シェイクスピア物語
チャールス・ラム/松本恵子訳
目 次
前がき
テンペスト
真夏の夜の夢
冬ものがたり
お気に召すまま
ベロナの二紳士
ベニスの商人
リヤ王
マクベス
じゃじゃ馬ならし
十二夜
ロミオとジュリエット
ハムレット
オセロ
[#改ページ]
前がき
このシェイクスピア物語は、今から七十五年前の一八七七年に、英国で初めて出版されたものです。原作者はメイリイ・ラムとチャールス・ラムの姉弟《きようだい》です。その前がきに、
――私たちはこれを少年少女のシェイクスピア研究の助けにしたいと希望して書き始めた――とあります。
ラム姉弟はシェイクスピアの数多い劇の中から二十編だけ選んで若い読者に向くように書きましたが、決して筋のおもしろさだけを追って書いたのではありません。これを書くに当って注目すべき二つの点に非常な努力が払われています。その一はできるだけ原作の中、つまり劇のせりふに用いられている言葉をそのまま物語の中に織り込むことと、その二はシェイクスピア時代以後の近代語を用いないように注意したことです。日本でも明治、大正、昭和の八十年ばかりのあいだにずいぶん私たちの用語に変化があります。ごく近い例をあげても明治時代には「とても」という言葉は標準語では「とても出来ない」「とても食べられない」「とても行けない」というふうに否定のばあいにのみ用いられたものでした。たまたまある地方では「とてもいい」「とてもありがたい」というように大変という形容詞に使われていて珍しいおかしな用語とされていたのが、いつのまにか都会にその用法が進出してきて、現代では少しもおかしくない普通の言葉づかいになってしまっています。配給だの疎開だのはりきるなどという言葉もつい近ごろできた言葉です。その他こうした言葉の変化は数えあげればきりがないでしょうが、英語でもそのとおりで、シェイクスピア時代からラムがこの物語を書いた時代までには約三百年の隔りがありますから、用語がずいぶん変化していました。それを三百年前の言葉や言いまわしを使って、これだけの文章を書くということは並ならぬ苦心だったはずです。それは若い読者に多少なりともシェイクスピア時代の空気を呼吸させよう、いいかえれば少しでも余計にシェイクスピア劇を正しく理解させようという親切な気持からなされたものです。
私はこれを訳すにあたって、新かなづかいと制限漢字の範囲で書くために非常な苦心をしました。漢字を知り過ぎているという奇妙な悩みをしみじみと経験しました。このくらいの字ならいいだろうと思って調べて見ると、わくの中にはいっていなかったりします。すると同じかなが重なったりして読みにくくなるのを避けるために表現を変えなければなりませんから、思いがけないところで苦心することになるのでした。しかし私は、現代の制限漢字だけで教育された読者のことを考えてあえてその苦労を買って出たのです。
私はこの訳本の読者が、他日英語を勉強してこの原書を読み、古風な用語で書かれた文章の美しさを味わい、やがてシェイクスピア劇をたのしまれるように希望します。
前にも述べたように原書には二十編おさめられていて、喜劇は姉のメイリイが担当し、悲劇の方は弟のチャールスが書いたということです。私はページ数の都合や、また筋が同系であったり、あまりおもしろくないと思うものを七編「からさわぎ」「シンベライン」「はじめよければ終りよし」「間違いの喜劇」「しっぺ返し」「アゼンスのタイモン」「タイヤーの王子」などを抜かしたことをお断りしておきます。
最後にこの原作者について一言しておきます。チャールス・ラムは一七七五年に英国に生れ一八三四年に五十九歳で死に、十九世紀初期の英文壇に随筆家として名をのこしました。彼は姉メイリイのために一生独身で送りました。というのは、メイリイが精神疾患をもっていて、時々その発作を起すのでしたが、あるとき、突然に激しい発作を起して母を殺してしまいました。そのご発作が起きると入院して、常態にかえると帰宅するというふうだったので、チャールスは姉に同情して結婚もせず、姉弟だけの家庭を築いたのです。幸い姉も文学趣味が豊かでシェイクスピアの研究家でしたから気分のいいときには弟の身のまわりの世話をしたり、ともに読書したり、文学を語り合ったりして、貧しいうちにも平和に暮していました。友人のひとりがその思い出の中に、
――あるとき、チャールスとメイリイが腕を組んで病院へ急ぐ姿を見かけた、ふたりとも目に涙を一ぱい溜めていた。
という一節があります。せっかくふたりでこれから書くものの相談とか、友達をお茶に招待しようというような楽しい計画をたてている最中に、病気が襲ってくると「さあ大変!」というので、何もかもなげすてて急いで姉を病院へ送っていかなければならないのでした。メイリイは弟に迷惑をかけることを悲しみ、チャールスはそういう病魔に虐《しいた》げられている姉に同情し、この愛し合っている姉と弟が泣きながら病院に向かう姿を想像してください。そういう姉と弟が協力して書いたのがこの不朽の名作シェイクスピア物語なのです。
一九五二年二月末日
[#地付き]訳者
[#改ページ]
シェイクスピア物語
Tempest《テンペスト》(あらし)
海中のある島に、プロスペロという老人と、その娘のミランダという、大そう美しいお嬢さんだけが住んでいました。そのお嬢さんはごく幼いころに島へきたので、父のほかに、人間の顔を見た覚えがありませんでした。
ふたりは岩をくりぬいたほら穴というよりも、岩小屋に暮していました。それはアパートのようにいくつもに仕切ってあって、その一つを、プロスペロは自分の書斎とよんで本をたくさん置いていましたが、それはおもに、当時の学者たちが心をよせていた魔術に関するものでした。
老人は魔術の知識が自分にとって非常に役にたつことを経験しました。というのは、妙なまわりあわせでうちあげられたこの島は、その少し前に死んだシコラックスという妖婆《ようば》の魔法にかけられていたので、妖婆のよこしまな命令を行うのを拒んだために、大きな木の中にとじこめられていた、善良な妖精たちを、老人は自分の魔術で解放してやることができたのでした。
それ以来、善良な妖精たちはプロスペロに服従していました。で、エリエルは、それらの妖精たちの頭《かしら》でした。この元気のいい小さな妖精エリエルの性質は、特別にいたずら好きというわけではありませんでしたが、カリバンという醜い化物《ばけもの》をいじめて喜ぶくせがありました。もっともこのカリバンは、エリエルの旧敵シコラックスの子供でしたから、うらみがあったわけです。
プロスペロはこのカリバンを森の中で見つけたのですが、奇妙なできそこないで、人間というよりもさるに近い形をしていました。老人は彼を自分の住居《すまい》へつれ帰って、話をすることを教えこみました。プロスペロは、できるだけ親切にしてやるつもりでしたが、母親からうけついだ悪い性質ゆえに、彼は良いことや役にたつことは何一つ覚えようとしませんでした。それで彼は奴隷《どれい》のように使われる身となり薪《たきぎ》をひろってくるとか、そのほか骨の折れる仕事をみんなやらされていました。そしてエリエルは彼に、そうした仕事を、無理にさせる役を仰せつかっていたのです。
カリバンが仕事をしないで怠《なま》けていると、エリエル(彼はプロスペロの目に見えるだけで、他の者には姿を見せないのでした)は、こっそりとそばへいって、つねったり、時にはどろの中へ突きころがしたり、小ざるの姿になって現われて、歯をむいて見せたりするのでした。そうかと思うと急に彼のこわがる針ねずみになって、通り道にころがっていて、カリバンの素足を刺したりしました。彼はカリバンがプロスペロに命じられた仕事を怠ったばあいには、そんなふうにあらゆる術策を用いて悩ますのでした。
それらの強力な妖精を意のままに服従させていたプロスペロは、彼らの力を使って、風や海の波を支配していました。その命令で妖精たちは、すさまじい暴風雨を起しました。老人はそのまっただ中でりっぱな大きい船が今にも一飲みにしようと脅かす荒波と戦っているのを娘に見せて、その船には自分たちと同じような人間がたくさん乗っているのだと語りきかせました。
「ああ、お父様《とうさま》、もしあなたの魔術でこの恐ろしいあらしを起したのでしたら、その人たちの悲しい難儀に同情してあげてください。ごらんなさい、あの船はこなごなにこわれてしまいますわ。お気の毒な方たち! きっとみんな死んでおしまいになるわ。もし私に力があれば、貴重な人命をのせたあの良い船を難破させるくらいなら、地面の下へ沈めてしまいますわ」と娘はいいました。
「ミランダや、そんなに驚くことはないよ。なんにも危害なんか無いのだからね。私は船に乗っている人たちには、だれにもけがをさせないようにと命じておいたんだから。私のしたことはかわいいお前のためなんだよ。お前は自分がだれだか、どこから来たのかも知らないし、私のことだって、ただお前の父で、この哀れな岩穴に住んでいるということのほかは何も知っていない。お前はこの岩小屋へ来る前のことを何か思い出せるかね。そんなことはできないだろうね、何しろお前はまだ三歳にもなっていなかったんだもの」とプロスペロがいいました。
「あら、私できますわ、お父様」
「どんなことで? ほかの家《うち》とか、人とか、かね? どんなことを覚えているか話しておきかせ」
とプロスペロは尋ねました。
「夢の思い出みたいに思われますのよ、でも私は、前には四人か五人の女の人にかしずかれていたのではなかったでしょうか」とミランダはいいました。
「そうだよ、それ以上にね、お前はどうしてここへ来たか覚えているかね」とプロスペロは答えました。
「いいえ、私はそのほかのことは何も覚えていませんわ」とミランダはいいました。
「ミランダや、それは十二年前のことだよ、私はミランの大公で、お前は私のただ一人の世継《よつぎ》の姫君だったのだ。私にはアントニオという弟があって、私は何もかもそれに任しておいたのだ。で、私はひとり引きこもって学問に没頭しているのが好きだったので、領地の政治のことは大体お前の叔父《おじ》である私の不実な弟(これはあとでそうとわかったのだが)にやらせておいたのだ。私は世俗的な雑事はすべて放っておいて、書籍の中に埋まって、自分の時間をすべて精神修養にささげていた。私の弟はそんなふうに私の権力を我がものとするにつれて、自身が大公であるような気になり始めた。つまり、私のけらいたちの間に人気を持つような機会を与えたことが、弟の悪い性質のうちに私の領地を横領しようという、とんでもない野望を起させたわけだ。やがて彼は私の敵で勢力のあるネープルス王の援助でその野望を遂げたのだよ」とプロスペロは語りました。
「どうしてそのときに、皆は私たちを亡《な》き者としなかったのでしょうね」とミランダがいいました。
「けらいたちが私にたいしていだいていた愛情があまり大きかったので、彼らはそんなことはなし得なかったのだよ。アントニオは私たちを船に乗せて数マイルの沖へ出たときに、私たちを無理に帆《ほ》もなければ、帆柱もついていない小舟に乗り移らせた。彼は私たちが死んでしまうものと考えて、そこへ置き去りにしたんだよ。ところが宮廷に私を深く愛していたゴンザロという親切な貴族がいて、小舟の中に水や食糧や衣類や、それから私が領地以上に貴重に思っていた数冊の本をひそかに積んでおいてくれたのだ」と父は語りました。
「まあ、お父様、私はさぞかしお父様の足手まといになりましたでしょうね」とミランダがいいました。
「それどころか、お前はお父さんを守護するかわいい天使だったよ、お前の無邪気な微笑《ほほえみ》が、私の気を引き立てて不幸に耐えさせてくれたもの。私たちの食物はこの無人島につくまであったし、ここへ来てからは、ミランダや、私の何よりの楽しみはお前を教えることであった。そしてお前は私の教育で、すくすくと成長した」
「お父様、ほんとうにありがとうございました。で、お父様どうぞ、なぜこの海にあらしをお起しになったか、それをお聞かせくださいませんか」
「では知らせてあげるがね、このあらしで、私の敵であるネープルスの王と私の残酷な弟がこの島の岸にうちあげられているのだよ」
といってから、プロスペロは魔法のつえを、そっと娘にふれたので、彼女は深い眠りにおちてしまいました。なぜそうしたかというと、ちょうどそのとき、妖精エリエルが、あらしの模様や、船の乗組員たちをどう処分したかを報告するために、主人の前へ現われたからです。妖精たちはミランダにはいつも見えないのでしたが、プロスペロは娘が自分たちの会話をきいて、相手なしに空中にむかって話をしていると(彼女にはどうしたってそう見えるに違いありませんから)思うだろうと思い、それがいやだったのでした。
「さて、勇敢な妖精よ、お前はどんなふうに役目を果したね?」とプロスペロはエリエルにいいました。
エリエルはあらしの光景や船乗たちの恐怖の模様、第一に海にとびこんだのは王子ファーディナンドであったこと、父王が自分の愛する王子が波にのまれて死んでいくのを見たと思い込んでいることなどを、手にとるように語り、
「しかし王子は無事で、この島の一隅にすわり込み、腕ぐみをして、父王がおぼれ死《じに》したものと思って、その死を嘆き悲しんでおります。髪の毛一すじいためませんでしたし、りっぱな服は海水でずぶぬれになってはいますが、前よりも新しく見えております」といいました。
「エリエル、それは大できだった。その王子をここへ連れておいで。娘をその若い王子に会わせてやらなければならない。王と弟はどこにいるね?」
「あの人たちには、ファーディナンドを捜させておきました。二人とも王子が死ぬのを目撃したと思っているので、見つける望みはまずないものと思っておるです。船の乗組員たちもひとりとして欠けている者はありません。もっともひとりひとりが自分だけが助かったのだと考えています、それから船も彼らには見えませんが、港に無事でおるです」
「エリエル、お前は自分の職務を忠実につくした。だが、まだ仕事がある」とプロスペロがいいました。
「このうえまだ仕事があるですか。御主人は私を自由にしてやると約束されたのを思い出していただきたいですね。どうか私があなたに申し分なく仕えたことや、うそをついたり、失策をしたりしたことがなかったことを考えてください。私は不平も不満もなくあなたの御用を勤めたことも」とエリエルはいいました。
「さて、さて、お前は私がどんな苦しみからお前を解放してやったか覚えておらんと見えるね、お前はよる年波としっと心のために身体が折れそうに曲ったあの邪悪な妖婆シコラックスを忘れたのかね、あの女はどこで生れたんだっけね? いってごらん、私に話してごらん」
「アージールです」とエリエルはいいました。
「そうだったね。で、お前がどんなことになっていたか覚えていないらしいから、私はもう一度話してやらずばなるまいな。その悪い妖婆のシコラックスは人にきかせられないほど恐ろしい魔法を使うので、アージールから追放されて、船乗たちにこの島へ置き去りにされたのだった。そしてお前たちはその女の邪悪な命令を遂行するには、あまりに気が優しかったために、木の中に閉じ込められて、私が見つけたときは、お前たちは泣きわめいていた。その苦しみからお前たちを解放してやったと私は記憶するがね」
エリエルは恩知らずと思われたのを恥じて、
「おゆるしください、御主人様! 私は何でも御命令にしたがいます」といいました。
「そうするがいい、すれば私はお前を自由にしてやる」といって、プロスペロは、それからまず何をするかを彼に命じました。そこでエリエルは最初にファーディナンドを残しておいたところへやって行きました。そして彼は王子が前と同じように浮かない様子で草の上にすわっているのを見いだしました。
エリエルは王子を見ると、
「お若い紳士よ、私はじきにあなたを動かしますからね。ミランダ姫にあなたの麗わしい姿をお見せするために、お連れしなければならないから。さあ、私についておいでなされ」といって、歌いはじめました。
「お父上は五|尋《ひろ》の海の底、
骨はさんごになっている、
目は真珠になっている。
からだの何一つ消えてはいないが、
海の変化をうけて何やら
りっぱな不思議なものになっている。
海の精が絶えまなく鳴らすのろいの鐘、
きけ、ディンドンドンと響くあの鐘を!」
亡き父に関するこの奇妙なニュースはじきに王子をそれまで陥っていた麻ひ状態から呼びさましました。彼はエリエルの声に驚きながらついていくうちに、大きな木の陰にすわっているプロスペロとミランダのところへ連れていかれました。さて、ミランダはそれまで一度も父のほか男というものに会ったことがなかったのでした。
「ミランダ、お前はあそこに何が見えるか私に話してごらん」とプロスペロがいいました。
「あら、お父様、あれはたしかに精ですわ、まあ、あんなにきょろきょろ見まわして! ねえ、お父様、ずいぶん美しい方ですのね、あれは精ではございませんの?」ミランダは驚き怪しみながらいいました。
「いや、違う、私たちと同じように食べたり、眠ったり、そのほかの感覚をもっている。お前の見ているあの青年は船に乗っていたんだよ。悲しみのためにいくらかやつれているが、さもなかったらお前は好男子だというだろうよ。彼は仲間を失ったので、それを捜しまわっているのさ」と父は答えました。
男というものは皆、父のように厳しい顔つきをして白いあごひげをはやしているのだとばかり思っていたミランダは、この美しくて若い王子を見て喜びました。ファーディナンドの方では奇妙な声をきいたので、何か不思議なことがあるにちがいないと予期していたので、これは神島へきているので、ミランダは女神《めがみ》様にちがいないと思ったので、そのつもりで話しかけました。
姫《ひめ》ははにかみながら、自分は女神ではなくて、ただの少女だと答え、身の上話を始めようとすると、プロスペロがそれを妨げました。老人は若いふたりが互に相手をほめているのを知って、これはたしかに(世間でいう)一目で恋におちたのだと見てとりました。けれどもファーディナンドが心変りしないかどうかためすために、ふたりの恋に何か苦労を与えてやろうと決心したのです。そこで老人は前へ進みでて、厳格な調子で王子のことを自分が支配しているこの島を奪うために来たスパイだろうと責め、
「さあ、ついて来い、私はお前の首と足を縛りあげてくれる。お前は海の水をのみ、貝や枯れた木の根やどんぐりの皮を食物にするのだぞ」といいました。
「いいえ、私はもっと強い敵に会うまでは、そういう待遇には反抗します」
といって、ファーディナンドは剣を抜きました。けれども、プロスペロが魔法のつえをふって、相手をその場にくぎづけにして、身動きできなくしてしまいました。ミランダは父にすがりついて、
「どうしてそんなひどいことをなさいますの? お父様、同情してあげてください。私が保証人になります。この方は私が今までに会った第二番目の男の方で、私にはりっぱな方に思われますわ」といいました。
「お黙り、もう一こというと私はお前をしかりますよ。何だ、お前は、こんな詐欺師《さぎし》の弁護人になるというのかい。お前はカリバンとこの男だけより見たことがないので、世の中にはこれよりもりっぱな男はいないと思っているんだね。愚かな娘だ、たいていの男は、この男がカリバンよりすぐれているように、この男よりもりっぱなんだよ」とプロスペロはいいましたが、それは娘の変らぬ心を試みるためだったのです。
「私の愛情はほんとうに地味でございますのよ。私はこれよりりっぱな方にお目にかかりたいなどとは思いませんわ」とミランダは答えました。
「さあ、来い! 若者、お前は私にさからう力はないのだぞ」とプロスペロは王子にいいました。
「全くありません」とファーディナンドは答えました。そして抵抗力をすっかり失ったのは魔法の力だとは知らないので、どうしても、プロスペロのあとについていかなければならない自分に驚いていました。いつまでも見える限りミランダをふり返っていた王子は、プロスペロについて岩穴へ入っていくとき、
「わたしの精神はまるで夢をみているように全く縛られてしまった。だがもし一日に一度でも獄舎からあの美しい姫を見ることができれば、この男の脅迫《きようはく》も、いま感じているこの弱さも取るにたりないものになるだろう」といいました。
プロスペロは、ファーディナンドをそう長くは獄舎にとじこめておきませんでした。彼はじきに囚人をつれ出して、激しい労役を課しました。そしてわざと自分が王子に重労働をさせていることを娘に知らせるようにしておいて、書斎へいったふりをして、ひそかにふたりを見張っていました。
プロスペロはファーディナンドに重い丸太を積みあげるように命じたのでした。王子というものはあまり労働などしたことがないので、ミランダはまもなく自分の愛人が疲労して死にそうになっているのを見いだしました。
「まあ、どうしましょう。そんなにお働きなさいますな。父は書斎にいますから、三時間ぐらいは大丈夫でございますわ、どうぞお休みください」と姫はいいました。
「お嬢様、そういうわけにはまいりません。私は休む前にまず自分の仕事を済ましてしまわなければなりません」とファーディナンドはいいました。
「あなたが休んでいらっしゃれば、そのあいだ私が丸太運びをいたしますわ」
とミランダはいいましたが、王子はどうしても同意しませんでした。ミランダは仕事を助けるどころか邪魔をしてしまいました。というのはふたりは長いこと話を始めたので、丸太運びの作業はひどくはかどりませんでした。
単にファーディナンドの愛を試みるためにこの仕事をいいつけたプロスペロは、娘が考えていたように読書していたのではなく、ふたりに見えないところに立って、ふたりの話すことを聞いていたのでした。
ファーディナンドが姫の名を尋ねると、ミランダは父からきっぱりといい渡された命令にそむくことだけれどもといって、自分の名を告げました。
プロスペロは娘が生れて初めて自分に従順でなかったことに対して微笑しただけでした。
彼は自分の魔法で娘が突然に恋におちたのですから、自分のいいつけを守るのを忘れるほどの愛を示したことをすこしも怒ってはいなかったのです。それからまた、老人はファーディナンドが、ミランダのことを今まで会ったどの女性よりも愛しているということをうちあける長ばなしを、ひどく喜んで聞いていました。
姫は王子が自分の美しさを世界中のすべての淑女たちにもまさるとほめたたえたのに対して、
「わたしは女の方の顔は一つも覚えておりませんし、男の方といえば父と、私の良いお友達であるあなた様のほかお会いしたことがございませんの。よそにはどんな顔の方があるか私は知りませんが、どうかお信じくださいまし、私この世の中にあなた様以外のお友達を欲しいとは思いませんし、あなた様のお顔のほかに好きな顔など想像もできませんわ。どうしましょう、私としたことが、こんなにうちとけてお話し申しあげたりして。父の教えを忘れておりましたわ」といいました。
それをきいてプロスペロは微笑して、「これは私の望んだとおりになったわい、私の娘はネープルスの王妃となるだろう」というように、うなずくのでした。
するとファーディナンドはまたながい美しい言葉で(若い王子というものは上品ないいまわしをするものなのです)無邪気なミランダに自分はネープルス王の世継だから、姫は王妃になるであろうということを告げました。
「私は何というばかでございましょう、うれしくて泣いたりいたしまして。私は飾りのない神聖な潔白さでお答え申しあげます。あなた様が私と結婚してくだされば、私はあなた様の妻でございます」と姫はいいました。
それに対してファーディナンドが感謝を述べようとするのを、プロスペロがふたりの前に姿を現わして、さえぎってしまいました。
「子供よ、心配することはない、私は立聞きしてしまったのだが、お前のいったことをみんな結構だと思うよ。それからファーディナンド、私はあなたをずいぶんひどいめにあわせたですが、それは娘をさしあげて十分につぐないをつけましょう。あなたを悩ましたのはみんなあなたの愛を確かめるためだったので、あなたは立派に試練にたえました。そこであなたの真の愛があがなう価値のある贈り物として娘を私からお受けください、そして私が娘をいかなる賞賛にもまさると自慢するのを笑わないでいただきたい」
といってから老人はどうしても自分が顔出ししなければならない用事があるから、もどってくるまでふたりは腰かけて語り合っているようにといいました。ミランダもこの命令には決して逆らう様子は見せませんでした。
プロスペロはふたりを残してそこを去ってからエリエルを呼びました。妖精はネープルス王とプロスペロの弟をどう処置したか早く報告したがっていたので、すぐに主人の前に現われました。エリエルは彼らを自分が見せたり聞かせたりした怪異の数々に驚き恐れて、気が狂わんばかりにして置いてきたといいました。ふたりがさまよい歩いて、疲れはて食物がないので飢えているときに、妖精は突然その前においしそうな食物を並べ、ふたりがまさに食べようとすると、ものすごいハーピイ(訳注 鳥の羽根と爪をもった女身の怪物)の姿になって面前に現われ、同時に食物を消えうせさせてしまいました。それからさらに彼らを仰天《ぎようてん》させたことには、そのまことしやかなハーピイが口をきき、プロスペロを領土から追い出し、幼子とその父親を海で死に果てるように仕組んだ彼らの残酷さを責め、それゆえに彼らが今こうした恐ろしいめに遭《あ》っているのだと知らせたのでした。
ネープルス王と不実な弟アントニオはプロスペロに対してした不正を悔い改めました。で、エリエルは彼らの悔悟は確かであるし、自分は単なる妖精にすぎないけれども、彼らに同情せずにはいられないと主人に語ったのでした。
「それじゃあ、エリエル、ふたりをここへ連れておいで。妖精のお前でさえ彼等の苦悩を感じるというのに、彼らと同じ人間である私が同情を持たずにいられようか。はしこいエリエルや、早くつれてきておくれ」とプロスペロはいいました。
まもなくエリエルは王とともにアントニオと王の従者たちにまじっていたゴンザロを連れてきました。皆はエリエルが彼らを主人の前にみちびく為に空中でかなでる熱狂的な音楽を怪しみながらついて来たのです。これはゴンザロにしても同様でした。彼は前に、悪い弟がプロスペロを小舟に置き去りにしたときに親切に書籍や食物や衣類を用意しておいた人ですが、父と娘は海でなくなってしまったものと思いこんでいたのです。
あまりの悲しみと恐怖にぼんやりしてしまって、彼らはプロスペロとは気がつかないでいました。老人は第一に、善良な老ゴンザロを命の親とよびかけて、自分がだれであるかを明かしました。それで弟や王も、それが自分たちの、いためつけたプロスペロだと知ったのでした。
アントニオは涙を流しながら、悲しみと真実のこもった悔恨の言葉で真剣に兄のゆるしをこいました。王も、兄をなきものとするアントニオを助けたのを心から悔いていることを述べました。そこでプロスペロはふたりをゆるしました。そしてプロスペロに領地も爵位《しやくい》もかえすとふたりが約束するに及んで、老人はネープルスの王にむかって、
「私も陛下にさしあげようと思って、しまって置いた贈り物がございます」
といって、戸をあけ、王子のファーディナンドとミランダ姫が将棋をさしているところを見せました。
ふたりとも互に相手があらしの中で死んだものと思いこんでいたので、この思いがけぬ父子再会の喜びにまさるものはありませんでした。
「おお、すばらしいこと! 何てりっぱな方たちなんでしょう! こういう方たちのいらっしゃるところはきっとすばらしい世界に違いございませんわ」とミランダがいいました。
ネープルスの王も、王子と同じように、ミランダ姫の美しさと卓越した上品さに驚くばかりでした。
「この令嬢はどなただね? われわれを引きはなし、そしてまた引き合わせた女神のように思われるが」と、王はいいました。
ファーディナンドは最初にミランダに会ったときに、自分の陥ったと同じ間違いをしている父王を見て微笑しながら、
「いいえ、お父上、姫は人間です、けれども神のおひき合わせで私のものになったのです。私はお父上が生きておいでになるとは知りませんでしたので、おゆるしも得ずに姫を選んでしまったのです。姫はこの有名なミランの侯爵プロスペロの令嬢です。侯爵の令名はかねてから聞いておりましたが、これまでお会いしたことがなかったのです。侯爵からわたしは新しい生命を受けました、侯爵はこの愛する姫を私に与えることによって、わたしの第二の父上となられました」というのでした。
「すると私は姫の父ということになる。だが自分の子供に謝罪しなければならぬとは、何というおかしな事だろう」と王はいいました。
「そのことはもうなしにいたしましょう。終りがこんなに幸福になったのですから、過去の苦労などはお互に思い出すのはよそうではありませんか」とプロスペロがいいました。
そこでプロスペロはもう一度弟を抱いて、罪をゆるすことをくりかえして誓い、賢明なる支配者におわす御神が娘にネープルスの王位をつがせるために自分たちを貧弱な領地からおい出してくだすったのだ。なぜならこの無人島でふたりが会ったからこそ王子がミランダを愛すようになったのだといいました。
弟を慰めるためにプロスペロの語ったこれらのことばは、アントニオの胸を恥かしさと後悔でいっぱいにしたので、彼はしばらくは口がきけないで、さめざめと泣くのでした。親切な老ゴンザロも、この喜ばしい仲直りを見て泣きました。そして若いふたりに神の祝福があるようにお祈りをしました。
プロスペロは、一同に船が無事に港にはいっていることや、乗組員たちも皆そこにいること、それから自分と娘とは翌朝一同とともに家路につくという事を告げました。
「それまでのあいだ、私の貧弱な岩穴でさしあげられるだけのごちそうを召上がっていただきましょう。そして夕食後の余興に私がこの無人島に初めて上陸したときからの身の上ばなしをお聞かせするといたします」
といって、プロスペロはカリバンを呼んで、岩穴をかたづけて、何か食物の用意をするように命じました。人々はプロスペロの唯一の召使だというこの醜い化物の気味の悪い姿とおそろしい顔つきを見て驚きました。
プロスペロは島を去る前にエリエルを解雇して、この活発な小さい妖精を大よろこびさせました。彼は主人に忠実な奉公人でしたがつねづね、甘い香りのする花や、新鮮なくだものや、緑の木の下を、だれの支配も受けずに野生の鳥のように、空中をさまよい歩く自由を享楽したいと希望していたのでした。
プロスペロは小さな妖精を自由にしたときに、
「おもしろいエリエルや、お前がいないと私はさみしくなるが、自由を与えてやるよ」といいました。
「御主人様ありがとうございます。だがこの忠義な妖精に暇をおつかわしになる前に、順風を起してお船を御国までお送りすることをおゆるしくださいまし。そうすれば、それからのち私はどんなにでも楽しく暮せる身になります」といって、エリエルは次ぎのような美しい歌をうたいました。
蜂の吸うところで私も蜜《みつ》を吸う。
くりんそうの鈴の中に横になり、
梟《ふくろう》がなくときに私はそこで眠る。
私はこうもりの背に乗って飛び、
たのしく夏のうしろを追いかける。
たのしく、たのしく暮そう、
木の枝にかかる花の下で。
次ぎにプロスペロは魔法の本と魔法のつえを地中に深く埋めてしまいました。もう二度と魔術を使わない決心をしたからです。こうして敵にうち勝ち、弟やネープルスの王と仲直りをしたうえは、この老人の幸福を完全にするには、生れ故郷を再び訪れ、自分の領地を取りもどし、娘とファーディナンド王子の幸福な結婚式を見るだけで十分でした。王はネープルスに帰りしだいにふたりの結婚式を盛大に祝うといっていました。一同は妖精エリエルの安全な護衛のもとに愉快な航海をして、まもなくネープルスに到着したのでした。
[#改ページ]
真夏の夜の夢
昔アゼンスに、市民は自分の娘を勝手にだれとでも結婚させる権利を持つ法律がありました。娘が父親の選んだ男を夫にするのを拒んだばあいには、父親はその娘を殺すことも認められていたのです。しかし父親は多少は反抗するようなことがあっても、自分の娘の死を望んだりしないのが常ですから、この法律はアゼンスの若いお嬢さんたちを、その恐ろしさで脅迫するためにしばしば持ち出されたとしても、実際に適用されたことはありませんでした。
しかしたった一度だけ、イージアスという老人が真実にシシアス(当時のアゼンス公国の支配者)のところへ、娘のハーミヤがアゼンスのりっぱな家柄の青年デメトリアスと結婚するように命じたのに、ライサンダーという若いアゼンス人を愛しているためにそれに従うことを拒んだというので訴え出たことがありました。イージアスはシシアス大公の裁判を要求し、自分の娘にその残酷な法律を強制するように願いました。
ハーミヤはその命令に服従できない理由として、デメトリアスは以前自分の親友ヘレナを愛していたこと、ヘレナもデメトリアスを死ぬほど愛していることを申し立てました。しかしハーミヤが親の命令に従えない理由として提出したこのりっぱな理論も、厳格な父親を動かすことはできませんでした。
シシアスは偉大な慈悲深い大公でしたが、国法を変更する権限は持っていませんでした。大公にできたのは、ハーミヤに四日間、熟考する猶予を与えることだけでした。そしてもし四日目の終りにハーミヤがまだデメトリアスとの結婚を拒めば死刑ということになりました。
ライサンダーはこの悪い知らせを聞いて非常に心痛しました。しかし叔母がアゼンスから遠く離れたところに住んでいて、ハーミヤに対して強制される残酷な法律もそこでは効力がない(この法律はアゼンス市外には適用されないのでした)ことを思い出し、ハーミヤにその夜父の家を忍び出て、彼とともに叔母《おば》の家へ行き、そこで結婚しようと申し出ました。
「私たちは市から五六マイル先の森で会いましょう。五月のいい季節に私たちがヘレナといっしょに散歩したあの楽しい森でね」とライサンダーはいいました。
その申し出にハーミヤは喜んで賛成しました。彼女は計画した駆落ちのことは親友のヘレナのほかにはだれにも話しませんでした。ヘレナは(若い娘というものは恋のためには愚かなまねをするのが常で)友だちの秘密をもらして何の利益を得る望みもないのに、自分に対してつれない恋人のあとをつけて森へ行くという楽しみだけのことで、不実にもデメトリアスのところへ行って告げ口をする決心をしました。そうすればデメトリアスがハーミヤのあとを追って森へいくことを知っていたからです。
ライサンダーとハーミヤが落ち合う約束をした森は、妖精《ようせい》という名で知られている小さな生きものが好んで出没する場所でした。その妖精たちの王はオベロンで女王はチテーニアで、よく大ぜいのけらいを従えてきてこの森で真夜中の酒宴を催しました。
そのころこの妖精の王と女王のあいだに悲しむべき不和が生じていました。ふたりはこの気持のいい森の木陰の小路にさす月光の下で会うこともせず、けんかばかりしていて、それがだんだんに激しくなってきたので、妖精たちは恐れをなして、どんぐりのおわんの中に逃げ込んで隠れてしまうほどになりました。
この不幸な不和の原因はチテーニアが取換子《とりかえつこ》(訳注 妖精たちがさらって来る子供の代りに残してくる醜い子供)の男の子をオベロンに渡すのを拒んだことでした。その子供の母親は彼女の友だちだったのですが、その母親が死んだあとで女王は、乳母《うば》の手からそっと盗んできて、森の中で育てたのでした。
恋人たちが森のなかで落ち合うことになっていたその夜、チテーニアは数人の女官を連れて歩いているうちに、妖精の朝臣を従えたオベロンに出会いました。
「高慢な女王よ、月夜に会って悪かったな」とオベロンがいいました。
「あら、やきもち焼きのオベロン、あなたなのね! さあ妖精たち大急ぎでここから立ち去ろう、私はこの人に会うことは誓って絶ったのですからね」
「無分別な妖精たちお待ち! 私はお前たちの主人じゃないか、どうしてチテーニアはオベロンを怒らせるのだ。さあお前の取換子を私の小姓におくれ」とオベロンはいいました。
「安心おしなさい、あなたの王国全部をだしたってあの子は買い取れないんですからね」
といって、女王は王をひどく怒らせたまま立ち去りました。
「勝手にするがいいさ。朝の来ないうちに、この腹いせにお前を苦しめてやるから」とオベロンはいいました。
そこでオベロンは一番お気に入りの枢密顧問官パックを呼び出しました。パック(時には好漢ロビンと呼ばれることもあります)はよく近くの村へいっても、こっけいな悪いたずらをする抜けめのない不届きな精で、時には酪農場へ忍び込んで、大切なミルクの表面のいいところをすくい取ってしまったり、時には軽い空気のようなからだでバター製造器の中へ忍び込んで、奇怪なかっこうでダンスをして、女工がいくらかき回しても、バターができないようにし、村の若者がやってみても成功させなかったりするのでした。パックがビール醸造の銅器の中で気まぐれをする気になると、ビールがだめになってしまうのでした。また数人の善良な隣人たちが気楽にビールを飲みに集ったときに、パックは焼きがにの形になってコップ中へとび込んだり、年寄りのおばさんがビールを飲もうとすると、くちびるにむかってとびあがって、ビールをしわくちゃのほおにはねかしたり、やがてその老婦人が隣人たちに悲しい陰気な話を始めようとして腰かけると、パックは三脚を彼女の下からずらして、気の毒な老婦人をひっくり返らせて、おしゃべりの老人たちに、お腹をかかえて大笑いし、こんなおもしろいめにあったことはないといわせたりするのでした。
オベロンはこの陽気な夜の放浪者に、
「パックや、さあ、私に少女たちが三色すみれと呼ぶ花を摘んできておくれ、あの紫の花の液を眠っている者のまぶたにつけておくと、目がさめたときに最初に見たものを、たわいなくかわいがるようになるのだ。その花の液をチテーニア女王が眠っているまにまぶたにたらしておくのだ。すると目をさましたとたんに、見たものはライオンでも、くまでも、あのおせっかいな小ざるでもいそがしやの大ざるでも、何でも好きでたまらなくなるのだ。そして私の知っているもう一つのまじないで、彼女の目からその魅力を取り去る前にあの子供を私の小姓によこさせてしまうのだ」と語りました。
いたずらを何より好きなパックは、主人がやろうとするその浮かれ騒ぎをひどくおもしろがり、その花を捜しにとんでいきました。オベロンはパックの帰りを待っているあいだに、デメトリアスとヘレナが森へはいってくるのを見ました。彼はデメトリアスが、ヘレナが従いてきたのを責めているのを聞きました。ヘレナは彼の以前の愛情や、自分に真心から約束をしたことなどを彼に思い出させて、優しくいさめているのに、男の方ではさんざん不親切な言葉をあびせたあげくに女を野獣の危険にさらして(オベロンの言葉によると)置き去りにしたので、女はいっしょうけんめいに追いかけていきました。
真実の恋人にはいつも親切な妖精王は、ヘレナに非常に同情しました。ライサンダーは彼らがよく月光に照らされた快い森を散歩したといっていましたから、オベロンはヘレナがデメトリアスに愛されていた幸福な時代の姿を見かけたことがあったかも知れませんでした。それはともかくとして、パックが小さな紫の花を持ち帰ると、オベロンはこのお気に入りに、
「この花を少しお取り。この森にかわいらしいアゼンス娘が来ているんだが、高慢な青年に恋をしているのだ。もしその青年が眠っているところを見つけたら、このほれ薬をその目にたらしておくがいい。だが彼が目を開いたときに、おろそかにしていたその娘を見るように、彼女が近くにいるときにやるように工夫するのだぞ。その青年はアゼンスふうの服装をしているから、すぐそれとわかるはずだ」といいました。
パックはそのことを非常に器用にやると約束しました。それからオベロンはチテーニアに感づかれないように彼女が寝る用意をしているあずまやへ近寄りました。彼女のあずまやは、じゃ香ばらや、忍冬《すいかずら》や、野ばらが屋根を作っている下に、じゃ香草、黄花くりんそう、匂いすみれなどが咲いている堤で、チテーニアは、いつも夜の大部分をそこで眠るのでした。彼女のかけぶとんは、エメラルド色のへびの皮でそれは小さなマントですが、妖精のからだを包むには十分でした。
王は、チテーニアが、自分の眠っているあいだに妖精たちのなすべき仕事をいいつけているのを見いだしました。
「ある者たちは、じゃ香ばらのつぼみについている尺取虫を殺すのよ、ある者たちは、私の小鬼たちに着せるオーバーを作るのに、こうもりの羽がいるから、こうもりと戦争をするのよ。ある者は夜中に鳴くあの騒がしいふくろうが私の近くへ来ないように見張番をするのよ。だが、まず第一に、私に眠り歌を歌っておくれね」
そこで妖精たちは次ぎの歌をうたい始めました。
二枚舌のまだらへびや、
とげだらけの針ねずみは見えるなよ、
いもりやとかげは悪さをするなよ、
妖精の女王様に近寄るなよ、
うぐいすよ、美しい眠り歌をうたえ、
節おもしろく、
ララ、ララ、ララバイ、
ララ、ララ、ララバイ、
わざわいも、まじないも、魔法も、
美しい女王様に近づくなよ。
おやすみあそばせ、眠り歌とともに。
妖精たちは女王をこの美しい眠り歌で眠らせてしまうと、女王に命じられた重要な仕事を果しに立ち去りました。オベロンは、チテーニアのそばへ寄って、
汝《な》が目さめしときに見るものを、
汝がまことの恋人として受けよ。
といいながら、ほれ薬をまぶたにたらしました。
さて、デメトリアスとの結婚を拒んだがゆえに運命づけられている死を避けるために、その夜父の家を脱出したハーミヤに話をもどしましょう。彼女が森へ着くと、ライサンダーは彼女を叔母の家へ案内するために待ちもうけていました。しかし森を半分もいかないうちにハーミヤはすっかり疲労してしまったので、ライサンダーは自分のために命を危険にさらしてまでも愛情を示してくれたこの愛する女性を非常に大切にしていたので、朝まで柔かなこけのはえている堤で休むように彼女に勧め、自分もそこから少し離れたところの地面に横になって、じきに熟睡してしまいました。そこをパックに発見されたのでした。
パックは美しい青年が眠っているのに気づき、アゼンスふうの服装を見て、その近くに美しい娘が眠っているところから、これがオベロン王のいったアゼンス娘と、彼女を捨てた恋人にちがいないと結論して、ちょうどふたりがそばにいるから、彼が目をさまして第一に見るのが彼女ということになるように、何のためらいもなく、小さな紫の花の液を彼の目に注ぎました。ところがその道へヘレナがやって来てしまったので、ライサンダーは目をさまして真先にハーミヤでなく彼女を見たのでした。すると妙な話ですがほれ薬の効力は大したもので、彼のハーミヤに対する愛はすっかり消えてしまって、ヘレナを恋するようになったのでした。
彼が目をさまして最初にハーミヤを見たのだったら、パックの犯した失策は何のこともなかったのでした。ライサンダーが誠実な婦人を愛しすぎてわるいわけはないのでしたから。ところが気の毒にもライサンダーは、妖精のほれ薬にしいられて、深夜ハーミヤをただひとり森の中に眠らせたまま置き去りにし、真実の愛人を忘れて、他の女のあとを追っていってしまったとは、じつに悲しむべきことでした。
こうしてこの不幸な事件が起ったのでした。ヘレナは前にも述べたように、失礼にも自分を置き去りにして逃げたデメトリアスのあとを追ってきたのでしたが、男というものは長距離競走では女よりも優秀な走者なのが通例ですから、彼女はこの不均等な競走を続けていられなくなったのでした。ヘレナはじきにデメトリアスの姿を見失ってしまいました。それでがっかりしてひとりぼっちでうろついているうちにライサンダーの寝ているところへ着いたのでした。
「あら、地面に寝ているのはライサンダーさんだわ。死んでいるのかしら、眠っているのかしら?」といって、そっと彼に触って、
「もしもし、生きていらっしゃるんだったら、目をおさましなさい」といいました。
そこでライサンダーは目をさまして(ほれ薬がききはじめて)さっそく途方もない愛と賛美の言葉を彼女にあびせかけ、彼女の美しさはハーミヤにまさること、からすとはとのごとくだの、自分は麗わしき君のためには火にもとび込むだの、そのほかそうした恋人が口にするような文句をたくさん述べました。ヘレナはライサンダーが自分の友達のハーミヤの恋人で、結婚の約束を堅く結んでいるのを知っていましたから、そんなふうに話しかけられるとひどく怒りました。彼女は(無理もないことですが)ライサンダーが自分をなぶりものにしていると思ったのでした。
「ああ、私はどうして皆からばかにされたり、卑しめられたりするために生れてきたのかしら? 私がデメトリアスから優しい目や親切な言葉をかけてもらえないだけで十分かわいそうじゃないの。それだのに私をこんなふうにばかにして求愛するまねをするなんて、あんまりだわ。ライサンダーさん、私はあなたをもっとまじめな紳士だと思っていましたのに!」といいながら、ひどく憤慨して逃げていきました。ライサンダーは眠っているハーミヤのことなどすっかり忘れて、そのあとを追っていきました。
ハーミヤは目をさまして、自分ひとりきりなのを知ると、激しい恐怖におそわれました。そしてライサンダーがどうしたのか、どこへ行ったのかもわからず、森の中をさまよいました。
一方デメトリアスはハーミヤと恋がたきのライサンダーを見つけることができないで、むなしい捜索に疲れ果てて、熟睡しているところを、オベロンに発見されました。オベロンはパックにいろいろと質問して、彼がほれ薬を間違えて別の男の目につけたことを知ったので、今、こうして最初にきめておいた男を見いだし、眠っている彼のまぶたにほれ薬をつけました。それでデメトリアスが目を開いて最初に見たのはヘレナだったので、ライサンダーが前にやったように、彼女に愛のことばをあびせました。ちょうどそのとき、ライサンダーがハーミヤにあとを追いかけられてやって来ました。(パックの不幸な失策でハーミヤが恋人を追いまわす番になったのでした)そしてライサンダーとデメトリアスとが、同じ効果のある薬の影響を受けてふたりいっしょになって、ヘレナに恋をしかけました。
びっくりしたヘレナは、デメトリアスとライサンダーと、かつての親友ハーミヤとが組んで自分に冗談をしてからかっているのだと思いました。
ハーミヤもヘレナと同じぐらい驚きました。以前は自分を愛していたデメトリアスもライサンダーも、どうしてヘレナの恋人になってしまったのか、訳がわかりませんでした。ハーミヤにとって、これは冗談事ではありません。
前には非常に仲よしであった二人の女性は互に激しい言葉で争い始めました。
「ひどいハーミヤさんね、あなたがライサンダーさんをけしかけて、私に心にもない賛美をさせたりしなすったのね。それからあなたのもうひとりの恋人、前には私を足げにせんばかりにしていたあのデメトリアスに、私を女神だの水の精だの、めったにないだの、貴重だの神々《こうごう》しいだのっていわせたのも、あなたなのね。私をきらっているあの人は、あなたがそそのかして、からかわせるのでなかったら、私にあんなことをいうはずはないんですもの、かわいそうな友達を男たちといっしょになって、なぶり者にするなんて、ほんとうに残酷なハーミヤさん! あなたは私たちの学校時代の友情を忘れてしまったの? ハーミヤさん、私たちはよく一つの座ぶとんに腰かけて一つ歌をうたい、同じ針で同じ花をぬって同じ刺しゅう見本をつくったではありませんか、私たちはまるで二つ一ふさになっている桜んぼうみたいに離れたことがないほど、いっしょに大きくなったんじゃありませんか! ハーミヤさん、男たちといっしょになってかわいそうな友達を笑いものにするなんて、友達らしくないわ、女らしくないわ」とヘレナがいうと、
「私はあなたの激しい言い草にあきれているわ。私あなたを笑いものになんかしなくてよ。あなたこそ私にからかっているくせに!」とハーミヤはいいました。
「いいますとも! おかしいのをがまんして、そんなに無理にまじめくさった顔をしていて、私がうしろをむくと、舌を出して皆と目くばせをして、いい笑いものにするんでしょう。もしあなたに少しでも同情心やしとやかさや行儀の心得があったら、私をこんな目にあわせないでしょうに!」とヘレナはいい返しました。
ヘレナとハーミヤがこうして互に怒りの言葉を投げあっているあいだに、デメトリアスとライサンダーはヘレナに対する恋争いのために決闘をしに森の奥へはいっていきました。
二人は紳士たちが自分たちを置いて行ってしまったのに気がつくと、別れ別れになって再び恋人を捜しに、疲れ果てながら森の中を歩きまわりました。
人々が去ってしまうと、それまでパックとともにその口論を立ち聞きしていた妖精王は、
「パック、これはお前の怠慢のいたすところだぞ。それともお前はわざとやったのか」とパックにいいました。
「影の国をしろしめす王様よ、お信じください、これは全く私の過失だったのです。王様はアゼンスふうの服装でその男とわかると教えられたではないですか。しかし私はこういう事件を引き起したのを後悔はしておりません。彼らのわいわい騒ぎはすばらしい娯楽だと思いますからね」とパックは答えました。
「お前も聞いたろう、デメトリアスとライサンダーは決闘するに都合のいい場所を捜しにいったんだぞ。私の命令だ、お前は夜を濃霧で包んで、あのけんかっぽい恋人たちを暗やみの中で迷わせ互に相手が見つからないようにしろ。双方の声をまねて、それぞれに相手だと思わせるように痛烈な悪口をいって怒らせて、お前を追いかけさせるのだ。いいかね、そんなふうにして彼らを一歩も進めないほど疲れさせて、彼らが眠ってしまったら、この別の花の液をライサンダーの目に注いでやれ。そうすると目がさめたときにヘレナに対する新しい恋を忘れてハーミヤに対する以前の愛情を取りもどす。それで美しい淑女たちは各自に愛する男と幸福に暮すようになり、今までのことはすべていまいましい夢だったと思うだろう。さあ、パック早くやれ、私はわがチテーニアが、どんな結構な愛人を見つけたか、見にいってくる」とオベロンはいいました。
チテーニアはまだ眠っていました。オベロンはその近くに道化師《どうけし》が森の中で道に迷って同じように眠りこけているのを見つけ、
「こいつをわがチテーニアのまことの愛人にしてやれ」といいました。そしてろばの頭をその道化師にかぶせました。それはまるで彼の肩の上に生えたように、ぴったりと合いました。オベロンはろばの頭をじつに静かにかぶせたのでしたが、それで彼は目をさましてしまい、立ちあがると、オベロンにされたことには全く無意識で、妖精の女王が眠っているあずまやの方へいきました。
チテーニアは目をさますと、小さな紫の花の液の効能があらわれはじめたので、
「あら、私は天の使いを見ているのかしら? あなたは見たところがそんなにお美しいように、賢くていらっしゃるの?」といいました。
