レ・ミゼラブル(下)
ヴィクトル・ユゴー/斎藤正直訳
目 次
第三部 マリユス
第一章 パリの微粒子
第二章 祖父と孫
第三章 ABCの友
第四章 両星の邂逅《かいこう》
第五章 邪悪なる貧民
第四部 抒情詩と叙事詩
第一章 エポニーヌ
第二章 プリューメ街の家
第三章 首尾の不一致
第四章 歓喜と憂苦《ゆうく》
第五章 一八三二年六月五日
第五部 ジャン・ヴァルジャン
第一章 市街戦
第二章 巨大なる海獣の腸《はらわた》
第三章 ジャヴェルの変節
第四章 祖父と孫
第五章 最後の苦杯
第六章 消えゆく光り
第七章 極度の闇、極度の曙
解説
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主要登場人物
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ジャン・ヴァルジャン……一切れのパンを盗んだため、十九年間徒刑場につながれる。放免後、マドレーヌ及びユルティーム・フォーシュルヴァンと変名し、数奇な運命をたどる。
ミリエル司教(シャルル・フランソワ・ビヤンヴニュ)……ディーニュの司教閣下。
バティスティーヌ……ミリエル司教の妹。
マグロワール……ミリエル司教の召使。
プティ・ジェルヴェ……サヴォワ出の煙突掃除をして歩く少年。放免後まもないジャン・ヴァルジャンに金を盗まれる。
ファンティーヌ……コゼットの母。パリで男にすてられ、郷里で女工、ついで売笑婦となり病死。
コゼット……ファンティーヌの娘。私生児。田舎にあずけられ虐待される。のちジャン・ヴァルジャンに救われる。
テナルディエ夫妻……飲食店の経営者。コゼットをあずかり虐待する。のちにパリにでて悪事をたくらむ。
エポニーヌ、アゼルマ……テナルディエの娘。
ガヴローシュ……テナルディエの息子。
ジャヴェル……徒刑囚ジャン・ヴァルジャンを追求する廉潔で無慈悲な警視。
フォーシュルヴァン……ジャン・ヴァルジャンに命を救われ、のちパリの修道院の庭番となり、ジャン・ヴァルジャンをかくまう。
マリユス・ポンメルシー……コゼットの恋人。共和主義者の暴動に参加し、ジャン・ヴァルジャンに救われてコゼットと結婚。
ジョルジュ・ポンメルシー……陸軍大佐。ワーテルローの戦場でテナルディエに救いだされる。マリユスの父。
ジルノルマン(リュック・エスプリ)……ブルジョワの老人。頑固な王党派。マリユスの祖父。
アンジョーラ、コンブフェール、クールフェーラック、プルーヴェール
……以上の四人は政治秘密結社ABC友の会のメンバー。反乱を起し、防塞にたてこもって国民軍に抵抗する。
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第三部 マリユス
第一章 パリの微粒子
さて、前述の事件から八、九年たった頃のことであるが、タンプル大通りやシャトー・ドォーの方面で、十一、二才の一人の少年が人の眼をひいていた。その少年は唇には年頃にふさわしい笑いをうかべていたが、それと同時にひどく暗い空虚な心をもっていた。もしそういう心さえなかったなら、彼は浮浪少年の理想的タイプをかなり完全にそなえていたといっていい。 大人《おとな》のズボンを変なふうにはき、女用の上衣を着ていた。しかし、ズボンも上衣も父親や母親のお古をもらったものではなかった。誰かが可哀そうに思って着せてやったものらしい。といっても、彼には両親はあった。ただ、父親は彼のことなど全然気にもとめず、母親のほうは彼をすこしも愛していなかった。彼はあらゆる子供のうちでも最も可哀そうな子供の一人だった。父と母とをもちながら、しかも孤児でもあるあの子供の一人だった。
この少年は、往来にいるときが一番楽しかった。街路の石畳も彼にとっては、母の心ほどにつめたくはなかった。
彼は、そうぞうしい、顔色の蒼《あお》い、すばしこい、敏感な、いたずら者で、がんばり屋で、しかも病身らしい様子をしていた。街のなかをいったりきたりしながら歌をうたい、銭《ぜに》投げをし、|どぶ《ヽヽ》の中をあさり、少しばかり盗みもした。だが、猫や雀《すずめ》のように快活に盗みをやり、悪戯者《いたずらもの》といわれれば笑い、悪党といわれれば腹をたてた。住いも、パンも、火も、誰からの愛情ももたなかった。しかし彼は自由だったのでいつもほがらかだった。
この少年は時とすると三カ月に一度ぐらいは「どれ、ひとつおっかあにでも会ってこよう!」というと、彼はもう、その大通りも曲馬場もサン・マルタン凱旋《がいせん》門もあとにして、橋をわたり、サルペートリエール救済院のほとりにゆき、それからどこへゆくのか。それはすでに読者もご存知の五十・五十二番地という二重番地の家、ゴルボー屋敷へである。
その五十・五十二番地の破屋《あばらや》には、その頃めずらしくも大勢《おおぜい》の人が住んでいた。もとよりパリのことだから、大勢の人といってもたがいになんの縁故も関係もなかった。みんなひどく貧乏な人たちばかりだった。
ジャン・ヴァルジャンのいたころの「借家主」の婆さんはもう死んでいて、あとにはそれとちょうど同じような婆さんがきていた。その破屋《あばらや》に住んでいた人々のうちで、いちばんみじめだったのは四人づれのある一家族だった。父と母と、もうかなり大きくなった二人の娘とで、前に一度話したことのある、あの屋根裏部屋のひとつに、四人いっしょに住んでいた。
その家族は、ひどく貧乏だったというほかには、見たところべつに変った点もないようだった。父親は部屋をかりる時、ジョンドレットという名前だといった。引っ越して来てから、といっても、借家主の婆さんのうまいいい方をかりれば、それはまったく「身体だけの引越し」にすぎなかったが、その後しばらくしてジョンドレットは、借家主の婆さんにつぎのようにいったことがある。「婆さん、もし誰かひょっとやってきて、ポーランド人とか、イタリア人とか、またスペイン人とかをたずねる者があったら、それはわたしのことだと思っててください」
ところで、その貧乏な家族というのが、つまりあの愉快な|はだし《ヽヽヽ》の少年の家族だったのである。少年はそこへやってきても、目にするものはただ貧乏と悲惨とだけで、それになお悲しいことには、家族の誰からも笑顔ひとつみられなかった。|かまど《ヽヽヽ》も冷《ひ》えておれば、人の心も冷えている。彼がはいってゆくと、家の者はきいた。「どこからきたんだい」彼は答えた。「おもてからさ」また彼が出てゆこうとすると、家のものはきいた。「どこへゆくんだい」彼は答えた。「おもてへさ」母親はいつもいった。「なにしに帰ってきたんだい」
その少年は、穴ぐらのなかに生えた青白い草のように、まったく愛情のないなかに生きていた。けれども彼はそれを少しも苦にせず、また誰をもうらまなかった。彼はいったい両親というものは、どうあるべきものかということすら、よくは知らなかった。
それでも母親は彼の姉たちだけはかわいがっていた。
ところで、なお、いうのを忘れていたが、タンプル大通りではこの少年を小僧ガヴローシュといっていた。なぜガヴローシュとよばれたかというと、おそらくその父親がジョンドレットというからだろう。
ジョンドレット一家が住んでいたゴルボー屋敷の部屋は、廊下のはしの一番奥にあった。そしてそのとなりの部屋には、マリユス君というごく貧しいひとりの青年が住んでいた。
このマリユス君がなんびとであるかは、つぎに説明しよう。
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第二章 祖父と孫
一
ブーシュラー街やノルマンディー街やサントンジュ街などには、ジルノルマンという爺《じい》さんのことをおぼえている人たちが、今なおいくらか残っている。
ジルノルマン氏は一八三一年には九十才をこえていたが、腰もまがらず、声も大きく眼もたしかで、酒もつよく、よく食いよく眠り、鼾《いびき》までかいた。歯は三十二枚そろっていた。ものを読むときだけしか眼鏡《めがね》をかけなかった。女も好きだったが、もう十年この方、全然女に接しないと自分ではいっていた。「もう女の気にいらない」といっていた。しかしそれは「あまり年とったから」とは決していわず、「あまり貧乏だから」といっていた。そしてよくいった。「わしがもし尾羽《おは》うち枯らしていなかったら……ヘヘヘ」実際彼にはもう一万五千フランばかりの収入しかのこっていなかった。
彼はマレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街六番地に住んでいた。
彼は二度妻をもった。第一の妻に一人の娘があって、結婚しないでいた。第二の妻にも一人の娘があった。このほうは三十才ばかりで死んだが、その前に一兵卒からなりあがりの軍人と、愛しあったのか偶然できあったのか、ともかく結婚していた。その軍人は、共和制および帝制のころに軍隊にはいって、アウステルリッツの戦いで勲章をもらい、ワーテルローでは大佐になっていた。ところが、老市民をきどるジルノルマン氏は、この大佐のことを「私の家の恥だ」といっていた。
以前は、ジルノルマン氏も、いくつかのごく立派な上流の客間《サロン》に出入りしていたことがあったが、そんな時、彼はいつも自分の娘と小さな少年とをつれていってた。娘というのはあの老嬢で、当時四十才をこしていたが、みたところは五十才ぐらいにさえみえた。少年のほうは七才の美しい子で、色が白く血色がよく生き生きとしてて、幸福そうな眼つきをしていた。だが彼が客間にあらわれると、いつもまわりでいろいろなことをいわれた。「きれいな子だ」「おしいものだ!」「かわいそうに!」この子供が孫のマリユスだった。みんなが彼のことを「かわいそうに!」といったのは、彼の父が、祖父のジルノルマン氏にとって「ロワールの無頼漢《ぶらいかん》」〔ナポレオン旗下の軍人〕のひとりだったからである。そのロワールの無頼漢とは、すでにのべておいたジルノルマン氏の婿《むこ》で、彼が「家の恥」とよんでいた人である。
なお、その頃、ヴェルノンの小さな町にはいって、やがておそろしい鉄骨の橋となってしまう運命にあったあの美しい記念の橋の上を歩いたことのある人は、橋の欄干《らんかん》ごしにひとりの男の姿をいつも見うけたことだろう。その男というのは五十才ばかりの老人で、鞣皮《なめしがわ》の帽子をかぶり、灰色のそまつな羅紗《らしゃ》のズボンと背広とを着ていたが、その背広には赤いリボンの古く黄色くなってるのがぬいつけてあった。木靴をはき、日にやけたくろい顔には、まっ白な髪の毛をして、額《ひたい》から頬《ほお》へかけて大きな傷跡があり、腰も背もまがり、年よりはずっとふけてみえ、手には鋤《すき》か鎌《かま》かをもち、たいてい一日じゅうそこの地面のひとつをぶらついていた。それらの地面はみな壁にかこまれ、橋の近くのセーヌ河の左岸に帯のようにつづいてて、美しい花がいっぱいに咲き乱れてて、もうすこし広かったら園、もうすこし狭かったら草むらといっていいようなところだった。それらの土地はどれもみな、一方に河をひかえ、他方にひとつの人家をもっていた。そしてその背広と木靴の男は一八一七年頃には、それらの地面のうちの最もせまく、それらの家のうちの最も粗末なものに住んでいた。
彼はそこにひとりで淋しく、黙々としてくらしていた。そして若くもなく老年でもなく、美しくも醜《みにく》くもなく、田舎者でも町人でもないひとりの女が、彼の用をたしていた。彼が自分の庭といっていたその四角な土地は、彼の手で育てられる美しい花によって、町でも評判になっていた。花をつくるのが彼の仕事だった。これがつまり前にいった「ロワールの無頼漢」で、ジョルジュ・ポンメルシー大佐だった。
ポンメルシーはワーテルローで、デュボァ旅団中の胸甲騎兵中隊の指揮官だった。ルネブールグ隊の軍旗を奪ったのは彼であった。彼はその軍旗を持ちかえり、皇帝の足下にささげた。彼は血にまみれていた。軍旗をうばうとき、剣の一撃を顔にうけたのである。皇帝は満足していった。「汝は今より大佐であり、男爵であり、レジォン・ドヌール勲章のオフィシェ受賞者だぞ」ポンメルシーは答えた。「陛下、やがて寡婦たるべき妻のためにお礼を申しまする」一時間後に彼はオーアンの峡路におちいった。その後、彼はオーアンの凹路からひき出され、首尾よく味方の軍隊に合することができ、野戦病院から野戦病院へ運びまわされ、ついにロワールの舎営地におちついたのだった。
年に二度、一月一日と聖ジョルジュ記念日とに、マリユスは義務として手紙を父にかいた。それは伯母《おば》が口授したもので形式的な文句の書きうつしともいえるようなものだった。ジルノルマン氏が彼の父のことで、許したことはただそれだけだった。すると父親はきわめて心をこめた返事をよこした。祖父はそれを受けとって、読みもしないでポケットにおしこんだ。
二
一八二七年に、マリユスは十七才になった。ある晩そとから帰ってくると、祖父は手に一通の手紙をもっていた。
「マリユス」とジルノルマン氏はいった。「お前は明日ヴェルノンヘゆくんだ」
「どうしてですか」とマリユスはたずねた。
「父に会いにだ」
マリユスはぞっとした。自分の身におこりそうなことは、どんなことでも、一応は覚悟してたつもりだが、彼にとってこれほど意外なことは、これほどおどろくべきことは、そしてまたあえていうがこれほど不愉快なことはなかった。それは遠ざかろうとするものに強いて近づけられることだった。それはひとつの苦痛にとどまらず、ひとつの苦役でもあった。
マリユスは政治的反感の理由のほかになお、いくらか気がやわらいだときにジルノルマン氏が呼んだように猪武者《いのししむしゃ》である父は、自分を愛していないと思いこんでいた。父が彼を今のようにみすてて他人の手にまかしておくのをみても、そのことは明らかだった。自分が愛せられていないと感じて、彼もまた父を愛しはしなかった。これほどわかりきったことはないと彼は思った。
彼は全くぼうぜんとして、ジルノルマン氏にわけをきくこともしかねた。祖父はまたいった。
「病気らしいのだ。お前に会いたいといっている」
そしてちょっと口をつぐんだ後に、彼はいい加えた。
「明日の朝でかけなさい。フォンテーヌの家に、六時にたって夕方むこうに着く馬車があるはずだ。それに乗るがいい。至急だということだから」
それから彼は手紙をもみくちゃにして、ポケットにおしこんだ。実はマリユスは、その晩にたって翌朝は父のそばにゆけたのである。ブーロア街の駅馬車が、当時夜中にルーアン通いをやってて、ヴェルノンを通ることになっていた。しかしジルノルマン氏もマリユスも、それをききあわせてみようとしなかった。
翌日くれ方、マリユスはヴェルノンに着いた。もう灯火のつきはじめる頃だった。彼は出会いがしらの男に、「ポンメルシーさんの家」をたずねた。なぜなら、彼は内心復古政府と同意見をもっていて、やはり父を男爵とも大佐ともみとめていなかった。
彼は父の住居を教えられた。呼鈴をならすと、一人の女が手に小さなランプをもってでてきて、戸をあけてくれた。
「ポンメルシーさんは?」とマリユスはいった。
女はじっとつっ立ったままだった。
「ここがそうですか」とマリユスはきいた。
女はうなずいた。
「お目にかかれましょうか」
女は頭をふった。
「でもわたしは彼の息子なんですが」とマリユスはいった。「父はわたしを待ってるはずですが」
「もう待ってはおられません」と女はいった。
そのとき彼は、女が泣いているのに気がついた。
彼女はすぐ入口の部屋の扉を彼にゆびさした。彼ははいっていった。
部屋のなかは、煖炉《だんろ》の上に置かれてる一本のろうそくの光りにてらされ、そこには三人の男がいた。ひとりは立っており、ひとりはひざまずいており、ひとりはシャツだけで床《ゆか》の上にながながと横たわっていた。その横たわってるのが大佐だった。
他の二人は医者と牧師とで、牧師はお祈りをしていた。
大佐は三日前から脳膜炎にかかっていた。病気のはじめから彼はある不吉な予感がして、ジルノルマン氏へ息子をよこしてくれるように手紙を書いた。はたして病気は重くなった。マリユスがヴェルノンヘ着いたその夕方、大佐には錯乱《さくらん》の発作《ほっさ》がおそってきた。彼は女中がひきとめるのもかまわず、おきあがって叫んだ。「息子はこない! わたしのほうから会いにゆくんだ」それから彼は部屋をとび出して、控え室の床《ゆか》の上に倒れてしまった。そしてそれきり息がたえたのである。
医者と牧師とがよばれた。医者は間にあわなかった。牧師も間にあわなかった。息子のくるのもまたあまりにおそかった。
ろうそくのうす暗い光りで、そこに横たわってる蒼《あお》ざめた大佐の頬《ほお》の上に、もはや生命のない眼から流れ出た一粒の大きな涙がみえていた。眼の光りはなくなっていたが、涙はまだかわいていなかった。その涙は息子がおくれたために流された涙だった。マリユスははじめて会い、そしてそれが最後であったその男をじっと見つめた。気高い雄々しいその顔、もはやものの見えないその開いた眼、白い髪、そして頑丈《がんじょう》な手足、手や足の上には、剣の傷跡の黒い筋と弾丸の穴である赤い点とが見えていた。彼はいま、神が死によって仁慈をきざんだその顔の上に、勇武をきざみつけてる大きなその傷跡をながめた。そして彼は、その男が自分の父であり、しかももはや死んでいることを考え、慄然《りつぜん》として立ちつくした。
しかし、彼が感じた悲哀は、およそ誰でもが人の死をすぐそばに見るときに感じる、|ごく《ヽヽ》ありふれた悲哀だった。下女は部屋のかたすみでなげき悲しみ、司祭は祈祷をつづけながら嗚咽《おえつ》の声をもらし、医者は涙をふいていた。死骸自身も泣いていた。
医者と牧師と女とは、ふかい悲しみのうちに、だまってマリユスをみつめていた。しかしマリユスはすこしも心を動かされていなかった。そしてそうした自分の態度をきまりわるく感じ、困ってしまった。彼は手に帽子をもっていたが、悲しみのあまり手に力がなくなったようにみせかけるために、わざと下にとりおとした。と同時に、彼は一種の後悔の念にかられ、みずからその行いをいやしんだ。しかしそれは彼がわるいのだったろうか。いかにせん、彼は父を愛していなかったではないか!
大佐の遺産はなにもなかった。家具を売り払っても葬式の費用にたるかたらずだった。下女は一片の紙を見つけて、それをマリユスにわたした。それには大佐の手でつぎのことが認《したた》めてあった。
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|予が子のために《ヽヽヽヽヽヽ》――皇帝はワーテルローの戦場にて予を男爵に叙しぬ。復古政府は、血をもって贖《あがな》いたるこの爵位を予に否認すれども、予が子はこれをとり、これを用うべし。もとより予が子はそれに価するなるべし。
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その裏に大佐はまた書きそえていた。
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なお、このワーテルローの戦争にて、一人の軍曹、予の生命を救いくれたり。その名をテナルディエという。最近彼はパリ近くの小村、シェルもしくはモンフェルメイユにて、小旅亭をいとなめるはずなり。もし予が子にしてテナルディエに出会わば、およぶかぎりの好意を彼に表すべし。
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父に対する敬虔《けいけん》の念からではなかったが、人の心に強い力をおよぼす死に対する漠然《ばくぜん》たる敬意から、マリユスはその紙片をうけとって、大事にしまった。
持物もなにも残っていなかった。ジルノルマン氏はその剣と軍服とを古物商に売りはらわせた。近所の人々はその庭をあらして、めずらしい花は、とっていってしまった。その他の花は枯れてしまった。
マリユスはヴェルノンに四十八時間しかとどまっていなかった。葬式ののち彼はパリに帰って、また法律の勉強にかかり、もはや父のことは、今まで世にいなかった者のように思い出しもしなかった。二日にして大佐は地に埋められ、三日にしてその子供からも忘れられてしまったのである。
マリユスは帽子に喪章《もしょう》をつけた。ただそれだけのことだった。
三
マリユスは子供のときからの宗教上の習慣を忠実にまもっていた。ある日曜日、彼はサン・シュルピス会堂にゆき、小さいときいつも伯母《おば》につれてこられたヴィエルジュ礼拝《らいはい》堂でミサをきいた。その日彼はいつもより、ぼんやりしてなにか考えこんでいて、一本の柱の後ろの「礼拝理事」と背に書いてある天鵞絨《ビロード》をはった椅子《いす》に腰をかけ、自分でもそれに気がつかないでいた。ミサがはじまったかとおもうと、一人の老人がやってきて、マリユスにいった。
「あなた、ここはわたくしの席です」
マリユスはいそいで席をたった。
ミサがすんでからも、マリユスは考えこみながら、四、五歩はなれたところでじっとしていた。老人はまた彼のところに近づいて来ていった。
「先刻はおじゃましてすみませんでした。きっとうるさい奴とお考えでしょうが、そのわけを申しますから」
「いえ、それには及びません」とマリユスはいった。
「ですが、わたくしをわるく思われるといけませんから」と老人はいった。「わたくしはあの席がすきなんです。おなじミサでもあすこできくと、一番よく思われます。なぜかって、それは今申します。あの席から、わたくしは長年の間、きまって二、三カ月に一度、ひとりの立派な気の毒な父親がやってくるのを見ていたのです。その人は自分の子供を見るのに、それ以外には機会も方法もありませんでした。家庭の都合上、子供に会うことができなかったのです。で、いつも子供がミサにつれてこられる時間をはかって、その人はやってきました。子供のほうは、父親がそこにいることは夢にも知りませんでした。おそらく父親があることさえも知らなかったでしょう。罪のないものです。父親は人にみられないようにあの柱のうしろに隠れていました。そして子供をみては涙を流していました。その子供を大変愛していたのです。かわいそうな人です。わたくしはその有様をみたのです。そしてあの場所は、わたくしにとっては聖《きよ》い場所となりまして、いつもそこで、ミサをきくことになったのです。わたくしは理事として当然すわることのできる理事席よりも、あの席のほうが好ましいのです。またわたくしは多少その不幸な人の身分を知っています。舅《しゅうと》と金持ちの伯母《おば》と、それから親戚もあったのでしょうが、とにかくその人たちは、父親が子供に会うなら子供に相続権を与えないと嚇《おど》かしていたのです。で、その人は、子供が他日金持ちになり仕合《しあわせ》になるように、自分を犠牲にしていました。政治上の意見から遠ざけられたのです。なるほど政治上の意見もけっこうですが、世には意見を意見だけにとめない人がいます。まあ、ワーテルローの戦いに加わったからといって、それが悪魔だとはいえますまい。そういう理由で父と子供とを引きはなしてしまうなんて。その人はボナパルトの軍隊の大佐でした。もう死んだと思います。司祭をしてるわたくしの兄とおなじくヴェルノンに住んでいました。なんでも、ポンマリーとかモンペルシーとか……いっていました。たしか剣できられた大きな傷跡がありました」
「ポンメルシーではありませんか」とマリユスは顔の色をかえていった。
「ええ、そうです、ポンメルシーです。あなたもその人を知っていましたか」
「ええ」とマリユスはいった。「それはわたくしの父です」
老理事は両手をくんだまま大声でいった。
「え! あなたがその子供! なるほど、そうです、今ではもう大きくなっていられるはずです。まあどうでしょう、あなたをとても愛していられたお父さんがいられたのですよ」
マリユスは老人に腕をかして、その宅までおくっていった。そして翌日、彼はジルノルマン氏にいった。
「友人と狩猟《かり》の約束をしましたから、三日間ばかり出かけたいんですが」
「四日でもよい」と祖父は答えた。「遊んでおいで」
そして彼は眼をまばたきながらひくい声で娘にいった。
「なにか女のことだな」
マリユスはどこへいったか。ヴェルノンの父の墓へ詣《もう》でたのである。
三日間の不在ののち、彼はパリに帰ってきて、すぐに法律学校の図書館にゆき、機関紙《ヽヽヽ》のつづりこみをかりだした。
彼はその機関紙をよみ、共和および帝政時代のあらゆる歴史、「セント・ヘレナ追想記」、あらゆる記録、新聞、報告書、宣言などを片っぱしからむさぼり読んだ。大陸軍の報告書のなかにはじめて父の名を見いだしたときは、彼は一週間も興奮した。彼はまた、ジョルジュ・ポンメルシーが仕えていた将軍たちのうちで、とくにH伯爵をたずねた。彼が二度ばかりたずねていったマブーフ理事は、ヴェルノンでの父の生活の有様をきかしてくれた。そしてとうとうマリユスは崇高でおだやかな人物で、世にもまれなその男のことを、自分の父であった、その獅子羊《ししひつじ》ともいうべきその人のことをじゅうぶんに知ることができたのだった。
マリユスはこうしたことを調べてる間、ほとんどジルノルマン一家の人々と顔をあわせることがなくなった。食事の時には姿をみせたが、あとでさがすともういなかった。伯母《おば》は不平をもらした。ジルノルマン氏は微笑していった。「なあに、娘のあとをおう年頃だ」それからしばらくすると彼はまたつけ加えた。「いやはや、ちょっとした艶事《つやごと》と思ってたが、どうも本気の沙汰《さた》らしいぞ」
いかにもそれは本気の沙汰だった。
マリユスは父を崇拝しはじめていたのだった。
彼はある時、父がのこした|いいつけ《ヽヽヽヽ》を守らんために、モンフェルメイユにいって、昔のワーテルローの軍曹である旅亭主テナルディエをさがした。しかしテナルディエは破産して、宿屋はしめられ、どうなったか知ってる者はいなかった。その探索のためにマリユスは四日も家をあけた。
「これはいよいよ気狂い沙汰だな」と祖父はいった。
四
ある時、マリユスはヴェルノンの墓まいりから帰ってきて、祖父の家についた。そして駅馬車のなかで二晩すごしたためにすっかり疲れて、水泳場に一時間ばかりいって不眠をとりかえしたくなったので、いそいで自分の部屋にあがっていき、旅行用のフロックと首にかけていた黒い紐《ひも》とをぬぐが早いか、すぐに水泳場に出かけていった。
ジルノルマン氏は健康な老人の例にもれず、朝早くから起きてて、マリユスが帰ってきた音をきいた。それで老年の足のおよぶかぎりの早さで、マリユスの部屋のある|うえ《ヽヽ》の階段をのぼっていった。そしてマリユスを抱擁し、抱擁のうちにいろいろききただし、どこから帰ってきたのか、ちょっとさぐってみようと思った。
だが八十才以上の老人が階段を|あくせく《ヽヽヽヽ》あがってくる足より、青年がおりてゆく時間のほうが早かった。ジルノルマン老人が屋根部屋にはいって来たときには、マリユスはもうそこにいなかった。
寝床はそのままになっており、その上にはフロックとなにか黒い紐《ひも》がついてるものが放りだしてあった。
「このほうがよい」とジルノルマン氏はいった。
そしてまもなく彼は客間にはいってきた。そこにはすでに姉のジルノルマン嬢が席についてて、例の車輪の刺繍《ししゅう》をしていた。
ジルノルマン氏は得意げにはいってきた。
彼は片手にマリユスのフロックをもち、片手に黒い紐のついた小さな箱をもっていた。そして叫んだ。
「うまくいった。これで秘密がさぐれる。とことんまで嗅《か》ぎだしてやるぞ。悪戯者《いたずらもの》の放蕩も、これでとりしまることができるというわけだ。種本《たねほん》を手にいれたようなものだな。写真もあるし」
実際メダルに似た黒い粒革《つぶかわ》の小箱が、黒い紐のリボンの先にぶらさがっていた。
老人はその小箱を手にとって、しばらく開きもしないでじっとながめた。まるで食にうえた乞食が、自分のでない立派なご馳走が、鼻のさきにぶらさがってるのをながめるような、欲望と憤怒《ふんぬ》とのまじった顔つきだった。
「これはたしかに写真だ。じつに馬鹿げた連中だ。近ごろの若い者はまったく趣味が堕落してるからね」
「まあ、見てみようじゃありませんか、お父さん」と老嬢はいった。
|ばね《ヽヽ》をおすと小箱はひらいた。中にはただ、ていねいにたたんだ一片の紙きれがはいってるだけだった。
ジルノルマン氏は笑い出した。
「なるほど、こいつは艶文《いろぶみ》だな」
「さあ、読んでみましょう」と伯母はいった。
そして彼女は眼鏡をかけた。二人はその紙きれをひらいて、つぎのようなことをよんだ。
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|予が子のために《ヽヽヽヽヽヽヽ》――皇帝はワーテルローの戦場にて予を男爵に叙しぬ。復古政府は、血をもって贖《あがな》いたるこの爵位を予に否認すれども、予が子はこれをとり、これを用うべし。もとより予が子はそれに価するなるべし。
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そのとき父と娘とがうけた感情は、とても言葉にはいいつくせないものだった。彼らは死人の頭からたちのぼる毒気に、まるで凍《こお》らされたような思いがした。二人はだまったまま、ひとことも言葉をかわさなかった。しばらくしてやっとジルノルマン氏が、自分自身に話しかけるような低い声でいった。
「あのサーベル奴《め》の字だ」
伯母は紙きれをしらべ、いろいろ引っくり返してみたりしたあげく、小箱のなかにしまった。同時に青い紙にくるんだ長方形の包みが、フロックのポケットからおちた。ジルノルマン嬢はそれをひろいあげて、青い紙をあけてみた。それはマリユスの名刺だった。彼女はその一枚をジルノルマン氏にさし出した。彼はよんだ。「男爵マリユス・ポンメルシー」
老人は呼鈴をならした。ニコレットがやってきた。ジルノルマン氏は、黒いリボンと小箱とフロックとを手にとり、それらを部屋のまん中の床《ゆか》にたたきつけた。そしていった。
「そのぼろ屑をもってってくれ」
一時間ばかりの間は全く深い沈黙のうちにすぎた。老人と老嬢とは、たがいに背中合わせにすわりこみ、それぞれ、いや、たぶんおなじことを考えていた。さいごにジルノルマン伯母がいった。
「立派なもんだわ……」
まもなくマリユスが帰ってきた。そして部屋の敷居をまたがないうちに、祖父が自分の名刺を一枚手に持ってるのを見た。祖父は彼の姿を見るや、手厳《てきび》しい市民的な、冷笑的な、高飛車《たかぴしゃ》な態度で大声でいった。
「これ、これ、これ、お前は今は男爵のご身分だな。お祝いをいってあげよう。いったいなんというざまだ?」
マリユスはいささか顔を赤らめて答えた。
「わたしは父の子だというわけです」
ジルノルマン氏は冷笑をやめて、きびしくいった。
「お前の父はわたしだ」
「わたしの父は」とマリユスは眼をふせ、きびしい顔つきをしていった。「謙遜《けんそん》な、勇壮な人でした。共和とフランスとに立派につかえました。人間がつくった最も偉大な歴史のなかの偉人でした。二十五年あまりの間、露営のうちにくらしました。昼は砲弾と銃火のもとに、夜は雪のなかに、泥にまみれ、雨にうたれてくらしました。軍旗を二つうばいました。二十余の傷をうけました。そして忘れられ、捨てられて死にました。しかもそのあやまちといってはただ、自分の国とわたしと、二人の忘恩者を、あまりに愛しすぎたということばかりでした」
ジルノルマン老人は、このマリユスの言葉をきくと、激怒のあまり、まっ赤になり、さらにまっ赤から深紅になり、深紅の色はまさに焔《ほのお》の色と変じた。
「マリユス!」と彼は叫んだ。「言語道断《ごんごどうだん》な奴だ! お前の親父《おやじ》がどんな男だったか、そんなことわしはしらん。しろうとも思わん。いっさい知らん。顔もしらん。ただわしがしってるのは、奴らがみな悪党だったことだけだ。人非人《にんぴにん》、人殺し、赤帽子、盗人だけだったことだ。みんなそうだ。ロベスピエールに仕えた奴らはみんな山賊だ。ブ……オ……ナ……パルテに仕えた奴らはみんな無頼漢《ぶらいかん》だ。奴らは、正当な国王にそむいた、奴らはみんな謀反人《むほんにん》だ。ワーテルローでプロシャ人とイギリス人との前から逃げ出した奴らは、みんな卑怯者だ。わしがしってるのはそれだけのことだ。お前の親父さんもそのなかにいたかどうか、わしはしらん。まことにご愁傷《しゅうしょう》さまというわけだ」
こんどはマリユスが炭火で、ジルノルマン氏が|ふいご《ヽヽヽ》となった。父が、その子の目の前でふみつけられ、ふみにじられたのだ。しかも誰によってであるか。祖父によってではないか。一方をはずかしめないで、一方を復讐することがどうしてできよう。祖父をはずかしむることはできない、といって父の讐《あだ》を報いないですておくこともなおさらできない。一方には神聖なる墳墓があり、他方には白髪がある。彼はまるで酔ったようによろめき、頭のなかには旋風がうずまいた。やがて彼は眼をあげ、祖父をじっとにらみつけ、そして雷のような声で叫んだ。
「ブルボン家なんかぶっ倒れるがいい、ルイ十八世の大豚めも!」
ルイ十八世はもう四年前に死んでいた。しかしそんなことは彼にはどうでもよかった。
老人の顔はまっ赤になっていたが、突然髪の毛よりもなお白くなった。彼は煖炉のうえにあったベリー公の胸像のほうをむいて、荘重な態度でうやうやしくお辞儀をした。それから黙ったまま、しずかに煖炉から窓へ、窓から煖炉へと、二度ばかり部屋のなかをよこぎり、石の像が歩いてるように床《ゆか》をぎしぎしさせた。三度目のとき、彼は年とった羊のようにぼうぜんとして、二人の衝突をながめていた娘のほうへ身をかがめて、しずかなほほ笑《え》みを顔にうかべながらいった。
「この人のような男爵と、わしのような市民とは、とてもおなじ屋根の下にいることはできない」
そして急に身を起し、まっ蒼《さお》になり、憤怒の輝きに額《ひたい》をいちだんと大きくして、マリユスのほうに腕をつき出して叫んだ。
「出てゆけ!」
マリユスは家を去った。
翌日、ジルノルマン氏は娘にいった。
「あの吸血児のところへ六カ月ごとに六十ピアストルだけ送って、もうけっしてあいつのことをわしのまえで口にしないでくれ」
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第三章 ABCの友
一
ところで一方、よそ目には静穏《せいおん》にみえていたこの時代の社会には、流血革命におびえる恐怖の戦慄が漠然《ばくぜん》とした雰囲気のうちに漂っていたのである。
当時フランスには、ドイツのツーゲントブントやイタリアのカルボナリのような、ひろい下層の秘密結社組織はまだ存在していなかったが、しかし、秘密の開拓があちらこちらで行われ、枝をひろげつつあったのである。エークスでは、クーグールド結社ができかかっていたし、またパリにもこの種の同盟が多く発生していたが、そのなかに|ABC《アー・ベー・セー》の友という結社があった。
|ABC《アー・ベー・セー》の友とはなんであったか? それは、よそ目には子供の教育を目的としていたものであったが、ほんとうは人間性の復活を政治的な目的としていたものであった。
彼らは自分たちをABCの友と宣言していた。|ABC《アー・ベー・セー》とは |Abaisse《アベッセ》(抑圧されたるものという意)をもじったもので、民衆を意味するものだった。彼らは民衆の生活をひきあげようとつとめていたのである。
ABCの友の大部分は何人かの労働者たちとしたしく意志を通じあってる学生たちであった。おもな連中の名をあげれば、アンジョーラ、コンブフェール、ジャン・ブルーヴェール、フイイー、クールフェーラック、バオレル、レグルまたはレーグル、ジョリー、グランテールなどであった。
ある日の午後、この仲間の一人のレーグル・ド・モーが、ミュザン珈琲《コーヒー》店の店先によりかかりながら、ぼんやりサンミッシェル広場をながめていた。彼は、おととい法律学校で、ちょっとした失敗から、わが身にふりかかってきた災難のことを考えていたのだった。しかし彼はちっとも心配そうな様子はしてなかった。彼はそのために今まで抱いていた未来の計画を、すっかり変更しなければならなくなったのである。もっともそれは、あまりはっきりしたものではなかったが……
こっちはぼんやりしてても、馬車のほうはかってに広場を通りすぎる。しかもぼんやりしててもその馬車の姿は、この夢想家の眼にだってうつることはうつるのである。レーグル・ド・モーは夢うつつのうちに、一台の二輪馬車が広場にさしかかってくるのを見ていた。馬車はなみあしで、あてもなさそうに走っていた。馬車のなかには馭者《ぎょしゃ》ととなり合せに一人の青年がのっていた。青年の前にはかなり大きな旅行カバンが置いてあった。カバンにぬいつけられた厚紙には、大きな文字で名前がかかれていた。「マリユス・ポンメルシー」
この名前を見つけて、レーグルの様子が急にかわってきた。彼はぐっと身体をたてなおすと、馬車のなかの青年によびかけた。
「マリユス・ポンメルシー君……」
よびかけられた馬車はその場にとまった。
馬車のなかの青年もやはり、なにか考えこんでるようだったが、眼をあげた。
「ええ?」と彼はいった。
「きみはマリユス・ポンメルシー君だろう」
「もちろん」
「ぼくはきみをさがしてたんだ」とレーグル・ド・モーはいった。
「どうして?」とマリユスはたずねた。彼はちょうど祖父の家をとび出してきたばかりのところだったのである。そしていま眼のまえにたってるのは、いままで見たこともない男の顔だった。
「ぼくはきみをしらないが」
「ぼくだってその通り。ぼくはきみを少しもしらない」とレーグルは答えた。
マリユスは道化者にでもつかまって、往来のまん中で|まやかし《ヽヽヽヽ》でもはじめられるのではないかと思った。それに彼はそのとき、あまり機嫌《きげん》のいいほうではなかった。彼は眉をひそめた。しかし、レーグル・ド・モーはいかにも落ちつきはらった調子でいいつづけた。
「きみはおととい学校へこなかったね」
「そうかもしれない」
「いやたしかにそうだ」
「きみは学生なのか」とマリユスはきいた。
「そうだ、きみとおなじだ。おととい、ふと思い出してぼくは学校へいってみた。ねえきみ、時々そんな考えだっておこるものさ。教師がちょうど点呼をやっていた。きみも知らないことはないだろうが、そういうとき、奴らはじっさい滑稽《こっけい》なことをするね。三度名をよんで答えがないと、名前がけされてしまうんだ。すると六十フランとんでいってしまうのさ」
マリユスは耳をかたむけはじめた。レーグルはいいつづけた。
「出席をつけたのはブロンドーだった。きみはブロンドーをしってるかね、ひどく尖《とが》ったずいぶん意地悪そうな鼻をしてる奴さ。欠席者をかぎだすのを喜びとしてる奴さ。あいつ、狡猾《こうかつ》に|ホ《ヽ》という文字からはじめやがった。ぼくはきいてなかった、そういう文字ではぼくはすこしも損害をうけるわけがないんだからね。点呼はうまくいった。けされる者はひとりもなかった、みん出席だったんだ、ブロンドーの奴、悲観してたね。ぼくはひそかにいってやった。ブロンドー先生、きょうはちっともいじめる|たね《ヽヽ》がありませんねって。すると突然ブロンドーは、マリユス・ポンメルシーとよんだ。誰も答えなかった。ブロンドーの奴、すっかりいい気になって、いっそう大きな声でくりかえした。マリユス・ポンメルシー。そして彼はペンをとりあげた。きみ、ぼくには腸《はらわた》があるんだからね。ぼくはいそいで考えたんだ。これは豪《えら》い奴だぞ。名をけされようとしている。まてよ。ずぼらな面白い奴にちがいない。善良な学生ではないな。床《とこ》の間の置物みたいな奴ではないな。勉強家ではないな。科学や文学や神学や哲学を自慢するくちばしの黄色い衒学者《げんがくしゃ》ではないな。くだらぬことにおめかししてる愚物《ぐぶつ》ではないな。尊敬すべき怠け者にちがいない。そこらをうろついてるか、転地と洒落《しゃれ》こんでるか、浮気女工とふざけてるか、美人をつけまわしてるか、あるいは今じぶん、俺の女のところへでも入りびたってるかもしれないぞ。よし助けてやれ、ひとつブロンドーの奴をやっつけてやれ! その時ブロンドーは抹殺の黒ペンをインキにひたして、茶色の目玉で聴講者を見まわして、三度目にくりかえした。マリユス・ポンメルシー! ぼくは答えた、はい! それできみは|けし《ヽヽ》をくわなかったんだ」
「きみ……」とマリユスはいった。
「そしてそれで、ぼくのほうが|けし《ヽヽ》をくっちゃった」とレーグル・ド・モーはつけくわえた。
「きみのいうことはわからないな」とマリユスはいった。
レーグルはいった。
「わかってるじゃないか、ぼくは返事をするために講壇の近くにいて、逃げ出すために扉の近くにいたんだ。教師の奴はぼくをへんな顔をしてじっと見つめていた。するとブロンドーの奴、ボワローが説いた意地悪の鼻にちがいない、突然|レ《ヽ》の字へとびこんできやがった。それはぼくの文字なんだ。ぼくはモーの者で、レーグルというんだ」
「レーグル!」とマリユスは言葉をはさんだ。「いい名だね」
「ブロンドーは、そのいい名前の所へやってきたんだ。そして叫んだ。レーグル! ぼくは答えた、はい! するとブロンドーの奴、虎のようなやさしさでぼくをながめ、うすら笑いをしていやがった。きみはポンメルシーなら、レーグルではあるまい。この一言はきみにとってあまりありがたくないようだが、じつはそのいまいましい味をなめたのはぼくだけさ。あいつはそういって、ぼくの名をけしてしまった」
マリユスは叫んだ。
「それは実に……」
「青年よ」とレーグル・ド・モーはつづけていった。「これは汝の教えとならんことを。今後はかならず勤勉たれだ」
「なんとも申しわけがない」
「汝の隣人をしてふたたび名をけさるるに至らしむることなかれ」
「ぼくはなんとも……」
レーグルは笑いだした。
「だがぼくは愉快だ。もすこしで弁護士になるところだったが、その抹殺ですくわれたわけだ。弁護士などという月桂冠はおとりやめだ。これで後家《ごけ》の弁護もしなくていいし、孤児を苦しめることもしなくてすむ。弁護士服もおさらばだ、見習出勤もおさらばだ。これで、めでたく除名にしてもらえることができたわけだ。みんな、きみのおかげだ。ポンメルシー君。あらためて感謝の訪問をするつもりでいる。きみはどこに住んでるんだ」
「この馬車のなかだよ」とマリユスはいった。
「贅沢なわけだね」とレーグルは平気で答えた。「きみのために祝そう。そこにいたら年に九千フランは家賃をはらわなきゃなるまいね」
そのときクールフェーラックが珈琲店からでてきた。
マリユスは淋しげにほほえんだ。
「ぼくは二時間前からこの借家にいるんだが、もう出ようとおもってる。だがよくあるような話で、どこへいっていいかわからないんだ」
「きみ」とクールフェーラックはいった。「ぼくの家にきたまえ」
「ぼくのほうに先取権はあるんだが」とレーグルは言葉をはさんだ。「悲しいかな、自分の家というのがないからな」
「だまっておれよ、ボシュエ」とクールフェーラックはいった。
「ボシュエだと」とマリユスはいった。「きみはレーグルというんじゃなかったかね」
「そしてド・モーだ」とレーグルは答えた。「変名ボシュエ」
クールフェーラックが馬車にはいってきた。
「馭者」と彼はいった。「ポルト・サン・ジャックの宿屋だ」
そしてその晩、ポルト・サン・ジャックの宿屋の一室に、クールフェーラックの隣室に、マリユスは落ちついた。
二
数日のうちに、マリユスはクールフェーラックの親友となってしまった。青年時代にはすぐに親密になり、うけた傷もたちまちなおるものである。マリユスはクールフェーラックのそばにきてすっかり自由な気持になった。それは彼にとって全くあたらしいことだった。クールフェーラックは彼になにもきかなかった。そんなことは考えもしなかった。そのような年頃では、ただ顔つきをみればなにもかもお互いにわかりあってしまうものである。言葉なぞは無用である。顔がおしゃべりをするという青年が世にはいる。たがいに顔を見合わせればたがいに心がわかってしまう。
けれどもある朝、クールフェーラックは突然彼にこういう質問をした。
「ときにきみはなにか政治的意見をもってるかね」
「なんだって!」とマリユスはその問いに気をわるくしていった。
「きみは何派だというんだ」
「民主的ボナパルト派だ」
「ねずみ色のおとなしい奴だな」とクールフェーラックはいった。
翌日、クールフェーラックはマリユスをミュザン珈琲店につれていった。それから彼は、笑いながらマリユスの耳にささやいた。「ぼくはきみを革命にまきこんでやらなけりゃならない」そして彼をABCの友の部屋へつれていった。彼はマリユスを仲間の者たちに紹介して、ひくい声で「生徒だ」とただ一言《ひとこと》いった。マリユスにはそれがなんの意味だかわからなかった。
それらの青年たちの会話が、ある日、マリユスの精神に真の動揺をおよぼした。
その晩、ABCの友のほとんど全部が集まっていた。灯火はあかあかとともされていた。みんな興奮してはいなかったが、そうぞうしくいろいろなことを手あたり次第に勝手に論じあっていた。そうした喧騒《けんそう》のなかから突然ボシュエの大きな声がきこえてきた。
「一八一五年六月十八日、ワーテルロー」
そのワーテルローという言葉に、コップをそばにして食卓に肘《ひじ》をついてたマリユスは、頤《あご》から手をはずしてじっと聴衆のほうをながめはじめた。
「そうだ」とクールフェーラックがボシュエの声に答えてさけんだ。「この十八という数は不思議だ。じつに不思議だ。ボナパルトには不吉な数なのだ。前にルイという字をおき、あとに霧月《きりつき》という字をおいてみたまえ。そこには、独自な運命をになったこの人間の全宿命が、啓示されているのだ」
アンジョーラはその時までだまっていたが、沈黙をやぶってクールフェーラックにいった。
「きみは贖罪《しょくざい》という語をもって、罪悪を意味させるんだろう」
突然ワーテルローという語がきこえてきたので、いつの間にか興奮していたマリユスは、この罪悪という言葉をきいて、もうがまんできなくなった。
彼は立ちあがると、壁にかかってるフランスの地図のほうへしずかにあゆみよった。地図の下のほうをみると、ひとつの小さな島がべつに|しきり《ヽヽヽ》をしてのってた。彼はその|しきり《ヽヽヽ》の上に指を置いていった。
「コルシカ島、これがフランスを偉大ならしめた小島だ」
すると、アンジョーラが青い眼で空間をみつめながら、マリユスのほうは見むきもしないで答えた。
「フランスは偉大なるためには、なにもコルシカ島などを要しない。フランスはフランスだから偉大なんだ。わが名は獅子なればこそだ」
マリユスはそれでも引きこもうとはしなかった。彼はアンジョーラのほうをむき、|はらわた《ヽヽヽヽ》をしぼり出すような声を出して叫んだ。
「ぼくはあえてフランスを小さくしようとするのではない。ナポレオンをフランスに結合することは、フランスを小ならしむるゆえんとはならない。この点を一言さしてくれたまえ。ぼくはきみたちのなかでは新参《しんざん》だ。しかしぼくはきみたちをみておどろいたといわざるをえない。いったいきみたちはいかなる立場をとっているのか。ぼくのきくところでは、きみたちは王党のように|ウ《ヽ》に力をいれてブウォナパルトといっている。がぼくの祖父はもっとうまく発音しているときみたちにしらせてやりたい。祖父はブォナパルテといってるんだ。ぼくは諸君を青年だとおもっていた。しかるには諸君は熱情をどこにおいてるのか。そしてその熱情をなにに使おうとしてるのか。もし皇帝を讃美しないとしたら、誰を讃美しようとするのか。それ以上に諸君はなにを欲するのか。かかる偉人を欲しないとしたら、いかなる偉人を欲するのか。彼はすべてをもってたのだ。彼は完璧であった。彼はその頭脳のなかに、人間の能力の全量をおさめていた。彼はユスティニアヌスのように法典をつくり、カエサルのように命令し、タキトゥスの雷電と、パスカルの閃光とをまじえた談話をし、みずから歴史をつくり、イリアッドのような報告をつづり、ニュートンの数理とマホメットの比喩《ひゆ》とを結合し、ピラミッドのように偉大な言葉を近東にのこした……」
みんなは沈黙していた。そしてアンジョーラは頭をさげていた。沈黙は多くの場合、承認か、あるいは一種の屈服の結果である。マリユスはほとんど息もつかずに、ますます熱烈さをましていいつづけた。
「諸君、正しき考えをもとうではないか。そういう皇帝の帝国たるは、一民衆にとっていかにも光輝ある運命ではないか。そしてこの民衆がじつにフランスであり、この民衆はその才能を、この人物に結合したのだ。フランス帝国をローマ帝国と比肩《ひけん》せしめ、大国民となり、大陸軍をうみだし、山岳が四方に鷲《わし》をとばすように、地球上にその軍隊を飛躍せしめ、戦勝をはくし、征服し、撃《う》ち砕《くだ》き、ヨーロッパにおいて光栄の黄金をまとう唯一の民衆となり、歴史を通じて、巨人のラッパをなりひびかせ、勝利と光耀《こうよう》とによって、世界を二重に征服すること、それは実に崇高ではないか。およそ、これ以上に偉大なるものが、またとあろうか」
「自由となることだ」とコンブフェールがいった。
こんどはマリユスのほうで頭をたれた。その簡単な冷やかな一語は、鋼鉄の刃のように、彼の叙事詩的な激語をつらぬき、彼はその激情が心のなかからきえてゆくのをおぼえた。彼が眼をあげたとき、コンブフェールはもうそこにはいなかった。彼の讃美にたいするにその一言の返報でおそらく満足して、出ていってしまったのである。そしてアンジョーラを除いてみんなもそのあとについていってしまった。アンジョーラはマリユスのそばにただひとりのこって、彼の顔をきびしく見つめていた。と、その時、誰かが階段のところで歌う声がきこえてきた。
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よしやカエサルこのわれに
名誉と戦いをあとうとも、
母に対する恩愛を、
打ちすてよとせまるなら、
われカエサルにかくいわん、
笏《しゃく》と輦《くるま》はもちてゆけ、
われは母をばただ愛す、
われは母をばただ愛す。
[#ここで字下げ終わり]
そのやさしい粗野な調子は、歌に一種の不思議な偉大さをあたえていた。マリユスは考えこんで、天井をみあげ、ほとんど機械的にくりかえした。「母?……」
そのとき、彼は自分の肩にアンジョーラの手が置かれたのを感じた。
「おい」とアンジョーラは彼にいった。「母とは共和国のことだ」
三
マリユスにとって生活は苦しくなった。衣服や時計も売ってしまった。彼は夕方|靄《もや》が町にかかるのをまってパン屋にゆき、一片のパンを買って、まるで盗みでもしたようにそれをひそかに自分の屋根裏部屋へもちかえることもあった。また時とすると、意地わるな女中たちのあいだにまじって、肘《ひじ》をこづかれながら、片すみの肉屋にひそかにはいってゆく、ぎごちない彼の姿を見ることもあった。彼はわきの下に本をかかえ、おずおずした様子で、店にはいりながら汗のにじんだ額《ひたい》から帽子をぬぎ、呆気《あっけ》にとられてる肉屋のかみさんにうやうやしく頭をさげ、小僧の前にも一度頭をさげ、羊の肋肉をひときれ買いもとめ、六、七スーの金を払い、肉を紙につつみ、書物の間にはさんでたち去っていった。彼はその肋肉を自分で煮て、それで三日の飢えをしのぐのであった。
しかし、そういう境涯にもめげず、ついに彼は弁護士の資格をえた。
こうして彼は最もせま苦しい峠を越すことができた。そしてそれ以来彼は、勤勉と勇気と忍耐と意志とをもって、ついに年に約七百フランをかせぐようになった。
そしてマリユスはやがて年三十フランで、ゴルボー屋敷のきたない部屋をかりうけた。書斎とはいっていたが、煖炉もなく、道具も、ただ|ぜひ《ヽヽ》とも必要なものだけしかなかった。毎月三フランずつ借家主の婆さんにやって、部屋を掃除してもらい、毎朝すこしの湯と新らしい鶏卵をひとつと、一スーのパンとをもってきてもらった。彼はそのパンと卵とで昼食をすました。
その頃、マリユスの心には父の名とならんで、も一つの名がふかくきざまれていた。それはワーテルローの戦いで、父の生命をすくってくれた軍曹テナルディエの名前だった。マリユスはモンフェルメイユで、そのテナルディエ軍曹が旅館をいとなんでて、不幸にも落ちぶれ破産してしまったことを知った。そしてそれ以来彼は異常な努力をつくして、テナルディエの行方《ゆくえ》をさがしつづけたが、しかし誰一人テナルディエの消息を知ってる者はなかった。おそらく外国へでもいったのではないかとおもわれた。債権者たちもまた、マリユスほどの好意はないが、おなじように熱心に彼をさがしまわったが、なにひとつ手がかりをみつけることができなかった。マリユスは、そのことを父への忘恩のごとく考え、自分の無能をせめさいなんだ。
ところでその頃、マリユスの用をたしていた婆さんが、マリユスのとなりに住んでいるジョンドレットというあわれな一家が、今にも部屋を追い出されようとしていることを話してきかした。ほとんど毎日外にばかり出ていたマリユスは、となりの部屋に人が住んでることさえもよく知らなかった。
「どうしておいはらわれるんです」と彼はきいてみた。
「部屋代を払わないからですよ。二期分もたまってますのでね」
「どれくらいの金なんです」
「二十フランですよ」と婆さんはいった。
マリユスは引き出しのなかに三十フラン貯金していた。
「さあ」と彼は婆さんにいった。「ここに二十五フランあります。この金でそのかわいそうな人たちの部屋代を払ってあげてください。それから、あまった五フランの金もその人たちにやってください。だけど、わたしがしたんだとはいわないでください」
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第四章 両星の邂逅
一
当時のマリユスは、中背《ちゅうぜい》の美しい青年で、まっ黒な濃い髪、高く秀でた額《ひたい》、まじめなおちついた物腰、その顔には、気品のたかい瞑想《めいそう》的な、きよらかな感じがただよってた。
ところで、マリユスはもう一年以上も前から、リュクサンブール公園のある淋しい、苗木栽培《ペピニエール》地の壁にそった道のところで、ひとりの男とごく若い娘とをみかけていた。ふたりはウエスト街のほうによったいちばん淋しい道の片すみに、いつもおなじベンチのうえにならんで腰かけていた。自分の心のうちに眼をむけて散歩している人によくあるように、べつになんの気もなく、ほとんど毎日のようにマリユスはその小道にはいっていった。そしていつもそこにふたりを見た。男は六十才くらいの、しずんだ、まじめな顔つきをしていて、退職の軍人かともみえる頑丈な、だがだいぶ疲れてるような様子をしていた。
もし勲章でもかけてたいら、「もとは将校だな」とマリユスはおもったかもしれない。親切そうではあるが、どこか近よりがたいところがあって、決して人と視線をあわせることをしなかった。青いズボンと青いフロックとをつけ、いつも新らしくみえる、ひろい縁の帽子をかぶり、黒い襟《えり》飾りをし、まっ白だが、そまつな麻のシャツを着ていた。髪の毛はまっ白だった。
娘のほうはまだ十三、四才で、醜《みにく》いほどやせてて、ぎごちなく、なんの|とりえ《ヽヽヽ》もなかったが、眼だけはやがてかなり美しくなりそうな気配をみせていた。修道院の寄宿生にみられるような|じみ《ヽヽ》にも、あどけなくもみえるような服装をして、黒いメリノ羅紗《らしゃ》のまずい仕立ての服をつけていた。二人は親子らしかった。
まだそう老人ともいえぬその年とった男と、まだ一人前になってないその小娘とに、マリユスは二、三日気をとめたが、それからはもうなんの注意もはらわなかった。彼らのほうでもマリユスに気をとめてるふうもなかった。いつもおだやかな平和な様子で、おたがいになにか話しこんでいた。娘のほうはたえず快活に口をきいていた。老人のほうは口数がすくなく、時々なんともいえぬ親愛の情を眼のなかにたたえて娘をみやっていた。
マリユスはいつしか機械的に、その小道にはいってゆくのが癖になっていた。そしていつもそこで彼らに出会った。
そのうち、彼ばかりでなく、たまたま、その小道を通る学生たちもしだいに、この二人に気をとめるようになり、彼らの間では、いつの間にか、二人のうちの娘のほうを、ラ・ヌワール(黒)嬢、父のほうをル・ブラン(白)氏とよぶようになっていた。
二
そのうち、マリユスは、べつに理由もなく、リュクサンブールの散歩を六カ月ちかくもやめてしまっていた。ところがそれからたまたま、ある日彼はまたあの小道にいってみた。さわやかな夏の朝のことで、晴れた日には誰もそうだが、マリユスもごく愉快な気分になっていた。耳にきこえる小鳥の歌や、木の葉のあいだからちらとみえる青空などが、心のなかにまで、はいってくるようにさえ思われた。
彼はまっすぐに「自分の道」へいった。そしてそのはずれまでくると、あの見なれたふたりがやはりいつものベンチに腰かけてるのをみつけた。ところが近よってゆくと、老人のほうは同じ人だったが、娘のほうは人がかわってるように思えた。いま、彼の目の前にいるのは、背の高い美しい娘で、子供の無邪気なあどけなさを、そのままもって大人《おとな》になったような感じのする十五才ぐらいの娘だった。そして実際、この十五才という短い言葉がつたえる、あの純潔な年頃の最も魅力ある姿を、その娘はそなえていた。金色にぼかされた栗《くり》色の髪、代理石でできてるような額《ひたい》、ばらの花のような頬《ほお》、眼のさめるような白さ、閃光のように微笑がもれ、音楽のように言葉がほとばしり出る優雅な口……
彼女のそばを通るとき、彼はその眼をみることができなかった、その眼はいつも下にむけられていたから。しっとりした影と、清純とのあふれてるながい栗色の睫毛《まつげ》だけが、彼の眼にはいった。
彼女は自分に話しかける白髪の男に耳をかたむけながらほほえんでいた。眼をふせながらうかべるあざやかなその微笑ほど、愛くるしいものは世になかった。
はじめのうちマリユスは、彼女を前の娘の姉だろうと思った。しかし、いつもの散歩のくせで、二度目にベンチに近よって、注意して彼女をみたとき、彼はそれがやはりおなじ前の娘だったことに気がついた。六カ月のうちに小娘は若い娘となった。ただそれだけのことだった。そういうことはよくあることで、あっというまにつぼみが開いて、たちまちのうちにばらの花となってしまうような時期が、女の子にはあるものだ。きのうまでは子供だと気にもとめないでいたのが、きょうはもはや気がかりなしには見られないようになる。
さてその娘は、大きくなったばかりでなく、理想的な娘になっていた。四月にはいれば世の中は三日見ぬまに桜となるように、わずか六カ月の間に、彼女はいっきに美のすべてをわが身にまとい、花の四月をむかえていたのだった。
そしてまた彼女は、もうフラシ天の帽子や、メリノの服や、学校靴や、赤い手などはしていないし、寄宿生らしいところも全くなくなっていた。美とともに趣味も生じたのである。特別な装いをしていたわけではないが、なんともいえない、さっぱりした豊かな優美さをそなえた服装《みなり》をしていた。黒い緞子《どんす》の服とおなじ布のケープと白い帽子をかぶっていた。支那象牙の日傘の柄をもてあそんでる手は、白い手袋をとおして、いかにも|きゃしゃ《ヽヽヽヽ》にみえた。絹の半靴はいかにもちっちゃな彼女の足をおもわせた。そばを通りすぎると、その全身の粧《よそおい》からは若々しいしみとおるような香りがにおっていた。
老人のほうは前となんの変りもなかった。
二度目にマリユスが近よった時、娘は眼をあげた。その眼は深い青空の色をしていた。しかしその露《あら》わでない青みのうちには、まだ子供の眼つき以外のものは、なにも感じられなかった。彼女はなんでもないような顔をして、マリユスを見ていた。マリユスのほうでも、もうほかのことを考えながら散歩をつづけていた。
彼は娘がいるベンチのそばをなお四、五度は通ったが、そのほうへ眼もむけなかった。
それからまた毎日のように、彼はリュクサンブールにきて、きまってその「父と娘」とに出会った。しかしもうそれに気をとめなかった。その娘が美しくなった今も、醜くかった前とおなじように、彼はべつになんとも考えなかった。彼はやはり、彼女が腰かけてるベンチのすぐそばを通っていた。それが彼の習慣となってた。
ある暖かな日、リュクサンブール公園は影と光りとにあふれ、空はその朝、天使たちによって洗われたかのように清らかにすみわたり、マロニエの木立のなかでは、雀《すずめ》が小さな声をたててないていた。マリユスはこの美しい自然の世界に心をうち開き、なにごとも考えず、ただ生きて呼吸をつづけてるといった気持ちで、ベンチのそばを通った。その時、あの若い娘は彼のほうへ眼をあげ、ふたりの視線が出会った。
こんどは若い娘の視線のなかには、なにかがあったか? マリユスもそれをいうことはできなかっただろう。そこにはなにものもなかったし、またすべてがあったともいえるようだった。それは不思議な閃光のようなものだった。
彼女は眼をふせ、彼は散歩をつづけた。
いま彼が見たものは、子供のあどけない眼ではなかった。なかば開いてまた急にとじた神秘な淵であった。
その夕方、屋根裏の部屋に帰ったマリユスは、自分の服装をながめ、はじめて自分の汚さと、不作法さと、「ふだんの」服装でリュクサンブールに散歩にゆく愚かさとに気づいた。おしつぶされた帽子と、馬方のような粗末な靴、膝《ひざ》のところが白く色あせてる黒いズボン、肘《ひじ》のところがはげかかってる上衣……
翌日、例の時刻になると、マリユスは戸棚から新らしい上衣とズボンと帽子と靴をとり出した。そして手袋をはめ、めかしこんでリュクサンブールに出かけた。
小道にはいってゆくと、むこうのはずれにルブラン氏と若い娘とが「彼らのベンチ」にきているのがわかった。彼はずっと上まで上衣のボタンをかけ、皺《しわ》ができないようにと上衣をよくひっぱり、一種とくいな気持で、ズボンの|つや《ヽヽ》を見つめながら、ベンチにむかってすすんでいった。
近づくにつれて、彼の歩みはだんだんゆっくりになってきた。あるところまでベンチに近づくと、まだ小道がだいぶあるのに、そこにたちどまり、自分でもどうしていいかわからなくなって、あともどりしてしまった。むこうのはしまでゆかなかったことさえ、自分では気がつかなかった。娘が彼の姿を遠くから見て、彼の新らしい服装をした立派な様子を見たかどうか、それさえわからなかった。けれども彼は、誰かにうしろから見られてる時のように、自分の姿をよくみせようとして、まっすぐに背をのばして歩いた。
彼は小道の反対のはしまでゆき、それからまたもどってきて、こんどは前よりもずっとベンチに近づいてきた。そして樹が三本たってるところまでやってきたが、そこで、もうどうしても先へ進めないような気がして、ちょっとためらった。娘の顔が自分のほうへさしむけられてるような気がした。彼は男らしい努力をつづけ、ためらう心をおさえつけ、前のほうへすすんでいった。やがて彼はまっすぐに身をかたくして、耳の先までまっ赤になり、右にも左にも眼もくれず、政治家のように手を上衣のなかにさしこんで、ベンチの前を通りすぎた。
彼は、この要塞の大砲の下ともいうべき、ベンチのそばを通ってゆくとき、恐ろしくて胸がどきどきするのを感じた。彼女は昨日と同じように、緞子《どんす》の長衣と縮緬《ちりめん》の帽子とをつけてた。「彼女の声」に違いないある声を彼はきいた。彼女は静かに話をしていた。とても綺麗《きれい》だった。それだけのことを、彼は彼女を見ようともしなかったけれども心に感じた。
彼はベンチを通りすぎ、すぐ先の小道のはずれまでゆき、それからまたもどってきて、も一度美しい娘の前を通った。だが、こんどはまっ蒼《さお》になっていた。強い不安しか感じなかった。彼はベンチと娘とから遠ざかっていった。そして彼女に背をむけながら、うしろから彼女に見られてるような気がして、思わずよろめいた。
それから彼はもうベンチに近よらなかった。小道の中ほどにたちどまって、今まで一度もしなかったことだが、横目をつかいながら、そばのベンチに腰をおろして、心の底でぼんやり考えていた。要するに自分が目ざしてるあの白い帽子と黒い上衣の人たちも、自分の磨きたてたズボンと、新らしい上衣とに対して、全然無感覚であることはできなかっただろうと。
十五分ばかりそうしていた後、ベンチのほうへまた歩きだすつもりで彼はたちあがった。だがそのままそこに立ったままで彼は身動きができなくなってしまった。きっと、あすこに娘といっしょに毎日腰かけている老紳士のほうでも、自分に気がつき、自分の態度をおそらく不思議に思ったであろうと、十五カ月以来はじめて彼は考えた。
そしてまたはじめて彼は、心のうちでとはいえ、ルブラン氏などというあだ名でその知らない紳士をよんでいたことに、なにか不作法なものを感じた。
そして彼は頭をたれ、手にしてるステッキの先で砂の上になにかかきながら、数分間じっとしていた。
それから突然むきをかえ、ベンチとルブラン氏とその娘とをあとにして、自分の家へ帰っていった。
その日彼は夕食を食いにゆくことを忘れた。晩の八時頃それに気づいたが、もうサン・ジャック街までゆくにはあまりおそかったので、なあにといって、一片のパンだけをかじった。
彼は上衣にブラシをかけ、ていねいにそれをたたんでから、やっと寝床にはいった。
三
ブーゴン婆さん──というのは、ゴルボー屋敷の借家主で門番で兼世帯女である婆さんで、クールフェーラックがつけたあだ名だが、そのブーゴン婆さんは、その翌日、マリユスがまた新らしい上衣をきて出かけるのをみて、あきれてしまった。
マリユスはまたリュクサンブール公園にいったが、小道のなかほどにあるベンチより先へはゆかなかった。前のように彼はそこに腰かけ、遠くから白い帽子と黒い服と、またとくに青い輝きとをはっきりと見わけることができた。彼はそこへじっと腰をかけたまま動かず、リュクサンブールの門がしまる時にようやく帰っていった。ルブラン氏とその娘とが帰ってゆく姿は見えなかった。それで彼は、二人はウエスト街の門から出ていったのだろうと思った。その後、数週間後のことであったが、その時のことを考えてみたとき、彼はその晩どこで夕食をしたかどうしても思いだせなかった。
その翌日、もう三日目であったが、ブーゴン婆さんはまた驚かされた。マリユスがまた新らしい上衣をきてでかけたからである。
「まあ三日つづけて!」と彼女は叫んだ。
彼女は後をつけてみようとした。しかしマリユスは大股《おおまた》に早く歩いていた。二、三分とたたないうちに、彼女はマリユスの姿を見失い、息をきらして戻ってきた。喘息《ぜんそく》のため息をつまらせ、ひどく怒っていた。彼女はつぶやいた。
「毎日いいほうの服をつけて、おまけに人をこんなにかけさしてさ、それでいいつもりかしら!」
マリユスはまたリュクサンブールにいった。
若い娘はルブラン氏と一緒《いっしょ》にきていた。マリユスは本を読んでるようなふうをして、できるだけ近づいていったが、それでもまだよほど遠くに立ちどまった。それから自分のベンチのほうへもどって腰をかけ、小道のうちを無遠慮な雀が飛びまわるのをみて、自分が嘲《あざけ》られてるような気がしながら、四時間もじっとしていた。
そういうふうにして二週間ばかりすぎた。マリユスはもう散歩をするためにリュクサンブールに行くのではなく、いつも同じ場所になぜだか自分でもしらないでただ坐りにいった。いちどそこへつくと、もう一歩も動かなかった。彼は人目につかないようにと朝から新らしい上衣をきた。そしてまた来る日も来る日も同じようなことをくり返した。
まる一月はかくてすぎた。その間マリユスは毎日リュクサンブール公園に行った。時間がくればなにものも彼を引きとめることはできなかった。そんな時、「あいつは勤務中だ」とクールフェーラックはいっていた。
彼はある日、ついに大胆《だいたん》になって、あのベンチに近よっていった。けれどももうその前を通ることはしなかった。ひとつは臆病な本能からと、またひとつには恋する者の注意深い本能からだった。「父親の注意」をひかないほうがいい、と彼は思っていた。彼は彫像の台石や、樹木のうしろにかくれ、そしてできるだけよく娘のほうから見えるようにし、できるだけ老紳士のほうからは見えないようにした。
ルブラン氏のほうでもついになにかに気づいたようにおもわれた。なぜなら、マリユスがやってゆくと、しばしば彼は立ちあがって歩きだした。彼は時々いつもの場所をはなれ、小道のもう一方のがわの|はずれ《ヽヽヽ》にある、グラディアトゥールの像の側のベンチに腰をかけ、そこまでマリユスがついてくるかどうかを、うかがってるようだった。マリユスにはそれがわからず、わざわざベンチのみえるところまで出ていっては、なんども失敗をくり返していた。
しかし、マリユスの恋は日ごとにつのってきた。毎夜彼は夢ばかりみていた。そのうち、突然思いがけない幸福がやってきた。それは火に油をそそぐようなもので、また彼の眼をいっそう盲目にさせたものだった。ある日の午後、たそがれ頃に「ルブラン氏とその娘」とが立ち去ったベンチの上に、彼は一枚のハンカチを見いだした。刺繍《ししゅう》もない、ごくあっさりしたハンカチだったが、しかしまっ白で、清らかでなんともいえない香《かお》りをはなってるようにおもえた。彼は狂喜しそれを拾いとった。ハンカチにはU・Fという二字がついていた。マリユスはその美しい娘についてはなんにもしってなかった。その家柄も名前も住所もしらなかった。そしてその二字は彼女についてつかみえた最初のものだった。大事な頭文字で、彼はすぐその上に夢の楼閣《ろうかく》をきずきはじめた。Uというのはきっと呼び名にちがいなかった。彼は考えた、「ユルシュールかな、なんといういい名だろう!」彼はそのハンカチに唇をつけ、それを嗅《か》ぎ、昼は胸の肌につけ、夜は唇にあてて眠った。
だが実はそのハンカチは老紳士のもので、たまたまポケットから落したのだった。
その拾い物をしてからのちは、いつも、マリユスはそれに唇をつけ、それを胸におしあてながら、リュクサンブールに姿をあらわした。
四
彼女《ヽヽ》がユルシュールという名であることを、マリユスがいかにして発見したか、いな、発見したと思ったか、それは読者のすでに見てきたところである。
ある日の夕方、マリユスはその家まで二人のあとについてゆき、そして二人の姿が正門から見えなくなった時、彼はつづいてはいってゆき、勇敢にも門番にたずねた。
「今帰っていった人は、二階におられる方ですか」
「いいえ」と門番は答えた。「四階にいる人です」
さらにもうひとつのことがわかった。そしてその成功はマリユスを大胆にさせた。
「表にむいてる部屋ですか」と彼はたずねた。
「ええ!」と門番はいった。「人の家というものは皆往来にむけて建ててあるものですよ」
「そしてあの人はどういう身分の人ですか」とマリユスはまたたずねた。
「年金があるんです。ずいぶん親切なんで、たいした金持ちというのではないが、困る者にはよく世話をして下さるんです」
「名前はなんというんですか」とマリユスはまたきいた。
門番は頭をあげて、そしていった。
「あなたは探偵ですか?」
マリユスはちょっと困ったような様子をしたが、やがて非常にうれしそうな顔をしながら、その場から立ちさった。だいぶ|こと《ヽヽ》は前進したわけである。
「しめた」と彼は考えた。「ユルシュールという名前であることもわかったし、年金を持ってる者の娘であることもわかったし、あのウエスト街の四階に住んでいることもわかった」
その翌日、ルブラン氏と娘とは、わずかな間しかリュクサンブールにいなかった。まだ日の高いうちに立ちさってしまった。マリユスはいつもの通りウエスト街まで彼らの後についていった。正門の所へゆくとルブラン氏は娘をさきに中へいれて、その門をくぐる前に立ちどまり、ふりかえってマリユスをじっと眺めた。
つぎの日、彼らはリュクサンブールにこなかった。マリユスは一日待ちぼうけをくった。
晩になって、彼はウエスト街にゆき、四階の窓に灯火がさしてるのをみた。彼はその灯火がきえるまで窓の下をうろついた。
そのつぎの日、リュクサンブールヘは二人ともこなかった。マリユスは終日待っていて、それからまた窓の下の夜の立番をした。それが十時までかかった。
彼はそういうふうにして一週間すごした。
そして八日目、彼が窓の下にやってきた時、そこには|あかり《ヽヽヽ》がついていなかった。彼はいった。「おや、まだランプがついていない。どこへかでかけたのかしら」彼は待ってみた。十時まで、十二時まで、ついに夜中の一時になった。四階の窓にはなんの光りもささず、家の中にも誰もはいってゆく者もなかった。彼はひどく沈みきって立ちさった。
翌日マリユスは、リュクサンブールでも二人を見かけなかった。恐れていたとおりだった。彼はうす暗くなってから彼らの家の前へいった。窓にはなんの光りももれていなかった。鎧戸《よろいど》がしめてあった。四階はまっ暗だった。
マリユスは、はいっていって門番にいった。
「四階の人は?」
「引越しました」と門番は答えた。
マリユスはそれをきいてよろめきながら、弱々しげな声でいった。
「いったい、いつですか」
「きのうです」
「今どこに住んでいられますか」
「知りません」
「ではこんどの住所をしらしてゆかれなかったんですか」
「そうです」
その時門番は頭をあげ、それがマリユスであることにはじめて気がついた。
「やあ、あなたですか」と彼はいった。「それじゃ、あなたはやはり警察のかたですね」
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第五章 邪悪なる貧民
一
マリユスは、なおつづけてゴルボー屋敷に住んでいた。
その頃、ゴルボー屋敷には、彼とジョンドレットの一家だけしか住んでいなかった。彼はジョンドレットの借金をいちど払ってやったことがあるが、家族の父にも、母にも、娘たちにもいちども口をきいたことはなかった。
ちょうど夕食の時間だった。彼は家の戸口をまたいで外へ出た。
マリユスはサン・ジャック街へゆこうと思って、市門のほうへ大通りをゆっくりと歩いていった。頭をたれて、もの思いに沈みながら歩いていた。
突然彼は、うす暗がりのなかを、誰かが自分を押しのけていったのを感じた。ふり返ると、ぼろを着た二人の若い娘だった。ひとりは背が高くてやせており、もひとりはそれより少し背が低かったが、二人ともものにおびえ、息をきらして、逃げるように、大急ぎでとおっていった。二人はマリユスに気づかず、出会いがしらに彼につきあたったのだった。うすら明りにすかしてみると、二人は髪をふりみだし、よごれた帽子をかぶり、服は破れさけ、足にはなにもはいてなかった。
大きいほうがごく低い声でいった。
「|いぬ《ヽヽ》がきたよ。もうすこしで、あげられるところだったわ」
もひとりのが答えた。
「あたしははっきり見たわ。で、ただもう一目散ににげてきたのよ」
マリユスはその変な言葉で大体のことが想像できた。憲兵か巡査かがその二人の娘を捕えそこなったものらしい、そして二人はうまく逃げのびてきたものらしい。
二人は彼のうしろの並木の下にはいりこみ、暗闇のなかでしばらくは、ほの白くみえていたが、やがて消えうせてしまった。
マリユスはしばらくたたずんでいた。
それからまた歩こうとすると、足もとに鼠色の小さな包みがおちてるのに気がついた。彼は身をかがめてそれを拾った。封筒らしいもので、中には紙がはいってるようだった。
「あの女たちが落していったものらしい」
彼は大きな声をだして呼んでみたが、もう二人の姿は見えなかった。
その晩、マリユスは床につこうとして服をぬいでいるとき、上衣のポケットの中に、夕方大通りで拾った包みに手がふれた。彼はそれを忘れていたのである。
彼は包み紙を開いてみた。
包みには封がしてなかった。そしてなかには、同じように封がしてない四つの手紙がはいっていた。
それぞれ宛名がついていた。
四つとも、ひどいたばこの匂いがしていた。
第一の手紙の宛名はこうだった。「下院前の広場……番地、グリュシュレー侯爵夫人閣下」
手紙の封が開いているので、中身を読んでもいっこうさしつかえないだろう、とマリユスは思った。
手紙の文句はつぎのとおりだった。
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侯爵夫人閣下
寛容《かんよう》と憐憫《れんびん》との徳は、社会をいっそう密接に結合せしむるものであります。公正のために身をささげ、聖なる主旨に身をささげ、血潮を流し、財産その他いっさいを犠牲に供し、今や落魄《らくはく》の極にある、この不幸なるスペイン人の上に、願わくは閣下のキリスト教徒たる感情をむけ給い、慈悲のいちべつを投ぜられんことを。全身、負傷を受けた、教育あり名誉ある軍人にたいし、閣下は必ずや助力をおしまれざることと存じます。閣下の高唱せらるる人道の上に、また不幸なる一国民にたいして、閣下が有せらるる同情の上に、あらかじめ期待をおかけ申しあげます。彼らの祈願は閣下のいれ給うところとなり、彼らの感謝の念は長く閣下のおん名を忘れざるべしと信じ申しております。
ここに謹んで敬意を表します。
フランスに亡命し、いま国へ帰らんとして、旅費に窮せるスペイン王党の騎兵大尉
ドン・アルヴァレス
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手紙には差出人の住所が署名してなかった。マリユスは第二の手紙に、その住所がありはすまいかと思った。第二の手紙の宛名は「カセット街九番地、モンヴェルネ伯爵夫人閣下」だった。
マリユスは手紙のなかに、つぎの文句をよんだ。
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伯爵夫人閣下
私ことは六人の子供をもつ憐れなる母にて、末の児はわずかに八カ月になります。この児の出産以来、私は病気にかかり、五カ月以前からは夫に棄てられ、今はなんの収入のみちもなく、ただ貧苦の底に悩んでおります。
伯爵夫人閣下のご慈悲をのぞんで、深き敬意を表し申します。
バリザールの家内
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マリユスは第三の手紙を開いたが、それもやはり哀願の手紙だった。宛名は「サン・ドゥニ街、フェール通りの角、小間物貿易商、選挙人パブールジォ殿」となっており、そして差出人には文士、ジャンフローと署名されていた。
マリユスはさらに、四番目の手紙を開いてみた。宛名はこうだった。「サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂の慈悲深き紳士殿」なかにはつぎの文句がしたためてあった。
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慈悲深き紳士殿
もしわたくしの娘とご同行くだされれば、一家困窮のきわみなる状態にあることをおみとめくださるべく、また身元証明書はごらんにお入れいたします。
かかる手記をごらんいただければ、恵み深き貴下は、必ずや慈悲の情を起してくださることとぞんじます。真の哲学者は、常に強き情緒を感ずるものでございますから。
同情の念深き紳士殿、もっとも残酷なる窮乏に、一家の者は苦しんでおります。しかして、なにかの救助をえんため、政府よりその証明をえるなどとは、いかにも心苦しきかぎりです。他人より救助されるを待ちながら、しかも餓餓《きが》に苦しみ飢餓に死する自由さえなき有様です。運命はある者にはあまりに冷酷に、またある人にはあまりに寛大にあまりに親切であります。貴下のご来臨をお待ち申しております。あるいは思召しあらば、ご施与をお待ち申します。しかしてわたくしの敬意をおうけ下されたくお願い申し上げます。
大人《たいじん》閣下のきわめて卑しき従順なる僕《しもべ》
俳優 ファバントゥー
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マリユスはこうして四通の手紙を読み終ったが、なんらの手がかりもえなかった。第一に、どの手紙にも住所がついていなかった。
つぎに手紙は、ドン・アルヴァレスと、バリザールの家内と、詩人ジャンフローと、俳優ファバントゥーと、四人のそれぞれ別の人からのものらしかったが、不思議にも四つとも同じ筆跡だった。
四つとも同一人からのものではないとするならば、それはどう解釈したらいいか?
すくなくとも手紙は、マリユスが大通りで出会った二人の娘のものだということをしめすものは、なにもなかった。要するにただの|ほご《ヽヽ》にすぎないことは明らかだった。
マリユスは四つの手紙をまた包み紙にいれて、部屋の片すみになげすて、そして床についた。
翌朝七時頃、彼は起きあがって朝食をし、それから仕事にかかろうとした。そのとき静かに扉をたたく者があった。
マリユスはいつものブーゴン姿さんだとばかり思った。
「おはいりなさい」とマリユスはいった。
扉がひらいた。
「なにか用ですか、ブーゴン姿さん」とマリユスはテーブルの上の書物と書きものとから眼をはなさないでいった。
するとブーゴン婆さんのでない別の声が答えた。
「ごめんなさい、あの……」
その声はひどく|しゃがれて《ヽヽヽヽヽ》濁っていて、火酒《ウオッカ》や焼酎《しょうちゅう》でのどをつぶした老人のような声だった。
マリユスはびっくりしてふりかえった。そこには一人の若い娘が立っていた。
二
まだうら若いその娘は、なかば開いた扉のところに立っていた。彼女の顔を屋根裏の窓からさしこむ光りが、青白くてらしていた。色のわるい、やせおとろえた骨ばった女で、身体にはただシャツとスカートをつけてるだけだった。帯のかわりに麻糸をしめ、頭のリボンのかわりに麻糸をゆわえ、とがった両肩が下着からはみ出ていた。血の気のない唇、ぬけおちた歯、にごったずうずうしげな下品な眼、身体はまだ娘のくせに、眼つきは老婆そっくりだった。
マリユスは立ちあがって、影のようなその女をびっくりしながら見ていた。
だが、なによりも痛ましかったのは、彼女は生まれつきこんなに醜いのではなくて、ごく小さいときには美しかったにちがいないような様子がみうけられることだった。というのも、そうした醜さのうちにも、一抹《いちまつ》の美しさが、その十六才の顔の上にただよっていて、冬の日の明け方、おそろしい雲の下に消えてゆく青白い太陽のようにみえていた。
しかもその顔に、マリユスは全然見おぼえがないわけでもなかった。どこかでみたことがあるような気がした。
「なにかご用ですか」と彼はたずねた。
若い娘は、酒に酔った犯罪人のような声で答えた。
「マリユスさん、手紙をもってきたのよ」
彼女はマリユスと名をよんだ。彼女がやはり彼に用があって来たことは疑いなかった。しかし彼女はいったい、なに者なのか、どうしてマリユスという名を知ったのか?
彼がこちらへというのもまたないで、娘ははいってきた。彼女はつかつかとはいってきて、驚くばかりの平気な顔つきをして、部屋のなかをじろじろみまわしていた。足にはなにもはいていず、スカートの大きな裂《さ》け目からは、長い脛《はぎ》とやせた膝《ひざ》とがみえていた。彼女は震えていた。
彼女は手に一通の手紙をもっていて、それをマリユスにわたした。
マリユスは手紙を開きながら、その大きな封筒の糊《のり》がまだしめっているのに気づいた。使いの者は、遠くから来たのではないに違いなかった。彼は手紙を読んだ。
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隣の親切な青年よ!
小生は貴下が、六カ月以前、小生の家賃をおはらいくだされた好意を聞きおよびました。小生は貴下の幸福を祈っております。小生たちは一家四人にて、この一週間、一片のパンすらなく、しかも家内は病気にかかり、万事は長女よりおききくださるようお願いいたします。もし小生の思いちがいでなければ、寛大なる貴下は、この陳述に動かされ、小生に些少《さしょう》の好意をよせ、恵みをたれんとの念をおこし給わることを、期待して誤りなきかと信じております。
人類の恩恵者に対して、負うべき至大の敬意を表して。
ジョンドレット
追白――小生の長女は、マリユス殿、貴下のお指図をおまちいたします。
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その手紙は、前日の晩からマリユスの頭をしめていた、ふしぎな事件に、あたかもろうそくの火をともしたようなものだった。すべてが突然あきらかになった。
その手紙は、他の四通の手紙と同じところからきたものだった。同じ筆跡、同じ文体、同じ文字使い、同じ紙、同じたばこの匂い。
マリユスには大体の事情が、今はじめてわかった。隣りにいるジョンドレットは、貧乏のあげく、慈善家の慈悲をこうのを仕事としていること。いろいろの人の住所をしらべていること。金持ちで慈悲深そうな人々へ仮りの名前で手紙を書き、娘なんかどうなろうとかまわないほどのひどい状態にあるので、娘たちに、危険をおかして手紙を持ってゆかせてること。また、前日娘たちが逃げ出しながら息をきらしおびえていたところを見、また、そのとき耳にしたあの変な言葉から察すると、おそらくふたりはなにかよからぬことをしていたにちがいないことなどが、マリユスにはだんだんわかってきたのだった。
悲しむべき者たち、彼らには名前もなく、年齢もなく、男女の性もなく、彼らにとってはもはや善も悪も空名であって、幼年時代をすぎるや、すでに世に一物をも所有せず、自由をも徳義をも責任をも有しない。昨日開いて今日は、はや色あせたその魂は、往来に投げすてられ、泥にしぼんでただ車輪にひかれるのを待つばかりの花のようなものである。
若い娘は幽霊のように臆面《おくめん》もなく部屋のなかを歩きまわっていた。スカートのさけ目から肌《はだ》がみえてることなどは少しも気にしないで、部屋のなかをさわぎまわった。彼女は椅子を動かしたり、戸棚の上にある化粧道具をかきまわしたり、マリユスの服にさわってみたりして、部屋の隅々《すみずみ》までかきまわしていた。
「あら」と彼女はいった。「鏡があるのね」
そしてまるで自分ひとりでもあるかのように、きれぎれの流行唄《はやりうた》や、馬鹿なはやり文句などを口ずさんでいたが、しゃがれ声のためにそれも悲しげにひびいた。しかしそういうずうずうしさの下にも、いいしれぬ気がねと、不安と、卑下とがみえていた。
マリユスはもの思いに沈んだまま、彼女を勝手にさせておいた。
彼女はテーブルに近づくと、
「ああ、本が!」といった。
彼女のくもった眼はある光りに輝いた。そしていかなる人の感情のうちにもみられる、あの誇りやかな気持ちをこめた調子で、彼女はいった。
「あたし本を読むことができるのよ」
彼女はテーブルの上に開いてあった一冊の書物を元気よく取りあげて、かなりすらすらと読み下した。
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……ボージュアン将軍は、旅団の五大隊をもってウーゴモンの城を奪取すべしとの命令を受けぬ、城はワーテルロー平原の……
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彼女は読むのをやめた。
「ああ、ワーテルロー、あたしそれを知ってるわ。昔の戦争ね。うちのお父《とう》さんも行ったのよ。お父さんは軍人だったのよ。うちの者はみんな立派なボナパルト党だわ。ワーテルローって、イギリスと戦《いくさ》をしたところね」
彼女は書物をおいて、ペンをとり、そして叫んだ。
「それからまたあたし、書くこともできてよ」
彼女はペンをインクの中にひたして、マリユスのほうへむいた。
「見たいの? ほら、いま字を書いてみせるわ」
そしてマリユスがなにか答える間もなく、彼女はテーブルのまん中にあった一枚の白紙へかいた。
「|いぬ《ヽヽ》がいる」
それからペンをすてた。
「字は違ってないでしょう。見てくださいよ。あたしたちは学問をしたのよ。妹もあたしも。前からこんなじゃなかったのよ。あたしたちだって……」
そこで彼女は急に口をつぐんで、そのにごった瞳をじっとマリユスの上にすえ、そして笑いだしながら、あらゆる苦しみをあらゆる皮肉でおさえつけるような調子でいった。
「ふーん!」
そして快活な調子でつぎの文句を小声で歌いだした。
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お腹《なか》が空《す》いたわ、お父さん。
食う物がないよ。
身体《からだ》が寒いわ、お母さん。
着る物がないよ。
震えよ、
ロロット!
泣けよ、
ジャッコー!
