ノートルダム・ド・パリ(下)
ヴィクトル・ユゴー/辻昶・松下和則訳
目 次
第八編
第九編
第十編
第十一編
一八三二年刊行の決定版に付された覚え書
解説
[#改ページ]
第八編
一 金貨が枯れ葉に変わる
グランゴワールをはじめ、奇跡御殿の人たちはみんなひどく心配していた。もうたっぷりひと月もまえから、エスメラルダがどうなったか、その消息が誰にもわからないのだった。このことで、エジプト公やその仲間の物乞いたちも、非常に心を痛めていた。また彼女のヤギもどうなったか、まるでわからないのだ。
そのことで、グランゴワールの悩みはいっそう深くなっていた。ある晩あの娘がいなくなってから、もうそれっきり、生きているという便りもないのだった。あらゆる手だてをつくして探してみても、なんのかいもなかった。意地の悪いやつらが、何回か、からかうように、グランゴワールに向かって、あの晩、サン=ミシェル橋のそばで、あの女がひとりの士官と連れだって歩いていったのに出会ったぜ、と言ったりした。しかし、このジプシー流の亭主は、神などは信じない哲学者であったし、それに、彼の女房がどれほど処女であるか、誰よりよく知っていたのだ。あのおまもりとジプシーの女であるということの、このふたつの組み合わさった力のために、彼女がどんなに固く貞操《ていそう》を守っているか、察することができた。第二の力に対するこの貞操の抵抗力を、数学的に計算していたのだ。それで、この点では心配はいらなかった。
それだからかえって、彼女がなぜ失踪《しっそう》したか、その説明がつかないのだった。それが深い悲しみだったのだ。彼は、事実これ以上|痩《や》せる余地はなかったのであるが、それができるなら、げっそりと痩せてしまったことであろう。そのために彼は、何事もすっかり忘れてしまって、文学の趣味までも、また、金の目やすがつきしだい印刷させるつもりであった『修辞学上の正規の形態と変則の形態とについて』という大著述のことも、すっかり忘れてしまっていた。(というのは、ユーグ・ド・サン=ヴィクトールの『ディダスカロン』が、有名なヴァンドラン・ド・スピールの活字で印刷されているのを見てからというものは、彼はいつでも、うわごとのように、印刷のことを口にしていたからである)。
ある日のこと、彼がトゥールネル裁判所の前を悲しげに通りすぎようとしたとき、裁判所の、とある門の前に人だかりがしているのに気がついた。
「あれはなんですか?」と、彼はそこから出てきたひとりの青年にたずねた。
「おれもよく知らねえんだが、なんでも憲兵の士官を殺した女のお裁きがあるんだそうだ。その裏には、なにか魔法がからんでいるらしいんで、司教も判事もその訴訟に関係しているんだよ。おれの兄貴もジョザの司教補佐なもんで、ここにひっぱり出されていやがるんだ。それで、おれは兄貴に会って話したいと思っていたんだが、なにしろあの人ごみで、兄貴のところまで行かれなかったんだ。弱ったよ、だって、金がいるんでね」
「それはお気の毒ですな。お貸しすることがぼくにできればね。ぼくのズボンに穴があいているったって、それは金のせいじゃないんですよ」
彼はこの青年に、自分が青年の兄の司教補佐とは前からの知りあいだと打ち明ける気にはならなかった。あの日大聖堂で出会ってから、司教補佐のところに行ったことがなかったのだ。足が遠のいていると、ちょっと、ばつが悪かったのである。
青年はさっさと行ってしまい、グランゴワールは群集のあとについて、大広間に通じる階段をのぼっていった。彼は、どうせ裁判官などというものは、とかくばかばかしいほど愚劣なものだから、憂うつを吹きとばすには、刑事訴訟の公判でも見るよりほかに手がないと考えていたのだ。
彼がまぎれこんでいた群集は、無言のまま、ひじで押しあいながら歩いていた。古い大きな建物のまるで腸のようにうねうねした堀割のような、えんえんとうねっている薄暗い長い廊下を、ゆっくりと、つまらなそうに、ガタガタと音をたてて歩いていくと、ようやく、広間に出られる扉のそばに着いた。広間にはいると、背が高かったので、群集のゆらゆら揺れている頭の上から、あたりを見わたすことができた。
広間は広くて薄暗かった。そのためにまた、なおいっそう広く思われた。もう日が暮れかかっていた。尖頭アーチの長い窓からは、青白い光がひと筋射し込んでくるだけで、その光も、彫刻のある骨組で大きな格子になっている丸天井まで届かないうちに消えてしまった。天井にある何千という多くの彫像は、影の中にごちゃごちゃとうごめいているように見えた。あちらこちらの机の上は、もういくつかのろうそくがともされて、書類の中にうずまった書記の頭を照らしていた。
広間の前方には、群集がいっぱい詰めかけている。右側と左側とには、法服を着た人びとが机の前にすわっており、奥のほうには、一段高くなった席に大勢の裁判官が並んでいたが、そのいちばん後列は暗やみの中にはいりこんでいる。みんなの顔はじっと動かず、暗い気持を表わしていた。壁には数知れぬユリの花がまきちらされている。裁判官の上のほうに、大きなキリストの像がかすかに見分けられ、いたるところに槍や鉾槍《ほこやり》がかかっており、そのきっ先がろうそくの光にあたって、ぴかりと輝いていた。
「ちょっとおたずねしますがね。あそこに並んでいる、宗教会議に集まったおえらい司教のような人たちは、みんないったい何ですか?」と、グランゴワールは、隣にいたひとりにたずねた。
「ああ、右側にいるのは、高等法院大審部の判事で、左側にいるのが陪審員たちです。ほら、黒い法服を着た先生と、赤い法服を着た人とが、それなんですよ」
「あそこの、その人たちの上に、しきりに汗を流している太ったあから顔は誰なんです?」
「裁判長ですよ」
「そのうしろにいるヒツジづらの人たちは?」と、グランゴワールは追いかけるようにたずねた。彼は、すでに申し上げたように、裁判所の役人が嫌いだった。それはおそらく、自分の劇のことで失敗してからずっと、裁判所に対してもっていた恨みにもとづくものであったらしい。
「あれは、王室訴願審理官のかたがたですよ」
「それからその前の、あのイノシシのようなやつは?」
「高等法院の書記官ですよ」
「それから、右のあのワニづらは?」
「次席特別検察官のフィリップ・ルーリエ先生ですよ」
「左の大きな黒ネコは?」
「宗教裁判所検事のジャック・シャルモリュ先生で、宗教裁判所のお役人がたといっしょに来ているんですよ」
「ああ、そう。じゃ、きみ、こういうお偉がたたちは、何をするんですか?」
「裁判をするんですよ」
「誰をです? 被告が見えませんがね」
「それが、あなた、女なんですよ。あなたには見えないでしょう。背なかを向けていますからね。みんなの陰になって見えないんです。ほら、あの鉾槍《ほこやり》のたくさんあるところにいるんですよ」
「その女って、誰なんですか? 名まえをご存じですか?」
「いいえ、知りませんな。わたしはいま来たばかりなんでね。どうも、何か魔法がからんでいるらしいですな。だって、宗教裁判所の判事が訴訟に立ち会っていますからね」
「ううむ、なるほど、これからおれたちは、あの法服いかめしいかたがたが、人間の肉を食うのを拝見するというわけだな。変わりばえのしない見せ物さ」と、わが哲学者は言った。
「ねえ、ほら、ジャック・シャルモリュ先生は、とても親切そうなようすをしているじゃありませんか?」と、隣にいた男が言った。
「ふん! ぼくはね、鼻の穴のおつにすました、唇のうすいやつの親切なんて、鼻もひっかけませんよ」
このとき、そばにいた人びとが、このおしゃべりをしているふたりを叱って黙らせた。重要な陳述が聞こえていたのだ。
「はい、はい、旦那《だんな》さまがた」と、広間の中央で、ひとりの老婆がしゃべっていた。その老婆の顔は着物の下にうずまって、ぼろのかたまりが歩いているとでもいえそうなようすであった。
「旦那さまがた、これはまったく、わたしがファルールデルであるのと同じように、正真正銘のことでこざいまして、四十年ほどまえから、サン=ミシェル橋のたもとに住んでおりまして、お年貢《ねんぐ》もみんなきちんとお納めしております。わたしの家は、ちょうど染物屋のタッサン=カイヤールの家のま向かいになっておりまして、その染物屋と申しますのは、川上のほうにあたっているわけでございます。……いまじゃこんなしわくちゃばばあではございますが、昔はこれでも、ウグイス鳴かせたこともありますんで、へえ、旦那さまがた!……二、三日まえから、みなさまがこんなことを申しておりましたんで……
『おい、ファルールデル、夜にはあんまり紡《つむ》ぎ車ををまわすなよ。悪魔ってやつは、ばあさんの紡錘竿《つむざお》に角で櫛《くし》を入れるのが好きだからな。去年はタンプル教会のほうにいた、あの修道服のお化けが、いまじゃたしかに|中の島《シテ》の中を歩きまわっているぜ。おい、ファルールデル、あいつがおまえのところの戸口を叩くかもしれぬから、用心しろよ』
なんて申しておりますんで。……ところが、ある晩のことでございますよ。わたしが紡ぎ車をまわしておりますと、戸を叩く人があるじゃありませんか。どなた、と申しますと、ガンガンどなりたてるんです。ドアを開けますと、ふたりの旦那がたがはいってまいりました。ひとりは黒ずくめのかたで、立派な士官さまをひとり連れていらっしゃいました。黒ずくめのほうの人は目だけしか見えませんでしたが、それがまるで、おこり火とでも申しましょうか。あとはすっかり、帽子と外套をすっぽりかぶっていました。その人たちが、わたしにこうおっしゃるんです。
『サント=マルトの部屋に案内しろ』
それは、わたしの家の上の部屋でして、はい、旦那さまがた、家でいちばんきれいなところなんでございますよ。その人たちは、わたしに一エキュ下さいました。わたしは、そのお金を引出しの中にしまいまして、こう言ったんです。
『これであす、グロリエットの皮剥場《かわはぎば》で臓物を買うことができる』とね。……わたしどもは階段をのぼりまして、二階の部屋に行きました。そしてわたしがうしろを向いているあいだに、黒い服を着たほうの人が見えなくなってしまったのです。ちょっとびっくりしましたね。士官さまは、それはとても男っぷりのよいかたで、まるでお殿さまのようでございましたよ。そのかたがわたしといっしょに階段をおりまして、どこかにお出かけになったのです。すると四分の一かせも紡《つむ》いだころ、そのかたがきれいな娘さんを連れて帰ってきました。まるでお人形のような娘さんで、髪でもちゃんとゆっていたら、お日さまのように後光《ごこう》がさしていたことでございましょうよ。その娘さんは、ヤギを一匹連れていました。大きなヤギでして、黒だったか、白だったか、よく覚えておりませんです。それを見て、わたし、これは変だなと思いましたよ。娘さんは、これはべつにどうってこともないんですが、だけど、ヤギときましてはね!……わたしは、あのけだものが嫌いでして。ひげがはえていて、角もあるし、人間みたいな顔をして。それにあれを見るとどうも、土曜日の夜にあるという魔法使いの夜宴を思い出すのですよ。だけど、わたしはなんにも申しませんでした。お金をいただいているんですからね。そうじゃございませんか? ね、お役人さま。わたしは、娘さんと士官さまとを二階にお上げいたしました。おふたりだけにいたしましたわけで、でも、ヤギもいっしょでございましたけれど。で、わたしは下におりまして、また糸を紡ぎはじめましたのでございます。
……申し上げておかなければならないことなのですが、わたしの家は、一階にひと部屋と二階にひと部屋がありまして、うしろ側は川に面していて、橋のたもとの家はみなそうなのですが、一階の窓も二階の窓も川に向かって開いているのでございます。……で、わたしは、ずっと糸を紡いでおりました。でも、なぜかヤギのことから、あの修道服のお化けのことが気になりまして、それにあの娘は、おそろしくめかしこんでおりましたっけ。……と、急にかん高い叫び声がしたかと思うと、何か床の上に倒れたような音が聞こえました。そして窓が開いた音がしました。わたしはその真下になっている居間に走っていきまして、ひょいと見ますと、目の前を黒い塊りがすっと通りすぎたかと思うと、ドブンと水に落ちてしまいました。それは、司祭の服を着た幽霊でございましたよ。お月さまの光であたりは明るかったもので、それがはっきりとよく見えたのでございます。その人は|中の島《シテ》のほうに泳いでいきました。そのとき、わたしはすっかりこわくなって、ぶるぶる震えながら夜警の人を呼びました。
十二人ばかりの人たちがはいってこられましたが、はじめのうちはどうしたのか、さっぱりおわかりにならないので、それにみなさまがたはお楽しみの最中だったとみえて、わたしを打ったり叩いたりなさいました。そのかたがたにいろいろとご説明申し上げまして、二階にのぼっていったのです。
すると、まあ、どうでしょう? あの部屋は一面の血の海で、士官さまは首を短刀でえぐられたまま、四つんばいになって倒れているじゃありませんか。娘さんは死んだふりをして、ヤギはすっかりおびえたようになっておりました。
『おやおや、床をきれいにするには、たっぶり二週間以上はかかるな。けずらなけりゃだめだ、こりゃ恐ろしいことになるぞ』と、こうわたしは言いました。士官さまは連れていかれました。お気の毒に。娘さんはすっかり胸もはだけてしまって。……いえ、お待ち下さいませ、いちばん悪いことには、そのあくる日のことなんですよ、わたしが臓物を買いに行こうとして、お金を出そうとしたら、そこには枯れ葉が一枚あるきりじゃありませんか」
老婆は黙った。恐怖のつぶやきが聴衆の中にまきおこった。
「その幽霊といい、ヤギといい、どうもみな魔法の匂いがするな」と、グランゴワールの隣の男が言う。「それに、あの枯れ葉もね!」と、ほかの者も言いそえた。
「たしかにそうだよ、士官さんたちをやっつけるために、修道服のお化けとぐるになった魔女だぜ」と、三番目の男もつづいて言った
グランゴワール自身も、こうした話を聞いているうちに、ややもすると、恐ろしい、しかもありそうなことだと思われてくるのだった。
「女ファルールデル、もはやそれ以上、裁判において申したてることはないか?」と、裁判長は威厳たっぷりに言った。
「はい、べつにございません、お役人さま。わたしの家を、ゆがんだ、くさいあばら家だと申しますのは、まあ、いたしかたもございませんけれども、それはあんまりなおことばでございます。橋のたもとの家は、みなろくなものではございません。と申しますのは、なにぶん大勢の者が住んでおりますからね。それでも、肉屋さんだって住んでいないこともないんでして、その人たちは、みなさんお金持で、とっても立派で、きれいなおかみさんを持っていらっしゃいますよ」
グランゴワールの目にワニのように見えた裁判官が立ちあがった。
「静かに、諸君! 被告のわきに短剣があったということを見落としてはならぬと考えます。……女ファルールデルよ、その方《ほう》は、悪魔が与えた金貨が変わったという、その木の葉を持参いたしたか?」
「はい、お役人さま、持ってまいりました。わたしが見つけましたもので、これがそれでございます」
取次役がその枯れ葉をワニづらの男に手わたした。彼は、いやなものを見たというようなそぶりで、それを裁判長にわたすと、裁判長は、それを宗教裁判所検事にわたした。このようにして、その枯れ葉は、広間の中を手から手へわたっていった。
「これは樺《かば》の葉ですな。魔術の新しい証拠になりますな」と、ジャック・シャルモリュが言った。
判事のひとりがことばをつづけて、「これ、証人、ふたりの男がその家にあがったと申すな。黒衣の男が、まずおまえの見ているところで姿を消した。そのつぎに司祭の服を着てセーヌ川を泳いだ。そして士官のほうだが、ふたりのうち、どちらがおまえに金を与えたのだな?」
老婆はしばらく考えていたが、やがて、「それは士官さまでございます」ぼそぼそいう声が、群集のあいだから起こった。
〈おや? すると、おれの確信もちょっとぐらついてくるぞ〉と、グランゴワールは考えた。
このとき、次席特別検察官のフィリップ・ルーリエ先生がまたもや口をはさんで、「私は判事諸君に、つぎのことを思い出していただきたいのであります。すなわち、士官の臨床供述によりますと、その殺害されようとした士官は、記憶はおぼろげであるとは申しておりますが、黒衣の男、つまりそれは、おそらく修道服のお化けであろうと思われますが、その男が士官のほうに近づいてきたときに、その男はしきりに被告の女に近づきになりたがっていた、とこう申しております。そして、この士官の意見によると、自分は金の持ち合わせがなかったが、その怪しい男が金を与えてくれた。士官は、それでファルールデルの支払いをすましたものであります。したがって、その金貨はまさしく地獄の金であるわけであります」
この決定的な意見は、グランゴワールをはじめ、傍聴している疑い深い人びとの疑惑を吹き払ったようにみえた。
「諸君は、証拠書類をお持ちになっておられるのですから、フェビュス・ド・シャトーペールの陳述を参考にされたいと思います」と、検察官は席につきながら、言いそえた。
この名まえをきくと、被告の女は立ちあがった。その頭が群集の上に現われた。グランゴワールはエスメラルダであることに気がついて、すっかり度肝《どぎも》を抜かれてしまった。彼女は顔も青ざめ、髪は、まえには愛らしく結んで金貨の飾りがついていたものだったが、いまでは、すっかり乱れていた。唇の色はまっ青で、目はくぼみ、見るも恐ろしげであった。ああ、なんということだ!
「フェビュスさま!」と彼女はとりみだして言っている。「どこにいらっしゃいますの? ああ、お役人さまがた! あたしを殺すまえに、お慈悲でございます、あのかたがまだ生きているかどうか、おっしゃって下さいませ!」
「黙れ、女、さようなことは、ここで申すべきことではないぞ」と、裁判長は答えた。
「まあ! お慈悲でございます、あのかたが生きているかどうか、おっしゃって下さいませ!」
彼女は、痩せ細った美しい両手を合わせて、こう言いそえた。着物についている鎖が、ガチャガチャと鳴る音が聞こえた。
「よし! その男は死にかかっている。……どうだ、満足か?」と、検察官は冷やかに言った。
娘は可哀そうにも、尋問台の上にがくりと倒れた。声もたてず、涙も出ず、蝋細工《ろうざいく》の顔のように、顔の色もなかった。
裁判長は、足もとにいた男のほうに腰をかがめた。その男は金色の帽子をかぶり、黒い服を着て、首には鎖をかけ、手には鞭《むち》を持っていた。
「取次役、第二の被告をここに連れてくるように」
みんなは、小さなドアのほうに目を向けた。ドアがあくと、角のはえた、金色の足の美しいヤギが一匹はいってきた。これにはグランゴワールもすっかり胸がどきどきしてしまった。この端麗《たんれい》な動物は、岩の突端に立って、広々とした水平線を眼下に見おろしているように、首を前に伸ばして、しばらく敷居の上に立ちどまっていた。とつぜん、ヤギはエスメラルダを見つけて、机と書記の頭をとびこえて、ふたとびで娘のひざの上に来た。それから女主人の足もとに愛らしくころがっていたが、ひとことものを言ってもらいたいような、また、ちょっとなでてもらいたいようなようすであったが、女被告はじっとしたまま身動きもせずにいて、ジャリは可哀そうにも、目もくれられなかった。
「ああ、たしかに、……これは、あのいやな動物です。娘もヤギも両方ともはっきり見覚えがあります!」と、老婆のファルールデルは言った。
ジャック・シャルモリュは、このとき口をさしはさんで言った。
「よろしければ、ヤギの尋問にとりかかろうと思います」
それはまさに第二の被告と言えるものであった。当時は、魔法の裁判において、動物に対して訴訟を起こすことは、しごくあたりまえのことであった。なかでも、一四六六年の奉行所の報告の中に、『コルベイユにおいて、死刑を執行された』ジレ・スーラールとその牝豚との訴訟費用についての、実に興味ある細かい報告がのっている。ここには、その牝豚を投げこむ穴の費用、モルサンの港で買い入れた五百束の薪、ブドウ酒が三パイントとパン、つまり死刑執行人と仲よく分けた受刑者の最後の食事から、一日八ドニエで十一日間、豚の世話をし、食物を与えた費用など、すべてにわたって書き残されているのである。ときによっては、動物を裁判する以上のこともあったのだ。
シャルルマーニュとルイ・ル・デボネール〔シャルルマーニュの第三子〕との法令集には、ずうずうしくも大気の中に現われた、炎に包まれた幽霊に科した重い刑罰の記録さえあるのだ。
さて一方、宗教裁判所検事は叫んでいた。
「このヤギにとりついて、あらゆる悪魔ばらいに反抗する悪魔が、いつまでも魔法をやめなければ、また、この法廷をみだすつもりであるならば、われわれはこの悪魔に対して、絞首台か火刑場へ引いていかざるをえないことを、ここに申し述べるものであります」
グランゴワールは、冷たい汗が出てきた。シャルモリュは机の上からジプシー娘のタンバリンをとって、ある身ぶりをしながらヤギに見せて、こうたずねた。「いまは何時かな?」
ヤギは利口そうなまなざしでそれをじっと見つめていたが、金の足をあげて七つ叩いた。そのとおり七時であったのだ。恐怖に襲われた動揺が群集の中を走った。グランゴワールはもう黙って見ていることができなかった。
「殺されてしまうぞ!」と、彼は大声で叫んだ。「ごらんのとおり、こいつは、自分がいま何をしているか知らないのだ」
「こら、すみのほうにいる無作法者、静かにせんか!」と、取次役はとがめて言った。
ジャック・シャルモリュはタンバリンを同じように何度も動かしながら、ヤギに日付をたずねたり、何月かときいたり、その他いろいろなことをたずねたりしながら、さまざまのことをやらせた。これについては、みなさんもすでにごらんになったことがあるとおりである。法廷の弁論に特有な目の錯覚のために、いままで何度もまちの四つ辻でジャリの無邪気な芸当に、おそらく喝采した、あの同じ見物人は、それが法廷の丸天井の下で行なわれると、恐怖に襲われてしまったのである。ヤギは決定的に悪魔になってしまったのだ。
そのうえさらに悪いことには、検事がジャリの首にかけていた文字板のいっぱいはいった皮の袋を床の上にあけたときに、人びとはヤギが足を使って、散らばった文字の中からあの致命的な名まえ≪フェビュス≫を引き出したのを見てしまったのだ。隊長が犠牲になって倒れた魔法が、もう抵抗できないほどはっきりと示されたのだ。そしてすべての人びとの目には、このジプシーの娘、いままでは何回となくそのやさしい姿で道行く人の目をひいていたこの美しい踊り子が、もう恐ろしい吸血鬼としてしかうつらなかった。
娘は生きた色もなかった。ジャリが可愛らしく動いていても、検事席からいろいろと恐ろしいことを言われても、耳がきこえなくなるくらいわいわい言う傍聴人たちの呪いの声も、もうなんにも娘の頭の中には届かなかったのだ。
彼女を正気づかせるためには、執行係が容赦なく娘を揺り動かすか、裁判長がおごそかに声をはりあげなければならなかった。
「こら、娘、おまえは、魔法の呪文《じゅもん》をたえずとなえているジプシー族の者であるな。おまえは、去る三月二十九日の夜、この訴訟に連座している、悪魔の乗りうつったヤギと共謀し、やみ夜に乗じて、色じかけにより手練手管《てれんてくだ》を用いて、王室射手隊長フェビュス・ド・シャトーペールを短剣で傷つけ、殺害せんとした。それでも、おまえは知らぬと申すか?」
「まあ、恐ろしい! フェビュスさま! ああ! まったく地獄だわ!」と、娘は両手で顔をかくして叫んだ。
「知らぬと申すか?」と裁判長は冷やかにたずねた。
「ほんとうに知りません!」
彼女は恐ろしい口調で言って立ちあがった。その目はぎらぎらと血走っていた。
裁判長はすぐさまつづけて、おごそかに、
「それならば、おまえが告発されているさまざまな事実に対して、どのように申し開きをするのか?」
彼女はとぎれとぎれの声で答えた。「さきほどから申し上げましたとおりでございます。なんにも知りません。それは司祭さんでございます。わたしの知らない司祭さんでございます。わたしをつけねらっている恐ろしい人でございます!」
「それだな。修道服のお化けだ」と裁判官は言った。
「ああ、お役人さまがた! お慈悲でございます! わたしはただのつまらない娘なんです。……」
「ジプシーのな」と、裁判官が言った。
ジャック・シャルモリュ先生は、ことばを柔らげて言った。「被告の女は強情に口をつぐんでおりますから、拷問《ごうもん》にかけることを要求いたします」
「よろしい」と、裁判長は言った。
娘は可哀そうにも、体じゅうをがたがた震わせていた。それでも鉾《ほこ》を持った武装役人の命令に従って立ちあがり、シャルモリュや宗教裁判所の司祭のあとについて、二列になって鉾槍《ほこやり》のあいだを通り、足どりもかなりしっかりと中門のほうに向かって歩いていった。門はさっと開いて、彼女が通るとまた閉ざされた。
このありさまを見ていたグランゴワールは、その門がまるで恐ろしい口を開いて、彼女をのみこんでしまったように思って、すっかり悲しくなってしまった。彼女の姿が消えると、一匹の動物が悲しげに鳴いている声が聞こえた。あの小さなヤギであった。
傍聴はこれで停止となった。裁判官のひとりが、みなさんお疲れさま、しかし拷問が終わるまでには、まだ長いこと待たなければなりません、と注意を促した。裁判長は、裁判官たるものは自分の職務に対して、犠牲になることができなければならないと答えた。
「実にいまいましい、胸のむかむかするような女ですな。あの女、夕食どきだというのに、わざわざ尋問をさせるとは!」と、老裁判官が言った。
二 金貨が枯れ葉に変わる《つづき》
不吉な護衛の役人にとり囲まれて、エスメラルダは、昼間でもランプのついている薄暗い廊下を何段も昇ったり降りたりしていったが、裁判所の警吏にドンと突きとばされて、とある気味の悪い部屋に入れられた。この部屋は丸い形をしていて、古いパリを覆《おお》いつくす新しいパリの建物の層の上に、いまでも頭をつきだしている、あのいくつかの大きな塔のひとつの一階になっていた。
この穴倉のような部屋には窓はひとつもなく、鉄製の大きな扉の、低くて頑丈な入り口がひとつついているだけであった。だが中はけっこう明るかった。かまどがひとつ厚い壁の中につくられていて、そこでは火があかあかと燃えて、この小さな部屋は、その反射で赤く照らされていた。この一面の光にあたると、部屋のすみに置いてある一本のみじめなろうそくなどは、なんの役にも立たなかった。鉄の落とし格子がかまどのふたの役をしていたが、ちょうどそのときにはあがっていたので、まっ暗な壁の上の、燃えるように輝いている換気窓の穴から見ても、格子の内側の端だけしか見えなかった。が、そのようすはちょうど、とがった、ところどころに抜けたところのある黒い歯が、一列に並んでいるように見えるのだった。そのために、このかまどはちょうど、伝説にある、火を吐く竜の口に似ていた。
このかまどから出る光に照らされて見ると、この囚人の女の目には、部屋のまわり一面にいろいろな恐ろしい道具が見えた。彼女はそれが何に使われるのかわからなかった。部屋のまん中には、ほとんど地面に置き捨てられたように皮のマットレスがひとつころがっていたが、その上には、輪のついた皮帯がひとつ吊るされていた。この皮帯はひとつの銅の輪に結びつけられていたが、丸天井の上に彫りつけてあるシシ鼻の怪物がこの輪をかこんでいた。やっとこ、かなばさみ、大きな鉄の鋤《すき》などが、かまどの中にぎっしりと詰めこまれており、おこり火の上で、ごちゃごちゃに赤くなっていた。血のようなかまどの明かりは、部屋全体の中で、ただ山と積まれたこうした恐ろしい道具だけを照らしているのだった。
この地獄部屋は、ただ単に≪尋問室≫と呼ばれていた。
ベッドの上には、拷問官のピエラ・トルトリュが、むぞうさに腰をかけていた。四角な顔をした小人のような手下がふたり、皮の前掛けをしめ、布の吊索《つりなわ》を持って、鉄の道具を炭火の中で動かしていた。
哀れな娘は、勇気をふるい起こそうとしたが、どうしてもだめだった。この部屋に入れられてからは、ただもう恐ろしいばかりであった。
部屋の一方の側には、裁判所大法官の役人どもが、ずらりと居並び、もう一方には、宗教裁判所の司祭たちが並んでいた。部屋のすみのほうには、書記がひとりいて、文具箱と机とがひとつずつ置かれていた。ジャック・シャルモリュは、やさしそうな微笑をたたえながら、ジプシー娘のほうに近づいた。
「ねえ、おまえ、どうあっても、知らぬ存ぜぬと言いはるのかね?」
「はい」と、彼女は消えいりそうな声で答えた。
「それでは、まことにふびんなことでもあるし、われわれの好まぬところでもあるが、いっそうきびしく尋問することになるぞ。……さあ、このベッドの上にすわるがいい。……ピエラ君、この娘のために席をつくって、そこの扉をしめるのだ」
ピエラは、ブツブツ言いながら、立ち上がった。
「扉をしめると、この火が消えてしまいますよ」と、彼はつぶやいた。
「そうか、じゃ、開けたままにしておけ」と、シャルモリュが言った。
そのあいだ、エスメラルダは立ったままでいた。この皮のベッド、そこでは多くの哀れな人たちが、体をのたうちまわらせたのだ。そう思うと、彼女はぞっとするのだった。恐怖のために、骨の髄《ずい》までおぞけをふるった。ただ、おびえて、茫然《ぼうぜん》と、そこに立ちすくんでいた。
シャルモリュが合図をすると、ふたりの手下は娘をつかんで、ベッドの上にすわらせた。べつに手荒なことをしたわけではなかったが、このふたりに触れられ、ベッドの皮が身に触れたときには、体じゅうの血が心臓のほうに逆流するような気がした。彼女はおろおろして、部屋をぐるりと見わたした。こうした無気味な拷問の道具が動きだし、四方八方から自分のほうにつき進んできて、体にはいのぼり、肉をかみ、つねりあげるような感じがした。こうした道具は、彼女がそれまでに見た道具の間にあっては、まるで、いろいろな昆虫や鳥の間にあるコウモリやムカデやクモみたいなものだった。
「医者はどこにいるか?」とシャルモリュがきいた。
「ここにおります」と、娘がそのときまで気がつかなかった、黒い服を着た男が答えた。
彼女はぶるぶる震えた。
「娘さん」と宗教裁判所検事がやさしい声で言った。
「三度目の正直、おまえが訴えられている事実に対して、まだ知らぬと言いはるのか?」
こんどは、彼女は頭を横に振っただけであった。声が出なかった。
「まだ言いはるのか?」と、ジャック・シャルモリュは言った。「それならばいたしかたがない。わしは、つとめを果たさなければならない」
「検事どの、何からはじめますかね?」と、とつぜん、ピエラが言った。
シャルモリュは、ちょうど、韻《いん》でも考えている詩人のような、ぼんやりとした渋い顔をして、しばらくためらっていたが、とうとう、「まず足枷《あしかせ》にしよう」と言った。
この不幸な娘は、神からも人からも、すっかり見放されてしまったと観念したのか、力をもたぬ、動かない物体のように、頭を胸に垂らしてしまった。
拷問官と医者とが、同時に娘に近づいていった。と同時に、ふたりの手下の者は、無気味な道具の置場をあさりはじめた。恐ろしい鉄の道具がガチャガチャという音を聞くと、不幸な娘は、死んだカエルが電気をかけられたときのように、ぶるぶるっと震えた。
「ああ! フェビュスさま!」と、彼女はつぶやいたが、その声はとても小さかったので、誰も聞きとれなかった。それから娘は、また身動きもしなくなり、大理石のように、黙りこんでしまった。
こうしたありさまを見たら、裁判官以外の者なら誰でも胸のはりさけるような気がしただろう。この哀れな魂は、まるで地獄の赤いくぐり戸の下でサタンに尋問されてでもいるようだった。雑然と積まれたこの恐ろしい鋸《のこぎり》や車裂きの刑具や拷問用木馬などの刑を受けようとしているみじめな肉体、刑の執行人や鉄の首枷《くびかせ》の無慈悲な手で触れられようとしているこの人間、それはなんと、このやさしい、汚れのない、弱々しい娘だったのだ。人間の手になる裁判というものが、拷問という恐ろしい挽臼《ひきうす》にかけて粉にしようとしているのは、哀れな一粒の粟《あわ》なのだ!
こうしているあいだに、ピエラ・トルトリュの手下は、たこだらけの手で、娘の可愛らしい片方の脛《はぎ》をむき出しにしてしまった。その可愛らしい足は、やさしさと美しさとで、いままで幾たびとなく、パリの四つ辻で、道行く人の目をみはらせたものだったのだ。
「惜しいものだ!」と、拷問官は、このやさしい、ほっそりとした脚をながめながらつぶやいた。もしも、司教補佐がここにいたら、きっといま、あのクモとハエとの象徴を思い出したに違いない。
やがて、この可哀そうな娘は、目の上にかかった雲のかなたから、≪足伽≫がだんだん自分の足に近づいてくるのがわかったが、ほどなく、その足は鉄板のあいだにはさまれて、恐ろしい道具の下に隠れてしまった。そのとき、あまりの恐ろしさのためにかえって力が出てきた。
「これをはずして下さい!」と夢中になって叫んだ。そして髪をふり乱して立ちあがり、「許して下さい!」
彼女はベッドからとびおりて、検事の足もとに身を投げようとした。だが脛《はぎ》が、カシワ材と鉄との重いかたまりにはさまれていたので、翼の上に鉛をつけられた一羽のミツバチよりもぐったりとして、足枷の上に倒れてしまった。
シャルモリュが合図すると、またベッドの上に寝かされ、二本の太い手で、丸天井から垂れている皮帯に、彼女の細い帯がくくりつけられた。
「さあ、これが最後だ。ありのまま白状いたすか?」と、シャルモリュは、いつもの落ちつきはらった、やさしい口調でたずねた。
「わたしは無実でございます」
「それでは、おまえがしたものとされている罪状を、どう申し開きをするつもりか?」
「ああ、お役人さま! わたしは何も知らないのです」
「それでは、知らぬと言うのだな?」
「はい、全然、知らないのです!」
「よろしい、さあ、やれ」と、シャルモリュはピエラに言った。
ピエラは、巻き揚げ機の柄《え》をまわした。しだいに足枷はしまり、娘は、人間のことばでは、どうしてもつづれないような、恐ろしい叫び声をあげた。
「やめろ」と、シャルモリュはピエラに言った。
「白状いたすか?」とジプシー娘に向かってきいた。
「いたします。何もかもすっかり申し上げます! 白状いたします! 申し上げます! 助けて下さい!」と、みじめな娘は叫んだ。
彼女は尋問をみくびって、自分の力を計算することをしなかったのだ。このときまでは、楽しく、気持のよい、おだやかな生活を楽しんでいた哀れな娘は、こうして生まれてはじめての苦しみにあって、すっかりまいってしまったのだ。
「わしも人間だから、言っておかねばならぬが、白状したからには、死刑は免れぬぞ」と、検事は言った。
「望むところでございます」
彼女はこう言って、息もたえだえに、胸に結びつけられた革帯にぶらさがったまま、皮のベッドの上に、身をふたつに折って倒れてしまった。
「さあ、そこの女、少ししっかりしないか。それじゃあまるで、ブールゴーニュ公の首にかけられた金の羊みたいな格好じゃないか」と、ピエラは彼女を抱きあげながら言った。
ジャック・シャルモリュは、声をはりあげて、
「書記、筆記の用意……これ、ジプシーの女、おまえは、さまざまな怨霊《おんりょう》や、魔女や、吸血鬼どもとともに、地獄の愛餐《アガペ》や、饗宴《きょうえん》や、妖術に出席いたしたことを白状いたすな? さあ答えるのだ」
「はい」と、娘は言ったが、あまり小声だったので、そのことばは、娘の吐く息の中に消えていった。
「おまえは、ベルゼブルが魔法使いどもを夜宴に集めるために雲の中に現わすという白羊宮《はくようきゅう》を、あの魔法使いの目にだけ見えるという白羊宮を見たと白状いたすな?」
「はい」
「おまえは、聖堂騎士団の、あの憎むべき偶像であるボフォメの頭を礼拝したと申すのだな?」
「はい」
「おまえといっしょに訴えられた、あの手飼いのヤギの姿をしている悪魔と、日ごろから交わったと申すのだな?」
「はい」
「では最後に、おまえは、悪魔の助けか、俗に修道服のお化けと呼ばれる幽霊の助けをかりて、さる三月二十九日の夜半、フェビュス・ド・シャトーペールという隊長を傷つけ、殺害しようとしたことを白状いたすな?」
彼女はつぶらな目をあげて、裁判官をじっと見つめていたが、身を震わせも、揺らせもせずに、ただ機械的に、「はい」と答えた。明らかに、すっかり疲れ果ててしまったのだ。
「書記、書くのだぞ」
シャルモリュはこう言って、拷問係のほうを向き、「その囚人をはなして、法廷に連れてゆくように」と言った。
囚人が≪靴を脱がされた≫ときに、宗教裁判所検事は、苦痛のために、まだしびれている足を調べたが、「さあ、行こう! たいしたことはない。おまえはよいときに白状したな。まだ踊れるわい、なあ、女!」と言った。
それから彼は宗教裁判所の侍祭《じさい》のほうに向きなおって、「さあ、これで、調べもようやくついたわけだ! みなさん、ほっとしましたな! あの娘は、われわれができるだけお手やわらかに扱ってやったと証言してくれるだろうよ」
三 金貨が枯れ葉に変わる(結末)
娘が青ざめた顔をして、足をひきずりながら法廷に戻ってくると、いっせいにどっと喜びのつぶやきが彼女をむかえた。傍聴席のほうでは、ちょうど劇場で、最後の幕間《まくあい》の時間が終わって幕があがり、大詰の舞台がまさに始まろうとするときに経験する、あの待ちに待った気持がやっと満たされた感じであったし、裁判官のほうでは、もうすぐ夕食が食べられるという望みが生まれたのであった。あの可愛いヤギもまた喜びの声をあげて、女主人のほうへ走っていこうとしたけれども、こちらは椅子に縛りつけられていた。
すっかり夜になっていた。ろうそくはべつにその数もふえていなかったので、光はかすかに輝いているだけで、部屋の壁も見えないほどであった。あらゆるものは闇《やみ》に包まれて、ちょうど霧の中にあるようであった。裁判官の無感動な顔がいくつかやっと見分けられるくらいであった。彼らと向かい合わせに、長い法廷のすみのほうの、深いやみの奥に、なにやらかすかに白い点が見えた。それが被告の娘だった。
彼女はもとの場所に引っぱっていかれた。シャルモリュは威厳たっぷりに自分の席につくと、腰をおろし、それからまた立ちあがって、自分がうまくやったことを自慢したい気持を顔に表わすまいとしてこう言った。
「被告は一部始終を白状いたしました」
「これ、ジプシーの娘」と、裁判長は言った。「おまえは自分の行なった魔法も、売春も、フェビュス・ド・シャトーペールを殺害した件も、すっかり白状したのだな?」
娘は胸がはりさけそうだった。暗やみの中ですすり泣く声が聞こえた。
「みなさんがたのお好きなようになさって下さい! だけど、わたしを早く殺して下さい」と、娘はかすかに答えた。
「宗教裁判所検事どの、この法廷は、貴官が尋問なさる用意がととのっています」と、裁判長が言った。
シャルモリュ氏は、恐ろしい書類を提出して、身ぶりよろしく、弁論口調で大げさに、ラテン語で書かれた演説を一席やった。そこに書かれている訴訟記録ときたら、すべてキケロばりの迂説法《ペリフラーズ》を用い、それにプラウトゥスを引用して、プラウトゥス好みの滑稽味を出して、でっちあげられたものであった。私は、みなさんに、この名文章をお目にかけることができないのが残念である。
演説家は、手ぶり身ぶり素晴らしく、それを読みはじめた。まだ前置きも読まぬうちに、額からは汗が、顔からは目玉がとび出してしまったほどである。とつぜん、文章のちょうど真ん中までくると、ことばを切った。ふだんはどちらかと言えば、やさしく、また間の抜けたとも言えるような彼の目つきは、このとき恐ろしいように激してきた。……「諸君」と彼は叫んだ。(このときはフランス語で言った。というのは、これは書類には書いていなかったからである)「悪魔がわれわれの弁論に出現いたし、その堂々たるありさまを模倣いたしておりますところを見ますと、悪魔は、ことほどさようにこの事件にかかわりがあるのであります。まあ、ごらんいただきたい!」
こう言って、彼は可愛いヤギを指さした。見るとそのヤギは、シャルモリュの身ぶりを見て、実際、この男と同じことをすればよいのだと思いこんでしまったものか、後脚《あとあし》で立ちあがり、一所懸命になって、前脚とひげだらけの頭とを使って、検事の無言劇を夢中でやりだしたのである。これは、思い出せば、ヤギのいつもの可愛らしい芸当のひとつであったのだ。しかし、このできごとは、最後の≪証拠≫として、重大な結果を生んでしまったのである。ヤギは脚をしばりつけられ、検事はまたその弁論をつづけた。これはまことに長々しかったが、結論は素晴らしいものであった。
その最後のことばはつぎのようなものであった。シャルモリュ氏はしゃがれた声を張りあげ、あえぐような身ぶりで、ラテン語でこうつけ加えたのだ。
「こういうしだいでありますから、裁判官のみなさん、いまや罪は明らかとなり、犯意もありますから、その正体をあらわにいたしましたこの吸血鬼に対し、汚れないこの|中の島《シテ》において、高等ならびに、普通のあらゆる裁判の統轄権をもつ聖なるパリのノートルダム大聖堂の御名により、この席に並びおられるかたがたの総意により、本官はつぎのことを要求することを申しわたすものであります。第一、適当な賠償金を払うこと。第二、ノートルダム司教座大聖堂の大玄関の前にて、罪を認め公に罪の許しを乞うこと。第三に、これなる吸血鬼ならびにヤギが、通称グレーヴ広場、すなわち王室庭園の突端部に近いセーヌ川中の小島の出口にて処刑されるよう判決が下されること!」
彼は帽子をかぶりなおして、席に戻った。
「ちえっ、畜生!」と、グランゴワールは、すっかりがっかりして溜息をついた。「ひでえラテン語だ!」
黒い法服を着た別な男がひとり、被告のそばで立ちあがった。娘の弁護士である。裁判官たちはまだ食事をしていなかったので、ブツブツ言いはじめた。
「弁護士君、簡単に願います」と、裁判長は言った。
「裁判長どの、被告が罪を白状いたしました以上、私はみなさんに、もはやひとことしか申し上げることはありません。だがここに『サリ法典』〔六世紀のはじめのサリ・フランク族の法典〕の明文がございます。すなわち、『もしも吸血鬼が人間を食し、そのために有罪と決定した場合には、金貨二百スーにあたる八千ドニエの罰金を支払うべきこと』とあります。裁判官のみなさまに対し、被告人が罰金刑に処せられますよう、お願いいたすしだいであります」
「その法律は、廃止になっているはずだが」と、次席特別検察官が言った。
「いや、そのようなことはありません」と、弁護士は反駁《はんばく》した。
「投票できめることにしよう! 罪状は明白であります。それに時刻も遅いようですからな」と、判事のひとりが言った。
人びとはその場で投票することになった。裁判官たちは、≪同意の者は帽子をとった≫のである。彼らは急いでいたのだ。裁判長が彼らに低い声でする憂うつな質問に応じて、ひとりひとり、影の中で帽子を脱いでいるのが見られた。可哀そうにも被告である娘は、彼らをじっと見ているようすではあったが、その目は濁ってしまって、もうなんにも見えなかった。
それがすむと、書記が筆記しはじめ、それから裁判官に長い羊皮紙を差し出した。
このとき、人びとが動く足音や、槍のぶつかりあう音に混じって、氷のように冷やかな声がつぎのように言っているのが、彼女の耳に聞こえた。
「ジプシー娘よ、おまえは国王陛下がお定めになる日、正午に、下着一枚に素足の姿で、首に縄をつけ、囚人護送車に乗せられて、ノートルダムの大玄関の前にひきだされ、手に重さ二ポンドのろうそくを持って、公に罪の許しを乞い、それから、グレーヴ広場に連れてゆかれ、まちの絞首台で絞首の刑に処せられるのじゃ。おまえのそのヤギも、同じように処刑される。また、おまえが犯し、白状した罪、つまり魔法、魔術、淫乱《いんらん》およびフェビュス・ド・シャトーペール氏殺害の罪に対し、つぐないとして、宗教裁判所に金貨三リヨンを支払うのじゃ。神がおまえの魂を受けられますように!」
「ああ! 夢だわ!」と、彼女はつぶやいた。そして、荒々しい手が自分をつかんで、どこかに運んで行くのを感じた。
四 ≪すべての望みをすてよ≫
中世においては、建築物が完全にできあがった、というときには、地上にある部分とほとんど同じだけのものが地下にあったのである。たとえばノートルダム大聖堂のように基杭《もとぐい》の上に建てられているものをのぞけば、宮殿でも、城砦でも、教会でも、みなかならず二重の底を持っていた。大聖堂についていえば、光が溢《あふ》れ、昼となく夜となくオルガンと鐘の音が響きわたる地上の本堂の下に、低く、暗い、神秘的な、目もなければ声も出さない、いわばもうひとつの大聖堂があったのである。ときには、これが墓であることもあった。宮殿や、城砦の場合には牢獄であった。が、ときによってはこれもまた、墓であることもあり、またふたつを兼ねていることもあった。
こうした堂々たる建築物は、その構造や、≪生育≫の様式については、他の場所でご説明申し上げておいたが、これらは単に基礎工事があるというのではなくて、いわば根をもっているようなもので、その根は地の中にはびこっていて、ちょうど地上の建築物と同じように、部屋ともなり、回廊ともなり、階段ともなっているのである。
このように、教会、宮殿、城砦は、いずれも半身を地下にうずめているのだ。ひとつの建築物の地下室は、もうひとつの建築物をなしているのであって、そこでは、人びとは上に登るかわりに、下におりていくのである。そして、まるで岸べにある森や山が、鏡のような湖の水面にさかさまにその影をおとしているように、地上の建築物の山なす階層の下には、地下にも同じような階層が作られていたのである。
サン=タントワーヌ城砦でも、パリ裁判所でも、またルーヴル宮でも、こうした地下の建築物は牢獄になっていた。こうした牢獄の階段は、地下にくだっていくにしたがっていよいよ狭く、いよいよ暗くなっているのだった。それはまさに、恐ろしさの色合いがしだいに増していく色彩の帯のようなものであった。ダンテがその地獄を描いたときでも、これほど適当なものは見いだし得なかったのである。
こうした漏斗《ろうと》のようになった地下牢は、通常は大|桶《おけ》の底のようになっている地下の牢の、そのまた底にあるひとつの牢屋に達していて、そこにダンテが悪魔を入れたように、当時の社会は、そこに死刑囚をぶちこんだ。ひとたびここに入れられたみじめな存在は、もう日の目も見られなければ、大気にもふれられず、人生にも別れを告げなければならない。つまり≪すべての望み≫を捨てなければならないのだ。絞首台に行くか、火刑場に連れていかれるかしなければ、ここから出ることはなかった。ときには、そのままここで腐ってしまうこともあった。そして人間の裁判は、これを≪忘却≫と呼んでいた。囚人は、人間と自分とのあいだに、石と牢番とがひとつの塊りとなって、頭の上に押しかぶさっているのを感ずる。牢獄全体が、この重苦しい城砦が、もはや一個の巨大で複雑な錠まえとなって、生きた外界のそとに囚人を閉じ込めてしまうのである。
絞首刑を言いわたされたエスメラルダが、おそらく逃げだすといけないからというので閉じ込められたのは、まさに、この、頭上に巨大な裁判所の建物がそびえ立っている、こうした大桶の底、つまり聖ルイ王の命令によって、トゥールネル裁判所の中に掘られた≪地下牢≫の中であった。哀れな虫にもひとしいこの娘の力では、この牢の石壁のどんなに小さな石ころでさえも動かすことができないのだ!
なんといっても、神も人も同じように不公平であった。こんなにも多くの不幸や拷問が、こんなにもかよわい一人の娘を責めさいなむ必要があっただろうか?
彼女はそこに、暗やみの中にただひとり、うずめられ、人の目から隠され、閉じ込められていた。この娘が太陽の光を浴びて、にこやかに笑い踊っているのを見たあとで、こんな状態でいるのを見て、身震いしない者があろうか? 夜のように冷たく、死のように冷やかに、髪の毛をなぶる一陣の風もなく、耳には人の声もなく、目には日の光もはいらず、体はふたつに折り曲げられ、鉄鎖で踏みつぶされ、わずかばかりの藁《わら》の上、この地下牢から滲《にじ》み出ている水たまりの中に、身動きもできず、ほとんど呼吸もせずに、一個の水のつぼとひと切れのパンのそばにうずくまり、もう彼女は苦しいということさえ感じなくなっていた。
フェビュス、太陽、真昼、大気、パリの通り、喝采を浴びている踊り、士官との恋の語らい、それから、司祭、やり手ばばあ、短剣、血潮、拷問、絞首台、こうしたものがみんな、まだ娘の心の中を流れていた。あるときは歌をうたうような黄金の幻となり、またあるときは醜怪な悪夢となって。
しかし、それはもう暗やみの中に消えていく恐ろしい、茫漠《ぼうばく》とした一場の葛藤《かっとう》にすぎず、地上はるか高いところで奏でられるのだが、この不幸な娘が落ちこんだ深みからはもう聞きとれない、はるかかなたの音楽にすぎなかった。
ここに閉じ込められてからというものは、彼女は目をさましているのでもなく、また眠っているのでもなかった。こうした不運にあって、こんな牢獄の中にいると、昼と夜との区別はもちろん、起きているのか、寝ているのか、その区別さえもつかなかった。こうしたこと全部が娘の心の中にまじりあい、こわされ、ただよい、ひろがっていたのだ。彼女はもう、感覚もなく、意識もなく、考える力もなかった。せいぜい夢見ることだけだったのだ。生きた人間でいまだかつて、こんなにも深く虚無の境に閉ざされた者はなかったであろう。
このように感覚もなくなり、体はこごえ、化石のように身動きもできず、自分の上のほうのどこかで開かれた揚げ戸の響きが二、三度聞こえてきたのが、やっと耳にはいったばかりであった。だが光は少しも射しこんでこないのだった。戸口から一本の手がのびて、黒パンの皮がひとつ投げあたえられた。けれども、これが人間と彼女とのあいだに残されたただひとつのたより、つまり牢番が時をおいてやってくるということであった。
ただひとつ、まだ機械的に彼女の耳にはいるものがあった。頭上の湿気が丸天井の黴《かび》のはえた石に浸みこんでいて、規則正しく時をおいて、水のしたたりが、ポトンポトンと落ちてきたのである。彼女はぼんやりと、このしたたりが自分のそばの水たまりに落ちて、音をたてているのを聞いていた。
この水たまりに落ちる水のしたたり、これがその牢獄の中で彼女のまわりにまだ動いているただひとつの動きであり、時を告げるただひとつの時計であり、地上に響くすべての音のうちで、耳にまで届くただひとつの音であった。
ひとことで言えば、彼女もまたときどき、この混沌《こんとん》とした泥沼とやみの中で、何かしら冷たいものが、足や腕の上をあちらこちら這いまわっているのを感じて、ぶるぶると身を震わせるのだった。
ここに投げこまれてからどのくらい時間がたったものだろうか? 彼女にはわからなかった。彼女は、どこかで誰かに対して死刑の判決が述べられたことを思い出した。それから自分はここに連れてこられ、気がついてみると、夜、この静けさの中に、氷のように冷えきっているのだった。四つんばいになって這ってみた。すると鉄の輪がくるぶしをおさえて、鎖がガチャガチャと音をたてた。自分のまわりじゅう壁で取り囲まれ、足もとには水びたしになった敷石とひと束の藁《わら》があることに気がついた。しかしランプも風抜きもない。そこで、藁の上にすわった。
ときどき姿勢をかえようとして、牢獄の中の石段のいちばん下の階段に腰をおろした。ほんのわずかのあいだ、娘は、水のしたたりが彼女のために時を打ってくれるまっ暗やみの中の時間をかぞえようとしてみた。だがやがて、この病みついた頭の悲しい労働は、しぜんに頭から消えてしまい、娘はまたもや放心状態に陥ってしまった。
ついにある日、いやある夜のこと(というのは、この墓場の中では、真昼も真夜中も同じ色彩だからであるが)、頭の上のほうで、いつも看守が彼女のところにパンと水差しとを持ってきてくれるときに鳴らすのとは違った、もっと強い音が聞こえた。彼女は頭をあげた。見ると、ひと筋の赤みがかった光が、この≪地下牢≫の丸天井につくられた扉か揚げ戸のすきまのようなところから射しこんできた。と同時に、重々しい鉄具の鳴る音がして、揚げ戸はそのさびついた肘金《ひじがね》の上できしって、回転した。見ると、角燈がひとつ、手が一本と、ふたりの男の腰から下の部分が見えた。扉があまり低かったので、頭のほうは見えなかったのだ。そして光が激しく目を刺したので、彼女は目を閉じてしまった。
また目を開いてみると、扉はもとのようにしまって、大型の角燈が階段の段のところに置いてあり、男がただひとり、目の前に立っていた。ずきんのついた袖なしの黒い外套が、その男の足まで垂れて、同じ色の覆面で顔をかくしていた。顔も手も見えず、誰だか少しもわからない。長い黒い屍衣《しい》が立っているようで、その衣の下には何物かが動いているようであった。
彼女はしばらくのあいだ、じっとこの幽霊のようなものを見つめていた。そのあいだ、娘もこの男もひとこともものを言わなかった。ちょうど、ふたつの彫像が向き合っているようなものだったとも言えよう。ただふたつのものだけが、この地下の墓穴の中で生きているように思われた。あたりの湿気のために、パチパチとはねている角燈の燈芯《とうしん》と、その不規則なパチパチとはねる音をさえぎって、油っぽい水たまりの上に同心の波紋をえがいて、角燈の光を動揺させている水のしたたり、がそれだった。
とうとう、とらわれの娘のほうから、この沈黙を破った。「あなたはどなた?」
「司祭だ」
そのことば、その調子、その声音《こわね》を聞くと、娘はぶるぶると身を震わせた。相手は声をおとして、ゆっくりとこうつづけた。
「支度《したく》はよいか?」
「なんの支度ですか?」
「死ぬ支度だ」
「まあ! それはもうじきですか?」
「あすだ」
娘はうれしそうに頭をあげたが、またがっくりとうなだれて、「まだずいぶん間がありますのねえ! なぜ、きょうじゃいけないんでしょう?」とつぶやいた。
「するとおまえは、非常に不幸なのだな?」と、男はちょっと間をおいてたずねた。
「あたし、とても寒いんです」と、彼女は答えた。
彼女は、両足を両方の手でしっかり押えた。これは寒さにこごえた、可哀そうな人がよくやる格好で、私たちは、ロラン塔のおこもりさんが同じような格好をしていたのを、まえに見たことがある。娘は、歯をガタガタと鳴らした。
その男は、ずきんの下から目を向けて、牢獄の中を、あちらこちらと見まわしているようすだった。
「明かりもなし! 火もなし! おまけに水びたし! 恐ろしいところだ!」
「そうですわ。みなさまがたには昼間というものがあるんです。なぜあたしには、夜しかいただけないんでしょう?」
娘は、不幸のために万事に驚きやすくなっていたのだが、驚いたようすで答えた。
男はまたもやしばらく黙っていたが、やがて、「おまえは、自分がなぜここにいるのか知っているか?」ときいた。
「知っているつもりですが」
こう言って娘は、何か思い出そうとしているのか、痩せ細った指を眉《まゆ》の上にあてていたが、「でも、もうなんだかわからないんです」
とつぜん彼女は子どものように泣きだしてしまった。
「あたし、ここから出たいんです。寒くて、こわくてしかたがないんです。けだものが大勢いて、それがあたしの体に這《は》いあがってきますの」
「よろしい。わしのあとについておいで」
こう言って、その司祭は、彼女の腕をつかんだ。娘の体は、可哀そうに腹の底まで冷えきっていた。だが、相手の手に触れると、何か冷たいものにさわられたような気がした。
「まあ! この手は死人の手のように凍っているわ。……いったいどなたなの?」
男はずきんを脱いだ。彼女がじっと見つめていると、それはまさに、ずっと久しいまえから自分を追いまわしていた、あの無気味な顔であった。これこそ、ファルールデルの家で、あのフェビュスの懐しい顔の上に現われた悪魔の頭であり、短剣のわきで光ったのを最後に見てからはじめて見る、あの目であった。
この司祭が顔を出すのは、娘にとっては、いつでも非常に致命的なものであり、それは、このように彼女を不幸から不幸へと押しやって、ついに、この責め苦の境涯にまで追いつめたものであったが、彼女はこのとき、その姿を見て、ふと感覚がなくなっていた状態からよみがえった。記憶の上に厚くかぶさっていたベールのようなものが破れるような気がしたのだ。
ファルールデルの家の夜の光景から、トゥールネル裁判所での有罪の宣告まで、あの憂うつなできごとが、こまかい点にいたるまでひとつ残らず、同時にまざまざと心のうちに浮かびあがってきた。それは、いままでのように、漠然《ばくぜん》とごちゃごちゃしたものではなく、はっきりと、なまなましく、明瞭に、ぴくぴく動いて、恐ろしいものとなって、よみがえってきたのだ。
こうした、半ば消え失せて、あまりの苦しさのためにほとんどけずり取られてしまった思い出は、いま、自分の前にいる薄暗い人影のために、まざまざとよみがえってきたのである。ちょうどそれは、白紙の上に見えないインクで書かれた目に見えない文字が、その紙を火に近づけると、紙の上にあざやかに浮かびあがってくるようなものであった。彼女の心に受けたあらゆる傷が同時に口を開いて、血が滲《にじ》み出たように思われたのだった。
「まあ! あの司祭さんだわ!」と彼女は、手で目を覆い、身を震わせて叫んだ。
それから、ぐったりとなって、両腕を落とし、がくりと腰をおろしてしまった。うなだれて、目はじっとくぎづけされたように足もとを見つめ、ものも言わず、たえず体を震わせていた。
男は、ちょうど麦畑にうずくまっている哀れなヒバリのまわりを、空高く円をえがきながら長いあいだ飛び舞っていた一羽のトビが、その飛びまわる恐ろしい輪を、黙ったまま長いことかかってしだいにちぢめたかと思うと、とつぜん、いなずまのように獲物の上に襲いかかり、その爪をかけて、あえいでいる獲物をひっつかむときのような目つきで、じっと娘を見つめていた。
彼女は低い声でつぶやいた。「ひと思いに、どうか、殺して下さい! 殺して下さい!」
彼女はちょうど牛殺しの打ちおろす棍棒《こんぼう》を待っている牝羊《めひつじ》のように、恐ろしげに頭を肩にうずめた。
「そんなにわしが恐ろしいか?」
最後に彼はこう言った。娘は答えない。
「このわしがこわいのか?」
娘の唇はほほえむように、ぴくりとひきつった。
「はい。死刑をなさる人は、罪人をおなぶりになるものなんだわ。これでもう幾月も、この人はあたしを追いまわして、おどかしたり、こわい目にあわせてばかりいるんだわ! この人さえいなければ、ああ神さま、あたし幸福だったんです! あたしをこんな恐ろしい目にあわせたのは、この人なんです! ああ、神さま! ああ、この人が殺したんです、……殺したのはこの人なんです! あたしのフェビュスさまを!」
こう言って娘は、ワッと泣きだし、顔をあげて男のほうを見ながら、「ああ、この人でなし! あなたはどなたなんです? あたしがあなたにいったい何をしたというの? あなたは、あたしのことを憎んでいらっしゃるのね? ああ! あなたは、あたしをなぜこんな目にあわせるの?」
「おまえをいとしいと思っているのだ!」と、男は叫んだ。
娘の涙はふっと、とまった。そして、知恵遅れのようにうつろな目で男を見つめた。男のほうは、ひざまずいて、炎のようなまなざしで、彼女をじろじろとながめまわした。
「わかったかな? おまえをいとしいと思っているのだ!」と、もう一度叫んだ。
「なんという恋でしょう!」娘は可哀そうにも震えながら言った。
彼はまたもや言った。「地獄におちた男の恋なのだ」
ふたりとも、そのまましばらくのあいだ、感情の重みに圧倒され、男は気が狂ったように、女はぼうっとして、無言のままでいた。
「まあ、聞け」と、とうとう司祭は言った。男は異様なおちつきをとり戻していた。
「おまえに何もかも話してやろう。あのとき、神もわれわれのことをもう見ておられないように思われるまでの、まっ暗なやみに閉ざされた、夜もしんしんと深い時刻に、わしは、ひそかにわが良心にきいてみた。わしは、いままでどうしても自分自身にも言いにくかったことを、いまこそおまえに話して聞かせてやろう。まあ、聞け。娘よ、おまえに会うまでは、わしは……わしはしあわせであったのだ……」
「あたしもです!」彼女は弱々しい溜息をもらした。
「まあ、黙って聞け。……そうだ、わしは幸福だった。少なくとも、自分ではそう信じていた。わしは純潔であったし、わしの魂には澄みきった明智が溢れていた。わしほど誇らかに、輝きわたった頭をあげているものはなかったのだ。司祭たちはこのわしに、純潔とはなんであるかをたずねに来たし、博士たちは、学説を聞きに来たものだった。そうだ、学問はすべて、このわしのためにあるようなものであった。それはひとりの妹のようなもので、妹ひとりで、わしはじゅうぶんであった。年齢をかさねても、別な考えがはいりこんでくるというようなことはなかった。一度ならず、わしの肉体は、女性の姿が通るのを見て、心を動かしたこともあった。しかし、この男性としての性の力も血の力も、愚かしい青春として、わしは、生涯それを抑えることができるものと信じていた。
だが、この力が、祭壇の冷たい石にしっかりとこのわしを結びつけている誓いの鉄鎖を、激しい力で取り去ろうとしたこともたびたびあった。だが、断食と、祈祷と、勉学と、修道院の難行苦行とが、肉体の奴隷となったこの魂を叩き直してくれたのだ。それからというものは、わしは女をさけてきた。
それにまた、書物を開きさえすれば、頭の中の不浄な炎はみんな、学問の光輝の前に消え失せた。しばらくすれば、地上をおおっている重苦しいものが、遥かかなたに逃れ去っていくのを感じた。ふたたび静かな境地をとり戻し、永遠の真理の安らかな光を前にして、それに幻惑《げんわく》されて心は晴ればれとしていた。悪魔がわしを責めさいなもうとして、教会の中や、通りの中や、野原の中で、わしの目の下をちらちらと行きかい、また夢の中にかすかに浮かびあがってくる女の茫漠《ぼうばく》たる影を、わしのところに送り届けようとも、わしはたやすく、それを撃退した。ああ! みごとに勝ちおおせなかったとしても、そのあやまちは、人間と悪魔とを同じ力に作りたまわなかった神にあるのだ。……まあ、聞け。ある日のことだった……」
こう言って、司祭はふっと口をつぐんだ。とらわれの娘の耳に、この男の胸から、あえぐような、かきむしるような響きをたてる溜息がもれるのが聞こえた。
彼はなおもつづけた。
「……ある日のことだ。わしは、自分の独房の窓によりかかっていた。……どんな書物を読んでおったかな? ああ! 頭の中は何もかもが混沌《こんとん》としている。……とにかく、わしは読書していた。その窓は広場のほうに向いていた。タンバリンと音楽の音が聞こえてきた。夢想に耽《ふけ》りながら、このように頭が乱されたのに腹が立って、広場のほうに目をやった。すると、わしの目にはいった光景を、わしのほかにもまだ、その光景を見ている者が幾人かあった。それはまさに、この世の人の見るためにつくられた光景ではなかった。そこの舖道の真ん中に……真昼のことだったが、……日はさんさんと輝いていた、……ひとりの女が踊っていたのだ。実に美しい娘だった。神も、聖母マリアよりもこの娘のほうを好まれたであろう。そしてその娘を、自分の母ともしたいと思われたであろうし、もしも神が生まれたときにこの娘がいたならば、その女から生まれたいと思われたことであろう!
そのまなざしは黒く、輝くばかりのみごとさであった。黒い髪のまん中あたりの幾本かは、日の光が射しこんで、金の糸のように輝いていた。足は、ぐるぐるとすばやくまわる車の輻骨《やぼね》のように動きがはやくて、よく見えないほどであった。みどりの黒髪をたばねた頭のまわりには金の飾りがついていたが、それは日の光を受けてきらきらと輝き、まるで星の冠を額にいただいたようであった。その衣裳にはぴかぴか光る小石がちりばめられて、それが青くきらめき、真夏の夜のように、幾千という閃光《せんこう》がとびちっていた。しなやかなトビ色の腕は、二本のスカーフのように、胴のまわりに組んだりほぐれたりしていた。体の線は実に美しく、みごとなものであった。
ああ! 輝くばかりのその顔は、太陽の光の中でさえも輝くもののように、くっきりと浮かびあがっていたのだ!……ああ! 娘よ、それはおまえだったのだ。……わしは、驚き、酔ったように心がとろかされてしまった。わしはじっとおまえを見つめていた。とつぜん、何かにおびえて、ぶるぶると震えてくるほどまでに、おまえを見つめていた。宿命がわしをとらえたように感じたのだ」
司祭は胸をしめつけられたようになって、しばらくことばを切った。それからまたつづけた。
「もうわしは、半ば魂を奪われたようになり、何ものかにかじりついて、ずり落ちようとするのをささえようとした。わしは、悪魔がまえもってわしにかけた落とし穴を思い出した。わしの目の下にいた人間は、天国からか、地獄からか、そのほかのところからは来ることができないような、この世のものならぬ美しさをそなえていたのだ。それは、この地上のわずかばかりの土でつくられ、女の魂の揺らめく光でかすかに内部を照らされた、単なる女ではなかった。まさに天使であったのだ! だがそれは、地獄の天使であり、炎の天使であって、断じて光明の天使ではなかった。
わしがこのような思いを心の中に描いていたとき、おまえのそばに一匹のヤギがいるのが見えた。これは、魔法使いが夜宴に連れていく動物だ。それがわしを笑いながら見つめていた。真昼の太陽は、その角《つの》にあたって火のように輝いていた。そのときわしは、これが悪魔の落とし穴だなと見てとった。そして、おまえは地獄から来たものだ、このわしをほろぼすために来たのではないかと、ふとそう思った。そう信じてしまったのだ」
こういって、男はとらわれの娘の顔をまじまじとながめ、それからまた、冷たく言った。
「わしはいまだにそう信じているのだ。……そうしているうちに、人の心をさそうその力は、しだいにはたらきだした。おまえの踊りは、わしの頭の中でぐるぐると回転した。神秘的な呪文が心の中でできあがってゆくのを感じた。魂の中で目ざめていなければならなかったものがすべて、眠りこんでいたのだ。そして、雪の中でこごえ死ぬ者のように、この眠けの襲うがままに身を任しているほうが心地よかった。
とつぜん、おまえは歌をうたいはじめた。こうなると、みじめなものだ。どうにもならないのだった。おまえの歌は、踊りよりもさらに魅力があった。わしは、逃れたいと思った。だが、それもできなかったのだ。その場に釘づけされたようになり、地に根をはってしまったのだ。わしには、敷石の大理石がひざのあたりまであがってきたように思われた。どうしても最後まで、そこにいなければならなかったのだ。足は氷のように冷えてきたが、頭は熱湯のようにわきかえった。とうとう、おまえはわしを哀れと思ってか、歌をやめて、どこかへ行ってしまった。目もくらむばかりの幻の反映と、魂を奪うような音楽の反響とは、わしの目からも耳からも、しだいに消えていった。
そのときわしは、壁からはがされた彫像よりもぶざまに、力なく窓の片隅に倒れてしまった。晩課《ばんか》を告げる鐘の音がわしを目ざめさせた。わしは起きあがって逃げだした。だが、ああ! わしの中には、何かしら崩れてしまってもう立ちあがれないものができたのだ。何かしらが、ふいに襲ってきて、それから逃れることができなかったのだ」
彼はまたしばらく休んで、話をつづけた。
「そうだ。その日からというもの、わしの心には、見知らぬひとりの人間が住んでしまったのだ。わしは、ありとあらゆる薬を用いようと思った。修道院にこもり、祭壇にぬかずき、手に汗して働いたこともあったし、読書に没頭したこともあった。愚かしいことであった。打ちのめされたようになって、情熱で溢れた頭にさからって学問に没頭しようとしても、学問はいたずらに、うつろな響きをたてるだけだった! 娘よ、おまえは知っているか? それ以来わしが、書物とわしとのあいだにいつでも何を見たか、おまえは知っているか? おまえなのだ。おまえの影なのだ。いつか、わしの前を通りすぎた輝くばかりの幻の影であった。だがその幻影はもう、まえと同じ色をしてはいなかった。それは、軽はずみな男が太陽をじっと見つめて、そのあとで長いこと目の底に残る黒い輪のような、暗い、悲しい、不吉な色であった。
おまえの歌が、いつまでもわしの頭の中で歌いさざめくのが耳にはいり、おまえの足がいつでもわしの聖務日課書の上を踊りまわっているのが目についた。また夜になるといつでも、夢におまえの姿が、わしの肉体の上を這いまわるのを感じて、どうしても払いのけることができないのだった。そこでわしは、もう一度おまえに会い、おまえの体に触れて、おまえがなんであるかを知り、わしの心に焼きついているおまえの理想的な彫像に、おまえがほんとうによく似ているかどうかを確かめて、おそらくはその現実の姿でもって、わしの夢を打ち砕いてくれることを望んだのだ。
ともかく、新しくおまえを見た印象が、はじめの印象を払いのけてくれることを期待していた。だがはじめの衝撃は、わしにとって、ますます耐えがたいものになってしまったのだ。わしはおまえを求めた。そしてまた会うことができた。ああ、それが不幸だったのだ! ふたたびおまえの姿を見てからは、千度もおまえの姿を見たくなってしまったのだ。
そのとき、……地獄の坂の上にさしかかって、どうして車を止めることができようか?……そのときには、もはやわしは、自分で自分をどうすることもできなかった。悪魔がわしの翼に結びつけた糸のもう一方の端を、悪魔は、自分の足に結びつけてしまっていたのだ。わしは茫然となり、おまえのように、さすらいの旅をつづけるようになってしまった。わしは玄関のところでおまえを待った。まちのすみで、おまえの来るのを待ちぶせた。わしの塔の上からおまえを見張っていたこともあった。毎夜のように、ますます魅惑され、絶望し、ますます呪縛《じゅばく》にかかり、ますます回復の望みもなくなって自分にかえるのだった!
わしは、おまえがどんな女であるかを知っていた。エジプトや、ボヘミアや、スペインや、イタリアなどをさまようジプシー娘なのだ。どうしてその魔術に縛られることがないと考えられようか? まあ聞け。だからわしは、裁判所に訴え出れば、自分にかかっている魅力の呪縛から逃れられると思った。ブルーノ・ダスティ〔十一世紀ごろのイタリアの神学者〕も魔女の魅力におぼれたことがあったが、彼はその女を火あぶりにして、自分はなおることができたのだ。この話を知って、このようにして救いの道を求めようと思った。それでまず、おまえにノートルダムの広場に来ることを禁じようとした。もしもおまえが、もはやそこに来なければ、忘れることができようと思ったのだ。おまえはそれを意にとめなかった。またやってきたのだ。そこでわしは、おまえをさらっていこうと思った。
ある夜のこと、それを企てたのだ。わしとおまえとふたりきりになったときだ、もうしっかりと手にはいったと思ったそのときだ、あのいまいましい士官のやつが、とつぜんやって来おったのだ。やつはおまえを逃がしてしまった。こうして、おまえと、わしと、あの士官との不幸がはじまったのだ。
とうとうわしはどうしてよいのやら、どうなるものやら、もうさっぱりわからなくなって、おまえを宗教裁判所に訴え出たというわけだ。わしもブルーノ・ダスティのように救われるであろうと思った。また、訴え出れば、おまえはわしの自由になるだろうと、漠然と考えていた。牢獄の中では、おまえの手をとり、おまえを抱きしめることができるだろうと思ったのだ。おまえはわしのところから逃れることができないだろう、いままでずいぶん長いこと、おまえがわしの心をつかんでいたように、今度はわしがおまえをつかんで放すまいと思っていた。毒を食らわば皿までだ。極悪非道な行為をしているのに、中途でやめるなどとは狂気の沙汰だ! 罪悪の極致には、このうえもない喜びがあるものだ。司祭と魔女とは、地下牢の敷き藁の上で歓楽の極致に酔ってもよいはずだ!
