒なおこないにも首をつっこむようになった。一度などは、ある会合に出席したことを父親に知られないようにするため、かなりの金をゆすりとられたことがある。その金はわたしがたてかえてやった。ミスカトニック大学の無法者たちについて、声をひそめて口にされる噂のいくつかは、きわめて異常なものだった。まったく信じがたい出来事や黒魔術のことさえ、噂されていたのだった。
2
アセナス・ウェイトに会ったとき、エドワードは三十八歳だった。わたしが見るに、当時アセナスは二十三くらいだったと思うが、ミスカトニック大学で中世の形而上学について特別講義をうけていた。わたしの友人の娘が、以前キングスポートのホール女学院でアセナスに会っていたが、何とも妙な評判がたっているので、近づくのは避けていたという。アセナスは髪が黒く、こがらで、突出しぎみの目を別にすれば顔だちもととのっていたが、その表情には神経過敏な者を遠ざける何かがあった。しかしごく平均的な人間がアセナスを避けるのは、もっぱらアセナスの生まれと口にする話のためだった。アセナスはインスマスのウェイト家の娘だが、なかば荒《さ》びれて衰退の一途をたどるインスマスとその住民には、幾世代にもわたって暗い伝説が鈴なりになっている。一八五〇年頃に恐ろしい取引があったとか、荒廃した漁港の旧家に「断じて人間のものではない」奇怪な要素が認められたとかいう、ニューイングランドに古くから住みついている老人だけが作りだし、相応の畏怖心をこめて繰返すことのできるような話が存在するのだ。
アセナスの立場は、エフレイム・ウェイトの娘であるという事実によって悪化していた。エフレイムが老境に入ってから、いつもヴェールで覆っているため、誰ひとり顔を見た者がいない妻に産ませた子供だった。エフレイムはインスマスのワシントン街にある半分崩れた屋敷に住んでいたが、その屋敷を見た者は(アーカムの住民はインスマスに行くのをできるだけ避けている)、屋根裏の窓がいつも板でふさがれ、夕闇がせまる頃、屋根裏から不思議な音の聞こえることがあると断言していた。この老人は若い頃、驚くべき魔術の使徒として知られており、伝説によれば、意のままに海に嵐をおこしたり、逆に嵐を静めたりすることができたという。大学の図書館で禁断の書物を閲覧するため、アーカムへやって来るエフレイムを、わたしは若い頃に一度ならず見かけたことがあるが、もじゃもじゃした鉄灰色の顎鬚のある、狼を思わせる陰気な顔は、何ともいとわしいものだった。エフレイムがやや奇妙な状況下で狂死したのは、娘アセナスがホール女学院に入学する直前のことだったが(遺言によってアセナス本人が名前だけの後見人になっていた)、アセナスはそれまで病的なほど貪欲に父親から教えをうけており、ときにはぞっとさせられるほど父親に似ているように見えることがあった。
娘をアセナス・ウェイトと同じ女学院に行かせたわたしの友人は、エドワードがアセナスとつきあっている噂が広まりはじめた頃、奇妙なことを数多く話してくれた。それによると、どうやらアセナスは学校で魔術師めいたポーズをとっていたらしく、何かきわめて不可解な驚異をなしとげられそうに思えたほどだったという。雷雨をおこせると主張し、実際に言葉どおりに雷雨がおこったが、これは天気を予言する異常な才能としてうけとられた。あらゆる動物が目立ってアセナスを嫌い、アセナスのほうも右手で何らかの仕草をすると、どんな犬でも遠吠えさせることができた。若い娘にしてはきわめて異常――そして衝撃的――な知識や言葉の断片を誇示することもあった。そんなときは一種いいがたい流し目やウィンクをして、級友を震えあがらせ、目下の状況からみだらな味のある皮肉をひきだしているようだったらしい。
しかしながら、一番異常だったのは、他人に影響がおよぼせるという、十分に証拠のある事例である。アセナスは紛れもなく本物の催眠術師だった。級友を独特の眼差で見つめることによって、その級友に人格が交換されたという異様な感じを与えることがよくあった。それはまるで、被術者が一時的に術者の体のなかに置かれ、むかいあっている自分の本当の体を見ることができるかのような感じで、そのとき被術者の目は断じて被術者のものではない表情をうかべて突出しぎみになり、爛々《らんらん》と輝いているという。アセナスは意識の本質についてや、意識が肉体という組織から独立しているということ――少なくとも肉体組織の生命作用から独立していること――について、突拍子もない主張をしたものだった。しかし自分が男ではないことに、このうえない憤《いきどおり》をいだいていた。これは、男の脳がある種の広範囲におよぶ素晴しい宇宙的な力を備えていると、信じこんでいるためだった。男の脳を与えられれば、未知の諸力を支配するにあたって、父親と肩をならべるばかりか、しのぐことさえできると断言してもいた。
エドワードは学生会館の一室で開かれたインテリ≠フ集会でアセナスに会ったのだが、翌日わたしに会いに来たときも、アセナスのこと以外は何もしゃべらなかった。アセナスにみなぎる好奇心と学識を見いだし、すっかり夢中になるとともに、アセナスの容貌《ようぼう》を大いに気にいっていた。わたしはアセナスに会ったことはなく、人から聞かされたことをぼんやり思いだすだけだったが、どういう女かはよく知っていた。そんなわけで、エドワード・ダービイがアセナスにのぼせあがっているのは、むしろ痛ましいことのように思えたが、女に対するのぼせぶりは反対されれば一層つのるのが常だから、わたしとしても水をさすようなことは何もいわなかった。エドワードはアセナスのことは父親にも話していないといった。
つづく数週間、エドワード・ダービイが口にするのはアセナスのことばかりだった。いつしかエドワードの中年をすぎての艶事が噂になるほどになっていたが、口さがない者たちでさえ、エドワードが実際の年齢ほどには見えないし、一風変わった天使のエスコート役としてふさわしくないわけではないという点では、意見を一致させていた。怠惰と放逸の生活をつづけているにもかかわらず、エドワードはすこし腹がせりだしている程度で、顔にはまったく皺《しわ》一つなかった。一方アセナスは、強固な意志をはたらかせることで、既に目尻に皺が刻まれていた。
エドワードがアセナスをつれてわたしの家に来たのはこの頃のことだが、わたしは一目見て、エドワードの関心が決して一方的なものではないことを知った。アセナスが奪いとってでも自分のものにしてみせるという雰囲気をたたえ、エドワードをじっと見つめるものだから、ふたりの仲が解きほぐしようのないところにまで進展しているのは一目瞭然だった。その後まもなく、わたしはつねづね尊敬の気持からあおぎ見ていたダービイ氏の訪問をうけた。氏は息子の新しい交友関係についての噂を耳にし、坊や≠ゥら真相のすべてを聞きだしたのだった。エドワードは本気でアセナスと結婚するつもりでおり、郊外に新居を物色してもいた。息子に対するわたしの影響力を知っている父親は、評判の悪いこの交際を即刻やめさせるため、わたしの助力を求めたが、わたしは遺憾ながら無理だろうといった。もはやエドワードの薄弱な意志の問題ではなく、アセナスの強固な意志の問題になっているのだ。永遠の子供はその頼みの綱を父親のイメージから新しい強烈なイメージに移してしまっており、これにはどうすることもできなかった。
結婚式は一ヵ月後――花嫁の要求で治安判事によって――とりおこなわれた。ダービイ氏はわたしの忠告をいれて反対はせず、氏と、わたしの妻と、息子と、わたしとが、簡素な式に出席した。他の出席者は大学から来た放埒な若者ばかりだった。アセナスはハイ・ストリートのはずれにある古いクラウニンシールド荘を買いとっており、ふたりはインスマスへ短期間旅行をして、アセナスの実家から書籍、家財道具とともに、三人の召使を招来してからそこにおちつくつもりでいた。アセナスが実家にもどるかわりにアーカムへ腰をおちつける気になったのは、どう考えても、個人的な願いとして大学や付属図書館や教養ある$lびとの近くにいたいという、エドワードと父親のためを思ってのことではなかったはずだ。