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そういう俗歌を歌いおわるがはやいか、彼女は叫んだ。
「マリユスさん、あなた時々芝居へ行って? あたしゆくのよ。あたしには小さい弟があって、役者たちと友だちなので、時々切符をくれるの。でもむこう棧敷はきらいよ。きゅうくつできたなくて、どうかすると乱暴な人や臭い人がいっぱいいるんだもの」
それから彼女はつくづくとマリユスをながめ、妙な様子をしていった。
「マリユスさん、あなたは自分が大変いい男なのをしってるの?」
そして同時に同じ考えが二人におこった。それで娘は微笑したが、マリユスは顔を赤くした。
彼女は彼にちかよって、片手をその肩の上においた。
「あなたはあたしを気にもとめてないが、あたしはマリユスさん、あなたをしっててよ。ここでもよく階段のところで会ったわ。それから、オーステルリッツ橋の近くに住んでるマブーフという爺《じい》さんの家へあなたがゆくのを、なんども見たわ、あの近所を歩いてる時に。あなた、そう髪の毛を散らしてるところがよく似合ってよ」
彼女はやさしい声をしようとしていたが、そのためにただ声が低くなるばかりだった。それはちょうど鍵《キー》のない鍵盤の上では音がでないように、彼女の言葉の一部は、のどから唇へくる途中で消えてしまった。
マリユスは静かに身をひいていた。
「お嬢さん」と彼はひややかな調子でいった。「多分あなたのらしい包みがそこにありますよ。あなたにお返ししましょう」
そして彼は四つの手紙がはいってる包みをとって彼女にさしだした。
彼女は手をうって叫んだ。
「まあ、あっちこっち探したのよ」
それから急に包みをひったくって、その包み紙を開きながらいった。
「ほんとに妹と二人でどのくらい探したかしれやしない! あなたが拾ってくれたのね。大通りででしょう。大通りにちがいないわ。かけだした時に落したのよ。そんなばかなことをしたのは妹なのよ。家へ帰ってみるとないんだもの。ぶたれたくないもんだから、ぶたれたってなんの役にもたたないから、ほんとになんの役にもたたないから、まったくよ、だからあたしたちはこういったの、手紙はちゃんと持っていったが、どこでもことわられてしまったって。だけど、まあ手紙はみんなここにあったのね。どうしてあなたそれがあたしのだとわかって? ああそう、筆跡《て》でね。ではゆうべあたしたちが道でつきあたったのは、あなただったのね。ちっともみえなかったんだもの。あたしは妹にいったの、男だろうかって。すると妹は、そうらしいといったわ」
そういってるうちに彼女は、「サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂の慈悲深き紳士殿」という宛名の手紙を開いてしまった。
「そう」と彼女はいった。「これはミサヘゆくお爺《じい》さんへやる手紙よ、ちょうど時間だわ。あたし持ってってこよう。朝御飯が食べられるだけのものをもらえるかもしれない」
それから彼女は笑いだしてつけくわえた。
「今日の朝ごはんはあたしたちにとってはなんだかあなたにわかって? おとといの朝ごはんと、おとといの晩ごはんと、きのうの朝ごはんときのうの晩ごはんと、それだけをみんないっしょにけさ食べることになるのよ。かまやしない、お腹《なか》がはちきれるほど食べてやるわ」
それでマリユスは、その不幸な娘が自分のところへ求めにきたものがなんであったかを思いだした。
彼はチョッキの中を探ったが、なにもなかった。
娘はしゃべりつづけた。あたかもマリユスがそこにいるのも忘れてしまったようだった。
「あたしはよく晩にでかけていくの。なんども帰ってこないこともあるわ。ここに来る前、去年の冬は、橋の下に住んでたのよ。冷えきってしまわないように皆かさなりあってたわ。妹なんか泣いててよ。水ってほんとに悲しいものね。身を投げようかと思ったけど、でもあまり寒そうだからといつも思いかえしたの。でかけたい時はすぐに一人ででかけてよ。溝の中に寝ることもよくあるわ。夜中にまちを歩いてると、木が首切台のように見えたり、大きい黒い家がノートル・ダムの塔のように見えたり、また白い壁が河のように見えるので、おや、むこうに水があるっておもうこともあるのよ。星がイリュミネーションのあかりのようにみえて、ちょうど煙が出たり、風に吹き消されたりしてるようで、また耳のなかに馬が息を吹きこんでるような気がしてびっくりするのよ。夜中なのに、バルバリーのオルガンの音だの、製糸工場の機械の音だの、なんだかわからないいろいろなものが聞えてよ。誰かが石をぶっつけるようなの、夢中に逃げだすの、あたりがぐるぐる廻りだすの、なにもかも廻りだすのよ。なんにも食べないでいると、ほんとに変なものよ」
そして彼女はわれを忘れたようなふうでマリユスをながめた。
マリユスはほうぼうのポケットを探りまわしたあげく、やっと五フランと十六スーほどあつめた。それが今彼の持ってる全財産だった。「まあこれできょうの夕食は食えるし、あすのことはどうにかなるだろう」と彼は考えた。そして十六スーを取っておき、五フランを娘に与えた。
娘はその貨幣をつかんだ。
「まあ有難い」と彼女はいった。「おひさまは照ってるわ!」
そしてあたかもそのおひさまが、彼女の頭の中の怪しい言葉の雪崩《なだれ》をとかす力でももってたかのように、彼女はいいつづけた。
「五フラン! 光ってるわ、王様だわ、しめだわ。あなたは親切なねんこだわ。あたしあなたにぞっこんよ。いいこと、どんだくだわ。二日の間は、肉とシチュー、たっぷりやって、それに気楽なごろんだわ」
そんな訳のわからぬことをいって、シャツを肩にひきあげ、マリユスにていねいにおじぎをし、それから手で親しげな合図をし、そして扉のほうへゆきながらいった。
「さようなら。でもとにかく、あのお爺さんを探しにいってみよう」
出がけに彼女は、ひからびたパンの外皮が戸棚の上のちりのなかにかびかかってるのをみつけて、それにとびかかると、すぐにかじりつきながらつぶやいた。
「うまい、堅い、歯がかけそうだ」
それから彼女は出ていった。
三
マリユスはもう五年の間、貧困、欠乏、窮迫のうちに生きてきていた。しかし彼はまだ本当の悲惨さ、というものをしらなかったことに気づいた。
あの若い娘は、マリユスに闇黒の世界からつかわされたようなものだった。
彼女はマリユスに、闇夜の恐ろしい一面を開いてみせた。
マリユスは今までに、空想と情熱とに心をうばわれて、となりの者たちには、一|瞥《べつ》をもあたえなかったことを、自分に叱った。彼らの家賃を払ってやったことは、ただ機械的にしたことで、人が当然なすべきことをしたにすぎないのだ。自分は気をつけるべきだった。
マリユスはなんども、自分で自分を叱りながら、自分の部屋とジョンドレットの一家とをへだてる壁をじっと見まもっていた。壁は割板と角材とでささえたうすいしっくいでできているだけで、となりの人たちの声はつつぬけにきこえてきていた。今までそれに気づかなかったとは、マリユスもよほどの夢想家だったにちがいない。ジョンドレットのほうにも、またマリユスのほうにも、一枚の壁紙もはってなかった。マリユスはなにげなしにその壁をしらべてみた。そこで彼は思いがけない発見をした。天井に近い高いところに、三枚の割板がよくあわないで、できてる三角形の穴がひとつあるのに気がついた。そのすきまをふさいでいたはずのしっくいはなくなっていた。戸棚の上にのぼれば、そこからジョンドレットのきたない部屋のなかはみられる。そのすきまは一種ののぞき穴になっていた。不幸を救うためには、それをひそかにながめることも許される。「いったい彼らはどういう人間なのだろう。どういう暮しをしてるのだろう。ひとつ見てやろう」とマリユスは考えた。
彼は戸棚の上にはいあがり、ひとみを穴にあてがい、そしてながめた。
彼がのぞきこんだ部屋は、きたなくて、臭くて、不健康で、うす暗くて、なんともいえないいやな気分がただよっていた。家具としてはただ一脚の藁椅子《わらいす》、こわれかかった一個のテーブル、数個のかけた古壜《ふるびん》、それから二つの寝床。明りとしてはただ、くもの巣のはりつめた四枚ガラスの屋根裏の窓。その軒窓からは、人の顔を幽霊の顔くらいにみせるわずかな光りがさしこんでいた。じめじめした気分がそこからにじみだしていた。木炭で書きなぐった卑猥《ひわい》な絵がかすかにみえていた。板も張ってなかった。家族の者はよごされた古いしっくいの上をじかに歩いていた。その凸凹の床の上には、ほこりがこびりついて、古い上靴や汚いぼろなどがあちこちにとり散らされていた。でも部屋には煖炉がひとつあって、その中には二本の燃えさしの薪が、さびしげにくすぶっていた。
テーブルの上にマリユスはペンとインクと紙とをみつけたが、その前には、六十才ばかりの男が坐っていた。男は背が低く、やせて、血の気のない顔をして落着かない様子をしていた。
その男は長い半白のひげを生やしていた。女のシャツを着ていたが、そのために毛むくじゃらの胸と灰色の毛が逆だってる裸の腕とがみえていた。
彼はパイプを口にくわえ、それをくゆらしていた。部屋の中には一片のパンもなかったが、それでもたばこだけはあった。
彼はなにか書いていたが、恐らくマリユスがさっき読んだような手紙であろう。
物を書きながら男は大声でなにかいってた。
「死んだからって平等ということはねえんだ! ぺール・ラシェーズの墓地を見てみろ。身分のある奴らのは、金のある奴らのは、上手《かみて》の石のしいてあるアカシヤの並木道にある。そこまで馬車でゆけるんだ。身分の低い貧乏な連中の、不幸な連中の墓をみてみろ! みな下手《しもて》にあるんだ。泥が膝までこようってところだ、早く腐るようにそんな所へ入れられるんだ。墓まいりをするったって、地の中へめいりこむようにしなけりゃゆかれやしねえ」
そこで彼はちょっと言葉をきって、食卓の上をたたき、歯ぎしりしながらつけ加えた。
「ええ、世界じゅうを食ってもやりてえ!」
四十才とも、見ようによれば百才とも見えるようなふとった女が、はだしで煖炉のそばにかがんでいた。
女もただシャツ一枚と、古|羅紗《らしゃ》のつぎのあたったメリヤスのスカート一枚をつけてるだけだった。彼女は腰を折ってかがんでいたが、背はごく高そうにみえた。亭主とくらべると大女だった。白髪まじりの赤茶けた汚い金髪をしていたが、つやのある大きな手でそれを時々かきあげていた。
女のそばには一冊の書物が開いたまま、下に置いてあった。おそらく小説だろう。
一方の寝床の上には、身体の細長い色の青い小娘が腰かけてるのがみえていた。半裸体のままで、足をぶらさげ、なにも見ずなにもききもせず、じっとしたまま、まるで死んでるみたいな様子をしていた。
マリユスのところへやってきた娘の妹にちがいない。
年は十一か十二ぐらいにみえた。だがよく注意してみると、十五にはなってるらしかった。前夜大通りで「ただもう一目散よ」といったのは、その娘だった。
マリユスはしばらく、その惨憺《さんたん》たる部屋のなかをじっとながめていた。それは墓の中よりもいっそう恐ろしいものだった。そこでは、なにか人の魂がうごめき、生命が苦しみ喘《あえ》いでるのが感じられるようだった。
男はだまってしまい、女は口もきかず、若い娘は息さえもしていないようだった。ただ紙の上をきしるペンの音ばかりがきこえていた。
やがて男は書く手をやすめずつぶやいた。
「ああ、ばかばかしい、ばかばかしい。なにもかもばかばかしくてたまらねえ」
その言葉に、女はためいきをもらしていった。
「お前さん、そういらいらしなさんなよ、身体でもわるくしちゃつまらないよ。あんた、あんな人たちに、だれかまわずに手紙を書くなんて、あんまり気がよすぎるよ」
男はまた書きはじめていた。
四
マリユスは胸をしめつけられるような思いがして、間にあわせのその一種の観測台からおりようとした。そのとき、ある物音がきこえてきたので、彼は気をひかれてまたそこにとどまった。
部屋の扉が突然開かれたのだった。
姉娘が戸口のところにあらわれた。
足には太い男の靴をはき、靴から赤い踵《くるぶし》のところまで泥をはねあげ、ぼろぼろの古いマントをきていた。一時間前マリユスが見た時はそのマントを着ていなかったが、でしなにまた着ていったのであろう。彼女ははいってくると、扉をうしろに押しやり、息をきらしてるのでちょっととまって休み、それから勝ちほこったうれしそうな表情をして叫んだ。
「来るよ!」
父は眼を彼女のほうにむけ、女房は顔をそのほうにむけたが、妹は身動きもしなかった。
「誰が?」と父はきいた。
「旦那がよ」
「あの慈善家か」
「そうよ」
「サン・ジャック会堂の?」
「そうよ」
「あの爺《じい》さんか?」
「そうよ」
「それがくるのか」
「今あたしの後からくるのよ」
「たしかか?」
「たしかよ」
「では本当にあいつがくるのか」
「辻馬車でくるわ」
「辻馬車で。ロスチャイルドみたいだな」
父は立ちあがった。
「どうしてたしかだってことがわかるんだ。辻馬車でくるんなら、どうしてお前のほうが先にこられたんだ。廊下の一番奥の右手の戸だとよくいっておいたろうな。間違いがなけりゃいいがな。でお前は教会堂で会ったんだね。手紙は読んでくれたのか。お前はどういうふうにいったのだ」
「まあまあお父さん!」と娘はいった。「何でそうせきたてるのよ。こうなんだよ。あたしが教会堂にはいると、むこうはいつもの所にいた。あたしはおじぎをしてね、手紙を渡してやったのさ。むこうはそれを読んでくれてね、あたしにきくのよ、『お前さんはどこに住んでいますか』って。『旦那さま、わたくしがご案内しましょう』と答えると、こういったのよ。『いや、ところを知らしておくれ。娘が買物をしなければならないから、私はあとから馬車にのって、お前さんと同じくらいに着くようにする』それであたしはところを知らしてやったわ。家を知らせると、むこうはびっくりして、ちょっともじもじしてるようだったけど、それからこういったの。『とにかく、私は行くから』ミサがすんでからあたしは、あの人が娘といっしょに教会堂から出るのを見たわ、それから辻馬車にのるところも。あたしちゃんと、廊下の一番奥の右手の戸だっていっておいたよ」
「それで、どうしてきっとくることがわかるんだ」
「馬車がプティ・バンキエ街へくるのをみたのよ。だから駈けてきたんだわ」
「どうしてその馬車だってことがわかる?」
「ちゃんと馬車の番号をみといたんだよ」
「何番だ」
「四百四十番よ」
「よし、お前はりこうな娘《こ》だ」
娘はじっと父を見つめ、そして足にはいてる靴をみせながらいった。
「りこうな娘《こ》かもしれないわ。でもあたしはもうこんな靴はごめんよ、もうどうしたっていやよ。第一|身体《からだ》にわるいし、その上みっともないわ。底がじめじめして、しょっちゅうぎいぎいいうくらい、いやなものったらありゃしない。はだしのほうがよっぽどましだわ」
「もっともだ」と父は答えた。そのやさしい調子は娘のあらあらしいいいかたと妙な対照をなしていた。「だが教会堂へは靴をはかなくちゃはいれねえからな。貧乏な者だって靴をはかなきゃならねえ。神さまの家へははだしではいかれねえよ」と彼はにがにがしくつけくわえた。それからまた頭をしめてる問題にかえっていった。
「では、きっとくるんだな?」
「すぐあたしのあとにやってくるよ」と娘はいった。
男は身をおこした。顔には一種の輝きがあった。
「おいお前」と彼は叫んだ。「聞いたか。いま慈善家がくるんだ。火を消しておけよ」
女房はあきれかえって身動きもしなかった。
父親は軽業師のようにすばやく、煖炉の上にあった口のかけた壷《つぼ》をとり、燃えさしの薪の上に水をぶちまけた。
それから姉娘のほうへむいていった。
「お前は椅子の藁をぬくんだ」
娘はそれがなんのことだかわからなかった。
父は椅子をつかみ、踵で一蹴りして、腰掛台の藁を抜いてしまった。彼の足はそこをつきぬけた。足を引きぬきながら、彼は娘にたずねた。
「今日は寒いか」
「大変寒いわ。雪が降ってるよ」
父は窓のちかくの寝床に坐ってた妹娘のほうをむいて、雷のような声で怒鳴《どな》った。
「おい、寝床からおりろ、なまけ者が。いつもつくねんとしてばかりいやがる、窓ガラスでもこわせ」
娘はふるえながら寝床からとびおりた。
「窓ガラスをこわせったら!」と父はまたいった。
娘はあっけにとられて立っていた。
「わからねえのか」と父はくりかえした。「窓ガラスを一枚こわせというんだ」
娘はただ恐ろしさのあまり父の言葉にしたがって、爪先で背伸びをし、こぶしをかためて窓ガラスをうった。ガラスはこわれて、大きな音をして下におちた。
「よし」と父はいった。
彼は着実でまた敏速だった。部屋の隅々までいそいでみまわした。
彼の様子はちょうど、戦争がはじまろうとするにあたってはやくも最後の準備をする将軍のようだった。
それまで一言も口をきかなかった母親は、ようやく立ちあがって、ゆっくりした重々しい声でたずねた。
「あんた、なにをするつもりだね?」
「お前は寝床に寝ていろ」と男は答えた。
その調子には相手に|うむ《ヽヽ》をいわせないような力がこもっていた。女房はだまって、寝床の上に重々しく身をよこたえた。
そのうちに、片すみですすり泣く声がした。
「なんだ?」と父親は叫んだ。
妹娘はなおすみっこにうずくまったまま、血にまみれたこぶしをだしてみせた。窓ガラスをこわすときけがしたのである。彼女は母親の寝床の側にいって、黙って泣いていた。
こんどは母親が身をおこして叫んだ。
「まあごらんよ。なんて馬鹿なことをさせたもんだね。ガラスなんかこわさしたから手をきったんじゃないか」
「そのほうがいい」と男はいった。「はじめからそのつもりだ」
「なんだって、そのほうがいいって?」と女はいった。
「静かにしろ!」と男は答えかえした。「おれは言論の自由を禁ずるんだ」
それから彼は自分がきていた女のシャツを引きさいて、それで娘の血にまみれた拳《こぶし》をいそいでゆわえた。
それがすむと、彼は満足げな眼つきで自分のさけたシャツを見おろした。
「おまけに、このシャツだって」と彼はいった。「なかなかいい工合にみえる」
凍るような風が窓ガラスに音をたてて、部屋の中に吹きこんできた。ガラスのこわれた窓からは、雪の降るのが見られた。
父親はぐるりとあたりをみまわして、なにか忘れたものはないかとしらべてるようだった。それから、古い十能《じゅうのう》をとりあげて湿った薪の上に灰をかぶせ、すっかりそれを埋めてしまった。
それからたちあがって、煖炉によりかかっていった。
「さあこれで慈善家をむかえることができる」
姉娘は父親のところへよってきて、彼の手の上に自分の手をおいた。
「さわってごらん、こんなに冷たいわ」と彼女はいった。
「なあんだ」と父は答えた。「俺のほうがもっと冷たい」
母親は|せっかち《ヽヽヽヽ》に叫んだ。
「お前さんはいつでも誰よりも上だよ、苦しいことでもね」
「黙ってろ」と男はいった。女は黙ってしまった。
破屋《あばらや》の中はいちじ静まりかえった。姉娘は平気な顔をしてマントのすその泥をおとしていた。妹のほうはなお泣きつづけていた。母親は両手に娘の頭をかかえてやたらに唇をつけながら、低くささやいていた。
「いい子だからね、泣くんじゃないよ、なんでもないからね。泣くとまたお父さんにおこられるよ」
「いやそうじゃねえ」と父は叫んだ。「泣け、泣け。泣くほうがいいんだ」
それから彼は姉娘のほうへむいていった。
「どうしたんだ、こないじゃねえか。こなかったらどうする。火は消す、椅子はこわす、シャツはさく、窓ガラスはこわす、そして一文にもならねえんだ」
「おまけに娘にはけがをさせてさ!」と母親はつぶやいた。
「おい」と父親はいった。「この屋根裏はべらぼうに寒いじゃねえか。もしこなかったらどうするんだ。これはまたなんて待たせやがるんだ。きっとこんなふうに考えてやがるんだろう『なあに待たしておけ、それがあたりまえだ!』ほんとうにいまいましい奴らだ。しめ殺してでもやったら、どんなにいい気持ちかわからねえ。あの金持ちの奴らをよ、みんな残らずさ。どいつもこいつも、慈悲深そうな顔をしやがって、体裁《ていさい》ばかりつくりやがって、ミサにはゆくし、坊主《ぼうず》には物を送ったりおべっかを使ったりしやがる。だがあの慈善家のばか野郎、いったいなにをしてるんだ。ほんとうにくるのか。ことによると番地を忘れたかな。あの爺《じじい》の畜生め……」
その時かるく扉をたたく音がした。男はとんでいって扉を開き、うやうやしくおじぎをして、いった。
「おはいりください。ご親切な旦那、また美しいお嬢さまも、どうかおはいりください」
年とったひとりの男と若いひとりの娘とが、その屋根裏部屋の入口にあらわれた。
マリユスはそのときまだのぞき穴のところにいたのだった。そしてその瞬間、彼がうけたショックはとうてい人間の言葉ではあらわせないものだった。
姿をあらわしたのは、まさに彼女《ヽヽ》だったのである。
およそ恋をしたことのあるものは、「彼女」という言葉の二字のうちにふくまれる、光り輝く意味を知っているだろう。まさしく彼女であった。マリユスは突然眼前にひろがった光りかがやく霧をとおして、ほとんど彼女の姿をみわけることができないくらいだった。だが、それはまさしく、彼の前から姿をけした、あのやさしい娘だった。六カ月の間、彼に輝いていたあの星だった。あの瞳《ひとみ》、あの額《ひたい》、あの口、消えさりながら彼を闇夜のうちに残したあの美しい顔だった。その面影《おもかげ》は、いちどみえなくなったが、いままた彼の前にあらわれたのである。
その面影はふたたび、この屋根裏部屋のなかに、この醜い破屋《あばらや》のなかに、この恐ろしい醜悪のなかに、あらわれてきたのである。
マリユスは思わず身ぶるいした。まさしく彼女である! 彼は胸の動悸《どうき》のために眼もくらむほどだった。
彼女はあの時とそっくりの姿をしていた。ただ色が蒼《あお》くなってるだけだった。
彼女はやはりルブラン氏といっしょだった。
彼女は部屋のなかに二、三歩はいってきて、食卓の上に、かなり大きな包みを置いた。
ジョンドレットの姉娘は、扉のうしろに退いて、そのびろうどの帽子、その絹の外套、また愛くるしい幸福な顔を、陰気な眼つきでながめていた。
五
部屋のなかはとても暗かったので、外からはいってくると、ちょうど穴ぐらへでもはいったような感じがした。それで新来の二人は、あたりのぼんやりした物の形をみわけかねて、すこしちゅうちょしながらはいってきた。だが家の者たちは、屋根裏に住む者の常としてうす暗がりになれた眼で、彼らの姿をすっかりみてとることができた。
ルブラン氏は親切そうな、また悲しげな眼つきで近づいてきて、ジョンドレットにいった。
「さあこの包みのなかに、新らしい服と靴下と毛布とがはいっています」
「神さまのような慈悲深いお方、いろいろありがとうぞんじます」とジョンドレットは頭を床《ゆか》にすりつけんばかりにしていった。──それから、二人の客があわれな部屋の内部をみまわしてる間に、彼は姉娘の耳もとに身をかがめて、低くはや口にいった。
「へん、おれがいったとおりじゃねえか。ぼろだけで、金は一文もくれねえ。奴らはみんなそうだ。ところでこのおいぼれにやった手紙には、こちらの名前はなんとしておいたっけな」
「ファバントゥーよ」と娘は答えた。
「うむ俳優だったな、よし」
それを思いだしたのはジョンドレットには幸運だった。ちょうどその時ルブラン氏は、彼のほうへむいて、名前を思いだそうとしているような様子で彼にいった。
「なるほどお気の毒です、ええと……」
「ファバントゥーと申します」とジョンドレットはいそいで答えた。
「ファバントゥー君と、なるほどそうでしたな。ええ、おぼえています」
「俳優をしていまして、もとはよく当てたこともございますので」
そこでジョンドレットは、この「慈善家」をうまく|かも《ヽヽ》にしてやる時がきたと思った。で彼は、香具師《やし》のような大げさな調子と、大道乞食のようなあわれな調子とをまぜあわせた声で叫んだ。
「タルマの弟子でございます。旦那、わたしはタルマの弟子だったのでございます。昔は万事都合がよろしゅうございましたが、ただいまではまことに不運な身の上になりました。旦那ごらんくださいまし、パンもなければ火もございません。ただひとつの椅子は藁がぬけ落ちています。こんな天気に窓ガラスはこわれています。それに家内まで寝ついていまして、病気なのでございます」
「お気の毒に」とルブラン氏はいった。
「子供までけがをしています」とジョンドレットはいいそえた。
小娘は知らない人がきたのにまぎらされて、「お嬢さま」をながめながら泣きやんでいた。
「泣けったら、大声に泣けよ」とジョンドレットは彼女にひくくささやいた。
と同時に彼はそのけがをした手をつねった。彼はそれらのことを手品師のような早わざでやってのけた。
娘は大声をたてた。
マリユスが心のうちで、「わがユルシュール」とよんでいた美しい若い娘は、すぐにそのほうへやっていった。
「まあかわいそうなお子さん!」と彼女はいった。
「お嬢さま」とジョンドレットはいいすすんだ。「この血のでている手首をごらんくださいまし。日に六スーずつもらって機械で仕事をしていますうちに、こんなことになりました。あるいは腕をきりおとさなければならないかもしれません」
「そうですか」と老人は驚いていった。
小さな娘はその言葉を本気にとって、いかにもうまく泣きだした。
「まったくのことでございまして、実にどうも!」と父親は答えた。
しばらく前からジョンドレットは、その「慈善家」を変な様子でじろじろながめていた。口をききながらも、なにか記憶をよびおこそうとでもするように、注意して彼の様子を探ってるらしかった。そして新来の二人が小娘にその負傷した手のことを同情してたずねてるすきに、彼はとっさに、ぼんやりして元気のない様子で寝床に横たわってる女房のそばへゆき、低い声でいった。
「あの男をよく見ておけ!」
それからルブラン氏のほうをむき、あわれな|くらし《ヽヽヽ》の有様をくどきつづけた。
「旦那、ごらんのとおりわたしは、着る物とては家内のシャツ一枚きりでございまして、それもこの冬のさなかにすっかり破れさけています。服がないので外にも出られないようなしまつでございます。服一枚でもありましたら、わたしはマルス嬢のところへでもゆくのでございますが、嬢はわたしを知っていましてごく贔屓《ひいき》にしてくれます。まだトゥール・デ・ダーム街に住んでるのでございましょうか。旦那もごぞんじですかどうか、わたしは娘といっしょに田舎で芝居をうったことがあります。わたしもいっしょに大成功でございました。ですがこの姿ではどうにもできません。その上一文の持ちあわせもありません。まったく家内が病気なのに無一文なのでございます。娘がひどいけがをしているのに無一文なのでございます。家内はときどき息がつまります。年齢《とし》のせいでもございましょうが、また神経も手伝っています。どうにかいたさなくてはなりません。また娘のほうも同様で。と申して、医者も薬も、どうして払えましょう、一文もありません。ですからまあわずかなお金でもひざまずいておしいただくようなしまつでございます。芸術なんていうものもこうなっては惨《みじ》めなものでございます。美しいお嬢さま、それからご親切な旦那さま、さようではございませんか。あなた方は徳と親切とを旨《むね》とされて、いつも教会堂へおいででございますが、わたしのかわいそうな娘もまた教会堂へお祈りにまいっていますので、毎日お姿をお見かけいたしております。わたしは娘たちを宗教のうちに育てたいのでございます。芝居へなんぞはやりたくないと思いましたので。賤しい者の娘はえてつまずきやすいものでございます。わたしはつまらないことはけっして聞かせません。いつも名誉だの道徳だの節操だのを説いてきかせています。娘たちにたずねてもみてくださいませ。まっすぐな道を歩かなければなりません。娘たちは父としてわたしをいただいています。ちゃんとした家庭を持たぬのがはじまりで、しまいには賤しい稼ぎに身をおとすような不幸な者どもではございません。わたしは娘たちを立派に教育したいのでありまして、ただ正直になるように、温順になるように、尊い神さまを信ずるようにと願っております。──それから旦那、立派な旦那さま、わたしどもが明日《あす》どんなことになるかはご承知でもございますまい。明目は二月四日で、いよいよ、家主に待ってもらった最後の日でございます。もし今晩払いをしませんと、明日は、姉娘と、わたしと、熱のある家内と、けがをしている子供と、わたしども四人はここから外の往来に、おいだされてしまいまして、宿もなく、雨の中を、雪の中を、路頭に迷わなければなりません。かようなわけでございます。旦那さま。四期分の、一年分の、借りがあるのでございまして、六十フランになっております」
ジョンドレットは嘘をいった。家賃は四期で四十フランにしかならないはずであるし、またマリユスが二期分を払ってやってから六カ月しかたっていないので、四期分の借りができてるわけもなかった。
ルブラン氏はポケットから五フランをとり出して、それをテーブルの上においた。
ジョンドレットはその僅かなすきに姉娘の耳にささやいた。
「馬鹿にしてる、五フランばかりでどうしろっていうのだ。椅子とガラスの代にもならねえ。せめてそれだけの代ぐらいはおいてくがあたり前だ」
その間にルブラン氏は、青いフロックの上にきていた大きな褐色の外套をぬいで、それを椅子の背になげかけた。
「ファバントゥー君」と彼はいった。「私はいま五フランきり持ちあわせがないが、一応娘をつれて家にかえり、今晩またやって来ましょう。今晩中にどうしても払わなくちゃならないのですね……」
ジョンドレットの顔は異様な色に輝いた。彼は元気よく答えた。
「さようでございます、旦那さま。八時には家主のところへ持ってまいらなければなりません」
「では六時にやってきます、その時六十フラン持ってきましょう」
「ほんとにご親切な旦那さま!」とジョンドレットは夢中になって叫んだ。
そしてすぐに彼は低く女房にささやいた。
「おい、あいつをよく見ておけよ」
ルブラン氏は若い美しい娘の腕をとって、扉のほうへむいた。
「では今晩また、皆さん」と彼はいった。
「六時でございますか」とジョンドレットはきいた。
「ええ、かっきり六時にきます」
その時、椅子の上にあった外套がジョンドレットの姉娘の眼にとまった。
「旦那」と彼女はいった。「外套をお忘れになっています」
ジョンドレットは恐ろしく肩をそばだて、燃えるような眼つきで娘をじろりとにらんだ。
ルブラン氏はふりかえって、ほほえみながら答えた。
「忘れたのではありません。それは置いてゆくのです」
「おお、わたしの恩人さま」とジョンドレットはいった。「じつに情け深い旦那さま、わたしは涙がこぼれます。せめて馬車までおともさしてくださいませ」
「外にでるなら」とルブラン氏はいった。「その外套をお着なさい。ひどく寒いですよ」
ジョンドレットは二言と待たなかった。彼はすぐにその褐色の外套を引っかけた。
そしてジョンドレットが先にたって、三人は部屋をでていった。
六
マリユスはその光景をすっかり眺めた。しかし実際はなにもはっきりみてとることはできなかった。彼の眼は若い娘の上にすえられて、彼の心は、彼女がその部屋に一歩ふみこむやいなや、いわば彼女をつかみとり、彼女をすっかり包みこんでしまっていた。彼女がそこにいる間、彼はまったく恍惚《こうこつ》とした気持になって、あらゆる物質的な知覚を失い、全心をただ一点に集中していた。彼が眺めていたものはその娘ではなくて、繻子《しゅす》の外套と、びろうどの帽子とをつけた光明そのものだったといってもよかった。シリアス星がその部屋のなかにはいってきたとしても、彼はそれほどまぶしくは感じなかったろう。
若い娘が包みをひらき、着物と毛布とをそこにひろげ、病気の母親に親切な言葉をかけ、けがをした娘にあわれみの言葉をかけてる間、彼はその一挙一動をみまもり、その言葉をききとろうとした。その眼、その額《ひたい》、その美貌、その姿、その歩き方を彼はみんな知っていたが、その声の音色《ねいろ》はまだしらなかった。かつてリュクサンブール公園で、その数語を耳にしたように思ったこともあったが、それも、たしかにそうだとはわからなかった。そしてもし、彼女の声をきくなら、その音楽の|ひびき《ヽヽヽ》をすこしでも自分の心のうちにしまいこむことができるなら、十年ほど自分の生命を縮めてもおしくないとまで思った。けれどもジョンドレットの哀願の声や、ラッパのような嘆声に、彼女の声はすっかり消されてしまった。マリユスは狂気とともに、憤怒の情をさえおぼえた。彼は眼のなかに彼女の姿をつつみこんでいた。その恐ろしい破屋《あばらや》のうちの怪物どもの間に、神聖なる彼女を見いだそうとは、夢にもおもわなかった。彼は墓のなかに、まるで蜂雀をみるような気がした。
彼女が出ていった時、彼はただひとつのことしか考えてなかった。すなわち、彼女のあとにしたがい、そのあとをつけ、住所を知るまでは決してはなれず、すくなくとも、こうした不思議なめぐり合いの好機を絶対にのがすまいとして、彼は戸棚からとびおり、帽子をとった。そして、扉の把手《とって》に手をかけ、出ようとした時、ふと足をとめて考えた。廊下は長く、階段は急であり、その上ジョンドレットはおしゃべりだから、ルブラン氏はまだおそらく馬車にのってはいないだろう。もしルブラン氏が廊下か階段か、門口のところでふりかえって、この家のなかに自分がいることに気づきでもしようものなら、きっと警戒して、ふたたび自分からのがれようとするだろう。そしてそれではまた万事おしまいである。なんとしたらいいものか、すこし待つとしようか。しかし待ってる間に、馬車は走りさってしまうかもしれない。マリユスはまったく困ってしまった。しかし、ついに彼は危険をおかして部屋を出た。
もう廊下には誰もいなかった。彼は階段のところへ走っていった。階段にも誰もいなかった。大いそぎで階段をおり、大通りに出ると、ちょうど馬車がプティ・バンキエ街の角をまがって、市中へ帰ってゆくのがみえた。
マリユスはそのほうへかけていった。大通りの角までゆくと、ムーフタール街を走ってゆく馬車がまたみえた。しかしもうよほど遠くなので、とうてい追っつけそうもなかった。あとを追ってかけだす、そんなことはとてもできない。たとい足にまかせて追っかけたとしても、馬車のなかからそとがよくみえるので、老人はすぐに自分だということに気づくにちがいない。ところがその時、思いがけなくもマリユスは、ふと公営馬車が空《から》のままで、大通りをすぎるのを見つけた。いまはもう、その馬車にのって先の馬車の跡をつけるより外に方法はなかった。この手でゆけば確実で、またさとられる危険もない。
マリユスは手をあげて馭者を呼びとめて叫んだ。
「時間ぎめで!」
マリユスはネクタイもつけず、ボタンのとれた古い仕事服を着、シャツは胸のところがさけていた。
馭者は馬をとめ、マリユスのほうへ左の手をさし出しながら、人差指と親指との先を静かにこすってみせた。
「なんだ?」とマリユスはいった。
マリユスは十六スーきり持ちあわせがないことを思いだした。
「いくらだ?」と彼はたずねた。
「四十スー」
「帰ってきてから払おう」
馭者はなんの答えもせず、口笛をふきながら馬にむちをあてていってしまった。
マリユスはぼうぜんとして馬車がいってしまうのを眺めた。持ちあわせが、わずか二十四スーたりなかったために、喜びと幸福と愛とを失ってしまい、ふたたび闇夜のうちにつきおとされてしまった。せっかく芽をふきかけてきた幸福が、またみえなくなってしまった。彼はなんともいえない残念な気持で、その朝、あのみじめな娘に与えた五フランのことを思った。
その五フランさえもっていたら、自分の運命の黒い糸を、あの黄金色《こがねいろ》の美しい糸に結びあわせることができたであろうに。しかるにその美しい糸は、彼の眼の前にちらっと浮びでたばかりで、ふたたびたち切れてしまったのである。彼は絶望的な気持になって家に帰った。
ルブラン氏は晩にふたたびやってくると約束した。そしてその時こそは、うまく跡をつけてやろう。そう彼は考えるべきだったのだが、不幸にもマリユスは、さっき夢中になってとなりの部屋をのぞいている時、彼はその約束の言葉を、よくききとることができなかったのである。
家の階段をあがってゆこうとした時、彼は大通りのむこう側、パリエール・デ・コブラン街のさびしい壁のところに、「慈善家」の外套にくるまったジョンドレットの姿をみとめた。ジョンドレットは他のひとりの男に口をきいていた。その男は|場末の浮浪人《ヽヽヽヽヽヽ》ともいえるような人相のわるい連中のひとりだった。そういう連中は、普通は昼間眠っているもので、夜になって|かせぎ《ヽヽヽ》に出るものらしい。
ふたりは立ったまま、身動きもしないで、ふりしきる雪のなかで話しこんでいた。たがいに身をよせあって話しこんでる様子は、たしかに警官の眼をひいていいものだったが、マリユスはあまり注意をはらわなかった。
けれども、彼はどんなに心が悲しみにみたされていたとはいえ、ジョンドレットが話しかけてるその場末の浮浪人にどこか見覚えがあるような気がしてならなかった。パンショーという男に似てるようだった。パンショーといえば、クールフェーラックがかつて教えてくれた男で、その附近ではかなり危険な夜盗として知られてる男で、別名をプランタニエ、もしくはビグルナイユといっていた。
七
マリユスはゆるい足どりで家の階段をのぼっていった。そして自分の部屋にはいろうとしたとき、自分のあとについてくるジョンドレットの姉娘の姿を廊下にみとめた。マリユスには、彼女の顔をみるのさえ不愉快だった。彼の五フランをもってるのは彼女だった。いまさらそれを返せといったところで仕方がない。公営馬車はもうそこにいるわけではない。またあの辻馬車はとうに遠くにいってしまってる。その上彼女は金を返しもすまい。またさっききたあの人たちの住所を彼女にたずねても、たぶん無駄だろう。彼女がとうていそれをしってるわけはないだろう。なぜなら、ファバントゥーと署名されていた手紙の宛名は、サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂の慈悲深き紳士殿としてあっただけだから。
マリユスは部屋にはいって、扉を閉めた。
だが扉は閉らなかった。ふりかえってみると、なかば開いた扉をひとつの手がささえていた。
「なんだ? だれだ?」と彼はたずねた。
それは、ジョンドレットの姉娘だった。
「ああ、あなたですか」とマリユスはひややかにいった。
「またきたんですか。なにか用ですか」
娘はなにか考えてるらしく、返事もしなかった。朝のような臆面なさはもうなかった。はいってもこないで、廊下のかげのところに立っていた。マリユスはただ半開きの扉からその姿をみるだけだった。
「さあ、どうしたんです」とマリユスはいった。「なにか用があるんですか」
娘は陰うつな眼をあげて彼をみた。その眼には一種の光りがぼんやりひらめいていた。彼女はいった。
「マリユスさん、あなたはふさいでるわね。どうかしたの?」
「わたしが!」とマリユスはいった。
「ええ、あなたがよ」
「わたしはどうもしません」
「いいえ」
「ほんとうです」
「いいえ、きっとそうだわ」
「かまわないでください」
マリユスはまた扉をおしやったが、娘はなおそれをささえていた。
「ねえ、あなたは間違ってるわ」と彼女はいった。「あなたはお金持でもないのに、けさ大変親切にしてくれたでしょう。だからいまもそうしてくださいな。けさあたしに食べるものをくれたでしょう、だからこんどは心にあることをいってくださいな。なにかあなたは心配してるわ、よくみえてよ。あたしあなたに心配させたくないのよ。どうしたらいいの。あたしでは役にたたなくて? あたしを使ってくださいな。なにもあなたの秘密をきこうっていうんじゃないわ、そんなこといわなくてもいいわよ。でもあたしだって役にたつこともあってよ。あなたの手伝いぐらいあたしにもできるわ、あたしはお父さんの用を助けてるんだもの。手紙を持っていくとか、人の家へいくとか、ほうぼうをたずねまわるとか、居所を探すとか、人の跡をつけるとか、そんなことならあたしにもできてよ。ねえ、なんのことだかあたしにいってくださいな。どんな人のところへだっていって話してきてあげるわ。ちょっと誰かが口をききさえすれば、それでよくわかってうまくいくこともあるものよ。ねえあたしを使ってくださいな」
ある考えがマリユスの頭に浮んだ。人は溺れかかる時には、一本の藁《わら》にもあえてすがろうとする。
彼は娘のそばに近よった。
「きいておくれ……」と彼はいった。
「ああ、そうだわ、あたしにはそんなふうな調子で話してよ」
彼女はよろこびの色に、眼をかがやかしながらそういった。
「ではね」と彼はいった。「お前はここに、あの……娘といっしょにお爺《じい》さんをつれてきたんだね」
「ええ」
「お前はあの人たちの住所を知ってるのかい」
「いいえ」
「それをぼくのために探しだしておくれよ」
さっきから、娘のくらい眼付は、うれしそうにかがやいていたが、そこで急にまた曇ってしまった。
「あなたが思っていたことはそんなことなの」と彼女はたずねた。
「ああ」
「あの人たちを知ってるの?」
「いいや」
「じゃあ」と彼女は早口にいった。「あの娘さんのこと、あんた知ってないのね、それでこれから知り合いになりたいというのね」
|あの人たち《ヽヽヽヽヽ》というのが、|あの娘さん《ヽヽヽヽヽ》と変ったことのうちには、なにかしら意味ありげな、にがにがしいものがあった。
「とにかくお前できるかね」とマリユスはいった。
「あの美しいお嬢さんの居所を聞きだしてくることね?」
|あの美しいお嬢さん《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というその言葉のうちには、なお一種の暗い|かげ《ヽヽ》がこもってるようで、それがマリユスをいらいらさせた。
彼はいった。
「まあ、なんでもいいから、あの親と娘の住所だ。なに、二人の住所だけだよ」
娘はじっと彼をみつめていた。
「それであたしになにをくれるの」
「なんでも望みどおりのものを」
「あたしの望みどおりのものを?」
「ああ」
「ではきっと探しだしてくるわ」
彼女は頭をさげ、そして突然ぐいと扉をひいた。扉はしまった。
マリユスはひとりになった。
彼は椅子の上に身をおとし、頭と両腕とを寝台の上になげだし、とらえどころのない考えのうちにしずんだ。朝以来おこってきたあらゆること、天使《エンゼル》の出現、その消失、あの娘のいまの言葉、絶望の淵のうちに突然さしてきた希望の光り、それらがいりみだれて彼の頭にいっぱいになっていた。
突然彼は夢想から激しくよびおこされた。
彼はジョンドレットの高いきびしい声を耳にしたのである。その言葉は彼の異常な注意をひくものだった。
「たしかにそうだ、おれはそうとみてとったんだ」
ジョンドレットがいってるのは誰のことだろう? 誰をいったいみてとったのか。それはルブラン氏のことなのか。「わがユルシュール」の父親のことなのか。だが、それにしてもジョンドレットはいったいどうして彼を知ってるのか。
彼は戸棚にのぼった、というよりもむしろとびあがった。そして例の壁の小穴のちかくに立った。
彼はふたたびジョンドレットの部屋のなかをのぞきこんだ。
八
一家の様子はべつに前と変ったところはなく、ただ女房と娘たちとが包みの中のものをとりだして、毛の靴下やシャツをつけていただけだった。新らしい二枚の毛布は二つの寝台の上にひろげられていた。
ジョンドレットはいま帰ってきたばかりらしかった。まだ外からはいってきたばかりの荒い息づかいをしていた。二人の娘は煖炉のそばの床の上に坐って、姉のほうが妹の手の|ほうたい《ヽヽヽヽ》をむすんでやっていた。女房は煖炉のそばの寝床の上に身をなげだして驚いたような顔つきをしていた。ジョンドレットは部屋の中を大|跨《また》にあちこち歩きまわっていた。彼は異様な眼つきをしていた。
女房は亭主の前におずおずしながら、でもあっけにとられてるようだったが、やがてこういった。
「でも本当かね、たしかかね」
「たしかだ。もう八年になるんだが、おれはみてとったんだ。奴だと見ぬいたのだ。一目でわかった。だがお前にはわからなかったのか」
「ええ」
「俺がいったじゃねえか、注意しろって。まったく同じ恰好《かっこう》で、同じ顔付で、年もたいしてとってはいねえ。世間にはどうしたわけのものかすこしも老《ふ》けねえ奴がいる。それから声までそっくりだ。ただいい服装《なり》をしてるだけのことだ。まったく不思議な畜生だが、とうとう奴をつかまえたぞ」
彼はたちどまって、娘たちのほうへいった。
「お前たちは出てゆくんだ──馬鹿だな、あれに気がつかなかったって」
娘たちは父のいうとおりに出てゆこうとして立ちあがった。
母親はつぶやいた。
「手にけがをしてるのに……」
「そとの風にあたればなおる」とジョンドレットはいった。「出てゆけ」
あきらかに彼には誰も口答えができないらしい。二人の娘は出ていった。
二人が扉からでようとしたとき、亭主は姉娘の腕をとらえ、一種特別な調子でいった。
「お前たちはちょうど五時にここへ帰ってくるんだぞ、二人いっしょに。用があるんだから」
マリユスはさらに注意して耳をすました。
女房と二人きりになると、ジョンドレットはまた歩きだし、だまって部屋の中を二、三度まわった。それからしばらくの間、着ていた女シャツの裾をズボンの帯の中におしこんでいた。
突然彼は女房のほうをむき、腕をくみ、そして叫んだ。
「も一つ面白いことを聞かしてやろうか。あの娘はな……」
「え、なに?」と女房はいった。「あの娘が?」
マリユスはもう疑えなかった。まさしくそれは「彼女」のことにちがいなかった。彼はあらゆる注意をはらって耳をかたむけた。彼の全生命は耳のなかに集中していた。
しかしジョンドレットは身をかがめ、女房に低い声でささやいた。それから身をおこして、声高にいいそえた。
「彼女《あれ》だ!」
「さっきのが?」と女はいった。
「そうだ」と亭主はいった。
およそいかなる言葉をもってしても、その時の女房のいった|さっきのが《ヽヽヽヽヽ》? という語のうちにこめられた気持をつたえることはできないだろう。驚駭《きょうがい》と憤慨と憎悪と憤怒とがこんがらがってひとつの恐ろしい高調子《ソプラノ》になってあらわれたのである。亭主から耳にささやかれた数語、それはおそらくある名前だったろうが、それを聞いたばかりでこの大女は、ぼんやりしていたのが急にとびあがって、今までのいやしげな様子から急に恐るべき様子にかわったのである。
「そんなことがあるもんかね!」と彼女は叫んだ。「家の娘どもでさえ、はだしのままでろくにきる着物もないしまつじゃないかね。それに、繻子《しゅす》の外套、びろうどの帽子、半靴、そのほか、身につけてるものばかりでも二百フランの上になるよ。まるでお姫さまだね。いいえ、お前さんのみちがいだよ。それに第一、彼女《あれ》は醜い顔だったが、今のはそんなに悪くもないじゃないか。まったく悪いほうじゃない。彼女《あれ》のはずはないよ」
「いや大丈夫|彼女《あれ》だ、今にわかる」
その疑念の余地のない断定をきいて、女房は大きなあから顔をあげて、へんな表情で天井をみあげた。そのときマリユスには、亭主よりも彼女のほうがはるかに恐ろしくおもえた。それは牝虎の眼つきをした牝豚のようだった。
「ええっ!」と彼女はいった。「うちの娘どもを気の毒そうな眼で見やがったあの綺麗な娘が、昔のあの乞食娘だって。ええ畜生、あのどてっ腹を蹴やぶってでもやりたい!」
彼女は寝台からとびおり、髪の毛をみだし、小鼻をふくらまし、口をなかば開け、手をうしろにのばしてこぶしをにぎりしめ、しばらくじっと立っていた。それから、そのまま寝床の上に身をなげだした。事主のほうは女房には気もとめずに、部屋の中を歩きまわっていた。
しばらく黙ってたのち、ジョンドレットはふたたび、女房のほうへ近よって、その前にたちどまり、前の時のように両腕をくんだ。
「も一ついいことを聞かしてやろうか」
「なんだね」と彼女はたずねた。
彼は低い声で答えた。
「金蔵《かねぐら》ができたんだ」
女房は「気が違ったんじゃないかしら」というような眼つきで、じっと彼をながめた。
彼はつづけていった。
「畜生! 今まで長い間というもの、火がありゃ腹がへるし、パンがありゃこごえるってわけだった。もう貧乏はあきあきだ。おれもみんなも首がまわらなかったんだ。笑いごとじゃねえ、冗談じゃねえ、くそおもしろくもねえや、狂言もおやめだ。へった腹にかきこんで、かわいたのどにつぎこむんだ。食いちらして眠ってなんにもしねえ。そろそろこちらの番になってきたんだ。くたばるまえにいちど金持ちにもならなけりゃな!」
彼は部屋をぐるりとひとまわりしてつけくわえた。
「ほかの奴らのようにね」
「いったいなんのことだよ?」と女房はたずねた。
彼は頭をふり、眼をまたたき、まるで調子づいた大道|香具師《やし》のように声をたかめた。
「なんのことかというのか、まあきけよ」
「しっ!」と女房はいった。「大きな声をしなさんな。人にきかれて悪いことだったら」
「なあに、だれがきくもんか。お隣りか。奴《やっこ》さんさっきでていったよ。いたってあのお馬鹿さんが聞きなんかするもんか。第一、さっきおれはでかけるのをみたんだ」
それでも一種の本能からジョンドレットは声をひくめた。しかしマリユスにきこえないほど低くはならなかった。さいわいにも雪が降っていて大通りの馬車の音を低くしていたので、マリユスはその会話をすっかりききとることができた。
マリユスがきいたのはつぎのような言葉だった。
「よくきけ。黄金の神さまが捕ったんだ。捕ったも同じことだ。もう大丈夫だ。手筈はできあがってる。仲間にも会ってきた。あいつは今晩六時にくる。六十フランをもってきやがる。どうだ、俺《おれ》の口上はうめえだろう、六十フラン、家主、二月四日。実は一期分も借りはねえんだからな、馬鹿野郎だ。が、とにかく六時にあいつはやってくる。ちょうど隣りの先生も飯を食いにゆく時分だ。ブルゴン婆さんも町に皿洗いにいってる時分だ。家のなかには誰もいやしねえ。お隣りは十一時までは帰らねえ。娘どもには番をさしておく。お前は手伝わなくちゃいけねえ。野郎降参するにきまってる」
「もし降参しなかったら?」と女房はたずねた。
ジョンドレットはすごいみぶりをしていった。
「やっつけてしまうばかりさ」
そして彼は笑いだした。
彼が笑うのをみるのは、マリユスにとってはじめてだった。その笑いは冷やかで静かで、人をぞっとさせるものがあった。
ジョンドレットは煖炉のそばの戸棚を開き、古い帽子をとりだし、袖《そで》でその|ちり《ヽヽ》をはらって頭にかぶった。
「ちょっとでかけるぜ」と彼はいった。「まだ会っておかなくちゃならねえ者もいる。みないい奴ばかりだ。まあ仕上げをごろうじろだ。なるべく早く帰ってくる。うめえ仕事だ。家に気をつけておけよ」
それから両手をズボンのポケットにつっこみ、ちょっと考えていたが、また叫んだ。
「あいつがおれに気づかなかったのは、もっけの|さいわい《ヽヽヽヽ》というものだ。むこうでも気がついたらもうきやしねえ。あぶなくとりにがすところだった。このひげのおかげで助かったんだ。このおかしなあごひげでな、このかわいいちょっと面白いあごひげでな」
そして彼はまた笑いだした。
彼は窓のところへいった。雪はなお降りつづいていて灰色の空をかくしていた。
「なんてひどい天気だ!」と彼はいった。
それから外套の襟をあわした。
「こいつあ、すこし大きすぎる」そしてつけくわえた。「だがまあいいや。あいつがおいてゆきやがったんで大きに助からあ。これがなかったら外へもでられねえし、なにもかも手違いになるところだった。世の中のことってどうにかこうにかうまくゆくもんだ」
そして帽子を目深《まぶか》にひきさげながら、彼は出ていった。
戸口から彼が五、六歩ぐらいのところに出ていったかと思われた時、扉がふたたび開いて、その間から彼の荒々しいずるそうな顔が、またあらわれた。
「忘れていた」と彼はいった。「火鉢に炭をおこしておくんだぜ」
そして彼は女房の前かけのなかに「慈善家」がくれた五フラン貨幣をなげこんだ。
「火鉢に炭を?」と女房はたずねた。
「そうだ」
「いく升《ます》ばかり?」
「二|升《ます》もありゃあいい」
「それだけなら三十スーばかりですむ。のこりでご馳走でも買おうよ」
「そんなことをしちゃいけねえ」
「なぜさ?」
「大事な五フランを無駄にしちゃいけねえ」
「なぜだよ?」
「俺《おれ》のほうでまだ買うものがあるんだ」
「なにを?」
「ちょっとしたものだ」
「どれくらいかかるんだよ」
「どこか近くに金物屋があったね」
「ムーフタール街にあるよ」
「そうだ、町角《まちかど》のところに、わかってる」
「でもその買物にいくらかかるんだよ」
「五十スーか……まあ三フランだ」
「ではご馳走の代はあまりのこらないね」
「きょうは食い物どころじゃねえ。もっと大事なことがあるんだ」
「そう、それでいいよ、お前さん」
女房のその言葉をきいて、ジョンドレットは扉をしめた。そしてこんどは、彼の足音が廊下をだんだん遠ざかっていって、いそいで階段をおりてゆくのをマリユスはきいた。
その時、サン・メダール会堂で一時の鐘がなった。
九
マリユスは夢想家ではあったが、すでにいったとおり、また生来、意志堅固な勇敢な男でもあった。孤独な瞑想《めいそう》の習慣は、彼のうちに同情と哀憐との念をふかめながら、一方では物事に激昂《げっこう》する力をよわめたのであろう。しかし、それでも不正に対して憤慨する力はすこしも失われずにいた。彼はバラモン教徒のような慈悲心と、法官のような峻厳《しゅんげん》さとをもっていた。蛙《かえる》をあわれむとともに、蛇《へび》をふみつぶすだけの心を持っていた。しかるに彼がいまのぞきこんだところは、蝮《まむし》の穴であった。彼がみたところのものは、怪物の巣であった。
「かかる悪人どもは、ふみつぶさなければいけない」と彼はつぶやいた。
解決されるかとおもっていた|なぞ《ヽヽ》はひとつもとかれなかった。いな、かえってすべてはますます不可解になった。リュクサンブールの美しい娘についても、またルブラン氏とよばれてる男についても、ジョンドレットが彼らを知っているということのほかには、なんらの得るところもなかった。そして耳にしたあやしい言葉をとおして、ようやく彼にはっきりわかったことは、ただ一事にすぎなかった。すなわち、ある待伏せが、ひそかなしかも恐ろしい待伏せが、いま計画されているということ。ふたりとも、父親のほうはたしかに、娘のほうも多分、大なる危険に遭遇せんとしていること。自分はふたりを救わなければならないこと。ジョンドレットたちの憎むべき策略の|うら《ヽヽ》をかき、そのくもの巣をやぶってしまわなければならないこと。
彼はちょっとジョンドレットの女房に眼をそそいだ。彼女は片すみから古い鉄の火鉢をひき出し、また鉄屑のなかになにか探していた。
彼は音をたてないように注意して、できるだけ静かに戸棚からおりた。
今なされつつある事柄にたいして、恐怖の念をいだきながらも、またジョンドレット一家の者たちにたいして、嫌悪《けんお》の感をいだきながらも、彼は偶然にも、自分の愛する人のために、今こそ力をつくす時がやってきたことを思うと、一種のよろこびさえ感じた。
しかし、どうしたらいいものか? ねらわれてるふたりに知らせるといったところで、第一ふたりをさがしだすことができないのである。マリユスはふたりの住所を知らなかった。
ふたりはちょっと彼の眼の前にあらわれて、それからふたたびパリの深い大きな淵のなかにしずんでしまったのである。あるいは晩の六時に、ルブラン氏がやってくる時に、扉のところに待ってて、|わな《ヽヽ》のあることを知らせようか。しかし、ジョンドレットとその仲間の者たちは、自分が待ちうけているのをみつけるにちがいない。あたりには人もいないし、むこうのほうが強いので、彼らはなんとかして自分を捕えてしまうか、または自分を遠ざけてしまうだろう。そうすれば自分が助けようと思ってる人も、それで破滅だ。ちょうど一時がなったばかりである。待伏せば六時にすっかりできあがるはずだ。それまでには五時間の余裕がある。
なすべき道はただひとつしかなかった。
彼はいいほうの服をつけ、絹のマフラーをむすび、帽子をとり、ちょうど苔《こけ》の上をはだしで歩くように、すこしも音をたてないで出ていった。
外に出ると彼は、すぐにプティ・バンキエ街のほうへいった。
その街路のなかほどに、一力所、足でまたげそうな低い壁があって、むこうは荒地になっていた。そこを通る時分には、彼はすっかり考えこんで、ゆっくり足をはこんでいた。雪のために足音もしなかった。その時、突然彼はすぐ近くに人の話し声をきいた。ふりかえってみると、街路はひっそりして人影もなく、まっ昼間であった。しかもはっきり人声がきこえていた。
彼はふと思いついて、そばの壁の上からむこうをのぞいてみた。
はたしてそこには、ふたりの男が壁に背をむけ、雪の上にかがんで、ひくい声で語りあっていた。
ふたりとも彼の見しらぬ顔だった。ひとりはだぶだぶの上衣をつけた|ひげ《ヽヽ》のある男で、もひとりは|ぼろ《ヽヽ》をまとった髪の長い男だった。ひげのあるほうは、まるいギリシャ帽をかぶっていたが、もひとりはなにもかぶらず、髪の上に雪がつもっていた。
ふたりの上に頭をつきだして、マリユスはふたりの言葉をよくききとることができた。
長髪の男は相手を肘《ひじ》でつっついていった。
「パトロン・ミネットの力を借りれば、しくじることはねえ」
「そうかな」とひげの男はいった。
長髪のほうはつづけた。
「一人に五百弾でいいだろう。どう|へま《ヽヽ》をやっても、五年か六年、まあながくて十年だ」
相手はやや躊躇《ちゅうちょ》して、ギリシャ帽の下を指でかきながら答えた。
「そんな目にあっちゃなあ」
「大丈夫しくじりっこはねえ」と長髪のほうはいった。「とっつぁんの小馬車に馬をつけとくんだから」
それから彼らはゲーテ座で前日みた芝居のことを話しはじめた。
マリユスは歩きだした。
二人の男のあいまいな話は、なんだかジョンドレットの恐ろしい計画に関係があるらしく、マリユスにはおもわれてならなかった。どうしても|あの《ヽヽ》ことらしかった。
彼はサン・マルソー廓外のほうへいって、見あたりしだいの店で、警察の番地をたずねた。
ポントワーズ街十四番地というのを教えられた。
マリユスはそのほうへいった。
パン屋の前を通った時、晩の食事はできないかもしれないとおもって、二スーのパンを買い、それを食べた。
途中、彼は天に感謝した。彼は考えた。けさジョンドレットの娘に五フランやっていなかったら、自分はルブラン氏の馬車についていって、その結果なにもしらなかったにちがいない、そして、ジョンドレット一家の者の待伏せをふせぐことができず、ルブラン氏はそのために破滅し、またおそらく娘もともに破滅の淵におちいってしまったであろうと。
十
ポントワーズ街十四番地にきて、マリユスはその二階にのぼり、警察部長をたずねた。
「部長さんはおるすです」と給仕がいった。「ですが、代理の警視がおられます。お会いになりますか。いそぎの用ですか」
「そうです」とマリユスはいった。
給仕は彼を部長室に案内した。部屋のなかには、ストーヴに身をよせ、二重|まわし《ヽヽヽ》の大きなマントの袖を両手であげた、背のたかい男がひとり立っていた。四角張った顔、唇のうすい引きしまった口、荒々しい半白の濃い頬《ほお》ひげ、ふところのなかまで見とおすような眼つき、というよりそれは見とおすのではなくて、なにか探りとろうとするような眼つきといったほうがよかった。
その男は獰猛《どうもう》さと恐ろしさとにおいては、あえてジョンドレットにおとりはしなかった。番犬もときとすると、狼《おおかみ》におとらず、出会った者に不安を与えることがある。
「なんの用かね?」と彼はぞんざいな言葉でマリユスにたずねた。
「部長さんは?」
「不在だ。わしがその代理をしている」
「ごく秘密な事件ですが」
「話してみたまえ」
「ごく急な事件です」
「では早く話すがいい」
その男は平静でまたせっかちであって、人をこわがらせ、また同時に安心させる点をもっていた。恐怖と信頼とを同時に与えるような男だった。マリユスは彼に事の|なりゆき《ヽヽヽヽ》を話した。
──ただ顔を知ってるばかりの人だが、その人が今夜、待伏せにあうことになっている。――自分はマリユス・ポンメルシーという弁護士であるが、自分のいる部屋の隣りが悪漢の巣窟《そうくつ》で、壁ごしにその計画をすっかりききとった。──|わな《ヽヽ》をはった悪漢はジョンドレットとかいう男である。──共犯者もいるらしい。多分場末の浮浪人どもで、なかんずく、パンショーまたの名プランタニエまたの名ビグルナイユという男がいる。──ジョンドレットの娘どもが見張りをするだろう。──ねらわれてる人は、その名前もわからないので、前もって知らせる方法もない。──そしてそれらのことは晩の六時に、オピタル大通りのもっとも寂しい所、五十・五十二番地の家で、実行されることになっている。
その番地をきいて、警視は顔をあげ、ひややかにいった。
「では廊下の一番奥の部屋だろう」
「そうです」とマリユスはいった、そしてつけくわえた。「その家をごぞんじですか」
警視はちょっと黙っていたが、それから靴の踵をストーヴの火口で暖めながら答えた。
「そうかもしれないね」
それから、マリユスに、というよりもむしろ彼のネクタイにでも口をきいてるように眼をさげて、なかば口の中でつづけていった。
「パトロン・ミネットが多少関係してるにちがいない」
その言葉にマリユスは驚いた。
「パトロン・ミネット」と彼はいった。「ほんとにわたしはそういう言葉を耳にしました」
そして彼は、プティ・バンキエ街の壁のうしろで、長髪の男とひげの男とが雪のなかで話していたことを、警視に語った。
警視はつぶやいた。
「髪のながい男はブリュジョンにちがいない。ひげのあるほうは、ドゥミ・リヤールまたの名ドゥー・ミリヤールにちがいない」
彼はまたまぶたをさげて、考えこんだ。
「そのとっつぁんというのも、およそ見当はついてる、ああマントを焦《こが》してしまった。ストーヴに火をいれすぎるんだ。五十・五十二番地と。もとのゴルボーの持家だな」
それから彼はマリユスのほうをみた。
「きみが見たのは、そのひげの男と髪の長い男きりかね」
「それとパンショーです」
「その辺をぶらついてるおしゃれの小男を見なかったかね」
「見ません」
「では植物園にいる象のような大男は?」
「みません」
「では昔の手品師のような様子をした悪者は?」
「見ません」
「四番目に……いやこいつは誰の眼にもはいらない、仲間も手下もつかわれてる奴も、彼をみたことがないんだから、きみが見つけなかったからって怪しむにたりん」
「見ません。いったいそいつらは何者ですか」とマリユスはたずねた。
警視はいった。
「その上まだ奴らのでる時ではないからな」
彼はまたちょっと口をつぐんだが、やがていった。
「五十・五十二番地と。家は知ってる。なかに隠れようとすれば、役者どもにきっとみつかる。そうすればただ芝居をやらずに逃げるばかりだ。どうも皆はにかみやばかりで、見物人を嫌がるからな。そりゃあいかん、いかん。少し奴らに歌わしたり踊らしたりしたいんだがな」
そんな独語《ひとりごと》をいいおわって、彼はマリユスのほうへむき、じっとその顔を見ながらたずねた。
「きみは恐いかね」
「何がです?」とマリユスはいった。
「その男どもが」
「まあ、あなたにたいしてと同じくらいなものです」とマリユスはぶしつけに答えた。その警官が自分にむかってぞんざいな言葉ばかり使ってるのを、彼はようやく気づきはじめていた。
警視は、なおじっとマリユスを見つめ、一種の厳かな調子でいった。
「きみはなかなか勇気のあるらしい正直者らしい口のきき方をする。勇気は罪悪をおそれず、正直は官憲をおそれずだ」
マリユスはその言葉をさえぎった。
「それはとにかく、どうなさるつもりです」
警視はただこう答えた。
「あの家に部屋を借りてる者はみんな、夜中に帰ってくるための合鍵をもっている。きみもひとつ持ってるはずだね」
「ええ」とマリユスはいった。
「今そこに持ってるかね」
「ええ」
「それをわしにくれ」と警視はいった。
マリユスはチョッキのポケットから鍵をとって、それを警視にわたし、そしていいそえた。
「ちょっと申しておきますが、人数をひきつれてこられなければいけません」
警視はマリユスに一瞥《いちべつ》をあたえた。ヴォルテールがもし田舎出のアカデミー会員から音韻《おんいん》の注意でもうけたら、やはりそんな一瞥をあたえたことだろう。そして警視は、ふとい両手をマントの大きな両のポケットにずぶりとつっこみ、普通|拳骨《げんこつ》といわれてる、鋼鉄の小さなピストルを二つとりだした。彼はそれをマリユスにさしだしながら、口早につよくいった。
「これをもって、家に帰って、部屋に隠れていたまえ。部屋には、誰もいないように見せかけなくちゃいかん。二つとも弾がはいってる。一挺に二発ずつだ。よく気をつけて見ているんだ。壁に穴があるといったね。奴らがやってきたら、しばらく勝手にさしておくがいい。そしてここだと思ったら、手をくだす時だと思ったら、ピストルを打つんだ。早すぎてはいかん。それからわしの仕事だ。ピストルを打つのは、空へでも、天井へでも、どこでもかまわん。ただ早すぎないことだ。いよいよ仕事がはじまるまで待つんだ。きみは弁護士だといったね、それくらいのことはわかってるだろう」
マリユスは二挺のピストルをとって、上衣の脇のポケットの中にいれた。
「それじゃふくらんでそとから見える」と警視はいった。「それよりズボンの両方のポケットにいれるがいい」
マリユスはピストルをそれぞれ、ズボンの両のポケットにいれた。
「もうこれで一刻もぐずぐずしておれない」と警視はいった。「いま何時だ? 二時半か。それは七時だったな」
「六時です」とマリユスはいった。
「まだじゅうぶん時間はある、があまるほどはない」と警視はいった。「今いったことをすこしでも忘れてはいかん。ぽーんとピストルをひとつ打つんだぞ」
「大丈夫です」とマリユスは答えた。
そしてマリユスが出てゆこうとして扉の把手《とって》に手をかけた時、警視は彼に呼びかけた。
「それから、それまでになにかわしに用ができたら、ここに自分でくるか使をよこすかしたまえ、警視のジャヴェルといってくれればわかる」
十一
ジョンドレットの不在のあいだに帰ってゆくほうが利口だとマリユスは考えた。その上もうだいぶ遅くもなっていた。毎晩早くから、ブルゴン婆さんは、戸をしめて、町に皿洗いにでかけることにしていたので、家の戸はきまって暮れ方にはしまりがしてあった。ところがマリユスは鍵を警視にわたしてしまってたので、それだけでもいそいで帰る必要があった。
マリユスは大|胯《また》に歩いて五十・五十二番地へ帰ってきた。その時まだ戸は開いていた。彼は爪先だって階段をのぼり、廊下の壁づたいに、自分の部屋にすべりこんだ。廊下の両側は屋根裏部屋で、その頃はみんな空《あ》いていて貸間になっていた。ブルゴン婆さんはいつもそれらの扉を開けはなしにしていた。マリユスはそれらの扉のひとつの前を通る時、その空室のなかにじっと動かない四つの顔が、軒窓からおちる昼のなごりの明るみに、ぼんやりほの白くうきだしてるのを、ちらと見たような気がした。しかし彼は自分のほうで人に見られたくなかったので、それをみとどけようともしなかった。彼はやっと、人にみられもせず、また音もたてずに、自分の部屋にはいりこんだ。まったく危いところだった。それから間もなく彼は、ブルゴン婆さんが出かけて、家の戸がしまる音をきいたのだった。
マリユスは寝台に腰をかけた。五時半頃だった。事のおこるまでにはただあと三十分をあますのみだった。あたかも暗やみのなかで時計の秒をきざむ音をきくように、彼は自分の動脈の音をきいた。そしてひそかに到来しつつあるふたつの事柄を思いかえしてみた。一方から歩を進めつつある罪悪と、他方からきつつある法権とを。彼はおそれてはいなかった、しかしまさにおこらんとすることを考えると、戦慄を禁じえなかった。意外な出来事に突然おそわれた人がよく感ずるように、彼にもその一日がまったく夢のように思われた。そして本当に悪夢につかれてるのでないことをたしかめるために、彼はズボンのポケットのなかで、鋼鉄のつめたい二挺のピストルに手をふれてみなければならなかった。
雪はもうやんでいた。月は次第にさえてきて|もや《ヽヽ》からでて、その光りは地につもった雪の白い反射とともに、部屋のなかに暁のような明るさをあたえていた。
ジョンドレットの部屋のなかには明りがあった。マリユスは壁の穴が血のように赤い光りにかがやいてるのをみた。
その光はどうしてもろうそくの火とはおもえなかった。そしてまた、ジョンドレットの部屋のなかには、なんの物の動く気配《けはい》もなく、誰も口をきかず、呼吸の音さえきこえず、氷のような深い沈黙にみたされていて、もしその光りがなかったら、墓場かとも思われるほどのしずけさだった。
マリユスはしずかに靴をぬいで、それを寝台の下におしこんだ。
それから二、三分ばかりたった。マリユスは表の戸がぎーと開く音をきいた。重い早い足音が階段をのぼってき、廊下を通って、それから隣りの部屋の|かけ《ヽヽ》金が音高くはずされた。それはジョンドレットが帰ってきたのだった。
すぐに多くの声がきこえだした。一家の者はみんな部屋の中にいたのだった。ちょうど狼《おおかみ》の子が親狼の不在中黙ってるように、一家の者は主人の不在中黙っていたのである。
「おれだ」と主人はいった。
「お帰んなさい」と娘らはへんな声をたてた。
「どうだったね?」と母親はいった。
「この上なしだ」とジョンドレットは答えた。「だが馬鹿に足がつめてえ。うむ、なるほどお前はうまくおめかしをしたな。相手に安心させなけりゃいけねえからな」
「すっかりでかけるばかりだよ」
「いっといた事を忘れちゃいけねえ。うまくやるんだぜ」
「大丈夫だよ」
「というのはな……」とジョンドレットはいいかけて、みなまでいわずにしまった。
マリユスは彼がなにか重いものをテーブルの上におく音を聞いた。たぶん買って来た鑿《のみ》にちがいない。
「ところで」とジョンドレットはいった。「みななにか食ったか」
「ああ」と母親はいった。「大きいじゃがいもを三つばかり、塩を少し。ちょうど火があるから焼いたんだよ」
「まあ、いい」とジョンドレットはいった。「あすになりゃ、ご馳走を食いにつれてってやる。家鴨《あひる》の料理と、それからいろいろなものがついてさ。まるでシャルル十世の御殿の晩餐のようにな。すっかりよくなるんだ」
それから声をひくめて彼はつけくわえた。
「|わな《ヽヽ》の口は開いてるし、猫どもも、もうきている」
そしてなおいっそう声をひくめてまたいった。
「それを火の中にいれておけ」
マリユスは火箸か又はなにか鉄器で炭をかきまわす音をきいた。ジョンドレットはつづけていった。
「音のしねえように扉の肘《ひじ》金には|ろう《ヽヽ》を引いておいたか」
「ああ」と母親は答えた。
「いま何時だ」
「もうすぐに六時だろう。サン・メダールでさっき半《はん》が打ったんだから」
「よし」とジョンドレットはいった。「娘どもは見張りをしなくちゃいけねえ。おい、二人ともこっちへきてよく聞きな」
しばらくなにかささやく声がした。
ジョンドレットはまた高い声をあげた。
「ブルゴン婆さんは出ていったか」
「ああ」と母親はいった。
「隣りにも誰もいねえんだな」
「一日留守だったよ、それにいまは食事の時分じゃないか」
「まちがいないだろうな」
「まちがいないよ」
「もっとも」とジョンドレットはいった。「今からだって、いるかどうか見にいったってさしつかえねえ。おいエポニーヌ、ろうそくをもってみてきな」
マリユスは四つん這《ば》いになって、こっそり寝台の下にはいりこんだ。
彼がかくれるか、かくれないうちに、すぐ扉のすき間から光りがみえた。
「お父さん」という声がした。「でかけてるよ」
それは姉娘の声だった。
「中にはいったのか」と父親がたずねた。
「いいえ」と娘は答えた。「でも鍵が扉についてるから、きっとでかけたんだよ」
父親は叫んだ。
「でもまあはいってみろ」
扉が開いた。マリユスはジョンドレットの姉娘が手にろうそくを持ってはいってくるのをみた。その様子は朝とすこしも変っていなかったが、ただろうそくの光りで見るといっそう恐ろしくみえた。
彼女は寝台のほうへまっすぐに進んできた。マリユスはその間言葉にもつくしがたいほど心配した。しかし彼女がやってきたのは、寝台の側に壁にかかってる鏡のところへであった。彼女は爪先でのびあがって、鏡の中をのぞいた。隣りの部屋には鉄の道具をうごかす音がきこえていた。
娘は手の|ひら《ヽヽ》で髪をなでつけ、鏡にむかってほほえみながら、その気味のわるいつぶれた声で歌った。
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われらの恋は七日なりけり。
ああ、たのしみのいかに短き、
八日の愛もかたかりければ!
恋はとこしえなるべきに、
恋はとこしえなるべきに!
