九十三年
ヴィクトル・ユゴー/榊原晃三訳
目 次
はじめに
第一部 海の上
第一編 ラ・ソードレの森
第二編 コルヴェット艦クレイモア号
一 英仏協同
二 夜は艦と乗客を包む
三 貴族、平民入り乱れる
四 複雑な武器
五 暴力と人間
六 秤の両皿
七 航海は宝くじのようなもの
八 九対三百八十
九 のがれる人
十 にげきれるか?
第三編 アルマロ
一 人の言葉は神の言葉
二 百姓の記憶は将軍の知識にひとしい
第四編 テルマルク
一 砂丘の頂上
二 耳があっても聞こえない
三 大きな文字の効用
四 乞食
五 ゴーヴァンというサイン
六 内乱の有為転変
七 ゆるすな 助命するな
第二部 パリ
第一編 シムールダン
一 そのころのパリの通り
二 シムールダン
三 アキレスの弱点
第二編 パン街の酒場
一 地獄の裁判官
二 大声が影をつらぬき、とどろいて証言する
三 心の琴線のおののき
第三編 国民公会
一 国民公会
二 黒幕マラ
第三部 ヴァンデ
第一編 ヴァンデ
一 森
二 人々
三 人と森との共犯
四 地下の生活
五 戦時の生活
六 土の魂が人にしみとおる
七 ヴァンデがブルターニュの結末をつける
第二編 三人の子ども
一 内乱より以上のもの
二 ドル
三 小部隊と大戦闘
四 これで二度め
五 冷水のしたたり
六 なおった胸、いたむ心
七 真理の両極
八 悲しむ母
九 いなかの城塞
十 人じち
十一 むかしのようにおそろしい
十二 救出が計画される
十三 侯爵がしたこと
十四 イマーニュスがしたこと
第三編 聖バルテルミーの大虐殺
第四編 母親
一 死が通る
二 死が話す
三 百姓たちのつぶやき
四 かんちがい
五 荒野にきく声
六 戦況
七 攻撃準備
八 言葉とほえ声
九 巨人対巨人
十 ラドゥーブ
十一 絶望した人々
十二 救い主
十三 死刑執行人
十四 イマーニュスもにげる
十五 時計と鍵を同じポケットにいれるな
第五編 悪魔の中に神がやどる
一 見つけたが、また見失う
二 石のとびらから鉄のとびらへ
三 眠っていた子どもたちが目をさます
第六編 勝利ののちに戦いがおこる
一 とらえられたラントナック
二 考えこむゴーヴァン
三 指揮官の頭巾
第七編 封建制度とフランス大革命
一 先祖
二 軍法会議
三 評決
四 シムールダン、裁判官のあとで支配者となる
五 牢獄
六 しかし太陽はのぼる
解説
フランス革命のあらまし
ヴィクトル・ユゴーの人と作品
フランス革命年表
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はじめに
『九十三年』はヴィクトル・ユゴー七十歳のときの作品である。
十九世紀最大の詩人、『レ・ミゼラブル』の作家ユゴー、ルイ=ナポレオンのクー・デタからパリ・コミューンまでフランス政局に大きな影を落とした政客ユゴーが、さながら黄昏《たそがれ》を前にして最後の光芒《こうぼう》を放つ太陽のように、生涯の理念と熱情を傾けつくして雄渾《ゆうこん》に描いた、フランス大革命の一大壁画である。
この小説はふつう歴史小説と銘《めい》うたれているが、明敏な読者なら、トルストイの『戦争と平和』や同じユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』などとは、おおいに趣を異にしている点にお気づきだろう。
たしかに、この小説は、ふつうの歴史小説もしくは革命小説としては割り切れない要素を含んでいる。
そもそも、ユゴーがこの小説を書こうと思いたったのは一八六三年ごろで、実際に完成したのは一八七三年だった。つまり、この小説は萌芽《ほうが》から完成まで、実に十年の歳月を要しているのである。
この十年間に、もちろんユゴーは無数の詩を書き小説を完成して、文学者として大活躍している。しかし、この小説の成立にとってもっとも大切なことは、その十年間に味わった政治家としての体験だった。この十年、ユゴーはあるいは国外追放の憂き目に会い、あるいは普仏戦争ではパリ政略戦と祖国の敗戦をまのあたりにし、あるいはパリ・コミューンの乱ではブリュッセルに亡命した。ほとんど席のあたたまるひまとてない十年……その十年間にユゴーが目撃した革命の擾乱《じょうらん》と流血の悲惨、古きものの名残りと若き血潮の雄叫《おたけ》び……それらが、青年時代より脳裡《のうり》に焼きついて離れなかった革命への想念と結びつき、しかも、たえざる思索によって鍛《きた》えられて結実した作品、それこそ『九十三年』だったのである。
『九十三年』には三人の主要人物が登場する。ひとりはヴァンデ軍の総指揮官、反革命精神を具現《ぐげん》する鉄の人ラントナック侯爵、ひとりは民衆の友であり母であり、大革命当時の革命家群を代表するシムールダン、そして、この二人の間で、あたかも吹きすさぶ嵐の中に立つ葦《あし》のように揺さぶられながら、なおかつ新しい理念を求め、ヒューマニズムの灯りをさぐったゴーヴァンである。
しかも、鉄の意志を持って非情無残だったはずのラントナックが、なぜ、みずからを危機に陥《おとしい》れてまで子供を救わねばならなかったか? ≪恐怖政治≫の執行者たる冷静水のごときシムールダンが、なぜ、ゴーヴァン処刑後に自殺しなければならなかったか? そして熱血の革命児といわれたゴーヴァンが、なぜ、最後には、自己の思想を裏切らねばならなかったか?
ここに、『九十三年』の一大テーマがひそんでいるとともに、ユゴーの革命の理念、いや、ヒューマニズムの一大理想がきらめいているのである。
すでに『九十三年』は、単なる歴史小説、革命小説の枠を脱して、人間小説そのものとなっている。とくに、作中、ゴーヴァンの思想と足跡を詳細にたどれば、これはおのずから明らかになるだろう。
それから、また、フランス大革命を理解するのに、これほどのよい教科書はまたとないだろう。全編に登場する端役《はやく》の人間像たち、いや森羅万象、一木一草たりとも、この動乱の時代の息吹《いぶ》きに燃えているのである。
本訳書が、新しい時代の理念を求める若い人々の思索の糧《かて》になれば幸いである。(榊原晃三)
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第一部 海の上
第一編 ラ・ソードレの森
一七九三年五月末のことだった。サンテール将軍にひきいられ、ブルターニュ地方へ派遣されたパリの歩兵一個大隊は、アスティエ地方の、あのおそろしいソードレの森の中で敵をさがし求めていた。一個大隊といっても、この隊はあのはげしい戦いで大半の兵士を失い、三百人ほどが残っているだけだった。アルゴンヌ、ジェマップ、ヴァルミの各戦闘ののち、六百人の義勇兵からなっていたパリ第一大隊は二十七人に、第二大隊は三十三人に、そして第三大隊は五十七人にまでへっていた。それほど凄惨《せいさん》な戦いの時代だったのだ。
パリからヴァンデ〔ブルターニュ半島東南部にある県。ヴァンデの反乱を主題とする本小説の舞台〕に派遣された一個大隊は九十二名の兵からなり、各大隊はそれぞれ大砲を三門ずつ持っていた。どの隊も急いで編成されたものだった。ちょうど、ゴイエが司法大臣をつとめ、ブーショットが陸軍大臣のいすについていたときだったので、四月二十五日、ボン・コンセイユ地区から、ヴァンデへ数個大隊の義勇兵を送るべしという提案が出された。この提案は、コミューヌ〔一七八九年から九五年のあいだ、パリ市民がつくっていた革命的な自治体で、王政打倒、普通選挙を促進。義勇軍を地方へ派遣したり、国民公会を監視したりした〕の議員リュバンによって、総会に報告されたが、五月一日にはもうサンテール将軍は一万二千の兵、三十門の野砲、それに一個大隊の砲兵をととのえ、出動準備を完了していた。この派遣軍は急いで編成されたものではあったが、じつにみごとに編成されていて、今日でも模範とされているほどである。現在でも、第一線部隊の兵員編成は、このときの編成を手本にして組まれている。つまり、この部隊は、それ以前の兵と下士官の数の割り合いを大幅に変えているのである。
四月二十八日、パリ・コミューヌは、サンテール将軍にひきいられる義勇兵たちに、『敵をいささかも容赦せず、一兵たりとも助命すべからず』という命令をくだした。ところが、パリをあとにした一万二千の義勇兵は、五月末には、すでに八千の兵員を失ったのである。
ラ・ソードレの森へわけ入った大隊は用心しながら進んだ。左右を見、前後のようすをうかがいながら、ゆっくり前進した。クレベール将軍は、そのようすを、『兵士は背中にも目をひとつ持っている』と評した。長い長い行軍だった。いったい今は何時ごろだろう? 昼であることはわかるのだが、昼の何時だと言いあてるのは、とてもむずかしかった。それはとても深い大自然の森なので、たそがれの薄日のような日光がもれてくるだけで、明るい光が輝くなどということは、まずなかった。
ラ・ソードレは血なまぐさい悲劇の森だった。一七九二年十一月以来、この森の中では内乱のために数々の罪がおかされてきたのだ。あの残忍なびっこのムースクトンもこの森の不吉なしげみの中から現われたし、頭髪をさか立たせるような殺人もこの森で数知れずおこなわれていた。これほどおそろしい森は、ほかにはぜったいにあるまい。兵士たちは用心しながら森の奥深く進んでいった。あたりには花が咲き乱れ、ゆらめく小枝の壁にかこまれたような兵士たちに、すがすがしい木の葉の涼気がふりそそいでいた。
あちこちで、日の光が暗い緑の葉かげに穴をあけていた。地面には、グラジオラス、沼地のしょうぶ、野生の水仙、天気のよいことを告げてひらくあのかわいいジェノット、春のサフランなどが咲き乱れている。青虫そっくりの模様から星のような模様まであるいろいろのこけ類が、厚い植物のじゅうたんをしきつめたように広がり、その緑の地に刺繍《ししゅう》をほどこしたように、花ばなが咲きほこっている。兵士たちは黙りこくって、しげみをかきわけながら、一歩一歩ゆっくりと前進していった。兵士たちが持っている銃剣の上で、小鳥たちがさえずっていた。
まだ戦乱のおこらない平和なころ、ラ・ソードレの森は、『ウィシュ・バ』と呼ばれる夜の鳥猟《ちょうりょう》がよくおこなわれる場所のひとつだった。それが今は、この森も人間がおそわれる場所になっていた。
森には、かばや、ぶなや、かしの木がたくさんしげっていた。地面は平らで、厚く生えたこけや草が人の足音を消していた。小道などは一本もなく、小道らしいものがあったとしても、ひいらぎや、野生のりんぼくや、しだや、えにしだや、背の高い野イバラの垣根《かきね》でさえぎられてしまうのだった。十歩さきをいく人のすがたを認めることさえ不可能な深い森だった。
ときどき、アオサギやクイナが枝のあいだをとびかい、それで、近くに沼地のあることがわかるのだった。
兵士たちはなおも前進をつづけた。胸は不安にみたされ、さがしている敵に出くわさないかとおそれながら、あてずっぽうに歩いていた。
ときどき、野営のあとや、たき火をしたあとや、踏みにじられた草や、枝を組みあわせたありあわせの十字架や、血のついた棒切れなどが見つかった。ここでスープが煮られ、あそこでミサがとなえられ、その向こうで負傷兵が傷の手あてを受けた、などということがはっきり読みとれた。しかし、そこからでていった敵はまるきり消えうせてしまっていた。いったい敵はどこにいるんだろう? 多分、もうずっと遠くへ逃げてしまったのだろう。いや、ひょっとすると、手に手にラッパ銃をかまえて、すぐ間近に隠れているかも知れない。森はひっそりとして、人の気配はまったくなかった。大隊はいっそう警戒をきびしくした。あたりの静けさがよけいに兵士たちの神経をたかぶらせるのだ。だれにも会わないから、よけいにだれかに会うのではないかと疑うのだ。なにしろ、彼らは悪名高い森に踏みこんでいるからだった。
どこかに伏兵がいるかも知れなかった。
三十名の選抜兵が斥候隊《せっこうたい》として、ひとりの軍曹《ぐんそう》にひきいられ、本隊のかなり前方を進んでいた。その斥候隊には、大隊の従軍物売女《ヴィヴァンディエール》がみずから進んでくっついていった。いったい従軍物売女たちは先頭部隊に加わるものだった。先頭部隊は危険にさらされているかわり、なにか変わったものにお目にかかるということにもなる。好奇心は女性の勇気のひとつの形なのだ。
とつぜん、この小さな先頭部隊の兵士たちは、狩人がねらう獲物の巣が近いときにやるように身ぶるいをした。生いしげった木々のあいだに、人が息をするような音がきこえ、木の葉の中に人の動くのを見たような気がしたのだ。兵士たちはたがいに合図をかわした。
斥候《せっこう》たちにまかされた見張りや探索に、士官があれこれ指示をあたえる必要はまったくないものとされていた。すべては兵士たちの手でてきぱきとかたづけられていくのだ。
すぐさま、人の動きがあったとおぼしき場所は兵士たちによって取りかこまれ、銃口が輪になって、その場所へ向けられた。とくに、しげみのまんなかの暗いところは四方八方からねらわれた。兵士たちは引き金に指をあてて、あやしい場所をにらみ、軍曹の発砲命令を今やおそしと待ちかまえていた。
いっぽう、従軍物売女《ヴィヴァンディエール》もそれまで大胆にしげみごしに見すかしていたが、まさに軍曹が「撃て!」と号令をかけようとしたとたん、「待って!」と、叫び声をあげた。
そして兵士たちのほうをふり向くと、「撃っちゃいけないよ、戦友《カマラード》たち!」と、どなった。
そして、彼女はしげみの中へとびこんでいった。兵士たちもあとにつづいた。
たしかに、そこには人間がいた。
しげみに厚くおおわれた中心部には、木の根をやいて炭にするとき、森の中によくできるような小さな空地があいていて、そのふちにあるしげみのいちばんこんもりとしたところ、寝所《アルコーヴ》のように口をひらいた木の葉でできている小部屋みたいな、木の枝のあいだにほられたくぼみに、ひとりの女がいた。両手であかん坊を抱いて乳をふくませ、ひざには眠っている二人の金髪の子どもの頭をのせて、こけの上にすわりこんでいた。
これが伏兵だったのだ。
「あんた、こんなとこでなにをやってるんだい?」と、従軍物売女《ヴィヴァンディエール》が叫んだ。
女が頭をあげた。
従軍物売女がはげしい口調で言った。
「こんなところにいるなんて、気でもくるったのかい?」と彼女は言葉をつづけた。「もう少しで、四人とも殺されちまうところだったんだよ」
それから従軍物売女は兵士たちに向かって言った。
「女だよ」
「そんなこと、見りゃ、おれにだってわかるよ!」と、ひとりの兵士が言った。
従軍物売女《ヴィヴァンディエール》はなおもしゃべりつづけた。
「森の中へわざわざ殺されにくるなんて! そんなばかな考えをよくもおこしたもんだね!」
女はびっくりして、まるで化石になったみたいなようすだった。そして、まわりの小銃や、サーベルや、銃剣や、おそろしい顔を、まるで夢の中で見ているようにながめた。
二人の子どもが目をさまして泣きだした。
「おなかがすいたよう!」と、ひとりが言った。「こわいよう!」と、もうひとりが叫んだ。
あかん坊は乳を吸いつづけていた。従軍物売女《ヴィヴァンディエール》がそのあかん坊に話しかけた。「そうだよねえ、おなかがすいてるんだものねえ」
母親のほうはおそろしさのあまり口がきけなかった。
その母親に軍曹が大声で言った。
「こわがらんでもいい。おれたちは赤帽大隊《ボネ・ルージュ》のものなんだ」
女は頭のてっぺんからつまさきまでふるわせた。そして軍曹を見つめたが、軍曹のいかつい顔には、二本の眉毛と、口ひげと、燃える炭火のように輝く二つの目しか見えなかった。
「以前の赤十字大隊《クロワ・ルージュ》なんだよ」と、従軍物売女《ヴィヴァンディエール》が言いそえた。
つづけて軍曹がたずねた。「あんたはなにものなんだね、おかみさん?」
女はおそろしそうに軍曹をじっと見つめていた。彼女は若いが、やせこけて顔は青白く、ぼろをまとっていた。ブルターニュ地方の百姓女がつける大きな頭巾《ずきん》をかぶり、首のまわりに毛布をひもでくくりつけていた。よく乞食《こじき》女などに見かけるように、むとんぢゃくに胸をはだけ、靴《くつ》も靴下もはいていない足からは血を流していた。
「乞食だな」と、軍曹が言った。
従軍物売女《ヴィヴァンディエール》が軍隊風の、といっても底にはやさしい女らしさをこめた調子で、たずねた。
「あんた、名前はなんていうんだね?」
「ミシェール・フレッシャール」
女が口ごもりながら、ほとんど聞きとれないくらいにつぶやいた。
そのあいだ、従軍物売女は大きな手であかん坊の小さな頭をなでてやっていた。
「このチビはいくつなんだね?」と彼女がたずねた。
母親にはその意味がわからなかった。従軍物売女《ヴィヴァンディエール》がもう一度言った。
「この子はいくつかってきいてるんだよ」
「ああ!」と母親が言った、「一年と六カ月になります」
「じゃあ、もう大きいじゃないの」と、従軍物売女が言った。「もうお乳なんか飲ませちゃいけないよ。乳ばなれさせなきゃ。スープをやってみよう」
母親はやっと安心し始めていた。目をさました二人の子どもも、こわがるというより、好奇心をいだき始めていた。軍帽の羽飾りに見とれていた。
「ああ!」と、母親が言った。「子どもたちはおなかをすかしているんです」
それから、こう言いそえた。「もう、わたしの乳もでないんです」
「子どもたちにたべものをやろう」と、軍曹が叫んだ。「あんたにもやろう。だが、その前に、ちょっときいておくことがある。あんた、政治にはどういう意見を持ってるんだ?」
女は軍曹を見つめたまま、なにも答えなかった。
「おれのきいていることがわかったのか?」
女が口ごもりながらしゃべりだした。
「わたしは小さいころに修道院へやられました。でも、結婚しましたから、尼さんじゃありません。尼さんたちがフランス語のしゃべりかたを教えてくれました。村がやかれたとき、おおいそぎで逃げてきたので、靴をはくひまもありませんでした」
「おれがきいているのは、あんたの政治に対する考えなんだ」
「そんなこと、わたし、わかりません」
軍曹はなおもたずねた。
「このへんには女のスパイがいる。スパイだとすると銃殺だぞ。さあ、言うんだ。おまえはジプシーじゃあるまい。おまえの祖国《パトリ》はどこなんだ?」
女はまだ言うことがわからないというように軍曹を見つめていた。軍曹がまた質問をくりかえした。
「おまえの祖国《パトリ》はどこなんだ?」
「わかりません」と、女が答えた。
「なんだと! 自分の生まれた国がどこか知らんというのか!」
「ああ、故郷《くに》ですか。それなら知ってます」
「それじゃ、おまえの故郷《くに》はどこなんだ?」
「アゼ教区にあるシスコワニャール小作地です」
こんどは軍曹のほうがぽかんとしてしまった。しばらく考えていたが、やがて、また口を切った。
「なんと言った?」
「シスコワニャールです」
「そりゃ祖国《パトリ》じゃない」
「でも、わたしの故郷《くに》です」
そして、しばらく考えていたが、彼女はこう言いそえた。
「ああ、わかりましたよ。あなたはフランスのかたで、わたしはブルターニュのものです」
「それで、どうだと言うんだ?」
「だから、同じ故郷《くに》じゃないでしょう」
「それでも、同じ祖国《パトリ》だ!」
軍曹がどなった。
しかし、女は同じことをくりかえすばかりだった。
「わたしはシスコワニャールのものです」
「よし、シスコワニャールにしておけ」と、軍曹が言った。「おまえの家族もシスコワニャールのものなんだな?」
「ええ、そうです」
「今、どうしている?」
「みんな死んでしまいました。わたしはひとりぼっちです」
軍曹はなかなか口達者《くちたっしゃ》な男で、さらに質問をつづけていった。
「あたりまえだ。だれだって両親がある! 今はなくとも、もとはかならずあったはずだ。で、おまえはだれなんだ? それを言ってみろ」
女は、人間の声というより野獣の吠《ほ》え声みたいな『もとはかならずあったはずだ』という軍曹の言葉を、肝《きも》をつぶして聞いていた。
従軍物売女は二人の中に割ってはいってやらなければならないと思い、また乳を吸っているあかん坊の頭をなでたり、二人の子どものほおを軽くたたいてやったりした。
「この女のあかん坊はなんて名前だね?」と、彼女はたずねた。「この子は女なんだろ?」
「ジョルジェットといいます」と、母親が答えた。
「この大きいほうの男の子は? なかなかきかん坊らしいやね」
「ルネ=ジャン」
「じゃ、下のほうは? これも男の子だろう。どうだい、このほっぺた、ぽちゃぽちゃふくらんでさ」
「グロ=ザランです」と、母親が答えた。
「みんな、いい子だねえ」と、従軍物売女《ヴィヴァンディエール》が言った。「もう、いっぱしの男みたいな顔をしてるじゃないか!」
しかし、軍曹のほうは、なおもしつこく質問をつづけた。
「さあ、返事するんだ、おかみさん。おまえ、家はあるのか?」
「もとはありました」
「どこにだ?」
「アゼにです」
「なぜ家にいない?」
「やかれたんです」
「やかれたって、だれに?」
「知りません。戦争があって、やけちまったんです」
「で、どこからきた?」
「家からです」
「今からどこへいく気だ!」
「わかりません」
「話をもとにもどそう。いったいおまえはだれだ?」
「わかりません」
「自分がだれだかわからんのか?」
「こうやって逃げまわってる人間です」
「おまえはどの党を支持しているんだ?」
「知りません」
「おまえは共和党《あお》か、王党《しろ》か? どっちについているんだ?」〔ヴァンデ反乱のとき、共和政府軍の兵士は青い軍服を着、王党の歩兵は白い軍服を着ていたので、こういう呼称があった〕
「わたしは子どもたちについています」
しばらく沈黙がつづいた。やがて従軍物売女《ヴィヴァンディエール》が口をひらいた。
「わたしは子どもは作らなかったよ。作ってるひまなどなかったからね」
軍曹がまたしゃべり始めた。
「それにしてもおまえさんの両親はどうしたんだ? おかみさん、おまえさんの両親の話がききたいんだ。おれはね、ラドゥーブという軍曹だ。生まれはシェルシュ・ミディ街でな、おやじもおふくろも、そこの出身だ。ほら、おれでも、こうして両親の話ができる。さあ、こんどはおまえさんの番だ。両親がどんな人間だったか、きかしてもらおう」
「フレッシャールという名前でした。それだけです」
「ああ、そうだろうともよ。ラドゥーブ家の人間がみんなラドゥーブって名前を持ってるように、フレッシャール一家のものはみんなフレッシャールって名前なんだ。だがな、人間ってものは、それぞれ仕事ってものを持っている。そこで、おまえさんのおやじはどんな仕事をしていたんだい? なにをしてたんだい?今もなにかやってるのかい? いいか、どこどこで、なにをしていたんだい、その、おまえさんの両親のフレッシャールという人は?」
「百姓をしていました。でも、わたしのおとっつぁんは、かたわもので、仕事はできませんでした。ご領主さまが、おとっつぁんのご領主さまが、わたしたちのご領主さまが、おとっつぁんをむちでたたかせたからです。それは、ほんとにご親切なお心からされたことでした。おとっつぁんは、うさぎを一ぴきとったんですから。ふつうなら死罪になってもいい罪なんですが、ご領主さまはお慈悲でこうおっしゃいました、『むちうち百でよかろう!』って。それから、おとっつぁんはかたわものになっちまったんです」
「それから?」
「じいさまは新教徒でした。それで司祭さまがじいさまを漕徒刑《ガレール》〔船でかいをこぐ刑罰〕に送ってしまいました。わたしがまだ小さいころのことです」
「それから?」
「うちの亭主のおとっつぁんは、塩の密輸をやっていましたが、とうとう王さまのご命令でしばり首になりました」
「それで、おまえのご亭主は、なにをしてるんだ」
「このところ、戦争に出ていました」
「だれの味方だい?」
「王さまの味方です」
「それから?」
「そりゃ、もちろん、ご領主さまのためです」
「それから?」
「もちろん、司祭さまのためです」
「畜生どもの名前ばっかり並べやがって!」と、ひとりの兵士がわめいた。
女はまたびっくりして、からだをふるわせた。
「おかみさん、実はね、わたしたちゃ、パリからやってきたのさ」と、従軍物売女《ヴィヴァンディエール》がやさしく言った。
すると、女が両手を合わせて叫んだ。
「おお、神さま、主イエスさま!」
「迷信はやめるんだ」と、軍曹が言った。
従軍物売女は女のそばにすわると、自分のひざのあいだに、いちばん上の男の子を引きよせた。子どもはされるままになっていた。だいたい、子どもというものは、べつにたいした理由もないのにおびえるかと思うと、安心もするのである。それだけ、子どもは内部に物事を予知する力を持っているのだ。
「おかみさん、あんたはこのへんの人なんだね。いい人なのに、気の毒にねえ。でもさ、おまえさんには、こんなにかわいい子どもが三人もいる。子どもはいつでもかわいいものさね。ひとつ、この子たちの年をあててみようか。いちばん上の子が四つ、つぎの子が三つだろう? まあ、まあ、いちばん下の子はわき目もふらずにおっぱいにむしゃぶりついてるけど、いやしんぼうだねえ。まったくおそろしい。そんなにおっかさんにかみつくんじゃないよ! ねえ、おかみさん、あんたもこの大隊にはいらないかい? なに、こわいことなんかありゃしないさ。わたしがしてるようなことをやってりゃいいんだからね。わたしゃ、ウザルドっていうんだよ。これはあだ名なんだけどね。でも、うちのおっかさんみたいにビコルノーなんて呼ばれるより、ウザルドって呼ばれるほうが、ずっと気にいってるのさ。わたしゃ女酒保《カンティニエール》なんだけどね、撃ちあいや殺しあいの合間に、いっぱい飲ましてやるのが役目なのさ。つまり、悪魔のおともってわけさね。
ねえ、あんたの足、だいたいわたしの足と同じ大きさだから、わたしの靴を一足あげるよ。あの八月十日の日にゃ、わたしゃパリにいたのさ。ヴェステルマンにも飲ましてやったもんさ〔一七九二年八月十日、パリ市民は暴動をおこして、テュイルリー宮殿をおそう。ヴェステルマンは先頭に立って活躍した人物〕。あの男もえらくなったねえ。それから、ルイ十六世が断頭台にかけられるのも見たんだよ。今じゃ、みんな、あの男のことをルイ・カペって呼びすてにしてるからね〔八月十日の暴動のあと、国王は平民の名でルイ・カペと呼ばれるようになった〕。もちろん、あの男だって首をちょん切られたいなんて思っちゃいなかっただろうねえ。おかみさん、まあ、おききよ。一月十三日にゃ、あの男は栗《くり》をやかせてみたり、女房とわあわあ笑いあったりしてたんだよ! それがさ、あの、みんながシーソーって呼んでる板の上に寝かされたときにゃ、上衣も靴もつけてなかったんだからね。シャツ一枚と、ピケ織りのチョッキと、ねずみ色のラシャの短ズボンにやっぱりねずみ色の絹靴下をはいていたきりなんだ。みじめだったね。そいつを、この目でちゃんと見たんだ。あの男を断頭台まで運んできた馬車は青色にぬられてたっけ。
ねえ、おまえさん、わたしたちといっしょにおいでよ。この大隊の兵隊はみんないい人ばっかりだよ。おまえさんは、二人めの女酒保《カンティニエール》ってことになるのさ。なあに、商売のことはみんな、わたしが教えてあげるよ。そんなにむずかしいことなんかありゃしないよ! 水筒と鈴を持ってさ、どんどんぱちぱちやってる中へはいっていくんだ。いっせい射撃のさいちゅうだろうが、砲撃ちゅうだろうが、かまやしない。ごったがえしてる連中の中へとびこんでいって、『だれかいっぱい飲みたいやつはいないか!』って、どなりゃいいんだよ。むずかしいことなんかひとつもない。わたしゃ、飲みたいっていうやつがいりゃ、だれかれなく飲ませちまうんだ。ああ、ほんとうだよ、王党《しろ》だろうが、共和党《あお》だろうが、そんなこたあ、かまやしない。このわたしはれっきとした共和党《あお》なんだけど、みんなに飲ましてやるんだ。負傷兵はのどをかわかしているからね。死んでいくとき、だれだって意見のくいちがいなんかありゃしない。死んでいく人間はみんな手を握りあう。戦争なんてまったくばかばかしいと思うよ……ねえ、わたしたちの仲間におなりよ、わたしが死んだら、あんたがわたしのあとがまにすわるんだよ。わたしゃ、こんな女だけど、お人よしで、男なんかにまけてやしない。ねえ、なにも心配することないんだよ」
従軍物売女《ヴィヴァンディエール》がしゃべりおわると、女がつぶやいた。
「うちのとなりにはマリ・ジャンヌという人がいて、うちの下働きはマリ・クロードっていう名前でした」
いっぽう、ラドゥーブ軍曹は、さきほどの兵士をつかまえて、しかりとばしていた。
「黙ってろ。おまえのせいだぞ。おかみさんがおびえているじゃないか。婦人の前で、あんなにがなりたてるやつがあるか」
「そりゃ、もっともですがね」と、その兵士が言い返した。「わたしに言わせりゃ、まるきりシナの無知な百姓みたいでさあ。自分のおやじは領主にかたわものにされ、じいさまは司祭のために漕徒刑《ガレール》にやられちまう、しゅうとは王の命令でしばり首になったってのに、この女の亭主ときたら、いったいなんてこった!戦争には出かける、領主や司祭や王のために反乱にとびこんで、しまいにゃ死んじまうなんて、まるきり、まともな分別もなにもあったもんじゃないですぜ!」
すると、軍曹がどなりつけた。
「兵隊のぶんざいで、黙らんか!」
「ええ、ええ、黙りますとも」と、兵士が言った。「しかしですね、こんなべっぴんが、くそ坊主なんかに肩入れして生命を落とすのを見るなんてのは、まったく胸くそが悪くなるんです」
「もういい」と、軍曹が言った。「ここはピック地区のクラブじゃないんだからな。べらべらしゃべるのはやめにしろ」
軍曹はこう言うと、女のほうを向いた。
「それで、おかみさん、おまえさんのご亭主だが、今、どうしているね? どうなったんだね?」
「どうにもなっていませんよ、殺されちまったんですから」
「どこでだ?」
「戦列の中でです」
「いつのことだ?」
「三日前のことでした」
「だれが殺《や》った?」
「わかりません」
「なんだと? 自分のご亭主を殺した相手を知らんというのか?」
「知りません」
「殺《や》ったのは共和派《あお》か? それとも王党《しろ》か?」
「鉄砲玉にやられたんです」
「三日前にだな?」
「そりゃ、ここからどっちの方向だ?」
「エルネのほうです。うちのひとは倒れたと思ったら、それっきりでした」
「それで、ご亭主が死んでから、おまえさんはどうしたんだ?」
「子どもを連れて逃げました」
「で、どこへ連れていく気だ」
「さきへ、まっすぐ連れていきます」
「いつも、どこで寝てる?」
「地べたに寝ています」
「なにをくっている?」
「なにもたべていません」
軍曹は口ひげが鼻にふれる、あの軍隊式のしかめっ面をしてみせた。
「なにもくっていないだと?」
「去年の残りを見つけたときには、うつぼ草の実や、しげみの中のくわの実や、すももや、しだの芽なんかをたべていたということです……」
「そうだな、そんなもんなら、なにもくってないといってもいいわけだ」
いちばん上の男の子は二人の会話の意味がわかったらしく、「おなかがすいたよう」と言いだした。
軍曹がポケットからひと切れの軍用パンをとりだして、母親の手に渡した。彼女はそれを二つに割って二人の子どもにわけてやった。子どもたちはがつがつたべ始めた。
「自分はくわん気だな」と、軍曹が小声で言った。
「多分、腹がへっていないんでしょう」と、ひとりの兵士が言った。
「そうじゃない。母親だからだ」と、軍曹が言った。
子どもたちがみんなの話をさえぎって、口々に言い始めた。
「なにか飲みたいよう」と、ひとりが言った。
「飲みものがほしいよう」と、もうひとりのほうも同じことを言った。
「このおそろしい森にゃ、小川ひとつありゃしないだろう?」と、軍曹が言った。
従軍物売女《ヴィヴァンディエール》が腰の鈴のそばにぶらさがっている銅の湯のみを手にとると、肩からつっている水筒のせんをひねり、中の液体を湯のみに少したらした。そして湯のみを子どもたちの口へあてがってやった。
最初の子は飲んだが、しかめっ面をした。
つぎの子は、飲んだと思うとすぐにはき出してしまった。
「でも、こりゃ上等なんだよ」と、従軍物売女《ヴィヴァンディエール》が言った。
「クープ・フィギュール酒なんだろう?」と、軍曹がたずねた。
「ああ、それもとびきり上等のね。この人たちゃ百姓だから、味がわからないんだよ」
そう言って湯のみをぬぐった。
軍曹がまたたずねた。
「で、おかみさん、あんたはなんとか逃げのびたってわけなんだね?」
「ええ、それしかしようがなかったんです」
「おれたちは野っぱらを走っていくんだが、どうだ、おれたちといっしょにくるかね?」
「わたし、いっしょうけんめいに走ります。でも、そのうちに歩けなくなって、それから倒れてしまいます」
「かわいそうにねえ」と、従軍物売女が言った。
「みんな、戦争しています」と、女が口ごもりながら言った。「まわりはどちらを向いても鉄砲玉を撃ちあっています。でも、みんな、なにをしようっていうのか、わたしにはわかりません。わかるのは、うちのひとが殺されたっていうことだけです」
軍曹が小銃の台じりをどすんと地面にうちつけて、がなりたてた。「畜生! 戦争なんかくそくらえだ!」
女はしゃべりつづけた。
「わたしたち、ゆうべは|朽ち木《エムース》のほら穴の中で寝ました」
「四人ともか?」
「四人ともです」
「寝たのか、ほんとうに?」
「ええ」
「じゃ、立ったまま寝たんだろう」
と、軍曹は言い、兵士たちのほうをふり向いた。
「なあ、戦友《カマラード》たち、中がくさってうつろになり、人が鞘《さや》におさまる刀のようにもぐりこめる大木《たいぼく》があるだろう? そういう古い大木のことを、このへんのものは|朽ち木《エムース》って呼んでいるんだ。どうだい、パリっ子なんていって気どってないで、おれたちもこのへんの人たちのまねをしてみるか!」
「|朽ち木《エムース》の中で寝たんですって!」と、従軍物売女《ヴィヴァンディエール》が言った。「それも、三人の子どもといっしょにねえ」
「それじゃ」と、軍曹がまた口をひらいた。「子どもが大声をあげたって、通りすがりの人間はびっくりするだろうな。人のすがたが見えないのに、木が『おとっちゃん、おっかちゃん』なんて言っているみたいでな」
「ちょうど夏ですから助かります」と、女がため息をついて言った。
女は身に受けた数々の災難ゆえのおびえを、目にたたえながら、あきらめきったように地面を見つめた。兵士たちは黙りこくって、このあわれな母子のまわりに立っていた。
寡婦《かふ》と、三人のみなし児。逃走し、うちすてられ、天涯孤独《てんがいこどく》になった彼女たち。四方八方にとどろく戦火のはてに待っていたものは飢えと渇《かわ》きだけ。たべものといっても草があるだけ、屋根といっては青天井があるだけだ……
軍曹は女に近よると、乳を吸っているあかん坊を見つめた。すると、その小さな女の子は母親の乳房をはなして、ゆっくりと顔をまわした。それから、美しい青い目で、自分のほうにかがみこんでいる、あらいひげをもじゃもじゃはやしているおそろしい赤ら顔をまじまじと見つめた。そして、にこにこと笑いだした。
軍曹は身体をおこしたが、その目から大粒の涙がひとつ溢《あふ》れ、ほほをつたって流れた。その涙のしずくは口ひげのさきでとまったが、真珠のように輝くのがわかった。
彼は声をはりあげて叫んだ。
「おい、戦友《カマラード》たち、こういう事情で、これから、わが大隊がこの子たちの父親となってやることを、ここに宣言する。異存のあるものはないか? この三人の子どもたちを養子にするんだ!」
「共和国、ばんざい!」と、兵士たちが叫んだ。
「よし、これでいい」と、軍曹が言った。
それから軍曹は両手を母親と子どもの上でひらいた。
「さあ」と、彼は言った。「これは赤帽大隊《ボネ・ルージュ》の子どもたちだ」
従軍物売女《ヴィヴァンディエール》がおどりあがって喜んだ。
「ひとつの帽子《ボネ》に三つの頭をいれるんだ!」
彼女はこう叫び声をあげたが、感きわまって泣き出し、気の毒な寡婦を夢中で抱きしめて言った。
「このあかん坊だって、もう、いっぱしのおてんばみたいな顔してるじゃないか!」
「共和国、ばんざい!」と、兵士たちがもう一度叫んだ。それから軍曹が母親に言った。
「さあ、いっしょにいこう、女市民《シトワイエンヌ》よ」
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第二編 コルヴェット艦クレイモア号
一 英仏協同
一七九三年春、フランスはすべての国境でいっせいに攻撃を受け、内部ではジロンド党没落という悲劇的な不祥事《ふしょうじ》にみまわれていた。これはそのころ英仏海峡《ラ・マンシュ》のある群島でおこった出来事である。
六月一日の夕方、日没前およそ一時間のころ、ジャージー島のひとけのない小港ボンヌ・ニュイから、航海するには危険ではあるが、またそれだけに人知れず出港するには好都合でもある、深い霧に包まれた天候をこれ幸いと、一隻のコルヴェット艦が出航していった。この艦の乗組員は全部フランス人だったが、艦は島の東方を監視する任務をおびていた、あるイギリス小艦隊の一隻だった。当時、ブイヨンの館《やかた》にいたラ・トゥール・ドーヴェルニュ公がイギリス艦隊の指揮をとっていたが、このコルヴェット艦派遣という緊急特別任務も公の命令によるものだった。
このコルヴェット艦は≪クレイモア号≫という名で≪ロンドン水先案内協会《トリニティ・ハウス》≫に登録されていたが、表面は商船をよそおいながら、実は戦争用のコルヴェット艦だった。商船特有の重々しさとおだやかさを持っていたが、これをそのままうのみにすることは危険だった。つまり、この艦は策略と戦闘力という二つの目的をみたすよう建造されたもので、できるだけ隠密《おんみつ》行動をとるけれども、必要なら撃って出て戦う。その夜に遂行すべき任務のため、中甲板の積荷《つみに》はとりのけられ、三十門の大口径海軍砲に積みかえられていた。嵐をおそれるためか、あるいはあくまでもおとなしい商船をよそおいたいためか、これら三十門の大砲は内側から三本のくさりでしっかりつながれ、砲身もふたをしたハッチによせかけられていた。だから、外からはなにも見破られないようになっていた。舷窓《げんそう》もふさがれ、ハッチのカヴァも閉じられてあり、まるで艦全体が仮面をかぶっているという具合だった。ふつうのコルヴェット艦は、上甲板にしか砲をすえないものだが、この艦は奇襲をしたり、待伏せ作戦をしたりする目的のために建造されたものだったから、砲列は上甲板にでなく、すでに述べたように、中甲板に集中していた。
クレイモア号はずんぐりして、いかにも鈍重そうに見えたが、その実、すぐれた快速帆船だった。イギリス海軍中でもぬきんでて頑丈《がんじょう》な艦体をもち、後檣《こうしょう》として一枚の後斜桁帆《ブリガンティーヌ》をもった小さなマストをそなえていただけだったが、いざ戦いとなればフリガート艦にも匹敵《ひってき》する能力を発揮できるのだった。めずらしく巧妙な形をした艦のかじには、一種独特なカーヴをもった肋材《ろくざい》がはまっていて、これはサザンプトンの造船所で五十ポンドもの大金をついやして建造したものだった。
乗組員全員がフランス人であることは前にも述べたが、それがみんな、亡命した将校や脱走した水夫たちだった。彼らはえりすぐりの男たちで、ひとりとして王党派《しろ》でないものはいなかったし、兵士としても水夫としても、まことのつわものぞろいだった。彼らは、船と剣とそして王という三つのものに対して、熱烈な忠誠心をいだいていたのだ。
必要な場合には上陸もできるようにと、乗組員の中には半個大隊の海兵隊も編入されていた。
コルヴェット艦クレイモア号の艦長は、旧王国海軍の名提督、ボアベルトロ伯爵。サン=ルイ勲章の栄誉をになう人物だった。副長はラ・ヴィユヴィル勲爵士《くんしゃくし》。彼は、革命軍の名将オシュがまだ軍曹だったころ所属していたフランス正規軍の一中隊の指揮官をつとめたこともある男だった。水先案内《パイロット》はフィリップ・ガコワール。彼はジャージー島|随一《ずいいち》の腕ききの船乗りだった。
この艦が異常な任務をおびていることは、だれの目にも明白だった。事実、ひとりの男が出航まぎわに乗船してきたが、彼はいかにも冒険にとびこんでいくというようすをしていた。それは、すらりと背が高く、頑丈で、きびしい表情をたたえた老人だった。年をとって見えるかと思うと若くも見えるといった具合で、年齢を正確に言いあてることは不可能にも思えた。年をかさねてもなお若さを失わず、頭には白髪をいただきながら、眼光はするどく光っていた。精力の点では四十歳の若さ、威厳《いげん》の点では八十歳の貫禄《かんろく》をそなえた人物だった。彼がコルヴェット艦に乗りこんできたとたん、彼が着ている海軍マントが風にひるがえり、その下に≪百姓ズボン≫と呼ばれているだぶだぶのズボン、長靴、羊皮のチョッキを身につけていた。その羊皮のチョッキの表は、なめし皮に絹糸の刺繍《ししゅう》がほどこされ、裏には粗毛《あらげ》の毛皮がぬいつけてあった。これはブルターニュ地方の百姓が着る服装で、このチョッキはふたとおりに使うことができた。つまり、仕事着としても晴着としても通用するのだ。野良《のら》に出るときは粗毛のほうを表にして着、日曜日ともなれば、刺繍《ししゅう》のあるほうへ裏返して晴着にすることができた。
ところが、この老人が着ている百姓の服装は、わざと念を入れてそれらしく見せようと、両ひじ、両ひざともすり切らせてあり、いかにも長いあいだ着古したようにしてあった。それから、あらめの海軍マントも粗末な布でできていて、ぼろぼろの漁師のマントとそっくりだった。頭には、そのころ流行の、中高でつばの広い丸帽子をかぶっていた。そのつばをひきおろすと、いかにもやぼったい感じになるいっぽう、帽章《ぼうしょう》のかざりがついたひもを使って片がわをめくりあげると、軍帽みたいなかっこうになった。老人はこの帽子を、ひもも帽章もつけないで、つばをおろして百姓風にかぶっていた。
島の総督《そうとく》ボールカラス卿とラ・トゥール・ドーヴェルニュ公がみずからこの老人を案内してきて、艦に乗せた。かつてアルトワ伯爵の護衛《ごえい》をつとめ、この当時は貴族たちの秘密|諜報《ちょうほう》係となっていたジェランブルも、彼自身相当な身分の貴族であるにもかかわらず、老人の船室の準備万端を手配し、老人のかばん持ちまで買ってでるほど細かく気を使っていた。この老人と別れて退艦するにあたって、ジェランブル卿は、この百姓じじいにうやうやしく敬礼し、ボールカラス卿は、「ご幸運を祈っております、将軍」と言った。また、ラ・トゥール・ドーヴェルニュ公は「従兄《にい》さん、どうぞ、ご無事で」と、別れのあいさつをした。
まもなく、この≪百姓≫という言葉は、水夫たちが仲間うちでかわす短い会話の中で、この老人をさす名前となった。彼らはもとより深い事情を知っていたわけではなかったが、この艦がふつうの商船でないのと同様、この≪百姓≫もけっしてただの百姓でないことはわかっていた。
風はほとんどなかった。クレイモア号はボンヌ・ニュイ湾をあとにし、ブーレ湾の前を通過、斜行するすがたをしばらく見せていたが、やがてせまりくる宵《よい》やみにのみこまれ、ついには暗やみの中へとけこんでしまった。
それから一時間後、サン=テリエの自宅へもどったジェランブルは、サザンプトン行きの速達便を使って、次のような手紙をヨーク公の司令部にいるアルトワ伯爵へ送った。
『閣下、出発は無事完了。成功はうたがいなし。一週間後には、グランヴィルからサン=マロにいたる海岸一帯はかならず戦火に包まれます』
これより四日前、シェルブール沿岸警備隊に派遣議員として送られ、当時グランヴィルに居《きょ》をかまえていた国民公会議員プリウール・ド・ラ・マルヌは、さきの文書と同じ筆跡でしたためられた文書を、スパイより受けとっていた。
『国民公会議員たる市民《シトワイヤン》よ、六月一日の満潮時に、コルヴェット艦クレイモア号、出帆準備中。艦は砲を隠蔽《いんぺい》し、ある人物をひそかにフランス海岸へ上陸させようともくろんでいる。その人物の特徴《とくちょう》は、長身、老体で、白髪。百姓の風体《ふうてい》であるが、手は貴族の手にまちがいない。くわしいことはさらに明日ご報告する。この人物は二日朝上陸するもよう。至急巡洋艦隊にご通知の上、同艦をとらえ、老人を断頭台にかけて処刑されたい』
二 夜は艦と乗客を包む
コルヴェット艦は南下してサント=カトリーヌに向かうかわりに、まず艦首を北へ向け、それから思いきって西へ方向を転じると、サーク島とジャージー島のあいだにある水路、|敗 走 海 峡《パサージュ・ド・ラ・デルート》と呼ばれている海峡《かいきょう》へ勇敢につっこんでいった。当時、この海峡の両側には、灯台はひとつももうけられていなかった。
太陽はすでに沈み、ふだんの夏の夜とくらべるとずっと暗かった。月夜ではあったが、夏至《げし》雲というより彼岸《ひがん》雲といいたい厚い雲が広く空をおおい、月が見られるのも、沈みぎわに水平線の上でちらっと見わけられるだけという状態だった。ときに、いくつもの黒雲が海面にまでたれこめ、海全体が深い霧に包まれていた。まさに絶好のやみといってよかった。
水先案内《パイロット》のガコワールのもくろみは、ジャージー島を左にガーンジ島を右に見て進み、思いきってアノワ岩礁《がんしょう》とドゥーブル岩礁のあいだを走り、そしてサン=マロの沿岸にあるどこかの入江にでもつけようというものだった。この航路はマンキエ岩礁をぬけるより遠まわりになったが、ずっと安全だった。というのもサン=テリエとグランヴィルのあいだは、そこをとくに監視するよう命を受けたフランス巡洋艦隊が常に哨戒《しょうかい》していたからである。
ガコワールは、風向がよく、突発事故でもおこらないかぎり、満帆に風を受けて進めば、夜明けにはフランスの海岸に着けると、ふんでいた。
すべて順調に進み、コルヴェット艦はすでにグロ・ネ岬《みさき》を通過していた。九時ごろ、天候が、水夫たちがいう≪むっつり天気≫になり始めた。風が強くなり、波が高くなってきたのだ。しかし、その風は追風だったし、波が高いといっても、それほど荒れくるってはいなかった。それでも、ときおり、大波がコルヴェット艦のへさきを越えてくだけた。
ボールカラス卿が≪将軍≫と呼び、トゥール・ドーヴェルニュ公が≪従兄《にい》さん≫といった例の≪百姓≫は、船員のように慣れた歩きぶりで、悠然《ゆうぜん》と落ちついて甲板を散歩していた。はげしくゆすぶられても、なにも感じないようだった。ときどき、チョッキのポケットから板チョコをとりだしては、小さく割り、ひと切れずつ口にほうりこんでいた。白髪ではあっても歯は一本も欠けていないようだった。
彼はときたま艦長に小声で手短かに話しかける以外、だれとも話をしなかった。老人に話しかけられた艦長は、うやうやしく身をかがめて老人の話に耳をかたむけていた。まるで、この艦の司令官は自分ではなく、この乗客のほうだと思っているみたいだった。
クレイモア号はたくみにかじをとり、霧にまぎれて、ジャージー島の北岸に切り立つ海岸線に沿って進んでいった。ジャージー島とサーク島のあいだの海峡のまんなかには、ピエール・ド・レークと呼ばれるおそろしい暗礁《あんしょう》が待ちぶせているからだった。ガコワールは舵輪《だりん》をつかんで立ち、レーク暗礁や、グロ・ネ岬やプレモン岬の位置をつぎつぎに確かめながら、つらなる暗礁のあいだへコルヴェット艦を進めていった。それは、いわば手探りの航行《こうこう》といってよかった。しかし、まるで自分の家の中を歩く男か、海のすべてを知りつくしている男みたいに、自信にみちた手練《しゅれん》を見せて、艦を走らせていった。
コルヴェット艦はへさきにあかりをつけていなかった。敵の厳重な監視下におかれている海上で発見されるのをおそれたからだった。深い霧に包まれていることを、乗組員たちは喜んでいた。そして、グランド・エタックにまできたころには、霧は非常に厚くなり、ピナクル岬に立つ高い半面影像《シルエット》さえはっきり見わけられないくらいだった。
乗組員の耳にサン=トゥワンの町の鐘が十時をうつのが聞こえ、それで、まだ追風を受けて進んでいることがわかった。依然《いぜん》として、すべては順調に運んでいた。コルビエール岬に近づいてきたため、海はいっそう荒れてきた。
十時をちょっと過ぎたころ、ボアベルトロ伯爵とラ・ヴィユヴィル勲爵士《くんしゃくし》が、ふだんは艦長室として使われている船室へ、例の百姓すがたの男を案内していった。船室へはいりぎわに、老人は声をひそめて二人に言った。
「秘密が大事なことは、あんたたちもよく存じていよう。爆発の瞬間まで、沈黙することじゃ。ここでわしの名を知っているのは、あんたたちだけだからな」
「われわれ、この秘密はぜったいにしゃべりません」
と、ボアベルトロが答えた。
「わしとても、これだけは、死にのぞんでもしゃべるまいぞ」
老人はこう言うと、船室へはいっていった。
三 貴族、平民入り乱れる
艦長と副長はふたたび甲板にもどり、しゃべりながら並んで歩きだした。あきらかに二人は例の乗客のことを話しあっていた。風が闇《やみ》の中に散らしていった二人の会話は、およそ次のようなものだった。
ボアベルトロがラ・ヴィユヴィルの耳に小声でささやいた。
「あのかたがわれわれの指導者たる人物であるかどうか、そのうちにわかるだろう」
ラ・ヴィユヴィルが答えた。
「とにかく、王者の風格だけはそなえていますよ」
「うん、まあ、そんなところだ」
「フランス全土でいえば貴族ですが、ブルターニュでは王族《プランス》ですね」
「あのラ・トレムイユ家やロアン家とおなじ格式なんだ」
「あのかたはその親類すじにあたります」
ボアベルトロが話しつづけた。
「フランス貴族としては、つまり宮廷馬車に乗って王宮へいくときは侯爵だ。わたしが伯爵で、君が勲爵士であるようにな」
「宮廷馬車なんて、むかしばなしですよ!」と、ラ・ヴィユヴィルが大声をあげた。「今では、われわれは死刑囚|運搬《うんぱん》車にのせられようとしています」
沈黙が流れた。
ボアベルトロがまたしゃべり始めた。
「フランスの王族《プランス》にこと欠いて、ブルターニュの王族をひっぱってきたというわけだな」
「つぐみがいないとなると……いや、鷲《わし》がいないとなると、からすをかつぎだすってわけですな」
「はげたかといったほうがいいんじゃないかな」と、ボアベルトロが言った。
「そりゃ、いい。くちばしといい、爪といい、ものすごいですからね」
「今に、そいつが見られるだろうさ」
「ええ」と、ラ・ヴィユヴィルが言った。「もう指導者が出てもいいころですよ。わたしはタンテニヤックと同じ意見ですが、彼は『われわれに指導者を! そして火薬を!』って言っていますよ。ねえ、艦長、わたしは世間にいるほとんど全部の指導者をよく知っています。きのうの指導者も、きょうの指導者も、あす出てきそうな指導者も、みんなよく知っています。ところが、これはといった男、この戦時に必要とする人物は一人もおらんのですよ。このおそろしいヴァンデで必要なのは、将軍であると同時に検事であるような人物ですからね。敵を骨ぬきにし、水車小屋や、やぶや、みぞや、小石までうばいつくす、意地のわるいけんかもするし、なんでもかんでも利用する、大虐殺《だいぎゃくさつ》だってやってのける、不眠不休にたえ、冷酷無比である男。そんな男がぜひほしいですね。
現在の状況を見ると、百姓軍の中に英雄は何人かいても、指導者といえる人物はいませんよ。エルベは無能だし、レスキュールは病弱、ボンシャンはなさけにもろい、お人よしだが要するにまぬけなんです。ラ・ロシュジャクランはすばらしい人物だが、なにしろまだ少尉ですからね。シルズは野戦の指導はできても、戦略には不向きです。カトリノーは世間知らずの車ひき、ストフレは立ちまわりのうまい密猟監視人《みつりょうかんしにん》、ベラールは大ばか、ブーランヴィリエは滑稽《こっけい》で、シャレットはおそろしいというだけの男。それから床屋《とこや》のガストンにいたっては、もう言うことなしですよ。ええ、いまいましい! 床屋ふぜいに貴族が命令されるなんてことになったり、反革命のなぐりこみをかけたって、なんになります! 共和主義者もわれわれも、えらぶところがなくなるじゃありませんか」
「しかし、あのろくでもない革命さわぎが、われわれをも毒してきているからなんだ」
「フランスが疥癬《かいせん》にとっつかれたみたいなもんですね」
「ああ、まったく第三階級なんて、疥癬と言っていい」と、ボアベルトロが言った。「その疥癬をフランスから追い出せるのはイギリスだけだ」
「イギリスはきっと疥癬を追い出してくれますよ、艦長」
「とにかく、いやな病気だな」
「ええ、そうですとも。いたるところに平民が横行しています。王党側にしたって、総司令官のいすにすわっているやつが、モールヴリエ家の密猟監視人だったストフレ、共和派の大臣というのが、これまた、カストリ公の門番のせがれのパシュときているんだから。ヴァンデの戦いでにらみあった敵同士を見てごらんなさい、かたやビール醸造人《じょうぞうにん》のサンテール、かたや床屋のガストンなんですからね!」
「しかし、なあ、ラ・ヴィユヴィル君、あのガストンには敬意を表しておきたいね。やっこさん、ゲメネでは、なかなか悪くない指揮ぶりだった。あのとき、三百人ばかりの共和派《あお》どもを銃殺したんだが、やる前に、それぞれ自分たちの墓穴《ぼけつ》を掘らせておいてね」
「そりゃ、あざやかでしたな。しかし、艦長、それくらいのことなら、わたしだってやりますよ」
「そりゃ、そうだ。わたしだってやってみせるさ!」
「戦時における偉業をやってのけるには」と、ラ・ヴィユヴィルが言った。「なんとしても貴族魂が必要です。それは、あくまで貴族の仕事であって、床屋ふぜいのすることではありません」
「しかし、平民の中にも、なかなか尊敬すべき人物がいるじゃないか」と、ボアベルトロが言った。「たとえば、ほら、時計屋のジョリだ。やつはフランドル連隊の軍曹だったが、今では、ヴァンデ軍の指揮をとっている。海岸防備隊を指揮しているんだ。もちろん、王党派《しろ》なんだが、息子のほうは共和派《あお》へ走ってしまった。この親子がたまたま戦場でばったり出くわして戦うことになった。おやじは息子を捕虜《ほりょ》にして、脳天《のうてん》へ一発ぶちこんでしまったんだ」
「たいそうな男ですね」と、ラ・ヴィユヴィルが言った。
「うん、王党派《しろ》のブルータスといったところだ」と、ボアベルトロが答えた。
「しかし、だからといって、コクロー、ジャン=ジャン、ムーラン、フォカール、ブージュ、シュープなんていう手合いに指揮されるなんて、とてもがまんできんですな!」
「だがね、君、敵のほうだって同じようにいらいらしてるさ。こちら側には平民がおおぜいまぎれこんでいるが、向こう側にだって貴族がわんさとはいりこんでいるんだからね。カンクロー伯爵、ミランダ子爵、ボーアルネ伯爵、ヴァランス伯爵、ギュスティーヌ伯爵、ビロン公爵という連中に、あのサン・キュロットどもがよろこんで従うと思うかね!」〔「キュロット」は短ズボン。「サン」は≪なしで≫という意味。つまり貴族のはく短ズボンをやめて、長ズボンをはいた平民に対して、貴族が与えた名称〕
「なんて、ごちゃごちゃしてるんだろう!」
「それに、あのシャルトル侯がいる!」
「平等家《エガリテ》の息子ですな? でも、あの平等家《エガリテ》はいつ王位につけるんでしょうね?」〔ルイ十四世の王弟の家系に生まれたオルレアン公爵フィリップのこと。自由思想を持ち、国民公会最左翼で、「平等家フィリップ」と呼ばれた〕
「ぜったい、王位にはつかんさ」
「いや、王位につきますよ、みずからおかした罪のおかげでね」
「いや、悪徳のたたりで、王位にはつけんだろうよ」
と、ボアベルトロが言った。しばらく沈黙がつづいたが、また彼が話し始めた。
「しかし、あれでも、彼は王と和解したいと思っていたんだ。王に会いにやってきたものな。あのとき、わたしもヴェルサイユ宮にいあわせたが、あの男、うしろからだれかにつばをはきかけられとったよ」
「大階段の上からはいたんでしょう?」
「そうだ」
「そいつはよくぞやってくれたってものですよ」
「われわれはあの男のことを≪泥まみれのブルボン≫と呼んでいたものさ」
「あの男ははげ頭で、あばたづらで、その上、反逆者ときている!」
さらにラ・ヴィユヴィルが言いつづけた。
「わたしはウエサン島で、あの男といっしょでした」
「じゃ、≪サン=テスプリ号≫にのっていたのか?」
「ええ」
「もし、あのとき、オルヴィリエ提督が出した、風かみへ向かえという信号に従っていたら、あるいはイギリス艦隊の通過をくいとめることができたかも知れなかったな」
「そうですね」
「あの男が船倉の底に隠れていたってのはほんとうかね?」
「いいえ。でも、似たようなものでしたよ」
そう言って、ラ・ヴィユヴィルは大声で笑った。
ボアベルトロがさきをつづけた。
「ああ、ばかが多い。ラ・ヴィユヴィル、君がさっき話していたブーランヴィリエだが、わたしはあの男を知っていたし、間近から見たこともあった。戦争が始まったころ、百姓どもは槍《やり》で武装していたんだが、なぜあの男は、そういう連中を集めて槍兵隊《そうへいたい》を作ろうと考えなかったんだろう? あの男は百姓どもに≪ななめ突き≫とか≪正面突き≫とかいう、正規の槍の使い方を教えようとした。あの野蛮人どもを正規の槍兵に仕立てあげようっていう肚《はら》だったのさ。どん百姓どもに、八角陣形や輪形陣形の作り方を教えこもうとしたんだ。それに、古くさい軍隊用語を持ち出しては、それを連中の頭の中につめこもうとした。分隊長のことを気どって≪分隊|頭《がしら》≫なんて言っていた。あれはルイ十四世時代の伍長《ごちょう》の呼び名なんだ。それでも、あの男、がんとして、密猟者《みつりょうしゃ》どもを集めて連隊を作りあげると言いはったんだからな。こうして正規軍の中隊をいくつも作った。
ところが、この中隊の下士官連中は、毎晩、円形に立たされて、連隊長づき連絡下士官から合言葉を受けとるのだ。この合言葉は、まず副官づきの連絡下士官に小声で伝えられる。すると、その下士官が自分のとなりへ、やはり同じ言葉を小声で伝達し、それをきいたものが、また、すぐ近くにいるものに伝える。こうして、合言葉は耳から耳へ最後の男へ伝えられていくわけだ。一度なんか、連絡下士官の口から合言葉をききとるのに脱帽しなかった下士官を≪くび≫にしてしまったこともあった。こんな調子でうまくいくなんて、君、思うかね。あのまぬけは、百姓が百姓流のやり方で指導してもらいたがっていることに、まるきり気づかなかったんだ。それに、とても≪でくのぼう≫どもを正規兵にできるわけがないってことも、まるでわからなかったのだ。そりゃ、わたしにだって、あのブーランヴィリエの力量はよくわかっていたがね」
二人はめいめい思いにふけりながら五、六歩歩いた。
しばらくして、また話し始めた。
「ところで、ダンピエールが戦死したことは確認されたのかね?」
「ええ、艦長」
「コンデの前線でか?」
「パマールの陣地で砲弾にやられたのです」
ボアベルトロがため息をもらした。
「ダンピエール伯爵か。ここでも、われわれ貴族のひとりが敵側についているわけだ!」
「冥福をいのりましょう」と、ラ・ヴィユヴィルが言った。
「それから、王の義理のご姉妹がたは、今どこにいらっしゃるかな?」
「トリエステですよ」
「まだ、あそこに?」
「ええ、ずっとです」
それから、ラ・ヴィユヴィルは叫び声をあげた。
「ちくしょう! 共和国めが! ささいなことから、まったくとんだことになったもんだ。この革命も、もとはといえば、たかだか数百万リーブルの金がなかったせいでしょう!」
「ささいではあっても、その最初のところで、もっと用心すべきだったのだ」と、ボアベルトロが言った。
「なにもかも、まずくなっていくばかりですね」と、ラ・ヴィユヴィルも言った。
「まったくだ。ラ・ルーワリーは死ぬ、デュ・ドレネはばかもの、それにラ・ロシェルの司教クーシをはじめ、ボアティエの司教ボーポワール=サン・トレール、レシャスリ夫人の愛人でリュソンの司教メルシなんて連中は、どれもこれもなっとらん指導者ばかりだ」
「艦長、その女の名前ですがね、セルヴァントーと言うんです。レシャスリというのは領地の名前なんですよ」
「それから、あのアグラのいんちき司教だ。あいつはほんとうは、どこかの主任司祭にすぎん男だ」
「ドルの司祭でした。名前をギヨ・ド・フォルヴィルといいましてね。でも、なかなか勇敢なやつで、今も、どこかで戦っていますよ」
「兵士が必要なときだというのに、出てくるのは坊主ばかりだ。それに、司教といえないような司教、将軍の価値のない将軍ばかりじゃないか!」
ラ・ヴィユヴィルがボアベルトロの言葉をさえぎって言った。
「艦長、あなたのお部屋に『モニトール紙』はありましたか?」
「ああ、あるよ」
「今、パリでは、どんな芝居をうってますか?」
「『アデールとポーラン』と『洞窟《キャヴェルヌ》』だったかな」
「見たいですね」
「ああ、見られるとも。ひと月もすれば、われわれはパリにはいれるんだから」
ボアベルトロはちょっと考えこんでいたが、こうつけ加えた。
「せいぜい待っても、ひと月だ。ウィンダム氏がフッド卿にそう言っていたよ」
「すると艦長、形勢はそれほど悪くなっていないんですね?」
「そうだとも。ブルターニュの戦闘がうまくいきさえすれば、あとはすべて順調にいくだろう!」
ラ・ヴィユヴィルがうなずいた。
「ところで艦長」と、彼がまた口をひらいた。「海兵隊を上陸させるんですか?」
「うん。海岸地帯がわれわれの味方だったらだがな。もし敵方だったら、上陸させない。戦争ってものは、正面から門をおし破らなければならんときもあるし、そっとしのびこまねばならん場合もある。内乱ともなれば、いつもポケットに合鍵《あいかぎ》を入れておく必要がある。とにかく、精いっぱい力をつくしてみよう。かんじんなのは司令官だ」
それから、ボアベルトロは考え深そうにつけ加えた。
「ラ・ヴィユヴィル、君はディユジック勲爵士《くんしゃくし》のことをどう思うかね?」
「若いほうのですか?」
「そう」
「司令官としてどう思うかということですか?」
「そうだ」
「あの男も野戦にくわしいっていうだけの将校ですよ。つまり、やぶの中の戦闘は百姓でなけりゃできませんよ」
「では、君はストフレ将軍やカトリノー将軍もだめだというんだね?」
ラ・ヴィユヴィルはしばらく思いにふけっていたが、ふと口をひらいた。
「王族《プランス》が必要です。フランスの王族《プランス》、血統正しい王族《プランス》、正真正銘の王族《プランス》が」
「なぜだね?『王族《プランス》とはすなわち……』」
「『……卑怯者なり』と言いたいんでしょう。それは、わたしもよくわかっています。でも、艦長、どん百姓どもの、でかいばかりのふし穴まなこには、この王族《プランス》ってのが、なによりききめがあるんです」
「しかし、君、王族《プランス》のほうできたがらないさ」
「いや、きてくれなくても、なんとか手をうちますからね」
ボアベルトロは知らず知らず手でひたいをおさえつける動作をした。まるで、なにか名案をしぼり出そうとでもするみたいだった。
「とにかく、この艦の将軍をためすことだな」
「あの人はたいした貴族です」
「あの人は大丈夫だと思うかね?」
「しっかりした人なら、いいんですが……」と、ラ・ヴィユヴィルが言った。
「つまり、残忍な人間ならっていうわけだろう」と、ボアベルトロが言った。
伯爵と勲爵士《くんしゃくし》は顔を見あわせた。
「ボアベルトロ伯爵、残忍とはまたぴったりのお言葉ですね。今、必要なのは、まさにそういう人なんです。今の戦争ときたら、極悪非道の戦いですし、血に飢えたやつらが勝つ時代です。反逆者《はんぎゃくしゃ》どもはルイ十六世の首を切り落としました。こんどはわれわれが反逆者どもの手足をもぎとってやるのです。われわれに必要なのは血も凍るような将軍です。アンジューや上ポワトー地方では、指揮官が寛大をひけらかしています。やつらはその寛大さの中にはまりこんでしまって、まるきり身動きもできないでいます。だから、なんの役にも立たないのです。その点、マレやレス地方では、指揮官が冷酷無比ですから、なんでも、どんどんとはかどっていきます。あのシャレットだって、残忍だからこそ、堂々とパランに立ちうちできるのです。艦長、ハイエナはハイエナと戦わせるものですよ」
ボアベルトロには、これに答えるひまがなかった。ラ・ヴィユヴィルの言葉も、突然おこった絶叫に中断されてしまった。と同時に、二人はこの世のものとも思われぬおそろしい音を耳にした。その轟音《ごうおん》と叫び声は、艦内からひびいてきたものだった。
艦長と副長はまっすぐ中甲板《ちゅうかんぱん》のほうへかけだしたが、そこへはいることはできなかった。全砲手たちが半狂乱になって、はしごをよじのぼってきたからだった。
おそろしい事件がもちあがったところだった。
四 複雑な武器
中甲板にならんでいた海軍砲のひとつ、二十四ポンド砲のくさりが切れたのだった。
たぶん、これは海上でおこるいちばんおそろしい突発事件だろう。海のまっただ中を、帆にいっぱい風をはらんで走る軍艦にとって、これほどおそろしいことはない。
いったんくさりを切った大砲は、突然、もうこの世のものとも思われぬ野獣と化してしまう。それは機械が怪物になりかわるということなのだ。その鉄塊《てっかい》は車輪をつけて、まるで玉突きの玉のように走り、船の横ゆれとともにかたむき、縦《たて》ゆれとともに首をふる。いくかと思えばもどり、つと立ちどまる。なにか考えこんでいるようにじっとしているかと思うと、やにわにつっぱしる。艦のはしからはしへ矢のようなスピードで走りだす、とみるや、こんどは片側へ横すべりし、身をかがめるかと思うと、またも猛然《もうぜん》と突進する。砲身をたかだかとあげて立ちあがる風情《ふぜい》を見せたと思うと、ぶつかり、穴をあけ、人を殺し、大虐殺をしかねない。めちゃめちゃに城門につきあたる大きな丸太の槌《つち》に似ているのだ。
ところが、この場合、つきあたるのは鉄塊の槌で、つきあたられる城壁のほうが木ときているのだ。その槌はまるで自由自在、めくらめっぽうにぶちあたるのだ。それまでなわでしばられていた物体が自由になったようなものだった。大砲という永遠の奴隷《どれい》が束縛をたち切り、復讐をこころざしたもののようだった。人間が生命のない物体と呼んでいるものの中に身をひそめている悪霊《あくれい》が、とつぜん、怒りくるいだし、がまんしきれなくなって、わけのわからぬ、おそろしい復讐を試《こころ》みているすがた、といってもよかった。まったく、こうした生命のないものの怒りほど激しいものはない。この半狂乱になった鉄塊は、豹《ひょう》のようにはねあがり、象のように重々しく、ねずみのようにすばしっこく、斧《おの》のようにしぶとく、盛りあがる大波のようにとらえどころがなく、稲妻《いなずま》の曲折《きょくせつ》と墓場の静けさをあわせ持っていた。重さは一万ポンドもありながら、それがまるで子どもの遊ぶゴムまりのようにはずんでいた。かと思うと、とつぜん、もう九十度も旋回《せんかい》してくるい立つのだ。こんな怪物を相手にして、いったい、どう処理するすべがあるというのか? 嵐ならやむときもあるし、つむじ風なら去ってもいこう。風だっていつかはやむし、折れたマストならとり代えられる。水もれなら穴をふさげばいいし、火事だったら消すことができるのだ。
しかし、この巨大な怪獣《かいじゅう》が相手では、いったい、どうしたらよいのだろう? どういう方法で対処すればよいのか? ブルドッグなら気をしずめてやれるし、雄牛ならおどかしてしまえる。大蛇《だいじゃ》なら脅迫できるし、虎《とら》ならおびやかしてやれるし、ライオンならなだめることもできる。ところが、この怪物、このくさりを切った大砲に対しては、うつべき手がないのだ。すでに死んでいるのだから殺すことはできない。といっても、こいつは生きている。永遠の昔から、その内部にさずけられている凶悪な生命力でもって生きているのだ。
この怪物の足もとには甲板があって、これがまた怪物をゆり動かしている。怪物は艦にゆり動かされていて、その艦をゆり動かしているのは海であり、さらにその海は風の力で動かされているのだ。とすると、この大量虐殺者は玩具《がんぐ》といってもよかった。艦と波と風が力をあわせてこの怪物を思いのままにしているのだ。この怪物のおそろしい生命力は、艦と波と風からできあがっているのだ。このしかけに、人間はどう対処できるだろう! 今にも艦を難破させんばかりのこの怪物に足かせをはめるには、どうすればよいのだろう? このいきつもどりつし、旋回し、立ちどまり、そして衝突をくり返す重砲の動きを、どう予測《よそく》したらよいのだろう? これが艦腹《かんぷく》へ突きあたりでもしたら、たちまち艦に大穴があいてしまうかも知れないのだ。このおそろしい砲の動きをなんとか予測できないものだろうか? なにしろ、相手はなにか考えている砲弾みたいなものだ。なにか考えてはいるが、一瞬一瞬方向を変える物体なのだ。なんとしても避けなければならない事態を、どうしたらくいとめることができるだろう?
荒れくるった大砲はなおも前進しては後退し、右にぶつかり、左に衝突し、逃走し、すぐそばをぬけ、とんでもない方向にとび、障害物を突きくずし、人間をハエのようにたたきつぶしたりする。こうした恐怖の修羅場《しゅらば》は甲板がゆれているせいなのだ。といって、この気ままにかたむく平面と、どうやって戦ったらよいのだろう? 艦は、逃げ場を求めてあばれまわる稲妻を腹の中にかかえこんでいるようなものだった。大地をゆるがす地震の上に雷鳴《らいめい》がとどろいているようなものだった。
すぐさま、全乗組員が活動を始めた。砲手長のあやまちからこんな事態を引きおこしてしまったのだ。くさりをつなぎとめておくナットを充分にしめておかなかったし、砲の四つの車輪をしっかりととめておかなかった。それで、とめ金や砲架《ほうか》にあそびができて、二つの砲座をゆるませ、ついには制動綱《せいどうづな》がはずれてしまったのだ。ひき綱が切れたので、もう砲は砲座にしっかり固定されていなくなった。この当時は、まだ砲の反衝《はんしょう》をおさえる固定索はなかったから、大波が大きく舷窓《げんそう》をたたくと、ゆるみのきていた海軍砲はがくんと後退し、ものすごい力でくさりを引きちぎって、中甲板を暴走し始めたのだった。
この奇妙な滑走を思い描こうとするなら、窓ガラスの上を走りまわる水滴を想像すればよい。つなぎ綱が切れたとき、砲手たちは砲台にいた。あるものたちはかたまり、あるものたちはちらばって、やがて始まる戦闘を予想した水兵たちがやる作業に追いまくられていた。縦ゆれでほうりだされた海軍砲は、もう砲手の群れにつっこみ、一撃でそのうちの四人をなぎたおしてしまった。それから横ゆれで、いったん後退したものの、ふたたび甲板をつっぱしり、かわいそうに五人めの男をふたつに引きさくと、左舷《さげん》の壁に突きあたり、そこにあった別の大砲を破壊して使えなくしてしまった。さきほどひびきわたった絶叫はこのときのものだったのだ。乗組員たちは夢中で船室へ通じる階段に殺到していった。それで砲台はあっというまにからになってしまった。
巨大な大砲だけがそこに残っていた。こうなれば、自分は自分の主人であり、船の主人でもあった。もう、なんでも自分の思いのまま、どうあばれようと好き勝手だった。戦いのさなかでさえ笑いを見せる乗組員たちも、このときばかりはふるえあがっていた。そのふるえかたといえば、とても言いあらわすこともできないくらいだった。
ボアベルトロ艦長も、ラ・ヴィユヴィル副長も、ともにおそれを知らぬ豪勇だったが、まっさおな顔をして階段の上に立ち、言葉も忘れて中甲板を見つめていた。すると、そのとき、ひとりの男が二人のあいだをひじでかきわけて、下へおりていった。
それは例の乗客、つい今しがた二人がうわさしあっていた、あの百姓すがたの男だった。
彼は階段をおりきると、そこに立ちどまった。
五 暴力と人間
大砲は甲板の上で前へうしろへと走りまわっていた。それはまるで、『黙示録《もくしろく》』にしるしてある軍車《いくさぐるま》を思わせた。砲台の船材からぶらさがってゆれている艦灯《かんとう》が、この光景に、ゆれ動く、めくるめくような光と影を与えていた。しかし、大砲の影だけは、荒れくるうように動きまわっているので、はっきりとは見えず、明るみの中に黒々と現われるかと思うと、こんどは暗やみの中でぼんやり白く浮きだすのだった。
大砲はなおも艦の死刑執行をやりつづけ、ほかの砲を四門もうちくだき、壁には大きな裂け目を二つもこしらえていた。さいわい、その裂け目は吃水線《きっすいせん》より上にあったけれども、突風におそわれたら、そこから浸水するかも知れなかった。大砲はなおも気がくるったように肋材《ろくざい》にぶつかっていった。しかし肋材はなかなか頑丈なもので、この体あたりに耐えた。まがった木材というものは、特殊な強さを持っているものである。しかし、あたりかまわず神出鬼没《しんしゅつきぼつ》しては、あたり一面、めちゃめちゃに破壊する、この巨大なこん棒にたたきのめされては、さすがの肋材《ろくざい》もお手あげだった。びんの中になまり玉をいれてふっても、これほどすばやく激しい衝突はおこらないだろう。四つの鉄輪は死体の上をいきつもどりつしながら肉体を引きさき、ついには五人の水夫を、板をころげまわる二十ばかりの肉塊にちぎってしまった。死人の首が断末魔《だんまつま》の叫びをあげているように見え、艦がゆれるにつれて、甲板の上にいく筋もの血がのたうちまわるように流れた。艦腹の内張りがあちこちでいためつけられて口をあけ、艦全体に怪物じみた轟音《ごうおん》がみちみちていた。
艦長はいち早く落ちつきをとりもどしていた。彼の命令一下、乗組員たちは大砲のくるったような暴走をおさえたり、さえぎったりするのに役立ちそうなありとあらゆるものを、士官室から運び出して中甲板に投げこんだ。それは、わらのマットレス、ハンモック、予備の帆布、まいたロープ、乗組員の雑嚢《ざつのう》、そして、いくつもの行李《こうり》におしこんであった偽造《ぎぞう》のアシニャ紙幣(こうしたイギリスの紙幣偽造という破廉恥《はれんち》行為も、当時は正当な戦略と見られていたのだ)などだった。
しかし、こんなぼろきれみたいなものが、どれほど役に立つだろう? 中甲板へおりていって、投げこまれたものを適当に配置してやろうという勇気のあるものは、ひとりもいなかったのに。
あんのじょう、投げこまれたものは、十分とたたないうちにずたずたに切りさかれ、わたくず同然になってしまった。
こうして惨事ができる限りの力を発揮できたのも、海の荒れぐあいが、まったく時宜《じぎ》をえていたからだった。まだしも嵐のほうがましだった。嵐のために艦のゆれがもっと激しかったら、大砲はもんどりうってひっくり返っただろうし、四つの車輪が上を向いてしまえば、大砲はどうにでも始末できただろう。
しかし、損害はつのる一方だった。龍骨《りゅうこつ》の骨格の中深く埋ずめこまれ、艦内の各甲板をつきぬけて大円柱のようにそそり立っているなん本かのマストも、無数のすり傷をつけられ、ときには骨折を受けているものもあった。大砲がけいれんするようにつきあたるために、前部のマストにはひびがはいり、メイン・マストさえ損傷《そんしょう》を受けてしまった。そして、砲台自体も解体し始めていた。三十門の大砲のうち十門までが使用不能になり、艦腹をおおう亀裂《きれつ》の数はますます多くなり、とうとう、コルヴェット艦は浸水し始めた。
中甲板におり立った例の老乗客は、階段の下に石像のようにつっ立っていた。目をおおうばかりの惨事にきびしい目を向けていたが、身じろぎひとつしなかった。砲台へは一歩近づくことさえ不可能に思えた。
くさりをとかれた大砲が動くたびに、艦は一歩一歩と破滅の道をたどっていった。まもなく難破してしまうにちがいなかった。
最悪の事態を覚悟するか、この惨事をなんとかくいとめるか、道は二つに一つ、そのいずれかを選択しなければならなかった。だが、いずれをとったらよいのだろう?
それにしても、その大砲はなんとものすごい戦闘力を持っていたことか!
だれかが、このおそるべき狂人をとりおさえなければならない。
ぜひとも、この稲妻を組みふせなければならない。
なんとか、この雷鳴をおさえこまなければならないのだ。
ボアベルトロがラ・ヴィユヴィルに言った。
「君は神を信じるかね?」
ラ・ヴィユヴィルが答えた。
「そのときどきによります」
「嵐のときはどうかね?」
「信じます。それから、こんなときにも」
「そのとおり。こんな場合、われわれを救ってくれるのは、神よりほかにはない」と、ボアベルトロは言った。
ほかのものたちは、おし黙って、大砲のおそるべき破壊を見守るばかりだった。
外からは、いつも、艦腹にはげしくぶつかる大波の音がきこえてきた。それは、まるで、二つの鉄槌《てっつい》がかわるがわるうちおろされるようなものだった。
束縛からときはなたれた大砲がおどりくるっている、この近よりがたい闘技場に、とつぜん、手に鉄棒を持った男がとびだしてきた。それは、この事故を自分の怠慢《たいまん》から引きおこした責任者、この惨劇の張本人であるあの砲手長だった。この大惨事を引きおこした彼は、自分の力でそれをつぐなおうとしているのだった。片手には梃子《てこ》に使う鉄棒、もう一方の手にはひっこき綱を持って士官室から中甲板《ちゅうかんぱん》へとびおりてきたのだった。
こうして、すさまじい戦いが始められた。なんとも壮大なスペクタクルだった。大砲と砲手との戦い、鉄塊と知力との戦い、そして物体と人間との決闘が始まったのだ。
男は両手に鉄棒とひっこき綱をかたくにぎりしめ、中甲板のすみの肋材《ろくざい》の前に立ちはだかった。二本の鋼鉄のように両足の≪ひかがみ≫をふんばり、顔は真っ青だが、落ち着いた悲壮な態度で、甲板に根がはえたように待ちかまえていた。
大砲が自分のそばを走りぬけるのをじっと待っていたのだ。
砲手は自分の大砲を知りつくしていた。それに、大砲のほうだって自分のことをよく知っているような気がしていた。長いあいだ、この大砲とともに暮らしてきたのであり、手をその砲口につっこんでやったことも、なんどかあったのだ! それまでは、自分によくなついた怪獣だったのだ。彼は犬にでも呼びかけるように大砲に話しかけた。
「さあ、こい」と、彼は言ったが、おそらく、この大砲を愛していたのだろう。
大砲に自分のそばへきてもらいたい、とねがっているみたいだった。
しかし、その相手が彼のそばへくるということは、つまりおそいかかってくるということなのだ。そうなれば、彼の生命はなくなってしまう。どうしたら、大砲におしつぶされずにのがれられるだろう。そこが問題だった。乗組員全員がおぞけふるえながら、ことのなりゆきを見守っていた。息苦しさをおぼえないものはだれもいなかったが、ただひとり、あの老人だけは例外で、冷酷な立会人のように、二人の戦士とともに中甲板にひかえていた。
彼自身だって、いつ大砲におしつぶされるか知れないのに、老人は微動《びどう》だもしなかった。
艦の下では、盲目同然の大波がうねり、この艦上の戦いを監督していた。
ついに、激烈な白兵戦を覚悟して、砲手が大砲におどりかかった。そのとき、一瞬、波の動きで、大砲がぴたりと立ちどまった。まるで大砲自身がびっくりしているようだった。
「さあ、くるんだ!」と、砲手が大砲に向かって叫んだ。すると、大砲がこの叫び声に耳をすましているように見えた。
と、とつぜん、大砲が砲手におどりかかってきた。砲手はそれを危うくのがれた。
戦いが始まった。前代未聞の大格闘だった。かよわい人間と不死身《ふじみ》の物体との闘争、生身《なまみ》の戦士と青銅の野獣との対決。一方は力を誇り、一方は魂のある存在だった。
すべてがうす明かりの中でおこなわれたが、それは、奇跡のおぼろな幻影を見るようだった。
魂と言えば、不思議なことに、大砲にも魂が宿っているように見えた。しかし、それは憤怒《ふんぬ》の魂であり、憎悪《ぞうお》の魂だった。この盲目の物体にも二つの目がついているようだった。
砲手の動きをじっとつけねらっているようだった。やはり、この巨大な鉄塊にも、なにか狡猾《こうかつ》なたくらみがひそんでいるとしか思われなかった。そして大砲は砲手にとびかかっていくチャンスをねらっていた。その鉄製の巨大な昆虫は、悪魔の意志を持っていた、いや、持っているように見えた。この巨大なバッタは、ときにはねあがって、砲台の低い天井にぶつかり、また、たちまち、爪で立つ虎《とら》のように四つの車輪の上にとびおり、と見るまに、またまた、人間に向かって猛然と突進してくるのだった。砲手のほうも、しなやかに、敏しょうに、巧妙に、蛇のように身をくねらせて、この雷のような攻撃からのがれていた。彼が衝突をさけて身をひるがえすと、そのたびに、大砲が艦に激突し、またもや大損害を与えるのだった。
大砲はくさりの切れはしを引きずっていたが、これがどういう拍子か、砲尾《ほうび》についている照準器のねじに巻きついてしまった。一方のはしは砲架に固定されているものの、もう一方のはしは自由になっていたので、これが砲身の周囲で気ちがいのように旋回し、砲の激しい跳躍《ちょうやく》をますます助勢していた。照準器のねじは、まるで手でにぎりこむようにくさりをつかまえていた。それで、このくさりはむちのような勢いで打撃作用をましながら、青銅の手ににぎられた鉄の鞭《むち》さながらに、大砲の周囲におそろしい旋風をまきおこした。このくさりのために戦いはいっそう複雑なものになっていたのだ。
それでも砲手は戦いつづけた。ときには、自分のほうから大砲に攻撃をしかけさえした。彼は鉄棒とひっこき綱をにぎったまま、舷側にそって這《は》うように敵へ近づいたが、大砲はその動きをめざとく察知し、罠《わな》に気づいたようににげるのだった。すると、砲手はものすごい形相で、にげる大砲のあとを追うのだった。
しかし、こんな戦いが長くつづくはずはなかった。とつぜん、大砲が『さあ、こんどこそ決着をつけてやるぞ!』と、ひとり言を言ったようだった。そして立ちどまった。
人々はとうとう破局が近づいたことをさとった。大砲は落ちつかないようすで、残忍な計画をめぐらしているようだった。いや、ほんとうにめぐらしていたといってよいだろう。それを見守る人々には、大砲が意志あるものとしか考えられなかったからだ。
そのとき、ふいに、大砲が砲手めがけておそいかかった。砲手はそれをかわして相手をやりすごすと、笑いながら、大声で叫びたてた。
「どうした! もういっぺんやってみろ!」
大砲は激怒したように左舷《さげん》にあった大砲一門をぶちこわし、目には見えない投石器からとび出してきたように、砲手めがけてつっこんできた。砲手はこれをもかわしたが、この突撃をもろに受けて、またも三門の大砲が破壊されてしまった。それからは、怪物はもう自分でなにをしているのかわからないくらい盲めっぽうに、砲手に背を向けると、艦尾から艦首めがけて暴走し、艦首材をへしまげ、艦首の壁に割れ目を作ってしまった。砲手は階段の下へ避難していたが、そこは例の老人がいるところから五、六歩はなれていた。砲手はまだ鉄棒を持って立ちはだかっていた。大砲はそのすがたを認めたようだった。ふり返りもせず、うしろ向きになったまま、おのをふりおろすようにすばやく、まっしぐらに、砲手めがけて突進してきた。舷側に追いつめられて、この体あたりをくらったら、砲手の生命はない。全乗組員のあいだから叫びが湧《わ》きおこった。
しかし、このとき、それまで身じろぎひとつしなかった老乗客が、大砲の目にもとまらぬすばやさにもまさる早業《はやわざ》でとびだし、偽造紙幣《ぎぞうしへい》をつめた行李《こうり》をひっつかむと、大砲におしつぶされる危険もものかは、その行李を大砲の四つの車輪のあいだへ、もののみごとに投げこんだのだ。この一歩あやまればどうなるかわからない危険な行為は、あのデュロゼルの『海軍砲操典』に書いてある、あらゆる大砲操作に熟知したものでも、これほど適切に、厳正に処置することはできないくらいのものだった。
行李はブレーキとしての役目をはたした。小石ひとつでも巨岩のささえとなるし、小枝一本でも、ときにはなだれをそらすのに役立つのだ。海軍砲がよろめいた。砲手もこのおそろしい一瞬をのがさなかった。手にした鉄棒を大砲の後輪の輻《や》のあいだに投げこんだ。ついに、さしもの大砲も動かなくなった。
大砲は傾いていたが、砲手は鉄棒をてこにして、大砲をこじあげるようにしてゆすぶった。重い巨大な鉄塊も、ついに鐘のような地ひびきを立てて横だおしになった。砲手は全身汗にまみれながら、われを忘れて大砲にとびかかり、手にしたひっこき綱を、うちたおされた怪物の青銅の首にまきつけた。
ついに終わったのだ。人間が勝ったのだ。捕虜にしたのだ。蟻《あり》が巨獣マストドンにうち勝ち、こびとが雷神《らいじん》を捕虜《ほりょ》にしたのだ。
海兵隊も水兵たちもいっせいに拍手した。
乗組員が手に手にロープやくさりを持って大砲にとりつき、またたくまに、しっかりとゆわえつけてしまった。
砲手が老人に敬礼して言った。
「閣下がわたしの生命を救ってくださいました」
すでに老人はもとの無感動な態度にもどっていた。砲手の言葉には返事をしなかった。
六 秤《はかり》の両皿
ついに人間が勝った。だが同時に、大砲も勝利をおさめたと言ってもよかった。すぐ沈没するということはさけられたが、といって、コルヴェット艦が救われたわけではなかった。艦が受けた損傷はもう修理できないほどだった。艦腹には五つもの亀裂《きれつ》ができていて、艦首にできた裂け目は中でもとくに大きかった。大砲三十門のうち二十門が傷を受けたまま砲台の上にのっていた。水夫たちにとりおさえられ、くさりでしばりつけられた例の海軍砲は、もちろん使いものにならなかった。砲尾についている照準器のねじがおしつぶされ、ねらいをつけることも不可能になっていた。大砲はもう九門しか残っていなかった。船倉には浸水し、すぐにも損傷を受けたところを修理し、浸入した水をポンプでくみださなければならなかった。
さて、今、ずっと見渡して見ると、中甲板の惨状たるや目もあてられないくらいだった。くるった象《ぞう》のおりの中だって、これほどひどく破壊されていないにちがいない。
もちろん、このコルヴェット艦は敵からすがたをくらますことが必要だったが、こうなってしまっては、ただちに沈没をふせぐことのほうが、さらに必要だった。それで、舷側のあちこちに艦灯をつるさげて、甲板を明るく照らさなければならなかった。
けれども、この悲惨な事件がつづいているあいだ、乗組員全員は生と死の問題だけに気をとられていたので、コルヴェット艦の外でおきたことには、ほとんど気づかなかった。そのあいだにも、霧は深くなり、天候も変わっていたのだ。風が思いきり艦にあたり、艦はコースをずっとはずれて、ジャージー島とガーンジ島が見える位置にきていた。予定の進路よりずっと南寄りを走っていたことになる。海も荒れてきていた。激浪がおそってきては、口をあけた艦の傷口に口づけした。しかし、これはなんと危険な口づけだったろう。波の揺れも威嚇的《いかくてき》だった。今や、微風は強い北風に変わっていた。突風が、いや、おそらく暴風が吹き始めていた。少しはなれた海はもう見えなかった。
乗組員たちが中甲板の傷を急いで修理したり、水もれをとめたり、損傷をまぬがれた大砲をもとの砲座へ戻したりしているあいだに、例の老人はまた上甲板へあがっていった。
そして、メイン・マストに身をもたせかけた。
彼は艦内でおこなわれている作業には、なんの注意もはらわなかった。ラ・ヴィユヴィル勲爵士《くんしゃくし》は、海兵隊員をメイン・マストの両わきに、戦闘隊形で整列させた。そして、水夫長が呼子《よびこ》を吹き鳴らすと、作業していた水夫たちが帆げたの上に並んだ。
ボアベルトロ伯爵が老乗客のほうへ進み出た。
艦長のうしろにはひとりの男が従っていた。彼は目を光らせ、息をはずませ、衣服をすっかり乱していたが、いかにも満足そうな様子をしていた。
それは、さきほど、チャンスをのがさず怪物をしずめるのにめざましい働きを示し、大砲をしとめた、あの砲手長だった。
伯爵は百姓すがたの老人に軍隊式の敬礼をすると、こう言った。
「将軍、この男でございます」
砲手長は目を伏せ、軍隊式の直立不動の姿勢でひかえていた。ボアベルトロ伯爵がつづけて言った。
「将軍、さきほどのこの男の行為につき、上官としてなにかしてやってしかるべきだと、お思いになりませんか?」
「そう思う」と、老人が言った。
「それでは、なにとぞ、将軍からご命令を」
と、ボアベルトロがもう一度言った。
「命令するのは君だ。君が艦長だからな」
「しかし、閣下は将軍でいらっしゃいます」
と、ボアベルトロが言った。老人が砲手長をながめた。そして、
「一歩前へ」と、言った。
砲手長が一歩前へ出た。
老人はボアベルトロ伯爵のほうに向きなおると、艦長の胸からサン=ルイ十字勲章《じゅうじくんしょう》をもぎとり、それを砲手長の水兵服につけてやった。
「ばんざい!」と、水夫たちが歓呼の声をあげた。
海兵隊員がいっせいにささげ銃《つつ》をした。
すると老人は、喜びでわれを忘れている砲手長を指さして、こう言いそえた。
「さあ、この男を銃殺にせよ!」
歓呼の声がぴたりとやみ、みんな、こおりついたように静かになった。
その墓場のような静けさの中で、老人が声をはりあげた。
「たったひとつの不注意から、この艦は危険にさらされることになった。こうなっては、いつ沈むかも知れない、艦が海へ出るということは、すなわち敵の前に出ることである、航海中の軍艦は戦闘中の大隊にひとしい。嵐はかくれることはあっても、嵐そのものがなくなるわけではない。海全体が伏兵と思うべきだぞ。敵を前にして過失をおかすということは、当然、死罪にあたいする。それ以外につぐなえる過失などないのだ。勇敢なる行為は表彰すべきだ。しかし、怠慢の罪は処罰しなければならん!」
この言葉はかしの木にうちおろされる斧《おの》のひびきのように重々しく、それはひとつひとつ、いかにもきびしい調子で、乗組員全員の頭上に、ゆっくりと、おごそかに落ちてきた。
老人は海兵隊員たちのほうに目を向けると、こう言いそえた。
「さあ、銃殺にしろ」
上衣にサン=ルイ十字勲章を輝かせた男はうなだれてしまった。
ボアベルトロの合図で、二人の水夫が中甲板へおりていったが、死体をくるむハンモックを持ってもどってきた。それから、出帆以来、士官室で祈りつづけていた艦つきの僧侶も、二人といっしょにやってきた。ひとりの軍曹が隊列の中から十二名の海兵隊員をえらび出し、六人ずつ二列に並ばせた。砲手長は黙りこくって、列のあいだを進んでいった。僧侶が十字架像をささげて進みより、砲手長のそばに立った。
「前へ」と、軍曹が言った。
分隊はゆっくりと艦首のほうへ進んでいった。そのうしろから、死体をくるむハンモックを手にした二人の水夫がつづいた。
陰欝《いんうつ》な静けさがコルヴェット艦をつつんだ。遠くで、強風が吹きつのっていた。
まもなく、暗やみの中に銃声がとどろき、閃光《せんこう》がひらめいた。それからまた、あたりがすぐ静かになった。やがて、死体が海に投げこまれる音がきこえた。
老人はやはりメイン・マストにもたれたまま、じっと腕を組んで、なにか思いにふけっていた。
ボアベルトロが左手の人さし指で老人のほうを指さしながら、ラ・ヴィユヴィルに、そっとささやいた。
「これでやっと、ヴァンデ軍にも指揮官ができたぞ」
七 航海は宝くじのようなもの
しかし、コルヴェット艦はどうなるのだろう?
ひと晩じゅう、波とまじりあっていた雲が、ついには非常にひくくたれこめ、水平線も消えて、まるで海全体がマントにくるまれたようになったほどだった。見わたすかぎり霧ばかり。今の場合、たとえ万全のそなえを持った船にとっても、事態は四六時《しろくじ》ちゅう危険この上ないものだった。
濃霧にくわえて、海の荒れかたもいっそうひどくなってきた。
しかし、時間をむだにすることなく、最善の方法が講じられていった。艦をかるくするために、大砲の暴走で損傷を受けたもののうち、すててよいものが海へ投げこまれた。おしつぶされた大砲、こわれた砲架、ねじくれたり釘がぬけたりした肋材、木片や鉄片などが投げすてられたのだ。
舷門がひらかれて、幌《ほろ》にくるんだ死体や肉片も、板の上をすべらせて、波間に落とされた。
海はもう手がつけられないくらいの状態になっていた。べつに暴風雨がすぐ近くまできているというわけではなかった。むしろ、水平線のかなたでうなっていた風は弱まってきていたようだし、突風も北方へ遠ざかっていったようだった。それでも、波浪は依然として高かった。これはつまり、あまり深くないところにさしかかったということで、傷つき弱ったコルヴェット艦は、その波のゆれにたえられそうもなかった。ここで激浪を二つ三つかぶったら、それきり艦はおだぶつになってしまうかも知れなかった。
ガコワールは心配顔で舵輪をにぎっていた。
逆境にぶつかっても笑顔を見せる、というのが海で指揮をとるものの常なのだ。いつも災難に出会うと陽気にふるまうラ・ヴィユヴィルが、ガコワールに近よってきて、声をかけた。
「なあ、水先案内《パイロット》君、嵐のやつ、へまをやったらしいな。くしゃみのひとつもしたかったんだろうが、できなかったんだな。すぐに峠をこすだろう。これで風でも出てくりゃ、万事上々さ」
すると、ガコワールが真剣な顔で答えた。
「風が出てくりゃ、波も騒ぎますぜ」
にこりともしないかわり沈みこみもしない。これが海の男というものだった。だが、彼の答えには、不安なひびきがこめられていた。浸水し始めている船にとって、高い波をかぶるということは、すなわち、すぐ水びたしになるということだった。ガコワールはしかめ面《つら》をすることで、この予想を強調して見せたのだ。ついさっき、大砲と砲手の惨事が持ちあがったばかりだというのに、ラ・ヴィユヴィルがこんなに上機嫌に軽口をたたいたのは、少々早計だったようだ。海では、いつなんどき、どんな悪運にみまわれるか知れたものではない。海は神秘をかくしているのだ。その秘密は、人間の力ではなんともはかり知れないものなのだ。常に警戒をおこたってはならないのだ。
ラ・ヴィユヴィルも、まじめにならなければだめだ、と感じた。
「ここは、どこなんだろう?」と、彼がたずねた。
「神のみ心の中ですよ」
水先案内人《パイロット》は常に主人なのだ。いつも、やりたいことをやらせておかねばならないし、ときには言いたいように言わせておかなければならない。
それに、こういう種類の男は、えてして無口である。ラ・ヴィユヴィルも、そこから立ち去っていった。
ラ・ヴィユヴィルが水先案内人《パイロット》にした質問に対しては、水平線が答えていた。
とつぜん、海が現われたのだ。
波の上に広がっていた霧がちり、夜明けのうす明かりの中に、見わたすかぎり暗い波のうねりがくりひろげられ、ここに視界が広くひらけたのだ。
空にはあいかわらず雲がたれこめていたが、その雲も海面に触れるほどではなかった。東の空には、日の出の前兆《ぜんちょう》である白さが現われ、西のほうには、沈みゆく月の同じ白さが広がっていた。この二つのほの白い光が東西の水平線上に向かいあい、暗い海と陰欝《いんうつ》な空のあいだをわける二本の細長いうす明かりのすじを作っていた。
この二すじの光を受けて、いくつもの影絵が黒々と浮かんでいた。
西方には、月光にかすかに照らしだされた空を背に、三つの高い岩影が、ケルト人の巨岩記念碑のように、直立してそびえていた。
東方には、青白い夜明けの水平線を背にして、八つの帆影《ほかげ》が整然と、威圧するような間隔をおいて並んでいた。
三つの高い巨岩は暗礁であり、八つの帆影は艦隊であった。
後方に悪名高いマンキエの岩礁をひかえ、前方にはフランスの巡洋艦隊が立ちはだかっているのだ。つまり、西方には奈落《ならく》が、東方には虐殺者たちが待ち受けているのだ。今や、コルヴェット艦は難破と海戦にはさみうちにされてしまっているのだった。
暗礁と対決しようとしても、艦体は亀裂だらけで、艦具はずたずたに裂け、マストは根元がぐらぐらしている始末だった。また、戦いにとびこもうとしても、三十門の大砲のうち二十一門は使用不能、それにいちばん腕のよい砲手たちも死んでしまっているのだ。
夜明けの光はまだ非常に弱く、すぐ前には、まだまだ、夜のやみが残っていた。この暗やみはまだ長くつづくようだった。というのも、高く、厚く、深く、まるでがっちりした円天井のような雲が作った夜やみだったからだ。
ひくくたれこめていた霧を吹きはらった風が、コルヴェット艦をマンキエ岩礁のほうへ吹き流していった。
艦は疲れはて、受けた損傷もひどかったので、もうほとんどかじの言うことなどきかず、帆走しているというよりゆれているだけといったようすで、大波にうたれてはただよっていった。
危険この上ないマンキエ岩礁は、当時、今よりももっと鋭くそびえ立っていた。地獄の砦《とりで》とまごうその高い巨岩群も、現在では、たえまない波に浸食されて、すっかりすりへらされてしまっている。こうして、暗礁の地形は常に変化するのだ。波《ラーム》と刃《ラーム》が同じ語であるのも、またこういうわけからだろうか? あげ潮のひとつひとつが鋸《のこぎり》の刃《やいば》の仕業なのだ。この当時は、マンキエ岩礁に触れるとは、すなわち沈没するという意味だった。
巡洋艦隊のほうは、カンカル艦隊で、デュシェーヌ艦長に指揮されるようになってから勇名をとどろかせた、あの艦隊だった。デュシェーヌ艦長は、レキニヨから≪デュシェーヌおやじ≫と呼ばれた人物である。
とにかく、事態は急をつげていた。あの海軍砲が大あばれしているあいだに、コルヴェット艦は知らぬまにコースをはずれ、サン=マロには向かわないで、グランヴィルのほうへ流れていっていたのだ。たとえ帆を張ってうまく走ったところで、ジャージー島へ引き返すには、マンキエの岩礁がゆくてをはばみ、フランス海岸へ向かおうとすると、前方には巡洋艦隊が待ちかまえていた。そのうえ、嵐はすっかりやんでいたが、さきほど水先案内人《パイロット》が言ったとおり、大波が立ち騒いでいた。強風に吹きまくられ、岩だらけの底でさかまいて、激しくもみ合っていた。
海はその望むところをすぐには口にしないものだ。しかし、その深淵には、あらゆるものが、訴訟事件までがかくされている。海は訴訟をおこしている、といってよいかも知れない。つまり、進むと見せてはしりぞき、申し立てるかと見せては前言をとり消してしまう。突風を吹かせると思うと、もうその手を放棄している。一寸さきは奈落《ならく》だと思わせながら、もうそれを忘れている。北をおびやかしながら、あっというまに南をうつのだ。夜が夜じゅう、コルヴェット艦クレイモア号は霧にまかれ、暴風雨の恐怖にさらされた。そうしておいて、海は約束をたがえて態度を変えた。しかも、世にもおそろしい手段を使う。嵐を迎える心づもりにさせておきながら、暗礁を出して見せたのだ。しかし形はどうあれ、これで難破《なんぱ》することはまちがいなかった。
さらに、暗礁による破滅に加えて、戦闘による全滅がひかえていた。前門の虎、後門の狼が、たがいに力を貸しあっていたのだ。
ラ・ヴィユヴィルが豪胆《ごうたん》に笑って大声をはりあげた。
「こっちには難破、あっちには戦闘だ! どちらを向いても、|大あたり《キーヌ》だ!」
八 九対三百八十
今や、コルヴェット艦はもう難破船といってよかった。
黒ずんだ雲の中、あちこちにきらめくうす青い光の中、ぼんやりかすんで動く水平線の中、神秘的な波のうねりの中では、墓場のそれに似た静けさだけがひろがっていた。しかし、意地悪く吹き荒れる風以外、すべてが黙りこくっていた。破局は、海の底深くからおごそかにわきあがってきた。それは攻撃というより亡霊の出現に似ていた。岩礁のあいだで動くものはなく、敵艦のあいだでも動く気配は少しも見られなかった。ただただ広大な静けさがあたりをおしつつんでいた。はたして、これは現実の出来事だったのだろうか? それは海の上を夢がわたっていくみたいだった。こんなさまは伝説に出てくるものだが、今や、コルヴェット艦は悪魔の暗礁《あんしょう》と暗鬼《あんき》のごとき巡洋艦隊のあいだを漂《ただよ》っているようだった。
ボアベルトロ伯爵は小声でラ・ヴィユヴィルに命令をくだした。ラ・ヴィユヴィルは砲台のほうへおりていった。艦長のほうは望遠鏡を持って、水先案内人《パイロット》のいる艦尾《かんび》にやってきた。
ガコワールはコルヴェット艦を真正面《まっしょうめん》から波の進んでくる方向に向けようと全力をつくしていた。横波をくらったり横風を受けたりしたら、艦はひとたまりもなく転覆《てんぷく》するからだった。
「水先案内《パイロット》」と、艦長がガコワールにたずねた。「現在の位置は?」
「マンキエ岩礁の近くです」
「どちら側だ?」
「始末《しまつ》の悪い側です」
「底のほうはどうなっている?」
「岩がごつごつしています」
「艦首と艦尾にいかりをおろして碇泊《ていはく》できるか?」
「いつでも死ねますよ」と、水先案内人《パイロット》が答えた。
艦長は小型望遠鏡を西に向けると、マンキエ岩礁をくわしく調べた。それから筒先《つつさき》を東に転じて、視界にはいってきた敵艦隊を仔細《しさい》に観察した。
水先案内人《パイロット》は、半分ひとり言みたいにしゃべりつづけていた。
「あれがマンキエ岩礁だな。オランダからとび立つユリカモメや≪黒マント≫カモメどものために休み場になってやっている」
そのあいだに、艦長は敵艦の帆影《ほかげ》を数え終わっていた。
確かに、八隻の軍艦が海上に戦闘的なシルエットを見せて、ちっていた。中央に、三重甲板の艦が一隻、ひときわ高く浮き出していた。
艦長が水先案内人《パイロット》にたずねた。
「あの帆影《ほかげ》を知っているかね?」
「知っていますとも!」と、ガコワールが答えた。
「言ってみろ」
「艦隊です」
「フランスのな」
「悪魔のです」
しばらく沈黙がつづいた。艦長がもう一度言った。
「巡洋艦隊はあれで全部か?」
「いえ、全部じゃありません」
そのとおりだった。四月二日に、ヴァラゼが国民公会に、十隻のフレガート艦と六隻の戦艦が英仏海峡を監視していると報告していたのだ。そのことを、艦長も思いだした。
「そうだな。艦隊は十六隻から編成されているはずだ。が、今、見えるのは八隻だけだ」
と艦長は言った。
「残りはもっと海岸近くにいて監視してるんですよ」と、ガコワールが言った。
望遠鏡を目にあてたまま、艦長がつぶやいた。
「三重甲板艦一隻に、一級フレガート艦二隻、二級フレガート艦五隻か……」
「それぐらいのことなら、わたしだってさぐりあてていましたぜ」と、ガコワールがつぶやいた。
「みんな、いい艦《ふね》ばかりだ」と、艦長が言った。「わしもあの艦隊を指揮したことがあるから、よく知っている」
「わたしも近々とおがませてもらったことがあります。それだけでもう見まちがうことがないくらい、よく頭にはいってますよ」
艦長は望遠鏡を水先案内人《パイロット》にわたした。
「水先案内《パイロット》、あの舷側《げんそく》の高い艦はなんだかわかるかね?」
「ええ、わかりますとも、艦長。ありゃ、≪コート・ドール号≫ですよ」
「いや、そいつは、やつらが勝手に改名した名前なんだ」と、艦長が言った。「前は≪エタ・ド・ブルゴーニュ号≫といってな、新造艦《しんぞうかん》だった。砲百二十八門を積んでいる」
彼はポケットから手帳と鉛筆をとりだすと、手帳に百二十八と書きこんだ。
彼は言葉をつづけた。
「水先案内《パイロット》、左のやつはなんだ?」
「≪エクスペリマンテ号≫です」
「一級フレガート艦だな。砲は五十二門だ。二カ月前、ブレストで艤装《ぎそう》された」
艦長は手帳に五十二と書きつけた。
「水先案内《パイロット》」と、またつづけた。「左から二ばんめのやつはなんだ?」
「≪ドリヤード号≫です」
「一級フレガート艦だ。十八ポンド砲四十門。インドへ派遣されていて、非常な戦果《せんか》をおさめた艦だ」
彼は五十二という数字の下に四十と書きくわえ、それから頭をあげていった。
「つぎは右舷《うげん》だ」
「艦長、こっちは全部二級フレガート艦です。五隻構えています」
「旗艦《きかん》から数えて、はじめのは?」
「≪レゾリュ号≫です」
「十八ポンド砲三十二門。つぎは?」
「≪リシュモン号≫」
「備砲《びほう》同じ。で、つぎは?」
「≪アテ号≫です」〔アテは無神論者の意〕
「海へでる軍艦にしては妙な名前だな。その次は?」
「≪カリプソ号≫」
「つぎは?」
「≪プルヌーズ号≫で」
「五隻いずれも三十二門|装備《そうび》のフレガート艦だ」
艦長は百六十という数字を前の数字につけくわえて書きつけた。
「だが、水先案内《パイロット》、よくおぼえていたな」
「ええ、艦長。でも、艦長もよくよくご存じですね」と、ガコワールが答えた。「おぼえてるってことも役に立ちますが、よく知ってるってことのほうがずっと大事ですからね」
艦長は手帳をじっと見つめ、口の中でぶつぶつ言いながら、数字をくわえていった。
「百二十八に五十二、それから……四十に……百六十か……」
そのとき、ラ・ヴィユヴィルがまた甲板へあがってきた。
「おい、勲爵士《くんしゃくし》」と、彼に向かって艦長が大声をはりあげた。「目の前に大砲三百八十門が待ち構《かま》えておるぞ」
「結構なことです」と、ラ・ヴィユヴィルが答えた。
「点検は終わったんだろう、ラ・ヴィユヴィル、確かなところ、発砲できる大砲はなん門残っているのかね?」
「九門です」
「結構だな」と、こんどはボアベルトロが言った。
彼は水先案内人《パイロット》から望遠鏡を受けとると、じっと水平線上を見つめた。
音もなく黒々と並んでいる八隻の軍艦は、まるで動いていないみたいだったが、その実、しだいにすがたを大きくしてきていた。
だんだん、こちらへ近づいてきていたのだ。
ラ・ヴィユヴィルが敬礼して言った。
「艦長、報告いたしますが、その前に、わたしはこのコルヴェット艦≪クレイモア号≫を最初から信頼していなかったことを申しあげておきます。われわれとはなじみもなく、むしろわれわれをきらっている艦に、急に乗り組めと言われても迷惑するばかりです。イギリスの艦なんて、どうせフランス人を裏切るにきまっているんです。あの大砲がいい例ですよ。では、点検の結果を報告します。錨《いかり》は全部異常ありません。粗金《あらがね》で作ったものではなく、しっかりした鉄の塊で、大きな鉄槌に鉄の棒を熔接《ようせつ》して作ったものです。錨輪《いかりわ》もしっかりしています。錨索《いかりづな》も規定どおり百二十|尋《ひろ》あります。弾薬もたっぷりあります。死亡は砲手六名。砲弾は砲一門につき百七十一発あります」
「なるほど、大砲は九門しか残っておらんからな」と、艦長がつぶやくように言った。
ボアベルトロは望遠鏡を水平線上に向けた。敵艦隊はなおもゆっくりと近づいてきていた。
海軍砲には、わずか三人の砲手で操作できるという長所がある反面、野砲とくらべて射程《しゃてい》が短く命中率《めいちゅうりつ》もひくい。だから、艦隊を海軍砲の射程距離内にひきつけなければならなかった。
艦長がひくい声で命令をくだしてしまうと、もう艦内にはなんの物音もしなかった。戦闘準備のラッパは吹かれなかったが、さっそく準備態勢《じゅんびたいせい》にはいっていた。波と戦う力のないコルヴェット艦は、敵艦と戦闘する力も失っていた。しかし、乗組員全員が、この戦艦の残骸《ざんがい》に最後の花を咲かさせようと、いそがしく立ちまわっていた。いざというとき、マストを補強《ほきょう》するために、舵綱近くに、大綱や予備綱などが、山のように積みあげられた。負傷者の収容室も準備がととのえられた。当時の海軍方式にしたがって、甲板には防備用厚布《バスターング》が張られた。これで砲弾を受けとめることはむりだったが、小銃弾なら防ぐことができたのである。砲弾の砲径検査器《パス・バル》も持ちだされていた。今になって、砲弾の口径をしらべるとは、どうやら手おくれらしかったが、こんなことがつぎつぎにおころうとは、だれも予想してはいなかったのだ。水兵はひとりひとり、弾薬いれをわたされ、二ちょうの拳銃《けんじゅう》と短剣を腰にさした。ハンモックはたたまれ、大砲の照準が定められた。おのやひっかけかぎも準備された。薬《やく》のう庫と砲弾庫の用意もできた。火薬庫のドアもひらかれた。各員はすでに配置についていた。すべてのことが、まるで臨終の部屋でおこなわれているように、言葉ひとつかわされることなく運ばれていった。それは迅速《じんそく》ではあるが、陰気な空気に満ちた作業だった。
やがて、コルヴェット艦は艦首と艦尾に錨《いかり》をおろして、敵艦隊に横腹を向けた。フレガート艦と同じように六つ用意してある錨を全部おろした。つまり、艦首には非常用大錨、艦尾には索錨《さくびょう》、沖側には満潮錨《まんちょうびょう》、暗礁側には干潮錨《かんちょうびょう》、左舷主錨《さげんしゅびょう》は右舷に、右舷主錨は左舷に投げこまれたのである。
残った九門の海軍砲は、砲口をすべて敵艦隊に向けて並べられていた。
敵艦隊もまた≪クレイモア号≫と同じく物音ひとつしない静けさの中で戦闘準備を完了していた。八隻の艦はマンキエ岩礁を弦《げん》として半月形の包囲態勢をとっていた。≪クレイモア号≫はこの半刀形の中に追いつめられ、背後にマンキエ岩礁をひかえて、自分の錨にしっかりそこへしばりつけられていたのだ。
野生のいのししをとりかこんでむらがり、ほえ声を立てずに牙《きば》をむきだしている猟犬のようだった。
双方とも、今やおそしと待ち構えているようだった。
≪クレイモア号≫の砲手たちは、各自の砲のそばに配置についていた。
ボアベルトロがラ・ヴィユヴィルに言った。
「そろそろ、砲撃を始めてもいいだろう」
「ありがたきしあわせですな」と、ラ・ヴィユヴィルが言った。
九 のがれる人
例の乗客はまだ甲板から立ち去らないで、すべての出来事を平然と見つめていた。ボアベルトロが彼に近づいて言った。
「閣下、戦闘準備は完了しました。本艦は墓場にくぎづけにされています。しかし、最後まであきらめません。敵艦隊のとりこになるか、暗礁のとりこになるか、いずれかです。敵に降服《こうふく》するか、暗礁にぶつかって海底の藻屑《もくず》と消えるか、それ以外に、われわれの前には道はありません。そして、われわれに残されている道はただひとつ、死だけです。だが、難破するより戦うほうをえらびますし、おぼれ死ぬより弾にあたって死ぬほうがましです。同じ死ぬなら水よりも砲火のほうがよろしい。しかし、死はわれわれに関することであって、閣下にはご関係のないことです。閣下は王族《プランス》がえらばれた方ですし、ヴァンデの戦いを指揮なさるという重大な使命をおびていらっしゃいます。閣下がたおれられたら、王政も二度と息を吹き返す機会を失ってしまうと思います。ですから、閣下には、なんとしてでも生きていただかなければなりません。われわれの名誉は本艦にふみとどまって戦うことですが、閣下のご名誉は、この場を離れることだと存じます。
閣下、どうか、ここから脱出なさってください。ボートと水夫ひとりをさしあげます。まわり道をなされば、海岸にお着きなさることも、けっして不可能ではないと思います。まだ夜明け前ですし、波は高く、海は暗く、きっと脱出に成功なさるでしょう。逃げることがすなわち勝利という場合もあると存じます」
老人はきりりと立てていた首をうなずかせて、重々しく同意してみせた。
ボアベルトロ伯爵は声をはりあげて、呼びかけて言った。
「海兵ならびに水夫諸君!」
この声に、いっさいの作業がやみ、艦内いたるところから、乗組員たちの顔が艦長のほうへ向けられた。艦長は話しつづけた。
「ここにあられる方は王のご名代である。ゆえあって、われわれがお守りすることとなったのだが、フランスの王権にとってはぜひとも必要な方である。王族《プランス》がおいでになれぬので、この方がヴァンデの戦いを指揮なさるはずである。ともかくも、われわれはそれを望んでいる。この方は戦場で戦われる偉大な将軍でいらっしゃる。われわれの手でフランスへお送り申しあげる予定だったが、ことここにいたっては、閣下おひとりで上陸していただかねばならん。偉大な将軍に生きのびていただくことは、すなわち、すべてを救うことなのだ」
「そうだ! そうだ! そのとおりだ!」と、乗組員たちがいっせいに声をあげた。
艦長はつづけた。
「閣下もまた大いなる危険にお身をさらされることになる。海岸へたどり着くことは、なみたいていではない。この大波にたえるには大型ボートが必要であるが、敵艦隊の目をのがれるには、どうしても小型ボートに乗っていただかざるを得ん。
まず問題なのは、どこか安全な地点に上陸しなければならんということだ。クータンスの方面より、むしろフージェールの近くがよかろうと思う。それには、がんじょうな水夫が必要だ。ボートをこぐことがうまいのはもちろん、泳ぎの達者なもの、この近くの生まれで水路に明るいものでなければならん。まだ夜は明けきっていないから、ボートは敵艦に発見されずに本艦をはなれられると思う。そのうち戦いの火ぶたが切られれば、硝煙《しょうえん》があたりを包み、まずは見つからないだろう。小型ボートなら、浅瀬《あさせ》につかまることもないだろう。豹《ひょう》ならつかまるかも知れんが、イタチなら逃げられる。われわれには逃げ道はないが、閣下にはある。力いっぱい櫂《かい》をこげば、敵に発見されないですむだろう。そのあいだ、われわれはあらんかぎりの力をふりしぼって、敵をたのしまさせてやろうじゃないか。どうだ、反対するものはおらんか?」
「賛成! 賛成!」と、乗組員が叫んだ。
「そうときまれば、一刻も猶予《ゆうよ》もならん」と、艦長は言った。「だれか進んで閣下をお守りしようというものはおらんか?」
ひとりの水夫が暗闇《くらやみ》に包まれた列の中から進みでて言った。
「わたしがまいります」
十 にげきれるか?
