ラヴクラフト全集〈2〉
H・P・ラヴクラフト/宇野利泰訳
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チャールズ・ウォードの奇怪な事件 The Case of Charles Dexter Ward
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4 変容と狂気
T
記憶すべき聖金曜日のつぎの週間、めずらしいことにチャールズ・ウォードは、家族の者の前にしばしば姿をあらわして、二階の書斎から屋根裏の実験室へと、書物を移動させる作業をつづけた。落ち着いて、正常な動作であったが、追われている男のように、人目を避ける様子がうかがわれて、母親の目には不安に映《うつ》った。料理人にいいつける食事の量が驚くほど増大したことから、餓えた狼のような貪欲に駆られているのが明白だった。
聖金曜日の出来事を聞かされたウィレット老医師は、翌週の火曜日に青年を訪問し、いまはカーウィンの肖像画が失くなった書斎で、長い時間話しあった。会見は例によってなんの結論もつかぬままに終わったが、ウィレット医師はいぜんとして、チャールズの精神状態が健全であるとの見解を改めることがなかった。ウォード青年は、近く研究を完成してみせると約束したうえで、その用意に、どこかほかの土地に実験室を確保しておく必要があるのだが、といった。カーウィンの肖像画が破壊されたことに、あまり残念そうな顔も見せないのが、発見当時の熱狂ぶりに比べて、奇異な感じをあたえはしたが、それが急速に崩れ落ちた事実のうちに、積極的な意義を見出しているようにも思われた。
そのまたつぎの週にはいると、チャールズの外出がはじまって、長いあいだ、邸をあけるようになった。春季の大掃除の日、黒人女のハナが手伝いにきて、ここのところチャールズさまが、オルニー・コートの彼女の家を訪れることが多いと語った。いつも、大きなカバンを提げてきて、すぐに地下室へ降りていく。そこのどこかを掘っている物音がする。彼女と彼女の夫のアサには、いたって愛想がよいのだが、以前のチャールズさまとちがって、ひどく表情が暗い。どんな心配事がおありなのか、気になってならないという。彼女としてはチャールズの誕生以来その成長ぶりを見守っていただけに、無理のない気持であったのだ。
彼の行動について、もうひとつの報道が、ポートゥックスト方面からはいってきた。ウォード家の知人たちが、遠目ではあるが、驚くほどたびたび、その付近に彼の姿を見かけたそうで、どうやら、渓谷のカヌー小屋のあたりを散歩していたもののようだと伝えた。それを聞いたウィレット医師は、さっそく現場へ出かけて、その詳細をたしかめた。チャールズは好んで、河岸を蔽《おお》う灌木の茂みに足を踏み入れ、それに沿って北方へ向かい、たいていの場合、もどってくるまでに、長い時間が経過していたというのであった。
五月も末になると、一時的ではあったが、屋根裏の実験室に、またしても古代祭儀の呪文が復活した。すぐさま、ウォード氏の口からきびしい叱責がとぶと、チャールズはおとなしく謝って、二度と繰り返さぬことを、どこか気のない口調で約束した。そして、ある日の朝のこと、聖金曜日とおなじ一人二役の対話が聞こえてきた。青年は大声で、彼自身と議論し、勧告している。声調が交互に入れかわるので、一人が要求し、一人が拒絶しているのが、はっきり識別できる。ウォード夫人は階段を駆けあがって、ドアに耳をあてがった。だが、彼女の手が、扉板を叩いてしまった。声が、ぴたっとやんだ。最後に聞きとった対話の切れはしは、「三月のあいだは、血で染めておかねばならぬ」というのだった。後刻、チャールズは父親に詰問されて、意識の層に混乱が生じたときの言葉で、なにをしゃべったか記憶がない。あの状態を避けるには、なおいっそう修練が必要だが、今後は研究をほかの領域に移すつもりだと答えるだけであった。
七月の中旬のある夜、またも奇怪な出来事が起きた。日が暮れて間もなく、階上の実験室にはげしい物音がするので、ウォード氏が様子を見にいこうとすると、急に鎮《しず》まった。夜が更けて、家族の者がベッドにはいったあと、執事が夜の戸締りに、玄関の扉に鍵をかけていると、大型のスーッケースを提げたチャールズが、階段を降りてきた。しくじりをした子供のようなおどおどした態度で、口はひとこともきかずに、外出したいと身振りで示した。ヨークシャー生まれの、主家に忠実な執事は、思いとどまらそうとしたが、熱を帯びた凶悪な目を見ただけで、全身が慄えた。扉をあけると、ウォード青年は出ていった。夜があけるのを待って、執事はウォード夫人に、お暇をいただきたいと申し出た。昨夜、チャールズが彼にむけた視線には、邪悪な光があった。年若い紳士が忠実な召使を見る目ではない。この先、一夜にしても、この邸に勤めてはいられぬというのが理由だった。夫人は了承して、暇をやった。といって、執事の言葉を信じたわけではなかった。そのような状態でチャールズが外出したというのが、むしろおかしな話だった。昨夜は、階上の実験室から、すすり泣きをしながら歩きまわっているチャールズと、ため息をついては、深味のある声で命令を下す男との会話が、たえず流れてきたので、彼女はおそくまで眠れずにいたのだ。ウォード夫人は、深夜の物音に敏感になっていて、どんなかすかな響きも聞き洩らすことがなかった。愛する息子の奇怪な謎が、ほかのあらゆる思念を彼女の心から追い払ってしまったからであろう。
翌日の夕方、三ヵ月前のときとそっくりおなじに、チャールズ・ウォードは家人のだれよりも早く、新聞を手にして、偶然の出来事のような格好で、記事の主要な、部分を傷つけた。その事実は、数日のあいだ、気づかれもせずにすんだが、ウィレット医師が残存部分を発見したことから明るみに出た。チャールズが破棄した個所は新聞協会事務所の綴し込みで照合することができた。そのうち、とくに意味がありそうなのは、つぎの二つの記事だった。
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再度の墓地荒らし[#「再度の墓地荒らし」太字]
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本日未明、北共同墓地の夜番ロバート・ハートが、同墓地内の最古の地域がまたしても怪漢に襲われたのを発見した。被害を受けたのは、一七四〇年生まれ一八二四年死亡のエズラ・ウィードンの墓地で、近くの道具小屋から盗み出した鋤《すき》を使用し、墓碑を乱暴に打ち砕き、墓穴を掘りおこし、埋葬物を奪い去ってある。
百年以前の墓で、腐朽した木片のほか、埋葬物は残存していないと見るのが至当であろう。タイヤの痕はなく、付近に一人分の靴跡が発見されたが、警察当局はこれを、上流紳士のはく深靴によるものと鑑定している。
夜番のハートは、この犯行を三月に起きた事件に関連があるとみた。三月のある夜、トラックで乗りつけた墓地荒らしの一団があったが、夜番に騒がれて未遂に終わった。しかし、第二警察署のライリー巡査部長はこの考えを拒《しりぞ》け、両事件のあいだに、決定的な相違のある点を指摘した。三月の事件では、墓石の見当たらぬ地域を発掘してあったが、今回は、故人の氏名を確認できる墓地を狙い、丁重に保存してあった墓碑を粉砕した事実からしても、凶悪な害意に基づく犯行であるのは明白だと説明した。
事件を知らされたウィードン家では、悲嘆のうちに驚愕の色を見せ、同家に怨恨を抱き、先祖の墓に復讐する相手は心当たりがないと言明した。ただ、当主のハザード・ウィードン氏(エンジェル街五九八番地居住)は、同家に残る古伝説を想い起こし、墓の主エズラ・ウィードンは、独立戦争の直前、ある異常な事件に一役演じたといわれるが、当時の反目が百年後の今日まで尾をひくとは考えられぬことだと語った。事件の担任者に決定したカニンガム警視は、近日中に有力な手掛りを掴む自信があると述べている。
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ポートゥックストの犬騒ぎ[#「ポートゥックストの犬騒ぎ」太字]
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本日午前三時ごろ、ポートゥックスト村の全住民が、けたたましい犬の鳴き声に驚かされた。ポートゥックスト渓谷の北、河岸に近い地帯に、おびただしい犬の群れが集まって、いっせいに吠え立てた。渓谷の夜番フレッド・レムディンの話によると、異常な咆哮のあいだに、人間の悲鳴に似た声が聞こえたという。何者かが、生命の危険にさらされたか、強烈な苦痛をこうむった模様である。その直後、雷雨が襲来し、河の近くに落雷があり、同時に犬は鳴きやんだ。原因はいまだに不明だが、現場付近に異様に不快な悪臭が漂っていた事実によって、湾に沿った石油タンクの有毒ガスがながれてきて、犬を興奮させたものと推定されている。