そこでわしは、おまえを訴え出たのだ。そのときだ、おまえがわしに会って恐れおののいていたのは。おまえに対して企てた陰謀や、おまえの頭の上に吹きよせたあらしは、脅迫となり、稲妻となって、わしからとびだしていった。しかしそれでもまだ、わしは躊躇《ちゅうちょ》していた。わしの企てには、わしをしりごみさせるような恐ろしい面があったのだな。
ことによったら、わしは告発をあきらめたのかもしれなかったし、おそらくは、この恐ろしい考えは実らずに、わしの頭の中で枯れ果ててしまったかもしれなかった。この訴訟を継続するのもまた撤回するのも、いつでもわしの胸ひとつにあると信じていた。だが、あらゆるよこしまな思いは、人の力ではどうにもならないものなのだ。ひとつの事実になることを望むものなのだ。わしは、自分の全能なることを信じていた。だが宿命は、わしよりも遥かに強力であった。ああ、なんということだ! おまえをとらえ、このわしがひそかに作っておいた機械の恐ろしい歯車におまえをかけたのは、まさに宿命なのだ!……まあ、聞いてくれ。もうしばらくだ。
ある日のことだった。……ある晴れた日のことだった。……ひとりの男がおまえの名まえを口にして、笑いながらわしの前を通りかかるのが目にはいった。その男の目にはみだらなものがあった。いまいましい! わしはその男のあとをつけていった。それから先は、おまえも知ってのとおりだ」
彼は口をつぐんだ。娘はただひとことしか心に浮かんでこなかった。
「ああ、フェビュスさま!」
「その名を言ってはならぬ!」と、男は激しく娘の腕をつかんで言った。「その名を口にしてはならぬのだ! ああ! われわれはまことに哀れなものだな。われわれを破滅におとしいれたのは、この名まえなのだ! いやむしろ、われわれはふたりとも宿命の解きがたいいたずらにもてあそばれて、破滅してしまったのだ!……おまえは苦しんでいる、そうではないか? 寒いであろうな。夜のやみがおまえを盲目にしている。牢獄はおまえを包んでいるのだ。いや、たぶん、おまえの心の奥底には、まだいくらかの光があるだろう。おまえの心をもてあそんだ、このうつろな男に対する、おまえの子どもらしい恋心があるはずではないか! このわしは、自分の心の中に牢獄をいだいているのだ。わしの心の中にあるものは、冬だ、氷だ、絶望だ。魂の中にあるのは、夜だ。
わしがどのように苦しんでいるか、みんなおまえにわかるかな? わしはおまえの裁判の場にも立ちあっていた。裁判官の席にいたのだ。そうだ、あのうち、聖職者のずきんのひとつの下にかくれて、ひとりの地獄におちた男がしかめつらをしていたのだ。おまえが連れてこられたとき、わしはそこにいた。おまえが尋問を受けているときも、そこにいたのだ。……オオカミの巣窟だったな!……それはわしの罪だ。わしのつくった絞首台が、おまえの額の上にゆるゆるとのぼっていくのを、わしは見た。どの証人が立ったときにも、どんな証拠があげられたときも、またどんな弁論が行なわれているときにも、わしはそこにいたのだ。
おまえが一歩一歩と苦しい道をあるいてゆく、そのあゆみをひとつひとつかぞえることができた。わしはまだそこにいた、そのときあのけしからぬけだものめが、……ああ! わしはおまえの拷問のことは予期していなかったのだ!……まあ聞け。
わしは、おまえについて、拷問の部屋まで行ったのだ。おまえが着物を脱いで半裸体となり、あの拷問係の者のいまわしい手で触れられるのを、わしは見たのだ。わしは、おまえの足を見た。一国を犠牲にしても、せめてただ一度口づけをして死んでいきたいと思っていたその足を、その下で歓喜に酔いしれて、わしの頭が打ち砕かれるのを感じたいとさえ思ったその足を。
その足が、生きた人間の足を血みどろにしてしまう恐ろしい足枷《あしかせ》の中にはさまれるのを見たのだ。
ああ! なんというみじめなことだ! それを見ているまに、自分の屍衣《しい》の下にかくし持っていた短剣で、われとわが胸をえぐったのだ。おまえがもらした叫びを聞いて、わしは自分の肉に短剣を突き刺したのだ。二度目におまえが叫んだときには、短剣は心臓にはいった! 見てくれ、まだ血が滲んでいると思うが」
彼は|聖職者の服《スータン》を開いた。胸は実際、トラの爪でかきむしられたように裂けていた。そして、横腹のところには、かなり大きな傷口がまだよくふさがらないでいた。
とらわれの娘は恐れおののいて、あとずさりした。
「おお! 娘よ、わしを哀れに思ってくれ! おまえは自分のことを不幸なものだと思っているだろうが、ああ! だがおまえは、不幸とはどんなことかがわかってはいないのだ。ああ! 女に恋をする! しかも司祭の身でだ! 嫌われていながら! しかも魂がのたうちまわるように恋しているのだ。女のわずかなほほえみを求めるために、血も、はらわたも、名声も、魂の救いも、不滅も、永遠も、この世の命も、あの世の命も、すべてを投げうとうと感じているのだ。
女の足もとに少しでも大きな奴隷をかしずかせるために、なぜわしは、国王や天才、皇帝、大天使、また神として生まれてこなかったのであろうか、実に残念なことだ。夜となく昼となく、彼女を思う夢と思いとで、女を抱きしめるかと思うと、その女が軍服に恋い焦がれているのが目にはいるのだ! その女に与えるものとしては、一着のよごれた聖職者の服しか持っていないこの身のうえだ! しかも女はその服に恐れをいだいて、とても嫌っている。女がひとりの愚かな虚勢をはる唾棄《だき》すべき男に対して、愛と美との宝物を惜しげもなく与えているのを、嫉妬と怒りを感じながらそばで見ているのだ! その姿を見ただけでも、わしの心を燃えたたせるあの肉体、やさしさに溢れた胸、ほかの男と口づけをしてその下で胸をときめかせて赤らんでいるあの肌、それを見せつけられているのだ!
ああ、なんたることだ! このわしは、その足、その胸、その肩に思い焦がれ、わしの独房の敷石の上で、毎夜のようにのたうちまわるまでに、あの青白い血管やクリ色の肌を夢にまで見て、人びとが彼女に全身から愛されようとしているのを見ては、身も世もあらぬほどにさいなまれるまでになり果ててしまったのだ! やっと成功したのは、女を皮のベッドに寝かせることだけだった! ああ! だが、そのためにわしの心は、地獄の火でまっ赤に焼けた責め道具で苦しめられてきたのだ! 二枚の板のあいだにはさまれて鋸《のこぎり》引きにされ、四頭の馬で四つ裂きの刑にされたもののほうが、どれほどしあわせだったことか!……おまえは、おまえたちが受ける刑罰がどんなものであるか知っているか? 幾晩も幾晩も、おまえたちの動脈は泡だち、心臓はえぐられ、頭は砕かれ、おまえたちの歯は、われとわが手をかみ切るのだ。拷問役人は熱狂して、休むことなく、まっ赤にやけた肉あぶりの網にのせるように、愛と、嫉妬と、絶望との上に乗せて、おまえたちを回転させるのだ! 娘よ、お願いだ! しばらくのあいだ、わしを苦しめることをやめてくれ! このおこり火に灰を少しかけてくれ! 頼む、どうかわしの額から滝のように流れるこの汗をぬぐってくれ! 娘よ! 片方の手でわしを苦しめるならば、もう一方の手でわしを愛撫してやってくれ! 哀れと思ってくれ、娘よ! このわしを哀れんでくれ!」
司祭は、敷石の上を流れる水の中でのたうちまわり、石の階段のかどに頭蓋骨を打ちつけた。娘は、彼の言うことを聞きながら、男のほうをじっと見つめていた。彼が疲れ果てて息をはずませて黙ってしまうと、低い声で繰り返した。
「ああ、フェビュスさま!」
彼はひざをついたまま、娘のほうにいざりよった。
「お願いだ、おまえも愛情をもっているならば、このわしをしりぞけないでくれ! ああ! わしはおまえを愛しているのだ! わしも哀れな男だ。おまえがその名を口にすると、哀れな娘よ、まるでわしの心のあらゆる筋がおまえの歯でかみ砕《くだ》かれるような思いがするのだ! お願いだ! おまえが地獄から来たならば、わしはおまえとそこにいっしょに行こう。わしも地獄におちるようなことを何もかもしてしまった。おまえの行く地獄は、わしにとっては天国だ。おまえの姿は神の姿よりも遥かにわしの心を奪うものだ!
ああ! 言ってくれ! おまえはわしが嫌いかな? 女がこのような恋をしりぞけるとすれば、わしには山々も動きだす思いがするだろう。ああ! もしもおまえがよければ!……われわれは幸福になれるのだ! ふたりして逃げるのだ。……わしはおまえを逃がしてやろう。……わしらふたりは、いちばん太陽が輝き、いちばん木が多く、いちばん青空が澄みわたる土地を求めて行くことにしよう。愛し合い、ふたつの魂をおたがいに注ぎあって、それでもどうにもとまらないのどの渇きを覚えたら、いっしょになって、たえず汲めどもつきぬ愛の盃《さかずき》で、この渇きをいやそうではないか!」
娘は恐ろしいばかりに大声で笑いながら、彼のことばをさえぎった。
「まあ。ごらんなさい、神父さま! 爪の跡に血がついていますよ!」
司祭はしばらくのあいだ、手をじっと見つめて、化石のように身動きもしなかった。
「よろしい、そうだ!」と、ついに不思議なほどやさしく言った。「わしを侮辱してもくれ、あざ笑ってもくれ、わしを押しつぶすほどうんと責めてもよい! だが、わしといっしょに来てくれ。さあ、急ごう。な、もうあすに迫っている。グレーヴ広場の絞首台をおまえは知っているかな? あれはもう、いつでも準備ができているのだ、恐ろしいことだ! おまえが囚人護送車に乗せられて連れていかれるのを見るなどとは! ああ! 頼む!……どんなにわしがおまえを恋しているか、いまほど強く感じたことはなかった。……ああ! わしについてこい。わしがおまえを救ってやったあとで、おまえはわしをゆっくりと愛してくれ。また好きなだけ長くわしを憎んでもよい。だがともかく、わしといっしょに来るのだ。あすだぞ! よいか、あすだぞ! 絞首台の日は! おまえの刑は! さあ、逃げるのだ! それまでは、わしのすることを大目に見てくれ!」
彼は娘の腕をとり、気が狂ったようになって、娘をひっぱっていこうとした。
娘は眉ひとつ動かさず、男のほうを見て、
「フェビュスさまはどうなったんでしょう?」
「ああ! おまえはつれない女だ!」彼は娘の腕を放して、こう言った。
「フェビュスさまはどうなったんでしょう?」と、彼女は冷やかに繰り返した。
「死んだのだ!」
「えっ、死んだのですか?」と、娘はあいかわらず氷のように冷やかに、しかも身動きひとつしないで言った。「そうなったのに、あたしに生きていろとおっしゃるの?」
彼のほうではそのことばが耳にはいらなかった。「そうだ」と、彼は自分自身に言い聞かせるように言った。「あの男はまさしく死んだに相違ないのだ。刃《やいば》は深くはいったのだからな。その先は心臓に触れたはずだ。ああ! わしの魂は、あの短剣の先にまでこもっていたからな!」
娘は怒り狂う牝のトラのように、男にとびかかり、恐ろしい力で彼を階段の段の上に突きとばした。
「あっちへ行け、畜生! 行ってしまえ、人殺し! あたしを殺しておくれ! あたしたちふたりの血で、おまえの額にいつまでもしみをつけてやるんだ! おまえのものになるなんて、司祭に身を任せるなんて! とんでもない、まっぴらです! どんなことがあっても、いっしょになんかなりませんよ、地獄に堕《お》ちたっていやだわ! あっちへ行け。汚らわしい。絶対いやだわ!」
司祭は階段のところでよろめいた。黙ったまま両足にからまった服のひだをといて、角燈をとり、戸口のほうに向かっている階段を、のろのろとのぼっていった。そして、そのドアを開けて出ていった。
するととつぜん、顔がまた戸口にあらわれたが、その顔には恐ろしい表情が浮かんでいた。彼は怒りと絶望との入りまじった、あえぐような声で、女に向かって叫んだ。
「いいか、あいつは死んだのだぞ!」
娘はうつぶせに倒れた。もう牢獄の中には、暗やみの中の水たまりにポトリポトリと落ちている水のしたたるもの悲しい音のほかは、何も音は聞こえてこなかった。
五 母親
母親が自分の子どもの小さな靴を見たときに、心にめざめるいろいろな思いほどほほえましいものはこの世にない、と私には思われるのである。ことにその靴が、お祭りの日や、日曜日や、洗礼のときにはくものであったならば、また、裏まで刺繍のついた靴や、その靴をはいても、子どもがまだ一歩も歩けないような、そういう靴を見たときには、なおいっそうほほえましいものであろう。このような靴は、いかにもやさしく、可愛らしく、また子どもがそれをはいても歩けないので、母親にとっては、まるで自分の子どもを見るのと同じ気持になるものだ。
母親はその靴にほほえみかけ、その靴に口づけをし、またその靴に向かって話しかけるのである。そして、あの子の足が、こんなに小さいなんてことがあるだろうかと疑ってみたくなる。子どもがたとえそこにいなくとも、その靴さえ目の前に置いてあれば、もうそれで、可愛い、弱々しい子どもがそこにいるような気持になれるものだ。母親は自分の子どもを見ているような気になる。いや実際に見ているのだ、子どもの姿全体を。……いきいきと楽しげな姿、可愛らしい手、まるい頭、純潔な唇、白目《しろめ》のところがまだ青いその目。冬ならば、子どもはそこの敷き物の上を這ったり、一所懸命になって腰かけにのぼろうとしたりしているし、母親は、火のそばに近よって行きはしないかと、はらはらしている。また夏ならば、中庭や花園をはいまわり、敷石のあいだにはえた草をむしったり、大きな犬や大きな馬を無邪気そうに、こわがるようすもなくながめたり、貝殻や花で遊んだり、また、花壇を砂だらけにしたり、公園の小道に泥を入れたりして、それを見つけられて園丁に叱られる。
まわりのものはみな、吹く風も、髪の乱れた巻き毛の中にあらそって射しこむ太陽の光までも、ありとあらゆるものが、子どものようにほほえみ、輝き、戯《たわむ》れている。子どもの靴を見ると、こういうことがみな母親の目に浮かび、ちょうど蝋《ろう》を溶かすように、母親の心を柔らげるのである。
ところが、子どもが迷子にでもなったようなときには、刺繍をしたその可愛らしい靴のまわりにおしよせている、こういう何千という喜びのすがた、魅力の、また愛情のイメージは、それと同じ数の恐ろしいものになってしまうのだ。刺繍のある美しい靴は、もう永遠に母親の心を噛《か》むひとつの拷問の器械にすぎなくなってしまうのだ。母親の心というものはいつでも同じで、いちばん深くて、いちばん敏感に震える心の糸だ。だが、こんどは天使が、この糸を愛撫するのではなく、悪魔がそれをつまむのである。
ある朝のことであった。五月の太陽はガローファロ〔十六世紀のイタリアの画家〕が好んでキリスト降架の図を描くときに用いている、あの深青色をしている空にのぼっていた。グレーヴ広場で車のきしむ響きと、馬のいななきと、鉄具の音とが、ロラン塔の中にこもっている女の耳に聞こえてきた。彼女はそのためわずかに目をさまし、音が聞こえないように髪の毛で耳をふさぎ、ひざまずいて、自分がこうして十五年このかた愛しつづけてきたこの生命のないものを、またもやじっとながめはじめた。
この小さな靴は、まえにもお話ししたように、彼女にとっては宇宙であった。彼女の考えはそこにこめられ、死ぬときよりほかには、もうそこから出るはずもなかった。彼女が天に向かって、バラ色のしゅすで作ったこの可愛らしいおもちゃのことを考えては、耐えがたいほど悲しい呪いや、心を痛ませるような恨みや、祈りや、すすり泣きを投げつけているということは、ロラン塔の薄暗い穴倉が知っているだけだった。こんなにやさしくて愛らしい物に対して、こんなに多くの絶望の声がそそがれたことは、いままで一度もなかったのだ。
その朝は、この女の悲痛な声が、いつもより激しく響いてくるように思われた。聞く人の心を痛ませるような、声高で単調な声で泣く音が、穴の外まで聞こえてきた。
「ああ、娘よ! わたしの娘! 可哀そうな、あの可愛い子! もうおまえには会えないのだね、もうだめなのね! ああ、わたしはいつでも、あれがきのうのことのような気がするのだよ! ああ、神さま、神さま、こんなに早く、わたしからあの子をお取りあげになってしまうくらいなら、いっそ子どもをお授けにならないほうがよかったのです。神さま、あなたさまは、わたしたちの子どもというものが、母親のおなかにつながっているものだということや、子どもをなくした母親がもう神さまを信じないということをご存じないのですか?……ああ! わたしはなんて不運な女なんだろう。あの日、外に出るなんて!……神さま!神さま! あんなようにしてわたしからあの子を取りあげてしまうなんて、神さまは、わたしがあの子といっしょにいるのを、ごらんになったことがなかったのでしょうか? あのとき、わたしはほんとうに楽しく、自分の熱で子どもを暖めてやったのでしたし、あの子は、わたしのお乳を吸いながら、わたしに笑いかけてくれましたし、また、わたしは胸にあの子の足を抱きしめて、その足をあげて接吻してやったものでした。
ああ! 神さま、もしもあなたさまが、それをごらんになっていたならば、わたしの喜びを哀れとお思いになったことでしょうに。わたしの心に残ったたったひとつの愛を、わたしからお取りあげになるようなこともなかったでしょうに! それではわたしは、神さまに見放されるまえに、ひと目見ていただけることもできないほど哀れな人間なのでしょうか?……ああ! ああ! ほら、そこに靴がございましょう。でも足は、あの子の足はどこにあるのでしょう? もうひとつのほうは今どこにあるのでしょう? あの子はいまどこに? 娘や、わたしの娘や! おまえはみんなからどうされたのだね?
神さま、あの子をお返し下さいませ! 神さま、十五年も神さまにお祈りして、わたしのひざはこんなにすりむけてしまいました。それでもまだ足りないのでございますか? あの子をどうかお返し下さい、一日だけでも、いや一時間、一分間でもよろしゅうございます! ほんの一分間でも、神さま、それからならば、わたしを永遠に悪魔の手にお渡し下さいませ! もしもわたしが、あなたのお召し物のひだをひとつでも垂れているところが分かっていれば、両手でそこにしがみつきますよ。どんなことがあっても、あの子をわたしにお返し下さいませ! あの子の美しく可愛らしい靴を、神さま、あなたさまは哀れとお思いにならないのでしょうか? ひとりの哀れな母親に十五年ものあいだ、こんな刑罰をお与えになるなんて、そんなことがあなたには、いったいおできになるのでございますか? ああ、聖母マリアさま! 天にましますマリアさま! わたしにとっての、あのイエスさまとも言えるような子どもを、わたしは取られてしまったのです。奪われてしまったのです。どこかの荒れ地で、あの子を食べ、血をすすり、骨まで噛んでしまった者があるのでございます! マリアさま! どうかお慈悲でございます。ああ、娘! どうしてもわたしは、娘なしではいられないのです! あの子が楽園にいたところで、わたしにとって、それがなんになりましょうか? あなたさまの天使など、少しも欲しいとは思いません。わたしはあの子が欲しいのでございます! わたしは牝のライオンでございます。ですから、こどものライオンが欲しいのです。……ああ! わたしは床《ゆか》の上で身もだえして、石に頭をぶつけてしまいます。そしてもし、娘をいつまでも返していただけませんでしたら、神さま、あなたを呪います、お恨み申します! ごらんのとおり、この腕は、歯のあとだらけでございます。ああ神さま! 神さまはお慈悲がないのでございましょうか?……わたしに娘を返していただいて、娘が太陽のようにわたしのからだを暖めてくれさえすれば、わたしは、塩と黒パンだけで結構でございます。ああ、情けない! 神さま、わたしは卑しい罪の女にすぎません。だけどあの子は、わたしを信心深い女にしてくれました。あの子を愛していたために、わたしは信仰心に溢れていました。あの子のほほえむ顔を通して、ちょうど天の窓からのぞくように、あなたのお姿を見ておりました。……ああ! たった一度、もう一度、たった一度でよいから、この靴を、あの子の可愛いバラ色の小さな足にはかせてみたいのです。そしたら、マリアさま、あなたを祝福しながらわたしは死んでもいいのです!……ああ! もうあれから十五年になる! あの子もいまではもう大きくなっているだろうね!……気の毒な子どもだったね! それでは、どうしてもほんとうにあの子にもう会えないのかしら。天国でもね! だってわたしは天国なんかには行けないからね。ああ、情けない! ここにあの子の靴があるというのに、靴だけが!」
この不幸な母親は、この靴、こんなに長い年月のあいだ彼女の慰めと絶望とのもとであったこの靴の上に身を投げた。あの最初の日のように、はらわたも裂けるほどすすり泣いた。なんといっても、子どもをなくした母親にとっては、いつまでたっても、その子どもをなくした最初の日と同じであるからだ。この悲しみは薄らぐことがないのだ。喪服がすり切れて、色あせても、なんのかいもない。心はいつまでも黒く沈んでいるものなのだ。
このとき幾人かの子どもが、いきいきとした楽しそうな声をたてて、この独房の前を通りすぎた。子どもたちの姿や声が目や耳にはいると、いつでもこの哀れな母親は、その墓穴のような部屋のいちばん暗いすみにとんでいくのだった。そして、子どもたちの声を聞くまいとして、石に頭をつっこもうとしているのではないかとさえ思われるほどであった。
ところが、今度の場合にかぎって、いつもと違って、飛びあがるように立ちあがって、むさぼるように聞き耳をたてた。ひとりの小さな子どもがこう言った。
「きょうは、ジプシーの女がひとり、首吊りになるんだよ」
よく見受けられることだが、巣が揺れたのを感じてハエに飛びかかるクモのように、彼女はとつぜんぱっと飛び出して、知ってのとおり、グレーヴ広場に向いている明かりとりのほうにかけよった。はたして、いつでも立っている絞首台のそばに、一本の梯子《はしご》が立ててあり、雑役夫が雨でさびついた鎖の手入れに余念がなかった。そのまわりには何人かの人が群がっていた。
笑いさざめく子どもの群れは、もう遠くへ行ってしまった。このおこもり女は、通りがかりの人をつかまえて何かきこうとして、目を皿のようにさせていた。すると、彼女のいる部屋のすぐそばで公衆用の聖務日課書を読んでいるように見せかけている、ひとりの司祭が目についた。だがこの男は、≪ごつごつした冷やかな書物≫よりも、絞首台のほうに気をとられていて、ときどき、暗い、兇暴な目つきを絞首台のほうに投げかけていた。彼女は、この男が聖者といわれているジョザの司教補佐さまであることに気がついた。
「神父さま、誰があそこで絞首台にのぼるのでございますか?」と彼女はきいた。
司祭は女のほうをじろりと見たが、返事もしない。彼女はもう一度きいてみた。すると、彼は言った。
「わしは知らぬ」
「さっきあそこで、子どもたちが、ジプシーの女だと言っておりましたが」
「そうかもしれぬ」
すると、パケット・ラ・シャントフルーリは、ハイエナのように残忍そうな大声で笑いだした。
「おこもり女よ。おまえはジプシー女が大嫌いだな?」と、司教補佐はいった。
「嫌いですとも、あいつらは吸血鬼です。子ども泥棒です。あいつらは、わたしの可愛い娘を食べてしまったのです。あの子を、わたしのたったひとりの子どもを! わたしの胸はもう、うつろでございます。わたしの心は食べられてしまったんですもの」
女は見るも恐ろしい姿だったが、司祭はそれを冷やかに見まもっていた。
「あいつらの中に、ひとり、わたしが憎んでいる女がいるのです。呪っている女がいるのです。それは若い娘で、そいつの母親がわたしの娘を食べていなければ、ちょうどあの子と同じくらいの年格好なのです。あのマムシ娘のやつがこの独房の前を通りかかると、いつでもわたしの血は煮えくりかえるようになるのです!」
「ああ、そうか! おこもり女よ、喜ぶがよいぞ。これからおまえの見ているところで殺されるのは、その女なのだ」と、司祭は、墓の彫像のように冷やかに言った。
女はがくりと胸に頭をうずめた。男はゆるゆるとその場を去っていった。
おこもりさんは腕をくねらせてよろこんでいた。「わたしがあいつにまえから言っていたとおりだ、おまえは絞首台にかけられるだろうって! ありがとうございます、司祭さま!」と、彼女は叫んだ。
そして彼女は、髪を振り乱し、燃えるような目をして、肩を壁にぶつけながら、長いこと飢えていた檻の中のオオカミが、えさの時刻が近づいたのを感じたときのようなようすで、明かりとりの格子の前を、大股で行ったり来たりしはじめた。
六 三人三様の心
ともかく、フェビュスは死んでいなかったのだ。こうした人間は、叩いたってなかなか死なないものだ。次席特別検察官のフィリップ・ルーリエ氏が、あの哀れなエスメラルダに、「男は死にかけている」と言ったことばは、間違いか、あるいは冗談だったのである。司祭がとらわれの女に向かって、「あいつは死んだのだ」と繰り返して言ったときには、事実は、何も知らなかったのだ。だが彼はそう信じていたし、そのつもりでいた。疑いもしなかったし、そうあってほしいと大いに望んでもいたのである。彼にとっては、愛する女にライバルの吉報を知らせるのは、あまりにもつらすぎたのかもしれない。誰でも、彼の立場におかれれば同じことをしたであろう。
とはいうものの、フェビュスの傷は重くなかったというのではない。ただ、司教補佐が望んでいたほど重くはなかったのだ。夜警の兵士たちが最初に運びこんだ薮《やぶ》医者先生は、一週間の命も気づかわれると診断を下し、彼にラテン語でそう言いさえもしたのだった。しかし、なんといっても、若さというものは争えなかった。そしてよくあることであるが、予測と診断とを裏切って、自然の力は医者の鼻先で病人を助けて喜んでいたのだ。彼がまだ薮医者先生のベッドの上に寝ていたあいだに、フィリップ・ルーリエや宗教裁判所判事の調査係たちがやってきて、彼は最初の尋問を受けたのだった。これには彼も困ってしまって、ある朝気分がよくなったので、薬屋の支払いに金の拍車をおいて、こっそりと逃げだしてしまった。それに、こんなことは、事件の審理には少しも支障をきたさなかったのである。この当時の裁判ては、犯人に対して訴訟が正しく行なわれているかどうかは、ほとんど問題にならなかったのである。被告が絞首刑になりさえすれば、それでじゅうぶんだったのだ。
さて、判事たちは、エスメラルダに対するかなり多くの証拠を握ってしまった。彼らはフェビュスが死んだものと信じていた。それで万事かたがついていたのである。
フェビュスのほうでは、遠くまで逃げてしまったわけではなかった。パリから五つ六つばかりの宿場を離れた、イル=ド=フランスのクー=アン=ブリに駐屯していた彼の部隊に、また戻っていっただけなのだった。
要するに、この訴訟に自分自身で出頭するなどということは、いやでたまらなかったのである。自分がそんな場所に出たならば、さぞかしばかげた顔つきをするだろうと、彼はただなんとなく感じていた。本質的にいって、この事件についてどう考えていいのか、たいして分かっていなかったのだ。軍人かたぎ一点ばりの男がみなそうであるように、彼も無信仰で迷信家だったので、あの事件についていろいろと思い返してみて、ヤギのことや、エスメラルダとの奇妙な出会いや、またそれに劣らず、彼女が恋を打ち明けたときの不可思議なやりかたや、彼女がジプシー娘だったことや、最後にあの修道士の服をまとった怪しい男のことなどを考えると、なんとなく落ちつかない気持になるのだった。この物語の中には、恋よりももっとずっと魔法が、おそらく魔女が、おそらくは悪魔かもしれない、そんなものがいるような気がした。要するに、一場の喜劇だ、いや、当時のことばで言えば、自分がそこで非常に間《ま》の悪いひとつの役、攻撃のまとになったり、もの笑いのたねになったりする役を演じている、非常に気味の悪い聖史劇だったのかもしれない。
彼はこう考えて、すっかりがっかりしてしまい、あのラ・フォンテーヌがつぎのようにみごとに表現した恥ずかしさを感じたのである。
≪メンドリにでもつかまえられたキツネのように恥じいって≫
それに彼は、この事件がひろまらないように、実際、自分がいないのに自分の名まえがなるべく言いふらされないように、要するに、名まえがトゥールネル裁判所の裁判の外部にはもれないようにと望んでいたのだ。その点では間違いなくうまくいった。当時は『法廷新聞』などというものは全然なかったし、一週間のうちにはパリの無数の≪裁判所≫のどこかで、にせ金つくりが釜ゆでになったとか、魔女が縛り首になったとか、異教徒が火あぶりにされたとかいう事件がないことはなかった。人びとは、まちの辻という辻に、両腕もあらわに袖をまくりあげて、熊手《くまで》や梯子やさらし台を使って仕事をしている、封建時代の古くからあった法の女神テミスをよく見なれていたので、ほとんどそんなことは気にもとめていなかったのである。
その当時の上流社会の人びとは、刑を受ける人が通りのすみを通っても、その人の名まえなどほとんど知らなかったし、一般の人びとも、せいぜいこのありふれたご馳走を楽しんでいただけであった。処刑はちょうどパン屋の鍋とか皮剥人《かわはぎにん》の屠殺場《とさつじょう》でやられるような、まちの通りの中でよく行なわれる一事件にすぎなかったのである。死刑執行人も、屠殺場の男に少し毛のはえたようなものにすぎなかったのだ。
フェビュスは、魔女エスメラルダ、いや彼が言っているようにシミラールであったかもしれないが、この女のことや、ジプシーの女かあるいは修道服のお化け(彼にとっては、どちらだってそんなに変わることはない)から短剣で突かれたことや、また訴訟の結果などを、まもなく気にもとめなくなってしまった。だが、彼の心のこちらのほうが抜けて留守になってしまうと、すぐさま、フルール=ド=リのおもかげが胸に浮かんできた。フェビュス隊長の心は、当時の物理学のように、真空を恐れていたのである。
そのうえ、クー=アン=ブリに滞在するということは、まことにおもしろくないことであった。この村は蹄鉄工《ていてつこう》と、ひびだらけの手をした牛飼い女しかいない村で、あばら家とわらぶきの家が、大通りの両側に二キロものあいだずっと並んでいて、要するに≪|しっぽ《クー》≫であったのだ。
フルール=ド=リは、彼にとってはエスメラルダのつぎに恋する女であった。彼女は可愛い女であり、おまけに魅力のある持参金を持っていた。それで、ある朝のこと、すっかり傷もなおってしまったし、あれから二カ月もたっていたので、あのジプシー娘の事件もおさまり、忘れられたろうと思って、この恋の騎士は肩で風を切ってゴンドローリエ邸の戸口にやってきた。
ノートルダムの正面玄関の前の広場には、多くの人びとが雑踏していたが、彼は気にもとめなかった。いまは五月なのを思い出した。なにか行列か、聖霊降臨の大祝日か、それともなにか祭りででもあるのだろうと想像して、馬を車寄せの輪につないで、楽しげにフィアンセの女の家へ登っていった。
彼女は母親とふたりだけでいた。
フルール=ド=リは、あれ以来ずっと、魔女のこと、その女のヤギのこと、呪わしいアルファベットのこと、それからフェビュスが長いこと来ないことなどを、いつも気にかけていた。しかし愛する隊長がはいってくるのを見ると、男があいそうよく、新しい軍服を着こんで、肩帯《けんたい》を光らせて情熱をたたえたようすでいるのを見て、すっかりうれしくなって顔を赤らめた。この貴族の令嬢は、いつもよりずっと愛らしかった。素晴らしい金髪を目もさめるばかりにゆいあげ、その洋服は色白の女によく似合った空のような色で、コロンブから教えられたようにめかしこんでいた。そして、恋の悩みにうるんだまなざしは、いっそう美しく見えた。
フェビュスは、いままで見かける女としては、せいぜいクー=アン=ブリの田舎娘ぐらいなもので、美人を見かけなかったせいか、フルール=ド=リの姿を見て夢中になってしまった。というわけで、この隊長は、彼女のご機嫌をとり、また親切にちやほやしたので、すぐにふたりは仲よくなってしまった。ゴンドローリエ夫人も、いつも母親らしく大きな長椅子に腰をおろしたままで、男に不平を言う力もなかった。フルール=ド=リが心にもっていた恨みのかずかずも、やさしい睦言《むつごと》になって消えてしまった。
娘は窓べに腰をおろして、あいかわらずネプトゥヌスのほら穴を刺繍していたし、男は彼女の椅子の背なかにもたれていたが、娘は男に小声で、やさしく恨みごとを言っていた。
「二カ月ものあいだ、どうしていらっしゃったの? ひどいかたねえ」
「いや、たしかにあなたは美しくなりましたな。大司教さんでも、あなたを見ればふらっとなりそうなくらいだ」
フェビュスは、娘からたずねられて少しまごつきながら、こう答えた。
彼女は思わずほほえんだ。
「いいわよ、もういいことよ。あたしがきれいだなんて、どうでもいいのよ。ねえ、答えてちょうだい、ねえ、ねえってば、ほんとに」
「いやなに、ね、駐屯地に呼ばれていたんですよ」
「それ、どこなの? 教えてよ。でもなぜ、あたしにさよならって言いに来なかったの?」
「クー=アン=ブリなんですよ」
フェビュスは、最初の質問のために第二の質問の矢をさけることができたので、すっかりうれしくなった。
「だけど、すぐ近くなのね、あなた。どうしてたった一度でもいらして下さらなかったの?」
こう言われてフェビュスはすっかり困ってしまった。
「いや、それはですな、…軍務で、……それに、ね、病気だったんですよ」
「ご病気ですって、まあ!」と、彼女はびっくりして言った。
「ええ、……けがをしちゃってね」
「まあ、おけがをなすったの!」
この娘は可哀そうに、すっかり気も転倒してしまった。
「いや! でもそんなにびっくりなさることはないんですよ」と、こともなげにフェビュスは言った。「なんでもないんですよ。喧嘩でね、剣で突かれただけなんですよ。ご心配いりませんよ」
「あたしに心配するな、ですって?」
フルール=ド=リは涙をいっぱいためて、美しい目をあげた。「そんなことをおっしゃって、まあ、心にもないことをおっしゃるのね。剣で突かれたって、どうなすったの? すっかり聞かせてちょうだいな」
「いや、そのね! 実はマエ・フェディと喧嘩したんですよ。ご存じでしょう? サン=ジェルマン=アン=レの中尉ですよ。ふたりとも何センチか皮を破ったぐらいのもので、それだけの話ですよ」
嘘つきのこの隊長は、決闘の話をすればいつでも、女の目には男が引きたって見えるものだということをじゅうぶんに承知していた。実際、フルール=ド=リは、恐れと喜びと感嘆の目で、ほんとうに感心してしまって、彼のほうをまじまじと見つめた。でも、娘はすっかり腑《ふ》におちたというわけではなかった。
「あなたがすっかりお直りになりさえすれば、フェビュスさま、それでいいんです! あたしはそのマエ・フェディという人はよく知りませんが、悪いかたなのね。どうして喧嘩などなさったの?」
こう言われてフェビュスは、もともと想像力も大してあるほうではなかったので、この手がら話をどうやってうまく切り抜けてよいのやら、わからなくなってしまった。
「いや、つまり、なんていうか、……なんでもないことなんですよ。馬のことでね、ちょっと悪口を言ったんですよ。……それはそうと」と話題を変えようとして、「広場のあの騒ぎは、いったいなんですかね?」と、彼は叫んだ。
彼は窓のほうに近づいていった。「おや、おや! お嬢さん、広場は大勢の人ですよ!」
「なんですか、存じませんわ。魔女がひとり、けさ大聖堂の前で罪のつぐないをして、そのあとで縛り首になるらしいの」
隊長は、エスメラルダのことはすっかりすんでしまったものと思っていたので、フルール=ド=リのことばを聞いても、さして気にかけなかった。でも、ひとつふたつたずねてみた。
「その魔女というのは、いったいなんていう名まえなんですか?」
「存じませんわ」
「その女が何をしたというんですか?」
彼女は、もう一度その白い肩をそびやかした。
「存じませんわ」
「ああ! やれやれ!」と、母親は言った。「このせつは、あんまりたくさんの魔法使いが火あぶりになるんで、ほんとに、名まえなどはわかりませんわねえ。空の雲ひとつひとつの名まえを知りたいと思うのと同じようなものですものね。どっちにしたって、あたしたちは安心ですよ。ありがたいことに、神さまがちゃんとお帳面につけていらっしゃいますからね」
こう言って、その貴婦人は立ちあがって、窓のそばに来た。
「まあ、ほんとに、フェビユスさん、あなたのおっしゃるとおりですわ。たいへんな人だかりね。まあおどろいた! 屋根の上までもねえ。……フェビュスさん、ご存じかしら? あれを見ると、昔のことを思い出して懐しいですわ。国王のシャルル七世さまがご入城あそばしたときも、こんなに人が出ましたのよ……いつだったか、もう覚えていませんけど。……わたしがこんなことを言うと、ね、何か古いことのようにお思いでしょうけど、わたしにとっては何かこう若々しいことのようですわ。……ああ! あの時代の人たちはいまの人たちよりずっと立派でしたわ。サン=タントワーヌ門の狭間《はざま》の上まで、人が大勢集まっていましたよ。王さまは、王妃殿下を馬のおしりにお乗せになって、おふたりのあとからは、貴婦人たちがみな、お殿さまがたの馬のおしりに乗ってついていきました。見ている者はみなどっと笑いだしてしまったのを、わたしはいまでも思い出すのですよ。なぜって、とても背の低いアマニヨン・ド・ガルランドのわきに、マトフロンさまがおいでになったんですよ。
ほら、あの見あげるほど大きな騎士で、イギリス人を束にして殺したおかたですよ。ずいぶんご立派でしたわ。フランスじゅうの貴族の人がみんな、まっ赤にきらめいた旗を立てて、行列をつくってお行きになったのですものね。三角の旗を持った人たちもあれば、長い旗をさしていた人びともありましたわ。よくは知らないんですが、カランさまは三角の旗で、ジャン・ド・シャトーモランさまは長い旗で、クーシさまも長い旗でしたよ。それはブールボン公をのぞけば、ほかにくらべるものがないくらい立派なものでしたね。……ああ! あんなことはみんな昔語りになってしまって、いまじゃもう見られませんわ。 それを考えるのは悲しいことですわ!」
ふたりの恋人は、このご後室さまの言うことなど聞いていなかった。フェビュスは、フィアンセのすわっている椅子のうしろに来てひじをついた。ここは実に楽しい場所で、ここにいると、フルール=ド=リが襟《えり》からのぞかせている襟あしを、じろじろと舌なめずりしながら見られるのだった。娘の襟飾りはうまいぐあいに開いていて、絶好のながめを満喫《まんきつ》できたし、それからそのほか色々なことが考えられてきて、フェビュスはサテンのようなつやのある肌をながめ、うっとりとして、心の中でこう思っていた。〈こんな色白の女がいるのに、ほかの女がどうして愛せるかってんだ〉
ふたりとも、ひとことも言わなかった。娘のほうは、ときどきうっとりするようなやさしいまなざしを男のほうにあげ、ふたりの髪は、春の日ざしを受けて、その中でもつれあった。
「フェビュスさま」とフルール=ド=リは、急に声をひそめて言った。「あたしたち、もう三月《みつき》たったら結婚しなければなりませんのよ。あたしじゃないほかの女の人を愛したこと、ほんとにないでしょうね」
「もちろんですよ、お嬢さん!」と、フェビュスは答えた。情熱に溢れた彼の目といい、その声のまじめな調子といい、ふたつともフルール=ド=リにそう思いこませずにはいなかった。おそらく彼自身も、そのときはそう信じていたのであろう。
こうしているうちに一方、母親のほうは、ふたりのフィアンセがすっかりうちとけているのを見て、うれしく思い、部屋を出てこまごました家の用事をしに行った。フェビュスはそれに気がついて、人けのないのをこれ幸いと、色恋沙汰には千軍万馬のこの隊長は、大胆になって何かとても妙な考えが頭に浮かんできた。フルール=ド=リは自分を思っているし、自分はそのフィアンセなのだ。この女とおれはふたりっきりだ、と考えると、彼女に対する昔からの可愛さがめざめてきた。以前のようにまったく新鮮味があるというのではないが、激しい情熱にかられてきた。要するに、麦も青いうちなら少しぐらい摘んでも大した罪にもなるまい。こういう考えが彼の心の中に去来したかどうか、私は知らない。だが、フルール=ド=リが彼の目つきを見て急に驚いたことは確かである。彼女はまわりを見まわしたが、母親の姿はもう見えなかった。
「あら、まあ! 暑いわねえ!」と、顔を赤らめて不安そうに言った。
「ええ、まったく、もうじきお昼ですね。日がさしていやですね。カーテンをおろしましょう」
「いいのよ、いいのよ。風がはいったほうがいいわよ」と、娘はどぎまぎして叫んだ。
そして、猟犬の群れの息づかいを感じている牝ジカのように、立ちあがって窓のほうに走っていき、窓をあけて、バルコニーにとびだしていった。
フェビュスはむっとしながら、彼女のあとについていった。
ご承知のとおり、このバルコニーはノートルダムのほうを向いていたが、境内《けいだい》の広場では、そのとき、不気味な、奇妙な光景が展開されていた。それを見ると、気の弱いフルール=ド=リは、急にいつもの調子をなくして、震えあがってしまった。
巨大な群集の波は、近くのまちからまちへと流れこんできて、このいわゆる広場に溢れていた。境内をとりかこんでいるひじの高さくらいの小さな壁は、もし二百二十人組の夜警隊や火縄銃手《ひなわじゅうしゅ》などが手に長砲を持ち、厚い人垣をつくって幾重にもとりまいていなかったならば、押しよせる群集を押さえきれなかったであろう。幸いにも、槍や銃でつくった林のおかげで、境内には人っ子ひとりいなかった。その入り口には、司教の紋章のついた鉾《ほこ》を持った一群の兵士が護衛していた。大聖堂の大きな窓は閉じられていたが、広場に面した数多くの家々の窓はそれと対照的に、切妻《きりづま》のところまですっかりあけひろげられていた。そこからは、まるで砲兵工廠《ほうへいこうしょう》に積まれた弾丸の山のように、何千という人たちの頭が積みかさなって見えた。
この群集は、ひと目見たところ灰色で、汚《けが》らわしく、泥だらけの感じであった。群集が期待していた光景は、たしかに、民衆の中にあるもっとも卑しいものをひっぱり出して呼びだすという特質をもつものだった。このように、ワイワイ、黄色い帽子やきたならしい髪が雑踏している中からわき起こる騒ぎほど不愉快なものはない。この群集の中には、叫び声よりもゲラゲラ笑う声のほうが多く、男よりも女のほうが多かった。
群集のざわめきの中からときどき、耳ざわりな、よくとおる声が、突き刺すように響いてきた。
***
「おおい! マイエ・バリッフル! あの女が縛り首になるんだってな?」
「ばかいえ! ここは肌着一枚になって罪のつぐないをするところだぞ。神さまがあの女の顔にラテン語で咳《せき》の息をふっかけるんだぞ! それはいつでも、ここでお昼にあるんだ。絞首台を見たかったら、グレーヴ広場に行けよ」
「あとで行くぞ」
***
「ちょっと、ラ・ブーカンブリさん、あの女ったら、聴罪の神父さんをことわったんだって、それほんと?」
「そうらしいわよ、ラ・ブシェーニュさん」
「まあいやだ、キリストさまを信じていないのね!」
***
「きみ、そういう習慣なんだよ。裁判所の大法官さまは、悪人をよくお調べになって、聖職者でないときにゃ、パリのお奉行さまに、また聖職者なら司教区の判事さんに、お仕置きを任せるのが仕事なんだよ」
「いや、どうもありがとう」
***
「まあ! 可哀そうな人ね!」と、フルール=ド=リは言った。
彼女が下層民のほうを見ているまなざしには、悲しみの色が溢れていた。隊長のほうでは、下層民のやじ馬よりもこの娘のほうに気をとられていて、娘のうしろにいて愛情をこめて彼女のベルトをいじっていた。娘は振り返って、頼むようにほほえみながら、「ねえ、お願いだから放してちょうだいな、フェビュスさん! おかあさまが帰ってきたら見られちゃうわよ!」
ちょうどそのとき、ノートルダム大聖堂の大時計がゆるゆると正午を打った。満足そうなざわめきが群集の中からわき起こった。十二番めの音の最後の振動が消えるか消えないかのうちに、頭という頭はみんな、一陣の風にあたった波のようにたちさわぎ、大きなどよめきが、敷石からも、窓からも、また屋根からもわき起こった。
「そら、来たぞ!」
フルール=ド=リは見まいとして両手を目にあてた。
「ねえ、部屋にはいらないか?」と、フェビュスが言った。
「いやよ」と、彼女は答えた。彼女はあまりこわかったので、目をふさいだばかりだったのに、もの珍しさからまた目を開いた。
一台の囚人護送車が、がんじょうなノルマンディー産の輓馬《ばんば》に曳かれ、白十字の紋のついた紫色の制服をきた騎馬隊の兵士にぐるりととり囲まれて、サン=ピエール=オ=ブー通りを通って、広場にさしかかった。見張りの役人は、棍棒を打ち振り打ち振り、群集の中に道をつけていた。車のまわりには、裁判所と警察の役人が数名、馬に乗って進んでいた。彼らは、その黒い服と馬の乗りかたのいかにもぶざまなようすとで、それと見わけがついた。ジャック・シャルモリュ氏が先頭に立って、堂々と乗りこんできたのだ。
この死に向かう車の中には、娘がひとり、両腕を背なかで縛られたまま、わきには司祭もおらずに、腰をおろしていた。肌着一枚で、長い黒髪(当時、髪は、絞首台の下に行ってから切ったものである)は乱れて、半ばあらわな胸や肩に垂れさがっていた。
カラスの羽根よりもつやつやしているこの波うつ黒髪の下に、灰色のざらざらした太い縄がからみつき、結ばれてあった。この縄は娘のなよやかな鎖骨《さこつ》の皮をはぎ、花の上のミミズのように、この哀れな娘の魅力ある首すじのまわりを這いまわっていた。縄の下には、緑色のガラス玉が飾りについている小さなお守りが光っていた。これはおそらく、死んでいく人に対しては、もうあまりむごいことも言わずに残しておいてやったものであろう。
窓からながめている見物人たちの目にも、車の奥に女の素足が見えたが、彼女は、女の最後の本能からであろうか、それをしきりに隠そうとしていた。足もとには小さなヤギが一匹、縛られていた。娘は、肌着が体からずり落ちそうになるので、歯でおさえていた。彼女は、こんなみじめな境地にあってもなお、みんなの目にほとんどはだか同然になった肌をこのようにさらしているのを、苦にやんでいるらしかった。
ああ! 羞恥《しゅうち》の心というものは、このように震えおののくために作られたものではないはずである。
「まあ!」と、フルール=ド=リは、隊長に向かって力をこめて言った。「あなた、ごらんなさいませ! あの憎ったらしいジプシー娘がヤギを連れていますよ!」
こう言いながら、娘はフェビュスのほうを振り向いた。男はじっと車のほうを見つめていたが、その顔はまっ青であった。
「ヤギを連れたジプシー娘だって?」と、彼はつぶやくようにいった。
「まあ! お思い出しにならないの?……」
フェビュスは娘のことばをさえぎって言った。「あなたのおっしゃることは、ぼくにはさっぱりわかりませんな」
彼は家の中に戻ろうとして一歩踏みだしたが、フルール=ド=リのほうでは、その嫉妬の心は前にもこの同じジプシー娘のために相当激しく動かされたのであったが、このときにもまた目ざめたのだ。彼女は、心の奥底まで見ぬくような、疑い深そうな目を男のほうに向けた。この魔女の訴訟にはひとりの隊長がまじっていたという噂を聞いたことを、そのとき彼女はおぼろげながら思い出した。
「どうなさったの? あの女が、あなたのお気を悪くしたみたいよ」と、彼女はフェビュスに言った。フェビュスは、一笑に付してしまおうとつとめながら、
「ぼくがだって! とんでもない! 冗談じゃありませんよ!」
「そんなら、ここにいらっしゃいな。おわりまで見物しましょうよ」と、彼女は命令するように言った。
隊長はやむをえず、どうしてもそこにとどまっていなければならないことになった。それでも、罪人の娘が囚人護送車の床のほうばかりじっと見つめていたので、彼は多少安心していた。それはどう見ても、まさしくエスメラルダであった。この恥辱《ちじょく》と不幸のどん底にあっても、彼女はあいかわらず美しかった。大きな黒い目は、頬が痩せたせいか、いっそう大きく見えた。その蒼白い横顔は、澄みきっていて崇高であった。マサッチョ〔十五世紀のイタリアの画家〕の聖母像が弱々しい感じがしても、なおラファエッロの聖母像に似ているように、彼女は昔の姿をとどめていた。しかもさらに弱々しく、ほっそりと痩せていた。
そのうえ、彼女の手も足もみな、いわばガタガタになり、羞恥の心をのぞいては、もうどうにでもなれといった塩梅《あんばい》であった。それほどまでに、茫然として絶望にとらわれて、ぐったりとなっていたのだ。体は車の揺れるたびに、まるで死んだものか砕けたもののようにはねかえり、目はどんよりとして、狂ったもののようであった。瞳には涙がたまっているのがまだ見られたが、その涙は動かず、凍りついたようであった。
そのあいだに、陰惨なこの騎馬行列は、歓呼の声と物見高い人びとのあいだをぬって、群集を押しわけながら進んでいた。
とはいうものの、われわれは、忠実に事実を語ろうとするならば、こんなに美しい娘が、こんなにも悲嘆に耐えかねているありさまを見て、多くの者は、冷血な者でさえも憐憫《れんびん》の心を動かしたということを申しげておかなければならない。
車は境内にはいってきた。大聖堂の正面玄関の前で、車は止まった。警備兵は戦闘隊形をとって両側に並んだ。群集のガヤガヤいう声もやんだ。この荘厳と不安との静けさのうちに、大門のふたつの扉は、自然に開いたかのように肘金《ひじがね》の上で回転して、肘金は小笛の鳴るような響きをたててきしんだ。すると、この奥深い大聖堂のずっと奥までが見えた。大聖堂は暗くて葬式の垂れ幕がかかっていたが、ずっと奥の主祭壇の上に光っている何本かのろうそくで、ぼんやり照らされている。大聖堂は、光まばゆい広場の真ん中に、ちょうどほら穴の入口みたいにぽっかりと口を開いていた。奥のほうの後陣のかげの中に、銀の巨大な十字架がひとつ、天井から敷石にまで垂れさがっている黒い布をバックにして掛けられているのが見えた。本堂には人の影さえなかった。だがそのとき、聖歌隊からはなれた聖職者の席には、何人かの司祭の頭がごちゃごちゃと動いているのが見えた。と、大門がさっと開いて、聖堂から重々しい単調な歌が鳴り響いてきた。それは、とらわれの女の頭上にときどき思い出したように、悲しい賛美歌の幾編かをきれぎれに投げかけていた。
≪……いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません。主よ立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。≫
≪……神よ、わたしを救ってください。大水が喉元《のどもと》に達しました。≫
≪……わたしは深い沼にはまり込み、足がかりもありません。≫
これと同時に、他の声が聖歌隊からはなれて、主祭壇の階段の上で、哀調をおびた奉献曲をうたっていた。
≪……わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣《つか》わしになった方を信ずる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている。≫
暗やみの中に隠れて見えないが、何人かの老人たちが、遠くからこの美しい娘、若さと生命とに満ち溢れ、春の柔らかい大気に愛撫され日の光を浴びていた娘にうたって聞かせたこの歌、それは死のミサであったのだ。人びとは静まりかえって、一心に耳をかたむけていた。
娘は、哀れにも恐怖におびえたようすで、聖堂の内部の暗さに、その視力も意識もなくなっていくような気がしていた。唇も色あせて、お祈りをとなえるようにぱくぱくと動いていた。そして、死刑執行人の手下の者が娘が車からおりるのに手をかそうとして近づいてきたとき、彼女が、あの≪フェビュス≫ということばを、低い声で繰り返しているのが、この男の耳に聞きとれた。
娘は、腕の縄目をとかれ、同じように縄をとかれたヤギといっしょに車からおろされた。ヤギは、体が自由になったのを感じてうれしそうに鳴いた。娘は素足のまま大玄関の階段の下まで堅い敷石の上を歩かせられた。首に結びつけられていた縄をうしろにひきずっていて、ちょうど一匹のヘビが彼女のあとからついて行くように見えた。
と、聖歌の歌声はやんだ。大きな金の十字架と一列のろうそくとが、暗やみの中を動きだした。いろいろな色の服に身をかためた大聖堂の番兵の槍が鳴るのが聞こえた。しばらくすると、上祭服をまとった司祭と助祭服をまとった助祭とが長い行列をつくっておごそかに賛美歌をとなえながら、とらわれの女のほうに進んできて、娘の目の前の、群集の見えるところに広がった。しかし、娘の視線は、十字架捧持者のすぐうしろの、先頭に歩いてきた人の上にとまった。
「まあ! またあの人、あの司祭だわ!」娘は低い声でこうつぶやいて、身を震わせた。
それはまさしく司教補佐であった。左手には聖歌隊の隊長助手を、右手には指揮杖を持った歌手をしたがえていた。彼は頭をうしろにそらせ、目をかっと見開いて前方を見つめ、力強い声で賛美歌をうたいながら進んできた。
≪陰府《よみ》の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった。あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み……≫
彼が、黒い十字架のついた銀色のゆったりとした祭服をまとって、真昼の太陽の下を、尖頭アーチ形の高い正面玄関にあらわれたときには、その顔色はあまりにも青かったので、群集の中には、聖歌隊の墓石の上にひざまずいている大理石の司教の像のひとつが立ちあがって、車の入口のところで、まさに死のうとするものを迎えにきたのだ、と思った者が何人かいたほどであった。
娘のほうでも、彼におとらず顔色がまっ青で、彫像のように動かなかった。彼女は、火のついた黄色の重いろうそくを手に持たせられたことにも、ほとんど気づかなかった。また罪のつぐないをする儀式の死にいたる趣旨を読んで聞かせる書記の金切声も耳にはいらなかった。ただ「アーメン」と答えよと言われたとき、彼女は「アーメン」ととなえただけだった。司祭が、警備の者たちにたち去るように合図して、ただひとりで彼女のほうに進んできたのを見たときに、はじめて人心地がついて、力が出てきたほどであった。
そのとき娘は、頭の中で血潮がわきかえってくるのを感じ、すでに麻痺《まひ》して冷たくなった心の中に残っていた怒りの炎がかきたてられたのだった。
司教補佐はおもむろに彼女のほうに近づいた。このいまわのきわにおいてさえ、彼が淫乱《いんらん》と欲情の目をぎらぎらさせながら彼女の裸体をじろじろとながめまわすのを、彼女は見た。それから彼は、彼女に向かって声高《こわだか》に言った。
「娘よ、おまえは自分の罪と過失とに対して、神にお許しを願ったかな?」
そして、娘の耳もとによって、こうつけ加えた。(見物人たちは、この男が娘の最後の告解《こっかい》を聞いているのだと思っていたのだ)「おまえはわしに何かしてもらいたくないか? わしはまだ、おまえを救ってやることができるのだぞ!」
彼女は彼のほうをじっと見つめていたが、「あっちへ行け、悪魔め! さもないとおまえのことを、おそれながらと訴え出るよ」
彼は恐ろしい微笑をもらした。「誰もそんなことを本気にするものか。……罪の上塗りをするようなことになるばかりだ。……早く答えろ! どうだ、わしに何かしてもらいたくないか?」
「あたしのフェビュスさまをどうしたの?」
「やつは死んでしまったのだ」
そのとき司教補佐はみじめな気持になって、機械的に頭をあげてみると、広場の向こう側のゴンドローリエ邸のバルコニーの上に、あの隊長がフルール=ド=リと並んで立っているのが見えた。司教補佐は思わずよろめき、目の上を手で押えて、なおもう一度よく見た。そして呪いのことばをつぶやいて、彼は顔一面を激しくこわばらせた。
「そうだ! 死ね!」と、彼は口の中で言った。「誰の手にもおまえをやらぬぞ」
そう言ってジプシー娘のほうに手を差しのべて、悲しげな声で叫んだ。
「いまや行け、迷える魂よ。神の恩寵《おんちょう》、なんじの上にあらんことを!」
それは、この陰うつな儀式を閉じるときによく用いる、恐ろしい慣用語であり、また司祭が死刑執行人に対して言うようにとりきめられた合図のことばでもあった。
人びとはひざまずいた。
「主よ、哀れみ給え!」玄関の尖頭《せんとう》アーチの下に残っていた司祭たちが、こう言った。
「主よ、哀れみ給え!」と、群集もつぶやくように繰り返した。そのつぶやきは荒れ狂う海のざわめきのように、人びとの頭の上を通って流れていった。
「アーメン」と、司教補佐は言った。
彼は囚人に背を向けた。その頭は胸にがくりとたれ、両手を組んで、司祭の行列の中にまじった。まもなく彼の姿は、十字架とろうそくと祭服といっしょに、大聖堂の霧のたちこめた弓形小門の下に消えていった。彼のよくとおる声もしだいにかすかになって、つぎのような絶望の唱句をうたいながら、合唱の声の中に消えていった。
≪……波また波がわたしの上を越えて行く≫
それと同時に、大聖堂の番兵が槍の石突《いしづき》を断続的にガツガツと打ち鳴らす響きは、少しずつ本堂の柱間《はしらま》の下に消えていき、ちょうど囚人に時をつげる大時計の槌《つち》のような感じだった。
そのあいだ、ノートルダムの扉はまだ開かれたままになっていて、大聖堂は人影もなく、ろうそくもなければ人声もせず、喪につつまれたようにがらんとしていた。
とらわれの女は、その場所に身動きもせずにじっとして、処刑されるのを待っていた。鞭《むち》を持った役人のひとりが、シャルモリュ氏に注意を促した。シャルモリュ氏は、こんな光景が展開されていたあいだずっと、大玄関の浅浮彫りをつくづくとながめていた。この浮彫りは、ある人びとのことばによれば、アブラハムの犠牲《いけにえ》を表わしているものだともいい、またほかの人びとのことばによれば、天使を太陽になぞらえ、薪を火になぞらえ、アブラハムを工匠《こうしょう》になぞらえて、化金石を作る実験を表現しているのだとも言うことであった。
彼に、いつまでもこうしてじっと眺めているのをやめさせるのに、かなりの苦労をしたが、やっと彼は振り返った。彼が合図をすると、それに応じて死刑執行人の手下の黄色い服を着た男がふたり、ジプシー娘に近づいて、両手を縛りあげた。
不幸な娘は、死への道をたどる囚人護送車にふたたび乗せられて、最後の場所に進んで行くその瞬間、おそらく生命に対する身を裂くような愛惜の情にとらわれたのであろうか、まっ赤に泣きはらして涙も乾いてしまった目を、空に、太陽に、また青空を台形や三角形に切ってあちらこちらに漂っている銀色のちぎれ雲のほうに向けた。それから目を落として地上や群集や家々など、自分のまわりを見まわした。……と、とつぜん、黄色い服をまとった男の手で体に紐を縛りつけられたとき、彼女はキャッと叫びをあげた。喜びの叫びだった。向こうのバルコニーに、広場のすみに、彼の姿を見つけたのだ。あの男を、自分の愛する男であり、彼女にとってのお殿さまであるフェビュスの姿を、自分の命のもうひとつの現われであるあの男をみとめたのだ! 裁判官は嘘をついていたのだ! 司祭も嘘をついていたのだ! たしかにあの人だ。もう疑うことはできなかった。あの人はあそこにいるのだ。立派に生きて、目もさめるばかりの軍服を着て、頭には羽根をつけ、腰には剣をさげて、あそこにいるのだ!
「フェビュスさま、あたしのフェビュスさま!」と、彼女は叫んだ。
こう言って彼女は、彼のほうに恋しさと喜びに打ち震える手を差し出そうとしたが、その手はすでに縛られていた。
そのとき、あの隊長が眉をしかめ、隊長にもたれていた美しい娘が軽蔑したような唇をして、怒りをこめたまなざしで隊長のほうを見ているのが娘の目にはいった。それからフェビュスは何か二言三言《ふたことみこと》言ったが、その声は彼女のところまでは聞こえてこなかった。そしてふたりは、バルコニーのガラス窓のうしろに急いで隠れてしまって、そのガラス窓も閉ざされてしまった。
「フェビュスさま! あなたまであたしに罪があると思っていらっしゃるの?」と、彼女は気が狂ったように叫んだ。
ふと恐ろしい考えが彼女の頭にひらめいた。自分がフェビュス・ド・シャトーペールを殺害したかどで罪になったのだということを思い出したのだ。
彼女はそのときまで、あらゆることをじっと耐えしのんできた。だが、この最後の打撃は、あまりにもきびしかった。彼女はばったりと敷石の上に倒れてしまった。
「さあ、この女を護送車に乗せろ。そして終わりにしよう!」と、シャルモリュは言った。
玄関の尖頭《せんとう》アーチの真上に彫刻された国王の彫像のある回廊に、そのとき不思議な見物人がひとりいたことに、まだ誰も気がつかなかった。その男は、そのときまで平然として首を差しのべ、とても醜怪な顔つきをして、広場でのできごとを細大もらさず見ていたので、その男が半ば赤で半ば紫という異様な身なりをしていなかったならば、人びとは彼を、石造の怪物のひとつと見あやまってしまったことであろう。六百年もまえからずっとそこに飾られ、大聖堂の長い樋《とい》が、その口の中を通っているあの怪物である。この見物人は、ノートルダムの玄関の前でお昼から起こっていたことを、何ひとつ見逃してはいなかった。そして彼のことを見ようなどとは誰も夢にも思っていなかったが、最初から、その男は、結び目のついた太い縄を一本、回廊の一本の小柱にしっかりと縛りつけていた。その縄の端は、下の正面玄関前の階段の上まで垂れていた。
それができあがると、彼はまた静かに眺めはじめた。そして、ときおり、ツグミが彼の前を通り過ぎると、口笛を鳴らした。
とつぜん、死刑執行人の手下の者がシャルモリュの冷やかな命令をまさに実行しようとしたその瞬間、男は回廊の手すりをとび越えて、足とひざと腕で縄をつかんだ。男は、人びとの見ている前で、まるでガラス窓にそってすべり落ちる、ひとしずくの雨だれのように正面にすべりおりてきて、屋根から落ちたネコのようにすばやく、ふたりの役人のほうに走りよると巨大な鉄拳ではり倒し、まるで子どもが人形をかかえるように、片手でジプシー娘を抱きあげ、頭の上に差し上げると、ひらりとひととび、大聖堂の中へ飛び込んで、恐ろしい声をはりあげて叫んだ。
「駆け込み場だぞ!」
これはまことに、驚くべき速さで行なわれたので、もし夜のことであったならば、いなずまが一閃《いっせん》ぴかりと輝くうちに、あらゆることが行なわれてしまったとでも言えるだろう。
「駆け込み場だ! 駆け込み場だ!」と、群集も繰り返して叫んだ。一万人からの人びとが手を叩いて喝采したので、カジモドのひとつ目も、うれしさと得意さとで、きらりと輝いた。
このショックのために、とらわれの娘もわれにかえった。まぶたをあげてカジモドを見たが、やがて自分を救ってくれた者の姿におびえたように、急に目を閉じた。
シャルモリュはあっけにとられてしまい、死刑執行人も警備の兵士もみんな茫然《ぼうぜん》としていた。事実、ノートルダムの境内の中からは、この女囚人を、奪うことは禁止されていたのである。大聖堂は安全地帯であったのだ。人間のあらゆる裁きの手は、この敷居の内側では、すべて消え去ってしまうのであった。
カジモドは大玄関の下で立ちどまった。彼の大きな足は、ちょうどローマの重々しい石柱のように、この聖堂の敷石をしっかりとふまえているように見えた。また、髪の毛のぼうぼうとした大頭は、まるでたてがみはあっても首のないライオンのように肩の中にめりこんでいた。彼はぶるぶる震えている娘を、まるで白い幕でもつかむように、≪たこ≫のできた手でさげていた。しかし、彼は、砕いたりしおれさせたりしないように、びくびくしているように見えるほど細心の注意を払って、運んでいたのだ。ちょうど、繊細で、上品で、貴重な、自分のような者が手を触れるべきでないような品物を持っているとでも感じているみたいだった。
ときどき彼は、どうしてもその娘に触れることができないような、息さえも吹きかけることができないようなようすをした。それからとつぜん、自分の幸福を抱きしめるかのように、宝物ででもあるかのように、母親がその子どもに対してするように、その腕で、ごつごつした胸の中にしっかりと娘を抱きしめた。彼が目を伏せて娘のほうを見る、地霊《ちれい》のようなその目は、愛情と苦悩と憐憫《れんびん》とに溢れていたが、そのうち彼は、ふと、きらりと光ったまなざしをあげた。すると女たちの中には、笑いだす者もあれば泣きだす者もあった。また群集は、熱狂して足を踏み鳴らした。というのは、そのときのカジモドの姿は実に美しかったからである。まさに美しかったのだ。
孤児であり、捨て子であり、人間のくずであるこの男が、堂々として強者の風《ふう》があることを自らも感じたのだ。彼は、自分を見向いてもくれないこうした民衆を、いまや真正面から眺めたのだ。堂々と民衆の中に乗りこんでいって、人間どもに干渉し、人間の裁判からその餌食を奪ったのだ。役にもたたないことをするように強制されたあのトラども、警吏、裁判官、死刑執行人、そしてあらゆる国王の権力を、この最下層の人間が神の加護によって、叩きつけてしまったのだ。
そのうえ、こんなに醜怪な人物が不幸のどん底にある人間を守ってやったということ、死刑を宣告されたひとりの娘がカジモドに救われたということは、まさに感動的なことであった。このふたりは、まさに自然と社会とのふたつの極端に不幸な存在であった。そのふたりが触れ合い、助け合っていたのだ。
そうしているうちに、カジモドはしばらく勝ちほこっていたが、急に娘を抱えて、大聖堂の奥にはいってしまった。民衆は、この手柄にうれしくなり、目を暗い本堂の下のほうに向けて、彼の姿を求めたが見あたらず、彼があまりにもすばやく歓呼の声から逃れてしまったのを惜しんだ。
と、とつぜん、カジモドは、フランス王の彫像のある回廊の一方のはずれに姿を現わした。そして、まるで気が狂ったようにその回廊を駆けぬけ、腕をのばして獲得したものをさしあげ、「駆け込み場だぞ!」と叫んだ。群集はまたもや喝采した。
回廊を走りまわって、彼はまた建物の中にもぐりこんでしまった。しばらくすると、また階上の平屋根の上に姿を現わしたが、その腕にはあいかわらずジプシー娘を抱きかかえており、あいかわらず気が狂ったように走りまわりなから、「駆け込み場だぞ!」と叫びつづけていた。するとまた、群集は喝采するのだった。
最後にまた、つり鐘の塔の頂上に姿を現わした。そこからまち全体に向かって、自分が救いだした娘を得意そうに示しているようにもみえた。そして、われ鐘のような声、人びともめったに聞いたこともないし、自分にも全然聞こえないような声をはりあげて、三度、気も狂わんばかりに、雲にも届けよとばかりに叫んだ。
「駆け込み場だ! 駆け込み場だ! 駆け込み場だ!」
「ウワー! でかしたぞう!」と、群集のほうでも叫んでいた。そしてこの巨大な歓呼のどよめきは対岸にまで鳴りわたって、グレーヴ広場の群集や、いつも絞首台をじっと見すえながら待ちかまえていた、あのおこもりさんを驚かせたのだった。
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第九編
一 狂乱
不幸な司教補佐がジプシー娘をおとしいれ、自分もまた落ちこんでしまったあの運命の罠《わな》を、養子のカジモドがこんなにすばやくたち切っていたとき、クロード・フロロはもうノートルダムにはいなかった。彼は聖具室にもどると、聖職者の白衣も祭服もストラもかなぐりすて、あっけにとられている堂守《どうもり》の手に投げすてて、修道院の忍び戸から逃げだした。セーヌの左岸に運んでくれるように、テランの船頭に言いつけてから、どこへ行くのかもわからずに、大学区《ユニヴェルシテ》の起伏の多い通りにはいりこんでいった。
男女の群れが、魔女が吊るされるのを見るのに〈まだ間にあうだろう〉と思って、サン=ミシェル橋のほうへ楽しげに急いでいる。彼はその人びとにひと足ごとにぶつかり、青ざめ、とり乱し、まるで昼日なか、子どもたちに放されて追いたてられる夜の鳥よりもとまどい、目も見えず、たけり狂った姿で歩いていった。どこにいるのかも、何を考えているのかも、夢なのか現実なのかもわからなかった。どこということもなく、まちからまちへとあてもなく歩きまわったり、走りまわったりした。ただ、たえずうしろにあることを漠然と感じているあのグレーヴ広場、あの恐ろしいグレーヴ広場から追われて前へ前へと押しだされていたのだ。
こうして、サント=ジュヌヴィエーヴの丘に沿って進み、とうとうサン=ヴィクトール門を通ってまちを出た。うしろを振り返って、大学区《ユニヴェルシテ》のいくつもの塔をとりまく壁や、市外のまばらな家々が見えるあいだは逃げつづけた。とうとう、あのいやなパリのまちが土地のひだに隠れた。そこは人けのない畑の中で、まるで四百キロも離れたところのように思われた。彼は足をとめ、ようやくほっとした気持になれたような気がした。そのとき、さまざまな恐ろしい考えが、心の中にわき上がってきた。心の中がはっきりと見えてきて、思わずぶるぶると震えた。自分を自滅させ、また、自分が滅亡の淵《ふち》におとし入れた、あの不幸な娘のことを考えた。彼は、宿命がふたりを辿《たど》らせた、曲がりくねった二重の道を、ぎらぎらしたまなざしで眺めた。そしてその交差点で、宿命は無情にもふたりの運命をぶつけて砕いてしまったのだが。
永遠の誓いなどというものの愚かしさ、純潔や、学問や、宗教や、徳などというもののむなしさ、神の無意味なことについて、いろいろあれやこれや思いをめぐらした。心ゆくまで、さまざまな思いの中にはいりこんていくのだったが、その思いの中に深くはいればはいるほど、心の中に悪魔が笑いだすのを感じた。
このように自分の魂をほりさげて、自然というものが、自分の魂の中に、どんなに大きな場所を情欲のために用意してあったかに気がつくと、彼は、なおいっそう、にがにがしげに冷笑せずにはいられなかった。心の奥底で、すべての憎しみや、すべての悪意を持ちだして考えてみた。そして、医者が病人を診察するときのように冷やかにじろりと見て、この憎しみやこの悪意というものが、くさった愛の気持からだけ生まれたものであることを知った。また恋とは、人間にあってはすべての徳の源泉であるものだが、司祭の心の中では、恐ろしいものになってしまうものだ、そして、自分のような素質の人間は、司祭になりながら悪魔にもなってしまうものだということを知ったのである。そう考えてきて、彼はものすごい形相《ぎょうそう》で、にたりと笑った。と、とつぜん、自分の宿命的な情欲、このくさりきった、有毒の、憎悪の念のこもった、また執念深い、ひとりを絞首台に上げ、他のひとりを地獄へ落とさねばやまぬこの恋を考えて、また顔色がまっ青になった。そのために女は刑場に引かれ、男は地獄に落ちてしまったのだ。
それからまた、フェビュスが生きていたことを考えると、また笑いがこみあげてきた。やはり、あの士官は生きていたのだ、快活に満足したようすで、まえよりも美しい軍服をきて、新しい恋人を引っぱって来て、昔の恋人が縛り首になるのを見せに来ていたのだ。死んだ方がよいと思っていた多くの人びとのうちで、どうしても憎めないただひとりの人間であるあのジプシーの娘が、自分にとってはなくてならぬただひとりの女であることを考えてくると、まえにもまして自嘲《じちょう》の笑いがこみあげてくるのだった。
するとまた、彼の思いは、あの士官のことから民衆の方へと移っていった。いままで一度も知らなかった一種の嫉妬を心に感じた。民衆の姿を心に思い浮かべたのだ。民衆もまた、だれもかれもが、その目の前に、彼が愛している女の肌着一枚で、ほとんど裸に近い姿を目の前に見ていたではないか。彼がただひとりで、暗やみの中でその姿をちらりと見たとすれば、それは、彼にとっては、この上もない喜びであっただろうが、その女が、まっ昼間、太陽が頭上に輝いているときに、肉欲の夜のためであるかのような着物をつけて、みんなの目にさらされたかと思うと、彼は、腕をよじって、身もだえした。汚され、泥を塗られ、裸にされ、永久に色あせてしまった恋のあらゆる秘戯《ひぎ》を思うと、怒りの涙がこみあげてきた。どんなにか多くの汚らわしい目が、しどけない肌着一枚の姿を見てはうれしくなっていたことであろうか。そしてまた、あの美しい娘、この処女なるユリの花、唇を近づけようとすると、どうしても震えてしまうような羞恥《しゅうち》と喜びとの杯は、いまや民衆の茶碗になってしまったのだ。そしてその茶碗からは、パリのもっとも卑しい者、泥棒や物乞いや下働きの男などがやって来て、あつかましい、不潔な、堕落した歓楽をいっしょに飲んだのだ。そんなことを思うと、怒りの涙が溢れ出るのであった。
もしもあの娘がジプシーの女でなかったら、自分が司祭でなく、フェビュスが存在せず、また彼女が自分を愛してくれたならば、この地上に見出すことができたかもしれない幸福について、考えてみようとした。また、静かで愛情に満ちた生活が自分にもできるのではないか、このいまといういま、地上のあちらこちらに、幸福な恋人たちが、オレンジの木の下や小川のほとりに、沈んでゆく夕日に照らされなから、また星のきらめく夜に、長いあいだ夢中で語りあっているのだ、またもし神が自分に望むならば、自分もあの女といっしょに、幸福なひと組の恋人になることができたのに。と、こんなことを想像してくると、彼の心は、愛情と絶望とがいりまじってくるのだった。
ああ! これだ! このことなのだ! たえずふりかかって来て彼を苦しめ、その脳漿《のうしょう》を噛《か》み、はらわたをずたずたにしたのは、この執念なのだ。彼には、後悔もなく悔悟《かいご》もなかった。いままでにしたことを全部、もう一度やってみようとさえ思った。あの娘が隊長の手にあるのを見るよりも、むしろ、死刑執行人の手にあるのを見たいと思ったのだ。だが、彼は苦しかった。彼は悩んだ。ときどき髪の毛をかきむしっては、それが白くなってはいないだろうかと見たほどであった。
ときには、朝に見たあのいまわしい鎖が、あのように、かよわくやさしい娘の首に、いまその結び目を巻きつけているときではないかと思うような瞬間があった。そう思うと、体じゅうの毛穴《けあな》から汗が滲み出てくるのだった。
またときには、自分の姿をかえりみて、悪魔のような笑いをもらしながら、はじめてあの女を見たときのように、いきいきとして、無邪気な、楽しげに、美しく着かざって、おどり回って、羽根のはえたような、調和のよくとれていた、あのエスメラルダと、最後に見た、肌着一枚で、首に縄をつけて、素足をひきずりながらゆっくりと、絞首台のごつごつした階段を登って行くエスメラルダの姿とを、同時に想像したこともあった。この二重写しになった画を、こんなように心に描いて、恐ろしい叫び声をあげたほどであった。
この絶望の嵐が、魂の中で狂奔《きょうほん》し、すべてを粉砕し、かきむしり、押しまげ、根こぎにしていたそのときに、彼は、まわりの自然の景色に目をやった。足もとには、何羽かのめんどりがくちばしで草むらをつつきながら餌をあさっていた。また七宝《しっぽう》色をしたコガネムシが太陽に向かって飛んでいた。頭の上では、灰色のまだら雲が幾きれか、青空の中を走っていた。地平線の上には、サン=ヴィクトールの大修道院の尖塔から小山の曲線の上にかけて、スレートの方尖塔《オベリスク》がそびえ立っていた。コポーの丘の粉ひきが、口笛を吹きながら、たえず回っている風車の翼をながめていた。このような活動的な、きちんとした静かな生活が、彼のまわりにいろいろな姿であらわれてきて、彼はすっかり気分が悪くなってしまい、またもや逃げだした。
こうして日暮れまで畑のあいだを駆けつづけた。自然や、人生や、自分自身や、人間や、神など、あらゆるものから一日じゅう逃げつづけたのだ。ときには、大地に身を投げて、芽をふいたばかりの麦を爪でひきむしった。またあるときは、とある村の人けのない通りで立ちどまった。自分の考えがやりきれなくなって、両手で頭をかかえ、肩からひきぬいて、敷石にぶっつけて砕いてしまおうともした。
日のかたむくころ、もう一度自分の姿を振り返ってみると、まるで気が狂ってしまったような気がした。ジプシー娘を救おうという希望も意志もなくしてしまったときから、心の中に嵐が吹き荒れていた。その嵐は、心の中からまともな考え、しっかりした考えをすっかり吹き払ってしまっていた。理性はほとんど打ち砕かれて倒れていた。心の中にはもはやふたつの物の姿がはっきりと浮かんでいるだけだった。エスメラルダと絞首台。あとは暗やみに包まれていた。ふたつの姿は結びあわさって、ひとつの恐ろしい姿になった。心の中にまだ残っている注意や考えを集めて、このふたつの姿を見つめれば見つめるほど、それは思いもよらないほどの速さで大きくなっていった。一方はその優雅、魅力、美、光明の度合を、他方はその恐怖の度合をたかめながら。
こうしてとうとう、エスメラルダは星のように、絞首台は肉の落ちた巨大な腕のように見えてきた。
この苦しみのあいだじゅう、死のうという真剣な考えが一度もおきなかったことは、注目すべきことだった。この哀れな男はいつもこんなふうだったのだ。彼は生に執着していた。多分、地獄が自分のうしろにまざまざと見えていたのだろう。
そのあいだにも、日は沈んでいった。体の中の、まだ生きていた部分が、大聖堂に帰ることをぼんやりと考えた。パリから遠く離れていると思ったのに、方角からみると、大学区《ユニヴェルシテ》の回りをまわっていただけだったのがわかった。サン=シュルピス教会の尖塔や、サン=ジェルマン=デ=プレ教会の三つの高い塔が、右手の地平にそびえていた。彼はそちらのほうへ向かっていった。サン=ジェルマンの銃眼のついた塹壕《ざんごう》のあたりで、修道院長警護兵の誰何《すいか》の声を聞くと道をかえ、修道院の風車とまちのハンセン病病院のあいだの小道へはいっていった。しばらく行くとプレ=オ=クレールのはずれへ出た。この牧場は、夜昼かまわずひきおこされる騒動で有名だった。サン=ジェルマンの気の毒な修道士にとって、それは≪ヒュドラ≫〔ギリシア神話の九頭の水蛇。頭を切っても生き返ってくる怪蛇〕のようなものだった。(サン=ジェルマン=デ=プレ教会の修道士たちにとっては、まさにヒュドラであった。なぜなら、神学生たちがいつも新しい口論をふきかけてきたからだ)
司教補佐は、そこで誰かに会いはしないかと心配だった。人間という人間の顔がこわかったのだ。それまで大学区《ユニヴェルシテ》もサン=ジェルマン通りもさけてきたのだ。まちの通りにはなるべく遅くなってからはいりたかった。そこでプレ=オ=クレールの牧場にそって進み、ディユ=ヌフと牧場との境の人けのない小道にはいって、とうとう川岸に着いた。クロード師はそこでひとりの船頭を見つけ、いくらかの金を握らせてセーヌ川をさかのぼり、|中の島《シテ》のはずれにつけさせた。そこはみなさんももうご存じの、グランゴワールが夢想していた、あの荒れた岬状の土地だった。その土地は、王室庭園の向こうまで、パスール=オ=ヴァシュの島に平行して延びていた。
単調な船の揺れと水音は、不幸なクロードの気持をいくらかおちつかせた。船頭が去っていったあと、彼はぼんやりと川岸に立って前方を見つめた。彼には、物の姿がみなゆらゆらと揺らめいて見え、その揺れはますます激しくなって、ちょうど走馬燈《そうまとう》の風景のようになっていった。ひどい苦しみのために心が疲れたときには、精神はよくこんなぐあいになるものだ。
夕日はもう、高いネールの塔のうしろに沈んでいた。たそがれのひとときだった。空は白く、川の水も白かった。このふたつの白いもののあいだに、彼がじっとながめていたセーヌの左岸が、黒々と横たわっていた。それは遠くに行くにしたがって細くなり、黒い尖塔のように地平の霧の中に消えていた。この岸の上には、家々がびっしりとたち並び、その薄暗いシルエットは、暗やみの中に明るい空と水を背景にして、はっきりと浮きあがっていた。あちらこちらの家々の窓は、その中におこり火をいれた穴のように、明るくまたたきはじめた。空と川のふたつの白い面とは離れてのびているこの黒い大きな方尖塔《オベリスク》のような川岸は、このあたりでとても広くなっていて、クロード師に異様な感じをあたえた。ちょうどストラスブール大聖堂の鐘楼の足もとに寝そべって、夕暮れの薄暗がりの中を頭上に消えてゆく巨大な尖塔を見あげるような感じだった。ただここでは、立っているのが彼で、寝ているのが方尖塔のほうであった。しかし、川が空をうつして彼の足もとに深淵のように横たわっていたので、巨大な岬に似た川岸は、大聖堂の尖塔そのまま、空間に大胆に伸びあがっているようにみえた。川岸も大聖堂も同じような感じだった。だが岸辺の感じは、異様で、そしていっそう深いものだった。ストラスブールの鐘楼そのままの感じだったのだが、こちらの、高さ八千メートルもある鐘楼のほうは、何かしら前代未聞で、巨大で、広大無辺なもの、人の目がいままでけっして見たことのないような建物だった。バベルの塔だったのである。
家々の煙突、城壁の凹凸、屋根の破風、聖アウグスチノ会修道院の尖塔、ネールの塔、巨大な方尖塔の側面をぎざぎざにしているこうしたすべての突起は、視覚を気まぐれに刺激して、入りくんで目も奪うような彫刻の凹凸《おうとつ》を幻想につけ加えていた。幻覚にとらえられていたクロードは、地獄の鐘楼をまのあたりに見るような気がした。この恐ろしい塔の上から下まで一面にちらばる無数の明かりは、巨大なかまどの火口《ほぐち》に思われるのだった。そこから立ちのぼってくるさまざまな声やざわめきは、絶叫や死のあえぎとも聞こえた。彼は恐れにとらわれ、何も聞くまいとして耳をふさぎ、何も見まいとして背を向け、この恐ろしい光景から大急ぎで遠ざかっていった。
だが、その光景は彼の心から離れなかった。
通りに戻ると、店頭の明かりに照らされて押しあっている通行人の姿は、彼のまわりを永遠に行き来している亡霊たちのように見えた。耳の中では異様な音がとどろいていた。とっぴな想像が精神を狂わせていた。彼の目には家々も、敷石も、荷車も、男も女も見えなかった。ただ、はっきりしない物の姿がいくつも、はじのほうでは互いに溶けあいながら混沌《こんとん》としていた。バリユリ通りの片隅に、一軒の食料品屋があった。その店の庇《ひさし》のまわりには、昔からの習慣にしたがってブリキの輪がいくつもついていて、そこから木のろうそくが輪になってぶらさがっていた。それが風にカスタネットのようにカラカラと音をたててぶつかりあっていた。彼にはそのそれぞれが、モンフォーコンの墓場の骸骨が束になって、闇の中でぶつかりあっているように思えた。
「おお! 夜の風は、骸骨と骸骨とをぶつけあわせているのだ。そして骸骨をつないだ鎖の音は、骨の響きと入りまじっている! あの女もたぶんあそこにいるのだ、あの骸骨たちのあいだに!」と、彼はつぶやいた。
もう気も狂いそうになって、どこをどう歩いているかもわからなかった。五、六歩も歩いたかと思うと、そこはサン=ミシェル橋の上だった。とある建物の一階に明かりがひとつともっていた。近よってみると、ひびのはいったガラス戸ごしに、きたならしい部屋がのぞかれた。その中のようすは、彼の心に、あるかすかな思い出をよみがえらせた。小さなランプがぼんやりと照らしだした室内には、いきいきと、楽しげな顔をした金髪の若者が大口をあけてゲラゲラ笑いながら、けばけばしい厚化粧をした娘を抱いていた。ランプのそばには、ひとりの老婆が震え声で歌をうたいなから糸を紡《つむ》いでいた。若者が笑いやんだときには、老婆の歌がきれぎれに司祭のところまで聞こえてきた。それはわけのわからないながらも、何か恐ろしい歌だった。
ほえろ、グレーヴ。グレーヴ、うなれ!