しばらくして、ふつう艦長用のボートとなっている、≪ユーユー≫と呼ばれる小型ボート一隻が艦を離れていった。このボートには二人の男がのっていたが、ひとりは例の老乗客で、彼は船尾に腰をおろし、もうひとり、水兵のほうはへさきにすわっていた。あたりはまだ暗闇に包まれていた。艦長の指示どおり、水兵はマンキエ岩礁のほうへ力強くボートをこいでいった。もっとも、この方向以外、逃げる道はなかったのだ。
乗組員たちが、ボートの底にビスケットのふくろ、くん製の仔牛《こうし》のヒレ肉、小さなたるにつめた水など、いくらかの食糧を積みこんでおいた。
≪ユーユー≫が海面へおろされたとき、こんな、今にも死の淵へころがりこもうという矢先でもじょうだんを忘れないラ・ヴィユヴィルは、コルヴェット艦のかじを支える木組みの上からのぞきこみ、ボートの二人に向かって、わかれの言葉をかけた。
「逃げるにも好都合、おぼれ死にするにも絶好のボートだ」
「ねえ、もう、冗談はよしましょう」と水先案内人《パイロット》が言った。
小型ボートは猛烈ないきおいで海へのりだし、またたくまにコルヴェット艦から遠くはなれてしまった。風と波もボートのこぎ手に手をかしたので、小舟はうす暗がりの中をゆれ、大波のうねりにかくれながら、すばやくのがれ去っていった。
このとき、海上には、なにかはっきりしない陰気な期待みたいなものがみちみちていた。
とつぜん、この大海のひろびろとざわめく、嵐をひかえた静けさの中で、人間の声とも思えぬ声がひびきわたった。この声は伝声管《でんせいかん》によって拡大されていたが、まるで古代悲劇の登場人物の声が、顔にかぶった青銅の仮面のために大きくなったようだった。
ボアベルトロ艦長が叫んだ声だったのだ。
「国王の水兵諸君。メイン・マストに白の王旗をかかげ、この世最後の日の出をむかえようではないか!」
とたんに、一発の砲声が≪クレイモア号≫からとどろいた。
「国王ばんざい!」と、乗組員たちが叫んだ。
すると、水平線のかなた、はるか遠く、騒然としてはいたが、しかしはっきりと、同じようなおおぜいの人びとの喚声《かんせい》がわきあがった。
「共和国ばんざい!」
と同時に、万雷のひびきにも似た轟音《ごうおん》が、大海一面にとどろきわたった。
ついに戦闘が開始されたのだ。
海はみるみるうちに硝煙《しょうえん》と砲火につつまれていった。
砲弾が海面に落ちるたびに、波間に水柱が立ち、同時に、あたり一面をいよいよすさまじく波立たせた。≪クレイモア号≫は八隻の敵艦隊めがけて砲火をあびせ始めた。と同時に、≪クレイモア号≫を半月形にかこんだ敵艦隊も、いっせいに砲門をひらいて攻撃してきた。水平線が火を吹いて燃え、まるで海底から火山が噴出《ふんしゅつ》したようだった。風がこの戦いの巨大な火焔《かえん》を巻きあげ、その焔《ほのお》の中に敵艦が亡霊のように現われては消えるのだった。
また≪クレイモア号≫のほうも、この舞台の前で、そのまっかな焔《ほのお》を背にして、くろぐろとした影をぬっと浮きあがらせていた。
そのメイン・マストのてっぺんには、白百合をそめぬいた国王旗がひるがえっていた。
しかし、ボートにのった二人はおし黙っていた。
マンキエ岩礁の浅瀬は三角形をしており、全体はジャージー島より広くて、その上を海水があらっていた。岩礁のいちばん高いところは台地状になっており、そこだけは満潮時でも海面から突き出ていた。この台地から六個の巨岩が一直線をなして北東へ向かって走っていたが、それはまるで、ところどころくずれ落ちた巨大な城壁のつらなりといってよかった。台地と六つの巨岩のあいだにある水路は、小さなボートでなければわたれないくらい浅かった。だが、この水路の向こうには外海がひろがっていた。
ボートの運命をたくされた水夫は、ボートをその浅い水路にいれた。こうして、海戦とボートとのあいだにマンキエ岩礁をおいてしまったのだ。彼は左右の岩礁をさけながらたくみにボートをこぎ、その浅い水路をぬけていった。もう岩礁のかげにかくれて、海戦のようすは見えなかった。≪クレイモア号≫からも遠ざかるいっぽうだったから、水平線にとびかう閃光《せんこう》も砲火のとどろきも、次第に弱くなってきていた。しかし砲撃がやまないところからみると、≪クレイモア号≫はまだまだ戦っていて、舷側《げんそく》からいっせいに撃ちだす百七十一発の砲弾を残らず撃ちつくそうとしているようだった。
やがてボートは広い水域へ出た。ここなら、暗礁からものがれ、海戦地域からも遠くへだたっていて、砲弾にあたる心配もなかった。
水面の色の具合が少しずつ明るくなってきて、たちまちくろぐろとした色にそめられる波のかがやきもずんずんひろがっていった。そして、もつれる波のしぶきが光を受けてきらきらととびちり、波がしらが白く泡立つさまも、あちこちに見られるようになった。夜があけたのだ。
ボートは敵の手からのがれたようだったが、行手には、まだ大きな困難がひかえていた。砲火からはのがれることはできても、難破の危険をのりきったわけではないのだ。広い外海にあっては、ボートなど、ほとんどとるにたらぬちっぽけなものだった。甲板や帆があるわけでもなく、マストやコンパスがあるわけでもなかった。外海と嵐の危険を前にして、あるものは二本のオールだけ。それはまさに、巨人のなすがままに浮き沈みする一個の原子に似ていた。
と、このとき、広大な海のひろがりの中で、このかぎりない孤独の中で、ボートのへさきにすわっていた水夫が、青白い夜明けの光に照らされた顔をあげると、船尾にすわっている老人をぐっとにらみつけて、こう言った。
「おれは、おまえの命令で銃殺《じゅうさつ》された男の弟だ」
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第三編 アルマロ
一 人の言葉は神の言葉
老人はゆっくりと頭をあげた。
老人に話しかけた男は年は三十くらい、そのひたいは潮風にやけて赤銅《しゃくどう》色になり、目にはただならぬ光がやどっていた。それは純朴《じゅんぼく》な百姓のひとみの中にやどる、水夫のするどいまなざしだった。彼は両手でしっかりとオールをにぎっていたが、どこかやさしい表情を見せていた。
腰の帯皮には拳銃二ちょうと短剣とロザリオをはさんでいた。
「おまえはだれだ?」と、老人がたずねた。
「それは今言ったはずだ」
「わしをどうしようと言うんだ?」
水夫はオールから手を放《はな》して、腕組みをして答えた。
「おまえを殺す」
「勝手にするがいい」と、老人が言った。
水夫が声を荒らげた。
「さあ、用意しろ!」
「なんの用意かね?」
「死ぬ用意だ」
「なぜだ?」と、老人がたずねた。
しばらく沈黙が流れた。水夫は老人の質問におどろいたようすを見せたが、すぐにこう言った。
「おまえを殺すって言ったんだぞ」
「だから、わしは、なぜ殺すんだときいておる」
水夫の目がきらりと光った。
「おまえがおれの兄貴を殺したからだ」
「最初は生命《いのち》を救ってやったはずだが」
老人がすかさず、しかし静かに言った。
「そりゃそうだ。でも、生命《いのち》を救っておいてから、あとで殺した」
「あいつを殺したのは、わしではない」
「では、だれが殺したと言うんだ!」
「あの男が犯した過失だ」
水夫はぽかんと口をあけて、老人を見つめていたが、再び眉《まゆ》をひきしめて、おそろしい顔つきにもどった。
「おまえの名前はなんと言うのか?」と、老人がきいた。
「アルマロだ。だが、おれの名前なんかきいてどうする、今から殺されようっていうのに」
このとき日があがってきた。ひとすじの光線が男の顔をもろに照らした。水夫のたけだけしい顔つきが生き生きとかがやいた。老人はその顔をじっと見守った。
まだ砲声は聞こえていたが、それはもう散発的になったり、最後の苦しみにあがくようにとどろいたりした。ものすごい硝煙が水平線にひろがっていた。水夫の手からオールが離れていたので、ボートは波のまに漂っていた。
水夫は右手で皮帯にはさんだピストルをにぎり、左手でロザリオをにぎった。
老人が立ちあがって言った。
「おまえは神を信じるか?」
「天にましますわれらの父よ」と、水夫が答えた。
そして、十字を切った。
「母親はあるのか?」
「あるさ」
彼はもう一度胸に十字を切ると、こう言った。
「さあ、これでいい。閣下、一分だけ待ちましょう」
そして、彼はピストルをかまえた。
「なぜ、わしのことを閣下と呼ぶのだ?」
「あんたがれっきとしたご領主さまだからさ。そりゃ、すぐわかる」
「おまえにも領主がいるのか?」
「いるとも、とてつもないえらいご領主さまがな。ご領主さまのいねえところじゃ、生きていかれねえだろ?」
「おまえのご領主は、今はどこにいる?」
「さあ、知らねえな。国を出て、どっかへいかっしゃった。お名前をラントナック侯爵さまといって、フォントネの子爵《ししゃく》で、ブルターニュの貴族さ。≪七つの森≫のご領主さまだ。おれはまだお会いしたこたねえが、それでも、れっきとしたおれのご主人さまだ」
「今、そのご領主さまに会えるとしたら、仕えるかな?」
「あったりめえさ。ご領主さまの言うことをきかないとなりゃ、罰あたりになっちまう! みんな、神さまの言いつけにゃ従わにゃなんねえ。王さまの言いつけにもだ。王さまは神さまとおんなじだからな。それから、ご領主さまの命令にもそむけねえ。こりゃ王さまと同じだからな。だが、そんなことはどうでもええ。あんたはおれの兄貴を殺した。だから、おれがあんたを殺すばんだ」
老人が答えた。
「確かに、わしはおまえの兄を殺した。だが、すべきことをしただけだ」
水夫はさらに強くピストルをにぎりしめた。
「さあ、撃つぞ」と、彼は言った。
「よかろう」と、老人が言った。
そして、落ちついてつけ加えた。
「だが、僧侶はどこにいるのか?」
水夫は彼を見つめた。
「僧侶?」
「そうだ。わしはおまえの兄に僧侶をつけてやった。だから、おまえもわしに僧侶を用意してくれなきゃならん」
「僧侶なんて、いねえ」と、水夫は言った。そして先をつづけた。
「こんな海のどまんなかに僧侶がいるはずはねえ」
戦場のひきつけるような砲声は、すでにいよいよかなたへ遠ざかっていた。
「あの戦場で死んでいくものたちにも僧侶がついている」と、老人は言った。
「そりゃ、まあ、そうだ」と、水夫が口ごもって言った、「艦つきの坊さんがいるからな」
老人がまた先をつづけた。
「僧侶もつけてもらえないで死んだら、わしの魂は浮かばれん。これはたいへんなことだぞ」
水夫は頭をひくくたれて、考えこんでしまった。
「わしの魂が浮かばれんとなると」と、老人が言葉をつづけた。「おまえの魂も浮かばれんことになる。いいか、わしはおまえを気の毒に思っている。だから、おまえの気のすむようにするがよい。しかし、わしとても、自分の義務に忠実に従ったのだ。先におまえの兄の生命を救い、つぎに彼からその生命を奪った。そして、今も、おまえの魂を救おうというのも、やっぱり自分の義務に忠実であろうとしているからだ。よく考えるがよい。これは、おまえにとっては、一身上の重大事なんだぞ!
今鳴っているあの砲声が聞こえるか? あそこでは、おおくの人間の生命が奪われ、断末魔《だんまつま》の叫びをあげて死んでいっている。あのものたちは、二度と妻に会えぬ夫であり、再びわが子の顔を見ることもない父親たちなのだ。そして、おまえと同じように、もはや兄弟とも再会できぬ兄や弟たちなのだ。それは、みんな、だれのせいなのだ? みんな、おまえの……おまえのだぞ……兄の過失によるものだ。おまえは神を信じておるはずだな? だったら、現在、神がお苦しみになっているのがわかるはずだ。神はおん子イエスと同じく信仰厚い子供フランス国王がタンプルの塔に幽閉されておられるのをなげいておられ、ブルターニュの教会のことをお思いになって苦しんでおられる。侮辱《ぶじょく》を受けた聖堂や、引きさかれた福音書や、おかされた礼拝堂や、あるいは殺された僧侶たちのことに心を痛めておられる。
われわれが、あの今は沈みかけておる艦にのって、ここまできたのは、いったいなにをしようとしてであったか? われわれの神をお助け申しあげようがためではなかったのか。おまえの兄がほんとうに忠実な神のしもべであったなら、かしこくて注意深い人間として完全に自分の義務をはたしていたなら、あの大砲の惨事もおこらなかったし、≪クレイモア号≫も破壊されることにもならなかった。航路をはずれることもなかったし、あの敵の巡洋艦隊に包囲されて破滅させられる運命にもならなかっただろう。ひとり残らず、おおしい兵士であり、勇気ある水夫であるわれわれは、今ごろ、フランスに上陸していたはずだ。手に手にサーベルをふりかざして、白い王旗をひるがえし、勇ましく隊伍《たいご》を組んで、フランスを、国王を、神を救わんがために立ちあがったヴァンデの勇敢な百姓を救援《きゅうえん》しにかけつけていたはずだ。
われわれはまさにそれを実行せんがためにやってきたのであり、本来なら、きっとそうなっていたにちがいないのだ。ひとり生き残ったこのわしが、こうしてやってきたのも、そういう目的をとげるためだったのだ。それを、おまえはじゃましようとしておる。不信心ものと僧侶との戦い、反逆者と国王との戦い、悪魔と神との戦いにおいて、おまえは悪魔の味方をしておる。おまえの兄は最初に悪魔の手下になったが、今、おまえは第二の手下になって、兄の仕事の総仕上げをやろうとしているのだ。それなら、おまえは国王にそむく反逆者の味方をし、教会につばをかける罰あたりな不心得ものの味方をするのだ。おまえは神の手から神の最後の手段までも取りあげようとしておる。
つまり、もしも、このわしが、国王の名代であるわしがかけつけなかったら、村は燃えつづけ、おおくの村人は涙を流し、僧侶たちは血を流し、ブルターニュ全土の民は苦しみ、王の幽閉もとかれず、イエス・キリストのなげきもいつまでもやまないということになるのだ。こんなことを引きおこそうというのは、いったい、だれなのだ? おまえ自身じゃないか。だが、撃ちたければ撃ってもよい。好きなようにするがよい。しかし、わしはおまえにまったく逆の期待をかけておったが、どうやら、それはわしの見こみちがいだったようだ。
そうだ、確かに、おまえのいうことは正しい。おまえのいうとおりだ。わしはおまえの兄を殺した。おまえの兄は勇気があった。それでわしは彼を称讃《しょうさん》したが、それとともに、彼は怠慢の罪を犯した。それで、わしはこれを罰した。彼は自分の義務をおろそかにしたが、わしは自分の義務を忠実にはたしたのだ。あのようなことは、これからだって実行していくつもりだ。そして、われわれを見守っていてくださる聖アンヌ・ドーレさまにかけて誓うが、わしの息子がおまえの兄と同じことをしでかしたとしても、やはり銃殺させただろう。
さて、今は、すべてが、おまえの手にかかっておる。そうだ、わしはおまえに憐《あわ》れみをおぼえておる。それに、おまえは艦長まであざむいたのだぞ。キリスト教徒のくせに、おまえには一片の信仰心もない。ブルターニュ生まれといいながら、一片の名誉心もないではないか。艦長がおまえの誠実を見こんで、わしをあずけたのに、おまえはわしを裏切ろうとしておる。おまえはわしの生命を託した人びとに、わしの屍《しかばね》を渡そうとしているのだ。おまえは、今ここで殺そうとしている人間がだれなのか、わかっているのか? おまえ自身なんだぞ。おまえは国王からわしを奪《うば》いながら、実はおまえの魂を悪魔に渡そうとしているのだ。さあ、やれ、罪を犯すがよい。おまえは天国にいったときにすわる自分の席を軽《かろ》んじ、おかげで悪魔は勝利を得ようとしている。おまえのおかげで教会はほろび、おまえのおかげで異教徒どもは鐘をとかして大砲に作りかえるだろう。人びとは、魂に救いあれと願って作られたもので撃ち殺されていくのだ。
今、こうしてしゃべっている瞬間にだって、おまえの洗礼を祝った鐘が、おまえの母親を殺しているかも知れん。さあ、やれ、悪魔に手を貸すがよい。びくびくしないでやれ。確かに、わしはおまえの兄を処刑した。しかし、よく考えてみるがよい。わしは神の使いなのだ。ああ! おまえは、その神の使いをさばこうとしているのだぞ! それでおまえは天の雷光《らいこう》までもさばこうというつもりなのか? 憐れなやつだな。さばかれるのはおまえのほうではないか。おまえがしようとしていることによくよく用心するがよい。せめておまえは、わしが天に対して恥じるところがないことくらい、わかっているだろうか? いや、わかっておらんではないか。
とにかく、おまえのやりたいようにやれ。わしを地獄に投げこみ、そのわしといっしょに、おまえ自身も地獄へころげ落ちていく。それもおまえの自由だろう。われわれ二人が地獄の苦しみを味わうかどうかは、おまえの了見《りょうけん》次第なのだ。神のおん前で責任を取るのはおまえだぞ。今、二人は、奈落《ならく》の淵《ふち》で顔をつき合わせている。さあ、ぐずぐずしないで、やっつけるがよい。やり通すがよい。わしは老人だが、おまえは若い。わしは素手だが、おまえは武器を持っておる。さあ、わしを殺せ」
老人がつっ立ったまま、逆巻《さかま》く波を圧する声で話しつづけているあいだ、波のうねりがあるときは明るく、あるときは影となって、老人の姿を映し出していた。
水夫はもう顔面蒼白になっていた。大つぶの汁のしずくを額からたらして、木の葉のようにふるえていた。彼はときどきロザリオに口づけしていたが、老人が語り終わるとすぐに、手にしたピストルを投げすて、ひざまずいてしまった。
「おねがいでございます、閣下。どうか、わたくしをおゆるしください」と、彼は叫んだ。「あなたはまるで神さまのようにお話しになります。わたくしがまちがっておりました。わたくしの兄貴が悪うございました。わたくしは、どんなことをしても、兄貴の罪をつぐないます。どうか、このわたくしめを存分になすってください。なんでもお命じになってください。きっとご命令に従います……」
「おまえをゆるしてやろう」と、老人が言った。
二 百姓の記憶は将軍の知識にひとしい
ボートに積まれていた食糧《しょくりょう》はむだではなかった。
二人の逃亡者は非常に遠まわりをしなければならなかったので、岸辺へ着くのに三十六時間もかかったのだ。二人は海の上で一夜を明かしていた。すがたを隠さなければならない二人にとっては、月が明るすぎたが、それでも美しい夜だった。
一度フランス海岸から離れて、ジャージー島の沖のほうへ出なければならなかったのだ。
≪クレイモア号≫が撃沈されるとき撃った最期の砲声がひびいてきたが、それは、森で猟師に追いつめられたライオンが最期の咆哮《ほうこう》をあげるのに似ていた。やがて海はしんと静まり返った。
コルヴェット艦≪クレイモア号≫は、かの≪ヴァンジュール号≫と同じような最期をとげたのだった。しかし、≪クレイモア号≫の場合、その光栄は知られずにおわってしまった。祖国に弓を引いたものは英雄とみなされないのだ。
アルマロは優秀な水夫だった。まるで奇跡のような手腕と鋭い頭の働きを示したのだ。暗礁も、大波も、敵の監視もすりぬけて、臨機応変《りんきおうへん》にこぎ進んでいく腕は抜群《ばつぐん》だった。もう風もおさまり、波もおだやかになってきていた。
アルマロはコー・デ・マンキエをさけ、ラ・ショセ=オ=ブーの周囲をまわり、干潮にその北側に現われる小さな入江に波をさけて、五、六時間休息したのち、再びグランヴィルとショーゼ群島のあいだをこぎ進んでいった。やがて、サン=ミシェル湾にはいることができたが、ここは敵巡洋艦隊の碇泊地《ていはくち》であるカンカルのすぐ近くだったから、実に大胆な行為といってよかった。
二日めの夕刻、日没前一時間ころ、彼はサン=ミシェル山をあとにして、足が吸いこまれる危険があるので人がよりつかない砂浜へこぎよせていった。
さいわい、満潮時だった。
アルマロはできるだけ渚《なぎさ》近くへボートをよせていった。砂をさぐって、下がかたいことを確かめると、そこへボートをのりあげて、浜へとびおりた。
彼につづいて、老人もボートからおりると、地平線のかなたに目をこらした。
「閣下」と、アルマロが言った。「ここはクエノン河の河口です。右に見えるのがボーヴォワール、左に見えるのがユイーヌです。それから正面の尖塔《せんとう》は、アルドヴォンの鐘楼《しょうろう》です」
老人はボートにかがみこむと、ビスケットをひとつとりだしてポケットにしまいこんだ。そしてアルマロに言った。
「あとはおまえがとっておけ」
アルマロは残りの肉とビスケットをふくろにつめると、ふくろを肩にかついだ。それから老人に言った。
「閣下、ご案内申しあげましょうか。それとも、おともいたしましょうか?」
「いや、どちらもことわる」
アルマロは茫然《ぼうぜん》として老人を見つめた。
老人が言葉をつづけた。
「アルマロ、ここで別れるんだ。二人いっしょにいても役には立つまい。いっしょにいるなら千人と、さもなければ一人のほうがよい」
彼はここで言葉を切ると、ポケットから緑色の花結びにしたリボンをとりだした。それは帽章《ぼうしょう》そっくりのリボンだった。中央には金糸で百合の花が刺繍《ししゅう》してあった。老人がまた口を切った。
「おまえは字が読めるか?」
「読めません」
「そいつは好都合。なまじ字が読める男ではこまるのだ。では、ものおぼえはいいほうだろうな?」
「はい」
「よろしい。では、いいか、アルマロ、おまえは右へいけ、わしは左へいく。わしはフージェールのほうへいくが、おまえはバズージュのほうへいくんだ。ふくろをかついでな。そのほうが百姓らしく見えるからな。武器は隠しておくほうがよい。やぶから木を切って杖《つえ》を一本作るんだ。背丈《せたけ》の高いライ麦畑をはっていけ。垣根のうしろを忍び足でいくんだ。牧場の垣をよじのぼり、野原をつっぱしるんだ。通行人に顔を見られぬよう、道路や橋はさけていけ。ポントルソンの町へははいってはならん。そうだ、それから、おまえはクエノン河をわたらねばならんな。どうやってわたる気だ?」
「泳いでわたります」
「よかろう。それに、浅瀬《あさせ》が一カ所あったはずだ。おまえ、知っておるか?」
「アンセとヴィユ=ヴィエルのあいだです」
「そうだ、さすがに、この土地のものだな」
「それはそうと、閣下、そろそろ夜でございますが、どこでおやすみになりますか?」
「自分のことは自分で始末する。おまえはどこで寝る気だ?」
「木の中の洞《ほら》で寝ます。なんせ、水夫になる前は百姓でしたから」
「その水兵帽はすてちまったほうがよい。そんなものをかぶっていると、身元が知れるからな。そのかわり、どこかで、野良帽《のらぼう》を見つけるんだ」
「なるほど! ふちさげ帽ですね。あれならどこにでもあります。最初に出会う漁師がきっとゆずってくれまさあ」
「よかろう。さて、いいか、アルマロ、おまえは森のことはくわしいか?」
「はい、どんな森だって知っています」
「この地方の森なら、みんな知っておるな?」
「はい、ノアルムーティエからラヴァルまでの森なら、全部知っております」
「名前も知っておるな?」
「はい、どんな森かも、その名前も、なにからなにまで知っております」
「忘れることはあるまいな?」
「大丈夫です」
「よし。それなら注意して聞け。おまえは一日になん里ぐらい歩けるか?」
「十里、十五里、十八里、いいえ、必要なら二十里だって歩けます」
「一日に二十里ぐらい歩く必要がある。これからわしが言うことを一語も忘れるんじゃないぞ。まずサン=トーバンの森へいけ」
「ランバル町の近くのですか?」
「そうだ。サン=リユールとプレデリヤックのあいだは、くぼ地になっておるが、そのはずれに栗《くり》の大木が一本立っておる。そこまでいったら立ちどまれ。あたりには人っ子ひとりいないはずだ」
「見えないといっても、同じように、だれかがそっと近づいてこないともかぎりません。よくあることですよ」
「そこで、おまえは叫ぶのだ。どういうふうにやるか、知っておるか?」
アルマロは両ほおをふくらませると、海のほうへ向かって、ほうほうと、フクロウの鳴き声をまねた。
それは本物そっくりの無気味な声で、暗闇《くらやみ》のはてから聞こえてくるようだった。
「それでよい」と、老人が言った。「うまいもんだ。その調子でやれ」
それから、老人はさっきとりだした緑色の花結びのリボンを、アルマロのほうへさしだした。
「これは司令官であるわしの徽章《きしょう》だ。とっておけ。まだ、わしの名前はだれにも明かすわけにはいかんが、このリボンですぐわかるようになっておる。この百合の花は、王妃さまがタンプルの牢獄で刺繍《ししゅう》されたものだ」
アルマロは地面に片ひざをついた。そして、その百合の刺繍《ししゅう》のあるリボンを、ふるえる手で受けとった。それから、リボンに唇《くちびる》を近づけようとしたが、接吻《せっぷん》するのはおそれおおいと思ったのか、途中でやめてしまった。
「接吻させていただいてよろしいでしょうか?」
「よかろう。おまえは十字架像にも接吻するやつなんだからな」
アルマロは百合の花に唇をつけた。
「さあ、もう立て」と、老人が言った。
アルマロは立ちあがると、リボンを胸もとにしまいこんだ。
老人はさきをつづけて言った。
「これからわしが言うことを注意してきくんだぞ。わしの命令はこうだ、『反乱をおこせ! 敵を一兵たりとも助命すべからず!』 さて、サン=トーバンの森のはずれで、おまえは呼び声をあげるわけだが、いいか、かならず三度あげるのだ。すると、かならず男がひとり地面から現われるはずだ」
「はい、わかっています。木の下のほうからでてくるんでしょう」
「その男は≪|王の中枢《クール・ド・ロワ》≫と呼ばれるプランシュノーだ。おまえがそのリボンを見せれば、相手はなにもかも了解する。それから、つぎに、おまえはなんとか道をさがしだして、アスティエの森へいくのだ。そこへいくと、ムースクトンというあだ名の、足がX形にまがった男に会えるはずだ。だれにもなさけ無用という男だが、その男に、わしが見こんでいるとつたえ、かならず教区の住民たちを決起させろとたのむのだ。それから、プロエルメルから一里ほどはずれたところにあるクーエボンの森へいくのだ。やはり同じようにフクロウの鳴きまねをすると、ひとりの男が穴からすがたをあらわす手はずになっておる。プロエルメルの地方判事で、憲法制定議会〔一七八九年六月十七日にできた国民議会が名前をかえたもの。三部会の平民を中心とする進歩派からなり、封建的特権を廃止し、一七九一年には憲法を制定した。一七九一年九月に解散〕の議員をやっていたテュオー氏という男だが、穏健な党派についている。この男には、現在亡命中のゲール侯爵の居城になっておったクーエボン城を武装するようにつたえてくれ。ここには、くぼ地や、小さな森や、でこぼこした土地がひろがっているから、戦闘にはもってこいなのだ。テュオーはまじめで才気ある男だ。
つぎに、サン=トーワン=レ=トワへいって、ジャン・シューワン〔本名ジャン・コトロー。革命当時、共和政府に反抗して、ブルターニュなど南西地区で農民の反抗を指導した人物。シューワン党を組織して、ゲリラ戦術で共和政府軍をなやました〕に、わしの伝言をつたえるのだ。わしの目から見ると、この男も正真正銘の指揮官といえる。つぎはヴィル=アングローズの森へいくのだ。そこでは、サン=マルタンというあだ名のギテに会うのだ。この男には、老グーピ・ド・プレフェルンのむこで、アルジャンタンのジャコバン党〔革命当時、もっとも急進的で過激な共和主義者を奉じた一派。ロベスピエール、ダントン、マラ、サン=ジュストなどが、この党の主導権をにぎった〕をおさえているクールメニルという男を監視するようにとつたえろ。今言ったことはすべてよく頭へいれておけ。書いて証拠《しょうこ》を残してはまずいから、わしはなにも書かんぞ。ラ・ルーアリはメモを作ったばかりに、すべてを水の泡《あわ》にしてしまった。さて、つぎはルージュフーの森へいけ。この森にはミエレットという男がいるはずだ。長いさおを使って谷間をとびこえる名人だ」
「そりゃ、とびざおって呼ばれてるやつでしょう」
「そうか、おまえも、あれが使えるのか?」
「あれが使えなきゃ、ブルターニュ生まれだの、百姓だのって言えませんよ。わたしらにとっちゃ、あのとびざおってやつは、仲のいい娘っ子みたいなもんです。あの娘っ子のおかげで、わたしらの腕が強くなったり、足が長くなったりするんですよ」
「つまり、あれを使って敵をちぢみあがらせたり、こっちの歩く道のりをちぢめたりできるってわけだな。なかなか便利な道具だな」
「いつか、あのとびざおを使ってサーベルをぶらさげた二人の塩税官《えんぜいかん》とわたりあったことがありましたよ」
「それはいつのことだ?」
「十年前のことです」
「王政時代だな?」
「はい、そうです」
「すると、おまえは王政時代にも反抗しとったんだな?」
「はい」
「だれを相手にしとった?」
「そんなこたあ、わかりません。わたくしは塩の密輸をやっておりました」
「なるほど」
「塩の密輸入は≪塩税官と戦うことだ≫と言われていました。あの塩税官ってのは、王さまと同じものなんですか?」
「ああ、いや。しかし、そんなことは、おまえには知る必要がない」
「これはどうも、閣下に対し、つまらん質問をしてしまいました。どうか、おゆるしください」
「では、話のさきをつづけるぞ。おまえはラ・トゥールグを知っておるか?」
「ラ・トゥールグを知ってるかですって? 知るも知らないも、わたくしはあそこの近在の出なんですから」
「そりゃ、どうしてだ?」
「わたくしはパリニェの生まれです」
「そうか、ラ・トゥールグはパリニェの近くだったな」
「ラ・トゥールグを知らなくてどうします! あのでっかい丸いお城は、わたしらのご領主さまご一家が住んでおられた城ですからね! 古いお館《やかた》と新しいお館のあいだにゃ、大きな鉄のとびらがついていて、そりゃ、大砲を持ってきてもぶちこわせねえ代物《しろもの》です。聖《サン》バルテルミーのこと〔一五七二年八月、聖バルテルミーの祭日に、パリで旧教徒が二千人の新教徒を虐殺した事件〕を書いた有名な本があるのは、その新しいお館のほうで、おおぜいの人がめずらしがって、よく見にきたものです。あのへんの草むらにゃ、かえるもたくさんいましてね。がきのころ、よくいっしょにあそんだものです。それに、あそこにゃ、地下のぬけ道もありました! あれを知ってるものといやあ、もう、このわたくしぐらいなものかも知れません」
「どんな地下のぬけ道なのかな? わしにはおまえの言うことがよくわからんが」
「ずっとむかし、ラ・トゥールグが敵に包囲されたとき作ったものです。城の中の人は、みんな、その地下のぬけ道を通って森へにげることができました」
「そういう地下のぬけ道なら、ラ・ジュペリエールの城や、ラ・ユノーデの城や、シャンペオンの塔などにあった。だがラ・トゥールグにはそんなものはない」
「いや、それがあるんです、閣下。今、閣下がおっしゃった地下のぬけ道のことは、さっぱり知りませんがね。ラ・トゥールグのぬけ道だけはちゃんと知っています。なにしろ、わたくしはあの土地の生まれですから。それに、あのぬけ道のことは、わたくしのほかに知っているものはいないでしょう。だれかがあのぬけ道のことをしゃべっているのをきいたこともありませんから。あの地下のぬけ道はロアン公がいくさをされたときに使われただけで、それからずっと秘密にされてきたのです。わたくしは、たまたま、その秘密を知っていたおやじから教わりました。それで、あのぬけ道を出入りする秘訣《ひけつ》も知っているのです。森の中から塔へいくこともできるし、塔から森の中へ出ることもできます。だれにも見つからずにできるのです。だから、敵が正面から攻めてきても、城の中はからっぽってことになるんです。これがラ・トゥールグのお城の秘密です。そうですとも! このお城のことなら、わたくしはよく知っています」
老人はしばらく沈黙していた。「たしかに、それはおまえのかんちがいだぞ。そんな秘密があるなら、このわしが知らぬわけがない」
「閣下、たしかにあります。入口には、まわる石がひとつちゃんとついているのです」
「いやいや、おまえの思いちがいだ! 百姓というものは、そういう話をすぐにうのみにするものだ。まわる石、歌う石、夜になると小川へ水をのみにいく石とくる! みんな、作り話にすぎん!」
「ですが、たしかに、この手で石をまわしてみたことがあるのです」
「たしかに石が歌うのを耳できいたというのと同じだろう。なあ、アルマロ、ラ・トゥールグの城は、ふせぐに都合のよい、難攻不落《なんこうふらく》のとりでなんだ。地下のぬけ道を通って森へにげだすなんて計算するやつは、よほどのおろかものだぞ」
「でも、閣下……」
老人が肩をすくめて言った。
「もう時間をむだにはできん。さあ、さっさと用件をかたづけよう」
老人が断固たる調子で言ったので、アルマロも、もうそれ以上言いはらなくなった。
老人がさきをつづけた。
「では、さきを話すぞ。おまえはルージュフーからモンシュヴリエの森へいくのだ。そこには、≪十二人組≫の首領ベネディシテがおる。こいつもなかなかよい男だ。敵を銃殺させているあいだ、≪|食前のお祈り《ベネディシテ》≫をとなえておるといった男でな。だが、いざ戦いとなると、感傷などみじんも見せない男だ。さて、モンシュヴリエのつぎだが……」
ここで、老人は言葉を切った。
「金のことを忘れておった」
彼はポケットから財布と札入れをとりだすと、アルマロにわたした。
「この札入れには、アシニャ紙幣で三万フランはいっておる。金貨にかえると三リーブル十スウくらいになる。こいつはにせものだが、ほんものであれば、それくらいの価値がある。それから、こっちの財布にはな、百ルイの金貨がはいっておる。有金《ありがね》全部、おまえにやろう。この土地では、わしは一文も必要でない。かえって、一文も持っておらんほうがよいのだ。さて、さきをつづけるぞ。モンシュヴリエからアントランへいけ。そこでフロテ伯爵と会うのだ。それからラ・ジュペリエールへいって、ロシュコット氏に会う。ラ・ジュペリエールからノワリューへまわる。そこで、ボードゥワン師に会うのだ。みんな、おぼえられたか?」
「≪主祷文《パテール》≫のように暗記してしまいました」〔「すみからすみまでよく知っている」という意味の慣用句〕
「サン=ブリス=アン=コグルではデュボワ=ギー氏に会い、防備《ぼうび》したモランの町ではテュルバンに、シャトー=ゴンティエではタルモン公爵に会うのだ」
「そんなえらい公爵さまが、わたしなんかに口をきいてくださるでしょうか?」
「わしだって、今、おまえに口をきいておるではないか」
アルマロは帽子をぬいだ。
「おまえが王妃が刺繍《ししゅう》されたこの百合の花を見せれば、だれもがおまえをこころよく迎えてくれるだろう。これから、おまえは山岳党《モンターニュ》〔ジャコバン党を主流とする国民公会の左翼。議場の中で、いちばん高い席をしめていたので、この名前がついた〕の連中や、共和派のばかものたちがいるただ中へはいっていくのだ。このことは決して忘れるでないぞ。変装《へんそう》するのだ。なに、たやすいことだ。共和党のやつらなどというものは、まぬけぞろいだからな。青い上衣と三角帽と三色の帽章をつけてさえいれば、どこだって大手をふって歩ける。正規の連隊もなければ、制服もない。部隊番号さえないのだからな。やつらはめいめい好き勝手なぼろ服を着とるだけだ。おまえはさらに、サン=メルヴェへいき、≪大ピエール≫というあだ名のゴーリエに会うのだ。それからパルネの宿営へいって、そこにいる顔がまっくろな男たちに会うのだ。連中ときたら、大砲の音を大きくするために、筒の中に砂利と二発分の爆薬《ばくやく》をいれる、とんでもない連中だ。その連中にはな、『殺せ! 殺せ! 殺せ!』とつたえるのだ。
つぎに、シャルニの森のまんなかにある台地へいけ。その台地の上には、ラ・ヴァシュ=ノワールの営舎《えいしゃ》がある。それからアヴォワーヌ、ヴェール、フールミと、各営舎をまわるのだ。それから、オー=デ=プレとも呼ばれておる、ル・グラン=ボルダージュへいけ。そこには≪イギリス人≫と呼ばれておるトリトンという男に娘をとつがせた後家《ごけ》さんがおるはずだ。ル・グラン・ボルダージュはケレーヌの教区の中にある。それからさきは、エピヌー=ル=シェヴルヴィユ、シレ=ル=ギョーム、パランヌへいき、あちこちの森をねぐらにして活動している連中に会うのだ。そのうち、おまえに友だちができるだろう。その連中を上メーヌと下メーヌとのさかいへ送りこめ。ヴェージュ教区では、ジャン・トルトンに会え。ル・ビニヨンではサン=ルグレに、ボンシャンではシャンボールに、メゾンセルではコルバン兄弟に会ってほしい。それから、サン=ジャン=シュール=エルヴでは、通称プティ=サン=プールという男をたずねるのだ。この男の本名はブ=ルドワゾーというのだ。その連中に会って用事をすませて、わしの合言葉、『反乱をおこせ! 敵を一兵たりとも助命するな』を、いたるところでつたえたら、いいか、どこでもよい、手近の神と国王に忠誠をちかう義勇軍に参加するのだ。そのとき、エルベ、レスキュール、ラ・ロシュジャクランなどという指揮官が生き残っていれば、そのものに会って、さっきわたした総司令官の徽章《きしょう》を見せてやれ。連中には徽章の意味がすぐにわかるはずだ。おまえは水夫にすぎないが、カトリノーだって、もとは車夫にすぎなかった。そして、わしの伝言として指揮官たちにこうつたえるのだ。
『いまこそ、大なる戦いと小なる戦いの二種類の戦いを同時に進める時期だ。大なる戦いは騒ぎを大きくするし、小なる戦いは、仕事をすばやくかたづけさせる。ヴァンデ軍は人がよいが、シューワン党のやつらは意地悪《いじわる》だ。だが内乱のときには、たちが悪ければ悪いほどよいのだ。戦いの成果は敵にあたえる災害の量に比例するのだ』」
彼はしばらく言葉を切ってから、また口をひらいた。
「アルマロ、わしはおまえにすべてを話した。おまえはめんどうな言葉はわからんけれども、道理は理解できる男だ。わしはおまえがボートをあやつるようすを見てから、信頼する気になった。幾何学は知らなくとも、おまえの船をあやつる技量《ぎりょう》はみごとなものだ。ボートを操作できる腕前があるなら、かならず、反乱だって指導できる。あの海の奸策《かんさく》をのりきれる技量から判断しても、きっと、わしの命令をも実行してくれるものと思う。いいか、もう一度言っておく。おまえの言いかたでもかまわんから、だいたい、つぎのようなことを、指揮官たちにつたえてくれ。
『わしは野戦よりも森の中の戦いをこのんでおる。革命軍の銃弾《じゅうだん》やカルノーの砲弾の前に、百姓どもを十万ならべようなんてことは考えておらん。一カ月以内に、敵を森の中に待ちぶせてこれを殺す五十万の兵士をもちたい。共和政府は、わしのねらう獲物《えもの》みたいなものだ。密猟《みつりょう》の要領で戦うことこそ、いちばんよい方法なのだ。わしはやぶの中の戦略家なんだ』とな。
そうだ、おまえには、こういう言葉の意味はわからんだろう。だが、そんなことはいっこうにかまわん。しかし、これだけはよくおぼえておけ。
『敵を一兵たりとも助命するな。いたるところに伏兵をおけ!』
これだ、いいな。わしはヴァンデ軍の戦法よりシューワン軍の戦法でやりたいのだ。それから、イギリスもわれわれの味方だということもつたえておくのだぞ。
『共和国をはさみうちにしよう。ヨーロッパ全体がわしらを援助してくれる。もう革命騒ぎなどおこらぬようにするのだ。各国の国王たちも、革命と戦っておられる。だから、われわれ教区の住民たちも戦うのがあたりまえだ』
いいか、こうしたことを伝えるのだ。わかったな?」
「はい、なにもかも焼きつくし、すべてのものを殺さなければならない、というわけですね」
「そのとおり」
「『敵を一兵たりとも助命するな』」
「そうだ。ひとり残らずだぞ」
「閣下がご命令になった場所をみんなまわります」
「よし。だが、よく気をつけるのだぞ。この近辺で死体になることは、いともたやすいことだからな」
「死ぬことなんかなんとも思っちゃいません。一歩踏みだしたら靴《くつ》のはきおさめのつもりでいってきます」
「おまえは勇敢な男だな」
「それで、だれかが閣下のお名前をたずねたら、どうします?」
「まだ、わしの名をあかす時期ではない。知らぬと答えておけ。事実、おまえは知らんわけだからな」
「今度はどこでお会いできますでしょうか?」
「わしがいるところにやってこい」
「その場所はどうやってわかります?」
「そのときになれば、わしのいどころはみんなが知っているということになるだろう。一週間もたたぬうちに、わしのうわさがひろがるだろう。わしは手本になって国王と宗教の仇《あだ》をうつつもりだ。そのようなうわさがみんなの口にのぼるから、おまえはすべてをさとることになろう」
「はい、わかりました」
「なにひとつ忘れるでないぞ」
「どうか、ご心配なく」
「では、いけ。神がおまえをおみちびきくださるように。さあ、いけ」
「閣下のおっしゃったことは、ひと言《こと》残らずつたえてきます。でかけていって、ご命令をつたえましょう。閣下のおっしゃるとおりに、服従し、指揮いたします」
「よし」
「それで、もしわたくしがうまくやりとげましたら……」
「サン=ルイの勲爵士《くんしゃくし》にしてやろう」
「兄貴とおなじようにですね。すると、もし失敗したら、わたくしも銃殺されるので?」
「兄と同じに」
「わかりました、閣下」
老人は頭をさげ、深い黙想《もくそう》にふけっているようだった。ふと、彼が頭をあげたとき、彼のそばには、もう人影はなかった。すでにアルマロのすがたは、地平線にしずみこんでいく黒い一点にすぎなくなっていた。
太陽は今さき沈んだところだった。
大かもめや頭黒かもめが海からねぐらへかえっていく。海が彼らの戸外なのだ。
夜になる前におとずれる、あの一種|漠《ばく》とした不安が、大気の中にただよっていた。あまがえるがなき、しぎが鋭い声をあげながら水たまりからとび立ち、かもめ、みやまがらす、カラバン鳥、小がらすなども、それぞれやかましい夕方の叫び声をあげ、浜の水鳥なども、たがいに呼びあっていた。しかし、あたりに人影はなかった。孤独だけが深くあたりをおおっているだけだった。入江には帆ひとつ見られず、野良には百姓ひとりいなかった。見わたすかぎり、ただひろびろとした野と海がひろがり、大きな浜あざみが風にふるえていた。たそがれのほの白い空が浜辺に大きな鉛色の明りを投げかけていた。はるか遠く、暗い平野にちらばる池が、大地にブリキ板をしいたようににぶく光っていた。沖から風が吹いてきた。
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第四編 テルマルク
一 砂丘の頂上
老人はアルマロをさきに立ち去らせると、海軍式マントでからだをつつんで歩きだした。なにやら思いにふけりながら、ゆっくりと歩いていった。アルマロはボーヴォワールのほうへいったが、老人のほうはユイーヌをさしていった。
彼の背後では、くろぐろと大きな三角形のサン=ミシェル山が、頂上には寺院を王冠のようにいただき、山腹にはとりでの胴よろいを巻いて、そびえていた。東がわにある二つの大きな塔は、ひとつは丸く、もうひとつは四角くて、これらが、まるでこの山に教会と村の重みを支えさせるのを助けているみたいに立っていた。大海を前にしてそびえるサン=ミシェル山は、さながら砂漠《さばく》に向かってそそり立つクフ王のピラミッドだった。
モン=サン=ミシェル湾の砂はいつも動いているので、砂丘も目に見えないくらい少しずつ移動してしまう。当時、ユイーヌとアルドヴォンのあいだには、ひときわ高い砂丘がひとつあったが、今ではすっかり消えてしまっている。この砂丘は、ある年、彼岸《ひがん》ごろ吹く突風に吹きはらわれたのだが、めったにないほど古いものだった。当時でも、その頂上には、アヴランシュでひらかれた宗教会議を記念して、十二世紀に建立された道標がいまだに残っていた。この宗教会議は、カンタベリーの大僧正、聖トーマスを殺した刺客《しかく》たちをさばくためにひらかれたのだ。この砂丘の頂上から見わたすと、まわりの土地一帯がくまなくわかり、方角をさだめることができた。
老人はこの砂丘めがけてのぼっていった。
てっぺんにつくと、彼は道標を背にして、四隅におかれて方角を示す石のひとつに腰をおろして、足の下にひろがっている地図そっくりのながめを、くわしくしらべ始めた。どうやら、むかしからよく知っている土地の中に、一本の道をさがしているようだった。しかし、たそがれの色にとっぷりつけられている広大な風景の中では、白い空に黒く描かれている地平線のほかには、はっきり見えるものはなにひとつなかった。
頂上からは十一の町や村の屋根の群れが見わたされた。数里向こうに、海岸に沿って作られている鐘楼《しょうろう》がことごとくみとめられた。これらの鐘楼は、危急のさい、海上にいる人びとの目じるしになるよう、非常に高く建てられていた。
しばらくたつと、どうやら老人はさがし求めていたものを薄くらがりの中に見つけたようだった。その視線は、平野と森のまんなかにかすかに見える、木立と壁と屋根にかこまれた土地の上にとまった。それは小作地だった。ちょうど胸の中で『あそこだ!』とひとり言をいうものがするように、満足そうにうなずくと、生垣や耕作地を通って、そこへいきつく道の下書きを、指先で空間になぞり始めた。ときどき彼は、小作地の母屋の屋根の上に動く、なにかぼんやりとした妙な形をしたものを見つめては、『あれはなんだろう?』とふしぎに思っているようだった。時刻が時刻なので、それは色もはっきりしないし、形もぼんやりしていた。風にはためいているのだから風見《かざみ》ではなかったし、そうかといって、そんなところに旗などあるわけがなかった。
彼はつかれていた。だから、さっきからいる道標の石の上にそのまますわっていたかった。そして、休息の最初の瞬間が疲労した人間にあたえる、あの漠然とした忘却《ぼうきゃく》みたいなものに、わが身をまかせていた。
一日のうちには、物音が留守している時間とでも呼ぶことのできる一刻があるものだ。今、老人が味わっているのが、まさにそうした一刻、たそがれどきの一刻だった。彼はそれをたのしんでいた。そして、彼はじっとながめていた。じっと耳をすましていた。なにを? それはあたりの静けさだった。獰猛《どうもう》な人間にだって、憂愁《ゆうしゅう》の気分にひたる一瞬はある。とつぜん、この静けさが、道いく人の声によってかき乱されずに、逆にますます深くなった。それは女と子どもの声だった。ときには、暗やみの中に、こういう思いもかけぬよろこびのざわめきをきくことがあるものだ。木立ややぶのために、声をだしている一行のすがたはまるきり見えなかったが、それは砂丘のふもとを通って、平野と森のある方角へ歩いていた。しかし、話し声だけは、もの思いにふけるこの老人の耳もとまで、はっきりときこえてきた。とても間近にきこえたから、一語もききもらすことはなかった。
ひとりの女がこう言った。
「はやくいこうよ、フレッシャール、こっちの道をいくの?」
「いいえ、あちらの道ですわ」
会話は二つの声でかわされていた。ひとつはかん高く、もうひとつはおどおどしていた。
「今、わたしたちがいる小作地は、なんていう名前かね?」
「エルブ=アン=パイユです」
「あそこまで、まだまだ遠いのかね?」
「たっぷり十五分はかかります」
「はやく夕飯をたべようよ」
「ほんとうにおそくなってしまいましたね」
「できれば走ったほうがいいのにね。でも、おまえさんの子ども衆は疲れてるからね。わたしたち女ふたりだけじゃ、三人の子どもは抱けないからねえ。それに、フレッシャール、おまえさんはもうひとり抱いちまってるんだからね。とっても重いだろう。そのチビは、もう乳《ちち》ばなれしちまったのに、まだ抱いてるんだねえ。よくないしつけだねえ。歩かせたらいいじゃないか。ああ! だめだ、せっかくの夕飯がつめたくなっちゃうよ」
「ああ! あなたにいただいたこのくつ、とってもはきぐあいがいいですわ! まるで、わたしのために作ったみたい」
「はだしで歩くよりいいだろう」
「さっさと歩くのよ、ルネ=ジャン」
「まったく、この子のためにおそくなっちまったんだ。娘っ子に会えば、だれかれなく話しかけなきゃだめなんだから。もう、ひとかどの男のつもりだね」
「じょうだんじゃありません。まだ五つだってのに」
「ねえ、ルネ=ジャン、あんた、村で、なぜ、あの娘っ子に話しかけたんだね?」
すると子どもの声が、いや、もういっぱしの少年の声が、こう答えた。
「あの娘っ子、知ってるからね」
女がもう一度たずねた。
「へえ、あんた、あの子を知ってるのかね?」
「うん」と、少年が答えた。「けさ、あの子に虫をもらったんだもん」
「あら、あきれたこった」と、女が叫んだ。
「この土地へきてから、まだ三日しかたってないんだよ。それを、このチビ助ったら、もういい娘っ子をこさえちゃったんだね!」
話し声は遠ざかっていった。あたりには物音ひとつしなくなった。
二 耳があっても聞こえない
老人はじっとしていた。なにも考えないで、なんとなく夢見心地《ゆめみごこち》になっていた。彼のまわりには、静けさと、やわらぎと、安堵感《あんどかん》と、孤独感がみちみちていた。砂丘の上はまだ大分明るかったが、平野はほとんど暗く、森の中はとっぷりとくれていた。月が東にのぼった。星が青白い天頂《てんちょう》のあちこちに穴をあけていた。老人ははげしい心づかいに胸がいっぱいだったが、えもいわれぬ永遠の暖かみの中に沈みこんでいた。そして、もし希望という言葉が内乱に対する期待にもあてはめることができるとすれば、この暗い夜明けの光のような希望が、自分の胸の中にわきあがってくるのをおぼえていた。あの冷酷だった海からのがれでて、大地にふれることができたのだから、さしあたり、あらゆる危険はなくなってしまったような気がした。彼の名前を知るものはひとりもいなかった。背後になんの痕跡《こんせき》も残さないで敵から身を隠し、ここにこうしてひとりですわっているのだ。海面にはなにも残さないからこそ、彼はこうして人から身を隠し、だれにも知られずにいるのだ。いや、人からうたがわれてさえいないのだ。彼はえもいわれぬ至高《しこう》のやわらぎをおぼえた。もう少しで眠ってしまいそうだった。
身体の内がわにも外がわにも数々の衝撃を受けてきたこの老人に、こうしてすごしている静かな時間にふしぎな魅力を感じさせたのは、それは大地と大空にみちみちている、この深い静けさだった。
海から吹いてくる風の音しかきこえなかったが、その風の音はたえまない低音をかきならしていて、ついにはそれが習慣になってしまって、ほとんど音としてはきこえなくなってしまう。
突然、彼は立ちあがった。
彼の注意がたった今さき、目ざめたのだ。彼は地平線に目をこらした。そして、その目はなにものかにぴたりと吸いつけられてしまった。
彼が見つめていたのは、前方はるか平野のかなたに見えるコルムレーの鐘楼《しょうろう》だった。実はこの鐘楼の中に、なにかとっぴょうしもないことがおこったらしかった。
この鐘楼はくれゆく空にくっきりとシルエットをえがいていた。先がピラミッド型をしているやぐらと、そのやぐらとピラミッドのあいだにある、四角で、日よけがないので日がさしていて、四方八方が見わたせる鐘つき場が見えた。ブルターニュ地方の鐘楼によく見うけられる形だった。
見ていると、この鐘つき場は、ひらいたりとじたりしているようだった。一定の間をおいて、その高い窓がまるきり白くなるかと思うと、つぎにはまったく黒くなっている。鐘つき場をすかして向こうの空が見えるかと思うと、すぐまた見えなくなってしまう。明るみがさしたかと思えば、すぐまた、ものにおおわれたように暗くなってしまう。そして、このあけたてする運動は、まるで鉄床《かなとこ》の上にうちおろされる槌《つち》のように正確に、刻々、つづけられていくのだった。
このコルムレーの鐘楼は、老人の前方二里くらいのところにあった。彼は右手にある、これも地平線から垂直にそびえているバゲ・ピカンの鐘楼に目をこらしたが、この鐘楼の鐘つき場も、コルムレーのと同じように、ひらいたりとじたりしていた。
左手のタニスの鐘楼にも目をやってみた。すると、ここの鐘つき場もやはりバゲ・ピカンのと同じで、ひらいたりとじたりしていた。
彼は地平線の上に立っている鐘楼をつぎつぎにながめていった。左手のクールティ、プレセ、クロロン、ラ・クロワ=ザヴランシャンから、右手のラズ=シュール=クーエノン、モルドレ、レ・パへ、そして正面のポントルソンと、すべての鐘楼に目をこらしてみた。やはり、どの鐘楼も、交互に黒くなったり白くなったりしていた。
いったい、これはどういうことなのだろう?
つまり、どの鐘も揺れ動いているということだった。しかも、あのように鐘が現われたり隠れたりしているのだから、きっと、ものすごく揺り動かされているにちがいないのだ。
これはいったいどうしたというのだ? いうまでもなく、警鐘《けいしょう》をうちならしているのだった。
警鐘がうちならされていた。それも狂ったようにはげしくならされていた。いたるところで、ありとあらゆる鐘楼で、すべての教区で、すべての村でうちならされていたのだ。しかも、その音は老人の耳には少しもきこえてこなかったのだ。
あまりに遠いので音がとどかないということもあったが、海の風が音とは逆の方向から吹いていて、地上のあらゆる物音を地平線のかなたに運び去ってしまうからだった。
狂い立つような鐘の音があちこちから呼びかけてきているのに、老人にはなにもきこえなかった。これほど無気味なものはなかった。
老人はじっと目をこらし、耳をすましていた。
警鐘《けいしょう》の音はきこえなかったが、鐘を目で見ることはできた。警鐘の音を目で見るとは、まるで奇妙な感じだった。
それにしても、いったい、あの鐘はだれのためにならされているのだろう?
あの警鐘《けいしょう》はだれを追いかけているのだろう?
三 大きな文字の効用
たしかに、だれかが追われているのだ。
だが、だれだろう?
この鋼鉄《こうてつ》の心をもった男が身ぶるいした。
しかし彼が追われているはずはなかった。彼がこの土地へきたことを見ぬけるはずがないのだ。つい今しがた彼が上陸したことが、もう政府の派遣員に知らされているなどということは、あるはずがなかった。すでにコルヴェット艦は撃沈され、ひとりの乗組員もにげられなかったにちがいない。それに、あの艦の中でも、ボアベルトロとラ・ヴィユヴィルをのぞいたら、彼の名前を知っているものはひとりもいなかったのだ。
鐘楼《しょうろう》はあいかわらず、おそろしい音をかなでていた。老人はそうした鐘の音をよくしらべ、音の数を機械的にかぞえていた。すると、彼の思いは臆測《おくそく》から臆測へとうつり、深い安心感からおそるべき不安感にいたる変化がおこす、あの動揺する気持におそわれるのだった。しかし、結局、この警鐘の意味はいろいろに解釈されるものだから、最後に老人は、『つまりは、わしが上陸したことを知っているものはだれもおらんのだ。いや、わしの名前を知るものさえひとりもおらんのだ』と、自分になんどもいいきかせて安心した。
しばらく前から、彼の背後の上のほうで、なにかかすかな音がきこえていた。それは、ゆれる木の葉がこすれあって、がさがさいう音ににていた。最初、老人はそれを気にもとめなかったが、その音がまるできいてほしいと言いはっているみたいに、いつまでたってもやまないので、とうとう、音のきこえるほうをふりむいてみた。事実、それは葉ではあったが、一枚の紙の葉だった。風が彼の頭上の道標の表面にはってある一枚の大きな掲示をひきはがそうとしているところだった。この掲示はしめっていたから、はられてからまだ間がないのだろう、風にあおられ、風はまた掲示にたわむれ、それをはがそうとしていたのだ。
老人は反対側からこの砂丘にのぼってきたので、のぼりついたときには、この掲示に気づかなかったのだ。
彼は腰かけていた標石《ひょうせき》の上にあがると、風が吹きあげる紙片のはじを片手でおさえた。空はすみわたり、六月のこととて、たそがれはいつまでも暮れない。砂丘のふもとはもう暗くなっていたが、てっぺんのほうは明るかった。掲示の一部は大きな字で印刷されてあったし、まだかなり明るかったので、彼は掲示に書いてあることを読むことができた。掲示の文句はつぎのとおりだった。
[#ここから1字下げ]
唯一にして不可分のフランス共和国
シェルブール沿岸警備隊つき派遣議員プリウール・ド・マルヌは、つぎのように布告する。
一、もとフォントネ子爵、自称ブルターニュ公、もとラントナック侯爵は、ひそかにグランヴィル海岸に上陸。以後、当人は法律にて保護されぬものとする。
一、このものの首に賞金をかける。
一、生死の区別なく、このものをひきわたしたものには六万フランを支払う。
一、賞金はアシニャ紙幣で支払わず、金貨で支払うものである。
一、シェルブール沿岸警備隊一個大隊は、ただちにもとラントナック侯爵捜索に出動するものである。
一、自治区住民はこの捜査に協力せよ。
[#ここで字下げ終わり]
一七九三年六月二日、グランヴィル市庁舎にて。
署名 プリウール・ド・ラ・マルヌ
サインの名前の下に、もうひとつ別のサインがあったが、それはずっと小さな字だったので、消え残る夕べの光では読むことはできなかった。
老人は帽子をまぶかにさげ、海軍用マントをあごの下までひっぱりあげると、いそいで砂丘をおりた。明るい砂丘の頂上でこれ以上ぐずぐずしていることは、あきらかに無用だった。
すでにもう長くいすぎたといってもよかった。なぜなら、あたりの風景の中でこの砂丘の頂上だけが見えていたからだった。
砂丘の下におりて、すっかりやみに包まれたとき、老人ははじめて歩度をゆるめた。
彼はさきほど空間になぞってみた小作地の方向へ歩いていった。おそらく、この方角にいけば安全だという理由があったのだろう。
あたりには人気《ひとけ》がなかった。もう通行人のとだえる時間だったのだ。
あるしげみのかげまでくると、彼は足をとめてマントをぬいだ。それから、チョッキをひっくり返して毛のついたほうを表に出して着ると、ぼろきれ同様のマントをひもで首に結びつけて、また歩きだした。
空には月がかがやいていた。
やがて彼は、ふるびた石の十字架が立っている二股《ふたまた》道のわかれめにきた。十字架の台石に白い四角いものがはりつけてあるのがわかった。それは、さきほど読んだものと同じような掲示らしかった。彼はそれに近よっていった。すると、そのとき、
「どちらへいらっしゃる?」と、ひとつの声が呼びかけた。
老人はふり返った。
生垣の前にひとりの男が立っていた。背の高さも、老《ふ》け具合も、白髪のようすも、まるきり老人と同じ男だった。ただ、ちがっているのは、老人よりもひどいぼろ着をまとっているところだった。ほとんど老人そっくりといってよかった。
男は長いつえをついていた。
男がまた口をひらいた。
「どちらへおいでか、おたずねしておるのですが?」
「それより、ここはどこだ?」と、老人がほとんど横柄《おうへい》といってよいくらい落ちついてたずねた。
すると、男が答えた。
「タニスのご領地なんで。わたしめはここの乞食《こじき》でございますが、あなたさまは、ここのご領主さまでいらっしゃいます」
「わしがか?」
「さようで。ラントナック侯爵さま」
四 乞食《ケマン》
ラントナック侯爵(これからは、老人を本名で呼ぶことにしよう)はおごそかな口調で答えた。
「よし。わしをひきわたすがいい」
男が話しつづけた。
「あなたさまも、わたしめも、わが家にいるのでございますよ。あなたさまはご自分のお城に、わたくしめはやぶの中、というわけでして」
「やめろ、はやくしろ。さっさとわしをひきわたすがよいのだ」と、侯爵が言った。
それでも男は平気で話しつづけた。
「エルブ=アン=パイユの小作地へいらっしゃろうというおつもりではございませんか?」
「そうだ」
「いらっしゃるのはやめになされませ」
「なぜだ?」
「あそこにゃ、共和政府軍《あお》がおしかけております」
「いつからだ?」
「三日前からです」
「小作地や部落の住民たちは抵抗したのか?」
「いいえ、みんなドアをひらいて、おとなしくしておりました」
「そうか!」と、侯爵は言った。
男が木々を越して少し向こうに見える小作地の屋根を指さして言った。
「あの屋根がごらんになれますか?」
「ああ、見えるぞ」
「屋根の上になにがございますか?」
「風にひらひらしておるものか?」
「さようで」
「旗だな」
「三色旗でございますよ」と、男が言った。
それは、侯爵が砂丘の上にいたときすでに、彼の注意をひきつけたものだった。
「警鐘《けいしょう》はなっておらんか?」と、侯爵がたずねた。
「なっております」
「なんのために、なっておる?」
「もちろん、あなたさまのためで」
「だが、音はきこえんぞ」
「風に吹かれて、きこえないのでございます」
さらに、男がつづけて言った。
「あなたさまのことが書いてある、あのビラをごらんになりましたか?」
「うん、見た」
「あなたさまはおたずねもんなんで」
それから、男は小作地のほうをちらっと見てから、こう言いそえた。
「あそこにゃ、半大隊からおります」
「共和派《あお》の連中がか?」
「パリっ子たちでございます」
「よし、さきへ進もう」
こう言うと、侯爵は小作地のほうに向かって一歩ふみだした。
すると、男が侯爵の腕をつかんで言った。
「おやめなされまし」
「では、どこへいかせたいんだ?」
「わたしめのうちへいらっしゃいまし」
侯爵は乞食を見つめた。
「おききくださいまし、侯爵さま。わたしめのうちはきれいではございませんが、そりゃもう、とびきり安全でございます。ほら穴より深いかくれがでございますよ。床のかわりに海草をしき、天井《てんじょう》のかわりに木の枝や草をはってあるんで。さあ、いらっしゃいまし。小作地なぞへいらっしゃれば銃殺されますが、わたしめの穴ぐらなら、おやすみになれます。きっとお疲れでおいででしょう。あすの朝になりゃ、共和政府軍《あお》の連中はどこかへいっちまうでしょうから、いらっしゃりたいところへおいでなされませ」
侯爵は男をまじまじとながめた。
「おまえはどちらの味方なんだ?」と、侯爵がたずねた。「共和派《あお》なのか? 王党派《しろ》なのか?」
「わたしめは、しがねえ貧乏人でございますよ」
「王党派でも共和派でもないのか?」
「どっちでもねえと思いますが」
「では、国王の敵か味方か?」
「そんなことやってるひまはございませんで」
「今おこっていることを、おまえ、どう思う?」
「わたしめにゃ、毎日たべるものさえありませんですよ」
「それでも、このわしを助けようというのだな」
「わたしめは、あなたさまが法律で保護されないようにおなりになったのを見ましたが、いったい、あの法律ってのは、どういうものでございますか? あなたさまが法律に保護されないっていうことになりゃ、法律のとどかないところへおんでることもできるわけですか? どうも、わたしめにゃわかりません。いったい、このわたしめは法律の中にいるのでございますか? それとも、そとにでているのでございますか? どうも、さっぱりわかりませんです。飢えで死にそうだってことは、法律に保護されているうちにはいるのでございましょうか?」
「おまえはいつから飢え死にしそうなのか?」
「もう生まれてこのかた、ずっとです」
「それでも、わしを助けようというのか?」
「はい」
「なぜだ?」
「それは、『おらよりも気の毒な人間がいる。おらは息を吸う権利があるのに、その人間にゃ、それさえねえ』と、思ったからでございますよ」
「なるほど。おまえ、ほんとにわしを助けるつもりだな?」
「はい、たしかに、今、あなたさまとわたしめは兄弟みたいなもんですよ、ご領主さま。わたしめはパンを求め、あなたさまは生命《いのち》を求めていらっしゃる。二人とも乞食《こじき》でございますよ」
「しかし、おまえは、わしの首に賞金がかかっていることを知っておるか?」
「はい」
「どうして知ったのだ?」
「ビラを読みましたんで」
「字が読めるのか?」
「はい、書くこともできます。わたしめがけだもの同然でなけりゃならんので?」
「では、字が読めて、あの掲示を読んだわけだな。それなら、わしをひきわたしたものは、六万フランもうかるってことも知っていたろう?」
「知っておりました」
「それも、アシニャ紙幣ではないのだぞ」
「はい、それを知っておりました。金貨でもらえるっていうんでございましょう?」
「六万フランといえば、ひと財産だってことも知っておるのか?」
「はい」
「わしをひきわたしたものは、ひと財産作れるんだぞ?」
「そりゃ、そうでしょうが、それが、どうかしましたか?」
「ひと財産だといっとるのだ!」
「わたしめだって、そこのとこはちゃんと考えましたですよ。あなたさまをお見かけしたとき、わたしめは腹の中で言ったもんです。『このかたをひきわたしたやつは六万フランもらって、ひと財産作れるんだ!だからこそ、いそいでかくまってあげよう』って」
侯爵はこのまずしい男のあとからついていった。
二人はやぶの中へはいっていった。乞食がすむほら穴はその中にあったのだ。それは、一本のかしの古木で、この男を自分のふところにかくまってやっているといった、一種の部屋のようなものだった。木の根もとを掘り、その上からかしの枝でおおったものだった。中は暗くて、ひくく、そとからは見えないようになっていた。しかし二人がはいれるぐらいの広さはあった。
「ときにゃ、お客があるかも知れんと思ったもんですからね」と、乞食が言った。このような地上のすまいは、ブルターニュ地方では思ったほどまれではなく、百姓たちはこれを≪|木の下のすまい《カルニショ》≫と呼んでいる。もっとも、この呼び名は、厚い壁の中に作られた隠れ家を呼ぶのに使うこともある。
五、六個のつぼ、わらや洗ってかわかした海草で作った粗末なベッド、クレッソー〔綾織りの毛織物〕の大きなかけぶとん、数本の獣脂《じゅうし》ローソクとひうち石、つけ木として使う芯《しん》をぬいたアカンサスの枝のたばといったものが置いてあった。
二人はからだをちぢめ、少しばかり這《は》ってから、その部屋にもぐりこんだ。部屋の中は大きな木の根で、奇妙な個室に仕切られていた。二人はベッドとして使われている、かわいた海草がつんである上に腰をおろした。二人がはいってきた二本の根のあいだが玄関になっていて、そこから、わずかな光がさしこんでいた。もう夜になっていた。だが、目は光のかげんになれるもので、しばらくたてば、やみの中でも、少しはものが見わけられるようになるものだ。月の光が入口をかすかに明るくしていた。部屋の片すみには、首が細くまがっている水さしと、蕎麦《そば》パンのかけらと、いくつかの栗の実が置いてあった。
「夕飯にいたしましょうか」と、まずしい男が言った。
二人は栗の実をわけあった。侯爵はじぶんのビスケットのかたまりを乞食にやった。そして二人は同じそばパンをかじり、水さしからかわるがわる水をのんだ。
それから二人はしゃべり始めた。
まず侯爵のほうが男にたずねた。
「では、どんなことがおころうがおこるまいが、おまえにはどうということもない、というわけだな?」
「そういったところでございますよ。そういうことは、あなたさまがた、つまりはご領主さまがたのお仕事でございますから」
「それにしても、近ごろおこっておることは……」
「わたしめらにとりましては、ずっと上のほうでおこっておるようなもんです」
そして乞食は言いそえた。
「でも、それよりももっと高いとこでおこってることだってございます。おてんとうさまがのぼるし、お月さんが満ちたりかけたりします。わたしめが気になるのは、そっちのことでございますよ」
彼はこう言うと、水さしの水をひと口のんだ。
「ああ、うめえ!」
それから、また口をひらいた。
「この水の味、どう思われます?」
「おまえはなんという名だ?」と、侯爵がたずねた。
「テルマルクです。でも、ふつうは≪ケマン≫と呼ばれております」
「その言葉なら、わしも知っておる。≪ケマン≫というのはこの土地のなまりだな」
「乞食《こじき》ということでございます。それから、≪じいさん≫っていう名前もついています」
彼はさらにさきをつづけた。
「もう四十年から≪じいさん≫と呼ばれております」
「四十年もか! だが、むかしはおまえだって若かっただろうか」
「わたしめにゃ、若いじぶんなんて一度もございませなんだ。侯爵さま、あなたさまはあいかわらずお若くていらっしゃいます。二十歳の若もののような強いお足を持っていらっしゃる。だから、あの高い砂丘だっておのぼりになられた。ところが、わたしめときちゃ、もう歩くことだってできませんや。十町もいきゃ、もうくたばっちまう。といったって、あなたさまとわたしめは、年はそんなにちがわないんでこざいますよ。お金持ちは、なにかけにつけて、わたしめらより割りがいいんでございますね。毎日、おまんまがいただけるでしょうし、くえば、からだもしっかりします」
乞食はここでちょっと黙ったが、すぐまた話し始めた。
「貧乏人とお金持ちがあるってことが、やっかいのもとでございますよ。こいつが、いろんなやっかいを生むのでございます。少なくとも、わたしめにゃ、そんな気がいたしますので。貧乏人はお金持ちになりたがるのに、お金持ちは貧乏人になりたがらない。そこが、いちばん肝心《かんじん》な要《かなめ》だと思います。でも、わたしめは、そんなことにまきこまれるのはまっぴら、騒動なんてものは、どこまでいったって、どうにもならないものでございますからね。だから、わたしめは、貸し方にも借り方にも味方いたしませんので。わかってるのは、今、借金みたいなものがあって、みんながそいつを支払っているってことだけです。結局のところ、そういうことでございますよ。
そりゃ、わたしめだって、なにも王さままで殺すことはなかったとは思っておりますが、そりゃどうしてだってきかれたら、返事にこまります。そうすると、みんなはこう言います。
『だがよ、むかしは、わけもねえのに木にぶらさげられたじゃねえか!』って。
そう言われりゃ、わたしめだって、王さまの鹿《しか》を銃で撃った罪で、しばり首になった男を見たことがございます。その男にゃ、女房とがきが七人もありましたに。まあ、どっちのほうにも言い分があるわけですよ」
ここで乞食はまた口をつぐんだが、やがてまたしゃべりだした。
「あなたさまはおわかりでしょうが、わたしめにゃ、どうもよくわからんのでございますよ。人間がいったりきたりする。するてえと、騒ぎが持ちあがる。どうなったって、わたしめがお星さまの下にいることにゃ変わりありませんや」
テルマルクは言葉を切って思いにふけるようだったが、またさきをつづけた。
「わたしめは接骨《せっこつ》のほうの心得も少しありますし、医者のまねごとだってやります。薬草のことも知っておりますし、植物の使いかたも知っております。それに、百姓たちがわけもないのにわたしめに目をつけますんで、魔法使いでも通っております。考えごとばかししておるということで、もの知りってことにもなっております」
「おまえはここの生まれなのか?」と、侯爵がたずねた。
「生まれてこのかた、この土地をはなれたことは一度もございません」
「わしをよく知っておるのか?」
「もちろんです。最後にあなたさまをお見かけしたのは、あれは、二年前の最後のお通りのときでございましたね。ちょうど、これからイギリスへお立ちっていうところでした。さっき、わたしめは、あの砂丘のてっぺんに男が立ってるのを見かけました。そりゃ背の高いお人で、背の高い男はここじゃめったに見られないんでございます。ブルターニュってとこは、小人の国でございますからね。だから、わたしめは、その人をじっと見つめてたんでございます。その前に、あのビラは読んでおりました。それで『これは!』って言っちまったんです。そうこうするうちに、あなたさまが砂丘からおりていらっしゃいました。月あかりで、あなたさまってことがわかったんでございますよ」
「だが、わしのほうじゃ、おまえを知らんぞ」
「いえ、ごらんにはなっておるんですよ。お目にとめられなかっただけで」
そして、≪乞食《ケマン》≫のテルマルクは、こう言いそえた。
「わたしめは、あなたさまをよくよく拝見しておりました。乞食と通行人じゃ、目つきがちがいますもの」
「それにしても、むかし、おまえに会ったことがあるのかな?」
「なんどもございましたよ。なんしろ、わたしめは、あなたさまのご領土の乞食でございますから。お城へいく道でうろうろする乞食でございますからね。あなたさまは、ときどき、わたしめにほどこしてくださいました。そういうとき、ほどこしてくださるかたは、ろくにごらんになりませんが、ほどこされるほうは、くださるかたをよくよく注意して拝見するもんでございます。いってみりゃ、乞食はスパイでございますよ。でも、わたしめは、ときどき悲しい思いをいたしました。なんとか悪いスパイにゃなりたくねえと思いましたんで。わたしめが手をさし出しますと、あなたさまはその手しかごらんにならないで、手の中へほどこしものをいれてくださいました。そのほどこしものは、朝のわたしめにとっちゃ、夜の飢えをしのぐために必要なものでございました。二六時中、なんにも口にいれないときもございました。ときにゃ、たったの一スウが、わたしめの生命《いのち》って日もありました。あなたさまのおかげで、わたしめは生きていられましたんで。だから、こんどは、わたしめがあなたさまをお助け申しあげるんでございます」
「そのとおりだ。おまえはわしの生命《いのち》を救っておるのだ」
「ええ、ええ、お救いいたしますですよ、ご領主さま」
ここでテルマルクの声は、おごそかな調子になった。
「だが、それにゃ、条件がひとつだけございます」
「どういう条件だ?」
「ここへいらっしゃいましたら、悪いことはなさらないでいただきたいので」
「わしはよいことをしようと思って、ここへきたのだぞ」と、侯爵が言った。
「それでは、もう寝ることにいたしましょう」と、乞食が言った。
二人は海草のベッドに並んで横になった。乞食はすぐに眠りこんでしまった。侯爵ははげしい疲れをおぼえていたものの、しばらくもの思いにふけっていた。しかし、やがて、暗やみの中で、乞食の寝すがたにじっと目をそそいでから、横になった。こんなベッドに寝るのは、地面に寝るのと同然だった。それをさいわいに、侯爵は地面に耳をおしあてて、もの音をきこうとした。すると、地下のほうで、かすかなひびきがきこえた。よく知られているとおり、音は地の底までつたわるものだ。鐘の音がきこえてきたのだ。
まだ警鐘がなっていたのだ。
侯爵も眠りに落ちた。
五 ゴーヴァンというサイン
侯爵が目ざめたときは、もう夜が明けていた。
乞食は立っていたが、ほら穴の中は上天井がひくくて立っていられなかったので、そとに立っていた。彼は杖によりかかっていた。その顔には朝の日があたっていた。
「ご領主さま」と、テルマルクが言った。「今さき、タニスの鐘楼が四時をうちました。鐘が四つなるのが、はっきりときこえましたんで。きこえたのは風向きが変わったからでございます。陸から海のほうへ吹きだしたんでございますよ。ほかの音はなにもきこえません。というのは警鐘《けいしょう》がやんだからでして。エルブ=アン=パイユの小作地の中も、部落も、静まりかえっております。共和政府軍《あお》の連中は眠っているか、出発したか、どちらかでございますよ。とにかく、いちばん危険なときはすぎちまったわけでございます。そろそろ、あなたさまとお別れしたほうが利口《りこう》というものでございます。わたしめも出かける時刻でございますし」
それから彼は地平線の一点を指さした。
「わたしめはあちらのほうへまいります」
つぎに、反対の方角をさして、
「あなたさまは、こちらのほうへおいでくださいませ」
乞食は侯爵に向かってうやうやしく挙手《きょしゅ》の礼をした。
それから夕飯の残りを指さして、こうつけくわえた。
「おなかがすいていらっしゃるなら、あの栗をお持ちくださいまし」
こう言ったかと思うと、たちまち、木立の中に消え去ってしまった。
侯爵は立ちあがると、さきほどテルマルクが指さした方角へ歩きだした。
ちょうど、ノルマンディー地方の古い百姓言葉で≪ピイピイ夜明け≫と言われている、気持のよいひとときだった。あたりにはゴシキヒワやヤブスズメがさえずっていた。侯爵は前夜乞食とつれ立ってきた小道を引き返し、しばらくいってイバラのしげみをすぎると、あの石の十字架が立っている二股《ふたまた》道のわかれめまできた。あの掲示はまだはってあった。朝日に照らされて白く陽気にかがやいていた。昨夜、その掲示の下のほうに、なにか書いてあったが、その字が小さいうえに、暗がりだったため読めなかったことを、彼は思いだした。そこで、彼は台石に近よっていった。やはり、掲示の『プリウール・ド・ラ・マルヌ』というサインの下に、小さな字で二行ほど書きたしてあった。
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もし、もとラントナック侯爵を逮捕して、本人であることを確認した場合は、ただちに銃殺せよ。
署名 討伐《とうばつ》部隊指揮官 大隊長ゴーヴァン
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「ゴーヴァンか!」と、侯爵はつぶやいた。
そして、掲示に目をあてたまま、じっと考えこんで立ちすくんでいた。
「ゴーヴァンか!」と、彼はなんどもつぶやいた。
それから、また歩きだした。しかし、ふり向いては掲示をながめ、またもどってくると、掲示をもう一度読んでみた。
やがて、彼はゆっくりした歩調で立ち去った。が、もし、そのとき、だれかが彼のそばにいたら、彼が小声で「ゴーヴァン!」とつぶやくのを耳にしただろう。
彼がしのんでいくくぼんだ道からは、背後はるか左手に見えていた小作地の屋根は、もう見えなかった。彼は花をつけた≪長とげ≫といわれる種類のハリエニシダにおおわれている、けわしい丘の下に沿って進んだ。この丘のてっぺんには、この地方で≪いのししの頭≫と呼ばれている土の降起《りゅうき》があり、丘のふもとは木立におおわれていて、たちまち視野をさえぎられてしまう。木々の葉は、まるで光にとっぷりつけられたみたいに、きらきらかがやいていた。森羅万象《しんらばんしょう》ことごとくが、朝の深いよろこびに酔っていた。
と、とつぜん、あたりはおそるべき光景に一変した。伏兵がいちどきにとび出してきたようだった。あらあらしい叫び声や銃声の、なんともいえない龍巻《たつまき》が、光にみたされていたあたりの野や森にとびかかり、小作地の方向から、あかあかと燃えるほのおに区切られた煙が立ちのぼった。まるで部落も小作地も燃えるわらのたばに見まがうばかりのほのおだった。それは突然におこった不吉なできごとであり、静けさから狂気へと変わる急変であり、夜明けの中に吹きあげた地獄の爆発であり、変化ひとつない恐怖の光景だった。エルブ=アン=パイユのほうで戦闘が始まったのだ。侯爵は足をとめた。
こういう場合、だれでも味わわないわけにはゆかないことだが、危険に対するおそれよりも好奇心のほうが強いものである。たとえ死の危険にさらされてもよいから知りたい、と思うものである。侯爵も丘のふもとのくぼんだ道から隆起のてっぺんへのぼった。そこに立つと、人からも見られたが、こちらからもあたりがよく見えた。
数分もすると、彼は≪いのししの頭≫の上にのぼっていた。そして、じっと目をこらした。
事実、小銃の撃ちあいが始まり、火事がおこっていた。そうぞうしい叫び声がきこえ、火が見えた。小作地はなんだか得体《えたい》の知れない破局のるつぼになっているみたいだった。いったい、なんだろう? エルブ=アン=パイユの小作地が攻撃をくらったのか? だれが攻撃しているのだろう? それにしても、ほんとうの戦闘なのだろうか? ただ軍事的圧力を加えられているだけではないだろうか? これまで、共和政府軍《あお》は革命の政令《せいれい》の命じるところに従って、ときには、法にさからう小作地や部落に火をつけて、これを罰してきたものだ。あるいは、法の命令する樹木の伐採《ばっさい》をこばんだり、共和政府軍《あお》の騎兵隊の通路のために、しげみの木を切らなかったりした小作地や部落は、見せしめのために、焼きはらわれたりしてきたものだ。
とくに、さきごろも、エルネ付近のブールゴン教区がこうした圧迫を受けていた。エルブ=アン=パイユも同じ運命にみまわれているのだろうか? タニスやエルブ=アン=パイユ一帯の林や地所に、政令によって作るよう命じられた戦略用突破路がひとつもできあがっていないことは、明らかだった。だから、罰を受けているのだろうか? 小作地を占領していた前衛《ぜんえい》部隊に、焼きはらい命令がでたのだろうか? そして、この前衛部隊こそ、あの≪地獄の部隊≫と名づけられた討伐部隊の一部ではないだろうか?
侯爵がそのてっぺんに立ってじっと観察している丘は、まわりを非常に高い鹿毛《かげ》色のしげみでとりかこまれていた。このしげみは≪エルブ=アン=パイユの小さな森≫と呼ばれていたが、それはふつうの森よりも大きくて小作地の近くまで伸びていた。ブルターニュ地方のしげみにはままあることだが、その中には、こみいったくぼ地や、小道や、網目《あみめ》状になったくぼんだ道など、共和政府軍《あお》がまよいこんだ迷路がはりめぐらされていたのだ。
この騒ぎがもしも懲罰のためにおこなわれているものだとすると、たいへん残虐《ざんぎゃく》なものだったにちがいない。というのは、その騒ぎはすぐにおさまってしまったからだ。あらゆる野蛮行為に似て、それはあっというまに終わってしまったのだ。残忍な内乱には、こうした野蛮行為がつきものなのである。
侯爵はいろいろ推測しては、丘をおりようか、それともこのままじっとしていようかとためらい、耳をすまして、あたりを警戒していた。そのあいだに、そのみな殺しの大騒動はやんでしまった。いや、より適切に言えば、四方八方に散り散りになってしまった。侯爵は、いかり狂い、よろこびに有頂天になった一隊が、周囲に散開《さんかい》するように、しげみの中に見えつ隠れつするのをみとめた。木々の下には、無数の人影がうようよしていた。小作地から森めがけてとびこんでくるのだ。進軍のたいこがうちならされていたが、銃声はもうやんでいた。今では、どうやら、だれかを森から追い立てているようだった。捜索し、追撃し、追いつめているようだった。明らかに、だれかをさがし求めていた。物音は森のおくへおくへとひろがっていく。しかし、怒号と勝ちどきの声がまじりあい、それがわあわあと騒ぐ声ひとつになってひびいているだけで、言っていることをはっきり聞きわけることはできない。
ところが、とつぜん煙の中にものの輪郭が浮きでるように、この騒音の中から、くっきりと正確な声がきこえてきた。それはひとつの名前だった。その名前はいく千の人びとの声でくり返され、となえられていた。ついに侯爵は、この声をはっきりとききとった。
「ラントナック! ラントナック! ラントナック侯爵!」
捜索されていたのは彼だったのだ。
六 内乱の有為転変《ういてんぺん》
たちまち彼の前後左右、まわり一帯のしげみは、小銃と銃剣とサーベルでみちみち、うす明かりの中で三色旗がひるがえり、「ラントナック」という叫び声が彼の耳もとで爆発した。しかも彼の足もとには、イバラや木の杖をすかして、獰猛《どうもう》な顔がいくつも現われた。
侯爵は丘のてっぺんにひとりきりでつっ立っていた。それは森のどの地点からもよく見えるところだった。彼は自分の名前を叫んでいるものたちをはっきりとは見られなかったが、彼自身のすがたはみんなから見られていた。森の中に千の銃があるとすれば、彼はまさしくその標的《ひょうてき》になっていた。彼はしげみの中に、じっと自分を見つめている燃えるようなひとみしか見わけられなかった。
彼は帽子をぬぐと、そのふちをおりかえし、ハリエニシダから長い、かれたとげをむしりとった。それから、ポケットから白い帽章《ぼうしょう》をとりだして、おりかえした帽子のふちと帽章とを、むしりとったとげで帽子の上にぬいつけると、また帽子をかぶった。帽子のふちがおりかえされているので、ひたいも帽章もよく見えるようになった。これだけのことをしてしまうと、彼は森じゅうにひびきわたるように大声で話し始めた。
「わしは、おまえらがさがしている人間だ。フォントネの子爵、ブルターニュ公、国王軍陸軍中将、ラントナック侯爵だ。さあ、殺すがよい! ねらえ! 撃て!」
こう言うと、ひつじ皮のチョッキを両手でひらき、すはだかの胸をむきだしにした。
彼は視線をさげて、ねらいをつけている銃をさがした。ところが、どうだろう、彼はひざまずいたものたちに、ぐるりととりかこまれていたのだ。
と、一大歓声がひびきわたった。
「ラントナックばんざい! ご領主さまばんざい! 将軍ばんざい!」
とともに、帽子が空中にまい、サーベルがよろこび勇《いさ》んで渦をまいた。さらに、あらゆるしげみの中から、なん本とも知れぬ棒がおし立てられ、その先につけられた茶色のラシャ帽がはげしくゆれていた。
彼のまわりにいたのはヴァンデ軍の一隊だったのだ。
この部隊は侯爵を見つけて、ひざまずいたのだった。
伝説の語るところによると、むかし、テューリンゲンの森には、人間とくらべてよいところも悪いところも持っている、ふしぎな巨人人種の一族が住んでいたという。この人種のことを、ローマ人たちはおそるべき動物だと思っていたが、ゲルマン人は神の化身だとしていた。つまり、この巨人たちは出会う相手のちがいによって、みな殺しになってしまうかも知れなかったし、逆におおいにうやまわれるかも知れなかった。
この巨人たちのひとりが、怪物として扱われるだろうと思っていたときに、とつぜん、神としてむかえられたとき、その巨人が味わったにちがいない気持、それに類する気持を、このとき侯爵は味わったのだ。
あのおそろしげな光にみちた目がことごとく、一種のあらっぽい愛情をやどしながら侯爵を見つめていた。
これらの群衆は、小銃、サーベル、かま槍、さお、棒で武装していた。だれもかれも白い帽章《ぼうしょう》をつけた大きなフェルト帽か茶色のふちなし帽をかぶり、ロザリオやお守りをどっさり身につけ、ひざまでくる太い短ズボンをはき、毛皮の短外套を着、皮のゲートルをまき、ふくらはぎをまるだしにし、髪の毛を長くのばしていた。中には獰猛《どうもう》な顔をしたものもいたが、みな一様に、すなおな目つきをしていた。
美しい顔をしたひとりの青年が、ひざまずいている男たちのあいだをぬって、侯爵のほうへ大股であがっていった。彼は百姓たちがよくやるようにフェルト帽のふちをおりかえして白い帽章をつけ、毛皮の短外套を着ていた。しかし、その手は白く、シャツも上等のものだった。短外套の上に白絹の綬章《じゅしょう》をつけ、その綬章から金色のつかのついた剣をつっていた。
≪いのししの頭≫の上にあがると、青年は帽子をとり、綬章をはずして、地面に片ひざをつくと、綬章と剣を侯爵のほうにさしだして、こう言った。
「われわれは閣下をおさがし申しあげておりましたが、とうとうお目にかかれました。これは指揮刀でこざいます。ここにおりますものどもは、今こそ、閣下の部下にさせていただくのです。これまでは、わたくしが指揮をとっておりましたが、今、閣下の一兵卒に昇進させていただきます。ご領主さま、どうか、われわれの敬意をおおさめください。ご命令をおくだしください、将軍」
それから、彼が合図すると、三色旗を持った男たちが森の中からでてきた。男たちは侯爵のところまでやってくると、侯爵の足もとに旗を置いた。それは、さきほど木立をすかしてちらりと見えた、あの旗だった。
「将軍」と、剣と綬章をさしだした青年が言った。「これは、エルブ=アン=パイユの小作地に駐屯しておりました共和政府軍《あお》のやつらからとりあげてきたばかりの旗でございます。ご領主さま、わたくしはガヴァールといいまして、以前はラ・ルーワリ侯爵さまの部下でございました」
「よろしい」と、侯爵が言った。
そして、落ちついておごそかな態度で綬章をおびた。
それから、彼は剣をぬいて、刀身を頭上でひるがえしながら叫んだ。
「立て! 国王陛下ばんざい!」
みんなが立ちあがった。
そして、森の奥のあちこちから、狂ったような勝ちどきの声がひびきわたってきた。
「国王陛下ばんざい! 侯爵さまばんざい! ラントナックばんざい!」
侯爵がガヴァールのほうへふり返った。
「今、総勢なん人かな?」
「七千人です」
そして、百姓たちがラントナック侯爵の前で、ハリエニシダをかきわけて通路を作っているあいだに、二人は丘からおりていった。ガヴァールは話しつづけた。
「閣下、事情は実に簡単なことです。ご説明申しあげるには、ひと言でもってたりるほどです。ちょっとした火の手があがれば充分と、われわれは待ちかまえておりました。そこへ、あの共和政府の掲示がはりだされて、閣下がこちらにいらっしゃることがわかりました。それで、みなが国王陛下のために叛乱《はんらん》をおこしたのです。その上、閣下が当地にいらっしゃることは、グランヴィルの市長からこっそり通知を受けました。あの市長もわれわれの味方ですし、オリヴィエ師を救出したのもあの人でした。昨夜は警鐘《けいしょう》をならしました」
「だれのためにならしたのか?」
「閣下のために」
「そうだったのか!」と、侯爵が言った。
「それで、われわれはこうして集まったのです」と、ガヴァールが答えた。
「総勢で七千人だったな?」
「はい。きょうは七千人ですが、あすは一万五千人になると思います。それが、この土地の総動員数なのです。アンリ・ド・ラ・ロシュジャクランさまがカトリック軍をひきいてご出立のときにも、警鐘《けいしょう》をならしました。すると、ひと晩で、六教区から、つまりイゼルネ、コルクー、レ・ゼショーブロワーニュ、レ・ゾービエ、サン=トーバン、ヌエーユの各教区から一万人が集まりました。弾薬は持っていませんでしたが、ある左官《さかん》の家に、火薬が六十ポンドほど見つかりまして、ラ・ロシュジャクランさまはその火薬を持っていかれました。われわれは、あなたさまがきっとここの森のどこかにいらっしゃるに相違ないと考えて、今まで、おさがし申しあげていたのです」
「それでは、おまえたちが、エルブ=アン=パイユの小作地にいた共和政府軍《あお》を攻撃したのか?」
「風がやつらの耳に警鐘がきこえるのをじゃましてくれました。やつらはぜんぜん警戒していませんでした。あの部落の住民どもは、どん百姓ばかりときていますから、共和政府軍《あお》の連中を、いい気になって迎えてしまったのです。そして、けさ、われわれが小作地を包囲したとき、共和政府軍《あお》どもは眠っておりました。だから、わけもなく片づけることができました。ときにわたくしは馬を一頭持っております。さしあげとう存じますが、お受けくださいますでしょうか、将軍?」
「ああ、よろこんでもらおう」
ひとりの百姓が軍隊式に馬具をつけた一頭の白馬をひいてきた。ガヴァールが手助けの手をさし出したが、侯爵はそれをことわって、ひとりで馬にまたがった。
「|ばんざい《ウラー》!」と、百姓たちがさけんだ。こういう言いかたをしたのは、このイギリス式のばんざいは、英仏海峡《ラ・マンシュ》の島々といつも往復のあったブルターニュ地方やノルマンディー地方でよく使われていたからである。
ガヴァールが軍隊式の敬礼をして、たずねた。
「ご領主さま、司令部はどこになさいますか?」
「はじめはフージェールの森にしよう」
「ご領主さまの七つの森のひとつでございますね、侯爵さま」
「それから、僧侶がひとりいるな」
「われわれの隊にもひとりおります」
「どういう男だ?」
「シャペル=エルブレの助任司祭です」
「それなら、わしも知っておる。その男、たしか、ジャージー島に旅したことがあったぞ」
隊列の中からひとりの僧侶が進みでてきて、こう言った。
「三度、まいりました」
侯爵がふりかえった。
「や、こんちは、助任司祭さん。ちといそがしくなるぞ」
「けっこうでございます、侯爵さま」
「たくさんの人間の告解をきかなきゃならんぞ。しかし、告解したいものだけに耳をかせばよい。むりやりさせることはゆるされん」
「侯爵さま」と、僧侶が言った。「ガストンはゲメネで、むりやり共和主義者たちに告解させております」
「あれは床屋じゃないか」と、侯爵が答えた。「しかし、死はつねに自由なものでなくちゃならん」
二、三の命令をくだしにいっていたガヴァールがもどってきた。
「将軍、ご命令をお待ちしております」
「よし。第一に、集合地点はフージェールの森。ここで各自、別行動をとることにするが、のちほど、あの森へいくように」
「はい、承知いたしました」
「さっき、おまえは、エルブ=アン=パイユの住民どもが共和政府軍《あお》の連中を迎えいれたと言ったな?」
「はい、たしかに、将軍」
「小作地はやいてしまったか?」
「はい」
「部落もやいたか?」
「いいえ」
「では、それもやきはらえ」
「共和政府軍《あお》は防戦これつとめましたが、たったの百五十人。味方は七千人もおりましたから」
「その共和政府軍《あお》は、どういう連中だったのか?」
「サンテールの部下でした」
「サンテールというのは、国王の御首《おんくび》が切られておるさなか、たいこをうてと命令しおったやつだ。あれの部下だとすると、パリの大隊だな?」
「半個大隊おりました」
「その大隊はなんという名だ?」
「将軍、旗には、『赤帽大隊《ボネ・ルージュ》』と書いてありました」
「それは、獰猛《どうもう》しごくの野獣どもだ」
「敵の負傷兵たちはどうしましょうか?」
「片づけちまえ」
「捕虜はどうしましょうか?」
「銃殺しちまえ」
「全部で、およそ八十人ほどです」
「全部、銃殺だ」
「女が二人まじっております」
「いっしょに殺せ」
「子供も三人いますが」
「それは、ここへつれてこい。それから考える」
こう言うと、侯爵は馬を走らせた。
七 ゆるすな〔コミューン側の合言葉〕助命するな〔王侯側の合言葉〕
こうしたことがタニスの近くでおこっているあいだに、例の乞食はクロロンのほうへ向かって歩いていた。彼は暗く広大な木の葉かげにおおわれたくぼ地に踏みこんでいた。前にも自分で言っていたように、一切のものに無関心、なにごとにも目を向けないといった顔つきだった。なにかを考えこんでいるというよりも、ただ夢想しているといったほうがよかった。つまり、考えこむということには目的があるが、夢想というものには目的がないからだ。彼は、さまよったり、うろついたり、立ちどまったり、あちこちで野生のすかんぽの若芽をたべてみたり、泉の水をのんでみたり、ときには頭をあげて、遠くのほうから聞こえる物音に耳をかたむけてみたりしていた。あるいは、大自然のまぶしい魅力にわれを忘れたり、ぼろ着を日光にあててみたり、おそらく人間どもが立てる物音もきいているのだろうが、そんなものよりも小鳥の歌にじっと耳をかたむけたりしていた。
彼は年をとっていたから足もおそかった。遠くへいくことはできなかった。まえに彼自身、ラントナック侯爵に言ったとおり、十町もいくと疲れてしまった。クロワ=ザヴランシャンのほうをほんの少しまわってきたのだが、ねぐらへ引き返したときは、もう夕方だった。
マセをちょっとすぎたあたりで、彼が歩いてきた道は、木々がはえていない小高い丘みたいなところにでる。そこからは、はるか遠くまで見わたされ、地平線を西から海のほうまでずっと見はるかすことができた。
ひとすじの煙が彼の注意をひきつけた。
ひとすじの煙ほど人をなごんだ気持にさせるものはないが、また、これほどおそろしいものもない。平和な煙もあれば、極悪非道な煙もある。ひとすじの煙、その煙の厚さや色が、平和と戦争、友愛と憎悪、歓待と墓、生と死のあいだを区別するのだ。木々のあいだから立ちのぼるひとすじの煙は、この世の中でいちばんすばらしいもの、つまり暖かい竃《かまど》のあることを知らせる。しかし、いっぽうでは、その同じ煙が、この世でいちばんおそろしい火事をも知らせるのだ。そして、ときに、人間の幸福も不幸も同じように、この風に散らばる煙の中に存在しているのだ。
テルマルクがながめていた煙は不安をおこさせる種類のものだった。
その煙はくろぐろとしているが、ときにはとつぜんに、まっかな色を吹きだしていた。まるで断続的に燃えあがっては消え去るおき火のようだった。その上、その煙はエルブ=アン=パイユの上あたりに立ちのぼっていたのだ。
テルマルクは足をはやめて、その煙のほうへ進んでいった。とても疲れてはいたが、それよりも、なにがおこったかを知りたかったのだ。
とうとう、部落と小作地がそのかげになっている小さい丘の上にたどりついた。
見ると、小作地も部落もなくなっていた。
あばらやの残骸が燃えているだけで、それがエルブ=アン=パイユそのものだったのだ。
宮殿が燃えるのを見るよりももっと悲痛な思いをさせられることがある。それは、みじめなわら家が燃えるのを見るときだ。火につつまれたわら家は、このうえなくいたましい。それは、貧困にとびかかる破壊、ミミズのあとをしつっこく追うハゲタカを思わせ、なにか人の心をしめつける非条理を思わせる。
聖書にしるされている伝説を信じるとすれば、火事の傍観者は生きながらにして彫像と化してしまったというが、テルマルクも、しばらくはそんな彫像のように、じっと立ちつくしていた。目の前にひろがっている光景が、彼をその場に動けなくしてしまったのだ。この破壊は沈黙のうちにおこなわれていた。叫び声ひとつあがらなかった。人間のため息ひとつ、この煙にまじってはいなかった。この火の燃える大がまは働きつづけて、この部落をむさぼりつくしていくのだ。聞こえるものは、家の骨組みがはじける音、わらがぱちぱちとやける音だけだ。ときに、煙がさけ、くずれた屋根の下から、大穴をあけられた部屋が見え、燃える火がルビー色にやけたものを見せる。深紅色に変わったぼろ着や、まっかになった古びた家具類が朱色の部屋の中でつっ立つ。テルマルクはこの破壊を目の前にして、無気味な目まいをおぼえた。
家々の近くに立っていたなん本かの栗の木にも火がついて、燃えていた。
彼は耳をすまして、人声や、助けを求める声や、騒ぎ声はしないかと待っていた。しかし、ほのおのほかには、なにひとつ動くものはなかった。火事のほかには、あらゆるものが沈黙していた。では、部落の住民たちは、みんなにげてしまったのだろうか?
エルブ=アン=パイユで暮らしたり働いたりしていた住民たちは、どこにいるのだろう? あのしがない人々はみんなどうしてしまったのだろう?
