ウォーハンマー・ノベル ドラッケンフェルズ
ジャック・ヨーヴィル
安田均・笠井道子 訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)吸血鬼《バンパイア》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|闇の感覚《ナイト・センス》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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閣下、おそれながら、あなたはまちがっておられます
劇作家は真実を語ります。嘘《うそ》をつくのは歴史家なのです
[#地付き]――デトレフ・ジールック『わが天賦の才に寄せて』より――
ユージーン・バーンとブライアンスメドリイ、アレックス・ダンに
寿命の心配をするのは臆病《おくびょう》物!
[#改ページ]
ジュヌビエーブのドラッケンフェルズ砦への遠征仲間
ジュヌビエーブ………不老不死の吸血鬼の女
オスバルト………オストランドの選帝侯の子息
ウエリ………ドワーフ、裏切者
ジュール・イェハン……学者
メネシュ………ドワーフ
ルディ・ヴェゲナー……山賊の首領
ステラン……ルディの腹心の魔法使い
工ルツベト……踊り子、ルディの恋人
アントン・ファイト……賞金稼ぎ
デトレフのマンドセン砦での仲間
デトレフ・ジールック……劇作家
ペーター・コジンスキー……傭兵
ケレト………靴直し
ガグリールモ……商人
スツァラダット……模範囚
ヘンリック・クラリイ………オスバルトの忠実な部下
リリ・ニッセン……女優
ファーグル・ブレグヘル……小人の道化師
ラスツロ・レーベンスタイン……ドラッケンフェルズ役の役者
カール・フランツ………帝国《エンパイア》の皇帝
ルイトポルト……カール・フランツ皇帝の息子
マクシミリアン……オストランドの選帝侯
コンスタント・ドラッケンフェルズ………大魔法使い
シグマー……帝国《エンパイア》の守護神、戦鎚《ウォーハンマー》の使い手
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序幕
二十五年前
T
ジュヌビエーブ・デュードネはナイフの切っ先を右|脇腹《わきばら》、腰の真上に突きつけられて、はじめてドワーフのウエリの裏切りに気づいた。服の上から皮膚がくぼみ、蜂《はち》に刺されたような痛みが走る。そのナイフはどこか妙だった。刃が綿を詰めた革上着の縁《へり》から肉へと食いこんだ。
銀だ[#「銀だ」に傍点]。ナイフの刃は銀でできている。
ジュヌビエーブの体は、この魔法の金属が触れた瞬間、火がついたようになった。と、武器が引きぬかれ、さっと翻《ひるがえ》ったかと思うと、心臓にとどめの一撃を刺そうとしてくる。ジュヌビエーブは歯のきしるような声を上げていた。自分の顔――六世紀もの間のぞきこんだことのない自分の顔――がゆがみ、目は血走り、鋭い犬歯がむき出しになるのを感じる。脇腹の血に濡《ぬ》れた傷口はすぐ閉じたけれども、まだうずいている。血が半ズボンの内側を伝いおちていた。
どこか近くの岩場で、汚らしい鳥がひ弱な雛《ひな》をむさぼり喰いながら、ぎゃーぎゃーと鳴いている。ルディ・ヴェゲナーは膝《ひざ》をついて、ジュール・イェハンを押さえつけ、この学者の喉《のど》から噴き出す血を片手で止めようとしていた。一行のたどりついた峠、この灰色山脈のごつごつと荒れ果てた高台は不浄の地だった。もう午後も遅くなっていたが、ジュヌビエーブの動きは陽光のせいでまだ鈍い。そうでもなければ、ウエリは決して彼女を襲ったりしなかっただろう。
ジュヌビエーブは籠手《こて》をつけていない手を上げると、胸の前で掌《てのひら》を外に向け、心臓をかばった。ナイフがくりだされ、狂暴なうなり声にゆがむウエリの顔が見える。親指ほどもあるドワーフの歯はジュール・イェハンの首から迸《ほとばし》った血に染まり、歯の隙間《すきま》には喰いやぶった皮膚の破片がのぞいている。ジュヌビエーブは腕を突きだし、ナイフの切っ先を掌の真ん中に受けた。前にもまして鋭い痛みが走り、骨がばらばらになったような気がする。ナイフの先が手の甲を突きやぶった。肉が裂け、赤く染まった金属が中指の下からのぞく。
銀はじわりとしみだすジュヌビエーブの血にまみれつつ、沈みかけた陽光にきらめいた。ウエリは悪罵《あくば》を浴びせながら、赤い泡の混じる唾《つば》を吐く。そして、全力をこめて攻撃を続け、彼女の腕を押しもどして、その手もろとも胸を串刺《くしざ》しにしようとした。銀が少しでも心臓を切り裂けば、哀れなジュヌビエーブはこの先何世紀も生きるということはないだろう。
ジュヌビエーブにとっては肉の裂ける痛みは問題ではなかった――明日になれば、かすかな傷跡すら残らないはずだ――だが、銀は体の中で燃えている。彼女がドワーフを手で押しやろうとしたため、刃は一センチごとに痛みを増しながら、さらに掌に喰いこんだ。ジュヌビエーブはナイフの柄《つか》が掌に当たるのを感じると拳《こぶし》をつくり、なおも力の衰えぬその指でドワーフの武器を握りしめた。
ドワーフは空いた手でジュヌビエーブの腎臓《じんぞう》を二度殴りつけた。予測していたことなので、たいした痛手ではない。ジュヌビエーブが相手の胸をまともに蹴りあげると、ドワーフは血でぬめる彼女の拳の中にナイフを残して後ずさった。ウエリが自分の長靴《ブーツ》におさめた反り身の短剣を取ろうと手を伸ばしたところを、ジュヌビエーブが逆手で殴りつける。鋭く尖《とが》った六本目の指のように彼女の拳から突きでたナイフの刃が、ウエリの額を深くわだちのようにえぐる。ナイフが相手の頭骨に突き当たったときには、手が痛んだ。
ドワーフは目に血を滴らせて、よろよろと後退した。その胸に三本の矢が斜め方向に突きささり、矢羽根まで肋骨《ろっこつ》に埋まる。アントン・ファイトが三連発の石弓《クロスボウ》を命中させたのだ。ジュヌビエーブは手からナイフを抜いて、それを投げすてた。拳を握ったり開いたりするうちに、うずく傷口が閉じていく。ウエリはファイトの矢の毒に体を冒《おか》され、なおもよろめいていた。小さな死の汚れはドワーフの血管を駆けめぐって広がり、脳にまで達しようとしていた。毒の調合にかけては、賞金稼ぎであるファイトの右に出る者はいない。ドワーフは体をこわばらせ、どうと倒れた。
踊り子でもあり暗殺者でもあるエルツベトが針金の輪をウエリの首に巻きつけ、相手の死を確信するまできつく絞めあげる。ジュヌビエーブが血にまみれた手を伸ばすと、そこにオスバルト・フォン・ケーニヒスバルトがハンカチを持って立っていた。彼女はハンカチを受けとり、自分の血の香りを味わいながら、細長い切り傷をきれいになめた。それから、手にハンカチを巻きつけて、すでにふさがりかけている傷をしっかりと押さえる。
「ドワーフのくずめ」ファイトはそう言うと、ウエリの死に顔に痰《たん》を吐きかけた。「まったく、いつ裏切るか、わかったもんじゃない」
「ドワーフのくず以下[#「以下」に傍点]だ、賞金稼ぎ」メネシュが言う。この男はウエリとともに仲間に加わっていた。ジュヌビエーブは二人のドワーフには血のつながりがあるのだろうと思っていた。「見てみろ」
死んでから、裏切り者は成長しつつあった。少なくとも骨格や内臓がどんどん膨れあがっている。皮膚や衣服が破れ、その大きな亀裂から生々しいピンクや紫色のものがのぞいていた。人間なみの大きさになった骨が地面の上でねじれ、ずたずたに裂かれて残った皮膚の隙間から、湿った臓物があふれだす。
オスバルトは上等のティリア製の革長靴が汚物で汚れるのを嫌って、後に下がった。見開かれたままのウエリの両目がぽんと飛びだす。蛆虫《うじむし》が眼窩《がんか》をのたうちまわり、はちきれんばかりになった頬《ほお》へとこぼれて、顎髭《あごひげ》にもぐりこんだ。舌は鎌首をもたげる蛇のように口からすべり出て、よじれながら信じられないほど長く伸び、胸にたどりついた後、ようやく動きをとめた。エルツベトは口汚く罵《ののし》りながら、針金の輪を解いた。
「やつはほんとうのドワーフじゃない」メネシュが続けた。
「ああ、そのとおりだ」ルディ・ヴェゲナーが言った。かれはジュール・イェハンの血を止めるのをあきらめ、腹心の魔法使いにその手当てを委《ゆだ》ねていた。「だが、それならいったい何者だったんだ?」
メネシュは紐《ひも》で結わえた武器をかたかた鳴らして肩をすくめ、なおも膨れつづける骸《むくろ》を長靴の爪先《つまさき》でつついた。「たぶん魔物《デーモン》だろう。ドラッケンフェルズに従う化け物さ」
ドワーフはウエリの膨れた兜《かぶと》を広い岩棚から蹴りおとした。兜はみなに忘れさられた後も、いつまでも地面を転がりおちていった。
三か月もの間ともに馬を駆ってきたドワーフらしきものの残骸《ざんがい》から、死臭が漂ってくる。ウエリはかれらと寝起きをともにし、同じ食べ物を分かちあい、労を惜しまず戦ってきた。狙《ねら》いたがわぬかれの投げナイフの技がなければ、何度オークの餌食《えじき》になったかしれない、とジュヌビエーブは思う。果たしてウエリは最初から裏切り者だったのだろうか? ずっとドラッケンフェルズに仕えていたのだろうか? あるいはしばらく前、ドラッケンフェルズ砦《とりで》の影が頭上に落ちたときから、かれの裏切りがはじまったのだろうか? ジュヌビエーブは今度の冒険に加わった仲間のことを、ほとんどなにも知らなかった。
冒険! オスバルト・フォン・ケーニヒスバルトが目を輝かせて、 <三日月> 亭にジュヌビエーブを誘いにきたときには、これこそ冒険だと思えた。彼女は百年ほどもアルトドルフのその酒場で働き、酒をついできた。長命には退屈という重荷がつきものなのだ。 <闇《やみ》の口づけ> を受けて以来、生と死の境を永遠にさまようことになったジュヌビエーブは、退屈を紛《まぎ》らわせるためなら、どんなことでもいとわずやってきた。そう、アントン・ファイトが金貨《ゴールド・クラウン》を手にするためなら、どんなことにでも手を染めるように。そして、ジュール・イェハンが学識を深める機会を得るためなら、またルディ・ヴェゲナーが名声を得るためなら、あるいは、数週間前に死んだハインロトが宿願の復讐《ふくしゅう》を果たすためなら、どんなことにでも手を染めるのと同じだ。だが、オスバルトは? オスバルトは――思えば、かれは皇子なのだ――いったい、なんのために骨身を惜しまないつもりなのだろう?
冒険! 探索の旅! それは物語詩や読物、伝説や酒場の噂《うわさ》の種にはなるだろう。だが、これまで通ってきた後に死体が累々と積まれ、さらに二人の仲間が目の前で死んだいま、ジュヌビエーブの心は揺らいだ。自分たちがやろうとしていることは、ただの胸の悪くなるような忌まわしい殺人ではないのか。胸の悪くなるような忌まわしい連中は殺されて当然だが、それを行なうのは人殺しとかわりない。
「ジュール・イェハンはどうだ?」オスバルトがきいた。
ルディのいかにも場数を踏んだ山賊めいた顔からいきいきした陽気な表情が消え、かれはかぶりを振った。学者はまだ血を流していたが、目は白目をむいている。足でもがくのも止めていた。魔法使いのステランは死体から目を上げた。「どうしようもありませんでした。あのドワーフめが骨まで首を食いちぎってましたからね。窒息しなくても、出血多量で死んだでしょう。あるいは、その逆か。どちらにせよ、助かりませんでした」
「もういい」オスバルトは言った「われわれは先に進まねばならん。もう間もなく陽《ひ》が落ちる。暗くなれば、ますます厄介なことになるからな」
そう、大半の者には厄介だ。しかし、ジュヌビエーブにとって、それは好都合だった。太陽が地平線の向こうに沈むと、闇の感覚が蘇ってくる。手と脇腹に残る痛みは気にせずにいられた。頭上には、ドラッケンフェルズ砦《とりで》が深紅《しんく》の空にそびえ、七つの小塔が奇形の手についた鉤爪《かぎづめ》のように空に突きだしている。断崖《だんがい》の上にある入口は、あいかわらず岩の腹にいくつかぽっかりと口を開いている。ジュヌビエーブはそうした入口の奥の暗闇に目を見たような気がした。かれらの到来を喜ばないものが、目のような形をして無数の窓の向こうを飛びかっているかのようだ。
ここでかれらの冒険は終わりを告げるはずだった。周囲の山と変わらぬ、この灰色の切りたった城の中で。帝国《エンパイア》より古く、死神より不気味な要塞《ようさい》である、 <大魔法使い> のこの根城で。
それがドラッケンフェルズ砦だ。
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<大魔法使い> コンスタント・ドラッケンフェルズは長命、いや不死と言ってよかった。ジュヌビエーブ・サンドリン・デュ・ポワント・デュ・ラク・デュードネが最初に生を受けたはるか以前から存在していた。ジュヌビエーブがこの世に生まれたのは、忘れもしない六三八年前のことである。
人間として生きていた頃、ジュヌビエーブの家はブレトニアの東部、パラボン市にあった。父は支配者一族の大臣を務め、姉妹たちは宮廷でも名だたる美女に数えられており、その美しきは既知世界《ノウン・ワールド》中に鳴りひびいていた。当時、ドラッケンフェルズは人間に混じって頻繁《ひんぱん》に旅をしてまわり、ちょくちょくブレトニアや帝国《エンパイア》の宮廷に金属の仮面をかぶって顔を出していた。
当時、その話はもっと生々しかった。ドラッケンフェルズの放蕩《ほうとう》ぶりや耳をおおいたくなる犯罪の数々、すべてを破壊しつくす怒り、とほうもない魔術、すさまじいまでの復讐《ふくしゅう》、たった一度の敗北といった噂《うわさ》がひそひそと言いかわされた。ドラッケンフェルズはこの世界を牛耳る権力の一つだった。いまでは半ば忘れられた存在とはいえ、あの男はまだ力を握っているはずだと、ジュヌビエーブは思っている。ドラッケンフェルズはかつてシグマー・ヘルデンハンマーによって、ただ一度の敗北を喫したことがある。考えてみれば、その頃シグマーが人間と見なされていたのは、奇妙な話だ。それほどの英雄でありながら、人間であるというのは。最近では、僧侶《そうりょ》はシグマーを帝国《エンパイア》の守護神と呼んでいる。だが、シグマーはいずこへともなく去っていった。それなのに、かれがかつて屈服させた怪物はいまもこの世にいる。ドラッケンフェルズの邪悪は、なおも世界に大いに存在しつづけているのだ。
ジュヌビエーブは <闇《やみ》の口づけ> を受ける四年前、十二歳の少女の頃に本物のドラッケンフェルズを見ていた。 <大魔法使い> は死者の軍勢を引きつれて、パラボン市を馬で駆け抜けたのだ。その男はきらびやかな絹をまとい、黄金の仮面をつけていた。市民軍の指揮官たちの首が槍《やり》の穂先に刺され、口を開けたまま宙に踊っていた。暗殺者が群衆の中から飛びだしてきたが、ドラッケンフェルズの腐れた副官たちにぼろぼろに引きさかれてしまった。空中には魔物《デーモン》が踊り、虐殺された暗殺者の肉片を運びさっていった。ジュヌビエーブは姉のスカートの後ろに隠れていたものの、結局はすべてをその目に焼きつけた。
父の友人たちは彼女の前でドラッケンフェルズのことを話題にした。かれの出生は不詳で、弱点も知られていない。その力は限りなく、邪悪さはとどまるところを知らない。その顔すら生きて見た者はいない、と。ジュヌビエーブは仮面の下にどんな恐ろしい顔が隠されているのか想像してみた。ドラッケンフェルズの手下の、骨や崩れた肉だけの顔でさえ愛らしく見えるほど、おぞましいものなのだろうか。あるいは、姉のシリエルが言ったように、あまりにも厳かで整いすぎているために、それを見つめたとたん心臓が止まってしまうのだろうか。シリエルはいつも馬鹿なことを言っていた。彼女はその五十年ほど後に――ジュヌビエーブにとっては心臓が一つ打つくらいの時間だ――流行《はや》り病いで死んでしまった。
市から貢物《みつぎもの》を取っていたにもかかわらず、ドラッケンフェルズはパラボン市の支配者一族を根絶やしにした。見せしめのためだ。ジュヌビエーブの父も、他の官吏とともに <大魔法使い> の従者である魔物の餌食となって死んだ。六百年がすぎたいまとなっては、ジュヌビエーブには復讐心などほとんど湧《わ》いてはこない。父はその後も二十年か三十年――長くて三十五年――は生きながらえただろうが、どのみちジュヌビエーブの記憶の片隅に追いやられたにちがいないからだ。かげろうが若くして生涯を閉じたからといって、それを嘆く者はいない。ときおり、両親や姉妹や宮廷の友人の顔が記憶をよぎることはあった。だが、ほとんどの顔は時の流れの中に埋もれて、まるであかの他人の記憶のように思えるのだ。その数年後――いまではジュヌビエーブの記憶の中で、ほんの数分に等しい時間の後――シャンダニャックが叔父《おじ》の家に現われた。黒い瞳《ひとみ》に編んだ顎髭《あごひげ》、針のように尖《とが》った歯を持つシャンダニャックは、はるかな以前の世界の話を知っていた。ジュヌビエーブはその男から <闇の口づけ> を受けて生まれかわり、不老不死の人生に足を踏みいれたのだ。
そのシャンダニャックも死んだ。以前からかれの種族にしては人目を引きすぎたし、危険な敵には事欠かない男だった。ついに、ウルリックの司祭たちがかれを狩りだし、さんざし[#「さんざし」に傍点]の枝で地面に釘《くぎ》づけにして、銀の偃月刀《シミター》で首を切りおとしたのだ。あれは三百年前のこと。ジュヌビエーブの知るかぎりでは、彼女がシャンダニャックの最後の子孫である。もっと古い子孫はたくさんいるが、そうした者ははるか東方、キスレフとの国境あたりに人目を忍んで住んでいる。ときおり、ジュヌビエーブに惹《ひ》かれて愚かな亡者が <三日月> 亭を訪れてくるが、彼女は気分しだいでそれを追い払ったり、滅ぼしたりした。ああいう輩《やから》はときとして、はた迷惑なものだ。
何世紀かが過ぎ去り、あらゆる事物がいくどとなく移りかわった。帝国や支配者、戦さ、同盟、都市、数名の偉人ととるに足りない無数の人々、怪物、芸術、科学、森――すべてが四季のようにうつろっていく。
そして、ジュヌビエーブはいまもこの世をさまよっている。同じくドラッケンフェルズも。
果たしてジュヌビエーブが感じているこの鬱屈《うっくつ》した親近感を、相手も感じているのだろうか。世界中で二人だけにわかる歌があり、二人だけが知っている一世を風靡《ふうび》した名があり、二人だけがその味を思いだせる死に絶えた動物がいる。だが、おそらくドラッケンフェルズはジュヌビエーブに親近感など感じてはいまい。せいぜい、ぼんやりと彼女の存在に気づいているくらいだろう。ジュヌビエーブはうまくいけば人間の縁者とも言えるが、かたやドラッケンフェルズははるかにそれを越えた存在なのだ。かれはパラボン市に乗りこむずっと以前に、いかなる人間であることも放棄していた。ドラッケンフェルズはなにくわぬ感じでさまざまな金属細工の仮面を集めているが、その下に隠された顔はこの世に生きるどんなものにも似てはいないだろう。
いずれにせよ今夜、その顔を拝むことになる。とっくの昔に灰になったシリエルの言葉が、結局は正しいのだろう。あの男の顔を見れば、ジュヌビエーブとて生きぬくことはできまい。だが、六世紀半を生きぬいた身にとって、いまさら死ぬの生きるのはたいした問題ではなかった。
ジュヌビエーブは長きにわたるドラッケンフェルズの所業をたどり、血の最後の一滴まで略奪しつくされた王国のことや、蔓延《まんえん》した疫病のこと、絞りとられた貢物のこと、解き放たれた魔物《デーモン》のことなどを記憶に刻みつけた。ここ数世紀、かれは灰色山脈にある難攻不落の要塞《ようさい》で鳴りをひそめている。ドラッケンフェルズは死んだと信じる者もいるが、その悪行がいまなお続いている証拠がオールド・ワールドには数多くある。 <三日月> 亭の常連の魔法使いたちはよく、その男のことを話題にした。ドラッケンフェルズは時空を超《こ》えた領域――そこでは、偉大な魔法使いたちが危険を賭《と》して、宇宙のとほうもない根源的な存在を探している――でも、狼籍《ろうぜき》を働いているらしい。常連たちは分別をわきまえていたので、オスバルトの冒険にうかうかとはのらなかった。また、ドラッケンフェルズは年を取りすぎて、かつてのような怪物ではなくなったと言う者もいた。だが、不死の者は年を取って衰えるどころか、かえって力を増すことをジュヌビエーブは知っている。また <大魔法使い> は己れの内部を探《さぐ》り、暗黒の深奥へと手を伸ばすことで、手持ちの魔物の中でも最悪のものを召喚しようとしている、と言いきる者もいた。ただ、ちょっと変わった顔だちのブレトニアの吟遊詩人が唄《うた》った歌詞だけは、これまでにない推測をしていた。
すなわち、ドラッケンフェルズほさまざまな悪事をたくらみ、再びシグマーと戦えるだけの力を得て、今度こそかの <戦鎚《ウォーハンマー》の使い手> を永遠に打ち負かし、すべてに終局をもたらすつもりである、と。
ジュヌビエーブはありとあらゆる説を耳にしたが、どれもよくある酒場の噂《うわさ》程度にしか心に響かなかった。が、それもオストランド選帝侯の子息オスバルト・フォン・ケーニヒスバルト皇子が <三日月> 亭にやってくるまでのこと。皇子はジュヌビエーブに、コンスタント・ドラッケンフェルズがこの世界に舞いもどって帝国《エンパイア》を乗っとる準備を進めており、全大陸に苛酷な運命が降りかかる前に <大魔法使い> を阻止しなければならないと告げたのだ。
それが三か月前のことだった。皇子は、シャンダニャックから口づけを受けたときのジュヌビエーブより、一つか二つ年長だった。美しい若者で、偉大な貴人に成長するにふさわしい輝きを備えているように見えた。もちろん、いずれは父親の後を継いで選帝侯になるだろう。オストランドの選帝侯はときに他の選帝侯を牛耳り、帝国《エンパイア》の皇位継承の流れを手中にすることがしばしばだった。オストランド侯が異議を唱えた候補者が皇帝位を継ぐことは決してない。断じてだ。オスバルトの父はどちらかというと質素な宮殿をかまえているが、ときによっては皇帝ルイトポルト自らがそこまで足を運ぶことがある。あたかもオストランド侯のほうが皇帝であり、現皇帝は歎願者にすぎないかのように。ルイトポルトの子息カール・フランツが皇位を継ぐのなら、オスバルトの父の後ろ盾が絶対に必要になる。いや、それをいうならば、晩婚だったオストランド侯はすでに中年期の終わりを迎えているので、遠からず現皇帝がオスバルト皇子の助力を求めることになるやもしれなかった。
オスバルト皇子はまじめな若者だ、とジュヌビエーブは聞いていた。かれは美食学から哲学まであらゆる分野でその指導者をしのぎ、アルビオンの長弓にもエスクリアのギターにも通じているらしい。酒場の道化師たちはそのきまじめな顔をした少年の逸話を種に冗談をとばした。かつて皇子はルイトポルトが懸案としていた売春禁止令をひっこめさせたことがあるという。皇后の崩御以来、宮廷行事をめだって取りしきるようになった、ティリアの女辻占《つじうらな》いを火あぶりにして手本を示す勇気があるのか、と皇帝を問いつめて恥じいらせることで。それにジュヌビエーブは、小冊子ではあるが評判の高い古典形式の詩編を興味深く読んだことがある。匿名《とくめい》で発表されたのだが、選帝侯家の住みこみ家庭教師ジュール・イェハンのふとした自慢話から、それがオスバルト・フォン・ケーニヒスバルトの作品であることが後に明らかになった。それでもジュヌビエーブは、皇子の冷たく澄んだ瞳や力強い握手、むだのない話しぶりには意外な思いを抱いたものだった。
酒場の奥の部屋で、オスバルトはジュヌビエーブに手首を差しだした。しかし、彼女はそれを固辞した。貴族の血は彼女には贅沢《ぜいたく》すぎるのだ。ジュヌビエーブはもっぱら友のいない者や、死んだところで悼《いた》む者のない人々の血に頼って生きてきた。死んでくれれば帝国《エンパイア》だけでなく世界中がもっとよくなるだろうに、と思える輩《やから》がアルトドルフにはごまんといる。ジュヌビエーブがその町に定住することを決めて以来、なによりの命の糧となってくれたのは、そうした連中だった。
ジュール・イェハンは巻き物や革綴《かわと》じ本を袋いっはいに詰めこんで、皇子とともにやってきた。賞金稼ぎのアントン・ファイトも一緒だった。かれは他の男が恋人をかわいがるように、武器を愛《め》でている。オスバルトはジュヌビエーブの父のことを知っていた。ジュヌビエーブ本人ですら忘れてしまったようなできごとをよく覚えていた。皇子は彼女に復讐《ふくしゅう》の機会を与えようと言った。ジュヌビエーブがそれに食指を動かさないと知ると、つぎは、変化――つまりは気晴らし――を求めている彼女の心に訴えかけてきた。きっと若き日のシグマーもこんなふうだったにちがいない――ジュヌビエーブは血気にはやるオスバルトがその内心を包みかくしているのを感じて、そう思った。英雄とはきっと、みんなこんなふうだったのだろう。唐突に、ジュヌビエーブは皇子の血が――その血に含まれる香り高い風味が――ほしくてたまらなくなった。そうした激しい飢えを表に出したつもりはないのだが、皇太子がジュヌビエーブの欲望を見ぬき、その望みにかれ自身の野望でこたえようとしたのは、なんとなく感じられた。目下の使命を果たした後に、かなえられるであろう野望……。ジュヌビエーブは決して彼女の顔を映すことのない皇太子の瞳をのぞきこみ、そのとき、ここ数世紀ではじめて生きかえったような気がした。
ジュール・イェハンは近頃《ちかごろ》のドラッケンフェルズの悪業の証拠を並べたてた。まず、人づてに手に入れた、とある魔術師の遺書を大声で読みあげる。その魔術師はつい最近、自分の実験室で皮を剥《は》がれ、骨を抜かれているところを発見されたのだ。死んだその男は、さまざまな魔物《デーモン》や魔力による軍勢がドラッケンフェルズ砦《とりで》に結集しつつあり、 <大魔法使い> は新たな力の域に達しようとしていると断言していた。ジュール・イェハンはつぎに、悪夢や幻覚が流行《はや》り病いのように横行しているという報告を、あらゆる宗派の司祭から受けたと告げた。仮面をかぶった男が、劫火《ごうか》と化した町や荒野と化した森といった、不毛の地を闊歩《かっぽ》するのが目撃されている。死体は山のようにうず高く積まれ、川を流れる水の九割までが血にかわった。邪悪な勢力が結集し、その中心にドラッケンフェルズがいる。オスバルトは相手の根城でその怪物と対決し、永遠に葬りさるつもりだと言う。皇子はもう一度、ジュヌビエーブに一行に加わるようにすすめ、そのときにはジュヌビエーブの態度は和らいでいた。そうなってはじめてオスバルトは、自分の父親も、おそらくルイトポルト皇帝も、ジュール・イェハンの上げる証拠を信じようとはしなかったことを打ち明けた。この冒険はいかなる帝国軍の支援も受けずに行なうことになると。
翌日、かれらはアルトドルフから灰色山脈に向けて出発した。
その後、他の仲間が加わった。まず、ライクバルトの森の山賊の首領ルディ・ヴェゲナーがかれらと運命をともにすることとなった。かれは鬱蒼《うっそう》とした森で、長く暗い一夜を費やして、魔物に体を乗っ取られた元山賊仲間を退けようと戦った。魔法使いステランもルディと一緒に加わった。かれは山賊とともに暮らしていたが、自分の魔術で <大魔法使い> に対抗しようと決意したのだ。それから、最果て山脈から来た、踊り子で暗殺者のエルツベト。彼女は夜毎、これまで殺した者の名前を祈り文句のように唱えている。ドワーフのウエリとメネシュは斧噛《おのか》み峠で雇われた。そこでは、平和な小作人の村全体が姿を変えた魔物たちの巣窟《そうくつ》であるとわかり、オスバルトの若い従者コンラディンは変異したオーガに串刺《くしざ》しにされた上、喰われてしまった。二人のドワーフは南に旅していたところだったが、金と栄光を求めて、喜んでその腕を貸すと申し出た。子供を殺され、傷心のきわみにあったハインロトが加わったのは、そのすぐ後だ。かれの二人の幼い息子は、ドラッケンフェルズ砦から来たオークの襲撃隊にもてあそばれたあげくに殺された。ハインロトは <大魔法使い> を生かしておくうちは毎日|鋸刃《のこば》のついた武器で自分を傷つけると誓っており、朝には必ず険《けわ》しい顔つきで自らを切りさいなんでいた。が、ある朝、目を覚ました一行は、体を裏返しにされたようなハインロトを見つけた。かれの骨には「いますぐ帰れ[#「いますぐ帰れ」に傍点]」という言葉が刻まれていた。だれも物音を聞いていなかった。勘のいいファイトが見張りに立っていたというのに……。
その間ずっと、オスバルトはみんなの先頭に立ってきた。皇子はつぎつぎ襲いかかる恐怖にもひるまず、仲間を団結させてきたし――ファイトと二人のドワーフの反目、あるいは、ふしだらなエルツベトと度を越した禁欲主義者ハインロトなど、団結はたやすいことではなかったが――きたるべき成功を信じて疑わなかった。あの方は子供の頃からそうでしたよ、とジュール・イェハンはジュヌビエーブに語った。この学者が皇子を息子のように溺愛《できあい》しているのは、だれの目にも明らかだった。だからこそかれは、オスバルトの実の父ですら耳を傾けようとしなかったこの旅に同行する決心をしたのだ。これは <最後の審判の日> へ向かう旅だ、とジュヌビエーブは思う。かれらの名は永遠に物語詩の中に生きつづけるだろう。
すでに、コンラディンが死に、ジュール・イェハンが死に、ハインロトが死に、ウエリが死んだ。夜が明ける前に、残った者も――たぶん一行全員が――その死者の列に加わることになる。ジュヌビエーブは死を考えなくなって、ずいぶん久しい。おそらく今夜、ドラッケンフェルズがシャンダニャックの <闇の口づけ> に終わりを告げ、ついにジュヌビエーブを生死の境の向こうへと押しやるだろう。
オスバルトは砦の開いた口に向かって、まっすぐ歩いていった。それとなくあたりを見まわし、仲間に合図を送ってから、闇の中へ足を踏み入れる。ジュヌビエーブが後を追い、他の者もそれに続いた。
V
危険を押して進むうちに、魔法使いステランがジュヌビエーブにはわからない言葉で呪文《じゅもん》を唱えはじめた。ステランの体がかすかに輝き、ジュヌビエーブは魔法使いのまわりに従者の精霊が踊っているのが見えたような気がした。ジュヌビエーブにはときおり、他の者には見えないものが見えることがあるのだ。一行が石の回廊を進むにつれて、ステランの声は大きくなり、身振りがいっそうはでになる。蛍のような光の群れがステランのまわりに渦を巻き、護符に群がり、女のように長いかれの髪を掻《か》きみだす。ステランが強い魔力を持っているのはまちがいなかった。かれはこれまでも戦闘の前にそれを使い、一行の勝利に大きく貢献していた。
通路の突きあたりに古ぼけた木の扉があり、銅板がはめこんであった。その抽象的な飾り模様の中に人の顔を見分けるのは、苦もなくできた。ジュヌビエーブは、これが意図されたものだと知った。ここでは故意でないことなど、なに一つ起こりはしない。すべてがドラッケンフェルズの企みなのだ。その顔は、 <大魔法使い> がパラボン市で被《かぶ》っていた冷酷な仮面だった。おそらく他の扉にも、それぞれにちがった顔が描かれているのだろう。残酷な親、執念深い仇敵《きゅうてき》、追放されなかった魔物といった顔。エルツベトはそれにひどく影響を受けていた。暗殺者であり踊り子である女の鼓動が速まるのが聞こえる。ファイトやルディでさえも緊張していた。オスバルトだけが冷たいまでに落ちつき、皇子らしい平静さを保っている。
皇子は松明《たいまつ》を片手で高くかかげ、盲人の杖《つえ》のように剣を突きだしながら先へ進んだ。ステランが行く手を魔法で探《さぐ》りながら、すぐ後に続く。いまでは、ジュヌビエーブはステランの詠唱に抑揚とくりかえしがあるのを聞きわけ、ルディが魔法使いの声とあわせて祈っているのに気づいた。ルディの分厚い唇が音もなくステランの言葉をたどっている。魔法使いの召喚した精霊たちは、さながら防具のようにステランのまわりを取りまいていた。いまは、だれもがそれぞれの神に祈りを捧《ささ》げているにちがいない。信ずる神を持つ者はみな。
ドラッケンフェルズ砦《とりで》の深奥部で、ジュヌビエーブの|闇の感覚《ナイト・センス》の力は、できれば知らずにすませたいものの存在を感じとった。あたかも無数の昆虫が皮膚の上を這《は》いまわり、銀の顎《あご》で噛《か》みつき、不協和音のような鳴き声を上げているかのようだ。間近に大いなる危険、大いなる邪悪が迫っている。しかし、それはなにも吸血鬼種族が持つ研ぎすまされた知覚がなくても、感じとれるものだった。頭の回らない哀れなエルツベトでさえ、とてつもなく恐ろしい大きな闇《やみ》に足を踏み入れているのはわかるだろう。砦の内にひそむ暗黒の前では、消えいりそうな松明の光はあまりに無力だった。
「この扉は」と、ステランがライクなまりで告げる。「呪文《じゅもん》で護られています」
オスバルトは一瞬ためらった後、剣を差しだした。刃《やいば》が金属に触れると、火花が飛び散る。扉にはめ込まれた装飾板が白熱した光を放ち、木が燃えるときの悪臭を帯びた煙がたちのぼった。幻の顔はいまや怒りくるい、憎悪をこめて一行をにらみつけている。
「開けられるのか、魔法使い?」皇子はきいた。
ステランは自信ありげな歪《ゆが》んだ笑みを見せた。「もちろんですとも、殿下。こんな低級な魔法くらい、そのへんの奇術師にだって破れますよ。ドラッケンフェルズほどの魔法使いがこんなけちな手を使うなんて驚きですね」
魔法使いは小袋《ポーチ》を探ると、仰々しい仕草で甘い香りのする粉末をひと握り、扉に振りかけた。扉の顔が再び闇に沈む。ステランは取っ手に手をのばした。それをひねって扉を押しあけ、皇子を通すために脇《わき》によける。そして、馬鹿にしたような笑みを浮かべて頭を下げた。
「どうです」ステランは言った。「あっけないものでしょう」
その瞬間、魔法使いステランの肉は粉々に飛びちっていた。
冒険者たちは血の雨にずぶ濡《ぬ》れとなった。扉には、ぼろぼろに裂けた衣服や肉片が垂れさがり、三メートルほど離れた石壁からも赤いものが滴りおちている。肉をそがれたステランの骸骨《がいこつ》は、にやりと笑みを浮かべたまま一瞬その場に立ちつくし、やがてくずおれた。
ルディとメネシュとファイトはわめきちらしながら、体に張りついた肉塊や衣服の切れ端を、狂ったように払いおとした。オスバルトは静かに顔をぬぐっている。ジュヌビエーブは赤い血への渇望がこみあげるのを感じたが、必死にそれを押さえつけた。これは彼女のための血の宴《うたげ》ではない。こんなものをすするくらいなら、豚の餌《えさ》でも摂《と》ったほうがましだ。ステランの精霊たちは召喚者の道連れになって消えていた。
「壁を見ろ」ファイトが言った。「変化しているぞ」
ジュヌビエーブは天井を見上げた。石が溶けて、新たな形をとりはじめている。壁や天井にいくつもの顔が現われ、石の鉤爪《かぎづめ》が冒険者たちをとらえようと飛びだしてくる。オスバルトが熟練した身のこなしで剣を振るうと、生命を持たない腕は切りはなされ、床に落ちて粉々に砕けちった。ルディは背中に下げた両手剣を引きぬき、現われでた怪物をめった切りにしはじめた。
「危ないぞ、まぬけ野郎」ファイトがルディの刀を危うくかわしながら叫んだ。「そいつは通路で振りまわす武器じゃないだろうが」
石の頭が一つ、ジュヌビエーブの足元に転がりおちた。怪物のガラスの目玉は白く濁り、膨れた舌が飛びだしている。怪物の中の一匹、天井に身をひそめていたガーゴイルがその全貌《ぜんぼう》を現わし、ジュヌビエーブの上に舞いおりてきて、彼女の髪をつかんだ。ジュヌビエーブは拳《こぶし》を握り、敵の胸を殴りつけた。だが、まるで山を相手にしているようなものだった。人間の手だったならば、殴ったほうが粉々になるところだ。ジュヌビエーブの腕から肩にかけて痛みが走り、手の傷口がまた開いたとわかる。
ガーゴイルは殴られて動きを止めた。胴に入った細かいひび割れが、角ばった肩や腰にまで広がる。怪物はきしるような音とともに、その石の手から鋭い鉤爪を伸ばして、ジュヌビエーブに向かってきた。距離が近すぎて剣を抜くこともできず、彼女はじりじりと押された。背後では壁が生命を持ってうごめき、そこからも鉤爪が飛びだしてくる。
ジュヌビエーブは壁の方を向いて、うごめく石に体を押しつけた。そして、ガーゴイルの高い位置、ひび割れた箇所めがけて思いきり足を蹴《け》りあげる。ガーゴイルは後ろによろめき、真っ二つに割れた。怪物の上半身がすべりおち、床にぶつかって砕けちる。そいつは死んだ石の塊《かたま》りと化した。
一行は怪物をかきわけ、可能ならそれを打ち砕いて前へ進んだ。そして、やむをえず、開いた扉から荒れ果てた部屋へと入った。部屋の大きな食卓には晩餐《ばんさん》の用意がされている。食べ物はとうの昔に塵《ちり》と化し、晩餐の客も同じくひからびた骸骨となって、贅沢《ぜいたく》な装飾品を身につけたまま椅子《いす》の上にくずおれている。だが、その部屋なら存分に戦えるし、ルディも剣を限るえるだろう。と、ガーゴイルがとびこんできた。
山賊の首領が戸口に陣どって剣を振りまわし、怪物どもを粉々に砕いた。やがてルディはうなり声を上げて扉を蹴りとばし、最後の一匹を部屋の外に閉めだした。ファイトとオスバルトは重い椅子を積みあげて、扉が開かないようにする。一行は手際よく防壁を作って、この死者の晩餐室に閉じこもった。
ジュヌビエーブはうずく手を握り、骨を元の位置にもどそうとした。なんとか指の関節を正しい場所に押しもどす。上からなでると、傷口はかすかに血がにじんでいるだけになった。銀の痕跡《こんせき》が体内に残っていなければいいのだが。万一そんなことになれば肉が腐り、手や腕を切断しなければならなくなる。新しい腕ができるのに百年はかかるだろう。シャンダニャックが太古教の狂信的な僧侶《そうりょ》に片耳を切りおとされたときは、元どおりになるまでにまる一世代かかったのだ。
ジュヌビエーブは自分の体を見下ろした。半ズボンや長靴や上着が泥にまみれ、悪臭を放っている。|病死者の墓穴《プレイグ・ピット》を這《は》いまわったみたいだ。他の者も似たようなものだが、オスバルトは汚物やぼろにまみれていても、まるで香水をふった絹をまとっているかのように見えた。それに、ファイトも少しも変わったようには見えない。かれの身のまわりで清潔といえるのは、もとから武器だけなのだ。
「いったい、ここで何が起こったんだ?」ルディがきく。
「毒の宴《うたげ》だ」オスバルトは言った。「ドラッケンフェルズにまつわる話の中でも、最もおぞましいものの一つだ。六世紀ほど前、やつは皇帝の宮殿に一人で現われてひざまずき、罪滅ぼしをしたいと申し出た。生きのこった犠牲者に多額の補償金を払い、多くの犠牲者の墓前に参った。邪悪を捨て、かつては呪《のろ》った神々を敬うことを誓った。帝国《エンパイア》にも忠誠を誓ったのだ。やつの改心を疑う者はなかった。一万年も生きていれば、だれでも罪を悔いたり、心を清めたいと望むものではないか? ただし、それが人間[#「人間」に傍点]ならな。やつは自らの新しい人生を祝うために、カロルス皇帝をはじめとする宮廷人を残らずここに招き、ドラッケンフェルズ砦《とりで》を恵まれない者の避難所として永遠に開放すると宣言した。カロルスの相談役の中には、その祝宴に反対する者もいた。だが、皇帝は優しい人だったし、まだ歳《とし》も若く、ドラッケンフェルズのこれ以上はないという悪行を覚えていなかった。そこで、かれらはうちそろって、ここにやってきたのだ。皇帝、イリーナ皇后、その子供たち、そして、宮廷貴族たちも一人残らず。私の祖先、シュリヒター・フォン・ケーニヒスバルトもそれにまじっていて、ここに腰かけ……」
かれらはうちすてられた骸《むくろ》をながめ、蜘蛛《くも》の巣におおわれた宝石を見た。笑みを浮かべた貴婦人の亡骸《なきがら》の眼窩《がんか》にはルビーがはまり、真珠やサファイアやダイヤモンドをちりばめた銀糸の肩掛けが、むきだしになったあばら骨から垂れさがっている。ジュヌビエーブは壊れた頭蓋骨《ずがいこつ》から変色した金の冠を取りあげた。
「古い冠だな」ルディが目を強欲そうにぎらつかせて、それを手にした。「値のつけられないくらいの代物《しろもの》だ」
「返してやれ、ルディ」オスバルトは言った。「略奪品なら他にもある。その冠は返したほうがいい」
オスバルトは、勝利をおさめてアルトドルフにもどったあかつきには恩赦を与えると、ルディ・ヴェゲナーに約束していた。だが、この山賊が決して恩赦を受けいれないことは、ジュヌビエーブ同様、皇子も承知していた。この善行――この名誉の復讐――を果たした後は、ルディは再び森の無法者の生活へともどるだろう。
ジュヌビエーブが亡骸をながめると、遠い昔の光景が一瞬浮かびあがった。部屋は清潔で真新しく、こうこうと明かりが灯《とも》されていた。笑い声や音楽が聞こえ、ご馳走《ちそう》が運ばれてくる。姿のいい紳士たちは魅力にあふれ、美しい淑女たちが扇を使っている。食卓の上座には王冠を被《かぶ》った風格のある男がすわり、飾り気のないブリキの仮面をつけた質素な装いの男にかしずかれている。ジュヌビエーブが瞬きすると、もとの闇《やみ》がもどってきた。
「で、やつが毒を盛ったのか?」メネシュがオスバルトにきいた。
「そうだ。だが、それで死ねたわけじゃない。かれらの体は麻痺《まひ》し、生ける屍《しかばね》となった。その後何年もたってから、ドラッケンフェルズの従者の一人が絞首台にのぼる前に、そう白状したのだ。なすすべもないカロルスや貴族の目の前で起こった、胸の悪くなるような出来事の一部始終をな。かれらは子供たちも連れてきていた。なんと愚かでお人好しの貴族たちよ。ハインロトになら、そのときの恐怖がわかっただろうな。座興が終わった後、ドラッケンフェルズは客を身動きできぬまま放っておいた。ご馳走を目の前にして、かれらは餓死したというわけだ」
オスバルトは剣の柄《つか》で食卓を殴りつけた。テーブルが揺れて、もろくなった陶器がこわれ、豪華な燭台《しょくだい》が転がり、骸《むくろ》の肋骨《ろっこつ》に巣くっていた鼠《ねずみ》が飛びだす。いまもヴェレナの女司祭長のローブをきらびやかにまとっている骸骨《がいこつ》は、ばらばらとくずれおちた。皇子の顔に涙が浮かんでいる。オスバルトがそんなふうに感情をあらわにしたのを、ジュヌビエーブはこれまで見たことがなかった。
「なんと愚かな!」
ジュヌビエーブがオスバルトの肩に手をかけると、かれはたちまち平静さを取りもどした。
「今夜をかぎりに、ドラッケンフェルズが愚かな者を餌食《えじき》にすることはあるまい」
皇子は大股《おおまた》に部屋を横切り、両開きの扉をぐいと引きあげた。
「こっちだ。例の従者は地図も描いた。楽に死なせてもらうのと引き換えにな。ドラッケンフェルズの私室は、この通路の向こうにある。もうすぐだ」
W
この砦《とりで》はあの男そのものだ、とジュヌビエーブは思った。塔や胸壁、通路、部屋、そして、この険《けわ》しい岩山そのものが、ドラッケンフェルズの内臓を形づくっている。それらが <大魔法使い> の動脈であり、臓器であり、血であり、骨なのだ。オスバルトの一団は心臓めがけてドラッケンフェルズの体を貫く刃物といえるかもしれない。あるいは、かれの食道を転がりおちる食べ物のくずか――これは、あまり愉快な考えではないかもしれないが。
オスバルトに従いながらも、エルツベトだけはようすがおかしかった。彼女は自分が殺した者の名前をまだぶつぶつ唱えている。その頃には通路は広くなり、壁かけが壁を飾るようになっていた。その一つに、 <大魔法使い> が獲物をもてあそぶ図が描かれている。このために大量の赤い糸が使われることになったのは明らかだった。ファイトでさえ、そこに描かれた光景には血の気をなくした。オスバルトは中央の璧かけの絵を一目見るなり、剣でめった切りにした。埃《ほこり》まみれの壁かけが床に落ち、沼地虫《フェンウォーム》の抜け殻のように転がる。メネシュがそれに松明《たいまつ》を押しあてると、見る間に火がまわり、恐ろしい神々の肖像を描いた隣の壁かけに燃えうつった。
「たいしたもんだな、寸足らずの能なしめ」ファイトが唾《つば》を吐いた。「おれたちを丸焼きにする気か? ドワーフ流にいつもの腰に差したナイフを振りまわすだけじゃいやってわけだな」
ドワーフはナイフを抜いて振りかざし、ファイトは|投げ矢銃《ダーツ・ピストル》を取りだした。炎が二人を取りまいている。
「おまえも裏切り者か? 死んであの世に行ったウエリみたいに?」
「死んであの世に行くのはおまえだ、蛆虫《うじむし》め!」
メネシュが切りかかり、ファイトがさっととびのく。賞金稼ぎのファイトの黒い目に憎しみの炎が燃え、かれは入念に狙《ねら》いを定めた。
「もうよせ!」オスバルトがどなった。「仲たがいするために、こんなところまでやってきたわけではないんだぞ」
「ファイトに裏切り者′トばわりされるのは、もうたくさんだ」とルディ。「簡単に金で買われるやつは信用できん」
山賊が剣を振りあげると、ファイトはそちらに向きなおった。
「山賊にもモラルがあるってか……傑作だな」とファイト。
「死体売りよりは山賊のはうがましだ!」
「おまえの死体など金貨七十五枚の値打ちもない。帝国《エンパイア》はおまえにそれだけの賞金をかけちゃいるがな」
銃の狙いが定まり、剣が宙に翻《ひるがえ》る。
「やつを殺せ。かたづけちまえ」メネシュが言った。
ファイトはいつもこんな調子だ。短気なルディにしても。しかし、メネシュは温和な男だったし、これまでファイトのあざけりをユーモアたっぷりにかわしてきたのだ。なにかが一行を狂わせている。なにか自然を超えた力が。ふいに、だれかが背中にとびかかり、ジュヌビエーブは前につんのめった。顔が床に押しつけられる。
「この! 腐った雌犬め!」
エルツベトの針金の輪がジュヌビエーブの首に掛かり、ぐいと締めあげた。不意打ちだった。ジュヌビエーブはもがきながら両手を敷石につっぱり、それを梃《てこ》にしてエルツベトを振りはらおうとした。が、針金は首を締めつけてくる。暗殺者エルツベトはさすがに自分の仕事を心得ていた。首を切られてしまえば、ジュヌビエーブはひとたまりもない。不死とは、かくもはかないものなのだ。首切り、さんざし、銀、ふりそそぐ太陽の光……。
ジュヌビエーブは自分の体の下に片手をつっこみ、掌《てのひら》を敷石にぴたりとあてて身を押しあげた。エルツベトは調教していない小馬にまたがるように、脇腹《わきばら》の下にぐいぐい膝《ひざ》を入れてくる。ジュヌビエーブは首の筋肉を筋ばらせ、むりやり気管に空気を吸いこんだ。
針金のぷつんと切れる音がして、エルツベトが背から転がりおちるのがわかる。ジュヌビエーブは立ちあがってエルツベトに殴りかかった。相手の女はまともに拳《こぶし》をくらって倒れこんだ。暗殺者は床を転がり、手にナイフを握って立ち上がった。ウエリのナイフと同じ銀の輝きをしているのだろうか?
「亡者だって死ぬのさ、吸血鬼め!」
殺戮《さつりく》の衝動がジュヌビエーブを襲った。この下劣な生身のあばずれを殺せ[#「この下劣な生身のあばずれを殺せ」に傍点]! こんな温かい血を流す[#「こんな温かい血を流す」に傍点]、忌まわしい虫けらどもは皆殺しだ[#「忌まわしい虫けらどもは皆殺しだ」に傍点]! 殺せ[#「殺せ」に傍点]、殺せ[#「殺せ」に傍点]、殺せ[#「殺せ」に傍点]!
「しっかりしろ」オスバルトの叫び声。「これが敵のやり口だ。魔法であやつられてるぞ!」
ジュヌビエーブは皇子に向きなおった。鼻持ちならない貴族め[#「鼻持ちならない貴族め」に傍点]! 近親相姦の欲ぼけのくず[#「近親相姦の欲ぼけのくず」に傍点]! 香水ふんぷんで[#「香水ふんぷんで」に傍点]、自分の汚物のにおいを隠してるんだろう[#「自分の汚物のにおいを隠してるんだろう」に傍点]!
オスバルトがジュヌビエーブの肩をつかんで揺さぶった。
血だ[#「血だ」に傍点]! 貴族の血[#「貴族の血」に傍点]! まろやかで[#「まろやかで」に傍点]、刺激があって[#「刺激があって」に傍点]、舌に載せると熱く迸る若い血[#「舌に載せると熱く迸る若い血」に傍点]!
皇子の喉元《のどもと》に血管が脈打っている。ジュヌビエーブは相手の手首を力強いその手で握り、脈を感じた。規則正しい太鼓のような響きを聞きながら、ばらばら死体を前にした解剖学の生徒のような目つきでオスバルトを見つめる。動脈や静脈がその肉をくぐり、骨の上を駆け巡っている。血がジュヌビエーブを呼んでいた。
最後に血を吸ってから、どれくらい経《た》つのだろう? 心ゆくまで吸ってから……。
皇子はジュヌビエーブの手をふり払い、平手で彼女を殴った。
ジュヌビエーブはわれに返って、闇《やみ》の中でオスバルトの澄んだ瞳《ひとみ》だけを見た。皇子は彼女の頬《ほお》に口づけをし、後ろへ下がった。血への渇きはひとまずおさまったようだった。
それから、オスバルトは一人ずつ仲間のそばに行き、かれらをなだめてまわった。エルツベトが最後だ。彼女は通路の隅に身体を押しつけ、なだめすかしても出てこず、ナイフを振りまわしている。皇子はその手をつかんで、ナイフをもぎとった。この女は狂っている。ジュヌビエーブはそのときはっきりと気づいた。もう何時間も前から狂っているのだ。オスバルトが低くなだめるような口調で説得すると、エルツベトは隠れ場所からとびだしてきた。人形劇で魔王《デーモン・キング》の場面になるとおびえて母親にしがみつく子供のように、皇子に抱きつこうとする。オスバルトはこの暗殺者の踊り子を肩から引き離し、ルディに任せた。興奮がおさまり、急に真顔になった山賊がエルツベトを腕に抱くと――この二人は恋人だったのだろうか、とジュヌビエーブはいぶかった――女はルディにぴたりと身を押しつけた。ファイトは足手まといが一つ増えたと言わんばかりだったが、結局なにも言わなかった。賢明な判断だ。
火がおさまりはじめると、一行はまた歩きだした。
もはや、エルツベトは頼みにできない。それに、ファイトは――経験豊かでたくましいファイトは――傷を負っている。ガーゴイルとの戦闘で負傷したのだ。顔に受けた傷はそれほど深いものではなく、たくさんの古傷に一つ新顔が増えたくらいだが、いまもその傷はどくどくと血を流し、ファイトの顔は灰色味を帯びていた。動きは鈍く、みんなの後ろをのろのろとついてくる。機敏さはなくなり、よろけては壁にぶつかっている。
がちゃんという音がして、ジュヌビエーブは後ろを振りかえった。ファイトが三連発の石弓や|投げ矢銃《ダーツ・ピストル》、剣帯などを床に落としたのだ。賞金稼ぎはまるで鉄球つきの鎖につながれた囚人のように、武器を後ろに引きずりながら歩いている。信じられないことだった。ファイトが埃《ほこり》の中を、愛用の武器を引きずって歩くなどとは。
メネシュは賞金稼ぎにいやというほど侮辱されてきたというのに、歩みよって肩を貸そうとした。ファイトはもたれようと手をのばしたが、メネシュをつかみそこね、ぶざまに壁にぶつかって倒れた。そのまま這《は》いすすんだものの、ついにオスバルトの足元で力つき、空気を求めて喘《あえ》ぐ。メネシュがそれを抱き起こし、壁によりかからせてやった。ファイトの顔は土気色で、涎《よだれ》を垂らしている。けいれんが起こったので、ドワーフがその体を押さえつけてやった。
「ファイトはこれ以上進めません、殿下」
オスバルトはファイトの|投げ矢銃《ダーツ・ピストル》を拾いあげた。みごとな細工物だ。長さ二十センチの矢で樫《かし》の扉も打ちぬくことのできる、ばね仕掛けの銃。皇太子は銃についた埃を調べ、蜘蛛《くも》の巣の塊《かたま》りを銃身から吹きとばした。その武器を手の中に押しこんでやると、ファイトは銃を握りしめた。けいれんはすでにおさまっている。
「ファイトは置いていこう」オスバルトが言った。「もう一度この道を通るだろうからな」
ファイトはうなずき、弱々しく片手を上げて敬礼した。ジュヌビエーブはファイトが正しく銃を握っていないのに気づいた。指が引き金にかかっていない。治療を受けなければ、この男は夜明けまでに死ぬだろう。だが、どのみち夜明けまでには、みな死ぬのだ。
メネシュはポケットから石を一つ取り出して、ファイトに渡した。賞金稼ぎは膝《ひざ》の上のそれを拾いあげようとしたが、石は膝に残った。丸い石のかけらには、下手くそなつるはしが彫ってある。
「グラングニの印《しるし》だ。ドワーフの採鉱の神さ。お恵みを」
ファイトはうなずいた。ルディがかれの頭をなでて通りすぎ、エルツベトはその足元にスカートを翻《けるがえ》していった。オスバルトはかれに敬礼した。
ジュヌビエーブはファイトの目をのぞきこみ、そこにかれの未来を見た。
「教えてください、デュードネ……さん」ファイトは一語一語絞りだすように話した。「どんな……ものですか?……死ぬ……というのは?」
ジュヌビエーブは身を翻して、他の者を追った。
つぎに倒れたのは、ルディだった。単純な機械じかけにかかったのだ。 <大魔法使い> ほどの者がそんな小細工をするとは、ジュヌビエーブには思いもよらなかった。床に蝶番《ちょうつがい》で動く石が埋めこんであり、おもりと天秤《てんびん》が作動し、油を差した継ぎ手にそれが伝わって、大男ほどの長さと太さのある鉄なみに固い丸太が三本とびだしてくる――ただそれだけの仕掛けだった。その三本の丸太は壁から発射された。うちの二本が、一本は胸の高さ、あとの一本は膝の高さで、ルディの正面から飛びだしてきた。最後の一本は背後から、先の二本の隙間《すきま》を縫うように胴めがけてつき出す。丸太が三本の指でつつくように山賊をとらえ、かれの体はそれらにはさまれて前後に折れまがった。だれもがルディの骨の折れる音を聞いた。
山賊は丸太の指に握られて、宙づりになっていた。血が滴り、絶叫が響く。やがて、木の腕は飛びだしてきたときと同じように突然引っこみ、ルディはぐにゃぐにゃの塊りとなってくずれおちた。
オスバルトは壁に剣を差しこんで、丸太の腕が二度と現われないようにしてから、ルディに近づいた。怪我《けが》はジュヌビエーブが思っていたよりひどかった。まだ息はあるが、動くたびに折れた骨が百本のナイフのように体内を貫くことだろう。
「一人ずつだ」ルディは言った。「悪魔は頭のいいやつですよ、皇子。この老いぼれルディもファイトと同じように、ここに置きざりにされるほかありませんや。どうか、もどってきて……」
皇子の両手に血が滴った。エルツベトは山賊の傍らにひざまずき、傷を手探《てさぐ》りしながら、骨の折れた場所を見つけようとしている。
「一緒にいてやっておくれ」オスバルトはエルツベトに言った。「気をつけるんだよ」
こうして、三人だけがドラッケンフェルズの心臓部へ向かったのだった。
X
ここは <暗黒の王> の間。砦《とりで》の他の場所はろくな明かりもなく、荒れはてているが、この部屋には塵《ちり》一つなく、宝石を散りばめたシャンデリアでこうこうと照らされている。調度は見るからに贅沢《ぜいたく》なものだった。金の輝きが部屋の端々まで行きわたっている。加えて、銀の光もだ。ジュヌビエーブはそれほどに贅を尽くした品々に囲まれて、身ぶるいを覚えた。壁にはすばらしい絵画が掛かっている。ルディなら一つの場所にこれほどの略奪品があるのを見て、涙を流して喜んだことだろう。時計が狂った時刻を打ち、一本しかない針が見慣れぬ文字盤を回っている。檻《おり》の中では、一匹のハーピィが羽づくろいをし、食べたばかりの餌《えさ》のかすを胸の羽毛からついばんでいる。ジュヌビエーブの心臓が激しく打った。人間として生きていた頃から、久しく味わったことのない感覚だった。
オスバルトとジュヌビエーブは用心深く厚い絨毯《じゅうたん》を踏み、部屋をまわった。
「やつはここにいる」皇子が言った。
「ええ、あたしも感じるわ」
メネシュは壁づたいに歩き、壁かけを切りさいている。
壁の一面が床から天井まで窓になっていて、ステンドグラスがはめこまれていた。これなら、 <大魔法使い> は砦の建つ山の下にライクバルトの森を眺めることができる。はるかアルトドルフまでも見通せるし、森を流れるライク川のきらめく川筋をたどることもできる。ステンドグラスには、人骨の山に座した <血の神> コーンの巨大な肖像が描かれていた。邪悪については、ドラッケンフェルズはコーン神を敬うどころか、素人《しろうと》と見下していると気づいて、ジュヌビエーブは恐怖におののいた。混沌《こんとん》とはもっと無目的なものだ……それにひきかえ、ドラッケンフェルズは目的なしには動かない。部屋には他の神々の像や聖堂もあった。地味な納骨堂に祭られた <殺人の王> カイン。おぞましくも切りきざまれた犠牲《いけにえ》の山を供えた <疫病と腐敗の神> ナーグル。その残骸《ざんがい》の中から、ジュール・イェハンの顔がのぞいている。かれの両目はえぐられていた。
オスバルトは自分の家庭教師の骨がそんな邪悪な用途に使われたのを見て、息をのんだ。と、王の間に笑い声が轟《とどろ》きわたった。
六百年前、ジュヌビエーブはそれと同じ笑い声をきいた。あのとき、パラボン市の群衆の見守る中、支配者の雇った暗殺者が魔物《デーモン》に空高く運ばれ、人々の上に臓物をまきちらしていたのだ。金属の仮面の奥からきこえるせいか、その笑い声は妙に大きく響いた。それにまじって、ジュヌビエーブは地獄に落ちる者や死にゆく者の悲鳴をきいた。そして、川となって流れる血の轟き、何万本もの背骨の折れる音、十近くの都市の陥落する音、惨殺される幼児の歎願の声、切りさいなまれる獣《けもの》の哀れな鳴き声――。
男は玉座からその巨大な姿を浮かび上がらせた。かれはずっとその場にいた。だが、魔法によって、いままでだれの目にも見えなかったのだ。
「わたしがドラッケンフェルズだ」静かな声だが、そこにはなおも死を思わせる笑いが残っていた。「ようこそわが家へ、と告げよう。健《すこ》やかに参り、無事去るがよい。ただし、そなたたちがもたらした幸福をわずかばかり頂戴しよう……」
メネシュがドワーフの鉱夫が持つようなつるはしを振りかざし、 <大魔法使い> に打ってかかる。ドラッケンフェルズは青銅像のような動きで手をのばすと、さもうるさそうにドワーフを払いのけた。メネシュは壁かけにどんと突きあたり、金切り声を上げて尻《しり》から倒れた。血が噴きだしている。ハーピィが血のにおいに興奮し、檻《おり》の格子に翼を打ちつけた。
ドラッケンフェルズの手にはドワーフの片腕が握られていた。腕は調理済みの鶏《にわとリ》の手羽のように、いともたやすくもぎとられたのだ。魔法使いはその置き土産《みやげ》を首をかしげてながめ、しのび笑いをもらすと、投げ捨てた。腕はまるで生きたもののように床をのたうちまわって血の跡を残し、やがて動かなくなった。
ジュヌビエーブがオスバルトを見やると、皇子の顔には不安げな表情が浮かんでいた。剣を構えてはいるが、 <大魔法使い> の強靱《きょうじん》さ、その力の前では、いかにも弱々しく映る。
ドラッケンフェルズが宙に窓を一つ開くと、王の間に肉の焼ける刺激臭が満ちた。ジュヌビエーブはその窓をのぞきこみ、果てることのない拷問に身をよじる一人の男の姿を見た。魔物《デーモン》が男の肉を裂き、蛆《うじ》がその顔を喰いあらし、鼠《ねずみ》が手足にかじりついている。男はジュヌビエーブの名を呼び、窓の向こうから腕を差しのべてきた。血が雨のごとく絨毯《じゅうたん》に降りそそぐ。
あれは父だ! 六百年前に死んだジュヌビエーブの父!