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このところ、チャールズの顔にやつれが目立った。この時期の彼が、秘密を打ち明けたい気持に駆られながら、なにものかの恐怖のまえに思い悩んでいたとみるのは、当時の状況を回顧する人たちの共通意見だった。眠らずに耳を澄ましている母親の口から、闇に乗じた彼の度重なる外出の事実が明るみに出されたこともあって、そのころ、新聞紙上にセンセイショナルに報道された奇怪な吸血鬼事件を、彼の所業とみるのが、大学関係の精神病理学者グループの一致した見解であった。この事件は、真犯人が逮捕されぬままに終わったが、比較的最近のものであり、周知の事実ともいえるので、詳細な記述は差し控え、顕著な特徴を指摘するにとどめておく。それは、被害者の年齢とタイプはさまざまだが、凶行現場が二つの地域に集結している点である。ひとつは丘上の高級住宅地区からノースエンドへかけてで、これはウォード邸に近い。いまひとつは、クランストンの町へ向かう鉄道線路に跨る郊外地区だが、これはポートゥックスト村からいくらも隔たっていない。双方ともに襲われたのは、深夜の歩行者か窓をあけたまま寝ていた男女で、たまたま死亡をまぬがれた者は、口をそろえて語るのだった。怪物は貧弱な身体つきだが、猫のような柔軟な動きで、いきなりとびかかってくると、喉または上膊に噛みつき、貪欲に血をすすったと。
チャールズ・ウォードの発狂時期を、このときまで遡《さかのぼ》らす見解にも、ウィレット医師はなお反対意見を表明した。しかし、いわゆる吸血鬼事件となると、発言が慎重になって、自分なりの解釈がないこともないが、さしあたっては、否定形式による表現にとどめておきたいと、明確な断定を避けるのだった。「目下のところ、わたしには」と老医師はいった。「あの襲撃と殺人が、けものの仕業か人間の犯行かを説明する意向はない。しかし、チャールズ・ウォードの所業でないことだけは断言できる。ウォードが血の嗜好の持ち主でなかったとみる理由があるからで、事実、彼の慢性的な貧血症状と、日増しに蒼ざめていった顔の色が、言葉の上のどのような議論よりも、雄弁にそれを証明していると思う。ウォードがこの怖るべき存在とかかわりを持ったことは否定しない。しかし、彼はその代償を支払っている。これを怪物ないし凶悪漢と見るのはまちがいである。要するに、いまのわたしは、この問題について考えたくない心境にある。変化が生じたのだ。そしてわたしは、怪奇が途絶えたのは、わがチャールズ・ウォードの死によるものだと信じることで満足している。いずれにせよ、彼の魂は死んだ。ウエイト病院から消失した狂える肉体は、別個の魂をそなえていたのだ」
ウォード家の主治医としてのウィレット医師の言葉には、当然ながら権威があった。このときも彼はウォード家を訪れ、緊張の連続から、神経の糸が切れる寸前の状態にある夫人の看護にあたっていたのだ。夜通し、愛するわが子の挙動に耳を澄ましていることで、母親の心に病的な幻覚が育っていった。それを彼女は、躊躇しながらも、医師に打ち明けた。そして医師は、無意味な妄想だと一蹴したが、一人になると、真剣に考えた。彼女の幻想は聴覚によるもので、かすかな物音を聞くと、屋根裏の実験室か物置を改装したチャールズの寝室からのものと思いこみ、それが昂じて、時ならぬ時の、押し殺した吐息とすすり泣きを聞いたと信じはじめる。七月にはいると、ウィレット医師は強制的に、夫人をアトランティック・シティへ転地させた。恢復の兆候をみるまで無期限の滞在を勧告し、ウォード氏とやつれはてたチャールズには、夫人への手紙には明るいニュースだけを書くようにと注意した。ウォード夫人はいやいやながらも医師の命令に従ったが、彼女が生命を維持し、正気の状態にもどることができたのは、この気のすすまぬ逃避行の賜《たまもの》であったことに疑いなかった。
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母親がアトランティック・シティへ去ると、チャールズ・ウォードは小別荘の購入|折衝《せっしょう》にとりかかった。彼の希望したものは、ポートゥックスト渓谷を見下ろす、人家も稀れな小高い丘の上にあって、コンクリート造りのガレージをそなえてはいるが、見るからに貧弱な木造家屋だった。しかし、なぜか青年は、ほかの家には目もくれず、不動産業者をせきたてて、法外な価格を提供することで、立ち退きを渋る居住者から買いとらせた。空屋になるが早いか、屋根裏の実験室の備品全部と、書斎から移しておいた書物とを、大型の有蓋貨物車によって運び入れた。積み込みは深夜に行なったので、父親のウォード氏は朝になってから、重々しい足音と低めた声を夢うつつのうちに聞いたと思いだすだけだった。その後チャールズは、三階の自室にもどって暮らし、屋根裏へは二度と足を踏み入れなかった。
チャールズはすべての秘密を、ポートゥックストの小別荘に移した。いままでは、屋根裏の二部屋に、彼ひとりの王国を築いていたのだが、新しい家では、その秘密を二人の男と分けあうことになった。一人は、波止場に近い南本通りからつれてきた、凶悪な顔つきの、ポルトガル人と黒人の混血男で、これが召使の役をつとめた。もう一人は、染めあげた剛《こわ》い顎ひげに、黒眼鏡をかけ、カレッジ時代の学友というにふさわしい学者風の男だが、ついぞ見かけたことのない顔だった。引越しがすむと、村民たちはこの異様な三人の男に話しかけたが、会話どころか、返事もろくにもらえなかった。白黒混血のゴメスは、英語をほとんど知らぬようだし、顎ひげの男は、アレン博士と名乗っただけで、会話に応じないことはゴメスとおなじだった。チャールズ・ウォードは、より愛想よく振舞うつもりでいたようだが、化学実験の件もあって、好奇の目で見られることにかわりなかった。やがて、夜明けまで屋内の灯が消えないことで、おかしな評判が立ちはじめた。噂がひろまると、灯が消えるようになったが、居住者が三人にしては、不相応すぎる量を肉屋に注文するのと、声を低めた叫び、朗誦、律動的な詠唱、さらに悲鳴までが、建物の床下、地下深いところから聞こえてくるように思われて、噂は高まるばかりだった。要するに、新たに移り住んだ異様な三人は、実直素朴な小市民には不快な隣人だった。そして、黒い噂がひろまるにつれて、不快が憎悪にすすみ、ついには、当時|熾烈《しれつ》をきわめていた吸血鬼の殺人騒ぎに結びついていったのも無理からぬことであった。しかも、彼らが移り住んで以来、この災厄の発生範囲が、ポートゥックストの村とそれにつづくエッジウッドの街筋に限られてきたのだった。
チャールズ・ウォードは大部分の時間を、この小別荘に過ごしていたが、ときどきは邸へ帰って眠るので、父の屋根の下の住人に数えられていた。二回ほど、一週間にわたる旅行で、プロヴィデンスを留守にしたが、行先はいまだに明らかにされていない。日ごとに顔色が蒼ざめ、憔悴が目立ち、かつてウィレット医師に、彼の研究がいかに重要なものであるか、近い将来にかならず完成してみせると語ったときの自信も喪失したように見受けられた。父のウォード氏は、まだ年若いチャールズが秘密に包まれた独立生活を送っているのに不安を抱いて、きびしい監視をウィレット医師に委嘱した。かくて老医師は機会をみてはウォード邸を訪れ、青年の帰宅を待ち受けて、話しあうようにつとめた。そしてその結果、この段階にあっても、青年の精神状態に異常のないことを確認していたので、大学関係者の主張を反駁するにあたって、当時の会話を数多く引用している。
九月の訪れとともに、吸血鬼騒ぎもようやく下火になって、チャールズ・ウォードの身辺には、平穏無事な月日が過ぎていった。しかし、年がかわると、ウォードはまたもや重大なトラブルに巻きこまれた。そのころ、ポートゥックストの彼の別荘に、夜ごと、トラックが出入りをつづけたので、村人たちのあいだで論議の的となりだしていた。それが、この一月に、思わぬ支障が生じたことから、疑問にされていた積載物の内容が、少なくともその一品目については暴露されるにいたった。ホープ渓谷といえば、密輸酒運搬のトラックを狙う強盗団が出没するので有名な場所だが、この夜の追剥ぎたちは、意外な獲物をつかまされて仰天した。その場で、長方形の荷箱をひらいてみて、あっと声を呑《の》んだ。酒瓶でなくて、なんともいえず醜怪なものがあらわれた。いかに醜怪であったかは、社会の最底辺に生息するこのやからが、怖気《おじけ》づかずにいられなかったことでもわかるであろう。盗賊どもは、あわててそれを埋めてしまった。だが、噂はながれて、警察当局の聞きつけるところとなり、内密のうちに捜査が開始された。一味の一人を逮捕して、その事件ではもちろん、どのような付随的な犯罪でも、罰せずにおいてやるとの条件で、埋没場所へ案内することを承知させた。現場へ急行した警察隊は、はたしてその地下から、だれしも顔をそむけずにいられぬ恥多きものを発掘した。万一これが一般大衆の知るところとなれば、アメリカ全国民の――いや、全人類の、といいかえてもよいが――倫理意識に最悪の影響をおよぼすことになる。元来、道徳には無関心な警察官たちであるが、こればかりは黙ってみすごせなかった。その直後、至急電報をワシントンへ打って、処置方法を問いあわせた。