テルマルクは小高い丘からおりた。
ひとつの悲しいなぞが、彼の行手にあった。彼はそのなぞのほうにゆっくりと近づきながら、それに目をこらした。彼は幽霊のようにゆっくりと部落の廃虚《はいきょ》に向かって進んでいった。彼は自分がこの墓場のような廃虚の中をさまよっている幽霊のような気がしていた。
とうとう、小作地の入口があったところにたどりついて、中庭の中をのぞきこんでみた。中庭は今はもう壁がくずれ落ちていて、まわりの家との区別もつかなくなっていた。
しかし、彼がそれまで見てきたものは、たいしたものではなかった。彼はまだおそろしいものを見ただけだったのだ。そして今、世にもすさまじいものが、彼の前に現われたのだ。
中庭のまん中に、くろぐろとしたものがうず高くつみ重なっていた。それは片側をほのおで、反対側を月の光でかすかに照らされていた。このかたまりは人間の山で、しかもその人間たちはみんな死んでいたのだ。
この死体の山のまわりに、大きな水たまりができていて、これが湯気を立てていた。その水には火炎がうつっていた。しかし、この水は火炎の助けをかりなくても赤く光っていた。それは血の池だったのだ。
テルマルクは近づいていって、横たわっている死体をひとつひとつしらべ始めた。しかし、みんな屍《むくろ》であった。
月が明るく照り、火炎も明るく照らしていた。
それはみんな兵士の死体だった。みんな裸足だった。靴もぬがせられ、武器もとりあげられていたが、青い軍服だけはまだ身につけていた。手足や首の山のあちこちに、三色の帽章《ぼうしょう》のついた穴だらけの帽子がころがっているのを見わけることができた。共和政府軍《あお》の兵士たちだった。きのうは、みんなまだ生きていて、エルブ=アン=パイユに駐屯《ちゅうとん》していたパリっ子たちだった。この兵士たちはみんな銃殺されたらしかった。死体が整然と並んでたおれているところを見ても、それがわかった。彼らは、その場で、念いりに銃殺されたのだ。すでにみんな死んでいた。死体の山からは、うめき声ひとつもれてこなかった。
テルマルクは死体をひとつ残らずしらべてみた。みんな、蜂の巣のように銃弾を受けていた。
この兵士たちを銃殺した連中は、きっとよそへいくために、とても急いでいたにちがいない。死体を埋める時間もなかったのだ。
テルマルクがその場から引きあげようとしたときだった。彼の目が中庭にある低い壁にとまった。その壁のすみから四本の足がつきでていたのだ。
四本の足は靴をはいていたが、兵士たちの足より小さかった。テルマルクは近よってみた。それは女の足だった。
二人の女が壁のうしろに肩を並べて横たわっていた。二人とも銃撃されていた。
テルマルクは二人の上にかがみこんだ。女のひとりは軍服みたいなものを着ていて、かたわらに、こわれた、からの水筒《すいとう》がころがっていた。従軍物売女《ヴィヴァンディエール》だった。彼女は頭に四発の銃弾を受けて、こときれていた。
テルマルクはもうひとりの女をしらべてみた。百姓の女だった。顔は青ざめて、口をあんぐりとあけていた。両眼はとじていた。頭には傷はひとつもなかった。きっと激しい戦いのためだろうが、服はすっかりぼろ切れ同然となっていた。それに、たおれる拍子に服がはだけて、胴体が半分むきだしになっていた。テルマルクは服をおしひろげた。片方の肩に銃弾を受けた丸い傷があり、鎖骨《さこつ》がくだけていた。彼は鉛色の乳房を見つめて、つぶやいた。
「あかん坊持ちの母親だな」
それから女の肌をさわってみた。女はまだつめたくなっていなかった。
女は鎖骨《さこつ》をくだかれ、片肩に傷を負っているだけで、ほかには傷を受けていなかった。
彼はさらに女の心臓の上に手をあててみた。すると、かすかに鼓動をうっているのが感じられた。女はまだ死んではいなかったのだ。
テルマルクは立ちあがると、おそろしい声をはりあげた。
「だれもおらんのか?」
「お、おまえさんか、≪乞食《ケマン》≫さん!」と、やっとききとれるくらいの小さな声が叫んだ。
そして、声といっしょに、廃虚の穴の中から頭が現われた。
つぎに、もうひとつ別の顔が、別のあばらやから現われた。
それは二人の百姓で、それまで隠れていたのだ。この二人だけが生き残ったのだった。
二人はよく知っている≪乞食《ケマン》≫の声に安心して、身をひそませていた穴からはいでてきたのだ。
二人はテルマルクに近よってきたが、まだ、がたがたとふるえていた。
テルマルクは叫ぶことこそできたが、まだ口をきくことはできなかった。あまり激しい衝撃を受けると、こうなるものである。
彼は二人の百姓に向かって、足もとに横たわっている女を指さした。
「この女はまだ生きとるのかや?」と、ひとりの百姓がたずねた。
テルマルクはうなずいて、そうだという合図をした。
「もうひとりのほうも生きておるのかや?」と、別の百姓がたずねた。
テルマルクが、そうじゃないと合図してみせた。
最初に現われた百姓がまた口をひらいた。
「ほかのやつらはみんな死んじまったんだろ? おれはみんな見てたよ。おれはうちの穴倉の中にかくれてた。家族を持ってねえことを、こんどくらい神さまにお礼を言ったことはねえな! おれのうちもやけちまった。ああ、イエスさま! みんな殺されちまったんでございますよ! この女にだって子どもがあった。それも三人もな。まだ小さいっていうのによ! 子どもたちゃ、『かあちゃん!』って泣いてたぞ。おふくろのほうも子どもたちの名を呼んでただよ。なのに、やつらは、おふくろのほうをぶっ殺して、子どもたちをつれてっちまったんだ。おれ、みんな見てただよ。ああ、神さま! ああ、なんてこったい! みんなをぶち殺したやつらは、もういっちまやがった。満足してやがった。子どもらだけつれていって、おふくろを殺しちまいやがったんだ。だがよ、この女はまだ死んじゃいねえんだろ、そうだろ? なあ、≪乞食《ケマン》≫さんや、この女は助かると思うかや? そうだ、おれたちも手をかして、おめえさんの≪|木の下べや《カルニショ》≫へ運んだらどうかいな?」
テルマルクはうなずいて、承知したという合図をしてみせた。
この小作地のとなりがもう森になっていた。彼らはたちまち、木の葉やしだで担架《たんか》を作ってしまった。それから、あいかわらず身動きもしない女を担架にのせると、やぶの中を歩きだした。ひとりの百姓が担架の頭のほうをかつぎ、もうひとりの百姓が足のほうを持った。テルマルクは女の腕をつかんで、脈搏《みゃくはく》をはかっていた。
歩きながら、二人の百姓は話しあっていた。そして、月の光に青白い顔を照らされている血にまみれた女の上で、おびえたような叫びをかわしあっていた。
「みんな殺しやがった!」
「みんなやいてしまやがった!」
「ああ! 神さま! これからも、きょうみてえな日がつづくんでございますか?」
「あんなことをさせよって計画したのは、あの背の高いじいさんだぜ」
「そうだ、そうだ、あのじじいが命令したんだ」
「銃殺がおこなわれてるときゃ、あいつのすがたは見かけなかったぜ。あそこにいたのかいな?」
「いや、もうでかけちまったあとだった。でもよ、そんなこたあ、同じこった。なにもかも、あいつの命令でやられたんだからな」
「それじゃ、なにもかも、あいつのしわざだったのか?」
「あいつは、『殺せ! やきはらえ! 敵を一兵たりとも助命するな!』って言ってたぜ」
「ありゃ、侯爵か?」
「そうさ。おれたちの侯爵さ」
「もとは、なんていう名前だったんだ?」
「ラントナックさまさ」
すると、テルマルクが目を空のほうに向けて、口の中でつぶやいた。
「おれがそれを知ってたらな!」
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第二部 パリ
第一編 シムールダン
一 そのころのパリの通り
パリの人びとは、みな大衆の中で生活していた。戸口の前にテーブルを持ち出して食事をしたし、女たちは教会の石段に腰をおろして、≪ラ・マルセーエズ≫〔≪マルセーユ義勇軍の歌≫一七九二年、フランス工兵隊士官、ルージュ・ド・リールが、義勇軍のために作詞作曲し、当時の愛国熱をかりたてた。現在のフランス国歌〕を歌いながら、麻の包帯を作っていた。モンソー公園、リュクサンブール公園は練兵場となっていたし、にぎやかな辻々にはかならず、大車輪で活動している武器工場があって、通行人の目の前で小銃を製造していた。それを見て通行人たちも拍手を送っていた。
人びとの口からきかれるのは、『なにごともがまんしろ。今は革命中なんだから』という言葉だけだった。人びとは英雄のように豪快に笑っていた。アテネ人がペロポネソス戦争中にやったように、パリっ子たちは芝居見物に出かけた。あちこちの町角には、≪ティヨンヴィルの包囲≫だの、≪ほのおの中から救いだされた母≫だの、≪サン=スーシ=クラブ≫だの、≪いちばん年上の女法王ジャンヌ≫だの、≪哲学者・兵士≫だの、≪村の恋愛技法≫だのといった外題《げだい》を書いた芝居のビラがはってあった。ドイツ軍がパリの城門まできており、プロシャ王がオペラ座の桟敷席《さじきせき》を予約したといううわさまで広まっていた。
すべてがおそろしいことばかりだったが、だれもおそろしいと思ってはいなかった。メルラン・ド・ドゥーエの悪法として知られている≪容疑者逮捕令≫が、断首台の刃《やいば》のように人々の頭上に無気味に光っているころだった。セランという検事は告訴されて、部屋着にスリッパというすがたで、窓ぎわでフリュートを吹きながら、逮捕されるのを待っていた、という具合だった。だれもかれもがせかせかと動き、みんないそがしそうだった。そして帽章をつけていない帽子はひとつもなかったし、それを女たちは『|赤い帽子《ボネ・ルージュ》をかぶるときれいに見えるでしょ』と言ったものだった。パリじゅうが引っ越し騒ぎを演じていた。こっとう屋の店先には、王家の遺物である王冠や、司教冠や、金色ぬりの木製の笏《しゃく》や、百合の花の紋章などが、ごたごたと積んであった。そういうものは、みんな、破壊された王政の遺骸といってよかった。古着屋の店先には、≪即売≫の法衣や司教の白衣がさらされていた。ポルシュロンやランポノーでは、司教の白衣や袈裟《けさ》をごてごて着こんだ男たちが、これまたミサをあげるとき司祭が着る法衣をまとわせたろばにまたがって、居酒屋へいき、教会の聖体器に酒をつがせて飲んでいた。サン=ジャック街では、裸足の舖装人夫《ほそうにんぷ》たちが、はきものを積んでいる行商人の手押し車をとめ、金をだしあって、十五足の靴を買い求め、祖国の兵士にとばかりに、それを国民公会へ送ったりした。
町には、フランクリン、ルソー、ブルータスの胸像はもちろん、マラの胸像までがあちこちに建てられていた。そういうマラの胸像のひとつがクロシュ=ペルス街にもあったが、その像の下にガラスを張った黒い木の額が置いてあり、中にはマルーエに対する告発文が証拠物件ともどもおさめられていた。そして、その告発文の余白には、
『これらのくわしい事実は、愛国者であるとともに、余に好意を寄せたシルヴァン・バイイの愛人の口よりもたらされたものである。マラ』
という二行の文句がしるされてあった。
パレ=ロワイヤル広場の噴水にきざんである銘、|Quantos effundit in usus!《クワントス・エフュンディト・イン・ユズス》〔「水がこんこんとしてあふれて万象をうるおす」といった意味〕という文字が、二枚の泥絵具画でぬりつぶされていた。この画の一枚のほうは、カイエ・ド・ジェルヴィルが国民議会でアルルの町の≪シフォニスト≫〔アルルの町における貴族の反革命秘密結社≪シフォン≫の党員〕たちの陰謀を告発した図柄だった。もう一枚には、ルイ十六世が王室用の馬車でヴァレンヌからつれもどされてくるようすが描いてあった。その馬車の下には、一枚の厚板がロープで車体にくくりつけられており、その板の両端には銃剣を持った二人の兵士がのって、国王を監視していた。大商店はほとんど店をひらいていなかった。女たちは玩具や小間物をのせた車を引いて売り歩いていた。夜になると車にロウソクがつくのだが、そのロウソクのロウがとけて、商品の上に流れた。
道ばたで露店をひらいているのは、以前は尼僧だった女たちで、みんな金髪《ブロンド》のかつらをつけていた。かり小屋を建てて、靴下をつくろっている女が、もと伯爵夫人だったり、服を仕立てているのが、もと侯爵夫人だったりした。ブーフレール伯爵夫人は、前に住んでいた館《やかた》の屋根が窓から見える屋根裏べやに住んでいた。
新聞売子たちが「新聞、新聞」と呼びかけながら走りまわっていた。ネクタイであごをそっくり隠しているようなきざな男たちは≪るいれき患者≫などと呼ばれた。流しの歌うたいたちが、あちこちに群れていた。群衆は王党派の歌うたいピトーをののしったが、この男はなかなか胆っ玉のふといやつで、二十二回も牢獄へぶちこまれたあげく、「愛国者なんかくそくらえ!」と、言いながら、自分の尻をたたいたというかどで革命裁判所へ引きだれてきた。しかし、この裁判で、自分の首が危いと見るや、大声で「罪があるのは、この首とは反対のほうについているおれの尻なんで」とやって裁判官を笑わせ、まんまと死刑をまぬがれた。
またピトーはラテン名やギリシア名を得々として使っている当時の流行をからかった。靴屋のことをうたった十八番の歌では、靴屋のことを Cujus〔「なんのたれそれ」くらいの意味〕、その女房のことを Cujusdam〔「なんのたれ子」くらいの意味〕などとラテンふうに呼んでいた。革命おどりがさかんにはやった。≪|とのさま《シュヴァリエ》≫とか≪|奥がたさま《ダーム》≫とかいう言いかたははやらなくなり、≪市民《シトワイヤン》≫だの≪女市民《シトワイエンヌ》≫だのと言われるようになっていた。
人びとは、くずれた修道院の中でもおどった。祭壇にカンテラをぶらさげ、十字に組んだ二本の棒の端にロウソクを四本ともして丸天井からつりさげ、墓の上でおどるのだった。専制君主ふうのジャケツなるものもはやった。白、青、赤の石で作ったシャツ・ピンを≪自由帽《ボネ・ド・ラ・リベルテ》≫にさしていた。リシュルー街は≪法律街≫と変わり、サン=タントワーヌの町は≪栄光《グロワール》の町≫と改称された。バスティーユ広場には≪自然の女神像≫がすえられた。名の知れた人間が通ると、人びとは指さしあってうわさした。その中には、シャトレ、ディディエ、ニコラ、ガルニエ=ドローネなどという人物もいた。みんな、ロベスピエールが住んでいた指物師デュプレの家の戸口を見張っている人物たちだった。また、まい日、死刑囚をいっぱいのせた車にくっついていき、断頭台での処刑を見物していたヴーランもいた。彼はこの日課を、『赤いミサにいくのだ』などと言っていた。人びとが指さす中には、モンフラベールなどというものもいたが、これはかつては侯爵、今日では革命裁判所陪審員という男で、≪八月十日の男≫というあだ名で呼ばれていた。
また士官候補生たちが町じゅうを行進するのをよく見かけた。国民公会の布告では、彼らは≪軍神《マルス》の侯補生≫と呼ばれていたが、民衆たちは≪ロベスピエールの小姓《こしょう》たち≫と呼んでいた。人びとは≪営利第一主義≫を罪とし、その被疑者《ひぎしゃ》たちを告発するフレロンの宣言文が公衆の面前で読みあげられた。≪いき≫な貴族たちは市庁舎の前に群がって、≪市民結婚≫をさんざんあざ笑い、花むこと花よめが通る道をふさいで、≪市民結婚夫婦≫などとからかった。廃兵院《はいへいいん》では、中に置いてある聖人像や国王像に≪自由帽≫がかぶせられた。辻標識《つじひょうしき》の上ではトランプがさかんにおこなわれていたが、このゲームですら革命の影響を強く受けて、≪キング≫は≪天才《ジェニ》≫に、≪クイーン≫は≪自由《リベルテ》の女神≫に、≪ジャック≫は≪平等《エガリテ》≫に、≪エース≫は≪法律《ロワ》≫に変えられていた。
公園はたがやされて畑となり、テュイルリー宮の庭にまでくわがいれられた。それから、こんなパリの風潮には、とくに革命の敗北者に多く見られたことだったが、一種言いあらわしがたい人生への尊大な倦怠感《けんたいかん》が見られるようになっていた。ある男は、こんなことをフーキエ=タンヴィルに手紙で書いてよこした。
『どうか、わたくしを人生から解放してください。わたくしの住所はつぎの通りです』と。
ジャンスネはパレ=ロワイヤルで、「トルコにはいつ革命かおこるのか? トルコ王国まで共和国に変わるのを見たいもんだな!」と大声をはりあげ、逮捕された。あっちでもこっちでも新聞が読まれた。床屋の使用人たちが女たちのかつらの毛をちぢらせているあいだ、そのそばでは主人が大声で『モニトゥール』紙を読んでいた。デュボワ=クランセ編集の新聞『アンタンドン=ヌー』紙や『トロンペット・デュ・ペール・ベルローズ』紙などを読みあげて、注釈をつけている男もいた。床屋の中には豚肉屋をかねているものもあって、頭を金髪《ブロンド》にゆった人形のそばに、ハムやソーセージがぶらさがっていたりした。あちこちの道ばたでは、≪亡命貴族製ブドウ酒≫を露店にならべている商人もいた。ある商人などは、≪五十二種類≫ものブドウ酒をどうどうとならべていた。また、竪琴《リール》型の置き時計や、ぜいたくなソファの古物を売っているものもいた。
また、ある床屋は、『ぼうさまのお顔もおそりします。貴族がたのご調髪《ちょうはつ》も、平民がたのご調髪も、それぞれ、うけたまわります』という看板をだしていた。今のアンジュー街、つまりもとのドーフィネ街一七三番地に、マルタンという占い師がいたが、そこへ運勢を見てもらおうと、おおぜいの人びとがおしかけた。当時は、パンも石炭も石鹸《せっけん》も不足していて、乳牛の群れが食料にされるためにいなかから送られてきて、町を歩いていた。ヴァレでは、仔牛《こうし》の肉が一|斤《きん》十五フランもしていたし、ひとりあたり十日に一回、一斤の肉を配給するという、コミューンの掲示がはりだされた。
民衆は商店の前で列をなしていたが、その列の中には、今でも語り草になっているほど長いものがあった。その列はプティ=カロー街のある食料品店の前に始まって、モントルグーイユ街のまんなかまで伸びていたという。当時、そういった列を作ることを『綱をにぎる』と呼ばれていた。それは、店先から長く張られてある綱に、客が到着順につかまって列を作っていたからだ。
こんなみじめなありさまの中で、女たちはなお勇気を失わず、やさしさをも失わなかった。彼女たちは幾晩も徹夜しながら自分の順番を待っていたのだ。この革命の時代にあっては、やりくりして暮らす生活方式が成果をおさめた。革命政府はこの事態に対して、アシニャ紙幣の発行と最高価格令という二つの非常手段でのぞみ、庶民の貧困をいくらか軽くすることができた。アシニャ紙幣がこの貧困軽減の≪てこ≫の役目をはたし、と同時に最高価格令が≪てこ≫台の用をなしたのだった。こんないんちき方策でも、フランスはなんとか危機を脱したのだった。共和国の敵は、コブレンツ〔ドイツの都市。革命当時ここにフランス亡命貴族が集まって、反革命ののろしをあげた〕も、ロンドンの敵も、このアシニャ紙幣を使って投機をやっていた。女たちはラヴェンダーの香水や、靴下どめや、兵士用のかざり髪などを売ったり、相場をはったりしながら、あちこちかけずりまわっていた。ヴィヴィエンヌ街のペロンには、泥だらけの靴をはき、あぶらじみた髪を乱し、キツネの尾のついた毛帽子をかぶった相場師たちがおおぜい住んでいるいっぽう、ヴァロア街では、いつもぴかぴか光らせた長靴をはき、つまようじをくわえ、ふかふかした毛の帽子をかぶった大山師たちが、通りの女から甘い声をかけられては、やにさがっていた。
しかし、当時、どろぼうどもは、王党派の連中から≪|活 動 的 市 民《シトワイヤン・アクティフ》≫〔一七九一年の憲法によって選挙権を取得した市民〕と呼ばれていたが、ちょうどどろぼうを追いはらうように、民衆はこういった相場師たちを追いはらっていた。そのころ、どろぼうの数は少なくなかったのだ。民衆はすさまじい耐乏生活をしいられていたが、社会にはどこか凛《りん》とした態度がみちみちていた。靴もはけない民衆や、腹をすかした連中が、黙然と目をふせて、パレ=エガリテの宝石屋の店先を通っていった。アントワーヌ地区の人びとがボーマルシェ〔フランスの劇作家で『フィガロの結婚』の作者〕の家を家宅捜索《かたくそうさく》したとき、ひとりの女が庭に咲いていた花を一輪うっかりつんでしまった。すると、それを見ていた民衆が女に平手うちをくわせた。木材は百二十八平方フィートが銀貨で四百フランもした。人びとが木のベッドを通りに持ちだして、それをのこぎりで引いているのが、よく見かけられた。冬になると井戸水が凍《こお》ってしまうので、手おけ二はいの水が二十スウもする始末だった。金貨一ルイは三千九百五十フランもの値うちがあった。また辻馬車に一回のると六百フランもとられた。一日辻馬車をやとってのった客と御者《ぎょしゃ》のあいだで、こんな会話がかわされたものだった。
「馬車屋、代はいくらだ?」
「へい、六千リーヴルいただきます」
ある女の八百屋は一日に二万フランからの売りあげをだした。また、ある乞食は、「どうか、お助けくださいまし。二百三十フランほどおめぐみくだせえまし。それで靴を買わしてやってくだせえまし」などと言って、めぐみをこうていた。あちこちの橋のたもとには、ダヴィッド〔ジャコバン党員の画家。政治にも活躍し、革命当時の事件、風俗を描いた。厳正なタッチの古典主義的絵画の創始者〕が彫刻して彩色した巨大な像が建てられたが、メルシエはこの像をののしって、『ばかでかい木偶《でく》の道化』と、言った。これらの巨像は、実は、共和国が連邦主義《フェデラリスム》〔ジロンド党がとなえた、地方分権の考えかた〕と諸国同盟軍とを撃破したところをあらわしていたのだ。
民衆のあいだには挫折感《ざせつかん》など少しもなかった。王政をくつがえしたという陰気なよろこびがみちていた。志願兵が祖国に生命《いのち》をささげようと殺到し、それぞれの町が一個大隊ずつ編成した。それぞれの地区が自分たちの旗を作り、その旗があちらこちらの町を通っていった。カピュサン地区の旗には『断固勝利』とそめぬいてあったし、また別の地区の旗には『貴族はいらず、ただわれらの胸に清廉《せいれん》のこころあるのみ』と書いてあった。町の壁という壁には掲示がはられたが、それは、白、黄、緑、赤と色とりどりで、大きいのもあれば小さいのもあり、印刷されたものもあれば手書きのものもある、という具合で、ありとあらゆる種類があった。とにかく、それらの掲示に書かれてあるのは、『共和国ばんざい!』という絶叫であった。小さな子どもたちまでが、幼稚《ようち》に、革命の歌≪サ・イラ≫をうたっていた。
これら小さな子どもたちこそ、未来を背負って立つものになるのだ。
その後、パリの町は悲劇の町から冷笑的《シニック》な町へと移り変わっていった。パリの町々は熱月《テルミドール》九日をさかいとして、やはり革命的だとはいうものの、前後まったくちがった様相を呈していったのだ。サン=ジュストが支配していたパリは、タリアンの町へ道をゆずった。シナイ山のすぐあとにクルティーユを出現させたというのは〔シナイ山は聖書中モーゼが十戒を与えた山で神聖の象徴、クルティーユは革命当時のパリの場末で、らんちきさわぎの巣だったところ〕、やはり神の変わらぬ仕業であった。
今や、パリの町は民衆の気ちがいじみた騒ぎのちまたと化していた。こういう光景は、八十年前にも一度見られたことだった。民政はちょっと息ぬきしたいという気持やみがたく、ルイ十四世の専制政治からにげだしたのと同様に、ロベスピエールの専制からもにげだしたのだ。摂政《せっしょう》時代に始まった十八世紀は、執政《しっせい》政府時代に終わったのであるが、この二つのものは同じ要素をふくんでいたのだ。二度の恐怖時代ののちに、二度のばか騒ぎの時代がおとずれたのだ。フランスは君主制の道場の手をふり切ったときと同じような民衆のよろこびに浮かされながら、清教徒じみたロベスピエールの道場からもにげだしたのだった。
熱月《テルミドール》九日以来、パリは陽気な町になったが、それは錯乱《さくらん》した陽気さであり、不健康なよろこびが町々をひたしていた。死に対するつきつめた気持が生への執着に変わり、そして偉大な革命の尊厳が徐々に影をひそめていくのだった。グリモ・ド・ラ・レニエールなどの、トルマルキオー風の食通〔トルマルキオーはローマの詩人ペトロニウスの小説『サテュリコン』にでてくる美食家〕が現われ、『美食年鑑』なるものも出現した。パレ・ロワイヤルの中二階では、女性のオーケストラの演奏をききながら食事していた。≪リゴドン踊りの熱狂者たち≫がのさばっていた。人びとは料理店メオで、いいかおりをはなっている香炉《こうろ》にかこまれて、≪東洋風≫の夕食をたべていた。ボーズという画家は、自分の純潔かれんな年ごろの娘たちをモデルにして、≪断頭台のおとめたち≫という絵を描いたが、その娘たちにはえり首がでるような服と赤いシュミーズを着せ、肌もあらわな、なまなましい感じをださせて制作したものだ。
前にものべたような、くずれはてた教会でのらんちき踊りはもうやまり、リュグジェリ、リュケ、ウァンゼル、モーデュイ、モンタンシエといった人々の邸内《ていない》でもよおされる舞踏会がはやりだした。祖国の兵士たちの麻の包帯を作っていたまじめな女市民はすがたをひそめて、トルコの女王のようにぬりたくった女たちや、鉄火女たちや、妖精のような美女たちが、はばをきかして歩くようになった。血と泥とほこりにまみれていた兵隊の裸足ももう見られなくなり、ダイヤモンドをちりばめた女の素足が大手をふって歩いていた。こうして、はれんちな風俗の流行とともに、ほうぼうで悪が横行し始めた。上は御用商人から、下はけちな≪|こそどろ連中《プティット・ペーグル》≫にいたるまで、町じゅうにのさばっていた。またパリの町にはスリがあふれ、人びとは自分の≪現なまいれ≫つまり財布からいっときも目がはなせなかった。
人びとの気ばらしは、裁判所の広場のさらし台にさらされている女どろぼうを見にいくことだった。しかし、看守のほうでは、その囚人のスカートをしばっておかなければならない始末だった。芝居小屋がはねるころになると、浮浪児たちが二輪馬車をすすめながら、こう叫んでいた。
「市民《シトワイヤン》のかたに女市民《シトワイエンヌ》のかた、さあ、お二人で相乗りはいかが?」
新聞の『ヴィユ・コルドリエ』紙や『|民衆の友《アミ・デュ・プープル》』紙を売る売り子のすがたは見られなくなり、『ラ・レトル・ド・ポリシネル』紙や『ラ・ペティション・デ・ガロパン』紙などが売られていた。あのサド侯爵の勢力がピック地区、つまりヴァンドーム広場を支配していた。こういう反動的な時代風潮は陽気で野蛮なものだった。一七九二年に≪|自由の龍騎兵《ドラゴン・ド・ラ・リベルテ》≫となっていたものが、≪|短 刀 の 騎 士《シュヴァリエ・デュ・ポワニヤール》≫という名前で再生していた。同時に、ジョクリスという型の道化があちこちの寄席《よせ》に新しく登場した。≪|だて女《メルヴェイユーズ》≫なる女人種がいるかと思うと、それ以上の≪|はねっかえり女《アンコンスヴァブル》≫というのも現われた。こういう反動的な連中は、R音を発音しない気どった言葉で、けんかをしたり、隠語をあやつったりするのだった。人びとはミラボー〔大革命の初期に活躍した雄弁家。王権を保ちつつ民権をのばそうとはかった〕から道化師ボベッシュの精神に逆戻りしたのだ。パリはこのように一進一退する。それは文明の巨大な振り子といったところだ。この振り子はかわるがわる二つの極にふれるのだ。ときにはテルモピレー〔第二ペルシア戦役で、スパルタ王レオニダスがペルシア軍を迎えて戦死した山〕に、ときにはゴモラ〔旧約聖書にでてくる同性愛の町。神のいかりにふれて焼きはらわれた〕にふれるのだ。
一七九二年以後、革命は奇妙な月蝕《げっしょく》のようなものの影になってしまった。この世紀はみずから始めた仕事をなしとげるのを忘れてしまったように見えた。とつぜん、得体《えたい》の知れぬらんちき騒ぎがはいりこんできて、舞台の前面に現われ、おそろしい≪黙示録≫を背面へ押しのけてしまい、恐怖のあとにかまびすしい笑いがはじけとんだ。とんでもない≪啓示≫が出現したのだ。革命という悲劇が消えて茶番《ちゃばん》がはばをきかせ、地平線のかなたから立ちのぼる狂宴《きょうえん》の煙が、メデューサ〔ギリシア神話にでてくる、見るものを石にかえたという蛇の髪をもった怪女神〕のすがたを包みかくしてしまったのだ。
だが、今のべているこの一七九三年には、パリにはなお、あの革命|勃発《ぼっぱつ》当時の荘厳《そうごん》で荒っぽい雰囲気が残っていた。町々の雄弁家たちもおおぜい活躍していた。中にヴァレルという人物がいたが、彼は車のついた小屋をあちこちに移動させてまわり、その屋根の上から通行人たちに演説した。ほうぼうの町には、それぞれ英雄がいたが、中のひとりは、みずから≪鉄棒隊長≫と称していた。また、町はそれぞれ、時局論文『ルージフ』の著者ギュフロワのようなアイドルをかかえていた。これらの人物たちの中には、世に害をあたえたものもいたが、たいていのものは健全な活動をしていた。こうした人物たちの中に、ひときわ清廉《せいれん》で宿命的な運命をになっている男がひとりいた。シムールダンという男だった。
二 シムールダン
シムールダンは清廉《せいれん》で純粋な人だったが、その気質は沈みがちで暗かった。しかも、その性質は一徹《いってつ》だった。彼はもと僧侶だったが、これは重大な点である。空と同じように、人間も暗い静寂《せいじゃく》につつまれることがある。なにごとかが人間の心を暗くしてしまえばそれで充分なのだ。そして、聖職がシムールダンの心の中を暗くしたのだった。一度僧侶になってしまったものは、いつまでも僧侶じみているものなのだ。
われわれの心の中を暗くするものも、ときには、星を残しておくことがある。シムールダンは徳と誠実の心にみたされていたが、その徳と誠実の心は暗黒の中にかがやく星だった。彼の経歴を話すことはかんたんだ。もと村の司祭で、ある大家の家庭教師をつとめていた。それから、ちょっとした遺産が手にはいったので、自由に暮らすようになった。
とにかく彼は一徹ものだった。彼はまるでくぎぬきでも使うような調子で瞑想《めいそう》にふけった。なにか結論にたどりつくまでは、瞑想をやめる権利はないと信じこんでいたのだ。彼はもう無我夢中になって瞑想にふけった。彼はヨーロッパじゅうの言語を知っている上に、それ以外の国々の言葉も少しはかじっていた。いっときも休むまもなく勉強し、このことが彼に純な心をたもたせる助けとなっていた。しかし、このように自分をおさえつけてしまうことほど危険なことはないのである。
僧侶時代には、彼は誇りや偶然や高邁《こうまい》な気持のおかげで、神に対する誓いをかたく守ることができた。しかし、いつまでもその信仰心を保ちつづけることはできなかった。学問がその信仰をくずしてしまったのだ。教理も彼の心から消えうせてしまった。そこで、彼は自分自身をよく見つめてみた。すると自分が手足の満足でない不具者同然だと思えてきた。といっても聖職からぬけだすことはできなかった。それで彼は自分をひとりの人間に作りなおそうとつとめた。それをするさいの彼の態度は峻厳《しゅんげん》をきわめた。もともと家庭は持てないことになっていたので、彼は祖国と縁組みした。妻をめとることもゆるされなかったので、人類を妻とすることにした。そして、この一見たいへん豊かな生活は、実のところ、きわめて空虚なものだったのだ。
彼の両親は百姓で、彼を僧侶にしたのも、そうして彼を平民からぬけださせたいと思ったからだった。ところが、彼はまた平民の中に戻ってきてしまったのだ。
彼は熱情をこめて民衆の中に戻ってきた。そして、おそるべきやさしさをこめて苦しむ民衆をじっと観察していた。彼は僧侶から哲学者になり、さらに哲学者から闘士になった。まだルイ十五世が在世しているころに、すでにシムールダンは自分は共和主義者だと漠然と感じていた。しかし、彼の描く共和国とはどんなものだったろう? きっとプラトンが考えたような共和国だったのだろう。それとも、ドラコン〔前七世紀のアテネの法律家で、共和政とデモクラシーの立法をなした〕が考えた共和国だったのかも知れない。
愛することを禁じられていた彼は、憎悪し始めた。虚偽《きょぎ》を、君主制を、神政政治を、そして自分が着ている僧服をにくんだ。≪現在≫をにくんで≪未来≫に大声で呼びかけた。≪未来≫を予感し、すでに少しは≪未来≫を思い浮かべていた。≪未来≫はおそろしいものであるとともにすばらしいものだとも見ぬいていた。たえがたいほどみじめな人間の結末を迎えるために、なにか一個の復讐者のようなものが現われてきて、それが人間を解放するものになるだろうと考えていた。そうした一大破局がおこることを、彼ははるか前から待望していたのだ。
この一大破局はついに一七八九年におこったが、そのときには、彼はすでに心の準備ができていた。シムールダンは、この人間を一新する大事件の中へ、論理的な考え方をもってとびこんだのだ。ということは、つまり、彼のような性質の男であれば、きびしい考えかたでとびこんだことになる。論理というものはもともと、ものごとに感動しないものなのだ。
彼は偉大な革命の幾年かを生きぬき、革命のあらゆる息吹《いぶ》きのおののきを経験した。つまり、一七八九年のバスティーユの陥落と民衆の苦しみの終局を、一七九〇年六月十九日の封建制度の没落《ぼつらく》を、一七九一年のヴァレンヌにおける王権の失墜《しっつい》〔ルイ十六世は国外逃亡を計画し、パリ東方二百キロのヴァレンヌという町でとらえられ、パリへ送りかえされた。この事件で国民の国王への信頼は失われた〕を、さらに一七九二年の共和国の樹立を経験したのである。
彼は革命が持ちあがるのを見たが、この革命という巨人をおそれるような男ではなかった。それどころか、このすべてのものを成長させる革命は彼にも生命をあたえたのだ。そして、すでにほとんど老人といってよいくらいだったし……彼は五十歳だった……僧侶はふつうの人間よりも早くふけるものだったが、彼はまたも若がえり、成長し始めた。年々、諸事件が大きく成長していくのをながめながら、彼自身もそれらの事件と同じように成長していったのだ。それまでは、革命がとちゅうで流産するのではないかと心配だったが、よくよくながめていると、革命をおこした連中の主張する理由も権利も正しかったので、彼は革命をぜひ成功させるべきだと考えるようになった。そして、革命が恐怖をあたえればあたえるほど、彼はますます安心するのだった。彼は、未来の星をいただいた女神ミネルヴァが軍神パラスに早変わりして、蛇《へび》の仮面を楯《たて》として持てばよいと思った。またこの女神の目が必要なときには悪魔どもをおそろしい光で射すくめ、悪魔の恐怖をはねかえして逆におそれさせてやればよいと願っていた。
こうして、一七九三年という年がやってきた。
一七九三年は、ヨーロッパ全体がフランスに戦いをいどんだ年であり、フランス全土がパリに敵対した年でもあった。それにしても、いったい革命とはどんなものだろう? それはつまり、ヨーロッパに対するフランスの勝利、フランス全土に対するパリの勝利であった。それでこそ、この一七九三年というおそるべき一瞬が、この世紀の残り全体よりも、いっそう広大であると言えるのである。
これほど悲劇的なことはなかった。全ヨーロッパがフランスを攻撃し、フランス全土がパリを攻撃したのだ。まさに英雄叙事詩の規模を持つドラマだった。
一七九三年はきびしい年である。嵐は怒りくるい、絶大なる力をふりまわしている。しかし、その中で、シムールダンはほっと安心していた。狂いたち、あらあらしく、しかも壮大な周囲の空気は、彼の活動力にはまさにふさわしいものだった。この男は、海のあらわしと同じように、心の中には深い静けさをひめ、そとには危険に対する好みを持っていた。獰猛《どうもう》で、しかも沈着なある種の鳥は、大風とたたかうように生まれついている。嵐を魂としている人間だって、この世に存在しているものなのだ。
ところが、彼はみじめな人びとに対してだけはあわれみの気持をいだいていた。そのために、おそれおののかせるような苦しみを前にしても、彼は平気で身をささげた。どんなこともきらわなかった。いみきらうものにこそ、彼は好意をよせた。彼の人助けは、ともすれば、見ているものをぞっとさせるようなこともあれば、こうごうしい思いに胸をうたせることもあった。彼は潰瘍《かいよう》をおこしている病人をさがしては、そのはれものを吸ってやった。見た目に醜悪な善行は実行するのがいちばんむずかしいものであるが、彼はこのんで、そういう善行をおこなったのだ。
ある日、市立病院で、ひとりの男がのどにできたはれもののために窒息《ちっそく》して死にかけていた。悪臭のあるおそろしい膿瘍《のうよう》で、おそらくは伝染性のものらしかったが、すぐにも膿《うみ》を吸ってやらなければならなかった。ちょうどその場にいたシムールダンは、自分の口をそのはれものにあててうみを吸い、口がうみでいっぱいになると、それを吐きだした。そして、とうとう膿を全部吸いだしてしまって、男の生命《いのち》を救った。このころは、彼はまだ僧服を着ていたので、ある人が彼にこう言った。
「こんなことを国王にしてあげたら、あなたは司教にしてもらえるでしょう」
すると、シムールダンは、こう答えた。「国王にこんなことをするのはいやですね」と。
この行為と彼の返答のしかたのおかげで、彼はいっぺんにパリの貧民街の人気者になってしまった。その人気たるやすばらしく、おかげで彼は苦しんでいる人びと、泣いている人びと、それに他人を脅迫している悪人たちまでも、自分の思いのままにすることができた。あの独占商人たちに対して民衆の怒りが爆発したとき、その怒りが軽蔑《けいべつ》を買うような種類のものだったので、サン=ニコラ港碇泊中の石鹸を積んだ船を民衆が強奪《ごうだつ》しようとするのを、一言のもとに措止《そし》したのも、シムールダンだった。また、サン=ラザール監獄の入口で荷車をとめて掠奪《りゃくだつ》をはたらいている狂いたった民衆を追いちらしたのもシムールダンだった。
一七九二年八月十日の二日後、民衆をつれていって国王たちの銅像をうちたおしたのも彼だった。銅像は倒れるときに、たくさんの人びとを殺した。ヴァンドーム広場では、レーヌ・ヴィオレという女がルイ十四世の銅像の首に綱をつけてひっぱっていて、それにおしつぶされて死んだ。このルイ十四世の銅像は建てられてからちょうど百年、そこにたっていた。建てられたのが一六九二年八月十二日、ひっくり返されたのが一七九二年八月十二日だったからだ。
コンコルド広場では、ガンゲルロという男が、国王たちの銅像を破壊したものたちを「ごろつき!」とののしり、あげくにルイ十五世の銅像の台石の上でなぐり殺された。銅像そのものもこなごなにされてしまった。そして、のちほど、このときの銅像の破片で一スウ銅貨《どうか》が作られた。しかし、銅像の片腕だけは銅貨にされなかった。この片腕は、ルイ十五世がローマ皇帝のような身ぶりでさしのべていた右腕のほうだった。民衆の中から代表がえらばれて、もう三十七年間もバスティーユにとじこめられているラテュードという男に、この右の片腕をとどけたのも、実はシムールダンの命令によるものだった。あのラテュード、それまでパリを支配するように建っていたこの銅像の主である国王ルイ十五世の命令で投獄され、以来、首かせをつけられ、腹にはくさりをまかれて、あの牢獄の奥ふかくで生きながらくさっていたラテュードに対して、いったいだれが、こう予言することができただろう?「やがてこの牢獄は陥落《かんらく》し、あの銅像もひっくりかえされるだろう。そして、おまえはこの墓場からそとに出て、いれかわりに君主制がこの牢獄にとじこめられるだろう。今、囚人であるおまえが、自分の身柄収容書にサインしたこの青銅の片腕を支配し、あのはずべき国王には、ただこの青銅の右腕しか残らないだろう」、と。
シムールダンは内心にひとつの声を持ち、その声のいうことをきくというたちの人間のひとりだった。こういうタイプの人間は、ときにぼんやりしているように見えるが、その実、非常に注意深いものである。
シムールダンはなんでも知っていると同時に、なんにも知らなかった。すべての学問にくわしかったが、生活のこととなると無知だった。そこから彼のきびしさが生まれていた。彼はホメロスが描いたテミス〔ギリシアの正義の女神。公正を期するため目かくしをしていたという〕のように目かくしされていたのだ。まるで標的しか見ないで、それにまっしぐらに向かう矢のように、盲目的な自信を持っていた。革命にさいしては、こういう一徹な性格ほどおそろしいものはない。シムールダンはひたすら前だけを向いて、宿命的といってよい歩みをつづけていたのだ。
シムールダンは、新しい社会の創生記においては、なにごとも徹底的にするのが堅実な道だ、と信じていた。こういう考えは、理性に論理がいれかわっている人びとに特有のあやまりである。彼の考えかたは国民公会の考えかたをしのぎ、コミューンの考えかたをしのいで過激だった。彼は司教館《エヴェシェ》党の党員だったのだ。
古びた司教館《エヴェシェ》の客間で会合していたので、こう呼ばれていたが、この一派はひとつの団体というよりも、いろいろな人間がより集まっている複雑な集合体だった。コミューン同様、この集会にも、静かではあるが含むところのありそうな傍聴人たちが列席していた。ガラに言わせると、この傍聴人たちは『ポケットと同じ数のピストル』を身につけて列席していた。
司教館《エヴェシェ》党は変わった混合体だった。世界主義者《コスモポリット》とパリっ子とがごちゃまぜに同居していた。しかし、この両者がたがいに相いれないということはなかった。もともと、パリという町は、いろいろな人間の心臓がいっしょに鼓動しているところだったからだ。この集会には、激しい庶民の熱情が燃えていた。
この司教館《エヴェシェ》党とくらべると、国民公会はひややかで、コミューンだってなまぬるかった。司教館《エヴェシェ》党はまるで火山の生成にも似て、革命が作りあげたもののひとつだった。司教館《エヴェシェ》党はあらゆるものをそなえていた。無知も、愚鈍も、誠実も、英雄主義も、怒りも、党綱領《とうこうりょう》も持っていた。プロシャの将軍ブラウンシュヴァイク公はスパイを使って、この集会のことをさぐらせていた。この党には、スパルタ人にもまけないくらい、ぐれた人物もいれば、刑務所へいったほうがいいような人物もいた。だが、たいていは情熱を持ち、誠実な人たちだった。一時的だったが国民公会の議長をつとめたことのあるイスナールの口をかりて、ジロンド党がつぎのようなおそろしい言葉をはいたことがある。すなわち、
『用心しろ、パリ市民たちよ。さもないと、諸君の町は一石たりともあまさず破壊されてしまうだろう。そして、後世、人びとはどこにパリがあったかとさがしまわることだろう』と。
この言葉に刺激されて司教館《エヴェシェ》党が作られたのだった。いろいろな人びとが、そして、たった今のべたようにあらゆる国ぐにの人びとが、パリの町のまわりでかたく手をにぎりあう必要を感じた。そして、こうして結束したグループに、シムールダンは近づいたのだった。
このグループは反動派に抵抗して戦った。もともとこのグループは、革命のおそるべきなぞめいた側面、つまり、あの公然と暴力をふるわねばならない必要から生まれたものであった。この暴力で強化されると、司教館《エヴェシェ》党はすぐさまいろいろな事件にくわわった。あのなんどでもおこったパリの大騒動のときに、大砲を撃《う》ったのはコミューンだったが、警鐘をならしたのは司教館《エヴェシェ》党だったのだ。
シムールダンはこうと決めたら動じない性質を持っていたから、真理のために使うならどんなことも公正になると信じていた。それで、彼は過激な諸党派をあやつるには最適の人物になった。やくざたちでも彼を誠実だと思って満足していた。もともと、罪というものは徳に指図されるのをこのむものである。徳は罪をこまらせはするが、いっぽうではよろこばせもする。バスティーユを破壊されたときそこの石を売ってもうけ、またルイ十六世の独房を胡粉《ごふん》でぬるよう命ぜられると、熱中したあまりに、格子やくさりや首かせまで壁にぬりこめてしまった建築家のパロワ、城外町サン=タントワーヌのいかがわしい演説家で、のちほどわいろをとっていたことがばれたゴンション、ラ=ファイエットから金をもらい、七月十七日にラ=ファイエットその人をピストルで撃つという芝居をしたといわれているアメリカ人のフールニエ、ビセートル村の監獄からでてきて、その前は下男、香具師《やし》、どろぼう、スパイなどをやっていたが、結局は将軍となって国民公会に大砲をおみまいしたアンリオ、もとシャルトルの大助任司祭で、『聖務日課』を読むのをやめてエーベル派の新聞『ペール・デュシェーヌ』紙を読むようになったラ・レイニ、こういう人物たちは、みんな、シムールダンを尊敬していたのだ。そして、ときによって、これらの連中の中のいちばん悪いやつに魔がさすようなことがあっても、そうさせまいとするには、ただシムールダンの自信にみちて、おそろしく無邪気なすがたがその男の前に立って、悪事をしようとする手をとめるだけで充分だった。
これと同じようにして、サン=ジュストはあのシュネーデルをおそれさせたのだ。と同時に、とくに善良な貧乏人や過激な連中で構成されていた司教館《エヴェシェ》党員たちは、たいていシムールダンを信用し、彼の命令に従っていた。彼はいわば自分の助祭、もしくは参謀といえる男をひとり使っていた。この男はやはり共和派《あお》の僧侶でダンジューという名前だったが、背が高いので民衆から愛され、≪六尺坊主≫と呼ばれていた。もしシムールダンが最大限の力をだしていたとすれば、≪|槍 将 軍《ジェネラル・ラ・ピック》≫と呼ばれていたあの大胆不敗な頭目も、あるいは≪大ニコラ≫と呼ばれていた勇敢なトリュションも、きっと思うように動かしていたにちがいない。トリュションとは、ランバル夫人を助けようとし、彼女に腕をかして、死体をまたがせようとした男だ。このとき、床屋のシャルロが残忍な悪ふざけをしなかったなら、この夫人救出は成功していただろう。
コミューンは国民公会を監視していた。そしてこのコミューンをさらに司教館《エヴェシェ》党が監視していた。一本気なたちで、策略のきらいなシムールダンは、ブールノンヴィルが≪腹黒い男≫と呼んでいたパッシュの手中にあった秘密めいた陰謀の糸を、なんどもたち切った。司教館《エヴェシェ》党では、シムールダンはすべての党員と同等の態度で接していた。ドプサンやモモロの相談相手になってやった。彼はギュスマンとはスペイン語で、ピヨとはイタリヤ語で、アーサーとは英語で、ペレイラとはフランドル語で、そして、オーストリアのある公爵の私生児プロリーとはドイツ語で話した。これらいろいろな種族の集まりである党の中に、たがいに和合しあう雰囲気を作りあげていた。そんなことから、彼は目立たないけれども強力な地位をきずいた。そこで、あのエベールにおそれられるようになった。
当時、シムールダンは、これら悲壮なグループのあいだに、厳然たる力をふるっていた。彼は実際に完全無欠な人物であったが、自分でも、ぜったいにまちがいのない人間だと信じていた。だれも彼が涙を流すのを見たことはなかった。凍るようにつめたく、とうてい近づきがたい徳のかたまりだった。彼はおそるべき正義の人だったのだ。
革命にとびこむ僧侶には、なみの環境などはない。僧侶というものは、もっとも下卑な動機か、もっとも崇高《すうこう》な動機か、そのいずれかを持たぬかぎり、目の前でおこっているこうしたおどろくべき冒険には身を投じられないものなのだ。そのためには破廉恥《はれんち》な男であるか、崇高な心の持ち主であるか、どちらかでなければならぬ。シムールダンは崇高な心の持ち主ではあったが、その崇高さは孤立とけわしさと、鉛色のような無愛想な態度に隠されていた。まわりを絶壁でとりかこまれた崇高さだった。高い山々というものは、ときにこうしたおそるべき純潔をひめているものなのだ。
見たところシムールダンはごくふつうの人間のようだった。ありあわせの服を着こんで、しみったれたようすをしていた。若いころに髪をおろしたのだが、年をとると、それがはげてしまった。わずかに残っている頭髪には白いものがまじり始めていた。ひたいは広く、よく観察すると、そのひたいの上に≪あざ≫がひとつくっついていた。しゃべりかたは、せかせかと、情熱的で、おごそかだった。声はぶっきらぼうで、アクセントは断固としていた。口もとは悲しく、苦しげだった。目は明るくて深かった。そして顔全体には、一種言いあらわしがたい憤激の色をただよわせていた。
これがシムールダンという人物だった。
今日では、彼の名を知るものはいない。歴史の中には、こうしたおそるべき無名の人物がおおぜい存在しているのである。
三 アキレスの弱点
このような人間でも一個の人間といえただろうか? それに、人類につかえるものが愛情など持てるだろうか? 彼はやさしい心を持つ人間になるには、あまりに精神的な人間ではないだろうか? すべてのものとすべての人を受けいれる巨大な包容力を、彼はあるひとりの人間のために使うことができるだろうか? つまりシムールダンはふつうの人間のように愛することができるのだろうか? これに対しては、わたくしは、そうだ、と答えよう。
若くして、ほとんど王族《プランス》といってよいくらいの、ある大家の家庭教師をしていたころ、彼は教え子である、その家のあととりむすこを愛したのだった。子どもを愛することはたやすいことだ。子どもをゆるせないなんていうことがあるだろうか? 領主だろうと、王族《プランス》だろうと、国王だろうと、子どもだったら、どんなことでもゆるしてしまうものだ。無邪気なおさなごは、その一族の罪を忘れさせるし、おさなごのよわよわしさは、その子の家のぎょうぎょうしい地位をも忘れさせてしまう。あまりに小さいので、ご大家《たいけ》の子どもでもゆるしてやれる。奴隷《どれい》は子どもが主人となっても平気な顔をしていて、黒人の老人などは白人の子どもを溺愛《できあい》することがある。
シムールダンも教え子を熱愛した。子どもというものは一種言いようのないくらいふしぎなもので、その中に愛情を一滴あまさずそそぎこめるようになっているのだ。シムールダンの内心にかくされていたあらゆる愛情がこの教え子の上に雨のようにふりそそいだといってもよいだろう。このやさしく無邪気な子どもは、孤独の中にとじこもるよう宣告されていたシムールダンにとって、一種の餌食《えじき》のようなものになったのだ。
彼はみずから教え子の父となり、兄となり、友人となり、さらに≪創造主≫となって、この子に愛のすべてをそそぎこんだのだ。教え子は彼のむすこだった。肉をわけたむすこではなく、精神をわけたむすこだった。彼は子どもの父ではなかった。僧侶である彼が子どもをもうけるわけはないのだ。しかし、彼は子どもの教師であり、そしてその子どもは彼が作った傑作だった。彼はこの小さな領主のむすこから一個の人間を作りあげたのだ。そして、その子どもは、今ごろは、きっと偉大な男になっていることだろう。なっていないと言えるものがあるだろうか? 偉大な人物を作ることが、彼の夢だったからだ。その子の家族が知らぬまに……でも、知性と意志力と誠実な心を持つ人間を創造するのに、だれのゆるしがいるだろうか?……彼はその若い子爵である子に、自分が持っている進歩思想をすべてそそぎこんだ。とともに、自分の徳のおそるべき病菌をも感染させてしまった。自分の信念と良心と理想をすべて、この教え子の血管の中に注入してしまった。つまり、このおさない貴族の脳の中に、民衆の魂を流しこんだのだ。
精神は哺乳《ほにゅう》の役をする。知性も乳房となる。乳をあたえる乳母と思想をあたえる教師とは似ているところがある。ときに、教師のほうが実の父親よりも父親らしいことがある。ちょうど、乳母のほうが実の母親より母親らしいことがあるように。
この深い精神的な父性愛が、シムールダンをその教え子に結びつけていた。その子どもをちらっと見るだけで、彼はもう感動させられてしまうのだった。
さらに一言しておきたいのは、その子はすでに父親をなくしていたので、彼がその父になりかわることはたやすかった、ということだ。その子は孤児だった。父も母もなくなっていた。彼を後見するものといっては、目の見えない祖母と、いつも不在の大伯父がいるだけだった。まもなく、その祖母も死んでしまった。家長である大伯父のほうは、軍人で、大貴族で、官廷づとめをしていたので、一族の古い天守閣をでて、ヴェルサイユで暮らしたり、いくさにいったりして、この孤児を孤独な城の中にひとりぼっちにしておいた。だから、家庭教師は、あらゆる意味において、その子の教師だったのだ。
もうひとつ言っておかなければならないことがある。シムールダンは、その教え子だった子どもが生まれたときから知っていた。まだほんのあかんぼうのじぶんに孤児となったその教え子は、あるとき重病にかかってしまった。シムールダンは夜も昼もぶっとおしで、この瀕死《ひんし》の子どもを看病した。病人の治療をするのは医者だが、その生命を助けるのは看護人なのだ。そして、シムールダンはその子の生命《いのち》を救った。つまり、その子は彼から精神の教育と知の教育と学問をさずけられただけでなく、病気をなおしてもらい、健康なからだを作ってもらったのだ。その教え子は先生から思想を伝えられたばかりか、生きる力までさずけられたのだ。からだのすみずみまで世話してやったものは、目にいれてもいたくないものだ。シムールダンはその子を溺愛《できあい》した。
しかし、やがて、この世のつねで、二人のあいだに別離がおとずれた。教育が終わると、シムールダンはりっぱな若者になったその教え子と別れなければならなかった。こういう別離というものは、なんとつめたく、そっけなく、残酷になされるものだろう! そして、ご大家の連中というのは、自分の教え子の中に思想を残していく教師を、母の愛情を残していく乳母を、なんという冷静な態度で解雇《かいこ》するものだろう! 給金を払ってもらって、この城のそとにでたシムールダンは、上流社会から下層階級へもどった。上流の人びととしがない人びとのあいだのとびらは、またも閉ざされてしまったのだ。名門の生まれのゆえに、すぐ士官に任官することがきまっていた若い子爵は、たちまち陸軍大尉となって、どこかの守備隊に配属されていってしまった。そして、身分のひくい家庭教師のほうは、このときすでに、心の底で僧侶という職に不満を持つようになっていたが、下級僧たちと呼ばれている、宗教会の暗い地下室へおりていった。以来、シムールダンは教え子に一度も会ったことはなかった。
やがて革命がおこった。しかし、手ずから一個の人間に作りあげてやったあの教え子の思い出は、依然として彼の胸の中で生きつづけていた。いろいろめんどうな公務に追われていたために、その思い出はいちじ隠れたりすることはあっても、決して消えることはなかった。
ひとつの彫像を|肉づけ《モドレ》して、それに生命《いのち》をあたえるということは、すばらしい仕事である。だが一個の知的な人物を肉づけして、それに真理をあたえるということは、もっとすばらしい仕事である。まさにシムールダンは一個の魂のピュグマリヨン〔自作の女人像に恋をした古代の彫刻家〕だったのだ。
精神も子どもを持つことができるのだ。
その教え子、その子ども、その孤児こそ、シムールダンがこの世で愛した唯一の人間だった。
それにしても、このシムールダンほどの人間が、自分の愛に溺れるあまり、つい欠点をだしてしまうということがあるだろうか? それは、読者にも、これからおわかりいただけるだろう。
[#改ページ]
第二編 パン街の酒場
一 地獄の裁判官
そのころパン街に一軒の酒場があった。ふだん、キャフェと呼ばれていた。このキャフェには、今では歴史的になっている奥の部屋がひとつついていた。当時、大有力者であるがゆえに厳重に監視されていて、公衆の中でみだりに口をきくことさえためらわなければならないような人物たちが、ときどき、人目をしのぶようにして会合したのは、この奥の部屋だった。
一七九二年十月二十三日、政変がおこって、山岳党《モンターニュ》とジロンド党のあいだにあの有名な和解ができたのも、この奥の部屋だった。また、これはその『回想録』にはしるしてないことだが、ガラがクラヴィエールをボーヌ街の安全なところに隠してから、ロワイヤル橋で車をとめて警鐘を聞いたあの悲しむべき夜に、情報をききにやってきたのも、この奥の部屋だった。
さて、一七九三年六月二十八日、三人の男がこの奥の部屋の中でテーブルをかこんでいた。三人はたがいにいすをはなしてすわっていた。三人はそれぞれ四角いテーブルの一辺にすわっていたから、つまり残りの一辺があいていたわけである。夜の八時ごろだった。その通りはまだ明るかったが、この奥の部屋の中は暗くなっていて、そのころではまだぜいたく品だったケンケ・ランプが天井からぶらさがって、テーブルの上をてらしていた。
三人の男の中のひとりは、顔の青白い、若い男で、重々しい態度をしていた。くちびるはうすくて、目はつめたく光っていた。ほおが神経症でけいれんし、そのためうまく笑えないようだった。頭髪に化粧粉をふりかけ、手ぶくろをはめ、服はていねいにブラシをかけてきちんとボタンをはめていた。その明るいブルーの服にはしわひとつよっていなかった。それから南京《なんきん》木綿の|短ズボン《キュロット》をはき、白い靴下、上等のネクタイ、ひだのよった胸飾り、銀のとめ金のついた短靴を身につけていた。
ほかの二人の男のうち、片方は巨人みたいに大きく、もう一方は小人のように小さかった。大きいほうは、だぶだぶの深紅のラシャの服をだらしなく着ていた。首をはだけ、ネクタイもほどけて、胸飾りの下までたれさがっていた。ボタンがちぎれているチョッキも前があいていた。上方を折り返した長靴をはき、頭髪はあちこちくしをいれてなでつけたあとはあるものの、全体にさか立って、かつらには、うまのたてがみのような剛毛《こわげ》がくっついていた。顔には天然痘《てんねんとう》のあとがあり、眉間《みけん》には怒ったようなしわが走っているが、口のはしには、人のよさそうなしわが浮かんでいた。くちびるは厚く、歯は大きく、拳《こぶし》は沖仲仕《おきなかし》の拳みたいで、目は光っていた。
小さいほうは、顔が黄色くて、腰をおろしているところは不具者のように見えた。頭をうしろにのけぞらせ、目は血走り、顔にはあちこちに鉛色のしみがつき、あぶらじみて頭にはりついている頭髪をハンカチで結んでいた。ひたいというものはなくて、口は大きくておそろしげだった。足もとまでとどくズボンとゆるい短靴をはき、もとはまっ白だったらしい繻子《しゅす》のチョッキを着て、このチョッキの上からラシャのジャンパーをはおっていた。このジャンパーのひだのあいだから、一本の直線がまっすぐにつきだしていて、それで短刀をかくしていることがわかった。
最初の男はロベスピエール、二ばんめの男はダントン、三ばんめの男はマラだった。
奥の部屋にいたのは、この三人だけだった。ダントンの前には、あのルターが使ったみたいなビール用の大コップと、ほこりをかぶったブドウ酒のびんがおいてあり、マラの前にはコーヒー茶碗、そしてロベスピエールの前には書類が置いてあった。
その書類のかたわらには、まるくて縞《しま》のはいっている、重い鉛《なまり》製のインク・スタンドが置いてあった。これは十九世紀はじめに学校へかよったものなら、見おぼえのある品だろう。インク・スタンドのわきには、鵞《が》ペンが一本ほうりだしてあった。書類の上には、大きな銅製の封印がのっていたが、それには≪パロワこれをきざむ≫という銘《めい》がほってあった。この封印はバスティーユ監獄を正確に模写したミニチュアだった。
テーブルのまんなかには、フランスの地図がひろげてあった。
部屋のドアのそとには、マラの用心棒である、ローラン・バースという男が立っていた。この男は、コルドリエ街十八番地に住む仲買人だったが、この日、つまり六月二十八日から二週間のちの七月十三日に、あのシャルロット・コルデエ〔入浴中のマラを刺殺した若い女性〕という女性の頭を、いすでなぐりつけた男だった。もちろん、このころ、コルデエはまだカンにいて、ただ漠然とマラを殺そうと思っていただけだった。このころ、ローラン・バースは『|民衆の友《アミ・デュ・プープル》』紙の校正はこびをしていた。その夜は、主人のマラにつれられて、このパン街のキャフェにきて、マラとダントンとロベスピエールがいる奥の部屋をぴったりとしめて、公安委員会とコミューンと司教館《エヴェシェ》党の各党以外は、なにびとといえども入室をゆるさないよう、厳命されていた。
しかし、ロベスピエールはサン=ジュストだけ、ダントンはパシュだけ、マラはギュスマンだけ、部屋に入れたいと思っていた。
会議は、もうかなり前からつづけられていた。この会議はテーブルの上にひろげてある書類の内容について相談していたもので、今、ロベスピエールがその書類を朗読し終わったところだった。三人の声が高くなりだした。怒りのようなものが三人の男のあいだでざわめいていた。そとできいていても、ときどき言葉が爆発するようにひびいてきた。ちょうど傍聴するという習慣がはびこった時代だったから、ぬすみぎきする権利が確立していたようなものだった。
書記のファブリシュス・パリスが、公安委員会が会議しているところを、錠前の穴からのぞいたのも、このころのことだったのだ。それに、余談ではあるが、こういうのぞき見はむだではなかった。なぜならば、一七九四年三月三十日の夜から三十一日にかけてのこと〔この両日にかけて、ダントン一派は逮捕された〕を、いちはやくダントンに知らせたのも、このパリスだったからだ。ローラン・バースも、ダントンとマラとロベスピエールがいる奥の部屋のドアに、耳をぴったり押しつけていた。ローラン・バースはマラの配下であったが、同時に司教館《エヴェシェ》党党員でもあったのだ。
二 大声が影をつらぬき、とどろいて証言する
ダントンが立ちあがったところだった。いすをはげしくうしろに引いていた。
「ききたまえ」と、彼は叫んだ。「緊急事態はただひとつ、共和国が危機にひんしているということだ。おれにわかっていることはただひとつ、フランスを敵の手から解放するということだけだ。そのためには、おれは手段をえらばない。どんな手段にでもうったえる! どんな手段でも、どんな手段でもだ! あらゆる危機にとりつかれたら、おれはありとあらゆる手段をつかってみるつもりだ。また、あらゆることが心配になったら、あらゆるものに挑戦するつもりだ。おれの頭の中にはライオンが住んでいる。生半可なやり方ではだめだ。革命に臆病は禁物なのだ。ネメシス〔復讐をつかさどる女神〕は淑女《しゅくじょ》づらした女じゃないんだ。敵をおびやかす男に、そして役に立つ男になろう。だいたい、象に自分の踏みつけたところがわかるか? さあ、敵を踏みつぶしてやろうじゃないか」
ロベスピエールがおだやかに答えた。
「賛成だ」
そして、こうつけくわえた。「問題は敵がどこにいるかを知ることだ」
「敵は国のそとにいる。おれが追いだしてやった」と、ダントンが答えた。
「いや、敵は国内にいるんだ。彼らはぼくが監視している」と、ロベスピエールが言った。
「では、そいつらも、おれが追いだしてやろう」と、ダントンがもう一度言った。
「しかし、国内にいる敵を追いだすことはできない」
「では、どうする?」
「みな殺しにするのさ」
「よかろう」と、こんどはダントンが賛成した。
そして、なおも、しゃべりつづけた。
「いや、そうじゃない。敵は国外にいると言っとるんだぞ、ロベスピエール」
「ダントン、敵は国内にいると、さっき言ったはずだよ」
「ロベスピエール、敵は国境にいるのだ」
「そうじゃない、ダントン。ヴァンデ地方にいるのだ」
「ふたりとも静かにしろよ」と、三人めの男が言った。「敵はそこらじゅうにいるのだ。そして、君たちはすっかりあわてちまってる」
口をひらいたのはマラだった。
ロベスピエールはじっとマラを見つめていたが、やがて静かに口をきった。
「漠然とした議論はやめよう。ほくが事態をはっきりさせよう。それはこうだ」
「学者ぶりやがって!」と、マラがつぶやいた。
ロベスピエールが目の前にひろげてある書類に片手を置いて、話しつづけた。
「ぼくはさっき、プリウール・ド・ラ・マルヌからきた至急便を読んできかせたろう。それから、あのジェランブルからきた情報もつたえた。ねえ、ダントン、外国との戦争なんか問題じゃないよ。内戦こそ唯一の大事なのだ。外国との戦争なんか、ちょっと肘《ひじ》にすり傷を負うくらいのものだが、内乱のほうは、肝臓《かんぞう》までむさぼりくう潰瘍《かいよう》だ。さっき君たちに読んでやったことを要約してやろう。すなわち、今まで幾人もの指揮官にひきいられて分散していたヴァンデ軍が、今、ひとつに統合されようとしているのだ。これからは唯一の総大将のもとにひとつになろうとしているのだ……」
「なに、山賊の親分さ」と、ダントンがつぶやいた。
「その総大将というのは、六月二日にポントルソンの近くに上陸した男だ」と、ロベスピエールがつづけた。「その男のことは、さっき話して、ご承知の通りだ。そこで、この男の上陸した日が、二人の共和政府派遣議員、プリウール・ド・ラ・コート=ドールとロムとが、カルヴァドス地方の反乱地区バイユー市で逮捕された日と、同じ日であることに注意したまえ」
「そりゃ、連中がカンの城に移駐した日だぞ」と、ダントンが言った。
ロベスピエールが話しつづけた。
「さらに至急便を要約してみよう。まず、森林戦が大きなスケールで組織されつつある。同時に、イギリス軍の上陸も用意されている。ヴァンデの住民とイギリス人とは、もともと同じブルターニュ人種だからね。そればかりか、ブルターニュ半島のどん百姓どもは、コーンウォール〔イングランド南西部の地方〕の野蛮人たちと同じ言葉を使うんだ。さっき、君たちにもピュイゼからとりあげた手紙を見せたが、その中にも、『反乱軍に二万着の赤服を支給していただければ、十万人を蜂起《ほうき》させられるでしょう』と書いてあるのだ。百姓どもがみんな反乱をおこしたら、イギリス軍も上陸してくる。そこで、ここにぼくの作戦がある。地図で説明しよう」
ロベスピエールは地図を指でさしながら、話しつづけた。
「イギリス軍はカンカルとパンポルのあいだを上陸地点にえらぶ。指揮官がクレイグなら、サン=ブリユ湾をえらぶだろう。コーンウォリスなら、サン=カスト湾をえらぶだろう。しかし、そんなことはちっぽけなことだ。ロワール河左岸はヴァンデ反乱軍で守られているし、アンスニとポントルソンの中間にひろがる二十八里の平原地帯では、ノルマンディ地方四十教区が反乱軍に合流すると約束している。プレラン、イフィニヤック、プレヌゥフ、この三地点に上陸してくるだろう。プレランに上陸した敵はサン=ブリエへ向かい、プレヌゥフに上陸した軍はランバルに向かってくるだろう。そして、上陸二日めにして、ディナンが攻略されるだろう。ここには九百のイギリス兵が捕虜《ほりょ》になっているのだ。と同時に、サン=ジュアンとサン=メアンも占領されるだろう。イギリス軍はそこに騎兵隊を残しておくだろう。そして三日めには、イギリス軍は二部隊にわかれ、一隊はジュアンからベデに向かい、もう一隊はディナンからベシュレルに向かうだろう。ベシュレルは自然の要塞《ようさい》だ。このベシュレルには、砲台を二つ作るだろう。さらに四日めには、イギリス軍はレンヌに到着する。レンヌはブルターニュの肝心かなめの要衝《ようしょう》だ。レンヌを手にするものがブルターニュを支配するのだ。そこでレンヌが占領されると、シャトーヌフとサン=マロが陥落する。レンヌには百万発の砲弾と五十門野砲があるのだ……」
「やつらは、なにもかもひっさらっていくにちがいない」と、ダントンが言った。
ロベスピエールが話をつづけた。
「では結論を言おう。イギリス軍はレンヌから、三部隊にわかれて、おしよせてくるだろう。一隊はフージュールを、一隊はヴィトレを、一隊はルドンをねらうだろう。その間の道路にかかっている橋は全部おとしてあるから、敵は船橋と厚板とを用意し、騎兵隊が徒歩で渡ることのできる地点にくわしいガイドも集めるだろう。このことは、さっきくわしく話したことからも、君たちにもよくわかっているだろう。それから、敵はフージェールからはアヴランシュへ、ルドンからはアンスニへ、ヴィトレからはラヴァルへというふうに、放射状に侵入してくるだろう。そうすると、ナントも陥落するだろう。ブレストも敵の手に落ちるだろう。ルドンが陥落すれば、ヴィレーヌ河流域にあるすべての地方へいたる道をひらくだろうし、フージェールが陥落すれば、ノルマンディ全地域に通じる道をひらくことになるだろう。それから、ヴィトレが陥落すると、パリに通じる道もひらかれることになる。そして十五日たつと、三十万人の山賊軍が各地にみちみちて、ブルターニュ全土はフランス王の手に返るだろう」
「つまり、イギリス王の手にはいるってわけだな」と、ダントンが言った。
「いや。フランス王の手にもどるってことだ」
それからロベスピエールはさらにこうつけくわえた。
「フランス王のほうがずっと悪いさ。外国人を追いはらうには二週間必要だが、君主制の息の根をとめるには千八百年必要だ」
ダントンはすでに腰かけて、テーブルに肘《ひじ》をつき、両手で頭をかかえて、なにか思いにふけっていた。
「危険が近いことは、君にだって、わかるだろう」と、ロベスピエールが言った。「ヴィトレが陥落すれば、パリへ通じる道はイギリス軍のものになる」
ダントンはひたいをあげると、ふるえる大きな両手でまるで鉄床でもなぐりつけるように地図をたたきつけた。
「ロベスピエール、ヴェルダンが陥落したとき、パリへ通じる道はプロシャ軍の手におちなかったのか?」
「それがどうした?」
「それでだ、あのときプロシャ軍を追いはらったように、こんどもイギリス軍を追いはらっちまうんだ」
こう言うと、またダントンは立ちあがった。すると、ロベスピエールがつめたい手を、ダントンの熱っぽい拳《こぶし》の上に重ねて、こう言った。
「だがね、ダントン、あのとき、シャンパーニュ地方の住民はプロシャ軍の味方をしなかった。ところが、こんどは、ブルターニュ地方の住民はイギリス軍の味方なのだ。ヴェルダンを奪回することは、つまり外国人と戦うことだったが、こんどヴィトレを奪い返そうと思えば、内乱を引きおこさなけりゃならん」
そして、ロベスピエールは、ひややかだが、腹の底からでるような声で、こうつぶやいた。
「こりゃ、とんでもないちがいだよ」
彼はさらに言った。
「腰をおろせよ、ダントン。そして、地図をなぐったりなんかしないで、よくよく見てみろよ」
しかし、ダントンはもう自分の考えに夢中だった。
「いいかげんにしろ!」と、彼は叫んだ。「破局は東からやってくるというのに、なんだって西のほうを見るのだ。ロベスピエール、イギリスが大洋の中にそびえ立っているという君の意見には賛成する。しかし、スペインはピレネ山脈の向こうで、イタリヤはアルプスの向こうで、ドイツはライン河のかなたで、やっぱり同じようにそびえ立っているんだ。その上、ロシヤという大きな熊《くま》が、その背後にひかえているのだ。ロベスピエール、危険はまるい円を作り、われわれはその中にとじこめられているのだ。そとには諸国連合軍がおり、内には反逆者がいる。南方では、セルヴァンがスペイン王のためにフランスの門戸をこっそりひらいているし、北方では、デュムーリエが敵に通じている。さらに、あの男は今までも、いつもオランダをおびやかさないでパリを脅迫してきたんだ。ネールヴィンデンで敗けたおかげで、ジェマップ、ヴァルミの勝利も帳消しになってしまっている。哲学者ラボー・サン=テティエンヌは、新教徒にふさわしい裏切者だが、佞臣《ねいしん》モンテスキューと通謀している。わが軍は多大の死者をだしている。もう四百人以上の兵力を持つ大隊はひとつもない。ドゥ=ポンの剛勇連隊も、もう百五十人になってしまった。パマールの陣地も敵に奪われ、ジヴェには五百袋の小麦粉しかない。わが軍はランダウから退却し、ブルムゼル〔オーストリアの将軍〕はクレベールを圧迫している。マイエンスでは善戦むなしく落ち、マンデは臆病風にふかれて降服だ。ヴァランシエンヌまたしかりだ。
しかし、ヴァランシエンヌを守ったシャンセルとコンデを守備した老フェローは、マイエンス守備のムーニエと同じく英雄だ。だが、その他の連中は、みんな裏切りおった。ダルヴィルはアーヘンで裏切り、ムートンはブリュッセルで裏切り、ヴァランスはブレダで裏切り、ヌゥイイはリンブルホで裏切り、ミランダはマーストリヒトで裏切った。スタンジェル、ラヌー、リゴニエ、ムヌー、ディヨン、こいつらもみんな裏切者だ。デュムーリエの下卑《げび》た金に買収されたのだ。こいつらの証拠を見せてやらなければならん。
おれはキュスティーヌの背進行動はあやしいと思う。キュスティーヌは作戦上有利なコブレンツ占領よりも、ふところがあたたかくなるフランクフルト占領のほうをえらんだのではないかと思う。フランクフルトを占領すれば、四百万フランの戦費も徴集できるからな。まあ、しぼるなら、それもいいさ。しかし、戦費徴集なんか、亡命貴族の巣を踏みつぶすことにくらべたら、ケチなことじゃないか? だからこそ、裏切りだとおれは言うのだ。
ムーニエは六月十三日に死んでしまった。もうクレベールしか残っておらん。ぼさっとしておると、ブラウンシュヴァイクが軍を増強して進撃してくるぞ。あいつは自分が占領したフランスの土地に、かならずドイツ国旗をかかげている。きょうびにゃ、ブランデンブルグ侯爵が全ヨーロッパの審判者になっておる。あの男は、フランスのあちこちの地方をポケットに押しこんでいる。そのうちに、ベルギーも自分のものにしちまう。まるでわれわれはベルリンのために働いているといわれとる。もし、われわれがいつまでも手をこまねいていて、こんな事態がつづくようだと、フランス革命はポツダム宮をもうけさせるためにおこしたんだ、なんてことになっちまうぞ。フランス革命の唯一の副産物は、フリードリヒ二世の小国を拡張するなんていうことになりかねん。おれたちゃ、プロシャ王のためにフランス王を殺したってことになっちまうぞ」
こう言うと、ダントンはおそろしい大声をはりあげた。
ダントンが笑うのを見て、マラがにやっと笑った。
「君たちはそれぞれ、得意の持論を持っているんだな。ダントン、君の持論はプロシャだ。そしてロベスピエールはヴァンデだ。それでは、おれの持論もはっきりさせとこう。君たちには、ほんとうの危険がわかっちゃいない。ほんとうの危険はだ、キャフェと賭博場の中にひそんでいる。キャフェ・ド・ショワズールはジャコバン党のものだし、キャフェ・パタンは王党派のものだ。キャフェ・デュ・ランデヴーのお客は国民軍を攻撃している。キャフェ・ド・ラ・ポルト・サン=マルタンのお客は国民軍の味方だ。キャフェ・ド・ラ・レジャンスの連中がブリソ一派に反対するかと思うと、キャフェ・コラザの連中はブリソ派に加担している。キャフェ・プロコプがディドロ派なのに対し、キャフェ・デュ・テアトル=フランセはヴォルテール派ときている。ロトンドではアシニャ紙幣を破ってしまうが、キャフェ・サン=マルソーではこの紙幣を見ると目の色をかえる。キャフェ・マヌーリでは小麦粉問題についてぎゃあぎゃあ騒いでいるが、キャフェ・ド・フォワでは、どんちゃん騒ぎをやって、くらういっぽうだ。そしてペロンでは、相場師たちが騒いでいる。こういうところにこそ、ほんとうの危険がひそんでいるんだ」
ダントンはもう笑っていなかった。マラはあいかわらず笑っていた。小人の笑いは巨人の笑いよりうす気味が悪い。
「マラ、君はおれをからかうのか?」と、ダントンがどなった。
すると、マラが腰をびくびくっとふるわせた。これは当時の人びとのあいだでは有名な動作だった。しかし、マラはもう笑ってはいなかった。
「ああ! また君はくせをだしたな、ダントン。国民公会の議場のどまんなかで、おれを『マラという野郎』なんて呼んだのは、たしか君だったな。ま、そんなことはゆるしてやろう! こういう時代だ、だれだってばかなことをやらかすのさ。しかし、おれが君をからかっているってのは、どういうことなんだ? いったい、おれがどんな男だと思っているんだ? おれはシャゾーを告発した。ペティヨンも告発した。ケルサンも、モルトンも、デュフリシュ・ヴァラゼも、リゴニエも、ムヌーも、バンヌヴィルも、ジャンソネも、ビロンも、リドンも、シャンボンも、みんな告発してやった。それで、おれがへまをやったかね? おれにゃ、裏切者の裏切りがすぐかぎつけられる。罪を実際におかす前に罪人どもを告発するほうが有効だと、おれは思っているんだ。おれはいつも、罪はその日の夜のうちに告発しちまう。君たちは、あくる日になってから、やっと騒ぎだす。おれは刑法の草案を議会へ提出した男だぞ。そのおれは、現在までに、いったいなにをやってきたか? おれは各地区を訓練して革命を指導させるようにしろと要求した。あの三十二個の紙箱の封印を破らせた。ロランの手中にあずけられているダイヤモンドをとり返せと要求した。ブリソ一派が保安委員会に白紙の逮捕状をあたえたことも証明してみせた。カペの罪状を書いたランデの報告書のずさんなことも指摘した。あの専制君主の二十四時間以内処刑にも賛成投票した。モーコンセイユ大隊や共和大隊を擁護《ようご》してやった。ナルボンヌ、マルーエの手紙の朗読を禁止した。負傷兵取扱案の動議もだした。六人委員会を廃止した。おれはすでに、モンス事件にデュムーリエの裏切りがあることを予感していた。亡命貴族の血縁者を十万人|人質《ひとじち》にして、敵の手中に落ちた人民委員たちの保全をはかれ、と要求した。パリのそとにでようとする議員たちはみな裏切者とみなすという提案もした。マルセーユの動乱でロラン派が動いたことをすっぱぬいた。あの平等家《エガリテ》のむすこの首に賞金をかけろと主張した。ブーショットを弁護してやった。イスナールを議席から追いはらってやろうと、指名点呼をとることを要求した。パリの市民たちは祖国にはじない行動をとったと宣言してやった。こういうことをしたからこそ、おれはルーヴェからあやつり人形呼ばわりされ、フィニステール地方はおれを追放しろと要求したし、ルーダン市はおれの市外|放逐《ほうちく》を、アミアン市はおれの沈黙を要求したのだ。さらに、コーブルクはおれを逮捕しろと要求し、ルコワント=ピュイラヴォーは、おれが気ちがいであると布告しろと国民公会に提案した。
どうだね、これは! え、市民《シトワイヤン》ダントン、おれの意見をきくのでなければ、なぜ、このおれをこの秘密会議にこさせたんだ? おれが自分からここへ来たいなんて言ったかい? じょうだんじゃないぞ。おれはロベスピエールや君みたいな反革命の連中とさし向かいで話したかないんだぞ。それに、はじめから、どうせ君にはわかりっこないと、腹をすえてかかるべきだったんだ。この点、君だってロベスピエールだって、いずれおとらぬわからずやなんだ。第一、この部屋には、ほんとうの政治家はおらんだろう? だから、君たちに政治のセの字から教えてやらなければならないんだ。政治のなんたるかを、手とり足とり教えてやらなきゃならないんだ。それで、今までおれがしゃべってきたことはだ、君たちは二人ともまちがっているということなんだ。危険はロベスピエールが信じているようにロンドンにあるのでもないし、ダントンが信じているようにベルリンにあるのでもない。そいつはこのパリにあるんだ。つまりだ、統一の欠如のなかにひそんでいるんだ。君ら二人をはじめとして、だれもかれも自分の都合だけめちゃくちゃに主張して、肝心の精神のほうは、ほこりまみれだ。意志の無政府状態の中に落ちこんでいるんだ……」
「無政府状態だと!」と、ダントンがマラの言葉をさえぎった。「それを作ったのは君じゃないか?」
しかし、マラは口をとざさなかった。
「ロベスピエール、ダントン、危険はあっちこちのキャフェ、賭博《とばく》場、クラブの中にひそんでいるんだぞ。ノワール・クラブ、フェデレ・クラブ、ダム・クラブ、それから、クレルモン=トネールに創立されて一七九〇年ころは王党派のものだったクラブ、あの坊主のクロード・フォーシェが考えだした社交クラブのアンパルショー・クラブ、それから新聞記者のプリュドムの手で創立されたボネ・ド・レーヌ・クラブ、その他もろもろのクラブの中にこそ、危険がひそんでいるんだ。ロベスピエールのジャコバン・クラブ、ダントンのコルドリエ・クラブは、言うまでもないだろう。
それから、危険は飢餓《きが》の中にもひそんでいる。かつぎ人足のブランは、飢餓のために、パリュ市場のパン屋フランソワ・ドニを市庁前の街灯につるしてしまった。こういう飢餓の中にも危険はひそんでいるのだ。それから、かつぎ人足ブランを、パン屋ドニをつるしたかどで絞首刑《こうしゅけい》にした裁判の中にも、危険はひそんでいる。そればかりか、危険は暴落している紙幣の中にもひそんでいる。いつかタンプル街に、百フランのアシニャ紙幣が一枚落ちていた。そいつを見た通行人が『ひろう手間賃にもならない』と言ったそうだ。
相場師や買占商人たちの中にも、危険はひそんでいる。市庁舎に黒旗をあげるなんてのは、とんでもないおなぐさみだ! 君たちは、トレンク伯爵を逮捕したが、それだけじゃ充分じゃないよ。あんなおいぼれ陰謀家は首をへしおってやればいい。国民公会の議長が、ジェマップの戦闘で四十一カ所ものサーベルの傷を受けたラベルテッシュに、公民冠をかぶせたというので、あるいは、シェニエがラベルテッシュの功績を宣伝しているというので、もう大丈夫だと、君たちは信じこんでいるんだろう。だが、あんなことは、いんちきくさい芝居にすぎんのだ。
ああ! 君たちは、このパリをよくよく見てはいないのだ! まったく! 君たちは遠くのほうばかり見て危険をさがしている! ロベスピエール、君の警察力はなんの役に立っているんだ? 君は、配下のスパイとして、コミューンにはパイヤンを、革命裁判所にはコフィナールを、保安委員会にはダヴィッドを、公安委員会にはクートンを潜入させているんだろ。こんなことをおれがみんな知っていることも、君たちによくわかったろう。いいか、はっきり知るべきは、危険が君たちの頭上にあるということ、足もとにもあるということ、あっちでもこっちでも陰謀がはりめぐらされているということだ。通行人たちは道路の上で新聞をちらちら読みながら、首で合図をしあっている。もどってきた亡命貴族、粋《いき》をきかしているつもりの青年貴族、骨ぬきの革命家、といった市民証を持っていない六千人ばかりの連中が、パレ=ロワイヤルの穴倉や、穀物倉や、木造の秘密べやにかくれている。パン屋の前には列ができている。善良な主婦連は、門口で両手をこすりあわせて、『いつになったら平和になるんだろう?』と言っている。君たちは、行政委員会のホールのドアをしめきって、秘密会議をやってるつもりだろうが、むだなことだ。君たちがしゃべることは、みんな、世間で知っているんだ。証拠をだしてやろうか、ロベスピエール。ゆうべ、君がサン=ジュストに言った言葉ってのは、こうだ。
『バルバルーは腹がつきだしてきたな。逃げるとき、じゃまになるだろうな』
そうだ、危険はいたるところにひそんでいるんだ。とくにパリの中央部にひそんでいる。パリではもとの貴族どもが陰謀をたくらんでいる。愛国者たちは素足《すあし》でいるっていうのに、三月九日に逮捕された貴族たちは、もう釈放されている。国境で大砲をひっぱっているはずだった上等の馬が、道の上で、われわれに泥をはねかけているんだ。パン四|斤《きん》で三フランと十二スウもするし、芝居小屋には、いやらしい芝居がかかっている。ぐずぐずしていると、ロベスピエールがダントンを断頭台にかけちまうぞ」
「まったくだ」と、ダントンが言った。
ロベスピエールは地図を注意深くながめていた。
「いま必要なものは独裁者なんだ」と、ふいにマラが叫んだ。「ロベスピエール、君も、おれが独裁者を待望していることを知っているだろう」
ロベスピエールが頭をあげた。
「ああ、知っているよ、マラ。その独裁者には、君かぼくかがなるべきだよ」
「うむ、おれか君かだ」と、マラが答えた。
ダントンが口の中でもぐもぐと言った。
「独裁者か、へん、やってみるがいい!」
ダントンがひたいにしわをよせているのを、マラは気づいた。
「とにかくだ」と、マラがまたしゃべりだした。「最後の努力をしよう。三人で協力しようじゃないか。まわりの情況はそうしろと言っている。あの五月三十一日〔パリ民衆がジロンド党に対し不満を爆発させ、山岳党がクー・デタをおこした日〕のときだって、われわれは、一致協力したじゃないか? 全体の問題はジロンド党一個の問題よりもずっと重大なのだ。ジロンド党の問題など、ちっぽけなものさ。もちろん、君たちが議論していることにも真理がある。しかし、ほんとうの真理、真理の中の真理は、おれの言うことの中にあるのだぞ。南方には連邦主義《フェデラリスム》があり、西方には王党派がいる。そして、パリでは、国民公会とコミューンがいがみあっている。国境の前線ではキュスティーヌが退却し、デュムーリエが裏切っている。いったい、これはどういうことなのか? 言うまでもなくフランスの分裂を意味しているのだ。では、われわれに必要なのはなにか? それは統一なのだ。そして統一の中にこそ救いがあるのだ。しかし、ぐずぐずしてはいられない。パリが革命を支配することが必要なのだ。ただの一時間でもむだにしたら、あすはヴァンデ軍がオルレアンへ攻めてくるだろうし、プロシャ軍だってパリに攻めてくるだろう。ダントン、ロベスピエール、この点では、君たちの言いぶんに賛成だ。そうだ、君たちの言うことに従うよ。
さて、結論を言おう。独裁政治が必要だ。独裁政治をしいて、われわれ三人が革命の代表者になろうじゃないか。われわれ三人がケルベロス〔ギリシア神話にでてくる地獄の門番をつとめる怪獣。三つの頭を持っている〕の三つの頭になろう。この三つの頭のうち、よくしゃべる頭は、きみだ、ロベスピエール。よくほえる頭は、ダントン、きみだぞ……」
「それから、よくかみつくやつは、きみだぞ、マラ」と、ダントンが言った。
「いや、三つともかみつくのさ」と、ロベスピエールが言った。
しばらく沈黙が流れた。それから、また、腹に一物ある攻撃的な会話が始まった。
「なあ、マラ、団結する前に、たがいに知りあっておくことが必要だ。きのう、ぼくがサン=ジュストにしゃべったことを、どうして知っているのかね?」
「それは、君には関係ないことだ」
「マラ!」
「自分でことをはっきりさせておくのが、おれの義務でな、情報を手にいれるのは、おれの仕事だ」
「マラ!」
「ロベスピエール、おれは、君がサン=ジュストになんて言ったか知っていると同時に、ダントンがラクロワになんて言ったかも知っているんだ。同じように、テアタン河岸にあるラブリフの館《やかた》でおこったことだって知っているんだ。あの館は亡命貴族たちが集まる隠れ家《が》なんだ。それから、ゴネスの近くにあるティルの家でどんなことがおこっているかも知っている。あの家は、もと通信省長官だったヴァルムランジュの家だが、前にはモーリスやカザレスがよくいったものだ。それからシェイエスとかヴェルニヨーといった連中がいくようになった。近ごろでは、ある男が週に一回ずつ、ではいりしている」
この≪ある男≫という言葉を口にしながら、マラはダントンの顔をじっと見つめた。
するとダントンが大声をはりあげた。
「おれがほんの少しでも権限を持っていたら、おまえを痛いめにあわせてやるのに」
しかし、マラは平気な顔でしゃべりつづけた。
「ロベスピエール、おれば君がサン=ジュストになにをしゃべったか知っているが、タンプルの塔で、ルイ十六世がたらふくたべさせられていたことも知っているんだ。九月という時節がら、あの雄おおかみと雌おおかみと子おおかみたちは、八十六かごもの桃《もも》をくっちまったんだ。ところが、あのころ、民衆は飢えていたのだぞ。おれの知っていることはまだまだある。ロランがラ・アルプ街のある裏庭に面した家に隠されていたことも知っていれば、七月十四日のバスティーユ攻略のさいに使った六百本の槍が、オルレアン公の鍛冶屋《かじや》フォールのところで作られたことも知っている。シユリの愛人のサン=ティレールの家でおこなわれていることも知っている。あの老シユリは、舞踏会をひらく日になると、ヌーヴ=デ=マテュラン街にある黄色い客間の床を石灰でみがくのだ。ビュゾやケルサンはこの家へいって晩飯をくっていた。きのう二十七日には、サラダンがこの家で食事した。なあ、ロベスピエール、そのとき彼はだれといっしょだったと思う?君の友人のラスールスだったのだ」
「べらべらとよくしゃべるな」と、ロベスピエールがつぶやいた。「ラスールスはぼくの友人じゃない」
それから、考えこむような調子で、こう言いそえた。
「ロンドンにはね、アシニャ紙幣の偽造《ぎぞう》工場が十八カ所もある」
マラが静かな口調で話しつづけた。しかし、その声は軽くふるえていた。相手をおびえさせる声だった。
「君たちは≪もったいぶり党≫なんだ。そうだ、おれにはなにもかもわかっているんだ。サン=ジュストはそういう君たちのなんでも秘密にしたがるやり方を、≪国家の沈黙≫って呼んでるが……」
マラはこの≪国家の沈黙≫という言葉に強いアクセントをつけて、ロベスピエールの顔をじっと見つめたが、さらに話しつづけた。
「おれは、あのルバがフィアンセのエリザベート・デュプレの料理をたべにくるよう、ダヴィッドを君の家に招待したとき、食事をしながらみんながどんな話をしたか、知っているんだ、ロベスピエール。もしエリザベート・デュプレが結婚すれば、彼女は君の義妹になる。おれは巨大な民衆の目なのだ。そして自分の穴倉からながめているんだ。そうだぞ、おれにはなんでも見える。なんでもきこえるんだ。なんでも知っているんだ。君たちはちっぽけなことで満足している。自分のすがたを見て悦《えつ》にいっている。ロベスピエール、君は、ダミアン処刑の晩、ルイ十五世とホイスト〔トランプあそびの一種〕をやっていたシャラーブル侯爵の娘シャラーブル夫人に、いいところを見せようといっしょうけんめいだ。そうだ、だれでも自信のあるところを見せようとするんだ。サン=ジュストはネクタイをつけている。ルジャンドルは新しい寛衣《レヴィット》に白いチョッキを着て、むかしかけていたエプロンのことを忘れてもらおうと、胸飾りをつけている。ロベスピエール、君は、憲法制定議会ではオリーヴ色のフロックコートを着、国民公会ではブルーの服を着ていたことを、歴史に銘記させたいと思っているんだろう。こういう男は自室の壁一面に自分のポートレートをかけておくのさ……」
ロベスピエールがマラよりももっと静かな口調で、マラの話をさえぎった。
「しかし、マラ、君のポートレートは、不潔なところにはどこにでもかけてあるよ」
二人は雑談するような調子で話をつづけたが、それはゆっくりしていたので、よけいに応酬《おうしゅう》やしっぺい返しのはげしさをくわえ、その上、脅迫する態度になんとも言えない皮肉たっぷりなところを加えるのだった。
「ロベスピエール、君は王政をくつがえそうとした連中を≪人類のドン・キホーテ≫と呼んだな」
「マラ、君はあの八月四日〔八九年八月四日、新憲法制定議会は封建的諸制度廃止の宣言をした〕のあとで、自分が編集している『|民衆の友《アミ・デュ・プープル》』の五五九号で、貴族に特権や称号を返してやれと主張した。ぼくは、あの掲載号の号数までおぼえているぞ! 君は『公爵はいつまでたっても公爵だ』と書いていた」
「ロベスピエール、君は十二月七日の議会で、ヴィヤールに対して、ロランの女房を弁護した」
「マラ、それと同じように、君がジャコバン・クラブで攻撃されたとき、ぼくの弟は君を弁護したんだぞ。君の言うことがなんの証拠になる? なんにもならないのさ」
「ロベスピエール、テュイルリー宮の一室で、君がガラに『もう革命にはあきあきした』と言ったことは、周知の事実だぞ」
「マラ、十月二十九日に君があのバルバルーを抱擁《ほうよう》したのは、この酒場のこの部屋だったね」
「ロベスピエール、君はビュゾに『共和制ってのはなんだい?』と言っただろう」
「マラ、君が三人のマルセーユ人を朝食に招待したのも、この酒場だった」
「ロベスピエール、君は中央市場の人足に棒きれを持たせて自分を護衛《ごえい》させている」
「マラ、あの八月十日の前日の夜、君はビュゾに向かって、御者《ぎょしゃ》に変装してマルセーユに逃げる手つだいをしてくれとたのんだね」
「九月のあの制裁〔九二年九月二日から六日にかけて、パリ民衆が各所の監獄で僧侶や貴族を虐殺した事件〕がおこなわれているあいだ、君は隠れていたな、ロベスピエール」
「あのころ君はあちこちに出入りしていたね、マラ」
「ロベスピエール、君は赤帽子《ボネ・ルージュ》を地面にたたきつけたぞ」
「ああ、やったぞ。裏切者があいつをひけらかしているときは、たたきつけてやるんだ。デュムーリエをかざるものはロベスピエールにどろをぬるのだ」
「ロベスピエール、君はシャトーヴィユ連隊の兵士たちが通っているあいだは、ルイ十六世の首にヴェールをかぶせることを拒否したぞ」
「いや、ぼくは国王の首にヴェールをかぶせるよりもいいことをしたのだぞ」
このとき、ダントンが二人のあいだに仲裁にはいった。しかし、かえって火に油をそそいだだけだった。
「ロベスピエール、マラ」と、ダントンが言った。「静かにしろ」
ところが、マラは自分の名前がロベスピエールのあとから呼ばれたことが不満だった。彼はダントンのほうを向いて、
「ダントン、なぜ口をいれる?」と、どなった。
ダントンがとびあがって言った。
「なぜ口をいれるだと? よし、わけを言ってやろう。兄弟殺しはすべきでないからだ。民衆につかえている二人の人間のあいだで、あらそうのはまかりならんのだ。対外戦と内乱だけでたくさんだ。その上、うちわもめとはおどろいた次第だぞ。革命をおこしたのは、おれだ。だからこそ、革命をこわしてもらいたくないのだ。これがおれが口をいれたわけだ」
マラがおだやかな口調にもどって言った。
「口をいれるなら、自分のしたことでも数えてみろよ」
「おれがしたことだと!」と、ダントンが叫んだ。「アルゴンヌの隘路《あいろ》へいけ、解放されたシャンパーニュへいけ、征服されたベルギーへいけ。そして、おれが四回も敵弾に身をさらした、あちこちの軍隊へいって、きいてみろ! 革命広場へいってきいてみろ、二月二十一日の断頭台へいってきいてみろ、地面へたたきつけられた王座へいってきいてみろ、あの≪後家《ごけ》さん≫と呼ばれている断頭台へいってきいてみろっていうんだ……」
するとマラがダントンの言葉をさえぎって言った。
「断頭台はまだ処女なのさ。みんな、あれの上で寝るけれど、まだ、はらますことはできない」
「それがどうしてわかる?」と、ダントンがやり返した。「おれが、このおれがはらましてやるさ!」
「そいつは見ものだな」と、マラが言った。
そして、彼はにやにやと笑った。
ダントンがこの笑いを見た。
「マラ」と、彼はどなった。「君は腹黒い男だな。だが、このおれはあけっぴろげで秘密なんか持ってない。おれは爬虫類《はちゅうるい》みたいに生きるなんて、まっぴらだ。ぜったいに、わらじ虫みたいな生き方はせんぞ。おまえは穴倉の中に住んでいるが、おれは町のどまんなかに住んでいる。おまえはだれともつきあわんが、おれは通りすがりのだれとでも会うし、話もするんだ」
「お上品な坊やだな。おれの家へもいらっしゃいませんかね?」と、マラがうめくように言った。そして、笑うのをやめると、断固たる口調でまた口をひらいた。
「ダントン、君がシャトレーの裁判所で検事をしていた報酬という名目で、国王の名でモンモランが君に支払った三万三千エキュの金貨について報告したまえ」
「おれは七月十四日のバスティーユ攻略に参加した」と、ダントンが横柄《おうへい》に言った。
「では、宮廷の家具倉庫はどうした? 王冠についていたダイヤモンドはどうした?」
「おれは十月六日のヴェルサイユ宮への行進にも参加した」
「では、君の一の子分のラクロワがベルギーでやったことはどうなんだ?」
「おれは六月二十日のテュイルリー宮侵入を計画した」
「じゃあ、あのモンタンシエへの貸金はどうした?」
「おれは民衆をあおって、国王をヴァレンヌから連れ戻させた」
「じゃあ、君が提供した金で建てられたオペラ座はどうだ?」
「おれはパリのあちこちの地区《セクション》を武装させた」
「それじゃ、法務庁の機密費十万リーブルはどうした?」
「おれは八月十日の事件をおこしたんだ」
「では、君がその四分の一をとった、議会の機密費二百万リーヴルはどうした?」
「おれは敵の進撃をくいとめて、諸外国王の同盟軍の進路をふさいでやった」
「淫売《いんばい》!」と、マラが言った。
ダントンがものすごい顔をして、立ちあがった。
「そうだ」と、彼はどなった。「おれは淫売みたいな男さ。おれはからだを売った。しかし、世界を救ったのだ」
ロベスピエールがまた爪《つめ》をかみ始めた。彼は大声をだして笑うことも、にこにこ笑うこともできなかった。ダントンの電光のような笑いもできなければ、マラの刺すような笑いもできなかった。ダントンがまた口をひらいた。
「おれは大洋みたいな男なんだ。潮のみち干《ひ》があるんだ。ひき潮には浅瀬が見られるが、みち潮のときは大波が見られる」
「いや、見えるのは泡だけだ」と、マラが言った。
「おれの嵐が見える」と、ダントンが言った。
ダントンといっしょにマラも立ちあがっていた。彼もすっかり腹を立てていたのだ。とつぜん、蛇《へび》が龍《りゅう》に変わったようなものだった。
「ああ!」と、彼は叫んだ。「おい! ロベスピエール! ダントン! 君たちはおれの言葉をききたくないんだな! いいだろう! そのかわり言っておくが、君たちはもうおだぶつだぞ! 君たちの政策はこの先、通行どめのどんづまりにきちまっているんだ。もう出口はないのだ。それを君たちは、墓場の入口以外の戸口をみんなとじてしまうようなことをしている」
「それがわれわれの偉大なところなんだ」と、ダントンが言った。
そして、彼は肩をそびやかした。
マラがしゃべりつづけた。
「ダントン、用心しろよ。ヴェルニヨーも君ぐらい口が大きく、くちびるも厚く、君のように眉をひきつらせていた。それに、ミラボーや君のようにあばた面《づら》だった。でも、あの男には、五月三十一日の事件をふせぐことはできなかった。おっ! 君、肩をそびやかしたな。肩なんかびくつかせると、首を落とすことにもなりかねんぞ。ダントン、言っておくがな、君のばかでかい声や、ゆるんだネクタイや、ぼこぼこした長靴や、君のケチな夕食会や、大きなポケットなんてのは、どう考えてもルイゼットのほうをながめているぞ」
ルイゼットというのはマラが断頭台にあたえた愛称《あいしょう》だった。
マラはまた話しつづけた。
「つぎは、ロベスピエール、君は穏健《おんけん》だが、そんなことはなんの役にもたたんぞ。まあ、せいぜい、頭に粉をふりかけろ、髪をとかせ、服にブラシをかけろ、しゃれるがいいや。リンネルの服をまとって、気どってろ。髪をちぢらせるなり巻くなりしろ。だがな、君もやっぱりグレーヴ広場へ送られるのをまぬがれるわけにはいかん。せいぜい、あのブラウンシュヴァイクの宣言書を読むがいい。しかしだ、やっぱり君も、あの反逆者ダミアンと同じ運命を受けざるを得んのだ。四頭の馬にひかれて殺されるのを持ちながら、めかしこんでるんだ」
「コブレンソの連中のこだまみたいなことを言う!」と、ロベスピエールは口の中でもぐもぐと言った。
「ロベスピエール、おれはどんなやつらのこだまでもないぞ。おれの声は全世界の叫び声なんだ。ああ! 君たちはまだ若い、若すぎるんだ。ダントン、君はいくつになったね? 三十四歳だ。ロベスピエール、君はどうだ? 三十三歳だ。ところが、おれときたら、ずっと生きつづけてきた。おれはずっと古くからの人類の苦しみを背負って生きてきた。おれの年は六千年なんだ」
「ほんとうだな」と、ダントンが言った。「カイン〔旧約聖書の中の人物。アダムとイヴの長男で、弟アベルを殺し、土中にうずめたので放浪の刑に処せられた〕は六千年間も憎しみの中にひそんでいた。石の中にひそむヒキガエルみたいにな。ところが石がわれて、カインが人間の中にとびだしてきた。それがマラだったんだ」
「ダントン!」と、マラが叫んだ。その目には鉛のような光がやどっていた。
「なんだい?」と、ダントンが言った。
こういうふうにして、三人のおそるべき男たちはしゃべっていた。まるで雷《かみなり》の喧嘩だった。
三 心の琴線《きんせん》のおののき
会話がちょっと切れた。ちょっとのあいだ、三人の巨人は思い思いに考えこんでいた。
ライオンも七頭蛇《ヒドラ》をおそれる。ロベスピエールはまっさおになり、ダントンは反対にまっかになっていた。二人ともぶるぶるふるえていた。マラの目にやどっていた野獣のような光はもう消えていた。おそるべき二人の男をもおびやかすこの男の顔には、静けさが、横柄な静けさがまたやどっていた。
ダントンは自分の敗北を感じていた。だが降参したくはなかった。それでまた、口をひらいた。
「マラ、君は独裁だとか統一だとか大きな声で言っているが、君には分解させるくらいの力しかないじゃないか」
ロベスピエールがうすいくちびるをゆるめて、こうつけくわえた。
「ぼくはアナカルシス・クローツと同じ意見だよ。ロランもマラも、なんにもならない、と言いたい」
「では、おれも言ってやろう」と、マラが答えた。「ダントンもロベスピエールも、なんにもならないってな」
彼は二人の顔をじっとながめて、こう言いそえた。
「ダントン、忠告しておくがな、君は恋をしていて、再婚しようと思ってるようなもんだ。だがな、もうこれ以上は政治に口をだすな。おとなしくしてろ」
これだけ言うと、彼は部屋からでていこうとドアのほうへあとずさりしながら、二人にぞっとするような挨拶《あいさつ》をした。
「では、これっきりさようならだ、諸君」
一瞬、ダントンとロベスピエールはぞっとした。
すると、そのとき、部屋の奥からひとつの声がひびいてきた。
「マラ、君はまちがっている」
三人がふりむいた。マラが怒りくるっているあいだに、三人には気づかれないで、だれかが奥のドアからはいってきていたのだ。
「あ、君か、市民《シトワイヤン》シムールダン?」と、マラが言った。「こんにちは」
まさしく、シムールダンだった。
「君がまちがっている、と言ってるんだ」と、シムールダンがくりかえした。
マラの顔が緑色になった。彼が青ざめると、こういう色になるのだ。
シムールダンが、さらにこう言った。
「君は役に立つ男だ。しかし、ロベスピエールもダントンも必要な人物だ。それを、なぜ君は二人を脅迫するのか? 団結するんだ! 団結を! 市民《シトワイヤン》諸君!民衆が望んでいるのは団結なんだ」
この男がはいってきたことは冷水のような効果をもたらした。うちわもめをしているところにとびこんだ他人が、奥底のことは別として、少なくとも表面の騒ぎだけは静めてしまったようなものだった。
シムールダンはテーブルのほうへ歩みよった。
ダントンもロベスピエールも、この男をよく知っていた。ときおり国民公会の壇上で、この民衆から尊敬されている隠れた実力者を見かけていたからだった。けれども、形式主義者のロベスピエールは、こうたずねた。
「市民《シトワイヤン》、どうして君は、この部屋にはいってきたのだ?」
「この人は司教館《エヴェシェ》党の党員なのだ」とマラが答えた。どうやら降参したというような気味のある声だった。
マラは国民公会をばかにしていたし、コミューンも思うままにしていたが、司教館《エヴェシェ》党だけはこわがっていたのだ。
これはひとつの法則である。
ミラボーはロベスピエールが得体《えたい》の知れない深みで活動しているのを感じていたが、そのロベスピエール本人はマラが、マラはまたエベールが、さらにエベールはバブーフが、同じように活動しているのを感じていた。地下の層が静かに動かないでいるかぎり、政治家は前に進むことができる。しかし、もっとも革命的な政治家の足の下にも、ひとつの深い地下の層があるものだ。そして、いちばん大胆な政治家でも、自分たちが頭の上で作りだしている動きを、足下の地層の中にも感じるとき、不安のあまり立ちどまるものである。
貪欲《どんよく》に由来する動きと、主義から生まれる動きとを区別し、前の動きと戦い、あとの動きを促進すること。これこそ偉大なる革命家の天賦《てんぷ》の才であり、徳義である。
ダントンはマラが降参したのを感づいた。
「ああ! 市民《シトワイヤン》シムールダンが同席したって、ぜんぜん気にならないよ」と、彼は言った。
そして、シムールダンに手をのばした。
それから、こう言った。
「そうそう、市民《シトワイヤン》シムールダンに状況を説明しよう。ちょうどいいところにきたよ。おれは山岳党《モンターニュ》を、ロベスピエールは公安委員会を、マラはコミューンを、シムールダンは司教館《エヴェシェ》党を代表している。シムールダンがわれわれ三人の意見をうまく判定してくれるだろう」
「よろしい」と、シムールダンが言った。重々しいがきっぱりとした声だった。「問題はなんなのかね?」
「ヴァンデについてだ」とロベスピエールが答えた。
「ヴァンデだって!」と、シムールダンが叫んだ。
そして、先をつづけた。
「あれは重大な脅迫だよ。もし革命が失敗すれば、それはヴァンデの反乱のせいだ。一ヴァンデ地方は、十のドイツよりもおそろしい。フランスを生かすには、ヴァンデを殺さなければならない」
この言葉がロベスピエールをとらえた。
しかしロベスピエールは、なおもこうたずねた。
「以前、君は僧侶ではなかったか?」
シムールダンの僧侶じみた態度は、ロベスピエールの目をごまかせなかったのだ。ロベスピエールはシムールダンの外見を見て、その胸のうちまで見ぬいてしまったのだ。
シムールダンが答えた。
「そうだよ、市民《シトワイヤン》」
「それがどうしたというんだ?」と、ダントンが叫んだ。「僧侶だって、いいやつならば、ほかの連中よりましなんだ。革命のときには僧侶だって市民の中にとけこんでしまう。ちょうど寺の鐘がとかされて一スウ銅貨や大砲にかわるのと同じだ。ダンジューも僧侶だ。ドーヌーも僧侶だ。トマ・ランデもエブルーの司教だった。ロベスピエール、君も国民公会で、ボーヴェの司教と肘《ひじ》をつきあわせている。八月十日の事件のとき、大助祭のボージョワは暴動委員会の委員だった。シャボはもとカプシン僧だった。球戯場の誓い〔八九年六月二十日、国民議会を無視したルイ十六世の挙に対抗して、国民議会は室内球戯場を仮議場として、議会を解散しない誓いをおこなった〕を動議したのは、ジェルル修道士だ。国民議会は国王より優位に立つと宣言させたのはオードラン師だ。立法議会に対して、ルイ十四世の王座の天蓋《てんがい》をとりはらえと要求したのはグット師だ。王政廃止の決議を促進したのはグレゴワール師だ」
すると、マラがせせら笑って、こう言った。
「道化役者コロ=デルボワにあとおしされてな。二人でぐるになってやらかしたことだ。坊主が王座をひっくり返し、役者が王を投げとばした」
「話をヴァンデにもどそう」と、ロベスピエールが言った。
「よろしい、ところで」と、シムールダンがたずねた。「どうしたのだ? ヴァンデがどうかしたのか?」
ロベスピエールが答えた。
「つまり、ヴァンデ軍に総大将ができたのだ。そのうち、おそるべき軍隊になるよ」
「その総大将ってのは、どういう男かね、市民《シトワイヤン》ロベスピエール?」
「自称ブルターニュ公、もとの侯爵ラントナックさ」
これを聞くと、シムールダンがちょっと動揺した。
「わたしはその男を知っている」と、彼は言った。「以前、その男の家の僧侶をつとめたことがあった」
そして、しばらく考えこんでいたが、また口をひらいた。
「あの男は軍人になる前は、女ぐせが悪かった」
「もとはローザン公みたいだったビロンと同じタイプの男なんだな」と、ダントンが言った。〔ローザン公はルイ十四世の廷臣で、一代のプレイボーイ。ビロンは革命当時共和軍の猛将だが、若い時代には、ローザン公のようなプレイボーイだった〕
すると、シムールダンが思いにしずむようなようすで、こう言った。
「そうだ。もとは放蕩児だったが、今はおそるべき男になっているにちがいない」
「ものすごい男だよ」と、ロベスピエールが言った。「あいつは村をやき、負傷者をかたづけ、捕虜を虐殺し、女たちまで銃殺してしまう」
「女まで殺すのか」
「そうだよ。三人の子どもを持っている母親を銃殺させちまった。その子どもの行方はだれも知らない。その上、あの男は軍の指揮官をやったことがある。だから、戦争というものをよく知っている」
「ちがいない」と、シムールダンが答えた。「あの男はハノーヴァーの戦いに従軍したことがある。兵隊たちは『身分はリシュリューが上でラントナックが下だが、ほんとうの将軍はラントナックだ』と言っていた。このことを、君の仲間のデュソーに話してみるといい」
ロベスピエールはちょっと考えこんでしまった。しかし、やがて、彼とシムールダンのあいだで会話が再開された。
「それでだ、市民《シトワイヤン》シムールダン、今、その男がヴァンデ軍の指揮をとっているのだ」
「いつから?」
「三週間前からさ」
「では、あの男を法律のそとへ追いださなければならん」
「追いだしてある」
「あの男の首に賞金をかける必要がある」
「かけてある」
「あの男をつかまえたものには、莫大な金をやらなければ」
「やる手はずになっている」
「アシニャ紙幣ではだめだ」
「アシニャ紙幣では支払わない」
「金貨で払うんだ」
「そういうことにしている」
「あの男を断頭台にかけなければ」
「そうするだろう」
「だれの手で断頭台にかけるんだ?」
「君の手で」
「わたしが?」
「そう。君に、公安委員会の代表になってもらいたいのだ。それも全権をさずけられた代表にだ」
「よし、承知した」と、シムールダンが答えた。
ロベスピエールはすばやく人選した。これは一国を左右するものの長所である。彼は前のテーブルに置いてある書類から一枚の白紙をつまみあげた。それには≪唯一にして不可分のフランス共和国公安委員会≫という頭書だけが印刷してあった。
シムールダンが話をつづけた。
「よし、引き受けた。脅威に対しては脅威をもって報いるのだ。ラントナックは残虐な男だから、こちらも残虐になってやろう。死にものぐるいであの男と戦おう。それが神の御心にかなうなら、あの男から共和国を解放してやろう」
ここで話を切ったが、やがてまた口をひらいた。
「わたしは僧侶なんだから、神を信じてもあたりまえだな」
「神を信じるなんて、もう古いぞ」と、ダントンが言った。
「わたしは神を信じているよ」と、シムールダンが平然たる態度で言った。
ロベスピエールは陰気な顔で、それでもうなずいて同意してみせた。
シムールダンが先をつづけた。
「ところで、わたしはだれのもとに派遣されるのかね?」
ロベスピエールが答えた。
「ラントナックをやっつけるために派遣された討伐軍指揮官のもとへだ。ところが、ここでちょっと君の耳にいれておくことがあるんだ。実はその指揮官は貴族なんだ」
すると、ダントンがまた叫んだ。
「また、愚《ぐ》にもつかんことを言う。貴族だと? それでどうだっていうんだ? 貴族だろうと僧侶だろうと同じだ。よい人物であれば結構だよ。貴族などというものは、偏見のこりかたまりだ。しかし、偏見はどちらの方向を向いても持つべきものじゃない。貴族に味方するのも、貴族に反対するのも、いずれもなすべきじゃないよ。では、ロベスピエール、サン=ジュストは貴族でなかったか? もちろん、フロレル・ド・サンジュストのことだぞ! アナカルシス・クローツは男爵だが、これまで一度だってコルドリエ・クラブの集会に顔を出さなかったためしはない。われわれの仲間のシャルル・エスも貴族の家柄で、ヘス=ローテンブルグ現伯爵の弟だ。マラの親友モントーはモントー侯爵だ。革命裁判所にだって僧侶ヴィラットのような裁判官もいるし、貴族のモンフラベール侯爵ルロワのような裁判官もいる。二人ともしっかりした人物だ」
「まだ忘れている人物がある。革命裁判所主席裁判官……」と、ロベスピエールがつけくわえた。
「アントネルか?」
「アントネル侯爵さ」と、ロベスピエールが言った。
ダントンが先をつづけた。
「ついこのあいだコンデ前方の戦いで、共和国のために戦死したダンピエールも貴族だった。ヴェルダンをプロシャ軍に明けわたすよりは、とみずからピストルを脳天にうちこんではてたボールペールだって貴族だ」
「よくも、そんなことが言えるな」と、マラがつぶやいた。「コンドルセ〔フランスの数学者、哲学者。十八世紀啓蒙主義推進者の一人で≪人権宣言≫の起草者の一人。恐怖政治時代に自殺した〕が『グラックス兄弟は貴族だった』と言ったとき、君はコンドルセに、『貴族はどいつもこいつも裏切者だ。ミラボー以来、おまえにいたるまでだ』と叫んだじゃないか」
シムールダンの重々しい声がひびいた。
「市民《シトワイヤン》ダントン、市民《シトワイヤン》ロベスピエール、君たちがわたしを信用するのは当然だろう。ところが、民衆は僧侶を信用していないのだ。信用しないのもむりはないのだが。そこで、貴族を監視する役目が僧侶にさずけられたとすると、その責任は二倍重くなる。しかもその僧侶はがんとして信念をつらぬかなければならない」
「そのとおり」と、ロベスピエールが言った。
シムールダンがさらにつけくわえて言った。「それから冷酷な人間にならなければならない」
ロベスピエールがまた口をひらいた。
「君の言うとおりだ、市民《シトワイヤン》シムールダン。これから君はひとりの青年を相手にすることになるだろう。その青年より君のほうが倍も年上だから、その青年にあたえる影響力は強い。指導も必要だが、うまくあやつることも必要だ。その青年は軍人としての能力は持っているようだ。これについては、すべての報告が意見の一致を見せている。その青年はライン軍からわけられてヴァンデ討伐に派遣された部隊を指揮している。彼は国境からやってきたわけだが、国境では知謀と勇気をふるって、あっぱれな活躍をしていた。現在、優秀この上ない力量を発揮して討伐軍を指揮している。二週間前から、ラントナック老侯爵の軍を捕捉《ほそく》して、失脚せしめている。おさえつけ、追いまわしているのだ。しまいには海岸線へ追いつめて、海中へほうりなげてしまうだろう。さすがに老将軍、ラントナックは策略を駆使してはいるが、あの青年は、青年指揮官らしい豪胆《ごうたん》さを持っている。ところが、この青年はすでに敵視されたり、ねたまれたりしている。副司令官レシェルもあの青年をねたんでいる……」
「そのレシェルという男は」と、ダントンが口をはさんだ。「総司令官になりたがっているのだ! まあ、しゃれが言えることくらいがせいぜいの男だがな。あいつのしゃれは『断頭台に運ぶ荷車《シャレット》にのるには、梯子《レシェル》が必要だ』というのだ。ところが、あいつめ、ヴァンデ軍のシャレットにやっつけられてるんだ」
「しかし、その青年は」と、ロベスピエールが話しつづけた。「自分をおいて他の人間がラントナックをやっつけることを望まないのだ。ヴァンデの戦いの不運は、こういう味方の対抗意識にある。つまり味方の兵士たちは悪い指揮官をいただいた英雄ともいえるだろう。軽騎兵隊長シャンポンは、ひとりきりのラッパ手に≪サ・イラ≫を吹かせながら、ソーミュールの町に突入して、これを占領してしまった。その気があれば、そのまま前進してショレを落とすことだってできたのだが、命令がなかったので、やめてしまった。ヴァンデ討伐軍の指揮系統を再編成しなおす必要がある。守備隊はばらばら、兵力もあちこちに散ってしまっている。分散した軍隊など、麻痺《まひ》をおこした軍隊だ。粉砕された岩にひとしい。パラメの陣地にはテントしかないのだ。トレギエとディナンのあいだには、無用の長物と化した小陣地が百ばかりあるが、これらの兵力をまとめると一個師団編成できるし、これで海岸線一帯を守備できるだろう。レシェルはパランに加勢してもらって、南の海岸線を守備するといいわけしながら、北の海岸線から撤退してしまった。これではイギリス軍にフランスの門戸をあけてやっているようなものだ。五十万人の百姓を立ちあがらせることとイギリス軍をフランスに上陸させること、これがラントナックの作戦なのだ。
そこで、討伐軍の青年指揮官は、ラントナックの腰に短刀をつきつけて、これを追ったり、たたいたりしている。それをレシェルの許可をとらずにやっている。レシェルは、あの青年の上官だ。そこでレシェルがあの青年を告発した。しかし、あの青年に関しては、みんなの意見がわかれている。レシェルはあの青年を銃殺にしろと言うのだが、プリウール・ド・ラ・マルヌは逆に青年を副司令官にしろと言うのだ」
「その青年は」と、シムールダンが言った。「すばらしい才能を持っているようだね」
「ところが、短所がひとつある」と、マラが口をいれた。
「どういう短所だ?」と、シムールダンがたずねた。
「寛大だということさ」と、マラが答えた。
そして、マラがしゃべりだした。
「戦っているときはしっかりしているのに、さて戦いが終わると、やわらかくなってしまうのさ。寛大な心の持ち主だから、すぐにゆるしてしまったり、やさしくしちまったりする。修道女や尼さんを守ってやったり、貴族の女房や娘の生命《いのち》を救ったり、捕虜をにがしたり、坊主を自由にしてやったりするんだ」
「重大な短所だな」と、シムールダンがつぶやいた。
「犯罪にひとしい」と、マラが言った。
「ときにはな」と、ダントンが言った。
「いや、ちょいちょいだ」と、ロベスピエールが言った。
「いや、ほとんど常にだ」と、マラが答えた。
「それは、祖国の敵と戦っているときは常に犯罪行為になる」と、シムールダンが言った。
マラがシムールダンのほうを向いた。
「では、王党派の指揮官を釈放してしまう共和派の指揮官を、君はどう扱うかね?」
「わたしはレシェルの意見に従おう。そいつを銃殺にする」
「あるいは断頭台に送るか?」と、マラが言った。
「それは本人の選択次第だ」と、シムールダンが言った。
すると、ダントンが笑いだした。
「おれだったら、どちらの方法でやられてもいいぞ」
「君ならきっと、どちらかの方法でやられるさ」と、マラがつぶやいた。
マラの視線が、ダントンをはなれて、シムールダンのほうへもどった。
「では、市民《シトワイヤン》シムールダン、もし共和派の指揮官がつまずくようなことがあったら、君はその男の首を切らせるんだな?」
「二十四時間以内にね」
「よかろう」と、マラが言った。「でも、おれもロベスピエールに賛成しよう。市民《シトワイヤン》シムールダンを沿岸警備隊討伐隊指揮官のもとへ、公安委員会代表委員として派遣すべきだ。それで、その青年指揮官はなんという男かね?」
ロベスピエールが答えた。
「彼はもと貴族だ」
そして、書類をめくり始めた。
「僧侶に貴族を監視する役をあたえるか」と、ダントンが言った。「おれはひとりでいるときの僧侶を信用しないし、貴族がひとりでいる場合も心をゆるさない。僧侶と貴族がいっしょなら、おれもこわくない。おたがいに監視しあって、ことを運ぶからな」
ともするとシムールダンの眉間《みけん》に現われる憤激の色が強くなった。しかし、このダントンの観察もやはり的《まと》を射ていることに気づいて、シムールダンはダントンのほうは向かないで、声だけ高くはりあげた。
「わたしの手にあずけられたその共和派の指揮官が、もし過失をおかしたら、その男を死刑にしよう」
ロベスピエールが書類に視線をあてて言った。
「これがその男の名前だ。市民《シトワイヤン》シムールダン、君がこれからその身柄について全権をふるうことになる指揮官は、もと子爵、ゴーヴァンという男だ」
シムールダンがまっさおになった。そして、「ゴーヴァンだと!」と、叫んだ。
マラはシムールダンが青くなったのを見つけた。
「ゴーヴァン子爵か!」と、もう一度シムールダンが叫んだ。
「そうだ」と、ロベスピエールが言った。
「それで、どうかしたかね」と、マラがシムールダンをじっと見すえながら言った。
会話がちょっととぎれたが、やがてマラがまた口をひらいた。
「市民《シトワイヤン》シムールダン、今、君自身が指摘した条件で、指揮官ゴーヴァン身辺派遣の代表委員の任務を引き受けてくれるか? それでいいんだな?」
「よろしい」と、シムールダンが答えた。
彼はますます青くなっていった。
ロベスピエールはそばにころがっているペンをとりあげ、≪公安委員会≫と頭書が印刷してある紙に、ゆっくりとしているけれども正確な筆づかいで、次のような文章を書くと、最後にサインしてから、紙とペンをダントンにわたした。ダントンもサインした。マラは、さっきからシムールダンの鉛のような顔色から目をはなさなかったが、ダントンのあとからサインした。
ロベスピエールは、その紙をまた手もとに返すと、日づけを書いて、シムールダンに手わたした。その紙の文面は、こうだった。
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共和国第二年
沿岸警備隊討伐隊指揮官、市民《シトワイヤン》ゴーヴァンの身辺に派遣された公安委員会代表委員、市民《シトワイヤン》シムールダンに全権をあたえる
ロベスピエール
ダントン
マラ
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そして、サインのあとに、つぎのような日づけが書いてあった。
一七九三年六月二十八日
≪市民暦≫といわれた≪革命暦≫〔九三年十一月二十四日、国民公会が採用した暦〕は、当時はまだ法定化していなかった。一七九三年十月五日、ロムの提案によって、国民公会に採用されることになったのだ。
シムールダンが紙片を読んでいるあいだ、それをマラがじっとながめていた。そして、ひとりごとを言うみたいに、小声でこう言った。
「この件については、公民公会の法令か公安委員会の特令かで、明確にする必要があるだろう。まだ二、三の手つづきが残っているからな」
「市民《シトワイヤン》シムールダン」と、ロベスピエールがたずねた。「君の住所は?」
「クール・デュ・コメルスだ」
「ほう。おれの住んでるところと同じだ」とダントンが言った。「では、君とはとなり近所同士なんだな」
ロベスピエールがまた口をひらいた。
「さあ、いっときも時間をむだにしてはいけない。あすになったら、君は公安委員みんながサインした正規の辞令を受けとるはずだ。この辞令は、フィリポー、プリウール・ド・ラ・マルヌ、ルコワントル、アルキエその他の派遣議員のもとで、君の特別信任を保証することになろう。もちろん、われわれは、君のことをよく知っているのだがね。君の権限には制限がない。君はゴーヴァンを将軍にすることもできれば、処刑台に送ることもできる。君はあすの三時に辞令を受けとるはずだ。それで、いつ出発するかね?」
「四時に出発しよう」と、シムールダンが答えた。
それから、みんなはわかれた。
マラは家に帰ると、愛人のシモンヌ・エヴラールに、あすは国民公会へでかけるぞ、と知らせておいた。
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第三編 国民公会
一 国民公会
(一)
われわれは今や大いなる山のいただきに近づきつつある。
国民公会という巨人な山頂に。
われわれの目はその頂上へぴたりと吸いよせられている。
かつて、人類の歴史の地平線に、これほどどうどうとそそり立つ巨峰はなかった。
国民公会はあのヒマラヤの山容にも比せられるのだ。
おそらく国民公会は人類の歴史のピークを示すものであろう。
議会もまた生きて呼吸できるものであるから、国民公会の生存中は、この議会のほんとうのすがたを知るものは、当時、だれひとりとしていなかった。当時の人びとの目にはいらなかったのは、つまり、国民公会の偉大さだった。畏怖《いふ》をおぼえるあまりに、眩惑《げんわく》されることすらなかったのだ。なんであれ、偉大なるものには、神聖な恐怖がまつわりついているものである。平凡なもの、なだらかな丘を称讃することはたやすいが、偉大な天才でも、きり立つ山でも、すぐれた議会でも、芸術の傑作でも、とにかくあまりに高いものは、これを近々と見ようものなら、恐怖をおぼえるものである。
すべて頂上というものは、とほうもなく大きく感じられるものなのだ。のぼろうとすれば疲れる。絶壁をのぼれば息もきれるし足もすべる。美しく見える稜線《りょうせん》も、実はきり立っていて、たちまちけがをしてしまう。泡立つ急流は断崖のある場所を教え、頂上は雲でおおわれている。こういう偉大な山は、のぼるということからして、すでに転落と同じようにおそろしいものなのだ。こうして、称讃しようという気持よりも、偉大なるものを嫌悪する感情のほうが生まれるのだ。深い谷間に気をとられて、その荘厳《そうごん》さが目にはいらないのだ。怪物じみた威容だけが目にとまって、その雄大なところは見落としてしまうのだ。国民公会も、その初期においては、これと同じ評価を受けた。鷲《わし》の目で見られてしかるべき国民公会は、当時の近視眼の人びとの判断を受けていたのだった。
しかし、今日、国民公会は、そのほんとうのすがたをはるかに眺望することができる。それは澄みきった悲劇を遠景に、深く青い空を背景として、フランス大革命の巨大な横顔《プロフィール》を浮きださせているのである。
(二)
七月十四日はフランス民衆を解放した。
八月十日は王政を粉砕した。
九月二十一日は共和国をうち立てた。
九月二十一日は秋分の日であり、昼夜が平均している日である。リブラ、つまり星座の天秤《てんびん》宮の日である。そして、この日、ロムの提案にしたがい、秤が象徴する平等と正義という旗をかかげて、フランス共和国が宣言されたのである。いわば、星座天秤宮によって共和国が告知されたのである。
国民公会はフランスの民衆の最初の権化だった。国民公会によって、偉大なる新しいページがひらかれ、今日という未来が始まったのだ。
いかなる思想もその目に見える形を必要とするし、いかなる主義もその住居を必要とする。教会とは四つの壁にかこまれた神そのものである。あらゆる信仰もやはりその神殿を必要とするのである。国民公会が発足したときもまず解決すべき問題がでてきた。つまり、国民公会の議場をどこにすべきかという問題だった。
最初は調馬館がえらばれ、それからテュイルリー宮に移された。そこには、窓わくがはめられ、飾りがほどこされ、ダヴィッドが描いた灰色絵具による装飾画がかざられた。また、左右均等の議席、四角い演壇、平行して並べた柱、切り株のような台石、長くてまっすぐな船首材、≪|民衆の座席《トリビューヌ・ピュブリック》≫と呼ばれ、のちほど聴衆が殺到することになる長方形の傍聴席、古代ローマ風の天幕、ギリシア風の横幕などもとりつけられた。国民公会はこのような直角と直線の中に、すえられたのであり、まきおこる議論や騒動の嵐は、この幾何学的な線の中で吹き荒れることになるのである。
演壇の上では、革命のシンボルである赤帽子が灰色にぬられて置いてあった。はじめから、王党派の連中は、この灰色の赤帽子や、急ごしらえの議場、つまりボール紙で作った記念物、張り子の聖堂、泥と痰唾《たんつば》で作ったパンテオンを笑いものにしていた。こんなもの、あっというまに消えちまうさ! と、言いたそうだった。円柱は酒だるの板で作ってあったし、丸天井は板張りだった。うす浮き彫《ぼ》りは漆喰《しっくい》製、なげしはもみ材だった。石膏《せっこう》で作った彫像、絵を描いてごまかした大理石、布張りの壁といった具合だった。しかし、このような急ごしらえの設備の中で、フランスは永遠の大業をなしとげたのである。
国民公会がはじめて調馬館に召集されたとき、その壁には、ルイ十六世がヴァレンヌから連れもどされたころ、パリの町にはんらんしていたビラが、おびただしくはってあった。その中には『国王がもどってくる。国王に拍手するものは笞刑《ちけい》、侮辱するものは絞首刑に処する』とか、『静粛《せいしゅく》に。脱帽するな。今、国王は裁きの庭にある』というのもあったし、『国王は国民に銃を向けて引き金を引きつづけてきた。今こそ国民が撃つときだ』と書いたものもあった。ただ、『法律!法律!』というだけのものもあった。国民公会がルイ十六世を裁いたのは、このような壁にとりかこまれたところであった。
一七九三年五月以後、国民公会はテュイルリー宮に置かれることとなったのだが、そこは≪|国民の館《パレ・ナショナル》≫と呼ばれるようになった。その議場は、≪統一の間≫と改称された≪時計の間≫と、≪自由の間≫と改められた≪マルサンの間≫のあいだに置かれることになった。≪|花の女神《フロール》の間≫も≪平等の間≫と改められた。ジャン・ビュランの作である大階段が議場に通じていた。議場は二階が使われていて、その下の部屋はすべて、細長い衛兵詰所になっており、ここには国民公会を警備するさまざまな兵科の兵士たちの叉銃《さじゅう》や野常用ベッドなどが、ごちゃごちゃと置いてあった。このときもう、国民公会議場は≪国民公会の衛兵≫と言われた護衛隊を持っていたのだ。
三色の長い布が、議場のある宮殿と民衆の出入りする庭とのあいだを仕切っていた。
(三)
ところで、議場の中はどうなっていたか。それもここで述べておくことにしよう。だれしも、このおそろしい場所に興味をいだくからだ。
議場に足をいれると、まず目にとびこんでくるものは、大きな二つの窓のあいだにある≪自由の女神像≫だった。たて四十二メートル、よこ十メートル、高さ十一メートルというのが、このかつては国王の舞台であり、今は革命の舞台となっている議場の大きさだった。ヴィガラニが廷臣《ていしん》たちのために作った優雅で壮麗なホールは、一七九三年、民衆の重みにたえられるよう作られた荒っぽい骨組みにかくれて消えてしまった。その上に≪|民衆の座席《トリビューヌ・ピュブリック》≫の足場が作られていた。この骨組みは、支点として、たった一本の柱に支えられていただけだった。これは特記すべき事柄である。そして、この柱は通し柱で、支力は十メートルあった。このような柱と同じ機能を持っているものは、人像柱《カリヤティッド》の中にだって、それほど多くはなかった。この柱は、なん年ものあいだ、革命のおそるべき圧力に耐えたのだった。この柱は、かっさい、熱狂、罵詈雑言《ばりぞうごん》、騒音、轟音、巨大な怒りのるつぼ、暴動などを支えたのだ。だが柱はびくともしなかった。国民公会のあと、この柱は、あの|古 老 院《コンセイユ・デ・ザンシャン》〔九五年に作られた総裁政府時代の議会〕のようすも見ていた。ようやく霧月《プリュメール》十八日のあとになって、この柱はとりかえられることになったのだ。
そのとき、建築家のペルシエは、この木の柱を大理石の円柱ととりかえたのだが、このほうは木の柱ほど長もちしなかった。建築家の理想というものは、ときに奇妙なことになるものだ。リヴォリ街を作った建築家は、砲弾の弾道の形に街を作ることを理想とした。カルルスルーエ市を作った建築家は扇形とすることをもって理想とした。そして、一七九三年五月十日にひらかれることになった、この国民公会の議場を作った建築家は、巨大な戸棚のひきだしをもって、その理想としていたようである。つまり、この議場は長くて、高くて、ひらたかったのだ。この平行四辺形の二つの長辺の一辺は、大きな半円形の座席になっていた。すなわち、円戯場《アンフィテアートル》のような議員の席で、そこにはテーブルもなければ机もついていなかった。そこで、書くことがたいへん好きだったガラン=クーロンという男は、自分のひざの上で書いていた。この議員席の真正面が演壇になっていて、この演壇の前にはルペルティエ=サン・ファルジョー〔ルイ十六世の死刑にすすんで賛成したため、処刑のあくる日、もと近衛兵に殺された国民公会議員〕の胸像がおいてあり、演壇の背後は議長席になっていた。
この胸像の頭は演壇の縁《ふち》よりわずかに高かったので、のちほど、そこからとりのぞかれてしまった。
円戯場のような議員席は十九個の半円形の座席からなり、これはうしろにいくにしたがって少しずつ高くなっていた。座席の両端はホールの両すみまで円形にのびていた。
演壇の足もとにある馬蹄形《ばていけい》をしたところに守衛たちが立っていた。
演壇の一方の側には、高さ九尺の掲示が黒い木の額にいれられて、壁にかかっていた。これは二ページの≪人権宣言≫〔八九年八月二十六日、憲法制定議会が公布した宣言。市民の社会的政治的平等、主権在民、言論の自由などをうたってある〕で、各ページのあいだには王笏《おうしゃく》のような模様が描かれていた。反対の側の壁には、なにもはってなかったが、のちほど、≪革命暦第二年憲法≫が、同じような額におさめられてかけられることになった。この憲法のページのあいだには、剣の模様が描かれることになった。演壇の上、つまり演説者の頭上には、いつも民衆がすしづめにつまっている二つの傍聴席になっていた奥深い小べやから、三本の大きな三色旗がほとんど水平につきだしてゆれていた。これら三本の三色旗はひとつの祭壇に立てかけてあったが、その祭壇の上には≪法律≫という言葉が書いてあった。この祭壇の背後には、円柱のように高い巨大なローマの束桿《そっかん》〔棒をたばねたあいだから、斧の刃をだしてある儀式用のしるし〕が言論の自由を守る衛兵のように立っていた。壁ぎわにはいくつもの巨大な彫像が議員席のほうに顔を向けて立っていた。議長は右手にリュクルゴス〔古代ギリシア、スパルタの立法者〕の像、左手にソロン〔アテナイの立法者〕をのぞみ、山岳党《モンターニュ》の議席の上にはプラトンの彫像が立っていた。
こうした彫像は簡単な方形の石を台石としていたが、この台石は、会議するものと傍聴する民衆とを区別する張りだした長い軒《のき》の上に置いてあった。そして傍聴人たちはこの軒にひじをついていたのだ。
≪人権宣言≫の掲示をいれた黒い木の額は上部が軒までとどいていて、そのため軒はすっかり形をくずされていた。直線の美がだいなしにされていたのだ。それで、シャボがヴァディエルに向かって、こう言ったものだった。
「醜悪きわまる」
彫像の頭上には、オークと月桂樹の冠がひとつおきにかけてあった。また、濃いみどりで同じようなかしと月桂樹の冠を描いた緑のどん帳が、周囲の軒から直線の太いひだを作ってたれさがり、議場が占めている地階の壁をすっかり包んでしまっていた。このどん帳の上のほうの壁は白くて、冷たい感じだった。そして、この白い壁の中に、二階になっている≪|民衆の座席《トリビューヌ・ピュブリック》≫が、くり形模様も唐草模様もほどこされないで、まるで穴あけで穴でもあけたように口をあけていた。一階の傍聴席は四角く、二階のほうはまるかった。それは、当時まだローマの建築理論家ウィトルウィウスの技法がすたれていなかったので、その技法通り、飾迫縁《アルシヴォルト》が軒縁《アルシトラーヴ》の上にかさねてあった。議場の二つの長辺には、傍聴席が各十個ずつもうけられ、両端にも、並はずれて大きな傍聴席が各二個ずつ置いてあった。つまり傍聴席は全部で二十四個あって、この二十四個の傍聴席の中に群衆がつまるというわけだった。
下の議場のまわりにつまった傍聴人たちは、席のへりからあふれだして、建物のつきだしたところまで群らがってきた。二階や三階の傍聴席には、長い鉄棒が、ちょうどもたれかかれるくらいの高さに、がっちりととりつけられていて、安全柵の役目をはたしていた。そして、階段をのぼってくる群衆の圧力にも傍聴人たちが持ちこたえられるようにしてあった。ところが、一度、ある男が議場の中へとびこんでしまったことがあった。彼はボーヴェの司教マシュにちょっとぶつかって落ちたので、死をまぬがれたが、そのとき、こう言ったものだった。
「そうか! じゃあ、坊主でも役に立つことがあるんだな!」
国民公会の議場は、二千人の人間を収容することができた。暴動がおこった日には、三千人もおしこむことができた。
国民公会は昼と夜に二回ひらかれた。
議長のいすの背もたれはまるく、金色の釘がうってあった。議長のテーブルは、翼を持った一本足の四匹の怪物に支えられていた。その怪物はちょうど≪黙示録≫の中から革命に参加するために現われたという顔をしていた。ヘブライの予言者エゼキエルの車からはずされて、サンソン〔パリの死刑執行官の家系〕の処刑車を引きにやってきたみたいだった。
議長のテーブルの上には、ほとんど鐘ぐらい大きい巨大な鈴と、大きな銅のインク壷と、羊皮紙で装幀した二折判《アン・フォリオ》の議事録とが置いてあった。
このテーブルの上には、なんどとなく槍の穂さきにつきさされた人間の首が血をしたたらせたものである。
演壇には九段の階段をのぼっていくようになっていた。ところが、この階段は高い上に急だったので、のぼるのに相当苦労した。ある日のこと、ジャンソネがのぼるさいにつまずいて、こう叫んだ。「これじゃ、まるで首切り台の階段じゃないか!」
すると、カリエがこうどなった。「せっせとのぼる訓練をしとくといいや」
議場のすみでは、壁がむきだしになりすぎていたので、建築家が斧をそと側に向けた束桿を飾った。
演壇の左と右には、高さ十二フィートある枝つき燭台を立てた台座が二つずつ並んでいて、その上部には四組のケンケ・ランプがついていた。こういう燭台は、各傍聴席にひとつずつ置いてあった。この燭台の台座には、まるい輪が彫ってあり、これは≪断頭台の首輪≫と呼ばれていた。議員席のいちばん奥のはしはせりあがっていて、ほとんど二階の傍聴席の軒にふれていた。そこで、議員と民衆とは話をかわすことができた。
傍聴席の出口はまがりくねった廊下に通じていたが、この廊下ではときにものすごい騒ぎが持ちあがったものである。
国民公会がひらかれると、混雑したのはテュイルリー宮ばかりでなく、近所にあるロングヴィル邸やコワニ邸まで、群衆でいっぱいになってしまった。もしブラッドフォード卿の手紙を信じるとすれば、あの八月十日の事件ののち、王家の家具類はこのコワニ邸へ運ばれた。テュイルリー宮の家具をすっかり運びだすには二カ月もかかったのだった。
どの委員会も議場の近くにもうけられていた。≪平等の間≫には立法、農業、商業の委員会、≪自由の間≫には海軍、植民、財務、紙幣、公安の委員会、≪統一の間≫には陸軍の委員会がもうけられていた。
保安委員会はうす暗い廊下を通じて公安委員会とつながっていた。この廊下は夜も昼も反射ランプで照らされていたが、あらゆる党派がはなったスパイどもがうようよしていた。そこでこの廊下では、だれもが小声で話した。
国民公会の法廷は数回場所をかえた。通常は議長席の右手にあった。
議場の両端、すなわち円戯場のような半円形の議席の右端と左端には、それぞれひとつずつ垂直《すいちょく》の仕切りが立っていた。この仕切りと壁とのあいだには、せまくて奥深い二本の廊下があり、この廊下に向かって暗く四角いドアがひらいていた。このドアから出入りするようになっていた。
しかし議員たちは、フゥイヤン僧院のテラスに向かってひらいているドアから、直接議場へはいった。
この議場にはうす暗い窓から日ざしがはいるだけだったから、中は昼でも暗く、夕がたになればまた鉛色のランプの光で照らされるので、なんとも言いあらわしがたい夜の雰囲気にみちみちていた。このうす暗いランプの光はあたりの夜のやみをいっそうすさまじく見せ、このランプに照らされた議場は非常に気味の悪い感じをあたえた。議場の人びとはおたがいに顔を見わけることができず、ただ議場のはしからはしへ、右から左へと、ぼんやりとかすんでいる顔の群れが、たがいに侮辱しあっているだけだった。出会ってもたがいに相手の顔はわからなかった。
ある日のこと、レニュロが演壇に走りよると、坂になっている通路でだれかにぶつかってしまった。彼は「失礼、ロベスピエール」と言った。すると、「おれがだれだか知ってるのか?」と、しわがれ声が答えた。そこで、レニュロは、「失礼、マラ」と言った。
下の、議長席の左右にもうけられてあった二つの傍聴席は立入禁止になっていた。なんともふしぎなことに国民公会にも、特権のある傍聴人というものが存在していたのである。そして、この二つの傍聴席だけはどん帳に包まれるようになっていた。軒縁《アルシトラーヴ》のまんなかに二個の金色のふさがついていて、それがどん帳をひときわ目立たせていた。これにくらべて一般民衆の傍聴席はどん帳もついていなくてむきだしになっていた。
議場全体は、はげしく、野蛮で、そのくせ秩序立っているようだった。おそろしい野蛮な空気の中にとけこんでいる秩序、こうしたものは、どの革命の中にも多少はみとめられるものである。国民公会の議場は、のちほど、芸術家たちが≪収穫月《メシドール》式建築≫と呼ぶようになった建築様式の中でも、いちばん完全な形を持ったものだった。どっしりとはしているが、実際はきゃしゃなものだった。このころの建築家たちは、統一のとれたものはみんな美しいと思いこんでいたのだ。ルネッサンス時代様式の建築の名ごりは、すでにルイ十五世時代になくなっていて、このころではもう、その反動が生じていたのだ。気品のあるものが味気ないものに、純粋なものが退屈に変えられてしまったのだ。すましこむということは建築にも見られることである。十八世紀にみとめられる形と色との目くるめくような大|饗宴《きょうえん》のあとで、芸術は断食《だんじき》し始めたのであり、直線以外のものはみとめなくなったのである。こういう進歩は結局は醜悪というものにたどりつくことになる。その結果、骸骨《がいこつ》となった芸術ということになる。こういう点にこそ、この種の知恵と断食の不便があるのだ。様式が簡素になるあまり、いきおい貧弱になってしまうのだ。
こうして、議場の中の政治的情熱を別にして、議場の建築だけしか見ないとすると、この部屋からは戦慄《せんりつ》みたいなものが漂ってくる。むかしの芝居小屋、輪飾りをほどこした桟敷《さじき》、青色と緋色でぬってある天井、多面カットのシャンデリヤ、ダイヤモンドのような光沢をはなつ枝つき燭台、きらめく紫色の壁かけ、カーテンやどん帳にところせましと描かれているキューピッドや水精《ニンフ》の群れ、こうしたものが、ときに描かれ、ときに彫刻され、ときに金色にぬられて、このいかめしい場所を微笑でみたしていた、昔日の優雅な王家の牧歌を、ぼんやりと思い出し、そしてこの議場を見わたしてみると、そこにはただ、鋼鉄のようにつめたく、触れれば切れそうな、荒っぽい直角が、周囲一面に見られるのだ。それはまるで、ダヴィッドによって断頭台にかけられたブーシェ〔優雅な画風で知られるロココ式画家の一人〕にたとえたいような印象だったのである。
(四)
ところが議会がはじまるのを見るものは、たちまち議場の建築のことなど忘れてしまう。芝居を見ているものは、もう劇場のことなど考えないものである。国民公会の会議くらい、みにくく、また崇高なものはなかった。そこにいるのは、ひとかたまりの英雄と臆病ものの群れだった。山の上には野獣ども、沼の中には爬虫類《はちゅうるい》がいた。そこでうごめき、ひじつきあわせ、いがみあったり、脅迫しあったり、戦ったり生きたりしていたのは、今日ではもう鬼籍《きせき》にはいっている人びとだった。
その人びとを列挙すれば巨人たちばかりだった。
右側には、思想家集団のジロンド党ががんばり、左には闘士の群れの山岳党《モンターニュ》がかまえていた。片やジロンド党の陣営の面々はつぎのとおりだった。すなわち、バスティーユ監獄のかぎを受けとったブリソ、マルセーユの住民たちが服従したバルバルー、サン=マルソ近郊に陣を張っていたブレスト大隊の隊長ケルヴェレガン、将軍たちに対する議会議員の優越性をうち立てたジャンソネ、ある夜、テュイルリー宮で、王妃から眠っている皇太子を示されて、その額に接吻しながら、ついにはその子の父王の首をはねさせた運命の人ガデ、山岳党《モンターニュ》がオーストリヤと通じていると密告した陰険なサル、左派の≪いざり≫クートンと好一対をなしている右派の≪ちんば≫のシユリ、ある新聞記者から極悪人あつかいされて、「おれに言わせれば、極悪人なんてのは、一般の人間のような考え方をしない人間のことさ」と言いはなち、その新聞記者を夕食に招待したローズ=デュペレ、自著『一七九〇年代年鑑』のはじめに、『革命は終わった』と書いたラボー=サン・テティエンヌ、ルイ十六世をおとしめた連中のひとりキネット、聖職者民法を起草し、助祭パリスの奇跡を信じ、自分の部屋の壁に高さ七フィートのキリスト像を釘づけにして、夜ごと、その前で跪拝《きはい》したジャンセニストのカミュ、カミーユ・デムーランと七月十四日の事件をおこした僧侶フォーシェ、ブラウンシュヴァイクが「パリはやかれるぞ」と言ったのと同じときに、「パリは破壊されるだろう」と罪なことを言ったイスナール、先頭を切って「わしは無神論者だ」と叫んだものの、すかさずロベスピエールに「無神論は貴族趣味だ」とやりかえされたジャコブ・デュポン、なさけ知らずで、明敏で、しかも勇敢なブルターニュ出身のランジュイネ、ボワイエ=フォンフレードの仲間であるデュコ、バルバルーの親友で、まだロベスピエールを断頭台にかけていないからと辞職したルベッキ、地区委員会の永久設置をやっつけたリショー、「感謝している国民が不幸になるよう!」というめちゃくちゃな金言を作り、そのくせみずから処刑台の下に立ったときは、「国民が眠っているので、われわれは殺されるのだ。国民が目をさましたときには、こんどはおまえたちが殺されるのだ」という、前言とはまるきり反対の言葉を山岳党《モンターニュ》員に投げつけなければならなかったラスールス、議員の不可侵権を布告させて、自分ではそれと知らずに匕首《あいくち》の製造業者になり、とうとう自分の首をはねる断頭台を建てることになったビロトー、「おれはナイフで脅迫されて投票したくない」と抗議して、自分の良心を守ったシャルル・ヴィラット、『フォーブラ』の著者であり、最後には妻のロドイスカを会計係りにして、パレ・ロワイヤルで本屋をはじめたルーヴェ、『パリ風景』の著者であり、「すべての国王は一月二十一日という日を首すじに感じた」と叫んだメルシエ、≪旧勢力の強い辺境地の反動分子≫に不安をいだいていたマレック、処刑台の下で死刑執行人に「死ぬのはやりきれん。おれはこのつづきが見たかったんだが」と言った新聞記者のカラ、マイエンヌ=エ=ロワール第二大隊の擲弾兵《てきだんへい》と自称し、傍聴席から脅迫のやじを受けると、「傍聴席の前のほうの連中に言いたい。われわれは議場を引きあげ、サーベルをふりかざして、ヴェルサイユへ進もうじゃないか!」と叫んだヴィジェ、のちほど飢え死にすることになったビュゾ、われとわが身に短刀をつきさして果てたヴァラゼ、ポケットに『ホラティウス』をしのばせていたのがたたって告発され、そのころブール=エガリテとなっていたブール=ラ=レーヌで非業の死をとげたコンドルセ、一七九二年には民衆に溺愛《できあい》されたが、一七九三年にはおおかみどもにむさぼりくわれてしまう運命をたどったペティヨン……このほかおおぜいの人びとが並んでいた。すなわちポンテクーラン、マルボス、リドン、サン=マルタン、ローマの諷刺詩人ユヴェナリスの翻訳者で、ハノーヴァーの戦いに参加したデュソー、ボワロー、ベルトラン、レステルプ=ボーヴェ、ルサージュ、ゴメール、ガルディアン、マンヴィエル、デュプランティエ、ラカーズ、アンティブールといった面々。そして、これらの親玉《おやだま》としてバルナーヴもどきの、ヴェルニヨーと呼ばれた、男がすわっていた。
反対側にひかえる山岳党《モンターニュ》の面々はつぎの通りだった。
顔が青白く、額がせまく、ととのった横顔に神秘的な目を光らせ、深い悲しみの色をたたえている、二十三歳のアントワーヌ=ルイ=レオン・フロレル・ド・サン=ジュスト、ドイツ人たちから≪フォウエル・タウフェル≫(≪火の悪魔≫)と呼ばれていたメルラン・ド・ティヨンヴィル、容疑者逮捕令の罪ある作成者メルラン・ド・ドゥエー、草月《プレリヤル》一日にパリ民衆によって指揮官にえらばれたスーブラニ、むかし聖水をかけた手に剣をにぎったもと主任司祭のルボン、判事も裁判官もいない未来の司法制度を考えていたビヨー・ヴァレンヌ、ルージェ・ド・リールが崇高な霊感《れいかん》を得て≪ラ・マルセーエズ≫を作曲したのと同じように≪共和暦≫という美しいものを発掘したファーブル・デグランティーヌ……といっても、この二人の独創が発揮されたのはただの一回きりだったが……コミューンの検事で、「国王の死は人間の数をへらすものではない」と言ったマニュエル、トリプシュタットやノイシュタットやシュパイエルなどの町に入城し、プロシャ軍が遁走《とんそう》するのを見たことのあるグージョン、弁護士から将軍になり、八月十日の六日前にサン=ルイ勲爵士《くんしゃくし》に任ぜられたラクロワ、フレロン・ゾイルのむすこフレロン・テルシット、鉄製の家具をことごとく、なさけ容赦もなく徴集して武器を作り、偉大な共和主義者として自殺する運命に生まれたのか、共和国滅亡と同時に自殺したリュール、悪魔の魂と死人の顔を持っていたフーシェ、ギヨタンに「君はフーイヤン党だが、君の娘はジャコバン党だ」と言ったデュシェーヌ師の友人のカンブラス、囚人がはだかであるのをあわれんだ人びとに「牢獄が着物になっておる」というおそろしい言葉をはいたジャゴ、サン=ドニにある王家の墓をあばいたおそるべきジャヴォーグ、人を追放する役についていながら、追放されたシャリ夫人を自分の家にかくまったオスラン、議長になると、拍手したりやじをとばしたりしろと傍聴席に合図したバンタボル、『わたしの家にはロベスピエールもマラもやってこない。ロベスピエールはきたいと思えばくるだろうが、マラはぜったいにこないだろう』と書いたマドモアゼル=ケラリヨの夫で、新聞記者のロベール、スペイン政府がルイ十六世の裁判に干渉したとき、議会は一国の国王について口ばしをいれる国王の手紙など読むことはない、と堂々と主張したガラン=クーロン、はじめは初代教会にふさわしい司教だったが、のちほど帝政時代に伯爵にしてもらって、共和主義をすててしまったグレゴワール、「地球全体がルイ十六世を有罪としている。では、いったい、だれに控訴《こうそ》したらよいのか? 他の遊星にでもするほかはない」と言ったアマール、一月二十一日のルイ十六世処刑の日に、ポン=ヌフで祝砲をうとうとしたものに対し、「国王の首がほかの人間の首よりも大きな音をさせることは、まかりならん」と言って反対したルーイエ、詩人アンドレ・シェニエの弟のマリ・ジョゼフ・シェニエ、演壇の上にピストルを置いたもののひとりであるヴァディエ、モモロとこう話しあったパニス……
パニス「おれはマラとロベスピエールにおれの家の招待テーブルの上で抱きあってほしいよ」
モモロ「君はどこに住んでいるのか?」
パニス「シャラントン」
モモロ「ああ、シャラントンときいて、おれは安心したよ」……
イギリス革命ではばをきかせた誇りと同じように、フランス革命で人殺しの役を引き受け、ランジュイネに「さあ、こい。おまえを殺してやる」と叫び、ランジュイネから「それより先に、おれが牛だと決議させろ」と言いかえされたルジャンドル、陰気な喜劇役者で、「そうだ」と「ちがう」の二枚舌を使い、古代劇の仮面をつけ、片方で非難するかと思うと反対側で賛成し、カリエがナントでやったことに悪口をたたき、シャリエがリヨンでやったことを弁護し、ロベスピエールを断頭台にかけ、マラをパンテオンにほうむったコロ・デルボワ、≪殉教者ルイ十六世≫というメダルをかけているやつは、だれかまわず死刑にしろと要求したジェニシュー、学校の教師で、モン=ジュラの老人に自宅を貸してやったレオナール・ブールドン、もと船員のトプサン、弁護士グーピヨー、商人ローラン・ル・コワントル、医師デュエム、彫像師セルジャン、画家ダヴィッド、もと公爵で平等家のジョゼフ……このような面々が議席におさまっていた。
その他にもいた。『マラは精神錯乱だ』と決議して公布しろと主張したルコワント・ピュイラヴォー、保安委員会という頭を持ち、革命委員会という二万一千本の足を持って、フランス全土をおおったあのタコの、いやらしい創造者であるロベール・ランデ、ジレ=デュプレから、その詩『偽愛国者たちのクリスマス』の中で『ルブーフはルジャンドルを見かけてモーとないた』と歌ってからかわれたルブーフ〔ルブーフの≪ブーフ≫は≪牛≫という意味〕、アメリカ人で寛大なトーマス・ペイン、ドイツ人で、男爵で、百万長者で、無神論者で、むじゃきなエベール派革命党員のアナカルシス・クローツ、デュプレの友だちで公正なルバ、≪芸術のための芸術≫という考え方は世間で信じられている以上に存在しているがゆえに、≪悪事のための悪事≫をはたらくという世にもめずらしい男のひとりロヴェール、もと貴族には常に≪ヴー≫〔≪あなた≫のていねいな言い方〕と、くそていねいに呼ぶようにしろと言ったシャルリエ、もの悲しい顔をしているくせに芯《しん》は獰猛《どうもう》で、ふざけて熱月《テルミドール》九日の事件をおこしたタリヤン、のちほど貴族に列せられた検事カンバセレス、のちほどトラというあだなをつけられたカリエ、あるとき「おれは警報用大砲の優先権を要求する」と叫んだラプランシュ、革命裁判所の陪審員の投票を、大きな声をだしてやるよう要望したテュリヨ、シャンボンに決闘をいどみ、ペインを告発し、最後には自分自身がエベールに告発されてしまったブールドン・ド・ロワーズ、ヴァンテ地方に「火災をおこさせる軍隊を派遣せよ」と提案したファイヨー、四月十三日〔マラを革命裁判に付せよという議決がなされた日〕に、ジロンド党と山岳党《モンターニュ》とのあいだの調停者といった役目を引き受けたタヴォー、ジロンド党首脳も山岳党《モンターニュ》首脳も一兵として奉公すべしと主張したヴェルニエ、マインツの城に立てこもったルーベル、ソーミュール占領のとき、乗馬を敵弾にやられたブールボット、シェルブール沿岸警備隊指揮官ガンベルトー、ラ・ロシェル沿岸警備隊指揮官ジャール=ハンヴィリエ、カンカル艦隊指揮官ル・カルパンティエ、ラシュタットで伏兵の手で殺されたロベルジョ、軍隊では常にもとの階級だった騎兵中隊長の肩章をつけていたプリウール・ド・ラ・マルヌ、たったひとつの命令でサン=タマン大隊長セランに死ぬ決意をせしめたルヴァスール・ド・ラ・サルト……こういう人物たちもいた。
さらに、このほかには、ルヴェルション、モール、ベルナール・ド・サント、シャルル・リシャール、ルキニヨという人びともいた。そして、このグループのてっぺんに、あのミラボーもどきのダントンがかまえていたのだ。
さらに、このジロンド党と山岳党《モンターニュ》のそと側にいて、この二つの党から尊敬を集めるようにして、ひとりの男が立っていた。ロベスピエールその人だった。
(五)
議場の下のほうには、高貴なものになることができるおどろきと、いつまでたっても下劣なものにとどまっている恐怖とがうずくまっていた。情熱の下、英雄主義の下、犠牲的精神の下、激怒の下には、陰鬱でそうぞうしい無名の人の群れがいた。議場のひくい場所は≪平原《プレーヌ》≫と呼ばれていた。そこには、ありとあらゆる浮動する人びと、つまり、疑っているもの、どうしようかとためらっているもの、しりごみするもの、なんでも先へのばそうとするもの、チャンスをつけねらっているもの、が群がり、そのひとりひとりがだれかをおそれていた。
山岳党《モンターニュ》もつぶぞろいの人物ばかり、ジロンド党もえりすぐりの人物ばかりだったが、≪平原《プレーヌ》≫の面々はばかのより集まりだった。そして、この≪平原《プレーヌ》≫の連中は、シエイエスに要約し、圧縮することができた。
シエイエスはもとは深みのある男だったが、このころではもう中身がからっぽの男になりかわっていた。第三階級でとまってしまって、民衆にまでとどくことができなかった。山の中腹でとまってしまう人間はいくらもいるものである。シエイエスはロベスピエールをトラと呼び、ロベスピエールはシエイエスのことをモグラと呼んでいた。この形而上学《けいじじょうがく》が到達したのは知ではなくて慎重というものだった。彼は革命の廷臣ではあったが、奉仕者ではなかった。シャベルを手にして、アレクサンドル・ド・ボーアルネと同じように荷車にくっついて、民衆といっしょにシャン・ド・マルスへ働きにいった。また、人にはエネルギッシュに活動しろとすすめながら、自分はちっともエネルギッシュに活動しなかった。ジロンド党員に向かって「君たちの党にも大砲を置け」と言ったものだ。戦闘するタイプの思想家がいるものであるが、こういうタイプの連中としては、ヴェルニヨーとともに活動したコンドルセ、ダントンといっしょに活動したカミーユ・デムーランなどがいた。こうして、ただ生きながらえることを望んでいる思想もあるものである。こういう連中が、みなシエイエスとともに活動したのだった。
どんなに上等なブドウ酒のたるにも滓《おり》はたまるものである。≪平原《プレーヌ》≫の下のほうには、まだ≪沼地《マレ》≫というものがたまっていた。この醜悪な沈澱《ちんでん》物の中には、利己主義がはっきりとみとめられた。そこでは、臆病ものたちが口をつぐんで群れつどい、期待をいだいてうちふるえていた。これほどみじめなものはなかった。彼らはあらゆる醜行を演じながら、少しも恥ずかしいとは思っていなかった。内に怒りを秘めて、奴隷状態の下で反抗していた。彼は恥ずかしげもなくおびえ、醜悪な所業に対しては勇気を持っていた。今日はジロンド党につき、明日は山岳党《モンターニュ》に味方した。決定的な結果は彼ら次第でどうにでもなった。つまり彼らはうまくいきそうな側に流れたのだ。
彼らはルイ十六世をヴェルニヨーに、ヴェルニヨーをダントンに、ダントンをロベスピエールに、ロベスピエールをタリアンに引きわたした。まだ生きているあいだはマラをさらしものにし、いったん死ぬと、神のごとく礼讃した。彼らはすべてのものを支持しながら、時いたれば、たちまちこれをくつがえしてしまった。彼らは本能的によろめくものにはとどめの一撃をあたえることにしていた。彼らは、しっかりしていないものにはぜったい奉仕しないことにしていたから、その目には、よろめくものは自分たちを裏切っているようにうつったのだ。彼らの数は多く、力も強かった。したがって彼らは恐怖そのものだった。ここから、彼らの破廉恥《はれんち》はわまるずうずうしさが生まれてきたのだ。
こうして、五月三十一日の事件も、芽月《ジェルミナール》十一日の事件〔ジャコバン党が暴動をおこした事件〕も熱月《テルミドール》九日の事件も、巨人たちの手で結ばれ、小人どもの手でほどかれた悲劇だったのだ。
(六)
こうした熱情あふれる人びとの中に、夢想に沈みこむ人びとがまじっていた。そこには、あらゆる形をしたユートピアがあった。その形の中には、断頭台をみとめる好戦的な形もあったし、死刑を廃止せよとする純な形もあった。これらのユートピアは、王座の側にある人びとには亡霊のように思われたが、民衆にとっては天使のように思われた。戦う人びとの目の前に、目をとじて夢想にふける人びとが向かいあっていた。あるものが頭の中で戦争を描くかと思うと、あるものは頭の中で平和を思い描いていた。カルノはその頭脳をしぼって十四軍団を産みだし、ジャン・ドブリはその頭脳を使って世界民主連邦を夢想していた。雄弁の怒りくるう中にも、わめき立て騒ぎまくる声の中にも、ゆたかな静けさがあった。ラカナールは口をつぐんでいたが、国民の義務教育を構想していた。ラントナも黙っていたが、頭の中では初等教育制度を作りだしていた。レヴリエール=レポーもやはり黙っていたが、哲学を宗教の位にまで高めることを考えていた。さらに、これらの人びとのほかに、もっとちっぽけだけれども、もっと実践的な問題に一心に頭をしぼっている人びともいた。ギトン=モルヴォーは病院の刷新《さっしん》を、メールは地役権の廃止を、ジャン=ボン=サン=タンドレは負債ゆえの投獄および身柄拘束の廃止を、ロムはシャップの提案〔シャップは物理学者で、信号通信の発明者。国民公会はこの発明を採択した〕を、デュボワは記録書の整理方法を、コラン=フェスティエは解剖室と博物館の設立を、ギヨマールは河川航海術とエスコー河のダムのことを研究していた。
また美術の熱狂的な愛好者や偏執狂《へんしゅうきょう》者もいた。国王処刑の一月二十一日、君主制体の首が革命広場にころがり落ちているあいだに、オワーズ県選出の議員ベザールは、サン=ラザール街のあばらやで見つかったルーベンスの絵を見にいった。芸術家も、演説家も、予言者みたいなことを言う人びとも、ダントンのような巨人も、クローツのような純心|無垢《むく》な人も、剣闘士も、哲学者も、すべての人たちが、同じひとつの日標、つまり進歩に向かってつき進んでいたのだ。なにものも彼らをくじくことはできなかった。国民公会の偉大な点は、人間たちが不可能と呼んでいるものの中に現実性を求めたところにあるのだ。こういう議会の片端にはロベスピエールがいて、≪権利≫をじっと見つめ、もう片方の端にコンドルセがいて、≪義務≫を見つめていた。
コンドルセは夢想と明晰《めいせき》の人だった。ロベスピエールは実行の人だった。そして、ときに、古びた社会が最後の危機にみまわれているときには、実行ということは皆殺しを意味する。どの革命を見てみても、そこにはのぼり坂とくだり坂のふた通りの斜面がある。そして、この斜面には、氷のはる冬から花の咲き乱れる春にいたるすべての季節が、区切りをつけてふりそそぐのだ。さらに、このふたつの斜面のそれぞれの地帯は、おのおのの気候に適応した人間を産み出している。太陽のもとで生きる人びとから雷《いかずち》のきらめく中で生きる人びとまで、ありとあらゆる人間を産み出しているのだ。
(七)
よく人びとは、議場の左手の廊下の奥まった場所を指さしあったものだ。この場所は、ロベピエールが「クラヴィエールは息ができるところならどんなところででも陰謀をめぐらした男だ」という、あのおそるべき言葉をクラヴィエールの友人ガラに耳うちしたところだった。
こうした場所は、密談をしたり、小声で怒りをあらわしたりするには便利で、ファーブル・デグランティーヌが、自分が作った革命暦の月の名≪フェルヴィドール≫を、ロムが≪テルミドール≫にかえてしまったと、ロムを非難したのも、ここだった。また人びとは、議場のある片隅を指さしあったものだが、それはオート=ガロンヌ県選出の七人の議員がひじをくっつけあってすわっていた席だった。この七人の議員たちは、ルイ十六世の判決について第一番に意見を求められたとき、マイユ「死刑」、デルマス「死刑」、プロジャン「死刑」、カレス「死刑」、エラル「死刑」、ジュリアン「死刑」、ドザン「死刑」、とつぎつぎに答えて、ルイ十六世の死刑を宣告したのだった。こうして、この死刑という言葉は永遠に消えないひびきで歴史をみたしてきたのであり、そして、そのひびきは、人間の正義が存在するようになって以来、常に裁判所の壁に墓場のこだまを生みだしてきたものである。
さらに人びとは、議場の中にごたごたと並んでいる顔の中に、あの「国王は死刑」という悲惨な票決を叫んですべての人びとを指でさしあった。それはつぎのような人びとだった。
「死刑。国王は死ななければ無用の存在だ」と言ったパガネル、「今日、死刑というものが存在していなかったならば、即刻作らなければならんだろう」と言ったミヨー、「すぐに死刑だ!」と叫んだ老ラフロン・デュ・トルーイユ、「ただちに断頭台へ。ぐずぐずしていると死刑の上に刑を加重しなければならなくなる」と叫んだグーピヨー、簡潔明瞭な一語である「死刑」という言葉を使ったシエイエス、ビュゾーが提案した民衆の意見による判決に反対し、「なんだと、初級議会にうったえる! なんだと! 四万四千の裁判所にうったえるのか! そんなことをしていたら、この裁判はきりがつかん。ルイ十六世の首は落ちる前に白くなってしまうぞ!」と叫んだテュリヨ、兄のマクシミリアン・ド・ロベスピエールのあとから、「民衆の首をえぐり、専制君主をゆるすヒューマニストなどひとりも知らんよ。死刑だ! 死刑の執行|猶予《ゆうよ》を要求することは、民衆にうったえることにはならない。圧政者どもにうったえることになるのだ」と叫んだオーギュスタン=ボン・ロベスピエール、ベルナルダン・ド・サン=ピエールの後継者で、「わたしは人間の血が流れるのを見ると身ぶるいするほどおそろしいが、国王の血は人間の血ではない。死刑だ」と言ったフースドワール、「圧政者の死がないかぎり、自由な民はない」と言ったジャン=ボン=サン=タンドレ、「圧政者が呼吸しているかぎり、自由は窒息する。死刑だ」という名文句をのべたラヴィコントリー、「ルイ王朝最後の国王を死刑にしろ!」と叫んだシャトーヌフ・ランドン、「ひっくりかえった柵《さく》を処分しろ!」という願いを述べたギヤルダン(このひっくりかえった柵というのは王座の柵のことだった)、「ルイ十六世の頭と同じ口径の大砲を鋳造《ちゅうぞう》して、ルイの頭をこめて敵を撃て」と言ったテリエ。
こうした人びとの顔が並んでいたのだ。
そうかと思うと、寛大な人びともいた。
「わたしは国王の禁固刑に投票する。ルイをしてチャールズ一世たらしめれば、クロムウェルのような人間を生む」〔イギリス王チャールズ一世はクロムウェルのひきいる議会軍の手で処刑された。以後、クロムウェルは独裁者となった〕と述べたジャンティ、「国外追放だ。宇宙初代の国王が、パンをうるため、生業につかざるをえないところを見たいのだ」と言ったバンカル、「追放だ。この生ける亡霊を諸国の王座の周囲をうろつかせろ」と言ったアルブーイ、「監禁せよ。カペを生ける≪かかし≫にしておこう」と言ったザンジャコミ、「生かしておけ。死刑にすると、ローマ法王が聖者に列するかも知れんぞ」と言ったシャイヨン。
こうした言葉がきびしい口からとびだして、つぎつぎに歴史の中に散っているあいだに、傍聴席ではデコルテ〔えりや首を露出させたドレス〕をまとって飾り立てた女たちが、片手に議員の名簿を持ちながら、議員たちが投票発言する声を数え、各投票ごとにピンで穴をあけていた。
悲劇がはいりこんだ場所には、恐怖と憐れみが残っている。
国民公会がフランスを支配していた時期にはいつでも、この議会を見たものは、カペ王朝最後の国王ルイ十六世の審判のようすを、思いおこすのだ。一月二十一日の伝説は、この議会のすべての活動にまじりあっているように思われた。このおそるべき議会は、十八世紀のあいだともってきた君主制という古いたいまつの光の上を吹きすぎ、最後にはその光を消してしまった、あの致命的な風をいっぱいはらんでいたのだ。ひとりの国王の中にすべての国王を裁いた決定的な裁判は、この議会が過去に対して宣戦布告した大戦争の出発点のようなものだった。国民公会のどの会議に参加してみても、そこに見るのは、ルイ十六世の処刑という長い影が投影されているということだ。傍聴人たちは、ケルサンが辞職したこと、ロランが辞職したこと、ドゥ=セーヴル県選出議員デュシャテルが病気でベッドにふしたまま議場に運びこまれ、自分は死にかけているのに、国王の助命のほうに投票し、マラから笑われたことなどを、話しあったものだ。
それから人びとは、ある議員のすがたを目でさがそうとしていた。この人物は今日の歴史ではまったく忘れ去られてしまっているが、判決の議事進行に三十七時間もかかりっきりになっていたあげく、疲労と不眠のあまりベンチの上で眠りこみ、投票する番がきたと守衛にゆりおこされても細目《ほそめ》をあけただけで「死刑!」と言い、そのまままた眠ってしまったのである。
ルイ十六世に死刑宣告をくだしたとき以後、ロベスピエールは十八カ月、ダントンは十五カ月、ヴェルニヨーは九カ月、マラは五カ月と三週間、ルペルティエ=サン=ファルジョーはたったの一日間、それぞれ生きただけだった。人間の息など、なんと短くおそるべきものではないか!
