ラヴクラフト全集〈2〉
H・P・ラヴクラフト/宇野利泰訳
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チャールズ・ウォードの奇怪な事件 The Case of Charles Dexter Ward
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1 結末と序曲
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獣類の本質をなす塩を抽出し、これを保存する時は、発明の才に恵まれし者なれば、その実験室内にノアの方舟《はこぶね》を貯えおき、好むがままに、獣の死灰を材料に、もとの形を復原し得るものである。哲人もまた同様の方法にて、人類の塵の本質たる塩と遺骸を焼きし灰を用い、死せる先人たちの生前の姿を、俗間行なわれる降神術などに依ることなく、呼びいだすことが可能である。
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[#地付き]ボレルス
T
ロード・アイランドのプロヴィデンスに近い精神病院から、最近、きわめて特殊な症状を示していた患者が脱走した。名前をチャールズ・デクスター・ウォードといって、愛息の狂気を嘆き悲しむ父親の意向もあって、病院内に拘禁状態におかれていた。初期の奇行が、しだいに異常の度をくわえ、思考内容が明白な変調をあらわすと同時に、殺人的嗜好の可能性さえ生じてきたからで、父親としても、この処置に踏みきらざるを得なかったのである。しかし、医師たちは、はじめて見る特殊の病症に困惑し、彼らの力ではいかんともしがたいことを認めていた。その異常性たるや、ひとり精神面にとどまらず、生理的な領域にもおよんでいるのだった。
第一に、患者の風貌が、二十六という年齢にしては、異様なほど年長の印象をあたえていた。狂気が人を急速に老いこませるのは周知の事実であるが、この青年のそれは、非常に高齢の人物だけが獲得する老成といった感じであった。第二に、肉体器官の作用が極度に均衡を失って、これに似た臨床例に出会った医師はいなかった。呼吸と心臓の鼓動が、完全に均斉を欠いていたし、発声も困難な様子で、囁き声以上の音を出すことが不可能であった。消化機能が信じられぬほど減退し、通常の刺激にたいする神経中枢の反応は、常態のものにせよ、病理的のものにせよ、従来報告されたどの症例ともほど遠いものがあった。皮膚は病的に乾燥し、細胞組織が最大限に粗《あら》び、かつ、弛緩した。右の臀部《でんぶ》にあったオリーブ状の大きな母斑までが、いつのまにか消え失せて、そのかわり、胸部にくっきり、かつては見られなかった黒あざがあらわれた。医師団の診断は、ウォードの肉体における新陳代謝《メタボリズム》が、先例を見ぬ程度に阻害《そがい》されたものと一致した。
心理学的にみても、チャールズ・ウォードなる患者は、ユニークな症例といえるのだった。最新の医学研究論文を渉猟したところで、彼の狂気に似かよった兆候の報告を発見するのは困難であった。これがもし、かくまでグロテスクに歪曲された方向をとるのでなければ、おそらくは、天才とか指導者層の一員とか呼ばれるに足る才能を育成するにいたったであろう。げんに、ウォード家の主治医のウィレット医師は、この患者の精神能力を、狂気の領域以外の事物に対する反応で測定し、拘禁以後、現実にはかなりの程度向上していることを確証してみせた。具体的にいうと、チャールズ・ウォードが発病の前後を通じて、真摯《しんし》な学究であり、古物愛好家であったのは疑いのない事実で、さらにまた、診察時に見せた理解力と洞察力の深さは、発病以前にものした著作をはるかに凌駕《りょうが》する光輝を放っているのだった。実際、その精神力の強靱さと澄明さからいっても、彼を病院内に拘禁状態におくことの法的根拠を立証するのは至難なわざであった。そこで、第三者の証言と、彼の広汎な知識のうちに、反理性的なものが多いのを理由に、ようやく、監禁措置に踏みきることになった。失踪時においてさえ、彼は貪欲な多読家であり、すでに発声の苦しさを訴えていたが、そのかぎりにおいては、なみなみならぬ座談の名手でもあった。彼の病症を周到に観察していた人々も、その脱走の予知には失敗したものの、いずれは本復《ほんぷく》して、拘禁状態から解放される日の間もないことを語っていたくらいであった。