新婚旅行をおえて顔を見せに来たとき、わたしはエドワードが少し変わって見えるように思った。アセナスにいわれて、中途半端にしか生えない口髭はきれいに剃り落としていたが、それ以上の変化があった。以前よりも考え深げで、おちつきがあるような感じで、子供じみた反抗心を示すお馴染のふくれっ面が、悲痛にも似た表情になりかわっていた。わたしはこの変化を喜ぶべきか悲しむべきか決めかねた。いままでにもましてごくあたりまえのおとなのように見えるのは確かだった。結婚したことがよかったのだろう。頼りにするものが変化したといっても、それが出発点となって事実上の中立化[#「中立化」に傍点]にむかい、最終的には責任のはたせる自立に達するというふうにはならないのかもしれないが。アセナスが多忙なので、エドワードはひとりきりでやって来た。アセナスはインスマス(エドワードは街の名を口にするとき身を震わせた)から膨大な量の書籍と備品を運びこんでおり、クラウニンシールド荘の土地と建物の修復作業の仕上げをしているところだった。
インスマスにあるアセナスの実家は、うんざりするようなものだったが、なかにある特定のものから、エドワードは驚くべきことを知ったという。今やエドワードはアセナスという導き手を得て、秘教的な知識を急速に吸収していた。アセナスの提案した実験のいくつかは、きわめて大胆かつ革新的なものだった。エドワードはその内容を勝手にしゃべってはいけないと思っていたものの、アセナスの力と目的には全幅の信頼を置いていた。三人の召使はこのうえなく風変わりな連中だった。ときとして奇妙なやり方で、老エフレイムとアセナスの亡《な》くなった母親をひきあいにだす、老エフレイムに仕えていた信じられないほど年をくった老夫婦と、いつも魚くささを漂わせているような、異様な顔つきをした、浅黒い肌の娘の三人だった。
3
つづく二年間というもの、わたしがエドワード・ダービイに会う機会はしだいに少なくなっていった。ときとして、あの耳慣れた三回=二回となる呼鈴の音を聞くことなく、二週間がすぎていくこともあった。そしてエドワードがやって来たり、あまりにも来ないものだからわたしのほうから会いに行ったりしたときには、エドワードは生命の問題に関する会話にも気のりうすだった。それまではこと細かに話していた隠秘な学問についても隠しだてをするようになってしまい、妻のことを話すのを好まなかった。アセナスは結婚してから驚くほど老けこんでしまい、奇妙としかいいようがないが、エドワードよりも年上に見えるほどにまでなった。わたしがいままで見たこともないような、わき目もふらない、断固とした決意もあらわな顔をしていて、人に漠然とした嫌悪の情をもよおさせるものが全身にみなぎっているようだった。わたしの妻と息子もわたし同様にそのことに気づき、わたしたちはしだいにアセナスに会うのを避けるようになった。そのことでアセナスが紛れもなく喜んでいることを、エドワードは例の子供じみた無分別さを発揮するときに認めたことがある。ときにダービイ夫妻は長い旅に出かけることがあった。うわべはヨーロッパ行きだったが、エドワードはときどき辺鄙《へんぴ》な目的地をほのめかした。
エドワード・ダービイが変化したことについて人びとが噂しはじめたのは、結婚して一年がたってからのことだった。純粋に心理上の変化だったから、そういう噂もさしたるものではなかったが、興味深い点をいくつかもちだしてもいた。ときとしてエドワードが、いつもの無気力な性格とはまったく矛盾する表情をしたり、行動をとったりするというのだ。たとえば、以前は車を運転することができなかったが、いまではときどき、アセナスの馬力のあるパッカードを駆って、クラウニンシールド荘の私道を猛スピードで出入りするのが見かけられ、以前の性格からはまったく考えられない決断力とハンドルさばきでもって、のろのろ進む車をつぎつぎに追い抜いていくという。そういう姿が見かけられるのは、きまって遠出してきた直後か、これから遠出しようという直前に限られているようだった。その目的地がどこなのかは誰にもわからなかったが、エドワードはインスマスの道路をことのほか気にいっていた。
奇妙にも、変化は必ずしも快いものではなかった。そういうときのエドワードは、妻のアセナス、というよりもむしろ、老エフレイム自身に酷似しているように見えるというのだ。そういうときは、めったにないだけに、ことさら不自然に思えたのだろう。ときとして、そんなふうに出発して数時間がたってから、エドワードは運転手をやとうか整備工に金をやって車を運転させ、自分は後部席にぐったりとうずくまって帰ってくることもあった。わたしの家への訪問もふくめ、人との接触がへっているあいだは、路上で優勢を示すのはかつての優柔不断な面で、責任感が完全に欠如した子供っぽさは以前よりも顕著でさえあった。アセナスの顔が老けこんでいく一方、エドワードの顔は――あの例外的な場合は別として――いままでになかった悲痛の表情や悟りきった表情がかすかにうかぶとき以外、文字どおりゆるみきってしまい、幼稚さを誇張したようなものになっていた。これは実に当惑させられることだった。そうこうするあいだにも、ダービイ夫妻は陽気な大学サークルから身をひくようになった。わたしが聞いたところでは、愛想づかしをしたのではなく、夫妻の研究しているものにかかわる何かが、頽廃的なグループのなかで最も無神経な者さえたまげさせたからだという。
エドワードがある種の恐怖と不満をわたしに面とむかってほのめかしはじめたのは、結婚してから三年目のことだった。エドワードは何かを「やりすぎている」というようなことをいったり、暗い顔をして「主体性をもつ」必要があるというようなことを口にしたりした。最初わたしはそうした言葉を無視していたが、やがてそれとなくたずねはじめた。アセナスが学校で級友におよぼした催眠術めいた影響力――級友がアセナスの体のなかに入りこんで自分自身の体を見ているように思ったという事例――について、友人の娘がいったことを思いだしたからだった。わたしが質問をすると、エドワードは驚きとうれしさのいり乱れたような顔をして、一度などはあとでちゃんと話すからというようなことをつぶやきさえした。
ちょうどこの頃、ダービイ氏が亡くなった。わたしは後にそのことを神に感謝した。エドワードはひどくうろたえたが、とり乱したりはしなかった。結婚以来、家族のつながりという、エドワードにとっては死活にかかわる観念のすべてを、アセナスが自分にむけさせていたので、エドワードは驚かされるほどたまにしか父親に会っていなかったのだ。とりわけさっそうと自信たっぷりな態度で車を運転することが増えてからは、エドワードが父親の死に対して冷淡すぎるという者もいた。エドワードは父の死を機会に実家にもどりたがったが、アセナスが住み慣れたクラウニンシールド荘を離れたくないと主張した。
その後まもなく、わたしの妻は友人――まだダービイ夫妻と交際していたわずかばかりな者のひとり――から、奇妙なことを聞かされた。その友人は夫妻に会うためにハイ・ストリートのはずれに出かけ、猛烈なスピードで私道からとびだしてきた一台の車を見た。車を運転していたのはエドワードで、妙なほど自信たっぷり、せせら笑いにも似た表情をうかべていたという。呼鈴をならすと、気味の悪い若い女中が出てきて、アセナスも外出しているといった。しかし立ち去るときに、ふと屋敷に目をむけると、エドワードの書斎の窓の一つに、あわててひっこめられる顔がちらっと見えた。その顔は、いいようもないほど胸をうたれる、苦痛、敗北、なすすべもないやるせなさのこもる表情をたたえていた。それは――いつもの横柄さからは信じられない――アセナスの顔だった。しかしその訪問客は、その瞬間、アセナスの顔から外を見つめていたのが、うつろで悲しげなエドワードの目だったと断言している。
エドワードの訪問はやや頻繁になり、ほのめかしもときとして具体的なものになった。エドワードが口にしたことは、さまざまな伝説が巣食う古めかしいアーカムの街ですら信じられないものだったが、エドワードは正気を疑いたくなるような誠意と確信をこめて、暗澹《あんたん》たる知識を口にするのだった。さびしげな場所で開かれる恐ろしい集会のこと、闇の秘密をはらむ深淵に通じる広い階段が地下にある、メイン州の森の中心部に位置する巨石建造物の廃墟のこと、不可視の壁を通って他の時空に通じる複雑な角度のこと、遠方にある禁断の地や他の世界や別の時空連続体を探検することが可能になる慄然たる人格交換のことを、エドワードはわたしに話した。
