エリア随筆
チャールズ・ラム/平井正穂訳
目 次
人間の二種類
除夜
不完全な共感
近代の女性崇拝
夢の中の子供たち――ある幻想
遠方の友へ
夫婦者の態度について――ある独身者の不平
退職者
結婚式
酔っぱらいの告白
俗説――悪銭身につかずということ
解説
[#改ページ]
私はこの緑の大地を恋している。都会や田舎の姿を、何ともいいようのない田園の孤独な境地を、街路のあの安らかさを私は恋している。できればここにわが永住の家を建てたいくらいである。ようやく達した今のこの私の年齢にじっととどまっていたいのである。私だけでなく私の友人たちとともにそうしていたいと思うのである。
[#地付き]チャールズ・ラム
[#改ページ]
人間の二種類
よくよく考えてみると、人類というものははっきりとした二つの種族からなりたっているようである。つまり、借りる人間と貸す人間の二つの種族である。ゴート民族だとかケルト民族だとか、白人とか黒人とか赤色人とかいういいかげんな分類の仕方も要するにみな以上の二つの基本的な区別に帰せられようというものである。「パルテイア人、メディア人、エラム人」〔『使徒行伝』二章九節〕、つまりこの地上の生きとし生ける者すべてがいわばこの一点に会し、以上の基本的な分類のどちらかに自然にぞくするようである。前者を私は「偉大な種族」と呼びたいのだか、この種族がいかに優秀な種族であるかは、その姿勢、態度、その一種本能的な威風にいやもうはっきり現れているといえる。そこにゆくと後者は生まれつき下劣をきわめている。「彼は僕《しもべ》となりてその兄弟に事《つか》えん」〔『創世記』九章二十五節〕。この種族の人間には妙にぎすぎすした猜疑心の強そうなところが何となく漂っている。前者の物腰にみられる鷹揚闊達《おうようかったつ》な、人のよさそうな雰囲気とはまさしく雲泥の相違というべきである。
古今を通じて最大の借り手であった人々、――アルキビアデス〔紀元前五世紀頃のアテナイの政治家〕、――フォルスタフ〔シェイクスピアの『ヘンリ四世』に出てくる騎士〕、サー・リチャード・スティール〔文人・政治家、一六七二〜一七二九〕――断然|儕輩《さいはい》をぬきんでていた故ブリンズリー〔劇作家リチャード・ブリンズリー・シェリダン。一七五一〜一八一六〕――を見るがいい。この四人にさすが血のつながりは争えぬものがあるのは一目瞭然ではないか!
こういう借り手の態度のまたなんとなりふり構わず平然たることか! なんとその腮《あぎと》の薔薇色に輝いていることか! なんと美しい信頼を神の摂理によせていることか――思い悩まざることまさに野の百合同然ではないか! 金銭を軽蔑することのまたなんと甚だしいことだろうか――(特に諸君のものや私のものに対してはそうなのだが)金銭をまるで塵芥としか思っていないのだ! |わがもの《ヽヽヽヽ》(meum)と|汝のもの《ヽヽヽヽ》(tuum)という妙なけじめをまたなんと大まかに混同していることであろうか! というより、なんと気高い単純化をトック先生〔十八世紀末の言語学者〕も顔負けするほど言葉に対して試みていることだろうか――つまり、一般に反対のものと考えられているものを|わがもの《ヽヽヽヽ》という明明白々な代名詞的形容詞に還元してしまうのだ! これではすべてのものを共にしたという原始社会にほとんど近いといってもいい――少なくともその原理の半分に近づいているといってもよかろう。
彼は「天下の人に納税を課す」〔『ルカ伝』二章一節〕真の課税者なのである。そして彼とわれわれ各人との距離たるや、まさにカイザル・アウグストとエルサレムで国庫に僅かに一文の税金を払った赤貧洗うがごときユダヤ人との間に横たわっていた漠々たる距離にまったく等しいのだ! 彼の誅求も明朗というか、実に気儘勝手な風がある! そこいらで見かけられる教区の、あるいは国の例の渋い顔をした収税吏――玄関払いを喰らいつけているのが歴然とその顔に表われている例の小役人どもとはまさに雲泥の差なのだ。彼はにこにこしながらやってきて、受け取りがどうのこうのという手間もかけはしない。期限がどうのこうのといったこともさらに頓着しない。とにかく毎日が彼にとっては聖燭節《キャンドルマス》〔二月一日の祝祭日で、スコットランドでは支払日〕であり、聖ミカエル節〔九月二九日で支払日の一つ〕なのだ。彼は諸君の財布にむかって莞爾《かんじ》として笑いかけ、「爽《さわ》ヤカナル刺戟」をあたえる――するとそのほのぼのとした暖かさに応じて諸君の財布の口は自然にほころびるというわけである。太陽と風が賭をして競争したというあの旅人の外套もかくやとばかりなのだ! 彼はかつて干潮を知らないプロポンティス海〔現在のマルモラ海の古称〕そのものなのだ! つまり誰の手からも見事にただもう、ものをまき上げる一方の海なのである。彼に見こまれるという光栄に浴した犠牲者はいわば運命に抵抗するようなものでただ無駄だという他はない。網にかかったようなものだ。されば、貸すべき宿命のもとにある者よ、颯爽として貸すがよい、この世で一文損したからといって、あの世で貰うはずの財産までも貰いそこなわないために。貧しきラザロと富めるダイヴィーズ〔『ルカ伝』一六章参照〕の両方の罰を自分の一身に引きうける愚はさけるがよい、むしろ、この堂々たる権威者がやってくるのを見かけたなら一歩でもこちらから出向いて微笑を浮かべながら会釈するがよい。ここは一つ思いきっていさぎよく捧げ物を献じてやろうではないか! ああ、だがなんと彼は平然とそれを受けとることか! 気高い敵にむかってはあっさり降参するにしくはない。
こういった考えが自然私の念頭にのぼらざるをえなかったのは、旧友ラーフ・バイゴッド君の逝去がきっかけであった。同君は水曜日の夕方この世に別れを告げたのだが、生きていた時と同様に死ぬ時も大して苦しみも感じなかった。彼は代々この国において公爵の栄位をうけついできた同名の偉大な祖先の血をついでいることを自慢にしていた。そういえばその行動や感情においても、彼がその末裔をもって自任していた先祖の名を辱かしめることはなかった。若くして莫大な収入に恵まれるという結構な身分であったが、「偉大な種族」の人々に先天的に備わっていると私が前にいった例の悠然たる無頓着さをもって彼はこの財産を使い果たし、一文なしになる手段をたちまち講じたのであった。汲々《きゅうきゅう》として私財を貯える王者というのは何としても不愉快な姿であるからである。そしてバイゴッドの心はこれすべて王者にふさわしい心構えに他ならなかったのだ。かくて無一物になることによって万全の備えをかため、富という厄介な荷物をなげすてることによって(歌にあるように)、
[#ここから1字下げ]
徳をして栄ある業《わざ》をなさしめるより
徳を弱めその力を鈍からしめる
〔ミルトン『復楽園』二巻〕
[#ここで字下げ終わり]
にふさわしい姿となり、アレキサンダー大王然として大偉業達成の途上にのぼったのである、「借りてはまた借らんと」の意気も高らかに!
わが国をくまなく遠征しながらというか、とにかく勝利の凱歌を次々とあげながら戦い進むうちに、なんでも全国民の十分の一に及ぶ者に献金せしめたという勘定になるそうである。私はこの勘定は大めに見すぎていると思う者である。とはいえ、しばしばわが畏友のお伴をしてこの大都会を徘徊してみてまずびっくりしたことは、行き逢った者でわれわれに一種のうやうやしさをもって挨拶する人々の数が物凄く多いということであった。彼はある日親切にもこの現象を説明してくれた。それによるとこの人たちは彼の献金者ということであるらしかった。つまり彼の金蔓《かねづる》だったのだ。いずれも紳士であり、(彼の得意そうな言葉によると)立派な良友であり、彼が時おり借金のお世話になった人たちなのである。人数が多いことなど少しも苦にはしていなかった。それどころかそれを数え上げるのに得意気でさえあったし、コウマスと同じように「かくも見事な羊の群にかこまれて」〔ミルトン『コウマス』〕いるのに気をよくしている風であった。
こういう資源をもっているくせに、いつもせっせとその国庫をすっかり空にしておけたというのも一つの驚異であった。それには彼がよく口にしていた「三日以上|嚢中《のうちゅう》にありし金は悪臭を放つ」という金言の力が大いにあずかっていた。つまり、彼は金を|いき《ヽヽ》のいい間に使ったという次第である。大部分は飲んでしまったが(なにしろ大変な呑兵衛《のんべえ》だったから)、一部は他人にやってしまい、残りは放り出してしまった。それも――子供が栗の|いが《ヽヽ》などを投げるのと同じように、さもなければ|ばい《ヽヽ》菌でもついているといわんばかりに――文字どおりお金を凄《すさ》まじい勢いで放り出して池や溝や深い穴などこの地上の底なしの淵のなかへすててしまうのであった。そうでなければ、川ぶちの堤《バンク》(彼が冗談にいつもいってたところによれば、こいつは利子を生まない銀行《バンク》なんだそうだが)の下に埋めるという有様だった(といって二度と掘り出すことは絶無だった)。とにかくお金はまだ新鮮なうちに断固として彼の手もとから去ってゆかなければならないものであった――それはかつてハガルの子が曠野《あらの》に出てゆかなければならなかったのと同じであった〔『創世記』二一章〕。彼は出てゆくお金になんの未練ももたなかった。彼の嚢中に流れこむ金は年中絶えることはなかった。何かことがおこって金の必要に迫られた場合には、彼に出逢うという幸運に恵まれたまず最初の者が、友人だろうがあかの他人であろうがそんなことに関係なく彼の危急を救うことに相場がきまっていたのである。というのはバイゴッドは、誰も彼に向っては断わることのできない独特なものをもっていたからである。彼は明朗で開けっぱなしの風貌をもち、すばしこくて楽しげな眼つきをもっていたし、額は禿げて白髪が(いかにも信心深そうに)ちらほらまじっていた。断わられるなんて夢想だにしないし、断わられることもなかった。「偉大な種族」についての私の理論は今しばらく措《お》くとして、私は時にはポケットに自由に使える小金をもっていようというきわめて実際的な読者にひとつ尋ねたいことがある。それは、むさくるしい顔をして、断わられても致方がないんだがと自らいい、したがってこちらが断わったところでそいつの先入観や期待を事実そう裏切ることもないといった貧相なうるさく物乞いをする男(つまり借り手としては下等な男なんだが)に「否《ノー》」というよりも、今私がのべているような人物に向って断わるほうがよっぽど悪いことをしたという気がするのではなかろうか、ということである。
この人間のことを考える時に――彼の火のように輝き燃える心や彼の高邁《こうまい》なる感情や、またいかに彼が堂々としており、いかに理想家肌であったかということや、いかに痛飲して真夜中にいたり天晴れな偉丈夫ぶりを発揮したかということを考える時に、いや、彼の死後私がつきあった連中と彼を比べる時に、私は自分がくだらぬいくばくかの金を貯めていることがおぞましくなり、自分もついに貸し手の仲間入りをした小人物の一人に堕してしまったことを苦々しく思う次第である。
鉄製の金庫の中よりもいわば革表紙の中に財産を保管しているエリアごとき人間にとっては、今まで述べてきた人物よりももっと恐ろしい一群の強敵がある。つまり本を借りにくる連中である。この連中の手にかかっては書籍の蒐集など無残にふっ飛んでしまい、書棚の均整のとれた体裁などは問題でなくなり、あとには欠本欠本の惨状が残るのみである。あのコンバーバッチ〔詩人コールリッジをさす〕こそ掠奪にかけては天下無双の強《ごう》の者というべきであろうと思うがいかがなものであろうか!
読者よ、諸氏は今私とともにブルームズベリ〔ロンドンの知識人の住んでいた居住地区〕の一郭にあるわが小さな奥の書斎に席を占めているものと想像してもらいたいのだが――諸氏の眼の前にある一番下の書棚のあそこの嫌らしい隙間、まるで大きな糸切り歯がそこだけ欠けたみたいな隙間――両側には大きなスイス番兵みたいな書物がたっている(格好こそ新しくなったが何を守るでもないロンドン市庁玄関の巨人像そっくりだが)――ちょうどそこのところにかつては私の所有していた二つ折り本の中の一番大きな本がおいてあったのだ。それこそボナヴェントゥラ〔中世の代表的神学者〕全集だったのだ。実に見事なずっしりとした神学書で、それを両わきから支えていた本(これまたスコラ神学書だが器量はずっと小さなもので、つまりベラルミーノと聖トマス・アクイナスだった)はそれに比べたら――何しろ相手がアスカパート〔三十フィートもあったという伝説的な巨人〕だったもので――まるで侏儒《しゅじゅ》のようにしか見えなかったものである。その大切な本をコンバーバッチはそのかねて主張する理論にもとづいて引っこぬいていってしまったのだ。彼の説は残念ながら私としては反駁するよりも屈服したほうが無難なものであった。いわく、「ある書物(たとえば私のボナヴェントゥラなど)の所有権は権利の主張者のその書物に対する理解力と鑑賞力に正比例する」。もしこの説を彼が実行する限り、われわれの書棚のうち一つとして掠奪を免れうるものはないといって過言ではないのだ。
左側の本箱の――ちょうど天井から二段下のところの僅かな隙間――本を取られた人間のすばしこい眼でなければなかなかそれとは分るまいが――には、もとブラウン〔サー・トマス・ブラウン〕の『壺葬論』〔一六五八年出版〕がゆったりといこっていた場所なのだ。さすがのCでも私以上にこの論文について知っているなどとはいえた義理ではないはずだと私は思っている。なにしろこの本を彼に紹介したのも私だし、その美しさを発見したのも(近代人のうちでは)私がまさに最初の人間だったのだから。とはいうものの、女を口説きおとす点にかけては自分より凄い腕前をもっている競争相手の前で自分の恋人のことを自慢する男は愚かな奴だと昔から相場はきまっていたはずだった。すぐその下の所ではドッズレー版の戯曲集がその第四巻を欠いたまま、あのヴィットウリア・コロンボウナ〔ウェブスターの悲劇『白い悪魔』の女主人公〕の出てくる第四巻を欠いたまま、並んでいる。この巻がないと残りの九巻は運命の神々にさらわれたヘクトルなきあとのプリアモスの九人のくだらぬ息子たちと同じくどうにも味気なくていけない。ここの所には深刻な姿をした『憂欝の解剖』〔ロバート・バートンの著、一六二一年出版〕がたっていた。そしてあそこには『釣魚大全』〔アイザック・ウォルトンの名著、一六五三年出版〕が人生におけると同じように、とある小川のほとりでひっそりとたたずんでいるかのようにたたずんでいたものだった。あの一隅にも男やもめよろしく「眼をふさいだまま」ジョン・バンクル〔トマス・エイモリの小説『ジョン・バンクル氏の生涯』〕が坐っている。が、それも今は失せてなきつれあいを悼《いた》んでいるのである。
この友人に対して公正を期すためにいっておかなければならないことは、彼は時として津波のようにごっそり秘蔵の書をふんだくってゆくが、時にはそれに見合うだけのものをふんだんにこれまた大浪のようにもってきてくれることである。この種のちょっとした副次的な蒐集を私はもっている。つまり、この友人がいろんな訪間先でえた蒐集品というわけだが、彼はそれをどこで拾い上げたのかも忘れてしまっているらしいし、また私の所においていったこともとんと記憶にないらしい、といった書物なのである。こういう二度もうっちゃりを喰った孤児たちを養っているのがこの私なのである。こういう新しい帰依者も在来の生粋のユダヤ人と同様私は歓迎している。両者ともに――本国の者も帰化した者も仲よくわが書斎に並んでいるのである。帰化した連中も別に自分たちの素姓を詮索したがってはいないらしいが、私もその点同感である。――また私はこの思わざる客の滞在費を請求もしていないし、費用を捻出するためにわざわざ広告を出してそれらを売り払うほど甚だ紳士らしからざる振舞いに出る気配も私にはないようである。
Cに書物をもってゆかれても、そこには全然意味がないわけではないのである。つまり諸君の提供したその食べものを彼が充分に堪能するまで賞味してくれることに間違いはないのである。たとえあとで、彼にそのご馳走の説明ができなくてもである。それにしても、気まぐれで意地悪のK〔劇作家ケニーをさす、フランスに住んでいた〕よ、あれほどこればかりは勘弁してくれと涙ながらに哀願したにもかかわらず、あのやんごとなき女性、あの気高いマーガレット・ニューカッスル〔公爵夫人、十七世紀の人〕の書翰集をしゃにむに強奪していったのはどういう積りだったのか。――Kよ、自分があの有名な二つ折り版の一頁でも繙《ひもと》くはずが金輸際《こんりんざい》ないことを君はあの時知っていたし、私がそれを知っていることもまた知っていたはずではなかったのか。要するに天邪鬼《あまのじゃく》だったのか、友達の鼻をあかしてやろうという子供っぽい心だったのか。とすれば、全くひどい仕打ちを君はしたというものだ! こともあろうにフランスまであれをもっていってしまうとは。
[#ここから1字下げ]
あの国はふさわしくはない、このようなよきものを――
あらゆる気高き思い、純なる思い、
暖かき思い、高き思いを宿す徳をいれるには。
[#ここで字下げ終わり]
君は皮肉や冗談で仲間を楽しませる男だが、それに劣らず自分自身を楽しませるに足りる脚本や小話集や滑稽本を手もとにもっていたはずではないのか。劇壇の寵児よ、君としたことがなんという不人情なことをしでかしたことか。君の細君にしてからが、半ばフランス人の血をうけ、それにもましてイギリス人の血をうけた女性たる君の細君にしてからが、われわれを偲ぶよすがにしようという親切心からかもしれないが、こともあろうにブルック卿フルク・グレヴィル〔十七世紀前半の政治家・詩人・劇作家〕の著作に目をつけてふんだくってゆくとは! だいたいこの文人の著書はフランス人なんか、いや、フランス女にしろイタリア女にしろイギリス女にしろとにかく女ってものに性来わかりっこは絶対にないはずなのだ! ツィンメルマン著わすところの『孤独について』〔スイスの哲学者・医者で『孤独について』は一七八四〜八五年出版〕がなかったわけではあるまいし!
読者よ、もし諸君にしてささやかながらも書籍の蒐集をおもちであるならば、他人には大っぴらにはそれを見せないことをおすすめしたい。それとも、親切の情が溢れ出てどうしても貸してやりたいというのならばどうぞ書物をどしどし貸されるがよかろう。ただし、それもS・T・Cのような男に貸してもらいたいものである。彼なら(大体約束の期日よりも早く)利子をつけて返してくれるだろうからである。やたら書き込みをして原価を三倍にしてくれるのは必定なのだ。私がげんにそういう経験をしているのである。私のところにある彼の筆になる貴重な稿本がなんと夥《おびただ》しいことであろう――(しばしば内容においても、また時にはほとんど量においても原文にゆうに匹敵するほどのものがあるのだ)――といって余りきちょうめんな筆蹟ではないが、――とにかく読める稿本が、私のダニエル〔十六世紀の詩人〕詩集に、わが愛すべきバートン著作集に、サー・トマス・ブラウン著作集に書きこまれているのである。難解なグレヴィルの思索集にもある――いいたいのだが、これは残念ながら今は異教の国を流浪中である。私は読者諸君にすすめたい、諸君の心も、諸君の書庫も閉ざしてはならない、S・T・Cに対してだけは、と。
〔『ロンドン・マガジン』一八二〇年十二月号所載〕
[#改ページ]
除夜
誰にだって誕生日は二度ある。少なくとも二日は毎年ある。寿命をちぢめるものとしての時の経過を今さらのようにわれわれに思いめぐらせる日が二日はある。一つは特別にわれわれが「自分の」誕生日と呼んでいる日である。古い習慣が一般にすたれてゆくにしたがい、自分の生まれた日を祝うというこの慣習も今日ではほとんどすたれてしまった。少なくとも、ことの何であるかもわきまえず、ただもう菓子やオレンジのことしか考えない子供の行事になってしまっている。しかし新しい年の誕生日となるとことは頗《すこぶ》る重大で王様でも職人でも知らない顔をしているわけにはゆかなくなる。正月元旦を全く意に介しないという人は一人もいない。その日はすべてのものの日付の始まりであるし、残った月日を数えはじめる日なのである。われわれすべての人間の降誕を迎える日なのである。
すべての鐘の音の中で――(そもそも鐘というものは天国に一番近い音楽なのだが)――もっとも厳粛で感動的なのは古い年を送り出す除夜の鐘の音である。私はこの音を聞くと万感胸に追って過ぎさった十二カ月の間めまぐるしく味わってきたあらゆる場面が眼前に彷彿としてくるのを覚えざるをえないのである。名残り惜しい過去一カ年の間に私が行なったことや苦しんだこと、なしとげたことや怠けたことなどが浮かんでくる。人が死ぬ時にはかくもあろうかと思われるほど、私には過ぎし一年の値うちが身に沁みてよみがえってくる。まるでその年が今まで生きていた人間のように思われてくる。ある当代の詩人は、
[#ここから1字下げ]
私は去りゆく年の裾《すそ》を見た
[#ここで字下げ終わり]
と歌っているが〔コールリッジ作『去りゆく年をいたむ』〕、これはけっして詩人の詩的空想とのみはいいきれないものがあると思うのだ。
こういう気持は、あのきびしい別れの時にわれわれの誰もが厳粛に感ずる気持にほかなるまい。昨夜、私は確かにそれを感じたし、すべての人が私とともに感じたであろう。仲間の中には、古い年が責任を果して死んでゆくのを心から悼むというより、来るべき新しい年の誕生を前にして歓喜の情を表わすのを好む者もないではなかった。しかし、私は、
[#ここから1字下げ]
来る者を歓迎し去る者を追い払う
[#ここで字下げ終わり]
ような人間〔ポウプ訳『オデュッセイア』十五巻〕の一人では断じてないのである。
断わっておくが、私は生れつき新しいものに対して臆病な人間なのである。新しい本、新しい顔、新しい年――そういうものがつむじまがりのせいかしっくり私にはこないのである。私が前向きの姿勢になれないのもそのせいなのかもしれない。私は希望をいだくことがほとんどなくなった。反対の(つまり過去の年月の)方を眺める時だけ私の心は明るくなるのである。私はすぎさった幻や結論の中へ身を投じる。昔のさまざまな失望と乱戦を交える。数々の古傷に向って平然と戦《いくさ》をいどむ。昔の仇敵を許してやる、あるいは心の中で打ち負かしてやる。かつてしたたか痛手をうけたことのある勝負を、もう一度銭を賭けないで(勝負師仲間の言葉をかりていえばの話だが)やってみるのである。生涯におこったいろんな不都合な事件のどれ一つだって変えてほしいとはもはや思わない。よく纏《まとま》っている小説中の事件と同じように、わが生涯の事件も今さら変えようとは思わない。あれほど熱烈だったアリス・W―n〔ラムの恋人アン・シモンズをさす〕への恋が失恋の淵に沈むよりは、彼女の美しい金髪とさらに美しい明眸のとりことなってあの青春の日の七年間を苦しみとおしたことの方が結局はよかったのだと今にして思うのである。私の一家はあの老獪《ろうかい》なドレル〔悪徳弁護士の名〕に欺かれて遺産をとられてしまったのだが、今ごろ二千ポンドの預金を銀行にもっていて、あのひどい老いぼれの悪党の正体をついぞ知らずにすごすよりも、その方がよほどましだったと思うのである。
どうも男らしくない話だが、自分の若い頃のことをくよくよ考えるのが私の弱点なのである。四十年間という時の経過が間にはいれば、人間は身勝手な奴だという非難をうけることなく「自分自身」を愛することが許される、と、もし私がいえば、それこそ一つの逆説だということになるであろうか。
私はいくらか自分のことを知っているつもりだが、いやしくも自意識の強い人間で――私もまた痛々しいくらい自意識の強い人間なのだが――現在私がエリアなる男に対してもっている以上の軽蔑の念をこの男の人となりに対してもっている者が果して他にあるであろうか。この人間が軽薄で調子が軽くひょうきん者であることを私は知っている。名うての***で〔読者が自由に想像すればいいのである―訳者〕、***に溺れているし、助言が大嫌いで他人からいわれるのも他人にいうのも嫌でたまらないという男である。その上、***ときている。まるで道化でしかもどもりときている。いや、その他どんな罵詈雑言《ばりぞうごん》でもよろしい、容赦なくたたきつけるがよろしい。私が一切その保証人になってあげる。いや、諸君が考えうるあらゆる非難をはるかに上まわることも私が保証してあげる。――だが、子供の頃のエリアに対しては――そこのずっと背後にひかえている「もう一つの私」に対しては――そこにいる若い少年エリアに対してはなつかしい思い出を楽しむことを許してほしいのだ――願わくはこの少年が、現在四十五歳にもなるこの愚鈍な男とはほとんど関係なく、強いていえばいつの間にかすりかわってしまったのだとでも思っていただきたいのだ。私の両親の子でなくどこか他家の子だと思っていただきたいのだ。その子が五歳の時にかかったしぶとい天然痘やその際のまされた残酷な薬のことを思うと私は今でも涙が出てくる。クライスト学院時代、熱っぽい頭を病床によこたえていた時のことを思い出す。ひそかに眠っているのを見守っていたらしい、母親のような慈愛にみちた人の姿がふっと気がつくと自分の顔の上にのしかかっているのにびっくりして眼をさましたことも今さらのように思い出す。その子はちょっとでも胡散臭《うさんくさ》いものからはすぐに身を退いたことを私は覚えている。ああエリアよ、またなんと君は変りはてたものか! 君はもうすれっからしの人間になってしまった。君は――その子は、どんなに昔は正直で、勇敢で(泣き虫にしてはだが)あったことか。どんなに信仰深く、想像力豊かで、希望にみちあふれていたことか。私の覚えているその子が私自身だったのなら、つまりその子が姿をやつした守護神で、私自身のような格好をし、私の慣れない生活の歩みをきちんと整え、私に正しい生き方を教えようとした者でなかったとしたならば、なんと私はその者から堕落したものというべきではなかろうか!