ただ、ウィレット老医師ひとりが、ことチャールズ・ウォードに関しては、その誕生以来、肉体と精神の成長を見つづけてきただけあって、彼を自由の境涯におくことに一抹の不安を抱いていた。それというのも、ウィレット自身がそれに先立って奇怪な経験をし、ウォードの病状を強度のものと診《み》る医師団には明かさずにおいたが、恐怖にみちた発見をしていたからなのだ。ウィレット老医師自身が今次の失踪事件にからんで、世人の疑惑を招く立場におかれていた。脱走時の患者と最後に顔をあわせたのが彼であり、会見を終えて、病室から出てきた彼の表情に、恐怖と解放感の入り混じった異様なものが浮かんでいたからで、それを三時間後に脱走の事実が判明したさい、居合わせた何人かが想いおこした。拘禁中の患者が病室から脱出できたこと自体、奇跡としかいいようのない、解決不能の謎のひとつであった。病室から地上までは、途中、なんの足場もなく、六十フィートの高さがあるのに、この青年はウィレット医師との会話の直後、確実に姿を消している。しかも、ウィレット自身の様子に、奇妙なことだが、青年の失踪によって、なにかほっとした安堵感といったものがうかがわれて、それについては、なんら説明らしい言葉を口にしなかった。もっとも、話したところで、信じてもらえぬと考えたのかもしれない。何人かでも、彼の言葉に耳をかたむける者があれば、いま少し、詳しい説明をしたのではなかろうか。とにかく彼が、ウォードを病室に訪れ、辞去した直後に、この脱走事件が生じた。看護人がノックしたところ、応答が聞こえぬので、ドアをあけると、室内に患者の姿はなく、開け放したままの窓から、四月の冷風が、灰青色の埃《ほこり》の雲を吹き入れているのだった。そのおびただしい微粒に、看護人たちは喉をつまらせたという。脱走の直前、犬が猛烈に吠えたてた。しかし、それはまだ、ウィレット医師が在室していたときのことで、その後は物音ひとつ洩《も》れてこなかったし、部屋の内部にも異状は認められなかった。電話で知らせを受けたウォードの父は、愕《おどろ》く以上に、深い悲しみをあらわした。ウィレット医師と時をおなじくして、ウエイト院長も病室を訪れていたので、両医師は相互に証明しあって、脱走計画に関知せず、まして協力の事実などありえぬと主張した。ただ、ウィレット医師およびウォードの父の近親者グループを問いただせば、なにかの手掛りをつかむことが可能であったかもしれない。しかし、それもまた、常軌を逸したその内容から、首をひねらざるをえない結果に終わったものと推測された。要するに、怪奇な謎に包まれたこの事件のうち、ただひとつ明確な事実といえば、失踪した狂人は消息を絶ったまま、ついにその行方を明らかにしなかったことである。
チャールズ・ウォードの好古癖は少年時からのもので、古趣の漂う旧都に人と成ったのと、プロスペクト街の丘の頂きにある父の邸《やしき》が、部屋の隅々を過去の遺物で飾っていたのに影響されたことは疑いなかった。その好古趣味は年齢とともに深まって、ついには、歴史、系譜学、植民地時代様式の建築、家具、職人の技術、等々におよび、その研究が、関心の全領域を占めるにいたった。ここで忘れてならぬのは、彼の狂気を考察するにあたって、これら好古趣味が、非常に重要な意味を持っている点である。もちろんそれが狂気の核心というわけではないが、少なくとも、外部にあらわれた顕著な兆候と見ることができる。