ときとしてエドワードは、ある種の気違いじみたほのめかしに説得力を加えるため、わたしを呆然《ぼうぜん》とさせるような物を見せることがあった――それは地球上に存在するとは思えないような、とらえがたい色と困惑させられる肌理《きめ》をもった物体で、その途方もない曲線と表面は、およそ考えられる幾何学の法則にしたがうものではなく、何の目的に用いるかは見当もつかなかった。エドワードは「外部から」手にいれたものだといった。妻が手にいれる方法を知っているというのだ。エドワードはときどき――かならずおびえきった聞きとりにくい囁き声で――以前大学の図書館でときたま見かけた老エフレイムについて、さまざまなことを遠まわしにいった。そうした言及は決して具体的なものではなかったが、老魔術師が――肉体的と同様に霊的な意味において――本当に死んでいるのかという、きわめて恐ろしい疑惑を中心問題としてもちだされているようだった。
ときにエドワード・ダービイは会話の途中で不意に言葉を切ることがあった。わたしはそんなとき、あるいはアセナスが遠くからダービイの話を察知し、何か未知の精神感応による催眠術のようなもの――学校で示した何らかの類《たぐい》の力――でもって、エドワードの口を封じることができるのではないかと思ったものだ。日がたつにつれ、アセナスはきわめて不可解な力をもつ目や言葉で、エドワードがわたしの家を訪れるのをやめさせようとしたから、どうやらエドワードがわたしにいろいろなことを話していると疑っていたらしい。エドワードはわたしに会いに来るのが困難になった。ほかのところへ行くふりをして家を出るのだ。が、何か目に見えない力が常に、エドワードの動きを邪魔したり、しばらく目的地のことを忘れさせたりするのだった。エドワードはいつもアセナスが出かけているときにやって来た――一度エドワードが口にした奇妙な言葉をかりるなら、アセナスが「自分自身の体のまま出かけているとき」に。必ずアセナスはエドワードがわたしに会いに来たことをあとで知った――召使たちがエドワードの出入りを見はっていた――が、どうやら断固たる処置をとるのは不得策だと思っていたらしい。
4
わたしがメイン州から発信されたあの電報をうけとったのは、エドワード・ダービイが結婚してから三年以上がすぎた八月のことだった。エドワードとは二ヵ月会っていなかったが、「仕事」で出かけているということを聞いていた。アセナスも同行しているはずなのに、油断のない噂によれば、窓に二重のカーテンをおろした二階の部屋に誰かがいるということだった。召使が買物しているところも目撃されていた。そんな頃、チェサンクックの警察官からわたしに電報がとどいた。興奮して支離滅裂なことを口走りながら、森からよろめきでた薄汚い狂人を保護したが、その狂人がわたしの保護を求めているというのだ。エドワードだった――ようやく自分の名前と住所を思いだすことができたのだった。
チェサンクックはメイン州の、荒涼とした、深い、人がほとんど足を踏みいれたことのない森林地帯に近い村で、車でそこへ行くには、まる一日というもの、凄然とした風変わりな景色のなかを、激しく揺られながら進まなければならなかった。エドワード・ダービイは村の診療所の一室にいたが、逆上と感情鈍麻を交互に繰返していた。すぐにわたしを認め、わたしのほうにむかって、意味のないたわごとを一気にまくしたてはじめた。
「ダン――後生だから! ショゴスの窖《あな》なんだよ! 六千段下に……忌《い》むべきもののうちで最も忌むべきものが……彼女《あれ》に連れて行かれるつもりなんてなかったのに、気がついたら、ぼくはあそこにいたんだよ――イア! シュブ=ニグラス! ――祭壇からいやらしい姿をしたものが立ちあがったんだ。遠吠えをあげるやつらが五百匹もいた――フードをかぶったもの[#「もの」に傍点]が、カモグ! カモグ! って鳴いたんだ――魔女の集会でのエフレイムの秘密の名前なんだよ――ぼくはあそこにいたんだ。彼女《あれ》が連れて行かないって約束した場所に――一瞬まえまでぼくは書斎に閉じこめられていたのに、彼女がぼくの体をして行ったところへ行ってしまったんだ――まったく冒涜《ぼうとく》的な場所、暗い領域がはじまり、監視するものが門を固めている不敬きわまりない場所に――ぼくはショゴスを見た――形を変えていた――耐えられないよ――またぼくをあそこへ送りこむのなら、ぼくは彼女《あれ》を殺してやる――あの存在を殺してやる――彼女を、彼を、あいつを――きっと殺してやる! この手で殺してやるんだ!」
エドワードをなだめるには一時間かかったが、ようやく興奮はおさまった。翌日わたしは村でこざっぱりした服を買ってやり、エドワードを車に乗せてアーカムにひきかえした。エドワードは激しい興奮もおさまり、黙りがちになっていたが、車がオーガスタの町を走っているとき――町を見ることで不快な記憶が甦ったかのように――暗い顔をしてひとりごとをつぶやきはじめた。どうやら家に帰りたくなさそうだった。わたしはエドワードが妻に対して抱いているらしい突拍子もない幻想――どうやら催眠術のようなものによってうけた苦しい体験から生じているらしい幻想――を考慮にいれて、家には帰らないほうがいいだろうと思った。アセナスがどれほどいやな顔をしようと、しばらくはわたしの家に泊めてやろうと心に決めた。そのあと、離婚するのに力をかしてやろうと思った。エドワードにとっては、この結婚を自滅的なものにさせる精神的な要素があったからだ。車がまた広びろとした土地にはいると、エドワードはぶつぶつつぶやくのをやめ、わたしは隣の席で、うたた寝をさせてやった。
夕暮どきにポートランドを走っているあいだ、またつぶやきがはじまっていたが、今度はまえよりもはっきりしており、耳をかたむけてみると、アセナスに関するまったく常軌を逸したたわごとをまくしたてていた。アセナスについて一群の妄想を織りあげているので、アセナスがエドワードの神経をまいらせているのは明白だった。エドワードは目下の苦境が一連の長い苦悩の一つにすぎないと、声をひそめてつぶやいた。アセナスはエドワードを完全に自分のものにしようとしており、エドワードはいつの日か逃れられなくなることを知っていた。いまですらアセナスは、おそらく一度に長いあいだもちこたえることができないので、やむをえないときにだけエドワードを自由にさせているにしかすぎない。アセナスはたえずエドワードの体を奪い、エドワードを自分の体にいれたまま二階に閉じこめ、名状しがたい儀式のために名もない土地へ行っている。しかしときとしてもちこたえられなくなり、そんなときエドワードは、どこか遠くの恐ろしい、おそらくは未知の土地で、突如として自分自身の体にもどっているのを知る。ふたたびアセナスがエドワードの体を奪うこともあるが、それができないこともある。エドワードはしばしば、わたしがこの目で見たように、見知らぬ土地で途方にくれることがある。そんなときにはものすごい遠方から家に帰る道を見つけださなければならず、何とか見つかると、人をやとって車を運転してもらう。
最悪なのは、アセナスがエドワードの体を奪っている時間がしだいに長くなってきていることだった。アセナスは男――完全な人間――になりたがっている。そのためにこそエドワードの体を奪っているのだ。アセナスはエドワードが優秀な頭脳と弱い意志の持主であることに感づいていた。いつの日か、アセナスはエドワードを体から追いだし、エドワードの体を奪って姿を消すことだろう――エドワードをおよそ人間とも呼べない女の抜け殻のなかに置き去りにし、父親のような大魔道士になるため、姿を消すことだろう。エドワードもいまではインスマスの血脈について熟知している。海から来たものと交わりがあったのだ――血も凍るほどに恐ろしい……そして老エフレイムは、その秘密を知り、老齢に達したとき、生きながらえるために恐ろしいことをした――老エフレイムは永遠の生を夢見ていた――いまその意志をアセナスが実現させるだろう――既に企ての一つは上首尾におわっている。