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その間マリユスはふるえていた。そして自分の荒い息づかいはきっと彼女の耳につくにちがいないという気がした。
娘は窓のほうへいって、外をみながら、いつものなかば気狂じみた様子で声高にいった。
「パリも白いシャツをつけたところはなんて醜いんだろう!」
そしてまた鏡のところへかえってきて、自分の顔をま正面からうつしてみたり、すこし横むきにうつしてみたりして、様子をつくっていた。
「おい」と父親が叫んだ。「なにをしてるんだ」
「寝台の下や道具の下をみてるのよ」と彼女はやはり髪をなおしながら答えた。「誰もいやしないわ」
「ばか!」と父親はどなった。「早く帰ってこい。ぐずぐずしてるんじゃねえ」
「いまいくよ、いますぐ」と彼女はいった。「ほんとにちょっとのひまもありゃあしない」
そして小声に歌った。
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ほまれを求めて君去りゆかば、
どこまでもわれ追いゆかん。
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彼女は最後に鏡をじろりとみて、扉をうしろに閉めながらでていった。
しばらくするとマリユスは、廊下に二人の娘のはだしの足音をきいた。そしてまた、彼女らによびかけるジョンドレットの声をきいた。
「よく気をつけるんだぞ。一人は市門のほうで、一人はプティ・バンキエ街の角《かど》だ。ちょっとでも家の戸口から眼をはなしてはいけねえ。なにかみえたらすぐにやってこい、大いそぎでとんでくるんだ。はいるときの鍵は持ってるな」
姉のほうはつぶやいた。
「雪の中にはだしで番をさせるなんて!」
「明日はまっ赤な絹靴を買ってやらあね」と父親はいった。
二人の娘は階段をおりていった。そしてすぐに下の戸のしまる音がきこえたのでみると、ふたりは外にでていったらしい。
家の中にいるのはもう、マリユスとジョンドレット夫婦ばかりだった。そのほかは、空室の扉のむこうのうす暗がりの中でマリユスがちらとみた怪しい人相の男たちばかりだった。
十二
マリユスはいまや例の観測台の位置につくべき時だと思った。そして青年の身軽さですぐに壁の穴のところへ立った。
彼はのぞいた。
ジョンドレットの部屋の内部はふしぎな光景をていしていた。マリユスがさっきみたあやしい光りの|もと《ヽヽ》もわかった。ろくしょうのついた燭台に一本のろうそくがともっていたが、部屋を実際に照らしてるのはそれではなかった。煖炉のなかにおかれて炭がいっぱいおこっているかなり大きな鉄火鉢から、部屋のなか全体が照りかえされてるようだった。それはジョンドレットの女房が午前から用意しておいたものである。炭はさかんにおこって、火鉢はまっ赤になっており、青い焔がたちあがって、火の中にさしこまれて赤くなってる|のみ《ヽヽ》の形をはっきりうきださしていた。その|のみ《ヽヽ》はジョンドレットがピエール・ロンバール街で買ってきたものである。扉の側の片隅には、なにか特別の用にあてるためのものらしい品物がふたところにつんであって、ひとつは鉄らしく、ひとつは縄《なわ》らしかった。
月は窓の四枚の板ガラスからさしこんで、焔のたってるまっ赤な屋根裏部屋のなかに、ほの白い光りをおくっていた。こわれた一枚の窓ガラスからは、空気が流れこんできて、炭火の匂いをちらし、火鉢のあるのをかくしていた。ジョンドレットの巣窟《そうくつ》は、ゴルボー屋敷について前にのべておいたことでわかるとおり、兇猛暗黒な行為の場所となり、罪悪を隠蔽《いんぺい》する場所となるのに、いかにもふさわしかった。それはパリのうちでの、もっとも寂しい大通りの、もっとも孤立した家の、もっとも奥深い部屋であった。もし、待伏せなどということが、人の世になかったとしても、そこにいればきっとそれが発明されたろうと思われるほどだった。
家の奥行と多くの空室とが、その巣窟を大通りからへだてていた。そしてそこについてる唯一の窓は、壁と柵とにかこまれた、広い荒地のほうにむいていた。
ジョンドレットはパイプに火をつけ、藁《わら》のぬけた椅子の上にすわって、たばこをふかしていた。女房は低い声で彼になにやらいっていた。
突然ジョンドレットが声をたかめた。
「ところでちょっと思いだしたが、こんな天気では馬車でくるにきまってる。角灯をつけて、それをもって下にゆけ。下の戸のうしろにたっているんだ。馬車のとまる音をきいたら、すぐ開けてやれ。はいってきたら、階段と廊下のところで明りをみせてやるがいい。そして奴がここにはいる間に、お前はいそいでおりてゆき、馭者に金を払い、馬車を返してしまえ」
「金は?」と女房はたずねた。
ジョンドレットはズボンのポケットを探って、五フランをとりだしてわたした。
「これはどうしたんだよ」と女房は叫んだ。
ジョンドレットは堂々と答えた。
「それはけさ隣りの先生がくれたものだ」
そして彼はつけくわえた。
「おい、椅子が二ついるだろう」
「どうするのに?」
「坐るのにさ」
その時マリユスは、女房が事もなげにつぎのように答えるのをきいて、背すじに水をぶっかけられたようにぞっとふるえあがった。
「それじゃあ、隣りのをもってこよう」
そして彼女はすばしこく扉をあけて廊下にでた。
マリユスにはとうてい、戸棚からおりて寝台のところへゆき、その下にかくれるだけの時間がなかった。
「ろうそくをもってゆけ」とジョンドレットは叫んだ。
「いいよ」と女房はいった。「かえってじゃまだよ。椅子を二つ持たなくちゃならないからね。それに月の光りで明るいよ」
マリユスは女房の重々しい手が暗がりに扉の鍵をさぐってる音をきいた。扉はあいた。彼はその場所に、恐れと驚きとのために釘づけにされたようにたちすくんだ。
ジョンドレットの女房がはいってきた。
軒窓から一条の月の光りがさして、部屋のなかの闇を二つにわけていた。その一方の闇は、マリユスがよりかかってる壁のほうをすっかりおおっていたので、彼の姿はその中にかくされていた。
女房は眼をあげたが、マリユスの姿に気づかなかった。そしてマリユスがもっていた二つきりの椅子を二つともとって、部屋をでてゆき、うしろにがたりと扉をしめていった。
彼女は部屋にもどった。
「さあ椅子を二つもってきたよ」
「そこで、むこうに角灯がある」と亭主はいった。「早くおりてゆけ」
女房はいそいでその言葉にしたがい、ジョンドレットただ一人部屋のなかにのこった。
彼はテーブルの両方に二つの椅子をおき、炭火のなかに|のみ《ヽヽ》をおきかえ、煖炉の前に古びょうぶをたてて火鉢をかくし、それから縄のつんである片すみにゆき、そこになにか調べるようなふうをして身をかがめた。そのときマリユスは、いままでなにかわからなかったその縄みたいなものは、実は横木の桟《さん》と二つの鈎《かぎ》とがついてるきわめて巧みにできた縄ばしごだということがわかった。
その縄ばしごと、それから扉のうしろにつんだ鉄屑のなかにまじってる荒々しい道具や、鉄棒などは、その朝ジョンドレットの部屋のなかにはなかったもので、たしかにその午後、マリユスの不在中にもちこまれたものに違いなかった。
「あれは刃物師《はものし》の道具だな」とマリユスは思った。
もしマリユスに、いますこしその方面の知識があったなら、彼は刃物師の道具だと思ったもののうちに、種々なものをみとめることができたろう。すなわち、錠前をやぶったり、扉をこじ開けたりする道具や、物を切ったり、断ち割ったりする道具などで、盗賊仲間では|ちび《ヽヽ》及び|ばさ《ヽヽ》といわれる二種の恐ろしい道具だった。
ジョンドレットはよほどなにかに気をとられているとみえて、パイプの火の消えたのもしらずにいたが、それからまた立ってきて、椅子に腰をかけた。ろうそくの光りで、顔のあらあらしい狡猾《こうかつ》そうな角張ったところが、いっそうよく目立った。そのうち、彼は急にテーブルの引出しをひらき、なかにかくしてあった料理用の長いナイフをとり出し、指の爪をきってみて、その刃をためした。それがすむと、ナイフをまた引出しにしまって、それをしめた。
マリユスのほうでは、ズボンの右のポケットにあるピストルをつかみ、それを引き出して、引金をあげた。
引金をあげる時、ピストルは鋭い、はっきりした小さな音をだした。
ジョンドレットはぎくりとして、椅子の上になかば身をおこした。
「誰だ?」と彼は叫んだ。
マリユスは息をこらし、ジョンドレットはちょっと耳をすましたが、やがて笑いだしながらいった。
「なんだ馬鹿な、壁板の音だ」
マリユスはピストルを手ににぎりしめた。
十三
突然、遠い単調な鐘の響きがガラスをふるわした。サン・メダール会堂で六時を報じはじめたのである。
ジョンドレットはそのひと響きごとに頭を動かしてかぞえた。六つの響きをきいた時、指先でろうそくの|しん《ヽヽ》をつまんだ。
それから彼は部屋のなかを歩きだし、廊下のほうに耳をかたむけ、また歩きだし、また耳をかたむけた。
「なに、きさえすれば!」と彼はつぶやいた。それからまた椅子のところへもどった。
彼がそこに坐るか坐らないうちに、扉があいた。
ジョンドレットの女房がそれをひらいたのだった。彼女は廊下に立って、ぞっとするようなあいそうを顔に浮べていた。角灯の穴のひとつからもれる光りがその顔を下から照らしていた。
「どうぞ旦那さま、おはいりくださいまし」と彼女はいった。
「おはいりくださいませ、ご親切な旦那さま」とジョンドレットはいそいでたちあがっていった。
ルブラン氏があらわれた。
彼はいかにも朗かな様子をしていて、妙に尊くおもわれた。
彼はテーブルの上にルイ金貨を四個(八十フラン)おいた。
「ファバントゥー君」と彼はいった。「これはきみの家賃と当座の入用のためのものです。その他のことはご相談するとしましょう」
「神さまがあなたにむくいてくださいますように、ご慈悲深い旦那さま」とジョンドレットはいった。
それから彼はいそいで女房に近よった。
「馬車をかえせ」
亭主がルブラン氏にお世辞をあびせかけ椅子をすすめてる間に、女房はそっとぬけだした。そして間もなくもどってきて亭主の耳にささやいた。
「すんだよ」
朝から降りつづいていた雪は深くつもっていたので、馬車のきたのもきこえなければ、また馬車が帰ってゆくのもきこえなかった。
そのうちにルブラン氏は腰をかけた。
ジョンドレットはルブラン氏とむきあった椅子に腰をおろした。
さてこれからおこるべき光景をよく理解せんために、読者はつぎのことを頭にいれておいていただきたい。凍りつくような寒い夜、雪がつもって月光のしたにひろい経帷子《きょうかたびら》のように白く横たわってる寂寞たるサルペートリエールの一廓、そのすごい大通りと黒い|にれ《ヽヽ》の並木のながい列とをところどころ赤くてらしてる街灯の光り、一人の通行人もなさそうな周囲|四半里《しはんり》ばかりの間、その静寂と物凄さと闇夜とのまん中にあるゴルボー屋敷、その屋敷のなかに、その寂寞たる一廓のなかに、その暗黒のなかにあって、ただ一本のろうそくにてらされてるジョンドレットのひろい屋根裏部屋、その部屋のなかに、テーブルをはさんでむきあってるふたりの男、一人は落ちついた静かなルブラン氏、一人はほほえんでる恐ろしいジョンドレット、また片すみには牝の狼のようなジョンドレットの女房、それから壁のうしろに、人にみえないところにたって、一語もききもらさず一挙動も見おとすまいとして、眼を見はりピストルを握りしめてるマリユス。
マリユスは一種不安な胸さわぎをおぼえたが、少しも恐怖を感じなかった。彼はピストルの柄《え》を握りしめて心を落ちつけた。「いつでもすきな時にあの悪党をおさえつけてやろう」と彼は考えていた。
どこか近くに警官がひそんでいて、約束の合図をまっていまにも腕をさしのばそうとしてるもののように、彼は感じていた。
その上、ジョンドレットとルブラン氏とのその恐ろしい会合から、自分の知りたく思ってることについてなにかの手がかりがえられはすまいかと、彼は待ちのぞんでいたのである。
ルブラン氏は腰をおろすとすぐ、寝床のほうを見やった。そこには、誰も寝ていなかった。
「けがをしたかわいそうな娘さんは、どうなされました?」と彼はたずねた。
「よくありませんので」とジョンドレットは心配そうな、また感謝してるような微笑をして答えた。「なんだか、ひどく様子がわるいので、姉につれられて、ブールブ施療《せりょう》院へ|ほうたい《ヽヽヽヽ》をしてもらいにゆきました。まもなくお目にかかるでございましょう。すぐに帰ってまいりますから」
「ご家内はだいぶおよろしいようですね」とルブラン氏は女房の|へん《ヽヽ》な服装をじろりとみやっていった。彼女はその時、すでに出口をふさいでるかのようにルブラン氏と扉との間に立って、威嚇《いかく》するようなまたほとんど挑戦的な態度で彼をみまもっていた。
「家内はもう死にかかっているのでございます」とジョンドレットはいった。「ですが旦那さま、非常に元気がございましてな、女というよりはまったく牛とでも申したいくらいで」
女房はその讃辞に動かされて、こびられた怪物が嬌態《しな》をつくるような様子をしていった。
「あんた、ほんとにやさしい人だよ、ジョンドレット」
「ジョンドレットですって」とルブラン氏はいった。「私はまたファバントゥー君というのだと思っていましたが」
「ファバントゥー一名ジョンドレットでありまして」と亭主はいそいでいった。「俳優の雅号でございます」
そしてルブラン氏に気づかれぬようにちょっと肩をそびやかして女房をたしなめ、力をこめたこびるような調子でいいすすんだ。
「いや、この家内とわたしとは、いつも仲よく暮していますんで、そういうことでもなかった日には、もう世になんの楽しみもございません。わたしどもはそれほど不仕合《ふしあわ》せなので、旦那さま。腕はあっても仕事はありませず、元気はあっても働くところがありません。いったい政府はどうしているのでしょう。わたしは決して旦那、過激党ではございません、さわぎをおこす者ではございません、政府にたてをつく者ではございません。ですが、わたしがもし大臣にでもなりましたら、断じてこんな状態にはしておきません。まあたとえば、わたしは娘どもに紙細工の職業でもおぼえさしたかったのです。なに職業を? とおっしゃるのですか。さようです、職業でほんのちょっとした職業で、パンを得るだけのものでございます。なんという落ちぶれかたでしょう、旦那さま。昔の姿とくらべては、なんという零落《れいらく》でございましょう。ほんとに、さかんな時のものは、なにひとつ残ってはいません。ただひとつだけでなんにも残ってはいません。ただひとつと申しますのはごく大事にしています絵ですが、それをも手離そうというのでございます。まったく食ってだけはゆかなくちゃなりませんので」
ジョンドレットがそういうふうに、考え深い狡猾《こうかつ》そうな顔の表情をたもちながらも、表面はなんの考えもなさそうな様子をしてしゃべっているうちに、マリユスはふと眼をあげて、今までみなかったひとりの男が、部屋の奥にいるのをみつけた。その男は扉の音もたてずに、静かにはいってきたのである。紫色の毛編みのチョッキを着ていたが、それもすりきれ、よごれ、さけた古いもので、折目のところには、みな穴があいていた。それからまた、びろうどの大きなズボンをはき、足には木靴をつっかけ、シャツもきず、首筋をだし、いれずみをした両腕をだし、顔はまっ黒にぬられていた。彼はだまって腕をくんだまま、近いほうの寝台に腰をおろしていたが、ちょうどジョンドレットの女房のうしろになっていたので、ただぼんやり、その姿がみえるきりだった。
おたがいの注意をひきつける一種の磁石的な本能から、ルブラン氏もまたマリユスとほとんど同時にそのほうをふりむいた。彼は驚きの様子を、みずからおさえることができなかった。そしてそれはジョンドレットの眼をのがれなかった。
「ああなるほど、外套《がいとう》でございますか」とジョンドレットは叫んで、機嫌をとるようなふうで、そのボタンをかけた。
「わたしによく合います。まったくよく合います」
「あの人は誰です」とルブラン氏はいった。
「あれでございますか」とジョンドレットはいった。「隣りの男で、どうか決しておかまいなく」
その隣りの男というのは、不思議な顔つきをしていた。もっとも近所のサン・マルソー郊外には、化学製造工場がたくさんあって、そこの職工は、大抵まっ黒な顔をしていた。ルブラン氏の様子は、しずかに大胆に安心しきってるようだった。彼はいった。
「で、なんのお話でしたかな、ファバントゥー君」
「話と申しますのは、じつは旦那さま」とジョンドレットはいいながら、テーブルの上に肘《ひじ》をつき、|うわばみ《ヽヽヽヽ》のようなじっとすわったやさしい眼でルブラン氏をながめた。「わたしは絵をひとつ売りはらいたいと申しかけたところでございましたが」
扉のところでかるい音がした。第二の男がはいってきて、ジョンドレットの女房のうしろの寝台に腰かけた。第一の男と同じように、両腕をだし、インキか|すす《ヽヽ》かで顔をぬりつぶしていた。
その男も文字通りに部屋にすべりこんできたのであるが、ルブラン氏の注意をのがれることはできなかった。
「どうかお気になさいませんように」とジョンドレットはいった。「みんなこの家にいるものでございます。ところでいまの話でございますが、わたしに残っていますのは一枚の絵きりで、それも大変貴重なものでして……。まあ旦那さま、ごらんくださいませ」
彼はたちあがって、壁のところへいった。その下のほうに、前にのべた鏡板がおいてあった。彼はそれを裏返して、やはり壁にたてかけた。それはなるほどなにか画面らしいもので、わずかにろうそくの光りでてらされていた。マリユスはジョンドレットが自分とその画面との間にたっているので、なにが描いてあるかはっきりみてとることができなかった。しかしちょっとみたところ、粗末な書きなぐりのものらしく、画中の主要人物には、見世物の看板かびょうぶの絵かに見るような、なまなましい色彩がほどこしてあった。
「それはなんですか」とルブラン氏はたずねた。
ジョンドレットは勢いよくいった。
「大家の絵でして、非常なねうちのあるもので、旦那さま。わたしは二人の娘と同じぐらいこれを大事にしていまして、いろいろの思い出がこもっているのでございます。ですがいま申しました通り、全くのところ、ごく困っているものですから、これを売ってしまいたいと存じまして」
偶然にか、それとも多少不安を感じはじめたのか、ルブラン氏はその画面をながめながらもちらと部屋のすみをみやった。そこにはいまや四人の男がいた。三人は寝台に腰かけ、一人は扉のそばにたっていた。四人とも腕をあらわにし、顔を黒くぬり、身じろぎひとつしないで、じっとしていた。寝台に腰かけてる三人のうちのひとりは、壁によりかかって眼をとじ、あたかも眠ってるかのようだった。その男はもう老人で、まっ黒な顔の上に白い髪がある様相は、なんともいえない不気味なものだった。他のふたりはまだ若そうで、ひとりはひげをはやし、ひとりは髪の毛をながくしていた。誰も靴をはいていなかった。
ジョンドレットはルブラン氏の眼がその男たちの上にすえられてるのをみとめた。
「みな親しい仲の者で、近所の者でございます」と彼はいった。「顔を黒くしていますのは、炭の中で仕事をしているからでして、みな煖炉職工でございます。どうかお気になさらないで、旦那、まあわたしのこの絵を買ってくださいませ。どうか不幸をあわれんでくださいませ。たかくとは申しません。がまあどれくらいのねうちだとおぼしめされますか」
「しかし」とルブラン氏はいいかけて、ジョンドレットの顔をまともにじっと眺め、用心するようなふうであった。「それはなにか旅籠屋《はたごや》の看板ですね。三フランぐらいはしますかな」
ジョンドレットは静かに答えた。
「紙入れをお持ちあわせでございましょうか。千エキュー(五千フラン)なら申し分ありませんが」
ルブラン氏はすっくと身をおこし、壁を背にして、いそいで部屋のなかをみまわした。左手の窓のほうにはジョンドレットがおり、右手の扉のほうにはその女房と四人の男とがいた。四人の男は身動きもしなければ、また彼をみてる様子さえもなかった。ジョンドレットはぼんやりした眼をして悲しそうな調子をはりあげ、泣くような声でまた話しだした。それでルブラン氏もいま眼の前にいるこの男は貧乏のために気でも狂ったのではないかと思ったかもしれない。
「もしこの絵をでもお買いくださらなければ、まったく旦那さま」とジョンドレットはいった。
「わたしはもう策のほどこしようもありませんで、河にでも身を投げるよ閧ルかしかたがございません。わたしは二人の娘に、お年玉用のボール箱をこしらえる仕事を習わせようと思っていますんです。それには、ガラスが下に落ちないようにむこうに板のついたテーブルだの、特別な炉《ろ》だの、厚紙をきる庖丁《ほうちょう》、鉄をうちつける金づち、ピンセット、その他、いろんなものがいります。そしてそれでいくらとれるかといえば、日に四スーだけでございます、それも十四時間働きづめでして。箱ひとつできあがるには、十三べんも細工人の手をくぐります。しかも紙はぬらさなければならないし、しみをつけてはいけないし、糊は熱くしておかなければならないし、まったくやりきれません。そして日に四スーです。それでまあ、どうして暮してゆけましょう」
そういうふうに語りながら、ジョンドレットは彼をみまもってるルブラン氏のほうを、すこしもみていなかった。ルブラン氏の眼はジョンドレットをみつめ、ジョンドレットの眼は扉をみつめていた。マリユスの熱心な注意は、二人の上にかわるがわるむけられた。ルブラン氏は、なにか自分に問いただしてるような様子をしていた。
「この男はばかなのかな?」ジョンドレットは、ただのおしゃべりと懇願《こんがん》とのまじった調子で、二、三度くりかえした。
「河にでも身をなげるよりほか、もう仕方《しかた》がございません! 先日もそのつもりで、オーステリッツ橋のわきを三段ほどおりてゆきました」
と、そこまでいったとき、突然、彼の|にぶい《ヽヽヽ》瞳はあやしい焔《ほのお》にかがやき、小さな身体はのびあがって恐ろしい形相《ぎょうそう》となり、ルブラン氏のほうへ一歩進み、そして雷のような声で、彼は叫んだ。
「そんなことではないんだ! 貴様には、このおれがわかるか?」
十四
ちょうどそれは、部屋の扉が突然開いて、青い麻のだぶだぶの上衣を着、黒紙の仮面《かめん》をつけた三人の男が、姿をあらわした時だった。第一の男はやせていて、鉄のついたながい棒をもっていた。第二の男は巨人のような体躯で、屠牛《とぎゅう》用の斧《おの》を頭をしたにして、柄《え》のまん中をにぎっていた。第三の男は肩幅が広く、第一の男ほどやせてもいなければ、第二の男ほどふとってもいなくて、どこかの牢獄の戸から盗んででもきたような、ばかに大きな鍵をにぎりしめていた。
ジョンドレットはそれら三人の男がくるのをまっていたものらしい。そして棍棒《こんぼう》をもったやせた男と彼との間に、すばやい対話がはじまった。
「すっかり用意はできてるか」とジョンドレットはいった。
「できてる」とやせた男は答えた。
「だがモンパルナスはどこにいる」
「あの色男は、したでお前の娘と話をしている」
「どっちの娘だ」
「姉のほうよ」
「したに辻馬車はきてるか」
「きてる」
「例の小馬車に馬はついてるか」
「ついてる」
「いい奴を二頭か」
「すてきな奴だ」
「いっといたところで待ってるな」
「そうだ」
「よし」とジョンドレットはいった。
ルブラン氏はひどく青ざめていた。彼はいまやいかなるところへおちいったかを了解したかのように、部屋の中のものをぐるりとみまわした。そしてまわりをとりかこんでる人々のほうへ順々にむけられる彼の顔は、注意深そうにかつ驚いたようにゆっくりと動いていた。しかし彼の様子には、恐怖のさまはすこしもみえなかった。彼はテーブルをもって即座の堡塁《ほうるい》とした。そして一瞬間前まではただの親切な老人としかおもわれなかった彼は、いまやにわかに闘士の姿に変って、椅子の背にそのがんじょうな拳をおき、驚くべき恐ろしい態度をとった。
かかる危険を前にして確固毅然《かっこきぜん》たるその老人は、ただなんということもなく生来勇気と親切とをかねそなえていた人のように思われた。自分の愛する女の父にあたる人は、自分にたいして決して他人ではない。マリユスはその名もしらぬ老人についておのずからほこりを感じた。
ジョンドレットが、「あれはみな煖炉職工《ヽヽヽヽ》でございます」といった腕のあらわな男どものうちの三人は、鉄屑の中をさぐって、一人は大きな鋏をとり、一人は重い火箸をとり、一人は金づちをとって、一言も発せずに扉からななめにならんだ。年とった男はなお寝台の上に腰かけてて、ただ閉じてた眼をあけたばかりだった。ジョンドレットの女房はその傍に腰かけていた。
マリユスはもはや数秒のうちに、自分のとるべき処置がせまってることを知った。彼は廊下のほうの天井へむけて右手をあげ、ピストルを打つ用意をした。
ジョンドレットは棍棒の男との話をおえて、ふたたびルブラン氏のほうへふりかえり、彼独特のおさえつけたような、恐ろしい、低い笑いをしながら、前の問いをくりかえしてきいた。
「それじゃ貴様にはおれがわからねえのか」
ルブラン氏は彼を正面からじっとみて答えた。
「わからない」
するとジョンドレットはテーブルのところまでやっていった。そしてろうそくの上から身をかがめ、腕をくみ、その角ばった獰猛《どうもう》なあごをルブラン氏の落ちついた顔にさしつけ、ルブラン氏があとにさがらないくらいにできるだけちかく進みでて、まさにかみつかんとする野獣のようなその姿勢のままで叫んだ。
「おれはファバントゥーというんじゃねえ、ジョンドレットというんでもねえ。おれはテナルディエという者だ。モンフェルメイユの宿屋の亭主だ。いいか、そのテナルディエなんだ。さあこれで貴様おれがわかったろう」
ほとんどみえないくらいの赤みがルブラン氏の顔にちらとうかんだ。そして彼は例の平静さで、震えもしなければたかまりもしない声で答えた。
「いっこうわからない」
マリユスの耳には、その答えさえも、はいらなかった。その暗闇のなかのその時の彼をみた者があったなら、愕然《がくぜん》とし、ぼうぜんとして、うちひしがれたような彼の様子がみられたであろう。ジョンドレットが「|おれはテナルディエ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という者だ」といった瞬間に、マリユスはまるで冷たい刃で、心臓をつらぬかれたように、全身をふるわして、壁にもたれかかった。それから、合図《あいず》の射撃をしようと待ちかまえていた右の腕は静かにたれ、ジョンドレットが「|いいか《ヽヽヽ》、|そのテナルディエなんだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」とくりかえした時には、力を失った彼の指は、危うくピストルをおとしかけた。本名を表わしたジョンドレットは、ルブラン氏を動かしえなかったが、マリユスを愕然とさせ、彼の気を転倒させた。
ルブラン氏がしらないそのテナルディエという名前を、マリユスはよく知っていた。そしてその名前は彼にとって、いかなる意味を有するかを読者は思いだすだろう。その名前こそ、父の遺言《ゆいごん》のうちにしるされ、彼が常に心にいだいていたものである。彼はその名前を、頭の奥に、記憶のそこに、また「テナルディエという者、予の生命を救いくれり、もし予が子にして彼に出会わば、およぶかぎりの好意を彼に表すべし」という、神聖なる命令のうちに、常におさめていたのである。その名前こそ、読者の記憶するとおり、彼の心があがめ、たたえてきたもののひとつであった。彼はそれを父の名前といっしょにして崇拝していた。しかるに、現在、この男がテナルディエであろうとは! 長い間いたずらに探しあぐんでいたモンフェルメイユの宿屋の主人であろうとは! 彼はついにその男を見いだしたが、それはいかにしてであったか。父を救ったその男は、まさしく悪漢だったのである。マリユスが身をささげてつかえんと望んでいたその男は、怪物だったのである。このポンメルシー大佐を救ってくれた男は、いまや、ある暴行をおこなわんとしていた。マリユスにはその暴行がいかなる形式のものであるか、まだあきらかにはわからなかったけれども、とにかくそれは、人命にかかわるものであるらしく思われたのであった。しかもその暴行は、誰にむかって加えられんとしているのか! ああ、なんたる宿命ぞ、いかに、にがき運命の愚弄《ぐろう》ぞ! 父は柩《ひつぎ》の底から彼に、できるかぎりの好意をテナルディエにつくすよう命じていた。そして四年の間彼は、父にたいするその負債《おいめ》を果さんとの思いしかもっていなかった。しかるに、警官をして罪悪の最中にある悪漢をとらえさせんとする瞬間にあたって、運命は彼にさけんだ。「その男こそテナルディエである!」
ワーテルローの勇ましい戦場で、弾丸の雨とふるなかに救われた父の生命にたいして、その男に彼はついになにをむくいんとするのか、絞首台をもってむくいんとするのか。もしテナルディエを見いだすことになったら、ただちに馳《は》せよって、その足下に身を投じようと、彼はかねて期していた。そしていま実際、彼を見いだしはしたが、しかしそれは彼を死刑執行人の手にわたさんがためだったのか。父はマリユスに「テナルディエを救え」といっていた。しかるにマリユスはテナルディエを打ちひしいで、その尊敬する聖《きよ》き声に答えんとするのか。その男は身の危険をおかして、父を死より救い、父はその男を子たるマリユスに頼んでおいたのに、マリユスは、いまみずから、その男をサン・ジャックの広場に処刑させて、それを父の墓前にささげんとするのか。父がみずからしたためた最後の意志を、かくも長い間胸にいだいていながら、まさしくその正反対をなさんとは、なんという運命の愚弄であろう!
しかしまた一方に、その待伏せをみながら、それを妨げんともせず、被害者をみすて殺害者を許さんとするのか! かかる悪漢にたいして、なんらか感謝の念をいだきうるものであろうか。四カ年以来、マリユスが持っていたあらゆる考えは、その意外な打撃によって、ずたずたに引きさかれてしまった。彼は身をふるわした。すべては彼の一存にかかっていた。彼の眼前に争ってるそれらの人々は、おのずから彼の手中にあった。もし彼がピストルをうったならば、ルブラン氏は救われ、テナルディエはとらえられるだろう。もしピストルをうたなければ、ルブラン氏は犠牲に供され、テナルディエは罰からうまく身をのがれることができるだろう。一方をたおしても、また他方を見ごろしにしても、いずれも悔恨の念はまぬかれぬ。なんとなすべきか? いずれをえらぶべきか? もっとも強き記憶、内心の深き誓い、もっとも神聖なる義務、もっとも尊き父の遺言、それにそむくべきか? あるいはまた罪悪のおこなわれるのを、みすごすべきか? 一方には父のために懇願する「わがユルシュール」の声がきこえるようにおもわれ、他方にはテナルディエのことをたのむ大佐の声がきこえるように思われた。そして彼は今にも気も狂わんばかりの状態だった。膝《ひざ》も身体もささえきれなくなった。しかも眼前の光景は切迫していて、熟慮のひまさえなかった。自分が左右しうると思っていた旋風に、かえって運び去られてゆくようなものだった。彼はほとんど、気を失いかけた。
その間にテナルディエは──われわれは以後、彼をこの名前でよぶことにしよう──われを忘れたように、また勝利に酔ったように、テーブルのまえをあちらこちら歩いていた。
彼は手でろうそくをつかみ、その|ろう《ヽヽ》は壁にはねかかり火が消えかかったほどの激しさでそれを煖炉の上においた。
それから彼は恐ろしい様子でルブラン氏のほうをふりむき、こういう言葉を吐きかけた。
「焼けた、焦げた、煮えた、蒲焼《かばやき》だ!」
そして彼は恐ろしい勢いでまた歩きだした。
「ああ」と彼は叫んだ。「とうとうみつけたよ、慈善家さん、ぼろ着物の分限者《ぶげんしゃ》さん、人形をくれたやっこさん、おいぼれのジョクリスさん! ああお前さんにはわしがわからないのかね。ちょうど八年前、一八二三年のクリスマスの晩に、モンフェルメイユのわしの宿屋へきたなあ、お前さんではなかったろうよ。ファンティーヌの娘のアルーエットというのをわしの家からつれだしたなあ、お前さんではなかったろうよ。黄色い外套を着ていたのはな、そしてけさ、わしのところへきた時のようにぼろ着物の包みを手にさげていたのはな。おい女房、よその家へ毛糸の靴下をつめこんだ包みを持ってゆくのは、この男のくせとみえるな、この慈善顔をしたおいぼれめのな。分限者さん、お前さんは小間物屋かね。貧乏人の店のがらくたをくれやがって、へん、笑わせやがるよ。お前さんにおれがわからねえって? だがな、おれのほうではわかってるんだ。お前がここに鼻をつっこみゃがった時からすぐにみてとったんだ。宿屋だからといってやたらに人の家へはいりこみゃがって、みじめな着物をつけてさ、一文の銭を乞うような貧乏な様子をしてさ、人をだまかし、大きなふうをして、米|櫃《びつ》をまきあげやがって、森の中で人をおどかしやがって、そのくせ人が落ちぶれてると、大きすぎる外套だの、病院にあるようなぼろ毛布を二枚持ってきて、すました顔をしてやがる。それでうまくゆくとおもうと大間違えだ、おいぼれの乞食めが、かどわかしめが!」
彼はふといいやめて、ちょっと心のなかでひとりごとをいってるようにみえた。しかし、それから彼は急にテーブルを拳《こぶし》でたたきながら叫んだ。
「しかもお人よしのような|つら《ヽヽ》をしやがってさ」
そしてルブラン氏のほうへいいかけた。
「おい、お前はむかしよくもおれを馬鹿にしやがったな。おれの不運のもとはみんなお前だぞ。わずか千五百フランで大事な娘をとってゆきやがったからだ。娘はな、たしか金持ちの子供だったんだ。それまでにずいぶん金も送ってきた。おれはその娘を一生の食いものにするつもりでいたんだ。あの宿屋じゃあずいぶん損をしたんだが、その娘さえいりゃあどうにかなったろうというものだ。あんなつまらねえ宿屋ったらねえや、ぜいたくな馬鹿騒ぎばかりしてさ、おれのほうじゃあ能《のう》もなくすっかり食いつぶしてしまったからな。いやそんなこたあどうでもいいや。おいお前はな、あのアルーエットをつれてゆく時には、おれを間ぬけぐらいに思って笑いやがったろうな。あの森の中では大きな棒をもっていやがったな。あの時はお前のほうが強かったさ、だが今度はそうはいかねえや。切札はおれのほうにあるんだ。お気の毒だがお前のほうが負けだ。ははあおかしいや、ちゃんちゃらおかしいや。うまく|わな《ヽヽ》に落っこちやがった」
テナルディエはしゃべるのをやめた。彼は息をきらしていた。その小さなせまい胸は、鍛冶《かじ》屋の|ふいご《ヽヽヽ》のようにあえいでいた。その眼はいやしい幸福の色にみちていた。恐れていた者をついにうち倒し、こびていた者を、ついに侮辱してやったという残忍卑怯な弱者の喜びであり、巨人ゴライアスの頭を土足にかける侏儒《こびと》の喜びであり、もはや、身をまもり得ないほど死に瀕してはいるがまだ苦痛を感ずるくらいの命はある病める牡牛を、はじめて引き裂きかけた大犬の喜びである。
ルブラン氏は彼の言葉に少しも口を入れなかった。しかし彼が言葉をきった時にこういった。
「私にはきみのいうことがわからない。きみはなにか思いちがいをしているようだ。私はごく貧しい者で、分限者《ぶげんしゃ》なんかではない。私はきみを知らない。誰かと人違いをしたのでしょう」
「なんだと、白ばっくれるな」とテナルディエはうめき出した。「冗談いうない。ぐずぐずぬかしやがって、おいぼれめが。貴様覚えていねえてのか。おれがわからねえのか」
「失礼だがわからない」とルブラン氏はていねいな調子で答えたが、それはかかる場合になんだか妙に力強く聞えた。
「きみはどうも悪党らしいが」
人のしるとおり、嫌悪すべき輩《やから》はすべていらだちやすいものであり、怪物はすべて怒りっぽいものである。悪党という言葉をきいて、テナルディエの女房は寝台からとびおり、テナルディエは握りつぶさんばかりに椅子をつかんだ。
「じっとしてろ、手|前《めえ》は!」と彼は女房に叫んだ。そしてルブラン氏のほうへむきなおった。
「悪党だと! なるほどな、金のある奴らはおれたちのことをそうぬかしやがる」
それから、いきりたってルブラン氏のほうへあびせかけた。
「こういうことを覚えておいてもらおうぜ、慈善家さん! おれはな、うしろ暗え人間じゃねえんだ。名前を明かしもしねえで人の家へ子供を取りにくるような者じゃねえんだ。おれはもとフランスの軍人だ、勲章でももらっていい人間だ。ワーテルローにいってよ、なんとかいう伯爵の将軍を戦争中に救ったんだ。名前をきかされたが、声が低くて聞きとれなかった。『ありがとう』というだけは聞えた。そんな礼の言葉なんかより、名前をききとったほうがよかったんだが。そうすれば、またたずねだすこともできようってわけさ。この絵はな、ブリュッセルでダヴィドが描いたものなんだ。なにが描いてあるかわかるか。このおれを描いたんだ。ダヴィドはおれの手柄を後の世まで残そうと思ったんだ。その将軍を背にかついで、弾丸《たま》の下をくぐって運んでゆくところだ。物語はざっとこの通りさ。おれはなにもその将軍に世話になっていたわけじゃねえ。他人も同様さ。それでもおれは生命を捨ててその人を助けた。その証明書はポケットにいっぱいあらあ。おれはワーテルローの名高い兵士だぞ。ところで、親切にそれだけいってきかしてやったからには、これでおしまいにしよう。つまりおれは金がほしいんだ。沢山な金が、莫大《ばくだい》な金がほしいんだ。うんといわなきゃ、やっつけてしまうばかりだ、いいか」
マリユスは心の苦悩をどうにかおさえながら、耳を傾けていた。そして最後の疑念もすべて消えてしまっていた。その男こそまったく、父の遺言にあるテナルディエだったのである。そしてテナルディエが父の忘恩を非難するのを聞き、自分はいまや必然にその非難を至当のものたらしめんとしていることを思って、マリユスは身を震わした。彼の困惑はますます深くなった。その上、テナルディエの言葉、その話調、その身振り、一語ごとに焔をほとばしらすその眼つき、またすべてを暴露する悪心の爆発、虚勢と卑劣と、傲慢と尊重と、憤激と愚昧《ぐまい》との混合、真実の苦情と虚偽の感情との混合、みにくい魂と破廉恥《はれんち》な肉体、あらゆる苦しみと憎しみとが結びついてる焔、すべてそれらのもののうちには、害悪のごとく嫌悪すべき、また真理のごとく痛切なるなにものかがあった。
大家の絵、テナルディエがルブラン氏に買ってくれといいだしたダヴィドの絵は、実は彼の宿屋の看板に外ならなかった。彼が自分で描いたものであって、モンフェルメイユにおける失敗以来、とっておいた唯一のものだった。
ちょうどテナルディエのいる場所が、マリユスの視線をさまたげないようになったので、マリユスは、いまその絵らしいものをみることができた。なるほど、その塗りたくったなかに、戦争らしい光景と、背景の煙と、ひとりの男をかついでる人間とがみとめられた。それがすなわちテナルディエとポンメルシーとのふたりで、救った軍曹と、救われた大佐とである。マリユスはまるで酒にでも酔ったようだった。その画面は、父がまだ生きてるような感じを彼にいだかせた。もはやそれは、モンフェルメイユの宿屋の看板ではなかった。それはひとつの復活であり、墳墓がその口をひらいて、幻影がそこにたちあらわれたのだ。マリユスは両の|こめかみ《ヽヽヽヽ》に心臓の鼓動をきいた。耳にはワーテルローの大砲のひびきがきこえ、気味悪いその板の上に、ぼんやり描かれてる血に染った父の姿は、彼をおどかした。そして彼には、そのあやしい幽霊が自分をじっと見つめてるように思われた。
テナルディエは一息ついて、ルブラン氏の上に血走った瞳をすえ、低いぶっきらぼうな声でいった。
「いまに貴様を踊らしてやるぞ、だがその前になにかいうことがあるか」
ルブラン氏はだまっていた。と、その沈黙をやぶって、しわがれた、いまわしいあざけり声が、廊下からきこえてきた。
「薪でもわるならおれがゆくぞ」
と、同時に、毛だらけの泥まみれの大きな顔が、歯というよりも牙をだしてすごい笑いをうかべながら、扉のところからのぞきこんだ。
斧をもってる男の顔だった。
「どうして面をとったんだ」とテナルディエは怒って叫んだ。
「笑ってみてえからさ」と男は答えた。
ちょっと前からルブラン氏は、テナルディエの挙動に眼をつけ、すきをうかがってるようだった。テナルディエのほうは自分の憤激に眼がくらみ頭がくらんでいた。そして、扉には番がついてるし、自分は武器をもってるのに相手は無手であるし、女房も一人と数えれば相手は一人にこちらは九人なので、安心しきって部屋のなかを歩きまわっていた。斧の男に口をきく時には、ルブラン氏のほうに背をむけた。
ルブラン氏はその瞬間をとらえた。彼は椅子をけとばし、テーブルをはねのけ、テナルディエがふり返る間もあたえず、驚くべき敏捷さで一躍して窓のところへ達した。窓を開き、その縁にとびあがり、それを乗りこすのは、一瞬間の仕事だった。彼はなかば窓の外にでた。その時六つの頑丈な手が彼をつかみ、むりやりに彼を部屋のなかに引きずりこんだ。彼の上にとびかかったのは三人の「煖炉職工」だった。と同時に、テナルディエの女房は彼の頭髪につかみかかった。
その騒ぎに、外の悪党どもも廊下からはいってきた。寝床の上にいた酒に酔ってるらしい老人も、寝台からおりて、手に道路工夫の金づちをもってよろめきながらでてきた。
「煖炉職工」の一人の顔が、ろうそくの光りにてらされていた。その塗りつぶした顔つきのうちにマリユスは、パンショー一名プランタニエ一名ビグルナイユを見てとった。その男はいまや、鉄棒の両端に鉛の丸《たま》のついてる一種の玄能《げんのう》をルブラン氏の頭めがけてふりあげた。
マリユスはそれを見てもはやこらえることができなかった。「お父さん、許して下さい」と彼は心に念じて、指先でピストルの引金を探った。そしていまや発射せんとした時、テナルディエの叫ぶ声がした。
「けがをさしてはいけねえ!」
犠牲者の死にもの狂いの試みは、テナルディエを激昂《げきこう》させるどころか、かえって落ちつかせた。彼のうちには、獰猛《どうもう》な人間と、巧妙な人間とのふたりの人間が住んでいた。そしてその時までは、勝利に酔い、とりひしがれて、身動きもしない餌物を前にして、獰猛な人間のほうがつよくあらわれていた。しかるに犠牲者があばれだし、抵抗しかけた時には、巧妙な人間のほうがあらわれてきて、優勢となった。
「けがをさしてはいけねえ!」と彼はくりかえした。そして、彼自身ではしらなかったが、その第一の成功として、彼はそれでピストルの発射をやめさせマリユスをすくました。いまや危急は去って局面が一変したので、も少し待っても差し支えない、とマリユスは思った。ユルシュールの父を見殺しにするか、あるいは大佐の救い主を亡ぼすかの板ばさみの地位から自分を助けだしてくれるような、なにかの機会がおこるまいものでもない、と彼は思った。
だが部屋のなかでは恐ろしい争闘がはじまっていた。ルブラン氏は老人の胸を一撃して部屋のまん中にはね倒した。それから二度うしろを払って、他の二人の襲撃者を打ち倒し、それを一人ずつ両膝の下に押し伏せた。二人の悪漢は膝におさえつけられて、ちょうど花崗《かこう》岩のひき臼の下になったように呻《うめ》き声をだした。しかし残りの四人は、その恐ろしい老人の両腕と首筋とをとらえ、組み敷かれた二人の「煖炉職工」の上におさえつけた。かくて一方をおさえ他方におさえられ、下の者らを押しつぶし上の者たちから息をつめられ、自分の上に集まってる人々の力をいたずらにはねのけようとしながらルブラン氏は恐るべき悪党どもの下に見えなくなって、あたかも番犬や猟犬どものほえたった一群の下におさえられてる猪《いのしし》のようだった。
彼らは、ようやく窓に近い寝台の上にルブラン氏を引き倒し、じっとおさえつけたきりだった。テナルディエの女房はなお髪の毛をつかんで離さなかった。
「てめえは引っこんでろ」とテナルディエはいった。「肩掛けが破れるじゃねえか」
女房は狼の牝が牡に従うように、うなりながらその言葉に従った。
「さあみんなで」とテナルディエはいった。「そいつの身体を探せ」
ルブラン氏は抵抗する意志を捨てたらしかった。人々は彼の身体を探した。しかし身につけてた物はただ、六フランはいってる革の金入れとハンカチばかりだった。
テナルディエはそのハンカチを自分のポケットにおさめた。
「なんだ、紙入れもねえのか」と彼はたずねた。
「それに時計もねえんだ」と「煖炉職工」の一人が答えた。
「そんなことはどうでもいい」と大きな鍵をもってる仮面の男がはら声でつぶやいた。「なかなかえれえ爺《じじい》だ」
テナルディエは扉の片すみにゆき、一束の縄をとり、それをみんなのところへ投げつけた。
「寝台の足にしばりつけろ」と彼はいった。
そして、ルブラン氏の一撃をくらって部屋のなかに長く横たわり、身動きもしないでいる老人を見て、彼はたずねた。
「ブーラトリュエルは死んだのか」
「いやよっぱらってるんだ」とビグルナイユが答えた。
「すみのほうに片づけろ」とテナルディエはいった。
二人の「煖炉職工」は、足の先でそのよっぱらいを鉄屑のつんであるそばへ押しやった。
「バベ、どうしてこう大勢つれてきたんだ」とテナルディエは棍棒の男に低い声でいった。「無駄じゃねえか」
「仕方がねえ、みんなきてえっていうから」と棍棒の男は答えた。「どうもこの頃はしけでな、さっぱり商売がねえんだ」
ルブラン氏が押し倒された寝台は、施療院にあるようなもので、四角な荒削りの四本の木の足がついていた。ルブラン氏はされるままに身をまかせた。悪党どもは窓から遠くて煖炉に近いほうのベッドの脚に、ルブラン氏の両足を床《ゆか》につけて、立たしたまま彼をしばりつけた。
すっかりしばりおえた時、テナルディエは椅子をもってきて、ほとんどルブラン氏の正面に腰をおろした。彼はもう様子がすっかり変っていた。わずかな時間のうちに彼の顔つきは、奔放な狂暴さから落着きはらった狡猾《こうかつ》な冷静さに変っていた。マリユスは役人のようなその微笑のうちに、一瞬間前まで泡をふいてどなっていたほとんど獣のような口を認めかねるほどだった。彼はぼうぜんとしてその不思議な恐るべき変容を見まもっていた。そして猛虎が代言人と早変りしたのを見るような驚きを感じた。
「旦那……」とテナルディエはいった。
そしてなおルブラン氏をおさえてる悪人どもに少し離れるように手真似をした。
「少しどいてくれ、旦那にちょっと話があるんだ」
みなの者は扉のほうへ退った。彼はいいだした。
「旦那、窓から飛びだそうなんてよくありませんぜ。足をくじくかもしれませんからな。でまあ穏かに話をつけようじゃありませんか。第一わしのほうでも気づいたことを申さなくちゃならねえ。というのは旦那、これだけのことに少しも声を立てなさらねえことだ」
テナルディエのいうのは道理で、あわてたマリユスはその事には少しも気づかなかったが、それはまったく事実だった。ルブラン氏はわずか二、三言を発するにも少しも声を高くしなかった、そして窓のそばで六人の悪漢と奮闘する時でさえ、きわめて深い不思議な沈黙を守っていたのである。テナルディエはいいつづけた。
「どうですかね、どろぼうとかなんとか少しはどなったって、べつにわしのほうでは不思議とは思わねえ。場合によっちゃあ、人殺し! とでもどなりてえところだ。そういわれたってわしのほうじゃ別に気を悪くはしねえ。うさんなやつらに取り巻かれた時にゃあ、少しは騒ぎたてるのが当り前だ。お前さんが声をたてたにしろ、それでどうしようっていうんじゃねえ。さるぐつわさえもはめはしねえ。なぜかって、それはこの部屋がごく人の耳に遠いからだ。この部屋はなにも取柄《とりえ》はねえが、それだけは立派なもんだ。まるで穴ぐらみてえだ。かりに爆弾を破裂させたところで、一番近所の警察にもよっぱらいのいびきぐらいにしか聞えねえ。大砲の音もぽーんというきりで、雷の響きもぷーっというきりだ。まったく都合のいいところだ。だがとにかく、お前さんは少しも声を立てなかった。なるほど感心な心掛けだ。わしにもよく察しはつく。ねえ旦那、声を立てたら、来る者は警官だ。警官の後から来る者は裁判官だ。ところで旦那は少しも声を立てなさらねえ。なるほど旦那のほうでもわしらと同様、裁判官や警官が来るのはおいやとみえる。それは旦那に──わしも前からうすうす察してはいましたがね──なにか人に知られては都合のよくねえことがありなさるからだ。わしらのほうだってそれは同じでさあ。だから互いに話がわかろうっていうもんじゃありませんかね」
そういうふうに話しながら、テナルディエはじっとルブラン氏の上に瞳をすえて、両眼からつきだしたするどい視線の刃《やいば》を相手の心の底まで突きとおそうとしてるかのようだった。そのうえ彼の言葉には、ずるそうな、へんに穏かな横柄さがこもってはいたが、ごく控え目でかつ立派だとさえいえるほどだった。そしてさっきまで一強盗にすぎなかったその悪人のうちには、なるほど「司祭になるために学問をした男」があることも感じられた。
捕虜が守っている沈黙、自分の生命をも顧みないほどの注意、まず第一に叫び声をたてるのが当然であるのをじっとおさえてるその我慢、それらのことを、テナルディエの言葉によってマリユスははじめて気づいて、あえていうが、かなり気にかかる心苦しい驚きを感じた。
テナルディエの道理ある観察は、この重々しい、不思議な人物をつつむ不可解の密雲を、いっそう暗くするもののように、マリユスにはおもえた。しかし、彼がはたして何人《なんびと》であったにせよ、こんなふうに縄にしばられ、殺し屋たちにとりまかれ、いわばもうなかば墓穴の中につきこまれ、刻々にその墓穴は足下に深まりゆくにもかかわらず、一方またテナルディエの暴言の前に、あるいは甘言の前にありながら、彼はまったく顔色ひとつ動かさなかった。マリユスは、こうしたこの時の彼の崇高な沈んだ顔貌にたいして、おのずから驚嘆を禁じえなかった。
それこそまさしく、恐怖にとらわるることなき魂であり、狼狽《ろうばい》のなんたるかをしらない魂であった。絶望の場合にのぞんでも、驚愕《きょうがく》の念をおさえうる人であった。危機はいかにも切迫し、破滅はいかにもさけがたくはあったけれども、水中におそろしい眼をみはる溺死者のような苦悶のさまは、すこしも現われていなかった。
テナルディエは無雑作にたちあがって、煖炉のそばへゆき、そばの寝台にたてかけてあったびょうぶをとりはらった。そこには、まっ赤な焔がいち面にもえあがっている火鉢があらわれ、そのなかには白熱して、ところどころまっ赤になってる|のみ《ヽヽ》がうめてあるのが、はっきり捕虜の眼にはいった。
テナルディエはそれからルブラン氏のそばに戻ってきて腰をおろした。
「なお先を少しいわしてもらいましょうか」とテナルディエはいった。「お互いに話がわかろうっていうもんです。だから穏かにことをきめましょうや。さっき腹を立てたなあ、わしがわるかった。どうしたのか自分でもわからねえが、余りむちゃになって、少し乱暴な口をききすぎたようだ。たとえていってみりゃあ、お前さんが分限者《ぶげんしゃ》だからといって、金が、沢山な金が、莫大な金がほしいなんていったなあ、わしのほうが間違っていた。そりゃあお前さんにいくら金があったところで、いろいろ入費《いりめ》もありなさるだろうし、誰だって同じことでさあ。わしだってなにもお前さんの財産をつぶそうっていうんじゃねえ。とにかくお前さんの身をそぐようなこたあしませんや。有利な地位にいるからって、それに乗じて人に笑われるようなことをする人間たあ違いまさあ。よござんすか、わしのほうでもまあまけておいて、いくらか譲歩するとしましょう。つまり二十万フランばかりでよろしいんですがね」
ルブラン氏は一言も発しなかった。テナルディエはいいつづけた。
「この通りわしは相当に事をわけて話してるつもりだ。お前さんの財産がどのくらいあるかわしは知らねえ、だがお前さんは金に目をくれはしなさらねえってことだけはわかってる。お前さんのような慈悲深え人は、不仕合せな一家の父親に二十万フランぐらいはだしてくれてもよさそうなもんだ。お前さんだってたしかに物の道理はわかってるはずだ。きょうのように骨を折って、今晩のように手筈をきめて、ここにきてる人たちを見てもわかる通り万事うまく仕組みをした以上は、そこいらのデノワイエ料理店で十五スーの赤い奴を飲み、肉をつっつくぐらいの金じゃすまされねえってことは、お前さんにもわかるはずだ。二十万フランぐらいのねうちはありまさあね。それだけのはした金を懐からだしさえしなさりゃあ、それですべて帳消しにして、お前さんに指一本さしゃあしません。なるほどお前さんは、いま二十万フランなんてもちあわせはねえっていいなさるだろう。なにわしもそうむちゃなことはいいませんや。いまそれをくれとはいやあしません。ただ一つお頼みがあるんでさあ。わしがいうとおりに書いてもらいてえんです」
そこでテナルディエは言葉をきった。それから火鉢のほうへちょっと笑顔をむけながら、一語一語力を入れていいそえた。
「ことわっておくが、お前さんに字が書けねえとはいわせない」
その時の彼の微笑には、宗教裁判所の大法官をもうらやませるほどのものがあった。
テナルディエはルブラン氏のすぐそばにテーブルをおしやって、引出しからインク壷とペンと一枚の紙とをとりだした。彼はその引出しをなかば開いたままにしておいたが、そこにはナイフの長い刀身が光っていた。
彼はルブラン氏の前に紙をおいていった。
「書きなさい」
捕虜はついに口を開いた。
「どうして書けというんです、このとおりしばられているのに」
「なるほどな」とテナルディエはいった。「ごもっともだ」
そして彼はビグルナイユのほうをむいた。
「旦那の右の腕をといてくれ」
パンショー一名ビグルナイユは、テナルディエのいうとおりにした。捕虜の右手が自由になった時、テナルディエはペンをインキに浸して、彼にさしだした。
「旦那、よく頭にいれておいてもらいましょうや。お前さんは今日になっちゃ、もうすっかり、わしらの手の中にあるんですぜ。わしらの思うままに、まったく思うままにどうにでもできますぜ。人間の力ではとうていお前さんをここから助けだすことはできねえ。だがわしらだって荒療治をしなけりゃならねえようになるのは、まったく嫌なんだ。わしはお前さんの名前も知らねえし、住所も知らねえ。だがことわっておくが、お前さんがこれから書く手紙をもってゆく使いの者が帰ってくるまでは、しばられたままでいなさらなけりゃならねえ。そのつもりで、さあ書きなさるがいい」
「なんと書くのですか?」と捕虜はたずねた。
「わしのいうとおりに」
ルブラン氏はペンを取った。
テナルディエは手紙の文句を口授しはじめた。
「──わが娘よ……」
捕虜は身をふるわして、テナルディエのほうへ眼をあげた。
「――わが愛する娘よ──と書きなさい」とテナルディエはいった。
ルブラン氏はその通りに書いた。テナルディエは続けた。
「──すぐにおいで……」
彼は言葉をきった。
「お前さんは彼女《あれ》にはそういうふうな親しいいい方をしていなさるんだろうな」
「誰に?」ルブラン氏はたずねた。
「わかってらあな」とテナルディエはいった。「あの子供にさ、アルーエットにさ」
ルブラン氏はよそ目にはいかにも冷静に答えた。
「なんのことだか私にはわからない」
「でもまあ書きなさい」とテナルディエはいった。そしてまた口授をはじめた。
「──すぐにおいで。ぜひお前にきてほしい。この手紙を持ってゆく人が、お前を私のところへ案内してくれることになっている。私はお前を待っている。やっておいで、安心して──」
ルブラン氏はそれをすっかり書いた。テナルディエはいった。
「ああ|安心して《ヽヽヽヽ》というのは消しなさい。それはなんだか普通のことでないような気をおこさして、不安に思わせるかもしれない」
ルブラン氏はその四字を消した。
「さあ署名しなさい」とテナルディエはいった。「お前さんの名はなんていうのかな」
捕虜はペンをおいて、そしてたずねた。
「誰にこの手紙はやるんですか」
「お前さんにはよくわかってる筈だ」とテナルディエは答えた。「あの子供にさ。今いってきかした通りだ」
問題の若い娘の名をいうのをテナルディエが避けたのは当然だった。彼は「アルーエット」(雲雀娘)といい、また「あの子供」といいはしたが、その名前は口にださなかった。それは共犯者らの前にも秘密を守る巧妙な男の用心であった。名前をいうことは、「その仕事」を彼らの手に渡してしまうことだったろう、つまりそれは彼らに必要以上のことを知らせてしまうことだったろうから。
彼はいった。
「署名しなさい。お前さんの名はなんというんだ」
「ユルバン・ファーブル」と捕虜は答えた。
テナルディエは猫のようにすばしこく手をポケットにつっこんで、ルブラン氏からとり上げたハンカチをひきだした。彼はそのしるしを探して、ろうそくの火に近づけた。
「U・F。なるほど。ユルバン・ファーブル。ではU・Fと署名しなさい」
捕虜は署名をした。
「手紙をたたむには両手がいるから、わしに渡しなさい、わしがたたむから」
それがすむと、テナルディエはいった。
「住所を書きなさい。お前さんの家の『ファーブル嬢』と。ここからそう遠くねえ所に、サン・ジャック・デュ・オー・パの付近に、お前さんが住んでることをわしは知ってる。毎日その教会堂のミサにゆきなさるのでもわかる。だがどの町だかわしは知らねえ。お前さんは今どんな立場にあるかわかっていなさるはずだと思う。だから名前にうそをいわなかった通り、住所にもうそをいわねえがいい。自分でそれを書きなさい」
捕虜はちょっと考えこんでいたが、やがてペンをとって書いた。
――サン・ドミニック・ダンフェール街十七番地、ユルバン・ファーブル氏方、ファーブル嬢殿。
テナルディエは熱にふるえるような手つきでその手紙をつかんだ。
「おまえ!」と彼は叫んだ。
テナルディエの女房はいそいでやってきた。
「さあ手紙だ。やることはわかってるだろう。辻馬車が下にある。すぐにでかけて、すぐに帰ってこい」
それから斧を持ってる男のほうへいった。
「貴様はちょうど面をとってるから、うちのかみさんについてってくれ。馬車のうしろに乗ってゆくがいい。例の小馬車をおいてきたところはわかってるな」
「わかってる」と男はいった。
そして斧を片すみにおいて、彼はテナルディエの女房のうしろについていった。
二人がでてゆくと、テナルディエは半ば開いてる扉から顔をさし出して、廊下で叫んだ。
「手紙を落さないようにしろ! 二十万フラン持ってるのと同じだぞ」
テナルディエの女房のしわがれた声がそれに答えた。
「安心しておいで。内ふところにしまってるから」
一分間とたたないうちに、むちの音が聞えたが、それもすぐに弱くなって消えてしまった。
「よし」とテナルディエはつぶやいた。「ずいぶん早えや。あの調子で駈けてゆきゃあ、うちの奴は四、五十分で戻ってくる」
彼は煖炉に近く椅子をよせ、そこに腰をおろして、両腕を組み、泥だらけの靴を火鉢のほうへさしだした。
「足が冷《つめ》てえ」と彼はいった。
テナルディエと捕虜とともにその部屋の中にいるのは、五人の悪漢だった。彼らは仮面をつけたりあるいは黒く塗りつぶしたりして顔を隠しながら、なるべく恐ろしく見せかけるように、炭焼き人だの黒人だの悪魔だのの姿をまねていたが、みんなうつろな沈鬱な様子をしていた。それを見ると、彼らは罪悪を犯すことをもちょうど仕事をするような工合《ぐあい》に、いたって平気で、なんら憤激の情も、憐憫《れんびん》の念もなしに、一種の退屈らしい様子でやってるようだった。彼らは獣のように、すみにかたまって、黙々としていた。テナルディエは足をあたためていた。捕虜はまた無言のうちに沈んでいた。さっきその部屋をみたしていた、荒々しい騒ぎについで、陰惨なしずけさがやってきたのである。
|しん《ヽヽ》に大きく灰のたまってるろうそくが、広い部屋をぼんやり照らしてるばかりで、火鉢の火も弱くなっていた。そしてそこにうずくまってる怪物たちの頭は、壁や天井に妙な格好《かっこう》の影をなげていた。
きこえるものはただ、眠ってる|よっぱらい《ヽヽヽヽヽ》の老人の静かな息の音ばかりだった。
マリユスは、つぎつぎに重なってくる心痛のうちにじっと待っていた。謎はますます不可解になってきた。テナルディエがアルーエットとよんだあの「子供」は、いったい何人《なんびと》なのか? 捕虜はアルーエットという言葉をきいても、すこしも心を動かさないらしかった。そしてごく自然に「なんのことだか、私にはわからない」と答えた。しかし一方にU・Fという二字は説明された。それはユルバン・ファーブルだった。そしてユルシュールも今はユルシュールという名ではなくなった。マリユスがもっともはっきり知りえたのはその一事だけだった。一種のおそろしい魅惑にとらえられて彼は、全光景を観察し、その場所に釘づけにされてしまった。彼はこの目近にみた不快きわまる出来事に圧倒されたかのようにほとんど考えることも、動くこともできなくなっていた。いかなる事にてもあれ、ただなにかがおこることを望むだけで、考えをまとめることもできず、決心をかためるすべもしらずに、彼はただ待っていた。
「いずれにしても」と彼は思った。「アルーエットというのが彼女のことであるかどうか、これからはっきりわかるだろう。テナルディエの女房が、彼女をここへつれてくるだろうから、その時こそわたしの心は決するのだ。もし必要なら、わたしはこの生命と血潮とをささげても、彼女をすくってやる。いかなることがあっても、わたしはあとへはひかない」
こうして三十分ばかりすぎ去った。テナルディエは、ある、くらい瞑想《めいそう》のうちにしずみこんでるようだった。捕虜は身うごきもしなかった。けれどもマリユスは、少し前から、時々間をおいて、捕虜のあたりに、なにか鈍《にぶ》いかすかな音がきこえるように思った。
突然、テナルディエは捕虜にいいかけた。
「ファーブルさん、今すぐにいっといたほうがいいようだから聞かしてあげよう」
その数語は、これから何か説明でもはじまるもののようにおもわれた。マリユスは耳をかたむけた。テナルディエはいいつづけた。
「家内はすぐに帰ってくる。そうせかないで待っていなさるがいい。アルーエットはまったくお前さんの娘だろうから、お前さんが家に引きとっておきてえなあ当り前だとわしも思う。だがちょっと聞いておいてもらいましょう。お前さんの手紙を持って、家内は娘さんに会いにゆく。ところでさっきごらんのとおり家内へは相当な服装《なり》をさせといたから、すぐに娘さんはついてくるに違いない。そして二人は辻馬車に乗るが、そのうしろにはわしの仲間が一人乗ってる。市門の外のある場所には、上等の馬が二匹ついてる小馬車がある。そこまでお前さんの娘はつれてこられるんだ。そこで娘さんは辻馬車から下りて、わしの仲間といっしょに小馬車に乗る。家内はここに帰ってきて報告する、すんだと。娘さんのほうには別に悪いことはしねえ。娘さんはある所まで小馬車でつれてゆかれるが、そこにじっとしてるだけだ。そしてお前さんが二十万フランの小金《こがね》をわしにくれるとすぐに娘さんを返してあげる。もしお前さんがわしを捕縛させるようなことをすれば、わしの仲間がアルーエットに手を下すばかりだ。まあざっとこういう筋みちだ」
捕虜は一言も発しなかった。ちょっと休んでからテナルディエはいいつづけた。
「お聞きの通りなんでもねえことなんだ。お前さんの心次第で、なにも悪いことはおこりゃしねえ。うち明けてわしは話したんだ。よくのみこんでおいておらいてえと思ってな」
彼は言葉をきった。捕虜は口を開こうともしなかった。テナルディエはまたいった。
「家内が帰ってきて、アルーエットは出かけたといいさえすりゃあ、すぐにお前さんは許してあげる。勝手に家に帰って寝てもいい。ねえ、わしらは別に悪いたくらみを持ってやしねえ」
恐るべき幻がマリユスの脳裡をよぎった。何事ぞ、彼らはその若い娘を奪ってここへはつれてこないのか。あの怪物の一人がその娘を暗黒のうちに運び去ろうとするのか。いったいどこへ? ……そしてもしその娘がはたして彼女であったならば! いや彼女であることは明らかである。マリユスは心臓の鼓動もとまるような気がした。どうしたものであろう。ピストルを撃つがいいか、この悪漢どもをみな警官の手に渡してしまうのがいいか。しかしそれにしても、あの恐ろしい斧の男は若い娘をつれてやはり手の届かぬところにいってるだろう。マリユスは恐ろしい意味がこめられてるテナルディエの数語を思った。――「もしお前さんがわしを捕縛させるようなことをすれば、わしの仲間がアルーエットに手を下すばかりだ」
いまはもう大佐の遺言のためばかりではなく、また自分の恋のためにも、愛する人の危険のためにもピストルを発射するのはさし控えていなければならないように思われた。
すでに一時間以上も前から続いてる恐ろしい情況は一瞬間毎に様子をかえていった。マリユスは勇を鼓してもっとも悲痛な推測を一々考慮してみた。そしてなにかの希望を探し求めたがすこしも見いだされなかった。彼の脳裡の騒乱は、その巣窟の気味悪い沈黙と異様な対照をなしていた。
その沈黙のうちに、階段にある扉が開いてまた閉る音がきこえた。
捕虜は縛られながらちょっと身を動かした。
「うちのお上《かみ》だ」とテナルディエはいった。
その言葉のおわるかおわらないうちに、果してテナルディエの女房が部屋にとびこんできた。まっ赤になって、息をきらし、あえいで、眼を光らしていた。そしてその大きな両手で一度に両|腿《もも》を叩きながら叫んだ。
「|にせ《ヽヽ》の住所だ」
女房が引きつれていた悪漢が、彼女のうしろからはいってきて、またその斧をとりあげた。
「|にせ《ヽヽ》の住所だと!」とテナルディエはおうむ返しにいった。
女房はいった。
「誰もいやしない。サン・ドミニック街十七番地にユルバン・ファーブルなんて者はいやしない。誰にきいても知ってる者なんかいないよ」
彼女は息をつまらして言葉をきったが、それからまたつづけていった。
「テナルディエ、お前さんはその爺《じい》さんに馬鹿にされたんだよ。あまりお前さんも人がよすぎるじゃないか。わたしならほんとにそいつのあごを四つ裂きにでもしておいてから、かかるんだがね。意地の悪いことをしやがったら生きてるまま煮たててやるんだがね。そうすりゃあ、きっと本当のことをいって娘のいるところや金を隠してるところを吐きだしてしまったにちがいない。わたしだったらそういうふうにやってのけるよ。男なんて女よりよほど馬鹿だっていうが、まったくだ。十七番地なんかには誰もいやしない。大きな門があるきりなんだ。サン・ドミニック街にはファーブルなんて者はいやしない。大いそぎで馬を駈けさせるし、馭者には祝儀《しゅうぎ》をやるし、いろいろなことをしてさ。門番の男にも聞いたし、しっかり者らしいそのお上さんにも聞いたが、そんな人はてんで知らないじゃないかね」
マリユスはほっと息をついた。ユルシュールか、あるいはアルーエットか本当の名前はわからないが、とにかく彼女は救われたのだった。
猛《たけ》りたった女房がどなりちらしてる間に、テナルディエはテーブルの上に腰かけた。彼は一言も発しないでそのままの姿勢で、たれてる右足を振り動かしながら、残忍な夢想に沈んでるような様子で、しばらく火鉢のほうを見やっていた。
最後に彼は、いかにも獰猛《どうもう》なゆっくりした調子で捕虜にいった。
「|にせ《ヽヽ》の住所だと、いったい貴様、なんのつもりなんだ」
「時間をのばすためだ!」と捕虜は爆発したような声で叫んだ。
そして同時に彼は縛られた縄を揺った。それは皆きれていた。捕虜はもはや、片足だけが寝台に結えられてるばかりだった。
七人の男がはっとわれにかえってとびかかるすきもあたえず、彼は煖炉の所に低く身をかがめ、火鉢のほうに手を伸ばし、それからすっくと立ち上った。そして今やテナルディエもその女房も悪漢どもも、驚いて部屋のすみに退き、ぼうぜんと彼を見まもった。彼はほとんど自由になってる恐ろしい姿勢をとり、すごい火光がしたたるばかりの、まっ赤に焼けた|のみ《ヽヽ》を、頭の上にふりかざしたのである。
ゴルボー屋敷におけるこの待伏せの後にまもなくおこなわれた裁判所の調査によれば、二つに切りわった特殊な細工をほどこした大きな一スーの銅貨が、臨検の警官によってその屋根裏部屋の中に見いだされたのだった。その大きな銅貨は、徒刑場の気長い仕事によって、暗黒な用途のために暗黒の中で作りだされる驚くべき手品のひとつであり、脱獄の道具に外ならない驚くべき品物のひとつだった。自由にあこがれてる不幸な囚人は、ときとすると別に道具がなくても、庖丁や古ナイフなどで、二枚の薄い片に一スー銅貨を切りわり、貨幣の面には少しもきずがつかないように両片をくりぬき、その縁に螺旋《らせん》条をつけて、また両片がうまくあわさるようにこしらえることがある。それは自由にねじ合せたりねじ開けたりできるもので、一つの箱となっている。箱の中には時計のぜんまいが隠されている。そしてその|ぜんまい《ヽヽヽヽ》をうまく加工すると、大きな鎖でも鉄の格子でも切ることができる。その不幸な囚徒はただ一スー銅貨しか持っていないように思われるが、実は自由を所有してるのである。ところで、後に警察のほうで捜索したとき、その部屋の窓に近い寝台の下で見いだされた、二つの片に開かれる大きな一スー銅貨は、そういう種類のものだった。また、銅貨の中に隠し得るくらいの小さな青い鋼鉄の鋸《のこぎり》も見いだされた。恐らく、悪漢どもが捕虜の身体を探した時、捕虜はその大きな銅貨を持っていたが、それをうまく手の中に隠し、それからつぎに、右手が自由になったので、それをねじ開け、中の鋸をつかって縛られてる縄を切ったものであろう。マリユスが気づいたかすかな音とわずかな動作も、また、それで説明がつく。
彼は身をかがめるとみつかる心配があったので、左足の縛《いまし》めはきらなかったのである。
悪漢どもは、はじめの驚きからようやくわれにかえった。
「安心しろ」とビグルナイユはテナルディエにいった。「まだ左の足がしばってある。逃げることはできねえ」
そのうち捕虜は声をあげた。
「きみたちは気の毒な者どもだ。わしの生命は、そう骨折って大事にするほどのものではない。ただ、わしに口をきかせようとしたり、書きたくないことを書かせようとしたり、いいたくないことをいわせようとしたりするからには……」
彼は左腕の袖をまくりあげてつけくわえた。
「見ろ」
同時に彼は腕をのばして、右手に木の柄をつかんで持っていた焼けてる|のみ《ヽヽ》を、そのあらわな肉の上に押しあてた。
じゅーっと肉の焼ける音が聞え、拷問《ごうもん》部屋に似た匂いが部屋にひろがった。マリユスは恐ろしさに気を失ってよろめき、悪漢どもすら震えあがった。しかしその異常な老人の顔はちょっとひきつったばかりだった。そして赤熱した鉄が煙をあげてる傷口の中にはいってゆく間、彼は平気なほとんど荘厳な様子で、美しい眼をじっとテナルディエの上にすえていた。その眼の中には、なんら憎悪《ぞうお》の影もなく、一種朗かな威厳のうちに苦痛の色も消え失せてしまっていた。
偉大な高邁《こうまい》な性格の人にあっては、肉体的の苦悩にとらえられた筋肉と感覚とのもだえは、その心霊を発露させて、それを額《ひたい》の上に出現させる。あたかも兵卒らの叛逆はついに指揮官を呼びだすようなものである。
「みじめな者ども」と彼はいった。「わしがきみたちを恐れないと同じように、きみたちももうわしを恐れるにはおよばない」
そして彼は傷口から|のみ《ヽヽ》を引きはなし、開いていた窓からそれを外に投げ捨てた。赤熱した恐ろしい道具は、廻転しながら闇夜のうちに隠れ、遠く雪の中に落ちてひえていった。
捕虜はいった。
「どうとでも勝手にするがいい」
彼はもう武器は一つも持っていなかった。
「奴を捕えろ!」とテナルディエはいった。
悪漢のうちの二人は彼の肩をとらえた。そして仮面をつけた|はら《ヽヽ》声の男は、彼の前に立ちふさがって、すこしでも動いたら大鍵をくらわして頭をぶち破ってやろうと待ちかまえた。
同時にマリユスは、壁の下のほうで自分のすぐ下に、低い声でかわされるつぎの対話を聞いた。あまり近いので、話してる者の姿は穴から見えなかった。
「こうなったらほかに仕方はねえ」
「やっつける!」
「そうだ」
それは主人と女房とが相談してるのだった。
テナルディエはゆっくりとテーブルのほうへ歩みよって、その引出しを開き、ナイフを取りだした。
マリユスはピストルの手を握りしめた。異常な困惑のうちに陥った。一時間前から、彼の内心のうちには二つの声があった。一つは父の遺言を尊重せよと彼に語り、一つは捕虜を救えと彼に語っていた。その二つの声はたえずたがいに争闘を続けて彼をなやましつづけていた。彼はこの瞬間まで、その二つの義務が相融和し得る途はないかと漠然《ばくぜん》とねがっていた。しかしそれをかなえるようなものは何もおこってこなかった。しかるにもはや危機は迫っており、捕虜から数歩のところに、テナルディエはナイフを手にして考えこんでいた。
マリユスは昏迷して、あたりを見まわした。絶望の極の最後の機械的な手段である。
と突然、彼はおどりあがった。
彼は足もとに、テーブルの上に、満月の強い光りが一枚の紙片を照らしだして、波にそれを示してるかのようだった。その紙片の上に彼は、テナルディエの姉娘がその朝書いた大きな文字のつぎの一行を読んだ。
──|いぬがいる《ヽヽヽヽヽ》。
ひとつの考えが、マリユスの脳裡をよぎった。それこそ彼が探している方法だった。彼を苦しめてる恐るべき問題の解決、殺害者を逃し被害者を救う方法であった。彼は戸棚の上にひざまずき、腕をのばし、その紙片をつかみとり、壁から一塊のしっくいを静かにはぎとり、それを紙片に包み、そのままそれを部屋のまん中に穴から投げこんだ。
ちょうど危い時であった。テナルディエはすでに捕虜のほうへ|あし《ヽヽ》を進めていた。
「なにか落ちてきたよ」とテナルディエの女房が叫んだ。
「なんだ?」と亭主はいった。
女房はかけよって、紙につつんだしっくいをひろった。
彼女はそれを亭主に渡した。
「どこからきたんだ」とテナルディエはたずねた。
「どこからだって?」と女房はいった。「窓からよりほかはないじゃないかね」
「おれはそれがとんでくるのをみたぜ」とビグルナイユがいった。
テナルディエはいそいで紙をひらき、ろうそくの火に近づけた。
「──|いぬ《ヽヽ》がいる──エポニーヌの筆跡《て》だ。畜生!」
彼は女房に合図をすると、女房はすぐそばにきた。彼は紙に書いてある一行の文句を示して、それから鈍い声でつけくわえた。
「早く! はしごだ。獲物《えもの》はわなにいれたままで、ひきあげよう」
「首をちょんぎらずにかえ」と女房はたずねた。
「そんなひまはねえ」
「どこから逃げるんだ」とビグルナイユはいった。
「窓からよ」とテナルディエは答えた。
「エポニーヌが窓から石をほうりこんだところをみると、そのほうには手がまわってねえことがわかる」
仮面をつけたはら声の男は、大鍵を下におき、両腕をたかくあげて、だまったまま、その手を三度、急がしく開いたり握ったりした。それは船員らの間の戦闘準備の合図みたいなものだった。捕虜をとらえていた悪漢はその手を離した。またたく間に、縄ばしごは窓の外におろされ、二つの鉄の鈎《かぎ》でしっかと窓縁にとめられた。
捕虜は周囲におこってることにはすこしも注意をしなかった。彼はなにか夢想し、あるいは祈祷してるようだった。
縄ばしごがつけられるや、テナルディエは叫んだ。
「こい、上《かみ》さん!」
そして彼は窓のほうへつき進んだ。
だが彼がそこをまたごうとした時、ビグルナイユは荒々しく彼の襟筋《えりすじ》をつかんだ。
「いけねえ、古狸め、おれたちが先だ」
「おれたちが先だ!」と悪漢どもはどなりたてた。
「つまらねえ野郎だな」とテナルディエはいった。「時間をつぶすばかりだ。いぬどもがきかかってるじゃねえか」
「じゃあ」と一人の悪漢がいった。「誰が一番先か、くじ引きをしろ」
テナルディエは叫んだ。
「馬鹿ども、気でも狂ったのか。|のろま《ヽヽヽ》ばかりそろってやがる。時間をつぶすばかりじゃねえか。くじか? じゃんけんか、藁屑か、名前を書いて帽子に入れるか……」
「おれの帽子ではどうだ」と入口の所で声がした。
皆の者はふりむいた。それはジャヴェルだった。
彼は手に帽子を持って、微笑しながらそれを差しだしていた。
十五
ジャヴェルは日暮れに、手下をあちこちに張りこませ、大通りをはさんでゴルボー屋敷とむかいあったバリエール・デ・ゴブラン街の木立のうしろにみずから身をひそめていた。彼はまず「ポケット」を開いて、屋敷の付近に見張りをしてる二人の娘をそのなかにねじこもうとした。しかし彼はアゼルマしか「袋にする」ことはできなかった。エポニーヌのほうはその場所にいなくて姿が見えなかったので、捕えることができなかった。それからジャヴェルは位置について、約束の合図を待って耳を傾けていた。辻馬車が出かけたり戻ってきたりするので、彼は少なからず心配になって、ついにたえきれなくなった。そして多くの悪漢どもがはいりこんだのを認めてたので、|たしかにそこに巣がある《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と思い、たしかに|うまいことがある《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》に違いないと信じ、ピストルの鳴るのを待たずにはいってゆこうと心を決したのだった。
読者の思いおこす通り、彼はマリユスの合鍵を持っていたのである。
彼はちょうどいい時にやってきたのだった。
狼狽《ろうばい》した悪漢らは、逃げだそうとする時ほうぼうに投げ捨てた武器をまたつかみとった。またたく間に、見るも恐ろしい七人の者どもは、いっしょに集まって防禦の姿勢をとった。一人は斧を持ち、一人は大鍵を持ち、一人は玄能を持ち、その他の者は鋏や火箸や金づちなどを持ち、テナルディエはナイフを手に握っていた。テナルディエの女房は娘たちが腰かけにしていた窓の角にある大きな畳石をつかんだ。
ジャヴェルは帽子をかぶって、両腕を組み、杖を小脇にはさみ、剣を鞘におさめたままで、部屋の中に二歩はいりこんだ。
「そこにじっとしていろ!」と彼はいった。「窓からでちゃいかん。でるなら扉のほうからだしてやる。そのほうが安全だ。貴さまたちは七人だが、こちらは十五人だ。オーヴェルニュの田舎者のようにつかみあわなくてもいい。静かにしろ」
ビグルナイユは上衣の下に隠してたピストルをとって、それをテナルディエの手に渡しながら、彼の耳にささやいた。
「あれはジャヴェルだ。おれはあいつに引金を引くなあいやだ。貴さまやってみるか」
「やるとも」とテナルディエは答えた。
「じゃあ撃ってみろ」
テナルディエはピストルをとって、ジャヴェルをねらった。
三歩前のところにいたジャヴェルは、彼をじっと眺めて、ひとこといった。
「撃つな、おい、あたりゃしない」
テナルディエは引金を引いた。弾ははずれた。
「それみろ!」とジャヴェルはいった。
ビグルナイユは玄能をジャヴェルの足下に投げだした。
「旦那は悪魔の王様だ、降参すらあ」
「そして貴さまたちもか」とジャヴェルは他の悪漢どもにたずねた。
彼らは答えた。
「へえ」
ジャヴェルは静かにいった。
「そうだ、それでよし。おれがいった通り、皆おとなしいやつらだ」
「ただ一つお願いがあります」とビグルナイユはいった。「監禁中たばこは許して頂きてえんですが」
「許してやる」とジャヴェルはいった。
そしてうしろをふりかえって呼んだ。
「さあはいってこい」
剣を手にした巡査と棍棒の類を持った刑事との一隊が、ジャヴェルの声に応じておどりこんできた。そして悪漢どもをしばりあげた。一本のろうそくの光りがそれら一群の人々をようやく照らしだし、部屋の中にいっぱい影をこしらえた。
「皆に指錠《ゆびじょう》をはめろ」とジャヴェルは叫んだ。
「そばにでもきてみろ!」と叫ぶ声がした。それは男の声ではなかったが、さりとて女の声ともいいえないものだった。
テナルディエの女房が窓の一方の角《かど》によって、金切声《かなきりごえ》をあげたのだった。
巡査や刑事たちは、うしろにさがった。
彼女は肩掛けをぬぎすてて、帽子だけはかぶっていた。亭主はそのうしろにうずくまって、ぬぎすてられた肩掛けの下に身をかくさんばかりにしていた。彼女はまたそれを自分の身体でまもりながら、両手で頭の上の畳石をふりかざして、岩石をなげとばさんとする、巨人のようないきおいだった。
「気をつけろ」と彼女は叫んだ。
人々は廊下のほうへ退いた。部屋のまん中には、広い空地ができた。
テナルディエの女房は、指錠をはめられるままに身をまかせてる悪漢どものほうを、じろりとみやって、つぶれたのど声でつぶやいた。
「卑怯者!」
ジャヴェルはほほえんだ。そして、テナルディエの女房がにらみつけてる空地のうちに進みでた。
「近くへよるな、いっちまえ」と彼女は叫んだ。「そうしないとぶっつぶすぞ」
「えらい勢いだな」とジャヴェルはいった。「上《かみ》さん、お前さんに男のようなひげがあるからって、わしにも女のような爪があるからな」
そして彼はなお進んでいった。
テナルディエの女房は、髪をふり乱し、恐ろしい形相《ぎょうそう》をして、足をふみ開き、うしろに身をそらして、ジャヴェルの頭をめがけて、狂わんばかりに畳石をなげつけた。ジャヴェルは身をかがめた。畳石は彼の上をとびこえ、むこうの壁につきあたって、しっくいの大きな一片をつきおとし、それから、幸いに、ほとんど人のいなかった部屋のまん中を、すみからすみへと、ごろごろころがり廻って、ジャヴェルの足もとにきてとまった。
同時にジャヴェルはテナルディエ夫婦のところへ進んだ。彼の大きな手は、一方に女房の肩をとらえ、一方に亭主の頭を押えた。
「指錠《ゆびじょう》だ!」と彼は叫んだ。
警官らは皆いっせいに戻ってきた。そして数秒のうちにジャヴェルの命令は遂行された。
とりひしがれたテナルディエの女房は、縛りあげられた自分の手と亭主の手とをみて、床《ゆか》の上に身を投げだして、泣き声をあげた。
「ああ娘たちは!」
「娘どもも、もう暗いところへはいってる」とジャヴェルはいった。
そのうちに警官らは、扉のうしろに眠ってる|よっぱらい《ヽヽヽヽヽ》をみつけて、ゆり動かした。彼は眼をさましながらつぶやいた。
「すんだか、ジョンドレット」
「すんだよ」とジャヴェルが答えた。
捕縛された六人の悪漢はそこにたっていた。でも彼らはまだ異様な顔つきのままで、その中の三人は顔をまっ黒に塗り、三人は仮面をかぶっていた。
「面はつけておけ」とジャヴェルはいった。
そして、ポツダム宮殿で観兵式をやるフレデリック二世のような眼つきで、彼は一同を見渡し、それから三人の「煖炉職工」へむかっていった。
「どうだビグルナイユ。どうだブリュジョン。どうだドゥー・ミリヤール」
次に仮面をかぶってる三人のほうへむいて、彼は斧の男にいった。
「どうだな、グールメル」
それから棍棒の男にいった。
「どうだな、バベ」
それからはら声の男にいった。
「おめでとう、クラクズー」
そのとき彼は、悪漢どもの捕虜をかえりみた。捕虜は警官らがはいってきてからは、一言をも発せず、じっと頭をたれていた。
「その者を解《と》いてやれ」とジャヴェルはいった。「そして一人も外へでてはならんぞ」
そういって彼は、厳かにテーブルの前に坐った。テーブルの上にはろうそくとペンやインキがまだおいてあった。彼はポケットから印のおされた紙を一枚とりだして、調書を書きはじめた。
いつも同一なきまり文句を二、三行書いた時、彼は眼をあげた。
「その男どもから縛られていた者をここにつれてこい」
警官らはあたりを見まわした。
「どうしたんだ」とジャヴェルはたずねた。「男はどこにいるんだ」
悪漢どもの捕虜、ルブラン氏もしくはユルバン・ファーブル氏、もしくは、ユルシュールあるいはアルーエットの父親は、消えうせてしまっていた。
扉には番がついていたが、窓には番がいなかった。彼は縛《いましめ》がとかれたのを見るやいなや、ジャヴェルが調書を書いてる間に、混雑と騒ぎと人込みと薄暗さと、また誰も自分に注意をむけていない瞬間とに乗じて、窓から飛びだしていったのである。
一人の警官は窓のところへかけよって見まわした。外には誰も見えなかった。
縄ばしごはまだ動いていた。
「畜生!」とジャヴェルは口の中でいった。「あいつが一番大物だったにちがいないが」
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第四部 抒情詩と叙事詩
第一章 エポニーヌ
一
マリユスは、ジャヴェルにたのんだおかげで、あの待伏せの意外な終局をみた。しかし、ジャヴェルが捕虜などを三つの辻馬車にのせて、その家から出てゆくやいなや、マリユスのほうも外にしのびでた。まだ晩の九時だった。マリユスはクールフェーラックのところへいった。その頃クールフェーラックは、もうラテン街区に住んではいなかった。「政治上の理由」からヴェルリー街へ移転していた。そこは当時暴動の中心地ともいうべき場所のひとつだった。マリユスはクールフェーラックにいった。
「泊《と》めてもらいにきたよ」
クールフェーラックは寝床の蒲団《ふとん》を一枚ぬきだして、それを床《ゆか》にひろげていった。
「さあ寝たまえ」
翌日、朝早く七時頃、マリユスはゴルボー屋敷に戻って、家賃とブルゴン姿さんへの金とを払い、書物と寝床とテーブルと戸棚と二つの椅子とを手車にのせ、住所もつげずに立ち去ってしまった。それで、前日の出来事をいろいろマリユスにたずねるためにその朝ふたたびジャヴェルがやってきた時には、ただブルゴン姿さんがいるきりで、婆さんはこう答えた。
「引っ越しました」
ブルゴン姿さんは、前夜捕えられた盗賊らにマリユスも多少関係があったものと信じた。そして近所の門番の女たちにふれまわった。
「人はわからないものだね、娘《あま》っ子《こ》のようなふうをしていたあんな若い人がさ」
マリユスが急に引っ越したのには、二つの理由があった。第一は、今ではその家が呪うべきものに思えたからである。その家の中で彼は、害毒を流す富者よりもおそらくずっと恐ろしい社会の醜悪面が、すなわち邪悪なる貧民が、そのもっとも嫌悪すべき、もっとも獰猛《どうもう》なる手をひろげるのを、すぐ目近かに眺めたからであった。また第二には、多少つぎにおこるべき裁判に顔をだして、テナルディエに不利な証言をなさなければならなくなるだろうということを、欲しなかったからである。
ジャヴェルのほうでは、名前は忘れたが、その青年はきっと恐れて逃げだしてしまったのか、あるいは待伏せの時に家に戻りもしなかったのだろう、と推察した。それでも彼は、多少骨折ってその行方《ゆくえ》を探したが、ついに見つけることができなかった。
ひと月は過ぎ去った、そしてまたひと月が。マリユスは引きつづいてクールフェーラックの所にいた。そして法廷の控え所に出入しているある見習弁護士から、テナルディエが密室に監禁されてることを聞きだした。毎週月曜日毎に彼は、テナルディエヘあてて五フランずつをフォルス監獄の事務所へ送った。
マリユスはもう金をもってなかったので、五フラン送るたびごとにそれをクールフェーラックから借りた。彼が他人から金を借りたのは、生まれてそれがはじめてだった。それらの時を定めた五フランは、貸し与えるクールフェーラックにとっても、受けとるテナルディエにとっても、ともに謎であった。「誰にやるんだろう?」とクールフェーラックは考えた。「誰から送ってくるんだろう?」とテナルディエはあやしんだ。
マリユスはまた悲しみの底に沈んでいた。すべては再び深淵の中に消えてしまった。愛する若い娘を、その父親らしい老人を、この世における唯一の心がかりであり唯一の希望であるその身元不明の二人を、暗黒の中に一瞬間目近かに見いだしたのだったが、彼らをついにつかみ得たと思った瞬間にはもう、一陣の風がその姿を吹き去ってしまっていた。
もっとも恐ろしいあの事件からさえ、一点の確実な事実も閃きださなかった。なんら推測の手がかりさえもなかった。知ってると思っていた名前さえ、今はもう本当のものではなかった。たしかにユルシュールではないにちがいなかった。またアルーエット(ひばり娘)というのもあだ名にすぎなかった。それからまた、老人のことも、どう考えていいかわからなかった。はたして老人は警察の眼から身を隠していたのであろうか。
アンヴァリード大通りの付近で出会った白髪の労働者のことが、彼の頭に浮かんできた。今になってみると、その労働者とルブラン氏とはどうも同一人らしく思えてきた。それでは氏は変装していたのであろうか。その人には勇壮な面となにか疑惑にみちた面とがあった。なぜあの時に助けをよばなかったのだろう。なぜ逃げてしまったのだろう。本当にあの若い娘の父親だろうか、そうでないのだろうか。最後にまた、テナルディエが見覚えのあると思ったその男に違いないのだろうか。テナルディエとておもいちがいをすることもあるだろう。
すべて解《と》く術《すべ》もない問題ばかりだった。しかしそれにもかかわらず、リュクサンブール公園の若い娘は、すこしもその天使のごとき美しさを失わなかったことだけは、真実だった。実に心痛のきわみである。マリユスは心のうちに情熱をいだき、眼では暗黒の夜をみつめているよりほかはなかった。愛をのぞいては、すべてが消えうせてしまった。しかも、愛そのものについてさえ、マリユスはもはやその助言を耳にすることができなかった。「あすこへいってみたら」とか、「こうやってみたら」とかいうことを、彼はもう決して考えなかった。もはや、ユルシュールとよべなくなった娘も、どこかにいることだけは明らかだったが、どの方面を探したらよいかは、まったくわからなかった。
その上また、貧困がもどってきた。氷のようなその息を、彼はすぐみじかな背後に感じた。種々の苦悶のうちにあって、もう長い間、彼は仕事をやめていた。
とはいえ、一日々々と時はすぎ、なんらあらたなこともおこらなかった。彼にはただ、自分のたどるべき暗い世界が、刻々とせまってゆくようにおもえた。底なき淵の岸が、すでにはっきりとみえてるような気がした。
「ああ、わたしはその前に、もう一度彼女に会うこともできないのか!」と彼は自分にこうくりかえした。
サン・ジャック街をすすんでゆき、市門を横にみて、廓《かく》内の古い大通りをしばらく左にたどってゆくと、サンテ街に達し、つぎにグラシェールの一廓に達し、それから、コブランの小川に到りつく少し前で、ある野原らしいところに出られる。
そこはわざわざ眺めにいってもいいほど景色のいいところだったが、誰もやってくる者はなかった。十分、二十分とたたずんでも、ほとんど荷車ひとつ、人夫ひとり通らなかった。
ところがある日、珍らしくもひとりの通行人があった。マリユスはその地の寂しい景色になんとなく心がひかれて、通行人にたずねた。
「ここはなんというところですか」
通行人は答えた。
「雲雀《ひばり》の野といいます」それから通行人はまたいいそえた。「ユルバックが、イヴリーの羊飼いの女を殺したのはここです」
しかし雲雀《ひばり》《アルーエット》という言葉をきいてからは、マリユスの耳にはなにもはいらなかった。アルーエットという言葉は、マリユスの深い憂愁な心の底にあって、今ではユルシュールという言葉にかわる彼女の呼び名だった。彼はなんだか、わけのわからない|うつろ《ヽヽヽ》なひとりごとをいうみたいに、「ああ、これが彼女の野か。ではここで彼女の住居もわかるだろう」とつぶやいた。
いかにも馬鹿げたことではあったが、そう思わざるを得なかったのである。
そして彼は毎日、その雲雀《ひばり》の野へやってきた。
二
ある朝マリユスは、コブランの小川の欄干《らんかん》に腰をおろしていた。すがすがしい日の光りが、あたらしく萠えだしたばかりの木の葉の間にさしこんでいた。
彼は「彼女」のことを夢みていた。そして、その夢想は非難の形となって、彼自身の上におちかかってきた。怠惰な日々、自分をおかしていった魂の麻痺《まひ》、次第に自分の前に濃くなって、すでに太陽をもおおいかくしてしまった夜の闇、それらのことを彼は悲しげに考えていた。
と、突然その時、彼はどこかでききおぼえのある声がするのを耳にした。
「あら、あすこにいる」
眼をあげてみると、あの不幸な娘、ある朝、突然彼のところへやってきたテナルディエの姉娘、エポニーヌが、そこに立っていた。彼は今でもその名前をおぼえていた。不思議にも彼女は、あの時よりいっそう貧しげになりながら、またいっそう美しくなっていた。そのときも、やはり彼女ははだしだった。そして彼の部屋へ臆面《おくめん》もなくはいってきた日の通りに、ぼろをまとっていたが、ただそれは二カ月だけ古くなって、破れ目はいっそう大きくなり、裂《さ》け目はいっそうきたなくなっていた。それから、つぶれた同じ声、風にさらされて皺《しわ》がより曇ってる同じ額、きょろきょろして落ちつきのない眼つき。その上、以前よりは、一種おびえたような、また悲しげな色が顔にましていた。
その髪には、藁《わら》や秣《まぐさ》のきれっぱしがついていた。オフェリアのように、ハムレットの狂気に感染して狂人になったためではなく、どこかの馬小屋に寝たためだった。
しかし、それでも彼女は前より綺麗になっていた。彼女はその色あせた顔の上に、多少の喜びとほほえみに似たものさえ浮かべて、マリユスの前にたちどまった。
彼女は口をきくことができないらしく、しばらく黙っていた。
「とうとうめぐり会ったわ」と彼女はいった。「まあどんなにあなたを探したでしょう。あなた知ってて、あたしは牢にはいってたのよ、十五日間。でも許されたわ。なにもわるいこと、しなかったんだから。それにまだ、分別《ふんべつ》のつく年齢《とし》でもなかったからよ。二月《ふたつき》だけ不足だったのよ。まあ、どんなにあなたを探したでしょう。もう六週間にもなるわ。あなたはもうあすこにはいないのね」
「いない」とマリユスはいった。
「ええわかっててよ。あのことがあったからでしょう。あんな荒っぽいことはいやね。で、引っ越したのね。あら、どうしてそんな古い帽子をかぶってるの。あなたのような若い人は、きれいな服をきてるものよ。あなたは今どこに住んでるか教えてくださいね」
マリユスは答えなかった。
「まあ」彼女はつづけていった。「あなたのシャツには穴が一つあいてるわ。あたしが縫ってあげてよ」
彼女はある表情をしたが、それはしだいに曇ってきた。
「あなたはあたしに会ったのがいやな様子ね」
マリユスは黙っていた。彼女はちょっと口をつぐんだが、それから叫んだ。
「でもあたしがそのつもりになりゃあ、あなたをうれしがらせることだってできるわ」
「なに?」とマリユスはたずねた。「あなたはなんのことをいってるんです」
「まあ、前にはお前っていってたじゃないの」と彼女はいった。
「よろしい、お前はなんのことをいってるんだい」
彼女は唇をかんだ。何か心のうちで思いまどってることでもあるらしく、ちゅうちょしてるようだった。しかし、やっと決心したようにみえた。
「なに同じことだわ……。あなたは悲しそうな様子をしてるわね。あたしあなたのうれしそうな様子がみたいのよ。笑うっていうことだけでいいから約束して下さいね。あなたの笑うところが見たいのよ、そして、ああ、ありがたいっていうのを聞きたいのよ。ねえ、マリユスさん、あなたあたしに約束したでしょう、なんでも望み通りなものをやるって……」
「ああ。だからいってごらん」
彼女はマリユスの眼の中をのぞきこんで、そしていった。
「居所がわかったのよ」
マリユスは顔色を変えた。身体中の血がいっぺんに心臓に集まってしまった。
「だれの居所が?」
「あなたがあたしにたのんだ居所よ」
そして彼女はむりに元気でもだすような調子でつけくわえた。
「あの……わかってるでしょう」
「ああ」とマリユスは口ごもった。
「あのお嬢さんのよ」
そのお嬢さんという言葉をいって、彼女は深く溜息をついた。
マリユスは腰かけていた欄干《らんかん》からとび上って、夢中になって彼女の手をとった。
「ああそうか。ぼくをつれてってくれ。知らしてくれ。なんでも望みのものをいってくれ。それはどこだよ?」
「あたしといっしょにいらっしゃい」と彼女は答えた。「町も番地もよくは知らないのよ。ここのちょうどむこう側よ。でも家はよく知ってるから、つれてってあげるわ」
彼女は手をひっこめた。そしてつぎの言葉は、はたでみる者の心をさし通すだろうと思われるほどの調子でいったが、喜びに夢中になってるマリユスにはすこしも感じなかった。
「おお、あなたはほんとに嬉しそうね!」
一抹《いちまつ》の影がマリユスの額にさした。彼はエポニーヌの腕をとらえた。
「ひとことぼくに誓ってくれ」
「誓うって?」と彼女はいった。「どうしてなの。まああなたはあたしに誓わせようっていうの」
そして彼女は笑った。
「お前のお父さんのことだ。ぼくに約束してくれ、エポニーヌ。その居所をお父さんには知らせないと誓ってくれ」
彼女はびっくりしたような様子で彼のほうへむきなおった。
「エポニーヌって! どうしてあなたはあたしがエポニーヌという名だってことを知ってるの」
「今いったことをぼくに約束してくれ」
しかし彼女はそれも耳にしないかのようだった。
「嬉しいわ。あなたあたしをエポニーヌって呼んでくだすったのね」
マリユスは彼女の両腕を一度にとらえた。
「だからどうかぼくに返事をしてくれ。よく注意して、いいかね、お前が知ってるその住所をお父さんには決していわないとぼくに誓ってくれ!」
「お父さんにですって」と彼女はいった。「ええ大丈夫よ、お父さんのことなら。安心していいわよ。いま監獄にはいってるの。それにまた、なんであたしがお父さんのことなんか気にするもんですか」
「でもお前はぼくにそれを約束しないのか」とマリユスは叫んだ。
「まあ放してくださいよ」と彼女は笑いだしながらいった。「そうむちゃくちゃに人をゆすってさ。ええ、ええ、約束してよ、それをあなたに誓ってよ。そんなことわけないわ。その住所をお父さんにいいはしません。ねえ、これでいいんでしょう、こうなんでしょう」
「そしてまた誰にも?」マリユスはいった。
「ええ誰にも」
「ではこれから」とマリユスはいった。「ぼくをつれてってくれ」
「すぐに?」
「すぐにだよ」
「ではいらっしゃい。おおほんとに嬉しそうね」と彼女はいった。
四、五歩行くと、彼女は立ちどまった。
「あまりすぐそばにあなたはついてくるんだもの、マリユスさん。あたしを少し先にゆかして、人にさとられないようについていらっしゃい。あなたのような立派な若い男があたしのような女といっしょに歩いてるのをみられると、よくないわよ」
この小娘がそんなふうに発した女《ヽ》という言葉のうちにこもってるすべては、いかなる言語をもってしてもいいつくすことはできないだろう。
彼女は十歩ばかりも歩いて、また立ちどまった。マリユスは追いついた。彼女は彼のほうにふりむかないでわきをむいたままいいかけた。
「あの、あなたはあたしになにか約束したのを忘れやしないわね」
マリユスはポケットの中を探った。彼が持ってたのは父のテナルディエにやるつもりの五フランきりだった。彼はそれを取って、エポニーヌの手に握らした。
彼女は指を開いて、その貨幣を地面に落してしまった。そして暗い顔つきをして彼をみながらいった。
「あなたのお金なんか欲しいんじゃないの」
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第二章 プリューメ街の家
一
十八世紀の中頃には、身分の高い貴族らは公然と妾《めかけ》を蓄えていたが、中流民らは妾をおいてもそれを隠していた。で、その頃、あるパリ法院長が秘密に妾を蓄えて、サン・ジェルマン廓外の今日プリューメ街といわれてる寂しいプローメ街に、当時|動物合戦《ヽヽヽヽ》といわれていた場所から遠くない所に、「妾宅」を一つ建てた。
その家は、二階建ての家だった。一階に二室、二階に二室、下に台所、上に化粧室、屋根裏に物置、そして家の前には庭があって、街路に開いてる大きな鉄門がついていた。庭の広さは一エーカー以上もあって、表からのぞいても庭だけしかみえなかった。そして家のうしろには、狭い中庭があり、中庭の奥には、穴ぐらのついた二室の低い宿所があった。必要な場合に子供と乳母とを隠すためにこしらえられたものらしかった。宿所のうしろには秘密な隠し戸がついていて、そこをでると路地になっていた。曲りくねって上には屋根もなく二つの高い壁にはさまれてる長いせまい敷石の路地で、うまく人目にかくされていて、庭や、畑地の|かこい《ヽヽヽ》の間に消えてるかのようだった。しかし実際は、それらの|かこい《ヽヽヽ》の角を伝い、まがってる所にそってゆくと、もひとつの戸に達してるのだった。それも同じく秘密の戸で、家から四、五町のところにあって、ほとんど他の街区になってるバビローヌ街のさびしい一端に開いていた。
一八二九年の十月に、かなり年とった一人の男がやってきて、この家をそのまま借りてしまったのである。もとよりうしろの宿所と、バビローヌ街に通ずる路地をもふくめてだった。彼はその抜道の秘密なふたつの戸をつくろわせ、所々にかけたものをおぎない、中庭の敷石や、土台の煉瓦や、階段の段や、床《ゆか》の石板や、窓のガラスなどをすっかりつけさせ、それからひとりの若い娘と、ひとりの年とった女中とをつれてやってきたが、それは引っ越してきたというより、むしろ音もなく忍びこんできたといったほうがちかかった。彼らのことは近所の噂《うわさ》にものぼらなかった、なぜなら近所には住んでる人もいなかったからである。
このひそかな借家人はジャン・ヴァルジャンであり、若い娘はコゼットだった。女中はトゥーサンという独身《ひとり》者だった。ジャン・ヴァルジャンは彼女を病院と貧窮とから救いだしてやったのであるが、老年で田舎者でどもりだという三つの条件をそなえていたので、自分で使うことにしたのだった。彼は年金所有者フォーシュルヴァンという名前でその家を借りた。おそらく読者は前にのべた事柄のうちに、テナルディエよりも先にジャン・ヴァルジャンを見てとったであろう。
ジャン・ヴァルジャンがなぜにプティ・ピクピュスの修道院を去ったか? いかなることがおこったのであるか?