「奥方様、もし私がこの森から出る道を見つけるほどのちえがあれば、自分の役に立つだけの賢さがあるというものでござんすよ」と愚かな道化師はいいました。
「森の外へ出るなんて望まないでください。私はただの階級の妖精ではないのよ。私はあなたを愛しています、私といっしょにいらっしゃい、妖精たちにいいつけて、あなたに仕えさせますわ」
と、心を奪われた女王がいいました。
そして四人の妖精を呼びました。その妖精たちの名は、豆の花、くもの巣、蛾《が》、からしの種というのでした。
「このごりっぱな紳士に仕えなさい。お道すじを踊りまわり、お目の前ではねまわるのよ。それからぶどうとあんずを食べさせておあげするのよ、それと、はちの蜜《みつ》袋を盗んできてさしあげておくれ。さあ私とここへお座りあそばせ。そして私にそのお優しい毛むくじゃらのほおをなでさせてちょうだい、美しいろばさん! わがやさしき喜びの君よ、その麗わしく大きなお耳にせっぷんさせてください」と女王はいいました。
ろば頭の道化師は妖精女王の求愛には大して注意は払いませんでしたが、新しく得た侍女たちに大そう満足のていで、
「豆の花はどこにおるか」といいました。
「ここにおります、御前様」と小さな豆の花がいいました。
「わがはいの頭をかけ、くもの巣はどこじゃ!」
「はい、ここにおります」とくもの巣がいいました。
「善良なるくもの巣君、あそこのあざみのてっぺんにいる、赤い花ばちを殺してくれたまえ。それから善良なるくもの巣君、蜜袋を持って来てくれたまえ、あんまりあせって活動したもうなよ、くもの巣君、そして蜜袋を破らんように注意したまえ、君が蜜袋をあふれさせて、こぼしてしまったりしては、残念だからね。からし種はどこにおるか」
「ここにおります、何ご用でございましょう」とからし種はいいました。
「何もないよ、善良なるからし種君。だが、豆の花の手伝いをしてわがはいの頭をかいてくれたまえ! ねえ、からし種君、わがはいは理髪店へ行かずばなるまいな、どうも頭が途方もなく毛だらけだ」と道化師はいいました。
「やさしい愛人よ、何を召しあがりますか。冒険好きな妖精をやって、りすの食糧庫をさがしてあなたに新しい木の実を取ってこさせますわ」と女王はいいました。
ろばの頭の道化師は、ろばなみの食欲を起して、
「わがはいはそれよりも豆を一にぎりもらいたいね。だが、あんたのけらいどもが、だれもわがはいの邪魔をしないようにしてもらいたいよ、眠りたいんだから」といいました。
「ではお休みあそばせ、私があなたのくびに腕をまわしてさしあげますからね。私はどんなにあなたを愛していることでしょう! 私はもうたわいもなく、あなたを愛していますのよ」と女王はいいました。
妖精王は女王の腕のなかで道化師が眠っているのを見ると、目の前に進み出て、女王がろばに惜しげなく愛情を注いでいるのを非難しました。女王はそれを否定することはできませんでした。何しろ自分の腕のなかに道化師が眠っていますし、そのろばの頭には自分の手で作った花かんむりがのっているのでしたから。
オベロンはしばらく彼女をからかったうえで、取換子を要求しました。女王は自分の新しいお気に入りを王に見つけられたのを恥じ入っていましたから、王の要求を拒むわけにいきませんでした。
オベロンはかねてから自分の小姓にほしいと思っていた少年を手に入れたので、自分の愉快な計略で不名誉な状態に陥っている女王がかわいそうになり、他の花の液を彼女の目に注ぎました。それで女王は直ちに理性を取りもどし、こんな変てこな化物は見るも気持が悪いといって、自分のたわいなさに、あきれるのでした。オベロンは同じように道化師からろばの頭を取りのぞいて、愚かな道化師の頭で存分に眠らせておきました。
オベロンとチテーニアはすっかり仲直りをしてしまったので、王は恋人たちの身のうえを、深夜の争いのことを話してきかせました。それで女王は王といっしょに、その冒険の結末を見にいくことに同意しました。
妖精の王と女王は、恋人たちと美しい淑女たちが、それぞれあまり遠く離れていないところで、芝生《しばふ》に眠っているのを発見しました。それというのも、パックが以前の失敗を償うために、ひじょうな努力で一同を、互に知らさずに同じ地点まで誘導してきて、妖精王から与えられた、ほれ薬を消す薬で、ライサンダーの目から注意深くまじないを解いてしまったのでした。
ハーミヤは第一に目をさまし、失ったと思ったライサンダーが自分のそばに眠っているのを見いだし、彼の不思議な変心をいぶかりながら彼を見つめていました。やがてライサンダーも目をあけて、愛するハーミヤを見ると、妖精のまじないで曇らされていた理性を取りもどし、真実の自分の理性でハーミヤに対する愛情を取りもどしました。そこでふたりは前夜の冒険を語り合い、それらのことが実際に起ったのか、それともふたりで同じわけのわからない夢を見たのかと、迷うのでした。
そのころヘレナとデメトリアスも目をさましました。うましい眠りはヘレナの怒りにかき乱されていた気持をしずめたので、前夜から引きつづいてデメトリアスの語る愛の告白を快く聞きました。そして彼女が驚くとともに喜んだことには、その言葉が誠実なものであることが明白になりました。
この美しい夜の放浪婦人たちは、もはや競争者同士ではなく、もう一度親友になりました。ふたりのあいだにかわされた不親切な言葉は、互にゆるしあい、現在のばあいをどう処したら一番いいかを静かに相談しました。それでまもなくデメトリアスはハーミヤに対する要求を放棄したのだから、彼がハーミヤの父のところへ行って彼女を死刑にするという残酷な宣告を取り消すようにとき伏せるということに皆の意見がまとまりました。デメトリアスがこの友だちがいのある使命を帯びてアゼンスへ帰る支度をしていると、一同はハーミヤの父イージアスの出現におどろかされました。老人は駆落ちした娘を追跡して森へやってきたのでした。
イージアスはデメトリアスが自分の娘と結婚しないと知ると、もはや娘がライサンダーと結婚することに異議を申し立てるどころか、それを承認しました。そしてその日から四日目、つまりハーミヤが命を失う宣告を受けているその日に結婚式をあげるようにいいました。その同じ日にヘレナも愛する忠実なデメトリアスと結婚することに喜んで同意しました。
妖精王と女王はこの仲直りの、だれにも見えない目撃者でしたが、今こうしてオベロンの好意により恋人たちの物語が幸福な結末となったのを見て非常な喜びを得ました。そしてこの親切な妖精たちは、近く挙行される結婚式の日には、妖精国中で、いろいろな競技やお祭りさわぎをして大々的に祝うことにきめました。
さて、この妖精や、妖精たちのいたずら物語を奇妙で信じられないときめて憤慨する人があったら、これらの冒険はみんな眠っているあいだに見た幻だとお考えくださればいい。読者のなかにはこの美しい罪のない真夏の夜の夢に腹をたてるほどのわからずやはひとりもないように希望する次第であります。
[#改ページ]
冬ものがたり
シシリイの王リオンチスと、貞淑な美しい王妃ハーミオネは、一度は非常に相和合して暮していたのでした。リオンチスは、ほかに何も望まないほど幸福でしたが、ただ一つ自分の昔の仲間で学校友だちであるボヘミアの王ポリクシニスにもう一度会い、自分の王妃に紹介したいと思うのでした。リオンチスとポリクシニスとは、両方とも父親がなくなったので幼いころからいっしょに育てられたのでしたが、それぞれの王国を治めるために呼びもどされてしまい、そのごは互に贈り物や手紙や愛の使節を取りかわしていましたが、長いこと会っていませんでした。
幾度か招待状が出されたあと、ポリクシニスはついに友人リオンチスを訪問するために、ボヘミアからシシリイの朝廷へやってきました。
この訪問は最初はリオンチスにただ喜びを与えるだけでした。彼は青年時代のこの友人に特別の好意を示すように王妃に頼みました。それでこの親友であり昔の仲間の存在が彼の幸福を真実に完全なものとした観がありました。二人は昔のことを語り合いました。学生時代のことや若いころのいたずらなどを思い出し、いつもそうした会話の愉快な仲間入りをしていた王妃に話して聞かせたりしました。
長い滞在ののち、ポリクシニスが帰り支度を始めると、ハーミオネは夫の希望に従って、夫といっしょになってポリクシニスにその訪問をもっと延長するように懇願しました。
それが今、この貞淑な王妃の悲運の始まりとなったのでした。というのは、リオンチスがもっと居るように望んだのを断っていたポリクシニスが、ハーミオネの優しい懇願的な言葉に動かされて更に数週間、出発を延期したのでした。ところがリオンチスは、以前から友人ポリクシニスの誠実さとりっぱな道義心をもっていることもまた貞淑な王妃のすぐれた性質もよく知っているにもかかわらず、おさえ難いしっと心に捕えられたのです。ポリクシニスに対してハーミオネの示す心尽しがみんな夫の希望であり夫をよろこばすためにほかならないにもかかわらず、一々この不幸な王のしっと心を増すのでした。そして彼は情愛ある真実の友人から、そして最良のこのうえもない優しい夫から突然に野蛮、冷酷な怪物になってしまいました。
彼は朝臣の一人であるカミロを呼んで、自分が心にいだいている疑いを語り、ポリクシニスを毒殺するように命じました。
カミロは善人でした。それにリオンチスのさい疑心には実際において何の根拠もないことを知っていたので、ポリクシニスを毒殺するかわりに、王の命令を知らせ、彼とともにシシリイ王国から逃げ出すことに同意しました。ポリクシニスはカミロの助力で無事に自分の王国ボヘミアに着きました。それ以来カミロはポリクシニスの朝廷に仕え、王の一番の友人でお気に入りになりました。
ポリクシニスの逃亡はリオンチスのしっと心を更に激しくしました。彼は王妃の室へいきました。貞淑な婦人は幼い王子とともにいました。ちょうど王子は母君をたのしますために、自分の知っているうちで一番おもしろい童話を始めたところでしたが、そこへはいって来た王は王子を連れ去り、王妃を投獄してしまいました。
マミリヤスは年はのいかない子供でしたが、母君を大そう愛していました。それで母がそんな汚名をきせられ、自分から引きはなされて獄舎に入れられたことを知って深く悲しみ、食欲も睡眠も失い、じょじょに衰弱し、やせ細っていって、悲嘆が王子を殺してしまうだろうと思われるほどになりました。
王は王妃を獄舎へ送ってしまうと、クリオミニースとダイオンの二人のシシリイの貴族に命じて、デルフォスへ行ってアポロの神殿で、王妃が自分に対して不貞であったかどうか、神託を伺って来るようにいいました。
ハーミオネは入獄するとまもなく、女の子を産みました。王妃は美しい幼児を見て非常な慰めを得ました。そしてその幼児にむかって、
「小さな囚人さん、私はお前と同様に何の罪もないのよ!」というのでした。
ハーミオネは、シシリイの貴族アンチゴナスの妻で心の立派なポオライナという親友をもっていました。でポオライナ夫人は王妃がお産の床についたことをきくと、王妃が閉じこめられている獄舎へ行きました。そして王妃に仕えている婦人エミリアに、
「エミリアさん、お願いですから王妃様に、小さい御子を私におまかせくださる勇気がおありになるかどうか伺ってください、私は御子をお父上であらせられる王様のところへお連れいたしますわ。罪のない御子を御覧になられたら王様の御心がどんなに柔らぐか知れないとぞんじますもの」といいました。
「とうとい奥方様、あなた様のごりっぱなお申し出を王妃様にお知らせ申しあげますわ。王妃様は今日もどなたかお友だちで御子を王様のところへお連れくださるような方があればいいのにとおっしゃっておいででございました」とエミリアは答えました。
「では王妃様に申しあげてください、私はリオンチスにむかって王妃様のために大胆に弁護いたしますっていうことをね」とポオライナはいいました。
「王妃様にそのように御親切にしてくださいますあなた様に、末ながく神のお恵みがございますように!」といって、エミリアはハーミオネのところへ行きました。王妃はほかにだれも子供を王のもとへ連れていく勇気ある者はないと思い、喜んで幼児をポオライナの手に任せました。
ポオライナは夫が王の怒りをおそれて止めようと骨を折ったにもかかわらず、生れたこの幼児をつれて王の前に無理に出て、父なるその人の足元にその幼児を置きました。そしてポオライナはハーミオネの弁護のために王にむかって立派な演説をし、王の不人情を激しく責め、罪の無い妻と子供に慈悲を持つように懇願しました。しかしポオライナの猛烈な抗議はリオンチスの不興を一層悪化させるばかりで、王はポオライナの夫に彼女を自分の前からつれ去るように命じました。
ポオライナは立ち去るときに幼児を父親の足元に置いてきました。王がひとりになったときに、それを見てその頼りない罪のない様子に哀れみをかけるだろうと思ったからです。
善良なポオライナの考えは間違っていました。彼女が立ち去るやいなや、無慈悲な父親はポオライナの夫アンチゴナスに子供をつれて海へ出て、どこか人里はなれた海岸に置き去りにして来て死なせてしまえと命じました。
アンチゴナスは善良なカミロと違って、リオンチスの命令にあまりに忠義すぎました。つまり彼はすぐに子供を船に乗せて、どこでも最初に見つけた人気のない海岸へ置いてくるつもりで海へ出ました。
王はあくまでもハーミオネの罪を強調して、アポロの神託をききにデルフォスへつかわしたクリオミニースとダイオンの帰りを待ちきれなくなり、まだ産後の衰弱からも、幼児を失った悲しみからも回復しない王妃を、朝臣や貴族たちの面前に連れ出して公判にかけました。それで大公たちや裁判官たちや国中の貴族たちがハーミオネを裁くために集合し、不幸な王妃が囚人として臣民の判決を受けるために人々の前に立っているときに、クリオミニースとダイオンが、その集会所へはいってきて封印した神託を王に捧げました。リオンチスは封印を破って読みあげるように命じました。それは次ぎのような言葉でした。
――ハーミオネは無罪である。ポリクシニスに責めはない。カミロは忠臣である。リオンチスは、しっと心のつよい暴君である。王は失った子供を発見しない限り嗣子を持たないであろう――
王はその神の御告げを信じようとしませんでした。彼はそれを王妃の友達がこしらえあげた虚言だといって裁判官に王妃の公判を進行させるように希望しました。しかしリオンチスがそう言っている最中に、一人の男が入ってきて王子マミリヤスは母が裁判で死刑にされようとしていることを聞き、悲しみと屈辱に打たれて急死したと告げました。
ハーミオネは大切な愛児が自分の不幸を悲しむのあまり命を失ったと聞いて気絶しました。それでその知らせに胸をさされたリオンチスは不幸な王妃に対して哀れみを感じ始めて、ポオライナおよびその他の女官たちに命じて不幸な王妃を連れていって彼女を回復させる手当をつくすようにいいました。ポオライナはまもなくもどって来て、王にハーミオネが死んだと告げました。
王妃が死んだと聞いて、王は彼女に対して残酷であったことを後悔しました。そして今になって自分の虐待がハーミオネを悲しみ死《じに》させたことを考え合わせて、彼女の潔白を信じたのでした。それからまた、神の御告げの言葉が真実であることを考えました。「失った子供を発見しない限り嗣子をもたないであろう」というのは幼い娘のことにちがいないし、若い王子マミリヤスが死んでしまったうえは彼には嗣子はないということになると知ったのでした。彼は失った姫を取りもどすためには王国を与えてもいいと思いました。そしてリオンチスは悔恨にしずみ、幾年間も痛恨の念と前非を悔いる苦しみのうちに過しました。
アンチゴナスが幼い姫を海へ運び出した船は暴風雨でボヘミアの海岸、それはあの善良な王ポリクシニスの王国に吹きつけられました。アンチゴナスはそこに上陸して、幼い姫を置き去りにしました。
アンチゴナスはシシリイに帰ってリオンチスに姫をどこへ置いてきたか決して語りませんでした。というのは、彼は船へ帰っていく途中で、森から出てきたくまに、八つ裂きにされてしまったのでした。それはリオンチスの邪悪な命令に服従した男の当然受けるべき罰でした。
幼児はりっぱな着物と宝石を身につけていました。それはハーミオネが幼い姫をリオンチスのもとへ送るときに、念入りに美しくしておいたからでした。それからアンチゴナスはパーディタという名と高貴な生れと不運な身のうえをそれとなく暗示する言葉を書いた紙をマントにピンで留めておきました。
このかわいそうな捨子は羊飼に発見されました。彼は慈悲深い男だったので、幼いパーディタを家へつれていきました。彼の妻は幼子を親切に世話しました。しかし貧困が羊飼を誘惑して、彼の見つけた貴重な拾得物を隠匿させました。それで彼は自分がどこで富を得たかだれにも知られないように、その土地をはなれました。そしてパーディタの宝石の一部で羊群を買って金持の羊飼になりました。彼はパーディタを自分の娘として育てたので、彼女は自分が羊飼の娘だということのほかは知りませんでした。
小さなパーディタは麗わしいおとめになりました。彼女は羊飼の娘として以上の教育は受けていませんでしたが、それにもかかわらず、高貴な母からうけついだ生来の気品が自然のままの心から輝き出ているので、彼女の上品な態度を見た人は、だれも彼女が父の宮廷で成人しなかったことに気がつかないほどでした。
ボヘミアの王ポリクシニスにフロリゼルという名のたった一人の王子がありました。この若い王子が羊飼の家の近所で猟をしていたので、老人の娘と思われている彼女を見ました。そしてパーディタの美しさとしとやかさと、女王のような振舞が、たちまち王子を恋に陥らせてしまいました。それからまもなく、王子は平民の紳士に身をやつし、ドオカスと名のって、老羊飼の家の忠実な訪問者となりました。フロリゼルのたびたびの宮廷不参がポリクシニスを心痛させました。それで王子に見張りの者をつけて羊飼の美しい娘に対する彼の恋を発見しました。
ポリクシニスは、自分をリオンチスの怒りから助けてくれた、あのカミロを呼んで、パーディタの父と仮定されている羊飼の家へいっしょについていくように所望しました。
ポリクシニスとカミロは変装をして、羊毛の刈込み祝いをしている老羊飼の家へ到着しました。二人は見知らぬ他人でしたが、羊毛の刈込み祝いにはどの客でもみんな歓迎されることになっているので家のなかへ招じられて、陽気なお祭さわぎの仲間入りをしました。
そこに進行しているのは笑いさざめきと、愉快さだけでした。食卓がいくつも並べられ、いなかふうの祝宴の大準備がしてありました。数人の青年男女が家の前の芝生でダンスをしていますし、そのほかの若い男たちが、戸口に来ている行商人からりぼんだの手袋などを買っていました。
そうした忙しい光景が進行しているあいだに、フロリゼルとパーディタは皆からはなれたすみの方に静かにすわって、周囲に行われている競技やばからしい娯楽に加わろうなどと思うどころか、二人きりで語りあっている方がずっと楽しいらしく見えました。
王はすっかり変装していたので王子が父と知ることは不可能でした。それで王はその会話が聞えるところまで近寄りました。王子と語っているパーディタの態度が無邪気でしかも上品なのにポリクシニスは大そう驚きました。王はカミロに、
「今まで見た平民の娘の中でこれは一番の美人だ。あの娘のすること、言うことはどうもあの身分の者よりもずっとりっぱに思われる、こんな場所には高貴すぎるようだ」といいました。
「全くあの娘はチーズの原料やクリームのようにまさしく一番いいところをあつめた女王です」
とカミロは答えました。
王は老羊飼にむかって、
「もしもし、親切な友人よ、あなたの娘さんと話をしているあのきれいな若い衆は何者ですか」
といいました。
「人々はドオカスと呼んでおります、あの若い衆は私の娘を愛していると申します、で、じつのことを申しますと、あのふたりはお互にどちらがよけいに愛しているかきめられないくらいの仲です、で、もしあの若い衆が娘と結婚すると、娘はあの男が夢にも考えなかったすばらしいものを持っていくことになるのです」と老人はパーディタの宝石の残品のことをほのめかしました。彼は羊群を買った残りの宝石を、彼女が結婚するときの持参金として大切にしまっておいたのでした。
次ぎにポリクシニスは王子に話しかけました。
「さて、さて、若い衆よ、お前さんの胸は、お茶のごちそうからお前さんの心を奪ってしまうような何ものかでいっぱいになっている様子だね、私が若いころには自分の恋人にうんと贈り物をしたものだが、お前さんは行商人を立ち去らしてしまって、女の子におもちゃ一つ買ってやらなかったではないか」といいました。
若い王子は相手が自分の父王だとは少しも考えずに、
「御老人よ、娘さんはそんなつまらないものはほしがらないのです、パーディタが私からもらうはずの贈り物は、私の胸の中に大切にしまってあるのです」と答えました。それからパーディタにむかって、
「パーディタよ、一度は恋人だったことがあると思われるこの老紳士の前で、私のいうことを聞いてください。この紳士は私の告白を聞かれるのだ」といいました。それからフロリゼルは自分がパーディタに対して厳かに結婚の約束をするから、その他人なる老紳士に証人になってくれと要求し、ポリクシニスに、
「どうぞ私たちの婚約に立ち会ってください」といいました。すると王は本当の姿を現わして、
「若者よ、私はお前の離婚に立ち会う」といいました。
そしてポリクシニスはこのような生れの低い者とよくも婚約したと王子を責め、パーディタのことを「羊飼のがき」だの「羊飼のつえ」だのそのほかいろいろと無礼な名で呼びました。そしてもし彼女が二度と王子に会いに来させるようなことをしたら、娘も父親の老羊飼もともに残酷な死に方をさせると威嚇《いかく》しました。
王は激怒し、カミロにフロリゼル王子をつれて自分について来るように命じて立ち去りました。
ポリクシニスの非難に高貴な天性をかり立てられたパーディタは、王が去ると、
「私たちみんな台なしにされてしまいましたけれども、私ちっとも、恐れませんわ。私ね一度か二度王様に言ってあげようとしましたのよ、王様の宮殿を照らす同じ太陽は私どもの一家にむかって顔をかくしません、太陽は宮殿もあばら屋も同様に照らしますって!」といいました。そして悲しげに、
「でも私はこの夢からさまされてしまいましたわ、私はもう女王らしく振舞ったりいたしません。さあ、あなた、どうぞお帰りになってください、私は雌羊の乳をしぼりにいって泣いてきますわ」
とつけ加えました。
気の優しいカミロはパーディタの勇気と礼儀正しい態度に魅せられました。そして若い王子が深く相手を愛していて、父王の命令で思いきることができないでいるのに気がつき、自分がこの恋人たちの味方になると同時に、ひそかに立てたある有利な計画を遂行する方法を考えつきました。
カミロはシシリイの王リオンチスが真実に悔い改めていることを前から知っていました。それでカミロは今はポリクシニス王のお気に入りの友人になっていますけれども、もう一度旧主人と生れた家を見たいと望まずにはいられなかったのです。それで彼はフロリゼルとパーディタに、自分とシシリイの朝廷へ同行するように申し出ました。そこへ行けばカミロは、自分の工夫でポリクシニスの赦免を受けふたりの結婚の承認を得るまで、リオンチス王に保護してもらうように計ろうというのでした。
この申し出にふたりは大喜びで同意しました。この脱出に関するすべての指揮をしていたカミロは、老羊飼も彼らといっしょに行くことをゆるしました。
羊飼はパーディタの宝石の残りと、ベービイ服と、マントにピンで留めてあった紙片とを持って行きました。
順調な航海をしたのち、フロリゼル王子とパーディタとカミロ、それに老羊飼は無事にリオンチスの宮殿に到着しました。今もなおなきハーミオネと失った子供のことを嘆き悲しんでいたリオンチスは、非常に親切にカミロを迎え、フロリゼル王子を歓迎しました。けれどもリオンチスの心づくしはフロリゼルが自分の内親王として紹介したパーディタに集中されたようでした。姫となき王妃ハーミオネとがよく似ているのに気づいて、彼は悲しみを新たにし、もし自分が王妃をあんなふうに残酷に死なせなかったら、このような美しい姫を自分の娘に持つことができたろうにと嘆くのでした。そしてフロリゼルに、
「それに私はあなたの勇ましい御父上との交際と友情も失ってしまったのです。その御父上にもう一度お会いすることを私は自分の命以上に求めているのです」といいました。
老羊飼は王がパーディタにどんなにふかい関心を寄せているかを知り、王が自分の姫を幼児のときに野ざらしにして失ってしまったことなどを聞くと、幼いパーディタを発見した当時の年月をくり、野ざらしにされていた様子や、宝石その他高貴な身分を語る証拠品などを考え合せました。それらすべてから推察して、パーディタと王の失った姫とが同一人だと結論することは不可能ではありませんでした。
老羊飼が子供を発見したときの様子やアンチゴナスが、くまに襲われるところを目撃したことから彼の死んだ情況などを王に語ったとき、フロリゼルとパーディタとカミロ、それに忠実なポオライナがその場に居合せました。羊飼がパーディタの着ていた立派なマントを示すと、ポオライナはハーミオネ王妃がそれで幼児を包んだことを覚えていました。それから宝石をさし出すと、彼女はハーミオネがそれを幼い姫の首に巻きつけたことを記憶していました。そして彼が渡した紙片を見て、ポオライナはその筆跡が自分の夫のものであることを認めました。もはやパーディタがリオンチス王自身の娘だということは疑う余地はありませんでした。だが、夫の死に対する悲しみと神の御告げどおりに長いあいだ失われていた姫が見いだされて王の世継ができた喜びとのあいだに立つポオライナの大きな心の争闘はどんなだったでしょう! リオンチスはパーディタが自分の娘だと聞くと、ハーミオネが生きていて自分の子供を見ることができないと思うと、大きな悲しみを感じて、ただ「おお、お前の母は! お前の母は!」とくりかえすだけで、長いこと何も言えませんでした。
ポオライナは、リオンチスに、最近ジュリオ・ロアノというイタリアの巨匠に彫刻してもらった立像ができあがり、それが王妃にじつによく似ているから陛下に自分の家へ見に来ていただきたい、きっとハーミオネ王妃だとお思いになるにちがいないといって、この悲喜こもごもの場面をうち切りにしました。そこで一同は皆で出かけました。王はわが妻ハーミオネに似た姿を、パーディタはまだ見ぬ母がどんなか見たいと切望していました。
ポオライナがその有名な立像をかくしている幕をしぼったとき、それが全くハーミオネそっくりだったので、それを見て王は悲嘆を新たにしました。そのために王は長いあいだ口をきくことも動くこともできませんでした。
「王様の御沈黙を好ましく存じます、それはあなた様の御驚異をそれだけ多く示しているものでございますもの。この立像は王妃様そっくりだとお思いあそばしませんでしょうか」とポオライナがいいました。すると王はようやく、
「ああ、ほんとうに、私が初めて求愛したときに、このとおりの気高さで立っていたっけ! だがポオライナよ、ハーミオネはこの立像のように老《ふ》けてはいなかった」といいました。
「そこが彫刻家のすぐれたところでございます、ハーミオネ様が生きておいであそばしたら、これくらいにお見えあそばすだろうというところをこの立像に表わしたのでございますもの。さあ、これ以上見ておいであそばすと陛下は立像が動くなどとお考えあそばすようになるといけませんから、幕を引きましょう」とポオライナは答えました。
「幕を引かないでくれ! ああ、私は死んでいたらいいと思う! カミロごらん、まるで息をしているようじゃないか? あの眼が動きそうに思える!」と王はいいました。
「もう幕を引かなければなりませんわ、さもないと陛下はあまり夢中におなりあそばして、立像が生きていると御自分に思いこませておしまいあそばしますもの」とポオライナは答えました。
「おお、優しいポオライナ、私は二十年もそう思いつづけたいと思うね。だがどうしても息がかよってくるように思われる、一体どんなすばらしいのみが息まで彫刻できるのだろう! 私は彼女にせっぷんをするが、どうかだれも私をあざ笑わないでくれ」とリオンチス王はいいました。
「まあ、陛下、およしあそばせ! くちびるの赤色がまだぬれております。油絵具で陛下のくちびるをお汚しになりますわ。幕を引きますわ」とポオライナはいいました。
「いや、あと二十年間、引いてはならない」
とリオンチス王がいうと、この比類ない母の立像の前にひざまずいて、沈黙の嘆美にひたって眺めていたパーディタは、
「私はその長い年月ここにこうして、愛するお母様を見つめていますわ」といいました。
「おふたりとも、その夢中な気持をおこらえあそばせ。そして幕を引くことをおゆるしくださいまし。さもなければ、もっとお驚きになるご用意をあそばせ。私はほんとうにこの立像を動かせることもできますのよ。それどころか、台からおりて来て、あなた様のお手を取らせることもできますの。でもそんなことをしたら陛下は私が悪魔の力でも借りたとおぼしめすかも知れませんが、私は決してそんなことはいたしません」とポオライナがいいました。
「何でもできることをしてくれ。私はそれを見て満足する。何でも言わせることができるなら言わせてくれ、私はそれを聞いて満足する。動かすことができるなら、話をさせることもやさしいだろう」と驚いた王はいいました。
そこでポオライナはそのために準備しておいた静かで荘厳な音楽を演奏するように命じました。すると見る人々一同をびっくりさせたことには、立像は台からおりてきて、両腕をリオンチスの首に投げかけました。そして立像は口をきき始め、夫と新しく見いだしたわがパーディタの上に神の祝福があるように祈りました。
立像がリオンチスの首にすがって夫と子供の祝福をねがっても不思議はありません。何の不思議もありません。なぜなら、立像はじつにハーミオネその人で、実在の生きた王妃だったのです。
ポオライナは、それが王妃の命を救う唯一の手段だと考えて、王にハーミオネが死んだと偽りの報告をしたのでした。そしてハーミオネはそれ以来親切なポオライナとともに暮して、パーディタが見つかったと聞くまではリオンチスに自分が生きていることを知らせないことにしていたのです。というのは、王妃はリオンチスが自分に与えた無礼をとうにゆるしていましたが、幼い娘に対する残虐はゆるすことはできなかったからでした。
こうして死んだ王妃は生きかえり、失った姫は発見されたので、長いあいだ悲しんでいたリオンチスは自分の幸福があまりに多すぎて、ささえきれないほどでした。
あらゆる方面で祝辞や情愛をこめた言葉のみが聞かれました。狂喜した両親はフロリゼル王子に低い身分に見えた自分の娘を愛してくれたことを感謝しました。それから自分たちの子供を育ててくれた親切な老羊飼を祝福しました。カミロとポオライナは自分たちの忠実な奉仕が、そんなふうによい終りを遂げたのを今日まで生きていて見ることができたのを非常に喜びました。
さて今度は、あたかもこの不思議な思いもうけぬ喜びを完全なものにするために、何一つ欠けてはならないかのように、ポリクシニス王自ら宮殿へはいってきたのでした。
ポリクシニスは最初王子とカミロがいなくなったのを知ったとき、カミロが前からシシリイに帰りたがっていたので、逃亡者たちをここで見いだすことができるだろうと推測し、全速力であとを追ってきて、ちょうどリオンチスの一生でもっとも幸福な瞬間に到着したのでした。
ポリクシニスは全体の喜びに一役加わりました。彼は自分に対して不当なしっと心を抱いた友人リオンチスをゆるし、ふたりはもう一度少年時代からの友情の熱意をもって互に愛しあうようになりました。それでポリクシニスが、王子とパーディタの結婚に反対する心配もなくなりました。彼女はもはや「羊飼のつえ」ではなくシシリイ王国の女相続人です。
かくして私どもは長らく悩んでいたハーミオネの忍耐強い美徳が報いられるのを見たのでした。このすばらしい貴夫人は、このうえもない幸福な母として、また王妃として、長い年月をリオンチス王および、パーディタ姫とともに暮しました。
[#改ページ]
お気に召すまま
フランスが幾つもの領土(あるいは公国とも呼ばれていました)に分けられていた時代に、その領土の一つを、正当な大公である長兄を廃して追放してしまった横領者が支配していました。
その大公はそんなふうに自分の領土から追い出されて、少数の忠臣とともにアルデンの森に隠退したのでした。そこで善良な大公は、親切な友人たちと暮していましたが、その友人たちは大公に味方するために、自分たちの領地からあがる年収が横領者のふところを肥すにまかせて、自ら進んで追放の身となっているのでした。森に慣れるに従って、何の屈託もないのん気な生活は、彼らにとって宮廷の大げさで落ちつきのない派手な生活よりもずっと愉快なものになりました。一同はイギリスのロビン・フードのように暮しました。それで宮廷の若い貴族たちが毎日のようにたずねてきて、皆は、まるで昔の黄金時代(訳注 ギリシャ神話中にある人間が無邪気で幸福で、働く必要もなければ争う原因ももたない時代)のように楽しく過すのでした。人々は夏は森の大きな木にそうた気持のいい木陰に寝ころんだり、遊び半分に鹿《しか》狩りをしたりしました。皆はこの森の土着の住人のような白ぶちのかわいらしい動物を愛していて、自分たちの食糧として肉を得るために殺さなければならないのを悲しむのでした。
冬の寒気が大公に変りはてた身のうえを痛感させる季節になると、彼は、
「私の身に吹きつけるこの冷たい風はほんとうの助言者だ。彼らはお世辞はいわない、私の境遇をありのままに表現するだけだ。冷たい風は私の身をひどくかむが、その歯は不親切や忘恩ほど鋭くはない、人々が不幸についてどんなに語ろうとも、私はその不幸のなかから何か良い教訓を学びそれを人々に示すことができる、ちょうど、有毒で不快なひきがえるの頭から薬品として貴重な宝石(訳注 これは昔の迷信です)が採取されるようなものだ」といって、よく忍耐するのでした。こんなふうに辛抱強い大公は目に見るすべてのものから有益な教訓をひき出していました。で、この何でも教訓化する性格が、都会を遠くはなれた森の生活のなかで、大公に木々のうちに言葉を、流れる小川のうちに本を、石ころのうちに説教を、そしてあらゆるもののうちに善意を見いださせたのでした。
この追放された大公にはロザリンドと呼ぶ、ただひとりの娘がありました。横領者フレデリック侯爵は、ロザリンドの父を追い出したときに、彼女だけは、自分の娘シーリアのお相手役として宮廷に引きとめておきました。このふたりの姫のあいだには、父親たちの不和さえ少しも妨げとならないほど強い友情が存在していました。シーリアは自分の父がロザリンドの父を廃した不法をつぐなうために、ロザリンドに対して力のおよぶかぎり親切をつくしていました。そしていつもロザリンドが父の追放のことや、自分が不実な横領者の保護を受けていることを考えて憂うつになると、シーリアは一生けんめいに彼女をいたわり慰めるのでした。
ある日シーリアがいつもの優しい態度で、
「おねがいだわ、ロザリンドお姉様《ねえさま》、お元気をお出しあそばせよ」といっているところへ、侯爵から使者が来て、もし姫たちが、すもうを見物したいなら直ぐに宮殿前の広場へくるようにと伝えました。シーリアは、きっとロザリンドを楽しませるだろうと思って見物にいくことを承諾しました。
すもうは今ではいなかの若者たちのなぐさみにすぎませんが、当時は貴公子や貴婦人や姫たちの集まる宮廷の広場でさえ行われるほど人気のあるスポーツでした。それでシーリアとロザリンドはその競技を見物にいきましたが、ふたりはそれが悲劇的な光景をもたらすことになりそうなのに気がつきました。というのはながいあいだすもうの技術をみがき、すでにこうした競技会で幾人もの人を殺した強い大男が、非常に若い男を相手にするところだったので、見物一同は弱年で経験にとぼしいこの若者はきっと殺されるにちがいないと考えたのでした。
侯爵はシーリアとロザリンドを見ると、
「おや、おや、お前たちもこのすもうを、そっと見にきたというわけだね。だがあのふたりの男のあいだにはあまりに割りきれないものがあるから、お前たちは楽しめないだろうよ、私はあの若者がかわいそうだからこの取組みを思いとまらせたいと思う、姫たちよ、あの男に言葉をかけて、決心をひるがえさせることができるかどうか、ためしてみないか」といいました。
姫たちは人道的な役割を演じるのを大そう喜びました。それでまずシーリアが若いその男に競技に出るのを思いとまるように懇願しました。つぎにロザリンドが、彼がこれから遭遇する危険を心配する気持をこめて、じつにやさしく話しかけたので、若者は姫のやさしい言葉によって目的をすてるかわりに、その美しい姫の目前で勇気のあるところを示そうと決心してしまいました。若者は姫たちが一層彼に対して関心をいだくようになるほどの礼儀正しさと、けんそんな言葉で、シーリアとロザリンドの申し出を断りました。
「私はこんな美しい立派な姫たちの、どんなお申し出をもお断りするのは非常に心苦しいのです。しかし、あなた方の美しいお目とおやさしいお望みをうけて私がこの競技に出ますことをおゆるしいただきたいと思います。もし私が敗北者となったところで、それを屈辱に感じる者は、だれからも好意を与えられない私ひとりきりですし、もし殺されるとすれば、喜んで死ぬ者がひとりいるだけのことです。私がどうなろうとだれにも迷惑はおよびません。と申すのはだれひとりとして私の死を嘆く者はないからです。この世のなかにひとりとして、私のために心に傷をうける者はありません。私がいなくなれば、私の占めていた空間を、私よりももっとすぐれた人が満たすというのが私の立場なのです」といって彼は拒絶の言葉を結びました。
それで今や、すもうの競技は始まりました。
シーリアはこの名の知れぬ若者が傷つけられないように願っていましたが、ロザリンドはもっと真剣に彼の安全を祈っていました。彼が友人もなく死を望んでいる境遇をロザリンドは自分と同じように不幸な身のうえだと思いました。彼女は彼に同情を寄せ、すもうをとっているあいだ中、彼の危険を気づかうのあまり、その瞬間に恋に陥ったといってもいいほどでした。
この無名の若者に示した美しい姫君たちの親切に勇気と力を得た彼は、すばらしい技能をあらわしました。そしてついに敵を完全に征服してしまいました。相手はあまりひどく傷つけられて、しばらくは口もきけなければ身動きもできないほどでした。
フレデリック侯爵は無名の若者の示した勇気と技術を非常によろこびました。そして彼を自分のかかえ選手にしようと思って、名と素姓を尋ねました。
若者は、名はオーランドで、ボイズのロランド卿《きよう》の一番末子だといいました。
ボイズのロランド卿、つまりオーランドの父は、数年まえに死んでしまいましたが、生前は追放された大公の忠臣で親友でした。それゆえオーランドが自分の追放した兄の友人の息子と聞くと、この勇敢な若者に対する好感が、不愉快に変ってしまい、彼をすっかり不きげんにしてしまいました。兄の友人の名を聞くだけでもきらっていたものの、若者の勇気をまだ感嘆している彼は、その場を立ち去るときに、オーランドがだれかほかの男のむすこであってくれたらよかったのにというのでした。
ロザリンドは新しく見いだしたお気に入りの人が、父の旧友の息子だと聞いて大喜びしました。そしてシーリアに、
「ボイズのロランド卿を私の父は愛していましたのよ。あの青年がロランド卿の御子息と知っていたら、私はさっき競技をはじめる前に涙を流して引きとめましたのに」といいました。
姫たちは彼のところへいきました。そして彼が侯爵の突然の不興に当惑しているのを見て、優しく話しかけて激励の言葉を与えました。ロザリンドは立ち去りがけに、もう一度ふりかえって、父の旧友の勇ましい若いむすこに更に親切な言葉をかけ、首から金鎖をはずして、
「紳士よ、これを私のために身におつけくださいまし、私は何の保護もうけておりませんし、財産にも恵まれておりません。さもなかったらもっとりっぱな贈り物をさしあげるのでございますけれども」といいました。
姫たちはふたりきりになると、ロザリンドの話はあい変らずオーランドのことばかりなので、シーリアはいとこが美しく若い力士に恋をしているのだと気がつき始めたので、ロザリンドに、
「そんなに急に恋に陥るなんてことが、あるものでしょうか」といいました。
「私の父の大公が、あの方のお父様を深く愛していらっしたんですもの」とロザリンドは答えました。
「それだからといって、お姉様もそれにならって、その方のお子さんを深くお愛しになりますの? そうすると私の父があの方のお父様を憎んでいらしたから、私もそのお子様を憎まなければならないわけでございますわね。それだのに私はオーランド様を憎みませんわ」とシーリアはいいました。
フレデリックは以前から人々がロザリンドが善良な大公の娘だというので同情を寄せ、彼女の美徳を賞揚するのを不快に思っていたのでしたが、ボイズのロランド卿のむすこの姿は、自分の追放した大公が貴族たちのあいだに多くの友人をもっていることを思いださせたのでひどく腹をたて、彼女に対する日ごろの悪意を爆発させました。それでシーリアとロザリンドがオーランドのことを話しているところへ、フレデリック侯爵が室にはいってきて、いきどおりを満面にあらわして、ロザリンドに直ちに宮殿を出て父親に従って追放の身分になれと命じました。
「あのころ私はまだ子供でお姉様の値うちがわかりませんでしたから、父上にお姉様を置いてあげてくださいとお願いいたしませんでした。けれども今は私はお姉様のとうとさを知っております。私たちはながいあいだともに眠り、朝はいっしょに起き、ともに学び、ともに遊び、ともに食べてきましたので、私はお姉様といっしょでなければ生きていけなくなりました」とシーリアがいうと、フレデリックは、
「その女はお前にはあまり利口すぎる。静かなところや、無口そのものと、忍耐が、人民どもに物をいっている、それで彼らはその女に同情するのだ。その女がいなくなればお前はもっと輝いて徳が高く見えるのに、その女のために嘆願するなんて、お前は愚かだ。私がロザリンドの上にくだした運命は動かしがたいものなのだから、その女のために口をきくことはない」とフレデリックは答えました。
シーリアは、父にロザリンドを自分とともに居させてもらうようにときふせることができないと知ると、従姉についていこうというりっぱな決心をしました。それでその夜、父の宮殿を出てアルデンの森にいるロザリンドの父である追放された大公をさがしにいくことにしました。
ふたりが出発する前に、シーリアは若い淑女がふたりで現在着ているような立派な服装で歩くのは安全でないだろうと考え、ふたりとも高貴な身分をかくしていなか娘に変装することを提案しました。ロザリンドはふたりのうちのひとりが男に変装したらもっといい防護になるだろうといいました。それにはふたりとも同意して、ロザリンドの方が身長が高いので、いなかの若い男の服を着て、シーリアはいなか娘の服装をしてふたりは兄と妹ということにし、ロザリンドはガニミデと名のり、シーリアはエリイナという名を選びました。
美しい姫たちは、そうした変装で、道中の費用を支払うために金銭や宝石を持って長途の旅行に出かけました。何しろアルデンの森は、大公の領土の国境のかなた、はるか遠くにあるのでした。
ロザリンド姫(今はガニミデと呼ばなければならないのです)は男装したので男らしい勇気も身につけたようでした。うんざりするほど幾マイルもロザリンドについて来るシーリアの誠実な友情は、新しい兄にその真実の愛に報いるために、まるで本当のガニミデであるかのように元気な精神をかたむけさせ、おとなしい村娘エリイナの純真で大胆な兄にならせました。
ふたりは、ようやくアルデンの森に来ましたが、そこでは途中で出会ったような便利な宿屋や、いい設備を見いだすことはできませんでした。そして食物と睡眠不足で途中ずっとおもしろい話や楽しい会話で妹を愉快に元気づけていたガニミデも、今はエリイナ同様に疲れはててしまって自分の男の服装に対して面目ないことだが、女のように泣きたい気持になっていると白状しました。するとエリイナはもう一歩も進めないといい出しました。そこでガニミデは、弱き者として女をいたわり慰めるのが男の義務であることを考えて勇気を振い起そうとしました。そして新しい妹に勇気があるように見せて、
「さあ元気をお出し、妹エリイナよ、われわれの旅ももう終ったんだからね、アルデンの森だもの」といいました。しかしいくら男らしさを装うても無理に勇気を出してみても、もはやふたりの助けにはなりませんでした。なぜかというと、ふたりはアルデンの森にはいますが、どこに大公を見いだせるのか知りませんでした。ふたりは迷子になってしまうかも知れませんし、または食物がないために餓死するかもしれませんから、この疲れきった姫たちの旅も、ここで悲しむべき結末となったかもしれませんでした。しかし神の摂理によって、ふたりが草の上にすわって、疲労と救助の望みもなく、ほとんど死にそうになっているところへ、ひとりのいなか者が、偶然にもその道をとおりあわせました。そこでガニミデはもう一度男らしい大胆さで話すことを試みました。
「羊飼、もし何とかして、この淋しい場所でわれわれにもてなしを与えてくれるところがあったら、どうか休息するところへ案内してくれないか、私の妹であるこの若い娘が旅行で疲れ、食物の不足で気を失ってしまっているんだ」といいました。
その男は、自分は羊飼の奉公人にすぎないといい、主人の家は売りに出されるところだから、ごく貧弱なもてなしより受けられないだろうが、もし自分といっしょに行けば、喜んで迎えられるだろうと答えました。救助が近くにあるという見込みが新たな力を与えたので、ふたりはその男について行きました。そして羊飼からその家と羊群を買い取り、自分たちを羊飼の家へ案内した男を雇って自分たちに仕えさせました。そういう訳で幸運にもさっぱりした小屋をあてがわれ、食糧も十分に補給されたので、ふたりは大公が森のどの辺に住んでいるかを確かめるまで、そこにいることに話がまとまりました。
ふたりは旅の疲れを休めてしまうと、新しい生活様式をたのしみ始めました。そして羊飼と羊飼女を装うつもりだったのが、本当にそうなった気持になりました。しかしガニミデは時々は自分が、かつてはロザリンド姫で、オーランドを父の友人ロランド卿のむすこなるがゆえに深く愛していたことを思い出していました。そしてガニミデはオーランドが、自分たちの旅をしてきたあのいやになるほど幾マイルもある、遠いところにいると思ったにもかかわらず、まもなくオーランドもアルデンの森にいることがわかったのでした。で、こんなふうにしてふたりが同じ森にいるという不思議な事件が進展するにいたったのです。
オーランドはボイズのロランド卿の末子でしたが、卿は死ぬときに彼(オーランドは幼少だったので)を長男オリバーに託し、オリバーを祝福するにさきだって、弟に立派な教育を授け、ふるい家柄にふさわしい体面をたもつだけの必要品を与えることを誓わせたのでした。ところがオリバーは人間として価値のないことが判明しました。彼は父の臨終の命令を無視して、弟を決して学校へやらず、家に置いて教育もしなければ、何のしつけもせず、まったくかまいつけませんでした。しかしオーランドは性格も気高い精神も、非常にりっぱな父に似ていたので、教育の強みなしでも、特別に注意して育てられた青年のように見えました。それでオリバーはこの教育のない弟があまり立派な容姿と上品な態度をもっているのがうらやましくなり、ついに弟をなき者にしようと決心するにいたりました。彼はその目的を達するために、他人をそそのかして、オーランドに前に述べたように幾人も殺した有名な力士と競技をするように勧めさせたのでした。オーランドに、一人の友人もないから死んでもいいといわせたのは、この残酷な兄がそんなふうに弟をかまいつけなかったからなのです。
兄の計画した邪悪な望みに反して弟が勝利を占めたとなると、彼のねたみと憎悪は無限なものとなりました。そしてオーランドの寝室に火をつけて焼いてやると誓いました。彼のその誓いの言葉は亡父の年老いた忠実な召使に聞かれました。その召使はオーランドがロランド卿によく似ているというので彼を非常に愛していました。この老人が、侯爵の宮殿から帰って来たオーランドを出迎えにいきました。そしてオーランドの顔を見ると、この愛する若主人にふりかかっている危険を心痛するのあまり激しい感情にかられて、
「おお、私のお優しい御主人さま! 私の大切な御主人さま! なきロランド卿の形見の御主人さま! あなたはなぜお勝ちになりました? どうしてあなたはこんなにお優しくこんなにお強く、こんなに勇ましくていらっしゃるのです! あなたは、なぜまた愚かにもあの有名な力士を負かしておしまいになったのです? あなたの好い評判があまりに早くあなたより先に家へ届いてしまいました!」と叫びました。
オーランドは一体どういう意味なのだろうと怪しみながら、どうしたことか尋ねました。そこで老人は、世間の人がみんな彼を愛しているのをそねんでいる悪い兄が、今度は彼が侯爵の宮殿で勝利を得て有名になったのを聞き、その夜弟の寝室に火を放って彼を焼き殺してしまおうとしていると告げました。そして結論として、直ちに逃亡して危難をのがれるように忠告し、オーランドが金を持っていないのを知っていてアダム(この善良な老人の名です)は自分のわずかな貯金を取り出して、
「私は五百クラウン持っております、あなたのお父様《とうさま》にお仕えしておりましたころにこのけちん坊めが、ちびちび残して、年とって老骨が御奉公にたえなくなったときの生活費に貯えておいたのでございます。さあこれをお取りください。この老人は、昔あのからすをお養いになった神様がお慰めくださるですよ! ここに金貨がございます、これを全部さしあげます、私をあなたの召使になすってくださいまし、私は老人に見えても、あなたの身のまわりのお世話やいろいろと御用を務める段になれば若い者にまけません」といいました。
「ああ、親切な老人だね! お前は父上の時代の奉公人たちの忠義ぶりの好い実例を示している! お前は当世風ではないんだね! いっしょに行こうとも、そしてお前の若いときの貯金をつかいはたさないうちに、私はふたりの生活をささえる手段を見つけるよ」とオーランドはいいました。
そこでこの忠義な奉公人と、彼の愛している主人とはいっしょに出発しました。オーランドとアダムはどの道を進むかはっきりきめもせずに旅をしているうちにアルデンの森へ来てしまいました。そしてガニミデとエリイナと同様に彼らも食糧欠乏という苦労にあいました。ふたりは人家をさがしてさまよい歩いているうちに飢えと疲労で弱り果ててしまいました。アダムはついに、