エドワード・ダービイがそんなことをつぶやきつづけているあいだ、わたしはじっくり顔色をうかがって、チェサンクックで感じとった変化しているという印象を確信するにいたった。理屈にあわないことだが、エドワードはいつも以上に体調がよくなっているようだった――たくましくなり、正常な発育を示し、放埒《ほうらつ》な習癖による病的なまでの皮膚のたるみは跡形もなかった。それはまるで、甘やかされ放題の人生において、はじめて真に活動的になり、相応の運動をおこなっているかのようで、わたしはアセナスが活溌さと敏捷さという不慣れな道にエドワードを押しやったにちがいないと判断した。しかし目下のところ、エドワードの精神状態はあわれむべきものだった。妻について、黒魔術について、老エフレイムについて、ある事実について、途方もないことをつぶやきつづけていた。ある事実の告白はわたしでさえ思わず納得してしまうほどのものだった。エドワードは、わたしがかつて禁断の書物をひろい読みして記憶している名前を何度も繰返し、とりとめもない話を貫いている首尾一貫した――なるほどと思わせるほど筋の通った――神話をもちだして、わたしを震えあがらせたりもした。何度も何度も言葉を切っては黙りこくったものだった。さながら何か最終的な慄然たる事実を暴露するため、勇気をふるいおこそうとしているかのように。
「ダン、ダン、あの男のことをおぼえていないのかい――決して白くならないじゃもじゃ[#底本ママ]の顎鬚を生やして、ものすごい目をしていた男のことだよ。一度あいつににらみつけられたことがあるんだ。忘れようたって忘れられるものじゃない。いま、彼女《あれ》が同じ目をしてにらむんだよ。ぼくにはその理由がわかってる! あいつは『ネクロノミコン』のなかで発見したんだよ。処方をさ。それが何ページにあるかは、まだきみにいう勇気はないけど、ぼくが勇気をふるいおこして話したら、きみも読んで、理解することができるよ。そうしたら、ぼくが何に巻きこまれているか、きみにもわかるはずだ。果しなく、体から体へと移るんだ。絶対に死ぬことがないんだよ。生命の輝き――あいつはつながりをたちきる方法を知っているんだ……生命の輝きは肉体が死んでからもしばらくはきらめいているのさ。漠然としかいえないけど、たぶんそれで見当がつくと思うよ。ダン、よく聞いて考えてくれ。ぼくの家内がいつも苦労しながら、あの莫迦《ばか》げた左さがりの字を書く理由がわかるかい。老エフレイムの書いたものを見たことがあるかい。アセナスがあわててなぐり書きしたものを見て、ぼくが震えあがった理由を知りたくないかい。
「アセナスだって……そんな人間がいるんだろうか。どうして老エフレイムの胃袋に毒物が残っていただなんていう噂があるんだろう。どうしてギルマン家の者は、老エフレイムが発狂して、アセナスの手でしとね張り[#「しとね張り」に傍点]の屋根裏部屋に閉じこめられたとき、老エフレイムがおびえきった子供のように悲鳴をあげたことについて、声をひそめていうんだろう。屋根裏部屋には別の者[#「別の者」に傍点]がいたんだよ。閉じこめられたのは老エフレイムの魂だったんだろうか。誰が誰のなかに閉じこめたんだろう。どうしてあいつは何ヵ月ものあいだ、精神が申し分なくて意志の弱い者を探しつづけたんだろうか。どうしてあいつは娘が息子じゃないことを呪ったんだろうか。いってくれ、ダニエル・アプトン。あの冒涜的な怪物が、従順で意志の弱い半人前の子供を意のままにあやつっていた恐怖の家では、いったいどんな悪魔めいた交換がおこなわれたんだ。あいつはそれを永久的なものにしたんじゃなかったのか――彼女《あれ》が最終的にぼくを利用してやろうとしているように。いってくれ。自分をアセナスと呼ぶあいつは、どうして字を書くのにも用心して、ちがった筆跡で書くんだ。まるで、本来の筆跡を見られたら……」
そのときおこったのだ。エドワード・ダービイの声はたわごとを口走りながら、かぼそくて甲高い悲鳴のようなものになっていたが、突然スイッチが切られでもしたかのようにとぎれてしまった。エドワードがわたしの家で話しながら、不意に自信を失ってしまうことがよくあったことを、わたしは思いだした――わたしはそんなとき、アセナスの精神力が何か不可解な精神感応の波長となって、エドワードの精神に介入して黙らせるのではないかと、ぼんやり想像したものだった。しかし今回のものはまったくちがっていた――わたしが想像しているものより遙かに恐ろしいものであるような気がした。わたしの隣にある顔は、つかのまほとんどエドワードとは思えないほどにゆがんだ。その間、全身はがたがた震えていた――まるで全身の骨、臓器、筋肉、神経、腺のすべてが、いままでとはまったく別の姿勢、緊張する体つき、人格にあうよう調整しているかのようだった。
そこにこそ至高の恐怖が顔をのぞかせていたのだ。その正体は、わたしには一生見きわめることができないだろう。しかしわたしはあのとき、吐気と嫌悪の圧倒的な波に呑みこまれ、全身が凍りついて麻痺してしまうような、まったくの異質さと忌わしさをまざまざと意識して、ハンドルをつかむ手から力が抜けてしまい、運転がおぼつかなくなった。わたしの隣にいる男は、終生の友というよりは、外宇宙――うかがいようもない悪意にみちた宇宙の諸力が悍ましいまでにまったく呪わしい焦点を結ぶところ――から、この世界に侵入した怪物のように思えた。
わたしは一瞬たじろいだが、間髪をいれずに隣の男がハンドルを握り、むりやり運転をかわらされた。暮色がこくなり、ポートランドの灯も遙か後方になっていたので、顔はほとんど見えなかった。しかし目の輝きは異様なほどで、わたしはエドワードが、多くの者の注意を惹きつけた――普段のエドワードとはまったくちがう――妙に精力あふれる状態になっているにちがいないことを知った。でしゃばることを知らず、車の運転を習ったはずもない無気力なエドワード・ダービイが、わたしを顎でつかい、わたしの車のハンドルを握っているというのは、妙であり、信じられないことのようだが、事実、そのとおりのことがおこっていたのだった。エドワードはしばらく一言もしゃべらなかった。わたしはいいようもない恐怖を感じながら、エドワードが黙りこくっていることをうれしく思った。
ベドフォードとサコを通ったとき、町の灯で、エドワードが口を固く結んでいるのが見えたが、ぎらつく目を見てわたしは悪寒に捕われた。噂は正しかった。こういう状態にあるエドワードは忌わしいほど妻に、老エフレイムに似ていた。こんなエドワードが嫌われるのも無理はない。確かに不自然な何かがあった。わたしは突拍子もないたわごとを聞かされただけに、ことさら不吉な要素を感じとっていた。この男は、わたしがエドワード・ピックマン・ダービイについて知っていることのすべてに照らして、まったくの別人だった。暗黒の深淵からの何らかの類の侵入だった。
一直線の道路が黒ぐろとのびるのが見えるまで、ダービイは一言もしゃべらなかった。ようやく口を開いたとき、その声はまったく馴染のないもののように思えた。わたしがよく知っている声よりも、太く、きっぱりしていて、自信にみちあふれていた。アクセントのつけ方や発音の仕方も、完全に変化していたが、どうしてもつきとめることのできない何かを、ぼんやり、心騒ぐほどに思いださせるものだった。その声色には、きわめて根深い、心底からの皮肉がこもっていたように思う。エドワードがつねづね影響をうけていた、うぶ[#「うぶ」に傍点]な知識人の見かけだおしで意味のない、気どった偽りの皮肉ではなく、陰鬱で、根本的な、ものみなに染みとおる、邪悪のこもったものだった。狼狽してたわごとをまくしたてた後、こんなにも早く冷静になったことが、わたしには不思議でならなかった。
「さっきの発作は忘れてくれないか、アプトン」エドワードはそういった。「神経が過敏なのはきみもよく知っているから、きっと許してくれるだろう。もちろん、車で迎えに来てくれたことは、とても感謝している。