こういう回想にただもうだらしなく耽《ふけ》るのがたまらたく好きだというのは、何か病的な性癖のしるしかもしれない。それとも何か他の原因によるのであろうか。たとえば、妻や家族がないので自分のこと以外には何も考えられなくなっているのかもしれないし、一緒に遊ぶ自分の子供がないので自然に記憶ばかりをたよりにして、いわば若き日の自分の姿をわが後継者、また愛児としていつくしむようになっているのかもしれない。もしこういう物思いが読者諸君に(おそらくは多忙をきわめていられると思うのだが)馬鹿げていると映るのであれば、もし私のいうことが共鳴できるどころか全然常軌を逸しているにすぎないと映るというのであれば、私はいさぎよくエリアという摩訶《まか》不思議な雲の中に嘲笑をさけて韜晦《とうかい》しようと思うのみである。
私を育ててくれた年長の人々は、それが何であれ古いしきたりならどれでも恭《うやうや》しく守るといった性質の人々であった。古い年を送る除夜の鐘をならすというしきたりも一種特別な儀式をもって守られたものであった。――その頃の真夜中の鐘の音は、私の周囲のすべての人には心を浮きたたせるもののようであったが、私の心の中には必ず一種の悲調を帯びた一連の心象を呼びおこさないではおかなかった。しかしその時分にはまだそれがどんな意味だかよく分らなかったし、自分に関係している年月の問題だとも考えつかなかった。単に子供だけではなく、三十歳前の青年なら、自分がやがて死んでゆく身であることなどしみじみと感じることは絶対にないのである。いや、確かにそういったことを知ってはいる。そして必要とあらば、人生のはかなさについて説教することもできよう。けれども実感としてそのことを感じることはないのだ。それは暑い六月にわれわれが十二月の厳寒の候を思い浮かべることができないのと同じだと思う。けれども今は――有体《ありてい》に白状すれば――私は総決算の時が近づきつつあるのを痛切無残にも感じているのである。あとどのくらい果して生きのびられるものか、私は計算しはじめている。そして、一銭惜しみをする吝薔家《りんしょくか》のように、一瞬一刻がついやされてゆくのに我慢がならないのである。歳月が細々と少なくなり、矢のように走り去ってゆくにつれて、私はその経過にいっそう大きな関心を寄せるようになったのである。時間という大きな車輪の輻《や》に指をかけてその歩みをとどめたいとさえ思うのである。「機《はた》の梭《ひ》のごとく」〔『ヨブ記』七章六節〕自分の日がすぎてゆくのをじっと平然と見てはおれない。こういう比喩は私を慰めてはくれないし、死の苦杯を甘くごまかしてはくれない。音もなく人生というものを永遠の彼方に運んでゆく大きな流れに流されたくはない。避けがたい運命の径路に向って反感を覚える。私はこの緑の大地を恋している。都会や田舎の姿を、何ともいいようのない田園の孤独な境地を、街路のあの安らかさを私は恋している。できればここにわが永住の家を建てたいくらいである。ようやく達した今のこの私の年齢にじっととどまっていたいのである。私だけでなく私の友人たちとともにそうしていたいと思うのである。もっと若くなりたいとも金持になりたいとも端麗な顔になろうなどとも露思ってはいない。年老いてこの世から引離されたくはない、というか、世間でよくいうように熟した果物みたいにばったりと墓場の中へ落ちてゆくのは真平なのである。このわが地上にあるもので、食事にしろ住居にしろ少しでもそれが変るとすれば私としては全く閉口し、あわてざるをえないのである。わが家のすべての所に住みついている守り本尊どもはおそろしく強い根をおろしているので、根こそぎ断ちきられるならば血がそこから吹き出よう。今さら異郷の空を求めて出てゆくなどとはとんでもない話である。私は新しい環境ときいただけで身がすくむ思いである。
太陽、青空、そよ風、独りぽっちのそぞろ歩き、夏の休日、緑したたる野原、山海の珍味、社交、くみかわす美酒、蝋燭の灯、炉辺の談話、無邪気な自慢話、かずかずの冗談、それに皮肉《ヽヽ》そのもの――こういうものも生命が消えるとともに消えさってゆくのであろうか。
亡霊に冗談をいったとして、果して彼は太鼓腹ならぬその痩せ腹をゆすぶって笑ってくれるものかどうか。
それから今私のかたわらにいるわが深夜の愛人たち、わが二つ折り本諸君よ、私は(抱えきれないほど腕いっぱいに)諸君を抱き愛撫するという疼《うず》くような喜びとも別れを告げなければならないのであろうか。あの世でも知識がえられるとしての話だが、その知識はもはや読書という勝手知った方法でなく直観といういささか妙な経験によってえられなければならないのであろうか。
果してあの世で友情を味わうことができるだろうか。ここではつい私を交わりへと誘いこむにこやかな微笑があり、見覚えのある顔があり、「心あたたまる眼くばせ」〔ロイドンという詩人の句〕があるが、そういったもののないあそこでは果してどういうことになるのか。
死ぬのは余りぞっとしないなという気持(とまあ露骨にいわないでおくが)が特に私の心に暗くのしかかってくるのは冬の季節である。暑い八月の真昼間のうだるような青空のもとでは死なんてものはその存在さえ疑わしくなる。そういう季節には私のような哀れな人間でさえ蛇〔不死の象徴〕みたいに、不朽不死の念に燃えたつのである。そういう時のわれわれは浩然《こうぜん》としてまさに意気天をつくのである。倍にも力が溢れ、勇気がみなぎり、知恵も充溢し、前よりいっそう偉丈夫となる。だが寒風が一たび吹いて体がちぢかむや否や、私は死の想念にとりつかれるのである。およそ心細さに関係したあらゆるものがこの死をおそれる私の心にまつわりついてくる。寒さとか感覚の鈍さとか夢だとか困惑だとか――いや暗く幽霊じみた姿を伴う月の光だとかがそうである。そういえば月は太陽の冷い亡霊、あるいはポイボス〔太陽神〕の病める妹――『雅歌』〔八章八節〕の中で悪口をいわれているしなびた女みたいな――といえよう。私は断じて月の寵児ではない。私はペルシア人とともに太陽を崇拝する者である。
私の邪魔をしたり、行く手をさえぎるものがあると、それが何であれ、私はすぐ死ぬことを念頭に浮かべる。嫌なことはどんな些細なものでも体液の中の毒素みたいに流れ流れてあの致命的な爛《ただ》れへとつながってゆく。生への無関心をある人々が公言しているのを私は聞いたことがある。そういう人々は生存の終焉を嵐を避けてたどりついた港のように歓迎しており、墓場のことをまるでそこを枕にしてまどろむ柔い腕のようにいっている。中には死を口説いた者もいる――が、私はいう、汝醜悪なる亡霊よ、呪われてあれ! と。私は汝を嫌い憎悪し呪う。そして、修道士ジョン〔ラブレー作『ガルガンチュワ』に出るジャンのこと〕の真似ではないが汝を十二万の悪魔にわたしてやるのだ。どんなことがあっても許したり勘弁なんかするものか、そして人類の敵として、毒蛇として敬遠してやるのだ、焼印をおし、追放し、悪《あ》しざまに罵ってやるのだ! どんなことがあっても汝と妥協などしてたまるものか、汝|蒼《あお》ざめかつ陰気なる「無」よ! 汝おそるべき「破壊力」よ!
汝に対する恐怖をうち消すために作られたさまざまな解毒剤といえども、その冷酷で侮辱的なことは汝自身と少しも変ることはない。生きている時には王者や覇者と交わることをそう願ったこともない人間が「死んだら彼らと枕をならべて眠るのだ」といわれたところでいったいどんな満足を感じるというのであろうか。あるいは、「絶世の美人の顔も要するにかくの如くなるべし」といわれたところでどうなるものでもなかろう。考えてもみるがいい、私の心を慰めるためにアリス・W―nをどうして幽鬼にする必要があるというのだ。何にもまして私が不快を覚えるのは普通の墓石に刻まれているあの傲慢無礼なきまり文句である。死人がどいつもこいつも分りきった言葉で私に説教するのは全く|おこ《ヽヽ》の沙汰ではないだろうか、いわく「わがあるごとく汝も間もなくあるべし」と。友よ、死よ、君が考えているほどそんなにすぐに死ぬわけはなかろうじゃないか。とにかくここ当分は私は生きておれるのだ。動きまわっておれるのだ。私には君たちの二十人分の価値がある。君たちにまさる生存者を尊敬したまえ! 君たちの新年はもう過去のものになった。だが、私は生きている、生きのびて一八二一年を歓喜して迎えようとしているのだ。さ、もう一つ美酒を飲むとしようか――今しがた去った一八二〇年を弔う物悲しい調べを奏した鐘は、まるで変節漢のように調子を一変して次に来るべき年を朗々と招じ入れようとしてなり響いている。その鐘の音に調子をあわせて、ちょうど同じような機会にあの元気で愉快なコットン氏〔『釣魚大全』の著者ウォルトンの親友で詩人〕が作った歌を歌おうではないか。
[#ここから1字下げ]
(中略)
美酒をたたえた杯をあげ、
新しい客を迎えん。
幸運を迎えるには歓楽こそふさわしく、
災禍も歓楽には敵し難し。
よし幸運に見放されるとも、
われらはただ美酒を酌み、
ただひたすらに酔いしれん、
来ん年には幸運に恵まれん。
[#ここで字下げ終わり]
どうです、読者諸君、古いイギリス魂のもつあの猛々しい豪快さがこれらの句に溢れてはいませんか? これらの句はまるで強壮剤のように心気を強めてはくれませんか。味わえば味わうほど気宇を壮大ならしめ、血気を盛んならしめ闊達の精神をいやましに強くしないであろうか。いまさき述べたばかりの、あるいはぎょうぎょうしくてらったばかりの、あの死への泣きごとめいた恐怖心はいったいどこへいってしまったのだろう? 風に吹かれる一片の白雲のように飛び去ってしまったのだ――清澄な詩の光に清められ吸収されてしまったのだ――純なるヘリコン〔詩神の司る山で、そこから泉が流れ出ているとされていた〕の泉に綺麗に洗いさらされてしまったのだ(さきにのべたような憂欝症にきく唯一の薬こそまさにこのヘリコンの泉なのだ)。さあもう一杯、|こく《ヽヽ》のある酒をほそうではありませんか! そして新年おめでとうをいいましょう、皆さん、お揃いの皆さん、新年おめでとう!
〔『ロンドン・マガジン』一八二一年一月号所載〕
[#改ページ]
不完全な共感
私は生まれつき自由闊達な性質なので相手が何であってもそれと一緒になり、またそれに共鳴することができる。私は何に対しても反感というか、特別な奇癖を発揮することがないのである。そういうえてして人間にありがちな嫌悪の情は私には縁はないし、相手がフランス人、イタリア人、スペイン人、オランダ人のいずれであろうと私は偏見をもって見るということはないのである。――ブラウン『医師の宗教』
『医師の宗教』の著者〔サー・トマス・ブラウン〕が縹渺《ひょうびょう》たる抽象の世界に飛翔し理念と推理にもとづく本質におぼれ、存在を分類するに当って「事実的なるもの」よりも「可能なるもの」を上位においたため人間という哀れな具体的存在のくだらない個性を見のがしてしまったことは、そう驚くにも値《あたい》しないことかもしれない。それよりもあの人類というものをとにもかくにも動物の属類の中に認めてくれたことは偉とするにたりるといわなければなるまい。私自身についていえば――何しろ地上にへばりついているし、|あくせく《ヽヽヽヽ》とただもう自分の世界でうごめいているといった人間――
[#ここから1字下げ]
天空を翔《か》けずただ地上にたつ者
〔ミルトン『失楽園』七巻二三行〕
[#ここで字下げ終わり]
として私は告白するが、私には国民の場合にしろ個人の場合にしろ、とにかく、人間相互間の相違がほとんど不健康なほど感じられるのである。ものでも人でも私はいいかげんな眼で見てはいられないのだ。何であれすべてあるものは私には好きか嫌いかそのいずれかの対象となるのである。もしどうでもいいというものの場合には、要するにそのものはつまらないものというわけである。もっとはっきりいえば、私という人間は偏見のかたまりなのである。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いという人間、いわば共感の奴隷、無感の奴隷、反感の奴隷なのである。
ある意味では、私はわが人類を愛する者といえよう。万人に対して私は公平に対することはできる、が、そのすべてに対して同じような感じをもつわけにはゆかない。相手に対する共感を表わすもっと英語らしい英語ならば私の意味するところがもっとうまく表わされよう。私は何か他の理由で自分の連れまたは「仲間《フェロウ》」とはなれない人間でも立派な人間ならば友人づき合いはできる。が、私はすべての人を同じように「好きになる」ことはできないのだ。
[#ここから1字下げ]
(原註)私が今不完全な共感という題目についてのみ語っていることを了解してもらいたいと思う。いろんな国民や階級の者に対して直接的な反感なぞはありはしない。もちろん、個々の人間の場合、他の個人の性格に対して生まれながらにして敵対関係にあり、いわば両雄ならびたつ能わず、といった風なことはありえよう。私も自分とは倫理的に全く対蹠的な立場にたつ人物を経験したことはある。で、それまでに一度も逢ったこともないのに逢うや否や直ちに争いを始めた二人の人間がいたという話もさもありそうなことと思う次第である。(以下略)
[#ここで字下げ終わり]
私は今までずっとスコットランド人を好きになろうと努力してきたが、結局その努力も空しいことが分って、今では諦めているのである。スコットランド人も私を好きにはなれないようだし――また好きになろうと試みた者を私は一人として彼らの間に認めることもなかった。彼らのやり方にはかなりざっくばらんで率直なところがある。一目ですぐお互いにそれと分るのである。世の中には不完全な知性の持主ともいえる人々がいるが(残念ながら私もその一人であることを告白する)、そういった人々の中には生まれつき心底からのスコットランド人嫌いというのがいる。そういう種類の機能の持主は理解力が豊かというより多分に暗示的な心をもっている。思想がそう明晰だというわけではなし、それを表現するにしてもそのやり方もこれまた明晰ではない。彼らの知嚢は(有体《ありてい》に告白するが)実は中味が乏しく、完全なものが少ないのである。真理の断片だとかこま切れみたいなもので満足している彼らなのである。「真理」の女神も正面きって彼らに向うのでなく、せいぜい横顔か、あるいはちょっとした表情をみせるのが関の山である。何かこう体系のあるものをそれとなく示そうとしたり、大まかにその見当をつけようとするくらいが、彼らにできそうなせめてもの慰めである。彼らはまるで勢子《せこ》みたいに獲物ならぬ議論を引っぱり出すことはできるらしいが、それを追いつめる仕事はもっとたくましい頭脳の持主、もっと頑健な力の持主にまかせるのが|おち《ヽヽ》である。彼らを導き照らす光はしっかりした不動のものでなく絶えずふらふら変ってゆく。お月様みたいに満ちたりかけたり変化常なき状態である。
彼らの話しぶりもそれに応じたものである。つまりぽつんぽつんと時宜にかなおうがかなうまいが関係なしに言葉を吐き、それがどうとられようと他人まかせとくる。あたかも宣誓をした上で話しているようだとはまずいえない。むしろ、話している時でもものを書いている時でも、かなり用心して接した方が無難なようである。ある一つの命題なら命題が熟すのをじっと待つということがまずなく、未熟なままいきなり人の前にもち出すのである。欠陥だらけの新発見をみつけるや否やそのままひけらかすのが好きでしようがないというわけで、すっかりその新発見が形をととのえるのを待つことはないのである。彼らは体系化を試みる人間ではない。体系化を無理に試みでもしたらかえっていっそう誤ちをおかすだけであろう。前にもいったように、彼らの心は単に暗示的であるにすぎない。
ところが生粋のスコットランド人の頭脳は(もし私の誤解でなければ)これは全く違った構造をもっている。彼の知識の女神ミネルヴァは鎧に身をかためて生まれてきたらしい。その思想がゆっくり成長してゆくのを――彼の思想が成長などはしないで時計仕掛けみたいに組立てられているのならともかくだが――他人にはなかなか見せようとはしない。ふだん着のままの心情なぞ金輸際見られたものではない。何かをそれとはなしに言うとか暗示するとかいうことはなく、順序正しく且つ完成された形でかねて抱懐する思想を着実に展開してゆく。全財産を人前に持参に及び、いとも厳粛にその荷を開けて見せる。その富はいつも肌身離さずもっているといえる。われわれと話している時にふっと何か煌《きら》めくような想念が浮かんでも、それが本ものか偽ものかがはっきりするまでは、なかなかそれを話題にのぼせて互いに語り合おうとはしない。何かみつけたものを互いに山分けとゆこうなどとはこちらからもいい出せない。彼は何かを発見するというのでなく、何かを持ってくるのである。第一、彼が何かを始めてはっと直感する、そういった現場にわれわれは接することはできない。彼の理解はいつも最高潮に達していて――つまりその理解がゆるやかに夜明けを迎え、次第に光が射してくる、といった姿はついぞ見かけることはできない。自分で自分を疑うために生ずるためらいなぞ全然彼にはない。憶測だとか推測だとか懐疑だとかぼやっとした直覚だとか漠々たる自意識だとか薄明裡《はくめいり》に浮かんでくる認識だとか暖昧な直感だとか次第に芽ばえてくる概念だとか、そういったものは一切彼の頭脳の中にも彼の語彙《ごい》の中にも存在しない。半信半疑という薄明は彼には訪れない。もし正統な信仰者であれば懐疑など全然生じない。もし異端の徒であれば――もちろんそこには懐疑はない。肯定と否定の間のいわゆるボーダー・ランドなるものが彼の世界には存在しない。真理の限界線上をすれすれに彼とともに飛翔することもできなければ、考えうべき議論の迷路の中を彼とともにさ迷い歩くことも不可能である。
彼はいつも自分の道を踏みはずすことはない。彼と一緒にぶらぶらと変な方向にそれて歩いてゆくことはわれわれにはできない。なぜなら、すぐに彼のために本道につれ戻されるからである。嗜好にしてからが絶対にぐらつかない。善悪の判断は断乎として微動だにしない。妥協もできなければ中間的な行動を理解することもできない。一切が正しいか間違っているかそのどちらかである。彼の話はそのまま書物である。こうといったん断定したらそれは宣誓のもつ神聖さがこめられている。彼と話をする際にはわれわれははっきりと率直にものをいわなければならない。敵国でスパイ容疑者として検問されるみたいに、比愉《メタフォ》を用いると直ちにわれわれは彼の検問にひっかかる。
「健康な本だといわれるんですか!」――と彼の同国人の一人は、例のジョン・バンクル〔トマス・エイモリの著書『ジョン・バンクルの生涯』のこと〕をさしてそういう形容をあえて用いた私に向っていったものである――「わたしの聞きちがいかもしれませんがな――わたしは健康な人間とか健康な身体とかいう言葉は聞いたことがありますが、健康という形容がどうして本にあてはまるのかさっぱりわけが分りませんね」。注意しておくが、特に遠まわしの表現はスコットランド人の前では用心しなければならない。もし不幸にして諸君が皮肉をいいたくなるようなことがあれば、その皮肉だけは何としても消しとめてしまわなければいけない。宣誓した上で話をしていることを忘れてはいけないのである。実は私はレオナルド・ダ・ヴィンチの原画にもとづく美しい女を画いた版画をもっているのであるが、それを○○氏に自慢気に見せたことがあった。彼が丁寧にそれを見終るのを待って、私が、どうです|私の美人《マイ・ビューティ》〔「私の美しさ」の意にもなる〕は、お気に召しましたか、とよせばよいのに訊ねたものである(というのは、私の友人仲間ではその画はそういう愚かな呼称で通っていたからである)。すると○○氏はいともまじめに答えた。「あなたの性格や才能については深い敬意をわたしは払っていますがね(とまあこんな嬉しいことをいってくれたものである)、しかし、あなたが美男子だなんて実は考えてみたこともないんでしてね」。彼のこの思い違いに私はびっくりしたが、本人はそう慌《あわ》てた様子でもなかった。
スコットランド人というのは妙に真実を主張するのが好きな国民である――誰も疑う余地のない真実を、である。いや、もっと正確にいうと、主張するというより告知するといった方がいいようである。彼らは真実を(まるで真実が徳と同じくそれ自体価値あるものの如くにだ)愛することまことに激しいものがあるらしく、真実ならばどれもこれも同じ価値があると思っているらしいのである。その真実をふくむ命題が新しかろうが古かろうが、論議の主題になれそうになかろうがどうであろうが少しも意に介しないのである。私はかつてこれらの北ブリトン人つまりスコットランド人のある会に出席したことがあったが、その席にはバーンズ〔有名なスコットランドの詩人ロバート・バーンズ〕の令息が出席するはずであった。私はついうっかりと(いかにも南ブリトン人らしく)、令息でなくて父親の方が出席してくれるのだったら有難いのに、と愚にもつかぬ言葉をもらしてしまったのである。すると即座に席上の四人の者がたち上って私に向って「それは不可能です、バーンズはもう故人なんだから」といったものである。実行できない願望なんてものは彼らには考えることもできないものらしいのである。スウィフト〔『ガリヴァー旅行記』の著者〕はスコットランド人の性格のこの一面を、つまり真実愛好癖を鋭く衝《つ》いているが、少し偏狭すぎる嫌いがあるので、その一文は註としてあとに記《しる》すことにする。
これらの人々の退屈さかげんは全くこちらがいらいらするほどである。彼ら同士よくも飽き飽きしないものだと不思議に思わざるをえないほどだ。若い頃私はバーンズの詩が好きで好きでたまらなかった。それで時々そういってスコットランド人のご機嫌をとったものであるが、その度に私が気づいたことは、生粋のスコットランド人はわれわれが彼らの同胞であるバーンズを軽蔑するというよりも崇拝しているといった方がよけい感情を害するらしいということである。こちらがバーンズを軽蔑するというと、それは「彼が用いた言葉の多くが諸君には充分分らないからだ」と彼らはいうし、バーンズを崇拝しているというと、崇拝できるなどと生意気なことをいうが彼の言葉が諸君には分ってないじゃないかとくる。トムソン〔スコットランドの詩人〕のことは彼らは忘れているらしい。スモウレット〔スコットランドの小説家〕のことは忘れもしなければ許そうともしない。ロウリ〔スモウレットの小説『ロデリック・ランダム』の主人公〕とその仲間がわがロンドンに初めて姿を現わす時の描写がなっていないというわけである。スモウレットは偉大な天才だなんていおうものなら、ヒューム〔スコットランドの哲学者〕の『英国史』をあいつの書いたその続篇〔スモウレットはヒュームの『英国史』の続篇を書いた〕と比べてみるがいいといって喰ってかかる。そんなことをいうのなら、もしこの歴史家〔ヒュームのこと〕が『ハンフリー・クリンカー』〔スモウレットの傑作小説〕の続篇を書いたら果してどんなことになると思っているのだろうか。
[#ここから1字下げ]
(原註)世の中には人との交際に当って全然くだらないこと、日常茶飯事の埒外を一歩も出ないようなことさえ話せば、それで結構役目を果し歓待の実をあげたと思っている人間がいる。自分の経験からすれば、そういう連中はどの国民よりもスコットランド人に多い。彼らは時と所についてはどんなこまかな点でも省くことを知らない。こういう話はかの国固有の無骨な言葉遣いやアクセントや身振りによってかなり助かってはいるものの、もしそうでなかったらとうてい聞くに堪えないものとなろう――スウィフト『対話論への手引』
[#ここで字下げ終わり]
私は抽象論としてはユダヤ人に対してなんらの侮蔑の念をもっている者ではない。彼らは連綿としてつづいた古代からの民族であって、これに比べたらストーンヘンジ〔ウィルトシャーにある石器時代の巨大な石柱群〕などはまだ未成年者みたいなものである。彼らの発祥はピラミッド建設よりもさらに古い。しかし私はいかなるユダヤ人とも親しく交わるつもりはない。私は彼らの教会堂《シナゴク》に入る勇気がないことを告白する。昔からの偏見が私のまわりにこびりついているのである。ヒュー・オヴ・リンカン〔ユダヤ人のために殺された少年〕の話がどうしても念頭から去らないのである。一方では永い年月にわたる侮辱と軽蔑と憎悪、他方ではこれまた永い年月にわたる秘められた復讐と虚偽と憎悪、こういったものがわれわれの祖先と彼らの祖先の間に存在していた以上、それはそれぞれの子孫の血に影響をあたえざるをえないし、またあたえてしかるべきである。そういう血が綺麗さっぱりと澄みきって、暖かく流れているとは私にはまだ信じ難い。また、たとえば率直とか寛容とか十九世紀の新しい光明とかいった若干の合言葉だけではこの激しいいがみ合いの傷口を封ずることはできまいと思う。このヘブライの徒は場所の如何をとわず私にはどうもぴったりこない。取引所でなら一番|あら《ヽヽ》が目立たないようである――商業的精神のおかげでそこでは誰彼の見境いがなくなるからである。ちょうど暗闇の中ではどんな女でも美人にみえるみたいなものだ。大胆な告白かもしれないが、私はユダヤ人とキリスト教徒との、最近とみに流行化してきた接近を好まない。両者が互いに親睦をはかるのはその底に何か偽善的な、何か不自然なものをふくんでいるように私には感じられる。キリスト教会とユダヤ教会とがいかにも丁寧さを装ってぎごちなく互いに接吻したりお辞儀をしたりしているのを見るのは私にはたまらない。もしも|彼ら《ヽヽ》にして改宗したのであれば、なぜ大挙してわれわれの方へやってこないのであろうか。内容がすでに変っているのであれば、なぜ分離という形式だけを墨守するのであろうか。もし彼らにしてわれわれと食卓をともにすることができるのであれば、なぜわれわれの料理を忌避するのであろうか。こういった中途はんぱな改宗を理解することは私にはできない。キリスト教化しつつあるユダヤ教徒――ユダヤ教化しつつあるキリスト教徒――これでは何のことやら私にはさっぱり分らない。