「こうして、すべて残してあるのだ」ドラッケンフェルズは言った。「いにしえから、わが餌食《えじき》となった魂はみなこうしてな。そうすれば、このつましい住み家にいても寂しくはない」
ドラッケンフェルズは、ジュヌビエーブがかつて愛していた、この呪《のろ》われた者の前で窓を閉じた。彼女は <大魔法使い> に向かって剣を構えた。
ドラッケンフェルズはかれらに交互に目を走らせると、再び笑い声を上げた。精霊がまわりに集まりはじめている。邪悪な精霊や従者の精霊が、竜巻のように <大魔法使い> を取りまく。
「つまり、おまえたちはこの怪物を殺しにやってきたのだろう? 無冠の皇子――臆病《おくびょう》すぎて、ついに帝国を手に入れることの叶《かな》わなかった一族の末裔《まつえい》よ? そして、おとなしく墓の中で朽ちはてるのを嫌った哀れな亡者よ。いったい、だれの名のもとに、このような愚かなことをしでかすのだ?」
オスバルトは懸命に気力をかきあつめた。「シグマー・ヘルデンハンマーの御名においてだ!」
その言葉は弱々しく、周囲に響きわたりもしなかったが、一瞬ドラッケンフェルズに隙《すき》ができた。仮面の奥でなにかがうごめき、 <大魔法使い> の内部で怒りがふくれあがった。精霊たちは依然、小さな虫のように群がっている。
ドラッケンフェルズがジュヌビエーブに向かって腕を振りあげると、魔物の群れが彼女をのみこんだ。彼女の体を壁に押しつけて呼吸を奪い、上からのしかかって顔一面をおおう。
オスバルトが歩みでて、鎖かたびらをつけた <大魔法使い> の腕めがけて剣を振りおろした。ドラッケンフェルズは振りむき、皇子を見おろす。
ジュヌビエーブはだんだん意識が沈んでいくのを感じた。実体のない生き物たちが押しよせてくる。息はできず、手足を動かすこともままならない。体は凍え、歯がかちかちと鳴った。疲れた。夜明けまでは、こんなに疲れるはずはないのに。まるで、刺すような日光のもとで銀の紐《ひも》に縛られ、にんにくの海で溺《おぼ》れているような気がする。どこかで彼女の心臓に打ちこむさんざし[#「さんざし」に傍点]が削られている。意識がもうろうとし、喉《のど》に塵《ちり》の味を感じながら、感覚が鈍っていく。
ジュヌビエーブは意識を失い、後にあらゆる物語詩に語られることになる戦いを目撃する機会を逸した。後に詩人や吟遊詩人、彫刻家、画家たちに天啓を吹き込んだ戦い。と同時に、皇子オスバルト・フォン・ケーニヒスバルトの勇名をオールド・ワールド中に轟かすことともなった戦い。そして、皇子の中にまさにシグマーの心が蘇《よみがえ》ったと主張する者すら現われることとなった戦い。
それは、まさしくコンスタント・ドラッケンフェルズの息の根をとめるはずの戦いであった。
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第一幕
T
マンドセン砦《とりで》の食事はまずいというより、量の少なさが問題だった。水差し半分の油くさい水とチーズひとかけら、バターなしのきめの粗いパン一枚だけでは、デトレフ・ジールックの普段食べつけていた食事には及びもつかない。まったく、デトレフが置かれている状況ときたら、その地位から当然求められるべき快適さや奉仕が見事に欠けていた。しかも、デトレフが生活をともにしなければならない者たちは、これまでの友人たちが当然身につけていた、ごく普通の礼儀作法や知性すらも備えていなかった。
「断じて言うがね」デトレフは <いかれた傭兵《ようへい》> ペーター・コジンスキーに言った。「もしマンドセン砦と|混沌の荒れ野《ケイオス・ウェイスト》が両方とも自分のものなら、ぼくは荒れ野のほうに住んで、この砦は人に貸すね」
むっつりした傭兵はぶつぶつ毒づいてから、いきなりデトレフの頭を蹴《け》とばした。そういう扱いは、デトレフのような天才にあまりふさわしいとは言えない。
デトレフが閉じこめられている部屋は、せいぜい便所の二倍ほどの広さで、臭いはその三倍もひどい。他に五人の男が一緒に入っているが、たとえその中から従者を選べと言われても、遠慮したいような連中ばかりだった。毛布は一人に一枚あてがわれているのだが、いちばん小男のケレトは、コジンスキー――この男がいちばん図体が大きい――にちょっと痛めつけられただけで、あっさり毛布を渡していた。それと、チョークで番号を書いた服を、各自一枚ずつ持っている。
この服というのが重要なのだ。デトレフは服を冗談半分で取り替えた二人の男の話をきいたことがある。その結果、運悪くウルリックの大司教の説教中に大きな咳《せき》をしてしまった司祭が死刑執行人のもとに送られ、かたや小さな子供たちを殺害した者がミッドンハイムの寺院で献金箱に三シリングの寄付を求められるという事態が起こったわけだ。
「できることなら」デトレフはだれにともなく言った。「借金返済不能でアルトドルフの監獄になぞ入るもんじゃない」
だれかが笑ったが、その男はみじめな生活に慣れすぎてユーモアのわからなくなった者に殴りつけられてしまった。
マンドセン砦ではじめて目覚めたとき、デトレフの長靴《ブーツ》や刺繍《ししゅう》入りの上着ははぎ取られていた。「どこの田舎《いなか》者の仕業だ?」ときいたものの、結局、犯人は同房の囚人でなく、看守のスツァラダットだとわかった。破産したティリアの葡萄《ぶどう》酒輸入業者ガグリールモが、その仕組みをデトレフに説明してくれた。ここで生きのこり、正しい行ないを続けていれば、ただの囚人から特典つきの模範囚に取り立てられることが結構あるらしい。スツァラダットはその模範囚の一人だ。そして、模範囚は弱い立場の囚人から、質入れできるもの、売れるもの、交換できるものを洗いざらいかすめ取り、自分が砦に送られたときに背負っていた借金を減らす特権を持っている。つぎの夜、デトレフのシャツと半ズボンが消えうせ、かわりに悪臭漂うぼろ服が残されていた。唯一《ゆいいつ》デトレフが自分のものと呼べるのは、看守の便宜のために首に巻きつけられた鉄伽《てつかせ》だけだった。ところが、さらにつぎの夜デトレフが目を覚ますと、制服を着た役人がかれを押えつけ、スツァラダットがかれの髪を刈っている。
「ペンドラゴに売るつもりなのさ。ルイトポルト大通りにあるかつら屋だよ」
と教えてくれたガグリールモ自身、これ以上は無理というほど短く髪を刈られていたが、まるでさまになっていない。この世界には髪の毛にかぎらず、失ってもそう困らない人間の体の部位をやたらとほしがる魔術師や学生がいることを、デトレフは知っていた。どうかスツァラダットがそれに気づいていませんように、と願うばかりだ。
同房の囚人の中で髪を刈られていないのは、格闘家のような体格をした狂暴なかんしゃく持ちのコジンスキーだけだった。どうやらこの男は着々と模範囚への道を歩んでいるらしい。いかにもそれふうの面構えをしている。他の者はみな同じように髪を短く刈られていた。その顔ぶれといえば、賭《か》けごとに病みつきになった浅黒い水夫《すいふ》のマノロ、ラナルド神の熱心な信者で、いまは落ちぶれているユストゥス、三人だか四人だかの妻を持って破産に追いこまれた靴直しのケレトだ。ケレトは毛布の他にもいろんなものをコジンスキーに巻きあげられていた。だがデトレフは、筋骨たくましい大男のコジンスキーも一口分のパンと水くらいは靴直しに与えているのだろう、と思っている。ケレトに死なれてしまっては、かれから奪う余り分がなくなるからだ。
牢《ろう》ではたいしてすることもなかった。ユストゥスはラナルド神の恩恵を受けたトランプを持っていたが、デトレフはかれに『女帝を探せ』の手合わせを願いでるほど愚かではなかった。どうやらマノロはユストゥスのかもにされてきたらしく、すでにそのいかさま師の僧侶《そうりょ》に一年分の食糧を巻きあげられていた。ケレトは十センチほどの細長い角材をこっそり持ちこんでいたが、モルタルの壁相手ではとても歯が立たなかった。かろうじてコップ半分ほどの粉をかきとったものの、石の煉瓦《れんが》はびくともしない。壁の厚みは五十センチはあると、デトレフはきいていた。特別待遇めあてに、だれかがケレトとその角材のことをスツァラダットに密告するのは時間の問題だ。ときどきデトレフは、この靴直しを売るのはいったいだれだろうと考えたりした。まわりのことなど気にしないコジンスキーならいかにもやりそうだが、そんなことをしても模範囚への早道にはならないといままで判断してきたのなら、この先もやらないだろう。正直なところデトレフは、毎月の野外訓練時にスツァラダットを脇《わき》へ呼びだして、ケレトの角材のことを告げ口するのは自分ではないかという気がしていた。もちろん殊勝にも、できればそうした裏切りは先延ばしにしたいものだと考えてはいた。しかし、一人の芸術家が生きのびるのに取れる手段といったら、それくらいしかないだろう。
いつも人々の口にする問いがある。おしゃべり好きのガグリールモは別として、囚人たちの間で会話と呼べるのはその間いくらいだった。問いに至るまでの話の道筋には、いくつかある。娑婆《しゃば》ではなにをしていたんだ? いつかここを出られると思うかい? なにに困ったんだ? どんなことをやったんだ? 罪は重いのか? 刑期は? しかし、それらすべての問いが最後にたどりつくのほ、ただ一つ――借金はいくらだ? 三週間もたてば、デトレフは監獄仲間の借金の額を一ペニーに至るまで把握していた。
十六|金貨《ゴールド・クラウン》――これは <海洋の神> マナンの祝日に、マノロが <鷲獅子《グリフォン》と星> 亭の裏部屋で自分に来た必勝の手にかけた金額だ。十八金貸とその利子、三シリング四ペンス――これは、ケレトがいちばん新しい婚約者に装飾品を買ってやるために金貸しから借りた額。九十八金貨――こいつは、どんなあさはかな傭兵《ようへい》ですら自殺行為と考えるような、北方荒野《ノーザン・ウェイスト》への遠征に雇われたとも知らず、コジンスキーの使いこんだ額。二百五十八金貨と十二シリング六ペンス――いまは <鉤爪《かぎづめ》の海> の藻屑《もくず》と消えた上等な葡萄《ぶどう》酒の積み荷を買うために、ガグリールモがティリアのさる商売人から借りた額。五百四十金貨――これはユストゥスが、若さと美貌《びぼう》を取りもどせること請《う》け合いの美容クリームと言葉たくみにだまして、香料商人の妻からかすめとった額だ。その女の息子たちは海外からもどってきており、かれらが剣を研ぎはじめる前にユストゥスが逮捕されたのは不幸中の幸いだろう。そう、デトレフは全員の借金のことを知っていた。と同時に、デトレフの借金もみなの知るところとなった。
「十一万九千二百五十五金貸と十七シリング九ペンス」
そう言ったのはマノロだ。しかし、だれが言ったところでおかしくはない。囚人たちはみな、ときに祈りのような崇拝の念をこめ、ときに悪罵《あくば》のような怒りをこめ、またときに愛の告白のような気おくれを感じて、その言葉を口にする。
「十一万九千二百五十五金貨と十七シリング九ペンス」
デトレフはその節まわしに、いいかげんうんざりしていた。なんとかその金額を変えられないものだろうか。多くても少なくてもいいが、できれば少ないほうに。娑婆に友人か後援者か保証人でもいれば、その人物が気まぐれにぽんと金を出してくれることもあるかもしれない。しかし、ぽんと出すには奇跡に近い気まぐれが必要な額ではある。
「十一万九千二百五十五金貨と十七シリング九ペンスか」
「もう、たくさんだ。聞きあきたよ」
「そりゃそうだろうな」コジンスキーはうらめしそうな声で言った。「それにしても、十一万九千二百五十五金貨と十七シリング九ペンス[#「十一万九千二百五十五金貨と十七シリング九ペンス」に傍点]だぜ。なんでまた、そんなすげえ額を。いったいどんだけの金か想像してみたんだが、とてもおっつかねえ……」
「金貨でできた町でも考えてみたらどうだい、コジンスキー」と、ユストゥス。「寺院のように高く積まれた金の塔、宮殿みたいにそびえる金貨の山」
「十一万九千二百五十五金貨と十七シリング九ペンス」まただ。「なんてこったい。カール・フランツ皇帝にだって、十一万九千二百五十五金貨と十七シリング九ペンスなんて手に入りゃしねえぞ」
「ぼくは手に入ると思うね。そもそも、その金の大半は皇帝の金だし」
ガグリールモは仰天して首を振った。「しかし、どうしてまた、そんなことをしでかしたんだい、デトレフ? どうやったら、そんな大金が使えたのさ? わしのいままでの人生でも、この手を通りすぎてったのはたかだか五千金貨だ。しかも、わしは実業家、貿易商なんだ。どうやって、おまえさん、十一万……」
「……九千二百五十五金貨と一七シリング九ペンスも? 簡単なもんさ。経費はどんどんかさむし、もともとの予算には入ってなかった費用も出ていくしな。おまけに、ぼくの会計係どもの怠慢さときたら、まるで犯罪だったよ」
「なら、どうしてそいつらはこの監獄に入ってないんだ?」
「それは、つまり」デトレフは赤面した。「つまり、会計係はほとんど……その……殺された……というのかな。損をした関係者の中には、物事を長期的に見通せない者がいてね。いやまったく、尻《けつ》の穴の小さいのと貯金箱は芸術精神の敵だよ」
牢《ろう》の奥で水滴がぽたりと落ちた。以前からケレトは、本のページを丸めて造った三角形の筒で、滴を受けようとしていた。さすがにスツァラダットもその本まで盗むことはないと判断していたが、コジンスキーはずっとそのふやけた紙を食べていた。昨日は鼠《ねずみ》が一匹迷いこんできたが、それもコジンスキーが食べてしまった。本人いわく、北方荒野に遠征したときには、もっとひどいものを食べたことがあるそうだ。
「しかしだな」ガグリールモはふしぎそうに言う。「たかが芝居ごときに、その金を全部つぎこむとは……」
「たかが芝居ごとき[#「たかが芝居ごとき」に傍点]じゃない、ガグリールモ! 芝居の中の芝居だ。いったんそれが幕を開ければ、幸運にも見ることのできた者の心に、永遠に生きつづけるはずだった芝居なんだ。その芝居によって、ぼくは当世きっての天才として、不動の名声を築けたはずだ。そんな雀《すずめ》の涙ほどの制作費など、十倍になってもどってきただろうってことは、声を大にして言いたいね」
題して、『帝国《エンパイア》の創始者、ライク地方の救世主、暗黒への挑戦者、シグマー・ヘルデンハンマーの真実なる歴史』。デトレフ・ジールックはその芝居をミッドンランドの選帝侯に依頼されて書いたのだ。その大作は、他でもないカール・フランツ皇帝の前で公演される予定だった。製作にあたってデトレフは、中央山地にある三つの村のなにからなにまでを丸抱えにする計画を立てていた。住民はすべて臨時雇いとして徴集し、木の城を建て、芝居の進行にあわせてそれを燃やしていくことになっていた。さらに、魔法の場面では当代随一の技を駆使した幻影を作りだすために、魔法使いたちが雇われていた。舞台には谷を利用した天然の円形劇場を使う予定だったが、そこまではミッドンハイムから馬で十二日かかる。そのため、皇帝や選帝諸侯の壮大な行列がそこに案内される手はずになっていた。そして、芝居の幕開けのためだけに、二日にわたる祝宴が催され、その後は途中、食事や睡眠で間をとりながら、一週間以上にわたって勇壮な芝居が演じられる予定だった。当世きっての劇作家であり、かつ並ぶ者なき役者であるデトレフが、シグマー役を自作自演することになっていた。シグマーはデトレフがその個性を発揮できるだけの器《うつわ》を持った、数少ない文芸上の人物である。そして、一時は十五人の選帝侯のうち六人の愛人だったと噂《うわさ》される、名高い美女のリリ・ニッセンが <治癒と慈悲の女神> シャリアの役を引きうけていた。戦闘場面では傭兵《ようへい》たちが命がけの戦いを演じ、技に長《た》けた魔法使いたちの手でコンスタント・ドラッケンフェルズ役の巨大なホムンクルスが特別につくり上げられ、シグマーのドワーフ同盟軍用にドワーフの軍隊が一つ雇われた。その他にも人が雇われ、英雄シグマーに帝国《エンパイア》から追放されるゴブリンの群れを仮面を被《かぶ》って演じることになっていた――デトレフはできれば本物のゴブリンを使いたいと主張したのだが、役者たちがゴブリンと仕事をするのを嫌ったのだ。まるまる三季分の収穫が出演者と観客の食糧として貯蔵され、九百五十八人の玄人《くろうと》の役者、歌い手、踊り子、調教師、曲芸師、楽士、道化師、闘士、娼婦《しょうふ》、降霊術師、哲学者などが、この大がかりな芝居で重要な役を果たすために確保されていた。
そのすべてが取るに足りないささいな出来事のために、無に帰してしまった。戦闘場面に使う臨時雇いたちの間に、またたくまに疫病が蔓延《まんえん》したのだ。リリ・ニッセンは疫病の知らせが耳に届くや、マリエンブルグからがんとして動こうとしなくなった。しかも、リリの辞退などほんの手はじめで、その後、続々と招待を断わる者が出てきた。ついに、当のミッドンランド選帝侯が手を引き、はたと気づいたときには、デトレフはまるで軍隊のように押しよせる怒りくるった金貸しへの対応に追われるはめになっていた。選帝侯の資力で保障されていた手形が、突然紙切れ同然になってしまったからだ。そういう状況に追い込まれては、デトレフは聖職者に身をやつし、アルトドルフに逃れるよりほかなかった。しかし、運の悪いことに、選帝侯の使者たちがその町でデトレフの現われるのを待ちうけていた。すでに多額の支出金がある上に、デトレフの求めに応じて前売券に金貨一千枚を支払った者たちが、払いもどしを迫ってきたという。おまけに、例の三つの村が金を出しあって、暗殺者|組合《ギルド》に仕事を依頼しようとしているという噂が立っていた。
「すごい芝居になるはずだったんだ、ガグリールモ。あれを見たら、きみだって涙を流しただろうな。戦鎚《ウォーハンマー》一本と気高い志だけを武器に、ぼくが邪悪の勢力相手に獅子奮迅《ししふんじん》する場面は、偉大な芸術史の一幕に永遠に刻まれるはずだった。いいかい、シグマー役のぼくの味方はみな死ぬか蹴散《けち》らされるかして、ドワーフ軍はいまだシグマーの大義に従う気はないという状況だ。そこで、ぼくはつかつかと――奇跡のようなすばらしい照明効果によって、ぼくの大きな影が映しだされる中を――死体の転がる戦場の中央へと歩みでる。と、ゴブリンたちが巣穴から忍びでてくるんだ。まる二時間、ぼくは不動のまま立ちつくし、その間にゴブリンが一匹ずつ、しだいに異様な恐ろしさを増しながら集まってくる。劇がその場面にさしかかると、女子供は締めだして、他のところで曲芸を見てもらうことになっていた。ぼくは常任の作曲家フェリックス・ヒューバーマンに迫力満点の合唱曲を作るように頼んでおいた。それに、ゴブリン役の臨時雇いが被る怪物の仮面は、一つ一つぼくがデザインしたんだぞ。ゴブリンの群れがついに面前に集結したとき、ぼくは戦鎚《ウォーハンマー》を取りだす。光りかがやく金属の、聖なる歌う <戦鎚《ウォーハンマー》> 。それは、だれ一人として見たことのないような光を放つんだ。そして、何週間も耳がきこえなくなりそうなヒューバーマンの『戦鎚の主題曲』。ぼくがゴブリンや <大魔法使い> と戦って、英雄にふさわしい行為や勇気を示すことで、観客は若さを取りもどしたような気分になるはずだった。輝かしいぼくの業績の中でも、それは最高の栄光に満ちた時になったことだろう。『ブレトニアの愛妾《あいしょう》の悲劇』は忘れさられ、『オトッカーとミュルミディアの愛』もまったく生彩を欠くことになっただろうし、ぼくの実験的な作品であるクレグヘルの『帝国《エンパイア》の大いなる日々』をこきおろした批評家たちは、羞恥《しゅうち》のあまり喉《のど》を掻《か》き切っただろうな」
「一言を一ペニーで買ってもらえるんなら、あんた、とっくの昔に自由の身になってるぜ」ユストゥスがあてこする。
「ペニーね! 結局、ここではそんなはした金しか望めないわけだ。昨日ぼくに面会にきた客を見たか? 目つきの悪い、ひどく体を痙攣《けいれん》させてたあの男さ」
ガグリールモはうなずいた。
「あれが <お調子者> のグリュエンリーべだ。覚えてるかい? あいつはルイトポルト皇帝の時代に、宮廷のおかかえ道化師をやってたこともある。やつのおはこは手なづけた小羊を使った胸の悪くなるような寸芸だった。そのうちに年をとってぶくぶく太り、お世辞しか言えずに余興ができなくなった。そこで、商売の手を広げることにしたんだ。いまは、酒場で道化や曲芸や寸芸をするいわゆる大道芸人たちの元締めをやっていて、稼ぎの四分の三をぴんはねしている。曲芸師が玉を落としたり、吟遊詩人がバジリスクのもだえるような声を上げたり、喜劇役者が無能帝ボリスの頃なら受けたような台詞《せりふ》を使ったら、まずグリュエンリーベのところの芸人と思っていい。ともかく、あの人間の皮をかぶったくず[#「くず」に傍点]、道化の衣裳をつけたオークもどきの野郎が、あつかましくもこのぼくに、自分の下で働けと話を持ちかけてきたわけさ……」
水が滴りおちた。だが、屈辱の記憶にデトレフの怒りはいまだ冷めやらず、なおもはらわたが煮えくりかえっていた……。
「で、そいつはおまえになにをやれって?」
「あいつのために小噺[#「小噺」に傍点]を書けってさ。一行一ペニーで、風刺の効いた叙情詩を書けだの、あいつの抱える機転のきかない無能の一座に笑いのネタを提供しろっていうんだ。いいか、スケイブンにバイオリンの弾《ひ》き方を教えたり、墓荒らしにキャセイの料理法を講義できるとでも言うつもりか? ぼくの詩はかつて皇子たちを泣きじゃくらせ、そいつはかれらの心に生涯刻みつけられているのにだぞ。そして、ぼくのなにげない一言は、沈黙の誓いを立てた隠者さえ、腹わたがよじれるほど笑わせたというのに……」
「一行一ペニーか」ユストゥスがぼそりと言った。「いったい何行要ると思う? 十一万九千二百五十五金貨と十七シリング九ペンスの借金を、一行一ペニーでちゃらにするには」
「さあね……」
ユストゥスは天井を見つめ、目を白黒させた。知りたかないよな。大学のおっきな図書館の本を集めたって、それだけの行はないものな」
「ぼくはいい模範囚になれると思うかい?」デトレフはきいた。
コジンスキーはいやらしく笑っただけだった。
「いや、ちょっと言ってみただけさ」
U
修道院のテラスから、ジュヌビエーブは数十メートル下方を深くゆったりと流れるタラベック川の、ガラスのように澄んだ川面を眺めることができた。こんもりした甘い香りの松林が縁どるその川は、さながら帝国《エンバイア》の太い動脈のように見えた。黒色山脈に源《みなもと》を発し、マリエンブルグの河口までゆうに千二百キロを流れるライク川ほどの流域はないが、このタラベック川もオールド・ワールドの地図上をナイフですぱっと切りとったように走る川だった。最果て山脈から急流となって流れだし、大森林に入ってウルスコイ川と合流した後、水量を増してタラブハイムの内港へと流れつく。さらにその後、中央山地の黒い土をいっぱいに含んで、アルトドルフでライク川に注ぎこんでいる。ジュヌビエーブがこのテラスからハンカチを落とせば、はるばる帝国《エンパイア》を抜けて海にまで流れつくかに思えた。と、そのとき、一|艘《そう》の川船が――めったにこのあたりまでは上ってこないのだが――修道院の桟橋《さんばし》に引きよせられた。 <永遠の夜と慰めの教団> に物資を補充しにきたのだろう。
このすべてのものから隔離された場所で、ジュヌビエーブは川の流れを血流に見立てるのが好きだった。彼女は俗世界から抜けだしたくて、この修道院にやってきたのだが、人間と過ごした数世紀の間に俗事への興味という味を覚えてしまっていた。長老オノリオが禁じようとしても、なお抑えることのできぬその興味……。安らかな闇《やみ》の帳《とばり》が降りるにつれて、背の高い林が影に溶け、昇った月が水面でゆらゆらと揺れるのが見える。アルトドルフはどうなっているだろう? ミッドンハイムは? ルイトポルトがまだ治めているのだろうか? <三日月> 亭はまだ商売を続けているのだろうか? オスバルト・フォン・ケーニヒスバルトは、もうオストランドの選帝侯になったのだろうか? どれもジュヌビエーブが気にすることではないし、長老オノリオはそうした興味を「みだらなのと同じ噂《うわさ》好き」と戒めていたが、彼女はそれなしではいられなかった。眼下の川船は動物や衣服、工具、香辛料などを運んできたのだろう。しかし、書物や音楽や噂話はそこにはない。修道院では、人は変化のない生活に満足し、事件とか世の雑事、流行といった混沌《こんとん》とした世間のことに心奪われるものではないとされている。四半世紀前のジュヌビエーブにはそうした環境が必要だった。おそらく、いまの彼女は俗世界にもどることが必要なのだ。
この修道院はシグマーの時代に、長老オノリオの闇の父、 <ふさぎ屋> のべラダが創設して以来、何世紀も変わることなく孤立した地位を保ってきた。オノリオはいまだに大昔にはやった飾り金具や辮髪《べんぱつ》で身を飾り、他の聖職者たちもそれぞれ自分の生きた時代の服装を好んで身につけていた。そこにいると、ジュヌビエーブはもう一度子供にもどったような気持ちになった。彼女の服装や髪型や持ち物に、みとがめるような好奇の視線が注がれる。教団には <真の死者> も実在していて、ジェヌビエーブを不安な心地にさせた。かれらは物語の中では、昼に眠り、生まれ故郷の土を詰めた棺桶《かんおけ》の中できちんと休んでいなければ、夜明けとともに燃えつきてしまう生き物として描かれている。実際のかれらの多くには混沌の印《しるし》が表われていた。赤い大理石のような目、狼《おおかみ》のような牙《きば》、十センチもの鋭い鉤爪《かぎづめ》。かれらの食習慣はジュヌビエーブの洗練された感性には不快なものだったし、修道院と林間に二、三ある近隣の村との間に、多くの対立を生みだす原因ともなっていた。
「子供だからどうだというのだ?」オノリオはそんなふうに言っていた。「自然のままの者はみな、わたしの顎髭《あごひげ》が伸びて今度|剃刀《かみそり》を当てる頃には、どうせ死んでいるだろうが」
ジュヌビエーブは最近ほとんど栄養を摂《と》らなくなっていた。長寿の者の例にもれず、もはやそうした必要を感じなくなっている。ある意味でそれは救いと言えたが、やはり血とともに押しよせるあの心の高ぶり、ほんとうに生きている[#「生きている」に傍点]となにより実感できるあの瞬間がなつかしかった。ただ一つ、ジュヌビエーブが後悔することがあるとすれば、だれにも <闇の口づけ> を与えなかったことだ。彼女は子孫を作らなかった。彼女を闇の母として世話してくれる若い吸血鬼もなく、この世界に子孫を増やしてくれる末裔《まつえい》もいない。
「子孫を作っておくべきだったわね。若いうちなら、それが楽しくもあったでしょうに」優雅で威厳に満ちたメリッサ・ダクー夫人が言った。「ほら、わたしは数世紀のうちに、百人からの子孫を作ったじゃない。みんないい子ばかりよ。よく尽くしてくれる闇の息子たちだわ。そろいもそろって、ラナルド神のように男前なの」
シャンダニャックはメリッサ夫人の子孫だったので、その吸血鬼の貴婦人はジュヌビエーブを闇の孫のように扱った。夫人の話しぶりやおせっかいなところは、どこかジュヌビエーブにほんとうの祖母を思いださせる。とはいえ、メリッサ夫人は見た目には一千百年前と同じ十二歳の金髪の少女だった。一千百年前のある夜、夫人の馬車は金以外のものに飢えた、名もない強盗に襲われたのである。
教団の魔導書《グリモア》によれば、赤い渇きが失《う》せたら、ジュヌビエーブは子孫が作れなくなるということだった。だが、そうとはかぎらないだろう。修道院の蔵書や教団の仲間をちょっと観察すれば、吸血鬼にも猫や魚同様いろんな種類があることはわかる。あらゆる神の遺物や象徴を憎む者もいれば、僧籍に入って非常に献身的な人生を送る者もいる。農民の娘をひと息に吸いつくす野蛮な獣もいれば、餌《えさ》である人間を家畜というよりは恋人として扱い、その血をもらうだけの美食家もいる。魔術や妖術《ようじゅつ》に長《た》けた者は蝙蝠《こうもり》や狼《おおかみ》、知覚力のある赤い霧などに姿を変えるし、かと思えば、靴紐《くつひも》を結ぶのがやっとの者もいる。「あたしはどの種類に入るの?」ジュヌビエーブはおりにふれて考えた。「あたしはどんな種類の吸血鬼なのかしら?」
忌まわしい伝説上の吸血鬼から受け継がれてきたジュヌビエーブの血統――メリッサ夫人やシャンダニャックから連なる血統――にしるされた特徴は、かれらが死んで土の中に安らかに横たわることはないということだ。吸血鬼への変身は、まだ呼吸をしているうちから穏やかに訪れる。ジュヌビエーブは知らないうちに血への欲求を感じるようになったが、心臓はいまも動いている。一方、 <真の死者> は歩く屍《しかばね》であり、肉体は残していても、そのまわりには鼻につく腐臭がつきまとっていた。ジュヌビエーブは <真の死者> たちの中にも人間と同様、有能で慎み深い者がいるのは知っていたが、たいていはろくでもない連中で、子供をさらったり、喉《のど》を引き裂いたりするのだった……。
ジュヌビエーブとメリッサ夫人はテラスでトランプをしていた。夕闇《ゆうやみ》が深まるにつれ、二人の|闇の感覚《ナイト・センス》が目覚め、ゲームは伯仲していく。ジュヌビエーブは鋭い歯の上に舌を走らせ、二つ三つ先の手を読もうとした。
「さあさあ、早く」メリッサ夫人があどけない顔を厳しくひきしめて言う。「そんなふうにおばあさんの心を読もうとするもんじゃないわ。あなたよりうんと年をとってるし、知恵もあるんですからね。あなたにちがう札のイメージを見せるぐらい簡単よ」
ジュヌビエーブは笑ったが、いつのまにか切り札を使われて、また負けてしまった。
「ほら、ごらん」
メリッサ夫人は笑って、いかさまの種を明かした。その瞬間の彼女はくすくす笑う少女にしか見えなかったが、すぐにまた元の老婦人にもどった。修道院の中では、 <真の死者> が目覚めはじめている。森では狼が吠《ほ》え、大きな蝙蝠が大儀そうに空を横切って、つかのま月に黒い影を落とした。
二十五年前、ジュヌビエーブは生ける者のうちでも最も邪悪な男の死に立ちあった。その結果は、悲惨で予測もつかない出来事をひきおこすこととなった。既知世界《ノウン・ワールド》中で、邪悪の手先――中には何年間も、普通の、さらには模範的は市民になりすましていた者さえいる――が本来の異形の姿にもどったり、見えない矢に心臓を射抜かれて倒れたり、爆発して木っ端|微塵《みじん》になったりした。キスレフでは城が音もなく崩れおち、そこで行なわれていた魔女集会をぺしゃんこに押しつぶした。何千という精霊が地から解きはなたれ、霊媒師や妖術師の知識の及ばぬところへと消えた。ジソローでは犠牲《いけにえ》となったはずの子供の石像がふいに生命を持ち、だれにもわからないいにしえの言葉で話しはじめた。子供にかかっていた魔法がついに解けたのだ。そして、オスバルト皇子とその仲間は時代の英雄となった。
皇帝ルイトポルトは当初オスバルトの遠征を支援しなかったことを恥じて、ドラッケンフェルズの見る影もなくなった従者の残党を城から一掃すべく、近衛《このえ》部隊の一部を派遣した。ゴブリンやオーク、トロール、おぞましく変異した人間、退化した生物、その他どんな種にも分類できない生き物の群れが剣に倒され、火にあぶられ、胸壁から宙づりにされた。皇帝はその地を完膚《かんぷ》なきまでに破壊しようとしたが、オスバルトが仲に立ち、かつて邪悪が存在したことを忘れないためにも、そのまま打ちすてておくようにと言い張った。ドラッケンフェルズの蔵書や記録、財産をどうするかは、シグマー派の大神宮とウルリック派の大司教との間で論争を巻きおこしたが、結局|帝国《エンパイア》中の寺院や図書館に納められて、真に高徳で邪心のない学者だけがそれを閲覧できることになった。
一方、ジュヌビエーブは報償の申し出をいっさい断わり、 <三日月> 亭にもどった。冒険での彼女の役割は終わったのだ。そのことについては、もうなにも耳にしたくなかった。あまりにも多くの死や、死よりもなおおぞましいものに出会ったその事件を、ジュヌビエーブは軽々しく扱う気になれなかった。だが、酒場は変わってしまい、物見高い客やうるさい客が押しよせてくるようになった。語り部はジュヌビエーブに話をせがみ、彼女を崇拝する者はその持ち物をほしがり、怪物の犠牲者の身内は彼女に筋ちがいの賠償を求めてきた。政治家は自分の活動にジュヌビエーブの名声を使いたがり、若い不死者《アンデット》の一派は彼女を擁して吸血鬼組合《バンパイア・ギルド》を作りたがって皇帝に働きかけ、自分たちの習慣を禁止する法を撤廃させようとした。また、ドラッケンフェルズの思想に忠実な者はいくどとなく彼女の暗殺を計った。さらに、狭量な名士たちは、ジュヌビエーブが <大魔法使い> の討伐に一役買ったと目されることにがまんならず、彼女とドラッケンフェルズが実は裏で手を組んでいたという話をでっちあげようとした。なにより手を焼いたのは、彼女の崇拝者となった若者がつぎからつぎへと喉《のど》や手首を差しだし、たっぷり血を吸ってくれと懇願してきたことだ。ジュヌビエーブの目の前で血管に刃物を立てる者すらいた。中には、不死の者にとばっちりしか与えないような困った輩《やから》もいる。そういう連中は <闇《やみ》の口づけ> と、それがもたらす恩恵のすべてを手に入れたくてしかたないのだ。だが、その手の輩を除けば、他はジュヌビエーブに最後の血の一滴まで吸いとられ、彼女の腕の中で歓喜に身をよじりながら死ねれば本望という者ばかりだった。
がまんならないものが多すぎて、とうとうジュヌビエーブは修道院目指して川船に乗った。そのような場所があるとは以前に聞いて知っていたし、彼女の闇の従兄弟《いとこ》たちにはいろんな種類がいて、その人里離れた吸血鬼の隠れ家についてさまざまな、ときには矛盾する噂《うわさ》をきかせてくれた。だが、こうなった以上、彼女はそうした噂の裏に隠された真実を見極め、 <永遠の夜と慰めの教団> に入れるよう自力でなんとかしなければならなかった。しかし、彼女がその教団を見つけだそうとしはじめたとき、相手のほうから接触してきた。言うまでもなく、かれらの仲介者は世界中に散らばっているのだろう。
「ふさいでるのね」メリッサ夫人が言った。「悩みごとがあるなら、おっしゃれば」
力になろうという申し出ではない。命令だ。
「あたし、夢を見るんです」
「ばかおっしゃい。わたしたちは夢なんて見ないわ。わたしたちの眠りが死者の眠りだってことくらい、あなたも知ってるでしょうに」
ジュヌビエーブの心に仮面の男が浮かび、身も凍るような笑い声が聞こえた。「ええ。それでも、あたし、夢を見るんです」
テラスにいた二人の女性のところに、ドワーフの吸血鬼で、教団の現在の長老オノリオが何人かを引き連れてやってきた。その中の一人は生者で、そわそわと落ちつかなげだった。若い男で立派な身なりをしているものの、上流階級の者でないことは一目でわかる。ジュヌビエーブはその男にどこかまともでない印象を受けた。ヴィーツァック――かつてカラ・クバーンを無類の残虐さで治めた巨人の <真の死者> ――が、血への渇きをむき出しにしてその若者をねめつけている。ヴィーツァックはオノリオの腹心の部下で、長老の許しがないかぎり危害は加えないのだが、訪問者にそんなことがわかるはずはない。
「お嬢さま方、おじゃましてかまいませんかな」オノリオ長老が切りだした。「いやはや、こちらが俗世間と縁を切ったつもりでも、世間のほうではなかなか関心を捨ててくれませんな。伝言が、つまり召喚状が、届いたのですよ。こちらの紳士はアルトドルフから来られたヘンリック・クラリイ氏。あなたにお話があるそうですよ、ジュヌビエーブ。お応《こた》えするかどうかは、あなたの好きなように」
使者は一礼して、ジュヌビエーブに巻物を手渡した。木々を背景にした王冠のその封印には見覚えがあり、ジュヌビエーブはすぐさま封を破った。書面に目を通していると、ヴィーツァックの歯ぎしりがきこえた。大|蝙蝠《こうもり》が狼《おおかみ》を捕まえたのか、森がざわついている。
一時間もしないうちに、ジュヌビエーブは長旅の用意を整えて川船に乗りこんだ。メリッサ夫人は別れ際にくどくどと説教をし、外の世界がいかに危険か、あるいはジュヌビエーブがこれからどんな困難に直面することになるかを説いてきかせた。ジュヌビエーブはこの老いた少女を心から愛していたので、夫人の言うようなさんざし[#「さんざし」に傍点]を振りかざす異端審問官は三世紀も前に姿を消し、夫人にとって生血の供給源だったかつての大都市はすでに廃墟《はいきょ》と化していることを告げるには忍びなかった。メリッサ夫人は永劫《えいごう》とも思える時間を、この修道院ですごしてきたのだ。二人は抱き合い、メリッサ夫人は桟橋《さんばし》にもどっていった。そこでは、流水を渡ることのできない種族のヴァーツァックが、修道院の建つ高台へ夫人を連れかえろうと待ちかまえていた。闇の祖母が手を振って別れを告げると、ジュヌビエーブは妙な気分を味わった。まるで二人がもう一度生きかえって、普通の十六歳と十二歳の親友にもどり、ただ夏の間離れ離れになるだけのような気がしたのだ。
つぎの日、漕《こ》ぎ手が森の中に船を進める間、ジュヌビエーブは作りつけの寝台にうつぶせに横たわり、再び夢に落ちていった。
恐ろしい笑い声を上げる鉄の仮面の男は、決して彼女の眠りから消えようとはしないだろう。あの男はこの世からいなくなったかもしれないが、それと記憶から消えることとはまったく別なのだ。
ジュヌビエーブはいま、アルトドルフへ向けて旅をしている。だが、いずれこの旅は、灰色山脈へ――すなわち二十五年前にたどった道へと――彼女を連れもどすことになるのはわかっていた。
ドラッケンフェルズ砦《とりで》へと。
V
スツァラダットが食糧を配ると、コジンスキーはいつもより少ない量しかケレトの手元に残らないようにした。こんな扱いをあと二、三か月も受ければ、小柄な靴直しのケレトは死んでしまうだろうし、コジンスキーはますますたくましくなるにちがいない、とデトレフは思った。そうなれば、この <いかれた傭兵《ようへい》> にはまた別の食糧調達源が必要になる。ガグリールモは老いぼれ同然で、針金のように細い足をしている。きっと、かれがコジンスキーのつぎなる供給者、新たな獲物になるだろう。しかし、その後は……? マノロは海の男でいまだ衰えを知らず、ユストゥスは <盗賊とべてん師の神> の信者が備えるべき技をすべて会得している。デトレフは自分が体調をくずしていると自覚していた。芝居を製作しているときには、毎目元気に動きまわっていたせいもあって、適度に体重が減っていた。だがいまは、足りない食糧などどこ吹く風で、筋肉がぶよぶよにたるんでいる。コジンスキーは毎朝目覚めるたびに、いちだんとたくましく、いやしくなっているようだった。ケレトとガグリールモが死んだら、コジンスキーはきっとデトレフから食糧を奪いはじめるだろう。マノロとユストゥスは見て見ぬふりをするにきまっている。デトレフだって現に、コジンスキーがケレトからぴんはねするのを黙認しているのだ。それどころか、デトレフが監獄の中でいちばん親しくしているガグリールモから、あの獣《けもの》が食糧を奪うようになっても、デトレフはそしらぬふりを続けるだろう。そして、コジンスキーにさんざん絞りつくされた後、デトレフも死んでいくのだ。
それは『シグマーの歴史』の作者、ミッドンハイムにあるケーニヒス庭園劇場の花形役者にふさわしい運命とは言いがたかった。デトレフはミッドンハイムに残してきた上流社会の娘たちの中で、自分に失恋した者の数を数えてみたが、なんの励みにもならなかった。かれの思いは、まだ演じていない役、まだ公演していない古典劇、まだ書いていない大作へと飛んだ。万一奇跡が起こって、この砦《とりで》から出られたなら、タラダッシュ作の『カラ・カドリンの孤独な囚人』を自分の主演作品として公演しよう。いまのデトレフになら、きっとトリスター男爵《だんしゃく》のやり場のない苦悩が真に理解できるはずだ。
と、だれかがデトレフのもの思いを破った。スツァラダットだ。鍵《かぎ》の束を鼻先でがちゃがちゃ言わせている。
「なんの用だ? まだ髪の毛がほしいのか? それとも手の指か、足の指か? 人肉|鍋《なべ》でもやるのかい。いや、安物の葡萄《ぶどう》酒の栓の代わりにでもするのかな」
模範囚は片隅に唾《つば》を吐いた。
「面会客だよ、役者さん」
「なんてことだ! またグリュエンリーベか! 具合いが悪いから会えないと言ってくれ。いや、社交行事がぎっしりで、とても時間が取れないと。いや、それとも……」
スツァラダットはデトレフをひっぱりおこして、鍵で横面を張りとばした。デトレフは血を流した。
「お客に会うんだよ。いやなら刑罰房へ移すぞ。あそこじゃ、ここみたいに贅沢な[#「贅沢な」に傍点]暮らしはできんからな……」
いまいる監房にどんな贅沢《ぜいたく》があるのかはっきりとはわからないが、デトレフはわざわざそれを手放してまで、それがどういうことか知りたいとは思わなかった。世の中には、獲物に飢えた狼《おおかみ》が監房の中にいないことを贅沢と思う者もいれば、週に一度、排泄《はいせつ》物を掃除してもらったり、土牢《つちろう》の腐った水に首までつからなくてすむのを贅沢と思う者もいるのだ。
スツァラダットはデトレフの鉄の首伽《くびかせ》に鎖をつけ、扉からひっぱりだした。天才は犬のように監獄を引きずられていき、他の囚人の泣き言や哀願の声をいやというほど浴びせられた。この砦は何世紀も昔のもので、 <暴君> ハジャルマールや <不正者> ディドリック、 <史上最大の残虐者> 血まみれベアトリスの統治時代に活躍した拷問部屋がいまだに残っている。スツァラダットは古ぼけた拷問台を熱い目で見つめ、つぎに厭《いと》わしそうな視線をデトレフに向けた。その模範囚がなにを考えているか、間くまでもなかった。カール・フランツは皇帝にしてはもののわかる男だが、選帝侯たちが次期皇帝にどんな人物を選ぶかわかったものではない。歴史家に言わせると完全な狂人だったベアトリスでさえ、 <絶大にして善良なる人々> の満場一致の決定で選ばれ、執務に就《つ》いたのだ。スツァラダットがいつまたティリアの長靴≠フ埃《ほこり》を払い、キスレフの鉄の処女≠フ釘《くぎ》に油を差し、蜘蛛《くも》の巣の下になったまま忘れさられた火ばしや焼きごてを熱しなおすかしれない。そうなったとき、この模範囚は嬉々として新たな先棒かつぎとなり――そして、デトレフはかれの劇場に訪ねてきたミッドンランド選帝侯の口車に乗った日のことを、ますます後悔するはめになるだろう。
絶大にして善良なる≠ゥ! 偏屈にして蛇のごとき、と言ったほうがよほどぴったりくる。執念深くて、醜怪! 汚らわしくて、けちんぼう!
ついに、デトレフは小さな中庭に押しこまれた。裸の足が冷たい石畳に凍える。空はどんより曇っているというのに、日差しが目にしみる。まるで、じかに太陽を眺めたかのようだ。デトレフはいかに薄暗い監房に慣れてしまっていたかを思いしった。
中庭を見下ろすバルコニーに人影が現われた。ファン・ツァント典獄の黒い衣装や金鎖、それに例の高慢な表情が見える。かれはデトレフが入所する際に、苦難の中での自制と平安について説教した男だ。役人の中には、愚行の誓いを立てたのではないかと思えるほど信心ぶかい連中がいるが、この男もその一人だった。
「ジールック」ファン・ツァントは言った。「ここ数週間、なんだか変なにおいが鼻について困ると思っていたかもしれんがね……」
デトレフはただ典獄に調子を合わせるためだけに、にやりと笑ってうなずいた。
「……ま、こんなことを告げる役目がわしにまわってきて残念だが、このにおいの元はきみではないのかな」
バルコニーの真下にある水落とし口から水流が噴きだし、石つぶてのようにデトレフを襲った。デトレフは地面に叩《たた》きふせられ、激しい水流にもまれた。水の流れから逃れようとしても、それは向きを変えて、またしてもデトレフを叩きふせる。ぼろぼろの服が水圧で引きちぎられ、大きな泥の塊《かたま》りが体からこそぎおとされて、ひりひりと痛んだ。水の中に拳大《こぶしだい》の氷の塊りが混じっているところを見ると、屋根の雪解け水で体を洗われているらしい。スツァラダットは固いブラシーーかつてはかれご自慢の拷問具だったとしても不思議でない代物《しろもの》――をデトレフに投げてよこし、体をごしごし洗えと命じた。
と、水流がふいにとだえた。スツァラダットはデトレフから残りのぼろ服を剥ぎとり、だぶついたかれの腹をつついた。模範囚は不潔な黄ばんだ歯をむき出しにし、鼠《ねずみ》のようないやらしい笑みを浮かべている。デトレフは水を滴らせ、体中に鳥肌をたてたまま、通路を連れていかれ、別な部屋に通された。スツァラダットは粗末な衣装――流行の先端とは言えないが、ないよりはましな服――を取りだし、タオルで体を拭《ふ》いてからならそれを着ていいとデトレフに告げた。
「グリュエンリーベは年のわりに怒りっぽいんだな」デトレフは言った。「あいつの客のふりまく臭いときたら、こんなものじゃないのに、いちいち腹を立てるなんて」
ファン・ツァントが部屋に入ってきた。「グリュエンリーベに会うのではないぞ、ジールック。今日の面会人は、はるかに名のあるお方だ」
「この墓穴の典獄じきじきにお迎えするほどの名士ですか?」
「そのとおり」
「それはおもしろい。案内してもらいましょう」
デトレフはもったいぶって手を振り、合図をした。以前、ズートロの大連作『敬虔《けいけん》なるマグナス』に登場する七人の皇帝の役づくりで覚えた威厳を、ちょっとばかり借用する。ファン・ツァントは気ぜわしげにデトレフの腕をつかむと、別の扉からかれを連れだした。つぎの部屋に一歩足を踏みいれると、入獄以来味わったことのない温《ぬくも》りがデトレフの体を包んだ。部屋は暖炉でほどよく暖められている。格子のない明かりとりの窓があり、果物鉢が――そう、果物だ!――食事の合間にちょっとつまみたくなったら自由に取れるように、さりげなく食卓に載っている。
歳《とし》の頃四十くらいの男が食卓につき、ゆったりとした袖で赤いりんごを磨いていた。デトレフは、その男の貴族にふさわしい気品や、人を見透かすような澄んだ瞳《ひとみ》に圧倒された。これは慈善を施しにきた、ただの面会客ではない。
「さあ、デトレフ・ジールック」ファン・ツァント典獄が切りだした。男に気がねしてか、声がおののいている。「オスバルト・フォン・ケーニヒスバルト殿下を紹介しよう。こちらが暗黒への挑戦者、シグマー派の大家、オストランドの皇子にして選帝侯代理にあらせられる」
皇子はデトレフに微笑《ほほえ》みかけた。デトレフは自分の悲劇はまだはじまったばかりだという胸騒ぎを覚えた。
「かけたまえ」ドラッケンフェルズを打ち負かした男[#「ドラッケンフェルズを打ち負かした男」に傍点]が言った。「いろいろと相談することがある。きみとわたしとでね」
W
帝国《エンパイア》の運命がこれにかかっている。この城は拠点だ。なんとしても守らねばならぬ。失敗は許されない。胸壁には、兜《かぶと》の上に羽根飾りをぴんと立てたわずか二十名の騎士がいるばかり。城壁の内には百人たらずの雑兵が控え、皇帝のためにいつでも死ぬ覚悟でいる。対するは、巨人やミノタウロス、コアトル、アンデッドの騎兵、スノットリング、ゾート、大小の魔物《デーモン》やさまざまな暗黒の生物を擁した、オーク率いる五千の大軍。すべてはこの城の指令官、オストランドの大公マクシミリアン・フォン・ケーニヒスバルト侯の決断にかかっている。大公は戦局を熟考し、あたりをみまわして、将軍に助言を求めた。短い相談の末、大公は取るべき手段を理解した。マクシミリアンは将軍を上着のポケットにもどすと、命令を下した。
「敵軍の上に火の雨を降らせるのじゃ」
大公は火のついた蝋燭《ろうそく》をブレトニアのブケンディ入りの杯に触れさせ、それを戦場に投じた。火が燃えひろがり、千人以上もの邪悪の軍勢が炎に呑みこまれる。敵兵は溶け、皮を剥《は》がれ、戦場そのものが火に包まれた。ものすごい臭いが立ちこめ、オーク軍が甲高い音とともに爆発すると同時に、マクシミリアンはあわてて後ずさった。
敵軍の総司令官は上を見上げて、わっと泣きだした。
「お母さん、お母さん」オーク軍の司令官は叫んでいる。「閣下がまたぼくの兵士を燃やしちゃったよお」
敵司令官の母親、すなわち大公のお守り役がバケツに水を入れて救助に駆けつけた。兵士はその洪水《こうずい》に四方八方へと押し流されたが、ともあれ火は消えた。テーブルの上の城は水浸しになって崩れおち、大公のペンキ塗りの鉛の兵隊を根こそぎひっくり返した。マクシミリアンは甲高い笑い声を上げると、大混乱の中からお気に入りの騎士たちを拾いあげる。水は宮殿の遊戯室の大理石でできた床に、滝のように流れおちた。
「まあ、まあ、閣下」お守り役は舌打ちした。「宮殿を燃やしてはいけませんでしょう? だれより皇帝がびっくりなさいますわ」
「皇帝陛下」マクシミリアンはそう叫ぶと、背中や手足の痛みもどこへやら、直立不動でさっと敬礼した。「陛下のために死ぬるは、願ってもない至上の名誉であります」
小さな頭にぶかぶかの兜を紐《ひも》で結わえたオーク軍の指令官は、選帝侯に敬礼を返した。
「まあまあ、けっこうですこと」お守り役が言う。「でも、そろそろお昼寝の時間ではございませんか、閣下? 皇帝のために、朝からずっと戦いどおしですわ」
マクシミリアンは癇癪《かんしゃく》玉を破裂させた。
「眠とうなどないわ」下唇を突きだし、白い口髭《くちひげ》をなめ、息を詰めているうちに、頬《ほお》が真っ赤になる。
「でも、選帝侯にはご休息が必要ですわ。戦場でいねむったりなされば、いざというとき皇帝のお役に立てませんでしょう」
「わかった。ならば、昼寝じゃ」マクシミリアンは軍服のボタンをはずしはじめた。ズボンを脱ぐ前に、お守り役がそれを押しとめる。
「寝室にお入りになってから、服を脱がれたほうがよろしいかと存じます、閣下。この季節、宮殿の廊下には隙間《すきま》風が吹きますわ。ひどくお寒いかもしれません」
「寒い? ひどく? 皇帝の命でノーシャに送られたときのことを思い出すの。血も凍るノーシャ。雪と氷に閉ざされた地。白い狼《おおかみ》。しかし、なんといってもあの寒さ。そうだ、とにかく寒かった。ノーシャとはそんな場所じゃ。夕食に卵は出るか?」
お守り役は大公がしゃべっている隙に、まんまとかれを戦闘のあったテーブルから遠ざけた。そして、かれを連れて廊下に出、昼寝の部屋へと向かった。後ろで、お守り役の息子が叫んでいる。
「今度はぼくが皇帝軍をやってもいいだろ? いつもぼくがオーク軍じゃないか。そんなのずるいよ」
マクシミリアンは咳《せき》こんだ。肺の奥から絞りだすような咳で、一緒に痰《たん》を吐きだした。大公が痰壷に唾《つば》を吐きそこねたので、お守り役はまた口髭を拭《ふ》いてやらねばならなかった。この選帝侯はひどく健康を害しており、休息が必要だと言われている。
「おい、卵じゃ」大公はどなった。「卵は出るのか?」
「料理人はうずらの予定をしていたでしょうが、閣下が三時までぐっすりお寝みになるのなら、卵をご用意できますわ」
二人はちくたくと時を打つ振子時計の前を通りすぎた。時計の文字盤には笑う太陽の図柄が描かれ、ガラス越しに中の仕掛けが透けて見えている。
「三時まで昼寝じゃと! 何時間も、何時間も、何時間もあるではないか」
「では、食事はうずらでよろしゅうございますね」
二人の上品な男が――ウルリックの司祭だ――マクシミリアンがやってくるのを見て、深々と頭を下げた。大公は司祭に向かって舌を突きだし、二人の司祭はなにも言わずに通りすぎた。大公はウルリックの司祭がどうも好きになれなかった。帝国《エンパイア》の英雄たちを鼻であしらうばかりか、大公に退屈な書類や本を読ませたがる。ひからびた老いぼれどもめ。
「うずらは好かん。卵がいい。卵は戦さにもってこいの食べ物じゃ。朝に卵を食べたら、一日元気に戦える」
お守り役は大公に手を貸して、部屋へ入った。そこには、老皇帝ルイトポルトや栄光に満ちた戦場を描いた、目も彩《あや》な大きな絵画が飾られていた。また、宮廷行事のために盛装した、若きマクシミリアン・フォン・ケーニヒスバルトとその妻や幼い息子の肖像画も掛かっている。絵の中のマクシミリアンは手を剣の柄《つか》にかけていた。
「三時までお寝みなさいませ、陛下。そうしたら、きっと卵がありますわ」
「二時半じゃ」
「三時です」
お守り役は選帝侯の口髭《くちひげ》から垂れた涎《よだれ》を拭《ふ》いてやった。
「二時四十五分」
「では、そういうことにいたしましょう」
選帝侯は寝台の上で飛びはね、大喜びで叫んだ。「卵じゃ、卵! 晩ご飯は卵だぞ。おまえは食べられないが、わしは食べられる。なぜなら、わしは帝国《エンパイア》の英雄だからじゃ。皇帝陛下自らがそうおっしゃったのだ」
お守り役は選帝侯の軍服を脱がせ、布団を掛けてやった。
「将軍を忘れてはいかん」
「申しわけありませんでした、閣下」お守り役は選帝侯の上着のポケットから鉛の兵士を取りだすと、布団をかぶった選帝侯に見えるように、脇《わき》の小机にそれを載せた。大公は人形に敬礼した。いつまでも返礼しつづける人形に。
「将軍におやすみのごあいさつを、閣下」
「よい夢を、将軍……」
「それから、お忘れにならないように。お昼寝の後はオスバルト皇子にお会いになるのですよ。それと、書類に印《いん》を押してくださいませね」
オスバルトか。マクシミリアンは闘いと戦争の夢に落ちていきながら、オスバルトのことを考えようとした。オスバルトは二人いる。マクシミリアンの父、前大公がオスバルトという名だった。もう一人、若いやつもいたな。後で会うのは、きっと父のほうだろう。
老オスバルトのほうが重要な人物なのだ。父も帝国《エンパイア》の英雄の一人だった。
しかし、なにはともあれ……卵だ[#「卵だ」に傍点]!