荷箱は全部、ポートゥックストの小別荘に宛ててあった。州警察と連邦警察の合同隊が、強力な布陣で、チャールズ・ウォードの逮捕に向かった。しかし、チャールズは確実な根拠をあげて釈明し、内容物が彼の関知するところでないのを立証した。まずもって、彼の従事している研究のプログラムの重要性を説明して、この十年間、チャールズ・ウォードを見知っている者なら、これが純粋な学術的興味に基づく研究であることを疑わぬはずだといった。必要とする解剖用の実験材料の種類と数量を指定して、取扱い店に注文した。その種類はまったく合法的なもので、現実に発送してきた荷箱の内容までは、彼のあずかり知るところでない、というのが釈明の概要だった。しかも彼は、警部たちの口から、学術的研究に貢献するよりも大衆の感情と国家の威信を傷つけることがはるかに大きい内容物について聞かされると、心の底から驚いた様子を示した。この陳述を、例の顎ひげ男のアレン博士が、声はいささかおどおどしていたが、懸命に支持した。そこでけっきょく、警官隊は逮捕をとりやめ、ウォードから聞いたニューヨークの標本業者の住所氏名を書きとめるだけで、引き揚げていった。しかし、ニューヨーク警察に照会しても、業者をつきとめることはできずに終わった。ついでながら申し添えておくが、発掘物は警官隊の手で、もとの場所に埋められて、一般大衆の目に触れることがなくてすんだ。
一九二八年二月九日、ウィレット医師はチャールズ・ウォードの手紙を受けとって、それに特別の重要性を認めた。この手紙については、後日幾度となく、ライマン博士とのあいだに論争がかわされた。ライマン博士はこれを、早発性痴呆症の顕著な現われ、病症の進行状態を語る積極的な証拠だと主張し、ウィレット医師はこの見解を否定し、これこそ、不幸な青年が最後に示した正気の発言だと反駁し、とくに、筆跡の乱れのないところに注意を促した。たしかにそれは、神経の打ち砕かれた痕は見受けられるが、ウォード自身のものであるにちがいなかった。以下がその全文である。
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親愛なるウィレット医師へ――
熱心なご質問にもかかわらず、長いあいだ、お約束のままにすごしてきましたが、いよいよ発表の時期が到来したものと考えます。忍耐づよくお待ちいただけたばかりか、ぼくの心の健全を信じておられたことに、なんと感謝してよろしいものか、その言葉も知らぬ気持でおります。
いまようやく発表の段階に達しましたが、あらかじめ恥を忍んで告白しておきますと、長期にわたったこの研究も、その結果たるや、当初夢見たところとはまるでちがったものとなり、勝利の代わりに戦慄を味わいました。お会いして申しあげる言葉も、勝利の誇示でなく、人知を超えた恐怖から、ぼくとこの世を救ってくださるよう、ご援助とご忠告を求める訴えです。ポートゥックスト農場急襲の模様は、フェナー書翰《しょかん》にてご承知のことと思いますが、いままたここで、あれと同様の行動が必要となりました。それが一日の猶予もゆるしません。あらゆる文明、すべての自然法則、そしておそらくは、太陽系と宇宙全体の運命が、ぼくたちの力ひとつにかかっております。ぼくの研究は、怪奇異常な存在に光をあてることに成功しました。その動機は知識を深めることにありましたが、いまや、全人類の生命と品性のため、あなたのお力添えを得て、ふたたびそれを元の闇のなかに押しもどさねばならぬのです。
ぼくはポートゥックストの家を永久に離れました。あの場所に存在するものは、生けると死せるの差別なく、根絶しなければならぬのです。今後のぼくが、二度とあの土地を踏むことはありますまい。かりに、その近辺にぼくの姿を見かけたとの噂が立っても、信じないでいていただきます。その理由は、お会いしたうえで申しあげます。お待ちしております、ぜひともご来訪を。ぼくの話は、五、六時間を要します。それだけの時間をお割《さ》きいただけるときは、なにをおいてもご来訪を。これはけっして、医師のつとめをおろそかになさることにはならぬはずです。ぼくの言葉を信じてください。いま、ぼくの生命と理性は、まったく安定を欠いた天秤の上で、はげしく揺れている状態にあります。父には打ち明けぬことにきめました。理解してもらえぬと、承知しているからです。ただ、ぼくの生命が危険にさらされていることは話しました。父はそこで、四名の私立探偵に依頼して、邸を見張らせています。しかし、これがどこまで役に立つか、疑問であります。相手は怖るべき力をそなえています。あなたでさえ、心に描き、それと認識できないほどの力をです。ですから、ぼくが生きているうちに、お会いくださることを懇願します。この宇宙が、恐ろしい地獄に変わるのを防ぐために、ぼくとあなたがなにをすべきか、その方法をお聞きねがわねばなりません。
いつお出でねがっても結構です――外出はぜったいにいたしません。電話によるお打ち合わせはお避けください。だれが、なにが、あなたのお出でを妨げようと試みるかもしれぬからです。至急、お会いできるよう、どんな神にしろ、祈りを捧げずにいられぬ気持でおります。
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一九二八年三月八日
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ロード・アイランド、プロヴィデンス、プロスペクト街一〇〇番地
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[#地から2字上げ]チャールズ・デクスター・ウォード
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追伸 アレン博土を見かけしだい、かならず射殺のこと。死骸は酸で融かす。火葬は不可。
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ウィレット医師はこの手紙を、朝の十時半に受けとった。その文面に心を動かされ、その日のうちに会見することにきめた。午後おそくから夕方へかけての時間を、必要とあれば夜間のそれまで、この会見に費やすつもりだった。ウォード邸に到着の時刻を午後四時とし、それまでに、診察その他重要な仕事を片付けにかかったが、手が機械的に動くだけで、とめどなく奔《はし》りまわる考察にふりまわされているかたちだった。手紙は第三者の目に、狂気の現われと映《うつ》ったかもしれないが、チャールズ・ウォードの奇行を数多く見ているウィレットは、これを興奮に駆られた筆と解釈することもできなかった。捉えどころがないとはいえ、無気味な過去の息吹きが感じとれるのはたしかだった。アレン博士についての極端な言葉にしても、ポートゥックストの村人たちのあいだにながれている、謎にみちたウォードの同居者たちの噂を考慮すれば、理解できないわけでもなかった。ウィレットはこの人物に、一度も出遭っていないのだが、その異様な相貌と顎ひげとは、いつか頭に沁みついていた。多くの論議を呼んだ黒眼鏡の奥に、どのような目がかくされていることか。
四時きっかりにウォード邸に到着して、あれほどかたい決意を書いてよこしながら、チャールズが邸を留守にしていると聞かされて、ウィレット医師は眉をくもらせた。私立探偵たちが見張りに立っていた。彼らの話を聞くと、どうやらその日の青年は、持ち前の内気なところを失ったものらしい。朝、電話がかかってきて、だれやら知らぬ相手と、ひどく怯えた口調で、言い争い、抗議をしていた。私立探偵の一人は、洩れ聞いた言葉の切れはしを、例にあげて説明した。「いまは疲れています。少し、休ませてほしい」「当分、人に会いたくない。失礼します」「なんとか妥協できるはずです。それまで、決定的な行動はとらないで」あるいはまた、「長いことはいわないが、完全な休養をとりたい。そのあとで、ゆっくり話しあいます」