つむげ、わたしの紡錘竿《つむざお》よ。
庭で口笛を吹いている
死刑役人の縄をなえ。
ほえろ、グレーヴ。グレーヴ、うなれ。
大麻《たいま》の縄は、きれいだよ!
イシからヴァンヴルまで麻をまけ、
麦をまいてはいけないよ。
麻のきれいな縄ならば、
泥棒だって盗まなかった。
うなれ、グレーヴ。グレーヴ、ほえろ!
目やにだらけの首吊り台に
娼婦がぶらりと下がるを見ようと
窓が目になる、開くよ窓が。
うなれ、グレーヴ。グレーヴ、ほえろ!
うたい終わると若者は、笑いながら娘をなでまわしていた。老婆はファルールデルであった。娘はまちの娼婦であり、若い男は弟のジャンだった。
彼はじっと見つめていた。この光景ばかりでなく、その頭に浮かぶもうひとつの光景も一緒に。
見ると、ジャンは部屋の奥のほうに行って窓をあけ、川岸のほうに目を向けた。川岸の遠くのほうに見える無数の窓には明かりがついていた。ジャンが窓をしめながらこう言っているのが聞こえた。「畜生め! もう夜になりやがったぜ。まちのやつらがろうそくをともしゃ、神さまが星に明かりをつけるとくらあ」
こう言って、ジャンは娼婦のほうに戻ってきて、テーブルの上に置いてあった瓶《びん》を砕いてわめいた。
「べらぼうめ! もう、からじゃねえか! おまけに一文なしだ! おいイザボー、おまえさんのまっ白いおっぱいが黒い酒瓶二本になってよ、ボーヌの酒を夜昼吸えるようにならなくちゃ、おれはユピテルの神もありがてえとは思わねえぜ」
このくだらない冗談で娼婦は笑いだし、ジャンは外へ出た。
クロード師は、ここで弟に会い、まともに顔を合わせて、気づかれてはならないと、大急ぎでやっと地面に身を伏せた。さいわいなことに、通りは薄暗く、ジャンは酔っていた。それでも彼は、司教補佐が泥まみれで敷石の上に寝ているのに気がついた。
「ほい! ほい!、こいつも、きょう一日楽しく過ごしやがったな」
こう言いながら、クロード師を足でゆすった。クロードは息をころしていた。
「飲んだくれ野郎」と、ジャンは言った。「ほらよ、こりゃ満タ唐セ。まるで酒樽からひっぺがしたヒルってとこだ。おや、はげてやがる、こいつ。おまけにじじいだ! ≪しあわせなじいさんだよ!≫」と、身をかがめて言いそえた。
やがて、クロード師の耳には、弟がつぎのように言いながら遠ざかってゆくのが聞こえた。
「どうでもいいってことよ。分別ってなあ、立派なこった。兄貴の司祭のやつあ、しあわせなことに、品行方正で、金も持ってやがる」
それをきいて、司教補佐は立ちあがり、ノートルダムのほうへ向かって、いちもんくさんに走りだした。見ると、大聖堂の巨大な塔は、やみの中で、家々の上に浮かびあがっていた。
息をはずませながらノートルダムの広場に着いた瞬間、彼は思わずたじろいで、その不吉な建物に思いきって目をあげることができなかった。
「ああ! あんなことが、きょう、ここで、けさ、起こったなんて、いったいほんとうだろうか!」と、彼は小声でつぶやいた。しかし、思いきって大聖堂をながめた。正面は黒々としていた。うしろの空には星がきらきらとまたたいていた。三日月が地平線からのぼってきたところで、月はちょうどそのとき、右の塔の頂上にとまっていた。それはまるで、きらきら光る鳥が、黒々とクローバ形に切りぬかれた欄干の端にとまっているとでもいったようだった。
修道院の扉はしまっていた。だが司教補佐は、自分の仕事部屋のある塔の鍵をいつでも身につけていたので、その鍵で大聖堂の中にはいっていった。
大聖堂の中はほら穴のように暗くて静かだった。広い垂れ幕のように、四方から大きな影が垂れているのは、朝の儀式のときにかけた掛け布が、まだ取りはらわれずにいるのだった。銀の大きな十字架が、この墓場の夜を照らす銀河のように、きらきら光る星をちりばめ、暗やみの奥で輝いていた。内陣の高窓の尖頭アーチの上端は、黒い幕の上までのびていた。そのステンドグラスは、月の光をとおして、夜のぼんやりとした色、紫とも白とも青ともいえない、死人の顔にしか浮かばない色をしていた。司教補佐は内陣のまわりに、この青ざめた尖頭アーチの上端を見た。地獄におちた司教たちの司教冠を見るような気がした。彼は目を閉じた。また目をあけてみると、青ざめた顔の一団が輪になって、彼を見つめているようにみえるのだった。
彼は逃げるようにして大聖堂を走りぬけた。そのとき彼には、大聖堂もまた揺れて動きだし、生命を吹きこまれて生きているように思われた。大きな柱の一本一本が巨大な脚になって、大きな石の足裏で地面を踏みつけているようでもあった。巨大な大聖堂全体が信じられないような象になって、柱は脚に、ふたつの塔は鼻に、広大な黒い幕は飾り馬衣となって、息を吐きながら歩いていたのだ。
このように、狂乱といおうか、狂気といおうか、こうまで激しくなってしまったので、この不幸な男にとっては、もはや外界は、一種の黙示《もくじ》のようなものになってしまった。しかもそれは、目にはっきり見え、手でも触れられるおそろしい黙示なのであった。
ちょっとの間、ほっとした。側廊の下におりて行くと、一群の柱のうしろに、赤味をおびたひと筋の明かりが見えた。その光をまるで星みたいに思ってかけよってみると、それはノートルダム大聖堂の参列者用聖務日課書を照らす小さなランプで、鉄の格子の中で日夜燃えているのだった。なにか慰めか、力づけになることばでもありはしないかとその神聖な書物に吸いつくようにとびついてみると、書物は「ヨブ記」のところがあけてあった。目がそれをじっと読んでいった。
≪ときに、霊気があって、わたしの顔の前を過ぎ、小さな吐息が聞こえたので、わたしは身の毛がよだった≫
この陰惨な句を読むと、盲人が自分で拾いあげた棒で突きさされたときのような痛みを感じた。ひざは力がぬけ、昼間に死んだ女のことを思いながら、敷石の上にがっくりとくずおれてしまった。頭の中を奇怪な煙が何本も何本も這いまわっては、そこから吐き出されていくような気がした。まるで、頭が地獄の煙突になったようだった。
こんな状態で、何も考えず、悪霊の手にかかって押しつぶされ、抵抗もできずに長い時がたったようだった。やがて、いくらか力が戻ってくると、塔に行って、あの忠実なカジモドのそばに身を休めようと思った。立ちあがると、こわかったので、道を照らすために聖務日課書のランプを手に取った。それは神を汚す行為であった。だが、そんなつまらないことに、もう気をつかってはいられなかったのだ。
彼はゆっくりと塔の階段をのぼっていった。こんなに遅い時間に不思議なランプの光が鐘楼の上を銃眼から銃眼へとのぼって行くのが、ノートルダム広場を通るわずかな通行人に見えるかもしれないという、ひそかな恐れを心に抱きながら。
とつぜん、顔の上に何か冷やりとしたものを感じた。見ると、自分はいま、もっとも高い回廊の扉の下にいるのだった。空気は冷たく、空には雲が流れていた。雲の白い波はそのすみずみを砕きながら、幾重にもかさなりあってうねり、冬の川の氷がとけたときのような姿をしていた。新月は雲のあいだに乗りあげ、まるで空気の氷塊につかまった空の船のようだった。
彼は目を伏せてしばらくあたりを眺めた。ふたつの塔をつなぐ回廊の格子のあいだから、霧と煙のベールをとおして、夏の夜の静かな海の波のように、いくつもとがって小さく押しあっている、パリの家々のもの言わぬ屋根の群れが遠くに見えた。月は、天と地に灰のような色どりを与える、かすかな光を投げていた。
そのとき、大時計が、細い、ひびのはいったような音をたてた。夜の十二時を告げたのだった。
司祭は、昼の十二時に起こったことを考えた。十二時がかえってきたのだ。
「そうだ! あの女もいまではもう冷たくなっているにちがいない!」と、小声でひとりごとを言った。とつぜん、風がさっと吹いてきてランプが消えた。ほとんど同時に、塔の反対側に、物影がひとつ、白いものが、ひとつの形が現われるのが見えた。女だった。彼はぶるぶるっと身を震わせた。女のそばには小さなヤギがいた。その鳴き声が、大時計の最後の響きにまじって聞こえた。
彼は、力を奮い立たせて見つめた。あの女だった。
顔色は青ざめ、陰気な表情だった。髪は、朝と同じように肩に垂れていたが、首にはもう縄はなく、手ももう縛られてはいなかった。自由の身だった。あの女は死んだのだ、とクロードは思った。
体には白い衣をまとい、白いベールで頭を包んでいた。女は空をながめながら、ゆっくりと彼のほうへ歩いてきた。不思議なヤギはあとについてきた。彼は、体が石になったように感じ、それが重くて逃げることもできなかった。女は一歩一歩近づき、彼は一歩一歩あとずさりする。ただ、それだけだった。そうやって彼は、階段の下の暗い丸天井の下に押し戻された。女もまたおそらく、そこにはいってくるかもしれないと考えると、全身の血が凍るような気がした。もし女がはいってきていたら、彼は恐怖のために死んでしまったかもしれない。
女は実際、階段の扉の前までやってきて、しばらく立ちどまり、暗い内部をじっと見つめていたが、司祭の姿を見たようすもなく行き過ぎていった。女の姿は、生きていたときよりも、ずっと大きく見えた。その白い服を通して月が見えた。女の息づかいも聞こえた。
女が行ってしまうと、彼は階段をおりはじめた。ちょうどあの亡霊と同じように、ゆっくりと、自分自身も幽霊になったような気で、食いつきそうな顔で、髪をさかだて、手にあいかわらず消えたランプを持ちながら、らせん階段をおりてゆく彼の耳に、笑いながら繰り返す声がはっきりと聞こえた。
≪……ときに、霊気があって、わたしの顔の前を過ぎ、小さな吐息が聞こえたので、わたしは身の毛がよだった≫
二 |こぶ男《ボッシュー》、片目《ボルニュ》、|足わる《ボワトウ》
中世のころは、どんなまちでも、フランスではルイ十二世のころまで、いたるところに≪駆け込み場≫があった。こうした駆け込み場は、都市にはんらんしていた刑法や、野蛮な裁判権の洪水の中で、人間の行なう裁判の水面の上に一段高く浮きだしている島のようなものだった。罪人は、ここにたどりつきさえすれば、みな救われたのである。また郊外には絞首台を設けた場所があったが、一方ではそれとほとんど同数の駆け込み場が設けられていたのである。それは刑罰の乱用と並んだ、咎《とが》められずにすむということの乱用でもあったが、このふたつの悪弊《あくへい》は、協力して欠点をおぎないあっていたわけである。国王の宮殿、諸侯の邸宅、とくに教会などが、この庇護権《ひごけん》をもっていた。人口を増加させなければならないようなときには、ひとつのまち全体を一時的に駆け込み場にすることもあった。ルイ十一世は、一四六七年にパリを駆け込み場にした。
ひとたび駆け込み場に足を踏みいれると、その罪人は法律の手を逃れることができるが、そこからは外に出ないように気をつけていなければならなかった。聖域から一歩でも外へ出れば、波にのまれてしまうのだった。駆け込み場のまわりは、車裂きの刑、絞首刑、吊り落としの刑などで厳重にとりまかれていた。ちょうどフカが船のまわりをとり囲むように、たえず餌食を待ちぶせていたのである。有罪の宣告を受けた者が、修道院の中や、王宮の階段や、修道院の耕作地や、教会の玄関の下などで白髪になるまで生涯をおくっているのがよく見られたものである。
こんなわけで、駆け込み場もまた、一種の牢獄だった。ときには、高等法院の最終判決が逃げ場の特権を侵害して、被告を死刑執行人の手にひきわたすこともあったが、めったにそんなことは起こらなかった。高等法院は、司教たちを恐れていたのだ。法服と聖職者の服とのふたつの衣服がたがいに摩擦《まさつ》することがある場合には、法官の長衣は、聖職者の衣に対して分が悪かったのである。
しかしまたときには、パリの死刑執行人プチ=ジャン殺しの犯人の場合や、またジャン・ヴァルレを殺したエムリー・ルソーの事件のように、司法権が教会の上に立って、教会の判決文を無視してしまうこともあった。しかし、高等法院の逮捕令状がない場合には、ただ武力によって駆け込み場に不法侵入する者は、不幸な目にあってしまうのだ! ロベール・ド・クレルモン元帥《げんすい》や、シャンパーニュのジャン・ド・シャロン元帥が死刑になった事件がどんなものであったか、人びとも知るとおりである。しかもその犯人たるや、両替屋の小僧ベラン・マルクという男にすぎなかったのだ。しかし、両元帥とも、サン=メリの門を打ち破ってしまったので、それが重大な過失だったのである。
駆け込み場の周囲は、このように敬意がはらわれていたので、伝説の語るところによれば、その敬意はけだものにまで及んでいたほどだったという。エモワン〔中世の聖職者で歴史家〕の話によると、一匹のシカがダゴベール〔七世紀のフランク王。サン=ドニの大聖堂を建てた〕に追われて、サン=ドニの墓地の付近に逃げ込んだことがあったが、猟犬どもの群れも、そこで、はたと立ちどまって、吠えていたということである。
教会にはふつう、駆けこみ人を収容する小屋があった。一四〇七年に、ニコラ・フラメルはそういう人たちのために、サン=ジャック=ド=ラ=ブーシュリ教会の丸天井の上に部屋をひとつ作らせたが、その費用たるや、パリ金の四リーヴル六スー十六ドニエもかかったのだった。
ノートルダム大聖堂では、修道院に面した側廊の屋根の上のひかえ壁の下に、そういう小部屋が作られていた。正確にいえば、現在、塔の門番の女房が庭園をこしらえている所がそれである。レタスがシュロの木にくらべられ、門番の女房がセミラミス〔アッシリアとバビロニアの伝説の王。バビロンの都と空中庭園を建てた〕にくらべられるとすれば、その庭も、さしずめバビロンの空中庭園にくらべられるであろう。
カジモドが狂ったように意気揚々と塔や回廊を走りまわったあげくに、エスメラルダを置いたのはこの部屋だった。彼がこうやって走りまわっているあいだは、娘は意識をとり戻すことができず、眠っているのか起きているのかわからない感じだった。ただ空中をのぼってゆき、空中に漂い、空中をとびまわっている、何かが自分を地上から高く持ちあげている、そんな感じがするだけだった。
ときどき、カジモドの高笑いや、さわがしい声が耳もとに聞こえてきて、彼女は半ば目を開いた。すると、赤や青のモザイクのような、スレートや瓦《かわら》の無数の屋根の嵌木細工《はめきざいく》になったパリのまちが雑然として目の下に見えた。頭の上には、カジモドの恐ろしくはあるがうれしそうに輝いた顔があった。
それを見ると、彼女は瞼《まぶた》を閉じた。すべてが終わってしまったと思った。自分が気を失っているあいだに、死刑が執行されてしまって、自分の運命をつかさどっていた醜怪な霊魂が自分をとらえて、どこかに連れて行ってしまったのだとも思われた。どうしても彼の方を見ることができず、なすがままに任せきっていた。
だが、この鐘番が、髪を振り乱し、息を切らして、娘を駆け込み場の小部屋におき、その大きな手が、彼女の腕に傷つけるほどくいこんでいた縄をそっとほどいているのに気がついたとき、彼女は、ちょうど、暗い真夜中に船が坐礁して乗客たちがとび起きるときのようなショックを感じた。頭も働きはじめ、考えがひとつずつ戻ってきた。自分はいまノートルダムにいるのだということがわかり、死刑執行人の手から奪いさられてきたのだということも思い出した。フェビュスは生きているが、自分を愛してはいないのだということも思い出した。このふたつの考えのうち、ひとつはもうひとつの上に深い苦悩をなげたが、いっしょになって、この哀れな死刑囚の心に浮かぶのだった。
彼女は自分の前に立ったままでいるカジモドのほうに向きなおってみたが、彼の姿は恐ろしかった。彼女はカジモドにきいた。
「なぜあたしを助けてくれたの?」
彼は、娘のことばを理解しようとでもするように、不安なようすで娘をじっと見つめた。彼女はもう一度きいてみた。すると、彼は、深い悲しみのこもった目を彼女のほうになげかけて、逃げていった。
彼女はあっけにとられた。しばらくすると彼は、包みをひとつ持ってまた戻ってきて、彼女の足もとに投げだした。慈悲深い女たちが、彼女のためにと、大聖堂の戸口に置いていった着物だった。それを見ると、彼女は目を伏せて、自分の姿をながめた。ほとんど裸同然なのを見て、顔を赤らめた。生きる力が戻ってきたのだ。
カジモドは彼女の恥ずかしがるようすを見て、なにかしら感じたようすだった。大きな手で目を覆ってもう一度たち去っていったが、その足どりはにぶかった。
彼女は急いで着物を着た。それは白いベールのついた白い服で、市立病院の修練看護婦の制服だった。やっと着終わったかと思うと、カジモドが戻ってきた。彼は一方の腕にかごを、もう一方の腕にふとんをかかえていた。かごの中には、一本のブドウ酒と、パンと、そのほかの食べ物がはいっていた。彼はかごを床《ゆか》に置いて、「食べてくだせえ」と言った。床石の上にふとんを敷いて、「眠ってくだせえ」と言った。鐘番が探しに行ったのは、彼自身の食料であり、彼自身の寝床だったのだ。
ジプシー娘は、お礼を言おうとして、彼のほうへ目をあげた。だが、ひとことも言うことができなかった。この気の毒な男は、ほんとうに恐ろしい姿をしていた。彼女は恐ろしさのあまり、身を震わせて目を伏せた。
男は娘に向かって言った。「おれがこわいんだね。おれはまったく醜い男だな。そうだろう? おれのほうを見ちゃいけないよ。声だけを聞いてくだせえ。……いいかね、昼間はここにいるんだよ。夜になったら、大聖堂の中ならどこでも歩きまわってもいいよ。だが、昼だろうと夜だろうと、大聖堂の外へ出ちゃいけない。そんなことをしたらおしまいだ。あんたは殺されるだろうし、おれも死んでしまう」
娘は感動し、彼に答えようとして頭をあげた。だが、彼はもうそこにはいなかった。彼女はただひとりになって、この怪物といってもいいような人間の不思議なことばについて、静かに考えてみた。あんなにしわがれてはいたが、あれほどまでにやさしいその声の調子に、彼女は心をうたれるのだった。
それからこの小部屋を調べてみた。縦、横、二メートルたらずの部屋で、平らな石の屋根の少しばかり傾斜した面の上に、小さな明かりとりと扉とがひとつずつついていた。動物の形をした水はけ口がたくさん、明かりとりから彼女を見ようと首を伸ばしてのぞきこんでいるように思われた。屋根の縁には無数の煙突の先が見えたが、そこからは、パリのまちで焚《た》くあらゆる煙が、彼女の目の下に立ちのぼっていた。捨て子であり、死刑の宣告をうけた身のうえであり、祖国もなく、家庭もなく、故郷もない、この哀れなジプシー娘にとって、それは、悲しい光景だった。
自分はひとりぼっちなのだという考えが、それまでに感じたこともないほど激しく、彼女の胸を苦しめていた。と、そのとき、彼女は、毛むくじゃらでひげだらけの頭が、ひざの上に置いた手の中にすベりこんでくるのを感じた。彼女は身を震わせて(いまでは何もかもが恐ろしかったのだ)、じっと見つめた。それはあの可哀そうなヤギ、すばしこいジャリだった。ジャリは、カジモドがシャルモリュの部下どもを追い払ったときに、彼女のあとを追って逃げだしてきて、ほとんど一時間もまえから彼女の足もとでさかんに身をすりつけていたのだが、娘から見向きもしてもらえなかったのだ。ジプシー娘はヤギに雨あられと接吻をしてやった。
「まあ! ジャリや、おまえのことをすっかり忘れていたわ! おまえのほうじゃ、あたしのことをずっと思っていてくれたのにね! ほんとうに、おまえだけは恩知らずじゃなかったんだね!」
と同時に、何か目に見えない手が、彼女の心の中でずっと涙を押えていた重いものを持ちあげてくれたとでもいうように、涙がほとばしりでてきた。涙が流れでるにしたがって、彼女の苦しみの中にあった、最もつらい、最もにがいものが、涙といっしょに流れさってしまうような気がした。
夜がきた。娘には、夜がとても美しく、月がとてもやさしく見えたので、大聖堂をとり囲んでいる回廊をひとまわり歩いてみた。そうやって心がいくらか軽くなった。この高みから見ていると、地上が静かになったように思われたほどだった。
三 耳の聞こえない男
あくる日の朝、目をさましてみると、娘はいつのまにかよく眠っていたことに気がついた。不思議なことだ。これにはすっかり驚いてしまった。もう長いこと、彼女は熟唾という習慣をなくしてしまっていたのだ。朝の楽しげな太陽の光が明かりとりから射しこんで、顔の上に光を投げかけていた。太陽と同時に、その明かりとりからは恐ろしいものがのぞいていた。カジモドの気の毒な顔だった。思わず目を閉じたが、それでもだめだった。あいかわらずバラ色のまぶたを通して、この片目で前歯の欠けた醜い地霊の顔が見えているような気がした。
そのとき、彼女はじっと目を閉じたままでいたが、とてもやさしい調子で、つぎのように言っている、がさがさした声が聞こえた。
「こわがらなくともいいんだよ。おれはあんたの友達なんだぜ。あんたが寝ているのを見にきたんだ。眠っているのを見にきたって、かまやしないだろう? あんたが目をつぶっているときに、おれがここにいると困るかい? いいよ、もう行くよ。ほら、壁のうしろに隠れたよ。もう目をあけてもいいんだぜ」
こうしたことばのうちには、ことば以上に哀れをそそるものがあった。それは、ことばが話される調子だった。ジプシー娘は思わず心を動かされて、目を開いた。言ったとおり、明かりとりのところには、もう彼はいなかった。彼女は明かりとりのところまで行ってみた。見ると、哀れな男は、悲しげな、あきらめきったようなようすで、壁のすみにうずくまっていた。
彼女はこの男から受けた嫌悪の気持に、なんとかして打ち勝ちたいと思って、「いらっしゃいよ」と、やさしく言った。ジプシー娘の唇が動くのを見たカジモドは、自分を追い払おうとしているのだと思って、立ちあがり、片足をひきずりながら、ゆっくりとうなだれて、ひき返していった。絶望に満ちた目を、どうしても娘のほうにあげることはできなかったのだ。
「いらっしゃいよ、ね」と、彼女は叫んだ。だが、彼はますます逃げていくばかりだった。そこで彼女は、部屋の外にとび出して、彼のところに走ってゆき、その腕をつかんだ。女にさわられたのを感じて、カジモドは全身が震えた。訴えるような目をあげて、ふと見ると、女が自分をそばにひきよせようとしているので、彼の顔は喜びと愛に輝いた。
彼女は彼を部屋にはいらせようとしたが、彼は敷居ぎわで立ちどまったまま、どうしてもはいろうとせずに、「いや、いや、フクロウはヒバリの巣にはいるものじゃないよ」と言った。
すると娘は、足もとに眠っていたヤギといっしょにやさしく、その寝床の上にうずくまった。男は女の素晴らしい美しさを、女は男のひどい醜さを黙って見つめながら、ふたりともしばらくじっと動かなかった。見れば見るほど、カジモドの姿がますます不格好にみえてくるのだった。彼女は、男のX形になった膝から丸くなった背なかへ、丸くなった背なかから片方しかない目へと視線を動かしていった。こんな不細工につくられた人間が生きているなどとは、彼女にはどうしても考えられなかった。だが、じっと見ていると、その中に悲しみとやさしさが溢れているのがわかって、だんだんと慣れてくるのだった。
男のほうがまず沈黙を破った。
「それじゃ、あんたは、おれに戻ってこいと言ったんだね?」
彼女は、「そうよ」と言いながら、うなずいてみせた。彼にはその身振りがわかった。
「ああ! それはつまり、……おれは耳が聞こえないんだ」と、言いきってしまうのをためらうように言った。
「まあ! お気の毒ね!」と、ジプシー娘は、親切で同情に溢れたようすを見せながら叫んだ。彼は苦しげに笑いだした。
「あんたは、おれが耳が聞こえないだけだと思ってるんだろうね? そうだ、おれは耳がまるっきり聞こえないんだ。こんなふうに生まれついてるんだ。恐ろしいことだ、そうだろう? あんたはきれいだな、まったく!」
このみじめな男の調子には、そうしたみじめさの深刻な感情がこもっていたので、彼女はひとことも言えなかった。それに、言ったところで、聞かれるはずもなかった。男はつづけた。
「いまほど、おれは、自分が醜いと思ったことはないよ。あんたとくらべてみると、われながら可哀そうに思うよ。まったくおれは、なんて不幸な化け物なんだろう! あんたがこのおれを見ると、けだものみたいな気がするだろうな。そうだろう?……あんたはまったく、お日さまの光だ、露のしずくだ、鳥の歌だ!……おれときたら、何か恐ろしい、人間でもなければ動物でもない、石ころよりももっと堅くて、もっとたびたび足でふんづけられる、もっと不格好なものなんだ!」
こう言って彼は笑いだしたが、その笑いは、世にもいたましい感じだった。彼はさらにつづけた。
「そうだ、おれは耳が聞こえないんだ。だけど身ぶりでおれに話してくれればいいんだよ、手真似でね。おれには主人がひとりいるんだが、その人はそういうふうにしておれと話をしているんだ。それに、あんたの唇や目の動きを見れば、おれにはあんたの言いたいことがすぐわかると思うよ」
「それじゃあ! ねえ、なぜあたしを助けてくれたの。教えてちょうだいな」と、彼女はほほえみながら言った。彼は娘が話しているあいだ、注意深く女のほうを見つめていた。
「ああ、わかったよ。おれがなぜあんたを助けたかってきいているんだね。あんたは、ある晩、あんたをさらおうとした悪いやつのことを覚えていないかね。あくる日、あんたは、あの汚らわしいさらし台にあげられたその男を助けてやったじゃないか。一杯の水とお慈悲をちょっとばかり恵んでやったじゃないか。おれは命を投げだしたって、その恩を返しきれないと思っているんだよ。あんたはそいつのことを忘れちまったかもしれないが、そいつのほうじゃ、けっしてあんたを忘れたことはないんだよ」
彼女は、深く感動したようすで、彼のことばを聞いていた。涙が一滴、鐘番の目に浮かんだが、流れ落ちはしなかった。彼は自分の名誉にかけて、その涙をのみこもうとしているようにみえた。
「まあ、聞いてくだせえ」と、彼はもう涙の落ちる気づかいがなくなったときに言った。
「ほら、あそこにとても高い塔があるだろう。あそこから落ちようものなら、地面に着くまえに死んじまうんだ。あんたが、このおれが落ちたらいいなと思ったら、ひと口だって口に出して言わなくてもいいんだ。ちょっと目くばせすれば、それでじゅうぶんだよ」
こう言って、彼は立ちあがった。このジプシーの女のほうでも非常に不幸な目にあって来たとはいうものの、この奇妙な男を見て、彼女の胸にまた、可哀そうだという気持がわきあがって来た。彼女は、男に、ここにいてくれと合図をした。
「いやいや、おれは、あまり長く、ここにいてはいけないんだ。気づまりだからな。あんたが目をそむけていないのは、おれを可哀そうだと思うからなんだからな。おれは、あんたの方からは見られないで、おれのほうからは、あんたのことが見られるような場所に行くよ。そのほうがいいんだよ」
彼は、ポケットから小さな金属製の笛をとりだした。
「これを取っておいてくだせえ。おれに用のあるときや、来てもらいたいと思うときや、おれを見てもそんなにこわくはないと思うときには、これを吹いてくだせえ。この音だけは聞こえるんだよ」
そして、その笛を床に置いて、逃げるように行ってしまった。
四 素焼きと水晶
日は一日一日と流れていった。
エスメラルダの心は、しだいに静けさをとり戻していった。激しすぎる苦痛は、大きすぎる喜びと同じで、強烈なものであるだけに、長くはつづかないものである。人間の心は、一方の極に長くとどまっていることはできないものだ。ジプシー娘はあんまり苦しみをなめてきたので、その心は、もうぼんやりとしてしまって、ときどき、はっと驚くという気持しか残っていなかった。身の安全が確かめられると、希望もよみがえってきた。彼女はいま、社会からも人生からも隔離されていたのだが、もう一度そこへ戻っていけないものでもあるまいと、ぼんやり感じていた。彼女はちょうど、自分の墓の鍵をしっかりと握っている死人のようなものだった。
長いあいだ自分につきまとって離れなかった恐ろしい影が、しだいに自分から離れてゆくのを感じた。見るもいやらしい幻影、ピエラ・トルトリュも、ジャック・シャルモリュも、みんな心の中から消え去っていった。あの司祭の姿さえもが。
そして、フェビュスは生きていたのだ。それはたしかだった。自分であの人を見たのだから。フェビュスの命、それがすべてだったのだ。致命的な打撃をつぎつぎにうけて、心の中にもっていたものはみんなくずれおちてしまったが、それでもなお、魂の中には、まだひとつのものが、ひとつの感情だけが、あの隊長に対する恋心だけが、つぶされないで残っていた。恋とは一本の木のようなものだ。それはひとりでに芽ばえ、われわれの全身の中に深くその根を張り、廃墟となった心の上にさえ、青々と生い茂るのだ。
そして説明のできないことだが、この情熱は、盲目的であればあるほど、強い根をはってゆくものなのだ。理性がないときほど、強固なことはないのである。
たしかにエスメラルダは、隊長のことを思うと、いつでも胸を刺すような痛みを感じるのだった。またたしかに、隊長のほうで女から裏切られたと思っているのかもしれないということは、恐ろしいことだった。彼のほうでは、こんなあり得ないことを信じているかもしれないし、彼のためなら何度でも命も投げだしてよいと思っていた女から短剣で刺されたのだ、などと考えているかもしれない。そう思うと、それは実につらいことであった。
だが、とにかく、彼を責めてはならないのだ。自分は≪罪≫を白状してしまったではないか。弱い女で、拷問に負けてしまったではないか。悪いのはみんな自分のほうだったのだ。あんなことをしゃべってしまうくらいなら、爪をむしりとられたほうがまだよかったのだ。要するに、たった一度でいい。たった一分でいい、もう一度フェビュスに会いたかった。ひとことで、ひと目で、彼は誤解をといて、自分のもとに戻ってくれるだろう。彼女はそう信じて疑わなかった。
また、多くの不思議なできごと、贖罪《しょくざい》の苦行の日にフェビュスが偶然にもその場に居あわせたこと、また、彼といっしょにいた若い娘のことなどについては、できるだけ忘れようとつとめた。あれはたしかに、あの人の妹だったのだ。理屈にはあわない解釈ではあったが、それで満足した。というのも、彼女は、フェビュスがいつでも自分を愛してくれているし、自分よりほかの者を愛していないと信じていたかったからである。あの人は、自分にそう誓ったではないか? 彼女のような素朴で信じやすい女にとっては、その上、何が必要だろうか? それにこの事件では、男より彼女のほうが、外見はまったく不利ではなかったか? それで、彼女は待った。望みを抱いていたのだ。
それにまた、この大聖堂のことも言いそえておこう。この広大な聖堂は、四方から娘を包み、娘を保護し、彼女を救ってやったのであるが、また、建物それ自身が鎮痛《ちんつう》の特効薬でもあったのだ。この建物の荘厳な直線、娘をとりまくあらゆる物の宗教的な雰囲気、言ってみれば、この石造りの建築物のあらゆる穴から発散する敬虔《けいけん》でおちついた考えが、知らず知らずのうちに、彼女に影響を与えたのである。この建物もまた神の祝福と荘厳さとの響きをもっていたので、娘の病める魂もいやされていった。司祭のうたう単調な歌、参会者が司祭に答える、ときには不明瞭で、またときにはどよめくようなことば、ステンドグラスの諧調ある振動、幾百というらっぱを吹き鳴らすように響きわたるパイプオルガン、大きなミツバチの巣のようにうなる三つの鐘楼、会衆から鐘楼までのあいだを絶えまなくのぼりおりする、巨大な音階がおどっているこうした管弦楽は、彼女の記憶や想像力や苦痛をしずめてくれたのだった。
ことに鐘は、心を慰めてくれた。それは、これらの巨大な機械が彼女の上に大きな波のようにひろげる強力な磁気のようであった。
こうして毎朝、朝日ののぼるごとに、彼女は、ますます心が静まり、呼吸も安らかになり、蒼白かった顔にも血の気《け》がさしてきた。内心の傷がふさがってゆくにつれて、顔にはあのやさしさと美しさがまた花のように輝いた。だが、まえよりも考え深くて平静な美しさだった。昔の性格もまたよみがえってきた。その陽気なところも、可愛らしいふくれっつらも、ヤギへの愛情も、歌をうたいたい気持も、恥じらいの気持も、すべてよみがえってきたのだ。
彼女は、近くの屋根裏部屋に誰かがいて、その人が明かりとりから自分のことをのぞいて見やしないかと心配して、朝には部屋のすみで着物を着ることにまで心をくばるようになった。
フェビュスのことを思うあいまには、ときどきカジモドのことも考えてみた。それは、彼女と人間との、つまり生きている者とのあいだに残っているただひとつの絆《きずな》であり、ただひとつのかかわりであり、ただひとつのたよりでもあった。不幸な娘だ! 彼女は、カジモドよりもなお世の中から隔たっていたのだ! ふとしたきっかけで与えられたこの不思議な友については、どう考えてよいかわからなかった。この男を見ると目を閉じてしまうなどとは、感謝の気持をもっていないのではないかと思って、自分を責めることもよくあった。だがどうしても、この哀れな鐘番に慣れることはできなかった。彼はあんまり醜くすぎたのだ。
彼女はカジモドからもらった笛を床の上に置きっぱなしにしておいた。それでもなおカジモドは、初めのうちはときどき姿を現わした。彼が食べ物のかごや水のかめを持ってきてくれるときに、いやな顔をして顔をそむけないように、できるだけつとめてみた。だが、そういうような態度をちょっとでもすると、彼はいつでもすぐに気がついて、悲しげにその場をたち去ってしまうのだった。
一度、彼女がジャリの頭をなでているときに、彼がふとやって来たことがあった。そしてしばらくのあいだ、娘とヤギが仲むつまじくしているようすをじっと考え深げに眺めていたが、とうとう、重く不細工な顔を振りながら言った。
「おれの不幸は、このおれがまだ人間に似すぎているということだ。あのヤギのように、けだものになりきってしまいたいものだな」
彼女は、男のほうにびっくりしたような目をあげた。彼は娘の目に対して、こう答えた。
「ああ! あんたの気持は、おれにはよくわかっているよ」
そして彼は去っていった。
またあるとき、彼は部屋のところに姿を現わした(彼はこの部屋には一度もはいったことがなかったのだ)。ちょうどそのとき、エスメラルダは、古いスペインの民謡をうたっていた。その歌詞の意味はわからなかったけれども、彼女がまだほんの子どもだったころ、ジプシーの女たちが子守歌にそれをうたっていたので、耳もとに残っていたものだった。この歌をうたっている最中に、急にあのいやな顔が現われたので、娘は、思わず驚いた様子で、だまってしまった。不幸な鐘番は、ドアの敷居の上にひざまずき、懇願《こんがん》するような様子で、不細工な大きな手を合わせて、悲しげに言うのだった。
「ああ! お願いだから、つづけてくだせえ。おれを追っ払わないでくだせえよ」
彼女は男に悲しい思いをさせたくはなかった。そこで、全身を震わせながらも、またその歌をうたいだした。だが、恐れもしだいに薄らいで、彼女は、自分のうたう哀調をおびた、尾を引く調子に、全身が引きこまれていった。彼の方では、両手を合わせて、石のように、じっと耳をかたむけて、息もかすかに、ジプシーの娘の燃えるような瞳《ひとみ》を、じっと見つめながらひざまずいていた。彼女の歌を目の中に聞きこんでいたとでも言えるほどであった。
またあるときは、ものおじしたようなようすで、おずおずとやってきて、やっとのことでこう言った。
「ねえ、聞いてくだせえ。ちょっと話したいことがあるんだ」
娘は手真似で、聞こうという合図をした。すると、彼はほっと溜息をついて、唇を開きかけ、ちょっと話しだそうとするようにみえたが、また女のほうをじっと見て、いや、だめだ、というふうに頭を横に振った。そして、あっけにとられているジプシー娘を残したまま、額に手をあてて、のろのろと行ってしまった。
壁に彫ってある奇怪な人物の彫像の中にひとつ、彼がとりわけ好んでいたのがあった。彼は、それと向かいあって親しげなまなざしをかわしているようにみえることがよくあった。あるとき、ジプシー娘は、彼がその彫像に向かってこういっているのをきいた。
「ああ! おれもおまえのように石でできていたらよかったのになあ!」
ついにある日、朝のこと、エスメラルダは、屋根の端まで出てみた。そこから、サン=ジャン=ル=ロン教会のとがった屋根ごしに広場をながめていた。カジモドは娘のうしろにいた。娘が自分の顔を見て、いやな気持をできるだけ起こさないように、わざとうしろにいたのだった。するととつぜん、ジプシー娘は、身を震わせた。涙と、喜びのきらめきが、同時にその目に光った。彼女は、屋根の縁にひざをついて、悩ましげに広場のほうに腕をのばしてこう叫んだ。
「フェビュスさま! いらっしゃいよ! いらして下さいよ! ひとこと、ほんのひとことでいいの、お願い! フェビュスさま! フェビュスさまったら!」
その声も、顔色も、身ぶりも、からだ全体が、ちょうど水平線の遥かかなた、日の光のもとを幸福な人びとをのせてゆく遊覧船に向かって遭難の合図をしている、難破船に乗りこんだひとりの男のような、悲痛な表情をもっていた。
カジモドが広場のほうに身をのりだすと、燃える思いに狂ったような女が呼んでいる相手が見えた。それは若い士官だった。鎧兜《よろいかぶと》に身を飾り、隊長の制服を着た美男の騎士で、広場の向こう側で馬を駆けさせながら、バルコニーでほほえんでいる美しい婦人に、羽根飾りを振って挨拶《あいさつ》をしていた。もちろん、彼を呼んでいる哀れなジプシー娘の声は、この騎士には届かなかった。遠すぎるところにいたのだ。
しかし、この哀れな耳の聞こえない男には、その声がよく聞こえた。深い溜息で胸を波打たせて、彼は身をひるがえした。心臓は、飲みこんだすべての涙でふくれていた。両方のこぶしを引きつったように震わせて、髪をかきむしった。こぶしをおろしたとき、両手にはひとつかみの赤ちゃけた髪の毛をつかんでいた。
娘のほうでは、彼に少しも注意を向けてくれなかった。彼は歯ぎしりをしながら、小声でつぶやいた。
「畜生! ああでなけりゃならねえんだな! 見かけだけ美しければ、それでいいんだ!」
その間にも、エスメラルダは、あいかわらずひざまずいたまま、ものすごく興奮して叫んでいた。
「まあ! あのかた、馬からお降りになった!……あの家にはいろうとしていらっしゃる!……フェビュスさま……あたしの声が聞こえないのだわ!……フェビュスさま!……あの女の人ったら、わたしがこうしてお呼びしているのにあのかたとお話なんかなさって、なんてひどい人なんだろう!……フェビュスさま! フェビュスさまったら!」
この耳の聞こえない男は、娘のほうをじっと見つめていた。この無言劇の意味が彼にもわかったのだ。あわれな鐘番の目には涙が溢れたが、一滴も流しはしなかった。とつぜん、彼は、やさしく彼女の袖のはじをひっぱった。娘は振り返った。彼はもう落ちついた様子になっていたが、彼女に言った。
「あの人を探しに行ってきてやろうか?」
彼女は喜びの声をあげた。
「まあ! 行ってちょうだい、ね! 走って! 早くね? 隊長さんを! あの隊長さんを! あのかたを連れてきてね! ありがたいわ!」
娘は彼のひざにすがりついた。彼は、苦しそうであったが、頭をたてに振らないわけにはいかなかった。
「連れてきてやろう」と弱々しい声で言った。そして向きをかえると、すすり泣きながら、階段を大股で走り降りていった。
広場に着いてみると、ゴンドローリエ邸の玄関に立派な馬が一頭つながれているだけで、ほかにはもう何も見えなかった。隊長が家にはいったあとだったのだ。大聖堂の屋根のほうを見あげてみると、エスメラルダは、あいかわらず同じ場所に、同じ姿勢のままでいた。彼は彼女のほうに頭を振って、悲しそうな合図をした。それから、隊長が出てくるまで待ってやろうと腹をきめて、ゴンドローリエ邸の車寄せの一本の柱にもたれかかった。
その日、ゴンドローリエ邸では、結婚式前の祝宴があるのだった。カジモドが見ていると、大勢の人がはいっていったが、誰も出てはこなかった。ときどき彼は屋根のほうを見たが、娘も彼と同じようにじっとしたままだった。馬丁が出てきて馬をとき、屋敷の馬小屋に入れた。
その日はこうして暮れた。カジモドは柱によりかかり、エスメラルダは屋根の上に立ちつくし、フェビュスはおそらく、フルール=ド=リの足もとにすわったままで。
とうとう夜になった。月のない闇夜だった。カジモドはエスメラルダの姿にじっと目を注いでいたが、それもむだだった。まもなく彼女は、薄明かりの中のぼんやりとした白い影になり、やがてそれも消えてしまった。なにもかも消え、あたりはやみに包まれてしまった。
カジモドが見ていると、ゴンドローリエ邸の正面の窓々には、上から下まですっかり明かりがついた。また、広場に面しているほかの家々の窓にも、ひとつ、またひとつと明かりがともっていった。そして、そうした明かりが最後のひとつまで消えてゆくのもまた、カジモドは見たのだ。つまり宵《よい》のあいだじゅうそこにじっとして立ちつくしていたのだ。
だが隊長は出てこなかった。道行く人もそれぞれの家に帰ってしまい、ほかの家々の窓の明かりもすっかり消えてしまっても、カジモドはやっぱり、たったひとりで真暗やみの中にたたずんでいた。そのころは、ノートルダムの広場には燈火がなかったのである。
だが、ゴンドローリエ邸の窓には、真夜中すぎてもずっと明かりがこうこうとついていた。カジモドは身動きもせずに注意深く、色さまざまなステンドグラスの上に、大勢の人の人影が元気よく踊りまわっているのが映るのを見ていた。もし耳が聞こえたら、眠りにはいったパリのざわめきがしだいに静まるにつれて、ゴンドローリエ邸の中の宴会の物音や笑い声や音楽が、ますますはっきりと聞こえてきたに違いない。
明けがたの一時ごろになると、招かれていた人びとも帰りはじめた。カジモドは暗やみに包まれて、みんなが燈火に照らされた車寄せの下を通っていくのをながめていた。だが、隊長は出てこなかった。
彼は悲しい思いで胸がいっぱいだった。ときどき、退屈した人のように空を見あげた。黒く、どんよりして、ちぎれ裂けた大きな雲がいくつか、星空の下に薄ものでできたハンモックのようにかかっていた。まるでクモの巣が空の丸天井にかかっているようであった。
そのうちにカジモドは、彼の頭の上に石の手すりがくっきりと浮きだしているバルコニーの扉がひそかに開くのを見た。ガラス張りのきゃしゃな扉が開いて、ふたりの姿が現われたかと思うと、扉は音もなくしめられた。男と女だった。カジモドは、男のほうはあの美男の隊長で、女のほうは、朝、この同じバルコニーの上から、この隊長に歓迎のことばをかけていたのを見たあの娘であることをやっと見きわめた。広場はまっ暗で、扉がしまったときに、そのうしろにおりた深紅色の二重のカーテンにさえぎられて、部屋の光はバルコニーの上にはほとんどもれてこなかった。
カジモドの耳には、ふたりのことばは何ひとつ聞こえなかったが、どうやら、若い男と女は夢中になって、愛を語りあっているようすだった。娘はだまって隊長に腰のあたりに腕をまわさせていたが、接吻のほうはやさしくこばんでいた。
カジモドは下からこの光景を見ていたのだが、その光景は、人に見せようとして演じられたものではなかったので、それだけますます風情《ふぜい》があった。彼は、この幸福で美しいありさまを、胸をさいなまれる思いでながめていた。なんといっても、この哀れな男にも自然の情はあったのだ。そしてその脊椎《せきつい》骨は、みっともなくねじれてはいたが、けっこう人並みに震えたのだ。
彼は、神が自分に与えてくれたみじめな役割のことを思った。女も、恋も、肉欲も、永遠に目の前を通り過ぎていくだけで、自分は、他人の幸福を見ているよりほかには、何もできないものだと考えた。彼はこのありさまを見て、ひどく心を乱された。あのジプシー娘がこのありさまを見たら、どんなに苦しみ悩むだろうと思うと、くやしさに腹立たしさが加わってくるのだった。
たしかに、その夜は非常に暗かったし、たとえエスメラルダがずっとあの場所にいたとしても(彼はそれを疑わなかったが)、その場所は非常に遠かった。彼自身がバルコニーの恋人たちの姿を見分けられたのが精一杯のところだったのだ。これがせめてもの慰めだった。
そのうちにも、恋人たちのささやきは、ますます熱をおびてきた。娘は隊長に向かって、もうこれ以上のことは何もしないでほしい、としきりに頼んでいるようすだった。カジモドは、何もよく見えなかったが、ただ、女が美しい手を合わせて涙をたたえながらほほえみ、星空を見あげているようすや、隊長の目が熱をおびて女を見おろしている様子だけが見えた。
さいわい、というのは、娘はもうほとんど男にさからわなくなったからだが、バルコニーの扉がふいにまたあいて、ひとりの老婦人の姿が現われた。娘は困ったようすだったが、隊長はいまいましそうなそぶりをみせた。そして、三人とも部屋の中に戻っていった。
まもなく、馬が車寄せの下でしきりにあがきはじめ、美男の隊長が夜の外套に身を包んで、カジモドの前を足ばやに通りすぎた。
鐘番は相手がまちかどを曲がるまでじっとしていたが、やがて、サルのようにすばやくあとを追って走りだして叫んだ。
「おおい! 隊長さん!」
隊長は立ちどまった。
「なんの用だ、ふらち者め?」
彼は自分のほうに向かって体を揺すり揺すり走ってくる、腰のくだけたような男の姿を暗い中に認めて、こう言った。
そう言っているうちに、カジモドは彼のところにやってきて、大胆に馬のくつわを取り、「隊長さん、おれについてきてくだせえ。おまえさんと話をしたがっている人がいるんだよ」
「おや! きさまはどこかで見たことがあるような、いつも髪をもじゃもじゃとさせている、いやなやつだな」と、フェビュスはつぶやいた。
「おい、この野郎! くつわを放さんか」
「隊長さん、誰なんだ、とは訊《き》いてはくれないのかね?」と、カジモドは答えた。
「馬を放せと言うのだ」と、フェビュスはいらいらしながら言った。「馬の鼻にぶらさがりおって、ばかものめ、なんの用だ? 馬と首吊り台とを間違えたのか?」
カジモドは、くつわを放すどころか、馬をひき返させようとしていた。隊長がなぜ抵抗するのかわからなかったので、急いでこう言った。
「来てくだせえ、隊長さん。おまえさんを待っているのは女なんだ」
彼は一所懸命になってこう言いそえた。「おまえさんに惚《ほ》れている女なんだ」
「下賎者《げせんもの》め! おれに惚れている女のところへ、いちいち行っていられると思うか! 口さきだけでそう言っているのかもしれんのに!……それに、その女がきさまのようなミミズクづらをしていたら、どうなるんだ?……おまえをよこした女に、おれはこれから結婚するんだ、女なんかくそくらえだ、と、そう言え!」
「まあ、聞いてくだせえ」
カジモドは、こう言えば男がしりごみすることもなかろうと思って叫んだ。
「来てくだせえよ、だんな! おまえさんも知っている、あのジプシー娘なんだ!」
こう言われて、実際、フェビュスはどきりとした。だがそれは、カジモドが期待していたような心の動きではなかった。
みなさんも思い出されるだろうが、この粋《いき》な隊長は、カジモドがシャルモリュの手から囚人の女を救いだす少しまえに、フルール=ド=リといっしょに家の中に戻っていたのだった。それ以来、ゴンドローリエ邸を訪問するときには、いつもこの女のことを口にださないように気をつけていた。この女のことを思い出すと、なんといっても心が痛んだのである。それにフルール=ド=リのほうでも、あのジプシー娘が生きていることを男の耳に入れるのはまずいと思っていた。それでフェビュスはあの哀れな≪シミラール≫は死んだものと思っていたし、しかも、それが一、二カ月もまえのことだと信じていたのである。
それにまた、ちょっとまえから隊長は、夜の深い闇や、この世のものとは思われない醜い男や、この不思議な使者の、墓から出てくるような声のことを考えていた。もう真夜中もすぎて、通りはちょうど修道服のお化けにことばをかけられたあの晩のように、まったく人通りもなく、馬もカジモドを見ながらあえいでいた。
「ジプシー娘だと!」と、彼はおどおどしながら叫んだ。「そうか、さてはきさま、あの世から来たのだな?」
こう言って、剣のつかに手をかけた。
「さあ、早く、早く、こっちのほうだ!」と、カジモドは馬をひいて行こうとしながら言った。
フェビュスは長靴で、カジモドの胸をしたたかけとばした。
カジモドの目はキラりと光った。彼は隊長にとびかかろうとしたが、すぐ体を堅くして言った。
「ああ! おまえさんには愛してくれる誰かがいて、ほんとうにしあわせだな!」
彼は、この≪誰か≫ということばに力をいれて言った。そして馬のくつわを放しながら、「さあ、どこへでも行っちまうがいいや!」と言った。
フェビュスは何か悪態をつきながら、馬に拍車をいれた。カジモドは、彼が通りの霧の中に消えていくのを見ていた。
「ああ! あれをことわるなんて!」と、哀れな耳の聞こえない男は小声でつぶやいた。
彼はノートルダムに戻り、ランプをつけて、また塔へのぼっていった。思ったとおり、娘はあいかわらず同じところにいた。遠くから彼の姿を見つけると、そばに走りよってきて、「まあ、ひとりなの!」と、悲しそうに、美しい手を合わせながら叫んだ。
「会えなかったよ」と、カジモドは冷やかに言った。
「ひと晩じゅう、待っていなくちゃいけなかったのに!」と、彼女はぷりぷりして言った。彼は、その怒った身ぶりを見て、とがめられているのがわかった。「今度はうまくあいつを待ち伏せしてみせるよ」と、彼はうなだれて言った。
「あっちへ行ってちょうだい!」と、彼女は言った。
彼は娘から離れていった。彼女は彼のしたことに不満だった。彼は、娘に悲しい思いをさせるくらいなら、娘からひどいめに会わされるほうがましだと思っていた。悲しみはみな自分の胸におさめておこうと思っていたのだ。
この日からというもの、娘はもう彼の姿を見かけなくなった。彼は娘の部屋にくることをやめてしまったのだ。せいぜい、もの悲しげに彼女のほうをじっと見つめている鐘番の姿が、塔の頂上に見えるくらいなものであった。だが、彼女に気づかれると、彼は姿を消してしまった。
哀れなこぶ男が自分のほうから勝手にここに来なくなったのを、娘があまり悲しく思っていなかったということは、言いそえておかなければなるまい。心の底では、むしろ来ないことを彼に感謝しているくらいであったのだ。そのうえ、カジモドのほうでも、この点について、思い違いをしていたわけではなかったのである。彼は姿こそ現わさなかったけれども、彼女のまわりに守護神として出現していることは、彼女にも感じられた。彼女の食べ物は、眠っているうちに、目に見えぬ手で新しくなっていた。ある日の朝などは、見ると、窓の上に鳥かごがひとつ置いてあった。
また、娘の部屋の上には彫像がひとつあって、彼女はそれが恐ろしかった。何回となくカジモドの前で恐ろしさを示してみせたのだが、ある朝(というのも、こういうことはみんな、夜のうちに行なわれたからだが)、見ると、それがなくなっていた。誰かがそれを砕いてしまったのだ。この彫像のあるところまでよじ登っていった者は命の危険をおかしたに違いなかった。
ときには、夜になると、鐘楼の風よけの陰から、彼女にまるで子守歌をうたってでもやるように、奇妙な悲しげな歌をうたう声が聞こえてきた。それは耳の聞こえない男でもうたえるような、韻もない歌であった。
姿を見ちゃいけないよ、
お嬢さん、心を見て下さいな。
きれいな若い男の胸は、たいてい汚ないものなんだ。
恋の心は秋の空、うつろいやすい心もあるよ。
お嬢さん、モミはきれいな木じゃないが、
ポプラのようにきれいじゃないが、
冬になっても葉は落ちない。
ああ! 言ったところでかいもない。
きれいじゃないやつぁ死ぬがいい。
器量自慢は器量が好きで、
四月は一月に背を向ける
きれいでさえありゃ玉のよう、
きれいであれば、なんでもできる。
きれいであるのは、割れてはいないたったひとつの ものなんだ。
カラスは昼だけ空を飛び、
フクロウは夜だけ空を飛ぶ。
白鳥、夜も昼も飛びまわる。
ある日の朝、目をさましてみると、窓の上に、花をいっぱいに盛った花びんがふたつ置いてあった。ひとつは、美しい、ぴかぴか光った水晶の花びんであった。だがそれには、ひびがはいっていた。そこにいっぱいはいっていた水は流れだしてしまって、いけてあった花はしぼんでいた。もうひとつのほうは、粗末な、ごくありふれた素焼きの壷であったが、その中には、水が少しも流れずにたたえられていて、その花はあいかわらず生き生きとまっ赤に咲きほこっていた。
故意にしたものかどうか、私は知らない。だが、エスメラルダは、しおれたほうの花束を取って、その日いち日それを胸に抱いていた。その日は、塔からの歌声は、彼女の耳には聞こえてこなかった。
彼女はべつにそれに気もとめず、何日ものあいだ、ジャリの頭をなでてやったり、ゴンドローリエ邸の扉のほうをじっと見まもったり、フェビュスのことを小声でなんとなく言ってみたり、また、パンを屑《くず》にしては、それをツバメにやってみたりして日を送っていた。
おまけに、彼女は、まったくカジモドの姿を見ないようになり、その声も聞かないようになってしまった。あの哀れな鐘番は、この大聖堂から姿を消してしまったのではないかと思われた。
だが、ある晩のこと、彼女が眠られぬままにあの美男の隊長のことを思っていると、部屋の近くで寝息が聞こえた。どきりとして立ちあがってみると、月の光に照らされて、何か不格好なかたまりが、部屋の戸口のところに横に寝ているのが見えた。カジモドが石の上に眠っていたのだ。
五 赤門の鍵
そのうちに、司教補佐は、どのような奇跡的な手段でジプシー娘が救われたかを、世間の噂から知るようになった。それを知ったときの気持は、彼自身にもわからなかった。エスメラルダが死ぬものとして、すっかり手はずを決めておいたのだ。そうやってまったく安心していた。彼は人間として感じられるかぎりの苦痛の底の底まで触れてしまったのである。人間の心というものは(クロード師はこういう問題について深く考えてきていたのだったが)、絶望もある量までしか抱けるものではない。水をいっぱいに吸いこんでしまった海綿は、大海の水がその上に流れてきても、もう一滴でもよけいにとり入れることはできないものだ。
さて、エスメラルダは死んでしまい、海綿は水を吸いこんでしまった。クロード師にとっては、この世において、万事が終わってしまったのだ。でも女は生きている。フェビュスもそうだ。そう感ずると、また苦しみがはじまった。動揺と、迷いと、要するに人生がまたはじまったのだ。クロードはあらゆることに疲れ果ててしまった。
彼はこの知らせを聞くと、修道院の独房に閉じこもってしまった。参事会の会議にもミサにも姿を現わさなかった。誰が来てもドアを開けず、司教に対しても閉めたきりだった。こうやって何週間ものあいだ閉じこもっていた。病気なのだろうと言われた。そのとおり病気だったのだ。
こうして閉じこもって、いったい何をしていたのだろう? この不幸な男はどんなことを考えて、もがいていたのだろうか? 自分の恐ろしい情熱と最後の戦いをしていたのだろうか? 娘を殺し、自分から永遠の罰にとびこむような最後の計画をめぐらしていたのだろうか?
あのジャン、愛する弟、あの甘ったれ坊主のジャンが、一度訪ねてきたことがあった。ジャンがいくらドアを叩き、悪態をつき、頼み、何度自分の名を名のっても、クロードはドアを開けなかった。
彼は窓ガラスに一日じゅう顔をつけたまま、幾日もすごした。修道院の中にあるこの部屋の窓から、エスメラルダの小部屋を見ていたのだ。彼女はよくヤギといっしょにいたが、カジモドといるときもあった。彼はあの耳の聞こえない醜い男が、あれこれと細かいことに気をつかったり、娘の言いなりになったりして、注意深く、素直にジプシー娘に仕えていることに気がついた。
彼はあることを思い出した。というのも、彼はとても記憶力がよかったからだが。そして、記憶というものは、嫉妬深いものにとっては、拷問のもとだった。彼は、鐘番があのいつかの夕方、娘が踊るのを見ていたときのおかしな目つきを思い出したのだ。カジモドがどういうわけで娘を救う気になったのか、いろいろと考えてみた。彼が遠くから見るジプシー娘と耳の聞こえない男とのさまざまな無言劇は、燃える心で解釈してみると、なかなか愛情こまやかなものにみえるのだった。彼は気まぐれな女心を信用していなかった。それで、彼の心の中に、思ってもみなかった嫉妬がわきあがってくるのがぼんやりと感じられた。自分でも、恥ずかしさと怒りで顔が赤くなるような嫉妬だった。
〈あの隊長に対してならまだしも、あいつに対してとは!〉
こう考えると、彼の心は動転《どうてん》した。
夜になると、恐ろしい思いにとらわれた。ジプシー娘が生きていると知ってからというもの、昼のあいだじゅうつきまとっている幽霊と墓の冷たい影は消え去り、また肉欲が戻ってきて、体をかきむしるのだった。褐色の髪の娘がすぐそばにいると感じるだけで、彼はベッドの上でのたうちまわるのだった。
毎晩のように、錯乱した妄想のために、かつて血をひどく沸きたたせたあのエスメラルダのさまざまな姿が、頭に浮かんでくるのであった。彼には、女が目を閉じて、その美しいのどがフェビュスの血にまみれ、短剣の刺さった隊長の上に倒れている姿が見えた。快楽にとりつかれていたあのとき、司教補佐は、彼女の蒼白い唇の上に、自分の唇を押しつけたのだった。そしてこの不幸な女は、なかば死んでいるようなものであったとはいえ、その接吻のやけるような熱さを感じたのだった。
彼はまた、拷問役人の野蛮な手で着物を脱がされ、その小さい足も、かわいい丸まるとした脛《はぎ》も、しなやかな白いひざも、鉄のねじ釘のついた足枷《あしかせ》に裸のままはめこまれている姿をも見た。また、その象牙のようなひざが、トルトリュの恐ろしい機械のそとに片方だけ残っているのも目にうつった。ちょうどあの最後の日に見たように、娘が肌着一枚にされて、首を縄でしばられ、また、肩も足も裸にされ、また、ほとんど裸体になっている姿も見た。これら肉欲の姿を見ると、彼のこぶしはぶるぶると震え、背すじに身震いが走るのだった。
ある晩、その幻はとくに激しく、彼の血管の中の童貞と司祭の血をむごたらしいまでに沸きたたせた。彼は枕を噛《か》んでベッドからとび起き、シャツの上に白衣をひっかけ、手にランプを持ち、半裸体のまま、狂ったように部屋をとびだした。目を炎のように光らせて。
彼は、修道院と大聖堂のあいだにある赤門の鍵のありかを知っていた。それに塔の階段の鍵は、みなさんももうご存じのように、彼がいつでも身につけて持っていたのである。
六 赤門の鍵《つづき》
その夜、エスメラルダはいっさいを忘れ、希望と楽しい思いで胸をいっぱいにして小部屋の中で眠っていた。いつものようにフェビュスの夢を見ながら眠りこんで、しばらくたったころだった。なにか、あたりで物音がするような気がした。彼女は鳥のように眠りが浅く、びくびくしているほうで、ちょっとしたことで目をさますたちだった。目をあけると、あたりはまっ暗だった。それでも明かりとりの窓からひとつの顔が自分の姿をのぞいているのが見えた。ランプがひとつ、この幽霊を照らしていたのだ。幽霊は、エスメラルダに見られているのに気がつくと、ランプを吹き消した。それでも、娘はそのあいだに相手の姿をちらっと見てしまった。恐ろしさのあまり、まぶたを閉じた。
「あ! あの司祭だ!」と、消えいるような声で娘は言った。
過ぎ去ったすべての不幸が、いなずまのようにさっと思い出された。彼女は凍りついたようになって、ベッドの上にくずおれてしまった。
しばらくすると、なにかが全身に触れるのがわかった。彼女はがたがたと震えて、ベッドの上に身を起こした。もうはっきりと目もさめ、怒りに燃えていた。
司祭が彼女のそばに忍びこんできて、両腕で彼女を抱きかかえていたのだ。
娘は叫び声をあげようとしたが、声にならなかった。
「出ていけ、化け物め! 行ってしまえ、人殺し!」と、彼女は、激しい怒りと恐怖に震える小声で叫んだ。
「頼む! お願いだ!」
司祭はこうつぶやきながら、娘の肩に唇を押しつけた。彼女は両手で男の残った髪の毛を持って、はげ頭をひっつかみ、まるで噛みつかれたみたいに、必死になって、その唇をどけようとした。
「お願いだ!」
可哀そうにも男は繰り返した。「わしがどんなにおまえを愛しているかわかってくれたら! わしの愛は火のようなものだ。とけた鉛のようなものだ。わしの心には幾千ともしれぬ刃《やいば》が突きささっている!」
彼は人間わざとも思われない力で、娘の両腕をむんずとつかんだ。娘は死にもの狂いになって叫んだ。
「放して! 放さないと、顔につばをかけてやるから!」
彼は手を放した。「わしを卑しんでくれ、ひっぱたいてくれ、意地悪をしてくれ! なんでも好きなようにしてくれ! だがお願いだ! わしを愛してくれ!」
これを聞くと、彼女は子どもが怒ったときのように、彼をひっぱたいた。男の顔をめちゃめちゃにしてしまおうと、その美しい腕に力をこめるのだった。「あっちへ行け、悪魔!」
「愛してくれ! このわしを愛してくれ! 可哀そうだと思ってくれ!」
司祭はみじめにもこう言いながら、娘の体の上でのたうちまわり、打たれながら愛撫でそれに答えていた。
とつぜん、彼女は、男の力が自分よりも強くなったのを感じた。「さあ、片をつけてしまわねばならぬ!」と、彼は歯ぎしりをしながら言った。
彼女は男の腕に押えこまれ、息をはずませていた。押えつけられて力つき、もう彼の思いのままだった。彼女は、淫《みだ》らな手が自分をまさぐっているのを感じ、最後の力をふりしぼって叫んだ。
「助けて! 誰か来て! 人殺し! 人殺し!」
何も起こらなかった。ジャリだけがさっきから目をさましていて、不安そうに鳴いていた。
「黙れ!」と、息をはずませて、司祭は言った。
とつぜん、もがきながら床の上を動いていると、何か冷たい、金属製のものが手にさわった。カジモドの笛だった。それだけが望みの綱と、必死になってそれを握りしめ、唇にもっていって、残っていた力をふりしぼって吹き鳴らした。笛は、澄んで、鋭く、耳をつんざくような音をたてた。
「なんだ、それは?」と、司祭は言った。
ほとんど同時に、彼は、自分がたくましい腕で抱き上げられたのを感じた。部屋は暗く、誰が自分をこんなふうにつかみ上げたのか、はっきりと見わけがつかなかった。怒りでガタガタ鳴る歯の音だけが聞こえた。そして、暗やみの中にもれてくる光があったので、それでどうにか、頭上に短刀の幅広《はばひろ》の刃《やいば》がぎらりと光ったのが見えた。
司祭はカジモドの姿を見たような気がした。あの男以外の者であるはずがないと考えた。そういえば、はいるときに、ドアをふさぐようにころがっていた包みのようなものにつまずいたことを思い出した。でも、いまやってきた男がひとことも口をきかなかったので、どう考えていいかわからなかった。彼は「カジモド!」と叫びながら、短刀を振りかざした腕にとびかかった。このせっぱつまったときに、カジモドが耳が聞こえないのだということを忘れていたのだ。
あっというまに司祭は床《ゆか》に投げ出され、鉛のようなひざが胸にのしかかるのを感じた。ごつごつしたひざで押しつけられてみて、いよいよそれがカジモドであることに気がついた。でもどうしたらいいのだろう? どうしたら、この耳の聞こえない男に自分だとわかってもらえるだろう? 夜のやみで、この男の目は働かなかったのだ。
もうだめだった。娘は、たけり狂ったトラのように無慈悲で、司祭を助けようなどとはしなかった。短刀がもう少しで頭に触れようとした。危機一髪のとき、とつぜん敵はためらう様子であった。
「女の上に血を流しちゃいけない!」と、男は鈍い声で言った。
まさしくそれは、カジモドの声だった。
そのとき司祭は大きな手で足をひっぱられ、部屋の外へひきずっていかれるのを感じた。外で殺されるに違いない。しかし彼にとって幸いなことには、しばらくまえから月が出ていた。
ふたりが部屋の戸口をまたいだとき、青白い月光が司祭の顔を照らした。カジモドは相手の顔をまともに見て、ぶるぶるっと身震いをし、相手を放してあとずさりした。
ジプシー娘は敷居のところまで出てきたが、急にふたりの立場が変わったのを見てびっくりした。いまや司祭のほうが居丈高《いたけだか》になり、カジモドのほうがひたすら哀願していた。
司祭は身ぶりで、怒りと非難とをこの男にぶちまけ、引きさがっているようにと、乱暴に合図をした。
カジモドは頭を下げていたが、やがて、ジプシー娘の部屋のドアの前にやってきてひざまずいた。
「だんなさま」と、重々しい、あきらめきったような声で言った。「どうぞお好きなようになすってくだせえ。だが、まず、わしを殺してくだせえ」
こう言って、彼は司祭に短刀を差し出した。司祭はわれを忘れて、その短刀にとびついた。でもそれより早く、娘はカジモドの手から短刀を奪い取って、狂ったように笑いだしながら「さあ、おいで!」と、司祭に向かって叫んだ。
彼女は刃《やいば》を高くふりかざした。司祭はどうしたらいいかわからなかった。ほんとうに切りつけてくるかもしれなかったのだ。
「近よれないじゃないか、卑怯者!」娘はそう叫ぶと、無慈悲な言いかたで、それが司祭の心にまっ赤にやけた鉄をいくつも突き刺すことになるのを承知のうえで、こう言いそえた。
「ああ! あたしはフェビュスさまが死んでいないのを知っているんだよ!」
司祭はカジモドをけとばして、床の上にころがした。そして、怒りに身を震わせながら、階段の丸天井の下に消えていった。
彼が行ってしまうと、カジモドは娘を、救った笛を拾いあげて、「錆《さび》ついてしまったな」と言いながら、それを彼女に返した。そして、娘をひとり置きざりにして行ってしまった。
娘はこうした激しい騒ぎにすっかりびっくりしてしまい、ぐったりとなって、ベッドの上に倒れ、しゃくりあげながら泣いた。前途はまた、まっ暗になってしまったのだ。
一方、司祭は手さぐりをしながら自分の部屋に戻っていった。
もうおしまいだった。クロード師はカジモドに嫉妬していた!