精神病医たちが巧妙な質問によって明らかにしたように、彼における知識の断絶は、もっぱら現時の事物に関するもので、そのギャップを埋めているのが、これに対応した昔時の事物についての(それとあらわに示してはいないが)、おどろくほど深遠該博《しんえんがいはく》な学識であったのだ。いうなればこの患者は、なにか隠微な自己催眠の力で、文字どおり、数世代以前の人間に転移していたのである。つぎに生じた奇妙な現象は、発病時におけるウォードの態度で、熟知しているはずの過去の遺物に、まったく興味を失ったかに見えた。知りすぎたがゆえに、関心を持たなくなったのであろうか。とにかく彼は、それまでとは打ってかわって、その脳裡から完全に払拭していた現代社会の日常的知識をとり戻すために、努力のすべてを傾倒しはじめた。たとえば、新たに熱中しだした読書と会話の全プログラムが、彼自身の生活と、その背景である二十世紀の実社会ないし文化面を理解するためのもので、その熾烈《しれつ》な願望は、この患者を精細に観察するかぎり、一目瞭然といえたのである。もちろん、彼が生まれたのは一九〇二年で、われわれの時代の教育を受けていることから、この願望が達成されるのも時日の問題と思われた。彼が拘禁に納得したのも、今日《こんにち》の錯綜《さくそう》した世界に対処して、正常な社会知識を身につけるまで、人目を避け、気易い場所に潜んでいる所存であろうと、関係者一同の意見が一致した。
ウォードの精神錯乱の開始時については、医師たちのあいだに議論が闘わされた。ボストンにおける精神病理学の権威ライマン博士は、これを一九一九年ないし二〇年と措定した。それはウォードのモーゼズ・ブラウン・スクールでの学生生活最後の年で、彼はとつぜん、歴史学の研究から神秘学のそれに興味を移し、この探究がより重要な意義を持つものとして、カレッジの卒業資格取得を看過した。それもおそらく、そのころ、ウォードの性癖が一変したことに起因するものであろう。具体的にいうと、彼はこの都会の古記録と古墳墓のうち、一七七一年に埋葬されたものの調査に没頭しだした。それは彼の先祖のジョゼフ・カーウィンという男の墓で、ウォードの話によれば、この人物の書き残した古文書が、スタンパーズ・ヒルのオルニー・コートにある非常に古い建物(これが往時、カーウィンの住んでいたところと伝えられていた)から発見されたとのことである。
だいたいのところ、一九一九年から二〇年にかけて、ウォードの性格に、顕著な変化が生じたことは明瞭だった。従来の好古趣味が一転して、新旧両大陸にまたがる神秘学の探究に興味を示しだし、それがいつか、先祖の墓の調査に専念するにいたったのだ。
しかし、ウィレット医師はこの意見に賛同しなかった。その理由は、彼とウォード家とは古くから昵懇《じっこん》の間柄で、患者については幼時から知悉《ちしつ》していたことと、古文書の発見にはじまる異様な探究ぶりを詳細に観察していたからなのだ。事実、古文書の発見は、チャールズ・ウォードにいちじるしい変化をあたえた。それについて語るとき、彼の声は顫《ふる》え、書きとめるにあたっては、手がわななく有様だった。ウィレット医師としても、一九一九年から二〇年にかけてのウォードの変化が、進行性精神疾患の端緒であり、一九二八年にいたって、怖《おそ》るべき錯乱状態に到達したものであるのは認めていたが、しかし、他の医師たちの、狂気の兆候はより早い時期にあらわれているとみる意見とのあいだに、微妙な差異のあることを主張した。患者が生来、精神の均衡を欠く傾向にあり、周囲の事物に異常な感受性を示していた点を否定するものでなかったが、初期の変調を、そのまま正気から狂気への移行の現われとする解釈には反対で、むしろ、ウォード自身のいうところを信頼し、発見された古文書の、人の思考におよぼす奇異なほど強烈な影響力を容認していたのであった。