電話を切ると、しばらく考えこんでいたが、どうにか元気をとりもどしたものか、だれにも気づかれぬように邸を抜け出していった。一時ごろにもどってきたが、だれに声をかけるでなく、階段をのぼっていった。そこでまた、恐怖が甦ったとみえて、書斎のなかで、甲高い叫び声を立て、あと、咳きこむような喘ぎをいつまでもつづけていた。執事が心配して、のぞきこもうとすると、チャールズは戸口に顔を出した。しかし、ものもいわずに、身振りで、立ち去れと命じた。人が変わったように、怖ろしい形相だった。それから、書棚の整理をはじめた様子で、はげしい軋み、動きまわる足音と、ひとしきり大きな音を立てていたが、ふたたび姿を見せると、そのまま邸をとび出していったというのだった。ウィレット医師は、伝言が残っていないかと訊いてみたが、否定的な返事だった。チャールズの動作と態度が心配になったが、執事は医師をはなそうともしないで、若主人の神経の乱れは治癒の見込みがあるのかと、熱心に質問するのだった。
二時間ちかく、ウィレット老医師はチャールズ・ウォードの帰邸を、その書斎内で待ち受けた。塵の積もった書棚のあちこちに大きな空間ができているのは、書籍を持ち去った跡である。医師は北側の壁をながめて、ほろ苦い微笑を浮かべた。一年まえなら、そこのマントルピースの上から、ジョゼフ・カーウィンの柔和な顔がおだやかな表情で見下ろしているはずだった。そのうちに、夕闇がせまってきて、暮れきるまえの一瞬の、なごやかなたたずまいのうちに、漠然ながら恐怖の影がながれだした。やがて、ウォード氏が事務所からもどってきた。チャールズが外出したことを聞くと、私立探偵を四人まで雇って見張らしておいたのにと、驚きと怒りを露骨に示した。医師への面会申込みは初耳だった様子で、息子が帰宅しだい、お知らせすると約束した。そして、辞去しかけるウィレットの袖をとらえて、チャールズの精神状態を安定させるために、なおいっそうの尽力をねがいたいと、必死に頼みこむのだった。書斎の外へ出て、ウィレットは救われた感じを味わった。あの部屋には、邪悪の影がひそんでいる。突然、剥げ落ちたジョゼフ・カーウィンの肖像画が、悪の遣産を残していったのではないか、もともとウィレット医師は、あの油絵を好まなかった。強靱な神経の持ち主と自負していながら、その前に立つだけで、そうけ立つものを感じさせられた。いまは空虚になったが、なおかつその壁板には、少しも早く戸外へ逃れたい、澄んだ夜気を吸いたいと思わせるものがあった。
V
翌朝、ウィレット医師はウォード氏からの使いの者の言葉で、チャールズがいまだに帰宅していないのを知らされた。アレン博士から電話があって、チャールズはここ当分、ポートゥックストの家に滞在するから、放置しておいてほしい。その理由は、アレン博士自身が、とつぜん、ほかの土地に用件ができて、そこへ向かわなければならぬ。戻りはいつのことになるかわからぬので、目下進行中の重要な研究をチャールズ・ウォードの監視の下においておかねばならぬ。チャールズ本人からも、父によろしくとの伝言があり、計画の変更によって迷惑をかけたのを遺憾に思うといっておる、とあった。この電話で、ウォード氏ははじめてアレン博士の声を聞いたのだが、なにかその響きに、漠然とした記憶を呼びおこすものを感じとった。ともすれば逃げがちな記憶で、確実なことはつきとめにくいが、それでいて、恐怖の段階まで心を掻き乱される思いがしたとのことであった。
矛盾にみちたこの報告を聞いて、ウィレット医師は正直のところ、どう処置してよいものか、判断がつきかねた。チャールズの手紙に、常軌を逸した真摯さがこもっていたことは否定できない。しかし、わざわざ書き送ってきた方針を、その日のうちに変更した点を、どう解釈したらよいのであろうか。ウォード青年自身、彼の研究が神をないがしろにし、冒涜的、脅威的なものであるのを明白にみとめ、顎ひげ、黒眼鏡の博士をはじめとして、その研究グループを、どのような犠牲を払っても殲滅すべきであるといい、彼自身は、二度とあの場所にもどる意志がないと述べておきながら、電話によって呼びもどされると、その全部を忘れはて、ふたたび、不可思議な謎の小別荘に帰っていったとは、あまりにも奇怪なことである。彼の気まぐれな気質で解釈できる問題であろうか。常識はもちろん、もうしばらく様子をみよと教えるであろう。しかし、より奥ふかいところにある医師の本能が、あの狂気めいた手紙の印象を、無下に拒けるのを許さなかった。ウィレットは、ふたたび手紙をとり出して、繰り返し目を通したが、読めば読むほど爆発的な言辞が、空虚に、狂気じみて映《うつ》るだけで、なにをいいたいのか、その本質を把握できぬばかりか、むしろ、手紙に書きつけた約束を履行しなかった点に、意味があるように考えられてならなかった。それが呼び起こす恐怖は、深刻かつ現実的なもので、既知の事実と結びつけることで、時空を超越した怪奇がまざまざと感触されるのだ。とうていこれは、気まぐれな性格程度の説明で満足できるものでない。あの土地には、名状すべからざる奇怪な謎がある。その本質をつきとめる見込みがいかに少なくとも、このさい、大至急、行動に移るべきだと思われる。
それでもウィレット医師は、心を動揺させた矛盾を、一週間にわたって考えぬいた。そしてやはり、チャールズをポートゥックストの小別荘に訪ねてみたいとの結論に変わりなかった。青年の友人たちのうちにも、あの禁断の隠遁場所をかいま見た者はいない。当の父親にしても、その内部の模様については、本人の口から聞かされたことのほか、なにひとつ知っていなかった。とにかくウィレット医師は、この患者との会見が緊要事であるのを認識した。最近ウォード氏は、息子からの手紙を受けとりはするが、どれもいたって簡略な文面で、内容はなおのこととりとめがなかった。しかも、ペン書きの習慣をやめて、無造作にタイプを打ったもので、母親のウォード夫人のアトランティック・シティでの静養は結構な処置だと思うと記してあるにすぎなかった。かくて医師はついに意を決して、小別荘をいきなり訪問することに踏みきった。ジョゼフ・カーウィンの古伝説にうながされ、チャールズ・ウォードの手紙に記された告白と警告に奇異な気持をそそられ、勇敢にもポートゥックスト河を臨む断崖上の小別荘へ向かったのだ。
ウィレットはその以前にも、ポートゥックストの村を探ってみたことがあったが、好奇心から足をむけただけで、チャールズ・ウォードの別荘を正式に訪問したわけでなかった。しかし、そこに達する道は心得ていた。二月も末に近いある日の午後、小型車で出発したが、ブロード街を走りながら、百五十年の昔、おなじ道をとり、おなじ地点へ向かった一隊のことを想い、その目的がいまだに判然としないことに、奇異のおもいを味わった。
車が、プロヴィデンス市の郊外を走りぬけ、低い屋根の家屋の並ぶエッジウッドの町をすぎると、眠ったような平和の村ポートゥックストが近づいてきた。ウィレット医師は車を右折させ、ロックウッド街道を下り、なるべく現場へ接近した。河が美しい曲線を描き、霧にかすんだ高原地帯が見渡せるあたりまで近づくと、断崖の上に車を駐めて、それからは徒歩ですすんだ。ここまでくると、人家もまばらで、コンクリート造りのガレージ付きの別荘は、すぐに目についた。それは左手の、いちだん高い個所に建っていた。踏む者も少ない砂利道を、彼は足ばやにのぼって、玄関前に辿りつくと、拳をかためて、扉を叩いた。その音に、ほんの少し扉がひらいて、ポルトガル人の血のまじった黒人が顔をのぞかせ、声を震わせることもなく、なんの用かね、と聞いた。
ウィレット医師はきっぱりした口調で、重要な用件でチャールズ・ウォードを訪ねてきた。ぜひとも面会したい。拒絶の弁明はいっさいきかない。あくまで面会を拒否するときは、父のウォード氏に報告して、前後処置を講じるだけだと告げた。それでも混血児は案内をためらって、ウィレットが無理に押し通ろうとすると、扉を押さえ、懸命に妨げた。医師はなおも声をはりあげ、面会を強要した。すると、屋内の暗いあたりから、しわがれた低い声が聞こえてきた。理由はわからぬが、聴き手をして、ぞっとさせる響きがこもっていた。「お通しするがよいぞ、トニー」声がいった。「以前同様、話しあったほうがよさそうだ」囁くような低い声が、不愉快なばかりか、無気味なものを感じさせた。そして、床が軋んで、男の姿が現われた。低いがしかし、異様なほど明瞭にひびく声の主は、チャールズ・デクスター・ウォードそのひとだった。
その午後の会話を、ウィレット医師はできるかぎり精確に思いだして、記憶しておいた。というのは、これをきわめて重要な時期と考えたからで、いまや、チャールズ・ウォードの精神が、決定的な変調をきたしていることを認めぬわけにいかなかった。二十六年のあいだ、医師が成長を観察してきた頭脳とはまったく異質のものが、この言葉をしゃべっている。ライマン博士との論争のこともあって、ウィレットはとくべつその時期に正確を期する必要があった。そして医師は、チャールズ・デクスター・ウォード発狂の日を、タイプに打った手紙が父親のもとに到着しはじめたころと断定した。それらの手紙の文体は、ウォード元来のものでなく、ウィレット医師に宛てた最後の手紙のそれとも相違していた。いうなればそれは、筆者の心の堰が切れて、本来の性向があふれだし、無意識のうちに、少年時の好古癖を復活させたといった印象をあたえた。もちろんそこには、あいまいながら、現代風であろうとする努力がうかがわれないこともないが、文面全体にながれる感じと、ときに用語のいくつかが、まったく過去の時代のものであった。