彼は考えこんでいるようなようすで、あの不吉なことばを繰り返した。
「誰にもあの女をわたすものか!」
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第十編
一 グランゴワール、ベルナルダン通りでつぎつぎといろいろな計りごとをめぐらす
ピエール・グランゴワールは、今度の事件がすべてどうなっていったかを、またこの劇の主人公たちが、縄にかかったか、縛り首になったか、それともほかに、不幸な目にあったに違いないことを見てとってからというものは、もうこの事件の巻きぞえをくいたくなかった。グランゴワールは、いろいろ考えたすえ、宿なしどもをパリのこのうえもない仲間だと思って彼らの中に暮していたのだが、宿なしたちは、ジプシー娘の身の上をあいかわらず心配していた。それが彼らにとってごくあたりまえのことだということが、彼にはよくわかっていた。なんと言っても、彼らは、あの女と同じように、シャルモリュやトルトリュの手に渡るよりほかには考えられないような者どもで、彼のように、ペガソス〔ギリシア神話中の翼のある馬。詩的霊感をあらわす〕のふたつの翼に乗って空想の世界を駆けまわるすべを知らなかったのだ。
彼は、この連中の噂話から、壷を割って結婚式をあげた自分の女房が、ノートルダム大聖堂に逃げ込んだのを知って大いに安心していた。しかし、そこに行って彼女に会ってみたいという気もおこらなかった。ときどき、あの可愛いヤギのことを思うこともあったが、ただそれだけだった。そのうえ、昼間は生きるために軽わざをしていたし、夜は遅くまで起きて頭をしぼり、パリの司教をやっつける訴訟書類を書いていたのだ。というのも彼は、司教の水車小屋の車に水をたっぷりかけられたことを思い出して、それを恨みに思っていたからである。
そのほかにまた、ノワイヨンとトゥールネの司教ボードリ・ル・ルージュの美しい作品『石の切りかたについて』に注釈を加えるという仕事もしていた。この書物は、建築に対する激しい興味を彼に与えたものであって、彼はしだいに、心のうちで錬金術に関する興味を失って、そちらの方へと心が傾いていった。だがそれは、彼にとっては必然の結果にすぎないのであった。というのは、錬金術と煉瓦工事との間には、ひとつの密接な関係があるからである。グランゴワールは、観念を愛する気持から、この観念の形式を愛する気持へと移っていったわけである。
ある日のこと、彼は、サンジェルマン=ローセロワの付近の≪フォール=レヴェーク≫と呼ばれていた邸《やしき》の角に立ち止まっていた。この邸は≪フォール=ル=ロワ≫と呼ばれているもうひとつの邸の正面にあったものである。そのフォール=レヴェークには、十四世紀にできた美しい礼拝堂があって、その後陣はまちの方に向いていた。グランゴワールは、その外側にある彫刻を、うやうやしい態度でしらべていた。彼はいま、芸術家がこの世にあるもののうちで芸術だけを見て、芸術のうちに世界を見ている、あの利己的な、一徹《いってつ》な、崇高な喜びにひたっていたのだった。
と、とつぜん、肩の上に重々しく手が置かれるのを感じてふと振り向くと、それは彼の旧友であり、旧師である司教補佐であった。彼はびっくりして、しばらくぽかんとしていた。彼は、長いこと司教補佐に会っていなかった。クロード師はいつも、もったいぶっていて、情熱的なところのある人だったので、彼に会うと、いつでもグランゴワールは、懐疑派の哲学者としての心の平衡《へいこう》を乱されるのであった。
司教補佐がしばらく黙っていたので、そのあいだにグランゴワールは、彼のようすをとっくりとながめることができた。見ると、クロード師はずいぶん変わっていた。冬の朝のように顔色は蒼白く、目はくぼみ、髪の毛はほとんど白くなっていた。
とうとうクロード師のほうが沈黙を破って、もの静かな、だが冷やかな口調でこう言った。
「元気かね? ピエール君」
「健康のことですか? そうですな、どうとも言えますな。どっちにしても、まあよい方でしょう。私は、過度のことはしないのです。ご存じのように、健康の秘訣は、ヒッポクラテスのことばにしたがえば、『すなわち、食うこと、飲むこと、眠り、愛、すべてほどほどであれ』ですからな」
「それじゃ、きみには心配ごとはないのだね? ピエール君」と、司祭は、グランゴワールをじっと見つめながらきいた。
「そうですとも。ありませんよ」
「それで、いま、何をしているのだ?」
「ごらんのとおりですよ、先生。この石の切り口や、この浅浮彫りの切り方などをしらべているんです」
司祭は笑いだしたが、それは、口の片方のはしをゆがめて笑う、あの苦笑いであった。「そして、それはおもしろいかね?」
「天国ですな!」と、グランゴワールは叫んだ。そして、生きた現象を証明する者のような、夢中になってしまった顔つきをして、彫刻の方に身を傾けながら、「たとえばこの、じつにたくみに、根気よく、うまく飾りつけて作られた、浅浮彫りの変形がお見えになりませんか? この小柱に目をとめてごらんなさい。どの柱の頭を見たって、これほどやさしく、これほど鑿《のみ》にかわいがられた葉模様《はもよう》を、ごらんになったことがないでしょう。ほら、ここに、ジャン・マイユヴァンの三つの丸彫りがあるでしょう。これは、あの大天才の最高傑作とは申せませんが、しかし、その素直さといい、顔のやさしさといい、構えや衣服の垂れの明るさといい、またあらゆる欠点の中にまじっている、この説明しえない魅力といい、すべては、小さな像を軽快にし、繊細にしているのです。おそらく、あまりにも、そうでありすぎるとさえ言えるかもしれません。……これをおもしろいとはお思いになりませんか?」
「もちろん、思うとも!」
「それに礼拝堂の中をごらんになれば、それこそ!」と、詩人は、夢中になって言った。「それこそ、いたるところ彫刻ですよ。まるで、キャベツの芯《しん》のように、うじゃうじゃしていますよ! 後陣は、非常にうやうやしい気持で、また特別なやり方で彫ってあるので、あんなようなものは、ほかにどこに行っても見たことはありませんでしたな!」
クロード師は、彼の言うことをさえぎって、「すると、きみは幸福なんだね?」と、きいた。
グランゴワールは、熱をこめて答えた。
「誓って幸福ですよ! まず、女を愛しました。つぎに動物を愛しました。いまでは石を愛しています。それは女や動物とまったく同じようにおもしろいものですよ。それに石の方は不実じゃありませんからね」
司祭はひたいに手をあてた。それは、彼のいつもの癖であった。「ほんとうだな!」
「まあ、お聞き下さい! 人は誰でも、さまざまな娯楽をもっているものです!」
彼は司祭の腕をとり、司祭のほうは、なすがままになっていた。そして彼は司祭をフォール=レヴェークの階段の小塔の下に連れこんだ。
「ほら、ここに階段があるでしょう! この階段を見るたびに、私はうれしくなるのです。これはパリのうちで、もっとも単純で、めったにないような作り方ですね。踏段《ふみだん》はすべて下の方の角が斜めに切り落とされています。その美しさと単純さとは、およそ、その幅が三十センチぐらいある一つ一つの踏板にあるのでして、その踏板はまた、一つ一つ組み合わされてさしこまれ、はめこまれ、つなぎ合わされ、象眼《ぞうがん》がほどこされ、浮彫りがしてあって、じつにしっかりと、もの柔らかな仕方で喰い合わさっているのですよ!」
「そして、きみには、なんの望みもないのかね?」
「ありません」
「なにも後悔していないのか?」
「後悔も欲望もありませんな。私は、ちゃんとした生活をしましたからね」
「人間はちゃんとした生活をしていても、さまざまなことで乱されるものだ」
「私は、懐疑派の哲学者でして、あらゆるものを均衡の状態にしておくのです」
「ところできみは、どうやって食っているのだね? きみの生活だよ」
「私は、また、あちこちで叙事詩や悲劇を作っています。だけど、もっとも収入の多いのは、先生、ご承知のように、あの仕事ですよ、あの、椅子を重ねて、歯でそれを持ちあげるというやつですよ」
「その職業は、哲学者としては卑しいな」
「これも均衡の一種ですよ」と、グランゴワールは言った。「ひとつの思想をいだいているときには、なんにでもそれが現われてくるものですよ」
「なるほどな」と、司教補佐は答えた。
しばらく黙っていたが、やがて司祭は言った。
「でもやはり、きみも相当みじめなものだな」
「そうです、みじめなものですよ。ですが、不幸じゃありませんよ」
このとき、馬の足音が聞こえてきた。いままで話をしていたふたりは、ふと見ると、通りのはずれに、王室射手隊の一隊が槍を高くあげ、隊長を先頭にして、隊を組んで進んで来たのだった。この騎馬の一隊は、きらびやかな姿で、舗道を踏みならしながら通り過ぎて行った。
「あなたは、あの士官をじっとごらんになっているようですね!」とグランゴワールは司教補佐に言った。
「どうも見覚えがあるように思われるのでな」
「名前はなんというのですか?」
「おそらく、フェビュス・ド・シャトーペールというのだと思うが」
「フェビュスですって! 妙な名前ですな! フォワ伯爵にもフェビュスという人がありましたね。私の知っている娘で、神に誓うときにはいつでも、フェビュスという名を口ばしっている女がいたのを覚えていますよ」
「ちょっと来たまえ。きみに話したいことがあるのだ」
あの一隊が行ってしまってからというものは、司教補佐の氷のような冷たい衣の下に、心の動揺がありありと感じられた。彼は歩きだした。グランゴワールは、彼の言うことならなんでもきくという習慣があったので、人を威圧する力のあるこの男にひとたび近づいたことのある者ならば誰でもそうであるように、彼もそのあとについていった。ふたりはものも言わずに、ベルナルダン通りまでやってきた。そこはほとんど人通りがなかった。クロード師はそこで立ちどまった。
「話したいことって、なんですか、先生?」と、グランゴワールはきいた。
「きみはな、いま会った、あの騎馬隊の男たちの服がきみの服やわしの服よりもきれいだと思っているんじゃないかね?」と、司教補佐は、深く考えあぐんだようすで答えた。
グランゴワールは頭を振った。「とんでもない! あんな鉄や鋼鉄のうろこなんかよりも、私の黄色や赤の長衣の方がいいですな。フェライユの波止場が地震でたてるような音を、歩きながらたてるなんぞは、およそお笑いですな」
「じゃ、グランゴワール君、きみはあの射手の袖付胴着をきた美男子のやつらを羨《うらや》ましいと思ったことはないかね?」
「羨むって、何をですか、司教補佐さん? 力をですか? 甲胄《かっちゅう》をですか? それとも訓練をですか? たとえ身にぼろをまとっていても、哲学と独立との方がよっぽどいいですね。鶏口《けいこう》となるも牛後《ぎゅうご》となるなかれ、ですからな」
「それは奇抜だ。でも、美しい制服は、やはり美しいものだよ」と、司祭は、何か夢見るように言った。
グランゴワールは、司祭がもの思いに耽《ふけ》っていたので、彼から離れて、隣の家の車寄せの素晴らしさを見に行った。やがて、手を打ちながら帰って来た。
「先生がもうあまり軍人のきれいな服なんかに見とれなくなりましたら、司教補佐さん、どうかあのドアを見にいらっしゃいませんか。いつでも申し上げておりましたように、オーブリ殿の家の入口は、ちょっとよそでは見られない素晴らしいものですよ」
「ピエール・グランゴワール君、きみはあの可愛いジプシーの踊り子をどうしたのかね?」
「エスメラルダですか? どうも急に話がとびますね」
「あれはきみの女房じゃなかったのかね?」
「そうですよ、壷を割る式のね。四年間そうなのです」グランゴワールは、半ばからかうようなようすで司教補佐を見ながら、言いそえた。「ときに、先生はあいかわらず、あの女のことを思っていらっしゃるのですか?」
「きみのほうは、もう考えてはいないのかね?」
「ほとんどね。……なにしろ忙しいですからね!……だけど、あの小ヤギはまったく可愛らしかったですな!」
「あのジプシー女は、きみの命を助けてくれたのじゃなかったかね?」
「いやまったく、そのとおりです」
「ところで、あの女はどうなったのだね? きみはあの女をどうしたのだ?」
「申し上げないことにしましょう。おそらく絞首台にかけられたと思いますよ」
「そう思っているのか?」
「はっきりとはわからないのですよ。やつらが誰かを絞首台にかけようとしているなと見たときには、わたしは、その場から逃げてしまいましたからね」
「きみの知っているのはそれだけか?」
「ちょっとお待ち下さい。人の噂によると、あの女はノートルダムに逃げこんで、それで安全になっているということですよ。わたしもそれを聞いて、よろこんでいるのです。あのヤギも女といっしょに助かったかどうかは、まだわからないのです。わたしの知っているのは、それだけです」
「では、わたしがそれ以上のことを教えてやろう」と、クロード師は叫んだ。彼の声はそのときまで低く、ゆっくりとして、ほとんど聞きとれないくらいだったが、急に大きくなった。
「あの女は、実際、ノートルダムに逃げこんだのだ。だが三日たつと、またお上《かみ》の手に捕えられて、グレーヴ広場で絞首刑になるだろう。高等法院の逮捕状が出ているのだ」
「それは困ったことですな」と、グランゴワールは言った。
司祭はあっという間に、また冷静になった。
「いったいどんなやつが、もの好きに余計なおせっかいをして、再逮捕の請願なんかをしたんでしょう?」と、詩人が言った。「高等法院をそっとさせておくことはできなかったのでしょうかね? 可哀そうな娘がひとりぐらいノートルダムのひかえ壁の下のツバメの巣のそばに逃げ込んでいたって、それがいったい何だっていうんでしょう?」
「世の中にはいろいろな悪魔がいるからな」と、司教補佐は答えた。
「そいつは、まったく遺憾《いかん》なことですね」と、グランゴワールは言った。
司教補佐はしばらく黙っていたが、やがて、「それで、きみは、あの女に命を助けられたのだろう?」と言った。
「あの愉快な宿なしどもの中でね。もうちょっとで、わたしは吊るされるところでしたよ。でもそんなことをしたら、彼らはいまじゃ後悔してるでしょうがね」
「きみは、あの女のために、何かしてやろうとは思っていないのかね」
「できることならしたいのですが、無理でしょうな、クロード先生。まごまごして、いやな事件にまきこまれでもしたら困りますからね」
「かまわぬ!」
「えっ! かまわぬですって! あなたはひどいかたですね、先生! わたしは、大きな作品をふたつ書きはじめたところなんですよ」
司祭は額を叩いた。しきりに平静さをよそおってはいたが、ときどき、体を激しく動かすところを見ると、内心はおだやかでないことがわかるのだった。「どのようにして救うかだ?」
グランゴワールは言った。「先生、お答えしましょう。≪イル・パデルト≫ですな。これはトルコ語で≪神こそわれらが望み≫という意味なのです」
「どのようにして救うかだ?」と、クロード師は夢見るように繰り返した。
今度は、グランゴワールのほうが額を叩いた。
「お聞き下さい、先生。いい思いつきがありますよ。いい工夫を教えてあげましょう。……国王に特赦《とくしゃ》をお願いしてみたらどうでしょうか?」
「ルイ十一世にか? 特赦を?」
「なぜいけないんですか?」
「生きたトラから骨を抜くようなものだ!」
グランゴワールは、何か新しい解決策はないかと考えていたが、「ああ! これじゃどうでしょう!……産婆に頼みこんで、あの娘が妊娠したと言ってもらうのは、どうでしようか?」
これを聞くと、司祭のくぼんだ瞳がきらりと光った。
「妊娠だって! ばかな! きみに、そんな覚えがあるのか?」
グランゴワールは、相手のようすにすっかりおびえてしまい、急いでこういった。「いや! わたしじゃありませんよ! わたしたちの結婚は、まったくの≪別室結婚≫だったのです。つまり、わたしは部屋の外にいたというわけで。だけど、結局、執行猶予を得ればいいんでしょう?」
「こいつめ! 破簾恥《はれんち》なやつだ! 黙れ!」
「お怒りになるなんて間違っていますよ」と、グランゴワールはブツブツ言いながら、「執行猶予が得られるのですよ。誰に迷惑をかけるというのでもないし、それにまた、産婆たちにパリ金の四十ドニエばかりもうけさせてやることにもなるんですよ。なにしろ、やつらは貧之ですからな」
司祭は、彼の言うことなどは聞いていなかった。
「ともかく、あの女をあそこから出さなければならぬ!」と、彼はつぶやいた。「逮捕状の執行期限は三日だからな! それに、あいつには逮捕状は出ないだろう、あのカジモドにはな! 女というものは、ずいぶん下等な趣味をもっているものだ!」
それから声を高くして、「ピエール君、わしもいろいろ考えてみたが、あの女を救い出す手段は、たったひとつしかないのだ」
「どういうのですか? わたしには、わかりかねますが」
「まあ、聞け、ピエール君。きみはあの女に命を助けられたことを、よもや忘れはしないだろう。わしの考えを率直に言おう。ノートルダムには、昼も夜も見張りがついている。この大聖堂にはいるのを見られた者だけが、また出られるというわけだ。きみは、大聖堂にはいれるのだ。どうか行ってきてくれ。わしがきみを、あの女のところに連れていってやろう。きみは、あの女と着物をとりかえるのだ。つまり、あの女がきみの胴着をきる。きみはあの女のスカートをはくというわけだ」
「そこまでは、結構でしょうな」こう言って、哲学者は考えながら、「それから?」
「それから? あの女がきみの着物をきて外に出る。きみはあの女の着物をきて残るのだ。それでたぶん、きみは縛り首になるだろうが、あの女は助かるのだ」
グランゴワールはとても真剣な顔をして、耳を掻きながら言った。
「ううん! こいつだけはまったく、わたしには浮かんできそうもない考えですな」
クロード師から思いがけない、こういった相談をもちかけられて、詩人のあけっぴろげで、おだやかな顔は急にくもってしまった。いつも晴れて美しいイタリアの風景に、あいにくと一陣の風が吹いてきて、太陽の上に重い雲をかけてしまったときのように。
「どうだねグランゴワール君! この方法はどうかね?」
「そうですね、先生、わたしはたぶん縛り首にならないどころじゃなくて、きっと、縛り首になっちまいますよ」
「そんなことは、わしらの知ったことではないよ」
「なんですって! おやおや!」と、グランゴワールは言った。
「あの女はきみの命を助けた。きみはその借りを返すわけだ」
「まだほかにいくらでも、返していない借りがたくさんありますよ!」
「ピエール君、絶対にそうしなければならぬのだ」司祭は命令するように言った。
「まあ聞いて下さい、クロード先生」と、詩人はすっかり驚いて言った。「先生はその考えに固執《こしゅう》なさっておられますけれヌ、それは、お間違いですよ。なぜわたしが人の身代わりになって縛り首になるのか、わかりませんね」
「なぜ、きみはそんなに命に執着するのかね?」
「そりゃ! 理由はたくさんありますよ!」
「どんな理由かね? 教えてくれ給え」
「どんな理由かですって? 大気もあり、空もあり、朝、夕暮、月光もありますな。友達の宿なしどももあり、気立てのよいお嬢さんとのふざけっこもありますし、それにパリの美しい建築も研究したいと思ってますし、大著述を三つ書きたいのですよ。そのひとつは、司教とその水車小屋をやっつける書物なのです。そのほかにだって、いくらでもありますよ。アナクサゴラス〔紀元前五世紀ごろのギリシアのイオニア派の哲学者〕も、自分は太陽をたたえんがためにこの世に生きている、と言っています。それに、わたしには、朝から晩まで、このわたしという天才といっしょに毎日を過ごすという幸福があるのですからね。それはまことに楽しいものですよ」
「きさまの頭は、ガチャガチャとやかましい鈴を作るくらいが関の山だ!」と、司教補佐はつぶやいた。
「おい! ちょっときくが、おまえがそんなに楽しんでいるその命は、いったい誰がおまえに残しておいてくれたのだ? この大気を呼吸したり、この空をながめたり、他愛もない、愚かなことで、ヒバリのようなおまえの心を楽しませることができるのは、誰のおかげなのだ? もしもあの女がいなければ、おまえはどこにいると思うのだ? あの女のおかげで、こうして命があるのに、あの女が死ねばよいと思っているのか? あの美しくて、やさしくて、可愛い、世の中の光にはなくてはならぬ、神よりももっと神々《こうごう》しいあの女が死ねばよいと思っているのか! それにひきかえ、おまえは、なまはんかな知識をふりまわし、半分狂っていて、なんの役にもたたない下絵と言おうか、いわば草や木も同然と言えるくせに、自分では、歩いたり考えたりしているつもりになっている。そのおまえが、昼あんどんのように無用な、人から奪った命をもって、ずっと生きのびてゆきたいなどとは、いったいなんたることだ? どうだ、少しは同情をもて、グランゴワール! 今度はおまえが男を立てる番だ。はじめに健気《けなげ》な振舞いをしたのは、あの女のほうなのだぞ」
司祭の口調は激しかった。グランゴワールは、初めのうちはどうでもいいようなようすで聞いていたが、やがて感きわまって、とうとう泣きっつらになったが、そのため、彼の蒼白い顔はまるで腹痛《はらいた》をおこした赤ん坊のように見えた。
「おことば、ほんとうに身にしみました」と、涙をふきながら言った。「そうです! わたしもよく考えてみましょう。……だけどあなたのお考えもちょっと変ですな。……要するに」と言って、しばらく黙っていたが、やがて、「まあどうなりますか? おそらく縛り首にもなりますまい。婚約したからといって、そのまま結婚するとはきまっていませんからな。このわたしが、スカートをはいたり、女の帽子をかぶったり、そんなグロテスクな格好をしてあの部屋にいるのを見つけられたら、やつらは、おそらく、ふきだすことでしょうな。……それに、もしやつらがわたしを縛り首にしたら、やれやれ! 絞首刑なんて、それこそ犬死にですな。いや、よく言えば、犬死にじゃない。一生を迷いのうちにすごした賢者にふさわしい死だ。真の懐疑派の哲学者の精神らしく、決定ということのない死だ。天と地の中間に身をおいて、われわれを宙ぶらりんの状態に置く、あのピュロン〔紀元前三世紀ごろのギリシアの哲学者〕の懐疑主義とためらいとの色合いがはっきりと出ている死だ。それこそまさに哲学者の死だ。おそらくわたしは、そうなる宿命だったのだろうな。生きてきたとおりの死にかたをするのは、素晴らしいことだ」
司祭はことばをさえぎって「どうだい、いいかね?」
「要するに、死とはいったいなんだろうか?」と、グランゴワールは興奮してつづけた。
「不快な瞬間でもあり、通行税でもあり、わずかばかりのものから皆無に行くことですな。ある男がメガロポリスのケルキダス〔紀元前三世紀のギリシアの犬儒派の哲学者〕に向かって、あなたは喜んで死ねるかとたずねたときに彼はこう言いましたよ。『どうしていやと言えるかね? だって、ぼくが死ねば、哲学者の中ではピュタゴラスに、歴史家の中ではヘカタエウス〔紀元前四世紀のギリシアの歴史家〕に、詩人の中ではホメロスに、音楽家の中ではオリュンポスに、そのような偉い人たちに会えるからね』とね」
司教補佐は、彼のほうに手を差しのべた。「じゃ、いいか? あした来るのだぞ」
こう言って手を差し出されて、グランゴワールは、ふと現実にかえった。「いや、冗談じゃない、いやですよ!」と、彼は目をさました男のような調子で言った。「縛り首になるなんて! あんまりばかげていますよ。わたしはいやですよ」
「じゃ、さらばだ!」司教補佐はこう言って、さらに口の中で言いそえた。「きっと来るんだぞ!」
〈あんないやな男にまた会うなんて、ごめんだね〉と、グランゴワールは考えた。だがクロード師のあとを追って走っていって、「ちょっと待って下さい。司教補佐さん。昔なじみ同士で喧嘩をするのはよしましょう! あの娘、つまりわたしの家内のことをご心配下さるのは、ありがたいですよ。あれをノートルダムから無事に連れ出そうとして計略をお考えになりましたが、あなたの手段は、このわたし、グランゴワールにとっては、ひどく不愉快なものですよ。……もしわたしなりの方法が考えつけたらなあ!……いま、ふと、無類とびきりという妙案が浮かんできたのですよ。……わたしの首を輪差《わさ》なんかで危い目に会わせないで、あの女を危いところから逃がしてやるいい考えがあったら、どうです? どうお考えになりますか? それではご満足になりませんか? あなたが満足なさるには、わたしが縛り首になることが絶対に必要なのでしょうか?」
司祭はじれったそうに、着ていた法衣のボタンをひきちぎった。「ぺらぺらとよくしゃべるやつだ!……で、きみの方法とは、どんなものかな?」
「はい」と、グランゴワールは、ひとりごとを言うように、何か深く考えているしるしに、人さし指を鼻にあてながら、こう言った。
「……つまり、こうなのですな!……あの宿なしどもは立派なやつらでして。……ジプシー族というやつは、あの女を愛しているんです……それで、ひと声かければ、やつらは立ちあがりますよ。……こんなにやさしいことは、まずありませんな。……ちょっと手をあげさえすればね。……その混乱を利用して、楽々とあの女を奪い取ってしまうのです。……あすの晩、さっそくやりましょう。……それこそやつらの望むところなんですよ」
「で、その方法とは! はやく言い給え」と、司祭は、彼を揺すぶりながら言った。
グランゴワールは堂々とそり身になって、彼のほうに向きなおり、「細工は流々《りゅうりゅう》! 仕上げをご覧《ろう》じろ」と言って、またしばらくのあいだ考えていたが、やがて何か考えができたものか、手を打って叫んだ。「こいつは素晴らしい! うまくいくぞ!」
「で、その方法は!」と、クロードは腹をたててきいた。
グランゴワールの目は輝いてきた。
「まあ、こっちへ来て下さい。はかりごとは密《みつ》なるをもってよしとす、ですからな。こいつは実に大胆な、敵の裏をかく計略で、こいつさえあれば、われわれはみんな危機を逃れられるんですよ。どうです! わたしだってまんざら知恵がないわけではありますまい」
彼は話をとぎらせて、「おっと、ところで! あのヤギも、あの女といっしょにいるのですな?」
「うん、そうだ。そんなことが、どうだって言うのだ!」
「ヤギも縛り首になるわけですな。そうでしょう?」
「それが、わしになんの関係があるのだ?」
「そうです、あれも縛り首になるかもしれませんな。先月などは、牝豚を一匹、縛り首にしちゃったのですからね。死刑執行人というやつは、そういうことが好きなんですな。そしてあとで、その肉を食っちゃうんですよ。あの可愛いジャリを縛り首にするなんて! 可哀そうなヤギをね!」
「畜生!」と、クロード師は叫んだ。「おまえこそ死刑執行人だぞ。いったいおまえは、どんな救助の方法を考えたというのだ? おまえの考えは、鉗子《かんし》で産み出さなければならないのか?」
「まあ、おちついて下さい、先生! こうなのですよ」
グランゴワールは司教補佐の耳もとに口を寄せて、通りには人影がなかったが、不安そうに、まちのすみずみまで目をくばりながら、小声で彼に話した。話が終わると、クロード師はグランゴワールの手を取って冷やかに言った。
「よろしい。じゃ、あすだな」
「では、あす」と、グランゴワールは繰り返した。そして、司教補佐が立ち去ってしまうと、反対の道に向かいながら、小声でこう言った。
「こいつは素晴らしい大事業だぜ、ピエール・グランゴワール君。かまうもんか。人は小さいものだからと言って、大きな企てにおびえることはないさ。ビトン〔ギリシア神話中の人物。母親の乗った車をひいてユノの神殿に行った〕だって、大きな牡牛《おうし》を肩にかついだじゃないか。セキレイだって、ホオジロだって、ノビタギだって、みな大海原《おおうなばら》を渡るじゃないか」
二 宿なしになってしまえ
司教補佐が修道院に帰ってみると、部屋の入口に弟の≪風車場≫のジャンが来ていた。彼は兄を待っているあいだに、待ちくたびれて退屈しのぎに、炭で壁に鼻ばかり途方もなく大きくした兄の横顔を描いていた。
クロード師は弟の顔もろくろく見なかった。彼は別なことをいろいろ考えていたのだった。このならず者の楽しそうな顔には、いつも元気が溢れていて、いつでも司祭の暗い顔も明るくなるのであったが、いまは、腐って、悪臭を放つ、よどんだこの魂の上に日一日と濃くなっていく霧をはらうことができなかった。
「兄さん」と、ジャンはおずおずと口を切った。「兄さんにお会いしたくて来たのですが」
司教補佐は、弟のほうに目を向けようともしないで、「それで?」
「兄さん」と、この偽善者は言った。「兄さんは、ぼくのためにいろいろとご親切にして下さって、そのうえまた、いろいろと意見をして下さいますので、ぼくは、いつでも兄さんのところに戻ってくるのですよ」
「それから?」
「ああ! 兄さん。兄さんが『ジャンよ! ジャンよ! いまどきの学者たちの学説、門弟たちの規律はたるんでいる。ジャンよ、おとなしくしていろよ。ジャン、一所懸命に勉強しろよ。ジャンや、正式にちゃんと届けを出したときと、先生から許可を得たときのほかは、学校のそとで外泊なんかしてはいけないぞ。ピガルディー出の人をなぐってはならぬ。学校の麦藁《むぎわら》の上で、無学なロバのように老い朽ちてはならぬぞ。ジャンや、先生の言うがままに、おとなしく叱られていろよ。ジャンや、毎晩、礼拝堂に行って、そこで、いとも尊き聖母マリアさまに、賛美歌をうたい、お祈りをして、誉めたたえるのだよ』と、こうおっしゃるときには、まったく兄さんのおっしゃるとおりです。ああ! それは、まったく素晴らしいご忠告です!」
「それから?」
「兄さん、兄さんはぼくのことを罪深い、悪いことばかりする人間で、卑しむべき人間で、道楽者で、とんでもないやつだと思っておられるでしょうね! 兄さん、たしかにジャンは、兄さんのご親切なご忠告を藁やごみのように、足で踏みにじってきました。そのために、ぼくにはこっぴどい罰があたりました。神様はじつにまったく正しいですね。ぼくは、金さえあれば飲んだり食ったり、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》でした。愚かなまねをしたり、したい放題の生活をしてきました。ああ! 放蕩などというものは、表面はいかに小綺麗《こぎれい》に見えても、裏へまわってみれば、小ぎたない、不愛想なものですよ! いまとなっては、ぼくには、白いものはひとつもないのです。テーブル・クロスも、シャツも、巻きタオルも、売り払ってしまいました。もう断じて道楽はいたしません! 美しいろうそくも消えてしまったのです。もういまではけちな脂《あぶら》の燈芯《とうしん》だけが、ぼくの鼻の中で煙っているだけです。女たちも、ぼくをからかうのです。ぼくは水ばかり飲んでいます。後悔の念と、借金取りとにさいなまれているのです」
「あとは?」と、司祭がきいた。
「ああ! ぼくの大好きな兄さん、ぼくは、できることなら、よりよい生活に進んでゆけるようにしたいと思っているのです。悔い改める気持でいっぱいで、兄さんのところに来たのです。ぼくは悔い改めているのです。懺悔《ざんげ》もいたしましょう。げんこでゴツンと、われとわが胸をなぐりつけましょう。ぼくが将来、トルシ学院を卒業して、大学の助手にでもなることを、兄さんはお望みになっていらっしゃるのでしょうが、それもまったくごもっともなことです。今日になって、ぼくには、自分がその地位につくだけの立派な天分があるような気がするのです。しかし、ぼくにはもうインクもないので、それを買わなければならないのです。またペンももうないので、それも買わなければならないのです。紙もなければ本もないので、また買わなければなりません。そのためには少しでもいいですから、のどから手が出るほどお金が欲しいのです。それで兄さん、ぼくは、悔い改めの気持を溢れるほど心に抱いて、兄さんのところにやって来たわけなのです」
「それだけかね?」
「ええ、お金が少し欲しいのです」と学生は言った。
「わしは持っておらんね」
するとこの学生は、すぐさま、まじめな、何か心に決心したようなようすで、「よろしゅうございます、兄さん。兄さんに申し上げるのも残念なことなのですが、実は、ほかのところで、とてもよい口があるのですがね。どうしてもぼくにお金を下さりたくないのですか?……だめなのですね?……それならば、ぼくは宿なしの仲間入りをしようと思うのです」
こういう途方もないことばを口にしながら、アイアス〔ギリシア神話中の勇士。神に挑戦したが波に呑まれる。ここでは恨みの象徴として書かれている〕のような顔をして、頭の上に雷が落ちてくるのを覚悟していた。
司祭は、彼に向かって冷やかに言った。「宿なしになってしまえ」
ジャンは、兄に丁寧にお辞儀をして、口笛を吹きながら修道院の階段を降りていった。
修道院の中庭の、兄の部屋の窓下を通りかかったとき、その窓が開く音が聞こえたので、顔をあげると、司祭が窓からきびしい顔を出しているのが見えた。
「犬にでも食われてしまえ!」と、クロード師は言った。「さあ、おまえにやる金はこれっきりだぞ」
こう言いながら、彼はジャンに財布を投げてよこしたが、財布はこの学生の額にあたって大きなこぶをこしらえてしまった。が、ジャンはそれをもらって、怒りながらもよろこんで行ってしまった。まるで、おいしい骨を投げつけられて追っ払われる犬みたいだった。
三 ばんざい、ばんざい!
みなさんはおそらくお忘れになってはいないであろうが、奇跡御殿のある場所は、市街区《ヴィル》の城廓の古い壁で囲まれていた。その城廓にある数多くの塔は、この時代から、すでに荒れはじめていた。これらの塔のひとつは、宿なしどもによって、歓楽の場所に変えられていたのである。下の広間には居酒屋があり、上の部屋は、それぞれほかのいろいろな目的に作られていた。この塔は、宿なしどもの集まる場所のうちでいちばんにぎやかな所で、だからまたもっとも恐ろしい所でもあった。そこは、一種の恐ろしいハチの巣のようなもので、夜も昼もブンブンうなっていた。夜になって、物乞いどもの残りの者も眠ってしまい、広場の泥だらけになった玄関には、明りのついた窓はひとつもなくなり、泥棒ども、娼婦、さらわれた子どもたち、私生児など、そこに住む無数の家族というか、雑沓《ざっとう》というか、そういうものの騒ぎがあがってくるのが聞こえなくなったころになっても、風抜きや、窓や、亀裂《きれつ》の生じた壁の割れ目から射してくる光、いわば、そのあらゆる穴からもれるあかあかとした光の下でたてている物音を聞けば、これがあの歓楽の塔だということがわかるのであった。
穴倉は、つまり居酒屋というわけであった。低い戸口を通って、古風な十二音節《アレクサンドラン》の詩のように急な階段を降りると、この居酒屋に出るのだ。戸口の上には看板のかわりに、新しい銅貨と殺された雛鳥《ひなどり》とがかいてある。素晴らしい楽書《らくがき》があって、その下には、≪故人を弔《とむら》いて鐘つき男たちに≫というしゃれが書いてあった。
ある晩のこと、パリのすべての鐘楼から消燈の鐘が鳴りわたるころ、夜警隊の人びとがあの恐ろしい奇跡御殿の中にはいることができたら、酒場で宿なしどもがいつもより大騒ぎをして飲んだり、口ぎたなくののしったりしているのを見ることができたであろう。外では広場に大勢集まって、まるで何か大きな計画をたくらんでいるときのように、小声で話しあっていた。また、あちらこちらに怪しげな男がかがみこんで、舖道の上で、なまくらの刃物をといでいた。
一方、酒場の中では、宿なしどもがその晩に考えていたことが、酒やばくちという気晴らしの力で彼らの頭から追っ払われてしまっていたので、酒飲み連中の話を聞いただけでは、いったいどういうことが起こるのか知るのは困難だった。ただ彼らは、いつもより陽気なようすをしていた、みな膝のあいだに、≪なた≫や、まさかりや、大きなもろ刃の剣や、古い火縄銃の鉤《かぎ》など、いろいろな武器をぎらぎらさせているのが見られた。
その部屋は丸い形をしていて、とても広かった。だが、テーブルはぎっしりとつまっていたし、酒を飲んでいる男の数も多かったので、酒場の中にあるものは、男も、女も、椅子も、ビール瓶も、酒を飲んでいる者も、眠っている者も、ばくちを打っている者も、体の丈夫そうな者も、足をひきずっている者も、まるでカキの貝がらみたいに順序も調和もなく、ごたごたと重なりあっているようにみえた。テーブルの上には、脂《あぶら》の明かりがいくつかともされていたが、酒場のほんとうの明かり、つまり、居酒屋で、オペラの客席でのシャンデリヤの役目を果たしていたものは、実は火であった。この穴倉は非常にじめじめしていたので、真夏でさえも、暖炉の火をけっして絶やさなかったのだ。
大きな暖炉がひとつ作ってあり……その棚には彫刻がしてあって、重い鉄の薪《まき》掛けや料理の道具がいっぱい並んでいたが……、その中では木や泥炭が、ごちゃごちゃに混ざって、大きな炎をあげていた。こうした大きな火は、夜、よく村の道などで、鍛冶屋の窓に映った幽霊のような影をま向かいの壁の上に赤々と浮きださせるものだ。大きな犬が一匹、灰の中にどっしりすわりこんで、おこり火の前で肉のついた焼き串をまわしていた。
雑然としていたとはいうものの、ひと目見れば、この群集の中には、三つの主《おも》だったグループがあるのが見分けられた。その三つの群れは、みなさんもご承知の三人の人物のまわりにひしめき合っていたのである。この人物のうちのひとりは、東洋風な、まがいものの金ぴかの衣服をごてごてと異様な格好に着こんでいたが、これこそエジプト公でありボヘミア公であるマチヤス・アンガディ・スピカリだった。このならず者は、足を組み、指をあげて、机の上にすわっていた。そしてぽかんと口をあけて自分のまわりをとりかこんでいる大勢の者どもに、声をはりあげて奇術や妖術を授けていた。
もうひとつの群れは、われわれのおなじみの、全身に武装した、あの勇敢なチュニス王のまわりに群がっていた。このクロパン・トルイユフーは、部下たちが目の前で、大樽の底を大きく抜いて武器がいっぱいはいった樽の中身を奪い合いしているのを、いたってまじめな顔をしながら小声で監督していた。その樽からは、斧《おの》や、剣や、鉄頭巾や、鎖かたびらや、猟刀や、槍の穂や、矢じりや、矢や、ねじり矢などが、まるで|豊穣の角《コルヌ・ダボンダンス》に実ったリンゴやブドウのようにぞくぞくと出てきた。みんなはよってたかって、兜《かぶと》や、細身のもろ刃の剣や、柄が十字形をしている短剣などを手にとった。子どもたちでさえも武装していたし、足の不自由な男どもに至るまで鎧《よろい》を身にまとい、大きなコガネムシのように、酔っ払いの足のあいだを這いまわっていた。
最後に第三番目の聴衆は、いちばん騒々しく、楽しそうで、また数も多かった。彼らは腰かけやテーブルの上にごたごたと集まってきて、その中にひとり、大声でわめき散らしたり、キーキー声で口ぎたなくののしっている者がいたが、その声は、兜から拍車までどっしりと完全武装した、体の下から出てくるのだった。この男は鎧兜《よろいかぶと》をこんなふうにしっかりと身につけて、武装の下にすっかり体が隠れてしまっていたので、もう、体のうちで見えるものといったら、あつかましそうな、そりかえった赤鼻と、金髪の巻き毛と、赤いくちびると大胆な目つきだけだった。また短剣や匕首《あいくち》をいっぱい腰帯につけており、横腹には大きな剣をさげ、左手には、錆びついた弩《おおゆみ》を持ち、大きな酒壷を前にしていた。その右手には、だらしのない服装をした太っちょの女がひとりいたことは言うまでもない。この男のまわりにいた連中はみんな、笑ったり、ののしったり、酒を飲んだりしていた。
このほかにもまだ、二十組ばかりのたいして重要でない群れがあった。使い走りをする娘や男の子たちは、頭に水差しをのせて走りまわっており、またばくち打ちどもは、玉突きをしたり、石けりをしたり、さいころを振ったり、ころがしたり、丁半に夢中になったりしていた。そうかと思うと、すみのほうでは、喧嘩をしている者もあり、接吻している者もある。こう言えば、この部屋全体の雰囲気がわかるであろうが、暖炉の火は赤々と燃え、その明かりはちらちらして、居酒屋の壁に、途方もなく大きな幾千とも知れぬ奇怪な影を映し、その影はゆらゆらとおどっていた。
このどんちゃん騒ぎの音といったら、まるでジャンジャン打ち鳴らす鐘の内側のようであった。
あぶり肉の脂を受ける鍋には、脂がパチパチと雨のようにはねて、部屋のすみからすみへとかわされる無数の会話のあいまに、鋭い音をたてていた。
この騒ぎのまん中で、哲学者がひとり、酒場の奥にあった暖炉の内側の腰かけに腰をおろしていた。この男は灰の中に足をつっこんで、燃え木のほうをじっと見つめながら、何か瞑想に耽っていた。ピエール・グランゴワールだった。
「さあ早く! 急いで武器を取れ! あと一時間したら出発だ!」と、クロパン・トルイユフーはその物乞い仲間に言った。娘がひとり鼻歌をうたっていた。
お父さん、お母さん、お休みなさい!
残った者が火をいける。
トランプで遊んでいた者がふたり、喧嘩をしていた。
「ジャックだ!」
ふたりのうち、顔を赤くした方の男が、相手の男の方に拳固《げんこ》を突きつけながら、「クラブにつけてやるぞ。キングが出たら、お前はグラブのジャックの代わりができるんだ」
「うわあ!」鼻にかかるその言葉の調子をみてもわかるように、ノルマンディの男はどなった。
「カイユーヴィルの聖人どものように、ここには人がごちゃごちゃいるなあ!」
「おい、野郎ども」と、エジプト公は、裏声《うらごえ》を使って、聴衆に向かって話していた。「フランスの魔女たちは、箒《ほうき》もあぶらも持たず、馬にも乗らず、ただ少しばかり魔法の言葉をとなえながら、集会に行くのだ。イタリアの魔女たちというのは、いつでもヤギを連れて行って、玄関に待たしておくのだ、そしてみんな、煙突から出て行かなければならないことになっている、と、こういうわけだ」
頭の先から爪先まで武装した若い男の声が、ガヤガヤ言う声の中にもひときわ目だっていた。
「ばんざい! ばんざい!」と、彼は叫んでいた。「きょうは、おれの初陣《ういじん》だ! 宿なしだぞ! おれはな、べらぼうめ、宿なしなんだ! おれに一杯ついでくれ!……諸君、おれは風車場のジャン・フロロっていうんだ。貴族なんだぞ。おれの考えじゃ、もし神さまだって親衛隊になったら、略奪するにきまっているよ。なあ兄弟、素晴らしい遠征に出かけようじゃねえか。おれたちは勇者なんだ。大聖堂をとり巻いて、扉を叩きこわし、そこから美しい娘をひったくって、裁判官や司祭どもの手から救い出し、修道院の防備をぶちこわし、司教館にいる司教を焼き殺すんだぞ。しかもそれを、ベルギーの市長がスープをひとさじ食べるより早くやってのけるんだ。おれたちの立場は、正しいんだぞ。だから、ノートルダムを略奪する。それで万事終わりというわけだ。カジモドを吊るすんだ。お嬢様さまがたよ、カジモドって知っているかい? あの男が聖霊降臨節の日に大鐘の上でフウフウ息を切らしていたのを見たことがあるかい? あの野郎め! まったくいい格好だよ! まるで悪魔がけだものの口の上に馬乗りになったような格好だ。……諸君、おれの言うことを聞いてくれ。おれは、心の底から宿なしなんだ。魂の底から宿なし仲間なんだぜ。生まれながらのならず者なんだ。もとは大金持だったんだが、財産を食いつぶしてしまったんだ。おふくろはおれを士官にしたかったのだし、おやじのほうは副助祭にしたかったんだ。叔母は尋問官になれと言い、祖母《ばあ》さんは国王づきの大法官になれと言ったし、また大伯母は短法服を着たイエズス会の出納《すいとう》官にしたかったんだ。
だが、おれは宿なしになってしまったというわけだ。おれがおやじにそう言ったら、おやじはおれに呪いのことばを浴びせかけやがったし、おふくろにそう言ったら、なにぶん年をとっていたもので、泣きだして、まるでこの薪掛けの上のたきぎみたいに、よだれを垂らしたものだった。しめしめだ! おれはほんとうのビセートル〔精神病院があった〕行きの宿なしだ! おい、姐《ねえ》さん、おかみさん、もっと酒をくれよ! まだ金はあるぜ。シュレーヌの酒はまっぴらだぜ。あいつはのどが痛くなりやがるんでね。ざるでうがいをした方が、まだ気がきいているくらいよ、畜生め!」
大勢の者どもは、どっと笑いながら、拍手喝采していた。そして自分のまわりで騒ぎがいっそう激しくなるのを見て、この学生は叫んだ。
「おお! 実に美しい騒ぎだ! ≪大勢の奴ばらが有頂天に騒いでおることよ!≫」
こう言って、恍惚《こうこつ》の中におぼれているような目をして、晩課をとなえている聖堂参事会員のような口調でうたいだした。
「なんたる聖歌! なんたる楽器! なんたる歌! なんたる旋律の果てしなくうたわれていることよ! 蜂蜜のごとく甘く、讃歌の楽器、天使のいと優雅なる旋律、いと素晴らしき聖歌、鳴りわたるかな!」
彼はふとことばを切って言った。「おい、おかみ、飯をくれ」
しばらくのあいだ、ほとんど話がとだえて静かになったが、その間に、今度は、手下のジプシーたちに教えているエジプト王の鋭い声があがった。
「……イタチのことは≪アデュイーヌ≫というのだ。キツネは≪|青 足《ピエ・ブルー》≫とか≪|森 駈 け《クールール・デ・ボワ》≫とかいい、オオカミは≪灰色足《ピエ・グリ》≫とか≪金色足《ピエ・ドレ》≫、クマは≪|おやじ《ル・ヴィユ》≫とか≪|じじい《グラン・ペール》≫とかいうのだ。……地霊の帽子をかぶると、自分の姿が見えなくなって、見えないものが見えてくるようになる。……ガマガエルというやつは、洗礼を受けるときには、みんな赤か黒のビロードの服を着て、首と足にひとつずつ鈴をつけなければならないのだ。代父は頭をつかみ、代母はしりを持つのだ。……娘どもをまっぱだかにして踊らせる力をもっているのは、シドラガゾムという悪魔なのだ」
「畜生め! なんとかおれもシドラガゾムとかいう悪魔になりてえもんだな」と、ジャンが口をはさんだ。
そうしているうちに、宿なしどもは居酒屋のもう一方のすみのほうで、ひそひそと話をしながら武装をしていた。
「あのエスメラルダのやつも、可哀そうなもんだ!」と、ジプシーのひとりが言った。「あいつあ、おれたちの妹だ。……どうしてもあそこからひっぱり出さなくちゃならねえな」
「それじゃ、あれは、ずっとノートルダムにいるんだね?」と、ユダヤ人らしい顔つきをした香具師《やし》の売人《ばいにん》が言った。
「そうだとも、畜生め!」
「そんならな! おいみんな」と、その売人が叫んだ。「ノートルダムに行こうぜ! それに都合のいいことがあるんだが、フェレオル聖人とフェリュシヨン聖人との礼拝堂には、彫像がふたつあるだろう。ひとつはバプテスマの聖ヨハネのやつで、もうひとつは、聖アントワーヌのやつだ。みんな金むくだぜ。ふたつ合わせりゃ十七金マルクと十五エステランはあるし、金めっきの銀の台座だって、十七マルク五オンスはあるぜ。おれはちゃんと知っているんだ。なんと言ったって、おれは金銀細工商だからな」
このとき、ジャンのところに夕食がはこばれた。彼は、隣にいた女の胸にもたれかかって叫んだ。
「聖ヴー=ド=リュックにかけて、ほら、みんなが聖ゴグリュと言っているやつだ、そいつにかけて、おれはじつに愉快だよ。そら、おれの前に、まぬけな野郎がひとりいるな、オーストリア大公のような、ひげのねえ面《つら》しやがって、おれの方をじろじろ見ていやがる。左手の方にもひとり、そいつはあんまり歯が長《なげ》えもんだから、そのためにあごが隠れちゃっているじゃねえか。そして、おれときたら、ポントワーズの包囲のときの、ジエ元帥〔十六世紀のフランスの武将〕のようだぜ。右の手を円丘《えんきゅう》によりかけてな。……やい唐変木《とうへんぼく》め! 兄弟《きょうでい》! きさまの風体《ふうてい》から察すると、きさまは球屋だな。おれのそばに来て、ぬけぬけとすわっていやがって! なあおい、おれは貴族だ。商人なんてものはな、貴族とは肌が合わねえもんだ。あっちへ行ってくれ。……こら! なんだおめえたちは! 喧嘩はよせってことよ! おい、|鵞鳥喰い《クロ・コワゾン》のバチスト、おめえはきれいな鼻をしていやがるが、用心しねえと、このまぬけ野郎の拳固《げんこ》にあたるぞ! まぬけ野郎! ≪人ことごとく鼻を有するにあらず≫って言うじゃねえか。……赤耳のジャクリーヌ、おめえはほんとうに偉《えれ》えよ! だけど髪の毛のないのが玉にきずだ。……おいこら! おれはジャン・フロロって言うんだ。兄貴は司教補佐なんだぞ。くそ、べらぼうめ、かってにしやがれ! おれの言うことはみんな、ほんとうなんだぞ。
おれはな、宿なしの中にとびこんで、兄貴がくれると約束した≪天国にある家の半分≫をよろこんでふってしまったんだ。おれは原典にあたっているんだぞ。それにまたチルシャップ通りに領地を持ってるんだぞ。女という女はみんな、おれに惚れていやがる。それはな、聖エロワが素晴らしい金銀細工商であるのと同じようにほんとうなんだぞ。また、花の都パリの五つの職業が、なめし皮製造販売人、みょうばんなめし職工、負い革屋、財布屋、皮みがき屋だというのと同じように、ほんとうのことなんだ。まだある。聖ローランが卵のからで焼かれたというのと同じようにほんとうなんだぞ。おれは誓うぜ、なあ、みんな、
嘘をついたら、一年間は
トウガラシなんぞは飲まないぞ!
おいべっぴんさん、いい月じゃあねえか。風抜きから見てみろよ。風で雲がしわくちゃになってるぜ! まるでおめえのえり飾りをおれがしわくちゃにしているみてえだ。……女ども! 子どもたちの鼻をかんでやって、ろうそくの芯《しん》を切ってくれ。……畜生め! おい、おたんちん、おれにいってえ何を食わせやがるんでえ! おい! やり手ばばあ! おめえの髪の毛は、おめえの飼っている娼婦どもの頭にくっついていねえで、オムレツの中に浮いてるぞ。ばばあ! オムレツははげ頭のほうがいいや。おめえの鼻なんぞは、悪魔に食われて、ぺちゃんこになるがいいや! ベルゼブルの宿屋じゃ、娼婦どもは、フォークで髪をすくんだな!」
こう言って、彼は敷石の上に皿を叩きつけて割り、大声をあげてうたいだした。
神かけて
もっちゃおらんぞ、このおれは!
信仰も掟《おきて》も
火も家も。
王もなければ
神もない!
そうしているうちに、クロパン・トルイユフーのほうは、武器の分配を終わった。グランゴワールのそばによってきたが、グランゴワールは、薪掛けの上に足をかけて、深い夢想に耽《ふけ》っているようだった。
「おい、ピエール君、何をぼんやり考えてるんだ?」と、チュニス王は言った。
グランゴワールは憂うつそうな笑いを浮かべながら、彼のほうを振り向いて、
「ああ、閣下、ぼくは火というやつが好きでしてね。それも足を暖めてくれたり、スープを煮たりするというようなありきたりの理由ではなしに、火花を散らすからですよ。ぼくは、ときによると、火花を見て、何時間も過ごすことがあるんです。炉の暗い奥のほうにちらちらしている星の中に、何千といういろいろなものが見えるのですよ。こういう星もまた、ひとつの世界なんですよ」
「畜生、何を言ってやがるんだ、おまえの言うことなぞ、わかってたまるか!」と、この宿なしは言った。「いま何時だか知っているか?」
「知らないですな」と、グランゴワールは答えた。
クロパンはエジプト公のほうに近よって、「おい、マチヤス、こいつは時期がよくねえぞ。王のルイ十一世がパリにいるそうだぜ」
「やつの爪から、あの妹をひっぱり出すには、ますますいいじゃねえか」と、年とったジプシーが答えた。
「いいことを言うぜ、マチヤス」と、チュニス王は言った。「それに、すばやくやるんだな。教会のやつらは向かってなんか来やしねえよ。やつらはウサギみてえなもんさ。おれたちは腕でいくんだ。裁判官のやつらが、あした、娘をさがしに来たって、ざまあ見ろだ! 糞くらえってんだ! あの可愛い娘を縛り首になんかさせるもんか!」
クロパンは居酒屋から出て行った。
そうしている間に、ジャンはしゃがれ声でどなっていた。
「飲んで、食って、酔っぱらったな。おれはユピテルだぞ!……おい! 牛殺しのピエール、まだそんな面《つら》をして、おれをじろじろ見てやがるんなら、その鼻柱に爪で一発お見舞い申すぞ」
グランゴワールのほうは、すっかり瞑想のじゃまをされたので、初めてあたりの荒々しく騒々しい光景をながめまわし、小声でつぶやいた。「『酒と騒がしい酩酊《めいてい》はみだらなもの』ああ! だからおれは酒はまっぴらだというのだ。『酒は賢者たちをも無信心にする』と、聖ベネディクトゥスの言っていることは立派だ」
このとき、クロパンが帰ってきて、雷のような声でどなった。
「もう真夜中だぞ!」
この言葉をきくと、宿なしどもは、まるで休止している連隊に装鞍《そうあん》らっぱの命令がくだったように、男も女も子どもも、ひと塊りになって、武器の音を高らかに鳴らしながら、どっと酒場の外に出た。
月は雲間にかくれていた。
奇跡御殿はまっ暗だった。明かりひとつ見えない。しかしそこには、人影がないどころか、一群の男女がぼそぼそ話をしているのがわかった。彼らがブツブツつぶやいている声も聞こえたし、闇の中に、あらゆる種類の武器が夜目《よめ》にも白く光っているのも見えた。クロパンは大きな石の上にのぼってさけんだ。
「列を組め、宿なしども! 列を組め、エジプト組! 列を組め、ガリラヤ組!」
暗やみの中で行動が開始された。おびただしい数の群集が縦隊をなしているようだった。しばらくして、チュニス王がまた声をはりあげた。
「さあ、黙ってパリを抜けていくんだぞ! 合いことばは≪ポケットの短剣≫だ! ノートルダムに行くまでは、明かりはつけることはならんぞ! 出発!」
十分ばかりすると、夜警の騎馬隊は、まっ黒な人間どもの長い行列が静々と進んでいくのを見て、すっかり驚いて逃げてしまった。その行列は、人家の密集した市場街をあらゆる方向にぬっている曲がりくねった通りを抜けて、シャンジュ橋のほうへおりていった。
四 へまな味方
ちょうどその夜は、カジモドは眠っていなかった。彼は大聖堂の中を最後のひとめぐりをして帰ってきたところだった。扉をしめたときに、司教補佐がそばを通りすぎた。カジモドが念を入れて鉄の大きなしんばり棒のかんぬきをして錠をかけて、その大きな扉が牆壁《しょうへき》のように固く閉じられているのを見て、司教補佐はちょっと機嫌を悪くしたのだが、カジモドはそれに気がつかなかった。クロード師はいつもより何か深く考えこんでいるようすだった。そのうえ、あの部屋で、あの夜の事件があってからというものは、彼はたえずカジモドを虐待していたのだった。
だが、彼がいくらカジモドにつらくあたっても、ときにはなぐりつけさえしても、カジモドにとっては、べつになんということもなく、この忠実な鐘番の服従と、忍耐と、献身的なあきらめの心は、少しもぐらつくことがなかったのである。司教補佐のすることなら悪口でも、おどかしでも、げんこつでも、彼は非難ひとつするでもなく、不平ひとつもらすでもなく、なんでもじっと我慢してしまうのだった。せいぜい、クロード師が塔の階段をのぼっていくときに、不安そうな目をしてそのあとを見送っているくらいなものだった。だが司教補佐は、自分のほうでも、あのジプシー娘の前に姿を現わすことはさしひかえていた。
それで、その夜のこと、カジモドは、いままですっかりほったらかしにしてしまっていたあの哀れな鐘、ジャクリーヌや、マリーをちらりと眺めてから、北側の塔の頂上までのぼっていった。そこでがんじょうな角燈を樋《とい》の上に置いて、パリの光景を眺めた。その夜は、さきほども言ったように、まっ暗だった。当時のパリは、いわば燈火のないありさまだったので、ただぼんやりとかさなった黒い塊りが、セーヌの白みがかった曲線で、そこここを切られているのが目に映るだけだった。カジモドの目には、光としては、ただ遥か遠方の一軒の建物の窓にともっている明かりが見えるだけだった。その建物の暗いぼんやりとした横顔は、サン=タントワーヌ門の近くの家々の屋根の上にひときわ高く浮かび出ていた。そこにもまた、誰か〔ルイ十一世。次章参照〕が眠らずにいたのである。
鐘番がそのひとつ目で霧と夜との地平線の上を見まわしていると、なんともいえない不安にとらわれてくるのだった。もう何日もまえからこうして見張っていたのだが、いつ見ても、いやな顔をした男どもが大聖堂のまわりをうろつきまわって、娘の隠れ家をじっとうかがっているのだった。彼は、ここに隠れている不幸な女に対しておそらく何か陰謀《いんぼう》が企てられているのではないかと思った。自分にもそうであるように、この娘にも民衆の憎しみがかかっていて、やがて何事かが起こりそうだと、彼には思われるのだった。そのために、あの部屋のほうに目をやり、パリの光景をながめたり、忠実な犬のように心のうちにさまざまな疑念をいだいたりしながら、ラブレーの言ったように、「夢見心地のうちに夢見つつ」鐘楼の上で、じっと見張っていたのだ。
自然が一種のつぐないとして、彼の視力を非常に鋭くしたために、カジモドに欠けていた他の器官のほとんど代わりをすることができるようになっていたそのひとつの目で、カジモドがこの大都会をさぐっていると、とつぜん、ヴィエイユ=ベルトリ川岸の陰に何か異様なものがある、そのあたりに何か動いている、川の水の白い上に黒く浮かびあがった欄干《らんかん》の線が、他の川岸の線のようにまっすぐで静まりかえってはいないで、川の波のように、また進んでいく群集の頭のように、波打っている、そう思えたのである。
それは彼にとって不思議な光景だった。さらによく目をこらして見ると、その動きは、|中の島《シテ》のほうへ向かってくるように見えた。そのほかには、光はどこにも見えなかった。その動きはしばらくのあいだ、川岸にそって長々とつづいていたが、やがて、だんだんと、まるで何かが島の中にはいったかのように、消えてしまい、とうとうまったく見えなくなり、川岸の線は、またもとのようにまっすぐになって動かなくなった。
カジモドがあれやこれやと思いめぐらして、ぐったりとなったとき、彼の目には、その動きが、ノートルダムの正面玄関と垂直に|、中の島《シテ》の中にまでずっとはいりこんでいるパルヴィ通りに現われたように見えた。そしてとうとう、闇は非常に深かったが、その行列の先頭がこの通りをとおって出てきたかと思うと、たちまち、群集が広場に押しよせてくるのが見えた。この暗やみでは、ただそれが群集だというだけで、ほかのことはわからなかった。
それは実に恐ろしい光景だった。この不思議な行列は、注意に注意をかさねて深い闇の中に身をひそめようとしているらしかったが、それにも劣らず、音ひとつたてないように気を配っているらしかった。それにしても地面を歩む足音ぐらいはたてているはずであった。だが、そのぐらいの音では、彼の聞こえない耳にははいってこなかったのだ。つまり、この大群集は、その姿がぼんやりと見えただけで、音はなんにも聞こえなかった。だが、彼のそばでうごめき、進んでいたので、カジモドには、おし黙っていて、手にさわることもできず、煙に包まれている死人の群れのように思われるのだった。人間でいっぱいの霧が自分をめがけて近づいてくるようにも、影の中で影が動いているようにも、見えるのだった。
そのとき、さきほどからの恐れがまた頭をもたげた。あのジプシー娘を取り返そうとたくらんでいるのではないかということが、心に浮かんだのだ。ぼんやりとではあったが、何か暴力的な状況が近づいてきているのを感じた。
この危機に、あんなにできの悪い彼の頭ではとても考えつかないような理性がすばやく働いて、カジモドは心の中でいろいろと考えをめぐらした。あのジプシー娘を起こすべきだろうか? 彼女を逃がすべきだろうか? どこから? 通りはとり巻かれてしまったし、大聖堂のうしろはすぐに川になっている。船もない! 出口もない!……とるべき手段はただひとつ、ノートルダム大聖堂の入り口で戦って死ぬか、それとも、もしも助けがかならず来るものならば、せめて助けが来るまで抵抗し、エスメラルダの眠りを乱さないようにするか。どうせ死ぬものなら、あの不幸な娘をいつ起こしても遅すぎるということはないだろう。ひとたび決心が決まったので、彼はまえよりいっそうおちついて≪敵≫をよく観察しはじめた。
群集は刻々とこの大聖堂の広場に集まってきているように見えた。ただ、まちや広場の家々の窓があいかわらずしまったままであるところを見ると、その群集はほとんど音をたてていないのに違いないということだけが、どうやら想像されるのだった。
とつぜん光がひとつ輝いた。と、みるまに七、八本のたいまつがともって、頭の上でそれを動かしているのか、影の中に炎の束がゆらめいた。すると、カジモドの目にはぼろぼろの着物を着た男や女の恐ろしい一群が、鎌や、槍や、鉈《なた》や、鉾《ほこ》などを持って、広場に波打っているのがはっきりと見えた。武器の幾千という鉾先はきらきらときらめいていた。あちらこちらに、黒い熊手が、こうした無気味な顔から角を出していた。彼はあの民衆のことをぼんやりと思い出した。数カ月まえに彼のことを≪らんちき法王≫として喝采した連中が、そこにいるように思われた。片手にたいまつを持ち、もう一方の手に革紐《かわひも》のついた鞭を持った男がひとり、車よけの石の上にのぼって何か演説をしているらしかった。と同時に、この不思議な軍隊は、教会のまわりに陣どろうとでもするように、戦線を展開した。カジモドは角燈を手にとって、もっと近くでよく見て、防ぐ手段を考えだそうと、塔と塔とのあいだの平屋根の上におりていった。
クロパン・トルイユフーは、ノートルダムの高い正面玄関の前までやってきて、計画どおり部下の群集を戦闘隊形に並べていた。抵抗など全然ないとは思っていたものの、慎重な総司令官として、まさかのときに夜警隊や二百二十人組の夜警隊からふいに襲撃されても、すぐにたち向かうことができるような隊形にしておきたいと思っていたのだ。そこで、その部隊を高くて遠いところから見ると、ちょうどエクノマ〔シチーリア島の海岸。紀元前二五六年にローマ軍がカルタゴ軍を打ちやぶったところ〕の戦闘でのローマ軍の三角陣か、アレクサンドロスの猪首《いくび》陣か、グスターヴ・アドルフ〔十七世紀のスウェーデン国王。勇将として知られる〕の有名な楔形《せっけい》陣とでもいったような梯形《ていけい》に配置したのだった。
この三角陣の基底は、パルヴィ通りを遮断するようなぐあいに、広場の奥を背にしていた。そして、ひとつの側面は市立病院に向いており、他の側面はサン=ピエール=オ=ブー通りに向いていた。クロパン・トルイユフーは、エジプト公や、われらの友のジャンや、そのほか、いちばん大胆な≪小突き屋≫といっしょに先頭に立っていた。
宿なしどもがいまやノートルダムに対してしようとしていたこのような企ては、中世の都市にあっては、けっしてそんなに珍しいことではなかった。今日われわれが≪警察≫と名づけているようなものは、当時は存在しなかった。人口の多い都市、ことに首都にあっても、調整の役をする中心勢力というものが、ただの一つもなかったのだ。封建制度が勝手きままなやり方で大自治体を作りあげていたわけである。一つの都市は、幾千という領主の集合地であって、彼らはそれらをあらゆる形態、あらゆる大きさの区画に分割していた。そのために多数の警察はおたがいに反目しあって、つまり警察がないという状態になっていたのだ。
たとえば、パリでは、租税権を要求している百四十一人の領主とは独立に、上は百五個の市街を所有しているパリの司教から、下は四個の市街を支配するノートルダム・デ・シャンの小修院長にいたるまで、裁判権と租税権とを主張している二十五人の領主があった。これらの封建制度下の司法官どもは、ただたんに、名目の上においてだけ国王の君主権を認めていたのである。彼らはみな、道路行政権をもっていて、勝手きままに振舞っていた。
ルイ十一世は、大規模な封建制度の組織破壊を開始して、ねばりづよい努力をし、これにつづいてリシュリュとルイ十四世とは、主権の強大をはかり、最後にミラボーが、この事業を完成して、民衆のためをはかったのである。ルイ十一世は、パリに網のようにはびこっている領主権を打倒しようとしていろいろと試みて、全市にわたって二、三回、強引に警察令を発布したことがあった。こうして、一四六五年に、住民に対して、夜になれば、窓にはかならずろうそくをともすこと、そして、犬を家の中につないでおくこと、もし従わぬときには、絞首刑に処すべしという命令が出され、さらに同じ年に、夕方には鉄の鎖で通りを遮断すること、および、夜、短剣や凶器の類《たぐい》を持って通りを歩くことを禁ずる、という命令が出された。
だが、じきに、この自治体の立法の試みは廃止されてしまった。市民たちは、風が吹いてろうそくが消えてしまえばそのままにしておき、犬も通りを歩きほうだいというようになってしまったのだ。鉄の鎖は戒厳令がしかれたときにのみ張られるようになり、凶器携帯禁止令も、≪|口斬り通り《クーブ・グール》≫という名前を≪|首斬り通り《クーブ・ゴルジュ》≫と変えた以外には、前と少しも変わることもなくなってしまったが、これでも、明らかにひとつの進歩である。封建制度下の裁判の古い木組は、依然として立ったままであったし、無数の大法官や諸侯の権力は、区内で入りまじり、じゃまし合い、もつれ合い、縦横無尽にからみ合い、おたがいに入りまじっていた。夜警隊や、夜廻りや、夜警隊監視などは、いくらあっても無用の長物で、おいはぎ、強盗、暴徒などが凶器を手にして市中を横行していた。
こんな無秩序な状態だったので、一部の民衆が暴力をふるって、もっとも人口の密集している地域にある宮殿や、官庁や、邸宅を襲うというようなことは、けっして珍しい事件ではなかった。そういうような場合には、たいてい、付近の人たちは、略奪が自分たちの家にまで及ばないかぎりは、その事件にまき込まれるというようなことはなかった。彼らは、火縄銃で射撃する音がすれば、耳をおおい、よろい戸をしめ、戸口にバリケードをつくり、夜警隊が来ても来なくても、喧嘩が解決するのを手をこまねいて待っているばかりだった。そして翌日になれば、パリには、「昨晩はエチエンヌ・バルベットの家に強盗がはいった」とか、「クレルモン元帥が拉致《らち》された」などという噂がとぶのであった。
だから、ルーヴル、パレ、バスチーユ、トゥールネルなどの王の住居ばかりではなく、プチ=ブールボン、サーンス邸、アングーレーム邸などのたんなる諸侯の邸宅にいたるまで、塀には銃眼が、戸口の上には石を落とすための狭間《はざま》がつくられてあった。教会は、神聖なものであるということで維持されていたが、中にはいくつか、防備がほどこされていたものもあった。ノートルダム大聖堂は、その数のうちにははいっていない。サン=ジェルマン=デ=プレの修院長の邸宅は、まるで諸侯の城のように、銃眼がもうけられており、彼の家では、銅が、鐘よりも大砲を造るほうに余計使われていたのだ。一六一〇年には、まだその城砦《じょうさい》が見られたが、今日では、わずかに聖堂が残っているだけである。
余談はともかく、ノートルダム大聖堂にかえろう。
このように部隊の最初の配置が終わると……宿なしどもの訓練がゆき届いていることをほめて、クロパンの命令が静かに、驚くほど正確に実行されたということを、ここで述べておかなければならない……この立派な隊長は大聖堂の広場の胸壁にのぼって、ノートルダムのほうに向きなおり、たいまつをうち振りながら、しゃがれた荒々しい声を張りあげた。たいまつの光は風に揺れ、たえず自分が出す煙に覆われたので、大聖堂の赤味がかった正面玄関は、見えたりかくれたりしていた。
「おまえ、パリ司教、高等法院判事、ルイ・ド・ボーモンに対し、このおれ、チュニス王、物乞い大王、どろぼう王国国王、ふうてん司教、クロパン・トルイユフーがここにもの申す。……われわれの妹は魔術を使うとぬれぎぬを着せられて、おまえの教会の中に身を隠した。おまえはその女に対し、駆け込み場と保護とを与えなければならぬのだ。ところが高等法院は、女をとり戻そうとし、しかもおまえはそれに同意した。そのため、もし神と宿なしとがいなかったら、彼女はあすグレーヴ広場で縛り首になってしまうだろう。だからわれわれは、おまえ、司教のもとへやってきたのだ。おまえの大聖堂は神聖であろうが、われわれの妹も神聖なのだ。われわれの妹が神聖でないならば、おまえの大聖堂もまた神聖ではない。だから、おまえが自分の大聖堂を救おうとするならば、娘をわれわれの手に返すように要求する。これを拒絶すれば、娘を奪いかえして、大聖堂を略奪するであろう。それがよろしかろう。そのしるしとして、おれはここにおれの旗を立てる。神よ照覧あれ、パリ司教よ!」
カジモドは、不気味《ぶきみ》で野生的な一種の威厳をこめて述べられたこうしたことばが、不幸にも耳にはいらなかった。宿なしがひとり、クロパンにその軍旗を捧げた。クロパンはもったいぶったようすで、ふたつの敷石のあいだにその旗を立てた。それは熊手で、その刃《やいば》からは腐肉がひと切れ、血まみれになってぶらさがっていた。
それがすむと、チュニス王は振り返って、軍隊をじろじろとひとわたりながめわたした。彼らは獰猛《どうもう》な連中で、その目つきはまるで槍先みたいに輝いていた。ちょっと間《ま》をおいてから彼は叫んだ。
「進め、野郎ども! 仕事にかかれ、喧嘩好きな野郎ども!」
腕っぷしの強そうな、錠まえ屋のような顔をした角ばった体つきの男が三十人ばかり、金槌《かなづち》や金梃《かなてこ》や鉄棒を肩にかついで、列から進みでた。そして大聖堂の表玄関のほうに進んでいき、階段をのぼっていったが、やがて尖頭《せんとう》アーチの下にみんなうずくまって、金槌や梃で扉を叩きこわそうとしているのが見えた。一群の宿なしどもがそのあとについていって、手伝ったり、またその仕事をながめたりしていた。正面玄関の階段は、十一段ともぎっしり人でうずまってしまった。
だが、扉はあくまで頑丈《がんじょう》だった。
「畜生! こいつはやけに堅くて強情だぞ!」と、ひとりが言う。
「年をとってるんで、軟骨まで堅くなっていやがるんだな」と、もうひとりが言う。
「ものども、がんばれ!」と、クロパンは何度も言った。「おれは上靴におれの首をかけるから、この扉をあけて娘を連れだし、聖堂の小役人が目をさまさねえうちに、あの大祭壇の布をひんめくってしまえ。いいか、どうだ! 錠まえははずれたろう」
このとき彼のうしろで恐ろしい響きが起こったので、クロパンの言ったことばは、さまたげられてしまった。彼はうしろを振り向いた。と、巨大な丸太が天から降ってきて、大聖堂の階段の上にいた宿なしが、十二人ばかり押しつぶされてしまった。丸太は大砲のような音をたてて敷石の上にはねかえり、そこここで宿なしどもの脚を折ったので、彼らは、悲鳴をあげてちりぢりになった。見る見るうちに、前庭の狭い境内には、人っ子ひとりいなくなってしまった。ならず者たちは、正面玄関の深いアーチの下にいて危くなかった者までも、扉をうっちゃって行ってしまった。クロパン自身も、大聖堂からかなり遠くのほうまで退却した。
「危ねえところだった!」とジャンは叫んだ。「風をきって落ちてきやがったよ、畜生! だが、牛殺しのピエールのやつ、とうとうやられてしまったな!」
この無頼漢《ぶらいかん》どもの上に丸太といっしょに落ちてきた驚きと恐怖の気持がどれほどであったか、とても説明することはできない。彼らはしばらくのあいだ、じっと目を空に向けたまま、二万人の王室射手隊の襲撃よりも、この一本の丸太のほうにびっくりぎょうてんしていた。
「この野郎! こいつはどうも魔法くさいぞ!」と、エジプト公がつぶやいた。「おれたちにこんな薪を投げてよこしやがったのはお月さまだな」と、赤っ面《つら》のアンドリが言った。
「それでなんだな、お月さまは聖母マリアの友達だという話があるのは!」と、フランソワ・シャントプリューヌが言った。
「こん畜生! おまえたちは、そろいもそろって抜け作だな!」と、クロパンは叫んだ。だが、どうしてこの丸太が落ちてきたのか、彼自身も説明がつかなかったのである。
一方、正面玄関の上には何も見えなかったし、その頂上にはたいまつの明かりも届かなかった。重そうな丸太は広場のまん中にころがっていた。まっさきに丸太がぶつかって、石段のかどで腹をたち割られた哀れな男どものうめき声が聞こえた。
チュニス王は最初はすっかりびっくりしたものの、やがて驚きが去ってしまってから、なんとか説明をしてやると、仲間の者どももどうやらのみこんだようであった。
「やりやがったな! 司祭どもが抵抗していやがるんだな? よし、それじゃ略奪だ! 略奪だ!」
「略奪だ!」と、群集はたけり狂ったようなかん声をあげて繰り返した。そして大聖堂の正面玄関めがけて弩《おおゆみ》と火縄銃を発射した。
この爆音を耳にして、近所の家々の、安らかに眠っていた人びとは目をさました。多くの家々の窓が開いて、人びとはナイトキャップをかぶったり、手にろうそくを持ったりして、窓べに現われた。
「窓に向かって射て!」とクロパンは叫んだ。と、たちまち窓は閉ざされた。そして哀れな旦那たちは、気もそぞろに、光と大騒ぎのいりまじったこの光景を見きわめる時間もろくにないうちに、冷や汗をかきながら女房のそばに戻って、魔法使いの夜宴が今夜ノートルダムの広場で開かれているのか、それとも六四年のときのようにブールゴーニュ人が押しよせてきたのかなどと、いぶかったのだった。そして、亭主たちは強盗を、女房たちは強姦を、それぞれ心配して、みんなぶるぶる震えていた。
「略奪だ!」と、どろぼう王国部隊は繰り返してどなっていた。だが彼らはどうしても近よってはいけなかった。ただ大聖堂をながめたり、丸太をながめたりしているだけだった。だが丸太はそのまま動かなかったし、建物はひっそりと静けさをたもって、人影もなかった。だが、何かが宿なしどもの肝を冷やしているのだった。
「さあ、野郎ども、仕事にかかるんだ! 扉を叩きこわすんだ」と、トルイユフーは叫んだ。
だが、誰ひとりとして進みでようとするものはなかった。
「べらぼうめ! じゃ、梁《はり》がこわいんだな、能《のう》なしどもめ」と、クロパンが言った。
年とったならず者がひとり、彼にことばをかけた。
「大将、おれたちが困っているのは、梁じゃねえんだ。扉なんだよ、なにしろこいつは鉄のかんぬきでぎっしりと縫いつけてありやがるんでね。金梃《かなてこ》がちっともきかねえときてやがるんだ」
「じゃ、門をぶち破るにはどうしたらいいというのだ?」と、クロパンがきいた。
「ああ! 破城槌《はじょうづち》さえありゃあなあ」
チュニス王は、勇敢にもあの恐ろしい丸太のほうに走っていって、その上に足をかけた。
「ほら、ここにあるぞ。こいつは神父どもがおまえたちに投げてよこしたものだ」と、彼は叫んだ。こう言って、彼は、大聖堂のほうに向かって軽蔑したような挨拶をして、「いやどうもありがとう、聖堂参事会員の諸君!」
こんなふうに挑戦的な態度にでたということは、非常に効果があった。丸太の魔力は破られた。宿なしどもは勇気をとりもどし、やがて、重い丸太は、二百本ばかりのたくましい男の腕で羽根のように持ちあげられて、いましがた揺り動かそうとした大きな扉に激しく打ちつけられた。宿なしどもの数少ないたいまつの光で広場に照らしだされたかすかな明かりで、大勢の男どもがこの長い丸太をかついで大聖堂めがけて走りよりながらぶっつけているのを見ていると、まるで幾千という足をもった怪獣が、頭を低くたれて、石造の巨人を攻撃してでもいるような気がしてくるのだった。
丸太に突かれて、半ば金属製の扉は、まるで巨大な太鼓のような響きをたてた。扉はこわされはしなかったが、大聖堂全体が震動した。そして建物の深い奥のほうから、うなるような音が聞こえてきた。と、同時に、正面玄関の上から、大きな石が雨あられと攻撃軍の上に降りかかってきた。
「畜生! 塔のやつめが、おれたちの頭の上に欄干をふり落としやがるのかな?」と、ジャンは叫んだ。だが、もうはずみがついていたのだ。チュニス王は陣頭にたって模範を示した。ふせいでいるのは、たしかに司教なのだ。こう考えて、人びとは石が雨あられと降ってきて右でも左でも頭蓋骨がうち砕かれたが、それをものともせず、いよいよいきりたって、扉にぶつかってゆくのだった。
こうした石は、ひとつひとつ落ちてはきたが、あとからあとからどんどん落ちてくるのだった。どろぼう王国部隊の面々は、その石が同時に二つ、ひとつは足に、ひとつは頭にと落ちてくるような気がした。ポカンとひと打ちくわなかったものはほとんどないほどで、すでに死傷者は、血まみれになって大きな層をなして倒れており、いまやたけり狂ってたえず入れかわり立ちかわり新手《あらて》となって攻めたてる軍勢の足もとに、ぴくぴくとあえいでいた。大丸太はたえず正確に一定の間隔をおいて、ちょうど鐘をつるす横木のように、扉に向かって打ちこまれていたし、石はあいかわらず雨あられと降りつづけ、扉もあいかわらずものすごいうなり声をたてていた。
宿なしどもを激怒させたこの思いがけない抵抗が、カジモドのしわざであったということは、みなさんには、おそらくまだおわかりになっていないだろう。
不幸にも偶然のいたずらで、この耳の聞こえない勇敢な男は、ひと働きしなければならないことになってしまったのである。彼が塔と塔とのあいだにある平屋根の上におりてきたとき、頭の中はすっかり混乱していた。彼は、しばらくのあいだ回廊を気が狂ったように行ったり来たりして走りまわり、大聖堂に向かってとびかかろうとしているびっしりと集まった宿なしどもを高みから見おろしたり、また悪魔にか神にか分からないが、ジプシー娘を救ってくれるように願ったりしていた。南側の鐘楼にのぼって警鐘を鳴らしてみようかとも考えてみた。だが鐘を揺り動かさぬうちに、マリーの大声が怒号ひとつあげないうちに、大聖堂の扉はたっぷり十回も打ちこわされてしまうのではあるまいか? ちょうどこのとき、ならず者どもはいろいろな道具を持って、扉のほうに進んで来ていたのだ。どうしたらいいだろうか?