ウィレット医師の診《み》たところでは、ウォードが真の狂気と呼べる段階に到達したのは、かなり後半に生じた変化の時期であった。すなわち、カーウィンの肖像画と古文書が発見され、ウォードが外地のどことも知れぬ場所を訪れ、神秘めいた状況のもとに、怪しげな呪文を唱え、その応答として、罪業に苦しむ者の正気をなくした手紙が舞いこみ、吸血鬼の迷信とポートゥックストの村に起きた邪悪にみちた伝説が、新しい波となって再来したときのことだという。そのとき以来、この患者の記憶から、現代の事物についてのイメージが消失し、発声は困難に、容貌に微妙な変化が生じ、だれの目にも、明白な精神錯乱と映《うつ》る状態があらわれたとみるのだった。
悪魔めいた性格のものが、ウォードとはじめて結びついたのは、疑いもなくこの時期であると、ウィレット医師が的確に指摘した。それが青年の言葉どおり、肖像画と古文書の発見に基づくものであるのを、ウィレット医師自身、身の毛のよだつおもいを味わいながら、その確証を掴んだからである。第一に、ジョゼフ・カーウィンの古文書を見つけ出した二名の大工は、じゅうぶん信頼のおける知力の持ち主だった。第二に、患者が示した古文書とジョゼフ・カーウィンの日記は、真正のものとみて誤りなかった。第三に、文書が隠匿してあったとウォードが語った空所は、たしかに実在していた。以上の事実を総合して、ウィレット医師はこの判断に到達したのであるが、遺憾ながら、状況があまりにも異常すぎて、立証の方法もまた見出せなかった。しかし、それにひきつづいて、オーンとハッチンソンの手紙の謎と不思議な暗合、ジョゼフ・カーウィンの筆跡と、私立探偵たちを使って明るみに出したアレン博士の問題が加わり、さらにウィレット老医師本人がショッキングな経験から意識を回復したとき、そのポケットに、七世紀当時の書体でしたためた怪奇な通信文を見出すにおよんで、この認定に確信を持つにいたったのである。
そして、以上の事実にも増して、決定的とみられるにいたったのは、ウィレット老医師が最後の調査のあいだに、怪奇な一対の呪文の検討によって到達した怖ろしい結論にあった。その語るところは、古文書が真正であること、そして同時に、この怪奇な呪いが、人知を超えた永劫の果てまで存続するというのであった。
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チャールズ・ウォードについて語るには、その少年時の生活と、彼がことのほか愛好した数世紀前の歴史、さらには、当時なおプロヴィデンスの街に見ることのできた過ぎ去った時代の遺跡に関することからはじめるのが適当と思われる。一九一八年の秋、彼はそのころの社会風潮であった軍隊式教育に心をひかれて、モーゼズ・ブラウン・スクールの一年生として、学生生活にはいった。この学校は父の邸のすぐ近くにあって、一八一九年に創立されたものであるが、古色を漂わせた校舎の建物が年若い好古家の彼を魅了した。広々とした校舎の眺めも、目をひきつけるもののひとつだった。学生としてのチャールズ・ウォードは、対外的な活動にはいっさい興味を示さず、ほとんどの時間を、家庭内に、教室と学習に、あるいは、あてのない散策に、そしてまた、市庁舎、議事堂、公共図書館、学園内の閲覧室、歴史協会、ブラウン大学所属のジョン・カーター図書館かジョン・ヘイ図書館、ないしは、ビニフィット街に新設されたばかりのシェプリー図書館での読書に費やした。当時のウォードは痩せぎすの長身で、色白く、髪はブロンド、学究めいた眸《ひとみ》の持ち主、やや猫背気味の姿であった。服装はかなり無造作なもので、魅力的というよりは悪気のない質朴な少年といった印象が強かった。
その散歩は、終始かわらず過去の時代の探究が目的で、雅致に富んだこの古都の何千という遺物から、数世紀前の街路のたたずまいを、いま見るように生き生きと描き出すのであった。彼の住む家も、ジョージ王朝風の宏壮な邸宅で、東に河を臨む断崖の上に位置していた。張り出した翼棟の裏手の窓に立てば、下町に林立する尖塔、円屋根、平屋根、摩天楼を、そしてそのかなたに煙る田園までを、一目で見渡すことができるのだった。