「おお、御主人様、私は空腹で死にそうです、もうこれより先へはいかれません!」といってそこを自分の墓場にするつもりで、身を横たえ、愛する主人に別れを告げました。
オーランドは老人の弱りはてた様子を見て、彼を抱きあげて気持のいい木陰へ連れていき、
「元気をお出しよ、アダム、ここでしばらく手足を休めておいで、そして死ぬなんていうことをいってはいけない!」といいました。
オーランドは何か食物を見つけようとその辺をさがしまわっているうちに、偶然にも森のなかの大公の住んでいるところへ到着しました。大公は友人たちとともに、天がいならぬ大木の茂みを屋根にした草原にすわって食事を始めようとしているところでした。
空腹のために破れかぶれになったオーランドは、腕力で食物を奪うつもりで剣を抜き、
「控えろ! 食べることはならぬ、その食物はこっちへよこせ!」といいました。
大公は苦痛が彼をそんなに大胆にしたのか、それとも、作法を無視する乱暴者なのかと尋ねました。それに対してオーランドは自分は餓死しそうなのだといいました。すると大公は彼を歓迎するからそこへすわって皆とともに食事をするようにといいました。オーランドはそんなふうに穏やかに話しかけられるのを聞いて剣をおさめ、自分が食物を要求した無礼な態度を恥じて、赤面しました。そして、
「どうぞおゆるし下さい。私はこの森のなかでは何事も野蛮なのだと思い込んでいたものですから、大変な剣幕であなたに対したのでした。こんな人里はなれた陰気な木陰で時間をむなしく浪費しておられるあなた方は、どういう方か知りませんが、もし以前にはよい暮しをしていらしたことがおありなら、あるいは教会の鐘の音が聞える都会に住んでいらしたことがおありなら、そして目から涙をぬぐったことがあり、他人をあわれむことや、他人にあわれまれることがどういうものか知っておいでなら、礼儀正しい言葉があなた方の心を動かし、私を親切にお扱いくださることと思います」といいました。
「実際に私たちは(君のいうように)以前はいい暮しをしていたことがある。今はこうしてこんな荒れはてた森に住んでいるが、都会に住んで教会で打ち鳴らされる鐘をきいたし、立派な食卓についたこともあるし、あわれみの情からあふれてきた涙を目からぬぐったこともある。だから君もここにすわって君の必要を満たすだけいくらでも、私たちの食物を食べるがいい」と大公は答えました。
「かわいそうな老人がいるのです。ただ私に対する愛情だけで、ものうい道中を私についてきたのですが、老年と飢えという二つのかなしむべき弱点のために、すっかり元気を失ってしまいました。その老人の空腹が満たされるまでは、私はこの食物に触れることはできません」とオーランドはいいました。
「いってその老人を捜し出してここへ連れてくるがいい、それまで私たちは食べずに待っている」と大公はいいました。
そこでオーランドは食物を与えるために子鹿《こじか》を捜しにいく母鹿のように走り去りました。そしてまもなく老人を抱いてもどってきました。
「君の尊い重荷をそこへおろしたまえ、君たちふたりとも歓迎する」と大公はいいました。
そして人々は老人に食物を与え、慰めて気を引きたてました。それで老人は元気づき、健康と体力を回復しました。
大公はオーランドが誰であるかを尋ねました。そして彼が旧友ボイズのロランド卿の息子だと知ると、彼を保護下に引き取りましたので、オーランドと老いた召使とは森の中で大公とともに暮すことになりました。
オーランドが森に着いたのは、ガニミデとエリイナが森へ来て(前述のとおり)羊飼の小屋を買ってから日もまだあさいころでした。
ガニミデとエリイナは森の木にロザリンドの名やロザリンドに捧げる恋愛詞が彫りつけてあるのを見つけて不思議がって驚きました。一体どうしたことだろうとふたりで怪しんでいるうちに、オーランドに出会いました。そして彼が首にロザリンドが与えた金鎖をかけているのを見ました。
オーランドはガニミデが美しいロザリンド姫とは少しも知りませんでした。彼はその姫の上品なうちとけた態度や親切に心を奪われてしまい、暇さえあれば木に姫の名を刻んだり、姫の美しさをたたえる詞《ことば》を書いたりしていたのでした。しかし彼は美しい羊飼の青年の優雅な様子が気にいって、彼と言葉を交えました。そして彼はガニミデが愛するロザリンドに似ているが、彼はあの高貴な姫のように威厳のある態度はもっていないと思いました。それもそのはずです、ガニミデはおとなと少年のあいだの青年によく見られる無遠慮な態度を装うていたのでした。そして、こざかしくユーモアたっぷりに、ある恋人の話をオーランドに話しました。
「その男ときたら森の中を荒しまわって、木の皮にロザリンドなんて彫って、若木をみんな台なしにしてしまうんだ。そしてさんざしの木に彼女をたたえる詞を書いてさげたり、彼女を思い出して書いた悲歌をいばらの枝にかけたり、そのロザリンドをほめちぎる詞を彫ったりしてさ。もしその恋人を見つけたら、私は彼の恋わずらいを治療するすてきな方法を教えてやるんだがね」とガニミデ青年はいうのでした。
オーランドは自分がその愛におぼれた恋人だと白状し、ガニミデのいったすてきな方法というのを教えてくれといいました。ガニミデが提供した治療とその方法というのは、オーランドに毎日彼と妹のエリイナの住んでいる小屋へ来るようにということで、
「そうすれば、私がロザリンドになったつもりになり、君は私をロザリンドにして、ロザリンドに対すると同じように求愛するまねをするのさ。私は気まぐれな令嬢たちが恋人に対するようにいろいろと取りとめもない真似をして、しまいに君が自分の恋をはずかしく思うようにしてやるよ、これが君にすすめる私の治療法さ」とガニミデはいいました。
オーランドはその療法には大して信頼はしませんでしたが、それでも毎日ガニミデの小屋へいって戯れの求愛ごっこをしようと約束しました。そして毎日オーランドはガニミデとエリイナを訪問して、彼は羊飼のガニミデを、わがロザリンドと呼んで、若者たちが愛人に求婚するときに好んで使うような甘いことばやうれしがらせのお世辞をくりかえして語るのでした。しかしガニミデの試みたオーランドのロザリンドに対する恋のやまいの治療は、一向にはかどらないような様子でした。
オーランドはそれがすべて、おどけた遊戯にすぎないと思いながらも(ガニミデが自分の恋しているロザリンドその人とは夢にも知らず)自分の心にあるだけの他愛もないことを言葉にしていうこの機会は彼の心をよろこばせるのでした。そしてそれと同様に彼の美しい愛の言葉がすべて正当な本人に語られているのを知って、ひそかにこのいたずらを楽しんでいるガニミデをもよろこばしていたのでした。
そんなふうにして若い人たちのうえに、日々が楽しく過ぎていきました。善良な性質のエリイナは、それがガニミデを幸福にしているのを見て、好きなようにさせておき、そのまねごとの求愛をおもしろがっていました。そして大公が森のどこにいるかをオーランドに教えてもらったのに、まだロザリンド姫の存在を父、大公に知らせていないことを、ガニミデに注意しようともしないでいました。ある日ガニミデは大公にも会い少し話をしました。それで大公は彼がどういう家柄の出か尋ねました。するとガニミデはあなたと同じぐらいりっぱな家柄の出だと答えたので、大公はよもやこの美しい羊飼の少年が高貴な素姓とは思わなかったので微笑しました。大公が元気で幸福そうなのを見て、ガニミデはそれ以上の説明は、五六日のばすことにしました。
ある朝ガニミデを訪問にいく途中で、オーランドは一人の男が地面に寝ていて、その首に緑色のへびがからみついているのを見かけました。へびはオーランドが近づくのを見て、やぶの中へすべり込んでしまいました、オーランドが更に近づくと、雌ライオンがうずくまって頭を地面において、眠っている男が目をさますのを、ねこのように見張っているのでした。(ライオンは死んだものや眠っているものは食べないといわれています。)オーランドはまるでその男をへびとライオンの危険から救うために神につかわされたようなものでした。しかしオーランドはその男の顔を見て、この二重の危険にさらされて眠っている男が、自分を虐待し、自分を焼き殺そうと脅かした兄のオリバーであることを知りました。それで彼は兄が飢えたライオンのえじきになるにまかせて置こうという誘惑を感じました。けれども兄弟愛と性来の温順さが、じきに兄に対する怒りにうち勝ってしまいました。それで彼は剣をぬいてライオンに襲いかかり切り殺してしまいました。そして兄の命を毒へびからも恐ろしいライオンからも救いましたが、オーランドはライオンを退治る前にその鋭いつめで片方の腕を引き裂かれました。
オーランドがライオンと格闘しているあいだにオリバーは目をさまし、自分があんなに虐待した弟のオーランドが命がけで自分を猛獣の怒りから救ってくれていたのに気がついて、その場で恥辱と後悔にとりつかれ自分の不実な行いを悔い改め、弟に与えた危害に対して涙を流してゆるしをこいました。オーランドは兄がそんなに後悔しているのを見て喜び、すぐにゆるしました。兄弟は抱き合いました。オリバーは弟を殺す気で森へ来たのでしたが、そのときから真実の兄らしい気持でオーランドを愛するようになりました。
オーランドは腕の傷があまり出血するので、すっかり弱ってしまってガニミデを訪問しにいけなくなったので、兄にガニミデのところへ行って自分が遭難したことを告げるように頼み、
「その青年のことを、私は冗談にわがロザリンドと呼んでいるのです」といいました。
オリバーはそこへ行ってガニミデとエリイナに、オーランドがどんなふうにして自分の命を救ってくれたかを語りました。そしてオーランドの武勇伝と自分が神意によって危難をのがれた話をしたあとで、自分はオーランドを虐待した兄であることをふたりにうちあけ、それからふたりが仲直りしたことも語りました。
オリバーが自分の罪に対して表わした純真な悲嘆はエリイナのやさしい心に強い印象を与えたので、彼女はその場で彼を恋してしまいました。それからオリバーの方でも、自分の過失に対して自分が感じている悲しみを語ったときに、彼女がどんなに同情していてくれるかを知ると、やっぱり直ちに彼女に恋してしまったのでした。しかし恋がそのようにエリイナとオリバーの心に忍び込んできているあいだ、オリバーはガニミデをうちすてておいたわけではありませんでした。ガニミデはオーランドが身をさらした危険やライオンに傷を負わされたことを聞いて気絶してしまいました。彼は回復すると、ロザリンドという空想の人物の性格を表わすために淑女らしく気絶するまねをしたふりをして、
「私がどんなに巧みに気絶のまねをしたか弟に話してくれたまえ」とガニミデはオリバーにいいました。
けれどもオリバーは相手の真青な顔色を見てほんとうに気絶したことを見ぬき、若い男のくせにどうしてそんなに気が弱いのだろうと怪しみ、
「君が気絶のまねをしたというのなら、元気を出してもっと男らしくしたまえ」といいました。
「そうするとも、だが私は正当に女であることになっているんだからね」とガニミデは答えました。
オリバーはこの訪問を非常にながくしましたが、それでもついに弟のところへ帰ると、語るべきニュースをたくさんもっていました。ガニミデがオーランドの負傷をきいて気絶したときのことのほかに、オリバーは自分が美しい羊飼娘エリイナと恋におちたことや、初めて会ったにもかかわらず彼女が彼の求愛にこころよく耳をかしたことなどを話しました。そして彼は弟に何もかもすっかりきまったかのように、自分はエリイナを非常に愛しているから結婚し、羊飼になってこの森に住むことにし、郷里の領地も家もオーランドに譲り渡すといいました。
「私は賛成です。結婚式を明日《あす》におしなさい、私は大公とその友人たちを招待します。兄《にい》さんは羊飼娘のところへいってこれに同意するようにおすすめなさい、彼女は今ひとりきりでいますよ。ごらんなさい、あそこへあの人の兄がやってきました」とオーランドはいいました。
オリバーはエリイナのところへ行きました。オーランドが近づいて来るのを見たガニミデは、負傷した友人の健康を心配して見舞いに来たのです。
オーランドとガニミデがオリバーとエリイナのあいだに突然に起った恋愛について話し始めたとき、オーランドは兄に美しい羊飼娘と明日結婚するようにすすめにいけと忠告したといい、そのあとで、自分も同じ日にロザリンドと結婚することをどんなに望んでいるかしれないと、つけ加えました。
ガニミデはその取りきめに喜んで賛成し、もしオーランドが口でいったように、ほんとうにロザリンドを愛しているならその望みが遂げられるだろうといいました。ガニミデは明日ロザリンドが姿を現わすように手配するし、それからロザリンドもオーランドと結婚する意志があるともいいました。
この見たところ不思議なことも、ガニミデがロザリンド姫なのでわけなく演出することができるのでしたが、彼は有名な魔術師だった叔父《おじ》から習った魔法の助けをかりて実現させるのだというふうに装っていました。
情に甘い恋人オーランドは半信半疑で、ガニミデが本気でいっているのかどうか尋ねました。
「命にかけてほんとうだとも。だから君は、一番いい服を着て大公や友人たちを君の結婚式に招きたまえ。もし君が明日ロザリンドと結婚したいと望めば、彼女はその席に現われるんだからね」とガニミデはいいました。
翌朝、オリバーはエリイナの承諾を得たのでふたりで大公の御前に出ました。そしてオーランドもいっしょに行ったのでした。
人々はこの二つの結婚を祝うために集ったのに、まだ花嫁のひとりが現われないので、不思議がったり臆測をしたりしていましたが、皆はガニミデがオーランドをからかったのだろうと考える向きが多かったのでした。
大公はこの奇妙な方法で連れ出されるのが自分の娘だと聞いて、オーランドに羊飼の少年が約束したようなことをほんとうにできると信じているのかと尋ねました。それでオーランドが、どう考えていいか自分にはわからないといっているところへ、ガニミデがはいってきて、大公にもし自分が姫を連れてきたら、姫とオーランドとの結婚を承認するかどうか尋ねました。
「たとえ私が姫とともに与える王国をもっているとしても、承知する」と大公はいいました。
ガニミデは今度はオーランドに、
「もし私が姫を連れてきたら、結婚しますね」といいました。
「たとえ私がいくつもの王国をもつ王であろうとも結婚する」とオーランドはいいました。
ガニミデとエリイナはいっしょに出ていきました。そしてガニミデは女の衣装を身につけていたので男装をぬぎすてて、魔術の力なしに、たちまちロザリンド姫になりました。エリイナも村娘の服装を、自分のりっぱな衣装に着かえたので、わけなくシーリア姫に変ってしまいました。
ふたりが去ったあとで、大公はオーランドに羊飼ガニミデが娘のロザリンドに大変よく似ているといいました。で、オーランドも、似ているのに気がついていたといいました。
だがふたりはそれがどういうわけだろうと怪しむまがありませんでした。というのは、ロザリンドとシーリアが自分たちの服装をしてはいってきたのでした。そしてロザリンドはもはや魔法の力だなどといっていないで、父の前にひざまずいて、祝福を願いました。
姫がそんなに不意に現われたことは列席の人々にとってじつに不思議に思われたので、魔法だといってもとおったかもしれませんが、ロザリンドは父に冗談などいうようなことはしませんでした。彼女は追放されたことや、森のなかに羊飼として暮し、従妹《いとこ》のシーリアを妹として過して来たことを物語りました。
大公はすでに与えた結婚承認に調印しました。それでオーランドとロザリンド、それからオリバーとシーリアは同時に結婚式をあげました。
未開の森のなかのことで、こうしたばあいに普通あるようなりっぱな行列や壮麗さはありませんでしたが、これ以上に楽しい結婚式はあり得なかったでしょう。美しい樹下の涼しい陰で一同が食事をしているところへ、まるでこの親切な大公と純真な恋人たちの幸福を、完全なものにするためには何一つ欠けてはならないというように、思いがけない使者が到着して、大公の手に公国がもどったという喜ばしい知らせを告げるのでした。
横領者は娘のシーリアの逃亡に激怒し、毎日のように重臣たちが、追放されている正当な君主に仕えるためにアルデンの森へいってしまうことを聞いて、逆境にある兄がそんなに尊敬されているのをうらやみ、大軍を率いて、兄を捕えその忠臣たちもともに切り殺してしまうつもりで、森へ進撃してきました。しかし神の不思議な摂理により悪い弟は、邪悪な目的を捨てて悔い改めたのでした。ちょうど彼が森の境へ来たときに年老いた信心深い一隠者に出会い、ふたりで話し合っているうちに、彼は心を邪悪な計画から完全にそむけてしまいました。それ以来彼は誠の悔恨者となり、不当な領土をすてて余生を僧院でおくる決心をしたのです。この新しく心に抱いた後悔の第一の行いは使者を兄のもとへ送って(前述のとおり)自分が長いあいだ横領していた公国を兄の手に、そしてその友人たちの領地も年収もともに彼の逆境時代の忠臣たちに返すことを申し出たことでした。
思いがけないとともに歓迎すべきこの喜ばしい報知は、偶然にも姫たちの婚礼祝いと喜びを頂天に達しさせに来たのでした。シーリアはロザリンドの父なる大公に起ったこの幸運を従姉のためによろこび、自分の父の行なったこの返還により自分はもはや公国の相続者でなくなり、ロザリンドが相続者になったにもかかわらず、心からロザリンドの幸福を祈るのでした。何しろこのふたりの従姉妹たちの愛はしっと心やうらやましい気持など何も交えない完全なものだったのです。
大公は今こそ、自分の追放時代にいっしょに暮してくれた真実の友人たちに報いる機会を得ました。そして大公の悲運を忍耐づよく分け合ったりっぱな家臣たちは、平和に幸福になって、正当な大公のいる宮殿へ帰ることを非常に喜びました。
[#改ページ]
ベロナの二紳士
ベロナにふたりの青年紳士が住んでいました。その名はバランタインとプロチウスで、両人のあいだには、ながいあいだ絶えまない堅い友情が存在していました。ふたりはいっしょに勉強をし、暇な時間は、プロチウスが恋している婦人を訪問するとき以外は、いつもお互を相手に過すのでした。それでこの恋人訪問と、その美しいジュリアに対するプロチウスの恋愛だけが、ふたりの友人のあいだで一致点を見いだすことのできない話題でした。なぜかというと、バランタインは自分が恋する身でないところから、友人がいつもいつもジュリアのことばかり語るのを聞いているのが、時にはあきあきしてしまいます。すると彼はプロチウスを笑ったり、恋に対する情熱をおもしろおかしくからかったりして、自分は決してそんな無益な空想なんか頭に入れないだろうと宣言し、恋人プロチウスのように不安な望みや恐れの日々をすごすよりも、自由で幸福な生活(と彼はいいました)の方が大いにいいというのでした。
ある朝バランタインがプロチウスのところへ来て、自分はミランへ行くので、しばらくのあいだ別れなければならないと告げました。プロチウスは友人と離れるのがいやで、バランタインが自分を残していってしまわないようにいろいろと理屈をこねました。
「プロチウス君、そうときつけるのはよしたまえ。私はなまけ者みたいに、青年時代を家庭でのらくら浪費しないつもりなんだからね。自分の家にばかり引込んでいると、井のなかのかえるになってしまう。もし君の愛情が君の尊敬しているジュリア嬢の美しいもの言う目に鎖でつながれているのでなかったら、私は外国の珍しい風物を見に、無理にも君を同行させるようにすすめるんだがね。だが君は恋をしている身で、これからもその恋をつづけることだろうから、君の恋の成功を祈るよ」とバランタインはいいました。
ふたりは変りなき友情を言外にこめて別れを告げました。
「なつかしいバランタイン君、さよなら! 旅行中に心をとめる価値のあるような珍しいものを見たときには私を思い出して、君の幸福を私にもわかちたいと考えてくれたまえね」とプロチウスはいいました。
バランタインはその日のうちにミランにむかって旅だちました。友人が去ってしまうと、プロチウスはすわってジュリアに手紙を書き、それを彼女の小間使ルセッタに渡して女主人に届けてもらいました。
ジュリアはプロチウスが彼女を愛していると同様に彼を愛していました。けれども彼女はつつしみ深い性格の淑女だったので、あまり無造作に心をまかせてしまうのは処女の威厳にかかわると考えていました。それで彼女は相手の愛情に気がつかないふりをしていたので、彼は求婚を実行するのに大いに不安を感じさせられていました。
で、ルセッタがその手紙を渡そうとするとジュリアはそれを受け取らないで、小間使がプロチウスから手紙などをことずかって来たことをしかりつけ、すぐに室を出ていくように命じました。しかし彼女はその手紙に何が書いてあるか見たくてたまらなかったので、すぐに小間使をよんで、
「今、何時なの?」と尋ねました。
ルセッタは女主人が時間なんか知るよりも、手紙を見たがっているのだということを見ぬいていましたから、その質問には答えないで、前に拒まれた手紙を再びさし出しました。ジュリアは小間使がせん越にも自分の真実に欲しているところを知っていたのを怒ってその手紙をずた〓〓に裂いて床に投げすて、再び小間使に出ていくように命じました。ルセッタは出ていきしなに裂いた手紙の断片を拾おうとしました。けれどもジュリアはその手紙を手ばなす気はなかったので、怒ったふうを装い、
「紙きれなんか放っておいて、さっさと出ておいで! お前は私を怒らせようと思って、わざとそんなものを、いじくりまわしているのね!」といいました。
そのあとでジュリアは裂いた手紙の断片を丹念につぎ合せ始めました。彼女はまず「恋に傷つけるプロチウス」という言葉をつづりました。そしてあれやこれやと同じような愛の言葉をつぎ合せては嘆き、ばら〓〓になった、あるいは傷つける(恋に傷つけるプロチウスという表現から思いついて)それらの優しい言葉にむかって、その傷がいえるまで寝床につかせるように自分の胸に宿らせておくと語り、幾枚かの断片に償いとしてせっぷんをしました。
ジュリアはそんなふうにかわいい女性らしい子供っぽさで、ひとりごとをつづけていましたが、手紙全体をつぎ合せることができないのを発見して、そんなに美しく優しい言葉(彼女はそう呼びました)を台なしにした自分の無情を苦しみ嘆き、今までにない親切な手紙をプロチウスに書きました。
プロチウスは自分の手紙に対して有望な返事をもらい、非常に喜び、それを読みながら、
「うれしき恋よ、うれしきおとずれよ、うれしき人生よ!」と叫ぶのでした。そうして有頂天になっている最中を彼は父に妨げられました。
「さて、さて、お前はどんな手紙を読んでいるところだね」と老紳士は尋ねました。
「父上、これはミランにいっている友人バランタインからきた手紙です」とプロチウスはいいました。
「その手紙を貸してごらん、どんなニュースがあるか読ませておくれ」と父はいいました。
プロチウスはひどく驚いていいました。
「何もニュースはないのです、父上。ただ彼がミランの大公にどんなに愛されて、毎日のようにいろいろと厚遇を受けていることや、私がその幸運をともに受ける仲間であることをどんなに希望しているかということを書いてよこしたのです」
「で、お前は友人の希望に対してどんなふうに感じているのかね」
「私は父上の御意志を信頼する者で、友人の希望には左右されません」とプロチウスは答えました。
ところで、プロチウスの父は今しがた友人と、その問題について語り合っていたところだったのでした。その友人は、世間ではたいていの人が男の子を国外へ送って出世の道を求めさせるのに、どうして閣下は御子息に青年時代をむなしく家庭で過させているのか、不思議がり、
「ある者は幸運を求めに戦争に行き、ある者は遠くの島を発見しに行き、ある者は外国の大学で勉強しに行きます。ミラン朝廷の大公のもとへあなたの御子息の仲間のバランタインが行っているではありませんか。御子息はそのどれにだって適しておいでになる。若いときに旅行しておかないのは晩年に非常な不利となりましょう」というのでした。
プロチウスの父は友人の忠告を大変にいいと考えていたのでプロチウスから、バランタインが、「彼がその幸運をともに受ける仲間であることを希望している」と語ると、その場でむすこをミランへおくる決心をしてしまいました。
この強制的な老紳士はむすこに何でも命令するのがいつもの習慣なので、この突然の決断についてプロチウスに何の理由も与えなければ、理由の有無を問わせもせずに、いきなり「私の意見もバランタインと同様だ」といいました。そしてむすこがあっけにとられているのを見ると、
「お前をミラン朝廷の大公のもとで、しばらく過させるように私が突然きめたからといって、何も驚くことはない。私がそうするときめたことはそうするんだから、もうそれでおしまいさ。明日行く準備をしなさい。抗弁は無用だ。絶対的で異議をゆるさないんだから」とつけ加えました。
父はむすこに自分の意志などを述べさせたことのない人だったので、プロチウスは抗議したって役にたたないと知っていました。彼はジュリアの手紙について偽りを父に語ったばかりにジュリアと離れなければならない悲しい羽目になったので、後悔していました。
さて、ジュリアはながいあいだプロチウスを失わなければならないことを知ると、もはや無関心を装うてはいられなくなりました。それでふたりは互に変らない愛を幾度も誓いあって、互に悲しい別れを告げました。プロチウスとジュリアは指輪を交換し互に形見として永久に持っている約束をしました。そんなふうに悲しい別れをしてプロチウスは、ミランにいる友人バランタインの住居へと旅だちました。
バランタインはプロチウスが父に作り話をしたとおり、実際にミランの大公の愛好をこうむっていました。それに彼にはプロチウスが夢想だにしなかった事件が起きていました。というのはバランタインはあんなに誇っていた自由をすてて、プロチウスのように熱烈な恋人になったのでした。
バランタインにそのすばらしい変化をもたらせたのは、ミラン大公の娘、シルビア姫でした。そして彼女も彼を愛していました。しかし大公はバランタインに大そう好意を示し毎日彼を宮廷に招待しましたが、姫をスリオという若い朝臣と結婚させようと計画していたので、ふたりの恋愛は大公に秘密にしていました。シルビア姫はスリオがバランタインのような優れた性格やりっぱな思想をもっていなかったので、軽べつしていました。
この二人の競争者スリオとバランタインが、ある日シルビア姫を訪問し、バランタインがスリオのいうことを片端から茶化して姫をおもしろがらせているところへ、大公自身がはいってきて、彼の友人プロチウスが到着したという喜ばしいニュースをバランタインに告げました。
「もし私が何か望むのだったら、彼にここで会うことでした」とバランタインはいいました。そしてプロチウスを非常に賞賛し、大公に、
「閣下、私は自分の時間をむだに費しましたが、彼は日々をじつに有利に用いました、そして、人品といい心柄といい欠けるところなく、紳士としてあらゆる美徳を備えています」といいました。
「では彼の価値に相応した歓迎をするようにシルビアにいう、それからスリオ君にも。バランタインにはそんなことをいい含める必要はないね」と大公がいいました。
プロチウスがそこへはいって来たので、一同の話は中断されました。そしてバランタインは、彼をシルビアに紹介して、
「優しい姫よ、彼をあなたに仕えるこの召使の仲間として、御歓待ねがいます」といいました。
バランタインとプロチウスがその訪問を終って、ふたりだけになったときに、バランタインは
「郷里では皆どうしているか話してくれたまえ、君の麗人はどうしているね? 君の恋愛はどんなふうに進行しているね?」と尋ねました。
「私の恋物語はいつも君をあきさせていたっけね、恋愛論なんか君を喜ばさないのを私は知っているよ」とプロチウスは答えました。
「プロチウス君、今は私の人生も変ったよ。私は恋愛を非難した罪ほろぼしをしているところなのさ、恋愛を侮った報いで恋愛が私の心を奪って目から睡眠を追い出してしまったのだ。心やさしいプロチウス君、恋愛は偉大な君主だね、彼は、私が世のなかに彼の懲らしめほど苦痛なものはなく、彼に仕えることほどの喜びはないことを告白するほどに、私の心を謙譲にしてしまった、私は今や恋愛以外には何の話題も好まない。今の私は愛人の名だけで朝、昼、晩の食事をしたり眠ったりして暮すことができる」とバランタインはいいました。
恋愛がバランタインの性格に及ぼしたこの変化の承認は、彼の友人プロチウスにとって非常な喜びでした。しかしプロチウスは、もはや友人と呼ばれるわけにはいかなくなりました。というのは、ふたりが語り合っていたその同じ強力な恋の神は(その神がバランタインに及ぼした変化について語っていた最中すでに)プロチウスの心に働きかけていたのでした。それでこのときまで真の恋と完全な友情の模範であったプロチウスは、シルビアとの短い会見をしているあいだに偽りの友、不実な恋人になってしまったのでした。つまりシルビアを一目見たとたんに、ジュリアに対する彼の恋は夢のように消え去ってしまい、バランタインに対するながい友情も、シルビアの愛情の対象を押しのけて自分がとって替ろうとする強い欲求を思い止まらせることはできませんでした。性来善良な性格の人が不正な人間になるばあいには普通のことですが、彼はジュリアを棄てて、バランタインの恋がたきになる決心をするまでにさんざんためらいました。それにもかかわらず彼はついに道義心を負かして、ほとんど何の悔いもなく、新しい不幸な熱情に自分自身をなびかしてしまいました。
バランタインは自分の恋愛のいきさつの全部を、秘密としてプロチウスにうち明け、どんなに注意深く彼女の父大公にかくしているかということや、とうてい大公の承諾を得られる望みがないので、シルビアにその夜父の宮殿を脱出して自分とともにマンチュアへ行くように説得したことなどを話しました。そしてプロチウスになわばしごを示し、暗くなったら、そのはしごを使って宮殿の窓からシルビアをたすけ出すつもりだといいました。
友人の大切な秘密の誠実なうち明け話を聞いたプロチウスは(そんなことはとうてい信じられないことでしたがそうだったのです)大公のところへ行って、すべての秘密を暴露する決心をしたのでした。
この偽りの友は、巧妙な話術で大公に自分の話を語り始めました。彼はこれから自分の語ることは友情の道義からいえば隠しておくべきだけれども、大公が自分に示された好意に対してどうしても話さなければいられなくなったので、さもなかったらどんな好条件を出されても決して自分からこの秘密を聞き出すことはできないのだといい、バランタインのうち明けたことを全部、なわばしごのことも、バランタインがそれを長いマントの下にひそめていくつもりだということまであまさずに話してしまいました。
大公はプロチウスを全く高潔の驚異だと思いました。彼が不正な行いを隠すよりもむしろ友人の目的を告げるほうを選ぶとはじつに見あげたものだと、大公は彼を賞揚し、バランタインには、どこからその情報を得たかを知らせずに、何か策略でバランタイン自身の口から秘密をもらさせると約束しました。大公はそうした目的をもって、夕方バランタインが来るのを待ちかまえていました。するとまもなく彼が宮殿の方へ急いで来るのを見かけました。彼が何かマントのなかにくるんでいるのに気がついたので、大公はきっとなわばしごだろうと察しました。
で大公は彼を呼びとめました。
「バランタイン、そんなに急いでどこへ行く」
「閣下、友人のところへ私の手紙を届ける使者が待っておりますので、これからその手紙を渡しにいくところでございます」とバランタインはいいました。
さて、このバランタインの偽りは、プロチウスが父に告げたうそ同様にこのばあいに成功しませんでした。
「その手紙は非常に重要なものかね?」
「いいえ、閣下、私が閣下の朝廷で元気よく、幸福にしているということを父に告げるだけのものでございます」とバランタインはいいました。
「それでは大したことではないのだね。しばらく私とここにいないか。私は自分の身近にかかわるある事件について君の助言をききたいのだ」と大公は、バランタインの秘密をひき出す前置きとして巧妙な話をもち出しました。彼は自分が姫をスリオと結婚させる希望であることをバランタインも知ってのとおりだが、姫は強情でその命令に従わないといい、
「娘は自分が私の子供だということを考えもしなければ、私を父として恐れもしない。それでだね、君にいうが、この娘の自尊心が私の愛を娘から引きあげてしまったのだ。私はこの老年を娘の孝行でいつくしんでもらえるものとばかり思っておったのに! それで私は妻を迎え、あの娘はだれでも欲しい者にくれてやる決心をした、娘は私の財産も眼中においていないようだから、あの美しい顔だけを持参金にさせるさ」というのでした。
バランタインは一体この話の終局はどこにあるだろうと怪しみながら、
「閣下はこの件について、私に何をしろと仰せなのですか」と尋ねました。
「じつはね私が結婚したいと思っている貴婦人はなかなか気むずかしくて引込み思案で、私のような老人の弁舌などをあまり尊重しないんだよ。それに求婚のしかたも、私の若いころとは大分ちがっている。それで私はどんなふうに求婚したらいいか君に先生になって教えてもらいたいのだ」
バランタインは、当時の若い人たちが、美しい人の愛をかちえようとするばあいに、贈り物をするとか、たびたび訪問するとか、そのほか、求婚のしかたについての一般の知識を授けました。
それに対して大公は、その婦人は自分のおくった贈り物を拒絶したし、それに父親が厳重に見張っているので昼間は男など近づくことはできないと答えました。
「それでは、夜中に訪問なさるのですね」とバランタインはいいました。
巧妙な大公は自分の談話の本筋に近づいてきて、
「だが夜は彼女の戸口にはかたく錠がおりているのだ」といいました。
するとバランタインは不運にも、大公に夜中に、なわばしごを用いて婦人の室へはいるように勧め、その目的にちょうどいいなわばしごを自分が手に入れてあげようといってしまいました。そして最後に、そのなわばしごを、自分が今着ているようなマントの下にかくしていくように忠告しました。
大公は彼のマントを脱がせる口実をつくるためにそんな作り話をながながとしていたのでしたから、
「君のそのマントを貸してもらおう」といっていきなりバランタインのマントをつかんで、うしろへはねのけたので、なわばしごばかりでなくシルビア姫の手紙まで発見して、すぐにそれを読んでしまいました。その手紙にはふたりの計画した駆落ちの手段がくわしく書いてありました。
大公は自分の示した好意に報いるのに自分の娘を盗もうとたくらむような忘恩を責めたのち、バランタインを永久に朝廷からもミラン市からも追放してしまいました。それでバランタインはその晩のうちにシルビアに会うこともできずに出発を余儀なくさせられました。
プロチウスがこうしてミランでバランタインを傷つけているとき、ベロナではジュリアがプロチウスの不在を嘆いていました。彼女の彼に対する思いはついに節度を越えるまでに高まり、ベロナを出発してミランへ恋人に会いにいく決心をさせるにいたりました。ジュリアは途中の危険から身を守るために、自分も小間使のルセッタにも男の服をつけ、男に変装して出発し、バランタインがプロチウスの裏切りでその市から追放されてまもなく、ミランに到着しました。
ジュリアはミラン市へ昼ごろに着いて宿屋に投宿しました。で、彼女の考えは愛するプロチウスのことでいっぱいだったので、何かプロチウスの消息を知ることができるかも知れないと思って、宿屋の経営者、あるいは(彼女の呼んだように)主人と世間ばなしを始めました。
主人はこの立派な紳士(彼は彼女をそう思ったので)が服装から察して身分ある人と思われるのに、そんなに親しく自分に言葉をかけてくれたことをひどく喜びました。彼は善良な性質の男だったので、若紳士が大そう憂うつに見えるのを気の毒がりました。それでこの若いお客をなぐさめるために、美しい音楽を聞きにつれていこうと申しいでました。そしてその音楽というのはある紳士がその晩、恋人の窓下で夜の調べを奏すのだといいました。
ジュリアがそんなに憂うつに見えた理由は、自分のとった不謹慎な処置をプロチウスがどう思うだろうと心配したからです。それはプロチウスが彼女のりっぱな処女の誇りと気品の高いところを愛していたのを知っていたから、彼の評価よりも自分を低くしたのではないかと恐れたためでした。そうしたことが彼女に悲しい思いに沈んだ表情を浮べさせたのでした。
彼女はいっしょにいって音楽を聞かせるという宿の主人の申し出を喜んで受けました。もしかしたら途中でプロチウスに会うかも知れないと、ひそかに望みをかけていたからです。
しかし彼女が主人に案内されて宮殿に着いたとき、主人が予期したとは全く異なった効果が現われました。というのは、彼女を心から悲しませたことには、彼女の恋人、あの不実なプロチウスがシルビア姫のために夜の調べを奏し、姫へのあこがれと愛を歌で話しかけているところを見いだしたからでした。それからジュリアは、シルビア姫が窓ごしにプロチウスに話すのをききました。姫はプロチウスが自分の真の愛人を見すてたことや、友人バランタインに対する彼の不実を責めて、彼の音楽やみごとな弁舌を聞こうともせずに窓を離れてしまいました。そのはずです、姫は追放されたバランタインに対して忠実な愛人でしたし、彼の偽りの友プロチウスの卑劣な仕業を憎んでいたのでした。
ジュリアは今しがた目撃したことで絶望していましたが、それでもなおこの不届きなプロチウスを愛していました。それで最近彼の召使が暇をとったことをきいて、親切な宿屋の主人の助力で、プロチウスに自分を小姓として雇わせるように仕組みました。プロチウスはそれがジュリアとは知らないで、彼女に、恋がたきであるシルビアへ手紙や贈り物をたびたび持っていかせました。そして彼はベロナでジュリアが別れを惜しんで贈ったあの指輪まで持っていかせたのでした。
ジュリアがその指輪を持っていったとき、シルビアが断然プロチウスの求婚を拒絶したのを見いだして、彼女は大喜びしました。今は小姓セバスチャンと呼ばれているジュリアはシルビアと、プロチウスの最初の恋人、見すてられたジュリア嬢について会話をすることになりました。彼女はジュリアを知っているといい、自分に対して親切な口添え(人はそういうでしょう)をし、自分が今語るジュリアその人であるかのように、彼女のことをよく知っているといって、どんなにジュリアが自分の主人プロチウスを深く愛していたか、そして彼が不親切に彼女をおろそかにしていることがどれほど彼女を悲しませているか知れないだろうと語りました。そして更に彼女はかわいらしい、あいまいな言葉づかいで、
「ジュリアは私くらいの身長で、顔色は私と同じで、目の色も髪の色も私と同じです」といいました。
男装をしたジュリアはじつにすばらしく美しい青年に見えました。シルビア姫は、愛人に悲しくも捨てられた美しい人に対する同情に心を打たれ、ジュリアがプロチウスに託された指輪をさし出すと、
「指輪を私にお贈りになるなんて、何て恥かしいことをなさる方なんでしょう。私いただきませんわ。やさしい青年よ、私はお気の毒なお嬢様に同情なさるあなたに好意をもちますわ、さあここにお金入れがあります、これはジュリア様のためにあなたにあげるのです」といって、指輪は受け取りませんでした。
親切な恋がたきの口から出たそれらの、慰めの言葉は、男装した麗人の沈んでいた心を元気づけました。
さて、追放されたバランタインに話をもどしますが、面目を失い追放の身で父の家へ帰る気になれない彼は、どの方向へ進んでいいのか見当がつきませんでした。それで心から深く愛しているシルビア姫を残してきたミランから、ほど遠からぬ寂しい森をさまよい歩いているうちに、盗賊の一団に襲われ、金銭を要求されました。
バランタインは盗賊たちに自分は不幸に遭遇した男で追放の身のうえだから、金銭は何も持っていない、着ている衣服だけが全財産だと告げました。
盗賊たちは彼が難儀している男だと聞き、彼のりっぱな様子や男らしい態度に感服したので、もし彼が自分たちとともに暮し、自分たちの首領、あるいは大将になれば、自分たちはその命令に従うし、さもなければ彼を殺してしまうといいました。
バランタインは、自分がどんなことになろうとかまわなかったので、女や貧しい旅行者を襲わないという条件で、首領となり彼らとともに暮すことを承諾しました。
かくしてりっぱなバランタインは、歌物語で私たちが読むロビン・フードみたいに、盗賊や法律の保護を奪われた人たちの首領になりました。で、そうした状態のもとに彼はシルビアに見いだされ、そんなふうにして事件が起ったのでした。
シルビアは父に迫られて、拒みきれなくなったので、スリオとの結婚を避けるために、ついにバランタインが避難したと聞いていたマンチュアへ彼のあとを追っていく決心をしました。しかしその件では彼女は誤った報道を受けていたのでした。彼はそのころまだ森のなかで首領という名目で盗賊の仲間になって暮していたのです。但し強奪行為には関係せず、一同が彼に与えた権限を行使して、彼らが自分たちの襲った旅人たちに慈悲を示すよりほかないように強要していたのでした。
シルビアは父の宮殿から脱出する目的を達するためにエグラムーアという名の尊敬すべき老紳士に、道中彼女の保護にあたるように同行してもらいました。彼女はバランタインと盗賊団の住んでいる森を通り抜けなければなりませんでした。それでその盗賊の一人がシルビアを捕え、エグラムーアも捕えようとしたのでしたが、彼は逃げてしまいました。
シルビアを捕えた盗賊は彼女が恐怖にかられているのを見て、首領の住んでいる岩穴へ連れていくだけだから驚くことはないし、首領はりっぱな心をもった人でいつも女には慈愛を示すのだから恐れることはないといいました。
しかし盗賊が姫を岩穴の首領のところへ連れていく途中で、プロチウスに押えられてしまいました。彼はシルビアの逃亡を聞いてあい変らず小姓に変装しているジュリアを供につれてこの森まで追跡して来たのでした。そこでプロチウスは姫を盗賊の手から救い出しました。けれども姫が彼のしてくれたことに対してろくに礼も述べないうちに、彼はもう求愛をして彼女を困らせ始めました。それで彼が不作法にも姫に結婚の承諾を強要しているそのあいだ、わきに立っていた小姓(見放されたジュリア)はプロチウスがシルビアのためにした大きな奉仕が彼に対する彼女の好意をかち得るのではないかと心配して、ひどく心を悩ましていましたが、そこへ突然にバランタインが姿を現わして一同を驚嘆させました。彼は盗賊のひとりが婦人を捕虜にしたと聞いて、慰めて放免するつもりで来たのでした。
シルビアに求婚しているところを友人に発見されたプロチウスは、非常に恥じて、直ちに後悔と自責の念にかられました。そして自分がバランタインに与えた損害の数々をひどく悲しんでいることを述べたので、高潔で寛大でロマンチックなほどの性格の持主であるバランタインは、単に彼の罪をゆるし以前の友情を再び彼に与えたばかりでなく、突然に英雄的な発作を起し、
「私は何のこだわりなく君をゆるすよ。そして私がシルビア姫に対して抱いていた関心はすべて君にゆずる」といいました。
小姓として主人のわきに控えていたジュリアは、この奇妙な申し出を聞き、この新たに発見された美徳に対してプロチウスがシルビアを拒むわけにはいかないだろうと心配のあまり、気絶してしまいました。それで人々は彼女を回復させるのに手をつくしました。その騒ぎがなかったら、シルビアはそんなふうに自分をプロチウスに引き渡されるなどということを憤慨したでしょう。もっとも彼女はバランタインがそんな無理な寛大すぎる友情行為をそうながくは持続できるとは考えていませんでした。ジュリアは気絶の発作から回復すると、
「私は御主人からこの指輪をシルビア様にさしあげるようにいいつかっていたのを忘れていました」といいました。
プロチウスはその指輪を見ると、自分が小姓に託してシルビアのところへ持っていかせたあのジュリアからもらった指輪のかわりに、自分がジュリアに与えたものであることに気がつきました。
「一体これはどうしたことだね? これはジュリアの指輪だ、おい少年、どうしてこれがお前の手に渡ったのだ」とプロチウスはいいました。
「ジュリア自身が私にくれました。ジュリア自身がそれをここへ持ってまいりました」とジュリアは答えました。
熱心に彼女を見つめていたプロチウスは今、小姓のセバスチャンがほかならぬジュリア嬢自身であることを知りました。ジュリアのかわらない誠実な愛のあかしは、彼女に対するプロチウスの愛を彼の心によみがえらせるほど彼を感動させました。そして彼は再び自分の愛人を取りもどし、シルビア姫へのすべての望みを喜んであきらめ、自分よりもずっと彼女に適しているバランタインにゆずってしまいました。
プロチウスとバランタインが互に忠実な愛人を得たことや仲直りした幸福を語り合っていましたが、その時シルビアを追いかけてきたミラン大公とスリオの姿にふたりは驚かされました。
スリオが先に近づいて、
「シルビアは私のものだ」といいながらシルビアを捕えようとしました。するとバランタインはえらい剣幕で、
「スリオ、さがり給え、もしもう一度シルビアを君のものだなんていったら、君は死神を抱くことになるからそう思え! 姫はここに立っている。ちょっと手をふれさえすれば姫を所有することができる! だが私はわが愛人に君の息もかけさせないぞ!」といいました。
その脅迫をきいて、ひどい臆病者のスリオは、うしろへとびさがって、自分は彼女なんか好きではない、自分を愛してもいない女の子のために戦うのはばかよりほかないといいました。
大公は自身が非常に勇ましい人なので、ひどく怒って、
「君のようなそういう態度をとり、そんなささいな条件で姫を捨てるとはじつに堕落した見さげ果てた男だ」といいました。それからバランタインにむかって、
「バランタイン、私は君の勇気を賞賛する。そして君は女帝の愛を受けるほどの価値があると思う。君は姫に優遇されるべき功労があるのだからシルビアを自分のものにするがいい」といいました。
するとバランタインは非常ないんぎんさで大公の手にせっぷんをし、大公が彼に与えた姫というりっぱな贈り物を、それにふさわしい感謝をこめて受けました。この喜びの好機をとらえて彼は、上機げんの大公に、森の中で共同生活をしていた盗賊たちの赦免を懇願し、改心し社会に復帰させられたなら、そのなかには重要な仕事に適した者が相当多く見いだされるだろうと保証しました。それは、大部分の者が、彼らに負わされているような極悪な犯罪者ではなく、バランタインのような国事犯人だったからです。それに対して大公は即座に承認を与えました。
今や何も残るところなく、すべてが処理されました。ただプロチウスが浮気《うわき》な過失の償いとして、大公の前で彼の恋愛と偽りの物語をつつまず述べさせられただけでした。彼の目ざめた良心が、その物語をするのをどんなに恥じていたかということが十分な罰だったと認められました。それがすんでから、恋人たちは四人そろってミランへ帰り、大公の臨席を得て、非常な歓喜と祝宴をもって結婚式をあげました。
[#改ページ]
ベニスの商人
ユダヤ人シャイロックは、ベニスに住んでいました。彼は高利貸で、キリスト者の商人たちに高利で金を貸して、巨万の富を積んでいました。シャイロックは冷酷な男で、貸金の支払いを厳しく迫るので、善良な人たちに大そう憎まれていましたが、特にベニスの若い商人アントニオに憎まれていました。シャイロックの方でも同様に、アントニオをきらっていました。というのは、彼はよく、困っている人に金を貸してやって、その貸金に対して決して利子をとったことがなかったからです。そんな訳で、この強欲なユダヤ人と、寛大な商人アントニオのあいだには、非常な敵意があったのです。アントニオはリアルトオ(取引所)でシャイロックに会うたびに、彼の高利貸業と因業な取引を非難するのが常でしたが、ユダヤ人は表面では辛抱してそれを忍びながら、心ひそかに報復をもくろんでいました。
アントニオは世にもまれな親切者で、非常に気立てがよく、他人に好意をつくすに飽くことを知らない精神の持主で、全くむかしのローマ人の高潔の徳を、イタリアに住むだれにもましてあらわしている人物でした。彼は市民たちすべてから深く愛されていましたが、彼の心に最も近く、最も親しくしていたのはベニスの貴族バッサニオでした。彼はわずかの財産しか相続しなかったので、わずかの財産を持つ若い貴公子にありがちのことですが、ささやかな資力にしては、ぜいたく過ぎる生活をしたので、ほとんどつかい果してしまっていました。それで、いつもバッサニオが金に困るとアントニオが助けていました。それはまるでふたりのあいだに、一つの心と一つの財布を持っているように思われました。
ある日、バッサニオはアントニオのところへ来て、彼が心から愛している富裕な婦人と結婚して、自分の財産を回復しようと望んでいること、その婦人の父は最近に死んでただひとりの相続人である彼女に莫大な資産をのこしたこと、その父親の在世中に、彼はよくそこの家を訪問したが、そのおり、彼女の目がときどき彼に対してまんざらいやな求婚者ではないという無言の伝言を送っていたように思ったことなどを語りました。そして、そういう富裕な女相続人の愛人にふさわしい服装をととのえるだけの金がないから、アントニオがこれまで示してくれたあなたの好意を更に増して三千ダカッツ貸してくれるように頼みました。
その時、アントニオは友人に貸すだけの金を持ちあわせていませんでした。けれどもまもなく数隻の船が商品を積んで帰ってくる予定だから、それらの船を信用にして富んだ金貸のシャイロックのところへいって、その金を借りてこようといいました。
アントニオとバッサニオはいっしょにシャイロックのところへ行きました。そしてアントニオは航海中の船が積んでいる商品で支払うから、いくらでも望み次第の利息で三千ダカッツを貸してくれとユダヤ人に頼みました。
そこでシャイロックは心の中で「一旦こいつをおさえつけたら最後、日ごろいだいている恨みを思う存分にはらしてくれるぞ。やつはわれわれユダヤ人を憎んでいやがる。やつは無利息で金を貸しやがる。そして商人たちのなかでおれに毒づき、おれが正当に得たもうけを、高利だなんて、ほざきやがる。こんなやつをゆるしておいたら、おれたちの民族は罰当りだぞ!」と考えていました。
アントニオは彼が何か考えこんでいて返事をしないのを見て、金のことであせっていたので、
「シャイロック、聞えないのか? 金を貸すのか?」といいました。その質問に対して、ユダヤ人は答えました。