X
デトレフ・ジールックの <絶大にして善良なる人々> への不信感はそうたやすく拭《ぬぐ》えるものではなかったが、オスバルト皇子に感銘を受けたのはまちがいなかった。皇子のように歴史の一ページを飾った者の行く末は、たいがいが涎を垂らした廃人と決まっている。かつて暗黒の軍勢を駆逐した将軍が、いまでは汚水|溜《だ》めのようなにおいを撒《ま》きちらし、鼻をほじったり、顎髭《あごひげ》に玉葱のかすをくっつけていたりする。一都市の運命を握っていた貴族の情婦が、歯抜けの老婆になってにたにたと笑い、意味深な言葉を会話に忍ばせては人の痛いところをつつくようになる。あるいは、その進言によって皇帝の考えをくつがえしたはずの哲学者が、犬の鳴き声をめぐって隣人と子供じみた喧嘩《けんか》騒ぎをやらかしたりする。だが、オスバルト皇子はいまも、怪物を倒し、貴婦人の愛を勝ちとり、王国を救い、父に栄誉をもたらした英雄にふさわしい風格をあまさず備えていた。
オスバルトはどんな二枚目俳優よりも整った顔だちをしており、くつろいでいながら隙《すき》のないその姿勢から、玄人《くろうと》の剣士や軽業師にもまさる運動神経に恵まれているのがわかった。デトレフはこれまで、人の集まる場所で注目を一身に集めてきた男である。だが悲しいかな、いまこの部屋に女性たちを招きいれれば、たとえ相手の身分など知らなくとも、だれもがオスバルトのもとに群がることは認めざるをえなかった。そうなれば、きっとデトレフは一人放りおかれ、いかにも眼鏡がお似あいの、肌の青白い野暮な女とぎこちない会話をかわすはめになるだろう。美女同士が群れ集い、先を争って美をひけらかしているときにだ。
たしかオスバルトとドラッケンフェルズの物語には、女性が一人登場したはずだ。もちろん、美しい女性だ。なんという名前だっただろう? 皇子はまだ結婚していないのだから、その女性は <大魔法使い> の死後すぐに物語から姿を消したにちがいない。たぶん死んだのだろう。いわゆるメロドラマというやつで、英雄の最愛の女性は命を落とすという筋書きだ。もし英雄が冒険を続けるつもりなら、そうした愛のしがらみからは自由でなければならない。デトレフ自身、英雄の役を務めた華《はな》やかなりし頃、芝居の中で、永遠の愛を確かめあった娘に何度先立たれたことか。そして何度、娘の仇《あだ》を討たねばならないと誓ったことか。
皇子はしみ一つないなめらかな歯でりんごにかじりつき、それを噛《か》みくだいた。デトレフは、自分の歯がずいぶん悪くなっていることに気づいていた。口髭をぶざまに伸ばすことで、それを隠してきたのだ。しかしデトレフは一方で、何か月もの間になれっこになった飢えを改めて意識した。皇子がかれの器量を計るような視線を送っているのはわかったが、それでもふくれあがった食欲には抗《あらが》えず、飾り気のない果物鉢から目を離せなかった。かれは口いっぱいにたまった唾《つば》をごくりと飲みこむと、やっとのことで面会客の視線に向きあった。
数か月をマンドセン砦《とりで》で過ごしたいま、自分はいったいどんなふうに見えるのだろう? オスバルトの前では、ふだんのデトレフでも醜女《しこめ》がお似あいの男に見えてしまうだろうが、いまなら、当分の間だれも相手にはしてくれまい。皇子がりんごの芯を暖炉に投げこむと、デトレフの腹がぐうっと鳴った。りんごの芯がじゅっと音を立てて燃える。あの芯に残った果肉とひきかえでもいい、一週間分のパンとチーズを差しだしたものを、とデトレフは思った。
デトレフの空腹は、訪問者の目にも明らかだったのだろう。「どうぞ、ジールックどの、取ってくれたまえ……」
オスバルト皇子は手袋をはめた手を鉢のほうに振った。袖口《そでぐち》の真珠のボタンがきらりと光る。当然のことだが、皇子は最新流行の服をみごとに着こなしていた。といって、その服装に少しもけばけばしいところはない。高価な服をさりげなくはおり、服に負けていないのだ。いや、そうした簡潔さこそが、逆に皇子らしさを引き立てていた。貴族とくれば猫も杓子《しゃくし》も着たがる、うるさいほど飾りたてた安っぽい華美な服に比べて、なおのこと上品に見える。
デトレフはりんごに手を触れ、その感触を楽しんだ。口うるさい主婦が市場でりんごを買う前に熟れ具合を確かめるのに似ている。デトレフは鉢からりんごを取ると、ためつすがめつした。いままで一度も満腹を味わったことがないかのように、腹がしくしく痛む。デトレフは果肉にかじりつき、口いっぱいに頬《ほお》ばってから、味わいもせずに飲みこんだ。りんごは三口で、芯ごとそっくりなくなった。つぎに洋梨を取り、それにもがつがつとかじりつく。果汁が顔を滴りおちた。皇子は愉快そうに眉《まゆ》を上げて眺めている。
デトレフはオスバルトがまだ若いことに気がついた。しかも、皇子はいまより二十五年も前に、かの有名な遠征をやってのけたのだ。ドラッケンフェルズを倒したときは、まだ少年の域を抜けたばかりだったにちがいない。
「きみの作品を読ませてもらった、ジールックどの。それに、きみの芝居も見たことがある。桁《けた》はずれの天才だな」
デトレフは口いっぱいに葡萄《ぶどう》を頬ばりながら、もごもごと賛同した。手の中に種を吐きだしたものの、それを捨てる場所がなくて、きまりの悪い思いをする。後で種を飲みこむことにして、拳《こぶし》の中に握りしめる。コジンスキーに鼠《ねずみ》が食べられるのなら、デトレフ・ジールックが葡萄の種ごときに膿《おく》することはない。
「きみの『シグマーの歴史』の台本を読む許可まで取ったのだよ。知ってのとおり、あれはいまミッドンランドの選帝侯が所有している」
「ぼくの最高傑作を? お気に召しましたか?」
皇子は意味深ともとれる笑みを浮かべた。「うむ……野心作だな。ま、実現はむずかしいかもしれんが……」
「台本だけではなにもおわかりにはなりませんよ、殿下。実物をその目でご覧になるべきだったのです。そうしたら、きっと納得していただけたでしょうに。画期的な作品になるはずでした」
「たしかにな」
二人の男はしげしげと互いを見つめあった。果物が山つ残らずなくなると、デトレフは食べるのをやめた。皇子はマンドセン砦《とりで》を訪れた目的をなかなか明かそうとしない。暖炉が赤々と燃え、デトレフは適度な温《ぬくも》りと部屋の心地よさを味わっていた。すわりごこちのいいふかふかの椅子《いす》、肘《ひじ》を置けるテーブル。砦にくる前は、刺繍《ししゅう》入りの枕《まくら》を山と積みあげ、いつなんどきでも用を足してくれる女召使いにかしずかれ、才能を枯渇させぬよう昼夜を問わず贅沢《ぜいたく》な食事が用意され、ひらめきが必要なときには最高の楽士に音楽を奏でてもらう生活をしていたのだ。ミッドンハイムにあるかれの劇場は <神学校> よりも堂々として、不朽のものだった。しかしこの先は、マットレスつきの寝台や暖炉、薪割《まきわ》りの斧《おの》、つましくとも恥ずかしくはない食事などなら手に入れられようが、もはやあんな贅沢は望めない。
「裁判所はきみに多額の借金の責任ありと判断した。借金の相手は、ティリア市国の支配者の落胤《らくいん》を名乗りでる者よりはるかに多かろうな」
「おっしゃるとおりです、殿下。そのために、ぼくはここにいるんです。でも、決してぼくの責任ではありません。帝国《エンパイア》の選帝侯を批判できる身分ではありませんが、名誉あるあなたのご同輩であるミッドンランド侯が、ぼくの苦境に対して公平で礼儀にかなったふるまいをなさったとは思えません。あの方はぼくの公演の責任を引きうけながら、弁護士にぼくとの契約を破棄する方法を探させ……」
それどころか、デトレフはナイフを突きつけられ、ミッドンランド侯には『シグマーの歴史』に関する債務をいっさい負わせないという書類に署名させられたのだ。その後、ケーニヒス庭園劇場は暴徒と化した裁縫師や大工、下っ端役者、楽士、券売り、馬具屋、斡旋《あっせん》人、商人、宿屋の主人たちに焼きつくされた。前門の虎《とら》、後門の狼《おおかみ》といった窮状にデトレフが陥ったとき、信頼していた上演交渉係が公然とかれを非難したのだ。デトレフの所有物はすべて選帝侯の執行吏に没収され、債権者に配られてしまった。そして、当のミッドンランド侯は南部のどこかの国に公式訪問に出かけてしまった。道徳を重んじるその国では、退屈な宗教劇以外の公演はいっさい禁じられていた。そうした状況では、デトレフがいくら元の後援者に歎願しようとも、このヤコポ・タラダッシュ以来の偉大な役者かつ劇作家に救いの手が差しのべられることはなかった。それに、デトレフは常々タラダッシュはやや過大評価されていると考えていたので、中傷されることはなおさらこたえた。自分の芸術の火がついえること以上の悲劇が、この世にあるとは思えなかった。かれが不当な監獄生活をぼやくのは、決してわが身かわいさのためではない。デトレフという絶頂期の天才を失った世間のために嘆くのだ。
「ミッドンランド侯は選帝侯の中でも貧乏だと言われてる」と皇子は言った。「あの人は東方産の象も持っていなければ、ラストリア製の黄金像も持っていない。皇帝の富と比べたら、かれの財産などエール酒一杯と肉ひと切れの代金を払うので精一杯さ。きみの借金なんぞとんでもない」
デトレフはあっけに取られた。
オスバルトは真顔になって言った。「きみの借金を帳消しにしてやれるぞ」
デトレフは新たな罠《わな》を感じた。またしても <絶大にして善良なる人> がここに現われ、すべての面倒をみてやろう、きみの心配事など昨日の汚水とともに流れていったよ、と笑って請《う》けあう。デトレフは後援者たちとのつきあいから、金持ちというのは自分と違う人種であることを学んだ。金は噂《うわさ》にきく変異石《ワープ・ストーン》のようなものだ。それに手を触れれば触れるほど、人間らしさが失われていく。
不吉な予感がまたしてもデトレフを襲った。きっとかれは、出生不詳の曾祖父《そうそふ》から魔力のようなものを受けついで小るのだろう。たまに直観力が冴《さ》えることがある。
「今日の午後にも、マンドセン砦《とりで》から出られるぞ」皇子は言った。「たっぷり金を手にしてね。アルトドルフのどこかの宿屋でりっぱな身支度を整えればいい」
「閣下、ぼくたちは腹を割って話をしてる、そうですね? この牢獄《ろうごく》から出ていけるのなら、ぼくとしてはこんなに嬉《うれ》しいことはない。おまけに、無実の罪で背負うことになった借金から解放されるとなれば、なおさらありがたいことです。あなたのお家柄を思えば、たしかにそのような奇跡を起こす資力をお持ちでしょう。しかし、ご存じかもしれませんが、ぼくはナルンの生まれで、市でも有名な <神学校> の給費生でした。ぼくの父は野菜の露店商から身を起こし、骨身をけずって財産を築いた男です。父はその最初の商売で身をもって学んだことを座右の銘にしてきました。そして、どんな僧侶《そうりょ》や教授に教わったよりも大切な教訓を、ぼくに与えてくれたのです。父は昔こう言いました。『デトレフ、ただで物をくれる人などいないよ。常に代価がいるものだ』。いま、その教訓をふと思いだしたのですが……」
実際にはデトレフの父親は、腕っこきの暴徒を集めて他の交易商人の露店を叩《たた》きつぶし、ナルンの野菜市場を買いしめる以前のことは、話したがらなかった。いやらしいダニのような男で、息子にはせいぜい『役者にはなるな。さもないと勘当だ。びた一文くれてやらんぞ!』くらいの忠告しか与えていない。デトレフは、父がナルンの収税吏との会合中に脳溢血《のういっけつ》で死んだときいていた。正確には、過去三十年間にわたる収益金を詳しく調査すると申し渡された、まさにその瞬間に死んだのだ。母親はエスタリアの港町マグリッタに逃亡し、ずっと年下の男――甘い声よりも引き締まった体で耳目を集めた吟遊詩人――とねんごろになった。その母もまた、デトレフの才能を応援してはくれなかった。
「……つまり、閣下、あなたの寛大な援助の申し出をお受けする前に、借金を肩代わりしてくださる代償はなにか、ということを知っておきたいのです。いったい、ぼくになにをしろとおっしゃるのです?」
「抜け目がないな、ジールック。実はわたしのために芝居を書いて、それを公演してもらいたいのだ。『シグマーの歴史』ほど大規模なものではないが、ありきたりでない作品をね。わたし自身の話を脚本にして、その役をきみにやってもらいたい。ドラッケンフェルズへの探索の旅と、 <大魔法使い> を倒したときの話をな」
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第二章
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契約がまとまるまでに、たっぷり一週間はかかった。その間に、オスバルト皇子は典獄ファン・ツァントの冷たい怒りをものともせず、デトレフの伽《かせ》をはずし、砦《とりで》のもっと居心地のいい部屋に移れるように取りはからった。監獄を管理していた者にとっては不幸なことに、デトレフがなんとか快適と思える場所はただ一つ、中央の塔にある典獄の執務室だけだった。そのために、ファン・ツァントは砦を放りだされて近くの宿屋に仮住いを探すはめになり、かわってデトレフが典獄の執務室を仕事部屋に使うこととなった。デトレフは法律上まだ債務者だったが、環境を変えることだけはできるようになったのだ。かれは薄汚い毛布一枚のかわりに、皇室が使うような寝台を部屋に運ばせた。それに加えて、スツァラダットの手荒な扱いのかわりに、哀れな身の上の少女がかれの世話をしてくれるようになった。娘の身の上話にデトレフは興味があったし、彼女の示す感謝の心にかれは胸をうたれ、気持ちが晴れやかになった。さらに、チーズとパンと水だけのかわりに、厳選された極上の肉と葡萄《ぶどう》酒とプディングが食卓に並ぶようになった。
デトレフはまた、いかにもファン・ツァントが好みそうな地味で無味乾燥な調度には、一週間と耐えられなかった。別に典獄の両親が、斜眼のぺてん師に肖像画を頼むほどの分別なしで、出目の醜い夫婦だったからといって、ファン・ツァントの責任になるわけではない。しかし、机の上に両親の醜怪きわまりない下手くそな肖像画を飾って、家族の恥の上塗りをしている趣味は、やっぱり変だ。それはどこかの能なしの画家が金色の色彩で塗りたくったような代物《しろもの》だった。ある朝もすぎた頃、そんな肖像画と一緒に部屋に閉じこめられていると、典獄の魚づらの母親が仏頂面で自分に文句を垂れているような気がして、デトレフは勝手にその絵をバルコニーから投げ捨ててしまった。かわりにデトレフ自身を描いた油彩画の逸品を掛けておく。タラダッシュ作の『ブレトニアの私生児:パルベノワール』で、征服王ギョームの役をやったときのものだ。砦を出ていくとき、この絵を残していってやったらどうだろう――デトレフはそんな気前のいい衝動に駆られた。あの不粋な役人に、砦はじまって以来の高名な元囚人を日々思いださせ、日常に華《はな》やぎを添えてやるのだ。だが、結局思いとどまった。その油彩画はケーニヒス庭園劇場の美術監督の手になる作品だった。あの情けない典獄が書類をめくったり、程度の低い部下に野蛮な行為の許可を与えたりしながら、この傑作をぼんやり眺めるなんて許されないことだ。
本来なら契約の仕事は、デトレフの大切な友 <交渉人> のトマスがやるはずだった。しかし、トマスは例の事件のときに先陣を切ってデトレフに背を向けた男で、債権者の筆頭にたって支払いを要求してきたのだ。結局、デトレフは退屈な仕事を自ら引き受けることに決めた。もとはといえば、デトレフはトマスの薦《すす》めでミッドンランドの選帝侯と契約したのである。しかし、今度の契約にはあとで手が後ろに回るような裏条項はない、とデトレフは確信していた。同意書では、オスバルトがデトレフの『ドラッケンフェルズ』の製作を、資力の続くかぎり引きうけると誓約してある。ただし、それには劇作家自身がつましい生活をするという条件がついていた。デトレフはその一項に関しては、いま一つ自信がなかった。だが、皇子の言うつましい生活とは、道楽者の夢見る退廃的な贅沢三昧《ぜいたくざんまい》ですら太刀打ちできないほどの生活だろう、と都合よく解釈しておいた。それはつまり、ファン・ツァソトのエスタリア産のシェリー酒をすすりながら、デトレフ自身が述べた意見と同じだ。
「ぼくのような男が望むのは、食べ物と飲み物、頑丈な屋根の下の温かい寝台、そしてこの才能を人々に披露《ひろう》することだけです」
デトレフは元の監獄仲間にも幸運を分けあたえることにし、オスバルトにかれらの負債も清算するよう強く求めた。特赦は、デトレフがそれぞれの人格を保証し、かれらに職を与えることを確約する場合にかぎって叶《かな》うことになった。その点では、問題はなかった。屈強なコジンスキーとマノロは重い舞台装置を運ばせるのにもってこいだし、ユストゥスは元の職業をいかして、すばらしい性格俳優になれそうだった。ケレトは一座の靴直しができるし、ガグリールモはいまは破産しているとはいえ、 <裏切り者> トマスにかわって営業面を立派にこなしてくれるはずだ。デトレフは名を伏せて、スツァラダッドの釈放を取りはからうことさえした。看守のあのいやしい性格では、すぐ監獄に舞いもどってくるだろうことは百も承知の上だ。たとえそうなっても、マンドセン砦《とりで》特有の悲惨な階級制度の中では、スツァラダッドが以前の不相応な特権的立場を回復するのに、長く苦しい歳月が必要なのはまちがいない。
一方、オスバルト皇子は閉鎖していた宮殿の舞踏室を、稽古《けいこ》部屋として開放した。かれの母親は贅沢なパーティが大好きだったが、彼女の死後、帝国《エンパイア》社交界の女主人の座はナルンのエマヌエル・フォン・リーベヴィッツ伯爵《はくしゃく》夫人に移っていたのだ。老いた大公は健康を害して悲嘆に暮れ、私室でおもちゃの兵士を相手に自らの輝かしい戦歴を再現しては、ぼんやりと時を過ごしている。かくして、フォン・ケーニヒスバルト家の執務は息子のオスバルトがもっぱら引きうけていた。オスバルトの従者たちが、デトレフ・ケーニヒス庭園劇団の残りの団員のうち、裏切らなかった者を探すために送りだされた。やがて、デトレフ・ジールックの公演には金輪際かかわらないと誓ったはずの俳優や裏方、助手らがフォン・ケーニヒスバルト家の名前と、ふってわいたような破格の賃金につられて、続々と <ケーニヒス庭園の天才> のもとに寄ってきた。かれらは高賃金など、貧しさで悪名高い役者生活ではとうてい望めないものとして、とっくにあきらめていたのだ。
デトレフ復帰の噂《うわさ》はアルトドルフ中に広がり、ナルンやミッドンハイムでも取りざたされた。ミッドンランド侯は突然わきおこった世間の関心につけこみ、『シグマーの歴史』を出版した。しかもそれには、日の目を見なかったデトレフの公演の顛末《てんまつ》を、責任はすべて当の劇作家にあるとした回顧録までついていた。本はよく売れた上、選帝侯が脚本の著作権を握っているおかげで、デトレフにはびた一文払わずに済んだ。グリュエンリーベ一座の物語詩人は、『シグマーの歴史』という大失敗を引きおこした張本人に、懲《こ》りもせず大きな芝居を任せる愚か者についての短い詩をつくった。その歌がオスバルト皇子の耳に入るや、すぐさま物語詩人は芸を披露する権利を剥奪《はくだつ》された。詩人の陽気な顔はもはやどんな場末の酒場でも歓迎されなくなり、アラビィとサウスランドに向かう隊商に詩人の旅費が支払われた。
ようやく契約書が交わされることになり、デトレフと皇子は書類に調印した。当世きっての偉大な劇作家は再びきらびやかな服に身を包み、債務履行不能者用の監獄の門から足を踏みだした。感謝に満ちた顔つきの仲間たちが、敬意をこめてその二十歩後をついていく。この春はじめてのうららかな日で、雪解け水が陰気な砦の建物を取りまく街路を洗いきよめていた。振りかえると、ファン・ツァントがバルコニーの上でいきまいているのが見えた。塔の外の階段では、二人の模範囚がねじまがった泥だらけの肖像画を運びあげている。ファン・ツァントが拳《こぶし》をつきだした。デトレフは長い羽根飾りのついた帽子で地面をなではらい、典獄に深々とおじぎをした。それから背筋を伸ばすと、格子ごしにのぞいている哀れな囚人たちに意気揚々と手を振り、マンドセン砦に永遠に背を向けた。
U
「いやよ」リリ・ニッセンは、マリエンブルグのプレミエ劇場の衣装室で金切り声を上げた。法外な価値の宝石をはめこんだ切り子細工の杯が壁にぶつかって、木っ端|微塵《みじん》に砕けちる。それは、タラベックランドの大公から贈られた四つのゴブレットの最後の一つだった。
「いやよ、いや、いや、いや、いや!」
名高い美女の頬《ほお》がただならぬ怒りにまっ赤に染まり、高慢そうな鼻孔が膨らむのを見て、アルトドルフからの使者はたじろいだ。女優の大きな黒い瞳《ひとみ》が、猫の目のように光る。平静なときにはまったく目だたない口や目のまわりの小じわが、入念に化粧した顔がだいなしになりかねない深いひび割れを作る。
女優の顔はいまにもぼろぼろと剥《は》がれおちそうだ、とオスバルトの使者は思った。彫刻家や画家、詩人、政治家、そして――噂《うわさ》では――十五人の選帝侯のうち六人までをも魅了したという、その顔の下にどんな素顔が隠されているのか、とても確かめたいとは思わなかった。
「いやよ、いや、いや、いや、いや、いや」
リリはもう一度、手紙の封印を見た。それはデトレフ・ジールックが紋章がわりに使っていた悲劇と喜劇の仮面だった。リリは猛禽《もうきん》類の鉤爪《かぎづめ》を思わせるマニキュアを塗った爪で、手紙の封を切った。彼女は差し出し人の男の名前をきいただけで、文面に目を通しもしないうちから癇癪《かんしゃく》を起こしたのだ。
リリの衣装係はおびえて、部屋の隅で小さくなっている。その顔にはいくつも痣《あざ》が残り、世にもまれな美人女優の隠した醜い一面を雄弁に物語っていた。衣装係の顔は左右が不釣合いで、足も片方が短く、そちら側の足に分厚い革底の靴をはいてひきずっていた。いま二人の女のうち、どちらか一人を選べと言われれば――とオスバルトの使者は思った――おれは絶対、この衣装係に今宵ホテル・マリエンブルグの寝所を温めてもらうぞ。何人もの男をたちまち恋の虜《とりこ》にできる女優さんは、どうぞお好きなようにお過ごしくださいませ、だ。
「いやよ、いや、いや、いや」金切り声は、リリがジールックの提案の内容を噛《か》みしめるうちに、ややおさまってきた。どうやら女優の態度は軟化したらしい。いまさら主役の話が一つ舞いこんだところで、この女にはどうでもいいことだろうが、オスバルト・フォン・ケーニヒスバルトの名前があたかも炎で印《しる》されたかのように目に焼きついたにちがいない。その男はまもなくオストランドの選帝侯になるはずだし、そうなればリリの恋人の顔ぶれは申し分ないものになる。
「いやよ、いや……」女優は口をつぐみ、血のように赤いくちびるを動かして、デトレフ・ジールックの手紙を読みかえした。衣装係はため息をつき、部屋の隅から出てきた。愚痴一つこぼさず痛々しく膝《ひざ》をつくと、ゴブレットの破片から、無価値なガラスと換金できる宝石をよりわける。
リリはオスバルトの使者を見上げ、輝くばかりの笑顔を見せた。使者はその後一生、かわいい女を見るたびにこの笑顔を思いだすことになるだろう。リリはこめかみに指をあて、化粧くずれをなおした。再び絶世の美女、この世のものとは思えない美しい女が姿を現わす。リリは鋭い八重歯に舌をはわせ――よくぞ例の劇作家はこの女に吸血鬼役を当てたものだ――喉元《のどもと》の宝石入りのチョーカーに手をやった。ルビーをもて遊んだその指を下におろし、部屋着をはだけて、きめの細かい真っ白な肌を惜しみなくさらす。
「いいわ」リリはオスバルトの使者をひたと見つめて言った。「わかったわ」
使者は衣装係のことを忘れた。
V
「オスバルト皇子とわしが <大魔法使い> を成敗したときの話はもうしたっけな?」太った年寄りがだみ声でどなった。
「あるよ、ルディ」バウマンはそっけなく言う。「だけど、今日はジンの酒代を現金で払ってもらうからね。いつもの昔話なんかじゃなくってさ」
「きっと、他にだれか……」ルディ・ヴェゲナーはむっちりとした片腕を振りまわし、話しはじめた。 <黒い蝙蝠《こうもり》> 亭の孤独を愛する酔客たちは老人に目もくれない。ルディは不揃《ふぞろ》いな灰色の口髭《くちひげ》の下で二重|顎《あご》を震わせながら、よろよろとカウンターの丸|椅子《いす》から降りた。でっぷりした腹が体の他の部分とは別に動いているように見える。バウマンは丸椅子を金属の留め具で補強していたが、それでも、いつかルディがめちゃめちゃに壊してしまうのではないかと思っていた。
「いい話なんだよ、みんな。英雄にふさわしいふるまいの数々、きれいなご婦人たち、とんでもない危険や恐ろしい怪我《けが》、裏切り、策略、血の川に毒の湖がつぎからつぎへと登場し、善人は悪人に、悪人はさらに極悪人にかわる。そして、話は雄々しい終局を迎えるんだ。皇子が怪物をやっつけ、その背後を固めるのは、われらが老いぼれルディ」
酔客たちはうつむいて、大きなジョッキを見つめている。葡萄《ぶどう》酒は酸っぱく、ビールは鼠《ねずみ》の小便で割ったかと思える代物《しろもの》だが、値段は安い。それでも、ルディには手が出なかった。一杯二ペンスとはいえ、その二ペンスを持たない者にとっては金貨一千枚でも同じことなのだ。
「さあさあ、みんな、われらが老いぼれルディの話を聞きたかないかい? 皇子と <大魔法使い> の話をさ?」
バウマンは瓶の残りを杯に空けると、それを磨き上げられてはいるが傷だらけの木のカウンターごしに老人のほうへ押しやった。「一杯おごるよ、ルディ……」
ルディは振り向いた。ぼってりとした頬《ほお》のくぼみに沿ってアルコールくさい涙をこぼしながら、杯に大きな手をまわす。
「……ただし、あんたが山賊の首領だった頃の大冒険の話をやめるならな」
老人は顔をくしゃくしゃにして、丸椅子にどっかと腰を降ろした。そして、うめき声をもらしながら――ルディがずっと昔に背中を痛めたのをバウマンは知っている――杯をのぞきこむ。老人は酒に映る自分の姿を見おろし、口には出せない物思いにぞくりと身を震わせた。その瞬間は長く、不愉快なものだったが、やがて過ぎさった。ルディは杯を口に運び、一息で飲みほした。ジンが顎髭《あごひげ》を伝って、しみとつぎはぎだらけのシャツに滴りおちる。バウマンがカウンターの奥で父親の手伝いができる年になって以来、ルディはずっと <黒い蝙蝠《こうもり》> 亭でほらを吹きつづけてきた。バウマンは少年の頃、この太った老いぼれべてん師がだれかれなくきかせるほら話を鵜呑《うの》みにしていたし、オスバルト皇子とジュヌビエーブ嬢と怪物ドラッケンフェルズの話を聞くのがなにより好きだった。話の一部始終を信じていたのだ。
しかし、大人になって人生のなんたるかがわかるようになると、バウマンは父親の常連客たちのことをもっとよく理解するようになった。大勢の女性を口説いてものにしたと自慢話を延々と続けるミルハイルは、実は夜ごと年老いた母親のもとに帰り、冷たい汚れない寝台で一人寂しく寝ている。 <大集合《ムート》> の長《おさ》になってしかるべきところを、嫉妬《しっと》深い従兄弟《いとこ》によって追放されたと言い張るハーフリングのコリンという男は、実はすりだったが、関節炎が悪化してこっそり財布をすりとることができなくなり、勘当されたというだけのこと。そしてルディは、バウマンの知るかぎりでは、アルトドルフの百酒場通りの外には一歩たりとも出たことがないはずだ。はるか昔の若かりし頃でさえ、こんな飲んだくれを背中に乗せたがる馬はいなかっただろうし、ビール瓶より危険な武器を振りまわすこともできなかったはずだ――瓶すら口まで運ぶのがやっとなのだから。そもそも、立ちはだかる敵の前にまっ直ぐ立つことさえままならなかったにちがいない。しかし、 <山賊の首領> ルディは子供の頃のバウマンにとっては英雄だった。だからこそ、たとえ酒代を持っていなくても、その哀れな老人にこうして気前よく一杯、二杯と酒をおごってやるのだ。ひょっとしたら、バウマンのそうした親切心は、老人には仇《あだ》となっているのかもしれない。というのも、ルディが葡萄《ぶどう》酒やビールや焼けつくようなエスタリアのジン―― <黒い蝙蝠> 亭の常連の中で、これに耐えられるのはルティだけだ――に溺れて、確実に棺桶《かんおけ》へと近づいているのはわかっているのだから。
その日はこれということのない夜だった。おしゃべりな常連客のうち、ルディだけが顔を見せていた。ミルハイルの母親は相変わらず病いにふせっており、コリンは昔の稼業にもどったもののすぐにしくじり、いまはマンドセン砦《とりで》に入っている。他の客はみじめな気持ちだけをさかなに、口もきけないほど酔いつぶれている。 <黒い蝙蝠> 亭は負け犬の酒場だ。バウマンは、それよりもっと悪い評判を持つ酒場があるのは知っている。たとえば、喧嘩《けんか》好きの連中は <無口な戦士> 亭をひいきにするとか、安らぐことのない死者はどういうわけか <三日月> 亭に群がるとか、アルトドルフの玄人《くろうと》の盗賊や暗殺者といった筋金入りの連中には <シグマーの聖なる戦鎚《ウォーハンマー》> 亭に行けば会えるといった噂《うわさ》だ。しかし、この負け犬の酒場≠ルどなさけないところはほとんどない。酒場街の賭博《とばく》リーグ戦で五年連続最下位になった後、バウマンの酒場は試合から手を引くことにした。そうすれば、どこか他の店がしばらくは負け犬の汚名をかぶってくれるだろう。いままでバウマンのきいたことのある歌はめそめそした泣き言ばかり、軽口ときたら辛辣なものばかりなのだ。
と、扉が開き、新しい客が入ってきた。 <黒い蝙蝠> 亭でははじめて見る顔だ。前に会ったことがあるのなら、バウマンが忘れるはずがない。客は整った顔だちの男で、ずいぶん高価そうだが地味な服を着ている。この男は負け犬ではない。バウマンは客の顎の形や燃えるようなまなざしを一目見て、そう思った。くつろいではいるが、酒場に足しげく通うタイプではなさそうだ。外にはきっと馬車が控え、護衛がそれを見張っているのだろう。
「ご注文は、だんな?」バウマンは声をかけた。
「ああ」客の声は深く、朗々としていた。「ここにくれば、たいてい会えるときいたのだが。昔の友人、ルドルフ・ヴェゲナーという男に」
ルディは杯から顔を上げ、丸椅子の上で体をまわした。木の足がきしんだ音を立て、バウマンは今度こそついに椅子が壊れると思った。前々から覚悟はしていたのだ。しかし、椅子は壊れず、ルディは危なっかしい足取りで立ちあがった。汚れた手を、それよりさらに薄汚いシャツでぬぐう。新客は老人を見て微笑《ほほえ》んだ。
「ルディ! いや、ありがたい。ずいぶん久しぶりだな……」
客が片手を差しのべた。紋章つきの指輪がきらりと光る。
ルディは相手を見つめ、嘘《うそ》いつわりのない涙を目に浮かべた。バウマンは、老人が旧友の目の前で頭からばたりと倒れるのではないかと危ぶんだ。と、ルディは痛いほど床に音を立てて片膝《かたひざ》をついた。シャツのボタンがはじけとび、服の下で脂肪だらけの毛深い腹が波を打つ。ルディは頭を下げ、差しだされた手を取って指輪に口をつけた。
「立ってくれ、ルディ。そんなことをされては困る。頭を下げるのは、わたしのほうだろう」
ルディはよたよたと立ちあがり、シャツの中に腹を押しもどそうとして、上からベルトを締めつけた。
「皇子……」ルディはやっとのことでそれだけ言った。
「殿下、わしは……」
たたそれからルディは落ちつきを取りもどし、体をまわして大きな拳《こぶし》でどんとカウンターを叩いた。グラスやジョッキが飛びはねる。
「バウマン、わしの友だち、オスバルト皇子に葡萄酒を。それと <山賊の首領> ルディにジンだ。おまえさんも上等のビールを一杯やりな。わしのおごりさ」
W
いったんフォン・ケーニヒスバルト宮殿に落ちつくと、デトレフは仕事に取りかかった。いつものとおり、最終的な劇の形は稽古《けいこ》を続けるうちに固まっていくだろうが、芝居の構成を決めたり、配役を割りふったり、大ざっぱな役づくりをしたりというのは、デトレフの仕事だ。
デトレフはフォン・ケーニヒスバルト家の蔵書やドラッケンフェルズの死に触れた資料を自由に閲覧する許しを得た。たとえば、美化された若き日のオスバルト皇子の肖像画を載せた、ド・セリンクールの『ケーニヒスバルト家』。ジュヌビエーブ・デュードネによる、驚くほど薄い作品『命』。アントン・ファイトの『ライクバルトとブレトニア、そして灰色山脈での賞金稼ぎの日々』もある。これはヨアヒム・ミュンヒベルガーが聞き書きしたものだ。他に、ヘルムホルツの『コンスタント・ドラッケンフェルズ:邪悪の研究』や、クラウディア・ヴィールッツエによる『毒の宴《うたげ》、その他の伝説』がある。そして、あらゆる小冊子や物語詩の写本。膨大な数の物語。同じ物語のさまざまな異伝。他にも二つの戯曲――あの臆病《おくびょう》者マトラックの『ドラッケンフェルズの陥落』とドリアン・ディースルの『オスバルト皇子』――があったが、どちらもぞっとするような駄作とわかって、デトレフはほくそえんだ。『シグマーの歴史』のときには、デトレフは題材を同じくする多くの傑作と張りあわねばならなかった。いまデトレフは、自分一人が際だったことのできる新たな芝居の素材を得たことになる。以前からデトレフを批判し、好敵手であるディースルの鼻をあかせたら、どんなに愉快だろう。デトレフはその老人ができの悪い芝居に使った古くさい技法をいくつか自分の芝居に組みいれて、それを揶揄《やゆ》することにした。ドリアン・ディースルはいまでもナルン大学の演劇科の学生に、懲《こ》りもせず時代遅れの思想を吹きこんでいるのだろうか。デトレフは昔、ディースルがタラダッシュについての講義をしている最中、その偉大な劇作家の見せる女性像はみな同じだと指摘して、教室から追いだされたことがある。果たして、ディースルは一度は教室から追い払った学生に先を越された自分を見に、わざわざアルトドルフまで出向いてくるだろうか。
劇の表題には、デトレフはずいぶん頭を悩ませた。ドラッケンフェルズという言葉は、どうしてもはずせない。最初は『オスバルトとドラッケンフェルズ』がいいと思ったのだが、皇子は自分の名を入れないでくれと言う。しかし、『ドラッケンフェルズの歴史』とするわけにはいかない。観客に『シグマーの歴史』を連想させるのはいやだし、だいいちデトレフは何千年にもわたる歴史の最後の一かけらを取りあげるだけなのだ。それから、かれはいろいろと思案した。『ドラッケンフェルズの死』、『ドラッケンフェルズ砦《とりで》』、『大魔法使い』、『暗黒の挑戦者』、『影の城』。ときには『暗黒の心臓』と考えたこともあった。『鉄の仮面の男』とも考えてみたが、結局、簡潔で明確、かつ劇的な一語の表題、『ドラッケンフェルズ』に落ちついた。
オスバルトは一日一時間を割いて、その偉業の真相について話し、質問を受けることを約束してくれた。さらに皇子は、生きのこった冒険仲間の消息を突きとめることに熱意を燃やしていた。かれらをなんとか城に呼んで、この偉大な芝居におけるそれぞれの役割について、自分たちの名声を不朽のものにしてくれるはずの劇作家と話しあわせようというのだ。デトレフは真相を知り、芝居のだいたいの形をつかんだ。台詞《せりふ》の一部を書きとめもした。それでもまだ、演出の下敷になる真実をようやくつかみはじめたばかり、という気がしていた。
デトレフはドラッケンフェルズの夢を見るようになった。その鉄の仮面の夢、果てしない邪悪の夢を。それを見るたびに、デトレフは暗い詩を何ページも書きつづった。そうして、 <大魔法使い> は紙の上に生きかえった。
貴族にありがちな虚栄心がオスバルトに皆無だとはいえないものの、ある話題になると皇子は極端に口数が少なくなった。オスバルトはデトレフの芝居を、敵の死を記念する祝典の一部として公演するようとりはからっていたし、その催しが自分の名誉を高めることは充分承知していた。数年間を影の人物として過ごしてきたオスバルトにとっては、衆目を集めることが重要なのだ、とデトレフは感じた。オスバルトは名称こそまだだが、すでに選帝侯の実権を握っているし、かれの父親はどうやらこの夏を越せそうになかった。いずれオスバルトはその地位に推挙されて、帝国《エンパイア》で皇帝に次いで重要な十数名の人物の仲間入りをしなくてはならない。デトレフの『ドラッケンフェルズ』は、声高に皇子に異を唱える人々の口をすべからく封印することだろう。だが、自らの偉業を世に知らしめる芝居の後援をしたりして、帝国《エンパイア》運営の一翼を担う下準備を怠らないなど、政治面では抜け目のないわりには、オスバルトはどうも自分の善行に対して謙虚になりすぎるきらいがある。他の者ならすばらしい英雄の行為として吹聴《ふいちょう》する出来事を、オスバルトは「そうするしかなかったのだ」とか、「わたしが人より早かっただけのことで、だれでも同じことをやったよ」とあっさりかたづけてしまう。
宮殿にやってきたルディ・ヴェゲナーから話をきいて、ようやくデトレフは、ドラッケンフェルズ砦《とりで》へ向かう途中、ライクバルトの森で何が起こり、いかにしてオスバルトが――いわば意志の力だけで――冒険の仲間たちを結束させていたかを理解しはじめた。また、シグマー派から『カインの禁断の魔導書』を検分する許可を得てはじめて、ドラッケンフェルズの何世紀にもわたる邪悪がいかに途方もない力を持つものであるかを知った。デトレフは『シグマーの歴史』のときに行なった調査を利用し、むかつきに襲われながらも、一人の男の全体像に迫ろうとした。定命の人間として生まれつき、二千五百年前のシグマーの時代を生き、デトレフ・ジールックが生まれたとき、なおも動きまわっていた男。ドラッケンフェルズが死んだとき、デトレフは四歳だった。そのときすでにデトレフは、とある交響曲を作曲して、ナルンで驚くべき才能をひけらかしていた。ただし、それを演奏する楽器のほうは、まだ考案するにはいたっていなかったのだが。
デトレフは台詞を書き、舞台背景の大まかな絵を描き、口笛を吹いてフェリックス・ヒューバーマンに主題曲をきかせた。こうして『ドラッケンフェルズ』は、まさしく怪物のような形を取りはじめたのだった。
X
ひどい吃音の、長身の痩《や》せた男がこそこそと下がっていった。かれが脚光を浴びる瞬間は終わったのだ。
「つぎ!」ファーグル・ブレグヘルが叫んだ。
別の長身の痩せた男が、フォン・ケーニヒスバルト家の舞踏室に間に合わせで作った舞台へと大股《おおまた》に進みでた。長身の痩せた男たちの集団がざわめき、ぼそぼそとつぶやきをかわす。
「名前は?」
「レーベンスタインです」男は低い陰気な声で言った。「ラスツロ・レーベンスタインです」
よく透る、すごみのきいた声だ。この男はいいぞ、と感じたデトレフはブレグヘルを肘《ひじ》でつついた。
「これまでの芸歴は?」ブレグヘルがきく。
「七年間、タラブハイムのテンプル劇場で座長を兼ねて役者をやっていました。アルトドルフに来てからほ、ゲハイムニス・シュトラッセ劇場製作の『孤独な囚人』で、トリスター男爵《だんしゃく》役をやりました。アルトドルフの『雄弁家』の批評では『タラダッシュ時代、いや、おそらくあらゆる時代を通じて、最高の悲劇役者』と評されました」
デトレフは男を上から下までながめわたした。背の高さもちょうどだし、声もすばらしい。
「どう思う、ブレグヘル?」デトレフはきいた。レーベンスタインにきかれないように、うんと声を落とす。ファーグル・ブレグヘルはこの市きっての劇場舞台助監督だ。もしこの市にドワーフに対する偏見がなければ、市で二番目の劇場舞台監督にもなれただろう。
「この男のトリスター男爵はよかったですよ」とブレグヘル。「しかし、なんといってもオトッカー役のときが最高でした。わたしは推《お》しますね」
「なにか用意してきたかね?」デトレフは言った。この朝、かれがなみいる長身の痩せた男に話しかけたのは、これがはじめてだった。
レーベンスタインは一礼すると、オトッカーがいまわの際《きわ》に女神ミュルミディアに愛を告白する台詞《せりふ》を述べはじめた。それを書いた日に神の啓示を受けたと、タラダッシュが公言してはばからなかった台詞である。それをこの役者は、かつてデトレフがきいたこともないほどたくみに読みあげているのだ。デトレフ自身は『オトッカーとミュルミディアの愛』を演じたことはないが、もしラスツロ・レーベンスタインと比べられるというのなら、その日を数十年先に延ばそうと思いたくなるほどだ。
デトレフはその長身の痩せた役者のことを忘れ、威信を失ったオトッカーだけを見た。愛にとりつかれて墓場へと誘《いざな》われ、最も高潔な志を持ちつつ血塗られた所業に手を染めていく、傲慢《ごうまん》な暴君。いまになってようやく暴君は、神々がかれの死をも越えて迫害の手を伸ばし、永遠に自分を苦しめるであろうことに気づく。
レーベンスタインが芝居を終えると、長身の痩せた男の集団は――だいたいが競争意識にこりかたまった連中で、こうした天分に恵まれた役者に対しては憎しみと羨望《せんぼう》の目しか向けないはずなのだが――一斉《いっせい》に拍手|喝采《かっさい》した。
確信はないものの、デトレフは自分にとってのドラッケンフェルズを見つけたと思った。
「連絡先を皇子の執事に預けておいてくれたまえ」デトレフは男に言った。「後で連絡する」
レーベンスタインはもう一度頭を下げると、舞台を降りた。
「他の男も見ますか?」ブレグヘルがきいた。
デトレフは一瞬考えた。「いや、他のドラッケンフェルズたちは帰してくれ。さあつぎは、ルディやメネシュやファイトやエルツベトの候補者を拝見しよう……」
Y
狂った女はおとなしかった。だが、数年前この収容所《ホスピス》に入ってすぐの頃は、金切り声を上げたり汚物を壁に塗りたくったりしたものだ。女は話をきいてくれそうな相手を見つけては、自分をつけ狙《ねら》う敵がいると訴えた――金属の仮面をかぶった男や、老いている若い死者の娘が。この狂った女を監禁しておくのは、彼女自身のためでもあった。女が服を口に詰めこんで窒息しかけたり、しょっちゅう自殺を図るので、シャリアの尼僧たちは毎晩、彼女の手を縛っておいた。ようやく女は落ちつき、騒ぎを起こすのをやめた。もう目を離しても大丈夫だった。女は手間のかかる患者ではなくなったのだ。
尼僧クレメンティンはその狂った女を特に気にかけていた。金持ちだが卑しい両親の間に生まれたクレメンティン・クラウゼヴィッツは、自分の家族は世間に対して負い目があると感じており、なんとかその贖罪《しょくざい》をしたいとシャリア神に誓っていた。父は小作人から容赦なく絞りとり、かれらが疲れきって倒れるまで、むりやり畑や工場で働かせた。母は頭がからっぽの浮気女で、一人娘がアルトドルフの社交界に入る日を夢みて生涯をすごした。最初の大舞踏会の前日、クレメンティンは皇族と遠い縁戚《えんせき》関係にあるにきびだらけの九歳の少年が、まずまちがいなく舞踏会にやってくると知って家をとびだし、質素な修道院の生活に慰めを求めたのだった。
シャリアの尼僧たちは <治癒と慈悲> に身を捧《ささ》げている。中には民間の治療師として世に出ている者もいるが、多くの尼僧はオールド・ワールドの都市の病院で身を粉にして働いている。そして、わずかながら収容所《ホスピス》で働くことを選ぶ者もいた。収容所では不治の者、瀕死《ひんし》の者、厄介者たちが歓迎される。アルトドルフから三十キロ離れたフレデルハイムにあるこの <大収容所《グレート・ホスピス》> は精神異常者を隔離する場所である。過去には、こうした修道院に二人の皇帝、五人の将軍、選帝侯家の七人の子息、有象無象《うぞうむぞう》の詩人たち、無数の名もなき市民が収容されていた。狂気はだれの身にもふりかかるものだ。だから、尼僧たちはどの患者にもわけへだてなく接するはずだった。
クレメンティンの気にかけている狂女は自分の名前を――収容所の記録にはエルツベトと記された名を――思いだせなかったが、踊り子だったことは覚えていた。ときおり彼女は、乱れたくしゃくしゃの髪や深い皺《しわ》の刻まれた顔からは想像できない繊細で情感豊かな踊りを見せ、他の患者を驚かせた。それ以外の時は、いろんな名前をつぎからつぎへと一人つぶやくだけだ。クレメンティンにはエルツベトが長々と唱える名前の意味がわからなかった。もし自分の患者が、殺した相手の名前を一人一人思いだしているのだと知ったなら、俗世の知識だけの生活を捨て、教団に身を捧げたこの尼僧はさぞやおそれおののいたことだろう。
エルツベトはかなりの寄付金によって、収容所で扶養されていた。一度も面会にきたことのないデュードネという人物はマンドラゴラの銀行に、踊り子がここで保護を受けているかぎり、毎年金貨百枚を収容所に積みたてるよう命じていた。とあるアルトドルフの名門貴族もエルツベトの容体には関心を持っていた。その前身はいざ知らず、エルツベトには有力な友人がいるのだ。実はこの女は、体面を重んじるどこかの貴族の気の狂った娘だろうか、とクレメンティンは思った。だが、それにしては、いつもやってくる面会人はジンのにおいのする、ぶくぶく太った見苦しい老人だけだったし、どう見てもその男は上流社会の重要人物とは思えなかった。しかし、修道女にとって、彼女がかつてどんな人物であったかよりも、この先どんな人間になるかのほうが大事だった。
とはいえ、いまはクレメンティンでさえ、エルツベトが再びなにがしかの人物になるのは無理だろうと認めざるをえなかった。もう何年間も、エルツベトは自分の殻に引きこもっている。収容所の日当たりのいい中庭で何時間も過ごしながら、尼僧や他の患者には目もくれず、ただじっと空《くう》を見つめている。縫い物をするでなく、絵を描くわけでもない。本も読めないのか、あるいは読む気がないのか。女はもう一年以上も踊っていないし、この頃では悪夢すら見なくなっている。ほとんどの尼僧はエルツベトの平静さを慈悲深い癒しの印《しるし》と考えているが、クレメンティンにはそうでないことはわかっていた。エルツベトは急速に無気力になっている。いまでは彼女は扱いやすい患者の一人になった――修道院が対処しなければならない狂暴な患者ではなくなったのだ。だが、エルツベトは収容所に連れてこられた時よりも、さらに深く自己の暗闇《くらやみ》の中に身を沈めている。
狂暴な患者――たとえば噛《か》みついたり、ひっかいたり、蹴ったり、わめいたり、抵抗したりする――が人々の関心を集め、その間エルツベトはおとなしくすわったまま、一言も口をきかなかった。尼僧クレメンティンは彼女の心に触れたくて、一日一時間は話しかけるように心がけていた。女に向かって答えが返ってこなくても問いかけ、自分自身のことを語り、世間話をする。エルツベトがきいているとは決して思えなかったが、それでもそうせずにいられないのはわかっていた。ときにクレメンティンは、おしゃべりをつづけるのはエルツベトのためだけでなく、実は自分自身のためでもある、と認めることがあった。他の尼僧たちはクレメンティンとはまってくちがった育ち方をしてきたために、しばしば彼女に対して、かんにん袋の緒が切れたりしていた。しかし、クレメンティンはその悩み深き無口な女に親しみを感じるのだった。
ある日、オスバルト皇子のもとから使者がやってきた。いんぎん無礼な執事が尼僧長マルガレット宛《あ》てに封印された手紙を持参してきたのだ。どうしたわけか、尼僧クレメンティンはその執事のやわらかな物腰に不安を覚えた。執事の馬車は真っ黒で、このたびの使命のために特別しつらえた目立たない格子がはめ込まれている。そこだけが他の贅沢《ぜいたく》な装飾品と不釣り合いに見えた。フォン・ケーニヒスバルト家の紋章――枝を広げた樫《かし》の木を背景にした、三つに尖《とが》った冠――を見て、クレメンティンは愚かな母親のばかげた夢を思いだした。自分の両親は娘を探すのをあきらめたのか、それとも最初から探す気などなかったのかわからなかった。
マルガレットはクレメンティンを礼拝堂に呼びだし、エルツベトの旅支度を整えるように命じた。クレメンティンは反対したが、 <慈悲> の尼僧長に一瞥《いちべつ》されただけで血が凍るように感じ、引きさがった。クレメンティンが中庭にいる狂った女を迎えにいこうとすると、執事が一緒についてきた。エルツベトはどうやら執事に気づいたらしく、かつての恐怖が女の心の奥底から這《は》いあがってくるのがわかった。エルツベトはクレメンティンにしがみつき、尼僧のローブについた銀の鳩《はと》の記章に口づけた。尼僧は患者をなだめようとしたが、説得するのは無理だった。執事はいらだつ素振りも見せず、黙ってそばに立っている。エルツベトには自分の持ち物と呼べるものはなに一つない。収容所の住人がみな着ている白いローブの他には服もなかった。彼女の財産はその身一つしかないのだが、それすらも他人の持ち物――どこかの皇子の気まぐれな所有物になるというのだろうか。
クレメンティンは鳩の記章をローブからはずして、エルツベトに与えた。それで少しは心が安らぐだろう。尼僧は女の髪をそっとなでつけてやると、額に口づけをして、別れを告げた。執事は尼僧のローブからエルツベトの指をはがすのを手伝った。その夜、シャリアの尼僧は泣きながら寝入った。翌朝、乾いた涙で枕《まくら》がごわごわになっているのに気づいて驚きもし、いくらか恥ずかしい思いもした。やがて、尼僧は祈りを捧《ささ》げると、務めにもどっていった。
エルツベトはアルトドルフに向かう馬車の中で、クレメンティンにもらった鳩の裏側についた五センチの鋼針の使い道を見つけたが、尼僧長マルガレットは後になっても決してそのことを尼僧本人には告げなかった。エルツベトは執事の目をえぐり、かれが絶叫を上げて血の海でもがいているすきに、自分の喉《のど》を針で突いたのだ。
暗殺者の踊り子は死の時を迎えながら、殺した者たちの名をこれを最後とばかり上げつらねた。執事は一度も名乗らなかったので、かれの名は省かねばならなかった。しかし、彼女は邪悪なものの待ちうける暗黒へと墜《お》ちていきながら、最後の獲物を犠牲者の列に加えることを忘れなかった……
「エルツベト・ヴェゲナー……」
Z
ケレトにはただの靴直し以上の特技があることがわかった。かれはそうした余技の見本をデトレフに見せて、フォン・ケーニヒスバルト俳優劇場といまでは呼ばれるようになった劇団の衣装部の長に昇格したのだ。ケレトは配下にお針子や革なめし工を抱え、特殊な衣装のためにすぐれたデザインを編みだしていた。かれの作る革鎧《かわよろい》は見た目は鉄のようでありながら、重さは通常の数分の一しかない。戦闘場面の臨時雇いは喜んでその衣装を身につけた。また、ケレトは暇を見つけては、五種類の革のドラッケンフェルズの仮面を考案していた。マンドセン砦《とりで》でこの小柄な靴直しに出会えたのは運がよかったと、デトレフは思った。ケレトがいなければ、かれは芝居の第一幕の途中で、衣装のあまりの重さに気を失ってしまったにちがいない。また、少なく見積もっても、エルツべ卜役に志願した女優の二十五パーセントはケレトに恋をしたらしい。マンドセン砦で数か月を過ごした後では、それこそいてもたってもいられずに女たちのご機嫌をとったのだろう。デトレフは少しばかり嫉妬《しっと》を感じはしたが、無視することにした。なにしろ、やるべきことが山のようにあるのだ。
[
リリ・ニッセンが入ってきたとき、デトレフは小道具の剣のことでブレグヘルをどなりつけている真っ最中だった。
「やあ!」デトレフはたっぷり一オクターブは高い声で叫んだ。
「いとしい人」リリがこたえる。
二人は互いの腕に飛びこみ、騒々しく口づけをした。だれもが、この帝国《エンパイア》最大の男優と女優の演じる即興の恋の場面を茫然《ぼうぜん》と眺めていた。
「この前に会った時より二倍もきれいになったじゃないか、リリ。まったくきみの輝きはとどまるところを知らないね」
「あなたもよ、あたしの天才さん。あたしのために最高の役を書いてくださったわね。女優ならだれだって、喉《のど》から手が出るほどほしい役だわ。すばらしい才能を秘めたその指の一本一本に、どうか口づけさせてくださいな」
後に、デトレフはブレグヘルにこう言った。「あんなあばずれには六百歳の役がおにあいだね。ほんとの年に近い役をするのは、今度がはじめてだろう」
そして、リリは衣裳係にこうどなった。「あのでぶっちょの、きざな口先だけの化け物! なんていけすかない奴《やつ》! 舌先三寸の暴君よ! オスバルト皇子さまが直々《じきじき》にお声をかけてくださったのでなければ、だれがあんな不潔なけだものと一緒の部屋に入るものですか。ましてや、あの最低最悪のくだらないメロドラマの相手役をもう一度やるなんて、まっぴらごめんだわ!」
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ラスツロ・レーベンスタインは真夜中に、空き家らしい家の裏部屋で自分の後援者と会った。かれにとっては相手の正体などどうでもいいことだったが、ときおりその仮面の裏になにが隠されているのだろうと考えることはあった。レーベンスタインの仕事は、異端審問官がやってくる寸前にタラブハイム市を離れねばならなくなって以来、浮き沈みが激しかった。かれほどの才能や体躯《たいく》に恵まれていると、どこにいても目立ってしまう。レーベンスタインには友人が必要だった。フォン・ケーニヒスバルト劇団の一員となったいまは、皇子とのつながりや、デトレフ・ジールックとの仕事のおかげで保護を得ている。しかし、やはりレーベンスタインは昔の後援者、つまりは最初の後援者のもとに舞いもどった。その仮面の男には何年も会わないこともあれば、毎日のように会うこともある。
レーベンスタインが相手を必要とするときには、必ず向こうから接触があった。たいていは人を通じてだった。それも同じ仲介者を使うことは決してない。一度など変異石《ワープ・ストーン》の影響を受けたドワーフが間に立ったこともある。その男の口のまわりにはびっしりと触毛が生え、ゼリー状に膜のかかった目が一つ額に開いていた。今回の仲介者は、全身を緑の服に包んだ痩《や》せた小娘だった。レーベンスタインはいつも住所を渡され、仮面の男の待つ家を捜しあてるのだ。
「ラスツロ」平板な感情のこもらない声が切りだした。「また会えて嬉《うれ》しいぞ。このところ、好運続きだそうじゃないか」
役者は緊張していたが――これまで後援者に要求されたことは、必ずしも愉快なものとはかぎらなかった――ともあれ腰を下ろした。仮面の男が葡萄《ぶどう》酒をついでくれたので、それを口に含む。後援者の差しだす食べ物や飲み物はみなそうなのだが、酒はすこぶる上等のものだった。
「どうということもない家だろう?」
レーベンスタインは部屋を見まわした。たしかに平凡な部屋だ。むきだしの土壁は色褪《いろあ》せ、聖像の掛かっていた跡が残っている。でこぼこの食卓に椅子《いす》が二つあるだけで、他に家具はない。
「きっとこの家は今夜、事故で焼けおちるのだろうな。火は燃えひろがるかもしれん。この家の並びや区画一帯に……」
レーベンスタインの口はからからになった。さらに葡萄酒をあおり、口の中で液をころがす。かれはタラブハイム市で起こったもう一つの火事を思いだしていた。豪華な屋敷の二階に閉じこめられた家族の絶叫。月の光に照らしだされた血を思いだす。赤いはずの血が真っ黒に見えた。
「悲劇だとは思わんか、友よ? 悲しいことだな」
役者は冷や汗を流した。仮面の上に男の表情を思い描き、その声に抑揚をつけてみようとする。しかし、むだだった。レーベンスタインの後援者は、生身の人間というよりはむしろ生命を吹きこまれた仕立て屋の人形のように見える。その話し方は、言葉を正確に伝えるために、ただ台詞《せりふ》を棒読みにしているかのようだった。
「いい役を取ったそうだな? 虚栄に満ちた皇子のつまらぬお祭り騒ぎで」
レーベンスタインはうなずいた。
「主役級か?」
「ええ。でも、脇役《わきやく》みたいなものです。脚本を書いたデトレフ・ジールックが主役をやります。若きオスバルト皇子です」
レーベンスタインの後援者はくつくつと笑った。まるで歯車のきしむような声だった。「若きオスバルト皇子か。ふむ、ぴったりだな。まさに適役だ」
レーベンスタインは夜のふけたことが気になった。明日の朝早くには宮殿にいて、靴直しのケレトにあの鉄に見える革鎧《かわよろい》の衣装合わせをしてもらわねばならない。レーベンスタインは疲れていた。
「で、そなたがやるのは……?」
「ドラッケンフェルズです」
男は再びくつくつと笑った。「なるほど、鉄の仮面の男か。心地いいものではなかろう? 鉄の仮面というのは」
役者がうなずくと、仮面の男は無遠慮に笑った。
「それで、わたしはなにを……」
「なんだ、ラスツロ、遠慮なく言うがいい」
「それで、わたしはなにをすればいいのです?」
「べつになにも、友よ。ただ祝いを言いにきたのだ。そして、旧交を温めるためにな。そなたが受けて当然の名声を得るのは結構だが、友人のことを忘れないでもらいたいものだ。いや、忘れないでいてほしいのは……」