彼はこの邸に生まれた。乳母がはじめて乳母車で外出させてくれたのも、二重格子をそなえた煉瓦造りの玄関わきの、古典様式のポーチからであった。そのときのコースを詳しくいえば、二百年の古さを誇る白亜の小農家前をすぎて、影深い大学校舎の建ち並ぶ方向へ向かっていった。そのあたりは、広い庭園をめぐらした大邸宅と、狭くはあるが、柱の太いドーリア風のポーチをそなえた木造の小住宅が入り混じって、壮麗豪奢《そうれいごうしゃ》ともいえる街筋であった。
乳母車は、眠ったようなコグドン街をすぎた。この通りは、険しい丘の一段下がった位置にあって、東側に並ぶ家々が、絶壁の上にテラスを張り出していた。木造小住宅のどれもが長い年代の痕をとどめているのは、この都会の発展初期に、この丘を葡《は》い登るようにして街がひらけていった名残りである。乳母車の上での散歩のあいだに、幼時のウォードは、植民地時代の小村がいまに伝える古趣を、あますところなく吸収した。プロスペクト街までくると、乳母はいつも車を駐《と》めて、そこのベンチで巡査たちを相手におしゃべりを開始した。彼の記憶に残る最初のイメージは、この場所からの眺望だった。断崖の下には、西方へ向けて、屋根、ドーム、尖塔の海が、果てるところなく広がっている。そしてまた、遠い丘陵のつらなり。冬の日の午後おそく、崖ふちの手すり越しに、丘陵の尾根を眺めた印象がもっとも鮮烈だった。それは、赤、金、紫、濃緑と、黙示録的な色彩に燃える落日を背に、神秘的なヴァイオレット色に染まっていた。議事堂の巨大な大理石ドームが、力強いシルエットを浮きあがらせ、その頂きの彫像が、層雲の割れ目からのぞく炎に映え、幻想的な円光をめぐらしているのだった。
成長すると、ウォードの有名な散歩がはじまった。最初のうちは、せっかちに手をひっぱる乳母に導かれ、やがては彼一人で、夢想にふけりながらの散歩だった。その距離は、一日ごとに延長して、丘のふもとへむけて足を伸ばし、この旧都の、より古い、より異様な部分へと踏み入っていった。もっとも、裏手の壁と破風屋根の特徴のあるジェンクス街から、影の多いビニフィット街へ降りる急坂までくると、さすがに彼は躊躇して、足をとめた。目の前には、扉口にイオニア様式の壁柱を立てた古雅な家、かたわらに切妻屋根の建物、そしてその背後に、わずかに残る原始的な耕作地がながめられた。たしかこの付近に、ジョージ王朝期風の、ダーフィ判事の大きな邸が、昔時の偉容をとどめているはずだ。このあたりから南へかけて、貧民街が広がりだす。しかし、数多くの楡《にれ》の巨木が生い茂る枝葉の影を落としていることもあって、チャールズ少年は好んで、屋根の中央に煙突を設け、古風な玄関をそなえた独立戦争以前の古家屋が長い列をつくっているこの付近を散歩の道に選んだ。道路の東側に並ぶ家々は、手すり付きの石のステップをのぼって、扉口に辿りつくことになる。そして、年若いチャールズ・ウォードの目にも、この道路がつくられた当時の姿がいま見るように映るのだが、赤い靴と鬘《かつら》がペンキ塗りの切妻屋根を引き立たせていた時代は遠く去って、建物の破損ばかりがきわだって見えるのだった。
丘の西側は、垂直といってよいほどの断崖だった。その下は、一六三六年に建国者たちが住みついて、〈都〉と誇称した〈タウン〉街である。軒もかたむいた古家屋の集落のなかを、細い小路が迷路のように走っているところが彼の心をひきつけたのだが、そこに足を踏み入れるまでには、永い思案の時間が必要だった。はたしてそれが、美しい夢と変わるものか、未知の恐怖の入口となるのかは、はかり知ることができなかったからである。しかし、やがては彼にも決断がついた。そして、ビニフィット街に沿って、セント・ジョンのひめやかな墓地の鉄柵、一七六一年設立のコロニー・ハウスの裏手、ワシントンが宿泊したというゴールドン・ボール旅館の、刳形《くりかた》をつけた巨大な建物、等々のあたりを歩きつづけるのが、それほど怖ろしい冒険ではないのを知るようになった。