「アントニオ様、リアルトオであなたはしばしばわしの金のことや高利のことでわしをののしりなすった。しかし、わしは辛抱強く肩をすくめて我慢してまいった。我慢はわしら民族の印でござんすからな。それからまたあなたはわしのことを不信者だの、人殺し犬だのといって、わしのユダヤ服につばをかけたり、まるでわしを野ら犬のように足げにしたりしなすった。ところが今あなたはそのわしの助けが必要らしくておいでなさる。わしのところへ来て、シャイロック、金を貸せとおっしゃる。犬が金を持っておりますかね? 野ら犬が三千ダカッツの金を貸すなんてできますかいね? わしが平伏して、ごりっぱなだんな様、あなたは水曜日にわしにつばをひっかけなすった、それからまた別のときにはわしを犬とおよびなすった、そうした御親切に対してあなたに金をお貸し申さにゃなりませんとでもいわせようとおっしゃるのか」と答えました。
「私は君を今までどおりにそう呼んでやるよ、つばも吐きかけてやろうし、けっとばしてもくれるさ。もしその金を私に貸すのなら、友だちとしてでなく、万一私が違約したばあいに思いきり罰金をしぼり取ることができるように、敵として用立ててくれ」とアントニオはいいました。
「これはまた何としたことでございます、えらい御立腹でございますな。わしはあなたのお友だちになってかわいがっておもらいしたいですよ。わしはあなたにあびせられた恥かしめを忘れて、金利なしで御用立ていたしましょうとも」
とシャイロックが言ったので、その親切らしい申し出にアントニオはびっくりしました。そこでシャイロックは更に親切を装って自分のすることはすべてアントニオの愛を得るためであって、三千ダカッツを用だてたうえに、その貸金に対する利息はいらないと繰り返し、ただアントニオが自分といっしょに公証人のところへいって、ほんのおもしろ半分に、もし期日に金を返済しなかったばあいには、アントニオの身体のどこでもシャイロックの欲するところから肉を一ポンド切りとって支払うという証文に署名さえすればいいのだといいました。
「よろしい、この証文に署名し、ユダヤ人シャイロックにも相当な親切心があるといおう」と、アントニオはいいました。
バッサニオは自分のために、そんな証文に署名しないようにといいました、けれどもアントニオは支払期日の来る前にその金の数倍の価値のある荷を積んだ持ち船が帰ってくるのだから署名するといい張りました。
その争論をきいてシャイロックは、
「御先祖アブラハムよ、このキリスト者たちは何たる疑い深いお方たちだろう、こりゃ自分らの無情なやり口が、他人の心まで疑うように教えたものと見えるわい。バッサニオさんにお聞きしたいが、もしあのお方が期日を破ったからとて、そこに歌ってある罰を実行して一体わしに何の利益があるといいなさるのだ。人間の身体から取った人肉一ポンドなんて羊や牛の肉ほどの栄養もなければ価値もない。わしは全くあのお方の好意を買うために、この友情をさしあげようというんでござんすがね、もしそれをお受けなさるならいいが、さもなければおしまいでさあ!」
バッサニオはユダヤ人が自分の親切な心組みについていろいろと言ったにもかかわらず、友人が自分のためこの恐ろしい罰金の危険を冒すのを好まなかったのでしたが、結局アントニオは(ユダヤ人の言うとおり)ほんの冗談のつもりで、バッサニオの忠告に逆らって証文に署名しました。
バッサニオが結婚したいと望んでいる富んだ女相続人はベニスの近くのベルモントという広壮な邸宅に住んでいました。その名をポーシャといい、その姿や心の美しさは、私たちが本で読むカトオ(ローマの哲学者で愛国者)の娘でブルータス(シーザーを殺したので有名な人)の妻になった、あのポーシャにも決して負けないのでした。
バッサニオは友人アントニオが命をかけて金をつくってくれたので、グラシアノという執事をしたがえ、りっぱないでたちで供をつれ、ベルモント荘へ出かけていきました。
バッサニオは求婚に成功し、まもなくポーシャは彼を夫として迎えることを承諾しました。
バッサニオは自分には財産が何もなく、誇ることのできるのは高貴な生れととうとい祖先だけであることをポーシャにうちあけました。彼女は彼がりっぱな性格をもっているので愛していたのですし、それに夫の財産をあてにしなくてもいいだけの十分な富を持っていたので、奥ゆかしいしとやかさで、自分はバッサニオの妻にふさわしくなるために、今よりも千倍も美しく、一万倍も金持になりたいと答えました。それからまたこの才芸の備わったポーシャは品よく我が身をけなし、自分は何も仕込まれていない娘で学問もなければ何の経験もないけれども、さほど年をとってもいないから勉強できるし、またあらゆることについて彼のさしずを受け、支配してもらうように、温順な心を彼に任せようと申し出ました。そして、
「私も、私の持物もみんな今あなたのものに変りました。バッサニオ様、つい昨日《きのう》まで私はこの美しい邸宅の主婦で自分を支配する女王でこれらの召使たちの女主人でございましたが、今は、この家も、召使たちも、私自身も、わが君よ、あなた様のものでございます。私はこの指輪とともにこれらのすべてを、あなたにささげます」といって指輪をバッサニオに贈りました。
バッサニオはこの富んだりっぱなポーシャが自分のような貧弱な財産の男を受けいれてくれたやさしさに対して感謝と驚きにあふれるばかりで、とぎれとぎれの愛と感謝の言葉のほか自分をこんなにも尊敬してくれる愛人にその喜びと敬意を表現することができなかったほどでした。そしてその指輪を受け取って、決してそれを手放さないと誓いました。
ポーシャが、そんなふうに、しとやかにバッサニオの従順な妻になる約束をしたとき、グラシアノとポーシャの侍女のネリッサは、それぞれ自分の主人にかしずいていましたが、グラシアノは、バッサニオと寛大な婦人に祝辞を述べたのち、自分も同時に結婚する許しをねがい出ました。
「いいともさ! もしお前が妻を見つけさえすればね」とバッサニオは言いました。
するとグラシアノは自分がポーシャ姫の美しい侍女ネリッサを愛していて、彼女は自分の女主人がバッサニオと結婚したら彼の妻になると約束したといいました。ポーシャはネリッサにそれは真実であるかと尋ねました。
「そのとおりでございます、もし奥様がそれをよいとおぼし召せば」とネリッサは答えました。
ポーシャが喜んでそれに同意すると、バッサニオは、
「グラシアノ君、君の結婚が私たちの結婚式の祝宴に非常な光栄を与えることになるね」と愉快そうにいいました。
この愛人たちの幸福は、そのとき恐ろしい知らせをもたらすアントニオからの手紙を持った使者がはいって来たので、悲しくも破られてしまいました。アントニオの手紙を読んだバッサニオの顔が、ひどく青ざめたので、ポーシャはきっとだれか親友の死を語るものにちがいないと思いました。それで彼をそんなに悩ました知らせは何か尋ねると、バッサニオは、
「ああ、いとしのポーシャよ、ここにかつて紙に書かれたうちで、最も不快な言葉があるのです。やさしい姫よ、私がはじめてあなたに愛をうちあけたときに、自分の持つ富はみんな自分の血管のなかに流れていると大まかに言いましたが、私は何も持っていないという以上に借金を持っていることをお話しすべきでした」
といって、これまでに述べたように、アントニオから借金したこと、その金はアントニオがユダヤ人シャイロックから手に入れたこと、そしてアントニオが期日までにそれを返済できなかったばあいには自分の肉一ポンドで罰金を支払う約束をした証文のことなどを語り、アントニオの手紙を読みあげました。その文句はつぎのとおりでした。
[#ここから1字下げ]
――大好きなバッサニオ君、ぼくの船は全部なくなってしまった。ユダヤ人に与えた私の証文は処分されるのだ、そしてその支払いをするとなれば、私はどうしても生きている訳にいかないから、死に際して君に会えたらと思う。しかしそれは君の随意にしてもらいたい、もし私に対する君の愛が、君を来させるほどのものでなかったら、この手紙に強制されることはない――[#ここで字下げ終わり]
「おお、愛人よ、早くお仕事をみんなかたづけて、お出かけなさいまし、わがバッサニオ様の落度でこの御親切なお友達の髪の毛一すじたりとも失わせないうちにそのお金を二十倍にもしてお払いになるだけの金貨をさしあげますわ。私はあなたをそれだけ高いお金で買ったのですから、それだけよけいにあなたを愛すことになりますのよ」とポーシャはいいました。
そしてポーシャは自分の財産に対する法律上の権利をバッサニオに与えるために、彼の出発前に結婚しようと申し出ました。それで、その日のうちに二人は結婚し、グラシアノもネリッサと結婚したのでした。
バッサニオとグラシアノは式をあげると直ちに大急ぎでベニスへ出発しました。そしてバッサニオはアントニオが入獄しているのを発見しました。
支払期日が過ぎているので残忍なユダヤ人はバッサニオのさしだした金を受け取ろうとしないで、アントニオの肉を一ポンドもらうと言いはりました。この恐ろしい事件が、ベニス大公の前で裁判される日が指定されたので、バッサニオはものすごい不安な気持で裁判の成りゆきを待っていました。
ポーシャは夫と別れるときには、快活に話しかけ、帰るときには親友をいっしょに連れて来るようにといいました。けれども心の中では、アントニオにとって最悪なことになるだろうと心配していたので、ひとりになると、何とかして愛するバッサニオの友人の命を助けるために自分を役だてたいと、考えをめぐらし始めました。彼女は愛するバッサニオに敬意をあらわそうと思って、あんなに温順な妻らしいやさしい態度で、あらゆる点で夫に服従し、自分よりすぐれた彼の知恵で支配されると言ったにもかかわらず、今こうして尊敬する夫の友人の危機に際して行動を起そうというばあいになると、自分の力に対していささかの疑いも持たず、その真実で正確な判断の導きのみによって、すぐに自分自身ベニスへ出かけていって、アントニオの弁護に立とうと決心しました。
ポーシャは法律顧問をしている親類をもっていました。彼女はベラリオというその紳士に手紙を書き、事件の説明をして彼の意見を求め、彼の忠告とともに弁護士のきる制服を送ってくれるように頼みました。使者が帰ってきて、ベラリオからどういうふうにことを運ぶかという助言を書いた手紙とともに、彼女の準備に必要なものをすべて持って来ました。
ポーシャは男装し、侍女のネリッサにも男装をさせ、自分は弁護士の制服をまとい、ネリッサを書記として連れていくことにしました。それで二人は直ちに出発したので公判の当日ベニスに到着しました。その事件はちょうど上院の建物の中で、ベニスの大公や上院議員たちの前で審問されるところでした。その時ポーシャはその高等裁判所へはいっていって、ベラリオからの手紙を提出しました。篤学な顧問弁護士は大公にあてて、自分は自身でアントニオの弁護に出廷したいのだが、病気に妨げられたので、自分の代りに、その道に通じている若いバルタザー博士(彼はポーシャをそう名づけたのです)に弁護させることをおゆるし願いたいと書いたのでした。大公はそれを許可しましたが、法服と大きなかつらで、巧みに変装をしてはいるものの、その見知らぬ人物がいかにも若々しく見えるので、大そういぶかしがっていました。
いよいよこの重大な公判が始まりました。ポーシャは自分のまわりを見まわし、無慈悲なユダヤ人を見、それからバッサニオを見ましたが、彼は変装している妻に気づきませんでした。彼は友人に対する恐怖と心配に悩んでアントニオのわきに立っていました。
ポーシャの着手したこの困難な仕事の重要性が、このかよわい女性に勇気を与えました。それで彼女は自分が実行することを引き受けたその任務を大胆に果し始めました。
まず第一に彼女はシャイロックにむかって話しかけ、ベニスの法律に従って証文に述べてある没収品を取る権利が彼にあることを認めたうえで、慈悲というとうとい特性について、無情なシャイロックの心を除いては、どんな人の心をも和らげるような優しさで語りました。慈悲は慈雨のように天から降ってくるものであること、その慈悲は、与える者と受ける者と、両方を幸福にするものであるから二重の祝福であること、慈悲は神御自身の性格であるから、王冠以上に王者にふさわしいものであること、慈悲と正義が調和したときには、人間の力が最も神の力に近づくものであることなどをとき、私たちが神の慈悲を祈るときに、その同じ祈りが、他人に慈悲をたれることを私たちに教えていることを思い出すように、シャイロックに求めました。
それに対してシャイロックはただ証文にある没収品を欲していると答えるのみでした。
「アントニオは金を支払うことはできないのですか」とポーシャは尋ねました。
するとバッサニオは、ユダヤ人に三千ダカッツを幾倍にでも彼の望むだけにして支払うと申し出ました。シャイロックはそれを拒み、なおもアントニオの肉一ポンドを取ることを主張したので、バッサニオは学識ある若い弁護士が、アントニオの命を救うために少し法をまげるように骨を折ってくれと頼みました。けれどもポーシャは一度制定された法律は決して変えるべきでないと、きっぱり答えました。
シャイロックはポーシャが法は変更すべきでないといったのを聞いて、てっきり自分の肩をもってくれているのだと思いこんで、
「ダニエル様(訳注 旧約聖書にある若い名裁判官)が裁判においでくだすった! おお、賢く若い裁判官様! わしはあなた様をじつに尊敬いたしますです。あなた様はお顔よりも、ずんと年功をつんでおいでなさる!」といいました。
ポーシャは今度は、シャイロックに証文を見せるように求め、それを読むと、
「この証文の品は没収されるべきである。これによってユダヤ人は、合法的に一ポンドの肉をアントニオの心臓に一番近いところから、切りとる権利がある」といってから、シャイロックにむかって、
「慈悲をたれてはどうだね、金を受けとって、この証文を私に破らせないか」といいました。
けれども残忍なシャイロックは慈悲など示すどころか、
「わしはこの魂に誓って申すですが、人間の舌にわしの決心を変えさせる力はござんせん」というのでした。
「それでは、アントニオ、胸をナイフで切られる用意をしなければなるまい」とポーシャはいいました。そしてシャイロックが肉一ポンドを切り取るために非常な熱心さでナイフをといでいるあいだに、ポーシャはアントニオにむかって、
「何かいい残すことはないか」と尋ねました。
アントニオは、自分は死ぬ覚悟であったから、何もいうことはないと、おちつきはらって答えました。それからバッサニオにむかって、
「バッサニオ君、手を取らしてくれたまえ。さようなら! 私が君のために、この不運に陥ったことを深く悲しまないでもらいたい。君のりっぱな奥さんによろしく、そしてどんなに私が君を愛していたかを話してくれたまえ」といいました。
バッサニオは悲嘆にくれながら、
「アントニオ君、私は自分の命そのもの同様に大切に思っている妻と結婚したのだが、その命もその妻もそれから全世界も君の命以上に大切とは考えられない、私は君を救うためなら、それらすべてを失ってもいい、それらをこの悪魔の犠牲にしてもかまわない」といいました。
心根の優しいポーシャは、夫がアントニオのような誠実な友に対して当然抱くはずの愛情を表現するのに、そういう力強い言葉を用いたことを少しも怒りはしませんでしたが、それを聞いて、
「もし奥様がここにいて、あなたがそんなことをいうのを聞かれたら、あまり喜ばれないでしょう」といわずにはいられませんでした。
さて、グラシアノも主人のことを何でもまねるのが好きなので、バッサニオと同じようなことをいわなければならないと考え、ポーシャのわきに書記の服装をして筆記をしていたネリッサに聞えるところで、
「私も妻をもっております、私はその妻を愛していると断言しますが、もし天国でこの野ら犬のようなユダヤ人の残酷な性質を変えるように、神のお力におすがり申すことができるというなら、私は妻が天国へいけばいいと思うですよ」といいました。するとネリッサは、
「奥さんの陰でそういうことを願うのはいいですが、さもなかったら平和な家庭はもてないでしょうね」といいました。
シャイロックは待ちどおしがって、
「時間をむだにしている、どうぞ判決をおくだしくだされ!」と叫びました。
今や法廷には恐ろしい予感がみなぎり、人々の心はアントニオに対する悲しみでいっぱいになりました。
ポーシャは肉の目方を量るはかりが用意してあるかと尋ねました。それからユダヤ人にむかって、
「シャイロックよ、出血のためにアントニオが死なないように、外科医を立ち会わせなくてはならないであろう」といいました。
アントニオが出血のために死ぬのを何よりの目的にしていたシャイロックは、
「そういうことは証文にうたってござんせん」といいました。
「証文に書いてないが、それが何だというのだ、慈悲のためにそれくらいのことをしてもよかろう」とポーシャがいうと、それに対するシャイロックの答えは、
「そんなことは見つからんです、証文にはうたってござんせん」の一点張りでした。
「それでは、一ポンドの肉はお前のものだ、法律がそれを許可し、法廷はそれを認める」とポーシャはいいました。シャイロックは再び、
「おお賢い正しい裁判官様、ダニエル様がおさばきにおいでたのじゃ!」と叫びました。そしてもう一度、長いナイフをといで、アントニオをじっと見つめて、
「さあ、用意しろ!」といいました。
「しばし待て、ユダヤ人! ほかにいうことがある、この証文には一滴の血もお前に与えるとは書いてない、文面は明らかに『肉一ポンド』とある。もし肉を切り取る際に、キリスト者の血を一滴たりとも流したなら、お前の土地も動産も法律によってベニス政府に没収されるのだ」とポーシャがいいました。
さて、アントニオの血をすこしも流さずに一ポンドの肉を切り取るということはシャイロックには不可能でしたから、証文に名ざしてあるのは肉であって、血ではないという、ポーシャの賢い発見は、アントニオの命を救いました。それで人々はみんな、幸いにもこの便法を考えついた若い弁護士のすばらしい賢明さを賞賛し、法廷のすみずみから拍手がなりひびきました。そしてグラシアノはシャイロックの言葉をかりて、
「おお、賢い正しい裁判官様! おいユダヤ人、見ろ、ダニエル様がさばきにおいでなすったんだぞ!」と叫びました。
シャイロックは自分の残忍な計画が失敗したのを知って、失望のおももちで金をもらおうといいました。アントニオの思いがけない釈放にひどく狂喜していたバッサニオは、
「ここに金があるぞ!」と叫びました。
けれどもポーシャはそれを押しとどめて、
「静かに! あわてることはない。ユダヤ人は罰としてきめた品のほかは、何も受け取ることはできない。だから、シャイロックよ肉を切り取る用意をするがいい。だが血を流さぬように気をつけろ! またきっかり一ポンド取るように、それより多くても少くてもいけない。ただの一分でも多いか少いかすれば、いや毛すじ一本の重さでも、はかりが傾いたらお前はベニスの法律によって死刑を宣告され、全部の財産は政府に没収されるのだ」
「わしに金をください、そしていかせておくんなさい!」とシャイロックはいいました。
「ここに用意している、さあ受け取れ」とバッサニオはいいました。
シャイロックがその金を取ろうとすると、ポーシャが再びそれをとめ、
「待て、ユダヤ人、まだ申し渡すことがある。ベニスの法律により、市民の一人の命を奪おうと計ったかどでお前の財産は政府に没収されるし、お前の命は大公のみ心のままになるのだ。それゆえ、ひざまずいて大公の特赦を願うがいい」といいました。
そのとき大公は、シャイロックにむかって、
「われわれキリスト者の精神がお前らと異なるところを知らせるために、私はお前が願わない前にお前の命をゆるしてやる、お前の財産の半分はアントニオのものとし、半分は政府のものとなるのだ」といいました。
すると、寛大なアントニオは、シャイロックが死後、その財産を娘とその夫にのこすという証書に署名すれば、自分の分けまえを棄権するといいました。それはユダヤ人にひとり娘があって、最近、父の意に逆らってアントニオの友人のロレンゾという若いキリスト者と結婚したのを、シャイロックが怒って勘当したことをアントニオは知っていたからです。
ユダヤ人はそれに同意しました。そして、そんなふうに復讐にも失望し、富も取りあげられてしまったので、
「わしは気分が悪い、家へ帰らせてもらおう。あとで公正証書を届けておくんなされば、署名して財産の半分を娘にやるとしますわい」と彼はいいました。
「それなら立去れ。そして署名するのだぞ。もしお前が残酷であった事を悔い改めて、キリスト者となったら、国家はお前の富の半分を罰金とすることをゆるしてやるであろう」と大公がいいました。
そこで大公はアントニオを放免し、閉廷を命じました。そして大公は若い弁護士の知恵と創意を激賞し、自分の家へ食事に招待しました。しかしポーシャは夫より先にベルモントへ帰るつもりだったので、
「閣下よ、慎んでお礼を申しあげますが、私は直ちに出発しなければなりません」と答えました。
大公は彼が残って自分と食事をともにする暇がないのは残念だといい、アントニオにむかって、
「この紳士にお礼をすべきだ、私の考えでは、おん身は非常な恩を受けたと思う」とつけ加えました。
大公と議員たちは退廷しました。そしてバッサニオはポーシャに、
「最も尊敬する紳士よ、私と友人アントニオは、あなたのお知恵によって、悲しむべき罰を免れることができました。ついてはユダヤ人に支払うはずであった三千ダカッツをお納めくださるように願います」といいました。
ポーシャは、どんなに勧められても、その金を取ろうとしませんでしたが、バッサニオが、しきりに何か礼を受けてくれというと、
「では手袋をください、あなたの記念に私はそれをはめましょう」といいました。そしてバッサニオが手袋をはずすと、自分が贈った指輪を彼の指に見いだしました。じつはこの策略家の婦人は、あとでバッサニオに会ったときに、からかう種にするつもりで、その指輪を奪いたかったので、手袋を欲しいといったのでした。それで指輪を見ると、
「それから、あなたの御好意にあまえて、その指輪をいただきましょうかね」といいました。
バッサニオはただ一つだけ手放すことのできないものを弁護士に所望されて、ひどく当惑し、それは妻からの贈り物で、決して手放さないと誓ったもの故、その指輪はあげられないが、そのかわり広告をしてベニス中で一番高価な指輪をさがして贈ろうといいました。
するとポーシャは侮辱を受けて無念だというおももちで、
「あなたは、こじきに与える言葉を教えてくだすった」といいすてて、法廷を出ていきました。
アントニオは、
「バッサニオ君、その指輪をあげてくれないか、どうか私の友情と、彼が私につくしてくれた大いなる奉仕で、君の奥さんの不興をなだめてくれたまえ」といいました。
バッサニオは恩知らずと思われたのを恥じて譲歩し、グラシアノに指輪を持たせてポーシャのあとを追わせました。するとグラシアノに指輪を贈ったネリッサも、彼の指輪を望んだので、グラシアノは(寛大さにおいて主人に負けまいと思って)それを彼女に与えました。
ふたりの婦人は、家へ帰ったら夫が指輪を他人にやってしまったことを責め、だれか女への贈り物にしたにちがいないといって困らしてやれると語りあって、大笑いしました。
帰途についたポーシャは、善行をしたという自覚に必ずともなう幸福な気分になっていました。その愉快な精神は見るものすべてをたのしみました。月も今までそんなに明るく輝いたことはないように思われました。そしてその気持のいい月が雲間にかくれると、ベルモントの、我が家からもれる灯火が、月と同じく彼女のたのしい心を喜ばせました。それでネリッサにむかって、
「私たちの見ているあの灯火は私の部屋についているのよ。小さなろうそくでも、ずいぶん遠くまで光をなげるものね、それと同じに良い行いというものは、よこしまな世のなかで輝いているものだわ」といいました。
それから自分の家からひびいてくる音楽をきいて、
「何だかあの音楽も昼間よりずっと美しく聞えるような気がしてね」というのでした。
さて、ポーシャとネリッサは家へはいって、自分たちの服にきかえると、それぞれ夫の帰宅を待っていました。まもなくふたりはアントニオといっしょに帰ってきました。
バッサニオは親友を奥方に引き合せました。すると人々は夫人がまだ祝詞や歓迎を述べ終らないうちに、部屋の隅でネリッサが夫と争っているのに気がつきました。
「もうけんかなの? どうしたというの?」とポーシャがいいました。
「奥様、ネリッサが私にくれましたつまらない金めっきの指輪のことでございますが、それにはよく刃物屋のナイフに詩がきざんであるように――われを愛し、夢捨てたもうなかれ――という文句が彫ってあったのでございます」
とグラシアノがいうと、ネリッサは、
「指輪の値うちや詩なんかどうだっていいのよ、あんたはそれをあげたときに、死ぬまで大切にしておくと誓ったではありませんか。だのにそれを弁護士の書記にやったなんて言って、どうせ女にやったにきまっているわ」といいました。
「この手にかけて誓うが、私はまだほんの小っぽけな子供のような青年にやったんだよ。お前くらいの身丈しかないちんちくりんの小僧さ! それはうまい弁護でアントニオ様をお救い申した若い弁護士様の書記なんだよ。そのおしゃべり小僧が謝礼をくれっていうんで、私は何としても断るわけにいかなかったんだからね」
とグラシアノがいうと、ポーシャは、
「グラシアノ、妻の最初の贈り物を手放すなんて、お前が悪いわ。私はバッサニオ様に指輪をさしあげましたが、どんなことがあっても、お手放しあそばさないと思いますよ」といいました。
グラシアノは自分の過失の弁解に、
「バッサニオ様がその指輪を弁護士さんに、おやりになったので、筆記に骨を折った書記が私の指輪を所望したわけでございます」といいました。
それを聞くとポーシャはひどく怒った様子で、バッサニオが指輪を与えたことを責め、ネリッサが信ずべき筋を教えてくれたように、どこかの女がその指輪を持っているにちがいないと言いました。
バッサニオは愛する妻をそんなに怒らせたことを大そう悲しみ、非常な真剣さで、
「いや、私の名誉にかけて誓うが、それを受けたのは決して女ではなく、私から三千ダカッツの金を受け取ることを断った法律博士の手にある。その人は指輪を所望し、私がそれを拒んだら機げんを悪くして去ってしまった。やさしいポーシャ、私はそうするよりほかにどうにもできなかったではないですか。私は自分がひどく恩知らずに思われたので、恥かしくてたまらなくなり、あとを追って指輪を届けないわけにいかなかったのです。ゆるしてください。もしあの場にあなたがいたら、きっと指輪をそのりっぱな博士にさしあげてくれと、私に頼んだろうと思うんです」といいました。
「ああ、私は不幸にもこの争いの原因になったのです」とアントニオはいいました。
ポーシャは、そんなことにこだわらないでアントニオを歓迎するのだから心配しないように、といいました。するとアントニオは、
「私は前に自分の身体をバッサニオのために提供しました。そしてあなたの夫が指輪を与えたその人がいなかったら、私は死んでしまっているところでした。今度は、私は自分の魂をかけて、あなたの御良人《いいひと》が今後は決してあなたの信頼をうらぎらないことを保証します」といいました。
「それなら、あなたが保証人になって、この指輪を私の夫にお渡しになり、この前の指輪よりもっと大切にしておくように、おっしゃってくださいまし」とポーシャがいいました。
バッサニオはその指輪を見て、自分が手放したのと同じものであることを知って、ひどく驚きました。するとポーシャは自分が、あの若い弁護士で、ネリッサが書記であったことを語りました。それでバッサニオは、アントニオの命を救ったのが自分の妻の勇気と知恵であったことを知って、言葉につくせないほど驚いたり喜んだりしました。
そこでポーシャは改めてアントニオを歓迎し、ある偶然の機会で彼女の手にはいった手紙を渡しました。それには難破したと思われていたアントニオの船が無事に港についたという知らせが書いてありました。そんな訳でこの富んだ商人の物語の悲劇的な発端は、相ついで起った思いがけない幸運のうちにすべて忘れられてしまいました。そして一同うちくつろいで指輪や、自分の妻を知らずにいた夫に関する喜劇的な冒険談で笑い興じました。グラシアノは陽気に韻をふんだ言葉で、
生きているかぎり、
ネリッサの指輪を無事に持っている、
これよりきつい苦労はないわいな。
というのでした。
[#改ページ]
リヤ王
ブリテインの王リヤは三人の娘をもっていました――アルバニイ公の妻ゴネリルと、コオンウォール公の妻リガン、それから若い処女コオデリアでした。この姫の求愛者として、フランスの王とブルガンディ公とが当時リヤ王の宮廷に滞在していました。
老王は八十からの高齢で政務にも疲れてきたので、このうえはもう国事にたずさわるのはやめて、やがては訪れるにきまっている死の準備をする暇を得るために、若い元気な人たちに政治をまかせる決心をしました。そういう意向で王は自分に対する娘たちの愛情のふかさの割合で王国を分配するために、だれが一番自分を愛しているかを娘の口から直接に聞こうと考えて、三人の娘を呼びよせました。
長女のゴネリルは父を言葉ではいい表わせないほどに愛しているとか、自分の目の視力以上に愛しているとか、自分の命や自由よりも愛しているなどと、真実の愛情のないばあいにいくらでも偽造できるような口先だけのたわ言をたくさん並べました。だが、こんなばあいには、真心をこめて語られるわずかなりっぱな言葉こそ必要なのでした。しかし王は娘の口からこうして愛の確証を聞いたので大そう喜び、娘の心もほんとにその言葉どおりなのだと思って、急に子の愛におぼれる父親の発作を起して、娘とその夫に広大な王国の三分の一を与えてしまいました。
次ぎに第二女を呼んで、彼女の言おうとするところを尋ねました。姉と同じく安価な地金でつくられているリガンは、口先のうまい点では少しも姉にひけを取りませんでしたから、姉のいった言葉は、自分が父上に対していだいていると確信している愛には及ばない、自分が大切な王様である父上を愛す喜びにくらべれば、他のあらゆる喜びは死んでいるも同様に思うほどだといいました。
リヤ王は自分の想像したとおりに、こんな情愛のふかい子供をもったことを幸福に思いました。それでリガンがこれほど立派な証言をしてくれた以上は、既にゴネリルに与えたと同等に王国の三分の一を彼女とその夫に与えずにはいられませんでした。
次ぎに王は自分の喜びと呼んでいた末娘のコオデリアにむかって何というか尋ねました。彼女は日ごろから王のお気に入りで他のふたりよりもかわいがられていたのですから、いうまでもなく姉たちと同じ愛のこもった言葉どころか、もっと力強い言葉で父の耳を喜ばしてくれるものと思っていたのでした。しかしコオデリアは姉たちの心が口でいったこととはおよそかけ離れていることを知っていましたし、その甘言は、自分たち夫妻が一生支配する領土を老王から欺き取るためだということを見ぬいていましたから、姉たちのお世辞に気を悪くしていました。それで彼女は自分は陛下を自分の義務どおりにそれ以上でもそれ以下でもなく愛しておりますと答えただけでした。
王は一番かわいがっている娘からそんな恩知らずのような言葉を聞いて憤慨し、コオデリアに自分の言葉をよく考えて、自分の幸運をだいなしにしないように、言い直せと要求しました。
するとコオデリアは、あなたは私をいつくしみ育ててくだすったお父上でいらっしゃいます、私はその御恩にふさわしく報いるように、あなた様に服従し、あなた様を愛し、あなた様を一番敬ってまいりました。けれども私はお姉様《ねえさま》方のような大きなことをいったり、世のなかで御父上以外にはだれも愛さないなどとお約束することはできません。お姉様方がもし(おっしゃったように)御父上のほかはだれも愛さないのでしたら、どうして夫をおもちになったのでしょう。もし私が結婚したとしましたら、契りをむすんだ夫はきっと私の愛の半分、私の注意と義務の半分を求めるにちがいございません、私は決してお姉様方のように結婚していながらお父上だけを愛すなんていうわけにはまいりませんといいました。
年老いた父を心から愛していたコオデリアは、ほかのときだったら、そんなふうに多少は恩知らずに聞えるようなことをいわないで、娘らしい愛情のこもった言葉を、姉たちが口先だけでいった以上に、もっと惜しげなくはっきりと語ったでしょう。けれども今こうして姉たちの悪賢いお世辞を聞き、その言葉が法外な報酬を欺き取ったのを見たうえは、自分にできる一番りっぱなことは愛していて、黙っていることだと思ったのでした。それは彼女の愛情が欲得ずくだという疑いを起させないようにし、彼女は愛しているが利益のためでないことと、その告白は姉たちのほどはなばなしいものでないかわりに、それだけもっと真実と誠意がこもっていることを示していました。
リヤ王はその率直な言葉を高慢だといって、ひどく立腹しました。王は血気盛りにはよくかんしゃくを起したり、思いきったことをしたりしたものでしたが、今では老年につきものの、もうろくで、すっかり理性が曇らされてしまって、真実とお世辞の区別もできず、はでに塗りたてた言葉と真心から出た言葉の見分けもつかなくなっていました。それで腹だちまぎれに、コオデリアに与えるつもりで残しておいた王国の三分の一を引込めて、それを二人の姉娘とその夫であるアルバニイ公とコオンウォール公に等分に与えてしまいました。そしてその二人の娘婿を呼びだして朝臣たち全体の前で王冠を両公の共有にし、すべての権力、収入、政権をも共同に与え、自分は名義だけの王になり、自分の従者として百人の武士を伴って順番に二人の娘の宮殿に一カ月ずつ世話になるという条件を除いて、一切の王権を放棄してしまいました。
理性の指導など全くなく、感情にのみはしったこの愚かな王国の処理は、朝臣たちをいたく驚き悲しませました。けれどもケント伯爵のほかはだれひとりとして、激怒した王とその怒りの対象であるコオデリアのあいだをとりなす勇気のある者はありませんでした。伯爵だけはコオデリアのために弁解し始めましたが、短気な王は黙らなければ殺すといって、それをやめるように命じました。けれども親切なケント伯爵はそんな事では撃退されませんでした。伯爵はこれまでリヤ王に忠義でした。王を王として敬い、父として愛し、主人として従っていました。そして自分の命を、王の敵を倒すためにかける将棋の歩ほどにしか思っていませんでしたし、王の安泰が動機となっているばあいなら、命を失うことも恐れませんでした。けれども今リヤ王は何よりも自分自身の敵になっていたので、この忠臣は、昔の主義を忘れずに、王によかれかしと男らしく反抗したのですし、無作法であったのもリヤ王が狂気のさたになっていたからだったのです。彼はこれまで王にとって最も忠実な助言者だったので、(幾多の重大事件に際して王がなされたように)自分と同じ見方でことを判断し、今までのように自分の忠告に従っていただきたい、そして王の最善の思慮でこの忌まわしい無謀をとりけされるように懇請しました。またリヤ王の末の姫の王に対する愛が少いのでもないし、音が低くて少しもそらぞらしい証拠を示さないのは、決して愛がないわけではないという自分の見解を命をかけても保証するといいました。権力者がへつらいに屈服するときには節義を重んずる者は直言するよりほかないのです。リヤの威かくは、既に命を王の前に投げ出している伯爵に対して何の役にたつでしょう! 威かくなどは義務を重んずる者の発言を阻止することはできないものです。
この善良なケント伯爵の誠実な直言は、ますます王の怒りをかきたてるばかりでした。そして医者を殺して自分の恐ろしい病気を愛する精神病患者のように、王はこの忠臣を追放し、出発準備をするために五日だけしか与えませんでした。そしてもしこの憎むべき男が六日目にブリテインの領内で発見されたら、その場で殺してしまうということになりました。ケントは王に別れを告げ、王がこういう態度をとられる以上は、ここにとどまっていても追放されていると同様だといいました。それから立ち去る前に彼は、かくも正しく考え、かくも慎しみぶかく語った処女コオデリアに神々の御加護を祈り、彼女の姉たちの大言が愛の行いを保証するものであってくれればいいがと念じるのでした。そして彼はみずからいったように、今までどおりの正しい生活を築くために、新しい土地へ出かけていきました。
フランス王とブルガンディ公は、リヤ王の前に呼ばれて、王の末娘に対する決意を聞かされ、彼女が父の怒りにふれて、自分の身のほかには歓迎されるような財産を何一つ持たなくなった今でも、なお彼女に求愛をする気かどうか尋ねられました。するとブルガンディ公はそのような条件のもとに彼女をめとることをためらい、この縁組を断りました。しかしフランス王は姫が父の愛を失うようになった誤りの本質が単に言葉がつたなかったのと姉たちのようにへつらうことができなかったに過ぎない事を理解して、この若い姫の手を取り、彼女の美徳は王国以上の持参金だといって、コオデリアに姉と、それから不親切ではありましたが父親とに別れを告げて、自分といっしょにいって、麗わしいフランス国の女王となり、姉たちよりもりっぱな領土を治めてくれるように言いました。そして彼はブルガンディ公をさげすんで、水のような公爵と呼びました、それは彼のこの若い姫に対する愛は水のように流れ去ってしまったからだというのでした。
そこでコオデリアは目を泣きはらして姉たちに別れを告げ、父上をほんとうに愛して、口で言ったとおりによくしてあげていただきたいと頼みました。姉たちは不きげんな顔をして、自分たちは義務を心得ているから、指図にはおよばない、それより「運命の神の施しもの」(彼女たちはばかにしてそう言ったのですが)として、自分をめとってくれた夫を満足させるように一生けんめいになりなさいと言うのでした。それでコオデリアは重い心を抱いて出ていきました。彼女は姉たちの陰険さを知っていましたから、どうかして今自分が託していく人たちよりも、もっと親切な手のなかに父を残していきたかったのでした。
コオデリアが去るやいなや、姉たちの悪魔のような性質が本性を現わし始めました。リヤが長女ゴネリルとの約束で過すことになっていた第一月が終らないうちに、早くも老王は約束とその実行のあいだにひらきがあることを発見したのでした。この悪者は、父からもらうものは全部もらってしまい、父の頭上から王冠までも取りあげてしまうと、この老人がまだ自分は王であるという考えで自分の気持を慰めるために保留しておいた、王の尊厳のほんのわずかな残りものを父に与えることを惜しみだしたのでした。彼女は父と百人の武士が目ざわりになってきました、父に会うたびに彼女は渋面《じゆうめん》をつくり、父が何か話をしようとすると、仮病をつかったり、何か口実を設けて、顔を合せないようにするのでした。彼女が父の高齢を役にたたないお荷物と見なし、その従者を無益の費用と考えていたのは明らかでした。それに彼女自身が王に対する義務をおろそかにしたばかりでなく、彼女の例にならって、彼女の召使たちさえ(恐らくそうだったのでしょう)彼女の内命を受けて、王を疎略に扱い、王の命令に従うことを拒むとか、もっと軽侮的に、その命令が聞えないふりをしたりするのでした。リヤは娘の態度の変化に気がつかずにはいられませんでしたが、できるだけその事実に対して目を閉じていました。人間はだれでも自分の誤りと片意地がもたらした不快な結果を信じるのをいやがるものだからです。
虚偽な人や不実な人がいくら親切な扱いをうけても親切にならないと同様に、真の愛情をもつ人や誠実な人は、どんなひどいめにあってもその愛情や誠実さを失わないものです。この事実は忠良なケント伯爵のばあいに、もっとも著しく現われていました。彼はリヤに追放され、ブリテイン内で発見されれば命を断たれることになっていたにもかかわらず、君主のお役にたつ機会のある限り、踏みとどまっていて、その結果どんなことになろうと耐える覚悟でいました。彼ほどの忠臣もときには卑しい策略や仮装に身をゆだねなければならないこともあります。しかしそれによって、受けた恩に報いることができるのでしたら、少しも卑劣だとか尊敬に価しないなどと思われるべきではありません。この善良な伯爵は高貴な身分も、はなやかな生活も捨てて、下男に仮装して王に仕えることを申し出ました。リヤはそれが仮装しているケント公とは知らず、王の問いに対する彼の答えが率直というよりも、むしろ不愛想なところが(口とは裏腹なことが娘によってはっきりとわかったので、当然つくづくいやになった、あのなめらかな油のようなへつらいとは全く異なっていたので)気に入って直ちに取引きがきまり、リヤはケントを彼自身が名のったカイアスという名で雇いましたが、王はそれが、一度は自分のお気に入りの高貴で有力なケント伯爵であるとはつゆ知りませんでした。
かくしてカイアスは早くも君主に忠愛を示す方法を見いだしたのでした。それはちょうどその日ゴネリルの家令が、疑いもなく女主人に秘かにそそのかされたらしく、リヤに対して不敵な振舞いをし、無礼な顔つきや言葉づかいをしたので、カイアスは陛下に対してかくも公然と侮辱が加えられるのを黙っていられなくなり、いきなり彼の足をすくい倒して、この不作法な奴隷をどぶの中へたたき込んでしまいました。この親切な奉公ぶりに、リヤは一層カイアスを愛すようになりました。
だが、ケントはリヤのただひとりの友人というわけではありませんでした。リヤがまだ宮廷をもっていたころ、当時王や貴族たちが重要な仕事のあとで慰安をうけるためにフール(そう名づけられていたのです)つまり道化者を雇っておく習慣に従って宮廷においていた卑しい道化者が、そのとるにたりないような卑しい身分の者が自分の愛情をあらわし得る範囲で、リヤが王冠をすてたのちもなお王を棄てずに仕え、しゃれや警句で王の気を引きたてていました。もっともときどき王が王冠をぬぎ棄てて、何もかもふたりの娘に与えてしまった軽率をからかわずにはいられませんでした。そんなときには彼は韻をふんだ文句で次ぎのように歌いました。
そのふたりの娘御は
にわかな喜びにうれし泣き、
そして私は悲しさに歌います。
りっぱな王様がたわいないまねをし
ばかな道化の仲間入りとは。
そしてこの愉快な正直な道化者はいくらでももち合せている、そんな、乱暴な文句や歌の断片で、ゴネリルの面前でさえ、胸にぎくりとくるようなひどい皮肉や冗談で自分の本心を述べたてるのでした。たとえば王をほととぎすの子を大きくなるまで育ててやって、その骨おりの報いに自分の頭をかみ砕かれる、かやくぐり鳥にたとえたり、ろばでも車が馬を引くときを知っている(父のうしろに従うべきリヤの娘が父の先に立って、いばっているという意味で)といったり、リヤはもうリヤではなく、リヤの影だといったりしました。そうした無遠慮な言葉のために、彼は一二度はゴネリルに、むちで打つと脅かされました。
リヤが感じ始めた冷淡さと尊敬の減退は、この愚かな甘い父が、親不孝な娘から受ける全部ではありませんでした。娘は、明からさまに、父が百人の武士の定員を置くことを主張するようでは自分の宮殿に滞在してもらうのは不便だ、この定員は無用で費用がかかり、いたずらに自分の宮殿を酒宴と底ぬけ騒ぎで満すのみだと言って、その員数を減らし、王の年齢にふさわしい老人ばかりを置くように申し出ました。
リヤは最初自分の目や耳を信じることができませんでした、そんな不親切なことをいうのが自分の娘とは信じられなかったのです。彼は自分から王冠をゆずり受けた娘が、自分の供奉員を減らすように要求したり、自分の老年に対して当然受けるべき尊敬に対して不平をいうなんて信じられなかったのでした。けれども娘があくまで不孝な要求を主張してやまないので、老人は激怒のあまり、彼女を憎むべき詐欺師と呼び、うそをついたと言いました。全く彼女は偽りをいったのでした。百人の武士は品行正しく行いの謹厳な人々で、あらゆる義務の本領を心得ていて、彼女のいったように飲酒にふけったり底ぬけ騒ぎをしたりするようなことはしなかったのでした。そこでリヤは百人の武士をつれてもうひとりの娘リガンのところへ行くから馬の用意をするように命じました。そして、彼は忘恩について語り、それは大理石のような冷たい心をもった悪魔で、それが自分の子供にあらわれるときには海の怪物以上に醜悪に見えるものだといいました。それから彼は長女ゴネリルを聞くも恐ろしいほどにのろい、彼女が決して子供をもたないように、またもしもったとしたら、その子が成長して彼女が自分に示したと同じ侮辱とあざけりを彼女に報いるように、それによって恩知らずの子をもつのは毒へびの歯よりも、もっと鋭い歯でかまれるようなものだということを彼女が痛感するようにと祈りました。ゴネリルの夫のアルバニイ公はこの不親切な行いに自分も加担しているとリヤが思うかも知れないが、そんなことはないと弁解し始めましたが、リヤは激怒していて、それには耳もかさず馬にくらを置けと命じ、従者をひきつれて次女リガンの住居へと出発しました。
リガンとその夫は宮殿で、はなやかにりっぱな生活をしていました。さてリヤは娘が自分を迎える準備をしておくように、下男のカイアスに手紙を持たせてやり、その後から供奉員をつれていったのでした。ところがゴネリルは先まわりをして妹に手紙を送り、父がわがままで、気むずかしいと非難し、父のつれていくような、あんな大ぜいの従者を受け入れないように忠告したのでした。その使者はカイアスと同時に到着したのでふたりは顔を合せました。ところがその使者は何と、以前にリヤに対して失敬な態度をとったのでカイアスがすくい投げをくわしてやった、旧敵の家令でした。カイアスはその男の顔つきが気に入りませんでしたし、それに何の用事で来たのか怪しく思ったので、彼の悪口をいって、けんかを吹きかけました。けれども相手がそれに応じないので、カイアスは義憤にかられて、こういう人の仲をさくような悪い使いをする者が受けるのが当然な激しさで、彼を打ちのめしました。そのことがリガンとその夫の耳に入ったので、夫妻は父王からの使者で最高の尊敬を受けるべき人であるカイアスに、足かせをかけるように命じました。そんな訳で王が宮殿に入ったときに最初に見たのは、忠義なカイアスがそういう不名誉な状態に立っている姿でした。
これは王がこれから受ける待遇の悪い前兆にすぎませんでした。そのごにもっと悪いことがつづいたのです。王が娘とその夫に面会を求めると、彼等は夜どおし旅をしたので、疲れているから会えないという返事でした。それで王がついに強硬に怒気をふくんで言い張ると、彼等はあいさつに出てきましたが、いっしょにいたのはだれかと思えば、あの憎いゴネリルでした。彼女は自分に都合のいいことをいって、妹に父なる王に反感を持たせるために来たのでした。
この光景はひどく老人の怒りをそそりましたが、リガンが姉の手をとっているのを見てはなおさらでした。王はゴネリルに、自分の真白なひげを見て恥かしく思わないかと尋ねました。リガンはゴネリルといっしょに帰り、従者を半数に減らし、ゴネリルに謝罪して、仲よく暮すように忠告しました。その訳は彼が老人で分別がたりないから、もっと分別のある者に指導され支配されなければならないというのでした。リヤは自分の娘の前にひざまずいて衣食を請うなんてそんなばかげたことはない、自分はそんな不合理な屈従はできないと論じて、自分は絶対に姉娘とは帰らずに、百人の従者とともにリガンのもとにとどまる決心を述べ、自分はリガンに王国の半分を与えたことを忘れてはいないし、リガンの目はゴネリルのように激しくなく、おだやかで親切だといいました。そして彼は自分の供奉員を半分に減らしてゴネリルのところへ帰るくらいなら、持参金もない末娘と結婚したフランス王のところへ行って、けちくさい年金でももらう方がましだといいました。
けれどもゴネリルで経験したよりも、もっと親切な扱いをリガンから受けようと考えたのは彼の誤りでした。リガンはまるで不孝な点で姉を負かそうと思っているかのように、父が五十人の武士にかしずかれるなんて多すぎる、二十五人で十分だと公言しました。するとリヤは胸も破れるばかりの思いでゴネリルにむかい、お前といっしょに行こう、五十人は二十五人の二倍だから、お前の愛情はリガンの二倍だといいました。けれどもゴネリルは御免こうむりました。そして、
「二十五人なんて、そんなにたくさん何の必要がありましょう、十人だって、五人だって多すぎます、私の召使か、でなければ妹の召使が、お世話すればたくさんです」というのでした。
こうしてこのふたりの悪い娘は、自分たちにあんなによくしてくれた年老いた父に対する残酷さでお互に競争しているかのように、むかし国王であったことを示すために残されていた、せめてもの尊敬のしるし(かつて一国を支配していた彼にとっては極めて少い)である供奉員を、だんだん減らしていって、しまいにはひとりもなくしてしまおうとするのでした。りっぱな供奉員が幸福に必要だというのではありませんが、王からこじきになり、幾百万人に号令していた身分からひとりの従者もない身分になりさがるのは、つらい変化でした。この気の毒な王の心の底まで痛めたのは従者の不足によって受ける不便ではなく、娘がそれを拒んだ忘恩だったのです。それで王はこの二重の虐待と自分が愚かにも王国をゆずってしまったことに対する後悔で、頭が狂いだし、自分では何をいっているかわからないことを口ばしり、この不人情な悪女どもに復讐を誓い、世のなかの恐怖となるような、みせしめをするのだといいました。
こうして王が自分の細腕ではとうてい成し遂げられないようなことをいって、無益な脅迫をしているうちに夜が来て、雷といな光りと雨をまじえた、大あらしになりました。そして娘たちがなおも王の従者をゆるさない決心をかためていたので、王は馬を呼ばせ、こんな恩知らずの娘たちと同じ屋根の下にいるよりも、むしろ外のあらしの最も激しい暴威に会う方がいいといいました。そして娘たちは、わがままな人たちが受ける災難はその人たちが当然受けるべき罰だといって王をその暴風雨のなかへ出ていくにまかせて、その背後に戸を閉じてしまいました。
老人が自分の娘たちの不親切よりはまだ鋭くない風雨と闘いに勇ましく出ていったときには、風は激しく雨とあらしはますますつのっていました。その辺は幾マイルも、やぶかげ一つありませんでした。リヤ王は暗夜にその荒野をあらしの猛威に身をさらしながら、さまよい出て、風や雷と戦いました。そして彼は風に地球を海のなかへ吹き込むか、あるいは波が地球をのんでしまうほどに海の波をふくらませ、人間のような動物の一かけらも残らないようにしてくれと命じました。老王は今は哀れな道化よりほかに、だれひとり従者をつれていませんでした。その道化は相変らず王とともにいて、おもしろい思いつきで、王の不幸を冗談にまぎらわそうとして、今晩は雨が降っているが、暗くて泳ぐには工合の悪い晩だとか、王様はいっそうのこと、娘さんのところへ祝福を受けにおいでなすったがよろしかろうなどと言い、
少しでもちえがある人ならば、
ままよ、風よ吹け、雨よふれ!