隣りの部屋でなにやら小さなものが泣き声を上げている。山羊のようにかぼそい泣き声だ。レーベンスタインは懐かしい欲望のうずきをぼんやりと感じた。その欲望のせいで、かれは放浪の生活を余儀なくされ、都市から都市へと流れ歩くはめになったのだ。町でも村でもなく、それは常に都市にかぎられていた。紛《まぎ》れこめるだけの人口が必要だったのだ。しかも、夜毎、観客の前に顔をさらしながらの潜伏である。楽なことではなかった。この謎《なぞ》に包まれた後援者がいなければ、七度以上死ぬはめになっていただろう。
レーベンスタインは自分を抑えた。「忘れはしません」
「よろしい。葡萄《ぶどう》酒はお気に召したかな」
泣き声は大きくなり、もはや山羊のようでも小羊のようでもなくなった。レーベンスタインはつぎに待ちうけていることを知った。思ったほど疲れてはいなかった。かれは後援者の質問にうなずいていた。
「それはよかった。快楽を味わえる男は好きだ。人生によりよいものを求める者は。そういう者に褒美《ほうび》をとらせるのは、実に楽しい。何年もの間、そなたに褒美を与えるのは楽しくてしようがなかった」
後援者は立ちあがると、扉を開けた。奥の部屋には一本の蝋燭《ろうそく》が灯《とも》され、泣き声の主が小さな寝台につながれていた。そばの食卓には、いかにも <靴直し> のケレトが持っていそうな、あるいはインゴルト通りのやぶ医者が持っていそうな銀色に輝く用具が、盆一杯に並んでいる。レーベンスタインの手はいまや汗ばみ、爪《つめ》が掌《てのひら》に食いこんでいた。かれは下品に葡萄酒を飲みほし、顎《あご》に滴るしずくを拭った。そして、身震いしながら立ちあがると、隣りの部屋に入っていった。
「ラスツロ、そなたの快楽がほらそこに……」
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デトレフはオスバルト皇子の建築家たちと舞台装置について議論をかわしていた。皇子は本物のドラッケンフェルズ砦《とりで》を買いとる手はずを整えていた。砦の大広間で芝居を公演するつもりなのだ。その利点は言うまでもないが、不都合な面もあった。城は何か所か元通りに修復しなければならなかったし、それ以外の場所も衣装部屋や大道具置き場、役者の控え室に改築する必要がある。舞台は大広間に作る予定だった。最初デトレフは、実時間どおりに芝居を再現したい誘惑にかられた。つまり、芝居の登場人物が要塞《ようさい》に足を踏みいれ、内部に侵入していく後を、観客についていってもらうのだ。しかし、その計画は『シグマーの歴史』を思いださせるからといって、オスバルトが許可しなかった。
その上、観客の数がいかに限られているとはいえ――今度の公演を見ることのできる特権は帝国《エンパイア》の中で最も重要な市民にだけしか与えられていない――そういう人々はお世辞にも若さの盛りとはいえなかった。よぼよぼの老いた高官たちは、オスバルトの冒険の頃には魔物《デーモン》が横行して通れなかった砦へのゆるやかな坂道すら、のぼれないだろう。ましてや、冒険者たちのたどった目まいのするような道など言わずもがなだ。たとえデトレフ一座の役者が危険を省みないにしても、下手をすると大司教や侍従長といった人々がドラッケンフェルズ砦の断崖《だんがい》から転げおちてしまいかねない。
今度の公演、このただ一度の公演は、デトレフの作品の中でも最高峰となるはずのものだ。しかし、かれはこの同じ劇を普通の劇場でも公演できるように、もっと地味な演出の脚本も用意するつもりでいた。充分な著作権使用料を支払ってもらえるのなら、『ドラッケンフェルズ』が帝国のどの劇団の演目に加わったところで悪い理由はない。すでにガグリールモには、今度の大々的な初演の後、かなりの連続公演を行なってくれそうなアルトドルフの劇場を打診させていた。手ごたえは充分だった。皇子の名前があるおかげで、デトレフの悪評はかなりの部分が帳消しになっているらしい。デトレフは、かれの思いどおりに芝居ができ、しかも自ら主役を演じることのできる劇場が高く入札してくれるのを待っていた。いまのところ、ブライヒト通りのアンゼルモ劇場が有力だが、もっと新しい物が好きなテンプル・オブ・ドラマも第二候補として上がっている。アンゼルモは商人や市民向けに、二百年前のタラダッシュの駄作を繰り返し熱心に公演している劇場だ。観客はせっかくアルトドルフまで出向いてきたのに、いびきをかくしか能がないような気分になる。
デトレフは建築家たちの大まかな図面にざっと目を通すと、署名した。かれらの提案は満足のいくものだったが、最終的な決定を下す前に、実際にドラッケンフェルズ砦まで足を運ばねばならないだろう。なんのかのと言っても、もうあそこは安全な場所になっているはずだ。 <大魔法使い> は二十五年前に死んだのだから。
「デトレフ、デトレフ、厄介な事がありまして……」
ファーグル・ブレグヘルがいつもと同じ心配顔で、よたよたとデトレフの部屋へ入ってきた。いつだって、厄介な事がありまして、なのだ。芝居という芸術は、ひたすら厄介事の連続といえる。解決するか、無視するか、よけて通るかしか道はない。
「今度はなんだ?」デトレフはため息をついた。
「メネシュの役のことなんですが……」
「それはもうゲシュアルドに決めたと言っただろう。ドワーフの件はきみに任せてあるんだ。きみのほうが専門家だろうが」
ブレグヘルは身じろぎした。かれはほんとうのドワーフではない。人間の両親から生まれた男だが、発育不全なのだ。デトレフは、この腹心の部下がもともと変異石《ワープ・ストーン》の影響を受けているのではないか、と疑っていた。芝居関係者の中には、多少とも体に混沌《こんとん》の片鱗《へんりん》を持つ者がたくさんいる。デトレフ自身、左足に一本余分の小さな指が生えていたが、いまは亡き父が勝手にそれを切断してしまった。
「あなたがティリアの道化師にその役を割りふったことで、論議が起こってるんですよ」ブレグヘルはインクじみだらけの署名をびっしり書きこんだ紙を長い筒にして振りまわした。「噂がもれて、アルトドルフのドワーフ数人がこの請願書を出したんです。全ドワーフの代表である人物を、舞台で|息抜きの笑い物《コミック・リリーフ》にするな、と言うわけですよ。メネシュはドワーフにとっては偉大な英雄でしたからね」
「それなら、裏切り者のウエリはどうなるんだ? あいつもドワーフの偉大な英雄だというのか?」
「ウエリがほんとうのドワーフでなかったのは、ご存じでしょう」
「だからって、あの男が息抜きの笑いの種を提供してくれるのか? 裏切りのだじゃれなんて、そうは思いつかんぞ」
ブレグヘルは頭にきたらしい。「こっちにゃ、ドワーフを怒らせてる余裕はないんですよ、デトレフ。この劇場ではドワーフがいっぱい働いてるんですからね。舞台転換係のストライキなんて、ごめんでしょうが。わたしだって、あんなうぬぼれたやつらは大嫌いですよ。でも、ドワーフだからというだけで居酒屋から追いだされる気持ちが、ドワーフでない者にわかりますか? それに、本物のドワーフではないからというだけでドワーフの居酒屋からも追いだされる者だっているんですよ」
「悪かったよ、ブレグヘル。ぼくが考えなしだった」
ブレグヘルは少し落ちついた。デトレフは読みづらい請願書に目を通した。
「かれらにはメネシュをむやみに笑い者にしないと約束すると言ってくれ。こうやって、台本を何か所か省いておくから」
デトレフはすでに没にしていたページをずたずたに引きさいた。たまたまそれと一緒に件の請願書も破られた。
「さあ、これで『寸足らず《ショート》』のだじゃれはおしまいだ。気がすんだか?」
「ええ。でも、他にもゲシュアルドに反対する声があるんです」
デトレフは拳で机を殴った。「今度はなんだ? 天才がものを創《つく》るには心の平安が必要だってことを、だれも知らないのか?」
「わたしたちが会った例の片腕のドワーフの役者ですよ。かれがあの役は自分のものだ、あの役ができるのは自分しかないと言い張っているんです」
「しかし、メネシュが腕をもがれたのは、最後の最後だぞ。まあ、その部分は、豚の腸に詰め物をした偽の腕をうまく使えば、真に迫った恐ろしい場面を演出できるだろう。だが、つっぱったままの動かない手を観客に気づかれずに、芝居を最後までやりとおすのは絶対に無理だ。だいいち、あの馬鹿者はメネシュ役をやるには少なくとも二十歳はふけてるだろうが」
ブレグヘルは鼻を鳴らした。「それもそのはずですよ、デトレフ。あの男は本物のメネシュなんですからね!」
11
捕虜は逃げようとしている。アントン・ファイトはつかまえた泥棒のエルノが神経を張りつめ、逃亡に備えているのを見抜いた。エルノの首に賞金をかけたリーデンブロック卿の街《まち》の邸宅まで、あとわずか通り三つを隔てるだけ。この罪人を引きわたし、賞金を受けとった後なら、リーデンブロック卿が自分の持ち物――金貨二十枚、伯爵《はくしゃく》夫人の宝石数点、金箔《きんぱく》張りのウルリックの聖像――を取りもどすために、なにをやろうが勝手だ。だが、エルノはどこかの町で盗品を金に換え、有り金をすっかり飲みつぶしていた。だから、リーデンブロックはありきたりの金ではなしに、その泥棒の指の爪《つめ》や目で損害を慣なわせることだろう。卿は残酷だという評判だった。そうでなければ、ファイトを雇ったりはしない。
<賞金稼ぎ> には、いつエルノが自由を求めて走りだすか、正確に言いあてることができた。ファイトは百メートル奥から続いている路地に目をやった。獲物はその路地に逃げこんでファイトをまき、気のいい鍛冶《かじ》屋を見つけて手足の鎖を外してもらうつもりなのだ。ファイトごとき老いぼれに追いつけまいとたかをくくっている。
そう、もちろんエルノの考えは正しい。若い頃のファイトならエルノを追いかけ、とびかかって組みふせられただろう。しかし、正確にいうなら、やはり当時でもファイトは、これからやるようなことを同じようにやったにちがいない。
「ファイト」泥棒が言った。「取り引きしないか……」
そろそろ路地だな。
「……どうだい……?」
エルノは <賞金稼ぎ> めがけて鎖を振りまわした。ファイトはとびのいて、鎖をよけた。泥棒が子守をしている太った女を押しのける。赤ん坊は火がついたように泣きだし、女はファイトの前に立ちふさがった。
「伏せろ」
ファイトは叫び、|投げ矢銃《ダーツ・ピストル》を引きぬいた。
女はおろおろしている。ファイトはそれをわきにつきとばして、狙《ねら》いを定めねばならなかった。赤ん坊は丸焼きにされた豚みたいにきーきー泣いている。
路地はせまく、まっすぐに伸びていたので、エルノはじぐざぐには走れなかった。泥棒はごみに滑ってころび、鎖を体に巻きつけてしまった。もう一度立ちあがって走り、低い壁に手を伸ばす。ファイトは、二度骨折し、二度骨継ぎした手首に鋭い痛みを感じつつ、銃を構えて発砲した。
|投げ矢《ダーツ》はエルノの首の後ろを捕らえた。泥棒の身体は飛びあがったかと思うと、手足や鎖をもつれあわせて、溝の汚物の中に転がりおちた。おそらく、この路地は近くの家の上階に住む住民がごみ捨て場同然に利用しているのだろう。石畳には厚くほこりがつもり、死んだ魚や腐った野菜の臭いが毒気のように空中にたちこめている。
ファイトは相手の太腿《ふともも》を狙ったつもりだった。それなら、エルノを生かしたまま倒せただろうに……。殺そうが生かしておこうが賞金の額はかわらないが、どうやらリーデンブロックの屋敷まで、ずっしりと重い死体を引いていくはめになったようだ。しかも、ファイトはすでにひどく息切れしている。かれはぬるぬるした壁にもたれ、苦しげに息をついた。
昔、ファイトの体は内側から蝕《むしば》まれていると言った医者がいる。たぶん、アラビィのきつい葉巻を長年吸いつづけたせいだ。「言ってみりゃ、黒い蟹《かに》があんたの体の中を喰いちらかしてるようなもんさ、ファイト」医者は言った。「しまいにゃ、あんたを殺しちまうだろう」
ファイトは気にとめなかった。どうせみんな死ぬのだ。葉巻を吸わずに生きのびるか、葉巻を吸って死ぬかときかれたところで、迷うことはない。ファイトは葉巻を一本と火口箱を取りだした。肺にあふれるほど煙を吸いこみ、ごほごほとむせる。それから黒いねばねばの痰《たん》を吐きだし、壁によりかかって路地を進んだ。
やはりエルノは死んでいた。ファイトは投げ矢を引きぬき、死体のぼろ服でそれをきれいに拭《ぬぐ》った。もう一度その矢を銃に込め、バネと安全装置を掛ける。そして、獲物から鎖をはずすと、それを肩にぶら下げた。この鎖はファイトの商売道具の中でも高価なものだ。ドワーフの鍛冶屋が特別に鍛えたその鎖を使いはじめて、もう十年以上になるだろうか。丈夫な鎖で、エルノよりはるかに狂暴な男どもをつかまえておくのに役立ってくれた。
ファイトはエルノの裸の足をつかむと――泥棒のはいていた長靴は鎖につないだ後に売りとばしたのだ――死体を引きずって通りへもどった。死体をひっぱると、胸に鋭い痛みが走る。あばら骨に巣くう黒い蟹が、骨をつなぐ筋肉を喰いちらかし、体の中で骨がぼろぼろにくずれていくようだった。ファイトの体がクラゲのようにふにゃふにゃになって役.に立たなくなるまで、さほど長くはかかるまい。
近頃《ちかごろ》は射撃の腕もどうも鈍ったようだ。充分用は足せるのだが、ファイトはかつては射撃の名手だった。賞金稼ぎに手間取るようになってからも、射撃競技を勝ちぬいて小金を手に入れてきた。長弓、石弓、銃、ナイフ投げ、なんでもこいだった。それに、武器の手入れにはどれほど気を使ってきたことか! 武器はどれも完璧《かんぺき》なまでに砥《と》ぎすまし、必要とあれば油をさし、磨きあげ、いつでもそれが獲物の血を吸えるようにしていた。いまでも手入れは怠っていないつもりだが、どうも昔よりいろんなことがうまくいかなくなっている。
二十五年前、短い間だったが、かれは英雄だったことがある。だが、名声というのはあっというまに消えていく。ファイトがドラッケンフェルズ征伐に果たした役割はごくささいなものだったので、物語詩人にはほとんど見向きもされなかった。だからこそ、ヨアヒム・ミュンヒベルガーにかれの伝記を本にして出版することを許したのだ。詐欺《さぎ》師は上がった利益をまるごと持ちにげし、ファイトが――仕事の合間に――その男を追跡し、罪の償いをさせるまでに何年もかかった。ミュンヒベルガーはその後、左手で字を書く練習をしなければならなくなったはずだ。
そしてまた、同じことがそっくりそのまま再現されようとしている。オスバルト皇子の使者がファイトを見つけだし、あの冒険の中でまだ人に知られていない真相を太った役者に話してくれと頼みにきたのだ。ファイトは断わるつもりだった。だが、金が差し出されるや、ファイトはデトレフ・ジールックとやらに――みなの話では、その役者自身も金を借り倒して逃げていたらしい――おもしろくもない話の一部始終を語ることになってしまった。またも、若いオスバルトが金色に光り輝く栄光をほしいままにするかたわらで、ファイトは見向きもされなくなるのだ。
オスバルト! 思えばあの男も、鼻たれ小僧の頃からずいぶん長い道のりを歩いてきたものだ。オスバルトがはじめて皇帝を選ぶ日がまもなくやってこよう。その一方で、太鼓腹のルディ・ヴェゲナーはジンに溺《おぼ》れ、狂ったエルツベトはどこかの独房で荒れくるい、あの永遠の貴婦人は乙女の血をむさぼっている。そして、アントン・ファイトは相変わらず通りに出て、お尋ね者やそうでない犯罪者を探しだしては金に換えている。かたやオスバルトだけが高い地位に迎え入れられているというのにだ。
エルノの死体はだんだん重くなってくる。ファイトはやむなく通りに腰を降ろし、一息ついた。かれが商品の番をしていると、野次馬が集まってきたが、またすぐに散っていった。死人の顔のまわりに蠅《はえ》がたかり、開いた口や鼻の中へともぐりこんでいく。ファイトには、蝿を追いはらう力は残っていなかった。
やがて二人は、蝿にたかられながら立派な紳士の屋敷へと向かった。
12
目が覚めたとき、デトレフは原稿の海に顔を押しつけていた。机に向かったまま居眠ってしまったらしい。時計は午前三時を指していた。宮殿は冷え冷えとし、静まりかえっている。蝋燭《ろうそく》は燃えて短くなり、蝋が机の上に垂れていたが、炎はまだ燃えていた。
背筋を伸ばすと、デトレフは鈍い頭痛を覚えた。働きすぎが続くと、いつもこうなのだ。これにはシェリー酒が効く。デトレフは肌身離さずシェリー酒を手元に置いていた。椅子《いす》を後ろに押しやり、机のそばの飾り棚から瓶を取り出す。まず瓶ごと一口あおってから、グラスに注いだ。上等の酒だ。フォン・ケーニヒスバルト宮殿にあるものは、なにもかも贅沢《ぜいたく》なのだ。凍えた両手をこすり合わせると、温《ぬくも》りがもどってくる。
デトレフは机の上の原稿を順番に並べ、とんとんとそろえた。とりかかっている脚本はほぼ完成している。ルディ・ヴェゲナーやドワーフのメネシュや皇子との対談から直すベきと判断した箇所は、全部鉛筆で書きこんである。この上、賞金稼ぎのファイトや吸血鬼のデュードネ嬢の話をきいたところで、果たして大きな変更が必要かどうかは疑問だ、とデトレフは思っていた。調査は芝居の骨格をなすものだが、それに肉づけするのはすべてデトレフ・ジールックなのだ。観客もまさにそうしたことを期待しているはずだ。オスバルトは、少しくらい史実から離れたほうがかえって真実に近くなると、励ましてくれさえした。後援者がみなこのように芸術の自由さを理解してくれたら、言うことはないのだが。
頭痛が和らぎはじめ、デトレフは原稿を何枚か読みなおした。終演のあいさつ、つまり芝居の締めくくりとなる言葉を書きながら寝てしまったらしく、最後の一枚の下のほうに、ひっかいたようなインクの跡がついていた。
デトレフの頬《ほお》が独白の台詞《せりふ》のところをこすったらしい。そこについたインクはとうに乾いて、さぞや間抜け面になっていることだろう、とデトレフは思った。
自分で書いた台詞だというのに、デトレフは思わず感動した。こんな台詞が書けるのは、かれをおいて他にない。邪悪を打ちまかす正義の勝利を、甘い感傷やメロドラマに陥ることなく表現できるのは、デトレフだけだ。オスバルト役のデトレフが倒れ伏す敵に語りかけるときには、どんな屈強な男ですら涙にくれるだろう。ドラッケンフェルズの送ったような人生でさえも、潰《つい》えるとなれば少しは哀れを誘うものだと知って。その場面ではヒューバーマンにガンバの独奏をさせる予定だったが、音楽は必要ないとたったいま決意した。寂しげな声と胸にしみる言葉、それだけで充分だ。
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「喜びの塔に鐘をつかせよ
偉大なる魔法使いは善なる大義のもとに屈せん
地獄の教会に鐘を響かせよ
コンスタント・ドラッケンフェルズはかの地にて迎えられん」
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窓の外には宮殿の庭園が広がり、その向こうに寝しずまる街《まち》がある。月は満ち、傷一つない芝生の広がりが、まるで白黒の銅板画のように映える。皇子の先祖、代々のオストランドの選帝侯たちが一列の台座に並ぶ姿は、堂々として威厳にあふれているように見えた。帝国《エンパイア》のために剣を振るった若かりし日の老マクシミリアンの像もある。デトレフは老選帝侯がお守り役に付きそわれて、そのあたりをうろついているのを見かけたことがあった。選帝侯は耳を貸してくれそうな相手を見つけては、栄光の古き日々の話をくどくどと聞かせていた。屋敷にいる者はみな、マクシミリアンの寿命が残り少ないのを知っている。そして、遠からずオスバルトの時代がはじまることを。
皇子が今度の舞台設定を手伝わせるために雇った建築家たちは、宮殿の改造も計画していた。フォン・ケーニヒスバルト家の執務はますますオスバルトの肩にのしかかっている。皇子はほとんど終日、大司教や大法官や皇帝勅使や他の役人との密談にあけくれていた。相続は支障なく進むだろう。そして、このデトレフの『ドラッケンフェルズ』がオスバルト時代の到来を告げることになるはずだった。芸術家は必ずしも歴史の流れからつまはじきにされるものではない、とデトレフは思う。将軍や皇帝や選帝侯だけでなく、芸術家が歴史を作ることだってあるのだ。
デトレフは顎髭《あごひげ》を掻《か》き、さらにシェリー酒を口に合むと、夜の宮殿の静けさを味わった。こうしたうち続く静寂というのは、ずいぶん久しぶりだ。マンドセン砦《とりで》の夜は、恐ろしいうめき声や夢見の悪い者の叫び、じめじめした壁や天井から絶えず滴る水の音に満ちていた。そしていま、デトレフの昼間の生活は、人の声や厄介事のために、気の休まる暇もない。役者やオスバルトの冒険者の生き残りに話をきかねばならないし、デトレフの考えを実際の演技で表現できないこちこちの石頭どもとは言い争いになる。リリ・ニッセンが金切り声で愚痴をこぼしたり、気味が悪いほどしなだれかかってくるのにも耐えねばならない。しかもその間、役者が稽古《けいこ》中に踏みならす長靴の音や舞台装置を作る職人の槌《つち》の音、戦闘場面に出演する役者たちの剣術の稽古の音がひっきりなしにとびかう。なにより、あのブレグヘルの絶え間ないどなり声。「デトレフ、デトレフ、大変です、厄介な事になりまして……」
ときおりデトレフは、どうして自分が才能のはけ口に芝居など選んでしまったのだろうと自問することがあった。そして、いつもこう思うのだ……。
芝居に勝るものはなに一つない、と。
そのときデトレフは、冷たい手にさっと心臓をなでられたような気がした。外の庭園にいくつかうごめくものがある。それは選帝侯の彫像の陰で動いていた。デトレフは警告の声を上げようかと迷った。しかしなにかが、その数体の影は暗殺者や強盗ではないとデトレフに告げていた。影の動きにはこの世のものとは思えないものうげなようすが漂っている。と、その顔が月光のようなおぼろな光を発したかに見えた。そのころには、影は縦一列に並んでいた。修道僧のようなローブをまとっているので、ほのかに輝く顔も周囲は深い闇《やみ》におおわれていてよく見えない。やがて、人影はこそりとも音を立てず、宮殿に近づいてきた。デトレフはかれらが草や砂利を踏むことなく歩いてくるのに気づいて、ぞっとした。影は地面から数センチのところに浮いて、ローブの紐《ひも》を後ろになびかせながら苗を歩いてくる。
デトレフはその場に凍りついた。恐怖からというより、魅入《みい》られたといったほうがいい。まず獲物を魅了してから喰らいつく毒蛇に射すくめられてしまったかのようだ。
窓が開いている。だが、デトレフにはそれを開けた覚えがなかった。夜気が顔に冷たく吹きつける。
修道僧のような人影は、いまは地上数メートルまで浮かびあがり、宮殿に向かって漂ってくる。ぼんやりと半分のぞくかれらの顔の奥に、ぎらぎらと光る鋭い目が見えるようだ。その正体はともかく、かれらは目的を持ってここにやってきたのだと知り、デトレフはふいに激しい恐怖を感じた。かれらは会いにきたのだ。まぎれもなく、このデトレフ・ジールックと話をするために。
デトレフはいままでおろそかにしてきた神々に祈った。信じてもいない神々にさえ祈った。それでも人影は空中高く上ってくる。数は十体から十二体くらいと思っていたが、もっと多いようだ。百体か、あるいは千体か。これほどの群衆が宮殿の庭に集まることなどありえない。だがとにかく、ありそうもない者たちが、現にここに現われているのだ。人間なら宙に浮いたりしない。
人影の列から何体かが進みでて、窓の前の、デトレフの手がわずかに届かないところまで漂ってきた。影は三体で、中央の僧がその代表者にちがいない。その人影は他よりもはっきりとしていた。顔もよく見え、二つにわかれた黒い口髭《くちひげ》やかぎ鼻が見分けられる。貴族の顔立ちをしているが、暴君なのか慈悲深い統治者なのかまではわからなかった。
かれらは死者の魂なのだろうか? それとも暗黒の魔物《デーモン》? あるいは、まだ世に知られていない超自然の怪物なのか?
宙を漂う修道僧は穏やかに輝く瞳《ひとみ》でデトレフを見つめ、片手を上げた。ローブがまくれ、痩せた手が現れる。僧は劇作家に向かって人差し指を伸ばした。
「デトレフ・ジールック」人影は太い男の声で言った。「これ以上、暗黒に足を踏みいれてはならぬ」
修道僧は唇を動かすことなく、デトレフの心にじかに語りかけてくる。風が吹いていたが、幻影のローブはそよぎもしない。
「気をつけるがよい。あの男……」
……その名は口に出される前に空中を漂い、デトレフの頭に響いた……。
「……ドラッケンフェルズには」
デトレフは口もきけず返事もできなかった。警告を受けたことはわかる。だが、何に対して? そしてなんのために?
「ドラッケンフェルズにだ」
伴《とも》の者は消え、いまや修道僧は一人になっていた。やがて、その僧の姿も薄れていく。とつぜん大風が吹きつけて、僧の体が左右によじれたかと思うと、ぼろ服の切れ端のようにちぎれて風に運びさられた。一瞬後には、跡形もなく消えた。
デトレフは冷や汗びっしょりになり、前にもまして激しい頭痛に襲われて床に倒れた。かれは気を失うまで祈りつづけていた。
朝になってデトレフは、恐怖のあまり失禁し、体を汚してしまったのに気づいた。
[#改ページ]
第三幕
T
それはよくある船上の恋≠セった。セルゲイ・バッハーリンは北部の大君主ラディ・ボッハ皇帝が帝国《エンパイア》に送った大使として、キスレフからウルスコイ川を下ってきた。かれがルイトポルト皇帝号に乗ってきたのは、ウルスコイ川とタラベック川の合流地点を過ぎたすぐ後のことである。ジュヌビエーブは一目見るや、その長身で誇り高い男に心を奪われてしまった。かれは皇帝《ツァー》のもとで北方荒野の変異した巨大な怪物と戦ったときに受けた傷を残し、髪と口髭《くちひげ》には陶製のビーズを通して長く編んでいた。見るからに屈強な男で、その血からはジュヌビエーブが修道院にひきこもって以来はじめて味わう、豊かな香りが漂っていた。
オスバルトの執事であるヘンリック・クラリイは別として、ルイトポルト号に乗ってタラベック川をアルトドルフまでつづけて下る客は、セルゲイとジュヌビエーブの二人だけだった。セルゲイとともにキスレフから川を下ってきた陰気で引っ込み思案のエルフの詩人もいたが、その男はタラブハイムで船を降りた。詩人は決して自分の目的を明かそうとはせず、船長のイオルガや漕《こ》ぎ手たちからは敬遠され、うさん臭そうに見られていた。もちろん、敬遠されたりうさん臭そうに見られたのはジュヌビエーブとて同じだが、船乗りたちには得体の知れない異種族の生き物より、まだしも彼女のような者のほうが扱いやすいらしい。タラブハイムでは、大勢の商人や、皇室の徴税人が二人、それに、セルゲイと軍事上の話し合いをすべきだと考えた、カール・フランツ皇帝配下の少佐が一人乗ってきて、船は満杯になった。
ジュヌビエーブは延々と続くゆったりとした川を下る間、船室にとじこもり、延々と続くゆったりとした日々をすごしていた。寝台でうとうとと夢の中をさまようときもあれば、セルゲイとめくるめくような夜を過ごしつつ、そっと傷のかさぶたを取ってやり、その血の味を確かめたりした。キスレフの男は吸血鬼の口づげを楽しんでいるようだった――いったん受けいれた後は、たいていの人間はそれを楽しむようになるものだ。だが、それを除けば、男はたいして不死の恋人に興味を持っているわけではなかった。彼女の腕の中にいないとき、セルゲイはヤール少佐や執事クラリイと一緒にいるほうを好んだ。聞いた話では、皇帝《ツァー》の臣下はあまり女性を大切にしないものらしい。その上、相手が吸血鬼とくればなおさらだろう。過去には世に知られた女帝《ツァーリナ》カタリンの例もある。女帝は <闇《やみ》の口づけ> を探しあて、キスレフの統治を長々と続けた。女帝の曾々孫《そうそうそん》たちは彼女が円滑な王家継承を妨げていることにいらだち、女帝暗殺というたしかに正当と思われる挙に出た。キスレフや最果て山脈に棲《す》む吸血鬼はみな、ヴィーツァックと同じ種類である。かれらは尊大な <真の死者> で、人間をただの家畜と見下す怪物である一方、さんざし[#「さんざし」に傍点]や銀を用いる昼間の生き物を恐れていた。
セルゲイ本人からききだそうとしたことはないものの、ジュヌビエーブはその勇敢な戦士が彼女をちょっと恐れているらしいと感じた。そこがまた、セルゲイを惹《ひ》きつけたのだろう。かれは臆病《おくびょう》風を吹きとばしたいのだ。ジュヌビエーブにしてみれば、退屈な長旅に――何キロも延々と続く松林の土手や、鎖につながれた漕《こ》ぎ手のくどくどしい愚痴や疲弊しきった姿に埋めつくされた毎日に――強烈な味覚で色を添え、荒削りながら整った顔だちの男を眺めて時間をすごせるのが嬉《うれ》しかった。だが、アルトドルフまであと数日となった頃、ジュヌビエーブはそのキスレフの軍人外交官にもう飽いていた。宿泊先の住所を交換しあったものの、二度と公《おおやけ》の場でこの男に会うことはないだろうと、彼女にはわかっていた。悔いはないが、心に残るほどの楽しい思い出だったわけでもない。
ルイトポルト号は船着き場に着くと櫂《かい》を引きあげ、高い二本マストを持つ大洋航海用の商船にまじって停泊した。商船はアルビオンやノーシャ、さらにはニュー・ワールドの商品を積んで、 <鉤爪《かぎづめ》の海> からここへ上ってくる。セルゲイはさっさと渡し板を降りると、桟橋《さんばし》からジュヌビエーブに会釈《えしゃく》を送り、宮廷に向かった。おそらくヤール少佐と連れ立って、道すがら最初に目についた娼館《しょうかん》に立ちより、生身の女の感触を思いだしていくつもりなのだろう。ジュヌビエーブは、驚いたことに涙を流していた。彼女はその赤いしみを拭《ぬぐ》うと、恋人が友だちと一緒に歩きさるのを見守った。
「お嬢さま」クラリイが言った。この男は旅が終わったとたん、急にせかせかしはじめた。「皇子の馬車が待っております」
それは豪華な馬車だった。交易品や荷馬車がひしめく、悪臭漂うアルトドルフの波止場には場ちがいな代物だ。お仕着せ姿の従者が何人か、その黒と赤の馬車のそばで待っている。緑と金のフォン・ケーニヒスバルト家の紋章が目を引いた。クラリイは波止場人足に金貨《ゴールド・クラウン》を一枚渡して、ルイトポルト号から馬車までジュヌビエーブの荷物を運ばせるよう計らった。実はジュヌビエーブは、見た目こそ少女のようだが、腕相撲でここにいるような大男を負かすこともできるし、片手で重いトランクを持ち上げることだってできる。
しかし、それは言わずにおくことにした。ジュヌビエーブが心をこめて別れを告げると、イオルガ船長は不死の乗客からのがれられてほっとしたようすを見せたが、それほど怯《おび》えもせずに、一か月か二か月後に修道院にもどるつもりなら、帰りの分をいま予約しておく′といいよ、と勧めてくれた。
修道院で何年か過ごした身には、アルトドルフのにおいや騒音は、久しぶりに味わう衝撃だった。ルイトポルト号は日没直後に波止場に着いていた。遅番の人足の便宜を計って松明《たいまつ》が灯《とも》されており、ジュヌビエーブは夜出没する怪物のように、充分にそのにおいを嗅《か》ぎ、空気を味わい、音を聞くことができた。この町は帝国《エンパイア》中で、いや、既知世界《ノウン・ワールド》中でも最大の都市なのだ。
ライク川とタラベック川の合流地点にあるいくつかの島を中心に、そこから川岸に大きく広がるアルトドルフは、橋と泥地の街《まち》だ。あざやかな赤いタイルを載せた、高く白い防壁が町をぐるりと囲んでいる。皇室の故郷であり、シグマー派の大聖堂がある、帝国の心臓部。そして、旅行案内書に言われるとおり、大学や魔術師、図書館、外交官、料理店の集まる町として知られている。そこはまた、旅行案内書が言いひかえている、すりや密偵、陰謀にたけた政治家や聖職者、ときたま大発生する流行《はや》り病いなどが存在し、呆《あき》れかえるほど大混雑した街でもある。
それらは、この二十五年というもの、なに一つ変わっていなかった。町に入ると、泥地の上に新たに人家が建て増され、いつも湿っぽく不健康きわまりない繁華街を形成していた。貧しい人々――波止場人足やドワーフの壁職人、露店商など――の住むそうした家屋は、アルトドルフの裕福な階級の豪邸と鮮やかな対比をなしている。
この町に吸血鬼はあまり多くはいない。橋のせいなのだ。ヴィーツァックやその同類なら、四方を流れる川に閉じこめられたような気分になるはずだ。かりにジュヌビエーブが完全に死んで、かれらの仲間―― <真の死者> の吸血鬼、絶えず流血を求めてさまよう死者――になっていたら、一生この町には近づこうとしなかっただろう。しかしいま、彼女の五感は陶酔に浸っていた。アルトドルフのおいしい料理や、荷を積まれるばかりとなった薬草馬車の心地よい香りだけを求め、泥や腐った魚、どっと押し寄せる垢《あか》じみた人間のにおいを追い払う。もしジュヌビエーブがここで一人にされたなら、今夜はたっぷり血を貪《むさぼ》ることになるだろうが、おそらく、それに代わるものが彼女のために用意されているはずだ。恥ずかしいまねはよそう。ここは名だたる夜の町=B <三日月> 亭はもうすぐ店を開けるだろう。他の酒場や劇場、音楽堂、見せ物小屋、賭博《とばく》場も。ここには贅沢《ぜいたく》で、きらびやかで、自堕落で、人を惑わす、ありとあらゆる気晴らしがそろっている。六世紀半の間、ジュヌビエーブが決して忘れることのできなかったすべてが。
馬車の扉が開き、気品にあふれた男が降りてきた。地味な装いだったので、ジュヌビエーブは一瞬、また別の執事が出てきたのかと思った。が、そのとき……。
「オスバルト!」
皇子はにこやかに笑い、歩みでた。二人は抱きあい、ジュヌビエーブは再び皇子の血が自分を誘うのをきいた。相手の素肌の首に濡れた舌を這あせ、顎髭と襟の間にしびれるような王子の生命力を味わう。
オスバルトは抱擁をとき、しげしげと彼女を見つめた。
「ジュヌビエーブ……いとしい人よ……その口づけにはいつまでたっても慣れないものだな。きみはちっとも変わらないが。まるで昨日のことのようだ」
二十五年間。「ええ、殿下。まさに昨日のこと[#「昨日のこと」に傍点]ですわ」
皇子は手をふって堅苦しさを追い払った。「頼む、敬称なんてよしてくれ。きみの前ではいつでも、ただのオスバルトだよ、ジュヌビエーブ。きみにはどれほど恩を感じていることか」
ジュヌビエーブは、あのとき自分が気を失い、夜ごと夢に現われる鉄の仮面の魔王になすがままにされたことを思いだした。
「いいえ、ご恩があるのはあたしのほうですわ、オスバルト。あたしが生きていられるのは、ひとえにあなたのおかげですもの」
昔からオスバルトは、金色の髪と澄んだ瞳《ひとみ》を持つ美しい少年だった。それがいまは肌も浅黒くなり、品格を感じさせる皺《しわ》や男らしい顎髭を蓄えた立派な男に成長している。以前はほっそりとしなやかな体つきで、戦闘では恐ろしく強くて敏捷《びんしょう》だったとはいえ、剣を手にした姿はどことなくぎこちなかった。いまはセルゲイと変わらぬくらいたくましい。上着《ジャーキン》に隠れた体は固く引きしまって健康そうで、鍛えぬかれたふくらはぎや太腿《ふともも》の形がタイツを通してはっきりと見える。オスバルト・フォン・ケーニヒスバルトは大人になった。皇子の地位になお甘んじてはいるものの、どこをとっても立派な選帝侯に見えるし、事実、間もなくそうなるはずだった。瞳はあいかわらず澄み、高い志や情熱、冒険心にきらきらと輝いている。
オスバルトはいきなりジュヌビエーブに口づけをした。ジュヌビエーブはまたしても皇子を味わったが、今度は彼女のほうから身を引いた。血への渇きが礼節を越えてしまうのを恐れたのだ。皇子は彼女に手を貸して、馬車に乗りこんだ。
「話すことがたくさんあるのだ、ジュヌビエーブ」皇子は話しはじめた。馬車は波止場の人込みを抜け、市の人通りへと向かっている。「ほんとにいろいろなことがあってね……」
三つの塔°エのたもとまでくると、街頭歌手が木こりの娘とラナルドの司祭を題材にした滑稽《こっけい》な歌を唄っていた。歌い手は近づいてくる馬車の紋章を見ると、曲をドラッケンフェルズの死を歌った物語詩に変えた。オスバルトはどぎまぎして頬《ほお》を染めた。ジュヌビエーブは皇子の赤らんだ顔を見て、少しばかり喜びを感じずにはいられなかった。それは、いくつかある物語詩の中でも『勇敢なオスバルトと美しいジュヌビエーブの歌』と名づけられたもので、皇子が、 <大魔法使い> と対決したのは不死の恋人を愛するがため≠ニ歌っていたからだ。しかし、ジュヌビエーブは――いまはじめて思うことではないが――果たしてほんとうに二人の間にはなにか魅《ひ》きあうものがあったのだろうか、と首をかしげた。
振りかえってみれば、ドラッケンフェルズ砦《とりで》に向かったときに二人が恋に落ちていたのであれば、妙な話だ。皇子の時の流れからすれば――ジュヌビエーブのではない――あれはもう人生の半分も前のことなのだから。いまさらオスバルトは、吸血鬼の女給を宮廷に召しあげるつもりなのだろうか。
橋と歌声が背後に遠ざかっていくと、オスバルトは自分の考えている芝居のことを話しはじめた。
「とても頭のいい若者を雇ったんだよ。その男を天才と呼ぶ者もいれば、とんでもないうつけ者という人もいる。どちらの言い分ももっともだが、天才である部分のほうが、うつけ者の部分より勝《まさ》っているだろうね。馬鹿なふるまいがあってこそ、天分に磨きがかかるのかもしれんな。きみもきっとあの男の作品を気にいると思うよ」
ジュヌビエーブは車輪のきしむ音や砂利を蹴《け》る蹄《ひづめ》の音、心地よい熱のこもるオスバルトの声に身をまかせていた。馬車はいま、フォン・ケーニヒスバルト家のアルトドルフ宮殿に向かって、市でもいちばんの高級住宅地を抜ける広い通りを走っていた。このあたりには、ドワーフの軍隊ならまるごと一つ収容できるほどの敷地に、高級貴族の屋敷が建ちならんでいる。軍服を着た民兵が不穏分子を追い払うためにきびきびと通りを巡回しているし、松明《たいまつ》は夜どおし灯《とも》され、疲れきった貴族の帰り道を照らしている。貴族たちの午後というのは、宮廷の廊下でぺこぺこしたり、ふんぞりかえったりで、なかなか大変なのだ。ジュヌビエーブが以前アルトドルフにいた頃には、この地区へはあまり足を踏みいれなかった。 <三日月> 亭は波止場のすぐ裏、百酒場通りとして有名な、活気はあるがごちゃごちゃした埃《ほこり》まみれの通りにあるからだ。
「デトレフ・ジールックと話をしてほしいんだ。ぜひとも、きみの覚えていることをあの男に授けてやってくれ。もちろん、ジールックの劇の主人公はきみだ」
ジュヌビエーブはオスバルトの情熱を楽しんでいた。父親の死後、その跡を継いで選帝侯になることを一族の者に期待されていなければ、旅回りの役者になるのに――と、少年の頃、皇子が打ちあげたのを思いだす。オスバルトの詩は当時すでに高い評価を受けており、大人になったかれが公《おおやけ》の生活に縛られて、文筆生活を続けられなかったことを悔んでいるのが感じられた。いま皇子は後援者となることによって、芸術に立ちかえることができたのだろう。
「それで、いったいだれがあたしの役をやるのかしら、オスバルト」
皇子は声をたてて笑った。「他にだれがいる? リリ・ニッセンだよ」
「リリ[#「リリ」に傍点]・ニッセン[#「ニッセン」に傍点]ですって! とんでもないわ。リリ・ニッセンと言えば、当代随一の美女でしょう。あたしは……」
「……せいぜい愛敬があるくらい? そう言うだろうと思ってたよ。キスレフの言いならわしじゃないが、吸血鬼の謙遜《けんそん》には気をつけろ≠セね。そもそも、すべてがそんなふうになるのさ。わたしだって、さっそうとした若き天才にされてしまうし、皇帝陛下の兵の数よりたくさん女を泣かせたことになっている。いまは劇の話をしているのであって、無味乾燥な歴史の事実を話しているわけじゃない。デトレフ・ジールックのおかげで、わたしたちは永遠に生きつづけるのだ」
「ねえ、オスバルト、それでなくても、あたしは永遠に生きるのよ」
オスバルトはまた笑った。「そうだった。うっかりしていた。リリ・ニッセンに会ったことがあるって話は、もうしたかな? たしかに彼女はびっくりするような美女だけれども、きみとはくらべものにならないね」
「あいかわらず、皇帝陛下の宮廷ではお世辞がたしなみとされてるのかしら?」
馬車が止まり、鎖ががちゃりと鳴る音がきこえた。
「さあ、着いた」
錬鉄製のフォン・ケーニヒスバルト家の盾を埋めこんだ大きな門が開くと、オスバルトの馬車は広い車道に入った。前方の宮殿の前で、なにやら騒ぎが起こっている。旅行かばんが高く積まれ、人々が声高に言い争っていた。いかにも舞台衣装らしい凝《こ》った服を着た、やや太り気味の堂々たる若者が、怯《おび》える御者《ぎょしゃ》をどなりつけている。その横では一人のドワーフがひょこひょこと歩きまわっていた。他にも風変わりな衣装をつけた人々がいて、声をはりあげる若者の話に耳を傾けている。
「なんの騒ぎだ?」オスバルトは叫ぶと、まだ動いている馬車からとびおりて、ののしりあう人の群れにつかつかと歩みよった。「デトレフ、なにがあったのだ?」
大声を上げていたデトレフは皇子をふりかえり、ふと言葉につまった。その一瞬、ジュヌビエーブは、若者――オスバルトの言葉を信用するなら若き天才――が自分に目をとめたのに気づいた。彼女は馬車から身を乗りだしていた。二人の視線がからみあい、それは後々どちらにとっても忘れえぬできごととなった。しかし、その瞬間《とき》はすぎさり、再びデトレフは大声で叫びはじめた……
「ぼくは帰らせてもらいますよ、殿下……こんな警告を二度と受けたくはない。芝居は取り止めです。幽霊にとりつかれるくらいなら、マンドセン砦《とりで》にもどったほうがましだ。仲間も今回の計画からは抜けさせてもらいます。くれぐれもご忠告しておきますがね、皇子もこの件から手をお引きになったほうがいい。宙を漂いながら声もなく話し、墓場の屍臭《ししゅう》を運んでくる修道僧の訪問を受けたいと言うのでしたら、話は別ですがね。いいですか、ああいう輩《やから》をあなどったら、きっと来世にはご自身がやつらの仲間入りをするはめになりますよ!」
U
デトレフをなだめるのに、ずいぶん時間がかかった。だが、オスバルト皇子は辛抱強く理を含めて言いきかせた。そうした修道僧の警告がそれほど恐ろしいものではないと説明する。
「幽霊なんて、人を惑わすだけのつまらぬものだよ。しかも、ああした連中はこの世の出来事には干渉できないと言われている」皇子はそうした害のない精霊を呼びだそうとするかのように、しなやかな手を宙に舞わせた。「この宮殿は古くて、そうしたものが取り憑《つ》いたことは何度もある」
それはそれで結構ですがね、とデトレフは思う。だが、オスバルト自身が間近にあの亡者たちを見たわけでもないし、じかに指図を受けたわけでもないのだ。
「聞くところによると、フォン・ケーニヒスバルト家の者に死期が近づくと必ず、先祖の霊がお迎えにやってくるらしい。わたしの名は祖父からもらったものだが、その祖父が脳膜炎で昏睡《こんすい》状態になったとき、鼻のないシュリヒター・フォン・ケーニヒスバルトの亡霊が、寝台のかたわらでいつまでも待っていたそうだ……」
デトレフは納得しなかった。亡者の修道僧の射るような視線や骨だけの人指し指がまだ忘れられない。「お言葉ですが、殿下、今度の場合、殿下はまったくご壮健でいらっしゃるようにお見受けします。その一方で、ぼくはそうした貴い血筋とは縁もゆかりもなく、それが死の危険にされされているというわけで――」
皇子の顔に陰鬱《いんうつ》な表情が浮かんだ。「たしかにそうだ、デトレフ」王子は優しく言った。「だが、わたしの父のことは……選帝侯は……」
皇子は部屋の片隅を顎《あご》でしゃくった。そこでは、オストランドの選帝侯がこほこほと咳《せき》こみながら、おもちゃの兵隊で遊んでいた。石炭入れの籠《かご》に攻撃をしかけているところだった。
「将軍、ばんざい!」マクシミリアン選帝侯が叫ぶ。そろそろ就寝の時間が近いはずだ。
オスバルトはデトレフを見つめた。デトレフはうまく丸めこまれたような気分だった。たしかに、この老公はいつ死んでもおかしくない。老衰による長患いのために、公の心はとうの昔に蝕《むしば》まれ、肉体は急速に衰えているのだ。それでもやはり、ぶきみに宙を漂う魔物《デーモン》の修道僧の問題は残った。
「飲むか、デトレフ?」
デトレフがうなずくと、オスバルトはエスタリア産のシェリー酒をたっぷり注いだ。デトレフは杯を持ち上げ、浮き彫りにされたフォン・ケーニヒスバルトの盾を親指でなぞった。この照明の行き届いた暖かい部屋で、落ち着き払ったいつもと変わらぬオスバルトや、厳重に武装した従者たちに囲まれていると、夜の悪霊など恐れるに足りないように思えてくる。考えてみれば、あんな修道僧など、かれが芝居の中で使うつもりでいるドラッケンフェルズの卑しい下僕の魔物どもがまとう扮装《ふんそう》に比べれば、はるかに見劣りがする。不気味な光景という点でなら、あの世だってデトレフ・ジールックの芝居にはかなうまい。
「で、話はついたな? 制作は続けてくれるのだろう?_」
デトレフは酒を飲み、気分がよくなった。まだ心にひっかかるものはあるが、かれは直観で皇子を信じた。ドラッケンフェルズ砦《とりで》から生きて出てきたほどの人物ならば、多少薄気味悪いものがつきまとったとしてもやむをえないだろう。
「いいでしょう。ですが、劇団員を守らせるために、少し衛兵をつけてくださいませんか。なにしろ、あまりにも事故≠ェ多すぎますからね……」
……コジンスキーは踵《かかと》の骨を折っていた。舞台装置が不注意に取りつけられていたせいだ――あるいはなにかに不注意にさわったか。道化師のゲシュアルドは原因不明の高熱で倒れたので、下稽古《したげいこ》のときには、しかたなくファーグル・ブレグヘルが台詞《せりふ》を読んでいる。何者かがラスツロ・レーベンスタインの部屋に押し入って、かれの集めた芝居のビラをずたずたにしてしまった。役者や大道具方は、よるときあると幽霊話をはじめる。今度の芝居製作で予想どおりのものと言えば、リリ・ニッセンがやっぱり大根役者で、ほとんど一日中部屋に引きこもっていることくらいだ。彼女は台詞の練習そっちのけで、一目でまがいものとわかる睫《まつげ》をぱちぱちさせてオスバルトに媚《こ》びを売り、体力を浪費している。デトレフは過去にも中途で挫折《ざせつ》した芝居があることは知っていたし、あの『シグマーの歴史』の三分の一も呪《のろ》われた芝居があるとは思っていない。しかし、今度の芝居の道のりには、当然起こるものと予測していたよりずっと多くの罠《わな》や落とし穴があった。しかも、出演者たちはまだドラッケンフェルズ砦に向かってさえいないのだ。
「あながち筋ちがいの警告とは思えんな、デトレフ。われわれ二人の敵はアルトドルフにはごまんといるからね」
オスバルトは召使いを呼びよせ、短く指示を与えた。
「兵を二十名つけよう。わたしが片腕と頼むヘンリック・クラリイ配下のものだ。明日からきみの仲間に自由に使ってもらっていい。夜は部屋を見張らせておこう」
召使いはそそくさと立ち去った。
「それから、きみの部屋は僧侶《そうりょ》に悪霊払いをさせよう。宗派はきみのお好きなように。ただし、効果のほどは保証しないがね。ここは古い場所だから、悪霊払いくらいではおっつかんだろう。いままでにもさんざんやってきたのだが、つぎからつぎへと新しい幽霊がわいてでるんだ。死装束をずるずるとひきずった血まみれの子供の話とか、ぶきみな青い光をまきちらす、どくろ顔の女家庭教師の話とかね。そう言えば、タラダッシュの一節を朗読する幽霊犬の話だって……」
オスバルトは話に夢中になったらしく、自分の家系にまつわる暗い過去に子供じみた異様な興味を示しはじめた。
「詳しく教えてくださる必要はありませんよ、殿下。もう、どういう場所か充分わかりました」
「だいたいね、わが家の幽霊なんぞ、皇室の宮殿の幽霊に比べたらかすみたいなものさ。皇帝ルイトポルト一世は死ぬまでに少なくとも百八十三回もの霊現象を見たそうだ。賢王アルブレヒトの髪は三十歳になる前に真っ白になっていた。なぜかというと、近衛《このえ》軍の軍服を着た、とてつもなく恐ろしげな魔物の亡霊が突然、現われて……」
「将軍がまた勝ったぞ!」選帝侯が一つの鉛の英雄を高々と差し上げて叫んだ。「卵を配れ! 兵たちに卵をとらせろ!」
お守り役が老人をなだめ、その手をひいて寝室に連れていった。オスバルトはうろたえたものの、父の病状に対しては深く同情を寄せていた。
「わたしが子供のころの父を見せたかったよ」
デトレフは軽く頭を下げた。「老いはだれのせいでもありません。人が子供であることの責任を取れないのと同じですよ」
一瞬、沈黙が流れた。やがて、オスバルトの顔から苦悩の影が消え、かれはもう一人の客のほうを向いた。
「さあ、きみの作品の主人公を紹介しよう。こちらがジュヌビエーブ・デュードネ嬢だ」
青白い少女が歩みでて愛らしく腰をかがめると、ほっそりした白い腕をデトレフに差し出した。デトレフは頭を下げ、その指のつけねに口づけをした。少女は触れると冷たかったが、デトレフが出会ったことのある他の吸血鬼《バンパイア》のような少しばかり腐臭が漂う雰囲気はなかった。この少女が、かれがこれまで劇場で知りあってきた若い女優や踊り子と歳《とし》もちがえば、まったく異なる経験をしてきたとは、即座には認めがたかった。学校を卒業してせいぜい一、二年、いままさにはじめての自由な世界にとびたち、青春を楽しもうとしているとしか見えない。それなのに、この少女は六世紀半もの歳月をその目で見てきているのだ。
「お美しい」デトレフは言った。
「あなたこそ」ジュヌビエーブはこたえた。「お噂《うわさ》はうかがっておりますわ。あなたの筆で、あたくしの評判があがるものと信じております」
デトレフは微笑《ほほえ》んだ。「こうしてお目にかかってみると、台詞をいくつか書きかえずにはいられなくなりましたよ。こんな美しい方に会った者が、その美しさに触れないのは不自然ですからね」
ジュヌビエーブは笑みを返した。彼女の犬歯は普通の少女よりわずかに長く鋭い程度だ。「あら、あなたもオスバルトと同じ先生の下で、ひざまずいて口づげを℃ョのお世辞を学ばれたようね」
皇子は笑い声を上げた。驚いたことに、デトレフはこの不死の女を愛らしいと思った。
「ぜひ、お話を聞かせてください」デトレフは急に話しあいに熱心になった。「明日の昼に、お茶を飲みながら台本に目を通してくださいませんか。まだ手直し中なんですよ。芝居について、あなたの感想を聞かせていただけるのなら、これほど嬉《うれ》しいことはありません」
「明日でもかまわないんですけれど、ジールックさまどうか日没後にしてくださいませ。昼間はあまり得意ではありませんの」
V
あの後援者は、自分のために実に多くのことをやってくれた。そろそろレーベンスタインが後援者のためになにかをやるべきときだ。たとえそれが、墓荒らしのような薄気味悪い、危険で法に触れる仕事であってもだ。しかも、実際に墓荒らしをするわけではない。その女はまだ埋葬されていなかった。彼女はモールの神殿で氷づけにされているはずだ、と後援者は言った。女の死体は皇室の検視官がくるのを待っているのだ。そして、レーベンスタインの愉《たの》しみのためにも待っている。長身の痩《や》せた役者は神殿の出入口の横木に置かれた黒い石の大ガラスを見上げながら、扉をくぐった。大ガラスは翼を広げて、死者やかれらとともに働く者たちを迎えいれている。
神殿の向かいには、モールの僧侶《そうりょ》が贔屓《ひいき》にする酒場 <大ガラスと扉> 亭がある。看板に描かれた黒い烏が風に揺れ、通りの反対側にいる仲間を呼ぶかのように、きーきーと音を立てていた。この近くには皇族の墓地があった。もっとも裕福で、もっとも誉れ高く、もっとも名声を博した者たちの葬られる場。どこの町でもそうだが、このアルトドルフのモール地区も死者のための場所である。
あの仮面の男はレーベンスタインのために、ちゃんと露払いをしておいてくれた。見張りは麻薬を飲まされ、屋根の低い薄暗い建物の詰め所に転がっていた。泡をふいた口からは舌がとびだしている。鍵束《かぎたば》は後援者からきいたとおりの場所にあった。レーベンスタインは以前にもちょっとした遊び心から死体置場に入ったことがあるので、むやみに死者を恐れることはなかった。それに、今夜は革の仮面をつけているので、相手がなんであれ恐れる気にはならない。
レーベンスタインは見張りを脇《わき》によせた。そうしておけば、夜遅くだれかが通りかかっても見つかることはないはずだ。神殿にはきつい香草や薬品のにおいが漂っていた。それがなければ、おそらく屍臭《ししゅう》が鼻についたことだろう。ここには死因に不明な点のある者が運ばれてくる。皇室の検視官が死体を調べて、暴力の痕跡《こんせき》がないか、あるいは過去に報告されていない伝染病でないかを確認する。ここは人に忌みきらわれる場所だった。レーベンスタインは念のために見張りの心臓に手を当ててみた。鼓動はしっかりしている。かれは見張りの鼻をつまみ、男のねばつく口に手を入れて、心臓が止まるのを待った。殺したところで後援者は気にはしないだろう。レーベンスタインはそれをモール神への供物だと考えた。
外の夜陰から音が聞こえた。レーベンスタインは物陰に身をかくし、息をひそめた。酔っ払った遊び人の一団が、木こりの娘とラナルドの司祭の歌を唄《うた》いながら前を通りすぎていく。
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「ああ、愛《いと》しい人よ、あなたがわたしにしたことを知れば
父はあなたに斧《おの》を振りおろし……」
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そのうちの一人が大胆にも <死の神> モールに罵りの言葉を吐きながら、神殿の大理石の壁に勢いよく小便をひっかけた。レーベンスタインは闇《やみ》の中でにやりと笑った。ご多分にもれず、あの小便の染みもいずれ神の知るところとなり、罵りの言葉は神の記憶に焼きつくことだろう。
<死の神> モールと <治癒と慈悲の女神> シャリアは、実際に人々の生死を司《つかさど》る神だ。一人の神は年老い、一人は若い。人は前者をなだめ、後者に恩情を乞《こ》う。だが、結局はシャリア神が泣き、モール神が勝つことになるのだ。
レーベンスタインは他のどんな神に対してより、モール神に親しみを感じていた。以前ナルンで、タラダッシュ作の『不滅の愛』を公演したとき、かれは <死の神> を演じ、その黒づくめの装束に心の安らぎを感じたものだった。ちょうどいま、ドラッケンフェルズの鎧《よろい》や仮面をつけると、心が安らぐように。
今夜は、後援者と仮面同士で対面できるだろう、とレーベンスタインは思った。舞台衣装が手元に置いてあったので、かれはその仮面をつけて神殿へやってきたのだ。正体をごまかすのに役立つからだが、仮面に隠れていると奇妙に落ちつくからでもある。二日前、かれは額の皮膚がもりあがって、角のようなものが生えてきたのに気づき、ふだんからこけた頬《ほお》がさらにおちくぼんでいるのを知った。おそらく変異石《ワープ・ストーン》の影響を受けたのだろう。仮面はそうした変異を隠してくれる。革の仮面をかぶっていると、いちだんと強く、生命力にあふれ、たくましくなったようが気がした。もしナルンで、後援者からこの仕事を言いつかっていたのなら、かれはさぞかし不安に駆られ、びくついたことだろう。いまレーベンスタインは落ちつきはらい、自信に満ちている。かれは変わりつつある。変身したのだ。
酔っ払いが去っていった。静かな夜だった。レーベンスタインは死体が安置してある神殿の裏部屋に向かった。その部屋は短い階段をおりたところにあり、壁が地面より下にある。レーベンスタインは蝋燭《ろうそく》に火をつけ、静かに広い階段を降りていった。空気はひんやりと冷たく、ゆっくり溶けだす氷が板石の床に滴っている。きつい香料入りのミルク酒の入れ物が天井の梁《はり》にぶらさがり、訪れる者の鼻がねじまがるのを防いでいた。一段高くなった棺台《かんだい》に、死因に疑いのあるアルトドルフの死者たちが横たわっている。いや、少なくとも皇室の法廷がその死因に関心を持った変死者たちが、というべきだろう。
上品な服を着た、若い貴族の死体がある。腕が根元のところでぶつりとちぎれ、喉《のど》がなにかの獣《けもの》に引きさかれていた。かと思えば、幼い男の子の死体もある。少年の顔は不自然なほど赤く、腹がぱっくりと口を開けている。レーベンスタインはその男の子のそばで足をとめた。熱でもありそうな少年の額に手を触れ、それが熱いか冷たいか確かめてみたかった。が、レーベンスタインは順繰りに死体に目をやりながら、進みつづけた。暴力による死、病いによる死、原因不明の死。ここには、ありとあらゆる死がそろっている。モールの司祭たちはかれらの管轄下に入った死者の首に、大ガラスの護符をかけていた。魂が死体から解放されたことを示すためだ。モールの教団にとって、骸《むくろ》はただの土くれにすぎない。遺体を祭るのは生者のためであり、魂は神の御手に委《ゆだ》ねられるのだ。