ミーティング街では――ここはそれぞれの時代の風潮に応じて、牢屋小路《ジェイル・レイン》、王者街《キング・ストリート》と、呼称を変更したところである――チャールズ少年は東の方向をふり仰ぐようにして、アーチ型の石段を見た。そのそばを、いまは高速道路が斜めに走り、コロニアル・スクールの煉瓦造りの校舎が建ち並ぶのを眺めながら、西の方向へと下っていく。道路をへだてたところに、シェイクスピア・ヘッドの古看板がかかっている。ここは独立戦争以前に、〈プロヴィデンス・ガゼット〉と〈カントリー・ジャーナル〉の両新聞が発行されたところだ。その先に、一七七五年に建立された第一浸礼派教会の典雅な建物があらわれる。比類なく豪奢なギッブズの尖塔、ジョージ王朝風の屋根と円天井。ここから西へかけて、街並《まちなみ》はさらに美しさを増し、最後は、建国初期の華麗な大邸宅の集落で花がひらく。
しかし、この街筋を通りぬけ、昔ながらの小路に踏み入り、なおも西へと、丘の斜面を下っていくと、帆柱の聳《そび》え立つ古風な眺めのうちに、虹色にきらめく頽廃的な色彩をいまにとどめている海岸通りに出る。腐朽した棧橋、ただれ目の船舶雑貨屋のおやじ、乱れ飛ぶ異国の言葉、悪徳と不潔の巣、かつては全盛を誇った東インド会社の思い出。いまだにこのあたりの小路には、パケット、ブリヨン、ゴールド、シルヴァー、コイン、ダブロン、ソヴェリン、ギルダー、ドル、ダイム、セントと、貨幣にちなんだ名称が残っている。
背丈が伸び、冒険を好む年齢に達したチャールズ・ウォードは、あえて危険をおかして、崩れかけた家々、欄間《らんま》窓、玄関前のステップ、曲線状の手すり、黒人の顔、えたいの知れぬ臭気、等等の渦巻く部落に、はいり込むのを愉《たの》しむようになった。曲がりくねった道を、サウス・メインからサウス・ウォターへたどり、沿岸航路の汽船と測量船が横付けになる埠頭を歩きまわってから、ふたたび道を北にとり、一八一六年につくられた急勾配の屋根を持つ倉庫前をすぎて、下町へもどる。途中、大橋《グレイト・ブリッジ》広場には、一七七三年建造の公設市場が、いまなお厳然と、古いアーチ型の建物を残している。ウォードはその広場に足をとめ、東方の丘に眺められるこの都会最古の街の妖しいばかりの美しさを、心ゆくばかり味わうのだった。ロンドンにセント・ポール寺院があるように、ここにはクリスチャン・サイエンス派の新しい教会堂があった。ウォードは夕刻にこの地点を訪れるのをもっとも好んだ。落日の斜光が、広場の公設市場と丘の上の鐘楼を金色に染め、遠く波止場のあたりまで、夢幻的な魔力を投げかける。長い時間、詩人の愛情でこの光景に酔ったのち、夕闇のせまるなかを、白亜の教会の前から狭い坂道を登って、家路に向かう習慣になっていた。すでにそのころは、家々の小さなガラスを組み合わせた窓に、異様な形状の鋳鉄手すりをそなえたステップの上に、そしてまた扇形の明り取りのなかに、黄色い電燈の光がまたたきだしているのである。
さらに後年になると、ウォードはより鮮明なコントラストを求める楽しみを覚えて、散策の時間の半分を、彼の邸の西北にあたる崩壊に瀕した植民地部落の探訪にあてた。その地点は、丘がスタンパーズ・ヒルの低い台地に変わって、ユダヤ人とニグロたちの住居が集落をかたちづくっていた。その中心が、独立戦争当時、ボストン駅馬車の発着していた場所なのだ。あとの半分は、道を南方にとり、ジョージ、ビネヴォレント、パワー、ウィリアムといった街々の、優雅な住宅地区に費やすことにした。そこには、昔ながらの坂道が、美麗な邸宅が、石塀にかこまれた庭園が、急傾斜の緑の小路が、香気高い追憶の夢を漂わせていた。この両方面の漫然たる散策が、地誌についての熱心な研究とあいまって、若い古跡愛好家チャールズ・ウォードの心から現代社会の事物への関心を押しのけ、伝承を愛惜する精神の土壌を耕したとみてまちがいないのである。そしてこの土壌の上に落ちた種が、一九一九年から二〇年にかけての運命的な冬に、奇怪にして恐怖にみちた実を結ぶにいたったのだ。