私は魚なら魚、肉なら肉が好きなのである。妥協的なユダヤ人というのは酔っぱらいのクエイカー教徒よりももっと奇妙な存在といわなければならない。ユダヤ人の会堂《シナゴク》の精神は「分離的」であることをそのたてまえとしている。B―氏〔ジョン・ブレイアムはユダヤ系の音楽家〕だってもし祖先伝来の信仰をあくまで貫いていたらもっと首尾一貫した態度がとれていたろう。彼の顔にはある微妙な軽侮の表情が漂っているが、それはいわずとも知れたこと、キリスト教徒に対する軽侮の表情に他ならないようである。キリスト教に改宗しているにもかかわらず、ヘブライ的精神が烈々として彼のうちには働いているのである。彼は自らの内なるヘブライ的なものを克服しきってはいない。「イスラエルの子ら紅海を渡りぬ」〔ヘンデルのオラトリオ中の一節〕云々と歌うときいかにそれが歴然と現われてくることであろうか。聴衆であるわれわれは、その瞬間、彼にとってはまさしくエジプト人であり、彼はわれわれの首の根をおさえつけて意気高らかに勝利の凱歌をあげているのである。どう見ても彼の正体を見損うことはないと思う。B―氏はその顔つきにある特別強烈な感じをもっているが、それが歌う際にはっきりと現われるのである。彼の歌のよさはその感じにある。名優ケンブルのせりふの場合と同じく、彼は自分が何を歌っているかをよく知っている。十戒を歌えば歌うで、その一つ一つの戒《いまし》めの性格を正しくつかんで歌うだろう。
ユダヤ人には総じて過度に賢すぎるという顔はない。どうしてそういうことがありうるわけがあろうか。だが、愚鈍な顔もめったにない。利益、そしてただ利益の追求――こういったものは人の顔を鋭いものにするのである。彼らの間に白痴がかつて生まれたということを聞いたためしがない。ユダヤ女の容貌を称讃する者がいるが、私もその一人である。ただし身震いをしながらである。ヤエル〔旧約の『土師記』四章〕もまたあの黒い不気味な眼をもっていたはずである。
黒人の顔つきには何ともいえぬ人のよさがにじみ出ていることがある。道や通りなどでばったり逢ったような場合、柔和にこちらを見る彼らの顔――あるいはマスクといった方がよいかもしれないが――に対して切ないほどのいとしさを私は感じたことがいく度かある。私はフラー〔トマス・フラーは十七世紀の歴史家〕が鮮やかにいった「黒檀に刻まれた神の像」を愛するものである。しかし親しく交わろうとも、一緒に食事をしたり同じ家で生活しようとも思わない――なぜなら彼らが黒色人種であるからである。
私はクエイカー教徒の生き方やその礼拝様式を愛する。私はクエイカー教徒の主義を尊敬する。途上でこの教徒の一人にでも逢えばその日は一日中気持がよいくらいである。何かのはずみで気持がいらいらしたり落着きを失ったりした時、クユイカー教徒の姿か静かな声に接するとそれが通風機のような作用を私に及ぼし、風通しをよくしてくれたリ気持のもやもやを吹き飛ばしてくれるほどだ。しかし私はデズデモウナ〔『オセロウ』の女主人公〕のいいぐさではないが、「一緒に住みたいほど」彼ら教徒が好きではないのである。
私は諧謔《かいぎゃく》や空想のために、絶えず共感を求める性癖のために、すっかりすれっからしになってしまっている。私は本や画や芝居や無駄話や醜聞や冗談や曖昧な話やその他数えきれぬほど多くの気まぐれなしではすまされない。だが彼らの単純な好みからすればこんなものはどうだってよいのである。彼らの原始的な饗宴では私は餓死するのは分りきっている。私の食欲はとてもはげしくてイーヴリン〔十七世紀の有名な日記作者ジョン・イーヴリン〕のいう、イーヴが天使のために作ったサラダでは満足できない。私の食い気は旺盛で、
[#ここから1字下げ]
ダニエルに招かれて豆を喰う
〔ミルトン『復楽園』二巻〕
[#ここで字下げ終わり]
などは真平ごめんである。
クエイカー教徒は何か質問されるとしばしばもってまわったような答をするようであるが、彼らはごまかしが多いとか他の人々より曖昧な表現が多いとかいう俗説とは別な解釈ができると思う。つまり彼らは生まれつきひどくその言葉に気を配って、なかなか言質をとられまいと用心深いのだ。この点、彼らはじつにしっかりした性格をもっている。ある意味で彼らの声価は一つにその誠実にかかっている。クエイカー教徒は宣誓することを法律によって免除されている。非常な場合に宣誓を行なうという慣習はすべての宗教的な古いしきたりによって神聖視されてはいるけれども、残念ながら、でたらめな人間には真実には二種類あるといった考えを植えつけやすい。つまり一つは司法上の厳粛な事件に適用されるものであり、他は日常の交際上のいろんな行為に適用されるもの、といった二種類である。宣誓によって良心にもとづくものとされた真実のみが要するに真実でありうるとすれば、商売上の日常の話合いではこういう厳粛な誓約なしに行なわれるいろんな問いに対しては多少の大まかさが期待され大目に見られているのである。真実とはどうしてもいえそうにないものでも認められているというわけだ。
「まさか君、ぼくが宣誓しているみたいにものを言うとは君だって期待しているわけじゃないだろう」とよく人がいうのをわれわれは聞いている。したがって、嘘とまではゆかないが不正確や疎漏の数々が自然にわれわれの日常の会話にもぐりこんでくるという次第である。事がらのなりゆきからして聖職者的真実というか、つまり宣誓による真実が必ずしも求められていない場合には一種の第二義的な、いわば俗人的真実ともいえるものが許容されるのである。
ところがクエイカー教徒はこういう区別を全然知らない。彼の単純なる証言はどんな神聖な場合でもそのまま受けいれられることになっているので、ごくつまらない日常茶飯事について彼の用いる言葉にも自然にある種の重味を加えることとなっているのである。したがって彼らは他人にはみられない厳しさをもって言葉に臨むのである。われわれが彼らからえられるのは実にその言葉だけということになる。もし不用意にしゃべっていて他人に揚《あ》げ足《あし》をとられるようなことがあれば、彼らは衆人から色眼鏡でみられている宣誓免除の権利を、少なくとも内心では、主張する資格はなくなることを知っている。その一言一句が注目の的であることを知っている。――そして、いかに他人に対してこういう独特な用心を強いられているという意識が、自然にまわりくどい答を誘発し相手の質問をまじめにそらしてゆく傾向を生ずるかは例をあげて証明することもできる。またそういうやり方が正当視されうるのは、今の場合引き合いに出すのはどうかと思われるある一つの聖なる事例〔イエスがパリサイ人らの質問を回避したことを指す。『ルカ伝』一一章〕に徴しても明らかである。これらの教徒がどんな不慮の事変に際しても自若としてわれを失うことがないのは有名な話であるが、これもふだんからこういう風に自戒しているせいだといえよう。もっとも、こういう落着きは、教祖たちにみられた磐石のように微動だにせず、あるいはどんな迫害の嵐にも屈せず、裁判や拷問を加えようとした審問官や糾弾者の暴力にも屈しなかったあのただ信仰ひとすじにつながる心の世俗の面でのつつましい現われといえなくもないかもしれない。
「たとえ真夜中にいたるまでここに坐って君の質問に答えたところで、君は少しも賢くはなるまい」と剛直な審問官の一人が弁舌も巧みに法律論を法廷でのべていたペン〔ウィリャム・ペンは初代のクエイカー教徒〕に向っていった。「それは貴官の答え如何によるでしょうな」とこのクエイカー教徒は答えたものである。この人たちの驚嘆すべき泰然自若たる態度はなんでもない事柄の場合には時として滑稽な様相を帯びることがある。
――私はかつて三人の男のクエイカー教徒と乗合馬車で旅行したことがあった。いかにも厳格な非国教徒らしい服装をしていた。われわれはアンドーヴァーで軽いものでも食べようと下車した。そこで出された食べものは半ばお茶の支度であり半ば夕食といったものであった。連れの者たちはただお茶だけを飲んだが、私は例によって例のごとく夕食をとった。店のおかみさんが勘定書をもってきた時、われわれの一団中の一番年長の者が、勘定がお茶と夕食の分をつけてきているのをみつけた。これは困るとつっぱねたわけであるが、おかみさんはがみがみとどなるばかりであった。クエイカー教徒たちはもの静かに論ずるのだったが、かんかんになっているおかみさんはそんな議論はまるっきり受けつけようとはしなかった。そこへ馬車の者がきていつもの調子で出発の時刻だとぶっきら棒にいった。クエイカー教徒はお金をポケットから出し、礼儀正しく相手に渡そうとした――もちろんお茶の代金をである。私もうやうやしくそれに見ならってお金を渡そうとした――もちろん、自分で食べた夕食の代金をである。彼女はどうしてもその要求をゆるめようとはしなかった。するとこの三人は一同そろって代金をポケットにしまいこみ――私もお相伴をしたのだが――一番年長で謹厳な者を先頭に部屋から出ていった――しんがりをつとめたのはかくいう私であったが、こういう謹厳で尊敬すべき人たちのお手本に従う以外にいい道はないというのが私の判断であった。
われわれは馬車に乗った。踏み段はあげられた。馬車は走り出した。おかみさんのぶつくさいう言葉は、実は義理にでもぶつくさといえるようなものではなかったが、それでもやがて聞こえなくなった。さて、そうなると私の良心であるが、この光景の突飛さにあきれて今まで眠っていたのがそろそろ痛み出してきた。彼らの行為はどうもよろしくないが、この真面目な人たちはきっと何かいい弁明をするはずだと思い、びくびくしながら待っていた。ところが全く驚いたことにはこの問題については一言もいわないのである。礼拝の集会に出席しているみたいにひたすら沈黙して坐っているのみなのだ。が、ついに最年長者が沈黙を破った――「インド商会ではインド藍の値段はどうなっているか貴兄はご存知かな」という隣席の者に対する質問だった。この質問は私の良心を眠らせるのに役だった。――エクゼターに馬車が着くまで役だった。
〔『ロンドン・マガジン一八二一年八月号所載』〕
[#改ページ]
近代の女性崇拝
昔の風習と近代のそれとを比べてみた場合、女性に対して自分たちがひどく慇懃《いんぎん》になったようにわれわれは自惚《うぬぼ》れている。つまり、一種独特な丁重さというか、うやうやしさといったものを、いやしくも女性という女性には払っているように思いこんでいる。
私もそういうプリンシプルがわれわれの行為を実際に律していると信じたいのだが、それには条件がいるのである。われわれの文明が始まってから実に第十九番目の世紀に入ってからようやく公衆の前で野蛮きわまりない男の罪人と一緒に女性を笞刑《ちけい》に処するという、今まで平然と行なわれてきた悪習を辛うじて廃しかけているこの事実を、私が忘れ得るならば、という条件がいるのである。
もしこのイギリスにおいて、女が今でもなお時々――そうだ、実に絞首刑に処せられているという事実に眼をふさぎうるならば、その時にはこの慇懃さがほんものだということを信じよう。
舞台にたっている女優たちが紳士諸君によって弥次りたおされて引き退ることがなくなった時に、私はそれを信じよう。
上流階級の伊達者が魚売りの女の手をとって溝をこえさせてやったり、運悪く荷馬車にぶつかってごろごろちらばった林檎をその果物売りの女の手伝いをして拾ってやったりする日がきた時に、私はそれを信じよう。
それほど上流の者でなくてもとにかく慇懃丁重さにかけては自他ともに許す達人と目されている伊達者が自分の顔を誰も知っていないところで、あるいは誰にも見られていないとはっきり分るところでそれを実行する日がきたら――たとえば大きな商店の外交員がたまたま乗り合せた乗合馬車の屋上で自分の家へ帰ろうとしていて雨に濡れ放題に濡れている可哀そうな女の肩に自分の自慢の外套をぬいで着せてやるのを目撃するとか――ロンドンの劇場の土間の一隅に立っている女がしまいには疲れてぶっ倒れそうになっているのに、まわりの男たちはぬくぬくと腰をかけてその女の疲れきっているのを冷笑するどころか、中でも多少行儀もよく良心ももっていそうな男が「あの女がも少し若くて美人だったら席をかわってやってもいいんだがなあ」と意味ありげにいうにいたるといった光景にお目にかかるとか、そういったことがなくなった暁には私もそれを信じるだろう。こういった小綺麗な商人だとか外交員だとかをその連中が交際している女たちの間においてみるがいい。ロウスベリ界隈〔イングランド銀行の所在する地区〕にだってこんなに上品な連中にはめったにお目にかかれないといいたくなるほど豹変するから不思議である。
最後に、この世の中の骨の折れる仕事や下品な奉公仕事の半分以上が女たちによって行なわれているのが実情であるが、そんなことがなくなる時にこそ、われわれの行為に影響をあたえているこういうプリンシプルみたいなものがあることを私は信じ始めるだろう。
その日がくるまでは私はこんな自惚れは要するに陳腐なつくり話にすぎないとしか思わないだろう。男と女が対等にその利益を主張できるある階級の、そしてまた人生のある時期における両性間の、単なるペイジェントとしか私は思わないだろう。
もし上流会社で若い女性に対するのと同じように年老いた女性に対しても、美貌の人に対するのと同じように十人並みの器量の人に対しても、皮膚の綺麗な人に対するのと同じように余り冴えない皮膚の色をもった人に対しても、立派に尊敬が払われる日がきても――女が美人だからとか資産家だからとか身分が高いからとかいうのでなく、ただ女であるからというそれだけの理由で立派に尊敬される日がきても私は女性崇拝を人生における有益な虚構の一つと考えるかもしれない。
私が女性崇拝が本当に名目以上の何ものかであると信ずるにいたるのは、身だしなみの立派な仲間に伍して身だしなみの立派な紳士がいわゆる「おばあさん」のことを話す際に嘲笑じみた、あるいは嘲笑を誘う気持が少しもなく話すようになった時であろう。「しなびた娘」だとか、誰それは「売れ残った」とかいう言葉が上流の人々の間でいわれた際にそれを聞いた男や女が直ちに憤慨するようになった時であろう。
ブレッド・ストリート・ヒル在住のジョーゼフ・ペイスは商人で南洋商会《サウス・シー・カンパニー》の理事の一人でもあったが――シェイクスピアの註釈者エドワーズ〔トマス・エドワーズ。詩人かつ批評家〕が美しいソネットをささげた当の本人でもあるのだが――この人は私が今まで出会ったうちで誠心誠意、女性に対して慇懃をつくした唯一の人である。私は若い頃この人の家に世話になり、いろいろ面倒を見てもらった。もし私の性質の中に商人的なものがいろいろあるとすれば(といって大したことではないが)、それは彼の教訓と模範によるところが多いのである。私がもっと有利な仕事をしなかったからといってもそれは彼が悪かったからではない。長老教会《プレズビテリアン》の一員として生まれ、商人として育てられた人だが、彼こそは当代随一の紳士だったと私は思っている。客間において女性に対する丁重さと、店や露店において女性を遇する丁重さの間にちがったやり方をするということが彼にはなかった。区別が全然なかったというのではない。ただ、いつも相手が女性であることを忘れなかったというか、相手がどんなまずい状態にあっても女性であることだけはきちんと心がけていたといいたいのである。
ある時、若い女中にどこかの町へゆく道を尋ねられて彼が脱帽して答えていた――読者よ、笑いたければどうぞ笑っていただきたい――のを私はみかけたことがある。その態度の丁重さは見るからに自然であったし、それを受ける側の娘にしろそうする側の彼にしろそこには少しもきまりの悪くなるような様子が全然なかったのだ。世間でよくいうような意味での女にもてたがる男なんぞでは彼はけっしてなかった。ただどんな場合、どんな格好の女にしろ、とにかく「女性」に対して尊敬と支持をあたえていたのである。
これもある時のこと、私は彼が夕立のさ中にあったある市場のおかみさんに心から優しくかしずいているのを(どうか笑わないでもらいたいのだが)見たことがある。雨に濡れていたまないようにと、その女がもっていたみすぼらしい果物籠の上に傘をさしかけてやっていたのである。その気の配りようはまさしく相手が伯爵夫人ででもあるかのようにさえ見えた。いわゆる「老女」の尊い姿に接すると、たとえ相手が年とった乞食女であっても、われわれが自分の祖母に対して示しうる以上の丁重さを示して道をゆずる人だった。彼は老いたる者を守る「勇ましき騎士」であった。自分を守ってくれるキャリドアもトリスタンももたない女たちに対する、サー・キャリドア〔スペンサー作『神仙女王』に出る礼節を象徴する騎士〕であり、サー・トリスタン〔アーサー王伝説中の騎士〕であった。もはや色香が褪《あ》せてから年久しい薔薇も、彼の眼にはゆきずりの老女のやつれ果てた面上にいまだに艶然として咲き誇っているように映っていたのである。
彼は一度も結婚しなかったが、若い頃にはあの美しいスーザン・ウィンスタンリー――クラプトン在住の老ウィンスタンリーの娘――に恋をしたことがあった。しかし彼が求婚してから間もなく彼女は死んでしまったのだが、それ以後一生独身でとおす決心を彼はかためてしまった。私に語ったところによると、この短い求婚中のある日のこと、彼はこの愛人に思いのたけを優雅な言葉でのべたことがあったそうである。女性に対してよく男が用いる慇懃な言葉だったのだが、それまで彼女はそういったものに少しも嫌な顔をしたことがなかったにもかかわらず、その時ばかりはいっこうに効目《ききめ》がなかったという。いくらいっても色よい返事がえられなかった。それどころか彼の思いをこめた言葉が気に喰わないような様子だった。気紛れのせいとも思えなかった。というのは、この女性がそんな妙な性根の人でないことは日頃の言動から明らかであったからである。で、翌日再び訪問して少し機嫌がよくなっているのをこれ幸いに、昨日の冷淡さを思いきって責めると、彼女はいつものように率直に答えたが、それによると真相は次のようであった。つまり、私だって、と彼女はいったという、いろいろ気をつかっていただくのは別に嫌ではない、いやそれどころかもっと大げさなお世辞をいっていただくのだってまんざら嫌ではない。自分のような立場にある若い女ならどんな丁重な言葉だって当然いってもらう権利があろう。嘘いつわりでない限り多少の追従《ついしょう》をいわれて喜んでも若い女の身としてそうそう傲慢の誹《そし》りをうけることもなかろうと思う。ただ、――あなたが昨日甘い言葉でお世辞をおっしゃったちょっと前に――約束の時間にネクタイをもってこなかったというのである若い女をかなり荒々しい言葉で叱りつけておられるのを偶然聞いてしまったのだが、それを聞いて考えこんでしまった――私がスーザン・ウィンスタンリーであり若い淑女《レイディ》であり、美貌と資産に恵まれている女であればこそ、今こうやって私に求婚しているこの立派な紳士の方の口からどんな素晴らしい言葉だって自由に聞くことができる――けれども、もし私が貧乏なあのメアリなにがし(つまりその服飾品を作っている女の名だが)であったなら――そしてほとんど夜を徹して首巻きを作ったとしても、もし約束の時間にそれをもってくるのに遅れたとしたら――その時はどんな風な口のきき方をされたであろうか。そう考えてくると私の女としての誇りが頭をもち上げてきた。私に対する敬意を表わすためだけだとしても、もっと丁寧な扱い方を私のような女性なら受けたことだろうと思った。そして、これ以上甘いお世辞を聞いて女性の面目を潰すのはよそうと決心した。私がそういうお世辞を受ける資格があるというのももとはといえば私が女性の一員であるからである――とまあこういう風に彼女はいったというのである。
この女性がその愛する男に呈した苦言の中には雅量と正しい考え方がともに示されているように思われる。私の友人が終生女性という女性に対してなんら差別することなく尋常一様でない礼讃の誠をこめた行動に出たということは、若くして逝《い》ったこの愛人の時宜をえた忠告によるところが多いのではなかろうかと、私はしばしば想像したことであった。
こういう事がらに対して全女性がミス・ウィンスタンリーが示したのと同じ考えをもってほしいものだと私は願っている。そういう日がくれば、女性に対する男性の慇懃さも多少は首尾一貫したものになろうというものである。そして、同じ男が妻に対しては模範的な丁寧さを示していながら姉や妹に対しては冷酷な軽侮や無作法の限りをつくすといったような――愛する女性には三拝九拝するが、同じ女性である叔母や不幸な(これまた女性であることに変りはないのだが)未婚の従妹《いとこ》に対してはさんざん悪口をいったり馬鹿にするといったような――そういう妙な現象はみられなくなろうというものである。女が同性の者を――たとえ相手がどんな身分の者であろうと、つまり女中であろうと自宅にころがり込んでいる者であろうと――とにかく相手の女性を少しでも軽んずるようなことがあれば、それだけ彼女自身の値打も減ることになる。そしておそらく女性に必ずしもつきものとはいえない若さと美とさまざまな長所がその魅力を多少とも失うときには、その値打の低下はいよいよはっきりと感じられよう。自分に求婚中の、あるいはそれ以後の男に対して女性が要求すべきことは第一に、彼女を女性として尊敬してくれということ、第二に、他のすべての女性にもまして自分を尊敬してくれということでなければならない。とにかく彼女はしっかりと石のように自分が何よりもまず女性であることを認めさせなければなるまい。その上で、個人的な好みによってそれぞれ違うが、男に求めるいろんな慇懃な言葉も――それがどれほど多くどれほど絢爛《けんらん》たるものであろうともご随意だが――要するに以上の第一義的なものに対する美しい飾りであり、そえ物であると考えてしかるべきであろう。彼女が学ぶ根本要諦は、あのスーザン・ウィンスタンリーの場合と同じく――「女性であることに敬意を払う」ということでなければなるまい。
〔『ロンドン・マガジン』一八二二年十一月号所載〕
[#改ページ]
夢の中の子供たち――ある幻想
子供というものは大人たちが子供だった頃の話を聞きたがるものである。ついに一度も逢わずじまいに終った、話に聞くだけの大伯父だの祖母だののことをしきりに空想をしてあれこれ考えたがるものである。この間の晩、私の小さな子供たちが私のまわりに寄ってきて曽祖母フィールド〔ラムの祖母メアリ・フィールドのこと〕の話を聞きたがったのも、そういった気持からだったろう。
この曽祖母はノーフォークの大きな屋敷に――現在子供たちやそのパパが住んでいる家より百倍も大きな屋敷に住んでいたが、この場所こそ「森の中の子供たち」というあの民謡《バラッド》で子供たちも最近|馴染《なじ》み深くなった例の悲劇的な事件が行なわれた――少なくともその地方ではそう信じられているのだが――当の場面なのである。事実また、その事件に登場する子供たちとその残忍な伯父の話は一部始終赤い駒鳥のくだり〔子供たちの死体に駒鳥が木の葉をかけてやったと、このバラッドに歌われている〕にいたるまで大広間の暖炉の上にある板にきれいに刻まれているのが見られたものであった。ところがある馬鹿な金持がそれをとり毀《こわ》してしまって、代りに何の話も描かれていない近代的な意匠の大理石の板をはめこんでしまったものである。
――とここまで話をすると、アリスは、まあひどいわといったような、しかし心やさしげな、母親そっくりの表情をした。私はさらに話をつづけた。お前たちの曽祖母は実はこの大きな屋敷の主《あるじ》ではなく、ただそこの所有主から管理をまかされていたにすぎなかったのだが(とはいえある面からいえば彼女はこの屋敷の女主人も同然だったのだ)、にもかかわらずどれほど彼女はみんなに愛され、尊敬されていたかということを語った。屋敷の所有主は近在のどこかで手に入れたもっと新式で現代風な邸宅に住むほうを好んだが、彼女は依然として古い屋敷にわが家みたいな顔をして住み、生きている間は大きな屋敷にふさわしい威厳をとにもかくにも保つことができた。しかしその後は屋敷も朽ち果てる一方で遂にはほとんど毀《こわ》され、以前からあった古い装飾品はことごとく取りはずされて所有主のもう一つの邸宅に運ばれていった。そしてそこで飾りつけられたわけだが、まことにそれが無様《ぶざま》で、たとえていえば、最近までウェストミンスター会堂にあった古色蒼然たる墓石を取りはずしてC夫人のごてごてした金ぴかの客間にもっていって飾りたてるみたいなものであった。
と、急に、ジョンは「なんて馬鹿なまねをするんだろうね」といわんばかりの微笑を浮かべた。それから私は、彼女が亡くなった時、周辺数マイルにわたる近隣の人々が貧乏な人はほとんど全部、紳士階級の者も若干まじえて彼女の冥福を祈るためにその葬儀に参列したことを話した。彼女はそれほど善良で信仰深い女性だったのだ。たとえば礼拝式文に出てくる詩篇は全部、その他の聖書の文句も大部分暗記しているほどだった。小さなアリスはこのことを聞いて両手をひろげていかにも驚いた様子を示した。
私の話はそれからこの曽祖母がかつては背の高い、いつも体をぴんとのばしていた優美な姿の人だったことを、そして若い頃にはとてもダンスの上手な人だったこと、に及んだ。するとアリスは小さな右足を動かして思わず知らず調子をとり始めたが、私の真面目な顔つきを見て急にぴたりとやめた。実は曽祖母がその地方きっての、つまりその郡きってのダンスの名人といおうとしていたわけだった。しかしやがて癌《がん》というひどい病気にかかって苦痛の余り腰もまがったが、意気だけはなかなか衰えをみせず、なおぴんとしていた。というのも彼女がほんとに善良で信仰深い人だったからである。それから私はまた彼女があの大きな寂しい屋敷の中のある寂しい部屋でたった独りで寝るのが常であったこと、その寝室の近くの大きな階段をすべり降りたり昇ったりする二人の子供の幽霊が真夜中に現われると彼女が信じていたこと、しかし「ああいう無邪気な幽霊はわたしには悪いことなんかしないよ」といっていたこと、またその頃私は|ねえや《ヽヽヽ》に付添って寝かせてもらっていたにもかかわらず怖くてたまらなかったのだが、それというのも私が曽祖母の半分ほども善良な、信仰深い人間でなかったからであるということ、それでもやはり私は子供の幽霊には遂にお目にかからなかったこと、などを話した。
するとここでジョンは眉毛を大げさにつりあげて、そんなもの怖いもんかといった顔をした。それからまた、私はどんなに彼女がわれわれ孫たち全部に親切だったか、そして休暇などにはその大きな屋敷にわれわれを招いてくれたかということなどを話した。招ばれてゆくと私だけはいつも独りで永い時間を、代々のローマ皇帝であった十二名の人々の古い胸像に見とれてすごしたものであった。しまいにはその古い大理石の像がまるで生きかえるみたいに見えたり、時には私が相手と同じく大理石の像に姿が変るかと思われるほどであった。そんなことや、窓掛けはすりきれ、壁掛けはよれよれで、樫の鏡板は彫刻はしてあるが金箔はもうはげてしまっている、――そういった大きながらんとした部屋がいくつもあるこの宏大な屋敷をうろついて倦《う》むことを知らずといった風であったこと、――時には、ごくまれにたった一人で働いている庭師に行き合うこともあったが、ほとんどいつも私がわがもの顔をして独り占めしていた広い、古風な庭園を倦みもせずうろついたこと、また塀の上には油桃《ネクタリン》や桃が実っていたが私はもぎとろうともしなかった。というのはごく限られた時以外はそれらは禁断の木の実であったからであること、実は、私は古色蒼然とした沈痛な|いちい《ヽヽヽ》の木や樅《もみ》の木の間を歩きまわったり、赤い漿果《ベリー》の類《たぐい》や樅の実のような見かけはいいが何の役にもたたないものを摘んだり、一面に漂う甘い庭の香りをかぎながら緑の芝生に寝そべったり、心持よい暖かさを体いっぱいにうけて自分までがそこにあるオレンジやライムの果実と一緒に熟してゆくのではないかと思われるほどぬくぬくと温室の中で日光を浴びたり、庭園の一番隅の方にある養魚池の中で右往左往している「あかはら」やそういうちょこまかした小ものを馬鹿にしたような顔をしながら黙々と水の中ほどにじっと浮いている仏頂面をした大きな「かます」などを見たり――つまり、桃だとか油桃《ネクタリン》とかオレンジだとかその他子供が好きそうないろんな美味《おい》しいものよりも、今まであげたような切ないほど悠々自適の楽しみに私がふけっていた、ということを話した。