いな何事もおこりはしなかったのである。
読者の記憶するとおり、ジャン・ヴァルジャンは修道院の中で幸福だった。彼は毎日コゼットに会っていた。父たる感情が自分のうちに生じてますます高まってゆくのを感じた。心でその子供をはぐくんでいた。彼はみずからいった、この娘は自分のものである、何物も娘を自分から奪い去るものはないだろう、このままの状態がながくつづくだろう、娘は毎日静かに教えこまれているので後には立派な修道女になるだろう、かくて修道院はこれから自分と彼女とにとっては全世界となるだろう、自分はここで老い、娘はここで大きくなるだろう、娘はここで老い自分はここで死ぬだろう、そしてまた喜ばしいことには自分たち二人は決して別れることがないだろう。
そういうふうに考えながら、彼はいろいろ自分で考えてみた。彼は自分にたずねてみた、それらの幸福ははたして自分のものであるか、それは他人の幸福でできあがってるものではあるまいか、老いたる自分が没収し奪いとったこの娘の幸福からできあがってるものではあるまいか、それは窃盗《せっとう》ではあるまいか。彼は自分にいった、この娘は人生を見捨てる前に人生を知る権利をもってるではないか、あらゆる辛苦から彼女を救うという口実の下にいわば彼女に相談もしないで前もってすべての快楽をうばいさること、彼女の無知と孤独とを利用して人為的の信仰を植えつけること、それは一個の人間の天性を矯《た》めることであり、神にうそをつくことではないか。そして、他日それらのことがわかり修道女になったのを遺憾に思って、コゼットはついに自分をうらむようになりはすまいか。この最後の考えは、ほとんど利己的のもので他の考えよりもずっと男らしくないものだったが、しかし彼にはもっとも堪えがたいことだった。彼は修道院を去ろうと決心した。
彼はそれを決心した。ぜひともそうしなければならないと、心を痛めながらも確信した。非とすべき点はひとつもなかった。五年の間、修道院の四つの壁にかこまれた奥深いところにひそみ、姿をかくしていた以上は、世間を恐れるべき理由はなくなり、消散してるにちがいなかった。彼は平然として、世人の間にもどることができるのだ。彼も年をとり、万事が変っていた。今は自分が徒刑場にいれられた人間だからといって、コゼットを修道院のうちに閉じこめる権利はもっていなかった。その上、義務の前には危険なんかなんであろう。
コゼットの教育のほうは、もうほとんど終っていた。
一度決心をきめると、彼はただ機会を待つばかりだった。そして機会はやがてやってきた。フォーシュルヴァン老人が死んだのである。
ジャン・ヴァルジャンは修道院長にあって、こう申したてた。兄が死んだので、多少の遺産が自分のものとなって、これからは働かないで暮すことができるので、修道院から暇をもらって娘をつれてゆきたい。けれども、コゼットは誓願をしていないから、無料で教育されたことになっては不当である。それで、コゼットが修道院で過した五年間の謝礼として、五千フランの金をこの修道院に献《けん》ずることを、どうか許していただければ仕合せである。
そのようにしてジャン・ヴァルジャンは、常住礼拝の修道院からでていった。
修道院を去りながら彼は、例の小さな鞄をみずから腋《わき》の下にかかえて、それを誰にももたせず、鍵は常に身につけていた。その中からはいい香りがにおってるので、非常にコゼットの心をひいた。
いまここにいっておくが、鞄はそれ以来彼の手許を離れなかった。彼はそれをいつも自分の部屋のなかにおいていた。移転の際に彼がもってゆく品物は、それが第一のもので、時としては唯一のものだった。コゼットはそれをおかしがって、彼に|つき《ヽヽ》物だと呼び、「わたし、それが羨ましい」といっていた。
ジャン・ヴァルジャンもさすがに、自由の地にでては深い心配をいだかざるを得なかった。
彼はプリューメ街の家を見いだして、そのなかに潜んだ。以来彼はユルティーム・フォーシュルヴァンと名のっていた。
同時に彼はパリのうちに他に二カ所部屋を借りた。そうすれば、同じ町にいつも住んでるより人の注意をひくことが少ないからであり、少しでも不安があれば必要に応じて家をあけることができるからであり、また、不思議にもジャヴェルの手を逃れたあの晩のように行き所に困ることがないからであった。その二つの部屋は、ごく小さなみすぼらしい住居であって、互いにごく離れた街区にあった、一つはウエスト街に、一つはオンム・アルメ街に。
彼は時々、あるいはオンム・アルメ街にいったり、あるいはウエスト街にいったりして、トゥーサンもつれずにコゼットとふたりきりで、一カ月か六週間ぐらいをすごした。その間彼は、門番に用をたしてもらい、自分は郊外に住む年金所有者で町に寄寓《きぐう》してる者であるといっていた。かくてこの高徳の人物も、警察の眼をのがれるためパリに三つの住所をもっていたのである。
けれども本来からいえば、彼はプリューメ街に住んでいて、つぎのような工合に生活をととのえていた。
コゼットは女中とともに母屋《おもや》を占領していた。窓間壁《まどまかべ》に色の塗ってある大きな寝室、金色に塗ってある化粧室、帷帳《とばり》や大きな肘掛椅子のそなえてある客間などがあって、また庭もついていた。そしてジャン・ヴァルジャン自身は、奥の中庭にある門番小屋みたいな建物に住んでいて、そこには、たたみ寝台の上に敷いた一枚の蒲団、白木のテーブル、二つの藁椅子、土器の水差し、棚の上にならべた数冊の書物、片すみには彼の大事な鞄、などがあるきりで、かつて火はなかった。彼はコゼットといっしょに食事をしたが、自分の前には黒パンをおかした。トゥーサンがきたとき、彼はいっておいた。
「お嬢さんが家の主人だよ」
「そしてあなたは?」とトゥーサンは驚いてたずねた。
「私は主人より上だよ、父親だからね」
コゼットは修道院で家政を学んだので、一家のごくわずかな経済をみずから処理した。毎日ジャン・ヴァルジャンはコゼットの腕をとって、散歩につれだした。リュクサンブール公園のもっとも人の少ない小道に彼女を伴い、また日曜日には、サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂のミサにつれていった。そこはきわめて貧しい町だったので、彼は沢山の施与をして、会堂の中では不幸な人々にとりまかれた。そのために、『サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂の慈悲深き紳士殿』というテナルディエの手紙をもらうにいたったのである。彼はまたコゼットをつれて、好んで貧乏人や病人の家を見舞った。それから、他人はいっさいプリューメ街の家に出入りさせなかった。トゥーサンが食料品を買ってき、ジャン・ヴァルジャン自身で、すぐ近くの大通りにある水汲み場から水を汲んできた。薪やぶどう酒は、バビローヌ街にでる門のそばにある岩石造りのなかば地下室みたいな所にいれてあった。
バビローヌ街にある中門には、手紙や新聞などを受けるために一種の貯金箱みたいなものがついていた。けれども、プリューメ街の家に住んでる三人の者は、新聞もとらず手紙をもらうこともなかったので、ただ納税の通知と召集の命令とを受ける用をしてるだけだった。というのは、年金所有者フォーシュルヴァン氏は国民軍にはいっていたからである。彼は一八三一年の徴兵検査の精密な網目をのがれることができなかった。その時励行された市の調査は、神聖にして犯すべからざる所と考えられていたプティ・ピクプュスの修道院にまでおよんで、そこからでてきたジャン・ヴァルジャンは、市役所の眼には立派な男と見え、従って警備の任に適した男と見えたのである。
年に三、四回ジャン・ヴァルジャンは、軍服を身につけて警備の任にあたった。もとより彼は好んでそれに服した。彼にとってそれは正規な変装をすることであって、孤独のままで世人に立ち交じることができるのだった。ジャン・ヴァルジャンは法律上免役の年齢たる六十才に達していた。しかし彼は五十才以上とは見えなかった。
けれどもここに誌《しる》しておきたい一事がある。ジャン・ヴァルジャンはコゼットとともに外出する時には、読者の既に見たとおりの服装をし、退職将校らしい様子をしていた。しかしただひとりででかける時には、それも大抵は晩だったが、いつも労働者の上衣とズボンをつけ、庇《ひさし》のある帽子を目深にかぶって顔を隠していた。それは用心からだったろうか、あるいは卑下からだったろうか? いいや、それは両方からだったのである。コゼットは自分の運命の謎のような一面に馴れてしまって、父の不思議な様子をもほとんど気にかけなかった。トゥーサンのほうはジャン・ヴァルジャンを非常に崇拝していて、彼がなすことはすべて正しいと思っていた。ある日、ジャン・ヴァルジャンをちらと見かけた肉屋が彼女にいった。「あの人はよほど変な人だね」すると彼女は答えた。「せ、聖者ですよ」
ジャン・ヴァルジャンも、コゼットも、またトゥーサンも、出入りは必ずバビローヌ街の門からした。表庭の鉄門から彼らを見かけでもしなければ、彼らがプリューメ街に住んでいようとは思われなかった。その鉄門はいつも閉されていた。ジャン・ヴァルジャンは庭には少しも手をいれないで放っておいた。人の注意をひかないためだった。
二
コゼットはまだほとんど子供のままで修道院からでてきた。彼女は十四才をわずかこしたばかりで、まだ「いたずら盛り」の時期にあった。すでにいったとおり、彼女は眼をのぞいては綺麗というよりもむしろ醜《みにく》いように思われた。けれども、なんら|げびた《ヽヽヽ》顔だちをもっていたのではなく、ただ不器用でやせてて、内気で同時に大胆な少女だった。つまり大きな小娘にすぎなかった。
彼女の教育は終っていた。宗教の教えをうけ、祈祷の心を教わり、つぎに修道院でいわゆる「歴史」とよばれる地理と、文法と分詞法と、フランス諸王のことと、多少の音楽とちょっとした写生など、いろいろのことを教わっていた。しかし彼女はそのほかのことはいっさい知らなかった。それはひとつの美点であるがまたひとつの危険でもある。年若い娘の魂はうす暗がりのままにすてておくべきではない。娘の魂は現実の厳しい直射の光りよりもむしろその反映によって、静かに注意深く照らさなければならない。謹厳な微光こそ、子供心の恐怖をちらし堕落を防ぐものである。いかにして、またなにによってその微光を作るべきかを知っているものは、ただ母の本能あるのみである。この本能のかわりをなしうるものはなにもない。年若い娘の魂を教養するには、世のすべての修道女らを集めてもひとりの母親におよばない。
コゼットは母をもたなかった。彼女はただ多くの複数の母(教母ら)を有するのみだった。
修道院をでた彼女にとっては、プリューメ街の家ほど楽しい、また危険なものはなかった。寂寥《せきりょう》はつづきながらそのうえ自由がはじまったのである。庭は閉されていたが、自然は軽快で豊かで放逸で香気を発していた。修道院と同じ夢想にふけりながら、しかも若い男子の姿がのぞきみられた。同じく鉄門がついてはいたが、しかしそれは街路にむかって開いていた。
けれども、なおくりかえしていうが、そこにきたとき、彼女はまだ子供にすぎなかった。ジャン・ヴァルジャンはその荒れはてた庭を彼女の手にまかせた。「好きなようにするがいい」と彼はいった。それはコゼットを喜ばした。彼女はそこで、草むらをかきまわし、石をおこし、足もとの草むらをはいまわる昆虫をみては、その庭を愛し、頭の上に、木の枝の間にかがやく星をながめては、その庭を愛した。
それからまた彼女は、自分の父、つまりジャン・ヴァルジャンを心から愛し、清い孝心をもって愛し、ついにその老人をもっとも喜ばしい友としていた。読者の記憶するとおり、マドレーヌ氏は多くの書物を読んでいたが、ジャン・ヴァルジャンとなっても、その習慣をつづけていた。それで彼は話がよくできるようになった。彼はみずからすすんで啓発した知力の、人しれぬ富と雄弁とをもっていた。リュクサンブール公園で対話中、彼は自分の読んだ本のなかから、あるいは自分が苦しんできた世のいろいろな事柄からくんできた知識について、またあらゆることについてコゼットに長い説明を与えてやった。そして彼の話をききながら、コゼットの眼はぼんやりあたりをさ迷っていた。
自然のままの庭で、コゼットの眼にはじゅうぶんであったように、その単純な老人で、彼女の頭にはじゅうぶんだった。蝶《ちょう》のあとを追いまわして満足したとき、彼女は息をきらしながら彼のそばにやってきていった。「あっ、ほんとによく駈けたこと!」すると彼は彼女の額に唇をつけてやった。
コゼットはジャン・ヴァルジャンがそばにいさえすれば、どこでも楽しかった。ジャン・ヴァルジャンは母屋《おもや》にも表庭にもいなかったので、彼女には花の咲きみだれた国よりも、石の敷いてあるうしろの中庭のほうが好ましく、肘掛椅子がならび、カーテンがかかってる大きな客間よりも、藁《わら》椅子をそなえた小さな小屋のほうが好ましかった。ジャン・ヴァルジャンは時とすると、うるさくつきまとわれる幸福にほほえみながら、彼女にいうこともあった。「まあ、自分の家《うち》のほうへおいで、そして私をひとりにしておいておくれ」
彼女はまたよく彼にいった。
「お父さま、わたし、あなたのお部屋では大変寒うございますわ。なぜここに絨毯《じゅうたん》をしいたり、ストーヴをすえたりなさらないの」
「でもお前、私よりずっと立派な人で身をおく屋根ももたない者が沢山いるんだからね」
「ではどうしてわたしのところには、火があったりなんでも入用なものがあったりしますの」
「それはお前が女で子供だからだよ」
「まあ、それでは男の人は寒いのをこらえて不自由していなければなりませんの」
「ある人はだよ」
「よござんすわ、わたしは、しょっちゅうここにきていて、火を焚《た》かなければならないようにしてあげますから」
それからまたこういうことも彼女はいった。
「お父さま、どうしてあなたはそんないやなパンをお食べなさるの」
「ただ食べてみたいからだよ」
「ではあなたがお食べなさるなら、わたしもそれを食べますわ」
すると、コゼットが黒パンを食べないようにと、ジャン・ヴァルジャンも白いパンを食した。
コゼットは小さい時のことはただぼんやりとしかおぼえていなかった。彼女は朝と晩に、顔も知らない母のためにお祈りをした。テナルディエ夫婦のことは、夢にみた二つの恐ろしい顔のように心のなかに残っていた。「ある日、ある晩に」森の中へ水を汲みにいったことがあるのを、彼女はおぼえていた。パリからごく遠いところだったとおもっていた。はじめはひどい所に住んでいたが、ジャン・ヴァルジャンがきて自分を救いだしてくれたようにおもわれた。小さい時のことは、まわりに|むかで《ヽヽヽ》や|くも《ヽヽ》や蛇ばかりがいた時代のようにおもわれた。また自分はジャン・ヴァルジャンの娘でありジャン・ヴァルジャンは自分の父であるということについて、ごくはっきりした観念はもっていなかったので、夜眠る前にいろいろ夢想していると、母の魂がその老人のうちにはいってきて自分のそばにとどまってくれるような気がした。
ジャン・ヴァルジャンが坐っている時、彼女はよく頬《ほお》をその白い髪におしあてて、ひそかに涙をひとしずく流しながら、心のなかでつぶやいていた。
「この人がわたしのお母さまかもしれない!」
コゼットが小さかった間は、ジャン・ヴァルジャンは好んで彼女に母のことを語ってきかした。しかしコゼットが相当な年頃の娘になると、彼にはそれができなくなった。彼にはもうどうしても母のことは、彼女に話すことができないような気がしてきた。それはコゼットのためだったろうか、あるいはファンティーヌのためだったろうか?
ある日コゼットは彼にいった。
「お父さま、わたしはゆうべ、夢のなかでお母さまにあいました。大きなふたつの翼をもっていらしたの。お母さまは生きていらした時から、きっと聖者になっていらしたのね」
「この世のいろいろな試練に苦しまれたからね」とジャン・ヴァルジャンは答えた。
そのほかでは、ジャン・ヴァルジャンは幸福であった。
コゼットは彼といっしょに出かける時、いつも彼の腕によりかかって、矜《ほこ》らかに楽しく、心のみちたりた気持でいた。こんなふうに彼ひとりに満足してるコゼットの愛情のあらわれをみては、彼も自分の考えが恍惚《こうこつ》たるよろこびのうちにとけてゆくのを感じないわけにはいかなかった。憐《あわ》れなるこの一老人は、天使のような喜悦の情にみちあふれて身をふるわし、この幸福は生涯つづくであろうと、われを忘れてみずから断言し、かかるうるわしい幸福に価するほど、自分はまだじゅうぶんに苦しまなかったとみずからいい、そして心の底で、みじめな自分が、この潔白なる者からかくも愛せらるるのを許し給うたことを、神にむかって感謝した。
三
ある日、コゼットはふと自分の顔を鏡の中にうつしてみて、みずからいった。「まあ!」どうやら自分が綺麗らしくおもえたのであった。それは彼女を妙な不安のうちに陥れた。その時まで彼女は、自分の顔のことはかつて思ってもみなかった。鏡をのぞいたことはあるが、よく自分の顔を見もしなかった。またしばしば、人から醜いといわれていた。ただジャン・ヴァルジャンだけは、「いや、どうして!」と静かにいっていた。それでもとにかく、コゼットは自分を醜いものと常に信じ、子供心のたやすい諦めをもってそういう考えのうちに成長した。しかるにいま突然、鏡はジャン・ヴァルジャンと同じく彼女にいった。「いや、どうして!」
彼女はその晩眠れなかった。彼女は考えた。「もしわたしが綺麗だったらどうだろう。わたしが綺麗だなんてほんとにおかしなことだが!」そして、綺麗なので修道院での評判となっていた仲間のだれかれのことをおもいだして、自分にいった。「まあ、わたしはあの人のようになるのかしら!」
またある日、庭にでていると、老女中のトゥーサンがこういってるのを耳にした。
「旦那さま、お嬢さまは綺麗におなりなさいましたね」
コゼットは父がなんと答えたか耳にはいらなかった。トゥーサンの言葉は彼女の心に激動を与えた。彼女は庭から逃げだし、自分の部屋に上ってゆき、鏡のところへかけよった、そして叫び声をたてた。
彼女は美しく綺麗だった。トゥーサンの意見や鏡の示すところに同意しないわけにはいかなかった。身体はととのい、皮膚は白くなり、髪の毛にはつやがでて、これまで知らなかった光りが青い瞳に輝いていた。自分は美しいという確信が、ま昼のように曇るところなくたちまち湧いてきた。他人までもそれを認めていた。トゥーサンはそれを口にだしていい、またあの通行人がいったこともたしかに自分についてだった。もはや疑う余地はなかった。彼女は庭におりてゆきながら、みずから女王《クイーン》であるような気がし、小鳥の歌うのを聞き、冬のこととて金色に輝いた空を見、樹木の間に太陽を眺め、草むらの中に花を眺め、名状しがたい喜びのうちにわれを忘れて酔った。
同時にジャン・ヴァルジャンのほうでは、深い漠然《ばくぜん》たる心痛を感じていた。
実際彼はその頃、コゼットのやさしい顔の上に日ましに輝きだしてくる美しさを、狼狽《ろうばい》しながら見まもっていたのである。すべてのものにむかって笑いかける曙《あけぼの》は、彼にとっては悲しみの種であった。
ただコゼットが自分を愛しつづけてくれるように! この子供の心が自分の許にやってきて長くとまっていることを、神は妨げ給わないように! コゼットから愛されて彼は、みずから癒《いや》され、休められ、慰められ、満たされ、報いられ、冠を授けられるように感じていた。コゼットから愛されて彼は幸福であった。それ以上なにも求めなかった。「もっと幸福ならんことを望むか」という者があっても、「いな」と彼は答えたであろう。「汝は天を欲するか」と神にいわれても、「今のほうがましである」と彼は答えたであろう。
そういう状態を傷つけるものは、たとい表面だけを少し傷つけるものであっても、なにか、あらたなることがはじまるかのように、彼をおびえさせた。彼はかつて婦人の美なるものがなんであるかをよく知らなかったけれども、ただ恐るべきものであることだけは本能によって知っていた。
自分のそばに、眼の前に、子供の単純な恐るべき額の上に、益々崇高に勢いよくひらけてくるその美を、彼は自分の醜さと老年と悲惨と刑罰と憂悶との底から、狼狽《ろうばい》して見まもっていた。
彼は自分にいった。「彼女《あれ》はほんとうに美しい。この私はどうなるだろう」
そして、まさしくそこに、彼の愛情と母親の愛情との差があった。彼が苦悶をもって眺めていたところのものも、母親ならば喜びの情をもって眺めたであろう。
マリユスが六カ月の間をおいてふたたびリュクサンブール公園で彼女をみいだしたのは、ちょうどそういう時期においてであった。
コゼットが、みずからしらずしてマリユスの心を乱す一|瞥《べつ》を投げた時に、自分のほうでもコゼットの心を乱す一瞥を投げたとはマリユスも知らなかった。
彼はコゼットに、自分が受けたと同じ災いと幸福とを与えた。
マリユスの躊躇《ちゅうちょ》や恐れや胸の動悸などは、読者の記憶するところであろう。彼は自分のベンチに腰をすえて近よってゆかなかった。それはコゼットに不快を与えた。ある日彼女はジャン・ヴァルジャンにいった。「お父さま、少しむこうへ歩いてみましょうか」マリユスは少しも自分のほうへこないのを見て、彼女は自分のほうから彼のところへやっていった。こういう場合は、女はみなマホメットに似るものである。そして妙なことではあるが、真の恋の最初の兆候は、青年にあっては臆病さであり、若い女にとっては大胆さである。考えると不思議ではあるが、しかし実は当然すぎることである。すなわち両性がたがいに接近せんとしてたがいに性質をとりかえるからである。
その日、コゼットの一瞥はマリユスを狂気させ、マリユスの一瞥はコゼットを震えさした。マリユスは信念を得て帰ってゆき、コゼットは不安を懐いて帰っていった。その日以来、彼らはたがいにひそかに慕いあった。
コゼットが最初に感じたものは、漠然《ばくぜん》とした深い憂愁だった。ただちに自分の心がまっくらになったような気がした。もう自分で自分の心がわからなくなった。年若い娘の心の白さは、冷淡と快活とからなっているもので雪に似ている、その心は恋にとける、恋はその太陽である。
四
あらゆる情況には固有の本能がある。ふるい永劫《えいごう》の母なる自然は、マリユスの存在をひそかにジャン・ヴァルジャンにつげしらした。ジャン・ヴァルジャンは、心のもっともうす暗い底でふるえおののいていた。マリユスのほうでもまたある事を感知し、神の深遠なる法則として、同じく永劫の母なる自然から教えられて、「父」の眼をさけるために、できるかぎり注意をした。マリユスの態度は、もうまったく自然ではなくなっていた。彼の様子には、おかしな慎重さとへたな大胆さとがあった。彼は以前のように、すぐ近くには、もうやってこなかった。遠くに腰をおろして恍惚《こうこつ》としていた。書物をひらいて、それを読むようなふうをしていた。そして、そんなふうを装うのは、いったい誰にたいしてだったのか? 昔は古い服をきてやってきたが、今では毎日、新らしい服をきていた。髪の毛をわざわざちぢらしたらしい様子だった、変な眼つきをしていた、手袋をはめていた。つまりジャン・ヴァルジャンは心からその青年をきらった。
コゼットはなにごとも覚られないようにしていた。どうしたのかよくわからなかったけれども、なにかがおこったことを、そしてそれを隠さなければならないことを、心にはっきり感じていた。
コゼットに現われてきた服装上の趣味と、あの未知の青年が着はじめた新らしい服との間には、ジャン・ヴァルジャンにとって不安な一致があった。おそらくは、いや疑いもなく、いやたしかに、それは偶然の符合《ふごう》であろう。しかし意味ありげな偶然である。
彼はその未知の青年についてはコゼットに決して一言もいわなかった。けれどもある日、彼はもうこらえきれないで、自分の不幸のうちに急に錘《おもり》を投げこんで探ってみるような漠然とした絶望的な気持にかられて、彼女にいった。
「あの青年はじつに生意気なふうをしている」
一年前だったら、コゼットはまだ無邪気な小娘で、こう答えたであろう。「いいえ、あの人は綺麗ですわ」十年後であったら、彼女はマリユスにたいする愛を心にいだいて、こう答えたであろう。「生意気でみるのもいやですわ、ほんとにおっしゃる通りです」しかし現在の年齢と気持ちとにある彼女は、澄ましきってただこう答えた。
「あの若い人が!」
それはあたかも今はじめて彼を見るかのような調子だった。
「馬鹿なことをしたものだ!」とジャン・ヴァルジャンは考えた。「娘は彼に気づいてもいなかったのだ。それをわざわざ私のほうから教えてやるなんて!」
老人の心の単純さよ、子供の心の深奥《しんおう》さよ!
ただ一度、コゼットは失策をして彼を驚かした。三時間もとどまっていた後に、彼はベンチからたちあがって帰ろうとした。その時コゼットはいった。「もうですか!」
ジャン・ヴァルジャンはリュクサンブールヘの散歩をやめはしなかった。なにもきわだったことをしたくなかったのと、また特にコゼットの注意をひくのを恐れたからである。しかしコゼットはマリユスに微笑を送り、マリユスはそれに酔いそれだけに心を奪われ、今はただ光り輝く、愛する顔のほかは何物をもみないで、二人の愛人にとってのいかにも楽しい時間がつづいたが、その間ジャン・ヴァルジャンは恐ろしく光った眼をマリユスの上に据えていた。もう誰にも悪意ある感情をいだくことはなくなったとみずから信じている彼にも、マリユスがそこにいる時には、ふたたび野蛮に獰猛《どうもう》になるのを感ずる瞬間があって、その多くの憤怒を蔵していた古い心の底が、その青年にたいしてうち開き湧きあがってくるのを感じた。あたかも未知の噴火口が自分のうちに形成されつつあるかのように思われるのだった。
ああ、あの男がそこにいる。なにをしにきているのか。きっと近よる機会をねらって、あたりを嗅《か》ぎまわっているのだ。そしてこういっている。「へん、どうしてそれがいけないのか」彼はこのジャン・ヴァルジャンのところへやってきて、彼の生命のまわりをうろつき、その幸福のまわりを俳徊《はいかい》して、それを奪い去ろうとしているのだ。
ジャン・ヴァルジャンはさらにいいたした。「そうだ、それにちがいない! いったい彼はなにを探しにきているのか。ひとつの恋物語をではないか。ひとりの愛人をではないか。愛人! そしてこの私は! ああ、最初にはもっともみじめな男であり、つぎにはもっとも不幸な男であった後、六十年の生涯をひざまずいてすごして来た後、およそ人の堪え得ることをすべて堪えしのんできた後、青春の時代を知らずにただちに老年になった後、家族もなく親戚もなく友もなく妻もなく子もなくて暮して来た後、あらゆる石の上に、いばらの上に、辺境に、壁のほとりに、自分の血潮をしたたらしてきた後、他人よりいかに苛酷《かこく》にとりあつかわれようとも常に温和であり、いかに悪意にとりあつかわれようとも常に親切であった後、いっさいのことを排して再び正直な人間となった後、自分のなした害悪を悔い改め、身にくわえられた害悪を許した後、今やようやくにしてそのむくいを得ている時に、すべてが終っている時に、目的に到達している時に、欲するものを得ている時に、しかもそれは至当であり正しきものであり、みずからその価を払って得たものである時に当って、すべては去り、すべては消え失せんとするのか。コゼットを失ない、自分の生命と喜びと魂とを失わんとするのか。そしてそれもただ一人の馬鹿者がリュクサンブール公園にきて徘徊しだしたがためである!」
かくて彼の瞳は、悲しいまた尋常ならぬ輝きに満ちてきた。それはもはや他の男を見つめる一人の男ではなく、敵を見つめる一人の仇《かたき》ではなく、盗賊を見つめる一匹の番犬であった。
それよりさきのことは読者の知るところである。マリユスはなおつづけて無鉄砲であった。ある日彼はウエスト街までコゼットの跡をつけた。またある日は門番にたずねてみた。門番のほうでもまた口を開いてジャン・ヴァルジャンにいった。
「旦那さま、ひとりの変な若者があなたのことをたずねていました、いったい何者でしょう!」
その翌日ジャン・ヴァルジャンはマリユスに一瞥を与えたが、マリユスもついにそれに気づいた。一週間の後にジャン・ヴァルジャンはそこを去った。リュクサンブールヘもウエスト街へも再び足をふみ入れまいとみずから誓った。彼はプリューメ街へ戻った。
コゼットは不平をいわなかった、何事もいわなかった、疑問を発しもしなかった、理由を知ろうともしなかった。彼女はもはや、意中がさとられはしないかを恐れ、秘密が洩れはしないかと恐れるほどになっていた。ジャン・ヴァルジャンはその種の不幸には少しも経験を持たなかった。それこそ世に可憐なる唯一の不幸であり、しかも彼が知らない唯一の不幸であった。その結果、彼はコゼットの沈黙の重大な意味をすこしもさとらなかった。ただ彼はコゼットが寂しげな様子になったのをみとめて、自分も陰鬱になった。二人とも同じように、今まで一度も経験したことのない難問題と、ひそかに闘っていたのだった。
一度彼はためしてみた。彼はコゼットにたずねた。
「リュクサンブールヘいってみようか?」
一すじの明るい光りがコゼットの蒼《あお》白い顔を輝かした。
「ええ」と彼女はいった。
二人はそこへいった。三月《みつき》もへた後であった。マリユスはもうそこへいってはいなかった。マリユスはそこにはいなかった。
翌日ジャン・ヴァルジャンはコゼットにたずねた。
「リュクサンブールヘいってみようか?」
彼女は悲しげにやさしく答えた。
「いいえ」
ジャン・ヴァルジャンはその悲しい調子にいらだち、そのやさしい調子に心を痛めた。
コゼットは元気を失ってきた。彼女はただなんというわけもなく妙に、マリユスのいるのを喜んだと同様に、またマリユスのいないのを悲しく思った。ジャン・ヴァルジャンがいつもの散歩につれていってくれなくなった時、女性の本能は心の底で彼女に漠然とささやいた、リュクサンブールにゆきたいような様子をしてはいけないと、そしてまた、どうでもいいようなふうをしていたならば父はふたたびつれていってくれるであろうと。しかし日は過ぎ、週は過ぎ、月は過ぎた。ジャン・ヴァルジャンはコゼットの無言の承諾を暗黙のうちに受けいれていた。彼女はそれを後悔した。すでに時機を失していた。
彼女がリュクサンブールヘ戻っていった時、マリユスはもうそこにいなかった。マリユスはいなくなってしまったのだ、万事は終ったのだ、どうしたらいいだろう? またいつかふたたび会えることがあるだろうか。彼女は心が痛むのを感じた、そしてそれはなにものにも癒されることがなく、日ごとに度をましていった。彼女はもはや冬にも、夏にも気がつかず、日が照っているのか、雨が降っているのかも気にとめず、小鳥がさえずっているかどうか、ダリアの季節であるか、雛菊《ひなぎく》の季節であるか、リュクサンブール公園はテュイルリー公園よりも美しいかどうか、洗濯屋がもってきたシャツは|のり《ヽヽ》がききすぎているかたりないか、トゥーサンは「買物」を|じょうず《ヽヽヽヽ》にやったか|へた《ヽヽ》にやったか、彼女にはいっさいわからなかった。そして彼女はうちしおれ、魂をうばわれ、ただひとつの考えにばかり心をむけ、ぼんやりとひとつところにすわった眼つきをして、幻が消えうせたあとの黒いふかい場所を、闇夜のうちにみつめてるかのようだった。
けれども、彼女のほうでもまた、顔色の悪くなったことの外はなにもジャン・ヴァルジャンにさとられないようにした。彼女はやはり彼にたいしてやさしい顔つきをしてみせた。
しかしその顔色の悪いことだけで、ジャン・ヴァルジャンの心をわずらわすには余りあるほどだった。時には彼はたずねた。
「どうしたんだい?」
彼女は答えた。
「どうもしませんわ」
そしてちょっと黙った後、彼もまた悲しんでるのを彼女は察したかのようにいった。
「そしてあなたは、お父さま、どうかなすったのではありませんか」
「私が? いやなんでもないよ」と彼はいった。
あれほどお互いのみを愛しあい、しかもあれほどふかく愛しあっていた二人、互いにあれほど長く頼りあって生きてきた二人は、今やいずれも苦しみながら、互いに苦しみの種となりながら、互いにうち明けもせずうらみもせず、ほほえみあっていたのである。
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第三章 首尾の不一致
一
四月の前半に、ジャン・ヴァルジャンは旅行をした。それはながい間をおいて、時々あったことである。いつもその旅は一日か二日で、ながくて三日にすぎなかった。どこへゆくのかだれもしらなかった、コゼットさえもしらなかった。ジャン・ヴァルジャンがそういう小旅行をするのは、たいてい家に金のなくなったときであった。
ジャン・ヴァルジャンはまた旅行に出かけた。彼はいった。「三日のうちには帰ってくるから」
晩にはコゼットは、ひとりで客間にいた。退屈をまぎらすために、彼女はピアノを開き、ウーリヤントのなかの合唱曲、「森にさすろう猟人」を自分でひき、自分で歌いはじめた。それはおそらく曲のうちでも、もっとも美しい曲のひとつであった。歌い終ってから彼女は、そのまま考えにふけった。
と突然、庭に人の足音がきこえるような気がした。
父であるはずはなかった。父は旅行に出ていた。またトゥーサンであるはずもなかった。彼女はとっくに寝ていた……もう晩の十時になっていた。
彼女はしめてある窓のところへいって、その雨戸に耳をよせた。
どうも男の足音らしく、しずかに歩いてるらしかった。
彼女はいそいで二階にのぼり、自分の部屋にはいり、窓の雨戸についている切戸をひらき、庭をのぞいた。ちょうど満月の頃で、庭は昼間のように明るかった。
庭には誰もいなかった。
彼女は窓を開いた。庭はひっそりと静まりかえっており、街路のほうにも、いつものとおり人影ひとつみえなかった。
コゼットは自分の思いちがいだったろうと考えた。実際、足音がきこえたようだったが、それはおそらくウェーバーの幽遠、荘重な音楽によっておこされた幻覚だったろう。その音楽をきくと、異様な深淵が心の前にひらけ、あやしい森が眼の前にうちふるい、おぼろげにみえてくる猟人《かりゅうど》たちの不安な足の下に鳴る枯枝の音が、その奥からきこえてくるのであった。
コゼットはもうそのことを気にしなかった。
けれどそれから数日の後、あたらしい出来事がおこった。
庭の中には、街路に接してる鉄門のそばに、石の腰掛がひとつあった。それは灌木の植込で外からはみえないようになっていたが、それでもしいて鉄門と植込との間に腕をさしのばせば、外部から届くことができた。
同じ四月のある夕方、ジャン・ヴァルジャンは外にでかけ、コゼット一人、日の沈んだ後その腰掛に坐っていた。風は木立の間を吹いていた。コゼットはものおもいに沈んでいた。あてもない悲しみが次第に身にせまってきた。夕暮れとともにおこってくるなんとも耐えがたい悲しみであり、またおそらく夕暮れに口を開く墳墓の神秘からくる悲しみであろう。
あるいはファンティーヌがその形のうちにいたのであろう。
コゼットは立ちあがって、庭のうちを静かにひと廻りし、露のいっぱいおりた草むらの中を歩き、物悲しい一種の夢遊病の状態に陥りながら自分にいった。「こんな時分に庭を歩くにはほんとに木靴がいる。かぜをひくかもしれないから」
彼女は腰掛のところへ戻ってきた。
そしてまた腰をおろそうとしたとき彼女は、いままで自分がいたところにかなり大きな石がひとつあるのを見つけた。それはたしかにさっきまではなかったものである。
コゼットはその石を見ながら、いったい、なんのことだろうかと考えた。石はひとりでに腰掛の上にやってきたものではない、誰かがそこにおいたものである、誰かが鉄の柵《さく》から腕を差しいれてしたのである、そういう考えが突然うかんできた。そして彼女はぞっとした。こんどはほんとうに恐ろしくなった。もう疑う余地はなかった。彼女はそれに手を触れず、うしろをふりかえりもせず、家の中に逃げこんで、すぐに踏段のところの入口に、鎧戸《よろいど》をしめ閂《かんぬき》をさした。彼女はトゥーサンにたずねた。
「お父さまはお帰りになって?」
「まだでございます、お嬢さま」
(われわれは前に一度、トゥーサンは|どもり《ヽヽヽ》だということをいっておいた。だがもうその事をくりかえさないのをゆるしてもらいたい。その音調をうつすのはいやなことだから)
深い物思いにしずみながら、夜の散歩をするのを好んでいたジャン・ヴァルジャンは、夜おそくしか帰ってこないことがしばしばあった。
「トゥーサンや」とコゼットはいった。「晩には庭のほうの雨戸には、閂《かんぬき》をさして、よく戸締りをしておいたでしょうね、そして鉄の輪にはよく釘をさして」
「ええ、ご安心なさいませ、お嬢さま」
トゥーサンはいつもそれを怠りはしなかった。コゼットもそれはよく知っていた。しかし彼女はなお、つけ加えていわずにはおれなかった。
「こちらはほんとにさびしいからね」
「さびしいと申せばほんとうにそうでございますよ」とトゥーサンはいった。「殺されても声さえたてるひまもないかもしれません。その上、旦那さまもこちらにはおやすみになりませんし。でもお嬢さま、ご心配なさいますな、窓はみな牢屋のようにかたく閉めておきますから。女ばかりですもの、こわいのはあたりまえでございますよ。まあ考えてもごらんなさいませ、大勢の男が部屋にはいってきて、静かにしろといって、お嬢さまの首に切りつけでもしましたら! 死ぬのはなんでもありません、死ぬのはかまいません、どうせ一度は死ぬ身でございますもの。でもそんな男どもがお嬢さまに手をつけるのは考えてもたまらないことでございます。それに刃物、それもきっとよく切れないものにきまっています。ああほんとに!」
「もういいよ」とコゼットはいった。「どこもよく戸締りをしてちょうだい」
コゼットはトゥーサンの話におどかされた。「腰かけの上に誰かがおいた石をまあ見てきてごらん」ということもできなかった。庭の戸口を開けたら「男ども」がはいってくるかもしれないような気がした。彼女はほうぼうの戸や窓をよく閉めさせ、穴ぐらから屋根裏の部屋まで家じゅうをトゥーサンにみまわらせ、自分の部屋に閉じこもり、扉にはよく|かけがね《ヽヽヽヽ》をし、寝台の下までのぞきこんで、それから床《とこ》についたが、よく眠れなかった。洞穴のある、山のように大きい石を、夜どおし彼女はゆめうつつのうちに見ていた。
夜明けに、コゼットは眼をさまして、前夜の恐怖を夢のように思いだしながらつぶやいた。「なにをわたしは考えたのだろう。先週の晩、庭で聞いたあの足音のことかしら。わたしは今とんでもない臆病者になってるのかしら」雨戸のすきまを緋《ひ》色にそめ、ダマスク織りのカーテンをまっ赤にうきださせた日の光りは、彼女の心をすっかりおちつかせて、頭のなかにあったものはすべて、あの石までも消えうせてしまった。
「腰かけの上には、もともとあの石はなかったんだわ。ほかのことと同じように、あの石もただ夢でみただけにちがいない」
彼女は着物をき、庭におり、腰かけのところに走っていったが、思わずぞっとして、身にひや汗をかいた。石はまだそこにあった。
しかし、それは一瞬間のことだった。夜に恐怖をおこすものも、昼には好奇心をおこすものとなる。
「まあ、ちょっとみてみよう」と彼女はいった。
彼女はかなり大きなその石をもちあげた。下に手紙のようなものがおいてあった。
それは白い紙の封筒だった。コゼットはそれをとりあげた。表にはあて名も書いてなく、裏には封もしてなかった。けれども開いたままのその封筒は空《から》ではなかった。中に紙がはいってるのが少し見えていた。
コゼットはそれを調べてみた。それはもう恐怖でもなく、好奇心でもなく、心配のはじまりだった。
彼女は封筒から中のものをひきだした。紙をとじた小さな帳面で、各面にはページ数がついていて、数行の文字がしたためてあった。ごく細かな文字で、かなり見事な筆跡だとコゼットは思った。
コゼットは名前を探したが、どこにもなかった。署名を探したがなかった。いったい誰にあてたものだろうか? 彼女の腰掛の上におかれてるところを見ると、恐らく彼女にあてられたものであろう。しかしいったい誰からよこしたものだろうか? 彼女はある抗しがたい魅惑にとらえられた。自分の手の中に震えてる紙から眼をそらそうとして、空をみ、街路をみ、朝日をあびてるアカシヤの木をみ、隣りの屋根の上に飛んでる鳩をみたが、その視線はすぐ手紙の上に落ちてきた。そして中になにか書いてあるか見てみなければならないように思った。
彼女が読んだのはつぎのような文章だった。
二
宇宙をただひとりの人に縮め、ただひとりの人を神にまで拡《ひろ》げること、それがすなわち愛である。
───────
愛、それは星にたいする天使の祝辞である。
───────
愛のために魂が悲しむとき、その悲しみのいかに深いことか!
───────
世界をみたすただひとりの人のいない時、世はいかにむなしいか。恋人は神になるとは、げに真なるかな。もし万物の父にして、明らかに魂のために万物をつくらず、愛のために魂をつくらなかったとするならば、神はかならずや恋人が神となるをねたみたもうであろう。
───────
人の魂を夢の宮殿のうちにいらしむるには、薄紫の飾り紐《ひも》の帽子の下にちらと見える、ただひとつの微笑にてたりる。
───────
たがいにへだてられたる二人の恋人は、その間を多くの空想によってまぎらす。しかもその空想は彼らにとっては現実である。二人は会うことをさまたげられ、手紙をかわすことはできないけれども、たがいに意を通ずる神秘なる方法をいくつか見いだすものである。小鳥の歌、花の香り、子供の笑い、太陽の輝き、風のため息、星の光りなど、あらゆるものをたがいにおくりあう。そしてどうしてそれが不可能といえよう。神のつくりたまえるあらゆるものは、愛につかえんがためにできているのではないか。愛は力強く、いっさいの自然にその使命をおわしめるのである。
おお青春よ、なんじは私が彼女に書き送る手紙である。
───────
未来は、知よりもむしろ情のものである。愛こそは、永遠を占め満たすべき唯一のものである。
───────
愛は魂と同種のものである。恋は魂と同質のものである。魂とおなじく聖なる閃きであり、魂とおなじく不朽《ふきゅう》、不可分、不滅なものである。それはわれわれのうちにある永遠|無窮《むきゅう》なる一点の火であって、なにものもこれを限りこれを消すことはできない。人は骨の髄《ずい》までこの火の燃えるのを感じ、天の奥までこの火の輝くのを見る。
───────
おお愛よ、慕情よ、たがいに理解する二つの精神の、たがいにまじわる二つの心の、たがいに貫く二つの視線の、その喜悦《きえつ》! 幸福よ、なんじは私のもとに訪れないのか。寂しきところをふたりで歩こうではないか。祝福されたるうるわしい日ではないか。私は時として夢想した、天使の生涯の一部がわかれて下界の人の運命にも時々まじってくることを。
───────
なんじはふたつの理由から天の星を眺める、ひとつはその光り輝くがために、ひとつはそのはかり知るべからざるがために。しかしなんじはおのれのそばに、さらにやさしき光りを有し、さらに大なる神秘を有している、すなわち女性を。
───────
愛がふたりの者を天使のごとき聖なるひとつの存在にとかしたもうとした時、人生の秘奥は彼らに見えてくる。ふたりはもはやおなじひとつの運命の両面にすぎなくなる。もはや同じひとつの精神の両翼にすぎなくなる。愛せよ、かけよ!
───────
ひとりの女性が魂の前を通り、歩きつつ光りを放つとき、魂のいっさいはおわり、魂は愛の|とりこ《ヽヽヽ》となる。そしてなんじのなすべきことはただ一事あるのみ、すなわち深く彼女をのみ思い、ついに彼女にもなんじを思わしむること。
───────
愛の始めしことをなしとぐるは、ただ神あるのみ。
───────
真の愛は、ひとつの手袋を失い、ひとつのハンカチを見いだすにも、絶望し、狂喜する。そしてまた、その献身とその希望とのために永遠を求める。真の愛は、無限の大と無限の小とから同時に成り立っている。
───────
なんじもし石ならば、磁石たれ。なんじもし草ならば、|ねむりぐさ《ヽヽヽヽヽ》たれ。なんじもし人ならば、恋人たれ。
───────
「彼女はまだリュクサンブールヘきますか――いいえ――彼女がミサを聞きにくるのはこの会堂へではありませんか──もうきません――彼女はまだこの家に住んでいますか──ひっこしました──どこへゆきましたか――なんともいってゆきませんでした」
自分の魂とする人がどこにいるかを知らないことは、いかに痛ましいことであるか。
───────
愛をいだいているきわめて貧しいひとりの青年に、私は街路で出会った。帽子は古く、上衣はすりきれ、肘《ひじ》には穴があいており、水は靴に通っていた、しかも星はその魂にはいっていた。
───────
愛せらるるということはいかに偉大なことであるか。愛するというはさらにいかに偉大なことであるか! 心は情熱のために勇壮となる。そのとき心を組立てるものは至純なもののみであり、心を支えるものは高きもの、大なるもののみである。|いらくさ《ヽヽヽヽ》が氷河の上に生じないごとく、いやしい考えは、ひとつもそこに生ずることを得ない。高き朗らかなる魂は、卑俗なる情熱や情緒の達し得ないところにあって、この世の雲や形、愚蒙《ぐもう》や欺瞞《ぎまん》や憎悪《ぞうお》や虚栄や悲惨、などの上にはるかにそびえ、青空のうちに住み、あたかも高山の頂が地震を感ずるのみであるかのように、ただ宿命の深い地下の震動を感ずるのみである。
───────
三
その手記をよんでいるうちに、コゼットは次第に夢想にふけっていった。
彼女はまた手帳をながめはじめた。とてもみごとな筆跡だと彼女はおもった。みな同じ手でかかれたものではあったが、インキの色はいろいろで、ときにはとても黒く、ときにはうすく、あたかも何度もインキをさしたようで、したがってまた書かれた日も、それぞれちがっていることを示していた。それは嘆息のまにまに、不規則に、秩序もなく、目的もなく、選択もなく、おりにふれ、考えをそのまままき散らしたものらしかった。コゼットはかつてこんなものを読んだことがなかった。その手記中に彼女は多くの光明をみとめて、あたかも聖殿のなかをのぞきみるような気がした。それらの神秘な各行は、彼女の眼に光り輝き、彼女の心をふしぎな光りで照らした。
彼女のうけた教育は、いつも魂のことを説《と》いてはいたが、一度も愛のことを説かなかった。燃えさしの薪のことを説いて、焔のことを説かないと同じだった。ところがその手記は、彼女に突然やさしく示してくれたのだ、すべての愛や、悲哀や、宿命や、人生や、永遠を。それはちょうど、突然|たなごころ《ヽヽヽヽヽ》をひらいて、ひとにぎりの光輝をなげあたえてくれる手のようなものだった。
それらのページは、いったい誰からおくってきたものであるか、だれがそれを書いたのであるか?
コゼットは少しも疑わなかった。ただひとりの人である。
彼!
彼女の心のうちには、ふたたび日がさしてきた。いっさいのものがふたたび現われてきた。彼女は異常なよろこびと、ふかい悶《もだ》えとを感じた。それは彼《ヽ》であった。彼女に手紙をかいたのは彼《ヽ》であった。そこにいたのは彼《ヽ》であった。鉄柵から腕をさしいれたのは彼《ヽ》であった。彼女が彼を忘れていた間に、彼はふたたび彼女を見いだしたのだった。しかし彼女は、実際彼をわすれていたのだろうか? 決して! 彼女はおろかにも、彼を忘れたと一時思ったのだった。しかし彼女は、いつも彼を愛していた、いつも彼をしたっていた。火はしばらく蔽われてくすぶっていただけだった。しかし彼女はいま、はっきりと知った。火はただいっそう深くもえすすんでいた。そして今や、あらたに爆発して、彼女をすべて焔でつつんでしまった。その手帳は、もひとつの魂から彼女の魂のうちになげこまれた火の粉のようなものだった。彼女はふたたび火が燃えだすのを感じた。彼女はその手記の一語ごとに、胸をつらぬかれた。彼女はいった。「ほんとにそうだわ。わたしは、これをみなおぼえている。みな一度、あの人の眼のなかに読みとったものばかりだわ」
彼女は家の中にはいり、そして手記を読みかえし、暗誦し、夢想するために、自分の部屋のなかにとじこもった。なんどもなんどもよみかえしたのち、彼女はそれに唇をつけ、それを懐《ふところ》にしまった。
そしてコゼットは天使のような深い恋におちいった。エデンの深淵は、ふたたびその口を開いた。
終日コゼットは正気を失ったかのようだった。ほとんどものを考えることもできず、頭のなかには、いろいろな思いが麻糸の乱れたようになり、なにひとつ、まとまった考えもできず、ただふるえながらねがっていた、なにを? それもただ、いろいろな漠然たることにすぎなかった。なにごとも確言しえなかったが、なにごともこばもうとはしなかった。顔は蒼《あお》ざめ、身体はふるえていた。時には幻の世界に迷いこんだような気がして、心のうちでつぶやいた。「本当のことかしら?」
そのとき彼女は、上衣の下の手帳の紙にさわってみ、それを胸におしつけ、自分の身体の上に、そのとがった角《かど》がさわるのを感じた。そういうとき、もしジャン・ヴァルジャンが彼女をみたならば、そのまぶたのうちにあふれてるなんともわからぬ光り輝いたよろこびをみて、身をふるわしただろう。彼女は考えた。「そう、たしかにあの人だわ。これはわたしにあてて、あの人がくだすったものにちがいない」
そして彼女は心のなかでいった。天使がなかにたち、天が力をかして、あの人をまたわたしのところへよこしてくださったのだと。
晩になってジャン・ヴァルジャンはでかけた。コゼットはみなりをととのえた。
うす暗くなって、彼女は庭におりていった。トゥーサンはうしろの中庭に面した台所で用をしていた。
コゼットは低い枝があるのを時々手ではらいのけながら、木の下を歩きだした。
そして彼女は腰かけのところへいった。
石はまだそこにあった。
彼女はそこに腰をおろし、やさしい白い手を石の上においた。あたかもそれを撫でて礼をいってるかのようだった。
と、突然彼女は、誰かがうしろに立ってるのを眼には見ないがそれと感ぜられる、一種のいいがたい感じをうけた。
彼女はふりむいて、立ちあがった。
それは彼であった。
彼は帽子もかぶっていなかった。色は蒼《あお》ざめやせ細ってるようだった。その黒い服がようやく見わけられた。うすら明りはその美しい額をほの白くてらし、その眼を暗くみせていた。たとえようのないしめやかな靄《もや》の下に、なんとなく死と夜とを思わせる気配《けはい》がただよっていた。その顔は暮れてゆく昼の明るみと消えてゆく魂の思いとで照らされていた。
それはまだ幽霊ではないがもうすでに人間ではないように思われた。
コゼットは気を失いかけたが、声はたてなかった。そしてなにか引きつけられるような思いがして、静かにうしろにさがった。彼のほうは身動きもしなかった。彼を包んでるある悲しい名状しがたいものによって、彼女ははっきりとは見えない彼の眼つきを感じた。
コゼットはうしろにさがりながら、一本の木にゆきあたって、それによりかかった。その木がなかったらあやうく倒れるところだった。
そのとき彼女は彼の声を聞いた。実際彼女がまだ一度も直接に聞いたことのないその声は、ようやく木の葉のそよぎから聞きわけられるくらいのささやくような低い声だった。
「許して下さい、ぼくはここにきました。ぼくは心がいっぱいになって、今までのように生きてゆけなくなりましたので、やってきました。あなたはぼくがこの腰かけの上においたものを読んで下さいましたか。あなたはぼくをいくらか覚えておいでになりますか。ぼくをこわがらないで下さい。もうだいぶ前のことですが、あなたがぼくのほうをごらんになったあの日のことを、覚えておられますか。リュクサンブール公園でした。それからまた、あなたがぼくの前を通られたあの日のことも? それは六月の十六日と七月の二日とでした。もうやがて一年になります。それ以来長い間、ぼくはもうあなたに会うことができませんでした。ぼくはあすこの椅子番の女にもたずねましたが、もうあなたをおみかけしない、といっていました。あなたはウエスト街の新らしい家の表にむいた四階に住んでおられました。よく知っていましょう。ぼくはあなたの跡をつけたのです。ほかに仕方がなかったのです。それからあなたはどこかへゆかれてしまいました。一度オデオンの拱廊《アーケード》の下で新聞を読んでいました時、あなたが通られるのを見たように思いました。ぼくは駈《か》けてゆきました。しかしそれは違っていました。ただあなたと同じような帽子をかぶったほかの人でした。それから、夜になるとぼくはここへやってきます。心配しないで下さい、誰もぼくを見た者はありませんから。ぼくはあなたの窓を近くから眺めたいと思ってやってくるのです。あなたを驚かしては悪いと思って、足音が聞えないようにごく静かに歩くことにしています。先夜はあなたのうしろにぼくは立っていました。そしてあなたがふりむかれたので、逃げだしてしまいました。一度はあなたが歌われるのを聞きました。ほんとに嬉しく思いました。あなたが歌われるのを雨戸ごしに聞くことがなにかじゃまになりますでしょうか。別におじゃまになりはしませんでしょう。いいえ、そんなはずはありません。どうか時々ぼくがここへくるのを許して下さい。ぼくはもう死ぬような気がします。ああぼくがどんなにあなたをお慕いしているか、それを知ってさえいただけたら! どうか許してください。あなたにお話してはいますが、なにをいってるのか、自分でもわかりません。あるいはお気にさわったかもしれません。なにか、お気にさわったでしょうか?」
「ああ、お母さま!」と彼女はいった。
そして彼女はたおれかかった。彼はそれを腕にだきとった。彼はなにをしているのか、自分でもわからないで、彼女をひしと抱きしめた。マリユスはよろめきながら彼女をささえた。頭には煙のようなものが、いっぱいたちこめているようだった。なにか、ぴかぴか光るものが、まつ毛の間にちらついた。あらゆる考えは消えてしまった。ある敬虔《けいけん》な行いをしてるように思われ、ある冒涜《ぼうとく》なことをおかしてるようにも思われた。しかも、彼は、自分の胸に感じる、その美しい女性の身体に対して、すこしの情欲をもいだいてはいなかった。彼はただ愛にわれを忘れていた。
彼女は彼の手をとり、それを自分の胸におしあてた。彼はそこに自分の手記があるのを感じた。彼は口ごもりながらいった。
「ではぼくを愛してくださいますか」
彼女はかすかに聞きとれるような低い声で答えた。
「そんなことを! ごぞんじなのに!」
そして彼女はそのまっ赤な頬を、崇高な熱狂せる青年の胸に埋めた。
彼は腰かけの上に身を落した。彼女はそのそばに坐った。彼らはもはやいうべき言葉もなかった。空の星は輝きだした。いかにしてか、二人の唇はあわさった。いかにしてか、小鳥は歌い、雪はとけ、ばらの花は開き、五月は輝きいで、黒い木立のかなた、うち震える丘の頂には曙《あけぼの》の色がしらんでくる。
ひとつのくちづけ、そしてそれはすべてであった。
二人とも身をおののかした、そして暗闇の中でたがいに輝く眼と眼を見あった。
彼らはもはや、ひややかな夜も、冷たい石も、湿った土も、濡れた草も感じなかった。彼らはたがいにみかわし、心は思いにみたされた。われしらずたがいに手をとりあっていた。
彼女は彼になにもたずねなかった。どこから彼がはいってきたか、どうして庭の中に忍びこんできたか、それを彼女は思ってもみなかった。彼がそこにいたのはきわめて当然なことのように思われたのだった。
ときどきマリユスの膝はコゼットの膝にふれた。そして二人は身をおののかした。
長く間を置いてから、コゼットは一、二言口ごもった。露の玉が花の上に震えるように、彼女の魂はその唇の上に震えていた。
しだいに彼女は言葉をかわすようになった。満ちたりた沈黙についで、愛のよろこびがやってきた。夜は彼らの上に朗らかに輝きわたっていた。精霊のごとくきよらかなふたりは、互いにすべてを語りあった、その夢想、その心酔、その歓喜、その空想、その哀愁、遠くからいかに慕いあっていたかということ、いかに憧れあっていたかということ、互いに会えなくなった時いかに絶望に陥ったかということ。彼らはすでにもうこれ以上進みえない極度の親密さのうちに、もっとも深いもっとも秘密なものまでも互いに打ち明けあった。幻のうちに率直な信念をいだいて、愛や青春やまだ残っている子供心などが、彼らの頭のうちにもたらすすべてのものを、互いに語り合った。二つの心は互いにとけ合って、一時間とたつうちに、青年は若い娘の魂をとらえ、若い娘は青年の魂をとらえた。彼らは互いに心の底の底にはいりこみ、互いに魅せられみとれあった。
すべてを語りあった時、彼女は彼の肩に頭をもたして、そしてたずねた。
「あなたのお名は?」
「マリユスです」と彼はいった。「そしてあなたは?」
「コゼットといいますの」
マリユスがコゼットの庭にはいるには、老人の歯のように錆《さび》くれた穴の中に揺《ゆら》いでる古い鉄棒の一本を、少しばかり押し開くだけでよかった。彼はやせていて、わけなくそこからはいることができた。
街路には今まで人がいたためしはなかったし、その上マリユスは夜にしか庭にはいってこなかったので、人にみられるような危険はなかった。
ひとつのくちづけが、ふたつの魂を結びあわしたあの聖《きよ》い祝福された夜以来、マリユスは毎夜そこにやってきた。
そして毎夜、そのあれはてたわずかな庭のうちに、日ごとに香りはたかまり、茂みは深くなるその藪の下に、あらゆる貞節と無垢《むく》とがふれあう二人の者、天の恵みにみちあふれ、人間より天使にちかい、純潔で正直で、恍惚として光りかがやいてる二人の者が、暗闇のうちに、互いに照らしあっていた。コゼットにとっては、マリユスが王冠をいただいてるかと思われ、マリユスにとっては、コゼットが円光につつまれてるかと思われた。彼らは互いに相ふれ、見かわし、互いに手をとりあった。だがそこには、彼らがあえてこえることをしない、ひとつの距離があった。マリユスはコゼットの純潔を感じており、コゼットはマリユスの誠実を感じていた。最初のくちづけは、また最後のものであった。その後マリユスは唇を、コゼットの手か、襟《えり》巻か、髪の毛か、それ以上のものにはふれなかった。彼にとってはコゼットはひとつの香りであって、一人の女ではなかった。彼は彼女を呼吸していた。彼女はなにもこばまず、彼はなにも求めなかった。コゼットは幸福であり、マリユスは満足だった。互いに魂と魂とで、まぶしげに見|惚《ほ》れあうとでもいえる、歓喜の状態に二人は生きていた。二人はまさしく、ユングフラウの頂で相会する二羽の白鳥だった。
恋愛のかかる時期、肉欲はすべて心の恍惚の力のもとにねむっている時、天使のごとき純潔なマリユスは、コゼットの裾《すそ》を踵《かかと》のところまでまくることよりも、むしろ売笑婦のもとに通うことのほうを容易になしえたろう。あるとき、月の光りの下でコゼットが地面になにか拾おうとして身をかがめ、その襟《えり》が少しひらいて、首筋がちらとみえたとき、マリユスは眼をそらしたのだった。
それら二人の間には、なにがおこったか。いな、なにごとも。二人は互いにしたいあったばかりである。
夜、二人が庭にいるとき、庭は生きている神聖な場所のようになった。あらゆる花は、二人のまわりに開いて香気をおくり、彼らはその魂をひらいて花の間にひろげた。放逸、強健な植物は、養液と陶酔《とうすい》とにみたされて、無垢《むく》な二人のまわりに身を震わし、二人は樹木もおののくばかりの愛の言葉をいいかわした。
そうした会話の中では、問いと答えとはあちこちにとび移るが、いつもきまって愛の上に落ちてゆく。まるで自動人形が盤の中心に落ちてゆくようなものである。
コゼットの全身は、無邪気と率直と透明と白色と純潔と光輝とにあふれた。しかも彼女の全身は、まるですきとおってるといえるほど清らかなものであった。それはまた見る人の心に、四月の感じと曙の感じとをあたえるのだった。その眼の中には露が宿っていた。彼女の姿はまるで曙の光りが結晶して乙女の姿と化したのではないかと思われるほどだった。
マリユスが彼女を慕い彼女を崇拝したのは、きわめて当然のことだった。しかし実際この修道院の寄宿舎をでたばかりの少女は、ある微妙な洞察力をもって話をし、時々真実な見事な言葉を発した。その無駄口もみな立派な会話となっていた。何ごとにも見当違いはなく、正当な見方をしていた。およそ女は、決してものを誤ることのないやさしい心の本能をもって、感じまた語るものである。いかに女というものがやさしくまた同時に深遠なことを語るものであるか、それを知る人は少ない。優美と深遠、そこに女の全部があり、そこに天の全部があるのだ。
そういう至福のうちにあって、涙がたえず彼らふたりの眼にのぼってきた。踏みつぶされてる一匹の虫、巣から落ちてきた一本の鳥の羽、折れてる野ばらの一枝、そういうものも彼らの心を動かして、静かにうれいにひたってる彼らの恍惚たる感情は、ただ泣くことをのみ求めてるかのようであった。往々にして愛の兆候は、時にはたえがたいほどのやさしい感情であることが多いものだ。
そしてまた一方では──すべてこれらの矛盾は愛の閃めきの戯れである――彼らは好んでよく笑い、しかも快い自由さをもって、また時にはほとんど子供になったかと思われるほど親しげに、笑うのであった。けれども、清浄さに酔っている心から気づかれずに、忘れることのできない本性は常にそこに溢れているものである。本性はその動物的なまた崇高な目的をもってそこに存している。魂はいかに潔白であろうとも、もっとも清い交りのうちにも、恋人同志と朋友同志とを区別する神秘を讃《ほ》むべき色合いの差を、人は感ずるものである。
彼らは互いに慕いあった。
この世には永久にして不変なるものも存在する。互いに愛し、互いにほほえみ、互いに笑い、唇をちょっとゆがめては互いに拗《す》ねてみ、手の指をくみ合わせ、へだてなく囁きかわす。しかもそれは永遠を妨げないのである。二人の恋人は、夕暮れのうちに、薄暮のうちに、見えざるもののうちに、小鳥とともに、ばらとともに身をかくし、眼の中に心をこめて影のうちで魅惑しあい、互いに囁きかわし耳語しあう。そしてその間、星辰の広大なるひらめきが無限の空間を満たしているのである。
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第四章 歓喜と憂苦
一
ある晩、マリユスはコゼットが悲しい様子をしてるのを見つけた。コゼットは泣いてたのだった。彼女の眼は赤くなっていた。
マリユスはいった。
「どうかしたの?」
彼女は答えた。
「あのね」
そして彼女は踏段のちかくの腰かけに坐って、彼がそのそばに震えながら腰をおろしてる間に、さきをつづけた。
「けさ、お父さまがわたしにも用意をしておけっておっしゃったの。用事ができて、わたしたちはここを出立することになるだろうからって」
マリユスは思わず全身震えあがった。
彼は一言も口をきくことができなかった。コゼットはただ彼の手がとても冷たいのを感じた。そしてこんどは彼女がいった。
「どうかしたの?」
彼はコゼットがようやく聞くことができたくらいの低い声で答えた。
「ぼくにはあなたのいったことがわからない」
彼女はいった。
「けさお父さまがわたしにおっしゃったの、こまかいものをみな整えて用意をするようにって。そして鞄の中に入れるシャツをくだすったの。旅をしなければならないんですって。いっしょにゆくんですって。わたしには大きい鞄がいるし、お父さまには小さい鞄がいるのよ。そして今から一週間のうちにしたくをするのよ。たぶんイギリスにゆくだろうとおっしゃったわ」
「ひどい!」とマリユスは叫んだ。
このことを知らされた時のマリユスの思いからすれば、おそらくどのような権力の乱用も、どのような暴力も、極悪《ごくあく》の暴君のいかなる非道な行為だって、フォーシュルヴァン氏が自分の用のために娘をイギリスにつれてゆくということほど、乱暴なことには思われなかったろう。
彼は弱々しい声でたずねた。
「そしていつ発《た》つの」
「いつともおっしゃいませんのよ」
「そしていつ帰ってくるの」
「いつともおっしゃいませんの」
マリユスは立ちあがって、ひややかにいった。
「コゼット、それであなたはゆくんですか」
コゼットは心痛の色に満ちた美しい眼を彼のほうへむけ、当惑したように答えた。
「どこへ?」
「イギリスヘ。あなたはゆくんですか」
「なぜそんなよそよそしいいい方をなさるの?」
「あなたがゆくかどうか聞いてるんです」
「わたしにどうせよとおっしゃるの」と彼女は手をくみ合わしていった。
「ではあなたはゆくんですね」
「もしお父さんがゆかれるなら」
「あなたはゆくんですね」
コゼットはマリユスの手をとり、答えをしないでそれを握りしめた。
「いいですよ」とマリユスはいった。「それではぼくもどこかへいってしまいましょう」
コゼットはその言葉の意味を、了解したというよりむしろ直感した。彼女はまっ蒼《さお》になった。夜の闇の中にその顔が白くみえた。彼女はつぶやいた。
「あなた、なにをおっしゃるの」
マリユスは彼女をみつめ、それからしずかに眼を空のほうへあげて答えた。
「なんでもありません」
彼は眼をさげた時、コゼットが自分にほほえんでるのをみた。愛する女のほほえみは闇夜にみえる光明である。
「わたしたちはほんとに馬鹿だったわ。ねえ、わたしにいい考えがあるわ」
「どんな?」
「わたしたちが出かけたら、あなたも出かけなさいな。行く先をあなたに教えておくわ。そしてわたしがゆくところにあなたもいらっしゃいな」
マリユスは今では全く夢想からさめた男となっていた。彼はふたたび現実にかえっていた。彼はコゼットに叫んだ。
「いっしょに出かけるって! 気でも違ったんじゃない? 出かけるには金がいる。ぼくには金なんかないよ、イギリスヘゆくんだって? ぼくにはイギリスヘゆく旅費だってないよ」
彼はそこにあった一本の木によりかかり、立ったまま、頭の上に両手をくみ、木の幹に額をおしつけ、自分の皮膚をすりむくのにも気がつかず、こめかみに激しく脈うっている熱をも感ぜず、身動きもせず、今にも倒れんとする絶望の立像かと思われるほどだった。
彼は長い間そうしていた。しかし彼はやっとうしろをふりむいた。やさしい悲しい押えつけたような小さな音がうしろに聞えたのである。
コゼットがすすり泣いていた。
彼女はもう二時間以上も前から、夢想にふけってるマリユスのそばで涙を流していたのである。
彼は彼女のそばにより、ひざまずき、そしてしずかに身をふせて、すその下からでてる彼女の足先をとり、それに唇をつけた。
彼女は黙ったまま彼のなすがままにまかした。うち沈み忍従してる女神のように、女には愛の宗教をうけいれる瞬間があるものである。
「泣かないでおくれ」と彼はいった。
彼女はつぶやいた。
「わたしはきっとゆかなければならないし、それにあなたはこられないとすれば!」
彼はいった。
「ぼくを愛してくれる?」
彼女は涙の中から生まれるもっとも魅惑的な愛の楽園の言葉を、すすり泣きながら答えた。
「心から慕ってるわ」
彼は言葉につくしがたい愛撫の調子でいった。
「泣いてはいやだよ、ねえ、ぼくのためにどうか泣かないで……」
「あなたわたしを愛してくだすって?」と彼女はいった。
彼は彼女の手をとった。
「コゼット、ぼくは誰にもまだ誓いの言葉をいったことはない。誓いの言葉は恐ろしいから。ぼくはいつも父が自分のそばに立ってるような気がする。でもぼくはいま一番神聖な誓いの言葉をあなたにいいます。ねえ、あなたがぼくの許《もと》をされば、ぼくは死んでしまう」
彼がその言葉を発した調子のうちには、きわめて荘重な静粛な憂愁がこもっていて、コゼットは身をおののかした。悲痛な真実なるものがあたえる一種の冷気を、彼女は感じた。そしてその感動をうけて、彼女は泣くのをやめた。
「あの」と彼はいった。「あしたはぼくを待っていないように」
「なぜ?」
「あさってでなければこないつもりだから」
「まあ、なぜ?」
「あとでわかるよ」
「一日あなたに会わずにいるの! いいえ、とてもわたし、そんなことできないわ」
「あるいは一生のためになることだからお互いに一日くらいこらえていようよ」
そしてマリユスは、半ば口の中でひとりごとをいった。
「少しも習慣を変えない人だし、晩にしか誰にも会ったことのない人だから」
「誰のことをいってるの」とコゼットはたずねた。
「ぼくが? 何もいいはしないよ」
「では、どうしようというの」
「あさってのことにしよう」
「どうしても?」
「ああ、コゼット」
彼女は彼の頭を両手に抱き、おなじ高さになるために爪先で伸びあがって、彼の眼のなかにその考えをよみとろうとした。
マリユスはいった。
「いま思いだしたけど、あなたはぼくの住所を知ってなけりゃいけない。何かおこらないとも限らないからさ。ぼくはクールフェーラックという友人のところに住んでるんだよ。ヴェールリー街十六番地」
彼はポケットの中をさぐって、ナイフをとりだし、その刃で壁のしっくいの上にほりつけた。
|ヴェールリー街十六《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
そのうちにコゼットは、また彼の眼のなかをのぞきはじめた。
「あなたの考えをいってちょうだい。マリユス、あなたは何か考えてるのね。それをわたしにいってちょうだい。ねえ、それをきかせてわたしにたのしい一夜を過ごさせてね?」
「ぼくが考えてるのはこうなんだよ、神さまもぼくたちを引離そうとはされないに違いないって。あさってぼくを待ってるんだよ」
「それまでわたしはどうしようかしら」とコゼットはいった。「あなたは外にいて、ほうぼう行ったり来たりするんでしょう。男っていいものね。わたしはひとりでじっとしてなけりゃならないもの。ああ、あたし悲しいわ。あすの晩何をするつもりなの、いってくださいな」
「ひとつやってみることがあるんだよ」
「ではわたしは、あなたが成功するように、それまで神さまにお祈りをし、あなたのことを思ってるわ。もうたずねないわ、あなたがいいたくないのなら。あなたはわたしの主人ですもの。わたしあなたの好きな、それいつかの晩あなたが雨戸のそとに聞きにいらした、あのウーリヤント曲を歌って、あすの晩はすごすことにするわ。でもあさっては早くから来てちようだい。日が暮れるのを待ってるわ。ちょうど九時にね、よくって。ああ、ほんとにいやね、日が長いのは。ねえ、あたし九時が打ったら庭にでてるわ」
「その時にはぼくもくる」
そしていわず語らずに、二人とも同じ考えにうごかされ、二人の恋人の心をたえず通わせる電気のながれに引かされ、悲しみのなかにあっても恍惚として、彼らは互いに抱きあい、知らぬまに唇を合わし、よろこびに溢れ、涙にみちてる眼をあげては、空の星をながめた。
木に頭をもたして思い沈んでいるとき、マリユスの頭にひとつの考えが浮んだのだった。だが、それは実は彼自身にさえおろかな不可能なことだと思えるものであった。しかし彼は断然決心をかためたのである。
二
ジルノルマン老人は当時、もう九十一才になっていた。そしてやはりジルノルマン嬢とともに、フィーュ・デュ・カルヴェール街六番地の自分の古い家に住んでいた。まっすぐに立ちながら死をまち、老年になっても腰もまがらず、悲しみがあっても背もかがまないという、あの古代式な老人のひとりであった。
けれども最近になって、「お父さんも弱ってこられた」と彼の娘はいっていた。
ある晩、一八三二年六月の四日であったが、ジルノルマン老人はなお煖炉に盛んな火をたかして、娘を隣室にしりぞかせ縫物をさせていた。そして彼はひとりで牧歌的な飾りたてをした部屋にのこって、薪台の上に足をおき、コロマンデルのひろい九枚折びょうぶになかばかこまれ、緑色の笠の下に二本のろうそくが燃えているテーブルに肘《ひじ》をつき、毛氈《もうせん》の肘掛椅子に身をうずめ、手に一冊の書物をもっていた。しかし別にそれを読んでるのでもなかった。
そのとき、老僕のバスクがはいってきて、たずねた。
「旦那さま、マリユスさまをおとおし申してよろしゅうございましょうか」
老人はまっ蒼《さお》になって身をおこした。電流のために立たされた死骸《しがい》のようだった。全身の血は心臓に流れこんでしまった。彼は口ごもった。
「なんのマリユスさまだ?」
「存じません」とバスクは主人の様子におどろき恐れて答えた。「わたくしがお会いしたのではございません。ニコレットがわたくしのところへきて申しました、若いかたがみえています、マリユスさまと申しあげてくださいと」
ジルノルマン老人は低い声でつぶやいた。
「おとおし」
そして彼はおなじ態度のままで、頭をふりうごかしながら扉をみつめていた。扉は開いた。一人の青年がはいってきた。マリユスであった。
マリユスは、はいれといわれるのを待つかのように、扉のところに立ちどまった。
彼の見すぼらしい服装は、ろうそくの笠がなげてる影の中でよくみえなかった。ただその落着いたまじめな、しかも妙に悲しげな顔だけがはっきりみえていた。
ジルノルマン老人はおどろきと喜びとでぼんやりして、まるで幽霊の前にでたように、ただ、ぼうっとした光りをみるきりで、しばらく身動きもできなかった。彼はもうすこしで気を失うところだった。彼は当惑しながらマリユスをみた。確かに彼だった、確かにマリユスだった。
ついにきた、四年の後に! 彼はいわば一目でマリユスの全部をみてとった。マリユスは美しく、気高く、立派で、大きくなり、一人前の男になり、申し分のない態度になり、見事な様子になっていた。彼は両腕をひろげ、その名をよび、とびつきたいほどだった。彼の心は喜びにとけ、愛のこもった言葉は胸いっぱいになってあふれかけた。ついにその愛情はわきあがって、唇までのぼってきた。しかし常に物事の反対の道をゆく性癖のために、唇からは荒々しい言葉がでた。彼はだしぬけにいった。
「なにしにここへやってきた?」
マリユスは当惑して答えた。
「あの……」
ジルノルマン氏は自分の腕にマリユスが身を投じてくるのを欲したであろう。彼はマリユスにもまた自分自身にも不満だった。自分は粗暴であり、マリユスは冷淡であることを彼は感じた。内心はいかにもやさしく悲しいのに外部の態度はただ冷酷でしかないのを感ずるのは、老人にとってたえがたいいらだちの|たね《ヽヽ》だった。にがにがしい気持ちが彼にもどってきた。彼は気むつかしい調子でマリユスの言葉をさえぎった。
「ではなんのためにきたんだ?」
その「では」という言葉は、『わしを抱擁しにきたのでないなら』という意味だった。マリユスは蒼《あお》ざめて大理石のような顔をしてる祖父を見つめた。
「あの……」
老人はきびしい声でいった。
「わしの許しを願いにきたのか。自分の悪かったことがわかったのか」
彼はマリユスを正道に引きもどしてやったのだと思ってた。「子供」が我《が》を折りかけてるのだと思っていた。マリユスは身をふるわした。祖父が求めているのは父を捨てることであった。彼は眼をふせて答えた。
「いいえ」
「それではなんの用だ?」と老人は憤怒にみちた悲痛の情をみなぎらせてせきこんで叫んだ、
マリユスは両手を握りあわせ、一歩進みでて、弱いふるえ声でいった。
「結婚のおゆるしを願いにまいりました」
「なに、お前が結婚する! 二十一才で! 自分できめて、ただ許しだけを願う、それも形式だけ! まあ坐るがいい。ところで、お前に会わないうちに革命がおこった。ジャコバン党が勝った。お前は満足にちがいない。お前は男爵になってから共和派にもなってるだろう。二つを調和させてる。共和は男爵の位に味をそえるからな。お前は七月革命で勲章でももらったか。ルーヴル宮殿にも少しは手をだしたか。お前たちの仲間はなるほどけっこうなことをするよ。ベリー公の記念碑のところに噴水をこしらえてるというじゃないか。そんなことをして、それでお前は結婚したいというのか。誰とだ。そういうことをやたらにいい出せるものではないぞ」
彼は言葉をきった。そしてマリユスが答えるすきもなく、また激しくいい出した。
「どうだ、お前には身分ができたろう。財産ができたろう。介護士の仕事をしてどのくらいとれるのか」
「一文もとれません」とマリユスは荒い決心と確信とをもっていった。
「では、女のほうが金持ちだな」
「わたしと同じようなものです」
「なに! 持参金もないのか」
「ありません」
「遺産の|あて《ヽヽ》でもあるのか」
「ありそうもありません」
「身体だけ! そして父親はなんだ」
「存じません」
「そして娘の名はなんというんだ」
「フォーシュルヴァン嬢といいます」
「フォーシュ……なんだ」
「フォーシュルヴァンです」
「ちえっ!」と老人は舌うちした。
「お願いです!」とマリユスは叫んだ。
ジルノルマン氏は彼の言葉をさえぎった。
「はっ、はっ、はっ、お前はこんなことを考えたんだろう。なあに、あの旧弊なおいぼれを、あのわけのわからぬばかじじいを、ひとつ見にいってやれ。二十五才になっていないのが残念だ。二十五才にさえなっていりゃあ、結婚承諾要求書をさしつけてやるんだがな、あんなやつ、あってもなくてもいいんだがな。でもまあいいや、こういってやれ。おじいさん、わたしに会ってうれしいだろう、わたしは結婚したいんだよ、なんとかいうお嬢さんと結婚したいんだ、どこかの男の娘さんだ、わたしには靴もないし、女にはシャツもない、ちょうど似あってる、わたしは仕事も未来も若さも生命も、水にでもぶっこんでしまいたい、わたしは女の首ったまにかじりついて、貧乏の中にとび込んでしまいたい、それがわたしの理想だ、お前はぜひとも同意しなけりゃいけない。そういったらあのひからびたおいぼれも同意するだろう。そしてこういうだろう。なるほど、好きなようにするがいい、その石ころを背おいこむがいい、お前のプースルヴァンとかクープルヴァンとかと結婚するがいいとね──ところがいけない。断じていかん!」
「お父さん!」
「いかん!」
この「いかん」という語が発せられた調子に、マリユスはすべての希望を失った。彼は頭をたれ、よろめきながら徐々《じょじょ》に部屋のなかを退いていった。それは立ち去る人というよりも、むしろ死にかかってる人のようであった。ジルノルマン氏は彼を目で追っていたが、扉がひらかれてマリユスが外に出ようとしたとき、せっかちながむしゃらな老人の敏活さで数歩進んで、マリユスのくび筋をつかみ、激しく部屋のなかに引きもどし、肘掛椅子の上に投げたおし、そしていった。
「まあよく話せ!」
そう彼の態度がかわったのは、マリユスが偶然発した「|お父さん《ヽヽヽヽ》」という一言のためだった。
マリユスはぼうぜんとして彼を見つめていた。
「うむ、そうだ、わしをお父さんと呼ぶがいい、きいてやるぞ」
「お父さん」とマリユスはいい出した。「ねえお父さん、どんなにわたしは彼女を愛してることか。ご想像もつきますまい。はじめて会ったのはリュクサンブール公園でした。彼女はいつもそこにやって来ました。はじめわたしは大して気にもとめませんでした。けれどそれから、どうしたのか自分でもわかりません。いつか恋するようになりました。ああそのためにわたしはどんなに心を痛めたことでしょう。そして今では、毎日、彼女の家で会っています。父親はそれを知りません。ところが、察してください、その親子は遠くにゆこうとしています。わたしたちは晩に庭で会っています。父親につれられてイギリスに行くというのです。それでわたしは、おじいさまに会って話してみようと考えました。別れるようなことがあれば、わたしはきっと気が変になります、死にます、病気になります、水に身を投げます。どうしても結婚しなければなりません、きちがいになりそうですから。事実はそれだけです。いい落したことはないつもりです。彼女はプリューメ街の鉄柵のある庭に住んでいます。アンヴァリードのほうです」
ジルノルマン老人は、顔を輝かしてマリユスのそばに坐っていた。彼に耳を傾けてその声音を味わいながら、また同時にゆるゆるとかぎたばこを味わっていた。ところがプリューメ街という一語を聞いて、彼はたばこをかぐのをやめ、たばこののこりを膝の上に落した。
「プリューメ街! プリューメ街だな。……待てよ!……その近くに兵営はないかね。……そうだ、それだ。お前のいとこのテオデュールがいっていた。あの槍騎兵の将校だ。……いい娘、そう、いい娘だそうだ。……うむ、プリューメ街。昔はブローメ街といった所だ。……ようやく思い出した。プリューメ街の鉄柵の娘のことなら、わしもきいたことがある。綺麗だという評判だ。ところでその娘が、父親に隠れてお前に会ってるんだな。よくあることだ。だがお前はやり方を心得てるか。本気にならないことだ、深みにはまらないことだ。ただうまくさえやればいい。結婚してはいかん。古い引出しの中にいつでも金包みを入れてる、もとから人の好いおじいさんに会いに行くんだ。そしていうがいい。おじいさん、このとおりです。するとおじいさんはいってくれる。なにあたりまえのことだ。青春はすぎ去るものだ。老年はくだけさるものだ。さあここに二百ピストル(二千フラン)ばかりある。これで遊んで来るがいい。それが一番だ。万事こういうふうになるのが本当だ。結婚するものではない。それかといって女に手を出すなというんではない。どうだ、わかったか」
マリユスは石のようになって一言も発することができず、ただ頭を振ってわからないという意をしめした。
老人は笑いだし、年老いた眼をまばたき、彼の膝をたたき、不思議に輝いた顔つきで彼をまともに見つめ、ごくやさしく肩をすぼめていった。
「ばかだね、情婦にするんだ」
マリユスは顔色をかえた。「|情婦にするんだ《ヽヽヽヽヽヽヽ》」というその一言は、彼の心を刃のごとくつらぬいた。
彼は立ちあがり、下に落ちていた帽子をひろい、断乎たるしっかりした歩調で扉のところまでいった。そこで彼はふりむき、祖父の前に低く身をかがめ、再び頭をもたげ、そしていった。
「五年前にあなたはわたしの父を侮辱しました。今日もまたわたしの妻を侮辱しました。もうなにもお願いしません。おわかれします」
ジルノルマン老人は、あきれかえり、口をあけたまま、腕を差しだし、立ちあがろうとした。しかし彼に一言を発するすきもあたえないで、扉は再び閉され、マリユスの姿はきえた。
三
ところで、おなじ日の午後四時頃、ジャン・ヴァルジャンは練兵場のもっともさびしい土手の陰にひとりですわっていた。用心のためか、あるいは瞑想にふけりたいと思ってか、あるいは単にどんな生活にも次第におこってくるしらずしらずの習慣の変化からか、彼はこの頃あまりコゼットをつれて外出しなかった。彼は労働者の上衣をき、鼠色のズボンをはき、ながい庇《ひさし》の帽子で顔をかくしていた。現在ではもう彼はコゼットのそばで落ちついて幸福であった。一時彼をおびやかし、わずらわしたものもきえ失せてしまっていた。しかしこの一、二週間以来、別種の心配がやってきた。
ある日大通りを歩いていると、テナルディエの姿を見かけた。変装のためにテナルディエは彼を見てとり得なかった。しかしその後ジャン・ヴァルジャンはいくどもテナルディエに会い、今では、テナルディエが脱獄してその付近をうろついてることも確かになった。そしてそのことはついに彼に大決心をうながした。テナルディエがいることは、また同時にあらゆる危険が存在することだった。
その上パリは平穏ではなかった。政治上の騒ぎのために、なにか身の上にかくすべき点をもってる者にとっては、ごくつごうのわるい状態になっていた。警察のほうではひどく気をもみ疑い深くなり、ペパンやモレーのような過激な人物を狩り出しながら、またジャン・ヴァルジャンのような者をも容易に発見しうるにちがいなかった。
それらのことを考えて、彼は心配になってきた。
それからまた最後に、不可解な一事がおこってきて、今なおありありと頭にのこっていて、彼の警戒の念を一層つよめたのであった。その日の朝、ただひとり先に起きあがり、コゼットの部屋の雨戸がひらかれないうちに庭を歩いていると、壁の上に恐らく釘で彫りつけたらしい一行の文字が突然眼にはいった。
|ヴェールリー街十六《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
それはごく新らしくしるされたもので、その線はまっ黒な古いしっくいのなかに白くみえており、壁の根本《ねもと》にあるひとむれのいらくさは新らしいしっくいの粉をかぶっていた。おそらく前夜のうちに書かれたものにちがいなかった。いったいこれはなんだろう? 誰かの住所か、それとも他の者に対する合図か、それとも自分に対する警告か? いずれにしても知らない者が庭に侵入してきたことは明らかだった。以前に家中を驚かした不思議な出来事を彼は思いおこした。そしてあれかこれかとしきりに頭を悩ました。釘のさきで壁に書かれた一行の文字については、こわがらせてはならないと思ってコゼットには少しも話さなかった。
種々のことを考え推測してジャン・ヴァルジャンは、いよいよパリを去りフランスをも去り、イギリスにわたろうと決心していたのであった。コゼットにも前もって知らしておいた。一週間のうちに出立しようと思っていたのである。で、いま彼は練兵場の土手の陰に坐って、いろいろの考えを頭の中に浮かべていた、テナルディエのこと、警察のこと、壁の上にかかれた不思議な一行の文字のこと、旅行のこと、旅券をうるのに困難なこと。
そういうことで頭がいっぱいになってるさいちゅう、彼は自分のすぐうしろの土手のいただきに誰かがやって来て立ちどまったのを、日光をおおった人影で見てとった。彼がふりむこうとしたとき、四つに折った一枚の紙が頭のうえから落されたように膝の上に落ちてきた。彼はその紙片をとり、それをひらくと、そこには鉛筆で大きく一語したためてあった。
|引っ越せ《ヽヽヽヽ》
ジャン・ヴァルジャンはいそいで立ちあがったが、土手の上にはもう誰もいなかった。あたりを見まわすと、鼠色のだぶだぶした上衣をき、塵によごれた綿ビロードのズボンをつけた、子供より大きくおとなより小さい一人の者が、柵をおどりこえ、練兵場の溝の中にすべり込んでゆくのがみえた。
ジャン・ヴァルジャンは深く考え込んですぐに家へ帰った。
四
マリユスはすべての望みを失ってジルノルマン氏の家から出てきた。はいってゆく時には、一縷《いちる》の希望をもっていたが、出てくる時には深い絶望をいだいていた。
彼は街路を歩きはじめた。彼は何か考えていたが、あとで思い出せるようなことはひとつも考えていなかった。夜中の二時にクールフェーラックのもとに帰りつき、服もぬがずにそのままふとんの上に身をなげ出した。すっかり夜が明けてからようやく、いろいろな考えがなお頭の中にゆききする重い恐ろしい眠りにおちいった。眼をさますとちょうど、クールフェーラックとアンジョーラとフイイとコンブフェールとが、頭に帽子をかぶり、出かけるばかりの忙しそうな様子をして、部屋の中に立っていた。
クールフェーラックは彼にいった。
「きみはラマルク将軍の葬式にゆかないか」
彼にはクールフェーラックの言葉も、わけのわからぬ支那語のようにきこえた。
みなが出ていった後しばらくして、彼も出かけた。二月三日の事件のときジャヴェルからもらったまま手許にのこってるふたつのピストルを、彼はポケットの中に入れた。それにはまだ弾丸がこめてあった。頭のなかにいかなるひそかな考えがあってそれを持ちだしたかは、どうもはっきりしなかった。
みずからどこともしらないで彼は一日じゅう歩きまわった。時々雨が降ったのもまったく気づかなかった。食事のためにあるパン屋で一スーの長パンを買ったが、それもポケットに入れたまま忘れてしまった。なんというつもりもなしにセーヌ河にはいって水を浴びたようでもあった。頭蓋骨の下に烈火がもえ立ってるような時も人にはあるものである。マリユスはちょうどそういう時にさしかかっていた。もうなにひとつ願わず、なにひとつ恐れなかった。彼は前夜以来そういう状態になっていた、そして熱し、いら立ちながら晩になるのを待った。ただひとつの明らかな考えばかりがのこっていた。すなわち九時にコゼットと会うこと。その最後の幸福こそ今では彼の未来のすべてだった。その先はただ暗黒のみであった。寂しい大通りを歩いていると、間をおいて不思議な響きがパリの市中に聞えるようだった。彼は夢うつつのうちにつぶやいた。「戦争でもしてるのかしら」
暗くなるころ、ちょうど九時に、コゼットと約束したとおり彼はプリューメ街にきていた。鉄柵に近寄ったとき彼はすべてを忘れた。この前コゼットと会ってからもう四十八時間、そしていま再び会えるのである。その他の考えはきえてしまい、異常な深い喜びをしか、もう感じなかった。数世紀のながい間とも思えるかかる数分時は、つねに厳かな驚嘆すべきなにものかをもってて、過ぎ去りつつ人の心を全く満たしてくれるものである。
マリユスは鉄棒を動かし、庭の中にとび込んだ。コゼットはいつも彼をまっていてくれる例の所にいなかった。彼は茂みの間をとおりぬけ、踏段のそばの奥まったところまでいった。「そこで待ってるのだろう」と彼はいった。しかし、コゼットはそこにもいなかった。眼をあげると、家の雨戸はみな閉されていた。庭をひと廻りしたが、やはり誰もいなかった。そのとき彼は家の前へもどってき、愛のためにわれを忘れ、悲しみと不安のために惑《まど》い、おびえ、いらだって、時ならぬ時間に家に帰ってきた主人《あるじ》のように、雨戸をうち叩《たた》いた。つづけざまに叩いた。窓があけられ父親の恐ろしい顔があらわれて「なんだ?」とたずねられる危険をも顧みなかった。心に待ち望んでいることに比ぶれば、それはとるにたらぬことだった。叩きおえたとき、彼は声をあげて叫んだ。
「コゼット!」
「コゼット!」とはげしくくり返した。
なんの答えもなかった。万事おわっていた。庭には誰もいず、家の中にも誰もいなかった。
マリユスは墳墓のようにくらく黙々としてしかも一層空虚なその悲しい家に絶望の眼をすえた。コゼットのそばでいくたの楽しい時間をすごした石の腰掛をながめた。それから踏段の上にすわり、心は情愛と決意とにみち、胸のおくで自分の愛を祝福し、コゼットが出発してしまった今となってはもはや死ぬほかはないと、心の中でつぶやいた。
突然、彼は人の声を聞いた。それは街路からくるもののようで木立越しにさけんでいた。
「マリユスさん!」
彼は身を起した。
「ええ?」と彼はいった。
「マリユスさん、あなたそこにいるの?」
「ええ」
「マリユスさん」とその声はまたいった。「お友だちがみんなあなたを、シャンヴルリー街の防塞《ぼうさい》で待っていますよ」
その声はエポニーヌの、荒いつぶれた声に似かよっていた。マリユスは鉄柵のところに走ってゆき、棒を押しひらき、その間から顔をだした。見ると、若い男らしく思われる一人の人間が、むこうへ走りながら暗がりのなかに消えていった。
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第五章 一八三二年六月五日
一八三二年の春、コレラ病は三カ月以来、人心を寒からしめ、従来の政治的動揺にある暗い沈んだ空気をうみだしていたが、パリはすでにずっと前から、まさに爆発の寸前にあったのである。前にもいったように、この大都市はいまや一門の砲のごときものであった。弾丸がこめられている砲は、それに火花がひとつおちかかっても大爆発をする。一八三二年六月、この砲におちかかった火花はラマルク将軍の死であった。
ラマルクは名声のたかい活動的な人物だった。彼は帝政と王政復古との両時代を通じて必要なるふたつの勇気を相ついで示した。すなわち戦場の勇気と演壇の勇気を。勇敢であるとともにまた雄弁であった。その言論のうちには剣の刃《やいば》が感じられた。先輩たるフォアのように、指揮権をたかくかざしたのちに自由をたかくふりかざした。左党と極左党との間に席をしめ、未来の吉凶を顧慮《こりょ》しないので民衆から愛せられ、かつて皇帝によくつかえたので群集から愛せられた。
彼の死は以前から予想されていたが、民衆からは彼の死はひとつの大きな損失としておそれられ、政府からは、なんらかの危険をひきおこす発端《ほったん》となるのではないかとこわがられていたのだった。
ラマルクの葬式のある六月五日の前日とその朝は、サン・タントアーヌ廓外は、葬式の行列がすぐそばを通るというので、恐るべき光景を呈した。網の目のように入り乱れたその騒々しい小路は、流言蜚語《りゅうげんひご》で満たされて人々はできるだけの武装をした。
六月五日は晴れたり曇ったりの天気だったが、ラマルク将軍の葬式の行列は、厳重な装備をほどこされた、陸軍の公式盛儀をもってパリを横ぎっていった。太鼓には喪章をつけ小銃を逆さにした二大隊の兵士、帯剣した一万の国民兵、国民軍の砲兵隊、などが柩《ひつぎ》を護衛していた。棺車は青年たちに引かれていた。廃兵院の将校らが月桂樹の枝をもって、すぐ棺車のうしろにしたがった。そのつぎには動揺せる異様な無数の群集がやってきた。「人民の友」の各区隊、法律学校の生徒、医学校の生徒、各国からの亡命者、スペインやイタリアやドイツやポーランドの旗、横の三色旗、その他ありとあらゆる旗、生木《なまき》の枝をうちふってる子供、その時ちょうどストライキにはいっていた石工や大工、紙の帽子でそれと見わけられる印刷職工、そういう者らが三々五々うちつれだって、喊声《かんせい》をあげ、たいてい、みな杖を振りまわし、ある者はサーベルを振りまわし、秩序はなかったが一つの塊となって、あるいは群がり、あるいは縦列をなしてすすんだ。
各一群はそれぞれ隊長を選んでいた。公然とピストルを二挺身につけてる男が、あたかも閲兵でもするようなふうに駈けまわり、各列はその前にみちを開いた。大通りに交叉してる横丁や、並木の枝の間や、バルコニーや窓や屋根の上には、男や女や子供の頭がかさなり合い、その眼には不安の色がみちていた。通ってゆくのは武装した群集であり、ながめているのはおびえた群集であった。
棺車はバスティーユを過ぎ、堀割にそい、小さな橋をわたり、オーステルリッツ橋の前の広場に達し、そこでとまった。棺車のまわりには人垣ができていた。広汎な群集はひっそりと静まっていた。ラファイエットがラマルクに別れの弔辞をのべた。悲痛森厳な瞬間で、人々はみな帽子をぬぎ胸をおどらした。と、たちまち黒衣をまとった馬上の男が、赤旗――あるいは赤帽をかぶった槍だという者もあるが――をもって群集のまんなかに現われた。
赤旗は群衆のうちに暴風をまきおこしてその中に姿を没した。ブールドン大通りからオーステルリッツ橋まで、津波のような響きがおこって群集を沸きたたせた。激しい二つの叫びがおこった。「ラマルクをパンテオンへ!」「ラファイエットを市庁へ!」青年らは群集の喝采のうちに、みずから馬の代りとなって、棺車の中のラマルクをオーステルリッツ橋の上に引きはじめ、ラファイエットを辻馬車にのせてモルラン河岸に引きはじめた。
そのうちに、河の左岸には市の守備騎兵がうごき出して橋をさえぎり、右岸には竜騎兵がセレスタンから現われてきてモルラン河岸にそって展開した。ラファイエットの馬車を引いていた者たちは、河岸のまがり角で突然それに気づいて、「竜騎兵だ、竜騎兵だ!」とさけんだ。竜騎兵らはピストルを革の袋にいれ、サーベルをさやにおさめ、短銃を鞍がわにつけたまま、陰鬱に期待するところがあるかのように、黙々として馬を並足《なみあし》に進ませてきた。
小さな橋から二百歩のところで彼らはとまった。ラファイエットの馬車がそこまでゆくと、彼らは列をひらいて馬車を通し、その後からまた列をとじた。そのとき竜騎兵らと群集とは相接した。女たちは恐れて逃げだした。
その危急な瞬間に何がおこったか? 誰もそれをいうことはできないであろう。それは二つの黒雲が相交わる暗澹《あんたん》たる瞬間である。襲撃のラッパが造兵廠《ぞうへいしょう》のほうにきこえたと、ある者はいい、一人の少年が竜騎兵を短剣で刺した、とある者はいう。事実をいえば、突然小銃が三発発射されたのであって、第一発は中隊長ショーレを殺し、第二発はコントレスカルプ街で窓を閉していたつんぼの婆さんを殺し、第三発は一将校の肩章にあたった。一人の女は叫んだ。「|おや《ヽヽ》、|もう始まった《ヽヽヽヽヽヽ》!」そのとき突然、兵営の中に駐屯していた一個中隊の竜騎兵が、抜剣で馬をおどらして現われ、バソンピエール街からブールドン大通りを通って、前にあるものをおい払いながらやって来るのが、モルラン河岸のむこうがわにみえた。
まさに、これがきっかけだった。暴風は荒れだし、石は雨とふり、小銃は火蓋《ひぶた》をきった。多くの者は河岸の下にとびさがり、セーヌ河の小さな支流をわたった。その小川は今日では理ってしまっている。ルーヴィエ島の建築材置場はでき合いの大きな要塞となって、戦士たちが群がっていた。石は引きぬかれ、ピストルは発射され、防塞は急造され、追いまくられた青年たちは棺車をひき、オーステルリッツ橋をかけぬけて市の守備兵をおそい、重騎兵はかけつけ、竜騎兵はサーベルを抜き、群集は四方に散乱し、戦いの風説はパリのすみずみまで拡がり、人々は「武器をとれ!」と叫び、走り、つまずき、逃げ、あるいは抵抗した。風が火を散らすように憤激の情は暴動を八方にひろげていった。