己が運命に満足せねばなるまいぞ、
たとえ来る日も来る日も雨がふったとて。
などと歌い、また今晩は女のうぬぼれを冷すにちょうどいい結構な夜だなどと言いました。
かつての偉大な王は、そんな貧弱な供をつれているところを、いつも変りない忠義な臣下、今はカイアスに変装している善良なケント伯爵に見つけられたのでした。王は伯爵とは気がつかないでいましたが、彼はいつも王の身辺につき添っていたのです。で彼は、
「ああ、あなた様はここにおいでになったのですか! 夜を愛す獣でも、今晩のようなこんなひどい夜は好みません、この恐ろしい暴風雨は獣たちを隠れ場へ追い込みました。人間の天性はこのような苦しみや恐ろしさに耐え得るものではございません」といいました。
するとリヤは彼をしかりつけて、大きな悩みに取りつかれているときには、小さな悩みなど感じられないものだ、心の安らかなときには、とかく身体の弱さを感じる暇があるものだ。しかし今自分の心のなかのあらしが、自分の胸にうちつけている一つの感じ以外のあらゆる感じを自分の感覚から奪い去ってしまったのだといいました。それから彼は子の忘恩について語り、親不孝は食物を口に運んだばかりにその手を口がかみさくと同様だ、両親は子供にとって手であり食物であり、またあらゆるものであるといいました。
しかし善良なカイアスは、王に雨ざらしになっていないようにという懇願をどこまでもつづけて、ついに荒野のなかにある小さなあばら屋へはいることを承知させました。すると真先に小屋へはいった道化が、幽霊を見たといって、あわただしく走り出てきました。けれども調べてみると、その幽霊は哀れなベデラムこじき(訳注 ベデラムは昔ロンドンにあった唯一の精神病院ベツレヘム病院の略称で、つまり気違こじきという意味)だということが分りました。雨やどりにそのあばら屋にもぐり込んでいたものですが、彼の語った悪魔の話はひどく道化を恐れさせました。そうした哀れな狂人たちには、本物の狂人もありましたし、情けあるいなかの人から慈善をしぼり取るのに都合がいいので狂人を装っているのもありました。彼らは自分を「哀れなトム」だの「かわいそうなタリグード」だのと呼んで、
「かわいそうなトムめに、どなた様かおめぐみくださいますね!」といって、針とか、くぎとか、まんねんこうのとげ[#「とげ」に傍点]などを腕にさして血を流しながら、いなか道を歩きまわり、なかば祈り、なかば狂った、まじないで、そんな不気味なことをして無学ないなかの人を感心させたり、こわがらせたりして施しをもらうのでした。
この哀れな男もそういうこじきのひとりでした。腰に毛布をまいているほかは何も裸体を包むものを持たない、このみじめな彼を見て、王はこの男も娘に全部を与えて、こんなめにあったのだろうと思うのでした。王は親不孝な娘をもつ以外には、何事も人間をこういう状態に陥らすものではないと考えていたのです。
このことや、それから王が叫んだそれに類した多くの物狂わしい言葉から、忠良なカイアスは王が本心でないこと、娘たちの虐待がほんとうに王を狂人にしてしまったことを、はっきりと知ったのでした。で、今こそこのりっぱなケント伯爵の忠義は、これまで機会あるごとに行なった以上に、もっと重要な奉仕となって現われました。というのは王の従者のなかで今もなお忠義な人々の助けをかりて、王の身柄を夜明けにドーバーの城に移させました。そこにはケント伯爵としての友人や勢力が主として存在していたのです。それから彼自身は海をこえてフランスに渡り、コオデリアの朝廷へ急行しました。そして彼女の父王のみじめな状態を哀れぶかく語り、姉たちの薄情を目に見えるように述べました。善良な心やさしい娘は涙をたたえて、夫なる王に、それらの親不孝な姉たちとその夫を征服して老王を再び王位につけるにたるだけの軍勢を自ら率いて英国に渡る許可を願い、それが許されたので、彼女は出発し、王軍を率いてドーバーに上陸しました。
善良なケント伯爵は、リヤの気が狂っているので、よく注意するように数人の保護者をつけておいたのでしたが、王は何かのはずみにそこを逃げ出してしまい、全く狂って、麦畑で摘んだわらやいら草やその他の雑草で作った王冠をかぶり、声高く歌いながら哀れな有様でドーバー海岸近くの野原をさまよっているところをコオデリアの従者に発見されました。
コオデリアは熱心に父に会いたがっていたのでしたが、医者の忠告で、医者の与えた薬草と睡眠の効力で父が冷静をとりもどすまでは面会を延ばすようにときふせられたのでした。コオデリアは老王の病気を回復させてくれれば医者たちに自分の持っている黄金と宝石を全部与えるとまで約束しました。でその老練な医者たちの助力によってリヤはまもなく娘に会えるぐらいの容態になりました。
この父と娘の対面は見るも痛々しい光景でした――かつてかわいがっていた娘に再会する喜ばしさと、自分の気にさわった、ちょっとした過失ゆえに投げ棄ててしまった娘から、かくも孝心厚い親切を受ける恥かしさとのあいだに起る、哀れな老王の心の闘争は見るも痛ましいものでした。その喜びと恥じの二つの感情が病気のなごりと相争って、時には、半ば狂っている王の頭脳に、自分がどこにいるのか、自分にそんなに優しくくちづけをして話しかけているのがだれであるかも思いださせなくするのでした。また、老王はそばにいる人たちに、自分がこの婦人を娘のコオデリアだと思いちがいしているとしても笑わないでくれと頼んだりしました。それから娘の許しをこうのだといって、ひざまずきました。そのあいだ中ずっとこの善良な婦人はひざまずいて父の祝福を求め、ひざまずくのは父に似つかわしくない、自分こそ、ひざまずく義務がある、それは自分が彼の真の子供コオデリアだからだというのでした! そして姉たちの不親切をみんな吸い取ってしまうのだといって彼にくちづけをしました。そして自分ならそんなひどい晩には、敵の犬でも(彼女は巧みにこれを表現しました)たとえそれが自分に食いついた犬でも、炉辺にいて暖まらせておくのに、ひげも白くなっている年老いた親切な父をそんな寒空に追い出すなんて、姉たちはみずからに恥じるべきだといいました。それから彼女は自分が父を助ける目的でフランスから来たことを語りました。すると彼は、自分は年取っていて愚かで自分のしたことがわからなかったのだから、どうか忘れてゆるしてくれといい、彼女こそ自分を愛さない理由が十分にあるのだが、姉たちにはそういう理由は何もないのだといいました。するとコオデリアは自分だって姉たちと同じく父を愛さない理由などはないのだといいました。
彼女と医者はついに、睡眠と薬の力で、姉娘たちの虐待であまりに激しい打撃を受けて調子が狂いぐらぐらしていた老人の判断力をひきしめることに成功したのでしたが、この老王のことは一まずこの辺でこの孝行な愛情ぶかい娘にまかせておいて、前にもどり、あの残酷な娘たちについて一言二言、いわせていただきます。
自分の年老いた父に対してあれほどに不誠実だった極悪非道な忘恩の徒が、自分たちの夫に対して親に対する以上に忠実であることを望むわけにはいかないものです。彼女達はまもなく夫に対する義務や愛情を表面だけでもつくすのにあきてしまい、公然と他の男を愛していることを示すようになりました。二人の不義の愛の対象は偶然にも同じ男でした。それはグロスター伯爵の私生児エドモンドでした。彼は陰謀で正当な世継《よつぎ》である兄エドガアを領土から追い出して、不正な手段で今では自分が伯爵になりすましているのでした。ゴネリルやリガンのような邪悪な人間の恋人に相当した悪漢でした。ちょうどそのころのことでした、リガンの夫のコオンウォール公が死んだので、リガンは直ちにこのグロスター公と結婚するという意志を発表しました。ところがこの悪伯爵はリガンに対すると同時に、ゴネリルにもたびたび愛の告白をしていたので、それは姉のしっと心をかきたてることになり、ゴネリルは手段をめぐらして妹を毒殺してしまいました。けれども彼女の策略は発覚し、この悪業と、夫の耳にはいった伯爵に対する不義の恋のためにゴネリルは夫アルバニイ公によって投獄されましたが、失恋と憤怒のあまりまもなく自殺してしまいました。こうして神の正義はついにこれらの邪悪な娘たちにうち勝ったのでした。
世人の目がこの事件にむけられ、ふたりにふさわしい死となって現われた神のさばきに感嘆している最中に、その同じ目が急にこの光景から奪い去られて、若い孝行娘コオデリア姫の悲しい運命における同じ神のふしぎな御業に驚嘆するのでした。姫の善行はもっと幸福な結末に相当するものと思われるのですが、しかしこの世では純潔や孝心、かならずしも成功しないのが厳しい事実なのです。先にゴネリルとリガンがグロスター伯爵を主将として派遣した軍の勝利となったのでした。そして自分と王位のあいだに何びとも立つことを欲しなかったこの悪伯爵の策略によって、コオデリアは獄舎で絶命したのです。こうして神はこの純潔な女性を孝行のりっぱな模範としてこの世に示したのち、まだうら若い身をみもとにお引取りになったのです。リヤは彼女のなきあとながくは生きていませんでした。
リヤ王の死ぬ前に、娘たちの虐待の第一歩から、この悲しい没落の階段に到るまで常に旧主に付添っていた忠良なケント伯爵は、カイアスという名で王に従っていたのは自分だということを王に理解させようと試みました。けれどもそのときリヤの苦労に狂った頭脳はどうしてそんなことがあり得るか、ケントとカイアスがどうして同一人物であるかを理解することはできませんでした。それでケントはこんなときにそんな説明をして王をわずらわすのは無益だと考えました。それからまもなくリヤは息を引き取り、この王の忠臣も寄る年波と、旧主の無念さを思う悲しみとで、やがて王のあとを追って墓へいってしまいました。
天の審判はグロスターの悪伯爵におよび、その陰謀は発覚し、正当な伯爵である兄と一騎打ちをして切り殺されてしまいました。コオデリアの死については何の関係もなく、また父に対する悪行を決して支持したことのないアルバニイ公が、リヤ王の死後、ブリテイン国の王位につきました。けれどもそれについてここに述べる必要はないでしょう。というのはリヤ王とその三人の娘たちのうえに起った事件だけがこの物語の本筋になっているのですし、その人たちが既に死んでしまったからです。
[#改ページ]
マクベス
柔和と名づけられていたダンカン王がスコットランドを治めていたときに、マクベスという貴族がいました。このマクベスは王の近親で、朝廷で大そう重んじられていました。それは幾多の戦いで武勇と軍功をたてたからで、その一例をあげると、彼は最近、ノルウェーのものすごい大軍に援助された反乱軍を敗北させたのでした。
スコットランドの二将軍、マクベスとバンコが、この大戦に勝って帰ってくる途中、枯れたヒースの荒野にさしかかったときに、ひげと、しなびた皮膚と異様な服装をのぞいてはこの世の者とは思えない、女のような三人の奇妙な姿の出現に行手をふさがれました。まずマクベスが声をかけました。すると彼らは腹だたしげにそれぞれ荒れた指を、しなびたくちびるに当てて、黙っていろという合図をしました。そしてそのなかの一人がマクベスを、グラミズ公と呼んであいさつをしました。将軍はそんな者に知られているのに気がついて、少なからず驚きましたが、つづいて第二の者が、自分にそんな資格のないカウドア公という称号であいさつをし、更に第三人目が、「未来の国王ばんざい!」と叫んだときには、なお一層おどろきました。王子たちが生きているあいだは自分が王位を継ごうなどとは、思いもよらないことだったので、そういう予言的なあいさつが、彼をびっくりさせたのは当然でした。
次ぎに彼等はバンコにむかって、一種のなぞのような言葉で、
――マクベスより劣っているが、マクベスより偉大である! マクベスほど幸福ではないが、マクベスより幸福である――といいわたし、彼自身は決して国を治めることはないが、彼の死後その子孫はスコットランドの王になるだろうと、予言しました。そして彼等は空中に消えてしまったので、将軍たちは、それが運命の三女神、つまり魔女であることを知りました。
将軍たちがそこに立ってこのできごとのふしぎさを思いめぐらしているところへ、国王からの使者がマクベスにカウドア公の称号を与える権能をもって到着しました。魔女の予言とこんなにも不思議に符合するできごとに、マクベスは驚かされました。そしてあまりの驚きに使者に対して何のあいさつも返せないほどでした。その瞬間に、第三の魔女の予言もそれと同様に実現されて、いつか自分はスコットランドを治める王になるかも知れないという希望が彼の心にふくれあがってきました。
マクベスはバンコの方をむいて、
「魔女が私に約束したことがこんなにすばらしく実現したんだから、あなたも自分の子孫が国王になるという希望をもつでしょうな!」といいました。
「その希望はあなたをたきつけて王位をねらわせるかも知れません。しかし、悪魔の使いは、しばしば小さなことで真実を告げて私たちを惑わせておいて、重大な結果におびき込むものです」とバンコは答えました。
けれども魔女たちの悪い暗示はマクベスの心にあまり深くくい込んでいて、善良なバンコの警告に注意を向けさせませんでした、そのとき以来マクベスは、どうしたらスコットランドの王位を手に入れられるかということに、あらゆる考えを集中するようになりました。
マクベスは妻をもっていました。彼はその妻に運命の三女神のふしぎな予言と、その一部が実現したことを語りました。彼女は夫と自分がその高貴な地位に達するためなら、手段をえらばないような悪い野心家でした。彼女は、血を流すことを考えて良心のとがめを感じているマクベスの気のすすまない目的に拍車をかけて、この喜ばしい予言を実現させるのには王を殺すことが絶対に必要な第一歩であることを主張してやみませんでした。
王はしばしば王としての身を卑下して、おもな貴族たちを、みずからていねいに訪問されるのでしたが、ちょうどそのころ、王はマクベスの戦争における勝利に対して、更に名誉を与えるために、マルコムとドナルベインの二人の王子と貴族や多くの重臣を伴って彼の家へこられました。
マクベスの城は気持のいい場所に位していて、あたりの空気は快く健康的でした。それは建物の突出ている壁飾や控壁のかげなど、便利な場所にはどこにでも、つばめが巣を作っていたということが明らかに語っていました。というのは、これらの小とりが最も訪れ繁殖するところは空気がいいと認められているからです。王はその場所にも、また光栄ある女主人役のマクベス夫人の敬意や行き届いた接待ぶりにも、大いに満足しました。夫人は反逆心を微笑でかくし、じつは花の下にひそむ毒へびでありながら、それをおおう無邪気な花のように装う術を知っていたのです。
王は旅の疲れで早く寝床にはいりました。そして王の寝室にあてられた大広間には、ふたりの侍従が(習慣にしたがって)王のわきに寝ました。王は自分の受けたもてなしを非常に喜び、寝室に引き取る前に、おもだった役人たちに贈り物をし、特にマクベス夫人には、最も親切な女主人という名でよびかけ、りっぱなダイヤモンドを下賜しました。
今は地球上のあらゆる造化の半分は死んだように見え、悪夢が眠っている人の心を悩まし、おおかみと殺人者だけより家の外へ出ない真夜中でした。それがマクベス夫人が目をさまして、王を暗殺しようと計画した時刻でした。夫人は夫の性質があまりに自然の人情にあふれすぎていて、人殺しなどできそうもないという不安がなかったら、女性にとってそんな忌まわしい仕事の責任を負わなかったでしょう。彼女は夫が野心家であると同時に、気が小さくて、結局は普通に法外な野心家に伴う大罪をおかすだけの覚悟がないことを知っていました。彼女は夫に殺人をすることを承知させましたが、夫の性格(自分よりも慈悲ぶかい)の持ち前の弱さがあいだにわり込んできて、目的を失敗させるのではないかと心配しました。それで侍従たちには、あらかじめ酒をのませて酔いつぶれさせ、王のことなど忘れて眠るようにしておいたので、みずから剣を手にとって王の寝室へ近づきました。そこにダンカン王が旅の疲れでぐっすりと眠っていました、夫人はつくづくとその寝顔を見ているうちに、どこか自分の父に似たところがあったので、目的を果す勇気がなくなりました。
夫人は夫と相談するために引き返しました。夫の決心はぐらつき始めました。彼はその行いが不当である強力な理由をいくつか考えました。第一に彼は単なる従臣ではなく王の近親でした。次ぎに彼は当日の主人役で接待者でしたから、お客を接待する者の義務として、殺人者を防ぐために戸を閉じるべきで、みずから剣をにぎるなどとは、もってのほかです。それから彼はこのダンカンが正しくて慈悲ぶかい王であったこと、臣下に対して何の過失もなかったこと、貴族たちに対して親切で特に自分に目をかけてくれたことを考え、このような王には神の特別の御加護があるもので、その死に対して臣下たちは二重にも復讐する義務があることを思いめぐらしました。そのうえこの王の恩恵によりマクベスはあらゆる階級の人々のうちに名声を博しているのに、その名声も非道な殺人の評判によって汚されてしまうでしょう!
マクベス夫人はそうした心の闘争のうちに、夫の心が善の方にかたむいて、このうえは悪事を行うまいと決心するのを見てとりました。けれども夫人はよこしまな計画を立てた以上なかなか心をぐらつかせるような女性ではなかったので、一旦やりかけた仕事を恐れて投げだしてはならない理由をいろいろと設けて、自分の精神の一部を夫の心にしみ込ませるような言葉を彼の耳にそそぎこみ始めました。その仕事がどんなにたやすいか、その仕事がどんなに直ぐ終るかということ、たった一夜の短い行いが、これから先のすべての来る夜も来る昼も君主としての支配権と尊厳を彼らに与えることを語りました。次ぎに夫人は夫が目的を変更したことを侮辱し、彼の移り気と臆病を責めました。そして、自分は赤ん坊に乳ぶさを含ませたことがあるから、自分の乳を与えた赤ん坊を愛すことはどんなに情のあるものか知っているが、もし自分がその殺人を行うことを誓うように誓った以上は、その赤ん坊が自分にむかって微笑しているときでも胸から引きはなして、脳みそをたたきだしてしまうといいました。次いで彼女は殺人の罪を酔って眠っている侍従になすりつけることが、どんなに容易であるかということもつけ加えました。そして彼女の勇ましい舌で夫の緩慢な決意をひどくむち打ったので、彼はもう一度勇気を振い起して、その血なまぐさい仕事をやる気になりました。
そこで短剣を手にして彼は真暗な中を、ダンカンの眠っている寝室へと、しずかに忍び寄りました。その途中で、彼は空中にもう一本の短剣が柄を自分の方に向け、刃とその切先《きつさき》に血がしたたっているのを見たように思いました。けれどもそれを握ろうとすると、空気にすぎませんでした――それは熱し圧迫されている彼の頭脳と、これから着手しようとしている彼の仕事から起った、単なる幻影にすぎなかったのです。
この恐怖を振りすてて彼は王の寝室へはいり、短剣で一突きに王を殺してしまったのです。ちょうど彼が殺人をおかしたときに、そこに寝ていた侍従のひとりが眠りの中で笑いました。そしてもうひとりは「人殺し!」と叫びました。その声でふたりとも目をさましましたが、ふたりは短いお祈りをしました。ひとりが「神よわれらを恵みたまえ!」というと、もうひとりが「アーメン!」と答え、ふたりともまた眠ってしまいました。
そこに立って聞いていたマクベスはひとりが「神よわれらを恵みたまえ!」といったときに「アーメン!」と言おうとしましたが、自分が最も必要としていたのは神の恵みだったにもかかわらず、「そうあれかし」という意味のその言葉がのどにつかえてしまって、発音できませんでした。彼は今度は、
「もう眠りがない! マクベスが眠りを殺してしまった! 生命を育てる快い眠りを殺してしまったんだ!」と叫ぶ声をききました。その声は家中に「もう眠りがない! グラミズ公は眠りを殺してしまった! だからカウドア公はもう眠ることはできない、マクベスはもう眠れない!」と鳴りひびきました。
そういう恐ろしい想像におそわれながらマクベスは、聞き耳をたてている妻のところへ帰りました。彼女は夫が目的を達しそこなって、その仕事もどうやら失敗に終ったらしいと思っていたところでした。彼があまりに取り乱した様子ではいってきたので、夫人は彼の落ち着きのたりないのを責め、手を染めている血を洗いおとしに行かせておいて、自分は侍従たちの罪のように見せかけるために、彼らのほおに血をぬる目的で、その短剣を取りました。
朝がきて隠しておくことのできない殺人の発覚となりました。そしてマクベスと夫人は非常な悲嘆にくれている様子を見せましたし、ふたりの侍従に対する罪証は(ふたりの顔には血がつき、短剣は証拠物件として提出されたのです)十分に強力なものでした。それにもかかわらず、すべての疑いはマクベスのうえにかかりました。このような行動に対するマクベスの動機の方が、こんな哀れな愚かしい侍従が抱くだろうと思われる動機よりもはるかに有力だからでした。ダンカンのふたりの王子は逃走してしまいました。長男のマルコムは英国の朝廷へ避難し弟のドナルベインはアイルランドへ逃げたのです。
ダンカン王のあとを継ぐはずの王子たちがそんなふうに王座をあけたので、マクベスは次ぎの継承者として、王位につきました。こうして魔女の予言は文字どおりに成就したのでした。
それほどに高い地位にありながら、マクベスと王妃は、たとえマクベスは王となるとしても、彼の次ぎに王となるのは自分の子供ではなく、バンコの子孫だという、魔女の予言を忘れることができませんでした。ふたりは手を血でけがし、あれほどの大罪を犯していながら、バンコの子孫を王位につけるにすぎないという考えにあまり悩まされるので、自分たちのばあいにはみごとに実現した魔女の予言を無効にするために、バンコとその息子をなきものとする決心をしました。
この目的で彼等は大宴会をひらき、おもだった貴族をみんな招待しました、そのなかに特別の敬意を表して、バンコと息子のフリアンスも招かれました。その夜バンコが宮殿へ来るときにとおる道筋に、マクベスに雇われた刺客が配置されていて、バンコを刺し殺しました。けれどもフリアンスはその格闘中に逃げてしまいました。このフリアンスから、のちにスコットランドの王位をつぐ子孫が出て、やがてスコットランド王ジェームス六世とイングランド王ジェームス一世となるにおよんで、イングランドとスコットランドの二つの王位が一つに結ばれたのでした。
晩さん会の席上での王妃の態度はこのうえもなく上品で愛想よく、しとやかにいんぎんを尽して主婦の役をつとめて、列席者一人一人の好意を得ました。そしてマクベスは部下の貴族たちとうちとけて語りあい、もし親友のバンコさえここにいれば、国中の誉れ高き人々が全部自分の家にいることになるのだといいました。そしてバンコのうえに何か不幸があったことを嘆くよりも、むしろ彼が自分の招待をおろそかにしたことを責めなければならない様であってくれるように望むといいました。ちょうど彼がそれらの言葉を口にしたときに、彼に殺されたバンコの幽霊がそこへはいってきて、マクベスが腰かけようとしていた席に腰かけてしまいました。マクベスは大胆で悪魔にでも身震い一つせずに応対できる男でしたが、この恐ろしい光景を見て、恐怖に青ざめ、すっかり意気地がなくなり、ただ幽霊を見つめて立ちつくしているのでした。王妃にも貴族たち一同にも、何も見えなかったので、マクベスが、空《から》の(と彼らは思ったのです)いすを見つめているのに気づいて、精神錯乱の発作でも起したのだと思いました。王妃は、ダンカンを殺そうとしたときに空中に短剣を見させたと同じ幻想にすぎないとささやいて、夫をたしなめました。けれどもマクベスには、幽霊がなおも見えていたので、人々のいうことには耳をかさずに、取り乱してはいますが、意味のある言葉で幽霊に話しかけました。それで王妃は恐ろしい秘密がもれるのを心配して、マクベスがよくかかる持病だと言訳をして、できるだけ急いでお客を帰らせてしまいました。
マクベスはそのような恐ろしい幻影に悩まされていました。王妃も彼も恐ろしい夢に眠りを妨げられるようになりましたが、バンコの血以上にふたりを苦しめたのはフリアンスの逃亡でした。ふたりはフリアンスが、自分たちの子孫を王位から追いのける正当な王系の祖先になると考えていたからです。この不幸な考えを頭においているので、ふたりは心の平安を見いだすことができなくなりました。それでマクベスはもう一度運命の三女神をさがしだして、最後の一番悪いところを聞こうと決心しました。
彼は荒野のほら穴のなかに魔女たちを見つけました。かれらはマクベスの来るのを予知していて、自分たちに未来を見せてくれる地獄の魔物を呼び出す恐ろしいまじない薬の調製に取りかかっていました。その恐ろしい薬の材料は、ひきがえる、こうもり、へび、いもりの目、犬の舌、とかげのあし、ふくろの羽、りゅうのうろこ、おおかみの歯、大食いの塩海ざめの第四の胃、妖女《ようじよ》のみいら、毒にんじんの根(この効果を得るには暗やみで掘らなければならないのです)、やぎの胆汁、墓に根をはっている水松《いちい》の枝を添えたユダヤ人の胆嚢《たんのう》、それに死んだ子供の指などでした。それらをみんな大がまの中で煮たて、熱くなりすぎると、ひひの血でさましそれに自分の子を食べてしまった雌豚の血をつぎ込み、火炎の中には殺人者の絞首台からにじみ出たあぶらを投げ込みました。
こういうまじない薬で、魔女たちは地獄の魔物に自分たちの質問に答えさせるようにしたのです。
魔女たちは、マクベスにむかって疑問を自分たちに解いてもらいたいか、それとも自分たちの主人である魔物の解決を望むかと、質問しました。彼は今までに見た恐ろしい儀式に少しもおじけず、大胆に、
「魔物どもはどこにいる? 会わせてもらおう」と答えました。
そこで彼等が魔物を呼びましたが、それは三人でした。第一の魔物は頭にかぶとをかぶった姿で現われ、マクベスの名を呼んで、ファイフ公に警戒するように命じました。マクベスはファイフ公マクダフをそねんでいたのでその注意に対して感謝しました。
それから第二の魔物は血に染まった子供の姿で現われました。そしてマクベスの名を呼んで、女から生れた者は、何者も彼を害する力はないのだから人間の力などは笑って軽べつしてやれと命じ、彼に残忍で大胆で意志を強くもてと告げました。
「それではマクダフよ、生きていろ! 私はお前なんか恐れる必要はない! だが私は念には念をいれなければならない、お前は生かしてはおけない、それは青ざめた恐怖にむかってなんじはうそつきだと告げてやり、雷鳴の中でも安眠できるためだ」と王は叫びました。
その魔物が立ち去ると第三が王冠をかぶった子供の姿で、手に木をもって現われました。それもマクベスの名を呼んで、バアナムの森が彼に逆らってダンシネインの山へ来るまでは、だれも彼を征服することはないから、陰謀の心配などには及ばないと慰めました。
「吉兆だ! いいぞ! だれが地面に根をおろしている森を動かすことができるものか! 私は人間の天寿を保ち、非業の死などはとげないのだ。だがもう一つ聞きたくて胸がどきどきしている。もしお前の妖術がそれほど何でも告げることができるのなら、一体バンコの子孫がこの王国を支配するのかどうかを語ってくれ」とマクベスはいいました。
そのとき大なべは地面に沈んで、音楽の響きが聞えてきました。そして王のような八つの影がマクベスのわきを通り、最後にバンコが鏡を持って現われ、それには更に多くの人影が映っていました。全身血に染まったバンコは、マクベスを見て微笑し、鏡に映っている影を指さしました。それによってマクベスはそれらが彼の後でスコットランドを治めるはずのバンコの子孫であることを悟りました。そして魔女たちは静かな音楽とダンスでマクベスに対する敬意と歓迎の意を表しながら消えていきました。このときからマクベスの考えはすべて残忍な恐ろしいものとなってしまいました。
彼が魔女のほら穴から出て最初に聞いたのは、ファイフのマクダフ公が英国にのがれて、マクベスを廃して正当な相続人であるマルコムを王位につける目的で、故王の長男マルコムのもとに、マクベスに反抗して組織された軍隊に加わったということでした。激怒したマクベスはマクダフの居城を襲って、公があとに残していった妻と子供たちを刀にかけ、更にマクダフに少しでも親類関係のある者は一人のこらず虐殺してしまいました。
そのことや、それに類した行いがすべての主な貴族たちの心を彼から離れさせてしまいました。のがれ得る者はみんなのがれて、英国で募った強力な軍隊をひきいて近づいて来たマルコムとマクダフに協力しました。その他の者は、マクベスを恐れて実際の行動には参加しませんでしたが、心ひそかに反軍の成功を祈っていました。マクベスの新兵募集は、はかばかしくいきませんでした。だれもみんなこの暴君を憎みました。だれ一人として彼を敬愛する者はなく、皆が彼を疑っていました。彼は今になって自分が殺したダンカン王の身のうえをうらやみ始めました。彼は墓の中でぐっすり眠っていて、もうどんな反逆も何の害もおよぼさないのです、刃も毒も国民の恨みも、外国の軍隊も、もはや彼を傷つけることはできないのです。
こうしたことが起っている最中に、彼の悪事の唯一の共同者で、ときどきはその胸のうちにふたりが夜ごとに悩まされる恐ろしい夢から一時的の慰安を求めることのできた王妃が死んだのでした。王妃は自分の罪に対する後悔と民衆の憎しみに耐えきれなくなって自殺したものと想像されました。この件で彼は自分を愛し自分の世話をしてくれる人もなく、自分の邪悪な目的をうちあける友もなく、ひとりぼっちになってしまいました。
彼は命などはどうでもいいと思うようになり、死を望むようになりました。けれどもマルコム軍の接近は彼のうちに残っていた昔の勇気を振い起しました、そして彼は(彼の言葉によると)「背によろいをつけたまま」死のうと決心しました。それに魔女のむなしい約束が彼に誤った自信を持たせていました。彼は女から生れた者はだれも彼を害すことはできないとか、バアナムの森がダンシネイン山にくる(彼はそんなことは不可能だと思っていました)までは決して征服されないというような魔女の言葉を思い出していたのです。それで彼は居城に立てこもりました。この城は難攻不落でどんな包囲も物ともしなかったのでした。そこで彼は渋面を作ってマルコムのくるのを待っていました。するとある日使者が自分の見たことをほとんど報告もできないほどの恐怖に真青になって震えながら彼のところへ来ました。何しろ彼は上で見張りに立っているときバアナムの方を見ると、彼の思うには森が彼の方にむかって動き出したと証言しました。
「うそつきの奴隷め! もしお前のいうことがうそだったら、すぐそばの木にお前を生きながらつるして、餓死させるぞ! もしそれが真実ならお前がおれをそうしてもいい!」とマクベスは叫びました。マクベスは今決心が弱まって、魔女のあいまいな言葉を疑い始めたのでした。彼はバアナム森がダンシネイン山へくるまでは恐れる必要はなかったのでした。ところが今その森が動いたのです。
「しかし、たとえこの使者のいうことがほんとうだとしても、武装して外に出よう。ここから逃走することもここに止どまることもできないのだ。私は太陽にあきてしまい、自分の命が終わるのをねがっている」というすてばちな言葉とともに城に接近してきた包囲軍にむかって突進していきました。
森が動いて来たという考えを使者に抱かせたふしぎな現象はたやすく解決できました。包囲軍がバアナムの森を進軍してくるときに、マルコムは熟練した将軍らしく部下のひとりひとりに木の枝を一本ずつ切り取って、実際の兵員数をかくすためにその枝をからだの前にかざすように命令しておいたのです。この木の枝をかざした兵隊の進軍が、遠くから見た使者を驚かしたような光景となったのでした。こうして魔女の言葉はマクベスが解釈したのとは異《ちが》った意味で実現されました。そして彼の確信の大きなよりどころが一つ無くなったのでした。
今や激しい小ぜりあいが起り、その中でマクベスは、味方と自称していますが、じつはこの暴君を憎み、マルコムとマクダフの軍に加勢したがっていた人たちの頼りない援助を受けているのでしたが、それでも彼は極端な怒りと勇気をもって戦い、敵対する者たちをことごとく粉砕していくうちに、マクダフの戦っているところへ来ました。彼はマクダフを見て、あらゆる人々の中で特に避けるようにとすすめた魔女の警告を思いだして、できれば、きびすを返したかったのでしたが、この戦闘中ずっと彼をさがし求めていたマクダフは、彼を逃げさせないで、マクベスが自分の妻子を虐殺したことについて、いろいろと悪口をあびせ、ものすごい闘争となりました。マクベスの良心は既にマクダフ一家の流した血に苦しめられていたので、余計にこの戦いは避けたかったのでしたが、マクダフは彼を暴君だの、虐殺者だの、地獄の犬だの、悪漢だのと呼んで、あくまでも戦いをいどむのでした。
そのときマクベスは女から生れた者はだれも自分を傷つけることはできないといった魔女の言葉を思いだして、自信たっぷりに微笑しながら、
「マクダフ、骨折損だぞ! 私に傷をつけるのは刀で空気にあとをつけると同じことで、とうてい不可能だ。私は女から生れた者には決して負かされないという魔法のかかった命をもっているんだ」といいました。
「魔法なんかに頼るなよ、そして君の仕えている、うそつきの魔物に、マクダフは決して女から生れたのではなし、決して普通の人間が生れるときのようにして生れたのではなく、時ならぬ時に母親から取り出されたんだと、いってやりたまえ!」とマクダフはいいました。
「そんなことを私にいう舌はのろわれればいい!」と、マクベスは確信が最後のよりどころを失ってしまったことを感じて身を震わせながら、
「世の人々に告げる! 魔女や魔物の偽りのあいまいな言葉を信じてはならない。彼等は二重の意味をもつ言葉で我々を欺き、時には文字どおりに約束を守りながら、また、異なる意味で我々の希望を打ちこわしてしまうのだ。私は君とは戦わないつもりだ」といいました。
「それでは生きているがいいさ! 我々は人が怪物を見せものにするように、君を見せものにしよう、そしてペンキ塗りの看板に『暴君ここにあり』と書いてやろう!」とマクダフはさげすむようにいいました。
「断じてそんなことはさせん! 私は生きながらえてマルコムのような若者の前にへいつくばって毒づく言葉に悩まされるようなことはしない、よしんばバアナムの森がダンシネインまで来て、女から生れなかった君が敵対しようと、私は最後まで戦ってみせるつもりだ」マクベスは絶望のあまりかえって勇気が出てきて、そんな気違いじみた言葉とともにマクダフに襲いかかっていきました。
マクダフは激しい格闘の末にマクベスにうち勝って、彼の首を切り取って、若くて正当な王マルコムに献納しました。マルコムは横領者の陰謀によって長いあいだ奪われていた支配権を取りもどし、貴族や人民の歓呼の叫びの中で「柔和王」ダンカンの王座にのぼったのでした。
[#改ページ]
じゃじゃ馬ならし
意地悪キャサリンは、パデュアの富裕な紳士バプチスタの長女でした。彼女は激しい気性で、かんしゃく持ちで、大声でがなりたてる口やかましい婦人だったので、意地悪キャサリンという以外の名で呼ばれたことはありませんでした。この女性と結婚する勇気のある紳士を見いだすということはまずあり得ないだろうし、それは不可能と思われていました。それですから、バプチスタが、おとなしい妹娘ビアンカへのりっぱな申込みに承諾を与えるのを渋って、姉娘が滞りなく自分の手もとを放れてからなら若いビアンカに言い寄ってもいいという口実で、ビアンカの多くの求婚者たちを待たせておくというので、だいぶ非難されていました。
ところがわざわざ妻をさがしにパデュアへやって来たペトルキオという紳士が、キャサリンのそうした性質の評判などにびくともしないで、彼女が美人で金持だときいて、この有名な口やかましやと結婚して、おとなしい従順な妻にならしてやろうと決心したのでした。
実際この困難な仕事にとりかかるのに、ペトルキオほどうってつけな人物はありませんでした。彼の性格はキャサリンに負けないほど激しく、それに才気があって非常に陽気なおどけ者でした。と同時に利口で正しい判断力をもっていて、もともと気軽でのん気な性質でしたから、怒ったふりをしている自分を、おもしろがって笑うことができるほど落着いているときでも、どんなふうにして熱情的な激しい振舞いを装うかをよく心得ていました。彼がキャサリンの夫になったときに装った乱暴な態度は単なる冗談、あるいはもっと正確にいえば、気性の激しいキャサリンを征服する手段として、彼女と同じ激しさを用いなければならないという、彼の秀逸な見解にほかならなかったのです。
そこでペトルキオはキャサリンのところへ求婚に出かけました。そして先ず第一に父親のバプチスタに面会して彼のおとなしい令嬢キャサリン(と彼はいったのです)に求婚する許しを請い、わざとからかい半分に、彼女が内気でしとやかで態度が優しいと聞いて、彼女の愛を求めるためにベロナから来たのだといいました。父親は長女が結婚するのを望んではいましたが、キャサリンがどんな優しい態度をするかが、すぐにばれてしまったので、娘の性格が彼のあげたのとは符合しないということを白状しなければなりませんでした。というのは、そのへやへ音楽教師がとび込んできて、彼の生徒であるおとなしいキャサリンが自分の演奏のまちがいを指摘されたと、ひとりぎめして、教師の頭をリュート(訳注 ギターに似た楽器)でなぐって、けがをさせたと訴えたのでした。それをきいてペトルキオは、
「こいつは勇敢なお嬢さんだ! 前よりももっと好きになった、早くしゃべり合って見たいものだ」といって、老紳士にはっきりした返事をするようにせきたてて、
「バプチスタさん、私は話を急いでいるんです。毎日求婚しにくるわけにはいかんですからね。あなたは私の父をごぞんじですね、あの父が死んで私に不動産や動産を遺してくれたんです。さて、もし私がお嬢さんの愛を得たとしたら、持参金をどれくらいつけてくださるかお聞かせください」といいました。
バプチスタは彼の態度はどうも求婚者として無骨だと思いましたが、キャサリンを結婚させてしまえるのを喜んで、彼女に二万クラウンの持参金と、自分が死んだら不動産の半分を与えると答えました。そこでこの奇妙な縁組は急速に取りきめられ、バプチスタは口の悪い娘のところへ、彼女の恋人の求婚を知らせに行き、ペトルキオの口説《くぜつ》を聞きにやらせました。
一方ペトルキオはこれから自分がやろうとする求婚の方法を次ぎのように決定していました。
「彼女が来たら相当勇敢に言い寄ってやろう。もし彼女が毒づいたら、それこそ、まるでうぐいすの様に美しく歌っているといってやるんだ。もし彼女がしかめっ面したら、露に洗われたばかりのばらの花のようなはればれとした顔をしているといおう。もし彼女が一言も口をきかなかったら、彼女の雄弁を賞めるし、私に出ていけといったら、一週間もそばにいてくれといったことを感謝してやるんだ」
さて、いかめしきキャサリンがはいって来ました。するとペトルキオはまず、
「お早うケイト君、ケイトっていうのが君の名なんだってね」と話しかけました。
キャサリンはこの気取らないあいさつが気にくわなかったので、
「私に話をする人たちはみんな私をキャサリンと申します」と、相手をさげすむように言いました。
「うそおっしゃい、あなたは十人なみケイトとか、ちょっときれいなケイトとか、時には意地悪ケイトと呼ばれているくせに! だがケイト君は全キリスト教徒の中で一番美しいケイトですよ。それに君はどこの町でも優しい人だという評判なので、私は細君にしようと思って求婚に来たんですよ」とこの恋人はいうのでした。
奇抜な求婚をやったものです。女の方では大声で怒りちらして、意地悪キャサリンという名にふさわしいところを示し、男の方ではあくまでも彼女のやさしい親切な言葉をほめそやしているのでしたが、父親の来る足音をきくとペトルキオはついに、
「かわいらしいキャサリンさんや、さあこんなむだ話はやめにしよう、御父上は君が私の妻になることに同意して持参金のことまできめられたんだから、君が望もうが望むまいが、私は君と結婚するんだからね」といいました。
そしてバプチスタがはいってくるとペトルキオは彼の娘が親切に自分を受けいれてくれて、次ぎの日曜日に結婚してくれると約束したと告げました。キャサリンはそれを否定し、自分は彼が日曜日に絞首刑になるのを見た方がましだといい、自分をこんなペトルキオのような無鉄砲なごろつきと結婚させようとするといって父を責めました。ペトルキオは父親に彼女の怒っている言葉など気にかけないでほしい、なぜなら彼女は父親の前では気がすすまないようにしているけれども、ふたりだけのときには非常に情愛がこまやかなのを自分は見いだしたのだというのでした。それから彼女にむかって、
「ケイト婚約してくれたまえ、私はわれわれの結婚式の日のために君にりっぱな衣装を買いにベニスへ行く。父上は祝宴の準備をしてお客を招いておいてください。私はわがキャサリンがすばらしくなるように、指輪だの美しい装飾品だのりっぱな衣装を必ず持ってくるからね、さあケイト私にキッスをしてくれたまえ、私たちは日曜日に結婚するんだもの」といいました。
日曜日には結婚式のお客が全部集ったのに皆はペトルキオが来るまで長いこと待ちました。キャサリンはペトルキオが自分を単なる笑いものにしたのだろうと心配して涙を流していました。けれどもついに彼が現われました。ただし彼はキャサリンに約束した花嫁衣装など何も持って来ませんでしたし、まるで結婚という厳粛なことを茶化すつもりで来たように自身も花婿の装いなどせず、変なだらしのない服装をしていました。それから彼の従者も、ふたりの乗ってきた馬までも同じように風変りなみすぼらしい装いをしていました。
ペトルキオに服を着かえるようにときつけることはできませんでした。彼はキャサリンは服と結婚するのではなく自分と結婚するのだといいました。彼と議論をしてもむだなことだとわかったので、ふたりは教会へいきましたが、そこでも彼は同じような気違いじみた行動をするのでした。というのは、牧師がペトルキオにキャサリンを彼の妻にするかと尋ねたときに、彼は途方もない大声をあげてそれを誓って皆をびっくりさせ、牧師は聖書を取り落しました。それで牧師がそれを拾うために身をかがめたところをこの頭の狂った花婿はひどくなぐったので牧師はころんで、またしても聖書を落してしまいました。そして結婚式のあいだ中彼は足踏みをしたり、毒づいたりしていたので気の荒いキャサリンも恐ろしがって、がたがた震えていました。儀式が終ると、彼はまだ皆が教会にいるうちに、酒を取り寄せて、来客一同の健康を祝して騒がしく乾杯し、杯の底の残りかすを執事の顔にぶっかけました。しかもその奇怪な行動に対して彼の与えた理由は、執事のあごひげが薄くていかにもひもじげにはえていて、自分の飲みかすを欲しがっているように見えたからというだけのものでした。こんな気違いじみた結婚式なんてあったものではありませんでした。けれどもペトルキオが、こうした乱暴をしたのも、口やかましい妻をならそうとして作りあげた計画を、いやがうえにも成功させるためにほかならなかったのでした。
バプチスタは豪華な結婚祝いの宴会を準備しておいたのに、教会からもどるとペトルキオはキャサリンをつかまえてしまって、すぐに妻を家へ連れていくという意志を発表しました。そして義父の抗議も、憤慨するキャサリンの激しい言葉も彼の決意を変えさせることはできませんでした。妻を自分の思うままに処置する夫の権利を主張して、彼はさっさとキャサリンを連れ去りました。彼があまり大胆で決然としていたので、だれもすすんでとめようとする人はありませんでした。
ペトルキオはわざわざそのために選んでおいた、やせ細った貧弱な馬に妻を乗せ、自分も従者もそれに劣らないひどいのに乗りました。その三人はでこぼこのぬかるみ道を旅行しました。そしてキャサリンの馬がつまずくたびに、彼はまるでこの世で一番短気な人間であるかのように、重荷にたえかねて、やっとはっているようなその馬を怒鳴りつけたり、毒舌をあびせたりするのでした。
うんざりするような旅をしてようやく一同は家へ到着しましたが、途中キャサリンは、ペトルキオが従者や馬にむかってわめく声のほか何も聞きませんでした。ペトルキオは新妻を家庭にやさしく迎えましたが、その晩は彼女に休息も食物も与えない決心でした。食卓の用意ができ、直ぐに夕飯の知らせがありました。けれどもペトルキオは、どの料理にも難くせをつけて、肉をその辺に投げつけて、召使にそれを持ち去れと命じました、それもキャサリンへの愛ゆえで、よく調理してない肉など彼女に食べさせてはならないからだというのでした。それからキャサリンが疲れて、食事もせずに寝るだんになると、彼はまたしても前と同様に寝床のこしらえ方に難くせをつけて、まくらも敷布も室内にまきちらしてしまったので、キャサリンは仕方なしに、いすに腰かけましたが、彼女はうとうと眠りかけると、すぐに妻の新婚の寝床の用意のしかたが悪かったといって、召使たちを怒鳴りつける夫の声に目をさまされてしまうのでした。
翌日もペトルキオは同じ方針を押しすすめあい変らずキャサリンに親切な言葉をかけながら、彼女が何か食べようとすると、彼女の前に並ぶ料理にいちいち難くせつけて、夕食のときにしたように朝食をみんなゆかに投げ捨ててしまいました。それでキャサリンは、あの高慢なキャサリンは、仕方なしに召使に一かけらの食物でもいいから、そっと持ってきてくれと頼む気になりました。けれどもペトルキオの内命を受けている召使たちは、御主人にかくして、どんな物でもさしあげるわけにいかないと答えるのでした。
「ああ、夫は私を餓死させるために結婚したのかしら? お父様の戸口へ来たこじきは、みんな食物を与えられたのに! 他人に何か懇願するなんてどんなことか知らなかった私が、食物の不足で飢え、睡眠の不足で目がまわっているし、毒づく声に目をさまされ、口やかましさにうんざりさせられているなんて! 何よりも私を悩ますのは、私が食べたり眠ったりすることが命にかかわるかのように装うて、完全な愛の名目のもとに夫がこんなことをみんなしているということだわ……」そこで彼女のひとりごとは、ペトルキオがはいってきたので中断されました。彼は妻をほんとうに飢えさせてしまう気はなかったので、少しばかり食物を持ってきたのです。そして、
「優しいケイトや、ごきげんはどうだね? 私がどんなに忠実だか見ておくれ、愛する妻よ、私は君のために自分で肉を料理したんだからね。この親切はたしかに感謝に値すると思うね。何だ一言もいわないのかい、さては君は肉なんか好かないんだな、すると私はむだ骨折りしたわけか」といって、彼は召使に命じてその料理をさげさせようとしました。
内心は怒っていましたが、極度の空腹がキャサリンの自尊心をやわらげて、彼女に、
「どうぞ、これをそこに置いてください」といわせました。
けれどもペトルキオはそれぐらいですませる気はなかったので、
「どんなわずかな奉仕でも感謝の言葉が返されるものだ。だから君がその肉に手をつける前に私の奉仕が感謝されるべきだね」といいました。それに対してキャサリンはしぶしぶながらの「ありがとうございます」を発表しました。
「ケイトや、それは君の優しい心にも大いにためになるだろうよ、さあ早くお食べ! それからわが美しき愛妻よ、われわれはお父様の家へ帰って、絹服や帽子や黄金の指輪や、ひだえりやスカーフや扇や、それから二倍もの着がえの衣装で、君のそのもっとも美しいところを思いきりはなやかに見せようではないか」といいました。
そして彼がほんとうにそれらのりっぱな品々を与えることを彼女に信じさせるために、仕立屋や雑貨商人を呼びました。商人たちは、彼が妻のために言いつけておいた新しい生地類を持ってきました。するとキャサリンがまだ空腹を半分も満たさないうちに、彼は召使に皿をさげさせておいて、
「おや、もう食事をすませたのかい」というのでした。
雑貨商は、
「御前様、ごちゅうもんのお帽子でございます」といって縁なし帽子をさし出しました。するとペトルキオはそれに対してまた新たにわめきたて、その帽子のことを、おかゆを食べる茶わんで型を作ったもので、海扇貝《いたちがい》か、くるみのからほどの大きさもないといって、雑貨商に持ち帰って、もっと大きく作り直してくるように希望しました。
「私、それをいただきます、淑女たちはみんなそういうのを、かぶっていますもの」とキャサリンがいうと、ペトルキオは、
「淑女というなら読んで字のごとくしとやかな女になったら、君もかぶるがいいが、それまではだめだね」と答えました。
キャサリンの食べた肉が彼女の消沈していた意気をいくらかよみがえらせたので、
「あなた! 私は口をきく自由をもっていると思いますから申しますわ、私は子供でもなければ赤ん坊でもありません、あなたの長上の人たちだって、私が思うことをいうのを辛抱して聞いていましたのよ。もしあなたにその辛抱がおありにならないんだったら、耳をおさえていらしたらいいわ」とキャサリンはいいました。
ペトルキオは、そうした怒った言葉には耳をかしませんでした。なぜかというと、彼は幸いにも妻とわいわいいい争うよりも、もっとすぐれた妻の操縦法を発見していたので、
「実際君のいうのが正しい、こいつは取るにたりない帽子だ、君の気に入らなくて、うれしいよ」といいました。
「あなたがうれしくたって、うれしくなくたって、私はこの帽子をもらいます、さもなければ何もいりません」とキャサリンはいいました。
「そうか、君は服の方を見たいっていうんだね」ペトルキオはあい変らず相手のいうことを思いちがいしているふりをしていました。
すると仕立屋が進み出て、彼女のために作ったりっぱな服を見せました。彼女に服も帽子も与えない意志だったペトルキオは、その服の欠点をできるだけたくさん指摘して、
「あきれたものだ! こいつは一体何だ! これをそでだというのか! まるでアップルパイのふたのように、上下に切りこみをつけた大砲の半分みたいじゃないか」といいました。
「御前様は、今の流行に従って作れとおおせられましたので」と仕立屋はいいました。