するとここでジョンは、それと気づいたアリスと二人でわけて喰べるつもりだったらしい一房の葡萄をそうっと皿の上にもどした。二人とも今は葡萄を喰べるのはまずいとでも思った様子であった。それから私は多少興奮した調子で、彼らの曽祖母がその孫たち全部を愛してはいたが、彼らにとって伯父に当るジョン・Lだけはある意味で特別に可愛がっていたことを話した。何しろこの伯父は凄く顔の端正な元気のよい青年で、われわれ他の孫たちに君臨していたからである。それにわれわれのように妙に寂しい場所へすっこんでじめじめとふさぎこむようなことはなく、ジョンやアリスと変らないくらいの小僧っ子の頃からそのあたりきっての荒馬に乗って朝のうちに郡の半分も馳け通したり、誰かが狩猟でもしておればすぐそれに加わるという風だった。彼もあの大きな屋敷や庭園は好きだったのだが、何しろ元気いっぱいなものだからそんな所にじっと閉じこめられているのが我慢できなかったのだ。大人になるとその美貌に劣らないほど勇敢のほまれも高く、誰かれとなくすべての人に敬愛されたが、特に曽祖母には愛されたものだった。――私が足を悪くして痛くて歩けない時など、私よりやや年上の彼は、びっこの私をおんぶして何|哩《マイル》も歩いてくれたこともしばしばだった。――のちになって彼自身も足を悪くしたが、そのため気をくさらせ苦痛に悩んでいる時でも申し訳ない話だが私はどうかすると少しも斟酌《しんしゃく》せず、自分がびっこを引いていた際あれほど親切にしてくれたこともつい忘れてしまい、そのことを余り有難いとも思わなかったものであった。
――彼が死んだ時、僅か一時間前に息を引きとったのにもかかわらず何だかずっと昔に亡くなったような感じがしたものだった。それほど生と死の間には大きな距離があるものなのだ。――初めは彼の死をわれながら偉いと思うほどじっと我慢していたが、のちになっては矢も楯もたまらないほど彼の死が心に付きまとった。よく世間で見られるように、あるいはもし私が死んでいたら彼がそうしたかもしれないと思われるように、私は泣いたり悲しんだりはしなかった。けれども彼がいないのが一日中ただもう寂しく、いなくなって初めてどれほど彼を愛していたかが分るのだった。私には彼の親切が恋しくてならなかった。彼の意地悪もなつかしかった。もう二度と逢えないというのが何ともいえず寂しく、喧嘩するためにでも(時にはわれわれは喧嘩もした)生き返って欲しかった。医者に脚を切りとられた時に子供たちの伯父さんである彼も感じたに違いないが、今彼をもぎとられてみると、私はただ不安で不安でたまらなかった。
――ここまで私が話をすると、子供たちは泣きだした。そして自分たちがつけている小さな喪章は亡くなったジョン伯父さんのためのものなのかどうかと訊ね、もう伯父さんの話はつづけないでほしいと頼み、その代りに亡くなった美しいお母さんの話をぜひきかせてくれとせがんだ。私は、いかに七年間というもの、時には希望にみち時には絶望にうちひしがれ、しかし常に一生懸命に美しいアリス・W―nに求愛したか、その一部始終を子供たちに話してやった。もちろん子供たちに理解がゆく程度に乙女のはじらいや気難しさや拒絶がどういう意味をもつものであるかを説明してやった。そして、ふとアリスの方を見ると、彼女の眼からは母親アリスの魂が在りし日の姿そのままにこちらをのぞいていた。私は今自分の前にいるのが、二人のアリスのどちらなのか、今眼の前にある輝く髪の毛はどちらのアリスのものなのか、分らなくなった。まじまじと見つめていると子供たちの姿が次第にぼやけ、次第に遠のいていった。そして、しまいにはずっと遠方にただ二つの物悲しげな顔だけが残った。その顔は口に出してこそいわないが、不思議にも次のように私に話しかけているようであった。「ぼくたちはアリスの子供でもあなたの子供でもないのです。第一、子供ではないのです。アリスの子供たちはバートラムさんをお父さんと呼んでいます。ぼくたちは無にひとしいものなのです、無以下のものなのです、夢なのです。ぼくたちはかつて夢想された願いにすぎません。ぼくたちが生命をえ、名前をうるまでには、永劫の年月をレーテ〔黄泉の国にある「忘却」の川〕の河畔で退屈をしのんで待たなければなりません」。
――ここで私は急に眼が覚めたのだった。肘掛け椅子に静かに独身の身をなげかけ、いつのまにか眠りこけてしまっていたのに今さらのように気がついた。そばにはいつに変らぬ姉ブリジェットがいた――しかし、わが兄ジョン・L(つまりジェイムズ・エリア)は永久にこの世からは亡くなっていたのであった。
〔『ロンドン・マガジン』一八二二年一月号所載〕
[#改ページ]
遠方の友へ
ニュー・サウス・ウェールズのシドニー在住のB・F君への手紙
F君。――はしなくも住みついている異郷の地にある君にとって生まれ故郷からの便りに接することがどれほど喜ばしいことかを考えると、私はつい長い間ご無沙汰してしまったことが申し訳なく思えてならない。しかし、考えてみればこんなに離れていると手紙のやりとりをするのもなかなか容易なことではない。われわれの間に横たわるはてしなき大海原のことを思うと想像力もぼやけてこようというものである。一筆啓上つかまつる私の手紙がその大海原を横ぎって果してどんな風に君の手もとに辿りつくものやらとんと想像もできかねる始末である。こちらの思いのたけがはるばると君のところまで生きのびて届いてくれると期待するのは期待する方が無理というものではなかろうか。つまり後世に遺書を残すようなものなのではないかと思うのだ。ロウ夫人〔詩人、一六七四〜一七三七年〕が自分のある詩につけた「アルキャンダーより黄泉の国なるストレフォン」という表題はなかなか気がきいている。カウリー〔詩人、一六一八〜六七〕のいう天翔ける天使こそこういう文通にはまことに重宝なものであろう。
われわれがロンバード街で手紙を出すとすると、カンバーランドにいる友人なら二十四時間後にはまるで氷詰め同様ぴちぴちと生きのいいその手紙を受けとることができる。長いラッパに口をあてて囁いているようなものである。しかし、月から管が垂れ下っており、こちら側には君自身がいて向うの月のほうには例の男〔月世界に住んでいる男〕がいるとしてみよう。もしそんな場合に月世界のその問題の接神家《セオソフィスト》と話をかわすのに太陽の周転を二、三回経なければならないと分ると、せっかく話をしようという意欲もかなりそがれるにきまっている。とはいえ、私の知っている限りでは、イギリスにいるわれわれよりも豪州にいる君のほうがあの根源的イデアに――つまりプラトンのいう根源的人間〔月世界の人間をさしている〕に距離がどうもずっと近いようである。
手紙に書く内容というものは普通三つのトピック、即ちニュース、感想、洒落《しゃれ》を含んでいるものである。洒落というトピックの中には私は厳粛ならざるもの一切を含めたいと考える。いや、それ自体としては厳粛なものだが私自身の流儀に従って非厳粛に扱われうるもの一切の意である。
――ところでまず最初のニュースの問題。このニュースで最も望ましいことは、それが真実であることだと思われる。しかし、私が今真実だとして君にしらせるものが君の手に入る頃までには妙な具合で嘘に変じてしまわないという保証が果してあるだろうか。たとえば君も私もよく知っている友人のP君だが、私がこの手紙を書いている現在――つまり「私の現在」――彼は健在で世間的な名声も相当に博している。君もそう聞けば喜んでくれよう。自然な話だし、友人としては当然なことだ。しかし、この手紙を読む時――つまり「君の現在」――P君は刑務所につながれているかもしれないし、絞首刑になる直前かもしれないのである。そうなれば、当然君の(彼が健在である云々といった報知を聞いて感じる)喜びも相当減じざるをえないだろうし、少なくともかなりな程度に影響を受けざるをえなかろう。
私は今晩これから芝居見物に行きマンデン〔当時の有名な俳優〕と一緒に笑うつもりである。いつだか君に聞いたと思うが、諸事万端殺風景な君の国では確か劇場がないはずだ。とすると君は自然唇をなめなめ、旨くやってるなとばかり私の幸運を羨むにちがいない。だが、とにかく一瞬でいいから考えてみてくれ給え。羨望などというけしからん気持もなくなろうというものである。だって、|今は《ヽヽ》君のほうでは日曜の朝で、しかも一八二三年なのだ。このような時《テンス》の混乱、このような「二つの現在」という恐るべき文法違反はある程度はすべての通信には共通なことかもしれない。しかし、もし私がバース〔有名な温泉地〕かディヴァイジズ〔ウィルトシャーの小さな町〕にいる君に一言便りを出して、今いったような楽しみを今晩味わうつもりだなどというとすれば、君がその報道を受ける時には私の豪遊もとっくに過ぎてはいるだろうが、それでもなお一、二カ月後まで私の心の味覚に後味は残っているはずである。してみれば君は例の羨望という芳《かんば》しくない激情の少なくとも少量をいだくのは理の当然ということになろう。もっとも、君に羨望の情を起こさせるのが私の計画の一部ではあるにはあったのだが。
ところが、今から十カ月さきということになれば、君の羨望にしろ君の共感にしろまるで死者を悼《いた》んで悲嘆にかきくれるのと同じように何の役にもたつまい。永い時間がたつうちに真実がいわば蒸発してしまうばかりでなく、(もっと困ることは)下手するといいかげんな出鱈目が先方へゆく途中で真実にならないとも限らないのである。途方もないことをいって君をからかったのは三年も前のことだったと思うが、例のウィル・ウェザオールが女中と結婚したという話、あれを君覚えているだろうか。私はどんな風にして彼女に接したものか――ウィルの妻君となる以上、にべもなくはねつけるわけにはゆかない、というわけでいとも厳粛に君に相談したのを覚えている。君はまたその件について私に劣らずまじめな返事をよこしたものだった。この奥さんの前ではできるだけ文学上の話題は出さない方がいいのじゃないか、かといって彼女の知能の範囲内にある事柄を余りあてつけがましく話題にのぼせるのもどうかと思う、といった涙ぐましい忠告が書いてあった。肉を焼く道具だとか焼串とか雑巾《ぞうきん》とかいうものはどの程度に話題としたら構わないものかについての、君の思慮深い判断というか、言外に意を漂わせた表現というか、とにかく君の言葉を思い出す。話をする際にこういう話題を全部わざと省いてしまうとかえってよくない、むしろ何げなしに話の中に入れた方がよくはなかろうかということ――れっきとしたウィリアム・ウェザオール夫人となった彼女と同席している時、例の女中ベッキーには果してどういう態度をこちらはとったらよいだろうか――つまりベッキーを夫人の前でいつものようにきびしく扱った方が夫人に対するわれわれの心づかいや本当の尊敬の念を表わすことになるのか、それとも、本来なら立派な身分の女性なのだが運命の気まぐれに災いされて賎しい身分に身をおとした人間としてベッキーに対してちょっと異例なうやうやしい態度をとった方がかえっていいのではなかろうかということ――まあそういったことを君は書いてよこしたものだった。
私はよく覚えているが、そのどちら側にも難点があった。君はそれを友人としての愛情に加うるに法律家としての正確さをもって懇切に私に説明してくれた。私は君のそのいとも真面目な陳述を聞きながら独りほくそ笑んでいたわけなのだ――ところがあにはからんや、ニュー・サウス・ウェールズ在住の君に向ってかけたこの|ぺてん《ヽヽヽ》に私が得意になっている折も折、イギリスにいる悪魔の奴が自分の生んだこともない嘘つき〔嘘つきは悪魔の子といわれていた〕に嫉妬を感じたらしく、あるいは私の嘘のうまさについ真似をしたくなったものらしく、なんとわれわれの友をたきつけて(手紙を書いて六日とたたないうちに)結婚という大それたことをさせてしまったのである。私がただ君を面白がらせようと思って要するにでっち上げていたその結婚をついに犯さしめてしまったというわけだ。ウィリアム・ウェザオールはコットレル夫人方の女中と結婚の式をあげたのである。
ところで、親愛なるF君、この事件の真実の意味を考えてみるに、どうも私から送られてきたニュースが君にとっては一つの歴史となってしまっていた、といえそうである。歴史なんか私は書くつもりはないし、第一そう読みたいとも思わない。神通力のある者ならとにかく、普通の人間でこれだけの距離の間では自分の書く手紙が予言じみるなんて思う者はまずあるまい。二人の予言者の間でなら情報の交換も実に効果的にゆくはずである。予言の書き手(ハバクク〔ユダヤの予言者〕)の考える時代がそれを受けとる人間(ダニエル〔ユダヤの予言者〕)の本当の当代とぴたりと合致するというわけである。それはともかく、われわれは予言者というようなものではないのだ。
次に感想について。これにしたところで前者とほぼ同じようなものである。特にこの種のいわば耳ご馳走ともいえるものはできたてのほやほやのもので召上ってもらうか、保温皿に入れて届ける必要がある。つまりこちらと同様に先方にも温いうちに賞味される必要があるというわけである。もし時間がたって冷めてしまうとすべての冷肉の中でも一番まずいものとなってしまう。それにつけても私がしばしば微笑を禁じえなかったのは故C卿〔キャメルフォード卿という実在の人物〕の気まぐれである。なんでもジュネーヴ近くのどこかを旅行中、ふと出逢ったのが美しい緑の一隅だったらしく、そこには小川だか、岩だか――そんなことはどうでもいいが――とにかくそんなものの上に柳かなにかがひどく魅惑的にかつ風情ありげに垂れさがっていたそうである。骨の折れた旅路のあとではあるし、このC卿の烈しい活動的な生涯の中の忙中の閑ともいえる一瞬の気持としてはさもありなんと思われるのであるが、この一隅の静寂さ、落ちつきがすっかり彼の心をとらえてしまった。彼は自分の最期がきた時、ここ以外に骨を埋める適当な場所はないとまで思いつめたのであった。一つの感情としてはいかにも自然で同情できることがらであったし、彼の人柄をしのばしめるほほえましい話であった。しかし、単なる一時の感情から具体的な行為の段階となると、つまり、遺言通りにことを運ぶことになってはるばる遺骸をイギリスから本当に運ぶとすると、度しがたい感傷家ならともかく、そうでない人間でこう自問しない人間が果してあるであろうか。つまり、「サリーにだって、ドーセットにだってデヴォンにだって、この場所と同じように彼の目的にふさわしい小川のほとりの同じような寂しい場所、同じように浪漫的な一隅、同じように緑の枝を垂れている木を、いくらでもこの貴族は見つけえたはずではなかったろうか」と。
この「感情」が荷造りされ重さをはかられ税関で調べられ(余りの珍奇さにさぞ税関吏もびっくりするだろうが)船に積み出される姿を想像してもらいたい。この荷物を防水帽をかぶった荒くれ男どもがひどい冗談をとばしながら手ひどく扱うのを考えてもらいたい。この荷物だって繊細な織り物といえばいえるのだ――それが船底の汚水にびしょ濡れになって、水濡れになった絹織物と同じようにすっかり台なしになる姿はどうだろう。船乗りは死体には妙な迷信をもっているものだが、烈しい嵐に船が翻弄《ほんろう》されその難を免れるために死体を鱶《ふか》にやってしまおうという恐るべき事態が生ずることも考えられる(聖ゴタードの霊よ、そもそもこのようなことを考え出した人の目的とは逆な、かくのごとき終焉よりわれわれを願わくは守り給え!)。が、運よく例の遺骸も魚の餌食にならなくてすむかもしれない。それならそれで、幸いどこかに――たとえばリヨンにでも――何しろ私は地図をもっていないのであしからず――無事、四人の男の肩にかつがれて上陸ということになろう。それから、この町では食事、あの村では一休みしてお茶を飲む、ここではパスポートを貰うために待ち、あそこでは許可証を貰うためにぶらぶらする。この地方では当局の認可、あの県では教会の同意、のためにぐずつく。そういったわけで遂に目的地についた頃はすっかりくたびれきっており、初めの生きのいい感情が愚にもつかぬ虚栄の姿と変りはて、安っぽくて無意味な衒気《げんき》へとおちぶれている始末となろう。親愛なるF君、船乗りのいういわゆる耐航性なるものは全くわれわれの感情の中には少ないものなのだ。
最後に、快適な軽口についてだが、これは無暗矢鱈に多いと軽蔑に値するが、そうでない場合には本当に友情のこもった手紙にいちだんと光彩をあたえる輝ける徴粒子である。われわれの地口《パン》とかちょっとした冗談はどうもその行動範囲が限定されているように思う。小包みにして海外に送るというわけには参らぬのである。この部屋から次の部屋へと手でもってゆくこともまずできそうにないのである。生まれた瞬間にのみそれは生気|溌剌《はつらつ》としている。あっという間にすぎないその生命を育成するのは傍にいる人々の知的雰囲気である。たとえていえばこの知的雰囲気はナイル河の柔かい泥土――いわゆる|良き粘土《メリオル・ルーテュス》みたいなもので、その懐妊性は|父なる太陽《ソル・パテル》と同様、微妙かつ深遠な意味の生成には必要欠くべからざるものなのである。
洒落は接吻の音と同じようなぴちぴちした響きをともなう。それをその生まれたての味のままによその人に伝えようといっても、接吻の味を送るのと同じようにとうてい不可能な話なのである。前日の洒落を他の人になんとかうまく伝えようとして結局うまくいった例が君の経験においてあったであろうか。それというのもその人が君の洒落を耳新しく聞かなかったからではなく、それよりもむしろ君自身からどうも新鮮なものとして出てきたような気がしなかったからなのであろう。要するにぴしっときまらなかったからなのだ。村の居酒屋で二日前の古新聞を拾い上げたようなものといえよう。もちろんその古新聞はまだ見ていなかったものかもしれないが、今さらそんな古くさいものが読めるかというわけである。
特にこういう商品は即金で取引きしてもらわなければならない。洒落をいう、と、間髪をいれず、なるほどと笑ってもらわなければならない。一方が目も眩《くら》む閃光ならば他方は轟然たる雷鳴でなければならない。一瞬でもそこに間があれば、脈絡は断たれるのである。あるいは、洒落は鏡のように相手の顔に映るといってもよい。いくら磨きたての鏡といっても、もし映るのに二、三分もかかるしろものであれば(十二カ月もかかるにいたっては何をかいわんやである、親愛なるF君よ!)、誰が自分の気にいった顔をうつしてみようと思うであろうか。
いったい君が今ごろどのあたりにいるのか想像もできない。しいてその場所を考えようとすると、ピーター・ウィルキンズの島〔ポールトックの小説の主人公が漂着した島〕が眼の前に浮かんでくる。時には君が泥棒地獄の中に呻吟しているように私には思えてくる。ディオゲネス〔紀元前四世紀の哲人〕が永久になんの役にもたたないのに空しく提灯《ちょうちん》をぶらさげて君たちの間をうろうろしている姿が見えるようだ〔ディオゲネスは白昼に提灯をさげて正直な人間を探しまわったといわれる〕。一人でも正直な人間がみつかるものなら、ぼくはなんだって喜んで差上げようなどと君は今ごろ言っているのではなかろうか。君はもうわれわれのような正直者がどんな様子をしているかほとんど忘れたに違いない。君の方のシドニー在住の連中はどんなことをしているのか教えて欲しい。ひねもす|ドロボウ《ヽヽヽヽ》ばかりしているのと違うだろうか。全くひどいところもあったものだと思う。そんな強奪にあってはどんな財産だってひとたまりもあるまいと思うがどうだろう! 例のカンガルー――君の方の原産だそうだが――はヨーロッパの悪風に染まずに原始的な素朴さを相も変らず保っているのだろうか。あの小さな前足をもっている姿なんか、天の配剤による掏摸《すり》の実物見本といってよさそうに想うのだが、相手のポケットに手をいれるのにはもってこいといった風に先天的《ア・プリオリ》に体がびっこに生まれついている。しかし、ひとたび泥棒だ! という叫びでもあがろうものなら、直ちに見事な二本の後足をのばした植民地随一の韋駄天《いだてん》ぶりを発揮して逃げてゆくというわけだろう。何しろ離れているのでわれわれが聞くのは途方もない話ばかりなのだ。
そちらの若者は、昔のスパルタ人〔スパルタ人はものを盗む術の訓練をうけたという〕みたいに生まれながら手の指が六本なので、詩の詩脚を数えるのに困るという噂だが果して本当であろうか。そんな指では見た眼にはすこぶる奇妙かもしれないが、用いなれると重宝かもしれない。詩脚の数え方などはそう大して心配することもなかろう。もし詩人にでもなろうという気持をおこした人間があっても、その大部分が恐るべき剽窃《ひょうせつ》詩人となると思ってまず間違いはない。ドロボウの息子と孫とは見ただけで区別できるだろうか。その汚名は何代目あたりで消えてゆくものだろうか。三代目か四代目になると綺麗に漂白されるというわけであろうか。私には君に聞きたいことが沢山あるのだが、何しろ時間がかかる。私の疑念をといてもらう時間よりももっと短い時間のうちにデルフォイ〔アポロの託宣がえられる神殿〕詣《もう》でが十回もできようというものだ。君の地方では絞首用の麻を栽培しているのであろうか。主要産業は何なのであろうか――つまり君の方の窃盗という国民的職業を除いてはの話だが。錠前屋こそ最大の資本家に数えられているのだろうと思うがどうであろうか。
どうも私はその昔テンプル〔法学院のあるロンドンの一区域〕のポンプで有名なヘア・コートにいたころ、互いに隣接した窓ごしに毎朝お早ようといい合ったのと同じくらいなれなれしく君におしゃべりをしているようで気がひける。どうして君はあの静かな場所を去って行ってしまったのだろうか。いや、なぜ私もまた……。あそこには全部で四本の楡《にれ》の貧弱な木があって、田舎から出てきた連中が馬鹿にしていたその煤煙でまっ黒になった幹から、私が初めて「てんとうむし」を見つけたことを思い出す。君と私の間に横たわる空間のことを考えると、私の心は乾ききった八月の日のあの泉のようにかさかさにひからびてくる。イギリスから出す手紙が君の手もとに着く頃には、その手紙の文句が旧式になるくらい長い長い距離なのだ。しかしこうやって話している間、私には君が耳を傾けて聞いていてくれるように思う――臆測は臆測を生むというわけかもしれないが――
[#ここから1字下げ]
果しなき海原と波うつ岸べの、
君をわれよりへだつることの遠さよ。
〔ミルトン『リシダス』より〕
[#ここで字下げ終わり]
私が年とって君が見損うほどすっかり老人になってしまわないうちにどうか帰国してもらいたい。姉ブリジェットが松葉杖をついて歩くようになる前に帰ってきてほしい。君が国を出る時うら若い乙女だった連中も、君がぐずぐずしている間に分別盛りの年増女になってしまった。花のように艶やかだったミス・W―r(君もご存知のあのサリー・W―rだ)が昨日もわが家を訪問してくれたが、もう立派な皺くちゃ婆さんなのだ。君の知っていた人たちは年ごとに死んでゆく。昔は私は「死」という奴はへなへなに衰え果ててゆく奴だとばかり思っていた――それほど自分の周囲の者ははちきれるように健康な人々ばかりだったのだ。ところが二年前の春にG・Wの死が私の迷妄を見事にうちくだいてしまった。あれ以来、親しい者を奪いさってゆくあの「死」の奴は馬鹿に多忙をきわめている。君も大急ぎで帰ってこないと、君を迎える者もいよいよ少なくなってゆくはずだ。私だって、私の親しい者だって君を迎えられないかもしれない……。
〔『ロンドン・マガジン』一八二二年三月号所載〕
[#改ページ]
夫婦者の態度について――ある独身者の不平
私は何しろ独身者なので、いわゆる夫婦者のあら探しをしてはそれをちゃんと書きとめるのに随分自分の時間をついやしてきたものだが、それというのもかく独身であるが故に私にはとうてい手が届かないといわれるいろんな夫婦者の楽しみのかわりに、それでわが身を慰めようという魂胆からである。
私は何も夫婦喧嘩によって強烈な衝撃をうけた人間だというわけではない。また随分に熟慮の末きめた、断然一生結婚しないという反社会的な決意も、何も夫婦喧嘩によっていっそう強化されたというわけでもない。私が夫婦者の家を訪問して一番多く癪にさわるのは今いったような心得違いとは全く別なものなのである。つまり、彼らが余りに愛し合っているということなのだ。
いや、余りに愛し合っているともいえないのかもしれない。それでは私の意のあるところを充分つくしてはいない。のみならず、愛し合っているからといって私の感情が害されるいわれはないはずである。お互いに二人だけの世界を充分に味わうために他の世間から二人が身を引いたということは、要するに二人が一切の世間の者よりも互いに相手だけを愛しているということを示しているに他ならないからである。
だが私が不平をいいたいのは、彼らがその愛着を臆面もなくみせびらかし、厚かましくもわれわれ独身者の前でそれをひけらかすので、彼らと席を同じくするや否や忽ちにして何とはなしにというか時にははっきりとさとらされて、なるほど自分は全然問題になってない、と感ぜざるをえなくなる点にある。世の中にはただ暗示されるとか暗黙の了解のうちだと別に怒ることもない事がらがある。けれどもそのものずばりといわれてみると俄然敵意を生ぜしめるものもある。