ようやくレーベンスタインは求める棺台を探しあてた。その女の骸は、きらびやかな神殿の中では場ちがいな感じがした。くすんだ色合いのぼろぼろの衣服を見るかぎり、検視官にあれこれ死体をいじられたり、皇子オスバルトの関心をひいて騒ぎたてられるよりは、のたれ死んで朽ちていくほうが似あいの女だ。そういう連中の死はどれも疑わしいのだが、モールの司祭の関心をひくようなものは皆無といっていい。ここにある他の骸は、すべて裕福な階級のものなのに、この女はどう見ても貧民の出だった。
女の喉はずたずたに切り裂かれ、その死体と並んで、氷の上に凶器が載っていた。畏れおおくも、シャリア神の聖なる鳩《はと》の記章が自殺の道具に使われたのだ。レーベンスタインが開いた傷口に指を触れると、そこは冷たく湿っていた。女のやつれた顔から灰色に変色した柔らかな髪を払ってやる。かつては美しい女だったのだろうが、それは死を迎えるはるか以前のことにちがいない。
レーベンスタインは若かりしころ、エルツベトの踊りを見たことがある。あれはナルンの <大広場> で催された巡回興行でのことだ。彼女はナルン歌劇の高度なバレーの技と、森林住まいの遊牧民の荒々しい素朴な踊りをあわせた、激しい一人舞いを披露《ひろう》した。レーベンスタインはその踊りに、衣装の裾《すそ》を蹴《け》りあげる小麦色の脚に、そしてたき火の炎に映える黒い瞳《ひとみ》にのぼせあがった。女のほうはレーベンスタインに一瞥《いちべつ》もくれなかった。市の盗賊と殺し屋の親玉ブリューデル・ヴィッセホーレが殺されたのは、その夜のことだった。つぎの日、巡回興行は町を去り、ナルンの犯罪者にはまとめ役がいなくなった。エルツベトの腕は確かだった。金貨《ゴールド・クラウン》二十五枚が彼女のつける値段である。依頼者が権力を握る貴族であれ、いやしい役人であれ、それは決して変わらなかった。彼女は――哀れで愚かなあの女は――いつも依頼主相手に道徳談義をはじめ、かれらが抹殺したいと思っている人間をこの世から消すのは悪いことではないと言いくるめていたそうだ。
そして、ついに彼女はモールへの供物となり果てて、ここにいる。その手にかかった死者どもが彼女を待ち受けていることだろう――ブリューデル・ヴィッセホーレや、その他の数知れない人々が。エルツベトがいまも例の遺徳談義を忘れずにいて、自ら手を染めた暗殺がどれも過ちではなかったと言いきれますように、とレーベンスタインは祈った。
かれは死体の頭のそばに蝋燭《ろうそく》を置くと、ここへ来た目的を果たす準備をはじめた。他の棺をあされば、きっと指輪や硬貨、首飾り、頑丈な長靴《ブーツ》、銀のボタン、金の留め具などが見つかるのだろう。しかし、エルツベトには失うものはなにもない。レーベンスタインの後援者が望むようなものはなに一つ……。
ただ、その心臓と……。
レーベンスタインは油布から、鋭く研いだ小さなナイフを数本取りだした。そのうちの一本を親指のつけねで押してみて、切れ味を確かめる。刃がほんのわずか触れただけで、皮膚は裂けた。
そして、かれは女の目を……。
W
ジュヌビエーブは色つきの眼鏡をはずして、ドラッケンフェルズ砦《とりで》を見上げた。砦は昔とはようすが変わり、小さくなったように見えた。気持ちのいい春の日で、村からここまでの馬車の旅は、楽と言っていいほどだった。前にここを通ったときには、ジュヌビエーブたちは街道《かいどう》を避けて、絶壁をよじのぼったのだ――というのも街道には、砦まで気楽に歩いていって扉を叩《たた》けばいいとでも考えた、愚か者たちの骨が散らばっていたからだ。灰色山脈には他にも見捨てられた城はたくさんあるが、ドラッケンフェルズの砦ほど堂々として不気味なものはない。ただ、いまは邪悪な場所≠ナあることを示す、お定まりの予兆は一つも見当たらなかった。鳥はさえずり、地方の農作物は実り、乳は腐らず、獣がむ.やみに騒ぎたてることもない。ジュヌビエーブがどれほど神経をとがらせても、なに一つ感じとれなかった。まるで <大魔法使い> など一度も存在しなかったかのようだった。
もちろん、オスバルトの部下は前もって道中の整備をすませていた。ヘンリック・クラリイは砦に人が住めるように清掃人や料理人、大工、召使いらを山のように送りこんでいた。長い間ドラッケンフェルズの影に怯《おび》えて生きてきた村人の中には、最初は劇団に雇われることに難色を示す者もいたが、皇子は財力にものを言わせて、多くの反対をねじふせた。ジュヌビエーブが馬車を降りた後に馬の世話をしてくれた若者は、おそらくドラッケンフェルズの死後ずいぶんたってから生まれたにちがいない。この地方の若者たちは両親や祖父母の語る物語を信じようとはしないのだ。逆に老人の中には、オスバルトとジュヌビエーブの物語詩が好きでたまらず、廃墟《はいきょ》の城に近寄りたくない気持ちを抑えてデトレフの一座に加わる者がいた。
天才デトレフは上機嫌で、役者や楽士や芸人の寄り集まった旅回り一座の先頭に立っていた。かれは話芸にたけており、ジュヌビエーブに熱心に話しかけてくる。当然、二人の話題はオスバルトの冒険の細かな部分をさかのぼることが主だったが、劇作家はジュヌビエーブのこれまでの長い人生にも関心を示した。しかも、彼女が何世紀も口をつぐんできた出来事を、実にうまくききだす。その知識の幅広さは驚くばかりで、デトレフが男女を問わず古い時代の偉人たちのことに通暁しているのもわかった。ジュヌビエーブはタラダッシュを知っており、かれの芝居も初演のときに見ていた。そして、かの <偉大なる劇作家> は文筆家としては立派だが、役者や演出家としてはそれほどでもないと述べて、デトレフを大喜びさせた。
「このごろなら地方巡業の劇団だって、苦もなくダラダッシュの傑作をやってのけるわ。アルトドルフで初演されたのよりずっとうまくね」ジュヌビエーブは言った。
「そう! そうなんです! そのとおりですよ」デトレフはうなずいた。
アルトドルフのフォン・ケーニヒスバルト家の宮殿から、ひなびた山あいの砦《とりで》まで劇団が移動すること自体、一つの興行のようなものだった。かれらはすでに数週間、街道を進みつづけていた。だが、最高の宿屋に泊まり、出演者同士、役についての議論をかわしたり、殺陣《たて》の練習をしたりして、のどかな午後を楽しむうちに、旅の日々は矢のように過ぎた。それに比べれば、かつての旅は長く苦しく、危険に満ちていた。ジュヌビエーブははるか昔に勝利をおさめた戦いの跡を通っても、なんの感慨も覚えなかった。これまでいくどか、コンラディンの墓――といって埋めてあるものは骨しかなかったが――とハインロトの墓にちょっと立ち寄ったことがあるが、オスバルトの立てた墓標がなくなっていることには気づいていた。森をさまよう亡霊はもはやいない。山賊でさえ、民兵の手によって何年も前に一掃されている。にもかかわらず、ジュヌビエーブはドラッケンフェルズ役のラスツロ・レーベンスタインと一緒にいるのが苦痛だった。彼女の見たレーベンスタインの演技は実にすばらしかった。舞台の外では、ただやりがいのある役をもらって喜んでいるだけの平凡で生まじめな職人なのだが、その役者が仮面をつけて、邪悪な気配をかもしだそうとしたときの印象をジュヌビエーブは忘れられなかった。声までが記憶に残るあの響きを帯び、仮面にこもって音質が変わるのか、その悪魔じみた笑いは骨も凍るほどにおぞましかった。
ルディ・ヴェゲナーも一行に加わっていた。ドワーフのメネシュも、アントン・ファイトも一緒だ。ファイトは歳《とし》をとって痩《や》せほそり、体を病んでいた。かれははじめて会ったときと同じように、ジュヌビエーブを避けた。ルディも健康を害しているにちがいないとジュヌビエーブは思った。あんな巨大な胴回りをしていては心臓に負担がかかるだろうし、あんな浴びるように酒を飲んでいては肝臓や肺を傷めつけてしまう。最近恋人を亡くして苦しんでいるだろうと思い、ジュヌビエーブはルディに話しかけてみたが、ルディはエルツベトの話をあまりしたがらなかった。たしかに、もうずっと昔のことだ。それに、切りだしにくい話題でもあった。ジュヌビエーブ自身、あの暗殺者の踊り子が最初に見せた狂気の兆候を――いきなり彼女に襲いかかってきたことを――いまも忘れられないのだから。それを除けば、ルディは相変わらず大ぼら吹きで、おしゃべりだった。ジュヌビエーブはともかくとして、そうした嘘《うそ》をあばける者がみなあの世に行ってしまったのをいいことに、まさにこの森で自分が山賊として立てた手柄話をおもしろおかしく脚色し、一座の者を楽しませている。
メネシュだけが、片腕はなくしたものの、昔と変わらず健康だった。どうやらドワーフは人間より長命らしい。このかつての仲間が、怪我《けが》のせいで放浪の冒険者としての人生を断念して以来、やたらと女好きになっているのにジュヌビエーブは気づいた。噂《うわさ》では、メネシュは合唱団の女の子を何人もくどき落として、ケレトの打ち立てた恋愛記録を追いかけているそうだ。ケレトはひ弱で小柄な衣装係の責任者で、かれが異性に迫るやり方は伝説にさえなっている。一座には、もう一人ドワーフがいた。ことあるごとにメネシュと衝突するファーグル・ブレグヘルという男だ。デトレフによれば、ブレグヘルはほんとうのドワーフではなく人間の生まれだそうで、ドワーフにまちがえられるのをひどく嫌っているらしい。メネシュはブレグヘルの出費のことで嫌味な冗談を言ってやろうと四六時中、知恵をめぐらせている。だから、自分の助手を高く評価しているデトレフは何度となく、かれらしくない険《けわ》しい顔つきで片腕の剣士を脅し、追い払っていた。
だが、今度の旅は前の旅とはちがっていた。だいいち、オスバルトがいない。皇子は劇の観客を乗せたつぎの馬車を率いて、後で一座と合流することになっていた。デトレフは楽しい男だし、ジュヌビエーブとの間に恋の火花が散ったのは否定できない。だが、いくらデトレフが舞台でオスバルトの役をやるといっても、かれは皇子ではないのだ。
そして、ジュヌビエーブは自分とリリ・ニッセンも別人であるこせを改めて感じた。花形女優は専用の豪華な馬車で旅をしている。サウスランド出身の、整った顔だちをした黒い肌の唖者が、その馬車を引いていた。男はリリの付き人兼用心棒のようにふるまっていたが、もとをただせば女優の奴隷であることは、その傷跡からうかがいしれた。吸血鬼と女優はひきあわされたが、どちらの女もそれ以上のつきあいは望まなかった。ジュヌビエーブはリリの顔を虫酸《むしず》の走るような顔だと思い、女優は不死の女の差し伸べた手をあからさまに拒んだ。デトレフもほとんどリリとは一緒にはいないようだったが、どんなに愚かで気まぐれな女であっても、舞台の上ではたしかに女神に変身するという理由から、リリを甘やかしていた。「リリには才能があるんです。観客を恋の虜《とりこ》にする才能がね。観客だって二人きり、あるいは三人か四人だけの集まりでリリと会えば、どこにでもいる夜のお化けほどの魅力もない女だと気づくでしょうが。きっと、リリにはなにかが取り憑《つ》いてるんですよ」
アルトドルフで劇団を悩ませた突発事故≠ヘ、鳴りをひそめていた。おそらくヘンリック・クラリイ配下の槍兵《そうへい》が控えているからだろう。途中、宿の主人が前に演劇関係者にひどい目にあわされたといって、役者たちを泊めるのをしぶったことがあったが、クラリイの部下が穏やかに説得して、主人の考えを変えさせた。唯一《ゆいいつ》、目だった出来事といえば、灰色山脈の麓《ふもと》の村で起こった事件である。その村では、評判のいい旅人休息所に予約を入れ、一行が夜を明かすだんどりになっていた。
デトレフは出されたご馳走《ちそう》をつつきながら、ジュヌビエーブが子供だったころのブレトニアの話をききだしていた。とりわけ、いまも人々の記憶に残る当時の偉大な吟遊詩人や、実際にかれらの声がどんなふうだったかに質問が集中していた。その席へ、ブレグヘルが厳しい顔つきで、宿の主人と連れ立ってやってきたのだ。
「数はいくらでしたっけ?」ブレグヘルはきいた。「車の台数ですよ。馬車と荷車と荷馬車をあわせて?」
「ええっと、二十五台だと思うが。いや、リリの動く豪邸を忘れてた。二十六台だ。それがどうかしたか? だれか行方不明なのか?」
「いいえ」宿の主人が申しわけなさそうに言う。「その反対なんですよ。一台多いんです」
デトレフはめんくらった。「数えまちがったんだろう」
「いいえ、皇子の使者は、確かに二十六台と言いました。それで、わたしはきっちりその分の場所を中庭に空けておいたんです。庭はいっぱいになったのに、入りきらないのが一台あるんですよ。
「それがリリのなんです」と、ブレグヘル。
「なるほどね」デトレフは言った。
「で、彼女は一人道路に残されて、はなはだご不興ってわけですよ」
「さもありなん」
宿の主人はおろおろしている。ジュヌビエーブはそれを見て、この男はリリ・ニッセンにどなられてきたばかりなのだろう、と思った。あの名高い美女はときとして頭のおかしい魔女《ゴルゴーン》に変身することがある。デトレフは食事を続け、ワインソース添えの羊料理がうまいと主人にお世辞を言った。主人はブレトニアの出身で、料理の腕にはそれなりの誇りを持っていた。
「どうもわからないんですが、デトレフ」ブレグヘルが言った。「わたしたちは二度も馬車を数えなおしたんですよ。どこから数えはじめても、同じでした」
「二十七台か?」
「いいえ、二十六台です。それなのに中庭の空き地がいっぱいになって、一台余るんです」
デトレフは笑った。「ばかだな。そりゃ馬車の入れ方が悪いんだ。一台に場所を取りすぎてるんだろう」
「クラリイの馬丁がどんな人間かご存じでしょう。馬車は盤に並んだマクシミリアン公のおもちゃの兵隊みたいに、きちんと並んでますよ」
「わかった。なら、舞台装置の馬車を道にひっぱりだして、あのおしゃべり女のために場所をあけてやれ。それから、一杯やろう」
その翌日、出発の前に、デトレフとブレグヘルは馬車を山道に出しながら、数をかぞえた。
「ほら、ブレグヘル、二十六台だ」
「それにわたしたちの馬車がありますよ、デトレフ。二十七台です」
奇妙ではあったが、デトレフがフォン・ケーニヒスバルト家の宮殿で体験したことに比べれば、たいしたことには思えなかった。一台馬車が余分にあるからといって、不吉の予兆と大騒ぎするには及ばないだろう。
……だが、さらにつぎの夜、舞台装置係のコジンスキーが、折れた踵《かかと》をまだひきずりながら、文句を言いにやってきた。
「おれに隊商の最後尾を務めろと言ったのほ、あんたじゃねえのか」
「そうだ、コジンスキー。きみの馬車がいちばん重くて、遅いからな。ついてこれないのは、きみの頭と大道具の組みあわせのせいさ。夕方に、いつも半時間ほど遅れるのはいたしかたないね」
「なら、俺の後ろにいるのはだれなんだ?」
デトレフとブレグヘルは目を見交わし、声をそろえて言った。「二十七番目の馬車だ」
「で、いったい何者なんだい?」
「こっちがききたいよ」
その夜、一行は馬車を一箇所にまとめて、空き地で野営した。馬車を六台ごとに集めると四組で三台余る。二十七台だ。デトレフとブレグヘルがもう一度、別々に馬車を数えると、二十六台しかない。だが、やはり六台ごとの集まりが四組で、余りは三台だ。
「デトレフ」とうとうブレグヘルが結論を下した。「どうやら、ときどき見えなくなる馬車が一台あるようですね」
デトレフは焚《た》き火に唾《つば》を吐いた。ジュヌビエーブにはそれ以上、言うことはなかった。
「じゃあ、いったいだれがわれわれと一緒に旅してるのだろう?」
その夕方、デトレフはあまり口をきかず、ジュヌビエーブはかれと話をすることができなかった。デトレフはクラリイの部下と打ちあわせて、明け方まで見張りに立ってもらうことにした。みんなが寝入ってから、ジュヌビエーブは馬車を数えた。二十六台だった。その夜、彼女はコンラディン役の若者と約束しており、たっぷり栄養を摂《と》った。翌朝、若者は青白いぼうっとした顔をして、しばらくジュヌビエーブに寄りつかなかった。どうも昨夜は、抑えがきかなくなって生気をたくさんもらいすぎたらしい。
だが、その旅ももう終わりだ。ジュヌビエーブはデトレフを探しまわったが、かれはブレグヘルや建築家の相手をするのに忙しく、図面を囲んで議論していた。かれらにとっては、ドラッケンフェルズ砦《とりで》は芝居の効果を最大限に高めてくれる巨大な舞台装置にすぎないのだ。ティリア人の交渉係であるガグリールモは地元の領主と別れて、食料品の注文伝票や支払書のほうに向かった。ジュヌビエーブは眼鏡をかけてみた。色つきのガラス越しのほうが、よく見えるのだ。
他の団員は旅が終わってほっとしたのか、はずむ足どりで巨大な入口をくぐり、自分たちの部屋を探しはじめた。リリ・ニッセンはわずかの従者――奴隷、衣装係、占星術師、化粧係――だけをつれてさっと通りすぎ、下級貴族を訪れる女王のような風情《ふぜい》で、城に入っていく。
ジュヌビエーブは街道《かいどう》に立ちすくみ、ためらっていた。ふりかえると、他にも足を踏みだしかねている者がいる。
ルディとファイト、メネシュだ。
かれらはみな砦を見上げて立ちつくし、かつてのときを思いだしていた……。
X
砦での最初の夜、ルディは宴会を催し、全員を招待した。どちらにせよ旅の終わりを祝う宴会はやる予定だったので、気の良いデトレフ・ジールックはルディの好きにさせてやった。砦そのものは言うに及ばず、食べ物や葡萄《ぶどう》酒の費用ももちろん皇子持ちだが、宴会をもりあげるのはルディの仕事だ。
<黒い蝙蝠《こうもり》> 亭でオスバルトに見つけだされてからの数週間は、ルディにとって楽しい時期だった。飲む量が減ったわけではないが、腹におさまる酒の質がずっと上等になった。かれが口にするのは、相変わらずの昔話、それもお決まりの改良作≠セが、聞く者の熱意が以前とはまるでちがう。デトレフはルディの語るもともとのドラッケンフェルズ遠征の話に熱心に耳を傾け、芸人たちはもっと別の冒険|譚《たん》をやってくれ、とせがんでルディを調子づかせた。
ルディはいつだって芸人が大好きだった。エルツベトとはじめて会ったのも、彼女が旅回りの曲芸団にいたときだった。ルディは仲間と一緒に、よく放浪の大道芸人のふりをして正体を偽ったものだ。いま、この宴会の席でも、最高に芝居がかったルディの話は、劇団のみんなに受けに受けている。かれはドラクバルトの森で、貴族の一団の馬車を襲ってしばらく後に起こった出来事を思いだしていた。あのときルディは有利な立場に逆転した貴族に、自分の一隊が実は山賊などではなく、正真正銘の芸人であると信じてもらうために、芸を披露《ひろう》しなければならなくなった。その話は人前ではこうなるのだ。「実はハジャルマール・ポエルツィグとかいう貴族は、一目見てわしの正体を見抜いたんだけどな。わしに恥をかかせるために、芸を見せろって迫ったんだ。そいつの手兵に囲まれる中、わしらの仲間は山賊の王とその恋人である踊り子の女王の悲劇を即興で見せてやったよ。そしたら、劇の終わりころになって、ポエルツィグめがいたく感動しちまってさ。おまえにほうびをとらせよう、わしの保護のもとに自由に動きまわるがよい、なんて言いだしたんだ」
ルディがこうして、悪賢い貴族や生意気な若造だった頃の自分の話をものまねまじりで語ると、デトレフは腹をかかえて笑った。
……ルディは酒に溺《おぼ》れた頭の片隅で、その貴族と五人の屈強な部下のことを思いだしていた。実は、ルディはかれらを弓の弦で絞めころして、仲間の山賊を追って逃げだしたのだ。貴族に仕えていた看守の顔が思いうかぶ。まだ少年といっていいほどの年頃《としごろ》だった。ルディが牢獄《ろうごく》の石壁に少年の頭をぶつけて殺したとき、そいつはどんなに悲鳴を上げたことか。それから、ルディは城の臭い排水管を通って逃走した。泥まみれの山賊の首領はすすり泣きながら、恥をしのんで獣のようにこそこそと抜けだした。あの頃は血と汚物と絶望にまみれた日々だった……。
略奪と栄光と冒険の話をでっちあげているうちに、ルディにはだんだんそれが真実のように思えてきた。現実になにが起こったなど、いまとなってはどうでもいいことだ。エルツベトが死に、ポエルツィグが死に、少年の看守も脳ミソを床にぶちまけて死んだ。時代は去っていく。だが、物語は生きつづける。デトレフはそれを知っている。自分の史劇や戯曲は生き続けるのだ。オスバルトもそれを知っている。かれらはすべての名前を後世まで語りつぐであろう今度の芝居を通じて。薄汚い人殺しのルディ、罪のない少年の頭を打ちくだきながら、悲しみと恐怖に泣きわめいたルディの名は忘れさられる。そして、山賊の首領ルディ、勇敢なるオスバルトの忠実な仲間ルディの名が、いつまでも人々の記憶に残ることになるだろう。きらびやかな舞台とその上を歩きまわる役者がいるかぎり。
ルディ役の丸々太った若い役者、ラインハルト・イェスナーが、もっと話をとせがむ。ルディのほうはジンをもう一杯とせがむ。炉の火は小さくなり、話の種は尽きた。とうとうルディは前後不覚に酔いつぶれた。みんなの顔は見える――デトレフは笑っている。吸血鬼のジュヌビエーブは昔と変わらず愛らしい。ファイトはやつれて黙りこくっている。ブレグヘルは葡萄《ぶどう》酒のお代わりの用意をしている――だが、ルディは炉端のその場所から動くことができなかった。腹が錨《いかり》のように重い。まるで手足に砲弾の伽《かせ》をはめられたように感じる。それに、背中がーーきちんと骨つぎをされたことがなく、二度とまともにはもどらない背中が――この四半世紀の間ずっとそうだったように、いまもかれを苦しめ、苦痛の悲鳴を背骨に走らせていた。
デトレフが山賊の首領ルドルフ・ヴェゲナー≠ノ乾杯しようと言いだし、全員が盃《さかずき》を干した。ルディはげっぷをした。口の中に蕪《かぶ》のような味がこみあげてくる。みんなが笑った。劇団の楽隊の責任者フェリックス・ヒユーバーマンが楽士の何人かに合図をすると、楽器が現われた。デトレフはご機嫌で甲高く口笛を吹き、それをきいたヒューバーマンはアコーディオン、他の者はたて笛や琴、バイオリン、リュート、オーボエ、角笛、ラッパ、ガンバなどをそれぞれ手にした。楽団が演奏をはじめ、歌い手が唄《うた》う。訓練された歌声に、音程のあやしい歌声がまじる。
古い曲目だった。 <ミッドンハイムの粉ひき> <ミュルミディアの憂鬱《ゆううつ》な若者たち> <エルフ王> <カラ・クバーンの悲嘆> <アパシーニの山羊飼い> <ビルバリの愛しきわが家> <エスタリアの船乗り> <はるかなるライク川> <勇ましき山賊> ――これは何度も演奏された。 <マンティコア狩り> <シグマーの銀の戦鎚《ウォーハンマー》> <サルトサの海賊王子> ……。
さらにもっと古い歌、ほとんど忘れさられた歌がはじまった。メネシュが長ったらしい意味不明なドワーフの物語詩をしゃがれ声でがなりたて、その歌が終わりに近づくと、六人の女たちがどっと涙を流した。ヒューバーマンは、人間が演奏することはおろか耳にすることさえ珍しいエルフの曲を演奏し、人々は思わず自分の耳がちょっとばかり尖《とが》ってきたのではあるまいか、目が大きくなってはいまいかと確かめるしまつだ。ジュヌビエーブはデトレフに何度かせっつかれた後、彼女の若かりし頃の歌、とうに死に絶え、いまでは彼女の思い出の中にしかない歌を唄った。ジュヌビエーブが陥落した都市や負け戦さ、離れ離れになった恋人の歌を唄ううちに、ルディはわれ知らず涙を流していた。さすがは憂愁《ゆうしゅう》の国ブレトニアと呼ばれるだけのことはある。吸血鬼の愛らしい顔に赤い雫《しずく》が滴り、ジュヌビエーブは歌いつづけることができなくなった。ブレトニアの物語に、幸福な結末を迎えるものはほとんどない。
それから、炉の薪《まき》がもう一度高く積みあげられ、楽士が舞踊曲を奏でた。ルディは踊ることはおろか立つことすらできず、他の者が楽しげに踊るのをただ眺めていた。ジュヌビエーブはいかにも宮廷風に何度も腰を屈めたり膝《ひざ》を折ったりしながら、デトレフと優雅に舞っていた。しかし、楽曲はしだいに激しさを増し、衣裳の裾《すそ》はどんどん高く翻《ひるがえ》っていく。イェスナーがエルツベト役の踊り子イローナ・ホーバシーを抱きあげて高く宙に舞わせると、彼女の服の裾か危うく炉火をかすめた。ルディは若かりし頃の自分を見る思いだった。イローナは溌剌《はつらつ》として元気のいい踊り子で、ルディが見たこともないような軽業をやってのける。イェスナーがこっそり打ちあけてくれたのだが、イローナの奔放さや体力は、こうした激しい上下の踊りのときだけに限ったことではないそうだ。だが、彼女にはその役の元になった人物の優雅さ、放縦さ、ひたむきさという点で欠けているところがある。ルディも言葉をかわしたことがあり、活発で愛想のいい少女だったが、エルツベトのような激しさはなかった。この少女は人を殺《あや》めたこともなく、人の命を助けてやったこともない。エルツベトが味わったような経験をかいま見たことすらないのだ。
……そして、イローナ・ホーバシーは決して、精神病院からの旅の途中に自らその生涯を閉じるようなことはしないだろう。
だれかがルディの肩に手をかけた。ファイトだ。
「昔のことだ、ルディ。もう終わったことさ」
賞金稼ぎは酔っ払っており、無精髭《ぶしょうひげ》を生やしたその顔は肉のないどくろのようだった。だが、かれの言うとおりだ。
「うむ、終わったんだな」
「だが、おれたちは前にもここにいたよな? おれたち老いぼれはさ。おまえとおれとあのドワーフと吸血少女は。この役者どもが自分のねぐらでぬくぬく暮らしてたとき、おれたちはここにいたんだよな。こいつらが一生まみえることのない戦さを、おれたちは戦ったんだよな……」
ファイトの言葉|尻《じり》があやふやになり、目の輝きが消えたかと思うと、かれは横向けに倒れこんだ。ご多分にもれず、ファイトもドラッケンフェルズ砦《とりで》の門をくぐる前と出てきた後ではまるで別人に変わっていた。ルディはこの賞金稼ぎと二十五年間会わずにきたことを悔やんだ。実に多くの苦労をともにしたこの二人なら、生涯の友となれただろうに。砦での出来事、とりわけ傷を負って闇《やみ》の中でオスバルトがもどってくるのを待った数時間が、二人を固く結びつけたはずではなかったか。あのとき二人は、皇子はきっと命を落とすだろう、いまに鉤爪《かぎづめ》と牙《きば》を持った怪物が自分たちに襲いかかってくるだろう、と覚悟を決めていたのだ。
葡萄《ぶどう》酒がルディの腹の中でたぷたぷと揺れる。小便がしたくてたまらなくなってきた。体を起こしてファイトから離れると、ルディの頭は首の据わらない赤ん坊のようにぐらぐらした。イェスナーがルディの前に立って話しかけてきたが、なにを言っているのかわからない。役者に背中をどんと突かれ、ルディはよろめいた。楽団はまだ演奏を続けている。イローナはいまは一人で踊っている。
ルディは明かりと喧騒《けんそう》を逃れ、なんとか隣の部屋にたどりついた。冷えた暖炉に放尿をすませると、さっきの炉端の指定席へ、仲間のもとへひきかえそうとした。
と、ルディと仲間を隔てるように、女が戸口に立っていた。かれはその細い腰と長い黒髪を一目見て、だれだかわかった。女は片方の太腿《ふともも》に切れ目の入った、みだらがましいほどぴったりした踊りの衣装をつけている。
「ルディ」女は言った。時が二十五年、いや、三十年前へとさかのぼる。略奪と栄光と冒険の日々……。
「ルディ」女が片手をルディに差し伸べると、腕輪がちりんと鳴った。
山賊は体の重みが消えていくのを感じ、真っ直ぐに立った。もはや背中の痛みはない。
「ルディ」女の声は優しげだが、執拗《しつよう》だった。誘うようでありながら、危険のにおいがする。
ルディはふらりと近づいたが、女はそれをかわして闇《やみ》に溶ける。彼女は扉に向かい、ルディはその後をよろよろ追って戸口をくぐった。
二人は廊下に出た。そこはルディたちが生きたガーゴイルと戦った場所だった。だが、いまはオスバルトの部下がきれいに掃除をすませ、燭台《しょくだい》に新しい蝋燭《ろうそく》を灯し、訪れる高官たちを迎えるために絨毯《じゅうたん》が敷きつめてある。
エルツベトはルディを連れて、ドラッケンフェルズの深部へと導いていった。 <毒の宴《うたげ》> の部屋で、二人の男がかれを待っていた。男が仮面をつけていたので、最初ルディは、役者のレーべンスタインかと思った。だが、そうではなかった。
男は食卓越しにルディを見上げた。仮面に開いた細長い穴の奥に、目が光っている。男の前には、これから食事でもするかのように、食器が並んでいた。だが、フォークもスプーンもない。あるのはただ、ナイフだけ。
男はナイフの一本を取りあげた。刃物が手の中で白い炎のようにぎらつく。
ルディは体の中に冷たいものを感じて後ずさり、そのまま扉から出ようとした。だが、エルツベトが戸口の前に立っている。いまでは彼女の姿がはっきりと見えた。丈の短いベストがはだけ、胸を斜めに切り裂く、大きな赤い傷口がのぞく。
エルツベトが頭を振りあげると、顔にかかった髪が横に流れた。そして、ルディは見た。彼女の顔に両目がないことを……。
Y
リリ・ニッセンは、今度の芝居の監督であり、脚本家であり、共演者でもあるデトレフと連絡をとるとき、専属の占星術師ネーベンツァールを仲介に立てる方法を好んだ。たとえば、会話の台詞《せりふ》まわし、舞台の照明のあまりあたらない場所での演技、専用の控室に運ばれてくる料理、リリが当てつけのように出席しないと言いだす宴会のどたばた、毎朝毎朝相もかわらず[#「毎朝毎朝相もかわらず」に傍点]東から昇る太陽――そうした不満があると、リリはネーベンツァールを間に立てて、デトレフに愚痴をこぼす。デトレフはだんだんそのけちなペテン師に哀れを覚えてきた。ネーベンツァールは本来ならたやすいはずの自分の仕事が、おそろしく厄介なものになったことに気づきはじめている。自業自得だ、とデトレフは思った。占い札なり、星座なり、動物の内臓なりなんなりを使って、自分の雇い主がどんな怪物に変身するか、予見しておくべきだったのだ。
劇団員は劇場に改装されたドラッケンフェルズ砦《とりで》の大広間にいた。リリは舞台に直接入っていくことにした。いつものことだが、リリはこの芝居にとって、いまの自分の思いつき以上に大切なものはないと信じている。だから、下稽古《したげいこ》の真っ最中に、大男に椅子《いす》ごと抱えられて登場することに決めたのだ。
劇場では、オスバルトがアルトドルフの宮殿で <大魔法使い> の幻影の訪問を受ける、初期の場面が展開されていた。舞台の二人は来たるべき対立について、韻《いん》をふんだ台詞まわしで言い争っていた。ここでこの芝居における大きな主題の伏線が張られるのだ。デトレフは自分の台詞をファーグル・ブレグヘルに読ませていた。そうすれば、レーベンスタインの演技や、その役者を現実離れしたものに見せる照明効果に注意を集中できるからだ。仮面をかぶった痩《や》せぎすの役者は、まったく別の人間に見えた。稽古をすわって見ていたジュヌビエーブは身ぶるいしている――本物のドラッケンフェルズを思いだして、悪寒に襲われたのだろう――そして、デトレフはそれをレーベンスタインの演技力のなせる技だと思った。こうして客観的に眺めてみると、デトレフ自身がその悪役の影にかすんでしまう危険のあることがわかった。ぼくももっとうまく演技しなくてはな、とデトレフは思ったが、たいして気にはしなかった。かれは自分の演技に誇りを持っており、いわゆる花形役者というものを軽蔑《けいべつ》していた――中でもリリは最悪である。そういう連中はわざわざまわりに無能な大根役者を侍《はべ》らせて、自分の演技の引き立て役にしようとするのだ。砦へくる途中、リリはネーベンツァールを通じて、『ドラッケンフェルズ』の他の女役に自分のお気に入りの木偶《でく》の棒を使うようデトレフを説得しようとしたが、かれは馬車から占星術師を蹴《け》りおとした。自ら脚本を書き、演出をし、構想を練るデトレフには、他の役者に脚光を浴びせてやるだけの余裕があった。役者としては演目表の末尾に名を連ねるだけでいい。つまりデトレフの名前は、台詞をしゃべる通訳の一人としてではなく、この傑作の創造主として重きをなすのだ。
ドラッケンフェルズ役のレーベンスタインがブレグヘルにのしかかり、邪悪の支配はひ弱な皇子の白骨が塵《ちり》の中に埋もれきった後も続くであろう、と高らかに言いはなったときだった。出番でもないのに、リリが家来をひきつれて舞台に登場したのだ。黒い肌の大男が黙々と巨大な肘《ひじ》かけ椅子《いす》を運んできた。リリはつんと澄まして椅子に腰かけている。まるで目に入れても痛くない扱いを受けている子供だ。足の悪い彼女の衣装係が砂糖菓子や果物――それも女優の別ごしらえの美容食≠フうちである――を入れた籠《かご》をかかえ、数歩遅れてついてくる。さらに、なんのためにいるのやらデトレフにはさっぱりわからない付き人たちが、女主人の行列にものものしさを加えるためにか、ぞろぞろ出てきた。
ネーベンツァールがつかつかとデトレフに歩みよった。見るからにばつの悪そうな顔をしているが、勇を鼓して文句を言うつもりらしい。リリは尊大なうなり声を上げ、燃えるまなざしをデトレフに向けた。さながら自分を百獣の王と勘違いした山猫のようである。これは厄介なことになるぞ、とデトレフは思った。わざわざ一座の面前で問題をぶちまけようとするからには、相当派手な言い争いになるのは免れない。舞台や観客席にいる他の役者たちは、自分たちすべてを巻きこむ大火災を予測して、もぞもぞと体を動かした。
気どった占星術師が拳《こぶし》をつきだし、指を開いた。そこに義歯がのっている。
「リリ・ニッセンにこんなものは必要ありませんぞ、デトレフどの」
ネーベンツァールは義歯を床に投げつけた。それはケレトが猪《いのしし》の牙《きば》を念入りに細工して、特別に彫りあげたものだった。広間にいたその衣装係は自分の作品の扱いにむっとしたものの、口を閉ざしていた。いまさら靴直しに逆もどりするのはごめんだし、ましてや囚人にもどるなんてまっぴらだ。ケレトはリリ・ニッセンの執念深さや影響力がどこまで及ぶかを正しく把握していた。
「つまり、あたしを歯抜けの老婆とおっしゃりたいのね、デトレフ・ジールック!」リリが顔を真っ赤にして金切り声を上げる。奴隷がリリを床に下ろすと、彼女は椅子からとびだし、ブレグヘルやレーベンスタインを押しのけて舞台を突っ切った。デトレフは、仮面の奥にレーベンスタインの怒りに満ちたまなざしを見たような気がした。今朝は、リリは新たな崇拝者を獲得するのに失敗したようだ。
そもそも、こんなことにけちをつけること自体ばかげている[#「ばかげている」に傍点]!
「リリ、あなたの歯がどうこうしたから、義歯をつけてくれと頼んだわけじゃないですよ。あなたの演じる役が……」
リリはしたりと話にのってきた。「あたしの演じる役ね! ええ、そう、あたしの演じる役ね! いったいだれがこんな役をあたしにまわしたのかしら? こんな胸の悪くなるような、ふざけた女の役を作りだしたのは、いったいどこのどなた?」
リリはジュヌビエーブが同席しているのを忘れているのだろうか、とデトレフは思った。いや、たぶん忘れてはいまい。この二人の女――吸血鬼《バンパイア》と妖婦《バンプ》――が互いに相手を好ましく思っていないのは一目|瞭然《りょうぜん》だった。
「いままでいろんなお仕事をやってきましたけれど、こんな役を回されたのははじめてだわ。あなたのこのくだらないお芝居にどうか色を添えてやってくれと、大切な大切なお友だち、オスバルト皇子自らがお頼みになったのでなければ、こんな台本は破って、お似あいの下水溝にでも投げ捨てたわ。いままであたしがやってきた役は、女帝や宮廷の女官や女神でしたの。そのあたしに、あなたは死人の吸血鬼をやれとおっしゃるのね!」
理をつくして説得したところでむだなのはわかっていたが、デトレフはそれより他に策を思いつかなかった。「リリ、これは史劇なんです。あなたの役が吸血鬼なのは、ジュヌビエーブが吸血鬼だったからです……いや、いまでもそうなんですがね。つまり、彼女は現実にこうしたできごとを生きたのであり、あなたのなすべきことは、それを再現することで……」
「あら! それなら、この劇は一から十まで史実どおりなの? めりはりをつけるため、あるいは自分を最高によく見せるための脚色など一つもないとおっしゃるわけ……」
そろそろ広間の後方が騒がしくなってきた。ネーベンツァールは気の毒なほどおどおどして、滑稽《こっけい》なかつらをなでつけている。舞台の上でフットライト越しに、見知らぬ観客の視線にさらされていることを意識しだしたのだ。
「確かに多少は……」
リリの舌鋒《ぜっぽう》はとどまるところを知らない。胸いっぱいに息を吸い、言いつのる。「……たとえば、あたしの親友であり、未来の選帝侯でもあるオスバルトさまの役をやるには、あなたは少しばかり歳がいきすぎてる[#「歳がいきすぎてる」に傍点]し、ちょっと太りすぎ[#「太りすぎ」に傍点]てはいないかしら? 当時、皇子はまだほんの少年でしたのよ」
「リリ、この芝居でぼくに皇子の役をやるようにおっしゃったのは、オスバルトさまご自身なんですよ。ぼくに選ぶ権利があれば――そして、あえてきみを無視させてもらうがね、ラスツロ――ぼくはむしろドラッケンフェルズをやりたかったんだ」
女優は照明の中に踊りでたが、前に出すぎて顔が陰になった。客席の照明が灯《とも》された。
「あら、そう。つまり、オスバルトさまをとうの立った、太っちょの神童に書きかえたというわけね。それなら、ジュヌビエーブだって、もっとあたしの個性にあったように書きかえられるはずだわ」
「いったいどんなものにしろっていうんです?」
「エルフよ!」
だれも笑わなかった。デトレフはジュヌビエーブを見た。吸血鬼の顔にはどんな表情も浮かんでいない。リリの鼻が膨らみ、またしぼんだ。ネーベンツァールが沈黙を破るために、せき払いをする。
昔ならエルフのリリもよかったかもしれない。だが、いまはちょっと豊満になりすぎたきらいがある。くしくもリリの前夫が評したように、彼女は「鳩《はと》の胸と、ハーピィの声と、のら猫の道徳心と、黒色山脈のチーズみたいな脳ミソ」の持ち主なのだ。
レーベンスタインがリリの肩に片手をかけ、ぐいと自分のほうに向かせた。かれはリリより優に三十センチは背が高い上に、いまはドラッケンフェルズの踵《かかと》の高い長靴《ブーツ》をはいているので、例の口のきけない大男の奴隷と並ぶほどになっている。そうした扱いになれていないリリは、厚かましい役者に手を上げようとした。.だが、レーベンスタインはその手首をつかむと、低く張りつめた、脅しのきいた声でなにごとか彼女の耳元にささやいた。リリの顔から血の気が失《う》せ、怯《おび》えたような表情が浮かぶ。
他に口をきく者はいなかった。デトレフは驚きのあまりだらしなく口を開けていたのに気づき、それを閉じた。
レーベンスタインが話しおえると、リリはむやみに大きな声で言いわけをし――彼女がそんなことをするのは前代未聞のことだ――奴隷や取り巻き陣や占星術師をひきつれて、退場していった。ネーベンツァールは怯えきったようすで、大きな広間からひっぱりだされていく。
一瞬の後、どこからともなく大きな拍手が湧《わ》きおこった。レーベンスタインが一礼し、稽古《けいこ》は再開された。
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将軍が話している間、マクシミリアンは直立不動で立っていた。夜は更《ふ》けていたが、将軍は密命を持ってマクシミリアンを起こしたのだ。将軍は「寝台から出て服を着ろ。戦場に赴け。そこで帝国の命運が決せられる」と告げた。将軍はこの国の軍の指導者として、皇帝のつぎに重要な地位にある。そして、マクシミリアンはつねづね、自分の従順さ、臨機の才、その勇気を将軍に印象づけたいと願っていた。将軍こそマクシミリアンがかくありたいと望む人物なのだ。いや、かくありたかった、というべきか。
命令が通達され、了解されると、マクシミリアンは一礼して、将軍を胸ポケットにしまった。この任務は重大だ。ほんとうに危険な時代になったものだ。文明か無秩序かの瀬戸際に立って、それを守るのは一人マクシミリアンのみ。かれは死を賭《と》して最善をつくそうと心に決めていた。
夜のこの時間にしては宮殿は静かだった。最近では、昼もずいぶんひっそりとしている。オスバルトの友人の役者たちがどこかへ行ってしまったからだ。マクシミリアンはちょっとかれらが恋しかった。劇団の中に、かれにやさしい踊り子が一人いた。あの子はマクシミリアンと一緒に戦さに加わりたがり、あれこれ意見を言ったり、質問をしたりした。お守り役はあの子が気に入らなかったようだが……。
お守り役には気に入らないことがいっぱいあるのだ。
室内|履《ば》きをはいていたので、マクシミリアンはほとんど音を立てずに廊下を進み、階段を下りた。息が上がり、脇腹《わきばら》が痛む。だが、将軍はかれがそのまま進みつづけることを望んでいるはずだ。どんなことであれ、将軍を失望させるのはいやだ。廊下の陰に、ローブを着た人影が何体か見えたような気がしたが無視した。いまやマクシミリアンを必要とする戦場以外に、かれの足を止めるものはない。
戦さの部屋に鍵《かぎ》はかかっていなかった。
机の上にはいくつかの軍隊がいた。ゴブリン軍、ドワーフ軍、エルフ軍、人間軍だ。その真ん中に敵の目指す城がある。皇室の旗が城の巨大な塔に翻《ひるがえ》っている。ぼろぼろの旗だが、そのはためくさまは堂々たるものだ。攻城軍はすでに進撃を開始している。部屋には、武器のぶつかりあう小さな金属音や砲弾の炸裂《さくれつ》する音が響いていた。敵の攻撃が命中すると、兵士は昆虫のような金切り声を上げた。机上の戦場は活気にあふれていた。模型の剣が鉛の顔の塗料を剥《は》ぎ、死体は溶けて灰色の池を作り、もくもくと黒煙が上がっている。進軍ラッパが、こだまのようにマクシミリアンの頭の中に響きわたった。
将軍はマクシミリアンに、皇帝のために城を守るように命じていた。机の上に乗るには、椅子《いす》が必要だった。マクシミリアンは戦場に足を下ろし、橋を破壊して棒きれにかえ、森エルフの舞闘家《ウォーダンサー》の一団をペンキで描いた川に蹴落《けお》とす。大公は腰を伸ばし、巨人のように机の上に立ちはだかった。城に足を踏みいれるときには、腰を屈《かが》めてシャンデリアをよけねばならなかった。城壁はかろうじて踵《かかと》に達する高さしかなく、マクシミリアンは中庭に立つことができた。籠城《ろうじょう》軍は偉大なる勇者を迎えて沸きたった。
月の光が上方の細長い窓から差しこんでいる。夜戦は机上いっぱいに広がり、押したり退いたりをくりかえしていた。攻城軍はすでにあちこちに散り、それぞれが勝手に行動していた。だが、ときには四種族の軍隊が団結して、マクシミリアンの城に新たな猛攻撃をしかけてきそうな場合もあった。ほとんどの兵士がだれかと一対一で武器をまじえているようだ。マクシミリアンはこの度《たび》の戦さに混沌の魔手が伸びているのを見抜いた。攻撃軍が城壁から退却すると、丘のフェルト地が破れ、その裂け目から黒い木の地肌がのぞく。
ゴブリン軍が丘をよじのぼって城壁を破る間も、将軍はマクシミリアンの士気を鼓舞しつづけた。ドワーフの技術者が攻城塔をひっぱってきた。砲弾がマクシミリアンの向こう脛《ずね》に当たる。それでも、かれは砦《とりで》を守りつづけ、背筋を伸ばして敬礼した。城はもはや瓦礫《がれき》と化し、軍勢は攻撃の手を休めずにマクシミリアンを打ちのめそうとしていた。籠城軍の生き残りは狩りだされ、虐殺された。敵に立ちむかうのは、いまやマクシミリアンただ一人だ。
足と踵の傷はたいして痛まなかった。ブレトニアの兵士たちが室内|履《ば》きに火をつけたが、マクシミリアンは足でそれをもみ消した。火は逆もどりして、兵士の群れに襲いかかる。マクシミリアンは声を立てて笑った。ブレトニアの末裔《まつえい》たちは、戦場では武勇よりはむしろその残虐さで名を売っている。そのとき、戦闘魔術師たちが進みでて、マクシミリアンに最も恐ろしい呪文《じゅもん》をかけた。見るもおぞましい悪魔が魚の群れのように大公の足にまとわりつき、かれはそれを手で叩《たた》きつぶした。腹に目と口のついた三つ頭の怪物が大公の喉《のど》めがけて飛んでくる。マクシミリアンが怪物をつかまえると、それは蜘蛛《くも》の巣のように手の中でつぶれた。大公は上着で手をぬぐった。
槍《やり》が大公のふくらはぎに向かってくりだされた。マクシミリアンははるか高い位置から足元を見下ろしたので、めまいを覚えた。ゴブリンどもが大公のズボンをよじのぼって服を切り裂き、肉や骨に鎌を打ちこむ。さらに火の手があがった。投石機《バリスタ》一台と数台の迫撃砲が配置された。四方で炸裂《さくれつ》が起こる。マクシミリアンは右|膝《ひざ》を砕かれて倒れた。小さな鬨《とき》の声が沸きおこり、大公の背中は細かい銃弾で蜂《はち》の巣にされた。虱《しらみ》みたいに小さなナイフが切りかかってくる。針のような槍が体を突く。マクシミリアンが戦場に倒れふすと、城の残骸《ざんがい》が砕け、丘がぺしゃんこになった。さらに、その体の下敷きになって、何百人もの兵士が命を落とした。大公が仰向けに転がると、敵兵が顔に襲いかかってきた。目に集中攻撃をしかけ、かれの視界を奪う。狂戦士がマクシミリアンの髪に火をつけ、魔法戦士が頭に穴を開け、槍兵《そうへい》が首に切りかかってくる。召喚されたばかりの魔物《デーモン》どもがかれの皮膚に穴をうがち、毒を持った汚物を流しこむ。
その調子だ、戦いつづけろ、と将軍は言う。闇《やみ》の中で、ルイトポルト皇帝とその廷臣が顔をそろえて。マクシミリアンを待っている。まもなく戦場を去る許可が、そして当然取るべき休息の許可が与えられるだろう。勲章と栄誉と卵がかれのために用意されている。マクシミリアンはまさにふさわしい報償を受けとるのだ。
敵軍はマクシミリアンの上を動きまわり、手当たりしだい汚物を塗りたくっている。かれらは将軍を捕らえて、処刑してしまった。結局、あの男こそが英雄だったのだ。将軍の鉛の頭がマクシミリアンの胸を転がり、生命を失って机の上に跳ねた。
マクシミリアンは疲れきり、安堵《あんど》の中で闇に沈んでいった……
……翌朝、お守り役がマクシミリアンを発見した。大公は生前愛してやまなかったおもちゃの兵に囲まれて息絶えていた。医者が呼びにやられたが、遅きに失した。老いた選帝侯の心臓はついに動きを止めたのだ。少なくとも、その死は突然で安らかなものだった、と発表された。悲報は朝食の席で、新しい選帝侯のもとに届いた。
オスバルト・フォン・ケーニヒスバルトは泣いたが、驚きはしなかった。
[
胸壁から陽《ひ》が沈むのを眺めるうちに、ジュヌビエーブは体に力がみなぎってくるのを感じた。満月が昇り、景色には薄い影がさしている。闇《やみ》を見透かす彼女の目には、狼《おおかみ》が軽やかに森をとびはね、鳥が静かに山の寝ぐらに帰っていくのが見えた。村には灯りがともされている。ジュヌビエーブが夜気を味わいながら伸びをし、今夜はどうやって喉《のど》の渇きを癒そうかと考えていると、ヘンリック・クラリイがやってきた。
「お嬢さま」クラリイは言った。「おりいってお願いしたいことがあるのですが……」
「もちろん、いいわよ。で、お願いって?」
クラリイの態度はなんとなく煮えきらない。如才ない有能なオスバルトの懐刀《ふところがたな》にしてはめずらしいことだ。クラリイの片手がさりげなく剣の柄《つか》にかかっているのを見たとたん、ジュヌビエーブは穏やかでない気持ちになった。修道院からの長旅の間に、彼女はクラリイが単なるフォン・ケーニヒスバルト家の伝令係でないことに気づいていた。
「三十分ほどのうちに、少しお時間をいただけませんか。ジールック氏もご一緒に、 <毒の宴《うたげ》> の部屋で」
ジュヌビエーブは眉《まゆ》を上げた。いままで、あの場所にだけは近づかないようにしてきたのだ。彼女にとってこの砦《とりで》は、あまりにも多くの思い出の残る場所だった。
「火急の用件です。ただし、ぜひとも他の人に気づかれないようにお願いしたいのです。皇子からは、わたくしにすべてを任せるというお言葉を頂戴しております」
ジュヌビエーブは腑《ふ》に落ちないまま執事の申し出を受けいれ、大広間に向かった。あの部屋の死体はとうに食卓から運びさられ、それぞれにふさわしい墓地に葬られているはずだ。いま <毒の宴> の部屋を見ても、それとわからないくらいだろう。これまでのところ、ドラッケンフェルズ砦では亡霊には一体も出くわしていない。空想の中でさえもだ。亡霊ではなく、ただ記憶が残っているだけなのだ。
その日の下稽古《したげいこ》はすでに終わり、役者は仮設の食堂で食事をとっていた。ブレグヘルはブレトニアの料理人相手に、煮込み料理の香辛料がちょっと足りないと長広舌をふるい、料理人は先祖から伝えられた調理法を守ろうとしていた。「このドワーフの道化師め。ボルドローの鍋《なベ》料理を喰ったこともないくせに、偉そうなことを言うな!」イェスナーとイローナ・ホーバシーは部屋の片隅で手に手をとりあい、他の役者仲間と軽口をたたきながら戯れている。メネシュは自分の役をやるゲシュアルド相手に、片手で大げさな身振りを加えながら熱弁をふるい、相手のドワーフはふんふんとうなずいている。舞台の上ではデトレフとレーベンスタインがもろ肌脱いで、決闘場面の稽古で噴きだした汗をぬぐっていた。
「なかなかすごい足さばきを見せてくれたな、ラスツロ。どこで剣術を習ったんだ?」
仮面と衣装をとったレーベンスタインは貧相で、だらしなくさえ見えた。
「ナルンです。 <神学校> でファランコートに手ほどきを受けました」
「さっきの縦に受け流すやり方には見覚えがあるよ。ファランコートはオスバルトの先生でもあるんだ。きみは敵にまわすと厄介な男だろうな」
「だといいんですけど」
デトレフは上着をはおり、ボタンを止めた。太りぎみとはいえ、筋肉はたくましくもりあがっている。この男もまた剣の扱いには熟練しているのだろう、とジュヌビエーブは思った。デトレフが勇者の役に示す執着を思えば、それもうなずける。
「デトレフ」ジュヌビエーブは声をかけた。「ちょっとお話ししていいかしら? 内密にね」
デトレフがレーベンスタインに目をやると、相手は一礼して歩きさった。
「ほんとに妙な男だな」デトレフは言った。「あいつには度胆《どぎも》を抜かれてばかりだよ。どうも、われらが仲間ラスツロには、まともでない印象を受けるね。ぼくの言いたいこと、わかってもらえるかな?」
ジュヌビエーブには理解できた。彼女の研ぎすまされた感性には、レーベンスタインは見事なほど空虚な感じに映る。まるで魂を吹きこまれるのを待っている抜け殻のようだった。だが、ジュヌビエーブはその手の人間にはたくさん出会ってきた。役者であれば、とくに驚くにはあたらない。舞台をおりたレーベンスタインがどんな人物であるかは、問題ではないのだ。
「それで、エルフのお嬢さん、いったい何事ですか? リリをくびにして、新しく人間の役者を雇えとでも?」
「いいえ、ちょっと謎《なぞ》めいたことなんだけど」
デトレフは微笑《ほほえ》んだ。「人の好奇心をそそるのがお上手だ」
ジュヌビエーブはいまにも吹きだしそうになって、笑みを返した。「クラリイがあなたに会いたがってるの。あなたとあたしに。あの <毒の部屋> でよ」
ジュヌビエーブはデトレフの香りをかぎ、懐かしい渇きに胸をうずかせた。この男の血は、いったいどんなふうに流れているのだろう。
「そんなふうに唇をなめたりしないでほしいな、ジュヌビエーブ」
ジュヌビエーブは手で口をおおい、くすくすと笑った。「ごめんなさい」
デトレフはにこりとした。「で、 <毒の部屋> だって? それはまたすばらしい」
「あの話をご存じなの?」
「もちろん。子供が拷問され、両親は飢えるがままにされたんでしたね。 <大魔法使い> のすてきな悪ふざけの一つですよ。リリ・ニッセン嬢にも匹敵する人物だと思いませんか? あの二人が赤ん坊の有効な調理法について意見を戦わせるところを想像すると、愉快ですよ。ボルドローの赤ん坊[#「ボルドローの赤ん坊」に傍点]を喰ったこともないくせに、偉そうなことを言うなってね。さあ、行きましょう」
ジュヌビエーブがデトレフの腕をとり、二人は大広間を出た。戸口を抜けるとき、デトレフが衣装の責任者ケレトに目くばせを送ると、小男は笑い声を上げて首をごしごしこすった。ジュヌビエーブは頬《ほお》を赤らめた。明日の稽古中にどんな噂《うわさ》が流れることになるか、容易に想像がつく。まあ、それもいい。これだけの歳月を経てきたいま、役者との醜聞くらいで評判に傷がつくこともないだろう。
通路を歩く間も、二人のおしゃべりは続いた。デトレフはつとめて魅力をふりまこうとし、ジュヌビエーブはあまりそれに逆らわないことにした。噂話が広まるのなら、それにふさわしい努力はしておかなくてはなるまい。
「ところで、そういう牙《きば》を持っているというのは、どんな気分なんでしょうね。唇を噛《か》んだりしませんか?」
ジュヌビエーブの頭に気のきいた答えが浮かんだが、そのとき二人は <毒の部屋> に足を踏みいれ、食卓のまわりに群がった人々の顔を見た。そして、そこにくりひろげられた混乱を……。
デトレフの吐き気がおさまると、クラリイがかれに犠牲者の名を告げた。
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デトレフは気分が悪くなったのは自分が最初でないと知ってほっとした。死体を見つけたのは占星術師ネーベンツアールで、その寄生虫みたいな小男は骸《むくろ》を見たとたん朝食を吐いてしまったのだ。職業柄、年中ニワトリや猫のはらわたをのぞきつけている男でさえ、あらわになった人間の内臓には相当まいったようだった。吐瀉《としゃ》物を調べて未来を占う方法はないのだろうか、とデトレフはぼんやり考えた。どうやらネーベンツァールは女主人の置きわすれた装身具を探しにきて、ちがった扉を開けてしまったらしい。この音にはどこか間の悪いところがあり、おまけにリリ以外のだれもが気づいていることだが、予知能力などこれっぽっちもないのだ。
デトレフは人々の顔をぐるりとみわたした。ヘンリック・クラリイは無表情だった。厳しい状況に直面した厳しい男の顔らしい。内心をおくびにも出すまいと必死だ。ジュヌビエーブは平然としているように見えるが、もう軽口は叩《たた》いていない。だいいち吸血鬼が衝撃のあまり蒼《あお》ざめたとしても、どうやって見分けろというのか。ネーベンツァールはまだめそめそしながらクラリイの槍兵《そうへい》にしがみつき、錦織《にしきお》りのチョッキについた吐瀉物を思いだしたようにこそぎおとしている。デトレフの要請で呼びつけられたファーグル・ブレグヘルは、新たな問題に直面したときにいつも見せる表情をしていた。まるで、この世の惨劇はかれの身にだけ降ってわくと言いたげな顔だ。
そして、ルディ・ヴェゲナーは変わりはてた姿をさらしていた。顔の皮は残っていたが、さながら頭蓋骨《ずがいこつ》にかぶせた水浸しの仮面のように、それはだらりと垂れさがっていた。
デトレフは最初、その老いた山賊は皮を剥《は》がれたのだろうと思った。だが、すでにクラリイが遺体をつぶさに検分するという忌まわしい仕事をすませ、ルディの身に起こったことを調べあげていた。
「ほら、このように両目がありません。おそらく、短剣か小型のナイフでえぐられたのだと思いますね。よほど無神経な人間なら素手でこういうことをやるかもしれませんが、それでも手袋くらいははめるでしょう」
クラリイが実際の経験に基づいて話をしているらしいのが、デトレフには不愉快だった。選帝侯家ともなれば、良心の呵責《かしゃく》より忠誠心に重きを置く召使いが一人か二人は必要なのだろう。が、あけっぴろげで真っ正直なオスバルトと、冷血動物のように冷ややかなこの男を結びつけて考えるのは難しかった。
「だが、それが死因ではないだろう?」
「ええ」
「まるで狼《おおかみ》に襲われたみたいだな。あるいは腹をへらした魔物《デーモン》か。何者かが狂乱して襲いかかり、肉を引き裂いてむさぼり喰ったような……」
クラリイはゆがんだ笑みを浮かべた。「確かにね。わたしも最初はそう思いましたよ。でも、これを見てください」
執事は遺体のあばら骨から垂れ下がった皮膚を持ち上げ、中の空洞を示した。
「骨は一本も折れていません。内臓にも手がつけられておりません。念のために言っておきますと、ヴェゲナーほどの大酒飲みの場合、肝臓はこんなふうになるのです」