「それから、家内やほかのことで口にしたかもしれないたわごとも、忘れてほしい。あの種のものを研究しすぎたせいなんだ。ぼくが首をつっこんでいる学問は異様な概念にみちているし、それに、精神は疲労すると、想像上のものを具体的なものにこじつけてしまうものだからね。ぼくはこれから休養をとるよ。しばらくはきみにも会えないだろうが、そのことでアセナスを責めないでもらいたい。
「今度の旅はすこし奇妙なものだったけど、本当のところはとても単純なものなんだ。北方の森林地帯にインディアンのある種の遺跡があってね、立石群なんかがあるんだが、民間伝承で大きな意味をもっているものだから、アセナスとぼくはそいつを詳細に調査しているんだよ。かなりきつい調査だったから、きっと神経がまいってしまったんだろうな。家に帰ったら、誰かに車をとりに行ってもらわなきゃならない。まあ、一ヵ月も休養したら、元どおり元気になるさ」
わたしはエドワードの不可解な様変わりに意識が奪われていたので、自分が何をしゃべったかは、正確にはおぼえていない。刻一刻と高まっていく、いいようのない宇宙的恐怖をひしひしと感じとりながら、いつしか、このドライヴが一刻も早くおわることだけをひたすら願っていた。エドワード・ダービイはハンドルから手を放そうとはせず、わたしはといえば、ポーツマスやニューベリーポートをあっというまに走り抜けていくスピードをうれしく思っていた。
幹線道路がインスマスを避けて内陸部へとむかう交差点に近づいたとき、エドワードがあの忌わしい土地に通じる、わびしい海沿いの道路に車をむけるのではないかと、わたしはいささか不安に思った。しかしエドワードはその道を通らず、アーカムを目指し、ローリイやイプスウィッチを猛烈なスピードで走り抜けていった。真夜中近くにアーカムに着いたが、古いクラウニンシールド荘にはまだ灯がついていた。エドワード・ダービイはあわただしく礼を何度もいって車からおりていき、わたしは妙な安堵感をおぼえながら、わが家にむけてひとり車を走らせた。恐ろしいドライヴだった。理由がまったくわからないだけに、その恐ろしさはこのうえもなかった。そしてわたしは、エドワード・ダービイがしばらく会えないだろうといったことを、残念に思ったりはしなかった。
その後二ヵ月は噂がかまびすしかった。例の興奮状態にあるエドワード・ダービイが、いままでにもまして頻繁に見かけられる一方、アセナスのほうは訪問客にもほとんど姿を見せなくなったという。エドワードがアセナスの車――メイン州のどこかに置き去りにしていたのをひきとった車――で、わたしに会いに来たことが一度だけあった。わたしにかしていた本をうけとるための、ごく短時間の訪問だった。エドワードは例の状態にあって、さしさわりのないことをいっただけで帰ってしまった。この状態にあるときには、明らかにわたしとは何も話したくないようだった。わたしはエドワードが呼鈴をいつものようにならす手間さえおしんだことに気がついた。あの夜のドライヴのときのように、説明しがたい底知れぬ恐怖がかすかに感じとれたから、エドワードがすぐに帰ってくれたことで、わたしは思わずほっとしたものだ。
九月中旬にエドワード・ダービイは一週間家を離れていたが、頽廃的な大学の連中のなかには、ある種のことをわけ知り顔で口にする者がいて、最近イギリスから追放されてニューヨークに本拠をかまえている、悪名高い新興宗教の指導者との会見をほのめかした。わたし自身は、メイン州からの奇怪なドライヴのことを、どうにも頭からはらいきれずにいた。目撃した変容にひどくショックをうけてしまい、そのことと、それによってもたらされたこのうえもない恐怖について、何度も何度も納得のいく説明をつけようとしている始末だった。
しかし奇妙といえば、クラウニンシールド荘からむせび泣きが聞こえるという噂が、一番奇妙なことだった。どうも女が泣いているらしく、若い人のなかにはアセナスのようだと思っている者がいた。むせび泣きはほとんどとぎれることなくつづくが、ときとして力ずくでとめられたかのように、不意にとぎれることがあるという。その件について調べてみるべきだという話ももちあがったが、ある日アセナスが街に姿を見せ、多くの知人と陽気におしゃべりをして、最近顔を見せなかったことをわびるとともに、ボストンから来た客のノイローゼとヒステリーについて話してからは、たち消えになってしまった。その客の姿を見かけた者は誰ひとりとしていなかったが、アセナスが現実に街に姿をあらわしたからには、もう何もいうことはできなかった。しかしそれから、すすり泣きが男の声だったことが一、二度あると声をひそめて話す者がいて、これが問題を複雑なものにさせた。
十月中旬のある夕暮どき、わたしは馴染深い三回=二回とならされる呼鈴の音を耳にした。玄関に行ってみると、エドワードが戸口に立っていた。わたしはすぐに、エドワードの性格が以前のもの、チェサンクックからの恐ろしいドライヴの途上でたわごとを口走ったあの日以来、わたしがついぞ目にしたことのなかった以前の性格にもどっていることを知った。エドワードの顔は、恐怖と勝利感がせめぎあっているように思える、妙な感情のいり乱れる表情をしてひきつっており、わたしがドアを閉めたときには、肩ごしにこっそりとふりかえった。
おぼつかない足取りでわたしのあとから書斎に入ると、神経を静めるためにウィスキーがほしいといった。わたしは質問するのをひかえ、エドワードが話したい気分になるまで待つことにした。やがてエドワードはかすれた声でようやくのようにして話しはじめた。
「アセナスは行ってしまったよ、ダン。昨日の夜、召使たちが外出しているあいだに、長い時間をかけて話しあって、ぼくを餌食にするのをやめるよう、アセナスに約束させたんだ。きみには何もいわなかったけど、もちろん、ぼくはある種の……ある種の魔術的な護身術を身につけている。アセナスはぼくのいうとおりにしなければならなかったけど、ものすごく腹をたててね、荷物をまとめて、ニューヨークへ発《た》ってしまったんだ。ボストン行き八時二十分発の列車に乗るため、すたすた歩いていったよ。たぶん噂になるだろうけど、まあ、しかたないさ。人に聞かれても、ごたごたがあっただなんていう必要はないよ。長い調査旅行に出かけたとでもいっといてくれないか。
「たぶんアセナスは、恐ろしい信者の家にでもやっかいになるつもりさ。アセナスが死んでしまって完全に縁が切れればいいんだけど、ともかく、ぼくをひとりきりにさせるよう約束させたからね。恐ろしかったよ、ダン。アセナスはぼくの体を奪って――ぼくを体から押しだして――ぼくを囚人にしていたんだ。ぼくはじっと時機をうかがって、アセナスのなすがままになっているふりをしていたけど、油断なく警戒していなきゃならなかった。用心深くしてさえいれば、十分に対抗できる策はあったからね。アセナスもぼくの心を完全に読みとることはできないんだから。アセナスに読みとれたのは、一種の反抗心だけだったから、ぼくが無力だといつも思っていたのさ。ぼくがアセナスを最大限に利用できるだなんて、夢にも思っていなかったんだよ……しかしぼくはききめのある魔術を一つ二つ知っていたからね」
エドワード・ダービイは肩ごしにふりかえり、ウィスキーをあおった。
「あのいまいましい召使たちは、けさ帰って来たときに、給料をはらって解雇してやったよ。うだうだいって、あれこれ問い質《ただ》したけど、結局は出て行ってくれた。あいつらはアセナスと同類のインスマスの住民で、アセナスとぐるなのさ。あいつらもぼくにかまわずにいてくれたらいいんだけど。出て行くときに、妙な笑い方をしてたからね。パパがやとってた召使を、できるだけ大勢、もう一度やとわなきゃならないね。実家へもどるつもりなんだよ。