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第五部 ジャン・ヴァルジャン
第一章 市街戦
一
造兵廠《ぞうへいしょう》の前で、人民と軍隊との衝突から突発した反乱が、その前進をやめて退却し、棺車のうしろに従い各大通りにうちつづいて、いわば行列の先頭にのしかかっていた群集のうちになだれこんできた瞬間こそ、実におそるべき光景が現出された。群集は乱れたち、列は中断し、人びとは走りだし、散乱した。ある者は攻撃の喊声《かんせい》をあげ、ある者は色をうしなって逃げだした。大通りをおおっていた大河は、またたくまにふたつに割れ、右と左とにあふれだし、一時に両方の無数の横通りのなかに、小門があけられたかのように奔流し、拡がっていった。
そのとき、メニルモンタン街のほうからやってくるひとりの少年がいた。身には|ぼろ《ヽヽ》をまとい、ベルヴィルの丘で折りとった一枝のエニシダを手にしていたが、ある古物商の店さきに古いピストルがひとつあるのに眼をとめた。彼は敷石の上に枝をなげすてて、叫んだ。
「おい、おばさん、道具をかりるよ」
そして彼はピストルをもっていってしまった。
それからまもなく、アムロ街やバス街から逃げだしてきた市民の一群は、ピストルをふりまわしてるひとりの少年に出会った。少年は歌をうたっていた。それはあのテナルディエの息子のガヴローシュだった。
そのうちにガヴローシュは、すでに武装がとかれた衛舎《えいしゃ》ののこっているサン・ジャン市場で、アンジョーラとクールフェーラックとコンブフェールとフイイとにみちびかれた一隊と連絡をとった。彼らは、ほとんどみんな武器をもっていた。バオレルとジャン・プルヴェールも彼らに出会って、一群はますます大きくなっていった。
ガヴローシュは、平気で彼らにくわわった。
「どこへいくのかな?」
「いっしょにこい」とクールフェーラックはいった。
そうぞうしい一隊が彼らのあとにしたがっていた。学生、美術家、エークスのクーグールド派に加盟している青年、労働者、仲仕《なかし》などで、棒や銃剣をもっていた。
一隊はだんだんと大きくなっていった。ビエット街のあたりで、なかば白くなった髪をした、背の高い男が彼らにくわわった。クールフェーラックとアンジョーラとコンブフェールとは、そのきつい勇敢な顔つきに気をとめたが、だれも彼に見おぼえはなかった。ガヴローシュは歌をうたい、口笛をふき、しゃべりちらし、先頭にたち、撃鉄《げきてつ》のとれたピストルの柄《え》で店々の雨戸をたたいていたので、その男には注意をむけなかった。
二
アンジョーラの一隊がたてこもったシャンヴルリー街の防塞《ぼうさい》は、二メートルほどの高さしかなかった。そして戦士が思うままにその背後にかくれ、あるいはそこから下をねらい討ちしたり、またその頂上にもあがれるように、内部には段々になってつみかさねた敷石が四列ばかりつくられていた。防塞の前面には、敷石や樽《たる》がつみかさねられ、さらにアンソーの荷車と乗合馬車とがひっくりかえされ、その車輪にさしこんだ支柱や板でかためられ、ごたごたした、なんとも名状しがたい光景だった。人がひとり通れるくらいの切れ目が、人家の壁のあいだにできていて、どうにか出入りができるようになっていた。乗合馬車の梶棒《かじぼう》はまっすぐに立てられ、縄でゆわえられ、そのさきにつけられた赤旗が、防塞の上にひるがえっていた。
モンデトゥール街のほうの小さな防塞は、一軒の居酒屋のうしろにかくれて見えなかった。その連結したふたつの防塞は、まったくひとつの角面堡《かくめんぽう》〔屈折の多い堡塁。臨時または半永久の築城として重要地点に設けられる〕だった。
二つの防塞の工事がおわり、赤旗があげられると、人々は居酒屋の外にテーブルをひとつもちだした。クールフェーラックは、その上にあがった。アンジョーラが四角な箱をもってきて、クールフェーラックがそれをひらいた。なかには弾薬がいっぱいはいっていた。その弾薬をみると、勇敢な人々は躍《おど》りあがり、そしてしずまりかえった。
クールフェーラックはほほえみながら、弾薬をわけあたえた。
一人三十個ずつ弾薬をもらった。多くの者はそのほかに火薬を持っていたので、鋳《い》られた弾と火薬とでまた弾薬をこしらえた。火薬の小さな樽は、扉のそばの、べつのテーブルの上にのせて、とっておかれた。
人々はみんないっしょになって、べつにあわてもせず、おちついて小銃やカービン銃に弾をこめた。アンジョーラは防塞のそとに三人の見張りをだした。
このように防塞をきずき、部署をさだめ、銃に弾をこめ、見張りをだして、彼らは待ちうけていた。
すっかり夜になってしまっても、なにごともおこらなかった。ただ、漠然としたどよめきがきこえ、ときどき小銃の響きがしたが、それもめったになく、そのうえ遠く耳につかないほどだった。このようにながびくのは、政府のほうで、そのあいだを利用して兵力をあつめている|しるし《ヽヽヽ》だった。いまやこの五十人の者は、六万の兵を待っていたのである。
アンジョーラは、恐ろしいことがこれからおころうというとき、どんな強い心の者をも襲う、あの一種のいらだたしさを感じていた。彼はガヴローシュをさがしにいった。ガヴローシュは階下《した》の広間にいて、テーブルの上にちらかっている火薬で、勘定台《かんじょうだい》の上に置かれた二本のろうそくの弱い光りをうけて弾薬をつくっていた。
ガヴローシュはそのとき、あることに非常に気をとられていた。それは弾薬のほうへではなく、べつのほうに。つまり、ビエット街で列にくわわってきた男が、階下の広間にはいってきて、一番うす暗いテーブルのところに坐ったことだった。その男は立派な歩兵銃を手にいれ、それを両膝のあいだに持っていた。ガヴローシュは、つい、さっきまでは、ほかのたくさんのおもしろいことに気をとられて、その男には全然眼もとめていなかったのである。
しかし今、男が部屋にはいってきたとき、ガヴローシュはふとその銃の立派なのに感心して、機械的に眼をやった。それから、男が腰をおろしたとき、ガヴローシュは突然立ちあがった。もしそれより前に男の様子をそっと見ていたら、彼が特別の注意をもって防塞の中や、暴徒たちのあいだを観察しているのが見られたはずである。しかし、部屋の中にはいってきてからは、彼はなにか深く考えこんで、もう周囲でおこなわれていることをすこしも見ていないようだった。浮浪《ふろう》少年は、その考えにふけっている男に近より、眠っている者をさますのをおそれでもするかのように爪先《つまさき》で、そのまわりを歩きはじめた。アンジョーラがやってきた。
「お前は小さくて人目につかないから」とアンジョーラはいった。「防塞からでて、人家にそってしのんでゆき、方々をすこし見まわって、どんな様子だかぼくに知らせてくれ」
ガヴローシュは、すっくと身をのばした。
「小僧もなにかの役にはたつんだね。いいよ。いってこよう。だがね、小僧には安心できても、大僧《おおぞう》には安心できねえよ」
そしてガヴローシュは、頭をあげ、声をひそめ、ビエット街ではいってきた男をさしながらいいそえた。
「あの大僧がわかるかい」
「それがどうした?」
「あいつは、まわし者だよ」
「たしかか?」
「半月ほどまえに、おれがロアイヤル橋のてすりで涼んでると、耳をつかまえてひきおろしたやつだ」
アンジョーラはすぐに浮浪少年のそばを去り、むこうにいたひとりの酒樽|人足《にんそく》にごくひくい声で、ふたことみことささやいた。その労働者は部屋からでていったが、またすぐに三人の仲間をつれてはいってきた。そして肩幅のひろい四人の人夫は、ビエット街からきた男が肘《ひじ》でよりかかっているテーブルのうしろに、気づかれないようにそっとならんだ。彼らは明らかに、いまにもその男にとびかかりそうな姿勢をとった。
そのときアンジョーラは、男に近づいていってたずねた。
「きみは誰だ?」
その突然の問いに、男ははっとして顔をあげた。彼はアンジョーラのすみきった瞳《ひとみ》のおくをのぞきこんで、その考えを読みとったらしかった。そして軽蔑したように、力づよい、決然たる微笑をうかべ、傲然《ごうぜん》とした、いかめしい調子で答えた。
「わかってる……そのとおりだ!」
「きみはスパイなのか」
「政府の役人だ」
「名前は?」
「ジャヴェル」
アンジョーラは四人の者に合図をした。するとたちまち、ふりかえる間《ま》もなく、ジャヴェルは首筋をつかまれて投げたおされ、しばりあげられ、身体を検査された。
彼は二枚のガラスのあいだに|のり《ヽヽ》づけにされた、小さな円いカードを一枚もっていた。その一面には、フランスの紋章と「監視と警戒」という銘《ヽヽ》がついており、他の面には、「警視ジャヴェル 五十二才」と書いてあった。
そのほかに、封筒にはいっている一枚の紙があった。アンジョーラはそれをひらいて、警視総監の手で書かれた、つぎの数行を読んだ。
[#ここから1字下げ]
警視ジャヴェルは、その政治上の任務をはたしたうえは、ただちに特殊の監視をおこなって、セーヌ右岸イエナ橋付近の河岸における悪漢どもの挙動をたしかむべし。
[#ここで字下げ終わり]
身体をさがしおわると、人々はジャヴェルをひきおこし、両腕をうしろ手にしばりあげ、柱にゆわえつけた。
ジャヴェルはその間、声ひとつたてなかったので、まわりにいた者たちが気がついた時には、もうすべてが終っていた。そしてジャヴェルが柱にしばりつけられたのを見て、ふたつの防塞にちらばっていた人々は、そこにかけつけてきた。
ジャヴェルは柱に身動きもできないほど縄でまきつけられていたが、かつて嘘《うそ》をいったことのない男にふさわしい、勇敢な落ちついた様子で頭をあげていた。
「こいつはスパイだ」とアンジョーラはいった。そして彼はジャヴェルのほうをむいた。「防塞がおちる十分前にきみを銃殺してやる」
ジャヴェルは、傲然《ごうぜん》たる調子でいいかえした。
「なぜすぐにしない?」
「火薬を倹約するためだ」
「では刃物でやったらどうだ」
「スパイ」と美男子のアンジョーラはいった。「われわれは審判者だ、屠殺者《とさつしゃ》ではない」
それから彼はガヴローシュをよんだ。
「おまえは自分の用をしないか。ぼくがいいつけたことをやってこい」
「いまいくよ」とガヴローシュは叫んだ。
「ところで、おれにあいつの銃をおくれよ」そしてまたつけくわえた。「やっこさんのほうはきみにあげるが、おれは道具のほうがほしいんだ」
浮浪少年は挙手《きょしゅ》の礼をして、大きいほうの防塞の切れ目を、よろこんで出ていった。
三
シャンヴルリー街の防塞ヘマリユスをよんだうす暗がりのなかの声は、彼にはまるで宿命のように思われた。彼は死をのぞんでいたが、その機会がいまあたえられたのである。彼は墓の扉をたたいていたが、闇のなかの手が、いまや彼にその鍵をあたえた。マリユスは、いままでにいくどとなく自分をとおしてくれた鉄柵の鉄棒をひらき、庭から出て、そしていった。「いこう!」
悲しみのために心はみだれ、もはや頭の中にはなにひとつ確固たるものをも感ぜず、青春と愛と歓喜とのうちに二カ月をすごしたあと、いまや運命をすこしも受けいれることもできず、絶望からくる夢想に一時に圧倒され、彼はもう、ただひとつの望みしかもっていなかった、すなわち、すみやかにいっさいをおえることだった。
彼は足早やにあるきだした。ジャヴェルがあたえた二つのピストルを持っていたので、つごうよく武装していたわけである。
まだ、なにごともおこってはいなかった。サン・メリーの会堂で十時がなった。アンジョーラとコンブフェールとは、カービン銃を手にして、大きいほうの防塞の切れ目のそばに坐っていた。彼らはひとことも口をきかず、かすかな、遠くの軍隊の行進の足音をも聞きもらすまいとして、じっと耳をすましていた。
突然、そのしんとした静けさのうちに、サンドゥニ街からくるらしい、ほがらかな若い快活な声がきこえてきた。
「ガヴローシュだ」とアンジョーラはいった。
「われわれに合図をしているんだ」とコンブフェールはいった。
かけ足の音が、ひっそりした街路におこって、軽業師《かるわざし》のようにすばしこい小男が乗合馬車の上によじのぼったかと思うまに、息をきらしているガヴローシュが防塞の中にとびこんできて、いった。
「銃をくれ! やってきたぞ」
彼はジャヴェルの銃をとった。
ふたりの見張りも、ほとんどガヴローシュと同時にもどってきた。
みんなはそれぞれ戦闘配置についた。
アンジョーラをはじめ、すべてで四十三人の同志は、大きいほうの防塞の中にひざまずき、砦の頂上とすれすれに頭をだし、銃眼のようにして敷石の上に銃身をさだめ、注意をこらし、口をつぐんで、すぐにも発射せんと待ちかまえていた。
数分がすぎさった。それから歩調をそろえた、おもおもしい大勢の足音が、しだいに近づいてきた。
なおすこしの余裕があった。両方とも待っているかのようだった。と、突然、その闇の奥から、ひとつの声が叫んだ。
「味方か?」
と、同時に、銃をおろす音がきこえた。
アンジョーラは、なりひびく傲然《ごうぜん》たる調子で答えた。
「フランス革命」
「打て!」と声はいった。
光りが、街路の人家の正面を、ぱっと赤くそめた。
おそるべき爆発が防塞の上におちかかった。赤旗はたおれた。その一斉《いっせい》射撃はものすごく、赤旗の竿――乗合馬車の梶棒《かじぼう》のさきを、打ちおってしまった。また人家の軒にはねかえった弾丸は防塞のなかにながれてきて、数名の者を傷つけた。
その第一回の一斉射撃は、まったく人の心胆《しんたん》をさむからしめるものがあった。攻撃力は激烈《げきれつ》で、むこうには、少なくとも一個連隊くらいはいそうだった。
「諸君」とクールフェーラックはさけんだ。「火薬を|むだ《ヽヽ》にするな。敵がこの街路にはいってくるのをまって、応戦するんだ」
「そしてなによりも」とアンジョーラはいった。「軍旗をもう一度、立てることだ」
彼はちょうど、自分の足もとにおちた赤旗を拾いあげた。
そとには、銃身の中にいれる槊杖《さくじょう》〔弾薬を銃身の底に突き入れるに用いるもの〕の音がきこえていた。軍隊はふたたび銃に弾をこめていたのだった。
アンジョーラはまたいった。
「勇気のある者はいないか。防塞の上に軍旗を立ててくる者はいないか」
答えはなかった。まさしく敵が再び銃をかまえてる瞬間に、防塞の上にあがることは、ただ死を意味するだけだった。
彼はくりかえした。
「誰もいないか」
ひとりの老人が、まっすぐにアンジョーラのほうへ進んでいった。暴徒たちはふかい尊敬の気持ちをもって、その前に途《みち》をひらいた。老人は、ぼうぜんとして、うしろにひかえてるアンジョーラの手から、軍旗をうばいとった。この老人は、頭をうちふり、しかもしっかりとした足どりで、防塞の中につけられた敷石の段をゆっくりとあがりはじめた。いかにも痛烈な、壮大な光景だった。周囲の人々はさけんだ。「脱帽!」一段々々とあがってゆく彼の姿は、恐ろしい光景だった。その白い頭髪、深くしわのよった顔、はげあがった大きな額《ひたい》、深くくぼんだ眼、おどろいたようなひらいた口、赤旗をささげている老いさらばえた腕、それが闇のなかからあらわれて、たいまつのまっ赤な光りのなかに大きくてらしだされた。
しいんと静まりかえった。
その静けさのなかに、老人は赤旗をふってさけんだ。
「革命万歳! 共和万歳! 友愛、平等、そして死よ!」
防塞のなかにいた人々は、いそいで祈祷をする司祭のささやきに似たある低い、早い言葉をきいた。それはおそらく、街路の先端で規定どおりの勧告をおこなってる警部の声だった。
それから、「味方か」とまえにさけんだ、おなじはげしい声がまたさけんだ。
「おりろ!」
瞳には心みだれた、いたましい焔がかがやいており、蒼《あお》ざめたあらあらしい様子をした老人は、頭の上に軍旗をかざしてくりかえした。
「共和万歳!」
「打て!」と声はいった。
榴霰弾《りゅうさんだん》のような第二回の一斉射撃が、防塞のうえに落ちかかった。
老人は膝をついたが、また立ちあがり、軍旗を手からおとし、腕をくんで、ながながとちょうど一枚の板のように、うしろざまにあおむけに敷石の上に倒れた。
血潮は彼の下にながれた。色をうしなった、悲しげな、年老いた顔は、空をながめているようだった。
自分の身をまもることを忘れさせる人間以上のある感動に、暴徒たちはとらえられた。彼らは恐懼《きょうく》の念をもってその死骸のまわりに集まった。
クールフェーラックはアンジョーラの耳に口をよせてささやいた。
「これはきみにだけの話だぜ、みんなの熱誠をさましたくないからね。あの老人をぼくは知ってる。マブーフ老人というんだ。無能な好人物だったんだがな。あの頭をみたまえ」
「頭は無能でも、心はブルータスだ」とアンジョーラは答えた。
それから彼は声をあげた。
「諸君、われわれはみんな、生ける父をまもるかのようにこの死せる老人をまもろうではないか。そして、われわれのうちに彼があることによって、防塞を難攻不落のものとしようではないか!」
しずんだ、力づよい賛成のささやきが、その言葉につづいておこった。
アンジョーラは身をかがめ、老人の頭をもちあげ、その額に唇をあてた。それから彼は死体の両腕をのばし、注意しながら、上衣をぬがせ、血のにじんだ多くの穴をみんなにしめしながらいった。
「いまは、これこそわれわれの軍旗である」
四
マブーフ老人の死体の上には、居酒屋のかみさんの長い、黒い肩掛がかぶせられた。六人の男の銃で担架《たんか》をつくり、それに死体をのせ、おごそかに居酒屋の階下の広間の大きなテーブルの上に運んでいった。
それらの人々は、この神聖な仕事に気をとられて、もう危険な場所にいることも忘れてしまっていた。
そのあいだ少年ガヴローシュは、ただひとり部署をさらずに見張りをしていたが、数名の男がひそかに防塞に近づいてくるらしいのをみて、突然、彼は叫んだ。
「きをつけろ!」
クールフェーラック、アンジョーラ、その他の者が、どっと居酒屋から出てきた。みると、銃剣の密集した|ひらめき《ヽヽヽヽ》が防塞の上におしよせていた。背の高い市民兵が侵入してきたのだ。あるいは乗合馬車をまたぎ越え、あるいは防塞の切れ目からはいりこんで、逃げもしないで、しずかに後退していく浮浪少年をおいつめていた。
危機一髪の場合だった。もう一秒おくれたら、防塞はうばわれていたにちがいない。
バオレルはまっさきにはいりこんできた市民兵におどりかかり、カービン銃を突きつけて、一発のもとにそれを殺した。しかし彼は、つぎの市民兵から銃剣で殺された。またクールフェーラックも、もうひとりの兵にうち倒されて、「誰かきてくれ!」とさけんでいた。兵士のうちでも巨人のような一番大きな男が、銃剣をつきだし、ガヴローシュをめがけて進んできた。浮浪少年はその小さな腕にジャヴェルの大きな銃をもち、決然とその大jをねらい、引金を引いた。しかしそれは発火しなかった。ジャヴェルは銃に弾薬をこめていなかったのだ。市民兵は大笑いし、銃剣を彼の上に突きつけた。
しかるにその銃剣がガヴローシュの身にふれるまえに、銃は兵士の手から落ちた。一発の弾が飛んできて、彼の額のまんなかをつらぬき、彼をあお向きにうち倒した。また第二の弾は、クールフェーラックに襲いかかっていた兵士の胸の中央に命中して、それを敷石の上にたおした。
それは、ちょうど防塞の中にはいってきたマリユスのしわざだった。
ところが、その銃火と撃たれた兵士たちの叫びをきいて、襲撃兵たちがまた砦をよじのぼってきた。いまやその頂上には、市民兵や戦列兵や郊外の国民兵たちが、銃を手にし半身をのりだして、むらがっているのがみられた。彼らはすでにその頂上を三分の二以上占領していたが、なにか落し穴を恐れて躊躇《ちゅうちょ》しているかのように、中へはとびこんでこなかった。そして獅子のほら穴でものぞくように、暗い防塞の中をのぞきこんでいた。
マリユスはもはや武器を持っていなかった。彼は発射しおわったピストルを投げすてた。しかしふと、居酒屋の広間の入口にある火薬の樽を見つけた。
彼がそのほうに眼をつけて、なかば身をまわしたとき、一人の兵士が彼をねらった。そしていよいよマリユスの上にねらいをさだめたとき、一本の手がその銃口を押えた。それはとびだしてきたひとりの男のしわざで、ビロードのズボンをはいた年若い労働者ふうの男だった。弾は発射され、その手をつらぬき、その男の身体のどこかにもあたったらしかったが、しかしマリユスにはあたらなかった。すべてそれらのことは、煙の中でちらっとわかっただけで、はっきり見えたのではない。階下の広間にはいったマリユスも、ほとんど気づかなかったほどだった。けれども彼は、自分の上にむけられた銃口と、それをふさいだ手とだけは、ぼんやり認めることができ、また銃が発射される音だけはきくことができた。しかしかかる際にあっては、一つのことだけに気をとめることはできない。
叛徒たちは不意を打たれたが、なおふみとどまり、隊伍をととのえた。
アンジョーラは叫んだ。
「待て! むやみに撃つな!」
実際、彼らは最初の混乱のうちに同志打ちをしないとも限らなかった。多くの者は、二階の窓や屋根裏の窓にのぼってゆき、そこから襲撃を見おろしていた。また、もっとも決然たる者たちは、アンジョーラやクールフェーラックとともに、傲然《ごうぜん》と人家を背にして、防塞の上にならんでいる兵士や民兵の面前に身をさらした。
両軍は互いに銃をさしつけてねらい合い、互いに話しあえるほど間近に対立した。かくてまさに火花が散らんとしたとき、ひとりの将校が、剣をさしだしていった。
「降伏しろ!」
「撃て!」とアンジョーラはいった。
両方から同時に、一斉射撃がおこった。そしてすべては煙につつまれてしまった。
煙が散ってからながめると、両軍とも人数がまばらになっていたけれども、なお同じ位置にふみとどまって、再び銃に弾をこめていた。
すると突然、ひとつの声が響き渡った。
「退《ひ》け、防塞を爆発させるぞ!」
すべての者はその声のほうをふりむいた。
マリユスは広間にはいり、そこにある火薬の樽をとりあげ、それから射撃の煙と砦のうちにたちこめる暗い靄《もや》とに乗じて、防塞にそってしのんでゆき、敷石でかこったたいまつがともされているところまで達したのだった。そしてたいまつを引きぬき、そこに火薬の樽をおき、積みかさなった敷石をその下に押しやると、すぐに樽は彼の思うままに底がぬけた。それだけのことを、マリユスはあっという間にしてしまった。みんなは防塞の一端に集まって、ぼうぜんとしてマリユスをながめた。マリユスは敷石の上をふんまえ、たいまつを手にし、最後の決心に輝いたおごそかな顔をあげ、こわれた火薬の樽がみえている恐るべき堆積物《たいせきぶつ》のほうへたいまつの焔をさしつけ、人を慄然《りつぜん》とさせる叫びを発した。
「退け、防塞を爆発させるぞ!」
「爆発させてみろ!」とひとりの軍曹がいった。「きさまもいっしょだぞ!」
マリユスは答えた。
「もちろん、おれもいっしょだ」
そして彼はたいまつを火薬の樽に近づけた。
しかしその時にはもう、砦の上には誰もいなかった。襲撃軍は死者と負傷者とをすてさったまま、列をみだし混乱して街路の先端に退却し、再び闇夜のうちにみえなくなってしまった。
防塞は回復された。
五
こういう戦いの特色は、防塞はほとんど常に正面からばかり攻撃されることで、また、たいてい攻撃者たちは、あるいは伏兵を恐れてか、あるいは曲りくねった街路に迷いこむことを気づかってか、まわり道をするのをさける。それで叛徒たちの注意もすべて大きい防塞のほうへむけられていた。けれどもマリユスは、小さい防塞のことを考えて、そのほうへいってみた。そこには誰もいなくて、ただ敷石の間にまたたいてる豆ランプの光りだけが番をしていた。あたりはひっそりと静まりかえっていた。
マリユスが視察をおえてひっかえしてこようとしたとき、闇の中から自分の名を呼ぶ弱々しい声がきこえた。
「マリユスさん!」
彼は身をふるわせた。それは聞きおぼえのある声で、二時間前にプリューメ街の鉄柵から呼びかけた声だった。
ただその声も、いまはわずかに息の音《ね》くらいの弱さになっていた。
マリユスはあたりを見まわしたが、誰の姿も見えなかった。
彼は自分の気の迷いだと思った。そして防塞の奥まった場所からでようとして一歩あるいた。
「マリユスさん!」とまた声がした。
こんどはもう疑う余地はなかった。彼ははっきりとその声を耳にした。しかし見まわしてみたが、なにも見えなかった。
「あなたの足のところです」その声はいった。
身をかがめてみると、ひとつの影が自分のほうへ寄ってきていた。それは敷石の上を這《は》っていた。彼に呼びかけたのはその影だった。
豆ランプの光りにすかしてみると、だぶだぶの上衣と、裂《さ》けた粗末な|ビロード《ヽヽヽヽ》のズボンと、靴もはいていない足と、血潮のながれみたいなものとが、眼にはいった。やっと、それと見わけられるくらいの蒼《あお》白い顔が、彼のほうへ伸びあがっていった。
「あなた、あたしがわかって?」
「いいや」
「エポニーヌよ」
マリユスは急に身をかがめた。実際それはあの不幸な娘だった。彼女は男の姿をしていたのだった。
「どうしてここへきたんだ? なにをしてたんだ?」
「あたしもう死ぬわ」と彼女はいった。
マリユスはおどりあがって叫んだ。
「傷をおってるね! 待て、部屋の中につれてってやろう。手当てをしてもらうといい。傷は重いのか。どういうふうにかかえたら痛くないか? どこが痛む? だがいったいなにしにここへきたんだ?」
そして彼は、腕を彼女の下にいれてたすけおこそうとした。
そのとたん、彼は彼女の手にふれた。
彼女は弱い声をたてた。
「痛かったかい?」とマリユスはたずねた。
「ええ、すこし」
「でも手にさわっただけだが」
彼女は彼のほうへ手をあげた。見ると手のまん中に黒い穴があいていた。
「手をどうしたんだ」と彼はいった。
「突きとおされたのよ」
「突きとおされた!」
「ええ」
「なんで?」
「弾《たま》で」
「どうして?」
「あなたをねらってた鉄砲があったのを、あなたは知ってた?」
「知ってた、それからその銃口をおさえた手も」
「あたしの手よ」
マリユスは愕然《がくぜん》とした。
「なんて乱暴な! かわいそうに! だが、まあよかった、それだけのことなら、なんでもない。ぼくにまかせるがいい、寝床につれてってやるから。ほうたいをしてもらってやろう。手をつらぬかれたくらいで死にはしない」
彼女はかすかにいった。
「弾は手を突きとおして、背中へぬけたのよ。ここからあたしを外へつれてっても駄目。あたしほんとに、お医者よりあなたの看護のほうがいいの。あたしのそばに、この石の上に坐ってくださいな」
彼はその言葉にしたがった。彼女は彼の膝の上に頭をのせ、その顔から眼をそらしていった。
「ああ、ありがたい。ほんとうによくなった。もうこれであたし苦しくなんかないわ」
彼女はちょっと口をつぐんだ。それからようやく顔をめぐらしてマリユスをながめた。
「ねえ、マリユスさん、あなたがあの庭にはいるのがあたしはいやだったのよ。ばかげてるわね。あの家をあなたに教えたのはあたしだったもの。それにまたあたしはこう考えるほうが本当だったかも知れないわ、あなたのような若い方は……」
彼女は言葉をきった。そしてたしかに頭の中にあった暗い思いを追いやり、痛ましい微笑を浮かべながらいった。
「あなた、あたしを不器量《ぶきりょう》な女だと思ったでしょう、そうじゃなくて?」
彼女はつづけていった。
「ねえ、あなたはもう助からないわ! いまとなっては誰も防塞から出られはしないわ。あなたをここへ呼んだのはあたしよ。あなたはどうせ間もなく死ぬにきまってるわ。あたしそれをちゃんと知ってるの。だけど、人があなたをねらうのを見たとき、あたしはその鉄砲の口に手をあてたわ。ほんとにへんね。でも、あなたよりさきに死にたかったからよ。弾を受けたとき、あたしはここまで這ってきたの。誰にも見つからず、誰からも助けられなかった。あたしあなたを待ってたわ。来ないのかしら、とも思ったの。ああ、あたしは上衣をかみしめたり、どんなに苦しんだでしょう。でもいまはもうなんともない。ああ、あたしほんとうにうれしい」
彼女の様子は、悲痛なものだった。裂《さ》けた上衣からは、あらわなのどもとがみえていた。口をききながら打ちぬかれた手を胸にあてていたが、そこにも一つ穴があいていて、刻々に血潮が流れでていた。
マリユスはそのあわれな女を、深い憐憫《れんびん》の惰をこめて見まもっていた。
「ああ」と突然彼女はいった。「またはじまった、息がつまりそう!」
彼女は上衣をつかんで歯でかみしめた。その両膝は敷石の上に固くなっていた。
その時、少年ガヴローシュの若々しい声が防塞の中にひびいた。当時よくはやっていた小唄を快活にうたっていた。
エポニーヌは身をおこして耳をすました。それからつぶやいた。
「そうだ」
そしてマリユスのほうをむいていった。
「弟がきてるのよ。見つかっては困るわ。文句をいうにきまってるから」
「弟だって?」とマリユスはききかえした。彼は心の底で、父から遺言されたテナルディエ一家の者に対する義務のことを考えていたのだった。「弟というのはどの男だ」
「あの子供よ」
「唄をうたってるあの子供?」
「ええ」
マリユスは身をうごかした。
「ああ、いってはいや!」と彼女はいった。「もうあたし長くはもたないから」
彼女はほとんど半身を起こしていた。そしてできるだけ自分の顔をマリユスの顔に近くよせて、異様な表情をしていった。
「聞いてくださいな、あたしあなたをだますのはきらいだから。ポケットの中に、あなた宛の手紙を持ってるのよ。きのうからよ。郵便箱に入れてくれ、とたのまれたのを取っておいたのよ。あなたにとどくのがいやだったから。だけど、あとでまた会うとき、あなたからおこられるかも知れないと思ったの。また会えるのね、あの世で。手紙をとってくださいな」
彼女は穴のあいた手で、痙攣《けいれん》的にマリユスの手をつかんだ。もう痛みも感じていないらしかった。そしてマリユスの手を自分の上衣のポケットにさし入れさせた。マリユスはそこに手紙があるのを感じた。
「とってください」と彼女はいった。
マリユスは手紙をとった。
彼女は安心し、満足した様子だった。
「さあそのかわり、約束してくださいな……」
そして彼女は言葉をきった。
「なにを?」とマリユスはたずねた。
「約束してくださいな!」
「ああ、約束するよ」
「あたしが死んだら、あたしの額に接吻《キス》してやると、約束してくださいな……死んでもわかるでしょうから」
彼女は頭をマリユスの膝の上におとし、まぶたをとじた。エポニーヌはじっと動かなかった。もう永久に眠ったのだとマリユスが思った瞬間、彼女はしずかに、死の深い影がやどっている眼を見ひらいた。そして他界からきたかと思われるようなやさしい調子で彼にいった。
「そして、ねえ、マリユスさん、あたし、いくらかあなたを慕《した》ってたように思うの」
彼女はもう一度ほほえもうとした。だが、そのまま息絶えてしまった。
六
マリユスは約束をまもった。彼は冷たい汗がにじんでる蒼《あお》ざめた額に唇をあてた。それはコゼットに不実な行いではなかった。不幸な魂に対する心からのやさしいわかれだった。
彼はエポニーヌから手紙を受けとったとき、思わず身をふるわせた。彼はそくざにその内容の重大なことを感じた。そして早く読んでみたくてたまらなかった。不運な娘が眼をとじるやいなやマリユスは手紙をひらこうと思った。彼は娘の体をしずかに下におき、そしてたち去った。なんとなく、その死骸の前で手紙を読んではいけないような気がしたのだった。
彼は居酒屋の階下の部屋にともっているろうそくに近よった。手紙は小さく折りたたまれたもので、女らしいやさしい注意で封がしてあった。宛名は女の筆跡でこう書かれていた。
[#ここから1字下げ]
ヴェールリー街十六番地、クールフェーラック様方、マリユス・ポンメルシー様へ
[#ここで字下げ終わり]
彼は封をきって読みくだした。
[#ここから1字下げ]
いとしいお方、悲しくも父はすぐに出発すると申します。わたくしどもは今晩、オンム・アルメ街七番地にまいります。一週間すればもうロンドンヘいっておりますでしょう――六月四日、コゼット
[#ここで字下げ終わり]
二人の恋は非常に無邪気なもので、マリユスはいままでコゼットの筆跡さえも知らなかった。
ここで、これまでの経過を話しておこう。すべてはエポニーヌのしわざだった。彼女は通りがかりの若い無頼漢と服を取りかえた。男は面白がって女装をし、エポニーヌのほうは男装をした。そして、シャン・ド・マルスの練兵場でジャン・ヴァルジャンに「引っ越せ」という意味ありげな勧告をあたえたのは、彼女だった。ジャン・ヴァルジャンは家にかえりコゼットにいった。
「今晩ここを引き払って、トゥーサンといっしょにオンム・アルメ街にいくんだよ。来週はロンドンにいこう」
コゼットはその意外な打撃をうけて、マリユスにひとこと走り書きをした。しかし、どうやってそれを郵便箱に入れたらいいか、見当がつかなかった。彼女はいままでひとりで外出することがなかったし、またトゥーサンにたのめば、そんなつかいにおどろいて、きっと手紙をフォーシュルヴァン氏に見せるにちがいなかった。そういう心配をしているとき、コゼットは鉄柵から、男装をしているエポニーヌの姿をみつけた。エポニーヌは、たえず表庭のまわりをうろついていた。コゼットはその「若い労働者」を呼びとめ、手紙に五フランつけて渡しながらいった。「この手紙をすぐに宛名の人のところへ持っていってください」
エポニーヌは手紙をポケットの中にしまった。翌日の六月五日に、彼女はクールフェーラックのあとについてゆき、防塞がきずかれる場所をたしかめた。そしてマリユスはまだなんの通知も受けていないし、手紙は自分が横取りしているので、彼はきっと日が暮れると毎晩のようにあいびきの場所へいくにちがいないと考えて、プリューメ街にゆき、そこでマリユスを待ちうけてた。そして、そこで彼を彼の友人たちの名をかりて、防塞にさそいだすつもりだったのである。彼女はマリユスがコゼットのいないのを見いだし、絶望にかられているのをあてにしていたが、その期待ははずれなかった。そして彼女はそのままシャンヴルリー街にもどっていった。そこで彼女がなにをしたかは、読者の見てきたとおりである。
マリユスはいくどとなくコゼットの手紙に唇をあてた。彼女はやはり自分を愛していたのか! 彼はちょっとのあいだ、もう死ななくてもいいという気持がおこった。しかし、つぎに彼はみずからいった。「彼女はいってしまうのだ。父につれられてイギリスにゆくし、わたしの祖父は結婚を承諾しない。悲しい運命はやはり同じことだ」
そして、彼は自分のはたすべきふたつの義務がのこっていることを考えた。ひとつは、コゼットに自分の死を知らせ、最後のわかれをつげること。もひとつは、テナルディエの子であり、エポニーヌの弟であるあのあわれな少年を、いままさにおそいかからんとする切迫《せっぱく》した破滅の淵《ふち》から救うこと。
彼はいまもなお、紙ばさみを身につけていた。コゼットに宛てていくたの思いを書きしるした手帳がはいっていた紙ばさみである。彼はそれから一枚の紙をぬきとり、鉛筆でつぎの数行をかいた。
[#ここから1字下げ]
わたしたちの結婚は不可能です。わたしは祖父に願ったがことわられた。わたしには財産もなく、あなたも同様です。わたしはあなたの家にかけつけたが、あなたはもういなかった。わたしがした誓いをあなたは知っているでしょう。わたしはそれを守るだけです。わたしは死ぬ。わたしはあなたを愛する。これをあなたが読む頃には、わたしの魂はあなたのそばにいて、あなたにほほえんでいるでしょう。
[#ここで字下げ終わり]
その手紙を入れるものがなにもなかったので、彼はただ四つに折って、上につぎの宛名を書きつけた。
[#ここから1字下げ]
オンム・アルメ街七番地、フォーシュルヴァン様方、コゼット・フォーシュルヴァン嬢
[#ここで字下げ終わり]
手紙をたたんでから、彼はちょっと考えこみ、紙ばさみをまたとりだし、それをひらき、そして同じ鉛筆でその第一ページに、つぎの数行を書いた。
[#ここから1字下げ]
私はマリユス・ポンメルシーという者なり。マレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街六番地に住む私の祖父ジルノルマン氏のもとに、私の死骸を送れ。
[#ここで字下げ終わり]
彼はガヴローシュを呼んだ。浮浪少年はマリユスの声をきいて、うれしそうに、また献身的な顔つきをして走ってきた。
「ぼくのために少し用をしてくれないか」
「なんでもするよ」とガヴローシュはいった。「まったくだ、お前がいなかったら、おれはやっつけられてたんだよ」
「この手紙だがね」
「うん」
「これをもって、すぐに防塞を出てくれ。(ガヴローシュは不安そうな様子だったが、こんどは耳をかきはじめた)そしてあすの朝、宛名の人へ、オンム・アルメ街七番地のフォーシュルヴァン様方コゼット嬢へ、それをとどけてくれ」
勇壮な少年は答えた。
「だが、そのあいだに防塞は落ちて、おれはまに合わなくなるだろう」
「防塞は、すべての様子から考えて、夜明けにしか攻撃されない、そしてあすの昼までは陥落しないよ」
襲撃軍が、あらたに防塞にあたえた猶予《ゆうよ》の時間は、実際にながびいていた。そういう中断は夜戦にありがちなことで、さらに激しい襲撃がつづいて起こるものだ。
「では」とガヴローシュはいった。「あすの朝、その手紙をもってでることにしたら?」
「それではまに合わない。防塞はたぶん包囲され、街路にはすべて衛兵がおかれて、もうでられはしない。いますぐいってくれ」
ガヴローシュは答えにつまって、こまったように耳をかきながら決心しかねて立っていた。すると突然、彼はいつもの小鳥のようなすばやさで手紙をひったくった。
「いいよ」と彼はいった。
そして彼は、モンデトゥール小路へかけだしていった。
ガヴローシュはある考えが浮かんだので、それでやっと心がきまったが、マリユスに反対されはしないかと気づかって、口にはださなかった。
その考えというのは、こういうことだった。
「まだ|せいぜい《ヽヽヽヽ》十二時だ。オンム・アルメ街は遠くない。いまからすぐに手紙をもっていって、そのまま帰ってくればまに合うだろう」
七
この六月五日の前日、ジャン・ヴァルジャンはコゼットとトゥーサンとをともなって、オンム・アルメ街に引きうつった。そこで大事件が彼を待ちうけていた。
コゼットはプリューメ街を去ることに多少の異議をとなえてみた。二人がいっしょに暮すようになってからはじめて、コゼットとの意志とジャン・ヴァルジャンの意志とは、互いにはっきりと異なって、衝突はしなくとも矛盾してきた。一方に異議があり、一方に頑強があった。見知らぬ男がジャン・ヴァルジャンに投げあたえた「引っ越せ」という突然の忠告は、非常に彼をおびやかし、頑固にさせた。彼は官憲にかぎ出され、跡をつけられてると思った。コゼットも譲歩しなければならなかった。
ふたりとも、口をきっと結び、一言もしゃべらず、自分の考えにふけって、オンム・アルメ街に到着した。ジャン・ヴァルジャンはコゼットの悲しみに気づかないほど不安であり、コゼットはジャン・ヴァルジャンの不安に気づかないほど悲しんでいた。
ほとんど逃げだすようなプリューメ街からの引越しに、ジャン・ヴァルジャンがただひとつ身に持ってたものは、コゼットが彼に|つき物《ヽヽヽ》だといっていた香りのいい小さな鞄だけだった。
トゥーサンは、わずかな衣類や多少の化粧品を包みにして持つことを許され、コゼットのほうは、ただ文房具と吸取紙とだけをもっていた。
オンム・アルメ街についたときには、もうすっかり夜になっていた。
みんなは、だまったまま床についた。
ジャン・ヴァルジャンはやっと安心してその晩はよく眠れた。|夜は助言をあたえる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というが、夜は心をやわらげるとつけくわえることもできる。彼は翌朝眼をさますと、ほとんど心が快活になっていた。食堂はごく粗末で、古い円テーブルがひとつ、上にななめに鏡がたててある低い食器棚がひとつ、破れた肘掛椅子がひとつ、トゥーサンの荷物がいっぱいのせてある椅子が数個、それきりだったが、彼にはそれでも心地よい部屋だと思った。トゥーサンの包みのひとつには、ジャン・ヴァルジャンの国民兵の制服が、すきまから見えていた。
コゼットはトゥーサンにいって自分の部屋にスープを一杯持ってこさせ、晩になるまで姿をみせなかった。
五時頃、トゥーサンは食卓の上に鶏の冷肉をだした。コゼットも父にわるい気がしたので、そこにでてはきたが、ただちらっと見ただけで食べはしなかった。
それから、コゼットはなお頭痛がやまないといって、ジャン・ヴァルジャンにわかれの言葉をかけ、自分の寝室にとじこもった。ジャン・ヴァルジャンはうまそうに鶏《とり》を食べ、テーブルの上に肘をつき、しだいに心が平静になって、ふたたび身の安全を信じることができた。
その質素な食事をしてるあいだに、トゥーサンがどもりながら二、三度くり返していう言葉を、彼はぼんやりと耳にきいていた。
「旦那さま、さわぎがもちあがっているのでございますよ。パリで戦いが始まっているのでございます」
しかし彼は内心の種々な思いにふけって、彼女のいうことにすこしも注意をむけなかった。
彼は立ちあがって、窓から扉へ、扉から窓へと歩きはじめたが、ますます心が落ち着いてきた。
そして静かに部屋の中を歩きまわっているとき、突然異様なものが眼にふれた。
食器棚の上にななめに立ててある鏡の中に、つぎの数行を彼は正面に見いだし、はっきりと、その文字を読んだ。
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いとしいお方、悲しくも父はすぐに出発すると申します。わたくしどもは今晩、オンム・アルメ街七番地にまいります。一週間すればもうロンドンヘいっておりますでしょう──六月四日、コゼット
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ジャン・ヴァルジャンははっとして立ちどまった。
コゼットはこの家について、吸取紙を食器棚の上の鏡の前においたまま、心の苦しみに沈みこんで、それを忘れてしまっていた。前日プリューメ街を通る若い労働者にたのんだあの数行の文句をかき、乾かすために押しあてた、ちょうどその面がひらいているのもそのままにして気づかなかったのだ。文字はすっかり吸取紙の上に残っていた。
鏡はそれをうつしだしていたのである。
ジャン・ヴァルジャンは前日コゼットがマリユスに書いた文字をそのまま眼前にみた。
それは明白な、またおそろしいことだった。
ジャン・ヴァルジャンはよろめいて、食器棚のそばにある古い肘掛椅子に倒れかかり、頭をたれ、眼を白くし、心はくらく乱《みだ》れた。今こそ、なにもかもはっきりした。コゼットの悲しみもみんなこのためか、コゼットはそれを誰かに宛てて書いたのだ……
悲しいことであるが、そのときマリユスはまだコゼットの手紙を受けとっていなかった。偶然の機会は、それをマリユスにわたす前に不実にもジャン・ヴァルジャンにわたしてしまったのだ。
ジャン・ヴァルジャンはきょうまで、いまだかつていかなる試練にもくじけたことはなかった。彼はいくたの恐るべき試みに会ってきた。あらゆる不運の途をことごとくとおってきた。凶猛《きょうもう》な運命は、あらゆる追求と社会的迫害とをもって、彼を目ざしておそいかかってきた。しかし彼はいかなるものの前にもしりぞかず屈しなかった。やむをえざる場合には、いかなる難事をもあまんじてうけた。回復しえた犯すべからざる人権をも犠牲にし、自由をもすて、おのれの首をも危険にさらし、すべてをうしない、すべての苦しみをなめ、しかも常に打算をすて私念をさり、時としては殉教《じゅんきょう》者と同じだと思われるくらい自分自身をかえりみなかった。そして不運のあらゆる襲撃に鍛えられた彼の本心は、永久に難攻不落にみえた。しかしいま、彼の内心をのぞいてみると、それが弱っていることを認めないわけにはいかない。
というのは、宿命のながい試練の前に、彼がうけたあらゆる拷問の中で、こんどのものこそもっとも恐るべきものだったからだ。かつて彼はこのように激しい責め道具にかかったことはなかった。彼は内心のあらゆる感受性が異様に痙攣《けいれん》するのを感じた。いまだ知らない神経がつみとられるのを感じた。最後の試練は、いなむしろ唯一の試練は、愛する者をうしなうことだ。
あわれな、老いたるジャン・ヴァルジャンは、たしかにただ普通の父とおなじ愛情でコゼットを愛していた。しかし、その父たる愛情のうちには生涯の孤独からくるあらゆる愛情がまじっていた。彼はコゼットを娘として愛し、母として愛し、妹として愛していた。また彼は、かつて情婦をもたず、妻をももたなかったので、そしてまた自然はいかなる支払い、拒絶をもゆるさない債権者のごときものであるから、あらゆる感情のうちで、もっとも根ぶかいあの感情もまた、彼の他の愛情のうちにまじっていた。しかしそれはただ、漠然たるものであり、無知なるものであり、盲目的に純潔なものであり、無意識的なものであり、天国的な天使的な神聖なものであって、感情というよりむしろ本能であり、本能というよりむしろ、感じにくい、見えにくい、しかも現実なるひとつの牽引《けんいん》の情にすぎなかった。いわゆる恋心というものは、コゼットに対する彼の広大な愛情のうちにあって、ちょうど人跡を絶した暗黒の山岳のうちにあるひと筋の黄金脈のごときものだった。
彼の直覚は迷うことがなかった。前後の事情、二、三の事実、コゼットが時おり顔を赤らめたり蒼《あお》くしたりしたこと、それらを彼はつなぎ合わせていった。「あの男だ」彼は最初の推察から、すでにマリユスを見いだしていた。その名前は知らなかったが、彼は自分の動かしがたい記憶の奥に、リュクサンブールのあの見知らぬ徘徊者を、恋をあさるあのみじめな男を、あの小説的な怠惰者、愚物、卑劣漢をはっきりとみとめた。愛情ぶかい父親をそばにつれた娘のところにきて|ながし眼《ヽヽヽヽ》をおくるということは、ひとつの卑劣なおこないではないか。
再生した彼、自分の魂のため、あれほど多くの努力をしてきた彼ジャン・ヴァルジャンは、事件の底にあの青年がひそんでいることを、じゅうぶんに見てとったあとに、自分の内部をのぞいてみて、そこにひとつの憎悪《ぞうお》をみとめてわれしらずぞっとした。
ジャン・ヴァルジャンが思いにしずんでいるとき、トゥーサンがはいってきた。彼は立ちあがり、そしてたずねた。
「どの方面だか、お前知っているか」
トゥーサンはあっけにとられて、ただこう答えるよりほかはなかった。
「なんでございますか」
ジャン・ヴァルジャンはいった。
「さっきお前は、戦いがはじまってるといったのではなかったかね」
「ああ、そのことでございますか、旦那さま」とトゥーサンは答えた。「サン・メリーのほうでございますよ」
人にはみずから、しらずしらずのうちに、もっとも深い考えの底から発してくる機械的な運動がある。ジャン・ヴァルジャンはたしかに、みずからほとんど気づかずにそういう運動の衝動にかられたのであろう、四、五分たつともう街路に出ていた。
彼は帽子もかぶらず、家の入口にある標石に腰をおろしていた。なにかに耳をすましているようだった。
もう夜になっていた。
八
街路はひっそりとしずまりかえっていた。いそぎ足で家に帰ってゆく不安な市民も二、三人通りかかったが、ほとんどジャン・ヴァルジャンに気づきもしなかった。点灯夫はいつものとおりにやってきて、ちょうど七番地の家の正面にある街灯に火をともし、またたち去っていった。そのとき影のところにいたジャン・ヴァルジャンの姿は、おそらく生きてる人とは思えなかったろう。彼はそこに、戸口の車除けの大石の上に坐って、氷の悪鬼のようにじっとしていた。絶望のうちにも氷結があるものだ。遠く警鐘の響きと漠然とした喧騒《けんそう》の音とがきこえていた。暴動にまじったそれらの鐘の響きのなかに、サン・ポールの大時計が、おごそかにゆっくりと十一時をほうじた。しかし時間の経過はジャン・ヴァルジャンになんらの影響もあたえず、彼は身うごきさえしなかった。
ところがまもなく、一斉《いっせい》射撃の音が突然市場町の方面におこり、つぎにまたさらに激しい一斉射撃の音がおこった。それはおそらく、マリユスによって撃退されたシャンヴルリー街の防塞の攻撃だったろう。夜のしずけさのため、いっそう猛烈にきこえるその二度の射撃の音に、ジャン・ヴァルジャンは身をふるわし、音のしたほうにむいて立ちあがった。しかしつぎにまた彼は、車除けの石の上に腰をおろし、両腕をくみ、頭はまたしずかに胸にたれてしまった。
彼はふたたび暗澹《あんたん》としてひとりごとをはじめた。
突然彼は眼をあげた。街路をだれか歩いていて、その足音がすぐそばにきこえた。街灯の光りにすかしてみると、古文庫館へ通じる街路のほうに威勢のいい年若な蒼《あお》白い顔がみとめられた。
それはオンム・アルメ街にやってきたガヴローシュだった。
ガヴローシュは上のほうをながめて、なにか探してるようだった。彼はジャン・ヴァルジャンの姿を明らかにみたが、なんの注意もはらわなかった。
ガヴローシュは上のほうをながめた後、こんどは下のほうをながめた。彼は爪先《つまさき》で伸びあがって、一階の戸口や窓にさわってみた。けれどもそれらはみんなとざされて、かけがねや錠でしめきってあった。その閉鎖《へいさ》された人家の前面を五、六軒調べたあと、浮浪少年は肩をそびやかし、ひとりごとをもらした。
「畜生め!」
それから彼はまた上のほうを見あげはじめた。
ジャン・ヴァルジャンは一瞬間前までは誰とも口をきかず、返事もしそうにない気持ちに沈んでいたが、いまやその少年になんとかいってみたくてたまらない気持ちになった。
「小僧さん」と彼はいった。「どうかしたのかい」
「腹がすいてるんだ」とガヴローシュはきっぱり答えた。そしてまたいいそえた。「お前だって小僧だ」
ジャン・ヴァルジャンは内ポケットのなかをさぐって、五フラン貨幣をひとつとり出した。
しかしセキレイのようにすぐいろいろなことをするガヴローシュは、もう石をひとつ拾っていた。彼は街灯に注意をむけていた。
「こら」と彼はいった。「まだここに街灯をつけてるのか、規則違犯だぞ。こんなものこわしてしまえ」
そして街灯に石を投げつけた。ガラスは大きな音をたてて地におちた。
街灯ははげしくゆらめいて消えてしまった。街路はにわかに暗くなった。
「これでいい」とガヴローシュはいった。「おいぼれ街路も夜の帽子をかむるがいい」
そして彼はジャン・ヴァルジャンのほうをむいた。
「むこうの端に立ってるあの大きな家はなんというんだい。古文庫館じゃねえのか。あのふとい柱をすこし打ちこわして、防塞をつくるといいなあ」
ジャン・ヴァルジャンはガヴローシュに近よった。
「かわいそうに」と彼は独語するようになかば口の中でいった。「腹がすいてるんだな」
そして彼は少年の手に五フラン貨幣をにぎらせた。
ガヴローシュはその立派な大きな貨幣にびっくりした顔をあげた。闇の中にそれをすかしながめ、白く光ってるのに眩惑《げんわく》された。五フラン貨幣のことは噂《うわさ》に聞いて知っていて、評判だけでもわるい気持ちはしなかった。いま、そのひとつを間近にみて、心をうばわれてしまった。「虎の|やつ《ヽヽ》を見てみるかな」と彼はいった。そして夢中になって、しばらくそれをながめていた。それからジャン・ヴァルジャンのほうにむかって、貨幣をさしだしながら、おごそかにいった。
「おれはな、街灯をこわすほうがすきだ。この恐ろしい獣はかえしてやる。おれを買収しようたってだめだ。虎には五本の爪があっても、おれをひっかくことはできねえんだ」
「お前さんは母親をもってるだろう」ジャン・ヴァルジャンはたずねた。
ガヴローシュは答えた。
「そうさね、きっとお前さんよりかもね」
「では」とジャン・ヴァルジャンはいった。「この金を母親にもっていってやるがいい」
ガヴローシュの心はうごいた。そのうえ彼は、」相手が帽子をかぶっていないのをみて安心の念をおこした。
「なるほど」と彼はいった。「では街灯をこわさせないためでもねえんだな」
「なんでもこわすがいいよ」
「お前はりっぱな男だ」とガヴローシュはいった。
そして彼は五フラン貨幣をポケットにいれた。
彼はますます安心していいだした。
「お前はこの街路の人かい」
「そうだよ。なぜ?」
「七番地ってのはどこだか教えてくれないか」
「七番地になんの用があるのか」
そこで少年は口をつぐんだ。あまりいいすぎはしなかったかとおそれた。彼は頭を爪の先でがりがりかいて、ただこう答えた。
「ああここか」
ある考えがジャン・ヴァルジャンの頭にうかんだ。
「お前さんは、私が待ってる手紙をもってきたのではないのかね」
「お前が?」とガヴローシュはいった。
「お前は女じゃねえや」
「手紙はコゼット嬢へというのではないかね」
「コゼット?」とガヴローシュはつぶやいた。「うん、なんでもそんな名だった」
「では」とジャン・ヴァルジャンはいった。「私がその手紙をとどける役目だ。私にくれ」
「それじゃ、おれが防塞からきたことをお前は知ってるわけだな」
「知ってるとも」とジャン・ヴァルジャンはいった。
ガヴローシュは貨幣をいれたのと別なポケットに手をさしこみ、四つに折った紙をひきだした。
それから彼は挙手の礼をした。
「大事な使いだ」と彼はいった。「仮政府からきた使いだ」
「渡してくれ」とジャン・ヴァルジャンはいった。
ガヴローシュは頭の上に手紙をささげた。
「恋文だと思っちゃいけねえ。宛名は女だが、実は人民へあてたものだ。おれたち男どもは戦いをしてるが、婦人は尊敬する。女をくいものにする獅子《しし》のようなやつがいる上流とはわけがちがうんだ」
「渡してくれ」
「つまり」とガヴローシュはいいつづけた。「お前はりっぱな男だとおれは思うんだ」
「はやく渡せ」
「さあ」
そして彼はジャン・ヴァルジャンに手紙を渡した。
「いそぐんだぜ、爺《じい》さん。嬢《じょう》さんが待ってるからな」
ガヴローシュは、爺さん嬢さんと語呂《ごろ》をかさねたのに自分から満足した。
ジャン・ヴァルジャンはいった。
「返事はアン・メリーへとどけるのかね」
「そんなことがお前にできるもんか」とガヴローシュは叫んだ。「この手紙はシャンヴルリー街の防塞からきたんだ、おれはまたそこに帰っていくんだ。ではしつれい」
そういってガヴローシュはたち去った。
ジャン・ヴァルジャンはマリユスの手紙をもって家にはいった。
彼は獲物をつかんでいる梟《ふくろう》のように暗闇に満足し、手さぐりで階段をあがってゆき、しずかに戸をひらいてまたとざし、なにか物音がきこえはしないかと耳をすまし、コゼットとトゥーサンがたしかに眠ってるらしい様子を見てとり、フュマードの発火|壜《びん》に|つけ木《ヽヽヽ》を三、四本差しいれて、ようやく火をともした。それほど彼の手はふるえていた。それだけのことをする彼の様子は、なにか盗みでもやってるようだった。やっとのことで彼はろうそくに火をともし、テーブルの上に肘《ひじ》をつき、手紙をひらいて読みだした。
感情がたかぶってるときには、人は文字を読みくだすことをしないで、結末にとびこえ、それからはじめにとびかえる。概略、要点をのみ理解する。一点をつかんで、他は消えうせてしまう。コゼットに送ったマリユスのみじかい手紙のうち、ジャン・ヴァルジャンはつぎの数語しか見なかった。
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……わたしは死ぬ……これをあなたが読む頃には、わたしの魂はあなたのそばにあって……
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その数語に、彼ははげしい眩惑《げんわく》を感じ、しばらくの間マリユスの手紙をじっとながめていた。彼は眼の前に、憎むべき男の死という美しい光景を描きだしていた。
彼は内心、よろこびのあまりおそろしい叫びをもらした──万事おわったのだ。結末は思ったより早くやってきた。自分の運命をふさいでいる男は、いまや消えうせようとしている。その男は勝手に、自分の意志でたち去ったのだ。ジャン・ヴァルジャンがちっとも手出しもせず、また少しも罪をおかすことなく、かってに「あの男」は死のうとしていた。おそらく、もうすでに死んでいるかもしれなかった――そこで彼の熱にうかされた心は推理しはじめた──いな、彼はまだ死んではいない。手紙は明らかに、明朝コゼットに読ますように書かれている。十一時と十二時とのあいだにきこえた二度の一斉射撃以来、なんの音もきこえなかった。防塞は夜明けにならなければ本当に攻撃をうけないだろう。しかしいずれにしても同じことだ。「あの男」は、一度防塞にはいった以上、もう助からない。彼は死の歯車のうちに巻きこまれているのだ──ジャン・ヴァルジャンはほっと助かったような気がした。これでふたたびコゼットと、ただふたりきりになるのだ。彼はただその手紙をポケットの中にかくしておきさえすればよかった。コゼットは「あの男」がどうなったか永久に知らないだろう。
「いまはただ万事をその成行きにまかせるだけだ。あの男は、とうていのがれることはできない。まだ死んでいないとしても、やがて死ぬことは確かだ。なんという幸福だろう!」
それだけのことを心の中でいってから、彼は前より陰鬱になった。
それから彼はおりていって、門番をおこした。
一時間ばかりのあと、ジャン・ヴァルジャンはすっかり国民兵の服をつけ、武装して出かけていった。彼は市場町のほうへすすんでいった。
九
アンジョーラは偵察に出かけていた。彼は軒下にそってモンデトゥール小路から出ていった。
ちょっとことわっておくが、暴徒たちはみんな希望にみちていた。たやすく前夜の襲撃を撃退したので、夜明けの襲撃をも軽くみる傾向があった。彼らは自分たちの主旨を確信するとともに、成功をもはやうたがっていなかった。そのうえ援兵もきっとあるにちがいないと思っていた。彼らはそれをあてにしていた。彼らはおとずれようとしている一日を三つの局面にわけて、それに確信をいだいていた。すなわち、朝六時には「あらかじめ手に入れておいた」一個連隊が裏切ってくる、正午にはパリ全市が立ちあがり、日没の頃には革命となる。
サン・メリーの警鐘が数日来たえず鳴りつづけているのがきこえていた。それは、もうひとつの大きな防塞、すなわち、ジャンヌの防塞が、なおもちこたえている証拠だった。
アンジョーラはふたたび姿を現わした。彼は外部の暗黒の中を、ひそかに鷲《わし》のようにとびまわってもどってきた。彼はしばらく両腕を組み、片手を口にあてて、人々のよろこばしい話を聞いていた。それから、しだいにしらんでゆく曙《あけぼの》の色の中にいきいきとしたばらのような姿でいった。
「パりの全兵士が動員している。その三分の一はこの防塞に押しよせてくる。その上、国民兵もくわわっている。ぼくは歩兵第五連隊の帽子と国民兵第六連隊の旗とを見てとった。攻撃までには、一時間ばかりの余裕しかない。人民のほうは、きのうはわき立っていたが、けさはしずまりかえっている。いまはもう待つべきものも、希望すべきものもない。廓外もともにだめだ。われわれは孤立だ」
その言葉は、人々のそうぞうしい話声の上に落ちかかった。みんなは口をつぐんでしまった。死がはばたきまわるのがきこえるような、いいようのない深い沈黙がつづいた。
しかしそれはごくわずかのあいだだった。
群集のもっともうす暗い奥のほうから、ひとつの声が叫んだ。
「よろしい。防塞は六、七メートルの高さにして、みんなで死守しよう。諸君、屍《しかばね》となっても抵抗しようではないか。人民は共和党を見捨てるとしても、共和党は人民を見捨てないことをしめしてやろうではないか」
その言葉は、すべての者の頭から個人的な心痛の暗雲をはらい去った。そして熱烈な拍手をもって迎えられた。
一同の口からはなんともいえぬ満足した、叫びがおこってきた。その意味は沈痛だったが、調子は勇壮だった。
「戦死万歳! 全員ふみとどまろう」
「なぜ全員だ?」とアンジョーラはいった。
「全員! 全員!」
アンジョーラはいった。
「地の利はよく、防塞は堅固だ。三十人もいればじゅうぶんだ。なぜ四十人を全部犠牲にする必要があるのか!」
人々は答えかえした。
「ひとりも去りたくないからだ」
「諸君」とアンジョーラはさけんだ。その声は激昂《げっこう》しているごとく震えをおびていた。「共和は無用な者まで犠牲にするほど多くの人数をもってはいない。虚栄は浪費だ。ある者にとってはたち去ることが義務であるならば、その義務もまた他の義務と同じくはたすべきではないか」
主義の人であるアンジョーラは、絶対的な偉力を同志の上にもっていた。しかしその絶対的権力にもかかわらず、人々はなお不平の声をもらした。
徹頭徹尾《てっとうてつび》首領であるアンジョーラは、人々が不満そうにつぶやくのをみて、なお自分の意見をいいはった。彼は昂然《こうぜん》としていった。
「三十人のひとりになることを恐れる者は申しでてほしい」
不満のつぶやきはますますたかまった。
「それに」ある群の中から声がした。「たち去ると口でいうのは容易だが、防塞は包囲されてるんだ」
「市場町のほうはあいている」とアンジョーラはいった。「モンデトゥール街は自由だ、そしてプレーシュール街からイノサン市場へ出られる」
「そして、そこでつかまる」と群の中からほかの声がした。「戦列兵か郊外兵かの前哨にゆきあたる。労働服をつけ、縁なし帽をかぶってとおればすぐに、むこうの眼につく。どこからきたか、防塞からではないか、と問われる。そして手を見られる。火薬のにおいがする。そのまま銃殺だ」
アンジョーラはそれには答えないで、コンブフェールと肩をならべ、ふたりで居酒屋の階下の広間にはいっていった。
彼らはまたすぐそこから出てきた。アンジョーラは両手に四着の軍服をもっていた。あとにつづいたコンブフェールは、革帯と軍帽とをもっていた。
「この服をつけていけば」とアンジョーラはいった。「兵士のあいだにまじって逃げることができる。りっぱに四人分ある」
そして彼は、敷石をめくられた地面の上に四つの軍服を投げだした。
心をきめた聴衆のうちには身を動かす者もなかった。
「早くしなけりゃいけない」とコンブフェールはいった。「もう十五、六分もすれば、まにあわなくなるんだ」
「諸君」とアンジョーラはいった。「ここは共和である、万人が投票権をもっている。諸君はみずから去るべき者をえらぶがいい」
彼らはその言葉にしたがった。数分後、五人の男が全員一致をもって指名され、列から前にすすみ出た。
「五人いる!」とマリユスは叫んだ。
軍服は四着しかなかった。
「ではひとりのこらなくちゃならねえ」と五人の者はいった。
そしてまた互いに居残ろうとする争いが、ほかの者にたち去るべき理由を多く見いだそうとする争いがはじまった。
「お前には、お前をだいじにしてる女房がいる……お前には年とったおふくろがいる──お前にはおやじもおふくろもいねえが、お前の小さな三人の弟はどうなるんだ──お前は五人の子供の親だ──お前は生きるのが本当だ。十七じゃねえか、死ぬのは早い」
それら革命の偉大な防塞は、勇壮な人々のあつまりだった。異常なこともそこでは普通のことだった。勇士たちはそのことにおどろきもしなかった。
「早くしたまえ」とクールフェーラックがくりかえした。
群の中からマリユスにむかって叫ぶ声がした。
「ここに残る者をあなたが指定してください」
「そうだ」と五人の者はいった。「選んでください。わたしどもは、あなたの命令にしたがう」
マリユスは、もはや自分にはなんの感情ものこっていないと思っていた。けれどもいま、死ぬべき者をひとり選ぶという考えに、全身の血は心臓に集まってしまった。彼の顔はすでに蒼《あお》ざめていたが、さらにいっそう血の気《け》がなくなった。
彼は五人のほうへすすんだ。五人の者は微笑して彼を迎え、ひとりびとりが叫んだ。
「わたしを、わたしを、わたしを!」
マリユスはぼうぜんとして彼らをながめた。やはり五人である! それから彼の眼は四着の軍服の上におちた。
その瞬間、五つ目の軍服が天から降ったかのように、四着の軍服の上におちた。
五番目の男は救われた。
マリユスは眼をあげた。そしてそこにフォーシュルヴァン氏の姿をみとめた。
ジャン・ヴァルジャンは、ちょうど防塞のなかにはいってきたところだった。
様子をさぐってか、あるいは本能によってか、あるいは偶然にか、彼はモンデトゥール小路からやってきた。国民兵の服装のおかげで、うまくここまでくることができたのである。
叛徒のほうでモンデトゥール街に出しておいた見張りは、ひとりの国民兵のためにわざわざ警報をしなかったのである。「たぶん援兵かもしれない、そうでないにしろ、どうせ捕虜になるんだ」と思って、自由にとおさせたのだった。
ジャン・ヴァルジャンが大きな防塞の中にはいっていったとき、誰も彼に注意をむける者はいなかった。すべての眼は、えらばれた五人の男と、四着の軍服の上にそそがれていた。ジャン・ヴァルジャンはすべてを見、すべてを聞き、それからだまって自分の上衣をぬいで、それをほかの軍服の上に投げつけた。
人々の感動は名状すべからざるものだった。
「あの男は誰だ?」とボシュエはたずねた。
「他人を救いにきた男だ」とコンブフェールは答えた。
マリユスは荘重な声でつけ加えた。
「ぼくはあの人を知っている」
その一言で一同は満足した。
アンジョーラはジャン・ヴァルジャンのほうをむいた。
「よくきてくださった」
そして彼はいいそえた。
「ご承知のとおり、われわれは死ぬのです」
ジャン・ヴァルジャンはなんにも答えず、救いあげた暴徒に手伝って自分の軍服を着せてやった。
十
夜は急に明けてきた。しかし窓はひとつもひらかれず、戸口はひとつもゆるめられなかった。
防塞はいっそう堅固になっていた。五人の男がたち去ってから、人々は防塞をなお高くした。
攻撃がなされるにちがいないと思われた方面は、いまやいかにも深くしずまりかえっていた。で、アンジョーラは、一同をそれぞれ戦闘配置につかせた。
少量のブランデーが各人に分配された。
待つあいだは長くなかった。どよめきの音がサン・ルーの方面にまたはっきりときこえはじめた。しかしそれは第一回の攻撃のおりの運動とはことなっていた。鎖の音、大集団の恐ろしいざわめき、敷石の上にあたる青銅の音、一種おごそかな響き、それらはある巨大な鉄器の近づいてくるのを示していた。
街路の先端にすえられていた戦士たちの瞳は、ものすごく血走ってきた。
一門の大砲が現われた。
砲手たちが砲車を押し進めてきた。火のついた火縄の煙が見えていた。
「撃て!」とアンジョーラは叫んだ。
防塞は全部|火蓋《ひぶた》をきった。その射撃は猛烈だった。なだれのような煙は、砲門と兵士たちとをおおいかくした。数秒ののち煙が散ると、大砲と兵士たちとが再びみえた。砲手たちはしずかに正確にいそぎもせず、砲口を防塞の正面にむけてしまっていた。弾にあたったものはいなかった。砲手長は砲口をあげるために砲尾に身体をもたせかけ、落ちつきはらって、照準《しょうじゅん》をさだめはじめた。
防塞は砲弾のもとにどうなるだろうか。砲弾に穴をあけられるだろうか。それが問題だった。暴徒たちが銃にふたたび弾をこめているあいだに、砲兵たちは大砲に弾をこめていた。
防塞内の心配はすこぶる大きかった。
大砲は発射された。轟然《ごうぜん》たる響きがおこった。
「ただいま!」と、突然、快活な声がした。
砲弾が防塞の上に落ちかかると同時に、ガヴローシュが防塞の中にとびこんできたのだった。
彼はシーニュ街のほうからやってきて、プティット・トリュアンドリー小路にむいている補助の防塞をすばやく乗りこえてきたのだった。
砲弾よりもガヴローシュのほうが、防塞の中にさわぎをおこした。
砲弾はざったな破片のうず高いなかに没してしまった。せいぜい乗合馬車の車輪を一つこわし、アンソーの古荷車をくだいたにすぎなかった。それを見て人々は笑いだした。
「もっと撃て!」とボシュエは砲兵たちに叫んだ。
人々はガヴローシュの周囲に集まった。
しかし彼はなにも物語るすきがなかった。マリユスはおどろいて彼を横のほうにまねいた。
「なにしにもどってきたんだ」
「なんだって!」と少年はいった。「お前のほうはどうなんだ?」
そして彼は物おじもせずマリユスを見つめた。その両の眼は心中にある得意な気持ちのために、ひときわ大きく輝いていた。
マリユスは、おごそかな調子でつづけた。
「もどってこいと誰がいった! 手紙は宛名の人にわたしたのか」
手紙のことについては、ガヴローシュも多少やましいところがないでもなかった。防塞に早くもどりたいので、手紙はわたしたというよりもむしろやっかい払いをしたのだった。顔もよく見わけないで未知の男にたくしたのは多少軽率だった。ようするに彼は、手紙のことについてはすこし心苦しい点があって、マリユスにおこられるのを恐れていた。ナその苦境をきりぬけるために、もっとも簡単な方法をとって、嘘《うそ》をいった。
「手紙は門番にわたしてきた。女の人は眠っていたから、眼がさめたら見るだろう」
マリユスはその手紙をおくるについて、ふたつの目的をもっていた。コゼットにわかれをつげることと、ガヴローシュをすくうこと。で、彼は望みの半分だけをはたしたことで満足しなければならなかった。
手紙をおくったことと、防塞の中にフォーシュルヴァン氏が現われたことと、そのふたつの符合が彼の頭にうかんだ。彼はガヴローシュにフォーシュルヴァン氏をさししめした。
「あの人を知っているか」
「いや」とガヴローシュはいった。
実際ガヴローシュは、いまいったとおり、闇夜の中でジャン・ヴァルジャンを見たにすぎなかった。
マリユスの頭のなかにうかんできた漠然とした不安な推測は、ガヴローシュの一語で消えてしまった。フォーシュルヴァン氏の意見はわからないが、おそらくは共和派だろう。そうだとすれば、彼が防塞の中に現われたのも、べつに不思議はないわけだ。
そのうちに、もうガヴローシュは防塞の他の一端で叫んでいた。
「おれの銃をくれ!」
クールフェーラックは銃を彼にかえしてやった。
ガヴローシュは彼のいわゆる「仲間の者たち」に、防塞が包囲されていることを告げた。
相手の様子をうかがっていたアンジョーラは、弾薬車から霰弾《さんだん》の箱を引き出すような音を耳にし、また砲手長が照準をかえて砲口をすこし左へかたむけるのを見た。それから砲手たちは弾をこめはじめた。砲手長は自分で火縄|桿《かん》をとって、それを火口に近づけた。
「頭をさげろ、壁によりそえ!」とアンジョーラは叫んだ。「みんな防塞にそってかがめ!」
ガヴローシュがきたので、部署をはなれて居酒屋の前にちらばっていた暴徒たちは、いりみだれて防塞のほうへ駈けつけた。しかしアンジョーラの命令がおこなわれないまえに、大砲は恐ろしい響きとともに発射された。はたしてそれは霰弾だった。
弾は防塞の切れ目にむかって発射され、その壁の上にはねかえった。その恐ろしいはねかえしのために、ふたりの死者と三人の負傷者とがでた。
もしそういうことがつづいたならば、防塞はおそらく支えることができないだろう。霰弾は内部にはいってくる。皆は狼狽《ろうばい》した。
「とにかく第二発をふせごう」とアンジョーラはいった。
そして彼はカービン銃をひくくさげ、砲手長をねらった。砲手長はそのとき、砲尾の上に身をかがめて、照準を正しくさだめていた。
その砲手長はりっぱな砲兵軍曹で、年若く、金髪の、やさしい容貌《ようぼう》の男だったが、その武器にちょうどふさわしい怜悧《れいり》な様子をしていた。
アンジョーラのそばに立っていたコンブフェールは、その男をじっとながめていた。
「まったく残念なことだ」とコンブフェールはいった。「こういう殺戮《さつりく》は実に恐ろしい。ああ、国王がいなくなれば、戦いももうなくなるんだ。アンジョーラ、きみはあの軍曹を狙ってるが、どんな男かよくわからないだろう。いいか、りっぱな青年だ、勇敢な男だ、思慮もあるらしい。若い砲兵はみんな、相当の教育を受けている者たちだ。ある男には父があり、母があり、家族があり、意中の女もあるかもしれない。多くて二十五才より上ではない。きみの兄弟かもしれないんだ」
「ぼくの兄弟だよ」とアンジョーラはいった。
「そうだ」とコンブフェールもいった。「またぼくの兄弟でもある。殺すのはやめようじゃないか」
「ぼくにまかしてくれ。やるべきことはやらなければいけない」
そして一滴の涙が、アンジョーラの大理石のような頬をしずかに流れた。
と、同時に彼はカービン銃の引金を引いた。ぱっと光りが発した。砲手長は二度ぐるぐるとまわり、腕を前にさしだし、空気をもとめているように顔を上にあげたが、それから砲車の上に横むけにたおれ、そのまま身動きもしなかった。背中がこちらに見えていたが、そのまん中から血がながれ出ていた。弾は胸を射ぬいたのだ。彼は死んでいた。
彼をはこび去って、かわりの者を呼ばなければならなかった。そして、こうしてる間に、実際暴徒側にとっては、数分間の余裕がえられたのである。
十一
襲撃軍の射撃はまたつづいた。小銃と霰弾《さんだん》とが、かわるがわる発射された。しかし、実際はたいした損害はあたえなかった。ただコラント亭の正面の上部だけはひどく被害をうけた。二階の窓や屋根裏部屋の窓は、霰弾のために無数の穴をあけられて、しだいに形をうしなってきた。そこに陣どってた戦士たちはやむをえず身をかくさなければならなかった。けれども、それは防塞攻撃の戦術上の手段であって、長く射撃をつづけるのも、暴徒たちに応戦させてその弾薬をなくすためだった。暴徒たちの銃火がよわってきて、もはや弾も火薬もなくなったことがわかったときに、いよいよ襲撃をやろうというのだった。しかしアンジョーラはそのわなにかからなかった。防塞はすこしも応戦しなかった。
戦いにおいても人は、舞踏会でのように相手をほしがるものだ。防塞がこのように沈黙していることは、攻撃軍に不安をあたえ、なにか意外な変事がおこりはしないかと心配させはじめたらしい。そして彼らは、敷石の砦のむこうを見とどけたくなり、射撃をうけながら応戦もしないその平然とした障壁の背後には、どういうことがおこなわれているのか知りたくなったらしい。暴徒たちは不意に、近くの屋根の上に日光に輝くひとつの|かぶと《ヽヽヽ》を見いだした。一人の消防兵が、高い煙突に身をよせて、偵察をしているらしかった。その視線はま上から防塞の中へとむけられていた。
「あそこに、こまった偵察者が出てきた」とアンジョーラはいった。
ジャン・ヴァルジャンは小銃をもっていた。
ひとことも口をきかずに、彼は消防兵を狙った。その|かぶと《ヽヽヽ》は一弾をうけ、音をたてながら街路に落ちた。狼狽した兵士は、いそいで身をかくした。
第二の偵察者がそのあとに現われた。それは将校だった。ふたたび小銃に弾丸をこめたジャン・ヴァルジャンは、その将校を狙い、そのかぶとを兵士のかぶとと同じところに打ち落した。将校もまたすぐしりぞいてしまった。そしてこんどは、ジャン・ヴァルジャンの考えがむこうにつうじたらしかった。もう誰も、ふたたび屋根の上に現われなかった。防塞の中をうかがうことは中止されてしまった。
「なぜ殺してしまわないんだ?」とボシュエはジャン・ヴァルジャンにたずねた。
ジャン・ヴァルジャンは返事をしなかった。
クールフェーラックは防塞のすぐ下の外部に、弾丸の降りそそぐ街路に、人の姿を突然見いだした。
ガヴローシュが、居酒屋の中から壜《びん》をいれる籠《かご》をとり、防塞の切れ目から外に出て、防塞の裾で殺された国民兵たちの弾薬盒《だんやくごう》から、中にいっぱいつまっている弾薬をとっては、平然《へいぜん》としてそれを籠の中にいれているのだった。
「そこでなにをしているんだ?」とクールフェーラックはいった。
ガヴローシュは顔をあげた。
「籠をいっぱいにしてるんだ」
「霰弾が見えないのか」
ガヴローシュは答えた。
「うん、雨のようだ。だから?」
クールフェーラックは叫んだ。
「もどってこい!」
「いますぐだ」とガヴローシュはいった。
そしてさっと街路にとび出した。
読者の記憶するとおり、ファンニコの中隊は退却するときに、死体をほうぼうに残していった。
その街路の敷石の上だけに、二十人ほどの死体が散らばっていた。ガヴローシュにとっては、二十ほどの弾薬盒《だんやくごう》であり、防塞にとっては補充の弾薬だった。
街路の上の硝煙《しょうえん》は、霧のようだった。
その霧のような煙の下にかくれ、その上身体が小さかったので、ガヴローシュは敵にみつけられずに街路のかなりさきまですすんでいくことができた。まず七、八個の弾薬盒をたいした危険もなしに盗んでしまった。
彼はひらたく四つんばいになって籠を口にくわえ、身をねじまげ、すべりゆき、はいまわって、死体から死体へととびうつり、猿が|くるみ《ヽヽヽ》の実をむくように、弾薬盒や弾薬|嚢《のう》をひらいて盗んだ。
防塞の者たちは、彼がなおかなり近くにいたにもかかわらず、敵の注意をひくことを恐れて、声をたてて呼びもどすことをしかねていた。
ある車除けの石のそばに横たわっている軍曹の弾薬をガヴローシュがうばっているとき、弾が一発とんできて、その死体にあたった。
「ばか!」とガヴローシュがいった。「死んだやつをも一度殺してくれるのか」
第二の弾は彼のすぐそばの敷石にあたって火花を散らした。第三の弾は彼の籠をひっくりかえした。
しかし、ついに一発の弾は、少年をとらえた。ガヴローシュはよろめき、それからぐったりと倒れた。防塞の者たちは声をたてた。しかしこの侏儒《こびと》の中には、アンテウス〔倒れて地面にふれると、ふたたび息をふきかえすという巨人〕がいた。浮浪少年にとっては街路の敷石にふれることは、巨人が地面にふれるのと同じだった。ガヴローシュは再び起きあがらんがために倒れただけだった。彼はそこに上半身をおこした。一条の血が顔にながれていた。彼は両腕をたかくさしあげ、弾のきたほうをながめ、そして歌いはじめた。
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地面の上におれはころんだ、
罪はヴォルテール、
溝の中に顔をつっこんだ、
罪は……
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彼は歌をおえることができなかった。同じ狙撃者の第二の弾が彼の言葉を中断させた。こんどは彼も顔を敷石の上にふせ、そのまま動かなくなった。勇敢な少年の魂はとび去ったのだった。
マリユスは防塞から外にとび出した。コンブフェールもその後につづいた。しかし、もうまにあわなかった。ガヴローシュは死んでいた。コンブフェールは弾薬の籠を持ちかえり、マリユスはガヴローシュの死体を持ちかえった。
十二
防塞の守備軍は、つねに軍需品を節約しなければならないし、攻囲軍もそれをよく知ってるので、攻囲軍はわざわざ敵をじらすような、のろのろとした方略をつかい、時機がこないのに早くも銃火の中におどりでてみせるような外観だけの策略をとって、実際はゆっくり落ちついていたのだった。襲撃の準備はいつもある一定のゆっくりとした調子で行動され、つぎに電光石火の突撃がはじめられる。
そのゆっくりとした準備のあいだに、アンジョーラはすべてを検査し、すべてを完成するひまをえた。このような同志たちが死を覚悟している以上、その死は立派なものでなければならない、と彼は思っていた。彼はマリユスにいった。
「ぼくたちふたりは主将だ。ぼくは家の中で最後の命令をあたえよう。きみは外にいて見張りをしてくれたまえ」
マリユスは防塞の頂上で見張りの位置についた。
アンジョーラは階下の広間で、簡潔な、深く落ちついた声で、最後の訓令《くんれい》をあたえた。フイイはそれに耳をかたむけ、一同を代表して答えた。
「二階に、階段をきりはなすための斧を用意しておけ。斧はあるか?」
「ある」とフイイはいった。
「いくつ?」
「中くらいのが二つと大斧が一つ」
「よろしい。負傷してない健全な者が二十六人のこっている。銃はなん挺あるか」
「三十四」
「八つ余分だ。その八挺にも同じく弾をこめて持っていろ。サーベルやピストルをベルトにはさめ。二十人は防塞につけ。六人は屋根裏や二階の窓にひそんで、敷石の銃眼のむこうの襲撃軍を射撃しろ。ひとりでも手をあかしているものがいてはいけない。まもなく襲撃の太鼓がきこえたら、階下《した》の二十人は防塞に走り出ろ。早い者からかってにいい場所を占《し》めるんだ」
そういう手配をしたあと、彼はジャヴェルのほうをむいて、そしていった。
「貴様のことも忘れてやしない」
そしてテーブルの上に一挺のピストルを置いて、彼はいいそえた。
「ここから最後に出る者が、このスパイの頭を打ちぬくんだ」
「ここで?」と誰かがたずねた。
「いや、こんな死体をわれわれの死体といっしょにしてはいけない。モンデトゥール街の小さな防塞は誰でもまたぎ越せる。高さ一メートルしかない。こいつは堅くしばられている。そこまでつれていって、そこで始末するがいい」
この瀬戸際になって、アンジョーラよりもなお平然としている者がいるとすれば、それはジャヴェルだった。
そこにジャン・ヴァルジャンが出てきた。
彼は暴徒たちの間にまじっていたが、そこから出てきて、アンジョーラにいった。
「きみは指揮者ですか」
「そうだ」
「私になにか報酬を求める資格があると思うかね」
「確かにある」
「ではそれをひとつ求めます」
「なにを?」
「その男を自分で射殺することです」
ジャヴェルは頭をあげ、ジャン・ヴァルジャンの姿を見、眼につかぬくらいの身動きをして、そしていった。
「当然のことだ」
アンジョーラは自分のカービン銃に弾をこめはじめていた。彼は周囲の者を見まわした。
「異議はないか?」
それから彼はジャン・ヴァルジャンのほうをむいた。
「スパイはきみにあげる」
ジャン・ヴァルジャンは実際、テーブルのひとつの端に身をおいてるジャヴェルを自分のものにした。彼はピストルをつかんだ。引金をあげるかすかな音がきこえた。
それとほとんど同時に、ラッパの響きがきこえてきた。
「気をつけろ!」と防塞の上からマリユスが叫んだ。
ジャヴェルは彼独特の声のない笑いをうかべた。そして暴徒たちをじっとながめながら、彼らにいった。
「貴さまらもおれ以上の命はないんだ」
「みんな外へ!」とアンジョーラは叫んだ。
暴徒たちはどやどやと外にとび出していきながら、背中に──こういうのを許していただきたい──ジャヴェルの言葉をうけた。
「じきまた会おう!」
ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルとふたりきりになったとき、捕虜の身体のまん中をしばってテーブルの下にむすんである縄をといた。それから立てという合図をした。
ジャヴェルはそれにしたがった。いわばしばられた政府の権威が、そこに集中しているような、いいあらわしにくい微笑をうかべていた。
ジャン・ヴァルジャンは縄をとって、ジャヴェルをひったて、自分のうしろに引きつれながら、居酒屋の外に出た。ジャヴェルは足をもしばられていて、ごく小股にしか歩けなかったので、ゆっくり進んでいった。
ジャン・ヴァルジャンは手にピストルを持っていた。
二人は防塞の中部の四角な空地をとおっていった。暴徒たちはさし迫った攻撃のほうに心をうばわれて、こちらに背中をむけていた。
ただマリユスひとりは、すこしはなれて防塞の左端にいて、ふたりの通るのを見た。死刑囚と処刑人とならんだ有様は、マリユスの心の中に、死の光りで照らしだされた。
ジャン・ヴァルジャンは一瞬間もとらえた手をゆるめないで、モンデトゥール小路の小さな砦を、やっとジャヴェルにまたぎ越させた。
その防塞をのりこえたとき、彼らはその小路の中で、まったくふたりきりになった。誰も見ている者はなかった。暴徒たちからは人家の角でかくされていた。防塞から投げすてられた死骸が、数歩のところにおそろしい有様をして積みかさなっていた。
その死骸のかさなったなかに、ひとつのまっ蒼《さお》な顔と、乱れた髪と、穴のあいた手と、なかば裸の女の胸とが見えていた。エポニーヌだった。
ジャヴェルはその女の死体を横目でじっとながめ、落ちつきはらった低い声でいった。
「見覚えがあるような娘だ」
それから彼はジャン・ヴァルジャンのほうにむいた。
ジャン・ヴァルジャンはピストルを小腋《こわき》にはさみ、ジャヴェルを見つめた。その眼つきの意味は言葉にしなくとも明らかだった。「ジャヴェル、私だ」という意味だった。
ジャヴェルは答えた。
「復讐するがいい」
ジャン・ヴァルジャンは内ポケットからナイフをとり出して、それをひらいた。
「|どす《ヽヽ》か?」とジャヴェルはいった。「もっともだ。貴さまにはそのほうがにあう」
ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルの首と手首の縄をきり、つぎに身をかがめて足の縄をきった。そして立ちあがりながらいった。
「これできみは自由だ」
ジャヴェルはたやすくおどろく人間ではなかった。けれども、われを忘れるようなことはなかったが、一種の動揺をおさえることはできなかった。彼はぼうぜんと口をあけたまま立ちすくんだ。
ジャン・ヴァルジャンはいいつづけた。
「私はここから出られようとは思っていない。しかし万一の機会に出られるようなことがあったら、オンム・アルメ街七番地にフォーシュルヴァンという名前で住んでいる」
ジャヴェルは虎のように眉をしかめて、口の片すみをちらっとひらいた。そして口の中でつぶやいた。
「気をつけろ」
「いくがいい」とジャン・ヴァルジャンはいった。
ジャヴェルはまたいった。
「フォーシュルヴァンといったな、オンム・アルメ街で」
「七番地だ」
ジャヴェルは低くくり返した。
「七番地」
彼は上衣のボタンをはめ、両肩を軍人らしくいかめしくつっぱり、むきをかえ、両腕をくんで一方の手で頤《あご》をささえ、そして市場町のほうへ歩きだした。ジャン・ヴァルジャンはその姿を見送った。数歩すすんだあとジャヴェルはふりむいて、ジャン・ヴァルジャンに叫んだ。
「きみはおれの心を苦しめる。むしろ殺してくれ」
ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンにむかってもう貴さまという言葉をつかっていないのに気づかなかった。
「行くがいい」とジャン・ヴァルジャンはいった。
ジャヴェルはゆっくりした足どりで遠ざかっていった。やがて彼はプレーシュール街の角をまがった。
ジャヴェルの姿が見えなくなると、ジャン・ヴァルジャンは空中にむけてピストルを打った。
それから彼は防塞の中にもどっていった。
「すんだ」
その間につぎのことがおこっていた。
マリユスは防塞の内部より外部のほうに気をとられて、階下の広間のうす暗い奥にしばられてたスパイをそのときまでよくは見なかった。
しかし、防塞をまたぎこしてるスパイをま昼の光りで見たとき、彼はその顔を思いだした。ひとつの記憶が突然、頭に浮かんできた。ポントワーズ街の警視のことと、防塞の中で自分がつかってる二挺のピストルはその警視からもらったものだったことを思いおこした。そして、その顔を思いだしたばかりか、その名前も思いだした。
けれどもその記憶は、彼の他のすべての観念と同じように、ぼんやりとしていた。
「あの男は、ジャヴェルと名のった、あの警視ではなかったか?」
まだその男をたすける時間はあるだろう。しかし、はたしてあのジャヴェルかどうかをまず確めてみなければならなかった。
マリユスは防塞のむこう側にいたアンジョーラに呼びかけた。
「アンジョーラ!」
「なんだ!」
「あの男の名はなんというんだ」
「どの男だ?」
「あの警察の男だ。きみはその名前を知ってるか」
「もちろん、自分で名のったんだ」
「なんという名だ」
「ジャヴェル」
マリユスは身をおこした。
その時、ピストルの音がきこえた。
ジャン・ヴァルジャンがふたたび現われて叫んだ。
「すんだ」
暗い悪寒《おかん》がマリユスの心をよぎった。
十三
突然、襲撃の太鼓が鳴りひびいた。
襲撃はまるで台風のようだった。大砲ははげしく打ちはじめた。軍隊は一挙に防塞におどりかかった。太鼓を鳴らし、ラッパを吹き、銃剣をかまえ、工兵を先頭にたて、弾丸のとびかう中を平然として、防塞めがけてまっすぐに進んできた。
障壁はよくもちこたえた。
暴徒たちは猛烈な銃火をあびせた。襲撃は猛烈になり、防塞の表面は一時襲撃軍でみたされたほどだった。しかし防塞は、獅子が犬をふりおとすように兵士たちを振りおとした。ちょうど海辺の岩が一時波におおわれるように、襲撃軍におおわれたが、一瞬間の後にはまた、そのつきたったまっ黒な、恐ろしい姿を現わした。
退却を余儀なくされた縦列は街路に密集し、防塞にむかって猛射をあびせかけた。防塞は銃火のもとにあった。
その防塞には、一端にアンジョーラがおり、他の一端にマリユスがいた。全防塞を担《にな》ってるアンジョーラは最後まで身をたもとうとしてひそんでいた。三人の兵士が、彼の姿に気がつかないで、つぎつぎに倒された。マリユスは身をさらして戦っていた。彼はみずから敵の目標となった。防塞の上から半身以上ものり出していた。
彼はもう全身傷だらけで、ことに頭部がひどく、顔は血潮の下に見えなくなり、あたかもまっ赤なハンカチを顔にかぶせたようだった。
アンジョーラひとりはどこにも傷をうけていなかった。
そのうち、クールフェーラックとジョリーとボシュエとフイイとコンブフェールとがながくささえていた中央部は、彼らの戦死とともに打ち崩されてきた。大砲はつごうよいさけ目をつくることはできなかったけれども、防塞の中央を三日月形にかなりひろく破壊した。その障壁の頂上は、砲弾のしたにとびちり、崩れた。そして、あるいは内部に、あるいは外部に落ちちった破片は、しだいに積みかさなり、障壁の両側に、内部と外部とに、ふたつの斜面をこしらえてしまった。外部の斜面は突入に便利な傾斜をこしらえた。
はげしい襲撃がその点にむかってなされた。それは成功した。一面に銃剣を逆立てておしよせてきた。襲撃縦隊の密集した先頭は、斜面の上の硝煙《しょうえん》のなかから現われてきた。こんどはもはや最後だった。中央を防いでいた暴徒たちは、列をみだして退却した。
しかしアンジョーラとマリユスと七、八人の者は、彼らのまわりに列をつくり、身をもって彼らを保護していた。アンジョーラは敵の兵士たちに叫んだ。「出てくるな!」そして一将校がその言葉にしたがわなかったので、アンジョーラはその将校をたおしてしまった。彼はいまや、防塞の内部の小さな中庭で、コラント亭を背にし、一方の手に剣をにぎり、一方の手にカービン銃をとり、襲撃者たちをくいとめながら、その居酒屋の戸をひらいていた。彼は絶望した人々に叫んだ。「ひらいてる戸はひとつきりだ、こればかりだ」そして身をもって彼らをかばい、ひとりで一隊の軍勢に立ちむかいながら、背後から彼らをとおさせた。彼らはみんなそこに走りこんだ。アンジョーラはカービン銃を杖のように振りまわし、左右と前にさしつけられる銃剣を打ちおとし、そして最後にはいった。兵士たちはつづいて侵入しようとし、暴徒たちは戸をとざそうとした一瞬、恐ろしい光景を呈した。戸は非常な勢いでとざされて、戸口の中にはまりこみながらしがみついてた一兵士の五本の指を切りとり、そのままそれを戸の縁《ふち》にはりつけた。
マリユスは外にのこされていた。一発の弾を鎖骨にうけたのだった。彼は気が遠くなって倒れかかるのを感じた。そのとき彼は、すでに眼をとじていたが、力強い手につかみとられるような感じをうけ、気をうしなってわれを忘れる前にちらっと、コゼットのことが最後に思い出され、それとともにこういう考えがうかんだ。「捕虜となった、銃殺されるのだ」
攻撃は猛烈であり、防禦《ぼうぎょ》は激烈だった。
ついに、戦列兵と国民兵と市民兵とが入りまじってる二十人ばかりの襲撃者は、二階の広間に侵入した。そこには、立ってる者はただひとりにすぎなかった。それはアンジョーラだった。弾薬もなく、剣もなく、入ってくる者の頭を殴って床尾をこわしたカービン銃を手にしてるだけだった。彼は襲撃者たちを球突台でへだて、部屋の片すみにしりぞき、そこで誇らしげに眼をかがやかせ、昂《こう》然と頭をあげ、筒《つつ》先だけの銃を手にしてたっていた。しかしその姿はなお敵に不安をあたえ、周囲には空間がのこされて誰も近づく者はなかった。ある者が叫んだ。
「これが首領だ。そこに立ってるのはちょうどいい、そのままでいろ。すぐ銃殺してやる」
「撃て!」とアンジョーラはいった。
そしてカービン銃の断片を投げすて、腕をくみ、胸をさし出した。
アンジョーラが腕をくんで自分の最後をあまんじてうける態度に、部屋の中の争闘の響きはやみ、その混乱はたちまち墓のごとき厳粛《げんしゅく》さに静まりかえった。武器をすてて身動きもせずに立ってるアンジョーラの威風は、その騒ぎを押えつけてしまったかと思われた。ただひとり一カ所の傷もおわず、気高い姿で、血にまみれ、美しい顔をし、不死身であるかのように平然としてる青年は、その落ちついた威厳だけですでに、興奮した一群の者たちに、彼を殺すにあたって尊敬の念を起こさせるように思えた。彼の美貌は、その瞬間いっそう美しく光り輝いていた。そしてひとつも負傷をうけず、疲労もおぼえない身であるかのように、恐るべき二十四時間をへてきた後にもなお、その顔はあざやかな|ばら《ヽヽ》色をしていた。一証人が、その後の軍法会議で、「アポロンとよばれるひとりの暴徒がいた」と語ったのはたぶん彼のことをいったのだろう。アンジョーラをねらってたひとりの国民兵は、銃をおろしながらいった。「花を打つような気がする」
十二人の者が、アンジョーラと反対の一隅にならび、沈黙のうちに銃をかまえた。
アンジョーラは八発の弾に打たれ、ちょうど釘づけにされたかのように壁によりかかったままだった。ただ頭をたれていた。
十四
マリユスは実際、捕虜になっていた。ジャン・ヴァルジャンの捕虜になっていたのである。
倒れかかったときうしろから彼をとらえた手、意識をうしないながらつかまれるのを感じた手は、ジャン・ヴァルジャンの手だった。
ジャン・ヴァルジャンはただそこに身をさらしているほかには、すこしも戦闘にくわわらなかった。しかし彼がもしいなかったら、その最後の危急の場合において、誰も負傷者たちのことを考えてやる者はなかったろう。幸いにして、天の恵みのごとくその殺伐《さつばつ》とした防塞の中のいたるところに身を現わす彼がいたため、倒れた者たちは引きおこされ、階下の部屋に運ばれ、手当された。まをおいて彼はつねに防塞の中に現われた。しかし敵を襲撃することや、またわが身を防禦することさえも、彼はすこしもしなかった。彼は黙々として|けが《ヽヽ》人を救っていた。彼はただ僅かのかすり傷をうけただけだった。
ジャン・ヴァルジャンは濃い戦雲の中では、マリユスのほうをちっとも見てないようにみえた。しかし実際は、マリユスから眼をはなさなかったのである。一発の弾がマリユスを倒したとき、ジャン・ヴァルジャンは虎のごとく敏活にとんでゆき、獲物につかみかかるように彼の上にとびかかり、そして彼を運びさった。
そのとき、襲撃の旋風は、アンジョーラと居酒屋の戸口とを中心として猛威をふるっていたので、気を失ってるマリユスを腕にかかえ、防塞のなかの敷石のない空地を横ぎり、居酒屋の角のむこうに身をかくしたジャン・ヴァルジャンの姿を、眼にとめた者はひとりもなかった。
岬《みさき》のように街路につき出てる居酒屋にさえぎられて、わずかな広さの四角な地面は、銃弾も霰弾もまた人の視線からもまぬかれていた。
そこまでいって、ジャン・ヴァルジャンは立ちどまり、マリユスを地上におろし、壁に背をよせて周囲を見まわした。
情況は危急をきわめていた。
一瞬、おそらく二、三分のあいだは、その一面の壁に身をかくすことができた。しかしこの殺伐《さつばつ》とした場所からどうして出たらいいか? 八年前ポロンソー街での苦心と、ついにそこを脱しえた方法とを、彼は思いだした。あのときは非常に困難ではあったが実行された。しかしいまはそれはまったく不可能なことだった。前面には、七階建ての、びくともしない家があり、右手には、プティット・トリュアンドリーのほうをふさいでるかなり低い防塞があった。その障壁をまたぎ越すのは、わけはなさそうだったが、しかしその頂上から、一列の銃剣の先が見えていた。防塞のむこうに配置されてまちうけてる戦列歩兵の分隊だった。あきらかに、その防塞をこすことはわざわざ銃火をうけにいくようなものだし、その敷石の壁の上からのぞきだす頭は、六十挺の銃火の的になることだった。左手は戦場だった。壁の角のむこうには死がひかえていた。
どうしたらいいのか?