その臓器は赤くはれあがり、一面に腫瘍《しゅよう》ができていた。健康な肝臓がどんなものか知らなくとも、一目見ればそれが中まで腐っているのはわかる。デトレフはまた吐き気を催した。クラリイは傷口をつついた。
「だれの仕業にせよ、冷静に、非常に手際よくやっていますね」
ジュヌビエーブが口を開いた。「つまり、なにがあったわけなの?」
「お嬢さま、この男の体からは脂肪だけがきれいに切りとられているのです」
クラリイは死体を残してその場を離れ、他の者も暗黙の了解のうちにそこから遠ざかった。
デトレフは怒りを爆発させた。「いったいだれが、好きこのんでこんなことをやるっていうんだ?」
執事は肩をすくめた。この男はつかのまの権力の味を楽しんでいるのだ、とデトレフは気づいた。この場にかぎって、クラリイは単なるオスバルトの召使いではなく、物事の中心人物なのだ。
「いろいろ考えられますね、ジールックどの。たとえば、宗教儀式です。闇《やみ》の神に供物を捧げるためですよ。あるいは、魔術師が呪文《じゅもん》のための素材をほしがったか。魔法というのは変な材料ばかり使うものですからね。それとも、気の触れた人間の仕業かもしれません。強迫観念に駆られただれかが、ちょっと薄気味悪い人殺しをやって、われわれになにかを伝えようとしたのかも……」
「……たとえば食事は控え目に、もっと運動を≠ネんてことをか! まったく狂気の沙汰《さた》だ、クラリイ! 人が一人死んでるんだぞ!」
ジュヌビエーブがデトレフの腕をとった。それがいくらか功を奏し、デトレフは落ちつきを取りもどした。
「すまなかった」
執事は気のないようすで詫《わ》びを受けいれた。「あえて率直に申しますが、われわれは事実を認めねばなりません。わたしたちの中に殺人者がいるのです」
いあわせた者はまたしても互いに目を見かわした。まるで悪霊に憑《つ》かれた薄暗い城を舞台にした三文芝居の登場人物になったような気分だった。その芝居の中で、一人また一人と登場人物が殺されていき、最後の最後にモールの大司祭が真犯人をつきとめて、観客は真実に気がつくのだ。
「そして、わたしたちはこの事件を外部にもらすことなく犯人をつかまえなくてはなりません」
「なんだって?」
「なにをやるにせよ、秘密裏に行なわねばなりません。こんな事件のせいで、今度の劇の円滑な進行が妨げられるのを、皇子はお望みにならないでしょう。そうした事件を始末するために、わたしがいるのです。あなたがたが気にされることはありません。ただ、これだけは言っておきましょう。わたしはできるだけ迅速に殺人者を見つけて裁くつもりです」
ブレグヘルが口を開いた。「デトレフ、ここは皇子の部下に任せるのがいちばんじゃないですか」
「だが、なにも起こらなかったふりな続けるわけにはいかんだろう!」
「そうでしょうか? 皇子の命令をきいたかぎりでは、他に方法はないと思いますが」
ネーベンツァールはまだ震えながらうめいている。デトレフはそちらに顎《あご》をしゃくった。「この、おしゃべりのめかし屋をどうやって黙らせておくつもりだ?」
クラリイの唇が動いた――他の者がそれをやれば、笑みになったのだろうが。「ネーベンツァール氏にはアルトドルフから召喚の命令が下ったばかりなんですよ。今日の午後早く、かれは辞職して、もう雇い主に渡す絶縁状も書いたんです……」
占星術師はぎょっとして、執事を見つめた。
「……リリ・ニッセン嬢に雇われた者がみんなそうやって辞めていくのも、わかるような気がしますね」
ネーベンツァールは、まるで間近に迫った死期を宣告された男のように見えた。
「心配することはありませんよ、内臓占い師どの」クラリイは続けた。「ここに残って、だれかれかまわずしゃべりまわるよりは、口を閉ざして立ちさったほうがよほど報われます。たぶん、エレングラードでなにか職を見つけてあげられるでしょう」
鉾槍《ハルバード》を持った兵がネーベンツァールをひきずって部屋を出ていった。デトレフは、果たしてあの貧相で小柄な詐欺《さぎ》師が、北方荒野の辺境の凍てついた港町に住むノーシャ人やキスレフ人と、うまくやっていけるのだろうかと危ぶんだ。デトレフはすでにクラリイに対しては我慢の緒が切れかけていたが、怒りの中で平静を保つ術《すべ》は心得ていた。リリ・ニッセンみたいに癇癪《かんしゃく》をおこしてわめきちらしたところで、どうにもなりはしない。
「で、ぼくには芝居を続けろ、というわけだな。つまり、これは神の恩寵《おんちょう》を受けた<Iスバルト皇子の芝居にではなく、たまたまぼくの芝居に起こったことだと。その間に、人々がつぎからつぎへと殺されていっても?」
クラリイは頑として態度を変えない。「皇子がそれをお望みなら」
「ご立派な執事どの、果たしてオスバルトさまは、きみのやったことすべてに賛成してくださるかな?」
その言葉に一瞬ひるみはしたものの、クラリイはすぐさま切りかえした。「わたしは皇子より全幅の信頼をいただいているものと確信しています。いつも皇子はこうした仕事をわたしに任せてくださいました。これまで皇子を失望させたことは一度もないと自負しています」
ジュヌビエーブは食卓にひきかえして、ルディの残骸《ざんがい》をしげしげと眺めていた。そのときはじめてデトレフは、外見はどうあれ、彼女が人間でないことをつくづく思い知った。彼女は死者を恐れない。それどころか、親しみすら覚えるにちがいなかった。
「なにをなさってるんです?」クラリイがきいた。
「なにか感じないかと思って」
ジュヌビエーブは死体の頭に手を触れ、目を閉じた。ルディの冥福《めいふく》を祈っているのかもしれない、とデトレフは思った。あるいは、頭の中でなにかの計算が働いているのだろうか。
「だめだわ」ややあって、ジュヌビエーブは言った。「ルディは逝《い》ってしまった。魂の破片も残っていない」
「この男の精神から殺人者の顔を読みとるつもりだったのですか?」と、クラリイ。
「いえ、別に。ただ、さよならを言いたかっただけ。お忘れかしら、ルディはあたしの友人だったのよ。かれの人生はつらいものだったわ。なのに、少しも報われなくて」
ジュヌビエーブは骸のそばを離れた。「ただ、一つだけ」彼女は言った。
「なんです?」
「息をひきとる寸前に見たものの姿を、死者がその目に焼きつけるという例の迷信をご存じかしら? 死者のまぶたに残った像が殺人者の正体をあばくという話を?」
全員が一斉《いっせい》にルディの顔を、そのからっぽの眼窩《がんか》と脂肪のこそぎおとされた頬を見つめた。
「存じてますとも」クラリイはとうとう、いらだちはじめた。「ばかげた話ですよ。いまじゃ医者や錬金《れんきん》術師だってそんな迷信は……」
「ええ、そうね。遠い昔の愚かな迷信だわ。 <混沌《こんとん》の到来> 以前、この世界は異星からやってきたカエル人に支配されていたという信仰と同じね」
「それなのに、かれの目はえぐられている」
「あたしが言いたかったのもそれなの。あなたもあたしも、殺された者の目の話なんかばかばかしいと思っているわ。でも、ルディを殺した者はそれを信じているんじゃないかしら。そう考えれば、目がなくなっていることの説明がつくわ」
クラリイはその考えが気に入ったらしい。「つまり、迷信深い者ということですね? ジプシーとかオストランド人とか」
「あたしはなにも言ってないわ」
「ひょっとしたら、ドワーフでしょうか? やつらは迷信好きで有名ですからね。真鍮《しんちゅう》の硬貨は幸運の印《しるし》、黒猫が生まれたらすぐに溺死《できし》させろ……」
クラリイがブレグヘルのほうを向くと、相手はぐっと胸をそらせた。
「わたしはドワーフじゃない」ブレグヘルは吐きすてた。「わたしだってあんなちびの野蛮人は大きらいだ」
クラリイは抗議の声を無視した。「しかし、この吸血鬼のお嬢さんの言うことには一理ある。なるほど、噂《うわさ》どおりの慧眼《けいがん》ですな」
「他にも考えられることはあるぞ」と、デトレフ。「ひょっとしたら、これは人間や蛮人の仕業ではないかもしれん。この砦の壁の中なら、どんな超自然のことが起こってもふしぎじゃない。ドラッケンフェルズは魔物や怪物の使い手として有名だった。悪霊は追いはらわれたことになっているが、なにしろ巨大な建物だからね。その後の年月、どんな怪物がこの城で生きつづけ、主人を滅ぼした者がもどってくるのを闇《やみ》の中で待っていたか、だれにもわかりゃしない」
ジュヌビエーブは顎《あご》に指を当てた。デトレフの言いたいことがわかったらしい。やがて、彼女は不安げに軽く頭をふった。
「そして、われわれはオスバルトの冒険者の生き残りを全員連れて、ここにもどってきたというわけ。飛んで火に入る夏の虫ね」
デトレフはジュヌビエーブのことが気がかりだった――メネシュやファイトのこともだ――しかし、クラリイの頭にはたった一つのことしかない。
「皇子にご忠告しなくては。そうすれば、ここに来るのをおやめになるかもしれない」
ジュヌビエーブは笑った。「あなたはご主人のことをあまりよくご存じないようね、クラリイ? こういう事件があれば、ますます皇子はここに来たいと思われるはずよ」
「おっしゃるとおりかもしれません、お嬢さま。念のために、衛兵に寝ずの番を立てるよぅに言っておきましょう。二度とこんなことは起こりませんよ。どうか安心なさってください」
]
ファーグル・ブレグヘルは一人部屋にいて酒をあおり、鏡に映る自分の姿をながめた。さまざまあるこの砦《とりで》の部屋を、だれが劇団員に割りあてたのかは知らないし、そこに人の心を踏みにじる意図があったとはとても思えない。だが、ブレグヘルの見るかぎり、ドラッケンフェルズ砦で床から天井までの大きな鏡があるのは、この寝室だけだった。昔はきっとこの部屋で、身持ちの悪い魔女が化粧をしたり、めかしこんだりしたのだろう。そして、 <大魔法使い> はその数千年の生涯で、さぞや大勢の愛人をここにひきずりこんだにちがいない。ファーグル・ブレグヘルの味気ない四十七年間とは、なんというちがいか。
窓から射しこむ月明かりが部屋を照らし、あらゆるものに悪意に満ちた光を投げかけている。ブレグヘルは椅子《いす》に腰を下ろすと、足をぶらぶらさせた。爪先《つまさき》が掌一つ分ほど絨毯《じゅうたん》から浮いている。かれは自分の姿にまっすぐ目を向けた。
ブレグヘルは両親のことを、そして、いつもかれらのまわりに漂っていた失意の雰囲気を思いだしていた。ブレグヘルの姉たちはみな人並みより背が高かった。弟はだれもがうらやむほど長身ですらりとしており、整った容貌《ようぼう》に恵まれていた。だが、それも皇帝軍の兵士として戦場で命を落とすまでのこと。そのために、父母はいっそうブレグヘルの存在をうとましく思うようになった。母と父はブレグヘルの体のことで互いになじりあった。息子に受け継がれた欠陥の原因を、なんとか相手の中に見つけだそうとして一生を過ごしたようなものだった。確かに、だれかが家を訪れるたびに「いいえ、うちにはドワーフの召使いはおりません。ドワーフの息子がいるんです」と説明するのは気のめいることだっただろう。しかも、ブレグヘルはほんとうのドワーフではない。
かれは小人だった。
ブレグヘルは二本目の酒瓶に手をつけた。酒がだらだらとこぼれ、シャツにしみがつく。服の下で皮膚がむずむずし、ブレグヘルは身をよじった。
かれは家を飛びだし、巡回興行の一座に入って道化師になった。やがて自分の見せ物小屋を持つようになり――人との交渉には、普通の体格をした男たちを使ったが――その後、劇場にまで手を広げた。かれの小屋には本物のドワーフの道化師が何人かいたが、そういう連中がブレグヘルを仲間として受け入れることはなかった。かれらは陰でこそこそと、あるいは面と向かって、ブレグヘルを化け物とか、ゆがんだ怪物と呼んだ。
まさにそのとおりなのだ。
ブレグヘルには妻もなく、恋人もなく、人に隠れて湯あみをする。体を人目にさらすことなく、うまくやってきた。だが、かれは新しい変化が現われていないかどうか、毎日体を調べた。ときには一か月に二つ、三つと見つかることもある。そうした変化とともに、新しい能力や感覚が生じた。腕の下には、蝙蝠《こうもり》の翼のような水かきでつながった数個の肉塊が生えており、それで人々の感情を感じとれた。ブレグヘルにはいつだって他人の感じていることが――人が自分をどれほど嫌っているかが――わかるのだ。いまのところはまだ、顔には影響がでていない。しかし、もう何年も手袋をはめっぱなしにして、両手の掌《てのひら》にできた目を隠してきた。その目は音を聞くことができる。
かれは小人だ。おまけに人間離れをした化け物。
ブレグヘルのような者を指す、新しい言葉がある。かれは学者がその言葉を使うのを聞いたことがあった。最初は異常な育ち方をした植物をそう呼び、やがて二つ頭の牛や目玉の飛びでた犬といった類《たぐい》に使うようになった。そしていまは、変異石《ワープ・ストーン》の影響を受けて本来の肉体の姿を越え、混沌の生物と化した人間をそう呼ぶ。
ファーグル・ブレグヘルは変異種《ミュータント》だった。
11
ヴィルヘルム二世の家系に名を連ね、帝国《エンパイア》の護民官であり闇への挑戦者、かつ自身も皇帝であり、同時に前皇帝の息子でもあるカール・フランツ一世が、フォン・ケーニヒスバルト家の宮殿にやってきた。ロビーの机には、伝令の運んできた黒い縁どりつきの悔やみ状がうず高く積まれている。だが、カール・フランツは自ら悔やみ状を届けにきたのだ。そして、執事や衛兵を軽くあしらい、きびきびした足取りで新しい選帝侯を探しに宮殿に入っていった。
他の者はすでにオスバルトに弔問をすませたのかもしれない。シグマー派の大神宮とウルリック派の大司教は、故マクシミリアン選帝侯に献花を捧げる際、互いに失礼にならないようにさぞや気をつかったことだろう。それぞれの市国や選帝侯諸国の代表、さらにアルトドルフの主要な聖堂やハーフリング大集合《ムート》の特使たちが、悔やみの言葉を届けにきたはずだ。
カール・フランツは一人でやってきた。なにをするにしても必ずその身辺に漂う、いつもの華《はな》やかさはなかった。そして、一対一でオスバルトと対面した。皇帝からそれほどの待遇を受ける者は、この国にいくらもいない。
皇帝はマクシミリアンの書斎で古い書面に目を通しているオスバルトを見つけた。その書斎も、いまはオスバルトのものである。オスバルトは葡萄《ぶどう》酒を運んでくるように命じて秘書を下がらせた。
「わたしが子供のころには、そなたの父上とは大の親友だったよ、オスバルト。いろいろな意味で、マクシミリアンは実の父より大切な人だった。帝国《エンパイア》を統治し、一族の長となるのは大変なことだ。いまでは、わたしもそれを身にしみて知っている。マクシミリアンが亡くなったのは実に残念だ」
「恐れいります」オスバルトはまだ夢の中にいるように、ぼんやりしていた。
「そして、これからは、われわれが将来のことを考えねばならない。マクシミリアンは名誉のうちに葬られるだろう。そなたは一日も早く即位の覚悟を決めねばな」
オスバルトは首を振った。皇子にとってはつらいことだろう。カール・フランツはかれ自身が即位の際に通りぬけてきた、苦しい通過儀礼を思いだしていた。選帝侯たちが皇帝位継承について議論を闘わせる間、拷問のような日々が続いた。評決が自分に下るとは、どうしてもカール・フランツには確信できなかった。かれは独自の情報網を通して、最初の投票の結果が賛成八票、反対四票であり、会期の終わりまでに、マクシミリアンが一人を除く選帝侯全員を説得してくれたのを知った。もしカール・フランツが反目しあう政治組織の寄せ集めをまとめるだけでなく、真に支配できているとすれば、それはひとえにフォン・ケーニヒスバルト家のおかげといえるだろう。
「戴冠式はドラッケンフェルズ砦《とりで》で、芝居の後に行なう予定です。選帝侯も他の高官たちもそこに集まりますからね。堅苦しい儀式のために、数週間後にもう一度お集まりいただくことはないでしょう」
「もちろんそのとおりだが、オスバルト。帝国《エンパイア》としては、しかるべき儀式の手順は踏んでほしいものだな。ただ統治するだけでは足りんのだ。支配しているところをみなに見せねばならん」
オスバルトは父親の全盛期の頃の肖像画を見上げた。マクシミリアンは片手に隼《はやぶさ》をとまらせて森の中に立ち、人々のいちばん前にいる。そのそばに黄金の髪の少年がいた。幼い日のオスバルトだ。
「いまはじめて気づいたのですが、ほら、この鳥を持った若者を見てください。鷹匠《たかじょう》みたいな服を着てますが、これは……」
カール・フランツは微笑《ほほえ》んだ。「そう、わたしだよ。この頃のことはよく覚えている。老ルイトポルト皇帝はえらく反対されたな。『未来の皇帝が馬から落ちたらどうする? 怒りくるった鳥に目をえぐられたら? 万一、猪《いのしし》に襲われでもしたら?』父は未来の皇帝を、色つき卵みたいに大切に扱うべきだと考えておられた。そなたの父上のほうがよく物事をわかっておられたよ」
「ええ。きっとそうでしょうね」
「そして、わたしがそなたの父上を見ていたのと同じ目で、早くもルイトポルト皇子はそなたを見ているようだな。どうやら、わたしも未来の皇帝を甘やかし、檻《おり》に閉じこめようとしているらしい。家庭内では老ルイトポルトのような亭主関白にはなりたくないものだと思っていたが、まさにそのとおりの人間になってしまった。わが家系に順繰りに訪れる宿命かもしれん」
その肖像画はすばらしかった。できるものなら、その絵師を呼びもどしたいとカール・フランツが望むほどだった。おそらく、マクシミリアンの狩猟仲間だったのだろう。絵師が森を描く才能に恵まれていたのはまちがいない。まるで木々のそよぎや鳥の鳴き声すら聞こえてくるような絵だった。
「もうすぐ、また森に入れるんだな、オスバルト。ドラッケンフェルズに向かう道中には、きっとすばらしい狩り場があるぞ。実を言うと、この旅の話をきいたとき、わたしはあまり気乗りがしなかったのだ。だが、そなたが大いなる勝利をおさめた現場を見たいとはつねづね思っていた。それに、王族や貴族の堅苦しいお遊びにはもううんざりしているのだ。鹿《しか》を追ったり、古い歌を唄ったりしなくなって、ずいぶんになる。そうそう、そなたの友人のジールックが作った『シグマーの歴史』が流れてしまったときには、ほんとうにがっかりしたよ。実は、ミッドンランド侯はあの劇に相当わたしの金をつぎこんでいてね。わたしはジールックの芝居を見るのが待ち遠しくてならんのだよ。宮廷の女どもの話では、ちょっとしたものらしいな」
「ええ、皇帝陛下」
「皇帝と選帝侯か? ただのカール・フランツとオスバルトだった頃がなつかしいな。それはそうと、ずっとふしぎに思ってたことが一つあるんだが……」
「なんでしょうか、陛下」
「われわれが若かった頃、父親どもは <大魔法使い> と対決するなんて狂気のさただと、そなたに言ったな……」
「ええ。それで?」
「どうして、あのとき、わたしを誘ってくれなかったのだ? そんな冒険や戦さの機会があれば、わたしは踊りあがってとびついたろうに」
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第四章
T
デトレフはよく眠れなかった。ルディがあんな目にあったのを目撃した後では、劇団や芝居の細々した雑事にもどる気になれず、早々に部屋にひきあげたのだ。そして、いまは目を開いて寝台に横たわっていた。今度の件に関わって以来一度ならず思ったことだが、デトレフはマンドセン砦《とりで》の獄房にもどりたかった。しょせんスツァラダットは、憎むべき男という程度だ。あの男は目に見えたし、そのたわいない卑劣さは理解できた。マンドセン砦には不気味な指を突きだす修道僧の亡霊はおらず、脂肪をこそぎおとして目をえぐる人殺しもいない。実際、ドラッケンフェルズの要塞《ようさい》にくらべれば、マンドセン砦など保養地のようなものだ。いつか、あの監獄での経験を元にして道化芝居を作ってやろう。ぬけめない借金囚たちが滑稽《こっけい》なほど愚かな模範囚を出し抜き、もったいぶった典獄が囚人たちにしつこくからかわれる芝居を。
だが、そんな空想も役には立たなかった。今夜はとても滑稽な仮面劇など考える気になれない。
一座の中に狂人がいて、ドラッケンフェルズ砦の闇《やみ》に包まれた廊下をさまよっているかもしれないというだけならまだしも、デトレフにはヘンリック・クラリイのことも心配でならなかった。あのオスバルトの部下はとんでもない暴君になる危険がある。なんであれ皇子に不都合なことが起こるくらいなら、劇団員すべての命を犠牲にしかねないのだ。かつてタラダッシュはこう言った。「後援者というのは、二十分間、人が溺《おぼ》れているのを見物しておきながら、なんとか自力で岸に上がろうとすると、手を差し伸べて恩を着せるものだ」と。『シグマーの歴史』ではミッドンランドの選帝侯、今度の『ドラッケンフェルズ』ではオストランドの皇子――どうやらデトレフは、比類ない後ろ盾に恵まれながら、悲運につきまとわれた芝居を創《つく》る宿命を背負ってしまったようだ。デトレフはオスバルトを気に入ってはいたが、皇子の最終目的の中で自分の価値には幻想をいだいていなかった。
ただ一つ慰めがあるとすれば、リリ・ニッセンはさておき、芝居が驚くほど順調に運んでいることだ。全員がこの一件を生きぬくことができれば、『ドラッケンフェルズ』のおかげで劇団の名声は一躍上がるだろう。ラスツロ・レーベンスタインはとんでもない拾い物だった。この劇をアルトドルフの劇場にもっていくときには、レーベンスタインも込み[#「込み」に傍点]で上演するように主張しなければ。公演が終わった暁には、レーベンスタインは演劇界で脚光を浴びる存在になっているはずだ。そのつぎの公演では、デトレフは一線を退いて脚本と演出に専念し、あの役者のおそるべき才能を十二分に発揮できる傑作を書こうと考えていた。『無能帝ボリス』を題材とした史劇には、いまのところろくなものがないし、レーベンスタインならまさに、ああいう悲劇の人物にはうってつけだろう。曾々孫《そうそうそん》バベル皇太子《ツァーレビッチ》によって暗殺された女帝《ツァーリナ》カタリンの事件もいいかもしれない。ただし、ジュヌビエーブ・デュードネが女帝の役を引き受けてくれたらの話だが……。
そう、ジュヌビエーブ・デュードネをくどきおとして、自分の役をやらせることさえできれば――彼女ならリリ・ニッセンほど人をうんざりさせたりしないはずだ。
デトレフは吸血鬼の娘のことが気がかりでしょうがなかった。ルディの殺された状況を考えると、このまま砦《とりで》にとどまれはジュヌビエーブにも危難が及ぶにちがいないし、デトレフは彼女に対しては責任を感じていた。しかし、素手で岩を握りつぶすことができ、すでに <大魔法使い> と対決して生きのびた齢《よわい》六百六十三歳の少女を、いったいどうやって守れというのか? むしろ、デトレフのほうが守ってくれと頭を下げるべきだろう。
おまけに、敵は得体の知れない殺人者や亡霊じみた修道僧、ドラッケンフェルズ砦の石壁になおもしがみつく正体不明の魔物《デーモン》にかぎらない。ヘンリック・クラリイからも身を守る必要があるかもしれないのだ。
オスバルトがここにいてくれれば、とデトレフは願った。皇子はかつてこの地に巣くう危険を打ちまかした人物なのだ。それにもましてデトレフは、クラリイがオスバルトの名のもとにしでかす所業を皇子に知ってもらいたかった。
と、そのとき、扉をひっかく音がして、デトレフは寝物語に怪談をきかされた子供のように上掛けを握りしめた。蝋燭《ろうそく》の炎が消えた。デトレフはついに、すべてがここで終わることを覚悟した。かくしてデトレフの名は、最高傑作の完成を目前にして寝床の中で殺された天才として、物語詩に語りつがれることになるだろう。
「あたしよ」低い女の声がささやく。
きっと後悔するだろうと思いながら、デトレフは起き上がって鍵《かぎ》を開けた。そのためには、扉の取っ手の下に置いてあった椅子《いす》を取り除かねばならなかった。
ジュヌビエーブが廊下に立っている。それを見たとたん、デトレフはほっとして、彼女の訪問に心をはずませた。
「ジュヌビエーブ」デトレフは大きく扉を開けて言った。「こんな遅い時間に……」
「あたしにとっては、ちっとも」
「おっと、そうでした。うっかりしてましたよ。あなたでも眠ることはあるんですか?」
ジュヌビエーブは肩をすくめた。「ときにはね。たいていは朝のうちに。言っておきますけれど、生まれ故郷の土を詰めこんだ棺桶《かんおけ》の中なんかじゃなくてよ。あたしはパラボン生まれだけど、当時でさえとても文明の進んだ町で、踏みかためた土の上には敷石が敷いてあったの。だから、そういうやりかたはむずかしいというわけ」
「さ、どうぞ中に……」
「いいえ、あなたに出てきてほしいの。ここでは夜の間におかしなことが起こるわ」
「知ってますよ。だから、ぼくはこうして銀の投げナイフを片手に、部屋に閉じこもってるんですよ」
ジュヌビエーブはたじろいで、右手を握りしめた。デトレフはドワーフのウエリの裏切りの話を思いだした。
「まただ。すみません。どうもぼくは考えなしで」
ジュヌビエーブは少女のような笑い声を上げた。「いいえ、ちっとも。いまさらそんなこと気にしたりしないわ。あたしは夜の生き物ですもの。そうしたものとも折りあっていかなくちゃね。さあ、服を着て、蝋燭《ろうそく》を持ってちょうだい。暗闇《くらやみ》では、あなたはあたしほどよく見えないでしょう」
さりげなく、はずんだ口ぶりだが、目は真剣だった。吸血鬼の瞳《ひとみ》にはどこか変わったところがある。
「わかりました。でも、ナイフは持っていきますよ」
「あたしを信用してくださらないの?」微笑《ほほえ》むと、歯がのぞく。
「ジュヌビエーブ、近頃《ちかごろ》じゃ、ここで信用できるのはあなたとファーグル・ブレグヘルしかいないと思ってるんですよ」
デトレフはズボンと上着を身につけると、あんまり音を立てずにむきだしの石の床を歩けそうな上履《うわば》きを探した。かれが蝋燭に火を灯《とも》しなおすと、ジュヌビエーブが袖《そで》をひっぱった。
「どこに行くんですか?」
「においの導くがままに」
「なにもにおいませんが」
「あたしだってそうよ。いまのは言葉の綾《あや》。あたしがものを感じとることができるのは、ご存じでしょ。こんな姿になったおかげね。この砦《とりで》にはなにかとんでもないものがいるわ。ここに着いたときには、砦は清潔でからっぽだったのに、なにかがあたしたちと一緒にやってきて、ここに住みついたのよ。古くて忌まわしいなにものかが……」
「二十七番目の馬車ですね」
ジュヌビエーブは立ち止まって、けげんそうにデトレフを見た。
「覚えてるでしょう。ぼくたちは一行の馬車をちゃんと数えられなかった」デトレフは説明した。「二十六台のはずなのに、ぼくたちが目を離すと必ず二十七台になっていた。なにものかがぼくたちと一緒にやってきたというなら、そいつはあの馬車に乗ってきたんですよ」
「きっとそうね。あのときに、それに気づくべきだったわ。芸術家特有の筋ちがいの説明じゃないかと思ってしまって」
「そりゃどうも。ほんとのところ、大きな芝居をやろうとすると、そういう筋ちがいのごたごたばかりが増えましてね。もしブレグヘルがいなければ、ぼくは雑事で首がまわらなくなってたでしょう。ただ芝居を書いて、演技すればいいってわけにいきませんから。資金繰りや宿舎の手配もあるし、団員も喰《く》わせなくちゃなりません。おそらく、軍隊一つ動かすよりもっと組織だった体制が必要かもしれません」
二人は、デトレフにはどこにいるのやら見当もつかない砦の内部へと進んでいった。砦はところどころ崩れ、壁の裂け目から冷たい夜気が吹きこんでくる。月明かりがあたりを満たしていた。オスバルトの部下もここまでは手がまわらなかったのだろう。掃除をした形跡や安全にするべく手を打った形跡がない。デトレフはいかにその建物のかぎられた部分しか見ていなかったか、あるいは近づくことを許されていなかったかを知った。
「近いわ」ジュヌビエーブが言うと同時に、突風が吹きつけてデトレフの蝋燭を消した。「すぐそこよ」
デトレフは温りの残る蝋燭の燃えさしをポケットにしまい、月の光を頼りに進んだ。尋常でないものの気配は感じなかったし、なにも見えず、においもしない。
「いったい、ぼくたちはなにを探しているんですか?」
「なんであってもおかしくないわ。でも、相手は大物よ。どこか狂っていて、とても親切とは言えない相手」
「そうと聞けて、ほんとに嬉《うれ》しいですよ」
夜の光の中で、ジュヌビエーブは美しく見えた。月明かりに輝く長い髪に、床まで届く白い衣装。一口に死者といっても、ルディ・ヴェゲナーとは比べものにならない愛らしさだった。一瞬デトレフは、この人気《ひとけ》のない場所に誘いだされたのは、ただあてもなく廊下をうろつくのではなくて、もっと二人だけの陰謀めいたことがあるのではないかという気がした。脈が速くなる。デトレフは吸血鬼に血を吸われた経験は一度もない。だが、女帝《ツァーリナ》カタリンの愛人だったブラディスラフ・ドボルジェッキの恋の詩を読んで、それがなかなかすばらしいものではないかと思っていた。
デトレフはジュヌビエーブの腰に両手をまわして彼女を引きよせ、髪の香りをかいだ。と、そのとき、詠唱の声が聞こえてきた。
ジュヌビエーブは後ろを振りむき、デトレフに口に指をあててしっと合図した。それから中途半端なデトレフの抱擁をとき、顔にかかった髪を払う。彼女が歯をのぞかせているのは意識してのことだろうか。ジュヌビエーブの歯は月の光に照らされて、いつもより長く鋭く見えた。
詠唱の声はかすかに聞こえる程度だが、不気味な響きを帯びている。宗教儀式でもやっているのだろうか、とデトレフは思った。だとしたらあの詠唱は、かれがふだんは決してよりつかないような神の祭壇に捧《ささ》げるものにちがいない。あるいは魔法の呪文《じゅもん》だろうか。それならば、きっと邪悪きわまりない怪物を召喚する混沌《こんとん》の魔術師の仕業だ。
二人はゆっくりと足音を忍ばせて、交互に訪れる光と闇《やみ》の中を進んだ。壁にはいくつか扉があり、その一つ――五メートルほど先の扉――が少し開いていた。扉の奥から呪文が聞こえてくるのはまちがいない。扉に近づくにつれて詠唱の声は大きくなり、それに合わせて奏でる低い笛の音が聞こえた。どこかしら胸の悪くなるような音色だ。この夕暮れに目撃したばかりの恐怖を思いださせる音色。
二人は壁に身をよせて、そろそろと近づいた。
扉の向こうから明かりがもれていた。せまい部屋の中で人影が動きまわっている。
デトレフは銀のナイフを取りだした。
二人は扉のそばまで行って、中をのぞきこんだ。隙間《すきま》がせまくて、奥の部屋で起こっている出来事がかろうじてのぞける程度だ。だが、デトレフがまたしてもむかつきを覚えるには、それで充分だった。
黒い蝋燭《ろうそく》を円形に並べた中に、小さな人影が横たわっている。子供かドワーフだろう。皮を剥《は》がれているので、どちらとも見分けがつかなかった。あらわになった筋肉が蝋燭の光に赤くぬめっている。おぞましい光景の中で、だれとも知れない者たちの影が、そのまわりを踊るかに見えた。
「メネシュだわ」ジュヌビエーブがささやいた。
デトレフは円の中の赤い塊《かたま》りに腕が一本しかないことに気づいた。ドワーフの腸が蛇のようにくねっている。どんな手を使ったものか、メネシュはまだ生きていた。吐き気がこみあげたが、デトレフの胃にはもうなにも残っていない。血まみれのぬめる肉の残骸《ざんがい》の中で、骨の白さが目に焼きつくようだった。
ジュヌビエーブが部屋に飛びこもうとして、身を乗りだした。デトレフがその肩を押しもどす。もし詠唱の声を上げている数だけ殺人者がいるなら、万に一つも勝てる見込みはない。ジュヌビエーブは振りかえって、デトレフの手首をつかんだ。かれはまたしても吸血鬼の力強さを思い知らされた。ジュヌビエーブの目に赤い怒りの炎が燃えたが、すぐにそれは消えた。彼女もまた、ここで部屋に押し入って、おめおめ殺されるわけにいかないと気づいたのだ。ジュヌビエーブは感謝の意をこめてうなずいた。
そのとき、長靴《ブーツ》をかちゃかちゃと打ちならす音がきこえた。だれかが通路の向こうからやってくる。二人は前後からはさみうちにされる格好になった。
闇《やみ》の中からランタンが現われた。鉾槍《ハルバード》が石の天井をひっかいている。武装した六人の男がどかどかとやってきて、その先頭にクラリイが立っていた。執事はデトレフとジュヌビエーブを見て非難がましい顔をした。今度ばかりは、デトレフはこの男の出現をうとましがる気になれなかった。さながら終幕で城を救うために登場した近衛《このえ》騎兵のようだ。
詠唱はいまや不気味な咆吼《ほうこう》となり、通路に響きわたっている。メネシュがその調べに合わせるように悲鳴を上げると、人影がそのまわりに群がった。
「こんなところでなにをなさってるんです?」クラリイが噛《か》みつかんばかりに言う。
「そんなことはどうでもいい」デトレフはこたえたが、詠唱に負けないように声をはりあげねばならなかった。「この部屋の中で殺人が起こっているんだ」
「そのようですね」クラリイは兜《かぷと》をぐいと押し上げ、胴着《ダブレット》のポケットに親指をひっかけた。
「クラリィ、あれをやめさせてくれ」
執事はしばらく考えていた。「わかりました」
デトレフは退いて、前にいたクラリイの勇ましい部下の二人が扉に体当たりし、それを蝶番《ちょうつがい》からもぎとるのをながめた。分厚い木の扉は倒れて突風を巻きおこし、黒い蝋燭《ろうそく》を吹きけす。詠唱の声と笛の音がぴたりとやみ、闇の中で叫び声が上がる。人間の声もまじっていた。デトレフは部屋に駆けこんだ。戸口を越えるときに手に持っていた蝋燭が消え、はっと気づいた時には真っ暗闇の中に閉じこめられている。まるで、星も月もない夜空の下、広大な草原に放りだされたような気分だった。柔らかなぬるりとしたものを踏むと呻《うめ》き声が聞こえ、デトレフは踏みつけたものの正体をさとった。それから、かれは右へ左へと、ごつい体にもみくちゃにされた。絶叫が上がり、武器のぶつかりあう音が響く。デトレフは体ごと床から持ちあげられ、部屋の反対側に投げとばされた。だれかにぶつかって倒れ、腕が体の下敷きになってねじれる。肩にひねったような感じがあり、デトレフはどうか骨が折れていませんようにと祈った。クラリイが大声で命令を下している。だれかがぎゅっとデトレフの胸を踏んでいき、かれは激痛の走る肩をかかえて起きあがろうとした。
そのとき、光が部屋に射しこんだ。
ジュヌビエーブが両手にランタンを持って戸口に立っていた。部屋はせまく、息絶えたドワーフが横たわっている。他には、デトレフとクラリイと武装した兵たちがその部屋にいるだけだ。皇子の部下の一人が暗闇で仲間に太腿《ふともも》を刺されており、どくどくと血を流しながら止血帯を当てがっていた。ジュヌビエーブが手を貸しにいくと、男は傷口に丁寧に包帯を巻いてもらっている間、怯《おび》えたように体をそらしていた。出血が止まって、吸血鬼が男を離してやると、相手はいささか面くらったようだった。
「たいした手際だな、クラリィ。さぞかしオスバルトさまは褒《ほ》めてくださるだろうよ」デトレフは痛みに歯をくいしばりながら、肩を元の位置にもどした。
執事は自分の失敗にうろたえたりしなかった。膝《ひざ》をついて、ドワーフを調べている。その死んだばかりの骸《むくろ》の腹に足跡がついていて、デトレフはぎょっとしながら自分の上履《うわば》きを見直した。
「今度は皮膚が剥《は》ぎとられています。それから腎臓《じんぞう》と、もちろん目も。おまけに……ええっと……生殖器官も」
クラリイは女性の前でそんなはしたない言葉を口にするはめになって、赤面していた。
「ぼくたちが来たときには、かれはまだ生きていたんだ、クラリイ」デトレフが言った。「ぼくたちがこの男を踏み殺したのかもしれない」
「どうせ助からなかったでしょう」
「ああ、たぶんな。だけど、死ぬ前になにかを告げることはできたかもしれない。ぼくたちがうまく立ちまわったとは思えないな」
クラリイは立ち上がって半ズボンの埃《ほこり》を払った。それからハンカチを取りだし、両手の血を拭《ぬぐ》う。手がきれいになってからもまだ長いこと、指をごしごしこすっていた。
「きっと他にも出口があるのね」ジュヌビエーブが言った。「あたしはずっと戸口にいたわ。あなたたちが中に入った後、あそこを通った者は一人もいなかったのよ」
全員がぐるりと部屋を見回した。むきだしの石造りの部屋で、唯一《ゆいいつ》のかざりといえば、デトレフには読めない言葉――一種類か、あるいは数種類か――を書きちらした跡だけだ。クラリイが命令を与えると、部下が鉾槍《ハルバード》でそこら中をつつきはじめた。最後に天井を試してみると、石の一つが槍《やり》に押されて持ちあがり、天井のその部分が内側にばたんと開いた。その奥に数世紀分もの埃の積もった秘密の通路があった。最近、蜘蛛《くも》の巣を押しわけた形跡がある。
「先に行ってくれ、クラリイ」デトレフが言った。
執事は片手に単発銃を持って先頭に立った。デトレフとジュヌビエーブは四人の鉾槍兵とともに、後に続いた。秘密の通路の天井が低すぎたので、兵たちはしかたなく鉾槍を部屋に残していく。全員が腰をかがめねばならなかった。
「ドワーフには最適の抜け道ですな」と、クラリィ。
「メネシュは犠牲者だ。人殺しじゃない」デトレフが言いかえす。
「だれもメネシュのことなど言っておりません」
埃に血痕《けっこん》がまじっている。
「われわれはかれに傷を負わせたようです」
「かれ[#「かれ」に傍点]だかそれ[#「それ」に傍点]だか知らんが、メネシュの皮を剥《は》ぐときに返り血を浴びたんだろう」
「かもしれません」
通路は螺旋《らせん》階段となって、ドラッケンフェルズ砦《とりで》の中心部へと下りていく。数世紀も前の鎧《よろい》を着た骸骨《がいこつ》があった。その頭蓋骨は内側から破裂したようだった。デトレフはぶるっと身ぶるいした。ここには北方荒野よりもまだ恐ろしいものがひそんでいる。たとえシグマーだって、砦の最奥部を探《さぐ》るには二の足を踏むことだろう。
そのあたりにくると、壁にいくつものぞき穴が開いていた。おそらく、そこからのぞけば、寝室の壁に掛かった肖像画の目から中が盗み見れるようになっているのだろう。ドラッケンフェルズは、こうしたいかにも芝居がかった仕掛けをしておくほど皮肉っぽいセンスにたけていたのだろうか。あるいは――こっちのほうがありそうだが――かれの発明したこうした仕掛けを、後に凡庸《ぼんよう》な連中が観客の背筋を凍りつかせるために利用しすぎて、ありきたりなものになったのだろうか。まるで、このまま進んでいけば、遺言書をめぐるいさかいが起こり、ひねくれた後継者がいて、鎧に隠された死体が見つかり、最終幕で人のいい老執事が気の触れた殺人者の正体を現わす、ということにでもなりそうだ。
やがて一行はとある扉にたどりつき、砦の中の見慣れた場所に出た。劇団の宿舎に割り当てられた場所である。
「そんなばかな」デトレフは言った。
「ぼくたちは下へおりて、メネシュの殺された部屋に着いたんだ。そこからさらに下って、元の場所にもどるなんて」
「ここはそういう場所なのよ」と、ジュヌビエーブ。「どこに行くにも、下におりるの」
扉がばたんと閉まり、秘密の通路をふさいだ。すると扉はまわりの壁とまったく区別がつかなくなった。
「クラリイ、この廊下には衛兵を配置してたはずじゃないのか? 頭から爪先《つまさき》まで血にまみれた人殺しが、壁から這《は》いだしてくるのを見逃さないために?」
執事の顔が凍りついた。「わたしは砦を捜索させるために、部下の配置換えをしなくてはなりませんでした。だからこそ、あなた方はこうして生きているのです」
デトレフは相手の言い分を認めざるをえなかった。「ああ、ぼくたちは生きてるとも。だが、このあたりの部屋の住人が一人残らず寝台の上で切りきざまれていないと、どうして言える? ありがたいことに[#「ありがたいことに」に傍点]リリ・ニッセンだけを残してということもありうるが」
「われわれの獲物は逃げるのに必死で、人を傷つける暇はなかったはずです。ごらんなさい。やつは手がかりの血痕を残しています」
絨毯《じゅうたん》の上に血が落ちていた。それは一メートルばかり先でとぎれている。だれかの部屋の前だ。取っ手が血で汚れていた。
「もう人殺しは袋の鼠《ねずみ》ですよ」クラリイは不気味にほくそえんだ。
「ちょっと話がうますぎるとは思わないか?」デトレフはきいた。「だいいち、呪文《じゅもん》を唱えてたのは、一人どころではなかったぞ」
「それはひとまず置くとしましょう。共謀者は後で狩り集めます。とにかく、いま手の内にいる人間をつかまえなくてはね。ま、人間かどうかは知りませんが……」
扉には鍵《かぎ》がかかっていた。クラリイは鍵に向かって銃を発砲した。廊下に並んだ扉がばたばたと開き、いくつもの頭がのぞく。リリ・ニッセンの寝室でなにをしていたのか、後でコジンスキーめを問いつめなくてはな、とデトレフは思った。クラリイが扉を蹴破《けやぶ》ると、扉は跳ねかえって粉々にくだけた。
ファーグル・ブレグヘルが寝台からとびだしていた。クラリイはそれを見て、ぎょっと息をのんだ。デトレフも人を押しのけて前に出たとたん、腹に一撃くらったような衝撃を覚えた。
デトレフの友人であり相談役である男が、胸と両手にできた目でかれを見上げた。
だが、デトレフを打ちのめしたのは、相手の顔にある二つの瞳《ひとみ》だった。
ブレグヘルは――その化け物は――泣いていたのだ。
U
太陽とともに目覚め、帝国《エンパイア》の森にいる自分に気づくほど心地よいものはない。カール・フランツ一世は薮《やぶ》に小水を放ちながら、そう思った。かれは鳥のさえずりに耳を傾け、さまざまな鳴き声のまじる朝の合唱の中から一つ一つ聞きあげて、その鳥の名前を頭に思いうかべていった。気持ちのいい春の朝だ。陽《ひ》はすでに高く、そびえる木々のそこここから光が降りそそいでいる。今日通る街道《かいどう》ぞいにはきっと鹿《しか》がいるはずだ、と皇帝は思った。最後に鹿を狩ってから、もう何年がすぎたことだろう。
野営地では、まどろんでいるところを早々に起こされて、呻《うめ》いたり愚痴をこぼす声が上がっている。カール・フランツはこの高貴な旅の道連れのうち、だれが野外での寝起きが悪く、だれが前夜の宴会のせいで痛む頭を抱え、だれが鳥のさえずりやすがすがしい足もとの露に誘われて、一目散に馬に駆けよるかを観察し、楽しんでいた。薬草茶が巨大な鉄鍋《てつなべ》で沸かされ、軽い朝食が用意されている。
高官の中には、宮殿の寝室と同じように設備の整ったふかふかの馬車で眠る者もいた。だが、カール・フランツは地面の上に一枚敷いた毛布の感触がなにより好きだった。皇后は同行を拒み、持病を理由に家に残っている。だが、かれらの跡継ぎ息子である十二歳のルイトポルトは、自由な森の生活を満喫している。武装した部下が皇族の護衛のために片時も離れず付きしたがってはいるが――カール・フランツが森に入って用を足すときでさえ、剣を持った人影がついてくる――それでも、かれらのまわりには自由な雰囲気が漂っていた。カール・フランツは皇帝という重責から逃れられたように感じた。国を運営したり、邪悪の侵入に抵抗したり、闇《やみ》の勢力をけちらしたりといった肩の張る雑事から、しばし解放された気分だった。
ミッドンランドの選帝侯は、オスバルトが今度の劇を上演するために雇った人物の名を知ってからというもの、声高に異議を唱えつづけており、痛む背中をさすりながら、四六時中そばに置いているらしい赤毛の小姓にいまもぶつぶつと愚痴を垂れている。シグマー派の大神宮は、強健な神に似あわぬ脆弱《ぜいじゃく》な老人で、アルトドルフを発《た》って以来、馬車の中から顔一つのぞかせていない。その大神官のいびきは一行にちょっとした笑いの種を提供していた。カール・フランツは、他の選帝侯や従者が眠気をふりはらっているところを観察しながら、お茶を飲んだ。宮廷の会議や大舞踊会で何年も見てきたより、今度の旅でのほうが帝国《エンパイア》の礎《いしずえ》となるそうした男女のことがよくわかるのだ。
オスバルトはまるで馬にまたがって生まれてきたかのように野を駆け、石弓《クロスボウ》の一撃で雉《きじ》を射止めることができる。かれを除けば、この旅を心から楽しんでいるふうに見える選帝侯はただ一人、ハーフリング大集合《ムート》の長《おさ》だけだった。長はほとんどの時間を食べたり笑ったりしてすごしている。また、サドンランドの選帝侯である、若いヨハン・フォン・メクレンブルク男爵《だんしゃく》は卓越した森番の技の持ち主だった。男爵が行方不明の兄弟を求めて、半生を放浪の旅に費やし、最近領地にもどってきたばかりであることをカール・フランツは知っていた。その男からは、今度の旅すら快適に感じるほどの経験をしてきたのだろうという印象を受けた。勲章のように体に傷跡を残す、あまり多くを語らない男だ。ナルン市長を務め、ナルン大学長でもあるエマヌエル・フォン・リーベヴィッツ伯爵《はくしゃく》夫人は帝国《エンパイア》で最も魅力的な未婚女性という噂《うわさ》だったが、いまのところはまだ、過去に何百回となく主催してきた仮面舞踊会やパーティの模様をうんざりするほど事細かに説明できる相手を見つけてはいないようだった。カール・フランツは伯爵夫人がルイトポルトに甘ったるく話しかけるのを見て、おもしろがりもし、また寒気も感じた。彼女の場合は、決して母親のような気持ちからではなく、はた目にも明らかな二人の歳《とし》の差や気性のちがいをものともせず、この未来の皇帝を理想の結婚相手と見なしているのだ。
皇帝は従者から湯気のたつコップを受けとり、熱く甘い飲み物を一口すすった。ミッドンハイム侯が後どれくらい旅を続けることになるのかと尋ね、オスバルトはだいたいの予測を告げた。若いルイトポルトが|革の上着《ジャーキン》を泥まみれにし、髪をくしゃくしゃにして、下生えの中からとびだしてきた。少年はマリエンブルグのレスナイス侯を押しのけ、まだびくびく動いている兎を焚《た》き火のそばに持っていった。獲物の臀部《でんぶ》に少年の矢が突きささっている。カール・フランツは、息子がオスバルトに褒《ほ》めてもらいたくて獲物を見せにいったことに気づいた。オスバルトは死にかけの兎の首を手際よくひねった。
「たいしたものですな、殿下」オストランドの選帝侯が言った。「急所を射ましたね」
ルイトポルトがにっこり笑いながら、まわりを見回している間に、オスバルトはすでにもつれあっている少年の髪をくしゃくしゃにした。レスナイスがせっせと少年の服を払ってやっている。オスバルトはカール・フランツに手を振った。
「あなたのご子息はきっと帝国《エンパイア》に食糧を供給してくださるでしょう」
「そう願いたいもんだ。万一、帝国に食糧を供給せねばならんときがくればな」
寝ぼけ眼に無精髭《ぶしょうひげ》を生やしたタラベックランド侯が、大きな天幕から這《は》いだしてきた。かれはオスバルトが手にした血まみれの兎に目をとめて呻いた。
オスバルトとルイトポルトは声を上げて笑った。カール・フランツの笑い声がそれにまじる。皇帝の生活は常にこうあるべきなのだ。すばらしい友人にすばらしい狩り。
「さあ」オスバルトが兎の傷口に手を浸してから、ルイトポルトの頬に赤い線を引いた。「未来の皇帝陛下、これであなたも血の味を覚えましたね」
ルイトポルトがカール・フランツに駆けよって敬礼を捧《ささ》げると、皇帝は返礼した。
「では、わが勇敢なる息子よ、そろそろ体を洗って、お茶にしてはどうかな。われわれは既知世界《ノウン・ワールド》最大の国を支配しているとはいえ、そのわれわれをさらに皇后という方が支配していらっしゃるのだ。そのお方はおまえがここでよく食べ、温かくしていることを望んでおられる。もっとつまらぬことで、天幕の杭《くい》に目を射ぬかれた夫もたくさんいるのだよ」
ルイトポルトはコップを手に取った。
「でも、お父さま、ハジャルマール皇帝が暗殺されたのは、あまりにもその地位にふさわしくない人物だったからでしょう。家庭人として不十分だったからではありません。かれは子供をつくらずに亡くなったと、授業で教わった覚えがあります。つまり、後継者の繁栄をおろそかにしたといって、かれを責めることはできない、と。ただし、子供ができなかった原因を、父性愛の欠如によるものと考えるなら話は別ですが」
「よく勉強してるな、ルイトポルト。それなら、わたしがおまえから継承権を奪って、妹に位を譲ってしまう前に、顔を洗ってお茶を飲んでくれないか」
だれもが笑った。それは、ときたまカール・フランツが相手からひきだすことのできる、喉《のど》の奥から生じる本物の笑いだった。皇帝の冗談ならなにがなんでもおもしろくて、そう思わない者はみな死刑に処せられると思いこんだ人々の立てる、弱々しい笑い声とはちがう。馬丁が仮りごしらえの囲いにつないだ馬を起こしたのか、いななきがきこえた。
「お父さま」ルイトポルトが尋ねた。「昨日の夜、ここにやってきた修道僧はどなたですか?」
カール・フランツは面くらった。「修道僧? わたしは修道僧など知らんぞ。この子がなんのことを言ってるかわかるか、オスバルト」
選帝侯は表情ひとつ変えずに、かぶりを振った。それがあまりに無表情だったので、かえってなにかを隠しているように見えた。
「昨日の晩、見張りの他はみんな寝てしまった後で、ぼく、目を覚ましたんです」ルイトポルトが話をはじめた。「フォーチュネイトの足が心配だったんです。蹄《ひづめ》がゆるんでたし、あいつがいななくのが聞こえたような気がして。だから、起きて囲いまで見にいったんですけれど、フォーチュネイトはぐっすり眠ってました。あいつが鳴いてる夢を見ただけかもしれません。でも、天幕にもどったとき、空き地の端に人が何人か立っているのを見つけました。最初は衛兵だろうと思ったんです。でも、その後で、かれらが長いロープを着て、頭巾《ずきん》をかぶっているのに気づきました。ウルリックの司祭みたいでした……」
ウルリック派の大司教は肩をすくめて、腹をかいた。タラベックランド侯とミッドンハイム侯は黙って耳を傾けている。ルイトポルトは二人の心づかいに気をよくして、先を続けた。
「……その人たちはじっと立っていました。でも、顔が光る塗料を塗ったみたいにぼんやり輝いていました。声をかけて用件をきくべきだったのでしょうが、みんなを起こしたくなかったし、なんだか急に眠くなってきたので、そのまま天幕にひきかえしたんです。あの人たちがなにをしてたか、あなたならご存じだと思ったんですけれど」
オスバルトは考えこんでいた。
「この子は幽霊かなにかを見たのだと思うか? 亡くなった父はよく精霊を見るたちだった。そういう形質というのは、一世代おきに現われるのかもしれん」
「そんな亡霊じみた人々のことは聞いたことがありませんね」オスバルトは言った。「このあたりの森には、たくさん幽霊話があります。あなたがたも、わたしの友人ルディ・ヴェゲナーにはドラッケンフェルズ砦《とりで》でお会いになるでしょうが、その男が地方に伝わる伝説に詳しくてね。いろいろ話を聞かせてもらいました。しかし、そんな修道僧の話にはさっぱり覚えがありませんね」
フォン・メクレンブルク男爵《だんしゃく》が鼻を鳴らした。「それがほんとうなら、あなたはご自分の伝説について少し不勉強ということになりますな、オストランド侯。ドラッケンフェルズ砦の修道僧は、妖術《ようじゅつ》使いや魔狩人の間に広く知れわたっていますよ」
カール・フランツはオスバルトが同僚の選帝侯の博識ぶりに気を悪くするのではないかと思った。メクレンブルク男爵は茶の残りをじゅっと焚き火にかけると、先を続けた。「ドラッケンフェルズは存命中に多くの者を殺しました。すぐれた魔術師でもありましたから、その犠牲者を死後も自分の支配下に置くことができたのですよ。犠牲者の魂はドラッケンフェルズにしがみつき、その奴隷となりました。中にはやつの信奉者になった者さえいます。そうした連中は修道僧のような格好で現われるそうですよ。かれらは主人の死後も互いに結束しあい、霊界に組織をつくっているという話です。われわれはドラッケンフェルズの要塞《ようさい》に向かっていますから、きっとそういう <大魔法使い> の犠牲者たちが便乗[#「便乗」に傍点]してきたのでしょう。
V
前日の夜、状況が最悪となったとき、舞台監督助手は「朝になれば、事態はよくなって見えますよ」とデトレフに言って、前歯を二本折られていた。そして今朝、予想どおり事態がいっそう悪くなったと思えるいま、デトレフは短気を起こしたことを少しばかり悔《くや》んでいた。かれは明け方前に死んだような眠りに落ち、皮のすりむけた拳《こぶし》の痛みで目がさめたのだ。頭がずきずきとうずいていた。いままでどんなに飲んで騒いだ翌朝でも、これほどひどい頭痛に襲われたことはない。それに、口の中があっというまに渇いてしまうねばねばを詰めこんだような感じだった。朝食を運んできた召使いは、デトレフの邪魔をしないように、盆を寝台の脇《わき》に置いていったらしい。デトレフは冷えた茶を一口含み、歯の隙間《すきま》の食べかすをすすいで、もう一度カップに吐きだした。ベーコンをはさんだパンは冷たく、油っぽかった。デトレフは一口かじって、むりやりそれを飲みこんだ。
すべての出来事が生々しく、洪水《こうずい》のように蘇《よみがえ》った。
デトレフのかけがえのない友人はおぞましく変異した怪物だった。しかも、ヘンリック・クラリイは、その友人がルディ・ヴェゲナーとドワーフのメネシュを殺した狂人だと言うのだ。
前の晩デトレフは、面倒がって服を着替えていなかった。朝になって服を脱ごうとして、清潔な服が用意されているのに気づいた。それを着ながら、頭にかかる靄《もや》をふり払おうとする。無精髭《ぶしょうひげ》の生えた顎《あご》をなでながら、安心して剃刀《かみそり》が持てるようになるまで髭をそるのはやめようと考えた。
大広間に行くと、劇団のほとんどの者が集まり、扉に貼《は》りだされたヘンリック・クラリイの署名入りの掲示をのぞきこんでいた。
その貼り紙は、殺人者がつかまったので、すべてを予定通り進行すると告げていた。ファーグル・ブレグヘルについては一言も触れていないし、かれがそこにいないことに、まだだれも気づいていない。
「ぜったいコジンスキーめの仕業だよ」ひそひそ声がきこえる。
「おれじゃないぜ」コジンスキーがそう言って、だれかを殴りつけた。
「あの吸血鬼はどこだ?」いかさま師のユストゥスがきいた。
「彼女じゃない」デトレフは言った。「クラリイがつかまえたのは、ブレグヘルだ……」
まさか、と息をのむ声が人々の間に広がる。
「……しかし、決まったわけじゃない。少なくとも、ぼくが納得するほどの証拠は上がっていない。で、ジュヌビエーブはどこにいるんだ?」
だれも知らなかった。
デトレフはジュヌビエーブの私室で、死んだように寝台に横たわる彼女を見つけた。呼吸はしていないが、デトレフが手を当ててみると心臓はゆっくり動いていた。ジュヌビエーブを起こすことはできなかった。あまり落ちついていられる状況ではないが、デトレフは足を止めてあたりを見回した。化粧台の上に本が何冊か載っている。ブレトニアの古文字で書かれているのはわかるが、内容までは理解できなかった。ジュヌビエーブの日記だろうか? 中が読めたら、さぞかし興味深いだろうに。鏡はスカーフでおおってあった。自分の顔が見慣れないものになるというのは妙な気分だろうな、とデトレフは思った。それを除けば、普通の女性の部屋と特に変わったところはない。衣装箱、ちらしが数枚、寝台脇の小机の上に鍵《かぎ》と硬貨、七世紀前の衣装をつけた男女の聖画大の肖像画。それから、小さな文字で書き込みを入れた『ドラッケンフェルズ』の脚本の写しが、椅子《いす》の上に載っていた。これについては、後でジュヌビエーブにきいてみることにしよう。自分の役の練習でもしていたのだろうか? というより、リリ・ニッセンの役か。一分、二分とすぎてもジュヌビエーブが目を覚まさないので、デトレフは彼女を仮死の眠りに残したまま部屋を出た。
つぎに、デトレフはラインハルト・イェスナーを探しだし、ブレグヘルのことで留守にするから、その間、役者に台詞の稽古《けいこ》をさせておいてくれと頼んだ。若い役者はすぐに了解し、てきぱきと劇団員を追いたてた。一
クラリイの署名入りの貼り紙は砦《とりで》のいたるところにあった。ただ命令を与えるだけで、状況の説明はいっさいされていない。あの男はまるまる一晩かけて、貼り紙に署名したにちがいなかった。
デトレフは厩舎《きゅうしゃ》でかれらを見つけた。とりあえず尋問室兼|牢獄《ろうごく》として、厩舎を使うことにしたらしい。デトレフは拳でなにかを殴りつける音をききつけて、そこに着いたのだ。
クラリイたちは馬房の一つを片付けて、その中に獣のように素っ裸にしたブレグヘルを鎖でつり下げていた。クラリイが丸椅子にすわって尋問を続ける間、インクまみれの書記官が自分の帽子より背の高い羽根ペンでやりとりの一部始終を書きとめている。悲鳴を書き写すときには、いったいどんなふうにやるのだろう?