(八)
国民公会にはひとつの窓があって、そこから民衆はながめられるようになっていた。つまり傍聴席である。この窓だけでは充分でないときは、ドアをあけはなち、町じゅうが議場の中へはいるというわけだった。このように群衆が上院に侵入するということは、歴史の中でももっともおどろくべき光景のひとつである。といっても、通常、こういう侵入は議場を活気づけるためだった。町の人びとが議場のえらい連中と兄弟のようにしたしかったからである。
しかし、ある日など、三時間あまりのうちに、廃兵院の大砲と四万ちょうもの小銃をうばってしまったような民衆のしたしみなどは、まことにおそるべき真心というべきである。民衆は列をなして、時間もわきまえずにやってきては、会議を中断させた。その列は、請願書、表彰状、贈物などを持って、議場の中へはいることをゆるされた民衆の代表たちが作っていた。サン=タントワーヌ町郊外の≪名誉の槍《やり》≫も、女たちの手で議場へ持ちこまれた。素足でいるフランス兵士たちにと、二万足の靴を提供したイギリス人たちもいた。『モニトゥール』紙は、「オービニヤンの司祭、ドローム大隊指揮官である市民《シトワイヤン》アルヌーは、国境に進撃すること、自分が聖職についていられることを議会に要求」という記事をだした。すると、各地区の代表者たちは、皿、聖体皿、聖盃、聖体顕示台、金銀の塊、めっきした銀などを、担架にのせて議場に運びこみ、多数の貧民が祖国へおくる奉納物とし、そのおかえしに国民公会前で革命舞踏カルマニョールをやることを許可してほしいと申しでた。
シュナール、ナルボンヌ、ヴァリエールという三人の男は、山岳党《モンターニュ》をたたえる歌をうたいにやってきた。モン=ブラン地区《セクション》の住民たちは、ルペルティエの半身像を議会にはこびこみ、議長がひとりの女を抱擁すると、その女は赤帽子《ボネ・ルージュ》を議長にかぶせた。≪マイユ地区《セクション》の女市民《シトワイエンヌ》たち≫は、≪立法者たち≫に花を投げた。≪祖国の学生たち≫は音楽入りでおしかけてきて、国民公会が≪世紀の繁栄を用意した≫ことを感謝した。ガルド=フランセーズ地区《セクション》の女たちは、ばらを捧げ、シャン=ゼリゼ地区《セクション》の女たちはかしわの冠を捧げ、タンプル地区《セクション》の女たちは議場内の柵のところまではいってきて「まことの共和主義者でなければ結婚しない」と誓った。モリエール地区《セクション》の住民たちは、フランクリンのメダルを捧げた。このメダルは議会命令によって自由の女神像の冠につるされることになった。
共和国の子であると宣告されたすて子たちは、国民服を着て行進した。カトルヴァン=ドゥーズ地区《セクション》の少女たちは、長い白のドレスを着てやってきた。すると、翌日の『モニトゥール』紙が、「議長は美少女たちのけがれのない手から花束を受けとった」という記事をだした。議会の演説者たちは民衆に挨拶した。ときには民衆をおだてることもあった。民衆に向かって、「君たちはまちがいをおかさない、非難しようがないくらい完全だ。君たちは崇高《すうこう》なのだ」と言うのだった。民衆は子どもっぽいところがあるもので、こういう砂糖菓子みたいにあまったるい言葉が好きなのだ。
しかし、ときには、暴徒が議場になぐりこみをかけることもあった。ところが、はいるときは怒りくるっていた彼らも、でていくときにはすっかり静かになっていた。まるで、レーマン湖にそそぐときは泥水だが、この湖からでていくときには青色にかわってしまっているローヌ河みたいだった。
ときには、民衆がそれほどおだやかにかまえていないときもあった。それで、あのアンリヨが、議場のあるテュイルリー宮の門の前に砲弾を加熱させる火床を持ってこさせたこともあった。
(九)
国民公会は革命を促進させると同時に文明をも産みだした。火を燃え立たせる大がまであるとともに鉄をきたえる場所でもあったのだ。恐怖がわき立っているこの大桶の中では、進歩が醗酵《はっこう》していた。この混沌《こんとん》たる影とさわがしい雲の飛翔《ひしょう》の中から、永遠の法則にかなうなん本もの巨大な光線が射しだしていたのだ。これらの光線は地平線上にとどまって、以後いつまでも、民衆の空からぜったいに消えないことになる。それらの光線とは、正義、寛大、善意、理性、真実、愛だった。国民公会は、『市民の自由は、他の市民の自由が始まるところに終わる』という、あの偉大な公理を公布した。これは、たった二行の行文の中に、全人間の社会性を要約している。また国民公会は赤貧《せきひん》こそ神聖であると宣言した。盲人や聾唖《ろうあ》者を国家が保護して不具者の神聖たることを宣言し、私生児の母親をなぐさめ、力づけて、母性を神聖とみなし、みなし子を国家の養子として幼児の神聖なることを宣言し、また釈放された被告には補償金をあたえて、無実の罪におとしいれられたものは神聖であると宣言した。さらに国民議会は、黒人の売買を弾劾《だんがい》して、奴隷制度を廃止した。国民議会は市民の連帯性を宣言し、無料の義務教育を宣言した。パリには師範学校を、県庁所在地には中央学校を、市町村には小学校を作って、国民教育を組織化した。また公立学校や博物館も設立した。さらに法規の統一、度量衡《どりょうこう》の統一、十進法による算数の統一を宣言した。
国民公会はフランス財政の基礎を作り、君主制時代に長くつづいた破産状態をなくして、国債保障を施行した。電信機による通信を普及させ、老人には国立の養老院を、病人には清潔な病院を作った。教育の方面では理工科大学を、科学の方面では経度観測所《けいどかんそくじょ》を、人文科学の方面では学士院《アンスティテュ》を設立した。国民公会は国家的であると同時に世界主義的《コスモポリット》であった。国民公会が公布した一万一千二百十の法令の中で、その三分の一は政治上のものであり、あとの三分の二はヒューマンな目的のために作られたものである。国民公会は道徳をもって社会の普遍的な基礎とし、良心をもって法の普遍的基礎とすると宣言した。
それから、国民公会は、奴隷制度の廃止、友愛精神の宣言、人間性の保護、人間の良心の矯正《きょうせい》、労働を権利に変え、重荷になる仕事を救いに変える法律、国の富の確立、児童の啓蒙と養育、文芸と科学の繁栄、あらゆる分野の頂上にともしびをともすこと、あらゆる貧困者を助けること、あらゆる原理の公布、といったことをすべて、体内にはヴァンデ反乱という七頭蛇《ヒドラ》をかかえ、双肩には諸国の王というトラの大群をにないながら、みごとにやりとげたのである。
(十)
国民公会は広大な場所だった。この議場には、人間的なタイプの人、非人間的なタイプの人、超人間的なタイプの人と、ありとあらゆる種類の人間が集まってきた。それは、相対立し、たがいにかみあう叙事詩に登場するような人物たちの群れだった。ギヨタンはダヴィッドをさけ、バジールはシャボをあなどり、ガデはサン=ジュストをあざ笑い、ヴェルニョーはダントンを軽蔑し、ルーヴェはロベスピエールを攻撃し、ビュゾーは平等家《エガリテ》を告発し、カンボンはパシュを傷つけ、そして、みんながマラを憎悪したのだ。
列挙すべき人物の名はまだまだあるのだ! 議会に出席するときは必ずフリギア帽をかぶってきたので≪赤帽子《ボネ・ルージュ》≫と呼ばれていた男、ロベスピエールの友人であるのに、なんでもつりあわねばならないという趣味を持っていたので、『ルイ十六世のつぎは、ロベスピエールを断頭台にかけよう』と思っていたアルモンヴィル、議員にたがいに接吻させたという一事で名を残した善良な司教ラムーレットの同僚であると同時に瓜《うり》ふたつだったマシュー、ブルターニュの僧侶たちに烙印《らくいん》をおしたルアルディ・デュ・モルビアン、いつも大勢のほうにくっつき、ルイ十六世が国民公会の裁判に引きだされたときには議長をつとめ、ルーヴェとその妻ロドイスカとの関係と同じような関係を、ジャリス伯爵夫人の養女パメラと結んでいたバレール、「時間をかせごう」と叫んだ演説家のドーヌー、いつもマラがその耳もとにかがみこんでいたデュボワ=クランセ、シャトーヌフ侯爵のラクロ、「砲手、撃て!」と叫んだアンリヨの前からすごすごと引きさがったエロー・ド・セシェル、山岳党《モンターニュ》をテルモピレーの山々にたとえたジュリアン、婦人専用の傍聴席を作るよう主張したガモン、国民公会にやってきて、司教冠をぬいで赤帽子《ボネ・ルージュ》をかぶった司教ゴベルに名誉の議席をあたえたラロワ、「これでは、坊主どもが聖職をやめたがる!」と叫んだルコント、のちほど、その首に対しボワシ=ダングラスが敬礼したフェロー、(もっとも、この敬礼は、『ボワシ・ダングラスは首に、つまり犠牲者の首に敬礼したのか、あるいは槍に、つまり加害者たちに敬礼したのか?』という疑問を歴史に残したが)、それから兄がジロンド党員で弟が山岳党《モンターニュ》員であるため、あのシェニエ兄弟のように憎みあっていたデュプラ兄弟、といった人たちも列挙されるのだ。
国民公会の演壇では、人が目をまわしそうな激しい言葉がとびだしていた。こうした言葉は、ときに、その言葉の発言者も気づかぬまに、革命にはつきものの、あの激しい調子になってしまう。そして、こうした言葉のあとでは、いろいろの具体的な事実が、なんとも奇妙な不満や情熱といっしょに、ふいにとびだしてきた。まるで、演説していた人間の言葉が聴衆にまちがって受けとられているようだった。口をついてでた言葉がここでおこる出来事を怒らせ、まるで人間の言葉に激昂《げっこう》させられたみたいに、激発する破局がやってくるのだ。
こうして山岳党《モンターニュ》の陣営からとびだすひとつの声だって、充分になだれをおこす力を持っていたのだ。よけいなひと言でも、崩壊をたどる結果になりかねないのだ。もししゃべらなかったら、あんなことはおきなかっただろうと思うことがよくあった。とかく事件というものは怒りっぽく、大事をまねきかねないのである。
エリザベート夫人〔ルイ十六世の妹〕の首が切られたのも、たまたま演説者のひと言が誤解されておきた事件だった。
国民公会では、激しい言葉をはくことも正しいとされていた。
討議の最中には、脅迫がまるで火事の火の粉のようにはねまわった。たとえば、こんなふうであった……
ペティヨン「ロベスピエール、早く本筋にはいれ」
ロベスピエール「本筋はおまえのことだぞ、ペティヨン。すぐ話してやるぞ、そうすりゃ、おまえもわかるだろう」
議員席から声「マラを死刑にしろ!」
マラ「おれが殺されたら、パリもなくなるぞ。パリがなくなりゃ、共和国もなくなるんだ」
ビヨー=ヴァレンヌが立ちあがって「われわれが望むのは……」
バレールがやじって、「おまえは国王みたいな口をきく」
また、ほかの日には……
フィリポー「ある議員がわたしに向かって剣をぬいた」
オードゥワン「議長、その人殺しを懲罰しろ」
議長「待て」
パニス「議長、早くしないと、おれがおまえを懲罰する」
議場に騒然たる笑いがまきおこる。
ルコワントル「シャン=ド=ブーの主任司祭が自教区の司教フォーシェについて苦情を訴えている。彼はフォーシェから結婚を禁じられたと言っている」
議場に声あり「情婦をどっさりかかえとるフォーシェがなぜ他人の結婚をじゃまするのか、さっぱりわからんぞ」
議場に別の声「坊主ども、女房をもらえ!」
傍聴人たちも議場のやりとりにくわわっていた。彼らは議員連中と≪きみ≫≪ぼく≫といったふうに親しい口をきいていた。ある日、リュアン議員が演壇にあがった。彼は人より大きな腰の持主だった。ひとりの傍聴人が彼にこう叫んだ。
「そのでっかい腰を右にひねってみろ。おまえ、ダヴィッド流のほっぺたを持ってるんだろ!」
これほど民衆は国民公会に対して、したいほうだいのことをしていたのだ。けれども、ただ一度だけだが、一七九三年四月十一日に、傍聴席がさわいだときに、議長は傍聴人の中の妨害者をひとり逮捕させた。
ある日、国民公会があのブオナロッティ〔イタリアの革命家。高名な彫刻家ミケランジェロの子孫〕を証人として呼んだ。ロベスピエールが発言して二時間もしゃべった。このあいだ、ロベスピエールは、ダントンをまともにぐっとにらみつけたり、横目で陰険にうかがったりしていた。まともにうらまれるのも重大な危険をはらんでいたが、横目でうかがわれるのはいっそう危険だった。ロベスピエールは相手を至近距離から攻撃するのだった。彼は最後に、気味の悪い言葉で憤怒《ふんぬ》を爆発させて、話し終わった。
「われわれには陰謀家も、贈賄《ぞうわい》者も、裏切りものも、よくわかっているのだ。彼らはこの議場の中にいる。彼らはわれわれの話をきいている。われわれには彼らが見えるし、われわれは彼らから目をはなさない。彼らがもし頭上に目をやれば、法の剣が見えるだろう。また自分の良心に目をやれば、そこにみずからの汚辱《おじょく》を見るだろう。彼らは自分に用心すべきである」と。
ところが、ロベスピエールが演説を終えると、ダントンが顔を天井に向け、両眼を半分とじて、ベンチの背から片腕をたらして、うしろにひっくりかえって、鼻歌をうたっていた。
「カデ・ルーセルが演説したが、
短いときには、長くはなかった」
呪《のろ》いの言葉にはすぐに返事がかえってきた。「陰謀家!」「人殺し!」「極悪!」「反逆者!」「へなちょこ!」というふうだった。議員たちは議場にあるブルータスの半身像に向かって、告発しあった。毒舌、雑言、挑戦がいり乱れていた。あたり一帯、怒り狂った眼《まな》ざしばかりだった。拳《こぶし》をふりあげ、ピストルをちらつかせ、短刀を半分ぬいていた。傍聴席は巨大な火焔に包まれていた。あるものは、もう断頭台によりかかっているような気持になってしゃべっていた。おびただしい頭が、恐怖と戦慄《せんりつ》にふるえて波うっていた。山岳党《モンターニュ》員、ジロンド党員、フーイヤン党員、宥和《ゆうわ》派、テロリスト、ジャコバン党員、コルドリエ派、それからルイ十六世の死刑に投票した十八人の僧侶たち。これらがすべて、国民公会に集まっていたのだ。
これらすべての人びと! それは、のちほど四方八方へおし流されていくことになる、なん本もの煙がひとつにかたまったすがただったのである。
(十一)
風にとらわれた魂たち。
ところが、この風こそ奇跡をはらんだ風だった。
国民公会議員になることは、大洋の中のひとつの波になることだった。そして、このことは、議員の中のいちばん偉大な人物にとっても同じことだった。推進する力は上のほうからおりてきた。国民公会の中には、すべての人びとのものであって個人のものではないひとつの意志がひそんでいた。この意志とはひとつの思想だった。この思想はおさえることのできないほど大きなもので、天空のはてから下の影の世界に吹いてきた。われわれはこの思想のことを≪革命≫と呼ぶのだ。この思想は過ぎていくとき、あるものをたおし、あるものを立ちあがらせる。あるものを泡と化して飛散させ、あるものを暗礁《あんしょう》にうちつけて砕《くだ》く。この思想は自分のいく道を知っていて、深淵を先駆《せんく》にしてつき進む。革命を人間のせいにすることは、潮のみちひを波のせいにするのとひとしい。
革命とは、≪未知≫がなすひとつの行動である。未来に希望をたくすか、過去に渇仰《かつごう》をおぼえるかによって、この行動を善行と呼ぶか、あるいは悪行と呼ぶかしたらよい。しかし、この行動力を作った≪未知≫については、とやかく言わないでほしい。革命は大事件と偉人とが力をあわせて作った作品のように見えるが、事実は、いろいろな事件が集積されたものである。いろいろな事件が消費すると、その代価を人間が支払い、いろいろな事件が口述すると、それに人間がサインするのである。七月十四日の事件はカミーユ・デムーランがサインし、八月十日の事件はダントンがサインし、九月二日の事件はマラがサインし、九月二十一日の事件はグレゴワールがサインし、一月二十一日の事件はロベスピエールがサインしたのだ。しかし、これらデムーラン、ダントン、マラ、グレゴワール、ロベスピエールと言った人たちは書記にすぎないのだ。これらの偉大な数ページを書いた、巨大で気味の悪い起草者の名はただひとつ、つまり≪運命≫という仮面をかぶった≪神≫だったのである。ロベスピエールは神を信じていた。もっともしごくというべきだ!
革命はありとあらゆる方面からわれわれを圧迫する内在的な現象の一形式であり、これをわれわれは、≪必然性≫と呼んでいるのである。
このような恩恵と苦悩との神秘的な複雑性を目の前にするとき、『それはなぜおこったのか?』という歴史上の疑問がおこってくる。
≪なぜならば≫と言う解答は、すべてを知りつくしている人が言ったところで、なにひとつ知らない人が言ったところで同じで、所詮《しょせん》、この疑問に答えることはできないのだ。文明を荒廃させるとともに、文明に生命《いのち》をあたえる、このような過渡期の大事件を眼前にすると、人はその微細な点まで判断し裁くことを躊躇《ちゅうちょ》する。結果だけ見て、その人間を非難したり称讃《しょうさん》したりするのは、合計を読んで数字をひとつひとつ称讃したり非難したりするのと、ほとんど同じだからである。おこるべき事件はおこり、吹くべき風は吹くものである。しかし、永遠の静けさはこういう北風になやまされることはない。革命の上のほうには真実と正義とが、嵐の上にひろがる星空のように、きらめいているのである。
(十二)
これが、あのとてつもなく大きな国民公会というものであった。それこそ、ありとあらゆるやみから攻撃されていた人類の野営陣地であり、攻囲されていた思想という軍隊の夜のともしびであり、深淵のふちの斜面に設営された精神の広大な露営であった。元老院であると同時に下層民であり、教皇選挙会であると同時に群衆であり、最高法院であると同時に公共広場であり、裁判所であると同時に被告であった。この集会に比せられるものは、歴史上なにひとつ存在しないのである。
国民公会は常に風のまにまに曲げられたが、この風は民衆の口によって吹かれた風であり、つまりは神の吐息であった。
こうして、以来すでに八十年の歳月が流れた今日でも、それが歴史家であれ哲学者であれ、だれかの脳裡《のうり》に国民公会のすがたが立ち現われるとき、だれでも立ちどまって、じっと考えこむのである。そして、今は影の人となってしまった人びとの偉大な足跡に、じっと目をそそがないわけにはいかないのである。
二 黒幕マラ
パン街でダントン、ロベスピエール、シムールダンと会った翌日、マラはシモンヌ・エヴラールに予告しておいた通り、国民公会へでかけていった。
国民公会には、マラ派のもと侯爵ルイ・ド・モントーがきていた。この男はのちほど国民公会に十進法式の振子時計を贈ったが、この時計の上部にはマラの半身像がついていた。
マラが議場にはいっていくと、シャボがモントーのそばにやってきたところだった。
「もと貴族君……」と、シャボが言った。
モントーが目をつりあげた。
「なぜ、ぼくのことを、もと貴族なんて呼ぶのだ?」
「事実、そうだったんだからな」
「ぼくが?」
「君は侯爵だったもんな」
「そんなことはぜったいにない」
「ばかな!」
「ぼくのおやじは兵隊で、祖父は織工だった」
「どうして、そうでたらめを言うんだ、モントー?」
「ぼくはモントーなんていう名前じゃない」
「じゃあ、なんて言うんだ?」
「マリボンだ」
「結局、ぼくにはどうでもいいことさ」と、シャボが言った。
そして、口の中でつぶやくように、こう言いそえた。
「どいつもこいつも侯爵になりたがらねえや」
マラは左側の廊下に立ちどまったまま、モントーとシャボをながめていた。
マラがはいってくるといつでも、議場の中にざわめきがおこった。しかし、それはマラからははなれたあたりでおこった。すぐそばにいる議員たちは黙っていた。そういうさわぎに対して、マラは平気な顔をしていた。『沼地党《マレ》がけろけろなく声』なんか軽蔑《けいべつ》していたのだ。
ぼんやりとかすんでいる下のほうのうす暗い議席では、クーペ・ド・ロワーズ、ブリュネル、司教でのちほどフランス翰林院《かんりんいん》会員になったヴィラール、ブートロル、プティ、プレシャール、ボネ、ティボードー、ヴァルドリュシュたちが、かわるがわるマラのほうを指さしていた。
「おい、マラがきた!」
「じゃあ、病気じゃなかったのか?」
「いや、病気だったさ。だから部屋着を着てるだろう」
「部屋着を着てる?」
「もちろんさ!」
「彼はなんでもできる男だな!」
「あんなふうをして、よく国民公会へこられるもんだ!」
「いつかなんか、月桂冠をかぶってきたくらいだから、部屋着を着てだってこられるさ!」
「顔は銅の色、歯は緑青色ときてる」
「あの部屋着はあたらしいらしい」
「なんていう生地だい?」
「レプス織りさ」
「縞《しま》がはいっているな」
「じゃ、裏を見てみろ」
「毛皮だ」
「とらの毛皮だ」
「いや、テンの毛皮だ」
「模造だ」
「ちゃんと靴下をはいてるぞ!」
「そりゃ、へんだぞ」
「留め金のついた短靴もはいている」
「それも銀の留め金ときた!」
「カンブラスは木靴《サボ》をはいているから、マラをゆるさないぞ」
ほかの議席では、だれもマラを見ないふりをしていた。なにかマラとは関係のない話をしていた。サントナックスがデュソーに話しかけた。
「知ってるか、デュソー?」
「なにを?」
「もとヴリエンヌ伯爵を」
「もとヴィルロワ公爵といっしょにラ・フォルスの監獄にぶちこまれたやつか?」
「そうだ」
「それなら二人とも知っていた。それでどうだって言うんだ?」
「やつら、えらくおびえちまって、赤帽子《ボネ・ルージュ》をかぶった看守と見れば、くそていねいに敬礼していた。ある日、みんなでピケ〔トランプ遊びの一種〕をやろうって言ったら、あの二人はいやだというのだ。だされたトランプに≪キング≫と≪クイーン≫がはいってたからだよ」
「それで、どうした?」
「二人とも、きのう、断頭台にかけられた」
「二人ともか?」
「そう、二人ともさ」
「だいたい、監獄の中じゃどういうふうだった?」
「臆病の一語につきる」
「断頭台にのぼったときは?」
「大胆だったよ」
すると、デュソーが感心したような声をあげた。
「死ぬのは生きるよりやさしいんだな」
議場では、バレールがある報告書を読みあげているところだった。それはヴァンデ情勢に関する報告書だった。モルビアンの男九百人がナントを救うために大砲を持って出発した。ルドンは百姓どもの脅威《きょうい》を受けている。パンブーフが攻撃されている。防衛艦隊はイギリス軍の上陸をはばむべくマンドラン沿岸付近を警戒中。アングランド、モール間のロワール河左岸には、王党派の大砲が集中されている。三千の百姓軍がポルニックを攻略、『イギリスばんざい』と叫んだ。……さらにバレールは国民公会あてのサンテール将軍の手紙を読みあげた。その手紙は最後にこう結んであった。
『七千の百姓軍がヴァンヌを攻撃した。これをわが軍は撃退した。敵は砲四門を残して……』
このとき、ひとりの議員が、バレールをさえぎって質問した。
「捕虜はなん人だったか?」
バレールはかまわず先をつづけた。……『追伸。わが軍はこれ以上捕虜を作らないつもりであるから、捕虜は一名もなし』
マラはあいかわらずその場に立ちつくしていたが、なにも聞いてはいなかった。なにか重大な心配ごとに、まるきり心を奪われているようだった。
彼は片手に一枚の紙片を握っていて、それを指先でもみくちゃにしていた。そのしわをだれかがのばしてみたら、つぎのような文面を読むことができただろう。文面の筆跡はモモロのもので、おそらくマラがだした質問に対する返信だったのだろう。
『……派遣議員、とくに公安委員会の派遣議員が握っている全権の力には、手も足もでません。五月六日の議会で、ジェニシューが「各議員は国王以上に強い」と強く発言しましたが、この発言もなんにもなりませんでした。彼らは生殺与奪思いのままです。アンジェ市に派遣されたマサド、サン=タンマン市に派遣されたトリュラール、マルセ将軍のもとに派遣されたニヨン、レ・サーブル将軍のもとに派遣されたパラン、ニヨール軍のもとに派遣されたミリエールらはまるきり全権を握っています。ジャコバン・クラブは、パランを旅団長に任命するなどということまでしてしまいました。まわりの状況がすべてのことを許容してしまうのです。公安委員会の派遣議員は総司令官の行動を阻害するものです』
マラはこの紙片をすっかりしわにしてポケットにつっこむと、モントーとシャボのほうへゆっくりと近よっていった。二人はまだ話しつづけていたので、マラがはいってきたことには気づかなかった。
シャボが言った。
「マリボン君でもモントー君でも、どちらでもいいが、ぼくの言うことを聞きたまえ。ぼくは公安委員会からでてきたところなんだ」
「公安委員会はなにをやっていたかね?」
「貴族の監視に坊主をひとりあてることになった」
「なんだって!」
「君みたいな貴族を監視するのさ……」
「ぼくは貴族じゃないんだ」と、モントーが言った。
「坊主に監視させるのだ……」
「君のような坊主にか」
「ぼくは坊主じゃない」と、シャボが言った。
そして、二人はげらげらと笑いだした。
「もっとくわしく話してくれ」と、モントーがもう一度言った。
「それはこうだ。シムールダンという坊主が全権をあたえられて、ゴーヴァンという子爵のところへ派遣されることになった。この子爵ってのは、沿岸警備隊討伐軍を指揮しているのだ。貴族と坊主をいっしょにさせて、貴族がごまかすのと、坊主が裏切るのとを、同時にふせごうって魂胆《こんたん》さ」
「そりゃ簡単だ」と、モントーが言った。「ぐずぐず言うやつは殺しちまえばいい」
「そのことで、おれはやってきたんだ」と、マラが言った。
二人が頭をあげた。
「こんにちは、マラ」と、シャボが言った。
「君はたまにしか議会にこないな」
「医者に入浴療法をしろと言われたんだ」と、マラが答えた。
「入浴療法ってのは用心したほうがいいよ」と、シャボが言った。「セネカは風呂の中で死んだんだからな」〔セネカは古代ローマの哲学者。暴君ネロに反逆罪のかどで自殺を命じられ、風呂の中で頚動脈を切って自殺した〕
すると、マラが笑って答えた。
「シャボ、ここにゃ、ネロみたいな暴君はいないさ」
と、そのとき、
「いるぞ。君こそ暴君だ」という荒々しい声がひびいた。
その声の主は、たまたま通りかかったダントンで、彼は議席のほうへいくところだった。
しかしマラはふり向かなかった。
彼は頭をモントーとシャボの顔のあいだにいれた。
「二人ともきけよ。ぼくは重要な要件のためにやってきたんだ。われわれ三人のうちのだれかが、きょうの議会で、国民公会にある法案を提出しなければならんのだ」
「ぼくはだめだ」と、モントーが言った。「ぼくは侯爵だったから、ぼくの言うことなど、だれもきいちゃくれない」
「ぼくだって、カプシン僧だったからな、だれもきいちゃくれん」と、シャボが言った。
「おれだってだめさ」と、マラが言った。「おれはマラだからな」
しばらく沈黙が流れた。考えこんでいるときのマラは、質問されるのが大きらいだった。しかし、モントーが勇気をだして、こうたずねた。
「マラ、きみはどんな法案を提出しようというのかね?」
「反乱軍|捕虜《ほりょ》をひとりでも逃がした指揮官はすべて死刑に処す、という法案さ」
シャボが口をいれた。
「その法案はもう成立している。四月末に議会を通過した」
「ところが、それが成立していないようなもんなのだ」と、マラが言った。「ヴァンデじゃ、いたるところで、どいつもこいつも捕虜を逃がそうとしているんだ。その上、かくまったやつも処罰されておらんという始末さ」
「マラ、そりゃ、あの法案が失効しちまったからだ」
「だから、シャボ、その法案にもう一度|筋金《すじがね》をいれてやることが必要なんだ」
「そりゃ、そうだ」
「それで、ここで、国民公会に呼びかけようっていうわけだ」
「でも、マラ、国民公会がそんなことする必要はない。公安委員会に任せるだけで充分だ」
モントーがこうつけくわえた。
「公安委員会が、ヴァンデ地方のすべての市町村にあの法案を掲示させて、適当なみせしめを二つ三つ示してやれば、目的は達せられるさ」
「えらいやつらの頭をたたくのさ。将軍たちの頭をね」
マラが口の中でぶつぶつ言った。
「なるほど、それでたくさんだ」
「マラ」と、シャボがまた口を切った。「君自身で公安委員会へのりこんでいって、そう言えばいい」
すると、マラがシャボの顔をまっすぐに見つめた。こんなながめられかたをされるのは、シャボでもあまりいい気持はしなかった。
「シャボ」と、マラが言った。「公安委員会はロベスピエールのうちでひらかれている。おれはロベスピエールのうちなんか、ぜったいにいかないぞ」
「じゃあ、ぼくがいってやろう」と、モントーが言った。
「よし、そうしてくれ」と、マラが言った。
翌日、反逆者や賊の捕虜の逃亡を助けたものは死刑に処すと、ヴァンデ地方の各市町村に掲示せしめ、この法案をきびしく実行せしめよという、公安委員会の命令が、四方八方へ送られた。
ところが、この法令は第一歩にすぎなかった。のちほど、国民公会はこの法令をもっと強化したのである。それから数カ月後の革命暦第二年|霧月《プリュメール》十一日(一七九三年十一月)、ヴァンデ軍の逃亡者を助けたラヴァル市に関して、国民公会は反逆者に隠れ家をあたえるすべての町は、うちこわし破壊する、という法令を公布したのである。
さて、いっぽう、ヨーロッパ諸国の王侯筋では、はじめフランスの亡命貴族たちが考えだし、ついでオルレアン公爵家の管理者リノン侯爵が起草した、ブラウンシュヴァイク公爵の宣言書で、武器を持つすべてのフランス国民は銃殺し、国王ルイ十六世の頭髪が一本でも切り落とされるようなことがあれば、パリをあますところなく破壊すると宣言していた。
野蛮と残忍の対決であった。
[#改ページ]
第三部 ヴァンデ
第一編 ヴァンデ
一 森
そのころ、ブルターニュには、おそろしい森が七つあった。ヴァンデとは、反乱をおこした僧侶《そうりょ》のことで、この反乱は森を助手として使っていた。闇はたがいに助けあうのである。
ブルターニュにある七つの黒い森というのは、ドル、アヴランシュ間の通路をふさぐフージェールの森、周囲が八里もあるプランセの森、あたり一面に小さなくぼ地や小川がひろがっていて、ベーニョン側からは近よれないが、王党派の町であるコンコルネへは容易に退却できるようになっているパンポンの森、つねにあちこちの町の近くにあって,共和政府の支配下にある小教区の鐘の音が、そこからきこえてくるレンヌの森……ピュイゼが部下のフォカールを失ったのはこの森だった……シャレットが野獣の代用をつとめていたマシュクールの森、ラ・トレモワール家やゴーヴァン家やロアン家のものだったガルナッシュの森、そして、森の妖精《ようせい》たちのものだったブロセリアンドの森のことだった。
ブルターニュのある領主が、≪七つの森の領主≫という称号をもっていた。これが、ブルターニュの王族《プランス》、フォントネ子爵だった。
それは、フランス王族とはちがった、ブルターニュの王族《プランス》というものが存在していたからだ。ロアン家の人々は、このようなブルターニュの王族《プランス》だった。ガルニエ・ド・サントという男は、革命暦第二年|雪月《ニヴォーズ》十五日に、国民公会あての報告の中で、タルモン公のことを、『メーヌ地方とノルマンディ地方の支配者、山賊のかしらカペ』と名づけている。
一七九二年から一八〇〇年にかけてのブルターニュの森の歴史については、またべつに書くこともできるだろうし、この歴史は、まことにおおがかりなヴァンデ反乱に、まるで伝説のように混ぜあわされるだろう。
歴史は真実をもっているが、伝説にも真実はあるものだ。しかし伝説的な真実は、歴史的真実とは別の性質をもっている。伝説的真実とは、結果として現実性をもつ作りものなのである。しかも、歴史と伝説とは同じ目的、つまり、つかのまの人間のもとに永遠の人間をえがくという目的をもっているのである。
もし伝説が歴史を完全なものにしないならば、ヴァンデの反乱は完全には説明がつかないだろうし、ヴァンデ反乱の全貌を知ろうとすると歴史が必要であり、その細部を知ろうとすれば伝説が必要となるのだ。
ヴァンデの反乱はそれだけの労をとる価値がある、と言っておこう。ヴァンデの反乱はひとつの奇跡なのである。実にまぬけであると同時に実にりっぱな、そして、にくむべきであると同時にすばらしい、この≪無知なるものどもの戦い≫は、フランスを荒廃させるとともに高慢にもさせた。ヴァンデの反乱は、光栄をになっている傷口なのである。
ある時期になると、人間の社会はさまざまななぞに包まれることになる。これらのなぞは、かしこい人々にとっては光となって分解し、無知なものどもにとっては、暗黒と、暴力と、そして野蛮と化してしまう。哲学者は非難することをためらい、さまざまな問題を生みだす混乱を考慮する。そしてそれらの問題は、おこるときにはかならず雲のような影を投げかけるのだ。
ヴァンデの反乱を理解したいと思えば、ここであい戦った両陣営、つまりフランス革命側とブルターニュ農民側の対立関係を思い浮かべるべきである。すべての恩恵をいちどきに与えようとする巨大な脅迫であり、文明の怒りの爆発であり、たけりくるった進歩の暴行であり、法外でわけのわからない改良であった、フランス革命という、あの他に比較できない大事件に対して、この重くるしく奇妙な野蛮人を向かいあわしてみるべきだ。この野蛮人は、すんだ目と長い髪の毛をもち、牛乳をのみ栗をたべ、わらぶき屋根と生垣とみぞにかこまれて暮らし、近隣の各部落をそこでならす鐘の音でききわけ、水はのむためにしか使わず、背中には絹の唐草模様のはいっている、粗皮のままでぬいとりだけした上衣をまとい、顔にいれずみをしていた先祖のケルト人のように着物にいれずみをほどこし、残忍な男でも平気で主人として尊敬し、死語となってしまっている言葉をしゃべり、こうして自分の思考の中に墓を住まわせ、雄牛をさし、長柄のかまをとぎ、黒いむぎをかりとり、そば粉でビスケットをこねあげ、なにをおいても鋤《すき》をとうとび、そのつぎに祖母をうやまい、聖母マリヤと≪白姫《ダーム・ブランシュ》≫〔スコットランドなどの地方の伝説でつたえられている一種の自然神〕を信じ、神をまつる祭壇とともに荒野の中に立っている神秘的な高い石の信奉者であり、野に立てば百姓となり、海岸にいけば漁夫となり、やぶの中にもぐれば密猟者となり、国王と領主と僧侶と虱《しらみ》とを愛し、しばしば荒れはてたひろい砂浜でじっと立ちすくんでは、沈みこんで波の音に耳かたむけて考えこんでいる。
こういった盲人があの大革命の光を受けいれられるかどうか、胸にたずねてみるがよいのだ。
二 人々
百姓はたよりにする二つの拳《こぶし》をもっている。ひとつは食物を供給してくれる畑であり、もうひとつは身をかくしてくれる森である。
そのころブルターニュ地方の森がどのようであったかというと、それは今日では想像するのがなかなかむずかしい。それは町のようなものだったのだ。植物や木のとげや枝がめちゃめちゃにからみあっているこうした森くらい、静まりかえり、おしだまり、そして野性あふれるものはなく、そのひろいやぶこそは、不動と沈黙の巣窟だった。これくらい死のにおいと陰気な空気をただよわせている孤独なところはなく、もし、とつぜん、光のような一撃でもってこれらの森の木々を切ろうものなら、その影になってありのようにうようよとうごめく人間をふいに目にするだろう。
外側を石と枝のふたでおおわれた、まるくてせまい井戸のような穴が、あちこちに掘ってあった。これらの穴は、はじめは垂直に掘られているが、それから水平になり、地の下のほうでは漏斗《じょうご》のような形になり、最後にはいくつものまっくらな部屋にとどいている。これこそ、カンビュセス〔前六世紀ごろのペルシア王。エジプトを征服して、横暴のかぎりをつくしたという〕がエジプトで見つけたもの、ヴェステルマンがブルターニュで見つけたものだった。カンビュセスは砂漠の中で見つけたのだが、ヴェステルマンのほうは森の中で見つけたのだった。そして、エジプトの穴の中には死者たちが見つかったが、ブルターニュの穴の中には生きている人間たちがいた。ミスドンの森のもっとも野性そのままの空地のひとつには、地下いちめんに廊下や小べやが作られていて、そこにはなぞめいた人間どもが右往左往《うおうさおう》していて、≪大きな町≫と呼ばれていた。また別の空地では、上方はこのミスドンの空地以上に荒れはてていながら、下のほうにはたくさんの人間たちが住んでいて、これは≪王宮広場≫と呼ばれていた。
こういう地下の生活は、ブルターニュではずっと大昔からいとなまれていた。いつの時代においても、このブルターニュでは、人間は人間の手からのがれて住まなければならなかったのだ。こういうわけで爬虫類《はちゅうるい》どもの巣が木の下に作られることになったのだ。
このような暮らしかたは、ケルト族が支配していたころ、ドルイド僧のころにまでさかのぼり、こうした地下聖堂には巨石墳《ドルメン》と同じくらい古いものもあるくらいである。そして、伝説上の怨霊《おんりょう》たちも歴史上の怪物たちも、すべて、この陰気な土地を通っていたのである。トゥータテス、シーザー、オエル、ネオメーヌ、イギリス出のジョフロワ、鉄の腕のアラン、ピエール・モークレール、フランス系のブロワ家、イギリス王家を後見にしたモンフォール家〔以上、いずれもブルターニュの歴史をいろどる人物たち〕、国王たちと公爵たち、ブルターニュの九人の男爵、勅令裁判《グラン・ルージュ》の裁判官たち、レンヌ伯爵家と戦ったナント伯爵家、野武士たち、十四世紀ごろフランスを荒らした傭兵《ようへい》たちと略奪者たち、ロアン子爵ルネ二世、王につかえる代官たち、ゼヴィニエ夫人の館《やかた》の窓の下で百姓たちを木の枝につるした≪ショーヌ善公爵≫、十五世紀におこなわれた領主たちの大虐殺、十六、七世紀におこった宗教戦争、十八世紀におこなわれた、人間狩りのための三万頭の犬の訓練。このようなおそろしい迫害にあって、人間たちは地上から消えようと決心したのだった。
穴居人たちはケルト人から、ケルト人はローマ人から、ブルターニュ人はノルマン人から、新教徒のユグノーたちはカトリック教徒から、そして、密輸入者たちは塩税官から、つぎつぎにのがれようとして、はじめは森の中ににげこみ、それからついに地下ににげこむことになったのだ。これこそ野獣どもが使う術策だった。虐政《ぎゃくせい》が国民たちを地下に追いこんでしまうのだ。
こうして二千年来、独裁君主制は征服とか、封建制度とか、狂信とか、国庫税務とか、ありとあらゆる手段を使って、この狂い乱れたみじめなブルターニュを追いつめたのだ。それは世にもおそろしいやりかたで、ひとつの手段をやめるとすぐにまた別の手段に移るというふうだった。そこでとうとう、人間たちは地中にかくれてしまったのである。
こうして、フランス共和国が爆発するように発足しはじめたころには、人間たちの心の中には、一種怒りににた恐怖観念が巣くい、あちこちの森の中には、そうした人間たちのかくれ家《が》の準備がととのっていた。ブルターニュは、この力ずくの解放に圧迫されたと思って、反乱をおこしたのだった。つねに奴隷たちがおこしがちな誤解というべきである。
三 人と森との共犯
ブルターニュの悲劇の森は、また古い役割りをはたすようになり、この反乱のために召し使いと共犯者の役をつとめるようになった。それまでにおこったすべての反乱に対して同じ役をつとめてきたように。
こうした森の地下は、待避壕《たいひごう》や小べやや廊下といったものでできている未知の道路で、縦横に穴をあけられ掘りおこされている、一種の緑石のようになっていた。そして、この窓のない小べやには、それぞれ、五、六人の人間がかくれることができるようになっていた。ところが、こうした小べやの中では呼吸が困難だった。この壮大な百姓たちの暴動をおこさせた強力な組織力を理解させる奇怪な数字が、いくらかわかっている。たとえば、イール=エ=ヴィレーヌの、タルモン公のかくれ家であるル・ペルトルの森では、人間の息ひとつきこえず、人間の足跡ひとつ見つからなかったのに、その中にはフォカール麾下《きか》の六千人の人間がひそんでいたのだ。また、モルビアンにあるムーラックの森では、人影ひとつ見えないのに、八千人の人間がもぐりこんでいた。ところが、このル・ペルトルとムーラックのふたつの森は、実はブルターニュの大森林のうちには数えられていないのだ。そして、ひとたび、こういう森の中を歩きでもしたら、とんでもないおそろしい目に出会うのだった。一種の地下の迷宮の中に戦士たちをたっぷりかかえこんだ偽善のやぶや森は、まるで巨大なおそるべき海綿《かいめん》みたいなものだった。ひとたび革命という巨大な足に踏みつぶされると、たちまちこの海綿から内乱がほとばしりでてきたのである。
目に見えぬ軍隊がじっと待ちぶせていた。この未知の軍隊は、共和政府軍の足もとで蛇のようにうねって行進し、とつぜん地上にあらわれては、また地下へもどる。雲霞《うんか》のようにとびだしてきては、たちまち消え去る。同時にあちこちに出現するかと思うと、ほうぼうに散乱する才をもっている。なだれのようにおしよせ、ほこりのようにちる。身をちぢませる能力をさずけられた巨人で、戦うときには巨人となり、消えるときには小人《こびと》となる。まるでもぐらの習性をもっているジャガーである。
ブルターニュにあるのは森だけではなかった。しげみもあったのだ。都会のつぎに村があるように、森のつぎにはしげみがあった。森と森のあいだは、あちこちにちらばっている迷宮のようなしげみで結ばれていた。城砦《じょうさい》にされている古城、野営地に変えられた部落、おとし穴やわながしかけてある小作地、みぞが掘られ、木々でバリケードをはった田畑などが網の目のようにあたりをおおい、共和政府軍はこの網にひっかかってしまったのだ。
こうしたもの全部を総称して、≪森林地帯《ボカージュ》≫と呼んでいた。
ジャン・シューアンに属していて、中央に沼のあるミスドンの森があった。タイユフェールに属しているジェンヌの森があった。グージュ=ル=ブリュアンに属しているラ・ユイスリーの森があった。ラ・ヴァシュ=ノワール野営地の隊長で、使徒聖ポールといわれたクールティエ・ル・バタールに属しているシャルニーの森があった。ビュルゴーの森は、最後にはジュヴァルデイユの地下壕でなぞの死をとげることになる不可解な男ジャック氏の勢力範囲だった。また、ピムースとプティ・プランスの二人が、シャトーヌフの守備隊から攻撃され、共和政府軍の戦列にとびこみ、敵の選抜兵をひっつかまえて捕虜にしてしまったシャローの森があった。ロング=フェ守備隊が敗走していくのを目撃していたウールズリーの森があった。オーヌの森からは、レンヌとラヴァルのあいだの道路をうかがうことができた。ラ・グラヴェルの森は、ラ・トレモアール家のある王族が球戯の賭けで勝って自分のものにした森だった。コート=デュ=ノールにあるロルジュの森は、はじめベルナール・ド・ヴィルヌーヴがおさめたが、つぎにシャルル・ド・ボワアルディがおさめた森だ。フォントネの近くにあるバニャールの森は、王党派のレスキュールが共和政府軍のシャルボスに戦いをいどみ、これに対しシャルボスが五対一という少ない軍勢で受けて立った森である。デュロンデの森は、むかし、アラン・ル・ルドリュと禿頭王《ル・ショーヴ》シャルルの子エリスプーがたがいに奪いあった森である。クロックルーの森は、コクローが捕虜たちの頭をかりこんでしまったあの荒地のふちにあった。ラ・クロワ=バタイユの森は、ジャンブ=ダルジャンがモリエールにむかって浴びせ、モリエールもジャンブ=ダルジャンにむかって浴びせた、あの勇壮な侮辱の場にいあわせていた。ラ・ソードレの森は、すでにわれわれも見てきたとおり、パリの一大隊の手でさんざん手入れされた森である。こうした森のほかにも、まだまだおおくの森があった。
こうしたいくつかの森やしげみの中には、隊長のかくれ家のまわりにむらがる地下の村があるばかりか、木々の下にかくれた低い小屋からなっている、ほんとうの部落もあった。このような部落は無数にあったので、そのため、ときには森が部落でいっぱいになるということもあった。しばしば、煙のために部落のありかがわかってしまうことさえあった。ミスドンの森にあった二つの部落は現在でも有名である。≪沼≫の近くにあるロリエール部落と、サン=トーワン=レ=トワの側にあるラ・リュ=ド=ボーと呼ばれる小屋の群れである。
女たちは小屋の中に住み、男たちは地下壕で暮らしていた。彼らは、戦いのために、妖精の廊下や、ケルト人たちが使った古い待避壕《たいひごう》を利用した。穴の中に身をうずめている男に食物が運ばれた。うっかり忘れられてしまい、飢えのために死んだ男もいた。といっても、それはたて穴のふたのあけかたを知らぬ不器用なものたちだった。この穴のふたは、ふつう、こけと木の枝で実に上手に作られていたから、そとから見ると、ちょっと草と見わけがつかないくらいだったが、内側からあけたてするのは、いともたやすいことだった。こうしたかくれ家は用心深く掘られた。穴を掘るときでる土は、近くの沼まですてにいった。穴の中の壁と底には、しだとこけがはりつけてあった。人々はこのかくれ家のことを≪桟敷《さじき》≫と呼んだ。日の光はささず、火もなく、パンもなく、空気もなかったが、それさえがまんすれば、なかなか居心地《いごこち》がよかった。
しかし、不用意にも生きているものたちのどまん中にあがってしまったり、やたらと地面に顔をだしたりすると、たいへんだった。行軍中の兵士たちの足もとにとびだすかも知れなかったのだ。二重のわながはりめぐらされているおそるべき森。共和政府軍《あお》はこの森の中へどうしても侵入できず、王党派《しろ》軍はこの森の中からなんとしてもでられなかったのである。
四 地下の生活
こうした野獣が住むような洞穴で暮らしている男たちは退屈していた。夜など、ときには、どんな危険をおかしてでも、穴からでて近所の野原へ踊りにいったりした。でなければ、ひまつぶしにお祈りをした。ブールドワゾーの言うところによると、『日がな一日、ジャン・シューアンはわれわれにお祈りさせた』というわけだった。
その季節がくると、下メーヌ地方の男たちが穴からでて≪|むぎうち祭り《フェート・ド・ラ・ジェルブ》≫にいくのをやめさせるのは、ほとんど不可能だった。あるものは独特のアイディアをもっていた。トランシュ=モンターニュというあだ名をつけられていたドニという男は、女に変装してラヴァルへ芝居を見にいき、また自分の穴にもどってきた。
ときには、彼らはとつぜん殺されにいくことがあった。牢獄をはなれて墓場をさがしにいくのだ。
ときに彼らは自分たちの穴のふたをもちあげ、遠くのほうで戦闘がおこなわれているか、じっと耳をすますことがあった。戦闘のようすを耳で追いかけるのだった。共和政府軍《あお》の銃声は規則的にきこえたが王党軍《しろ》のはときどきしかきこえなかった。そうした銃声にみちびかれて、彼らは戦況を知るのだった。もし、小部隊の銃声がとつぜんにやめば、それは王党軍《しろ》の旗色が悪いしるしだったし、断続的な銃声がつづいて、地平線に吸いこまれていくようだと、これは王党軍《しろ》が勝っている証拠だった。王党軍《しろ》はいつも追いうちをかけたが、共和政府軍《あお》は、土地に敵意をいだかれていたから、ぜったいに深追いはしなかった。
こうした地下にもぐった戦士たちは、すばらしく情勢をよく知っていた。彼らの連絡くらいすばやく、ふしぎなものはなかった。彼らはありとあらゆる橋を落とし、すべての荷馬車を破壊しつくしていたが、なお、たがいに情報を交換したり、予告しあったりする手段を知っていた。スパイの中継は、森から森へ、村から村へ、小作地から小作地へ、わらぶき家からわらぶき家へ、しげみからしげみへと、確実に連絡していた。
一見まぬけ顔の百姓が、しんをくりぬいてある棒の中に至急便をつめて通行していた。
以前は憲法制定議会議員だったボエティドーという男は、共和政府発行の新しい型のパスポートを、名前を書くところだけ白にして百姓たちに給付し、ブルターニュの端から端へいききできるようにした。この裏切者はこんなパスポートを束《たば》にしていくつももっていた。パスポートを手にした百姓たちに白状させることはできなかった。これについて、ピュイゼはこう言っている。『四十万人以上の人間にうちあけられた秘密は、ぜったいに口外されなかったのである』と。
南方はレ・サーブルからトゥアールに達する線で、東方はトゥアールからソーミュールにのびる線とトーエ河で、北方はロワール河で、西方は大西洋で限られている。この四辺形の土地は、同じひとつの神経系統をもっているようで、もし、この土地の中にある一点がふるえたりすれば、たちまち土地全体がゆり動かざるをえないようだった。またたくまに、ノワルムーティエからリュソンに情報が通じてしまい、ラ・ルーエの野営地ではラ・クロワ=モリノーの野営地でおこっていることを知ってしまうのだ。まるで鳥が加勢しているのではないかと思われるくらいだった。オシュは、革命暦第三年|収穫月《メシドール》七日、つぎのように書いている。『まるきり、連中は通信機をそなえているようだ』と。
それはまるで、スコットランドの氏族《クラン》みたいなものだった。各小教区には頭《かしら》がいた。わたしの父も、この戦闘に参加している。だからこそ、わたしはこの戦闘について話すことができるのである。
五 戦時の生活
おおくのものは槍《やり》しかもっていなかったが、優秀な猟銃が豊富にあった。≪森林地帯《ボカージュ》≫の密猟者やロルーの密輸入業者くらい銃の名手はいない。彼らは奇妙で、おそろしく、そして大胆な戦闘員だった。三十万人の兵士の召集布告のために六百の村の警鐘がうちならされた。いちどきに、すべての地点から、一大蜂起の火の手があがった。ポワトー、アンジューの二地方は同じ日に爆発した。すでに一七九二年七月八日、つまりあの八月十日事件の約一カ月も前に、この最初の轟音《ごうおん》が、ゲルバデールの平野にとどろいた、と言っておこう。現在ではもうその名を知る人もいないアラン・ルドレールは、ラ・ロシュジャクランやジャン・シューワンの先駆者だった。王党派《しろ》はすべての壮丁を死刑をたてに脅迫し、むりやり戦列に参加させた。車につける馬や、荷車や、食糧も、徴集した。たちまちにして、サピノーは三千の兵を、カトリノーは一万の兵を、そしてストフレは二万の兵を手に入れ、そしてシャレットはノワルムーティエを支配した。セポー子爵は上タンジューを、ディウジー勲爵士《くんしゃくし》はアントル=ヴィレーヌ=エ=ロワールを、トリスタン・レルミットは下メーヌを、床屋ガストンはゲメネ町を、そしてベルニエ師はその他残りの地方をすべて動員した。
こうした大勢を動員させるのは、かんたんだった。宣誓して任命された主任司祭、つまりそのころ≪宣誓《プレートル》僧侶《ジュルール》≫と呼ばれていた司祭の聖櫃《せいき》の中に、大きな黒猫を一ぴきいれておけばよかったのだ。そしてミサのあいだに、この黒猫がふいにそとへとびだすと、百姓どもが『悪魔だ!』とさけぶ。これだけで一郡全体が暴動をおこすのだった。たちまち、あちこちの告解所の中から火のような息《い》ぶきが吹きだしてきた。百姓たちは共和政府軍《あお》をおそい、くぼ地をとびこえるために、十五フィートもある長い棒を使った。この≪|とびざお《フェルト》≫と呼ばれる棒は、戦うときにも逃げるときにも武器になった。百姓たちは共和政府軍《あお》の方形陣地を攻撃して、大乱戦におちいったとき、もし戦場で十字架や礼拝堂に出会ったりすると、みんなすぐにひざまずいて霰弾《さんだん》のとびかう下でお祈りした。お祈りが終わると、生き残っているものはまた立ちあがって、敵にとびかかっていった。ああ、なんという巨人たちだったろう! 彼らは走りながら銃に弾丸をこめた。これが彼らの天賦《てんぷ》の才だった。こちらの思うように彼らを信じさせることができた。僧侶たちは他の僧侶の首をひもでしめて、赤いしめあとを百姓たちに見せて、こう言えばよかった。『これは断頭台にかけられて生き返った僧侶だぞ』
しかし、百姓たちでも、彼ら独特の騎士道精神を発揮することがあった。彼らはフェスクという男を尊敬していたが、これはサーベルで切られても軍旗を手ばなさなかった共和政府軍《あお》の旗手だったのだ。こうした百姓たちはよく人をあざ笑った。妻をもった共和派《あお》の僧侶たちのことを『|短ズボン《サン・キュロット》になりさがった破戒坊主《サン・カロット》』とののしった。はじめ彼らは大砲をこわがっていたが、そのうちに長柄の棒を手に手にとびかかっていって、敵の大砲をぶんどるようになった。手はじめにぶんどったのは青銅のりっぱな大砲で、彼らはこの大砲に『伝道師』という名前をつけた。つぎにぶんどったのは宗教戦争のとき使用された大砲で、これには当時の宰相リシュリューの家紋と聖母マリヤの像が彫りつけてあった。百姓たちはこれを≪マリ=ジャンヌ≫と呼んだ。フォントネを敵に占領されたとき、この≪マリ=ジャンヌ≫も敵にとられてしまったが、このとき、この大砲を守っていた六百人の百姓たちが、壮烈な戦死をとげた。それから、彼らは≪マリ=ジャンヌ≫をとりかえそうとしてフォントネをとりかえした。彼らは百合の花をえがいてある軍旗の下でこの大砲を運び、これを花でつつんでかざり、道ゆく女たちに大砲に接吻させながら、もちかえった。
しかし、大砲二門だけというのはあまりに少なすぎた。ストフレがこの≪マリ=ジャンヌ≫をぶんどったのだが、これを嫉妬したカトリノーは、パン=アン=モージュからでていってジャレーをおそい、三門めの大砲をぶんどってきた。さらにフォレはサン=フローランを攻撃して、もう一門の大砲をぶんどってきた。その他二人の隊長、シュープとサン=ポルは、もっとりっぱな手柄を立てた。彼らは切りたおした木の幹で大砲の形をつくり、マネキン人形を使って砲手をつくった。それから、この砲兵隊をひきいて、いさましく笑いながら、マルーイユの戦いに出陣し、共和政府軍《あお》を退却させた。といっても、これらは彼らの全盛時代のことだった。のちほど、共和政府軍のシャルボスがラ・マルソニエールを敗退させてしまうと、百姓たちはイギリスの紋章が彫りつけてある三十二門の大砲を面目を失った戦場にすてて逃げるということになってしまった。
このころ、イギリスはフランスの王族《プランス》たちに金を支払っていた。一七九四年五月十日、ナンティアはこう書いている。
『以前からピット氏にそうするのが礼儀だと言っていたものがいたから、イギリスから領主に軍資金が送られてきたのだ』と〔ピットは、ふつう小ピットといわれている。フランス革命当時のイギリスの首相〕
それから、メリネは三月三十一日付の報告書で、『反乱軍のときの声といえば、いつも、イギリスばんざい! というのだ』と言っている。百姓たちはいつも略奪に手間どってばかりいた。これら信心家どもは、実は泥棒だったのだ。野蛮人どもは悪徳の持主だったのだ。このために、彼らはなかなか文明を手にいれることができないのである。ピュイゼはその著『見聞録』第二巻の一八七ページで、つぎのように書いている。
『なんども、わたしはプレランを略奪から守るよう手配したものだ』
また、同じ著の四三四ページでは、モンフォール入城をやめた理由として、『ジャコバン党員の家が略奪されるのをさけようとして、まわり道をしたのだ』と言っている。
百姓たちはショレを強奪し、シャランを荒らした。グランヴィルの戦いに失敗したあとでは、ヴィル=ディユーを略奪した。彼らは共和政府軍の味方となった地方人たちを≪ジャコバンの一味≫と呼んで、とくにこういう連中だけをえらんでみな殺しにしてしまった。彼らは兵隊と同じように虐殺を好み、おいはぎのように大量|殺戮《さつりく》をこのんだ。彼らは≪共和派の|まぬけ《パトゥー》ども≫を銃殺すること、つまり市民たちを銃殺することをよろこび、これを≪肉食する≫と呼んでいた。フォントネでは、百姓軍付の僧侶バルボタン主任司祭がある老人をサーベルの一撃でうちたおしてしまった。サン=ジェルマン=シュール=イールでは、百姓軍の隊長の貴族がコミューヌの検事を一発のもとに射殺し、もっている時計をうばってしまった。マシュクールでは、百姓たちは共和派《あお》の連中を一日に三十人ずつうち殺し、この殺戮《さつりく》は五週間もつづいた。三十人を束にしてつないでおいたくさりは数珠《じゅず》と呼ばれていた。こんなくさりでひとつなぎにした三十人の人間を、すでに掘ってある穴の前に並べて銃殺したのだ。銃撃されて穴の中にころがり落ちてもまだ息のあるものもいたが、これもいっしょに生き埋めにしてしまった。われわれはこのようないまわしい風習をいまだに受けついでいるのだ。
地区の長ジュベールは両手首をのこぎりびきにされた。百姓たちは共和政府軍《あお》の捕虜たちに特別に鍛《きた》えた刃のついた手錠をはめた。あちこちの公共広場では、角笛を吹きならしながら捕虜たちをなぐり殺した。『友愛、シャレット勲爵士《くんしゃくし》』とサインし、マラのように眉の上でハンカチをはちまきしていたシャレットは、ポルニックの町を燃やして住民を家ごとやき殺してしまった。
百姓軍がこんなことをしているあいだに、共和派《あお》のカリエは、また、おそるべきことをやってのけていた。恐怖《テルール》が恐怖《テルール》に呼応したのである。ブルターニュの反乱軍はギリシアの反乱軍にそっくりで、短い上衣を着、肩から脇の下に銃をかつぎ、ギリシア人がはいていた短いスカートそっくりの太いズボンをはいていた。青年たちはトルコに反抗したギリシアのオリンポス山のピンドス山人に似ていた。当年二十一歳だったアンリ・ド・ラ・ロシュジャクランは、長柄《ながえ》の棒とピストル二ちょうをもって出撃した。ヴァンデ軍の兵力は百五十四の部隊から編成されていた。彼らは正規の包囲作戦を展開し、三日間、ブレシュイールを包囲した。聖金曜日には、一万人の百姓たちがレ・サーブルの町に赤光弾をうちこんで攻撃した。また、モンティニェからクールブヴェイユ間にある十四カ所もの共和政府軍陣地を潰滅《かいめつ》させた。トゥーアールの高い城壁の上で、ラ・ロシュジャクランはある青年といさましい会話をかわした。
『おい、カルル!』
『はい』
『君の肩を使ってよじのぼるぞ』
『どうぞ』
『鉄砲はどうした』
『ここです、おとりください』
こうして、ラ・ロシュジャクランは町の中へとびこみ、部隊はかつてデュゲクランが包囲攻撃したいくつかの塔を梯子《はしご》もかけないで奪取してしまった。百姓たちはルイ金貨より弾薬筒のほうがすきだった。自分たちの村の鐘が見えなくなると泣きだしてしまった。彼らにとって逃げるということはいともかんたんなことで、隊長たちは『木靴《サボ》をぬぎすてろ、銃はすてるな!』とさけんだ。弾薬がなくなると、お祈りをささげて、共和政府軍の砲兵隊の弾薬車に弾薬をぬすみにいった。この弾薬はのちほど、エルベがイギリス軍に供給してほしいと要求したものだ。敵が接近してくるとき負傷者をつれていると、それを背の高いむぎ畑か、人がふみこんだこともない羊歯《しだ》のしげみの中にかくして、戦闘が終わってから、また引きとりにいくのだった。
彼らは軍服など一度も着たことがなかった。彼らの衣服はぼろぼろになってしまった。百姓といわず貴族といわず、だれも目についたぼろを引きとって身にまとっていた。ロジェ・ムーリニエは、ラ・フレーシュ劇場の衣装べやからとってきたターバンと肋骨《ろっこつ》のある軍服を着ていた。ボーヴィリエ勲爵士《くんしゃくし》は検事の着る法服を身につけ、羊毛の帽子の上に婦人帽をかさねていた。みんな、綬章と白いベルトをつけていた。そして、階級はベルトの結びめで区別された。ストフレは赤いのを、ラ・ロシュジャクランは黒いのをつけていた。半ジロンド党員の上にノルマンディからそとへでたことのなかったヴィンプフェンは、カーンのカラボ〔ジロンド党の味方をしたノルマンディの革命組織〕の腕章をまいていた。
また、彼らの戦列の中には婦人たちも何人かまじっていた。のちほどラ・ロシュジャクラン夫人となったレスキュール夫人、ラ・ルーアリの愛人で小教区長たちのリストをやいたテレーズ・ド・モリアン、片手にサーベルをふりかざしてル・ピュイ=ルッソー城の大きな塔の下に百姓たちをよせ集めた、若くて美しいラ・ロシュフーコー夫人、とらえられたが、とくに尊敬を集めて、立ったまま銃殺されたくらい勇壮なアダン勲爵士《くんしゃくし》と呼ばれたあのアントワネット・アダン、といった婦人たちだった。
こうした叙事詩のように雄壮だった時代は、また残酷な時代でもあった。人びとは怒りくるっていた。レスキュール夫人は、もう戦う気力もなく地面にたおれている共和政府軍兵士たちを、『死んでいる』と言って、わざわざ乗馬の馬蹄にかけてしまった。じっさいは、死んでいるのではなくて傷ついていたのだろう。男はときに裏切ることがあったが、女はぜったいに裏切らなかった。フランス座の女優フルーリ嬢はラ・ルーアリをすててマラのものになったが、これはほんとうの愛からだった。
隊長たちの中には兵士と同じように無知なものがいた。サピノー氏は文字の正しいつづりを知らなかったので nous orions de notre caute と書いた〔nous aurions de notore cote(味方の陣地で勝つだろう)をあやまって書いたもの〕。隊長たちはたがいに憎み合っていた。マレ地方の隊長たちは、『高地地方の連中をやっつけろ!』とさけんでいた。百姓軍には騎兵隊が少なくて、編成するのもむずかしかった。ピュイゼは、『むすこを二人よろこんでさしだすような男でも、わたしが馬を一頭さしだせと命令するといやな顔をした』と書いている。とびざお、くまで、鎌《かま》、旧新両方の銃、密猟で使う短刀、やきぐし、鉄やびょうをうちつけたこん棒、といったものが彼らの武器だった。あるものは、死人の骨を二本組みあわせて作った十字架をX形十字にしてぶらさげていた。彼らは大声をあげて攻撃し、森、丘、若い林、くぼんだ道といったあらゆるところから、ふいにすがたをあらわすかと思うと、いわゆる三日月形をなして四散しては敵をみな殺しにし、電撃すると、また煙のように消え去ってしまった。共和政府軍側についている町を通りすぎるときには、≪自由の木≫〔ポプラやオークの木を広場などに植えて、自由、平等、友愛のシンボルとした〕を切りたおしてやき、その火のまわりで輪になって踊った。
だれもかれも、出歩くのは夜間だった。そしてヴァンデ軍の法則は、つねに敵のふいをつく、ということだった。彼らは通り道の草をまげないで、こっそり十五里も行進した。夜になると、まず隊長たちが作戦について相談しあい、翌日はどの方面から共和政府軍《あお》の陣地を攻撃するかを決め、それが決定したあとで、百姓たちは銃に弾丸をこめ、お祈りをあげ、木靴《サボ》をぬぎ、一列縦隊になってヒースやこけの上を、素足で、こっそりと、黙って、息をころして、進んでいった。まるで暗闇の中を猫どもが歩いていくみたいだった。
六 土の魂が人にしみとおる
ヴァンデ反乱軍の数は男、女、子どもとりまとめて五十万人以下であるはずがなかった。五十万人の戦闘員というのが、テュファン・ド・ラ・ルーアリが提出した数字であった。
連邦主義者《フェデラリスト》たちが援助した。ヴァンデはジロンド党を共犯者にしていた。ロゼール県は、三万人の兵力を≪森林地帯《ボカージュ》≫へ送りこんだ。八つの県、つまりブルターニュの五つの県、ノルマンディの三つの県が連合した。カーン市ととくに親しくしていたエヴルー市は、市長のショーモンと市の大立物ガルダンバを代表として送って反乱に加わっていた。カーン市のビュゾー、ゴルサス、バルバルー、ムラン市のブリソ、リヨン市のシャサン、ニーム市のラボー=サン=テティエンヌ、ブルターニュ地方のメーヤン、デュシャテルといった人々の口はことごとく、火が燃えさかっている大がまに息を吹きこむことになった。
ふた通りのヴァンデ軍があった。大きいほうは森林戦をおこない、小さいほうはしげみの中で戦った。このふたつの戦いのちがいが、すなわちシャレットとジャン・シューワンのちがいを示していた。小さいほうのヴァンデ軍は純朴《じゅんぼく》で、大きいほうのヴァンデ軍は堕落していた。小さいほうが大きいほうよりすぐれていたのである。シャレットは侯爵ならびに国王軍中将にされ、サン=ルイ大十字章をさずけられたが、ジャン・シューワンはいつまでたってもジャン・シューワンにちがいはなかった。シャレットは山賊まがいの男であったが、ジャン・シューワンは義侠《ぎきょう》の士であった。
ボンシャン、レスキュール、ラ・ロシュジャクランといった高潔な指揮官たちは思いちがいをしていた。大カトリック教徒軍は無分別な力にほかならなかったのだ。だから災害がおこってもあたりまえだった。パリをおそう百姓たちの軍勢、パンテオンを包囲攻撃する村々の同盟軍、共和政府軍のうたう≪ラ・マルセーエズ≫のまわりでほえたてるクリスマスの聖歌や祈りの声、知識人の軍団にとびかかっていく木靴《サボ》をはいたそうぞうしい百姓たち、こういったものを想像できるだろうか?
ル・マンとサヴネで敗退することで、こうした狂気はこらしめられた。ヴァンデ軍にとって、ロワール河を渡るなどということは、できない相談だったのだ。ヴァンデ軍はありとあらゆることをなしとげたが、このロワール河を渡るということだけはできなかったのだ。もともと内乱などというものは、なんの得にもならないものである。ライン河を渡るということがシーザーの版図を完成し、ナポレオンの力を強大にした。ところが、ロワール河を渡ったがために、ラ・ロシュジャクランは殺されてしまったのだ。
ほんとうのヴァンデ軍の力は、ヴァンデにいるときに真価を発揮した。ヴァンデにいるかぎり、ヴァンデ軍は不死身《ふじみ》にまさるはたらきを示したのだ。ここにいれば、とらえられることさえなかった。ヴァンデにいるとき、ヴァンデ軍は密輸入業者、農夫、兵士、ひつじ飼い、密猟者、義勇兵、やぎ飼い、鐘つき、百姓、スパイ、暗殺者、聖堂納室番、森のけものであった。
ラ・ロシュジャクランはただのアキレウスにすぎなかったが、ジャン・シューワンのほうはプロテウス〔ギリシア神話にでてくる海神。変身の名人といわれる〕だった。
ヴァンデの反乱は結局は失敗してしまった。他の国の反乱の中には成功した例もあった。たとえばスイスの反乱である。スイスのような山間部におこる反乱とヴァンデのように森林地帯《ボカージュ》でおこる反乱とのあいだにある差異とは、山岳地帯で反乱をおこす連中が四囲の環境から宿命的な影響を受けて、たいていつねに理想のために戦うのに対し、森林地帯《ボカージュ》で反乱をおこす連中は偏見のために戦うというところにある。いっぽうは空をとぶが、他方は地面をはうのである。いっぽうは人間愛のために戦うが、もういっぽうは孤独の生活を守るために戦うのだ。いっぽうは自由を、他方は孤立を欲するのだ。いっぽうは地方自治体《コミューヌ》を、他方は小教区を守るのだ。『自治体を守るのだ! 自治体をだ!』と、スイスのモラ市の英雄たちは叫んだ。いっぽうは山間の絶壁と関係があり、他方は沼地と関係がある。いっぽうは急流と水しぶきの人間であり、他方は熱病を吹きだすよどんだ水溜りの人間である。いっぽうは頭上に大空を、他方はやぶをいただいている。いっぽうは山のいただきに立ち、他方は影の中に立っているのだ。
山頂の手でおこなわれる教育と、低地の手でおこなわれる教育とは、おのずとちがっている。山は城砦《じょうさい》であり、森は待伏せ場所である。山は大胆さを、森は計略を吹きこむ。古代の人間は神々を山頂にまつり、サテュロス〔ギリシア神話にでてくる半人半山羊の神〕をしげみにおいた。サテュロスはすなわち野性であり、半身は人間であるが半身は野獣である。自由な国々は、アペニン山脈、アルプス山脈、ピレネー山脈、オリンポス山といった山々をもっている。パルナッソスも山である。モン・ブランはウィリアム・テルの巨大な助手だった。インドの詩歌の中にみちみちている夜のやみと対抗した巨大な精神の戦いの兵には、あるいはその上方には、ヒマラヤ山脈が認められる。ギリシア、スペイン、イタリヤ、スイスは、山をもってその象徴となし、キンメリヤ、ゲルマニヤ、ブルターニュの諸地方は森をもってその象徴としている。森というものは野蛮なものである。
地形は人間をそそのかして、おおくの行動をさせる。地形というものは、考えられている以上に人間の共犯者になっているのである。ある種のおそろしい風景を眼前にするとき、人は人間の罪をゆるして、森羅万象《しんらばんしょう》を告発しようという誘惑にかられる。そして、自然のもつ重苦しい挑発をひしひしと感じるものだ。ときに砂漠は人間の心にとっては、とりわけ経験の浅い人間の心にとっては害になる。人間の心は巨人となりうるものであった。ソクラテスやイエスのような人物を作る。しかし、いっぽうでは、小人にもなりうるものであって、アトレウス〔憎悪から弟にその子を食べさせる罪をおかしたギリシア神話にでてくる王〕やユダを作るのである。小人の心はたちまち爬虫類《はちゅうるい》となってしまう。うす暗い大樹林、イバラ、とげのある植物、木の枝の下にある沼などは、小人の心にとって、たびたび足を運ぶように運命づけられているところなのだ。小人の心は、こうしたところで、悪い考えに知らず識らずそまってしまう。幻覚、わけのわからない幻影、時間と場所によっておそわれるおどろきといったものが、こうした半分宗教的であると同時に半分獣的な恐怖のようなものの中に人間を投げこみ、この恐怖はふだんは迷信を生みだし、非常時には野蛮を生みだすのだ。幻覚は殺人におもむく道をてらす松明《たいまつ》をにぎっている。おいはぎには迷いはつきものだ。おどろくべき自然は、いっぽうでは偉大な精神をもっている人々の目をさまし、他方では野獣の心をもっている人々の目をくらませるという、二重の意味をもっているのだ。人間が無知で、砂漠が幻影にみちているとき、孤独の暗さは知恵の暗さに加わる。こうして、人間の中に深淵の裂けめができるのだ。するどい岩、くぼ地、雑木林、夕方になると木々をすかしてあらわれるおそろしい格子模様といったものが、人間をおそろしく狂暴な行動にかりたてるのだ。あちこちに極悪な場所がある、ということさえできるだろう。
ベーニョンとプレランのあいだにある陰気な丘は、なんとおびただしい悲しい出来事を目撃したことか!
広大な地平線は魂を一般的な思想にみちびく。そして、両側を限られた地平線は部分的な思想を生みだす。そこで、大いなる心をもっている人間も、ときには小人とならざるをえないということになる。ジャン・シューワンこそ、その証拠となる人物だった。
一般的な思想が部分的な思想によって憎まれることこそ、進歩がおこなう闘争にほかならない。
地方《ペイ》、祖国《パトリ》というふたつの言葉は、ヴァンデの戦い全体を要約している。つまり、ヴァンデの戦いは、地方の思想が普遍的な思想に対抗したけんかであり、百姓たちが愛国者《パトリオット》に対抗してはじめた戦いなのである。
七 ヴァンデがブルターニュの結末をつける
ブルターニュは古くから反乱のたえない地方である。二千年のあいだ、ブルターニュにはなんども反乱がおこったが、いつも、おこすだけの理由をもっていた。しかし最後におこした反乱には理由があるとはいえなかった。といっても、君主政治に対するのと同じく革命に対しても、王侯貴族などの為政者に対するのと同じく革命政府の派遣議員に対しても、あるいは塩税に対するのと同じくアシニャ紙幣の印刷に対しても、ブルターニュの戦いは根本においてはいつも同じ理由をもっていた。反乱に登場する戦士たちが、ニコラ・ラパン、フランソワ・ド・ラ・ヌー、プリュヴィオー隊長、ラ・ガルナッシュの奥方、ストフレ、コクロー、ルシャンドリエ・ド・ピエールヴィルとかわっても、あるいは国王に反抗するロアン公の下でおこなわれようと、国王のために戦ったラ・ロシュジャクラン氏の下でおこなわれようとも、ブルターニュはつねに同じ戦い、つまり中央精神に反抗した地方精神の戦いを戦ってきたのである。
これらの古い地方は沼みたいなものだった。そこに眠っている水は流れることをいやがり、吹く風もこの地方には生気をあたえないで、かえっていらだたせた。フィニステール県では文字通りフランスが終わり〔≪フィニステール≫には、地のはてという意味がある〕、人間にあたえられた行動範囲が限られ、時代の歩みがとまったのだ。『とまれ!』と、大洋が大地に向かって叫び、野蛮が文明に向かって叫んだのだ。中央、つまりパリが衝撃をあたえるたびに、その衝撃が王家からあたえられようと、あるいは共和政府からあたえられようと、つまりは独裁政治の方向に向かうものであろうと、自由の方向に向かうものであろうと、それはブルターニュにとっては新しいものにかわりはなく、ブルターニュはこの新しいものに対していきりたったのだ。おれたちをそっとしておいてくれ。おれたちになにを望むのか?
こうしてマレの地方民はくま手をとり、≪森林地帯《ボカージュ》≫の地方民は騎銃をつかむのだ。立法や教育に関するわれわれのすべての試み、すべての発意、われわれの大百科事典、われわれの哲学、われわれの才能、われわれの光栄というものは、ル・ウールーの村の目の先で失敗に帰してしまう。バズージェ村の警鐘はフランス革命を脅迫し、ル・フーの荒地は風をふくんだ革命広場に対して暴動をおこし、ル・オー=デ=プレの鐘はルーヴル宮の塔に宣戦布告をするのである。
実におそるべき耳つんぼ。
ヴァンデの暴動は実に悲しむべき誤解である。
ヴァンデの反乱は巨大な無謀のくわだて、巨人たちのいいがかりである。ヴァンデというひとつの言葉、高名であるとともに陰気きわまりないひとつの言葉しか歴史の上に残さないよう運命づけられた並はずれた反抗である。亡命貴族のためには自殺し、エゴイスムのために献身し、卑劣な行為のために溢《あふ》れる勇気を提供することに時をついやした反乱である。計算もなく、戦略もなく、戦術もなく、責任もない反乱である。意志がどのくらい無気力になりうるかを示した反乱である。騎士道にかなっているとともに野蛮そのもの、つまり発情した不条理同然の反乱である。光明に対して暗闇の柵《さく》をはりめぐらした反乱である。無知が真実に対し、正義に対し、権利に対し、理性に対し、解放に対して、ばからしいと同時に崇高な長い抵抗をこころみた反乱である。おそるべき八年という歳月、荒廃に帰した十四の県、掠《かす》められ荒らされた田畑、おしつぶされた収穫物、やかれた村々、廃虚と化した町々、略奪された家々、虐殺された女子どもたち、松明《たいまつ》で燃やされた家々、心臓につきさされた短剣、文明をおびやかす恐怖、ピット氏の希望。これこそヴァンデの反乱であり、みずから気づかぬまに祖国に危害をあたえようとした反乱だったのだ。
しかし、結局、ヴァンデの反乱は、古くからブルターニュをおしつつんでいた影にあちこちから穴をあけ、ここにおいしげるしげみをあらゆる光明の矢でいちどきに射通す必要があることを示したことで、進歩に役だったのである。危険な局面は事物を整理する危険な手段をもっているものである。
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第二編 三人の子ども
一 内乱より以上のもの
一七九二年の夏は雨がよくふった。一七九三年の夏はとても暑かった。内乱がつづいた結果、ブルターニュには道といえるような道はひとつもなくなってしまっていた。それでも、よく晴れた夏のおかげで、人々は旅行することができた。いちばんよい道はかわいた土地だった。
七月ののどかな一日の日ぐれどき、日没後およそ一時間のころ、アヴランシュのほうからやってきたひとりの騎馬の男がラ・クロワ=ブランシャールと呼ばれている一軒の小さな宿屋の前でとまった。この宿屋はポントルソンの町の入口にあって、宿屋にかけてある看板には『上等の生《き》リンゴ酒あります』という二、三行の文字が書いてあった。この文字は五、六年前までは読むことができたが、今は消えてよく見えなかった。
その日は一日じゅう暑かったが、この時間には海から風が吹きはじめていた。この旅人はゆったりしたマントにくるまっていた。そのマントは馬のしりまですっかりおおっていた。彼は三色の徽章《きしょう》がついている大きな帽子をかぶっていた。すぐ帽子の徽章をまとに、生垣のかげから銃撃されるこの地方で、こんなことをするのは勇気がなくてはできないことだった。首に結びつけているマントは、両腕を自由に動かせるようにうしろにはねのけていて、その下から、三色の帯と、その帯からつきだしている二ちょうのピストルの柄が見えていた。腰にさげたサーベルがマントのそとにでていた。
戸口にとまった馬蹄の音がしたので、宿屋のドアがひらいて、主人がカンテラを手にさげてあらわれた。ちょうど日がおちて、これから夜になろうとする時間だった。道の上はまだ明るかったが、家の中はもう夜になっていた。
宿屋の主人が旅人の帽子の徽章をながめた。
「市民《シトワイヤン》」と、宿屋の主人がたずねた。「うちにおとまりですかね?」
「いや、とまらない」
「じゃ、どこへいらっしゃろうというので?」
「ドルへいく」
「それなら、アヴランシュへもどるか、それともポントルソンでとまるかなさいませ」
「なぜだ?」
「ドルでは、戦争をやっとりますんでね」
「ははあ!」と、騎馬の旅人が言った。
そして言葉をつづけた。
「わたしの馬にオートむぎをやってくれ」
宿屋の主人は飼桶《かいおけ》をもってくると、その中へオートむぎのふくろの中身をあけた。それから馬の勒《ろく》をはずした。馬が鼻をならしてたべはじめた。
二人の会話はつづいた。
「市民《シトワイヤン》、この馬は徴発してきたので?」
「いいや」
「あなたさまので?」
「そうだ。ちゃんと金を払って買った」
「どこからいらっしゃいましたんで?」
「パリからきた」
「でも、まっすぐいらっしゃったんじゃありませんね?」
「そうだ」
「ちゃんとわかっておりましたよ。なんしろ、どこもかしこも道はふさがっておりますんでね。でも、駅馬車はまだ走っております」
「それもアランソンまでだ。わたしはアランソンで駅馬車をすててきた」
「なんてこった! そのうち、フランスにゃ駅馬車なんかひとつもなくなっちまいまさあ。馬が一頭もいなくなりましたからね。前は三百フランだった馬がきょうびにゃ六百フランもしますよ。それに飼料だってばか高いときています。わたしも以前は駅馬車の駅長だったんですが、今じゃ安宿のおやじでさあ。前は駅馬車の駅長だって千三百三十人もいましたが、今はそのうち二百人がやめちまいましたよ。市民《シトワイヤン》、あなたは新しい運貸表で旅行されてきましたんで?」
「新しいっていうのは五月一日の運賃表のことだな。そうだ」
「あの運賃表によると、馬車にのると二十スウ、一頭立二輪幌馬車《カブリオレ》にのると十二スウ、有蓋荷馬車にのると五スウということになっていました。ときに、この馬はアランソンでお買いもとめになったんで?」
「そうだ」
「きょうは一日じゅうのりずめだったんでしょう?」
「うん、夜明けからな」
「きのうも、そうだったんで?」
「うん、おとといもだ」
「そうだと思っていました。ドンフロンとモルタンを通っておいででしょう?」
「それにアヴランシュも通った」
「市民《シトワイヤン》、悪いことは言いません、ここでちょっと休んでおいでなさい。あなたは疲れておいででしょう?それに馬も疲れています」
「馬は疲れる権利をもっているが、人間はもっちゃいない」
宿屋の主人はまた旅行者の顔をじっとながめた。それは重々しく、落ちついていて、きびしい顔だちで、灰色のひげでとりかこまれていた。
宿屋の主人は見渡すかぎり人通りのない道のほうをちらっと見やってから、また口をひらいた。
「こんなぐあいに、ひとりで旅行されるんで?」
「ちゃんと護衛がついている」
「どこにいますんで?」
「サーベルとピストルをもっているんだ」
宿屋の主人は桶にいっぱい水をくんでくると馬にのませた。そして馬が水をのんでいるあいだ、旅人のほうをじっとながめながら、心の中で思った。(どうだっていいけれど、この男は坊主らしいな)
騎馬の男がまた口をひらいた。
「ドルで戦争をやっておると言ったな?」
「そうです。今ごろ、はじまったところでしょう」
「だれが戦っているのだね?」
「旧貴族と旧貴族が戦っているんですよ」
「どういうことだ?」
「共和政府に味方している旧貴族と王さまに味方している旧貴族が戦っているんですよ」
「しかし、王はもういないぞ」
「小さい王さまがいまさあ。それに、おかしなことに、戦っている二人の旧貴族ってのが親戚同士なんですよ」
騎馬の男は注意深く耳をかたむけていた。宿屋の主人が話をつづけた。
「ひとりは若くて、ひとりは年よりです。つまり甥《おい》のむすこが大伯父にはむかっているんです。伯父貴は王党派《しろ》なのに、甥っ子のほうは愛国者《パトリオット》ときています。伯父貴は王党軍《しろ》を指揮し、甥っ子は共和政府軍《あお》を指揮しています。ああ! 二人とも、なさけ容赦もなく殺しちまうでしょう。相手を殺すまで戦うつもりなんですよ」
「相手を殺すまでだと?」
「そうですよ、市民《シトワイヤン》。ねえ、その二人がたがいにどういう挨拶をぶつけあったか、ごらんになりたかありませんか? ほら、これは、年よりのほうが、いたるところに、あらゆる家、あらゆる木にはりつけさせたはり紙です。手前のところの戸口にもはらせましたよ」
宿屋の主人が二枚とびらの片方にはりつけてある四角い紙にカンテラを近づけた。はり紙は大きな文字で書いてあったので、馬の背中にのっている男にも、それを読むことができた。
『ラントナック侯爵は、甥の子ゴーヴァン子爵につぎのように通告する名誉をもっている。もし侯爵がさいわい子爵を逮捕できたときには、子爵に銃殺の礼を受けさせるものである』
「それから」と、宿屋の主人が言いつづけた。
「こっちのが、その返事ですよ」
そして宿屋の主人はふり向くと、もう片方のとびらの上に、ちょうど前のと向かいあわせにはってあるもう一枚のはり紙を、カンテラでてらした。それを旅人が読んだ。
『ゴーヴァンはラントナックにつぎのように返答する。すなわち、もしラントナックを逮捕したときには、ただちに銃殺するものである、と』
「きのう」と、宿屋の主人が言った。「最初のはり紙がうちの戸口にはられました。そして、けさになるともう、二ばんめのがはってあるんです。さっそく返事をしたってわけですな」
旅人はなにやら自分に話すようにつぶやいて、二こと三こと声にだして言ったが、なにを言ったかは宿屋の主人にはよく理解できなかった。旅人はこう言ったのだ。
「そうだ。祖国の内乱より以上におそろしいものがある。それは家族内の戦いだ。それも必要だから、やるがいいだろう。国民が偉大な若返りをするのには、これくらいの代償を払わねばならんのだ」
そして、旅人は片手を帽子にかけ、片方の目を二ばんめのはり紙にじっとそそいだまま、敬礼した。宿屋の主人が言葉をつづけた。
「いいですか、市民《シトワイヤン》、問題はこうなんです。都市や大きな町では、われわれは革命の味方をしています。ところが、地方ではその反対です。都市に住む連中はフランス人で、村に住む連中はブルターニュ人ってことです。だから都市に住む連中が地方に住む連中と戦争してるってわけです。地方のやつらはわれわれのことを≪共和派野郎≫って呼んでいますが、われわれは地方のやつらのことを≪いなかもん≫って呼んでいます。そして貴族と坊主が地方のやつらの味方をしているんですよ」
「みんながそうだというわけじゃない」と、騎馬の旅人が宿屋の主人の言葉をさえぎって言った。
「ま、そうでしょうな、市民《シトワイヤン》。なにしろ、ここじゃ、子爵と侯爵がいがみあっているんですからな」
そして彼はひとりごちて、こう言った。
「どう考えたって、この人は坊さんだな」
騎馬の旅人が話をつづけた。
「で、今、どちらが勝っているんだね?」
「いままでのところでは子爵のほうです。でも、なかなか苦戦しておりますよ。年よりの侯爵はなかなかおそろしいやつですからね。二人とも、この土地の貴族のゴーヴァン家の出《で》なんです。ひとつの家族が二本の枝にわかれたんですな。大きいほうの分家の親玉がラントナック侯爵で、小さいほうの分家の大将がゴーヴァン子爵です。そして、今、この二つの枝がたがいにいがみあっているってわけです。こんなことは木の世界では見られないことですが、人間では見られるんですな。このラントナック侯爵ってのは、ブルターニュじゃ、もうたいそうな力をもっておりましてね、百姓どもにとっちゃ、王侯《プランス》同然なんですよ。侯爵がイギリスから上陸してくると、その日のうちに、たちまち、八千人の人間が立ちあがったんです。そして、一週間たつと、三百の小教区がいっせいに蜂起《ほうき》しました。もし侯爵が海岸の片隅でも占領していたとすれば、今ごろはもうイギリス軍が上陸していたでしょうな。さいわい、その侯爵の甥のむすこの子爵ゴーヴァンが海岸方面におりましてね。なんて妙ちきりんなめぐりあわせでしょう。ゴーヴァンが共和政府軍《あお》の指揮をとって、大叔父を強引におし返してしまいました。
それから、これはゴーヴァンにはさいわいだったんですが、ラントナックはここへやってきて、大量の捕虜を虐殺したとき、いっしょに二人の女まで銃殺させちまいました。ところが、その女たちのひとりは三人の子もちでして、この三人の子どもたちというのは、パリのある大隊の養子となっていたんです。それで、その大隊の連中が、えらくおこっちまったんですよ。赤帽大隊《ボネ・ルージュ》という名前ですがね。もっとも、今では、このパリっ子たちの大隊の連中も、ほとんど戦死して、生きてるものはわずかですが、どれも怒りくるった銃剣みたいに勇猛な連中なんです。彼らはゴーヴァン指揮の討伐隊に編入されてしまいましたが、無敵の精鋭ぞろいです。彼らは二人の女の仇《あだ》をうち、三人の子どもたちを奪い返すのだと言っています。ところが、あの年よりが三人の子どもたちをどうしたかは、よくわかっておりませんが、とにかく、そのために、パリの精鋭たちがかんかんにおこっているのです。その三人の子どもたちがかかわりあっていなければ、この戦争だって、こんなにはなっちゃいませんでしたろうに。
子爵はりっぱで勇敢な若者ですが、年よりのほうはおそるべき侯爵です。百姓たちはこんどの戦争のことを、聖ミッシェルさまとベルゼビュト〔新約聖書マタイ伝にでてくる地獄と悪魔の王〕との戦争だと呼んでいます。ご存じでしょうが、聖ミッシェルさまはこの土地の守り神です。湾のまんなかにある山は、この神さまにささげられています。聖ミッシェルさまは悪魔をたおして、この近くにある別の山の下へうずめてしまわれたのです。その山はトンブレーヌと呼ばれています」
「そうだ」と、騎馬の旅人がつぶやいた。「トゥンバ・ベレニ、つまりベレヌスの墓だ。それとも、ベリュスか、ベルか、ベリアルか、ベルゼビュトかの墓ということか?」
「よくご存じでいらっしゃいますな」
それから、宿屋の主人はひとりごちた。
「たしかに、この人はラテン語を知っている。まさしく坊さんだぞ」
彼はまた話しつづけた。
「それで、市民《シトワイヤン》、百姓たちにとっちゃ、こんどの戦争は、さっきお話しした神さまと悪魔の戦いと同じものというわけです。百姓に言わせれば、聖ミッシェルさまは王党派の将軍で、ベレゼビュトは愛国者の若い指揮官です。しかし、実際は、悪魔はたしかにラントナックのほうで、天使はゴーヴァンのほうですよ。ところで、あなた、なにもおたべになりませんので?」
「わたしは水筒をもっているし、パンもひときれある。でも、おまえさんはドルがどんなふうになっているか、まだ話してくれていないね?」
「それはこうです。ゴーヴァンは沿岸地帯の討伐軍の指揮をとっています。ラントナックの目的は、このへん一帯を全部蜂起させ、下ノルマンディを足場にして下ブルターニュを確保し、ピットのために門戸をひらき、二万のイギリス軍と二十万の百姓軍でもって王党軍に加担させようということでした。ところがゴーヴァンがこの計画を粉砕しちまいました。ゴーヴァンは沿岸地帯をしっかり確保していて、ラントナックを内陸におし返し、イギリス軍を海へたたきこんでしまいました。ラントナックはここにいたんですが、これをゴーヴァンが撃退してしまいました。さらに、ラントナックからポン=トー=ボーを奪い返し、ラントナックをアヴランシュからもヴィル=デューからも撃退し、グランヴィルをめざす敵を遮断してしまいました。
現在、敵をフージェールの森までおし返し、森の中で包囲しちまおうと作戦中です。きのうまでは、すべて具合よくいっていて、ゴーヴァンも討伐隊をひきいて、ここにやってきていました。ところが、状況が一度に急転回しちまいました。いくさなれしているあの年よりが方向転換をして、ドルめざして進んでいるという知らせがあったのです。もし年よりがドルを手にいれたら、もしドル山に砲台を作ってしまったら……やつらは大砲をもっていますからね……海岸の一地点にイギリス軍が上陸できる一角を作ることになり、そうなったら、すべてが水のあわになってしまいます。もう一瞬たりともぐずぐずしていられない状況だものですから、頭のいいゴーヴァンは、だれの命令も受けず、だれにも期待しないで、一切他人の相談もあおがず自分の判断ひとつで、装鞍《そうあん》ラッパを吹きならし、大砲に馬をつけ、兵士たちを集合させ、サーベルを引きぬいたのです。
こうして、ラントナックがドルをおそっているうちに、そのラントナックをゴーヴァンが襲撃する、ということになったのです。ドルで、ふたつのブルターニュ軍がぶつかりあうってことになるのでしょう。こりゃ、きっと、大会戦になるでしょうね。今ごろ、両軍はドルではちあわせしていますよ」
「ドルへいくには、なん時間くらいかかるかね?」
「大砲や車を引きつれた軍隊だと、少なくとも三時間はかかります。連中はもうドルについていますよ」
旅人はちょっときき耳を立ててから、こう言った。
「ほんとだ。砲声がきこえているようだ」
宿屋の主人もじっとききいった。
「そうですよ、市民《シトワイヤン》。銃声もきこえていますよ。布地を引きさいてるようだ。あなた、ここにおとまりになったほうがよろしいですよ。ドルなんかへまぎれこんじまったって、いいことはひとつもありませんですよ」
「ここにとまるわけにはいかんのだ。なんとしても、いかねばならんのでね」
「いや、とんでもないことになりますよ。どういうご用がおありか知りませんが、危険この上ないですからね。ま、この世の中でいちばん大切だという用事でもおありなら別ですが……」
「実際、そのいちばん大切なことに関係あるんでね」と、騎馬の旅人が答えた。
「……なにか、むすこさんのことに関係したようなことで……」
「うん、それに近いことだな」と騎馬の男が言った。
宿屋の主人は顔を上げると、心の中でつぶやいた。
(この市民《シトワイヤン》は、どう考えても坊さんらしいんだがな)
それから、しばらく考えこんでから、こう言った。
「まあ、坊さんにだって、子もちの人だってあるわけだからな」
「わたしの馬に勒《ろく》をつけてくれ」と、旅人が言った。「それから、勘定はいくらかね?」
こう言うと、彼は代を払った。
宿屋の主人は飼桶《かいばおけ》と水桶を壁ぎわにかたづけると、また旅人のところにもどってきた。
「どうやら、あなたはどうしてもお立ちになるようすですが、わたしの忠告だけはおききください。あなたはきっとサン=マロへいらっしゃりたいんでしょう。それでは、ドルを通っていってはいけません。ドルを通るのと、海岸に沿っていくのと、ふた通りの道があります。どちらをいっても、距離にはたいしたちがいはありません。海岸に沿った道は、サン=ジョルジュ・ド・ブルエーニュ、シェリュエ、イレール=ル=ヴィヴィエなどを通ります。ドルを南のほうに見て、カンカルを北のほうにひかえて、おいでなさい。市民《シトワイヤン》、この道のはずれに二股《ふたまた》道の分岐点があります。ドルへいく道は左で、サン=ジョルジュ・ド・ブルエーニュへいく道は右です。よくおききください、ドルを通っていったら、虐殺《ぎゃくさつ》にとびこんでしまいますよ。だから、左へいってはいけません。右へいくのです」
「ありがとう」と、旅人は言った。
そして彼は馬に拍車をくれた。
あたりはすっり暗くなっていた。旅人は夜の中に突き進んでいった。
たちまち、宿屋の主人は旅人を見失ってしまった。
道のはずれにある二つの道がわかれる分岐点まできたとき、旅人ははるか遠くから宿屋の主人の声が叫んでいるのをきいた。
「右へいくんですよお!」
しかし、彼は左のほうへいった。
二 ドル
ドルはブルターニュにあるスペイン風のフランスの町、と教会記録は呼んでいるが、ほんとうは町ではなく道である。それは古びたゴティック様式の大きな通りで、道の左右にはずっと、柱をたくさん使った家が並んでいる。しかし、こうした家々は一列に並んでいるわけではなく、頭や肘を道のほうへ突きだしている。それに、道はとてもひろい。町の残りの部分は網の目のように走っている路地にすぎないが、この路地はみな、まるで幾本もの小川が一本の大河に流れこむようにして、町の直径となっている大通りに結びついている。この町は門もなければ城壁もなく、あけっぴろげで、ドル山から見おろされたら、とても包囲攻撃にもちこたえることはできないだろうが、大通りだけはまだ攻撃にたえることができるようになっている。五十年前まではまだ見ることができた、これらの岬のような家々や、大通りの両側に並んでいる柱の下にできている二本の廻廊は、とても強固で、抵抗できる戦場となっていた。家の数だけ砦《とりで》があるというわけで、この町を攻撃するとなると、家をひとつひとつ攻略しなければならなかったのだ。古い市場がこの大通りのまんなかあたりにあった。
ラ・クロワ=ブランシャールの宿屋の主人が言ったことはほんとうだった。彼が話していたころ、ドルの町は嵐のような大混戦のちまたになっていた。朝、この町に到着した王党軍《しろ》と、夕がた、ふいにおそってきた共和政府軍《あお》のあいだに、夜間の会戦がはじまり、それも町の中で爆発したのだった。両軍の兵力は同じではなく、王党軍《しろ》の六千人に対し、共和政府軍《あお》は千五百人だった。しかし、その激しさときたら伯仲《はくちゅう》していた。しかし、きわだっていたことは、千五百人の軍勢が六千人の軍勢に攻撃をかけたということだった。
片方は群衆同然の軍隊だったが、もう一方は正規の密集軍団だった。片方の六千の百姓軍は皮製の上衣にクール=ド=ジェジュ章をつけ、まるい帽子に白いリボンをいただき、腕章にはキリスト教の銘句をはりつけ、皮帯にはロザリオをしばりつけていた。彼らの大半はサーベルや銃剣なしの騎銃よりもくま手をもち、大砲をロープでひっぱり、装備も悪く訓練もいきとどかず、武器も悪かったが、熱狂的な戦意に燃えていた。一方の千五百人の軍勢は、三色の徽章《きしょう》をいただいた三角帽子をかぶり、裾《すそ》も襟《えり》の折り返しも大きな軍服を着て、負皮を十文字にかけ、銅製の柄のついた軍刀と長い銃剣をつけた小銃をもっていた。彼らはよく訓練され、整然としていて、上官の命にはすなおだが、攻撃のさいには勇猛で、指揮する術を心得ているものが身につけているあの従順なところをそなえていた。敵の兵士たちと同じようにみずから進んで軍にくわわったものたちだったが、祖国《パトリ》のために軍にはせさんじたものたちで、その上、ぼろぼろの服を着て、はだしだった。君主政治に味方するものは義侠《ぎきょう》に燃えた百姓たち、革命に味方するものははだしの英雄だった。そして両軍とも、それぞれ中核とする総大将をいただいていた。王党軍《しろ》の指揮官は老人であり、共和政府軍《あお》の指揮官は青年だった。一方はラントナックであり、他方はゴーヴァンだった。
フランス大革命は、ダントン、サン=ジュスト、ロベスピエールといった巨大な若い群像を生みだすと同時に、オッシュ、マルソーなどという、理想主義の若い群像をも輩出《はいしゅつ》させた。ゴーヴァンもそういう青年たちのひとりだった。
ゴーヴァンは三十歳、ヘラクレスのような丈夫な首、予言者のような誠実なまなざし、そして子どものような笑顔をもっていた。たばこも吸わず、酒をのまず、みだりに神をののしることもしなかった。戦場へでるときは化粧道具を肌身はなさずもち歩き、つめや、歯や、褐色のふさふさした髪をていねいに手入れした。休息するときには、弾丸で穴をあけられ、ほこりで白くなった隊長の軍服を、手ずから風に向けてはたいた。つねに死にものぐるいの勢いで交戦中の兵士の群れの中でとびまわったが、傷ついたことは一度もなかった。日ごろの声はやさしかったが、ひとたびいくさともなると、指揮官の怒号と変わった。寒い北風、雨、雪の下でも、マントにくるまって、美しい頭を石の上にあてて地面にころがって眠り、兵士たちの手本となった。英雄的であるとともに、無邪気な性質の持主だった。しかし、ひとたびサーベルをにぎると、がらりと人が変わってしまった。彼はやさしい顔立ちをしていたが、こういう男は戦場にでるとみごとな働きぶりを示すものである。
その上、彼は思想家であり、哲学者であり、一個の若い賢人だった。風貌はアルキビアデスに似かよい、言うところはソクラテスに似かよっていた。
この青年は、フランス大革命という巨大な即興劇の舞台で、一躍、一軍の指揮官になったのだった。
彼がみずからの手で組織した討伐隊は、ローマの軍団のように、小さいけれども完璧な部隊だった。それは歩兵と騎兵を中心に組織され、斥候《せっこう》、工兵、対壕工兵、架橋兵をもっていた。それから、これもローマの軍団が弩砲《どほう》をそなえていたように、この部隊も大砲をそなえていた。馬につないだ三門の大砲は、この討伐隊から柔軟性を奪うことなく、その力を強化していた。
一方、ラントナックも一軍の指揮官だったが、これはきわだって悪い大将だった。彼はゴーヴァンとくらべて、ずっと思慮深く、そしてずっとふとっ腹だった。ほんものの老いた英雄というものは、若い英雄たちよりも冷静なものであり、それは、すでに人生の夜明けからはるかに遠ざかってしまっているからである。また彼らは若者たちとくらべて、ずっと大胆不敵であり、これは、すでに死を間近にひかえているからである。いったい、彼らに失うものがあるだろうか? ほんの少しのものしかないのである。このためにこそ、ラントナックはかしこく立ちまわると同時に大胆不敵な戦略をとることもできたのである。
しかし、要するに、この年よりと若者との執拗《しつよう》な対戦においては、ほとんどつねにゴーヴァンのほうが優勢であった。これは、なにをおいてもまず幸運のなせるわざであった。すべての幸運は、たとえそれがおそるべき幸運であっても、青春の味方をするものである。そして勝利は、つまり若い娘に似かよっているものである。
ラントナックはゴーヴァンに激昂《げっこう》していた。なぜなら、第一にゴーヴァンは彼を撃破したからであり、第二にゴーヴァンは彼の親戚筋のものだったからである。ゴーヴァンめ! 浮浪児めが! あいつ、どういう了見でジャコバン派などになりさがりおったか?