とつぜん、彼は、石工《いしく》たちがその日一日、南側の塔の壁と骨組と屋根とを修繕していたことを思い出した。それはまさに、頭に浮かんだひと筋の光だった。壁は石で作られ、屋根は鉛で、骨組は木で作られていた。この巨大な木組はやたらにこみいっていたので≪森≫と呼ばれていた。
カジモドはその塔のほうに走っていった。下のほうの部屋には、思ったとおり、いろいろな材料がぎっしりと積まれていた。そこには、切り出した石が山のように積んであり、鉛板が巻いたままになっていたり、小割板《こわりいた》の束や、すでに鋸《のこぎり》で切りこまれた丈夫な梁などがころがっていたり、また石膏《せっこう》の篩屑《ふるいくず》が積みかさなったりしていた。申しぶんのない兵器庫だった。
事態はさしせまっていた。下のほうでは金梃《かなてこ》や金槌《かなづち》がしきりに働いていた。こいつは危ないと感じたために、いつもの十倍になった力をふるって、カジモドは、いちばん重くて、いちばん長い丸太を持ちあげ、明かりとりからそれを突き出し、塔の外側でもう一度それを持ちなおして、平屋根のまわりの欄干のかどをすべらせ、深淵めがけて突き落とした。巨大な丸太は五十メートルあまりの高さを落ちてゆくうちに、壁を削りとり、彫像を打ち砕き、まるで空間をただひとりで飛び去ってゆく風車の翼のように、幾度もぐるぐるとまわった。そしてとうとう地面に触れると、ものすごい響きがたちのぼった。黒い丸太は敷石の上ではねかえって、とびかかるヘビそっくりな姿をしてみせた。
カジモドの目には、宿なしどもがまるで子どもの吹く息にあたって灰がとび散るように、丸太が落ちてくるのにあたって、ちりぢりばらばらになっていくのが見えた。カジモドは、群集が驚いているのをこれ幸いと、彼らが天から降ってきた丸太を迷信的な目でじっと見つめたり、また、矢や猟弾をはなって、正面玄関にあった聖者の石像の目をえぐったりしているあいだに、ひそかに、石膏の篩屑《ふるいくず》や、石や、切石や、また石工の道具袋までを、まえに丸太がとびだした欄干のへりの上に積みあげた。
こんなわけで、彼らが大門を打ちこわしはじめたかと思うと、すぐさま切石が雨あられと落ちはじめ、大聖堂がまるで、彼らの頭上にくずれかかってくるように思われたのだった。
このとき、カジモドの顔つきを見た者があったら、誰しもきっと恐れをなしただろう。彼は、弾丸として欄干の上に積みかさねたもののほかに、平屋根の上にも石を山のように積みかさねた。そして外側のへりに積みあげられた切石がなくなると、すぐにまた平屋根のほうの山から取るのだった。何度もかがんだり立ちあがったりして、信じられないほどの活躍ぶりだった。彼が地霊のような大きな頭を差しのべて、欄干ごしに下をのぞきこんだかと思うと、大きな石が一つ、また一つと落ちていくのだった。ときどき、素晴らしい石をひとつ目で見送っていたが、その石がみごとに命中して相手を殺すと、彼は「ざまあみろ!」と言った。
だが、宿なしどももさるもの、なかなかひるまなかった。彼らが一心に押していた厚い扉は、百人の力が加勢されたカシワの木の破城槌《はじょうづち》の重さに、もう二十度以上もぐらぐらと揺さぶられた。羽目板はきしり、彫刻は砕けとび、肘金《ひじがね》はガンと打たれるたびごとに鐶《かん》のついたらせん釘にはねかえり、板は調子が狂い、木材は鉄の格縁《ごうぶち》のあいだで砕けて、こなごなになって落ちた。カジモドにとって幸いなことに、この扉は木材よりも鉄の部分のほうが多かった。
けれども、もう大門がぐらぐら揺れだしたのを、彼は感じた。なんにも聞こえはしなかったが、破城槌が打ちつけられるごとに、教会の洞穴《ほらあな》も彼のはらわたも、同時に反響するのだった。彼は、宿なしどもが勝ち誇り、怒りに狂って、まっ黒な正面に向かってこぶしを振っているのを、塔の高みから見おろしていた。そして、あのジプシー娘のためにもまた自分のためにも、頭の上を羽ばたいて逃げてゆくフクロウの翼がないのが恨めしかった。
だが、彼が雨あられと投げつける石材も、攻撃軍を撃退することはできなかった。
このように悶《もだ》えていたとき、いま自分が宿なし連中めがけて石を投げつけていた欄干から少し下ったところに、長い石造の樋《とい》が二本、大門のすぐ上のところを通っていることに目をつけた。この樋の内側の穴は、平屋根の敷石にまで届いていた。ふと、ある考えがひらめいた。自分の鐘番小屋に薪の束を探しに走って行き、その束の上に、貫板《ぬきいた》の束や、鉛の巻いたものをたくさん積み上げた。これは、いままで使ったことのない新しい弾薬であった。そしてこの薪を二本の樋の穴の前に手ごろに置いて、角燈でそれに火をつけた。
こうしているまに、もう石が落ちてこなくなったので、宿なしどもは、もはや空を見あげるのをやめていた。泥棒どもの一隊は、まるで、イノシシをその巣に追いこむ猟犬の群れのようにあえぎながら、大門のまわりに、わいわい言いながら押し寄せて来た。大門は、破城槌のためにすっかり形が変わってしまったけれども、まだ倒れずに立っていた。彼らは、武者ぶるいをしながら、大打撃を、大門の横腹に風穴をあけるほどの大打撃をあたえることを期待し、大門が開けば、この豪華な大聖堂、過去三世紀の宝物が山とつまれている巨大な宝庫の中に、先陣の功名を勝ちとろうと、ひしひしと寄って来るのであった。
彼らは、歓喜と欲望の叫び声をあげながら、美しい銀の十字架や、錦の素晴らしい法衣や、真紅の美しい墓碑や、内陣にある豪華な品々、目もさめるばかりの祭典、燈火のあかあかと輝くクリスマス、日の光にはえる復活祭や、聖遺物容器、燭台、聖体器、聖櫃《せいひつ》、聖遺物|匣《ばこ》などが、祭壇を金やダイヤモンドの層皮《そうひ》で浮彫りした、すべてのこういう物の素晴らしい荘厳さを、おたがいに思い出したのだった。
たしかに、この美しい瞬間には、小突き屋も、おでき物乞いも、どろぼう王国立法者も、にせ焼け出されも、ジプシーの娘を救い出すということよりも、むしろ、ノートルダム大聖堂を略奪することの方を考えていたのだ。もし盗人《ぬすびと》にも、何か口実の必要があるとすれば、彼らのうちの大多数の者にとっては、エスメラルダのことは、たんなる口実にすぎなかったのだということは、われわれも喜んで信じよう。
彼らが全力をあげて決定的な打撃を与えようと、息をこらし、筋肉をこわばらせて、最後のひと押しをやってみるために破城槌のまわりに集まってきたちょうどそのとき、とつぜん、まえに大梁《おおばり》につぶされた人間があげて死んでいった叫び声より、はるかに恐ろしい叫び声が彼らの中からあがった。叫び声をあげない者、まだ命のある者は目を見張った。……とけた鉛がふた筋、建物の頂上から群集のいちばん密集したところに流れおちてきたのだ。海のような人びとの群れは沸騰した金属の下敷きになって沈んでしまった。たぎりたった金属は、ちょうど雪の中に熱湯を注いだときのように、落ちていったふたつの地点で、群集の中に黒い、湯気のたったふたつの穴をこしらえてしまった。そこには半分黒こげになって苦しげにうめき声をあげている瀕死《ひんし》の人たちがのたうちまわっているのが見えた。
この二筋の主流のまわりには、この恐ろしい雨のしたたりが寄せ手の軍勢の上に散らばって、まるで炎の錐《きり》のように彼らの頭蓋骨の中にはいっていった。それはまさに、幾千という霰《あられ》の粒を使って、こうしたならず者たちの群れの中に多くの穴をうがっている、ずしりと重い火だった。
胸をつんざくような叫び声があがった。彼らは、丸太を死骸の上に放りだしたまま、大胆な者も臆病な者もてんでんばらばらに逃げだし、広場にはまた人っ子ひとりいなくなってしまった。
人びとはみな目をあげて、聖堂の頂上を見あげた。目にはいったのは不思議な光景だった。中央の円花窓《えんかそう》よりも高く、いちばん高いところにある回廊の頂上には、大きな炎が赤々として、ふたつの鐘楼のあいだを、渦巻く火花をとび散らせながら立ちのぼっていた。その炎はめちゃくちゃにたけり狂っていたが、そのために風が起こって、ときどき木片が煙に包まれてとび散った。この炎の下のほうに、つまりおこり火のようになったクローバ形の彫刻のある暗い欄干の下には、怪物の口の形をした二本の樋《とい》がひっきりなしに焼けつくような雨を吐きだしていた。その銀色に輝く流れは、樋の口からはなれて、暗やみに包まれた正面の下の部分に落ちていった。液状になった鉛の二筋の流れは、地面に近づくにつれて、如雨露《じょうろ》のたくさんの穴から吹きだす水のように、垂穂《たれほ》の形をなしてひろがってゆくのだった。その炎の上には巨大な塔がふたつそびえ立ち、その塔のふたつの面が、ひとつはまっ黒に、ひとつはまっ赤に、どぎついまでにくっきりと染めわけられていた。大きな影のような姿を空高くそそり立たせたその塔は、そのためにいっそう大きく見えた。
塔に彫られた悪魔や竜の無数の彫刻は、不吉な姿をみせていた。炎の揺らめく明かりのために、見る人の目には、まるで彫刻が動きだしたのではないかと思われるのだった。ヘビは笑っているように見え、怪獣の水落としは吠えているように見え、また、イモリは火の中であえいでおり、竜の像は煙にむせてくしゃみをしていた。そして、この炎や騒ぎのために、こんなぐあいに眠りからさめた怪物のうちで、一匹だけが歩いていたが、その一匹がろうそくの前を歩くコウモリのように、まっ赤になった薪の前をときどき通る姿が見えるのだった。
おそらくこの異様な燈台は、遥かかなた、ビセートルの丘のきこりの目をも覚まさせたことであろう。きこりは、ノートルダム大聖堂の塔の巨大な影がヒースの生い茂る丘の上に揺らめくのを見て、驚いたに違いないのだ。
宿なしどもも恐怖のあまり、静まりかえってしまった。その間に聞こえてくるものといっては、ただ修道院に閉じこもっていた参事会員たちが燃えあがる馬小屋の中の馬よりももっと不安げに急を告げる叫び声と、窓が急に開けられたかと思うと、またもっと早く閉じられるこっそりとした音、市立病院の病舎の中での上を下への大騒ぎ、炎の中を通りすぎる風の音、瀕死の重傷者の最期のあえぎ、それに、敷石の上に絶えまなくはねる鉛の雨の響きだけであった。
そうこうするうちに、宿なしのうちのおもだった者どもは、ゴンドローリエ家の玄関の軒下に避難して、会議を開いた。エジプト公は、車よけの石に腰をおろして、宗教的なおそれをいだきながら、空中六十五メートルの高みに輝く、不思議な火刑台を見つめていた。
クロパン・トルイユフーはかんかんに怒って、その太いこぶしをかみながら、「どうでもはいることはできねえんだな!」とつぶやいた。
「古い化け物の聖堂よ!」と、年とったジプシーのマチヤス・アンガディ・スピカリもブツブツ言った。
「いまいましい野郎だ! この聖堂の樋《とい》は、レクトゥール〔城砦のあるフランスのまち〕の突廊よりもうまく、溶けた鉛をひっかけやがるな」と、軍隊生活を送ったことのある半白の髪のにせ傷兵が言った。
「火の前を行ったり来たりしている悪魔が見えるだろう、な?」と、エジプト公が叫んだ。
「畜生め、あいつは鐘番の野郎だ。カジモドだよ」と、クロパンが言った。
ジプシーのスピカリは首を横に振った。
「そうじゃねえよ。いいかい、あいつはだな、サブナックという悪霊だよ。大侯爵でな、要塞の悪魔なんだ。あいつは武装した兵隊の形をしていて、頭はライオンなんだぜ。ときには、気味の悪い馬に乗っていることもあるんだ。人間を石に化かして、それで塔を建てるんだ。また五十個の軍団の指揮をとってもいるんだぜ。たしかにあいつだ。見覚えがある。ときには、あいつはトルコふうの模様のついた金の素晴らしい服を着ていることもあるんだ」
「ベルヴィーニュ・ド・レトワールはどこにいるんだ?」と、クロパンがきいた。
「死んじまいましたよ」と、宿なしの女が答えた。
赤っ面のアンドリは、白痴めいた笑いをもらしながら、「ノートルダムが、市立病院に仕事を作ってやっているのさ」と言った。
「じゃ、どうしても、この扉をぶち破る方法はねえってのかな?」と、チュニス王は、じだんだを踏みながら叫んだ。
エジプト公は、燐《りん》でできた二本の長い紡錘竿《つむざお》のようにたえず黒い正面玄関に線を引いている、煮えたった鉛のふた筋の流れを、悲しそうに彼に指し示して、「昔からよく見うけることなんだが、教会ってもんは、あんなふうに自力で防御したもんなのさ」と、溜息をつきながら言った。「もう四十年もまえの話だが、コンスタンチノープルの聖ソフィア教会は三回もつづけざまに自分の頭、つまり丸屋根をゆすっては、マオンの神〔イスラム教徒の神〕の三日月を地面に投げつけたもんだった。ギヨーム・ド・パリスという男が、この大聖堂を建てたんだが、あいつは魔法使いだったのよ」
「するてえと、大道《だいどう》の物乞いみてえに、指をくわえてひっこまなけりゃならねえのかい?」と、クロパンが言う。「妹が、あす、ずきんをかぶったオオカミどもに縛り首にされるのに、みすみすそこに置いてきぼりにするというわけか?」
「それに、あの聖具室には、宝が山ほどあるのによう!」と、宿なしのひとりが言いそえたが、その男の名まえがわからないのは残念なことだ。
「くそ、いまいましい!」とトルイユフーが叫んだ。
「もう一度やってみようじゃねえか」と、さっきの宿なしが言った。
マチヤス・アンガディは首を横に振った。
「この門からは、へえれねえよ。仙女のばばあの鎧《よろい》のきずを見つけなけりゃならねえんだ。穴か、抜け道か、何か継ぎ目のようなところだな」
「誰がそいつをやるんだ?」とクロパンが言った。「おれはもう一度行くぞ。……それはそうと、あの小わっぱ書生のジャンはどこにいるのかな? 鎧兜《よろいかぶと》でやけに身をかためていやがったようだが」
「おそらく死んじまったんだろうな」と誰かが答えた。
「あいつの笑い声がもう聞こえねえからね」
チュニス王は、眉をひそめた。「そいつは惜しいことをした。あんな鎧を着こんでいたが、いい男だったのにな。……それから、ピエール・グランゴワール先生は?」
「クロパン親方、あいつは、おれたちがまだシャンジュ橋にかかったか、かからないうちに、ずらかっちゃいやしたぜ」と、赤っ面のアンドリが言った。
クロパンはじだんだを踏んで、「畜生め! おれたちをこんなところまで駆り立てやがったのは、あの野郎じゃねえか。それに、おれたちが大骨を折っているまっさいちゅうだってのに、置いてきぼりにしやがって!……いつもペチャクチャしゃべってばかりいやがって、女のくさったみたいな卑怯者だ!」
「クロパン親方、ほら、小わっぱ書生が来やしたぜ」赤っ面のアンドリは、パルヴィ通りをながめていたが、こう言った。
「ありがてえ! だが、あいつ、いってえ何を引っぱって来たんだろうな?」と、クロパンが言った。
それは、案の定、ジャンであった。彼は遊歴の騎士が着るような重い鎧《よろい》を着こんで、しかも長い梯子《はしご》を器用に敷石の上をひきずって、力のかぎり一所懸命に走ってきた。自分の体の二十倍もある草の葉を引いているアリよりもフーフー言っていた。
「勝ちいくさだ! ≪ばんざいだ!≫こいつは、サン=ランドリ波止場の荷揚げ人足の梯子ですぜ」
クロパンは彼のそばにやってきた。
「おい! その梯子で、どうしようってんだ?」
「ぶんどってきたんですよ」と、ジャンは息をきらせながら答えた。「ぼくは、これがどこにあるか、ちゃんと知ってたんですぜ。……ある中尉の家の納屋のかげにあったんです。あそこの家には、ぼくの懇意《こんい》にしている娘がひとりいましてね、ぼくをキューピッドのように美男子だと思っていやがるんですよ。……ぼくは、この梯子を手に入れるために、あの娘を利用しちゃったんですぜ。うめえもんでしょう!……可哀そうに、あの娘のやつ、肌着のままでぼくのために戸を開けに出てきましたよ」
「そうか。だが、その梯子でどうしようっていうんだ?」とクロパンがきいた。
ジャンは、何か底意ありげな、そしてまた自信たっぷりなようすで彼のほうを見て、指をカスタネットのように鳴らした。このときの彼は、なかなか素晴らしかった。頂上に噴火獣の飾りがつき、敵の軍勢をおびえさせた、あの十五世紀特有の重そうな兜《かぶと》をかぶっていた。その兜には鉄のくちばしみたいなものが十本も逆立っていて、そのために、ネストル〔ギリシア神話中の人物。トロイヤ戦争でギリシア軍を勝利にみちびいた〕のホメロスふうの船と、≪十の衝角をそなえた≫という恐るべき形容句を争いえたほどであった。
「ぼくがこれで何をしようとしているかと、おっしゃるんですね、いと崇《とう》ときチュニスの王さま? あの三つある正面玄関の上に、まぬけ面をした像が並んでいるのが見えるでしよう?」
「うん、それで?」
「あれが、フランスの王さまたちの回廊ですぜ」
「それがどうしたというんだ?」と、クロパンがきいた。
「まあ、お待ちなさいよ! あの回廊の端に、扉がひとつありましてね、掛金《かけがね》じゃなければしまらないんです。だけど、この梯子でそこにのぼっていけば、大聖堂の中にはいれるってわけですよ」
「若えの、おれにまずまっ先にのぼらせろ」
「いや、いけませんや、親方。この梯子は、ぼくのものですぜ。ぼくのあとからつづいておいでなさいよ」
「畜生、張りたおすぞ!」と、クロパンはむくれて言った。「おれは、どんなやつにだって、おくれをとるのはいやなんだ」
「それじゃ、クロパンさん、もうひとつ梯子を捜してくるんですな!」
ジャンは、その梯子をひきずって広場の中を走りながら、大声で言った。
「さあ、みんな、おれのあとからついて来い!」
またたく間に、梯子は、側面の玄関の上の下側の回廊の欄干に立てかけられた。宿なしどもの一群は、ワイワイ歓声をあげて、梯子にのぼろうとして、その下におしかけてきた。だが、ジャンは自分の権利を主張して、まずまっ先に梯子の横木に足をかけた。上まで登るにはかなりあった。フランス諸王の回廊は、今日では敷石からおよそ二十メートルほどの高さにあるのだが、当時はまだ正面入口には十一段の踏み段があって、そのためにいっそう高いところにあったのだ。
ジャンは、その重い鎧のために身動きも思うにまかせず、片手で横木をつかみ、片手で弩《おおゆみ》を握って、ゆっくりとのぼっていった。
梯子の中ほどまでのぼったとき、彼は階段を埋めている哀れなどろぼう仲間の死骸を悲しげに見おろしながら、「ああ! 『イリアス』の第五編そのままの死骸の山だな!」と言いながらも、またのぼりつづけた。宿なしどもも、彼のあとにつづいてのぼっていった。梯子の一段一段にひとりずつつかまっていた。鎧を着こんだ者どもが列をなして暗やみの中をうねうねとのぼっていくのを見ると、まるで、鋼鉄の鱗《うろこ》をもったヘビが大聖堂の壁を這っているように見えた。ジャンは先頭にたって口笛を吹いていたので、ますますそんなふうに見えてくるのだった。
ジャンは、とうとう回廊のバルコニーのところにたどりついて、宿なしどもがみんな拍手喝采しているうちに、すばやくバルコニーにとびこんだ。こうして砦《とりで》を征服して、思わず喜びの声をあげた。が、とつぜん、ぎょっとして立ちどまった。王の石像のうしろに、目をぎらぎらさせて暗やみの中に隠れているカジモドの姿に気がついたのだ。
二番目の寄せ手のものが回廊に足をかけるまもないうちに、この恐ろしい背の曲がった男は、梯子の頭のところにとんでいって、ものも言わずに、たくましい手で梯子の両方の親木をつかんだかと思うと、ぐいと持ちあげ、壁から離し、上から下までぎっしりと宿なしどもが鈴なりになってたわんでいた長い梯子を、みんなが悲痛な叫び声をあげているなかで、ちょっとのあいだ揺すった。そして超人的な力をふるって、鈴なりになった人間どもを広場に突き落とした。
その一瞬、肝のすわった男たちでも、胸をドキドキさせてしまったほどだった。梯子はうしろへはねられて、しばらく空間に直立してためらっているように見えたが、すぐにゆらゆらと揺らめいて、たちまち半径二十五メートルあまりの恐ろしい円弧をえがき、はね橋の鎖が切れて落ちるよりもはやく、無頼漢どもをぎっしり乗せたまま、敷石の上にどうと倒れた。
あたり一面に呪いの声があがったが、やがてそれもすべて消えてしまい、手傷を負った何人かの者が、哀れにも死骸の山の下から這いだしてきて逃げていった。
はじめのうちの勝利の勝ちどきもどこへやら、攻撃軍のあいだには、苦痛と怒りとのざわめきが起こった。カジモドは平然として欄干に両ひじをつき、その光景をながめていた。そのようすは、まるで年老いた王が長髪を風になぶらせながら、窓にもたれているようだった。
ジャン・フロロのほうは、まさに進退きわまってしまった。彼は二十五メートル以上もある切りたった壁で仲間の者たちから切り離されてしまい、ただひとり、恐ろしい鐘番といっしょに回廊に残された。カジモドが梯子に手をかけているうちに、彼は抜け穴が開いていると思ってそのほうに走っていった。だが、だめだった。この耳の聞こえない男が回廊にはいってくるときに、扉を閉じてきたのだった。そこでジャンは、王の石像のかげに身をひそめ、息を殺して、おどおどした顔つきをしながら、この背にこぶのある怪物をじっと見ていた。家畜小屋の番人の女房に言いよったある男が、ある晩、逢引きに行ったときに、乗り越える塀を間違えて、とつぜん白熊と顔をつき合わせたことがあったが、まるでそのときの男そっくりな格好だった。
はじめのうちこそ、耳の聞こえない男も彼に気がつかなかったが、とうとう振り向いて、急に身がまえた。ジャンがいるのに気がついたのだ。
ジャンはいまにも猛烈にぶんなぐられることを覚悟していたが、相手はじっと身動きもしないで、ただこの学生のほうを振り返ってじっと見ているだけだった。
「おい! おい! なんだってそんなに情けなさそうな片目で、おれのほうをじろじろ見るんだい?」
こう言って、この若い道楽者は、持っていた弩《おおゆみ》をこっそりとつがえながら、「カジモド! きさまのあだ名を変えてやるぞ。きさまのことを≪目なし野郎≫って呼ぶようになるぞ」と、叫んだ。
矢は放たれた。羽根のついたぐるぐるまわる矢は、風をきって飛んでゆき、こぶ男の左腕につき刺さった。カジモドは、ファラモン王〔伝説的なフランク族の首長〕がかすり傷を受けたほどにも感じなかった。矢に手をかけて、腕からひき抜くと、太いひざにかけて、ゆうゆうとそれをへし折ってしまった。そしてふたつに折れたやつを、床に投げつけるというよりは、むしろぽとりと落とした。だが、ジャンには二の矢をつがえるひまもなかった。矢を折ってしまうと、カジモドは急にうなり声をあげて、バッタのようにとびかかり、のしかかってきた。ジャンの鎧はドシンと壁にぶつかって、ぺしゃんこになってしまった。
そのとき、たいまつの光の揺らめく薄明かりの中に、恐ろしい光景がうかがわれた。カジモドは左手でジャンの両腕をつかんだが、ジャンはもがきもしなかった。もう生きた心地もなかったのだ。カジモドは、右手で、ものも言わずに、気味の悪いほどゆっくりと、ジャンの武装をひとつひとつ、剣、匕首《あいくち》、兜、鎧、篭手《こて》といったぐあいに脱がしていった。まるでサルがクルミの皮をはぐようだった。カジモドは、この学生の鉄の殻をひとつ、またひとつと、足もとに投げ捨てていった。
ジャンは、自分がこの恐ろしい手にかかって、武器を奪われ、着ていた物を脱がせられ、弱々しく裸にさせられたのを見ると、この耳の聞こえない男に声をかけようとはせず、相手の顔に向かってずうずうしく笑いかけ、十六歳の子どもらしい不敵な無邪気さで、そのころはやっていた歌をうたいだした。
きれいな着物をきていたよ、
カンブレのまちは。
マラファン そのまちを荒らしたよ。……
だが彼の歌も終わりまではつづかなかった。カジモドは回廊の欄干の上につっ立って、片手でジャンの足をつかみ、投石器のように深淵の上で相手をぐるぐる振りまわした。と見るまに、骨でつくった箱が壁にぶつかるような音が聞こえた。すると何かが落ちてきたが、途中の三分の一ぐらいのところで、建物の突出部にぶつかって止まるのが見えた。それは、二つに折れ、腰首はくだけ、頭蓋はからになり、死骸となって、しばらくそこにひっかかっていた。
恐怖の叫びが宿なしどものあいだからわき起こった。
「あだ討ちだ!」と、クロパンが叫ぶ。……「やっつけろ!」と、群集が受ける。「突撃だ! 突撃だ!」
すると、恐ろしい怒号の声が起こったが、その声には、あらゆることば、あらゆる方言、あらゆる語調がまじりあっていた。可哀そうに学生が殺されたので、群集はたけり狂ってしまった。大聖堂の前まで来ていながら、たったひとりの男にこんなに長いあいだ食い止められたので、群集は恥ずかしさと怒りでいっぱいだった。たけり狂った群集は、梯子を何本か見つけてきたし、たいまつの数もふやした。
しばらくすると、この恐ろしいアリの大軍が、あらゆる方向からノートルダムによじのぼってくるのを見て、カジモドはうろたえた。梯子をもっていない連中は結びめのある綱をもってきたし、綱をもって来ない連中は彫刻の出っぱったところに足をかけてはいのぼっていった。彼らはおたがいに、ぼろの着物にぶらさがりあっていた。恐ろしい顔をして、あげ潮のように押しよせてくる大軍に抵抗することはとてもできそうもない。彼らの荒々しい顔は怒りのために赤く輝き、土色の額には汗が流れ、目はぎらぎらと光っていた。こうしたしかめっつらや醜いものが、カジモドをとりまいて攻撃していたのだ。どこかほかの教会がノートルダム攻撃のために、恐ろしい女の妖怪や、番犬や、怪物や、悪魔など、世にも不思議な彫刻を派遣したみたいだった。正面玄関の石の怪物の上に、生きた怪物どもが層をなしてへばりついているようだった。
そうしているまに、広場には無数のたいまつが星のようにともされた。そのときまで暗やみの中に隠れていた混乱した光景が急に照らしだされた。広場は赤々と輝き、空にまで光を投げかけていた。高い平屋根の上にともされた薪の山はたえず燃えつづけ、まちの遥か遠方までも照らしていた。ふたつの塔の巨大な影法師は、遥かかなたのパリの屋根の上までもひろがって、あたりを照らしている光の中に、大きな影の切り込みをつけていた。パリのまちの胸が激情に揺れ動いているようだった。遥か遠くの警鐘が訴えるように鳴り響き、宿なしどもは怒号し、息をはずませ、ののしりながら登っていった。
カジモドはこんなに大勢の敵に対してはどうすることもできず、ジプシー娘のことを思って身震いしていたが、たけり狂った顔がしだいに自分のいる回廊に近づいてくるのを見て、天に向かって奇跡をもとめ、絶望のあまり腕をよじって身悶えするのだった。
五 ルイ・ド・フランス殿下がお祈りをされた奥の間
みなさんもきっとお忘れではないと思うが、宿なしどもが群れをなして、夜の暗やみを縫《ぬ》ってくるのを見つけるほんの少しまえ、カジモドが鐘楼の頂上からパリを見わたしていると、もう明かりはたったひとつしか輝いてはいなかった。それは、サン=タントワーヌ門の横の高くて陰気な建物のいちばん上の階の窓ガラスに、星のようにまたたく明かりだった。その建物こそバスチーユ城だった。そして、その星こそ、ルイ十一世の部屋のろうそくだった。
国王ルイ十一世は、実際、二日まえからパリに来ていた。翌々日はモンチル=レ=トゥールの城砦に向かうはずだった。王は、彼のよき都パリにはめったに来なかったし、来ても長くは滞在しなかった。よき都パリには、敵をつかまえる落とし穴も、絞首台も、スコットランド人の歩兵も、自分のまわりにじゅうぶんにはないことを感じていたからだ。
王は、その日、バスチーユ城に泊まりに来ていた。ルーヴル宮にある、十二個の像と十三人の預言者の像とが彫刻してある大きな暖炉のついた、五トワーズもある四角な大広間も、また縦三メートル、横三メートル三十もある大きなベッドも、あまり王の御意《ぎょい》に召さなかった。王は、このような豪華な調度の中で、とまどいするような気がしていたのである。この市民的な王は、小さな部屋や小ベッドのあるバスチーユ城の方を好んでいた。それに、バスチーユ城は、ルーヴル宮よりも堅固だったのである。
この≪小部屋≫、王が有名な国事犯の牢獄の中に取っておいたこの小部屋は、まだ相当大きく、天主閣の中に作られた小塔の、もっとも高い階をしめていた。それは、円形の小さな部屋で、光沢のある藁《わら》の畳がしかれ、天井の丸太は、金色の錫《すず》で作られたユリの花を浮彫りにしてあり、その梁間《はりま》は、彩色がほどこしてあった。羽目板には、白色の錫でできた小さなバラの花がちりばめられた豪華な板が張ってあり、雄黄《ゆうおう》と薄い青藍《せいらん》とで作られた美しい淡緑色に塗られてあった。
窓はひとつしかなく、真鍮《しんちゅう》の針金と鉄の格子とのはまった尖頭アーチの長い窓であった。そのうえ、その窓も、王と王妃との紋章が彩色された美しい色ガラスのために薄暗くなっていたが、その羽目板は、二十二スーの費用でできたという代物《しろもの》なのであった。
また入り口もひとつしかなく、近代的なドアになっていて、アーチは低い半円をなしている。内側には壁紙がはってあり、外側は、アイルランド材でできた玄関になっていた。精巧に造られた指物細工《さしものざいく》の華奢な建築で、これは、百五十年前の古い邸宅に多く見られるものであった。ソーヴァル〔十七世紀の歴史家〕は、絶望したように、次のように言っている。
「たとえこれらのものが、付近一帯の風致を害し、場所ふさぎになるといっても、老人どもはとりこわすことを承知しない。みなは、このために迷惑しているが、これを保存している」と。
この部屋には、ふつうの家の部屋にあるような家具は何ひとつとしてなかった。腰掛も、脚台も、簡単な椅子も、箱形のありふれた腰掛も、ひとつが四スーもする脚や台座で支えられている美しい腰掛もなかった。非常に素晴らしい、折りたたみ式の肘掛け椅子がたったひとつあるだけであった。その材は、赤地にバラが描かれてあって、すわるところは朱色のコルドバ皮で、絹の長い房が垂れ、金の釘がいくつも打ちつけてあった。この椅子がたったひとつしか置いていないところを見ると、この部屋では、ただひとりの人物だけが腰をかける権利があるように見えた。
この椅子とならんで、窓ぎわには、机がひとつ置いてあって、鳥の画が描いてあるテーブル・クロスがかかっていた。この机の上には、インクのしみのついた紙挟《かみばさ》みがひとつと、数枚の羊皮紙、何本かのペン、それと銀の彫りのある脚つきの大きな杯《さかずき》が置いてあった。
そこからちょっとはなれたところには、食卓用こんろが一台と、深紅色のビロードが張ってあって、金の釘かくしが浮上彫《うきあげぼ》りになっている祈祷用の机が一台あった。最後に、部屋の奥には、黄色と淡紅色との綾織の、簡素なベッドがひとつあったが、それには金ピカの箔《はく》も飾り紐もついていない、縁飾りにもなんの体裁もついていないものであった。
このベッドこそ、ルイ十一世がぐっすりと眠られた夜もあり、転々として寝つかれなかった夜もあったというので有名なものであるが、二百年ほど前に、ある枢密顧問官の邸に移されて、そこで観覧を許されていた。この部屋で、『シリユス』〔スキュデリー嬢の小説〕の中で≪アリシディ≫とか≪道徳の権化≫という名前で有名な老ピルー夫人が見たのは、このベッドである。
このようなのが、「ルイ・ド・フランス殿下がお祈りをされた奥の間」と呼ぶ部屋だった。
いま、われわれがみなさんをここにご案内した時刻には、この奥の間はひどく暗かった。消燈の合図はもう一時間もまえに鳴らされていた。あたりはまっ暗だった。机の上にはろうそくが一本だけともり、その揺らめく明かりが、部屋に思い思いにたむろしていた五人の人物を照らしていた。
まず第一に光に照らしだされた人物は、美しく着飾った貴族で、半ズボンに銀の縞《しま》入りの赤い上着を着、黒い模様のはいった金襴《きんらん》の長袖のついた外套をまとっていた。この豪華な衣装はろうそくの光を受けて、そのひだというひだに炎が凍りついてしまったように見えた。この衣装を着た男は、あざやかな色の刺繍の紋章を胸につけていた。その紋章の山形のところの先には、一頭の走るシカの図柄がついていて、盾形をしたこの紋章には、右側にオリーブの枝、左側にシカの角がついていた。腰には立派な短剣がさがっていた。その柄《つか》は朱色で、兜飾りの形に彫ってあり、柄頭《つかがしら》には伯爵の冠がついていた。
彼は意地が悪そうで、傲慢《ごうまん》な顔つきをして、頭を傲然《ごうぜん》とあげていた。ちょっと見たところ尊大な顔だったが、よく見ればずるそうな顔だった。彼は帽子もかぶらず、長い書類ばさみを手にして、肘掛け椅子のうしろに立っていた。
ところで、この椅子には、ひとりの人物がまったく異様な服装をして、腰をかけていたのだ。体を不格好にふたつに折るようにし、ひざを重ねて、机にひじをついていた。実際、想像してもみたまえ、このコルドバ皮の豪華な椅子に、X形にまがった二本の脚の膝小僧、黒い毛糸のメリヤスを貧相に着た二本のやせたもも、毛よりも地のほうがよけいに見える毛皮のついた綿入り麻織物の外套を着た胴体、それからその上に、ひどく安物の黒ラシャの脂《あぶら》じみた古帽子が乗っているのだ。帽子は鉛の人形のついた環状の飾りひもで縁どられている。これが、髪の毛がやっと一本通るくらいのきたない球帽をかぶって、椅子にすわっている人物の姿だった。
彼は頭を胸にうずめているので、その顔は影に隠れていて何も見えなかったが、ただ鼻の先だけは光線があたっていて、どうやら見られた。その鼻は高かったに違いない。そのしわのよった手が痩せこけていたことを見れば、老人だということがわかったが、この人物こそルイ十一世であったのだ。
こうした人物のうしろに少し離れて、フランドル仕立ての服を着た男がふたり、小声で話をしていた。ふたりは、暗やみの中に隠れてまったく見えないというほどでもなかったから、グランゴワールの聖史劇をごらんになったかたならば、この人物たちがフランドルの首席使節のうちのふたりであることに気づかれたであろう。ひとりはガンの腕ききの終身市会議員のギヨーム・リムであり、もうひとりは、あのとき民衆の人気をさらった洋品屋のジャック・コプノールであった。このふたりがルイ十一世の政治にひそかに加わっていたことも、思い出されるであろう。
最後に、ずっと奥の、戸口に近い暗い中に、立像のようにじっと動かずに立っている、ひとりのがっしりした男があった。手足はずんぐりして、軍服を着て、紋章のついた外套をまとっていたが、その四角ばった顔には目が顔と同じ高さまでとびだしていて、大きな口は顔をたち割らんばかり、耳は、まっすぐな髪の毛がたれさがって、ふたつの大きなひさし形になった下に隠れていた。額はないといってよいくらい狭く、要するにこの男は、犬とトラをいっしょにしたような顔つきをしていたのだ。
国王以外のものは、みんな帽子をかぶっていなかった。王のそばに立っていた領主は、長たらしい計算書のようなものを王に読んで聞かせていて、陛下は熱心にそれに耳をかたむけているらしかった。ふたりのフランドル人は低い声で何かささやいていた。
「やれやれ! おれは立ってばかりいて疲れたよ。ここには椅子がないのかな?」と、コプノールはブツブツ言った。
リムは、ないのだというような身ぶりをして答え、不安げに笑った。
「やれやれ!」と、コプノールは、こうして声をひそめなければならないのが、まったくしゃくにさわったようすで、つづけて言った。「おれはいつも店でやっているように、洋品屋らしく足を組みあわせて、床《ゆか》にすわりたくってむずむずしているんだぜ」
「まあ、我慢しろよ、ジャック君!」
「へええ! ギヨーム君! ここじゃいつも立ちん坊ばかりしていなきゃならんのかね?」
「それとも膝でもつくかだ」と、リムが答えた。
このとき王が声をたかめたので、ふたりは黙った。
「なに、下僕の服が五十スー、王室づきの聖職者の外套が十二リーヴルだと! これじゃまるで、黄金を大樽に入れて投げるようなものだ! オリヴィエ、おまえは気でも違ったのか?」
こう言いながら老人は頭をあげた。彼の首に、サン=ミシェル勲章の首飾りの黄金の玉がきらりと輝いた。肉がげっそり落ちて気むずかしそうな横顔が、ろうそくの光にまともに照らされていた。彼は相手の手から書類をとりあげた。
「おまえたちは、このわしを破産させようというのか!」と、王はくぼんだ目で書類に目を通しながら叫んだ。「これはいったい何事じゃ? こんなに多くの召使どもを置く、なんの必要があるんじゃ? ひとりあたり月に十リーヴルの割合として、礼拝堂付きの司祭をふたりと、百スーで礼拝堂付きの聖職者をひとり置くのじゃと! 小姓がひとりで、年に九十リーヴルか! 大膳職が四人で、ひとりあたり年に百二十リーヴル! 槍持、菜園係、調味係、料理人、戦場での宮廷膳部官がひとりずつと、出納係がふたりで、ひとりあたり月に十リーヴルの割合じゃと! 台所の下働きがふたりで八リーヴル! 馬丁がひとりにその手下がふたりで月に二十四リーヴル! 人足、菓子作り、パン焼きがそれぞれひとりに、荷車引きがふたりで、ひとりあたり年に六十リーヴル! 蹄鉄工が百二十リーヴル! 国庫収入課長が千二百リーヴル、それに会計審査官が五百リーヴルだと!
……いやはや、まったく暴力沙汰じゃ! 召使どもの給料で、フランスは略奪されてしまうではないか! ルーヴル宮の金の延べ棒も、こんな火のような浪費にあっては、すっかりとけてなくなってしまうわ! 皿の果てまで売り払ってしまうことになるぞ! この調子では、来年には、たとえ神と聖母マリアさまとが(このとき彼は帽子を脱いだ)わしに生命《いのち》を貸したもうたとしても、錫の壷で煎じ薬を飲まなければならないことになるわ!」
こう言って、彼は机の上に光っていた銀の脚つき杯《さかずき》のほうにじろりと目をやった。せきをして、またつづけた。
「オリヴィエ君、国王とか皇帝とかいうように、広大な領地を差配している帝王というものはな、その家にぜいたくをはびこらせてはならぬものじゃ。というのは、そこからぜいたくの火が国じゅうに燃えひろがってゆくからな。……だからオリヴィエ君、このことはよく承知していてもらいたいのだ。わが王室の経費は年々かさむばかりだ。これはおもしろくないことじゃ。よいかな、しっかりしてもらいたい! 七九年までは、三万六千リーヴルをこえていなかった。ところが八〇年になると、それが四万三千六百十九リーヴルにまでなっているのだ。……わしはちゃんと数まで覚えているぞ。……八一年には、六万六千六百八十リーヴルだ。そしてことしは、驚くではないか! 八万リーヴルに達しようとしているのじゃ! 四年間で二倍になるわけだ! ひどいものだな!」
彼は息をきらして話をやめたが、また興奮して言いつづけた。
「わしのまわりには、どれもこれも、この痩せたすねをかじって太ってゆくやつらばかりじゃ! おまえたちは、わしの毛穴という毛穴から金を吸いとっているわけだぞ!」
みんなはじっと黙っていた。こんな怒りは聞きながしておけばいいのだった。彼はつづけた。
「これはまるで、領主どもが国家の大きな負担などと呼んでいるものを、わしのほうの費用で建てなおしてもらおうとして、やつらがラテン語で書いた請願書のようだぞ! まったく負担だ。押しつぶされるような負担だぞ! ああ! 諸君! きみたちはわしが≪肉の給仕も酒の給仕もつけずに≫国を治めているのを見て、わしが国王らしくないと言っておる! わしが国王であるかないか、やれやれ! きみたちによくわかるようにしてやるぞ!」
ここまで言うと、自分の権力のことを考えてほほえみを浮かべた。そのために不機嫌も少しおだやかになって、フランドルの人びとのほうに向きなおった。
「ギヨーム君、どうじゃな? パン焼き所管理長も、酒倉管理長も、侍従長も、家老も、みな下僕ほどにも役にたたないものだ。……コプノール君、このことをよく心得ておいてもらいたい。……彼らはなんの役にもたたない無用の長物だぞ。こんなふうに国王のまわりによってたかって、なんの役にもたたないでいるのを見ると、まるで、王宮の大時計の文字板をとりまいている四人の福音伝道師の像みたいな感じがする。ほれ、フィリップ・ブリーユが修理したばかりのあの時計の像じゃよ。あんな像は、金ぴかではあっても、時を告げるわけではない。針は、やつらがいなくたって、結構やっていけるのじゃ」
王はしばらく何か考えていたが、やがてじじむさい頭をふって、
「ああ! わしは断じてフィリップ・ブリーユではないぞ。大領主どもを飾りたててやるようなことはごめんじゃ。まったくエドワード王の言うとおりじゃ。人民を救い、諸侯を殺せとな。……オリヴィエ、さあ、さきを読め」
王からこう指名された人物は、手に持っていた書類を持ち直して、大声でまた読みはじめた。
「……パリ奉行所の印鑑係、アダン・トノンに対し、いままでの印鑑が古くなり、すり減ってきて、使用に耐えなくなったために、新しく作らせた際の材料費、加工賃、彫り代として、パリ金十二リーヴル。ギヨーム・フレールに対し、パリ金の四リーヴル四スー。本年の一月、二月、三月にわたり、トゥールネル裁判所のハト小屋二棟のハトを飼育し、七セクスチエの大麦を与えたことに対する報酬である。ひとりの聖フランチェスコ会修道士に対し、ある犯人を自白させた功により、パリ金で四スー」
王は黙って聞いていた。ときどきせきをしたが、そのときには、杯を唇にもっていって、ひと口飲んでは渋い顔をしていた。
「本年にはいってから、裁判所の命令により、パリの辻々でらっぱの音で五十六の号音を鳴らしたこと。……費用支払いの予定。パリ、その他の土地で、財産が隠されているという噂をされていた場所をいくつか捜査したが、何も発見されず……その費用、パリ金で四十五リーヴル」
「一スーの金を掘りだすのに、一エキュの金を地に埋めるようなものじゃな!」と、王は言った。
「……トゥールネル裁判所で、鉄牢のある場所に白ガラス六枚はめこみのため、十三スー。……閲兵の日に、王の命令により、周囲にバラの帽子模様をめぐらした、前述の領主の鎧《よろい》の紋章四個を新調し、支給したことに対し、六リーヴル。……王の古い上着の両そでの付替え料、二十スー。……王の長靴に脂をひくためのひと箱の脂代、十五ドニエ。……王の黒小豚を飼育するために新しく作った豚小屋代、パリ金で三十リーヴル。……サン=ポール宮のライオンを囲うために作ったたくさんの仕切り、板、揚げ戸の費用、二十二リーヴル」
「金のかかる動物じゃな」とルイ十一世は言った。
「まあ、よいわ! 王の威厳というやつじゃ。あの中に一頭、褐色の大きなやつがいるが、あれはおとなしくてなかなかよいな。……ギヨーム君、あれを見たかね?……帝王というものは、あのような、まことにもって結構な動物を飼っておかなければならぬのじゃ。われわれ国王たる者は、犬のかわりにライオンを飼い、ネコのかわりにトラを飼わなければならぬのだ。偉大な人間だけが王位にのぼれるのだからな。ユピテルの偶像を信じていた時代には、人民が教会に百頭の牛と百頭の羊をささげれば、帝王は百頭のライオンと百羽のワシとを寄贈したものじゃ。実に野性的で、立派なことだ。フランスの王は王座のまわりに、いつも猛獣のうなり声を絶やさなかったものだ。だがわしが、祖先よりはずっとかかりをへらして、ライオンも、クマも、象も、ヒョウも、ずっと少なくしたことを認めてもらいたいものじゃ。……さきを読んでくれ、オリヴィエ君。フランドルのかたがたにも、このことをきいていただきたかったな」
ギヨーム・リムは丁寧に頭をさげたが、一方、コプノールは不機嫌な顔をして、いま陛下がふれたクマのようなようすをしていた。王はべつにそれを気にもとめず、杯で唇をうるおしたが、飲んだものを吐き戻しながらこう言った。
「ワッ! まずい煎じ薬だな!」
読みあげていた者はまたつづけて、
「適当な処置をほどこすまで、皮はぎ場の小屋に六カ月まえから監禁しているろくでなしの歩兵の食費として、……六リーヴル四スー」
「なんじゃな、それは?」と、王はことばをさえぎった。「首吊りにする者まで養っておくのか! ばかばかしい! そんなやつを養う金など、これ以上一スーたりとも出すわけにはいかん。……オリヴィエ、そのことについては、デストゥートヴィル氏にきいてみるのだな。今晩にもさっそく、その男を絞首台にかけるようにとりはからってもらいたい。……つぎを読め」
オリヴィエは、その≪ろくでなしの歩兵≫とあった項に親指でしるしをつけて、つぎに進んだ。
「パリ裁判所付死刑執行委員長アンリエ・クーザンに、パリ奉行によって査定され命ぜられたるパリ金六十スー。これは前記の奉行の命により広刃の長剣を購入したがためである。ただし、これは悪行に対し裁判によって判決を受けた者の刑をとり行ない、首を切るためのもので、鞘《さや》、その他いっさいの付属品を含めたものである。また、完全にあきらかなことであるが、ルイ・ド・リュクサンブール殿の刑をとり行なったさい、折れて刃こぼれを生じたいままでの剣の修理代をも含める……」
王はことばをさえぎった。
「もうよい。喜んでその金額の支払いを許可しよう。わしには関係のない費用じゃ。そういう金を惜しんだことはないからな。……つぎを読め」
「大監房を新築させたため……」
「ああ!」と、王は椅子の腕を両手でおさえて言った。「わしがこのバスチーユにまいったのは、目的があってのことなのだぞ。……ちょっと待ってくれ、オリヴィエ君。その監房をこの目で見たいものだ。わしが検分しているあいだに、その費用を読みあげてくれ。……フランドルの諸君、わしといっしょにきて、まあ檻《おり》をごらんになってはどうじゃ。珍しいものじゃよ」
こう言って、王は立ちあがり、相手の腕によりかかり、戸口の前におしだまったまま、ひとことも口をきかないで立っていた男に案内せよと合図し、ふたりのフランドルの人びとについてくるようにと合図をして、部屋を出た。
王の一行が奥の間のドアにさしかかると、鉄の重そうな鎧兜《よろいかぶと》に身をかためた何人かの武士と、燭台を持った痩せこけた小姓とが、一行に加わった。一行は、しばらくのあいだ、厚い城壁の奥まで階段や廊下がついている、薄暗い天主閣の内部を進んで行った。バスチーユ守備隊長は先頭に進み、病身で腰のまがった老国王の前に立って、くぐり戸をあけてやった。王は、歩きながらゴホゴホとせきをしていた。
くぐり戸をくぐるたびに、みな身をかがめなければならなかった。ただ老王だけは、年のせいか、腰がまがっていたので、その必要もなかった。
「さあ! われわれはもう墓場の入り口に来ているわけだな。ドアが低いから、腰を曲げて通らねばならぬな」と、国王は、歯ぐきのあいだから声を出して言った。というのも、彼にはもう歯がなかったからだ。
とうとう最後のくぐり戸を通り抜けたが、鍵があまりゴタゴタとかかっていたので、開けるのに十五分もかかってしまったほどであった。彼らは、尖頭アーチをなしている、天井の高い、広々とした部屋にはいった。この部屋の真中には、たいまつの明かりで見ると、煉瓦と鉄と木とでできた、大きな立方体のものがひとつあった。その内側はがらんどうになっていた。
これが、≪王の小娘≫と呼ばれている、国事犯人を収容する有名な檻であった。仕切り壁には、二つ三つの小さな窓があったが、その窓には、ガラスも見えないほど厚い鉄の格子がぎっしりとはまっていた。戸口は、墓のような平たい大きな石畳であって、そこにはいるため以外には、およそ使われないというしろものであった。ここでは、ただ死人だけが生きた人間であったのだ。
王は、この小さな建物のまわりを、ゆっくり歩きだして、注意深くそれをしらべていたが、一方、オリヴィエ氏は王のあとについて行って、大声で、計算書類を読みあげていた。
「太梁材《ふとはりざい》、枠材《わくざい》、それに桁棒《けたぼう》を使って大牢獄を新築したが、檻は、長さ二メートル七十、幅二メートル四十、床から天井までの高さ二メートル十、牢には磨きがかかり、鉄の大きな鋲《びょう》が打たれ、サン=タントワーヌ城砦の塔のひとつの部屋に置かれてあり、国王陛下の命によって、その檻には、朽ち果てた古い牢に以前から住んでいた囚人一名が、監禁されている。……その檻には、横に九十六本の梁《はり》をわたし、縦に五十二本の梁を立て、長さ六メートルの桁棒十本を用い、かつ、二十日間、城砦の中庭で上にのべた木材を角にし、鉋《かんな》をかけ、切断するため大工十九名を雇う。……」
「檻のカシワの芯《しん》は、なかなか、しっかりしたものだな」と、王は、こぶしで木組を叩きながら言った。
相手はさらにつづけて、「……この檻には、長さ二メートル七十ないし二メートル四十の大きな鉄の鋲二百二十個がほどこされ、残りは中程の長さをもってしつらえ、その他前に述べた鋲に用いる箍《たが》、蝶番《ちょうつがい》、鉄の箍止《たがど》めなど、鉄材総量三千七百三十五ポンド。なお他に、この檻を釘づけにするに用いる鴨居《かもい》を通す大きな鉄輪が八個、それに鎹《かずがい》と釘、あわせて鉄材総量二百十八ポンド。ただしこれには檻が設けられている部屋の窓の格子の鉄材、部屋の戸口の鉄格子、およびその他の物は計量にはいっていない。……」
「たったひとりの軽薄な男を入れるのに、ずいぶん鉄がいるものだな!」
「……総計、三百十七リーヴル五スー七ドニエ」
「やれやれ!」と、王は叫んだ。
この罵《ののし》りのことばは、ルイ十一世のよくやる口癖であったが、このことばを聞きつけて、檻の中で誰かが目をさましたようであった。鎖が床にすれて、ガチャガチャ音をたてたのが聞こえてきた。その男は、墓から出て来たような弱々しい声をあげて、「陛下! 陛下! なにとぞお慈悲でございます!」と言うのだったが、その声の主は見えなかった。
「三百十七リーヴル五スー七ドニエか!」と、ルイ十一世は繰り返した。
檻から聞こえてくる悲しげな声を耳にすると、オリヴィエ氏をはじめ、いあわせた者みんなの心は、氷のようにひやりとした。ただ、王だけは、その声が耳にはいらぬ様子であった。彼の命令によって、オリヴィエ氏はまた読みつづけ、陛下は冷やかに檻の検分をつづけていった。
「……その他、窓の格子、および檻が設置されている部屋の床を取りつけるための、穴を造った石工《いしく》に賃金を支払う。床は、檻の重量により、その檻を支えることが不可能となったためである。この賃金、パリ金にて二十七リーヴル十四スー。……」
いまの声は、またもや訴えるように聞こえてきた。
「お願いでございます! 謀反《むほん》を起こしたのは、たしかにアンジェの枢機卿〔ジャン・バリュのこと〕でございます。わたくしではございません」
「石工の仕事は骨の折れるものだな! さきを読め、オリヴィエ」
オリヴィエはつづけた。
「……建具屋に、窓、床材、穴のあいた腰掛、その他の費用として、パリ金で二十リーヴル二スー……」
声の主《ぬし》のほうもなお、話しつづけていた。
「ああ! 陛下! わたくしの言うことをお聞きとり下さいませんのでしょうか? ギュイエンヌ公にあのものを書き送ったのは、けっして、わたくしではございません。ラ・バリュ枢機卿《すうききょう》〔ルイ十一世の寵臣。のちに陰謀を企て、牢に入れられた〕なのでございます。これだけは、なんとしても申し上げます」
「建具屋というものは、高いものじゃな」と、王は認めた。「……それだけかな?」
「まだでございます。陛下。……ガラス職人に対し、前に述べました部屋のガラスを張った費用として、パリ金で四十六スー八ドニエ」
「なにとぞお願いでございます、陛下! わたくしは、自分の全財産を裁判官に、家宝の皿をトルシ氏に、蔵書をピエール・ドリヨル先生〔十五世紀のフランスの政治家〕に、タピスリーをルーシヨンの知事に差し上げてしまいました。それで十分ではございませんか? わたくしは、無実の罪をきせられているのでございます。もうこれで十四年の歳月を、この鉄の牢の中で寒さに震えております。なにとぞ御慈悲を垂れて下さいませ、陛下! かならず陛下も、天国でその報いを得られることでございましょう」
「オリヴィエ君、総計は?」
「パリ金で、三百六十七リーヴル八スー三ドニエでございます」
「ほほう! おそろしく金のかかった檻じゃな!」と王は叫んだ。
王はオリヴィエ氏の手から帳簿を奪って、紙面と檻とをかわるがわる調べながら、自分で指を折って計算しはじめた。その間、一方では、囚人のむせび泣く声が聞こえていたが、その声は、暗やみの中で、もの悲しげに響いた。人びとはおたがいに青ざめた顔を見あわせた。
「十四年でございます、陛下! 一四六九年の四月からかぞえて、もうこれで十四年でございます! 聖母の御名にかけて、陛下、わたくしの申し上げますことを、なにとぞお聞き下さいませ! 陛下におかせられては、この年月のあいだずっと、太陽の暖かいめぐみに浴されておいでになりました。だがわたくしは、みじめにも、ふたたび日の目を見ることがないのでございましょうか? なにとぞ、お慈悲を垂れて下さいませ、陛下! なにとぞ哀れみを垂れさせ給え。寛容は国王のこよなき美徳でございます。それは怒りの波をもしずめるものでありましょう。陛下よ、身に受けたあらゆる侮辱をすべて罰しておいたということは、国王にとって、その臨終にあたっての大きな満足であると、こう陛下にはお信じになっておられるのでございましょうか? それにまた、陛下、わたくしは、決して陛下に叛逆を企てたことはございません。それは、アンジェ氏でございます。それなのに、わたくしの足には重い鎖がついておりますし、その先には、とほうもなく重い、大きな鉄の球がついております。ああ、陛下! なにとぞお慈悲を垂れさせ給え!」
「オリヴィエ」と、王は頭を振りながら言った。「石灰一|樽《たる》、二十スーに計算してあるようだが、これは十二スーしかかからないはずだ。この計算書を訂正するように」
こう言って、檻の方に背を向けて、いまにも部屋から出ようとした。哀れな囚人は、燭台と足音が遠ざかって行くのを見て、王が行ってしまうのだと思って、「陛下、陛下!」と、絶望の叫びをあげていた。扉は、もとどおり閉ざされた。もはや誰も見えなかった。ただ、囚人の耳もとで歌をうたって聞かせている牢番のしゃがれ声だけが耳にはいるばかりであった。
ジャン・バリュの先生は、
彼の大事な司教の職の
見込みが消えてなくなった。
ヴェルダンさんにも
見込みがない。みんなあの世に
送られる。
王は、ものも言わずに、奥の間にもどって行った。お供の家来も、囚人の最後のうめき声におそれをなして、王のあとについて行った。突然、国王陛下は、バスチーユ守備隊長の方を振り向いて言った。
「ときにな、あの檻の中に、誰かおったのではなかったかな?」
「えっ! はあ、陛下!」と、隊長は答えたものの、この質問にはあっけにとられていた。
「で、誰かね?」
「ヴェルダンの司教殿でございます」
王は、誰よりもよくそのことを知っていたのだったが、これが彼の奇妙な癖のひとつだった。
「ああ!」と、王は、はじめて気がついたようなむぞうさな様子で、「ギヨーム・ド・アランクールか、あのラ・バリュ枢機卿《すうききょう》の友人の。いい司教だったがな」
しばらくすると、奥の間の戸口がまた開き、この章のはじめに出て来た五人の人物があらわれて、また閉ざされた。彼らは、そこでそれぞれの席について、小声で、また前と同じような態度で、話をしはじめた。
王の留守のあいだに、何通かの公用速達が机の上に置かれてあった。王はみずからその通信の封を破って、一枚一枚すばやく読みはじめ、≪オリヴィエ氏≫にペンを取るように合図した。オリヴィエ氏は、王のそばにいて大臣の職務もしているらしかった。王は、その公用速達の内容を知らせずに、小声でその返事を書きとらせはじめた。オリヴィエ氏は、かなり窮屈そうに机の前にひざまずいて書いていた。
ギヨーム・リムはそれをじっと見ていた。
王の声は非常に低かったので、フランドルの人びとには口述の内容が何も聞こえなかった。ただときどき、とぎれとぎれに、意味のわからないことばが耳にはいるくらいなものだった。たとえば、「……みのりの豊かな土地は商業で維持し、不毛の土地は産業で、……イギリスの諸侯に、わが国の四隻の臼砲艦ロンドル、ブラバン、ブール=カン=ブレス、サン=トメールを見せること。……今日では、砲兵術によっていっそう的確に戦争ができること。……われわれの友、ブレシュイール殿に……税金なしには軍隊を維持できない……」などであった。
一度、彼は声を高めて「おや、やれやれ! シチーリア王が、フランス国王と同じように、手紙を黄蝋で封印しているではないか。彼にそういうことを許すのはけしからんのではないかな。わしの義理のいとこブールゴーニュ公でも、戦場で旗印を用いなかったではないか。一族の栄光は、特権を正しく用いて、はじめて打ちたてられるのだ。このことは、よく注意しておいてもらいたいね、オリヴィエ君」
またこうも言った。「おお! おお! たいした手紙だ! わが兄弟ドイツ皇帝から何を要求してまいったのかな?」
王はその手紙に目をとおしながら、ときどき、間投詞《かんとうし》をさしはさんだ。「まったくだ! ドイツ諸邦というやつは、信じられないほど偉大な強力なものだわい。……だが、あの古いことわざを忘れてはならぬな。いちばん美しい伯爵領はフランドルで、いちばん美しい公爵領はミラノで、いちばん美しい王国はフランスだ、とな。……そうではないかね、フランドルの諸君?」
このときは、コプノールもギヨーム・リムも頭をさげた。洋品屋の愛国心がくすぐられたのだ。
最後の公用速達を見ると、ルイ十一世は眉をひそめた。「なんじゃこれは?」と彼は叫んだ。「ピカルディーの守備隊に対しての苦情と訴えか! オリヴィエ、急いでルーオー元帥に手紙を書くように。……軍規がゆるんでおる。……伝令憲兵、召集貴族、自由射手隊、スイス傭兵《ようへい》、どれも、村民に対してありとあらゆる悪いことをしている。……兵士は農家を襲って財産を略奪したのみならず、棍棒や槍をふりまわして農民をおどし、町に酒、魚、食料、雑貨、不用の品まで奪いに行かせている。……これが王の耳にはいった。……わしは、わが国の民衆が生活の不便を免れ、窃盗、略奪から守られるようにのぞむ。……聖母マリアにかけて、これがわしの希望である!……なおまた、村の音楽士、理髪師、兵卒などは、誰であっても、君主のように、ビロード、絹、黄金の指輪を身につけないように。……このような虚栄は神の憎むところである。……われわれ貴族でさえ、一オーヌにつき十六スーのラシャの胴着で満足している。……軍隊付従僕諸君もそのくらいまで生活程度をさげられるはずだ。……以上よろしく通達、命令されたし。……われらが友ルーオー殿。……よろしい」
王は力をこめて、ぎくしゃくと大声で、以上の手紙を口述した。ちょうど書き終わったときに扉が開いて、新しい人物がひとりはいってきた。この男はまったく慌てふためいたようすで、部屋にとびこんできて、叫んだ。
「陛下! 陛下! パリには人民の一揆《いっき》が起きておりますぞ!」
ルイ十一世のいかめしい顔は一瞬ひきつったが、その心の動きは、稲妻のように顔の上から消えた。心をおさえると、おちついたおごそかな態度で言った。
「ジャック君、君はずいぶん乱暴にはいってきたものだな!」
「陛下! 陛下! 暴動でございますぞ!」と、ジャックは息をはずませながら言った。
王はもう立ちあがっていたが、ジャックの腕を荒々しくつかむと、怒りを押さえ、フランドル人たちのほうを盗み見ながら、彼だけに聞こえるように耳もとに口をつけて言った。
「黙れ、しゃべるのなら小声でやれ!」
いまはいってきた男は、王の気持がわかって、声をひそめて恐ろしい話をしはじめた。王はそれを静かに聞いていたが、ギヨーム・リムはコプノールに合図をして、いまはいってきた男の顔と着ているものに注意をむけさせた。≪毛皮付きのずきん≫や、≪短い外套≫や、黒ビロードの法服を見れば、彼が会計検査院長であることが見てとれた。
この人物が王に二こと三こと説明するかしないかのうちに、ルイ十一世はどっと笑いだして叫んだ。
「まったくだよ! コワチエ君、もっと大きな声で話したまえ! 何をそんなに小声で話すことがあるのじゃ? ここにおられるフランドルの諸君に対して、いささかも隠すことなどはないということは、聖母マリアさまもよくご承知のことじゃよ」
「けれども、陛下……」
「もっと大声で話したまえ!」
≪コワチエ君≫はびっくりして、じっと黙っていた。
「さあ」と王は言った。「話したまえ。……このうるわしいパリの都で、民衆が何か騒ぎでも起こしたというのかね?」
「はい、陛下」
「裁判所の大法官に対して、いったい誰が反乱を起こしたというのじゃな?」
「見ましたところ」と、彼は言ったものの、王の頭に生じた急激な、なんとも説明のつかない変化にすっかりとまどって、まだ口の中でブツブツ言っていた。
ルイ十一世はことばをつづけた。「どこで夜警隊が暴民どもと出会ったのか?」
「グランド=トリュアンドリからシャンジュ橋へ行く途中でです。わたくし自身も、陛下のご命令をお受けするためにここにまいります途中、やつらに出会いました。やつらの中で何人かの者が、『裁判所の大法官をやっつけろ!』と叫んでいるのが聞こえました」
「そして彼らは、大法官に対してどんな不満をもっているのかな?」
「ああ! それは大法官がやつらの領主だからでございます」と、ジャックは言った。
「ほんとうか!」
「さようでございます、陛下。やつらは奇跡御殿のならず者どもで、もうだいぶまえから大法官に恨みをもっておりました。やつらは、その大法官の手下になるわけですが、大法官を裁判官とも、また道路管理官とも認めようとはしないのです」
「そうか!」と、王は満足そうな微笑をもらして言った。自分が満足していることを隠そうとしたが、隠せないのだった。
「やつらが高等法院に提出しております請願書には、みんな、自分たちの主はただ陛下と神だけでありたいと望んでいるのでございます。神といっても、それは、悪魔のことだと思いますが」と、ジャック氏が言った。
「そうか! そうか!」と王は言った。
王はしきりに両手をこすりながら、内心ほくそえんでいた。その顔はこみあげてくる笑いで輝いていた。ときどき表面をとりつくろおうとしたが、その喜びをおし隠すことができなかったのだ。≪オリヴィエ氏≫をはじめとして、誰ひとり、それが何を意味するかを理解することができなかった。彼は何かもの思わしげな、しかし満足そうなようすで、しばらくのあいだ沈黙していた。
「彼らは手ごわいかな?」と、急に王はたずねた。
「はい、たしかにそうでございます、陛下」とジャック氏は答えた。
「で、どのくらいの人数かな?」
「少なくとも六千はありましょう」
王は思わず「しめた!」と、口ばしってしまった。またつづけて「連中は武装しておるかな?」ときいた。
「鎌、槍、火縄銃、つるはしなど、あらゆる凶器を持っております」
王はこういう凶器を並べたてられても、少しも不安そうにはみえなかった。ジャックは、何かつけ加えなければいけないように思って、「もし陛下が、いますぐに救援隊をおさしむけにならないと、大法官は負けてしまうと思われますが」
「よし、派遣しよう」と、王は真剣なふりをして言った。「よろしい、たしかに援軍を送ろう。大法官殿はわれらが友じゃからな。六千人か! むてっぽうな者どもめ! その大胆さは見あげたものだが、憤慨《ふんがい》にたえぬ。だが、今晩は手もとには軍勢が手うすだ。……明朝でもよいじゃろう」
ジャック氏はまた叫んだ。「すぐに送らなければなりません、陛下! あしたの朝までには、裁判所は何回でも荒され、その権利はおかされ、大法官は縛り首になってしまいますぞ。なにとぞ陛下! あしたの朝とはおっしゃらず、いますぐ援軍をお送り下さい」
王は、彼の顔を真正面から見つめて、「明朝と申したではないか」
誰も口ごたえできないようなまなざしだった。
しばらく黙っていたが、ルイ十一世はまた声をたかめた。「ジャック君、きみは知っているだろうな? あの、あれはどうじゃったかな……」と言ったが、また言いなおして「いや、大法官の土地の管轄《かんかつ》区域はどうじゃったかな?」
「陛下、大法官の管轄区域は、カランドル通りからエルブリ通りまでと、サン=ミシェル広場に、ノートルダム・デ・シャン教会の近くの、ふつうにミュローと呼ばれるあたりでこざいます(ルイ十一世は、ノートルダムと聞いたときに、帽子のへりをあげた)。そこには公共建築は十三、それに奇跡御殿や、禁制区《バンリュ》と呼ばれているハンセン病病院がございます。それに、このハンセン病病院からはじまってサン=ジャック門までの道全部など、みんな、この管轄区域に属しております。大法官はこの地域全体の監督官であり、高等、中等、初等全部の裁判官であり、また全権の領主でもあります」
「なるほどな!」と、王は右手で左の耳をかきながら言った。「それでは、わしの都のかなりの部分を占めておるではないか! ああ! 大法官どのはこうした部分すべての≪王であった≫わけだな!」
こんどはそう言っただけで、言いなおしはしなかった。夢を見ているように、自分自身に言いきかせてでもいるようにつづけて、「あっぱれじゃ、大法官どの! あなたはいままで、このパリの好いところを握っていたわけじゃな」
急に王は声をたかくして、ほとばしるように言いだした。「やれやれ! この国で道路管理官とか、司法官とか、領主とか、主人とか思いこんでいるあいつらは、いったいなんというやつらじゃ? あっちでもこっちでも通行税をとりたてておる。どこの四つ辻でも、わしの人民どもの裁判権や処刑権を握っている。なんということじゃ。まるで、ギリシア人がそこいらじゅうにある泉の数と同じだけの多くの神を信じていたように、また、ペルシア人が空に見える星と同じだけの神を信じていたように、フランス人は絞首台と同じ数の国王をいだいていることになる! いやはや! じつに悪いことだ。わしは混乱したことは好まぬ。パリに国王以外の道路管理官があり、わが高等法院以外の裁判所があり、わが帝国にわし以外の皇帝が存在するということは、はたして神のおぼしめしにかなうことかどうか、知りたいものじゃ! 天国に神がただひとりいらっしゃるように、フランスに国王がただひとり、領主がひとり、裁判官がひとり、首切り役人がひとり、というような日が必ずや来なければならないのだ! これがわしの信念じゃ!」
王はまた帽子をあげて、あいかわらず夢み心地で、猟犬をけしかけて獲物に向かわせるような態度と口調でつづけた。
「でかしたぞ! 人民ども! がんばれよ! にせの領主どもを打ち倒すのだ! おまえたちの仕事をやりぬけ。やれ! そら! やつらを略奪しろ! やつらを吊るせ! 暴れまわれ!……ああ! 領主諸君よ、きみたちは国王になりたいのじゃな? やれ! 人民よ! やれ!」
ここまで言って、王は急に口をつぐんだ。唇を噛んで、思い出せない何かを思い出そうとでもするように、まわりにいた五人の人物の顔をひとりずつ順々に、刺すような目つきでじっと見すえた。と、とつぜん、両手で帽子をつかんで、その帽子を正面から見すえながら、帽子に向かって言った。
「おお! もしもおまえがこの頭の中にあることを知ったら、おまえを焼き捨ててしまうぞ!」
それから、こそこそと穴にもどっていくキツネみたいに、注意深く、不安そうな目つきをしてあたりを見まわしていたが、「まあ、いいわ! 大法官どのに援軍を出そう。だがおりあしく、いまはそのような多勢の民衆どもに対して、ごく無勢の軍隊しか手もとにないのだ。あすまで待たなければならぬ。あすになれば、|中の島《シテ》の秩序を回復し、捕えられた者をすべてきびしく絞首刑に処するであろう」
「それはそうと、陛下!」と、コワチエが言った。「さきほどはあわてていて申し忘れましたが、夜警隊が群集の中の落伍者をふたり捕えたのでございます。ここにおりますので、お目通し願いたく存じます」
「お目通し願うなどとは! なにを言っておるのじゃ! まぬけ者め! そんなことを忘れておったとは! 早く行け、オリヴィエ! 行って連れてまいれ」と、王はどなった。
オリヴィエ氏は出て行ったが、まもなく、射手隊にとりまかれたふたりの捕虜を連れて戻ってきた。最初の男は、太った間抜けな顔をして、酔っており、びっくりしたようすであった。着ているものはぼろぼろで、ひざをまげ、足をひきずって歩いていた。二番目の男は、青ざめた顔をして微笑をもらしていたが、みなさんもすでにご存じの人物である。
王はひとことも言わず、しばらくふたりの男を見ていたが、やがて急に最初の男にことばをかけて、「おまえの名はなんというか?」
「ジェフロワ・パンスブールド」
「職業は?」
「宿なし」
「あのようなけしからぬ暴動に加わって、何をするつもりであったのかな?」
宿なしは、ぼんやりしたようすをして、腕をぶらぶら振りながら王のほうを見ていた。この男の頭のしくみはできが悪くて、その知性はといえば、明かり消しの下の光みたいに、ほとんど眠ってぼんやりしていた。
「知りましねえだ。みんなが行ったで、おらもはあ、行っただよ」と、彼は答えた。
「おまえはふとどきにも大法官どのを襲って、略奪しようとしたではないか?」
「誰かの家で何かをとろうとしていたってこたあ、はあ、知ってますだ。だけんど、それだけでがすだよ」
ひとりの兵士が宿なしから没収した鉈《なた》を、王の前に差し出した。
「おまえはこの武器に見覚えがあるか?」と、王がきいた。
「へえ。そりゃ、おれの鉈でがすよ。なんしろ、おらあブドウ作りだもんでな」
「この男は、おまえの仲間だと思うが?」と、ルイ十一世はもうひとりの捕虜を指さして言った。
「いいや、まるで知りましねえだ」
「もうよい」と、王は言って、戸口のそばに黙ったまま動かずにいた人物に指で合図をした。この男のことは、もうみなさんにもお知らせしておいたはずだ。
「トリスタン君、あの男のほうはきみに任せるよ」
トリスタン・レルミットは頭をさげて、ふたりの兵士に小声で何か命令した。彼らはこの哀れな宿なしを連れて出ていった。
一方、王は第二の捕虜のほうに近よっていったが、この男は玉のような汗を流していた。
「おまえの名は?」
「陛下、ピエール・グランゴワールと申します」
「職業は?」
「哲学者でございます、陛下」
「間抜けめ、おまえはどうして、わしの友である大法官どのの屋敷を攻撃しようなどとしたのか? このように民衆を騒がせおって、なんと言いひらきをするつもりだ?」
「陛下、そのようなことは、わたくしには関係のないことでございます」
「何を申すか! ふとどき者め、おまえは無法な連中の中にいて夜警隊に捕われたではないか?」
「いや、陛下、それは誤解であります。災難であります。わたくしは悲劇を作っている者であります。陛下、どうかわたくしの申すことをお聞き下さいませ。わたくしは詩人でありまして、わたくしのような職業の者はとかく憂うつになりますと、夜などまちをぶらつきに出かけるのです。わたくしは夜、そこを通りかかったのです。実に偶然なのであります。すると誤って捕えられてしまいました。わたくしはあのような町なかの騒動などには少しも関係がないのです。陛下もごらんになりましたように、さきほどの宿なしもわたくしのことを知りませんでした。どうか陛下におかせられましても……」
「黙れ!」と、王は煎《せん》じ薬をふた口飲むあいだに言った。「おまえの話を聞いていると、頭が痛くなってくるわ」
トリスタン・レルミットは進みでて、グランゴワールを指さした。「陛下、この男も絞首刑にいたしましょうか?」
これが、彼が発言したはじめてのことばであった。
「ふふん!」と、王はなげやりな調子で答えた。「べつにさしつかえもないだろうと思うが」
「わたくしのほうでは大いにさしつかえますが!」と、グランゴワールは言った。
わが哲学者の顔は、そのときさっと血の気がひいて、オリーブの実よりも緑色になった。王の冷淡で無関心な顔つきを見ると、非常に悲痛な調子でやるよりほかには助かる道はないと思った。そこで絶望的な身ぶりよろしくルイ十一世の足もとに身を投げだして叫んだ。
「陛下! 陛下におかせられましては、なにとぞわたくしの申し上げますことにお耳をおかし下さりませ。陛下! わたくしのような取るにたらぬ者に向かって、雷のようにお怒りにならないで下さい。神の大いなる雷は、けっしてレタスのような小さな物の上には落ちないものであります。陛下、陛下はとても権力のある尊い君主でいらっしゃいます。どうか、哀れな正直な人間に哀れみをおかけ下さい。この正直一途な男は、氷のかけらが火花を発することができない以上に、暴動をあおりたてることなどとてもできない人間であります! いとご仁徳たかき陛下、仁慈のお心は、ライオンと国王との徳であります。ああ! きびしくされることは、人の心を震えあがらせるばかりであります。北風が乱暴に吹きつけても、旅人の外套を脱がせることはできないでありましょう。太陽はゆるやかにその光を注いで、旅人をあたため、ついにシャツ一枚にさせるのであります。
陛下よ、陛下は太陽であります。わたくしはここにあえて申し上げますが、至高至上なる君主よ、わたくしは宿なし、無頼のやからではございません。謀反人《むほんにん》と強盗とは、アポロの従者の中にはおりません。あの暴動の騒ぎの雲の中に、わたくしがはいることなど断じてございません。わたくしは、陛下の忠実な臣下であります。妻の名誉に対して夫がいだくのと同じ強い愛着、また父の愛に対して子どもがいつまでも抱く感謝の念、忠良な臣下は、これらのものをその王の栄光に対して抱かなければなりません。王家に対する熱情のため、その奉仕をますます大きくするために、精魂をつき果たさなければならないものでございます。そのほかのあらゆる情熱は、たとえ臣下を夢中にさせるものでありましても、しょせん狂気にすぎないものでございましょう。陛下よ。これがわたくしの金科玉条《きんかぎょくじょう》とする国家観であります。でありますから、わたくしの衣服のひじがすり切れておりましょうとも、それで暴徒であるとか略奪者であるとかとご判断下さらぬようにお願いいたします。もしわたくしにお慈悲をお垂れ下さいますならば、陛下よ、わたくしは、衣服のひざのすり切れるまで、陛下のおんために、朝な夕な神に祈りを捧げるでありましょう。
ああ! 正直なところ、わたくしは財産をもちません。いや、貧乏人とさえいうべきでございます。しかしながら、貧乏のために悪をなすものではありません。わたくしが悪いのではございません。誰もがよく知っておりますように、巨万の富は文芸の道から得られるものではありませんし、万巻の書を読破した者でも、冬にかならずしもその暖炉に火があるとはかぎりません。ただ三百代言のみが穀物の実をみんな取りあげて、学問をもって世に立っているその他の者には、藁《わら》しか残さないものでございます。哲学者の穴のあいたマントについて、まことに素晴らしい諺《ことわざ》が四十もあるほどでございます。ああ! 陛下よ! 寛容こそは偉大な魂の内部までを照らすことのできるただひとつの光であります。寛容は他のあらゆる徳の前で、燈火をいだくものであります。寛容がなければ、手さぐりで神を求める盲人と同様であり、哀れみの心は、寛容の徳と同じように、王侯の身にとって、もっとも力強い衛兵である臣下の愛をかちうるものであります。
ご尊体を拝するだけでも、われわれの目がくらむ陛下におかせられましては、空《す》きっ腹《ぱら》の上に無一文のふところをガラガラ鳴らして、災禍《さいか》の地獄の中でうごめいている貧しい男がひとり余計にいても、哀れな無実の哲学者がひとりあってもなくても、陛下にとりましては、一体何ほどのことがありましょうか?