キャサリンは、これほど流行にかなった服は見たことがないといいました。それはペトルキオの思うところでした。そしてひそかにその商人たちにそれらの商品の代金を支払うようにして、この奇怪に見える待遇の説明をしておいたのですが、彼は激しい言葉と、すさまじい剣幕で仕立屋と雑貨商をへやから追いだしてしまいました。それからキャサリンの方をむいて、
「さて、ケイトや、私たちは今着ているみすぼらしい服のままでもいいから、お父様のところへ行こう」といいました。
次ぎに彼は馬の用意を命じ、まだ七時だから昼食時までにはバプチスタの家へ着くだろうと断言しました。ところが彼がそういったのは早朝ではなく昼ごろだったので、彼の態度の激しさに圧倒されんばかりになっていたキャサリンは、ひかえめながらも思いきって、
「ねえ、あなた、私申しあげますけれど、今は二時ですのよ。ですから私どもが着かないうちに、夕食時になりますわ」といいました。
しかしペトルキオは、妻を父のところへつれて行くまでに、彼のいうことには何でも同意するぐらい完全に彼女を征服するつもりでしたから、まるで太陽さえも支配し時間をも指揮できる君主であるかのように、自分が何時に出るときめれば、自分の出発するときがその時間なのだといい、
「私のいうことやすることを何でも君は邪魔しているからきょうは行くのはやめだ。今度私が行くときは、私が何時といったその時間なんだからね」というのでした。
キャサリンは更に一日新しく発見した服従の練習を強制されました。そして反対という言葉がどこにあったか思いだせなくなるほどに彼女の高慢な性格が完全に征服されるまでは、ペトルキオは妻が父の家へ行くことをゆるしませんでした。そしてふたりがそこへ向かう途中でさえも、夫が昼間、月がこうこうと輝いていると断言したときに彼女が太陽だということをほのめかしたばかりに、危うくあともどりをさせられそうになりました。
「さて、私の母のむすこにかけて、つまりそれは私のことだが、君のお父様の家へ旅だつ前に、月あるいは星または何でも、私がそうときめたものにしてしまわなければならないんだ」と彼はいうのでした。
しかしキャサリンはもはや意地悪キャサリンではなく、従順な妻でしたから、
「私たち、こんなに遠くまで来てしまったんですもの、お願いですわ、前へ進みましょう。これからは太陽でも月でも何でも、あなたのお気に召すものでよろしいですわ。もしあなたが灯心草で造ったろうそくだとおっしゃるなら、私にとってはそれでいいと誓いますわ」といいました。
彼は妻の言葉を確かめるつもりで、
「おい、あれは月だぞ」と再びいいました。
「私、月だと思いますわ」とキャサリンは答えました。
「君はうそをいっている、あれは結構な太陽だ!」と彼はいいました。
「それなら結構な太陽ですわ。けれどもあなたが太陽でないとおっしゃれば、太陽ではありませんわ。あなたが何という名をおつけになろうと、キャサリンにとってはその名のとおりですし、いつだってそうなんです」とキャサリンは答えました。
そこで初めて彼は、彼女に旅をつづけることをゆるしました。けれども更に、この従順な気持が長続きするかどうかをためすために、途中で出会った老紳士にむかって、まるで若い女性に話しかけるように、
「お早うございます、お嬢さま」といい、キャサリンにむかって老人のほおの白いところや赤いところをほめ、彼の目を二つの輝く星になぞらえ、こんな美しい女性を見たことがあるかと尋ねました。そして再び老紳士に、
「美しく愛らしいおとめよ、もう一度こんにちわ!」といってから妻にむかって、
「やさしいケイトよ、美しいお嬢さんだから抱きしめておあげ」といいました。
今や完全に征服されているキャサリンは、すぐに夫の意見を自分のものにして、同じふうにその老紳士に、
「若いつぼみのおとめよ、あなたはお美しくいきいきとしておかわいらしい。あなたはどちらへおいでになりますの? あなたのお家はどこですの? こんな美しいお子さんをお持ちになる御両親はお幸福ですわね」といいました。
「これはまたどうしたことだい! ケイトや君は気が狂っているんでなければいいと思うね、これは男で年寄りで、しわくちゃで、色あせて、しなびていて、君のいうようなおとめではないよ」とペトルキオがいいました。
それに対してキャサリンは、
「老紳士さま、ごめんあそばせね、太陽があまりぎらぎら目にあたったものですから、見るものがみんな緑色に見えるんですの。今、私はあなたがお年を召した紳士でいらっしゃるのに気がつきましたの。とんでもない私のまちがいをおゆるし願いたいとぞんじますわ」といいました。
「寛大な御老人よ、どちらへ御旅行なのかおきかせください。私どもと同じ方向へおいでになるんでしたら、あなたの御同行をうれしく思います」とペトルキオがいいました。
「りっぱなだんな様、それから陽気な奥様よ、あなた方との奇妙な会合に私はえらくびっくりいたしましたですよ。私の名はビセンシオと申し、これからパデュアに住んでいるむすこをたずねていくところであります」と老紳士は答えました。
ついでペトルキオはその老紳士が、バプチスタの妹娘ビアンカと結婚した若紳士ルセンシオの父であることを知りました。それで彼はビセンシオの息子がその縁組で金持になることを語りきかせて老人を喜ばせました。
そこで一同はバプチスタの家に着くまで、たのしく旅行をしました。バプチスタは、キャサリンが手もとをはなれたので、ビアンカの結婚をよろこんで承諾したので、ビアンカとルセンシオの結婚を祝うために、バプチスタ家には大ぜいの人が集っていました。
三人がはいっていくと、バプチスタは、結婚の祝宴に一同を歓迎しました。その席にはもう一組新婚の夫婦がいました。ビアンカの夫のルセンシオと、もうひとりの新婚の男のホテンシオは、ペトルキオの妻の片意地な性質を、あてつけるような人の悪い冗談をいわずにはいられませんでした。そのふたりの盲信的な花婿は、自分たちの選んだ婦人の温和な性質にたいそう満悦のていで、自分たちより不運な選択をしたペトルキオを笑っていたのでした。
晩の食事のあとで、婦人たちが寝室へ退くまで、ペトルキオは、その冗談を気にとめずにいましたが、そのときになって彼は、バプチスタ自身まで彼を笑いものにする仲間入りしたのに気がつきました。というのは、ペトルキオが自分の妻は彼らの妻よりも従順であることを証拠だてるだろうと断言すると、バプチスタは、
「さて、ペトルキオさんや、本当にあなたは、がみがみ女のなかでも一番手におえないのを妻にしなすったと思いますよね」といいました。
「これはしたり、私は否といいますね、だから私のいうことが真実だということを証明するために、各自に妻をよびにやって、一番従順に呼ばれてすぐ来た妻をもつ夫が、みんなできめておいたかけ金を取ることにしようではありませんか」とペトルキオはいいました。
他のふたりの夫は自分たちのおとなしい妻の方が気の強いキャサリンよりも従順であることを立証する自信たっぷりだったので、すすんでそれに賛成しました。そこで彼らは二十クラウンのかけ金を申し出ました。するとペトルキオは自分は、そんな少い金は狩猟用のたか[#「たか」に傍点]とか猟犬にかけるが、自分の妻にはその二十倍はかけると陽気にいいました。
ルセンシオとホテンシオは、かけを百クラウンにせりあげました。そしてルセンシオが第一に自分の召使をやってビアンカに来てもらいたいといわせました。しかし召使はもどって来て、
「だんな様、奥様はいそがしくておいでになれないというお伝言でございます」というのでした。
「何だって? いそがしくてこられないって? それが妻たる者の答えだろうか」とペトルキオがいいました。
すると皆は笑って、キャサリンがそれよりもっと悪い返事をよこさなかったら大したものだと、いいました。
さて、つぎはホテンシオが妻を呼びにやる番でした。それで彼は自分の召使に、
「行って私の妻に来てくれるようにお願いしてこい」といいました。
それを聞いてペトルキオは、
「やれやれ、お願いするのか! いや、それではどうしたって来ないわけにいかないだろうさ」といいました。
「だが君、君の細君はお願いなんか受付けないだろうぜ」とホテンシオはいいました。
ところがやがて召使が奥方をつれずにもどって来たので、この礼儀をわきまえた夫は、いささか元気のない顔つきになりました。そして彼は、
「おや、おや、私の妻はどこにいるね?」といいました。
「だんな様、奥方はあなた様が何か大きな冗談をしておいでになるらしいから伺えないとおっしゃいました、そしてあなた様の方でおいでくださいますようにということでした」といいました。
「ますます悪くなる!」とペトルキオはいいました。そして、
「サイラ、奥さんのところへいって、私が来いと命じたといえ」といって召使をやりました。
そこにいた人たちが、彼女はこの召使に応じないだろうなどと考える暇もないうちに、バプチスタがびっくりして、
「これはたまげた! キャサリンが来た!」と呼びました。そして彼女はペトルキオに、
「私をお呼びになりましたご用は何でございますの」とおだやかにいいながらはいってきました。
「君の妹やホテンシオの細君はどこにいるんだね」と彼は尋ねました。
「あの人たちはお客間のストーブのそばにすわって相談ごとをしていましたわ」とキャサリンは答えました。
「いってふたりをここへ連れて来たまえ!」とペトルキオがいうと、キャサリンは返事をするより先に夫の命令を遂行するために急いで行きました。
「もし不思議について語るというなら、ここに不思議ありだ」とルセンシオがいいました。
「そのとおりだ。これは何を前兆しているのか、驚き怪しむばかりだ」とホテンシオがいいました。
「全くさ! これは平和と愛と静かな生活と、最高の主権の前兆なのさ、一口にいえば甘美で幸福なものすべての前兆なのさ」とペトルキオはいいました。
娘のこの改心を見て喜びにあふれたキャサリンの父親は、
「さて、ペトルキオさんや、あなたは全く好都合にいきましたわい、あなたはかけに勝ちなすったし、そのうえに私は別の娘にやるつもりで、更に二万クラウンの持参金をつけ加えますよ。実際あれは今までいたことのない娘みたいに変ってしまいましたからね」といいました。
「それには及びません、私はもっといいかけ金を手に入れますからね、私は妻の新しく築きあげた美徳と従順の証拠をもっとお目にかけますよ」とペトルキオはいいました。
そこへキャサリンが他のふたりの婦人を連れてはいって来たので、ペトルキオはなおも言葉をつづけて、
「私の妻が女らしい説得力であなた方の強情な細君たちを、とりこにして連れて来たところを見てごらんなさい! キャサリン、君のその帽子は似合わないよ、そんなつまらないものは、ぬいで足の下に投げつけてしまいなさい!」といいました。
キャサリンは即座に帽子をぬいで下へ投げすてました。
「あら! 私はこんなばかげた破目になるような苦労は決してしないわよ」とホテンシオの妻がいうと、ビアンカも、
「ちえっ! こんな愚かな妻の本分が何だっていうのよ」といいました。
するとビアンカの夫は、
「私はあなたの本分がこんなふうに愚かなものであってくれたらよかったと思いますよ、美しいビアンカさん、あなたの妻の本分に対する分別のおかげで、私は夕食後から今までのあいだに百クラウンも損をしました」といいました。
「私の本分なんかでかけをするなんて、あなたは、なおさらおばかさんだわ」とビアンカはいいました。
ペトルキオは、
「キャサリン、このふたりの強情な婦人たちに夫である御主人に対して妻は如何なる本分をつくすべきか教える責任を君に負わせるよ」といいました。
すると居合せた人々一同が驚いたことには、この改心した強情婦人が、ペトルキオの意志によろこんで服従することを完全に身につけてしまっていて、妻の本分たる服従を賞賛して、とうとうと弁じたのでした。
かくしてキャサリンは以前のように意地悪キャサリンではなく、市中で最も従順で妻の本分を心得ているキャサリンとして、もう一度パデュアで評判になったのでした。
[#改ページ]
十二夜
セバスチャンとその妹ビオラはメッサリンの紳士淑女で双生児でした。(それは非常に珍しいこととされていました)そしてふたりは生れたときから大変によく似ていて、着物の相違がなかったら、どっちがどっちだか見わけがつかないほどでした。ふたりは同じ時刻に生れたのでしたが、今同じ時刻に死の危険にさらされていました。というのは、ふたりがいっしょに航海しているうちに、イリリヤの海岸で船が難破したのでした。
ふたりの乗っていた船が暴風雨のなかで、岩に打ちつけられて、ごく少数の乗組員だけが、命がけで脱出したのでした。船長は数人の水夫とともに小舟で陸に着きました。そして彼らとともにビオラも無事に上陸させました。気の毒な令嬢は自分が助かったことを喜ぶよりも、兄を失ったことを嘆き悲しみました。しかし船長は、船が裂けたときに彼女の兄が岩丈な帆柱にしっかりとつかまっているのを見たし、遠くから見えるかぎりその帆柱が波の上に高く彼をささえているのを認めたと証言して、彼女を慰めました。
ビオラはその説明で希望を得て、大そう慰められました。そこで今度は自分の家から遠くはなれた外国で、自分の身をどう処置したらいいかを考えました。それで彼女は船長にイリリヤについて何か知っているか尋ねました。
「はあ、よく知っておりますとも、お嬢さん、私はここから三時間の旅で行ける土地で生れたんですからね」と船長は答えました。
「どなたが、ここを治めていらっしゃるのですか」とビオラはいいました。
船長はイリリヤを支配しているのは、人格も風さいも立派なオーシオ大公だといいました。ビオラは自分の父がオーシオ大公のことを話したときに、彼が独身だといったのを聞いていたといいました。
「今でも独身ですよ、少くもごく最近まではそうでした。私が一月前にここを出帆するときには、世間で(しもじもの者はとかくえらい人たちの行動を勝手にうわさするものです)オーシオが貞淑な美しいオリビア姫という子爵の令嬢に求婚していると話しあっていましたよ。その父子爵は十二カ月前にオリビアを兄の保護下にのこして死んだのですがね、その兄も死んでしまったんですよ。それで姫はなき兄を慕うのあまり、男に面会するのも、交際するのもきらっているということです」と船長はいいました。
自分も兄を失って悲しい思いをしているビオラは、兄の死をそんなにふかく嘆いているその姫とともに暮したいと願いました。ビオラは船長に、自分は喜んでその姫に奉公するつもりだから紹介してくれと頼みました。しかし船長はオリビア姫は兄の死後は、何人も自分の家へ出入りすることをゆるさないから、その目的を果すのはむずかしいだろうと答えました。するとビオラは別の計画をたてました。それは男装してオーシオ大公の小姓として仕えることでした。若い淑女が男装をして、男として過すなんて、途方もない気まぐれにちがいありませんが、若くて非常に美人で、知らぬ他国にひとりぼっちでだれも保護してくれる人のない寂しいビオラの身のうえでは、やむを得ないこととしてゆるされるべきでした。
ビオラは船長のりっぱな行いや、自分の幸福を心から気づかっていてくれることを観察していたので、自分の計画をうち明けました。すると彼は、二つ返事で助力にとりかかりました。ビオラは船長にお金を渡して、セバスチャン兄がいつも着ていたと同じ型と、同じ色の服を買い、その他必要な手回り品を調達してくれるように頼みました。彼女が男装すると兄にそっくりに見えました。それがふたりをとりちがえさせるような妙な間違いを引き起したのです。というのは、あとでわかったことですが、セバスチャンも救助されていたからです。
ビオラの良き友である船長は、宮廷でいくらか勢力をもっていたので、この美しい令嬢を男に変えてしまうと、セサリオという変名でオーシオに紹介しました。大公はこの美青年の言葉づかいや上品な態度をひどく喜んでセサリオを小姓のひとりにしました。それはビオラが希望していた役柄でした。彼女は新しく得た地位での役目を忠実に果し、主人に対していつも行届いた奉仕とふかい敬愛を示していたので、じきに大公の一番お気に入りの従者となりました。
大公はセサリオに、オリビア姫への恋物語をすっかりうち明けました。そして自分の長いあいだの奉仕を拒みつづけ、自分を軽んじ、面会を拒絶している姫に対する長いあいだの不成功な求婚についても語りました。彼をそんなにすげなく扱う姫への恋ゆえに、高貴なオーシオは、今までたのしんでいた男性的な運動も野外のスポーツもすべて捨てて、家にひきこもり、静かな音楽や、甘い歌や、情熱的な恋の歌など、女々《めめ》しい音に耳をかたむけて、不面目にも怠惰な時を過すようになっていました。そして今までよく会っていた、賢い学識のある諸公たちとの交際もおろそかにして、一日中若いセサリオとばかり話しこんでいました。謹厳な朝臣たちは、以前はりっぱな主人であった偉大なオーシオ公にとって、セサリオは不適当な話相手だと考えて、にがにがしく思っていました。
男ぶりの好い若い大公の腹心の友となるのは、若い女性にとって危険なことです。悲しいことにその事実をビオラはあまりに早く発見しなければなりませんでした。オーシオ大公がオリビア姫に対して抱いているすべての思いを語るのをきいているうちに、ビオラは自分が大公への思慕の念に悩んでいるのに気づきました。彼女はオリビアがどうしてこの比類ない君主をそんなに無視することができるのだろうと不思議でなりませんでした。彼女はオーシオを見てだれでもふかく感嘆しない者はないと思っていました。それで彼女は大公のもつりっぱな特色に対して盲目な姫をそんなに愛するとは残念なことだと、穏かにほのめかして、
「もしあなたがオリビア姫をお愛しになるように、だれかあなたを愛す女性があったとして(おそらく一人はそういう女があるでしょう)あなたがその愛に報いることがおできにならぬばあいは、あなたはそうおっしゃいますか、そしてその女性はその答えに満足していなければならないのでしょうか」といいました。
しかしオーシオはその理論を認めませんでした。なぜかというと大公は自分が姫を愛すほどにどんな女性でも人を愛すことができるはずはないと考えていましたから、自分のオリビア姫に対する愛を、ほかのどんな女性の愛とでも比較するなんて、不都合だと思ったのでした。彼はどんな女の心も、自分ほど沢山の愛をいれておくほど大きくはないというのです。
ビオラは大公の意見を非常に尊重していましたが、その考え方には反対せずにいられませんでした。彼女は自分の心はオーシオと同じぐらい愛情に満ちていると考えていたのです。
「ああ、しかし、大公様、私は知っております」と彼女はいいました。
「セサリオ、お前は何を知っているというのだね?」
「女が男に対してどれほどの愛情を抱いているかを私はよく知っております、女性の心もわれわれ同様に誠実なものです、私の父は娘をもっておりましたが、その娘は、もし私が女であったらあなた様を愛すだろうと思うほどに、ある男性を愛しておりました」
「で、その娘の恋物語は?」
「何も書いてありません、なぜかと申しますと、娘はその恋心を一言《ひとこと》も口にださないで、つぼみの中に虫をひそめておくように、美しい花のかんばせを、むしばむに任せたのでした。彼女は思い悩みやせ細っていきましたが悲哀にうちひしがれていながらも、まるで悲哀の像を見つめている忍耐の石像のように微笑をうかべているのでした」
大公はその娘はこがれ死《じに》してしまったかと尋ねましたが、その問いに対してビオラは答えをにごしてしまいました。おそらくビオラは大公に対していだいている秘めたる恋と、無言の悲しみとを言葉にあらわすために、その物語を作りあげたものだったのでしょう。
ふたりが話しているところへ、大公がオリビア姫のもとへやった使者がもどって来て、
「おそれながら申しあげます、私は姫の御前に出ることはゆるされませんで、小間使からこういうお返事を承ってまいりました。今から七年間は外出いたしません、ただ尼僧のようにベールをかぶって家の中を歩き、なき兄への悲しい思い出の涙をへやに注ぐだけでございます、ということでございます」といいました。
それをきいて大公は、
「死せる兄にそんなに愛情をそそぐほどの心ばせの姫なら、一度愛の使者の射る黄金の矢が心臓に当った暁には、どんなに私を愛すようになるか知れない!」と叫びました。そしてビオラにむかって、
「セサリオ、私は心の秘密をみんな話してきかせたんだから、お前は私がどんなに姫を愛しているか知っているね。だから、いい子だ、オリビア姫の家へいってくれないか? 面会を謝絶されないようにするのだぞ。姫のへやの戸口に立って、自分の述べる口上を聞いてもらえなければ、樹木のように足に根がはえるまで立っているというのだ」といいました。
「で、姫にお話しすることになったら、何と申しあげるのですか」とビオラはいいました。
「私の熱心さを姫に伝えてくれ。私の絶えることなく変りない愛を大いに弁じるのだ。姫は年輩の者よりも若い者に対するほうが、きっと気がおけなくていいだろうから、お前は私に代って求婚するにはうってつけだと思う」とオーシオは答えました。
そこでビオラは出かけていきました。だが彼女は、自分が結婚したいと望んでいる人の妻となるべき姫のところへ求婚にいくのですから、決して喜んでいったわけではありませんでした。とはいえ、一旦ひき受けた以上は、忠実に自分の役割を演じました。
さてオリビアはまもなく青年がへやの外で自分に会わせてくれと、せがんでいるのを聞きました。召使は姫のところへきて、
「お姫様は御病気だと申しますと、その男はそれを知っているから、お話し申しあげにまかり出たといい、お姫様は御睡眠中だと申しますとそれも知っている、それだから姫君にお話ししなければならないのだと申し、何もかも知っているようなことをいっております、一体何とその男に申したらよろしいでございましょう。その男はどんなに断っても、がんとして動かない様子で、お姫様がお聞きになろうが、なるまいが、どうしてもお話し申しあげるといいはっております」といいました。
オリビアはそのずうずうしい使者はどんな男だろうと好奇心を起し、そんなにしつこいところを見ると大公のところから来た者にちがいないと思うから、もう一度だけオーシオ公の使に耳をかそうといって、急いでベールを顔にかけ、その男を入れるように命じました。
ビオラはできるだけ男性的な様子をしてへやへはいってきて、高貴な人に仕える小姓らしい上品な言葉づかいで、ベールをかけた貴婦人に話しかけました。
「こよなく輝かしく、いみじくも比類なき麗わしの君よ、あなたはこの家の女主人でおいでになるかどうかお聞かせ願います。私は他のだれ人にもむなしく語るのを好みません。その言葉はじつにりっぱに書かれたもので、私はそれを暗しょうするのに非常に苦心いたしましたので」
「どこからおいでになりました」とオリビアはいいました。
「私は暗しょうしたこと以外は何も申しあげられません。それで、今お尋ねの答えは私のせりふのなかにはありません」とビオラは答えました。
「あなたは喜劇役者ですか」とオリビアはいいました。
「いいえ、それに私は今演じている役者その者でもありません」ビオラは自分は男の役を演じているけれども男ではないという意味をこめて、そういったのでした。そして再び彼女がこの家の姫であるかどうかを尋ねました。オリビアはそうだと答えました。するとビオラは自分の主人の言葉を伝える相手を憎いからではなく、好奇心から顔を見たく思い、
「やさしき姫よ、どうぞお顔を拝させてください」といいました。
オリビアはそのおく面もない要求をいれることをいといませんでした。なぜかというと、オーシオがながいあいだむなしく恋しつづけてきた、この気位の高い美しい姫は、このにせ小姓のいやしきセサリオを一目で恋してしまったからでした。
ビオラが姫の顔を見たいというと、オリビアは、
「あなたは御主人から私に伝言を語るあいだ、私の顔を見ているように申しつかっておいでになったのですか」といいました。そして七年間はベールをかけているという決心を忘れて、
「でも私は幕をのけて、絵をお目にかけますわ。ほら、あまりよくはかけておりませんでしょう」といいながら、ベールをはねのけました。
「じつに正確に彩色した美しさです、あなたのほおに自然の手が赤と白を巧妙にぬったものです。もしその美しい絵の複写を一枚もこの世に残さずに墓場へ持っていっておしまいになるとすると、あなたはじつに残酷な方でいらっしゃる」とビオラはいいました。
「私はそれほど残酷ではございませんわ。世の中にはちゃんと私の美の明細目録が残りますもの、品目一、そうとう赤いくちびる、品目一、まつ毛付き灰色の目二つ、品目一、首一つ、あご一つ、とそんなぐあいにね。あなたは私をほめそやすために派遣おされになったのですか」とオリビアは答えました。
「私は姫がどういうお方かわかりました。あなたはあまりに気位がたかすぎます。しかしあなたはお美しい、私の主人である大公はあなたを熱愛しておられます。その愛は、たとえあなたが美の女王として王冠をいただいておられるとしても、報いられるべきものです。オーシオ公は、涙とうめきを伴う崇拝と雷のような愛と火のような溜息をもって姫を愛しておられます」とビオラはいいました。
「御主人は私の心をよく御承知のはずです。あの方を愛すことはできません、もちろんあの方のりっぱな人格を疑っているわけではありません、私はあの方が堂々たる風さいで身分もたかく、健康で申し分のない青年でいらっしゃることを知っております。世間では声をそろえて、あの方を学識があり礼儀正しく勇敢でいらっしゃると評しております。それにもかかわらず、私はあの方を愛すことができないのです。私の御返事はとうにあの方に届いているはずです」
「もし私が主人のように姫を愛す身であったら、私は御門のそばに泣き柳の小屋を建てて、姫の名を呼びつづけ、姫を賛美する詩を書き、真夜中にそれを歌います、姫のお名を丘から丘へ響きわたらせます、そしてエコー(訳注 やまびこ)にオリビアと呼ぶ声を、おしゃべりな空気にいいふらさせます、そうすれば天も地もあなたの名を呼びかわしつづけて、あなたに休息を与えなくなりますから、あなたはどうしても私を愛すよりほかなくなるでしょう」とビオラはいいました。
「あなたは、それくらいのことはなさりそうですね。あなたはどういう素姓の方でいらっしゃるの?」
「私の両親は現在の私以上のりっぱな身分でした。しかし大公に仕えている今の私の身分も相当なものです、私は紳士です」とビオラは答えました。
「御主人のところへお帰りになったら私はあの方を愛すことはできませんとおっしゃってください。もう御使者をおよこしになりませんようにってね……でも、もしあなたがその伝言をあの方がどんなふうにお受けになったかを、私にお話しにおいでになるのでしたら別ですけれども」といって、心ならずもビオラを帰らせるのでした。
ビオラはオリビアのことを、美しき残酷姫とよんで、別れを告げました。彼が去ってしまうと姫は――現在の私以上ですが今の私の身分は相当なものです、私は紳士です――という言葉を心にくりかえしていました。そして、
「そのとおりだと私は信じますわ。あの人の言葉も、顔もからだつきも、動作も精神も、はっきりとあの人が紳士であることを表わしていますもの」と声をだしていいました。そして姫はセサリオが大公であってくれたらよかったのにと思いました。そして早くも彼が自分の愛をかち得たことに気づき、自分の突然の恋を恥じて自分を責めました。しかし人間はだれでも自分の過失を責めるばあいにはごく軽くし、あまり深い根をもたせないものです。で、この身分の高いオリビア姫は、表向きの小姓と自分との身分のちがいも、淑女の資格の一番の飾りである美徳、処女の慎みもすっかり忘れてしまい、若いセサリオに求愛する決心をしてしまいました。それで小間使にダイヤモンドの指輪を持たせて、それをオーシオから自分への贈り物として託されたのを使者が忘れていったということにして、青年のあとを追わせました。姫はそういう技巧を使って、セサリオに指輸を贈り、自分の気持を彼に伝えようと願ったのでした。そのとおりビオラはすぐにそれと感づきました。オーシオは指輪を姫へといって自分に託したことはありませんでしたから、ビオラは、姫の顔色や態度を思い合せて、主人の恋人が自分に恋していることを察しました。
「ああ、お気の毒に、姫は夢を恋するようなものだわ。変装するなんて罪なことね、私がオーシオのためにため息をつくように、あの姫も私が変装しているために、むなしくため息をつくんですもの」と彼女はいいました。
ビオラはオーシオ大公の宮殿に帰って、主人に会談の不成功を報告し、もうこれ以上煩わさないでくれという姫の命令を伝えました。
しかし大公は心やさしいセサリオは、きっと姫が同情を示すようにとき伏せるだろうという希望をもっていたので、翌日また姫のところへ行くように命じました。そして暫時のあいだ、退屈しのぎにいつも聞くのを好む恋歌を彼に歌うようにいいつけ、
「親切なセサリオや、ゆうべあの歌を聞いたとき、私の情熱はよほど和らげられたように思った。セサリオ考えてごらん、それは昔の平凡な歌なんだよ。若い娘たちが骨でつくった糸巻で糸をつむいでいるときに、老嬢が日なたで編みものをしながら、これを歌うんだよ。ばかげているけれども、私は好きなんだ。昔の恋の無邪気さを語っているのでね」と大公はいいました。
歌
来たれ、来たれ、死よ来たりて、
われに悲しき経かたびらを着せよ、
飛び去れ、飛び去れ、わが息よ、
美しく、つれなき乙女《おとめ》われを殺しぬ、
白き経かたびらに水松《いちい》の葉を刺せ、
わが死をいたむは水松の木のみなれば。
わが黒き柩《ひつぎ》に花をまく者なし、美しき花を、
いずこにわが骨を埋むとも、
一人とてわが死を悲しむ友なし、
あわれまことの恋人も今は早や、
わが墓に涙そそぐすべもなし、
百千度《ももちたび》のため息も墓のありか告げねば。
ビオラは報いられない愛の苦痛をじつにそぼくに描写している古歌の言葉に注意せずにはいませんでした。彼女はその歌が表わしている感じを顔にはっきりと浮べていました。彼女の悲しい表情に気づいたオーシオは、
「私はたしかにそう思うが、お前はまだそんなに弱年だが、お前のその目は恋する者の顔を見たという表情だね、そうじゃないかね」といいました。
「はい、少しは」とビオラは答えました。
「それはどういう種類の女性だね? 年ごろは?」オーシオはいいました。
「あなた様と同年ぐらいで、あなた様と同じ顔色でございます」とビオラはいいました。
大公はこんな美少年がそんなに年上の男のような黒い顔色の婦人を恋していると聞いて微笑しました。しかしビオラは彼のような女性という意味ではなく、オーシオ大公のことをそれとなくいったのでした。
ビオラが二度めにオリビアを訪問したときには、姫の私室へはいるのに少しも面倒はありませんでした。召使たちはすでに女主人が美しくて若い使者と話をするのを非常に喜んでいるのを発見していました。それでビオラが到着すると門がさっと開かれ、大公の小姓は姫の私室へ丁重に案内されました。ビオラがもう一度大公のために懇願しに来たというと、姫は、
「あの方のことはおっしゃらないでいただきたいわ。でもあなたが別の意味で求愛なさるのでしたら、それをお聞かせください。私は太陽をめぐる遊星の上でかなでられるという妙なる音楽以上に、それを聞きたいと思いますのよ」といいました。
それはかなり明からさまな表現でした。ところがオリビアはやがて、もっとはっきりと自分の心を説明し、公然と愛の告白をするのでした。そしてビオラの顔に当惑をまじえた不快な表情を見ると、
「この方の口元に浮ぶと、軽べつや怒りも何て美しく見えるんでしょう! セサリオ、私は春のばらの花と、処女性と、名誉と、真実にかけてあなたを愛しています。あなたはおさげすみになるかも知れませんが、私は自分の情熱を隠しておくだけの知恵もなければ理性もないのです」といいました。
しかし姫の求愛はむだでした。ビオラはもう決して大公のために求愛しに来ないと脅迫して、急いで姫のもとを去りました。オリビア姫の愛のささやきに対して、ビオラのただ一つの答えは、自分は決して女性を愛さないという決意の宣言でした。
ビオラは姫の家を出るやいなや、勇気を試みられることになりました。というのは、オリビア姫に拒絶された恋人のひとりが、大公の使者が姫の好意を受けていると知って、決闘を申込んだのでした。外見は男でも、内心は女で、自分の剣を見るのさえ恐ろしがっているビオラは一体どうしたらいいのでしょう? 彼女は堂々たる男が抜き身をひっさげて肉迫してくるのを見たとき、よっぽど自分が女であることを白状しようかと思いました。しかし彼女は知らない男によって、その恐怖と女性であることを暴露する恥かしさから救われました。その未知の人は、まるで昔から彼女を知っている最愛の親友であるかのように、敵に対して、
「もしこの紳士が何か君を怒らせるようなことをしたというのなら、私がその責めを負う、またもし君がこの青年を怒らせたというなら、私は彼に代って君を成敗してやる」といいました。
それでビオラが彼の保護を感謝し、なぜそんなに親切に口を出してくれたのかを尋ねないうちに、この新しい友人は、その勇気も役にたたない敵に出会いました。その敵というのは裁判所の役人なのでした。彼等はその男が数年前におかした罪により、大公の命令で逮捕しにきたのでした。男は引きたてられていく前に、
「君を捜しに来たばかりに、こんなことになったんだぞ」といい、ビオラに財布を請求し、「必要にかられて、私は自分の財布をもらわなければならなくなった。私は自分にこんなことが起った以上に、君のためにしてやろうと思ったことができないのを残念に思うよ。君は驚いているね、だが心配することはないよ」といいました。
彼の言葉は実際にビオラを驚かせました。ビオラはその男を全然知りませんでしたし、財布など受け取った覚えもないことをいいました。しかし彼の示してくれた親切に対して、自分の持っている全部ですが、わずかばかりの金を渡しました。するとその男は彼女を恩知らずの不親切者といって、ひどくののしりました。そして、
「諸君の見ているこの青年は、私が死のあぎとから救ってやったのだ、そしてこの青年のためにこのイリリヤへ来たばかりに、我が身を危険に陥れてしまったのだ」といいました。
しかし役人たちは囚人の不平などに耳をかす興味をもたないで、
「そんなことは我々に何の関係があるか」といって、男を連れ去りました。
男は引きたてられていきながら、ビオラをセバスチャンと呼び、セバスチャンが友人を見捨てたことを責めているのが、いつまでも聞えていました。ビオラは自分がセバスチャンと呼ばれるのを聞いても、その男があまり不意に連れていかれたので、説明を求める暇がありませんでしたが、この奇怪な事件は、自分が兄と間違えられたために発生したものと推察ができました。そしてその男が救った青年は兄にちがいないという希望を抱き始めました。で、それは全くそのとおりだったのでした。
その見知らぬ男は名をアントニオといって、船長だったのです。彼はセバスチャンが、暴風雨の最中にしがみついていた帆柱とともに漂流して、疲労のためにほとんど死にかかっていたところを、自分の船に助けあげたのでした。
アントニオはセバスチャンに対して深い友情をもち、彼の行くところへは、どこでもついていってやる決心をしました。それで青年がオーシオの宮廷をたずねてみたいという好奇心を起したとき、アントニオは自分がイリリヤで発見されれば、以前に海戦でオーシオのおいに重傷を負わせたかどで死刑にされるかも知れない危険があったにもかかわらず、セバスチャンと別れるよりも、むしろこの土地へ来ることを選んだのでした。そういう訳で、船長は囚人として引かれていったのです。
アントニオがビオラに会う数時間前に、アントニオとセバスチャンはいっしょに上陸したのでした。そしてアントニオは自分の財布をセバスチャンに渡し、何でも欲しいものがあったら自由にその金を使って買うようにいい、彼が見物をしているあいだ宿屋で待っているということになっていたのでした。ところが約束の時間になってもセバスチャンが帰って来ないので、アントニオは危険をおかして彼を捜しに出かけたのです。そしてビオラが兄と同じ服装をし、顔も兄にそっくりだったので、アントニオは自分の救った青年(と思い込んでいたので)を防衛するために剣を抜いたのでした。それだのにセバスチャンが(彼はそう思ったのです)自分を見捨て、財布を預かったことを否定したのですから、彼がビオラを恩知らずといって責めたのも無理はありませんでした。
ビオラはアントニオがいってしまうと、また決闘を申し込まれては大変だと思い、大急ぎでこそこそ逃げ帰りました。ところが彼女が去ってまもなく、恋がたきは相手がまたもどって来たと思いました。しかしそれは彼女の兄セバスチャンが、偶然にもそこへ来合せたのでしたが、男は、
「おい、また会ったな! さあ、どうだ!」といって、いきなり打ちかかりました。セバスチャンは臆病者ではありませんから、それよりもっと強く打ち返して、剣を抜きました。
そのときオリビア姫が家から出てきてその決闘を中止させました。姫もセバスチャンをセサリオと間違えて、彼がそうした無礼な攻撃を加えられたことに対して遺憾の意を表し、自分の家へはいるように勧めました。セバスチャンは見知らぬ敵の無礼に驚いたと同様に、この貴婦人の好意に驚きましたが、大いに喜んで家へはいりました。ふたりの顔は寸分ちがいませんでしたが、彼の顔には先刻姫がセサリオに恋をうち明けたときに見た、あの軽べつや怒りの色は少しもなかったので、姫はセサリオ(彼女はそう思っていたので)が以前よりも自分の心づくしを認めてくれたのを喜びました。
セバスチャンは姫が自分に愛情を惜しみなくそそぐのを少しも拒みませんでした。彼はそれを善意に取っていました。しかし、どうしてそういう成行きになったのかを怪しみ、オリビアが気違いなのではないかとも考えましたが、彼女がりっぱな家の女主人で家事上の命令をくだし、家族の者たちを賢明に支配しているところを見ると、突然の恋愛を除いては、正しい理性をもっているように思われたので、その求愛を是認しました。オリビアはセサリオがそんなふうにきげんが好いのを見て、彼の気が変るのを恐れ、幸い家に牧師が来ているから直ぐに結婚式をあげようと申し出ました。セバスチャンはそれに同意しました。そして結婚式が終ってから、彼は自分の遭遇したこの幸運を友人アントニオに話すつもりで、ちょっとのあいだ姫を残して外出しました。
そのごにオーシオ大公がオリビア姫を訪問に来ました。そして大公が家の前に着くと同時に、裁判官たちがアントニオを大公の前へ連れてきました。ビオラは主人のオーシオについて来ていましたので、アントニオは彼女を見て、まだセバスチャンと思い込んでいたので、大公に自分がどんなふうにしてその青年を海の危険から救助したかを語り、自分がセバスチャンに示した親切の数々をあげ、この恩知らずの青年は三カ月間、夜も昼も自分とともに暮していたのにと、不満をもって陳述を結びました。しかしオリビア姫が家から出てきたので、大公はもはやアントニオの話など聞いていられなくなり、
「伯爵令嬢がおいでになった! 天国が地上を歩いてくる! だが、お前のいうことは気違いざただぞ! この青年は三カ月間私に仕えていたのだ」といって、アントニオを連れ去るように命じました。
しかし天から降ってきた伯爵令嬢は、まもなくアントニオと同じように、大公にセサリオの忘恩を責めさせる原因を与えました。なぜかというと、オリビア姫の口から出るすべての優しい言葉はみんなセサリオにかけられたからです。大公は自分の小姓がオリビアの好意を受けているのを見て、当然の復讐をするといって、さまざまな嚇し文句で彼を脅迫しました。そしてその場を立ち去るに及んでビオラについて来るように命じ、
「さあ、少年、ついて来い! 私はお前に憂きめを見せてくれる用意がある」といいました。
しっとの怒りにかられている大公は、ビオラを即刻死刑にするつもりらしくみえましたが、彼女の愛はもはや彼女を臆病にしてはおきませんでした。で、彼女はもし主人の心を安んずることができるのなら喜んで死ぬと答えました。けれどもオリビア姫は自分の夫を死なせてはなりませんでした。
「セサリオ様、どこへおいであそばすの!」と叫びました。
「自分の命よりも愛しているお方についてまいります」とビオラは答えました。
姫はセサリオを自分の夫だと大声に宣言しすぐ牧師を迎えにやりました。牧師はオリビア姫とこの男をつい二時間ばかり前に結婚させたと証言しました。
ビオラは結婚なんかした覚えはないと抗議しましたが、むだでした。姫と牧師の証言で大公は自分が命よりも大切に思っていた宝を小姓に盗まれたことを信じさせられました。しかしそれも過去の思い出になってしまったと考え、つれない恋人に別れを告げ、彼女の夫である若き偽善者(大公はビオラをそう呼びました)に二度と再び自分の目に触れるなと警告しているところへ奇せき(と思われたのです)が現われました。というのは、もう一人のセサリオがやってきて、オリビアを妻と呼びかけたのでした。この新しいセサリオはセバスチャンで、ビオラのほんとうの兄でした。同じ顔、同じ声、同じ服装の人物をふたり見いだした人々の驚きが、やや静まったとき、兄と妹は互に質問を始めました。ビオラは兄が生きていたとは信じきれませんでしたし、セバスチャンは水死したと思っていた妹が男装をしているのを見て何と説明をつけていいかわからなかったのでした。しかし彼女はようやく自分がほんとうにビオラで、彼の妹が変装しているのだということを兄にわからせました。
この双生児の兄と妹があまりによく似ていたために起ったすべての間違いが、はっきりわかったので、人々はオリビア姫が女性と恋に陥った愉快なあやまちに大笑いしました。又オリビアは妹の代りにその兄と結婚したことを発見してもその取換品を一向にきらう様子はありませんでした。
このオリビアの結婚によって、オーシオのすべての望みは永久におしまいになってしまいました。彼の希望もむなしい恋も消えてしまったかのように思われました。そして彼の心全体は、今やお気に入りの小姓であった若いセサリオが美しい淑女に変化した事件に集中してしまったのでした。大公はビオラをつくづくと見て、いつもセサリオを何という美しい少年だろうと思っていたことを心に浮べ、彼女が女の衣装をつけたら、さぞ美しいだろうと想像しました。それからまた、大公はセサリオがたびたび自分を愛しているといったのを、そのときは忠義な小姓としていっているものととっていたことを思いだしました。そして今心に浮んできた彼女のなぞのような美しい言葉にはみんなふかい意味があったことを悟りました。それらのことを思いだすとともに、彼はビオラを自分の妻にしようと決心しました。それで大公は彼女に(彼はまだ彼女を小姓のセサリオと呼ばずにいられなかったので)、
「少年よ、あなたは千度も決して私を愛すように女性を愛さないといいましたね。やさしく大切に育てられた令嬢の身でありながら、私に忠実に仕え、私を主人とよんでくれた報いに、今度はあなたが、ほんとうのオーシオ公爵夫人となり、私の心を支配する女主人になるのです」といいました。
オリビアは自分が無情にも拒んだ愛を大公がビオラに移したのを知ると、ふたりを家の中へ招じ入れ、その朝自分とセバスチャンを結婚させた親切な牧師の助力をこい、その日の残りは、オーシオとビオラのために同じ儀式をあげるのに費しました。
こうして双生児の兄妹は同じ日に結婚をしたのでした。船を難破させ、兄妹を離散させた暴風雨は、ふたりに素晴しい幸運をもたらす手段となって、ビオラはイリリヤの大公、オーシオ公爵の妻となり、セバスチャンは、金持で美しい伯爵令嬢オリビアの夫となったのでした。
[#改ページ]
ロミオとジュリエット
ベロナの二大名家といえば、金持のカプレット家とモンタギュウ家でした。この両家は昔から仲たがいをしていて、それがだんだんにこうじてきて、その敵意が親戚《しんせき》のはしくれにまで及び、しまいには双方の家臣や召使たちにまでひろがり、カプレット家の奉公人がモンタギュウ家の奉公人に出あっても、モンタギュウ家のだれかがカプレット家のだれかに会っても、激しい言葉のやりとりとなり、時には血を流すようなこともあるほどで、そんなふうに両家の者が偶然に出会った為に生じたけんかが、しばしばベロナの幸福な平和を乱すのでした。
カプレット家の老公が、あるとき大宴会をひらき、多くの美しい淑女たちや、貴公子たちが招待されました。そこにはベロナ中の指折りの美人たちはみんな集っていましたし、モンタギュウ家以外の人たちなら、だれでもみんな歓迎されていました。このカプレット家の宴会にモンタギュウ老公の令息ロミオの愛していたロザリンドも出席していました。モンタギュウ家の者がこの集会で顔を見られるのは危険きわまることでしたが、ロミオの友人ベンボリオは若い貴公子に、仮面で顔をかくして行けば、ロザリンドに会えるし、またベロナ選りぬきの美人たちと比較して見たら、もしかすると白鳥と思っていた人をからすだと思うようになるかも知れないといって、勧めたのでした。
ロミオはベンボリオの言葉には大して信用をおきませんでしたが、ロザリンド恋しさのあまりとき伏せられて行く気になったのでした。何しろロミオは、ひどくまじめで情熱的な恋人だったので、恋のために夜も眠れず、人との交際を避けて、ひとりロザリンドのことを思いつめているような人でした。ところがロザリンドの方では彼を見向きもしないで、少しの愛情も優しさも示して彼の愛に報いようとしないのでした。それでベンボリオは彼にいろいろな種類の淑女たちを見せて、彼の恋|病《わずら》いをなおしてやりたいと思ったのです。
そんなわけでカプレット家の宴会にロミオは、ベンボリオと、もうひとりの友達メルキチオとともに、仮面をつけて出かけていきました。カプレット老公は、彼らに歓迎の言葉をのべ、足の指にまめなどでかしていない令嬢たちが、御一緒に踊るでしょうといいました。老公は陽気で気軽でした。それで自分も若いときには仮面をつけたことがあった、そうすると美しい御婦人の耳にひそひそ話をすることもできるものだなどといいました。
やがて三人は踊りはじめました。そこでロミオは不意に踊っている人たちのなかに、非常な美人を見つけて胸をときめかしました。その佳人の美しさは、まるでどうしたら輝きを増すか、たいまつに燃えかたを示しているように思われ、またその麗わしさは、暗い夜に黒人が飾っている宝石みたいに、一段と輝きを増す術を教えているように見え、用いるにはあまりにりっぱすぎこの世にあるにはあまりにとうとい美しさで、あだかも烏《からす》の群れにまじっている白ばと(と彼はいったのです)のように、彼女の美しさと完全さは、他の婦人たちにたちまさって輝いているのでした。
ロミオがそうした賞賛を口にしているのを、カプレット公の甥《おい》タイボルトに立聞きされてしまいました。彼はその声でロミオと知ったのでした。さてこのタイボルトは激しい熱情的な気質の男だったのでモンタギュウ家の者が仮面にかくれてカプレット家の祭典を卑しめ、笑い草にする(彼はそういいました)ために来たと思うと我慢できませんでした。それで非常に怒りわめきたてて、放っておいたらロミオをなぐり殺したかもしれませんでした。けれども叔父なるカプレット老公は、そのばあいロミオにいささかも傷害を加えることをゆるしませんでした。それは客人にたいする礼儀と、日ごろからロミオが紳士として身を処していましたし、ベロナの人々は口をそろえて彼のことを有徳な親しみぶかい青年として自慢ばなしの種にしていたのと、その二つの理由からでした。
タイボルトは心ならずも忍耐をしいられて自制していましたが、この悪モンタギュウの潜入に対して他日必ず思い知らせてやると誓うのでした。
ダンスがすむと、ロミオはその令嬢の立っているところを見守っていました。そして仮面で変装しているおかげで、多少は自由に振舞う特権があるような気持になって、彼はいとも優しく令嬢の手をとり、その手を神社とよび、もしそれに触れたことが不敬であったなら、自分は赤面している巡礼だから、罪の償いにその手にせっぷんをしようといいました。すると令嬢は、
「善良な巡礼さま、あなたの礼拝のしかたはあまり丁寧でお上品すぎますこと。巡礼は聖者の手にさわりますけれども、口づけなどはいたしませんわ」と答えました。
「聖者はくちびるをもっているように巡礼もくちびるをもっていないでしょうか」とロミオはいいました。
「聖者はそのくちびるをお祈りのために使いますわ」
「それでは愛《いと》しの聖者さま、私の祈りをお聞きになり、それをかなえて私を失望おさせにならないでください」とロミオはいいました。
そんなふうにふたりが心をほのめかしあったり、愛情のこもった空想にふけったりしていると、令嬢は母君によばれて行ってしまいました。そこでロミオは令嬢の母がなにびとであるかを聞いて彼がそれほどまでに心をひかれた絶世の美人はモンタギュウ家の大敵カプレット家の令嬢で、相続人であるジュリエット姫であることがわかり、自分がそれとは知らずに敵に心を寄せていたことを悟ったのでした。
それは青年の心を悩ましましたが、彼の恋を思いとまらせるわけにはいきませんでした。ジュリエットの方でも、自分が話をしていた紳士がモンタギュウ家の一員ロミオであったことを知って心おだやかでありませんでした。それは姫もロミオが彼女に対していだいたと同じように、不意にロミオに対する気早やな、分別のない熱情に襲われていたのでした。敵を愛さなければならないことや、家族的な考えかたでは、憎しみだけを置かなければならない場所に愛情を置くようになるとは、姫にとって、じつに不思議な恋の発生と思われるのでした。
夜もふけて、ロミオは仲間といっしょにそこを出たのでしたが、友人たちはじきにロミオを見失ってしまいました。それは、彼が心を残したこの家から離れがたくジュリエットの家のうしろにある果樹園の壁がきを乗りこえてはいっていってしまったからです。
彼がそこに立って、新しい恋を思いめぐらしているとまもなく、ジュリエットが高い窓に姿を現わしました。そのすばらしい美しさは、まるで東にのぼった太陽の光が窓からさしこんだように見え、果樹園をかすかに照していた月はこの新しい太陽の輝きに負けたのを悲しんで病気になり青ざめているように思われました。そして彼は姫がほおづえをついたので、自分が姫のほおに触れるために、その手を包んでいる手袋になりたいと熱望するのでした。