侯爵には子どもがいなかったから、ゴーヴァンは彼の跡つぎになるべき男だった。それにゴーヴァンは彼の甥のむすこだったから、彼からしてみれば孫同然の男だったのだ!
「それがどうだ」と、このほとんど祖父といってよい年よりは言うのだった。「もしこの手でつかまえたら、犬のようにぶち殺してやるぞ!」
それから、共和国がラントナック侯爵に不安をおぼえるのも、それだけの理由があった。ラントナックは上陸するが早いか、あたりをふるえあがらせてしまった。彼の名前はまるで導火線のようにヴァンデの反乱軍の中をかけめぐり、ラントナックはたちまちにして反乱軍の中心になってしまったのだ。そして、あるいはねたみあい、あるいはしげみや掘れみぞの中にひそんでいるといった、このような反乱の場所では、だれかきわだった人物がひとりでも立ち現われると、それまで、あちこちにいて、仲間うちでたがいに牽制《けんせい》しあっていた隊長たちがより集まってくるものである。こうして、ほとんどすべての森の隊長たちがラントナックのもとに集結し、近くのものも遠くのものも、すべて彼の指揮下にはいってしまったのだ。
しかし、ただひとりだけ、ラントナックを見棄てた男がいた。はせさんずるのも第一番だったガヴァールだった。なぜだったか? それは、彼自身、それまで、他の指揮官たちの信任厚い男だったからである。ガヴァールはむかしの内乱のやり方のあらゆる秘策に通じ、その計画を採用してきたのだが、それをラントナックは破棄《はき》して、別のやり方にとってかえたのだ。他の指揮官の信任が厚かった男のやり方を受けつぐことはないのだ。つまり、ラ・ルーワリの靴をラントナックにはかせることはできなかったのだ。こうして、ガヴァールはラントナックのもとを去り、ボンシャン軍に合流してしまったのだった。
ラントナックは武人としてはフリードリッヒ二世の流派に属していた。つまり、大きな戦争と小さな戦争を組みあわせようとしたのだ。彼はカトリック教徒と王党派《しろ》の大軍団のような≪混乱している大集団≫、いわば敵の襲撃にあえばたちまち敗北するよう運命づけられているあの群衆など欲しいとも思わなかったし、敵をじらして悩ますには都合がよいが、敵を倒す力のない、あのしげみや雑木林に散開している軍を欲しいとも思っていなかった。ゲリラ戦は決定的な結着をつけるものでなく、いいかげんな結末しかつけないものである。そこで、最初は共和国を攻撃するためにはじめられても、結局はたかだか一台の乗合馬車を強奪するくらいがおち、ということになってしまう。
ラントナックはブルターニュ式の戦法を理解しなかったし、ラ・ロシュジャクランのように野戦に集中するやり方も、ジャン・シューワンのように森林戦にのみ力をそそぐやり方も採用しなかった。ヴァンデ方式もシューワン方式もとらなかったのだ。彼は正真正銘の戦争をしたかった。つまり、百姓たちを使用するけれども、それを兵士たちに支援させるやり方を欲したのだ。戦略のためには群衆をもちい、戦術のためには正規の軍隊をもちいようとしたのだ。たちまち集合するけれども、またたちまち散らばってしまうこれらの百姓軍は、敵を攻撃したり、待伏せしたり、とつぜん襲撃したりするには優秀な軍隊だと思っていた。しかし、こういう軍隊はあまりに流動性をもちすぎているとも、彼は思っていた。それは、まるで手中ににぎっている水のようなものだった。そこで彼は、この流動し拡散する戦いの中に、ひとつの堅固な拠点を作りあげたいと思った。この森林の野性軍に、中心になって自由に百姓軍をふりまわす正規軍を編入したいと思ったのだ。これはおそるべき深い考えで、もしこの作戦が成功していたら、ヴァンデは難攻不落であったろう。
しかし、いったい、正規軍など、どこにいるのだろう? 正規兵など、どこにいるのだろう? 完全に訓練された軍隊など、どこにいるというのか? それはイギリスにいるのである。ここから、イギリス軍を上陸させようという、ラントナックの固定観念ができたのである。こうして党派に忠実たらんとする精神など消え、王党派《しろ》の白い徽章にかくされて、彼にはイギリス軍の赤い軍服が見えなくなってしまったのだ。ラントナックにはただひとつの考えしかなかった。沿岸地帯に一点を占拠して、これをピットの手に渡すこと、それだけだった。そこで、ドルが無防備であるとわかると、これを占領して、ドル山をおとし、ドル山占拠によって沿岸を占領しようと、さっそくドルをおそったのである。
ドルをえらんだのは賢明だった。ドル山から砲火をあびせれば、ル・フレスノワからサン=ブレラードまでの敵を一掃でき、カンカルの巡洋艦隊からも隔絶させられ、ラズ=シュール=クエノン、サン=メロワール=デ=ゾンド間の海岸一帯には、イギリス軍が自由に来襲できることになるのだ。
この決定的な作戦を成功させるために、ラントナックは部下の兵士のうちでももっともたくましい六千人余と、この兵士たちがもっている大砲全部、つまり十六|听《きん》の長砲十門、八听のバタルド砲一門、四ポンドの砲弾をうつ連隊砲一門をひきいていった。彼は、十門の砲からうちだす千発の砲弾のほうが、五門の砲からうちだす千五百発の砲弾よりも威力があるというあの原理にしたがって、ドル山の上に強力な砲台をきずこうと思ったのだ。
かならず成功すると思われた。軍勢は六千もあった。不安な点は、ゴーヴァンが千五百の兵をひきいてアヴランシュのほうにいるということ、レシェルがディナンのほうにいるということだけだった。実際、レシェルは二万五千の軍をもっていたが、二十里も遠くのところにいた。それでラントナックは安心していた。レシェルのほうは大軍をもってはいたが遠距離のところにいたし、ゴーヴァンのほうはすぐ近くにいたけれども、軍の数が少なかったのだ。ついでにひとこと言っておくと、このレシェルはまぬけな男で、のちほど、その二万五千人の軍をラ・クロワ=バタイユの戦場で敵に全滅させられ、この失敗の代償に自殺してはてた。
こうして、ラントナックはまるきり安全だったのだ。そこで彼はとつぜん、猛然たる勢いで、ドルの町に侵入したのだ。ラントナック侯爵は悪名高い男だった。住民たちは彼がなさけ容赦のない男であることをよく知っていた。抵抗ひとつしなかった。おびえた住民たちは家の中にとじこもってしまった。六千のヴァンデ軍はいなかものまるだしの混乱におちいりながら、この町に野営した。給養がかりもいなければ、これといった宿舎もなく、ほとんど市場の混乱そのままに、勝手なところに野宿した。露天で炊事をするものもいれば、銃をすてた手にロザリオをもって教会へでかけるものもいた。
ラントナックはおもだった砲兵士官をつれて、ドル山へ視察にでかけた。不在中の指揮をグージュ=ル=ブリュアンという男にまかせた。これはラントナックが戦闘指揮官に任命してやった男だった。
このグージュ=ル=ブリュアンは歴史上に、なんともはっきりしない足跡を残している。彼にはあだ名が二つついていた。ひとつは≪共和政府軍《あお》破り≫というのだった。これは彼が愛国者《パトリオット》をおおぜい虐殺したのでつけられたあだ名だった。もうひとつは≪イマーニュス≫というのだった。これは彼がなんとも説明のつけようがないくらいおそろしい顔をしていたからだった。≪イマーニュス≫とは、ラテン語の immanis〔怪奇なという意味〕から派生した古い下ノルマンディ語で、おびえた人間に対して超自然的な、ほとんど神聖と言ってよいほどの醜悪なもの、つまり悪魔や、半人半山羊神《サテュロス》や、食人鬼を説明するのに使われる言葉である。古い記録にも d'mes daeux iers j'vis l'imanus〔わたしは両目でイマーニュスを見たという意味〕としたためてある。このグージュ=ル=ブリュアンという男がどんな男であったか、また≪共和政府軍《あお》破り≫とはどういう意味なのか、それを知るものは現在の≪森林地帯《ボカージュ》≫の年より連中の中にもいない。しかし、年より連中たちはイマーニュスのことだけはぼんやりとだが知っているのだ。イマーニュスはいなかの迷信にまぎれこんでしまっている。今日でもなお、『トレモレル、プリュモーガの村に現われたイマーニュス』などと言われることがある。このふたつの村は、グージュ=ル=ブリュアンがその不吉な足跡を残した場所なのである。
ヴァンデ軍においては、他の兵士たちは野性的だったが、このグージュ=ル=ブリュアンは野蛮だった。たとえばわけのわからない文字と百合の花の紋章をいれずみした酋長《しゅうちょう》とでも言うべき男だった。その顔には、他の人間のだれにも絶対に見られぬ魂から射しだす、ほとんど超自然的と言ってよい醜悪な光が浮かんでいた。戦場では地獄の住人のように勇敢にあばれまわるかと思うと、そのつぎには残虐のかぎりをつくすのだった。その心は陰険な化膿《かのう》物にみちみち、あらゆる犠牲にも身をささげるかと思えば、あらゆるはげしい怒りにも身をまかせてしまうのだった。彼は理性でものごとを判断したのだろうか? それにちがいはなかったが、くねくねとはいずりまわる蛇《へび》のような考え方をしたのだ。彼は人殺しをするためにヒロイズムから出発した。あまりに怪物じみているために、ときには偉大だとさえ思える、彼のさまざまな決心が、いったいどこに由来しているのか、それを見ぬくことは不可能だった。そして彼は予想もできないおそろしいことをなんでもやることができた。彼は叙事詩の中にでてくるような勇壮な野蛮をもっていた。
こうして、この男には≪イマーニュス≫というあだ名がつけられたのである。
ラントナック侯爵はこの男の残虐性に信頼をおいていた。
まことにそのとおり、イマーニュスは残虐にかけてはすぐれた腕をもっていた。しかし、戦略や戦術にかけては、それほど優秀な男ではなかった。そこで、侯爵が彼を戦闘指揮官に任命したのは、たぶん、まちがいだったということになろう。それはともかく、ラントナックはイマーニュスに指揮と周囲の警戒任務をまかせてでかけていってしまったのだ。
軍人であるよりは戦士であるグージュ=ル=ブリュアンは、ひとつの町を守備するよりひとつの種族をみな殺しにするほうがふさわしい男だった。といっても、彼は前哨部隊を配置につけた。
夜になって、ラントナック侯爵が計画してあった砲台設置のための視察を終わって、ドルへもどりかけていたころ、とつぜん、彼は砲声を耳にした。思わず目をこらすと、大通りのほうから赤い煙が立ちのぼっていた。ふい打ちが、侵入が、襲撃がおこなわれたのだ。町の中で戦闘がおこっているのだった。
ちょっとやそっとのことではおどろかないラントナック侯爵も、このときばかりは、びっくり仰天してしまった。こんなことが突発しようとは思ってもいなかったのだ。こんなことができるやつは、だれだろう?ゴーヴァンの仕業《しわざ》でないことはあきらかだった。四倍の敵に襲いかかるわけはなかった。それではレシェルの仕業か? とすると、とんでもない強行軍をしたことになる! そんなことをレシェルがやりそうもなかった。ゴーヴァンにだって不可能なことだ。
ラントナックは乗馬に拍車をかけた。帰途、彼は逃げていく住民たちにであった。彼は住民たちに問いただしてみたが、住民たちはおびえてきちがいのようになっていた。ただ、こう叫ぶばかりだった。
共和政府軍《あお》だ! 共和政府軍《あお》だ!
そして、侯爵が町についたときには、状況は悪化していた。
こんなことが、どういうぐあいに起こったか、それはつぎにのべるとおりである。
三 小部隊と大戦闘
前にのべたとおり、百姓軍はドルに着くと、町の中にちらばり、めいめい、かってなことをしていた。ヴァンデ軍のモットーに≪友情から服従する≫というのがあったが、こういう軍隊では気ままになりがちである。こういう種類の服従は英雄をつくるけれども、まともな兵隊は作らないものである。彼らは荷物といっしょに大砲まで市場の丸天井の下におしこんでしまい、つかれている上に飲んだりくったり、お祈りをあげたりして、大通りの上で雑魚寝《ざこね》をきめこんでしまった。つまり大通りは守備されているというより、ふさがれてしまっていると言ってよかった。
夜になると、大部分の兵士たちは背嚢《はいのう》を枕にして眠りこんでしまった。中には女といっしょに寝ているものもあった。というのも百姓の女房連中は、ときに亭主のあとからついて従軍したからだった。ヴァンデでは、腹のふくらんだ女たちがスパイとして働いていた。
七月のおだやかな夜だった。深いブルー・ブラックのやみにつつまれた夜空に星座が輝いていた。この野営は、軍の露営と言うよりはキャラバンの休息と言ってよいようなものだったが、みんな、やすらかに眠りこんでいた。
と、とつぜん、まだ目を閉じていない連中が、うすあかりをすかして、三門の大砲の砲口が人通りの入口のところからこちらをねらっているのを目にしたのだ。
ゴーヴァンだった。彼は敵の前哨部隊を奇襲すると、町の中に突入し、ひきいる討伐隊といっしょに、大通りの入口を占領してしまったのだ。
ひとりの百姓兵がとび起きて、だれだ? とさけんだ。そして小銃を一発発射すると、それに対して銃声が答えた。それから、狂ったような小銃のいっせい射撃がとどろいた。うとうとしていた兵士たちがいっせいにとび起きた。手ひどいふい打ちだった。星の下で眠りこんでいたのが、霰弾《さんだん》の下で目をさましたのだ。
最初の瞬間はおそるべきものだった。びっくりさせられた群衆がうようよしていることくらい悲惨なものはない。彼らは武器をとりにとびだしていった。叫び声をあげたり走ったりした。おおくのものがころんだ。とつぜん攻撃をかけられた若者たちは、自分たちがなにをしているかもわからず、たがいに火縄銃をうちあうばかりだった。めんくらった住民たちが家々からとびだしてきたり、また家の中へかけもどったり、もう一度でてきたり、色を失って乱戦の中にまぎれこんだりしていた。家族同士でたがいに呼びあうものもいた。女たちや子どもたちまで混じっているという悲しむべき戦闘だった。うなりをたててとぶ弾丸がやみの中に筋をつけていた。銃声があちこちの暗い町角からおこっていた。あたり一面|硝煙《しょうえん》がたちこめ、騒然としていた。列を乱して混乱におちいった食糧運搬車や荷車が、この騒ぎをいっそうはげしくしていた。馬がはねていた。みんな、負傷者をのりこえて進んだ。地上からは叫び声があがっていた。あちらでは恐怖のあまり叫び、こちらではおどろきのあまり叫んでいた。兵士たちと士官たちがたがいにさがしあっていた。
しかし、こんな騒ぎのただ中で、平気な顔をしている陰気な連中もいた。ひとりの女が壁のすそにもたれて腰をおろし、生まれたてのあかんぼうに乳をのませていた。その同じ壁に女の亭主ももたれて、片足を傷つき、血を流しながらも、黙って騎銃に弾丸をこめてはめくらめっぽうに発砲し、目の前のやみの中にいるものを殺していた。腹ばいになった男たちが荷車の車輪のあいだから撃っていた。ときどき、耳をろうするばかりの喚声があがった。しかし、たちまち、巨大な大砲のごう音がすべてをおおいかくしてしまった。まことにおそるべきありさまだった。
みんな、木々がたおれるように、つぎつぎにおりかさなってたおれていた。ゴーヴァンの軍はものかげに待ち伏せして正確な射撃をしたから、敵にやられるものは少なかった。
しかし、めちゃめちゃに混乱していた百姓軍も、やっと守勢をたてなおすことができた。彼らは市場の中へ撤退した。市場は大きくて、おそろしく暗い建物で、石の柱が林立する森みたいだった。そこで、百姓軍はもう一度地歩をかためた。こういう森に似たものはすべて、彼らに信頼感をおぼえさせるのだった。
ラントナックの留守を守るイマーニュスは、最大限の力を発揮して代理をつとめた。百姓軍は大砲をもっていたが、ゴーヴァンがびっくりしたことには、彼らはその大砲を一度も使わなかった。そのわけは、砲兵士官たちはラントナック侯爵といっしょにドル山の視察にいってしまっていて、若者たちには長砲やバタルド砲の使い方がわからなかったからだった。それでも彼らは大砲を撃ちこんでくる共和政府軍《あお》に銃撃をあびせた。百姓たちは敵の霰弾《さんだん》に対していっせい射撃で答えたのだ。今や、身をひそませているのは百姓軍のほうだった。彼らは二輪荷馬車、砂利車、荷物の包み、古い市場の中にあったあらゆる酒だるなどをつみかさねて、高いバリケードを急いで作りあげた。バリケードのあちこちにはすきまをあけて、そこから騎銃を撃った。このすきまから撃ちだす射撃は敵をなぎたおした。こうしたことはたちまちのうちにおこなわれた。十五分もたつと、市場の玄関口は難攻不落のものとなってしまった。
これはゴーヴァン軍にとっては重大なことだった。この市場がとつぜん城砦《じょうさい》に変わろうとは、予想もつかないことだった。その中で、百姓軍はひとつにかたまって強化されていた。ゴーヴァンは奇襲には成功したものの、敵を敗走させることはできなかったのだ。彼は馬からおりた。腕組みした手の片方に剣をにぎり、味方の砲座をてらす松明《たいまつ》の光の中に立って、あたりのやみを注意深くながめた。
松明《たいまつ》の光にてらされた彼のすらりとしたからだは、バリケードの中にいる敵たちからはよく見えていた。彼は照準の標的になっていたのだが、彼自身はそんなことには気づかなかった。
バリケードの中の敵が撃ちだす弾丸がとんできて、思いにしずむゴーヴァンのまわりで炸裂《さくれつ》した。
しかし、これらの敵の騎銃に対して、彼は大砲をもっていた。つねに最後には砲弾が勝ちをしめるものである。大砲をもっているものが勝利者となるのである。善戦した砲兵隊のおかげで、彼は優勢であることができたのだ。
そのとき、とつぜん、やみに包まれた市場のまんなかから、一条の閃光がきらめき、雷のような音がとどろいたと思うと、一発の砲弾がゴーヴァンの頭上の家に穴をあけた。
バリケードの中の敵は大砲に対して大砲でもって答えたのだ。
いったい、なにがおこったのだろうか? きっと新しい事態がおこったのだ。今や、砲兵隊は味方ばかりがもっているのではないのだ。
最初の一発につづいて二発めの砲弾がとんできて、ゴーヴァンのすぐ近くにある壁にのめりこんだ。三発めは彼の軍帽を地上に吹きとばした。
その砲弾は口径の大きなやつだった。十六|听《きん》砲から撃ちだされた砲弾だった。
「隊長、ねらわれていますよ」と、砲兵たちがさけんだ。
そして彼らは松明《たいまつ》を消した。しかしゴーヴァンはまだ夢見ごこちで軍帽をひろった。
事実、ゴーヴァンをねらったものがいたのだ。それはラントナックだった。
侯爵は反対側からバリケードのところにたどりついたばかりだった。
イマーニュスが侯爵のそばにかけよっていた。
「閣下、味方は奇襲されました」
「相手はだれだ?」
「わかりません」
「ディナンへいく道は、まだ敵の手におちていないか?」
「大丈夫だと思います」
「撤退《てったい》をはじめねばならんな」
「もうはじまっています。逃亡者もたくさんでております」
「にげてはならん、撤退するのだ。どうして砲兵隊に撃たせないんだ?」
「みんな、びっくり仰天しちまってるんです。それに士官もおりませんでしたし」
「よし、わしがいこう」
「閣下、わたしはなんとか、荷物や女たちなど不用なものはみんなフージェールへ送っておきました。ところで、あの捕虜にした三人の子どもたちはどういたしましょう?」
「ああ! あの子どもたちのことか?」
「はい」
「あの連中は人じちだ。ラ・トゥールグの城へ連れていかせろ」
これだけ言うと、侯爵はバリケードのほうへいってしまった。指揮官がやってきたので、陣地のようすががらりと変わった。バリケードは大砲を撃つには不適当にきずかれていて、せいぜい二門の大砲をすえつけるくらいの場所しかなかった。そこで侯爵は十六|听《きん》砲を二門すえつけて、砲眼《ほうがん》を作らせた。一門の砲に身をかがめて、砲眼を通して敵の砲座をじっと見つめていた侯爵の目に、ゴーヴァンのすがたがうつった。
「やつだ!」と、彼はさけんだ。
それから、みずから洗桿《せんかん》とつつき棒を手にとり、砲弾を装填《そうてん》すると、照準をさだめてねらいをつけた。
三度ゴーヴァンにねらいをつけたが、三度とも失敗してしまった。三発めの弾丸がゴーヴァンの軍帽をはねとばしただけだった。
「だめだ!」と、ラントナックは叫んだ。
「もう少し下をねらえば、頭をぶちぬいたんだが」
そのとき、とつぜん、松明《たいまつ》が消えた。目の前がまっ暗やみになってしまった。
「しかたがない」と侯爵が言った。
それから百姓軍の砲手たちのほうを向くと、叫んだ。
「霰弾《さんだん》を撃て!」
ゴーヴァンのほうでも、事態は相手におとらず重大になっていた。悪化するいっぽうだった。
戦闘は新たな局面をむかえていた。バリケードの中の敵はゴーヴァンをねらって撃ちだしているのだ。いつなんどき、守勢である敵が攻勢に転じないと言えるだろうか? 目の前の敵は、戦死者や逃亡者を別にしても、少なくとも五千人の戦闘員をもっているのだ。それに対して、味方の動員できる軍勢は千二百人いるだけなのだ。こんな少数の兵員しかもっていないことをもし敵に気づかれたりしたら、いったい共和政府軍《あお》はどうなることだろう? 戦闘の主役は敵と味方でいれかわってしまうだろう。そうなれば、今まで攻勢にでていた味方が、敵の攻撃を受けて守勢に立たされるかも知れないのだ。もしバリケードの中の敵が血路を見つけて攻めてきたら、こちらはひとたまりもなく撃破されてしまうだろう。
どうしたらよいのか? 真正面からバリケードを攻撃するなどとは絶対に考えてはならなかった。めくらめっぽう、力で押しまくろうなどとは、ばかげた話だった。千二百人の兵員をもってしては五千人の敵を陣地から追いだせない。戦闘をはやく片づけようなどとはできない相談で、そうかと言って、じっと待っていることも、味方を破滅させるだけである。とにかく結着をつけなければならないのだが、いったい、どういう方法でしたらよいのか?
ゴーヴァンはこの地方の出身だったから、この町のこともよく知っていた。ヴァンデ軍がはいりこんでいる市場が、背後に、せまくていりこんでいる迷路をひかえていることも、よく知っていた。
彼はあの勇敢な副官、ゲシャン大尉のほうをふり向いた。このゲシャン大尉は、のちほど、ジャン・シューワンが生まれたコンシーズの森を掃討《そうとう》したり、反乱軍がラ・シェーヌの沼の堤防を攻略しないように、敵のブールヌフ占領をはばんだりして、有名になった男だった。
「ゲシャン」とゴーヴァンは言った。「君に指揮をまかせよう。できるだけ敵を射撃しろ。砲撃してバリケードをぶち破れ。敵の目をこちらに集中させるんだ」
「わかりました」と、ゲシャンが答えた。
「全員を集結し、銃に弾丸をこめ、攻撃準備をさせろ」
彼はそれから二言三言《ふたことみこと》なにかゲシャンに耳うちした。
「了解しました」とゲシャンが言った。
ゴーヴァンがもう一度言った。
「鼓手《こしゅ》たちは、みんな戦闘準備ができているのか?」
「はい」
「鼓手は九人だったな。二人は君がとって、七人はおれのほうにくれ」
七人の鼓手たちが黙ってやってきて、ゴーヴァンの前に並んだ。
すると、ゴーヴァンがさけんだ。
「赤帽大隊《ボネ・ルージュ》集まれ!」
十二人の兵士が兵士の群れの中からでてきた。中のひとりは軍曹だった。
「大隊全員を呼んだのだ」と、ゴーヴァンが言った。
「これだけです」と、軍曹が言った。
「たった十二人きりか!」
「十二人が生き残ったのです」
「よし」と、ゴーヴァンが言った。
その軍曹は、あのラ・ソードレの森の中でであった三人の子どもたちを大隊の名のもとに養子にした、親切で豪勇な兵士ラドゥーヴだった。
読者もおぼえておられるだろうが、赤帽大隊《ボネ・ルージュ》は半分がエルブ=アン=パイユで殺されていたが、軍曹はさいわいにも犠牲者の仲間いりをしていなかった。
馬糧を運ぶ荷車がそばにあった。それをゴーヴァンが指でさして、軍曹にこう命令した。
「軍曹、君の部下にわらでなわをなわせろ。なったなわを銃にまきつけさせて、銃がぶつかりあっても音がたたないようにするのだ」
ただちに、やみの中で、黙ったまま、命令が実行された。
「できました」と、軍曹が言った。
「諸君、靴をぬぐんだ」と、ゴーヴァンがもう一度言った。
「靴ははいていません」と、軍曹が答えた。
七人の鼓手をくわえて、みんなで十九人の部隊ができあがった。ゴーヴァンをいれると二十人だった。
彼が叫んだ。
「一列になって、おれについてこい。鼓手はおれのあとに、大隊はそのあとにつづけ。軍曹、君は大隊の指揮をとれ」
そして彼は縦隊の先頭にたった。そして、敵味方の両側から砲撃がつづけられているあいだに、これら二十人の男たちは、影のようにすべりながら、人けのない路地の中へ突入していった。
彼らは家々に沿って蛇のようにうねりながら、しばらく進んでいった。町の中はどこもかしこも死んだようになっていた。町の住民たちは地下室にもぐりこんで、ちぢこまっていた。戸口はすべてかんぬきがかけられ、鎧戸《よろいど》という鎧戸も閉めきってあった。どこを見ても、ともしびはついていなかった。こんな静けさの中で、大通りだけが気ちがいじみた騒音をたてていた。なおも砲撃がつづいていた。共和政府軍《あお》の砲座からも、王党軍《しろ》のいるバリケードからも、狂ったように相手に向かって霰弾《さんだん》を撃ちだしていた。
こういうやみに包まれて、しっかりした足どりで進んだゴーヴァンは、二十分ばかり、くねくねとまがりながら進むと、ある路地のはしにたどりついた。そこから、また、あの大通りにもどれるようになっていた。ただ、市場の反対側であることだけがちがっていた。
迂回《うかい》して、その地点に出たわけだった。こちら側には砦ひとつ作っていなかった。バリケードを作るものは、きまってこういう軽率をおかすものである。こちら側から衝《つ》くと、市場はまるきり無防備で、なん台もの荷車がすぐ出かけられるようにつないである柱をくぐって、中へはいることができた。ゴーヴァンと十九人の大隊は、五千人のヴァンデ軍を目の前にしていたが、正面からでなく背後から攻撃するわけだった。
ゴーヴァンは軍曹に小声で命令した。みんなが銃にまきつけてあるなわをほどいた。そして、十二人の精鋭が路地のまがり角の背後で戦闘隊形をとり、七人の鼓手がバチをふりあげて、待ちかまえた。
砲声が断続的にきこえていた。とつぜん、敵味方の砲声の合間に、ゴーヴァンが剣をふりあげると、あたりの沈黙をつらぬいて、ラッパの音のようによくひびく声をはりあげた。
「二百人は右側から、二百人は左側から、残りは全部真正面から突撃!」
小銃から十二発の弾丸が発射され、七人の鼓手が突撃たいこをうちならした。ゴーヴァンが共和政府軍《あお》のおそろしい叫び声をあげた。
「着剣! つっこめ!」
この効果は前代未聞のものだった。
百姓軍のかたまり全体が、背面攻撃をかけられたと思い、その上、背後から襲撃してきたのは新しい軍勢だと思ったのだ。と、ときをおなじくして、ゲシャンにひきいられて、大通りの入口を占拠していた縦隊が、たいこの音をきいて動きだし、これも突撃たいこをうちならしながら、バリケードめがけてかけ足でつっこんでいった。百姓軍は二つの銃火に挟撃されて、きりきり舞いしてしまった。恐怖は増大するもので、恐怖におびえていると、ピストルの音さえ大砲の音くらい大きくきこえるし、あらゆる喚声も幽霊の仕業《しわざ》のような気がしてくるし、犬のほえ声もライオンの怒号のようにきこえるものである。それに、ひと言言っておくと、いったいに百姓は、まるでわらに火がつくみたいにすぐおびえてしまうものだし、わらについた火からすぐ大火事になるように、百姓の恐怖はたちまち敗走という事態をひき起こしてしまうものである。百姓軍の敗走は言いあらわしようのないくらいのものだった。
しばらくするうちに、市場はからになってしまった。おびえた百姓軍兵士たちはちりぢりばらばらになってしまい、士官たちもどうしてよいのかまるきりわからなかった。イマーニュスは逃亡兵を二、三人殺したが、なんにもならなかった。≪にげろ!≫という叫び声がきこえるだけだった。そして、百姓軍は、まるでふるいの穴からこぼれるように町のあちこちの道を通りぬけ、嵐に吹きとばされる黒雲のように、地方めがけてちっていった。
あるものはシャトーヌフのほうへ逃げ、あるものはプレルゲめざして、またあるものはアントランに向けて、逃げていった。
ラントナック侯爵は、この百姓軍が敗走するありさまを見ていた。彼は大砲の火門に釘《くぎ》をうちこんで使用不能にしてから、全軍のいちばんうしろから、ゆっくりと落ちついた態度で撤退した。彼はこうつぶやいた。
「まったく百姓どもはねばりがないな。イギリス軍が必要だ」
四 これで二度め
完璧な勝利だった。
ゴーヴァンは赤帽大隊《ボネ・ルージュ》の兵士たちのほうを向いて言った。
「君たちはたった十二人だが、千人の軍勢に匹敵する」
指揮官の称賛の言葉は、当時では十字勲章をもらうのと同じくらい名誉なことだった。
ゴーヴァンの命令で町のそとへ派遣されたゲシャンは、敵の敗走兵を追っていって、おおくのものを捕虜にした。
それから松明《たいまつ》をともして、町の中を細かく探索した。
逃走することができなかったものは降伏した。大通りは照明鉢で明るくてらされた。大通りには死者や負傷者がちらばっていた。戦いにおける最終的な勝利は、つねに、むりやりひきはがすように手にいれられるものである。絶望的になった残敵が、三々五々グループを作って、町のそこここで抵抗したが、包囲されるとすぐに武器をすててしまった。
大混乱におちいりながら敗走していく敵の中に、ゴーヴァンはひとりの豪勇な兵士を見つけた。それは敏捷で頑丈な半獣神《フォーヌ》みたいな男で、仲間の逃走を掩護《えんご》しながら、自分自身は逃げようともしなかった。この百姓兵は、騎銃をみごとに使いこなしていた。銃身を使って射撃するかと思うと、台尻を使って相手をなぐり殺した。こうして使いようがはげしいので、銃はすでにこわれてしまっていた。今では片手にピストルをにぎり、もういっぽうの手にはサーベルをつかんでいた。だれもこの男には近よらなかった。とつぜん、ゴーヴァンは、この男がぐらりとよろめいて、大通りの柱によりかかるのを目にした。傷ついていた。しかし彼はなおもサーベルとピストルをしっかりとにぎっていた。ゴーヴァンは剣をわきの下にはさむと、その男に近よっていった。
「降伏しろ!」と、彼は言った。
男がじっとゴーヴァンを見つめた。傷口からほとばしる血が衣服のすそに流れ、足もとにたまっていた。
「おまえは捕虜だ」とゴーヴァンがもう一度言った。
まだ男は黙っていた。
「なんという名か?」
男が答えた。
「≪|かげの踊り《ダンス・ア・ロンブル》≫と言うんだ」
「おまえは勇敢だな」と、ゴーヴァンが言った。
そして彼は男に片手をさしだした。
それに対して、男がこう答えた。
「国王ばんざい!」
それから、残っている力をありったけふりしぼって、両腕を同時にあげ、ゴーヴァンの心臓めがけてピストルを発射し、頭上にはサーベルをふりおろした。
まるでトラのようなすばやさだった。ところが、それよりもすばやく動いた男がいた。それは、ついさきほどその場にきたばかりの騎馬の男で、しばらく前から、そこにいたのだった。この男に気づいたものはだれもいなかった。この男は、ヴァンデ軍の兵士がサーベルとピストルをあげるのを見て、その兵士とゴーヴァンとのあいだにとびこんだのだった。この騎馬の男がいなかったら、ゴーヴァンは殺されていただろう。馬はピストルの弾丸を受け、男はサーベルの一撃を受けた。そして人馬もろとも地上にたおれてしまった。これは、あっと言うまにおきたことだった。
うちかかってきたヴァンデ軍の兵士のほうも、舗道の上にくずおれてしまった。
サーベルは騎馬の男の顔を真正面から切っていた。男は気絶して地上にころがっていた。馬は死んでいた。
ゴーヴァンが近よった。
「この人はだれだろう?」と、彼は言った。
そして、たおれている男をじっとながめた。切傷からほとばしる血が負傷者をひたし、その顔は赤い仮面をかぶったみたいになっていた。それで顔立ちを見わけることは不可能だった。男の頭髪には白いものが見えていた。
「この人がおれの生命《いのち》をすくってくれたのだ」と、ゴーヴァンがつづけて言った。「だれか、この人を知っているものはいないか?」
「隊長」と、ある兵士が言った。「この人はついさっき町へはいってきたばかりです。はいってくるのを見ました。ポントルソン街道からやってきたのです」
討伐隊の軍医が医療箱をかかえて走ってきた。あいかわらず負傷者は気絶していた。軍医は負傷者を診察してから、こう言った。
「ただの切傷ですから、たいしたことはありません。傷をぬいましょう。一週間もすれば元気になるでしょう。でも、みごとなサーベルさばきですねえ」
負傷者はマントを着、三色の帯をまき、それにピストル二挺とサーベルをもっていた。男を担架《たんか》にのせて、衣服をぬがせた。それから新鮮な水を桶にいっぱいくんできた。軍医が傷口を洗うと、顔がだんだんはっきり見えてきた。ゴーヴァンが男の顔をくいいるように見つめた。
「この男は、なにか書類をもっていないか?」と、ゴーヴァンがたずねた。
軍医が男のわきのポケットをさぐって書類いれをとりだし、それをゴーヴァンに渡した。
そのあいだに、負傷者はつめたい水をかけられて息をふきかえし、われにかえった。そして、まぶたをかすかにふるわせた。
ゴーヴァンは書類いれの中をしらべてみた。すると、四つに折った一枚の紙片が見つかった。紙片をひろげてみると、それには次のように書いてあった。
『公安委員会。市民《シトワイヤン》シムールダンは……』
ゴーヴァンが叫び声をあげた。
「シムールダン!」
その叫び声に、負傷者が両眼をひらいた。
ゴーヴァンはわれを忘れていた。
「シムールダン! あなただったのですね! あなたがわたしの生命《いのち》をすくってくれたのは、これで二度めです」
シムールダンはゴーヴァンをじっと見つめていた。言いようのない歓喜のきらめきが、その血まみれの顔を輝かしていた。
ゴーヴァンが叫びながら負傷者の前にひざまずいた。
「先生!」
「君の父だよ」と、シムールダンが言った。
五 冷水のしたたり
ふたりは長い年月のあいだ会っていなかったが、その心はたがいに離れたことは一度もなかった。それで、まるで昨日わかれたように再会した。
ドルの町役場には即席の野戦病院がもうけられていた。シムールダンは、負傷者たち用の大きな共同べやのとなりにある小さな個室のベッドに運ばれた。軍医は傷をぬってしまうと、二人のあいだにほとばしる愛情の出血をとめようとした。シムールダンを眠らせなければならないと判断したのだ。といっても、ゴーヴァンのほうは、戦いに勝ったためにかたづけなければならないつとめや仕事がいっぱいあって、それに忙殺されていた。それでシムールダンはひとりきりになったが、眠れなかった。彼はふた通りの熱に浮かされていた。ひとつは傷からくる熱であり、ひとつは歓喜による熱であった。
彼は眠らなかったが、それでも自分では目ざめている気がしなかった。彼の夢が現実のものになるなんて、そんなことがありうるだろうか? シムールダンは福引きの大当りみたいなチャンスを信じない男だった。ところが、そういうチャンスにめぐまれたのだ。またゴーヴァンにめぐり会えたのだ。
彼はゴーヴァンがまだ子どものじぶんに別れたのだが、再会してみるとゴーヴァンはりっぱな一人前の男になっていた。再会したゴーヴァンは大きく、おそろしげで、豪胆《ごうたん》な男になっていた。再会したゴーヴァンは勝利者であり、それも民衆のために戦った勝利者になっていた。今のゴーヴァンはヴァンデで革命の支えとなっていて、しかも、共和国のためにこの支柱を作ったのは、彼シムールダンだった。この勝利者は彼の教え子だったのだ。おそらくは共和国のパンテオンにまつられることになるべきあの青年の顔の上に輝いているのを、シムールダンが目にできるもの、それこそ彼の思想、シムールダン自身の思想だった。彼の弟子、彼の精神の子どもは、現在ではもう一個の英雄であり、遠からず光栄に包まれることだろう。
シムールダンは、≪守護神≫となった自分自身の魂に再会したような気がした。ゴーヴァンがどのようにして戦ったか、それを彼は見てきたばかりだった。まるでアキレスが戦うのを目撃したケイロンみたいだった。思えば、僧侶と半人半馬《ケンタウロス》のあいだには、ふしぎな関係がある。僧侶も半身しか人間でないからだ。
たまたま、彼がさきほどやってのけた冒険は、傷を負ったための不眠に混じりながら、一種の、ふしぎな酔心地《よいごこち》みたいなものでシムールダンをいっぱいにしていた。一個の若い運命がどうどうと立ちあがり、そしてシムールダンの深い喜びを増大させたものは、この若い運命に対して彼自身が思うまま力をふるえるということだった。さきほど目でたしかめたばかりのような勝利をゴーヴァンがもう一度勝ちとったならば、そしてシムールダンがたったひと言口ぞえをしさえすれば、きっと共和国はゴーヴァンに一軍国の指揮をまかせるだろう。完璧な勝利をまのあたりにしたときのおどろきほど、人の目をくらませるものはない。
この当時は、人はだれでも軍隊で武勲をたてることを夢見ていた。そして、だれもが将軍を作ろうとしていた。ダントンはヴェステルマンを作ろうとし、マラはロシニョールを作ろうとし、エベールはロンサンを作ろうとし、そして、ロベスピエールは、こうした将軍たちをすべて解任してやろうと思っていた。だから、ゴーヴァンを将軍にしてはならないということはないだろう? と、シムールダンは胸の中で言って、いろいろ想像をめぐらした。彼の眼前には無限の世界がひろがっていて、彼は次から次へといろいろな仮定をめぐらしていった。すると、すべての障害も消えうせてしまうのだった。
ひとたびこういう梯子《はしご》に足をかけてしまうと、もうとどまることはできないもので、無限にのぼっていって、ついには人間の世界をはなれて星の世界にいきついてしまう。偉大な将軍と言っても軍団の一指揮官にすぎないのだが、偉大な指揮官は同時に思想の指揮者でもあるのだ。
シムールダンはゴーヴァンのことを、そういう偉大な指揮者として夢想していた。夢想ははやくあちこちへとぶものであるから、シムールダンはゴーヴァンが大西洋の上でイギリス軍を追いはらい、ライン河のほとりでは北方の王たちを罰し、ピレネー山脈ではスペイン軍をおし返し、そしてアルプス山脈ではローマに対して立ちあがれと合図するのを見ているような気持になった。シムールダンの中には二人の人間が、いっぽうはやさしく他方は陰気な人間が住んでいたが、今は、この二人の人間とも満足していた。というのは、彼はもともと冷酷をもって理想としていたので、ゴーヴァンのすばらしいところを見ると同時におそるべき面も見のがさなかったからである。シムールダンは建設する前に破壊しなければならないことをすべて考えてみたが、結局、今は心を動かしているときではないと思った。そのころはやりの言葉で言えば、まもなくゴーヴァンは≪至高の人物≫となることだろう。シムールダンは、ゴーヴァンが光明という甲冑《かっちゅう》に身をかため、額には流星のきらめきをきざみつけて、暗やみを足下にふみつぶし、片手に剣をふりかざして、正義と理性と進歩との大翼をひろげるところを想像した。そのすがたはまさに天使だったが、敵をみな殺しにする天使だった。
こうしたシムールダンの夢想がほとんど恍惚《こうこつ》といってよいくらいに高まったとき、半びらきになっているドアごしに、となりの大広間の共同病室で人の話し声がするのが、きこえてきた。すぐにゴーヴァンの声であることがわかった。なん年ものあいだ別れていたけれども、その声はいつもシムールダンの耳にきこえていたものだった。それに、その大人になった男の声の中にも、やはり子どものころの声が残っているものである。シムールダンはきき耳をたてた。足音がして、兵士たちがしゃべっていた。
「隊長、こいつは隊長を撃ったやつです。ちょっと目を放しているうちに、地下室にもぐっていたのです。見つけましたので連れてきました」
それからシムールダンは、ゴーヴァンとその男とのあいだに次のような会話がかわされるのをきいた。
「負傷しているな?」
「いや、銃殺できるくらい元気だぞ」
「この男をベッドに連れていけ。傷の手当てをしてやって、充分に看護してやれ」
「おれは死にたい」
「おまえは生きるのだぞ。おまえは王の名にかけておれを殺そうとした。しかし、おれは共和国の名にかけておまえをゆるしてやろう」
影がシムールダンの額をよぎった。はっととびあがって夢からさめたような心地だった。そして、一種不吉な意気銷沈《しょうちん》におそわれながら、つぶやいた。
「まったく寛大な男だ」
六 なおった胸、いたむ心
切傷はすぐになおったが、シムールダンよりも重い傷を負ったものが、どこかにいた。それは乞食のテルマルクがエルブ=アン=パイユの小作地の大きな血の池の中から拾いあげてきた、あの銃撃された女だった。
ミシェール・フレッシャールは、テルマルクが思っていたよりもずっと重態だった。胸の上のほうに受けた弾丸の穴に、肩甲骨に受けた弾丸の穴がつながっていた。弾丸の一発が鎖骨《さこつ》をうちくだくと同時に、もう一発が肩をつらぬいていた。しかし肺をよけていたので、やっとなおることができたのだ。テルマルクは≪哲学者≫と言われたが、これは百姓の言葉で、いくぶんは内科と外科の医者であり、いくぶんかは魔法使いみたいでもあることを意味していた。
テルマルクは傷ついた女を自分のけものの巣みたいなあばらやの、粗末な海草のベッドに寝かせて介抱してやった。≪薬草≫と呼ばれるふしぎな薬をあたえた。このテルマルクのおかげで、彼女は助かったのだった。
鎖骨は癒着《ゆちゃく》し、胸と肩の穴もふさがった。数週間もすると、負傷した女は回復に向かった。
ある朝のこと、彼女はテルマルクにたすけられて≪|木の下のすまい《カルニッショ》≫から出られることになった。そして、日のあたる木々のかげにいって腰をおろした。テルマルクは女のことについてはほとんどなにも知らなかった。胸の傷のために彼女は口をきくこともできなかったし、回復する前の死の苦しみにおそわれているあいだは、やっと二言三言口がきけたばかりだったからだ。女がなにかしゃべりたそうになっても、テルマルクは口をきかせなかった。しかし女はあるひとつのことを強情に思いつづけていて、テルマルクは女の目の中に、悲痛な思いの影がいきつもどりつするのを見ていた。
しかし、その日の朝は、彼女はしっかりとしていて、ほとんどひとりで歩くことができた。看病するということは、父親の気持があってできることだ。それでテルマルクは回復した女をながめて、しあわせな気持になっていた。この善良な年よりは顔をほころばせて、女に話しかけた。
「どうだい、もうよくなったじゃないか。傷もなおったし」
「でも、心の傷はまだです」と、彼女が答えた。
そして、さらに、
「じゃあ、あなたは、あれたちがどこにいるのか、知らないんですね?」
「だれのことだね?」と、テルマルクがたずねた。
「わたしの子どもたちのことです」
この『じゃあ』という言葉は、いろいろな考えがひとつにまとまった世界をすべて表現していた。
『あなたはわたしに子どもたちのことを話してくれないのだから、なん日もなん日もわたしのそばにいながら、子どもたちのことではひと口も口をきいてくれなかったんだから、わたしがなにかしゃべりたいと思ったときでも、わたしをしゃべらせまいとしたんだから、わたしが子どもたちのことをしゃべりはしまいかと心配だったらしいから、きっと、あなたは子どもたちについては、わたしになにも話せないんですね』といったことを現わしていたのだ。
熱に浮かされながら、錯乱状態におちいりながら、妄想にしずみながら、よく彼女は子どもたちの名前を呼んだ。そして、錯乱状態にあっても、まわりのことにはよく気づくものであるから、そんな呼び声に対しても、この年よりがなにも答えてくれないのを、はっきり知っていたのだ。
しかし、テルマルクにしてみれば、どうして彼女に話しかけたらよいのかわからなかった。ゆくえ知れずになった子どものことを母親に話すなどということは、気楽なことではない。その上、いったい彼はなにを知っていただろう? なにひとつ知らないではないか。彼が知っていることといえば、その母親が銃撃されたということ、そして、たおれているところを彼に見つけられたということ、それから、彼が彼女を助け起こしたとき、その身体はもう死体同然だったこと、この死体同然の女には子どもが三人いたこと、ラントナック侯爵がその母親を銃撃させたあとで、三人の子どもを連れ去ってしまったこと、これくらいだった。そこまでで、彼の情報はゆきどまりになってしまっていた。
それにしても、あの子どもたちはどうしてしまったのだろう? やはり、まだ生きているのだろうか? 人に問い合わせてみたので、三人の子どもというのが男の子二人とやっと乳ばなれしたかしないかの女の子一人であるということはわかっていた。しかし、それ以上のことは皆目《かいもく》わからなかった。この三人の不幸な子どもたちのことについては、いたずらに、いろいろ疑問が湧くばかりで、その答えも見つからなかった。たずねまわった百姓たちも、ただ首をふるばかりだった。ラントナックのご領主さまというのは、みだりに噂のたねにしてはならない人間だったのだ。
みんなはラントナックのことを話したがらないと同時に、テルマルクにも話しかけたがらなかった。百姓たちというものは疑《うたぐ》り深い人種なのである。彼らはテルマルクを好いていなかった。乞食《ケマン》のテルマルクは不安をおぼえさせる人物だった。この男はどうしていつも空ばかりながめているのだろう? 長いあいだじっと動かずにいて、いったいなにをしているんだろう? なにを考えているんだろう?
要するに彼は奇怪な男だったのだ。戦いにみち、動乱がうずまき、混乱がさかまいているこの地方、人びとの仕事は荒廃させることだけ、やることは虐殺だけというこの地方、だれもかれもが、家をやき、家族を殺戮《さつりく》し、監視兵を虐殺し、村を略奪するこの地方、考えることといえば、伏兵をはりこませ、人をわなにおびきよせ、たがいに殺しあうことしかないというこの地方では、ちょうど事物の広大な平和の中に身をとっぷりとつけたように自然の中におぼれ、草や植物を摘み、花や小鳥や星などにだけ興味をおぼえる、この孤独な男は、あきらかに危険人物だったのである。この男はあきらかに理性を失っているように見えた。彼はしげみのかげから人を待ち伏せるなどということはしなかったし、だれに向かっても銃を撃つなどということはしなかった。こういうわけで、彼のまわりには、なんとなくこわい雰囲気がただよっていたのである。
「あいつはきちがいだ」と、通りすがりの人びとが言っていた。
しかし、テルマルクは孤立した人間以上の人間、つまり世間から疎外された人間だったのである。
みんなは彼になにかたずねることは絶対にしなかったし、彼のほうもほとんど返事をしなかった。だから、彼は自分が知りたいだけのことを人に問い合わせることはできなかった。戦争はほかの地域にまで燃えひろがり、みんなは遠くの地方へ戦いにではらい、ラントナック侯爵もこの土地の地平線から消え失せ、そして、テルマルクのような心をもった男にとっては、戦いのほうから彼に近づいてこなければ、とても戦いに気づくことはできなかった。
『わたしの子どもたち』……この言葉をきくと、テルマルクはほほえむことをやめてしまった。
母親は思いに沈みはじめた。いったい彼女の魂の中ではなにが起こっているのだろう? 彼女はまるで渦巻の底に沈んでいるみたいだった。とつぜん、彼女がテルマルクを見つめると、もう一度、ほとんど怒ったときみたいな口調で叫んだ。
「わたしの子どもたち!」
テルマルクはまるで自分に罪があるみたいに首をたれてしまった。
彼はラントナック侯爵のことを考えた。しかし侯爵のほうは彼のことなんか考えていないし、おそらくは、彼が存在していることすら忘れてしまっているだろう。こういうことがよくわかっているテルマルクは、こうつぶやくのだった。『領主なんてものは、自分が危険にさらされているときには、おれたちのことを認めるけれど、危険がなくなってしまえば、すっかり忘れちまうんだ』
それから、また、こうも思うのだった。『それにしても、あのとき、なぜおれはあの領主を助けてやったんだろう?』
それから、自分でこう答えるのだった。『あの人が人間だったからだな』
そのことをしばらく考えてみてから、彼はもう一度、心の中でつぶやいた。『おれのやったことは、ほんとうに正しかったんだろうか?』
それから、またぞろ、あの苦い言葉をくり返すのだった。『おれがそれを知っていたらなあ!』
あの事件についてのことは、ことごとく彼の気持を沈みこませてしまった。それは、自分のしたことの中に、一種なぞめいたものを認めたからだった。彼は苦しい思いをしながら考えこんだ。それでは、善行というものもときには悪行となりうるものなのだ。つまりおおかみを助けるものは、めひつじを殺すことにもなりかねないのだ。禿鷹《はげたか》の翼の傷をなおしてやるものは、禿鷹がむきだして獲物をおそう爪にまで責任をもたねばならないのだ。
彼は自分がほんとうに罪人のような気がしていた。この母親が知らず知らずにいだいている怒りも、もっともと言うべきだった。
けれども、この母親をすくったということが、あの侯爵を助けたという罪の気持のなぐさめになっていた。
しかし、子どもたちはどうしただろう?
母親もやっぱり考えこんでいた。二人の人間の考えは平行してのびていき、たがいに口にこそださなかったものの、やみのように暗い思いの中で、おそらくはぶつかりあっていたのだろう。
やがて、母親のまなざしは、その底に夜のように暗い色を沈ませながら、ふたたびテルマルクの上にじっとそそがれた。
「でも、こんなことをしているわけにはいかないわ」と、彼女が言った。
「黙って!」と、テルマルクは言って、指を口にあてた。
しかし、彼女はしゃべりつづけた。
「わたしを助けてくれたのは、まちがっていたわ。あなたをうらみます。いっそ、死んじまったほうがよかった。死ねばあの子たちにあえますもの。あの子たちのいる場所もわかったでしょうに。あの子たちにはわたしが見えないでしょうけれど、わたしはあの子たちのそばにいてやれるでしょうに。死ねば、あの子たちを守ってやることができるにちがいありませんもの」
テルマルクは彼女の片腕をつかんで脈搏《みゃくはく》をはかった。
「気を静めるこった。また熱がでてくる」
彼女がほとんどきついと言ってもいいくらいな口調で彼にたずねた。
「わたし、いつになったら出ていかれるかしら?」
「出ていく?」
「ええ。歩いていくの」
「ききわけのないことを言うと、いつまでも出ていけない。おとなしくしていれば、あすにだって、出ていかれるさ」
「おとなしくするって、どういうことです?」
「神さまを信ずることだ」
「おお、神さま! 神さまはわたしの子どもたちをどこへおやりになったんでしょう?」
彼女はきちがいになったみたいだった。声がとてもやさしくなった。
「あなたなら、おわかりでしょう」と、彼女が言った。「わたしはこんなふうにしてここにいるわけにはいきません。あなたは子どもをもったことがないけれど、わたしにはあるのです。これが、あなたとわたしのちがうところです。知りもしないことを考えるなんてできないことですものね。あなた、子どもをもったことがないでしょう、そうでしょ?」
「ないね」と、テルマルクが答えた。
「わたしには子どもしかいなかったんです。子どもたちがいなかったら、わたし、どうしていいか! わたしは子どもたちがいなくなったわけをききたいのです。なにかがおこったと思います。だって、わたしにはなにがなんだかわかりませんもの。うちの人は殺され、わたしは鉄砲で撃たれました。でも、そんなことはどうでもいいんです。どうせ、なにがなんだかわかりませんもの」
「ほら、ほら」と、テルマルクが言った。「熱がでてきたじゃねえか。もう、しゃべるのはおよし」
彼女は彼の顔をながめると、黙ってしまった。
彼女はテルマルクの言いつけを、彼がのぞんだ以上に守った。彼女は放心状態で、なん時間もなん時間も、古い木の根もとにうずくまっていた。じっともの思いにふけって口をきかなかった。底知れぬ陰気な苦しみにたえている純な人の魂に、沈黙はなにか、かくれ家のようなものを作ってやるものである。彼女はもう子どもたちがいなくなったわけを知ることをあきらめてしまったように見えた。絶望というものは、ある程度ひどくなると、絶望している人間に感知されなくなるものだ。
テルマルクはあわれをもよおしながら、彼女をじっと見守っていた。人間がこれほど苦しむのを目の前で見ていると、老人は女のようにやさしい気持になってしまった。
『そうだ』と、彼はつぶやいた。『この女は口でこそしゃべらないが、目でしゃべっている。なにを思っているか、おれにゃよくわかる。頭にこびりついてはなれないこと、子どもたちのことを思っているのだ。前は母親だったのに、今じゃ母親じゃないんだからなあ! 前は子どもに乳をのませていたのに、今じゃ、その子どももいないんだものなあ! もう、がまんすることができないんだ。ついこのあいだまで乳をのませていたちっぽけな娘のことを考えているんだ。あの子のことばかり考えているんだ。まったく、ちっぽけなばら色の口で乳をすわれるのを感じるのは、とても心地よいもんだろう。あかんぼうの口ってのは、母親の魂をからだの中からひっぱりだし、母親の生命《いのち》で自分の生命《いのち》を作るものなんだなあ!』
こんなにがっかりしているものを目の前においては、言葉などなんの力もないことをさとったテルマルクのほうも黙ってしまった。なにかの考えにとりつかれているものが黙りこくっているのは、おそろしいことだ。それに、思いにとりつかれている母親を言いきかせる方法などあるだろうか? 母性というものは頑固なものだから、母親と議論しようとしてもむだである。母親を崇高にするのは、それが一種のけものであるということだ。母性本能というものは神聖なくらい動物的である。もはや母親は女ではなくて、めすなのである。
そして子どもは動物の子である。
そこで、母親というものの中には、道理よりおとっているとともにすぐれているなにものかがひそんでいる。母親は犬の嗅覚をもっている。創造の広大で漠然とした意志が母親の中にひそんでいて、母親をみちびくのだ。まさに盲目となった千里眼《せんりがん》と言うべきである。
さて、テルマルクはこの不幸な女になにか口をきかせたいと思うようになったが、なかなかうまくいかなかった。一度、彼は彼女にこう話しかけてみた。
「まずいことに、わしはもう年くっていて、うまく歩けない。めあてのとこまでいかねえうちに、力がなくなっちまうんだ。十五分も歩けば、もう足が言うことをきかなくなるもんだから、立ちどまらなけりゃならん。こんなでなけりゃ、あんたといっしょにいってやるんだがな。でも、きっと、あんたといっしょにいかねえほうがいいにちがいない。あんたの役に立つより危険な目にわせちまうのがせいぜいだからな。ここにいれば、みんなはわしをゆるしておいてくれるが、共和政府軍《あお》には百姓だろうとあやしまれ、百姓たちからは魔法使いみてえに思われるでなあ」
彼は女が返事するのを待ったが、彼女は目さえあげなかった。
固定観念というものは、狂気にたどりつくか英雄的な行為にたどりつくかの、どちらかである。しかし、一個のまずしい百姓女にとって、英雄的行為などできるものだろうか! 彼女にできることといったら、母親になるということだけなのだ。
日がたつにつれて、彼女はますます思いに沈んでいった。それをテルマルクはじっと見守るばかりだった。
テレマルクは彼女に仕事をあたえてみようとした。糸とぬい針と指ぬきをもってきてみた。すると、あわれな乞食《ケマン》がよろこんだことに、女はぬいはじめたのだ。もの思いに沈みながらも仕事をしていた。仕事ができるのだから健康なのだ。女はだんだん気力を回復していった。彼女は下着や衣服や靴をつくろった。しかし、そのひとみだけはやはりどんよりとくもっていた。彼女はつくろいものをしながら、小声でなにやら歌をうたっていた。それから、おそらくは子どもたちのものであろうが、だれかの名前をつぶやいていたが、テルマルクにははっきりとはわからなかった。彼女はふと歌いやめて、小鳥のさえずりに耳を傾けた。まるで小鳥が彼女のところになにかの知らせをもってきたみたいだった。また、ときには、天気のぐあいをながめることもあった。すると、彼女のくちびるがかすかに動いた。そして小声でなにかしゃべった。ふくろをひとつ作ると、そのふくろいっぱい、くりの実をひろい集めた。
ある朝、テルマルクは女が歩きだすのを見つけた。女の目は森の奥をあてずっぽうに見つめていた。
「どこへいくんだね?」と、テルマルクが彼女にたずねた。
彼女が答えた。
「子どもたちをさがしにいきます」
テルマルクは彼女をひきとめようとはしなかった。
七 真理の両極
それから、内乱にともなうありとあらゆる出来事にみちみちた数週間が過ぎたころ、フージェール地方では、人の話題といえば二人の男のことばかりだった。この二人の男はたがいに相反する人物ではあったが、同じひとつの仕事をしていた。つまり力をあわせて偉大な革命のために戦っていたのだ。
相変わらずヴァンデ地方における野蛮な戦いはつづけられていたが、ヴァンデ軍は自分の領土を失っていっていた。とくにイール=エ=ヴィレーヌでは、豪勇で鳴る六千の王党軍《しろ》に、これも勇敢な千五百の愛国者《パトリオット》軍でもってドルで適切な反撃をくわえた、あの青年指揮官のおかげで、反乱は完全に消えたわけではないけれど、少なくとも力がきわめて弱くなり、範囲もきわめて小さなものになっていた。ドルでの勝利のあとでも、つぎつぎに勝ちいくさがつづき、こうしたたび重なる成功がまた、新しい状況を生み出していた。
こうして、いろいろな出来事が事態を変えていったが、とつぜん、ある妙に複雑な事態がおこってきた。
共和政府軍《あお》はヴァンデのこの地方全域で戦勝していて、これは疑う余地がなかった。しかし、それは、どういう共和派だったろうか? そろそろ形をととのえはじめた勝利の中で、二つの共和派が出現したのだった。ひとつは恐怖の共和派であり、もうひとつは寛大な共和派だった。いっぽうはきびしさをもって敵を征服しようとし、他方はおだやかさをもって敵にあたろうとした。いずれが相手を制するだろうか? ひとつは妥協的な態度をとり、ひとつは容赦《ようしゃ》ない態度をとっている。この二つの形は、おのおの、影響力と権威をもつ二人の男によって代表されていた。
ひとりは軍人で指揮官であり、ひとりは市民《シトワイヤン》で共和政府の派遣委員であった。この二人のどちらが勝つのだろうか? 二人のうちのひとり、派遣委員のほうはおそるべき後援者をもっていた。つまり彼は、≪ゆるすな、助命するな≫という、パリのコミューヌがサンテール配下の各大隊にあたえた脅威的な命令をおびて、やってきたのだった。また、すべてを自分の権威の下に服従させるために、『捕虜にした反乱軍指揮官を釈放したり逃亡させたものは、だれかれなく死刑に処する』という国民公会の布告と、公安委員会から委任されている全権と、そしてロベスピエール、ダントン、マラがサインした『派遣委員であるこの男に服従せよ』という訓令をもって、やってきたのだった。ところが、もうひとりの軍人のほうは、こういうものはひとつももっていなくて、力とたのむものは、あわれみの心だけだった。
彼が自分のたのみとするのは、敵を攻撃する腕と敵をゆるす心だけだった。彼は自分は勝利者であるから被征服者たちをゆるす権利があるのだと信じていた。
それで、この二人の男のあいだには、ゆっくりと見えるものの、実は深刻な闘争がおこなわれていたのだった。二人とも反乱軍と戦いながらも、それぞれちがった雲の中にいて、ひとりは勝利という雷を、もうひとりは恐怖という雷をもっていたのだ。
≪森林地帯《ボカージュ》≫の全域において、人びとは彼ら二人のことを噂にしていた。そして、あらゆる方向から二人にそそがれていた不安なまなざしを増大させたのは、まるきり正反対の性格をもっているこの二人が、同時にたがいにしっかりと結ばれているということだった。このたがいに敵対者である二人は友人同士だったのだ。これほど崇高で、これほど深い共感の心で結ばれている二つの魂は、実にたぐいないものだった。おそろしいほうの男はやさしいほうの男の生命《いのち》を救おうとして、顔をサーベルで切りつけられた。彼らふたりは、ひとりは死の化身であり、ひとりは生の化身であった。つまりひとりは恐怖の原理であり、ひとりは平和の原理であった。それでもなお、この二人は愛しあっていたのである。まことに不可解な問題であると言うべきだ。この問題を解くには、なさけ深くしたオレストと冷酷にしたピィラードを想像するとよろしい。兄弟となったアリマーヌとオルムスを想像するとよろしい。〔オレステス、ピュラデスはギリシア神話中の人物で、オレステスは姦夫と通じた母親を殺すというきびしさをもち、ピュラデスはオレステスに対して友情が厚かった。アリマーヌとオルムスは古代ペルシアで信じられた悪神と善神〕
さらに、ここでもう一言しておきたいのは、人から『残酷な男だ』と呼ばれていたほうの男も、やはり人びとに対してこの上ない友愛の気持をいだいていた、と言うことである。彼は負傷者に包帯をしてやり、病人を看病し、夜となく昼となく野戦病院や病院ですごし、素足の子どもたちをあわれみ、なにひとつ自分のものにしようとせず、なにもかも貧乏人たちにあたえてしまうのだった。みんなが戦えば、すぐかけつけた。縦隊の先頭に立って突き進み、すすんで激戦地にのりこんでいった。彼はサーベルと二挺のピストルを帯にさしていたから武装していたわけだが、彼がそのサーベルをぬいたり、ピストルに手をかけたりするところは一度も見られなかったから、武装していないも同然だった。敵の攻撃には真正面から立ち向かうけれど、すすんで敵を攻撃するようなことはなかった。それを見て、人びとは、彼は以前僧侶だったのだ、とうわさしあった。
この二人の男のうちのひとりはゴーヴァンであり、もうひとりのほうはシムールダンだった。この二人の男のあいだは友情で結ばれていたが、二人がそれぞれもっている二つの主義のあいだには憎悪が横たわっていた。ちょうど、ひとつの魂がふたつに切られて、この二人の男に半分ずつあたえられたみたいだった。事実、ゴーヴァンはシムールダンの魂の半分を受けていたが、それはやさしいほうの半分だった。ゴーヴァンはすき通った白い光線をもらい、そしてシムールダンはくすんだ黒い光線とも言うべきものを自分のものとしてとっておいているようだった。ここから二人の内面の不一致が生まれてきたのである。そして、この底に重くよどんでいる戦いは爆発しないはずがなかった。
ある朝、その戦いがはじまってしまった。
シムールダンがゴーヴァンに言った。
「いくさのぐあいはどうかね?」
ゴーヴァンが答えた。
「わたしと同じほどよくご存じでしょう。わたしはラントナック軍を追いちらしてやりました。もう彼のところにはわずかな兵しかおりません。そして彼らはフージェールの森に追いつめられています。一週間たったら、包囲してしまいますよ」
「で、二週間たったら、どうする?」
「彼をとらえてしまいます」
「それから、どうする?」
「わたしがはったビラをごらんになったでしょう?」
「うん。それで?」
「彼を銃殺します」
「また寛大なことを言うね。彼は断頭台にかけなければならんのだ」
「わたしは」と、ゴーヴァンが言った。「彼を軍人らしく死なせてやりたいのです」
「わたしはだ」と、シムールダンが答えた。「彼に革命らしい死にかたをさせたいのだ」
彼はゴーヴァンの顔を真正面に見つめながら言った。
「君はなぜ、あのサン=マルク=ル=ブラン修道院の尼さんたちを釈放させたのかね?」
「わたしは女たちと戦争しているわけではありません」と、ゴーヴァンが答えた。
「あの女どもは民衆をにくんでいる。にくむということになると、女一人が女十人に匹敵するのだ。君はなぜ、あのルーヴィニェでつかまえられた狂信者の老僧の一群をすべて革命裁判所へ送ることを拒否したのか?」
「わたしは老人たちと戦っているわけではありません」
「年とった僧侶は若い僧侶より、いっそう悪いのだ。頭が白くなった僧侶なんかに説教されると、反乱はますます危険きわまりないものになるのだ。しわのよった年よりは信用されやすいからな。すじちがいのあわれみは無用だぞ、ゴーヴァン。王をなきものにするものこそ解放者なのだ。タンプルの塔にじっと目をそそいでみたまえ」
「タンプルの塔ですって! わたしだったら、あの塔から王子をすくいだすでしょう。わたしは子どもたちといくさをしているわけではありません」
シムールダンの目つきがけわしくなった。
「ゴーヴァン、その女の名がマリ=アントワネットという場合には、女とでも戦わなければならん。それが法王のピオ六世という名だったら老人とでも、その名がルイ・カペという名だったら子どもとでも戦わなければならん。このことを肝《きも》にめいじておきたまえ」
「先生、わたしは政治家ではありません」
「危険人物にならんよう、よくよく注意したまえ。コセの陣地を攻撃したとき、追いつめられて殺されそうになった反乱軍のジャン・トルトンがサーベルをふりかざし、たったひとりで味方の全軍にとびかかってきたとき、なぜ君は『戦列をひらけ! 通してやれ!』などと叫んだのだ?」
「たったひとりの男を殺すのに千五百人でかかることはないからです」
「それから、ラ・カイユトリ・ダスティエで、君の部下たちが負傷してはうように歩いていたヴァンデ軍のジョゼフ・ベジェを殺そうとしているのを見つけたとき、なぜ君は、『進め! そいつはおれが引き受けた!』と叫び、わざわざピストルを空に向けて撃ったのか?」
「地面にころがっている人間を殺すことはないからです」
「君はまちがっていたのだ。今ではあの二人は一部隊の指揮官になっている。ジョゼフ・ベジェは≪口ひげ≫と呼ばれ、ジャン・トルトンは≪銀の足≫と呼ばれている。この二人の男を救うことによって、君は共和国のために敵を二人作ってしまったのだ」
「もちろん、わたしは共和国のために友人を作ろうとしたのです。敵を作ろうなどと思いませんでした」
「ランデアンで戦勝したあと、なぜ君は、三百人の捕虜の百姓どもを銃殺させなかったのか?」
「それは、ボンシャンが共和政府軍の捕虜をゆるしたので、共和政府軍も王党軍の捕虜をゆるすと、言われたかったからです」
「では、もしラントナックをとらえた場合、あの男までゆるすのか?」
「いいえ」
「それはなぜだ? 君がすでに三百人の百姓どもをゆるしているからか?」
「百姓たちはなにも知りませんが、ラントナックは自分のしていることをちゃんと知っているのです」
「でも、ラントナックは君の親戚ではないか」
「フランスこそいちばん親しい親戚です」
「ラントナックは年よりだぞ」
「ラントナックは異邦人にひとしい人です。それに年齢をもたない男です。ラントナックはイギリス軍に呼びかけています。ラントナックは侵略者です。ラントナックは祖国《パトリ》の敵です。あの男とわたしとの戦いは、あの男が死ぬか、わたしが死ぬかするまで、終わるはずがないのです」
「ゴーヴァン、今言ったことを忘れるなよ」
「もちろんです」
しばらく沈黙が流れ、二人とも顔を見つめあっていた。
やがてゴーヴァンがまた口をひらいた。
「この九十三年という年は、血にまみれた年になるでしょうね」
「用心しろ!」と、シムールダンが叫んだ。「おそるべき義務が存在しているのだ。非難するところのないものを非難してはいけない。病気は医者のあやまちからおこるなどということが、いつからはじまったのだ? そうだ、この大いなる年を特徴づけるのは、非情であるということなのだ。それはなぜか? それは、今年が偉大な革命の年であるからだ。今年という年において、われわれに化身するのだ。革命は古い世界というひとつの敵をもっていて、この古い世界に対しては非情なのだ。ちょうど、外科医には壊疽《えそ》というひとつの敵があって、これに対して非情であるのと同じことなのだ。革命は王の手の中にある王権を、貴族の手の中にある貴族政治を、軍人の手の中にある独裁政治を、僧侶の手の中にある迷信を、裁判官の手の中にある野蛮を、ひと言で言えば、すべて暴虐者であるものの手の中にある圧制を根絶させるのだ。
これはおそるべき手術ではあるが、それを革命が確実な手並みで遂行するのだ。その犠牲となる健康な肉がどのくらいの量になるかは、ブールハーフェ〔オランダの名医〕に考えをきくとよい。切っても出血しない腫《は》れものなどあるだろうか? 消すのに火の粉のかからない火事があるだろうか? こうしたおそるべき必要事こそ、まさしく成功をみちびく条件なのだ。外科医は屠殺《とさつ》人に似ているし、医者は死刑執行人みたいなものだろう。革命はみずからが負った宿命的な手術に没頭しているのだ。革命は手足こそ切断するが、生命《いのち》は救うのだ。それを、なんということだ! 君は病原菌をゆるせと言うのか! 毒を含んでいるものにまでも寛大であれと望むのか! 革命はそんなことには耳をかさない。革命は過去をひっとらえ、その息の根を止めるのだ。革命は文明を深く切開し、その傷口から人類の健康がとびだしてくるのだ。
君は苦しんでいるのか? そりゃそうだろう。その苦しみはいつまでつづくのか? 手術をしているあいだつづくのだ。それから息をふきかえすんだ。革命は世界を切断する。そのために、この九十三年という出血がほとばしりでるのだ」
「外科医は冷静だけれど」と、ゴーヴァンが言った。「わたしが見てきた人たちは暴虐《ぼうぎゃく》です」
「革命は」と、シムールダンが答えた。「残忍な働き手を助手にしようとする。ふるえる手になんか用はないのだ。革命は非情無残なものしか信用していないんだ。ダントンはおそるべき人だ、ロベスピエールは頑固な人だ、サン=ジュストば不屈の人だ、そしてマラは無慈悲の人だ。そこに注意したまえ、ゴーヴァン。これらの人びとの名前は必要なのだ。われわれにとって彼らは数個軍団と同じくらいの価値がある。彼らは全ヨーロッパをおびやかすだろう」
「そして、おそらく、未来をもね」と、ゴーヴァンが言った。
ここでちょっと言葉を切ったが、すぐまた口をひらいた。
「先生、それでも、あなたはまちがっています。わたしはだれをも非難いたしません。わたしの考えでは、革命のほんとうのよりどころは、だれにも責任がないということです。だれが潔白でない、だれに罪がないということでないのです。ルイ十六世はライオンの群れの中に投げこまれたひつじです。彼は逃げようとします、助かりたいと思います。なんとか身を守ろうと一所懸命です。できるなら、かみつこうとさえするでしょう。しかし、なりたいと思っても、だれでもライオンになれるわけではないのです。彼がなにかちょっとしようとする軽い気持も、罪あるものだと思われてしまいます。この怒りくるったひつじは歯をむきだします。すると、ライオンたちが裏切り者! と言います。そしてライオンたちはひつじをくってしまいます。くい終わってしまうと、こんどは、ライオンの仲間うちでいがみあうのです」
「ひつじはけものだ」
「じゃ、ライオンはなんなのですか?」
こうききかえされて、シムールダンは考えこんでしまった。しかし、やがて顔をあげると、こう言った。
「彼らライオンたちは良心なのだ。あのライオンたちは思想だ。あのライオンたちは原理なんだ」
「そして彼らは恐怖政治をおこなっています」
「いつか、革命は恐怖政治を正当化してみせるだろう」
「恐怖政治が革命の名を傷つけないように用心してください」
さらに、ゴーヴァンはしゃべりつづけた。
「自由と平等と友愛とは、平和と調和の教義です。こういう教義に対して、どうしておそろしい容貌をあたえるのですか? いったい、われわれはなにを望んでいるのでしょう? 世界的な共和国のもとで、民衆たちの心をつかむことです。ですから、民衆をおびえさせてはいけないのです。民衆をおびやかしたって、なにになると言うのですか? 小鳥と同じように、民衆は案山子《かかし》になんか近よらないのです。善をなすために悪をなしてはいけないのです。いつまでも処刑台を立てておくために王座をひっくりかえしたわけではないのです。王たちには死が、国民たちには生が望ましい。王冠ははたき落とそうではありませんか。しかし、国民の首はいたわろうじゃありませんか。革命とは協調であって、恐怖ではないのです。すばらしい理想が無慈悲な人びとによって悪用されています。わたしは、恩赦《おんしゃ》という言葉が人間の言葉の中でいちばん美しい言葉だと思います。わたしはまず自分の血を流す危険をおかさなければ、人の血を流したいとは思いません。それから、わたしは戦争のことしか知らない人間です。一個の兵士にすぎません。しかし、もしゆるすことができなければ、勝利も苦労のしがいがないものになってしまいます。戦闘のあいだだけは、敵に対して敵として当たりましょう。しかし、勝利のあとでは、敵の兄弟になろうではありませんか」
「用心しろ!」と、シムールダンが三度めの注意をうながした。「ゴーヴァン、わしにとって、君はむすこ以上のものだ。用心してくれ!」
そして、思いに沈むように、こうつけくわえた。
「今日のような時代には、あわれみは裏切りのひとつの形になりかねないのだよ」
この二人が話しあうのをきいたら、人は剣と斧《おの》の対話をきいているのではないか、と思ったことだろう。
八 悲しむ母
以上のようなことがおこっているあいだも、母親は子どもたちをさがしていた。
彼女は前のほうへと歩きつづけた。どうやって生きていたのだろう? それをいうのは不可能だ。それは彼女自身にだってわからなかった。彼女は夜昼ぶっとおしで歩きつづけた。彼女は乞食をした。草をたべた。地面に寝た。吹きさらしの野天で、イバラのしげみの中で、星の下で、ときには雨にうたれ風に吹かれて眠った。
彼女は子どもたちのゆくえをたずねながら、村から村へ、小作地から小作地へとさまよった。家々の軒先で立ちどまった。衣服はぼろぼろになっていた。ときにはもてなされることもあったが、ときには追いはらわれた。家の中にいれてもらえないときには、森の中へいった。
彼女はこの地方のことはわからなかった。シスコワニャールとアゼの小教区以外は、なにもわからなかったのだ。旅のスケジュールがあるわけでもなく、道をもどったり、すでに歩いた道をもう一度初めからやりなおしたりして、むだな旅もした。あるときは舗装された道を歩き、あるときは荷車のわだちのあとをたどり、あるときは雑木林の中の小道を歩いた。こんなあてずっぽうな旅をつづけたので、みすぼらしい衣服はすりきれてしまった。初めは靴をはいていたのだが、やがて素足になり、それから足から血が流れだしてしまった。
彼女は戦乱の中を通り、銃撃の中をつききり、なにもきかず、なにも見ず、なにも避《さ》けず、ひたすら子どもたちを求めて進んでいった。どこもかしこも反乱にみち、もう憲兵も、村長も、官憲もいなかった。そこで彼女は通行人にきいてみるよりしかたなかった。
「どこかで三人の子どもたちを見かけませんでしたか?」
通行人たちは顔をあげた。
「男の子ふたりに女の子ひとりなんです」と、彼女は言った。
それから、こう話しつづけた。
「ルネ=ジャンとグロ=ザランとジョルジェットというのですが、知りませんか? あなた、見かけませんでしたか?」
彼女はなおもこう言った。
「上の男の子は四歳と六カ月、いちばん小さい女の子は一歳と八カ月です」
そして、こうつけくわえた。
「その子たちがどこにいるか、知りませんか? その子たちはさらわれたんです」
しかしたずねられた相手は、彼女の顔をながめるだけだった。
相手がわからない顔をしているのを見ると、彼女はこう言った。
「その子たちはわたしの子どもなんです。それで、おたずねしてるんです」
しかし、相手は立ち去ってしまう。すると、彼女は立ちどまって、黙りこんで、胸を爪でかきむしった。
それでもある日のこと、ひとりの百姓が彼女の話をきいてくれた。その親切な男は話をきいて考えこんだ。
「ちょっと待てよ」と、その男が言った。「三人の子どもと言ったね?」
「はい」
「男の子がふたりだって?」
「それに女の子がひとりです」
「その子たちをさがしなさっているんだね?」
「はい」
「どこかのご領主が三人の子どもをつかまえて手もとに置いているって、人が話してるのをきいたことがあるよ」
「そのご領主さまはどこにいるんですか?」と、彼女が叫んだ。「子どもたちはどこにいるんでしょう?」
相手の百姓が答えた。
「ラ・トゥールグへいかっしゃるとええ」
「そこへいけば、子どもたちに会るんですね?」
「ああ、きっと会えると思うがね」
「その、なんとおっしゃいましたか?……」
「ラ・トゥールグだよ」
「ラ・トゥールグって、なんですか?」
「場所のことさ」
「村ですか? お城ですか? 小作地ですか?」
「わしは一度もいったことはねえだ」
「遠いとこにあるんですか?」
「近くじゃないね」
「どっちの方角にあるんですか?」
「フージェールの方角だよ」
「どこを通っていったらいいんですか?」
「ここはヴァントルトだよ」と、その百姓が言った。「エルネを左手に見、コクセルを右手に見ていかっしゃい。それからロルシャンを通り、ルルーの町をぬけていくんだよ」
こう言いながら、百姓は片手を西の方角にあげた。
「おてんとうさまがしずむ方角を向いて、どこまでもまっすぐにいかっしゃい」
その百姓があげた腕をおろさないさきに、彼女は歩きだしていた。
その彼女の背中に向かって、百姓がさけんだ。
「でも、気をつけるだよ。ラ・トゥールグじゃ、いくさをおっぱじめてるだからね」
しかし彼女はふり向いて答えようともしないで、ひたすら前へ歩いていった。
九 いなかの城塞
(一) ラ・トゥールグ
四十年以前に、フージェールの森にレニュレのほうからはいり、パリニェのほうにぬける旅人は、この奥深い大樹林のふちでおそろしげなものにであって、はっとしたものだ。しげみをつきぬけると、とつぜん、ラ・トゥールグの城が目の前に出現するのだ。
それは生きているラ・トゥールグ城でなく、すでに死んでしまっているラ・トゥールグ城だった。つまり、亀裂《きれつ》を生じ、あちこち穴をあけられ、切り傷をつけられ、防備をはぎとられたラ・トゥールグ城だったのだ。廃墟《はいきょ》としっかりした建築物との関係は、幽霊と人間との関係と同じである。ラ・トゥールグ城ほど悲痛な容姿をもった城はない。目の下に見えるのは、森のはずれに悪人のようにぽつんとつっ立っている高くてまるい塔だった。この塔は切り立った岩の上にまっすぐ立っていて、ほとんど古代ローマ様式と言ってよい風貌をもっていた。それくらいがっちりと堅固《けんご》にできていて、このたくましい城全体にはそれくらい権力の思想と没落とが混じりあっていた。古代ローマ様式とは言っても、実際は多少その気味があるくらいだった。事実はロマン様式だったからである。
この塔は九世紀に構築されはじめ、十二世紀の第三次十字軍出陣のあとに完成した。入口の明かりとりのはりだし窓にきざまれた装飾が、この塔の年齢を示していた。この塔に近づいていって、階段をよじのぼるにつれて、ひとつの裂け目が口をひらいているのがみとめられ、思いきって中にはいっていくと、中はからっぽだった。まるきり、地面の上にうちたてられたラッパの中へはいっていったようだった。上から下まで隔壁がひとつもなかった。屋根もなく、天井もなく、床もなく、ドームとか暖炉とか小型軽砲の砲眼とかいったものがいろいろの高さにくずれ残っており、花崗《かこう》岩で作られた持ち送りの蛇腹《じゃばら》と、縦横に張りめぐらされているなん本かの大梁《おおはり》とが、むかしはこの塔がなん階かにしきられていたことを示している。大梁の上には夜の鳥の糞《ふん》がこびりついていた。巨大な壁は厚さが根もとのところで十五フィート、てっぺんで十二フィートあった。あちこちに裂け目や、むかしは戸口だった穴があり、そこからのぞくと、暗い壁の内部にとりつけられている階段がかすかに見えた。夕暮れごろ、この塔の中にはいる通行人は、フクロウや夜鷹《よたか》やゴイサギがなくのをきき、足もとにはイバラや石やトカゲが、頭上には、巨大な井戸の口のような塔の高みの黒いまるみを通して星が見えた。
この地方の言いつたえによると、この塔の上の階には、まるでユダヤの王たちの墓の戸口に見られるように、軸を中心に回転して開いたり閉じたりして、閉じたときには壁の中にはまりこんでしまう巨大な石でできた秘密のとびらがある、と言うことだった。これは十字軍が尖頭|迫持《せりもち》とともに土産《みやげ》にしてきた建築様式だった。このとびらがしまってしまうと、それがどこにあるか見つけることは不可能で、それほどこのとびらは壁石にとけこんでしまうのだった。このようなとびらは、ティベリウス皇帝治下に動乱のちまたとなった十二の町の災難をのがれたアンティ=レバノン地方のなぞめいた都市で、今日でもまだ見ることができる。
(二) 裂け目
そこからこの廃墟《はいきょ》の中へはいる入口となっている裂け目は地雷で爆破した穴だった。エラール、サルディ、パガン〔いずれも、十六世紀から十七世紀にかけてのフランス軍事技術研究家〕たちのことにくわしい専門家なら、この穴が技術的に事情通の手で作られていることがわかるだろう。僧帽型をした火薬室は、その火薬でこの塔に大穴をあけるだけの強さに匹敵する大きさをもっていた。少なくとも二カントー〔重量の単位で一カントーは五十キログラム〕ぐらいの火薬がおさめられていたにちがいない。この火薬室にいくには、くねくねとまがった坑道をぬけていくのだが、まがっていたほうがまっすぐであるより都合がよかった。地雷の爆発でくずれ落ち、砕けた石のちらばる中に、導火のうがあらわに見えていた。この導火のうは直径が鶏卵くらいのものだったが、爆破するにはこれくらいのふとさが必要だったのだ。爆発のために、壁には深い傷ができ、攻囲するものはその裂け目から中へ侵入することができたにちがいなかった。あきらかにこの塔は、いろいろな時代において、定石にのっとった包囲攻撃を受けていた。塔には霰弾《さんだん》のあとがたくさんついていて、しかも、これらの弾痕はどれもこれも同じ時代についたのではなかったからだ。弾丸というものは、それぞれ、その時代独特のあとをきざみつけるのだ。そして、十四世紀の石の弾丸から十八世紀の鉄の弾丸まで、ありとあらゆる弾丸が、この塔に各自のあとをきざみつけているのだった。
裂け目についている入口は、むかしは一階になっていたに相違なかった。この裂け目とは反対にある塔壁には、地下室に通じるくぐり戸が口をあけていた。その地下室は岩をえぐって作ったもので、塔の台石の中にのび、一階の広間の下に通じていた。
この地下室は四分の三が地下に埋まっていたが、一八五五年、ベルネーの骨董《こっとう》愛好家オーギュスト・ル・プレヴォ氏によって、内部が整理された。
(三) 地下牢
この地下室は地下牢だった。どんな城の塔も地下牢をもっていたものだ。この地下室も、この時代のおおくの土牢と同じように、二つの階をもっていた。あの裂け目からはいっていくようになっていた二階はかなり広いドームのついた部屋で、二階の広間の横にくっついていた。この部屋の仕切り壁には二本のすじがついていた。このすじは平行して垂直に上に走り、ドームを通って反対側の壁にまで達し、ドームのところでは、ひときわ深くきざみこまれていた。これは二本のわだちを思わせた。
事実、これは二本のわだちであった。この二本のすじはふたつの車輪のためにえぐられたあとだった。むかし、封建時代に、四頭の馬によっておこなうよりもぎょうぎょうしくない四裂《よつざ》きの刑がおこなわれたのは、この部屋だった。この部屋にはふたつの車輪がとりつけてあったが、それがあまりに大きく頑丈だったので、壁とドームにさわってしまったのだ。いっぽうの車輪に死刑囚の片腕と片足をしばりつけ、もういっぽうの車輪に別の片腕と片足をしばりつけて、ふたつの車輪を反対方向に回転させて、人間を引き裂いたのだ。これには力が必要だった。そこで、車輪がこすれた壁にわだちが掘られたのだ。今日でも、ヴィアンダンにいくと、これと同じような部屋を見ることができる。
この部屋の下にもうひとつ部屋があったが、これがほんとうの地下牢だった。この部屋には戸口というものはなくて、穴からはいるようになっていた。死刑囚ははだかにされ、わきの下にロープをかけられて、上の部屋の石の床のまんなかにあいている換気穴から、この下の部屋へおろされた。おろされた死刑囚があくまで生きのびたいと思っているようだと、この穴から食物をなげた。今日でも、この種の穴はブゥイヨンにいくと見ることができる。
この穴から風が吹きあがってきた。塔の一階の広間の下に掘られているこの下の部屋は、部屋と言うよりむしろ井戸と言ったほうがよかった。部屋の下はすぐ地下水になっているので、部屋の中には凍るような空気がみちみちていた。このつめたい風は、下の部屋にいる囚人を死なせたが、上の部屋にいる囚人を蘇生《そせい》させた。この風のおかげで、上の部屋ではなんとか呼吸できたからだ。上の部屋の囚人は、ドームの下で手さぐりしながら、この穴からはいってくる空気を吸ったのだ。その上、この穴からはいりこんだり落ちこんだりしたものは、二度と出てくることはできなかった。そこで囚人は暗がりの中でこの穴に用心しなければならなかった。一歩あやまれば、たちまち上の部屋の死刑囚が下の部屋の死刑囚になりかねないからだった。囚人にとっては重大なことだった。生にしがみついているものにとっては、この穴は危険そのものだったが、生きているのがいやになったものにとっては、この穴は救いになった。上の部屋は牢屋だったが、下の部屋は墓場だった。
こういうように二つの部屋がかさなっているところは、当時の社会と似ていた。これこそ、われわれの祖先が≪地獄の尻≫と呼んでいたものだった。今日では、この牢の実物はなくなってしまっているから、この名前をきいても、われわれにはぴんとこない。革命のおかげで、この名前が口にされるのをきいても、われわれは平気なのである。
塔のそとからは、四十年前には唯一の入口になっていたあの裂け目の上に、ひとつの銃眼がついているのが認められるが、この銃眼はほかの銃眼よりも大きくて、これには、もぎりとられ破壊された鉄の格子《こうし》がぶらさがっていた。
(四) 橋城
その裂け目の反対側には、ほとんど無傷の三つのアーチをもった石造りの橋がこの塔にくっついていた。この橋はむかしは建物をひとつのせていたもので、今でもその建物の残骸が二、三残っている。この建物には火事でやけたあとがはっきり残っていて、もう黒ずんだ骨組み、いわばこれを通して日光がはいる骸骨《がいこつ》と化していた。この残骸が幽霊のそばに立っている骸骨のように、そばにつっ立っていた。
この廃墟《はいきょ》は、今日では全部とりこわされていて、なんの痕跡も残っていない。おおくの王たちが、なん世紀もの年月をついやして作りあげたものも、これを破壊する段になれば百姓ひとりの手でたった一日でとりこわしてしまえるのである。
≪ラ・トゥールグ≫という言葉は、百姓言葉で省略した言いかたで、≪ラ・トゥール=ゴーヴァン≫(ゴーヴァンの塔)という意味である。ちょうど、≪ラ・ジュペル≫という言葉が≪ラ・ジュペリエール城≫を意味したり、ある反乱軍の頭目であるせむし男の名前である≪パンソン=ル=トール≫という言葉が、≪パンソン=ル=トルテュ≫(からだのまがったパンソン)を意味していたりしているようなものである。
四十年前は廃墟《はいきょ》であり、今日では幽霊であるこのラ・トゥールグも、一七九三年当時では、ちゃんとした要塞だった。これはゴーヴァン家代々の城砦《じょうさい》で、西方のフージェールの森の入口をかためていた。このフージェールの森も、今ではほんの小さな森にすぎない。
この城砦は巨大な片岩のかたまりの上にきずかれていた。この片岩はマイエンヌとディナンのあいだにいくらでもころがっていた。まるで巨人《テイタン》たちが投げあったなごりみたいに叢林《そうりん》やヒースのしげみのあちこちに点在していた。
この塔が要塞のすべてだった。塔の下には岩があり、その岩の足もとには、一月には急流となるが六月にはひあがってしまう水の流れのひとつが流れていた。
これほど簡単なものではあったが、中世では、この要塞は難攻不落といってよい城だった。しかし、その橋がこの要塞の力を弱くしていた。もともとゴート族出身のゴーヴァン家がこの塔を建てたときには、橋はつけなかった。斧《おの》をひとふりすればたちまち切り落とされてしまうような、ぐらぐらゆれる人道橋が通路としてくっついていただけだった。ゴーヴァン家が子爵であるあいだは、一族のものたちもこの人道橋が気にいってもいたし満足してもいたが、侯爵となり、一族のものがこの要塞をはなれて宮廷に伺候《しこう》するようになると、この急流の上に三つのアーチをもった橋をかけた。それで、王さまのそばへはいきやすくなったものの、平野に面している側は敵から攻撃されやすくなってしまった。十七世紀の侯爵たちや十八世紀の侯爵夫人たちは、難攻不落の城などには固執しなくなった。これにかわって、つまり祖先のやりかたをつづけることにかわってヴェルサイユ宮の模倣がはじまったのだ。
塔の正面、つまり西方にあたってかなり高い台地があり、これから平野につながっていた。この台地はほとんど塔の間近にあって、塔と台地をへだてるものはただ一本の深くえぐれた掘れみぞだけで、ここにはクエノン河の支流である水流が流れていた。そこで橋は、要塞と台地をむすぶハイフンとなっていたが、橋台の上に高くかけてあった。そして、この橋台の上には、シュノンソーのように、マンサール様式の建物がきずかれた。これは塔と言うよりはむしろ住居と言ってよかった。しかし、風俗がまだとても粗野な時代だったので、領主たちは牢屋同然の天守閣の部屋に住む習慣を保っていた。一種の小さな館《やかた》みたいだったこの橋上の建物には、入口として使用され、≪守備の間≫と呼ばれた、一本の長い廊下がくっつけられていた。
この≪守備の間≫は一種の中二階になっていたが、この上には図書室が置かれ、図書室の上は屋根裏べやになっていた。ボヘミヤ産の小さなガラスをはめた長い窓がつき、窓と窓のあいだからは枝柱がつきだし、壁には浮き彫りが彫ってあるといった、三階だての建築物だった。中二階には矛《ほこ》やマスケット銃が、二階には書物が、そして三階にはオートむぎをいれたふくろが置いてあった。こうしたものはすべて、多少野性的ではあったが、強い貴族趣味を示していた。
かたわらの塔はおそろしげに立っていた。
塔は陰気に横柄《おうへい》に、この粋《いき》な建物を見おろしていた。塔の屋上から橋を襲撃することができた。
ひとつはぶっきらぼう、もうひとつは小粋《こいき》な、この二つの建物は、あい接すると言うよりはぶつかりあっているみたいだった。二つの建築様式は決して調和していなかった。二つとも半アーチを使った建築である以上、似ていてよいはずだったのに、実際はロマン様式のそりアーチと古典的な飾りアーチほど似ていないものはないのだ。森によくうつるこの塔も、ヴェルサイユ宮によく助合う橋のそばに置くと、奇妙な隣人みたいなかっこうに見えた。それはまさに≪ねじれたひげのアラン≫がルイ十四世に腕をかしているようなありさまだった。この塔と橋の組みあわせはおそろしげに見えた。混じりあった二つの権威が、なにかわけのわからない残忍なものを発散していた。
さらに強調しておきたいことは、軍事的な見地から考えると、この橋のために塔を敵の手に渡していると言ってよい、ということである。橋は塔を美しくしてはいたけれど、同時に無防備にしていた。つまり、塔は飾りを手に入れたものの、力を失ってしまったのだった。橋は塔を台地と水平に置いていた。そこで塔は森のほうから攻められてもいつも難攻不落だったが、平野のほうから攻められると無防備だったのだ。むかしは塔のほうが台地に命令していたのに、今では台地のほうが塔に命令していた。図書室と屋根裏べやは攻囲軍に味方して要塞にたてついていた。書物もわらも燃えやすいという点で、図書室と屋根裏べやは似ている。火を使う攻囲軍にとっては、燃えると思えば、ホメロスの本を燃やすことも、わらの束を燃やすことも同じことだった。フランス人はハイデルベルクの図書館を燃やして、このことをドイツ人に向かって証明し、ドイツ人もストラスブールの図書館を燃やして、これをフランス人に対して証明した。
こうして、ラ・トゥールグの城にくっつけられていた橋は戦略的にはあやまりであった。
しかし、コルベールやルーヴォワの時代である十七世紀になると、ゴーヴァン家の領主たちは、ロアン家の領主たち、ラ・トレモワール家の領主たちと同じように、これから城が包囲攻撃されるようなことはない、と信じていた。しかし、橋の構築者たちは、二、三のことを配慮しておいた。
第一に、火事がおこったときを予想して、川が流れている側にくっついている三つの窓の下に釘《くぎ》をなん本もうちこみ、これに頑丈な救助用|梯子《はしご》をななめにつるしておいた。この釘は半世紀前まで残っていた。そして、梯子は橋の上に建っている建物の三階のところまでとどく長さをもっていた。この建物の三階までとどく長さと言えば、ふつうの建物の四階までとどく長さであるということだ。
第二に、攻撃をうけたときを予想していた。一枚の重くて低い鉄のとびらを使って、橋と塔とをしきったのだ。このとびらはアーチ型に作ってあった。このとびらは巨大な鍵でしまったが、その鍵は領主しか知らないかくし場所にかくしてあった。そして、このとびらは、いったんしめられてしまうと、破城槌《はじょうづち》にも敗けない力をもっていたし、砲弾だってものともしないくらいだった。
このとびらまでたどりつくには橋を渡らなければならなかったし、塔の中にはいりこむためには、このとびらを通らなければならなかった。このとびらのほかには入口はひとつもなかったのだ。
(五) 鉄のとびら
橋城の二階は橋台のために高くなっていて、塔の三階と同じ高さのところにあった。いっそう防備をかためるために、鉄のとびらが作られたのは、この二階だった。
この鉄のとびらは、橋の側では図書室に向かって、塔の側では中央に柱のあるドームがついた大広間に向かってひらかれるようになっていた。前述した通り、この広間は塔の三階にあたっていた。塔と同じように丸くて、平野に面しているいくつかの細長い銃眼からはいる光が内部を明るく照らしていた。壁は石だけででき、ほかにはなにも塗っていなくて、野蛮きわまりないものだったが、石だけはきちんと調和よく積んであった。この広間へいくには、壁にはめこまれている螺旋《らせん》階段をのぼることになっていたが、壁が十五フィートもの厚さをもっていれば、こういうこともしごく簡単にできた。中世では、ひとつの町を占領するのには通りを一つ一つとり、一つの通りを占領するのには家を一軒一軒とり、家を一軒占領するのに部屋を一つ一つとっていった。要塞を攻略するときも、一階一階占領していったものだった。
こうした点から考えると、ラ・トゥールグ城はたいへん精巧に構築されていて、非常に堅固で、攻略するのに困難な城であった。ひとつの階から次の階にいくのには、近づきがたい螺旋《らせん》階段をのぼらなければならなかった。それから、とびらというとびらは斜めについていて、人間ひとりくらいの高さしかなかったから、これをぬけるには頭をさげなければならず、といって、頭をさげるということはつまりなぐり殺されるということだった。さらに、各とびらのかげには、城中の軍勢が攻囲軍を待ち伏せていた。
中央に柱が立っているまるい広間の下には、似たような二階と一階の部屋があり、広間の上には、三つの階があった。こうして積み重ねられている六つの部屋の上から石のふたがおおい、これがつまり屋上だった。この屋上へいくには、せまい物見やぐらを通らなければならなかった。厚さが十五フィートある壁は、そこに鉄のとびらをとりつけるためにえぐられ、そのまんなかにとびらがはめこまれていて、まるで長いアーチの中にはめこんだようになっていた。こうして、とびらがしめられていると、とびらは塔の側にも橋城の側にもできる深さ六、七フィートのポーチの下にあることになって、反対にあけられていると、この二つのポーチはひとつになって、アーチ型をした入口になった。
橋城側のポーチの下には、厚い壁の中に、サン=ジル式の低い小門がひらいていて、この階段は図書室の下にある中二階の廊下に通じていた。この階段もまた、攻囲する側にとっては攻撃の関所のひとつになっていた。橋城は台地の側には、そそり立つ壁のはしを張りだしているだけで、橋もそこまでしか伸びていなかった。低い戸口に面してとりつけてある跳開橋が台地と橋城とを連絡させていたが、この橋は台地の側が高くなっていたために、かけても斜めにしかかからなかった。この橋は≪守護の間≫と呼ばれる長い廊下に通じていた。たとえ攻囲軍がこの長い廊下を占領しても、鉄のとびらのところまでいくのには、なんとしても三階に通じているサン=ジル式の螺旋《らせん》階段を強引にのぼらなければならなかったのだ。
(六) 図書室
図書室についてのべると、これは橋と同じはばと長さをもった細長い広間で、鉄のドアがたったひとつついているだけだった。ほかには、ほんとうのドアとは言えない、緑のラシャを張った、押すだけであくという両びらき戸がひとつあり、これが塔の入口であるアーチをかくしていた。
図書室の壁は、上から下まで、つまり床から天井まで、すばらしい趣味の十七世紀の指物細工で作ってある、ガラスばりの書棚でふさがれていた。六個の大きな窓が、各アーチの上にひとつずつの割りで、両側に三つずつとりつけてあり、図書室を明るく照らしていた。そとの台地の上からは、この六つの窓越しに図書室の中を見ることができた。これらの窓のあいだから突きだしている、彫刻したオークの木の台の上には、六つの大理石胸像がのっていた。ビザンチンのヘルモラオス、ナウクラティスの文法学者アテナイオス、シュイダス、カソボン、≪フランス王≫と言われるクロヴィス、そして、その宰相と言われるアナカリュスの胸像群だったが、ほんとうはアナカリュスは宰相ではなく、それはクロヴィスがフランス王でなかったのと同じである。
この図書室には価値のない書物しか置いてなかった。しかし、ただ一冊だけ今でも有名な書物が混じっていた。それは版画のさし絵いりの古い四折判《アン・クワルト》の書物で、≪聖《サン》バルテルミー≫という表題が大きな活字で印刷されてあった。副題として、
『聖《サン》バルテルミーによる福音書。巻頭、キリスト教哲学者パンタイノスによる、本福音書は聖書外典とみなすべきかどうか、さらに聖《サン》バルテルミーはナタナエルと同じ人物であるかどうかに関する論文』
と書いてある。この書物は当時、この世に一冊しかないと思われていたが、これが図書室の中央にある机の上にのっていた。前世紀には、人は好奇心にかられてこの書物をのぞきにやってきたものである。
(七) 屋根裏べや
屋根裏べやについてのべておくと、これも図書室と同様、橋のように横長のかっこうをしていたが、屋根組みの下にあるだけといった部屋だった。わらやほし草が放りこまれている大きな部屋で、六つの天窓から光がさしこんでいた。飾りと言っては聖《サン》バルナベの像がドアにきざまれているだけで、その下に、次のような詩句が書いてあった。
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Barnabus sanctus falcem jubet ire per herbam.
(聖《サン》バルナベは鎌《かま》に草の中をつき進ませる)
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こうして、高くて巨大な六階建ての塔は、あちこちに銃眼をうがたれ、出入口としては橋城に通じている鉄のとびらしかもっていず、橋城は跳開橋でそとの世界から遮断《しゃだん》されている。塔のうしろは森になっていて、前面には橋よりも高く塔よりも低いヒースのしげる台地がひかえている。橋の下の、塔と台地のあいだは、一面イバラだらけの深くてせまい掘れみぞになっていて、これは冬には急流となり、春には小川となり、夏には石だらけのみぞとなっている。これが、ラ・トゥールグと呼ばれるゴーヴァン家の塔であった。
十 人じち
七月が過ぎ、八月がやってきた。ヒロイックで残酷な嵐がフランス全土に吹き荒れていた。ふたつの亡霊が地平線を横切ったばかりだった。それは脇腹に短刀をさされたマラと、頭をきられたシャルロット・コルデエだった。世の中全体がおそるべきものになっていた。ヴァンデ軍と言えば、大きな戦略でやぶれ、小さな戦いの中に逃げこんでいた。前にものべたことだが、この小さな戦いのほうが、ずっとおそろしいものだった。今や、この戦いはあちこちの森に細かく分散された広大な戦いとなっていたのだ。カトリック王党軍と呼ばれたヴァンデの大軍の敗戦がはじまっていた。共和政府は政令を発して、マイエンス軍をヴァンデに派遣した。八千のヴァンデ軍がアンスニで死んだ。ヴァンデ軍はナントからおし返され、モンテギュから追いだされ、トゥワールから放逐《ほうちく》され、ノワルムーティエから追いだされ、ショレやモルターニュやソーミュールのそとへ放りだされた。彼らはバルトネから撤退し、クリソンを棄て、シャティヨンから逃げだし、サン=ティレールでは軍旗を奪われ、ポルニックで、レ・サーブルで、フォントネで、ドゥエで、シャトー=ドーで、ポン=ド=セで敗れた。リュソンでは立往生し、シャテニュレエでは退却し、ロッシュ=シュール=ヨンでは敗走した。
しかし一方、ヴァンデ軍はラ・ロシェルを威嚇《いかく》し、またガーンジ島水域では、クレイグ将軍にひきいられたイギリスの一艦隊が、優秀なフランス海軍士官たちと数個連隊のイギリス軍とを同乗させて、上陸せよとのラントナック侯爵の合図だけを待ちかまえていた。この上陸作戦は、また王党派反乱軍に勝利をさずけるかも知れなかった。そもそもピットは悪辣《あくらつ》な政治家だった。甲冑《かっちゅう》の中に短刀がひそんでいるように、政治の中には裏切りがひそんでいるものだ。ピットはフランスを短刀で突きさして、イギリスを裏切ったのだ。祖国の名誉を汚すとはつまり祖国を裏切ることである。
ピット統治下、イギリスはピットのさしがねで裏切りの戦争をおこなった。イギリスはスパイ行為をはたらき、ごまかしをおこない、そして嘘をついた。イギリスは密猟者であるとともに偽造者であり、どんなことでも平気でおこなった。堕落のあまり、いとも些細なことにまで憎悪の目を向けた。一ポンド五フランしていた動物性油の買いいれを独占させた。ひとりのイギリス人がリールでつかまり、その手からヴァンデにおけるピットのスパイであったプリジャンの手紙が押収された。その手紙には、こう書いてあった。
『どうか金を惜しまないよう、おねがいします。暗殺は用心深くおこなわれるものと確信いたします。変装した僧侶と婦人は、この作戦を遂行するのにもっとも適している人間です。ルーアンに六万リーブルを、カーンには五万リーブルをお送りください』
八月一日、国民公会の議場でバレールがこの手紙を読みあげた。このような裏切り行為に対する反撃として、パランの暴動が、後にはカリエの残虐行為がおこったのである。メッツ駐在の共和政府軍と|南フランス《ミディ》駐屯の共和政府軍は、反乱軍を攻撃するため前進したいと許可を求めてきた。共和政府は政令を発して、二十四個中隊の工兵隊を編成して、≪森林地帯《ボカージュ》≫の生垣やかこいをやき払え、と命令した。前代未聞の危機にさらされていたのだ。
戦いはある地点で終わっても、たちまち他の地点ではじまった。ゆるすな! 捕虜を作るな! というのが、両陣営共通の叫びだった。歴史はおそるべき影にみちみちていた。
この八月という月にラ・トゥールグは包囲攻撃されていた。
ある夕がたのこと、星がきらめきはじめ、森の中では葉ひとつ動かず、野原では草ひとつそよがぬ、土用の静かなたそがれどき、落ちかかろうとしている夜の静けさをつらぬいて、とつぜん、猟用ラッパがひびき渡った。ラッパの音は塔のてっぺんから鳴ってきたものだった。
この猟用ラッパの音に答えて、下のほうから軍用ラッパがひびき渡った。
塔のてっぺんには武装したひとりの男が立っていた。そして、下のほうの暗やみの中には野営の軍が待機していた。
ゴーヴァンの塔の周囲を包む暗やみの中に、黒い人影がうようよと集まっているのが、ぼんやりと見わけられた。この蟻《あり》がうようよ集まっているような一群は野営している軍だった。あちこちの森の木の下や台地のヒースのしげみの中で、火がともりはじめ、あちらこちらの暗やみに明るい穴をあけていた。まるで地上も空と同じように星をきらめかせたいと思っているようだった。
しかし、戦いのともしびというのは、なんと暗い星であろう!
台地の側にかたまっている野営の軍は平野のほうにまで伸び、森の側の野営はしげみの中につっこんでいた。ラ・トゥールグ城は完全に封鎖されていたのだ。
これほどの広がりをもって包囲の野営をはっているのは、それが大軍であることを物語っていた。
野営の軍は城砦のまわりで包囲の輪をちぢめ、塔の側では岩のところまで、橋城の側では掘れみぞのところまで迫っていた。
もう一度、猟用ラッパが鳴りひびくと、すぐまた軍用ラッパもつづいて鳴りひびいた。
猟用ラッパが問いかけるのに軍用ラッパが答えているようだった。猟用ラッパは塔から野営に向かって、話してよいか? とたずねているのであり、これに対し軍用ラッパが、よいぞ、と答えているのだった。
このころ、ヴァンデ軍は国民公会から正規に交戦している軍隊だとはみなされていなかったし、共和政府の政令では、こうした≪匪賊《ひぞく》≫と代表団を交換することを禁止していた。そこで、ふつうの戦争ではみとめられているが内戦では禁止されている連絡方法にとってかわることのできるような方法を便宜《べんぎ》上使っていたのだ。こうした次第で、しばしば、百姓軍の猟用ラッパと軍用ラッパとのあいだには、ある了解が成立することがあった。最初のラッパの呼びかけは、交渉を開始したいという意思表示にすぎないが、二度めの呼びかけは、こちらの言い分をきいてくれるか? という質問呈示で、もしこの第二の呼びかけに対して軍用ラッパのほうが沈黙していたら、これは拒否をあらわし、もし答えたら、それは同意をあらわしていた。つまりこの第二の答えは『しばらく休戦しよう』という意味だったのだ。
軍用ラッパが二度めの呼びかけに答えたので、塔のてっぺんにいた男が話しはじめた。こう言っていた。
「おれの言うことをきいている諸君よ、おれはグージュ=ル=ブリュアンだ。あだ名を≪共和政府軍《あお》破り≫と言う。これは君たちの戦友《カマラード》をおおくやっつけたからだ。またのあだ名をイマーニュスとも言う。これから、君たちをもっとおおくやっつけるつもりだからだ。グランヴィル攻撃のとき、おれは銃身をにぎっている上からサーベルで切られ、指を一本切り落とされた。それから、君たちは、ラヴァルで、おれの父母と十八歳になる妹のジャクリーヌを断頭台にかけた。おれはこういう男だ。
おれは、フォントネの子爵、ブルターニュの君主《プランス》、≪七つの森の領主≫、われらの主君、ゴーヴァン・ド・ラントナック侯爵の名にかけて、諸君に話している。
ところで話の前に諸君に知っておいてもらいたいことがある。それは、侯爵閣下は、今君たちが封鎖しているこの塔にとじこもられる前に、副官である六人の指揮官の手に戦いの指揮権を分散してあたえてしまわれたことだ。閣下はデリエールにはブレスト街道とエルネ街道のあいだの地方を、トルトンにはラ・ロエとラヴァルのあいだの地方を、またの名タイユフェールのジャケには上メーヌの周辺部を、またの名グラン=ピエールのゴリエにはシャトー=ゴンティエを、ルコントにはクランを、そして、デュボワ=ギイ氏にフージェールを、ド・ロシャンボー氏にマイエンヌ全域を、それぞれあたえられたのだ。そこで、たとえ君たちがこの城砦を攻略したとしても、それで戦いが終わったわけでもなく、また侯爵閣下が戦死されたとしても、それで神と王の軍隊であるヴァンデ軍がなくなってしまうわけでもないのだ。
こういうことを諸君に知ってもらいたいのは、諸君にひと言注意しておきたいからだ。侯爵閣下は、わしのすぐそばにいらっしゃる。わしはただ閣下にかわって閣下のお言葉を伝えているにすぎん。われわれを包囲している諸君よ、静かにしていてくれたまえ。
これから伝える閣下のお言葉を、よくきいてもらいたい。
君たちがわれわれにしかけた戦いは少しも正しくない、ということを忘れないでもらいたい。われわれはこの地方に住んでいる人間で、正直に戦っている。そして、神のご意志のもと、露の下の草のように、単純で純粋な人間である。われわれを攻撃してきたのは共和国なのだ。共和国はわれわれの故郷《くに》にまでおしかけてきて、われわれをひっかきまわそうとしたのだ。共和国はわれわれの家をやき、収穫をやき、小作地に銃弾をぶちこんだ。そこで、われわれの女子どもたちはまた、冬の鳥が鳴いているというのに、はだしで森の中に逃げこまねばならなかったのだ。
おれの言うことをきいている諸君よ、君たちはわれわれを森の中へ追いこみ、この塔の中へとじこめて包囲してしまった。われわれの側につくものたちを殺したりおっぱらったりした。君たちの側には大砲がある。君たちはモルタン、バラントン、テイユール、ランディヴィ、エヴラン、タンテニャック、ヴィトレの守備隊、駐留隊をかき集め、四千五百の兵力でわれわれを攻撃している。ところが、これを防ぐわれわれの兵力はたったの十九名だ。
われわれは食糧と弾薬をもっている。
君たちは地雷をしかけることに成功し、わがほうの岩の一部と壁の一部を突きくずした。
それで塔の足もとに穴があいてしまったが、この穴から君たちは城中へ侵入することができる。と言っても、この穴は野外であいているわけではなく、まだまだしっかりと立っている塔に上からおおわれている。それでも穴であることには変わりない。
今、君たちは突撃の準備をしている。
それに対するわが軍は、まず、ブルターニュの君主《プランス》であり、初めジャンヌ王妃によって毎日ミサがあげられるようになったサント=マリ・ド・ラントナック僧院の在俗院長となっていらっしゃる侯爵閣下、それから、この塔を守る勇士は、戦場ではグラン=フランクールと呼ばれるテュルモー師、わが戦友でカン=ヴェールの隊長であるギノワゾー、これもわが戦友でアヴォワーヌの野営陣地隊長のシャント=アン=ニヴェール、レ・フールミの野営陣地隊長のラ・ミュゼット、それに、モリアンドル川が流れているダン町生まれのいなかもののおれだ。以上のわれわれが君たちに向かって言っておきたいことがひとつだけあるのだ。
塔の下にいる諸君、よくきいてほしい。
われわれは三人の捕虜をとらえているが、それは子どもなのだ。この子どもたちは、君たちのどこかの大隊の養子になったものたちだ。つまり、彼らは君たちのものなのだ。そこで、われわれはこの子どもたちを君たちに返すことを提案したい。
しかし、ひとつだけ条件がある。その条件とは、われわれをこの塔から自由に脱出させてくれるということだ。
よくきけ、もし君たちがこの条件を拒否したら、君たちは二つの方法でしか攻撃できない。森の側の裂け目からか、台地側の橋からかの二つだ。橋の上の建物は三階だが、このおれイマーニュスが、中二階の中に大だる六個分のタールと、百束のかわいたヒースをつめこませた。その上の三階にはわらがつんである。二階には本や紙きれが置いてある。橋と塔をつないでいる鉄のとびらは閉じてあり、このとびらの鍵は侯爵閣下ご自身がもっていらっしゃる。それから、おれはこのとびらの下に穴をあけて、その中に硫黄《いおう》をぬった火なわをつっこんだ。火なわのはしのひとつは、タールがはいっている大だるの中にいれてあり、もうひとつは塔の中にいるおれがにぎっている。よいおりを見はからって、火なわに火をつけるつもりだ。もし君たちがわれわれの脱出するのを拒否したら、三人の子どもを硫黄をぬった火なわのはしがつけてあるタールのたるが置いてある階と、わらがつめこんである階とのあいだの階、つまり橋城の二階につれていくつもりだ。こうなると、鉄のとびらが子どもたちをとじこめてしまうわけだ。もし君たちが横の側から攻撃すれば、君たちが建物をやくことになる。もし裂け目の側から攻撃すれば、火をおこすのはおれたちということになる。もし君たちが同時に裂け目と橋とから攻撃すれば、火は君たちとわれわれによって同時につけられることになる。つまりだ、いかなる場合においても、三人の子どもたちは死んでしまうのだ。
さあ、承知するか、拒否するか。
承知すれば、われわれは脱出する。
拒否すれば、子どもたちは死ぬことになる。
これで、おれの言うことはおわりだ」……
塔のてっぺんから話しかけていた男が口をつぐんだ。
すると、下のほうから、ひとつの声がこう叫んだ。
「拒否する」
その声はそっけなくきびしかった。と、もうひとつ別の、前の声ほどきびしくはないが、しっかりした声が、こうつけくわえた。
「君たちに二十四時間の猶予《ゆうよ》をやる。だから無条件降服をしろ」
しばらく沈黙がつづいたが、やがて、同じ声で、
「もし、あすの今の時間になっても、君たちが降服しなかったら、われわれは攻撃するぞ」
次に、最初の声がこう言った。
「そうなったら絶対に容赦《ようしゃ》しないぞ」
このおそろしい声に対して、塔のてっぺんから、前のとは別の声が答えた。ひとりの背の高い男のシルエットが銃眼のあいだにかがみこむのが見えたが、星の光でよくよく見ると、それがあのラントナック侯爵のおそろしい顔であることがわかった。この顔はまなざしを下のやみの中に落とし、だれかをさがしているようだったが、やがて、こう叫んだ。
「おお、おまえか、坊主め!」
「そうだ、おれだ、裏切りものめが!」と、下から、あのきびしい声が答えた。
十一 むかしのようにおそろしい
執念深いほうの声は、まごうことなきシムールダンの声だった。そして、それよりもっとわかわかしくて、きびしくないほうの声は、ゴーヴァンの声だった。
ラントナック侯爵はシムールダン師をはっきり認めたわけだが、それにまちがいはなかったのだ。
シムールダンは、内戦が血を流しているこの地方にやってきてからたった数週間のうちに、読者もすでにご承知のように、著名な人物になってしまっていた。と言っても、彼が著名であるという事実ほど悲惨なものはなかった。人は、パリにはマラがいて、リヨンにはシャリエがいて、ヴァンデにはシムールダンがいる、とうわさしていた。人々はシムールダン師を、むかし彼にいだいていた尊敬の念とはまるきりうらはらの気持で傷つけていた。還俗《げんぞく》した僧侶がこういうふうになるのは世のならいである。人はシムールダンにおびえていた。きびしい人は不幸な人間で、こういう人間の行動だけを見ているものはその人間を非難するが、その良心を見ることのできるものは、多分その人には罪はないと言うだろう。リュクルゴス〔古代スパルタの立法者〕のような人は、くわしく説明されなければティベリウスみたいな人間にみなされてしまうものである。
それはともかく、ラントナック侯爵とシムールダン師という二人の人間は、人の憎悪の秤《はかり》にのせられると、まったく伯仲していたのである。つまり、シムールダンに対する王党派の呪いは、ラントナックに対する共和派の憎悪とつりあっていたのである。この二人の人物はおのおの、反対派の陣営から怪物あつかいされていた。それは、グランヴィルにいるプリウール・ド・ラ・マルヌがラントナックの首に賞金をかけると、ノワルムーティエにいるシャレットがシムールダンの首に賞金をかけるという、奇妙な事実がおこってくるまでに高じていたのである。
さらにつけくわえて言っておくと、片や侯爵、片や僧侶の、この二人の人物は、ある程度までは同じような人物だったのである。内乱という青銅の仮面はふたつの横顔をもっていて、そのいっぽうは過去に向けられ、もういっぽうは未来に向けられていたけれども、両者とも同じように悲劇的だった。ラントナックは前者の横顔、シムールダンは後者の横顔をもっていたのだが、ただ、ラントナックのくちびるをゆがめた苦い笑いが影と夜におおわれていたのに対し、シムールダンの不吉なひたいには夜明けの光がきらめいていた、というところだけがちがっていた。
さて、包囲されたラ・トゥールグ城は猶予《ゆうよ》をあたえられていた。前に読者も見られたとおり、ゴーヴァンの仲裁のおかげで、二十四時間の一種の休戦がきめられたのだった。
その上、イマーニュスは敵のことをよく知っていた。というのも、シムールダンがたびたびおこなった徴発のおかげで、そのときゴーヴァンは四千五百の兵員を指揮下におき、この国民軍と第一線部隊とで編成された軍勢でラントナックをラ・トゥールグにかこんでしまっていたのだ。さらに、十二門の砲がこの城砦に向けてねらいをつけられるようになっていた。十二門の砲のうち六門を塔側の森のはずれに砲座を地中に埋めてすえつけ、あとの六門を橋側の台地の上に砲座を高くしてすえつけた。それに彼は地雷を爆発させることができたので、塔の足もとに突破口をあけることができた。
こうして、二十四時間の休戦が終わってしまうと同時に、次のような状況のもとに、戦闘が開始されることになっていた。
すなわち、台地の上と森の中には四千五百の軍勢が待機していた。
塔の中には十九名の人間がたてこもっていた。
この包囲された十九名の人間の名前は、歴史上、法律に保護されない罪人名簿の中に見いだされるだろう。われわれも、また、彼らの名前にであうことになるだろう。
ほとんど一軍団と呼んでもいいような、この四千五百の大軍を指揮するため、シムールダンはゴーヴァンにこの軍勢の副指揮官の任務を受けさせたいと思った。しかし、ゴーヴァンはこの申し出をこばんで、こう言った。
「ラントナックをとらえたあかつきに、またお話をうかがいましょう。わたしはまだ、そんな名誉に値する手柄をひとつもたてておりません」
こうした低い階級のものが大軍の指揮官になるということは、共和政府時代のならわしだった。のちほど、ナポレオン・ボナパルトは砲兵隊の一隊長にすぎなかった同じ時代に、イタリヤ遠征軍の総司令官になった。
ゴーヴァン塔はふしぎな運命をになうことになった。つまり、ひとりのゴーヴァン家出身者がこれを攻め、また別の王家出身者がこれを守ることになったのである。そこで、攻撃するほうは幾分かひかえめだったが、守るほうには、そういう気持はひとつもなかった。なぜなら、もともとラントナック侯爵はことにあたって苛責《かしゃく》のない人だったし、それに、たいていヴェルサイユに住んでいて、ほとんど知るところのないラ・トゥールグに対しては盲目的な愛情など少しもいだいていなかったからだ。ほかにかくれ家《が》とてもっていなかったので、ここに避難してきたというだけのことだった。だから、こんな塔など、なさけ容赦もなく破壊したってよかったのだ。しかし、ゴーヴァンのほうは、この塔をもっと尊敬していた。
この城砦の弱点は橋だったが、その橋の上にある図書室には一族の古文書がしまってあった。
もし、ここに向かって攻撃がくわえられたら、橋が火災をおこすのはさけられないだろう。そして、ゴーヴァンにはこうした古文書をやくことは、すなわち祖先を攻撃するような気がしたのだ。ラ・トゥールグはゴーヴァン家一族の館だった。フランスの全封建領地が、ルーヴルの塔に隷属《れいぞく》していたように、ブルターニュの全封建領地はこの塔に隷属していた。この塔の中には、さまざまなゴーヴァン家の家族の思い出が残っていたし、ゴーヴァン自身、この塔で生まれたのだ。それなのに、人生の陰険な宿命が彼をみちびいて、子どもの彼を守ってくれたこの尊敬すべき城壁を攻撃させようとしているのだった。そういう塔を灰にしてしまうほど不孝ものになってよいのだろうか? おそらく、ゴーヴァン自身が寝かされたゆりかごだって、今でも図書室の物置きの片隅においてあるだろう。ある種の思いにふけるということは感動するということである。ゴーヴァンは、この自分の一族の古い館を目の前にして、深く心を動かされていた。これこそ、彼が橋は見のがそうと思っていた理由である。彼は敵がこの出口からは一切うってでたり脱出したりできないように、この橋を制圧するだけにしておいたのである。それからは彼は攻撃する場所として反対側をえらんでいた。このため、塔の足もとに地雷をしかけ、導火のうを埋めるみぞを掘ったのである。
シムールダンはゴーヴァンをすきなようにさせておいたが、心の中では自分をとがめていた。なぜなら、彼はそのきびしい心のゆえに、この古びたゴティック様式の建物全体を前にして、眉をひそめていたからだ。彼は人間に対するのと同じように、建築物に対しても寛大な気持などもとうとは思わなかった。城をいたわるということは、とりもなおさず寛大のはじまりである。ところが、寛大こそは、ゴーヴァンの弱い側面だった。読者もご承知のように、シムールダンはゴーヴァンを監視し、自分の目には不吉だと見えるこの寛容の坂道にゴーヴァンがさしかかろうとするのを引きとめた。しかしながら、シムールダン自身だって、一種の怒りをもって告白しないわけにはいかなかったが、このラ・トゥールグと再会したとき、ひそかなおののきを感じないわけにはいかなかった。彼はかつてゴーヴァンに最初に読ませた書物が置いてある勉強べやを前にして、いたく心を動かされた。そのころ、シムールダンは隣村パリニェの主任司祭をつとめていた。そのむかし、シムールダン自身も、あの橋城の屋根裏べやに住んだことがあったのだ。小さいゴーヴァンを膝のあいだにすわらせながらアルファベットを読んでやったのは、あの図書室の中だった。彼の最愛の弟子、魂の息子が大きく育ち、精神を成長させていくのをながめたのは、あの四つの古い壁にかこまれた部屋だった。あの図書室、あの橋城、あの幼児に対する祝福にみちみちている壁、こういったものを、今、彼は攻撃し、やき払おうとしているのだろうか?