ウィレット老医師は、確信を持っていたのであるが、この不吉な冬の最初の変化が訪れるまで、チャールズ・ウォードの好古趣味は、病的な兆候から免れていた。墓地にしても、その古趣と歴史的価値のほかに、ウォードの特別の興味をひくことはなかった。そしてまた、暴力ないし凶悪な本能を思わせるものを、彼はまったく欠いていた。それがたまたま、その前年に、ウォードは系譜学上の研究でめざましい成果をあげた。これを契機に、狂気が潜行的に進捗していったと思われるのだが、この系譜学上の成果とは、彼の母方の先祖のうちに、異常に長寿を保ったジョゼフ・カーウィンという人物を発見したことで、カーウィンは一六九二年の三月に、セーレムの町からこのプロヴィデンスに移ってきて、その後、怖るべき破局にいたるまで、奇怪というか、異様というか、最悪の噂の中心となったのである。
チャールズ・ウォードの四代以前の祖父は、ウェルカム・ポッターといって、一七八五年にアン・ティリンガストなる女性と結婚している。アンはイライザ夫人の娘で、イライザ夫人の父親はデュティ・ティリンガスト船長であり、船長の父系はウォード一家の記録に関するかぎり、その痕跡をとどめていない。一九一八年の暮、この若い系譜学者は、ボストン市の保存にかかわる公文書の原本を調査しているあいだに、ジョゼフ・カーウィンの寡婦イライザ・カーウィン夫人が一七七二年に、七歳の娘アンともども結婚以前のティリンガストに復姓した記載を発見した。その法的根拠は、彼女の夫の姓が、死後に明らかにされた事実により、世人の指弾の的となり、当初は忠実なる妻として、その風評を信じる由もなかったが、いまや、疑問の余地もなき真実と証明されたが故に≠ニいうにあった。当時の公文書のうち、二葉を入念に糊付けし、ページ付けを改め、一葉と見せかけてあったものが、偶然、二つに離れたことから、この記入が明るみに出たのである。
かくてチャールズ・ウォードは、五代以前の祖父の素性を明らかにすることに成功した。この発見は二重の意味で彼を興奮させた。ひとつには、従来、この人物について漠然とした報告を聞き、断片的な記録を目にしてはいたが、信を措《お》いて引用できるものがはなはだ少なかった。それが公《おおやけ》にされたのが、ようやく現代にいたってだという点は別としても、故意にこの人物を世人の記憶から抹殺する計画があったものと思われた。いまひとつ、ウォードの探究心を挑発したのは、なにが故に植民地時代の記録官が、この人物の存在をひたかくしにし、忘却のかなたに追いやろうと努めたかであった。あまりにも真摯なその努力からみて、そこにじゅうぶん正当な理由があるものと考えられた。
この発見以前のウォードは、ジョゼフ・カーウィンなる怪人物に、ロマンチックな幻想を抱きはしたものの、用のない時間に夢を馳せるにとどめて満足していた。しかし、明らかに世人の目から抹殺されたこの人物が、彼自身の近親であることを知るにいたって、これに関するあらゆる事実を、可能なかぎり組織的に渉猟せずにはいられなくなった。そして、興奮した探究のうちに、プロヴィデンスの邸のクモの巣のからんだ屋根裏部屋から、当初の予期をはるかに超えて、古い往復文書、日記、未発表の覚書《メモワール》、等々の数葉に、カーウィンの名を見出すにいたった。追究をすすめるにつれて、そのほかの場所にも、カーウィンの名が残存する文書が、いくつとなく目につきはじめた。おそらくその筆者は、わざわざ抹消するにもおよばぬものと考えたのであろう。さらに解明的な側光が、ニューヨークのような遠隔の地からも射してきた。ロード・アイランドの植民地時代の往復文書が、フローセス・タヴァーン博物館に保存されていたのである。
しかし、そのうち真に重要なものは、ウィレット老医師がチャールズ・ウォードの狂気の決定的原因とみた事件であった。一九一九年の八月、オルニー・コートにある崩れかけた家屋の羽目板のうしろに、二つの品が発見されたのだ。これが疑いもなく、ウォードの黒い探究に道をひらくことになった。そして、その道の終わりは、地獄の底よりも、なお深く、暗かった。