姫はそのあいだずっと自分ひとりきりだと思っていたので、深いため息をして、
「ああ、どうしましょう!」と声をだしていいました。
ロミオは姫の声をきくと狂喜して、姫には聞えない低い声で、
「おお、もう一度お話しください、輝く天使よ。あなたは人間がおそれおおくて、うしろにさがって拝む、天からのつばさある使者のように、私の頭上においでになるので、ほんとうに天使のようにお見えになるのです」といいました。
姫の方でも自分のいうことが聞かれているとは知らずに、その夜の冒険がもたらした新しい情熱にかられて愛人の名(その人はいないものと思いこんで)を呼びました。
「ロミオ! ロミオ! ロミオ様はどこにおいであそばす! どうぞ私のために御父上をすて、あなたの姓をお拒みください。さもなければ私とちぎりを結び愛人とおなりくださいまし、そうすれば私はもはやカプレット家の者ではなくなります」
ロミオはそんなふうに勇気をつけられて、自分も語りたくてたまらなかったのですが、もっと姫の言葉を聞きたいとも思いました。
それで姫はなおも自分自身との(そう思いこんでいたのです)会話をつづけ、ロミオがモンタギュウ家のロミオであることを嘆き、彼がほかの姓であってくれたらよかったのにとねがい、あるいは彼がその憎らしい姓をすてて、彼の一部分でもないそんな名の代りに姫の全部を受けいれてくれるようにと念じるのでした。
その愛の言葉をきいては、ロミオも我慢しきれなくなり、姫のひとりごとを空想のなかで語られたものでなく、自分に直接はなしかけられたようにとり、もしロミオという名が姫のお気に召さぬのなら、自分はもはやロミオではないから「愛人」と呼んでもらいたい、あるいはまたそのほかなんとでも姫の好きな名で呼んでもらいたいと願いました。
ジュリエットは庭に男の声をきいてびっくりしました。姫は夜のやみに紛れて、ゆくりなくも自分の秘密を発見したその男が、だれだか最初はわからなかったのですが、ロミオが再び口を開いたときに、その言葉をまだ百語と聞かないうちに、恋をする者の敏感さで、すぐにそれが若いロミオと察してしまいました。そして果樹園の壁を乗りこえて姿を見せたりして、もし身内のだれかに見つかったら、モンタギュウ家の者だから殺されてしまうでしょうと戒めました。
「ああ、彼らの二十本の剣よりも、もっと危険なものが、あなたのお目のなかにあります。姫よ、どうぞ優しいひとみで私をごらん下さい。そうすれば私は彼らの憎しみにも耐えることができるでしょう、姫の愛を得ることができないで生きながらえるくらいなら、そんないとわしい人生は彼らの憎しみによって、終りを告げたほうがましです」とロミオはいいました。
「あなたはどうしてここへおいでになりましたの? だれの手びきでおいでになりましたの」とジュリエットが尋ねました。
「愛の手びきでまいりました。私は水先案内ではありませんが、たとえ姫がはるかなる海に洗われているあの広大な岸辺《きしべ》ほど私から遠くはなれておいでになっても、私はこのような宝を得るためには危険を冒してまいります」とロミオは答えました。
ジュリエットはそんなつもりでなく、ロミオに対する愛の告白をしたことを思いだして、顔を赤らめましたが、夜のこととて、ロミオには見えませんでした。姫はできれば前にいったことを取り消したかったかも知れませんが、それはできませんでした。またできれば儀式ばって、愛人を遠ざけておきたかったかも知れません、それは慎しみ深い淑女の習慣として、内心ではどんなに熱愛していても、手に入れるのが困難なほど目的物の価値が高まるというところから、相手に軽々しく容易に手にはいったと思わせないように、わざとよそよそしくしたり、無関心を装ったり、はにかんでいるふりをしたり、まゆをひそめたり、すねたりして、最初はまず手きびしく求愛者をしりぞけたりするものになっていたからです。
けれども姫のばあいは、拒絶するとか延期するとか、求愛をながびかすような、ありきたりの手くだなど用いる余地はなかったのです。
ロミオは姫の口から、彼が近くにいるとは夢にも知らなかったときに、愛の告白を聞いてしまったので、その妙な立場に陥った姫としてはやむを得ないことですが、正直にはっきりと、彼が前に聞いた告白が真心から出たことを認めなければなりませんでした。そして、
「麗しのモンタギュウの君よ」(恋はすっぱい名も甘くしてしまうものです)と呼びかけて、こんなにたやすく心を任せたのは、軽薄とかあるいは教養のない心柄ゆえなどとは思わないで、どうかこの過失(もし過失なら)は不思議にも自分の心を見いださせた夜の意外な出来事によるものだと考えていただきたいと懇願しました。そしてロミオに対する姫の態度は、女の習慣から測れば、決して慎しみぶかいものとはいえないかも知れませんが、その慎しみが偽りであったり、そのしとやかさが技巧的なずるさであったりする多くの人々よりは、はるかに誠実であることを証明するであろうと、つけ加えました。
ロミオは、こんなりっぱな婦人に、不名誉の陰さえもおわせるなどとは、思いもよらないということを天に誓おうとしましたが、姫は誓うことはよしてほしいと頼みました(訳注 これは聖書のなかになんじらみだりに天にむかって誓うなかれと戒められているからです)姫は彼の心を喜びましたが、その夜ちぎりを結ぶことは喜びませんでした。それはあまりに性急であまりに無分別で、あまりに突然すぎるからでした。しかし彼がその夜のうちに姫と愛の誓いをかわしたいと迫ると、姫は彼に求められないうちに、すでに誓いを与えたといいました。それは自分の告白を立ち聞きしてしまったという意味でした、けれども、姫はその誓いをくりかえす喜びを味わうために前言を取り消しました。姫の慈悲心は海のように限りなく、その愛も海のように深かったからでした。
こうして情愛のこもった会話をしている最中に姫は乳母《うば》によばれました。もう夜明けに近かったので、いつも姫のそばで眠る乳母は、もう姫が床につくべき時刻だと思ったのでした。けれども姫は急いでひきかえしてきて、ロミオと更に三|言《こと》四言語りました。その要旨は、もし彼の愛がほんとうに清らかなもので、その目的が結婚であるのなら、明日使者を彼のもとに送って、結婚の時間をきめる。そのときこそ姫は自分の身についているすべての宝を彼の足もとになげだして、彼を自分の夫として世界中どこへでも彼の行くところへついていくであろうということでした。ふたりがその点を取りきめているあいだも、ジュリエットは乳母によばれては行きかけ、またもどってきては、またいくのでした。姫は少女が飼っている小鳥の飛び去るのを惜しんで、幾度も手から飛んでいかせては絹糸をたぐって引きもどすように、ロミオが自分からはなれて行くのを惜しんだのです。ロミオも彼女と同様に別れをつらがりました。
それもそのはずです、恋人たちにとって、何より美しい音楽は、夜お互にかわす言葉のひびきですもの。けれどもついにふたりは、互にその夜のうましい眠りと休息を無言のうちに祈りながら別れました。
二人が別れたときには、もう夜があけはじめていました。愛人のことと幸福な会見のことを考えると、とても眠る気になれないので、ロミオは家へ帰らないで、ローレンス法師をたずねようと思った道を変えて近くの僧院へむかいました。信心深い法師はもう起きて朝の勤行《ごんぎよう》をしていましたが、若いロミオが、そんなに早く外出したのを見て、彼が前の晩床につかなかったので恋の悩みが彼を眠らせなかったに違いないともっともな解釈をくだしました。ロミオの不眠を恋のせいと推量したのは正しかったのですが、ロザリンドに対する恋が彼を眠らせなかったのだという法師の考えは的をはずれていました。それでロミオがジュリエットに対する新しい愛をうちあけて、その日ふたりを結婚させてくれるように助力をこうと、法師はロミオの愛情がそんなに突然に変化したのに、ある種の驚異を感じたらしく目を天にむけ、手をあげました。法師はかねてからロミオのロザリンドに対する恋や、彼女の高慢な態度に対する彼の不平の数々を知っていましたから、若い者の恋はとかく心に訴えないで、目に訴えるものだから、あてにならないというのでした。けれどもロミオは、自分の愛に報いてくれないロザリンドを愛す自身をしばしば責めたものであったが、ジュリエットのばあいは互に愛し愛されているのだと答えたので、法師も彼のいい分にいくらか同意しました。そして若いジュリエットとロミオの結婚が幸いにカプレット家とモンタギュウ家との長いあいだの紛争を解消する手段になるかもしれないと考えました。両方の家庭と親しくしているこの法師は、だれよりも両家の不和を嘆いていたのです。それで何とかして争いを調停しようと心がけていたのですが、いつも不成功に終っていたのです。そんなわけでなかばは策略のため、なかばは若いロミオに好意をもっていて彼の頼みは何事によらず断りきれないので、老法師はふたりを結婚させることを承諾しました。
さて、ロミオはこのうえもなく幸福でした。ジュリエットは約束どおりにロミオのところへおくった使者からロミオの意向をきくと、まちがいなく早朝にローレンス法師のもとを訪れました。そこで法師はふたりの手を神聖な婚姻によって結びました。法師は天がこの行為をよみし、若いモンタギュウと若いカプレットとの結婚のうちに、昔の争いや長いあいだの不和が葬り去られるように祈りました。
式が終るとジュリエットは急いで家へ帰りました。そして夜が来るまで待ちきれない思いで家にいました。ロミオは前夜のように果樹園で姫に会う約束になっていたのでした。それで夜になるまでの時間が、まるで祭礼の前夜に、朝にならなければ新しい晴着を着ることができないので、朝のくるのを待ちどおしがっている子供のように、じれったいほど長々しく思うのでした。
同じ日の昼ごろ、ロミオの友人のベンボリオとメルキチオとが往来を歩いていると、短気なタイボルトを先頭にするカプレット家の一隊に出会いました。そのタイボルトは、カプレット老公の宴会で、ロミオと格闘しようとした、あの怒れるタイボルトだったのです。彼はメルキチオを見ると、モンタギュウの一員であるロミオと交際していることをののしりました。タイボルトと同様に、血気にはやるメルキチオは相手の悪口に対して鋭くいい返しました。それでベンボリオが、いっしょうけんめいに仲裁しようとしたかいも無く、けんかが始まりました。
ちょうどそこへロミオがとおりかかったので、気性のはげしいタイボルトは、メルキチオを放っておいてロミオにむかっていき「悪漢」という侮辱の言葉をあびせました。
ロミオはタイボルトがジュリエットの身内であり、特に彼女が好意をもっている人なので、だれよりも一番けんかをしたくない相手だったのでした。それにこの若いモンタギュウは性来賢く温和だったので、それまで一度もこの家族的の争いに加わったことがありませんでしたし、それにカプレットという名は愛する彼女の姓なので、今では怒りをかりたてる合言葉ではなく、むしろ怒りをしずめる護符になっていたのです。それでタイボルトをとき伏せようと試み、モンタギュウ家の者でありながら、まるでその名を口にするのを、秘かに喜んでいるような調子で「タイボルト君」とおだやかに話しかけました。けれどもモンタギュウを地獄のように憎んでいるタイボルトは道理などに耳をかすどころか、剣をぬいてしまいました。メルキチオはロミオがタイボルトと和解したがっている秘密の動機を知らないので、その辛抱を一種の平然たる屈辱的な服従とみなして多くの侮辱の言葉でタイボルトを立腹させ、最初のけんかの続きをいどみました。それでタイボルトとメルキチオは戦いはじめロミオとベンボリオがふたりを引きわけようとむなしく努力しているあいだに、メルキチオはついに致命傷をうけてたおれてしまいました。メルキチオが死んだとなるとロミオももはや堪忍できなくなり、タイボルトから与えられた「悪漢」という言葉を憎々しくいい返して、ふたりは戦いました。そしてタイボルトはロミオに殺されたのでした。
この流血の惨事は白昼ベロナ市のまん中で起ったので、そのニュースはたちまち市民を現場へ集めました。その中にカプレット家の老公もモンタギュウ家の老公も、それぞれ夫人同伴で来ていました。まもなくベロナ大公も到着しました。
タイボルトの殺したメルキチオは大公とは親戚の間柄でもあり、政府の治安が、しばしばモンタギュウとカプレットの両家の争いによって、みだされていたので、大公はこの際に有罪ときまった者たちに対して、法律をきびしく適用する決心でした。
この騒動の目撃者であるベンボリオは、事の起りを陳述するように大公に命じられたので、親友と関係のある部分は和らげたり、弁解したりして、ロミオに不利にならない程度で、できるだけ忠実に語りました。
血縁であるタイボルトの死をふかく嘆き悲しむカプレット夫人は、復讐心にかられて、ロミオの友人であり、またモンタギュウ家のひとりであるベンボリオの不公平な説明などに注意をむけないで、殺人犯人を厳罰に処していただきたいと、大公に申請しました。夫人はロミオがジュリエットの夫とは知らずに、そんなふうに新しい婿にとって不利な申し立てをしてしまいました。一方、モンタギュウ夫人は、自分のむすこの命が助かるように弁護し、タイボルトはメルキチオを殺した罪により、すでに法律上命のない者だから、かれを殺した罪をロミオが負う必要はないと、いくらか合理的な主張をしました。
大公は婦人たちの感情にはしった言葉に動揺することなく、事実を慎重に取り調べて、宣告をくだしました、その宣告によりロミオはベロナから追放されることになりました。
花嫁になってまだ数時間にしかならないジュリエットにとってこれは堪えがたいニュースでした。
この判決によって姫は永久に離婚されたように思われるのでした。この知らせが達したとき姫は最初、自分の愛する従兄《いとこ》を殺したロミオに対する激しい憤りのとりことなり、彼のことを美しい暴君、天使の顔をした悪魔、どん欲なはと、おおかみの性質をもった子羊、花の顔にかくされたへびの心、そのほかこれに似た、むじゅんした名でよびましたが、それはすべて彼女の心のうちに起った愛と憤りの闘争をあらわしたものでした。けれども終りには愛が勝利をしめ、ロミオが従兄を殺したことを悲しんで流していた涙も、タイボルトに殺されたかも知れなかった自分の夫が生きていたことをよろこぶ、うれし涙に変りました。ついで新しい涙がわいてきました。それはすべてロミオの追放を悲しむ涙でした。その追放という言葉は幾人ものタイボルトの死以上に、姫にとって恐ろしいものでした。
その騒動ののち、ローレンス法師のもとに避難していたロミオは、そこで大公の宣告を初めてきかされたのでしたが、それは彼にとって死の宣告よりも、もっと恐ろしく感じられました。彼にはベロナの城壁以外には世界がなく、ジュリエットの見えないところに生活はないように思われていました。天国はジュリエットの住むところで、それ以外のところはすべて煉獄《れんごく》、拷問《ごうもん》、地獄でした。親切な法師は、彼の悲しみに、あきらめの慰めを与えようとしました。けれども取り乱している青年は、そんなことに耳をかたむけるどころか、まるで狂人のように髪の毛をかきむしり、地面にからだを投げ出して、自分の墓穴の寸法をとるのだなどというのでした。
彼は愛する姫からの手紙によって、その見苦しい状態から立ち直りました。その手紙はいくらか彼を元気づけたので、法師はその機に乗じて彼の示した男らしくない弱々しさを説諭しました。彼はタイボルトを殺したが、そのうえ自身を殺し、彼があるからこそ生きている姫まで殺すつもりなのか? 人間の尊い姿というものは、それをしっかりと保つだけの勇気が無かったなら、ろう細工と同じことであると法師はときました。彼が当然受けるべき死刑のかわりに、大公の口をかりて単に追放の宣告をさせた法律は彼に対して寛大であった。彼はタイボルトを殺したが、事によったらタイボルトが彼を殺したかも知れなかったのだ、そこに一種の幸福があった、またジュリエットは生きていて(望外にも)彼の愛する妻になった、その点で彼は幸福このうえなしではないだろうかと法師が数えあげた神の恩恵を、彼はまるで、すねた不行跡な女のように、はねつけてしまうのでした。そこで法師は、絶望する者はみじめな死にざまをするものだから気をつけるようにといいました。そしてロミオが少しおちつくと、その晩ひそかにジュリエットのところへ別れを告げにいき、そこからまっすぐにマンチュアへ行って、そこに滞在し、法師が適当な時機にふたりの結婚を発表するまで待っているように、あるいはふたりの結婚が両家を仲直りさせる喜ばしい手段になるかも知れないし、そうなれば大公も心を動かして彼をゆるし、去るときの悲しみの二十倍もの喜びをもって帰ってくるようになること疑いなしだとときました。ロミオも、法師のこの賢明な忠告に納得し、愛人に会いにいき、その夜は彼女と共に過し、翌朝早くひとりでマンチュアへ旅だつことにして法師に別れました。親切な法師はときどきマンチュアへ、故郷の様子を知らせる手紙を書き送る約束をしたのでした。
ロミオは、前夜愛の告白をきいたあの果樹園から彼女の私室へひそかに入れてもらい、愛する妻と一夜を過しました。それは純粋な喜びと有頂天の夜でしたが、愛する者同士がともに過すその夜の歓喜も、昼間の不幸なでき事と、悲しい離別への思いの為に減らされてしまいました。うれしくない暁があまりに早く来るような気がして、ひばりの朝の歌が聞えてくると、ジュリエットは無理にもそれを夜中になくナイチンゲールだと思いこもうとしましたが、それはひばりにちがいありませんでしたので、彼女にはその美しい声も不調和で不愉快に聞えるのでした。そして東の空にさして来る光は、確実に二人の愛人が別れるべき時刻が来たことを示すのでした。
ロミオはマンチュアから毎日、幾度となく手紙を書き送ることを約して、重い気持で愛妻に別れを告げました。そして彼が寝室の窓からおりて、下の地面に立ったとき、悲しみに沈んでいた姫の目には、彼が墓穴の底にいる死人のように見えました。ロミオもそれと同じような不安な気持をいだいたのです。けれども夜明けごにベロナの城壁内で見つかれば死刑になるので、彼は急いでそこを立ち去らなければなりませんでした。
わるい星のもとに生れたこのふたりの愛人にとって、これは単なる悲劇の始まりにすぎなかったのでした。と、いうのは、ロミオが去って幾日もたたないうちに、カプレット老公はジュリエットに縁談をもちだしたのです。姫が既に結婚しているとは夢にも知らない老公が、姫の夫として選んだのは若くてりっぱな紳士のパリス伯爵で、もし姫がロミオに会っていなかったなら、若いジュリエットには申し分のない求婚者でした。
おびえたジユリエットは、父の申し出に途方にくれてしまいました。姫は自分はまだ若くて結婚には適さないとか、最近のタイボルトの死にすっかり元気を失ってしまって、とうてい喜ばしい顔で夫を迎えることができないとか、彼の葬儀が終ったばかりだのに、カプレット一族の者が婚礼の祝宴を催すなんて、世間|体《てい》がわるいだろうなどと、理屈をこねるのでした。姫は自分が既に結婚しているという真実の理由をのぞいた、あらゆる結婚反対の理由を述べました。しかし老公は彼女のいいわけには、全然耳をかしませんでした。そして次ぎの木曜日にパリスと結婚することになっているのだから、それまでに準備をしておくようにと、厳しく命じました。老公はベロナ中のどんな気位の高い乙女《おとめ》でも喜んで受けいれるような、金持で若くてりっぱな夫を見つけてやったのに、たとえはずかしさを装うためとしても(老公は姫の拒絶をそう解釈していたので)自分自身の幸福に対して、そうした反対の障害物を並べるとは我慢ならないことだと考えていました。
進退きわまったジユリエットは、いつも困ったときの相談相手になる親切な法師に助力をこいました。すると法師は、彼女に命がけの救済法をとる決心があるかどうかを尋ね、姫が愛する夫がいるのにパリスと結婚するくらいなら、生きながら墓にはいった方がましだと答えたので、それなら家へ帰って楽しそうにして、父の望みどおりパリスと結婚することを承諾し、翌晩、すなわち結婚式の前夜に、自分の与えるびんの中味を飲むようにさしずをしました。それを飲んでから二十四時間たつと、姫は冷たくなって生命がないように見えるから、朝になって迎えに来た花婿は姫が死んだものと思うであろう、すれば土地の風習にしたがって、姫は霊柩車《れいきゆうしや》に乗せられ、上をおおわずに先祖代々の墓穴に葬るために運び去られるであろう。もし姫が女らしい恐怖をすてて、この恐ろしい計画に同意すれば、水薬を飲んでから四十二時間後(それはその液の確実な効力なのです)には、まるで夢からさめるように目をさますことは間違いないし、彼女が目をさまさないうちに、この計画を夫に通知するから、彼は夜中に来て彼女をマンチュアへつれていってしまうだろうと語りました。パリスとの結婚に対する恐怖と夫への愛が、若いジュリエットに、この恐ろしい冒険をする力を与えました。で、姫は法師の与えた薬を受けとり、いわれたとおりにすることを約束したのでした。
姫は僧院から帰る途中で、若いパリス伯に会ったので、しとやかに装い、彼の花嫁になることを約しました。これは老公と奥方にとって喜ばしいニュースでした。そのために老公は若返ったように見えました。伯との結婚を拒んでひどく老公の不興をこうむっていたジュリエットも、こうして父の意見に従う約束をしたので、今では再び父のお気に入りとなったのでした。カプレット家では、何もかも近づく婚礼の準備で大騒ぎでした。ベロナでかつて見られなかったこの祝宴のためには、いかなる費用も惜しまれませんでした。
水曜日の夜、ジュリエットは水薬をのみほしました。姫はいろいろと思いわずらいました。もしかして法師は自分とロミオを結婚させた責任のがれに毒をくれたのではないかしら? だが法師はこれまでずっと、徳の高い人として知られていたのだから、まさかそんなことはあるまい、もしかしてロミオが自分を墓からつれ去る前に目をさましたらどうしよう? 死んだカプレット家の人々の骨で一杯になっている墓穴で血まみれのタイボルトが、経かたびらに包まれて腐っていく、その場所の恐ろしさだけで気が狂うのではないかしら? とか、そのほかこれまで聞いた死者を置く場所に現われるという、さまざまな幽霊の話を心に浮べたりしました。けれどもロミオに対する愛や、パリスとの結婚をのがれることなどを再び思い起すと、彼女は必死の気持で薬をのみほして気を失ったのです。
翌朝早く若いパリスが花嫁の目を覚まさせるために音楽をかなでながら来たときに、姫の室は生きているジュリエットではなく、命のない死がいの恐ろしい光景を呈していました。彼の希望に対して何というむごい死でしょう! 何という困乱が家中にみなぎったことでしょう! 気の毒なパリスは最もいまわしい死が、姫をだまし取って、まだふたりの手が結ばれもしないうちに、もう離婚させられたことを嘆き悲しみました。けれどもそれにも増していたましいのは老公とカプレット夫人の嘆きを聞くことでした。ふたりは子供といえば、喜びと慰めを得ていたこのかわいい姫ひとりしか持っていませんでしたのに、この用心深い両親が前途有望で有利な結婚(両親はそう思っていたのです)によって、娘が出世するところを見ようとしていた矢先に、残酷な死がその娘を目の前から奪いさってしまったのです。今や祝宴のため命じられたすべての物がその性質を変えて、陰気な葬式に用いられることになりました。婚礼のごちそうは悲しい葬式のごちそうの役目をし、婚礼の祝歌は陰気な悲歌にかわり、陽気な楽器は憂うつな鐘になり、花嫁の行く道にまかれるはずだった花は、死がいの上にまかれることになりました。彼女を結婚させる法師のかわりに、埋葬するための法師が必要となりました。そして彼女は生きている人々のたのしい望みを増すためではなく、物憂い死者の数を増すために、寺院へ運んでいかれたのでした。
悪いニュースというものは、いいニュースよりも早くひろがるのが常で、愛するジュリエットの死の悲しい物語は、ローレンス法師が、それは単なる偽りの葬儀で、死の影と芝居にすぎないこと、いとしの姫はロミオがその淋しい墓場から救い出しに来るまでの、わずかな間だけそこに横たわっているのだという知らせを持たせてやった使者が着かない先に、マンチュアのロミオに伝わってしまいました。
ちょうどその直ぐ前まで、ロミオはいつになく陽気で軽い気持になっていたのでした、彼はその晩夢を見ました。それは彼が死んでいて(死人が考えることができるなんて不思議な夢ですが)そこへ愛人が来て彼の死んでいるのを見つけ口づけをして生命を吹きこんだので生きかえり、皇帝になったという夢なのでした! そこへベロナから使者が来たので、彼はたしかに夢の予報を裏書するような吉報にちがいないと思ったのでした。ところがこのうれしがらせの幻とは正反対に愛人が夢ではなく実際に死んでしまって、もはやいかなるくちづけもよみがえらすことができないと知ると、ロミオはその夜ベロナへいって墓の愛人を見ようと決心をして、馬の用意をいいつけました。
絶望した人の心には、とかくわざわいがはいりこみ易いもので、彼はそのときふとある貧しい薬屋のことを思い起しました。その店はマンチュアにあって、最近その前をとおったことがあったのです。餓死しかかっているようなその男のみすぼらしい風さいや、きたない棚《たな》に空箱《あきばこ》をならべた哀れな店のありさまや、そのほか極端な貧困を語る様子を見て、彼はこんなことをいったのでした(自分の不幸な一生が、そのような悲惨な結末になるのではないかという不安を感じたのかも知れませんが)「もし人が毒薬を必要とするなら、それを売ればマンチュアの法律では死刑になるのだが、ここにそれを売ってくれる哀れな男がいる」と、その言葉が彼の心に浮かんできたのです。それで彼はその薬屋を捜し出しました。薬屋は貧困のためにロミオのさし出した金貨を拒みきれずに、少しためらうような様子をして見せたあとで、毒薬を彼に売りました。薬屋のいうところによると、もしそれを飲めば二十人の体力をもっていても何なく死んでしまうだろうということでした。
この毒薬を持って彼は墓の中の愛人を見にベロナへ出かけていきました。彼は心ゆくまで姫を見たうえで服毒し、そのかたわらに葬られるつもりだったのです。夜中にベロナに到着して寺院の墓地の中央にあるカプレット家先祖代々の墓を見つけました。彼は灯火と、すきと、ねじ回しを用意していたので、それで墓をこじあけにかかると「悪党モンタギュウ!」という名で呼びかけ、不法行為をやめろと命じる声に妨げられました。それは自分の花嫁になるはずであったジュリエット姫の墓に花をまいて泣くためにそんな真夜中にそこへ来た若いパリス伯でした。伯はロミオがなき姫とどういう関係があるか知りませんでしたが、それがモンタギュウ家の者だということだけは知っていましたから、カプレット家にとって生かしては置けない敵ゆえ(彼の想像によると)死者に何かいまわしい恥辱を与えに夜陰に乗じて来たものと判断したのでした。それで伯は怒声をあげてやめろと命じ、ベロナ市の城壁内で発見されれば法律上死刑にされるべき罪人として彼を逮捕しようとしたのでした。
ところがロミオの方でパリスに立ち去れと迫り、その墓地に横たわるタイボルトの運命を例にあげて、自分の怒りをあおらないように気をつけないと、止むをえずパリスを殺さなければならない破目になり、自分の頭に更に罪を重ねさせることになると警告しました。けれども伯はその警告をばかにして、彼を重罪犯人として捕えようと手をかけたので、ロミオはそれに反抗し、ふたりは格闘したあげくパリスは倒れました。
ロミオは灯火の助けをかりて自分が殺したのは、ジュリエットと結婚するはずのパリス(この事実はマンチュアからくる途中で知ったのでした)であったことを知り、不運な道づれとして死せる青年の手をとり、勝利の墓、すなわちジュリエットの墓に葬ってやろうといいました。そしてその墓を開くと、そこには彼の愛人が、死さえもその相や顔色を変化させることのできない、世にもまれな美しさで横たわっていました、それはまるで死神が恋慕して、やせた醜い化物《ばけもの》が自分の喜びのために姫を大切にしておくかのように、ありし日のままになっていました。それもそのはずです、姫は例の麻薬を飲んで眠っていたのですから、まだいきいきとして花のように美しかったのです。その近くにタイボルトが血染めの経かたびらを着て横たわっているのを見て、ロミオは生命のないかばねに謝罪しジュリエットゆえに彼を従兄《いとこ》とよび、自分はこれから彼の敵すなわち自分を殺してやるところだと語りました。次ぎにロミオは愛人にくちづけをして最後の別れを告げてから、薬屋の売ってくれた毒を飲んで、ものういからだから、不運な星の重荷を振り落しました。この毒薬の効果はジュリエットの飲んだ薬とは違って、確実に致命的なものでした。それでジュリエットの薬の効果はほとんど消えかかってもうすぐに目をさまして、ロミオが時間を守らなかったこと、あるいはあまりに早く来すぎたことを嘆くところだったのでした。
それはちょうど法師が、彼女の目をさますときだと約束した時刻だったのでした。それで彼はマンチュアへ送った手紙が、何かのことで使者がおくれたためにロミオに届かなかったことを知って、自らつるはしと灯火を持って姫を墓から助け出しにきました。ところがカプレット家の墓にはすでに灯火がともり、その辺に剣と血がちらばり、ロミオとパリスが墓碑のわきに、息絶えて倒れているのを見いだして仰天しました。
法師がこの不幸なでき事がどうして起ったか、想像するにたる推測をくださないうちにジュリエットは催眠状態からさめて、法師がそばにいるのを見て、自分のいる場所と、そこにいる理由を思い出しロミオはどこにいるかと尋ねました。しかし法師は騒がしい音を聞いたので、姫に人間のさからうことのできない大きな力が自分たちの計画の裏をかいたから、姫に不自然な眠りからさめて、死の場所から出てくるように命じました。そして人々の近づく足音に脅かされて法師は逃げていってしまいました。けれどもジュリエットは自分の真の愛人の手のそばに杯があるのを見て、毒が彼の死因と察し、もし毒薬が残っていたら飲むつもりだったのでしたが、それがなかったので、彼の口にでも毒がついているかも知れないと思って、まだ暖かいくちびるに接ぷんをしました。そのとき、人々の来る足音がいよいよ近づいてきたので、姫はすばやく身におびていた剣のさやを払い、われとわが身を刺して誠実なロミオのわきで死んでしまいました。
そのとき夜警の一隊が現場へ来ました。パリス伯爵に仕えていた小姓が主人とロミオの戦うのを見て急報したので、ベロナの市民のあいだにそれがひろまり不完全な噂が伝わったので往来をのぼりくだりする人々はパリスとかロミオとかジュリエットとか口々にかまびすしく叫ぶので、その騒ぎがついにモンタギュウ老公やカプレット老公、それに大公までも寝床から呼び起してしまい、この騒動の原因が取り調べられることになりました。
法師は震えながらため息をしたり泣いたりして、怪しげな様子で墓地から出てきたところを夜警の一人に逮捕されたのでした。で、カプレット家の墓所に大変な群衆が集り、法師はこの不思議なそして不幸なでき事について知っているところを述べるように大公から言いわたされました。
そこで法師は、モンタギュウおよびカプレット老公の前で、両家の子供たちの命がけの恋物語を忠実に述べ、彼はふたりが結ばれることによりながいあいだの両家の争いが終りを告げるように希望してその結婚を促進するために一役買ったこと、そこに死んでいるロミオはジュリエットの夫であって、またそこに死んでいるジュリエットはロミオの貞淑な妻であること、法師がふたりの結婚を発表するいい時機を見いださないうちに、ジュリエットに別の縁談がもちあがったこと、姫は二重結婚の罪をのがれるために(法師の忠告にしたがい)睡眠剤を飲んだので、人々は姫が死んだと思いこんだこと、一方法師はロミオに薬の効力が消滅するころにきて姫を連れ去るように書き送ったのに、運悪く使者の誤配からその手紙がついにロミオに届かなかったこと、それから自分がジュリエットを死の場所から救い出しに来て、パリス伯爵とロミオが殺されているのを見いだしたほかは、何も知らないので、法師はそれ以上の陳述をすることはできませんでした。
その他の事情は、パリスとロミオの闘争を目撃していた小姓と、ロミオについてベロナから来た召使の証言によって補われました。この忠実な愛人は自分が死んだばあいに父に渡すようにといって、手紙をその召使に託しておいたのでした。その手紙にはジュリエットと結婚したことを告白して両親のゆるしを乞い、貧しい薬屋から毒薬を買ったことや、死んでジュリエットと共に葬ってもらうために墓地へ来たことが、明白に書いてあったので、法師の陳述を有利にしました。それらのあらゆる事情を総合して、善意から出たとはいえ、あまりに技巧的で、あまりに巧妙な趣向が意外な結果を招いたという以外には、法師がこのこみ入った殺人事件に関係したと思われる節のないことが証明されたのでした。
大公はモンタギュウおよびカプレット両老公にむかって、彼らの野蛮で不合理な敵意を非難し、神は子供たちの愛さえも彼らの不自然な憎しみを罰する手段とされるほど、そうした世人をつまずかすような罪に対して厳しいむちをくだされることをとき聞かせました。
そこでこのふるい敵同士――今はもはや敵ではありませんが――は多年の争いを子供たちの墓に埋めてしまうことに同意しました。そしてカプレット公は、あたかもジュリエットとロミオの結婚によって両家が結ばれたことを承認するかのように、モンタギュウ公を兄弟とよび、握手を求め(仲直りのしるしに)娘が夫から受けとるべき財産として自分が要求するのはモンタギュウ公の手だけだといいました。ところがモンタギュウ公はそれ以上のものを与えようと申し出ました。それはベロナ市が存在するかぎり、どんな像もその美しさにおいても巧みさにおいてもこの誠実で貞淑なジュリエットの像にかなわないほど立派な純金の像を姫のために建てようというのでした。するとカプレット公もその返礼にロミオの像を建てると申し出ました。子供たち(両家の争いと不和の哀れな犠牲者たち)の恐ろしい最後以外には何ものも此両貴族の根深い憎しみとねたみを取りのぞくことができないほどに以前の彼等の怒りや恨みは激しいものでしたのに、もう時すでに遅い今になって、気の毒な老公たちは、そんなふうにお互にわれ劣らじと好意を示しあうのでした。
[#改ページ]
ハムレット
デンマークの女王ゲルトルードは、ハムレット王の急死で未亡人になってからまだ二カ月とたたないうちに、その弟クローデアスと結婚しました。そのことは当時あらゆる人々から、不謹慎か、無情か、あるいはもっと悪い奇怪なおこないとして注目されたのでした。というのは、このクローデアスは人品といい心柄といい先夫とはすこしも似たところがなく、性格が卑しく徳望がないと同様に、その外見も下品でした。
ある人々の心には、彼は未亡人と結婚してデンマークの王位につき、葬られた王の長男で王位の正当な相続者である若いハムレットを追放するために、ひそかに兄を殺したのではあるまいかという、疑いを起させました。しかしだれにもまして、この女王の無分別な行いは、なき父を愛し、偶像化するほどに崇拝していた若い王子の心に、強い印象を与えました。そして廉恥心が強く、自らが最も正義を実行する人物だっただけに、母ゲルトルードのこの卑むべき行いをひどく気にしていました。それで父の死に対する悲嘆と、母の結婚に対する恥かしい思いの板ばさみになって、この若い王子はすっかりふさぎ込んで、快活な気持も美しい顔色も失ってしまいました。今までの読書のたのしみも彼を見すててしまい、青年として当然するような王子にふさわしい運動競技も、もはやおもしろくなくなってしまいました。彼は世の中がいやになりました。彼にはこの世は雑草のみはびこり、りっぱな花はみんな息をつまらされてしまう、草を取らない庭のように見えるのでした。
正当な相続権のある王位から除外されるという予想がそんなに彼の心を砕いたのではありませんでした――もっとも若くて自尊心の強い王子にとって、そのことは激しい苦痛であり、非常な屈辱であったでしょうが――それよりも、彼を悩まし彼の快活な精神を取り去ったのは、母が、あのりっぱな父の霊に対して、あまりに忘れっぽい態度を示したことでした。母にとってはじつに愛情深くやさしい夫でしたし、母もまたいつも愛情深い従順な妻で、その愛情が日ごとに増してくるかのようにいつも夫に寄りそうようにしていたのに、それが二カ月以内、――いや若いハムレットには二カ月よりももっと早く思われたのでした――に再婚したのです。しかも彼の叔父であり彼女の死んだ夫の弟である人と結婚したのです、その近親であるという点から見ても、それ自体からいっても大いに不当で法律を無視した結婚でしたし、不謹慎なあわただしさや、また王座と寝床の配偶者として母のえらんだ男が王としてふさわしくない品性だという点から見ても非常に不当不法な結婚だったのです、その事実が十の王国を失う以上にこの高貴な若い王子の気を砕き、その心を曇らせたのでした。
母ゲルトルードや王はあらゆる工夫をこらして彼の気持をまぎらそうとしましたが、無効でした。彼は父王の死をいたむ意味で真黒な服装をして宮廷にあらわれ、どんなときにもその喪服をぬごうとしませんでした。母の結婚式の日に母に祝意を表わすためにさえぬぎませんでしたし、彼には恥辱の日と思われるその日のどんな祭典にも祝宴にも加わろうとしませんでした。
何より彼の心をなやましたのは、父がどんなふうにして死んだのか、はっきりしていないことでした。クローデアスは毒へびがさしたのだと発表しましたが、若いハムレットは、クローデアスが毒へびだったのではないか――わかりやすく言えば、クローデアスは王冠を得るために父を殺したので、父をさしたその毒へびが、いま王座についているのだという、鋭い疑いをいだいたのでした。
この推測がどの程度まで正しいか、母を何と考えるべきか、母はどの程度まであずかり知っていたか、彼女の同意または承知のうえでのことか、それとも母が何も知らないうちに行われたのか、というような疑惑がたえず彼を悩まし、彼を狂わしたのでした。
彼のなき父王にそっくりの亡霊が、二三夜つづいて深夜宮廷の前の高殿に現われたのを番兵が見たという、うわさがハムレットの耳に入りました。その亡霊は頭から足まで父王が生前いつも身につけていたのを皆が知っている、よろい、かぶとを着て現われました。そして、それを見た人々――その中にはハムレットの親友ホレーシオもいました――はその亡霊の現われる様子や時刻についての証言で一致していました。それによるとちょうど時計が十二時を打つと現われ、顔は青ざめていて、怒りよりも悲しみの表情を浮べ、ひげは恐ろしげで、生前見かけたように黒みがかった銀色をしていたとか、話しかけても返事はしなかったが、一度だけもの言いたげに頭をあげて、くちびるを動かしかけたように見えたが、そのときおんどりが鳴いたので、逃げるように急いで姿を消してしまったというのでした。
若い王子は信じないわけにいかないほど、皆のいうことが一致し、つじつまの合っているその物語をきいてひどく驚き、彼らの見たのは父の亡霊にちがいないと断定しました。そして亡霊というものは、何か理由がなければ現われるものでないから、今までは黙っていたとしても、自分には何か話すだろうと結論して、その夜は兵たちとともに番をしようと決心し、夜のくるのを待ちわびていました。
夜になると王子はホレーシオと番兵の一人のマーセラスとともに亡霊がいつも歩くという高台で見張りをしていました。寒い晩で、風がいつになく冷々して身をきるようだったので、ハムレットとホレーシオとその仲間は、夜の寒さについて語り始めましたが、突然にホレーシオが亡霊がやってくると叫んだので、その話はとぎれてしまいました。
父の亡霊を見て、ハムレットは突然の驚きと恐怖に襲われました、最初はそれが善霊なのか悪霊なのか、善をなすために来たのか、悪を行いに来たのかわからなかったので、彼は天使や守護神の保護を祈ったりしました。けれどもだんだんに勇気が出て来ると、父が非常にあわれっぽく――彼にはそう思われたのです――何か話をしたそうに見えましたし、それにあらゆる点で、生前の父に非常に似ていたので、ハムレットは話しかけずにはいられなくなりました。王子は、
「ハムレットよ、王よ、父よ!」と呼びかけ、なぜ彼が静かに葬られているのを、皆が見たあの墓から出てこの地上と月光をおとずれたのかその訳を語ってもらいたい、そしてもし自分たちに何か彼の霊を安んじることができるのなら、それを教えるようにと求め願いました。
すると亡霊は、自分たちふたりだけになれるどこか離れた場所へ自分といっしょに来るようにというふうに王子を手招きしました。ホレーシオとマーセラスは、どうかして王子がそれについて行かないように引きとめようとしました。それはもしやしてそれが悪霊で、王子を近くの海とか、あるいはどこか恐ろしいがけの上へおびき寄せておいて、不意に物すごい形に変って、若い王子の理性を失わせるようなことになるのではないかと、心配したからでした。けれども彼らの忠告も懇願も、命など少しも惜しまず、命を失うことなど何とも思っていないハムレットの決心を変えさせることはできませんでした。そして彼は自分の霊魂については亡霊と同じく不死なものであるから、亡霊にも何ともすることはできないではないかといいました。そして彼はライオンのように大胆な気持になり、あらゆる力で引きとめようとする人々をふりきって、亡霊の導くままにどこへでもついていってしまいました。
ふたりきりになると、亡霊は沈黙を破り、自分は残酷にも殺害された彼の父、ハムレットの亡霊であると告げ、殺された模様を語りました。それは王子がすでに十二分に疑っていたとおり、父のじつの弟であり、彼の叔父であるクローデアスが王位と寝床ほしさにやった仕業《しわざ》だったのです。つまり彼がいつも午後の習慣に従って、庭で眠っていたときに、弟が忍び寄って耳の中へひよす草の毒液を注ぎこんだので、その毒液は人間の生命に対して激しい反応を持っていて、まるで水銀のような早さで全身にまわり、血液を焦がし、ひふ一面にパンの皮のようなかさぶたを作るものでした。そんなふうにして、彼は睡眠中に、弟の手で王位からも王妃からも命からも、一時に切りはなされてしまったわけです。それから亡霊はむすこにむかって、彼の母が第一の夫の愛を裏切って、殺人者と結婚するほどに婦徳を失ったことを嘆きました。けれども、悪い叔父に対して、復讐する際に、どんなことがあっても母に暴力を及ぼすようなことはせず、彼女のことは天と良心のかしゃくにのみ任せておくようにと注意しました。そこでハムレットはすべて亡霊の指図どおりにすることを誓うと、亡霊は消えてしまいました。
ハムレットはあとにひとり残されると、自分がこれまで書物や観察によって学んで記憶したことはすべてその場で忘れてしまい、自分の脳中には亡霊が彼に語り彼になせと告げたことのほかは、何も存在させないで置こうと、厳粛な決心をしました。ハムレットは父と交わした会話の内容は、親友のホレーシオ以外にはだれにも語りませんでした。そしてホレーシオとマーセラスの両人に、その夜見たことを極秘にするように申しつけました。
ハムレットはもともと身体が弱く気が沈んでいましたが、亡霊を見た恐怖は彼の心を乱し理性を失わせんばかりでした。それで彼はその状態が進めば、自分は注目の的となり、自分が叔父に対して何か計画しているとか、または、父の死について叔父が公表した以上のことを知っているのを感づかれ、叔父に警戒させるようになるだろうと心配して、ハムレットはそのとき以来、まぎれもなく真実の狂人を装おうという途方もない決心をしました。叔父に自分はどんな重要なこともなし得ないと信じさせれば疑いをかけられないだろうし、また実際の心の乱れを最もよく、おおい隠すには狂人のふりをするのが一番いいと王子は考えたのでした。
このときからハムレットは服装でも、言うことでも行いでも乱暴で奇妙な風をよそおいました。彼があまり巧みに狂人をまねていたので、王も、女王もすっかりだまされてしまい、ふたりとも亡霊の現われたことは知らなかったので、彼がそんなに狂ったのは、父の死に対する悲しみのためでなく、恋いわずらいのためときめてしまい、その恋の相手を発見したいと思っていました。
ハムレットは先に述べたように憂うつ病にかかる前には王の宰相ポロニアスの娘のオフェリアという美しい少女を非常に愛していました。彼は姫に手紙や指輪などを贈り、たびたび姫に対して愛情をあらわし、礼儀ただしくつきまとって自分の愛情をうちあけていました。それで姫も彼の誓いや求愛を信じていました。けれども近ごろかかった憂うつ病が彼に姫をうとんじさせていましたが、狂人を装う決心をしてからは、わざと、不親切と一種の粗暴さで姫を扱いはじめました。けれども善良な姫は彼の不実を責めるよりも、むしろ以前ほど彼が姫をかえりみなくなったのは、彼の心に宿る病気のせいで一時的の不親切にすぎないのだとみずからにいいきかせていました。そして今は彼を苦しめている深い憂うつのために傷つけられているが、かつてはすぐれた理解力をもったとうとい彼の心を、美しい音の鈴にたとえ、それ自身は非常にすぐれた音楽を奏することができるのだが、調子はずれに鳴らされたり、乱暴に扱われたりすれば、耳ざわりな不快な音を発するものだと考えていました。
ハムレットが現在たずさわっている、父の死に対して殺人者に復讐するという荒仕事は、求愛というような遊戯的な状態とは一致しませんでしたし、また恋愛などという、のん気な交際とはあいいれないように考えられましたが、それにもかかわらず、オフェリアを思うやさしい感情がそのあいだに出てくるのを禁じることはできませんでした。そうした気分のときに彼は、この優しい姫に対する扱い方が不合理に乱暴であったことを思い、姫に手紙を書き送りました。それは彼が装うている狂人にふさわしく激情の爆発や、とっぴな文句を一杯につらねたものでしたが、彼の心の底にひそんでいる姫への深い恋心をこのりっぱな姫に示さずにはおかないような、やさしい情愛がそれとなくにおわしてありました。彼は姫に星が火であることを疑い、太陽が動くことを疑い、真理がいつわりであると疑ってもいいが、決して私が愛していることを疑ってはならないとか、そのほか、やたらにそうした文句が書いてありました。
その手紙をオフェリアは、娘の本分を守って父に見せました、それで老人はそれを王と王妃に知らせる義務があると考えたのでした。それ以来、王と女王はハムレットの発狂の真の原因は恋であると想像したのでした。女王はオフェリアのすぐれた美しさが幸いにもハムレットの発狂の原因であるように希望したのでした。というわけは、彼女の美徳が幸いにも彼を常態にもどらせ、双方の面目もたてられるだろうと考えたからでした。
けれどもハムレットの病気は、母が想像したよりもずっと深く根ざしていて、それぐらいのことではなおせないほど強いものでした。彼の見た父の亡霊はいぜんとして彼の心につきまとい、殺人者に復讐するという神聖な命令は、それをなしとげるまでは、彼に休息を与えないのでした。一時間でも遅れれば、それだけの時間ごとに罪をかさね、父の命令にそむいているように思われました。けれども王はいつも警備の兵に守られていたので、どうして王を殺すかということは容易なことではありませんでした。また容易だとしてもいつも王とともにいるハムレットの母である、女王の存在は彼の目的を束縛していましたが、それを断ち切るわけにはいきませんでした。それにこの横領者が母の夫だという事実そのものが彼の心にいくらか自責の念を満たし、一層彼の目的のほこ先を鈍らせるのでした。またハムレットのように優しい性格の者にとっては、同胞である人間を殺すという、その行いだけでも、いとわしく恐ろしいことでした。彼の憂うつ症と長いあいだおち入っていた意気そ喪とが目的に対する不決断とためらいを引き起したのです、そのために彼は最後の手段をとることができないでいました。そのうえ彼は自分が見た亡霊は、ほんとうに父であったのだろうか、もしかしたら思うままにどんな姿にでもなれるという悪魔が父の姿になって、自分の弱さと憂うつさにつけ込んで殺人というような恐ろしい行いをやらせようとしているのではないかという迷いを抱かずにはいられなかったのです。そこで彼の心は迷いであるまぼろしとか亡霊よりも、もっと確かなよりどころのある証拠を得ようと決心しました。
そんなふうに心がぐらついているところへ、数人の俳優が宮廷へ来ました、ハムレットは以前はその俳優たちに興味を持ち、特にそのなかのひとりがトロイの老王プリアムの死とその王妃へキュウバの悲嘆を描写する悲劇的なせりふを述べるのを聞くのが好きでした。ハムレットは旧友であるそれらの俳優たちを歓迎し、前にそのせりふが自分をたのしませたことを思い出して、その俳優にそれをくりかえして聞かせてくれるように頼みました。それで彼は、かよわい老王を惨殺するところから、火災により市民や市街が滅亡する様、それから王冠を頂いていた頭には、みすぼらしいぼろ布をかぶり、王衣をつけていた身には、急いで取りあげた毛布を一枚まとっただけで、素足で宮殿の中をあちこち走りまわる老女王のもの狂わしい悲嘆の様などを、目に見えるように語りました。そこに居合せた人々はみんな、実際にその光景を見ているような気持になって涙を流しました。それほど真に迫った演出だったのでしたが、それを語る俳優自身も声がとぎれ、ほんとうの涙を流していました。
そのことはハムレットに考えさせました。俳優が単なる作り話のせりふで自分自身を感激させ、幾百年も昔に死んでしまった見たこともないヘキュウバのために泣くことができるというのに、愛する父である実在の王が殺されたという実際の動機の激しい感情のきっかけを持っている自分が、復讐心をあいまいなぼんやりした忘却のうちに眠らせて、何の感動も起さずにいるとは、自分は何という鈍感な人間なのだろうと思いました。そして俳優や、演技や、真に迫るように演じられるいい芝居が観客に及ぼす強力な効果などについて思いめぐらしているうちに、ある殺人者の実例を思い起しました。その男は、舞台の上の殺人を見て、単にその光景と前後の事情が似ていたというだけのことに感動させられて、その場で自分の犯した罪を白状したのでした。そこで彼はそれらの俳優たちに、父の惨殺に似たようなことを叔父の前で演じさせ、叔父にどんな影響を及ぼすかを注意深く観察して、その表情によって叔父が殺人者であるかどうかを、もっとはっきりと確かめようと決心しました。彼はその目的にそうように脚本の準備をするように俳優たちに命じ、王と女王をその芝居に招待しました。