とうとう、シムールダンも、こうしたものだけはゆるすことにした。もちろん、自分の気持をしきりにとがめながら。
こうして、彼はゴーヴァンが塔の反対側から包囲攻撃の口火を切ろうとするにまかせておいた。ラ・トゥールグは塔という野性的な面と、図書室という文化的な面とをもっていた。そこでシムールダンはゴーヴァンに、野性的な面だけに突破口をひらくことをゆるしたのだった。
その上、この古い館《やかた》は、ひとりのゴーヴァン家出身者によって攻撃され、同じくひとりのゴーヴァン家出身者によって守られたことで、フランス大革命のまっさいちゅうに、その封建時代のころのならわしを再現したのだった。つまり、親戚間の戦いは中世の歴史全体のならわしだったのである。エテオクレスやポリシュネイケス〔ギリシア神話にでてくる兄弟で、仲たがいして戦う〕などという連中は、ギリシア人ばかりかゴート人の中にもいたのだ。ハムレットがエルシノア城でおこなったことは、それ以前すでに、オレステスがアルゴスでおこなったことと同じことだったのである。
十二 救出が計画される
その夜、両軍はまるひと晩かけて戦闘準備をした。
さきに読者も読まれたような絶望的な談判が終わるとすぐ、ゴーヴァンは、副官を手もとに呼んだ。
ここで副官のゲシャンという男を多少とも知っておかなければならないが、彼は正直で、大胆で、平凡で、優秀な指揮官というより優秀な兵士で、非常にものわかりのよい男であるけれども、結局、二流の人物だった。そのものわかりのよい点は、もうそれ以上わかってはならないのが義務だと思えば、それからさきはわかろうとしないくらいだった。それから、ものごとに感動するなどということはなく、金銭のために良心を売ることであれ、憐憫《れんびん》から正義を堕落させることであれ、堕落と名のつくものは一切がっさい受けつけない男だった。彼は魂と心に、規律に服することと命令に従うことという二つの日よけをかぶせていて、まるで目庇《まびさし》をつけられた馬みたいに、自由に見える前方の空間だけ見ながら進んでいるようだった。まっすぐ前方に進むことはできたが、その道はせまかったのである。
その上、安心して頼れる男で、指揮をとるにあたってはきびしく、命令に服するのにも厳正だった。
ゴーヴァンはゲシャンにせかせかと話しかけた。
「ゲシャン、梯子《はしご》をひとつもってきてくれ」
「隊長、隊には梯子などありません」
「どうしてもひとつ必要なんだ」
「梯子をかけて攻撃するんですか?」
「いや、救出に使うのだ」
ゲシャンはちょっと考えてから、答えた。
「わかりました。でも、救出用だと、ずっと長い梯子じゃないとだめです」
「少くとも三階にとどくくらい長いやつが必要だ」
「はい、隊長。それに近いくらいの高さはいりますね」
「いや、それ以上に高いのが必要だ。確実に成功しなければならんからな」
「そうですね」
「どうして、隊には梯子がないのか?」
「隊長、隊長はラ・トゥールグを台地側から攻撃したほうがよいとは判断されませんでした。台地側は封鎖するだけで満足されました。橋のほうからでなく塔のほうから攻撃しようとされました。だから、味方は地雷のことにばかり夢中になって、梯子をよじのぼって攻撃することはあきらめてしまったのです。それで、梯子をもっていないんです」
「ただちに、梯子をひとつ作らせよ」
「三階にとどくほど長い梯子なんて、簡単には作れません」
「みじかい梯子をいくつもつなぎあわせて作ればよい」
「そのみじかい梯子がなければだめです」
「どこかで見つけてこい」
「それはちょっと見つからんでしょう。どこへいっても、百姓たちは梯子をこわしてしまいました。荷車をこわしたり橋を落としたりしたのと同じです」
「やつらは共和国の足を不随にしてしまおうという気だな、きっとそうだ」
「やつらは、われわれが荷物を運ぶことも、河をわたることも、壁をよじのぼることもできぬようにしたがっているのです」
「しかし、おれは梯子がひとつどうしてもいるのだ」
「あ、隊長、フージェールの近くのジャヴネに大きな大工屋がありました。あそこへいけば、ひとつくらいあるかも知れません」
「一刻もむだにできんのだ」
「梯子はいつまでに必要ですか?」
「おそくとも、あすの今じぶんまでにいる」
「ジャヴネへ至急便を送りましょう。徴発命令をもたせましょう。ジャヴネには騎兵隊駐屯所がありますから、それに至急便を護衛させましょう。梯子はあすの日没前にここへとどくと思います」
「よし、それでいいだろう」と、ゴーヴァンが言った。「さあ、早くやってくれ」
十分後に、ゲシャンがもどってきてゴーヴァンに言った。
「隊長、至急便はジャヴネに向けて出発しました」
ゴーヴァンは台地の上にのぼると、長いあいだ、掘れみぞのかなたの橋城にじっと目をこらした。跳開橋をあげてしまえばとざされてしまう低い入口のほかは入口がひとつもない橋城の切妻は、掘れみぞからそそり立つ急斜面と向かいあっていた。台地から橋台の根もとまでいこうとすると、この急斜面にそっておりていかなければならなかったが、それは不可能なことではなく、しげみからしげみへと一歩一歩おりていけば、いけないことはなかった。しかし、いざ掘れみぞの中におりれば、攻撃者は三階から雨のように撃ちだす弾丸を全部かぶってしまうだろう。そこでゴーヴァンは、現在の包囲状態でいるかぎり、もっとも着実な攻撃は塔の裂け目をつく攻撃である、と納得した。
敵がひとりもにげられないようにしようと、彼はありとあらゆる方法を考えた。そして、ラ・トゥールグの厳重な包囲をいっそうきびしくするとともに、各大隊の網の目をさらにちぢめて、なにものも通行できぬようにした。ゴーヴァンとシムールダンは手わけして城砦《じょうさい》包囲の作業を指揮した。すなわち、ゴーヴァンみずからは森の側を受けもち、シムールダンには台地のほうを受けもってもらうことにした。さらに次のようなことがとりきめられた。つまり、ゴーヴァンがゲシャンに手伝ってもらって地雷による攻撃を指揮するあいだに、シムールダンのほうが、台地にすえつけた砲座の火なわ全部に火をつけて、橋と掘れみぞを監視する、ということだった。
十三 侯爵がしたこと
塔のそとですべての攻撃の用意がととのえられているいっぽう、塔の中ではこの攻撃に抵抗する用意がおこなわれていた。
塔がときに樽《ドゥーヴ》と呼ばれることには、一種の類推がないわけではなく、ちょうど樽がのみで穴をあけられるように、ときに塔は地雷をしかけられて穴をあけられることがあるものだ。城壁も樽のせんのように穴をあけられるのだ。そして、ラ・トゥールグにも、これと同じことがおこった。二カントーもしくは三カントーの火薬による強力な鑿《のみ》の打撃力は、巨大な城壁をつらぬいて穴をうがった。この穴は塔の根もとからあけられはじめ、城壁のいちばん厚いところをつき通し、いびつなアーチ型をえがいて、城砦の一階までのびていた。そとの攻囲軍は、この穴を通って中へ侵入できるように、大砲の弾丸で穴を大きくしたり、手いれをしたりした。
この裂け目が通じている一階は、なにも置いていないまるい大広間で、アーチの頂上のかなめ石をささえる柱が中央に立っていた。この広間は城塔随一の広い部屋で、直径が少なくとも四十フィートはあった。塔の各階はこの部屋と似たりよったりの部屋から構成されていたが、みんな、この部屋より大きくはなく、銃眼用に作ってあるくぼみの中にいくつかの小べやをもっていた。一階の部屋には銃眼も、換気窓も、あかりとりもついていなかった。それで墓の中くらいにしか日がささなかったし、空気も少なかった。
地下牢のとびらは、木よりも鉄をおおく使って作られてあり、一階の広間についていた。この広間のもうひとつ別のとびらは、上の階の各部屋に通じている階段に向かってひらいていた。階段はみな、厚い壁の中につけられてあった。
攻囲軍が地雷であけた裂け目から近づけるチャンスのあるのは、この一階の広間だった。しかし、この広間が敵の手に落ちても、まだ塔そのものは大丈夫だった。この一階の広間はとても呼吸などできぬような部屋だった。この中に一日いたら、たちまち窒息してしまう。しかし、今は、裂け目のおかげで、この部屋の中でも息をすることができた。
これが攻囲軍がこの裂け目をふさがなかったわけである。それに、ふさいだとしても、なんの役に立つと言うのだろう? たちまち大砲がまた穴をあけてしまうだろう。
防ぐほうは城壁に鉄製の大燭台をさしこみ、そこに松明《たいまつ》を立てた。それで一階の部屋が明るくなった。
さて、どういう方法で防備の陣をかためたらよいのだろうか?
裂け目をふさぐのは容易なことだったが、そんなことをしてもむだだった。それよりも後陣《ルティラード》をかためたほうが有効だった。後陣《ルティラード》というのは、へこんだ角度に作られた陣地の一種で、垂木《たるき》を組んで作ったバリケードみたいなものだった。このバリケードから攻撃者たちに銃火を集中できるようになっていて、裂け目の外側は敵に向かってひらいたままだが、内側からこれにせんをこんでしまえるという効果をもっていた。防備軍は資材に不足していなかったので、この後陣《ルティラード》をひとつ構築し、弾丸を撃ちだせるだけの穴をあちこちにあけた。この後陣《ルティラード》の角は広間の中央に立っている柱にくっつき、その両翼は両側の壁に触れていた。この作業が終わると、次に適当な場所をえらんで地雷をしかけた。
侯爵がこうした準備一切を指揮した。彼は計画者であり、指導者であり、案内人であり、先生であった。実におそろしい人物と言うべきである。
ラントナックは、あの八十歳の老体をひっさげて、ほうぼうの都市を助けた十八世紀の武人の流れをくむ人物だった。また、あのスウェーデンの将軍アルベルク伯爵に似ていた。これは百歳近い年齢でありながら、ポーランド王をリガから追いだした人物だった。
「諸君、勇気をだせ」と、侯爵は言った。「今世紀初めの一七一三年、ベンデルで、カルル十二世は一軒家にたてこもり、三百人のスウェーデン人の先頭にたって、二万人のトルコ兵と戦ったのだぞ」
下から二階までバリケードを組み、各部屋の防備を強化し、部屋の壁のくぼみに穴をあけて銃眼とし、なん本もの梁《はり》を大づちでとびらにうちこんで、大きなつっかい棒のようにした。ただ、すべての階を連絡させている螺旋《らせん》階段だけはそのままにしておかなければならなかった。それは、この階段によって各階を自由に走りまわるようにしておく必要があったからだ。それから、なにかを置いて攻囲軍の攻撃をはばもうとすると、それは立てこもる側にとってもじゃまになった。こういう場所を防備するとなると、いつもこうした弱点がつきまとうものである。
青年のようにたくましく、疲れを知らない侯爵は、大梁をもちあげたり、石を運んだりして全員に範をたれて、仕事にとりかかり、あるいは命令し、あるいは助け、あるいは兄弟のようにしたしく手つだい、あるいは配下のおそるべきともがらと笑いあったが、それでもやはり、いたけだかで、気やすく、優雅で、おそろしい侯爵であることには変わりなかった。
彼の言うことに口答えしてはいけなかった。彼はこう言ったものだ。
『もしおまえたちの半分が反逆したら、残りの半分におまえたちを銃殺させ、残りの半分といっしょに、ここを守りぬくぞ』と。
このような言葉をきけば、だれも指揮官を尊敬するものである。
十四 イマーニュスがしたこと
侯爵が裂け目と塔の防備に専心しているあいだに、イマーニュスは橋のほうの防備に一所懸命になっていた。敵の包囲攻撃がはじまったら、二階の窓の外側に斜めにつるしてある梯子《はしご》は、侯爵の命令で中へひっこめられ、イマーニュスの手で図書室の中へいれられた。おそらく、ゴーヴァンが用意したいと思ったのは、このような梯子だったのだろう。≪防備の間≫と呼ばれている中二階の窓という窓は、石の中にはめこんだ三重に組んだ鉄格子でふさいであったから、ここから出たりはいったりすることは不可能だった。
図書室の窓という窓には格子がひとつもはまっていなかったが、窓は全部高いところについていた。
イマーニュスは、彼自身と同じように、なんでもできればなににでも決断力のある三人の男を従えていた。その三人とは、≪|金の枝《ブランシュ・ドール》≫と言われたオワナールと、≪|木の槍(ピック==アン=ボワ)≫と言う二人の兄弟だった。イマーニュスは重いカンテラをつかんで、鉄のとびらをひらくと、橋城の三つの階を細かく見てまわった。≪|金の枝(ブランシュ=ドール)≫のオワナールは、兄弟をひとり共和政府に殺されていたから、イマーニュスと同様、執念深い憎しみを燃やしていた。
イマーニュスは乾草とわらがいっぱい積んである三階をしらべ終わると、次に中二階へいき、そこへ照明|鉢《ばち》をいくつかもってきて、これをタールがはいっている大樽のそばに置き、さらにヒースの束の山をタールの大樽にくっつけさせてから、その端のひとつが橋城につながり、もうひとつが塔につながっている硫黄《いおう》をぬった火なわのぐあいがよいかどうか確かめた。それから彼はタールの大樽とヒースの山の下の床にどろどろしたタールを流し、その中に硫黄をぬった火なわのはしをひたした。次には、タールの樽が置いてある中二階とわらが置いてある屋根裏べやとのあいだにある図書室に、ルネ=ジャンとグロ=ザランとジョルジェットがその中で眠りこんでいる三つのゆりかごをもってこさせた。三人の子どもたちの眠りをさまさないように、ゆりかごは静かに部屋の中へいれられた。
それは単純な田舎《いなか》ふうのまぐさおけみたいなゆりかごで、そのままじかに地面におくようになっている。非常に丈《たけ》の低いあみかごみたいなものだった。これだったら、子どもたちも助けをかりずにひとりで出ることができた。イマーニュスは、各ゆりかごのかたわらに、木のスプーンをそえたスープの鉢をひとつずつ置かせた。かぎからはずされた救助用の梯子は床の上にもたせかけて置いてあった。イマーニュスは、三つのゆりかごを、梯子がもたせかけてあるのとは反対の壁にそって、はしとはしをくっつけて並べさせた。それから、よく空気がいれかわるように、図書室についている六つの大窓を全部あけた。そとは青くすんで、しっとりとした、夏の夜だった。
イマーニュスは≪|木の槍《ピック・アン・ボワ》≫の兄弟に三階と中二階をあけにいかせた。この建物の東面には、枯れて火口色をしたキヅタの老大木が橋城のこの側に上から下まで一面にまつわりつき、三つの窓を額縁のようにふちどっているのに、イマーニュスは気がついた。しかし、このキヅタはなんの障害にもなるまいと思った。最後にイマーニュスはあちこちをもう一度ながめてみた。それが終わると、四人の男は橋城をでて塔にもどった。イマーニュスは重い鉄のとびらを二重に錠をおろして閉じると、その巨大でおそろしげな錠前を注意深くしらべた。次に、彼の手であけられた穴をくぐっている硫黄をぬった火なわを、満足そうにうなずきながら点検した。それ以後は、この硫黄をぬった火なわが、塔と橋城を結ぶたった一本の連絡線になるのだ。この火なわはまるい部屋からぬけだして、鉄のとびらの穴をくぐり、アーチ型をした玄関の下にはいりこみ、それから橋城の中二階へ通じる階段にそってくだり、螺旋《らせん》階段を蛇のようにくねっており、中二階の廊下の床の上をはい、最後に乾草の山の下に流れているタールのたまりにとどいていた。イマーニュスの計算だと、この火なわが塔の内部で火をつけられてから、図書室の下の部屋に置いてあるタールのたまりに燃えうつるまでには、約十五分かかるはずだった。
こうしたさまざまの準備も全部終わり、点検もすべて終わってしまうと、彼は鉄のとびらの鍵をラントナック侯爵に手渡しにいった。侯爵は鍵を受けとってポケットにいれた。
今や重要なことは、攻囲軍の動きをすべて監視することだった。イマーニュスは牛かい用のラッパを帯にさして、塔のてっぺんの屋上にある物見やぐらへ見はりにいった。片方の目で森を、もういっぽうの目で台地をというぐあいに、あたりをくまなくながめながら、彼はかたわらに、ということは物見やぐらの天窓になっている穴の中に、火薬びんと霰弾《さんだん》がいっぱいはいっている麻ぶくろと古新聞を置くと、その古新聞をやぶって、薬包を作った。
太陽が現われると、日の光が、サーベルを腰につけ、弾薬いれを背負い、銃には剣を着けて、突撃態勢を見せている八個大隊を、森の中に照らしだした。台地の上には、砲兵隊が弾薬車と薬包と弾丸箱といっしょに待ちかまえていた。城砦の中では、十九名の男たちが、広口ラッパ銃、マスケット銃、ピストル、ラッパ銃に弾丸をこめて待機していた。そして、三つのゆりかごの中では三人の子どもたちが眠りこんでいた。
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第三編 聖《サン》バルテルミーの大虐殺
(一)
子どもたちが目をさました。
最初に目をさましたのは女の子だった。
子どもの目ざめは、花がひらくようなもので、子どもたちの新鮮な魂からは、かぐわしいかおりがただよってくるようだ。
ジョルジョットは、生まれてまだ一年八カ月、三人のうちではいちばん年下で、五月にはまだ乳を吸っていたのだが、目ざめると、その小さな頭をあげ、ゆりかごの上におきあがって、自分の足をながめてから、なにかしゃべりはじめた。
朝の光が彼女のゆりかごを照らしていたが、ジョルジェットの足と夜明けの光と、どちらがよけいにばら色なのかを言うことはむずかしかったろう。
ほかの二人の子どもはまだ眠っていた。つまり男たちのほうが女たちよりにぶいものである。ジョルジェットは、はればれと静かにしゃべっていた。
ルネ=ジャンは茶色の髪の毛、グロ=ザランは栗色の髪の毛、ジョルジェットは金髪《ブロンド》をしていた。この髪の毛の色あいというものは、子どもの時代には年齢とうまく合致しているのだが、成長するにつれてかわることがある。ルネ=ジャンは小さなヘラクレスみたいなようすをして、両手のこぶしを目にあてて、うつぶせになって眠っていた。グロ=ザランは両足を小さなベッドのそとにつきだしていた。
三人ともぼろを着ていたが、それは、赤帽大隊《ボネ・ルージュ》にもらった衣服がぼろぼろになってしまったもので、今、子どもたちが着ているものは、とてもシャツなどというものではなかった。二人の男の子はほとんどまっぱだかだった。ジョルジェットのほうは、もとはスカートだったのだが、今はもう胴着みたいになってしまっているぼろ着を、妙なかっこうに着せられていた。
ところで、いったいだれが、この子どもたちのせわをしていたのだろう?
それは、だれにも言えなかっただろう。彼らには母親がいなかったのだ。野蛮な百姓たちが、あちこち転戦しながら、子どもたちを森から森へとひっぱりまわして、スープをあたえていたのだった。それだけだった。それでも、子どもたちは、なんとか自分たちでできるだけのことはしてきたのだ。子どもたちにとって、まわりの百姓たちはみんな主人であったが、子どもたちの父親になってやるものはひとりもいなかった。しかし、たとえぼろをまとっていても子どもたちは明るい光にみちているものだ。三人の子どもたちはとても愛くるしかった。
ジョルジェットはまだしゃべっていた。子どもは小鳥がうたうことを口でしゃべる。それは同じ賛歌である。はっきり意味がわからない、口ごもるような、それでいて深い意味をもっている賛歌なのだ。
しかし、子どもは小鳥とはちがって、目の前に暗い人間の運命をもっている。そこで、子どもたちが歌うのに耳かたむける大人たちは、子どもたちの歌をきいて、悲しみにおそわれるのである。この世できくことができるいちばん崇高な聖歌というのは、子どもの口先からもれる人間の魂の片言《かたこと》なのである。まだひとつの本能にしかすぎない子どもの思考の漠然としたつぶやきは、永遠の正義に呼びかける無意識の呼び声みたいなものを含んでいるが、それは多分、これから人生の中にはいっていこうとするものが、人生のきざはしの上でもらす抗議の声なのだろう。それはつつましやかで悲痛な抗議の声である。こうしたなにも知らない子どもの心は、永遠に向かって笑いかけながら、やがてはかなく無防備なものとされる運命の中で、あらゆる創造物を危険な目にさらすのだ。もし、この子どもが不幸にでもなると、この子どもは人の世の信頼を悪用することになろう。
子どものつぶやきは、言葉以上のものであると同時にそれ以下のものである。そのつぶやきは音符のない歌であり、音綴《シラブル》のない言語である。このつぶやきは、そのみなもとを天国に発しているが、この地上で終わるものではないだろう。それは人間の誕生以前に存在していたのであり、いつまでもつづき、永遠に継続していくものである。このかたことは、子どもが天使だったころに口にしたことと、その子どもが大人になったときに口にするであろうこととからなりたっている。墓が≪明日≫をもっているように、ゆりかごもまた≪昨日≫をもっている。この≪明日≫と≪昨日≫とは、こうした暗いつぶやきの中で、その二重の未知を混じりあわせるのである。そして、このばら色の魂の中のおそるべき影ほど、神や、永遠や、責任や、運命の二元性を証明するものはないのである。
ジョルジェットはかたことでしゃべっていたが、そのために悲しくなるようなことはなかった。その美しい顔はほほえみにみちみちていたからだ。口も笑っていた。目も笑っていた。両ほおのえくぼも笑っていた。このほほえみからは、朝を歓迎しようというふしぎなよろこびが発散していた。人の魂は太陽の光を信頼するものである。空は青くすみ、暑かったが、美しい日だった。ひよわな創造物である女の子は、なにも知らず、なにも理解せず、なにもわからず、夢の中にやわらかにひたされ、正直な大木、まじめな緑、清くおだやかな平野、鳥の巣や泉やはえや木の葉の音など、大自然の中につつみこまれて安心していた。これら自然の頭上には、広大な純潔にあふれた太陽が光りかがやいていた。
ジョルジェットのあとに、四歳をすぎていちばん年上のルネ=ジャンが目をさました。おきてたちあがると、ゆりかごを男らしくまたいで、自分のスープ鉢をみつけると、たいして考えもしないで、床にすわりこんでスープをたべはじめた。
ジョルジェットのおしゃべりも、グロ=ザランだけはおこせなかったが、それでも、さじがスープ鉢にあたる音をきくと、グロ=ザランはとびあがるように寝がえりをうって目をさました。
グロ=ザランは三歳になる男の子だった。彼は自分のスープ鉢を目にすると、片腕を伸ばせばとれるところにあったので、すぐ手をだしてそれをとり、ゆりかごからでないで、スープ鉢をひざの上にかかえ、片手でさじをつかんで、ルネ=ジャンと同じようにたべはじめた。
ジョルジェットは二人の兄がたべる音はきいていなかった。彼女の声の抑揚《よくよう》は、やさしく揺れる夢を歌っているようだった。その大きく見ひらいた目は高いところにそそがれ、こうごうしい光をはなっていた。頭上にある天井やドームがどんなものであっても、子どもの両眼にはいつも大空がうつるものなのである。
ルネ=ジャンはたべ終わると、さじでスープ鉢の底をひっかいて溜息をつき、それからいばったようにこう言った。
「おれはスープをくっちまった」
この声がジョルジェットを夢からさました。
「プープープ」と、彼女が言った。
それから、ルネ=ジャンがスープをたべ終わり、グロ=ザランがまだたべているのを目にすると、自分のそばにあるスープ鉢を手にとってたべはじめた。しかし、彼女はどうしてもさじを口よりも耳のほうにもっていく度数が多かった。
ときどき、彼女はこのさじという文明の利器を使うのをあきらめて、鉢に指をつっこんでたべていた。
グロ=ザランは兄のように鉢の底をさじでひっかいてから兄のところにいこうととびだし、そのあとを追いかけた。
(二)
とつぜん、塔の外の下のほう、つまり森のほうから、軍用ラッパのひびきがきこえてきた。それはファンファーレのように傲慢《ごうまん》でいかめしい音だった。それから、この軍用ラッパに対して、塔のてっぺんから猟用ラッパの音がひびいてきた。
こんどは、軍用ラッパが猟用ラッパに呼びかけ、これに猟用ラッパが答えたのである。
もう一度軍用ラッパがなりわたると、またすぐに猟用ラッパが答えた。
それから、森のはずれから、遠いけれどもしっかりした声が、はっきりと、こう叫んだ。
「山賊ども! 降服しろ! 夕方までに無条件降服をしないと、われわれは攻撃するぞ」
すると、塔の屋上から、雷鳴にもまごう声がおこって、こう答えた。
「攻撃するがよいぞ」
また下の声がこう言った。
「攻撃三十分前に、最後の勧告として、大砲を一発ぶっぱなすぞ」
すると、上の声が、こうくりかえした。
「攻撃するがよいぞ」
この二つの大声は子どもたちのところまではとどかなかったが、軍用ラッパと猟用ラッパの音のほうは、もっと高くもっと遠いところまでとどいた。そこで、ジョルジェットは、最初の軍用ラッパがきこえると同時に首をもちあげ、スープをたべるのをやめた。次に猟用ラッパがきこえると、さじをスープ鉢の中に置いた。二度めの軍用ラッパで、彼女は右手の小さな人さし指をあげると、それを交互にさげたりあげたりしながら、ファンファーレの抑揚《よくよう》の拍子をとった。二度めの猟用ラッパがこのファンファーレの終わりを長く引きのばした。軍用ラッパと猟用ラッパの音がやんだとき、ジョルジェットは指先を宙に浮かせたまま、なにか考えこんでいたが、やがて小声でこうつぶやいた。「ミジック」と。
彼女はきっと「音楽《ミュージック》」と言いたかったのだろうと思う。
二人の兄、ルネ=ジャンとグロ=ザランは軍用ラッパにも猟用ラッパにも気をとめていなかった。二人はほかのことに夢中になっていた。一ぴきのわらじ虫が図書室を横断しているさいちゅうだったのだ。
それをグロ=ザランが見つけて叫んだ。
「けものだ」
ルネ=ジャンがかけつけてきた。グロ=ザランがもう一度言った。
「これは刺すぞ」
「いじめちゃだめだぞ」と、ルネ=ジャンが言った。
それから二人とも、この通行人をながめはじめた。
そのあいだに、ジョルジェットはスープをのみ終わって、目で二人の兄たちをさがした。
ルネ=ジャンとグロ=ザランは窓のところについている銃眼の中にはいってうずくまり、くそまじめな顔をしてわらじ虫をながめていた。二人はひたいとひたいをつきあわせ、髪の毛をまじりあわせていた。彼らは感嘆してしまって息を殺し、虫をじっと見つめていた。虫はこれほど感嘆されても、さほど満足したようすも見せず、立ちどまったまま、じっとしていた。
ジョルジェットは、兄たちがなにかに目をこらしているのを見て、それがなんなのか知りたくなった。兄たちのところへいくのはらくではなかったが、それでも彼女はなんとかやってみようと思った。兄たちのところへいくとちゅうには、あちこちに障害物がちらばっていた。床の上には、ひっくりかえった足台、ほご紙のかたまり、ふたのないから箱、ながもち、なにかわけのわからないものの山などがちらかり、そういうものをよけていかなければならなかった。まるで危険な暗礁が点在しているみたいだった。
しかしジョルジェットは思いきってやってみた。
彼女はまずゆりかごからでた。これが第一の仕事だった。それから彼女は暗礁の中に足をふみいれ、海峡の中をくねくねと進み、足台をおしやり、二つの大きな箱のあいだをはい、それから紙のたばを、片がわからよじのぼり、小さなしりをまるだしにして反対側へころがり落ちて越えて、やっと、船乗りたちが外海と呼ぶところにたどりついた。外海とはつまり、もう障害物もなければ危険もない、かなりひろい床の部分で、そこについたのだ。
それから彼女はとびかかるようにこの部屋のさしわたしくらいあるひろい床を、よつんばいになって、ねこのようにすばやく横切った。そして窓のそばにたどりついたが、そこにもまたおそろしい障害物が横たわっていた。例の城壁にそって斜めにつってあった梯子のはしが、この窓のところまできていて、銃眼の片隅から少し突きでていたのだ。それは、ジョルジェットと二人の兄とのあいだをさえぎる岬みたいになっていて、なんとかこの岬を乗りこえなければならなかった。
ジョルジェットはとまって考えこんでしまった。やがて、胸の中でつぶやいていたひとり言を言い終わると、決心した。彼女は勇敢にもばら色の指で梯子の横木をひとつつかんだ。梯子はたて木の片方を下にして横にしてあったから、横木は水平でなくて垂直になっていた。彼女は両足をふんばって立ちあがろうとしたが、たおれてしまった。もう一度立ちあがろうとしたが、これも失敗してしまった。三度めにやっと成功した。そこで、まっすぐに立ちあがると、梯子の横木をつぎつぎににぎりながら、梯子にそって歩きはじめた。梯子のはしにたどりつくと、もうよりかかるものがなくなってしまったので、よろけたが、小さな両手で巨大な横木のはしをつかまえながら、もう一度立ちあがると、岬の反対側へまわった。そして、ルネ=ジャンとグロ=ザランを見て笑った。
(三)
このとき、ルネ=ジャンがわらじ虫の観察に満足して、首をあげて、こう言った。
「これはめすだよ」
ジョルジェットが笑ったので、それにさそわれてルネ=ジャンも笑い、そのルネ=ジャンの笑いにつられてグロ=ザランも笑った。
ジョルジェットが二人の兄たちと合流することに成功したので、そこに床にすわった小さな会合ができあがった。
しかし、わらじ虫はもう消えてしまっていた。ジョルジェットが笑っているすきに、床の穴にでももぐりこんでしまったのだ。
ところが、このわらじ虫に引きつづいて、いろいろなことがおきた。
まず第一に、ツバメがなん羽も通りすぎた。
ツバメたちの巣は多分、軒下にあったのだろう。ツバメたちは、ちょっと子どもたちをこわがってはいたが、空に大きな輪をいくつも描き、やさしい春の叫び声をあげながら、窓のすぐ間近までとんできた。そのため三人の子どもたちは目をあげて、そのツバメたちをながめ、おかげでわらじ虫のことは忘れてしまった。
ジョルジェットがツバメたちを指さしながら、叫び声をあげた。
「こっこ!」
すると、ルネ=ジャンが彼女に注意した。
「こっこじゃないよ、おまえ。ゾゾーって言うんだよ」
「ゾゾー」と、ジョルジェットが言った。
そして、三人の子どもはツバメをながめた。
つぎに、みつばちが一ぴきとびこんできた。
みつばちほど魂に似ているものはこの世にない。魂が星から星へとびうつるように、みつばちも花から花へとびまわる。そして魂が光をもち運ぶように、みつばちはみつをもち運ぶのだ。
みつばちははいってくるとき大きな音をたて、大きな声でぶんぶんうなっていた。まるで、こんなふうに言っているようだった。
『ぼく、やってきましたよ。さっき、ばらさんに会ってきたんですが、こんどは子どもさんたちに会いにきました。みなさんはここで、なにをしているんですか?』
みつばちは家政婦みたいで、うたいながら小言《こごと》をつぶやく。
そこにみつばちがいるあいだ、三人の子どもたちは、それから目をはなさなかった。
みつばちは図書室の中をすみからすみまで探検した。あちこちのすみをさぐりまわり、まるで自分の家にでもいるみたいに気安くとびまわり、羽で美しい旋律《せんりつ》をかなでながら、書棚から書棚をさまよった。そうしてとびながら、まるで精神をもっているみたいに、書棚のガラスごしに、本の表題をひとつひとつながめるのだった。
やがてみつばちは訪問を終えて、出ていってしまった。
「みつばちは自分の家へかえるんだよ」と、ルネ=ジャンが言った。
「あれは動物だ」と、グロ=ザランが言った。
「ちがう」と、ルネ=ジャンがもう一度言った。「あれは|はえ《ムーシュ》だよ」
「ミュシュ」と、ジョルジェットが言った。
やがて、グロ=ザランが、はしが結んであるひもを一本、床の上で見つけて、そのもう一方のはしを親指と人さし指でつまむと、ひもを小さな風車みたいにまわして、そのまわるさまを、真剣な顔でながめた。
一方、ジョルジェットは、またよつんばいにもどると、床の上をあちこち気まぐれにはいまわっていたが、そのうちに、虫にくわれて、あちこちの穴から中身の毛がでている、つづれ張りの結構なひじかけいすを見つけだした。彼女はこのひじかけいすのそばでとまった。そして、穴を大きくひろげると、もうわき目もふらずに、中身の毛をひっぱりだした。
とつぜん、彼女が指を一本あげた。それは、「きいてごらん」と言おうとしているのだった。
二人の兄がふり向いた。
そとから、遠くかすかな物音がきこえてきた。それは多分、森の中でなにか戦略上の動きをおこしている攻撃軍がたてる物音だろう。馬がいななき、たいこが鳴りひびき、弾薬車の車輪がごう音をたて、くさりがぶつかりあい、軍用ラッパが呼びあい答えあっている音だった。たがいに混じりあうおそろしい物音は、一種のハーモニーをなしていて、それに子どもたちはうっとりとききほれていた。
「あれをやってるのは神さまなんだ」と、ルネ=ジャンが言った。
(四)
物音がやんだ。
ルネ=ジャンはまだ夢心地だった。
こうした子どもたちの頭脳の中では、いろいろ思考はどのようにして分解されたり、また組みたてられたりするものだろう? まだ非常に混乱していて、まだ非常に寿命のみじかい子どもたちの記憶というものは、どんな神秘的な動きを示すものだろうか? 思いにふけるルネ=ジャンのかわいい頭の中には、神と、祈りと、合掌した両手と、むかしは見ることができたが、いまではもう見られない、どう言ってよいかわからぬほどやさしい微笑とが混じりあっていたが、そのルネ=ジャンが、小声でこうささやいた。「|かあちゃん《ママン》」
「かあちゃん」とグロ=ザランも言った。
「|たあちゃん《ムマン》」と、ジョルジェットも言った。
それから、ルネ=ジャンがとびはじめた。
それを見て、グロ=ザランもとんだ。
グロ=ザランはルネ=ジャンの動作や身振りをことごとくまねしたが、ジョルジェットはそれほどまねしなかった。三歳の子どもは四歳の子どものすることをまねるものであるが、たった一年八カ月の子どもは独立を守るものである。
ジョルジェットはときどきなにか言葉をしゃべりながら、じっとすわっていた。その言葉は文章になっていなかった。しかし彼女はもうりっぱな思想家で、金言でも口にするみたいにもったいぶってしゃべっていた。しゃべるのは一音節の単語ばかりだった。
しかし、しばらくすると、兄たちのお手本が彼女をも支配して、とうとう彼女も兄たちと同じようなことを一心にやりはじめた。そして、三人の小さなはだかの足が、みがいた樫《かし》の木の古い床のほこりにまみれ、大理石の胸像のいかめしいまなざしの下で、おどったり、走ったり、よろよろしたりしはじめた。ジョルジェットはときどき、おびえたような目でちらりちらりと胸像を見て、こうつぶやいた。
「レ・モモム!」
ジョルジェットの言葉では、この『レ・モモム』という言葉は、人間に似ているけれども、まったく人間ではないものをさしていた。子どもには、事物というものは、なにか幽霊と同体のものとしか見えないものである。
ジョルジェットは、歩いているというよりよろけているといったかっこうで歩きながら、二人の兄を追いかけていたが、彼女はどちらかと言えばよつんばいになるほうをこのんだ。
とつぜん、窓ぎわに近づいていってルネ=ジャンが、首をあげて、またすぐさげ、壁に作ってある銃眼の角のうしろにかくれた。だれかが彼をながめているのに気づいたのだった。それは台地に野営している共和政府軍の一兵士だった。その兵士は休戦を利用し、またおそらくは、多少、休戦の約束にそむいて、図書室の内部をのぞくことができる掘れみぞの上の急斜面のはじまでやってくるという思いきったことをやってのけたのだ。
ルネ=ジャンがかくれるのを見て、グロ=ザランもかくれ、ルネ=ジャンのそばにちぢこまってしまった。そしてジョルジェットもやってきて、二人の兄の背後にかくれた。三人ともそこで黙りこくって、じっとしていた。ジョルジェットが指を一本、くちびるにあてた。しばらくしてから、ルネ=ジャンが思いきって首をだしてみると、兵士はまだもとのところに立っていた。ルネ=ジャンはさっと首をひっこめた。
三人の子どもたちは、もう息をつこうともしなかった。そんな状態はかなり長くつづいた。とうとう、ジョルジェットが、こんなふうにおびえてすっこんでいることに退屈し、大胆不敵にも、兵士のほうをながめた。兵士はもう立ち去っていた。そこで子どもたちは、また走ったりあそんだりしはじめた。
グロ=ザランはルネ=ジャンのまねばかりして、兄を尊敬していたが、掘りだしものをさがしあてる専門家だった。兄のルネ=ジャンと妹のジョルジェットは、グロ=ザランが小さな四輪車をどこからか掘りだしてきて、夢中になって引きずりまわしているのを目にした。
このおもちゃの車は、天才たちが書いた書物や賢人たちの胸像と仲よく同居しながら、もうなん年も前からほこりをかぶっていたものだった。それは多分、ゴーヴァンが子どもだったころ、遊んだおもちゃのひとつだったのだろう。
グロ=ザランは例のひもをむちに仕立てて、うちならしていたが、とても得意がっていた。これが発見者というものである。アメリカが発見できないときは、小さな車を発見するものである。いつの世でも、こういうものなのだ。
しかし、そんな発見物はみんなでわかちあわなければならなかった。そこでルネ=ジャンは車につける馬になりたいと思い、ジョルジェットは車の中にのりたいと思った。
彼女はなんとかして車の中にすわろうとした。ルネ=ジャンは馬になった。グロ=ザランは御者になった。しかし、この御者は御者のやりかたを知らなかったので、馬のほうがそれを教えてやった。
ルネ=ジャンがグロ=ザランにこう叫んだ。
「はいどうって言うんだ」
「はいどう」と、グロ=ザランが兄の言葉をくりかえした。
車がひっくりかえってしまった。ジョルジェットがころがり落ちた。天使たちだって泣くもので、ジョルジェットも泣きだしてしまった。
すると彼女は、なんとなく、いつまでも泣いていたいという気持におそわれた。
「おまえは」と、ルネ=ジャンが言った。「大きすぎるんだよ」
「あたい、大きい」と、ジョルジェットが言った。
大きいと言われたことが、ころがり落ちたジョルジェットをなぐさめた。
窓の下の軒蛇腹《のきじゃばら》は幅がとてもひろかった。それでヒースのはえている台地からとんでくる野のほこりは、この軒蛇腹にさえぎられ、その上につもった。すると雨がふって、このほこりをまた土に作りなおしてしまった。それから風がここへいろいろな種子を運んできた。そこで、とうとう、一本のキイチゴがこのわずかな土を利用して、軒蛇腹から芽ばえるということになった。このキイチゴはキツネノクワと言われる多年生の植物だった。ちょうど八月だったから、キイチゴにおおわれ、その枝を一本、窓越しに部屋の中にはいりこませていた。この枝はほとんど床にくっつかんばかりにたれていた。
グロ=ザランが、ひもを発見し、車を発見したのに引きつづき、このキイチゴを発見した。彼はキイチゴに近よっていった。
そして、実をひとつとってたべた。
「お腹がすいた」と、ルネ=ジャンが言った。するとジョルジェットが、ひざと両手で馬がかけるようなかっこうをしながら、キイチゴの枝に走りよった。
三人力をあわせて、キイチゴの枝を略奪し、ついている実を全部たべてしまった。三人ともうっとりした気分になったが、顔をよごしてしまった。顔じゅう、キイチゴの真紅のしるでぬりたくってしまったので、これら三人の熾天使《セラファン》たちは、三人の小さな半獣神みたいになってしまった。こんな小さな子どもたちを見たら、ダンテはびっくりしただろうし、ヴェルギリウスはおもしろがったことだろう。とにかく三人の子どもたちはげらげらと笑っていた。
ときどき、キイチゴは子どもたちの指を刺した。ただで手にいれられるものはないのである。
ジョルジェットは小さな血のしずくが玉になっている指をルネ=ジャンにさしだし、キイチゴを指さして、こう言った。
「刺す」
グロ=ザランも用じように刺されていたが、キイチゴをうたがわしそうな目でにらみながら言った。
「こいつは動物だ」
「ちがうよ」と、ルネ=ジャンが答えた。「そりゃ、棒だよ」
「棒ってのは意地悪だね」と、グロ=ザランがくりかえした。
ジョルジェットはこんども泣きたいと思ったが、実際は笑いだした。
(五)
そのうち、おそらく弟のグロ=ザランの掘りだしものに嫉妬したのだろうが、ルネ=ジャンはひとつの大きな計画を考えはじめた。キイチゴの実をつみ、そのとげで指を刺されながらも、さきほどから、彼の目は回転式書見台のほうにしげしげと向けられていた。その書見台は軸でまわるようになっていて、記念碑のまんなかでまるで孤立しているようにたっていた。書見台の上には、あの有名な≪聖《サン》バルテルミー≫という書物がひらいて置いてあった。
それはまことにみごとな記念すべき四折判《アン・クワルト》の書物だった。この≪聖《サン》バルテルミー≫は、一六八二年の聖書の出版者として有名な、ラテン名をコエシウスというブルーヴの手で、ケルンで出版されていた。それは、木製の活字を牛の神経のすじでしめた印刷機で印刷してあった。オランダ紙ではなくて、あの美しいアラビヤ紙に印刷してあった。このアラビヤ紙というのは、絹と綿から作られていて、いつもまっ白で、エドリッシに絶賛されたものだった。装幀《そうてい》は金色の皮で、とめ金には金銀が使ってあった。見かえしには羊皮紙が使ってあったが、これはパリの羊皮紙商たちがサン・マテュランの市《いち》で買い、『ほかでは絶対に買わない』と誓ったものだった。
この本には、木版画、銅版画、おおくの国々の地図が、たくさんのっていた。ページの最初には、≪皮、ビール、分岐蹄《ぶんきてい》動物、海魚、紙≫には課税するという、一六三五年の法令に対する、印刷業者と紙商と出版業者との抗議文がのっていた。とびらの裏には、グリフ家にささげる献辞が書いてあった。このグリフ家のリヨン市に対する関係は、エルセヴィール家のアムステルダム市に対する関係と同じである。こうしたことがいろいろより集まって、結果としてこの書物を有名にしていたのだが、この書物は、あのモスコーで出版された≪アポストリオス伝≫とほとんど同じくらいの珍本とされていたのである。
この書物は美しかったから、ルネ=ジャンがながめすぎと思われるほどつくづくながめていたのも、むりからぬことだった。ひらいてあったページには、聖《サン》バルテルミーがはがされたじぶんの皮を腕にかけているところを描いた版画がのっていた。この版画は下からも見ることができた。キイチゴの実を全部たべてしまうと、ルネ=ジャンはおそるべき愛着をこめた目つきで、この版画を見つめた。ジョルジェットも、兄が見つめている方向を追っていって版画を見つけ、こう言った。「ジマージュ」〔イマージュ(画)と言いたいところを舌たらずでジマージュと言ったところ〕
この言葉がルネ=ジャンを決心させたらしかった。彼はグロ=ザランもびっくりぎょうてんするようなだいそれたことをやりはじめた。
図書室の片隅にある大きな樫《かし》のいすに歩みよると、それをつかんで、たったひとりだけで、書見台のところまで引きずってきた。そして、いすが書見台にくっつくと、その上にあがり、両手を書物の上にのせた。彼は高いいすの上にのぼったので、なにかすてきなことがしたくなった。そこで彼は≪ジマージュ≫の上のすみをつかむと、それを用心しながら破った。聖《サン》バルテルミーはななめに引きさかれたのだが、ルネ=ジャンはまちがっていたわけではなかった。彼はこのほんとうにいたかどうか疑わしい年よりの福音史家の左半身全部を、片方の目とわずかな光背といっしょに本の中に残して、聖者の右半身と皮全体を、ジョルジェットにやってしまったのだ。ジョルジェットは聖者をもらうと、こう言った。
「モモム」
「ぼくにもくれよ!」と、グロ=ザランが言った。
引きさかれた書物の第一ページというものは、虐殺において最初に流される血みたいなものである。この最初に流された血が大虐殺を左右するのである。
ルネ=ジャンはページをはぐった。聖者のつぎのページには、聖書注釈者パンタイノスの肖像がのっていた。ルネ=ジャンはパンタイノスをグロ=ザランにあたえた。
このあいだに、ジョルジェットは大きな紙片を二つに引きさき、それをさらに四つに小さく引きさいた。つまり、聖《サン》バルテルミーはアルメニヤで皮をはがされたあと、ブルターニュで四つざきの刑に処された、と歴史家は言っていいわけだった。
(六)
四つざきの刑が終わると、ジョルジェットはルネ=ジャンに片手をのばして、「もっと!」と、言った。
聖者と注釈者のあとには、難語注釈者たちのいかめしい肖像がのっていた。いちばん年代の古いのは、ガヴァントゥスだった。ルネ=ジャンはガヴァントゥスを引きさいてジョルジェットの手にわたした。
≪聖《サン》バルテルミー≫の注釈者たちは、ことごとく、同じようにされてしまった。
あたえるということは優越感をおぼえることである。ルネ=ジャンはじぶんの手もとにはなにも残さなかった。グロ=ザランとジョルジェットに見つめられているだけで充分だったのだ。
今やルネ=ジャンはかぎりない宝をもち、その上ふとっ腹だったから、グロ=ザランにはファブリチョ・ピニャテルリをあたえ、ジョルジェットにはスティルティング神父をあたえた。さらに、グロ=ザランにアルフォンス・トスタをやり、ジョルジェットに≪コルネリウス・ア・ラピッド≫をやった。グロ=ザランはアンリ・アモンをもらい、ジョルジェットはロベルティ神父を手にし、おまけに、この神父が一六一九年に生まれたドゥエ市の風景画までもらった。
つづいて、グロ=ザランは紙商たちの抗議文を受けとり、ジョルジェットはグリフ家にささげた献辞を獲得した。それでもまだ地図が残っていた。
ルネ=ジャンはそれも分配した。彼はエチオピヤをグロ=ザランにあたえ、リカオニヤをジョルジェットにあたえた。それが終わると、彼は書物を床になげだしてしまった。
おそるべき瞬間だった。ルネ=ジャンがまゆをよせ、≪ひかがみ≫をこわばらせ、こぶしをにぎりしめて、重い四折判《アン・クワルト》本を書見台のそとへ押しだすのを、グロ=ザランとジョルジェットが、恐怖のいり混じった陶然《とうぜん》とした心地でながめていた。おごそかな古書籍が色を失うところは悲劇的である。書見台のそとへ押しだされた重い書物は、一瞬、ぶらさがるようにかしぎ、落ちようかどうしようかためらって、かろうじて平均を保っていたが、やがてこの平均も破れて下へ落ち、こわれ、引きちぎられ、装幀は分解し、とめ金もはずれ、床の上にみじめに横たわってしまった。しかし、さいわい、書物は三人の頭の上には落ちなかった。
子どもたちは書物に押しつぶされなくて、目のくらむような気分を味わった。征服者の冒険というものが、すべてこういう結果になるとはかぎらないのだ。
すべての光栄と同じように、この冒険もまた、大きな音をたて、雲のようなほこりをまきおこした。
書物を床にたたき落としてしまうと、ルネ=ジャンはいすからおりた。
しばらく、沈黙と恐怖の瞬間がつづいた。勝利もさまざまな恐怖をおぼえさせるものである。三人の子どもたちは手をにぎりあって、くずれはてた巨大な書物を見つめながら、その書物から距離を置いてひっこんでいた。
しかし、しばらく夢心地でいたグロ=ザランが、つかつかと本に歩みよったかと思うと、それを足でけってしまった。
一巻の終わりだった。破壊本能というものが存在している。つづいてルネ=ジャンが足でけると、ジョルジェットも足でけった。しかしジョルジェットのほうはおかげで床にころんでしまった。ところが彼女は、ころんだのをさいわい、すわったままで≪聖《サン》バルテルミー≫にとびかかっていった。そこで、この書物の威光もすっかり消えてしまった。ルネ=ジャンもとびかかり、グロ=ザランもとびかかり、いかにもたのしそうに、夢中で、勝ちほこって、残酷に、版画をやぶり、ページをきりさき、しおりひもをむしりとり、装幀をひっかき、金の皮表紙をはがし、本のすみの銀のくぎを引きぬき、羊皮紙をやぶり、けっこうな本文をびりびりにさいた。猛獣のような三人の天使は足と手と爪と歯とを使って、ほおをばら色にほてらし、笑いながら、おそろしいいきおいで、無防備の福音史家におそいかかっていった。
彼らはアルメニヤを、ユダヤを、聖者の遺骨が眠っているベネヴェントを、多分バルテルミーと同じ人物であるナタナエルを、バルテルミー・ナタナエル福音書はにせものだと主張したゲラシウス法王を、ありとあらゆる挿画を、ありとあらゆる地図を全滅させた。こうして彼らは古い書物を死刑にすることに夢中になったあまり、はつかねずみが一ぴき通りすぎたのにも、まったく気づかなかった。
それはみな殺しの大虐殺だった。
歴史、伝説、科学、真偽両方の奇跡、教会のラテン語、迷信愛好、狂信、神秘といったものをことごとく引きさくということ、あるいはひとつの宗教を上から下までまっぷたつに引きさくということは、三人の巨人が力をあわせても、なかなかの難事であるが、三人の子どもにとっても、たいへんな仕事なのだ。それで、この仕事に夢中になっているあいだに、なん時間もたってしまったが、三人はついにやりとげてしまった。そして≪聖《サン》バルテルミー≫は影も形もなくなっていた。
大虐殺が終わったとき、つまり最後のページが引きちぎられ、最後の版画が床になげすてられ、さしもの書物も装幀の残骸にくっついている本文と挿画の断片以外なにも残っていないというすがたになってしまったとき、ルネ=ジャンは立ちあがり、紙片が散乱している床をながめわたすと、手をたたいた。
グロ=ザランも手をたたいた。
ジョルジェットは紙片を一枚、床からひろうと、立ちあがり、彼女のあごの高さまである窓にもたれて、手にしている大きなページをこまかく引きさいて、窓からとばしはじめた。
それを見ると、ルネ=ジャンもグロ=ザランも妹と同じことをやった。彼らは紙片をひろっては引きさき、またひろっては引きちぎって、ジョルジェットのように窓からとばした。こうして、夢中になった子どもたちの小さな手によって一ページずつ細かく破られて、この古い書物はほとんど全部、風に吹かれてとんでいってしまった。ジョルジェットはなにか考えこみながら、これらの小さな白い紙片が風にゆられてとんでいくのをながめて、こう言った。
「ちょうちょ」
こうして、大虐殺は、青空の中へ消え去ることによって、終わりをつげたのである。
(七)
以上が、すでにキリスト紀元四九年に第一回めに殉教者として死んだ聖《サン》バルテルミーの二度めの死の模様である。
そのあいだに夕がたがやってきて、暑さははげしくなり、空気は昼寝でもしているみたいに退屈な気分をはらんでいた。ジョルジェットの目がぼんやりしてきた。ルネ=ジャンは自分のゆりかごのところへいき、中からマットがわりにしいてあるわらのふくろをひっぱりだして、それを窓ぎわまで引きずってくると、その上に横になって、「さあ寝よう」と言った。
グロ=ザランは頭をルネ=ジャンの上にのせ、ジョルジェットは頭をグロ=ザランの上にのせた。こうして三人の悪人は眠りこんでしまった。
ひらいている窓から、しめった空気がはいりこんできた。掘れみぞや丘からとんでくる野の花の香りが、夕べの大気に混じってただよっていた。あたりの空間は静けさとなさけ深い雰囲気にあふれていた。ありとあらゆるものが光り輝き、ありとあらゆるものが静まりかえり、すべてのものがすべてのものを愛撫していた。太陽は創造物にこの光という愛撫をあたえていた。事物の巨大なやさしさから発散する調和が、あらゆる毛穴をぬけるのが感じられた。無限の中には母性が存在していた。創造物は歓喜にみちた奇跡であり、それはみずからの善意でもって巨人であることを完成するのである。それはまるで、このふしぎな注意をはらう、だれか目には見えないものがいて、このおそろしい闘争のさ中で、強者に対して弱者を守っているように思われるのだ。
それからまた、美しい一日だった。あたりははなばなしく、そしてやさしかった。言いようのないくらい静かにまどろむ風景は、野原の上や河の上に影と光のうつろいゆくさまが描きだす、あのすばらしい木目《もくめ》模様をつけ、まるで夢がまぼろしを追うように、いくすじもの煙が雲のほうに向かって立ちのぼっていた。ラ・トゥールグ城の上には、小鳥たちが渦巻を描きながらとんでいた。ツバメたちが窓の中をのぞきこんで、ちょうど子どもたちがやすらかに眠っているかどうかを見にきたみたいだった。三人の子どもたちは、かわいらしく重なって横たわり、まるで愛の神キューピッドが眠っているように、半分はだかで、身じろぎもしないで眠っていた。三人ともかわいらしくて、きよらかだった。彼らの年を全部あわせても九歳にしかならなかった。かすかにほほえみを残している口もとに、楽園の夢を反映させていた。おそらく、神が三人の耳もとでささやいておいでなのだろう。彼らこそ、ありとあらゆる人間の言葉が、か弱いもの、祝福されたものと呼ぶ子どもらなのだ。彼らは尊敬すべき純真|無垢《むく》の子らだった。そして、彼らのやさしい胸から洩れてくる息が宇宙の重要な事柄であり、ありとあらゆる創造物から耳をそばだてられているかのように、あたりのものすべてが沈黙を守っていた。木の葉もそよがなかった。草もふるえていなかった。星の輝く広大な世界が、この天使のように眠る三人のしがないおさな子のじゃまをしないようにと、息をこらしているようだった。そして、これら三人のおさな子のまわりの自然がいだく広大な尊敬の念ほど崇高なものはなかったのである。
太陽は沈もうとしていて、ほとんど地平線にふれんばかりだった。
と、とつぜん、この深い静寂の中で、ひとすじの光が森からほとばしり、つぎにおそろしいごう音がとどろいた。大砲を一発ぶっぱなしたのだった。砲声がこだまとなってとどろき、すさまじい音をたてた。その丘から丘へと長引いていくごう音はおそるべきものだった。そして、この音がジョルジェットの目をさましてしまった。
ジョルジェットは首を少しあげると、小指を立ててじっと耳をすましながら、こう言った。
「プーム!」
音がやんだ。すべてはまたもとのように静かになった。ジョルジェットはもう一度グロ=ザランの上に頭をのせて、また眠りこんでしまった。
[#改ページ]
第四編 母親
一 死が通る
ほとんどあてずっぽうに歩いていくのをわれわれも前に目撃した、あの母親は、その日の夕がたまで、日がな一日歩きづめに歩いてきたところだった。その上、彼女がまい日まい日したことといえば、ただ前へ進むだけで、いっときもとまらない、ということだった。というのも、ゆきずりに最初に見つけたどこかの片隅で疲れきって眠っても、それは休息することにはならなかったし、あちこちで、まるで小鳥がえさをあさるように、たべものを口にいれても、それは栄養とはならなかったからだ。彼女がものをたべたり眠ったりしても、それはせいぜい、たおれて死んでしまわないようにするだけのことでしかなかったのだ。
彼女が前の夜をすごしたのは、一軒の見すてられた納屋《なや》だった。内乱はこうしたあばらやをこしらえるものである。彼女は荒れはてた平地に、戸をあけっぱなしにして屋根の残骸の下にわらがわずかにしいてある、四方を壁にかこまれた場所を見つけた。彼女はそんな屋根の下のわらの上に横たわったが、ねずみがわらの中をもぐって走るのがわかったし、破れた屋根を通して星が輝きはじめるのが見えた。彼女はなん時間か眠ったが、真夜中に目をさますと、昼の激しい暑さがやってこないうちに、できるだけさきへ進んでおこうと、ふたたび歩きだした。夏に徒歩で旅行するものにとっては、真昼よりも真夜中のほうが寛大なものである。
彼女はヴァントルトの百姓から教えられた簡単な道筋を一心にたどっていった。できるだけ西へ西へと歩いた。もし彼女のそばにだれかいたら、彼女がたえず小声で「ラ・トゥールグ」と言っているのを耳にしたことだろう。彼女の三人の子どもの名前と、このラ・トゥールグという言葉以外、彼女はほとんどなにも知らなかったと言ってよかった。
歩きながら、彼女はたえず考えこんでいた。彼女はそれまで経験してきたいろいろの危険な出来事のことを考えた。すべては、苦しんできたこと、なんとしても承諾しなければならなかったことだった。また、出会った人間たちのことも考えた。いろいろ侮辱《ぶじょく》を受けたことも考えた。いろいろな条件をのんでしてきたことも考えた。それからいろいろな取り引きを押しつけられて甘受しなければならなかったことも考えた。そういうことにたえてきたのも、あるいは一夜のかくれ家を求めるため、あるいはひと切れのパンを手にいれるため、あるいは道を教えてもらうただそれだけのためだった。みじめな女はみじめな男より不幸なものである。なぜなら、女は快楽の具になるからである。なんとおそろしい放浪だったことか! しかし、子どもたちに再会できさえしたら、彼女にはこんなことはすべてなんでもなかった。
その日、彼女が最初に出会ったのは道のそばにある村だった。ようやく夜明けになりかけていたが、あたりはすべて、まだ夜のやみにひたされていた。しかし、村の大通りには、すでに戸口を細目にあけている家が数軒あった。そこここの窓からは、好奇心に燃えた顔がのぞいていた。
村の住民たちはおびえた蜂《はち》の巣のようにざわめいていた。車輪の音や鉄がすれあう音がきこえていたからだった。
教会の前の広場には、面くらった群衆が集まって、宙に目をこらし、丘の上から村に通じている道をなにものかがおりてくるのをながめていた。それは鎖をつけられた五頭の馬に引かれている四輪荷馬車だった。荷馬車の上には、なにか長い梁《はり》に似たものがうず高くのっているのが見わけられ、そのまんなかには、なんとも言えないぶかっこうなものが置いてあった。それは大きなほろでおおわれていたが、そのほろが屍衣《しい》のように見えた。そして、十人の騎馬の男が荷馬車の前を進み、荷馬車のうしろにも別に十人の騎馬の男がくっついていた。騎馬の男たちは三角帽をかぶっていて、肩越しに抜刀したサーベルらしいもののきっさきを突きだしていた。これらの行列はゆっくりと進み、地平線の上にくろぐろとした影をくっきりと浮かべていた。荷馬車も黒く見え、引き馬も黒く見え、騎馬の男たちも黒く見えていた。そして、彼らの背後には、朝が青白くただよっていた。
この一行は村にはいると広場のほうへ向かった。
荷馬車が丘をくだるあいだに、少しずつ夜が明けてきていたので、この行列のすがたははっきりと見わけられた。しかし、それはまるで幽霊が歩いているように見えた。一行の中からは話し声ひとつきこえてこなかったからだ。
騎馬の男たちは兵士だった。事実、彼らは抜刀したサーベルをもっていた。ほろは黒かった。あわれな放浪の母親も村の中へはいってきたが、荷馬車と兵士たちが広場にたどりついたとき、人だかりしている百姓の群れに近よった。人だかりの中から、たずねたり答えたりするささやき声がきこえてきた。
「ありゃ、なんだ?」
「断頭台が通るんだ」
「どこからきたんだろう?」
「フージェールからだ」
「どこへいくんだろう?」
「知らねえな。パリニェのそばにあるお城へいくという話だ」
「パリニェだって!」
「いきたいとこへいくがいい。この村へとまってくれなきゃ、どこでもいい!」
屍衣みたいなものにおおわれた荷物をつんだ大型荷馬車、引き馬、騎兵、鎖がぶつかる音、男たちの沈黙、うす暗い夜明けどき、こうしたものはすべて、幽霊のような印象をあたえていた。
この一行は広場をいきすぎて、村からでていってしまった。この村は二つの丘ののぼり坂とくだり坂のちょうど谷間にあったので、十五分もたつと、広場でびっくりして身動きもしないでいた村人たちは、この気味の悪い行列が西側の丘のてっぺんにまた現われるのを目にした。わだちのあとが大きな車輪を動揺させ、引き馬の鎖が朝の風に吹かれてふるえ、サーベルがきらきらと輝いていた。やがて太陽がのぼったが、道がまがっているので、なにもかも消えてしまった。
それはまさに、あの例の図書室の中で、ジョルジェットがまだ眠っている兄たちのかたわらで目をさまし、じぶんのばら色の足に向かって、おはようと言ったころあいだった。
二 死が話す
母親もこのわけのわからないものが通りすぎるのをながめていたが、それがなんだかわからなかったし、わかろうともしなかった。彼女は目の前に、ほかのまぼろし、つまりやみの中に失った子どもたちのすがたしか見ていなかったのだ。
そして彼女もまた、さっき列をなしてすぎていった行列の少しあとから村からでて、行列のうしろにくっついている分隊からわずかに距離を置いて、同じ道を歩いていった。ふいに、彼女の頭に≪断頭台≫という言葉がよみがえってきた。≪断頭台≫と、彼女は考えた。しかし、百姓としてそだったミシェール・フレッシャールには、断頭台がなにものなのかわからなかった。と言っても、本能が知らせるのか、なぜかわからぬままに、身ぶるいした。すると行列にくっついて歩いていくのがおそろしくなってきた。そこで左へまがって、きた道からそれると、そこはもうフージェールの森になっている木立の中へはいっていった。
しばらくさまよっているうちに、鐘楼《しょうろう》と家の屋根が目についた。それは森のはずれにあるいくつかの村だった。そこへ彼女は近づいていった。彼女は空腹をおぼえていたのだ。
それは共和政府軍《あお》が駐屯所としている村のひとつだった。彼女は村役場前の広場まではいっていった。
この村も動揺と不安につつまれていた。
村役場の入口になっている数段の階段の前には、人だかりがしていた。階段の上には、兵士たちに護衛されているひとりの男が認められ、男は片手に大きな掲示をひろげてもっていた。彼の右側には鼓手《こしゅ》がひかえ、左側には糊《のり》つぼとはけをもった掲示係りがひかえていた。
入口の上のバルコニーには村長がたっていたが、彼は野良着の上に三色の肩章をかけていた。
掲示をもっている男はおふれを伝えて歩く役人だった。彼は小さなかばんをぶらさげた巡回の肩帯をつけていた。それによって、彼が村から村をまわって、この地方全体にふれて歩いていることがわかった。
ミシェール・フレッシャールが近よったとき、男は掲示をひろげたところで、やがて彼は読みはじめた。彼は大声で言った。
「唯一にして不可分のフランス共和国」
鼓手がたいこをどろどろとうち鳴らした。
人だかりの中に波のようなざわめきがおこった。あるものはふちなし帽子をぬぎ、あるものはつばひろ帽子をまぶかにさげた。このころこの地方では、頭にかぶっているものによって、その人の政治的意見がおよそ見当ついたものである。つばひろ帽子をかぶっているものは王党派《しろ》であり、ふちなし帽子をかぶっているものは共和派《あお》であった。人びとのざわめきたったつぶやきがやんで、みんなが耳をすました。布告人が読みつづけた。
「……公安委員会によりわれわれにあたえられた命令、および委任された権限によって……」
ふたたび、たいこがどろどろと鳴った。布告人がさきをつづけた。
「……とらえられた反逆者たちを法律の保護外におき、さらに、これら反逆者たちをかくまったり逃亡させたりするものは、だれかれなく、これを極刑にする国民公会の政令を執行するため……」
ひとりの百姓がかたわらの男にたずねた。
「極刑ってのはなんのことかい?」
かたわらの男が答えた。
「知らんな」
布告人が掲示をふりまわして、言葉をつづけた。
「……派遣議員あるいは派遣議員補佐に反逆者たちに対する全権をあたえる四月三十日の政令第十七条によって……」
「法律の保護外におかれるものは……」
布告人はちょっと息をついてから、さらにつづけた。
「……つぎのような氏名もしくはあだ名をもつものである……」
群衆がことごとくきき耳を立てた。
布告人の声が雷鳴のようにとどろいた。
「……賊ラントナック」
「ご領主さまだ」と、ひとりの百姓がつぶやいた。
つづいて、群衆の中から、ささやき声がもれてきた。
「ご領主さまだ」
布告人はさらに言った。
「もと侯爵、賊ラントナック……賊イマーニュス……」
二人の百姓がたがいにちらりと目まぜをかわしながら言った。
「グージュ=ル=ブリアンのことだ」
「そうだ。共和政府軍《あお》破りだ」
布告人が名簿を読みつづけた。
「賊グラン=フランクール……」
群衆がつぶやいた。
「坊さんだ」
「そうだ、テュルモー神父さまだ」
「そうだ、ラ・シャペルの森の近くあたりで主任司祭をしている人だ」
「それが賊だとさ」と、ふちなし帽子をかぶった男が言った。
布告人が名簿を読んだ。
「……賊ボワヌーボー。……賊≪|木の槍(ピック=アン=ボワ)≫兄弟。……賊ウザール……」
「そりゃ、ケランさまのことだ」と、ひとりの百姓が言った。
「賊パニエ……」
「スフェールさまのことだ」
「……賊ブラース=ネット……」
「ジャモアさまだ」
布告人はこうした百姓たちの注釈には気もとめないで、さきを読みつづけた。
「……賊ギノワゾー……あだ名ロビのシャトネ……」
ひとりの百姓がささやいた。
「ギノワゾーってのは、ル・ブロンと同一人だし、シャトネってのはサン=トゥワンで生まれた人だ」
「……賊オワナール」と、布告人がまた言った。
すると、群衆の中で声がした。
「あの男はリュイエ生まれだ」
「そうだ。≪|金の枝(ブランシュ=ドール)≫のことだ」
「あの男の弟はポントルソン攻撃中に殺された」
「そうだ。本名はオワナール=マロニエールって言うんだ」
「十九になるが、いい若者だぞ」
「よくきけ」と、布告人が言った。「これで名簿はおわりだ」「……賊≪ベル=ヴィーニュ≫。……賊≪ラ・ミュゼット≫。……賊≪サーブル=トゥー≫。……賊≪|恋のめばえ(ブラン=ダムール)≫……」
このとき、ひとりの若者がそばにいる娘のひじをおした。娘がほほえんだ。
布告人が先をつづけた。
「……賊≪シャント=アン=ニヴェール≫。……賊≪ルシャ≫……」
ひとりの百姓が言った。
「そりゃ、ムーラールのことだ」
「……賊≪タブーズ≫……」
ひとりの百姓が言った。
「そりゃ、ゴーフルのことだ」
「ゴーフルって男は二人いるよ」と、ひとりの女が口をはさんだ。
「二人ともいい男さ」と、一人の若者がつぶやいた。
布告人が掲示をうちふると、鼓手がまた、ふれだいこをうった。
「……以上名をあげたものは、どこでとらえられようとも、本人の身元を確認の上、ただちに死刑に処せられるものである」
群衆がざわめいた。
布告人がさらにつづけた。
「……以上のものにかくれ家を提供し、あるいはその逃亡をたすけたものは、なにびともこれを軍法会議にかけ、死刑に処するものである。署名……」
群衆はいちだんと沈黙してしまった。
「……署名、公安委員会派遣議員、シムールダン」
「坊さんだ」と、ひとりの百姓が言った。
「まえにパリニェの主任司祭をしていた人だ」と、別の百姓が言った。
いあわせた町の男が言った。
「テュルモーとシムールダン。ひとりは王党派《しろ》の坊主でひとりは共和派《あお》の坊主だ」
「二人とも腹黒いやつだ」と、町からきた別の男が言った。
バルコニーに立っていた村長が帽子をあげて叫んだ。
「共和国ばんざい!」
また、たいこの音がどろどろと鳴って、布告が終わったことを告げた。事実、布告人は片手をふって合図していた。
「よくきけ」と、彼は叫んだ。「政府の布告は最後の四行でこうのべている。この四行には北部沿岸討伐隊長ゴーヴァン指揮官のサインがついている」
「よくきけ!」と、群衆が口々に叫んだ。
「死刑をもって……」
群衆は黙りこくってしまった。
「……以上の命令実施にあたり、現在、ラ・トゥールグ城において包囲攻撃されている、以上十九名の反逆者を援助し、救助することを厳禁する」
「なんですって?」と、ひとつの声が叫んだ。
それは、女の声だった。あの母親があげた声だった。
三 百姓たちのつぶやき
ミシェール・フレッシャールが群衆にまじっていたのだ。彼女はなにもきくつもりではなかったが、きく気がなくとも、きこえることがあるものだ。彼女がきいたのは、ラ・トゥールグという言葉だった。それで彼女は首をあげて叫んだのだ。
「なんですって?」と、彼女は同じことを言った。「ラ・トゥールグですって?」
みんなが彼女をながめた。彼女は浮浪者みたいなようすをしていた。着ているものはぼろだった。人びとがささやきあった。「賊みたいだな」
そばで作ったビスケットをかごにいれてもっているひとりの百姓女が彼女に近よって、小声で言った。
「黙ってなよ」
ミシェール・フレッシャールはびっくりした顔つきでその百姓女をまじまじと見つめた。ふたたび、彼女はなにがなんだかわからなくなってしまった。このラ・トゥールグという名前は、光のようにすばやくゆきすぎて、またも、あたりは夜のように暗くなってしまったのだ。いったい、彼女にはもう、ものをたずねる権利さえなかったろうか? それに、どうして、みんなは、そんなに彼女をじろじろながめるのだろうか?
そのあいだに、鼓手が最後のふれだいこをうち、掲示係りの男が掲示をはりつけ、村長は村役場にもどり、布告人はまたどこかの村へ向けて出発してしまい、そして群衆もちっていった。
しかし、まだ、ひとかたまりの人びとが、掲示の前にたたずんでいた。ミシェール・フレッシャールが、この人びとに近づいていった。
人びとは法律の保護を受けられなくなった男たちの名前について、あれこれ説明していた。そこには百姓たちもいたし、町の居住者たちもいた。つまり王党派《しろ》もいれば共和派《あお》もいたのである。
ひとりの百姓が言った。
「どうせ、この名簿にゃ、全部の名前がのっちゃいねえんだよ。十九人ってのは十九人きりってことさ。プリウーもはいっちゃいない。バンジャマン・ムーランもはいっちゃいねえ。アンドゥイエ教区のグーピルだって、はいっちゃいねえぞ」
「モンジャン出身のロリュールもだ」と、別のひとりが言った。
すると、ほかのものたちも、つぎつぎに口をだした。
「プリス=ドニもだ」
「フランソワ・デュドゥエもだ」
「そうだ、ラヴァル出身のな」
「ローネ=ヴィリエ出身のユエもだ」
「グレジスもだ」
「ビロンもさ」
「フィユールだって」
「メニサンもだ」
「ゲアレも」
「ロジュレ兄弟三人もだ」
「ルシャンドリエ・ド・ピエールディルさまもさ」
「ばかもん」と、ひとりのいかめしい顔をした白髪の老人が言った。「ラントナックをつかまえれば、みんなつかまえたことになるのだ」
「そのラントナックも、まだつかまっちゃいないんだい」と、若者のひとりがつぶやいた。
すると老人が答えた。
「ラントナックがつかまれば、魂がつかまえられたと同然なのだ。ラントナックが死ねば、ヴァンデも殺されることになる」
「そのラントナックって男は、どういう人なんですかね?」と、町の男たちのひとりがたずねた。
すると、ほかの町の男が答えた。
「もと貴族さ」
もうひとり別の男が言った。
「女たちを銃殺した連中の仲間さ」
これをきいてミシェール・フレッシャールが言った。
「それ、ほんとうだよ」
みんながふり向いた。
「わたしも銃殺されたんだから」
これは奇妙な言葉だった。というのは、この言葉は、生きている女が死んでいると言っているようにひびくからだった。それで、人びとは、多少横目で、彼女をじろじろながめはじめた。
実際、彼女はことごとにびくっとし、おびえ、わなわなとふるえていて、見るものに不安をおぼえさせていた。そして、そのおびえかたがあまりに激しく、あまりに恐怖をおぼえているようなので、見るものまでこわがらせてしまうのだった。女の絶望の中には、一種言い知れぬ弱みがあるが、それは恐怖をともなっているのだ。まるで運命の先端にぶらさがっているものを見る思いがするものだ。しかし、百姓たちはものごとをもっとおおまかに受けとるものである。彼らのひとりが、こうつぶやいた。「あの女はスパイかも知れないぞ」
「さあ、口をつぐんで、おいきよ」と、さきほど彼女に口をきいた親切な百姓女が、そっと言った。
すると、ミシェール・フレッシャールが答えた。
「わたしは悪いことなどしていません。子どもをさがしているだけです」
親切な百姓女がミシェール・フレッシャールをながめている人びとを見ながら、指をひたいに当てて目くばせして、言った。
「なんにも知らないんだねえ」
それから百姓女はミシェール・フレッシャールを群衆から引きはなして、そばで作ったビスケットをあたえた。
ミシェール・フレッシャールは、礼も言わないで、ビスケットをがつがつとたべた。
「まったくだ」と、百姓たちが言った。「まるきり、けだものみたいにくってる。なんにも知らないんだな」
そして残りの群衆もちっていった。一人一人立ちさり、最後にはみんないなくなってしまった。
ミシェール・フレッシャールはたべ終わると、百姓女に向かって言った。
「おいしかった。たべちゃいました。それで、ラ・トゥールグへはどの方角へいったらいいんですか?」
「また、ラ・トゥールグって言うのかね!」と、百姓女が叫んだ。
「わたし、どうしてもラ・トゥールグへいかなきゃならないんです。ラ・トゥールグへいく道を教えてください」
「だめだよ!」と、百姓女が言った。「あんたは殺されにいくってのかい? 第一、わたしゃ、そんな道なんか知らないんだよ。ああ、あんた、ほんとうに気がちがっちまってるんだね? ねえ、おききよ、あんたは疲れてるようだ。わたしんちへきて休んだらどうだね?」
「いいえ、休みません」と、母親が言った。
「この人、足の皮がむけちまってるのにねえ」と、百姓女がつぶやいた。
ミシェール・フレッシャールがまた口をひらいた。
「なにしろ、わたしは子どもをぬすまれちまったんですからね。小さな女の子と男の子を二人。わたしは森の中の≪|木の下べや《カルニッショ》≫からやってきたんです。乞食《ケマン》のテルマルクさんにきけば、わたしのことがわかりますよ。それに、わたしがあちらのほうの畑で出会った男の人にきいてもらってもわかります。わたしの傷をなおしてくれたのは、あの乞食《ケマン》さんでした。わたし、からだのどこかの骨を折っていたらしいのです。
さあ、これが、今までおこったことの全部です。それから、ラドゥーブ軍曹って人にも会いました。その人にわたしの話をきいてもらってもいいんです。その人、きっと話してくれますわ。だって、その人が森の中でわたしたちを見つけたんですから。わたしの子どもは三人なんです。いちばん年上の子はルネ=ジャンっていうんですが、それはその軍曹も知っていますよ。わたしはなにもかも証拠だてることができますよ。もうひとりの男の子はグロ=ザランっていう名で、女の子はジョルジェットというんです。わたしの亭主は死んじまいました。殺されたんです。亭主はシスコワニャールの小作人でした。
あなたはご親切らしいですね。どうか、わたしに道を教えてください。わたしは気ちがいではありません。母親なんです。わたしは子どもたちを失っちまったんです。それでさがしているのです。それだけです。わたし、もう、自分がどこからきたかもおぼえておりません。ゆうべは納屋《なや》の中のわらの上で眠りました。ラ・トゥールグっていうのが、わたしがいこうと思っているところです。わたしは泥棒じゃありません。わたしがほんとうのことを言っているのが、よくわかるでしょう。どうか、わたしの子どもを見つけるのを手伝ってくださいな。わたしはこの土地のものではありません。銃殺されたことがあるけれど、それがどこでだったかも、わたし、わからないんです」
百姓女が首をふって言った。
「ねえ、あんた、革命がおっぱじまっているときには、人がきいてもわからないようなことを言ってはだめなんだよ。そんなこと言うと、つかまえられるかも知れないよ」
「でも、ラ・トゥールグへいきたいんです!」と、母親が叫んだ。「ねえ、おかみさん、天にまします御子イエスさまのおめぐみ、おやさしい聖母さまのおめぐみにかけて、どうぞおねがいしますから、おかみさん、ほんとうにおねがいしますから、ラ・トゥールグへいく道をわたしに教えてくださいな!」
百姓女がおこりだした。
「わたしは知らないってば! たとえ知ってたって教えるわけにはいかないんだよ! あそこはとんでもない場所だよ。あんなとこへいっちゃいけないんだ」
「でも、わたしはいきます」と、母親が言った。
こう言うと、彼女は歩きだした。
百姓女はその遠ざかっていく女をうしろからながめていたが、こうつぶやいた。
「でも、たべなきゃ死んじまうわ」
それから、彼女はうしろからミシェール・フレッシャールにかけよって、そばで作ったビスケットを彼女の手の中におしこんでやった。
「さあ、これ、晩ごはんだよ」
ミシェール・フレッシャールはそばパンを受けとったが、返事もしなければふり向きもしないで、歩きつづけていった。
彼女は村から出ていった。村のいちばんはずれの家の前を通りかかったとき、彼女ははだしでぼろをまとった三人の子どもに出会った。彼女は子どもたちに近よると、こう言った。
「この子たちは女の子二人に男の子ひとりだわね」
そして、子どもたちが彼女の手の中のパンをながめているのを見て、それを子どもたちにあたえた。子どもたちはパンをもらいながらも、こわがっていた。
彼女は森の中へはいっていった。
四 かんちがい
ところが、ちょうど同じこの日の、まだ夜明け前のこと、森のうすぼんやりしたやみの中の、ジャヴネからレクースに至る道のある地点で、つぎのようなことがおこった。
≪森林地帯《ボカージュ》≫の道はどれもくぼんでいるが、その中でもとくに、レクース経由でジャヴネからパリニェへ向かう道は、両側から谷がせまっていて非常にけわしい。その上、曲がりくねっていた。これは道と言うよりもくぼ地と言ったほうがよかった。この道はヴィトレからきていたが、むかし、セヴィニェ夫人の箱型四輪馬車を動揺させたという名誉にあずかっていた。この道は右側も左側もしげみの壁でかこまれていた。待ち伏せ場所としては、これほどもってこいのところはなかったのだ。
この朝、あのミシェール・フレッシャールが、森の別のはしの、彼女が騎兵に護衛された荷馬車がうす気味わるく出現するのを目撃したあの村の中へ着く一時間くらい前のことだった。ジャヴネ街道がクゥエノン河にかかる橋のたもとで横切っている林の中には、目には見えない人間たちが雑然とちらばっていた。木々の枝が彼らをすっかり包んでしまっていた。これは百姓軍だったが、みんな、グリゴというものを着ていた。この衣服は毛皮のそでなし着だが、六世紀にはブルターニュの王族が着て、十八世紀には百姓たちが着ていたものだった。この百姓軍は武装していた。あるものは銃をもち、あるものはおのをもっていた。おのをもっているものたちは、林の空地の中に、かれた木の枝のたばや丸太のたきぎで作った火刑台みたいなものを築きあげたところだった。
火刑台はもう火をつけるだけになっていた。銃をもっているものは、道の両側にわかれてかたまり、待ち伏せ態勢をとっていた。もし木の葉をすかしてものを見きわめられる人がいたら、引き金にかけた指や、木の枝のまたのところを銃眼のかわりにしてねらっている騎銃の銃口を、あちこちに見ることができたろう。彼らは待ち伏せしていたのだ。すべての銃は道に向かって集中していた。その道を夜明けがほの白くてらしていた。
うす明かりの中で、小声で話しあうのがもれていた。
「そりゃ確かだな?」
「もちろん。そういう話だ」
「そいつ、ここを通るかな?」
「ここらあたりにいるっていう話だ」
「そいつを通しちゃだめだ」
「焼いちまわなきゃ」
「そいつを焼くために、三つの村が総出したんだからな」
「そうだとも。だが護衛はどうするんだ?」
「護衛も殺《や》っちまおう」
「だが、そいつはきっとこの道を通るのか?」
「そういう話だ」
「それなら、ヴィトレからやってくるんだな」
「どうして、そうじゃないって言うんだ?」
「はじめは、フージェールからくるって話だったからな」
「フージェールからこようが、ヴィトレからこようが、悪魔のとこからくるのにちがいはねえ」
「そうだな」
「だから、悪魔のところへ逆戻りさせてやるんだ」
「そうだ」
「で、そいつはパリニェへいくつもりだろ?」
「そうらしい」
「いかせねえぞ」
「もちろんだ」
「うん、もちろん、いかせねえ!」
「しっ!」
ほんとうに、黙ったほうがよさそうだった。あたりが少し明るくなりはじめたからだった。とつぜん、待ち伏せしていた連中が息を殺した。車輪の音と馬のひづめの音がきこえてきたからだった。連中が木の枝をすかして見てみると、くぼんだ道の上を長い荷馬車と騎馬の護衛と荷馬車に積んであるものとが、こちらのほうへ近づいてきていた。
「さあ、きたぞ!」と、隊長らしい男が言った。
「そうだ」と、待ち伏せ隊のひとりが言った。
「護衛もいっしょだ」
「護衛はなん人いる?」
「十二人」
「二十人という話だったがな」
「十二人だって、二十人だって、みんな殺しちまうんだ」
「たまがたっぷりとどくところへくるまで持とう」
やがて道の曲がりかどに、荷馬車と護衛が現われた。
「国王ばんざい!」と、百姓軍の隊長が叫んだ。
百発の銃弾がいっせいに発射された。
硝煙《しょうえん》が消えたとき、護衛も消えていた。七人の騎兵が地面にころがり、五人はにげてしまった。
百姓たちが荷馬車にかけよった。
「おや」と、隊長が叫んだ。「断頭台じゃないぞ。こりゃ梯子《はしご》だぞ」
事実、荷馬車が積んでいたのは一本の長い梯子だけだった。
二頭の馬はたおれ、傷ついていた。御者《ぎょしゃ》も殺されていたが、これはねらわれたのではなかった。
「どっちでもかまわん」と、隊長が言った。
「護衛のついた梯子なんてのはあやしいからな。こいつはパリニェにいくつもりだったんだ。きっと、この梯子を使って、ラ・トゥールグによじのぼろうって肚《はら》だったんだ」
「こんな梯子なんか焼いちまおう!」と、百姓たちが叫んだ。
そして彼らは梯子を焼いてしまった。
この連中が待ち伏せしていたあの不吉な荷馬車のほうは、そのころ、別の道をたどっていた。すでに二里も遠くのところを進んでいて、あのミシェール・フレッシャールがそれが夜明けに通るのを見た村にはいっていたのだ。
五 荒野にきく声
ミシェール・フレッシャールはパンをあたえた三人の子どもたちのもとをはなれると、森の中をあてずっぽうに歩きはじめた。
だれも彼女に道を教えてくれようとしなかったから、たったひとりで道を見つけていかなければならなかった。ときどき、彼女は腰をおろし、また立ちあがり、それからまた腰をおろしてしまった。彼女はへとへとに疲れはてていた。初め筋肉にはじまった疲れは、そのうち骨にまでとどいてしまう。まるで奴隷のように疲れはててしまう。事実、彼女は奴隷だった。見失った子どもたちの奴隷だった。とにかく子どもたちを見つけださなければならなかった。一刻遅くなれば、子どもたちは死んでしまうかも知れなかった。
こういう義務をもったものには、もう権利などなかった。つまり、ひと息つく権利などなかったのだ。といっても、彼女はもう、いかにも疲れはてていた。この程度に疲れはててしまうと、一歩先へ進むのも大儀《たいぎ》なのだ。一歩先へ踏みだせるだろうか? 彼女は朝から歩きどおしで、もう村ひとつ、家一軒見えなかった。最初は、ちゃんとした小道を歩いていたが、そのうちに道にまよってしまい、とうとう、どれを見ても同じような木の枝のどまんなかに迷いこんでしまった。これで彼女は目的地に近づいているのだろうか? 受難の終わりに手がとどいているのだろうか?
彼女は≪苦難の道≫を歩いていて、最後のどたんばへ向かっているのだというおしつぶされそうな苦悩を味わっていた。道の上にぶったおれて、そのまま死んでしまうのではないだろうか? ときには、もうそれ以上進むことはとてもできないような気持になった。
やがて陽はかたむき、森の中は暗くなり、小道も草のかげにかくれて見えなくなってしまい、この先どうなるかも、まったくわからなくなってしまった。彼女には神さましかいなかった。彼女は叫んでみたが、だれも答えてはくれなかった。
自分の周囲を見まわすと、木の枝のかげにすかして見えるところがあった。そちらのほうへ進んでいくと、ふいに森のそとへでた。
目の前に溝《みぞ》のようなせまい谷間が現われ、その谷間の底には、小石をぬって一本の細い水の流れが流れていた。その流れを見たとたんに、のどが猛烈にかわいているのに気づいたので、彼女は流れに近づくと、ひざまずいて水をのんだ。
ちょうどひざまずいたので、ついでにお祈りをした。それから立ちあがると、いく方向を見定めようとした。
彼女は流れをまたいだ。
この小さな谷間のかなたには、みじかいしげみにおおわれた広大な台地が視野いっぱいにひろがり、それは流れからはじまって、だんだん高くなり、それから地平線をいっぱいにかくすようにひろがっていた。森は孤独そのものだったが、この台地もまた荒れはてていた。森の中では、しげみの背後などで、だれかに出会うかも知れなかったが、この台地の上では、見わたすかぎり、なにひとつ見えなかった。数羽の鳥が、まるでにげだすように、ヒースの中をとんでいった。
このとき、広大な荒野を眼前にして、ひざもくずれるような気がし、気でもくるったようになった母親は、逆上したようすで、孤独に向かって奇妙な叫び声をあげた。
「だれかいるかねえ?」
そして、答えを待った。答えるものはあった。
深く重々しい声がとどろいたのだ。その声は地平線の奥深くからおこり、つぎつぎにこだまとなってひびきわたった。それは大砲の音のようであったが、雷鳴のようにもきこえた。その声は、母親の呼び声に、「いるぞ」と答えているみたいだった。
それから、あたりはまた静寂に包まれてしまった。
母親は元気づけられて立ちあがった。だれかがいたのだ。彼女が話しかけられるものがいるような気がした。水をのんでお祈りをささげたところなので、彼女にはまた力がよみがえってきた。彼女ははるかかなたに巨大な声をきいたほうに向かって、台地をのぼりはじめた。
すると、とつぜん、広大な地平線の中からひとつの高い塔がそびえ立つのが見えた。この塔は荒れはてた風景の中に孤立し、夕陽の光に真赤に照らしだされていた。塔までは一里以上の距離があった。塔の背後には、広大な緑色のものが霧の中にぼんやりとひろがっていた。フージェールの森だった。
この塔は、さきほど彼女の呼び声に答えたような気がした、あのごう音がきこえてきた地平線の同じ地点にそそり立っていた。あのごう音をとどろかせたのは、この塔だったのだろうか?
ミシェール・フレッシャールは台地の上にたどりついていた。もう目の前には平野しかなかった。彼女はその塔に向かって歩いていった。
六 戦況
今や時節は到来した。
なさけを知らぬ男が冷酷な男をつかまえていた。シムールダンがラントナックを手中におさめていたのだ。
王党派《しろ》の老反逆者は自分の住居の中にとらえられてしまい、明らかに、もうにげだすことはできなかった。そしてシムールダンは、ラントナック侯爵がこの自分の住居で、現場で、自分の領地の中で、いわば自分の家の中で、首を切られればよいと思っていた。それは、封建制度下の居城で封建制度の支配者の首が落ちるのを見させるため、そしてこの見本を人の記憶にとどめさせるようにするためだった。
こうした理由から、彼はフージェールに断頭台を捜させにやったのだった。この断頭台が運ばれるところは、すでに読者もごらんになったとおりである。
ラントナックを殺すことは、とりもなおさずヴァンデを殺すことであり、ヴァンデを殺すことはフランスを救うことだった。シムールダンはためらっていなかった。これは義務のために、獰猛《どうもう》なことも平気でやる男だった。
もう侯爵は息の根をとめられているようだった。このことでは、シムールダンは安心していたが、ほかのことがひとつ心配だった。戦闘がはじまれば、きっと激烈なものになるだろう。するとゴーヴァンはまっ先に立って、おそらく混戦の中にとびこんでいこうとするだろう。あの若い指揮官の中には兵士の気持がひそんでいるのだ。白兵戦の中にとびこんでいく男なのだ。もし殺されるようなことがあったら、どうしよう? ゴーヴァンが! 彼のむすこであるゴーヴァンが! 彼がこの世でただひとり、愛情をそそいだゴーヴァンが殺されでもしたら!
それまでゴーヴァンは幸運にめぐまれていたが、幸福はもともとあきやすいものだ。シムールダンは身ぶるいした。彼の運命は、二人のゴーヴァン家出身者のあいだにはさまれて、そのひとりには死をのぞみ、もうひとりには生をのぞむという、奇妙な窮地に追いこまれていたのだ。
ジョルジェットをゆりかごの中でゆりおこし、その母親に孤独の底から呼びかけた砲撃は、それだけのことをしたばかりではなかった。照準兵が気まぐれにやったのか、それともなにか企図があったのかわからないが、単に警告のつもりで撃ったにすぎない弾丸が、塔の二階にある大きな銃眼をかくしている鉄の格子に当たり、これをえぐり、半分引きちぎってしまったのだ。防備軍はこの損傷を修理する余裕などなかった。
防備軍は意気盛んではあったが、弾薬は非常に少なくなっていた。ここではっきり言っておかなければならないのは、防備軍の諸状況は、攻囲軍が推測していた以上に危急なものだったのである。もし、火薬を充分に保有していたとしたら、自分たちも敵もろともにラ・トゥールグを爆破していただろう。これが彼らの夢だったのだ。ところが彼らの弾薬は底をついていた。やっとひとりにつき三十発の弾薬しか残っていなかった。小銃、ラッパ銃、ピストルはたくさんあったが、弾薬はわずかしかなかったのだ。つづけて発射できるように、ありとあらゆる武器に弾丸がこめてあった。しかし、この射撃だって、どれだけつづけられるだろうか? どんどん弾丸を供給すると同時に、これを節約しなければならなかった。そこがむずかしいところだった。さいわいなことに……と言っても、それは気味の悪いさいわいだったが……戦闘はひとりひとりがサーベルや短刀の白刃《はくじん》をきらめかせて戦うことになるだろう。銃を撃ちあうよりか組みあうことになるだろう。相手を切って切って切りまくるという戦闘になるだろう。これこそ防備軍が希望をつないでいるところだった。
塔の内部は難攻不落のようだった。裂け目に通じている一階の広間には後陣《ルティラード》があった。このバリケードは、ラントナックが戦術上の知識を生かしてきずいたものであり、これが部屋の入口をふさいでいた。この後陣《ルティラード》の背後には、長いテーブルが置いてあり、その上には弾丸をこめた銃、ラッパ銃、騎銃、短筒《ムースクトン》、サーベル、おの、短刀などがところせましと置いてあった。
塔を爆破するために、一階の広間に通じている地下室の土牢を使うことはできなかったので、侯爵はこの土牢のとびらはしめさせておいた。一階の広間の上は二階の円形の部屋になっているが、非常にせまいサン=ジル式の螺旋《らせん》階段を使わなければ、この部屋にははいっていけなかった。この部屋にも、一階の広間と同じように、すっかり準備のととのった武器をならべられたテーブルが置いてあり、もう手をのばすだけという状態になっていた。
この部屋は、さきほど砲弾が格子をうちくだいたあの大きな銃眼から明かりがはいっていた。この部屋の上から螺旋《らせん》階段が三階の円形の部屋へ通じていて、この三階には、橋城に向かってひらく鉄のとびらがついていた。
この三階の部屋は、なんとなく、≪鉄のとびらの間≫とか≪鏡の間≫とか呼ばれていたが、それは、たくさんの小さな鏡が、むき出しの石の壁にさびた釘でじかにうちつけられていたからである。奇妙な気取りが野蛮と混じりあっていた。ここから上にある部屋は防禦《ぼうぎょ》には役立ちそうもなかったから、この鏡の部屋が、城砦技術の創始者であるマネソン=マレの言うように、『防備軍が降服することになる最後の拠点』となっていた。すでにのべたような防備も、攻囲軍がこの部屋まではいってこないようにするためだった。
この三階の円形の部屋は銃眼から明かりをとるようになっていたが、いまは一本の松明《たいまつ》がこの部屋を照らしていた。この松明《たいまつ》は一階の広間のと同じような鉄の篝篭《かがりかご》に立ててあったが、これにはイマーニュスが火をつけておいた。またイマーニュスはこの松明《たいまつ》のすぐそばに、硫黄《いおう》をぬった火なわの先端を置いていた。おそるべき用意だった。
一階の広間の奥の、長い台架の上にはたべものが置いてあって、それはまるでホメロスの叙事詩にでてくる洞窟《どうくつ》みたいだった。たべものは、いく枚もの大皿にもった米、黒むぎの粉を牛乳でにこんだ粥《かゆ》であるフュール、こまかくきざんだ仔牛《こうし》の肉であるゴドニヴェル、こむぎ粉とくだものの白煮であるユイシュポットのロール、バドレ、りんご酒のつぼといったものだった。すきなときにのんだり食べたりできるようにしてあったのだ。
砲声をきいて防備軍全員は気を引きしめた。もう三十分の猶予《ゆうよ》しかなかったのだ。
イマーニュスは塔のてっぺんで攻囲軍が近づいてくるのを監視していた。ラントナックは、撃たないで近づくだけ近づかせろ、と命令していた。彼はこう言っていた。
「敵は四千五百もの軍勢だ。城からうってでて戦ってもむだだ。中へ引きいれてから殺すしかない。敵が中へはいってきたら、われわれの力も敵と平等になる」
それから、笑いながら、こうつけくわえた。「平等と友愛というわけだな」
敵が動きはじめたら、イマーニュスが猟用ラッパを吹いて知らせることになっていた。
みんなは後陣《ルティラード》の背後や階段のステップの上にひそみ、片手にマスケット銃、もういっぽうの手にロザリオをにぎって、ひっそりと待ちかまえていた。
状況ははっきりしていた。つまり、つぎのとおりである。
攻囲軍にとっては、よじのぼらなければならぬ裂け目、押しやぶらなければならぬバリケード、ひとつひとつ戦っては奪取しなければならぬ三つの部屋、雲霞《うんか》のような銃弾をくぐって、一段一段確得しなければならぬ螺旋《らせん》階段があった。そして防備軍には死が待ちかまえていたのである。
七 攻撃準備
ゴーヴァンの側では、今にも攻撃命令をかけようとしていた。彼はシムールダンに最後の指示をいろいろあたえた。シムールダンは、読者もご記憶のとおり、戦闘には参加しないで、台地を守ることになっていた。またゴーヴァンはゲシャンに対して、状況監視のため、主要部隊をひきいて森の野営地に待機するよう命令した。それから、防備軍が出撃したり逃亡の気ぶりを見せたりしなければ、下の森の砲兵隊も上の台地の砲兵隊も砲撃しないことになっていた。ゴーヴァンは裂け目を攻撃する縦隊を指揮する予定だった。そして、このことがシムールダンを苦しませていたのだった。
ちょうど日が沈んだばかりだった。
広漠たる平野にそびえる塔は海のまっただ中に浮かんでいる船に似ている。だから、攻撃するのにも船と同じ方法でやるべきである。単なる襲撃を加えるよりも激しくぶつかっていくほうがよかった。大砲も使わないほうがよい。役にたたないものは使わないほうがよいのだ。十五フィートもの厚い壁を砲撃したって、いったいなにになるというのか? 船の舷門のような穴を、攻めるほうは突破しようとし、守るほうはふさごうとする。そこで必要なのは、おの、短刀、ピストル、鉄拳、歯といったものだった。
ゴーヴァンはラ・トゥールグを奪取するにはこうした方法しかないと思っていた。しかし両者たがいに顔をつきあわせての白兵戦ほどすさまじいものはない。ゴーヴァンは、この塔で少年時代を送っただけに、そのおそるべき内部のことをよく知っていた。
彼は深く考えこんでしまった。
こうしたあいだにも、ゴーヴァンから五、六歩はなれたところで、副官のゲシャンが望遠鏡を手にして、パリニェのほうの地平線を注意深くうかがっていた。とつぜん、ゲシャンが叫んだ。
「おお! やっときた!」
この叫び声をきいて、ゴーヴァンがもの思いからさめた。
「どうした、ゲシャン?」
「隊長、梯子《はしご》がきました」
「救助用の梯子のことか?」
「そうです」
「なんだと? まだとどいていなかったのか?」
「はい、隊長。それでわたしは心配していたのです。ジャヴネへいかせた至急便は、もう戻っていたのです」
「それは、おれも知っている」
「至急便の報告では、ジャヴネの大工のところで、あつらえむきの寸法の梯子を見つけたということです。そして、その梯子を徴発して荷馬車に積みこみ、十二人の騎兵の護衛を集め、梯子をのせた荷馬車が護衛に守られてパリニェに向け出発するのを見たそうです。それだけのことをしてから、至急便は全速力で引きかえしてきたのです」
「その報告はわれわれにとどいている。それから、荷馬車は充分の数の馬で引かれ、午前二時ごろあちらを発《た》ったのだから、日暮れ前にはこちらにつくだろう、という報告もあった。おれは以上のことを全部知っている。で、それから、どうなったのだ?」
「それで、隊長、日はとっくに沈んだのに、梯子を運ぶ荷馬車はまだ到着していないのです」
「そんなわけはないだろう? しかし、とにかく、もう攻撃しなければならん。もう猶予《ゆうよ》はできない。ぐずぐずしていると、城の連中はわれわれがしりごみしていると思うだろう」
「隊長、攻撃はできますよ」
「しかし、攻撃には救助の梯子が必要だ」
「ええ」
「しかし、梯子はない」
「すぐ手にはいります」
「なんだと?」
「だから、わたしがさっき『ああ! やっときた!』と、言ったのです。荷馬車が到着しないので、わたしは望遠鏡でパリニェ、ラ・トゥールグ間の道を監視していたのです。で、隊長、わたしは安心したのです。荷馬車が護衛に守られて、そこまできているからです。今、丘をおりています。ほら、見えるでしょう」
ゴーヴァンは望遠鏡を手にとって、のぞきこんだ。
「ほんとうだ。やってくる。日がくれてしまっているので、はっきりとは見えないがな。でも護衛が見えるから、たしかにあれにちがいない。ただ、護衛は、君がさっき言った数より少ないような気がするな、ゲシャン」
「わたしもそう思いますよ」
「約十町はなれている」
「隊長、救助用の梯子は十五分ほどで到着しますよ」
「攻撃できるぞ」
事実、到着したのは一台の荷馬車ではあったが、二人が思っていた荷馬車ではなかった。
そのとき、ゴーヴァンがふりかえると、背後に、ラドゥーブ軍曹が直立不動の姿勢をし、両眼をふせて、軍隊式の敬礼をしていた。
「なんだ、ラドゥーブ軍曹?」
「隊長、わたしたち赤帽大隊《ボネ・ルージュ》の連中は隊長におねがいがあるのですが」
「どういうねがいか?」
「わたしたちに死なせてほしいのです」
「なに!」と、ゴーヴァンが言った。
「おゆるしいただけますか?」
「そりゃ……ことによっては」と、ゴーヴァンは言った。
「隊長、ドルでおこった事件以来、隊長はわたしたちをだしおしみしていらっしゃいます。わたしたちはまだ十二名もおりますのに」
「それで?」
「これでは、わたしたちの面目がたちません」
「君たちをとっておいてあるのだ」
「わたしたちは尖兵《せんぺい》になりたいのです」
「しかし、戦闘の最後の成功を決定するというときには、君たちが必要なのだ。それまで、君たちをとっておきたいのだ」
「それは、だしおしみというものです」
「それはどうでもよい。君たちは縦隊の中に編入されている。縦隊といっしょに突撃するのだ」
「それも、しりから突撃するのです。先頭にたって進むのがパリの大隊の権利です」
「よし、考えておこう、ラドゥーブ軍曹」
「きょう考えていただきたいのです、隊長。きょうこそチャンスです。ものすごい足かけ戦法を敵にくわせるか、敵からくわせられるかという瀬戸ぎわなんです。激戦になるでしょう。ラ・トゥールグは自分にふれる指をやいてしまうでしょう。わたしたちはなんとか指をやかれたいのです」
軍曹はちょっと言葉を切って、ひげをひねると、声を変えて、またしゃべりだした。
「それから隊長、隊長もご存じのように、あの塔の中には、わたしたち大隊のガキどもがいるのです。あの塔の中には、大隊の子どもが、わたしたちの三人の子どももいるのです。ところが、あの中には、また、おそろしいつらをした≪しりなめ野郎ども≫が、共和政府軍《あお》破りだとかイマーニュスだとかあだ名のついているグージュ=ル=ブリュアン、ブージュ=ル=グリュアン、フージュ=ル=トゥリュアンなんていうやつが、ばちあたりの悪魔野郎がいて、わたしたちの子どもを脅迫しているんです。わたしたちの子ども、わたしたちのちびすけどもをですよ、隊長。
で、いざどんどんぱちぱちがおっぱじまっても、あの子たちだけは不幸な目にまきこみたくないのです。ねえ、大将、この気持がおわかりですか? あの子たちだけはまきこみたくないのです。さっきも、休戦期間を利用して、台地にのぼってきたんです。そして、窓から塔の中をのぞいてきました。子どもたちはたしかにあの中にいます。掘れみぞの土堤から見えました。
わたしがのぞくと、あの子たちはこわがってふるえていました。隊長、あのちび天使たちのかわいい頭の毛が一本でも落ちるようなことがあったら、この軍曹ラドゥーブ、ありとあらゆる聖なるものの千万の御名にかけて誓いますが、わたしは永遠の父である神の骸骨を告発します。大隊のものたちも、『ちびたちが救われるか、われわれ全員が殺されるか、どっちかだ』と、言っております。なんてったって、これはわたしたちの権利ですよ! そうです、みんな殺される権利があるんです! 以上です」
ゴーヴァンは手をラドゥーブのほうにさしだして、こう言った。
「君たちは勇敢な兵士だ。君たちを攻撃隊にくわえよう。二隊にわけよう。六人は前衛部隊にくわわって前進するのだ。のこりの六人は後衛部隊にくわわって、味方の退却を監視しろ」
「まだ、わたしが十二名の指揮をとるのですか?」
「もちろんだ」
「では、隊長、お礼を申しあげます。わたしは前衛部隊にくわわれるのですから」
ラドゥーブはもう一度敬礼をすると、隊列の中へ引きさがった。
ゴーヴァンは懐中時計をとりだすと、ゲシャンの耳もとになにやらささやいた。そして、攻撃隊が隊形をとりはじめた。
八 言葉とほえ声
このあいだ、シムールダンはまだ台地の守備位置についていなくて、ゴーヴァンのそばに立っていたが、ラッパ手に近よると、こう言った。
「ラッパを吹いて猟用ラッパに合図しろ」
軍用ラッパが鳴ると、猟用ラッパが答えた。
軍用ラッパと猟用ラッパはさらに一度合図しあった。
「どうしたのか?」と、ゴーヴァンがゲシャンにたずねた。「シムールダンはどうしようっていうのだ?」
シムールダンが片手にハンカチをもって塔に歩みよった。そして、大声をはりあげた。
「塔のものども、このわしがだれだかわかるか?」
あの声、イマーニュスの声が塔のてっぺんから答えた。
「ああ、知っているとも」
それからふたつの声が話しあい、答えあった。それはつぎのとおりだった。
「わしは共和国から派遣されてきた」
「おまえはパリニェのもと主任司祭だ」
「わしは公安委員会の派遣議員だ」
「おまえは坊主だ」
「わしは法の代表者だ」
「おまえは背教者だ」
「わしは革命政府の委員だ」
「おまえは変節漢だ」
「わしはシムールダンだ」
「おまえは悪魔だ」
「わしを知っているんだな?」
「ああ、おまえを知っている」
「わしを屈服させたら満足するだろう?」
「おまえをつかまえられたら、ここにいる十八人は首をやるぞ」
「よし。わしは自分を君たちに引きわたしにきたのだ」
このとき、塔のてっぺんでどっと笑う荒っぽい声がわきおこり、中からひとつの声がこう叫んだ。
「やってこい!」
塔の下の野営軍は、ことのなりゆきを見守って、しんと静まりかえっていた。
シムールダンがまた口をひらいた。
「ひとつ条件がある」
「どういう条件だ?」
「よくきけ」
「言ってみろ」
「わしがにくいか?」
「にくい」
「しかし、わしは君たちを愛している。わしは君たちの兄弟だ」
「そうだ。カインだ」〔旧約聖書の中で、嫉妬と憎悪のため弟アベルを殺し、神に罰せられた人物〕
シムールダンは高いけれどもやさしい奇妙な口調で、また話しはじめた。
「侮辱するがよい。しかし、わしの言うことをきけ。わしはここへ軍使としてやってきたのだ。そうだ、君たちはわしの兄弟だ。君たちは道に迷ったあわれなものどもだ。わしは君たちの友人なのだ。わしは光で、いま、無知に向かって話しているのだ。光はつねに友愛をいだいている。その上、われわれはみな、祖国という同じ母親をもっているのではないか? だから、わしの言うことをよくきくがいい。
現在おこっていることが、天の法を完成するものの手でおこなわれていることが、そして、革命の中にあるのは神であることが、やがて君たちにもわかるだろう。君たちにわからなくても、君たちの子には、その子どもの子どもにはわかるだろう。しばらくすれば、すべての良心にとって、君たちの良心にとっても、このことがわかるときがくるだろう。そしてあらゆる狂信が、われわれの狂信すらも、消えてしまい、この大いなる光がもたらされることだろう。それなのに、君たちの暗い無知をあわれまないものがいるだろうか? わしが君たちのところにやってきたのは、この首を君たちにあたえるためなんだ。そればかりか、君たちに手をさしだしているのだ。だから、後生だから、君たちを救うために、このわしを殺してくれ。わしは全権をもっているから、言ったことはかならず実行できるのだ。
さあ、いちばん大切なときだぞ。わしは最後の努力をしているのだからな。そうだ、こうして君たちに話しかけているのは市民なのだ。しかし、この市民であるわしの中には僧侶もひそんでいるのだ。市民は君たちと戦うが、僧侶は君たちに嘆願するのだ。わしの言うことをよくきけ。君たちの大部分は妻や子をもっているはずだ。わしは君たちの妻や子を守ってやろう。君たちがいやだと言っても守ってやる。おお、わしの兄弟たちよ……」
「ああ、説教するがいい!」と、イマーニュスがあざ笑った。
シムールダンが話しつづけた。
「兄弟たちよ、呪《のろ》うべき時をこさせないでくれ。みんなはここで、殺しあおうとしているのだ。今、君たちの目の前にいるわれわれの中にも、あすの太陽を見られないものがおおぜいいるはずだ。そうだ、われわれの中にもおおぜい死者がでるだろう。そして、君たちだって、君たちは全滅してしまうだろう。君らは、おのおの自分を大切にしなければならない。むだだというのに、なぜ、こんなにたくさんの血を流すのか? 二人だけで充分だというのに、なぜ、これほどおおくの人間を殺すのか?」
「二人というのはなんだ?」と、イマーニュスが言った。
「そうだ、二人だ」
「だれのことだ?」
「ラントナックとわしの二人だ」
ここで、シムールダンはひときわ声を高くした。
「二人の男が余計なんだ。われわれにとってはラントナックが、君たちにとってはこのわしがな。そこで、わしはこう提案したい。次第によれば、君たちの生命《いのち》はみんな助かるのだ。提案とは、ラントナックをわれわれに引きわたし、わしを連れていけ、ということだ。ラントナックは断頭台にかける。わしは君たちの好きなようにすればよい」
「坊主」と、イマーニュスがわめいた。「もしおまえをつかまえたら、弱い火でゆっくりとやいてやるぞ」
「けっこうだ」と、シムールダンが言った。
それから、また話しつづけた。
「その塔の中にいる君たちはみんな死刑を宣告されている。しかし、一時間後には、みんな、生きてそこからでられるのだ。わしは君たちにすくいをもってきたのだ。さあ、わしの提案を受けいれるか?」
イマーニュスがはじけるようにどなった。
「おまえは極悪人であるばかりか、おまけに気ちがいだぞ。ぐずぐずほざいて、なんだってじゃまするのだ? いったいぜんたい、だれがおまえに、しゃべりにきてくれとたのんだい? ご領主さまを引きわたせだと! いったい、おまえはなにがほしいんだ?」
「領主の首だ。そして、わしを君たちにやる……」
「ああ、おまえの皮をな。おまえの皮を犬のようにひんむいてやるぞ、シムールダン坊主。だが、提案はのむわけにいかん。おまえの皮など、ご領主の首とは比較にならん。さっさと立ち去れ」
「おそろしいことがおこるぞ。これが最後だ。よく考えろ」
この塔の中でもそとでもきかれたすさまじい会話がつづけられているあいだに、やがて夜がやってきた。ラントナック侯爵は黙って、ことのなりゆきにまかせていた。親玉はこういう陰険なエゴイスムをもっているものだ。それは責任者たるものがもっている権利のひとつである。
イマーニュスがシムールダンの頭越しにこう叫んだ。
「われわれを攻撃している諸君、こちらの提案はすでに話したとおりだ。この提案は絶対に変えない。これを受けいれろ、さもないと、とんでもないことになる! さあ、提案をのむか? 塔の中にいる三人の子どもたちは君たちにかえそう。そのかわり、われわれを自由に塔からだすのだ。われわれ全員をだすのだ」
「よし、全員でていけ」と、シムールダンが答えた。
「ただし、ひとりをのぞいてだ」
「だれだ?」
「ラントナックだ」
「ご領主だと! ご領主を引きわたせだと! それはだめだ」
「われわれにはラントナックが必要なのだ」
「だめだと言ったらだめだ」
「この条件以外では取り引きできん」
「じゃ、攻撃をはじめろ」
あたりが静まりかえった。
イマーニュスは猟用ラッパで合図のひとふきをすると、塔のてっぺんからおりた。侯爵が剣をにぎった。十九名の防備軍は、黙って一階広間の後陣《ルティラード》の背後に集まり、折りしき態勢にはいった。
やがて、暗やみの中を塔に向かって進んでくる攻撃隊のゆったりと規則正しい足音がきこえてきた。それから、とつぜん、その足音がすぐ近くの裂け目の入口にしのびよる気配が感じられた。そこで、防備軍は折りしき態勢のまま、小銃やラッパ銃を後陣《ルティラード》のすきまにいれて構えた。
そのとき、テュルモー師のグラン=フランクールが立ちあがり、右手に抜身《ぬきみ》のサーベルをにぎり、左手に十字架像をにぎって、おごそかな声で言った。
「父と子と聖霊の御名《みな》によって!」
全員が一度に発砲し、戦闘の火ぶたが切って落とされた。
九 巨人《テイタン》対|巨人《ジェアン》
実におそるべき戦いになった。
肉弾あい撃つ戦いは、あらゆる想像を越えていた。
これに似た戦闘を見つけようとしたら、アイスキュロスが悲劇で描いている大決闘か、封建時代におこなわれた大|殺戮《さつりく》までさかのぼらなければならない。こうした≪短い武器による攻撃≫は、十七世紀までおこなわれた。これで戦う場合、予備|堡塁《ほるい》から城砦に侵入した。それはすさまじい攻撃の仕方で、これについては、アランテージョ地方出身の老軍曹が次のように言っている。
『地雷爆破が成功すると、攻囲軍はブリキの刃をいっぱいくっつけた板をもち、内楯や防楯《マントレ》に身をかため、大量の手榴弾《しゅりゅうだん》をもって前進するだろう。こうして、防備隊に塹壕《ざんごう》や後陣《ルティラード》をすてさせ、猛攻をくわえて、なにがなんでも城砦を占領するだろう』と。
攻撃目的はおそるべき場所にあった。それは専門用語で≪穹窿《きゅうりゅう》下口≫と呼ばれている裂け目だった。つまり、読者もご記憶のとおり、壁をつらぬいて作った裂け目で、上のほうにいくにしたがって口が朝顔形にひらくようにくずしたものではなかった。そして、火薬はちょうど錐《きり》のような働きをした。地雷の効果は激烈だったから、塔には坑道の上が四十フィート以上も、爆発で裂け目ができてしまった。しかし、この裂け目も、しょせんは壁の亀裂にすぎないもので、裂け目として役立ち、一階の部屋へはいる入口を作るこの実用的な亀裂は、中身までざっくりとえぐるおのの一撃による傷より、ちょっとひと突きする槍の一撃でできた傷に似ていた。
それは塔の腹にうがたれた穴で、深く内部にのびている長いわれ目だった。また、たとえば、地上で横にした井戸のようなもの、十五フィートの厚さの壁をぬけて腸のようにまがりくねり、せりあがっていく廊下のようなものだった。障害物、わな、爆破されたものなどでふさがっている、ちょっと言いあらわしようのないくらいぶかっこうな円筒だった。この中にはいると額は花崗岩《かこうがん》にぶつかり、足はちらばっている残骸にぶつかり、目はまっ暗闇にぶつかってしまうのだった。
攻撃軍は目の前にこうしたくろぐろとした玄関を見ていた。この地獄の口からは、切りきざまれた壁石の断片が、上あごと下あごのようにつきだしていた。鮫《さめ》の口だって、このおそるべき石の口ほどおおくの歯をもっていないのだ。しかも、この裂け目から中に突入し、この裂け目から脱出しなければならなかった。
この裂け目の中では、霰弾《さんだん》がとびちり、そとにでれば後陣《ルティラード》が待ちかまえていた。この場合、そととはつまり、一階の広間の中ということだった。
この坑道の中で地雷をしかけようとする工兵と、これを除去しようとする工兵とがぶつかりあうか、あるいは、海戦のさいちゅうに、舷をくっつけあった軍艦の中甲板の下でおので殺しあうかする接近戦しか、この裂け目の中の戦闘のすさまじさに匹敵するものはないのである。深い穴の深奥で戦闘することこそ、恐怖の極致と言うべきである。
頭上まじかに天井がせまっているところで殺しあうとは、おそるべきことである。攻撃軍の先頭隊が侵入すると、全|後陣《ルティラード》はたちまち銃火に包まれてしまった。まるで地下で雷鳴がおこったようだった。攻撃軍の雷鳴が待ち伏せ軍の雷鳴に答えたのだ。両者の爆発音が呼びかわしていた。
その中でゴーヴァンの叫び声があがった。「突撃!」
すると、ラントナックの叫び声が答えた。「敵にゆだんするな!」
次にイマーニュスの叫び声がきこえた。「メーヌのものたち、おれにつづけ!」
それから、サーベルとサーベルとがぶつかりあって、がちゃがちゃ鳴る音がきこえるかと思うと、あたるをさいわい、なぎたおそうとするすさまじいいっせい射撃がつづけてきこえた。壁にかけてある松明《たいまつ》が、このおそろしい光景をうすぼんやりと照らしていた。なにがなんだかさっぱりわからなかった。まわりは、赤味がかった暗闇に包まれていた。この中にはいりこむものは、たちまち、めくらになりつんぼになった。すさまじい爆音でつんぼになり、ものすごい煙でめくらになってしまうのだった。
戦列から落伍《らくご》したものたちが、ちらばった残骸の中に横たわっていた。攻撃軍は死体をのりこえて進み、負傷者の傷をふみつぶし、手足をもがれてうめき声をあげるものたちをうちくだいた。ときには、足を瀕死《ひんし》の傷兵にかまれることもあった。また、ときによると、あたりがしんと静まってしまうことがあったが、こんな静けさはごう音よりもおそろしかった。それは、一騎打ちがおこなわれているからで、戦うもののおそろしい息づかいや、歯ぎしりや、あえぎや、呪いの言葉などがきこえていた。それから、また雷鳴がひびきはじめた。塔の裂け目から血がどっと流れだし、やみの中でひろがった。この黒い血の溜《たま》りは、そとにでると、草の中で湯気をたてた。
まるきり、塔自体が血を流し、巨人が傷ついているみたいだった。
ところで、おどろくべきことに、こうしたいくさの音は、そとにはほとんどきこえてこなかった。非常に暗い夜だったので、攻撃されている城砦の周囲の野や森は、一種うす気味の悪い静けさに包まれていた。塔の中にはいれば地獄、そとに出ると墓場だった。暗闇の中で殺しあう人間たちのぶつかりあう音、銃のいっせい射撃、喚声、怒号、これらありとあらゆる騒音も、厚く重い壁やドームに包まれて、かき消されてしまうのだった。音をひびかせるだけの空気がないからで、虐殺する音も窒息させられてしまうのだった。こうして、塔のそとにいると、中の物音はほとんどきこえなかったのだ。だから、こうした戦いのさ中にも、あの子どもたちは眠りつづけていた。
戦いはますます激しくなった。後陣《ルティラード》はなかなかくずれなかった。こういうくぼんだバリケードくらい、破るに困難なものはない。防備軍は数の点では相手におとっていたとしても、地の利という点では優勢だった。そのため、攻撃軍はおおぜいの兵力を失った。攻撃軍は塔の足もとで長く一列に並び、裂け目の入口にゆっくりとはいりこんでいったが、まるで穴にはいっていく蛇《へび》のように隊形をちぢめていた。
若い指揮官らしく無謀なところのあるゴーヴァンは、まわりにとびかう霰弾《さんだん》の下をくぐっていき、乱戦のもっとも激しい一階の広間にとびこんでいった。さらに言い添えるべきは、ゴーヴァンが、一度も負傷したことがないものがもっている、あの自信をもっていたことである。
彼がふり向いて命令しようとしたとたん、いっせい射撃がおこって閃光がひらめき、それが彼のすぐそばにいたひとりの人物の顔を明るく照らした。
「シムールダン!」と、彼は叫んだ。「ここへなにしにきたんですか?」
まさしくシムールダンだった。シムールダンが答えた。
「君のそばにいようと思ってな」
「こんなところにいたら殺されます!」
「君こそここでなにをしているのだ?」
「わたしはここにいなければならないんです。でも、あなたはちがう」
「君がここにいるんだから、わしもここにいなけりゃならんのだ」
「いけません、先生」
「いいんだよ、むすこ」
こうして、シムールダンはいつまでもゴーヴァンのそばにくっついていた。
一階の広間の敷石の上には、死者が折り重なってたおれていた。
後陣《ルティラード》はまだ破られていなかったとはいえ、やがて数をたのむ攻撃軍が奪取することは目に見えていた。攻撃軍は身を守る手だてがなかったが、防備軍はかくれ場所をもっていたので、防備軍がひとりたおれるあいだに攻撃軍は十人たおれた。しかし攻撃軍はつぎつぎに増強していった。つまり攻撃軍はふえていたが、防備軍はへっていったのである。
十九名の防備軍は全員|後陣《ルティラード》のかげにかくれていた。攻撃がそこに集中していたからだった。死んだものもいたし傷ついたものもいた。戦っているものはせいぜい十五名ぐらいにすぎなかった。中でもいちばん勇猛なシャント=アン=ニヴェールは無残にも手足をめちゃめちゃに切りきざまれていた。彼は太って背が低く、ちぢれ髪のブルターニュ人だったが、小兵のくせにがんばりがきいた。彼は片方の目をえぐりとられ、あごをうちくだかれていた。それでもまだ歩くことができた。彼はお祈りして死ねるようにねがいながら、からだを引きずって螺旋《らせん》階段をよじのぼり、二階の部屋にはいっていった。
彼は少し空気を吸おうとして、銃眼のそばの壁にもたれた。
下では、後陣《ルティラード》の前で展開されている虐殺がいよいよすさまじくなっていた。いっせい射撃の合間に、シムールダンが大声をあげた。
「防備軍!」と、彼は叫んだ。「なぜ、これ以上長く血を流させようというのか? 君たちはもう囲まれてしまっているのだ。降服しろ。十九人対四千五百だ、二百対一以上だぞ、そこを考えろ。さあ、降服しろ」
「しゃれた口のききかたをするな」ラントナック侯爵が答えた。
そして、シムールダンに対して、二十発の銃弾が返答した。
後陣《ルティラード》はドームの高さまでなかったので、防備軍はその上から撃つことができた。しかし、反対に攻撃軍のほうでも、この後陣《ルティラード》をよじのぼることができた。
「後陣《ルティラード》攻撃開始!」と、ゴーヴァンが叫んだ。
「だれか、後陣《ルティラード》によじのぼろうというものはおらんか?」
「わたしがのぼります!」と、ラドゥーブ軍曹が答えた。
十 ラドゥーブ
ここで、攻撃軍がびっくりするようなことがおこった。ラドゥーブは攻撃軍の先頭にたって、八番めに裂け目からはいったのだが、パリ大隊の六人のうち四人までが、すでにたおれてしまっていた。
「わたしがのぼります!」と叫んだのに、そのあと彼は前進しないで、後退してしまった。そして、頭をさげ、からだをかがめて、ほとんど攻撃軍兵士たちの足のあいだをはうようにして、裂け目の入口までいくと、そとへとびだしてしまったのだ。逃亡をくわだてたのだろうか? これほど勇敢な男が逃亡するのか? これはいったいどういうことなのだろう?