クラリイの鉾槍兵の一人がもろ肌脱ぎになって、ほてった汗まみれの肌をさらしている。兵は籠手《こて》をはめていたが、それでブレグヘルを痛めつけていたようだ。
囚人の、まだ人間の顔から血が滴っている。体の他の部分からは黄色い液がしみだしていた。
あれでは、たとえブレグヘルがこたえたくても返事のしようがないだろうに、とデトレフは思った。
「ここでなにをやってるんだ、クラリイ? このおおまぬけ!」
「自白させてるんですよ。皇子はここに到着なさる前に、すべて片がついていることをお望みでしょうから」
「そんな籠手で二度三度と打ちのめされた日には、ぼくだって自白するさ。いいか、いくらきみがまぬけだからって、拷問が時代遅れになった理由くらい知ってるだろう。まあ、自分の楽しみのためにやってるんなら別だがな」
クラリイは立ちあがった。長靴《ブーツ》がブレグヘルの黄色い膿に濡れている。執事はきれいに髪をかりあげ、真っ白な幅広のネクタイを締めていた。とても前の夜、秘密の通路を這《は》いまわって、一足飛びに結論にとびついた男には見えない。
「犯人にしかわからない細かい事実があるはずです。われわれはそれを追及してるんです」
「で、もしブレグヘルが犯人でなければ?」
クラリイの唇が片側だけまくれあがった。「証拠を見るかぎり、そんなことはありえないと思いませんか?」
「証拠! 人殺しが血に濡れた手で扉を握り、お手頃《てごろ》な囮《おとり》にきみを導いたんだ。そして、きみはまんまと相手の思う壷《つぼ》にはまった。九つの子供だってそんな手にはひっかからんぞ!」
拷問人はブレグヘルの腹に強烈な一撃をくれ、そこに密生している得体の知れない羊歯《しだ》のような触手をざわつかせた。ブレグヘルの胸にあった目は、いくつかえぐりとられている。もう一人のクラリイの部下が火鉢に火を入れ、鍛冶《かじ》の道具をそこにつっこんだ。オストランドでは拷問がまだ過去の遺産となっていないのは明らかだった。果たして、善良なる皇子はこうした一部始終にどんな反応を示すのだろうか。
「わたしは血のついた扉のことを言っているのではありません、ジールックどの。つまりわたしは……この……異形の怪物、混沌《こんとん》の生き物の……」
ブレグヘルの腰のまわりにできた口がいくつも開き、長い舌がとびだしてきた。拷問人が金切り声を上げた。
「こいつが刺した」男の腕に青いみみずばれができる。
「おまえは三日のうちに死ぬぞ」ブレグヘルは言った。異様に感情を押し殺した声だった。
手をふりあげて殴りかかろうとした拷問人は、あわてて後ずさった。その目に恐怖がみなぎっている。男は悪い菌を握りつぶそうとするかのように、自分の腕をぎゅっとつかんだ。
「きみにはそんなこと、わかりゃしないさ、ブレグヘル」デトレフは言った。「いままで人を刺したことなんかないはずだからな」
ブレグヘルは笑った。喉《のど》の奥で、ごろごろと鳴る音がする。「そのとおりです」
拷問人ははっとして、ブレグヘルをこっぴどく打ちのめした。血がとびちる。馬房の床はありとあらゆる体液に濡れ、つるつるすべった。あたりには、ひどい悪臭が漂っている。書記は後々のために、いまの出来事のあらましを書きとめた。
「クラリイ、友だちと話をさせてくれないか」
執事は肩をすくめた。
「二人きりでだ」
クラリイはうなずいて立ちあがり、大股《おおまた》に馬房を出ていった。拷問人はみみずばれをかきながら、執事の後に続いた。書記も尋問の手続きのことでぶつぶつ文句を言いながら、ひきあげていった。
「なにか持ってこようか?」デトレフはきいた。
「水をもらえるとありがたいんですが」
デトレフは近くにあったバケツのひしゃくを使って、友人の口もとに水を運んでやった。異様に歪《ゆが》んだ生き物のそばに、そこまで近づくのは妙な感じだったが、デトレフは嫌悪感を押さえつけた。ブレグヘルは水をすすって咳《せ》きこみ、傷ついた口もとから水滴をこぼした。だが、喉に異常はなく、いくらか飲み下すことができた。ブレグヘルは疲れはてて鎖にぶらさがり、なにかを期待するようにデトレフを見つめた。
「さあ」ブレグヘルは言った。「きいてください……」
「なにをきくんだ?」
「わたしがルディの腹を裂き、かれの目玉をくりぬいたかどうかです。そして、同じことをメネシュにもしたのかどうか」
デトレフはためらった。
「よし、わかった。じゃあ、きこう」
ブレグヘルの目からまた涙があふれる。裏切られたような顔だった。「大きな声できいてくださいよ。そのほうが人を傷つけますからね。こういう場合は、相手を傷つけられるかどうかが、なにより大事なんです」
デトレフは唾を飲みこんだ。「きみがかれらを殺したのか? ルディとメネシュを?」
ブレグヘルは痛みにさいなまれながら、歯のない笑みを見せた。「あなたはそう思ってるんですか?」
「いいかげんにしろ、ファーグル! 相手はこのぼくだ。デトレフ・ジールックなんだぞ。昨日や今日の仲じゃないだろう! ぼくたちは一緒に仕事をしてきた……もう何年になるかな? 『シグマーの歴史』のときも、きみはずっとぼくの味方だった。そのきみを、ぼくが見捨てると思うのか。単にきみが……」
デトレフは言葉を探した。
ブレグヘルが代わりにその言葉を口にした。「変異種《ミュータント》だからって? 最近はかれらを……わたしたちを、そう呼ぶんですよ。ええ、わたしは混沌《こんとん》の生き物です。ごらんなさい……」
ブレグヘルが体をふるわせると、見たこともない器官が胴からとびだしてくる。
「奇妙な病気ですよ。これが原因で死ぬのか、それとも生まれかわるのかはわかりません。わたしもあなたのようなもの書きだったらよかったのに、と思いますよ。そうすれば、これがどんなものか書き残すことができたでしょうに」
「痛むのか?」
「ときどきね。それ以外は……快適なものですよ、ほんとに。わたしは痛みを感じずにいようと思えば、そうできる。でなけりゃ、とっくにクラリイが喜びそうなことを白状してたでしょうね。不幸なことに、そしらぬふりを押しとおすなんてことは、わたしにはできないんです。この腹に生えた触手は、相手の心でいちばん大きく占めている事柄を見抜いてしまうんですよ。だから、あの殺人事件についても、クラリイがわたしを殴り、火あぶりにしてまでききだそうとしてるのは、よく知ってるんです。あなたがこんな姿になったわたしを、ほんとうはどう感じているかわかるようにね」
デトレフは内心すくみあがり、思わず弁解の言葉を口にした。
「謝ることはありません。わたしだって、こんな姿になりはてた自分に愛想をつかしてるんですから。いつだって自分には愛想をつかしてきました。いまにはじまったことじゃありません。あなたを責める気など毛頭ありませんよ。わたしにチャンスをくれたのは、あなただけでした。わたしはもうすぐ死ぬでしょう。その前に、どんなにあなたの友情に感謝していたか、言っておきたかったんですよ」
「ファーグル、ぼくはクラリイにきみを殺させる気はないぞ」
「ええ、あなたにはね。死ぬか生きるか選ぶ権利は、わたしにあるんです。わたしは自分の心臓を止めることができる。胸の内側に生えた牙《きば》で心臓を喰い破ればいい。それをこれからやるつもりです」
「だが、オスバルトさまは公平な人だ。犯してもいない殺人の罪で、きみが縛り首になるのを許すはずがない」
ブレグヘルの触手がふるえ、色が変わった。
「ええ。でも、わたしがこれから犯すかもしれない殺人の罪で縛り首になるとしたら? こんな姿になったというだけで、充分ではありませんか? わたしはどんどん変わってるんです……」
「それは見ればわかるよ」
「……体だけじゃありません。心も変わってるんです。衝動に負けそうです。変異石《ワープ・ストーン》は体だけでなく心まで変化させてしまうんです。ものをちゃんと覚えられないし、変な考えや願望が頭に浮かぶ。ちょっとやそっとの変化ではありません。荒野に行って、他の怪物たちと一緒に混沌の群れに紛《まぎ》れることもできるでしょう。でも、もはや、わたしはほんとのわたし[#「わたし」に傍点]ではないんです。ファーグル・ブレグヘルは姿を消しつつあります。変わりはてた自分の姿をこの世に残したくはないんです」
ブレグヘルは歯をくいしばり、鎖につながれた体をつっぱった。胸の内側から、臼《うす》をひくような大きな音が轟《とどろ》く。触手の色が濃くなり、太い腸詰めのように突きだした。
クラリイとその手下があわてて駆けもどってきた。「けだものめは、いったいなにをやらかしたんです?」執事がきいた。デトレフは振りかえって、自分の拳《こぶし》のほうが痛むくらいに、相手の腹を殴りつけた。クラリイは体を二つに折り、罵声《ばせい》を上げながら咳《せ》きこんだ。デトレフはもう一発くれてやりたかったが、事態が紛糾して、それどころではなくなった。
ブレグヘルの胴体がふくれあがり、鎖がぶつりとちぎれる。かれは笑みを浮かべながら、クラリイに詰めよった。執事は怪物が近づいてくると悲鳴を上げた。ブレグヘルは鎖を鳴らして微笑《ほほえ》み、自分を苦しめた者の顔を殴りつけた。ブレグヘルの体はふくらみつづけ、皮膚が裂けはじめた。目がいぼのように飛びだす。かれは肺いっぱいに大きく息を吸いこみ、そして爆発した。デトレフはとびのいて飛沫《しぶき》をよけた。拷問人は足をすくわれ、体を支えようとして熱した石炭火鉢に片手をつっこんでしまった。手を火であぶられて、拷問人が絶叫を放つ。ブレグヘルは大きなため息とともに粉々に飛びちった。
死ぬきわにファーグル・ブレグヘルは言い残した。「芝居が成功しますように」と。
W
その三日後、皇帝の一行が到着したときには、砦《とりで》は何事もなかったような普段の生活にもどっていた。デトレフはファーグル・ブレグヘルの葬儀を取りしきり、ヘンリック・クラリイには、目の前をうろちょろしないほうが身のためだぞ、と言い渡した。クラリイはブレグヘルが殺人者だったと宣言した貼《は》り紙をかたづけた――あれ以来、新たな犠牲者もなく毎日がすぎていることを考えれば、わたしが正しいのがわかるだろうに、と手下の者にぼやきながら。かりにドワーフに共謀者がいたとしても、執事はその追及にたいして時間をかけていなかった。内輪の者に対しては、メネシュの殺された部屋できいた詠唱はおそらくブレグヘルが不浄な儀式によって召喚した魔物《デーモン》の声だろうと語っていた。しかし、一座の者は、ブレグヘルが人殺しであってもなくても、かれの死を悼んだ。デトレフが午前中の稽古《けいこ》をとりやめることにしたので、全員が助監督の葬儀に出席できた。デトレフはブレグヘルの骸《むくろ》をドラッケンフェルズ砦の外の山麓《さんろく》に埋めた。ユストゥスはいかさま師ではあっても僧侶《そうしょ》にはちがいないので、かれが説教を読み、デトレフは簡単な弔辞を述べた。葬儀に欠席して人目を引いたのは、リリ・ニッセンだけだった。彼女は近頃《ちかごろ》、ろくに稽古にも出なくなっている。ブレグヘルにはデトレフが思っていたよりも多くの友人がいた。オスバルトが到着したら、クラリイには借りを返してもらおう、とデトレフは心に決めた。あの男こそかれの友人を殺した張本人なのだ。
劇はすでに最終的な形に固まりつつあった。デトレフはまる一日、ひとことも台詞《せりふ》を付けくわえたり削ったり変更したりせずに通し稽古をやり、劇団員の拍手|喝采《かっさい》を受けた。かれは書き込みだらけの台本を取りだし、しばらく考えた末に脚本は完璧《かんぺき》にしあがったと宣言した。それから五十分ばかり、これまでの演技をさらによいものにするための講義を垂れた。それぞれに応じて、脅したり、叱《しか》ったり、おだてたり、ねぎらったりする。さらにかれの信奉者には今度の作品の真髄について熱っぽく語った。デトレフは観客席から芝居をながめながら――自分の役は代役にやらせていた――唯一《ゆいいつ》の弱点はリリだけだと思ったが、それについては実のところ手の施しようがなかった。義歯をはめていようがいまいが、少なくともリリはあいかわらず光り輝き、その中身のない演技ですら、|死者の者《アンデッド》らしい超然とした態度だと解釈できなくはない。たとえ、そういう解釈がこの芝居の意図するところでなかったり、ジュヌビエーブ・デュードネに実際に会ったことのある者の期待からそれるにしてもだ。デトレフは自分自身の演技については語れなかった。それもブレグヘルの大きな役割の一つだったのだ。ブレグヘルは製作にまつわる細々した雑事を一手にひきうける一方で、デトレフに俳優としての注意をしてくれた。どうかあの世では、あいつが辛辣《しんらつ》な批評をしてくれないでいますように――デトレフはそう祈りつつ、ブレグヘルに常々注意されていた飲みすぎ食べすぎを控えようと心に決めた。
朝早くに伝令が到着して、まもなく皇帝や選帝侯たちがお着きになりますと伝えると、デトレフは迷うことなくその日の仕事を取りやめ、劇団員たちを解放してやった。休憩をとり、くつろいだほうが、役者はかえって演技が冴《さ》えるだろう。それに、裕福で高名な人たちを見物する機会を与えられたら、団員たちが大喜びするのもわかっていた。女優や楽士の中には、いちばん魅力的で肌もあらわな――あるいはそのどちらか一つでも備えた――衣装をひっぱり出すために、部屋に閉じこもってしまう者も一人ならずいた。あわよくば皇帝の取りまき連中の気をひいて、金持ちの後ろ盾を手に入れようという魂胆だ。
カール・フランツ皇帝は一行の先頭に立ってドラッケンフェルズに乗りこんできた。オスバルト――いまやオスバルト大公である――が、すぐその後に続き、皇帝の子息ルイトポルトが遅れまいとして必死に馬を並ばせている。皇帝が手を振ると、群がる役者から大歓声が上がった。他の馬車は車輪をきしらせ、ごろごろと音を立てながら砦《とりで》の入口をくぐり、中庭は馬丁や御者《ぎょしゃ》や従者でごったがえした。そうそうたる顔ぶれが馬車から吐きだされ、劇団宿舎の向かい側の翼館に用意された豪奢《ごうしゃ》な宿泊所に案内されていく。エマヌエル・フォン・リーベヴィッツ伯爵《はくしゃく》夫人の滑稽《こっけい》なまでに宝石をちりばめた旅装を見て、イローナ・ホーバシーがうらやましげに意見を述べるのが、デトレフの耳に入った。ミッドンランドの選帝侯はデトレフの視線を避けてそそくさと立ち去り、真っ青な顔をして手洗いを探しにいった。世の中には旅が苦手な人もいるらしい。クラリイが現われて、いのいちばんにオスバルトの元に駆けよった。執事が簡単な報告をすると、オスバルトの顔が曇るのがわかった。
オスバルトは、新たに押しよせた警備兵をクラリイにまかせて、デトレフのそばにやってきた。
「まずいことになっているようだな」
「ええ、閣下。その上、あなたの執事がますます事態を悪化させまして」
オスバルトは深刻な顔をした。「そのようだな」
「ファーグル・ブレグヘルはどんな罪も犯していません」
「だが、かれは変異していた」
「それだけで、法に触れるわけではないでしょう」
「まあ、いまのところはな。大学では運動が起こっているが。しかし、この件はこれだけではおさまらんだろう。なにか手を打たねばな。どうするかは、きみにも知らせる」
若いルイトポルトがオスバルトに駆けより、はしゃいでかれの外套《がいとう》をひっぱった。その後で少年はデトレフに気づき、ばかげた軍服で体を締めつけた普通の少年から、自信に満ちた小さな貴族にさっと変貌《へんぼう》した。
「デトレフ・ジールック、ヴィルヘルム二世家のルイトポルトさまを紹介しよう」
少年は片手を顔の前で振って、一礼した。デトレフは礼を返した。
「お目にかかれて光栄です、殿下」
やるべきことをしおえたルイトポルトは、オスバルトに関心をもどした。
「どこで怪物をやっつけたのか教えてください、オスバルト。それにあなたの先生がドワーフのウエリに殺された場所とか、ガーゴイルが壁から出てきた場所とか……」
オスバルトは笑ったが、あまり愉快そうではなかった。「デトレフの芝居までお待ちなさい。そうすれば、全部わかりますよ」
未来の皇帝は走りさった。絹の靴下が片方ずりさがり、足首のあたりでまるまっている。オスバルトのほうがカール・フランツよりずっと親ばかに見える、とデトレフは思った。やがて大公は真顔にもどった。突然、自分が舞いもどってきた場所に気づいたかのようだった。
「あのとき、われわれは中庭からは入らなかった」オスバルトは言った。「ここは後から見たんだ。太陽の下でね。わたしたちは崖《がけ》の入口から入ったのだよ。砦《とりで》が横に張り出した向こう側にそれがあるのだ」
オスバルトは指さした。昼間に見ると、ドラッケンフェルズはありふれた山城にすぎない。ここに恐怖が忍びよってくるのは夜だけなのだ。
「ジュール・イェハンが――わたしの古い友人のイェハンが――喉《のど》を引き裂かれ、血の最後の一滴まで流したのは、あそこだ」
「友を亡くさないものはおりませんよ、閣下」
オスバルトは、いまはじめてデトレフに出会ったかのように、かれを見つめた。
「すまなかった。つまり、この地はなおも犠牲者を求めているというのだな。ときどきわたしは思うのだ。この砦を取りこわして瓦礫《がれき》に帰し、跡に塩と銀をまいておくべきではなかったかとな」
「でも、そんなことをすれば、今度の芝居を行なえなかったでしょう」
「うむ、確かに」
デトレフには、オスバルトがこの一週間のうちに起こったルディ・ヴェゲナーやドワーフのメネシュの死より、二十五年前のジュール・イェハンの死のほうに心を奪われているような気がしてならなかった。この貴族は最初にここを訪れたときより、面の皮が厚くなっている。デトレフ演じる若き英雄は、敏腕の政治家、堂々たる国家要人としての顔の奥に隠れてしまったようだ。
そのとき、中年にさしかかったばかりの溌剌《はつらつ》とした男が、二人に近づいてきた。男が礼装の外套《がいとう》を脱いでいたので、デトレフにはしばらくその質素な黒い旅装に身を包んだ人物の正体がわからなかった。
「デトレフ、こちらがルイトポルトさまのお父上だ」
ヴィルヘルム二世の末裔《まつえい》、カール・フランツ皇帝が手を差しだした。その手を握ってよいものやら、口づけしてよいものやら、デトレフには判断がつかず、どちらもやっておくことにした。驚いたことに、デトレフは一目でその男を気に入った。
「きみの作品の噂《うわさ》は、さんざんきかされたよ、ジールック。明日の夜には、決してわれわれの期待を裏切ることはないと信じている」
「お言葉に沿うよう精一杯、努めます、陛下」
「われわれがきみに望むのはそれだけだ。さあ、オスバルト、食事にいこう。飢え死にしそうなのだ」
カール・フランツとオスバルトは腕を組んで立ち去った。
あの二人こそ巨人だ、とデトレフは思った。気まぐれな思いつき一つで人々の人生を変え、過ち一つで何千人もの人間を切りすて、その美徳は永遠に語りつがれる真の神。ドラッケンフェルズ砦と同様、そうした者は太陽の光の下ではたいした人物に見えないものだ。
ジュヌビエーブが例の奇妙な色つき眼鏡をかけて現われ、オスバルトに駆けよった。
デトレフはそのとき自分に生じた感情が嫉妬《しっと》かどうか、決めかねていた。
X
砦《とりで》の翼館の一つでオスバルトが皇帝や選帝侯をもてなし、もう一方の翼館でデトレフが本稽古《ほんげいこ》を監督していたとき、アントン・ファイトはドラッケンフェルズ砦を去る準備を進めていた。自室の隠し場所から武器を取りだして、それを磨きあげ、痩《や》せこけた胴に縄を巻きつけ、さらに山で三日間すごせるだけの食料を荷物に詰めこむ。それから、葉巻を一本取りあげて、胸の痙攣《けいれん》をなだめつつ、そっと煙を吸いこんだ。
おれは馬鹿じゃない。エルツベトが死に、ルディが死に、メネシュが死んだ。つぎになにが起こるかはわかっている。あの吸血鬼の娘も大公もきっと頭がおかしいんだ。こんなところに残って、みすみす殺されるのを待ってるなんて。だけど、おれはもう抜けさせてもらうぜ。
二十五年前とまったく同じだ。コンラディンが死に、ハインロトが死に、ジュール・イェハンが死んだ。ドワーフのウエリも死に、魔法使いのステランも死んだ。他にも、もう名前すら思いだせない者たちが死んでいる。あのとき、ファイトは一人で闇《やみ》に残され、死を待っていた。
ほんとはおれはドラッケンフェルズ砦の廊下で死んだのではないだろうか、とファイトはときどき考えることがあった。あれから後の人生は実はただの夢、というより、悪夢だったのではないのか? 黒い蟹《かに》が体をさらに蝕《むしば》み、ファイトは忍びよる毒の影に怯《おび》えながら、闇の中ですごしたあの数時間に引きもどされていくような気分を味わった。
体の下にドラッケンフェルズ砦の石床の感触を覚えて、夜中にはっと目覚めることもよくあった。
ひょっとすると、オスバルトや他の仲間が死にかけのおれをここに置き去りにしてから、まだ数分しか経《た》っていないのではないだろうか? 意識を失っていたわずかの間に、おれはその後の人生すべてを空想の中でつくりあげたのだろうか? 夜の闇に包まれていると、この二十五年の出来事が夢のように思える。記憶におぼろな、あんな最低の生活が真実のものだったなどと、どうして信じられるだろう? そうした気弱な考えを持つこと自体、この場所がいかに危険であるかの証拠だ。やはり、もどってくるべきではなかった。自殺するのに雇われるなんて、いくら帝国《エンパイア》の金貨をつまれてもごめんだぜ。
ファイトは慎重に時間を選んでいた。オスバルトは接待に忙しく、デトレフは稽古に忙しい。警備兵はいるかもしれないが、よもや逃亡を企てる者があろうとは思っていないだろう。問題はなにもないはずだ。たとえこうるさい鉾槍兵に出会ったところで、こちらには|投げ矢銃《ダーツ・ピストル》と小剣《ショート・ソード》がある。たしかに、ドラッケンフェルズ要塞《ようさい》から出ていくことせ、オスバルトに堂々と告げられない理由はなかった。だが、大公の気まぐれに一か八か賭《か》ける気にはなれない。ファイトを解放するくらい、オスバルトにはなんでもないことだろうが、幽閉するのもそれと同じくらい簡単なのだ。それに、今度の祝宴でファイトの占める位置がどれほど重要であるか確かめるすべがない。
ファイトは古い狩猟用の服を着て部屋を後にし、足音を忍ばせて中庭に向かった。庭は明るく照らされており、武器を構えた兵が大勢いるのが見える。クラリイは自ら見張りの陣頭指揮に立ち、これまでの自分の行動を正当化するためにか、皇族たちの護衛にやっきになっていた。正門の扉は閉まっている。つまり、そこから逃げだすつもりなら、城壁をよじのぼれということだ。それでは、あまりに危険が大きすぎる。
結局、数十年前、砦《とりで》に入るときに使った崖の頂上の出入口から抜けだすしかないだろう。縄はあるし、握力だって昔と変わっていない。おそらく、山を下ってブレトニアまで逃げのびることができるはずだ。オスバルトもそこまでは追ってこないだろうし、ブレトニアなら重罪犯がたくさんいて飯の種には事欠かない。あの町で、ブレトニアの娼婦《しょうふ》やブレトニアの葡萄《ぶどう》酒に囲まれて余生をすごそう。そうすれば、例の蟹《かに》に殺される前に、不摂生がたたって心臓が破れてくれるかもしれない。
数週間前この砦に着いたとき、ファイトは最初の冒険の跡をたどってみた。オスバルトがドラッケンフェルズを滅ぼしている間に、自分が意識不明で横たわっていた場所を探そうとしたのである。だが、見つからなかった。どの廊下もみな同じに見えた。ファイトはいままた、その道を引きかえし、かつての足跡をたどって逃げだそうとしていた。かれは役者たちがドラッケンフェルズの死を再現している大広間を通りすぎ、ルディが丸太の罠《わな》にはさまれた通路をゆっくりと進んだ。その向こうに、厳しい試練の場所が待ちうけている。 <毒の宴《うたげ》> の部屋や石のガーゴイル、ステランを殺した魔法の扉、そして外壁が。
体の痛みはここ数日おさまっていた。快適な宿舎と本物の食事のおかげだろう。ファイトはその贅沢《ぜいたく》さにつられて、あえて危険に目をそむけてきたのだ。だが、いまや太っちょの老いぼれルディが消え、片腕のメネシュが消え、哀れな気のふれたエルツベトが消えた。遺体はすべて目玉のないまま葬られている。ファイトと同じように、かれらも四半世紀前にここで命を落としていながら、時を超《こ》えてこの世にしがみついてきたのだろうか。ファイトはかれらよりほんのわずかしぶとく、この世にしがみつこうとしていた。
ファイトは何時間もさまよった。そんなに長くかかるはずはないのに。かれは物陰にひそんで何度も休息を取った。すでに時刻は遅い。そろそろ本稽古《ほんげいこ》がおわり、祝宴もお開きになる頃だろう。砦のこのあたりはひっそりしており――というより、避けられており――ファイトが安全な外の闇《やみ》に逃げ込むのを邪魔立てする者はだれもいない。ルディはここで発見された。そしてメネシュが皮を剥《は》がれた部屋は、この先の廊下の角をいくつか折れただけのところにある。
ファイトは蟹《かに》の存在を感じていた。蟹が体の中で位置を変えるのがわかる。心臓が石のように重く胸にぶらさがり、関節が痛む。かれは服の下で出血しているのを感じた。見張りの注意を引かないように、咳《せき》の発作を必死でこらえる。あるいは、もっと出会いたくない存在の注意を引かないように。
ファイトはひどいぬかるみを進むように足をひきずって歩いた。昔、ガーゴイルから受けた毒が血管にまわって、ファイトの肉を石のように変えてしまったことを思いだす。この二十数年、あの病いはファイトの体の奥底にひそみつづけ、かれがもう一度ドラッケンフェルズにもどってくるのを待って、襲いかかってくるのだろうか?
濡《ぬ》れたものが顔に垂れた。傷跡に手をやると、血が出ていた。ガーゴイルの角にやられた昔の傷がまた開いたのだ。
ファイトは前に進もうとしてよろめき、頭から倒れた。板石に頭をぶつけて、がつんと音を立てる。思わず拳《こぶし》を握ったために、|投げ矢銃《ダーツ・ピストル》が発射された。投げ矢が体の下を床に沿ってひゅっととび、太腿《ふともも》に突きささるのを感じる――というより、音でわかった。痛みに襲われたのはその後だ。ファイトは床を転がり、ずるずると後ろ向けに這《は》ったが、しまいに壁に突きあたった。矢の柄がまがり、鏃《やじり》は深く肉に埋まっている。それをつかんで引き抜こうとしたが、指がすべってつかめない。いや、矢の柄を握って足から抜きとるだけの力がわいてこないのだ。
ファイトは疲れきり、しだいに眠気に誘われた……。
……やがて、足の痛みがもうろうとした意識に割り込み、ファイトははっと目を覚ました。
通路には他にも人がいた。昔の仲間だ。エルツベトが長い髪を顔に垂らし、後ずさりしている。ルディの垂れさがった皮膚が骸骨《がいこつ》の上でなびいている。メネシュは皮を剥《は》がれた手で自分の臓物を握って、こちらにすりよってくる。まだまだ仲間はいた。ジュール・イェハンはざっくり首を切られ、ハインロトの体は裏がえり、外側に骨が出て、内側に皮膚が入っていた。魔術師ステランのぼんやりかすんだ姿からは、細かくちぎれた肉片がいく筋も垂れさがっている。そして、仮面の男――ドラッケンフェルズとはまったく別人だが、いまだげはその役をひきうけた男、ファイトの目をほしがる男――が、そこにいた。
ファイトはついに自分の場所を見つけたのだ。
Y
皇帝の晩餐《ばんさん》会では、ジュヌビエーブは子供たちの席にすわらされたような気分になった。オスバルトとカール・フランツは主賓席で他の選帝侯に囲まれているというのに、ジュヌビエーブは二番目のテーブルにぴったりの飾りものとでも思われたのだろうか、皇帝の子息ルイトポルトが主役の席につかされたのだ。次期皇帝は興奮しきったようすでジュヌビエーブにドラッケンフェルズのことを質問したが、彼女がオスバルトと <大魔法使い> の接近戦の間、意識を失っていたと知ってがっかりしていた。ジュヌビエーブはマルレーネ男爵《だんしゃく》夫人のにきびだらけの娘クロチルデの真横の席にすわらされていた。その少女の世界には、ただ衣装と舞踊会の招待状だけしか存在しない。まもなく十八歳になろうかというクロチルデは、ジュヌビエーブをまるで小さな子供のように扱って、自分の成熟ぶりを印象づけようとしていた。その少女が自分の正体はもちろん、年齢のことなどまったく知らないのに気づいて、ジュヌビエーブはちょっと愉快だった。
ジュヌビエーブはあまり食べず、飲み物はなにも摂《と》らなかった。ときには単に味覚を満足させるためだけに食事を摂ったりするが、彼女が生きていくには肉もパンも必要ない。それどころか、あまり普通の食事を摂りすぎると胃にもたれ、体調を崩してしまうのだ。必要に迫られてものを食べたのはいつのことだったか、もうほとんど思いだせないくらいだ。
シグマー派大神宮の相談役マシアスがおずおずとジュヌビエーブにダンスを申しこんだが、彼女があまりに毅然《きぜん》と断わりすぎたためか、その後の食事の間、相談役は二度と皿から目を上げなかった。
ジュヌビエーブはちらちらと主賓席に視線を送りながら、客を観察した。オスバルトは満ち足りたようすで、言葉少なに椅子《いす》の背にもたれている。エマヌエル伯爵《はくしゃく》夫人は部屋にいるだれよりも美しくあろうと懸命だ。皇室の華麗な系図に名を連ね、それと複雑にからみあったフォン・リーベヴィッツ家――その関係を書き記せば家系図は六メートルにも及ぶだろう――の者として、夫人の首飾りが三百個の粒のそろったサファイアからできているとか、深く前のきれこんだベストが金糸で織ったものであるとか、クロチルデがとうとうと説明してくれていた。おそらく、伯爵夫人のぴったりした服には詰め物がしてあるのだろう。生身の女があれほどまろやかにコルセットや絹の衣裳を着こなせるわけがない。
本稽古《ほんげいこ》が終わると、劇団員の中から選ばれたわずかの招待客が宴席に加わった。デトレフはぎこちなくリリ・ニッセンに腕を組まれてやってきて、女優を貴族たちに紹介した。選帝侯の中には上品に顔を赤らめるだけの者もいたが、他の者は恥ずかしげもなく露骨に物ほしげな顔を見せた。リリとエマヌエル伯爵夫人の間に激しい憎悪の火花が散ったのを見て、ジュヌビエーブは笑いだしそうになった。趣味の悪さと野暮という点では、二人の衣装は充分にはりあっている。リリは魔女も溺《おぼ》れるかというほどの宝石を身につけてはいたが、いかんせんフォン・リーベヴィッツ家の財力の前に敵ではなかった。しかし、リリには斜めに切れ上がったドレスの裾《すそ》と、網目のタイツからのぞいたピンク色の肌がある。伯爵夫人と女優はほとんど唇をふれないまま頬《ほお》に口づけを交わし、互いに相手の若さをほめちぎったが、その言葉のはしばしから毒が滴っていた。どうせあたしのことはヒルとでも呼びたいのでしょうね、とジュヌビエーブは思った。
「ねえ、聞いて」ジュヌビエーブは相手がまだ十八歳にもなっていない[#「十八歳にもなっていない」に傍点]ことをついつい忘れて、クロチルデに話しかけた。「この部屋の中で、歳《とし》をごまかさなくていい女はきっとあたし一人ね」
少女はおびえたように笑った。ジュヌビエーブは自分が犬歯をのぞかせてしまったことに気づいて、慎みぶかく唇を閉じた。
「ぼくはあなたの歳を知ってますよ」ルイトポルトが言った。「オスバルトとジュヌビエーブの物語詩に出てきました。たしか六百三十八歳でしたね」
クロチルデは葡萄《ぶどう》酒にむせ、衣装をだいなしにしてしまった。
「それは二十五年前のことですわ、殿下」
「じゃあ、あなたはいま……」
ルイトポルトは舌で頬をふくらませながら、頭の中で計算した。
「……六百六十三歳だ」
「そのとおりです、殿下」ジュヌビエーブはグラスを上げて乾杯したが、唇はつけなかった。
食事が終わり、客が立ち上がった。クロチルデができるだけ遠くへ離れようとしているのを見て、ジュヌビエーブはなんだか悪いことをしたような気になった。この少女はどこか姉のシリエルに似ている。
ルイトポルトはそこで気のきいたふるまいをした。「さあ、父上のところへ行きましょう。きっとミッドンハイム侯とクラブハイム侯に閉口して、助けを求めておられるはずですからね」
未来の皇帝はジュヌビエーブにつきそって、カール・フランツに群がる高位のおべっかつかいたちの中へと連れていった。リリはたくましい風貌《ふうぼう》の若者――おそらくサドンランドの選帝侯だろう――の気をひこうと懸命だが、どうやら取りつくしまはなさそうだった。エマヌエル伯爵夫人はデトレフに向かって睫《まつげ》をぱちぱちさせている。ジュヌビエーブは昔、サウスランドで大きな黒猫が二匹、鹿の死骸《しがい》をはさんで互いに譲りあっておきながら、しまいには競争相手のつややかな毛皮から肉片を喰《く》いちぎってしまったのを見たことがある。いま、こうしてにこやかに言葉を交わす裏で、伯爵夫人とリリが鋭く尖《とが》った爪をひそかに研いでいるのが目に見えるようだった。
こういう場にいると、ジュヌビエーブは子供の頃にもどったような気になる。人々の関係はあまりに複雑だし、かれらはジュヌビエーブがその心の表面から読みとった考えとはまるでちがうことを口にする。だからといって、かつてのパラボン市の支配者一族の宮廷よりひどいとは言えない。それにジュヌビエーブは、カール・フランツにはいままで出会ったどんな権力者に対してよりもいい感情を抱いていた。
ヒューバーマンの楽団の奏でる調べに気づく者もいて、舞踊会がはじまった。哀れなルディの催した宴会のように活気にあふれた気楽なものではなく、それは宮廷風の儀式に終始していた。その儀式は、ジュヌビエーブがいまのルイトポルトくらいの歳《とし》に教わったものとほとんど変わっていない。楽しみなどとは無縁で、すべてが仰々しく、俗世での厳格な身分制度の中で、踊り手の地位を再確認するためのものなのだ。妻を同伴していないカール・フランツはエマヌエル伯爵夫人を踊りに誘い、その胸元をのぞきこんだりして、むしろ夫人よりはしゃいでいるように見えた。オスバルトは旅の疲れを口実に、席についたままだった。リリはサドンランド侯に体を押しつけ、相手はわざと彼女の足を踏んだり、何度も足を踏みまちがえたりしていた。デトレフはジュヌビエーブに踊りを申しこんだが、彼女はすでに別の相手と最初のパバーヌを踊る約束をしていた。
ルイトポルトは歳のわりに背が高いので、二人は――この部屋でもっとも若い者と年老いた者は――うまく踊った。ジュヌビエーブは少年の心に触れ、そのときのかれの興奮を感じとった。少年は劇を心待ちにし、それにもましてオスバルト叔父《おじ》との狩りを楽しみにしている。遠い将来には帝国《エンパイア》と王冠が待ちうけているのだが、少年はいまはそのことから目をそむけていた。ジュヌビエーブは知らず知らずのうちに、立派な衣装に身を包んだ平凡な少年にぴたりと身を寄せていた。そして、少年の中に未来への希望を――ジュヌビエーブがいやでも生き長らえて見ることになるだろう遠い日への希望を――感じとった。
デトレフは帝国《エンパイア》の皇位継承者からジュヌビエーブを奪いとった。デトレフがむきになったのはジュヌビエーブのそばにいたいからではあるが、彼女のルイトポルトへの接し方に懸念を感じたせいもあるだろう。若い血の誘惑はそれほどに強いのだ。
二人はその午後、ずっと一緒に踊った。いつとはなしに、オスバルトの姿は消えていた。ジュヌビエーブはオスバルトがいなくなったことよりも、デトレフがいてくれることに心を奪われていたので、そのまま踊りつづけた。しかたのないことだが、晩餐《ばんさん》のおかげでジュヌビエーブの欲望は刺激されたというのに、飢えを満たされないままに捨ておかれたのだ。いま、彼女は渇きを覚えていた。そして、ここにデトレフがいる。熱い血潮をその血管に駆けめぐらせて。
その夜、ジュヌビエーブの部屋で、デトレフは彼女に自分をわけあたえた。ジュヌビエーブは相手の上着をゆるめて前をはだけ、シャツの紐《ひも》をほどいた。デトレフは両手を彼女の髪にさしいれ、眉《まゆ》に口づけをした。ジュヌビエーブは鋭い牙《きば》でそっとデトレフの首のひだをまさぐり、かろうじて動脈に届くくらいに牙を当てた。そうして、天才の血をじっくりと舌で味わう。その血の中に、デトレフのすべてがあった。湧《わ》きでる血潮をなめながら、デトレフの過去、未来、秘密、恐怖、そして野心を感じとる。やがて、ジュヌビエーブがしっかりと相手に結びつくと、デトレフはその愛撫《あいぷ》にこたえた。ジュヌビエーブは飢えたようにむさぼり、口を血で濡《ぬ》らした。それは飲みくだすと喉《のど》に温かく、塩の味がした。ジュヌビエーブはオスバルト・フォン・ケーニヒスバルトを忘れ、デトレフ・ジールックにその身を預けた。
Z
[コンスタント・ドラッケンフェルズは鏡に映る仮面の顔に見入った。意意に満ちた自分の目を見つめ、内部からわきおこる力を味わう。両手を曲げ、血潮とともにその力が骨にしみこんでいくのを味わう。尖《とが》らせた舌を長い歯の上にころがす。やりおえたばかりの大仕事のために、かれの体は鎧《よろい》の中で汗にまみれていた。もう少しで、かれの目的は達成される。水がほしい。水分を補給しなければ。水差しとゴブレットが鏡のそばに置いてある。かれは顔から仮面をはずし……。]
……そして、ラスツロ・レーベンスタインは水を飲んだ。
「すごいよ、ラッツ。ほんとにすばらしい」おろかなイェスナーがかれの背中をどんと殴った。「血が凍りそうだったぜ」
「それは、どうも」
たとえ相手が皇帝であれ芝居の演出家であれ、レーベンスタインがだれに礼を尽くす必要もなく、頭を下げる必要もない日が、まもなくやってくる。レーベンスタインは手にした仮面を見つめ、そこに自分のほんとうの顔を見た。
イェスナーが行ってしまうと、レーベンスタインは目の化粧を落として、それを拭《ふ》きとり、顔にできたしみを隠すために少しだけ化粧を塗りなおした。明日になればもう、そんなごまかしは必要なくなる。ありのままの姿をさらすことができるのだ。変化は主に皮膚の下で起こっていたが、いまに新しい骨が皮膚を突き破って出てくるだろう。もうすぐ、かれの体は <大魔法使い> の鎧にぴったりになる。もうまもなく……。
衣装室に人がいなくなってずいぶん経《た》ってから、レーベンスタインは部屋を出た。そして、後援者の待っている場所をめざして、砦《とりで》を進んだ。まだ細工しなければならないものが残っているし、レーベンスタインは日を追うごとにその作業に熟達していった。
仮面の男が死体にかぶさるように立っていた。軽く腕を組み、部下の幽霊は一体も連れていない。
「骨だ」後援者は言った。「今度は、骨がいる」
レーベンスタインのナイフがすばやく動いた。たくみにアントン・ファイトの体を裂いて肉を切りはなし、あっというまに肉片一つ残らない骸骨《がいこつ》を取りだす。赤い肉の中に、見たこともないような黒い繊維質の塊《かたま》りがあったが 、それも他の肉と同じように、かれのナイフで切りはなされた。
「目を忘れるな」
二か所のくぼみを作って、作業は終わった。レーベンスタインには後援者が仮面の奥で微笑《ほほえ》んでいるように思えた。
「よくやった、レーベンスタイン。これでほとんどそろったな。心臓、肉、皮膚、内臓、骨。あの吸血鬼の女からは血を頂戴しよう……」
「そして、大公からは? あの <大魔法使い> の殺戮《さつりく》者からはなにを?」
仮面の男の動きがとまった。「あの男からはな、レーベンスタイン……あの男からは、すべてのものを頂戴するのだ」
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第五幕
T
開演まで、あと一時間。こういう気分は決して他では味わえないものだ。あらゆる感覚が一千倍にも増幅されている。情事の名残りの噛《か》みあとが――いまはオスバルト皇子の衣装の高い襟に隠れているそれがとかゆみをともなって、デトレフの心を高ぶらせる。衣装室にははりつめた空気がみなぎっていた。デトレフは椅子《いす》に腰かけて化粧をし、心を静めて役へと没頭していった。二十五年前、オスバルト皇子はドラッケンフェルズ砦《とりで》の大広間で、生涯最高の勝利を得た。今夜また、同じ戦いが行なわれることになるが、その勝利はデトレフ・ジールックのものである。
[かれは若き日のオスバルト、果敢にも <大魔法使い> に挑む前に、勇気を奮いおこしている。]
デトレフは剃《そ》りあげたばかりの顎《あご》に手をやり、口髭《くちひげ》をもてあそんだ。テーブルの上には、まだ口を切っていない葡萄《ぶどう》酒の瓶が載っている。祝辞のカードが差し出し人の地位に応じて分類してある。ミッドンランドの選帝侯からさえ、成功を祈る簡単な言葉が届いていた。その人物はデトレフが舞台に登場するや剣につまずき、恋の場面でタイツを破いてしまうことを祈っているはずだろうに。と、そのとき、鏡に人影がちらりと映り、デトレフは肩ごしに振りかえった。だれもいないはずのところに、人がうずくまっているように見えたのだ。
犯人は無雑作にぬぎちらかした外套《がいとう》だった。デトレフは外套を取りあげて折りたたみ、脇《わき》へ押しやった。ファーグル・ブレグヘルの小さな椅子がぽつんと置かれている。
「きみに捧げるよ、友よ」デトレフは誓った。「皇帝にでもなく、オスバルトにでもない。きみに捧げるんだ」
デトレフはここにブレグヘルがいると思いこもうとした。だが、むだだった。そこには、だれもいない。
神経こそ高ぶっていたが、気分はよかった。六時間に及ぶ芝居で、体力を消耗しつくすことはわかっている。デトレフはジュヌビエーブに精気を吸われすぎていないといいが、と心配していた。ところが、現実には、彼女の口づけを受けてからというもの、以前の倍も元気になったような気分だった。まるで吸血鬼《バンパイア》から力を分けあたえられたかのようだ。これなら大役の重責にも充分耐えられるだろう。長ったらしい独白や、見せ場になっている激しい戦闘場面や、舞台で圧倒的な貫禄《かんろく》を見せるラスツロ・レーベンスタインとの対決をこなせるだけの体力はある。嫌悪感をのりこえて、リリ・ニッセンとの濡れ場もこなせそうだった。
デトレフは部屋を出て、他の役者のところへ行った。イローナ・ホーバシーは手桶《ておけ》に食べたものを吐いていた。「平気よ」彼女は嘔吐《おうと》のあいまに、苦しげに喉《のビ》をつまらせた。「いつもこうなの。いい兆候なのよ。ほんとよ」
ラインハルト・イェスナーは剣の素振りをしていた。
「気をつけてくれよ」デトレフは言った。「折らないようにな」
役者は偽の太鼓腹のついた上着を精一杯曲げてお辞儀をし、演出家に敬礼を捧げた。
「おおせのとおりにいたします、皇子。わたくし、 <山賊の首領> ことルディ・ヴェゲナーがあなたに忠誠を誓っていること、お忘れなきように。命果てるまで」
ルディが死んで以来、役に対するイェスナーの没頭ぶりはレーベンスタインにひけをとらないほどになっていた。まるで、その演技力でもう一度老人を生き返らせようとしているかのようだ。
ゲシュアルドは古い迷信など知らぬげに口笛を吹きながら、脇の下につけた革袋に豚の血を入れているところだった。かれはデトレフに向かってぐいと親指をつきあげた。
「なにも問題はありゃしませんよ。ね、親分」
「リリはどこだい?」デトレフはユストゥスにきいた。
「今日はだれも彼女を見てないよ。自分の衣裳室にいるんじゃないかい」
「サドンランドの選帝侯は彼女の要望に応《こた》えてくれたのかな?」
いかさま師の僧侶《そうりょ》はげらげらと笑った。「そんなはずはないだろう、デトレフ」
「なるほど。つまり、リリの心には欲求不満がたまってるってわけだ。そのうち、あの魔女が一悶着《ひともんちゃく》起こすかもしれんな」
首から下にガーゴイルの変装をつけたユストゥスは、尻尾をぱたぱたと振った。「おれたち、マンドセン砦からずいぶん遠くへきたもんじゃないか、なあ?」
「そうだとも。頑張ってくれよ」
「そっちもな」
そのとき、耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。デトレフがユストゥスを見ると、相手はぎょっと後ろを振りかえったところだった。さらに、また別の金切り声が響く。リリの衣装室からだ。
「天にましますウルリックよ、今度はいったいどんな災いをわれらに?」
リリの衣装係が部屋からとびだしてきた。手は血にまみれ、狂ったように悲鳴を上げている。
「なんてこった! この女があの雌犬を殺したってのかい!」
ユストゥスががくりと首を垂れて倒れこんだ女を受けとめ、落ちつかせてやった。デトレフは衣装室にとびこんだ。
リリがジュヌビエーブの衣装をつけて、部屋の真ん中に突っ立っていた。血が一筋、その顔から胸を伝って床に滴っている。女優は拳《こぶし》を突きあげ、声をかぎりに叫んでいた。
取り巻きの一人から贈り物が届いていた。
デトレフはなんとかして半狂乱の女優に言うことをきかせようとした。それができないとなると、今度は、内心無上の喜びを感じながら相手の頬《ほお》を平手で殴りつける。リリがわめきながら喉元《のどもと》にくらいついてきたので、デトレフはしかたなくそれをはがいじめにした。
「やっぱり、こんなところに来るべきじゃなかった! オスバルトさまがいなければ、二度とあなたと一緒に仕事などしなかったのに。あなたなんか最低、豚の糞《ふん》にたかる寄生虫。ダニみたいなものよ!」
リリはしゃくりあげながら長|椅子《いす》に倒れこんだ。なだめようにも取りつくしまがない。デトレフは惨状をきわめる床に目をやり、たちまちなにが起こったかを理解した。
それはびっくり箱のようなものだった。蓋《ふた》を開けたとたん、箱の中身がリリに向かってとびだしたのだ。一目見れば充分な代物《しろもの》だ。箱には顔が入っていた。目をえぐられたアントン・ファイトの顔。
「もうたくさんだわ! だれが芝居なんかやるもんですか! なにを言ってもむだよ! こんな呪《のろ》われた場所、いますぐ出てってやるわ。いますぐよ!」
リリが衣装係をどなりつけると、哀れな女はユストゥスから身をふりほどき、蓋の開いた旅行|鞄《かばん》に女優の荷物を詰めはじめた。
「リリ、あと一時間もすれば開演なんだ。出ていくなんてむちゃだ!」
「よく聞きなさい、この薄汚い木偶《でく》の棒! こんなところでむざむざ殺されて、辱《はずかし》めを受けるつもりは、あたしにはないわ!」
「しかし、リリ……」
この起こったばかりの災難の噂《うわさ》は、劇団中に広まった。リリの衣裳室の扉のまわりに人垣ができ、取り乱した女優とそこら中に散らばった血みどろの汚物をのぞきこんでいる。レーベンスタインが仮面の他はすっかり舞台衣装を整えて現われ、冷ややかに事態を見守っていた。ここでリリがかれらを裏切ったら、レーベンスタインの成功もはかなく消えると知りつつ、デトレフは男優に目をやった。
リリは腕を組んで腰かけ、衣装係が荷物を詰めるのを見ながら、その泣きっ面の女に大声で命令を浴びせていた。そして、顔についた血をこそぎおとすと、やりかけの舞台化粧をぬぐい、牙《きば》を一本一本引っこぬいて床に投げつけた。
「あなたたちみんなよ!」リリはどなった。「出てって! 着替えるんだから! あたしは出ていくの」
大男の奴隷に胸を突かれて、デトレフは部屋を出ていかざるをえないと思った。
衣装室と舞台を結ぶ狭い通路で、デトレフはどさりと壁にもたれかかった。またしても、すべてがぶちこわしだ! そして、リリ・ニッセンは今度もデトレフを見捨てようとしている! もう二度とかれの芝居を後援してくれる人物は現われないだろう。ドサ回りの最低の悲劇で、槍《やり》もちの役にでもありつけたら儲《もう》けもの。友だちだって、沈没しかけのガレアス船から逃げだす漕《こ》ぎ手顔負けのすばやさで、デトレフのもとを去るに決まっている。今度、マンドセン砦から逃れようと思えば、デトレフはなにもかも投げださねばならないだろう。既知世界《ノウン・ワールド》がかれの前から去っていくのが目に見えるようだった。危険きわまりない北方荒野の探検に旅立つ船に乗りこみ、そこでなんとか生き抜いていくのが関の山だろう。
「だれかがあれを彼女に届けたんだよ」ユストゥスがデトレフに言った。「ドレスかなんかの贈り物みたいに包んでさ。カードに紋章が入ってたよ」
「ほう。開幕前に芝居をつぶしたがった者がいるってわけだ」
「これだよ」元|僧侶《そうりょ》が折れまがって血のにじんだ厚紙を差し出した。とても読めたものではない殴り書きで伝言が記されており、封印の跡がついていた。デトレフはほっと息をのんだ。その紋章は様式化した仮面だった。
「ドラッケンフェルズだ!」
<大魔法使い> の取り巻きどもは、なおもこの地に残っているにちがいない。かれらは主人の失脚を再現する今度の芝居の邪魔をして、その名声を守ろうと死にもの狂いなのだ。レーベンスタインは落ちつきはらって、デトレフからの指示を待っている。ユストゥスもイェスナーもイローナ・ホーバシーもゲシュアルドも他の役者もみな押しだまり、かれをじっと見つめている。デトレフがいまこの場で芝居を打ちきれば、最低限の体面を保って事態を切り抜けることはできる。でなければ、主役の女優がいないのを無視して芝居を続行するか。あるいは……。
デトレフは厚紙を引き裂くと、シグマーに、ヴェレナに、その他のあらゆる神々に、皇帝に、大公に、ファーグル・ブレグヘルに、そして自分自身に誓った。『ドラッケンフェルズ』は、たとえあのいまいましいリリがいようといまいと、絶対にやってみせる、と。
人垣が分かれ、だれかがやってきた。愛らしい顔が光り輝くように見える。
「ジュヌビエーブ」デトレフは言った。「ぼくがちょうど会いたいと思ってた人がきてくれたね」
U
皇帝カール・フランツ一世は大広間の後方にある仕切り席に腰をおろし、かたわらにルイトポルト、もう一方にオスバルトを置いて、臣下を見下ろしていた。接客係が砂糖菓子の載った盆を持っており、ルイトポルトはさっきからせっせとそれを口に運んでいる。一段高くなった舞台の前には赤い幕がおり、そこに悲劇と喜劇の仮面が鮮やかな金色で描かれて浮び上がっている。皇帝は演目表に目を通し、名前の並ぶ順番からどの役者がどの場面に登場するかを推測していた。『ドラッケンフェルズ』は実に序幕と五つの幕と結び《アンボイ》、六回の幕間という構成を誇り、さらに幕間の一つは立食形式の食事となっている。上演には六時間はかかるだろう。カール・フランツはすわりごこちのいい椅子《いす》の中で体を動かしながら、果たしてルイトポルトは劇の間じっとすわっていられるだろうか、と危ぶんだ。もしこの少年にそんなことができれば、デトレフ・ジールックにとってはまたとない賛辞となることだろう。もちろんルイトポルトは、オスバルト叔父《おじ》が若い頃になしとげたことを知りたくてうずうずしているのだが。当のオスバルトは落ちつきはらい、静かにすわっていた。その劇について知っていることはあっても、決して口を割らないつもりでいるらしい。
「話の筋はありきたりですよ」オスバルトは前にそう言っていた。「大切なのは、それを芝居でどう見せるか[#「どう見せるか」に傍点]です」
カール・フランツの年代物の時計を見るかぎり、開演はすでに十分は遅れている。が、それくらいのことは、はなから覚悟の上だ。かれの治める帝国《エンパイア》で時間どおりにはじまるものなど、なに一つない。
エマヌエル伯爵《はくしゃく》夫人は今夜はまた度胆《どぎも》を抜くようないでたちだった。肩もあらわに≠ヌころか、全身もあらわに≠ニ形容すればぴったりと思えるほどだ。大神宮ははやばやと居眠っているが、あまりいびきが大きくなりすぎたらつついてもらえるように、相談役マシアスをかたわらにすわらせている。ヨハン・フォン・メクレンブルク男爵《だんしゃく》はあいかわらず屋根の下にいるのが落ちつかないようすだが、日を追うごとにきちんとした身なりがさまになってきている。タラブハイム侯とミッドンハイム侯が言葉を交わしていた。芝居の筋のことでも話しあっているのだろう。ハーフリングの長《おさ》は酔っ払っている。全裸に近い踊り子たちが登場すると聞かされたミッドンランド侯は、隅っこの席で涎《よだれ》を垂らさんばかりの顔つきだ。かれの演目表はふくらんだ股袋《コッドピース》の上で小刻みにゆれている。皇子に伯爵、選帝侯、大司教、男爵、領主、公爵《こうしゃく》、そして皇帝。観客としてこれほどの顔ぶれがそろうのは、過去をさかのぼってもはじめてのはずだ。デトレフ・ジールックは誇りに思うべきだろう。
ふとカール・フランツの頭に妙な考えが浮かんだ。もし今夜なにかが起これば――たとえば、火のついた火薬の樽《たる》が観客めがけて飛んでくれば――国は滅ぶ。カール・フランツにかわって国を治めることなど皇后にはむりな話だし、他の皇位継承者と目される人物はみなここに集まっている。シグマーの時代、つまり二千五百年前から、その地位についた者みなが感じてきたように、カール・フランツは自分の立場の危うさを自覚していた。かれがいなければ、そしてここにいる者たちがいなければ、帝国《エンパイア》は三か月とたたないうちに、互いに反目しあう市国や州国の悲惨な集合体になりはてるだろう。ティリア市国のようなものだが、その規模はブレトニアからキスレフまでの全土をおおいつくすことになる。
「いったい、いつはじまるんですか、お父さま?」
「もうすぐだよ。皇帝といえども芸術の前には待つことも必要なのだ、ルイトポルト」
「そうなのですか。ぼくが皇帝になったら、そんなことはさせませんよ」
カール・フランツはおもしろがっていた。「まず大人になって、自分がひとかどの人物であることを証明し、その地位に選ばれなくてはな」
「ああ、そんな先の話……」
客席の明かりが薄暗くなり、おしゃべりがやんだ。照明が当たると幕が少し開き、膝丈《ひざたけ》のズボンをはいたかつらの男が現われた。まばらな拍手が起こる。
「フェリックス・ヒューバーマンです」オスバルトが言った。「指揮者ですよ」
平土間にいる楽士たちが楽器を取りだした。ヒューバーマンは礼をしたものの、指揮棒は取りださなかった。
「皇帝陛下、ならびにご来席の紳士淑女のみなさま」指揮者は甲高くなめらかな声で言った。「お知らせすることがございます」
どっとざわめきが広がる。ヒューバーマンはそれが静まるのを待った。
「リリ・ニッセン嬢が急病により、このたびの公演でジュヌビエーブ・デュードネ役を演じることができなくなり……」
分別があってしかるべき選帝侯の何人かが、失望の声をもらすのが聞こえた。ミッドンランド侯は憤慨してわめきちらしている。ヨハン男爵とエマヌユル伯爵夫人はそれぞれにちがう理由から安堵《あんど》のため息をついた。カール・フランツがオスバルトを見やると、相手は無表情に肩をすくめた。
「……かわりにジュヌビエーブ・デュードネ役を演じますのは、ええっと……そのう、ジュヌビエーブ・デュードネ嬢です」
今度は一様に驚きの声が広まる。オスバルトでさえ面くらっていた。
「皇帝陛下、ならびにご来席の紳士淑女のみなさま、ありがとうございました」ヒューバーマンが指揮棒を振りあげ、楽団が『ドラッケンフェルズ』の序曲を奏ではじめた。
<大魔法使い> の名前の音節に合わせた、最初の三つの低音が響いただけで、カール・フランツの背筋は凍りついた。そこに弦楽器が加わり、幕が開くと灰色山脈のごつごつした断崖《だんがい》が現われた。合唱団が進みでて、歌いはじめる。
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さても、みなさま、お聞きあれ
ここに語るは世にも恐ろしき物語
英雄と魔物《デーモン》、血と死の宴《うたげ》
かつて生まれたためしなき、おぞましき怪物の物語……
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V
宮廷の怪奇現象≠フ場面がすむと、第五幕と結びまでレーベンスタインにはたいしてすることがなかった。数回、仮面をかぶって舞台に登場し、邪悪の軍勢に命令を下したり、第三幕で復讐《ふくしゅう》に燃えるハインロトを自ら切り裂いたりしなくてはならない。だが、最後の決戦までは、これはデトレフの舞台なのだ。その決戦でレーベンスタインは舞台にもどり、すべてに決着をつけることになるだろう。
レーベンスタインは衣装室を自由に使えた。他の役者はみな、舞台の袖《そで》から芝居をながめている。これからかれがしなければならないことを思うと、実に好都合だった。
材料はすべてそろっている。骨、皮膚、心臓、その他もろもろ。
舞台のほうから歓声がわきおこった。オスバルト役のデトレフがオークを串刺《くしざ》しにしたのだろう。芝居の台詞《せりふ》が続き、威張って舞台をのし歩くデトレフの足音が聞こえる。あの吸血鬼女の演技は悪くない、とレーベンスタインは思った。
後援者がかれを教育してきたのは、まさに、いまこのときのためだった。レーベンスタインは渡された紙切れに書かれた言葉に目を通した。意味はわからないが、やるべきことはわかる。
もはや衣装室はレーベンスタイン一人のものではなかった。
青い光が材料のまわりで燃え上がり、それは目に見えない力によってふくれあがった。ルディの脂肪とメネシュの皮をかぶったファイトの骸骨《がいこつ》が、むくりと起きあがる。エルツベトの心臓が、ジュヌビエーブの血を求めて再び鼓動をはじめる。それは男の姿をしていたが、まだその男ではなかった。
眼球はレーベンスタインの化粧台の上の箱に入っている。全部で七個。ルディともみあっているうちに片方の目がつぶれて、使い物にならなくなったからだ。それはたいした問題ではない、と後援者は言った。レーベンスタインは箱を開き、表情のない眼球を見た。巨大なカエルの卵のような透明なゼリー質の上に、血管が走っている。
レーベンスタインは青い目玉――ファイトの片目――を、そのべとべとの塊《かたま》りからひきはがすと、まるごと飲みこんだ。
レーベンスタインの額の皮膚が薄くはがれる。
さらに、片手で握れるだけの眼球をつかみとり、嫌悪をころして口につめこんだ。そして、ごくりとそれを飲みこむ。
犠牲《いけにえ》の体を寄せ集めてできた怪物が、からっぽの眼窩《がんか》からレーベンスタインを見守っている。
変化が完成していくとともに、レーベンスタインの体を痛みが突き抜ける。残す目玉はあと三つ。一つを口に放りこみ、飲みくだす。目玉は途中でひっかかり、それを喉《のど》の奥へおとしこむために、つづけてもう一つ飲みこまねばならなかった。膝《ひざ》から棘状《とげじょう》の隆起物が生えてきて、背骨の小さなこぶが皮膚をつきやぶる。
レーベンスタインの骨はふくれていた。苦痛が襲ってくる。あと一つ、目玉が残っている。茶色の眼球。エルツベトのだ。
レーベンスタインがそれを飲みくだすと、怪物が抱きついてきた。からっぽの胸腔《きょうこう》にレーベンスタインを抱きこみ、あばら骨でかれの体をとりかこむ。
エルツベトの、ルディの、メネシュの、そしてファイトのいまわの際《きわ》の光景が蘇《よみがえ》る。
……かれは仮面をかぶって、モールの神殿で死体の上におおいかぶさった。
……かれは仮面をかぶって、亡霊に囲まれて食卓についた。
……かれは仮面をかぶって、蝋燭《ろうそく》の輪の中で血に染まるナイフをふるった。
……かれは仮面をかぶって、通路にかがみこみ、人間の骸《むくろ》から骨を抜きとった。
炎が体内で燃えあがり、レーベンスタインは絶叫を放ちながら儀式を完了した。その声がだれの耳にも届かないのは、ふしぎだった。だが、ふしぎなことなど数えあげたらきりがない。
ファイトの骨が、まるで沼地に投げこんだ丸太のように、レーベンスタインの体に埋まる。ルディの脂肪が痩《や》せこけたかれの骨格に肉づきを与える。メネシュの皮膚がかれの皮膚の上にはりつき、まだらな模様をつくる。そして、エルツベトの心臓が、さながらポリプのようにくっつき、かれの心臓のかたわらで脈打った。
かれはもはやラスツロ・レーベンスタインではない。
仮面に手を伸ばしたのは、コンスタント・ドラッケンフェルズだった。
かれは第五幕のはじまりを、いまや遅しと待ちかねていた。
W
舞台の上で、ジュヌビエーブは宙を浮いているような気分だった。頼れるものもないままに、彼女はなんとかこの芝居を、物笑いの種になることなく切り抜けようとしていた。デトレフがジュヌビエーブ役のために書いた台詞《せりふ》を思いだせるときもあるが、現実に自分の言った言葉を思いだしてしまうこともある。役者たちはだいたいが芸達者で、うまく彼女に合わせてくれた。デトレフとの場面はすばらしく順調に進んだ。まだかれの血の精気が体内に残っているからだろう。デトレフの心をのぞくと芝居の台詞が読みとれ、ジュヌビエーブは自分が台本から離れている部分を知ることができた。
彼女が最初に登場する場面は、 <三日月> 亭のカウンター越しだった。群がる人々の中で、オスバルトが彼女の人生に踏みこんでくるのを待っているところである。群衆には臨時雇いの役者が使われ、これといった台詞なしに、わいわいがやがやとしゃべっている。彼女のいる場所からは、デトレフがオスバルトの兜《かぶと》を脇《わき》にかかえて舞台|袖《そで》に控えているところや、闇《やみ》に包まれた観客の顔が見分けられた。生身の役者とちがって、ジュヌビエーブにはフットライトの向こうまではっきりと見とおせた。皇帝は熱心に耳を傾け、本物のオスバルトはそのすぐ後ろで満足そうに芝居を見守っている。しかし、その一方で、彼女には現実の酒場の光景も見えた。酒場特有のにおい、人いきれや酒や血のにおいがする。臨時雇いの顔――これがすむと、かれらはあわてて後の場面のために、貴族や山賊、村人、怪物、オーク、ガーゴイル、農民などの扮装《ふんそう》を整える――を見渡すと、あの頃知りあったひいき客の顔がつぎつぎに思いだされる。デトレフは芝居を通して、すべてを蘇《よみがえ》らせていた。
長寿――出会った吸血鬼があまりにも多く命を落としたため、ジュヌビエーブはそれを不老不死と考える気にはなれなかった――について一つ言えるのは、あらゆることに手を染められるということだ。七世紀近くの歳月をすごす間、ジュヌビエーブは貴族の子供からはじまり、娼婦《しょうふ》、女王、兵士、楽土、医者、尼僧、扇動家、賭博《とばく》師、地主、一文なしの浮浪者、薬草師、無法者、用心棒、剣闘士、学生、密輸商人、罠《わな》師、錬金《れんきん》術師、奴隷などを経てきた。人を愛し――ただし、 <闇の口づけ> を受けるのが早すぎたので、子供をもうけたことはない――人を憎み、人を殺し、人を救い、旅をし、学び、法に従い、法を犯し、成功をおさめ、失敗し、罪を犯し、高潔な志を持ち、人を苦しめ、情けをかけ、支配し、支配され、真の幸福と苦しみをいくどとなく味わってきた。だが、舞台で芝居をしたことだけは、まだなかった。ましてや、自分の冒険を再現する芝居で、自分の役をやるとは……。
物語は進んでいた。オスバルト役のデトレフが冒険の仲間を集め、ドラッケンフェルズ砦《とりで》に向かう旅に足を踏みだしたところだ。先日その道をたどったときと同じように、またしてもジュヌビエーブは、自分があまりにも多くを覚えていると知った。死んだ仲間の顔が、その役をやる者の顔に重なって見える。ジュヌビエーブは生涯決して、かれらの死の光景を忘れることはないだろう。ラインハルト・イェスナーが大声でわめきながら、詰め物をした太腿《ふともも》をばんばん叩《たた》いているのを見ると、ルディ・ヴェゲナーの皮膚が骨の上に垂れていたのを思いだす。彼女に血をくれた若者がデトレフと話しあっているのを見ると、オーガのねぐらで見つけた、かみくだかれたコンラディンの骨を思いだす。また、ファイト役の男が葉巻の煙の奥でせせら笑うのを見ると、リリ・ニッセンの衣装室の床に転がっていた賞金稼ぎの顔が浮かぶ。
いまごろ、リリは山を半分ほど下り、アルトドルフへ、文明世界へと足を速めていることだろう。リリを脅やかし、ファイトや他の者を殺した怪物は、すぐ間近にいる。おそらく今度の標的はジュヌビエーブだ。それとも、オスバルトか。
劇は一幕一幕と進んでいき、勇者たちは間断なくふりかかる危難をくぐりぬけていった。ジュヌビエーブの記憶にはないにぎやかな旅のようすを、デトレフは想像で作りあげていた。英雄らしい台詞《せりふ》があり、情熱的な恋の場面があった。だが、ジュヌビエーブが最初の旅で思いだせるのは、馬にゆられて長い日をすごしたことや――太陽にさらされるのは、彼女には苦痛だった――焚《た》き火を囲んで絶望と恐怖に満ちた夜をすごしたことだけだった。体を裏返しにされたハインロトが発見される場面になると、台本ではジュヌビエーブが骸《むくろ》の前で冒険を続けると誓うことになっていた。しかし、実はあのとき彼女は、ひきかえして家に帰りたいと思っていたのだ。彼女の演技はそのどちらともつかないものになった。かつての恐怖が突然蘇ったからだ。デトレフはその場面のために書いたどんな台詞よりずっとうまく、即興で彼女に応《こた》えてくれた。ハインロトに見せかけた豚の臓物の塊《かたま》りは、ほんとうの死体のときよりもっと生々しく、おぞましく映った。
イローナ・ホーバシーは台本が変わるのにうまくついていけず、ジュヌビエーブとの共演の場面ではかたくなっていた。だが、エルツベトはいつもジュヌビエーブを恐れていたのだから、その不確かさはかえって役柄に好都合だった。イローナのきびきびした踊りを見ながら――踊りに関してはエルツベトよりもうまい――あれでは最終幕の戦いの場面で失敗してしまい、芝居が盛り上がらずにおわるのではないかと、ジュヌビエーブは不安だった。
恋の場面では、ジュヌビエーブはまだ夢の中を漂うような気分のまま、デトレフの首に傷をつけた。かれの衣装の襟に血が滴ると、観客席からどよめきが生じた。この場面については、物語詩は嘘《うそ》をついている。現実にはこんなことは起こらなかった。少なくとも、こんな形では……。二十五年後のいまになって、ジュヌビエーブは自分がいかにそれを望んでいたかを知った。だが、オスバルトは一度も心から彼女にこたえたことはなく、義理で申し出る以外は自分の血をとっておいた。一度オスバルトは、まるで犬に餌《えさ》でも与えるように、ジュヌビエーブに手首を差し出したことがある。そのとき、ジュヌビエーブは血への欲望を抑えがたく、かれを拒みきれなかった。その一件はいまでも心の傷として残っている。オスバルトはこの古い物語、語り継がれた偽りの伝説を、どう感じているのだろう。そしていま、皇帝の横に腰かけ、吸血鬼が自分の身代わりの役者から血を吸いあげるのを見て、なにを思っているのだろうか。
時間は飛ぶようにすぎていった。舞台の上で、そして舞台の外でも、闇の勢力が結集しつつあった。
X
デトレフにとって、それは勝利の夕べだった。ジュヌビエーブの起用はまさに天啓だった。オスバルト役が舞台に出ない場面はわずかしかなかったが、その間、デトレフは新たな主役の女優を眺めていた。ジュヌビエーブが本気になれば、リリ・ニッセンをしのぐ女優にだってなれるはずだ。他のどこに、永遠に生きつづける女優がいるだろう? なるほど、ジュヌビエーブはだれよりもこの役に深い思い入れを持ち、この出来事のもたらす真の興奮を身をもって知っている。だが、彼女は学ぶのも早い。最初のほうの場面で少しとまどった後は、どんどん自信をつけ、いまや苦もなく舞台を支配している。すでに名声を得た老練の役者のほうが、彼女についていくのに四苦八苦しているほどだった。また、観客の反応もよかった。この劇場は吸血鬼のスターが現われるのを待ちのぞんでいたのだろうか? そして、デトレフは体内にジュヌビエーブの存在を感じ、彼女が頭の中にささやきかけて、さまざまなものをひきだしてくれるのを感じていた。二人の愛の場面は、デトレフがいままで舞台で演じてきた中でも、信じられないほどのできだった。
その他の点では、芝居はまったく順調で、すべてが予定どおりに運んでいた。デトレフは舞台|袖《そで》から批評を言ってくれるファーグル・ブレグヘルがいないのが残念でならなかったが、自分でもできると思いなおした。台詞《せりふ》のあいまに「もっと抑えて」とか「もっと派手に」と言うブレグヘルの声が聞こえるようだった。他の役者はデトレフが望んでいたとおりの、いや、それ以上の演技を見せていた。巧妙な扮装《ふんそう》のおかげか、全員がいかにもそれらしい立ち居振る舞いをやっている。台詞はないものの、その巨体を見こまれて、足が不自由なオーガの道化役をあてられたコジンスキーでさえ笑いをとり、子供のようにはしゃいでいる。そのあげく、かれは自分にまた似あいそうな場面があれば役をまわしてくれと、デトレフにせがむしまつだ。「な、わかるだろ」コジンスキーは何度もそう言った。「山の宿屋の場面なら、おれは用心棒になれるし……森なら狼《おおかみ》の罠《わな》師になれるし……」
デトレフは手洗いのそばに仲間を一人置き、幕間が終わるごとに、そこで耳にした話を報告させた。観客――おそらく帝国《エンパイア》中でもっとも口うるさく、もっとも影響力のある人々――は、すっかり芝居の虜《とりこ》になっていた。年寄り達はジュヌビエーブがお気に入りだった。その役柄についても、女優としてもだ。偵察係は、アべルハイムのクロチルデがデトレフの皇子役に示した熱狂ぶりをしぶしぶ再現してくれた。デトレフの声も、口髭《くちひげ》のそろえ方も、ふくらはぎの丸みも、たまらなくすてきだわ、と言ったそうだ。デトレフは思わずその偵察係にキスをした。
デトレフはシャツを十枚汗みずくにし、十リットル以上のレモン水を飲みほした。イローナ・ホーバシーは舞台の上では光り輝いていたが、舞台裏ではあいかあらず目もあてられないありさまだった。手桶《ておけ》をかかえこみ、ときたま食べた物をそっとその中に吐いている。山賊役の一人はイェスナーとの決闘で腕を切られ、衣装室で手当てを受けなければならなかった。フェリックス・ヒューバーマンはまるで憑《つ》かれたような仕事ぶりを見せ、かつてだれも耳にしたことのない旋律を楽士たちに奏でさせた。魔法の場面では、この世のものとは思えない、身の毛のよだつ調べが響いた。
この夜が生涯忘れられない夜になることを、デトレフ・ジールックは感じとった。
Y
やがて、結び《アンボイ》の幕がはじまった。
ジュヌビエーブとデトレフは二人きりで舞台にいた。ドラッケンフェルズの大広間の扉とおぼしき前に立っているところだ――まさしく、その大広間で芝居は演じられているのだが。メネシュ役のゲシュアルドが義手の右手に鉱夫のつるはしのような武器を持って、二人に加わる。ゲシュアルド自身の右手は紐《ひも》で脇《わき》にくくりつけてあるが、脇にあるふくらみを握ると、義手をまるで本物のように動かすことができた。楽士は静まりかえり、ただ縦笛の寂しげな音色だけが、悪霊に取り憑かれた城を吹きぬける不気味な風の音を奏でている。観客はみな五分は息をつめていただろう、とジュヌビエーブは思った。二人はたがいに顔を見あわせ、扉を押しあげた。見覚えのある光景が広がり、舞台が消えうせたかに思えた。ジュヌビエーブはまたしてももどってきたのだ……。
[…… <暗黒の王> の間。砦《とりで》の他の場所はろくな明かりもなく、荒れはてているが、この部屋には塵《ちり》一つなく、宝石を散りばめたシャンデリアでこうこうと照らされている。調度は見るからに贅沢《ぜいたく》なものだった。金の輝きが部屋の端々まで行きわたっている。加えて、銀の光もだ。ジュヌビエーブはそれほどに贅をつくした品々に囲まれて、身ぶるいを覚えた。壁にはすばらしい絵画が掛かっている。ルディなら一つの場所にこれほどの略奪品があるのを見て、涙を流して喜んだことだろう。時計が狂った時刻を打ち、一本しかない針が見慣れぬ文字盤を回っている。檻《おり》の中では、一匹のハーピイが羽づくろいをし、食べたばかりの餌《えさ》のかすを胸の羽毛からついばんでいる。]
デトレフとジュヌビエーブは用心深く厚い絨毯《じゅうたん》を踏み、舞台をまわった。
「やつはここにいる」オスバルト役のデトレフが言った。
「ええ、あたしも感じるわ」
メネシュ役のゲシュアルドは壁づたいに歩き、壁かけを切りさいている。
[……壁の一面が床から天井までの窓になっていて、ステンドグラスがはめこまれていた。これなら、 <大魔法使い> は砦の建つ山の下にライクバルトの森を眺めることができる。はるかアルトドルフまでも見通せるし、森を流れるライク川のきらめく川筋をたどることもできる。ステンドグラスには、人骨の山に座した <血の神> コーンの巨大な肖像が描かれていた。邪悪については、ドラッケンフェルズはコーン神を敬うどころか、素人《しろうと》と見下していることに気づいて、ジュヌビエーブは恐怖におののいた。混沌《こんとん》とはもっと無目的なものだ……それにひきかえ、ドラッケンフェルズは目的なしには動かない。部屋には他の神々の像や聖堂もあった。地味な納骨堂に祭られた <殺人の王> カイン。おぞましくも切り刻まれた犠牲《いけにえ》の山を供えた <疫病と腐敗の神> ナーグル。その残骸《ざんがい》の中から、ジュール・イェハンの顔がのぞいている。かれの両目はえぐられていた。]
オスバルト役のデトレフは家庭教師の骸《むくろ》がそんな邪悪な用途に使われたのを見て、息をのんだ。と、王の間に笑い声が轟《とどろ》いた。その笑いはヒューバーマンの楽団の音色に運ばれ、いっそう大きく響きわたる。
[……六百年前、ジュヌビエーブはそれと同じ笑い声をきいた。あのとき、パラボン市の群衆の見守る中、支配者の雇った暗殺者が魔物《デーモン》に空高く運ばれ、人々の上に臓物を撒きちらしていたのだ。その笑いにまじって、ジュヌビエーブは地獄に落ちる者や死にゆく者の悲鳴を聞いた。そして、川となって流れる血の轟き、何万本もの背骨の折れる音、十近くの都市の陥落する音、惨殺される幼児の歎願の声、切りさいなまれる獣の哀れな鳴き声――]
そして、二十五年前、ジュヌビエーブはそれと同じ笑い声をきいたのだ。ここで、この大広間で。
敵は玉座から巨大な姿を浮かびあがらせた。男はずっとその場にいた。だが、デトレフの巧妙な演出のかいあって、その登場は忘れがたいほどの恐怖をかもした。観客席に悲鳴が上がる。
「わたしがドラッケンフェルズだ」レーベンスタインの声は静かだが、そこにはなおも死を思わせる笑いが残っていた。「ようこそわが家へ、と告げよう。健《すこ》やかに参り、無事去るがよい。ただし、そなたたちがもたらした幸福をわずかばかり頂戴しよう」
メネシュ役のゲシュアルドが鉱夫の持つようなつるはしを振りかざし、 <大魔法使い> に打ってかかる。ドラッケンフェルズ役のレーベンスタインは青銅像のような動きで手をのばすと、さもうるさそうに、それを払いのけた。ゲシュアルドは壁かけにどんと突きあたり、金切り声を上げて尻《しり》から倒れた。血が噴きだしている。ハーピィが血のにおいに興奮し、檻《おり》の格子に翼を打ちつけた。
[……ドラッケンフェルズの手にはドワーフの片腕が握られていた。腕は調理済みの鶏《にわとり》の手羽のように、いともたやすくもぎとられたのだ。魔法使いはその置き土産《みやげ》を首をかしげてながめ、しのび笑いをもらすと、投げ捨てた。腕はまるで生きたもののように床をのたうちまわって血の跡を残し、やがて勤かなくなった。]
ジュヌビエーブがデトレフを見やると、役者の顔には不安げな表情が浮かんでいた。ゲシュアルドの金切り声は下稽古《したげいこ》のときより大仰だったし、血のりの効果もはるかに鮮やかだった。ドワーフはそこらじゅうを転げまわって、ちぎれた腕の根元を床に押しつけようとしている。
レーベンスタインはゲシュアルドの左腕をちぎったのだ。ゲシュアルドの本物の右手が義手を押しのけて背中からとびだし、噴きだす血をせきとめようとしている。やがて、かれはごぼごぼと喉《のど》を鳴らして倒れ、動かなくなった。
レーベンスタインが……。
[……ドラッケンフェルズが宙に窓を一つ開くと、王の間に肉の焼ける刺激臭が満ちた。ジュヌビエーブはその窓をのぞきこみ、果てることのない拷問に身をよじる一人の男の姿を見た。魔物《デーモン》が男の肉を裂き、蛆《うじ》がその顔を喰《く》いあらし、鼠《ねずみ》が手足にかじりついている。男はジュヌビエーブの名を呼び、窓の向こうから腕を差しのべてきた。血が雨のごとく絨毯《じゅうたん》に降りそそぐ。
あれは父だ! 六百年前に死んだジュヌビエーブの父!]