かつまた、陛下よ、わたくしは一個の文学者であります。偉大な王は、文芸の道を保護して、王冠の真珠となすものでございます。ヘラクレスも、ミュザジェット〔芸術の神ミューズの案内者アポロ〕という称号を軽蔑いたしませんでしたし、マチヤス・コルヴァン〔十五世紀のハンガリーの王〕は数学界のほまれたるジャン・ド・モンロワイヤルを優遇いたしました。
さて、文学者を絞首刑に処するということは、文芸の道を保護いたします上において悪しき方策であります。もしアレクサンドロスがアリストテレスを絞首刑に処したといたしましたならば、どれほど、アレクサンドロスにとって汚点になったことでございましょうか! この汚点が、彼の名声という顔の上にとまった一羽の小さな羽虫にもあたらぬもので、彼の功績を飾るには、なんらのさしさわりにもならぬと申されるかもしれません。だがそれは、彼の顔をみにくくする悪性の潰瘍《かいよう》なのでございます。
陛下よ! わたくしはフランドルの公女といとやんごとなき王太子殿下とのために、すばらしく時宜《じぎ》をえた祝婚歌を作ったことがございます。これが暴動の発火器になろうはずがございません。陛下もごらんになりますように、わたくしは断じて三文芸術家ではございません。研究もよくいたしましたし、雄弁術においては、生まれながらにしてもっている才能があります。命ばかりはお助け下さい。陛下。そうなされば陛下は、聖母マリアに対して立派なことをなさったことになります。また、正直なところ、わたくしは、縛り首になりますことなど、考えただけでも恐ろしくてたまりません!」
こう言って、グランゴワールは悲嘆にくれて、王の上靴に接吻した。ギヨーム・リムはコプノールに向かって小声でささやいた。
「あの男は地面に這いつくばって、なかなかうまくやるじゃないか。王というものは、クレタ島のユピテルのようなものさ。足にしか耳がついていないものなんだよ」
すると、洋品屋もクレタ島のユピテルのことなどはかまわずに、グランゴワールのほうをじっと見やりながら、重苦しい微笑をもらして答えた。
「ああ! まったくだ! まるで大法官のユゴネが、わしに赦免を乞うときの声を聞いているようだよ」
グランゴワールは、とうとう息がきれて黙ってしまい、震えながら王のほうに顔をあげた。王は股《もも》引きのひざについたしみを爪でかいていた。やがて、杯で煎じ薬を飲みはじめた。そのうえ、陛下はひとこともものを言わなかったが、こう、ものを言ってくれないことが、グランゴワールにとっては、身をきられるようにつらかったのだ。ついに王は彼のほうを見て言った。「おそろしくどなる男じゃな!」
そして、トリスタン・レルミットのほうを向いて、「えい! 放してやれ!」
グランゴワールは、喜びのあまりすっかり脅《おび》えたようになって、うしろにひっくり返ってしまった。
「お許しなさるのですか!」と、トリスタンは不平そうにつぶやいた。「陛下には、この男をしばらく檻に入れておくつもりはございませんか?」
「ねえきみ、きみはこんな鳥のために、三百六十七リーヴル八スー三ドニエもする檻を、わしが作ったと思うのかな?……猥漢《わいかん》などただちに追いだしてくれ。(ルイ十一世は、この≪猥漢≫ということばを好んでつかったが、このことばは≪やれやれ≫ということばとともに、彼の機嫌のいいときの証拠だった)突きとばして追いだしてしまえ!」
「やれやれ!」と、グランゴワールは叫んだ。「これでこそ、まことの名君でございますな!」
そして、取消し命令がでてはたまらぬと、急いで戸口のほうへ走っていった。トリスタンはいやな顔をしながら、彼のために扉をあけてやった。兵士どもは、げんこをふりまわして彼を追いながら、いっしょに外に出た。グランゴワールは、真のストア派の哲学者としてそれを我慢した。
大法官に対する暴動を耳にしてからというものは、王はひどく上機嫌で、その気持がいろんなことに現われていた。このような寛容さはめったにあるものではなく、とるにたらないしるしではなかったのだ。トリスタン・レルミットは部屋のすみで、獲物を見るばかりで口にははいらない犬のように、顔をしかめていた。
一方、王は楽しそうに指で椅子のひじを叩いて、ポン=トードメール行進曲の調子をとっていた。彼は感情をあまりあらわさない君主であって、苦痛のほうはみごとに隠すことができた。だが、喜びのほうはそれほどうまく隠しきれなかったのである。王はよい知らせがあると、いつでもこうして喜びを外にあらわした。それがひどくなると、シャルル・ル・テメレール〔ブールゴーニュ公。ルイ十一世の姉婿〕の亡くなったときなどには、サン=マルタン・ド・トゥール教会に銀の欄干を献納したこともあったし、自分の即位のときなど、父の葬儀を命令するのも忘れたほどであった。
「あの! 陛下! 陛下がわたくしをお呼びだしになりました、あの激しいお苦しみは、いかがなされましたのでしょうか?」と、とつぜんジャック・コワチエが叫んだ。
「ああ! わしは非常に苦しいのじゃ、きみ。耳鳴りはするし、胸のあたりは火の熊手でかきむしられるようじゃ」
コワチエは王の手をとり、自信たっぷりな顔つきをして脈をみた。
「おい見てみろよ、コプノール」と、リムは小声で言った。「王は、そら、コワチエとトリスタンにはさまれているだろう。あいつらだけが宮廷にいるようなものだよ。医者は王のために、死刑執行人は王以外のもののためにさ」
王の脈をとりながら、コワチエは次第に気づかわしげな顔をしていった。ルイ十一世は心配そうに彼を見ていた。コワチエの顔は目にみえて曇ってきた。この男にとっては、王の不健康だけが飯の種の小作地だったのである。できるだけ王の不健康をくいものにしていたのだった。
「おお! おお! まことにもってご重態でございますぞ」と、ようやく彼はつぶやいた。
「そうだろう?」と、不安そうに王は言った。
「脈拍|亢進《こうしん》、呼吸困難、喘音《ぜんおん》あり、脈拍不整」と、医者はつづけて言った。
「やれやれ!」
「三日とたたぬうちに、これはお命を奪うかもしれませんぞ」
「ああ、たいへんだ! して、その療法は? きみ」と、王は叫んだ。
「考えているところでございます、陛下」
彼はルイ十一世に舌をださせて、頭をふり、しかめっつらをしていたが、もったいぶって、「あの、陛下」と、とつぜん言った。「ぜひお話し申し上げたいことがございますが、じつは司教不在時国王代理収税官の席があいているのでございます。つきましては、わたくしに甥《おい》がひとりあるのでございます」
「その収税官の職をその甥に与えよう。ジャック君」と、王は答えた。「だが、この胸の焼けつくような火をとってくれ」
「陛下はいとも寛容でいらっしゃいますから、サン=タンドレ=デ=ザルク通りにわたくしの家を建てるにつきまして、少しばかりその費用の補助をお拒みになることはございますまい、と思いますが」
「ふん!」と、王は言った。
「わたくしは、拙宅の経費のほうでも、どうにもならなくなっておりまして、それに、家ができましても屋根がつかなければ、いかにも残念でございます。家はごく粗末な、まったく町人ふうのものでございますので、そのほうはともかくといたしましても、壁を飾っておりますジャン・フールボーの絵のためによろしくございません。この絵は、月の女神ディヤナが空中を舞っているのでございますが、じつに素晴らしく、また優《ゆう》にやさしく、優美なもので、その動きはういういしく、その頭は、髪もじつによく結ばれ、三日月の冠をいただき、肌は白く、見る人もまことに珍しがって、ぜひ手にいれたいという誘惑にかられるというしろものであります。またそこには、ケレス〔ギリシア神話中の女神〕も描かれてありまして、これもまた、美しい神でございます。それは、麦の穂の上にすわっていて、バラモンジンやそのほかの花で組み合わされて穂のような形をした優雅な花輪を、頭にいただいております。その目の美しさといい、その足のふっくらとした円味《まるみ》といい、その様子の高貴なことといい、そのスカートの飾りといい、この上ないものと思われます。これはまさしく、筆になったもののうちでもっとも純真で完全なもののひとつでございましょう」
「ひどいやつめ! いったい何をもくろんでおるのじゃ?」と、ルイ十一世はつぶやいた。
「この絵の上には、どうしても屋根をつけなければなりませんので、陛下、そのお金はごくわずかなものでございますが、もうわたくしにはお金がないのでございます」
「いくらなのじゃな、その屋根と申すのは?」
「はあ、いえ……絵模様のある金泥《きんでい》の銅ぶきでございまして、せいぜい二千リーヴルもあれば」
「ああ! まさに人殺しだな! こいつは、ダイヤモンドにならぬようなおれの歯は一枚も抜かぬつもりだな」と、王は叫んだ。
「で、屋根のほうはいかがでございましょうか?」と、コワチエは言った。
「よし! どうともしてくれ。だが、わしの病いはなおしてくれるのだぞ」
ジャック・コワチエはうやうやしく頭をさげて言った。「陛下、消散《しょうさん》薬をお使いになれば、おなおりになると存じます。お腰に、蝋膏《ろうこう》とアルメニアの丸薬と卵の白身と油と、それに酢を混合いたしました、とくにきく薬を用いてみましょう。それに煎じ薬をあいかわらずお用いになれば、陛下のご病気の回復いたしますことは、たしかに保証いたします」
よく燃えているろうそくは、ただ一匹の蚊《か》を寄せつけるだけではすまないものだ。オリヴィエ氏は、王が少しも物惜しみをしないのを見て、ちょうどよい機会と考え、今度は自分の番だとばかり進みでた。
「陛下、……」
「なんじゃね? また」と、ルイ十一世は言った。
「陛下、陛下もご承知のことと思いますが、シモン・ラダン氏が亡くなったのでございます」
「それで?」
「あの人は、会計検査のことについての王室顧問官でありました」
「それで?」
「陛下、その席は、あいているわけでございます」
こう言ううちにも、オリヴィエ氏の高慢な顔つきからはその横柄《おうへい》な表情が消え、卑しい表情になっていった。それは宮廷に仕える人たちだけがもっている、とっておきの表情というやつである。王は彼に面と向かってそっけない調子で言った。
「わかった」
そして、つづけて、「オリヴィエ君、あのブーシコー元帥〔十四世紀の軍人〕がこう言っていたよ。『王からの贈り物以外には贈り物はない。ちょうど海の上でしか漁ができないようなものだ』とね。きみもブーシコー君と同じ意見をもっているらしいね。ところでまあ、聞きたまえ、わしは、よく覚えているよ。六八年に、わしはきみを部屋付きの小姓にしてやったし、六九年には、トゥール銀貨百リーヴルの給料で、サン=クルー橋の離宮の護衛にしてやった。(きみはその給料をパリ金貨で欲しいと言ったね)。また、七三年の十一月には、ジェルジョールに与えた手紙によって、きみを平貴族ジルベール・アクルのかわりに、ヴァンセンヌの森の門衛に任命したはずじゃ。七五年には、ジャック・ル・メールのかわりとして、ルーヴレ=レ=サン=クルーの森の監督裁判官にしたし、七八年には、二重リボンを緑蝋で封印した特許状によって、サン=ジェルマン学校の敷地にある商店街から、きみときみの細君のために、パリ金で十リーヴルの年金のあがる地位にしてやったはずだ。七九年には、あの哀れなジャン・デーのかわりとして、スナールの森の監督裁判官にしてやったし、つぎにはロッシュの城の隊長に、つぎにはサン=カンタンの総督に、つぎにはムーラン橋の隊長にしてやった。それできみはムーラン伯と呼ばれているのではないか。祭日に人のひげをそっているすべての理髪屋が支払う罰金五スーのうち、三スーはきみにやって、その残りをわしが取っているのじゃ。
わしはきみの≪悪党《ル・モーヴェ》≫という名まえをなんとかして替えてやりたいと思っていたのじゃ。なにしろその名まえは、きみの顔つきにふさわしすぎるからな。また七四年には、貴族たちはだいぶ不満であったが、きみに満艦飾の紋章を許して、クジャクのように胸を飾らせたはずだ。やれやれ! それでもきみは満足しないのかな? きみの漁場はかなり美しく、素晴らしいものではないか? もう一ぴきと思って積んだサケが、きみの船をくつがえすというたとえもあることを、きみは恐れないのか? な、きみ、慢心はきみの身を滅ぼすことになるぞ。慢心のうしろには、いつでも破滅と恥辱がつきまとうものじゃ。このことをよく考えて、もう何も言わずにおけ」
王からこういうことばをきびしく言われたので、オリヴィエ氏のくやしそうな顔つきは、もとの横柄な顔にかえった。
「よろしゅうございます」と、彼は聞こえよがしにつぶやいた。「ごらんのとおり、陛下は本日はご不快の気味でおられますな。なにもかも医者にお与えになっているようですな」
ルイ十一世はこの無礼なことばを耳にしても、少しも怒らずに、やさしく言った。
「そうじゃ、まだ忘れておったが、わしはきみをマリー女王の治められるガンの大使にしたことがあった。そうだ諸君」と言いながら、王はフランドルの人たちのほうに向きなおって、言いそえた。「この男は大使だったこともあるのじゃ」
またオリヴィエ氏のほうを向いて、「ま、きみ、仲たがいはやめにしよう。われわれは古くからの友達だ。もうだいぶ遅くなってしまった。きょうの仕事は終わったわけだ。わしのひげをそってくれ」
みなさんももうおそらくおわかりのことと思うが、≪オリヴィエ氏≫の中には、あの恐ろしいフィガロ〔ボーマルシェの戯曲『フィガロの結婚』『セビーヤの理髪師』の主人公〕が住んでいたのである。大劇作家たる神は、『ルイ十一世』という長い血なまぐさい劇の中に、巧みにこのフィガロをまじえておいたのだ。ここで、この奇妙な人物のことをこれ以上説明するつもりはない。この王付きの理髪師は三つの名まえをもっていた。宮廷では、みんなはご丁寧に≪|とんま《ル・ダン》≫のオリヴィエと呼んでおり、民衆の中では≪悪魔《ル・ディヤブル》≫のオリヴィエと呼ばれていたが、ほんとうの名は≪悪党《ル・モーヴェ》≫のオリヴィエというのだった。
≪悪党≫のオリヴィエは、王に対して不満そうな顔をしたままじっと立っていたが、ジャック・コワチエのほうを横目で見ながら「そうだ、そうだとも! 医者だよ!」と、口の中でつぶやいた。
「まったくじゃ! そのとおり。医者じゃよ」と、ルイ十一世は不思議なくらいやさしく言った。「医者のほうがきみより信用できるからな。まったくわかりきったことだ。医者はわしの体を全部ひきうけてくれるが、きみは、わしのあごだけにしか手をかけぬからな。もうよい、理髪師、その話はまたあとにしよう。もしもわしがシルデリック王〔フランク王〕のような王だったら、きみはいったいなんと言うつもりかな? またきみの職はどうなるだろうかな? なにしろあの王は、ひげをのばしっぱなしにして、片手で押えているような格好だったからな。……さあ、きみ、仕事にかかることだ。わしのひげをそってくれ。行って入用なものを捜してまいれ」
オリヴィエは、王が笑ってばかりいて、どうしても王を怒らせることができないのを見てとって、ブツブツ言いながら、王の命令を実行するために外に出ていった。王は立ちあがって窓のほうに近よったかと思うと、とつぜん、非常に興奮したようすで窓をあけ、「おお! そうだ!」と手を叩いて叫んだ。「|中の島《シテ》の上の空は、まっ赤になっている。大法官が焼かれているのだ。きっとそうだ。ああ! 人民どもよ! とうとうおまえたちも、諸侯の力を崩すのに手助けをしてくれているのじゃな!」
こう言って、フランドルの人びとのほうを振り向いて、「きみたちも、まあここにきて見てみ給え。あのまっ赤に燃えているのは火事ではないかな?」
ふたりのガンの市民は近よっていった。
「大火でございますな」とギヨーム・リムは言った。
「おお! 見ていると、アンベルクール公の屋敷が燃えたときのことを思い出しますな」と、コプノールは急に目を輝かせて言った。
「きっと、あそこでは大暴動が起こっているに違いありませんな」
「きみらもそう思うかね、コプノール君?」
こう言っている王の目は、洋品屋の目と同じくらい楽しそうであった。「防ぐことはむずかしいのではないだろうか?」
「まったくでございますな! 陛下! このことでは、部下の兵士どもをずいぶんと痛めることになりますのでしょうな!」
「ああ! わしの場合はな! 事情は違うのだ。もしわしがしようと思えば!……」と王はすぐに言った。
洋品屋は大胆にも答えて、
「もしあの暴動が、わたしの想像しておりますようなものだとしましたら、陛下がどのようにお考えになりましても、とうていだめだと思いますが!」
「きみ、わしの部下の兵士が二個中隊と大砲の一斉射撃でもあれば、連中どもの集まりなどかんたんにけちらしてみせるわ」
洋品屋は、ギヨーム・リムがしきりに自分のほうに合図しているのにかまわず、なんといっても王のことばに反対するつもりでいるらしかった。
「陛下、スイス人の傭兵《ようへい》もやはり烏合《うごう》の衆でございました。ブールゴーニュ公〔シャルル・ル・テメレールのこと〕は大貴族で、この無頼漢どもを軽蔑しきっておられました。グランソンの戦いでは、陛下、公は大声で『砲兵! あの連中どもに発砲せよ!』と言われまして、聖ジョルジュにかけてお誓いなさったのです。しかしながら、スイスの代理決闘者のシャルナクタルは棍棒をふりまわし、部下をひきつれて、公のほうにとびかかってきたので、ブールゴーニュの武勲|赫々《かくかく》たる軍隊も、水牛の皮を着た農民と出会っては、なんともたまりません、ひと粒の小石があたった板ガラスのように敗れ去ってしまったのです。そこでは、たくさんの騎士がならず者のために殺されてしまい、ブールゴーニュ州最大の領王だったシャトー=ギュイヨン殿も、その灰色の大きなご乗馬もろとも、沼地の小さな草原にその屍《しかばね》をさらしたのでございます」
「きみ、きみの話しているのは戦争のことであろうが、わしの言っているのは暴動のことなのじゃ。わしが一度眉をひそめさえすれば、暴動などこっぱみじんにしてくれるぞ」
相手はかまわずに反論した。
「そうなるかもしれません、陛下。でもそれは、民衆の≪時≫がまだ来ていないからなのでございます」
ギヨーム・リムはどうしても口をはさまなければならないと思って、
「コプノール君、きみはおそれ多くも強大な国王陛下に対して、お話し申し上げているのですぞ」
「わしも存じておる」と、洋品屋は重々しく答えた。
「まあ、この男に言わせておきたまえ、リム君」と、王は言った。「わしは、このようにざっくばらんな話が好きなのだ。父のシャルル七世は、真理は病いにかかっていると言われたものだが、このわしは、真理は死んでしまった、それは、聴罪司祭さえ見つけられなかった、と信じていた。コプノール君は、わしが間違っていたことを知らせてくれたのだ」
こう言って、王は親しみをこめてコプノールの肩に手をかけ、
「きみはいまなんと言ったかな、ジャック君?……」
「はあ、陛下、おそらく陛下のおおせられるとおりでありましょうが、わたしは民衆の≪時≫が、陛下のお国ではまだ来ていないのだ、と申し上げていたのでございます」
ルイ十一世は人の心を刺すような目で、彼のほうをじっと見つめていた。
「で、その≪時≫とやらはいつ来るのかな?」
「やがて、その≪時≫が鳴るのをお聞きになるでございましょう」
「で、教えてもらいたいのじゃが、どの時計でかね?」
コプノールは田舎者の静かなおちつきをみせて、王を窓のそばに招いた。
「お聞き下さい、陛下! ここには天主閣も、鐘楼《しょうろう》も、大砲も、市民も、兵士もございますな。鐘楼の鐘が鳴りわたり、大砲が轟《とどろ》き、天主閣がすさまじい音をたてて崩れおち、市民や兵士が大声でわめき、殺しあうそのとき、≪時≫の鐘が鳴るのでございます」
ルイ王の顔は、陰気で夢みるようなようすになった。しばらくものも言わずにいたが、やがて、軍馬の背なかをなでるように、天主閣の厚い壁を手でやさしく叩いた。「おお! いや、そうではない! わが愛するバスチーユよ、おまえはそう簡単に崩れはしまいな?」
そして急に、この大胆なフランドル人のほうを向いて、「きみはいままでに暴動を見たことがあるかな、ジャック君?」
「わたしは自分で暴動を起こしたことがございます」と、洋品屋は言った。
「どのようにするのかね、暴動を起こすには」と、王がきいた。
「はあ! それは、そんなにむずかしいことではございません」と、コプノールが答えた。「いろいろ方法もございますが、まず第一に、市民たちに不平をもたせなければなりません。これはべつに珍しいことでもございませんな。それから住民の性格ですが、ガンの市民は、暴動を起こすには都合よくできております。つまり彼らは、いつでも君主の息子を愛しておりますが、君主を愛していることは、けっしてないのであります。さてそこで! ある朝のこと、と申しましても、仮りにでございますよ、誰かがわたしの店にはいってきまして、わたしに『コプノールさん、これこれしかじかのことがあってね、フランドルのお姫さまが大臣を救おうとしているよ』とか、『大法官が粉ひき税を二倍にするぜ』とか、まあそうしたことを言ったとします。するとわたしは仕事をほうりだして、洋品屋の店からとびだし、通りに出て『略奪しろ!』と叫ぶのです。たいていそのあたりには、底の抜けた樽がごろごろしているものでして、わたしはその上にのって、口からでまかせにふっと思いついたことを大声でしゃべるのですな。民衆の立場にいますと、陛下、何かたえず言いたいことが心にあるものでございます。で、みんなは集まってきて、どなったり、警鐘を打ち鳴らしたり、兵士から武器をとって武装したりします。すると、市場の人びともそれに加わって暴動をはじめるわけであります! 領地に領主が、市に市民が、田舎に農民がおりますかぎり、暴動というものは、いつでもこのようにして起こるものでございます」
「それで、いったい誰に対して、きみたちはそのような暴動を起こすわけなのかね?」と、王がきいた。「きみたちの大法官に対してかね? それとも領主に対してかね?」
「時により、場合場合によるわけです。ときによりましては、公爵に対して起こす場合もあります」
ルイ十一世はもとの席に戻って、微笑を含んで言った。
「ああ! ここではまだ大法官に対してばかりのようだな!」
このときちょうどオリヴィエ・ル・ダンが戻ってきた。彼のうしろからは、王の化粧道具を持った小姓がふたりついてきた。だがルイ十一世が驚いたことには、ほかにまだパリ奉行と夜警隊の騎士がはいってきて、しかも彼らの顔には驚きの色がただよっていたのだった。王の仕打ちを恨んでいた理髪師も、すっかりびっくりしているようすだった。でも心の中では満足していたのだ。彼のほうからまず口をきった。
「陛下、陛下に対して申し上げますのも、はなはだ恐れ多いことでございますが、恐ろしい知らせをもってまいりました」
王は急に振り向いたので、その拍子に、すわっていた椅子の足で床の敷物をはがしてしまった。
「何事じゃ?」
「陛下」と、オリヴィエ・ル・ダンは人をびっくりさせて喜ぶ男の、意地の悪い顔をして答えた。「この人民どもの暴動は、大法官に対してではないのでございますぞ」
「それでは誰に対してなのか?」
「陛下に対してでございます、陛下」
老いた王は青年のようにぴんと立ちあがった。
「そのわけをきこう、オリヴィエ! 事の次第をきかせてくれ! きみ、頭をあげよ。サン=ローの十字架にかけて誓うのだが、よいか、もしきみがこんなときに偽りを申すならば、リュクサンブール殿の首を切った剣は、まだきみの首が切れないほど刃がこぼれているわけではないぞ!」
この誓いのことばには恐ろしい響きがこもっていた。ルイ十一世はその生涯のうちたった二回だけしか、サン=ローの十字架にかけて誓いをたてたことはなかったのだ。オリヴィエは口をひらいて答えようとした。
「陛下、……」
「ひざまずけ!」と、王は激しくさえぎった。「トリスタン、この男を見張っておれよ!」
オリヴィエは、ひざまずいて冷やかに言った。「陛下、魔女がひとり、裁判所で死刑の判決を受けたことがございましたが、その女は、ノートルダムに逃げ込みました。で、民衆は、暴力をつかってその女を奪い返そうとしているのでございます。奉行さまと夜警の騎士とが、騒乱の場所から戻られましたので、お連れいたしました。もしもわたくしの申し上げたことがほんとうでないといたしましたら、このかたがたが、それは嘘だと申されるでしょう。人民どもがとり囲んでおりますのは、ノートルダムなのでございますぞ」
「そうであったか!」と、王は怒りのために顔も青ざめ、からだじゅうをぶるぶると震わせて、低い声で言った。
「聖母マリアよ! やつらは、わが尊きマリアの大聖堂のノートルダムを囲みおるのか! 立て、オリヴィエ。きみの申すとおりだ。きみに、シモン・ラダンの職を与えるぞ。ほんとうに、きみの申すとおりだ。……このわしを、やつらは攻撃しおるのじゃな。その魔女は、あの聖堂の保護のもとにおかれているのだし、その聖堂はわしの保護のもとにあるのじゃ。わしは大法官のことだと思っておったのに! ああ、わしに対してであったのか!」
こう言って、怒りのために若返って、彼は大股に歩きだした。もう笑いも消え去り、顔つきも恐ろしく、行ったり来たりして歩きまわった。キツネがハイエナに変わってしまったのだ。息もつまって、口もきけないようすであった。唇はわなないて、肉のげっそり落ちたこぶしは、ぶるぶると震えていた。と、とつぜん顔をあげたが、その落ちくぼんだ目はきらりと光るようにみえた。その声はらっぱのように響きわたった。
「叩きのめせ、トリスタン! その悪人ばらを叩きのめせ! さあ、行け、トリスタン君! 殺せ! ぶち殺してしまえ!」
爆発がおさまると、またもとの席に戻って、冷やかな抑えられた怒りをこめて、こう言った。
「ここへまいれ、トリスタン!……このバスチーユには、ジフ子爵の槍騎兵が五十人、わしのそばに置いてある。騎兵三百にもあたる者どもだ。きみはそれを連れてゆくがよい。シャトーペール君の指揮する、わしの部下の射手隊もあるぞ。それも連れてゆくがよい。きみは騎馬警察隊長官だから、部下の兵士がいるはずだ。それも連れてゆけ。サン=ポル邸には、新しく王太子付きの護衛になった射手隊が四十名いるだろう。それも連れていくのだ。こうした兵力をみんなひき連れて、ノートルダムへ駆けつけるのだ。……ああ! パリの悪党ども! おまえたちはフランスの王位をも、ノートルダムの神聖をも、この国の平和をも、このようにしてじゃましているのだな。……みな殺しにしろ、トリスタン! ひとり残らず殺してしまえ! 逃げるものはひとり残らずひっ捕えて、モンフォーコンの刑場に送ってしまえ」
トリスタンは頭をさげて、「かしこまりました、陛下!」
しばらくしてからことばをついで、「魔女のほうは、どういたしましょうか?」
こうたずねられて、王は考えていたが、こう言った。
「ああ! 魔女か!……デストゥートヴィル君、人民どもはその女をどうしたいと言っておるのかな?」
「陛下」と、パリ奉行は答えて、「想像いたしまするに、人民どもがその女をノートルダム大聖堂の駆け込み場から奪いとりに来ましたところから考えますと、女が罰を受けていないというので民衆は憤慨し、その女を縛り首にしようと思っているのでございましょうな」
王は深く考えこんでいるようすだったが、やがてトリスタン・レルミットのほうに向かって、
「よろしい! きみ、人民どもを皆殺しにし、その魔女を絞首刑にしてしまえ」
「まったくだね」と、リムはコプノールに向かって小声で言った。「要求した人民は罰せられ、しかも人民の要求は達せられるというものだね」
「それでよろしゅうございます、陛下」と、トリスタンは答えた。「もしもその魔女がまだノートルダムにおりましたならば、駆け込み場をおかしても女を連れだすべきでしょうか?」
「やれやれ、駆け込み場か!」と、耳をかきながら王は言った。「かまわぬ、ぜがひでもその女を絞首刑にしなければならんのじゃ」
こうやって、急に何か思いついたかのように、王は椅子の前にひざまずいて帽子を脱ぎ、それを席に置いて、いままでかけていた鉛のおまもりのひとつをうやうやしく見つめながら、両手をあわせて言うのだった。
「ああ! パリのノートルダム大聖堂よ、わがやさしき守護神よ、お許し下さい。今度だけで、もう二度とこういうことはいたしません。あの罪人は罰しなければならないのです。わたくしは断言いたしますが、聖母マリアさま、わたくしのありがたいご主人さま、あの女は、あなたさまの慈悲深い保護をうける資格のない魔女でございます。マリアさま、あなたさまもご承知のとおり、きわめて信仰のあつい君王のなかにも、神の栄光のためと国家の事情から、教会の特権をないがしろにしたかたがたくさんいます。イギリスの司教聖ヒューグは、エドワード王に、教会に隠れた魔法使いをとらえることを許しました。わたくしの師匠ともいうべきフランスの聖王ルイは、同じ目的のために、聖ポール殿の教会を犯しました。また、エルサレム王の王子のアルフォンス殿は、サン=セピュルクル教会さえ犯したのです。そのようなわけでございますので、今度わたくしがパリのノートルダム大聖堂を犯すことも、どうぞお許し下さいませ。もう二度といたしません。そして昨年、エクーイのノートルダム聖堂に献納いたしましたのと同じ銀の美しい像をさしあげます。アーメン」
王は十字をきって立ちあがり、また帽子をかぶって、トリスタンに言った。
「きみ、急いでやりたまえ。シャトーペール君もいっしょに連れてゆくのだ。警鐘を鳴らさせよ。人民どもを叩きつぶしてしまえ。魔女を縛り首にするのだ。決まったぞ。その処刑は必ずきみの手でしてもらいたい。あとでその報告をするのじゃぞ。さあ、オリヴィエ、わしは今夜はやすまぬぞ。ひげをそってくれ」
トリスタン・レルミットは頭をさげて出ていった。すると王は、リムとコプノールにさがっているように合図をして、言った。「神のご加護あらんことを、フランドルの諸君。少し休息したまえ。夜もふけたようじゃ。夜というよりは、明け方に近い時刻じゃ」
ふたりは退出し、バスチーユ守護隊長に案内されて自分たちの部屋にはいると、コプノールはギヨーム・リムに向かって言った。
「ふん! せきばかりしている王さまにはまいったね! わたしはシャルル・ド・ブールゴーニュが酔っ払っているのを見たことがあるが、あの病気のルイ十一世ほど手に負えなくはなかったよ」
「ジャック君」と、リムは答えた。「そりゃあね、王さまってものは酒を飲むのだが、煎じ薬ほどいやらしいものじゃないからね」
六 ポケットの短剣
バスチーユを出ると、グランゴワールは、逃げだした馬のような速さで、サン=タントワーヌ通りを駆けおりていった。ボードワイエ門に着くと、広場のまん中に立っている石の十字架のほうへまっすぐに進んでいった。彼はまるで、その十字架の石段にすわっている黒衣を着て黒ずきんをかぶった男の顔が、闇の中でもはっきり見えているように、つかつかとそのほうに進んで行ったのだ。
「先生ですか?」と、グランゴワールはきいた。
黒衣の人物は立ちあがり、「やれやれ、死ぬほどいらいらしていたぞ! わしの心はきみのおかげで、煮えくりかえるようだぞ、グランゴワール。サン=ジェルヴェ聖堂の塔の上にいる男が、いましがた午前一時半を告げたのだぞ」
「ああ! いや、わたしが悪いのじゃありませんよ。夜警隊と国王が悪いんですよ。なにしろ、危ないところをうまく逃げてきたのですからね! いつでも、もう少しで首吊りになるところを助かっているというわけですな。それがわたしの宿命なのでしょうね」
「きみはやりそこないばかりしているやつだ。だがまあ、早く行こう。合いことばを知っているかね?」
「でも考えて下さいよ、先生。わたしは王の顔をおがんできたのですよ。王さまはビロードのズボンをはいていました。いや、まったくひやひやしましたよ」
「ええ! つまらぬことをぺらぺらとよくしゃべるやつだ! ひやひやしたって、それがわしになんの関係があるのだ? 宿なしどもの合いことばを知っているのだな?」
「知っています。まあご安心ください。≪ポケットの短剣≫と言うんですよ」
「よし。それを心得ておかないと、大聖堂までたどりつくことができないからな。ごろつきどもは、ほうぼうの通りをふさいでおる。幸いなことに、やつらは抵抗を受けているらしいから、おそらくいまからでも間にあうだろう」
「そうですね、先生。ですが、どうやってノートルダムの中にはいるのですか?」
「わしは、塔の鍵を持っている」
「で、どうやって出るのですか?」
「修道院のうしろには小門がある。それは、テランに面している。そこからは川だ。そこの鍵も持っている。それに、けさ、小舟を一艘つないでおいた」
「わたしは首吊りになるところを、うまうまと命拾いしたわけですな」と、グランゴワールはまた言った。
「さあ、早く、早く!」
ふたりは、急ぎ足で、|中の島《シテ》の方におりて行った。
七 シャトーペール、救援に現われる!
みなさんはおそらく、カジモドが危機一髪の状態に置かれたままになっていたことを覚えておられるであろう。この耳は聞こえないが勇敢な男は、四方八方から敵を受けて、勇気がすっかりくじけたとは言わないまでも、自分が救われようとは思わなかった。けれども、いまや、少なくともジプシーの女だけは救い出そうという望みすら失ってしまった。自分のことなど、けっして考えてはいなかったのだ。彼は、夢中になって回廊を走りまわっていた。ノートルダムは、いまにも宿なしたちによって攻めおとされそうだった。と、とつぜん、馬蹄の響きが高らかに付近の通りに鳴りわたり、たいまつの光が長い列をつくったかと思うと、騎馬の軍勢の一隊がぎっしりと密集して、槍先を下げ、手綱をゆるめ、その激しい響きはまるでつむじ風のように、広場に突入してきた。
「フランス万歳! フランス万歳! ならず者どもを粉砕せよ! シャトーペールが救援にまいったぞ! 御用だ! 御用だ!」
宿なしどもは、すっかり泡をくって方向を転換した。カジモドは耳こそ聞こえなかったが、白刃も見えたし、たいまつも、槍も、騎兵の一隊も見えた。そしてその先頭には、あのフェビュス隊長がいるのにも気がついた。また、宿なしどもが混乱しているのも見えたが、なかには驚きさわいでいる者もあれば、偉そうな者でさえうろたえていた。彼はこの思いもかけない救援を得て、ふたたび力をもり返し、もう回廊に足を踏みいれかけた寄せ手の先頭の者たちを大聖堂の外に投げおとした。
この降ってわいたように現われたものこそ、王の軍勢だったのだ。
宿なしどももさるもの、必死になって防戦した。サン=ピエール=オ=ブー通りからは側面攻撃をうけ、パルヴィ通りからは背面をつかれ、彼らが攻めているノートルダム大聖堂に追いつめられていた。ノートルダムではカジモドが防戦しているのだった。彼らは包囲しながら包囲されているという、奇妙な立場にいたのだ。ちょうどそれは、のちの一六四〇年に、有名なトリノの攻城戦において、アンリ・ダルクール伯〔十七世紀の海軍軍人〕が一方ではトマ・ド・サヴォワ公を攻囲し、また一方ではレガネ侯からは包囲されて、墓碑銘《ぼひめい》に言うように、『トリノを包囲し同じくまた包囲された』と書かれたことがあったが、まさにそのような状態だったのだ。
混戦となり、激烈をきわめていた。まさにピエール・マチユも言うように、オオカミの肉には犬の牙が必要だ、という状態であった。王の騎兵隊はその中央でフェビュス・ド・シャトーペールが勇敢に戦って、当たるを幸い斬りまくっていた。突かれそこなってうまく逃れた者でも、次はばっさりと刃《やいば》の錆《さび》になるのであった。じゅうぶんに武装していなかった宿なしどもは、口から泡をふいてかみついた。男も、女も、子どもまでも、馬の尻や胸さきにとびついて、ネコのように歯でかみついたり、手足の爪を立ててしがみついたりするのだった。また射手の顔をたいまつでボカボカなぐりつける者もあれば、騎士の首に鉄の鉤《かぎ》をつけて引っぱりよせる者もあった。馬から落ちた者は、彼らの手にかかってずたずたに斬りさいなまれた。
その中にひとり、ぎらぎら輝く大鎌を持って、いつまでも馬の足をなぎたおしている者があった。ものすごい顔をして鼻歌をうたいながら、少しも力をぬかずに鎌を投げては引いていた。ひと振りふりまわすごとに、その周囲には、ちぎれた手足の山が円を描いてゆくのだった。こうして彼はゆうゆうとおちつきはらい、頭を振りふり、まるで麦畑を刈ってゆく男のように、息も乱さず、騎兵の密集した中につき進んでいった。この男こそクロパン・トルイユフーだった。小銃がいっせいに火を吹いてこの男を倒した。
そうしているうちに、家々の窓がまた開かれていった。付近の人びとは、王の軍隊の叫び声を聞きつけて騒ぎに加わり、各階から宿なしどもに向かって弾丸を雨あられと浴びせかけた。大聖堂の広場はもうもうたる煙でいっぱいになり、その中を一斉射撃の銃火が尾をひいて走った。その煙の中に、ノートルダムの正面玄関がかすかに浮かんでいた。やはりかすんで見える古びたパリ市立病院では、うろこのように天窓のついた屋根のてっぺんから、やつれた病人たちが何人か、この光景をながめていた。
ついに宿なしどもは屈服した。疲労と、強力な武器の不足に、不意うちをくらった驚きと、家々の窓からの射撃、それに国王の軍隊の激しい突撃が加わって、彼らはついに敗れさった。彼らは攻囲軍の戦列をおしやぶり、大聖堂の広場におびただしい死骸の山を残して、四方八方にのがれ散って行きはじめた。
カジモドのほうは、そのまにも、一刻も戦いをやめなかったが、敵軍が敗走したのを見ると、ひざまずき、両手を差し上げて天をおがんだ。それから喜びのあまり駆けだし、いままで勇敢に戦って敵をそこへ近づかせなかったあの部屋まで、鳥のようにすばやく登っていった。いまはもうたったひとつのことしか考えていなかった。さっき二度にわたって命を助けてやったあの女の前にひざまずきたかったのだ。
だがその部屋へはいってみると、部屋はすでにもぬけのからだった。
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第十一編
一 小さな靴
宿なしどもが大聖堂を攻撃したときには、エスメラルダは眠っていた。
やがて、建物のまわりで刻々と激しくなってゆく騒がしさと、さきに目をさまして不安そうに鳴いているヤギの声で、彼女はふと目をさました。ベッドの上に起きあがって、耳をすまし、あたりを見まわした。それから、おびただしい明かりと物音とに驚き、部屋をとび出して、何事が起きたのかと見に出かけた。広場に起こっている光景、動きまわっている幻のようなもの、夜襲の騒動、暗やみの中でかすかにカエルの群れのようにとびまわっているのが見える無気味な群集、……群集は、カエルのようにしゃがれた声で鳴きわめいている。何本かの赤いたいまつが、この暗やみの中で、ちょうど霧のたちこめた沼の水面に走る鬼火のように、揺らめき、まじり合っている。こういう光景はすべて、彼女の目には、魔女の夜宴《やえん》の幻と大聖堂の石造の怪物とのあいだに起こった不思議な戦いのように見えたのであった。幼いころからジプシー族のさまざまな迷信が心に浸みこんでいたので、まず最初に彼女の心に浮かんだのは、自分は妖術にかかって、夜の世界に住む不思議な者どものところへ来合わせたのではないかということだった。
こう考えると、彼女は、こんなに恐ろしい光景を見るよりも、自分のそまつなベッドでそれほど恐ろしくない悪夢を見たほうがよいと思って、自分の部屋に駆けこんで小さくなっていた。
けれどもはじめの恐怖の気持は、しだいに薄らいでいった。あたりの物音が刻一刻と大きくなり、そのほか多くの現実のけはいを見ると、自分をとり巻いているのは幽霊ではなくて、人間であるということが感じられた。こう考えてくると、彼女の恐怖の気持は、べつに増してきたというわけではないが、形を変えてきたのだった。彼女は、民衆が暴動を起こして、自分をこの駆け込み場から奪い返しに来たのではあるまいかとも考えていた。自分の生命《いのち》であり、望みであるフェビュス、いつでもその未来の中に描いていたフェビュスを、ふたたび失うのではないかという心配、あらゆるのがれ道をまったく閉ざされて、たよるものひとつない自分の弱さの深い空虚、見捨てられ、たったひとりぼっちになってしまった自分、こうした考えがあれやこれや心に浮かんできて、彼女は打ちひしがれていたのだ。不安と身震いとで、胸がいっぱいになって、頭をベッドの上に乗せ、両手を頭の上で合わせてひざまずいてしまった。たとえ偶像崇拝の異教徒であるジプシーの女だとしても、彼女は泣きじゃくりながら、あのキリスト教の神にお許しを乞い、いま自分のいる聖堂の主である聖母マリアにお祈りを捧げはじめた。というのは、たとえ信仰を持たなくとも、人はいつでもすぐ手近にある教会の宗教にすがるというときが、生涯のうちに何回かあるものだからだ。
こうして、長いことひれ伏したまま、祈るというよりもむしろ、正直なところ震えながら、刻々とたけり狂った群集が迫ってくる気配に、心を冷やしていた。なんでこのように人びとがたけり狂っているのか、少しもわからず、何が企てられているのか、人びとはいったい何をしているのか、何を望んでいるのか、少しも知らなかったが、ただ、何か恐ろしい結果が起こりそうだということは感じていた。
と、そのとき、苦しみ悶えていると、自分のほうに歩いてくる足音が耳にはいった。振り返ってみると、ふたりの男が、ひとりは角燈を手にしていたが、部屋にはいって来たところだった。彼女は弱々しい叫び声をあげた。
「こわがることはない、ぼくだよ」と、聞き覚えがなくはない声がした。
「どなた、あなたは?」と、彼女はきいた。
「ピエール・グランゴワールだよ」
その名まえを聞いて、ほっと安心して目をあげると、そのとおり、あの詩人だった。けれども、そのそばに、頭の先からつま先まで黒い身なりをしたもうひとりの男を見ると、彼女ははっと黙ってしまった。
「おい! ジャリのほうが、きみよりさきにぼくに気がついたぜ!」と、グランゴワールは咎《とが》めるような口調で言った。
そのとおり、あのヤギは、グランゴワールが名を名のるのを待ってはいなかったのだ。グランゴワールがはいってきたかと思うと、懐《なつか》しげにひざにすりよって、詩人を親しげになでまわし、白い毛をいっぱいくっつけてしまった。ヤギは毛の抜けかわるときだったのだ。グランゴワールも、やさしくなでてやった。
「ごいっしょにいるのは、どなたなの?」と、ジプシーの女は小声できいた。
「安心したまえ、ぼくの友達さ」と、グランゴワールは答えた。
こう言って、哲学者は角燈を床《ゆか》に置いて、床にあぐらをかき、ジャリを腕に抱きしめながら、夢中になって叫んだ。
「ああ! おまえはほんとに可愛らしいやつだな。大きくはないが、きれいで、たしかにそのために目だつんだけど、利口で、敏捷《びんしょう》で、まるで文法学者のように文字を知っているんだからな! どうだい、ジャリや、おまえは、あの素晴らしい芸当を忘れてはいないだろうね? ジャック・シャルモリュさんはどうしたっけね?……」
黒衣の男は、グランゴワールが言い終わるのを待たずに、彼のほうに寄ってきて、荒々しくその肩をついた。グランゴワールは立ちあがって、
「そうそう、そうですな。急いでいたのをすっかり忘れていましたよ。……でも、先生、人にそんなに乱暴するなんていけませんよ。……ねえ、お嬢さん、きみの命は危ないんだぜ。それからジャリの命も。きみのことを、また縛り首にしようとしているのだよ。ぼくたちはきみの味方だ、きみを助けにきたんだよ。ついておいで」
「それ、ほんとなの?」と、びっくりぎょうてんして彼女は叫んだ。
「そうだよ、ほんとうだともさ。早く、早く!」
「まいります」彼女は口ごもった。「でも、あのお友達のかた、なぜ口をおききにならないの?」
「ああ! それはね、この人のお父さんもお母さんも気まぐれな人なんでね、この人をあまり口をきかないようにしつけちまったんだよ」
彼女は、この説明に満足しなければならなかった。グランゴワールは彼女の手をとった。連れの男は角燈をとって先を歩いていった。娘は恐ろしさのあまり頭がくらくらして、連れてゆかれるままになっていた。ヤギはとびはねながらあとについてきたが、グランゴワールにまたあえたうれしさのあまり、角《つの》を彼の足のあいだにつっこんだので、彼はつまずいてばかりいた。
「これが人生というものさ」と、哲学者は、ころびそうになるたびに言った。「ぼくたちは、とかく親友に足をとられるものなんだ!」
彼らは急いで塔の階段を降りて、大聖堂を通り抜けた。聖堂はまっ暗で人影がなく、外の騒ぎが響きわたって、そのために外部とはおそろしい対照をなしていた。彼らは赤門をくぐって、修道院の中庭に出た。修道院にも人影がなかった。参事会員たちは、司教館の中に逃げこんで、みんなそこで祈祷を捧げていた。中庭にも人影が見えず、下働きの男どもも恐れをなして、暗い物陰に身をひそめていた。
三人は、この中庭からテランのほうに向いている小門のほうに進んでいった。黒衣の男は、持っていた鍵で扉を開いた。みなさんもご承知のことと思うが、テランは、|中の島《シテ》の端の城壁に囲まれた細長い土地で、ノートルダムの聖堂参事会に属していた。なお、この土地は、|中の島《シテ》の東側、つまり大聖堂のうしろで終わっていた。彼らがこの囲い地に来たときには、ここにもまったく人っ子ひとり見あたらなかった。ここまでくれば、もうあたりの騒がしさもそれほどは聞こえなかった。宿なしどもの攻撃の騒ぎも、ここではかすかに聞こえてくるばかりだった。川面《かわも》をわたって吹いてくるさわやかな風は、テランの突端に植えられた一本の木の葉を揺るがせて、もうかなり大きな音をたてていた。
けれども、まだ危険から遠ざかったとは言えなかった。彼らのいちばん近くの建物は、司教館と聖堂だった。そして司教館の中で、大騒動が起こっているのは明らかだった。暗やみの中にそびえ立ったその建物には、窓から窓へと射しこんでいる光線が縦横に走っていた。紙を燃やすと、灰が黒く建物のように残って、まだ消えていない火が、そこをさまざまに、無気味に、入り乱れて走る、ちょうどそんなぐあいだった。そのそばにはノートルダム大聖堂の巨大な塔が、塔の下の長い身廊とともに、このように背面から見ると、前庭にいっぱいになっている赤い大きな光の上に黒々と浮きあがって、ひとつ目入道が燃やしている火のそばに置かれた巨大なふたつの薪掛けのようだった。
パリの光景は、どの方向から見ても、光と影とが中にただよっていた。レンブラントの絵には、このような背景を描いているものがある。
角燈を持った男は、テランの突端に向かってまっすぐに歩いていった。流れの水ぎわには小割板《こわりいた》で編んだ垣根のようになった一列の杭がすっかり虫に食われて残っていたが、そこには低いブドウの木が、ちょうど人間が手の指を開いたように、その細い枝を何本かからみつかせていた。そのうしろの、ブドウの木越しの影になったところに、一艘の小舟が隠してあった。男はグランゴワールと娘に、舟に乗るように合図した。ヤギもあとについて乗りこんだ。男はいちばん最後に舟に乗りこんだ。それから、舟のともづなを切って、長い鉤竿《かぎざお》で舟を岸から離した。二本の櫂《かい》を持って前のほうにすわり、沖へ向かって全力でこぎだした。セーヌ川はこのあたりでは流れがたいへん急で、島の突端を離れるのに、男はずいぶん苦労した。
舟に乗りこんでから、グランゴワールは、何はさておきまず第一に、ヤギをひざに抱きあげた。彼はうしろのほうに席を占めていたが、娘のほうは、あの見知らぬ男がそばにいると、なんとも言えぬほど不安になってくるので、グランゴワールのほうに行ってすわりこんで、そのそばにぴったりと身を寄せた。
われらの哲学者は、舟が揺れると手を叩いて、ジャリの角のあいだに接吻した。
「ああ! これで四人とも助かったわけだ」
こう言ってまた、深刻なもの思いに耽っているような顔つきをしながら、「大事業を起こして成功するには、運によるか、ときにはまた策略を用いなければならないものだな」とも言っていた。
舟はゆるゆると右岸の方に進んで行った。娘はひそかに恐れをいだきながら、この見知らぬ男の方を見まもっていたが、その男は、持っていた龕燈《がんどう》の光を、注意深くふさいでいた。舟の艫《とも》にいた彼の姿は、暗やみの中にかいま見ると、まるで幽霊のようであった。また、ずきんをいつでも目深にかぶっていたので、そのため、一種のマスクをかぶっているようなぐあいになっていた。彼は、舟をこぎながら、ときどき腕まくりをするのだったが、腕からは黒い幅広の袖がたれていたので、そのたびごとに、それがちょうどコウモリの二枚の大きな翼のように見えるのだった。そのうえ、まだひとことも口をきかず、かすかな吐息ひとつしなかった。舟の中では、舟ばたにそって幾千となく小波が舟にあたる音にまじって、櫂の行ったり来たりする音が聞こえてくるばかりであった。
「まったくですな!」と、とつぜん、グランゴワールは大声で言った。
「われわれは、羽虫《はむし》のように軽やかで陽気ですな! ピュタゴラス派の人びとか、あるいは魚のように、みんな沈黙を守っていますな! やれやれ! みなさん、誰か、ぼくに口をきいていただきたいもんですね。……人間の声ってやつは、人間の耳にとってはひとつの音楽です。これはぼくのことばではなくて、アレクサンドレイアのディデュモス〔アウグストゥス時代のギリシアの哲学者〕のことばなんですよ。それに、これは有名なことばなんです。……たしかに、アレクサンドレイアのディデュモスは、なまなかの哲学者ではないですね。……ねえ、お嬢さん! 何かひとこと言って下さいよ、頼みます、ね、何かひとこと。……それはそうと、きみには、ちょっと変わったふくれっつらをする癖があったっけね。あいかわらずそうなのかい? ねえ、きみ、知っているかい? あの、高等法院ってやつは、駆け込み場に対してあらゆる権限をもっているってことや、きみがノートルダムのあの部屋の中に隠れていては、非常な危険にさらされているのだってことを、知っているかい? ああ! ワニチドリという小鳥は、ワニの口の中に巣を作るものだからな。……先生、月が出ましたよ。……見つけられなければ、しめたもんだがな!……娘さんをひとり助けて、ほめられることをしたことになるわけだ。しかし捕えられれば、王の命令によりってんで、縛り首になってしまうな。ああ! 人間の行為などというものは、いつもふたつの柄《え》で支えられているようなものなんだ。一方でほめられたことが、もう一方じゃ罰せられることもある。カエサルをほめる者はカティリナ〔ローマの貴族。元老院に対して謀反を企てた〕を非難することになる、ですな。そうではないでしょうか、先生? この哲学について、先生はどう思われますか? わたしはね、生まれながらにして、本能的に哲学をもっているのですよ。つまり、≪ミツバチの幾何学に対するごとくに≫ですね。……おや! 誰も返事をしてくれないのですね。おふたりとも、だいぶご機嫌ななめですね! ぼくひとりで、しゃべらなければならないんですな。悲劇でいう独白というやつですな。……やれやれ!……まえにも申し上げましたように、ぼくはルイ十一世にお目にかかって来ましてね、王様から、あの、口癖の愚痴《ぐち》を覚えちゃったのですよ。……『やれやれ! やつらは、あいかわらず|中の島《シテ》でわいわい騒いでいるのじゃな』とね。……あの王は、まったく意地の悪い、いやなやつで、老いぼれじじいだな。毛皮にくるまって、いつもぬくぬくとしているのだ。ぼくの作った祝婚歌のお金だって、あいかわらず払ってくれないんですよ。今晩だって、もうちょっとのところで、ぼくを縛り首にもしかねなかったんですからね。そうなったら、こっちはたまりませんや。……あの人は、功績のある人びとに対しても、なかなかケチくさいですよ。あの人こそ、コロニアのサルウィアヌス〔五世紀のコロニア(現在のケルン)の司祭で著述家〕の四巻の書物『吝嗇駁論《りんしょくばくろん》』をぜひ読むべきですな。まったく! 文学者に対する態度ときたら、じつに気持の狭い王様ですな。じつに野蛮で無慈悲なことをしますよ。まるで人民に課せられた金をしぼり取る海綿ですな。あの蓄財は、手足が痩せ細ってゆくことで、ふくれあがってゆく脾臓《ひぞう》のようなものですな。だから時の苛酷なとりたてに対する不平不満は、王に対するぶつくさ言う声になってゆくのですよ。あのおやさしい信心家の陛下のもとでは、絞首台は、縛り首にされた者でギシギシ鳴っており、首切台は血でさびつき、牢獄は、腹いっぱいのときの腹のように張りさけているのですよ。
あの王ときたら、片方の手で人を捕えて、もう一方の手で人の首をしめているのさ。まったく税金《ガベル》夫人と首吊台《ジベ》殿との代理人ですな。大諸侯たちは、その格式を奪われ、小さな諸侯どもは、いろいろな新しい圧迫のためにたえず押しつぶされているのですよ。ほんとに、とんでもない王様ですよ。ああいう君主は、嫌いですな。先生はどうですか、先生?」
黒衣の男は、このおしゃべり詩人に勝手にしゃべらせておいて、自分はしきりに|中の島《シテ》の舳先《へさき》とノートルダム島の艫《とも》とのあいだの狭い激流をおしきろうとこぎつづけた。このノートルダム島というのは、現在ではサン=ルイ島と呼ばれているところである。
「ときに、先生!」と、グランゴワールがふいに呼びかけた。「われわれがたけり狂った宿なし連中の中をくぐり抜けて、大聖堂の広場に来たときに、先生は、あの耳がまるっきり聞こえない男が、代々の王の像のある回廊の欄干にぶつけてひとりの男の脳天を打ち割ろうとしていたのですが、その可哀そうなやつに気がつきましたか? わたしは近眼なものですから、誰だかよくわかりませんでしたが、いったい誰だかご存じでしょうか?」
見知らぬ男は、ひとことも答えなかった。急にこぐ手をやめて、折れたのかと思われるほど両腕をがっくりと落として、頭を胸にうずめてしまった。エスメラルダの耳にも、彼がけいれんしたように溜息をもらすのが聞こえた。彼女のほうも身震いした。男の溜息は、まえにも聞いたことがあったのだ。
小舟は打ち捨てられて、しばらく流れのままに流されていた。しかしようやく、黒衣の男は、体をしゃんと伸ばして、櫂をまたとりあげ、流れをさかのぼりはじめた。ノートルダム島の突端をまわって、ポー=ロ=フォワンの船着場のほうへと向かった。
「ああ! あそこがバルボー邸だ」と、グランゴワールが言った。「そら、先生、ごらんなさい。奇妙な角度をした黒い屋根が集まっているところが見えるでしょう。ほら、あの垂れこめた、きれぎれの、うすよごれた雲の群れの下に。あの雲のおかげで、雲の中に出ている月も、まるでからの割れた卵の黄身みたいに、ひしゃげて、流れて見えますねえ。……みごとな屋敷ですな。あそこにはじつにみごとに彫刻された装飾のある、小さな丸天井のついた礼拝堂があるんですよ。そしてその上には、とても精巧につくられた鐘楼があるんです。そこにはまた、美しい庭園があって、池もあれば、大きな鳥小屋もあれば、こだまする場所もあり、並木のある散歩道、迷路、猛獣の家、愛の女神ウェヌス(ビーナス)にとても喜ばれそうな、こんもりした小道などがたくさんありますよ。そこにはまた、ある有名なお姫さまと、色事師で才人だったあるフランスの元帥《げんすい》とがここで逢びきしたために≪淫蕩《いんとう》の木≫と呼ばれているろくでもない木が一本あるんですよ。……ああ! われわれ哀れな哲学者は、元帥などとくらべれば、キャベツと赤カブとの植えてある花壇とルーヴル宮の庭園との違いのようなものですな。でも要するに、どうでもいいことですよ。どうせ人間の生活なんてものは、偉いやつにでもわれわれにでも、禍福《かふく》はあざなえる縄《なわ》のごとしですよ。苦しみはいつでも喜びのそばにありますし、詩で言えば長々格《スポンデ》が長短々格《ダクチル》の隣にあるというようなものですよ。……先生、私はどうしても、このバルボー邸の由来をお話ししなければなりますまい。それは一場の悲劇で終わっているのです。一三一九年、フランス代々の王のうちで、もっとも治世の長かったフィリップ五世の御代《みよ》のことでした。この話の教訓というのは、肉の誘惑がいかに有毒、かつ有害であるかということなのです。たとえどんなにわれわれの感覚がその美貌に惚れこんでも、隣人の妻をあまり見つめてはならぬということなのですよ。姦淫《かんいん》は非常に淫らな考えでありまして、姦通《かんつう》ということは他人の肉欲に対する好奇心ですよ……。おや! あそこでは騒ぎがだんだん激しくなるようですな!」
そのとおり、ノートルダム大聖堂のまわりでは、騒ぎがだんだんひどくなっていった。彼らは耳をすました。勝利の≪ときの声≫がかなりはっきりと聞こえてきた。とつぜん、武装した者どもの兜にあたってきらきら輝いていた幾百とも知れぬたいまつの光が、大聖堂の高いところ一面に、塔の上、回廊の上、控え壁の下に注がれた。たいまつの光は、何かを探しているらしかった。するとまもなく、遠くの叫び声が、この逃亡者たちの耳もとまで、はっきりと聞こえてきた。
「ジプシー娘め! 魔女め! ジプシー娘を殺してしまえ!」
不幸な娘は、思わず両手に頭をうずめてしまった。例の見知らぬ男は、岸に向かって狂ったように舟をこぎはじめた。
一方、われらの哲学者は何かしきりに考えこんでいた。ヤギを両腕にひしと抱きしめて、娘からそっと離れようとしたが、娘は、彼だけが自分に残されたたったひとつの頼りの綱であると思っているのか、ますます彼のほうに寄りすがってくるのだった。
たしかにグランゴワールは、可哀そうにも板ばさみになっていたのである。もし彼女が捕えられれば、ヤギもまた≪現行法規により≫きっと縛り首になるだろう、そうしたら、ああ、哀れなジャリよ! まったく可哀そうなことだ、自分は、こうしてそばにくっついている二人の囚人をもてあましている、最後に、連れの男がジプシー娘をぜひとも面倒を見たがっている、などということを考えていた。彼は、あれこれ考えて激しく心の中でたたかいをしていた。『イリアス』の中のユピテルのように、ジプシー娘とヤギとの重さをかわるがわる計っていたのだ。涙でぬれた目で、ふたつのものをかわるがわるながめては、口の中でつぶやいていた。「だけど、おまえたち両方を助けることは、ぼくにはできない相談なのだ」
そうしているうちに、ついに舟がひとつガクンと揺れたので、岸に着いたことがわかった。ガヤガヤいう不穏な騒ぎが、ずっと|中の島《シテ》をいっぱいにしていた。見知らぬ男は立ちあがり、ジプシー娘のほうにやってきて、娘の腕をとり、舟からおりるのを助けてやろうとしたが、彼女は彼をつきのけて、グランゴワールの袖にとりすがった。グランゴワールのほうは、ヤギのことに気をとられていたので、あやうく彼女をつきとばしそうになった。彼女はひとりで小舟からとびおりた。とてもどぎまぎしていたので、自分が何をしているのか、またどこへ行くのか、まるでわからなかった。こうしてしばらくのあいだ、水の流れを見つめながらぼんやりしていたが、やっと少しばかりわれに返ると、自分はただひとりで、黒衣の男といっしょに川岸にとり残されていたのだった。グランゴワールは、岸に着いたときにうまくやって、ヤギといっしょにグルニエ=シュル=ロー通りのごちゃごちゃした家の一画に、こっそりと逃げこんでしまったのである。
哀れなジプシー娘は、この男とたったふたりきりになってしまったのを知って、震えあがった。口をききたい、叫んでみたい、グランゴワールの名を呼んでみたいと思ったが、舌は口の中で動かなくて、唇からは音がぜんぜん出てこなかった。と、とつぜん、この見知らぬ男の手が自分の手に触れるのを感じた。冷たい、力強い手だった。彼女の歯はガクガク鳴って、顔色は、自分を照らしている月の光よりも青ざめてしまった。男はひとことも口をきかず、彼女の手を握り、グレーヴ広場のほうに向かって、大またに登りはじめた。
このとき彼女は、運命とはさからうことのできない力である、と、ぼんやり感じた。もう反抗する力もなく、彼が歩いているあいだ、走りながらひきずられていくままになっていた。川岸は、その場所では登り坂になっていたが、彼女には、坂道を降りてゆくように思われた。
あたりを見まわしたが、人っ子ひとり通っていなかった。川岸はまったく人通りもなく、物音も聞こえなかった。騒がしく、赤く燃えあがった|中の島《シテ》の中だけに人影がうごめいているのが、彼女に感ぜられた。その|中の島《シテ》からは、ただセーヌ川の支流でわずかにへだてられていて、そこから彼女の名まえが、死の叫びにまじって彼女のところまで聞こえてきた。パリの残りの部分は、大きな影の塊りとなって、彼女のまわりに広がっていた。
一方、この見知らぬ男は、ずっと同じようにおし黙ったまま、あいも変わらぬ速度で、彼女を引っぱっていった。記憶の底をさぐってみても、自分がどこを歩いているのか少しも思い出せなかった。とある明かりのついた窓の前を通りすぎたとき、力をふりしばり、急に体をこわばらせて、「助けて!」と叫んだ。
明かりのついた家の主人は、窓を開けて、肌着のまま、ランプを持って姿を現わした。そしてぼんやりしたようすで川岸のほうを見ていたが、彼女には聞こえなかったが、何かブツブツ言いながら、またよろい戸を閉じてしまった。これで、最後の希望の光も消えてしまった。黒衣の男は、あい変わらずひとことも口をきかなかった。彼女の手をしっかり握って、いっそう足ばやに歩きだした。彼女も、もうさからわずに、へとへとになってついていった。
ときどき、なけなしの力をふりしぼって、でこぼこした舗道につまずいたり、あまり走ったので息を切らしたりしながら、とぎれとぎれの声で、「あなたはどなた? いったいどなたなんです?」ときいてみたが、男はなんにも答えてはくれなかった。
彼らはこうして、ずっと川岸沿いに歩いて、かなり大きな広場に着いた。月はかすかに照らしていた。グレーヴ広場だった。まん中に黒い十字架のようなものが立っているのが見えた。それは絞首台だった。彼女はそれがすっかりわかって、自分がいまどこにいるか、はっきり見きわめた。男は立ちどまって、彼女のほうを振り返り、ずきんを脱いだ。
「あ! やっぱりまたあの人だった!」と、彼女は化石のようになって、どもりながら言った。
それは、まさしくあの司祭だった。まるで彼自身の亡霊みたいだった。月の光を浴びていたためだった。月光の射す下では、あらゆるものは亡霊のようにしか見えないものだ。
「まあ、聞け」と、彼は言った。もう長いこと耳にしなかったこの不吉な声を聞いて、彼女は身震いした。彼はつづけて言った。短く、そしてあえぐように身を震わせて、ひとことひとこと、ぽつりぽつりと語りだした。その震え声は、内心の深い動揺を表わしていた。
「まあ、聞いてくれ。ここにいるのはふたりきりだ。おまえに話して聞かせることがある。いいか、ここはグレーヴ広場だ。ここで行きどまりだ。ふたりが面と向かってここにほうり出されたのも運命なのだ。おまえの命はわしの手中にある。わしの魂はおまえの意のままだ。ここは広場だし、いまは夜だ。この機会をはずしては、もう何もない。だから聞いてくれ。おまえに話したいことがある。……まず第一に、おまえのフェビュスのことをわしに話してはならぬぞ。(こう言いながら、ひとところにじっとしてはいられないように、行ったり来たりしていたが、娘の体を自分のわきにひきずりながら)あの男のことはわしに言ってはならんぞ。いいかな。もしあの名を口にしたら、わしは何をするかわからぬし、恐ろしいことになるのだぞ」
こう言って、重心をとり戻した物体のように、しばらくじっとしていたが、それでもやはり、そのことばは内心の動揺を表わしていた。彼の声はだんだん低くなっていった。
「そんなに顔をそむけないで、わしの話を聞いてくれ。まじめな話なのだ。まず、こういうことが起こったのだ。……この話を聞いても誰ひとり笑うものはないはずだ。……はて、わしはいまなんと言ったかな? ええと! ああ、そうだった!……おまえを処刑台にかけろという高等法院からの逮捕状が出ているのだ。それで、わしがおまえを彼らの手から救いだしたというわけだ。だが、彼らはあそこまでおまえを追いかけて来ているのだ。よく見るがいい」
男は|中の島《シテ》のほうへ手を差しのべた。実際、そこは、捜索がつづけられているらしかった。ざわめきが近づいていた。グレーヴ広場の正面にある副官の屋敷の塔は、物音と明かりでいっぱいであったし、対岸では、たいまつを持って、「ジプシー娘だ! ジプシー娘はどこにいる? 殺してしまえ! 殺してしまえ!」と叫んで、兵士どもが走りまわっているのが見えた。
「これでよくわかったろう、やつらがおまえを追いかけていることも、わしが嘘をついているのではないことも。わしは、このわしは、おまえが好きでならぬのだ。……ま、口をきいてくれるな。わしが嫌いだと言うためならむしろ、何も言ってくれるな。そんなことはもう聞くまいと、わしは心に決めているのだ。……わしは、おまえを助けたのだ。……まず終わりまで言わせてくれ。……わしはおまえを完全に救いだすことができる。その準備はすっかりととのっているのだ。おまえがその気になりさえすれば、それでよいのだ。おまえが好きなようにしてやるつもりだ」
男は激しくことばをきって、「いや、言わなければならないのは、こんなことではない」
それから彼は走りだして、女にもいっしょに走らせて、というのは、彼女をつかんで放そうとしなかったからであるが、まっすぐに絞首台のほうまで進んでいって、それを指でさし示して、冷やかに言った。
「わしとこれと、ふたつのうち、好きなほうを選ぶのだ」
彼女は男の手を振りほどいて、絞首台の足もとに身を投げ出し、このいまわしい土台にひしととりすがった。それから、美しい顔を半ばふり向け、肩ごしに司祭を見つめた。まるで十字架の足もとにいる聖母のようだった。司祭は指をあいかわらず絞首台のほうにあげ、まるで石像のように、そのままの姿勢をして、身動きもせずじっとしていた。
とうとう、ジプシー娘は言った。「こちらのほうが、あなたよりまだこわくありません」
これを聞くと、彼の腕はだんだん垂れていき、すっかり落胆して、敷石に目を落とした。「もしこの敷石がものを言うことができたら、そうだ、ここにひとり、いとも不幸な男が立っている、とでも言うだろうな」とつぶやいた。
彼はまた、くどきにかかった。娘は絞首台の前にひざまずいて、長い髪の毛を顔一面にたらしたまま、男の言うことを黙って聞いていた。いまや彼の沈痛でやさしさをおびた声は、その傲然《ごうぜん》たる無慈悲な顔つきと、痛々しいほどにいちじるしい対照をなしていた。
「わしは、このわしはおまえを愛している。ああ! それは、誰がなんと言おうが、真実のことなのだ。わしの心を焼くこの火は、少しも消えることはないのだ! ああ! 娘よ、夜も昼も、そうなのだ。夜となく昼となく、燃えつづけるのだ。それでも哀れと思ってはくれないのか? 夜も昼も思いつづけている恋なのだ。身をかきむしられるようだ。……おお! わしは苦しすぎるのだ、いとしいやつめ!……哀れと思ってくれてもよいではないか。このとおり、わしはやさしく話しているのだ。お願いだから、わしをもう恐ろしいなどとは思わないでくれないか。……つまり、男が女を好きになる、これは男が悪いのではない!……ああ! 残念だ!……なんだって! わしを許してはくれないのだな? いつまでもわしを憎むつもりなのだな! それではもう終わりだ! そのために、このわしが悪者になってしまうのだ、いいかね。自分の目にも恐ろしい人間にみえてくるのだ!……おまえはただひと目なりとも、見ようとしてはくれない! わしが、こうして立ったまま、われわれふたりの永遠の境におののき震えながら、おまえに話しているあいだに、おまえはおそらく別のことを考えているのだろうな!……だが、あの士官のことだけは、何をおいても、わしに話してくれるな!……ああ! おまえの前にひざまずきもしよう、ああ! もしおまえがいやと言うなら、足とは言わぬ、足もとの地面にでも口づけをしよう、ああ! 子どもみたいに泣きもしよう、愛するとひとこと言うためなら、ことばではなく、心臓やはらわたまでも、この胸からえぐり取りもしよう。だが、何をやってもむだだろう、何をやっても!……だがしかし、おまえの魂の中には、やさしい、そしてすべてを許す心だけはあるはずだ。おまえはこの上なく美しいやさしさに輝いている。まったく気持のよい、善良な、慈悲深い、魅力のある女だ。だが、ああ! このわしに対してだけは、意地が悪いのだな! ああ! なんという因果なことだ!」
彼は両手で顔を覆った。娘には彼の泣く声が聞こえた。彼が涙を見せたのは、これがはじめてであった。このように立ったまま、身を震わせて泣いている姿は、ひざまずいて泣いているよりもみじめで、哀れをもよおさせるものがあった。こうして、彼はしばらく泣いていた。
「さあ!」と、はじめの涙が乾いてしまうと、彼はさらにつづけて言った。「わしにはもう言うべきことばはない。それでも、おまえになんと言おうかと、あれこれ考えてはいたのだ。だがもう、体は震えおののき、この決定的なときに気も遠くなりそうだ。わしは、何か崇高なものが、われわれを包んでいるような気がして、うまくものも言えぬ。ああ! おまえがこのわしを、またおまえ自身をも哀れと思わなければ、わしはこの敷石の上に倒れてしまうだろう。われわれふたりに死の宣告を与えないでくれ。どんなにおまえを愛しているかを、わしの心の中がどんなかを、わかってくれさえしたら! おお! あらゆる徳はわしの身から抜けていってしまったし、わしはまったくやけくそな気持なのだ! 学者のくせにわしは学問をあざける。貴族のくせに自分の名を汚す。司祭のくせにミサの祈祷文典を淫乱の枕にし、神の顔につばを吐きかけるのだ! これもすべておまえのためなのだぞ、妖婦め! おまえの地獄にもっとふさわしくなりたいためなのだ! しかもおまえは、この地獄におちた者を嫌っている! ああ! わしは、おまえに何もかも言って聞かせなければならぬ! まだ、もっともっと恐ろしいことを、ああ! ずっと恐ろしいことをだ!……」
この最後のことばを言いながら、彼はまったくとり乱してしまったようすだった。ちょっとのあいだ黙ったが、また、自分ひとりにでも言うように、強い声で言った。「カイン〔聖書の中のアダムとイヴの長男で、神が弟のほうをほめたのを妬んで弟を殺した〕よ、おまえは弟をどうしてしまったのだ?」
またしばらく黙っていたが、つづけて言った。
「わたくしが何をしたか、と言われるのですか、神よ? わたくしはあいつをひきとり、育て、養い、可愛がりもしました。溺愛《できあい》しました。それなのに、わたくしはあいつを殺してしまったのです! そうです、主よ、弟はわたくしの目の前で、あなたの家の石の上で頭を打ち割られたのです。そしてそれは、このわたくしのせいなのです。この女のせいなのです。彼女のせいなのです。……」
男の目つきはものすごかった。声もだんだんかすかになっていった。機械的に、かなりの間をおいて、ちょうど鐘が、その最後の振動を長く響かせているように、なおまたいくども繰り返した。「この女のせいなのです……この女のせいなのです……」
それからは、彼のことばはもう聞きとりにくくなったが、それでも、唇はあいかわらず動いていた。と、とつぜん、何かがくずれおちるように、がくりと倒れ、頭をひざにうずめたまま身動きもせず、地面に伏してしまった。
娘が男の下になった足をそっと引こうとして、彼の体にちょっと触れると、彼はふと気をとり戻した。そっと、落ちくぼんだ頬に手をやって、しばらくのあいだ、涙にぬれた指をぼんやりと見ていたが、「おや! わしは泣いていたのか!」とつぶやいた。
そして、なんとも表現できない苦悩に沈んだ顔をして、急に娘のほうを振り向いて、「ああ! わしが泣いているのを冷やかに眺めていたのだな! なあ、おまえ! この涙が、溶岩のように熱いことを知っているのか? 憎い男のすることには何ひとつ心を動かされないというのは、それでは、ほんとうのことなんだな? おまえは、わしが死ぬのもさぞかし笑って見ているだろうな。だが、ああ! わしのほうは、おまえが死ぬところなど見たくはないのだ! ひとこと! たったひとことでも、許すと言ってくれ! わしを愛しているなどとは言わなくともよい。せめて、ただ愛したいと思うとだけでも言ってくれ。それでもうじゅうぶんだ。おまえの命を助けてやろう。さもないと……ああ! どんどん時間はたってゆく。すべての聖なるものにかけて、お願いだ。おまえの命を求めているこの絞首台のように、わしが石になってしまわないうちに、返事をしてくれ! まあ、考えてもくれ、ふたりの命は、わしの手のうちに握られているのだぞ。それに、わしは気も狂いそうになっている。これは恐ろしいことだ。あらゆるものが奈落《ならく》の底に落ちてゆくのを冷然と見ていられるのだぞ。われわれの下には底知れぬ深淵がある。娘よ、おまえがそこに落ちれば、わしも永遠にそこに落ちてゆくつもりだ! やさしいことばをひとこと! たったひとことでも言ってくれ! ほんのひとことでもよいのだ!」
彼女は口を開いて答えようとした。彼は女の口から出てくるおそらく情深いことばを、三拝九拝して聞きとろうとして、女の前に身を投げかけて、ひざまずいた。だが彼女は言った。「あなたは人殺しだ!」
司祭は、かっとなって娘を抱きかかえ、恐ろしい笑い声をたてた。
「そうか、よろしい! 人殺しか! おまえの命はもらったぞ。おまえはこのわしを奴隷にもしたくはないと言う。それなら、わしがおまえの主人になってやろう。おまえの命はもらったぞ。わしは隠れ家を持っている。そこにおまえを引っぱっていく。よいか、ついてくるのだ。どうあっても、わしのあとについてくるのだぞ。さもなくば、おまえをその筋にひきわたすまでだ! これ娘、死ぬか、わしのものになるかだ! 司祭のものになるか、どうだ! この背教者のものになるか! 人殺しのものになるか、どうだ! 今夜からだ、わかったか? さあ! よろこんでついてこい! さあ! わしに接吻するのだ、どうだ、女! 墓か、わしの寝床か、だ!」
男の目は、淫らな気持と怒りとでぎらぎら燃えていた。その好色な唇を見ると、娘は思わず首筋を赤くした。彼女は男の腕の中で身をもがいていた。が、男は口に泡をたてて、娘の唇に自分の唇を押しつけた。
「かみつくんじゃない、化け物め!」と、彼女は叫んだ。「まあ、いやだ! 汚らわしいやつね! 放してちょうだい! おまえの見るのもいやな白髪《しらが》頭の毛をひきぬいて、顔へいっぱい投げつけてやるから!」
男の顔は赤くなったり、青くなったりした。やがて女を放し、暗い顔つきで相手の顔を見つめた。彼女は、自分が勝った気になって、ことばをつづけた。
「あたしはフェビュスさまのものなんだって言ってるのに。あたしの愛しているのはフェビュスさまなんですよ。フェビュスさまってほんとうにお美しいわ! おまえなんか、司祭で、年寄りよ! 醜《みにく》いこと! あっちへ行ってちょうだい!」
彼は、まるで、まっ赤に焼けた鉄を押しつけられた哀れな男のように、激しい叫びをあげた。
「死んでしまえ!」と、歯ぎしりしながら、男は言った。相手のぞっとするような目つきを見て、娘は逃げようと思った。彼はまた娘を押えて激しく揺すり、女を地面に投げ倒した。そして、女の美しい手を取って、敷石の上を引きずりながら、ロラン塔のかどのほうへどんどん歩いていった。
そこに着くと、女のほうを振り向いて、「もうこれきりだが、どうだ、わしのものになりたいか?」
娘は力をこめて答えた。「いやです!」
すると、彼は大声で叫んだ。「ギュデュール! ギュデュール! ジプシー娘を連れてきたぞ! 仕返しするがいい!」
娘はふいにひじをつかまえられたのを感じた。見ると、一本の痩せこけた腕が、壁の明かりとりからのびてきて、鉄の手のように彼女をしっかりと押えている。
「しっかりと抑えていろよ!」と、司祭は言った。「逃げてきたジプシー娘だ。放してはならんぞ。わしは行って、役人を探してくる。この女が縛り首になるのを見物させてやるぞ」
すると、のどの奥から出るような笑い声が壁の内側から、この無慈悲なことばに答えた。「ワハハ! ワハハ! ワハハ!」
ジプシー娘の目には、司祭がノートルダム橋のほうへどんどん走り去ってゆく姿が見えた。その方角からは騎馬隊の足音が聞こえた。娘は、この女があの意地の悪いおこもりさんだと気がついていた。恐ろしさにあえぎながら、身をふりほどこうとした。身をもがき、いくどもいくども苦悶と絶望とに襲われてとびあがったが、老婆のほうでは、信じがたいほどの力を出して、娘をしっかりと抑えつけていた。痩せこけて骨ばかりになった指は、娘を傷だらけにし、その肉にくいこんで、まわりからぐいぐい締めつけた。その手はまるで、娘の腕にびょうでとめられてでもいるようだった。それは、鎖よりも、首枷《くびかせ》よりも、鉄輪よりもずっと堅く締めつけた。壁からとびだしてきてひとりでにはたらく、生きた釘ぬきのようだった。
娘は疲れ果てて、壁にがっくりともたれてしまった。すると、死の恐怖に襲われてくるのだった。人生の美しさ、青春、空のながめ、自然のさまざまなようす、恋、フェビュス、逃げ去ってゆくすべてのもの、近よってくるすべてのもの、自分を訴えた司祭のこと、まもなくくるはずの死刑執行人、そこにある絞首台、こうしたものがつぎつぎに頭に浮かんできた。すると、恐怖の気持が、髪の毛の根もとまでものぼってくるのを感じ、おこもりさんの無気味な笑い声が耳にはいった。おこもりさんは彼女に小声でこう言っていた。
「ワハハ! ワハハ! ワハハ! おまえはじきに縛り首さ!」
息も絶えだえになって、明かりとりのほうを振り向いた。すると、格子の向こうにお懺悔《ざんげ》ばあさんの野獣のような顔が目にはいった。
「あたし、あなたに何をしたというの?」と、彼女はほとんど生気のない声できいた。
おこもりさんはそれに答えず、唄っているような、おこっているような、また、からかっているような調子で、もぐもぐ言いだした。
「ジプシー娘め! ジプシー娘め! ジプシー娘め!」
不幸なエスメラルダは、自分が相手にしているのが人間ではないことがわかって、がくりと頭を垂れて、髪の毛の下にうずめた。
とつぜん、おこもりさんは叫んだ。ジプシー娘のきいたことが、老婆の考えに届くまで長い時間がかかったようだった。
「おまえがわたしにしたことってのはね、ジプシー娘め! まあ、聞いておくれ。……わたしにはね、子どもがひとりあったんだよ、わたしにはね! いいかい? 子どもがひとりあったのさ! 子どもがね、いいかね!……可愛らしい小さな娘だったのだよ!……わたしのアニェス」
こう言って、心をとり乱し、暗やみの中で、何かに接吻して、「いいかい! ね、ジプシー娘め。ところがね、わたしの子どもは取られてしまった。盗まれたんだ。食べられちまったんだよ。これが、おまえがわたしにしたことなのさ」
娘は、子ヒツジのように素直に答えた。
「まあ! でも、そのころはたぶん、あたし、まだ生まれていなかったわ!」
「いや! そんなことはない!」と、おこもりさんがやり返した。「きっと生まれていたはずだ。おまえは生まれていたのだよ。あの子が生きていたら、ちょうどおまえと同じ年ごろだろうね! で!……わたしがここに来てからもう十五年にもなる、十五年も苦しみ、十五年も祈ってきたんだ。十五年ものあいだ、この四方の壁に頭をぶつけてきたんだよ。……ね、わたしから子どもを盗んでいったのは、ジプシーの女たちなんだよ。いいかい、わかったかね? そしてその子どもを食べてしまったんだ。……おまえには人間の心があるのかい? そんなら考えてもごらん。その子は遊んでいたんだよ。乳房をふくんで、すやすや眠っていたんだよ。とても無邪気だったんだよ!……ところがだよ! その子を誰かが奪っていった、そして殺してしまったんだ! 神さまはよく知っていらっしゃるよ!……きょうこそは、わたしの番だ。ジプシー娘を食べてやるんだ。……ああ! この格子さえじゃましなかったら、おまえにかみついてやるんだけど。わたしの頭が大きすぎるよ!……可哀そうなあの子! 眠っているあいだにねえ! あの子が女たちに抱きあげられて目をさましたときには、いくら泣いても、もうだめだったのねえ。わたしがそこにいなかったんだもの!……ああ! ジプシーの母親たちよ、おまえさんは、わたしの子どもを食べちゃったんだ! 来て、おまえさんたちの子どもを見るがいいや」
こう言って、彼女は笑いだした。いや、歯ぎしりをしたのかもしれない。どちらにしても、この怒り狂った顔では同じようなものだった。夜は白々と明けそめた。灰色の光がほのかにこの光景を照らし、絞首台は広場のなかに、だんだんくっきりとその姿を現わした。
一方、ノートルダム橋のほうに騎馬隊の響きが近づいて来るのが、この哀れな女囚人の耳にはいって来るような気がした。
「おばさん!」と、娘は両手を合わせ、ひざまずき、髪をふり乱し、夢中になって、恐ろしさのあまり気違いのようになって叫んだ。
「おばさん! 助けて下さい。人がやってきます。あたしはおばさんに、なんにもしたことはありません。おばさんの目の前で、こんなに恐ろしい死にかたをするのが、おばさんには見たいんですか? おばさんはきっと情けぶかい人です。きっとそうです。まあこわい。どうか逃がして下さい。逃がして下さいな! お願い! こんなめにあって死ぬのはいやだわ!」
「わたしの子どもを返しておくれ!」と、おこもりさんが言った。
「お願いです! お願いです!」
「わたしの子どもを返しておくれ!」
「放して下さい、後生ですから!」
「わたしの子どもを返しておくれ!」
また今度も娘は、ぐったりと疲れ果てて、倒れてしまった。目はもう、墓穴に埋められた人のように、まるでガラスみたいになっていた。「ああ!」と、彼女はたどたどしい口調で言った。「おばさんは、子どもさんを捜しておいでなのね。あたしのほうは、おとうさんやおかあさんを探しているんです」
「わたしの可愛らしいアニェスを返しておくれ!」と、ギュデュールはさらにつづけて言うのだった。「あの子がどこにいるか、知らないんだね? じゃ、死んでおしまい!……話してあげるがね、わたしはもと、娼婦だったんだ。子どもがひとりいたが、誰かがさらってしまったんだ。……ジプシーの女どもなんだ。だから、おまえには、死ななければならないことがよくわかっただろう。おまえのおかあさんのジプシーが、おまえをくれと言ってきたら、言ってやるよ、おかあさん、あの絞首台を見るがいい!……でなきゃ、わたしの子どもを返せってね。……おまえはあの子が、あの可愛い娘が、どこにいるか知っているかい?