そこから脱しうるものは、おそらく鳥だけだろう。
しかも、すぐに方法をきめ、くふうをこらし、決心をかためなければならなかった。数歩先のところで戦いはおこなわれていた。幸いなことにはただ一点に、居酒屋の戸口にむかってだけ、すべての者がとびかかっていた。しかし、一人の兵士がただひとりでも、家をまわろうという考えをおこすか、あるいは側面から攻撃しようという考えをおこしたら、万事休すだった。
ジャン・ヴァルジャンは正面の家をながめ、かたわらの防塞をながめ、つぎには気ちがいのようになって、せっぱつまった猛烈な眼で地面をながめた。それはちょうど自分の眼でそこに穴をあけようとしてるようにさえ思われた。
ながめているうちに、深い心痛のうちにも漠然とみとめられるなにかがうき出してきて、それは彼の足もとにひとつの形をとって現われた。まるで眼の力でそこに望むものをつくりだしたかのようだった。すなわち数歩先のところに、外部からきびしく監視され待ちうけられてる小さな防塞の根本《ねもと》に、積まれた敷石がごたごたしてる下に半ばかくされて、地面とたいらに置かれてる鉄格子を彼は見つけた。その格子は丈夫な鉄の棒を横にわたしてつくられたもので、六十センチ四方くらいの大きさだった。それを堅めてる周囲の敷石がめくられたので、錠をはずされたようになっていた。鉄の棒の間からは、煖炉の煙突か水槽の管《くだ》のような暗い穴がみえていた。
ジャン・ヴァルジャンはとんでいった。むかしの脱走の知識が、電光のように彼の頭にうかびあがってきた。上に重なってる敷石をはねのけ、鉄格子を引きあげ、死体のようにぐったりしてるマリユスを肩にかつぎ、背中にその重荷をつけたまま、肘《ひじ》と膝《ひざ》との力で、幸いにもあまり深くない井戸のような穴のなかにおりてゆき、頭の上に重い鉄のふたをおろし、その上にまだゆらいでる敷石を自然に崩れおちてこさせ、地下三メートルのところにある敷石の面に足をおろした。それだけのことを彼は、わずか数分間でなしとげたのだった。
こうしてジャン・ヴァルジャンは、まだ気を失ってるマリユスとともに、地下のながい廊下みたいなものの中にはいっていった。
そこには、深い静けさ、まったくの沈黙、闇夜のみしかなかった。
むかし街路から修道院のなかに落ちこんだときに感じた印象が、彼の頭にうかんできた。ただ彼がいまかついでいるのは、コゼットではなくてマリユスだった。
襲撃をうけてる居酒屋の恐ろしい混乱の響きも、いまはぼんやりとしたつぶやき声のように、かすかに頭の上方に聞えるきりだった。
[#改ページ]
第二章 巨大なる海獣の腸《はらわた》
一
ジャン・ヴァルジャンがはいりこんだのは、パリの下水道の中だった。
実に驚くべき変化だった。市のまん中にいながら、ジャン・ヴァルジャンは市の外に出ていた。またたくまに、ひとつのふたをあげそれをまたとざすだけのすきに、彼はまっ昼間からまったくの暗黒に、正午からま夜中に、混乱の響きから沈黙に、百雷の旋風から墓地の凪《なぎ》に、そしてまた、ポロンソー街の変転よりなおいっそう不思議な変転によって、もっとも大きな危険からもっとも確かな安全にはいってしまった。
突然穴ぐらの中におちいること、パリの秘密牢の中に姿をけすこと、死にみちている街路を去って生のある一種の墓のなかに移ること、それはまったく不思議な瞬間だった。彼はしばらくあっけにとられて、耳をすましながらぼんやりとたたずんでいた。救いのわなは突然彼の下に口をひらいたのだ。天の好意は彼をあざむいて、いわば捕虜にしてしまった。驚嘆すべき天の待伏せである。
ただ負傷者はすこしの身動きもしなかった。ジャン・ヴァルジャンにはその墓穴の中で、いま自分のになってる男が、はたして生きてるのか死んでるのかわからなかった。
彼のはじめに感じたことは、盲目になったということだった。にわかに彼はなにも見えなくなった。それからまた、しばらくの間はつんぼになったような気もした。なにもきこえなかった。頭の上数尺のところで荒れ狂ってる虐殺の暴風は、厚い地面でへだてられたので、ごくかすかにぼんやりと響いてくるだけだった。彼は足の下が堅いのを感じただけだ。しかしそれでじゅうぶんだった。一方の手をのばし、つぎにまた他方の手をのばすと、両方とも壁にふれた。そして路のせまいことがわかった。足がすべった。敷石がぬれてることがわかった。穴や水たまりや淵《ふち》を気づかって、用心しながら一歩踏み出してみた。石畳がさきまでつづいているのをさとった。悪臭がおそってきたので、それがどういう場所なのかを知った。
しばらくすると、彼はもう盲目ではなかった。わずかな光りがいますべりこんできた口からさしていたし、また眼もその穴ぐらの中になれてきた。物の形がぼんやり見えだしてきた。彼がもぐりこんできたとしかいいようのないそのトンネルは、うしろを壁でふさがれていた。また彼の前にもほかの壁が、闇夜の壁があった。穴の口からさしてくる光りは、前方十一、二歩前のところでなくなってしまい、下水道の湿った壁をやっと数メートルだけほの白くうき出させていた。そのむこうは厚い闇だ。そこにはいっていくことはいかにも恐ろしく、一度はいったらそのまま呑《の》みつくされそうに思えた。けれど、その靄《もや》の壁の中に、どうしても入っていかねばならなかった。しかもいそいでしなければならない。ジャン・ヴァルジャンは自分が敷石の下に見つけた鉄格子は、また兵士たちの眼にもつくかも知れないと思った。すべてはその偶然の機会にかかっている。兵士たちもまたその井戸の中におりてきて、彼をさがすかもしれない。一分間も猶予してはおれない──彼はマリユスを地面におろしていたが、それをまた拾いあげた。そしてマリユスを肩にかつぎ、前方に歩きだした。彼は決然として暗黒の中にはいっていった。
しかしふたりは、ジャン・ヴァルジャンが思ってたほど安全になったのではなかった。種類は違うがやはり同じく大きな危険が、彼らを待ちうけていた。戦闘の激しい旋風のあとに毒気と陥穽《かんせい》との洞窟がきたのだ。ジャン・ヴァルジャンは地獄のひとつの世界から他の世界へおちいったのだ。
五十歩ほど進んだとき、彼は立ちどまらねばならなかった。問題がひとつおこった。トンネルは斜めにもうひとつあった。ふたつの道がひらいてる。どの道をとるべきか、左へ曲るべきか右へ曲るべきか。その暗い迷宮の中でどうして方向を定められよう。しかし、その迷宮にはひとつの手がかりがあった──傾斜である。傾斜にしたがっておりていけば河に出られる。
ジャン・ヴァルジャンはすぐにそれを理解した。
たぶんここは市場町の下水道にちがいない、と彼は考えた。それで、道を左にとって傾斜をおりていけば、十五分とかからないうちに、ポン・トー・シャンジュとポン・ヌーフとの間のセーヌ河のどの出口かに達するだろう。つまりパリのもっとも繁華《はんか》なところにまっ昼間身をさらすことになる。おそらく四辻の人だかりに出くわすだろう。血に染ったふたりの男が足もとの地面から出てくるのをみる通行人の驚きはどんなだろう。巡査がやってくる、近くの衛兵たちが武器をとってやってくる。地上に出るか出ないうちにとり押えられる。それよりもむしろ、この迷宮の中にはいりこみ、暗黒に身をたくし、天運のままに出口をもとめたほうが上策だ。
で、彼は傾斜の上のほうへ、右に曲った。
トンネルの角を曲ると、穴の口からさしていたうすい光りはきえ、暗黒の幕がふたたびたれさがった。彼はまた眼が見えなくなった。それでも彼は前進をやめずに、できるだけ早く進んだ。マリユスの両腕は彼の首のまわりにからみ、両足は背後にたれていた。その両腕を彼は一方の手でおさえ、他方の手で壁をつたわった。マリユスの頬《ほお》は彼の頬に接し、血のためにそのままこびりついた。彼はマリユスの生《なま》暖かい血が自分の上に流れかかって、服の下までしみとおるのをおぼえた。けれども、負傷者の口もとに接してる自分の耳に湿気のある暖か味が感じられるのは、呼吸をしてる|しるし《ヽヽヽ》で、したがってまた、生命のある|しるし《ヽヽヽ》だった。いまや彼がたどってるトンネルは、はじめのより広くなっていた。彼はかなり骨をおってそれを歩いていった。前日の雨水はまだまったく流れさっておらず、底の中程に小さな急流をつくっていたので、彼は水の中に足をふみ入れないようにするため、壁に身をよせて進まねばならなかった。そういうふうにして彼はひそかに足をはこんだ。ちょうど見えない中を手さぐりして、地下の闇の脈の中に没してゆく夜の生物のようだった。
けれども、あるいは遠い穴からわずかのあかりがその不透明な靄《もや》の中にただよってるのか、あるいは眼が暗闇になれてくるのか、すこしずつぼんやりした影がみえ、手でつたわってる壁や頭の上の円天井などが漠然とわかってきた。
行く手をさだめることは困難だった。
彼は、なにも見ず、なにも知らず、偶然のうちに没し、いいかえれば天命のうちに呑《の》みこまれて、懸念《けねん》しながらも落着いて前方にすすんでいった。
突然、彼は意外な驚きを感じた。もっとも思いがけない瞬間に、そしてやはりまっ直ぐに進みつづけていたときに、傾斜をのぼっているのではないことに気づいた。水の流れは、爪先《つまさき》からこないで踵《かかと》のほうにあたっていた。下水道はいま|くだり《ヽヽヽ》坂になっていた。どうしたわけだろう。セーヌ河に出るのは大きな危険がある。しかしひっかえすのはさらに大きな危険だ。彼はつづけて前にすすんだ。
枝道に出会うたびごとに、彼はその角にいちいちふれてみた。その口がいまいるトンネルよりも狭いときには、そちらにまがりこまないでまっすぐにすすんでいった。狭い道はすべて行きどまりになってるはずだ。目的の出口から遠ざかるだけだと考えたからだ。
時には、防塞《ぼうさい》のため交通がとめられ、暴動のため石のように黙々としているパリの上から、いきいきとした平常のパリの下にはいったのを、彼は感ずることができた。不意に頭の上で、雷のような連続した音が聞えた。それは馬車の響きだった。
彼は約三十分ばかり歩きつづけていたが、なお休息しようとも思わなかった。ただマリユスを支えてる手をかえただけだった。暗さはいよいよ深くなっていったが、その深みが、かえって彼を安心させた。
突然、彼は前方に自分の影をみとめた。影は足もとの底部と頭上の円天井とをぼんやりそめてるほのかな弱い赤みのうえに浮き出していて、トンネルのじめじめした両側の壁の上に、右へ左へとすべり動いた。彼はうしろをふりかえった。
うしろのほうに、いま彼がとおってきたばかりのトンネルの中に、しかも見たところ非常に遠いと思われるところに、厚い闇をとおして、こちらをながめてるような一種の恐ろしい星が燃えあがっていた。
それは下水道の中にでてる陰惨な警官たちの星だった。
星のむこうには、黒いまっすぐな、ぼんやりした、恐ろしい十個たらずの影が、入りみだれてゆらめいていた。
二
六月六日に下水道内捜索の命令がくだされ、敗亡者たちがあるいはそこに逃げこみはしないかと懸念して、ビュジョー将軍が人々のよくしる地上のパリに軍を送っている間に、ジスケ警視総監は人々のよく知らない地下のパリに警官を送ったのだ。警官と下水夫との三隊は、パリの地下道の探検にかかった。ひとつはセーヌ右岸を、ひとつは左岸を、ひとつはシテ島をさぐった。
警官たちはカービン銃、棍棒、剣、短剣、などを身につけていた。
そのときジャン・ヴァルジャンにさしむけられたのは、右岸|巡邏《じゅんら》隊の角灯だった。
その巡邏隊は、カドラン街の下にある彎曲《わんきょく》したトンネルと、三つのゆき止まりとを見まわってきたところだった。彼らがそれらのゆき止まりの奥に大角灯をふりうごかしているとき、すでにジャン・ヴァルジャンは途中でそのトンネルの入口に出会ったが、本道より狭いのを知って、それにはいりこまなかった。彼はほかのほうへとすすんでいった。警官たちはカドランのトンネルから出てきながら、なにか足音らしいものを聞いたように思った。実際、それはジャン・ヴァルジャンの足音だった。巡邏隊の隊長をしてる警官は、角灯をたかくあげ、一隊の人々は囲繞溝渠《いにょうこうきょ》の方向に、足音の響いてくる方向へ、靄《もや》の中をのぞきこんだ。
ジャン・ヴァルジャンにとっては、なんともいいがたい瞬間だった。
幸いにも、彼はその角灯をよく見ることができた。しかし、角灯のほうは彼をよく見ることができなかった。角灯は光りであり、彼は影だった。彼は非常に遠くにいたし、あたりの暗黒の中につつまれていた。彼は壁に身をよせて立ちどまった。
それに彼は、後方に動いてるものがなんであるか知らなかった。不眠と絶食と激情とで、彼は幻覚の状態におちいっていた。彼はひとつの炎を見、炎のまわりに幽鬼をみた。それはいったいなんであるか、彼にはわけがわからなかった。
ジャン・ヴァルジャンが立ちどまったので、音はやんだ。
巡邏《じゅんら》の人々は、耳をすましたがなにも聞えず、眼をさだめたがなにも見えなかった。彼らは互いに相談をはじめた。
ジャン・ヴァルジャンは幽鬼らがいっしょにまるく集まってるのを見た。その犬のような頭は、互いに近くよってささやきかわしていた。
それらの番犬がした相談の結果は、こうだった。なにか思い違いをしたのだ。音がしたのではない。誰もいない。囲繞溝渠《いにょうこうきょ》のうちにはいりこむのは無駄だ。それはただ時間を空費するだけだ。それよりもサン・メリーのほうへいそいでいかなければいけない。
隊長は斜めに左へそれてセーヌ河への斜面のほうへくだっていくよう命令をくだした。もし彼らがふたつにわかれて二方面へ進んでみようという考えをおこしたならば、ジャン・ヴァルジャンは捕えられていたろう。運命はただ一筋の糸にかかっていた。おそらく警視庁では戦闘の場合を予想し、暴徒たちが多数いるかもしれないと予想して、巡邏隊に分散することを禁ずる訓令をだしたのだろう。一隊はジャン・ヴァルジャンをうしろにのこして歩きだした。すべてそれらの行動についてジャン・ヴァルジャンの見たことは、にわかに角灯がむこうにむいて光りがきえていくことだった。
隊長は警官としての良心の責をまぬかれるため、たち去る前に、見捨てていく方面にむかって――ジャン・ヴァルジャンのほうにむかって、カービン銃を発射した。その響きはトンネルの中に、反響また反響となってつたわり、ちょうど巨大な腸が腹鳴りするようだった。一片のしっくいが流れのなかにおち、数歩のところに水をはねあげたので、ジャン・ヴァルジャンは頭の上の円天井に弾があたったのを知った。
調子をとったゆっくりした足音が、しばらくトンネルの底部の上にひびき、遠ざかるにつれて次第に弱くなり、一群の黒い影は見えなくなった。ちらちらとただよってる光りが、円天井にまるい赤味を見せていたが、それも小さくなって、ついに消えてしまった。静けさはまた深まり、暗黒はまた一面にひろがり、その闇の中にはもうなにも見えるものもなく、聞えるものもなくなってしまった。けれどもジャン・ヴァルジャンは、なおあえて身動きもせずに、ながいあいだ壁に背をもたしてたたずみ、耳をかたむけ、瞳《ひとみ》をひろげ、その一隊の幻がきえ去るのをながめていた。
三
六月六日の午後、セーヌ右岸のアンヴァリード橋のすこしさきの河岸にふたりの男が歩いていた。
どちらもいそぐ様子はなく、ゆっくりと歩いていた。あまりいそいで、かえって相手のあゆみを早めはしないかと、互いに気づかっているようだった。
第一の男は、自分のほうが弱いのを知って、第二の男をさけようとしていた。
河岸の土手にはほかに人影もなかった。とおりすぎる者もなかった。ところどころにつないである運送船には、船頭もいず人夫もいなかった。
むこう岸からでなければふたりの様子を見ることはできなかった。そしてそれだけの距離をおいてながめると、さきにいく男は、髪の毛を逆立《さかだ》て、ぼろをまとい、あやしげな姿をして、ぼろぼろの仕事服の下に不安そうにふるえていた。うしろの男は、旧式の役人ふうの姿をして、フロック型の官服をつけ、あごのところまでボタンをはめているのが見えたろう。
第二の男が第一の男をさきに歩かせて、なお捕えないでいるのは、その様子から推測すると、彼をある名だけは知れてるが、正体のわからぬ巣窟にはいりこませ、一群のいい獲物のいるところまで案内させようというつもりらしかった。
ボタンをはめてる男は河岸通りをとおりかかった空《から》の辻馬車を見つけ、馭者に合図した。馭者はその合図を理解し、またきっと相手がどういう人であるかを見てとったのだろう、手綱をまわして河岸通りの上から並足《なみあし》でふたりの男についていきはじめた。そのことは、さきに歩いてるぼろ服のあやしい男からは気づかれなかった。
第一の男の立場は明らかに危険にひんしていった。
セーヌ河に身を投げるのでなければ、いったい彼はどうするつもりだろう。
さきにいけばもう河岸通りにのぼる方法はない。傾斜もなければ階段もなかった。そのさきは、セーヌ河がイエナ橋のほうにまがってる地点で、土手はますます狭くなり、ついに水の中に没していく。そこまでいけば、右手は絶壁となり、左と前とは水となり、うしろには警官がやってきて、彼はどうしても四方八方からはさまれることになるのだった。
もっともその土手のつきるところには、なんの破片ともつかないいろいろな遺棄物が二メートル近くの高さにつもって、人の眼をさえぎっていた。しかしその男は一周すればすぐに見つけられるようなその残壊物のうしろに、うまく身をかくそうとでも思ってるのだろうか。
残壊物の堆積《たいせき》は水際に高くそびえていて、河岸通りの壁まで岬《みさき》のように突き出ていた。
追われてる男は、その小さな丘のところまでいって、それをまわった。そのために、もひとりの男からは見えなくなった。
うしろの男は、相手の姿を見ることができなくなったが、それとともに先方から見られることもなくなった。彼はその機会に乗じて、いままでの仮面をぬいでごく早く歩きだした。まもなく残壊物の丘のところにきて、それをひとまわりした。そして彼は唖然《あぜん》として立ちどまった。彼が追っかけてきた男は、もうそこにいなかった。
仕事服の男は、まったく雲隠れしてしまったのである。
土手は残壊物の堆積からさきには三十歩ばかりしかなく、河岸通りの壁に打ちつけてる水の中に没していた。
逃走者がセーヌ河に身をなげるか、河岸通りによじのぼるかすれば、かならず追跡者の眼にとまったはずだ。いったい彼はどうなったのだろう?
上衣にボタンをかけてる男は、土手の先端まですすんでいき、拳をにぎりしめ、眼を見はり、考えこんで、しばらくたたずんだ。と、突然、彼は額をたたいた。地面がつきて水となってるところに、ぶ厚い錠前と三つの太い肘《ひじ》金のついてる大きな低い円形の鉄格子を、彼は見つけたのだった。その鉄格子は、河岸通りの下にひらいてる一種の門で、その口は河と土手とにまたがっていた。黒ずんだ水が下から流れ出ていた。水はセーヌ河にそそいでいた。
そのさびついた重い鉄棒のむこうに、一種の円い廊下が見えていた。
彼は両腕をくみ、鉄格子をにらみつけた。
しかしにらんだだけではたりなく、彼はそれを押しひらこうとした。そしてゆすってみたが、鉄格子はびくともしなかった。なんの音も聞えなかったけれども、たぶんそれはいましがたひらかれたはずだ。そんなさびついた鉄格子にしては、音のしなかったのが不思議だ。またそれはふたたびとざされたに相違ない。してみれば、ついさっきその門をひらいてとじた男は、鍵をもっていることは確かだった。
その明らかな事実が、鉄格子をゆすってる男の頭に突然うかんできた。彼は憤然《ふんぜん》として思わず口ばしった。
「じつにけしからん、政府の鍵をもっているとは!」
それから彼は冷静にかえり、強くいった。
「よし、よし、よし、よしっ!」
そういって、彼は残壊物の堆積のうしろにひそんで見張ることにした。
彼の足なみに速度をあわせてきた辻馬車のほうも、上方の|らんかん《ヽヽヽヽ》のそばにとまった。馭者はながく待たねばならないだろうと予想して、下のほうがしめってる燕麦《えんばく》の袋を馬の鼻|面《づら》にあてがった。
四
一方、下水道内のジャン・ヴァルジャンはふたたび前進しはじめて、もう足をとめなかった。
行進はますます困難になってきた。円天井の高さは一定でなかった。平均の高さは、人の身長にあわせてあった。ジャン・ヴァルジャンはマリユスを天井に打ちつけないように背をかがめなければならなかった。各瞬間ごとに身をかがめ、それからまた立ちあがり、たえず壁にふれてみなければならなかった。壁石の湿気と底部のねばりけとは、手にもまた足にもしっかりした支えをあたえてくれなかった。彼は都市のきたない排泄物《はいせつぶつ》の中にひざまずいた。風窓からときどきさしてくる明るみは、ながい間隔をおいてしか現われなかったし、太陽の光りも月の光りかと思われるほど弱々しかった。その他はすべて、靄《もや》と毒気と混濁と暗黒だけだった。ジャン・ヴァルジャンは腹がすき、のどが渇《かわ》いてきた。ことに渇《かわ》きはひどかった。しかもそこは海のように、水が一面にありながら一滴も飲むことのできない場所だった。彼の体力は、読者も知るとおり、非常に大であって、清浄節欲《せいじょうせつよく》な生活のために老年になってもほとんどおとろえてはいなかったが、それでもいまは弱りはじめてきていた。
疲労がおそってきた。そのために体力は消耗し、背の荷物はしだいに重くなってきた。マリユスはもう死んでるのかも知れない。死人のようにずっしりした重さだった。ジャン・ヴァルジャンはその胸をなるべく押えないように、またその呼吸がなるべく自由にかようように、彼をかついでいた。足の間を鼠がすばやく逃げていくのを感じた。なかには狼狽《ろうばい》して彼に噛《か》みついたのもいた。ときどき下水道の口のすきまから新しい空気がすこし流れこんできたので、彼はまた元気になることもあった。
彼が囲繞溝渠《いにょうこうきょ》についたのは、午後三時ごろだったろう。
彼は突然、道が広くなったのに驚いた。両手をのばして両方の壁にとどかず、頭も上の円天井にとどかないほど広いトンネルに急に出たのだった。実際、その大溝渠は広さ二・五メートル、高さは二メートルもあった。
だが、ここにきてふたたび難問題が生じた。傾斜をさがるべきか、それとものぼるべきか? 事情は切迫していた。いまはいかなる危険をおかしてもセーヌ河に出なければならぬ、と彼は考えた。つまり、そのためには、傾斜をおりていかなければならぬ、と。彼は左へ曲った。
その選定は彼のためにしあわせだった。もしジャン・ヴァルジャンがトンネルをあがっていったなら、限りない努力をかさねた後、まったく疲れきり、息もたえだえになって、暗黒の中でひとつの壁につきあたっただろう。そして彼はもう万事休したにちがいない。
彼は、ラフィット街とサン・ジョルジュ街との下で鷲《わし》の爪の形にわかれてるふたつのトンネルと、アンタン大道の下のフォーク形にわかれてる長いトンネルとを、そのまま右にしてまっすぐにすすんでいった。
たぶんマドレーヌの分岐《ぶんき》らしいひとつの横道からすこしさきまでいったとき、彼は立ちどまった。非常に疲れていた。おそらく、そこはアンジュー街ののぞき穴だったろう。かなり大きな風窓があって、相当強い光りがさしこんでいた。ジャン・ヴァルジャンは負傷してる弟に対するように、やさしい動作で、マリユスを下水道の底の段のうえにおろした。マリユスの血にそまった顔は、風窓からくる白いあかりをうけて、まるで墓の底にある死体のようにみえた。眼はとじ、髪は赤い絵具をふくんだまま乾いてる|はけ《ヽヽ》のようになって額にこびりつき、両手は死んだようにだらりとたれ、手足はつめたく、唇のすみには血がかたまっていた。血のかたまりがネクタイのむすび目にたまっていた。シャツのはしが傷口にめりこみ、上衣の羅紗《らしゃ》がなまなましい肉の大きな切れ目をじかにこすっていた。ジャン・ヴァルジャンは指先で服をひらいて、その胸に手をあててみた。心臓はまだ鼓動していた。彼は自分のシャツをさき、できるだけよく傷口をしばって、その出血を止めた。それからうすらあかりの中で、依然として意識もなく、またほとんど息の根もないマリユスの上に身をかがめ、名状しがたいある怨《うら》みの情をもって彼を見まもった。
マリユスの服をひらいたとき、ジャン・ヴァルジャンはそのポケットにふたつのものを見いだした。前日いれたまま忘れられてるパンと、マリユスの紙ばさみだ。彼はそのパンを食い、つぎに紙ばさみをひらいてみた。第一のぺージにマリユスがかいたつぎのような数行がみられた。
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私はマリユス・ポンメルシーという者なり。マレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街六番地に北む私の祖父ジルノルマン氏のもとに、私の死骸を送れ。
[#ここで字下げ終わり]
ジャン・ヴァルジャンは風窓からさしこむ光りでその数行を読み、しばらくなにか考えこんだようにたたずみながら、なかば口の中でくりかえした。「フィーユ・デュ・カルヴェール街六番地、ジルノルマン氏」それから彼は紙ばさみをまたマリユスのポケットにしまった。彼はパンをたべたので、力を回復した。それでマリユスをふたたび背におい、その頭を注意して自分の右肩にもたせ、また下水道をおりはじた。
ジャン・ヴァルジャンはやがて、水の中にはいっていくのを感じ、また足の下にはもう敷石がなくて泥土ばかりなのを感じた。
一八三三年にはじめられた大工事以前には、パリの下水道に、たまたま人を埋没《まいぼつ》させるような場所があった。
水が、特にくだけやすい下層の地面にしみこむので、その部分は、もうそれを支えるものがなくなってゆらぎだしていた。こういう床板《ゆかいた》にあって、一つの皺《しわ》は、そのままひとつの割れ目となる。ひとつの割れ目はまた、そのまま、ひとつの崩壊となる。底部はかなり深く破壊されていた。ぬかるみの二重の深淵──その亀裂を専門語で崩壊孔《ほうかいこう》という。
崩壊孔の深さは一定でなく、またその長さや密度も場所によってちがい、地層の粗悪さに比例する。ときとすると、一メートルくらいの深さのこともあれば、二、三メートルになることもあり、あるいは底がわからないこともある。その泥土はほとんど堅くなってるところもあれば、ほとんど水のように柔らかいところもある。
ジャン・ヴァルジャンはひとつの崩壊孔に出会ったのだった。
崩壊孔は、前日のにわか雨のためにできたものだった。下の砂土にようやく支えられていた敷石はゆがんで、雨水をふさぎとめ、水が中にしみこんで、地|崩《くず》れがおこっていた。底部はゆるんで、泥土の中にめりこんでいた。どれほどの長さにおよんでいたか、それはわからない。闇は他のところよりもずっと濃くなっていた。それは闇夜の洞窟の中にある泥土の穴だった。
ジャン・ヴァルジャンは、足もとの敷石が逃げていくのを感じた。彼はぬかるみの中にはいった。表面は水であり、底は泥だった。けれどもそれをとおり越さなければならなかった。後ろにひっかえすことは不可能だった。マリユスは死にかかっており、ジャン・ヴァルジャンは疲れきっていた。それにまたどこにもほかにゆくべき道はなかった。ジャン・ヴァルジャンは前進した。その上、はじめの二、三歩ではその窪《くぼ》地はそれほど深くなさそうだった。しかし進むにしたがって、足はしだいに深く沈んでいった。やがて泥が脛《はぎ》のなかばまでき、水が膝《ひざ》の上にやってきた。彼は両腕でできるだけマリユスを水の上に高くあげながら、進んでいった。いまは泥は膝まで、水は帯のところまでやってきた。もうひっかえすことはできなかった。ますます深く沈んでいった。底の泥土は、ひとりの重さにやっとたえられるくらいの濃《こ》さだったが、ふたりまでも支えることはもちろんできなかった。マリユスとジャン・ヴァルジャンとが、もしべつべつに進んでいるのだったら、あるいはそれ程、危険もなく渡りおえたかもしれなかった。しかしジャン・ヴァルジャンは、おそらくもう死骸になってるかもしれない瀕死《ひんし》のマリユスをかついで、つづけてなお前進した。
水は腋《わき》まできた。彼はいまにも泥の中に沈んでしまうような気がした。その深い泥土の中で足をはこぶのもやっとだった。支えとなる泥の密度はかえって障害となった。彼はなおマリユスを持ちあげ、非常な力をついやして前進した。しかしますます全身は沈んでいった。もう水から出てるのは、マリユスを支えてる両腕と頭とだけだった。
彼の全身はなおつづけて沈んでいった。水をさけて呼吸をつづけるために、頭をうしろにたおし、顔をあおむけにした。もしその暗黒の中で彼をみた者がいたら、影の上にただよってる仮面かと思ったかもしれない。彼は自分の上に、マリユスのうなだれた頭と蒼白《そうはく》な顔とを、ぼんやり見わけた。彼は死にものぐるいの努力をして、足を前方にすすめた。足はなにか堅いものにふれた。ひとつの足場だ。ちょうどいいときだった。
彼は身をのばし、身をひねり、夢中になってその足場にのった。生命のうちにのぼっていく階段の第一段のように思えた。
危急の際に底の泥の中で出会ったその足場は、底部のむこうの一端だった。それはまがったまま壊《こわ》れないでいて、水の下でたわんでいた。よくきずかれた石畳工事は、アーチになっているため、このように丈夫なのだった。その一片の底部は、なかば沈没しながらなおつよく、かたまっていて、まるでそのままひとつの坂道となっていた。一度その坂に足をおけば、もう安全だった。ジャン・ヴァルジャンはその斜面をのぼって、崩壊孔のむこう岸についた。
彼は水から出て、ひとつの石につきあたると、そのまま、そこにひざまずいてしまった。そしてきわめて自然にほとばしる気持ちから、しばらくそこにひざまずいたまま、一心に神への感謝の祈りをささげた。
彼は身をふるわし、氷のように冷たくなり、臭気にまみれ、瀕死の者をにない、背をかがめ、泥をたらし、魂は異様な光明にみたされながら、立ちあがった。
五
ジャン・ヴァルジャンはふたたび進みだした。
けれども、崩壊孔の中に生命を落してはこなかったが、彼はすべての力をそこに落してきてしまったかのようだった。極度の努力に彼は疲労しきっていた。いまは身体に力がなく、三、四歩すすんでは息をつき、壁によりかかっては休んだ。あるときは、マリユスを背おいなおすために石段のところに坐らねばならなかった。そしてもう動けないかと思った。しかしたとい力がなくなっていたとしても、元気だけは消えうせていなかった。彼はまた立ちあがった。
彼はほとんど足早に絶望的に歩きだして、頭もあげず、息もろくにつかないで、百歩ばかりすすんだ。すると突然、壁にぶつかった。下水道の曲り角にきたとき、彼は頭をさげて歩いていたので、その壁にゆきあたったのだった。眼をあげてみると、トンネルの先端に、前方の遠くはるかかなたに、ひとつの光りが見えた。今度は前のように恐ろしい光りではなかった。それは楽しい、白い光りだった。太陽の光りだった。
ジャン・ヴァルジャンは出口を見いだしたのだった。
永劫《えいごう》の罰をうけ焦熱《しょうねつ》地獄の中にいて、突然出口を見いだした魂のみが、そのときジャン・ヴァルジャンが感じた心持ちを知ることができるだろう。その魂は、焼けのこりの翼をひろげ、光り輝く出口のほうへ、狂気のようにとんでいくにちがいない。ジャン・ヴァルジャンはもう疲労を感じなかった。もうマリユスの重みも感じなかった。足はふたたび鋼鉄のように丈夫になって、歩くというよりむしろ走っていった。近づくにしたがって、出口はますますはっきり見えてきた。それは穹窿《きゅうりゅう》形のアーチで、しだいに低くなってるトンネルの円天井よりもさらに低く、円天井がさがるにしたがってしだいにせまくなってるトンネルよりもさらにせまかった。トンネルは漏斗《じょうご》の内部のようになっていた。
ジャン・ヴァルジャンはその出口に達したのである。
そこで彼は立ちどまった。
まさしく、そこは出口ではあったが、出ることはできなかった。
円い門は丈夫な鉄格子でとざされていた。そして鉄格子は、酸化した肘《ひじ》金のうえに、めったに開閉された様子もみえず、石の框《かまち》に厚い錠前で固定されていた。錠前は赤くさびて、大きな煉瓦のようになっていた。鍵穴もみえ、頑丈な|かんぬき《ヽヽヽヽ》が鉄の|うけくぎ《ヽヽヽヽ》にふかくはまってるのもみえていた。錠前には明らかに二重錠がおろされていた。それはむかしパリでやたらに使われた牢獄の錠前のひとつだった。
鉄格子のむこうには、大気、河、昼の光り、遠い河岸通り、容易に姿をかくしうる奥ぶかいパリ、広い眼界、自由などがあった。右手には下流のほうにイエナ橋、左手には上流のほうにアンヴァリード橋が見えていた。夜をまって逃走するのに好都合な場所だった。パリのもっともさびしい地点のひとつだった。
午後の八時半ごろだろう。日はくれかかっていた。
ジャン・ヴァルジャンは底のかわいてるところに壁にそってマリユスをおろし、それから鉄格子のところまですすんでいって、その鉄の棒を両手でつかんだ。そして狂気のごとくゆすったが、それは、すこしも動かなかった。鉄格子はびくともしなかった。ゆるんでる鉄の棒を引きぬいて|てこ《ヽヽ》として扉をこじあけるか、錠前をこわすかするつもりで、彼は鉄の棒を一本一本つかんだがどれも小|揺《ゆる》ぎさえしなかった。ひとつの|てこ《ヽヽ》もなく、ひとつの力になるものもなかった。障害は人力だけではどうしようもなかった。扉をあける方法はなにもなかった。
彼は、そこでついに、今までのいっさいの努力をおわらねばならなかったのか。どうしたらいいのか。どうなるのか。ひっかえして、今までとおってきた恐ろしい道程をもう一度くりかえすには、もはや力がつきていた。それにまた、ようやく奇跡のように脱してきたあのぬかるみの孔を、どうしてとおることができよう。さらにそのぬかるみのうしろには、巡邏隊がいるではないか。今度は、二度と彼らからのがれられるはずはない。では、どこへいったらいいのか。どの方向をとったらいいのか。傾斜について進んでも、目的に達せられるものではない。ほかの出口にたどりついたところで、かならずそこも石のふたか鉄の格子でふさがれているだろう。あらゆる口がそういうふうにとざされてることは疑いない。彼がはいってきた鉄格子は偶然にもゆるんでいたが、しかし下水道の他の口がすべてとざされてることは明らかだ。彼はただ牢獄の中に逃げこんだのにすぎなかった。
万事は終りだった。ジャン・ヴァルジャンがなしてきたすべては、徒労《とろう》に帰した。神はそれを受けいれなかったのだ。
彼らはふたりとも、死の大きな暗い網にとらえられてしまったのだ。そしてジャン・ヴァルジャンは、暗黒の中にふるえ動くまっ黒な網の糸の上に、恐るべきくもが走りまわってるのを感じた。
彼は鉄格子に背をむけ、やはり身動きもしないでいるマリユスのそばの敷石の上に、坐るというより倒れるように身をおとした。彼の頭は両膝のあいだにたれた。出口がない。それが苦悶の最後の一滴だった。
その深い重圧の苦しみのうちに、誰のことを彼は考えていたか。それは自分のことでもなく、またマリユスのことでもなかった。彼はコゼットのことを思っていたのだった。
六
ジャン・ヴァルジャンがこうした失意と落胆のうちにしずんでいたとき、突然ひとつの手が彼の肩におかれ、ひとつの声が低く彼に話しかけた。
「おい、山わけしよう」
その闇の中には、いったい誰がいるのだろうか? ジャン・ヴァルジャンは夢をみてるのだと思った。すこしも足音はきこえなかった。現実にそんなことがありうるだろうか。彼は眼をあげた。
ひとりの男が彼の前にいた。
男は労働服をきて、足にはなにもはかず、靴を左手にもっていた。きっと彼は、足音をたてないでジャン・ヴァルジャンのところまでくるために、靴をぬいでいたのだった。
ジャン・ヴァルジャンはその男が誰だかすぐにわかった。いかにも意外な出会いだったが、見覚えがあった。その男はテナルディエだった。
まるで突然眼がぱっとさめたような気持ちだったが、ジャン・ヴァルジャンは危急になれており、意外な打撃をも瞬間にうけ止めるようにきたえられていたので、ただちに冷静にかえることができた。それに第一、事情はともあれ、相手が誰であろうと、これ以上険悪になるはずがなかった。困難もある程度になると、もはやそれ以上に大きくなりえないものだ。テナルディエがでてきたからといって、その闇夜をいっそう暗くすることはできなかった。
しばらくの間、ふたりは互いにさぐり合った。
テナルディエは右手を額のところまであげて目庇《めびさし》をつくり、それから眼をまばたきながら眉をよせた。それは口をかるくとがらすのといっしょに、相手が誰だか見てとろうとする鋭い注意をしめすものだった。しかし彼はそれに成功しなかった。ジャン・ヴァルジャンは前にいったとおり、光りのほうに背をむけていたし、またまっ昼間の光りでさえも見わけにくいほど泥にまみれ、血にそまって姿がかわっていた。それに反してテナルディエは、穴ぐらの中のようなほの白いあかりだが、ともかく、そのほの白さの中にも妙にはっきりしてる鉄格子からくる光りを、ま正面から受けていたので、すぐにジャン・ヴァルジャンの眼に誰であるかがわかった。この条件のちがいは、いまやふたつの位置とふたりの男とのあいだにおこなわれようとする不思議な対決において、たしかにジャン・ヴァルジャンのほうにある有利さをあたえた。戦いは、覆面《ふくめん》をしたジャン・ヴァルジャンと仮面をはいだテナルディエとの間におこなわれた。
ジャン・ヴァルジャンは、テナルディエが自分を見てとっていないことにすぐ気がついた。
ふたりはそのうす暗い中で、互いに身長をはかり合ってるように、しばらくじろじろとながめあった。テナルディエがさきに沈黙をやぶった。
「お前はどうして出るつもりだ」
ジャン・ヴァルジャンは返事をしなかった。
テナルディエはつづけていった。
「扉をこじあけることはできねえ。だがここから出なけりゃならねえんだろう」
「そのとおりだ」とジャン・ヴァルジャンはいった。
「じゃあ、山わけだ」
「いったいなんのことだ?」
「お前はその男をやっつけたんだろう。よかろう。ところでおれのほうに鍵があるんだ」
テナルディエはマリユスを指さした。彼はつづけていった。
「おれはお前を知らねえ、だが、おれは、すこしおめえに力をかしてやろうというんだ。おだやかに話をつけようじゃねえか」
ジャン・ヴァルジャンは、彼がもちかけてきた話のすじが大体わかってきた。テナルディエは彼を人殺しだと思ってるのだった。テナルディエはまたいった。
「まあ聞けよ、お前はそいつの懐中を見とどけずにやっつけたんじゃあるめえ。半分おれによこせ。扉をあけてやらあね」
そして穴だらけの上衣の下から大きな鍵を半分ほど引き出しながら、彼はまたいいそえた。
「自由な身になる鍵がどんなものか、見てえならみせてやろう、これさ」
テナルディエはまた、上衣の下にかくされてる大きなポケットに手をいれ、ひとすじの綱をとり出して、それをジャン・ヴァルジャンにさし出した。
「さあ」と彼はいった。「お前にこの綱もつけてやらあな」
「綱をなんにするんだ」
「石もいるだろうがそれはほかにある」
「石をなんにするんだ」
「ばかだな、お前はそいつを河になげこむつもりだろう。まず石と綱がいるじゃねえか。そうしなけりゃ、水に浮いちまわなあ」
テナルディエは、そこで突然ある考えが浮かんだかのように、指をならしながらいった。
「ところで、お前はどうしてむこうの泥孔をこしてきたんだ。おれにはとてもできねえ。ふう、あまりいい臭いじゃねえな」
彼はまた、ちょっとだまったのち、いいだした。
「おれがいろんなことを聞いてるのに、お前が、いっこう返事もしねえのはもっともだ。口をききさえしなけりゃ、あまり大きな声をだしゃしねえかという心配もねえわけだからな。だが、どっちみち同じことだ。おまえの顔もよく見えねえし、お前の名も知らねえからといって、お前がどんな人間でどんなことをするつもりか、おれにわからねえと思っちゃ間違げえだぜ。よくわかってらあね。お前はその男を|ばらして《ヽヽヽヽ》、いまどこかに押しこむつもりだろう。お前には河がいるんだ。河ってものはばかなことをすっかりかくしてしまうものだからな。こまるならおれが救ってやらあ。正直者の難儀を助けるなあ、ちょうどおれのはまり役だ。もっとも泥孔といやあ、お前はどうかしてるな。なぜ、あそこにほおりこんでこなかったんだ?」
テナルディエがしゃべればしゃべるほど、ジャン・ヴァルジャンはますますだまりこんだ。テナルディエはまた彼の肩をおしうごかしながらいった。
「さあ用事をすまそう。ふたつにわけるんだ。お前はおれの鍵を見たんだから、おれにもひとつお前の金を見せなよ」
テナルディエはあらあらしく、獰猛《どうもう》で、胸に一物《いちもつ》あるらしく、多少|威嚇《いかく》するようなふうだったが、それでもごくなれなれしそうだった。
不思議なことがひとつあった。テナルディエの様子も、|ひととおり《ヽヽヽヽヽ》のものではなかった。すこしも落ちついてるような様子はみえなかった。平気なふうをよそおいながら、声をひくめていた。ときどき口に指をあてては「しっ!」とつぶやいた。その理由はどうも察しにくかった。そこには彼らふたりのほか誰もいなかった。おそらく他に悪党どもがどこかあまり遠くない片すみにひそんでて、テナルディエはそれらと仕事をわかちたくないと思ってるのだと、ジャン・ヴァルジャンは考えた。
テナルディエはいった。
「話を片づけてしまおう。そいつはふところにいくら持ってるんだ?」
ジャン・ヴァルジャンは身体中をほうぼうさがした。
いつも金を身につけてるのは彼の習慣だった。臨機の策をとらなければならない陰惨な生活をおくってる彼は、金を用意しておくのを常則《ヽヽ》としていた。ところがこんどにかぎって無一物だった。前日の晩、国民兵の服をつけたとき悲しい思いにしずみこんでいたので、紙入れをもってくるのを忘れてしまった。彼はただチョッキの内ポケットにかくしたわずかな貨幣を持ってるだけだった。全部で三十フランほどだった。彼は汚水にひたったポケットをうら返して、下水道の庭石の段の上に、ルイ金貨一個と五フラン銀貨二個と大きな銅貨を五、六個とをならべた。
テナルディエは妙に首をひねりながら下唇をつきだした。
「安っぽくやっつけたもんだな」と彼はいった。
彼はごくなれなれしく、ジャン・ヴァルジャンとマリユスのポケットにいちいちふれてみた。ジャン・ヴァルジャンは特に光りのほうに背をむけることばかりに気をつかってたので、彼のするままにまかせてた。テナルディエはマリユスの上衣をあつかってる間に、手品師のような機敏さで、ジャン・ヴァルジャンが気づかないうちに、その破れた一片をさきとって自分の上衣の下にかくした。その一片の布は、いつか被害者と加害者とが誰だかを知る手掛りになるだろうと、たぶん考えたのだろう。しかし金のほうは、三十フラン以外には少しも見いだされなかった。
「なるほど」と彼はいった。「ふたりでそれだけしか持ってねえんだな」
そして|山わけ《ヽヽヽ》という約束を忘れて、彼は全部とってしまった。
大きな銅貨に対しては、彼はさすがにちょっとためらった。しかし考えた末、それをも奪いながら口の中でつぶやいた。
「かまわねえ、あまり安すぎるからな」
それがすんで、彼はまた上衣の下から鍵をひき出した。
「さあ、お前はでなけりゃなるめえ。ここは市場のようなもんで、出るときに金をはらうんだ。お前は金をはらったから、出るがいい」
そして彼は笑いだした。
彼がそういうふうに、見知らぬ男に鍵をかしてやり、その門から他人を出してやったのは、一殺害者を救ってやろうという純粋無私な考えからだったろうか。それについては疑わしい点がある。
テナルディエは、ジャン・ヴァルジャンに自分から手伝って、ふたたびマリユスを肩にかつがせ、それから自分についてくるように合図した。|はだし《ヽヽヽ》で、爪先《つまさき》でそっと鉄格子のほうへすすみより、外をのぞき、指を口にあて、決心のつかないような様子でしばらくたたずんでいた。やがて外の様子をしらべおわって、彼は鍵を錠前の中に差しこんだ。閂《かんぬき》はすべり、扉はひらいた。すれる音もせず、きしる音もしなかった。ごく静かにひらかれてしまった。それでみると明らかに、鉄格子と肘《ひじ》金とはよく油がぬられていて、思ったよりしばしばひらかれていたものらしい。
テナルディエは扉をすこしひらき、ジャン・ヴァルジャンにちょうど通れるだけのすきまをつくり、鉄格子をふたたびとざし、錠前の中に二度鍵をまわし、息の根ほどの音もたてないで、暗黒の中にまた没してしまった。
ジャン・ヴァルジャンは外に出た。
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第三章 ジャヴェルの変節
一
ジャン・ヴァルジャンはマリユスを河岸の上にすべりおろした。
彼らは外に出たのだ。
毒気と暗黒と恐怖とはうしろに去った。自由に呼吸できる、清純な、すがすがしい、気持ちのよい空気があたりにあふれていた。
ジャン・ヴァルジャンはしばらくの間、そのおごそかな、またやさしい清朗の気に、まったくうたれてしまった。それから急に、彼はマリユスのほうへ身をかがめ、手のひらのくぼみの中に水をすくって、その数滴をしずかに彼の顔にふりかけた。マリユスの|まぶた《ヽヽヽ》はひらかなかった。けれどもなかばひらいてるその口にはまだ息がかよっていた。
ジャン・ヴァルジャンはふたたび河に手をいれようとした。そのとき、姿はみえないが誰かが背後に立ってるような、いいしれぬ不安を感じた。
ジャン・ヴァルジャンはふり返った。
はたして何者かがうしろにいた。
背の高いひとりの男が、フロック形の長い上衣をき、両腕をくみ、しかも右手には鉛の頭がみえてる棍棒をもって、マリユスの上にかがみこんでるジャン・ヴァルジャンの数歩うしろのところに、じっと立っていた。
それは影につつまれていて、幽霊のようにみえた。単純な者だったら、うす暗がりのために恐怖を感じたろう。思慮ある者だったら、棍棒のために恐怖を感じたろう。
ジャン・ヴァルジャンは、その男がジャヴェルであることを見てとった。
テナルディエを追跡したのはジャヴェルにほかならなかったのだ。ジャヴェルは思いがけずも防塞から出たあと、警視庁へゆき、わずかの間、したしく総監に会って口頭で報告し、それからまたすぐに自分の任務──それはしばらく前から警察の注意をひいていたセーヌ右岸のシャン・ゼリゼ付近を監視する任務についた。彼はそこでテナルディエを見つけ、その跡をつけたのだった。
ジャン・ヴァルジャンの前に親切にも鉄格子をひらいてやったのは、テナルディエのひとつの妙策だった。テナルディエはジャヴェルがまだそこにいることを感じていた。待ちぶせられてる男は、的確なひとつの臭覚をもってるものだ。そこで猟犬に一片の骨を投げあたえてやる必要があった。殺害者とはなんという思いがけぬ幸いであろう! それはまたとない身代りで、どうしても逃がすわけにはいかない。テナルディエは自分のかわりにジャン・ヴァルジャンを外につき出すことによって、警察に獲物をあたえ、自分の追跡をゆるませ、いっそう大きな事件のうちに自分を忘れさせ、いつもスパイがよろこぶ報酬をジャヴェルにあたえ、自分は三十フランをもうけ、そして自分のほうはそれにまぎれて逃げだそうと考えたのだった。
ジャン・ヴァルジャンはひとつの暗礁から他の暗礁へぶつかった。
あいついでテナルディエからジャヴェルヘと落ちていった二度の災難は、あまりにもきびしすぎた。
ジャン・ヴァルジャンはまったく姿がかわっていたので、ジャヴェルはすぐにはわからなかった。彼は両腕をくんだまま、眼につかないくらいの動作で棍棒をにぎりしめて、それから短い、はっきりした落ちついた声でいった。
「何者だ?」
「私だ」
「いったい誰だ?」
「ジャン・ヴァルジャン」
ジャヴェルは棍棒を口にくわえ、膝《ひざ》をまげ、身体をかたむけ、ジャン・ヴァルジャンの両肩をふたつの万力《まんりき》ではさむように強い両手でとらえ、その顔をのぞきこみ、そしてはじめてそれと知った。ふたりの顔はほとんど接するほどだった。ジャヴェルの眼つきは恐ろしかった。
ジャン・ヴァルジャンは、山猫の爪をあまんじてうけてる獅子《しし》のように、ジャヴェルにつかまえられたままじっとしていた。
「ジャヴェル警視」と彼はいった。「私はきみの手中にある。それにけさから、私はもうきみに捕えられたものだと自分で思っていた。きみからのがれるつもりならば、住所などを教えはしない。私を捕えるがいい。ただひとつのことをゆるしてもらいたい」
ジャヴェルはその言葉を聞いてるようにも思われなかった。彼はジャン・ヴァルジャンの上にじっと瞳《ひとみ》をすえていた。頤《あご》にしわをよせ、唇を鼻のほうへつき出して、なにかを夢想してる様子だった。それから彼はジャン・ヴァルジャンをはなし、すっくと身をのばし、棍棒をじゅうぶん手のうちににぎりしめ、そして夢の中にでもいるように、つぎの問いを発した、というよりむしろつぶやいた。
「きみはここでなにをしてるんだ、その男は何者だ」
彼はもうジャン・ヴァルジャンをきさまと呼んではいなかった。
ジャン・ヴァルジャンは答えたが、その声の響きにジャヴェルははじめてわれにかえった。
「私がきみに話したいのも、ちょうどこの男のことだ。私の身はきみの勝手にしてほしい。だが、まずこの男をその自宅にはこぶのを手伝ってもらいたい。願いというのはそれだけだ」
ジャヴェルの顔は、人から譲歩をあてにされてると思うたびごとにいつもするように、一瞬緊張の|いろ《ヽヽ》をみなぎらせた。けれども彼は否とはいわなかった。
彼はふたたび身をかがめ、ポケットからハンカチをひき出し、それを河の水にひたして、マリユスの血にそまってる額をぬぐった。
「防塞にいた男だな」と彼はひとりごとのようになかば口の中でいった。「マリユスと呼ばれていた男だ」
彼こそ実に一流の探偵というべきだ。やがて殺されるのを知りながらも、すべてを観察し、すべてに耳をかたむけ、すべてを聞きとり、すべてのことを頭にいれていたのだ。死の苦悶のうちにありながら、様子をうかがい、墓へ一歩ふみこみながら、記録をとっていたのだった。
彼はマリユスの手をとって脈を診《み》た。
「負傷している」とジャン・ヴァルジャンはいった。
「死んでいる」とジャヴェルはいった。
ジャン・ヴァルジャンは答えた。
「いや、死んではいない」
「きみはこの男を、防塞からここまで運んできたんだな」とジャヴェルはいった。
下水道を横ぎってきたその驚くべき救助について、その上たずねることもせず、また彼の問いにジャン・ヴァルジャンがなんとも答えないのを気にもとめなかったのをみると、なにか深く彼の頭をみたしていたものがあったにちがいない。
ジャン・ヴァルジャンのほうは、ただひとつの考えしか抱いていないようだった。彼はいった。
「この男の住所は、マレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街で、その祖父……名前を忘れてしまった」
ジャン・ヴァルジャンはマリユスの上衣をさぐり、紙ばさみをとり出し、マリユスが鉛筆で走り書きしたページをひらき、それをジャヴェルに差し出した。
まだうすあかりがただよっていて文字がかすかに読めた。その上ジャヴェルの眼は、夜の鳥のように暗中にも見える一種の燐光《りんこう》をもっていた。彼はマリユスの書いた数行を読みわけてつぶやいた。
「フィーユ・デュ・カルヴェール街六番地、ジルノルマン」
それから彼は叫んだ。
「おい馭者!」
辻馬車は万一の場合のため、さっきから待っていた。
まもなく、馬車は水飲場の傾斜をおりて土手までやってきた。マリユスは奥の腰掛の上にそっとねかされ、ジャン・ヴァルジャンとジャヴェルとは相並んで前の腰かけに坐った。
戸はとざされ、辻馬車は遠ざかり、河岸通りをバスティーユの方向へのぼっていった。
一行は河岸通りを去って、街路にはいった。馭者台のうえに黒くうきでてる馭者は、やせた馬に鞭《むち》をあてていた。馬車のなかは氷のような沈黙にみたされていた。マリユスは身うごきもせず、奥のすみに身体をよせかけ、頭を胸の上にぐったりとたれ、両腕をぶらさげ、足はかたくなって、もうただ柩《ひつぎ》をまってるだけのように思われた。ジャン・ヴァルジャンは影でできてるかのようであり、ジャヴェルは石でできてるかのようだった。そして馬車のなかはまったくの闇夜で、街灯の前をとおるごとに、明滅する電光で照らされるように内部があお白くひらめいていた。死骸と幽霊と彫像と、三つの悲壮な不動の姿が、偶然いっしょにあつまって、ものすごい顔をつきあわせてるかのように思われた。
二
敷石の上に馬車がゆれるたびごとに、マリユスの頭髪から一滴ずつ血がたれた。
馬車がフィーユ・デュ・カルヴェール街六番地についたときは、もうま夜中だった。
ジャヴェルはまっさきに馬車からおり、大門のうえについてる番地をひと目で見てとり、牡|山羊《やぎ》とサテュロス神とがむかいあってる古風な装飾のある錬鉄の重い金槌《かなづち》をとって、案内の鐘をひとつはげしく叩いた。片方の扉が少しひらいた。ジャヴェルはそれを大きくおしひらいた。門番はあくびをしながら、やっと眼をさましたようなふうで、手にろうそくをもって半身を現わした。
家の中はみんな寝静まっていた。マレーではみんな早寝で、ことに暴動の日などはそうだった。その善良な古い町は、革命ときくとおそれおののき、みんな早くからねてしまう。ちょうど子供たちが、人さらい鬼のくるのをきいて、いそいで頭からふとんをかぶるようなものだった。
その間に、ジャン・ヴァルジャンは両|腋《わき》をささえ馭者は膝をもって、ふたりでマリユスを馬車からひき出した。
そういうふうにマリユスをかかえながら、ジャン・ヴァルジャンは大きくさけてる服の下に手を差しこんで、その胸にさわってみて、なお心臓が鼓動してるのをたしかめた。しかも、馬車の動揺のためにかえって生命をとりかえしたかのように、心臓の鼓動はいくらか前よりはよくなっていた。
ジャヴェルはいかにも暴徒の門番にたいする役人といった調子で、その門番に口をきいた。
「ジルノルマンという者の家はここか」
「ここですが、なんのご用でしょう?」
「息子をつれもどしてきたのだ」
「むすこを?」と門番はぼんやりしたふうにいった。
「死んでるんだ」
汚れたぼろぼろの服をつけたジャン・ヴァルジャンがジャヴェルのうしろに立ってるので、門番はびっくりして恐ろしそうにそちらをながめた。するとジャン・ヴァルジャンが頭をふって、死んでるのではないと合図した。
門番にはジャヴェルの言葉もジャン・ヴァルジャンの合図もよくわからないらしかった。
ジャヴェルはつづけていった。
「この者は防塞にいってたが、このとおりつれてきたのだ」
「防塞に!」と門番は叫んだ。
「そして死んだのだ。おやじを起こしにいけ」
門番はじっと立ったままだった。
「いけといったら!」とジャヴェルはどなった。
そして彼はつけくわえた。
「いずれあすは葬式となるだろう」
ジャヴェルにとっては、公道における普通の出来事は、すべて整然と分類されていた。それは警戒と監視との第一歩だ。そして各事件はそれぞれの部門をもっていた。普通にありそうな事柄はすべて、いわば引出しの中にしまわれていて、場合に応じて必要なだけとり出されるのだった。街路の中には騒乱、暴動、遊楽、葬式などがあった。
門番はただバスクだけをおこした。バスクはニコレットをおこした。ニコレットはジルノルマン伯母《おば》をおこした。祖父のほうは、なるべくおそく知らせるほうがいいというので、眠ったままにしておかれた。
マリユスは建物の他の部屋の者が誰も気づかないうちに二階にはこばれ、ジルノルマン氏のつぎの部屋の、古い安楽椅子に寝かされた。そしてバスクが医者を迎えにいき、ニコレットが箪笥《たんす》をひらいてるあいだに、ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルに肩をつかまえられてるのを感じた。
彼はその意味を理解し、ジャヴェルの足音をうしろにしたがえながら階段をまたおりていった。
門番はまるで恐ろしい夢の中にいるような心持ちで、彼らがはいってきたとおりにまた出ていくのをながめていた。
彼らはふたたび馬車にのった。馭者は馭者台にのぼった。
「ジャヴェル警視」とジャン・ヴァルジャンはいった。「もひとつ許してもらいたい」
「なんだ?」とジャヴェルはあらあらしくたずねた。
「ちょっと自宅《うち》にもどるのを許してほしい。それからあとは、きみの思うままにしてもらおう」
ジャヴェルは上衣の襟《えり》に頤《あご》をうめ、しばらくだまりこんでたが、それから前の小窓をひらいた。
「馭者」と彼はいった。「オンム・アルメ街七番地へやれ」
馬車はオンム・アルメ街についた。街路はいつものとおりひっそりとしていた。街路がせまいので馬車からおりて、ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンのうしろにしたがった。彼らは七番地にきた。ジャン・ヴァルジャンは門をたたいた。門はひらいた。
「よろしい。あがっていくがいい」とジャヴェルはいった。
そして妙な表情をし、しいて口をきいてるかのようなふうをしていいそえた。
「わしはここできみを待っている」
ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルの顔をながめた。そんなやりかたはジャヴェルの平素にも似あわぬことだった。けれども、いまジャヴェルが彼に信頼をおいているとしても、それは自分の爪の長さだけの自由を鼠にあたえている猫の信頼で、またジャン・ヴァルジャンは身をなげだし、すべてを終ろうと決心していたので、そんなことはべつにたいして驚くにもあたらないことだった。彼は戸を押しひらき、家の中にはいり、もう寝ていて寝床の中から門をひらく綱を引いてくれた門番に、「私だ」といいのこし、階段をあがっていった。
二階にきて彼は立ちどまった。あらゆる悲しみの道にも足を休むべき場所がある。階投の上の窓は、|あげ《ヽヽ》戸窓になっていたが、それがいっぱいにひらかれていた。古い家によく見うけられるとおり、その階段も外からあかりがとられていて、街路が見えるようになっていた。ちょうど正面にある街路の光りがすこし階段にさして灯火の倹約となっていた。
ジャン・ヴァルジャンは息をつくためか、あるいはただ機械的にか、その窓から頭をだした。そして街路の上に身をかがめてみた。街路はみじかく、端から端まであかるく街灯にてらされていた。ジャン・ヴァルジャンはぼうぜんとしてわれを忘れた。そこにはもう誰もいなかった──
ジャヴェルはたち去っていた。
三
人々からとりあえず安楽椅子の上にのせられたまま身動きもしないで横たわってるマリユスを、バスクと門番とは客間にはこんだ。呼ばれた医者は駈《か》けつけてきた。ジルノルマン伯母は起きてきた。
ジルノルマン伯母は驚きあわて、うろうろし、両手をにぎりあわせ、「まあどうしたことだろう」と口にするだけで、なんにもできなかった。時とするとまたいいそえた。「なにもかも血だらけになる」それから最初の恐怖がしずまると、彼女の頭にも事情が多少わかってきて、「こうなるにきまってたんだわ」という言葉をはいた。それでも彼女は、そういう場合によく口にする「|わたしがいったとおりだわ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」とまではいわなかった。
医者のいいつけで、折りたたみ寝台がひとつ安楽椅子のそばにすえられた。医者はマリユスを診察して、脈がまだつづいており、胸にはひとつも深い傷がなく、唇のすみの血は鼻孔から出てるものであることを検《しら》べあげたあと、彼を寝台の上に寝かし、呼吸を自由にさせるために、上半身をはだかにし、枕をあたえないで頭が身体とおなじ高さに、というよりむしろ多少低くなるようにした。ジルノルマン嬢はマリユスがはだかにされるのをみて、席をはずした。そして自分の部屋でお祈りをはじめた。
マリユスは身体の内部におよぶ傷害をひとつもうけていなかった。一弾は、紙ばさみに勢いをそがれ、横にそれて、脇にひどい裂傷をあたえていたが、それはべつに深くはなく、したがって危険なものではなかった。下水道の中をながい間とおってきたため、折れた鎖骨はまったくくいちがってて、それが一番ひどい傷だった。両腕は一面にサーベルによる傷をうけていた。顔にはひどい傷はひとつもなかった。けれども頭はすっかりめちゃくちゃになっていた。それらの頭部の傷はどういう結果をきたすだろうか、頭皮だけにとまってるのだろうか、脳をもおかしてはいないだろうか? その点がまだ不明だった。重大な兆候《ちょうこう》は、それらの傷のために気を失ってることで、そういう気絶からはついにふたたび覚めないことがよくある。その上、彼は出血のために弱りきっていた。ただベルトから下の部分は、防塞にまもられて無事だった。
バスクとニコレットとは布を引きさいてほうたいを用意した。ニコレットはそれを縫《ぬ》い、バスクはそれをまいた。綿撒糸《めんさんし》〔麻をほぐしてつくるほうたいの材料〕がないので、医者は一時綿をあてて傷口の出血をとめた。寝台のそばには、外科手術の道具がならべられてるテーブルの上に、三本のろうそくが燃えていた。医者は冷水でマリユスの顔と頭髪とを洗った。桶《おけ》いっぱいの水はたちまち赤くなった。門番は手にろうそくをもってそれをてらしていた。
医者は悲しげに考えこんでいるらしかった。ときどき彼は自分の心のなかでしている問いに、自分で答えるように、否定的に頭をふった。医者がひとりでやるその奇妙な対話は、病人にとって悪いしるしだった。
医者がマリユスの顔をぬぐって、なおとじたままのまぶたにかるく指先をふれたとき、その客間の奥の扉がひらいて、蒼《あお》ざめた顔があらわれた。
祖父だった。
二日間の暴動はジルノルマン氏をひどく刺戟《しげき》し、おこらせ、心痛させていた。前夜、彼は一睡もできず、またその一日、熱にうかされていた。晩になると、家中の締《しま》りをよくしろといいつけながら、早くから床について、疲労のためかるい眠りにはいった。
老人の眠りはさめやすいものだ。ジルノルマン氏の部屋は客間に接していたので、みんな用心していたが、もの音は彼をおこしてしまった。彼は扉のすきまからみえる光りに驚いて、寝床からおきだし、手さぐりでやってきた。
彼は敷居のうえにたち、なかばひらいた扉の把手《とって》に片手をかけ、頭をすこしさし出してふらふらさせ、身体は経帷子《きょうかたびら》のように白いまっすぐな襞《ひだ》のない寝間着につつまれ、びっくりした様子だった。その姿はちょうど墓の中をのぞきこんだ幽霊のようだった。
彼は寝台をみ、ふとんの上の青年をみた。青年は血にまみれ、皮膚は|ろう《ヽヽ》のように白く、眼はとじ、口はひらき、唇は蒼《あお》ざめ、ベルトから上ははだかとなり、全身まっ赤な傷でおおわれ、身動きもせず、明るい光りにてらしだされて横たわっていた。
祖父は頭から足先までぶるぶるふるえあがり、老年のために眼|尻《じり》が黄色くなってる両眼はガラスのような光りにおおわれ、顔全体はたちまち骸骨のように土色にこわばり、両腕は|ばね《ヽヽ》が切れたようにだらりとたれさがり、驚きのあまりそのふるえてる年老いた両手の指は一本一本にひろがり、両膝は前にかがみ、寝間着のひらき目から白い毛のさか立ったあわれな膝頭《ひざがしら》があらわにのぞいていた。彼はつぶやいた。
「マリユス!」
「旦那さま」とバスクはいった。「若旦那さまは馬車ではこばれてこられました。防塞にいかれまして、そして……」
「死んだのだ」と老人ははげしい声で叫んだ。「無頼漢《ぶらいかん》めが!」
そのとき、その百才に近い老人は若者のようにすっくと身をのばした。
「あなたは医者ですね」と彼はいった。「まずひとつのことをはっきりいってもらいたい。そいつは死んでいるのでしょう、そうではないですか」
医者は心痛のあまり、だまっていた。
ジルノルマン氏は両手をねじあわせながら、恐ろしい様子で笑いだした。
「死んでいる、死んでいる。防塞でいのちを投げだしたのだ、このわしをうらんで。わしへの面当《つらあて》にそんなことをしたのだ。ああ吸血児めが! こんなになってわしのところへもどってきたのか。ああ、死んでしまったのか!」
彼は窓のところへゆき、息でも苦しいのか、窓をいっぱいにひらき、そして暗闇の前にたちながら、街路のほうに、闇夜にむかって語りはじめた。
「突かれ、切られ、のどをえぐられ、引きさかれ、ずたずたに切りさいなまれたのだ。わかったか、恥知らずめが! お前はよく知ってたはずだ、わしがいつでもお前を待っていたことを、お前の部屋をちゃんと掃除しておいたことを。お前の小さな子供の時分の写真をいつも寝床の枕もとにおいていたことも、よく知ってたはずだ。お前はただ帰ってきさえすればよかったのだ、ながい年月のあいだわしはお前の名をよびつづけていたのだ。夕方など、どうしていいかわからないで、膝に手をおいたまま煖炉のすみにじっとしていた、お前のためにぼんやりしてしまっていたのだ。お前はよく知っていたはずだ、ただもどってきさえすればよかったのだ、|わたくしです《ヽヽヽヽヽヽ》といいさえすればよかったのだ。お前はこの家の主人となる身だったのだ。わしはなんでもお前のいうことを聞いてやるはずだったのだ、このおいぼれたばかな祖父《じいさん》をお前は思うとおりにすることができたのだ。お前はそれをよく知っていながら、『いや、彼は王党だ、彼のところへいくもんか』といったのだ。そしてお前は防塞にいき、|いこじ《ヽヽヽ》に生命をすててしまった。じつに不名誉なことだ。ああもう死んでしまったのか!」
医者はこんどは祖父のことを心配しだして、ちょっとマリユスのそばをはなれ、ジルノルマン氏のところへゆき、その腕をとった。
ちょうどそのとき、マリユスは、しずかにまぶたをひらいた。そしてその眼はジルノルマン氏の上にすえられた。
「マリユス!」と老人は叫んだ。「マリユス、わしの小さなマリユス、わしの子、わしの可愛い子! 眼をひらいたか、わしを見てるのか、生きててくれたのか! 有難い!」
そして彼はそのまま気を失ってたおれてしまった。
四
ジャヴェルはゆっくりとした足どりで、オンム・アルメ街を去っていった。
生涯にはじめて頭をたれ、生涯にはじめて両手をうしろにまわして、彼はあるいていた。
彼はセーヌ河にいくもっとも近い道をたどり、オルム河岸にで、その河岸通りにそい、グレーヴをとおりこし、そしてシャトレ広場の衛舎《えいしゃ》からすこしはなれたところ、ノートル・ダム橋の角に立ちどまった。セーヌ河はそこで、一方ノートル・ダム橋とポン・トー・シャンジュの橋とにはさまれ、他方メジスリー河岸とフルール河とにはさまれて、まん中に急流がながれてる四角な湖水みたいなようになっていた。
ジャヴェルは橋の欄干《らんかん》に両|肘《ひじ》をもたせ、頤《あご》を両手にうずめ、濃い口|髭《ひげ》を爪のさきで機械的にひねりながら考えこんだ。
ひとつの変事が、ひとつの革命が、ひとつの破滅が彼の心の底におこったのだ。深く反省すべき問題がそこにあった。
ジャヴェルはおそろしい苦悶をいだいていた。数時間前からすでにジャヴェルの考えは今までのような単純なものでなくなっていた。彼の心はみだれていた。その一徹《いってつ》な澄みきった頭脳は、透明さを失っていた。ジャヴェルは自分の本心のうちに義務がふたつにわかれたのを感じ、それを自分にごまかすことができなかった。セーヌ河の土手で、意外にもジャン・ヴァルジャンに会ったとき、彼の心には獲物をふたたびとらえた狼《おおかみ》のようなものと、主人にふたたびめぐりあった犬のようなものとがあった。
彼は自分の前にふたつの道を見いだした。両方とも同じようにまっすぐだったが、とにかくそれはふたつだった。生涯にただ一本の直線しか知らなかった彼は、それをみておびえた。しかもそのふたつの道は互いにあい容《い》れないものだった。ふたつの直線は互いに押しのけあっていた。どちらが真実のものだろうか。
彼の現在の立場はいいようのないものだった。
罰を与える人間としてのジャヴェルと、罰を受ける人間としてのジャン・ヴァルジャンと、互いに法の中にいるそのふたりが、ふたりとも法を超越することになったことはおそるべきことではなかったか。
いったい、どうしたわけだろうか。このような異常なことが世におこるものだろうか、そしてそのために誰も罰を受けないということがあり得るだろうか。ジャン・ヴァルジャンは社会組織全体よりもつよく、自由の身となり、彼ジャヴェルはなお政府のパンを食いつづけていく、そういうことがあり得るだろうか。
彼の夢想はしだいにおそろしいものとなってきた。
一徒刑囚が彼の恩人だったのだ!