「ぼくが狂ってると思ってるんじゃないのかい、ダン。でもアーカムの歴史を調べてみれば、ぼくが話したことや、これから話すつもりのことについて、証拠になるものが見つかるはずだよ。きみも変化の一つを目にしただろう。メイン州からもどってくる日に、ぼくがアセナスのことをいったあと、車のなかで目にしたじゃないか。あのとき、アセナスがぼくを奪ったんだ。ぼくをぼくの体から押しだしたんだよ。ぼくのおぼえている最後のことは、あの女悪魔の正体を、何とかしてきみに話そうとしていたことさ。そうしたらアセナスがぼくを捕えて、ぼくはあっというまに家にもどっていた。あのいまいましい召使たちがぼくを閉じこめた書斎のなか……人間とさえいえない、あの呪われた悪鬼の体のなかに……。わかってるだろ。きみの車に乗って家に帰ってきたのはアセナスだったんだ。ぼくの体を奪いとった狼だった。きみにもちがいがわかったはずじゃないか!」
エドワード・ダービイが口をつぐんだとき、わたしは悪寒に捕われた。いかにもわたしはちがいに気づいていた。しかしこんな気違いじみた説明がうけいれられるだろうか。けれども心をとり乱した訪問客は、ますます突拍子もないことを話しだした。
「ぼくは自分自身を救わなきゃならなかった。そうしなきゃならなかったんだよ、ダン! アセナスは十一月一日の諸聖徒日《ハロマウス》にぼくを完全に奪い去るつもりだった。その日、チェサンクックの奥で魔宴が開かれて、生贄《いけにえ》がささげられたら、何もかもに決着がついてしまうんだ。アセナスは何としてでもぼくを奪い去るつもりだった――アセナスがぼくになり、ぼくがアセナスになるように。それも永遠にだよ。そうなったら、もうとりかえしがつかないんだ。ぼくの体が永遠にアセナスのものになってしまうんだよ。アセナスは望みどおりに、男、完全な人間になってしまう。そうなったら、たぶんぼくを始末するはずだったんだよ。自分自身のもとの体をぼくもろとも殺すつもりだったんだ。まえにやったようにね。彼女《あれ》が、あいつが、いや、あれがまえにやったように……」
エドワードの顔は恐ろしいほどにゆがんでいたが、その顔を不快なくらいわたしに近づけ、声をひそめてしゃべりだした。
「ぼくが車のなかでほのめかしたことはおぼえてるね。あれはアセナスなんかじゃない。本当はエフレイムなんだ。一年半まえからうすうすそうじゃないかと思っていたけど、いまははっきりわかってる。アセナスがうっかりして書いたものを見れば、一目瞭然だよ。アセナスは一点一画にいたるまで、父親と寸分たがわない筆跡で走り書きをすることがあるんだ。エフレイムのような老人しか口にできないようなことをいったりもする。エフレイムは死期が近いことを感じたとき、アセナスと体を交換したんだよ。アセナスはエフレイムが見つけることのできた、ふさわしい脳と弱い意志をもつ唯一の人間だったんだ。そしてエフレイムはアセナスの体を完全に自分のものにした。ちょうどアセナスがぼくにしようとしていたようにね。そのあと自分の体に封じこめたアセナスを毒殺したんだよ。あの女悪魔の目からエフレイムの魂が覗いているのを、見たことがないのかい。アセナスがぼくの体を支配しているときに、ぼくの目から覗いていたのを」
その囁きはあえぎをともない、息をつぐために何度もとぎれた。わたしは何もいわなかった。ふたたび話しはじめたとき、エドワードの声は普段の声に近いものになっていた。わたしは精神病院行きの症例だと思ったが、わたしの手でエドワードを精神病院に送りこみたくはなかった。アセナスから自由になって、時間をかければ、すこやかさをとりもどすだろうと思われた。気味の悪い隠秘学に二度と首をつっこむつもりのないことは、はっきりとわかった。
「あとでもっと詳しく話すよ。いまはじっくり体を休めなきゃならないからね。アセナスがぼくを導きいれた禁断の恐怖――わずかばかりの不埒な司祭たちによって生かしめられ、いまでも辺境の地でわだかまっている太古からの恐怖――についても、あとで話すよ。人間が知るべきじゃない宇宙についての知識を身につけ、人間にできるはずのないことをおこなえる者がいるんだ。ぼくはそういうものに首までどっぷりつかっていたけど、もうけりはついたよ。もしぼくがミスカトニック大学の図書館員なら、あの呪わしい『ネクロノミコン』や魔道書を一冊残らず、今日にでも焼却してしまいたいよ。
「けど、アセナスはもうぼくを自分のものにすることはできないんだ。ぼくはできるだけ早くあの呪われた家から出て、実家におちつかなきゃならない。必要なときには力をかしてくれるね。あの悪魔のような召使たちがやって来たり、万一アセナスのことで人に根掘り葉掘りたずねられたりしたときには。わかるだろ。ぼくにはアセナスがどこにいるのかいえないんだよ。……それにアセナスの行方を探す連中は、きみも知ってるある宗派の信者だけど、アセナスとぼくが別れたことを誤解するかもしれないだろ……そういった連中のなかには、ひどく奇妙な考え方をしたり、とてつもない行動に走ったりする者がいるんだ。何があっても、きっとぼくの味方になってくれるね。度胆を抜くようなことをぼくがいわなきゃならなくなっても……」
わたしはその夜、エドワードを客用の寝室で眠らせてやった。朝になると、かなりおちつきをとりもどしたようだった。わたしたちはエドワードがダービイ家にもどるために必要な手配について話しあったが、わたしはエドワードが時間を無駄にすることなくただちに移転するのを願っていた。エドワードはその日の夕方にはやって来なかったが、つづく何週間かは頻繁に会いに来た。わたしたちは奇怪かつ不快なことについてはできるだけ話さないようにし、ダービイ家の屋敷の改修や、エドワードが今度の夏にわたしとわたしの息子と一緒に行こうといいだした旅について、さかんに話しあった。
ふたりともアセナスのことはほとんど口にしなかった。エドワードの心をとりわけかき乱す話題であることが、わたしにもわかっていたからだ。もちろんゴシップはおびただしくとびかったが、クラウニンシールド荘の風変わりな住民に関していえば、目新しいものは何一つなかった。わたしが気にいらなかったのは、ダービイ家の取引先の銀行家が、ミスカトニック・クラブでずいぶんあけっぴろげにもらしたことだった。エドワードの小切手が定期的に、インスマスに住むモーゼスとアビゲイルというサージャント夫妻とユーニス・バブスンに送られているというのだ。まるであの邪悪な顔をした召使たちが、エドワードから何らかの類のみつぎものを得ているかのようだった。しかしエドワードはこの件について、わたしに何もいっていなかった。
わたしは夏が来て、息子がハーヴァードから帰省し、エドワードと一緒にヨーロッパへ行ける日を心待ちにしていた。エドワードがわたしの期待していたほど急速に快方にむかっていないことが、まもなくわかった。ときとして気分をうきたたせることはあったものの、いささかヒステリックな気味があり、まだおびえきったり、失意にしずんだりすることがよくあった。ダービイ家の屋敷は十二月には修復もおわっていたのに、エドワードは移転するのをぐずぐずひきのばしていた。クラウニンシールド荘を嫌い、恐れてもいるようだったが、妙にとらわれてしまっていた。家具などをとりのぞく作業もはじめられないようで、移転を延期する口実を何かと口にした。わたしがその点を指摘すると、不思議なくらいおびえきった顔をした。父親につかえていた執事――ふたたびやとわれた他の召使たちとともにクラウニンシールド荘にいた――が、ある日わたしに話してくれたことがある。エドワードがよく家のなか、それもとりわけ地下室を、こそこそ歩きまわることがあり、それがどうも妙で、気味が悪いというのだ。わたしはアセナスがエドワードの心をかき乱す手紙を送ってきているのではないかと思ったが、執事はアセナスからの手紙は一通もとどいていないといった。
エドワード・ダービイがある夜、わたしの家で泣きくずれたのは、クリスマス頃のことだった。わたしが会話を来年の夏の旅にむけようとしていたとき、エドワードは突然悲鳴をあげて、椅子から跳びあがった。顔には、ぞっとするような、おさえきれない激しい恐怖――悪夢をはらむ地獄の深淵だけが健全な精神にもたらすことができるような宇宙的な狼狽と忌わしさ――があった。
「ぼくの脳が! ぼくの脳が! ダン、あれがたぐり寄せているんだ……はるか彼方から……うちのめし……つかもうとしているんだよ……あの女悪魔が……いまでさえ……エフレイムだ……カモグなんだよ! カモグだ!……ショゴスの窖《あな》……イア! シュブ=ニグラス!……千匹の仔を孕《はら》む山羊!