その過去の時代は、いま、ウォードの口から洩れる言葉の調子と、この影の濃い別荘内で医師を迎えた態度にも、顕著にあらわれていた。まず、うやうやしく一礼して、椅子を勧め、とつぜん、例の囁き声で語りだした。最初に、声の異常を説明して、「ぼくは肺結核が進行中なんです」といった。「河から立ちのぼる瘴気《しょうき》におかされたのでしょう。そのために声をやられました。お聞きぐるしいのはご容赦ねがっておきます。ところで、本日、おいでになったのは、父の依頼で、ぼくが健康をそこねているのでないかを診察にこられたものと思いますが、父が心配するような状態でないことをご報告いただければ結構です」
ぎすぎすするその声に、医師は注意ぶかく耳をかたむけ、さらに入念に、話し手の顔を観察した。あきらかに異常がある。無気味なほどの異常さ――医師は即座に、ヨークシャー生まれの執事が、ある夜、彼の目のうちに、ぞっとする恐怖を発見した話を思いだした。こう暗くては観察も満足にできないが、鎧戸をあけてくれとは頼まなかった。その代わりに医師は、一週間以前にチャールズがよこした手紙について質問した。ああまで熱心に面会を求めていた青年が、その日のうちに気持を変えた理由を問いただしたのだ。
「当然そこを質問なさるものと考えていました」別荘の主人は答えた。「しかし、ご存知のように、ぼくの神経は最悪の状態にありますので、異常な言動があったにしても、ご叱責なさらんでいただきます。ぼく本人がその原因を説明できぬ有様で、すでに繰り返しお伝えしているように、この研究の重大さが、ぼくの頭を混乱させているのでしょう。ぼくが発見した事実を知れば、どんな気丈な男でも、慄えおののかずにはいられぬはずです。しかし、この意味深い研究の完成が間近にせまっているのに、見張り人まで雇って、邸内に閉じこもっていたのは、いまにして思えば、これ以上愚かなことはなかったと後悔しています。ぼくの場所は、この別荘のほかにないのです。もちろんぼくが、物見高い村人たちから、なにかと陰口をたたかれているのを知らぬわけではありません。そして、ぼく自身が気の弱さから、世人の言葉に動揺させられたことも事実です。しかし、ぼくの研究は、断じて邪悪なものではないのです。正しい問題をとり扱っています。あと六ヵ月お待ちください。かならず、ご期待に添えるだけのものをごらんに入れます。
これもまた、ご承知のことと思いますが、ぼくは古代の事物を学ぶにあたって、書物よりもはるかに精確な直接的研究を用いました。そしていま、その神秘の扉をひらき得る段階に到達したのです。これによって、歴史、哲学、科学にあたえる影響の重大性については、あなたの判断にお委せします。ぼくの先祖の一人が、これとまったく同一の発見をしましたが、心なきやからに襲われ、虐殺の憂き目をみました。いままたぼくが、これを発見したのです。いや、より正確にいえば、不完全ながら、その一部の把握の寸前にあります。こんどこそ、無事に研究を成就させる必要がありまして、このさいなにより怖れるのは、ぼく自身の愚劣な不安から、この発見に逡巡することです。アレン博士はりっぱな人格者で、ぼくは彼についてのかつての暴言を謝罪しなければなりません。博士の手を借りずに、研究の完成は望むべきもなく、博士自身も、ぼくに劣らぬ熱心さで、この作業に邁進しています。ぼくは作業の結果を怖れるあまり、ぼくの最大の援助者である博士を怖れる気持を抱いたものと考えます」
ウォードはそこで言葉を切った。医師には、なんと応答し、どう考えてよいものかわからなくなった。このように平静な態度で、あの手紙に書いたところをきっぱり否認されては、真剣に考えたのがばからしく感じられた。しかしまた、いまとり交している会話は明らかに異常であり、異質であり、そして疑いなく非常識である。かえって否認された手紙の文面こそ、悲痛な感情があふれていて、彼が知っているチャールズ・ウォードが書くにふさわしく、自然なものであった事実が、頭にこびりついて離れなかった。そこで、親密感をとりもどすために、話題を転じ、青年に過去の出来事のいくつかを思いださせようとした。しかし、この試みは予期に反して、いっそう奇怪な事実を悟らされるにとどまった。この点については、後日、それを知らされた精神病理学者の全員が、同様の印象を受けたものであるが、チャールズ・ウォードの心像には、現在と彼自身の人生とがまったく消失しているのだった。底知れぬ潜在意識のうちから、その半生を通じて蓄積した好古趣味のすべてが湧きあがり、現在の彼個人を呑《の》みこんでしまったといえる。その代わりに位置を確保した過去の事物の知識は、変質、異常、邪悪な分野に属するもので、ウォード本人も、それを知られまいとつとめていた。しかし、ウィレット医師が話題を彼の少年時に向けると、ついうっかり、通常人の知識のうちにない、遠い過去の事実に言及するので、医師は思わず身慄いするのだった。
たとえば、はるか昔、キング街にあったダグラス氏の演劇アカデミーで、観客の一人であった肥満ぎみの保安官が、舞台の演技にひきこまれ、身を乗りだしたとたんに、鬘《かつら》をとり落としたと、見てきたような話をする。一七六二年の出来事であるのに、その日が二月十一日で、木曜日にあたっていたのまで覚えているとは、病的な記憶としかいいようがなかった。あるいは、スチール作の『それと知った恋人たち』の上演にあたって、勝手気ままに台辞を削除したのが観客たちの憤激を買い、その二週間後、浸礼教会派が音頭をとった市条例で、劇場そのものが閉鎖されると、それみたことかと嘲った話。そしてまた、トマス・セイビンのボストン駅馬車は、すごく乗り心地がわるい≠ニいった事実。これらの知識は、当時の書翰類に目を通していれば、仕入れられぬわけでもないが、イペニスタ・オルニーの店の新しい看板が(この酒亭のあるじは、店の名称をクラウン・コーヒー・ハウスときめると、王冠を看板に描かせた)風に軋むと、現在、ポートゥックスト放送局がながしているジャズの新曲の最初の数小節とそっくりの音を立てたと語るにいたっては、いかに好古趣味の学究であろうと、異常な記憶力としかいいようがなかった。
しかし、ウォードはいつまでも質問に応じてはいなかった。話題が現代の事物と彼個人のことにおよぶと、手をふって答弁を拒否し、古い時代の出来事にしても、やがては露骨に、もうたくさんといわぬばかりの態度を見せはじめた。我慢して会話の相手をつとめているが、それというのも、医師に満足して帰ってもらい、二度とこの家の平安を乱してもらいたくないとの気持らしい。おなじ狙いから、別荘の内部をごらんに入れようといいだした。そして、すぐに立ちあがって、医師を各部屋に案内し、地下室から屋根裏まで見せてまわった。ウィレットが鋭く観察したところだと、どの部屋にも、目につくような書籍はなく、ウォード邸の書斎に残されたのと同様、重要性のないものばかりだった。実験室ものぞいてみたが、貧弱な装置を並べてあるだけで、これが人目をくらますためのものなのは明自で、本物の実験室と書斎がべつの場所にあることは疑いなかった。といって、その場所をつきとめる手段はなく、けっきょく、医師の目的は失敗に終わった。日没前に、プロヴィデンスの街にもどると、ウィレット医師はその足で、ウォード邸に向かい、以上の事実を洩れなく語った。いまや、チャールズが狂気の段階にあるのは否定の余地もないが、しかし、いそいで病院に入れるまでのこともなさそうだと、父親と医師の意見が一致した。ただ、静養中のウォード夫人には、なにも知らさずにおこう。チャールズからのタイプの手紙で、それと気づくことは避けられぬがと、二人は話しあうのだった。
そしてウォード氏は、氏自身もチャールズの不意を突いて、とつぜん、別荘を訪問してみるといいだした。そこで、ある日の夕刻に、ウィレット医師はその小型車で、ウォード氏をポートゥックスト村へつれていった。別荘の見える地点に車を駐めて、それからはウォード氏一人を行かせ、医師は車内で、根気よく氏のもどりを待った。会見は長時間を要した。それが終わって、別荘から出てきた父親は、眉をくもらせ、青ざめた顔だった。氏の経験したところも、ウィレット医師の場合とほとんどおなじで、相違していた点といえば、氏が強引にホールへはいりこみ、とやかくいいはる黒人を一喝して追い払ったあと、チャールズが姿をあらわすまで、ひどく時間がかかったぐらいであった。氏を迎える息子の態度は、人が変わったようによそよそしく、親子の感情は少しも見られなかった。薄暗い部屋なのに、青年は燈火が明るすぎていらいらすると愚痴をいった。喉が痛むとの理由で、聞きとれぬほどの声しか出さなかったが、そのしわがれたひそひそ声に、ウォード氏は心をかき乱される感じを受けた。