しかしまた、なぜ彼は自分を生《い》かしておくことをその男に許したのか! 彼は防塞の中で殺されるべき権利をもっていた。彼はその権利を用いるべきだったろう。他の暴徒たちを呼んでジャン・ヴァルジャンをとおざけ、無理にも銃殺されること、そのほうがまだよかったのだ。
彼の最大の苦悶は、この世に、確実なものがなくなったということだった。彼は自分という人間が根こそぎにされたのを感じた。法典ももはや彼の手の中では丸太のごときものにすぎなかった。彼はわけのわからない一種の危惧《きぐ》の念とたたかわねばならなかった。そのときまで彼の唯一の手本だった法律万能主義の考え方とは全くちがったひとつの感情が、彼の心のうちに生じてきたのだった。今までの法に|のっとった《ヽヽヽヽヽ》公明正大さ、という観念のうちにのみとどまっているだけでは、どうしても安心できないものが彼のうちに生じてきたのだった。意外な一連の事件が突発し、彼の今までの信念を屈服させてしまったのである。ひとつの新世界が彼の魂にあらわれてきたのだった。すなわち、彼があまんじてうけ、またそれに報いてやった親切、献身、慈悲、寛容、絶対的裁断の消滅、永劫《えいごう》の罪の消滅、法律にそそぐ涙の力を認めること、人間の依存する正義とは反対の方向をとる一種の神の依存する正義。彼は暗黒のなかに、まだしらなかった道徳の太陽がおそろしく昇ってゆくのをみた。それは彼をおびえさせ、彼を眩惑《げんわく》させた。彼はまさしく、鷲の眼をもつことをしいられた梟《ふくろう》だった。
彼はみずからいった、これも真実なのだ、世には例外がある、官憲も狼狽させられることがある、規則も事実の前に逡巡《しゅんじゅん》することがある。万事が法典の明文のうちにあてはまるものではない、意外事は人を服従させる、徒刑囚の徳は役人の徳をわなにおちいらせることもある。怪物が神聖になることもある、宿命のうちにはそういう伏兵もある。そして彼は今や絶望の思いにかられながら、自分はそういう奇襲をさけることができなかったのだと考えた。
今になっては、彼はもはや、親切というものがこの世に存在することを認めざるをえなかった。あの囚人は親切であった。そして彼自身も、不思議なことだが、さきほど親切な行いをしてきたのだった。彼はまさしく変節したのだった。
彼は自分が卑怯であるのを認めた。彼は自分が恐ろしくなった。
ジャヴェルの理想は、人間的であることではなく、偉大であることではなく、崇高であることではなかった。一点の非もないものとなることであった。
しかるに彼は今や歩《ほ》をあやまったのである。
どうして彼はそうなったのか、どうしてそういうことが起こったのか? それは彼自身にもわからなかった。彼は両手で頭をおさえ、いかに考えてみても、みずからそれを説明することができなかった。
たしかに彼はジャン・ヴァルジャンを再び法律のもとに置こうとつねに考えていた。ジャン・ヴァルジャンは法律の虜《とりこ》であり、彼ジャヴェルは法律の奴隷だった。ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンを逮捕してる間、彼を釈放してやろうなどという考えを自分が持ってるとは、ただの瞬時も認めることはできなかったのである。彼の手がひらいてジャン・ヴァルジャンをはなしたのは、ほとんどみずからしらずにおこなったことだった。
彼は自分にむかって問い、自分で答えたが、その答えはかえって彼をおびやかした。彼は自分にたずねてみた。「わたしがほとんど迫害するまでに追いかけまわしたあの囚徒は、あの人生に|らくご《ヽヽヽ》した絶体絶命の男は、わたしを足の下にふまえて、復讐することもでき、しかも、わたしにたいする|うらみ《ヽヽヽ》のためと、自分の身の安全のために復讐するのがあたりまえでありながら、わたしの生命をたすけ、わたしをゆるしたのだ。いったいなんのために! なぜ? 私的な義務のためか。いや、義務以上のなにかのためにちがいなかった。しかも、このわたしも、こんどは彼をゆるしてやったのだ。自分もまた、いったいなぜそんな気持ちになったのか? 私的な義務のためか? いや義務以上のなにかだ。だが、いったい義務以上のなにかとは、なんであるか?」
そこまで考え、彼はおびえた。彼の今まで持っていた秤《はかり》はくるってしまった。一方の皿は深淵の上におち、一方の皿は天にのぼってしまった。そしてジャヴェルは上にあがったほうにも、下に落ちたほうにたいしても、同じように恐怖をかんじた。彼はヴォルテール派とか、哲人とか、不信者とかよばれるような人物ではすこしもなかった。否、かえって、本能からキリスト教会を尊敬していた。けれどもただ社会全体の、いかめしい一存在としか、今までそれを知らなかった。秩序は彼の信条であって、彼にはそれだけでじゅうぶんだった。彼は警官になって以来、宗教の全部を警察のうちにおいてしまった。そして、すこしも皮肉ではなく、もっともまじめな意味において、人が司祭であるごとく探偵であった。彼は上官として総監ジスケ氏をもっていた。彼はこの日まで神という他の上官のことを、ほとんど考えてみなかった。
しかるに今や神という新らしい主上を、彼はいやでもみせつけられて、そのために心が乱れてしまった。
花崗《かこう》岩のように、なにものにも乱されなかった心の持ち主でありながら、しかも疑念をいだく。法の鋳型《いがた》のなかで、全部|鋳《い》あげられた懲戒《ちょうかい》の像であって、しかも堅い青銅のような胸の中に、ほとんど心臓にも似た不条理、不従順なあるものを突然にみとめる。生まれてこのかた、今日の日まで悪《ヽ》だと思っていたものが突然|善《ヽ》となり、その善にたいして、善をむくいなければならなくなる。番犬でありながら敵の手をなめる。そして、つかんだ獲物を放してしまう。それは彼のような人間にとっては実におそろしいことであった。
彼は、もはや進むべき道は知らず、後退する一個の砲弾のごとき人間にすぎなかった。
ジャヴェルのうちにおこったことは、直線的な心の屈曲であり、魂の脱線であり、不可抗の力をもってまっすぐに突進し、神にあたって砕けちる、清廉《せいれん》の崩壊だった。たしかにそれは異常なことだった。秩序の火夫が、官憲の機関車が、軌道を走るめくらの鉄馬にまたがって進みながら、光明の一撃をうけて落馬したのだ。彼が信じていた変更を許さないもの、正規なもの、幾何学的なるもの、完全なるものが、一敗地にまみれたのである。機関車に対してもダマスクスの道〔聖パウロのある伝説に由来し、突然内心の光明によって心機一転することをダマスクスの道という〕があったのである。
ジャヴェルは橋の胸壁をはなれ、頭をもたげて、シャトレ広場の片すみにともってる軒灯でありかをしめしている衛舎のほうへ、しっかりした足どりで進んでいった。
そこまでいって、彼は、ひとりの巡査がなかにいるのをみとめ、はいっていった。そして自分の名前をつげ、名刺を巡査にしめし、一本のろうそくがともっているテーブルの前に坐った。テーブルの上には一本のペンと、インキ壷と、紙がのっていた。不時の調書や夜間|巡邏《じゅんら》の訓令などのためにおいてあるものだった。
ジャヴェルはそのペンと紙とをとって書きはじめた。彼が書いた文句はつぎのとおりだった。
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職務上の注意事項
一、警視総監閣下に一見せられんことを願う。
二、予審法廷よりきたる囚徒らは、身体検査中、靴をぬぎ跣足《はだし》のまま敷石の上にたたずみ、監獄にかえるにおよんで咳《せき》をするもの多し。ために病舎の費用をますに至る。
三、製糸監は、要所に警官を配置しあるゆえ、甚だよろし。ただし、危急の際のために、少なくとも二人の警官は互いに見うる位置を保つ要あるべし。かくせば、なんらかの理由にて、一人が務めを怠らば、他の一人がそれを監視し補足するを得ん。
四、コドロンネット監獄においては、たとい金を払うも囚徒に椅子をあたえざる特殊の規則あり、その理由|解《げ》しがたし。
五、同監獄においては、酒保の窓に二本の鉄棒あるのみ、これは囚徒をして酒保に手をふらしめる所以《ゆえん》なり。
六、呼出人と一般によばれて、他の囚徒達を面会所によぶ用をなす囚徒は、名前をたかく呼ぶごとに当人より二スーずつ徴発《ちょうはつ》す、これ一つの搾取《さくしゅ》なり。
七、一本の糸すらたれたるものあれば、当囚徒は織物工場にて十スーずつ賃金を差引かる。これは請負者の悪風なり、織物はそのために粗悪ならざるものなり。
八、フォルス監獄を訪れる者が、サント・マリー・レジプシェンヌ面会所にゆくために、かならず「囚人の子供たちのいる中庭」を通るのは、憂慮すべきことなり。
九、毎日憲兵らが、警視庁の中庭において、司法官のおこなった訊問の様子を話し合うのは風紀の重大なるびん乱なり。
十、アンリ夫人は正直な女で、その酒保はきわめて清潔なり。しかれども、秘密監の罠《わな》の口を、一人の女がにぎるのはよきことにあらず。そは監獄にとりて恥ずべきことなり。
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ジャヴェルはひとつの句読点をも略さず、きわめて冷静に正確な手跡《て》で、右の各行をしたためた。
そして最後の行につぎの署名をした。
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一等警視 ジャヴェル
シャトレ広場の分署において、
一八三二年六月七日午前一時頃
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ジャヴェルは紙の上のインキをかわかし、紙を手紙のように折り、それに封をし、裏に「制度に関する覚書」としたため、それをテーブルの上にのこしておき、そして衛舎から出ていった。鉄格子のはまってるガラス戸は彼の背後にとざされた。
彼はシャトレ広場を再び斜めに横ぎり、河岸通りに出、ほとんど自動機械のような正確さで、十五、六分前に去ったと同じ場所にもどってきた。彼はそこに肘をつき、胸壁の同じ石の上に同じ態度で身を休めた。前のときから身を動かしたとは思えないほどだった。
一点のすきまもない闇だった。ま夜中に引きつづく墓のような時間だった。雲の天井が星をかくしていた。空には凄惨《せいさん》な気が、深くよどんでいた。シテ島の人家にも、もう一点の光りもみえなかった。とおりかかる者もいなかった。街路も河岸通りも、見えるかぎり|しいん《ヽヽヽ》と静まりかえっていた。ノートル・ダム聖堂と裁判所の塔とが、闇夜の|ひな《ヽヽ》型のようにみえていた。街灯の光りが河岸|ぶち《ヽヽ》を赤くそめていた。多くの橋の姿は、靄《もや》の中にぼんやりとかさなりあっていた。河の水は雨のために増していた。
読者の記憶するとおり、ジャヴェルがよりかかってるその場所は、ちょうどセーヌ河の急流の上であって、無限の螺旋《らせん》のように解けてはまた結《と》ばれる恐るべき水の渦巻きを眼下にしていた。
ジャヴェルは頭をかがめて、ながめていた。すべてはまっくらで、なにものも見わけられなかった。泡立つ激流の音はきこえていたが、河の面《おも》は見えなかった。ときどき、眼がくらむばかりのその深みのなかに、|ひとすじ《ヽヽヽヽ》のあかるみがさしてきて、漠然としたうねりをかたちづくった。水には一種の力があって、もっとも深い闇夜のうちにもどこからともなく光りをとってきて、それを蛇の形にするものだ。が、再びそのあかるみも消え、すべてはまたおぼろになった。広大無限なものが、そこに口をひらいてるかと思われた。下にあるものは水ではなく、深淵だった。河岸の壁は、きりたち、入りくみ、霧にぼかされ、突然姿をけして、はてしなき暗黒の断崖と化していた。
なにもみえなかったが、水の敵意ある冷たさと、濡れた石のあじけない臭いとが感じられた。あらあらしい息吹《いぶき》がその深淵からたちのぼっていた。眼には見えないが、それとわかる増水、波の悲壮な囁《ささや》き、橋の弧の不気味な巨大さ、今にも身を投げたくなるようなその陰惨な空洞、すべてそれらの|くらい《ヽヽヽ》影は人をして慄然《りつぜん》とさせるものがあった。
ジャヴェルはその暗黒の口をながめながら、じっとたたずんでいた。心の中になにか眼にみえないものを見まもっていた。水は音をたてて流れていた。突然、彼は帽子をぬぎ、それを河岸|ぶち《ヽヽ》においた。一瞬間の後には、帰りおくれた通行人が遠くから見たならば幽霊と思ったかもしれないような黒い人影が、胸壁《きょうへき》の上にすっくと立ちあらわれ、セーヌ河のほうへ身をかがめ、それからまた直立して、暗黒の中にまっすぐに落ちていった。にぶい水の音が聞えた。そして水中に没したその黒い姿の身もだえ、その秘密を知るものは、ただ影のみであった。
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第四章 祖父と孫
一
マリユスはながい間、死んでるのか、生きてるのかわからない状態だった。数週間、熱がつづき、それにともなって意識は昏迷《こんめい》をきたし、また傷そのものよりもむしろ頭部の傷の刺戟からくる、かなり危険な脳症の徴候をしめしていた。
彼は最初のうち、いく晩も熱にうかされ、高い声でわけのわからないことをしゃべりつづけ、妙にしつっこい苦悩のうちに、コゼットの名を呼びつづけた。二、三の大きな傷は特に危険なものだった。大きな傷口の膿《うみ》はつねに内部に吸収されがちなので、その結果、大気のある影響をうけて患者を殺すことがある。それで天気のかわるごとに、ほんのちょっとした雨や風にも、医者は心配した。
「なによりもまず病人の気持ちをいらだたせてはいけません」と彼はくりかえしいっていた。絆創膏《ばんそうこう》でガーゼやほうたいをとめる仕方は当時まだ発見されていなかったので、手当は複雑で困難だった。ニコレットは敷布を一枚ほごして綿撤糸《めんさんし》をつくった。「天井ほどの大きな敷布」と彼女はいっていた。塩化|洗浄《せんじょう》薬と硝酸銀とを膿《うみ》のでている傷口の奥までとどかせるのも、やさしいことではなかった。生命が危険の間、ジルノルマン氏は孫の枕もとにつきそいながらぼんやりして、マリユスと同じように死んでるのか生きてるのかわからなかった。
毎日、時によると一日に二度、門番のいうところによると、ひとりのたいへん立派な服装をした白髪の紳士が、病人の様子をたずねにきて、手当のためといって綿撤糸の大きな包みをおいていった。
ついに九月の七日、瀕死のマリユスが祖父の家にはこばれてきた悲しい夜から満三カ月たったとき、医者はその生命を保証すると明言した。回復期がやってきた。けれども彼は、鎖骨の挫折からくる容態のために、二カ月あまりも長椅子の上に身をよこたえていなければならなかった。
しかし、そのながい病とながい回復期とのために、彼は官憲の追求をまぬかれた。フランスにおいては、いかなる激怒も、公《おおやけ》の激怒でさえ、六カ月たてば消えてしまう。それに当時の社会状態では暴動は誰でも犯しやすい過失で、それに対してはある程度まで眼をとじてやらなければならなかった。
ある日ジルノルマン氏は、戸棚の大理石板の上にある壜《びん》やコップを娘が片づけてるとき、マリユスの上に身をかがめて、やさしい調子で彼にいった。
「ねえマリユス、わしがもしお前だったら、もう魚より肉のほうを食べるがね。ひらめのフライも回復期のはじめにはよいが、病人が立って歩けるようになるには、上等の脇肉を食べるにかぎるよ」
マリユスはもうほとんど体力を回復していたが、さらにその力を集中して、半身を起こし、握りしめた両の拳を敷布の上につき、祖父の顔をまともにじっとながめ、こわい顔をしていった。
「そうおっしゃれば、ひとつ申したいことがあります」
「なにかね?」
「わたしは結婚したいのです」
「そんなことなら前からわかっている」と祖父はいった。そして笑いだした。
「なんですって、わかっていますって?」
「うむ、わかっているよ。あの娘をもらうがいい」
マリユスはその一言にあぜんとし、とまどい、手足をふるわせた。
ジルノルマン氏はつづけていった。
「そうだ、あの綺麗な可愛い娘をもらうがいい。あの娘は毎日、老人をかわりによこしてお前の様子をたずねさせている。お前が負傷してからというもの、いつも泣きながら綿撒糸をこしらえてばかりいる。わしはよく知ってる。オンム・アルメ街七番地にいま住んでいる。ああいいとも。好きならもらうがいい」
そういって、老人は涙にむせんだ。
彼はマリユスの頭をかかえ、それを年老いた胸に両腕で抱きしめた。そしてふたりとも泣きだした。
マリユスは祖父の腕から頭をはずして、しずかにいった。
「お父さん、もうわたしは丈夫になっていますから、彼女に会ってもよさそうに思います」
「それも承知してる。あす会わしてやろう」
「お父さん!」
「なにかね」
「なぜきょうはいけないんです」
「ではきょう、そう、きょうにしよう。お前はわしをお父さんといったね、それに免じて許してやろう。わしが引き受ける。お前のそばへつれてこさせよう」
二
コゼットとマリユスとは再び会った。
その面会はどんなものであったか、それを語るのをわれわれはやめよう。世には描写すべからざるものがある。たとえば太陽もそのひとつである。
コゼットがはいってきたときには、バスクやニコレットをもくわえて一家の者がみんなマリユスの部屋に集まっていた。
彼女は敷居の上にあらわれた。その姿はあたかも円光に包まれてるかと思われた。
ちょうどその時、祖父は鼻をかもうとしていた。彼はそれを急に止め、ハンカチで鼻を押えたまま、その上からコゼットをながめた。
「みごとな娘だ!」と彼は叫んだ。
それから彼は大きな音をたてて鼻をかんだ。
コゼットは、酔い、喜び、ふるえ、天にのぼったような心地になっていた。彼女はおよそ幸福があたえうるだけの恐怖を感じていた。彼女は口ごもり、まっ蒼《さお》になり、またまっ赤になり、マリユスの腕に身をなげたいと思いながら、とてもそんなことはできなかった。大勢の人前で、そんな愛のしぐさなど、とても恥ずかしくて、できるものではなかった。
コゼットといっしょに、白髪の老人がひとり彼女のうしろからついて入ってきていた。彼はなにか重々しい顔つきをしていたが、それでもその顔にはほほえみをうかべていた。しかしそれはなんだか、はっきりしない、痛ましい感じのする微笑だった。この老人こそ、「フォーシュルヴァン氏」すなわちジャン・ヴァルジャンであった。
彼は新しい黒服をまとい、白いネクタイをつけて、門番がいったとおり、|ごく立派な服装《ヽヽヽヽヽヽヽ》をしていた。
まるで、公証人みたいなこの几帳面《きちょうめん》な市民が、あの六月七日の夜、気絶したマリユスを腕にかかえ、ぼろをまとい、不潔で醜《みにく》くて、あらあらしく、血と泥とにまみれた顔をして、門の中にはいってきた恐ろしい死体運搬人であろうとは、門番は夢にも思いつかなかった。しかしどことなく見覚えがあるように思えた。フォーシュルヴァン氏がコゼットとともにやってきたとき、門番はそっと女房にささやかずにはいられなかった。
「なんだかあの人は、前に見たことがあるように思われてならないがね、どうも変だ」
フォーシュルヴァン氏はマリユスの部屋の中で、遠慮しながらことさら|わき《ヽヽ》によけるようにして扉のそばに立っていた。彼は小腋《こわき》に、紙にくるんだ八つ折本らしい包みをかかえていた。
「あの人はいつも、ああして書物をかかえていなさるのかしら」と書物嫌いなジルノルマン嬢は、低い声でニコレットにたずねた。
「そう、あの人は学者だからね」と、老嬢の声を耳にしたジルノルマン氏は、おなじ小声で答えた。「だが、そんなことはかまわんじゃないか。わしが知ってるブラールという人もやはり、いつも書物を持って歩いていて、ちょうどあんなふうに古本を胸にかかえていたよ」
そして彼は、ジャン・ヴァルジャンにお辞儀《じぎ》をしながら、高い声でいった。
「トランシュルヴァンさん……」
ジルノルマン老人は別にわけがあってそんなふうに呼んだのではなかった。人の名前に頓着《とんちゃく》しないのを、彼はひとつの貴族的なくせだと思いこんでいたのである。
「トランシュルヴァンさん、わたしは、孫のマリユス・ポンメルシー男爵のためにご令嬢に結婚の申し込みを致しますのを、光栄とぞんじております」
〈トランシュルヴァン氏〉は頭をさげた。
「ああ、これできまった」と、祖父はいった。
そして老人はマリユスとコゼットのほうをむき、祝福するように両腕をひろげて叫んだ。
「わたしはお前たちふたりが、おたがいに愛しあうことを許します」
マリユスとコゼットは二度とその言葉を、老人にくり返させるひまを与えなかった。ふたりは、そういわれるが早いか、すぐによりそって、お互いに楽しく話しだした。マリユスは長椅子の上に肘をついて身をおこし、コゼットはそのそばに立って、互いに声をひくくして語りあった。コゼットは、マリユスの目にささやいた。
「ああうれしいわ。またお目にかかれたのね。ねえ、あなた、あなたは戦争においでになったのね。なぜなの。恐ろしいわ。この四カ月というもの、わたし生きてる気がしなかったわ。戦争にいくなんて、ほんとに意地悪ね。わたし、あなたになにをして? でも許してあげるわ。これからもうそんなことをしてはいけないわ。さっき、わたしたちに来るようにって使いがきたとき、わたしはもうあなたが死ぬのかと思ったのよ。でも、反対。それどころかとてもうれしいことだったのね。わたしはもう悲しくて、服を着かえることもできなかったのよ。大変な服装《なり》をしてるでしょう。こんな、しわくちゃな襟《えり》飾りをしてるところなんか、ご覧なすって、お家の方、なんとおっしゃるでしょうね。
さあ、こんどはあなたも少し話してちょうだいね。わたしにばかり、おしゃべりさせていらっしゃるのね。わたしたちはずっとオンム・アルメ街にいたのよ。あなたの肩の傷、とてもひどかったのでしょう。手が傷口にはいるくらいだったそうだわね。それに鋏《はさみ》で肉を切りとったんですってね。ほんとに恐ろしいわ。わたしはもう泣いてばかりいたので、眼を悪くしちゃったのよ。今になってみると、どうしてあんなに悲しんだり苦しんだりしたかと思うとおかしいくらいだわ……。お祖父《じい》さまはご親切そうな方ね。静かにしていらっしゃいな、肘で起きあがってはいけないわ。用心なさらないと、傷にさわるわ。ああ、わたしほんとにしあわせだわ! もうなにもかも悪いことは、すっかりすんでしまったのね。わたし、どうかしたのかしら。いろんなことをお話したいと思ったのに、すっかり忘れてしまったわ。やっぱりあなたは、わたしを愛してくださるんでしょ? わたしたちはオンム・アルメ街に住んでるのよ。庭はないの。わたしはいつも綿撤糸ばかりこしらえていたわ。ねえあなた、ごらんなさい、指にたこができてしまったわ。あなたが悪いのよ」
マリユスはいった。
「ああ、ぼくの天使!」
天使《ヽヽ》という言葉はまったく、使い古すことのできない唯一の言葉である。他の言葉はみな、恋人たちの勝手な使用には堪《た》ええない。
それから、あとは、あたりに人がいるので、ふたりは口を噤《つぐ》んでもう一言もいわず、ただやさしく手を握りあってるばかりだった。
ジルノルマン氏は部屋の中にいる人々のほうへむいて声高にいった。
「みんな声を高くして話すんだ。楽屋のほうで音をたてるんだ。さあ、子供ふたりが勝手にしゃべくれるように、すこし騒ぐがいい」
そして彼はマリユスとコゼットに近よって、ごく低い声でいった。
「うちとけて親しくするがいい。遠慮するにはおよばないよ」
ジルノルマン伯母は、古ぼけた家庭に突然光りがさし込んできたのをまったくあきれたような顔をしてながめていた。だが、そうした驚きの感情のなかには、なんらの悪意もなかった。それは二羽の山鳩にたいする梟《ふくろう》のおこった妬《ねた》ましい眼つきでは少しもなかった。五十七才の罪のない老女の唖然《あぜん》とした眼つきであり、愛の勝利をながめてる空しい生命だった。
「どうだい」と父は彼女にいった。「こんなことになるだろうと、わしが前からいってたとおりになったじゃないか」
それから彼はふたりのそばに腰をかけ、コゼットにも腰をかけさせ、彼らの四つの手を自分の年老いたしわだらけの手にとった。
「実に立派な娘さんだ。このコゼットはまったく傑作だ。小娘でまた貴婦人だ。男爵夫人には惜しいな。生まれながらの侯爵夫人だよ。いいかね、お前たちはごく当然な道をふんでるんだということをよく頭に入れとかなくてはいかんよ。互いに愛し合うんだ。愛して馬鹿になるんだ。愛というものは、人間の|おろかさ《ヽヽヽヽ》で神の知恵だ。互いに慕い合うがいい。ただ」と彼は急に沈み込んでいいそえた。「ひとつ悲しいことがある。それがわしの気がかりだ。わしの財産の半分以上は終身年金になっている。わしが生きてる間はいいが、わしが死んだら、もう二十年もしたら、かわいそうだが、お前たちは一文なしになる。男爵夫人たるこのまっ白な美しい手も、食うために働かなくてはならないことになるだろう」
その時、重々しい落ちついた声がどこからか聞えてきた。
「ウューフラジー・フォーシュルヴァン嬢は、六十万フランの金を持っています」
その声はジャン・ヴァルジャンから出たのだった。
彼はそのときまで一言も口をきかずにいたのだった。誰も彼がそこにいたことさえ気がつかないでいたようだった。そして彼は幸福な人々のうしろにじっと立っていた。
「ウューフラジー嬢というのはなんのことだろう?」と祖父はびっくりしてたずねた。
「わたくしです」とコゼットが答えた。
「六十万フラン!」とジルノルマン氏はいった。
「たぶん一万四、五千フランはそれにたりないかもしれませんが」とジャン・ヴァルジャンはいった。
そして彼はジルノルマン嬢が書物だと思っていた包みをテーブルの上においた。
ジャン・ヴァルジャンは自分から包みをひらいた。それは一束の紙幣だった。人々はそれをひろげてかぞえてみた。千フランのが五百枚と五百フランのが百六十八枚はいっていて、全部で五十八万四千フランあった。
「これは結構な書物だ」とジルノルマン氏はいった。
「五十八万四千フラン!」と伯母がつぶやいた。
「これで万事うまくいく、そうじゃないか」と祖父はジルノルマン嬢にいった。「マリユスのやつ、分限者《ぶげんしゃ》の娘を狩りだしたんだ。こうなったらお前だって若い者たちが恋をするのをかれこれいえやしないだろう。まったく学生は六十万フランの女学生を見つけだす。美少年はロスチャイルド以上の働きをするというものだ」
「五十八万フラン!」とジルノルマン嬢は、なかば口の中でくりかえした。「五十八万四千フラン、まあ六十万フランだわね」
マリユスとコゼットとは、その間ただ互いに顔を見つめあっているだけだった。ふたりはそんなことには、ほとんどなんの注意もはらわなかった。
三
ふたりの恋人は毎日顔をあわせていた。コゼットはいつもフォーシュルヴァン氏といっしょにやってきた。ジルノルマン嬢はいった。
「こんなふうに、お嫁さんのほうからご機嫌をとりに男の家へやってくるなんて、まるでさかさまだわね」
けれどもマリユスはまだ回復期だったし、フィーユ・デュ・カルヴェール街の肘掛椅子はオンム・アルメ街の藁《わら》椅子よりもふたりの差しむかいには好都合だったので、自然とコゼットのほうからやってくる習慣になったのだった。マリユスとフォーシュルヴァン氏とは、たえず会っていたがべつに話しあうことはあまりなかった。自然とそういうふうに暗黙のうちに約束ができてしまったかのようだった。年頃の女の子の出歩きには付添いがいるものである。コゼットはフォーシュルヴァン氏といっしょでなければ、マリユスの家にはひとりではこられなかったろう。しかしマリユスにとっては、コゼットあってのフォーシュルヴァン氏だった。彼はフォーシュルヴァン氏をとにかく一応は、機嫌よく迎えていた。そして彼らは、万人の運命を改善するという見地から政治上の問題を、こまかいことは別として、ただ漠然と話題にし、「そう」あるいは「いや」という程度よりは、もうすこし多くの口をきき合うこともあった。
一度マリユスは、教育というものは無料で義務的なものにして、あらゆる形式でその設立をふやし、空気や太陽のように万人におしまずあたえ、一言にしていえば、民衆全体が自由に教育をうけることができるようにしなければならぬという、いつもの持論をもちだしたが、そのときふたりはまったく意見が一致して、ほとんど懇談といえるくらい口をききあった。そして、その時はフォーシュルヴァン氏はよく語り、しかもある程度まで高尚《こうしょう》な言葉を使うのを、マリユスは認めた。けれども、そこにはなにかが欠けていた。フォーシュルヴァン氏には、どうも普通の人よりも、|なにか《ヽヽヽ》がたりなく、|なにか《ヽヽヽ》が多すぎていたのである。
マリユスは頭の奥でひそかに、自分には親切ではあるが、どこかつめたいところのあるフォーシュルヴァン氏に対して、いろいろと疑問に思うことがあった。ときとすると彼は、自分の思い出についてさえ疑ってみていた。彼の記憶には、ひとつの穴、くらい一点、四カ月間の瀕死の苦しみによって掘られた深淵ができていた。多くのことがその中に落ちこんでいた。そのために、まじめな、落着いた人物であるフォーシュルヴァン氏を防塞の中で見たというのは、はたして事実だったろうかと疑ってみた。
彼の過去の幻が脳裡にのこしたものは、必ずしもただ漠然としたものだけではなかった。ときどきマリユスは両手で頭をかかえた。そしておぼろげな過去が、彼の脳裡のうすらあかりの中をよぎっていった。彼はマブーフ老人が倒れるところを再び見、霰弾のもとに歌をうたってるガヴローシュの声を聞き、エポニーヌの額の冷たさを唇の下に感じた。アンジョーラ、クールフェーラック、ジャン・プルーヴェール、コンブフェール、ボシュエ、グランテールなどすべての友だちが、彼の前に立ち現われ、そしてまた消えていった。それらの親しい、悲しい、勇敢な、あるいは悲壮な人たちは、みんな夢の中の人たちだったのか? 彼らは実際に存在してたのか? 暴動はすべてを硝煙のうちに巻きこんでしまっていた。それらの大なる苦熱は大なる幻をつくりだした。彼はみずから問い、みずから臆測し、消えうせたそれらの現実に対して|めまい《ヽヽヽ》さえ感じた。彼らはみんなどこにいったのか。みんな死んでしまったというのは真実だろうか。彼をのぞいたすべての者は、暗黒のなかに姿を没してしまっていた。それはちょうど芝居の幕のうしろに隠れてしまったように彼には思われた。
しかも彼自身もまた、はたしてあの時と同じ人間なのだろうか。自分は貧しかったのに今は裕福になっている。孤独だったのに家庭の人となっている。望みをうしなってたのにコゼットを娶《めと》ることになっている。彼は自分が墓をとおり抜けてきたような気がした。暗黒な姿で墓にはいりこみ、純白な姿でそこから出てきたような気がした。しかもその墓の中に、ほかの者たちはみんな残ってるのだ。ある時には、それらの過去の人々がまた現われ、彼の周囲に立ちならんで彼を陰鬱にした。そんなとき彼はコゼットのことを考えて、再び心がほがらかになるのを感じるのだった。そのわざわいを消しさるには、コゼットを想う幸福だけでじゅぶんだった。
フォーシュルヴァン氏もそれら消えうせた人々のうちにはいっていた。防塞にいたフォーシュルヴァン氏が、肉と骨とをそなえ、真面目《まじめ》な顔をしてコゼットのそばに坐ってるこのフォーシュルヴァン氏と同一人であるとは、マリユスにはとても信じられなかった。第一のほうはおそらく、長い間の昏迷のうちに消えたり現われたりした悪夢のひとつであろう。その上、ふたりともきわめて謹厳な性格だったので、マリユスはフォーシュルヴァン氏にむかってなにか聞きただすこともできにくかった。聞きただしてみようという考えさえ、彼には浮かばなかった。ふたりの間のそういう妙なへだたりは、前にすでに指摘しておいたとおりである。
ふたりとも共通の秘密を持っていながら、一種の暗黙の約束によって、そのことについては互いに一言も話し合わなかった。そういう事実はあんがい沢山世にあるものだ。
ただ一度、マリユスはさぐりを入れてみたことがあった。彼は会話のうちにシャンヴルリー街のことをもち出して、フォーシュルヴァン氏のほうへむきながらいった。
「あなたはあの街路《まち》をよくごぞんじでしょうね」
「どの街路ですか」
「シャンヴルリー街です」
「その街路の名には私はべつになんの記憶もありませんが……」とフォーシュルヴァン氏はいかにも自然な調子で答えた。
答えは街路の名前についてで、街路そのものについてではなかったが、それでもマリユスはよく了解できるような気がした。
「まさしく自分は夢をみたのだ」とマリユスは考えた。「幻覚をおこしたのだ。誰か似た者がいたのだろう。フォーシュルヴァン氏はあすこにいたのではない」
マリユスにはなお、ほかに気がかりなことがあった。
結婚の準備がととのえられてる間に、彼は人をつかって困難な調査をたのんだ。
彼はいろんな方面に恩を受けていた。父のためのもあれば、自分自身のためのもあった。まずテナルディエがいた。また、彼マリユスをジルノルマン氏のもとへはこんでくれた未知の人がいた。
マリユスはそのふたりの者を探しだそうとつとめた。結婚し幸福になっても彼らのことを忘れようとは思わなかった。その恩をかえさなければ、これから光りかがやいたものとなる自分の生活に暗い影が射しはしないかと恐れた。その負債をいつまでもおくらせておくことは、彼にはできなかった。幸福な未来にはいっていく前に、過去の負債を全部かえしてしまいたいと願った。
彼の前には、たといテナルディエが悪漢であろうとも、そのためにポンメルシー大佐を救ったという事実をすこしもくもらせはしなかった。テナルディエは世の中の誰にとっても一個の悪党だったが、マリユスにとってだけはそうではなかった。
そしてマリユスは、ワーテルローの戦場の実景についてはまったく無知だったので、テナルディエは父に対して、生命の恩人にはなっているが、父は彼に感謝の義務はないという妙な立場にたってる特別な事情を、すこしも知らなかった。
マリユスはいろんな人に頼んだが、誰もテナルディエのゆくえを探しあてることはできなかった。その足跡は全くわからなくなってるらしかった。
もうひとりの男については、すなわちマリユスを救ってくれた無名の人物にかんしては、はじめのうち多少捜索の|めど《ヽヽ》がつかめたが、それから急に行きづまってしまった──彼はまず六月六日の夜、フィーユ・デュ・カルヴェール街ヘマリユスをのせてきた辻馬車をさがし出すことができた。その馭者のいうところはこうだった。
六月六日、シャン・ゼリゼ河岸通りの大|溝渠《こうきょ》の出口の上で、午後の三時から夜まで、ある警官の命令で彼は「客待ち」をしていた。午後の九時頃、河の土手についてる下水道の鉄格子がひらいた。ひとりの男がそこから出てきて、死んでるらしい他の男を肩にかついでいた。鉄格子のそばで見張りをつづけていた警官は、その生きている男と死んでいる男とを馬車にのせた。最初、馬車はフィーユ・デュ・カルヴェール街へいった。死んでる男はそこでおろされた。その死んでる男というのはマリユス氏だった。その当時は死んでるものと思ってたマリユスの顔を馭者はよく覚えていた――それから、警官と生きてた男のふたりはまた彼の馬車にのった。彼は馬に鞭《むち》をあてた。古文書館の門から数歩のところで、とまれと声をかけられた。その街路で彼は金をもらってかえされた。警官はもうひとりの男をどこかへつれていった。そしてそれ以上のことはなにも知らないということだった。
前にいったとおり、一方マリユスのほうはなにも覚えていなかった。防塞の中であおむけに倒れかかったとき、背後から力強い手でつかまえられたことだけはようやく思い出したが、それからがなにもわからなかった。意識を回復したのは、ジルノルマン氏の家でだった。
彼は推測にまよった。
馭者のいう、死んでる男が彼自身であったことには疑いなかった。けれども、シャンヴルリー街で倒れて、アンヴァリード橋近くのセーヌ河の土手で警官からひろわれたとは、いったいどうしたわけなのだろう。誰かが彼を市場町からシャン・ゼリゼまで運んでくれたのにちがいなかった。だがどうして? 下水道をとおってか、それにしては、驚くべき献身的な行為ではないか。
それはいったい誰なのか、誰だろうか?
マリユスが探してるのはそのなぞの恩人だった。
彼の救い主であるその男については、なにもわからず、なんらの足跡もなく、すこしの手掛りもなかった。
四
一八三三年二月十六日から十七日へかけての夜は、それこそ祝福すべき夜だった。それはマリユスとコゼットとの結婚の夜だった。
その日は実に麗わしい一日だった。
結婚式の日の数日前、ジャン・ヴァルジャンの身にちょっとした事故がおこった。右手の親指をすこし負傷したのだ。たいした傷ではなかったが、彼はそれを心配したり、ほうたいしたり、また調べてみたりすることを誰にも許さなかった。コゼットにさえも許さなかった。それでも彼はその手を布でゆわえ、腕を首からつらなければならなかった。そのため彼は、ふたりの結婚届けに署名することができなくなった。ジルノルマン氏がコゼットの後見監督人として彼のかわりに署名することになった。
区役所でも教会でもコゼットの姿は、燦然《さんぜん》とひかり輝き、人々の心をうばった。彼女の花嫁じたくは、ニコレットにも手伝ってもらったが、おもにトゥーサンが着つけをしたのだった。
コゼットは白タフタのスカートの上にバンシュ紗《しゃ》の長衣をまとい、イギリス刺繍《ししゅう》のヴェール、みごとな真珠の首環《くびわ》、オレンジの花を頭につけていた。それらはみんな白色だったが、その白ずくめの中で彼女は光りかがやいていた。美妙な純潔さが光明のうちにほころび、処女がいまにも女神になろうとしてるのかとさえ思われた。
マリユスの美しい髪はつやつやと照りはえ、かんばしい薫《かお》りを放っていたが、その濃い捲《ま》き毛の下には、ところどころ防塞での傷跡の青白い筋が見えていた。
祖父は昂然《こうぜん》として頭をもたげ、コゼットの前に立っていた。ジャン・ヴァルジャンが腕をつってるため花嫁に腕をかすことができなかったので、彼がその代理をしているのだった。
ジャン・ヴァルジャンは黒い服装で、そのうしろにしたがいほほえんでいた。
儀式の終了に|きまり《ヽヽヽ》をつける形式として、区長の前と司祭の前とで、区役所の書面と教会の書面とに署名が行われた。ふたりは互いに指輪を交換し、香炉《こうろ》の煙につつまれ、まっ白な観世《かんぜ》模様絹の天蓋《てんがい》の下に相並んでひざまずいた。ふたりは互いに手をとりあい、すべての人々から讃美と羨望の言葉をうけた。マリユスは黒服をまとい、彼女は白服をまとい、大佐の肩章をささげ、|まさかり《ヽヽヽヽ》で敷石に音をたてる案内人のうしろにしたがい、すっかり心を奪われてる見物人の人垣の間を進んでいった。教会の表門を出てふたたび馬車に乗るばかりになって、すべてがおわったとき、コゼットはまだ夢ではないかと疑っていた。彼女はマリユスをながめ、群集をながめ、空をながめた。ちょうど夢からさめるのを恐れてるかのようだった。その心もとなげな不安な様子は、かえって、いいしれぬ一種の魅力を彼女に添えていた。家にかえるために、彼らはいっしょに並んで同じ馬車にのった。
一同は、フィーユ・デュ・カルヴェール街の自宅にもどった。マリユスはコゼットと並んで、かつて瀕死の身体をひきずりあげられたあの階段を、光りかがやき昂然《こうぜん》としてのぼっていった。貧しい人々は戸口の前に集まって、投げあたえられた金をわけあいながら、ふたりを祝福した。いたるところに花がまかれていた。家の中も教会におとらず、かぐわしい香《かお》りにみちていた。ふたりは天のかなたに歌声をきくような気がし、心のうちに神をいだき、宿命を星の輝く天井のように感じ、頭の上に朝日の光りをみるように思った。
ジルノルマン一家の旧友は、みんな招待されていた。人々はコゼットのまわりに集まって、さきをあらそいながら「男爵夫人」と彼女によびかけた。
饗応《きょうおう》の宴は、食堂にもうけられていた。中央には、まっ白に光ってる食卓があった。その上には、平たい|のべ《ヽヽ》金の下飾りがついてるヴェネチア製の大燭台がひとつあって、その四方の枝のろうそくにかこまれたまん中に、青、紫、赤、緑などにぬられた装飾用の各種の鳥がとまっていた。
つぎの間《ま》では、三つのヴァイオリンと一つの笛とが、ハイドンの四部合奏曲をかなでていた。
ジルノルマン氏はバスクに声をかけた。
「フォーシュルヴァンさんはどこにおられるか知らないか」
「はい、存じております」とバスクは答えた。「フォーシュルヴァンさまは、お手の傷がすこし痛まれて、男爵お二方と会食ができないから、旦那さまによろしく申し上げてほしいとわたくしにお伝えでございました。そして今晩はご免こうむって、明朝くるからと申されて、ただいまお帰りになりました」
その空《から》の肘掛椅子のために、婚礼の宴は一時しらけてしまった。しかしフォーシュルヴァン氏は不在でも、ジルノルマン氏がそこにいて、ふたり分にぎやかに振舞った。
その一晩の饗宴は、にぎやかで、快活で、楽しいものだった。一座を支配する祖父の上機嫌さは、一座の音頭取りとなり、人々はほとんど百才に近い老人のへだてない態度に調子を合わせた。
かくてさんざめいた結婚式の大饗宴もおわり、そのあとに静寂が落ちてきた。
新夫婦は別室にしりぞいていった。
十二時すこし前には、ジルノルマン家は寺院のようにひっそりとなっていた。
ここでわれわれは筆をとめよう。結婚の夜の入口には、ひとりの天使が立っていて、ほほえみながら口に指をあてている。
愛の祝典があげられる聖殿にたいしては、人の魂は瞑想《めいそう》にはいっていくのみである。
五
ジャン・ヴァルジャンは自分の家に帰った。ろうそくをともして階段をあがっていった。部屋はがらんとしていた。トゥーサンももういなかった。ジャン・ヴァルジャンの足音は、部屋のなかにいつもより高くひびいた。戸棚はみんなひらかれていた。彼はコゼットの部屋へはいっていった。寝台には敷布もしいてなかった。綾布《あやぬの》の枕は枕掛けもレース飾りもなくなって、床のしものほうにたたまれてる夜具の上にのせてあり、床はむきだしになって、もう誰も寝られないようになっていた。コゼットが大事にしていた、こまごました婦人用の持ち物は、みんな持っていかれていた。のこってるのはただ、大きな家具と四方の壁だけだった。トゥーサンの寝床も同じようにとり片づけてあった。ただ一つの寝床だけが用意されていて、誰かを待ってるようだった。それはジャン・ヴァルジャンの寝床だった。
ジャン・ヴァルジャンは壁をながめ、戸棚の二、三の戸をとじ、部屋から部屋へと歩きまわった。
それから彼は自分の部屋にはいり、テーブルの上に燭台をおいた。
彼はつるしていた腕をはずし、べつに痛みもしないようにその右手をつかっていた。
彼は自分の寝台に近よった。そして彼の眼は、偶然にか、または故意にか、コゼットがうらやんでた、あのお父さまの|おつき物《ヽヽヽヽ》の上に、あのけっして彼のそばを離れなかった小さな鞄の上におちた。六月四日オンム・アルメ街にやってきたとき、彼はそれを枕もとの小卓の上においていた。彼はすばやくその小卓のところへいき、ポケットから一つの鍵をとり出し、そして鞄をひらいた。
彼はその中から、十年前コゼットがモンフェルメイユを去るときにつけていた衣裳を、しずかにとり出した。最初に、小さな黒い長衣、つぎに黒い襟巻、つぎにコゼットの足はごく小さいので、いまでもまだはけそうな、丈夫な粗末な子供靴、つぎにごく厚い綾織《あやおり》の下着、つぎにメリヤス織のスカート、つぎにポケットのついてる胸掛け、それから毛糸のソックス。そのソックスには小さな脛《はぎ》の形がまだ可愛くのこっていて、ほとんどジャン・ヴァルジャンの手のひらの長さほどしかなかった。それらのものはみんな黒ずくめのものばかりだった。彼女のためにそれらの衣裳をモンフェルメイユまで持っていってやったのは彼だった。いま彼は、それらを鞄からとり出しては、一つ一つ寝床の上にならべた。彼は考えこんでいた。むかしのことを思いおこしていたのである。
冬のことで、ごく寒い十二月のある晩だった。彼女はぼろを着て、なかば裸のままふるえていた。そのあわれな小さな足は木靴をはいて、まっ赤になっていた。ジャン・ヴァルジャンは、それらの破れた物をぬがせて、この喪服《もふく》を着せてやった。彼女の母も、彼女が自分のために喪服をつけるのを見、それもまた、ごく立派な喪服を着て暖かにしてるのを見ては、墓の中できっと喜んだにちがいなかった。
また彼はモンフェルメイユの森のことを思い出していた。コゼットと彼とはふたりいっしょにその森をとおっていった。天気のこと、葉の落ちた樹木のこと、小鳥のいない木立《こだち》のこと、太陽の見えない空のこと、それでもなお楽しかったことなどが、みんな思いだされた。そしていま彼はそれらの小さな衣類を寝床の上にならべ、襟巻をスカートのそばにおき、ソックスを靴のそばにおき、下着を長衣のそばにおき、それらを一つ一つながめた。あのとき彼女はまだごく小さかった。大きな人形を腕にだき、ルイ金貨をこの胸掛けのポケットにいれ、そして笑っていた。ふたりは手をとりあって歩いた。彼女が頼りにする者は、この世にただ彼ひとりだったのである。
そこまで考えたとき、ジャン・ヴァルジャンのきよらかな白髪の頭は寝床の上にたれ、その堅忍な老いた心は張りさけ、その顔はコゼットの衣裳の中にうまってしまった。もしそのとき階段をとおる者がいたら、はげしいすすり泣きの声が耳に聞えただろう。
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第五章 最後の苦杯
さて、翌日の二月十七日のもう正午すこしすぎた頃だったが、バスクが|ぞうきん《ヽヽヽヽ》と|ほうき《ヽヽヽ》とを手にして「つぎの間を片づけ」ていたとき、軽く扉をたたく音がきこえた。呼び鐘は鳴らされなかった。こういう日には少々無遠慮な訪ねかただった。バスクが扉をひらくと、フォーシュルヴァン氏が立っていた。バスクは彼を客間にとおした。客間はまだいっぱいとりちらかされていて、前夜の歓楽のなごりをとどめていた。
「まあ旦那さま」とバスクはいった。「わたくしどもきょうはつい遅く起きましたものですから」
「ご主人は起きておいでかね」とジャン・ヴァルジャンはたずねた。
「お手はいかがでございます」とバスクはたずねかえした。
「だいぶいい。ご主人は起きておいでかね」
「どちらでございますか、大旦那さまと若旦那さまと」
「ポンメルシーさんのほうだ」
「男爵さまでございますか」とバスクはいった。「見てまいりましょう」
ジャン・ヴァルジャンはひとりになった。
数分間過ぎた。ジャン・ヴァルジャンはそのまま、その場所にじっと立っていた。顔は蒼《あお》ざめ、その眼は落ちくぼんで、不眠のためほとんど眼窩《がんか》の中にかくれてしまっていた。黒服にはみだれた皺《しわ》がついていて、一晩じゅう着どおしだったことを示していた。その肘《ひじ》は敷布とすれあった跡が、白く毛ばだっていた。彼は自分の足もとに、太陽の光りで窓の形が床の上に投げられてるのをながめていた。
扉のところで音がした。彼は眼をあげた。
マリユスがはいってきた。頭をあげ、口もとにえみをうかべ、一種のあかるい輝きを顔にただよわせていた。彼もまた一睡もしていなかったのである。
「ああ、あなたでしたか、お父さん!」と彼はジャン・ヴァルジャンを見て叫んだ。「バスクのやつ、妙にもっともらしい様子をしたりなんかして! それにしても大層早くいらしたですね。まだ十二時半にしかなりませんよ。コゼットはまだ眠っていますよ」
フォーシュルヴァン氏にむかってマリユスがいった「お父さん」という言葉は、最上のよろこびを意味するものだった。彼らのあいだにはつねに、絶壁と冷やかさと気がねとが、つまり、いずれはくだき、とかさなければならぬ氷が、介在《かいざい》していたのである。ところがいまやマリユスによろこびの時がきて、その絶壁もひくくなり、その氷もとけ、フォーシュルヴァン氏は、彼にとってもコゼットにとっても同じくひとりの父となったのだった。
彼はなおつづけていった。喜びの言葉が、まるで自然に溢れでてくるようだった。
「お目にかかってほんとにうれしく思います。きのういてくださらなかったので、わたしたちはどんなに寂しかったかしれません。でも、よくきてくださいました、お父さん。お手はいかがですか。もうおよろしいんでしょう、そうでしょう」
そして、自分からいいと答えたのに満足しながら、彼はなおいいつづけた。
「わたしたちは、ふたりでよくあなたのうわさばかりしています。コゼットはとてもあなたを慕ってますよ。この家にあなたの部屋があることもお忘れではありませんでしょうね。わたしたちはオンム・アルメ街をあまり好きじゃないんです。どうしてあなたはあんなところにお移りになったんです。あそこは不健康で、きたなくて、一方の端には柵《さく》があり、寒くて、とても行けやしません。ここにお住みになったほうがいいですよ。きょうからそうなすってください。そうでないとコゼットが承知しませんよ。コゼットはわたしたちを、なにからなにまで自分の好みどおりにするつもりでいますよ。あなたの部屋をご覧なすったでしょう。わたしたちの部屋のすぐわきで、庭にむいています。錠前もなおしてあれば、寝台もちゃんとして、すっかり用意ができていますよ。ただおいでになりさえすればよろしいんです」
「私は」とジャン・ヴァルジャンはいった。「あなたにひとつ話したいことがあるんです。私はもと徒刑囚《とけいしゅう》だった身の上です」
およそ鋭い音は、耳に対すると同じく精神に対しても、知覚の範囲をこすことがある。フォーシュルヴァン氏の口から出た「私はもと徒刑囚だった身の上です」という言葉は、マリユスの耳にひびきはしたが、それは一定の意味の範囲をこえたものだった。マリユスには、|わけ《ヽヽ》がわからなかった。ただなにかいわれたように思えたが、それがなんであるかわからなかった。
そのとき彼は、相手が恐ろしい様子をしてるのに気がついた。彼は自分の喜びに夢中になっていて、相手の顔がひどく蒼《あお》ざめてるのがそれまで眼にはいらなかったのである。
ジャン・ヴァルジャンは右腕をつっていた黒布をとき、手にまいてるほうたいをはずし、親指を出して、マリユスに示した。
「手はなんともなっていません」と彼はいった。
マリユスはその親指をながめた。
「はじめから、なんともなかったのです」とジャン・ヴァルジャンはまたいった。
実際、なんらの傷跡もなかった。
ジャン・ヴァルジャンはいいつづけた。
「私はあなたの結婚の席にいないほうがよかったのです。できるだけ出席しないようにつとめました。私は偽証をしないために、結婚の契約書に無効なものをはさまないために、署名することをのがれるために、けがをしたと嘘《うそ》をいいました」
マリユスは口ごもった。
「どういうわけですか」
「そのわけは」とジャン・ヴァルジャンは答えた。「私は徒刑場にはいったことがある人間だからです」
「そんなことが!」とマリユスは恐れて叫んだ。
「ポンメルシーさん」とジャン・ヴァルジャンはいった。「私は十九年間徒刑場にいました。窃盗犯のためです。つぎに無期徒刑に処せられました。再犯のためです。そしていまでは脱走囚の身の上なのです」
マリユスはいたずらに、現実の前にたじろぎ、事実をはばみ、明確なものを眼からそらそうとしたが、ついにその本意を屈しなければならなかった。彼はようやく、いっさいを了解しはじめた。そしてこのような場合のつねとして、言外のことまで了解した。内心に突然さしてきた嫌悪すべき光りに彼は戦慄をおぼえた。慄然《りつぜん》たる一つの観念が彼の精神をよぎった。自分にあてられている一つの呪《のろ》わしい宿命を、未来にかいま見たのである。
「なにもかもいってください、なにもかもいってください!」と彼は叫んだ。「あなたはコゼットの父ですね」
そして彼はいいがたい恐怖にかられて、二、三歩あとにさがった。
ジャン・ヴァルジャンは、天井まで伸びあがるかと思われるような、おごそかな態度で頭をあげた。
「いま、あなたは私のいうことを信じてくださらなければいけません。そして、私のような者の誓言《せいごん》は法廷からは受け入れられませんけれども……」
そこで彼はちょっと口をつぐんだ。それから、ゆっくりと一語一語力をいれていいそえた。
「……私の言葉を信じてください。コゼットの父が私ですって! 神に誓って私は否といいます。ポンメルシー男爵、私はファヴロールの田舎者です。樹木の枝切りをして生活していた者です。名前もフォーシュルヴァンではなく、ジャン・ヴァルジャンといいます。コゼットとはなんの縁故《えんこ》もありません。ご安心ください」
マリユスはつぶやいた。
「誰が証明してくれます……」
「私がです、私がそういう以上は」
マリユスは相手をながめた。相手は沈痛の色を顔にうかべ、落ちついていた。そういう平静さから偽りの言葉がでようはずはなかった。氷のようなその冷やかさは、誠実なものだった。その墓のような冷然さのうちには真実なものが感じられた。
「わたしはあなたの言葉を信じます」とマリユスはいった。
ジャン・ヴァルジャンは承認するように頭をさげ、そしてまたいいつづけた。
「コゼットに対して私はなんの関係がありましょう。ただ通りがかりの者にすぎません。十年前までは彼女がこの世にいることすら知りませんでした。なるほど私が彼女を愛していたのは本当です。すでに年をとってからごく小さな娘を見ると、それを愛したくなるものです。年をとってくると、どの子供に対しても祖父のような気になるものです。私のような者でも人なみな心はいくらか持ってるらしいです。コゼットは孤児でした。父も母もありませんでした。それでせめて私のような人間でも、あったほうがよかったのです。そういうわけで私は彼女を愛しはじめました。子供という者はか弱いもので、偶然出会った私のような者でもその保護者となりえます。私はコゼットに対して保護者の務《つとめ》をしてきました。私はそれくらいのことを善《よ》い行いだといえるとは思いませんが、しかしもし善い行いだとすれば、私がそれをしたことを考えてやってください。それは私の罪を多少なりと軽くするものと考えてください。そしてきょう、コゼットは私の手許をはなれ、ふたりは人生の行路を異《こと》にすることになりました。これから以後、私はもうコゼットに対してはなんの関係もなくなります。彼女はポンメルシー夫人です。彼女の保護者がかわったわけです。そしてコゼットにはそれが何よりの仕合せなのです。万事好都合です。六十万フランの金については、あなたはなんともいわれませんが、私からさきに申し上げれば、それは委託されただけなのです。その委託金がどうして私の手にはいったか、それを問う必要はありますまい。私はただそれを返すまでです。それ以上私は人に求められるところはないはずです。私は自分の本名を明《あ》かして、本来の自分にかえりました。それは私一個人に関することです。ただ私は、私がどんな人間だかあなたに知っていただきたいのです」
そしてジャン・ヴァルジャンはマリユスの顔を正面からじっとながめた。
マリユスが感じたことは、ただ雑然とした連絡もない|こと《ヽヽ》ばかりだった。宿命のある種の風は人の魂のうちにそういう波をたたせるものだ。
マリユスはあらたに生じてきた自分の地位にぼうぜんとしてしまい、ほとんど相手の自白を非難するようにいいだした。
「ですが」と彼は叫んだ。「なぜあなたはそんなことをわたしにいうのです。誰に強《し》いられていうのです。自分ひとりで秘密を守っておればいいではありませんか。あなたは告発されてもいず、捜索されてもいず、追跡されてもいないではありませんか。どういうつもりで自白をなさるのです。どういう動機で?」
「どういう動機?」とジャン・ヴァルジャンは、マリユスに話しかけるというより、むしろ自分自身に話しかけるような、低い鈍い声で答えた。「なるほど、この囚徒が、私が囚徒ですといったのは、どういう動機からかと。そうです、妙な動機でです。それは正直からです。不幸なことですが、私の心の中に私をつなぎとめてる一筋の綱があります。ことに老年になると、その綱がますます丈夫になるものです。まわりの生活がすべて壊れかけてくるのに、その綱だけは頑固《がんこ》にのこります。もし私がその綱を払いのけ、それを断《た》ち切り、その結び目を解《と》くか切り捨てるかして、遠くへ立ち去ることができてたら、私は救われたでしょう。ただ出立するだけでよかったでしょう。ブーロア街に駅馬車もあります。そうすれば、あなたは幸福になり、私は行ってしまうだけです。で、私はその綱を切ろうとつとめ、引きのけようとしたが、綱は丈夫で、なかなか切れるどころではなく、私の心をいっしょに引き|もぎろう《ヽヽヽヽ》とするのです。で、結局私は、ほかのところへ行っても生活することはできないと思いました。私にはどうしてもほかへは行くことができないのです。なるほどあなたのいわれるのは道理です、私は馬鹿です。このまま黙ってここにいればいいわけです。あなたは私に部屋を一つ与えてくださるし、ポンメルシー夫人は私を愛して、あの人をいたわっておくれといってくださるし、あなたのお祖父《じい》さまは私がここにいさえすればよろしいとおっしゃるし、私がそのお相手となり、みんないっしょに住みいっしょに食事をし、私はコゼット……いやご免ください、つい口ぐせになってるものですから……。私はポンメルシー夫人に腕をかし、みんな同じ屋根、同じ食卓、同じ火、冬には煖炉の同じ片すみにあつまり、夏にはいっしょに散歩をする。実によろこばしいことで、実に楽しいことで、それ以上のことはありません。そして一家族のように暮してゆく、一家族のように!」
その言葉を発してジャン・ヴァルジャンはにわかに荒々しくなった。彼は両腕をくみ、あたかもそこに深い穴でも掘ろうとしてるように足もとの床《ゆか》をにらみつけ、声は急にはげしくなった。
「一家族! いや、私には家族はない。私はあなたの家族のひとりではありません。およそ人間の家族にはいるべき者ではありません。人が自分の家とするところでは、どこへ行っても私は余計《よけい》な者となるのです。世には沢山の家庭があるが、私が加わることのできる家庭はありません。私は不幸な者です、社会の外にほおり出されてる人間です。父母があること、愛する人といっしょにいること、親切なご老人がおられること、ふたりの天使の家庭ができたこと、家中よろこびにみちてること、万事よくいってること、それを私は見て自分にいいました、汝《なんじ》は入るべからずと。実際私は嘘をつくこともでき、あなた方みんなを欺《あざむ》くこともでき、フォーシュルヴァン氏となってることもできました。そして彼女のため、ある期間は嘘もつきました。しかしいまは私のためである以上、嘘をついてはいけないのです。なるほど私はただ黙ってさえおれば、いまのままつづいていったでしょう。あなたは、誰に|しい《ヽヽ》られて自白するのか、と私におたずねなさる。それは|くだらない《ヽヽヽヽヽ》もののためです、それは私の良心のためなのです。けれども、だまっているのもまたやさしいことでした。私は一晩じゅう、だまっていようといろいろ考えてみました。あなたは私にすべてを打ち明けてくれといわれる。実際、私があなたに申したことは普通のことではないので、あなたがそういわれるのも無理はありません。ところで私は一晩じゅう、いろいろ理屈をならべてみ、適当な理由をならべてみて、できるだけの努力はしました。しかしどうしても私の力におよばないことが二つあったのです。それは、私の心をここにつなぎとめ、釘づけにし、こびりつかせてる綱を断《た》ち切ることと、もうひとつ、私がひとりでいるとき私に低く話しかけるある者をだまらせることでした。それで私はけさ、あなたにすべてを告白しにきたのです。すべてを、もしくはほとんどすべてをです。私にだけ関係したことで、ここにいう必要のないものは、胸にしまって申しません。要点はすでにご存じのとおりです。私は自分の秘密をとりあげて、あなたのところへ持ってきました。そしてあなたの眼の前に底までひらいてみせました。これは容易な決心ではなかったのです。私は終夜苦しみました。私は自分にいってきかせてみました。これはシャンマティユ事件とはちがう、自分の名前をかくしたとて誰にも害をおよぼすものでもない、フォーシュルヴァンという名前は、あることをしてやった礼としてフォーシュルヴァン自身からもらったものだ、それを自分の名前としてもさしつかえない、あなたからいただいた部屋にはいったらどんなに幸福だろう、誰の邪魔にもなるまい、自分だけの片すみにひっ籠《こも》っていよう、コゼットはあなたのものであるが、私は彼女とおなじ家にいることの幸福だけを思っていようと。そうすれば各自相応な幸福をえられるわけです。つづけてフォーシュルヴァンとなっていれば、すべてはよくなるわけです。もちろん、ただ私の魂をべつにしてはです。そうして私のまわりにはよろこびの光りがみち、私の魂の底だけが暗黒なだけです。しかし人は幸福であるだけではたりません。心も満ち足りていなければなりません。そうして私はフォーシュルヴァン氏となっており、自分の本当の顔をかくし、あなたの晴れやかな心の前に私は謎をいだき、あなたの白日の輝きの中に私は影をいだき、なんらの警告もせず善良な顔をしてあなたの家庭に徒刑場を引きいれ、もしあなたに知られたら追い払われるにちがいないと考えながら、あなたと同じ食卓につき、もし召使たちに知られたら実に|けがらわしい《ヽヽヽヽヽヽ》といわれるにちがいないと思いながら、彼らから用をしてもらうことになるのです。当然あなたから嫌われるべき肘《ひじ》をあなたに接し、あなたの握手を騙《かた》り取ることになります。あなたの家では、尊い白髪と烙印《らくいん》をおされた白髪との両方に、尊敬をわかつことになります。もっとも親しい談話のおり、みんなが互いに心の底まで打ち明けていると思ってるときに、あなたのお祖父《じい》さまとあなた方ふたりと私と四人いっしょにいるときに、そこにはもひとり見知らぬ男がいることになります。私は自分の恐ろしい井戸の蓋《ふた》をひらくまいということばかり注意して、あなた方の生活のうちに立ちまじることになります。そうしてもはや葬られてる私が、生命のあるあなた方の邪魔にはいることになります。私は永久に彼女につきまとうことになります。あなたとコゼットと私と三人とも、緑色の帽子をかぶることになります。あなたはそれでも平気でおられますか。私はもっとも踏みにじられた人間にすぎません。私は人生の外にいる者です」
ジャン・ヴァルジャンは言葉をきった。マリユスは耳をかたむけていた。このような一連の思想と苦悶との声は、けっして中断するものではない。ジャン・ヴァルジャンは再び声をひくめたが、こんどはもう単に鈍《にぶ》い声ではなくて、凄惨《せいさん》な声だった。
「なぜそんなことをいうのかとあなたはたずねなさる。告発されても、捜索されても、追跡されてもいないではないかと、あなたはいわれる。ところが事実、私は告発されてるのです。捜索され、追跡されてるのです。誰からかといえば、私自身からです。私の行手をさえぎる者は、私自身です。私は自分を引きつれ、自分を突き出し、自分を捕縛《ほばく》し、自分を処刑しています。人は自分自身を捕えるときほど、しっかりと捕えることはないものです」
そして彼は自分の上衣をぐっとつかんで、それをマリユスのほうへ引っ張った。
「この拳《こぶし》をご覧ください」と彼はいいつづけた。「この拳は襟《えり》をつかんでどうしてもはなさないようには見えませんか。ところでこれと同じも一つの拳があります。すなわち良心です。人は幸福でありたいと欲するならば、けっして義務ということを理解してはいけません。なぜなら、一度義務を理解すると、義務はもう一歩もまげないからです。ちょうど理解したために罰を受けるように見えます。しかし実はそうではありません。かえって報《むく》われるものです。なぜなら、義務は人を地獄の中につき入れますが、そこで人は自分のそばに神を感ずるからです。人は自分の内臓《はらわた》を引きさくと、自分自身に対して心を安んじることができるのです」
そしてさらに痛切な音調で、彼はいいそえた。
「ポンメルシーさん、これは常識をはずれたことかもしれませんが、しかし私は正直な男です。しかし私の誤《あやま》ったやり方のために、もしあなたがなおつづけて私を重んずるようなことになれば、私はもう正直ではなくなります。ところがいま、あなたは私を|いやしん《ヽヽヽヽ》でいられるから、私は正直な男といえるのです。私は一つの宿命をになっていまして、人の尊敬は私にはただ盗んでしか得られないのです。そういう尊敬はかえって私を辱かしめ、私の内心を苦しめます。そしてみずから自分を尊敬するには、人からいやしまれなければいけないのです。そのとき私は、はじめてまっすぐに立てます。私は自分の良心に服従してる一徒刑囚です。おわかりでしょう、ポンメルシーさん、私の生涯にはいろいろなことがおこったのです」
ジャン・ヴァルジャンはまた言葉をきり、自分の言葉のあと口がいかにも苦《にが》いかのようにしばらく唾《つば》を呑《の》みこんで、またつづけた。
「そういう嫌悪すべきものを身にになっている場合、人はそれをひそかに他人へわかち与えてはいけません、ずるい|やり方《ヽヽヽ》をして自分の惨めさで他人の幸福を妨げてはいけません。フォーシュルヴァンは私にその名前を貸してくれましたが、私にはそれを用いる権利はありません。彼は私にその名前を与えることもできましたが、私はそれを取ることができませんでした。一つの名前はすなわち一つの自己です。私は田舎者にすぎませんが、このとおり少しは考えもし、すこしは書物を読みました。私は自分で自分を教育しました。他人の名前を盗みとって、その下に身をおくのは不正直なことです。いつもぬすみ見ばかりをし、自分の内部に汚辱《おじょく》をいだいてることは、どうして、どうして、どうして! それよりむしろ、苦しみもだえ、血をしぼり、涙をながし、爪で肉体をかきむしり、悩みもだえて夜をすごし、自分の心身をみずから喰《く》いつくすほうが、よほどまさっています。そういうわけで、私はすべてをあなたに話しにまいったのです。おっしゃるとおり、みずから好んでです」
彼は苦しい息をついて、最後の言葉をなげつけた。
「むかし、私は生きるために一片のパンを盗みました。そして今日、私は生きるために一つの名前を盗みたくはありません」
「生きるため!」とマリユスは言葉をはさんだ。「生きるためにその名前があなたに必要なわけはないでしょう」
「ああ、あなたのいわれる意味はよくわかります」とジャン・ヴァルジャンは答えながら、いくどもつづけて頭をゆるく上げ下げした。
それから沈黙が落ちてきた。ふたりともだまりこんで、深く考えの淵にしずんでしまった。マリユスはテーブルのそばに坐り、折りまげた指の一本の上に口のすみをもたせていた。ジャン・ヴァルジャンは歩きまわっていた。そして彼は鏡の前に立ち止まり、そこにじっとたたずんだ。それから、うつってる自分の姿も眼にいれないで鏡の面をながめながら、あたかも内心の推理に答えるかのようにいった。
「でも、これで私は気がやすらいだ!」
彼はまた歩きだして、部屋の端《はし》までいった。そしてむき返ろうとしたとき、マリユスが自分の歩いてるのをながめているのに気づいた。そのとき彼は名状しがたい調子でマリユスにいった。
「私の足はすこし引きずり加減《かげん》になっています。その理由ももうおわかりでしょう」
それから彼はマリユスのほうへすっかりむきなおった。
「ところで、まあ仮《か》りにこうなったとしたらどうでしょう。私がなにもいわず、フォーシュルヴァン氏となっており、あなたの家にはいりこみ、あなたの家庭のひとりとなり、自分の部屋をもらい、毎朝たのしく食事をし、晩は三人で芝居にいき、私はテュイルリーの園やロワイヤル広場にポンメルシー夫人のおともをし、みんないっしょにくらし、私も人なみの人間と思われているとします。しかるにある日、私もそこにおり、あなた方もそこにおられ、いっしょに話をし笑いあっているときに、突然、ジャン・ヴァルジャンと叫ぶ声を聞き、警察の恐ろしい手が陰からあらわれ、私の仮面をにわかに剥《は》ぎ取るとします!」
彼はまた口をつぐんだ。マリユスは慄然として立ちあがっていた。ジャン・ヴァルジャンはいった。
「それをあなたはどう思われます?」
マリユスは沈黙をもってそれに答えた。
ジャン・ヴァルジャンはつづけていった。
「これであなたは私が黙っていないほうが正しい、ということがよくおわかりでしょう。あなたは幸福で、天にあって、ひとりの天使を護る天使となり、日の光りの中に住み、そしてすべてに満足してください。そして、ひとりのあわれな罪人が、自分の胸をひらいて義務をつくすためにとった手段については、心をわずらわさないでください。いまあなたの前に立ってるのはひとりのみじめな男です」
マリユスはしずかに部屋を横ぎり、ジャン・ヴァルジャンのそばにきて彼に手を差しだした。
しかしマリユスは、相手が手をださないので、すすんでそれを取らなければならなかった。ジャン・ヴァルジャンはなされるままに任《まか》した。マリユスはあたかも、大理石の手をにぎりしめたような気がした。
「わたしの祖父にはいくらも親しい人がいます」とマリユスはいった。「あなたの赦免《しゃめん》を得るようにつとめてみましょう」
「それは無駄なことです」とジャン・ヴァルジャンは答えた。「私は死んだと思われています。それでじゅうぶんです。死んだ者は監視をまぬかれています。死は赦免とおなじことです」
そして、マリユスににぎられていた手をはなしながら、犯すべからざる威厳をもっていいそえた。
「その上、義務をはたすことは、頼りになる友を得るのと同じです。私はただ一つの赦免をしか必要としません、すなわち自分の良心の赦免です」
そのとき、客間の他の一端にある扉が少し静かにひらいて、その間からコゼットの頭が現われた。こちらからはそのやさしい顔だけしか見えなかった。髪はみごとに乱れており、目蓋《まぶた》はまだ眠りの気にふくらんでいた。彼女は巣から頭を差しだす小鳥のような様子で、最初に夫をながめ、つぎにジャン・ヴァルジャンをながめ、そしてばらの花の奥にあるほほえみかと思われるような笑顔をして、彼らに言葉をかけた。
「政治の話をしていらっしゃるのね、わたしをのけものにしてなんということでしょう!」
ジャン・ヴァルジャンは身をふるわした。
「コゼット!」とマリユスはつぶやいた。そしてそのまま口をつぐんだ。あたかも彼らふたりは罪人ででもあるかのようだった。
コゼットは光り輝いて、なおふたりをかわるがわる見くらべていた。その眼の中には、楽園の反映があるかと思われるほどだった。
「わたし、現場をつかまえたのよ」とコゼットはいった。「フォーシュルヴァンお父さまが、良心だの義務をはたすだのとおっしゃってるのを、わたし扉《と》の外から聞いたんですもの。それは政治のことでしょう。いやよ。すぐ翌日から政治の話をするなんていけないことよ」
「そうではないんだよ、コゼット」とマリユスは答えた。「ぼくたちは用談をしている。お前の六十万フランをどこに預けたら一番いいか話し合って……」
「いえ、そんなことではないわ」とコゼットはそれをさえぎった。「わたしもはいっていってよ。かまわないでしょう」
彼女は思いきって扉からでて、客間の中にはいってきた。沢山の襞《ひだ》と、大きな袖のある、まっ白な、広い化粧着をつけて、それを首から足先まで引きずっていた。
「さあわたしは」と彼女はいった。「あなた方のそばの肘掛椅子に坐っていますわ。もう三十分もすればご飯なのよ。なんでも好きなことをお話しなさるがいいわ。男の方って話をせずにはいられないものね。わたし、おとなしくしていますわ」
マリユスは彼女の腕をとって、やさしくいった。
「ぼくたちは用談をしているんだから、ねえ、コゼット、ちょっとむこうへ行っておくれ。数字のことだから、お前は退屈するにちがいない」
「まああなたは、けさ綺麗なネクタイをしていらっしゃるのね。ほんとにおしゃれだこと。いえ、数字でもわたしは退屈しませんわ」
「きっと退屈するよ」
「いいえ。なぜって、あなたのお話ですもの。よくはわからないかも知れないけれど、おとなしく聞いていますわ。好きな人の声を聞いておれば、その意味はわからなくてもいいんですもの。ただわたしはいっしょにいたいのよ。あなたといっしょにいますわ、ねえ」
「いや、ぜひともふたりきりでなければいけないのだ」
「では、わたしはほかの者だとおっしゃるの?」
ジャン・ヴァルジャンはそれまで一言も発しなかった。コゼットは彼のほうをむいた。
「まずお父さま、わたしはあなたに接吻していただきたいわ。わたしの加勢もせずなんともおっしゃらないのは、どうなすったんです。そんなお父さまってあるものでしょうか。このとおりわたしは家庭の中でごく不幸ですの。夫がわたしをいじめます。さあすぐにわたしに接吻してくださいな」
ジャン・ヴァルジャンは近よった。
コゼットはマリユスのほうをむいた。
「わたし、あなたはいや」
それから彼女はジャン・ヴァルジャンに額を差しだした。
ジャン・ヴァルジャンは一歩進みよった。
コゼットはうしろにさがっていった。
「お父さま、まあお顔の色が悪いこと。お手が痛みますの」
「それはもうよくなった」とジャン・ヴァルジャンはいった。
「よくお眠りにならなかったんですか」
「いいや」
「なにか悲しいことでもおありになるの」
「いいや」
「わたしに接吻してくださいな。どこもお悪くなく、よくお眠りになり、ご安心していらっしゃるのなら、わたし、なんとも小言《こごと》は申しません」
そして、あらたに彼女は額を差しだした。
ジャン・ヴァルジャンは天の反映の宿ってるその額に唇をあてた。
「笑顔をしてくださいな」
ジャン・ヴァルジャンはその言葉にしたがった。しかしそれは幽霊の微笑のようだった。
「さあ夫からわたしをかばってください」
「コゼット!」とマリユスはいった。
「お父さま、怒ってやってください。わたしがいるほうがいいといってやってください。わたしの前ででもお話はできます。わたしを馬鹿だと思っていらっしゃるのね。ほんとにおかしいわ、用談だの、金を銀行に預けるだのって、たいしたご用ですわね。男ってなんでもないことに勿体《もったい》をつけたがるものね。わたし、ここにいたいんです。わたしはけさたいへん綺麗でしょう、マリユス、わたしを見てごらんなさい」
そして可愛い肩を少しそびやかし、ちょっと拗《す》ねてみたなんともいえない顔をして、彼女はマリユスをながめた。ふたりの間には一種の火花があった。そこに人がいようと少しもかまわなかった。
「ぼくはお前を愛するよ!」とマリユスはいった。
「わたし、あなたを慕ってよ!」とコゼットはいった。
そして二人はどうすることもできないでひしと抱き合った。
「もうこれで、わたしがここにいてもいいでしょう」とコゼットは勝ち誇ったようにちょっと口をとがらせて化粧着の襞《ひだ》をなおしながらいった。
「それはいけない」とマリユスは哀願するような調子で答えた。「ぼくたちはまだきまりをつけなければならないことがあるから」
「まだいけないの?」
マリユスは厳格な口調でいった。
「コゼット、どうしてもいけないのだ」
「ああ、あなたは太い声をなさるのね。いいわ、行ってしまいます。お父さまもわたしを助けてくださらないのね。お父さまもあなたもふたりともあまり圧制です。お祖父《じい》さまにいいつけてあげます。わたしがまたじきにもどってきてつまらないことをするとお思いなすっては、間違いですよ。わたしだって矜《ほこ》りは持っています。今度はあなた方のほうからいらっしゃるがいいわ。わたしがいなけりゃあなた方のほうで退屈なさるから、見ててごらんなさい。わたしは行ってしまいます、ようございます」
そして彼女は出て行った。
二、三秒たつと、扉はまたひらいて、彼女の鮮麗な顔が扉の間から、もう一度あらわれた。彼女はふたりに叫んだ。
「ほんとに怒っていますよ」
扉は再びとざされ、部屋の中は影のようになった。
彼女が現われたのは、ちょうど道にまよった太陽の光りが、みずから気づかないで、突然闇夜をよぎったようなものだった。
マリユスは扉がかたくとざされたのを確かめた。
「かわいそうに!」と彼はつぶやいた。「コゼットがやがて知ったら……」
その一言にジャン・ヴァルジャンは全身をふるわせた。彼は昏迷《こんめい》した眼でマリユスを見つめた。
「コゼット! そう、なるほどあなたはコゼットに話されるつもりでしょう。ごもっともです。だが、私はそのことを考えていませんでした。人は一つのことには強くても、他のことにはそうゆかない場合があります。私はあなたに懇願します、哀願します、どうか誓ってください、彼女にはいわないと。あなたが、あなただけが知っている、というのでじゅうぶんではないでしょうか。私はほかから強いられなくとも、みずからそれをいうことができました。宇宙にむかっても、世界中にむかっても、公言しうるでしょう。私には結局どうでもいいことです。しかし彼女は、彼女には、それがどんなことだかわかりますまい。どんなにおびえるでしょう。徒刑囚、それがなんであるかも説明してやらなければなりますまい」
彼は肘掛椅子にたおれかかり、両手で顔をおおった。声は聞えなかったが、肩の震えをみれば、泣いてるのが明らかだった。沈黙の痛烈な涙だった。
彼は一種の痙攣《けいれん》にとらえられ、息をするためのように椅子の背に身をそらせ、両腕をたれ、涙にぬれた顔をマリユスの前にさらした。そしてマリユスには、底のない深みにしずんでいるかと思われるような声で、彼が低くつぶやくのを耳にした。
「ああ、死んでしまいたい!」
「ご安心なさい」とマリユスはいった。「あなたの秘密はわたしだけで誰にももらしません」
なおマリユスは、それほど心を動かされてはいなかっただろうが、一時間ばかり前から意外な、恐ろしいことになれざるを得なかったし、眼のまえで一徒刑囚の姿がしだいにフォーシュルヴァン氏の姿にかさなってくるのを見、痛烈な現実にしだいにとらえられ、その場合の自然の傾向として、相手と自分とのあいだにできた|へだたり《ヽヽヽヽ》を認めざるを得ないようになって、こういい添えた。
「わたしは、あなたが忠実に、また正直に返してくだすった委託金について、一言もいわないではおられないような気がします。それは実に清廉潔白《せいれんけっぱく》な行いです。あなたはその報酬を受けられるのが正当です。どうかあなたから金額をきめてください。それだけ差しあげますから。いかほど多くともご遠慮にはおよびません」
「ご親切は感謝します」とジャン・ヴァルジャンはおだやかに答えた。
彼はしばらく考えこんで、人差指で親指の爪を機械的にこすっていたが、やがて口をひらいた。
「もう、これでほとんど万事すんだようです。だが、最後にも一つ残っていますが……」
「なんですか」
ジャン・ヴァルジャンはこれを最後というように躊躇《ちゅうちょ》しながら、声という声もださず、ほとんど息もしないでいった、というよりむしろ口ごもった。
「すべてを知られた今となっては、ご主人としてあなたは、私がもうコゼットに会ってはいけないとお考えになるでしょうか」
「そのほうがいいだろうと思います」とマリユスは冷やかに答えた。
「ではもう会いますまい」とジャン・ヴァルジャンはつぶやいた。
そして彼は扉のほうへ進んでいった。
彼は把手《とって》に手をかけ、扉を少しひらいた。ジャン・ヴァルジャンはとおれるくらいにそれをひらき、ちょっと立ちどまり、それからまた扉をしめて、マリユスのほうにむきなおった。
彼はもう蒼《あお》ざめてるのではなく、ほとんど色を失っていた。眼にはもう涙もなく、ただ悲壮な一種の焔がやどっていた。その声は再び不思議にも落着いていた。
「ですが」と彼はいった。「もしおよろしければ、私は彼女に会いにきたいのです。私は実際それを非常に望んでいます。もしコゼットに会いたくないのでしたら、あなたにこんな自白はしないで、すぐにどこかへ行ってしまったはずです。けれども、コゼットのいる所にとどまっており、やはりつづけて会いたいと思いますから、すべてを正直にあなたに申さなければならなかったのです。私の考えてることはおわかりでしょう。容易にわかることです。私は九カ年以上も彼女といっしょにいたのです。私どもは、はじめは大通りの破家《あばらや》に住み、それから修道院に住み、つぎにリュクサンブールの近くに住んでいました。あなたがはじめて彼女に会われたのはリュクサンブールでした。彼女のフラシ天の帽子をおぼえておいででしょうか。それから私どもは、アンヴァリード街区にゆきました。鉄門と庭とのある家です。プリューメ街です。私は小さな裏庭の離れに住んでいて、そこからいつも彼女のピアノを聞いていました。それが私の生命でした。私どもはけっして別々になったことはありませんでした。九年と何カ月かつづいたのです。私は実の親のようで、彼女は実の娘のようでした。あなたにもよくおわかりかどうか知りませんが、ポンメルシーさん、いま立ち去ってしまい、もう彼女に会わず、もう彼女に言葉もかけず、全く彼女を失ってしまうのは、実に堪《た》え難《がた》いことです。もし悪いとお考えになりませんでしたら、私はときどきコゼットに会いにきたいのです。たびたびはまいりません。長居もいたしません。表の小さな部屋にきめていただいてもよろしいし、階下《した》の部屋でもよろしいです。召使用の裏門から出入りしてもかまいません。しかし、それではかえって怪しまれましょう。やはり普通の表門からはいったほうがよろしいでしょう。全くのところ私は、どうしてもコゼットに会いたいのです。どんなにたまにでもよろしいです。私の立場になって考えてください。私はそれ以外になんの望みもありません。それにまたもちろん用心もしなければなりません。私が全くこなくなれば、かえってわるいことになり、人から不思議に思われるでしょう。で、もっとも都合のよいのは、夕方まいったほうがいいでしょう、夜になろうとするころ」
「毎晩こられてもよろしいです」とマリユスはいった。「コゼットにお待ちさせます」
「ご親切をありがたく思います」とジャン・ヴァルジャンはいった。
マリユスはジャン・ヴァルジャンにお辞儀《じぎ》をし、幸福は絶望を扉のところまで送りだし、そしてふたりは別れた。
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第六章 消えゆく光り
一
あくる日、夜になろうとするころ、ジャン・ヴァルジャンはジルノルマン家を正門からおとずれた。彼を迎えにでたのはバスクだった。バスクはちょうど中庭にいて、なにかいいつけでも受けてる様子だった。
バスクはジャン・ヴァルジャンが近よってくるのも待たずに、彼に言葉をかけた。
「二階がよろしいか階下《した》がよろしいか、うかがうようにと、男爵さまのおおせでございます」
「階下《した》にしていただこう」とジャン・ヴァルジャンは答えた。
バスクはひどくていちょうな態度で、ひくまった部屋の扉をひらいていった。
「ただいま奥さまに申しあげてまいります」
ジャン・ヴァルジャンが通された部屋は、うす暗いじめじめした部屋で、ときどき物置に使われるらしく、赤い板瓦がしいてあり、鉄格子のついた窓がひとつあるだけだった。部屋はせまい上に天井も低く、片すみには空瓶《あきびん》がつまれている。淡黄色のペンキでぬられた壁は、ところどころ大きくはげ落ちていた。奥のほうの煖炉に火がはいっていた。それは「階下《した》にしていただこう」というジャン・ヴァルジャンの返事が、すでにはっきり予期されてたことをしめすものだった。
二つの肘掛椅子が煖炉の両側におかれ、その椅子のあいだに、毛よりも糸目がよけいにみえてる古いマットが、絨毯《じゅうたん》のかわりにひろげられていた。
部屋のなかは、煖炉の火のかがやきと、窓からさしてるうすあかりとで照らされてるだけだった。
ジャン・ヴァルジャンは疲れきっていた。数日来、ほとんどなにも食べず、ほとんど眠ってもいなかった。彼は肘掛椅子に身を落した。
バスクがもどってきて、ともしたろうそくを一本煖炉の上におき、また出ていった。ジャン・ヴァルジャンはうなだれて、あごを胸にうめ、バスクにもろうそくにも眼をむけなかった。
突然、彼はとびあがるようにして身をおこした。コゼットがうしろに立っていたのである。
ジャン・ヴァルジャンは彼女がはいってくるのを見はしなかったが、その気配《けはい》で感じとった。
彼はふりむいてコゼットを見つめた。彼女はいかにもあでやかな美しさだった。しかし彼の深いまなざしがとらえたのは、その美しさではなく、その心だった。
「まあ!」とコゼットは叫んだ。「なんてことをお考えになるんです! お父さま。わたしはあなたが変ったお方だとは知っていました。でも、こんなことをなさろうとは思いもよりませんでしたわ。ここでわたしにあいたいとおっしゃるなんて。マリユスがそう申してましたわ」
「私から、おねがいしたんだよ」
「きっと、またそんなふうにおっしゃるだろうと思ってましたわ。よろしゅうございますわ、し返ししてあげますからね。でもまあ、ちゃんと、はじめからのご挨拶を致しましょうよ。お父さま、まずわたしに接吻してくださいな」