「炎が……炎が……体を超え、生命を超え……大地のなかで……ああ!」
わたしはエドワードを椅子に坐らせ、ワインを飲ませてやった。激しい興奮はやがて静まって、エドワードは放心状態におちいった。むりやりワインを飲まされてもさからわなかったが、ひとりごとをつぶやいているかのように、唇を動かしつづけていた。やがてわたしに話しかけようとしているのがわかったので、わたしはエドワードの口もとに耳を近づけ、弱よわしい言葉を聞いた。
「……何度も何度も……彼女《あれ》がしかけてくるんだ……ぼくにもわかっていたはずなのに……あの力を防ぐことはできないんだ……どれほど距離があっても、どんな魔術を使っても、死でさえも、防ぎきれるものじゃない……あれがやって来るんだよ……たいてい夜に……ぼくには逃げられない……恐ろしくてたまらないよ……ああ、ダン、この恐ろしさをわかってくれさえしたら……」
エドワードが昏睡状態におちいると、わたしは枕をあてがい、正常な眠りにつけるようにさせてやった。精神状態についてどういわれるかがわかっているし、わたしとしては自然に回復するにまかせたかったので、医者は呼ばなかった。エドワードは真夜中に目を覚まし、わたしは二階の寝室に連れて行ってやったが、朝になると姿を消していた。わたしの家からこっそり出て行ってしまったのだ。電話をすると執事がでて、エドワードが書斎のなかを歩きまわっていることを知らせてくれた。
その後エドワードは急速にだめになっていった。もう二度とわたしの家にやって来ることはなく、わたしが毎日会いに行った。いつも書斎に腰をおろして、ぼんやり宙を見すえ、何か異様に耳をすましているような顔つきをしていたものだった。理性的に話すこともあったが、それはもっぱら、ごく些細なことについて話すときだけにかぎられていた。悩みの種や将来の計画やアセナスについて、すこしでも口にすると、激しい興奮状態におちいってしまうのだった。執事の話では、夜にひどい発作をおこし、体に害をおよぼすのではないかとさえ思えるほどだという。
わたしはダービイ家と縁のある医者、銀行家、弁護士と長い時間話しあい、その結果、医師と二人の専門医をつれてエドワードに会いに行った。最初の問診で生じた発作はきわめて激しく、あわれむべきものだった。そしてその日の夕方、もがきつづけるエドワードを乗せた車がアーカム療養所にむかった。わたしはエドワードの保護者にされ、毎週二回面会に行った。しかしエドワードのものすごい悲鳴や、恐ろしい囁きや、気味の悪いくりごとは、聞いているだけで涙がこみあげてくるほどのものだった。エドワードはよくこんなことを何度も何度も繰返していた。「ああしなきゃならなかったんだよ……ああするしかなかったんだ……ぼくは連れて行かれてしまうんだ……あそこへ……闇のなかへ……ママ! ママ! ダン! 助けてよ! 助けて!」
回復の見こみがどれくらいあるのかは誰にもわからなったが、わたしは何とか楽観的になろうと努力していた。退院したら家に帰らなければならないので、わたしは召使たちをダービイ家の屋敷に移らせた。エドワードも正気をとりもどしたなら、クラウニンシールド荘ではなく、実家へ帰りたがるはずだと思えたからだ。こみいった設備やまったく不可解な収集品のある、クラウニンシールド荘をどうするかは決めかねたので、さしあたっては放置しておくことにした。ダービイ家の家政婦に週一度おもな部屋の掃除をするようにいい、その日にはボイラーマンに火をおこすよう命じた。
あの最後の悪夢は聖燭節のまえに訪れた。残酷な皮肉をこめて、偽りの希望の光がまずひらめいたのだった。一月下旬のある朝、療養所から電話があって、エドワードが急に理性をとりもどしたことが伝えられた。記憶はひどくそこなわれているものの、正気をとりもどしたのは確実だということだった。もちろんいましばらくは観察の要があるものの、退院できることについてはもはや何の疑いもなかった。すべてうまくいけば一週間以内に退院できそうだという。
わたしは喜びに胸をときめかせながら、あわてて療養所に駆けつけたが、看護婦に連れられてエドワードの病室に入ったとき、当惑のあまり立ちつくした。患者は立ちあがって会釈し、上品な笑みをうかべて片手をさしだした。しかしわたしはたちまちのうちに、エドワードが本来の気質とはまったくちがう、不思議なほど精力旺盛な性格をおびていることを見てとった。わたしがぼんやりと恐怖を感じとったあの性格、エドワード自身が一度、妻の魂が侵入したものだと断言した性格だった。あのときと同じ――アセナスとエフレイムにそっくりな――爛々と輝く目があり、かたく結んだ口があった。話しはじめたとき、その声には例の、ものみなに浸透するような気味の悪い皮肉――うちにひめた邪悪をほのめかす根深い皮肉――がこもっていた。これは五ヵ月まえの夜にわたしの車を運転した男だった。呼鈴の決まったならし方も忘れ、わたしに漠然とした恐怖を感じさせたあの短時間の訪問以来、わたしが会ったことのなかった男だった。わたしはその男をまえにして、冒涜的な異質さといいようのない宇宙的な忌わしさとを、ぼんやりと感じるばかりだった。
男は退院の手続きについて愛想よく話した。最近の記憶がひどくそこなわれているとはいえ、わたしには同意することしかできなかった。しかしはっきりとはわからないが、何かが恐ろしく異常なほどまちがっているという気がしてならなかった。わたしにはうかがいようもない恐怖がそこにあった。わたしのまえにいるのは正気をとりもどした男だった。だが、本当にわたしの知っているエドワード・ダービイなのだろうか。そうでないなら、いったい何者なのか。エドワードはどこにいるのか。退院させるべきなのか、監禁すべきなのか。いや、地上から根絶すべきではないのか。この男のいうことのすべてには底知れない冷笑の影があった。アセナスに似た目は、厳重な監禁という特別な処置がとられたおかげで早ばやと退院できるのだというとき、一種独特の不可解なあざけりをうかべた。わたしははなはだぎごちなく振舞っていたにちがいないが、ありがたいことに、逃げだしたい衝動は何とかおさえることができた。
その日から翌日にかけて、わたしはずっと頭をしぼって考えこんだ。いったい何がおこったのだろうか。エドワードの顔のあの異様な目から覗いているのは、いったいどんな精神なのだろうか。わたしにはこのつかみどころのないぞっとする謎以外何も考えられず、普段の仕事に手をつける気にもなれなかった。二日目の朝、療養所から電話があって、回復した患者の容態にはまったく何の変化もないと伝えられた。そしてわたしは夕方には神経衰弱になりかかっていた。わたしは自分のこの精神状態を認めるが、そういう精神状態こそがその後の出来事を色づけたのだといわれるかもしれない。その点については、証拠のすべてをわたしの狂気で説明することはできないという以外、わたしには何もいえないのだ。
5
血も凍るような真の恐怖がわたしを襲い、ふりほどきようもない凄然たる暗黒の爪でわたしの心をおびえあがらせたのは、二日目の夜のことだった。真夜中近くにかかってきた電話からはじまった。目を覚ましたのはわたしひとりだったので、眠い目をこすりながら書斎の受話器をとりあげた。しかし何も聞こえず、しかたなく受話器をもどしてベッドに行こうとしかけたとき、音らしきものがかすかに聞こえた。誰かが大変な苦労をして話そうとしているのだろうか。そんなことを思いながら耳をかたむけていると、水らしきものが泡立っている音が聞こえるような気がした。ゴボゴボ……ゴボゴボ……ゴボゴボ……。その音には、不明瞭で理解できない言葉と音節の区切りを妙に暗示するものがあった。わたしはどなたですかとたずねたが、その返事としてはゴボゴボという音が聞こえただけだった。わたしには機械がたてる音だとしか思えなかったが、先方の電話が故障していて先方の声が聞こえないのかもしれないと思い、「何も聞こえないんですよ。電話を切って、電話局に調べてもらったほうがいいでしょう」といった。すぐに電話の切れる音がした。
これは真夜中に近い頃のことだった。その後どこからかかってきたものかを調べてもらうと、クラウニンシールド荘からかけられたことが判明したが、家政婦がそこにいるのは三、四日先のことだった。あの屋敷で発見されたものを漠然と記しておこう。屋敷から離れた地下の貯蔵庫内の混乱、足跡、汚物、なかにあったものをあわててとりだしたらしい衣装戸棚、電話機に残っている得体の知れない跡、ぞんざいに使われた便箋、そしてあらゆるものに悪臭がこびりついていた。警察は愚かにも独善的な推理をして、解雇された卑劣な召使たちをいまも捜索している――召使たちは騒動のさなかに行方をくらましてしまった。警官たちにいわせれば、召使たちは解雇されたことで残忍な復讐をたくらみ、エドワードの親友でもあり助言者でもあるから、わたしもその復讐の対象になっているというのだ。