父親と医師は、青年の魂救済のため、協力して活動を開始することにし、両者それぞれ、事情のゆるすかぎり、参考資料を集めにかかった。最初の検討の目的は、ポートゥックストの村民たちのあいだにながれている噂であったが、これは両者ともその地域に友人を持っていたので、比較的作業が容易だった。だが、主として噂を聞きこんだのはウィレット医師で、中心人物の父親よりも、彼が相手のほうが、世人も話しやすかったからである。収集した風評からしても、ウォード青年の人生が、従来のそれとは異質のものになっているのが明瞭だった。あいかわらず村人たちは、前年の夏の吸血鬼騒ぎを、別荘一家の者に結びつける考えを捨てなかった。夜間のトラックの出入りも、暗い評判に一役買った。商人たちは、人相のわるい混血黒人が注文にくる物質の異常なことをしゃべりたてた。ことに、すぐ近くの二軒の肉屋から、血のしたたる生肉をおびただしく買い入れるのが、噂の種になった。三人世帯としては、不合理すぎる分量であったのだ。
それに、地下から聞こえる騒音の問題がくわわった。だれのいうことも漠然としたものでとりとめがなかったが、本質的には一致していた。祭儀のものらしい声が聞こえてくるのだが、そのときはかならず、別荘内にはひとつの燈火もなく、真の闇が支配していた。この建物に、地下室があるのはわかっているが、噂する者は、それとはちがった個所に、もっと深く、もっと広い地下の穴ぐらがあるはずだと主張した。ジョゼフ・カーウィン事件の跡がまさにこの位置で、チャールズはそれを頭において、この別荘を入手したにちがいない、というのが推定の根拠であったのだ。なるほど、肖像画のうしろから発見された古文書によって、ここがカーウィン農場の敷地跡と確かめられたはずである。ウィレット医師とウォード氏はこのゴシップを重視して、やはり古文書に記載されている渓谷からの入口、河にちかい断崖に設けられた秘密の扉を探しあてようとつとめた。しかし、この試みは、何回か繰り返し行なわれたものの、ついに失敗に終わった。要するにこの別荘の居住者たちは、三者とも、村人たちから忌みきらわれた。ポルトガル系混血黒人はいやらしく、顎ひげと黒眼鏡のアレン博士は怖ろしく、そして、青白い顔の青年学者は底気味わるい存在と見られていたのだ、事実、チャールズ・ウォードにしても、移ってきた当座は、意識して愛想のよい顔で村人と接していたが、一週間か二週間のうちには、その努力を放擲して、ごく稀に、しわがれた調子の、しかし、奇妙に反発を感じさせる声で口をきく程度で、近所づきあいを避ける態度を目に見えてあからさまにしていった。
これらが、そこかしこで収集したニュースの断片だった。それを基礎に、ウォード氏とウィレット医師は長時間の協議を重ね、演繹、帰納、推理と、理論を最高に駆使し、さらに医師は、それまで隠しておいた例の手紙をはじめてウォード氏に示し、チャールズの生活の変化と、古文書にあらわれたジョゼフ・カーウィンの記録とのあいだに、関連性を見出そうとつとめた。青年の狂気の鍵は、前世紀に悪魔の使徒と見られた男とその行状から、彼が学びとったもののうちに秘められていると考えられたのであった。
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やがてこの事件の新しい段階に移ることになるのだが、そのきっかけをつくったのは、父親のウォード氏でもなく、ウィレット老医師でもなかった。この両名も、チャールズの行動をどう解釈してよいかわからぬままに、いわば、争う相手が見出せぬといった気持で、むなしく日をすごしていた。一方、若いウォードから両親に宛てたタイプに打った便りも、しだいにその数が少なくなっていった。そのうちに、月がかわって、銀行の決算日が近づくと、いくつかの取引銀行で、行員たちの首をひねらせる問題が起きた。担当者が各所へ電話で問い合わせたあげく、チャールズ・ウォードを見知っている係員が、ポートゥックストの別荘まで出向いて、問いただすことになった。銀行を当惑させた理由は、最近、ウォードの発行する小切手が、一切のこらず、従来のサインとちがっている。拙劣な代筆か、わるくすると、偽造小切手と見なければならぬ。その点を質問すると、青年は例によって、しわがれた囁き声で説明した。このところ、神経的なショックが原因で、思うように手が動かず、自筆には相違ないのだが、従来どおりの署名をするのが困難になった。いや、署名どころか、普通の文字さえ満足に書けぬ状態で、いまは、両親に宛てる手紙まで、タイプライターを用いている始末だと答えるのだった。といって、それを立証してみせるわけでもないので、銀行の係員としても確信を持つことはできなかったが、この場合、そのままひきさがる以外に方法もなかった。
銀行の調査員は、この答弁にいちおう納得した。前例がないわけでなく、説明も筋がとおっている。ポートゥックストの村で聞きこんだ噂にしても、とりあげて問題にするまでのことでない。しかし、青年の状態は、放置してよいものと思えなかった。話しぶりが混乱していて、ことに、金銭上の数字となると、つい一、二ヵ月前のことでも、記憶を完全に喪失しているのが目についた。どこかおかしい。いうことは首尾一貫して合理的でもあるのだが、重要な点に触れると、その必要もないのに、見せかけの率直さで巧みに話をそらそうとする。さらに異様なのはその言語動作で、顔見知り程度の仲である調査員にも、この青年に大きな変化の生じているのが見てとれるのだった。彼の好古癖を聞いてはいたが、どんな極端な好古家にしても、いまは廃滅した言語と、こうまで古風な身振りを用いはしない。異常なほどのしわがれ声、麻痺した手、喪失した記憶、前世紀の言語と動作。これは狂気の兆候と見るべきでないか。おそらく、村にながれる黒い噂も、原因はそこにあるのであろう。銀行内部の意見は、至急、ウォード氏に注意する必要があると決定した。
かくて一九二八年三月六日に、ウォード氏の事務所内で、氏と銀行職員とのあいだに、長時間にわたる真剣な評議が行なわれた。そのあと、完全に困惑した父親は、絶望的な諦念のうちに、ウィレット医師の来訪を求めた。ウィレットは小切手に書かれた署名の不自然なペンの跡を見て、記憶に残っている手紙の文字と比べてみた。たしかに、あの手紙以後、急激に深刻な変化がチャールズ・ウォードに生じている。この読みづらい古風な筆致は、青年がいつも用いていたところとは似ても似つかぬものである。しかしまた、これと似た筆使いを、どこかで見たような気もするのだ。とにかく、この事実によっても、チャールズが狂っていることは明白なのだ。このまま外界と接触させ、銀行取引をつづけさせておくのは危険である。一刻を争って、彼を監視のもとにおき、治療の手段を講じなければならぬ。そこで、精神病医を招集することにした。プロヴィデンスでは、ペック博士とウエイト博士、ボストンからライマン博士を招き、いまは使用されていない若い患者の書斎内で、ウォード氏とウィレット医師が、チャールズ・ウォードの病歴を詳細に語った。博士たちはその部屋に残された書籍と文書を調べて、患者の平常時の精神傾向についての予備知識を仕入れたうえで、最近収集した資料とウィレット宛の手紙を検討し、チャールズ・ウォードの古代研究がその知性を失わせ、少なくとも歪曲させるにじゅうぶんであったと断定した。そして全員が、ポートゥックストの別荘へ運ばれた書籍と古記録を調査してみたいといいだした。しかし、それには別荘の居住者たちとのあいだに、ひと悶着生じることも承知していた。ウィレット医師はさっそく活動を開始し、チャールズの病症の各段階に影響した事実を、ひとつずつ、あたっていった。まず最初、チャールズがカーウィンの古文書を発見したとき、その場に居合わせた二人の職人の話を聞き、新聞協会事務所保管の綴し込みで知った記事の内容とつきあわせて考えた。