その筋は、ウインナにおける大公謀殺の物語でした。大公の名はゴンザゴ、妻の名はバプチスタでした。その劇は大公の近い親戚が大公の地位を奪うために庭で彼を毒殺しそれからまもなくその殺人者はゴンザゴの妻の愛を得たという筋でした。
この劇の上演には、王は自分にしかけられた、わなとは知らずに女王と朝臣一同をつれて臨席しました。ハムレットは王の顔つきを観察するために、注意してその近くに、すわっていました。劇はゴンザゴとその妻の対話で始まり、夫人は幾度も愛を誓い、たとえ夫より長生きしても自分は決して第二の夫と結婚などしない、もし第二の夫を持つようなことがあったら、自分はのろわれてもいいとか、さらにつけたして、どんな女でも、第一の夫を殺すような悪い女でなければ、二度目の夫など持たないなどといいました。ハムレットは叔父なる王がその言葉に顔色を変えたことと、それは王と女王の双方にとってにがよもぎ同様ににがいものであったことを見て取りました。だが劇の筋にしたがってルシアナスが庭で眠っているゴンザゴを毒殺しに来たときには、庭で毒殺した自分の兄であるなき王に対する自分の悪行に非常によく似ていたことがこの横領者の良心をはげしくうったので、劇の続きを見ていられなくなり、急に灯火を自分の寝室へ運ぶように命じ、病気のふりをしたのか、それとも急に気分が悪くなったのか、あわただしく劇場を立ち去りました。
王が退場したので、芝居も中止になってしまいました。今や、ハムレットは亡霊の言葉が真実で、心の迷いでないことを確かめるだけの見きわめをつけることができました。それでだれでも疑惑や何か気がとがめるようなことが急に解決したときに襲われると同じような愉快の発作を起して、彼はホレーシオに自分は千ポンドかけても亡霊の言葉を信じると誓いました。けれども、彼がこうして叔父が父を殺したことが確実になったうえは、どんな復讐手段をとるか心をきめないうちに、女王、すなわち母から私室でひそかに相談をしたいことがあるからという使をうけました。
女王がハムレットを迎えにやったのは、彼のしたことが、どんなにふたりを不愉快にしたかを王子に知らせるようにという王の希望があったからでした。王はその会談の内容を全部知りたいと思い、母親のへんぱな報告では、ハムレットのいった言葉の中で王にとって重要なことが略されるかも知れないというので、老宰相ポロニアスに命じて、だれにも見つけられずにすべてを聞けるように女王の室のカーテンのうしろに身をひそめさせました。この策略は特にポロニアスの性格に適していました。それは彼が国家の術策やひねくれた処世法の中で老年に達し、悪賢い間接な方法で物事を知るのを好む男だったからです。
ハムレットが母のところへいくと、女王はあからさまに彼の行動を非難し、彼が父――つまり彼の叔父である王を彼女は自分が結婚したので、ハムレットの父と呼んだのです――をひどく立腹させたことを語りました。ハムレットは自分にとって非常に大切な尊敬すべき父という名を母がじつの父を殺した犯人にほかならない悪漢に与えたのをすっかり憤慨して、
「お母様、あなたこそ御父上をお怒らせになった!」とやや声を荒ららげて答えました。
女王はそれを全くばかげた答えだといいました。
「質問にふさわしい答えです」とハムレットはいいました。
女王は彼がだれにむかって話しているのか忘れたのかと尋ねました。
「ああ、私はそれを忘れることができればいいと思います、あなたは女王です、あなたの夫の弟の妻です、そして私のお母様でいらっしゃる、私はあなたがそんなふうでなければいいと思います」とハムレットは答えました。
「いや、それでは、お前がそんなに私に少しも尊敬を示さないのなら、別にだれか話のできる人をお前のところへよこしましょう」といって、女王は王かポロニアスを呼ぶつもりで行きかけました。
けれどもハムレットはせっかく母だけとこうしているのだから、自分の言葉がいくらかでも悪い生活をしていることを母に悟らせることができるかどうか、確かめるまでは母をいかせまいとしました。それで母の手首をとって、しっかりとおさえ、そこへ腰かけさせてしまいました。母はむすこのあまりに真剣な様子におびえ、気がちがっているので何か自分に危害を加えるかも知れないと心配して叫びごえをあげました。するとカーテンのうしろから、
「お助け申せ! 王妃様をお助け申せ!」という声が聞えました。
それを聞いたハムレットはそこにかくれているのは王にちがいないと思い込んで、剣をぬき、まるでその辺を走るねずみでもつき殺すように、その声の起った場所につき刺しました。そしてその声がやんだので、彼は王が死んだものと思いました。ところがそのからだを引き出して見ると、それは王ではなくカーテンのかげにスパイとして身をひそめていた、おせっかいな老宰相ポロニアスでした。
「おお、お前は何という乱暴な残酷な行いをしたんでしょう!」と女王は叫びました。
「お母様、残酷だとおっしゃるのですか! でも、王を殺しその弟と結婚したあなたほどにひどくはありません」とハムレットはいい返しました。
ハムレットはあまりに行き過ぎてしまって、そこで中止するわけにいかなくなりました。彼は今、母に率直に話す気分になっていたので、どんどん話をつづけました。一体両親の過失というものは子供たちから優しく扱われるべきものなのですが、それが大罪のばあいには、たとえ子であろうと、もしその激しさが母のためによく、母を邪道から引きもどすためで、単なる非難の目的でなされたものでないのなら、自分の生みの母にでも相当きびしく話してもいいはずでしょう。それでこの高潔な王子は何人をも動かすような激しい言葉で、わずかのあいだになき王の弟、しかもその王を殺したと思われる男と結婚するほどに、なき王、すなわち自分の父を忘れた母の罪の極悪さを説きました。最初の夫に対して誓言をしておきながら、このような行いをすることは女性全体の誓言を疑わせるに十分で、あらゆる婦徳を偽善と見なさせ、結婚契約を勝負事師の約束にすぎないものとし、宗教を見せかけの単なる言葉の様式にすぎないものとすると彼はいい、母は天も赤面し、地もそのために胸を悪くするような行いをしたのだともいいました。そして彼は母に二つの画像を示しました。一つは最初の夫であるなき王で、もう一つは第二の夫である現在の王の画像で、彼はその二つの違いに目をとめるように母にいいました。父のひたいには何という優美さがあり、どんなに神のごとくに見えたか! アポロの神のような巻毛、日の神ジュピターのようなひたい、軍神マースのような目、それから天にくちづけをしている高い山の上におり立ったばかりの神よりの使者マーキュリイのような姿! これが母上の夫だったのですと、彼はいいました。それから母がそのりっぱな夫のかわりに得た人を示し、彼がまるで植物を枯らすふけか、かびのように見えること、そしてまったくそのふけのように、健康であった兄を枯らしてしまったこと、母は王子によって、非常にみにくく、邪悪になっているわが心に目をむけさせられて、ひどく恥じていることなどを指摘し、母はこれでもなお、最初の夫を殺し、盗人のような不正な手段で王位をうばった男の妻としてともに暮していくことができるかどうかを尋ねました。
ちょうどハムレットがそこまで言ったときに、ありし日のままの父の亡霊が最近に見たとおりの姿でそこへ入ってきたので、ハムレットは恐れおののきながら、何の御用か聞きました。亡霊はハムレットが自分に約束した復讐のことを忘れているようだから、それを思い出させに来たのだといい、母が今おち入っている悲しみと恐怖のために死んでしまうといけないから、母とよく話しあうように命じて、姿を消してしまいました。それはハムレットのほかの人の目には見えなかったので、亡霊の立っていた場所を指さしても、そのほかどんな説明をしても、彼は母にそれを認めさせることはできませんでした。
母はハムレットが亡霊と話をしているあいだ中、彼が相手なしに会話をしていると思って、いたく驚いていたのでした。そして母はそれも彼の気が狂っているせいだとしました。しかしハムレットは父の亡霊をふたたびこの世へ来させたのは彼の狂気のせいだとか、自分の非行のせいではないなどと考えて、自分の悪心を慰めないでくれと母に請いました。そして自分の脈が狂人とちがって、どんなに平静にうっているか、脈を取って見てくれといいました。それから彼は母に神にむかって涙とともに過去を告白し、将来は王とともにいることをさけ、もはや彼の妻でなくなってくれるように、そうすれば自分も子として母の上に神の祝福があるように祈ろうといいました。そこで女王は王子の指図に従うことを約束し、この会談は終ったのでした。
さて、そのときになってハムレットは、不幸にも早まって自分が殺したのはだれであったかを考えるゆとりができました。で、彼はそれが自分の熱愛しているオフェリア姫の父ポロニアスであると気がつくと、死体をわきへ寄せて、今はいくらか気も静まっていたので、自分のしたことを後悔して涙を流して泣きました。
ポロニアスの不幸な死は、王にハムレットを国外へ追放する口実を与えました。彼はハムレットを危険人物と思ったので、死刑にしたかったのでしょうが、ハムレットを愛している民衆と、いろいろと欠点はあるにしても我が子である王子の愛におぼれている妻に気がねしたのでした。それでこの悪賢い王はハムレットがポロニアスの死について弁解を求められる機会を与えないように、ハムレットの安全をはかるという口実で二人の廷臣をつけて英国行きの船へ乗せてしまいました。そのふたりに王は手紙を持たせてやったのですが、それには当時デンマークの征服下にあって、税を支払っていた英国宮廷にあてたもので、特別の理由をかまえて、ハムレットが英国に上陸したらすぐに殺してしまうように頼む旨が書いてあったのでした。
ハムレットは何か不信行為があるにちがいないと感づいて、夜中ひそかにその手紙を手に入れて、巧みに自分の名を消してそのかわりに彼をあずかっている二人の廷臣が殺されるように彼らの名を書き込んで、再びもとの場所へ置いておきました。
それからまもなく船は海賊におそわれ、海戦が始まりました。その戦いの最中にハムレットは自分の勇気を示そうと思い、剣を手にして単身、敵船に乗りうつりました。そのあいだに彼の船は卑きょうにも方向をかえて風下《かざしも》へ逃げ去り、王子をその運命にまかせ、ふたりの廷臣は彼らに相応した身の破滅をもたらすように、ハムレットが書き変えておいた手紙を持ってひたすら英国へ急いでいきました。
王子を権力内に捕えた海賊たちは、おだやかな敵であることを示しました。彼らは自分たちが捕虜にした人がだれであるかを知ると、王子に親切にしておけば、その報いとして宮廷で自分たちに何か好意を示してもらえるだろうと思って、ハムレットをデンマークに一番近い港で上陸させました。ハムレットはそこから、王にふしぎな機会で故国へつれもどされたことを知らせ翌日陛下の御前に出る旨を書き送りました。彼が帰国すると、第一に悲しい光景が目に映じました。
それは、かつて彼の愛人であった、若く美しいオフェリアの葬式でした。この若い姫の精神は、父が死んで以来、狂いはじめたのでした。父が愛する王子の手にかかって非業の死をとげたことが、この傷つきやすい乙女心にひどくさわったので、ちょっとのあいだにすっかり気が変になってしまい、父の葬式の花だといって宮廷の貴婦人たちに花をくばったり、恋の歌や死の歌、時には自分の身の上に起ったことをすっかり忘れてしまったかのように、全く意味のない歌をうたったりして歩きまわりました。さて小川のほとりに一本のやなぎの木がななめにはえていて、その葉を流れの上にうつしていました。ある日、姫はだれも気がつかないうちに、ひなぎくといら草というように花も雑草もまぜてつくっていた花輪をもって、その小川のところまで来ました。そしてその花輪をやなぎの枝にかけようとして、よじのぼったところ、枝が折れて、この美しいおとめも花輪も、おとめの集めたものはみんなまっさかさまに水の中へ落ちてしまいました。しばらくのあいだ、着物のおかげで浮いていたので、姫は自分の悩みを自覚しない人か、さもなければ水の中にいるのが自然な動物であるかのように、古い歌の断片をうたっていました。けれどもまもなく、着物は水にぬれて重くなり、調子のいい歌から姫をどろまみれのみじめな死に引き込んでしまいました。ハムレットが到着したときに、姫の兄ローテスが行なっていたのは、この美しい姫の葬式だったので、そこには王も女王も、廷臣たち一同も列席していました。
彼はその光景が何を意味しているか知らなかったので、儀式を妨げまいと思って、わきに寄って立っていました。姫の葬式の習慣にしたがって、墓に花がまかれるのを彼は見ました。その花を女王みずからまいていました。そして女王は花を投げこみながら、
「麗しき人に、麗しきものを! 麗しいおとめよ、私はこの花をあなたのお墓にまくのではなく、花嫁の床をかざることと思っていました。あなたは我が子ハムレットの妻になるはずでしたのに!」といいました。また彼は姫の兄が、その墓からすみれの花が咲きでるようにというのを聞きました。それから彼が悲しみのあまり狂乱して墓穴の中にとび込んで、自分も妹といっしょに葬られたいから、その上に土の山をつみあげるように、従者に命じるのでした。それを見てハムレットはその美しい姫に対する愛情が胸によみがえってきて、兄だけがそんなふうに悲しみにわれを忘れるのを、見ているに耐えなくなってきました。それは自分が四万人の兄弟よりも深くオフェリアを愛していると考えていたからです。そこで王子は姿を現わし、ローテスのいるところへ、彼と同様、あるいはそれ以上に狂乱して飛び込みました。ローテスは、父と妹の死の原因であるハムレットと知るや、おのれ敵とばかりに、のど笛につかみかかり、従者たちがようやく引きはなしました。それで葬式がすんでから、ハムレットは自分がまるでローテスに立ちむかうかのように墓の中へ飛びこんだ軽率な行いを謝罪しました。けれども彼は美しいオフェリアの死に対して、何びとも自分より多く悲しんでいるように見えるのは、我慢ならないといいました。そんなふうにこのふたりの若い貴族は一まず和解した様でした。
けれども、ハムレットの悪い叔父である王は、父とオフェリアの死に対するローテスの悲しみと怒りを利用して、ハムレットの破滅を計画しました。王はローテスをけしかけて、平和と仲直りを口実に、敵意のない剣術の試合をハムレットに申し込ませ、ハムレットはそれを承知し、試合の日取りがきめられました。この試合には宮廷の人たち全体が出席しました。ローテスは、王の指図で毒をぬった武器を用意しました。ハムレットもローテスも剣術にすぐれていることが知れわたっていましたから、廷臣たちはこの試合に大金をかけました。ハムレットはローテスの裏切りなどは夢にも知らず、彼が試合の規則にしたがって用いる鈍刀でなく先の尖った剣に毒をぬったのを持っていたのに、そのローテスの武器を調べるだけの注意もはらわずに、そこにあった試合刀の中から一つをえらび出して取りあげました。
最初ローテスはハムレットをいいかげんにあしらって、彼の立場を有利にさせておきました。すると王はしらばっくれてハムレットの勝味を法外に誇張して賞賛し、ハムレットの勝利のために乾杯したり、巨額の金をかけたりしました。けれども、しばらく渡り合ったのち、ローテスはだんだん熱してきて、毒をぬった剣で猛烈に突込んでハムレットに致命的な一撃を加えました。ハムレットは憤然としましたが計略をつゆ知らず、組打ちの際に自分の潔白な剣とローテスの殺人的な剣とを取りちがえ、ローテスを彼自身の剣で一つき突いて見事に仕返しをしました。こうして、ローテスは正当に自分のかけたわなに自分がかかってしまったわけです。その瞬間に女王が自分は毒殺されたと叫び声をあげました。彼女は王がハムレットが試合に熱くなって飲みものを求めたばあいに与えるために用意しておいた杯を、うっかり飲んだのでした。その杯にはローテスが失敗したばあいにハムレットを確実に殺す致命的な毒が仕込んであったのです。王はその杯のことを女王に警告しておくのを忘れたので、彼女はそれを飲み、最後の息で自分は毒殺されたと叫びながらその場で死んでしまったのでした。
ハムレットは何か陰謀があることに気がつき、それを調査するあいだ、出入口の戸を全部閉めるように命じました。ローテスは自分が裏切者だったのだから、それ以上調査することはないと告げました。そしてハムレットが加えた傷のために自分の命が消え去るのを感じて、自分の用いた計略と自分自身がその犠牲になったことを告白しました。それからハムレットに毒をぬった剣先のことを話し、どんな薬も彼を救うことができないから、ハムレットも三十分とは生きられないだろうといい、ハムレットの許しをこい、王がこの不幸なでき事の計画者であるという最後の言葉を残して死んでいきました。
ハムレットは自分の最後が近づいたと知ると、剣先にまだ毒が残っていたので、突然にこの不実な叔父の方に向き直って、その剣先を彼の胸に突きさして、父の亡霊に誓った約束を果しました。かくして亡霊の命令は遂行され、残酷な殺人は犯人のうえに復讐されたのでした。
ハムレットは自分の息が絶え、命が消えていくのを覚え、この宿命的な悲劇を目撃していた親友のホレーシオの方をむいて、苦しい息のしたから、彼に生き残ってこの物語を後世に伝えるように頼みました。それはホレーシオが王子の死に殉じて自殺しそうな、そぶりを見せたからでした。それでホレーシオはすべての事情を知る者のひとりとして、正確な報告をすることを約束しました。こうして満足したハムレットのとうとい心臓はくだけてしまったのです。そしてホレーシオとその場に居合せた人々は涙を流して、りっぱな王子の霊魂を天使の守護にゆだねました。それはハムレットが親切なやさしい王子で、王子にふさわしい多くのりっぱな性格を備えていたので、人々から非常に愛されていたからです。そして、もしも生きながらえていたなら、デンマークにとってこのうえもなく素晴しい完全な王となられたに違いなかったからです。
[#改ページ]
オセロ
ベニスの金持の元老院議員ブラバンシオには、気の優しいデスデモナという美しい娘がありました。
姫は多くの美徳をもっていましたし、それに豊富な財産を相続する見込みがあったので、多くの求婚者たちに欲しがられました。けれども姫は肌色《はだいろ》の同じ同国人の中に愛すことのできるような人物をひとりも見いだせませんでした。それはこのりっぱな婦人が、だれも真似るべくもなく、ただ感嘆するばかりの異常さで、男性の外観よりもその心に重きを置いていたので、愛情の対象として、父が愛し、たびたび家に招いたことのあるムーア人、すなわち黒人を選んだからでした。
デスデモナが恋人として選んだこの人物には不適当だと非難されるような点は全然ありませんでした。オセロが黒色人種だという以外は、この高潔なムーア人にはこのりっぱな婦人の愛情を受けるにたりない点は一つもなかったのです。彼は軍人で、しかも勇敢な軍人で、トルコ軍との血なまぐさい戦争で軍功をたて、ベニス陸軍の大将の階級にのぼり、国家の尊敬と信用を受けていました。
彼は旅行をたくさんしたので、デスデモナは、婦人たちによくあるように、彼が少年のころの思い出から語り出す冒険談を聞くのが好きでした。彼が経験した戦い、包囲、会戦、海陸で身をさらした危険、城壁の破れ口に潜入したり、砲門にむかって進軍したとき九死に一生を得たこと、無礼な敵の捕虜になり、奴隷として売られたこと、奴隷時代にどんなふうに身を処したか、どうやって逃亡したか、すべてそういう物語のほかに彼の見てきた外国の珍しい風物、たとえば広い荒原、小説的な岩穴、石切場、岩、頂上が雲の中にかくれているような山岳、野蛮人、人間を食べる人食《ひとくい》人種、肩の下に頭がついているというアフリカのある種族の物語などがつけ加えられるのでした。
こうした旅行家の物語は非常にデスデモナの注意を引きつけてはなさなかったので、何か家政上のことで呼ばれたりすると、いつでも大騒ぎでその用事をすませて帰ってきては、むさぼるようにオセロの物語に聞き入るのでした。あるとき、彼はいい潮時を利用して、姫が今まで部分的にはたくさん聞いているが、彼の一生の物語を全部きかせてもらいたいという、願望を起させるように仕向けました。彼はそれに同意し、彼が若いころに受けたひどく不幸な物語で、姫に涙をしぼらせました。
彼の物語が終ると、姫は彼の苦しみに同情して幾度も嘆息をしました。姫はその物語がすべてふしぎで驚くほど哀れなものであったと、かわいらしいのろいの言葉を口にし、その話を聞かなければよかったと思うけれども、神様が自分をこのような男にしてくださればよかったと思うといいました。それから彼に礼を述べ、もしも彼に姫を愛している友達があったら、その人にどんなふうに身のうえ話をするかを教えておあげになればいい、そうすればその人は姫の愛をかち得るであろうといいました。人を魅するような愛らしさで顔をあからめながら、明からさまななかにもつつましやかに述べられたこの暗示をオセロは理解しないではいられませんでした。そこで彼は、はっきりと自分の愛をうちあけ、この絶好の機会に、寛大なデスデモナ姫からひそかに結婚するという承諾を得たのでした。
オセロの皮膚の色といい財産といい、ブラバンシオに娘婿として受けいれさせるにたりませんでした。彼は娘に自由をゆるしておきました。けれども彼はやがて娘が、ベニスの令嬢たちの習慣に従って元老院議員の階級をもっている者、あるいは将来そうなる見込みの夫を選ぶものと、予期していたのでした。ところがその点では、彼は裏切られたわけです。デスデモナは黒人ではありますが、このムーア人を愛し、自分の心も財産もすべて、彼の勇ましい才能と個性にささげたのでした。彼女の心は夫として選んだこの男にすっかり征服されて盲目的な愛情をささげていたので、この認識の鋭い姫のほかは、だれにとってもうちかちがたい障害となるはずの黒い色さえも、デスデモナには、これまで姫に求婚していたベニスの貴族たちの白い皮膚や美しい顔色以上に尊いものに思われたのです。
ふたりの結婚はひそかに行われたのでしたが、その秘密はながく保たれないで、ブラバンシオ老人の耳にはいってしまいました。それで老人はムーア人のオセロが、魔法やまじないで美しいデスデモナの愛情をそそり、日ごろの厚遇に対する恩義も忘れて姫に父親の承諾も得ずに結婚するようにさせたと主張して、オセロの告訴人として元老院のものものしい会議に出席しました。
ちょうどそのときに、ベニスは急にオセロの勤務を必要とすることになりました。それは、トルコが強力な軍備をして、ベニスが占領していた要地を奪い返す目的で、艦隊をサイプラス島にむけて出動させたというニュースがはいったからです。この危急に際して国家はオセロに目をむけました。トルコ軍に対してサイプラス島守備軍の指揮をする唯一の適任者と見なされていたからです。そんな訳でオセロは偉大な国家的職務の候補者であると同時に、ベニスの法律で死刑とされるべき罪を告発されている罪人として、元老院の議員たちの前に立たされたのでした。
ブラバンシオ老の年功と議員としての地位はこのおごそかな集会で、非常に辛抱強い聴取者をかちえたのでした。しかし、ひどく憤慨している父親は証拠をあげるかわりに、有りそうなことだの自分の主張などばかり述べたてて、むやみと被告の罪を訴えたので、オセロが答弁するときには、彼の恋愛のいきさつを、ありのままに語りさえすればよかったのでした。しかもそれを彼は少しも巧まない雄弁で、前述のような求婚の模様をのこらず語りましたが、それこそ真実の証拠である高潔な率直さで述べたので、裁判官の資格で席についていた大公も、そんなふうに語られた物語には自分の娘も魅せられたであろうと告白せずにはいられませんでした。そして大公は、オセロが求婚に用いた魔法やまじないというのは、恋する者の正直な技巧に過ぎないように思えるし、彼の用いた唯一の妖術は女性の耳をひきつける優しい物語をする才能にほかならないというのでした。
オセロのこの陳述はデスデモナ姫自身の証言によって確かめられました。姫は法廷に立って自分を成人させ教育してくれた父に対する義務はよく知っていることを述べ、しかし母がじつの父よりも夫(ブラバンシオ)の方を選んだ例を示したように、自分も主人である夫に対して、更に高い義務を認めることをゆるしていただきたいと要求しました。
この老議員は自分の訴えを主張することができなくなったので、ムーア人をそばへ呼んでくどくどと悲しみを述べ、止むを得ないこととして娘を彼に与えました。彼はもしできることなら、どんなにしてでも娘を彼から引きはなしておきたかったと告げ、自分は心ひそかに、ほかに子供がないことをよろこんでいる、なぜならデスデモナの今度の行いが自分を暴君にし、その子が親をすてていかないように足かせをかけて置くようなことになるだろうからとつけ加えました。
この難局を乗りこえたので、オセロは、軍隊生活の困難も、他の人にとって食事や休息が自然であるように、すっかり習慣になっているので、勇んでサイプラス島の戦いの指揮を引受けました。デスデモナも、普通新婚の夫婦が時間を浪費する怠惰な楽しみにふけるよりも、夫の名誉(危険がともなうとしても)の方を重んじて、喜んで彼の出動に同意しました。
オセロと新夫人がサイプラス島に到着する早々に激しい暴風雨がトルコの艦隊を分散させてしまったので、島は直ぐに攻撃を受ける心配がないというニュースがはいりました。けれどもオセロが経験しなければならない戦いはこのときから始っていたのでした。そして貞淑な夫人に対して悪意がまき起した敵は、その本質に於て外国人や異教徒よりも、もっと恐ろしいものでした。
将軍の多くの友人のなかでケシオほどオセロの信任をまっとうしている者はありませんでした。マイケル・ケシオはフロレンス生れで、陽気で多情多感で、話が巧く、女性に好かれる特性を備えた若い軍人でした。彼は好男子で、雄弁で、若くて美しい妻をもつ年取った男(オセロもいくらかその組でしたが)にしっと心を起させるにちょうどいい人物でした。けれどもオセロは品性がりっぱだったので、しっと心などはいだきませんでしたし、また自身がそういう卑劣な行いができないので、他人がそうした卑劣なことをするのを想像もできませんでした。
彼はこのケシオをデスデモナとの恋愛事件につかったので、ケシオは彼の求婚の仲人のようなものでした。というのは、オセロは自分が婦人を喜ばせるような会話の優しい技巧をもっていないことを心配して、友人のケシオにそうした才能があるのを知っていて、しばしば自分のために求婚にいく代理を勤め(オセロはそういうのでした)させたのでした。彼のそうした無邪気な単純さは、この勇敢なムーア人の品格をきずつけるよりも、むしろ尊重されるべきものでした。それで優しいデスデモナがオセロの次ぎに(貞淑な妻にふさわしくその度は遠くはなれていましたが)ケシオを愛し信頼していたのには、少しも不思議はありませんでした。またふたりの結婚は、マイケル・ケシオに対する彼らの態度に何の変化も、もたらせませんでした。ケシオはたびたびふたりの家を訪問しました。そして彼のうちとけた陽気なおしゃべりは、まじめな性質のオセロには愉快な変化でした。それはオセロのような性格の人は、自分の重苦し過ぎる性格からのがれる気晴しとして、全く反対の気質の人を好むものだからです。
それでデスデモナとケシオは、彼がオセロの代理で求婚しにいっていたときと同じように、互に語り合ったり笑ったりするのでした。
オセロは最近ケシオを、将軍の身辺に一番近い信任あつい地位である副官に昇級させました。この進級は年長の士官イアゴーの気をひどく悪くさせました。彼は自分の方がケシオよりもその資格があると考えていました。そしてしばしばケシオのことを単に婦人たちの相手に適しているだけで策戦や、戦闘のときの軍隊の配置をどんなにするかというようなことは女の子同様に何も知らない奴だなどといって、なぶりものにするのでした。イアゴーはケシオを憎んでいましたし、オセロをも憎んでいました。その理由は彼がケシオをひいきにしているということと、彼が自分の妻エミリアに好意を持ちすぎるという、極めて不当な疑いを軽々しくオセロに対して抱いていたためです。こうした想像だけの立腹でイアゴーの陰謀的な心はムーア人とデスデモナとケシオの三人を一度に滅ぼすような、恐ろしい復讐計画をたてました。
イアゴーはこうかつな男で、人間の心理を深く研究していました。それで人間の心を苦しめる(肉体の苦痛よりもはるかに激しい)あらゆる苦悩のなかで、しっとの苦痛がもっとも耐えがたく、もっとも痛いとげをもっていることを知っていました。で彼は、もしオセロにケシオをねたむ心を起させることに成功すれば、それは見事な復讐計画であろうし、また、ケシオかオセロか、あるいは両方を殺すことになるかも知れないと考えました。彼はそのいずれになろうと、さしつかえないと思いました。
将軍と夫人のサイプラスの到着は、敵艦隊離散の報知とかち合ったので、島内にお祭気分をもたらせました。だれでもみんな祝宴につらなったり楽しんだりしました。酒は豊富に流れ、酒杯は黒人オセロとその夫人の美しいデスデモナの健康を祝しまわされました。
兵隊たちが酒のうえでけんかを始めたりして島民を恐怖させたり、新上陸軍をきらわせるようなことがないように、ケシオはオセロから兵隊に飲みすぎをさせないように言いつかって、その夜の警備兵の指揮に当っていました。
その夜イアゴーは深くたくらんでいた計画の実行に取りかかりました、彼は将軍に対する忠誠と敬愛を口実に夜警当直将校にとって非常な過失である暴飲をケシオにすすめました。ケシオはしばらくのあいだはそれに抵抗していましたが、イアゴーの装ういかにもうちとけた態度にそう長くは反抗していられなくなり、一杯、また一杯と(イアゴーが気を浮きたたせる歌と酒を彼のうえに浴びせていくのにつられ)飲みつづけていきました。そしてケシオの舌はデスデモナ夫人の賛詞にあふれ、夫人のために幾度も幾度も乾杯し、彼女が世にも麗しい女性であることを断言しました。そのうちに、とうとう彼が口の中へそそぎ込んでいた敵が彼の頭脳を盗み去ってしまいました。そしてイアゴーのけしかけた男が彼を怒らせたことから双方で剣をぬくことになり、そのけんかの仲裁にはいったりっぱな士官モルタノは乱闘中に傷をおわされました。騒動がひろがり、この災害の張本人であるイアゴーは真先に立って危急をいいふらし(ちょっとした酒のうえの争いでなく、まるで危険な内乱でも起きたかのように)城の鐘をならさせました。警鐘の響に目をさましたオセロは急いで身支度をして、現場へやって来て、ケシオにその騒ぎの原因を尋ねました。ケシオは酒の酔いも幾分さめて、我に返っていましたが、あまりに恥じ入ってしまって返事ができませんでした。イアゴーはケシオを罪におとすようなことはいいたくないというふうを装い、オセロがどうしても真相を知ろうとするので、仕方なしに答えるという工合に(ケシオは酔いつぶれていたので覚えていなかったのですが、イアゴー自身に関係のある点はぬきにして)、いかにもケシオの罪を軽くしようとしているらしく見せかけながらじつは実際よりも大げさにことの次第を語りました。その結果、規律を重んずるオセロはケシオの副官の地位を取りあげなければならないことになりました。
こうしてイアゴーの第一の策略は完全に成功しました。彼は憎むべき敵を陥れてその地位から追い出してしまったのです。しかし彼はそれからのち、さらにこの不幸な夜のでき事を利用するのでした。
この不幸に、すっかり酔いもさめてしまったケシオは、自分が野獣に変ってしまうほどの愚者であったことを、うわべだけの友イアゴーに嘆き訴えました。彼は絶望しました、今さらどうしてもう一度元の位置に返らしてくれなどと将軍に願うことができるだろう! 将軍はきっと自分を酔っぱらいだというにちがいない、といって、彼は自分をけいべつしました。イアゴーはそれを軽くあしらうようなふうに、自分だって、それからまた生きている人間ならだれだって時には酔いつぶれることがあるものだといい、今は善後策を考えるよりほかない。将軍の夫人は今は将軍も同様で、オセロに対しては何でもできるから、デスデモナ夫人から将軍に取りなしてもらうのが一番いいだろう、夫人はきさくで親切な性格の人だから、喜んでこういう仕事を引きうけてケシオの立場をよくして、再び将軍の信任を得るように計らってくれるであろうし、このひびの入った愛が、かえって今までよりも将軍とのあいだを強く結ぶことになるであろうというのでした。もしあとでわかるような邪悪な目的のために与えられたのでなかったら、これはイアゴーのよい忠告でした。
ケシオはイアゴーに忠告されたとおりに、デスデモナ夫人に頼みました。夫人は正直な嘆願なら何でもすぐに引受ける人でしたので、夫に対してケシオの弁護人になろうと約束し、彼の弁護をやめるくらいなら死んだほうがましだとまでいいました。で、夫人はさっそく非常な熱心さとかわいらしい態度でそれに取りかかったので、ケシオに対してひどく腹をたてていたオセロも、夫人の申し出を延期するわけにいきませんでした。彼がこういう罪人をゆるすにはまだ早すぎるからもう少し時機を待とうというと、夫人は負けていないで、翌晩か、その次ぎの日の朝か、おそくもその翌々朝にしていただきたいといい張りました。それからまた夫人は、かわいそうなケシオがどんなに後悔し恐れ入っているかを説明し、彼の罪はそんなに、きびしく責めるほどのものではないといいました。そしてオセロがなおも渋っていると、
「なんということなんでしょう! あなたの代理に私のところへ求婚にきて、私があなたのことを悪くいったときに、いつでもあなたの肩をもったあのケシオ、マイケル・ケシオの弁護をするのに、私がこんなに骨を折らなければならないなんて! 私はこんなことはあなたにお願いするほんのわずかなことだと思っていましたのに。私が本気にあなたの愛を試みるには、もっと重大なことをお願いいたしますわ」といいました。
オセロもこういう弁護人の訴えは拒むことはできませんでした。そしてデスデモナがその時機さえ自分に任せておいてくれれば、マイケル・ケシオを再びひき立ててやろうと約束しました。
ところが偶然にもオセロとイアゴーがデスデモナのいる部屋へはいっていったときに、ちょうどそこへ夫人のとりなしを願いに来ていたケシオが反対の戸口から出ていくところでした。術策家のイアゴーは、ひとりごとのように、低い声で「あれが気にくわないんだ!」といいました。オセロはその言葉を大して気にかけませんでしたし、実際、そのあとでまもなく行われた夫人との会談が、それを彼の頭から取りのぞいてしまったのでした。けれどもあとになって彼はそれを思い出しました。それはデスデモナがその部屋を出ていってしまうと、イアゴーは単に自分の考えをたしかめるためのように装うて、オセロが夫人に求婚していたときに、マイケル・ケシオは、彼の恋愛を知っていたかどうかをオセロに尋ねました。それに対して将軍は知っていたと答え、自分の求婚中にケシオがしばしばふたりの仲立ちをしたことをいい添えました。するとイアゴーはあたかも新しく何か恐ろしい事実に気づいたかのように、まゆをひそめて、「なるほどねえ!」とつぶやきました。その言葉がオセロに、さっき部屋へはいってきたときに、ケシオとデスデモナを見て、イアゴーがもらした言葉を思い出させたのでした。そしてこれには何か意味があるのだと考え始めました。彼はイアゴーを愛と正直にみちた正義の人と思っていました。そしてこの不実な悪漢の計略が、オセロには口にはいえないほどの何か重大なことで胸が一杯になっている正直な人の自然なしぐさに思われたのです。それでオセロはイアゴーの知っていることを語り、彼が最悪と思うことを聞かせてくれと頼みました。
「いまわしいことがどんな宮殿にでもはいりこむように、私の胸のなかに非常に邪悪な考えがはいったとしたら、どんなものでしょう」とイアゴーはいいました。それから更にイアゴーは、自分の観察が不完全なために、オセロに何か面倒が起るようなことがあってはじつに残念だといい、自分の考えを知るのはオセロの平和のためによくないであろうとか、人のよい評判は、小さな疑惑で取り去られるものではないなどといいました。そのような断片的な言葉や、かずかずの暗示で、オセロの好奇心がもの狂わしいまでにかきたてられたとき、イアゴーは、オセロの心の平和を真実に気づかっているような調子で、さいぎ心など起さないように用心してくれと、懇願しました。この悪漢は、油断しているオセロに、疑うなという警告で、疑いを起させるという、悪賢い術を使ったのでした。オセロは、
「私は妻が美しくて、お客や宴会が好きで、だれとでも自由に話し、巧みに歌ったり、奏《かな》でたり、ダンスをしたりするのを知っているが、そうした特色も、道徳を伴えば有徳だといえる。私は妻が不貞だと考える前に、まず証拠をつかまなければならない」といいました。
するとイアゴーはあたかもオセロが夫人の悪を信じるのに遅いのを喜ぶように装い、自分は何も証拠は持っていないと、はっきり答え、だがケシオがそばにいるときの夫人の様子をしっともせず、あまり油断もしないようにして、よく観察するように希望しました。そのわけは、自分は同国人のイタリア女性の性質をオセロよりもよく知っているし、ベニスでは人妻が夫には見せないような多くの悪事を神に見せているからだというのです。それから彼はデスデモナが父をあざむいてオセロと結婚し、しかもそれを極秘のうちに行なったので、気の毒な父親は、魔術でも用いられたのだろうと思っているくらいだといって、暗に彼女がそういう悪賢い女性だということを巧みにほのめかしました。オセロはこの論法には大いに心を動かされ、切実にその問題を考えさせられました。彼は父をあざむくほどの女なら、夫をあざむかないとはいえないと考えたのでした。
イアゴーはオセロの感情を乱したことを謝罪しました。オセロはイアゴーの言葉をきいて内心悲しみにふるえていたのでしたが、わざと平気を装い話をつづけるようにいいました。イアゴーはケシオを自分の友人とよび、あたかも彼に不利なことをもち出すのを好まないように、盛んに言い訳をしながら語りつづけました。次ぎに彼は強く要点にふれました。そしてデスデモナが多くの同色同人種のりっぱな求婚者たちをみんな断って、ムーア人である彼と結婚したのはじつに不自然なことで、彼女のむこう見ずな性格を証明している。そして彼女が正しい判断を取りもどしたときに、恐らくオセロを自分の同国人である若いイタリア人たちの端麗な容姿や晴れやかな白い皮膚と比較するだろうということなどを、オセロに考えさせました。そして最後に彼はオセロにケシオとの和解をもう少し延ばしておいて、そのあいだにデスデモナがどんなに熱心にケシオのために取りなすかを注意していたなら、そこにいろいろと発見することだろうと忠告しました。このこうかつな悪漢はあくらつにもこの潔白な婦人のやさしい性格を用いて彼女の善良さが彼女自身をおとしいれる網をつくるように仕組んだのでした。すなわち、最初にケシオをけしかけて夫人の取りなしを頼ませ、次ぎにその取りなしそのものから、彼女を破滅させる策戦をめぐらしたのです。
この会談は、オセロにもっと確証をにぎるまでは妻の潔白を信じてもらいたいという、イアゴーの懇願で終りました。それでオセロは辛抱づよくすることを約束しました。けれども、あざむかれたオセロはそのときから心の満足を味わわなくなりました。けし[#「けし」に傍点]も、マンドムゴラの液も、そのほか世界中のあらゆる睡眠剤も、ついきのうまで彼がたのしんでいた、あの快い休息を取りもどすことはできませんでした。彼は職業がいとわしくなりました。もはや軍務を楽しまなくなりました。軍隊や軍旗や軍列を見るといつも奮起し、太鼓やラッパの音やあるいは軍馬のいななきに躍りあがった心も、軍人の美徳である誇りも大望もすべて失ってしまったように思われ、彼の軍人的情熱も告白もあらゆる喜びも彼を見すてたようでした。時には妻は潔白だと思い、また時にはそうでないと思いました。時にはイアゴーを正しいと考え、時には正しくないと考えました。それからまた彼はその事を知らなければよかったと思いました。何も知らない限りは夫人がケシオを愛したからといって、悪く思うこともなかったのでした。そうした狂おしい思いにかきむしられて、彼はあるときイアゴーののどぶえを押えて、デスデモナの有罪の証拠を要求し、それができないのなら、彼が彼女をいつわって非難した罪で、直ちに殺してしまうと、脅かしました。イアゴーは自分の正直さを悪徳と誤解されたことを憤慨するふうを装い、オセロに夫人がよく手にしている、いちごの模様のついたはんけちを見たことはないかと尋ねました。オセロは自分がそういうはんけちを妻に与えたことがある、それは自分の最初の贈り物であったと答えました。
「それと同じはんけちで、ケシオがきょう顔をふいているのを私は見ました」とイアゴーがいいました。
「もしお前のいうことがほんとうなら、大きな復讐がふたりを飲んでしまうまで、私は安んじない。そしてまずお前の忠義のしるしとして、三日以内にケシオを殺してくれることを予期する。それから美しい悪魔(夫人のこと)については、私は引きさがって、何か直ちに死なせるような方法を考えてやろう」とオセロはいいました。
空気のような軽いささいなことでも、しっと心にとっては聖書のように強力な証《あか》しとなるものです。ケシオの手にある妻のはんけちは、あざむかれているオセロにはどうしてそれが彼の手にはいったかを一度も調べもしないで、両人に死刑を宣告するだけの動機となったのでした。デスデモナは決してケシオにそういう贈り物をしませんでしたし、この貞淑な夫人は夫の贈り物を他の男に与えるというような、みだらなことをして夫に不徳義をはたらくようなことはありませんでした。ケシオもデスデモナもオセロに対して、何の罪もおかしていなかったのです。しかし不正な計画に片時も眠ることない心を持った邪悪なイアゴーは、自分の妻(善良な気の弱い女)に模様を写させてもらうという口実でデスデモナからはんけちを盗ませたのでしたが、じつはそれをケシオの通る道に落しておいて彼に拾わせ、デスデモナが贈り物にしたというイアゴーの言葉に手がかりを与えるためだったのです。
オセロは妻に会うとすぐに頭痛を装って(実際にそうだったのかも知れません)こめかみをおさえるためにはんけちを貸してくれと頼みました。夫人はそのとおりにしました。
「これでなく、私があげたはんけちだ」とオセロはいいました。
デスデモナはそれを持っていませんでした。そのはずです、前に述べたように盗まれたのでした。
「どうしてだ! それは大変な失態だ! あのはんけちはエジプト女が私の母にくれたものだ。その女は魔法使で人の心を読むことができた。その女は、母がそれを持っている限り母を愛らしくし、父は母を愛すであろうが、もし母がそれを失うとか、あるいは他人に与えたなら父の愛はほかに移り、今まで父が母を愛していたと同じ程度に母をきらうようになるだろうと私の母に告げたのだ。母は死ぬときそれを私にくれて、もし私が結婚したらそれを妻に与えるようにと命じた。で私はそのとおりにしたのだ。よく気をつけるがいい、自分の目のように貴重なものとして大切にしなさい」と、オセロはいいました。
「まあ、そうですの!」と夫人は驚いていいました。オセロはなおも言葉をつづけて、
「そのとおりなんだ、それは魔法のはんけちだ、二百年もこの世に生きていたみこ[#「みこ」に傍点]が、予言的激情の発作にかかったときに作りあげたものだ。その絹を供給した蚕は清められ、そのはんけちは保存してあった処女の心臓で作った防腐剤で染めたものなのだ」といいました。
そのはんけちの驚くべき効力をきいて、デスデモナは恐怖のあまり死にそうでした。彼女はそれを失ったことをはっきり知ったので、それと同時に、夫の愛も失うのを恐れたのです。
そのときオセロはとびあがって、何か乱暴なことをしようとしている様子を示し、なおもはんけちを求めてやまないのでした。夫人はそれを出すことができないので、あまり真剣になっている夫の気をよそへそらそうと思って、わざと快活にはんけちの話はみんなマイケル・ケシオに対する自分の願いを延ばすためなのでしょうといって、彼女はイアゴーの予言どおりに、ケシオをほめ始めたので、とうとうオセロは全く気が狂ったようになって、へやをとび出していってしまいました。そこでデスデモナは不本意ながらも夫がやきもちをやいていることを察し始めたのでした。
夫人は自分がどんな原因を彼に提供したのか知りませんでした。それで夫人は高潔なオセロをそんなふうに悪く思った自分を責め、きっとベニスから来た何か悪い知らせとか、または何か国家の事件が彼の心をかき乱して彼の気持をいつものように優しくなくしたのだろうと考えました。そして夫人は「男の人は神様ではないんですもの、婚礼の日に示されたような親切を、結婚してしまってからまで男に求めるのはむりですわ」といいました。そんなふうに夫人は夫の態度を、しっとのためだなどと不親切な判断をした自分を責めました。
オセロとデスデモナが再び会ったとき、彼は妻の不義と他の男を愛していることをあからさまに責めましたが、だれとは名ざしませんでした。そしてオセロは涙を流しました。それで、デスデモナは、
「まあ、何という悲しい日でしょう! あなたはなぜお泣きになりますの?」といいました。
するとオセロは自分は不屈の精神であらゆる種類の災――貧困、疫病、屈辱――などに耐えることができたが、妻の不義は自分の心を砕いてしまったと語り、デスデモナのことを、あまりに美しく見え、あまりに芳しくにおうので、そのために目も鼻も痛くなる草と呼び、彼女が生れてこなければよかったと言いました。
夫がいってしまうと、この潔白な夫人は夫の無実の疑いに対しておどろきのあまりぼう然としてしまって、やがてそれが重しのような睡気となって彼女を襲ってきたので、侍女に寝床をつくりその上に婚礼のときの敷布をしいてくれと頼みました。そしておとなが幼児に教えるときには親切な手段とやさしい課業を用いるものなのだから、オセロもそういうふうにして自分をしかってくれてもいいのにといいました。全く彼女は夫にしかられたときには子供のようだったのでした。で、このおとなしい夫人が口にした唯一の不平はそれだけでした。
デスデモナは夫もあとから来るものと思って床にはいりましたが、精神がつかれていたおかげで、直ぐにすやすや眠ってしまいました。そこへオセロが、心にきめておいた妻殺しの凶悪な目的にみちて寝室へはいってきました。けれども眠っている妻を見ると、彼は血を流すのはよそう、石こうよりもまだ白い皮膚を傷つけるのはよそうと思いました。しかし彼は妻を殺そうと決心しました。さもないと(彼がいうには)デスデモナは生きながらえて、自分を欺いたように、更に多くの男を欺くだろうというのでした。そこで彼は(自分でいったように)最後のせっぷんをしました。そのせっぷんがあまりに甘美だったので、彼は再びせっぷんしないではいられませんでした。そして涙を流しましたが、彼はそれを残酷な涙だといいました。
デスデモナはそのせっぷんで目をさまして、オセロを見ました。そして夫が下くちびるをかみしめて、目をぎょろぎょろさせているのを見ました。そして夫がそんな顔つきをしているときはいつも殺意を抱いているのだということを知っていました。彼は妻に死ぬ用意をし、魂までは殺さないからお祈りをしろと命じました。
この潔白な妻は夫に生命をまかせた形でそこに横たわったままで、あわれみをこい、自分の罪を知らせてほしいといいました。そこでオセロはケシオの名と、デスデモナがケシオに与えた(とオセロはいったのです)はんけちのことをいいました。そして罪のない夫人が身のあかしをたてようとすると、彼は一言も聞かずにいきなり寝台掛を彼女の上にかぶせて、窒息させ、ついに死なせてしまいました。ちょうどそのときケシオが傷つき血を流しながらその家へ運びこまれました。イアゴーは自分の部下のひとりをケシオ暗殺にさしむけたのでしたが、男はケシオを傷つけましたが致命傷ではなく殺す企てに成功しなかったので、秘密がもれるのを防ぐために、イアゴーに殺されたのでした。その男のポケットにある手紙が発見され、それによってイアゴーの罪とケシオの潔白が疑う余地なく証明されたのです。それでケシオは今オセロのゆるしを願い、更に自分を暗殺させるためにイアゴーを雇うほど何がそんなにオセロを怒らせたのか尋ねに来たのでした。
この発見はオセロにとって青天の落雷のようでした。彼は今にして自分が明かに殺人者にほかならないこと、それからまた、自分の妻――あわれな潔白な婦人!――が自分に対していつも貞節であったことを悟り、この発見による極度な苦悩のために生きているに耐えられなくなり、おのが剣の上に身を伏せ、自分のからだを、傷つけられた愛妻の上になげかけて、こときれてしまいました。
この軽率な行動は、局外者たちに多大な驚きと恐怖感を起させました。何しろオセロは信望ある人でしたし、自分のりっぱな性格から決して疑わなかった悪漢の策略におとしいれられてその影響をうけるまでは、彼は情愛の深い、愛におぼれる夫だったのでした。彼は賢明ではありませんでしたが、十分すぎるほど愛しました。そしてふだん小さなことには泣いたことのない彼の男らしい目は、一度自分の過失を知ると、アラビアのゴムの樹木がゴム液を流すように、とめどなく涙を流したのでした。彼の生前のあらゆる美点と勇敢な行いのかずかずは、死んでのちも人々に記憶されました。
今や彼の後継者に残された仕事は、イアゴーに対して法律上もっともきびしい刑罰を課し、激しい拷問にかけて死刑にし、ベニス政庁に誉れ高い将軍のいたましい死を報告することだけでした。
この作品は昭和二十七年七月新潮文庫版が刊行された。