裂け目のそとにでたラドゥーブは、硝煙《しょうえん》のためにまだ目が見えなかったので、まるで恐怖と夜を払いのけるように目をこすった。それから、星影の光ですかしながら、塔の壁をながめた。それから、『おれはまちがっていなかった』とでもいいたげに満足そうにうなずいた。
ラドゥーブは、地雷爆破でできた深い亀裂が、裂け目の上のほうにのび、あの砲弾が命中して鉄格子を引きはがしてしまった二階の銃眼のところまでとどいていることに、気づいていたのだった。引きはがされた格子の網目が半分はがれてぶらさがっていたから、そこから人間一人くらいはいることができたのだった。
人間が一人通ることはできるだろうが、そこまで人間がのぼっていかれるだろうか? ねこだったら、危裂をつたわってのぼっていかれるだろう。
ところが、ラドゥーブはこのねこみたいな人間だった。彼はギリシアの詩人ピンダロスが≪敏捷《びんしょう》な闘技者≫と呼んだ種族に属する人間だった。たとえ古参であっても、若者のようにふるまえる人間もいるのだ。ラドゥーブは以前、近衛兵《このえへい》だったことがあるが、まだ四十歳になっていなかった。彼はすばしこいヘラクレスみたいな人間だった。
ラドゥーブはラッパ銃を地面に置き、皮具をはずし、上衣とチョッキをぬぎすてると、ズボンのベルトに二ちょうのピストルをはさみ、口に抜身のサーベルをくわえたほか、なにひとつ身につけなかった。二ちょうのピストルのつかがベルトの上に突きでていた。
こうして無用なものをすてて身軽になり、まだ裂け目の入口にいる攻撃軍全員が暗やみから送ってくるまなざしに見送られて、ラドゥーブは塔の壁の亀裂を、まるで階段をのぼるように一歩一歩のぼりはじめた。靴をはいていないのが、かえって役にたった。はだしほどよじのぼるに好都合なことはない。彼は石の穴の中で足指をちぢめた。両手首でからだを引きあげ、ひざを使ってからだをしっかりとささえた。よじのぼることは困難だった。なにか、鋸《のこぎり》の歯でもよじのぼっていくみたいだった。(さいわい)と、彼は考えた。(二階の部屋にはだれもいない。いたら、こんなふうにのぼっていくおれをほうってはおかないからな)
彼はこういう方法で四十フィートはのぼらなければならなかった。二ちょうのピストルの突きだしているつかが多少じゃまになると思いながらのぼっていくにつれ、亀裂は少しずつせばまっていき、のぼるのはますますむずかしくなっていった。足下の絶壁の深さに比例して、墜落の危険が増していった。
とうとう彼は銃眼のはしにたどりついた。ねじまげられ、こじあけられた格子をおすと、すり抜けられる広さが充分にできた。思いっきり力をこめてあがると、ひざを銃眼のへりからでてくる軒蛇腹《のきじゃばら》にかけ、片手で右の格子のはしをつかみ、反対の手で左の格子のはしをつかむと、銃眼のくぼみの前で、からだを半分までもちあげた。口にサーベルをくわえ、両手首で奈落の上にからだをぶらさげていた。
二階の広間にとびこむには、もうひとまたぎするだけだった。
ところが、ひとりの人間の顔が銃眼の中に現われた。ふいにラドゥーブは目の前の暗やみの中になにかおそろしげなものがいるのに気づいた。それは片目をえぐりとられ、あごをくだかれ、血にまみれた仮面《マスク》だった。
このまなこをひとつしかもっていない仮面《マスク》が、ラドゥーブをながめていた。
この仮面《マスク》は二本の手をもっていたが、その手が暗やみからラドゥーブのほうへぬっとでてきた。片手はひとつかみでラドゥーブのベルトから二ちょうのピストルを抜き、反対の手はラドゥーブの口のサーベルを奪った。
ラドゥーブは丸腰になってしまった。ひざが傾斜した軒蛇腹の上をすべり、ふたつの手首で格子のはしをにぎりしめて、やっとからだをささえていた。そして背後には、四十フィートの絶壁がひかえていた。
この仮面《マスク》と二本の手の正体はシャント=アン=ニヴェールだったのだ。
シャント=アン=ニヴェールは、たちのぼってくる硝煙《しょうえん》に窒息しながら、やっと銃眼のくぼみの中にはいることができ、そこで外気を吸って気力を回復した。つめたい夜気が流れる血を凝固《ぎょうこ》させた。そこで多少力をつけたとき、とつぜん、ラドゥーブの半身が銃眼の外側に現われたのだった。このとき、ラドゥーブは両手で格子をにぎりしめていたので、下に落ちるか、武装解除されるままになっているか、どちらか選ぶほかしかたがなかった。だから、おそるべきシャント=アン=ニヴェールは、ゆうゆうとラドゥーブのベルトのピストルと口のサーベルをとりあげてしまったのだ。
世にもめずらしい決闘がはじまった。丸腰の男と傷を負った男の決闘だった。
明らかに勝利者は瀕死の男のほうらしかった。ただの一発で充分、ラドゥーブを足下に大口あいている奈落につき落とすことができたからだ。
しかし、ラドゥーブにとってさいわいなことに、シャント=アン=ニヴェールは片手に二ちょうのピストルをにぎってしまったので、一ちょうのほうだけ撃つわけにはいかず、サーベルを使うしかなかった。彼はサーベルのきっ先をラドゥーブめがけてつきだした。このサーベルの一撃はラドゥーブを傷つけたが、同時に彼を救うことにもなった。
ラドゥーブは武器こそもっていなかったが、力だけは充分にあった。それで、骨まで通らないようなかすり傷などものともせず、ふいに前にはねると、格子から手をはなして、銃眼のくぼみの中にとびこんだ。
ここで彼はシャント=アン=ニヴェールと顔をつきあわせてしまった。シャント=アン=ニヴェールはサーベルを背後に投げて、両手にそれぞれ一ちょうずつピストルをにぎっていた。シャント=アン=ニヴェールはひざをたてると、ほとんど銃口にふれんばかりに近くにいるラドゥーブをねらったが、よわっている腕がぶるぶるとふるえ、すぐには発射することができなかった。
彼がぐずぐずしているすきを見て、ラドゥーブが大声で笑った。
「おい」と、彼は叫んだ。「なんて顔してやがるんだ! うしのシチューみたいな口におれさまがこわがるとでも思ってるのかよ? この野郎、かわいらしい顔をよくもぶっこわされたもんだなあ!」
シャント=アン=ニヴェールがラドゥーブをねらった。
ラドゥーブはしゃべりつづけた。
「口にするこっちゃねえが、よくも、霰弾《さんだん》でつらをえらくしわくちゃにされたもんだなあ。かわいそうに、ベローヌさまに顔をおっつぶしていただいたってわけだな。さあ撃て、撃ってみろ、へなちょこだまを撃ってみろよ」
弾丸は発射されたが、それはラドゥーブの顔をかすめ、片方の耳を半分もぎとった。シャント=アン=ニヴェールがふたつめのピストルをにぎったほうの腕をあげたが、ラドゥーブはねらいをさだめるすきをあたえなかった。
「片方の耳だけでたくさんだ」と、彼は叫んだ。「おめえは二度もおれを傷つけやがった。こんどこそ、おれがやるばんだ!」
そして、シャント=アン=ニヴェールにとびかかると、その片腕を宙にはねつけたので、弾丸はとんでもない方向へとんでいってしまった。それから、ラドゥーブはシャント=アン=ニヴェールをひっつかむと、脱臼《だっきゅう》しているあごをなぐりつけた。
シャント=アン=ニヴェールは、悲鳴をあげて気を失ってしまった。
ラドゥーブは彼をまたぐと、彼を銃眼のくぼみの中に置きざりにした。
「最後の引導をわたしてやったんだ」と、彼は言った。「もう動くんじゃないぞ。そこで休んでろ、意地ぎたねえ蛇めが。おれにゃ、おめえを今からなぶり殺しにしてたのしもうっていう了見はねえんだから、そう思え。安心して床の上でもはってろ、なあ、おれの古ぐつの同市民よ。いずれにしたって、おめえは死ぬんだ。おめえの味方の坊主が言ってたとおり、なにもかもばかげたじょうだんだってことが、すぐにわかるだろうよ。どん百姓め、わけのわからんなぞの国へいっちまえ」
それから、彼は二階の広間へとびこんでいった。
「ちっとも見えねえな」と、彼はつぶやいた。
シャント=アン=ニヴェールがけいれんをおこし、瀕死の苦しみの声をはりあげた。ラドゥーブがふり向いて言った。
「しっ! たのむから静かにしていろ。おめえは知らねえだろうが、おめえだって市民《シトワイヤン》じゃねえか。おめえのめんどうなんか見てるひまはねえんだぞ。おめえにとどめを刺してやるなんて、いやだからな。静かにしていろってんだ」
それから、シャント=アン=ニヴェールをじっと見つめながら、落ちつかぬふうで、片手を髪の中につっこんだ。
「さて、どうしたらいいか? まずは上等にいったが、おれは武器を持ってねえ。二発発射できるようにしておいたのに、おめえが二発とも撃っちまった、ばか野郎! それに、この煙はどうだ、まるきり目が見えねえじゃねえか!」
そして、手で引きちぎられた耳にさわってみて悲鳴をあげた。
「おお、いてえ!」
それからまた、しゃべりだした。
「おれさまの耳をひとつだけとりあげるとは、よけいなことをしてくれたな! だがな、ほかのもんをやられるよかましだな。耳なんてものは飾りみてえなもんだからな。それから、おめえ、おれの肩もちっとばかしひっかきゃがったな。ま、こいつあ、どうってこたあねえが。さあ成仏《じょうぶつ》しろ、たご作、ゆるしてやるからな」
このとき、彼は耳をすました。下の広間ですさまじい音がきこえたのだ。戦闘はそれまで以上に激烈をきわめてきていた。
「下は調子がいいらしいな。もうどうしようもねえのに、あいつら、国王ばんざいなんて言ってやがる。まずはあっぱれな往生ぎわだ」
彼の足がころがっていた彼のサーベルにつまずいた。彼はそのサーベルをひろうと、もう動かなくなり、おそらくは死んでいるシャント=アン=ニヴェールに、こう言った。
「おい、でくのぼうめ、おれがやりてえことにはな、サーベルなんてものはどうしようもねえんだ。腰にさげた友だちだと思ってひろったまでだ。おれがほしいのはピストルなんだ。それを、野蛮人めが! 悪魔にでももっていかれちまえ。ところで、どうしたらいいのかな? せっかくここへきたのに、どうしようもないじゃないか」
彼は目をこらし、方向の見当をつけながら広間の中へはいっていった。とつぜん、部屋の中央にたっている柱のかげのうす暗がりの中に、長いテーブルを見つけた。その上には、なにかぼんやり光るものがのっていた。手さぐりしてみた。それは、広口銃やピストルや騎銃などで、これらの火器は一列にきちんと並べられてあり、まるでつかんでくれる手を待っていたみたいだった。これは防備軍が戦闘の第二局面で使用しようと用意しておいた軍需品だった。部屋全体が武器庫にしてあったのだ。
「こりゃ、おおごちそうだぞ!」と、ラドゥーブが叫んだ。
そして、われを忘れて武器にとびついた。
これでもう、彼は向かうところ敵なしだった。
上の三階と下の一階に通じている階段のドアが、武器をのせてあるテーブルのすぐそばに大きくひらかれているのが見えていた。ラドゥーブはサーベルをすてると、二連発ピストルを両手に一ちょうずつつかみ、ドアの下に見える螺旋《らせん》階段へ向けて、二ちょう同時に、めちゃくちゃに発砲した。つぎにラッパ銃をつかんで発射し、さらに、鹿弾丸がいっぱい装填《そうてん》してある広口銃をつかんで発射した。広口銃から十五発の弾丸が発射されると、それはまるで霰弾《さんだん》が発射されるのに似ていた。それから、ラドゥーブは、ひと息ついてから、階段に向かって、大音声をあげた。
「パリばんざい!」
そして、前のより大きな広口銃をひっつかんで、サン=ジル式階段のまがりくねったドームの下で、銃のねらいをつけた。
下の広間は、言いようのない混乱におちいってしまった。ふいうちをくらったおどろきのため、抵抗力は腰くだけになってしまった。
ラドゥーブが三度にわたって発射した弾丸のうち二発が命中していた。一発は≪|木の槍(ピック=アン=ボワ)≫兄弟の兄のほうを殺し、一発は≪軽騎兵≫というあだ名のケラン氏を殺した。
「敵は上にいるぞ!」と、侯爵が叫んだ。
この一声が後陣《ルティラード》放棄を決定した。とびたつ鳥も、これほどはやくにげることはなかろう。全員が階段めがけて突進した。侯爵がこの敗走をはげました。
「急げ」と、彼は言っていた。「今はにげることこそ勇気というものだ。全員、三階にあがれ! 三階でもう一度戦おうではないか」
彼は最後に後陣《ルティラード》から撤退した。
そして、この勇気が彼を救うことになった。
二階の階段口で広口銃の引き金に指をかけて待ちかまえていたラドゥーブが、敗走してのぼってくる連中をねらい撃ちにしたのである。最初に螺旋《らせん》階段のまがりめに現われたものたちは、真正面から弾丸を受けて即死した。もし侯爵がそこにいたら、たちまち死んでいただろう。ラドゥーブが新しい武器を手にとっているあいだに、ほかのものたちは通過してしまい、侯爵もみんなのあとから、ほかのものたちよりゆっくりとのぼっていった。彼らは二階の部屋には攻撃軍がいっぱいいると思っていたので、そこにとまらずに、三階の広間、つまり≪鏡の間≫にはいっていった。それは、鉄のとびらがついている部屋、硫黄をぬった火なわが置いてある部屋だった。この部屋こそ、彼らが降服するか死ぬかしなければならない部屋だった。
階段の爆発音をきいて、ゴーヴァンも防備軍と同じようにびっくりして、援軍がきたのかどうかもわからないままに、また、それをあえてわかろうともしないで、チャンスを逸せず部下ともども、後陣《ルティラード》をよじのぼって、防備軍を二階まで猛追撃していった。
そこで彼はラドゥーブにあった。
ラドゥーブはまず敬礼してから、こう言った。
「しばらく、隊長。さっきの張本人はわたくしであります。ドルの戦闘を思いだしたのです。隊長と同じ要領でやったのです。敵をはさみ撃ちにいたしました」
「優等生だ」と、ゴーヴァンが笑いながら言った。
暗やみの中にしばらくいると、しまいには目が夜鳥の目のようになれてくるものだ。それでゴーヴァンも、ラドゥーブが全身血まみれであることに気づいた。
「しかし、戦友《カマラード》、君は負傷しているではないか!」
「ご心配いりません、隊長、耳がひとつあったってなくたって、それでどうしたっておっしゃるのです? サーベルでもつかれましたが、そんなこと、かまやしません。窓ガラスをこわしたときだって、たいてい、少しはけがをするものです。それに、自分の血ばかりついているわけでもありません」
ラドゥーブの手で征服された二階の広間でしばらく休憩することになった。カンテラがもちこまれ、シムールダンがゴーヴァンのところへやってきた。そこで二人は協議した。実際、よく考えてみなければならないところだった。攻囲軍は防備軍の秘密にくわしくなかった。つまり攻囲軍は、防備軍に弾薬が極度に欠乏していることも、知らなかったのだ。火薬が残り少なくなっていることも知らなければ、三階が最後の抵抗拠点であることも知らなかった。攻囲軍は階段に地雷がしかけてあるとさえ思いこんでいたのである。
確かなことと言えば、もう敵はにげだせない、ということだった。死ななかった連中だって、鍵をかけられてしまったような状態に追いこまれているのだ。ラントナックはわなにかかってしまっているのだった。
これだけは確信がもてたので、多少時間をついやしても、できるだけ最上の大詰めにもちこむことができそうだった。攻囲軍もすでにおおくの戦死者をだしていた。これからの最後の突撃で、できるだけ大量の死者をださぬよう努力しなければならなかった。
この最後の総攻撃の危険はきっと大きなものになるだろう。おそらく、最初に激しいいっせい射撃があることは覚悟しなければならないだろう。
戦闘は中断された。一階と二階をおとしいれた攻囲軍は、指揮官の命令次第で攻撃を続行しようと待ちかまえていた。ゴーヴァンとシムールダンは依然、協議をつづけていた。ラドゥーブは黙って、二人の協議を見守っていた。
とつぜん、ラドゥーブが思いきったように敬礼し、おずおずと口をだした。
「隊長」
「なんだ、ラドゥーブ?」
「ちょっとごほうびにあずかりたいんですが」
「ああ、いいとも。なにがほしいんだね?」
「わたしは先頭を切りたいのです」
これを拒否することはできなかった。それに、彼は許可などなくても、やっていただろう。
十一 絶望した人々
二階で協議がつづけられているあいだ、三階ではバリケードを作っていた。成功には狂喜がつきものであり、失敗には怒りがつきものである。二つの階にわかれている二つの軍は、やがて死にものぐるいの激突を演じようとしていた。人は勝利にちょっとふれるだけで、たちまち酔心地《よいごこち》になってしまうものである。二階の部屋には希望があった。ところでこの希望というものは、もし絶望というものが存在しなければ、人間のもつ力のうちでもっとも大きなものであろう。
その絶望は上の階にあった。
静かで、つめたくて、陰気な絶望だった。
これを破られたらあとにはなにもないという三階広間のかくれ家にはいると、防備軍はすぐ、部屋の入口をふさぐことを考えた。ドアをしめてもむだだった。それより階段をふさいでしまうほうがよかった。こういう場合、それを通して敵を見、攻撃できる障害物のほうが、しめたドアより好都合だった。
イマーニュスの手で、硫黄をぬった火なわのそばの壁面の篝篭《かがりかご》に立てられていた松明《たいまつ》がみんなを照らしていた。
この三階の広間にはかしの木作りの重い箱がいくつも置いてあった。これは、まだ引きだしのついた家具が発明されないころ、衣服や下着をいれるために使われていたものだった。
防備軍の連中はこのかしの箱を引きずっていって、階段口にたてかけた。箱がきっちりはまりこんで、入口をふさいでしまった。箱から天井までは、人間一人が抜けられるくらいのせまい空間しかなく、ここから攻囲軍を一人一人殺すには申し分なかった。このすきまから攻撃をかけるなどという危険をおかすやつなど、一人もいそうになかった。
入口をふさいだので、彼らはほっと安心して、しばらく休んだ。
人数を数えてみた。
初めの十九名が今は七名になっていた。イマーニュスはその七名の中にはいっていた。イマーニュスと侯爵をのぞいて、全員が傷ついていた。
五名は傷ついてはいたが、まだしっかりしていた。というのも、白熱した戦闘の中では、致命的な傷を受けていなければ、充分に走りまわれるものだからだ。生き残った五名とは、ロビと言われているシャトネ、ギノワゾー、≪|金の枝(ブランシュ=ドール)≫のオワナール、≪|恋のめばえ(ブラン=ダムール)≫、グラン=フランクールだった。ほかはみな死んでしまっていた。
弾薬はもうなかった。弾薬いれはどれもからだった。弾薬筒を数えてみた。七人でめいめいなん発撃てるだろうか? たったの四発にすぎなかった。
もうあとは墜落するだけという、せっぱつまった局面に追いこまれていた。おそろしげに大口をあけた絶壁のふちに追いこまれていたのだ。これ以上ふちのほうによるなどということはできない相談だった。
やがてまた攻撃が開始された。前よりゆっくりとだが、それだけ着実に攻撃してきた。攻囲軍が階段のステップを一段一段たたいてさぐっている銃床の音がきこえてきた。
もうにげる方法はなかった。図書室からにげるか? しかし、台地の上では、六門の砲が火なわに火をつけるばかりにされて、ねらっているのだ。では、上の階からにげるか? それでどうしようというのか? この部屋は屋上に通じているだけだった。屋上からは、塔の上から下までとびおりて、もう死ぬだけだった。
この悲壮な七人の生き残りは、彼らを守るかわりに敵に引きわたしもする厚い壁によって、なさけ容赦もなくとじこめられ、とらえられているのだった。彼らはまだ敵に引きわたされてはいなかったが、すでに捕虜になったのと同じようなものだった。
侯爵が声をはりあげた。
「部下よ、万事休すだ」
しばらく黙ってから、またこう言った。
「グラン=フランクールはテュルモー神父にたちもどれ」
一同、ロザリオを手にしてひざまずいた。攻囲軍の銃床の音がますます近くなった。
グラン=フランクールは頭を弾丸にけずりとられ、頭の髪と皮をはぎとられて、血まみれになっていたが、右手で十字架像を高くさしあげた。本心は不信心である侯爵も、床にひざまずいた。
「みなのもの」と、グラン=フランクールが言った。「大きな声で罪を告白されよ。ご領主さま、おはじめください」
侯爵が答えた。
「わしは殺した」
「わたしも殺しました」と、オワナールが言った。
「わたしも殺しました」と、ギノワゾーも言った。
「わたしも殺しました」と、≪|恋のめばえ(ブラン=ダムール)≫も言った。
「わたしも殺しました」と、シャトネも言った。
「わたしも殺しました」と、イマーニュスも言った。
そしてグラン=フランクールがまたつづけて言った。
「父と子と聖霊の御名によって、なんじらの罪をゆるす。なんじらの魂がやすらかに神のみもとにいかんことを」
「アーメン」と、一同がいっしょに答えた。
侯爵がたちあがった。
「さあ」と彼は言った。「みんないっしょに死のう」
「敵をやっつけてやろう」とイマーニュスが言った。
銃床が入口をふさいでいたかしの箱をこずいてゆらしはじめた。
「神に祈りをささげるのだ」と、僧侶が言った。「おまえたちには、もう、地上は存在していないのだ」
「そうだ」と、侯爵がつづけた。「われわれは墓の中にいるのだ」
一同は額をさげて、胸をたたいた。侯爵と僧侶だけがたっていた。みんな目を床にこらして、僧侶と百姓は祈りをささげ、侯爵は思いに沈んでいた。かしの箱が、まるでつちででもたたかれるように、もの悲しい音をたてていた。
このとき、とつぜん、ひとつのいきいきと力強い声が、一同の背後ではじけるように叫んだ。
「だから前に申しあげたでしょう、ご領主さま!」
一同はびっくりしてふりかえった。
見ると、壁の中に穴がひとつあけられていた。
ほかの石と完全にくっついてはいるものの、けっしてセメントでかためたのではない石がひとつあり、これには上下に一本ずつ釘がついていて、回転木戸の方式で回転し、これが回転すると同時に壁がひらいたのだった。壁石は釘《くぎ》を心棒にして回転していたので、口がふたつでき、ふたつの通路を作っていた。このふたつの通路はひとつは右へ、ひとつは左へ通じていて、いずれもせまかったが、人間ひとり通るには充分だった。この思いがけない戸口のかなたに、螺旋《らせん》階段の最上部の二、三段が見えていた。そして、ひとりの男の顔が、この戸口のところからのぞきこんでいた。
その男がアルマロであることに、侯爵は気づいた。
十二 救い主
「おまえだったのか、アルマロ?」
「わたしでございます、ご領主さま。これで、まわる石のとびらがあって、ここからそとへ出らることが、おわかりになったでしょう。やっとまにあいましたが、お急ぎください。十分で森のどまん中へぬけられます」
「神は偉大だ」と、僧侶が言った。
「おにげください、ご領主さま」と、一同がこもごも言った。
「おまえたちがさきだ」と、侯爵が言った。
「ご領主さまがさきです」と、テュルモー師が言った。
「わしは最後でいい」
こう言うと、侯爵はきびしい声でこうつけくわえた。
「たがいに寛大になっとる場合じゃないぞ。太っ腹を見せあっとるひまなどないのだ。おまえたちは傷をおっている。わしは、生きてにげろと命令しておるのだ。急げ! この出口からにげるのだ。ありがたく思うぞ、アルマロ」
「侯爵さま」と、テュルモー師が言った。「われわれは別れ別れになるのですか?」
「下へいけば、おそらくそうなる。一人一人でしかにげられんからな」
「ご領主さま、再会の場所を、ご指示ねがえませんか?」
「よし。森の空地にしよう。≪ラ=ピエール=ゴーヴェーヌ≫だ。あの場所を知っておるな?」
「はい、みんな知っております」
「では、明日、あそこにいく。時間は正午だ。歩けるものはみんな、あそこに集まるのだ」
「はい、いきます」
「それで、また戦いを再開しよう」と侯爵が言った。
このあいだに、アルマロは回転するとびらをおしていたが、そのうち、とびらがもう動かなくなっているのに気づいた。つまり、ひらいた出入口はもうふさがらなくなってしまったのだ。
「ご領主さま」と、アルマロが言った。「急ぎましょう。もう石が動かなくなってしまいました。通路を作ることはできましたが、そいつをとざすのはできないと思います」
事実、石は長年使われないでおかれたので、蝶番《ちょうつがい》の中で関節硬直をおこしたみたいになっていたのだ。これから先は、もう微動だもしないというぐあいだった。
「ご領主さま」と、またアルマロが言った。「わたしは通路をもう一度しめるようにしようと思ったんです。共和政府軍《あお》の連中がこの部屋にはいってきても、だれも見つけられず、なにがなんだかわからずに、みんな煙のように消えちまった、というぐあいになるようにしたかったんです。ところがどうです、石が動かなくなってしまいました。敵は通路の入口を見つけて追いかけてくるでしょう。もう一分もむだにはできません。さあ、みんな急いで階段のほうへ」
そのとき、イマーニュスが片手をアルマロの肩に置いて、こう言った。
「戦友《カマラード》、この通路から森の安全地帯へでるにはなん分ぐらいかかるかね」
「重傷を負ったものはひとりもいないのかね?」
と、アルマロがたずねた。
すると一同が答えた。
「ひとりもいないぞ」
「だったら、十五分で充分にいけます」
「では」と、イマーニュスがもう一度言った。
「もし十五分のうちに敵がこの部屋にはいってこられないとしたら……」
「やつら、追いかけることはできても、われわれには追いつけまいね」
「しかし」と、侯爵が言った。「敵は五分以内にここへはいってくる。あんな古箱なぞ、長くもちこたえられるもんか。銃床で五、六ぺんひっぱたけば、おしまいだ。十五分か! だれか十五分間敵に足どめさせられるものはいないか?」
「わたしがやりましょう」とイマーニュスが言った。
「おまえがやるのか、グージュ=ル=ブリュアン?」
「わたしがやります、ご領主さま。おききください。六名のうち五名は傷を負っていますが、このわたしはかすり傷しか負っていません」
「わしだって負傷していないぞ」と、侯爵が言った。
「あなたさまは指揮官でいらっしゃいます、ご領主さま。わたしは一兵士にすぎません。指揮官と兵士とでは、やることがちがうのです」
「そりゃ、わかっておる。人それぞれ、負うている義務もちがうのだ」
「そうじゃありません、ご領主さま。わたしどもは、あなたさまとわたしは同じ義務を負っているのです。つまり、あなたさまを救うという義務をです」
イマーニュスは戦友たちのほうをふり向いて言った。
「戦友たち、敵に足どめをくわして、できるだけ追撃をおくれさせることが必要だ。なあ、おれはまだ力をいっぱいもっている。血を一滴だってこぼしちゃおらんのだ。負傷しておらんから、ほかのものより敵を長くもちこたえられるだろう。さあ、みんな、にげてくれ。ただし、武器は置いていってくれ。おれがうまく使ってやるからな。たっぷり三十分は敵を立往生させてやるからな。ところで、弾丸をこめたピストルはなんちょうあるか?」
「四ちょうある」
「よし、床の上へ置いといてくれ」
一同はイマーニュスののぞみどおりにすることにした。
「よし、おれがここに残ってやる。だれが相手か、敵に思い知らせてやる。さあ、はやく、みんないってくれ」
こういう状況においては、礼を言っている余裕はない。みんな、イマーニュスに握手するのがせいぜいだった。
「ではまた会おうぞ」と、侯爵が、イマーニュスに言った。
「いいえ、ご領主さま。きっともうお目にかかれないと思います。ではまた、なんておっしゃらないでください。わたしは死ぬ覚悟ですから」
一同は負傷者をさきにして、ひとりまたひとりと、せまい階段におりていった。みんながおりているあいだに、侯爵はポケットにはいっている手帳から鉛筆をぬいて、もう回転できなくなって、口をひらいた通路を見せている石の上に、なにか言葉を書きつらねた。
「さあ、ご領主さま。もう、あなたさまだけです」と、アルマロが言った。
そして、アルマロ自身もおりはじめた。
それにつづいて侯爵もおりた。
イマーニュスだけが踏みとどまっていた。
十三 死刑執行人
弾丸を装填《そうてん》した四ちょうのピストルは敷石の上に置いてあったが、それはこの広間には板の床がしいてなかったからである。イマーニュスは四ちょうのうち二ちょうを手にとると、両手に一ちょうずつもった。
それから、かしの箱がふさいで内部をかくしている階段の入口へ、ななめに歩いていった。
攻囲軍が、なにか不意打ちをされるのではないか、最後の爆発がおこって、被征服者もろとも征服者までも吹きとばしはしないか、とおそれていることは、明らかだった。それで、初めの攻撃が猛烈きわまるものであったのにくらべて、最後の攻撃はゆるやかで慎重だったのである。攻囲軍はかしの箱を乱暴に破壊することはできなかったし、またおそらく、破壊しようとも思っていなかっただろう。そのかわり、彼らは銃床で箱の底をたたいてくずし、銃剣で箱のふたにあちこち穴をあけた。思いきって部屋の中に侵入する前に、これらの穴を通して内部をのぞきこもうという魂胆《こんたん》だったのだ。
階段を照らしていたカンテラの光が、これらの穴を通して、部屋の中にはいってきた。
イマーニュスは、これらの穴の一つ一つから瞳《ひとみ》が一つ、のぞきこんでいることに気づいた。とつぜん、彼はこの穴にピストルの銃口を向けて引き金を引いた。弾丸が発射されて、おそろしい悲鳴があがるのを、イマーニュスは愉快そうにきいていた。ピストルの弾丸は目をえぐり頭をつらぬいて、のぞいていた兵士が階段にひっくりかえって墜落していった。
攻囲軍は箱のふたに二カ所、かなり大きな穴をあけると、そこを銃眼のようにして使おうとしたが、イマーニュスはその大きな穴を利用して、その中に片腕をいれると、その向こうにむらがっている攻囲軍の中に、二発めの弾丸をめちゃくちゃにたたきこんだ。おそらく弾丸があちこちにはねとんだのだろう、数人の兵士が悲鳴をあげるのがきこえた。三人か四人が殺されたか傷つけられたかした模様だった。そして、階段のほうで、にげたり退却したりする兵士たちのさわぎがおこった。
イマーニュスは発射してしまった二ちょうのピストルをすてると、残りの二ちょうを手にとり、両手に一ちょうずつにぎりしめて、かしの箱の穴から、そとをのぞいた。
彼は最初の一発がどんな成果をあげたか確かめた。
攻囲軍は階段をおりてしまっていた。瀕死《ひんし》の重傷者たちが階段のステップの上でのたうちまわっていたが、螺旋《らせん》階段がまがっているので、ステップも三段か四段見えるだけだった。
イマーニュスはじっと待ちかまえていた。
(これで時間がかせげたな)と、彼は考えた。
ところが、ひとりの男が腹ばいになって階段を一段一段はいのぼってくるのが見えた。と同時に下の螺旋《らせん》階段の中央にすわっている柱のかげから、ひとりの兵士の頭がのぞいているのが見えた。イマーニュスはその頭をねらって、ピストルを発射した。悲鳴がおこって、その兵士がたおれた。そしてイマーニュスは、最後に残ったピストルを左手から右手にもちかえた。
ところが、このとき、彼ははげしい痛みをおぼえた。そして、こんどは彼のほうが悲鳴をあげる番だった。サーベルが彼の内臓をかきまわしたのだった。拳《こぶし》が、さっき階段をはいあがってきた男の拳が、かしの箱の底のほうにあいている二つめの穴からつっこまれ、この拳がサーベルをイマーニュスの腹に突きさしたのだった。
受けた傷はすさまじいものだった。腹はあちこち刺しつらぬかれていた。
しかし、イマーニュスはたおれなかった。彼は歯ぎしりしながら、こう言った。
「やりおったな!」
それから、彼はよろめき、からだを引きずりながら、鉄のとびらのそばで燃えている松明《たいまつ》のところまでしりぞくと、ピストルを床において、松明《たいまつ》をにぎり、流れだす内臓をおしこみながら、右手で松明《たいまつ》を下にさげると、硫黄《いおう》をぬった火なわに火をつけた。
火をつけられると、火なわが燃えあがった。イマーニュスは松明《たいまつ》をはなしたが、松明《たいまつ》は床にころがって燃えつづけた。それから彼はふたたびピストルをつかむと、床の上にたおれこんだ。しかし、もう一度おきあがると、残っているありったけの息を使って、火なわを吹いて火をかきたてた。
炎は走って、鉄のとびらの下をぬけ、橋城のほうへ燃えうつっていった。
イマーニュスは、この呪うべきことが成功したのを見とどけながら、おそらくは、自分の勇気よりも自分の罪に満足しただろう。今までは英雄だったけれど、この瞬間一個の殺人者にすぎなくなったこの男、そして今から死んでいこうとしているこの男は、笑いながら、こうつぶやいた。
「今におれのことを思いださせてやるからな。あいつらのガキどもをやっつけて、タンプル塔におしこめられている、おれたちの小さな王さまの仇《あだ》をうってやる」
十四 イマーニュスもにげる
このとき、一大音響がおこった。乱暴にこづかれたかしの箱がくずれ落ち、そこにできた通路を通って、ひとりの男がサーベルを手にしてとびこんできた。
「おれさまはラドゥーブだ。だれかおれと戦いたいやつはおらんか? もう待ってるのにはあきあきした。だからとびこんできたのだ。いずれにしたって同じことだぞ。さっき二人のやつの腹をえぐってやったが、こんどはみんなを相手にしてやるからな。おれのあとからくるやつがいようがいまいが知ったこっちゃねえ。おれはおれでとびこんできたんだ。おい、おまえたちはなん人いるんだ?」
なるほど、ラドゥーブがたったひとりでとびこんできたのだった。さっきイマーニュスが階段の上の兵士をやっつけたので、ゴーヴァンは、これはてっきり地雷でもかくされているのだろうと心配して、ひとまず兵士を撤退させて、シムールダンと協議していたのだった。
ラドゥーブはサーベル片手に入口にたちはだかりながら、ほとんど消えかかっている松明《たいまつ》がかすかに照らしている暗やみに向かって、またたずねかけた。
「おれはひとりだぞ。おまえたちはなん人だ?」
なにもきこえないので、彼は前進した。このとき、ほとんど死にかけている火がときどきぱっと燃えあがり、ちょうどともしびが泣きじゃくっているように見えるといった、光のほとばしりが松明《たいまつ》からおこり、その光が広間全体をてらしだした。
ラドゥーブは壁のあちこちにはりつけてある小さな鏡を見つけて、それに近よると、自分の血にまみれた顔と、ぶらさがっている耳を映《うつ》してみた。そしてこう言った。
「ちくしょう、なんてぶざまなくずれようだ」
それから、うしろを向いてみたが、からっぽになった広間を見て、びっくりしてしまった。
「だれもいやしねえじゃねえか!」と、彼は叫んだ。「兵力ゼロときやがった」
そして、回転する石のとびらと、ぽっかりあいた穴と、その向こうにある階段に気づいた。
「ははん! わかった! 風をくらったな。おい、みんな、戦友《カマラード》たち、きてみろ! 敵はにげちまった。ずらかったんだ。とけやがったんだ。こそこそと雲がくれときやがったんだ。この水さしみてえな古い塔にゃ、ひびがはいってたんだな。このごろつき野郎どもめ、この穴を通ってにげやがったんだ! こういう茶番とつきあってちゃ、ピットやコーブルクをやっつけようたって、考えもんだぜ! きっと、どっかの気ちがい神がやってきて、野郎どもをたすけやがったんだぞ! だあれもいやしねえぞ!」
と、このとき、ピストルが発射され、その弾丸がラドゥーブのひじをかすめ、壁にあたってつぶれてしまった。
「ところがどっこい、ひとりいやがった! おれをごていねいに迎えてくださったなあ、いったい、どなたでいらっしゃるかい?」
「おれだ」という声がした。
ラドゥーブが首を前へさしだして、よくよく見てみると、うす暗がりの中になにかがあった。それはイマーニュスだった。
「おやおや!」と、ラドゥーブが叫んだ。「ひとりとっつかまえたぞ。ほかのものはみんなにげちまったが、おまえだけはにがさねえぞ」
「そう思うか?」と、イマーニュスが答えた。
ラドゥーブは一歩前進したがたちどまった。
「おい、そこにころがってるやつは、だれだ?」
「おれはころがって、たってるやつをばかにしているやつだ」
「おめえ、右手になにかもってるな?」
「ピストルだ」
「じゃ、左手のはなんだ?」
「おれの腹わたさ」
「捕虜《ほりょ》にしてやろう」
「捕虜なんかにはならんぞ」
そして、イマーニュスは、燃える火なわにかがみこみながら、最後のひと息を火に吹きかけて息を引きとった。
しばらくたってから、ゴーヴァンとシムールダンと部下全員は、この広間に集まっていた。みんなも壁にあいた穴を目にした。あちこちのすみをしらべ、階段もよくさぐってみると、その階段は掘れみぞの入口に通じていた。これで敵の逃亡が確認された。イマーニュスをゆり動かしてみたが、すでに死んでいた。ゴーヴァンはカンテラを片手にもって、防備軍に脱出口を作った壁石をよくしらべてみた。彼もこの回転する石のことは耳にしていたが、そんな伝説はつくり話にすぎないと思いこんでいた。石をくまなくしらべていくうちに、彼は石に鉛筆でなにか書いてあるのを認めた。カンテラを近づけてみると、それはつぎのように読むことができた。
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……いずれまた、子爵どの……
ラントナック
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ゲシャンもゴーヴァンのかたわらにたっていた。明らかに追跡は無用だった。逃亡は完全完璧におこなわれていたし、その上、逃亡者たちは、この地方全体、やぶも掘れみぞも雑木林も住民も味方にしていた。だから、彼らはおそらくもう遠くのほうに落ちのびているだろう。彼らをふたたび見つける方法は皆無だった。フージェールの森全体が一つの巨大なかくれ家になっていたのだ。では、どうしたらいいだろう? なにもかも初めからやりなおさなければならなかった。ゴーヴァンとゲシャンはいろいろな失望とさまざまな推測をかわしあった。
シムールダンは、重く沈んだようすで、ひと言も口をきかないで、耳をかたむけていた。
「ところで、ゲシャン」と、ゴーヴァンが言った。
「あの梯子《はしご》はどうしたか?」
「隊長、まだ到着していません」
「しかし、さっき騎兵に護衛された荷馬車を見たばかりじゃないか」
ゲシャンが答えた。
「あの荷馬車は梯子を積んでいませんでした」
「では、いったい、なにを運んだのだ?」
「断頭台だ」と、シムールダンが答えた。
十五 時計と鍵を同じポケットにいれるな
ラントナック侯爵はみなが思っているほど遠くへはいっていなかった。
と言っても、彼はまるきり安全で敵の手のとどかないところにいっていた。
彼はアルマロについていったのだ。
ほかの逃亡者たちのあとにつづいて、アルマロと侯爵がおりた階段は、まるい天井がついたせまい通路を通って、掘れみぞと橋城のアーチのすぐそばで終わっていた。この通路は、自然にできた土の深い裂け目の上にひらいていて、この裂け目のいっぽうの側は掘れみぞに通じ、もういっぽうの側は森に通じていた。
この裂け目は視界から完全にかくされていて、いりくんだ植物の根のあいだをぬって、くねくねとまがっていた。こういうところで人間をつかまえようなどということは不可能だ。逃亡者は、ひとたびこの裂け目にたどりついたら、もう蛇のようにくねくねとにげさえすればよく、これを見つけることはできない。この階段から通じている秘密の通路の出口は、イバラのしげみでおおわれていたから、この地下道の構築者は、これを別にふさぐのは無用だと考えたのだった。
今や、侯爵はもうひたすらにげるだけでよかった。変装しようかと心をくだく必要もなかった。ブルターニュに上陸してからこのかた、彼はその百姓の衣服をぬいだことがなく、それを着ていたほうが、大領主に似つかわしいと自分で判断していたのである。
それでも、剣だけはもっていることをあきらめてはずし、留め金をとった。帯もすててしまった。
アルマロと侯爵が通路をぬけて裂け目からそとへでたときには、ほかの五人のものたち、ギノワゾー、≪|金の枝《ブランシュ・ドール》≫のオワナール、≪|恋のめばえ(ブラン=ダムール)≫、シャトネ、テュルモー師たちは、とっくに消えてしまっていた。
「にげるのに、てまひまかからぬやつらですね」と、アルマロが言った。
「あれらのように、おまえもにげろ」と、侯爵が言った。
「ご領主さまをすてろと言われるので?」
「そのとおり。それはさっきも言ったはずだぞ。一人でないと、うまくにげられない。一人ならにげられるところも、二人だとにげられないこともある。二人いっしょだと人の目を引くからな。おまえのためにわしがつかまったり、わしのためにおまえがつかまる、ということもあるだろう」
「ご領主さまは、このあたりのことをよくご存じですか?」
「うん」
「やっぱり、≪ラ・ピエール=ゴーヴェーヌ≫で落ちあうんですね?」
「うん、明日の正午にな」
「わたしもあそこにいきます。みんなもいくでしょう」
アルマロはちょっと言葉を切ってから、また口をひらいた。
「ああ! ご領主さま、あなたさまと二人だけで海のどまん中にいたときのことを考えますよ。あのとき、わたしはあなたさまを殺そうといたしました。あなたさまはわたしのご領主さまであるのに、わたしにはそうおっしゃれるはずなのに、わたしにそうおっしゃいませんでした! あなたさまはなんというおかたなんでしょう!」
侯爵がまた口をひらいた。
「イギリスが必要だ。そのほかには手段はない。二週間後には、イギリス軍をフランスへ上陸させなければだめだ」
「ご領主さまに申しあげることがたくさんあるのです。あなたさまのご命令はみんな、ちゃんとやっておきました」
「その話はみんな、明日きこう」
「では、明日、ご領主さま」
「ところで、おまえは腹がすいているか?」
「そのようでございます、ご領主さま。わたしは大急ぎでかけつけてきましたので、きょうなにをたべたかおぼえていないくらいです」
侯爵はポケットから板チョコをとりだすと、それを二つにわって、半分をアルマロにあたえ、半分を自分がたべた。
「ご領主さま」と、アルマロが言った。「右のほうへいくと掘れみぞです。左のほうへいくと森にでます」
「よし、わかった。わしにかまわず、おまえはおまえでいけ」
アルマロは侯爵の言葉にしたがった。そして、暗やみの中にはいりこんでいった。しばらく、イバラのしげみががさがさ音をたてるのがきこえていたが、やがて、物音ひとつしなくなった。数秒もすれば、彼の足跡をつかまえることすら不可能になるだろう。この≪森林地帯《ボカージュ》≫の大地には、言いようのないくらい草木がおいしげっていて、逃亡者にはかっこうの助手と言ってよかった。ここでは、人はすがたを見えなくするのではない。すがたを消してしまうのである。このようにすばやく見えなくなるので、いつも退却するヴァンデ軍を目の前にするとき、つまりはものすごくにげ足のはやい兵士たちを目の前にするとき、追撃軍はいつもためらってしまうのである。
侯爵はじっとたたずんでいた。彼はなにものにも感動しまいとつとめる人間のひとりだった。しかし、あれほどの血と殺戮《さつりく》の臭いをかいだあとで、この自由な外気を吸ってみると、やはり感動からのがれることはできなかった。確実に殺されると思ったあとで、完全に救われたと感じ、墓場をすぐ近くに見たあとで、まるきり安全だという気持を味わい、死からのがれでて、ふたたび生のただ中へ戻ってきたのだった。これでは、さすがラントナックのような人間でも、ある衝撃をおぼえずにはいられなかったろう。すでに、こうした経験をなんども味わったことのある彼でも、その冷静な魂がしばらくゆれ動かされるのをとめることはできなかった。
自分は満足している、と彼は自分に向かって告白した。と言っても、このほとんど歓喜に似ている心の動きを、彼はすばやくおさえつけてしまった。彼は時計をとりだすと、針の音をきいた、いったい、なん時だろう?
おどろいたことに、まだ十時だった。すべてが危機におちいってしまうような、人生の一大急変をこうむってくると、人は、その充実した幾瞬間かが、ほかの時間より少しも長くないことに、びっくりしてしまうものである。警戒合図の大砲声が日没少し前に撃ちだされ、それから三十分後、つまり、夜になりはじめた七時から八時のあいだにはラ・トゥールグが攻撃軍に接近されたのだ。とすると、あの激しい戦闘は八時にはじまって十時には終わっていたことになる。あの叙事詩のように最大な戦いは、たった百二十分しかつづかなかったのだ。ときに、大詰めというものは、いなずまのようなすばやさをともなうものであり、大団円というものは、おどろくべき近道を通って終点にいたるものである。
しかし、よく考えてみると、おどろかされるのは、まるきり正反対のことである。あれほどの小人数であれほどの大人数にたち向かい、しかも二時間も抵抗できたことは、まさにおどろくべきことである。こう考えれば、この十九名対四千五百名の戦闘は短くなかったばかりか、すぐには終わらなかった、と言うべきである。
けれども、もうたち去る時間である。アルマロも遠くへいっただろう。そこで、侯爵はこんなところに長くとどまる必要はないと判断した。彼は時計をチョッキにしまった。もとのポケットには戻さなかったのだ。というのは、時計がポケットの中で、あのイマーニュスからわたされた鉄のとびらの鍵とかちあっていたことに気づき、時計のガラスが鍵にあたってこわれるといけない、と考えたからだった。
彼も森のほうへいこうと歩きだした。ところが、左のほうにいこうとしたとき、なにかぼんやりした光のようなものが、彼のほうにさしこんでくるような気がした。
彼はふりかえってみた。すると、しげみが赤いものを背景にしてあざやかに浮き彫《ぼ》りにされ、それから、とつぜん、そのしげみのこまかい部分まではっきりと目に見えるようになった。つづいて、掘れみぞのあたりが明るくてらされているのに気づいた。掘れみぞのあいだの距離は、大股で数歩しかなかった。彼はその方面に向かって歩きだしたが、すぐに思いとどまった。そんなに明るいところへ身をさらすのは無用だと思ったのだ。なにがおこっているにしても、とにかく彼には関係のないことだった。彼はアルマロから指示されていた方角に向いて、森のほうへ数歩歩いていった。
そのときとつぜん、侯爵はイバラの中にふかぶかと埋ずめられ、かくされながら、頭上におそろしい悲鳴をきいた。この悲鳴は掘れみぞの上の台地のふちあたりでおこったらしかった。侯爵は目をあげると、立ちどまった。
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第五編 悪魔の中に神がやどる
一 見つけたが、また見失う
沈む陽に赤くそまった塔を目にしたとき、ミシェール・フレッシャールはその塔からまだ一里以上も遠いところにいた。彼女はもう一歩も歩けなかったが、この一里という距離を前にしても、けっして尻ごみしなかった。女性は弱いけれども、母は強いものである。彼女は歩きつづけた。
陽《ひ》は落ちてしまっていて、やがて黄昏《たそがれ》が、そして深い夜の闇がやってきた。
あいかわらず歩きながら、彼女は、はるか遠くのほうで、目には見えない鐘が八時をうち、それから九時をうつのをきいた。その鐘はおそらくパリニェの教会の鐘だったのだろう。ときどき彼女はたちどまっては、なにか重たいひびきをもった物音にききいった。それはおそらく、なにか漠然とした夜の物音だったのだろう。
彼女は血にまみれた足もとにハリエニシダやするどい野イバラを踏みにじりながら、前へ前へと進んでいった。彼女ははるか遠い城の塔から射し出る弱い光にみちびかれて進んでいたが、その光は塔を浮きだたせ、夜の闇の中でこの塔にある神秘的な光線を投げかけていた。そして、あの重くひびく物音がますますはっきりきこえてくるにつれて、この光もますます鮮明になっていったが、それもやがて消えてしまった。
ミシェール・フレッシャールが進んでいく広大な台地は、草とヒースしかはえてなくて、一軒の家も見あたらなければ、一本の木もたっていなかった。この台地は目に見えないくらいの程度で少しずつ高くなっていき、見わたすかぎり、そのするどく描かれている直線の長いふちを、星のきらめく暗い地平線の上にもたせかけていた。この坂道を彼女がのぼっていけたのも、彼女が常に目の下にあの塔をのぞんでいたからだった。
塔がだんだん大きくなっていくのが見えた。その塔から発せられる陰《いん》にこもった爆発音と青白い光とは、すでに述べたように、ときどきとだえた。しかし、その音と光はときどきとだえては、またおこり、この悲嘆にくれるあわれな母親に、なにかわけのわからない鋭いなぞをかけるのだった。
とつぜん、その音も光もやんでしまった。音も光もまるきり消えてしまって、あたりには静けさにみちた時間と一種の不吉な平和がおとずれた。
そして、ミシェール・フレッシャールが台地のふちにたどりついたのは、まさにこのときだった。
足もとに掘れみぞがあることに気づいたが、その底は夜の厚い闇の中に消えていた。台地の高みの少しはなれたあたりに、車輪や斜面や砲眼がいりまじっているのが見えたが、これは砲兵陣地で、彼女の眼前には、砲台の火のついた火なわの光でぼんやりと照らされながら、一つの巨大な建物がそそりたっていた。それはその周囲にただよっているすべての闇よりもずっと暗い闇で建てられているように見えた。
この建物は掘れみぞの中に橋台をつっこんだ橋と、その橋の上にたっている一種の城みたいなものとからなり、この城と橋とは黒い円筒形の高い建物にもたれかかっていた。この円筒形の建物はつまり塔で、この塔めがけて母親は遠くから歩いてきたのだった。
城の大窓に明かりがいったりきたり映《うつ》るのが見えた。それに、その天窓からもれるざわめきで、塔の中には人間がおおぜいいることもわかり、中の幾人かの影は、屋上の上にまであふれていた。
砲兵陣地のそばに野営地があり、ミシェール・フレッシャールは、そこに騎馬哨兵がいるのを目にしたが、彼女は暗闇とやぶの中にいたので、哨兵には気づかれなかった。
彼女は台地のふちにたどりついたが、それがあまりに橋のそばだったので、今にも手がとどきそうな気がしたくらいだった。しかし、深い掘れみぞが彼女と橋とをへだてていた。彼女は暗やみの中に三階の橋城を見わけることができた。
どれくらいの時間だったか、彼女はそこにたちつくしていた。この大口をあけた掘れみぞとこのまっ黒な建物を眼前にして、気をのまれ、おし黙っている彼女の心の中では、時間の尺度など消えてしまっていたからだった。いったいこれはなんだろう? あの中ではなにがおこっているのだろう? これがラ・トゥールグというものなのだろうか? 彼女は到着したり出発したりするときの気持に似た、なにかわけのわからない期待に目まいをおぼえていた。心の中で、なぜこんなところにきたのだろう、とつぶやいていた。
彼女はじっと塔を見つめ、耳をすましていた。
とつぜん、彼女にはなにも見えなくなった。
煙の幕が彼女と彼女が見つめているものとのあいだにわきあがってきたのだ。目がひりひりと痛んできて、彼女は目をとじた。ところが、まぶたをとじたとたんに、まぶたがまっかになり、あかるくなった。それで彼女はまた目をあけた。
すると、目の前にあったのは、もう夜の闇ではなかった。まるで昼間のような光景だった。しかし、それは一種の不吉な昼、火のために現出した人工の昼の光景だった。彼女は目の前に火事がおこるのを見ているのだった。
真黒い煙が深紅色になり、その中で巨大な炎がたちのぼっていた。この炎は、光や蛇がやるように身をおそろしげにねじくらせながら、現われたり消えたりしていた。
この炎はなにか口に似ているようなものの中から舌のようにぺろぺろと出ていたが、この口のようなものは、火をいっぱい含んだ窓だった。そこについている鉄格子はすでにまっかになっていたが、その窓は、橋の上に建っている橋城の中二階についている窓だった。建物全体の中で、はっきり見わけられるのはこの窓だけだった。煙はすべてを、台地さえもおおい、見わけられるものと言えば、深紅の炎の上にくろぐろと浮かぶ掘れみぞのふちだけだった。
ミシェール・フレッシャールは胆《きも》をつぶして見つめていた。煙は雲であり、雲は夢である。彼女は自分がなにを見ているのか、さっぱりわからなくなった。にげたほうがよいのだろうか? そのままじっとしていたほうがよいのか? 彼女は、ほとんど現実のそとにいるような気がしていた。
一陣の風が吹いてきて、煙のカーテンを破ってしまった。すると、その割れ目の中から、ふいに仮面を引きはがされた、いたましい城砦が、全貌《ぜんぼう》をはっきり見せてそそりたった。塔も、橋も、橋城も、みごとな火の金箔《きんぱく》にぬりこめられて上から下までそっくり火をてりかえし、まばゆく、おそろしげにたっていた。ミシェール・フレッシャールは、あかあかと不吉に燃える火の中に、すべてのものを見ることができた。
橋城の中二階が燃えているのだった。
この中二階の上に、別に二つ、まだ火のついていない階が見わけられたが、これはまるで炎のかごにいれられているみたいだった。ミシェール・フレッシャールがたっている台地のふちからは、火と煙のあいだをとおして、橋城の内部がぼんやりと見えた。窓が全部、あけはなたれていたのだ。
ミシェール・フレッシャールは、非常に大きな三階の窓をとおして、本でいっぱいになっているらしい書棚が壁に沿って並んでいるのを認め、それから、一つの窓わくの前の床に、なにか見わけのつかない小さなかたまりが、うす暗がりの中にあるのも認めた。それは巣か、ひとかえりの雛《ひな》みたいに、はっきりした区分もわからぬように積みあげられたもので、女の目には、それがときどき動いているようにうつった。
彼女はそれをじっと見つめた。
あの影がより集まったような小さなものは、いったい、なんだろう?
ときどき、あれは生きものの形に似ているという考えが、彼女の頭に浮かんだ。しかし彼女は熱があり、朝からなにも食べていない上に、歩きづめに歩いてきたので、へとへとに疲れはてていて、そのため彼女は自分がなにか幻覚みたいなものの中にいるのではないかと感じていた。彼女は本能的に自分自身の目を信用していなかったのだ。といっても、彼女の目は、この火災の上に置かれている広間の寄木の床に横たわっている、このおそらくは生命のない、見た目には少しも動かない、なにか正体のわからないものの黒いかたまりに、だんだん釘づけにされ、やがてそれからはなすことができなくなった。
とつぜん、火がまるで意思をもっているように、下のほうから、ミシェール・フレッシャールがながめている建物の正面をびっしりとおおう大きなキヅタの枯木に向かって噴出した。ちょうど火が網目のような枯枝を見つけだしたとでもいう具合だった。火の粉が飢えたように枯枝をとらえ、火薬の導火線に火が走るような猛烈な速さで、キヅタのつるをつたわって、上にのぼりだした。そして、またたくまに、炎は三階にとどいてしまった。そして、上のほうから、二階の内部を明るくてらした。と、とつぜん、生き生きとした光が眠っている三人の子どもを浮き彫りにした。
子どもたちは腕や足をからみあわせ、まぶたをとじ、ほほえみを浮かべて、かわいらしくかたまっていた。
母親にはそれがわが子たちであることがわかった。
とたんに、彼女はおそろしい叫び声をあげた。
この言いようのない苦悩の叫びは、母親にしかあたえられていないものだ。これほど獰猛《どうもう》で、しかもこれほど感動的な叫び声はない。女がこういう叫び声をあげると、雌《めす》おおかみのほえ声をきくような気がし、雌おおかみがこういうほえ声をあげると、女の叫び声をきくような気になるものである。
ミシェール・フレッシャールの叫び声は、まるきりけだもののほえ声だった。ヘカベ〔ギリシア神話中、トロイア戦争で子どもをうしなったトロイアの王妃〕は犬のようにほえた、とホメロスも言っている。
ラントナック侯爵がききつけたのは、この叫び声だった。それで侯爵はたちどまったことは、すでに見てきたとおりである。
そのとき、侯爵はアルマロに案内されて脱出してきた通賂の出口と掘れみぞの中間にいた。頭上でもつれあっているイバラのしげみをすかして、彼は炎につつまれた橋城と炎の反射で赤くそまったラ・トゥールグを見た。そして、二本の枝のすきま越しに、別の方向の上あたりに、つまり燃える橋城と向かいあわせになり、真昼のように明るい火事のてりかえしをあびている台地のふちの上に、いたましくもものすごい形相をした一つの影、掘れみぞをのぞきこんでいる一人の女のすがたを認めたのだった。
あの叫び声はこの女があげたものだった。それはもうミシェール・フレッシャールではなくて、ゴルゴン〔ギリシア神話にでてくる、頭髪が蛇で、見る人を恐怖のあまり化石にしてしまう三人の姉妹の怪物〕だった。みじめな人びとはおそるべきである。この百姓女は復讐の女神エウメニデスに変身していた。この卑俗で、無知で、無自覚で、とるにたりない百姓女が、とつぜん、絶望という、叙事詩にでてくるようなどえらいものに身をやつしてしまったのだ。大きな苦しみは、魂をとてつもなく大きなものにする。つまり、この母親の場合は、母性愛そのものになってしまったのだ。すべて人間性を要約するものは超人間的なものである。彼女は、この炎の抱擁を目の前にし、この罪悪を目の前にして、まるで墳墓をつかさどる力のように、この掘れみぞのふちにつったっていた。彼女はけだもののような叫び声をあげ、女神のようなそぶりを示していた。そこから呪いの言葉がほとばしりでる顔は、まるで火炎の仮面に似ていた。彼女の涙にまみれた目の光くらい崇高なものはない。そのまなざしは火事を雷撃せんばかりにはげしかった。
侯爵はじっとききいっていた。その叫び声は頭上からきこえてきた。彼は、なんとも言えないくらい不明確で、引きちぎられるようなその声、言葉と言うよりはむしろすすりなきと言ってよいその叫び声にききいっていた。
「ああ! 神さま! わたしの子どもたち! あれはわたしの子どもたちなんですよお! 助けてください! 火事だ! 火事だ! 火事なんだあ! あんたたちはなんて悪い人たちなんだ! あの部屋の中にゃ、だれもいないのかねえ! わたしの子どもたちがやけちまうよお! ああ! なんてこったろう! ジョルジェット! わたしの子どもたち! グロ=ザラン、ルネ=ジャン! でも、なんだってまた、だれがわたしの子どもをあん中へいれちまったんだろう? 子どもたちは眠ってるよお。ああ、気がくるいそうだわ!こんなことあるわけないのに。助けてください!」
このあいだに、ラ・トゥールグの中も、台地の上も、大さわぎになっていた。全野営軍が爆発した火のまわりにかけつけてきた。攻囲軍はそれまで霰弾《さんだん》を撃っていたのに、こんどは火事の手あてをしなければならなかった。ゴーヴァンも、シムールダンも、ゲシャンも、めいめいに命令をくだしていた。しかし、どうしたらよいというのか? 掘れみぞを流れる細い流れは、手桶に五、六ぱいの水をくんだら干《ひ》あがってしまいそうだった。苦悩はますます増大していった。台地のふちはことごとく、胆をつぶして火事をながめるばかりの人の顔でうずまってしまった。
みなが見ているのはおそろしい光景だった。
そして、みなは見ているだけで、なにひとつ手をくだせなかった。
すでに炎は火のついたキヅタの枯枝をつたわって、上の階に燃えうつっていた。そこでわらがいっぱいつまっている屋根裏べやを見つけたので、その中へとびこんでいった。たちまち、屋根裏べやは火につつまれてしまった。炎が踊っていた。歓喜に燃える炎は、じつに陰惨なものである。まるで極悪人《ごくあくにん》の息吹きが、この火刑場を煽動《せんどう》しているようだった。あのおそるべきイマーニュスが、全身これ火花の渦巻と変わり、人を殺す火の生命《いのち》に変じ、その怪物じみた魂を火事そのものに化身させたみたいだった。
図書室の階にはまだ火がうつっていなかった。その高い天井と厚い壁のおかげで、なかなか火が燃えうつらなかったのだ。といっても、運命の瞬間はこの部屋にも迫っていた。図書室は中二階の火になめられ、三階の火になでられていたのだ。今やおそるべき死の口が、図書室に接吻していたのだ。図書室の下は熔岩《ようがん》の洞窟であり、上はおこり火のドームで、もし床に穴一つでもあいていたら、たちまち図書室は赤い火の粉の中にころげ落ちてしまうだろう。反対に天井に穴一つあいていたら、図書室は熱い炭火の下に埋葬されてしまうだろう。
ところが、ルネ=ジャンも、グロ=ザランも、ジョルジェットもまだ目をさましていなかった。彼らは、子どもにはつきものの深くて単純な眠りをむさぼっていたのだ。そして、こもごも窓をおおってはあらわにする炎と煙のひだをすかして、この火の洞窟の中、きらきらきらめく流星の底に、子どもたちのすがたが見えていた。彼らは地獄の中で眠る三人のおさないキリストのように、やすらかに、かわいらしく、そして身じろぎもしないで眠っていた。この火の燃える大がまの中のばらの花々、この墓場の中のゆりかごを見たら、たとえ虎《とら》でも涙を流したであろう。
そのあいだも、母親は腕をよじって叫んでいた。
「火事だあ! わたしが火事だって言ってるのに、だれもこないなんて、つんぼなのかい! わたしの子どもたちがやけちゃうってのに! 近くにいる人はきてちょうだい! なん日もなん日も歩きつづけてきて、やっと子どもを見つけたっていうのに、これはどうしたっていうの! 火事だって言ってるのよ! 助けてよお! 子どもたちは天使なんだ! 天使だって言ってんだよお! いったい、子どもたちがなにをしたの、あんなにむじゃきな子どもたちが! わたしは銃撃されたうえに、子どもたちまでやきはらわれるんだよ! いったい、だれだい、こんなひどいことをするやつは! 助けて! 子どもたちを助けてよお! みんな、わたしの言うことがきこえないの? 雌犬だって、雌犬だってかわいそうだって思うってのに! わたしの子どもたちが! わたしの子どもたち! ああ、みんな眠ってるんだよ! ああ、ジョルジェット! あの子のかわいらしいおなかが見える! ルネ=ジャン! グロ=ザラン! あの子たちはこういう名前なんだ。わたしがあの子たちの母親だってことはわかるだろう。
この節はほんとにおそろしいことばっかりおこる。わたしは昼も夜も歩きどおしに歩いてきたんだ。けさだって、そのことを、どこかの女の人に話したところだよ。助けてよお! 助けておくれったら! 火事なんだよお! みんな、なさけ知らずの怪物ばかりだ! なんておそろしい! いちばん上の子だってまだ五つにならないし、下の女の子は二つにもなっていないんだ。ああ、あの子たちの小さな素足が見える。みんな眠ってるんですよ、おなさけ深いマリアさま! 天からさずかったあの子たちは地獄にもぎとられていくんだ。ああ、あんなに歩いてきたっていうのに! あの子たちはみんな、わたしが自分の乳でそだてたんだよ! あの子たちを見失っちゃって、ほんとに不幸だと思ってた! ああ! わたしをあわれんでちょうだい! わたしはあの子たちがほしいんです、あの子たちが必要なんです! なのに、あの子たちは、あんな火の中にいるんです! こんなに血だらけになったわたしの足を見てください。助けてよお! 世の中にゃ人間がたくさんいるってのに、あのかわいそうな子どもたちを見殺しにしようっていうんですか! 助けてくださいったら! ああ、人殺しい! こんなことって、いままで見たこともないよ。ああ! 山賊たちめが! あのおそろしい家は、いったいなんだっていうの? あの子たちをわたしから盗んで、殺しちまおうっていうんだろ! おお、イエスさま! わたしは子どもたちがほしいんです。おお、もう自分でなにをやるかわからないわ! 子どもたちを死なせたくないのよお! 助けて! 助けてえ! 助けてよう! おお! 子どもたちがこんなふうに死ななきゃなないんなら、わたし、もう、神さまを殺してやるから!」
こうして母親がものすごい形相で訴えているあいだに、台地の上や掘れみぞの中で、人声がおこっていた。
「梯子《はしご》をもってこい!」
「梯子はないんだ!」
「じゃ、水だ!」
「水もない!」
「塔の三階にゃ、とびらが一つあるぞ!」
「鉄のとびらなんだ」
「それをぶちやぶれ!」
「そりゃ、むりだ」
母親が絶望の叫び声をさらに激しくあげた。
「火事だよお! 助けてよお! 急いでよお! 子どもたちが助からなきゃ、わたしを殺してよお! わたしの子どもたち! わたしの子どもたちい! ああ! なんておそろしい火だ! あの子たちを火の中からだしてください、できなければ、わたしを火の中に投げこんでちょうだい!」
この母親の狂いたつ声のあいだに、火がぱちぱちはねる声がきこえていた。
侯爵はポケットの中をさぐると、鉄のとびらの鍵にさわった。それから、さきほど脱出してきたばかりのドームの下で身体をまげると、さっきでてきた通路の中へはいっていった。
二 石のとびらから鉄のとびらへ
兵士がことごとくかけつけ、必死になって救助しようとしたが、それは不可能だった。四千人の男たちがいても、たった三人の子どもを救えない、というのがそのときの状況だったのだ。
つまり梯子《はしご》がなかったのだ。ジャヴネから送られた梯子はラ・トゥールグへはとどかなかったのだ。そして、今や、猛火は口をあけた噴火口のようにひろがっていた。これほどの猛火を、ほとんど干あがっているみぞの細流の水で消そうとしても、しょせんはむだなことだった。火山の噴火口の中へコップいっぱいの水をそそぎこむようなものだった。
シムールダン、ゲシャン、ラドゥーブは掘れみぞまでおりていた。ゴーヴァンは回転する石のとびらや秘密の出口や図書室に通じている鉄のとびらのある、あの三階の広間にまたのぼっていた。イマーニュスの手で火をつけられた硫黄《いおう》をぬった火なわがあったのもこの部屋であり、火事がおこったのもこの部屋だった。
ゴーヴァンは二十人の工兵をつれて指揮していた。鉄のとびらをうち破ることしか、もう方法はなかったからだ。しかし、とびらはおそろしくしっかりととざされていた。
手はじめにおのでつき破ろうとしたが、おのはおれてしまった。工兵のひとりが言った。
「こんな鉄のとびらにぶっつけては、鋼鉄もガラス同然ですよ」
事実、このとびらは鍜鉄《たんてつ》造りで、厚さが三インチもあるものを二枚、ボルトでしめあわせたものだった。それで、今度は鉄棒を使って、とびらの下からこじあけようとしたが、この鉄棒もおれてしまった。
「マッチ棒みたいにおれちまった」と工兵が言った。
ゴーヴァンが沈んだ顔つきをして、つぶやいた。
「このとびらをあけるには砲弾を使うしか手はない。大砲をここまでなんとかひきずりあげなけりゃならない」
「いや、それでうまくいくかどうか、わかりませんよ!」と、工兵が言った。
しばし、みんな沈みこんでしまった。みんな、むだな努力をすることをやめてしまった。黙りこくり、うちひしがれ、びっくりした男たちは、このびくともしないおそるべきとびらをじっと見つめていた。とびらの下から赤い火の反射がさしこんできた。とびらの向こう側では、火勢が強くなっていたのだ。
そこには、イマーニュスのおそろしい死体が、ぶきみに凱歌《がいか》をあげているみたいに、ころがっていた。
おそらく、もう数分たったら、塔全体がくずれ落ちてしまうだろう。
どうしたらよいのだろう? もう希望はなかった。
激怒したゴーヴァンが、回転する壁石と口をあけている脱出口をにらみながら、叫んだ。
「ラントナック侯爵はここからにげられたというのに!」
「そして、ここから戻ってくるのだ」と、一つの声が答えた。
それから、秘密の出口の石のへりの中に、白髪の頭が現われた。
まさしく侯爵だった。
もう長いあいだ、ゴーヴァンはこんなに近くから侯爵を見たことがなかった。それで、彼は思わずあとずさりした。
そこにいるものもみな、唖然《あぜん》として、その場に釘づけになっていた。
侯爵は大きな鍵を手にもっていた。彼は自分の前をじゃましている数人の工兵たちを傲慢《ごうまん》なまなざしでにらみつけて、これを追いはらうと、鉄のとびらの右手に歩みより、アーチの下で身体をかがめて、鍵を錠前につっこんだ。錠前がきしんで、とびらがあいた。その向こうで炎が渦巻いているのが見えたが、侯爵はその中へとびこんでいった。
彼は頭をしゃんとたてて、しっかりした足どりでとびこんでいった。
みんなはふるえながら侯爵のうしろすがたを目で追った。
侯爵が炎につつまれた広間の中を五、六歩進んだとたんに、火にやかれたためか、あるいは侯爵のかかとにゆすぶられたためだろう、寄木の床が彼の背後でくずれ落ち、彼ととびらのあいだに奈落《ならく》をあけてしまった。しかし侯爵はふりかえりもしないで、歩きつづけた。そして、煙の中へ消えてしまった。
もうなに一つ見えなかった。
侯爵はもっと遠くへいったのだろうか? 彼の足もとで、また新しい火のみぞが口をあけたのだろうか? つまりは、彼自身まで殺してしまうということにならなかったろうか? これには、だれも答えることができなかった。みんなの眼前には、煙と炎につつまれた壁があるきりだった。
侯爵は死んだか生きているかわからないが、とにかく、その壁の向こうにいた。
三 眠っていた子どもたちが目をさます
こうしたあいだに、とうとう子どもたちも目をさましていた。
火はまだ図書室の中へは燃えうつっていなかったが、その天井にばら色の反射を投げかけていた。子どもたちは、こんな夜明けの色をまだ知らなかった。それで彼らはそれをじっとながめた。ジョルジェットはじっと見つめていた。
壮麗な火事はどんどん燃えひろがっていた。おそろしげな黒と深紅にいろどられた、ぶかっこうな煙の中に、黒い七頭蛇《ヒドラ》や深紅の龍《りゅう》がのたくりまわっていた。長い火の粉が遠くまでとびちり、やみの中にすじをつけていた。それはまるで一つ、また一つと、天《あま》がける彗星《すいせい》が戦っているようだった。火事は浪費である。赤く燃える燠火《おきび》は宝石をたっぷり含んでいるようで、それが風のまにまにまきちらされていた。炭がダイヤモンドと同質のものであると言われるのも当然のことである。
やがて三階の壁にいくつも裂け目ができ、そこから燠火が宝石の滝のように掘れみぞめがけてそそぎこんでいった。屋根裏べやの中で燃えたわらやオートむぎのかたまりが、金色の粉のなだれをなして、あちこちの窓から流れはじめた。オートむぎがアメチストのように輝き、わらの穂がざくろ石のようにきらめいた。
「≪ちれい≫!」と、ジョルジェットが言った。
子どもたちはみんなおきあがっていた。
「ああ!」と、母親が叫んだ。「子どもたちが目をさましたわ!」
ルネ=ジャンがたちあがった。するとつづいて、グロ=ザランもたちあがり、ジョルジェットもたちあがった。
ルネ=ジャンが腕をのばして、窓わくに近よると、こう言った。
「あつい」
「あちゅい」と、ジョルジェットがまねをした。
母親が子どもたちに呼びかけた。
「おまえたち! ルネ! アラン! ジョルジェット!」
子どもたちは周囲を見まわした。彼らはあたりのようすを理解しようとしていた。大人たちがおびえる場所でも、子どもたちが好奇心を寄せることがある。やすやすとおどろくものはなかなか恐怖をおぼえないものである。無知は大胆不敵をともなっているものなのだ。子どもたちは地獄にいく権利をほとんどもっていないから、たとえ地獄を見ても感嘆してしまうだろう。
もう一度、母親が叫んだ。
「ルネ! アラン! ジョルジェット!」
ルネ=ジャンがふりかえった。母親の声でふと気づいたのだ。子どもの記憶は弱いが、思いだすのはすばやい。子どもにとっては、あらゆる過去も昨日みたいなのである。ルネ=ジャンは母親を見つけて、母親がいるのは当然だと思ったが、周囲のようすがどうもおかしいので、漠然と頼りを求める気持になって、こう叫んだ。
「かあちゃん!」
「かあちゃん!」と、グロ=ザランも言った。
「≪たあ≫ちゃん」と、ジョルジェットも言った。
そして、ジョルジェットは小さな腕をさしだした。
すると、母親がわめいた。
「おまえたち!」
三人の子どもたちが窓ぎわに歩みよった。さいわい、火の手はこちらのほうには燃えうつっていなかった。
「とてもあついよ」と、ルネ=ジャンが言った。
つづいて、こう言いそえた。
「火が燃えてるんだ」
そして、目で母親をさがした。
「こっちへきてよ、かあちゃん!」
「こっち、たあちゃん」と、ジョルジェットがまねをした。
髪を乱し、ぼろぼろの服をまとい、血を流した母親が、しげみからしげみへところがりながら、掘れみぞめがけておりていった。そこにはシムールダンがゲシャンをつれていたが、下でも上のゴーヴァンと同じく、手をこまぬいているばかりだった。兵士たちもなんの役にもたたないので絶望し、やたらシムールダンとゲシャンのまわりにうようよと集まっているばかりだった。
あたりはがまんできないくらい熱かったが、熱いと思うものはだれもいなかった。みんな、そそりたつ塔や、高い橋台や、積みかさなっている階や、近づくことのできない窓をじっと見つめては、はやくなんとかしなければならないと思っていた。すぐさま三階までいかなければならなかったが、そこへいくすべは一つもなかった。肩をサーベルで切られ、片方の耳をそがれて傷ついたラドゥーブが、汗と血にまみれてかけつけてきた。そして、ミシェール・フレッシャールを見て、こう言った。
「おお、あんた、いつか銃殺《じゅうさつ》された女《ひと》じゃないか! じゃあ、生きかえったのか?」
……「わたしの子どもたちが!」と、母親が叫んだ。
……「そりゃそうだがな」と、ラドゥーブが答えた。「今は生きかえりなんかの相手をしているひまはないのだよ」
こう言うと、ラドゥーブは橋をのぼりはじめた。しかし、それは、いくらやってもむだなことだった。石につめをかけて、しばらくのぼってみたが、石の層はすべすべしていて、裂け目もなければ、盛りあがったところもなかった。壁はまっさらな壁のように丹念にしっくいをぬりこめてあった。とうとうラドゥーブは落ちてしまった。
火事はあいかわらずおそろしいいきおいで燃えつづけていた。まっかになった窓わくの額縁の中に、三つの金髪の頭が見えていた。このとき、ラドゥーブが、なにか目で追っているように、手を天のほうへさしあげて、言った。「神さま、どうしてこんなことをなさるんです!」
母親は橋の石にひざをついてだきつき、こう叫んだ。「お慈悲を!」
ものが重々しくくだける音が、燠火《おきび》がぱちぱちはじける音といりまじっていた。図書室の書棚のガラスがひびわれ、音をたててくずれ落ちた。明らかに骨組がだめになってしまったのだ。いかに人間の力をつくしてみても、もうなにもできなかった。もうしばらくすると、すべてが崩壊してしまうにちがいなかった。もう破局を待つばかりだった。かわいい声が「かあちゃん! かあちゃん!」とくりかえすのがきこえていた。
人々は恐怖の絶頂にのぼりつめていた。
と、とつぜん、子どもたちがいる窓のとなりの窓に、深紅に燃えあがる炎を背景にして、一つの高い人影が現われた。
すべてのものが頭をあげ、目をその人物にじっとそそいだ。ひとりの男が上にいたのだ、図書室にいたのだ、燃える大がまの中にいたのだ。この人影は火の上にくろぐろと輪郭を描いていたが、頭髪はまっ白だった。まさしくラントナック侯爵だった。
彼は一度消えたが、すぐまた現われた。
そのおそるべき老人は、大きな梯子を手にもって、窓ぎわにたっていた。それは図書室に置いてあった梯子だったが、侯爵はそれを壁をつたってさがしにいき、また窓ぎわまで引きずってきたのだった。彼は梯子のはしをつかむと、闘技者のような魔術的なすばやさで、梯子を手すりのへりの上をすべらせて窓わくのそとにつきだし、さらに掘れみぞの底までのばそうとした。下では、ラドゥーブがわれを忘れて両手をのばし、梯子を受けとると両腕でしっかりおさえて、こう叫んだ。「共和国ばんざい!」
すると、侯爵が答えた。「国王ばんざい!」
ラドゥーブがつぶやいた。「言いたいことを言うがいいさ。言いたいんなら、ばかなことも言うがいい。おまえはよい神さまだからな」
梯子《はしご》が固定されると、燃えている部屋と地上との連絡ができあがった。それから二十人の兵士たちがラドゥーブを先頭にして、またたくまに石をあげおろしする石工のように、横木を背にして梯子の上から下まで、積みかさなるようにして並んだ。木の梯子に人間の梯子がかさなったのだ。梯子のてっぺんにのぼったラドゥーブが手を窓にさわった。彼だけは火のほうに向いていたわけである。
あちこちのヒースのかげや、斜面の上には三々五々《さんさんごご》、兵士たちの小さなかたまりができていたが、これらが、いちどきにありとあらゆる感動に心を動かされ、台地の上や、掘れみぞの中や、塔の屋上の上で、ひしめきあった。
侯爵はもう一度すがたを消すと、また現われた。こんどは子どもをひとりかかえていた。
すると、一大拍手がわきおこった。
最初、侯爵は手あたり次第につかんできたのだが、これはグロ=ザランだった。
グロ=ザランがわめいた。「こわいよう」
侯爵はグロ=ザランをラドゥーブに手わたした。ラドゥーブはグロ=ザランを背後にまわし、自分の下にいる兵士に渡した。その兵士はまたつぎの兵士にわたした。グロ=ザランが極度におびえて泣き叫びながら、こうして彼は兵士たちの手から手にわたされて、とうとう梯子のいちばん下まで送られていくあいだに、侯爵はまたしばらくすがたを消していたが、やがて、ルネ=ジャンをかかえて窓ぎわに戻ってきた。ルネ=ジャンは泣きながら抵抗し、侯爵の手から軍曹の手にわたされたとき、ラドゥーブをたたいた。
それからまた侯爵は炎につつまれた図書室に引きかえした。そこにはジョルジェットがひとりぼっちで残っていた。侯爵が彼女に歩みよった。彼女がにこっと笑った。すると、さすが花崗岩《かこうがん》のようにかたい心をもった男も、なにか濡《ぬ》れるものが目にわいてくるのをおぼえた。彼はたずねた。
「なんという名前か?」
「≪オル≫ジェット」と、彼女が答えた。
侯爵は女の子を両腕にだきとったが、あいかわらず彼女は笑っていた。それで、彼女をラドゥーブに手わたしたとき、この傲慢《ごうまん》で暗い心の持主も、女の子のむじゃきさにうっとりとしてしまい、老侯爵は女の子に接吻した。
「あの女の子だ!」と、兵士たちは口々に言った。そして、ジョルジェットは感嘆の声がわく中を、兵士たちの手から手へとわたされて、地上へおりていった。みんなは手をたたき、足を踏みならしていた。老兵士たちはすすりあげていた。そうしたものたちに向かって、女の子はやはり笑いかけていた。
母親は梯子の下にいたが、地獄からいきなり天国へひっぱりあげられるという思わぬできごとに息を切らし、逆上し、酔い心地になっていた。あまりの歓喜に酔いしれると、それはまた心を傷つけるものである。母親は両腕をひろげると、まずグロ=ザランを、つぎにルネ=ジャンを、最後にジョルジェットをだきとって、三人にめちゃめちゃに接吻の雨をふらせた。それから、大声で笑うと、それきり気を失ってたおれてしまった。
大喚声がわきおこった。
「みんな助かった!」
なるほど、三人とも助かったが、あの老侯爵だけは例外だった。しかし、そんなことを考えるものはひとりもいなかった。いや、多分、老侯爵自身だって考えなかっただろう。
しばらくのあいだ、老侯爵は窓ぎわに夢見心地でつったっていた。まるで、炎の渦巻に決心する余裕をあたえてやろうとしているみたいだった。それから、あわてず、ゆっくりと、傲慢《ごうまん》な態度で、窓の手すりをまたぐと、ふり向きもしないで、身体をぴんとたて、梯子の横木に背中をつけ、炎には背中を向け下の奈落のほうには顔を向けて、まるで幽霊のように威厳にみちた態度で、黙って梯子をおりはじめた。梯子にのっていた兵士たちがいそいで下におりた。並みいるものはみんなふるえていた。この上からおりてきた男のまわりには、まるでまぼろしのまわりにできる神聖なおそろしさみたいなものがただよい、そのため、みんなあとずさりしていた。しかし、侯爵自身はおごそかに眼前のやみの中へつき進んでいった。
兵士たちはあとずさりしているのに、侯爵のほうは兵士たちに近よっていったのだ。その大理石のように白い顔にはしわ一つなく、亡霊のようなまなざしにはひとすじの光も浮かんでいなかった。おびえた目つきでやみの中の彼をじっと見つめている男たちのほうに、彼が一歩ごとに近づいていくと、彼はますます大きくなっていくようだった。梯子がうちふるえ、彼のおそろしげな足もとできしんだ。彼のすがたはまるで、ふたたび墳墓の中へおりていく騎士の彫像みたいだった。
侯爵が下におり、最後の横木を踏んで地上に足を置いたとき、一本の手が彼のえりをつかんだ。侯爵はふりかえった。
「貴下を逮捕する」と、シムールダンが言った。
「けっこう」と、ラントナックが言った。
[#改ページ]
第六編 勝利ののちに戦いがおこる
一 とらえられたラントナック
事実、ラントナック侯爵がふたたびおりていったところは墳墓の中だった。
彼は連行されていったのだ。
即刻、ラ・トゥールグの一階の地下室が、シムールダンのきびしい監視のもとにひらかれた。
地下室の中には、ランプが一つと、水がはいっている水さし一つと、兵士用のパン一個が運ばれ、ひと束のわらが投げこまれた。そして、シムールダンの手が侯爵をつかまえたときから十五分もたたないうちに、地下牢のとびらはラントナックの上でまたとざされてしまったのだ。
これだけのことをしてしまうと、シムールダンはゴーヴァンをさがしにいった。と、このとき、はるかパリニェの教会の鐘が十一時をうった。シムールダンがゴーヴァンに言った。
「軍法会議を召集するが、君は出廷しないようにしろ。君はゴーヴァンであり、ラントナックもゴーヴァン家の出身だからな。君は裁判官になるにはあまりにラントナックの親戚筋でありすぎる。わしは≪平等家《エガリテ》≫がカペをさばいたことを非難するものだ〔≪平等家≫はオルレアン公のことで、彼はカペ、つまり、ルイ十六世の親戚筋にあたる。ところがオルレアン公はルイ十六世の死刑に賛成した〕。軍法会厳は三人の裁判官で構成されるだろう。つまり、将校のゲシャン大尉、下士官ではラドゥーブ軍曹、そして裁判長のこのわしだ。こういうことも、すべて君にはかかわりがない。われわれは国民公会の政令にしたがって軍法会議をおこなうのだ。つまり、あの男がもと侯爵ラントナックであるという身元を確認するだけだ。あすは軍法会議、そしてあさっては断頭台。ヴァンデ軍は死にたえるのだ」
ゴーヴァンは言葉ひとつかえさなかった。そして、シムールダンはまだやり浅してある重大要件に夢中になっていたので、ゴーヴァンのもとをはなれた。シムールダンは軍法会議の時間をきめたり場所をえらんだりする用事がたまっていたのである。彼はグランヴィルにおけるレキニヨのように、ボルドーにおけるタリアンのように、リヨンにおけるシャリエのように、そしてストラスブールにおけるサン=ジュストのように、みずから処刑にたちあう習慣をもっていたが、これはよい手本だと一般から思われていた。裁判官が死刑執行人の仕事ぶりを見にくるということは、フランス最高法院やスペインの宗教裁判の例にならい、一七九三年の恐怖政治《テルール》によってはじめられた習慣である。
ゴーヴァンもまたなにかに夢中になっていた。
寒風が森のほうから吹いていた。ゴーヴァンは、ゲシャンにいろいろ必要な命令をくだす権限をあたえて、ラ・トゥールグの足もとの森のはずれの牧場にある自分のテントへいくと、頭巾《ずきん》のついたマントをとって、すっぽりとかぶった。このマントにはごく簡単な袖章がぬいつけられてあった。これは共和派のならわしで質素な飾りにすぎなかったが、実は指揮官のしるしだった。
彼はあのラ・トゥールグ進撃が開始された、その血にまみれた牧場の中を歩きはじめた。彼はひとりだった。火災はまだつづいていたが、もうだれも気にしていなかった。ラドゥーブはあの三人の子どもとその母親のそばについて、ほとんど母親と同じくらいな心づかいを見せていた。橋城は燃えつきようとしていて、工兵たちが火をひろがらせないように注意していた。また、いくつも穴を掘って死体を埋めた。負傷者の手あてもおこなれていた。後陣《ルティラード》も破壊してしまった。部屋や階段に横たわっている死体もとりかたづけてしまった。虐殺がおこなわれた場所を洗い、勝利が残したおそるべきくずの山を掃《は》きだした。こういういうことは、兵士たちが軍隊らしいすばやさでやってしまった。それは戦いのあとの整理と呼んでよい仕事だった。しかし、ゴーヴァンはこうしたこと一切には見向きもしなかった。
彼にとっては、思いに沈みながら、あのシムールダンの命令で二重に監視されている裂け目の哨所に、目を向けるのが、やっとのことだった。
彼が暗やみの中で見わけることのできたこの裂け目は、彼が人目をさけるようにしていた牧場のすみから、約二百歩はなれたところにあった。彼はその黒い入口を見つめていた。今から三時間前に、この入口から攻撃がはじめられたのだ。ゴーヴァンが塔の中へはいっていったのも、この裂け目からだった。それは、後陣《ルティラード》が築かれたあの一階にあった。そして、侯爵がとじこめられている牢のとびらがひらかれるのも、この一階の中だった。裂け目の哨所はこの牢を監視しているのだった。
彼の目がこの裂け目をぼんやり認めるのと同時に、彼の耳には、さっきシムールダンからきいた『あすは軍法会議、あさっては断頭台』という言葉が、まるで臨終を告げる鐘の音《ね》のように、ぼんやりとよみがえってきた。
火事を一カ所にだけ孤立させてしまうと、工兵たちは手にいれられるだけの水をくんで、その上にぶちまけたが、火は弱くなりながらも消えず、断続的に炎をふきあげていた。ときどき、天井がわれる音がきこえ、各階がつぎつぎにくずれ落ちる音がきこえた。すると、松明《たいまつ》をふるときのように火花の渦巻がまきあがり、いなずまのように、遠い地平線までも明るくてらすのだった。そしてラ・トゥールグの影がとつぜんおそろしく巨大になり、森にとどくほど長く横たわるのだった。
ゴーヴァンは、攻撃地点になった裂け目の前で、このラ・トゥールグの影の中を、いったりきたりしていた。ときどき、彼は軍用の頭巾《ずきん》つきマントにつつまれた頭の背後で両手を組んだ。彼は考えこんでいた。
二 考えこむゴーヴァン
ゴーヴァンの夢想は底知れぬほど深かった。
前には一度も目にしたことがないような、一つの変化がおこったのだった。
ラントナック侯爵がふいに変貌したのである。
そして、ゴーヴァンはその変貌を目撃したのだった。
そのことがなんであれ、いろいろなできごとがいりくんでおこった結果として、あんな事件がもちあがろうとは、ゴーヴァンは一度も思ってもみなかっただろう。あんなことがおころうとは、夢にさえ思わなかっただろう。思ってもみないできごとという、この人間を手玉にとるなにか得体の知れぬ高慢なものが、ゴーヴァンをつかまて、はなさなかった。
ゴーヴァンは、とてもありそうもないことが現実となり、目に見え、手で触れるようになり、さけがたいものになり、冷酷なものとなるのを、まのあたりにしたのだ。
彼、ゴーヴァンはこの事実をどう考えていたのだろう?
自分自身に向かってにげ口上を言うべきではなかった。結論をくださなければならなかった。
彼に対して一つの質問が提起され、それを前にして、彼はにげることはできなかったのだ。
しかし、その質問はだれの手で提起されたのだろうか?
あの、いろいろの事件が提起したのだった。
いろいろの事件によるばかりではなかった。
というのも、いろいろ変化する事件がわれわれに質問を提起する場合、不変の正義がわれわれに答えさせようとするからである。
われわれにその影を投げかける雲のかなたには、われわれに光を投げかける星がきらめいているのだ。
われわれが光からのがれることができないのは、影からにげることができないのと同然である。
ゴーヴァンは訊問《じんもん》を受けていた。
彼はなにものかの前に出頭させられていた。
それは、おそろしいなにものかの面前だった。
彼自身の良心の前に出頭させられていたのだ。
ゴーヴァンは自分の身内にあるもの一切がぐらつくのをおぼえた。世にも堅固な彼の決意も、この上なくかたく結ばれた約束も、ぜったいに取り消されない決定も、いっさいがっさいが、彼の意志の底でよろめいていたのだった。
魂だってぐらぐらゆすぶられることがあるものだ。
ゴーヴァンは今さき目にしたもののことを考えれば考えるほど、気が転倒してしまうのだった。共和主義者であるゴーヴァンは、絶対の中に存在していると信じもし、事実、絶対の中に存在していた。そこへ、いちだんとすぐれた絶対が出現してきたのだ。
革命的絶対の上に人間的絶対が存在しているのである。
今さきおこったことはごまかすことのできないことだった。それはおごそかな事実だった。そしてゴーヴァンはこの事実に参加していたし、その事実に加担していたから、それから引きさがることはできなかった。たとえ、シムールダンから、『これはきみにはかかわりがない』と言われたにしても、ゴーヴァンは根を引きぬかれるときに木が感じるようななにかを、身内におぼえていたのだ。
すべての人間は一つの心の基盤というものをもっているから、この基盤がゆすぶられると、深い心の苦しみにおそわれるが、ゴーヴーンはこの苦しみをおぼえていたのである。
彼は両手で頭をおさえた。まるで頭の中から真実をしぼりださせようとするかのようだった。こうした状況を明確にすることは、なまやさしいことではなかった。これほどむずかしいことはなかった。彼はおそろしく大量の数字を目の前にしていて、その総計をださなければならない、といった状態にたたされていた。運命のよせ算をするとは、なんて目もくらむような作業だろう! ところが、彼はそのよせ算をやってみようとしていた。なんとか計算してみようとしていた。なんとか、自分の思考をかきあつめ、身内におぼえるいろいろな抵抗をこらしめ、いろいろな事実の要点を確かめようとしていた。彼はそれらの事実を自分自身に向かって説明してみた。
極度の状況に追いこまれて、前進するためにせよ、後退するためにせよ、これから歩んでいく道筋を自分で考えたり自分に問いかけてみたりしようとしない人間がいるだろうか?
ゴーヴァンは一つの奇跡に立ちあってきたところだった。
地上の戦いがあるのと同時に天上の戦いがあったのだ。
それは悪に対する善の戦いだった。
おそるべき心が敗北してしまったのだ。
あの男には、暴力、恐怖、盲目、不健全な片意地、傲慢《ごうまん》、エゴイスムなど、ありとあらゆる悪をあたえられていたので、それだけゴーヴァンは一つの奇跡をまのあたりにする思いがしたのだった。
それは人間に対する人間愛の勝利だった。
人間愛が非人間的なものにうち勝ったのだった。
しかもどのような方法で? どのようなしかたで? この人間愛はどういう方法で、怒りと憎悪《ぞうお》の巨人を地上にたおしたのだろうか? どういう武器を使ったのか? どういう戦争道具を用いたのか? ゆりかごという武器を使ったにすぎなかったのだ。
さきほどから、目くるめくような思いがゴーヴァンをおそっていた。世をあげての戦いのまっさいちゅうに、あらゆる敵意とあらゆる復讐が火花をちらす動乱のまっさいちゅうに、そして、この上なく暗く、この上なくたけり狂った争乱の瞬間に、罪悪があらゆる悪の劫火《ごうか》をそそぎ、憎悪がそのやみをそそぎこんでいるそのときに、ありとあらゆるものが砲弾と化し、乱闘がすさまじく展開され、どこに正義があり、どこに誠実があり、どこに真実があるのかわからなくなってしまった、あのときに、とつぜん、魂に対する神秘的な警告者である≪未知のもの≫が、人間の光明とやみの上に、偉大な永遠の光をきらきらと輝かせにきたのだった。
いつわりと相対との悲惨な決闘の上に、たちまち、真実の顔が深淵の底から現われてきたのだった。とつぜん、弱者たちの力が中にわってはいってきたのだった。人々が目にしたものは、生まれたばかりで、自覚もなく、うちすてられ、孤児にされ、孤独の境涯にほうりこまれ、しゃべる言葉もたどたどしく、ひたすら笑っているだけの三人のおさなごたちが、内乱、同罪の刑、復讐《ふくしゅう》というおそるべき論理と、殺人、虐殺、兄弟殺し、憤怒、悪意など、ありとあらゆる悪の怪物たちを向こうにまわして、ついに勝利をしめるところだった。あるいは、罪悪を犯す任務をおびた憎むべき火災が中途でたち消え失敗するところだった。あるいは、おそるべき計画がくつがえされ裏をかかれるところだった。あるいは、古い時代の封建的|獰猛《どうもう》さ、古びた非情この上ない軽蔑、戦乱の必要性をおしつけるいわゆる経験主義、国のきまり、残忍な老人の傲慢《ごうまん》不遜な偏見など、これらすべてのものが、まだいくらも生を享受していないおさなごたちの青いひとみの前で消え去るところだった。
しかし、この理由は至極簡単なことだった。なぜなら、生まれてまもないおさなごというものは、まだ悪を犯したことがないからで、おさなごこそ正義であり、真実であり、潔白であり、天にあるおびただしい天使たちも、これらおさなごらの心の中にいるからである。
それは役にたつ見ものであり、忠告であり、教訓だった。とつぜん、非情な戦争を熱狂的に戦っていた兵士たちは、すべての大罪、すべての陰謀、すべての狂信、すべての殺人、火刑に使うたきぎに火をつける復讐心、手に松明《たいまつ》をもってやってくる死などに面と向かって、罪悪の巨大な軍団の上に、この全能の力である清浄無垢《せいじょうむく》がたち上がるのを見たのだった。
そして清浄無垢がうち勝ったのだ。
そこで、人々はこう言うことができた。つまり、そのとおり、内乱など存在しない、野蛮も存在しない、憎悪も存在しない、罪悪も存在しない、闇も存在しない、こういう幽鬼どもを退散させるのには、このおさなごという夜明けがあればたくさんだ、と。
この戦闘くらい、悪魔がはっきり目に見え、神もはっきりすがたを見せたもうた場合はなかった。
この戦闘は一個の良心を闘技場として戦ったのだ。
その良心とはラントナックの良心だった。
今や、この戦いは多分いちだんと熱し、いちだんと決定的なものになりながらも、もう一つ別の良心の中で、また開始されていたのだ。
その別の良心とはゴーヴァンの良心だった。
人間の心ほどはげしい戦いの野になるものはない!
われわれは、ときには神になり、怪物になり、巨人となる、あの思考の手にとらわれてしまうものである。
そしてときに、この思考というおそるべき交戦者は、われわれの魂を足で踏みにじってしまうものである。
ゴーヴァンは考えこんでいた。
ラントナック侯爵は包囲され、とじこめられ、有罪の宣告を受け、法律のそとにほうりだされ、闘技場にほうりこまれた野獣のように、釘《くぎ》ぬきにつままれた釘のようにつかまえられ、牢獄となった自分の古巣にとじこめられ、鉄と火の壁でまわりをとりかこれていたが、うまくのがれでてしまった。こんな脱出の奇跡を演じてみせたのだ。こうした戦いにおいては難事中の難事とされている、逃亡という傑作をものすることに成功したのだ。そして、そこにたてこもれる森を、そこで戦える地方を、そこに消える影を、またも手にいれてしまったのだ。そして彼は、ふたたび、おそるべき徘徊《はいかい》者にもどり、不吉な放浪者にもどり、目には見えない軍隊の隊長にもどり、地下潜行者たちの親玉となり、森の支配者になってしまったのだ。
ゴーヴァンは勝利を得たが、ラントナックは自由を手にいれたのだった。これからラントナックは、安全を獲得し、前に向かってはてしなく駆《か》け、無限に存在するかくれ家を自由に選択できるのだった。つまり彼はつかまえることもできず、発見することもむずかしく、近よることも不可能なものになってしまったのである。
ところが、その彼はもどってきた。
ラントナック侯爵は、進んで、自発的に、まるきり自分からえらんで、森や影や安全や自由からはなれて、大胆にも、世にもおそろしい危険な場所へもどってきたのだ。そして最初、ゴーヴァンがその目で確かめたように、火にまかれる危険をもかえりみず火災の中へとびこみ、つぎには、彼自身を敵にわたすあの梯子、子どもたちにとっては救助の梯子だが、彼自身にとっては滅亡に通じているあの梯子をおりてきたのだ。
なぜ彼はあんなことをしたのだろうか?
三人の子どもたちを救うためだったのだ。
しかも今、あの男はどうされようとしているのか?
断頭台にかけられようとしているのだ。
こういうことをしたこの男は、三人の子どもたちにとってなんだったのか? 彼らの親だったのか? いやちがう。では家族だったのか? いやちがう。では同じ階級のものだったか? いやちがう。つまり、初めて出あった三人のまずしい子どもたち、まい子の子どもたち、見知らぬ子どもたち、ぼろを着てはだしのままの子どもたちのために、この貴族であり、王族《プランス》であるこの老人、助けられ、自由になり、脱出は一つの勝利であるがゆえに勝利者でもあるこの老人は、あらゆる危険をおかし、あらゆる安全をすてて、子どもたちを引きわたすとともに、誇り高くも、自身の首、それまではおそるべきものだったが、今では尊厳の気につつまれているその首をもってきて、さしだしたのだった。
そして、自分のほうはどうしようとしたのか?
さしだされた首を受けとろうとしたのだ。
ラントナック侯爵は、他人の生命《いのち》か自分の命か、二者択一をせまられて、崇高な選択ののちに、自分自身の生命を殺すほうをえらんだのである。
そういう彼を、自分のほうは認めようとしているのだ。
彼を殺そうとしているのだ。
英雄的行為に対して、なんという報いをあたえようとするのか!
寛大な行為に答えるのに、野蛮な行為をもってしようとは!
これでは革命に泥をぬることではないか!
共和国に対して、なんという下卑《げび》た行為におよぼうというのだろう!
以前は偏見と奴隷制是認にみちた男が、とつぜん変貌して、人間愛の境地にもどったというのに、それをわれわれ自由と解放の戦士たちは、あいかわらず、内乱の中に、血の因習の中に、兄弟殺しの中に踏みとどまっていようというのか!
それから、ゆるし、献身、贖罪《しょくざい》、犠牲など、神聖で誇り高いおきては、あやまてる相手がたの戦士たちにとって存在し、こちら側の真実のために戦う兵士たちにとっては存在しないというのか!
なんということだ! 高潔をあらそって戦わないとは、なんということなんだ! もっとも強いはずのものが弱者となり、勝利者であるものたちが人殺しとなり、君主制の側には子どもたちを救助するものがいるのに、共和政の側には、老人たちを殺すと言われるような、こんな敗北に従わなければならんとは!
あの偉大な軍人、八十歳のたくましい老人が、あの武装解除された戦士が、逮捕されたというよりかすめとられ、よいおこないをしているさなかにつかまり、自分から進んで首になわをかけた男が、ひたいには偉大な大詰めのために汗をにじませ、神の列にくわえられるために階段をあがっていくように、処刑台のステップをのぼっていくのが、やがて見られるのだ! そして、この老人の首は断頭台の刃《やいば》の下に横たえられ、そのまわりから救われた三人の天使たちの小さな魂が、犠牲者の助命を懇願しながらとびたっていくだろう!
さらに、死刑執行人たちの体面をけがすこの懇願を目前にしては、死刑執行人の顔には微笑が浮かび、共和国の面上はまっかな恥辱の色が浮かぶのが見られることだろう!
その上、こうしたことは指揮官であるゴーヴァンの目の前でやりとげられるだろう!
彼ゴーヴァンはそれをやめさせることができるのに、見殺しにするということになるだろう!
『これは君にはかかわりがない』という、あの高慢な職務免除通告に満足していることだろう。
そして、こういう場合には、正義を放棄することは、悪事の共犯となるということなど、考えもしないだろう! そして、そのような処刑というとてつもない行為においては、それを施行するものと、施行を人にまかせているものとを比較すると、後者はみずから手をくださないだけに、いっそう悪人であるということにも、少しも気づかないだろう!
しかし、この死は、彼が約束したものではなかったろうか? 寛大な男であるはずの彼ゴーヴァンは、ラントナックが寛大に処理されることをさまたげ、シムールダンの手にわたすと、公表したのではなかったろうか?
彼にとって侯爵の首は、一つの借りになっていたのだ。だから、今、彼はこの借りを支払おうとしているのだ。それだけなのだ。
しかし、この首は前と同じ首だったろうか?
それまでゴーヴァンは、ラントナックの中に、野蛮な戦士、狂信的な王党派で封建主義者、捕虜の虐殺者、戦争の手で鎖を切ってはなたれた人殺し、血にまみれた男しか見ていなかった。そういう男なら、なにもおそれることはなかった。追放者など追放してしまえばよいし、なさけ容赦《ようしゃ》ない男などなさけ容赦もなく処断してしまえばよかった。これほど簡単なことはなかった。道はすでに予定されていて、この道をたどることは気味悪くも容易なことだった。すべては予見できていた。人を殺すものは殺してしまえばよいし、恐怖に向かってまっしぐらに突き進めばよかった。ところが、とつぜん、このまっしぐらであるべき道が折れ、思わぬ曲がり角が新しい地平線を現わした。一つの変貌がおこったのだった。思いもかけぬ別のラントナックが舞台に現われてきたのだ。怪物の中から英雄がとびだしてきて、それはもはや怪物ではなく、一個の人間だったのだ。単なる魂をもった人間以上のもの、つまり血のかよった心をもった人間だったのだ。
ゴーヴァンがその前にたっているのは、もはや人殺しではなくて、救い主だったのだ。ゴーヴァンは天上からそそぐ光明の波にうたれて、地上にうちたおされてしまった。ラントナックが雷のような善意の鉄拳でもってゴーヴァンをうちすえたのだった。
そして、変貌をとげたラントナックがゴーヴァンを変貌させずにおくものだろうか? これはどうしたことか! このような光明の一撃がなんの反応も引きおこさないとは! 過去の男が前進しようとしているのに、未来の男があとずさりするとは、どういうことだろうか? とつぜん、野蛮と迷信にこりかたまった男がつばさをひろげてとびたち、天空をとびまわりながら、この下で、理想を追う人間が泥と夜の中をはうのを、見おろそうというのか! ラントナックが崇高の中にはいっていって、さまざまな冒険をこころみているというのに、ゴーヴァンがそのまま古く残忍な因習の中に腹ばいになっているというのか!
問題はほかにもある!
それは、ゴーヴァン家のことだった!
彼が流そうとしているあのラントナックの血……というのも、ラントナックの血を流させるということは、つまり、彼自身の血を流すことだから……は彼自身の血、ゴーヴァン家の血ではなかったろうか? 彼の祖父はもう亡くなっていたが、大伯父《おおおじ》はまだ生きていた。そして、この大伯父こそラントナック侯爵だったのだ。この二人の兄弟のうち墓にはいっているほうは、兄を墓にいれまいとして立ちあがるのではないだろうか? そして彼は自分の孫に向かって、これからは、自分自身の後光の兄弟である、その白髪の冠を尊敬するように命じないだろうか? ゴーヴァンとラントナックとのあいだには、憤慨した祖父の亡霊のまなざしがたちふさがっているのではないだろうか?
すると、革命は人間を邪道におちいらせることを目的としているのだろうか? 家族を崩壊させるため、人間性を窒息させるために、革命がおこなわれたのだろうか? とんでもないことだ。一七九三年の革命がおこったのは、こうした家族や人間性という崇高な現実を肯定するためであって、けっして否定するためではなかったのだ。監獄《バスティーユ》をひっくり返すことは人間性を解放することであり、封建制度を廃止することは、家族の基礎を作ることである。製作者は権威の出発点となるものであり、権威は製作者の中に含まれているものだから、父権をおいてほかの権威など、けっして存在しないのである。ここから部下を創造する女王ばちの正統性もでてきているのだ。つまり、女王ばちは母であるがゆえに、女王となっているのだ。同じ理由で、人間の王が存在するということは不条理なのであり、王は国民の父ではないがゆえに、国民の支配者ではないのである。こうして、王は除去されて、共和政が生まれてきたのである。こうしたことはすべて、どういうことなのだろうか? つまり、家族や、人間愛や、革命の存在を証明するものなのだ。革命とは、民衆が君臨することであり、その根本においては、≪民衆≫は≪人間≫なのである。
かくて、ラントナックが人間性の中にもどってきたからには、ゴーヴァンもまた家族の中にもどっていくべきかどうか、それを知ることが問題だった。
高い位置で輝く光明の中で、大伯父と甥とがまた手を結びあうかどうか、あるいは大伯父の進歩に対して、甥の後退が答えるかどうか、それを知るのが問題だったのだ。
自己の良心に対するゴーヴァンの悲壮な闘争の中で、こうした問題が以上のように提起されたのであり、そして、その問題の解決は、その問題自体から引きだされるような気がした。つまり、ラントナックを救うことであった。
それはいいだろうが、そうなると、フランスはどうなるのだろう?
ここにいたって、このめくるめくような問題がとつぜん様相を変えた。
これはどうだろう! フランスは絶体絶命の状態に追いこまれているのだ! フランスは敵の手に引きわたされ、門戸をひらかれ、防備をとりこわされているのだ! すでに外堀はうずめられ、ドイツ軍はライン河をわたっていた。フランスにはもはや城壁はなく、イタリヤ軍はアルプスを、スペイン軍はピレネーをまたいでいた。フランスに残されているのは、大西洋という巨大な深淵ばかりだった。フランスはこの深淵を味方にできた。巨人のようにこの深淵にもたれかかり、大西洋全域にささえられて、全陸地を向こうにまわして戦うことができた。これは、なにをおいても難攻不落の態勢だった。ところが、この態勢も今やくずれようとしていたのだ。
たのみとしていた大西洋はもうフランスの味方ではなく、この大西洋の中にはイギリス軍がかまえていたのだ。もちろん、イギリス軍は大西洋をわたるすべを知らなかった。ところが、ひとりの男がやってきて、大西洋に橋をかけ、手をさしのばし、ピットや、クレイグや、コーンウォリスや、ダンダスや、海賊たちに向かって、『さあ、やってこい!』と叫んでいるのだ。『イギリスよ、フランスをとれ!』と。
この男こそラントナック侯爵だった。
この男をつかまえることができたのだ。三カ月にわたって排撃と追撃と猛攻をくわえたあげく、やっと彼をつかまえることができたのだ。革命の手がこの呪うべき人物を地にころがしたのだ。≪九十三年≫というにぎりしめた拳《こぶし》が、この王党派の殺人者のえり首をつかまえたのだ。おそらくは、天の高みから人間界のできごとに干渉する神聖な予謀によって、今や、この国賊も、自家の牢獄の中で、罰がくだるのを待っているのだ、封建主義者である彼が、封建時代の牢にいれられているのだ。彼自身の城の壁石が彼のまわりをとりかこみ、彼をとじこめているのだ。自分の国を売りわたそうとした男が、自分の家の手で敵に売りわたされようとしているのだ。神はこうしたことすべてをありありと築きあげたもうたのだ。最後のときの鐘はすでにうちならされたのだ。かくて、革命はこの公共の敵を捕虜にしてしまった。その敵はもう戦うこともできず、もういどみかかることもできず、害をくわえることもできなかった。いくらでも助けの手があったヴァンデだったが、その中で彼こそはたったひとりの知識のもちぬしだった。その彼が終わるときこそ、内乱が終わるときなのだ。その彼はすでにとらわれているのだ。まさに悲劇的ではあるが、さいわいな大詰めをむかえようとしているのだ。あれほど大量の虐殺と殺戮《さつりく》がおこなわれたあとで、この人をあやめた男も、ついにとらわれることになった。こんどこそ彼が死ぬ番だった。
それなのに、こんな男を救おうという男が現われようとは!
いわば≪九十三年≫の男であるシムールダンがいわば君主制の男ラントナックをとらえたというのに、この獲物を青銅の爪からはなしてやろうという男が現われようとは! 過去とよばれるわざわいの束を一身に背負いこんだこの男ラントナック、侯爵ラントナックは、今は墓の中にいて、重い永遠のとびらが彼の上方からとざされているというのに、だれかが、そとから、このとびらのかんぬきをぬきとろうとしようとは! この社会の極悪人はもう死んでしまっていて、その彼とともに反抗も、兄弟殺しの戦いも、野獣のような戦いも終わってしまったというのに、だれかがその彼を復活させようとは!
おお! そんなことになったら、あの死人の首はどんなに笑うことだろう!
この亡霊は、『しめた。おれは生きているぞ、ばかものめらが!』と、言うことだろう。
すると、彼はまたぞろ、あのおそろしい仕事をはじめることだろう! またまた、ラントナックはなさけ容赦もなく、嬉々《きき》として、憎悪と戦いの渦巻の中に沈みこんでいくだろう! そして、あすからは、またも幾多の家がやかれ、捕虜たちが虐殺され、負傷者がかたづけられ、女たちが銃殺されるのが見られることになるだろう!
以上のことをよく考えてみれば、ゴーヴァンは自分があれほど夢中になっていた行為……ラントナックを救うという行為を、過大評価していたのではなかろうか?
三人の子どもたちは今にも殺されそうだったが、そこをラントナックが救ったのだった。しかし、いったいだれが子どもたちを殺そうとしたのか?
ラントナックではなかったか?
あの三つのゆりかごを火災の中に放置しておいたのはだれだったか?
イマーニュスではなかったか?
そのイマーニュスとはだれだったか?
侯爵の副官だった。
つまり、責任は総司令官にあるのだ。
ということは、火災や殺人の責任はラントナックにあるわけだった。
してみると、あの男はほんとうに称賛されるようなことをしたといえるだろうか?
最後まで悪事に固執しなかった、というだけのことではないか。
彼は罪悪を組みたてておいて、いざその前にたつと、あとずさりしてしまったのだ。自身、自分の仕業におびえてしまったのだ。あの母親の叫び声が、彼の心に、前々からひそんでいた人間的なあわれみの気持をめざめさせたのだ。それは、どんなに困果《いんが》な人間であるにしろ、あらゆる人間の魂の中に存在している、一種の普遍的な生からのたまものなのである。
彼はあの母親の叫び声を耳にして、きびすをかえしたのだった。一度踏みこんだ夜からでて、もう一度|陽《ひ》のあたるところに向かってあともどりしたのだ。罪悪をおかしたあとになって、その罪悪を破壊してしまったのだ。彼の功績と言えば、とことんまで怪物になりきれなかったことくらいだったのだ。
こんなちっぽけなことをとりあげて、それで彼にすべてをかえしてやろうというのか! 彼に空間を、野原を、平原を、陽の光をかえしてやろうというのか、彼が追いはぎ稼業のために使用したものをかえしてやろうというのか、彼が奴隷を使うために必要な自由をかえしてやろうというのか、彼が人を殺すことができるように生命をかえしてやろうというのか!
もし、彼と理解しあおうなどとしたら、あの高慢ちきな魂と取り引きしようなどとしたら、条件づきで自由をあたえてもよいなどと提案したら、生命《いのち》を助けるかわりに、今後はすべての敵対行為、すべての反抗をさしひかえることに同意しろなどと申しでたら、こんな申しでがもとになって、どんなに大きなあやまちをおかすことになるか知れないだろうし、結局は、彼にとんでもない利益をあたえることになるだろう。そうなったら、彼はきっと軽蔑をなげつけてくるだろうし、とんでもない返答をたたきつけてくるだろう! そして、こう言うだろう。『そんな恥はおまえたちがかけばよい。さあ、わしを殺せ!』
実際、あの男に対しては、殺すか、さもなければ釈放するか、いずれかの方法しかないのだ。あの男は山頂にたっているようなものだ。いつも、天に向けてとびたつか、地に向けて身を犠牲にするか、いずれかの用意をしているのだ。彼自身が鷲《わし》であるとともに絶壁ででもあるのだ。まことに奇妙な魂の持主なのだ。
彼を殺すか? しかし、なんと不安なことだろう! では釈放するか? それでは責任が重大だ!
もしラントナックを助けたら、頭を切られていない七頭蛇《ヒドラ》と戦うように、また初めからヴァンデ軍と戦闘をしなければならないだろう。そして、あの男が身をかくしたために消えてしまった炎が、一瞬のうちに、ふたたび、流星のようにすばやく点火されるだろう。ラントナックはまるで墓のふたのように、共和国を君主制で、フランスをイギリスで、おおいかくそうという憎むべき計画を実現しなければ、けっして休息しないだろう。つまり、ラントナックを救うということは、フランスを犠牲にすることにほかならない。ラントナックを生かすということは、男たちや女たちや子どもたちという、罪もない群衆を内乱によってまたもや殺すということである。それはまた、イギリス軍のフランス上陸、革命の後退、略奪される村々、八つざきにされる民衆、血にそまるブルターニュ、爪にかけられる獲物を意味するのだ。
こうして、ゴーヴァンは、それぞれたがいに逆光でてらしあう、ぼんやりしたさまざまな光のまっただ中にいたのだが、自分の夢想の中で、ある問題がぼんやりと形をとり、自分の面前にさしだされるのを、ぼんやりと認めた。その問題とはつまり、トラを自由にするということだった。
しかし、つぎには、問題はまた最初の様相のもとに顔をつきだすということになる。つまりは、人間の自分自身との戦いにほかならないシシュポスの神話の石〔ギリシア神話のシシュポスは、神罰によって、永遠に石を山頂にはこぶ作業をくりかえす〕が、またもころがり落ちてくるということになるのだ。それでは、ラントナックはトラだろうか、という問題がでてきてしまうのだった。
おそらく、今までは確かにトラだっただろうが、今でもまだそうだろうか?