三月八日の木曜日に、ウィレット、ペック、ライマン、ウエイトの各医師は、ウォード氏に同行して青年をその別荘に訪問し、重要な会見を行なった。あらかじめ訪問の趣旨を隠すところなく告げたうえで、微細な点にわたって質問した。青年は当初、姿をあらわすまでに異常なほど手間どったし、実験室からはあいかわらず不快な臭気を漂わせていたが、それでも彼は、反抗的な態度に出ることなく、いたって素直に応答した。そして、深遠な問題の研究に熱中したあまり、記憶力を喪失し、精神の安定を崩したと率直にみとめ、治療のため、しばらくのあいだ、入院するようにと強要されても、抵抗の表情さえ示さなかった。その様子からでは、記憶力の点を別にすれば、いまなお、高度の知性を残しているとみなければならぬ。古風な言語と、意識のうちに現代と前世紀が入れかわっているのが顕著なので、正常な精神状態を逸脱しているのはわかったが、それがなければ、医師団はおそらく診断の再検討を考えたことであろう。研究の内容については、以前、家族の者とウィレット医師に洩らした程度のことしか語らなかったし、先月、ウィレット医師に書き送った手紙は、ヒステリックな神経症のあらわれで片付けた。そしてさらに、この暗鬱な別荘内に秘密の部屋は存在しない。書斎にしろ実験室にしろ、いま目の前に見るもの以外にあるわけがなく、近隣の噂にいたっては、村人たちの好奇心が産み出した悪質な厭がらせにすぎぬ。アレン博士の現在の居所については明言する自由を持たぬが、顎ひげと黒眼鏡のこの人物は、請求しだい、何時たりとも退去してくれる約束になっている。混血の黒人は(この男は訪問者の質問のすべてに、頑強に答弁を拒否した)、金をやって暇をとらせる。以上がチャールズ・ウォードの答弁の概要であるが、夜間の秘密を囁かれているこの小別荘は、一日も早く閉鎖すべきだといわれると、聞こえたのか聞こえぬのか、遠くかすかな物音に気をとられている格好で、なにもいおうとしないのだった。会見のはじめに見せた興奮のいろは影をひそめて、観想的な諦念に安住し、平静と生気をとりもどした様子だった。どうやら、病院への移動は一時的な現象で、それを最後の手段に、うるさいトラブルを追い払うことができれば、こんなうれしいことはないと考えているらしい。自己の犀利《さいり》な精神力が少しも損《そこな》われていないのを確信し、このトラブルさえ片付けば、これまでのように人目を避けた歩行をつづける必要もなく、歪曲した記憶、失われた声と筆跡も、もとの状態に復帰するはずだと、安心しきっている顔付きだった。ただ、ひとつだけ希望を申し出た。この変化を、アトランティック・シティの母親には知られたくないから、父が彼の名でタイプに打った手紙を送り、連絡を絶やさずにおいてほしいというのであった。
このような経過をたどって、チャールズ・ウォードは、ウエイト博士の経営する個人病院に収容され、その病症に関連のある各分野の専門医の観察下におかれることになった。そこは、ナラガンセット湾に浮かぶコナニカット島のとりわけ景勝の地を占め、絵のような眺望をほしいままにし、安静をとるには絶好の施設だった。新陳代謝の緩慢、皮膚の変化、神経的反応の不均衡、以上が彼の病症である。身体検査に立ち会って、ウィレット医師は心を乱された。幼児のころからの主治医で、チャールズの肉体についてはどのような変化もそらんじていたのだが、臀部に顕著だったオリーブ状の斑点が消失して、そのかわり、胸部に大きなほくろ[#「ほくろ」に傍点]があらわれていた。それを見るや、ウィレット医師は〈魔女の烙印〉を連想した。深夜、人里はなれた場所で行なわれる魔女の集合で、信奉者たちの肉体にしるされる悪魔の紋章である。チャールズの精神が正常であった当時、セーレムでの魔女裁判の記録を見たことがあった。それには、つぎのような記載が見受けられた。あの夜、G・Bさんが、悪魔の印《しるし》を捺《お》しました。捺された人たちの名、ブリジェット・S、ジョナサン・A、シモン・O、デリヴァランス・W、ジョゼフ・C、スーザン・P、メヒタブル・C、デボラ・Bといった人たちですわ≠ニあったのだ。それがいま、チャールズの顔にもおなじ現象が生じている。これまでは理由がわからぬままに、異様な感じをあたえていただけだが、右の目の上に小さな傷痕(くぼみというべきか)が見受けられて、しかもそれが、崩れ落ちたジョゼフ・カーウィンの肖像画に描かれていたものとそっくりなのだ。これもまた、邪悪な祭儀を執り行なう者の印で、カーウィンとウォードの両者ともに、秘儀宗教帰依の一定段階で、この烙印を捺されたものであろうか。
病院に収容はしたものの、チャールズ・ウォードの不可解な病症は、医師の全員を悩ましつづけた。厳密な監視のもとにおき、外部との連絡は完全に遮断してあった。ポートゥックストの別荘に、ウォードまたはアレン博士宛に送られてくる郵便物は、ことごとくウォード邸へ回送するように手配した。しかしウィレット医師は、その処置も得るところは少ないはずだと予言した。重要な内容を持つ連絡は、すべてメッセンジャーの手で交換されるであろうとの理由であった。だが、三月の下旬になると、アレン博士に宛てた封書が、チェコのプラハから届いて、医師と父親の両者を深く考えこませた。読みとるだけでも難渋する古風な書体で、文体もまた、外国人が無理して書いたゆえとも思われぬが、ウォード青年が用いている言語とおなじに、現代英語とはかけ離れすぎた言いまわしが使用してあったからだ。
[#ここから2字下げ]
アルモンシン・メトラトンの賢兄へ――
本日、貴翰を拝誦し、先般発送の塩より出現したる物についての詳細を承知した。仕損じが材料の過誤に基づくものなりしは明白にて、余の依頼にてバルナブスが発掘せし墓地が、元来のものと相違したることが原因と考えられる。古墳墓の場合、墓碑の移動は避けがたき現象にて、貴下の発掘にかかわるものも、一七六九年におけるキング教会墓地のそれ、一六九〇年の旧公共墓地のそれ、いずれも元来の埋葬物と相違せしことをご記憶のはずである。余にも、七十五年以前、エジプトにて入手せる物が実物に非ざりしため、額に傷を負いし苦き経験あり。かの若者が一九二四年に当地を訪れし時、余の顔に見出せし疵痕がその名残りである。死者の塩を用いるさいも、他界の物によるときも、鎮魂しあたわざるものを降神させぬように注意怠りなく、つねに呪文を唱えつづけ、万一、招魂の対象に疑念の生ずる時は、即刻、作業中止の処置に出ずることが肝要と承知せられたし。古墳墓は十のうち九まで、墓標に異同のあるものなれば、調査の上に調査を重ね、確認し得るまで、油断は禁物と心得られよ。
また、本日、Hよりの便りにて、彼が兵士たちと紛争を起こせし事実を聞きおよんだ。トランシルヴァニアの地が、ハンガリーよりルーマニア国内に編入されしことを、彼は遺憾に思い、その居城がわれわれの必要とする物に不足する危惧のある時は、根拠地の変更を考慮している模様である。しかし、この問題に関しては、彼自身が貴下宛の書翰にて、委細を報告するものと考える。
次の発送品は、東方の丘の墳墓より発掘せる物にて、じゅうぶん貴下の期待に添い得ることと確信している。一方、当方の希望はB・Fにあるのをお忘れなく、入手次第、至急ご送付あらんことをお願いする。フィラデルフィアのGについては、余以上にご昵懇の仲と承知しておる。でき得るならば、彼をさきに取り出し、利用さるるが賢明と考える。ただし、彼は無理強いする時は、今後の協力を拒否する怖れあるにつき、慎重な配慮方を要望する。余としても、最後には、彼と談合の要ありと考えておる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
一九二八年二月十一日
[#ここで字下げ終わり]
[#地から6字上げ]プラハ旧市内クライン街一一番地
[#地から7字上げ]ヨグ・ソトト・ネブロド・ジン
[#地から3字上げ]シモン・O
[#ここから4字下げ]
プロヴィデンス
J・Cどの
[#ここで字下げ終わり]
ウォード氏とウィレット医師は、救いがたい狂気を明白に示す文面を読みおわると、彼ら自身、頭が混乱したおもいで、しばらくは言葉も出なかった。しかし、その含む意味をしだいに理解していった。この手紙によれば、ポートゥックスト別荘で主導者的地位に立っていたのは、チャールズ・ウォードでなく、いまは姿を消したアレン博士であったのだ。そう考えて、青年がウィレット医師に訴えた最後の手紙で、博士を射ち殺してくれと願っていたのも理解できる。しかし、プラハからの手紙が、顎ひげ黒眼鏡の怪人物にJ・C氏と呼びかけているのは、どういう理由か? 推理の糸をたどれぬわけでないが、その結論の示す怪奇は常識の限界を超えている。そしてまた、シモン・Oと署名しているのは、四年以前のヨーロッパ旅行で、ウォードがプラハに訪ねた老人であろうか。おそらく、そう考えてまちがいあるまい。しかし、二世紀前にも、もう一人のシモン・Oがいた――セーレムのシモン・オーン、またの名ジェディダイア・オーン。この男は、一七七一年に姿を消している。ウィレット医師は、かつてチャールズが見せた写真コピーで、その男の筆跡を知っているのだが、いま目の前にある古体の文字は、寸分それと変わりがなく、独特の癖を持つそのペン使いを示している。おどろくべき怪奇な謎、自然法則への背反。悪魔の使徒となった男が、一半世紀の後、林立する尖塔とドームの古都プロヴィデンスに、人々の心をまどわすため、冥府から立ち戻ってきたのであろうか?