もしある男が知り合いの若い女で器量のよくない人かあるいは貧相な服装をした人に逢うなり、いきなり、どうも君は美人でもないし、金持でもないし、ぼくは君とは結婚はできないね、などとぶっきらぼうにいったとしたら、その男はそんな無作法をしでかした以上、蹴とばされてしかるべきであろう。けれども今までにもいくらでも彼女に近づいてそういうことをいう機会はあったのに、ついぞそうすることは妥当だとは考えなかったという事実には、要するに考え方によっては同じ意味が含まれている。たとえ言葉に出してはっきりいわれなくてもいわれたのと同じくらいその若い女にはそのことがいとも明瞭に了解されているのである。もちろんものの分った若い女ならそのことを根にもって喧嘩するなんてことは思いもよらぬことであろう。ちょうどそれと同じく、言葉に現わしたり、また言葉に現わすのに劣らないくらいはっきりした表情で、私が幸運を逃した男だ――つまり女性に結婚してもらえなかった男だ、と表明する権利はいかなる夫婦者にだってあるはずはないと思うのである。私がそういう男でないことを自分で知っていればそれで充分ではないのか。他人に絶えずそういわれてはたまったものではない。
すぐれた知識やどえらい富をみせびらかすのは、はたで見ていて相当癪にさわるものである。しかし、それには我慢できる点もなくはない。私を侮辱しようとしてひけらかされる知識にしてからが、もしかしたら私を啓発しないとも限らないからである。金持の邸宅やそこの絵画や――あるいはその猟園や、庭園なども私は少なくとも一時的にはその楽しみを享受することができる。しかし結婚生活の幸福を大っぴらに見せびらかすにいたっては情状酌量の余地はない。それは全く徹底的な、度すべからざる、情け容赦なき侮辱といわなければならない。
結婚というものはいかにも立派なものであるかもしれないが、要するに一種の専売権みたいなものであり、これくらい不愉快なものもめったにない。独占的な特権をもっている者ができるだけその特権を他人の眼からみえないようにしておくというのがその知恵というものである。余り恵まれない隣人がその幸運をかいま見て、その特権に異議を申し立てないようにしておくというのが最上の策なのだ。ところが結婚という専売権を享有している連中ときたら、その特許《パテント》の中でももっとも言語道断な一面をわれわれの眼の前につきつけて|てん《ヽヽ》として恥じないのである。
何が不愉快だといっても、新婚そうそうの若夫婦の顔に輝いているあの満ちたりた安定感ほど不愉快なものはない――それも特に新嫁の場合そうである。その顔は、もうこの世におけるわたしの見通しは安定してますの、あなたなんかもうわたしに望みをいだいても駄目ですわよ、といっているのである。もちろん私はそんな希望なんか一つももってはいない。第一そんな大それた願いなどもつはずがないではないか。けれども、前にもいったように、こんなことは暗黙のうちに伝えらるべきものでこそあれ、表現されるべきものではないのである。
こういう連中の示す余りにも思い上った様子は、独身であるこちら側の無智をいいことにしているのかもしれないが、それがへりくつでなければないほどますます癪にさわるのである。不幸にも彼らの同業者になれなかったわれわれよりも、彼らの誇る企業にぞくする秘義を彼らの方がずっとよく理解していることは認めざるをえない。けれども傲慢さがその限界内にとどまっていないところに問題があるのだ。もしある独身の男が夫婦の前で全く結婚とは関係のない問題について意見をはいても、ぴしゃりと何をくだらぬことをいう男かとやりこめられてしまうのが|おち《ヽヽ》である。いや、げんに私の知っているある若い新婚早々の女性は、新婚も新婚、まだ二週間にもなっていないくせに、ロンドン市場へ出荷する牡蠣《かき》の一番正しい養殖法はどうかということについて申し訳ない話だが私と意見がくい違った時に、自信たっぷり冷笑をまじえて私に喰ってかかっていわく、こんな問題であなたみたいな老独身者がそんな物知り顔するのおかしいわ、といったものである。
しかし私がこれまでいってきたことは、こういう連中がご多分にもれず子供をもつようになった時に示すあの態度に比べるならまだしもましである。子供というものは一向に珍しいものではなく――たとえば、どこの町通りでも袋小路でも子供はうじゃうじゃいるということ――どんな貧乏人でも子供は沢山もっているのが普通だということ――結婚生活には大抵こういう子供というおまけの一人や二人はつきものだということ――しかもそういう子供たちが往々にして病気になったり、悪の道に足をふみ入れたりして、とどのつまりは一文なしになって落ちぶれ、下手をすると絞首台にぶらさがって親の愚かな希望を台なしにするということ――こういうことを考えると私はどうして子供をもっていることをあんなに自慢にしなければならないのか、そのわけが皆目見当もつかないのである。もし子供たちが一年に一羽生まれる若き不死鳥《フィーニクス》だというのであれば、自慢する口実も生じよう。だが、ごくありふれた者ばかりだとしたら――。
こういう場合に細君たちが亭主に対して示すあの傲慢な手柄顔のことをとやかくいうのではない。彼女たちは勝手にそうするがいい。だが、なぜわれわれが――何も生まれつき彼女たちの臣下でもなんでもないわれわれが乳香だの没薬《もつやく》だの香料だのをもって――崇拝の念を示す贈物をもって彼女たちを拝みにゆくものと考えられなければならないのであろうか――私にはさっぱり分らない。
「年|壮《わか》きころおいの子はますらおの手にある矢のごとし」〔『詩篇』一二七篇〕という言葉が、女が出産の感謝を教会でささげる際の言葉としてわが祈祷書に出ている。また「矢のみちたる箙《えびら》をもつ人はさいわいなり」とも出ている。私もそういおう。けれども、だからといってその箙から矢を引きぬいて武器をもたないわれわれを射るのはご免こうむりたい。子供が矢だというならそれはそれでよろしい。けれどもわれわれを傷つけ刺し殺す道具にはしないでほしいのである。概していえるのだが、このような矢は二重の鏃《やじり》をもっている。つまり尖端が二叉《ふたまた》になってそのどっちかで相手をぐさっとやろうというわけである。たとえば、われわれが子供の大勢いる家にいった時、もし子供たちをついうっかり無視するようなことがあれば(おそらく何か他のことを考えていて、無邪気な彼らのあどけない言葉を聞き流しにするといった場合だが)、たちまちこちらは仕方のない気難し屋、子供嫌いということにきめつけられてしまう。ところでこれと反対に、もしもその子供たちがおやっと思うほど可愛かったり、あるいはその様子がいじらしくてつい心を惹かれて本気になって一緒になって遊んだりしようものなら――何かの口実をきっかけにして子供たちが部屋から追い出されるのは必定である。まあ、なんてうちの子は騒々しいんでしょうとか、誰それさんは子供はお好きじゃないのよ、とか何とかいう口実である。どっちみち、こういう二叉のどっちかでわれわれは傷つかざるをえないというわけである。
親たちの嫉妬心を許してやることも私にはできるし、親に苦痛をあたえるというのであればその餓鬼《がき》どもと遊ぶのだってやめることはできる。しかしそのいわれもないのに子供たちを愛することを要求されるのはどうも腑におちない。場合によっては十人近い子供たちを全部一緒くたに愛することを――子供というものは可愛いものであるが故に、うちのいい子たちを一人残らず愛してくれといわれることは納得できないのである。
「われを愛せばわが犬をも愛せよ」という諺があるのを私は知っている。しかしこれはそんなに実行可能なことではない。その犬がけしかけられてこちらにじゃれついたり冗談にしろ噛みついたりする場合には特にそうである。しかし犬にしても、あるいはもっとつまらないもの、つまり生物でないものにしても――たとえば、ちょっとした記念品とか時計とか指環とか木とかあるいは友人が長い旅路に上るに際して別れた場所とか、そういったものを私はどうにか愛せなくはない。私がその人間を愛し、その思い出のよすがとなるものを愛するからである。ただし、それが元来いわば無色のものであり、こちらの想像次第によっていかような色彩もおびやすいものだということがその場合条件となる。しかるに子供というものは現実としての性格をもっており、自分たちの本質的な存在性をもっている。彼らは|それ自体《ペル・セ》において可愛い存在か可愛くない存在かそのどちらかである。いずれにせよ彼らの性格の中にある要因をみれば、それに応じて私としては彼らを愛するか又は憎まざるをえない。子供というものは非常に厳粛なもので他の人間の単なる付属品とみなされるべきものではなく、そういう状況の如何に応じて愛されたり憎まれたりされるべきものではないのである。一人前の男や女と同じように子供は私にとっては自分の足で立っているものなのである。なるほど! もちろん、だって子供たちはまだいたいけな年頃じゃないかと諸君はいわれよう。そしてまた、幼年のあのあどけない年かっこうの中にはそれだけでわれわれを魅惑するものがあるじゃないか、とも。私が子供たちのことを他人以上にやかましくいうのも実はそれが理由なのだ。愛らしい子供ときたら、それを生んだ美しい女性も含めてこの世の中で一番愛らしいものであることを私は知っている。しかし、ある種のものが美しければ美しいほど、それがそのものとしての美しさを発揮するのが一層望ましいのである。雛菊はどの一本をとってみても他の雛菊とその麗しさにおいて変りはない。しかし、菫《すみれ》には菫としての抜群の姿と香りをもたしめたいのである。――私は昔から女性と子供を見る眼は相当きびしい人間なのだ。
けれどもこれなどまだましな方である。少しも自分たちに敬意を表わしてくれないといって夫婦者からよく不平をいわれるが、そういわれるまでには相当彼らと昵懇にしていなければならない。つまりしばしば訪問したりある種の交際がその前提とならざるをえないというわけである。ところが、もしそこの亭主が結婚前諸君と親しい友人関係にあった男だったとしたら――つまり諸君が細君の側の一人としてその家庭へ入りこんだのではなかったとしたら――細君のお伴をしてこそこそとその家へ入ってきたのでなく、それこそ二人の結婚の話などまだ夢想だにできなかったころ亭主と互いに固く結ばれ合った友人だったとしたら――その時は用心しないといけない――、諸君の立場は甚だ危険きわまりないものであるからである。一年とたたないうちに、諸君の旧友は次第に人が変ったように冷淡になり、ついには機会さえあれば絶交さえしかねまじき状態になるのである。私がかたくその信義を信頼している知り合いの妻帯者で、私との友情が「結婚した以後」に始まらない者はまずないといっていい。ある程度の限界内では細君たちも我慢できる。けれども、たとえそれが互いに知り合う前のことであっても、今でこそ夫であり妻であるがこの二人がまだ会ったこともない前のことであっても、自分が相談にのらなかった男と男との神聖な交わりの中にこともあろうに自分の夫が加盟していたなんてことは――こればかりは細君たちには我慢できないことなのである。永年の友情も、昔からの真実こめた交わりも、すべて一度は細君の手もとまで提出して通貨としての許可を新しく貰いなおす必要がある。それは一国の統治者が、自分の生まれる前の、あるいは問題にもならなかった前のある統治者の御代に発行された古き良き良貨を全部集めて、世の中に流通させる前に一度自分の権威の印刻を新しくそれにつけ加えるのに似ている。このような旧貨の改鋳造に際して私のような錆《さび》だらけの貨幣が大体どんな目に会うか大方の想像もつこうというものである。
細君たちが諸君を辱しめ、諸君に対する亭主の信用をじわじわと失わしめる方法は無数にある。あたかも諸君がなかなかいいことをいう風変りな男だが、それにしても全くの奇人だといわんばかりに、諸君のいうことを何もかも驚嘆したような顔をして笑うというのがその一つである。彼女たちは底意があればそれ相応にびっくりして何かを凝視するような眼つきをする術も心得たものである。そういう風にされると、従来諸君の判断力に敬意を表わし、多少の奇矯な考え方なり態度なりも(といって必ずしも卑俗きわまるわけはないのだが)話のゆきがかり上大目に見てくれていたはずの亭主たちまでが、この男は必ずしもユーモアを解する男だとばかりはいえないのではないか――独身時代にはことをともにしても構わない男だが、女性連中に紹介するにはどうもふさわしい男ではなさそうだ、という風に妙な疑いをもちはじめるにいたる。いうなればこれは凝視法といえるもので、私が一番多く被害をうけたのはこの方法であった。
つぎに誇張法というかあるいは皮肉法とでもいえそうなものがある。つまり、諸君が亭主から特別に重要視されていて、その評価の上に築かれた友情は一朝にして揺ぐようなものでないことが分ると、彼女たちは諸君のいうことなすことを誇張に誇張を重ねて褒めるという方法である。これでゆくと、細君が自分の友人を褒めるのも要するに自分に対する好意から出ていることはその当の亭主にもよく分るのであるが、そうそう余り率直に褒めるのを聞いているうちに好意の押し売りみたいな嫌な気分になり、やがては自分の気持も少しげんなりしてきて友情にも何となく熱がなくなり、ついには友人に対する評価もごくありふれた程度のものになってしまう――いわゆる「体裁のいい友情といいかげんな親切」〔詩人ジョン・ホウムの句〕に堕してしまうわけである。そうなれば細君は大した良心のとがめを感じることなく亭主と共鳴することができるというわけである。
もう一つの方法は――というのは必要な目的を達するために彼らのもっている方法は無限にあるからであるが――彼らの亭主が初めに何のせいで諸君に友情を感じたか、その原因となったところのものを一種の天真爛漫さをもって絶えず間違えることである。もし諸君の品性の優秀さに対する尊敬の念が友情の絆《きずな》になっておりそれを細君が破壊しようと躍起となっているとすれば、彼女が諸君の話のうちに何か余り気のきかないような点を少しでも嗅ぎ出そうものなら、それこそこういうだろう、「ねえ、あなたはこの方は大変な才人《ウイット》だって仰《おっ》しゃらなかったこと?」これに反してその亭主が最初諸君を好きになったのが何とはなしに話がうまいという点にあり、その点に応じて諸君の品行に多少不都合なことがあっても見逃していたとすれば、細君は少しでも諸君の品行上の不都合な点を見つけ次第にまってましたとばかりこう叫ぶだろう、「ねえあなた、これがあなたの仰しゃる品行方正な○○さんなのね!」私はかつてある立派な女性に自分がどうもご主人の旧友として当然受けるべき尊敬を払ってもらっていないようだといって不躾《ぶしつけ》にも嫌味をいったことがある。すると彼女はざっくばらんに私にいうには、結婚前に彼女の主人は私のことをしばしば話題にのぼせたので、自然彼女も私と近づきになりたいという気持が強くなったが、実のところ私の風采を見てあてがはずれてひどくがっかりしたというのであった。というのは、私のことを彼女はその主人から聞かされているうちに、立派な背の高い士官みたいな人(彼女の言葉をそっくり伝えているのだが)だと、まだ見もしない私のことを考えてしまったらしいのだが、事実は全くその反対だったわけである。全く正直な話だったといわなければならない。私はご主人の友人の風采をはかる標準をご主人の風采のそれとは随分違ったものにしたわけはどういうつもりだったのかと彼女に聞きかえしてやろうかとも思ったが、失礼だと思ってやめにした。私の友人の体格もほとんど私の体格と変りはなく、彼の背丈は靴をはいたままで五フィート五インチだが私は半インチだけ彼よりも高いし、それに彼だって私と同じようにその態度なり容貌なりに軍人らしいところは一つもなかったからである。
こういったことが夫婦者の家を無謀にも訪問しようとして私がぶつかった屈辱の二、三である。こういった屈辱は数え上げたらそれこそきりがない。そこで、細君連中がおかすごくありふれた失態に一瞥《いちべつ》を投じてみよう。――たとえばわれわれをまるで彼らの亭主であるかのように、そしてまた逆に亭主たちがわれわれであるかのように扱う場合についてのべよう。つまり彼女たちがわれわれに馴々《なれなれ》しくするくせに主人たちには畏《かしこ》まるといった場合のことである。その一例だがある夫人は――かりに甲殻夫人としておこう――この間も私を夕食に呼んでいて、しかも私のいつもの夕食時間より二、三時間も遅らせる始末であった。彼女はご主人の某氏の帰宅が遅いというのでいらいらしていたのだが、結局料理の牡蠣は全部駄目になってしまったのである。しかし、主人の留守中にそれに手をつけるという無作法なまねをするよりはまだましだというわけだった。これなどは行儀作法のまるでとり違えなのだ。というのは礼法というものは、自分が仲間から他の人間ほど敬愛されていないという自覚からくるぎごちなさを救うための工夫だからである。礼法というものは、大きないろんな点ではどうしても認めるわけにはゆかない嫌な贔屓《ひいき》の償いを、小さな点で特別に気を配ることによって行なおうとする努力なのである。この夫人がもしも私のために牡蠣をとっておいてくれ、主人がよそへ夕食をたべに行こうという懇望を斥けていてくれたら、それこそ礼儀本来の道に沿うたといえたであろう。
細君たちがその主人に対して守るべき礼法としては、しとやかな振舞いとたしなみの点以外にあるとは私には思えない。したがってサクランボ夫人のいわばその主人の口を通しての喰いしんぼうぶりには抗議せざるをえないのである。というのは、せっかくモレアス産のサクランボを前にして意気ごんで喰べている私からその皿をとりあげて食卓の向うにいる主人へまわし、その代りに珍しくもないグースベリの皿をよこして独身者はそれで沢山といわんばかりだったからである。そういえば○○夫人の私に対する気まぐれな侮辱も許すわけには参らぬ。
しかし知り合いの夫婦者を全部仮名のもとにならべたてるのも厭になった。願わくは彼らはその態度を改善してもらいたいものである。さもなければ後生のやはり同じような厚顔無恥の者へのいましめとして、あの連中の名前を全部そっくり書くからそのつもりでいてもらいたいものである。
〔『ロンドン・マガジン』一八二二年九月号所載〕
[#改ページ]
退職者
[#ここから1字下げ]
遂に自由が私を訪れた――ウェルギリウス
私は華の都ロンドンの会社員だった――オキーフ
[#ここで字下げ終わり]
もしも読者にしてその人生の黄金時代を――輝ける青春の日を――事務室のうんざりするあの狭い片隅で空しくすごすべく運命づけられているとしたら――いつ釈放される見込みもなければ休息をあたえられる見込みもなく、中年から老年へ、白髪へと牢獄に呻吟する日々を果しなく送らされているとしたら――だらだらと生きながらえこの世には休日というものがあることも忘れる、いや覚えていても子供時代の特権としてしか覚えていないという境遇にあるとしたら――そうだ、そういう人こそ初めて私がえた自由の有難さをしみじみと理解してくれようと思う。
私がミンシング・レイン〔ロンドンのいわゆる「シティ」にある。但しラムの勤めた東インド商会は別の街にあった〕の事務所に席を占めてからもう三十六年になる。十四歳の時に、多くの自由な遊び時間や学校生活につきもののしばしば訪れる休暇からきり離されて一日に八時間、九時間、いや時には十時間も事務机に坐りっきりの生活へと変っていったが、このような有為転変のわが身を私は悲しくも経験したものであった。しかし時が経つうちに人間は何ごとにもある程度はなれてゆくものである。私も次第に満足するようになっていった。檻の中の猛獣のように、歯をくいしばって満足するようになっていった。
日曜日を自由に使えたのはいうまでもない。しかし、日曜日を礼拝という目的のために設けられたものと考えればそれはそれなりになかなかいいものであるが、事実はまさにそのゆえにこそ悠々と遊んだり休養をとったりするのには最も不向きな日なのである。特にいわゆる市部《シティ》といわれる一角の日曜日には一種の暗さが、一種の重苦しさが漂っているように私には思える。そこにはロンドンの快い呼び声や音楽や民謡歌手や――そうだ、街頭の喧騒やざわめきがなく、そのために私の心は悲しく暗いものになるのである。果てしなく鳴りひびく教会の鐘の音を聞くと私は全くうんざりする。店は冷やかに閉まっていて入ろうにも入ることができない。この首都の中でも比較的静かな界隈を平日に散歩する際われわれの心を楽しませてくれる版画だの油絵だの、あるいは眼も眩《くら》むほど次々に列べられている安ものや小間物の類だの、またこれ見よがしに店頭に陳列されているいろんな商品だの――そういったものが綺麗に姿を消してしまっている。ぶらぶらひやかして独り悦に入ろうにもかんじんの古本の露店もない――ひまな人間が行きずりに見かけては心たのしく物思いにふけるにたる忙しそうな顔もこの日には見られない――営々と働く人の顔というものは一時的にもせよ、忙しさから解放された者には何ともいえぬ魅力として対照的にうつるものだからである。眼に見えるものはただ解放された小僧や若い店員たちの不幸な顔というか、せいぜい半ば嬉しそうな半ば嬉しくなさそうな顔だけである。彼らにまじってちらほら暇をもらって出てきた女中たちの顔も見られるが、彼女たちも奴隷のように一週間ぶっ通しで働いているのでそのくせがついてしまい、自由な時間を享楽する能力をほとんど失ってしまっている。そして、僅か一日の行楽の空しさだけを如実にその顔に現わしている。日曜日に郊外の野原を散歩している連中にしても、およそのびのびした顔など持ち合わせてはいないようである。
しかし、日曜日以外には復活節《イースター》に一日、クリスマスに一日の体暇があり、夏にもまる一週間は休めるので生まれ故郷のハートフォドシャーの野原へ帰って太陽の光を存分に浴びることができたものであった。この故郷への帰省は私にとっては最大の喜びであった。またそのうちに帰省の時がやってくると思えばこそ、なんとか一年中私はもちこたえられ、囚われの憂き目にも我慢できたというものであった。しかしいよいよその一週間がやってきた時に、ずっと前から抱いていた華やかな期待が果して私を訪れてくれたであろうか。いや、むしろ、その一週間は落ちつきもなくひたすら楽しみを追い求め、どうやったら一日一日を最大限に活用できるかと、その方法を探しもとめるいらだたしい不安に明け暮れする七日にわたる日々の連続にすぎなかったのではなかったか。静けさはどこへいってしまったのか。あの約束されていたはずの休息は? それを私が味わう前に、もはや消え去ってしまっていたのではなかったか? あっという間に私はまた再び事務机に向っており、再びあの束の間の休息の日がめぐりくるまでには五十一週という永いもの憂い時日が経過しなければならないことを改めて考えるのであった。それでもとにかく再びそれがめぐりくると考えるだけでも、私の囚われの生活の暗い面に一縷《いちる》の光明がさしてくるのは事実だった。前にもいったように、そういうことがなかったならば、私はあの奴隷の生涯にはほとんど堪ええなかったろうと思う。
仕事のつらさとはまた別に、自分が事務的才能に恵まれていないという感じ(おそらくは単なる気の迷いだったかもしれないが)にたえずつきまとわれていた。後になればなるほどこの気持が嵩じて、そのため顔の一本一本の皺にまではっきり現われるにいたった。健康も損われ元気もなくなった。はっきり自分の手におえないなんらかの危機に出逢いそうな恐怖につねにおびやかされるにいたった。昼間のいやな仕事の他に、夜は夜で眠っている間でさえ同じ仕事をくり返すようになり、間違った記入をしたり、計算を間違えたりしたといったような悪夢にうなされて、がくぜんとして眼を覚ますこともしばしばだった。私は五十歳になっていた。もう解放される見込みもありそうになかった。いわば私は事務室の机に根が生えてしまっていたのである。私の魂は机に釘づけにされてしまっていたのである。
同僚たちは私の顔面にはっきり読みとれる困惑の表情をからかうことしばしばだった。しかし、そういう表情が雇主側の誰かに不安の念をあたえていたとは実は私は少しも気がつかなかった。すると、私にとって永久に忘れることのできない日になってしまったのだが、ちょうど先月の五日のこと、商会の下級重役であるLが私を傍らに呼んで顔色がよくないが、とはっきりとがめるような口調で訊ね、その理由を率直にきいた。そうとがめられると私としては正直にこちらの故障を白状せざるをえなかったし、いずれはお暇をいただかざるをえまいということもつけ加えていった。Lは慰めるようなお座なりな言葉をのべた。一応事態はそこでおさまった。つまらんことを打明けたものだとそれからのまる一週間くよくよと思いつめた。相手にいい口実をあたえて、自分で自分の首をきるような真似をしたものだとわれながら馬鹿らしくなった。
こんな調子で一週間たったが、これこそ私の全生涯を通じて最大の不安な一週だったと今でも確信している。そして遂に四月十二日の夕刻、家路につこうとして机をまさに離れかけた頃(八時頃だったと思う)、奥の方にあったいかめしい会議室で開かれている全重役会議に出てくるようにという恐ろしい出頭命令がいいわたされた。いよいよ最後の時がきたのだ、もうなにもかにもおしまいだ、もうお前には用事はないと今から宣言されるのだ、と思った。それでも、Lを見ると私がびくびくしているのを見て微笑を浮かべていた。それが多少私の心を落ちつかせてくれた。――と、全く驚く他はなかったのだが、上級重役のBが私の勤続年限の永いこと、その全期間における私のきわめて称賛に値する行為について(全く嫌になるなあ、そんなことどうして分るんだ? そんな自惚れが俺にあってはたまるもんか、と私は思った)いかにも紋切り型の演説を始めた。話はやがて生涯のある一定の時期になって引退することはまことに都合よろしきことである云々という風に縷々《るる》としてつづいた(私の心がいかにときめいたことか!)。そして、私個人の財産がどれくらいあるかということについて二、三の質問があったので、私は僅かではあるがとにかくあるにはあると答え、そこで演説は終ったが、最後に一つの提案が彼によってなされた。よくまじめに勤めてくれた、商会からずっともらっていた給料の三分の二だけを終身年金として差し上げよう、ということだった。
いや、何という素晴らしい申し出であったことか! これに対して他の三人の重役はいかめしくうなずいて賛成の意を表わした。驚愕とも感謝ともつかぬ、何とも妙な答を私はしたらしかったが、とにかく私が重役連の申し出を承諾するという意志は通じたようだった。今日のこの時から勤めをやめてもいいといわれた。私はどもりながら何かをいってお辞儀をした。そして、八時十分きっかりに家路についた――これで永久に職場に訣別をしたわけだった。この有難い恩恵を私にほどこしてくれるとは、まさしく世界随一の気前のよい会社といわなければならなかった。私はその恩恵に感謝の意を表わす意味からも、ボルデロ・メリウェザー・ボザンケット・アンド・レイシー合名会社〔ラムが勤めた東インド商会の重役連の名を変えたもの〕の名をここに明らかにしておきたい。
わが社よ永久に栄えよ!