さあ、見せてやろうか。これがあの子の靴なんだよ。これだけが残った形見なんだよ。これと同じものがどこにあるか、おまえ知っているかい? もし知っているなら、おしえておくれ。たとえこの世の果てにあると言ったって、こうしてひざをついたまま歩いて探しにいくよ」
こう言いながら、もう一方の手を明かりとりの外にさし出して、刺繍をした小さな靴をジプシー娘に見せた。もうかなり明るくなっていたので、その形や色をはっきり見ることができた。
「その靴を見せてちょうだい」と、ジプシー娘は身を震わせながら言った。「ああ、神さま! 神さま!」こう言いながらも、同時に、自由になっているほうの手で、首につけていた緑色のガラス玉が飾りについている可愛らしい小袋をぱっと開いた。
「さあ! さあ!」と、ギュデュールはブツブツつぶやいた。「悪魔のお守りでも掘り出すがいい!」
すると、とつぜんことばをきって、体じゅうをぶるぶる震わせ、はらわたの底から出てくるような声で叫んだ。「あっ、わたしの娘だ!」
ジプシー娘は、まえのものとまったく同じ小さな靴を、小袋から取り出したのだった。この小さな靴には一枚の羊皮紙がついていて、それにつぎのような≪銘≫が書きつけてあった。
≪これと同じものが見つかるとき、
おまえの母は手を差しのべるだろう≫
いなずまがパッと光るよりもすばやく、おこもりさんはそのふたつの靴を見くらべていたが、羊皮紙に書かれた≪銘≫を読み、天から降ったような喜びに輝いているその顔を、明かりとりの格子にぴったりつけて叫んだ。
「わたしの娘だった! ああ、わたしの娘だった!」
「おかあさま!」と、ジプシー娘は答えた。
ここで私は筆を投げざるを得ない。
壁と鉄格子がふたりのあいだにあった。「ああ! 壁が!」と、おこもりさんは叫んだ。
「ああ! おまえに会えたのに、抱くことができない! 手をおかし! 手を!」
娘は明かりとり越しに腕を差しのべた。おこもりさんはその手にとびつき、唇をおし当て、そのまま、この接吻にわけもわからなくなって、じっとしていた。ただもう、ときどき腰をあげてすすり泣くことだけが、わずかに生きているしるしだった。そのあいだ、ひとことも言わずに、夜の雨みたいに、闇の中で、涙を滝のように流していた。この哀れな母親は、この可愛い手の上に、彼女の心の中にある黒くて深い涙の井戸を、どんどんからにしていたのだ。この井戸の中に、この十五年というもの、彼女の苦しみが一滴一滴しみとおってきたのだった。
とつぜん立ちあがると、額に振りかかる長い白髪を払いのけ、ひとことも言わずに、両腕でライオンよりずっと荒々しく、部屋の格子を揺すぶりにかかった。だが、格子はびくともしなかった。そこで彼女は、枕のかわりに使っていた大きな敷石を探しに部屋のすみに行った。そして、それを力まかせに激しく格子に投げつけたので、さすがの格子もその一本があたりにパッと火花を散らして、砕けてしまった。もう一度投げつけると、明かりとりをさえぎっていた古い鉄の十字格子も、粉々にくずれてしまった。すると彼女は、両手で格子のさびついた断片をすっかり砕いて、はずしてしまった。ひとりの女の痩せ腕にも、人間をこえた力の出るときがあるものだ。
通り道ができると、そしてそれには一分もかからなかったのだが、母親は娘を体ごとかかえて、部屋の中にひき入れた。
「さあ、おいで! おまえを地獄から引きずり出してやるよ!」と、彼女はつぶやいた。
娘が部屋の中にはいってしまうと、母親は娘をそっと床に置いた。それから、ちょうど、あの小さなアニェスであったころのように、両腕で娘を抱きかかえて、酔ったように、夢中になって、楽しそうに、叫んだり、うたったり、娘に接吻したり、話しかけたり、と思うとまた、どっと笑いだしたり、涙にかきくれたり、何もかもいっしょに、激情にかられて、その狭い部屋を行ったり来たりしているのだった。
「わたしの娘! わたしの娘! わたしには娘がいるんだ! ほら、ここに。神さまが返して下さったんだ。さあ、あなたがた! みんな来て下さいな! わたしの娘がかえったのを見に、誰かいらっしゃいませんか? 主イエスさま、うちの子はなんてまあきれいなんでしょう! 十五年もわたしをお待たせになって、神さま、だけど、それは、娘をこんなにきれいにしてお返し下さるためでしたのね。……ジプシーの女たちはうちの娘を食べはしなかったのね! 誰がそんなことを言ったのでしょうね? 可愛い子! 可愛い娘! 接吻しておくれ。ジプシーの女の人って、いい人だね! わたしはジプシーの女の人が好きになったよ。……たしかにおまえだね。おまえが通るたびにわたしの心が踊ったのは、そのせいなんだね。わたしはそれを憎しみのせいだと思っていたの! ごめんね、アニェス、許しておくれ。さぞ、わたしを意地の悪い女だと思ったろうね、そうじゃないかい? おまえが好きだよ。……首の小さなあのあざは、ずっとおまえについていたの? どれ、見せてごらん。ああ、やっぱりついている。ああ! おまえは美しい! このわたしが、おまえをそんなに大きな目の娘に生んだんだよ、ね、お嬢さん。接吻しておくれ。おまえを愛しているんだよ。よそのおかあさんにいくら子どもがあったって、そんなことはもうどうでもいいんだよ。もういまじゃ、みんな笑ってやれるんだもの。誰だってくるがいい。これがわたしの娘だ。ほら、この首、この目、この髪、この手。こんなに美しいものがあったら見せておくれ! ああ! わたしは受け合うよ、こういう娘にゃ、きっと恋人が大勢できるよ、って! わたしは十五年も泣いて暮らしてきた。わたしの美しさはみんななくなってしまったけれど、それがこの娘についてしまったのだね。さあ、接吻しておくれ!」
彼女は娘に向かって、わけのわからないことをいろいろと話しかけたが、その調子は、いかにも美しいものであった。哀れな娘が顔を赤くするほど、娘の着物をいじくりまわしたりした。絹糸のような髪の毛を手でなでてみたり、足やひざや額や目に接吻したり、なにもかもに夢中になっていた。
娘は母親にされるままになっていたが、ときどき低い声で、このうえなくやさしく、「おかあさま!」と繰り返していた。
「ね、娘や」と、接吻のためにとぎれとぎれに、おこもりさんは言うのだった。「ね、おまえを可愛がってあげるよ。ここから出ようね。そして幸福に暮らそうよ。生まれ故郷のランスにちょっとした遺産をもらってあるんだよ。ランスっておまえ知っているかい? ああ! 知らないんだね。おまえはとても小さかったからね! 生まれて四月《よつき》ばかりたったとき、どんなにおまえが可愛らしかったか、知っていたらねえ! その可愛らしい足を見に、二十八キロもあるエペルネから、めずらしがって人が来たものだよ! 畑も家も持とうね。おまえをわたしのベッドに寝かせてあげようね。神さま! ああ、神さま! 誰がこんなことを本気にするでしょうか? 娘がかえってきたなんていうことを!」
「ああ、おかあさま!」と、娘は感動にむせびながらも、どうやら話す力をとり戻して言った。
「ジプシーの女の人がよくあたしに言っていましたわ。あたしたちの仲間に親切なジプシーの女の人がいました。その人は、去年死んでしまったんですが、いつでもまるで、乳母みたいにわたしの面倒をよくみてくれたんです。首にこの小さな袋をつけてくれたのは、その人なんです。いつもあたしにこう言っていました。『ね、おまえ、これを大切にしておくんだよ。これは宝物なんだからね。これがあれば、おかあさんに会えるんだよ。首におかあさんをつけているようなものなんだからね』って。ほんとにあの人の言ったとおりだったわね!」
ギュデュールは、また、娘を腕に抱きしめるのだった。「さあ、おいで、接吻してあげるよ! なんて可愛らしいことを言うの。故郷に行ったら、この小さな靴を、教会にある赤ちゃんのときのイエスさまの像にはかせましょうね。聖母さまに対してだって、どうしてもそうしなければならないからね。まあ! おまえは、まあなんてきれいな声をしているんだろうね! おまえがついさっき、わたしに話してくれたとき、まるで音楽のようだった! ああ! 神さま! わたしは、また子どもにめぐりあうことができました! けれど、この話、信じていただけるでしょうか? でも、人ってめったに死なないものですね。だって、わたし、こんなにうれしくっても、死んでいないんですもの」
それから、手を叩いて笑いだし、叫んだ。「わたしたちは、これからしあわせに暮らせるんだ!」
このとき、武器の鳴る音と、馬の駆ける音が部屋に響いた。それはノートルダム橋のほうから進んできて、だんだん、この川岸のほうへやって来るらしかった。エスメラルダはひどく不安になって、母親の腕に身を投げた。
「助けて! 助けて! おかあさま! ほら、やってきますわ!」
母親はまっ青になった。
「えっ! まあ、なんだって? すっかり忘れていたよ! 追われているんだって! いったいおまえ、何をしたの?」
「わからないんです。だけど、あたし、死刑の宣告を受けているんです」と、不幸な娘は答えた。
「まあ、死刑だって!」
ギュデュールは、雷に打たれたように、よろよろしながら言った。「まあ、死刑だって!」と、ゆっくり繰り返しながら、じっと娘の顔を見つめた。
「そうなんです、おかあさま」と、娘はとり乱して言った。「あたしを殺そうとしてるんです。ほら、あそこに、あたしをつかまえようとして来るでしよう。あの絞首台はあたしのために立ってるんです! 助けてちょうだい! 助けて! もう来るわ! 助けてちょうだい!」
おこもりさんはしばらくのあいだ、化石のようにじっと身動きもしなかったが、やがて、疑わしそうに頭を振って、とつぜん、どっと高笑いをした。それは、いつものような恐ろしい笑いだった。
「ホホホ! ホホホ! いや、そんなことはない! おまえの話は夢だ。ああ! そうだ! 娘をなくして、それが十五年もつづいたんだ。そしてやっとめぐりあえたと思ったら、それもつかの間だなんて! また娘がさらわれるなんて! いまじゃ、こんなにきれいで、大きくなって、わたしに話をしたり、こんなに愛してくれるのに。それなのに、またやってきて、やつらは娘を食べてしまうの、このおかあさんの目の前で! まあ、いや! そんなことがあってたまるもんか。神さまがそんなことをお許し下さるはずはないよ」
このとき騎馬隊は、ここで止まったようだった。遠くのほうでこう言っている声が聞こえた。
「こっちですよ。トリスタンさん! あの司祭の話ですと、≪ネズミの穴≫に行けば、あの娘がいるってことでしたが」……馬のひづめの音がまた聞こえた。
おこもりさんはすっくと立ちあがり、絶望して叫んだ。
「お逃げ! お逃げ! 娘よ! またやってきたんだ。おまえの言うとおりだ。殺されるよ! ああ、なんて恐ろしいことだ! 畜生め! お逃げ!」
彼女は明かりとりに頭を差し出したが、すぐひっこめて、「じっとしておいで」と、生きているというよりも死んだようになっているジプシー娘の手を、ぶるぶる震えながら握りしめ、低い、短い、悲しそうな声で言った。
「じっとしておいで! 息をしちゃいけないよ! どこもかしこも兵隊だらけだ。とても出られやしないよ。もう明るくなりすぎちゃった」
彼女の目は乾ききって、燃えるようであった。ひとことも言わず、ちょっとのあいだじっとしていた。ただ、大股に部屋の中を歩くだけだった。ときどき立ちどまり、灰色の髪の毛をかきむしっては、それを歯でひきちぎっていた。
とつぜん、彼女は言った。「こっちにやってくるよ。わたしがあいつらに話してやろう。あっちのすみに隠れておいで。見つかりゃしないよ。もう逃げちゃったって、あいつらに言ってやるよ。放してしまったってさ。だいじょうぶだよ!」
彼女は娘を部屋の片隅におろした。というのも、ずっと娘を抱いていたからだった。その片隅は、外からは見えなかった。娘をしゃがませ、足も手も暗いところから出ないように注意深く体をおちつかせて、黒髪をほどいてやり、娘の体が隠れるように、白い着物の上にそれを広げた。それから、彼女の持っていたただひとつの家具である水差しと敷石とを、前に並べた。こんな水差しや敷石でも、娘の体を隠せるだろうと思ったのだ。それがすむと、どうやら前よりもおちつき、ひざまずいて、お祈りを捧げた。あたりはようよう白んてきたばかりで、この≪ネズミの穴≫の中は、まだ暗やみであった。
ちょうどそのとき、司祭の声が、あの地獄から出てくるような声が、部屋のすぐそばを叫びながらすぎていった。「こっちだよ、フェビュス・ド・シャトーペール隊長!」
この名まえ、この声を聞きつけて、すみのほうにうずくまっていたエスメラルダは身を動かした。「動いちゃいけない!」と、ギュデュールが言った。
こう言い終わらぬうちに、もう人や剣や馬のざわめきがこの部屋のまわりにとまった。母親はすばやく立ちあがり、明かりとりをふさごうとして、その前に身構えた。見ると、武装した男どもの一隊が、徒歩の者やら、馬に乗った者やら、大勢でグレーヴ広場に並んでいた。彼らを指揮していた男が馬をおりて、彼女のほうへやってきた。
「おい、ばあさん」と、恐ろしい顔をしたこの男は言った。「われわれは、魔女を召しとって縛り首にしようとして、探しているのだ。おまえがその女をつかまえているそうだな」
哀れな母親は、できるだけなにげないようすをして答えた。
「あなたのおっしゃること、よくわかりませんが」
すると、相手は言った。「畜生! あの司教補佐のやつ、血迷いやがって、何かいいかげんなことを言いやがったのかな? どこへ行った、あいつは?」
「殿、どこかに消え失せてしまいました」と、兵士のひとりが言った。
「それなら、おい、ばばあ、嘘を言ってはならんぞ。魔女をひとり、よく見ていろとあずけられたはずだ。それをどうした?」と、指揮官が言った。
おこもりさんは、何もかも知らぬ存ぜぬと言ってしまっては、かえって怪しく思われると考え、真剣な、気むずかしい調子で答えた。「ついさっき、わたしの手につかませられた、あの背の高い娘のことをおっしゃっているのでしたら、あれは、わたしの手にかみついたので、逃がしてしまいましたよ。それっきりです。わたしをそっとしておいて下さいな」
指揮官はがっかりして顔をしかめた。
「嘘を言うでないぞ。おいぼれ亡者《もうじゃ》。わしは、トリスタン・レルミットだ。国王にはねんごろにしていただいているのだ。トリスタン・レルミットだぞ、よいな?」と言って、また、まわりのグレーヴ広場のほうに目をやって、「わしの名はこの広場のまわりに鳴り響いているのだぞ」
「あなたが悪魔《サタン》のレルミットさまであろうと」と、ギュデュールはどうやら望みを見いだして、こう口答えした。「あなたに申し上げることはべつにございませんし、また、あなたをこわいとも思ってはおりませんよ」
「畜生!」と、トリスタンは言った。「おしゃべりばばあめ! ああ! 魔女は逃げ失せたな! どの道をとおって逃げたのかな?」
ギュデュールは、気にもとめないような調子で答えた。
「ムートン通りからだと思いますよ」
トリスタンはふりむいて、部下の一隊に向かって出発用意の合図をした。おこもりさんはほっと息をついた。
「閣下」と、急に射手隊のひとりが言いだした。「では、なぜこの明かりとりの格子がこんなぐあいにこわされているのか、ばあさんにおたずねになったらいかがでしょう」
この質問をきいて、哀れな母親の心は、また、苦しみはじめた。けれども、あくまで気をおちつけて、「いつでも、こうなったままなんですよ」と口ごもるように答えた。
「なんだと!」と、その射手隊の男が言った。「きのうまでは、まだちゃんと、おそれ多い黒の十字架が立派についていたんだぞ」
トリスタンは、おこもりさんを横目でにらんで、「このおしゃべりばばあめ、あわててるらしいぞ!」
不幸な母親は、あらゆることは自分がまず落ちつくことにかかっていると感じて、気も心もぐったりしていたが、それでもにやにや冷笑しはじめた。母親には、こういう力があるものだ。
「おかしかなことをお言いでないよ! この人は酔っ払っているんだね。もう一年以上もまえに、砂利車のしりがこの明かりとりにぶつかって、格子に穴をあけてしまったんだよ。わたしゃ、その荷車|曳《ひ》きをさんざん怒ってやったものさね!」
「そうだ、ほんとうだよ、そのときおれもそこにいたよ」と、もうひとりの兵士が言った。いつでもこういうときには、なんでも見ていたという男どもが、どこにもいるものだ。この男が思いがけなく証言してくれたので、おこもりさんは元気をとり戻した。彼女にとっては、この尋問は、刀のやいばを踏んで深淵を渡る思いであったのである。
それでも彼女は、たえず希望と不安とにかわるがわる苦しめられなければならなかった。
「でも、もし荷車がこのようにしたとすれば」と、はじめの兵士が言った。「格子の破片は内側にとんでいなければならぬはずだ。それなのに、外のほうにいっているじゃないか」
「うん! そうだな!」と、トリスタンはその兵士に向かって言った。「おまえはシャトレ裁判所の取調べ役のような鼻をもっているな。おい、ばあさん、こいつが言ったことに答えるのだ!」
「あれ、まあ!」と、彼女は追いつめられて、おもわず涙声になって叫んだ。「ほんとに、お殿さま、荷車がこの格子をこわしたのですよ。ごらんのとおり、この人も見たと言っているじゃありませんか。それに、それがあのジプシー娘になんのかかわりがあるのでございましょうか」
「ふん!」とトリスタンはいまいましそうに言った。
「おやっ!」と、兵士は長官からおほめのことばをいただいてうれしくなって、また言った。「鉄棒の折れ目がまだ新しいぞ!」
トリスタンはうなずいた。女は青ざめた。「その荷車の件とやらは何日ぐらいまえのことだな?」
「ひと月ほど、いや、おそらく二週間ばかり前のことなんですよ、お殿さま。もう忘れてしまいました」
「この女は、はじめに一年以上も前だと言いましたが」と、さっきの兵士が口をいれた。
「ううむ、怪しいぞ!」と、長官は言った。
「お殿さま」と、彼女はあいかわらず明かりとりの前にぴったりとしがみつき、彼らが疑いをいだいて頭を差し入れ、部屋の中をのぞきはしないかと、恐れおののきながら叫んだ。
「お殿さま、この格子をこわしたのはたしかに荷車なんです。天国の天使にかけて、わたしは誓います。もしも荷車でなかったら、永遠に地獄に落ちてもかまいませんし、神さまから見放されたってしかたがありません!」
「おまえは、なかなかむきになって誓いをたてているな!」と、トリスタンはまるで審問官のような目つきで言った。
哀れな女は、だんだん自分が落ちつきをなくしていくような気がした。いろいろへまなことを言ってしまったし、言わなければならないことを言わずにいるということが、とても恐ろしくなってきた。
このとき兵士がひとりやってきて、大声で、「閣下、この二枚舌のばばあの言うことは嘘です。魔女はムートン通りから逃げたのではありません。まちの鎖はひと晩じゅう張られたままになっていますし、鎖の番人は、誰も通ったのを見かけなかったそうです」
トリスタンの顔つきは、だんだんけわしくなっていき、きびしくおこもりさんにたずねた。
「これに対して、おまえはなんと答える?」
彼女は、なおもこの新しい事態に抵抗しようとして、「さあ、なんともわかりませんが、お殿さま、間違えたかもしれません。たしか、あの女は、実際、川を渡っていったように思いますが」
「対岸にだな」と長官は言った。「だが、|中の島《シテ》に戻ろうとしたとは、ちょっと考えられんぞ。|中の島《シテ》で追われていたのだからな。嘘を言っているな、これ、ばばあ!」
「それに」と、はじめの兵士が言いそえて、「こちらの川岸にも、あちらにも、舟は一艘もありません」
「泳いで渡ったのでしょう」女は必死になって言いつくろおうとして答えた。
「女が泳ぐかな?」と、兵士が言った。
「畜生め! おい、ばばあ! おまえは嘘を言っている! 嘘を言っているぞ!」と、トリスタンは怒って言った。「あんな魔女なんか、ほっておいてかまわぬ。おまえのほうを縛り首にしてやるぞ。十五分も問いつめれば、おそらくほんとうのことをおまえは吐きだすだろう。さあ! おれたちについてこい」
彼女はむさぼるように、そのことばにとりすがった。
「どうぞお好きなようになさって下さい、お殿さま。どうぞ、どうぞ。おたずね下さい。望むところです。連れて行って下さい。早く、早く! さあ、すぐにもまいりましょう」
そのあいだに娘は逃げられるだろうと、彼女は考えたのだ。
「こいつめ!」と長官は言った。「こいつは拷問台に乗りたくってたまらないんだな! この気の狂っているばばあの言うことはさっぱりわからぬ」
白髪《しらが》頭の夜警隊の老人がひとり、列から進みでて、長官のほうに向かって、「まったくこいつは気が狂っていますよ、閣下! こいつがジプシー女を逃がしたとしても、この女のおちどではありませんよ。こいつはジプシーの女どもが嫌いなんですから。わたしが夜警をつとめてから十五年になりますが、この女がひっきりなしにジプシーの女を呪って悪口を言っているのを、わたしは毎晩のようにきいております。われわれが追いかけている女は、ヤギを連れた若い踊り子のことだと思いますが、このばばあは、とりわけあの女を憎んでおりました」
ギュデュールは、ひとふんばりして言った。「なかでも、あの娘っこのやつですよ」
夜警隊の者たちがそろって証拠をあげてくれたので、長官はこの老隊員のことばを信用した。トリスタン・レルミットは、このおこもりさんの口から何ひとつ聞きだせないのにがっかりして、女に背を向けた。女は、彼が馬のほうに向かってゆっくり歩いていくのを、なんとも言いようのない不安な思いで見ていた。
「さあ、行こう」と彼はつぶやいた。前進だ! ほかの方面を調べよう。あのジプシー女が縛り首にならぬかぎりは、眠られぬぞ」
それでも、馬に乗る前に、まだしばらくためらっていた。ギュデュールは、彼がまるでけだものの巣を自分のまわりにかぎつけてたち去るのをためらっている猟犬のように、不安そうな目つきで広場のまわりをきょろきょろ見まわしているようすを見て、生と死との境に立ったようにびくびくしていた。が、とうとう、彼は頭をふって、鞍《くら》にとびのった。いままで恐ろしいほどしめつけられていたギュデュールの心は、ほっとゆるんで、娘のほうにちらと目を向けながら、小声で、「やれやれ、助かった!」と言った。追手がそこに来てからというものは、まだ一度も娘のほうを振り向こうともしなかったのだ。
娘のほうは、可哀そうにも、そのあいだじゅうずっと息もせず身動きもせず、眼前に死が立ちはだかっているように思いながら、部屋のすみにじっとしていた。彼女はギュデュールとトリスタンとのあいだの会話を、なにひとつ聞きのがさなかった。母の苦悩のひとつひとつが自分の身にまで響いてくるのだった。自分を渦巻く淵に吊りさげている綱がたえずギシギシきしっている音が、ひとつ残らず耳にはいったし、その綱が切れたように思ったことも何度かあった。それでようやくほっとひと息して、大地にしっかり足をおろしたような気がした。そのとき、彼女は、長官に話しかけている声を耳にした。
「おおい! 長官どの、魔女どもを縛り首にするのは、わたくしの仕事、武人の仕事ではござらぬ。卑賎《ひせん》な奴ばらは鎮圧いたしましたから、ここはあなたひとりにお任せすることにしましょう。隊に戻ってやりませんと、隊長がなくて困りますから、どうかあしからず」
この声、これこそは、まさにフェビュス・ド・シャトーペールの声だった。娘の心に何が起こったかは、とても筆舌には尽くされない。男はそこにいたのだ。愛人が、守ってくれる男が、支えてくれる人が、自分の保護者が、あのフェビュスが! 彼女は立ちあがった。母親が彼女をやるまいとするいとまもなく、彼女は明かりとりに身を投げかけて叫んだ。
「フェビュスさま! あたしのところに来て、フェビュスさま!」
フェビュスは、もうそこにはいなかった。彼は、全速力で馬を駆って、クーテルリ通りのかどを曲がったところだった。だが、トリスタンは、まだ出かけてはいなかったのだ。
おこもりさんは、野獣のような叫び声をあげて、娘のほうにとんでいった。娘の首に爪をたてて、激しく娘をうしろへ引っぱった。もうトラのようになった母親は、そんなことにかまってはいられなかったのだ。だが、もう手おくれだった。トリスタンが見てしまったのである。
「さあ! どうだ! ネズミが二匹、ネズミ取りにかかったぞ!」と、トリスタンは歯がみんな見えるほど大口をあいて笑いながら叫んだ。その顔つきはオオカミの鼻づらに似ていた。
「おれもそうじゃないかと思ってたんだ」と、兵士が言った。
トリスタンは、その兵士の肩を叩いて、「おまえはいいネコだよ!」こう言ってまた、「ところでアンリエ・クーザンはどこにいる?」
兵士らしい軍服も着ず、またそれらしい顔つきもしていない男がひとり、隊列から出てきた。この男は、灰色と褐色との縞模様の服を着て、髪はちぢれておらずまっすぐで、着ている服の袖は皮でできていた。大きな手にはひと包みの縄を持っていた。トリスタンがいつでもルイ十一世についているように、この男は、いつでもトリスタンのあとについていたのである。
「おい、おれたちが捜していた魔女はここにいるらしい。こいつを縛り首にしてしまえ。梯子を持っているか?」と、トリスタン・レルミットはきいた。
「あの≪柱の家≫の納屋の下に、ひとつございます」と、その男は答えた。そしてつづけて、「これをかたづけるのは、あの刑場でやるんですか?」と、石の絞首台を指さしてきいた。
「そうだ」
「エヘヘ! そんなことは、なんでもないことでさあ」と、この男は、長官よりももっと獣のような野卑な笑いをもらしながら言った。
「急いでやれ! 笑うのはあとにしろ」と、トリスタンが言った。
一方、おこもりさんのほうは、トリスタンに娘を見つけられ、望みの糸もすっかり切れてからというものは、ひとことも口をきかなかった。彼女は半死半生になっている哀れな娘を穴倉のすみに突きとばして、明かりとりのところにまたすわりこみ、両手を、まるで獣の爪のように、長押《なげし》のかどに立てていた。こうして、彼女が、大胆にも兵士たちをじろじろとながめている姿が見られたが、その目の色は、またもや黄褐色をおび、狂気じみてきた。アンリエ・クーザンが部屋に近よってきたとき、女は凶暴な顔つきをして彼を見すえたので、彼は逃げ腰になったほどであった。
「閣下、どちらを捕えるのですか?」と、クーザンは長官のほうに戻ってきて言った。
「若いほうだ」
「しめた。ばばあじゃ、やっかいだからな」
「可哀いそうに、あのヤギを連れた可愛らしい踊り子だ!」と、老夜警は言った。
アンリエ・クーザンは、明かりとりに近よっていった。母親の目に出合うと、目を伏せてしまったが、おずおずと言った。「奥さん……」
彼女は、非常に低く、また怒り狂ったような声で、そのことばをさえぎって、
「なんのご用?」
「おまえさんじゃない、もうひとりのほうだよ」
「もうひとりのほうって?」
「若いほうさ」
彼女は頭を横にふって叫んだ。「誰もいませんよ! 誰もいないってば! いないってばさ!」
「いや! よく知っているはずだ。若いほうをわたせ。おまえさんには、べつに何も悪いことをしようと言うんじゃない」と、刑吏はことばをつづけた。
彼女は、異様なあざ笑いを浮かべて言った。
「ああ! わたしにはべつに悪いことをしないんだってさ! わたしには!」
「もうひとりのやつをわたしてくれよ、奥さん。長官さまがそうしろって言うんだよ」
彼女は気が狂ったような様子で繰り返した。「誰もいませんよ」
「そんなことはないよ! おまえさんたちがふたりいるってことは、ちゃんと見ちゃったんだぜ」と、刑吏はやりかえした。
「それじゃ、まあ見るがいいや!」と、女はあざ笑いながら言った。「明かりとりの中に首をつっこんでさ」
刑吏は、母親の爪を見て、どうしても中をのぞくことができなかった。
「さあ、急げ!」と、トリスタンは叫んだ。彼は、手下の者を≪ネズミの穴≫のまわりに円形に並ばせて、馬に乗ったまま、絞首台のそばに立っていた。
アンリエはすっかり途方にくれて、もう一度、長官のところに戻ってきた。縄を地面に置き、手に握った帽子をぎごちなく、ぐるぐるまわしながら、「閣下、どこからはいったらいいんでしょうか?」ときいた。
「戸口からだ」
「ところが、ないんです」
「じゃあ、窓からだ」
「とても狭いんです」
「拡げるのだ。つるはしを持っていないのか?」と、トリスタンは怒って言った。
洞窟のような部屋の奥から、母親はあいかわらず身動きもせずに、様子を見まもっていた。彼女は、もう何も望まなかった。また自分が何を望んでいるのかもわからなかった。ただ、どうしても娘を奪われまいとしていたのだ。
アンリエ・クーザンは、≪柱の家≫の納屋の下に、死刑を行なう道具箱を探しにいった。そこから二つ折りの梯子までも持ちだしてきて、さっそくそれを絞首台に立てかけた。裁判所の役人が五、六名、つるはしと梃《てこ》をかつぎ、トリスタンはその男たちを連れて、明かりとりのほうにやってきた。
「おい、ばばあ、おとなしく娘をわたせ」と、長官はきびしい調子で言った。彼女は、言われていることが少しもわからないといった顔つきをして、男をながめた。
「こいつめ! この魔女を国王の命令により絞首刑にしようとするのを、おまえはどんな理由でさまたげるのか?」と、トリスタンはつづけて言った。
このみじめな女は、悪魔のような笑いをもらして、「どんな理由でだって? あれはわたしの娘なんですもの」
このときの彼女の声の調子を耳にしたときは、さすがのアンリエ・クーザンさえもぶるぶると身震いした。
「気の毒ではあるが、これは国王の命令なのだ」と、長官は言った。彼女は、その恐ろしい笑いをいよいよ高くして、叫んだ。
「わたしに、なんだって言うんです、王さまは? これはわたしの娘だって言っているじゃないの!」
「壁を叩き破れ」と、トリスタンが言った。
手ごろな広さの穴を作るのには、明かりとりの下の石の土台を取りはずせばじゅうぶんだった。つるはしや梃《てこ》でこの要塞を掘る音を聞くと、母親は身の毛もよだつような叫び声をあげた。そして、まるで檻に入れられた野獣の習性のように、その部屋の中をぐるぐると、恐ろしい速さでまわりはじめた。もう何も言わなかったが、その目はぎらぎら輝いていた。兵士たちは、心の底まで凍りつくような気がした。
とつぜん、彼女は敷石を取って、笑いながら働いている男どもめがけて、両手で投げつけた。敷石は、投げかたがまずかったために……というのは、手が震えていたからだが……、誰にも当たらずに、トリスタンの馬の足もとまでころがっていって止まった。彼女は歯ぎしりをした。
そのうちに、日はまだのぼらなかったが、だいぶ明かるくなってきた。≪柱の家≫の朽ち果てた煙突のまわりは、美しいバラ色に染まった。それはまさに、この大都会のいちばん早起きの人びとの屋根裏の明かりとりが、楽しげに開かれる時刻だった。何人かの村人や八百屋が、ロバに乗って市場に行くのに、グレーヴ広場を横切りはじめた。彼らは≪ネズミの穴≫のまわりに集まっている兵士たちの前で、ちょっと足を止めたが、びっくりしたようすで、ながめたまま通りすぎていった。
おこもりさんは娘のそばに行って、娘を自分の体で隠すように、前にすわりこんでしまった。じっと目をすえたまま、身動きもしない哀れな娘の声を聞いていた。娘は小声で、ただ「フェビュスさま! フェビュスさま!」とつぶやいているばかりだった。
窓をうちこわす仕事が進んでゆくように思われるにつれて、母親は、機械的にうしろにさがって、娘をだんだん壁におしつけていった。とつぜん、石がみるみる揺れて(というのは、彼女はずっと見張っていて、目をそらさなかったからだが)、働いている者どもを励ますトリスタンの声が聞こえた。すると彼女は、しばらく前からぐったりとなっていたのだが、われにかえって、大声をあげた。彼女がものを言っているあいだ、その声は、あるときは鋸《のこぎり》のように人の耳をつんざき、またあるときは、ちょうどあらゆる呪いの声がいっせいに爆発しようとして唇のほうへ押しよせたみたいに、もぐもぐと口ごもるのだった。
「ホホホ! ホホホ! ホホホ! ま、なんて恐ろしいことをするの! おまえさんたちは泥棒だね! ほんとに、わたしの娘をわたしから取っていくつもりなのかい? これはわたしの娘だって言ってるじゃないか! ああ! 卑怯者め! ああ! 人殺し役人の三下奴《さんしたやっこ》め! 人殺しの手先め! 助けて! 助けておくれ! 火事だ! やつらはわたしの娘をこんなふうにさらっていくのかい? ああ、神さまなんて、いったいどんなかたなのかしら?」
そして、口から泡をふき、目を爛々《らんらん》と光らせ、ヒョウのように四つんばいになり、髪の毛をさかだてて、トリスタンのほうに向かって、
「さあ、娘をさらいに、ちょっとでも近よってごらん! このわたしが、これはわたしの娘だって言ったのがわからないのかい? 子どもをもつということがどういうことだか、知ってるのかい? どう? ヤマネコめ、おまえはオオカミの牝といっしょに住んだことがないのかい? オオカミの子をもったことがないのかい? もしも子どもがあるんなら、その子が泣き叫んでいるときに、何かお腹《なか》の中に心を動かす気持を感じないのかい?」
「石をどけろ。ばばあは、もう精も根もつきはてたぞ」と、トリスタンは言った。
さすがの重い土台も梃《てこ》で持ちあがってしまった。これこそ、さきほども述べたように、母親の最後の砦であったのだ。彼女はそれにとびかかり、それを取り返そうとした。石を爪でかきむしったが、大の男が六人で動かしていたこの重い塊りは、彼女の手から落ちて、鉄の梃にそって、地面までするりとすべり落ちた。
母親は、入り口ができてしまったのを見ると、床に寝ころんで、体で割れ目をふさぎ、腕をねじまげ、頭を敷石にぶつけて、やっと聞きとれるくらいの疲れ果てたしゃがれ声でどなった。
「助けて! 火事だ! 火事だよう!」
「さあ、娘をひきずり出せ」と、トリスタンはあいかわらず冷然として言った。
母親はものすごい顔つきで兵士どもをにらみすえたので、彼らは踏みだすことができず、あとずさりしたいと思うほどだった。
「さあ、どうだ、アンリエ・クーザン、おまえがやるんだ!」と、長官はつづけた。誰も一歩も踏みだそうとしなかった。
長官はののしった。「弱虫め! わしの部下の軍人ともあろうものが! たかが一匹の女を恐れるとは何事だ!」
「閣下、閣下はあれを女とお言いになるのですか?」と、アンリエは言った。
「やつは、ライオンのようなたてがみをしていますぜ!」と、ほかの男が言った。
「さあ! 穴は相当に広いぞ」と、長官はつづけて、
「ポントワーズの突破口でしたように、三人ずつ並んではいれ。よし、これが最後だ! いいか、野郎ども! 初めに後退するやつは、まっぷたつにしてくれるぞ!」
長官と母親が、ふたりしてにらみあっているあいだに板ばさみになって、兵士どもはちょっとしりごみをしたが、やがて決心して、≪ネズミの穴≫に向かってつき進んだ。
おこもりさんはそれを見ると、急にひざ立ちになって、顔にふりかかる髪をはらい、痩せ細って骨と皮ばかりになった両手を腰にだらりと垂らした。すると、大粒の涙が目からぽろぽろ溢れ、まるで急流がみずから掘った川床を流れていくように、頬のしわにそって流れおちた。そのとき彼女は何か言おうとしたが、その声は、とても哀れっぽく、やさしく、素直で、人の心を刺すようだったので、トリスタンのまわりにいた者は、人間の肉も食べかねない老監守でさえも涙をぬぐったほどだった。
「みなさまがた! お役人さま、ひとことでございます! どうしても申し上げたいことがひとつございます。これは、わたしの娘なのです。ほら、あそこにいるでしょう? わたしがなくしておりました可愛い娘なのでございます! 聞いて下さいまし。まるでひとつのお話なのです。わたしはお役人さまというものをよく存じあげております。わたしが愛欲にただれた生活をしておりましたので、小さな子どもからまで石を投げつけられるようなことがあったあの時代にも、お役人さまがたは、このわたしに対して、いつも親切にして下さいました。ねえ、そうでございましょう? だから、あなたさまがたが訳《わけ》がおわかりになりましたら、きっと娘を置いていって下さいますわ! わたしは、哀れなひとりの娼婦でございます。わたしからこの娘を盗んでいったのは、ジプシーの女たちなのです。わたしは十五年ものあいだ、あの子の靴を大事にしまっておきました。ほら、これでございます。娘はこんな足をしていたのですよ。ランスで! シャントフルーリと言っていたのです! フォル=ペーヌ通りでね! あなたがたも、きっとこの名まえをご存じでしょう。それがわたしの名まえなのですよ。あなたがたのお若かったころ、あのころは、よかったですねえ。あっという間でしたが、楽しい暮らしでございましたね。あなたがたは、わたしのことを哀れとお思いになって下さいますわね、だんなさまがた! ジプシーの女どもが、わたしからこの娘を盗んでいったのでございます。そして十五年も隠していたのですよ。
わたしは、娘はもう死んだものとばかり思っておりました。ご想像下さいませ、みなさま、もうこの子が死んだと思っていたのでございます。ここで、この穴倉の中で、冬にも火の気なしに、十五年も過ごしてきたのです。それはつらいものですよ。可哀そうな、可愛らしい、小さな靴! わたしがあれほど叫んだので、神さまもその声をお聞きになったのでしょう。昨夜、神さまは娘をお返し下さいました。神さまの奇跡でございます。娘は死んではいませんでした。あなたがたは、あの子をわたしから、まさか奪っていきはしないでしょうね、ほんとうに。もしもこれがわたしのことでございましたら、なんとも申しません。だけど、この子なんですもの、まだ十六の子どもなんですもの! この子に日の目をおがむ時間をやって下さいませ!……この子があなたがたに、何をいたしたのでございましょう? なにもいたしはしません。わたしだってそうです。もしもあなたさまがたが、わたしにはこの娘しかない、わたしはもう年とってしまった、これこそ聖母さまがわたしにお贈り下さった、たったひとつの祝福なのだ、ということをお認め下さればねえ。それに、あなたがたは、みなとてもご親切なかたばかりですわ! ただこれがわたしの娘だということをご存じなかったのでしょうね。だけどいまは、よくおわかりになりましたでしょう。ああ! わたしはあの子をとても愛しております! おえらいお役人さま、あの子の指にかすり傷ひとつでもつけられるくらいなら、むしろ自分のお腹《なか》に穴をあけられるほうが、まだましでございます! あなたさまは、とてもご親切なおかたらしくお見受けいたします! こうしてお話しすれば、あなたさまもよくおわかりでしょう、ねえ、そうでしょう? ああ! もしあなたさまにおかあさまがおありになれば! あなたさまは隊長さんでございましょう。どうか子どもをここに置いていって下さい! イエス・キリストにお祈りするときのように、わたしはひざまずいて、あなたさまにお願いいたします! 誰にもお願いいたすわけではございません。わたしはランス生まれなのです。お役人さまがた、わたしは、おじのマイエ・プラドンから譲ってもらった畑を少しもっております。わたしは物乞いではございません。なんにも欲しいとは思いません。ただ自分の子どもが欲しいのです! ああ! わたしは、子どもを手放したくはございません! わたしどもをおさめていらっしゃる神さまは、なんのわけもなしに娘を返して下さったのではないのです! 王さま! あなたは、王さまとおっしゃいましたね! わたしの可愛い娘が殺されるのを、王さまはおよろこびにならないでしょう! それに王さまは、とてもいいおかたですわ! これはわたしの娘なのです! わたしの娘なのでございますよ! 王さまのお子さまではありません。あなたさまのお子さまでもこざいません! わたしは、ここを出ていきたいのです! ふたりして出ていきたいのです! どうか、ふたりの女が通るのでございます。ひとりは母親でひとりは娘、ふたりを通してやって下さいませ! わたしどもを通して下さいませ! わたしたちは、ランスの者でございます。ああ! あなたさまがたは、ご親切なかたでございます。お役人さまがた、わたしは、あなたさまがたがみんな好きでございます。わたしの可愛い娘をわたしからお取り上げにならないでしょうね、そんなこと、よもやおできになるはずはございませんもの! どうしたってできないことですね、そうじゃございませんか? わたしの子ども! 可愛い子ども!」
彼女の身ぶり、口調、話しながら飲みこむ涙、初めは合わせていたが、それからねじるようにした両手、見る人の胸をえぐるような微笑、涙をいっぱいためた目、うめき声、溜息、乱れに乱れて気違いじみた筋の通らないことばに混じる、人の心に迫ってくる哀れな叫び声、私はこうしたものをここに描きだすつもりはない。
彼女がことばをきると、トリスタン・レルミットは眉をしかめたが、彼のトラのような目にたまった涙を隠すためであった。けれども彼はその弱気を押さえて、すげなく言った。
「国王のおぼしめしなのだ」
それから彼は、アンリエ・クーザンの耳もとに口を寄せて、小声で言った。「さっさとやってしまえ!」
この恐ろしい長官もまた、おそらく気がくじけたのであろう。
死刑執行人と役人たちは、その部屋の中にはいった。母親は、もう抵抗もせず、ただ娘のほうににじり寄って、娘の体に必死になって身を投げた。娘は兵士たちが近よってくるのを見ると、死の恐怖で逆に力づいた。
「おかあさま!」と、なんとも言えぬ悲しげな調子で叫んだ。「おかあさま! やってくるわ! 助けてちょうだい!」
「よしよし、おまえ、助けてあげるよ!」と、母親は、消え入りそうな声で答えた。そして、両腕で娘をしっかりと抱きしめ、娘に接吻の雨を浴びせるのだった。娘の上に母親が折りかさなり、ふたりがこうして床《ゆか》に倒れている姿は、まことに人の哀れをさそう光景であった。
アンリエ・クーザンは、娘の美しい腋《わき》の下に手をかけて、胴のあたりを抱きかかえた。彼女はその手を感じると、「ああ!」と叫んで気を失ってしまった。死刑執行人は、大粒の涙をぽろぽろと娘の上にこぼしてはいたが、腕に抱いて、娘を連れていこうとした。母親をひきはなそうとしたのだが、彼女は両手を娘の帯のまわりに、いわば結びつけてしまっていたのだった。彼女はまるで鎹《かすがい》で留めるように、力いっぱい子どもにしがみついていたので、娘からどうしてもひきはなすことができなかった。そこでアンリエ・クーザンは、娘を部屋の外までひきずっていくと、母親も娘にずるずるとついて来た。母親もまた、じっと目をつぶったままだった。
そのとき朝日がのぼってきた。広場にはもうかなり多くの群集が集まり、絞首台に向かって敷石の上をひきずられていく者を遠くから見ていた。これが警察隊長官トリスタンが刑を執行するやりかただった。彼は、やじ馬を近よらせまいと躍起《やっき》になっていた。
窓べには誰も出ていなかった。ただ遠くのほうの、グレーヴ広場を見おろすノートルダム大聖堂の塔の窓の上に、ふたりの男が、朝の澄みきった空に黒く浮かびあがって見えるばかりだった。ふたりは、こちらを見ているようだった。
アンリエ・クーザンは、娘をずるずるひきずってきて、死にみちびく梯子の下に来てとまった。そしてあまりの哀れさに、息も苦しげに、娘の愛らしい首のまわりに縄をかけた。この不幸な娘は、麻縄がさわるのを感じてぞっとした。目をあけると、石の絞首台の細い腕木が自分の頭の上にひろがっているのが見えた。そのとき、彼女は体を揺すぶって、絹を裂くような高い声で叫んだ。
「いやです! いやです! どうしてもいやです!」
母親は、頭を娘の着物の下にうずめて、ひとことも口をきかなかった。見ると、ただ体を震わせているばかりで、何度も何度も娘に接吻を浴びせているのが聞こえた。
死刑執行人は、このときとばかり、母が娘を抱きしめている腕を激しくひきはなした。力が尽き果ててしまったのか、あきらめてしまったのか、彼女は、されるがままになっていた。そこで彼は娘を肩にかついだ。娘の美しい体は、男の肩から、彼の大きな頭の上でふたつに折れて、やさしく垂れていた。それから、彼は梯子に足をかけてのぼっていこうとした。
このとき、敷石の上にうずくまっていた母親が、目を大きく開いた。声もあげずに、恐ろしい顔つきで立ちあがり、まるで獲物にとびかかる獣のように、死刑執行人の手にとびかかってかみついた。稲妻のようなすばやさだった。死刑執行人は痛さにうめき声をあげた。人びとが駆けよってきて、やっとのことで、母親の歯のあいだから血まみれになった彼の手をひきだした。母親はあくまで黙りつづけていた。
人びとは彼女を乱暴につきとばしたが、見ると、彼女は敷石の上にドシンと頭をぶつけていた。抱き起こしたが、また、ぐったりと倒れてしまった。すでに死んでいたのである。
それまで娘をしっかりと押さえて放さなかった死刑執行人は、また、梯子をのぼりはじめた。
二 ≪白い服をまとった美しい人≫(ダンテ)
カジモドは、部屋がからになって、あのジプシー娘ももう見あたらず、自分があの娘を守っているあいだに誰かが娘を奪っていったことを知ると、両手で髪をつかみ、驚きと悲しみとで足を踏みならした。それから、大聖堂じゅうを駆けまわりはじめた。ジプシー娘を探しまわり、壁の隅という隅に異様な叫び声を浴びせたり、敷石の上に自分の赤い髪の毛をむしり落としたりした。そのときちょうど、王室射手隊の一行も、やはりジプシー娘を探しもとめて、意気揚々とノートルダムの中になだれこんできた。カジモドは、なんとしても耳が聞こえない身の悲しさ、彼らのいまわしい企てに少しも気がつかず、手助けをした。彼は、ジプシー娘の敵は宿なしどもだとばかり思っていたのだ。彼はみずから、トリスタン・レルミットを女の隠れていそうな部屋の隅ずみまで案内して、秘密の戸口や、祭壇の二重扉や、後陣の聖具室を、彼のために開いてやった。もし、あの不幸な娘がまだそこに隠れていたならば、彼が娘を敵にひきわたすことになってしまっただろう。
何も見つけることができなかったので、たやすくはへこたれることのないさすがのトリスタンも、疲れ果ててがっかりしてしまったが、それでもカジモドはただひとりで、あいかわらず探しまわっていた。いくどもいくども、大聖堂の塔をあちこちと、上から下まで、のぼったり、おりたり、走りまわったり、名を呼んでみたり、大声でどなってみたり、匂いをかいでみたり、探しまわったり、穴という穴に首をつっこんだり、ありとあらゆる丸天井にたいまつを差し出したりした。絶望に気も狂いそうになっていた。めすを見失ったおすでも、これほど吠《ほ》えることはないだろうし、またこれほど凶暴になることもないだろう。
とうとう、彼女はもうここにはいない、もうだめだ、誰かに奪われてしまったのだということが、確実に、まったく確実になったとき、彼は、まえに自分が娘を助けた日に、あんなに興奮して、意気揚々と昇っていった階段、あの塔の階段を、のろのろと昇っていった。首をたれ、声もなく、涙も浮かべず、ほとんど息さえもせずに、その同じ場所をまた通っていった。大聖堂の中には、また人っ子ひとりいなくなり、もとのように静かになった。射手隊はもうノートルダムを去って、|中の島《シテ》にあの魔女を追いかけて行ってしまった。
ついいままで人びとにとり囲まれ、騒がしかったこの広いノートルダムの中に、ただひとり残されたカジモドは、あのジプシー娘が彼の手に守られて何週間も安らかに眠った部屋へ行く道を戻っていった。その部屋のほうに近づきながら、もしかすると、そこでまた娘を見つけるかもしれないと思ったりした。
低いほうの屋根に面している回廊の曲がり角で、枝の下にある鳥の巣のように、大きな控え壁の下に小さくなっている小窓と、小さな戸口のついた狭い部屋を見つけた。そのとき、この哀れな男は、すっかり気がくじけ、よろめく体をやっと柱にささえた。娘がおそらくここに帰っているのではないか、守り神がおそらく娘をここに連れ戻してくれているだろう、この部屋はとても静かで、安全で、可愛らしかったから、娘があそこにいないはずはない、と思った。そして自分の夢を破るのが恐ろしくて、もう一歩も足を踏みだしてみる気にはなれなかった。
「そうだ、あの子は、きっと眠っているか、でなければ、お祈りでもしてるんだろう。じゃまをしちゃいけねえ」と、ひとりごとを言った。
だが、とうとう勇気を奮い起こして、つま先立って進んでいき、中をのぞいてはいった。からっぽだ! 部屋はやっぱりからっぽだった。
カジモドは、すっかりがっかりして、のろのろと部屋をひとまわりし、もしかしたら敷石とふとんとのあいだに隠れてはいないかとでもいうように、ベッドを持ちあげて、その下をのぞいた。だが、頭を横にふって、ほうけたようにぼんやりとしていた。と、とつぜん、怒り狂ったようにたいまつを足で踏みにじり、ひとことも言わず、溜息ひとつもらさず、全速力で壁に走りよって、頭をうちつけたかと思うと、気を失って敷石の上に倒れてしまった。
われにかえると、ベッドの上に身を投げ、その上をころげまわって、眠っていた娘の体の暖かみがまだ残っているあたりに、狂ったように接吻した。息も絶えだえなありさまで、しばらくそこにじっとしていたが、やがてまた汗みどろになって立ちあがり、ハーハー息をきらし、狂ったようになって、あの鐘の舌の動きのように、恐ろしいほど規則正しく頭を壁にうちつけはじめた。まるで、頭をぶつけて砕いてしまおうという決心をしたようだった。とうとう、力が尽きて、また倒れてしまった。やがて、ひざをひきずりながら外にはい出して、きょとんとした顔つきで扉の前にうずくまった。
こうして、身動きひとつせず、人けのない部屋をながめたまま、からの揺りかごと死体のはいった柩《ひつぎ》とのあいだにすわっている母親よりももっと暗い顔つきをし、もっともの思わしげに、一時間以上もじっとしていた。ひとこともものを言わずに、ただ、ほんのときたま、激しく体じゅうをふるわせてすすり泣くばかりだった。だがそれは、涙の出ないすすり泣きで、雷鳴のしない夏の稲妻のようであった。
ちょうどそのときのことだったろう、絶望した自分の夢想の奥底をさぐって、ジプシー娘をふいに奪い去ったのはいったい誰だろうかと考えているうちに、ふと司教補佐のことを思い浮かべた。クロード師だけが、この部屋に通じる階段の鍵を持っていたのだということを思い出した。また彼が夜に娘を襲おうとしたこと、はじめのときは自分も彼の手助けをしたが、二度目は彼のじゃまをしたことなどを、カジモドは思い出したのだった。そのほかさまざまなことを思い合わせているうちに、司教補佐こそ自分からあの娘を奪っていったのだと、確信するようになった。だが、この司祭に対する彼の尊敬の念、感謝の念、献身の気持、この男に対する愛情は、カジモドの心に深く根を張っていたので、こんなときになっても、その根に、嫉妬と絶望の爪をたてることはできなかった。
これは司教補佐がやったのだと考えた。もしもこれがほかの人間ならば、誰にだって、血相変えて、決死の顔つきで怒りを感じたかもしれない。だが、クロード・フロロのしわざと思った瞬間から、その怒りの念は、方向を変えて、この哀れな耳の聞こえない男の心に苦しみを増しただけであった。
このようにして、じっと司祭のことを考えていたとき、朝の光に控え壁が白んできたので、ふと見あげると、ノートルダム大聖堂のいちばん上の階のあたり、ちょうど後陣をめぐる外側の欄干の曲がり角のところに、人影がひとつ歩いているのが目にはいった。この人影は彼のほうへやってくるのだった。誰だかすぐ気がついた。司教補佐だった。クロードは重々しい足どりでゆっくりと歩いていた。彼は歩きながらも、前のほうを見ているわけではなかった。北側の塔のほうに向かっていたが、顔のほうはそむけて、セーヌ川の右岸のほうへ向けていた。そして、家々の屋根の上に何かを見つけたいとでも思っているように、頭を高くあげていた。フクロウという鳥は、よくこういうそっぽを向くような格好をする。ある一点に向かって飛びながら、目はほかに向けているものだ。……司祭もやはり、カジモドには目もくれずに、その頭上を通りすぎていった。
この耳の聞こえない男は、ふいにクロードが現われたので、化石にでもなったようにじっとしていたが、彼が北側の塔の階段の戸口の下にはいってゆくのを見てとった。みなさんもご存じのように、この塔は市役所を見おろす位置に立っていたのである。カジモドは立ちあがって、司教補佐のあとを追っていった。
カジモドは、なぜクロードが塔に昇ってゆくのか知りたいと思って、塔の階段をのぼっていった。そのうえ、この哀れな鐘番は、自分が何をしようとしているのかわからなかった。カジモドは、自分が何を言おうとするのか、何を望んでいるのか、われながらわからなかったのだ。彼の胸は怒りと恐れでいっぱいだった。司教補佐とジプシー娘の姿が、彼の心の中で、ぶつかりあっていた。
カジモドは、塔の頂上につくと、階段の物陰から出て、平屋根の上に現われるまえに、司祭がどこにいるのか、注意して調べた。司祭は彼に背を向けていた。鐘楼の平屋根をとり囲んで、透かし彫りになった欄干がめぐらされていた。司祭は、ノートルダム橋に面しているほうの欄干に胸を押しつけて、まちのほうに目をそそいでいた。
カジモドは足音をしのばせて彼のうしろへ近よっていき、彼がこうして何を見ているのか知ろうとした。司祭はほかのところにすっかり気を奪われていたので、カジモドが自分のそばに近よってきたことには少しも気がつかなかった。
夏の夜明けのさわやかな光に包まれたノートルダム大聖堂の塔の頂上からながめるパリの姿、とくに当時のパリの姿は、素晴らしく、また美しい光景だった。それはおそらく、七月のある日だったろう。空はあくまで澄みわたっていた。残りの星がいくつか、あちらこちらでだんだん消えてゆき、東の空のいちばん明るいところに、ひときわ輝きわたる星がひとつあった。太陽は姿を現わそうとしていた。
パリのまちは活動しはじめた。真っ白な澄みきった光をうけて、多くの家々の東に向いた面はみな生き生きと、目にあざやかに浮かびあがっていた。鐘楼の巨大な影は屋根から屋根へと落ちてゆき、この大都会のすみからすみへと延びていった。もう、話し声がしたり音をたてたりしている地区もあった。こちらには鐘の音、あちらには槌《つち》の音、また向こうには、まちを行く荷車のごたごたしたきしみが聞こえる。もういく筋かの煙が、まるで巨大な地獄谷の割れ目からあがるように、屋根の上からあちらこちらで吐きだされていた。
セーヌ川は、多くの橋のアーチや多くの島の突端のところでさざ波をたてて、銀色のひだの波紋でいっぱいだった。まちの周囲、つまり城壁の外には、綿のようなもやが一面にたちこめて、よく見わたすことができなかった。ただ、そのもや越しに、平野のはっきりしない線や、丘のなだらかなふくらみが、ぼんやりとわかるだけだった。いろいろな種類のざわめきがただよって、この半ば目ざめたまちの上に広がっていた。東の空には、丘を包んでいる羊毛のような濃い霧の塊りからちぎれた白い綿毛のいくつかが、朝風に吹かれて、空を流れていった。
大聖堂前の広場には、いく人かの年配の女たちが手に牛乳壷をさげたまま、ノートルダムの大門が妙なぐあいにこわれていたり、鉛がふた筋とけて流れて敷石の砂岩の割れ目のあいだに固まっていたりするのを見て、びっくりして指さしあっていた。これだけが、昨夜の騒動のなごりだったのだ。塔と塔とのあいだでカジモドが燃やした材木の火は、もう消えていた。トリスタンはもう広場をかたづけて、死体はセーヌ川に捨てさせてしまった。ルイ十一世のような国王は、虐殺のあとですばやく敷石を洗いすすぐという心づかいをするものなのだ。
塔の欄干の外側の、司祭が立っていた地点のちょうど真下には、ゴチック式の建物の上にはたくさん逆立ってのびている、あの奇怪な彫刻をほどこした石の樋《とい》のひとつが出っぱっていた。そして、この樋の割れ目の中に、二本の可愛らしいニオイアラセイトウが花を開いて、吹いてくる風にゆらゆらと揺れ、命を吹きこまれたようなようすで、ふざけたようにお辞儀をしあっていた。塔の上には、高く、遥か空のかなたから、鳥のさえずる声が小さく聞こえていた。
だが司祭には、こうした光景も、何ひとつとして、耳にもはいらなければ、目にもはいらなかった。彼は、朝にも鳥にも花にも無関心な男のひとりだった。自分のまわりでさまざまの光景をみせている、この大きな眺望の中のただ一点だけに、彼はじっと思いをひそめていたのだった。
カジモドは彼に、エスメラルダをどうしてしまったのか、問いただしたくてたまらなかった。だが、司教補佐はこのとき、この世の人ではないかのようにみえた。足もとの地面が崩れても気がつかないような、生涯の激しい一瞬に彼がいたことはあきらかだった。目はじっとあるところを見つめていて、身動きもせず、ものも言わなかった。こうした沈黙や身じろぎもしない態度には、何かしら恐ろしいものがこもっていたので、さすがに荒々しいこの鐘番でさえ、その前では身震いをして、どうしても、ぶつかっていく勇気がでなかった。ただ、そしてそれが、司教補佐にものをたずねるやり方でもあったのであるが、カジモドは彼の視線の方向をたどっていった。そうしてゆくと、この不幸な男の視線は、グレーヴ広場に落ちた。
こうして彼は、司祭のながめているものを見たのだ。年中|据《す》えつけっぱなしの絞首台のそばに梯子が立てかけられて、広場には何人かの人と大勢の兵士がいた。ひとりの男が敷石の上を何か白いものをひきずっていて、それにはまた黒いものがひとつついていた。この男は絞首台の下でとまった。
そのとき、何かが行なわれたのだが、カジモドの目にはよく見えなかった。彼のひとつ目が遠目がきかなくなったためではなくて、大勢の兵士がじゃまになって、よく見えなかったのだ。そのうえ、ちょうどこのとき、太陽が現われ、地平線のかなたから、光をさんさんと浴びせかけたので、パリのあらゆるとがったもの、尖塔も煙突も、切妻屋根も、いっせいに、燃えあがるように輝いたからである。
やがて、男は梯子をのぼりはじめた。するとカジモドには、その男の姿がはっきりと見えた。男はひとりの女を肩にかついでいた。白い着物を着た娘だった。この娘の首には縄がかかっていた。カジモドはその女が誰であるかがわかった。まさしく、あの女だった。
男はこうして梯子の頂上までのぼっていき、そこに縄の結び目をかけた。このとき、司祭は、もっとよく見ようとして、欄干の上にひざをついた。
とつぜん、男は、かかとで激しく梯子をけった。カジモドはさきほどからじっと息を殺していたのだが、この不幸な娘が、敷石から四ノートルもあるところで、縄の端にぶらぶら揺れるのを見てしまった。彼女の肩に、さっきの男はうずくまって乗っかっていた。縄は何度もぐるぐるまわった。そして、このジプシー娘の全身がぶるぶると恐ろしいまでにけいれんしたのが、カジモドの目にはいった。司祭のほうは、首を前につきだし、目をむきだして、男と娘との、いや、クモとハエとの、恐ろしいひと組の姿をじっと見つめていた。
この、世にも恐ろしい瞬間に、悪魔の笑い声が、人間でなくなったときにだけあげることができる笑い声が、司祭の青ざめた顔にとつぜんわき起こった。カジモドにはその笑い声が聞こえなかったけれども、目で見ることはできた。鐘番は、司教補佐のうしろに二、三歩さがったかと思うと、いきなり、怒り狂って彼にとびかかり、太い両手で背なかをドンとひと押しして、クロード師がかがみこんでいた深淵の中に彼を突きおとした。
司祭は、「無念!」と叫んで、落ちていった。
彼は下にあった樋《とい》にひっかかった。両手で死にもの狂いになって、樋にかじりついて、もう一度叫び声をあげようとして口を開いた瞬間、頭の上に、欄干のへりから、カジモドが恐ろしい、復讐に満ちた顔をつき出しているのが見えた。で、そのまま、口をつぐんでしまった。
下には深淵がひろがっていた。七十メートルほども墜落すれば、そこは石畳なのだ。こうして恐ろしい立場におかれた司教補佐は、ひとことも言わず、うめき声ひとつあげなかった。ただ、よじ登ろうとして、空前の努力をし、樋の上で身をもがいた。だが、花崗岩の上には手がかりもなく、足は黒ずんだ壁にひっかからずに、その壁をこするばかりだった。ノートルダムの塔にのぼったことのある人は、欄干のすぐ下の石にひとつふくれたところがあることを知っているはずだ。この司教補佐が哀れにも、へとへとになってがんばっていたのは、ちょうど凹角の上にあたるこのふくれたところだった。彼が相手にしていたのは、垂直に切りたった壁ではなくて、足の下がへこんでいた壁だったのだ。
カジモドは、彼を深淵からひっぱりあげようと思えば、手を差しのべさえすればよかったのだ。だが彼は、司教補佐には目もくれず、グレーヴ広場を見つめていた。絞首台を、あのジプシー娘を、見つめていた。カジモドは、司教補佐がついさっきまでいた欄干のあの場所に、ひじをかけていた。そして、そこで、その瞬間に彼にとっては全世界にたったひとつあるといってもいいものから目を離さず、まるで雷に打たれた男のように、身動きもせず、ものも言わなかった。そして、そのときまでは、ただ一度しか涙を流したことがなかったそのひとつ目から、無言のうちに、涙が滝のように流れ落ちた。
そのあいだ、司教補佐はあえいでいた。はげあがった額からは汗がたらたらと流れ、爪からは石に血が滲《にじ》み出て、ひざがしらは、壁にあたってすりむけてしまった。法衣が樋にひっかかって破れ、体を動かすたびにビリビリ裂ける音が聞こえた。そのうえ、不幸なことに、その樋は鉛の管でできていて、体の重さでだんだん曲がっていった。この管が少しずつ曲がっていくのを、司教補佐は感じた。自分の手が力つきてしまうか、法衣が破れてしまうか、そこの樋が折れまがってしまうかすれば、落ちていかなければならないと、この哀れな男は思った。すると、腹の底まで恐ろしさに襲われた。ときどき、彫刻のぐあいで三メートルあまり下のところにできていた狭い台のようなものを、とり乱した目でながめたりした。絶望した魂の奥底で、たとえ百年つづいてもいいから、この六十五センチ四方の空間で生を終えることができるようにと、天に祈った。ふと、自分の下を見おろして広場を見た。まさに深淵だった。また頭をあげたが、目を閉じてしまった。髪は残らずさかだっていた。
ふたりの男がひとことも言わず黙っているのは、ぞっとするような光景だった。司教補佐が一メートルほど離れた下で、こうした恐ろしいありさまで苦しんでいるあいだ、カジモドははらはらと涙をこぼし、グレーヴ広場をながめていた。
司教補佐は、いくらもがいても、自分に残された弱い足場を揺るがすばかりだと知って、もう動くまいと決心した。そのまま、樋を抱きしめ、ほとんど息も止め、もう身動きもせず、夢の中で落ちるなと感じるときよくやるように、腹をぴくぴくと機械的に波うたせているばかりだった。その目はすわって、病的にきょとんと開いていた。そのうち、次第に足場がなくなって、指も樋の上ですべった。だんだん腕の力が弱くなって、体の重さが身にこたえてきた。体をささえていた鉛もそりかえり、刻一刻と深淵のほうにかたむいていった。下を見ると、恐ろしいことには、サン=ジャン=ル=ロン教会の屋根がふたつに折った紙のように小さく見えた。彼はなんの感情ももっていない塔の彫像をひとつひとつながめていった。そうした彫像は、彼と同じように絶壁にかかっていたのだが、べつに自分のことを恐ろしいと思うのでもなく、司教補佐を哀れに思うのでもなかった。自分のまわりはすべて石だった。目の前には怪物が口をあいているし、下は、はるか奥底に、広場には敷石があった。頭の上のほうでは、カジモドが泣いていた。
大聖堂前の広場には、やじ馬どもがいくつか群れをなして集まり、物好きにもあんな変な格好でぶらさがっているなんて、どこの気違いだろうと見きわめようとして、じっと見あげていた。クロードには、彼らの言っていることばが耳にはいった。というのは、そのことばは、かすかだがはっきりと、耳もとまで聞こえてきたからである。「きっと、あの男、首根っこを折ってしまうぞ!」
カジモドは泣いていた。
とうとう司教補佐は、怒りと恐ろしさで口から泡をふきながら、もうだめだと観念した。それでも、全力をふりしぼって、最後の努力をした。樋の上で体を堅くして、両ひざで壁をけり、石の割れ目に手をかけて、おそらく三十センチあまり体をもちあげただろう。だが、その衝動のために、身をささえていた鉛の先が急にたわんでしまった。と、同時に、法衣が裂けてしまった。そのとき、全身が宙に浮いたのを感じ、もうこわばって力のなくなった手だけで何かにしがみついているだけだったが、この不幸な男は、目を閉じて樋をはなしてしまった。そして広場に落ちていった。
カジモドには、彼の落ちてゆくのが目にはいった。
こんな高みから墜落するときには、垂直に落ちることはめったにない。司教補佐は空間に投げ出されて、最初は頭を下に向け両手を広げたが、やがて、何回もぐるぐるまわりながら落ちていった。風に吹かれて、ある家の屋根の上に落ちたが、そこで体が折れた。だが、そこに落ちたときには、まだ死んでいなかった。鐘番が見ていると、まだ爪をたてて切妻《きりづま》につかまろうとしていた。だが、傾斜が急なので、もう力も尽き果て、離れた瓦のようにずるずると屋根の上をすべっていき、石畳の上に落ちてはね返った。それっきり動かなかった。
そのとき、カジモドは目をあげて、あのジプシー娘のほうを見た。絞首台に吊るされた娘の体が断末魔の苦悩のために、白衣の下で波うっているのが遥か遠くからもわかった。それから司教補佐のほうに目を落としたが、彼は塔の下にぺたりとのびて、もう人間の形をとどめていなかった。カジモドは胸を大きく波うたせてすすり泣きながら言った。「ああ! おれの愛していた者はみんな!」
三 フェビュスの結婚