父親と医師は、この謎をどう解釈し、どう処置してよいかわからぬままに、病院にチャールズを訪ね、その口から解決を求めた。アレン博士の素性、四年以前のプラハ訪問、セーレムのシモン・オーンまたジェディダイア・オーンについて、知るところを婉曲に問いただした。青年は素直に答えたが、内容はとりとめがなく、アレン博士が死者と霊交を行なっているのを見たことがあるから、プラハの発信者も同様の能力をそなえているのであろう、というのだった。ウォード氏とウィレット医師は、病室を出るや、究明のためのこの訪問が、かえって青年の好餌となったことを知って口惜しがった。質疑応答のあいだに、監禁下にあるチャールズは抜けめなく、アレン博士宛の手紙の趣旨を汲みとってしまったのだ。
しかし、ペック、ウエイト、ライマンたちを中心とする医師団は、ウォード青年の同僚に宛てたこの奇怪な通信に、重大な意味を見出す気持はなかった。同種の精神異常者と偏執病者は結びつきやすいものと知っていたので、この場合も、チャールズまたはアレン博士が、同傾向の人物を国外に探しあてただけのことと考えたのだ。おそらく相手は、たまたま目に触れたオーンの書き物を写しとっておいて、おのれをその再生と見せかけるために利用したにすぎぬ。それが医師団の解釈だった。アレン博士の行動も、おそらくは同一のケースであろう。青年を説得して、はるか昔に死んだカーウィンの化身と思いこませたにちがいない。このような事例はめずらしくなく、以前にもしばしば見られたことである。そして、これら頑迷な病理学者たちは、チャールズ・ウォードの現在の筆跡にウィレット医師が抱く不安についても、おなじ理論的根拠から、冷笑の目をむけていた。ウィレット医師の不安は、いままで、どこか見覚えのあるペン使いと漠然と感じていたものが、ジョゼフ・カーウィンの筆跡であるのをたしかめえて、恐怖にまで高まったのであるが、ほかの医師たちは、この種の偏執狂にありがちな模倣癖の現われとして、よきにつけあしきにつけ、これに重要性を見るのをかたくなに拒んだ。同僚たちのこのような散文的態度に憤慨したウィレットは、つづいて舞いこんだ第二の手紙を、彼らに見せずにおくようにと、ウォード氏に勧告した。それはやはりアレン博士に宛てたもので、四月二日にトランシルヴァニアのラクスから届いた。封を切るまでもなく、宛名書きの文字がハッチンソンのものとまったくおなじであるのを見て、父親も医師も畏れおののかずにいられなかった。つぎのような内容である。
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親愛なるCへ――
世人の口より情報を抽き出すのに、多数の者と語りあうのは賢明な策とはいえず、深く究明する時は、いたずらに広く問いただす必要のなきものと心得られよ。事実、余はこのルーマニアにて、事情通の一名を痛く責めつけ、その口を割らせ、飲み物と食糧を餌にマジャール人を購い得ることを会得した。先月は、招魂の法にて呼び醒ませし者より聴取せる情報に基づき、Mをして、スフィンクス五個を収めた石棺をアクロポリスに発掘させ、その一個と、三度にわたる対話を試みた。現物はプラハのS・Oに一見させたうえで、かの地より貴兄の手もとに送り届けさす予定である。偏狭固陋な処置と見えるも、この種の物の扱い方は貴兄も心得ておられるはず。なお、いまは貴兄が、これらの物を以前ほど多数保有せぬ知恵を身につけられた由も承った。たしかに、多くの護衛者をその本来の形にて常備し、費用倒れの愚をおかす必要のなきこと、そして危急のさいは、いかほどなりとも創り出し得ること、貴兄ら二人の知らるるとおりである。あるいは、現在の情勢上、無益の殺傷沙汰を避けるため、他所に居を移し――かかる煩わしき行動を貴兄に強いるのは、もとより余の欲せざるところであるが――作業を継続せられるも一法と考える。いずれにせよ、貴兄が外界との接触を避けておられる配慮を祝福する。俗界には、かならずや怖るべき危険の存在するものなり。そして貴兄も、その意向なき者のもとに庇護を求めるのが、いかに危険であるかを痛感されたものと信じる。それにしても、局外者にわれらの秘法を習得せしめた貴兄の手腕には――もっとも、かのボレルスは、呪文の正しき唱法を条件に、俗界人にもその能力ありと説いてはおるが――嘆賞の言葉を贈らざるをえない。若者は、しばしば秘法を用いておるや? ただ、余の深く怖れるは、かの若者の心に探究心の芽生えることにて、これはすでに、彼を当地に、十五ヵ月あまり滞在せしめし時、余が感じとったところである。いまは、彼の扱い方を知る貴兄の手腕にまつのみ。ただし、彼を説き伏せるに、呪文の力に頼るは不可なり。呪文の効果あるは、塩より呼び醒ませし物にかぎることを忘るべきでない。とはいえ、貴兄にはなお力強き手があり、短剣ないし拳銃の使用が残され、墳墓をあばくも困難な仕事に非ず。酸はたちどころに彼を燃し尽すことであろう。
ついでながら、Oのいうところによると、貴兄は彼に、B・Fを約束せられし由。余もまた彼の意向に添って、至急、Bを貴兄のもとに送り届ける考えでおる。貴兄は彼によって、エジプトの廃都メンフィスの地下に眠る偉大なる|暗黒の物《ダーク・シング》について知ることになろう。塩によって呼び醒ます物に万全の注意を払い、かの若者をくれぐれも警戒せられんことを希望する。あと一年以内に、地下の大軍を出動さす機会の到来することを断言する。その時こそ、この世界はわれらのもの。あらゆる物はわれらの支配下におかれる。余のいうところに確信を持たれよ。Oおよび余が、この百五十年間、貴兄の努力をさらに超えて、冥界の事物について研鑽をつづけてきたことを承知せられたし。
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一九二八年 三月七日 フェレンッィ城にて
[#地から3字上げ]ネフリュー――カ・ナイ・ハドト
[#地から2字上げ]エドワード・H
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プロヴィデンス
J・カーウィンどの
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この怪文書の公表が、かりにウォード氏とウィレット医師の協議で中止されたにしても、その内容を洩れ聞くときは、頑迷な精神病医たちも対応策に踏みきらざるを得なかったであろう。どんなアカデミックな誰弁であろうと、明白確実な事実まで論駁することはできない。チャールズの最後の手紙に、その脅威を強調してあった顎ひげ黒眼鏡のアレン博士が、謎の人物二名を相手に、邪悪な意図を含む連絡をとりつづけていたことは疑いないのだ。その二名は、チャールズ・ウォードがヨーロッパ旅行中に面会したことがあり、彼ら自身、カーウィンがセーレムに在住した当時の仲間の生き残りないし生まれ変わりと称している。そして、アレン博士もまた、おのれをジョゼフ・カーウィンの再生と信じ、しかも、いわゆる〈若者〉にたいし――これはチャールズ・ウォード以外の者とは考えられなかった――明白な殺意を抱いている。いまだにその正体は不明だが、なにか大きな恐怖がうごきだしている。そして、だれがその動きの口火を切るにしても、この計画の中心に、目下姿をくらましているアレンが立っているにちがいなかった。
チャールズの身を病院内に移動させて、この危険を避けることができたのを感謝して、ウォード氏は即刻、私立探偵数名を呼びよせて、謎の顎ひげ博士の身上を洗いあげるように命令した。チャールズから取りあげておいた別荘の鍵のひとつを手渡して、アレン博士の部屋を捜索させ、彼が残していった身のまわり品から、手がかりを捜し出せと命じたのだ。打ち合わせの場所に使われていた書斎の外に出て、私立探偵たちは、思わずほっと息をついた。あの部屋には、〈悪〉のにおいが充満している。おそらくそれは、話に聞く、マントルピースの上の壁板から見下ろしていたという魔法使いの肖像画がもたらしたものであろう。あるいはそれと無関係で、噂に影響された思いすごしかもしれぬが、とにもかくにも探偵たちの全員が、半意識のうちにその恐怖を感じとっていた。この邸の最古の部分に、不可解にして触知できぬ悪の毒気が集中し、ときどきは現実の物質を放射するような強烈さで襲ってくることをである。