初めの一、二日はぼうっとして夢中だった。ただ有難いなと思うのみだった。頭の中が混乱していて喜びが本気に身にしみて感じられなかった。俺は幸福なんだと考えながら、しかし実は幸福じゃないんだと自覚しながら、私はただぶらぶら歩き回った。あの昔のバスティーユ牢獄に四十年も幽閉されていて突然青天白日の身になった囚人みたいなものであった。自分で自分を信用していいのかどうか分らなかった。「時間」の世界から「永遠」の世界へ移るみたいな感じだった。人間がその「時間」を全部独占できるというのは一種の「永遠」をもつようなものであるからである。自分でももて余すほどの時間を両手にいっぱいもっているように思われた。貧乏な人間から、つまり「時間」に乏しかった人間から私は一躍して莫大な収入をもった大金持になったのである。無限の富、果てしなき財産が眼の前にあった。持て余すほどの「時間」の財産を私の代理となって管理する家令か賢い管理人が必要であった。
そこで思うのだが、激しい実務に従事しつつ年老いた人々の注意をここで喚起したい。それは軽々しくというか、自分の暇つぶしの力量のほどもわきまえずに永年しなれた仕事を一気にやめてはならないということだ。そこに危険が生ずる可能性があるからである。私はそれを自分で感じている。ただ私は暇をつぶす手段には事欠かないことを知っている。最初の眼も眩むような歓喜の情がしずまってみると、ようやく私は自分の境遇の有難味がしみじみと身にしみて感じられてくる。私は少しも急がない。あらゆる日々が休日である今となっては、休日がないのも同じに感じられる。もし「時間」が重荷に思われるならば、私は散歩して払いのけることもできる。といっても、昔のあっけない休日のように、何とか最大限に利用しようとして一日に三十マイルも歩いたようなああいう真似をして一日中歩くなどということはない。「時間」がもて余し気味なら本を読んでそれを潰すこともできる。といっても、昔の冬の日など自分自身の「時間」といったら僅か蝋燭の灯で本を読む「時間」くらいだった頃、頭や眼がふらふらするほど猛烈な勢いで読んだようなあんな読み方はもうしない。私は気の赴くままに散歩をし、本を読み、(ちょうど今こうやって書いているように)ものを書くという次第である。もはや楽しみを追い求めることはやめてしまった。楽しみが来るのを拒まないというわけである。
[#ここから1字下げ]
緑なす荒野に生れ
来る歳月とともに老いゆく
〔ミドルトンのある劇からの引用文〕
[#ここで字下げ終わり]
人間の姿がまさに私といえよう。
こういうと読者諸君は反問されるかもしれない。「歳月だって? いったいこの老いぼれた退職者はどれくらい永生きするつもりでいるのか。もう五十歳をこしているといっていたではないか」と。
いかにも私は名目上は五十年という歳月を生きながらえてはきた。しかしその歳月から、私が自分のためでなく他人のために生きてきた時間を差引いてもらいたい。そしたら私がまだ若者であることが分っていただけよう。人間が自分自身のものと大っぴらに呼べる時間、自分だけで自由に使える時間、それのみが真実な「時間」なのだ。その他は、たとえある意味ではそれだけ生きてきたとはいえ、他人の時間でこそあれ、自分自身の時間ではない。いつまで続くか分らないが、残りの生涯は少なくとも三倍にはなるはずである。かりにあと十年生きのびるとして、その十年間はこれまでの三十年の永さにゆうに匹敵するだろうと思う。まさしく立派な比例計算というべきであろう。
わが自由の日が始まった時に私の心に襲いかかり、未だにその|あと《ヽヽ》を引いているいろんな奇妙な妄想の一つに、私があの商会をやめてから漠々《ばくばく》たる時間がたったような気がするという事がある。つい昨日のことだとどうしても私には考えられないのだ。くる年もくる年も、しかもその年ごとの毎日のくる時間もくる時間も一緒に苦楽をともにしてきた重役連や同僚の社員たちであったにもかかわらず、いったん突如としてこれらの人々と別れてしまうと、彼らがまるで死者も同然に私の心に感じられたのである。こういう奇妙な感じを例証するのにうってつけの見事な一文がサー・ロバート・ハワード〔政治家・劇作家、一六二六〜九八〕のある悲劇〔『聖火を守る処女』という作品〕の中にある。友人の死についての言葉だが――
[#ここから1字下げ]
彼が亡くなったのは今さきのこと。一滴さえも涙を流すひまもないほどだ。だのに、幽明|界《さかい》を異にするこのへだたり、まるで千年も前に死んだように思える。時間で測ることは永遠の世界では許されぬのだ。
[#ここで字下げ終わり]
このなんとも落ちつかぬ気持を消そうとして、私はその後一、二度彼らのところへ行ってみた。昔机を並べて仕事をした連中、わが職場の同胞、天国にいるような私の状態からすれば遙か下界で悪戦苦闘している彼らの所へ訪ねていってみた。もちろん彼らはいとも親切に私を迎えてくれたが、それにもかかわらず、以前彼らに感じていたような快い親近感が何としてもわいてこなかった。昔なじみの冗談もいくつかとばしてみたりもした。しかしそれも何となく気がぬけているみたいだった。私の坐っていた昔の机、私が帽子をかけていた釘、そういったものは他の人が使っていた。当然な話といえば当然な話だが、やはりいい気持はしなかった。やはり何といっても正直な話、古い仲間を置きざりにしたことは申し訳ない気がした。畜生ならともかく、人間であるからにはどうしてもそう感ぜざるをえなかった。三十六年の永きにわたって私と苦労を共にしてくれ、商社員としての険しい境涯の苦悩を冗談や謎々などで慰めてくれた有難い仲間なのだ。しかし、果してほんとうに険しい境涯だったのだろうか。それとも私は要するに卑怯者だったのだろうか。そうだ、今さら後悔してももう始まらない。こういういろんな感想はこんな場合にえてして心に生じがちな妄想のたぐいにちがいなかろう。
それにしても、やはり私の心は痛むのだ。古い仲間と自分との間にあった絆《きずな》を乱暴にたちきってしまったのだ。少なくともそれは礼儀にかなったやり方ではなかったのだ。彼らとの別離になれるまでには暫く時間がかかりそうである。さらば、昔馴染の友よ! とはいえ、それもしばしの別れなのだ。なぜなら、諸君の許しがえられるならば、私は諸君のところへこれからもしばしばお邪魔したいと思うからだ。ぶっきらぼうで、皮肉屋でしかも友情にあついCよ、さようなら。おとなしくて動きが鈍くてしかも紳士的なDよ、さようなら。世話好きで、いいことなら何でもいそいそと進んでやるPよ、さようなら。それから、あの陰気な建物よ、往時のグレシャム〔十六世紀の有名な商人〕やホィティントン〔十四世紀の商人でロンドン市長〕の邸宅にふさわしい、あの堂々たる商館よ、さらばだ。思えば、迷路のようなお前の廊下も、一年の半分は太陽の光線のかわりに蝋燭をとぼさなければならない暗い、閉めきった事務室も思えばなつかしい限りだ。とはいえ、この商館こそ健康にはよくないが私の幸福をもたらしてくれたものであり、わが生活をきびしくもりたててくれた恩人でもある。私の「作品」は方々に売り歩く本屋さんの棚ざらし品の中にではなく、この商館の中にあるのだ! ちょうど私が今職務を離れて休息をとっているように、私の「作品」をしてそこのずっしりした整理棚の上で休ませてもらいたい。アクィナス〔中世の神学者〕が残したよりもっと厖大な、だが同じくらい役にたつ大型版の書類の上に休息よあれ! 分れし同僚諸君よ、諸君にわが衣鉢《いはつ》を伝えん!
私が退職の通告をうけてから二週間たった。その間、私は心の平静さをえようとしていたのだが、完全にそれをかちえたわけではなかった。いかにも落ちつきを誇るには誇ってはみたものの、それも多少そうだというくらいの話にすぎなかった。最初うけた衝撃がかなり残っていたし、一種の不安なもの珍しさや、急になれない光にあたって弱い眼が感ずるあの眩惑が残っていた。私は永い間自分を縛りつけていた鎖が恋しくてならなかった。正直な話、なんだか、自分の服の大切な一部が急になくなった感じだった。私はいわば厳格な独房内での訓練から急に革命か何かのために世間へなげ出された哀れなカルト派の修道僧みたいなものであった。また考えてみるとずっと昔から自主独立の人間だったみたいな気もするのである。今はどこへでも好きな所へゆけるし、すきなことをやっても少しも不自然ではない。朝のうちの十一時というのにボンド街〔高級流行品の商店街〕に出かけてゆくこともある。そんな時間にその界隈をずっと昔からぶらついてきたみたいな気がするから妙である。本屋の屋台店をひやかしにソーホー〔繁華街〕へ足をのばすこともある。そんな風に本をもう三十年間も漁ってきたような気がする。極めて当り前で少しも目新しいことをしているような気はしない。まだ朝のうちなのに画廊の立派な絵の前に立つこともある。昔からずっとこんなだったのじゃなかったのか。フィッシュ・ストリート・ヒル〔大火記念塔のある典型的な下町〕はどうしたろう? そういえばフレンチャーチ街はどこだったかしら? あのなつかしいミンシング・レインの石畳みはどうしたろう? 三十六年間、毎日毎日私は巡礼者みたいにそこを歩いて石を磨りへらしたものだったが、今ごろあの堅い堅い石を踏みならしているのはどこの疲れはてた商社員であろうか? 私は今はペル・メル〔上流社会の住宅区域〕のはるかに美しい鋪道を歩いてそこの石をへこませているというご身分なのである。まだ取引所が開いている時間だというのに、不思議な話だが、私はエルギン大理石像《マーブル》〔大英博物館にある〕の間を歩きまわっているのである。
この境遇の変化を全然別世界に移ったみたいだといってもそれはけっして誇張ではなかった。私にとって時間は静止しているといってもよい。季節の区別が全くつかなくなってしまった。その日その日が週の何曜日だか、何月何日だか分らなくなった。かつては個々の一日が外国郵便の発着との連関で、また次の日曜日との遠さ近さで、それぞれはっきりと意識されていたものであった。水曜には水曜の感情、土曜の夜にはまたそれ特有の感覚を私はもっていた。一日一日の霊みたいなものが終日私に憑いていて私の食欲や元気その他を左右した。安息日のレクリエーションにも、明くる日の亡霊がその背後におぞましい姿の五人の亡霊をしたがえて重くのしかかっていた。何の呪《まじな》いのせいで黒いエチオピア人が白くなったのだろうか〔「エチオピア人その膚《はだ》をかえうるか」『エレミヤ記』〕。黒い月曜は〔休暇あけの日で憂鬱〕いったいどうなったのだろうか。くる日もくる日もみな同じになってしまった。日曜日でさえも――あまりにその日があっけなく過ぎてゆくのが口惜しく、またできるだけ最大限の悦楽をそこから貪ろうというさもしい根性に災いされてせっかくの休日も見るも無残な台なしになるのがしばしばだったのだが――その日曜日でさえも、味もそっけもない平日になってしまった。かつてはせっかくの休日に大きなあなをぽっかりあけるような気がしていた教会通いも今では少しも意に介せずにすることができる。何でもやろうと思えばやれる「時間」が今はあるのだ。病気の友人を訪ねることもできる。仕事に追われている人間が仕事に忙殺されている時を選んで邪魔しにゆくことも可能である。彼をこんなさわやかな五月の朝にウィンザーまで一日の行楽をともにしないかと誘って侮辱を加えることもできる。私があとに残してきた連中がいわば塵世にあくせくと心身を労して面白くもない仕事にこきつかわれているのを見るのも、これこそルクレティウス的快楽というやつであろう。粉ひき場でぐるぐると永遠に同じところをあえぎながら廻っている馬みたいな連中――しかもそれがいったい何のためになるというのだろうか。
人間というものは時間があり余って困るというものではない。またすることが余りに少なすぎて困るというものでもないのだ。もし私に小さな息子があったなら、私はその子の名を「何もせんぞう」とつけたい。つまり、何もさせないつもりなのだ。人間は何か働いている限りは人間本来の姿を逸脱していると私は信じている。つまり、私は思索的な生活をこそ尊しとする者である。あの呪うべき紡績工場をおそって呑みこんでしまうような有難い地震はないものであろうか。ああ、あの嫌らしい事務机をたたきこわして
[#ここから1字下げ]
奈落の底まで〔『ハムレット』二幕二場〕
なげこんでくれ!
[#ここで字下げ終わり]
私はもはや某商社の社員某というものではない。私の名は今では自適居士である。小綺麗な庭園でならいつでも私の姿が見られよう。のどかな顔やくったくのない身振り、それにどこという定まった所へゆくでもなく一定の目的もなくただぶらぶら歩いている男、そういう男をみたら私だということになったようである。私はただ歩きまわる。断わっておくが用事のために歩きまわっているのとはわけが違うのだ。人の話によると、永い間他の美点とともに埋もれていたある種の悠然たる風格が私の身のこなしに現われてきたそうである。目に見えて紳士になったというわけである。新聞を手にする時も実はオペラ界の消息を知るためである。ワガ事オワリヌ。この世に生まれてなすべきことは一切私はやってしまった。私に課せられた仕事はみなやってしまった。余生は私自身のものなのだ。
〔『ロンドン・マガジン』一八二五年五月号所載〕
[#改ページ]
結婚式
先週、友人の娘さんの結婚式に出席するよう招待されたが、あんなに嬉しかったことはめったにないように思う。こういった式に列席するのが私は好きである。われわれ老人はそれで何となく青春をとりかえしたような気がするし、この結婚という人生の一大転機をかちえたわれわれ自身の若き日の成功の思い出やあるいはその失敗のにがい、しかもなお前者に劣らず甘美な思い出を胸に浮かべ華やかなりし昔を偲ぶからである。
こういうめでたい席に出ると、そのあと一、二週間は私は結構きまっていい気持になる。蜜月の新婚気分にこちらまで均霑《きんてん》させてもらうというわけだ。何しろこちらが独身で家庭生活というものを知らない人間ときているので、一時的にもせよ友人の家庭の一員であるかのように親身に扱われるとすっかり嬉しくなってしまうのである。その間しばらくは、自分が先方の誰彼の|いとこ《ヽヽヽ》であるような、時には伯父であるような錯覚に陥るから妙である。ある時には何等親、また他のある時には何等親といった資格を授与される。そしてそういういろんな家々の団欒にふけっている間は、つかの間ながら、自分の孤独な独身生活を忘れることができる。
こういう気持が私にはしみついてしまっているものだから、自分が招かれずに除外されたりするとがっかりする。たとえ親しい友人の家で葬式があるような場合でもそうなのだ。だが、それはともかく、私の主題にかえるとしよう……。
縁談そのものはずっと前からきまっていたのだが、式が今までのびのびになっていたのは花嫁の父親が女性の結婚は早きに失してはいけないという、適齢期について不幸にもいだいていた頑迷なる偏見に災いされていたからだそうである。そのため若い二人がひどくいらいらしていたことは申すまでもない。花嫁の父親は、彼女が二十五歳をすぎるまでは婚礼はのばすのが妥当である、といってこの五年間というもの暇さえあれば説教してきたものである(ということは、それだけの永い間求婚時代が続いたということを意味する)。せっかくの求婚も今のうちこそまだその熱意を少しも失ってはいないが、やがてはただ惰性となり、ついには情熱もさめてしまい愛情も完成をみないうちに消え去ってゆくかもしれないと、われわれ一同はやきもきしだした。ところが、もともと彼のそういう頑固な意見に賛成していたわけではなかった細君が少々おだてたのと、他方では友人たちがまじめに忠告したのとで、とうとうさすがの彼も中途で折れた次第であった。友人たちは次第につのる彼の衰えを見て、そう永く友好をつづけてゆく見込もないと考え、彼の生きている間にはっきり事を落着させたいと願ったというわけである。そんなわけで先週の月曜日に私の友人である某提督の娘さんは芳紀まさに十九歳という年ごろになったので、快活な従兄Gに手をとられて教会の門をくぐり目出度く結婚式をあげたのである。新郎であるそのGは彼女よりも数歳年上であるという。
女性の読者の中でも特に若い方々には、私の友人の非常識な意見のためにこの恋し合っていた二人がどれほど無理な時間の浪費をしたことかといって怒るかもしれないが、そういう風に怒る前に、世間の子煩悩な父親というものが娘を手放す際に感ずるあの抵抗感をとくと考えてみるがよいと思う。父と娘の間に生ずるこの問題に関する意見の相違も、多くの場合、父親の娘を手放したくないというあの気持が原因となっているといって差支えなかろう。利害関係や分別のことが口実としてもち出されて表面を糊塗していることもあるが、有り体《てい》はそういった通りであろう。
父親の不人情な仕打ちは小説作者には全くあつらえ向きのテーマで、読者の感動をさそうこと疑いなしといったトピックである。しかし、愛娘が時として親の膝元から逃げ出さんばかりにしてあかの他人の懐に飛び込んでゆく時のあの慌《あわただ》しさには何というか一種の情のなさみたいなものがありはしないだろうか。私の友人の場合のように、その娘がたまたま独り子の場合には事態はいっそう切実だと思う。身につまされて理解できるわけではないが、こういう事態が生じた場合の父親の傷つけられた誇りというものは胸がいたくなるほど分る。恋をしている若者の一番恐ろしい恋敵が多くの場合娘の父親だということは別に新しい意見ではない。全然立場の違う二人の人間の間にも嫉妬が生ずるわけだが、それが厳密な意味でわれわれが嫉妬と呼んでいるところのあの激情と痛切な点ではそう変りはないはずである。
母親のためらいは比較的たやすく克服できる。その理由は、娘に対する保護権をその夫たるべき者に移譲したところで父親の場合ほど母親の沽券《こけん》にかかわるものではなし、権威が傷つけられるものでもないからだと私は想像する。それに、母親というものは未来に対する恐るべき洞察力をもっているもので、まあこれならば我慢できそうだと思われる縁談を断わったたためにわが娘にふりかかる独身女のわびしい生涯の姿を(父親にはとうてい考えることもできないほどまざまざと)脳裡に描きだすことができるのである。こういう問題については、父親の冷静な推論よりも母親の本能のほうが確かである。亭主は反対はしないのだがさし当りどちらかといえばいいかげんに考えている娘の縁談を細君がどしどし進める際にみせるあのいやらしい駈引きも、この母親の本能というやつのせいだろうし、またこの本能のゆえにのみ大目にみてやれるというものである。この点の少々の厚かましさも許せようというものだ。こういう風に説明してゆけば彼女たちの出しゃばりも美点となるし、母親独特の執拗さも美徳となろうというものである。――柄にもなく牧師のまねをして説教をしている間に、当の牧師さんが待っておられるようである。いやはや、花嫁さんが玄関まできているのに説教などしているとはわれながら恐れいる――。
私の女性読者にお願いしたいのだが、今しがた私の口からもれたいとも有難い教訓めいた言葉がこの花嫁に少しでも、ほんの僅かでもあてはまりそうだなどとはどなたにも考えてほしくないのである。彼女は今さらいうまでもなく、全く新しい生涯に一歩をふみ入れようとしているのであり、しかも充分に一人前の女として、またあらゆる関係者の全幅の同意をえてそうしようとしているのである。私が反対するのはただ何が何でも早く式をあげなくてはという結婚なのである。
そのあとでちょっとした朝餐をとる時間を設けるために朝早く式が行なわれる予定になっていた。朝餐にはごく親しい者たちだけが招待されていた。そんなわけでわれわれは朝の八時少し前には教会についていた。
この朝の花嫁付添いのお嬢さんたち――フォレスター家の三人のチャーミングな令嬢たち――の服装ほどいかにも気のきいた、優雅なものは他にはないといってよかった。花嫁を一段と鮮かに光りかがやかせようと、三人のお嬢さんたちはすっかり緑色のドレスを着ていた。私は女性の服装のことを描写するのは苦手で旨くいえないが、花嫁がまるでその清らかな心そのままに純白で清楚な衣裳をつけて清浄な犠牲《いけにえ》のごとき様子で祭壇に立っている間、三人の令嬢はいかにもダイアナの女精《ニンフ》にふさわしい衣裳をまとって――それこそフォレスター、つまり森の精といった姿だったのだが――付添っていた。清らかな処女性をぬぎすてる決心がまだつかないという風に彼女たちの姿は見えた。なんでも、母親に死なれたため彼女たちは父親を守ろうとけなげにも独身生活をつづけ、ともどもに幸福にみちた家庭をいとなんでいるということである。その親子水いらずのねたましくなるほどの家庭生活の睦《むつま》じさを見ては、彼女たちのそれぞれの恋人たちも傷心の思いに(自分の思いがかなえられる見込みはまずないので無理もないのだが)沈みこむといううわさである。何とけなげな乙女たちだろう! これこそ一人一人がイピゲネイア〔トロイ戦争の時のアガメムノンの娘〕の再来ともいえる犠牲《いけにえ》なのだ!