ゴーヴァンは、まるで蛇のように思考を同じところにまきこんでしまって、いつも最後にはもとのところにもどってきてしまう精神のめくるめく渦巻の中にまきこまれていた。くり返しくり返し検討してみて、結局、ラントナックの献身や、克己的な自己犠牲や、崇高な公平無私の精神を否定できるだろうか? なんたることだろう! 内乱が大口をあけているその面前で、なんの価値もない真理をあらそっているところへ、人間愛の精神をつきだすとは! なんたることだろう!王制の上に、革命の上に、地上のさまざまな問題の上に、人間の魂の感動があることを、強者によって弱者を保護すべきであるという義務があることを、死にそうなものたちの救済は救われたものの手によっておこなわれなければならぬということを、すべての子どもたちをいつくしむ父性は、老人たちの手で実行されなければならないということを、証明してみせるとは!こういうりっぱなことがらを証明してみせるとは! あまつさえ、自分の首をかけてまで証明してみせるとは! なんたることか、将軍の身であるのに、戦略や、戦闘や、復讐をあきらめるとは! なんたることか、王党派であるというのに、秤《はかり》を手でつかんで、いっぽうの皿にはフランス国王と、十五世紀間の君主制と、復活されるべき旧法と、回復されるべき旧社会をのせ、反対の皿には、しがない三人の百姓の子どもをのせて、王や、王冠や、王笏《おうしゃく》や、十五世紀間の君主制のほうが、三人の罪のない子どもたちの重さより軽いとしたとは! なんたることだろう! しかも、こんなことはたいしたことではないというとは! なんたることだろう! こういうことをおこなった人間が、トラにとどまり、野獣としてあつかわれていなければならないとは!
そうではない! そうではない! そうではないのだ! 内乱の断崖絶壁を聖なる行為で明るくてらしだした人間は、けっして怪物なんかではないのだ! 帯剣者は変貌をとげて光をかかげるものになったのだ。地獄の悪魔《サタン》は天上の天使リュシフェールになりかわったのだ。ラントナックは一つの犠牲的行為によって、自分がおこなったありとあらゆる蛮行の罪をあがなったのだ。自己を肉体的に滅却《めっきゃく》させることにより、精神的に救われたのだ。彼は清浄潔白になりかわって、自分で作った赦免《しゃめん》状にサインしたのだった。自分自身をゆるすという権利は存在しないものだろうか? あの条件以来、彼は尊敬されるようになったのだ。
ラントナックはとてつもないことをやったのだった。そして、こんどはゴーヴァンの番だった。
ゴーヴァンはその返答をラントナックにする義務を背負いこんでしまったのだ。
このとき、よい情熱と悪い情熱との闘いが、世界の上に混沌《カオス》を形作っていた。ラントナックはこの混沌《カオス》を支配し、その中から人間愛をひっぱりだしたのだ。そして、こんどは、ゴーヴァンが、その混沌《カオス》の中から、家族をひっぱりだすことになったのだ。
彼はなにをしようとしていたのだろう?
ゴーヴァンは神の信頼を裏切ろうとしていたのか?
ちがう。彼は心でつぶやいていた。「ラントナックを救おう」と。
それはよい。では一つ、イギリス人に力をかしてやったらよい。国を見すてるがいい。敵につくがいい。ラントナックを救って、フランスを裏切るがいいのだ。
そして、彼は身ぶるいした。
夢想家め、おまえの解決策は、解決にはなっていないぞ!……と言って笑うスフィンクスの不吉な笑いを、ゴーヴァンは暗やみの中で見たようだった。
こういうゴーヴァンの心理状況は、一種のおそろしくたてこんでいる十字路みたいなもので、そこには、戦闘的な真理がいろいろ集まってきて、たがいに対決しあい、人間愛、家族、祖国という人間がもっている三つの崇高な観念が、じっとにらみあっていた。
こうしたすべてのものがもつ、一つ一つの声は、こもごも話しかけ、かわるがわる真実のことを述べあうのだった。そうした中から、真実の声をどうして選びだしたらよいのか? おのおのの声が、わかるがわる、叡智《えいち》と正義の連結点を見つけたもののように、『こうしろ』と、言うのだった。そうして言われたように、ゴーヴァンはしなければならなかったのか!
そうだとも言えるし、そうでないとも言えた。論理がある一つのことを言うと、感情が別のことを言って、この二つの忠告は、まるきり正反対のことを命ずるのだ。論理は理性でしかないが、感情はしばしば良心である場合がある。論理は人間がもたらすものであるが、感情は人間より高いところからもたらされるものである。
そこで、感情は理性とくらべて明晰《めいせき》さを少ししかともなわないが、より大きな力をもっている。しかしながら、きびしい理性の中にも、なんという力がこめられていることだろう!
ゴーヴァンは逡巡《しゅんじゅん》していた。
激しい当惑におそわれていた。
ゴーヴァンの眼前には二つの深淵が口をひらいていた。侯爵を殺すか? それとも助けるか? 彼はこの二つの深淵のどちらかにとびこまなければならなかった。
彼のなすべき義務は、いずれの深淵にとびこむことだったのだろうか?
三 指揮官の頭巾《ずきん》
事実、直面しなければならないのはこの義務だった。
義務は、シムールダンの前では険気に、ゴーヴァンの前ではおそろしげに、つっ立っていた。
義務はシムールダンの前では簡単なかっこうをしていたが、ゴーヴァンの前では、複雑で、種々雑多で、ねじくれたかっこうをしていた。
真夜中をつげる鐘がなった。それから午前一時の鐘がなった。
ゴーヴァンは、自分でも気づかぬままに、なんとなく、裂け目の入口に近づいていた。
火災はもうあたりにひろがる反射光をなげているだけで、消えかけていた。
塔の反対側の台地は、火の反射を受けて、ときどき、目にうつっていたが、煙が火をつつむと、また見えなくなった。この光は、ときに激しく燃えて力を盛りかえすと、またとつぜん闇にさえぎられて、事物と事物のつりあいを狂わせてしまい、野営の哨兵たちをも幽霊のように見せるのだった。
ゴーヴァンは瞑想にふけりながら、煙が炎でかき消されるかと思うと炎が煙でかき消されたりするさまをぼんやりとながめていた。この彼の目の前で光が見えかくれするながめは、彼の心の中で真実が見えかくれするのと、なんとなく似ているようだった。
とつぜん、ふたつの煙の渦巻のあいだに、消えかけた燠火《おきび》から火の粉が吹きだし、台地のてっぺんをあざやかにてらしだし、その上に二輪馬車の深紅のシルエットをはじきださせた。ゴーヴァンはその馬車をながめた。馬車は憲兵の帽子をかぶった騎兵たちにとりかこまれていた。この馬車は、彼がゲシャンの望遠鏡で、五、六時間前の日没どきに地平線上に見た馬車のようだった。五、六人の男が馬車にのっていて、いそがしそうになにかをおろしているようだった。彼らが馬車からひっぱりだしているものは重いものらしく、ときどき、くず鉄の音がきこえていた。それがなにかを言うことはむずかしかったが、なにか骨組みたいな代物《しろもの》だった。馬車の上から二人の人間がおりてきて、箱を一つ地面に置いたが、それは形から判断して、中に三角形みたいなものがはいっているらしかった。
やがて火の粉が消えて、すべてはまた暗やみにのみこまれてしまった。ゴーヴァンは目をこらし、さっき眼前の闇の中にあったもののことを考えた。
カンテラがいくつもともされ、台地の上では人がいったりきたりしていたが、そうして動く人影はぼんやりとかすんでいたし、それにゴーヴァンは台地の下の掘れみぞの反対側にいたので、彼が見ることのできたのは、台地のふちの上にあるものだけだった。
人声もきこえていたが、言葉をききとることはできなかった。あちこちで、木が音をたてるのがきこえた。それに、はっきりしないが、鎌《かま》をとぐ音に似た、金属がきしむような音もきこえてきた。
二時をつげる鐘がなった。ゴーヴァンは、ゆっくりと、まるで好んで二歩前進しては三歩後退するもののように、裂け目に向かって歩いていった。近づくと、ぼんやりした明かりの中で、指揮官のマントと飾りひものついた頭巾《ずきん》を認めた歩哨が、ささげ銃《つつ》をした。ゴーヴァンは今は哨兵の詰所にかわってしまっている一階の広間へはいっていった。天井からカンテラが一つぶらさがっていたが、床の上にわらをしいて横たわり、もう大部分は眠ってしまっている哨兵たちを踏まないようにして広間をぬけられるくらいの、明るさしかなかった。
兵士たちは横になっていた。彼らは五、六時間前には、この広間で戦っていたのだ。霰弾《さんだん》が鉄やなまりの粒になって彼らの下にちらばり、まだそうじもされていなかったので、安眠することはできなかった。しかし、彼らは疲れていたので、横になって休んでいたのだ。ついさっきまで、この広間はおそるべき場所だった。ここを攻撃したのだった。ここで兵士たちは怒号し、わめき、歯ぎしりし、なぐり、殺し、相手の息の根をとめたのだった。彼らのおおくは、この敷石の上にたおれて死んだのだが、今、彼らはその敷石の上で横になっているのだ。彼らが眠るのに使っているわらは、彼らの戦友《カマラード》たちの血を吸っていた。しかし今や、その戦いも終わり、血も流れをとめ、サーベルもぬぐわれ、死者は死についていた。そして彼ら、生き残りの連中はやすらかに眠っていた。これが戦争というものである。そして、あすになっても、みんなはまた同じ眠りをむさぼることだろう。
ゴーヴァンがはいっていくと、この詰所の指揮官である士官など眠っていた兵士たちが数人たちあがった。ゴーヴァンは士官に牢のとびらを指さした。そして、
「あけてくれ」と、言った。
かんぬきがぬかれて、とびらがひらいた。
ゴーヴァンは牢の中へはいっていった。
彼の背後で、とびらがまたしまった。
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第七編 封建制度とフランス大革命
一 先祖
地下室の牢に向けてあいている四角い風穴のそばの敷石の上に、ランプが一つともっていた。
敷石の上には、ランプのほかに、水をはった水さし、軍用パン、わらたばがおいてあるのが見えた。地下室は岩をえぐって作ってあり、ひょっとして囚人がわらに火をつけようなどと思っても、骨折り損になってしまっただろう。牢の中に火事がおこる気づかいはなかったが、囚人のほうは確実に窒息して死ぬからだった。
とびらが蝶番《ちょうつがい》の受皿の上でまわったとき、侯爵は牢のなかを歩いていた。どんな野獣でもおりの中にいれられるとそうするように、彼は牢の中をいったりきたりしていた。
とびらがひらいてからまたしまる音をきくと、侯爵は頭をあげた。ゴーヴァンと侯爵のあいだにころがっていたランプが、この二人の男の顔を真正面からてらした。
二人はたがいに見つめあったが、たがいに相手を身じろぎもさせないくらいの鋭いまなざしだった。
それから、侯爵が大声で笑いながら、こう言った。
「これはこれは、こんにちは。残念ながら、ずいぶん長いあいだ会えなかったな。いや、わざわざ、ご足労かけて、ありがたきしあわせじゃな。礼を申すよ。少し話の相手になってもらえるとありがたいな。どうも退屈になってきていたのだ。君の友人たちは、身元確認だ、軍法会議だとぐずぐずしてばかりいて、やたらと時間をむだにする連中だな。わしなら、仕事をもっとてきぱきとやっちまうだろう。ここはわしのうちだ。かまわず、はいってくるがよろしい。
さて、君はこのごろおこっていることをどう思うかね? なんとも妙ちきりんだと思わないかね? むかしむかし、王さまと王妃さまがおいでになった。王さまとは王さまご自身のこと、王妃さまとは、つまりフランスのことだよ。だが、王さまは首を切られ、王妃さまはロベスピエールと結婚させられてしまった。この男と貴婦人はひとりの娘を生み、この娘は断頭台《ギヨティーヌ》と名づけられた。ところで、この娘には、わしもあすの朝お目にかかれるようだが、これはよろこばしいことであろう。君に会うのと同じくらいによろこばしい。君はそのことで、ここへまいったのであろう? 君は位が昇進したかね? あるいは、君が死刑執行人になるのかな? もし友情だけのしるしでたずねてくれたのなら、まことに感謝すべきことだな。
子爵どの、君はもう、貴族とはいかなるものか、忘れてしまっておるじゃろう。それなら、貴族がひとりここにおる。このわしだ。さあ、見てみるがよい。なかなかの見ものだぞ。貴族は神を信じ、伝統を信じ、家族を信じ、先祖を信じ、父親の手本を信じ、忠誠を、誠実を、主家の王侯《プランス》にささげる義務を、いにしえからのおきてを、美徳を、正義を信じる。しかも、君のようなやつはよろこんで銃殺させるものだ。さあ、よかったら、すわったらどうかね。まったく、敷石の上とはな。だが、この広間にはひじかけいす一つないのでな。しかし、泥の中で生きているものなら、地面にすわることだってできるというものだ。わしはこんなことを言って、君を侮辱しようというのではない。というのはな、われわれが泥と呼んでいるものを、君たちは国民と呼んでいるからだ。おそらく君は、わしに≪自由《リベルテ》≫、≪平等《エガリテ》≫、≪友愛《フラテルニテ》≫などと叫んでみろ、なんて主張しないだろう?
ここは、わが家にいにしえからつたわる古い部屋だった。そのむかし、ご領主がたは、この中へ賎民《せんみん》どもをいれたものだが、今は、賎民どもがここへご領主をいれるのだ。こういうくだらぬことを、革命と呼んでおるのだぞ。あと三十六時間すると、わしは首を切られるらしいな。わしはそんなことは少しも気にしていないぞ。しかし、礼儀というものを心得ておるなら、たとえば、この上にある≪鏡の間≫へいって、わしのかぎたばこいれをもってきてもらいたいと思うな。≪鏡の間≫と言えば、君は鼻たれ小僧のころ、あの部屋で遊んだものだし、わしもあそこで君をひざにのせて、はねさせてやったりしたもんだな。
さて、子爵、ここでひとつ、君に教えてやりたいことがある。君はゴーヴァンという名前で、おかしなことだが、君の血管にも貴族の血が流れておる。ところがどうだ、その血はわしの血と同じものときておるのだ。その血はわしを名誉ある人間にしながら、片方では君をやくざにしておるのだ。ここんところが、どうやら特殊なのじゃな。君なら、そんなことは自分の落度じゃない、と言うにちがいない。と言っても、わしの落度でもないのだ。そうだ、悪人なんてものは、自分では知らぬうちになっているものなんだよ。だれでも、呼吸している空気に毒されるものなのだ。今日のような時代においては、だれも自己の行動に責任をもたぬのだ。革命はあらゆる人間のやくざな相棒みたいなもんだ。そして、君たち大罪人どもも、もとはと言えば、みんな罪のない人間ばかりだったのだ。なんというたわけどもだ! 第一、君だって同類だぞ。実は、わしは君にはほとほと感心しておるのだ。うそではないぞ。わしは君のような若者に感心するのだ。君は貴族の生まれで、身分もよい。大義のために流す血をもち、このゴーヴァン塔の子爵であり、ブルターニュの王族《プランス》であり、家の権利によって公爵にもなれれば、世襲によってフランス貴族の位に列せられることもできる。良識をもつ男ならばよろこんで手に入れたいと望む資格を、ほとんど全部もっている男なんだ。
ところが、こういう結構な地位にあるというのに、このざまとなり、敵からは極悪人呼ばわりをされ、友人たちからはばかものあつかいされて、それで満足している。ときに、シムールダン神父さんによろしく言っておいてくれ」
侯爵は、くつろいで、落ちついて、力《りき》むわけでもなく、貴族の口調でしゃべったが、その目は明るく、もの静かだった。両手はチョッキのポケットにいれていた。彼は言葉を切ると、ふかぶかと息をついて、また口をひらいた。
「君にはかくさないが、わしは君を殺すことができたらと、いろいろやってみた。君も承知のことだが、わしは三度もみずから手をくだして君を大砲でねらった。まことに不作法なやり方だったと正直に言っておこう。しかし、戦いをしているときに、敵がこちらをもてなそうとしているなどと想像することは、つまりはいい加減な格言を信用することになろう。今は戦争をしておるのだからな、甥御《おいご》どの、まわりはすべて火と血ばかりだ。まこと、王さまでさえ殺されるのだからな。まったく結構な世紀と言うべきだぞ」
ここで、彼はまた話を一度うち切ったが、すぐまたつづけた。
「もしヴォルテールを絞首刑にし、ルソーを漕徒刑《ガレール》に処していたら、こんなことは絶対におこらなかっただろうがな! ああ! 知識人という連中は、なんともわざわいのたねになるものだわい! ところで、君たちは、この君主制にどう文句があるというのかな?
実のところ、ピュセル師はコルビニーの僧院へ送られてしまったが、彼は馬車をえらばせてもらえたし、毎日、のぞむだけの道のりをいかせてもらえたものだ。それから、どうかきいてほしいが、君の仲間のティトン氏はえらい放蕩児《ほうとうじ》で、パリス助祭の奇跡行事に列席する前に、女の家へいくという始末だった。彼もヴァンセンヌ城からピカルディのアム城へ移封されてしまった。わしもそう思うが、この城はまたひどいところだったな。そして、こうしたことが苦情のたねになったのだ。よくおぼえておるが、わしだって若いころには、同じように文句を言ったもんだ。ま、わしも君と同じようなまぬけだったんだな」
侯爵はポケットをさぐった。まるでかぎたばこいれをさがしているようだった。それから、また話をつづけた。
「しかし、わしは君たちほど悪くはなかった。わしたちは、議論するために議論したようなもんだ。わしの若いじぶんにも証拠しらべだの請願だのという反抗事件はあった。それから、あの哲学者のお歴々〔ヴォルテール、ルソー、ディドロ、ダランベールなど、十八世紀フランスの啓蒙思想家群をさす。彼らは旧制度に反対した〕の時代がやってきた。ところが、彼ら自身をやき殺すかわりに彼らの著作をやいた。そのうち、宮廷内の陰謀がこうしたやからに合流した。つまり、テュルゴー、ケネ、マルゼルブといった重農主義者などのばかものどもが現われて、うるさい口論がはじまったのだ。どれもこれも、三文文士だとかへぼ詩人どものしわざなんだ。『百科全書《アンシクロペディ》』とくる! ディドロとくる! ダランベールとくる! ああ! みんな、ろくでもないやくざ連中ばかりだ! 生まれのよいプロシャ王まで、あの連中にとりこまれちまったのだからな! なに、わしだったら、あんな紙をひっかくやくざなど、さっさとつまみだしていただろうにな。ああ! これがむかしなら、わしらが審判者だった、つまり貴族が審判者だったのだ。この牢の壁にも、むかしの四裂《よつざ》き刑の車輪のあとが見えるはずだ。と言っても、わしらは、そんなことをたのしんでやっていたわけではない。だめだ、だめだ、三文文士などは絶対にだめだぞ! アルーエなんていう連中がいるかぎり、マラみたいな連中がいつまでものさばるのだ。なぐり書きする三文文士どもがいるかぎり、人殺しのやくざ連中がのさばるのだ。インクがあるかぎり、黒い悪の汚点はなくならないし、人間の手が鵞《が》ペンをもっているかぎり、軽薄なじょうだんがおそるべき茶番を生みだすのだ。書物は罪悪を生みだすのだ。
たとえば、シメールという言葉はふたつの意味をもっている。一つは空想という意味で、もう一つは怪物という意味だ。たわいのない空想にかかずらっているとは、あきれた次第だ! 君たちはわしらに、権利をよこせとわめくが、あれはどういうことかね? 人間の権利だと! 民衆の権利だと! そういうことは、いかにもからっぽの、ばかばかしい、妄想じみた、意味もないことなんだ! しかし、このわしは、そういう愚《ぐ》にもつかんことは言わん。たとえば、わしはこういうことを言う。
『コナン二世の妹アヴォワーズは、ブルターニュ伯爵領を持参して、ナントおよびコルヌワイエの伯爵オエルと結婚した。そしてオエルはベルトのおじアラン・フェルガンに位をゆずった。ベルトはラ・ロシュ・シュール・ヨンの領主アラン・ノワールと結婚してコナン・ル・プティというむすこを生んだ。このコナン・ル・プティが、わしらの先祖のギー、つまりゴーヴァン・ド・トゥワールの祖父なのだ』と。
こう言うとき、わしは実にはっきりしたことを述べておることになるのだ。そして、これこそ権利というものなのだぞ。ところが君たちのやくざや、ごろつきや、ろくでなしどもときたら、いったい自分らの権利をなんだと思うとるのかね? 神を殺し、王を殺すことをもって自分らの権利だと思うとるのだ。なんておそろしい権利だ! ああ! ごろつきどもめが!
子爵どの、君には気のどくだが、君はブルターニュの誇り高い血筋なのだ。君もわしも、わしたちはゴーヴァン・ド・トゥワールを先祖にもち、あの偉大な公爵モンパゾンだってわしたちの先祖なんだ。あのかたはフランス貴族で、|頚 章 勲 章《コリエ・デ・ゾルドル》|佩用者《はいようしゃ》で、トゥール城郊外を攻撃してアルクの戦闘で負傷し、八十六歳にして、トゥーレーヌのクージェールの館《やかた》で、フランス王家|主猟頭《しゅりょうがしら》として死なれた。このかたのほかにも、名前をあげられるぞ。ラ・ガルナッシュの奥方のむすこローデュノワ公爵、ジュヴルーズ公爵クロード・ド・ロレーヌ、アンリ・ド・ルノンクール、フランソワーズ・ド・ラヴァル=ボワドーファンなどだ。
しかし、こんなことを話してもなにになるかな? だって、子爵どのはまぬけになることを名誉に思い、わしの馬丁と同等の人間になろうとしておいでだからな。しかし、これだけは知っておくがよい。君がまだほんの子どもだったころ、わしはすでに老人だった。わしは鼻たれ小僧の君の鼻をかんでやったが、これからさきもかんでやるぞ。成長するにつれて、君はみずからこのんで、けちな人間になる道をえらんだ。わしらがたがいに会わなくなってこのかた、わしらはそれぞれ自分の道を歩んでいった。わしは誠実におもむく方角へ、そして君は反対の方角へな。
ああ! これがいったいどういうふうに終わるか見当もつかんが、君の友人たちは誇り高くもあわれな連中ばかりだぞ。ああ! そりゃ、それとしてりっぱなやりかただ。それは、わしだって認めよう。進歩は壮大なものだ。軍隊では、酔っぱらい兵士に対して課した三日間半リットルの水しかあたえずという刑罰が廃止されたし、最高価格《マキシマム》令〔革命時代に公布された経済強制令。小麦、肉、バターなどの価格を固定させた〕も公布されたし、国民公会もできたし、ゴベール司教、ショーメット、エベールなどというお歴々もでたし、バスティーユから暦にいたるまで旧制度のものはすべて、いっきょに廃止されてしまった。暦では聖人の日をすてて、月の名前を野菜の名前にかえているな〔革命暦をさす〕。まあ、それはそれでよかろう。市民諸君、支配者になるがよい。君臨し、気ままにやり、たのしみ、かってにやるがよい。しかし、どんなことをしようとも、宗教が宗教であること、王位がわが国の歴史において千五百年つづいたこと、古き伝統あるフランス藩領が、たとえ撤廃されても、君たちよりもはるかに高いところに位置していることを、さまたげることはできんだろう。
君たちがいかにへりくつを並べて王族の歴史上の諸権利にけちをつけようが、われわれは、肩をすくめるだけだぞ。シルペリックももとはダニエルという一介の修道僧でしかなかったことや、シャルル・マルテルにいやがらせするためにシルペリックを盛りたてたのはランフロワだったなどということは、君たちをまつまでもなく、われわれだって先刻承知だったのだ。
しかし、そんなことはたいしたことではない。大切なことは、フランスが偉大なる王国であること、しかも古き伝統をつぐ国であり、すばらしい国政が施かれている国であるということ、そして、この国では、第一に国家の絶対的君主の神聖な人格が、第二に王族《プランス》が、第三には陸海の守りのために、財政の指導と総監をあずかる砲兵隊として、将校や廷臣が重視されているのだ。さらに、この国では、上級と下級の裁判所が設置され、そのつぎに塩税と一般税の課税があり、その最後に王国警察が三方面にわかれて設置されている。
こうして、この国はみごとに崇高に整理されていたのに、それを君たちは破壊してしまったのだ。君たちはこの国の諸々地方をも破壊してしまった。いかにもあわれな無知のやからである君たちは、いったい地方とはいかなるものであるか考えてもみなかったのだ。フランス精神はヨーロッパ大陸の精神にこそ構成の基盤をあおいでいるのだ。フランスの各地方は、それぞれヨーロッパの美徳を代表しておるのだ。ドイツの大胆不敵はピカルディに代表され、スウェーデンの寛大はシャンパーニュに代表され、オランダの巧知はブルゴーニュに代表され、ポーランドの活動はラングドックに代表され、スペインの荘重はガスコーニュに代表され、イタリヤの知恵はプロヴァンスに代表され、ギリシアの鋭敏はノルマンディに代表され、スイスの忠実はドーフィネに代表されておるのだ。
こうしたことを、君たちはまるきり知らないで、ただ、こわし、くだき、うちやぶり、破壊するだけで、平気な顔をして野獣的行為をくりかえした。ああ! 君たちはもう貴族なぞもちたくないと言っているな! 願いどおり貴族たちはこれからいなくなるのだ。貴族のことはあきらめたがよいぞ。もう義侠《ぎきょう》の士もいなくなれば、英雄もいなくなるのだ。偉大なる古き時代よ、さらばだ。今の時代にアサスのような人物がいるだろうか! 君たちはみんな臆病ものばかりだ。殺す前におじぎをしたあのフォントノワの闘士たちみたいな連中はもういなくなるだろう。レリダ攻城戦では絹の靴下をはいていた戦士たちのような連中ももういなくなるだろう。軍帽の羽かざりが流星のように流れる、あの誇り高い戦いの日々も、もう二度とやってこないだろう。フランス国民も君たちで終わりになるのだ。君たちは敵の侵略を受けるだろう。たとえアラリック二世の再来と言われる人物が現われても、彼は二度とクロヴィスの面前には立たないだろう。たとえまたアブドール・ラーマンが来襲してきても、彼はゆくてにカルル・マルテルを見いださないだろう。たとえ、またサクソン人たちが来襲してきても、彼らは、ゆくてにピピンを見いださないだろう。アニャデル、ロクロワ、ランス、スタッファルダ、ネールヴィンデン、シュテーンケルク、マルサーリヤ、ロクール、ラウフェルト、マオンのような戦場も、これからはなくなるだろう。フランソワ一世のマリニャンにおける勝利も、あるいは、片手でブーローニュ伯爵ルノーをつかまえ、反対の手でフランドル伯爵フェランをつかまえた、あのブーヴィヌにおけるフィリップ・オーギュストの勇姿も、なくなるだろう。これからもアザンクールで戦うこともあろうが、あの偉大なる王旗旗手バックヴィル某のように、旗につつまれて戦死するなどということも、なくなってしまうだろう。さあ! したいことをするがよい! 新しい人間になるがよい。そして、けちな人間にな!」
ここで侯爵はちょっと黙ったが、また口をひらいた。
「しかし、わしらだけは、このまま偉大なものにしておいてくれ。王たちを殺すがよい。貴族たちを殺すがよい。僧侶たちも殺すがよい。たおし、うちこわし、虐殺し、すべてを足下にふみつぶし、いにしえの格言を君らのその長靴のかかとの下にしき、王座をふみにじり、祭壇をふみやぶり、神をおしつぶし、その上で踊るがよいのだ! それが君たちのやることだ。君たちは裏切者で臆病者で、献身も犠牲も知らぬやからなんだ! これで言うことは終わった。さあ、わしを断頭台にかけるがよいぞ、子爵どの。わしは君の命に服するのを名誉に思うぞ」
さらに、彼はこうつけくわえた。
「ああ! とうとう君のほんとうのすがたをしゃべっちまったな! しかし、こんなことを言っても、なにになるだろう? どうせ、わしは死ぬるのだからな」
「あなたは自由です」と、ゴーヴァンが言った。
そして、ゴーヴァンは侯爵のほうへ進むと、自分が着ている指揮官のマントをぬいで、侯爵の肩にかけてやると、頭巾《ずきん》をまぶかにおろしてやった。ふたりは身長が同じくらいだったのだ。
「これはどういうことかね!」と、侯爵が言った。
ゴーヴァンが声を高くして、こう叫んだ。
「中尉、あけてくれ」
とびらがひらいた。
ゴーヴァンがもう一度叫んだ。
「おれがでたら、とびらをちゃんとしめておけよ」
そして、びっくりしている侯爵を牢のそとにおしだした。
読者もご記憶のとおり、哨兵の詰所に変えられていた一階の広間には、角製のカンテラが一本たてられていて、これだけが明かりだったから、あたりに投げる光はぼんやりしていて、明るいというより暗いといったほうがよかった。このぼんやりした光の中に、眠っていない何人かの兵士たちが、自分たちのあいだを、指揮官のマントとかざりひものついた頭巾《ずきん》をかぶった背の高い男がひとり、出口のほうへ歩いていくのを見た。それで彼らは敬礼した。男は広間を通っていった。
侯爵は哨兵の詰所の中をゆっくりと横切り、一度ならず頭をぶつけながら裂け目を通過して、そとへでていった。
それをゴーヴァンだと思いこんでいる歩哨が、侯爵に向かってささげ銃《つつ》をした。
そとへでると、足もとには野の草がひろがっていて、そこは森まで二百歩ぐらいのところだった。彼の眼前には空間と、夜と、自由と、生命《いのち》がひろがっていた。彼はたちどまると、しばらくじっとたたずんでいた。まるで人にされるようにされたあげく、不意打ちをくらった男みたいだった。とびらがあいたのをこれさいわいと出てきたが、こんなことをしてよかったのか悪かったのか考えこんでいて、なかなか足を前へだせなかった。それから、もう一度、ちょっと、最後の思いにふけった。
しばらく、じっと思いにふけっていたが、とうとう右手をあげて、中指と親指でぱちんとならすと、こう言った。
「これでいいのだ!」
そして、彼はたち去っていった。
また牢のとびらはしまっていた。ゴーヴァンがその中にいた。
二 軍法会議
そのころ、軍法会議では、裁判官の自由裁量権がほとんど確立していた。立法議会で、デュマが軍法の草案を作り、これをのちほど、五百人会でタロが修正したのだが、軍法会議の決定的な法規は、帝政時代になってやっと起草されたのである。余談ではあるが、評決は下級の裁判官からはじめなければならないという義務が軍法会議に課せられるようになったのは、帝政時代からはじまったのである。革命時代には、この法規はまだ存在していなかったのだ。
一七九三年のころは、軍法会議の裁判長がひとりきりで会議の代表をつとめたと言ってよかった。そして彼は会議のメンバーをえらび、メンバーの順序をさだめ、評決のしかたを規定した。つまり裁判官であるとともに支配者だったのである。
シムールダンはあの前に後陣《ルティラード》が作られ今は哨兵の詰所とかわっている一階の広間を法廷にさだめた。彼は牢から法廷までの道も、法廷から処刑台までの行程も短くしようとしたのだ。
正午には、彼の命令にしたがって、開廷されるばかりになったが、法廷の中は、わらをつめたいすが三つ、もみの木で作ったテーブルが一つ、火をともした燭台が二つ、それにテーブルの前に腰かけが二つ、という具合になっていた。
わらのいすには裁判官がすわり、腰かけには被告人がすわることになっていた。テーブルの両はしには別の腰かけが一つずつおいてあったが、その一つは給養係りの下士がつとめることになっている傍聴委員の席、もう一つは伍長がつとめることになっている書記の席だった。
テーブルの上には、赤いろうの棒が一本、銅製の共和国官印、インクつぼが二つ、白紙の書類つづり、印刷された掲示が二まい、のっていた。二まいの掲示は大きくひろげてあって、その一まいにはラントナックを法律の保護外におくことがしるされ、もう一まいには国民公会の政令が書いてあった。
中央においてあるいすは、なん本もぶっちがいにした三色旗を背にしていた。簡略粗雑な時代にふさわしく、法廷はすばやくかざられ、たちまち、哨兵詰所は軍法会議法廷にかわってしまった。
裁判長がかけることになっている中央のいすの真正面に、牢のとびらがあった。
傍聴人は兵隊たちだった。
ふたりの憲兵が被告人のかける腰かけを監視していた。
シムールダンが中央のいすにかけると、右手の席には次席判事であるゲシャン大尉が、左手の席には三席判事であるラドゥーブ軍曹がついた。
シムールダンは三色の羽かざりのついた帽子をかぶり、腰にはサーベルをさげ、帯には二ちょうのピストルをさしていた。例のサーベルの切傷はまだなまなましく赤く、それが彼の風貌をおそろしげに見せていた。
ラドゥーブはやっと傷の手あてをうけていた。頭にハンカチをまいていたが、そのハンカチには、みるみる血のにじみがひろがっていた。
正午になっても開廷されず、ひとりの至急伝令兵が法廷のテーブルのそばにたっていた。彼の乗馬がいらだって前庭で地面をける音が、そとからきこえてきていた。シムールダンは書きものをしていた。書いたことは、次のようだった。
『公安委員会委員の市民《シトワイヤン》諸君。
ラントナックは逮捕された。明日、処刑執行予定』
彼は日づけを書いてサインすると、至急便を折りたたんで封印してから、それを伝令兵にわたした。伝令兵はたち去った。
それから、シムールダンが大声で言った。
「牢のとびらをひらけ」
ふたりの憲兵がとびらのかんぬきをはずして、とびらをひらき、牢の中へはいっていった。
シムールダンは頭をあげ、腕組みをして、牢のとびらをじっと見すえながら、こう叫んだ。
「捕虜をつれてこい」
ひとりの男が、ふたりの憲兵にはさまれて、ひらいているとびらのアーチの下に現われた。
男はゴーヴァンだった。それを見て、シムールダンは身ぶるいした。
「ゴーヴァン!」と、彼は叫んだ。
そして、こうつづけた。
「捕虜をつれてこいと言ったはずだ」
「捕虜はわたしです」と、ゴーヴァンが言った。
「君が?」
「わたしが捕虜です」
「ラントナックはどうした?」
「彼は自由になりました」
「自由になったと!」
「はい」
「逃亡したのか?」
「逃亡しました」
シムールダンはふるえながら、こうつぶやいた。
「そうか、この城はあいつの居城だったな。それなら、この城の出口を一つ残らず知っているはずだ。おそらく、地下牢はどこかの出口に通じていたのだろう。そいつを考えにいれておくべきだったな。きっと、あいつは逃亡する方法を見つけたのだろう。だれに助けてもらわなくても、逃げられるわけだ」
「彼は助けてもらいました」とゴーヴァンが言った。
「逃亡するのにか?」
「そうです」
「いったい、だれが助けたんだ?」
「わたしです」
「君が!」
「そうです、わたしです」
「ばかなことを言うな!」
「わたしは牢へはいっていきました。捕虜と二人きりでした。わたしはマントをぬいで、彼の背中にかけ、頭巾《ずきん》を顔におろしてやりました。それで彼がわたしのかわりにでていきました。そして、わたしが彼のかわりに牢に残ったのです。このとおりです」
「君がそんなことをするとは!」
「したのです」
「ありえないことだ」
「ありえたのです」
「ラントナックをつれてこい!」
「彼はもうここにはおりません。兵隊たちは彼をわたしだと思って通したのです。まだ夜でした」
「君は気が狂っとる」
「事実を申しあげるのです」
しばらく沈黙があった。やがて、シムールダンがどもりどもり、こう言った。
「君のしたことは……」
「死罪にあたいします」と、ゴーヴァンが言った。
シムールダンは切られた首のようにまっさおになっていた。雷を受けたばかりの人間のように、身じろぎもしなかった。もう息もしていないように見えた。その額には大つぶの汗が光っていた。
やっと、彼は声を荒らげて、こう言った。
「憲兵、被告人を席につかせろ」
ゴーヴァンが腰かけに腰をおろした。
シムールダンがもう一度言った。
「憲兵、サーベルをぬけ」
このサーベルをぬくというのは、死刑の判決がくだされそうな場合に使われていた慣習だった。
憲兵がサーベルをぬいた。
シムールダンはやっとふだんの口調にもどって、こう言った。
「被告人、起立」
彼はもうゴーヴァンに親しい口をきかなかった。
三 評決
ゴーヴァンが起立した。
「被告人の姓名は?」と、シムールダンがたずねた。
ゴーヴァンが答えた。
「ゴーヴァンであります」
シムールダンが訊問をつづけた。
「被告人の身分は?」
「北部沿岸討伐部隊の指揮官です」
「被告人は逃亡者の肉親もしくは近親者か?」
「逃亡者の甥《おい》の子です」
「被告人は国民公会公布の政令を知っているであろう?」
「あなたのテーブルにのっている掲示に書いてあるとおりです」
「この政令について、言い分があるか?」
「わたしはそれに副署して、その施行を命じましたし、その掲示を作らせたのもわたしです。その下のほうにわたしの名前が書いてあります」
「弁護人をえらぶがよい」
「わたしは自分で弁護いたします」
「では、申しのべてみよ」
シムールダンは平静をとりもどしていた。と言っても、その平静さは、人間が落ちついているというよりも岩が静まりかえっているのに似ていた。
ゴーヴァンはしばらく黙っていたが、申しのべることをまとめているみたいだった。
シムールダンがもう一度言った。
「自己の弁護のために、なにか言うことはないか?」
ゴーヴァンは頭をゆっくりとあげたが、だれの顔も見なかった。そして、こう答えた。
「はい、あります。わたしは一つのことのために、別の一つのことを見ることができなくなってしまいました。一つの善行をあまりに近よって見たために、わたしは、数おおくの犯罪行為がわからなくなってしまいました。片方では老人が、もう片方では子どもたちがいて、これらがわたしとわたしの義務のあいだにはいってきたのです。わたしは、やき払われた村々のことも、荒らされた田畑のことも、虐殺《ぎゃくさつ》された捕虜たちのことも、とどめをさされた負傷者たちのことも、銃殺された女たちのことも、忘れていました。
また、フランスがイギリスの手にわたされることも忘れていました。そして、祖国の殺戮《さつりく》者を自由にしてやりました。わたしは有罪です。こういうふうに申しますと、自分に不利な証言をしていると思われるかも知れませんが、それはまちがいです。わたしは自分にとって有利な証言をしているのです。有罪であるものが自分のあやまりを認めるとき、彼は充分に救われるに値するたった一つのもの、つまり名誉を救うことになるのです」
「それで」と、シムールダンがふたたび口をひらいた。「自分を弁護するのに言うべきことは全部言ったのか?」
「それから、わたしは指揮官ですから、兵士の手本にならなければなりませんでした。そして、こんどは、あなたが裁判長ですから、あなたはみなの手本になるべきだと存じます」
「どういう手本だと言うのか?」
「わたしを死刑になさることです」
「被告人は死刑が正しい判決だと思うか?」
「正しいばかりか、必要な判決であります」
「着席しろ」
傍聴委員をつとめている給養係りの下士がたちあがって、第一に、もと侯爵ラントナックを法律の保護外に置くことをしるしている布告を読みあげ、第二に、反逆者の捕虜の逃亡を助けたものは、だれかれなく死刑に処することをしるした国民公会の政令を読みあげた。そして最後に、政令をしたためた掲示の下に二、三行印刷してある文面を読みあげた。それには、上記の反逆者たちを『援助または救助する』ものは『死刑に処する』と通告してあり、『北部沿岸討伐部隊指揮官ゴーヴァン』というサインがしてあった。
こうした朗読が終わると、傍聴委員はまた着席した。
シムールダンが腕組みして、こう言った。
「被告人、注意してきけ。傍聴人たちもよくきき、よく見て、静かにしているのだ。諸君たちは法の前にたたされているのだ。これから評決にうつることにする。判決は簡単明瞭、多数決によるものである。各裁判官は順次、被告人の前で大きな声で意見を述べよ。正義はなに一つかくさないものだぞ」
さらにシムールダンはつづけた。
「では次席裁判官の発言を要請する。ゲシャン大尉、意見を述べたまえ」
ゲシャン大尉はシムールダンもゴーヴァンも見ていないようだった。さげたまぶたが彼のじっと動かぬ目をかくしていたが、その目は政令がしるしてある掲示の上に、まるで深淵でものぞきこむように、じっとそそがれていた。彼が口をひらいた。
「法は絶対的なものであります。裁判官は人間以上のものであると同時に人間以下のものでもあります。裁判官が人間以下のものであるというのは、彼が心をもっていないからであり、人間以上のものであるというのは、彼が生殺与奪《せいさつよだつ》の権をもっているからです。ローマ暦四一四年に、マンリウスはわが子を、自分の命令もないのに戦って勝利を得た罪により死刑にしました。犯された軍規は死を要求したのです。このたびの事件でも、犯されたのは法であり、しかも法は軍規よりも気高いものであります。あわれみに心動かされたすえに、祖国をふたたび危機におとしいれることになりました。あわれみが犯罪に匹敵するのは、ありうべきことです。指揮官ゴーヴァンは反逆者ラントナックを逃亡せしめました。ゴーヴァンは有罪です。死刑に処するべきです」
「書記、記録せよ」と、シムールダンが言った。
書記が『ゲシャン大尉……死刑』と、書いた。
このとき、ゴーヴァンが声を大きくして言った。
「ゲシャン、君の評決は正しい。感謝する」
シムールダンがまた口をひらいた。
「三席裁判官の発言を要請する。ラドゥーブ軍曹、意見を述べたまえ」
ラドゥーブはたちあがってゴーヴァンのほうを向くと、被告人に軍隊式の敬礼をした。それから、叫ぶようにしゃべりはじめた。
「死刑だとおっしゃるなら、わたしを断頭台にかけてください。神の御名にかけてほんとうのことを申しますが、最初にあの老人がやり、その次にわたしの隊長がやられたことを、わたしもやってみたいと思うからです。あの八十歳の老人が火の中にとびこんで三人のちびどもをひっぱりだしにいくのを見て、わたしはこう言ったもんです。『やあ、おまえさんはなんて見あげた人だ!』ってね。
そして、わたしの隊長があの老人をいまいましい断頭台から救ったと知ったとき、わたしはしん底からこう言いました。『隊長、あなたは将軍になるべきおかたです、ほんとうの男の中の男です、ちくしょうめ! わたしだったら、もしまだ十字勲章《クロワ》が通用しているなら、もしまだ聖人《サン》が通用しているなら、もしまだルイ金貨が通用しているなら、あなたに、サン=ルイ十字勲章《クロワ》をさしあげるのに!』ってね。
ああ! それを、今、ばかなことをしでかそうというのですか? もし、そんなばかげたことをするために、ジェマップの戦いに勝ち、ヴァルミの戦いに勝ち、フルーリュスの戦いに勝ち、ヴァッティニの戦いに勝ったというわけだったら、このわたしめにも、ひとこと言わしてもらわなければなりません。
つまりです! ゴーヴァン隊長は、もう四カ月も前から、ありとあらゆる王党派のばかものをやっつけてこられ、サーベルでもって共和国を救ってこられ、ドルの戦闘では知謀をめぐらして戦勝されたかたですぞ。これほどのおかたをもちながら、もうお役ごめんにしようって言うのですか! このかたを将軍にしないで、かわりに首を切れって言うんですかい! わたしに言わせりゃ、そんなことをするのは、まるきりポン=ヌフの橋のらんかんからまっさかさまにとびこむようなもんですよ。それから、あなただって、市民《シトワイヤン》ゴーヴァン、わが隊長どの、もしもあなたが、わたしの指揮官ではなくて、わたしの部下の伍長だったら、わたしはあなたに、『おい、さっきは、なんてまぬけなことを言ったんだ』と、言ったでしょう。あの老人はまことにりっぱに子どもたちを助けた。そしてあなたもまことにりっぱにあの老人を助けられた。それなのに、りっぱなことをしたというのに、断頭台にかけられるって言うんなら、もうなにもかも悪魔にくわれちまえってんだ。もうわたしにゃ、なにもかもさっぱり得心がいきませんよ。もうたちどまってきいてみるような理屈なんかありませんよ。
こりゃほんとうじゃないでしょうね、みんなうそでしょうね? 夢見てるんじゃないかと、自分をつねってみますよ。わたしにはさっぱりわかりません。だったら、あの老人はちびたちが生きたままやき殺されるのをほうっておかなくっちゃならなかったってことになる。わたしの隊長も老人が首を切られるのを見殺しにしなくっちゃならなかったってことになります。
さあ、わたしめを断頭台にかけてください。わたしはそのほうがいい。かりに、ちびたちが死んでいたら、赤帽大隊《ボネ・ルージュ》の名誉はまるきり汚れちまってたでしょう。そのほうがよかったとお思いですかね? それだったら、いっそ、われわれの仲間うちでくいあいでもしましょう。このわたしだって政治のことはよく知ってますよ。そこにいらっしゃるかたたちと同じようにね。わたしはピック地区《セクション》のクラブ出身ですからな。ちくしょう! ついにわたしたちはどいつもこいつもばかになっちまったんですな!
では、わたしの意見を要約いたします。まず、わたしは自分がなんだかまるきりわからなくさせるようなふとどきなことはきらいであります。いったい、なぜ、われわれはわが身を殺しても戦っているのですか? われわれの隊長を殺してもらうためと言うんですか? そいつはまっぴらごめんだ! わたしにはわたしの隊長が要《い》るんだ! わたしの隊長が必要なんです。わたしはきのうにまして、きょう、いっそう隊長が好きになりました。その隊長を断頭台にかけるなんて、笑わせるなって言いたいですよ! それは、なんともかんともいやだ。ご意見はうかがいました。なんとでも、おっしゃりたいことをおっしゃればいいでしょう。だが、とにかく、そんなことはできやしない」
これだけ言うと、ラドゥーブはまた腰をおろした。彼の傷がまたひらいてしまっていた。ひとすじの血が頭にまいたハンカチからほとばしって、片耳をそがれたところから、首をつたわって流れていた。
シムールダンがラドゥーブのほうを向いて言った。
「貴官は被告人を無罪にしろと言うのか?」
「わたしの意見は」と、ラドゥーブが言った。「このかたを将軍にしろというものです」
「貴官の意見は被告人を無罪にせよということかどうか、たずねているのだ」
「わたしの意見は、このかたを共和国第一の位につけろというものです」
「ラドゥーブ軍曹、君はゴーヴァン隊長を無罪にしろというのだろう。そうなのか、そうでないのか?」
「わたしの意見は、このかたのかわりに、わたしの首を切れということです」
「無罪」と、シムールダンが言った。「書記、記録せよ」
書記が、『ラドゥーブ軍曹……無罪』と、書いた。
書き終わると、書記がこう言った。
「死刑一票。無罪一票。両得票同じ」
つぎは、シムールダンが意見をのべる番だった。
彼はたちあがった。帽子をぬぐとテーブルの上に置いた。
彼はもう青白くもなかったし、なまり色でもなかった。彼の顔色は土色にかわっていた。
法廷の中にいたものたち全部が屍衣《しい》を着て横になっていたとしても、これほど静まりかえってはいなかったろう。
シムールダンが、おごそかで、ゆっくりとしているが、しかしきびしい声で、こう言った。
「被告人ゴーヴァン、以上で審理は終わった。本軍法会議は、共和国の名において、二対一の多数決により……」
ここで彼の言葉がとぎれ、一瞬、言葉を失ってしまったようだった。彼は死を申しわたそうとしてためらっていたのか? 生を申しつけようとしてためらっていたのか? 法廷じゅうがはらはらしていた。シムールダンがつづけた。
「……被告人を死刑に処す」
彼の顔は不吉な勝利ゆえの苦悶の表情をたたえていた。ヤコブがやみの中で、自分がふみにじった天使から祝福を受けたときも、このようなおそるべき笑いを浮かべていたにちがいない。
だが、それも、かすかな光にすぎず、たちまち消えてしまった。シムールダンはまた大理石のようになって、着席すると、帽子をかぶって、こうつけくわえた。
「ゴーヴァン、明朝、日の出の時刻に刑を執行する」
ゴーヴァンは起立すると、敬礼して、こう言った。
「法廷に感謝します」
「罪人をつれていけ」と、シムールダンが命令した。
シムールダンが合図すると、また牢のとびらがひらかれ、その中へゴーヴァンがはいっていった。そして、牢はふたたびとざされてしまった。あの二人の憲兵が、サーベルをぬいて、とびらの両側にたって監視した。
ラドゥーブも運びだされていった。彼は気を失ってたおれてしまったのだ。
四 シムールダン、裁判官のあとで支配者となる
野営というものは、はちの巣をたたくようにうるさいところである。革命時代には、なおさらのことだった。兵士たちの心の中にある公民というするどい針が、かってにすばやく首をのぞかせて、敵を撃退した指揮官だって、かまうことなく刺してしまうのだ。ラ・トゥールグを攻略した勇敢な軍隊でも、こうした精神がぶんぶんとさわぎたて、そのほこ先は最初、ラントナックの逃亡を知ったとき、ゴーヴァンに向けられた。そして、ラントナックがつかまっていると信じていた牢からゴーヴァンがでてくるのを見たときは、彼らは電気にふれたようなショックを受け、たちまち、このことは全兵士に知れるところとなった。
小さな軍隊の中で、つぶやきが爆発した。最初は、『今、ゴーヴァンが裁判されているところだが、見せかけだけの裁判さ。もと貴族だとか坊主なんてものは、すみにおけないからな! この前は、子爵が侯爵を助けるのを見せられたが、こんどは坊主が貴族を無罪にするところを見せつけられるのだ!』と言っていた。それから、ゴーヴァンに対する有罪判決を知ると、こうつぶやいた。
『そりゃひどいぞ! われわれの隊長、われわれのりっぱな隊長、われわれの若い指揮官、英雄を殺すだと! 子爵でありながら、共和主義者になるなんてことは、並みたいていのことじゃないんだぞ! それをどうだ! 隊長はポントルソンや、ヴィルディユや、ポン=トー=ボーの解放者なんだ! ドルとラ・トゥールグの勝利者なんだぞ! われわれを無敵不敗の軍隊にしてくれた人なんだぞ! ヴァンデで共和国の剣をふるっているかたなんだぞ! もう五カ月も前からシューワン党を向こうにまわし、レシェルそのほかのやつらがやったまぬけたことのあと始末を全部つけてる人だぞ! それを、あのシムールダンは、われわれの指揮官を死刑にしようというのか! なぜ死刑にするんだ? 三人の子どもを救った老人を助けたからだと! 坊主が軍人を殺すというのか!』
こうして、勝利は得たものの不満たらたらの野営軍は、不平のうなり声をあげていた。一つの陰気な怒りがシムールダンをとりまいていた。四千人対一人の対決で、見たところ大きな力を前にしているようだったが、事実はそうでもなかった。この四千人という人間は群衆にすぎなかったが、シムールダンは一個の意志のかたまりだったからである。兵士たちは、シムールダンがすぐに眉をひそめることを知っていたし、それに、シムールダンが眉をひそめるだけで、兵士たちを威圧するのに充分だったのである。このいかめしい時代においては、背後に公安委員会の影を背負っていさえすれば、その男をおそるべき男にし、その男に呪いをささやきにし、ささやきを沈黙にしてしまう力をあたえるのに充分だったのである。兵士たちのつぶやきがおこる前でも、おきたあとでも、シムールダンは、兵士たち全員の運命とともにゴーヴァンの運命をも裁断する力をもっていたのである。
また兵士たちは、シムールダンになにをたのんでもなんにもならないことを知っていたし、彼が従うものは自分の良心、つまり彼ひとりにしかきこえない超人間的な声だけであることも知っていた。すべては彼ひとりにかかっていた。軍法会議で彼が裁判官としておこなったことは、市民の代表たる彼しかこれをとり消すことができなかったのだ。彼ひとりだけが特赦《とくしゃ》をあたえることができた。彼は全権をにぎっていて、その合図一つでゴーヴァンを釈放することもできた。つまり彼は生と死の支配者だったわけで、断頭台に命令する力をもっていたのだ。この悲劇的な時代において、彼は至上の人物だったのである。
もう、彼の裁断を待つほかはなかったのだ。
夜がやってきた。
五 牢獄
軍法会議の法廷はまた哨兵の詰所になっていて、前夜のように警戒は二倍に強化され、二人の歩哨がとざされた牢獄のとびらを監視していた。
深夜近く、カンテラを手にしたひとりの男が、哨兵詰所を通り自分を確認させて、牢獄のとびらをひらかせた。シムールダンだった。
彼は牢獄の中へはいっていったが、その背後でとびらは少しあいたままになっていた。
牢獄の中は暗くて静まりかえっていた。シムールダンはこの暗やみの中に一歩足をいれると、カンテラを床に置いて、たちどまった。暗やみの中から人間の寝息らしい音がきこえていたのだ。シムールダンはじっと考えこみながら、このやすらかな寝息にききいった。
ゴーヴァンは牢の奥のわらたばの上に横になっていた。きこえていたのは彼の寝息だったのだ。彼はぐっすりと眠りこんでいた。
シムールダンはできるだけ足音をたてないようにして進み、ゴーヴァンのすぐ近くまでいくと、その寝顔を見つめはじめた。乳飲《ちの》み子が眠るのをながめる母親だって、これほど言いあらわしようのないやさしいまなざしでながめはしないだろう。おそらく、このまなざしは、シムールダン自身より強いまなざしだっただろう。シムールダンは、子どもがときどきするように、両手首を目にあてて、いっとき、じっとたっていた。それから、ひざまずくと、ゴーヴァンの手をそっとあげて、それにくちびるをあてた。
ゴーヴァンがちょっと身動きした。それから、ふいに目ざめるときのあのぼんやりしたおどろきとともに目をあけた。カンテラの光が洞窟の中をかすかにてらしていた。彼はシムールダンを認めた。
「ああ」と、彼は言った。「あなたでしたか、先生」
そして、こうつけくわえた。
「今、死が手に接吻する夢を見ていました」
シムールダンは、よくわれわれがとつぜんいろいろの思考の波におそわれるときにおぼえる、あの激動を心に感じた。この波はときに非常に高く激烈になり、人間の魂まで消してしまいそうに思えるくらいである。シムールダンの心の奥底からは、もうなにもでてこなかった。やっと、「ゴーヴァン!」と、言えただけだった。
それから二人はたがいに顔を見あった。シムールダンのひとみには炎が燃え、それが涙をやいていた。ゴーヴァンのひとみは実におだやかなほほえみをたたえていた。
ゴーヴァンはひじをついて身をおこすと、こう言った。
「先生、あなたの額にできている傷は、わたしの身代りになって受けられたサーベルの傷です。きのうだって、あの激戦の中で、先生はいつもわたしのそばにいてくださいました。もし神の摂理《せつり》によって、あなたがわたしのゆりかごのそばにきてくださらなかったら、今日、わたしはいったいどうなっていたでしょう? きっと、わたしは暗闇の中にいたことでしょう。わたしは義務というものがどういうものかを知っていますが、それもひとえに、先生が教えてくださったたまものです。わたしは身にいましめを受けたまま生まれてきました。偏見は人間にいましめをあたえるものですが、先生がそのいましめのひもをたち切ってくださいました。また、先生はわたしを自由に成長させてくださいました。すでにミイラにすぎなかったわたしを、先生はひとりの子どもに再生してくださいました。おそらくは奇形児になるところだったわたしの中に、先生は良心をいれてくださいました。もし先生がきてくださらなかったら、きっとわたしはけちくさい人間になっていたことでしょう。先生のおかげで、わたしは生きてこられたのです。わたしは一個の領主にすぎなかったのに、それを先生が市民《シトワイヤン》にしてくださいました。そればかりか、一個の市民《シトワイヤン》にすぎなかったわたしを、先生は生きた精神をもった人間にしてくださいました。地上の生活を送るにふさわしい人間にしてくださったばかりか、天上の生活にふさわい魂までさずけてくださいました。先生がわたしにあたえてくださったのは、人間の現実の中にはいっていくために必要な真理の鍵と、それをこえていくために必要な知性という光の鍵だったのです。先生、心からお礼申しあげます。わたしを創造してくださったのは先生なのです」
シムールダンがゴーヴァンのかたわらにあるわらの上に腰をおろして、ゴーヴァンに言った。
「君と夕飯をたべようと思って、やってきたんだ」
ゴーヴァンが黒パンをちぎって、シムールダンにさしだした。シムールダンがひと切れを手にとった。さらにゴーヴァンは水がはいっている水さしをシムールダンにさしだした。
「君がさきに飲むといい」とシムールダンが言った。
ゴーヴァンは水を飲むと、水さしをシムールダンにわたし、シムールダンも水を飲んだ。ゴーヴァンはひと口しか飲まなかった。
シムールダンは、ごくごくと長い時間をかけて飲んだ。
この夕食では、ゴーヴァンはたべて、シムールダンは飲んだ。ゴーヴァンは冷静だったのに、シムールダンは熱に浮かされていたからである。
なんとも得体の知れないおそろしい静けさが、この牢獄にみちみちていた。ふたりの男は話しあった。
ゴーヴァンが口をひらいた。
「いろいろ偉大なことが準備されています。現在、革命がこしらえているのはなぞめいたことばかりです。目に見える作品のうしろに、目には見えない作品がかくされています。片方がもう片方をかくしているのです。目に見える作品は残忍ですが、目に見えない作品のほうは高貴な作品です。この瞬間、わたしはすべてのものを非常に明瞭に見きわめています。それは奇妙だけれど、とても美しい。こうなるには、どうしても過去の材料も使わなければなりませんでした。そこから、この異常な≪九十三年≫というものが出現したのです。野蛮という足場をふまえて、文明という殿堂が建てられるのです」
「そのとおりだよ」と、シムールダンが答えた。「このかりのものから決定的なものがでてくるのだ。決定的なもの、それはつまり、常に平行している権利と義務であり、累進課税《るいしんかぜい》であり、兵役の義務であり、平等なのだ。ここにはどんな偏向もあってはならない。そして、すべての人間とすべてのものの上に、法というまっすぐな線を描くのだ。つまり、絶対的な共和国を建設することだ」
「わたしだったら」と、ゴーヴァンが言った。「理想の共和国のほうをえらびます」
ここで彼は口を切ったが、すぐまた口をひらいた。
「先生、今おっしゃったすべてのことの中で、あなたはいったいどこに献身や、自己犠牲や、献身的行為や、高潔な親切心でいたわりあうことや、愛などをお置きになるのですか? すべてのもののつりあいをとるということはよいことですが、すべてのものを調和させるということは、もっとよいことです。天秤座《てんびんざ》の上に琴座《ことざ》があるのです。先生のおっしゃる共和国は人間を調合したり、はかったり、整頓したりします。わたしの言う共和国は人間を青空のまっただ中につれていきます。ここに、定理と鷲《わし》とのちがいがあるのです」
「君は雲の中にまよいこんでいる」
「そして先生は計算の中にまよいこんでおられます」
「調和なんていうものの中には空想がある」
「代数学の中にも空想があります」
「わたしは人間がユークリッドの手で作られるといいと思っている」
「わたしは」と、ゴーヴァンが言った。「人間がホメロスの手で作られるほうをこのみます」
シムールダンのおごそかな微笑が、まるでゴーヴァンの魂をしばりつけてしまおうとするように、ゴーヴァンの上にそそがれた。
「詩か。詩人には注意したほうがよい」
「はい、その言葉はよくわかっております。風に注意しろ、光に注意しろ、香りに注意しろ、花に注意しろ、星座に注意しろと言うわけです」
「そういうものはみんな、たべられないよ」
「そう思いこんでいらっしゃるんですか? 思想だって栄養になります。考えることは、たべることです」
「抽象的な話はやめようじゃないか。共和国とは、二たす二は四と同じようにはっきりしているものだ。わたしが人間一人一人に、もともと彼らの手に帰せられるものをあたえたときには……」
「そのとき、あなたは、もともと彼らの手に帰せられるべきでないものを彼らにあたえなければならなくなります」
「それは、どういうことかね?」
「つまり、各人は全体に対して、また全体は各人に対して、たがいにゆずりあわねばならぬ大きな譲歩というものがある、ということです。すべての社会生活はそれにかかっています」
「厳正な法をのぞいては、なんにもないぞ」
「いや、法をのぞいたところにこそ、すべてがあるのです」
「わたしは正義以外のものは認めない」
「わたしはもっと高いところを見ます」
「正義の上に、いったいなにがあるかね?」
「公正な心があります」
ときどき、ふたりは、ほのかな光がよぎるように口をつぐんだ。
シムールダンがまた口をひらいた。
「話をもっと明確にしなさい。わたしはあやしいもんだと思うが」
「それでは申しあげましょう。先生は兵役の義務を望んでおられます。しかし、そういう軍隊はだれに対して作るのですか? ほかの人間たちに対してでしょう。しかし、わたしは兵役の義務など望んではおりません。わたしが望むのは、平和です。先生はみじめな人々を救うことを望んでいらっしゃいますが、わたしが望んでいるのは、みじめさをまるきりとりのぞいてしまうことなのです。あなたは累進課税《るいしんかぜい》を望んでいらっしゃいますが、わたしはすべての課税を望まないのです。わたしが望むのは、公共の消費額をもっとも小さくして、しかも、社会の余剰《よじょう》価値で支払いたいということです」
「それは、どういうことかね?」
「つまり、まず第一に社会の寄生体を根絶することです。寄生的な僧侶、寄生的な裁判官、寄生的な軍人を除去することです。第二に、国土の自然の豊かさを利用することです。われわれは肥料を下水に投げこんでいますが、これを田畑にかけるのです。現在、国土の四分の三は荒地ですが、フランス全土をたがやし、共同放牧場を廃止し、共有地を分配することです。すべての人間が自分の土地をもち、すべての土地がひとりの主人をもつようにすることです。そうすれば社会生産は百倍になるでしょう。
現在、フランスは百姓たちに対してたった一年四日分の肉しかあたえておりません。土地をよくたがやせば、全ヨーロッパの三億人の人間に食糧をあたえることができるでしょう。自然を利用することです。この人間の広大な助手は、あまりに軽視されすぎています。すべての風力、すべての水力、すべての磁力を、われわれのために働かせることです。地球は地下に静脈のような網目をもっていて、この網目の中では、水や石油や火が、おどろくべき循環をくりかえしています。そこで、この地球の静脈に穴をあけ、この中の水をほとばしらせて泉とし、石油をランプにつかい、火をかまで燃やすのです。波の動き、干潮と満潮、つまり潮のゆききにも目をそそぐことです。いったい大洋とはなんでしょう? むだにされている巨大な力にほかなりません。まったく、陸上にいるものは、なんてばかなんでしょう! この大洋を使わないとは!」
「君はまるきり夢を見ているのだ」
「つまり、現実のことをどっさり考えているのです」
ゴーヴァンがさきをつづけた。
「で、女性はどうされます? 女性はどうなさるつもりですか?」
シムールダンが答えた。
「女性は現在とかわらんね。男性の召使いだ」
「そうですね。しかし一つの条件づきで」
「どういう条件かね?」
「男性も女性の召使いになるという条件です」
「君はそう思っているのか?」と、シムールダンが叫んだ。「男が召使いになるんだって! それはだめだ。男は主人だ。わたしは、家庭という王政しか認めん。家庭における男は王だ」
「そうです。でも、一つ条件があります」
「どういう?」
「女性が家庭の女王になるという条件です」
「つまり、君が男と女に望んでいるものは……」
「平等ということです」
「平等だと! 君はほんとにそう思っているのか?男と女は別々だよ」
「わたしは平等と言ったのです。同一だと言ったのではありません」
ふたりの会話がまたとぎれた。たがいに光をかわしあう二つの精神が一種の休戦にはいっているみたいだった。やがてシムールダンが休戦をやぶった。
「で、子どもについてはどうか! 君は子どもをだれにあたえるかね?」
「まず、子どもを生ませた父親に、つぎに子どものために腹をいためた母親に、それから子どもを教育する教師に、それから子どもを人間らしく育てあげる市民に、それから崇高な母親である祖国に、それから、偉大な祖母である人類に」
「神にあたえるとは言わないんだな」
「父親、母親、教師、市民、祖国、人類の各段階が、それぞれ、神のところにのぼる梯子《はしご》の一段一段になっているのです」
シムールダンは黙っていた。ゴーヴァンがさきをつづけた。
「梯子のいちばんてっぺんにいったとき、人間は神にたどりつくのです。神はとびらをひらいてくださっていて、人間はもうはいるだけでよいのです」
シムールダンがだれかほかのものを呼びもどそうとしている人間がするようなそぶりをした。
「ゴーブァン、地上にもどってこい。われわれが望むのは可能なことを実現することだ」
「では、第一に、可能なことを不可能にしないようにしてください」
「可能なことはつねに実現されるよ」
「つねにというわけではありません。もしユートピアを邪険《じゃけん》にしたら、ユートピアを殺してしまいます。たまごほど無防備なものはありません」
「しかし、ユートピアはつかまえ、ユートピアに現実という束縛をあたえ、それを事実というわくの中にはめなければならない。抽象的な思考を具体的な思考に変えなければならない。そうすると、思考は美しさを失うが、そのかわりに有用を手にいれるのだ。それは大きさこそ以前のものよりおとるが、前のものよりずっとよいものになる。権利が法の中へはいらねばならん。権利が法になれば、権利は絶対的なものになる。これこそ、わたしが可能と呼ぶものなんだ」
「可能というのは、それ以上のものです」
「ああ! 君はまた夢におぼれておる」
「可能というものは、いつも人間の頭の上をとんでいる神秘的な鳥です」
「そいつをつかまえなければならん」
「生きたままつかまえるのです」
ゴーヴァンがつづけた。
「わたしの考えは、いつも前進するということです。もし神が人間の後退をお望みならば、人間の頭のうしろに目を一つだけおつけになっていたでしょう。つねに、夜明けのほうを、開花のほうを、誕生のほうを見ようではありませんか。落ちるものはのぼるものを勇気づけます。老木のたおれる音は、新しい木に呼びかける音なのです。世紀はそれぞれ自己の作品を完成するでしょう。現在の世紀は市民的なものを完成し、つぎの世紀は人間的なものを完成するでしょう。現在、問題になっているのは権利ですが、明日、問題になるのは賃金です。賃金と権利とは、根元的には同じ言葉なのです。人間は支払ってもらいたくないがために生きているわけではありません。神は人間に負債を背負わせて生命《いのち》をおあたえになったのです。権利とはつまり生まれつきもっている賃金であり、賃金とはつまり獲得された権利のことをいうのです」
ゴーヴァンは予言者のように瞑想的な調子でしゃべっていた。それにシムールダンがじっと耳を傾けていた。役まわりが転倒していて、今では、生徒のほうが先生になっているみたいだった。
シムールダンがつぶやいた。
「君は急いでいる」
「多少、急がされているかも知れません」と、ゴーヴァンがほほえみながら言った。
それから、また話しはじめた。
「先生、わたしたちがそれぞれ主張する二つのユートピアの相違を言ってみましょうか。あなたは義務的な兵役を望んでいらっしゃいますが、わたしは学校を望んでいるのです。あなたは軍人のような人間を夢見ていらっしゃいますが、わたしは市民的な人間を夢見ています。あなたはおそろしげな人間を望んでおいでですが、わたしは考え深い人間を望んでいるのです。あなたは剣の共和国を建設されますが、わたしは……」
ここで彼はちょっと言葉をきったが、すぐこう言った。
「わたしは精神の共和国を建設したいと思います」
シムールダンが牢獄の床を見て、こう言った。
「それを待ちながら、君はなにを望むのか?」
「今あるがままのものを望みます」
「では、現在を無罪とするのだね?」
「はい」
「なぜだね?」
「なぜなら、現代は一つの嵐みたいなものだからです。嵐はいつも、自分がやっていることをよく知っています。一本の樫《かし》の木が雷にうたれてたおれることにより、どれほどおおくの森がきよめられたことでしょう! 今まで、文明はペストにやられていましたが、この嵐が文明をペストから解放するのです。嵐は多分、それほどえらぶなどということをしないでしょう。おそらく、ほかの方法はないでしょう。嵐はこんなにたいへんな大掃除を背負いこまされているのです! 毒のおそろしさをまのあたりにしたわたしには、嵐のすさまじさもよく理解できるのです」
さらにゴーヴァンは話しつづけた。
「その上、もしわたしが羅針盤をもっていたら、この嵐だってなにほどのこともありませんし、もしわたしに良心というものがあれば、いくら大事件がおこっても、びくともするものではありません!」
それから、彼は低いけれどもおごそかな声で、こう言いそえた。
「つねに、気ままにさせてあげておかなければならないかたがいます」
「そりゃ、だれだね?」とシムールダンがたずねた。
ゴーヴァンが指をあげて、頭を指さした。シムールダンはこのあげられた指の指さす方向を目で追った。すると、牢獄のドームをとおして、星のきらめく空が見えるような気がした。
ふたりはもう一度黙ってしまった。
やがて、シムールダンが口をひらいた。
「自然よりも偉大な社会を作りたいのか。わたしに言わせると、そんなものはとても可能じゃない。そりゃ夢だよ」
「それが目的です。でなかったら、この社会など、なにになりますか? よろしい、自然の中に残っておいでなさい。野蛮人でいらっしゃい。タヒチ島は楽園です。ただ、この中にいては人間は考えない、という楽園です。野蛮な楽園より知的な地獄のほうがずっとましではありませんか。いいえ、地獄も絶対にいやです。人間の社会であるべきです。自然より偉大な社会であるべきです。そうです、もし自然になにもくわえないというんなら、なぜ自然からぬけだすのですか?さあ、蟻《あり》のようにはたらくことに満足しておいでなさい。蜜《みつ》ばちのように蜜を集めて満足していらっしゃい。女王ばちのように知的になるかわりに、はたらきばちのようにあいかわらず野蛮なままでいらっしゃい。
しかし、自然になにものかをくわえるならば、必ず自然よりもずっと偉大なものになるでしょう。つけくわえるということは増加するということです。増加するということは大きくなるということです。社会とはつまり昇華《しょうか》された自然です。わたしが望むのは、みつばちの巣箱に欠けているすべてのもの、蟻塚《ありづか》にはないすべてのもの、つまり、記念碑や、芸術や、詩や、英雄や、天才などです。永遠の重荷を運ぶのは人間の法ではありません。もうたくさんです、たくさんです、たくさんです。賎民や、奴隷や、徒刑囚や、永劫《えいごう》の罰を受けた人間など、もうたくさんです! わたしが望むのは、人間の一つ一つの属性が文明の象徴となり、進歩の雛型《ひながた》になることです。わたしが望むのは、精神に対しては自由を、心に対しては平等を、魂に対しては友愛を、ということです。
たくさんです! もう束縛はたくさんです! 人間が作られているのは、くさりを引きずるためではなくて、つばさをひろげるためなのです。もう爬虫類《はちゅうるい》のように地面をはいずりまわる人間などたくさんです。わたしが望むのは、幼虫がちょうに変貌をとげることなのです。みみずが生きた花になりかわり、羽をひろげてとびたつことなのです。わたしが望むのは……」
ここで彼は言葉を切った。その目がきらきらと輝きはじめた。くちびるはまだ動いていたが、話すのはやめてしまった。
とびらはあけっぱなしになっていた。なにやらそとでざわめいている音が、牢獄の中にまでしのびこんできた。かすかなラッパの音がきこえてきたが、おそらく起床ラッパだったのだろう。それから銃床が地面にぶつかってたてる音がきこえてきたが、これは歩哨が交替しているのだった。それから、暗やみの中で判断できたかぎりでは、牢のごく近くで、板や厚板を運ぶのに似た動きが、つちをうつ音に似た重々しく断続的にきこえる音とともに、きこえてきた。
シムールダンはまっさおになって、じっと耳を傾けていた。ゴーヴァンはなにもきいていなかった。
彼の思いはますます深くなっていった。彼はもう呼吸さえしていないようで、それほど彼は自分の頭脳の幻のドームの下で見えるものに、じっと思いをこらしていたのだった。彼はあまい感動にゆすぶられていた。彼のひとみの下にひそむ夜明けのような光が、ますますふくれあがってきた。
こうした時間が、しばらくたつと、シムールダンがゴーヴァンにたずねた。
「なにを考えているんだね?」
「未来のことを」と、ゴーヴァンが言った。
そして、また瞑想の淵《ふち》にとびこんでいった。
シムールダンはふたりで並んで腰をおろしていたわらのベッドからたちあがった。それにゴーヴァンは気づきもしなかった。シムールダンは思いに沈む若者をまなざしでおし包むように見つめながら、ゆっくりととびらのところまであとずさりすると、牢獄からでていった。
牢獄のとびらがふたたびとざされた。
六 しかし太陽はのぼる
やがて太陽が地平線にぽつんと顔をのぞかせた。
そして、太陽と同時に、ふしぎで、動かなくて、意外で、空の鳥さえ見たこともないものが、フージェールの森から突きでているラ・トゥールグの台地の上に現われた。
そのものは、夜のうちにそこに置かれたものだった。それは築きあげられたと言うよりか、簡単にたてられたものと言ってよかった。それは遠くから見ると、なん本ものきつい直線でできたシルエットを地平線上に描き、その形はヘブライ文字か、古代のなぞのアルファベットの一部となっている古代エジプトの象形文字みたいだった。
最初見たとき、このものがよびさます感じは、無用の長物といったものだった。そのものは花ざかりのヒースのしげみのまっただ中にたっていた。これはなんの役にたつものだろう、というふしぎな考えを見る人にもたせるのだった。それから、見る人は、ぞっとするのだった。それは、四本の柱を足にしてたっている一種の台架だった。この台架のいっぽうのはしには、高い柱が二本、まっすぐにたっていた。柱の両てっぺんは一本の横木でつながっていた。横木の下には、なにか三角形みたいなものがぶらさがり、これは朝の青空を背にして黒く見えていた。台架の別のはしには梯子が一つかけてあった。二本の柱のあいだの下、三角形をしたものの下には、ふたつの動く部分からできている一種の板みたいなものが見わけられた。
このふたつの動く部分を一つにあわせると、見た目には、人間の首の大きさに近いまるい穴ができた。板の上の部分は溝《みぞ》の中をすべって、あげたりさげたりできるのだった。このふたつにあわさって首輪のようになる二まいの半月形に切りこまれた板は、ふたつの部分にはなされていた。三角形をしたものをぶらさげている二本の柱の足もとに、蝶番《ちょうつがい》でまわることのできる、シーソーみたいなかっこうをした板がついているのが認められた。この板のかたわらには、細長いかごが置いてあり、二本の柱のあいだの前、台架のはしには、四角いかごが置いてあった。かごは赤くぬってあった。こうしたものはみんな木製だったが、三角形のものだけは別で、鉄でできていた。これが人間によって作られたものであることが感じとれたが、それほど、このものはみにくくて、貧弱で、けちくさかった。と言っても、悪霊によってもち運ばれるのにふさわしい代物《しろもの》とも言えた。それほど、そのものはおそろしかったのだ。
このぶかっこうな建物、これこそ断頭台というものだった。これの真正面の、五、六歩はなれている掘れみぞの中に、もう一つ、別の建物がたっていた。ラ・トゥールグだった。石の怪物が木の怪物と対《つい》をなしていた。
ここでついでに言っておくと、人間が木や石に手をふれると、その木や石はもはや木や石ではなくなり、なにか人間のもちものみたいな感じがしてくるものである。こうして、建物は一つの教義をあらわし、機械は一つの思想をあらわすのである。
ラ・トゥールグは、パリではバスティーユ、イギリスではロンドン塔、ドイツではシュピールベルグ、スペインではエスキュリアル、モスクフではクレムリン、ローマではサン=タンジェロ城と呼ばれている、過去の宿命に由来してできている建物であった。
このラ・トゥールグには、中世、臣下としての隷属《れいぞく》、農奴制、封建制など、千五百年の歴史が凝縮されていて、あの断頭台には≪九十三年≫という一年が凝縮されていたが、この九十三年の十二カ月は、十五世紀とつりあっていた。
ラ・トゥールグはすなわち君主制であり、断頭台とはつまり革命だったのだ。
まさに悲劇的な対決だった。
片方は負債を負い、片方はその支払い期日をねらっていた。片方はゴティック時代の不可解な複雑性、つまり、農奴、領主、奴隷、支配者、平民、貴族、いくつかの慣習法に枝葉をだしている多種多様な法典、同盟を結んだ裁判官と僧侶、無数の束縛、国庫、塩税、奴隷の移転不能、人頭税、特例、特権、偏見、狂信、破産宣告ができる王の特権、王笏《おうしゃく》、王座、王の恣意《しい》、神権があり、片方には、あのしごく簡単なもの、つまり一枚の断頭の刃があった。
片方には複雑な結び目があり、片方にはおのがあったのだ。
長いあいだ、ラ・トゥールグはこの荒野の中にひとりぽつんとたっていた。そこには、そこからにえたぎる油を、燃える松脂《まつやに》を、どろどろにとかした鉛を流した狭間《はざま》があり、人間の骸骨をしきつめた地下牢があり、四裂《よつざ》きの刑をおこなった部屋があり、中にみちみちている巨大な悲劇があった。この城はその不吉な威容で森を支配し、おそるべき静寂に包まれた十五世紀を、その影の中に秘めていた。
またこの城はこの地方において唯一の権力をもち、唯一の尊敬を集め、唯一の恐怖をあたえていた。この城はあたりを支配し、野蛮のかたまりそのものだった。ところが、今、とつぜん、この城は自分の前に自分に反抗するなにものかがすっくとたちあがるのを見たのだった。……それはなにもの以上の……城と同じくらいおそろしいもの、つまり断頭台であった。
石はときに奇妙な目をもつことがある。胸像はじっと目をすえ、塔は目でうかがい、建物の正面はじっと目をこらす。ラ・トゥールグは断頭台をしげしげとながめているようだった。
そして、城は自分の心にたずねているようだった。
いったい、あれはなんだろう?
それは地中からとびだしてきたように見えた。
事実、断頭台は地中からとびだしてきたのだった。
この宿命の土地の中で、あの不吉な木が芽をだしたのだ。おおくの汗と、おおくの涙と、おおくの血がそそがれたこの土地、無数の穴と、無数の墓と、無数の洞窟と、無数の落とし穴が掘られたこの土地、あらゆる種類の圧政に殺されたあらゆる種類の死体が朽《く》ちはてたこの土地、おびただしい奈落《ならく》の上におおいかぶさっているこの土地、そして、おびただしい大罪とおそるべき種子がまかれたこの土地、この深い土地から、ある定められた日に、この未知のもの、この復讐《ふくしゅう》者、この剣をもったおそるべき機械がとびだしてきたのだ。そして、この≪九十三年≫は、古い世界に向かって、こう叫んだのだった。
「さあ、おれが現われたぞ」
そして断頭台は城塔に対して、こう言う権利をもっていた。
「わたしはおまえの娘だ」と。
と同時に、城塔は、こうした宿命的なものは暗い生を生きるがゆえに、自分は娘に殺されると感じたのだった。
ラ・トゥールグはおそるべきものが出現するのをまのあたりにして、言い知れぬおどろきをおぼえていた。恐怖をおぼえていたと言ってさしつかえなかろう。怪物のような花崗岩《かこうがん》のかたまりは、おごそかであるとともにはずべきものだったが、三角形の刃をもった板は、もっと悪いものだった。地に落ちた全能は、新しい全能に恐怖をおぼえた。犯罪の歴史が裁判の歴史をまじまじと見つめていた。古い時代の暴力が今の時代の暴力を自分と比較していた。むかしの城砦《じょうさい》、むかしの牢獄、むかしの領主の館、そこで手足をばらばらにされた死刑囚がわめきたてたところ、戦いと虐殺の建物が、今、使用不能となり、戦う力もなくし、略奪され、防備をとかれ、王冠をはぎとられ、灰のかたまりにひとしい石のかたまりとなり、醜悪で、壮大で、死んだも同然なものとなって、おそるべき諸世紀の目まいをたっぷり含みながら、生きている恐怖の時間が通過していくのを、じっとながめていた。
≪過去≫が≪現在≫を前にしておののき、古い残忍さが新しい恐怖を確かめ、それにじっとたえていた。すでにもう虚無にすぎないものが、この恐怖を眼前にして暗い目を見ひらき、幽霊が亡霊をじっとながめていたのである。
自然は非情である。人間がおこなう嫌悪すべき仕事を目の前にしていても、自然はその花を、音楽を、香を、光をひっこめることをがえんじない。自然は神の美と社会の醜悪を比較対照させることによって、人間を圧倒してしまうのだ。自然は人間に対して、ちょうちょの羽一枚、小鳥の声一つさえゆるしてくれないのだ。人間はたとえ人殺しをしているさなかでも、復讐をしているさなかでも、野蛮をはたらいているさなかでも、まわりの聖なる事物のまなざしを受けなければならないのだ。人間は宇宙のやさしさの広大な叱責からのがれることも、青空のきびしい静けさからのがれることもできないのだ。奇形と化した人間の法が、永遠の光輝のまんなかに引きだされて、まっぱだかにならなければならないのだ。人間はこわしたりくだいたりする、人間は不毛にする、人間は殺す。しかし、夏はやはり夏であり、百合はやはり百合であり、星はやはり星であることにかわりはないのである。
その日の朝、夜明けの新鮮な空は、かつて一度もなかったくらい美しかった。なまたたかい風がヒースのしげみをゆすり、もやがほんのりと木々の枝にからまり、フージェールの森はあちこちの泉から発散する息にたっぷり浸みこまれて、まるで香気にみちた巨大な香炉のように、夜明けの中にかすんでいた。天空の青、雲の白、水のすみとおった明るさ、自然の緑、藍紫色からエメラルド色に至る妙《たえ》なる色の音階、兄弟のようによりそってたつ樹群、テーブル・クロスのように平坦な草、深い平野、これらすべてのものが、自然の人間に対する永遠の教訓である純粋さをもっていた。そして、これらすべてのもののまんなかに、人間のおそるべき厚顔無恥がのさばっていた。これらすべてのまんなかに、城砦と処刑台、戦いと拷問《ごうもん》、つまりは、血みどろの時代と血にまみれた瞬間を具現する二つのかたちが出現していたのである。それは過去の夜に生きたフクロウと未来の黄昏《たそがれ》に生きるべきこうもりだった。花咲きみだれ、香気をただよわせ、愛らしくも魅力にみちた自然の創造物を眼前にし、光輝あふれる大空は、ラ・トゥールグと断頭台を夜明けの光でひたしながら、人間に向かって、こう言っているようだった。
『わたしのすることを見てごらん、そしておまえたちのすることを』と。
太陽は光を使って、かくのごとくおそるべきことをするのである。
そして、この太陽がてらしだす光景には観衆があった。
四千人の討伐隊が、台地の上に戦闘隊形をしいて並んでいた。彼らは断頭台を三方からとりかこみ、平面的に見ると、断頭台を中心にして、Eの字を描くような形をとっていた。そして、大砲が、このEの字のいちばん長いたての棒の中央あたりにすえられ、これはEの字の中のかぎ棒になっていた。あの赤い機械はちょうどこの三つの戦列の中に封じこめられているようで、一種の壁をなしている隊列は、二つの側でまがり、さらに隊列のはしは台地の断崖のふちまでのびていた。第四の側、つまりひらいている側はすなわち掘れみぞになっていて、ラ・トゥールグに面していた。
こうして長方形の広場が作られ、そのまんなかに断頭台があった。太陽がのぼるにつれて、断頭台の影の長さは草の上で短くなっていった。
砲手たちは火なわに火をつけて砲座についていた。
青い煙がゆっくりと掘れみぞからたちのぼっていたが、これはついにくずれ落ちた橋城からのぼる煙だった。
この煙はラ・トゥールグをおおいかくさない程度にぼかし、城の高い屋上が四方の地平線を見おろしていた。この屋上と断頭台のあいだは掘れみぞで中断されているだけだった。両者はたがいに話ができるくらい近かった。
この屋上の上に軍法会議の法廷にあったあのテーブルと、三色旗でかざられたいすがもってきてあった。太陽がラ・トゥールグの背後にのぼり、城砦のかたまりと、屋上の上の法廷いすに三色旗を背後に腰をおろし、身じろぎもしないで腕組みしているひとりの男の影を、くろぐろと前方に投げだしていた。
この男はシムールダンだった。彼は前日と同じく市民代表の服を着、三色の羽飾りのついた帽子をかぶり、腰にサーベルをつるし、帯にピストルをさしていた。
彼はおし黙っていた。すべてのものがおし黙っていた。兵士たちはたて銃《つつ》をして、目を伏せていた。彼らはたがいにひじを触れあわせていたが、ひとこともしゃべらなかった。彼らは、このたびの戦争のことをぼんやりと考えていた。おおくの戦闘のことを、いさましく敵にたち向かった生垣のいっせい射撃のことを、彼らの手で雲のように吹きとばされた怒りくるう百姓の大群のことを、奪取した城砦のことを、勝ちとった戦闘のことを、勝利のことを考えていた。
しかし今、彼らには、こうしたすべての光栄も彼らを汚辱にまみれさせるような気がしていた。ある陰気な期待が兵士全員の胸をしめつけていた。断頭台の壇の上に、いったりきたりしてる死刑執行人のすがたが見えていた。だんだん明るくなってくる朝の光が、おごそかに大空にみちていた。
とつぜん、喪章の黒布でつつまれたたいこがうちだす、陰《いん》にこもった音がひびいてきた。そして、この不吉なひびきはだんだん近づいてきた。兵士の隊形がひらかれ、ひと筋の行列が長方形の中にはいってきて、断頭台のほうへ向かった。
先頭は黒布につつまれたたいこ、つぎは銃口を地に向けた選抜兵の一個中隊、そのつぎは抜身のサーベルをもった憲兵の一個小隊、そのつぎに死刑囚……ゴーヴァンだった。
ゴーヴァンは自由に歩いていた。足もとにも手にもなわをうたれていなかった。いつもの軍服を着て、剣もさげていた。
彼のうしろからもう一個小隊の憲兵が歩いてきた。
ゴーヴァンは顔にまだ、シムールダンに向かって、『未来のことを考えています』と言った瞬間に輝いた、あの瞑想的なよろこびを浮かばせていた。その消えないほほえみほど言いようもなく崇高なものはなかった。
この悲しい場所に到着したとき、まずゴーヴァンのまなざしは塔の屋上に向けられた。彼は断頭台など見向きもしなかった。
彼は、シムールダンがこの処刑執行に立ちあうのを義務と心得ていることを知っていた。彼は目で塔の屋上にシムールダンのすがたをさがした。見つかった。
シムールダンはまっさおだったが、落ちついていた。彼のかたわらにいるものたちには、彼の息さえきこえなかった。
彼はゴーヴァンを見ても、もう身ぶるいしなかった。
そのあいだに、ゴーヴァンが処刑台に歩みよっていった。
ゴーヴァンは歩きながら、ずっとシムールダンを見つめていたし、シムールダンもゴーヴァンを見つめていた。まるでシムールダンがこのゴーヴァンのまなざしにささえられているようだった。ゴーヴァンが処刑台の足もとについた。そして台にのぼった。選抜兵を指揮している士官があとにつづいた。ゴーヴァンが剣をはずして、その士官にわたし、さらにネクタイをとって、これは死刑執行人にわたした。
ゴーヴァンは幻のように見えた。彼がこれほど美しかったことは、かつて一度もなかった。褐色の髪が風になびいていた。そのころは、頭髪を短く刈《か》っていなかったのだ。白いうなじは女を思わせ、おおしく気高いひとみは大天使《アルシャンジュ》を思わせた。彼は処刑台にのぼっていても、夢見ていた。この処刑台の上も一つの頂上だった。そこにゴーヴァンが、りりしく落ちついてたっていた。太陽の光がゴーヴァンをまるで後光の中にいれるようにおし包んでいた。
しかし、死刑囚はしばらなければならなかった。死刑執行人がなわをもって近づいてきた。
この瞬間、兵士たちは、彼らの若い指揮官がまちがいなく首を切られることになるのを知って、耐えきれなくなり、これら戦士たちの心が一度に爆発した。一軍全員のすすり泣きという、巨大なひびきがわきおこった。それから叫び声がおこった。
「どうか! どうか、おゆるしください!」
あるものはたおれてひざまずき、あるものは銃を投げて、シムールダンのいる塔の屋上めがけて腕をあげた。ひとりの選抜兵が断頭台を指さしながら叫んだ。
「身がわりになってはいけませんか? わたしがなります」
全軍が狂乱して叫びつづけた。
「どうかゆるしてください! どうかゆるしてください!」
この声をきいたら、たとえライオンでも心を動かされるか、おそれおののくかしただろう。それほど兵士たちの涙というものはおそろしいものだからである。
死刑執行人はたちすくんでいた。どうしてよいかわからなかったのだ。
そのとき、短くひくい一つの声が塔のてっぺんで叫ぶのがきこえてきた。その声はひくかったが、全軍にきこえた。それほど不吉な声だった。
「法を執行せよ!」
そのきびしい口調の持主はすぐわかった。シムールダンだった。全軍の兵士が身ぶるいした。もう死刑執行人もためらわなかった。彼はなわをもって歩みよった。
「待ってくれ!」と、ゴーヴァンが言った。
そして、シムールダンのほうを向くと、まだ自由な右手で別れの合図を送った。それからなわを受けた。
手をしばられてしまうと、彼は死刑執行人に向かって言った。
「すまない、もう一度だけ待ってくれ」
そして、大声で叫んだ。
「共和国ばんざい!」
ゴーヴァンはシーソーのように上下に動く板の上に横たえられた。その美しくも誇り高い頭が、あの恥ずべき首輪型の板の中にはめこまれた。死刑執行人はゴーヴァンの髪をやさしくかきあげてから、バネをおした。三角形の刃が横木からはなれ、はじめはゆっくりと、それからすばやく、すべり落ちた。おそろしい音がきこえた……
と、まさにそのとき、もう一つ別の音がきこえた。刃の音にピストルの音が答えたのだ。シムールダンが、帯にさしていたピストルをにぎっていた。そして、ゴーヴァンの首がかごの中にころげ落ちたちょうどその瞬間に、シムールダンはわれとわが心臓を、ピストルの弾丸でうちつらぬいたのだ。彼の口から血がほとばしった。彼はどっと倒れて、こときれた。
そして、この悲劇的な姉妹であるふたつの魂は、もろともに、一つは影となり、一つは光となって、まじりあいながら、とび去っていった。(完)
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解説
[フランス革命のあらまし]
フランス革命は封建制に反対する国民運動として展開し、ブルボン王朝を中心とする絶対王政と≪旧制度《アンシャン・レジーム》≫をうち破って、近代のデモクラティックな市民社会を作り出した、典型的な市民革命である。
この革命がおこったのは、今からおよそ二百年ばかり前のこと。日本では徳川時代末期、寛政の改革のころ、イギリスでは産業革命が始められ、アメリカではワシントンが初代大統領についていた。
≪旧制度《アンシャン・レジーム》≫下では、フランス国民は三つの身分制度にわけられていた。第一身分は聖職者、第二身分は貴族、第三身分は市民と農民である。
ところが、特権階級たる貴族と聖職者の堕落は目にあまるものがあった。貴族は国家の重要な位置を占め、領主という特権をかさに、市民と農民からしぼりとれるだけしぼっていた。しかも、彼らの日常は、生産につとめるより享楽に流れ、もはや新しいものを生み出す意志も気力も持っていなかった。聖職者もまたしかり、とくに高位のものたちの中には、信仰に生き人をみちびこうとするものは少なく、神の道をとく説教壇の裏では、酒色におぼれる日を送っていた。
そこで、あわれをとどめたのは農民、とくに貧農たちで、馬小屋で寝おきし、靴や靴下はおろか木靴《サボ》さえはけないものが多かった。重税にあえぐ彼らの主食はライ麦、大麦、ハダカ麦で、しかも、それがほとんどすべてだった。
こうして≪旧制度《アンシャン・レジーム》≫は当然ゆきづまりを見せ始めたが、これを打開するには、ときの国王ルイ十六世は、あまりにも無能だった。その上、王宮を中心とする王侯貴族の豪奢《ごうしゃ》な生活はとどまるところを知らず、国家の財政は恐慌《パニック》一歩手前にまで追いつめられた。
そこで政府は、この財政難を打開する窮余の一策として、免税の特権を持つ聖職者と貴族たちに課税しようとした。ところが特権階級はこれをこばみ、この反抗が、いわば、革命をおこす外面的きっかけとなった。
もう一つ、見落としてはならないのは、革命の内面的きっかけである。つまり、立憲政治や社会平等を説く啓蒙《けいもう》思想の刺激である。
『……国家におけるあらゆることを決定するものは、この人民の意志であって、国王とか大臣とかは、いわばその使用人にすぎない。解放された人民は、いわば社会の中の≪自然人≫であって、もともと自由、平等なものでなければならない……』
ジャン=ジャック・ルソーは『人間不平等起源論』の中で、こう書いている。そして、これこそ啓蒙思想に共通する根元理念で、これが革命を内面から支える大きな力となった。
こうして、一七八九年五月、反抗する特権階級の要請にしたがって、ヴェルサイユ宮殿に≪三部会≫が召集された。これは、第一身分代表約三百名、第二身分代表約三百名、第三身分代表約六百名によって構成された。ところが、第三身分の議員たちは、みずから≪国民議会《アサンブレ・ナショナール》≫を作って憲法制定をめざすようになった。
おどろいた王は、これを軍事力をもっておさえようとしたが、やがて七月十四日を迎え、ここに、パリ市民によるバスティーユ監獄襲撃がおこり、こうした大衆暴動は、経済的に追いつめられていた地方都市や農村にまで燃え移っていった。
八月、こうした情勢に対し、議会はついに、聖職者、貴族の封建的特権の廃止を宣言、人権宣言をとりあげて、自由と平等の原理を明示した。パリはあいかわらず経済危機におそわれ、宮廷内には反革命の動きなどもあったが、一応平穏のうちに秋を迎えた。ところが十月五、六日、またもパリ市民は、婦人たちを先頭にヴェルサイユに行進、ルイ十六世の宮廷と議会をパリにうつした。
一七八九年〜九一年にかけて、国民議会《アサンブレ・ナショナール》は内政をあれこれ改革し、デモクラティックな中央集権体制をととのえようと努力し、これは結果的には、≪旧制度《アンシャン・レジーム》≫の撤廃と国内市場の統一を通して、資本主義発展の道を開いた。また九一年には憲法を制定して、人民主権、一院制の立憲王政をしいたが、この段階では、革命はまだブルジョワ的自由主義の域を出ていなかった。
また、この段階では、国外にのがれた亡命貴族たち旧勢力による反革命の動きがあり、それに呼応して、革命のとばっちりを恐れるオーストリア、プロシャなどの諸外国が、ようやくフランスに対する動きを見せ始めた。
そうした動きは、九一年六月、国王一家のパリ脱出計画という事件で、革命を思わぬ方向へ展開させることになった。国王は東部国境でとらえられ、計画は失敗したが、この結果、国民のルイ十六世に対する失望はおおいがたく、ここに、いちだんと共和主義が高まることになった。
九一年十月、新しく発足した立法議会は、穏健な共和主義者ブリッソー、コンドルセなどにひきいられるジロンド党を進出させ、ついに、革命断行のために、オーストリア、プロシャに対して宣戦を布告。しかし、戦いはフランスに利なく、各地から義勇兵が集められた。熱血青年将校ルージェ・ド・リールの≪ラ・マルセイエーズ≫が作られ、歌われだしたのは、このころのことである。
戦争指導に失敗したジロンド党にかわって、革命的大衆と結びついた急進共和主義のジャコバン党が進出した。このジャコバン党は、ダントン、マラ、ロベスピエールなどにひきいられていた。
九二年八月十日、パリでは、またも市民が蜂起《ほうき》、王宮を襲撃し、国王一家をタンプル塔におしこめてしまった。これ以後、王権は停止され、九月には立法議会も解散し、あらためて≪|国 民 公 会《コンヴァンション・ナショナール》≫が作られ、王権廃止と共和政を宣言し、ここにフランス第一共和政が出現することになった。
|国 民 公 会《コンヴァンション・ナショナール》では、最初、ジロンド党とジャコバン党との協調のもとに政策が推進されていたが、徐々にジャコバン党左翼の|山 岳 党《モンターニュ》 が主導権をにぎり、ついに|国 民 公 会《コンヴァンション・ナショナール》は国王ルイ十六世を裁判にかけ、九十三年一月に、これを断頭台に送って処刑した。
いっぽう、戦局は、九二年九月のヴァルミーの戦をはじめ各地で好戦、九三年二月、三月には、イギリス、オランダ、スペインにも宣戦を布告した。今やヨーロッパ諸国は、ひたすらフランスの革命を注視し、その余波の自国におよぶのをおそれて、対フランス同盟を結成、フランス国内の反革命勢力と呼応した。
国内の反革命勢力は、諸外国と手を結ぶとともに、独自に行動を開始し、いまだ封建的色彩の残る地方によって、運動を展開した。本編『九十三年』の舞台となっている≪ヴァンデの反乱≫は、この反革命運動の最たるものであった。
この年、|国 民 公 会《コンヴァンション・ナショナール》は農民解放、経済統制軍制改革などの諸政策を実施し、≪九十三年憲法≫を制定したが、いっぽうでは、革命政府の名のもとに完全な独裁制をしき、反革命勢力に対して徹底的なテロ行為による弾圧を加えた。いわゆる恐怖政治がこれである。
革命政府は、恐怖政治に対する国民の反感を緩和する手段として、メートル法、共和暦、民法の制定など文化的な改革にも手をそめたが、ようやく内部分裂のきざしを見せ、過激なエベール、穏和なダントンなどがつぎつぎに粛清《しゅくせい》されて断頭台に送られ、九四年四月からは、ロベスピエール派の独裁となった。
ロベスピエールは理想家肌の革命家で、その中心理念は小生産者による平等な共和国樹立だったが、その実際の政策は非現実的で、これまた最後まで人心を引っぱっていくにいたらなかった。
そして、九四年七月、|国 民 公 会《コンヴァンション・ナショナール》において、ついに反ロベスピエールの気運が盛りあがり、革命暦|熱月《テルミドール》九日、ロベスピエール一派もまた断頭台のつゆと消えた。
ここに、これまで急進の一途をたどってきた革命も、ようやく穏健な路線への郷愁を覚え始め、恐怖政治の種々な機関はとりこわされ、ブルジョワと地主が復活し、大衆も革命運動からはなれていった。
九五年に制定された憲法では、権力の分割、財産による制限選挙制を復活させ、さらに、五人の総裁と二院制による三権分立の新しい共和制を形作った。
しかし、革命政府の与えた傷痕は生々しく、人心はなかなか安定せず、経済状勢もかならずしも好転しなかった。そこで、国民が要望したのは、より強力な政権で、そういう要求はとくに新興ブルジョワジー、地主、農民たちのあいだで強かった。そこで一部の政治家たちは、より強力な行政権を持った政府に脱皮させる計画をおし進め、それには軍事力が必要であることを痛感した。
こうして、ここにナポレオン・ボナパルトが台頭する気運がもりあがり、九九年十一月、革命暦|霧月《プリュメール》十八日、ついにナポレオンは武力を持ってクー・デタを敢行、ここに三執政による執政政府が樹立された。その発足にあたって、新政府は、次のように声明した。
『革命はその発端をなした諸原則を達成した。革命はおわったのだ』
この新政府の第一執政となったナポレオンは、さらに新憲法を制定、ひたすら、自己の権力を増大させる機をうかがっていた。
こうして、革命は終わりをつげ、フランスは、次のナポレオン時代を迎えることになったのである。
[ヴィクトル・ユゴーの人と作品]
十九世紀フランス文学は、バルザック、スタンダール、ボードレール、マラルメと、幾人もの詩人小説家たちの巨人をかかえているが、中でも、ヴィクトル・ユゴーは巨人中の巨人である。ユゴーは、詩人、小説家、劇作家としてはいうまでもなく、社会思想家、政治家としても、ほとんど十九世紀フランス全般に巨大な影をなげかけ、二十世紀になっても、その影はひろがる一方である。ユゴーをのぞいては、十九世紀の詩も小説も劇も語れないし、世界の文学も語れないのである。あの『狭き門』の作家アンドレ・ジイドが、「十九世紀でもっとも偉大な文学者は?」と問われて、自分の好みに合わないと思いつつも、「残念ながらヴィクトル・ユゴー」と答えたことは、今ではすでにあまりにも有名である。
とくに『レ・ミゼラブル』の作者としてのユゴーの名声は、存命中から、国境をこえて世界じゅうにひろがり、わが国でも、黒岩涙香《くろいわるいこう》の自由訳『噫無情《ああむじょう》』がでて以来、はかり知れない影響をあたえている。たとえ作者ユゴーの名を知らなくとも、『噫無情』という題名と、≪ジャン・ヴァルジャン≫の名前は、いまや、世界の人々の一般的教養とさえなっているのである。ユゴーは『九十三年』の中で、|国 民 公 会《コンヴァンション・ナショナール》をヒマラヤにたとえているが、彼自身すでに世界文化の屋根であり、雲をつらぬいて堂々とそびえ立っているのだ。
これほど偉大な巨人の生涯を簡略に語ることは、とうてい不可能であり、また愚にひとしい。そこで、ここでは、本書によって、はじめてユゴーの作品に接する、とくに若い読者のために、ごく簡単に、ユゴーという巨人をご紹介したい。すなわち、これは年譜であり、いわば、≪大ヒマラヤ≫の小さな地図でしかない(くわしくお知りになりたい方々のためには、アンドレ・モロワの名著『ヴィクトール・ユゴー……詩と愛と革命……』が辻|昶《とおる》、横山正二氏の名訳によって邦訳されていることをご紹介し、ぜひご一読をおすすめしておこう)。
ヴィクトル=マリ・ユゴーは、一八〇二年(享和二年)二月二十六日、東部フランス、スイス国境に近いブザンソンで生まれた。父が軍人で、ブサンソンは当時の任地だったからである(享和二年といえば、日本では幕末。この前後に、伊能忠敬《いのうただたか》が蝦夷《えぞ》地を測量し、また『東海道中膝栗毛』が書かれている)。
もともとユゴー家はロレーヌ州の農民であったが、父は大革命以来の軍人だった。このことはユゴー自身『九十三年』の中で触れている。母はブルターニュ地方南端のナントの生まれで、資産家の娘だった。
ヴィクトル六歳のころから、父の勤務の都合で、一家はコルシカ島、エルバ島、イタリヤ、スペインなどを転々と旅行し、一八一二年に、母と兄弟たちとともにパリに帰った。父は軍人にするつもりでヴィクトルを寄宿学校に入れたが、ヴィクトルは文学、とくに詩作に熱中した。十四歳のとき、手帳に「シャトーブリアンになるのでなければ、なんにもならない」と書いている。シャトーブリアンは当時ロマン派随一の詩人だった。
この言葉のとおり、少年ユゴーは、詩人になることばかり夢見て、詩作にばかりふけった。そして、十七歳のとき、アカデミー・フランセーズの詩のコンクールに一等で入選、シャトーブリアンにみとめられた。さらに、みずから『コンセルヴァトゥール・リテレール』という詩の雑誌を創刊した。また同じ年に、幼ななじみのアデール・フーシェ嬢に愛の告白をしている。まことに早熟児だったというべきであろう。
青年詩人ユゴーにとって、一八二二年は記念すべき年になった。なぜなら、ロマン主義の最初ののろしをあげた『オードと雑詠集』を刊行して国王から年金を受けることになり、また一方ではアデールとめでたく結婚したからである。これ以後、一八三〇年までの数年間、ユゴーはロマン派の若き統率者として、めざましい活動をすることになった。この間、詩集『オードとバラード集』、小説『アイスランドのハン』、『ビュグ=ジャルガル』などを発表したが、もっともフランス文壇に衝撃をあたえ、ロマン派詩人ユゴーの位置を確固たるものにしたのは、劇作『クロムウェル』、とくにその序文であった。
『クロムウェル』は、イギリスの反逆者クロムウェルを扱った五幕の韻文《いんぶん》劇だったが、その内容より序文のほうが≪ロマン派の宣言書≫として有名になった。ユゴーの考えによれば、人間の歴史は三つの時代にわけられ、それぞれ抒情詩、叙事詩、劇があてはめられる。しかも、今は劇の時代であり、その劇も古代劇のように悲劇喜劇とわけることなく、その時代の歴史や地方色も取りいれるべきである、というものだった。つまり、自由で闊達《かったつ》な文学を提唱したのである。そして、ひとたび、この宣言が発表されると、フランスの劇壇、文壇はまっぷたつにわかれて、ごうごうたる論争をまきおこし、夜ごと、劇場は雄弁と喧騒《けんそう》の巷《ちまた》と化し、一般世論までまきこんでしまったという。ユゴーの面目躍如たるものがあったというべきである。
こうして、まっこうから古典主義に反旗をひるがえし、ロマン主義理論を確立したユゴーは、みずからロマン派のグループを作って≪セナークル≫と称し、ユゴーは名実ともにロマン派の主将となったのである。それから二年ばかりは、ユゴーはロマン派の育成につとめ、詩集『東方詩集』、小説『死刑囚最後の日』を発表。ところが一八二九年、ユゴー二十七歳のときに、劇作『エルナニ』を発表するにいたって、古典主義派の一大反撃にであうことになった。この劇が上演されたフランス座は古典主義派の連中に取りまかれ、これにロマン派の若い連中が対抗、『エルナニ』は、両派の怒号となぐり合いの中に幕を閉じたといわれている。
十六世紀スペインに取材したこの劇は、愛、陰謀、死がめまぐるしく交錯する情熱の劇で、その情熱的で抒情的な詩句、自由で、のびのびとして、しかも華麗な舞台は、ゴーチェの言をかりると、「若くて勇壮な、ほれこみやすい詩的な連中のひとりのこらずに霊感をあたえた」のである。
こうして、ロマン派は大勝利を得たが、ユゴー自身は、このころから、思想的に一大転換を示すことになった。つまり、七月革命によって衝撃をあたえられたユゴーは、社会主義的人道主義、自由主義へ転進しはじめたのである。詩神も、きわめて内面的に歌うようになり、一八三一年の詩集『秋の木の葉』はみずからの内面生活を歌い、一八三五年の詩集『たそがれの歌』は彼自身の回想、歴史や政治や道徳などに対する内心の声を歌っているといわれている。詩集にはこのほか一八三七年の『内心の声』、一八四〇年の『光と影』などがある。
この時期の小説としては、『ノートル=ダム・ド・パリ』(一八三一年)がある。これは今ではあまりにも有名な、十五世紀末のパリを舞台にした歴史小説である。薄幸のジプシー娘エスメラルダに対して、これによこしまな恋心を抱く悪副司教フロロ、熱血の近衛隊長シャトーペル、そして、せむし男のカジモドの三人を配して、人間の悲しい宿命を描いたこの小説は、のちの大長編『レ・ミゼラブル』に描きだされた人道主義の萌芽を示しているといえるだろう。とくに、醜怪な不具者でありながら、エスメラルダの頭骨を抱いて白骨と化したカジモドの純情、エスメラルダに寄せるしがない浮浪者たちの同情は、ユゴーの生涯を貫くヒューマニスムのあかあかと燃える曙光《しょこう》であり、人間性そのものに対するユゴーの憐憫《れんびん》と温情と尊重のまなざしは、以後、『レ・ミゼラブル』、『九十三年』にも引きつがれていくことになるのである。
一八四三年、四十一歳のユゴーは、生涯で最大の不幸に見舞われることになった。最愛の娘レオポルディーヌがセーヌ河で溺死したからである。深い悲しみと絶望におちいったユゴーは、以後十年間筆をたち、もっぱら外面的生活……政治に意をそそぐようになった。ところが、政治家ユゴーの前途も、なかなか、やさしいものではなかった。
すなわち、一八四八年、パリの学生、労働者が市街戦ののち、全市の支配権を握り、ルイ=フィリップが退位して、いわゆる二月革命が起きると、パリの市民はユゴーを国民議会へ送った。はじめ彼は議会の右翼として、ルイ=ナポレオンを支持した。その民衆に対する熱烈な愛、理想主義的博愛思想は、この時期、王族大統領の思想と一致していたのである。事実、ルイ=ナポレオンはユゴーを大臣にしようとした。しかし側近のため、その栄光はついに輝かず、痛撃を受けたユゴーは極左へ走ることになった。
一八五一年、ナポレオン三世のクー・デタによる帝政樹立に反対、議会の壇上にたって、雄弁をふるい、政府に対する闘争を開始した。たちまち、国外追放の憂き目を見てしまった。そして、彼は労働者に変装して、ベルギーに脱出、さらに一八五六年、英仏海峡のジャージー島に到着、ここに十九年間にわたる亡命生活が始まったのである。
しかし、文学者としては、もっとも充実した日々が始まったといってよかった。なぜなら、彼の代表作といわれ、不滅の光芒を放つ詩編の製作はこの時期に集中され、あの一大長編小説『レ・ミゼラブル』も、この期間に書かれているからである。
まず、一八五三年に発表した『懲罰詩集』は、ナポレオン三世を攻撃した詩編だといわれている。つまり、ナポレオン三世に対する懲罰と諷刺《ふうし》をこめた百編余の詩からなっている。王位|簒奪《さんだつ》者の卑怯と汚辱を告発し、民衆の苦しみを訴え、これと永遠に戦う決意と共和制への信念を韻律にこめたものである。一八五六年の『静観詩集』は、『懲罰詩集』とはうってかわって、私的な生活日常に浮かんでは消える喜びや悲しみを、豊かな抒情に盛った、きめこまかな詩編であり、抒情詩の絶唱といわれる傑作を数多く収録している。しかし、もっとも偉大な光輝ある詩編は、一八五九年〜八三年の『諸世紀の伝説』である。これは、純粋に亡命中の作品、ジャージー島とゲルンゼー島で構想をまとめた長編叙事連作詩である。この雄編は、韻律による人類史であり、神話伝説に仮託した、ユゴーの哲学の一大集大成である。もつれ乱れる糸をたぐるように、人類の無知の迷路の中に知と愛と真理をまさぐった、情熱と空想が飛翔するがごとき詩編である。実にユゴーは、『諸世紀の伝説』のみによっても、優にフランスの詩の歴史に巨大な足跡を残したと言っても、過言ではあるまい。
イギリス海峡の孤島での生活は、外面こそ質素なものであったが、内面的には、この巨人にふさわしいものであった。毎日、彼は早朝に起き出して、海の怒涛《どとう》をきき、その潮騒に慰められ勇気づけられて、生と死と愛の瞑想にふけり、必ず日に六時間の勉強をみずから課して、表現と創作に全力を傾注した。天をつく怒りは『懲罰詩集』にたけり、静かなる内面の明澄は『静観詩集』にかげり、至高の哲学と空想は『諸世紀の伝説』に沈潜したのである。
さらにユゴーの創作意欲はあくことを知らず、さか巻く人道主義への愛の絶叫は、ついに『レ・ミゼラブル』において爆発したのである。この世界文学の巨峰に対しては、形容する言葉が足りないとされている。一片のパンをぬすんだために十九年間投獄され、ついにレ・ミゼラブル(みじめな人々)の味方となったジャン・ヴァルジャンの物語は、あらゆるジャンルの小説の名を冠しても、語りつくせるものではない。ユゴーは序文で、「プロレタリアの生活による男の堕落、飢えによる女の堕落、暗黒による児童の萎縮《いしゅく》」をあばき、社会に訴えかけるのが、この小説の意図である、と書いているが、つまりはみじめな民衆に対する社会の圧迫に対して激しく抗議した告発の書である。ユゴー生涯の信念である人道主義的な愛の叫びは、ここにきわまったというべきであろう。ユゴーが、プロレタリア云々《うんぬん》と叫ぶのに着目するとき、『九十三年』においてゴーヴァンがシムールダンに向かって、「未来においては、権利という言葉のかわりに賃金という言葉が取ってかわるでしょう」と言った言葉を想起する。ゴーヴァンはすでに、現今の階級闘争を示唆する言葉さえ吐いているのである。『レ・ミゼラブル』の着眼点と言い、ゴーヴァンの言葉といい、すでにユゴーは予言者的な瞑想に突き進んでいたように思えてならない。
さて、一八七〇年、普仏戦争によって帝政が崩壊、パリに帰ったユゴーは上院議員にえらばれ、文豪として晩年を送ることになった。しかし、一八七一年三月に起こったパリ・コミューヌの乱は、またもや、ユゴーをイギリス海峡の孤島へおもむかせた。しかし今度は、ただ静かな境地を求めて、一編の雄編をつづるためであった。海峡の孤島とはガーンジ島であり、雄編とはすなわち『九十三年』である。この作品は一八七二年十二月十六日に書きはじめられ、一八七三年六月九日に完成したと言われている。巻頭にしるしたとおり、十年の構想を経て書きはじめられたこの作品は、たった半年で完成してしまったのである。それほどのスピードで書かれながら、あたかも鼓《つづみ》の緩徐急にも比せられ、曲調の急激と緩慢、動と静、光と影のハーモニーがみごとに奏でられているのは、ユゴーのつきぬ詩神と天才をもって当然のことながら、大自然にかこまれて、情感と思想と創作意欲を自由奔放にはばたかせることのできたたまものだろうか。『九十三年』の寄せてはかえす波頭のような、岩に砕けるかと思えば、永遠のたゆたいを見せる海のような、悠々せまらざる小説技法の彼方から、大洋にかこまれた大自然の雄《お》たけびがひびいてくるような気がする。
文豪としてのユゴーの晩年は、文字どおり栄光につつまれ、彼の屋敷には、文学者や共和主義者たちが無数におしかけ、作品もほとんど無尽蔵と言ってよいくらいに製作した。しかし私生活においては、必ずしも恵まれていなかったようである。一八七一年から七三年のあいだに二人の息子を失い、娘のアデールも発狂していたからである。
ともあれ、一八八五年五月二十二日、この巨人は八十三歳でこの世を去った。まさに巨星が落ちたのであり、フランス共和国は、荘厳と至誠の国葬をもって、大ユゴーの死を悼《いた》んだ。そして、死後一世紀近くになる今日においても、ユゴーの人物、才能、栄光などについて、その作品の雄大、深遠、無限などについて、研究、論争がくりかえされているのである。
翻訳にあたっては、テクストにガルニエ・フレール叢書一九六三年版を使用し、ローウェル、ベアによる英訳、諸先生方によるいくつかの邦訳を参照させていただきました。とくにユゴー学者|辻昶《つじ・とおる》先生の御訳からは種々ご教示を仰ぎました。とくに明記して、心から御礼申し上げます。
当初、編集部から「できるだけ読みやすく」訳すよう要請されました。ところが、原文は荘重で、悲壮感《パテティック》にみちた詩的な文体で、ほとんどうたうようにつづられています。韻が韻を呼び、曲調が曲調に答える体《てい》のものです。訳すだけでも非才にはとてもおぼつかないものを、まして「読みやすく」ということはほとんど不可能なことでした。それでも、できるだけ表現をやさしくし、漢字も制限したつもりですが、そのため生硬、たどたどしさを残した箇所がたくさんあると思います。また、常に若い読者にもわかるようにと心がけたために、ときに、あまりに現代的な表現を使って、原文を多く傷つけたのではないかと恐れています。しかし、この翻訳に没頭した数カ月の日夜は、訳者にとって、苦しくもたのしい思い出となりました。昼には共和軍、王党軍の砲声をきき、夜はまた、革命の理念とヒューマニスムに耳をすます時間……夜半、ゴーヴァンとシムールダンの対決に列席し、夜明けに、ラントナックの胸のうちをおしはかり、ふと辞書をくる手も休めて、胸にわきあがる熱いものをなだめたことも幾度かでした。つたない訳文ですが、どうか読者の皆さんも、素朴な感動にひたっていただけるよう、そして、この種の素朴な感動に身を任せる若い読者がひとりでも多くなるように祈っています。それこそ、文学のすばらしさだからです。(榊原晃三)
〔訳者略歴〕榊原晃三(さかきばらこうぞう) 一九三〇年愛知県生まれ。フランス文学翻訳家。主な翻訳書にダン・フランク『別れるということ』、フランツ=オリヴィエ・ジーズベール『アフルー』、ジュール・ヴェルヌ『二十世紀のパリ』、ミシェル・トゥルニエ『黄金のしずく』『野生の生活』ほか多数。一九九七年没。
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フランス革命年表
一七八九
六月十七日 立憲国民議会成立。
六月二十日 球戯場の誓約。
七月十四日 バスティーユ陥落、フランス革命起こる。ルイ十六世国外逃亡に失敗。
一七九〇
六月    貴族の尊称廃止。
一九七一
六月二十日 王一家脱走を企てヴァレンヌにおいて捕われる。
七月十七日 シャン=ド=マルスの「虐殺」。
七月三十日 立憲国民議会解散。
十月一日  立法国民議会開会。
一七九二
三月    ジロンド党、内閣成立。
四月二十日 対欧州諸国宣戦布告。
六月十二日 ジロンド党、内閣瓦解。
六月十九日 王、二個の議会決議案(憲法に宣誓しない僧侶の処分および地方連盟兵パリ駐屯に関する)を拒否し、人心ますます離れる。
六月二十日 パリ市民テュイルリー王宮に迫る。国王侮辱事件。
七月十一日 「祖国は危機にあり」の宣言。
八月九日  ジャコバン党パリ市政独占、国民衛兵司令長官マンダー虐殺さる。
八月十日  テュイルリー王宮の襲撃、王権の停止、フランス王政転覆。
八月十一日 ジャコバン党のダントン、法相として入閣。
八月十三日 王族タンプル塔に幽閉。
九月二日  パリの大虐殺(九月虐殺)。
九月二十日 ヴァルミーの戦、プロシャを破る。
九月二十一日 憲法制定議会(革命議会)開会。
九月二十二日 共和制宣言。
十一月六日  ジェマップの戦、イタリア軍を破る。
一七九三
一月二十一日 ルイ十六世の死刑執行。
二月一日   イギリス、フランス開戦。
二月二十四日 国民大徴発の決議。
三月七日   フランス、スペイン開戦。
三月十日   ヴァンデの反乱(*)。
(*)国民大徴発令に不服なヴァンデ県の保守的な住民たちは、その施行を拒んで一時に各所に蜂起。約一カ月にして表面しずまったかに見えたが農民の反抗心は復讐心となり、馭者カトリノー、猟番ストフレ、理髪師ガストンなど首領となって反乱を起こす。旧貴族、僧侶などが加わり王党ならびに宗教的色彩が濃厚となる。
ヴァンデの知事にたいしアンリ・ド・ラ・ジョシュジャクランは年わずか二十一歳にして反軍に加わり、一方の将としてフォントネ・ル・コントのソーミュールなどに共和党軍を破る。馭者カトリノーは総司令官に推されタンプルに幽閉中の前太子をルイ十七世として宣言する。共和党の指令官ウェスラルマン討伐に向かい、シャチロンを取ったが、七月五日の逆襲にあい大敗を喫して退却。
これより双方、憎むことはなはだしく、反乱はみずから白軍と称し、共和党軍を青軍と呼び、おたがいに捕虜を虐殺してうっぷんをはらす。国会はリューベルおよびメルラル・ド・ティヨンヴィルをヴァンデ地方に派遣したが、前任の共和党軍司令官ロシニョールと意見が合わない。
共和党軍は九月十八日より二十三日の間に連続五回の敗北を喫したが、十月十七日、クレーベルはショレの戦いで王党軍を破り、同軍随一の知将デルーベー男爵およびボンシャン戦死す。年少の勇士ジョシュジャクランはブルターニュに入り、グランヴィル港を占領してイギリスの援軍を上陸させようとしたが、国会派遣委員アルパンテュに撃退され、ヴァンデの農民軍も郷里に向けて遁走するよりほかなかった。
十二月十三日、王党軍はモンスにおいて再び大敗を喫し、同二十三日、ラヴネーにおいて全滅する。
かくて、十カ月にわたるヴァンデ内乱は終わった。
(注 ヴァンデの共和政府に対する大規模な反乱は一七九五年にも繰り返されたが、これも失敗に帰した)
三月十八日  ネルウインドの戦。フランス軍、イタリアに破れる。
三月二十八日 公安委員会の新設。
六月二日   ジャコバン党のジロンド党に対するクー・デタ、恐怖政治始まる。
七月十二日  コンデ陥落。
七月十三日  マラ暗殺さる。
七月二十五日 マイエンス陥落。
七月二十八日 ヴァランシエンヌ陥落。
八月二十九日 容疑者取締法発布。
十月七日   共和党軍リヨンの反乱を鎮定。
十月十六日  ルイ十六世妃マリー・アントワネットの死刑執行。
十月三十一日 ジロンド党員の死刑執行。
十二月十九日 ツーロン奪還。
一七九四
エベール派の処刑。
四月五日   ダントン派の処刑。
七月二十六日 ロベスピエール倒る(テルミドール九日)。恐怖時代終わる。
一七九五
四月五日   パール条約成立。プロシャ講和。
六月九日   前太子ルイ、タンプルに病死。
七月十日   フランス、スペインの講和。
十月二十六日 国会に対するパリ民衆最後の内乱(ヴァンデミール十三日)。ナポレオン・ボナパルト国会のために暴徒を鎮圧する。
一七九九
一月二十六日 憲法制定議会解散。
十一月九日  ナポレオン、クー・デタを断行、執政制度を樹立してその首班となる。第一期革命終わりを告げる。