莫迦《ばか》な! あの愚鈍の無骨者たちにあの筆跡がまねられたとでも思っているのか。あとであらわれたものを連中が運びこめたなどと思っているのか。エドワードのものだったあの体における変化が見えないほど目が曇っているのか。わたしはといえば、エドワード・ダービイがかつて話してくれたことのすべてを、いまでは完全に信じている。生命圏の彼方には人知のおよばない恐怖が存在し、ときとして人間の邪悪から生じる詮索好きな呼びかけがそういう恐怖を手のとどく範囲内に呼び寄せてしまうのだ。エフレイム=アセナス=あの悪魔がそういう恐怖を呼び寄せ、いまわたしを呑みこもうとしているようにエドワードを呑みこんでしまったのだ。
わたしが安全だといいきれるだろうか。あの種の力は肉体から生命の火が消えてもなお生きながらえるものなのだ。翌日の午後、わたしは神経衰弱からようやく脱して普通に歩いたり話したりできるようになると、精神病院に行き、エドワードのため、そして世界のためにこそ銃の引金をひいた。しかし遺体が火葬にされるまで、安心できるものではない。それなのに、さまざまな医師による愚かきわまりない検視解剖をうけるため、遺体は保管されているのだ。すぐに火葬にすべきなのに。火葬にしなければならないのだ。わたしが発砲したとき、既にエドワード・ダービイではなかったあの男は。火葬にされないなら、わたしは発狂してしまうだろう。次はわたしの番になるかもしれないのだから。しかしわたしは意志薄弱な人間ではない。あたりにわきたっているはずの恐怖にむざむざと害されたりはしない。ひとつの生命――エフレイム、アセナス、そしてエドワード――はいま誰になっているのか。わたしは体から追いだされたりなどしない……精神病院で弾丸を射ちこまれたあの死体と魂を交換したりするものか。
しかしあの最後の恐怖について何とか理路整然と記してみようと思うので、お読みいただきたい。警察があくまで無視したことについては何もいわないつもりだ――午前二時になろうという頃、ハイ・ストリートで少なくとも三人の通行人が目にした、あのグロテスクな、萎縮した、悪臭ふんぷんたるもののことや、特定の場所に見いだされた個々の足跡については、何も記さない。二時直前に、わたしが呼鈴とノッカーの音で目を覚ましたことだけを記しておく。呼鈴とノッカーは、力のないものが死物狂いでならしているかのように、交互に弱よわしくならされたが、いずれもエドワードの例の三回=二回というならし方をしようとしているようだった。
深い眠りから目を覚ましたわたしは、ひどく心を騒がせられた。エドワード・ダービイが戸口にいて、しかも懐《なつ》かしい合図を思いだしているのだから。新しい性格をもつ男はその合図を忘れてしまっていた……エドワードは急に元の状態にもどったのだろうか。どうしてこんなにも切迫してやって来たのか。予定より早く退院させられたのか、それとも逃げだしてきたのか。わたしはローブをひっかけ、あわてて階下へおりながら、あるいは本来の自分にもどったことでひどくとり乱してしまい、退院を許されるのを待っていられず、やみくもに自由を求めているのだろうと思った。何があったにせよ、以前のあのエドワードにもどっているのだから、力をかしてやらなければならなかった。
楡が弧を描く闇のなかにドアを開けると、ほとんどうちのめされてしまいそうな、たえられない悪臭をはらむ風が吹きこんだ。わたしは吐気のあまり喉がつまったが、その瞬間、はなはだ成長をそこなわれ、背をまるくした人の姿が戸口にかろうじて認められた。あのならし方はエドワード独特のものだったが、この発育不良の不潔な畸形は何者なのか。エドワードはあっというまにどこへ行ってしまったのか。わたしがドアを開ける一瞬まえまで呼鈴がなっていたのに。
戸口にいる者はエドワードの外套を着ていた――裾はほとんど地面にふれ、袖はまくりあげられていてもなお手を隠していた。頭にはソフト帽を目深《まぶか》にかぶり、黒いシルクのマフラーで顔をつつんでいる。わたしがよろめく足を一歩まえにだすと、その小人は電話で聞こえたのと同じ、液体がたてるような音――ゴボゴボという音――を発し、鉛筆の先につきさした、びっしりと文字の書かれている大きな紙をわたしにさしだした。わたしはいいようもなく恐ろしい悪臭のために、なおも目がまわりそうな状態だったが、紙をつかみ、戸口からもれる光で読もうとした。
紛れもなくエドワードの手になるものだった。しかし呼鈴をならすほど近くに来ながら、いったいどうしてわざわざ書いてきたのだろう。記された文字がぎこちなく、乱雑で、震えているのは、どうしてなのか。ぼんやりした光のもとでは判読できないので、わたしはホールにひきかえしたが、小人は敷居に立ちながら、機械じかけの人形のように足を踏みならした。この奇妙な使者の臭たるや、実に悍ましいもので、わたしは妻が目を覚ましてやって来ないことを願った(ありがたいことにこの願いはかなえられた)。
やがて、わたしは読みつづけているうちに、膝の力が抜けてしまい、目のまえがまっ暗になった。気がつくと床に倒れこんでいて、あの呪わしい紙を恐怖のあまり硬直した手でなおも握りしめていた。こう記されていたのだ。
[#ここから2字下げ]
ダン、精神病院に行ってあれを殺してくれ。根絶やしにしてくれ。あれはもうエドワード・ダービイじゃない。あれが――アセナスが――ぼくを奪い去ったんだ。そのアセナスは三ヵ月半まえに死んでいる。家から出て行ったといったけど、嘘なんだ。ぼくが殺した。殺さなきゃならなかったんだ。突然のことだったが、あのとき家にいたのはぼくとアセナスのふたりきりで、ぼくは自分の体のなかにいた。ぼくは燭台を目にしてひっつかみ、アセナスの頭をくだいた。アセナスは諸聖徒日に何としてでもぼくの体を自分のものにするつもりだったんだ。
ぼくはアセナスを屋敷から離れた地下の貯蔵庫に埋め、その上に古い箱をいくつも置いて、証拠になるものをすっかり消し去った。翌朝屋敷にもどった召使たちは怪しんだが、やつらにも秘密があるから、警官と顔をあわせられるわけがない。ぼくは首を切ってやったが、やつら――そして他の信者――が何をしでかすかはわかったものじゃない。
ぼくはしばらくこれでもう大丈夫だと思っていたが、そのうち脳がひっぱられるような感じがした。それが何を意味するかがわかった。おぼえていて当然だったのに。アセナスの、いやエフレイムの魂は、なかば分離していて、死んだ後も、体が存在しつづけるかぎり生きつづけるんだ。アセナスはぼくを奪おうとしていた――自分の体とぼくの体を交換させようとしていた――ぼくの体を奪い、ぼくを地下室に埋められたアセナスの体のなかにいれようとしていた。
ぼくはどうなるかがわかっていた。だからこそ、神経がたえきれなくなって、入院しなければならなくなったんだ。やがて恐れていたことがおこってしまった――気がついてみると、ぼくは闇のなかで息がつまっていた――地下室の、ぼくが置いた箱の下で、アセナスの腐れはてる死体のなかに入りこんでいたんだ。そしてアセナスが、療養所のぼくの体のなかにいるにちがいないことがわかった。もう諸聖徒日はすぎているから、ぼくの体は完全にアセナスのものになってしまった。生贄《いけにえ》はアセナスがその場にいなくとも効果を発揮するんだ。そしてあいつは、正気をとりもどしたと診断され、退院させられようとしている。世界に対する脅威であるあいつが。ぼくは必死になって、やっとの思いで、土を掻《か》きながら這いだした。
ぼくはもうしゃべることもできない――電話するのも無理だった。しかしまだ書くことはできる。ぼくは何とかしてこの最後の言葉と警告を伝えるつもりだ。もしきみが世界の平安を重んじるなら、あの悪魔を殺してくれ。必ず火葬にしてくれ。そうしてくれなかったら、あれは体から体へと永遠に生きつづけるだろう。あれが何をしでかすかは、とてもいえない。ダン、黒魔術を一掃してくれ。黒魔術は悪魔の業だ。さようなら。きみは素晴しい友人だった。警察には、納得させられるようなことを適当にいっておいてくれ。きみにこんな役目を押しつけるのは、とてもすまなく思っている。ぼくはもうすぐ安らかになるだろう。この体はもう長くはもたない。きみがこれを読んでくれることを祈っている。どうかあいつを殺してくれ。絶対に。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]エド
わたしは半分読んで意識を失ったので、後半部を読んだのは意識をとりもどしてからのことだった。しかし戸口に崩れはてたものを目にし、暖かい風が吹いてその臭をかいだとき、またしても気を失ってしまった。使者は身動き一つせず、もはや意識をもっていなかった。
わたしより神経の太い執事は、朝になって戸口にあるものを見たときも、気を失わなかった。そして警察へ電話をした。警官が来たとき、わたしは二階でベッドについていたが、あの、あの塊は夜に崩れはてたまま横たわっていた。警官は鼻をハンカチで覆った。
エドワードの妙に調和した衣服のなかに見いだされたのは、ほとんど腐汁に近い恐ろしいものだった。骨もあった――くだかれた頭蓋骨も。歯の治療跡から、その頭蓋骨はアセナスのものであることが判明した。