私がこういう厳粛な席に出るというのはいったい何のためだか自分でも分らない。どんなにおごそかな場合でも、ついへらず口をたたく性質からのがれられないのである。儀式ばった仕事には私は元来向かない人間なのである。儀式と私はとっくの昔に絶交したといってもいい。ところが、花嫁の父親が痛風のため不幸にも自宅から出られず、したがって彼の懇請もだしがたく、ついにこの日私は父親の代理をつとめ花嫁を花婿に引きわたす仕儀とは相成った次第なのだ。何がまじめといってもこれくらいまじめな瞬間はないというこの際に何ともいえぬおかしさがこみあげてきた。自分の傍にいる可愛らしい娘さんを、たとえそう空想するにしてもだが、とにかくかたづけるというのは自分には全く場ちがいな仕事だという感じがこみあげてきたのである。私は何か軽っ調子なことをついしでかしたのではなかったかと思う。というのは司式の牧師さんの眼が――ポウルトリ街の聖ミルドレッド教会の牧師さんの眼はいつもまさに相手を難詰する眼なのだ――その一瞬私の上にそそがれたからである。口のところまで出かかった冗談も忽ち一変して葬式のようなうら悲しい渋面となった次第だ。
これだけがこの厳粛な式の際に自分でもそれと覚えている唯一の失策だった。もっとも式の後でT家の美しい令嬢の一人がとがめるようにして私にいったことが無作法に当るのなら話はまた別である。彼女の申し給うところによれば、黒服をきて花嫁を花婿に引渡す紳土なんて前代未聞ですわというのである。ところで黒服はずっと永い間私の不断着だった――事実、黒服は文筆業者にふさわしい衣服だと私は思っているし、また舞台でもそんな風に扱われている――というわけで、もし私が何かもっと明るい色の服装で出かけていっていたらさんざん物笑いの種になっていたろうと思う。多少異例の服装でいって小言を喰うくらいはまだ我慢できるというものである。しかし、花嫁の母親や列席の老婦人連は(神よ、彼らを祝福し給え!)、私が黒よりも何か他の色合の服を着ていっていた方がお気に召したらしいことは私にも分った。
だが黒では縁起が悪いという問題は、ピルパイ〔ヴィシュヌ・サルマとも呼ばれるインドの古い寓話作者〕だったかと思うがとにかく古いインドの作者の書いたある寓話を運よく思いついて、それで首尾よく切りぬけることができた。その寓話というのは、「べにひわ」の婚礼にすべての鳥たちが招かれた時、みな華やかな羽をつけて出てきたが、鴉《からす》だけが黒服で出てきて弁解していうには「他の服はもち合わせていないもんで」といったという話である。この話で老婦人たちはとにかく納得をしてくれた。ところで若い人たちときたら、ただもうはしゃぎまわる一方で、握手したり、おめでとうを連発したり、花嫁の涙を接吻でぬぐいとってやったり、お返しの接吻を花嫁からもらったりという騒ぎだった。とうとう、こういう事柄では多少経験をつんだような顔をしている、花嫁よりも四、五週間前に結婚したというある若い女性が救いの手をさしのべた次第であった。その人は花婿の方を流し眼でみながら、こんなに花嫁さんが接吻したのでは「花婿さんの分がなくなるわね」と茶目気たっぷりいったものだった。
友人である提督はこの日は巻毛をつけた立派な|かつら《ヽヽヽ》をつけていた。いつも身なりを構わない彼としては全く異例なことだった。いつもは(午前中何か調べものをしている時などしょっちゅうだったが)|かつら《ヽヽヽ》をぐいぐいおし上げて地肌に点々と残っている白髪をのぞかせていたものだが、この日ばかりはそんなことを一度もしなかった。満足したような神妙な顔付きをしていた。三時間もかかった長い朝食――といってもただの朝食でなく山のような冷鳥肉、牛の舌、ハム、ソーセージ、乾果物、葡萄酒、コーディアルが出たのだ――が終って、ついにあの時刻が近づいた時、私は内心はらはらしていた。新郎新婦を当分(つまり世間のしきたりに従ったほどよい期間中)田舎へつれてゆく馬車が玄関にきたことが遂に告げられたのだ。そう事が運べばそれはそれでよいとして、若い二人の新婚旅行の祝福を祈ったあとでわれわれは集まっている客人たちの方へもどってゆくとしよう。
[#ここから1字下げ]
人気役者が舞台から引込めば
他の役者が次に出てきても
誰もろくに目をくれぬ
〔シェイクスピア『リチャード二世』より〕
[#ここで字下げ終わり]
というわけで、今朝の華やかなショーの主役たちが消え去った今となっては、われわれは互いにろくに目もくれようとはしなかった。誰一人として口もきかなかった。グラスに唇をつける者もいなかった。可哀そうな提督はしきりに威勢のいいところを見せようとしたが――それがさっぱり駄目だった。多分こんなことだろうと私は思っていた。彼の細君のきちんとした表情やもの静かな振舞いからにじみ出ていた溢れるような喜びの情さえも、なんとはなしに不安の色を漂わせはじめた。そろそろおいとま乞いをする方がいいのかこのままいた方がいいのか誰も分らなかった。われわれは何のために集まっているのかわからなくなった。この、まさに進退これ谷《きわ》まるという危機にのぞんで、この日の前半においてすんでのことでそのために大恥をかきそうになった例の私の馬鹿げた才能をここで活用しなければ嘘だと思った。危急存亡の際にあらゆる種類の奇妙きてれつな戯言《たわごと》を思いついて口にする私の独特な能力を示す好機がきたと思った。今のこの気の重くなるようなディレンマにはこれこそ絶妙な効果を発揮することは明らかであった。
私はそこで秀逸無比な冗談をいくつかぺらぺらとしゃべった。理窟に合おうが合うまいがとにかくみんな朝のあの慌しさのあとに襲いきたった堪え難い空虚さからのがれたがっていたのである。冗談が旨く効を奏したおかげで、客人の大部分を夜おそくまで引留めておくことができたのは幸いだった。それだけでなくホイスト〔トランプの遊戯〕という提督お得意のゲームを三番勝負試みたが、元来上手な上に有難いことに馬鹿に運がよくてこの老紳土はとうとう深夜まで勝負にこり、やがて比較的安らかな気持をいだいて床につくことができた。
そのあといく度もこの老友の宅を訪問した。どんな客人でもここほど気が楽になれる家は他にはないと私は思っている。調和が不思議と混乱の結果として生まれてくる家は他にはない。誰も彼も意見がてんでばらばらでいて、しかも結果は統一というよりももっとそれ以上に見事なものとなるのである。命令は矛盾している、召使たちはある方向に向って仕事をしている、主人夫婦は反対の方向に、しかもそれぞれ別々につっぱしろうとする、訪問客たちは隅の方におしやられる、椅子は無茶苦茶に列べられている、蝋燭は気の赴くままにたてられている、食事の時間がまた出鱈目で、お茶と夕食が一緒に出たり、夕食の方がお茶よりも先になったりする、主人と客人とが話をしているのはいいが、両者それぞれ別な話題について話をしており、自分のことは分っているが相手のいい分を分ろうとも聞こうともしない、ドラーフツ〔将棋の一種でチェッカーともいう〕と政治、チェスと経済学、トランプと航海についての話、そういったものが同時に話されていてそれぞれの話題がはっきり分けられる見込もなければ、第一分ける意志もない、こういういろんなことがちょっと他には類のないような完璧な|不調和の調和《コンコルディア・ディスコルス》を形づくっているのである。
しかしそれでいながら、この昔ながらの家は今ではどうもしっくりしないところが見える。提督は今でもパイプを楽しんではいるが、煙草をつめてくれるミス・エミリーが傍にはもういない。楽器も前のところに置いてあるが、もう彼女はいないのである。繊細なタッチであらゆる惑乱をあっという間に鎮めてくれた彼女はもうここにはいないのである。提督はマーヴェル〔十七世紀の詩人〕がいっているように「運命に順応する」すべを学んだ。勇敢に耐えしのんでいるが、以前ほど奇智縦横の警句も口をついては出なくなった。船乗りの唄も昔ほど口ずさむこともなくなった。彼の細君も叱ったり躾をやかましくいったりする若い娘がいないので寂しそうである。われわれはみんなが若い娘がいなくなったことを寂しく思っている。一人でもうら若い乙女がいることがどれほどその両親の家を明るくみずみずしいものにしているか、考えてみると不思議なくらいである。彼女のことが多少とも心にひっかかっている間は、老いも若きもただ彼女のことにかかずらっているようである。かの家の青春が飛び去ってどこかへいってしまったのだ。エミリーは結婚したのである。
〔『ロンドン・マガジン』一八二五年六月号所載〕
[#改ページ]
酔っぱらいの告白
強い酒は飲んではいけないという諫言《かんげん》はいつの時代でも、酒の味を知らぬ人間が酒飲みを非難していう時の口ぐせである。文句ばかりいって水しか飲めぬ連中がまたそれをやんやと喝采するのも昔からの例である。しかし酒飲みには、つまり飲酒の害から救い出されなければならぬ当の本人には、不幸にして彼らの諫言も一向にききめはないのである。とはいえ、飲酒の弊害は誰も認めるところであり、その治療法も簡単である。曰く、禁酒。どんな暴力を加えても飲みたくない人間に無理に酒杯を口にさせることは不可能である。してみれば盗みをしないこと、嘘をつかないことと同じくらい酒を飲まぬことも易しいことなのだ。
ところがだ、われわれは盗むには手を用い、偽証するには舌を用いるのだが、その手や舌は本来そういう傾向をもっているものではないのである。盗みや偽証は手や舌とは元来無縁な行動なのである。改悛するや否や、その気持の命ずるままにそういう行動をたちどころにやめてしまってもなんの不平も生じない。他人の物を盗みたくて|うずうずしている指《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》といういい方があるがこれは言葉の|あや《ヽヽ》にすぎないし、さんざんひどい嘘をまきちらしてきた嘘つきの舌もいざとなればいかにも当りまえといった調子で有益な真実をのべることもできるのである。しかし、われわれがひとたび大酒飲みとなったが最後……。
世の厳粛なるモラリストよ、頑健な神経と強靱な頭脳をもち、幸いにも未だ肝臓をおかされざる世の識者よ、願わくはしばし攻撃の手をやすめてもらいたい。そして、私が酒という言葉をいっただけでもう胸がむかつくとしても、しばし辛抱してその酒の何ものたるかをまず知ってもらいたい。諸君はさんざん悪口をいわれるが、ちっとやそっとの同情を、人情味を、それに加えても諸君の人格に傷がつくわけではあるまい。敗残の苦境にあえぐ人間を鞭うつのはよしてもらいたい。ラザロが生きかえったからといって、ラザロ同様の死に呻吟している者に向って堕落者よばわりしてさあ生きかえれと要求するのはやめにしてほしい。ラザロの場合は、あれは奇蹟があったからなのだ。
まず飲酒の癖を直すことだ、そしたら習慣が自然にそれをたやすくしてくれよう、と諸君はいう。しかし、それを直す初めが恐るべきものであったらどうなるか。第一歩が山に登るようなものでなく、火焔の中をくぐるようなものだとしたらどうなるか。もしこちらの体の組織全体が、焔をくぐるとある種の虫が前の形骸をとどめないくらい変るのと同じように、とんでもない変化をこちらが蒙ってしまうとしたらどうなるか。くぐってゆくべきその過程が生身の皮をはぐにも等しいものだとしたらどうなるか。こんなにまで悪戦苦闘して克服しなければならない弱点なのかどうか――他のもろもろの悪徳、つまり体質上必要欠くべからざるものでもなければ、心身を含めてその人間の全てをがんじがらめにしているものでもないといった悪徳にからみついている執念と、飲酒という弱点とを同一視してよいものかどうか。
たった一晩だが禁酒しようとしたある男がどんなに苦しんだか、その例を私は知っている。身を蝕《むしば》む酒がもう最初の頃のような魅惑をもたらさなくなってかなりな時がたち、酒が自分の暗い気持を明るくするどころかかえって暗澹たるものにすることは百も承知だったのだが、それでもその必死の苦闘の苦しみに堪えかね、とにかく今自分が感じている煩悩を脱するためにはこの試錬に堪えなければならぬと思いつつもその苦しみに堪えかねて、その男は絶叫し、大声をあげて男泣きに泣いたのを私は知っている。それほどその男の内部で戦われた苦闘の苦悩と苦痛はひどかったのだ。
私は今ある男といったが、それが実は私自身だったことをためらうことなくここに明言しようと思う。女々しい弁解を世間に向ってするつもりはもはやない。世間の人々は誰でもなんらかの形でまっとうな道理から道を踏みはずしているではないか。責任があるとすれば、自分で招いた禍いの責任があるとすれば、それは自分の性質にこそ帰せらるべきものなのである。
世の中には体のいい、頭もしっかりした、鉄のような内臓をもった人がいるのを私は知っている。多少の暴飲にもそんな人はびくともしないし、ブランディを(事実葡萄酒みたいに飲んでいるのを見たことがある)、いやとにかくその葡萄酒をいくらがぶ飲みしても、そういう人々は元来そう明晰でない頭脳が多少ぼやけるだけでそれ以上はなんともないのである。そういう人々は今の場合全く論外という他はない。彼らにかかっては、自分たちと力くらべをしようとして結局勝負から落伍し、そのあげくこんな無茶な競争は危いととめにかかろうとする弱い兄弟などは物笑いの種にすぎない。
私が話しかけているのはそれとは全く別種の人々である、弱き人々、神経質な人々に向って私は話しかけているのである。人前に出て自分のまわりの者が素面《しらふ》のまま当り前のような顔をして示している元気を見て、自分もなんとかそれに負けまいとしてつい杯に手を出さないではおれないといった人々を私は問題にしているのである。これが飲酒の真義なのだ。一生涯、酒に自分の身を売りわたすつもりはないという人々はすべからく初めから宴席を避くべきである。
十二年前、私はちょうど二十六歳をすぎたばかりであった。学校を出てからその時まで私はひたすら孤独な生活をおくっていた。私の相手は主として書物であったが、その他といえば私と同じような書物の好きな、生真面目な性格の友人一、二名くらいなものであった。朝は早く起き、夜も早く床についた。神が私に与え給うた能力を用いないで錆びつかせることはなかったと今でも思っている。
その頃私はふと全然型の違う連中と交わるようになった。彼らは恐ろしく騒々しい連中で毎晩夜ふかしはする、議論はする、酒は飲むといった風であった。しかし、何となく高邁なものがどことなく彼らには漂っているようであった。われわれは機智を互いに戦わした――真夜中すぎてからも、なお機智と呼べるかどうかはともかく怪しげな言辞を弄して悦に入っていた。空想をたくましくする力は連中よりひと一倍私はもっていた。みんなが喝采するものだからいい気になった私は、ひとかどの滑稽家をもって任ずるにいたった。人もあろうに私のような、いつも思うような意味の言葉が口に出せない上に生まれつきの言語障害があるために、滑稽家など全然|性《しょう》に合っていない人間がである!
もし読者諸氏にして私の場合のような神経の持主であれば、どんな人物になろうと心がけるのも自由であるが諧謔家《ウィット》にだけはならぬようにすべきであろう。舌の先がむずむずして諧謔を弄したくなったら、特に酒瓶やつぎたての酒杯を見て一種異様な思想のほとばしりがおそってくるのを感じた時には、とにかくそういう誘惑から逃げることである。でなければ諸氏は必ずや大きな破滅に陥るのは明らかなのだ。空想の力を、少なくとも空想と諸氏が錯覚している内なる力を粉砕できなければ、なんとかしてそれを他に誘導するか、何か他の方へそのはけ口を見つけてやらなければならない。随筆《エッセイ》を書くもよし、人物論をするもよし、何かの描写をするもよい。ただし、今げんに私が書いているように、頬にさめざめと涙を流して書くようになってはもうお仕舞いである。友人からは隣れまれ、敵からは嘲笑される。見ず知らずの他人からは怪しまれ、馬鹿な奴からはあっけにとられて見つめられる。うまく機智に富んだことがいえぬと頭が悪いと思われ、自分でこれはつまらぬと分っている時に仲々機智に富んでいるといってほめられる。前もっていくら考えてもどうしようもない当意即妙の諧謔をいえといって要求される。無理やりに何かいわされるが結局そのため軽蔑される。何か面白いことをいえとそそのかされ、そのあげくそういってそそのかした相手からは憎まれる。相手を楽しませるが、その報いとしてこちらがちょうだいするものは相手の怨みである。命を縮める酒をがぶがぶ飲むが、それも要するに怪気焔となってけちな聴衆の心をくすぐるだけの話である。気違いじみた夜宴にふけっては翌朝の惨めさを招く。夥《おびただ》しい時間を無駄に割いてその結果えられるものは馬鹿にけちけちした、ほとんどとるにたらぬ讃辞とくる。――まあ、こういったことが道化役の、そして死の払う代価というところである〔『ロマ書』六章二三節参照〕。
酒がとりもつ縁というか、とにかくそれ以外別にどうという固い結びつきのない連中とのこういう交渉も、時間が見事にかたづけてくれた。私自身の好みや人を見る眼などよりもひとすじに時間のお蔭というべきもので、私もこれらの初めての仲間の本性をはっきりと見ぬくことができたのであった。この交友の名残りは依然として彼らによって手引きされた悪徳や彼らによってふき込まれた悪癖の中に残っているが、それ以外は綺麗に消えてしまった。これらの悪徳や悪癖こそあの連中がまだ生き残っている証拠といえる。またもし彼らに対する私の行為が裏切りといいうるならば、これらの悪徳や悪癖こそその復讐の現われといえよう。
私がその頃にもっと親しく交わった連中は骨身にこたえるほど立派な連中であった。その有難味は今でもなお感じているほどである。彼らとの交友が悪い作用を私に及ぼした点もなくはないが、もしかりに同じ生涯を二度くりかえすことができるとしたら、やはり多少の悪影響はあってもああいった利益を失うにはしのびないだろうと思う。実は私は友だちづき合いはこういうもんだというひどくのぼせ上った考えから、酒気を帯びて彼らのところへいったのである。そこで何げなしにふるまわれたごく少量の油が意外にも私の古い焔に火勢をそそぐこととなり遂にのっぴきならぬ性癖が出来上ってしまったという次第である。
これらの友人たちはけっして酒飲みではなかった。ただ一人は職業上の習慣から、もう一人は父親ゆずりの風習から、煙草を喫《す》っていた。せっかく改悛しかけている男をまた元の悪につれ戻す罠としては、悪魔も実に味なことを考えだしたという他はなかった。焼けただれるような酒をがぶがぶ飲むかわりに無害な煙草の紫煙をぶかぶか吹かすのは、悪魔の裏をかくような気がした。しかしわれわれがこっそりすりかえようとしても、彼はそんな手にのる存在ではない。取引きでは見事にわれわれの負けなのだ。今までの悪癖のかわりに何か新しい弱点でごまかそうとしても、勝負運の強い悪魔の奴は一つの弱点のかわりに二つの弱点をこちらにつかませようとするのである。煙草というあの割に|たち《ヽヽ》のいい悪魔は結局自分よりももっと|たち《ヽヽ》の悪い悪魔を七人もつれてくるにいたったのだ〔『マタイ伝』一二章四五節参照〕。
いちいち仔細に説明して読者をわずらわせるのもどうかと思うが、とにかく私は、まず麦芽酒とともに煙草を喫いはじめ、次には薄い葡萄酒、次には水で割った強烈な葡萄酒、弱いポンス〔パンチともいう〕などを経て、やがて混合酒とか何とかいう名目のもとに妙ちきりんな酒を調合し、ブランディその他の体には毒な酒をふんだんに入れ、それに応じて水の分量はちびちびとへらし、ついにはほとんどそれがなくなり結局は完全になくなるといった風に、私は一歩一歩腕前をあげたのである。しかしこんな具合に自分の地獄の苦しみの真相をぶちまけるのは嫌なものである。
煙草がどういう意味を私に対してもっていたか、煙草に向ってどんなに鞠躬如《きっきゅうじょ》として私が仕え、どんなに奴隷のように奉仕したか、そのことをいっても読者はまさかと不愉快にこそ思われるだろうがなかなか信じてはもらえなかろう。煙草をやめようと決心をすると忘恩の譏《そし》りを受けそうな気になったし、まるで煙草は煙草にあらずして、生きた友人みたいな顔をして数々の要求を私につきつけてきた。何かの本でたまたま煙草のことを読むと、――たとえば『ジョーゼフ・アンドルーズ』〔十八世紀の小説家フィールディングの作〕の中でアダムズ牧師がどこかの旅籠《はたご》屋の炉辺で一服すっている条《くだり》とか、『釣魚大全』〔ウォルトンの随筆集〕の中で例の釣人がその名もゆかしい「釣人の間」という部屋で朝食前の一服をやっているあたりなどを読むと、一瞬にしてそれまでの数週間にわたる禁煙の努力もふっとんでしまうのであった。深夜ひとり家路を辿る道すがら、パイプの幻がたえず眼の前にちらつき、結局それをじかに手にふれないではすまされないこともあった――そうやってパイプを手にし、ゆらゆらと立ちのぼる紫煙をみ、とろっとするような芳香を嗅ぎ、その他さまざまなえもいわれぬ魅力に魅せられているうちに私の苦痛の感じもぬぐい去るように消えていくのだった。また、煙草は初めは私に光明を与えていたが、次第に暗さをあたえるようになり、初めの生き生きした慰めは消極的な息ぬきと変り、やがては不安と焦燥へ、ついには度すべからざる痛恨事へと変貌してゆくのであった。煙草のもつ秘密のすべてが今や私の前にその恐るべき真相を暴露されているにもかかわらず、私は今さらどうしようもないほどそれと堅く結ばれているように感じるのである。こういったことを話せばいくらでも話せるのだが……。それにしても煙草はまさに私の骨の骨、肉の肉〔『創世記』二章二三節参照〕……。
自分の行動の動機をつきとめたり、習慣の鎖を固くしばりつけている夥《おびただ》しい釘を数えたりするすべを知らない、あるいは私が今日白状したような因果な習慣にがんじがらめに縛られたことのない人は、私の話をきいても、えらくほらを吹いているといって白眼視するかもしれない。しかし、いくら友人に苦言を呈されても、妻に泣かれても、世間から非難されても、良いことはしなければならぬとは知っていても、依然としてパイプと酒瓶の呪縛から脱しきれない可哀そうな男としたら――この呪縛こそまさしく呪縛といわなくて何であろうか。
コレッジョ〔十六世紀のイタリアの画家〕の原画にもとづくある版画を私は見たことがあるが、それは三人の女がある木の根にしっかりと縛りつけられている一人の男のそばにくっついている画であった。「情欲」という女は彼を慰めており、「悪習」という女は彼を枝に釘づけにしようとしており、しかもそれと同時に「嫌悪」という女は彼のわき腹に毒蛇をあてがおうとしている画だ。その男の顔には弱々しそうな喜びの色が現われているが、それは現在の喜悦を味わっているというより過去のそれを思い出しているという風であり、善を行なう能力をあきらめきってただ悪の楽しみにもの憂くふけっている、柔弱遊惰に溺れきっている、束縛に甘んじて隷属している、壊れた時計みたいに意志の|ぜんまい《ヽヽヽヽ》がたるみきっている、罪とその苦悩が同時に同居している、いや後者が前者に先行している、つまり罪を犯す前にもうすでに後悔している――こういったことが同一の瞬間に全部表現されているといった画なのだ。この画を見てその画家の霊筆に私は驚嘆した。しかし、そのあと、私は泣いた。わが身につまされたからである。
わが身のこの境涯に転機がくる望みは全くない。「大いなる水わが上に溢れたり」〔『詩篇』六九篇参照〕。けれどももし私の声がとどくなら、私はこの深き淵より、危険な洪水にまだ一歩をふみいれたにすぎない人々のすべてに向って呼ばわりたいのだ〔『詩篇』一三〇篇参照〕。もし青年諸君が――初めて口にした杯の芳醇さにあたかもそこに人生の新しい展望が開けるかのように、新しく発見された楽園《パラダイス》へ一歩をふみ入れるかのように感じた青年諸君が、私の荒涼たる世界をかいま見、眼を見開いたまま諦観に身をゆだねつつ絶壁を転落してゆく感じがどれほど悲惨なものであるかを理解してくれたなれば――自分の身の破滅が迫っていながらそれを免れる力をもたず、しかもそれが自分自身から出た罪業であることを常に感じるということがどんな悲惨なことか、自分の内側からあらゆる善が失われてゆくのが分り、しかしかつてはそうでなかった昔のことが忘れられないということが、また自ら招いた敗残の目もおおうばかりの姿にのたうちまわるということがどんな悲惨なことか、そういったことが理解してもらえるならば、前夜の痛飲のために熱っぽくなっており、しかも今晩再びその愚行をくりかえすことを期待して熱っぽくなっている私の逆上した眼の色を見ることができたら、刻々に細りゆく叫び声をあげながら救われんことを求める私のこの死の体〔『ロマ書』七章参照〕の苦悩を感じることができたら、そうだ、もしそういうことが可能ならば、青年諸君は誘惑そのもののように燦然と光るその酒杯を地上になげすて、歯をくいしばって、
[#ここから1字下げ]
飲酒《おんじゅ》地獄に陥るを戒め
二度と口を開かぬ
[#ここで字下げ終わり]
ことができようというものだ。
それはそうだ。だが(と誰かが反対する声が聞えてくる)、もし酒を飲まないでいる、素面《しらふ》でいるということが君がわれわれに納得させようとしているほど立派なものであるならば、もしも冷静な頭脳から生じる心の安らかさの方が君がしきりに筆を弄して非難しているあの逆上気味の興奮状態よりもずっと好ましいものであるならば、いったいなぜ君自身その良き習慣へ帰ろうとしないのか――他人には絶対に離れてはいかんとすすめているその良き習慣へ何が邪魔をしているからこそ君は帰ろうとしないのか――もしそのような祝福された状態があくまで保持するに値するものであるならば、それはまた回復するに値するものであるはずではないか、と。
|回復する《ヽヽヽヽ》というのか! もし心に願えば、あの青春の日が再び戻ってくるものならば、夏の太陽に照らされ元気いっぱいな運動のために血潮がわきたって汗みどろになっている時、見つけ次第に澄みきった泉の水を飲んで熱気を吹きとばしたあの青春の日がくるものならば、よろしい、その時こそ私は喜んで君のところへ、子供の飲みものであり、無垢で神々しい隠者の飲みものである清水のもとへと帰ろう。夢の中でしばしば私は君の冷たい流れが私の焼けつく舌をうるおしてくれるのを見ることがある。けれども眼がさめると私の胃の腑はそれに見向きもしようとしない。純粋無垢なものに力をあたえるものが私を悩まし、私をいらだたせるのだ。
しかし、全面的な禁酒と、生命を縮める大酒の間に中庸の道はないものであろうか。――私は読者のために、そして読者が私の体験を二度とくりかえさないために、私は苦痛をたえしのんで恐るべき真相を告白しなければならない――中庸の道はない、然るべき中庸の道は見つけえないのだ、と。習慣も私の段階になると(私の場合ほど骨の髄までしみこんでいない習慣のことは問題外である――そういうものに対して忠告するのは理にかなったことといわなければなるまい)――私が陥ったような段階になると、無感覚と居眠りを、つまり酔っぱらい独特のあの卒中みたいな前後不覚の眠りを催すにいたる分量の一歩手前にとどまるということは、いうなれば一滴も酒を飲まないのと同じことなのである。どっちみち自制できないことは、つまりその苦しみは、同じことなのだ。その苦しみがどんなものか、読者が自分の体験に徴して知るよりも、できるならば私のいうことを聞いて信じてもらいたいと思うのである。もし私のような状態になればいや応なしに読者はその苦痛の何ものたるかを知ることは明らかである。つまりそういう状態になると、逆説的に聞えるかもしれないが、酩酊を通してはじめて理性が訪れてくるからである。恐ろしい事実だが、われわれの知的な力は飲酒三昧にふけっているうちにその通常の活動分野から放逐され、白日下における明晰な思考を失い、ついにはその荒廃してゆく力をかすかにでも現すためには、その見るも無残な頽廃の原因である致命的な狂気の発作の繰返しを待たなければならない羽目になるのである。酒飲みは素面の時ほど彼の真面目を失する時はない。その意味では悪こそ彼の善というべきである〔ミルトン『失楽園』第四巻における、「悪よ、汝こそわが善」という悪魔の言葉参照〕
読者よ、願わくは本来なら血気盛んなはずの私がいかにうつろな衰えはてた惨状を呈しているかに目をとめられたい。徹夜の痛飲から私がどんなものを手に入れたかを列挙する私の声に耳を傾けられたい。
十二年前、私の心身はともに健全であった。けっして頑健ではなかったが、私の体格はそれなりに別にこれといった病気にかかりそうな気配もなかったことはこの上なく有難いことであった。体の具合が悪いということは実際にはどんなことか見当もつかなかった。ところが今では、酒の中に沈淪している時を除けば、私はたえず頭と胃の具合が何となくおかしいのである。何かはっきりした特定の苦痛なり何なりがあった方がどれほど辛抱しやすいか分らないと思うほどである。
その頃は夏冬を問わず、朝六時すぎまで床にぐずぐずしているなどということはなかった。目がさめるといつも気分は爽快だったし、頭の中には何か楽しい考えがいつも浮かんでいたし、新しく生まれ出た一日を迎える讃歌の一節が口をついて出たものであった。今では、床の中に寝そべっていられる限りぎりぎりの時間までじっとしていたあげく、やっと起きるや否やまず念頭に浮かぶものは、自分の前に横たわる憂欝な一日の予感なのである。まだできれば寝ていたいという、あるいは目がさめなければどんなによかったかという、ある密かな願いもそこに漂うている。
生活そのものが、つまり昼間の生活そのものが悪夢のもつあの混乱、あの苦悩、あのさだかならぬ困惑にみちているのである。まっ昼間から私はくらき山に躓《つまず》くのである〔『エレミヤ記』三章十六節参照〕
仕事は特に私の性格にぴったりしていたわけではないが、どうしてもやらなければならない以上、気持よくやるにこしたことはないと私は思っていた。したがってある程度の敏捷さをもって着手するのが常であったが、今では考えただけでうんざりし怖気づきどうしてよいのか分らなくなる始末である。考え出すと次々に自分がいかに不適任であるかが痛感されてくる。自分にはとうていやり通す力はないという当惑した気持にかられると、自分の生計のもとである職業もなげ出したくなってくる。友人から頼まれたほんの些細な用事も、小売商人その他に注文するといったような私自身の責任として果たさなければならないつまらない任務でも、自分には堪ええない仕事として心に重くのしかかってくる。いわば行動の|ぜんまい《ヽヽヽヽ》がそれほどたるんでしまっているのだ。
他の人々との交際にも同じ臆病な気持がいたるところで私につきまとっている。友人の名誉なり立場なりが問題になった時、どんな犠牲を払ってでもそれを守る男らしい決心をすることを私が迫られても、大丈夫自分にまかせてくれなどとは義理にでもいえない。それほど私の道義的行為の|ぜんまい《ヽヽヽヽ》もたるんでしまっている。
かつて私が好きであったいろんな楽しみももう今では何の慰めもあたえてはくれない。すぐに飛びつきたくなるようなものは何もない。何にしても、どんなにちょっとの間でも根気をつめてやるのは死ぬような苦しみである。自分の今の有様をかいつまんでこうやって書いているのも、永い時間をかけて折々に書いたもので、思想の脈絡も何もあったものでなく、そうしようという気持もない。そういう努力は現在の私には困難なことになってしまっている。
以前私の心を高めてくれた歴史や詩作品中のすぐれた章句も、今はただ老齢にありがちな女々しい涙をそこはかとなくさそうにすぎない。だらしなく衰えきった私の性質は、偉大で畏敬すべきものを見てもただその前で空しく崩れおちてゆくのみだといえよう。
たえず大したこともないのに、いや全く何のいわれもないのに涙を流している自分自身に私はおどろく。こういった心の脆さがどれほど恥辱感や自分の堕落感を悪化させるか、口ではとてもいい表わすことはできない。
こういったここにあげた実例について私が真実こめていえることは、かつてはそうではなかったということである。
これ以上、自分の弱点をさらけ出す必要はもうなさそうに思う。これだけ暴露すればもう充分だといえるのではなかろうか。
私は一介の可哀そうな、自分のことばかりをいう男であるが、このような告白をしても今さら気にかけるべき自負心も失ってしまった男である。自分が嘲笑されるか、それとも人々のまじめな関心を惹くか、私には分らない。事実をありのままのべて、もし読者が自分の場合にひき比べて多少とも心をうたれるところがあれば、願わくはこの告白に深い注意を払っていただきたいと思う。自分がどんな人間になってしまったかを私は物語ってきた。読者がまだ間に合ううちにその歩みをとどめられんことを祈る。
〔匿名で一八一四年某誌に寄稿、のち一八二二年八月号の『ロンドン・マガジン』に再録〕
[#改ページ]
俗説――悪銭身につかずということ
この諺を一番よく口にするのは人間の中でも一番弱々しい連中に限られている。世間知らずの馬鹿者が金や地所をぺてんにひっかかってとられると、そんなものをとったところでそいつに何の役にたつものか、というのが馬鹿者に慰め顔にあたえられる陳腐《ちんぷ》な言葉である。しかしこの世間の悪党どもは――少なくともこの連中の中でもしたたか者は――そんなことは信じていない。
この古くから伝わっている諺にしてもし真実であるとしたら、これらの曲者《くせもの》も今ごろまでにはとっくにそのことを間違いなく悟っているはずである。連中は浮動的なものと永久的なものとをかなり鋭く区別している。「得やすければ失いやすし」という諺は、連中が喜んで被害者に進呈する言葉であるが、取るものはちゃんと取っている場合に限られている。略奪や詐欺によってせっかく手にいれた荘園《マナ》が詩人たちがいっているようにいつの間にか消え去ってゆくということは連中必ずしも事実だと思っていない。
すべての黄金が泥棒の手からまるで雪がとけるみたいにとけてゆくのも必ずしも事実ではないと知っている。俗人の手に帰した教会の土地もかつてはやがてするするとその手から放れるものといわれたものである。そういって非難攻撃した者も、その土地の相当部分が地すべりどころか固定してしまったのを見て、教会への返還の予言もずっと後世にならなければ実現しそうにないとかぶとをぬぐ始末とはなったのである。〔『ニュー・マンスリー・マガジン』一八二六年所載〕
[#改ページ]
解説
今、チャールズ・ラムの『エリア随筆』の解説を書くに当たって、さっと、ある一つの想念が私の頭の中を一瞬かすめて通ったことを、白状しないではおられない。想念というより、むしろ衝動といった方がよいかもしれない。ラムという人間が「エリア」という虚構の人物の仮面をかりてきて、あるいはまたギッシングが「ヘンリ・ライクロフト」という人間の仮面をかりてきて、広い意味での身辺雑記的な文章を書いたという事実――私もある仮面のもとに身辺雑記的なことを書いてみたい、そういう衝動を感じたのだ。自分であって、しかも自分でないある人間の仮面を通してなら、なんでも書けそうな気がする。私本来の責任においてはとても言えないことも、仮面の告白という形でならいくらでも言えそうだし、そういった形で言っておくべきことが山のようにあるような気もする。狡猾だな、と私も思う。しかし、なんと非難されようと、いや、私が私自身を非難しようと、責任というオブセッションから逃げ出してみる「責任」もまたあるのではなかろうか、と思う。さまざまな――もちろん、平凡で低俗な経験だが、それについて、同じだが違う一つのペルソナの口を通じて語ることも、必要なのではないだろうか? エリアはチャールズ・ラムではない。しかし、エリアというペルソナのなかに、仮面の中に、虚構の中に、ラムの本当な姿があったのではないだろうか?