その日の夕方、司教の裁判官たちがやってきて、広場の石畳にあった司教補佐のばらばらの死骸をかたづけたときには、カジモドはもう、ノートルダムから姿を消していた。
このできごとについては、さまざまな噂が広がった。世間の人びとは、カジモドつまり悪魔が、クロード・フロロつまり魔法使いを、約束どおりさらっていったに違いない、その日がきたのだ、と信じて疑わなかった。サルがクルミを食べるためにからを砕くように、カジモドは、司教補佐の魂をとりだすためにその肉体を砕いたのだ、と、人びとは想像した。
そんなわけで、司教補佐は神聖な場所には埋葬されなかった。
ルイ十一世は、翌一四八三年の八月に死んだ。
ピエール・グランゴワールはどうかといえば、首尾よくヤギを助けだし、また悲劇で大当たりをとった。占星学、哲学、建築学、錬金術など、あらゆる愚かな学問をかじったあとで、いちばんばかげている悲劇にたちかえったわけである。これこそ、彼が言ったように、「ついに悲劇的な最期をとげた」というものであった。
彼の劇作家としての成功について、一四八三年の教区司教報告を読むと、すでにつぎのような記録がのっている。
「大工ジャン・マルシャンと劇作家ピエール・グランゴワールは、ローマ法王特使の入京の際に、パリのシャトレにおいて聖史劇を作り、配役を決め、この聖史劇に必要な衣装をととのえ、舞台を作った。その報酬として、彼らに百リーヴルを与える」
フェビュス・ド・シャトーペールもまた悲劇的な最期をとげた。彼は結婚したのである。
四 カジモドの結婚
いまもお話ししたように、カジモドは、ジプシー娘と司教補佐とが死んだ日に、ノートルダムから姿を消した。実際、それ以来、彼の姿を見た者もなく、またどうなったかを知っている者もなかった。
エスメラルダが処刑された日の真夜中に、刑吏たちは彼女の死体を絞首台からおろして、慣例どおりに、それをモンフォーコンの墓穴にはこんだ。
モンフォーコンは、ソーヴァルも言っているように、「王国中でもっとも古く、もっともみごとな絞首台」であった。タンプル町とサン=マルタン町とのあいだの、パリの城壁からおよそ三百メートルあまり離れたところ、クールチーユから弩《おおゆみ》をとばして届くぐらいのところに、ちょっと気がつかないほどなだらかな傾斜で、周囲十キロメートルほどのところからなら見えるくらいの丘の上に、異様な形をした建物がひとつ見える。この建物は、ケルト人の環状列石《クロムレック》によく似ていて、ここでもまた、人間のいけにえが捧げられたのである。
想像してもみたまえ。しっくいの小高い建物の頂上に、石でできた高さ五メートル、幅十メートル、長さ十三メートルほどの大きな平行六面体があって、それに戸口がひとつ、外側の手すりがひとつ、露台がひとつ、ついている。この露台の上には、粗石でできた巨大な柱が十六本立っている。柱は、高さ十メートルほどで、こうした柱を支える土台石の三方面に廊下状にならび、柱の頂上にはがんじょうな梁《はり》がわたされ、梁からは、ところどころ鎖が垂れている。この鎖のどれにも、骸骨が吊るされているのだ。その付近の平野には、石造の十字架がひとつと、小型の絞首台がふたつあるが、この絞首台は、中央の十字架のまわりに育った挿し木のようにみえる。その上空には、カラスがたえず飛びまわっている。これがモンフォーコンである。
十五世紀の末には、一三二八年から立っていたこの恐ろしい絞首台も、もうだいぶ古びてしまった。梁は虫が食い、鎖はさび、柱は苔《こけ》むして青くなった。切り石の土台は、みな、その継ぎ目にひびがはいってしまい、人がおとずれない露台の上には青草がのびていた。
この建物のプロフィルは無気味に空に浮かびあがっていた。ことに夜などかすかな月影がこうした白い頭蓋骨を照らしたり、また、夕暮れの北風が鎖と骸骨をなぶり、薄やみの中でこうしたものすべてが揺れ動くときなどは、いっそう恐ろしさが身に滲《し》みるのだった。こんな絞首台が立っているだけでも、あたり一面、無気味な場所になってしまうのだった。
この無気味な建物の土台になっていた石塊の中はがらんどうだった。そこには大きな穴倉が作られていて、がたがたになった古い鉄格子で閉ざされていた。この穴倉の中には、モンフォーコンの鎖からおろした死骸ばかりではなく、パリのまちに立てっぱなしになっているほかの絞首台で処刑されたあらゆる不幸な人びとの死骸も投げこまれたのである。数多くの人間の遺骸や罪悪がいっしょに朽ち果てていったこの深い納骨堂の中には、多くのお偉がたや多くの罪のない者が、あとからあとからと、その骨を埋めにきたものだ。モンフォーコンで最初に処刑されたが、正義の人だったアンゲラン・ド・マリニ〔十三、四世紀の財政官、政治家。官費費消の疑いでルイ十一世に罰せられ、モンフォーコンの刑場で絞首刑になった〕からはじまって、やはり正義の人だが処刑されたコリニ提督〔十六世紀の新教徒の大立者。サン=バルテルミの虐殺のときに殺され、モンフォーコンでさらされた〕で終わりを告げるまで、ことごとく、その骨をここに埋めたのである。カジモドの謎の失踪《しっそう》については、私には次のことだけしかわからなかった。
この物語の結末となった事件からおよそ二年、あるいは一年半ぐらいたったころだが、ちょうど二日まえに縛り首にされたオリヴィエ・ル・ダンの死骸を、シャルル八世の特赦によってサン=ローラン教会の墓地に手あつく埋葬する許可を得たので、人びとがこの死骸をこのモンフォーコンの穴倉の中に捜しに来たときに、みにくい骸骨の中にまじって二つの骸骨が見つかった。そのひとつは奇妙な格好でもうひとつのものを抱きしめていた。ひとつの骸骨は女のもので、それには、昔は白かったと思われる生地でできた服のきれはしが、まだいくつかついていた。またその首には緑色のガラス玉の飾りがつき、口が開いてからになった絹の小袋といっしょに、栴檀《せんだん》の実の粒の首飾りがかかっていた。こんな品物はたいした価値がなかったので、死刑執行人も、おそらく欲しいとは思わなかったのだろう。その骨をしっかりと抱きしめているもうひとつの骸骨は、男のものだった。見ると背骨はまがり、頭は肩胛骨《けんこうこつ》の中にめりこみ、一方の足はもう一方よりも短かかった。そのうえ、首の椎骨《ついこつ》が少しも砕けていないのを見ると、この男が絞首刑になったのでないことは明らかだった。この骸骨の主はここにやってきて、ここで死んだのだ。この骸骨を、その抱きしめている骸骨からひき離そうとすると、白骨はこなごなに砕け散ってしまった。(完)
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一八三二年刊行の決定版に付された覚え書
この版に「新しい」章がいくつか加えられるはずだという予告がされたのは、間違いであった。「未発表の」章が加えられる、というべきだったのである。つまり、「新しい」が「新しく書かれた」という意味であるならば、この版に加えられたいくつかの章は、「新しい」ものではないのである。これらの章は、この作品の他の部分と同時に書きあげられたものであり、執筆の時期も、もとになる思想も同じなのである。要するに最初から『ノートルダム・ド・パリ』の草稿の一部だったのである。それに、私は、こうした作品にあとから新しい部分をつけ加えて、さらに発展させることができるなどとは思ってもいない。そんなことは思いどおりにできるものではない。
私の考えによれば、小説というものはすべての章がいわば必然的に同時に生まれ出るものであり、戯曲もまたあらゆる場面がいっせいに生まれ出るものなのだ。
戯曲とか小説とか呼ばれているこの不思議な小宇宙、あの一世界を構成している各章各部の数は、勝手にふやしたり、減らしたりすることができるものと思ってはならない。こういう作品は、つぎ木をしたり、はんだづけをしたりしても、うまくゆくものではなく、一気に世の中にとびだして、そのままの姿でいなければならないのである。一度出来あがったら、思いなおしたり、いじったりしてはならないのだ。ひとたび本が世に出たら、ひとたび作品の性が、男であれ女であれ、認められ宣言されたら、ひとたびこの子がうぶ声をあげたら、この本は生まれたのだ、この世のものになったのだ、その姿が出来あがってしまったのだ。父親も母親も、もうそれをどうすることもできない。大気と太陽のものになってしまったのだ。生きるなり死ぬなり、そのままなりゆきに任せよう。あなたの書いた本が不出来な場合は? しかたがない。不出来な本に新しい章を書き足すのはやめてほしい。完全でない場合は? 書くときに完全なものにしておくべきだったのだ。あなたが育てた木が発育不全な場合は? その木を直してまっすぐにしようなどと思ってはならない。あなたの書いた小説が肺病にかかっている場合は? 育つ見込みがない場合は? 絶えようとしている息吹《いぶき》を、吹きいれようとするのはやめてほしい。生まれた戯曲が足の悪い場合は? 悪いことは言わない、どうぞ木の義足など使わせないでほしい。
このようなわけで、ここに加えられたいくつかの章を、この新版のためにわざわざ書いたものとお思いにならないよう、とくにお願い申し上げておく。これらの章がいままでの版にはいっていなかったのは、いたって簡単な理由によるものである。『ノートルダム・ド・パリ』がはじめて印刷されていたときに、この三つの章の原稿の束が紛失してしまったのである。改めて書くか、三つの章なしで出版するか、これよりほかに方法がなかったのだ。
私はつぎのように考えた。……なくなった三章のうち二章(「サン=マルタン大修院長」と「これがあれを滅ぼすだろう」)だけは、長さからみればかなり重要なものではあったが、芸術と歴史を論じたものであって、劇的なこの小説の筋を少しも傷つけるものではない、だから、読者が章の抜けていることに気づくようなことはまずあるまい、こうした秘密を知っているのは書いた当人だけであろう……と。そこで私は、これらの章が抜けたままでこの本を出版する決心をした。それに、正直なところ、なくなった三つの章をもう一度書きなおすことなど、おっくうだったのである。それより、新しい小説をひとつ書くほうが楽だったであろう。
近ごろ、紛失したこの三つの章の原稿が出てきたので、さっそくこの版で、最初に予定していた箇所へ組み入れたしだいである。
したがって、ここにお目にかけるのが、私が頭に描いて、書きあげた作品の完全な姿なのである。出来ばえが良いか悪いか、命が長いか短いかはわからないが、とにかく、かくあれかしと願ったこの作品の姿そのままなのなのである。
近ごろ見つかったこの三つの章は、『ノートルダム・ド・パリ』に波乱にみちた物語だけを求めてこられた読者のみなさん……こうしたかたがたももちろん、きわめて正しい鑑賞力をもっておられるわけだが……からみれば、おそらく、あってもなくてもいいようなものかもしれない。だが、また、違ったタイプの読者もきっとおられるであろう。つまり、この本の中に、隠されている美学や哲学の思想を学ぶのもまんざら無益ではない、とお思いになるようなかたがた、あるいは、『ノートルダム・ド・パリ』を読みながら、小説の中に小説でないものを見いだし、詩人のこうした貧しい創作の中に、少々おこがましい言いかたをお許しいただければ、歴史家の方法や芸術家の目標を尋ね求めて、おおいに楽しんで下さるようなかたがたである。
とくに、こうしたかたがたからみれば、この版で加えられた新しい章によって、『ノートルダム・ド・パリ』は完成されたことになるであろう。もちろん『ノートルダム・ド・パリ』が、手間をかけて完成するだけの値うちありとしての話だが。
私は、新しく加えられた一章(「これがあれを滅ぼすだろう」)の中で、現在の建築術の衰退について、また、私に言わせれば、その死について……諸芸術の王である建築術の死は、今日ではもう避けられないもののように思われるのだが……、残念ながら胸中に深く根を張り、考えぬかれた意見を詳しく申し述べた。だが、こうした私の意見が間違いであったと指摘される日が、いつかはくることを心から望んでいる、ということもここで申し上げておかねばならないと思う。
芸術は、どのような形式のものであれ、新しい世代におおいに期待をかけることができるものであり、まだ形をなさないとはいえ、新しい時代の天才が湧き出る音はわれわれの仕事場から聞こえてきているのだ、ということも私は承知している。もう種は畑にまかれているのだから、きっと立派な収穫があるだろう。ただ心配なのは……そのわけはこの版の第二巻に述べておいたが……数世紀にわたって芸術にこのうえもない沃土《よくど》を提供してきた建築という古い畑の養分が失われてしまったのではないかということである。
とはいえ、現代の青年芸術家たちは生命や、力や、天分ともいうべきものに満ち溢《あふ》れている。したがって、とくにわが国の建築学校では、今日、へぼ教授たちがどんな授業を行なおうと、彼らの知らぬまに、いやむしろまったく彼らの意に反して、素晴らしい学生たちが生まれ出ているのである。ホラティウス〔紀元前一世紀のローマの詩人〕が語っている、あの陶工の場合とはちょうど正反対だ。ホラティウスの陶工は、みごとな壷を作るつもりでいながら、つまらぬ入れ物を作ってしまったのだから。「ろくろがまわり、できあがったのはつまらぬ壷」
だが、将来の建築がどうなるにせよ、わが国の青年芸術家たちが、彼らの芸術の問題を将来どんなふうに解決するにせよ、とにかく、これから作られる新しい記念建造物を待ちうける一方、昔からある記念建造物をもまた大切に保存してゆこうではないか。できれば、民族|生粋《きっすい》の建築を愛する精神を、フランス国民の胸に吹きこもうではないか。はっきり申し上げるが、これこそ、この本を書いた主な目的のひとつであり、私の一生の主な目的のひとつでもあるのだ。
『ノートルダム・ド・パリ』は、中世の芸術、今日まである人びとからは知られず、またさらに悲しいことには、ある人びとからは蔑視されてきた、あの素晴らしい芸術の真の姿を、ある程度は読者にお伝えしたことと思う。だが私は、自ら進んで買ってでたこの仕事を完全にやりとげたなどとは、断じて考えていない。私は、もうたびたびわが国の古い建築物を弁護してきたし、そうした建築物に対して加えられた幾多の冒涜《ぼうとく》や破壊や不敬を声を大にして告発してきた。これからも、あくまでもやるつもりだ。この問題は何度でもとりあげると誓ったのだから、何度でも論ずるつもりだ。わが国の学校やアカデミーの聖像破壊者どもは、夢中になって歴史的建築物を攻撃しているが、私も彼らに劣らぬ不撓不屈《ふとうふくつ》な態度で、こうした建築物を擁護しつづけるつもりだ。
というのも、中世の建築がつまらぬものどもの手にわたるのを目にしたり、現代の漆喰《しっくい》職人どもが恥知らずな態度でこの偉大な芸術の遺跡をいじくりまわすのを見たりするのは、まことにやりきれないことであるから。そうしたことが行なわれるのを見ていながら、ただ嘲笑を浴びせるだけで事足れりとしているのは、われわれ知識人としては、恥ずかしいことでさえあるのだ。私はここで、単にフランスの片田舎で行なわれていることだけを言っているのではない。このパリで、つまりわが家の戸口や窓の下で、この大都市で、文化の都、出版、言論、思想の都であるこのパリで行なわれていることを言っているのである。
私は、この覚え書を終わるに当たって、われわれの目の前で、芸術を愛するパリの公衆の目の前で、蛮行に驚きあきれる非難の声をものともせずに、毎日毎日計画され、討議され、始められ、つづけられ、平然と成しとげられてゆくこうした幾つもの文明破壊の行為に、みなさんの注意をどうしてもひかずにはいられないのだ。
最近も大司教館が破壊されたが、これは無趣味な建物だったから、なくなってもたいした損害ではない。ところが、この大司教館と道づれに、司教館までとりこわされてしまった。この建物は十四世紀の珍しい遺物だったのだが、とりこわしをやった建築家は、他のつまらぬ建築と見分けがつかなかったのである。毒麦を取り去ろうとして麦の穂をむしり取ってしまうようなことをやったわけだ。ヴァンセンヌの素晴らしい礼拝堂もとりこわされるという話だ。この礼拝堂の石材を使って何か防塞《ぼうさい》でも作ろうとするのだろうが、ドーメニル将軍でもこんな防塞は必要としなかったのだ。一方では、あのあばら家みたいなブールボン宮の修復に大きな費用がかけられているかと思うと、もう一方では、サント=シャペル礼拝堂のみごとなステンドグラスが彼岸風で吹き破られるままに放置されている。五、六日前から、サン=ジャック=ド=ラ=ブーシュリ教会の塔の上に足場が組まれている。近いうちにつるはしが打ちこまれるだろう。
ある石工《いしく》は、パリ裁判所の尊い塔のあいだに白い小屋を建てた。また、ある石工は、三つの鐘楼を備えた、封建時代をしのばせるサン=ジェルマン=デ=プレ修道院の一部をとりこわしてしまった。そのうちには、きっと、サン=ジェルマン=ローセロワ教会を打ちこわしてしまうような石工もあらわれることだろう。こうした石工は、みな自ら建築家をもって任じ、地方庁や王室から報酬を受け、アカデミー会員の服を着こんでいる。間違った趣味が真の趣味に対してなしうるあらゆる災いを、彼らはやってのけているのである。現に私がこの覚え書を書いているあいだにも、なげかわしい光景が展開しているのだ! ひとりの石工〔チュイルリー宮の修復者フォンテーヌ〕はチュイルリ宮をつかみ、ひとりはフィリベール・ドロルム〔十六世紀の有名な建築家。チュイルリー宮その他の大建築を設計、監督した〕の顔のまん中に切り傷をつけているのだ。そしてこの石工のくっつけたぶざまな建築が、ルネサンスが生んだ最もデリケートな正面のひとつに図々しくも切りこんで、ひしゃげた姿をさらしている図を目にするのは、あきらかに、われわれの時代のすこぶる不面目《ふめんぼく》な事柄のひとつと言わねばならないのである!
一八三二年十月二十日、パリにて。
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解説
人と作品
〔朗々たるこだま〕
『ノートルダム・ド・パリ』の作者ヴィクトル・ユゴーは、フランスでは小説家としてよりもむしろ詩人として尊敬されている。しかし、彼はその豊かな天分を駆使して、叙情詩、叙事詩、風刺詩、詩劇等あらゆるジャンルの詩を書いたばかりではなく、彼の一大傑作『レ・ミゼラブル』のほかに、この『ノートルダム・ド・パリ』のようなすぐれた小説も残している。また、彼の戯曲やエッセーや演説集の中にも、文学史上重大なものが数多くある。そして、こうした、小説、戯曲など詩以外の作品も、その価値を詩情に負っていることが多い。
ユゴーの作風や生活の基調をなしているのは、雄健で豪快な気質であり、ラマルチーヌやミュッセなどの他のロマン派の詩人に認められるような感傷的、耽溺《たんでき》的な要素は、彼の作品の中では二次的な役割しかつとめていない。またユゴーは、人間や事物を客観的、普遍的な目で描写しうる才能にも恵まれていた。こうした彼の才能は、人生や自然に存在するものをすべて表現しようとした彼の抱負と相まって、彼に、彼の生きた時代を幅広く表現させたし、また、彼に、自分は社会全体の動きを反映する存在であるという自信を植えつけた。彼は一八三一年に刊行した『秋の木の葉』の中の「今世紀は二歳だった!」という言葉で始まる詩の中で、つぎのようにうたっている。
それというのも、恋愛や死や栄光や人生、
……
息吹という息吹、光という光が、好ましくあれ忌《い》まわしくあれ、
水晶のような私の魂を光りかがやかせ、打ちふるわせるからだ、
千もの声で鳴り響く私の魂、私の崇《あが》めるあの神が
朗々たるこだまとして万象の中心に据えたこの魂を。
ユゴーのこうした自己に対する過信は、当時の作家や批評家たちの多くから批判されたし、また、彼がデリケートな配慮を欠いた粗雑な作品を数多く書く原因にもなった。しかし、それにもかかわらず、彼の作品のもつ雄大さや、十九世紀の社会の動きをその作品の中につつみこもうとするたくましい意図は、高く評価されなければならない。彼は変貌、発展する十九世紀とともに歩んだ人間であり、彼の生涯を画した一八三〇、一八四三、一八五一、一八七〇という年はまた、十九世紀文学史、政治史の画期的な年でもあった。
〔生いたち〕
ヴィクトル・マリ・ユゴーは一八〇二年にブザンソンで生まれた。父はナポレオン軍の軍人で、母はナントの船長の娘であった。父母はもともと性格が折りあわなかったので、別居して暮らすことが多かった。父親が軍務の関係で頻々と外地に出たので、ユゴーもときには、母につれられて、スペインやイタリアなど父の任地へ出かけることもあり、かなり不規則な生活を送った。
父と母との折りあいが悪かった原因のひとつとして、政治的な意見のくいちがいということがあげられる。父がナポレオンの帝政を愛していたのに対して、母は王党派であり、このことももとになって、おたがいに愛人をもつまでになっている。ユゴーは、幼少年期の大部分を父から離れて、母や兄たちとパリですごした。そのため、一八二一年に母が死んでからも、しばらくのあいだは、その影響を受けて父やナポレオンを憎んだが、その後次第に父に接近するにつれて、父の愛情を理解し、ナポレオンをも尊敬するようになる。
父は最初彼を軍人に仕立てようとしたが、早熟な彼は文学に熱中し、十七歳のときには、トゥールーズの〈アカデミー・デ・ジュー・フロロー〉の詩のコンクールに応募して一等賞を獲得するなど、はやくも才能のひらめきを見せた。
このころフランスには、それまで百五十年あまりものあいだ文壇を支配していた古典主義にとって代わる新しい運動として、ロマン主義が育ちつつあった。一八二〇年には、フランス・ロマン主義の狼煙《のろし》と言われるラマルチーヌの『瞑想詩集』が刊行されて、文壇に新風を吹きこんだ。ユゴーもロマン主義運動に関心を示して、次第にこの運動に接近するようになり、ついにはその指導者として大活躍をするようになる。『オードと雑詠集』(一八二二)という処女詩集の刊行後彼の作家生活ははじまるが、それを四期にわけて述べるのが便利である。
〔一八二二年から一八三〇年まで〕
『オードと雑詠集』は、ユゴーが母から影響を受けた王党びいきの精神を表現した詩集である。この詩集で王家への愛情をうたった彼は、国王から奨励金を受けたり、ランスでおこなわれたシャルル十世の聖別式に招待されたりした。ロマン主義に対しては、ユゴーは最初のあいだ、賛意を表していない。彼は一八二四年三月に出版した『新オード集』の序文ではまだ、〈古典、ロマン両派の調停者〉の一員となりたいと述べ、「この私には、≪古典的な様式≫とか≪ロマン的な様式≫とかいうものがいったい何を意味するのか、まったく分らない」と記している。だが、ユゴーにロマン的な資質があったことはあきらかであり、『アイスランドのハン』(一八二三)のような小説には、ロマン的な激情や暗い怪奇な光景などが、ふんだんに表現されている。この小説には、当時フランスに紹介されたウォルター・スコットの歴史小説や、マチューリン、ルイス、ラドクリフなどのイギリスの恐怖小説の影響があきらかである。
こうしたロマン的な傾向は、文壇にロマン主義者たちが結束するようになるにつれて、ユゴーの心に発展していった。一八二六年刊行の『オードとバラッド集』に付された序文では、彼は、規則ずくめの擬古典派の文学をしりぞけて、作者の自由や独創性を尊ぶロマン主義に向かって大きくふみだしている。
ロマン主義を高く評価しようとするこのようなユゴーの態度は、一八二七年に刊行された戯曲『クロムウェル』に付された長い序文に、決定的な形で表現される。この序文は、≪時の単一≫や≪場所の単一≫などをはじめとする古典派の演劇制作上の諸規則に真っこうから攻撃を加え、ロマン主義の演劇論を確立した宣言書として有名である。
この当時からユゴーは、自宅に若い作家や美術家を集めてセナークル(ロマン派の文学サロン)をひらき、ロマン派の統率者としての地位を確立した。ロマン主義のひとつの特徴である異国趣味《エグゾチスム》を表現した『東方詩集』(一八二九)や、一八三〇年に上演されたさい、古典、ロマン両派のあいだに有名な≪エルナニ合戦≫という劇場での戦いをひき起こした劇作『エルナニ』は、ユゴーのロマン主義の特徴を十二分に展開した作品である。なお、ロマン派の劇はこの戦いで古典派をやぶって、文壇を制圧するようになった。
またユゴーは、一八二七年のはじめから批評家のサント=ブーヴと交際するようになり、その影響を受けて、彼の胸のうちに以前から芽ばえつつあった自由主義や人道主義が発展するようになった。一八二九年に刊行された小説『死刑囚最後の日』にはこうした彼の新しい傾向が端的に表現されている。
一八二二年のデビューから一八三〇年までの時代は、王党派の詩人として出発したユゴーが、周囲に発展しつつあったロマン主義の運動にめざめ、ロマン派の統率者になって、古典主義を打ちやぶると同時に、自由主義に向かって徐々に進んでいった時代である。
〔一八三〇年から一八五一年まで〕
≪エルナニ合戦≫がおこなわれた一八三〇年はまた、シャルル十世の専制政治にいきどおった民衆によって、復古王政が打倒された七月革命の年でもある。ユゴーはこの革命から影響を受けて、なおいっそう自由主義や人道主義へ赴くことになるが、それでも当時の急進主義的な社会改革論には賛成していない。
一八三〇年から四〇年にかけての十年間に彼は、『ノートルダム・ド・パリ』(一八三一)『クロード・グー』(一八三四)の二つの小説や、『秋の木の葉』(一八三一)『薄明の歌』(一八三五)等の四つの詩集、それに『リュクレース・ボルジヤ』(一八三三)『リュイ・ブラース』(一八三八)等の数編の劇作を発表しているが、こうした作品の特徴のひとつとしてあげられるのは、作家の社会的関心である。『レ・ミゼラブル』の構想がおそらく、一八三〇年よりすこしまえから抱かれたであろうことや、『死刑囚最後の日』と並んで『レ・ミゼラブル』の先駆的作品といえる『クロード・グー』が発表されていることは、ユゴーの心が社会の問題に向かって大きくひらかれてきたことを示すものである。
しかし、このような進歩的といえる考えかたの裏面として、彼が彼一流の自負心や個人的な野心に満ちた人間であったことを忘れてはならない。自負心がきわめて強かった彼は、あらゆる面で社会の指導者になりたい、と考えていた。一八三六年ごろから彼は、先輩のシャトーブリアンやラマルチーヌにならって政治家としても活躍したいと、願うようになった。一八三四年以来近づきになったオルレアン公(国王ルイ=フィリップの長子)や、とくに三七年にこの王子に嫁した公妃の引きたてによって、ユゴーは一八四一年にはアカデミー・フランセーズの会員になり、また四五年には貴族院議員になっている。
これと同時に、一八三〇年からはじまるこの時期には、ユゴーの私生活も大きく変化している。ユゴーは一八二二年に幼なじみのアデール・フーシェと幾多の曲折ののち結婚することができて、幸福な家庭をつくりあげ、その後ふたりのあいだには、つぎつぎに子供が生まれていた。だが『エルナニ』上演のまえあたりから生活が多忙をきわめて妻をあまり顧みなくなったことや、父親に似て激しい性欲をもっていた彼に妻が恐れをなしたことなどがわざわいして、アデールは、ユゴーの家をひんぴんと訪れたサント=ブーヴと恋愛関係に陥ったのである。これを知ったユゴーは、妻を熱愛していただけにひどく苦しんだ。こうした苦しみは何年かつづいたが、そのうちユゴーの前に現われたのが、『リュクレース・ボルジヤ』に出演した女優ジュリエット・ドルーエである。この劇が上演された一八三三年にジュリエットはユゴーの愛人となり、以後一八六八年にアデールが死ぬまで、ユゴー、アデール、ジュリエットの三角関係はつづくことになる。
一八四三年に娘のレオポルディーヌがセーヌ川を帆走中、ヴィルキエ付近で夫とともに溺死した事件は、ユゴーの心に絶望感を生み、彼はますます乱れた女性関係にふけるようになった。なお、この年には彼の史劇『城主』が失敗し、一八三〇年から隆盛を誇ってきたロマン派の演劇は終止符をうたれた。とにかく、ジュリエットを征服してからのユゴーの身中には、生来のたくましい性欲が荒れくるうようになった。彼は死にいたるまでに、おそらく数十人の女性と関係をもったらしい。ジュリエットはこうした恋人にも終始純愛を捧げ、彼にあてて一万八千通の恋文を書き、彼の作品の清書をひきうけ、また、恋人の亡命につきしたがって、そのめんどうを献身的にみている。
一八四八年には二月革命が勃発した。ユゴーは最初のうちこの革命の暴力的な要素に同調できず、オルレアン公妃の摂政制を希望した。しかし、もともと民主主義的な方向をたどっていたユゴーの政治観は、まもなく前進した。彼は六月四日の憲法制定議会の補欠選挙に当選し、以後、議会で人道主義的な熱弁をふるうことになる。そのうち、こうした政治観とナポレオン一世への崇拝の念が結びつき、彼はルイ=ナポレオン(のちのナポレオン三世)が政界に打って出ようとするのをバック・アップするようになった。だが、ルイ=ナポレオンが独裁者になろうとする野心を表わすや、彼は決然としてこれと手を切り、一八五一年のクーデターに抵抗して敗れ、ジュリエットに庇護されてベルギーに亡命、その後イギリス海峡のジャージー、ガーンジー両島に移り、十九年にわたる亡命生活を送ることになる。
〔一八五一年から一八七〇年まで〕
亡命時代のユゴーは、パリのわずらわしい生活から解放されて、創作に没頭することができた。この期間に創作された作品には、詩集としては、ナポレオン三世を痛罵した『懲罰詩集』(一八五三)、不慮の死をとげた愛嬢レオポルディーヌの思い出や詩人の世界観をうたった『静観詩集』(一八五六)、詩人の信念を雄健な筆致で表現した『諸世紀の伝説』(第一集)(一八五九)などがある。一八三四年から二十数年にわたって書かれた百五十八編の詩を収めた『静観詩集』が、ユゴーの叙情詩の最大傑作であるのに対して、三回に分けて出版された『諸世紀の伝説』は、彼の叙事詩の最大傑作である。『諸世紀の伝説』には、イヴからキリストまでをあつかった原始時代の描写から二十世紀に対する詩人の夢にいたるまで、人類進歩の諸様相が無数の詩編によって描かれている。
小説としては、彼の畢生《ひっせい》の傑作『レ・ミゼラブル』(一八六二)のほかに、『海に働く人びと』(一八六六)『笑う男』(一八六九)がある。人間を惨めにする要素を社会から追放することによって恵まれぬ人びとに明るい光を与えたい、という目的で制作された『レ・ミゼラブル』は、ユゴーの人道主義思想の集大成である。巻頭の序文に見られる「……また貧困のせいで男が堕落し、ひもじさのせいで女が身を持ちくずし、暗い境遇のせいで子供がいじけてしまうという今世紀の三つの問題が解決されないかぎり……いいかえれば……地上に無知と悲惨とがあるかぎり、こういう性質の本もあながち無益ではあるまい」という言葉は、著者の意図するところをよくあらわしている。
『レ・ミゼラブル』は、これと同時にまた、ユゴーがジャージー島滞在時代に完成した独得な宗教的世界観とも無縁ではない。こうした世界観をもあらわした『諸世紀の伝説』には、多くの苦しみを経て暗黒から理想へ昇ってゆく人類の姿が描かれるが、『レ・ミゼラブル』にもやはり、多くの苦悩を経て暗黒から光明に向かって昇ってゆくジャン・ヴァルジャンの姿が描かれる。こうした著者の思想が、全編を貫く強い詩情や理想主義によってうたいだされているという点で、『レ・ミゼラブル』は、一大叙事詩の趣きをそなえた小説である。
十九年にわたるこの亡命時代には、ユゴーの帰仏後出版された詩集(死後出版の分までをも含めて)の多くも書かれている。ユゴーは、一八五六年以後はガーンジー島のオートヴィル=ハウスという広壮な邸宅に住み、≪見晴らし台(ルック・アウト)≫というガラスばりの部屋の立ち机に向かって、詩、小説、エッセーの類をこんこんとして湧き出る泉のように制作していった。
この亡命の期間に、ユゴーのナポレオン三世の政府に対する抵抗はいちだんと強まり、彼は、一八五九年にこの皇帝が出した被追放者大赦令を受けつけずに帰国を拒否した。こうしたユゴーの態度は、自由や社会的な正義を求めるフランスの青年たちのあいだに、≪あの島にいる父≫ユゴーに対する敬意をひろげていった。フランス本国では、ロマン主義は一八五〇年あたりを境に没落して、フローベール、ルコント・ド・リールなどのレアリスムが隆盛をきわめており、ひとり孤島でロマン的な作品を書きつづけるユゴーの姿に、ロマン主義の余映は集中された観があった。
〔一八七〇年以後〕
一八七〇年、プロイセン=フランス戦争が勃発して、ナポレオン三世はプロイセン軍の捕虜となり、共和政が成立し、ユゴーは民衆の歓呼に迎えられてパリにもどった。パリ攻囲戦のあいだ、彼は高齢にもかかわらず、意気さかんに防禦軍を激励した。一八七一年二月に彼は国民議会の議員に選出されたが、まもなく、ガリバルディーを弁護して議員を辞職、政府とパリ・コミューヌの殺しあいを見るにしのびない気持も手つだって、ブリュッセルに逃避したりした。また、ジュリエットとガーンジー島にもどって、最後の歴史小説『九十三年』(一八七四)を制作したりしている。詩集『諸世紀の伝説』は、第二集が一八七七年に、第三集が一八八三年に刊行されている。
それまでに彼は、シャルルとフランソワ=ヴィクトルの二人の息子を失い、次女も発狂して精神病院に入れられていた。また一八八三年には、ジュリエットにも先立たれて孤独な生活に陥った。しかし、このころでもなお、彼は、世界のどこかで何か事件があると、それに介入してゆき、受刑者を救おうとしたり、ユダヤ人虐殺に反対したりした。一八八一年に彼はつぎのような遺書をしたためた。「私は四万フランを貧しい人びとに贈る。私の遺体は、貧者の柩車で墓地に運んでもらいたい」
一八八五年の五月二十二日に、彼は孫のジョルジュとジャンヌに別れを告げながら息を引きとった。彼の遺体はパンテオンに埋葬されることになり、数多くのフランス人が柩《ひつぎ》のあとにしたがった。
『ノートルダム・ド・パリ』について
〔執筆の経緯〕
『ノートルダム・ド・パリ』執筆の事情にはいろいろユゴーらしいエピソードもあるので、まず、それを述べてみよう。
ユゴーがこの小説を書こうと思って材料を集めはじめたのは、一八二八年九月のことだった。十一月に彼は資科をほぼ収集し終ったので、ゴスラン書店と出版契約を交わした。ユゴーはこのとき、翌年の四月十五日ごろには原稿を手渡すという約束をした。だが、翌一八二九年には二つの劇作『マリヨン・ド・ロルム』(一八三一)と『エルナニ』を書いたので、『ノートルダム・ド・パリ』には手をつける余裕がなかった。その後、ユゴーが文壇に一大センセーションをひき起こした『エルナニ』の版権を一八三〇年に他社に譲りわたしたことにゴスランは憤慨し、同年の六月五日には、「十二月一日までに絶対に原稿を手渡すこと、これにそむく場合には、一週間の遅れにつき千フランを著者が出版社に支払うこと」というきわめて苛酷な契約をユゴーに押しつけてしまった。そこでユゴーは、七月二十五日にいよいよ重い腰をあげてこの小説を書きはじめたが、その翌々日にはあの七月革命が勃発して、また制作が中断されてしまった。ユゴーは革命の騒ぎのために資科の一部がなくなったという言い訳をして、原稿を手渡す期間を二カ月延ばしてもらった。そして、追い立てられるようにして、一気呵成《いっきかせい》に書きあげたのである。
ユゴー夫人が後年にユゴーの口述をもとに書いた『生活をともにした人の語ったヴィクトル・ユゴー』(一八六三)には、九月一日から始まった獅子奮迅のユゴーの執筆ぶりが、つぎのように述べられている。
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「今度はもう、遅らせてもらえる望みはなかった。期日どおりに仕上げなければならない。彼はインクをひと瓶と、首から足の指まですっぽりと包まれる灰色の大きな毛織の服を買い、外出したい気持になどなれないように、ほかの服は鍵をかけてしまいこんでしまった。そして牢屋にでもはいるような気持で、小説の中にはいりこんだのである。とても憂鬱そうだった。……だが、最初の章をいくつか書いているうちに、彼の憂鬱は消え失せてしまチた。作品にしっかりつかまってしまったのである。疲れも、やってきた冬の寒さも感じないで、彼は十二月にも窓を開け放したまま仕事をしていた。……一月十四日(事実は十五日)にこの本は完成した。書きはじめた日に買ったインクびんも、また、からになっていた。最後の一滴で最後の一行を書いたのである』(五十六「ノートルダム・ド・パリ」)
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最後の一滴で最後の一行を書いたというのは、いささか大げさな表現であるが、情熱的なユゴーの仕事ぶりを如実《にょじつ》に見せてくれる記述である。ともあれ、このような情熱のおかげで、『ノートルダム・ド・パリ』は少し遅れて書かれた「パリ鳥瞰《ちょうかん》」などの章を除いて、四カ月半で書きあげられたのである。だが、こうして一八三一年三月十六日にゴスラン書店から出版された初版には、著者が「一八三二年刊行の決定版に付された覚え書」でも述べているように、第四編六「憎まれっ子」、第五編一「サン=マルタン大修院長」、第五編二「これがあれを滅ぼすだろう」の三章は収められていなかった。そして、その理由は、ユゴーがこの「覚え書」で言っているような、この三章の原稿を紛失してしまったということではないという説がある。この小説が思っていたより厚くなりそうなので、二巻を三巻にして印税をふやしてほしいと、ユゴーがゴスランに頼んだのに、ゴスランが断ったので、この三章を渡さなかったのだというのである。また、親友の宗教哲学者ラムネと会ったことが原因で、「これがあれを減ぼすだろう」という章を入れなかったという説もある。この三章は、一八三二年十二月に、ランデュエル書店から刊行された決定版に、はじめて収められた。
〔二つの性格〕
ユゴーは、さきにも述べたように、変貌、発展する十九世紀とともに歩んだ人間であるが、『ノートルダム・ド・パリ』は、こうした彼の動きとどういう関係にあるのかを、つぎに考えてみたいと思う。
この小説が書かれた一八三〇年は、「人と作品」でも述べたように、その二、三年前からすでに、ロマン派の指導者としてのユゴーの地位が確立し、また七月革命の影響も受けて、彼がいっそう自由主義や人道主義に歩みよっていった年である。こうしたことからして、この小説には数々のロマン主義的な性格が遺憾なく表現される一方、民主主義や人道主義に向かう彼の気持も、ある程度までうかがうことができる。
〔ロマン主義的な性格〕
『ノートルダム・ド・パリ』はまず第一に、宿命的な恋愛や、情熱や、嫉妬といった人間の生々しい感情を詩情に富んだ自由奔放な手法で描きだしている点で、ロマン主義の典型的な作品ということができる。ジプシー娘エスメラルダに対するクロード・フロロの邪恋や、この恋に秘められたはげしい嫉妬と憎しみ、墓をえらぶか自分に従うかとフロロに迫られても、フェビュスへの愛に燃えてフロロをののしるエスメラルダ、エスメラルダに対するカジモドの清らかな愛情、このような率直ではげしい人間感情の赤裸々な描写は、ロマン派の作家たちが好んで用いた手法であり、ここでは豪壮なユゴーの技法によってみごとに展開されている。
ロマン主義の小説には詩的なことをその特色としているものが多いが、ユゴーも小説と詩とが融合されたものを理想的な作品と考えていた。登場人物の大部分がしまいには宿命の餌食《えじき》となる悲壮な筋の運び、ノートルダム大聖堂に対する宿なしの群の凄絶な攻撃、こうした叙事詩的な要素によって、『ノートルダム・ド・パリ』はいかにもロマン主義の小説らしい詩的な作品になっている。
なお、この小説に描かれたクロード・フロロの嫉妬は、作者ユゴーのなまなましい体験の結果であると思われる。ユゴーは白熱的な態度でこの小説にとりくんでいたときにも、妻に対するサント=ブーヴの恋が深刻になってきたのを知って、苦しんでいたのである。
「……彼の心の中に、思ってもみなかった嫉妬がわきあがってくるのがぼんやりと感じられた。……夜になると、恐ろしい思いにとらわれた。ジプシー娘が生きていると知ってからというもの……また肉欲が戻ってきて、体をかきむしるのだった。……彼はベッドの上でのたうちまわるのだった」(第九編五)
エスメラルダの肉体を思ってベッドの上で悩みもだえるクロード・フロロの姿は、妻の不倫に苦しむユゴー自身ではなかろうか?
『ノートルダム・ド・パリ』はまた、ユゴーが中世への愛を表現し、中世芸術の復活をはかった作品でもある。フランス・ロマン派の作家たちはいったいに、古典派の作家たちがそれまで尊敬していたギリシア・ローマの文学や文化に背を向けて、自国の国民文化の母胎である中世文化を敬愛した。こうした傾向は、フランスだけでなく、イギリス、ドイツなどヨーロッパ諸国の文学にも認められるが、要するに、ロマン派の作家にとって≪中世≫は霊感の宝庫であり、魂の故郷であったのである。ユゴーも中世建築の宝であるノートルダム大聖堂をこの小説の主人公に選ぶことによって、中世の文化や社会へのはげしい愛情を表わしたのである。カジモド、クロード・フロロ、エスメラルダといった主要な登場人物はみな、この大聖堂を中心にして愛し、憎み、≪宿命≫の手にとらえられて死んでゆく。
ユゴーがこの大聖堂や中世のゴチック芸術に憧憬をいだき、内外から襲いかかってくる破壊の手によって滅びさってゆくこの芸術を心から惜しんでいることは、巻頭の「著者の序文」からすでにあきらかである。「一八三二年刊行の決定版に付された覚え書」には、民衆|生粋《きっすい》の建築を愛する精神をフランス国民の胸に吹きこもうとするユゴーの願いと、このような中世のみごとな歴史的な建築を勝手気ままに改造したり破壊したりする≪壊し屋≫どもへの怒りが、思う存分に述べられている。ユゴーがどんなに熱情をこめてこの大聖堂を愛しているかは、第三編一「ノートルダム」を読めば、すぐおわかりのことと思う。
また、この小説の中には、現実の世界に認められる種々雑多な人物、階級、場所が登場している。ルイ十一世のような国王からクロパン・トルイユフー一味の宿なし、物乞いにおよぶまでの貴族、聖職者、医者、庶民、盗賊など、千差万別の人間がその姿を見せて、愛し、憎悪し、戦うその姿のうちに、十五世紀フランス社会の全貌をあますところなく、われわれの眼前に展開してくれるのである。恋愛、母性愛、兄弟愛、学問への愛、芸術への愛、動物への愛情、この作品に現われる愛情の種類だけをあげても、おそらく十指をくだるまいと思われる。このように、人生や社会の全体を描こうとする手法は、ロマン主義時代になってからとくに強く意識されたものであり、それまでの古典主義作品の登場人物が、王侯、貴族などに限られがちであったのに対するひとつの革命ということができる。
ユゴーは、あらゆる階級の人びとや人生のあらゆる面を描いたシェイクスピアやイギリスの歴史小説家ウォルター・スコットの影響のもとに、こういう描写を志したと言われる。なお、フランスには、スコットの影響を受けて、一八二〇年代から、ヴィニー、メリメなどを先駆とする歴史小説が栄え、これがロマン主義を大いに推進させた。『ノートルダム・ド・パリ』は芸術的なフランス歴史小説の最後の頂点をなす作品であるとも言われている。
ロマン主義的な特徴はこれだけにとどまらない。ロマン派の作家たち、とくにユゴーは、好んでその作品の登場人物たちに全く相反するふたつの特徴をもたせて、対照《コントラスト》にみちた姿を描こうとした。ユゴーはその劇作の中でも、清らかな愛情にみちた娼婦であるとか、高潔な心をもった下僕だとかといったものを登場させているが、この『ノートルダム・ド・パリ』の主人公たちも、やはりそうした性格を備えている。カジモドは世にも醜い体の中に、エスメラルダへの世にも清らかな恋心をつつんでいるし、クロード・フロロは聖職にありながら、ジプシー娘のエスメラルダに燃えるような肉欲を感じている。またジプシーの踊り子という堕落しやすい身の上でありながら、エスメラルダは命がけの清らかな恋をするのである。このような対照《コントラスト》の手法が十分に駆使されている点からいっても、この作品はきわめてロマン的なものと言うことができる。
〔民主主義的な性格〕
『ノートルダム・ド・パリ』には、さきほども述べたように、こうした数々のロマン的な性格とならんで、ところどころではあるが、民主主義的な思想も述べられている。ユゴーは、王家びいきであった母親の影響もあって、文壇にデビューしたころには、当時のブールボン王家を敬愛していた。しかしこのころの文壇には、十八世紀末に起こったフランス革命の影響を受けた自由主義的な知識人も数多く現われていた。こうした人びとの影響を受けてユゴーの胸には、めぐまれぬ民衆への同情や横暴な権力への反抗、といった気持が生まれていた。
一八二七年からはじまったサント=ブーヴとの交友や七月革命が、こうした傾向を推進させたことは、「人と作品」ですでに述べたとおりである。ユゴーは、囚人たちの実情を知りたいという激しい欲望にとらえられて、一八二七年十月と翌年の十月に、彼のセナークルのメンバーだった彫刻家のダヴィッド・ダンジェと連れだって、パリ郊外のビセートルの牢獄を訪れ、彼らの悲惨な状態を見学している。死刑反対の意見を述べた小説『死刑囚最後の日』にはこのときの体験がとり入れられている。
『ノートルダム・ド・パリ』にもこうした思想が認められる。≪封建社会の年とった主人公≫であった残虐な死刑が、フランスからほとんどその姿を消し去ったことを喜ぶ著者の人道主義的な感情は、第二編二「グレーヴ広場」に率直に表明されている。第六編一「昔の裁判官たちを公平無私な目で見れば」では、民主主義者ユゴーは、いつの世にも絶えることのない堕落した司法官に痛烈な嘲笑を浴びせている。また専制的な王家に対して反抗を企てる≪奇跡御殿≫の連中の暴動は、いまひと息で成功をみようとしているし、民衆の代弁者、ガン市の洋品屋コプノール親方は、「……暴動などこっぱみじんにしてくれるぞ」と王者の威厳をみせるルイ十一世の言葉に堂々と反論して、「そうなるかもしれません、陛下。でもそれは、民衆の≪時≫がまだきていないからなのです」(第十編五)と答えるのである。
『ノートルダム・ド・パリ』は、このようにみてくると、一八二〇年から一八三〇年までのロマン主義の特質を集大成しながら、それに、その後大いに発展するユゴーの民主主義の要素をも加えて書かれた作品ということができる。初期の小説や『東方詩集』や『エルナニ』などの作品に表われたロマン主義の代表者ユゴーの面目をあざやかにくりひろげながら、後年の風刺詩『懲罰詩集』や、あの『レ・ミゼラブル』の姿をもはるか行く手に望ませる作品と言えるのである。
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ユゴー主要作品解題
クロムウェル
古典派の演劇に対する反抗を表現した作品で、一八二七年に刊行された五幕の韻文劇。上演すれば延々十二時間ほどもかかるおそろしく長い劇で、また登場人物の数も多すぎるので、上演不可能な作品といわれている。
チャールズ一世を倒してイギリスの支配者となった冷厳な共和主義者クロムウェルは、王位につきたいと望んでいる。しかし、彼の周囲には陰謀家たちがいて、彼らはクロムウェルが王位についたら、ただちに彼を倒そうとしている。彼はこの陰謀に気づき、戴冠式の日に王冠を拒否する。これを見た群集は彼の行動を賞賛するが、クロムウェル自身は自分のとった態度にけっして満足せず、やはり王冠を夢みつづける。
この劇そのものはそれほど問題にならなかったが、これにつけられた「序文」は、古典派の演劇制作法に反対した勇猛果敢な宣言書であり、ロマン主義の演劇論を確立した。そしてごうごうたる世評をまき起こして、ユゴーをロマン派の統率者にのしあげることになった。
ユゴーはこの「序文」で、古典主義の演劇が守るべきものと主張した≪時の単一≫(劇の行為はおよそ一昼夜以内に起こって終わらなければならない)や、≪場所の単一≫(劇の行なわれる場所は作品全体を通じて一カ所でなければならない)というような規則を無意味なものとしてしりぞけ、≪筋の単一≫(劇の筋は一本で、枝葉があってはならない)だけを保存せよとすすめている。
また、古典派が主張した悲劇と喜劇をはっきり分けなければならないというような規則にも、猛攻撃を加えている。彼はこのような攻撃を開始するにさきだって、彼独特の世界芸術史|鳥瞰《ちょうかん》ともいうべきものを述べ、近代の芸術は涙と笑い、美と醜、崇高とグロテスクというような、人生に認められる両極をとり入れるべきであるとして、悲劇、喜劇を分けよと説いた古典主義の演劇論を攻撃するよりどころにしている。この「序文」は歴史的、文学史的な実証性を欠いているが、時代おくれになった古典派の規則から作家たちを解放し、彼らに近代的な独創性を伸ばさせる契機を作った功績は大きい。
エルナニ(別題・カスティーリャ武士の面目)
一八三〇年二月二十五日にパリのコメディー=フランセーズで初演された五幕の韻文劇。ロマン派は一八二〇年ごろから数多くの詩作を公にして詩壇で古典派を圧倒し、劇壇の支配をもねらっていた。友人のデュマやヴィニーのロマン劇の成功に刺激されたユゴーは、わずか一カ月たらずでこの作品を書きあげた。これは十六世紀のスペインを舞台にしてくりひろげられる恋の争いの物語である。
美しい貴族の娘ドニャ・ソルは、伯父の老公爵ルイ・ゴメスと、ドン・カルロス王と、貴族の子でこの王を父の仇としてねらう山賊エルナニの三人から愛されるが、彼女はエルナニに純愛をささげている。この三人のあいだにドニャ・ソルをめぐっていろいろ事件があったのち、エルナニはゴメスの館《やかた》であやうくドン・カルロスに捕えられそうになるが、ゴメスが騎士道を重んずる家風にしたがってエルナニをかくまったので、王は人質としてドニャ・ソルを連れさってしまう。エルナニはこの義侠心に報いるために、ゴメスに自分の命をあずけるとちかう。ゴメスとエルナニはドン・カルロスを討つために陰謀団に加わったが、この陰謀は失敗する。しかし神聖ローマ皇帝に選ばれたドン・カルロスは、寛大な気持で陰謀者たちを許し、エルナニとドニャ・ソルを結婚させる。だがその結婚の夜、「死ね」と命じるゴメスの角笛が聞こえる。二人の恋人はゴメスに迫られるままに騎士道の誓いを守って毒をのんで死に、ゴメスもそのあとを追う。
この劇は『クロムウェル』の序文の主張を忠実に守って、≪時の単一≫と≪場所の単一≫をふみにじっている。一八三〇年に上演されたさいには、こうした自由で破格な制作法をやじって上演を失敗に終わらせようとする古典派側の観客と、この劇の応援に出場したユゴー配下の若い芸術家たちとのあいだに劇場ではげしい争いが起こったが(≪エルナニ合戦≫)、結局この作品は成功してロマン派側が勝ち、一八三〇年以後のロマン劇が生まれる契機が作られた。登場人物の性格描写に難点があるが、全編を満たす若々しい叙情味によって名作たることを失わない。
懲罰詩集
一八五三年に出版された風刺詩集。ルイ=ナポレオン(ナポレオン三世)のクーデター(一八五一年十二月)によって亡命した詩人が、独裁者ナポレオン三世に対する憤慨の気持をうたった作品。当局の目をのがれるために危険な箇所を削除した版と、完全な版との二つがブリュッセルで出版されたが、この完全な版はフランスに秘密にもちこまれて、民主主義者たちから大いに読まれた。
大部分の詩編は亡命地のジャージー島で創作されている。七部に分かれたこの詩集で、ユゴーは風刺詩、オード、シャンソン、叙事詩等のいろいろな形式を駆使してナポレオン三世を罵倒した。序詩「夜」から最後の詩「光」にいたるまで、ユゴーはナポレオン三世を悪の権化とみなして、彼とその一味に休みない攻撃を加えている。ユゴーはあるときはナポレオン一世の偉大さとその甥の三世の卑小さを対立させ(「トゥーロン」「贖罪《しょくざい》」)、またあるときはナポレオン三世のクーデターに迫害された民衆の苦しみを描いている(「夜」「四日の夜の思い出」)。
この詩集の傑作である「贖罪」には、大ナポレオンは軽蔑すべき甥ナポレオン三世一味の醜い行為によって懲罰されたとの意見が述べられ、また「四日の夜の思い出」には、クーデターの銃火に殺された七歳の孫の死骸のそばで泣く老婆の悲しみと憤りが描かれている。一八五二年十二月にナポレオン三世が出した亡命者の帰国許可令を機会に制作された詩編「結語」には、この許可令を拒否して、最後の一人になるまで亡命地にふみとどまろうとする詩人の決意がうたわれている。クーデター以後ユゴーの胸の中に次第に信念となっていった民主主義、共和主義の思想が強烈にうたい出された詩集であり、人類の進歩をたたえた詩編「隊商」や世界共和国の出現を期待した詩編「光」は、詩人の後期の作品に大いに発展するこうした思想の序曲をなすものである。
静観詩集
一八五六年に出版された叙情詩集。詩人自身の言葉によれば、「ほほえみで始まり、すすり泣きのうちに続けられ、深淵のらっぱの音をもって終わる」(「序文」)一つの魂の回想録である。全体の統一のために制作年月日と順序は適当に変えられているが、ジャージー島で書かれたものを中心にして一八三四年から二十数年にわたって制作された百五十八編の詩が収められている。二部に分かれ、セーヌ川のヴィルキエで愛嬢レオポルディーヌが溺死した一八四三年を境として、それ以前を「過ぎさった日」、以後を「今」とする。
「過ぎさった日」は、詩人の精神の発展段階を象徴する「あけぼの」「花ざかりの魂」「たたかいと夢」の三章から成り、少年時代の回想、家庭の団欒《だんらん》、愛児の思い出、素朴な田園生活のよろこび、文学論争、優雅な宴《うたげ》の印象など、題材はさまざまである。なかには、文明社会の悲惨や貧困をうたった暗い内容の詩もないわけではないが、「新しい春に」「私のふたりの娘」「テレーズの家での宴」など、幸福感にいろどられた明るい詩が多い。なかでも、ジュリエット・ドルーエとの愛をうたった「手紙」や「おいで!……目には見えないけれど、笛が……」は、愛情と幸福感にあふれた叙情詩の傑作である。
しかし、愛する娘を失った悲しみと、それにルイ=ナポレオンのクーデターによって祖国から追放されたことは、ユゴーをいつまでもしあわせな叙情詩人にとどめてはおかなかった。「娘にあてたささやかな言葉」「前進」「無限の淵《ふち》で」の三章から成る「今」では、愛する娘を失って絶望にうちのめされた詩人は、ときには過酷な運命をのろい、みずから死を夢みながらも人間の悲惨にめざめ、神の意志に従って民衆を導くことに人生の意義を見いだそうとする気持をうたっている。娘を失った父親の悲しみや憤激やあきらめを祈りのまにまに訴える「ヴィルキエにて」は、われわれの心を打ってやまない。最後の章「無限の淵で」では、広大な空と海にかこまれた亡命の地ジャージー島での生活に、この島に滞在中にジラルダン夫人にすすめられてユゴーがふけった交霊術の影響も加わって、詩人の瞑想は、人間の運命から天地創造の秘密をめぐる問題などの世界観へといっそう内面的な深まりを見せている。「我行かん」には、宇宙の真理をきわめるために無限の空間に向かって飛びたとうという抱負がうたわれる。「闇の口の語ったこと」は、詩人の宗教哲学観のひな型とも言える詩編で、そこには悪は物質であり重さであること、宇宙の万物は神を頂点とする段階的な存在をなしていること、苦悩や愛による贖《あがな》いを経て万物は神のもとまでのぼってゆくこと、というような彼独特の黙示録《もくしろく》的な世界観が展開されている。また、これらの詩編では、悪徳はモグラ、犯罪は蛾《が》、宇宙はヒュドラというように、抽象的な観念が比喩的、視覚的なイメージを与えられて、象徴の世界をつくりあげている。ユゴーがときに最初の≪見者《ヴォワイヤン》≫とみなされるわけもそこにある。フランス近代詩史上の傑作のひとつと言える作品である。
諸世紀の伝説
叙事詩集。第一集は一八五九年、第二集は一八七七年、第三集は一八八三年というように三度にわたって刊行された。なお、一八八三年には、この三つの詩集に収められた詩編を、人類史の年代にしたがって編集した決定版が出版された。
『諸世紀の伝説』に収められた詩編は一八四〇年から約四十年の年月にわたって制作されているが、ユゴーはこの詩集に≪自由≫と≪理想≫を求めて世紀から世紀へと歩みながら進歩してゆく人類の姿を描こうとした。「世紀から世紀への人類の開花、暗黒から理想へ昇ってゆく人類の姿、地獄のような現世の天国への変貌、緩慢《かんまん》ではあるが、至高な自由の誕生、この世への権利、あの世への責任……神の顔によって照らされた天地の万物のドラマ、この詩集は完成された暁にはこのような全貌を示すであろう」(第一集の「序文」)
『諸世紀の伝説』はイヴからキリストまでをあつかった原始時代からはじまり、ギリシア神話の時代、ギリシア時代、退廃期のローマ、中世、ルネサンス、十七世紀、フランス革命から第二帝政期へかけての時代等の歴史の各時期を、多彩でたくましい数多くの詩編によって描きだしている。これらの詩編の中では聖書の物語にテーマを得た「良心」や「眠れるボアズ」、中世の武勲詩に霊感を仰いだ「ロランの結婚」「エームリヨ」「エヴィラドニュス」、デンマーク王クヌーズ二世を描いた「父親殺し」などがすぐれている。また、この詩集の思想を要約したといってもさしつかえない「サテュロス」や人間の善意をうたった「哀れな人々」なども傑作である。
ユゴーはその初期の詩集からすでに叙事詩人としての腕まえを発揮していた。また彼はジラルダン夫人からの交霊術の影響やサン=シモン主義者やフーリエ主義者などの空想的社会主義者の影響もあって、人類の進歩に対する宗教的、社会的な信念をいだき、この信念を叙事詩によって表現しようと考えていたが、こうした抱負は『諸世紀の伝説』によって実現を見たと言える。弟殺しの罪をおかしたカインを墓穴の中までも追った≪良心≫は、中世では、父親を殺したクヌーズ二世を追い、また、悪人を倒して女領主を救う騎士エヴィラドニュスの魂にあざやかに生きつづける。また、この≪良心≫は、現代ではあたたかい人間愛としてまずしい漁夫の胸に美しく燃え(「哀れな人々」)、二十世紀には平和な世界共和国を実現させるであろう(「大空」)。
ユゴーはさきにも述べたように、万物はついには神のもとにまでのぼってゆくと考えていた。この意味でこの詩集は、一八五〇年代に書かれ、のちに遺作として出版された二つの叙事詩『サタンの終わり』(一八八六)『神』(一八九一)と密接な関係をもっている作品である。
『諸世紀の伝説』は史実の正確さや各詩編のあいだの緊密な関係を欠いているが、雄大で変化に富んだ作風によって、叙事詩にとぼしい近代フランス文学にきわめてすぐれた位置を占めている。
レ・ミゼラブル
ユゴーの人道主義思想を代表する小説。一八六二年刊行。ユゴーは一八三〇年の少し前からこの作品の制作を志し、一八四〇年以後最初のプランを立てた。そして、このプランにしたがって一八四五年から四八年にかけて初稿(『レ・ミゼール』)を書いたが、この仕事は二月革命のために中断された。一八五一年から亡命したユゴーはしばらくのあいだ他の作品に没頭したが、一八六〇年四月からこの作品の仕上げにとりかかり、数多くの章をつけ加えて、翌年六月に一応完成し、一八六二年にパリとブリュッセルから、ほとんど同時に出版した。
貧しい姉の一家を飢えから救おうとしてパンを一個盗んだのがもとで、十九年間を獄中に過ごした枝おろしの職人ジャン・ヴァルジャンは、社会に対する深い憎悪をいだいて出所する。しかしその夜、神のようなミリエル司教によって≪兄弟≫としてもてなされ、その影響で良心がめざめて、彼は贖罪《しょくざい》の生活にはいる。彼はその後、ある町に工業をおこしてこれを富ませ、愛の精神にみちた慈善を行ない、人々から尊敬されて市長になる。その後、彼は数々の苦難にみまわれるが、これにうちかって、ファンチーヌという売春婦の娘コゼットを育てる。彼は、反乱軍に加わって負傷したコゼットの愛人マリユスを命を賭《と》して救い、愛するふたりを結婚させて死んでゆく。ジャン・ヴァルジャンは再生を自分に教えたミリエル司教の精神に生きて、聖者の死を遂げたのである。
『レ・ミゼラブル』は「人と作品」の項でも述べたように、不当な圧迫を加えられている民衆に同情して、地上から無知と悲惨を追放しようとする民主主義的、人道主義的な意図で書かれている。ユゴーのこのような社会的意図は、この作品の出版をしたときに、ラマルチーヌに宛てた手紙にもはっきり述べられている。
「そうです、人間に望むということがゆるされているかぎり、私は人間の不運を根絶やしにしようとし、奴隷的な境遇を禁止し、悲惨を追いはらい、無知を教育し、病気を治療し、夜を照らし、憎悪を憎みます。……私はそうした気持ちで『レ・ミゼラブル』を書いたのです。」(一八六二年六月二十四日付)
このような社会的な意図と同時にこの小説は、≪万物は苦悩によってその罪をつぐない、ついには神のもとにまでのぼってゆく≫という、彼の宗教観をジャン・ヴァルジャンという個人を通じて描こうとした作品であるとも考えられる。
そして、こうした意図が詩的な手法で壮大にうたい出されるところに、この作品の大きな特徴がある。ユゴーは青年のころから、小説と叙事詩を融合させた作品を制作しようと考えていた。『レ・ミゼラブル』の登場人物も、多くの叙事詩に見られるように典型化、理想化して描かれているうえに、作中には詩的で、ロマンチックな描写が数多くちりばめられている。またユゴーは、この小説にも「ワーテルロー」「プチ=ピクピュス」「隠語」「巨獣のはらわた」などいくつもの余談を挿入して、社会のあらゆる様相を描こうとする抱負を示している。『レ・ミゼラブル』は刊行直後全ヨーロッパの読書界に大きな反響をまき起こし、その後も世界文学の傑作として各国で愛読されている。
九十三年
ユゴーの最後の小説。一八七四年出版。フランス革命当時のヴァンデの反乱に取材した歴史小説であるが、典型化、理想化された登場人物を通じて作者がその革命観を表現しようとしている点では思想小説とも言える。
フランス革命がたけなわだった一七九三年に、老公爵ラントナックは、ヴァンデ、ブルターニュ両地方の王党派の反乱軍を指揮して、共和政府軍を撃滅しようとする。共和政府側は還俗《げんぞく》した神父シムールダンを戦地に派遣し、ラントナック軍を追いはらおうとしていた討伐隊長ゴーヴァン(ラントナックの甥の子)のお目付役とする。なお、シムールダンはゴーヴァンの少年時代にその家庭教師をつとめ、これを熱愛して教え子に共和思想を植えつけた。ラントナックはある城に立てこもるが、戦い利あらず、共和政府軍から人質にしていた三人の幼児を残し、城に火をはなって脱走しようとするが、焼け死のうとする子供たちの母親の悲痛な叫び声を聞き、城にひきかえして子供たちを救う。彼はシムールダンに捕えられて投獄されるが、理想家肌のゴーヴァンは敵将の人道主義的な行為に感激して、ラントナックを脱獄させる。峻厳《しゅんげん》なシムールダンはゴーヴァンを断頭台に送り、その首が打ちおとされた瞬間に、愛弟子《まなでし》のあとを追って自殺する。
ユゴーはラントナックに旧貴族の反革命精神を、シムールダンに峻厳な革命の精神を、ゴーヴァンには、作者がつねに抱きつづけてきた寛大な人間愛の精神にみちた革命精神を体現させている。そして、自己のイデオロギーの中に閉じこめられた人びとに語りかける人間の≪良心≫のすさまじい力というものを描きだしている。この小説は、『レ・ミゼラブル』『ノートルダム・ド・パリ』『海に働く人びと』などと同じように、≪環境に対して戦う人間≫を描いたものであるが、ロマン主義の小説に特有な若々しい劇的な生命力を、ロマン派の没落後四分の一世紀ほど延長させたということができる。
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訳者あとがき
この翻訳は最初一九五〇年に河出書房から刊行されたが、その後岩波文庫、研秀出版社、潮出版社、講談社からというように、数度にわたって改版が出版されてきた。われわれはあたえられた改版の機会ごとに誤りを直し、またできるかぎり平易な文体にすることを心がけてきた。今回グーテンベルク二十一社から電子出版されるにさいしても、さらに今一度目を通して正すべきところは正したが、なにぶん中世の社会を子細に取り扱った作品なので、難解な箇所が多く、思わざる誤訳もあると思う。識者のご教示を頂ければ幸甚である。なお、翻訳の分担は第六編までが辻、以後が松下である。翻訳の底本としては、クラシック・ガルニエ版を用い、オランドルフ版、クラブ・フランセ・デュ・リーヴル版、プレイヤード版、ラフォン版等を参照した。
この翻訳をわれわれが初めて世に出してからすでに半世紀に近い歳月が流れた。その間、いまは亡き辰野隆、鈴木信太郎、渡辺一夫の諸先生をはじめ、多くの先輩や友人たちから懇切なご教示をいただいたことを深い感慨の念とともに思い起こさずにはいられない。ここにあらためて心から感謝申し上げる次第である。
なお、今回、この翻訳を新しい形で世に問う機会と数々のご厚情を頂いた大和田伸氏、また、このたび出版に際して種々ご指導を仰いだ久保正彰氏、ジャケール神父、朝日新聞社の安達周氏に衷心からお礼を申し上げる次第である。この出版を快くお許し下さった講談社にも深く感謝申し上げたい。
一九九七年二月 辻昶