「こうして、すべて残してあるのだ」ドラッケンフェルズは言った。「いにしえから、わが餌食《えじき》となった魂はみなこうしてな。そうすれば、このつましい住み家にいても寂しくはない」
[ドラッケンフェルズは、ジュヌビエーブがかつて愛していた、この呪《のろ》われた者の前で窓を閉じた。彼女は相手に向かって剣を構えた。
ドラッケンフェルズはかれらに交互に目を走らせると、再び笑い声を上げた。精霊がまわりに集まりはじめている。邪恋な精嚢や従者の精霊が、竜巻のようにかれを取りまく。]
「つまり、おまえたちはこの怪物を殺しにやってきたのだろう? 無冠の皇子――臆病《おくびょう》すぎて、ついに帝国《エンパイア》を手に入れることの叶《かな》わなかった一族の末裔《まつえい》よ? そして、おとなしく墓の中で朽ちはてるのを嫌った哀れな亡者よ。いったい、だれの名のもとに、このような愚かなことをしでかすのだ?」
驚いたことに、デトレフは台詞《せりふ》を言ってのけた。「シグマー・ヘルデンハンマーの御名においてだ!」
[その言葉は弱々しく、周囲に響きわたりもしなかったが、一瞬ドラッケンフェルズに隙《すき》ができた。仮面の奥でなにかがうごめき、かれの内部で怒りがふくれあがった。精霊たちは依然、小さな虫のように群がっている。
かれがジュヌビエーブに向かって腕を振りあげると、魔物の群れが彼女をのみこんだ。彼女の体を壁に押しつけて呼吸を奪い、上からのしかかって顔一面をおおう。
オスバルトが歩みでて、鎖かたびらをつけたドラッケンフェルズの腕めがけて剣を振りおろした。ドラッケンフェルズは振りむき、皇子を見おろす。
ジュヌビエーブはだんだん意識が沈んでいくのを感じた。実体のない生き物たちが押しよせてくる。息はできず、手足を動かすこともままならない。体は凍え、歯がかちかちと鳴った。疲れた。夜明けまでは、こんなに疲れるはずはないのに。まるで、刺すような日光のもとで銀の紐《ひも》に縛られ、にんにくの海で溺《おぼ》れているような気がする。どこかで彼女の心臓に打ちこむさんざし[#「さんざし」に傍点]が削られている。意識がもうろうとし、喉に塵《ちり》の味を感じ……。]
Z
皇帝も他の観客とおなじように動転し、すくみあがっていた。ドワーフの死がこの芝居のまやかしを暴いていた。なにかが狂っている。ドラッケンフェルズ役の男は狂人だ。いや、それどころではすまないかもしれない。皇帝は儀式用の剣の柄に手をやると、友人を振りかえり……。
……喉元《のどもと》にナイフの切先が突きつけられているのを知った。
「最後まで芝居をごらんなさい、カール・フランツ」オスバルトはなにごともないように言った。「もうすぐ終わりですよ」
ルイトポルトが椅子《いす》からとびだし、大公に向かっていった。
オスバルトは優雅なしぐさで片手を突きだした。刃物がきらめくのを見て、カール・フランツの心臓はとまりそうになったが、大公はただナイフの柄でルイトポルトの顎《あご》を軽く殴っただけだった。少年は気を失い、白目を向いて椅子に倒れこんだ。
カール・フランツはほっと息を吸いこんだが、それを吐きだすより早く、刃物が喉ぼとけに舞いもどってきた。
オスバルトは微笑《ほほえ》んだ。
観客は舞台の芝居と皇帝用の仕切り席で起こったドラマの間で板ばさみになった。ほとんどの者が立ち上がっている。エマヌエル伯爵《はくしゃく》夫人は卒倒した。指揮者のヒューバーマンは膝《ひざ》をつき、必死で祈りを捧《ささ》げている。ヨハン男爵《だんしゃく》と他の何人かが剣を抜き、マシアスは単発銃を構えた。
「最後まで芝居をごらんなさい」オスバルトはもう一度そう言い、カール・フランツの肉をナイフで突いた。
皇帝は血がひだ襟にしみこんでいくのを感じた。観客はだれ一人として動こうとしない。
「劇を見るんだ」オスバルトは言った。
観客は落ちつかなげに腰を下ろすと、武器をおさめた。皇帝は自分の剣が鞘《さや》から抜かれたのに気づいた。剣は放りだされて壁にあたり、がちゃんと音を立てた。
これほどの裏切り行為に、皇帝はかつて出会ったことがない。
オスバルトはカール・フランツの頭をぐいとまわした。皇帝の目が <大魔法使い> の姿をとらえたとき、それは舞台上でふくれあがり、コンスタント・ドラッケンフェルズ本来の姿に相違ない巨人へと変わりはじめていた。
邪悪な神の笑い声が大広間に満ちる。
[
かれの笑い声が四方の壁にこだました。
ラスツロ・レーベンスタインだった頃の記憶はほとんど思いだせない。目玉を飲みこんだときから、他人の記憶がつぎつぎに心に押しよせてきたのだ。何千年にも及ぶ経験や知識、感覚といったものが、うずく傷口のように頭の中でどくどくと脈打っている。[異星からカエル人がやってくる以前の氷河の時代、わたしは尖《とが》った石で小さな生き物を叩きつぶし、まだ生温かい肉を引き裂いていた。]氷塊が一つ、また一つと崩壊するのを思いだすたびに、かれの心は身もだえし、血に溺《おぼ》れていく。[ついに、取るに足りない小さな生き物はぬかるみの中で押しつぶされた。わたしはずんぐりした固い指でその死骸《しがい》の目玉をくりぬき、それを食べて冬を越した。]かれは再び生きかえったのを感じ、大広間に満ちる恐怖でたっぷりと味つけされた大気を肺いっぱいに吸いこんだ。
ラスツロ。レーベンスタインは死んだ。
だか、コンスタント・ドラッケンフェルズは生きている。いや、これから生きるのだ。あのいまいましい吸血鬼の血によって体が温もれば。
ドラッケンフェルズは、かつてとおなじように恐怖に震える舞台のオスバルトから目を離し、不敵な笑みを浮かべて皇帝の喉《のど》にナイフを突きつけている観客席のオスバルトに視線を移した。
そして、ドラッケンフェルズは思いだした……。
[ハーピイは檻《おり》の中で甲高く鳴いていた。吸血鬼の女は気を失って倒れている。ドワーフはじわじわと血を流しつづけ、指で腕の切り口を押さえていた。そして、剣を持った少年がかれを見上げた。少年は涙で頬《ほお》をぬらし、恐怖に気も狂わんばかりだ。ドラッケンフェルズは皇子を例そうと手を振りあげた。ただの一撃で少年の頭を打ちくだき、けりをつけるつもりだった。吸血鬼は後の楽しみにとっておこう。せめて一晩は、この腕の中で楽しませてくれるだろう。女を始末するのは、ぼろぼろにすりきれてからでも遅くはあるまい。闇《やみ》の勢力を軽んじたものは、みなそのように非業の死を遂げるのだ。
皇子は膝《ひざ》をついて、すすり泣いている。少年の剣は放り出され、忘れさられていた。そのときふと、 <大魔法使い> は手をとめた。ある考えが頭に浮かんだのだ。どのみちかれは、近いうちに自らを再生しなければならなくなる。これを利用すればいいのだ。少年をこちらに有利に使えば、帝国《エンパイア》がまるごと手に入る。
ドラッケンフェルズはオスバルトを立たせ、子猫を愛撫《あいぶ》するように少年をなでてから、取り引きを申しでた。]
「皇子、わたしは生死を越えた力を持っている。そなたの生と死、そして、わたし[#「わたし」に傍点]の生と死を越える力をな」
[オスバルトは頬をぬぐい、なんとかしゃくりあげるのを抑えようとした。まるで母親を求めて泣きじゃくる五歳の子供だ。]
「そなたは、なにもこんな砦《とりで》の中で死ぬことはない。故郷から遠く離れたこんな砦で。そなたさえ望めば、無駄死にをまぬがれるやもしれぬ……」
「どうしたら……」[少年はめそめそしながら、すすり泣きをのみこんだ。]「……どうしたら、そんなことができるのだ?」
「そなたはわたしの望むものを持っている」
「おまえが望むものとは?」
「帝国《エンパイア》だ」
[オスバルトは思わず叫び声を上げた。ほとんど悲鳴に近かった。だが、少年は自分を押さえて、むりやり <大魔法使い> に目を向けた。ドラッケンフェルズは仮面の奥でほくそえんだ。これで少年はこちらのものだ。]
「わたしは多くの人生を生きてきたのだ、皇子。使いつくした体は数知れない。生まれたときに持っていた体など、とうの昔に処分してしまった……」
[気の遠くなるほど昔に、ドラッケンフェルズははじめて大気を吸い、はじめて恋をし、はじめて殺戮《さつりく》したことを思いだした。それに、最初の肉体のことも。ずんぐりした獣《けもの》じみた部族が、広大な殺伐とした氷原にかれを捨てた。いまにして思えば、あの部族はほんとうの人間というより、むしろアラビイの猿人に近かったのだろう。ドラッケンフェルズは生きのびた。そして、未来|永劫《えいごう》生きつづける。]
「わたしとその娘には多くの共通点がある。わたしも生きていくためには、他から奪わねばならない。だが、その女には新鮮な血をほんのわずか奪うことくらいしかできない。そういう種族は短命なのだ。二、三千年もたてば、ぼろぼろになってしまう。わたしは征服した者から生命の源《みなもと》を奪うことで、永遠に再生しつづける。そなたは選ばれた者だ、皇子。そなたにはこの顔を拝ませてやろう」
[ドラッケンフェルズは仮面を取った。オスバルトは勇を鼓して、それを見る。そして喉《のど》が破れんばかりの絶叫を上げた。その声が砦《とりで》の死者や死にゆく者の平安を破ると、 <大魔法使い> は声を立てて笑った。]
「美しくはなかろうな? ただの腐った肉の塊《かたま》りだ。これがわたし、不滅のドラッケンフェルズだ。永遠なる《コンスタンス》わたしなのだ。この鼻にそなたの面影を見ないか、皇子? フォン・ケーニヒスバルト家の気品のあるかぎ鼻だ。これはそなたの祖先から頂戴したのだよ。あの忌まわしくも誉れ高きシュリヒターからだ。しかし、これもすっかり使いふるしてしまった。だいたい、この骸《むくろ》自体がもう寿命なのだ。そのことをきちんと理解するのだぞ、皇子。そうすれば、そなたにこの身を滅ぼさせる理由がわかるだろう」
[ハーピイが鳴き声を上げた。そのころにはオスバルトはいつもの自分を取りもどし、非の打ちどころのない若い皇子にもどっていた。ドラッケンフェルズが皇子を見抜いた目は確かだった。今度の冒険の真に隠された少年の利己心、祖先を見返そうとするがむしゃらな野望、その心にひそむ空白を。そう、この少年ならきっとやってのける。]
「さあ、そなたがわたしを打ちまかすのだ。わたしをこの身の塵《ちり》の中に果てさせよ。そうすれば、そなたは英雄だ。いつか巨大な力を手に入れることとなろう。おそらく何年か後には、そなたが帝国《エンパイア》を手中にする目がくる。そのとき、わたしに帝国《エンパイア》を差しだせばよい……」
[いまやオスバルトは栄光の日々を夢想して、笑みを浮かべていた。これまで一度として覚えたことのないカール・フランツへの――前皇帝ルイトポルトの放蕩《ほうとう》息子への――憎しみが、意識の上にのぼってくる。オスバルトの父はヴィルヘルム二世家の前に這《は》いつくばったが、かれはそんなことを絶対にしたくなかった。]
「そうすれば、わたしは塵の中から蘇《よみがえ》るだろう。そなたにはわたしが蘇生《そせい》するための身代わりを見つけておいてもらいたい。さもしい魂の持ち主で、血に染まった男を選ぶのだ。そなたはその後援者となり、わたしはその男の体に宿ろう。それから、そなたの仲間をわたしにひきわたすのだ。わたしはその者どもから生命の糧を頂戴する。今日そなたと一緒にやってきた者はみな、わたしを蘇らせるために命を落とすことになろう」
[異議を唱える言葉がオスバルトの口許《くちもと》までのぼったが、それは声にならないまま消えた。皇子は床にうつ伏せになっているジユヌビューアを見たが、後悔の念はかけらも浮かばなかった。]
「やがて、選帝侯どもはわれらの思うままになろう。たいていの者は自分の利害を第一に考えるだろうし、そうでない者は殺してしまえばよい。皇帝には死んでもらおう。後継者にもな。かわりに、そなたはわたしを皇帝位につけるのだ。長の年月、われら二人で帝国《エンパイア》を支配しよう。われらの邪魔をする者はだれもない。ブレトニアもエスタリアもティリア市国もキスレフも新領土も、世界中がわれらのもの。一つ残らずひざまずかせよう。さもなくば、シグマーの時代以来、味わったことのない苦悩を味わわせてやればよい。人間どもはわれらの奴隷となり、他の種族はみな家畜のように切り刻まれるだろう。神殿を売春宿に、町を墓場に、大陸中を骨捨て場に、森を砂漠に変えてやろうではないか……」
[そのとき、オスバルトの内部では炎が燃えていた。野望に満ち、血に飢え、欲におぼれた炎。たとえ魔法の力を借りずとも、いずれ皇子はこうした炎を備えることになったろうとドラッケンフェルズは知った。これこそがオスバルト・フォン・ケーニヒスバルトの姿、皇子自身がつねにそうありたいと望んでいた姿なのだ。]
「さあ、わが足下にひざまずけ。この遠謀に忠誠を誓うのだ。血の契《ちぎ》りだ」
[オスバルトは膝《ひざ》をつき、短剣を引き抜いたが、ためらった。]
「傷の一つや二つも受けずに、この <大魔法使い> を殺せるわけがなかろうが?」
[オスバルトはうなずいて左の掌《てのひら》を切り、つづけて頬《ほお》と胸を切った。シャツが裂け、赤い筋が皮膚に走る。ドラッケンフェルズは手袋をはめた指でオスバルトの傷に触れると、その血をぼろぼろの唇にすくいあげた。 <大魔法使い> は血を味わい、永遠にオスバルトをわがものにした。
ドラッケンフェルズは勝利の叫びを上げて部屋中を駆けまわり、数千年にわたって愛蔵してきた品々を破壊した。ハーピイの檻《おり》を持ちあげると、巨大なその手で、中にいる哀れな生き物ごとぐしゃりと檻を握りつぶす。やがて、ハーピイは静かになった。檻の鉄棒が折れまがり、ハーピイの肉に深く喰いこんでいる。ドラッケンフェルズが樫《かし》の食卓をステンドグラスに投げつけると、それは窓を破って三百メートルほど下の岩に当たって砕け、色とりどりのガラスの雨をとびちらせた。
ドラッケンフェルズの魔力は砦《とりで》の隅々までいきわたっており、かれの従者も滅びていった。肉は石と変わり、石は灰と化した。魔物《デーモン》は解放され、あるいは、それぞれの属する地獄へと追いやられた。一方の翼館がまるごと崩れおちた。そうして、世界中の力の劣る魔術帥たちがドラッケンフェルズの終末を感じとったのだ。
ついにドラッケンフェルズはやるべきことをなしおえ、震えるオスバルトに再び向きなおった。そして、若者の剣を指でへし折ると、壁から重い両手剣を取ってきた。それはかつてシグマーの聖なる血を吸ったもので、一面に銀メッキが施されていたが、いまはところどころはがれ落ちている。]
「この武器ならば、コンスタント・ドラッケンフェルズを殺すのにふさわしかろう」
[オスバルトにはそれを持ちあげるのがやっとだった。ドラッケンフェルズはじっと若者を見すえて、皇子の四肢に力を注ぎこんだ。剣が上がり、オスバルトの全身の筋肉がその努力と恐怖、そして興奮に震えていた。ドラッケンフェルズは自ら鎧《よろい》を裂いて広げた。腐った肉の悪臭が部屋に満ちる。 <大魔法使い> はまたしても笑った。]
「やれ、皇子! さあ、いまだ!」
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それはデトレフの書いた結びとはちがっていた。レーベンスタインになにかひどくまずいことが起こっている。もちろん、ジュヌビエーブにも、オスバルトにも、皇帝にもだ。そして、十中八九、この世界にも……。
レーベンスタイン演じるドラッケンフェルズは、まるでドラッケンフェルズ演じるレーベンスタインのように見え、とうに台本から離れていた。
そのころには劇場の照明は半分ほど灯され、役者たちは舞台|袖《そで》から観客席へと逃げだしていた。かれらはレーベンスタインを避けて通ったが、目はその役者から離さなかった。観客は席についたまま、舞台の怪物と危機にさらされた皇帝とに交互に目を走らせている。ついに仮面を取りきったオスバルト大公は、自分を捕らえにきた者たちに敢然《かんぜん》と立ち向かっていた。そして、本物の仮面をかぶった件の役者は、己れのもたらした混沌《こんとん》を眺め渡した。
デトレフの小道具の剣は、手の中でまるでおもちゃのように感じられた。
レーベンスタインはジュヌビエーブにおおいかぶさるように立った。彼女は気を失う演技をしていたのだが、目を開いて悲鳴を上げた。レーベンスタインは鉤爪《かぎづめ》のように指を突きだしながら、その上にかがみこんだ。
ジュヌビエーブは床を転がって相手の手を逃れ、よろよろと起きあがった。そして、デトレフの隣りに立ち、二人で怪物と向きあった。デトレフは再び自分の心に彼女を感じ、その恐怖と不安を読みとった。だが同時に、彼女の回復力、勇気も感じる。
「これはドラッケンフェルズよ」ジュヌビエーブがデトレフの耳元にささやいた。「あたしたちが蘇《よみがえ》らせてしまったんだわ!」
レーベンスタインは……ドラッケンフェルズ[#「ドラッケンフェルズ」に傍点]は……再び笑い声をあげた。.
観客のだれかが銃を発砲し、怪物の胸に穴を開けた。ドラッケンフェルズはなおも笑いながら胸に手をやって傷口をふさぐと、なにやら小さいものを放りなげた。金切り声が響き、銃を持った男は苦痛に身をよじって倒れ伏した。大神官の相談役マシアスだ。いま、かれはもはや人間とは似ても似つかぬ姿になりはてていた。
「わたしに挑戦する者はいるか?」大きな声が轟《とどろ》く。「だれか、わたしとこの吸血鬼の間に立とうという者は?」
デトレフが <大魔法使い> とジュヌビエーブの間に立っていた。かれは退きたいという衝動に駆られたが、首の噛《か》みあとが痛み、心に残る傷がかれをその場にとどまらせた。ジュヌビエーブはかれに去ってもらいたかった。自分をこの怪物の手にゆだねてしまいたかった。だが、デトレフにそんなことはできない。
「下がれ」デトレフは言った。役者として持てるかぎりの技量をふるい、声に勇者の響きをにじませる。「シグマーの御名において、下がれ!」
「シグマー[#「シグマー」に傍点]とな!」仮面の口の隙間《すきま》から唾《つば》がとぶ。「やつはとうの昔に滅び、消えてしまったわ、愚か者め。だが、わたしはここにいる!」
「では、わが名において、下がれ!」
「そなたの名? <大魔法使い> コンスタント・ドラッケンフェルズ、この永遠なる邪悪の護り手、何人にもうち負かされぬ暗黒の王に挑戦する、そちの名とは?」
「デトレフ・ジールックだ」かれは言いはなった。「天賦の才を持つ者だ」
ドラッケンフェルズはまだおもしろがっていた。「天賦の才だと? わたしはいままで天才とやらを山のように喰《く》らってきた。あと一人食せば、ますます精気が得られような」
デトレフは、この劇の幕が降りるまでに自分が命を落とすことをさとった。
最高傑作の完成を待たず、デトレフは死ぬのだ。かれの名は今後も脚注扱いにすぎないだろう。タラダッシュのくだらない模倣《もほう》者として、将来性は若干あったものの、結局、なにも果たせなかった人物。つまり、まったくの無能者。 <大魔法使い> は単にデトレフの命を奪おうとしているだけではない。デトレフが一度もこの世に存在せず、一度も舞台の上を歩かず、一度もインク壷《つぼ》からペンを取りあげなかったも同然にしようとしているのだ。かつてだれ一人として、これからデトレフが迎えようとしているほどの完璧《かんぺき》な死にみまわれたことはないだろう。
ドラッケンフェルズの手がデトレフの左肩に落ちた。焼けつくような痛みがかれの腕を貫くと同時に、関節がはずれた。 <大魔法使い> はぐいと力をこめて、デトレフの骨を粉々に砕いた。デトレフは苦悶《くもん》にのたうったが、相手の手をふりほどくことも、身を引きはがすこともできなかった。ドラッケンフェルズの手の力はますます強まり、その屍臭《ししゅう》の漂う臭い息がデトレフの顔にかかる。役者は容赦ない苦痛からのがれたくて、左半身をよじろうとした。だが、ドラッケンフェルズの指は鞭打虫《ラッシュウォーム》のように肉に喰いこんでくる。こんな状態があと少し続けば、デトレフは死によって解放されるのを待ちわびるようになるだろう。
怪物の仮面の奥で、邪悪な目が光を放った。
ジュアビューブがとびだしたのは、そのときだった。
]
ジュヌビエーブが狂乱して殺戮《さつりく》の衝動にとらわれたことは、これまでに三度ある。そのたびに、彼女は後悔した。無実の者の血を顔からぬぐいながら、まるで自分がヴィーツァックや女帝《ツァリーナ》カタリンや、あらゆる <真の死者> の暴君の仲間入りをしたような気になる。殺した者の面影に悩まされたこともあったし、ここ数年は、ドラッケンフェルズの顔が夢に現われて、彼女を苦しめつづけてきた。だが、今度ばかりは決して後悔しないだろう。この正義の殺戮を行なうために彼女は生きてきたのだ。彼女の吸いあげたすべての生命に贖罪《しょくざい》するための殺戮。ジュヌビエーブの筋肉が固く張り、血は熱くたぎり、赤いかすみが視界をおおう。彼女は血に染まった眼をこらした。
デトレフはドラッケンフェルズの手につかまれ、拷問台の上の男みたいな絶叫を上げている。オスバルトは――薄笑いを浮かべた、裏切り者の、卑劣きわまりないオスバルトは――カール・フランツの喉元《のどもと》にナイフを突きつけている。どちらもジュヌビエーブには許しがたいことだった。
痛みが走り、ジュヌビエーブの歯が伸びてきた。指先から鉤爪《かぎづめ》のような爪が生えて、血を流す。口を開けると、鋭い象牙《ぞうげ》色の牙《きば》が歯肉を割った。彼女の顔はまるで肉でできた仮面のようになった。厚い皮膚がぴんと張り、刃物のような牙をのぞかせた陰気な笑みが浮かぶ。本能を司《つかさど》る脳の一部――ジュヌビエーブの中の吸血鬼、シャンダニャックから受け継いだもの――がゆりおこされ、彼女は敵にとびかかっていった。情熱にも近い殺戮への衝動を激しくつのらせて。そこには愛と憎悪、絶望と歓喜があった。そして、その行きつく先には死が待ちうけている。
ドラッケンフェルズはよろめきはしたものの、まだ立っていた。デトレフは放りだされて、尻《しり》もちをついた。ジュヌビエーブは怪物の胴に両足を巻きつけ、相手の当て物のついた両肩に鉤爪を埋めた。レーベンスタインの舞台衣装の肩紐《かたひも》がはずれ、膿《う》みただれた肉があらわになる。蛆虫《うじむし》がその体をはいまわり、相手の骨を引き裂こうとして肉に喰いこんだジュヌビエーブの指へとからみついてくる。だが、もはや彼女はそうしたものに嫌悪を感じなかった。ただ、殺戮《さつりく》への欲望があるだけだ。
観客席は混乱をきわめていた。オスバルトが叫んでいる。だれもが叫んでいた。人々は先を争って逃げだそうとしている。だが、中にはじっとたたずみ、機会を狙《ねら》っている者もいた。何人かの老いた高官は心臓の発作に苦しんでいた。
ジュヌビエーブは怪物の裂けた肩から片手を抜き、ドラッケンフェルズの仮面を引きちぎった。革の紐は刃物のような彼女の爪に切られ、鉄の板が折れまがった。仮面がはがれ、ジュヌビエーブはそれを投げすてた。観客席から悲鳴が上がる。ジュヌビエーブは相手の顔を見ないようにした。その程度の冷静さは残っている。いずれにせよ、ドラッケンフェルズの顔をあばくことになど興味はない。ただ、相手の首から鉄の防具をはずしたかっただけなのだ。
ジュヌビエーブは大きく口を開いた。顎《あご》の関節がひとりでにはずれ、ずらりと並んだ新しい牙が歯茎《はぐき》から現われるのを待ってから、彼女は相手に喰らいついた。そして、怪物の首に深く牙を埋める。
血を吸おうとしたが、血は一滴もなかった。汚物に喉が詰まるのも構わず、ジュヌビエーブは吸いつづけた。かつて味わったことのない、不潔で臭い腐敗の味が口中に広がり、胃の腑《ふ》へとしみわたっていく。その味が酸のように肉を焼き、体は無駄と知りつつそれを拒もうとした。毒が広がるにつれ、自分の肉体がもだえ苦しむのを感じる。
それでも、彼女は吸いつづけた。
レーベンスタインが最期の息を吐くと同時に、悲鳴がもれはじめた。声はだんだん大きく、猛々《たけだけ》しいものになっていく。ジュヌビエーブの鼓膜が痛み、骨が体の中でびりびりと振動した。あばら骨に何発も強打をくらったみたいだ。その悲鳴は、さながら行く手を阻むものすべてを破壊する嵐《あらし》のようだった。
腐った液が彼女の口に流れこんだ。それは、干からびた肉体よりもまだ胸の悪くなるものだった。
ジュヌビエーブはくわえていた肉を噛《か》みきって、吐きだした。それからもう一度、今度はもっと高い位置に牙を埋める。 <大魔法使い> の耳がちぎれ、彼女はそれを飲みこんだ。さらに、相手の頭の側面から灰色の肉を一片喰いちぎると、頭骨の継ぎ目があらわになった。澄んだ黄色い液が骨の隙間《すきま》からしみだしている。彼女は舌を伸ばして、それをなめとった。
敵の手がジュヌビエーブの顔をおおい、彼女を押しのけようとする。ジュヌビエーブは骨が折れそうになるまで首をつっぱった。分厚い手袋の上から噛みつくが、相手の掌《てのひら》まで牙が届かない。もう一本の手が彼女の腰をつかんだ。ドラッケンフェルズにからみついていた足が離れる。
殺戮の衝動は鳴りをひそめ、ジュヌビエーブは吸血鬼《バンパイア》の牙がひっこんでいくのを感じた。身もだえしながら、さっき飲みこんだ耳を吐きだす。と、耳はジュヌビエーブの口をふさいだ手に、ぴたりとはりついた。
ジュヌビエーブはまたしても忍びよる死を感じた。シャンダニャックが彼女を待っている。そして、いままで彼女がその死をみとってきた者全員が……。
ドラッケンフェルズがジュヌビエーブの服を裂き、彼女の血管をむきだしにした。ジュヌビエーブの血、何度となく浄化されてきたその血が、もう一度かれを完全な姿にもどすだろう。
ジュヌビエーブの死が、かれを復活させることになるのだ。
11
デトレフはまだ生きていた。体の半分は衝撃で麻痺《まひ》していたし、あとの半分は鈍い痛みとなって残っている。だが、かれは生きていた。
ドラッケンフェルズの叫びが場内に満ち、人々の頭に釘《くぎ》を打ちこんだかのように響いた。石がその振動のために壁からくずれおち、観客の頭上に降りかかる。窓ガラスはあっというまに一枚残らず砕けちった。老人は死に、若者は狂気へと駆りたてられていく。
デトレフは膝《ひざ》ではいながら、その場を逃れようとした。
ジュヌビエーブはかれのために身を投げだしてくれた。デトレフは生きのびるだろう――少なくとも、いましばらくは。そして、ジュヌビエーブが身代わりとなって命を落とすことになる。
いや、そんなことは許されない。
デトレフは立ちあがろうとしてよろめき、大道具の一つをひっくりかえしてしまった。その後ろに隠れていただれかが逃げだした――コジンスキーだ。綱がデトレフのまわりに落ちてきて、さらに重いものがばらばらと降ってくる。張りぼての背景がばたばたと倒れてきたが、互いに支えあってとまった。ランタンが落ち、燃える油の輪が広がる。
デトレフは剣をなくしていた。武器が必要だった。
見ると、壁に大鎚《スレッジ・ハンマー》が立てかけてある。大道具をすえつけるとき、コジンスキーが使ったのだろう。ほんとうなら、片付けておかなくてはいけない。こんなところに置いておくのは危険だからだ。舞台裏にひっこむときに、だれが蹴つまずくかしれない。デトレフはもっと些細《ささい》なことで人を馘《くび》にしたこともある。
しかし、今回ばかりは――万一、生きのびればの話だが――コジンスキーの給料を三倍に上げもしようし、望むなら、恋愛劇の主役をあの粗野な男に与えてやってもいい……。
デトレフは鎚《ハンマー》をとりあげた。その重さに手首が痛み、傷ついた肩が焼けつくようにうずく。
それはなんの変哲もない鎚《ハンマー》だった。
だが、鎚《ハンマー》からデトレフの体に注ぎこんでくる力強さは、尋常ではない。
デトレフが攻撃しようと鎚《ハンマー》を構えると、それはまるで鉛に金がまじっているかのように、かすかに輝いて見えた。
「シグマーの御名において!」デトレフは高らかに言いはなった。
痛みは消え、狙《ねら》いは命中した……。
12
ドラッケンフェルズはその力まかせの一撃を腰の横に喰らった。かれは自らを蘇生《そせい》させてくれる血をあきらめきれずに、ジュヌビエーブをひきよせた。
デトレフ・ジールックは鎚《ハンマー》を振りまわして、 <大魔法使い> と向きあった。
ドラッケンフェルズは相手の手に光り輝く鎚《ハンマー》が握られているのを見て、一瞬恐怖に襲われた。心に浮かんだ名前を口にする勇気はなかった。
[はるか昔、わたしは敗れたゴブリンどもを率いていた。猛々《たけだけ》しい目をした金色の髭《ひげ》の巨人がわたしを辱《はずかし》め、勝利の鎚《ハンマー》を高々と差しあげていた。魔法はわたしを見捨て、鎚《ハンマー》が命中するたびに、この体は腐れていった。わたしは生命力をすっかり取りもどすまでに、一千年の歳月を要したのだ。]
いま、デトレフの瞳に宿る光は天才のものではない。シグマーの光だ。
[北東地方の人間の部族や、ドワーフというドワーフの群れはみな、あの鎚《ハンマー》のもとに結集した。生まれてはじめて、わたしは戦闘で敗北を喫した。シグマー・ヘルテンハンマーがわたしの前にそびえたち、 <大魔法使い> の顔を長靴で踏みにじり、泥の中にこの体を沈めたのだ。]
ジュヌビエーブは身をよじってドラッケンアェルズから逃れ、だっと駆けだした。つぎの鎚《ハンマー》の一撃は <大魔法使い> のむきだしの頭骨に命中した。
コンスタント・ドラッケンフェルズの奥底で、ラスツロ・レーベンスタインが死の苦悶《くもん》にもだえていた。エルツベトも、ルディも、メネシュも、アントン・ファイトも。さらに、その他の者、何千もの人々が……。
デトレフは鎚《ハンマー》を突きだして、それを杖《つえ》のように使った。ドラッケンフェルズは自分の鼻が陥没したのを知った。
エルツベトの心臓が破れ、怪物の胸に体液がほとばしる。ルディの脂肪がどろどろに溶け、腹部の空洞に流れおちた。メネシュの皮膚がはじけ、細長い紐《ひも》になってはがれていく。ファイトの骨が折れた。ドラッケンフェルズは自ら殺した者に裏切られたのだ。
舞台の両袖《りょうそで》に、修道僧の衣《ころも》を着た人影が何体か立っているのが、ドラッケンフェルズの目に入った。あの猿人の部族の男もそこに混じっているのだろう。そして、死ぬまでドラッケンフェルズに従った何千何万という者どもも……。
デトレフは舞台化粧が顔を伝いおちるのもかまわず、狂戦士《バーサーカー》のように口から泡を噴きながら鎚《ハンマー》をふるった。
<大魔法使い> になるはずだった残骸《ざんがい》の中に、レーベンスタインの痩《や》せこけた体だけが立っていた。ドラッケンフェルズはもう一度叫び声を上げたが、それは弱々しいものだった。
「シグマーよ」かれは歎願した。「どうか、情けを……」
鎚《ハンマー》が何度も振りおろされた。頭蓋骨《ずがいこつ》が卵のようにざくりと割れる。ドラッケンフェルズは倒れたが、なおも鎚《ハンマー》の攻撃はやまない。
[あれは凍えるような氷原だった。わたしは捨てられ、死を待っていた。部族に養われるには、わたしはあまりに病弱だった。男が一人――最初の犠牲者だ――たまたまそこを通りかかり、わたしはその男から精気を奪うために戦った。わたしは勝った。だが、どうやら……二万五千年後のいま……ついに滅びるときがきたようだ。結局、わたしは永遠という時の刻みの中で、ほんの一瞬、生き長らえたにすぎなかったのだ。]
ついに、生命はかれを見捨てた。
13
一方、カール・フランツはひどく出血していた。オスバルトの手は動きを止めず、刃物は深く肉に喰《く》いこんでいた。動脈が切断されたり、気管が破れなかったのは、幸運というよりほかない。
舞台の上では、だれも予測しなかった事態が起こっていた。デトレフ・ジールックがドラッケンフェルズ役の男を滅ぼしたとき、オスバルトの体が震えたのを皇帝は感じた。
裏切り者の企みは不首尾に終わったのだ。
「オスバルト・フォン・ケーニヒスバルト!」デトレフは血まみれの鎚《ハンマー》をふりかざして叫んだ。
客席が静まりかえった。炎のはぜる音は聞こえたが、叫び声や悲鳴はぴたりとやんだ。
「オスバルト、こっちにくるがいい!」
カール・フランツは選帝侯がすすり泣くような声をたてるのを聞いた。皇帝の首に切りつけていたナイフが、そのわだちのような傷の中で震えている。
「そこを動くな。さもないと皇帝の命はないぞ!」もはやオスバルトの声に力はなく、むやみに甲高くて聞き取りにくかった。
デトレフは正気にもどりつつあるのか、わずかにひるんだようすを見せた。鎚《ハンマー》を見つめ、舞台の上の骸《むくろ》を見やる。かれは武器を床におろした。ジュヌビエーブ・デュードネがかたわらに立ち、がくりとくずおれそうになったデトレフに腕を巻きつけた。
「カール・フランツさまを殺したりすれば、きさまも死ぬことになるぞ。皇帝が床に倒れる前にな、フォン・ケーニヒスバルト」ヨハン・フォン・メクレンブルク男爵《だんしゃく》がそう言って剣をさしあげた。サドンランド選帝侯一人ではない。つぎつぎと剣先が群れ集い、ぎらつく光を放っている。
オスバルトは出口を――逃げ道を――求めて、死にものぐるいで四方を見まわした。仕切り席の後ろはふさがれている。菓子売りが格闘家のように足をふんばって立ちはだかっていた。その男は、実は皇族の護衛の一人だった。
「覚えておけ、カール・フランツ」オスバルトは皇帝の耳にささやいた。「わたしはおまえがきらいだ。おまえのやることなすことすべてな。何年間もおまえの前で吐き気をこらえてきた。たとえ、この身がどうなろうと、今夜、ヴィルヘルム二世家を根絶やしにしてみせよう」
シュパッ!
オスバルトはカール・フランツを押しやり、赤く濡《ぬ》れたナイフを振りかざしながら、仕切り席の側壁をとびこした。
14
オスバルト大公は膝《ひざ》を曲げて床にとびおりると、大広間の壁づたいに走った。ウルリック派の大司教がその行く手に立ちはだかったが、なにぶん高齢なので、たやすくなぎたおされてしまう。オスバルトは逃走しながら、観客のすわっていた椅子《いす》をひっくりかえしていき、追っ手の数を減らした。
ヨハン男爵とその支持者が広い出入口の前に立ち、獲物を待ちうけている。
オスバルトはかれらを避けて、舞台のほうに駆けだした。
ジュヌビエーブはオスバルトがやってくるのを見て、ふらつく足でそちらに寄った。ドラッケンフェルズとの戦いで弱ってもいたし、毒のある肉を食べたせいで気分も悪かった。それでも、彼女は普通の人間より強い。
ジュヌビエーブは拳《こぶし》を握ってオスバルトの顔面を殴りつけ、その品のある鼻を打ちくだいた。そして、拳についた血をなめる。いまやただの血、どこといって変わったところのない血だ。
デトレフは突っ立ったまま、茫然《ぼうぜん》とながめていた。そのときのかれは、ただの傍観者だった。 <大魔法使い> との戦いの間、いったいなにがデトレフにとり憑《つ》いていたというのだろう? ジュヌビエーブはそれについて納得のいく答えを知っていたが、いまやその憑きものは消えさっていた。残されたデトレフは混乱して疲れきり、無防備だ。
怒りくるったオスバルトがジュヌビエーブに襲いかかった。彼女はそれをかわし、オスバルトは倒れた。
大公はドラッケンフェルズの残した体液に足をとられながら立ちあがり、口汚く罵《ののし》りながら、ナイフをくりだした。ジュヌビエーブの腕に鋭い痛みが走る。
またして銀だ。大公はナイフで彼女を刺しぬこうとして失敗した。つぎにそれを投げつけたが、今度もはずれた。ジュヌビエーブは牙《きば》をむきだし、相手に向かって突進した。大公はさっとそれをかわす。そして、すらりと剣を抜きはなち、ジュヌビエーブの胸に切っ先を突きつけた。これも銀だ。そのほんの一突きで、ジュヌビエーブの心臓は貫かれてしまうだろう。オスバルトは彼女に甘ったるく微笑《ほほえ》みかけた。
「われわれはみな、死なねばならん。かわいいジュヌビエーブ、そうだろう?」
15
一本の剣が孤を描き、くるくる回転しながら、観客席からとんできた。デトレフは手をのばして、剣の柄《つか》を宙でがっちりとつかんだ。
「うまく使えよ、役者さん」
メクレンブルク男爵《だんしゃく》が叫ぶ。
デトレフは駆けだして、オスバルトの剣をジュヌビエーブの胸元から押しのけた。ジュヌビエーブはさっととびのく。
大公は体をまわし、デトレフに向かって歯を一つ吐きだすと、決闘に供えて足場を固めた。
「えい!」
大公の剣が空を裂き、デトレフの胸を横に切りつけて、元の位置のもどった。
オスバルトは血にまみれた顔で、不気味に笑った。こうして自分の技量を見せつけた後は、ただ自らの楽しみのためだけに、デトレフを切り刻めばいい。帝国《エンパイア》を失いはしたが、かれの若かりし頃の扮装《ふんそう》をした、この愚かな男を殺すことはまだできる。
デトレフはやみくもに剣をふりまわし、オスバルトはそれを受け流した。オスバルトが激しく打ちかかり、デトレフが後退する。
ついに、二人ともが瀕死《ひんし》の重傷を負って膝《ひざ》をついた。
デトレフは骨の髄までしみる疲労と戦い、残る力をかきあつめた。オスバルトは自分の命がこの戦いの勝利にかかっていることを知って、がむしゃらに剣をふるった。しかし、大公は貴族のたしなみとして、剣の達人ナルンのファランコートから一対一で手ほどきを受けてきた。それにひきかえ、デトレフが知っているのは、ただまね事の戦闘場面をいかに観客の目によく見せるかということだけだった。
オスバルトはデトレフのまわりをはねながら、相手の衣装を切り裂き、その顔をつつきまわした。
だが大公がそんな戯れに飽き、そろそろ決着をつけようかと思ったそのとき……。
かれはデトレフの剣先が自分の肋骨《ろっこつ》に打ちこまれたのに気づいた。
デトレフがさらに剣を突きいれると、オスバルトの膝が崩れていく。剣がずぶずぶと沈み、オスバルトの胸に柄まで埋まった。
大公は血へどを吐き、息絶えた。
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結び
『ドラッケンフェルズ』の初演がおわった後は、だれもが充分休息をとらねばならなかった。全員が傷を負っていた。
皇帝は命こそ助かったものの、数か月間は小声で話さねばならなかった。ルイトポルトは顎《あご》の腫《は》れとひどい頭痛に苦しんだ他は無傷で、芝居の最後を見逃したことを悔《くや》しがっていた。ジュヌビエーブは自ら申しでた者たちから血を分けてもらい、一、二日のうちに全快した。デトレフは大公の死の直後に気を失い、温かいスープや薬草の煎《せん》じ薬などの手厚い看護を受けて、ようやく元気をとりもどした。事件以来、肩はつっぱったままになったが、かれは一度もそれを不自由とは認めなかった。
サドンランドの選帝侯ヨハン・フォン・メクレンブルク男爵《だんしゃく》が事件の処理を引き受け、山中の墓標すらない塚にオスバルト・フォン・ケーニヒスバルトを葬った。そこを立ちさる前に、男爵は地面に唾《つば》を吐き、大公の所業に呪《のろ》いの言葉を唱えた。ドラッケンフェルズだったものの残骸《ざんがい》は、男爵が切りきざんで谷に投げすて、狼《おおかみ》の餌《えさ》とされた。それは、かつてこの世に生きたなにものとも思えない姿になりはてていた。
男爵が怪物の始末をしているとき、修道僧の衣を着た人影が何体か見つめているような気がしたが、作業を終えると同時に、それは消えた。狼どもは死んだが、哀れみを覚える者はほとんどいなかった。相談役マシアスの喪に服していたシグマー派の大神宮と、ウルリック派の大司教はある午後、宗派の別を越えて互いに力を合わせ、帝国《エンパイア》が救われたことを感謝する式典を催した。たいして人は集まらなかったが、それで神に対する義務は果たせたと、だれもが思った。
デトレフの一座はかけずりまわって荷物を馬車に積みこんだ。デトレフは健康がすぐれず、アルトドルフで『ドラッケンフェルズ』を元の脚本の終幕どおりに上演してほしいという依頼状が山積みになっている間、フェリックス・ヒューバーマンとガグリールモ・ペンタンゲリが劇団の経営を引き継いでいた。指揮者は契約をいくつも延期した。デトレフが新たな事実に合わせて脚本を書きなおしたがるのは、わかっていたからだ。 <大魔法使い> とオストランド大公が共謀していた話がありのままに伝わることは決してなく、民衆の間ではデトレフが書こうと決めた物語が語りつがれることになるだろう。ミッドンランドの連帯侯は病床のデトレフに謝罪の手紙をよこし、『ドラッケンフェルズ』の製作中にきっと生じた借金を払ってやろう、と言ってきた。ただし、いずれ芝居が再演されたとき、その収益金のごく一部を侯に渡す、という条件つきで。ヒューバーマンはデトレフの返事を礼をふまえた拒絶の言葉にかえて伝え、劇団員や楽士に頼んで自腹を切ってもらって一座の財政を立てなおした。また、なにかの拍子に、かれは旅行|鞄《かばん》の中から、古い金や銀のエルフの細工物をいくつか見つけだし、それを資金にあてた。ガグリールモはアルトドルフ共同出資劇場設立の契約案を出し、その劇団の経営権を喜んでデトレフ・ジールックに譲りわたした。選帝侯会議が簡単に開かれたが、会議机のまわりに一つだけある空席がやけに目だった。
その席で、オストランドの新しい選帝侯を指名するよう皇帝に要請が出された。それは本来ならオスバルトの従兄弟《いとこ》に継承されるはずだったが、選帝権は他の者に譲られるべきだと決まった。皇帝は最初、皇室としてはその一票を <神学校> に与えてもよいと申しでたが、その意見は却下された。選帝権はやはり、オストランド王国に帰属すべきものである。
マクシミリアン・フォン・ケーニヒスバルトは立派な人物だったし、かれの祖先もその例外ではなかった。しかし、子孫の一人がただ一度裏切ったがために、血族全員が権利を剥奪《はくだつ》されてしまうことになったのだ。皇帝の選んだ後継者は全員の承認を得た。オストランドの選帝侯はこの先、フォン・タッセニンクス家の者が継いでいくことになるだろう。最後にドラッケンフェルズの要塞《ようさい》を破壊することが決まり、錬金《れんきん》術師が送りこまれて、建物中に爆発物をしかけた。メクレンブルク男爵は向かいの山からそれを眺め、再び視界の隅に頭巾《ずきん》を被《かぶ》った幽体の姿が映るのに気づいた。砦《とりで》は完璧《かんぺき》に倒壊し、近隣の谷に石の雨を降らせた。おかげで三つの村の住人は、その後数世代にわたって家屋用の石材に事欠かずすんだ。
ヘンリック・クラリイは逮捕され、殺人の罪に問われた。だが、デトレフの証言があったにもかかわらず、結局、無罪放免となった。ファーグル・ブレグヘルの死はある意味で自殺といえたし、いずれにせよ、その男が危険な変異種《ミュータント》だったことはまちがいないというのが、その理由だ。しかし、フォン・ケーニヒスバルト家から給料をもらえなくなった元執事は、莫大《ばくだい》な裁判費用を支払うことができず、その後の人生をマンドセン砦の囚人として送ることになった。模範囚になるというクラリイの最大の野望は、ついに果たされずに終わった。
リリ・ニッセンはとある売れっ子の剣闘士と結婚したが、それもつかのま、闘技場での事故で夫の人生が縮まるまでのことだった。彼女の自慢の種だった『美しきマチルダの恋物語』のマリエンブルグ公演は費用面では失敗し、その後はじめて母親*を割りあてられるに及んで、彼女は即座に舞台を引退した。それから何度か結婚し、キスレフのラディ・ボッハ皇帝《ツァー》の従兄弟と浮き名を流した後、きっぱりと公《おおやけ》の生活とは縁を切り、決して完成することのない℃ゥ伝を執筆すると言って、つぎつぎと変わる共同執筆者をそのたびに絶望の底へと突きおとしたのだった。
ペーター・コジンスキーはいかさま師のユストゥスと一緒に、二人組の道化師として大成した。靴直しのケレトはエマヌエル・フォン・リーベヴィッツ伯爵《はくしゃく》夫人専属の衣装デザイナーとなり、ナルンの貴婦人に大いに人気を博した。スツァラダットは墓荒らしになったが、とりわけ強力な呪《のろ》いのかかった墓をうっかりあさってしまい、魔物《デーモン》に引きさかれてしまった。ラインハルト・イェスナーとイローナ・ホーバシーは結婚して双子《ふたご》をもうけ、それにルディとエルツベトと名づけた。アベルハイムのクロチルデは肌の手入れを完璧にやってくれる薬草師を見つけだして、帝国《エンパイア》でもっとも誉れ高い美女の一人となった。宿の主人バウマンはハーフリングのコリンのすすめで、百酒場通りの <黒の蝙蝠《こうもり》> 亭をサイコロ博打《ばくち》の勝ち抜き試合に再び参加させることにし、その後の三年間、かれの酒場は連勝を飾った。
クレメンティン・クラウゼヴィッツはシャリアの修道女会を去って、薬剤師と結婚した。吸血鬼のヴィーツァックはカラ・クバーンに舞いもどり、バベル皇太子《ツァーレビッチ》の遺志をついで結成された秘密結社に滅ぼされた。メリッサ・ダクーは <永遠の夜と慰めの教団> に退屈し、つぎつぎと養父母を見つけて、広くラストリアやニュー・ワールドを旅してまわった。セルゲイ・バッハーリンはアルトドルフの川岸通りにある売春宿のけんかで片目を失い、最後には手おくれになった梅毒で命を落とした。長老オノリオはその後もずっと人生に疲れた吸血鬼に安息の場を与えつづけ、人狼《ワーウルフ》やその他変身する者のための教団を作った。典獄のゲルド・ファン・ツァントは収賄容疑で起訴され、ウェイストランドの囚人流刑地を管理するよう申しわたされた。ゼイモウル・ネーベンツァールは新興の <霜と氷の神> に宗旨がえし、ノーシャでもっとも影響力のある真実の語り部となった。ラスツロ・レーベンスタインの身になにが起こったかは、だれもきかなかった。
デトレフ・ジールックは健康を取りもどし、『ドラッケンフェルズ』を『オスバルトの悲劇』として書きなおした。アルトドルフのテンプル・オブ・ドラマで初演したときには、かれが主役をやったが、ジュヌビエーブ・デュードネにもう一度その役をやらせ、女優として生きるよう説得するのはむりだった。上演は数年問続き、デトレフは続編である『オスバルトの裏切り』を書いて、事件の結末を述べた。その芝居では、デトレフ・ジールック*にラインハルト・イェスナーを使い、自らはラスツロ・レーベンスタインとドラッケンフェルズの二役をやって、人々を驚かせた。その後、かれは完成度の高い作品をたてつづけに発表した。そして、オスバルトものの芝居から上がった利益で、劇場を一つ買いとり、劇団員全員の合意の上で、それをファーグル・ブレグヘル記念劇場≠ニ命名しなおした。『シグマーの歴史』は手直しした上で上演され、一部批評家筋からは好評だったが、のちの広く民衆に受けいれられたデトレフの作品には及ばなかった。個人的にはデトレフを憎んでいる批評家でさえ、少なくともヤコポ・タラダッシュに匹敵する人物としてかれを認めるようになった。デトレフは決して敬虔《けいけん》な信者とは言えなかったが、シグマー派に多額の寄付をし、街《まち》の別邸の中に鎚《ハンマー》を祭る聖堂を建てた。何年かをジュヌビエーブとともにすごし、いままで知らなかった多くの感覚を彼女から教わった。デトレフの一四行詩《ソネット》集『わが不変の恋人に』は、かれの最高傑作として広く認められている。何年かたって、デトレフが五十代になり、ジュヌビエーブの容姿があいかわらず十六歳のままというときがきて、ついに二人は別れたが、彼女はデトレフの生涯愛しつづけた恋人であった。
ジュヌビエーブは永遠に生きる。デトレフにそれはできないことだが、かれの作品は永遠に生きつづけることだろう。
[#改ページ]
訳者あとがき
[#地付き]安田 均
世の中、おもしろい小説はいっぱいありますが、いろんな要素を取り込んで、なおかつ一冊にかっちりまとまった長編の形であらわされたものというのは、最近あまり見かけなくなりました。
作者の見事な腕の冴えを見せる小粋な長編でも、分野がこれまでのありきたりなものだとか、種々の分野にまたがった独創的な作品でも、何巻にもわたって延々続くので、途中から入りにくいという欠点をもっていたりします。
その点で、この『ドラッケンフェルズ』は、エンターテインメント小説のさまざまなおもしろさを寄せ集め、その上、見事な構成で、一冊にきれいにまとめあげるという離れ業を見せています。
とにかく読んでほしい。少なくとも、ファンタジーやホラーやミステリーやRPGといった分野の好きな人なら、おもしろいはずです。それに、ちょっとかわった恋愛小説の好きな人にもお薦めでしょう。もちろん、SFが好きな人は、なんでも取り込めるでしょうから、ぜひこの傑作(あえて、そう書きましょう)を味わってください。そうそう、演劇の好きな人にも、テーマがテーマですから興味深く読めると思います。
もちろん、副題にもあるように、これはウォーハンマーというテーブルトークRPGの世界を背景に使った作品です。その意味では、最近流行しているRPG小説でもあるわけですが、ぼくの見るところ、そうした分野への予備知識など、全然必要としないだけの小説のおもしろさを備えています。逆に言うと、むしろRPGとして、このような作品を遊ぼうとするなら、登場人物が特殊すぎて、すこしゲームにはしづらいだろうなと思ったりします。世界のはじまりから、この世を支配し、眺めつづけている存在を打ち倒すなんて、よほど高レベルのキャラクターかマジックアイテムでもない限りは、RPGでは不可能ですから。
それよりも、典型的なホラー小説の設定を使いながら、ヒロインに十六歳にしか見えない美少女吸血鬼(じつは、なんと六六三歳!)を据えたり、かと思えば、血みどろの事件のなかにそして誰もいなくなった<^イプのミステリ興味をうまく導入したり、演劇関係者を中心において、作品自体が劇仕掛けになっていたりという、小説家としての作者の才気をここは堪能するのがいちばんです。それに、構成だけではなく、キャラクター描写もなかなかで、主人公であるデトレフと吸血鬼ジュヌビエーブ、そして、もともとのヒーローであるオスバルト公の微妙な関係をはじめ、さまざまなサブ・キャラクターにまで目の行き届いた描き方は、さすがイギリスの作家らしいというべきでしょう。
そして、そうした上に、ウォーハンマーというファンタジーRPGの背景世界が広がってます。ウォーハンマーそのものは社会思想社からゲームのルールやシナリオが出ていますから、ここではその特徴を簡単に説明するにとどめましょう。
ウォーハンマーはイギリスを代表するRPGという評価をすでに確立していますが、その魅力のおおきな部分に、中世ヨーロッパを模したようなオールド・ワールドという世界があります。選帝侯家が支配するドイツそのもののような帝国(エンパイア)、頽廃と憂愁の国と歌われ、フランスを思わせるブレトニア、まさしく東欧・ロシアのような、北西に横たわるキスレフやエレングラード、そして、ベニスやフィレンツィエのような小都市が乱立する、南のティリア市国、さらには、その南方のアラビィや、はるか東のキャセイ……これらは、架空のファンタジー世界といっても、現実に近いものだけに、なじみがあると同時にエキゾティシズムをかもしてくれます。
このオールド・ワールドにおおいかぶさっている影が混沌≠ニいう敵役です。これは有史以前にオールド・ワールドに飛来した種族が、あやまって異界につながる道を開いたため、そこから、まったくこの世界と異なる価値観や能力をもつ生物が侵入してきました。かれらを総称して混沌≠ニ呼ぶわけです。混沌≠ヘみずからの従者を増やそうとつねに活動し、そうした混沌≠ヨと変貌する変異石を利用します。オールド・ワールドはいつもこの混沌≠フ侵略にさらされているというわけです。
もっとも、本書に現われるドラッケンフェルズは、この混沌≠スちとは異なり、邪悪そのものの魔術存在です。しかし、かれが混沌≠スちと近しい立場にいることはまずまちがいのないところでしょう。
というように、綿密な構成、さまざまなジャンルのおもしろさ、キャラクター描写の確かさなどの上に、RPGの壮大な背景世界を重ねた作品が、この『ドラッケンフェルズ』です。一冊の長編に、これだけのおもしろさが詰っている小説は、かなり贅沢とも言えるわけで、それだけ作者の意気込みも伝わってきます。
作者のジャック・ヨーヴィルは、別名をキム・ニューマンといい、この名前でインターゾーン誌などを中心に、ホラーやSFの佳作をつぎつぎと発表しています。RPG小説としては、ヨーヴィル名義で、本書でもちらりと登場したメクレンブルク男爵が登場する長編が一冊と、近未来カーバイオレンス小説が三冊あります。力量のある作家なので、これらも翻訳されてほしいところです(噂では、本書のジュヌビエーブを主人公にした長編三部作にも取りかかっているとか、ちょっと読んでみたいところです)。
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底本
角川文庫
ウォーハンマー・ノベル ドラッケンフェルズ
平成四年八月二十五日 初版発行
著者――ジャック・ヨーヴィル
訳者――安田《やすだ》均《ひとし》/笠井《かさい》道子《みちこ》