こんど『エリア随筆』を読みかえしてみて、私はゆくりもなく自分のいわばエリア体験ともいえるものの歴史をふり返ってみた。いろいろな意味で、老境に入ったという実感を私が痛切に感じていることと、そのことは無関係ではない。あるペルソナのもとに、随筆と呼ぼうが私記と呼ぼうが構わないが、何がしかの、自分でなくてしかも自分の経てきた心の経路、あるいは経験を書きしるしたいと思うことも、現在の私の老人としての自意識の一つの現われなのであろう。実は今から十五年前にも、これと同じような『エリア随筆』についての解説を書いたことがあるが、そこでもやはり今と同じように、それまでのエリア体験についてふれている。その中で、私は若い時には若いなりに「エリアのかもし出す諧謔《ユーモア》と悲哀《ペイソス》はいく分かは……理解できなくはなかった」といい、さらにつづけて次のように書いている。「けれども、『退職者』のもつあの人生の機微への洞察はとうてい分るものではなかった。ところが今は違うように思う。先輩に当たる同僚の人々が年々停年退職してゆく昨今であるが、それらの人々の表情に表われる〈わが事おわりぬ〉という平和な喜びとともに何とはなしに漂っている寂しさを観察しながら、やがて自分に迫ってくる停年退職のことを実感として感ずるようになった近頃の私は、ラムのこの一文を頭でなく心情によって味読できるような気がする」云々。
当時私は五十歳を過ぎて間もなかった。ということは、停年退職を十年くらい先に控えた年齢だということを意味していた。「心情によって味読できるような|気がする《ヽヽヽヽ》」と私が書いていたことは、現在の私にとってはせめてもの救いである。私が停年退職してから、かれこれ七年の歳月がたった。退職する前後のごたごたした状況が今目に浮かぶ。それは十五年前に想像していた退職風景とは、似ても似つかぬものであった。エリア氏のそれとも完全に違うものであった。もし私がラムの、あるいはエリア氏の真似をして、「退職者」という随筆《エッセイ》を書いたらどんなものになろうかと考えると、正直いってぞっとする。なぜなら、私には、随筆を書くような文学的資質、|ゆとり《ヽヽヽ》、ある種の距離感覚、読者への配慮、諦観、自分自身を楽しませ他人を楽しませる暖かい心、等々が欠けているからだ。かりに、私が、エリア氏ならぬ××氏のペルソナをかりて随筆を書くとすれば、恐らくその××氏をつきとばして生《なま》の私自身が顔を出すにきまっている。狽介《けんかい》な「私」が内心の鬱憤を吐き出すにきまっている。私が随筆を書けるのはまず先のことだ(もう少し長生きできるとしての話だが)。ラムは文学者であり、人生に関する一種の達人であったとしみじみ思う。
前にも言ったように、私も同時代の人々や先輩たちと同じように、若い時にこの本を読んだ。今もそうだが、若い時も(学生時代も学校を出たあとも)本当にラムの英語は難しいと思った。戸川秋骨はラムの文体を「一種の象嵌細工《ぞうがんざいく》のような趣き」をもつものと言ったが、未熟な語学力で読解することは容易なことではなかった。しかし、戸川秋骨訳の『エリア随筆』(岩波文庫、昭和十五年、但し上巻のみ)や石田憲次氏訳の『続エリア随筆集』(新月社、昭和二十三年)、平田禿木の『ラム』(研究社、昭和十三年)、福原麟太郎氏の『チャールズ・ラム伝』(垂水書房、昭和三十八年)等々の恩恵を蒙って多少ともこの本に近づきえたことを感謝しないではおられない。新しい全訳があればわれわれにはどれほど有難いことだろうかと思う。それにしても、古今東西の文学を渉猟し、吸収し、独特な文体と語り口をもっていた堀大司氏が今日もはやこの世の人でないのが、惜しまれてならない。堀さんが福原麟太郎氏の前記の書物を批評・紹介した一文が今手もとにあるが(『図書新聞』、昭和三十八年十二月十四日号)、その中で「筆者が感動を受けた最初の英文学の作品が偶々ラムの随筆だった」とか、「筆者は東京外語に入った途端に『停年退職者』を教はり、同時に教はったポーよりも一入《ひとしお》深い感動を受けた」とかいう言葉がみられ、一種の感慨を私は覚える。知る人ぞ知るであるが、堀さんのあの抜群の語学力と博識と人間的円熟味があったればこそ、早くからラムを味わい得たのであったろう。ラムの翻訳者としては、あの洒脱な堀さんが誰よりも適任であったはずだ、と今にして思うのである。
もちろん、私のような晩熟型の、都会的な洒脱さとはおよそ縁遠い田舎者でも、若い時には若いなりに、この随筆集をある程度味わったことは否定できない。「人間の二種類」とか、「夢の中の子供たち」とかいう作品に何ともいえぬ面白味や独特な感傷をある程度感じることができたとは思う。人生の経験であれ、読書経験であれ、次第に年をとってゆくにつれて、私の共感が変わっていった(出来れば深まっていったといいたいのだが)のもまぎれもない事実なのだ。「人間の二種類」の中で、本を借りられる側に立たされたエリアが、本を借りてゆく名人コンバーバッチにさんざん書斎を荒らされた惨状を訴えるところがあるが、そこでは、たとえば、ドッズレー版の戯曲集の第四巻、つまりヴィットウリア・コロンボウナの出てくる巻が欠けたままになっていると嘆いている。これなども私は昔は全くそんなものかなあと思いながら読みとばしたものだった。だが、ヴィットウリア――この女の、ウェブスターの悲劇『白い悪魔』のこの女主人公の、魅力にとり憑かれたことのある読者なら誰しも理解できると思うのだが、私もこの女を知るに及んで、ラムの、いや、エリア氏の惻々たる哀切の情に共感できるようになったのだ。一冊の本が書架から消えたという単純なことではない。恋する女を友人にとられてしまったのだ。頭でなく心で、心でなく肌で本を読むエリア氏! だが、何か非常に微妙な問題が著者チャールズ・ラムに関してここにあるような気がする。現実と幻想との幽玄な交錯みたいなものが存在する。
エリア氏が第一人称で語っている次の文章を、われわれが「ラムは……」という第三人称の形におきかえてみたら、どうなるか?「こういう回想にただもうだらしなく耽るのがたまらなく好きだというのは、何か病的な性癖のしるしかもしれない。それとも何か他の原因によるのであろうか。たとえば、妻や家族がないので自分のこと以外には何も考えられなくなっているのかもしれないし、一緒に遊ぶ自分の子供がないので自然に記憶ばかりをたよりにして、いわば若き日の自分の姿をわが後継者、また愛児としていつくしむようになっているのかもしれない」云々(「除夜」)。ラム自身が「病的な性癖」と書いたことに、われわれは注意を惹かれる。幼い頃や若い頃のことを回想すること自体は少しも病的なことではない。誰だって除夜の鐘をききながら、過ぎ去った一年のこと、ああ、あの人も死んだ、等々思いは次々に過去へ、過去へと遡り、失われた無垢《イノセント》な時代を思い浮かべるものなのだ。だが、病的かもしれないと思うところに、まさに何とはなしに病的なものに近い何かを私は感ずる。いや、「病的なものに近い何か」という言葉は妥当ではない。鬱々として抑えきれない複合観念《コンプレックス》があるといった方がいくらかましかもしれない。二人の子供(アリスという女の子とジョンという男の子)を前にして、今は亡きその母親の話をして聞かせていたが、「ふとアリスの方を見ると、彼女の眼からは母親アリスの魂が在りし日の姿そのままにこちらをのぞいていた。私は今自分の前にいるのが、二人のアリスのどちらなのか、今眼の前にある輝く髪の毛はどちらのものなのか、分らなくなった。まじまじと見つめていると、子供たちの姿が次第にぼやけ、次第に遠のいていった。しまいにはずっと遠方にただ二つの物悲しげな顔だけが残った」。……そして急に眼が覚めたが、「そばにはいつに変わらぬ姉ブリジェットがいた」云々。これは「夢の中の予供たち――ある幻想」の末尾の部分である。このような夢、あるいは幻想は程度の差はもちろんあるが、われわれにも経験できないことではない。ただ、今日の読者が、ラムという現実の世界で生きて死んでいった人間の経歴を知るとき、この随筆のもつ迫力は強くなり、ラムの内なる複雑な世界はいっそう脈々と訴えてくるはずである。われわれ(私のいう意味は普通の、ノーマルな日常生活を営んでいる人間ということだ)が、簡単に「分る、よく分る」などといえた義理ではない、ある微妙な世界がそこにある。
チャールズ・ラムは一七七五年に生まれ、一八三四年に死んだイギリスの文人である。日本の元号でいえば安永四年に生まれ、天保五年に死んだ遠い国の遠い昔の人間だったのだ。しかし、『エリア随筆』の中のいわば普遍的な人間性についての作品(たとえば「酔っぱらいの告白」等々)を読むと、ラムが新宿あたりをうろついている小説家の一人のような気になるから不思議である。これが古典というものかもしれないが、そうだとすると古典というものは全く摩訶不思議なものといわなければならない。ラムはロンドンの法学院の一つインナ・テンプルの構内で生まれた。父がそこのある偉い法学者の執事のような仕事をしていたからである。彼は生粋のロンドンっ子だ。このことが彼の都雅で洒脱で妙に人間臭い性格を育てあげ、たとえば田舎者で、自然の中から異様な畏怖すべきもの(いわゆる「ダス・ヌミノーゼ」)を心の奥底にまで嗅ぎとっていたワーズワースなどと際立って違っていた点であろう。七人の兄弟姉妹のうち長男ジョンと長姉メアリと末子チャールズ・ラムだけが生き残った。メアリは十一歳年長である。母方の祖母がハーフォドシャーの田舎に住んでいたので、ラムは屡々出かけていったようである。七歳の時、当時まだロンドンにあったクライスツ・ホスピタル学院に入学したが、そこで一人の天才的な少年と親しくなった。この少年こそのちに詩人・批評家・形而上学者として名をなしたコールリッジその人であった。貪欲な読書家であったコールリッジがラムからいろんな本を借りたことは、前にふれた「人間の二種類」の中で、コンバーバッチという名で登場することからも察知できる。この二人の友情はその後数十年にわたってつづき、コールリッジの死後数ケ月のち、ラムもそのあとを追うようにして死んだ。三歳年上であるコールリッジはクライスツ・ホスピタル学院を出たのちケンブリッジ大学に進み、文壇の陽の当たるところを華やかに、意気軒昂として歩んでいったが、ラム自身は中途で退学し、やがて南洋商会に入社し、しがない社員生活の第一歩を踏み出した。その後まもなく、東インド商会に転じ(十七歳の時であった)、三十数年、ただこつこつとサラリーマン生活をおくり、五十一歳の時に停年退職したのである。クライスツ・ホスピタル学院は当時の名門校の一つであり、しかもラムは優秀な生徒であり、大学進学も可能であったが、もし彼が大学に進んでいたらどういう華々しい生涯を送っていたろうか、と私は夢想する。しかし、そういう生涯を送っていたら、われわれの愛読する『エリア随筆』はおそらく生まれなかったろう、とも思う。この傑作は、ロンドンという町の、市井の人の書いた市井の文学であり、高邁な、あるいは崇高な象牙の塔から生まれたものではなかったのだ。
クライスツ・ホスピタル学院のことで、われわれが忘れることのできないことは、数年前に亡くなられたプランデン氏がそこの卒業生であったということだ。一九〇二年にこの学院はロンドンからサセックス州に移転したので、ブランデン氏は勿論そちらの方の卒業生だ。日本と日本人を誰よりも愛したこの詩人・批評家が、ラムの後輩であり、ラムをこよなく愛したことは、われわれに、一種の合縁奇縁《あいえんきえん》みたいなものの存在を感ぜしめる。プランデン氏がわれわれに教えてくれたことの一つは、人間に対するいわゆる想像的共感――相手の心の中に滲み通るような形で入り込んでゆく感受性をもつべきだ、ということであった。氏のあの柔軟で共感(同情といってもいい)に富んだ批評の中には、ラムの資質の中の最もいいものが流れ込んでいるように感じるのは、私だけであろうか?
ラム――両親や姉をかかえ、黙々と東インド商会の若い社員として日夜帳簿を前にして几帳面に働くラム。こういった人間模様はさして珍しいことではなく、これに似た風景はわれわれの周囲にも|ごろごろ《ヽヽヽヽ》見かけられるものだ。しかし、彼の心の中には、普通の日常生活を営んでいる者には容易に察知できないような、ある一つの不安があった。それは、父から伝わっている狂気への不安であった。……と、ここまで書いた時に、私は自分の教え子(かりにP君と呼ぼう)の姿を思い出した。P君も同じような不安に憑かれていた。彼の長い入院生活を私はつぶさに見ているが、私が与える煙草でなければ吸わず、私が大丈夫といわなければ薬ものまなかったこの若い学者は、一応よくなって職場に復帰したが、結局自殺した。このP君の顔が今目に浮かぶ。このP君の場合もラムの場合も、他人の容易に察知できない、共感とか同情などという言葉なんかまるで子供だましのようにしか響かない、ある痛切無残な痛みが心の底にあったろうと思う。
ラムの体の中に流れていた血は、もちろん、姉メアリの体の中にも流れていた。私には医学のことは門外漢で全く分らないが、この姉と弟は、正常な時と異常な時が交替に訪れていたようである。特にこのような状況はメアリの場合に多く生じ、異常な兆候が現われるとラムは泣きながら姉を病院へ連れていったといわれる。やがて、ラムにとって最大の試錬の時がくる。一七九六年九月二十二日(つまりラムが二十一歳の時だ)、メアリが裁縫を教えていた女の子と些細なことから口論し、逆上し、仲裁に入った母をナイフで刺殺するという事件が起こったのだ。職場から駈けつけたラムがメアリの手からナイフをとりあげた。父も傷を負っていた。姉の入院、母の葬式等々、このような危機に陥った若い青年の苦衷は察するに余りがある。恐らく、ラムが最も恐れたことは、このような悲劇的な事件に触発されて起こる、自分自身の発狂であったろう(事実この不安を彼は友人コールリッジヘの手紙で述べている)。
ラムを襲ったこの不幸な事件をどう判断ないし評価するかは、後世のわれわれの自由である。私自身は否応なしに感傷的にならざるをえない。よくある事だ、と冷静に受けとめることはできない。それはともかくとして、この事件がラムの生涯にほとんど決定的というか致命的な傷痕を残したことは否定しえない。彼が、ここに私がその一部を収めた多くの随筆を書いたのは二十数年経過してからであり、従ってこの時の傷痕も多少は癒えていたかもしれないが、依然として姉の面倒は見なければならなかったし、たえず、あるいは深層の意識の中で屡々この事件は息づいていたはずである。ラムがエリアのペルソナをかりて諧謔を弄したり、快活になったりすればするほど、私はラムの若き日の事件のことを思わないわけにはゆかない。と、同時に、ここまで心の苦悩を昇華し、純化したラムの人間的な成熟を思わざるをえない。
ラムも若い時に恋をした。相手は祖母が住んでいた田舎の金髪の乙女アン・シモンズであった。この乙女こそ、ラムの詩に出てくる「金髪の乙女」アナの、随筆に出てくるアリス・W―nの、モデルに他ならない。自分自身の将来についても、また姉の将来についても、不安で不安でたまらなかったラムにとっては、結婚は所詮不可能なことであった。ラムが自ら身をひいたのかどうなのかは明らかでないが、とにかくこの恋も悲しい諦めの形で終った。――いや、終ってはいない。「夢の中の子供たち」の中で現われるアリスという女の子を通して、われわれの想像力の中で脈々と今日にいたるまで生きている。二人の子供たちの姿が消え、ラムは、いや、エリアは夢から覚める。「そばにはいつに変わらぬ姉ブリジェットがいた」。ブリジェットとはラムの姉メアリのことであることは、いうまでもない。
ラムはこのあともう一度恋をしている。四十四歳の時で、相手は二十九歳の当時有名な女優ファニー・ケリであった。両者とももはや若くはなく、当然思慮分別が充分働く年齢であり、ケリはていねいに結婚の申し込みを断わっている。ラムが結婚をまじめに考えたことは、とりも直さず、ラム自身も姉も心理的にかなり安定した状況にあったことを意味している。比較的順調に、ラム姉弟の現実的な生活も、家計も、そして友人コールリッジを通じて次第に拡がっていった文壇人との交際、その交際を機縁に次第に盛り上がっていった文筆活動、――こういったものが比較的平穏無事な形で進展していたのだ。正常な時期のメアリと共著の形ですでに『シェイクスピア物語』(一八〇七)を始めいくつかの著書を世に問うていたし、ラム自身の詩や小説や評論や劇評などもかなり好評を博していた。
彼がファニー・ケリに求婚し、断わられた年の翌年の正月、彼は「南洋商会」と題する一つの随筆を書き始めた。これはジョン・スコットという男が主筆となって創刊された『ロンドン・マガジン』に寄稿するためであった。スコットはジャーナリストとして優れた感覚をもっていたらしく、ラムをいわばお抱えの寄稿者として選んだことに対し、われわれは大いに感謝しなければならない。スコットが決闘のため死亡したのちにも、同誌とラムの関係は続いた。その結果、今日、『エリア随筆』が残っているのである。「南洋商会」は八月号にのり、初めてエリアの名が、というより人間が、この世に生まれたというわけだ。主としてこの『ロンドン・マカジン』に断続的に連載されたものを中心に、のちになってラムは『エリア』(一八二三)と『続エリア随筆』(一八三三)を編んで出版した。われわれのいう『エリア随筆』はこの両者をまとめたものをさしている。エリアEliaという名前はある知り合いのイタリア人の名から失敬したものだそうだが、これこそ嘘か本当か分らない。
ラム自身の生活にもいろんな変化が生じた。一八二五年三月二十九日には長年勤務していた東インド商会を停年退職した。この時の状況は、その年の『ロンドン・マガジン』五月号にのった「退職者」の中におもしろおかしく、嬉しいような物悲しいような調子で、修飾を加えて描かれている。「私の名は今では自適居士である。……ワガ事オワリヌ。……余生は私自身のものなのだ」ああ! と私は長嘆息するのみである!
やがてクライスツ・ホスピタル学院時代からの親友コールリッジが死ぬ(一八三四年七月)。そして、われらのラムもその年の十二月に死ぬ。その頃、姉メアリは何度めかの狂気の発作におそわれていた。ラムは時に五十九歳。
最後に。平田禿木、戸川秋骨、岡倉由三郎、福原麟太郎等々の方々がラムを、とくに、『エリア随筆』を愛読された気持が、私にも分るような気がする。かって、平田禿木は、「縷々《るる》と説き去り説き来る委曲の筆を誦して行くと、紅毛人であるラムは遠く洋を隔てて寒山拾得の禅味、風流をさへ解してゐるのではないかと思はれて来る」と言った。禅味とか風流という東洋独得の言葉で表現できるかどうかはともかくとして、そういう言葉で表現したくなる何ものかが、――人間が共通にもっているものにかかわる心情が『エリア随筆』にあるのは否定し難い。私の好きな言葉に、「生死還雙美」(生と死とまた雙《ふたつ》ながら美《よ》し)というのがある。寒山の一句である。
一九七八年九月一五日
〔訳者略歴〕
平井正穂(ひらいまさお)
一九一一年福岡県生まれ。東京大学英文学科卒、同大学文学部教授をへて武蔵大学教授。おもな訳書にモア『ユートピア』(岩波文庫)デフォー『ロビンソン・クルーソー』(筑摩書房)、主著『ミルトン』(研究社)『イギリス文学試論集』(研究社)『ルネサンスの人間像』(八潮出版社)