そして彼女は頬をさしだした。
ジャン・ヴァルジャンは、じっとその場から動こうともしなかった。
「まあ、身体を動かそうともなさらないのね。まるで罪人みたいですわ、お父さま。でも、よろしゅうございますわ。イエス・キリストもいってますわ、もう一方の頬をさしだせって。ほら、ここに」
そして彼女はもう一方の頬をさしだした。
ジャン・ヴァルジャンは依然として身動きしなかった。まるで足が床に釘づけにされたみたいだった。
「まあ、お父さま、本気でそうしていらっしゃるの」とコゼットはいった。「わたし、お父さまになにか悪いことをしたかしら。ほんとに困ってしまうわ。わたしのほうこそ、お父さまに貸しがありますのに。お父さま、きょうはわたしたちといっしょにご飯をめしあがってくださらなければなりませんのよ」
「食事はもうすましてきたよ」
「嘘《うそ》ですわ。わたし、ジルノルマンさまにあなたを叱っていただくわ。おじいさまなら、ちっとはお父さまをたしなめることができますもの。さあ、わたしといっしょに客間にいらっしゃい、すぐに」
「だめだよ」
こんどは、今までのようにコゼットは上手《うわて》にでるのをやめて、いろいろとたずねかけた。
「まあ、どうしてですの? わたしに会うのに、家じゅうでいちばんきたない部屋をお望みになるなんて。ここじゃ、あんまりひどいじゃありませんの」
「お前もしっている……」
ジャン・ヴァルジャンはいいなおした。
「奥さんもご存じのように、私は変人だ。私にはいろんな変ったくせがある」
コゼットは小さな両手をうち合せた。
「奥さん! ご存じのように!……ですって、まあ、ますます変だわ。きょうはまたいったい、どうなさったのです?」
ジャン・ヴァルジャンは、ときどきごまかしにやる、あの印象的な悲しいほほえみをかえした。
「あなたは奥さんになることを望んでおられた。そしていま奥さんになられた」
「でもお父さま、あなたに対してはそうじゃありませんわ」
「もう私を父とよんではいけません」
「まあ、なんですって?」
「私をジャンさんとよばなければいけません、ジャンでもいい」
「もうお父さまではないんですって、わたしはもうコゼットではないんですって、ジャンさんですって! いったいどうなさったというんです? たいへんなかわりようじゃありませんの。まあわたしの顔をちょっと見てくださいな。あなたはわたしたちといっしょに住むのがいやだとおっしゃるのね。わたしの部屋がいやだとおっしゃるのね。わたし、あなたになにをしまして! なにをしたでしょう。なにかあるのね?」
「いや、なにも」
「それならどうして?」
「いつもとちっとも変りはない」
「じゃ、なぜ名前をお変えになるの?」
「あなたも変えてる」
彼はほほえんでいいそえた。
「あなたはポンメルシー夫人となってるし、私がジャンさんとなってもふしぎはないですよ」
「わたしにはちっともわけがわかりませんわ。なんだか、ばかげてるわ。あなたをジャンさんといっていいか、夫にきいてみましょう。きっと許してはくれませんわ。いくら変った|くせ《ヽヽ》があるからって、この小さなコゼットを苦しめるなんて、ほんとにひどいわ。あなたはやさしいお方なんですもの、意地悪なすっちゃいやですわ」
彼は答えなかった。
コゼットは急に彼の両手をとり、こばむ間もあたえずにそれを自分の頬のほうへもちあげ、あごの下の胸もとにおしあてた。それは深い愛情をしめす身振りだった。
「どうぞ」と彼女はいった。「やさしくしてくださいな」
そして彼女はつけ加えた。
「わたしがやさしいというのは、こういうことですわ。意地っぱりをなさらないで、ここにきてお住みになり、またちょいちょいいっしょに散歩してくださって、プリューメ街のようにここにも小鳥がいますから、わたしたちといっしょにお暮しなすって、オンム・アルメ街のひどい家をお引き払いになり、わたしたちにいろんな謎みたいなことはなさらないで、普通のとおりにしていらっして、わたしたちといっしょに晩餐もなされば、いっしょに昼ご飯もお食べになり、わたしのお父さまになっててくださることですわ」
彼はとられた手をはなした。
「あなたにはもう父はいらない、夫があるのですから」
コゼットはちょっと気を悪くした。
「わたしにはお父さまがいらないんですって! そんな無茶なことをおっしゃるのなら、もう申しあげる言葉もありませんわ」
「トゥーサンだったら」とジャン・ヴァルジャンは、なんでもその場に手当りしだいの、いいわけの種をみつけようとするかのようにいった。「私にはいつも私にだけのやり方があるってことを、彼女だったらすぐにわかってくれるんだけど。なにも変ったことなんか、ないんですよ。私はいつもうす暗い片すみが好きなんです」
「でも、ここは寒いじゃありませんの。物もよくみえませんわ。それにジャンさんとよんでくれ、だなんて、あまりひどすぎますわ。わたしに|あなた《ヽヽヽ》なんておっしゃるのもいやですわ」
「ところで、さっきここへくる途中」とジャン・ヴァルジャンはそれに答えていった。「サン・ルイ通りで、私の眼についた道具がひとつありました。道具屋の店先においてあったのです。私がもしきれいな女だったら、きっとあの道具をほしがったろうと思います。とてもりっぱにできてる新式の化粧台でした。たしかあなたがばらの木だといってたあの道具ですよ。鏡もとても大きかったし、ひきだしもいくつかついてました。実にきれいなものでした」
「ほんとに人をばかにしていらっしゃるわ!」とコゼットはいった。「わたしはもう腹がたってなりませんわ。きのうから、みんなでわたしにひどいことばかりなさるんですもの。マリユスがなにかいっても、あなたはわたしをかばってくださらないし、あなたがなにかおっしゃっても、マリユスはわたしの味方になってくれないんだもの。わたしはひとりぼっちですわ。あなたが変った方だとはわたしも承知してますわ。|いつも《ヽヽヽ》のことですもの。でも、結婚したばかりの者には、すこしは気が休まるようにしてやるものですわ。あなたはあのオンム・アルメ街のひどい家がいいとおっしゃいますけど、あとでまたすぐに変ったこともできるじゃありませんの。わたしはもうあそこがいやでたまりませんわ。いったいわたしになにをおこっていらっしゃるの? わたし、心配でなりませんわ。ああ、いやになってしまいますわ!」
そして彼女は急にまじめになって、ジャン・ヴァルジャンをじっと見つめながらこういった。
「あなたは、わたしが幸福なのを、|よく《ヽヽ》思っていらっしゃらないんですの?」
無邪気もときとして、そうとはしらずに人の心をつきさすことがある。コゼットの問いは彼女自身にとっては、ごく単純なものだったが、ジャン・ヴァルジャンにとっては、彼の心を深くつきさすものだった。コゼットはちょっとひっかくつもりだったが、実は相手に深い傷をおわせたのだった。
ジャン・ヴァルジャンは顔色をかえた。彼はしばらく返事もせずにじっとしていたが、やがて自分に話しかけるような、なんともいえぬ調子でつぶやいた。
「あなたのその幸福は、私の生涯の目的だった。いまや神は、私がもはや去るべきであることを示してくださる。コゼット、お前は幸福だ。私のでる幕は終ったのだ」
「ああ、|お前《ヽヽ》とよんでくだすったのね!」とコゼットは叫んだ。
そして彼女は、彼の首にとびついた。
ジャン・ヴァルジャンはわれを忘れて、やにわにコゼットを自分の胸に抱きしめた。彼はほとんど彼女をまたとりもどしたような心地になった。
「ありがとう、お父さま!」とコゼットはいった。
コゼットをとりもどしてしまいたいという誘惑は、しだいに強烈なものとなってジャン・ヴァルジャンの胸をつき刺しはじめた。彼はしずかにコゼットの腕から身をひき、そして帽子をとりあげた。
「どうなさるの?」とコゼットはいった。
ジャン・ヴァルジャンは答えた。
「奥さん、お別れします。みなさんがあなたを待っておられましょうから」
それから扉の敷居の上でいいそえた。
「私はあなたに|お前《ヽヽ》といいました。しかし、もうこれからは、そんなふうにはお呼びしませんから、と、ご主人に申しあげてください。では、ご免ください」
ジャン・ヴァルジャンはコゼットをあとにしてでていった。コゼットはその謎のような別れの言葉にぼうぜんとしてしまった。
二
ある日、ジャン・ヴァルジャンは階段をおりてきて通りに二、三歩ふみだし、ある車除けの石の上に腰をおろした。それは六月五日から六日にかけての夜、ガヴローシュがやってきたときに、彼が考えにふけりながら腰かけていたのと同じ石だった。彼はそこに、しばらくじっとしていたが、やがてまた階上《うえ》にあがっていった。それは、あたかも振子の最後の一振りのごときものだった。あくる日、彼はもう部屋からでてこなかった。その翌日には、もう寝台からもでてこなかった。
門番の老婆は、キャベツや馬鈴薯《ばれいしょ》に少しの豚肉をまぜて彼にそまつな食べものをこしらえていたのだったが、彼女は皿のなかをみて叫んだ。
「まあ、あんたはきのうからなにも食べないんだね!」
「いや、食べたよ」とジャン・ヴァルジャンは答えた。
「だって、お皿には、まだいっぱいのこったままじゃないの」
「水差しを見てごらん。空《から》になってるから」
「水をのんだだけじゃあ、食べたなんていえないね」
「しかし」とジャン・ヴァルジャンはいった。「水だけしかほしくなかったんだったら?」
「そりゃあ、のどが渇いたというもんだね。いっしょになにか食べなけりゃ、きっと熱がある証拠だよ」
「食べるよ、あしたは」
「じゃなくって、いつかはでしょう。なぜきょう食べないんだね。あしたは食べようなんて、そんなばかなことがあるものかね。わたしがこしらえてあげたものに手をつけないでおくなんて! こんなおいしい煮ものにさ!」
ジャン・ヴァルジャンは婆さんの手をとった。
「きっと食べるよ」と彼は婆さんをなぐさめるような調子でいった。
「お前さんはほんとに困りものだ」と門番の女はいった。
ジャン・ヴァルジャンはその婆さんのほかには、ほとんど誰とも顔をあわさなかった。パリのなかには誰も通らない街路があり、誰もおとずれない部屋がある。ジャン・ヴァルジャンはそういう通りに住み、そういう部屋にいた。
まだ外にでかけてたころ、彼はある金物店で五、六スーだして小さな銅の十字架像を買った。彼はそれを寝台のむかいの釘にかけていた。
一週間すぎたが、ジャン・ヴァルジャンは部屋のなかさえ一歩も歩かなかった。彼はずっと寝たっきりだった。
門番の女は夫にいった。
「上の|じいさん《ヽヽヽヽ》は、もう起きもしなけりゃ、食べもしないんだよ。ながくはもつまいよ。なにかひどく心配なことでもあるらしい。わたしが思うには、きっと娘が悪いとこへでもかたづいたんだよ」
夫は、亭主としての威厳をふくんだ調子でそれに答えた。
「もし金がありゃ医者にかかるさ。金がなけりゃ医者にもかかれんて。医者にかかれなけりゃ、死ぬばかりさ」
「医者にかかったって?」
「やっぱり死ぬものは死ぬさ」
女房は勝手に自分のだといってた敷地にはえていた草を、古ナイフで掻《か》きとりはじめたが、草をとりながらつぶやいた。
「かわいそうに。ひよっこみたいにまっ白な、きれいなじいさんだが……」
彼女は通りのむこうに、近所の医者が通りかかるのをみた。そして自分ひとりできめこんで、その医者にきてもらうことにした。
「三階でございますよ」」と彼女は医者にいった。「かまわずにおはいりなさいましよ。じいさんはもう寝たっきりで、鍵はいつも扉につけっぱなしですからね」
医者はジャン・ヴァルジャンを診察して、彼にいろいろと話しかけた。
医者がおりてくると、門番の老婆は彼によびかけた。
「どうでございました?」
「病人はだいぶ悪いようだ」
「どこが悪いんでございましょう?」
「どこといって悪いところもないが、どうも見たところ大事な人でもなくしたように思われるな、そんなことで死ぬ場合もあるものさ」
「あの人は、あなたになんといいましたね?」
「病気じゃないと……」
「また、きてもらえますかね」
「ああ、いいとも」と医者は答えた。「だがもう私より、ほかの人にきてもらわねばならぬことになると思うがね」
ある晩、ジャン・ヴァルジャンは、かろうじて肘《ひじ》で身をおこした。自分の手首をとってみたが、脈が感じられなかった。呼吸はみじかい上に、ときどき止った。彼はいままでいちどもなかったほど、ひどく弱りきってるのに気がついた。で、なにか死ぬ前にぜひしておきたいことがあったのだろう、彼は努力をしてそこにすわり、服をつけた。それは彼の古い作業服だった。もう外にもでかけないので、またその服が着たくなって取りだしたのである。彼は服を着るのに、なんども休まなければならなかった。上衣の袖に手を通すだけでも、額に汗がながれた。
ジャン・ヴァルジャンはひとりになってから、寝台を控室のほうにうつしていた。さびしい広間には、できるだけいたくなかった。
彼は例の鞄をひらいて、コゼットの古い衣裳をとりだした。
彼はそれを寝台の上にひろげた。
司教の二つの燭台は、もとどおり煖炉の上にのっていた。彼は引出しから二本のろうそくをとりだし、それを燭台にたてた。それから、夏のことでまだじゅうぶん明るかったが、それに火をともした。
家具から家具へと一歩一歩歩むのにも、彼は疲れはててなんども腰をおろさなければならなかった。その疲れは回復する見込みのある疲労ではなかった。ひとつひとつの身振りは、いわばあるだけの運動の最後の名残りであり、二度とはやれないほどの、絶望的な努力のうちに、のこりの生命が汲みつくされてゆくようだった。
彼が身を落した椅子は、ちょうど鏡の前にあった。その鏡こそは、彼にとっては宿命的なものであり、マリユスにとっては幸運なものだった。すなわち、彼がコゼットの逆の文字を吸取紙の上に読みとったその鏡だった。彼は鏡をのぞきこんでみたが、そこに映った顔は自分のものとは思えなかった。それは八十才にもなろうかと思われた。コゼットの結婚前にはようやく五十才になるかならないかくらいにみえてたのに、いまや三十も年とって見えた。その額にみえる皺《しわ》は、もはや老年のものではなく、死のひそかな、|しるし《ヽヽヽ》だった。無慈悲な死の爪の跡がそこに感じられた。両頬はこけて、皮膚はすでに土をかぶったかと思われるような色をしていた。彼は誰かを非難するような様子で空《くう》を見つめた。
ジャン・ヴァルジャンは、もはや悲哀すらついに枯れつきたかと思われるほどの、衰弱の最後の段階にきていた。彼は非常な努力をして、テーブルと古い肘掛椅子とを煖炉のそばにひきよせて、テーブルの上にペンとインキと紙とをのせた。
それがすむと、彼は気を失った。
ふたたび意識をとりもどしたとき、彼は渇きをおぼえた。水差しをもちあげることができないので、やっとのことでそれを口のほうに傾けて一口のんだ。
それから彼は、立っておれないので、すわったまま寝台のほうをふりむき、そこにひろげた小さな黒い服とその他の大切な品々とをながめた。
突然、彼は寒気を感じて身をふるわせた。彼は司教の燭台にともってる、ろうそくにてらされたテーブルに肘《ひじ》をつき、ペンを取りあげた。
ペンもインキも長いあいだ使われなかったので、ペンの先はまがり、インキは乾ききっていた。彼は立ちあがって数滴の水をインキつぼのなかに注がねばならなかった。それだけのことをするにも、彼は二、三回腰をおろして休んだ。あいにくペンも背のほうでしか書けなかった。彼はときどき額の汗をふいた。
ジャン・ヴァルジャンの手はふるえていた。彼はゆっくりと、つぎのような数行をしたためた。
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コゼット、私はお前を祝福する。私はここにちょっと説明しておきたいことがある。お前の夫が、私に去るべきだと教えてくれたのは正しいことである。しかし、彼が信じてることのうちには、少しあやまりがある。それは彼が悪いのではない。彼は立派な人である。私が死んだあとも、つねに彼をよく愛しなさい。ポンメルシー君、私の愛児を末ながく愛してください。コゼット、私はここに書きのこしておく。私にまだ記憶力がのこっていたら、数字も浮かんでくるだろうが、よくききなさい。あの金はまちがいなくおまえのものだ。そのわけはこうである。白飾り玉はノルウェーから、黒飾り玉はイギリスから、黒ガラスはドイツから、それぞれはいってくる。ガラスより飾り玉のほうが、かるくて価値もあり値も高い。その模造品はドイツで出来るが、フランスでも出来る。二インチ四方の小さな鉄床《かなどこ》と、|ろう《ヽヽ》をとかすアルコール・ランプとがあればよい。その|ろう《ヽヽ》は、以前は樹脂と油煙《ゆえん》とでつくられ、一ポンド四フランもした。ところが私は、|うるし《ヽヽヽ》とテレビン油とでつくることを考えだした。値はわずか三十スーで、しかもずっと出来がいい。留め金は紫のガラスで出来る。それを|ろう《ヽヽ》で黒い鉄の小さな輪縁につける。ガラスは鉄の玉には紫でなければいけないし、金の玉には黒でなければいけない。スペインにその需要が多い。スペインは飾り玉の国で……
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そこで彼は書くのをやめ、ペンを指の間から落した。ときどき胸の底からこみあげてくる絶望的なすすり泣きが、ふたたびおそってきた。彼は両手で頭をかかえ、深いもの思いに沈んだ。
「ああ、万事終った!」と彼は心のなかで叫んだ。「私はもうコゼットに、会うこともないだろう。あれはひとつの微笑だったが、もう私の上を通りすぎてしまった。ふたたび彼女を見ることもなく、私はこのまま暗闇のなかにはいってゆくのか。おお! 一分でも、一秒でもいい、あの声をきき、あの服にさわり、あの顔を、あの天使のような顔をながめて死ねたら! 死ぬのはなんでもない。ただ、恐ろしいのは彼女にあわずに死ぬことだ。彼女はほほえんでくれるだろうに、私に言葉をかけてくれるだろうに。そうしたからといって、誰に迷惑をかけるというのだろう。いやいや、もうすんでしまったことだ、永久に。ああ、私はもうコゼットに会えないだろう……」
そのとき、誰か扉をたたく者があった。
三
ちょうどその日の夕方、マリユスが食卓をはなれ、訴訟記録をしらべる必要があって事務室にひきこもったとき、バスクが一通の手紙をもってきていった。
「この手紙の本人が控室にきております」
コゼットは祖父の腕をとって、庭をひとまわりしていた。
手紙にも人間とおなじように、見ただけでも気味の悪いものがある。そまつな紙、ざつなたたみ方、一目見ただけでも不愉快になるものがある。バスクがもってきた手紙がそれだった。
マリユスはそれを手にとった。その手紙は煙草の匂いがしていた。およそ匂いほど記憶をよび起こすものはない。マリユスはその煙草の匂いにおぼえかあった。彼は表を見た。「ご邸宅にて、ポンメルシー男爵閣下」煙草の匂いにおぼえがあったおかげで、彼は筆跡にもおぼえのあることに気がついた。
彼のうちにひとつの世界がすっかりよみがえってきた。紙といい、インキの色といい、また見おぼえのある筆跡といい、ことに煙草の匂いといい、すべてが同じだった。ジョンドレットの破屋《あばらや》が彼の眼前に浮かびあがってきたのである。
マリユスがあれほどさがしてた二人の男のひとりが、むこうからやってきたのだ。彼はむさぼるように手紙をひらいて、読みくだしてみた。
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男爵閣下
もし全能の神が私に才能をあたえてくれたら、私は学士院会員テナル男爵となりえたところですが、ついにかないませんでした。私はその肩書を別として、ただ名前だけをもっているにすぎませんが、この一事によって閣下のご好意に浴することができますれば、まことに幸いと思います。私にあたえてくださるご好意は必ずや報《むく》いられましょう。と申しますのは、私はある個人に関する秘密をにぎっておりますが、その男は閣下にいささか関係のある者です。私はただ閣下のためをはかるの光栄を希望するばかりで、よろしければその秘密をおつたえしたい所存です。男爵夫人は高貴な生まれのお方ゆえ、私はただ閣下の名誉あるご家庭から、なんら権利のないその男を追い払いうるごく簡単な方法をお知らせしたいものと思っております。高徳の聖殿も、ながく罪悪と居《きょ》をともにすれば、ついには汚れたものとなりましょう。
私は控室にて、閣下のご指図をお待ち申しております。敬具
[#ここで字下げ終わり]
手紙には|テナル《ヽヽヽ》と署名してあった。
その署名は必ずしも偽りではなかった。ただ少しばかり綴《つづ》りをちぢめただけのものである。出所は明らかである。疑問をさしはさむ余地はなかった。
マリユスはひどく心を動かされた。そしておどろきについで、喜びにおそわれた。いまや、さがしてたもうひとりの男──自分を救ってくれた男を見つけだすことができるかもしれないのだ。それができれば、ほかにもうなにも望むところはなかった。
彼は仕事机の引出しをひらいていくらかの紙幣をとりだし、それをポケットにいれ、机のふたをしてベルを鳴らした。バスクが扉を少しひらいた。
「ここに通しておくれ」とマリユスはいった。
バスクが男を案内してきた。
「テナルさまで、ございます」
マリユスはふたたびおどろいた。はいってきたのは、全く見もしらぬ男だった。
その男は、といってもすでに老人だが、大きな鼻をして、あごをネクタイのなかにつっ込み、眼には緑色のタフタの日除《ひよ》けをした緑色の眼鏡をかけ、髪は額の上にぴったりなでつけ、それが眉毛のところまでさがってイギリスの上流社会の馭者がつけてる|かつら《ヽヽヽ》のようだった。髪はなかば白くなっていた。頭から足先まで黒ずくめで、その黒服はすりきれてはいたが、小ぎれいだった。ちょっとしたアクセサリーがチョッキのポケットからのぞいてて、時計がはいってることをしめしていた。手には古くさい帽子をもっていた。前かがみに歩き、背中がまがっていたために、そのお辞儀はいっそうていねいにみえた。
一目見ただけでもふしぎに思われるのは、上衣はきちんとボタンがかけられているのに、だぶだぶしてて、彼のために仕立てられたものではないらしいということだった。
ここでちょっとわき道にそれなければならない。
当時パリには、ポートレイト街の造兵廠《ぞうへいしょう》の近くの古い怪しげな小屋に、ひとりの抜け目のないユダヤ人が住んでいて、ならず者たちを善良な市民に変装してやることを仕事にしていた。少しも手間どらなかったので、ならず者たちにとっては、いたって便利だった。日に三十スーもだせば、一日か二日の約束で、見てるまにどんなふうにでも変装してくれた。その衣裳貸しの男は、|取替え人《ヽヽヽヽ》と呼ばれていた。パリの悪者どもがつけた名前で、別の名前では知られていなかった。彼が変装させてやる衣服の数は相当なものだった。店の釘に、社会のあらゆる階級の、皺だらけの衣裳がつるされていた。こちらに役人の服があるかと思えば、あちらに司祭の服があり、一方に銀行家の服があるかと思えば、他方には退役軍人の服があり、片すみに文士の服があるかと思えば、またむこうには政治家の服がある、という工合だった。その男は、いわばパリで演じられる泥棒芝居の衣裳方だった。彼の小屋は詐偽《さぎ》、窃盗の出入りする楽屋というわけである。
もしマリユスがパリのそういう秘密に通じていたら、いまバスクが案内してきた客の背に、取替え人のところから借りてきた政治家の上衣を、すぐに見てとったはずだ。
マリユスは予期していた男とちがった人間がはいってくるのを見て失望し、やがてその失望は客に対する嫌悪《けんお》の情とかわった。そして男がひくく頭をさげてるあいだに、彼の頭から足先までをじろじろながめ、きっぱりした調子でたずねた。
「なんの用です?」
男は、|わに《ヽヽ》のこび笑いとでもいおうか、歯をむきだして愛想笑いを浮かべながら答えた。
「閣下には、あちこちでお目にかかる光栄をえましたようにおぼえております。ことに数年前、バグラシオン大公夫人のお邸《やしき》や、上院議員ダンブレー子爵の客間などでお目にかかったように存じます」
全く初対面の人にもどこかであったような様子をするのは、卑劣な男のたくみな常套《じょうとう》手段である。
マリユスは男の話に注意していた。しかし、いくらその声の調子や身振りに眼をつけても、失望は大きくなるばかりだった。鼻にかかった声は、予期していたするどい声音《こわね》とはまるでちがっていた。彼は全くどうしてよいか、わからなくなった。
「ぼくは」と彼はいった。「バグラシオン夫人もダンブレー氏も知りません。まだどちらの家にも足をふみ入れたことはありません」
その答えは無愛想だった。それでもなお男はていちょうにいいつづけた。
「ではお目にかかりましたのは、シャトーブリアン風のお宅でしたでしょう。わたしはシャトーブリアン氏をよく存じております。なかなか愛想のよいお方です。どうだテナル、いっしょにいっぱいやろうか、などと、ときどき申されます」
マリユスの顔はますます険《けわ》しくなった。
「ぼくはまだシャトーブリアン氏の宅に招かれたことはありません。つまらないことはぬきにしましょう。結局どういう用なんです?」
男はいっそうきびしくなったその声の前に、いっそうひくく頭をさげた。
「閣下、まあどうかおききください。アメリカのパナマに近い地方にジョヤという村がございます。村と申しましても、家は一軒しかございません。煉瓦づくりの四階建ての大きな家でして、その四角の各辺が五百フィートもあり、各階は下の階より十二フィートほどひっこんで、そこがテラスになっています。中央が中庭で、食料や武器がおさめられています。窓はなくてみな銃眼になり、戸はなくてみな梯子《はしご》になっています。地面から二階のテラスにのぼれる梯子、つぎは二階から三階、三階から四階へとなっていまして、ほかに中庭におりられる梯子もあります。部屋には扉がなくてみな揚戸《あげど》になり、階段はなくてみな梯子になっております。晩になると、揚戸をしめ梯子を引きあげ、トロンブロン銃やカービン銃を銃眼にそなえつけます。なかにはいることは、とてもできません。昼間は住家《すみか》で夜は要塞、住民は八百人というのがその村の有様でございます。なぜそんな用心をするかと申せば、ごく危険な地方だからです。人食い人種が沢山いるんです。ではなぜそんなところへゆくかと申せば、実にすばらしい土地でして、金《きん》が出るからです」
「結局、どうだというんです?」と、失望からいらだたしさに変っていたマリユスは、話をさえぎった。
「こういうことでございます、閣下。わたしはもう疲れはてた老外交官です。古い文明のために力を使いはたしてしまいました。それでひとつ、野蛮な仕事をやってみようと思いまして」
「それで?」
「閣下、利己心は世間の大法です。日傭《ひやとい》かせぎの貧乏な田舎女は、駅馬車が通ればふりかえって見ますが、自分の畑の仕事をしてる地主の女は、ふりむきもしません。貧乏人の犬は金持ちにほえかかり、金持ちの犬は貧乏人にほえかかります。みな自分のためばかりです。利益、それが人間の目的です。金は磁石です」
「だから? 結局なんだというんです」
「わたしはジョヤにいって住みたいと思っております。家庭は三人暮しで、わたしの妻に娘、それもごくきれいな娘でございます。旅はながくて、金もよほどかかります。わたしは金が少しいるのでございます」
「それがぼくになんの関係があるんですか?」とマリユスはたずねた。
男はネクタイから首をさしのばした。禿鷹《はげたか》のよくやる身振りである。そして彼はいっそう笑いをうかべて答えた。
「閣下はわたしの手紙をごらんになりませんでしたでしょうか」
彼がそういうのは無理もなかった。マリユスは手紙を読んだというより、その筆跡を見たにすぎず、なにが書いてあったかほとんどおぼえていなかった。しかし、ちょっと前から新らしい糸口があらわれてきた。「わたしの妻と娘」という一言がマリユスの注意をひいたのである。彼はするどい眼をその男にすえた。予審判事《よしんはんじ》でさえ、とうていそれにはおよぶまいと思われるほど、じっと眼を注いだ。ほとんど飛びかからんばかりの様子だった。しかしマリユスは、ただこう答えただけだった。
「要点をいってもらいましょう」
男は二つのポケットに両手をつっこみ、背すじをまっすぐに伸ばさないで、ただ頭だけをあげ、こんどは自分のほうから、緑色の眼鏡ごしにマリユスの様子をうかがった。
「よろしゅうございます、閣下、要点を申しあげましょう。わたしはひとつ買っていただきたい秘密を手にしております」
「秘密だって!」
「秘密で、ございます」
「ぼくに関しての?」
「はい、少しばかり」
「その秘密というのは、いったいどんなことです?」
マリユスは相手のいうことに耳をかたむけながら、ますます注意ぶかくその様子を観察していた。
「わたしはまず報酬をねがわないでお話しましょう」と相手はいった。「わたしが面白い男だということがおわかりでしょう」
「お話しなさい」
「閣下、あなたはお邸《やしき》に盗賊と殺人犯とをお入れになっております」
マリユスは身をふるわせた。
「ぼくがこの家に? いや、とんでもない」と彼はいった。
男は平然とかまえ、肘《ひじ》で帽子のちりを払い、それからあとをつづけた。
「人殺しだけでなく、そのうえ泥棒でございます。よくおききください、閣下、わたしがいま申しあげることは、日のたった古い、ひからびた事実ではありません。法律に対しては時効《じこう》のために消され、神に対しては懺悔《ざんげ》のために消されたというような事実ではありません。最近の事実、現在の事実、まだ法廷にも知られていない事実、それを申しあげようというのです。つづけてお話しますが、その男がうまくあなたの信用をえて、名前をかえ、ご家庭にはいりこんでおります。その本名をお知らせしましょう。しかも、ただでお知らせします」
「ききましょう」
「ジャン・ヴァルジャンという名前です」
「それは知っています」
「なおわたしは、無報酬で彼がどんな人物だか申しあげましょう」
「いいなさい」
「もとは、徒刑囚だった身の上です」
「それは知っている」
「わたしが申しあげたから、おわかりになったのでしょう」
「いや、前から知っている」
マリユスの冷やかな口ぶり、「それは知っている」という二度の返事、相手の二の句をつがせぬ、はねつけるような態度、それが男の心に無言の怒りをわきたたせた。彼は憤激《ふんげき》した眼を、ちらっとマリユスに投げつけた。そのまなざしは一瞬のうちに消えたが、いちど見れば忘れられないようなものだった。マリユスはその視線を見のがさなかった。
男はほほえみながらいった。
「わたしはなにも男爵閣下のお言葉に逆《さか》らうつもりではありません。ですがとにかく、わたしがよく秘密をにぎってるということは認めていただきたいものです。これからお知らせ申しあげることは、ただわたしひとりしか承知していないことです、それは男爵夫人の財産に関することでございます。非常な秘密でして、金にかえたいものと思っています。で、なんと申しましてもこれは閣下にお買いいただかなければならぬものです。お安くしておきましょう、二万フランに」
「その秘密も、ほかの秘密と同様、ぼくは知っている」とマリユスはいった。
「閣下、一万フランくだされば申しあげましょう」
「くりかえしていうが、きみはぼくになにも教えるものはない。きみが話そうとすることは、みんなぼくは知ってるのだ」
男の眼に新らたなひらめきが走った。彼は声を高めていった。
「それでもわたしは、きょうの食を手に入れなければなりません。全くそれは大変な秘密です。閣下、お話いたしましょう、お話します。二十フランめぐんでください」
マリユスはじっと彼を見つめた。
「ぼくはきみの名前も知っているのだ」
「わたしの名前を?」
「そう」
「それはわけないことでしょう、閣下。わたしはそれを手紙に書いてさしあげましたし、自分で申しあげました、テナルと」
「ディエ」
「ええ?」
「テナルディエ」
「それは誰のことでございますか」
危険になると、やまあらしは毛をさかだて、甲《かぶと》虫は死んだまねをし、昔の近衛兵は方陣をつくるが、この男は笑いだした。
それから彼は上衣の袖を指ではじいてほこりを払った。
マリユスはつづけていった。
「きみはそのほか、労働者ジョンドレット、俳優ファバントゥー、詩人ジャンフロー、スペイン人ドン・アルヴァレス、およびバリザールの家内ともいう」
「なんの家内で?」
「またきみは、モンフェルメイユで飲食店をやっていた」
「飲食店? いえ、どういたしまして」
「そしてきみの本名はテナルディエというのだ」
「とんでもありません」
「そしてきみは悪党乞食だ。ほら!」
マリユスはポケットから一枚の紙幣をとりだし、相手の顔に投げつけた。
「ありがとうございます。すみません。五百フラン! 男爵閣下!」
男はうろたえてお辞儀をし、紙幣をつかみ、それをしらべた。
「五百フラン!」と彼はあっけにとられてまたくりかえした。そして口のなかでいいたした。
「これはほんものの紙幣だわい!」
それから突然、彼はいった。
「それでは、楽《らく》にしましょうや」
そして猿のようなすばやさで、髪をうしろになであげ、眼鏡をはずし、まるで帽子でもぬぐような工合に仮面《かめん》をはいでしまった。
その眼はかがやきだし、鼻はくちばしのように尖った。肉食獣のような獰猛狡猾《どうもうこうかつ》な顔つきが現われた。
「男爵の申されるとおり」と彼は全く鼻声のとれた、はっきりした声でいった。「わたしはテナルディエです」
そして彼はまがっていた背を、まっすぐに伸ばした。
実をいうとテナルディエは非常におどろいた。彼はあやうく取り乱すところだった。相手をおどかすつもりできて、逆におどかされてしまったのだ。その屈辱は五百フランでつぐなわれた。しかし、それにしても肝《きも》をつぶしたのである。
彼はポンメルシー男爵とは初対面だった。そして彼が仮装していたにもかかわらず、ポンメルシー男爵は彼を見破り、しかもその秘密まであばいたのだった。テナルディエ自身のことをよく知っていたばかりかジャン・ヴァルジャンのことも知っており、しかも財布の口をゆるめて、だまされた間抜けのように金をだしてくれるとは、いったい男爵は何者なのか?
読者も知ってるように、テナルディエは、かつてマリユスのとなりの部屋に住んでいたとはいえ、彼を見たことはいちどもなかった。
ところで彼は娘のアゼルマをつかい、また自分でも手をつくしてついに多くのことをさぐりだし、暗黒の底にいながらにして秘密の糸口をかなりつかむにいたった。そしてある日、大下水道のなかで出会った男がいかなる人物だったかを、悪知恵によって発見した。少なくとも帰納的にさぐりあてた。また、ポンメルシー夫人はコゼットであることも知っていた。しかしこの点については慎重にかまえたほうがいいと考えた。実際コゼットが何者だか、彼にもよくわかっていなかった。私生児だとは漠然とかぎだしていたが、どうもファンティーヌの話にはあやしい|ふし《ヽヽ》があるように思えたのだった。それを話したとてなんの役にたとう。口止め料をもらうために、ちょっぴりほのめかしてみるか? いや、彼はそれよりさらに高い売り物をもっていた。少なくとも、もっていると思っていたのである。
マリユスは考えに沈んでいた。あれほど見つけだしたいと思っていた男が、いま自分の眼の前にいる。彼はポンメルシー大佐の要求を、はたそうと思えばそれができるのだった。あの英雄たる父が、この悪漢に多少なりとも恩になっていること、墓の底から父がマリユスにあてて振出した手形がいまだに支払われていないこと、それに彼は屈辱を感じないではいられなかった。そしてまたテナルディエを前にして複雑な精神状態にありながら、大佐がこの悪党に救われたという不幸に対して、復讐してやるのが当然だと考えた。
それはともかくとして、マリユスは満足だった。いまや、下劣な債権者から父の霊をときはなしてやる時がきたのだ。そういう義務のほかにも、彼にはもうひとつなすべきことがあった。もしできるなら、コゼットの財産の出所をつきとめることだった。テナルディエはおそらくなにか知るところがあるにちがいなかった。この男を底の底までさぐりつくしたら、なにかの役にたつかもしれない。で、彼はまずそれからはじめた。
テナルディエは「ほんものの紙幣」をチョッキのポケットにしまいこんで、こびるような様子でマリユスをながめていた。
マリユスは沈黙をやぶった。
「テナルディエ、ぼくはきみの名前をいってやった。そしていままた、ぼくに知らせにやってきたその秘密も、ぼくにいってもらいたいのか? ぼくもいろいろと知ってることがある。きみよりくわしく知ってるかもしれない。ジャン・ヴァルジャンはきみがいうとおり、人殺しで泥棒だ。マドレーヌ氏という金持ちの工場主を破滅させて、その金を盗んだから盗人である。警官ジャヴェルを殺したから人殺しである」
「なんだかよくわかりかねますが、男爵」とテナルディエはいった。
「ではよくわからせてあげよう、よくききたまえ。一八二二年ごろ、パ・ド・カレ郡に、ひとりの男がいた。彼は以前ちょっとした罪にとわれたことのある男だったが、マドレーヌ氏という名前で身をたて、全くひとりの正しい人間となっていた。そして黒ガラスの製造で、全市を繁栄させていた。自分の財産もできたが、それは第二の問題で、いわば偶然にできたのである。それから彼は貧しい人たちの養い親となった。病院をたて、学校をひらき、病人を見舞い、娘には嫁入り支度をこしらえてやり、未亡人には暮しを助けてやり、孤児は引きとってそだててやった。ほとんだその地方の守り神だった。彼は勲章を辞退したが、ついに市長におされた。ところがひとりの放免囚徒がその人の秘密の旧悪を知ってて、その人を告発し、逮捕させ、その逮捕のすきに乗じてパリにやってきて、にせの署名でラフィット銀行から──この事実はその銀行の出納係《すいとうがかり》から直接にきいたことだ――マドレーヌ氏の五十万以上にのぼる金を引きだしてしまった。そのマドレーヌ氏の金を奪った囚人、それがジャン・ヴァルジャンだ。また、もうひとつの事実についても、ぼくはなにもきみからきく必要はない。ジャン・ヴァルジャンは警官ジャヴェルをピストルで殺した。こういうぼく自身がその場にいたのだ」
テナルディエは、いちどはうちのめされたがふたたび勝利をにぎって、失地を一挙に取りもどした者のような、勝ちほこった眼つきでマリユスを見た。しかし、彼はこういうだけにとどめた。
「男爵、なんだか筋道《すじみち》がちがってるように思いますが」
そういいながら彼は、時計の鎖のはしについてるアクセサリーをひねくって、その言葉に意味をふくませた。
「なに!」とマリユスはいった。「きみは嘘だというのか? それはまぎれもない事実だ」
「いえ、うわごとみたいなものです。男爵もうちあけておっしゃいましたから、わたしのほうもすっかり申しあげましょう。なによりもまず、真実と正義とが第一です。わたしは不当に罪を負わされてる者を、だまって見てるわけにはゆきません。男爵、ジャン・ヴァルジャンはマドレーヌ氏のものを盗んではいませんよ。ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルを殺してはいませんよ」
「なんだと! それはどういうわけだ?」
「二つの理由からです」
「どんな理由だ? いってみたまえ」
「第一はこうです。彼はマドレーヌ氏のものを盗んでいません、ジャン・ヴァルジャン自身がマドレーヌ氏であるからには」
「なにをいうんだ」
「そして第二にはこうです。彼がジャヴェルを殺したはずはありません、ジャヴェルを殺したのがジャヴェル自身であるからには」
「というと?」
「ジャヴェルは自殺したのです」
「証拠があるか、証拠が!」とマリユスはわれを忘れて叫んだ。
テナルディエは、まるで十二音綴の古詩を読むように調子をつけていった。
「警官、ジャヴェルは、ポン・トー・シャンジェの、橋の、小舟の下に、おぼれて、いました」
「それを証明してみたまえ」
テナルディエはわきのポケットから、大きな灰色の紙包みをとりだした。なかに、いろんな大きさにたたんだ紙がはいっているらしかった。
「わたしは記録をもっています」と彼は落ちついて答えた。
そしていいそえた。
「男爵、わたしはあなたのために、このジャン・ヴァルジャンのことをすっかりさぐりだそうと思いました。ジャン・ヴァルジャンはマドレーヌ氏と同一人で、ジャヴェルは自殺したのだと申しましたが、そう申すからにはもちろん証拠があってのことです。しかも手で書いた証拠ではありません。書いたものは疑うこともでき、またどうにでもなるものです。しかしわたしがもってるのは印刷した証拠物です」
そういいながらテナルディエは包みのなかから、色あせた、強い煙草の匂いのする二枚の新聞紙をとりだした。一枚は折り目がやぶれて、四角な紙片に切れ、もう一枚のよりずっと古いものらしかった。
「二つの事実と二つの証拠です」とテナルディエはいって、ひろげた二枚の新聞紙をマリユスに差しだした。
その二枚の新聞の一枚は、読者のすでに知ってるもので一八二三年七月二十五日のドラポー・ブラン紙だった。その記事はマドレーヌ氏とジャン・ヴァルジャンとが同一人であることを証明するものだった。もう一枚は、一八三二年六月十五日の機関新聞で、ジャヴェルの自殺を証明し、なおジャヴェル自身が警視総監に語った口頭報告がそえてあった。その報告によれば、ジャヴェルはシャンヴルリー街のバリケードで捕虜になったが、ひとりの暴徒がピストルで彼を手中のものにしながら彼の頭を射ぬかないで、空にむけて発砲し、その寛大なはからいのために一命を救われたというのだった。
その記事には明らかな事実があり、たしかな日付があり、疑うべからざる証拠があった。しかも警視庁から公表されたものだった。マリユスは喜びの叫びをおさえることができなかった。
「じゃ、あのあわれな男は、おどろくべき立派な人物だったのか! あの財産は全く彼自身のものだったのか! 一地方全体の守り神だったマドレーヌ氏! ジャヴェルの救い主だったとは! 実に英雄だ、聖者だ!」
「いいえ、あの男は聖者でも英雄でもありません」とテナルディエはいった。「人殺しで盗賊です」
そして彼は、自分になにか権威でもあるかのような調子でいいたした。
「落ちついてお話ししましょう」
盗賊、人殺し、もはや消え去ったものと信じたそれらの言葉が、ふたたびマリユスの上に落ちかかってきた。
「まだほかにもあるのか!」とマリユスはいった。
「そうですとも。ジャン・ヴァルジャンはマドレーヌ氏のものを盗みはしませんでしたが、やっぱり盗賊です。ジャヴェルを殺しはしませんでしたが、やっぱり人殺しです」
「きみはあの」マリユスはいった。「四十年前の、ちょっとした盗みのことをいうのだろう。それなら、その新聞にもあるように、悔いと自己犠牲と徳との生涯でつぐなわれている」
「男爵、わたしは殺害と窃盗と申すのですよ。しかもくりかえしていいますが、現在の事実です。あなたにこれからお知らせすることは、全く誰も知らないことです。まだ世間には発表されていないことです。たぶんあなたは、ジャン・ヴァルジャンからたくみに男爵夫人に贈られた財産の出所もおわかりになりますでしょう。わたしはとくに|たくみ《ヽヽヽ》といいましたが、実際そういう種類の贈りものによって名誉ある家庭にもぐりこみ、その安楽にあずかり、同時に自分の罪悪をかくし、盗んだものを面白く使い、名前をつつんで家庭の人となるのですから、まあまずいやり方ではありません」
「それならぼくにもいうことがある」とマリユスは口をはさんだ。「しかしまあつづけて話したまえ」
「男爵、わたしはすべてをつつまず申しましょう。あなたの寛大なおぼしめしにおまかせいたします。その秘密は黄金の山にもあたいします。こう申しますと、なぜジャン・ヴァルジャンのほうにゆかないのかといわれるかもしれませんが、それはごく簡単な理由からです。彼がすっかり金をはきだしてしまったこと、しかもあなたのためにだしてしまったことを、わたしは知っております。そのやり方は実にうまいものだと思います。ところで彼はもう一文もありません。わたしにただ空《から》っぽの手をひらいてみせるほかはありますまい。わたしはジョヤまでゆくのに少し金がいりますので、なにもない彼のところよりも、なんでもおもちのあなたのほうにうかがったわけです。ああ少し疲れましたから、どうか椅子にかけさせてください」
マリユスは腰をおろし、彼にもかけるような身振りでしめした。
テナルディエは腰をおろすと、二枚の新聞紙をとり、それを包みのなかにしまいながら、ドラポー・ブラン紙を爪ではじいてつぶやいた。「こいつを手に入れるに、えらく骨を折らせやがった」それから脚をくんで、椅子の背によりかかった。自分が語ろうとしてることに対して、自信をもってる者のとる態度だ。そして、ますます落ちつきはらって、一語一語に力をいれながら本題にとりかかった。
「男爵、いまからおよそ一年前の一八三二年六月六日、あの暴動のあった日、アンヴァリード橋とイエナ橋のあいだのセーヌ河へでる大下水道の出口に、ひとりの男がいました」
マリユスは、にわかに自分の椅子をテナルディエに近よせた。テナルディエはその動作に眼をそそぎ、一語一語に相手の胸のときめきを感じとる弁士のように、相手の心をとらえてゆっくりとあとをつづけた。
「その男は、政治とは別の理由で身をかくさなければならなかったので、下水道を住居とし、そこにはいる鍵をもっていました。かさねて申しますが、それは六月六日のことでした。晩の八時頃だったでしょう、その男は下水道のなかに物音をききつけ、ひどくおどろいて身をひそめて待ちうけました。物音というのは人の足音で、何者かが暗やみのなかを彼のほうに歩いてくるのです。ふしぎなことに、彼以外にもうひとり下水道のなかにいたわけです。下水道の出口の鉄格子は、そこからあまり遠くありませんでした。そこからもれてくる光りで、彼は新来の男が何者であるかを見てとり、また背中になにかをかついでいるのに気がつきました。その男は背をかがめて歩いてきました。それは前徒刑囚で、肩にかついでるのはひとつの死体でした。まあ、いってみれば、殺害の現行犯です。当然、窃盗も行われたはずです。人は理由もなく他人を殺すものではありません。その囚徒は死体を河に投げこむつもりだったのです。なおひとつご注意までに申しますと、出口の鉄格子までたどりつく前に、下水道のなかを遠くからやってきたその囚徒は、恐ろしい泥穴に必ず出会ったはずでして、そこに死体をほうりこんでくることもできたわけです。しかし、あすにも下水人夫がその泥穴を掃除しにやってくれば、殺された男を見つけだすかもしれません。殺したほうでは、そうしたことをきらったわけです。そして、むしろ泥穴を、荷をかついで通りぬけてくることにきめたのです。それくらい危険なことは、またとあるものではありません。よく死なずに通りぬけられたものです」
マリユスの椅子は、さらにテナルディエに近よせられた。テナルディエは、それに乗じてながい息をつき、またいいすすんだ。
「閣下、そこに住んでる男と、そこを通りぬけようとしてる男とは、たがいに困ったと思いながらも、挨拶をかわさないわけにはゆきませんでした。通りぬけようとした男は、そこに住んでる男にいいました。『お前には、おれの背中のものがなんだかわかるだろう。おれはでなけりゃならねえ。お前は鍵をもってるようだから、それをおれに貸してくれ』ところでその囚徒は、恐ろしく強いやつでした。ことわるわけにはゆきません。ですが鍵をもってる男は、ただ時間をのばすために、いろんなことをしゃべりました。彼は相手の背中に死んでる男を、よく見ましたところ、彼は年が若く立派な身なりをした金持ちらしく、また血のために顔がよくわからなくなってるという以外は、なにもわかりませんでした。そこで、彼はしゃべりながら人殺しの男に気づかれないように、そっとうしろから殺された男の上衣のすそを裂きとりました。もちろん証拠品としてです。それをたよりに事件をさぐり、犯罪者にその証拠品をつきつけてやるためです。彼は証拠品をポケットにしまい、それから鉄格子をひらいて、相手の男をその背中の厄介《やっかい》ものといっしょに外に送りだし、鉄格子をまたとざして逃げてしまいました。ここまでお話し申せば、もうじゅうぶんおわかりでしょう。死体をかついでいたのはジャン・ヴァルジャンです。鍵をもってたのは、現《げん》にかく申しあげてるこのわたしです。そして上衣の布切れは……」
テナルディエは、一面に黒ずんだ汚点のついてる引き裂けた黒|羅紗《らしゃ》の一片をポケットからとりだし、両手の親指と人差指とでつまんでひろげ、それを眼の高さにかかげて物語の結末とした。
マリユスは色を変えて立ちあがり、ほとんど息もつかずに黒|羅紗《らしゃ》の一片を見つめ、一言も発せず、その布切れから眼をはなしもせず、壁のほうにあとずさりしてゆき、うしろに差しのばした手で壁の上を手さぐりしながら、炉のそばの戸棚の錠前についてた一本の鍵をさぐりあてた。そして戸棚をひらき、テナルディエがひろげてる布切れからおどろきの眼をはなさずに、戸棚のなかに腕を差しのべた。
そのあいだテナルディエはいいつづけていた。
「男爵、その殺された青年は、ジャン・ヴァルジャンの罠《わな》にかかったどこかの金持ちで、大金をもってたと思われる|ふし《ヽヽ》がいくらもあります」
「その青年はぼくだ! その上衣はこれだ!」とマリユスは叫んだ。そして血にそまった古い、黒い上衣を床《ゆか》の上に投げだした。
彼はテナルディエの手から布切れをひったくり、身をかがめて裂きとられた一片をすその裂けたところにあててみた。裂け目はぴったり合った。
テナルディエは唖然《あぜん》とした。「こいつはしくじったかな」と彼は考えた。
マリユスは身をふるわせ、絶望し、また歓喜して、すっくと立ちあがった。
彼はポケットのなかをさぐり、恐ろしい様子でテナルディエのほうに近づき、五百フランと千フランの紙幣をいっぱいにぎりしめた拳《こぶし》を彼の顔につきつけた。
「きみは恥しらずだ! 嘘つきだ! 中傷家で悪党だ! きみはあの人に罪をきせるためにやってきて、逆にあの人の正しさを証明した。きみこそ盗賊だ、きみこそ人殺しだ。おいテナルディエ、きみがオピタル大通りの破屋《あばらや》にいたのを、ぼくは見て知ってるのだ。きみを徒刑場へぶちこむだけの材料を、いや、それ以上のところへ送ってやるだけの材料を、ぼくはにぎってるのだ。さあ悪党め、千フランだけめぐんでやろう」
そしてマリユスは一枚の千フラン札をテナルディエに投げつけた。
「おいテナルディエ、秘密を売り歩き、暗闇のなかをあさりまわるみじめな奴! この五百フランもくれてやる。拾ったらさっさとでて行け! それもワーテルローのおかげというものだ」
「ワーテルロー!」とテナルディエは、五百フランといっしょに千フランをポケットにしまいながらつぶやいた。
「そうだ、人殺しめが! お前はワーテルローで大佐の命を救ったのだ」
「将軍でした」テナルディエは頭をあげながらいった。
「大佐だ!」とマリユスは憤然《ふんぜん》としていった。「将軍なら一文もやりはしない。どこへなりとゆくがいい。さあ、ここにまだ三千フランある。それも持ってゆけ、あすにもアメリカヘいってしまえ、娘といっしょに。お前の妻はもう死んでいる。けしからん嘘つきめが! 出発のときには、ぼくが見とどけてやる。そのとき、もう二万フランめぐんでやろう。どこへなりといって、くたばってしまえ!」
「男爵閣下」とテナルディエは足もとまで頭をさげながらいった。「ご恩は決して忘れません」
そしてテナルディエは、頭の上に紙幣をまきちらす雷にうたれ、なにがなんだかわけもわからず、ただあっけにとられ、また狂喜してそこを出ていった。
ここでこの男のことを片づけておこう。いま、のべてる事件から二日ののち、彼はマリユスの世話で名前を変え、ニューヨークで受けとれる二万フランの手形をもって、娘のアゼルマといっしょにアメリカにむけて出発した。いちど踏みはずしたテナルディエの性格は、もはや矯正《きょうせい》すべからざるものとなっていた。マリユスからもらった金で、テナルディエは奴隷売買をはじめた。
テナルディエが出てゆくと、マリユスは庭に飛んでいった。コゼットはまだ散歩していた。
「コゼット! コゼット!」と彼は叫んだ。「おいで、はやくおいで! すぐにゆくのだ。バスク、辻馬車をよんでくれ。コゼット、おいで。ああ、ぼくの命を救ってくれたのはあの人だったのか。一刻もぐずぐずしててはいけない。すぐにでかけるんだ」
コゼットは彼が気でも狂ったのかと思った。
マリユスは息もつけないで、胸に手をあてて動悸《どうき》をおししずめようとしていた。彼は大股に歩きまわった。
「ああ、コゼット、ぼくは実にあわれむべき人間だ!」と彼はコゼットを抱いていった。
マリユスは熱狂していた。ジャン・ヴァルジャンの非凡な徳性が彼に見えてきた。それは最高にしてしかもやさしい徳、あまりにも広大なためにかえって謙譲な徳だった。徒刑囚の姿はキリストの姿と変った。マリユスはその変容の前に眩惑《げんわく》した。
まもなく一台の辻馬車が門前についた。
マリユスはそれにコゼットをのせ、つぎに自分も飛びのった。
「馭者」と彼はいった。「オンム・アルメ街七番地だ」
「まあ、うれしいこと!」とコゼットはいった。「わたし、いままでいいだしかねていましたのよ。わたしたち、ジャンさんにあいにゆくんですわね」
「お前のお父さんだ、コゼット。いまこそお前のお父さんだ。コゼット、ぼくはすっかりのみこめた。お前は、ぼくがガヴローシュにもたしてやった手紙を受けとらなかったといったね。きっとあの人の手に落ちたんだ。で、ぼくを救いにきてくれたのだ。あの人はジャヴェルも救った。ぼくをお前にあたえるために、あの泥ぬまの深淵のなかからぼくを救いだしてくださった。あの恐ろしい下水道をぼくをかついで通られたんだ。ああ、ぼくは恐ろしい恩しらずだ。コゼット、まあ考えてもごらん、危険な泥穴があったのだ、必ず溺れてしまうようなところが。それをあの人はぼくをつれて渡られた。ぼくたちはあの人をつれもどし、もう決してはなすことはできない。ぼくはこれから一生、あの人をうやまい通そう。そうだ、そうしなければいけない、そうだろう、コゼット。ガヴローシュがぼくの手紙をわたしたのは、あの人だったにちがいない。それですっかりわかるんだ。お前にもわかったろう」
コゼットには、なにひとつわからなかった。
「おっしゃるとおりですわ」と彼女はいった。
馬車はそのあいだにも飛ばしていた。
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第七章 極度の闇、極度の曙
一
扉をたたく音をきいて、ジャン・ヴァルジャンはふりむいた。
「おはいり」と彼はよわよわしくいった。
扉はひらかれた。コゼットとマリユスとがあらわれた。
コゼットは部屋のなかに飛びこんできた。
マリユスは扉の框《かまち》によりかかって、敷居の上にたたずんだ。
「コゼット!」とジャン・ヴァルジャンはいった。そして蒼白な、昏迷《こんめい》した凄惨《せいさん》な様子で、眼には限りない喜びをうかべ、ふるえる両手をひらいて、椅子の上に身をおこした。
コゼットは、はげしい感動で息もふさがり、ジャン・ヴァルジャンの胸に身を投げた。
「お父さま」と彼女はいった。
ジャン・ヴァルジャンは心が顛倒《てんとう》して、やっとのことでつぶやいた。
「コゼット! 彼女! あなた、奥さん! お前だったか! ああ!」
そしてコゼットの腕に抱きしめられて、彼は叫んだ。
「お前だったか! きてくれたか! では私を許してくれるんだね」
マリユスは涙を落すまいとして眼をふせ、一歩すすみでて、泣き声をおさえようとしてふるえてる唇のあいだからつぶやいた。
「お父さま!」
「おお、あなたも、あなたは私を許してくださるのですね!」とジャン・ヴァルジャンはいった。
マリユスは一言も発しえなかった。
ジャン・ヴァルジャンはいいそえた。
「ありがとう」
コゼットは肩掛けをぬぎすて、帽子を寝台の上に投げとばした。
「じゃまだわ」と彼女はいった。
そして老人の膝《ひざ》の上にすわりながら、なんともいえぬやさしい手つきで彼の白髪をはらいのけ、その額に口づけをした。
ジャン・ヴァルジャンはされるままになっていた。
コゼットは、ただ漠然としか事情をのみこんでいなかったが、まるでマリユスがうけた恩を返したいと思ってるかのように、いっそうやさしさをこめて愛撫した。
ジャン・ヴァルジャンは口ごもりながらいった。
「人間というものは実におろかなものです。私はもうコゼットにあえないと思っていました。考えてもごらんなさい、ポンメルシーさん、ちょうどあなたがはいってこられるとき、私は自分にこういっていました。万事終った、そこに彼女の小さな服がある、私はみじめな男だ、もうコゼットにもあえないのだ、と私はそんなことを、あなたが階段をのぼってこられるときにいっていました。実に私はばかではありませんか。それほど人間はばかなものです。しかし、それは神の存在を忘れているからです。神はこういわれます、お前は人に見すてられると思ってるのか、ばかな、いや決してそんなことになるものではないと。ところで天使を必要とするあわれな老人がいるとします。すると天使がやってきて、私は可愛いいコゼットにまたあいます。ああ、それまでというものは、実に不幸でした!」
彼はそこでちょっと口がきけなくなった。やがてまたいいすすんだ。
「私は実際、ちょっとでいいから、ときどきコゼットにあいたかったのです。しかしまた、自分はよけい者だと感じていました。あの人たちにはお前はいらない、お前は片すみにひっこんでるがいい、そう私は自分にいいきかせていました。ああしかし、ありがたいことに、私はまた彼女《これ》にあえた! ねえ、コゼット、お前の夫は実に立派な人だ。お前はきれいな、ししゅうした襟をつけてるね。なかなかいい模様だ。夫にえらんでもらったんだろうね。それからお前にはカシミヤがよく似合うよ、ぜひ買ってごらん。ああ、ポンメルシーさん、私に彼女《これ》をお前とよばせてください。わずかのあいだですから」
コゼットがいいだした。
「いったいどこへいってらっしゃったの? わたしはニコレットをやりましたけど、いつもきまってお留守だという返事ばかりだったんですもの。いつ、おもどりになりましたの。ほんとに様子が大変おかわりになっていますわ。ご病気だったんでしょう、まあいけないお父さま! それでもわたしたちにお知らせにならなかったんでしょう。マリユス、この手をさわってごらん、冷たいこと!」
「こうしてあなたもきてくださったのですね、ポンメルシーさん。あなたは私を許してくださるんですね!」とジャン・ヴァルジャンはくりかえしていった。
ジャン・ヴァルジャンがくりかえしていったその言葉に、マリユスの心にいっぱいたまっていたものが出口を見つけて、ほとばしりでた。
「コゼット、きいたかい、この方はぼくに許してくれとおっしゃる。しかもぼくにどんなことをしてくださったか、お前は知ってるかい、コゼット。この方はぼくを救ってくださった。いや、それ以上のことをしてくださった。お前をぼくにあたえてくださったのだ。そのあとで、自分はどうなさったか? 自分は身を犠牲にされたのだ。そのうえ恩しらずのぼくに、罪人《つみびと》のぼくに、無慈悲なぼくに、ありがとうといわれる。ぼくは一生この方の足もとにひざまずいても、なおたりない。あの防塞、下水道、火のなか、汚水のなかを通ってこられたのだ、ぼくのために、コゼット! この方こそ実に天使だ!」
「ま、まあ!」とジャン・ヴァルジャンはひくい声でいった。「なぜそんなことをいわれるのです」
「ですが、あなたこそ」とマリユスはおこって、しかし尊敬の念をこめていった。「なぜそれをいわれなかったのです? あなたもわるい、人の生命を助けておいて、それをかくすなんて!」
「私は真実を申したのです」とジャン・ヴァルジャンは答えた。
「いえ」とマリユスはいった。「真実はすべてでなければいけません。あなたはすべてを申されなかった。あなたはマドレーヌ氏だったのに、なぜそれをいわれませんでした。あなたはジャヴェルをお救いになったのに、なぜそれをいわれませんでした。わたしがあなたに命の恩になってるのに、なぜそれをいわれませんでした?」
「なぜといって、私もあなたと同じように考えたからです。あなたの考えは、もっともだと思いました。私は去らなければならなかったのです。もしあの下水道のことを知られたら、私をそばに引きとめられたにちがいありません。それで、私はだまっていなければなりませんでした。もしそれを私が話したら、全く困ることになったでしょう」
「なにが困るんです、誰が困るんです!」とマリユスはいった。「あなたは、ここにこのままおられるつもりですか。わたしたちはあなたをおつれします。ぜひともつれてゆきます。あなたはわたしたちのおなじ一部なのです。コゼットの父であり、またわたしの父でもあるのです。あしたもここにいるなどとお考えになってはいけません」
「あしたは」とジャン・ヴァルジャンはいった。「私はもうここにいますまい。しかし、あなたの家にもいますまい」
「それはどういうことです? ああ、そうですか、いえ、旅行もお許ししません。あなたはわたしたちのものです。決してあなたをはなしません」
「こんどこそ、ぜひそうしますわ」とコゼットもいいそえた。「下に馬車も待たしてありますの。わたし、あなたをつれてゆきます、やむをえなければ、力ずくでもかついでゆきますわ。あなたのお部屋は、まだわたしたちの家にそのままになっていましてよ。このごろは、ほんとに庭もきれいになりましたわ! つつじが大変みごとに咲きました。路に川砂をしきましたら、すみれ色の小さな貝がらがまじっていましたの。わたしの苺《いちご》も食べていただきますわ。わたしがそれに水をやっていますのよ。もう奥さんというのもやめ、ジャンさんというのもやめて、みんな|お前《ヽヽ》ということにしましょう。ねえ、マリユス。それからお父さま、わたしはほんとに悲しいことがありましたの。壁穴のなかに駒鳥が巣をつくっていましたのに、それを恐ろしい猫が食べてしまいましたの。ほんとに可愛いい駒鳥でしたのに! わたし、泣きましたわ。猫を殺してやりたいほどでしたの。でもこれからは、もう誰も泣かないことにしましょうね。みんな笑うんですわ、みんな幸福になるんですわ」
ジャン・ヴァルジャンは、ただぼんやり耳をかたむけていた。その言葉の意味より、むしろ彼女の声の音楽をきいていた。魂のきびしく、みがきたてられた真珠ともいうべき大きな涙が一滴、しだいに彼の眼ににじみでてきた。彼はつぶやいた。
「彼女がきてくれたことは、神が親切であられる証拠だ」
「お父さま!」とコゼットはいった。
ジャン・ヴァルジャンはつづけていった。
「いっしょに暮すことは楽しいにちがいない。私はコゼットといっしょに散歩する。毎日挨拶をかわし、庭で呼びあう。生き生きした人たちの仲間にはいる。それは楽しいことだろう。それぞれ庭の片すみに好きなものを植える。彼女はその苺を私に食べさせ、私は自分のばらを彼女につんでやる。楽しいことだろう。ただ……」
彼は言葉をとぎらせ、しずかにいった。
「残念なことだ」
涙は落ちずに、もとにもどってしまった。ジャン・ヴァルジャンは、涙を流すかわりにほほえんだ。
コゼットは老人の両手を、自分の両手にとった。
「まあ!」と彼女はいった。「お手が前より冷たくなっていますわ。ご病気ですの、どこかお苦しいの?」
「私が? いや、病気ではない。ただ……」
彼はいいよどんだ。
「ただ、なんですの?」
「私はもうすぐに死ぬ」
コゼットとマリユスはふるえあがった。
「死ぬ!」とマリユスは叫んだ。
「ええ、しかしそれはなんでもありません」
ジャン・ヴァルジャンは息をつき、ほほえみ、そしてまたいった。
「コゼット、お前は私に話をしていたね。つづけておくれ。もっと話しておくれ。お前の可愛いい駒鳥が死んだと、それから、さあお前の声を私にきかせておくれ!」
コゼットははり裂けそうな声をあげた。
「お父さま、わたしのお父さま! あなたは生きられますわ、わたしが生かしてあげます、ねえ、お父さま!」
ジャン・ヴァルジャンは可愛いくてたまらないような様子で彼女のほうに顔をあげた。
「そう、私を死なないようにしておくれ。あるいはお前のいうとおりになるかも知れない。お前たちがきたとき、私は死にかかっていた。ところがお前がきたので、そのままになっている。なんだか生きかえったような気もする」
「あなたにはまだじゅうぶん力もあり、元気もあります」とマリユスは叫んだ。「そんなふうで死ぬものだと思っておられるのですか。いろいろ心配もあったでしょうが、これからはもうなくなります。お生きになれますとも、わたしたちといっしょに、そしてながくお生きになれますとも」
「おわかりでしょう」とコゼットは涙にまみれながらいった。「死ぬなんてことはないとマリユスもいっていますわ」
ジャン・ヴァルジャンはほほえみつづけていた。
「あなたが私を引きとってくだすっても、ポンメルシーさん、私はそれでこれまでと変った人間になるでしょうか。いや、神は私どもがどうなればよいか、私どもよりよく知っておられます。あなたたちが幸福であること、ポンメルシー氏がコゼットをめとり、青春が朝をめとること、天の喜びがあなた方の魂を満たすこと、そしてまた、もうなんの役にもたたなくなった私が死んでゆくこと、すべてそうしたことは正しいにちがいありません。まあ、よく考えてみてください、私にはもうなにもなすことがありません。私は万事終ったのだと、はっきり感じています。コゼット、お前の夫はいい人だ、お前は私といるよりずっと仕合《しあわ》せだ」
扉の音がした。はいってきたのは医者だった。
「お目にかかって、またすぐお別れです、先生」とジャン・ヴァルジャンはいった。「これは私の子供たちです」
マリユスは医者に近よった。そしてただ「先生?……」といったが、その調子にはじゅうぶんな問いがふくまれていた。
医者は意味ぶかい一瞥《いちべつ》でその問いに答えた。
「万事が望みどおりにならないからといって」とジャン・ヴァルジャンはいった。「それで神を怨《うら》んではいけない」
沈黙が落ちてきた。みんなは胸をおさえつけられるような気がして立っていた。
ジャン・ヴァルジャンはコゼットのほうをむいた。彼は永久に失うまいとするかのように彼女をながめはじめた。
医者は彼の脈をみた。
「ああ、ご病人に必要なのは、あなた方でしたな」と彼はコゼットとマリユスをながめてつぶやいた。
それから医者は、マリユスの耳もとに身をかがめて、ごく低くいいそえた。
「もう手おくれです」
ジャン・ヴァルジャンの口から、はっきりききとれない言葉がもれた。
「死ぬのはなんでもない。恐ろしいのはこのまま、生きてゆけないことだ」
突然ジャン・ヴァルジャンは立ちあがった。彼はしっかりした足どりで壁のところまでゆき、彼を助けようとしたマリユスと医者をはらいのけ、壁にかかってた小さな銅の十字架像をはずしてもどってきた。そして十字架像をテーブルの上におきながら、高い声でいった。
「この方こそ偉大な殉教者だ」
それから、彼の胸はがくっとくずれおちた。
コゼットは彼の肩をささえ、すすり泣きながら彼になにかいおうとしたが、それもできなかった。ただ、涙ながらの言葉が、かろうじてききとれた。
「お父さま! わたしたちのそばをはなれないで。せっかくお目にかかったのに、そのまますぐにお別れしなければならないなんてことが、あるものでしょうか」
ジャン・ヴァルジャンは、なかば失神状態におちいったが、やがて黒い影を払い落そうとするかのように額をふって、ふたたび正気にもどった。彼はコゼットの袖の一端をとって、それに唇をあてた。
「よくなりました、先生、よくなりました!」とマリユスは叫んだ。
「あなた方はふたりともいい人だ」とジャン・ヴァルジャンはいった。「いま、私の心を苦しめてることがなんだか、いってみましょう。ポンメルシーさん、あなたがあの金に手をつけようとなさらないことです。あの金は、たしかにあなたの奥さんのものです。そのわけをいまふたりにいってきかせましょう。私があなた方にあえたのを喜ぶのも、ひとつはそのためです。黒い飾り玉はイギリスから、白い飾り玉はノルウェーからはいってきます。それらのことはみな、その紙に書いてありますから、それをお読みなさい。私がこんなことをいうのもあなたの心を安めようと思うからです」
門番の女が階段をあがってきて、少しひらいてる扉のあいだから、なかをのぞきこんでいた。医者は追いかえしたが、その熱心な婆さんは、たち去る前に臨終の人にむかって、こういわずにはいられなかった。
「司祭さまをおよびしましょうか」
「司祭さまは、ひとりおられる」とジャン・ヴァルジャンはいった。そして頭上の一点を指差すようなふりをした。おそらく、彼の眼はそこに何者かの姿を見てとったのだろう。
実際、ミリエル司教が、その臨終にたちあっておられたのかもしれなかった。
コゼットはそっと彼の腰の下に枕をさしいれた。
ジャン・ヴァルジャンはまたいった。
「ポンメルシーさん、どうか気になさらないでください。あの六十万フランは、たしかにコゼットのものです。もしあなたがあれを使わなければ、私の生涯はむだになってしまうでしょう」
大事な人がまさに死のうとするとき、人はその人にしがみついて引きとめようとする眼つきで彼を見つめるものだ。コゼットはマリユスに手をとられ、ふたりは苦悩のあまり黙然とし、絶望に身をふるわせながらジャン・ヴァルジャンの前に立ちつくしていた。
刻々にジャン・ヴァルジャンは弱っていった。呼吸は断続的になり、わずかなあえぎにも息を切らした。もはや腕の位置をかえるのも容易ではなくなり、両足は全く動かなくなった。それとともに、魂の荘厳さがあらわれて、額の上にひろがった。他界の光りもすでにそのひとみのなかにみられた。
彼はコゼットにそばにくるように合図し、それからマリユスにも合図した。明らかに臨終の最後の瞬間だった。彼は遠くからくるかと思われるような声で、ふたりに話しかけた。
「近くにおいで、ふたりとも近くにおいで。私はお前たちを深く愛してる。ああ、こうして死ぬのは結構なことだ。コゼット、お前も私を愛してくれるね。私は、お前がいつもこの私に愛情をもっていてくれたことをよく知っていた。お前が私の腰の下にクッションを入れてくれるとは、なんというやさしさだろう! お前は私の死を少しは泣いてくれるだろうね。でも、あまり泣いてはいけないよ。お前たちはこれから沢山楽しまなければいけないんだから。ポンメルシーさん、あの六十万フランは正直な金です。安心して金持ちになっていいんです。馬車もそなえ、コゼットは美しい夜会服を買うがいい。お友だちにご馳走もし、楽しく暮しなさい。それから私は、煖炉の上にある二つの燭台をコゼットにあげよう。銀だが、私には金《きん》でできてるといってもいいし、ダイヤモンドでできてるといってもいい品だ。私にあれをくださった人が、はたして私のことを天から満足の眼で見てくださるかどうかは、私にもわからない。ただ、私はできるだけのことはした。お前たちふたりは、私が貧しい者だということを忘れないで、どこかの片すみに私を葬って、ただその場所をしめすだけの石を建てておくれ。それが私の遺言だ。石には名前を刻《きざ》んではいけない。もしコゼットがときどきやってきてくれるなら、私は大変うれしい。あなたもきてください、ポンメルシーさん。私はいま白状しなければなりませんが、いつもあなたを愛してたというわけではなかった。それは許してください。しかしいまは、コゼットとあなたとは、私にとってまったくひとりの者です。私はあなたがコゼットを幸福にしてくださることをはっきり感じています。ああ、ポンメルシーさん、彼女の美しいばら色の頬は私の喜びでした。少しでも顔色が悪いと、悲しかったものです。それから戸棚のなかに五百フランの紙幣が一枚はいっています。それは貧しい人たちにやるためのものです。コゼット、その寝台の上にお前の小さな服がある。お前はあれをおぼえているかい。あのときから十年すぎた。時のたつのは実にはやいものだ。私たちはとても幸福だった。が、もうすべてはすんでしまった。お前はモンフェルメイユをおぼえているかね。あの大きな人形、あれもおぼえているかね、お前はあれにカトリーヌという名前をつけていた。人形をだいて通った森、歩きまわった木立のなか、身をかくした修道院、いろんな遊び、他愛《たあい》もない大笑い、それらはみんな影にすぎなくなってしまった。私はそういうものがみんな自分のものだと思っていた。しかし、それは私のばかげた考えだった。あのテナルディエ一家の者はみんな悪者だったが、それも許してやらなければいけない。コゼット、いまお前のお母さんの名前をいってきかせる時がきた。お前のお母さんは、ファンティーヌという名前だ。よくおぼえておきなさい、ファンティーヌだ。それを口にするたびに、ひざまずかなければいけない。あの人は大変難儀をした。お前をとても可愛がっていた。お前が幸福な目にあったと同じくらい、不幸な目にあった。それが神の配剤である。さあ、私はもう逝《い》ってしまう。ふたりとも、つねによく愛しあうのだよ。世の中は、愛しあうことよりほかには、ほとんどなにもない。私はこれでもう眼もはっきり見えない。まだいいたいことは沢山あるが、もうそれはどうでもよい。ただ私のことを少しは考えておくれ。お前たちは祝福された人たちだ。ああ、光りが見えてきた。もっと近くにおいで。私は楽しく死ねる。お前たちの可愛いい頭をかして、その上にこの手をおかせておくれ」
コゼットとマリユスとは、そこにひざまずき、涙にむせびながら、われを忘れてジャン・ヴァルジャンの両手に、それぞれすがりついた。そのおごそかな手は、もはや動かなかった。
ジャン・ヴァルジャンはうしろに倒れた。二つの燭台からくる光りが、彼をてらしていた。その白い顔は天をながめ、その両手はコゼットとマリユスとの口づけのままになっていた。
夜は星もなく、深い闇だった。必ずやその影のなかには、ある広大な天使が、魂を待ちながら翼をひろげて立っていたであろう。
二
ペール・ラシェーズの墓地の、墓石の都《みやこ》の立派な一廓から遠くはなれた、さびしい片すみの古壁の近く、ひるがおのからんだ一本のイチイの下のはまむぎや苔のはえているなかに、ひとつの石がある。その石もまた、ほかの石とおなじように、長い年月に傷み、かびや苔や鳥の糞などで荒されている。雨露のために緑となり、ところどころ空気のために黒ずんでいる。近くには小道もなく、草が生茂ってすぐに足をぬらすので、そちらに踏みこんでみようとする人もない。少し陽がさすと、とかげがやってくる。あたりには、からす麦がそよぎ、春には木のあいだにホオジロがさえずっている。
その石にはなんらの加工もほどこされていない。墓石として切られただけのもので、人をひとりおおうだけの長さと幅とにしようという注意がはらわれているにすぎない。
なんらの名前も刻まれていない。ただ、いく年か前に、誰かが四行の句を鉛筆で書きつけていたが、その句も雨やほこりにうたれて、しだいに読めなくなっていた。いまはそれもおそらく消えてしまっているだろう。その句はつぎのとおりだった。
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数奇な運命にも生きし彼 ここに眠る
己《おの》が天使を失いしとき 死したり
すべてなるがごとく なる自然の
昼去りて夜の来るように
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(完)
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解説
ヴィクトル・ユゴーは一八〇二年二月二十六日、三人兄弟の末子としてフランスのブサンソンに生まれた。父ジョセフ・レオポルド・シジスベール・ユゴーは、農民出身の指物師の息子だったが、軍人となり、のちにナポレオン麾下《きか》の将軍となった。母ソフィー・トレビッシェはナントのブルジョワの出身で、船主の娘である。
父が軍人としてイタリア、スペインに駐屯することが多かったので、ユゴーも幼年時代から少年時代にかけて、母とともにそれらの地方に滞在、マドリッドでは貴族の学校に学んだ。この時代に幼い彼の脳裡にやきつけられたスペインの風物は、のちの彼の作品に深い影響をあたえたとわれる。父は彼を軍人にするため、理工科学校に入学させようとしたが、彼ははやくから作家を志し、一八一七年にアカデミーで募集した詩のコンクールに入賞し、ついで一八一九年、若き文学雑誌の先駆をなす「コンセルヴァトゥール・リテレール」を創刊、一八二二年、処女詩集「オード集」を出して文学の道にその第一歩を踏みだした。
文学史的にみても、また彼の制作年代史の上からみても、まず挙げなければならないのは戯曲「クロムウェル」(一八二七)である。戯曲そのものはあまり面白いものとはいえないが、その「クロムウェル序」は、古典主義の形式主義、規則主義に反対して、人生のあらゆる出来事を自由奔放に表現することを主張したロマンチズムの宣言の書として知られるものである。それについで彼を中心とする文芸セナークルが彼の家に開かれ、ヴィニー、デシャン兄弟、サント・ブーヴ、ミュッセ、ダンジェなどのロマン派の文学者や美術家たちが集まり、ユゴーは、ロマン派の首領となった。一八三〇年、彼の「エルナニ」の上演に際しては、ロマン派の若い文学者たちと古典派とが二派に分れて相争った。文学史上有名な「エルナニ事件」である。しかしユゴーはロマン派の統率者であり同時に完成者であったが、演劇の面では挫折した。一八四三年の「レ・ビュルグラーヴ」の上演が各方面からの非難にあって失敗に終り、以後劇作を断念しなければならなかった。
しかし詩の方面では、今なおフランス文学史上最大の詩人である。ラマルティーヌ、ヴィニーとともにユゴーはロマン派の三大詩人といわれるが、前者の二詩人のとうてい及びもつかないほどの言葉の豊富さと逞しい表現力とをもっていた。彼の筆によって詩にならざるものなく、その表現に誇大にすぎるきらいがなくもないが、優れた技巧を駆使して雄大華麗な膨大な詩篇をのこした。ティボーデは「言葉の王座にかけては、なんぴとといえども彼の敵ではない。フランスでは言葉におけるユゴーは、理性におけるデカルト、才知におけるヴォルテールに匹敵し、また大理石におけるミケランジェロ、光彩におけるレンブラントに比肩される」といっている。その詩集は十指にあまるが、代表的なものを挙げるにとどめよう。「秋葉集」(一八三一)「黄昏集」(一八三五)「内心の声」(一八三七)「光と影」(一八四〇)「懲罰詩集」(一八五三)「静観詩集」(一八五六)、それとフランス文学最大の傑作「諸世紀の伝説」(一八五九〜八三)。
詩および演劇において活躍したユゴーは、小説においてもまた数々の作品をのこした。なかでも傑作として、「ノートルダム・ド・パリ」(一八三一)「レ・ミゼラブル」(一八六二)「海に生きる人びと」(一八六六)を挙げることができる。散文家としてのユゴーが韻文家としてのユゴーにくらべて劣るとしても、彼をして十九世紀文学の巨人とするには、これらの小説を無視することはできない。
文学の面ばかりか、ユゴーは政治運動にも身を投じた。時代の流れに敏感であった彼は、八十三年の生涯のあいだに、王党派、ボナパルト派、共和派と変貌した。一部の人々は、それを彼のオポテュニスト的性格として非難するが、彼自身は王政復古、共和政体、第二帝政と、めまぐるしい時代の移り変りに「政治的意見が変化しないということは、時代の現実に対する無考察を意味する」と言っている。ルイ・フィリップは一八四五年にオルレアン公爵夫人の懇請によってユゴーを貴族院議員の列に加え、一八四八年の革命後、彼は国民議会に送られた。しかし政治的野心は彼の筆のようには意のままにならなかった。
一八五二年のナポレオン三世の第二帝政成立後は、平和と自由と正義の擁護者としてあくまでも、自分の信じる思想を忠実に生き、国民の期待を裏切った時の政権と烈しく戦った。彼はついにナポレオン三世に追放されるところとなり、ベルギーのブリュッセルにのがれ、そこからジェルセイ島、ついでケルヌゼー島に渡り、十九年間の亡命生活を送った。それはユゴーの思想に深みをあたえ、文筆生活に幸いした。彼の生涯でも、この期間は最も充実したものとなり、「諸世紀の伝説」「レ・ミゼラブル」、そのほか優れた詩集がこの間に生まれた。一八七〇年九月、共和制宣言の翌々日フランス国民の歓迎をうけてパリに帰り、以後、国民議会の代議士および上院議員にえらばれたが、政党議員としてではなく、人類愛を基調とする一理想主義者として民衆につくした。彼が一八八五年五月二十二日、八十三才でパリで亡くなったとき、時のフランス政府は文学者としては前例のない国葬をもってむくいたのである。
ユゴーの「レ・ミゼラブル」といえば、わが国の近代文学の誕生とともに翻訳された外国小説の一つであり、また「ああ無情」「ジャン・ヴァルジャン物語」などの題名によって、かつてほとんどの人たちが少年時代に一度は手にした世界的な名作の一つである。そして、この小説があまりにも有名となったために、ユゴーといえば「レ・ミゼラブル」、「レ・ミゼラブル」といえばユゴーというように、詩人としてのユゴーが閑却され、あるいは一部の専門家の手にゆだねられて、小説家としてのユゴーが喧伝されるにいたった。しかし、それはこの小説の偉大さを物語るものでもあり、作品にもられた彼の思想なり諸問題が、より多くの読者に訴えられるためには小説という形式が必要であったことを思えば、必ずしも嘆くべき現象ではないだろう。
この小説は、ナポレオン一世のワーテルローの戦いによる没落後のフランスから、七月革命におよぶ広範な時代と社会とを舞台にとった一大叙事詩ともいうべきもので、とくにこの時代のフラシスの社会は宗教上、軍事上、政治上のあらゆる思想が矛盾対立し、民衆はその流れのうちにあえいでいた状態にあった。ユゴーは前にもふれたように、自分の詩の世界にこもりがちな詩人とはちがって、つねに社会に、時代の流れにすすんで身を投じた作家であり、社会悪や、そこから必然的に起こる悲惨な人間の姿に無関心ではありえなかった。そしてまた、ユゴーの罪人に対する同情は、彼のうちにはやくからめばえていた最も強い感情の一つであった。彼は一八二九年に「死刑囚最後の日」を書き、その一八三二年版の序文で、キリストの愛に満ちた法則が、ついに法典にもしみこんで、そのなかから輝きだし、罪も一つの病気として受けとり、怒りをもって迎えられた悪も慈悲心によって迎えられる日のくるようにと希《ねが》っている。「レ・ミゼラブル」の着想はそれよりもさらにふるく、ミリエル司教の原型となったミオリス司教から伝えられた、ジャン・ヴァルジャンとミリエル司教の邂逅と同様な逸話に端を発するもので、「ある司教の手記」という題名として世に出るべきものであった。それから計算すると、「レ・ミゼラブル」は実に四十年に近い成熟期間をへている。
一八三四年にも、ユゴーは社会悪から罪を犯すにいたった「クロード・グー」の物語を書いたが、一八四〇年から以前より集められていた資料を整理したりして、はじめは「貧窮譚《レ・ミゼール》」という題で、一八四八年までその筆をとった。しかし一八四八年の革命により中断のやむなきにいたり、一八五二年までの政治活動、ナポレオン三世に対する戦い、亡命など、相次ぐ事件によって最初のプランが変更され、一八五四年になってようやく「レ・ミゼラブル」に定着した。一八六〇年五月にはほぼ完成され、序文も書かれたが、彼はなお一八六一年にワーテルローの戦場を訪れ、その調査に二カ月を費やした。かくて一八六二年四月から六月にかけて、ブリュッセルとパリで同時に出版され、多大の反響をよび、ユゴーの名声は全ヨーロッパになりひびいた。
この作品は、作者の観察や回想、実在の人物および事件に関する資料に負うところが多い。本書中の一八三二年の暴動は、ユゴー自身の目撃したところであり、ミリエル司教、ジャン・ヴァルジャンはその原型が実在の人物であり、また、若き日のユゴー夫人アデール・フウシェがコゼットに、若き日の作者がマリユスになったといわれる。こうした現実から借用された部分は枚挙にいとまがない。その描写の精緻なことといい、リアリズムの傑作の一つにも数えられる。しかし資料の正確さも、作者がそれを読者の眼前に生き生きと描き出す想像力に欠けているならば、なにものでもないだろう。素材から、モデルから典型的な人間像と、文学作品を支えるレアリテを創造することこそ、文学者の本質的な仕事の一つである。詩人ユゴーは、よくこれをこなした。この作品中、ジャン・ヴァルジャンとミリエル司教の邂逅、シャンマティユ事件で苦悩するジャン・ヴァルジャン、彼がコゼットをひきとりにいった場面、ワーテルローの戦いの雄壮絢爛たる描写などは、なかでも圧巻である。
しかしまた、全編を通じて脈打っているユゴーの慈悲と自由と正義との、キリスト教的人類愛に発する社会主義的思想は見逃してはならない。彼が序文にのべている社会悪を救うものは、まさにそれであろう。ユゴーはこの思想を、福音書の精神に生きるミリエル司教のうちに純粋に描いた。しかし注意を要するのは、ユゴーは人間をみじめにするような社会をみとめることができなかったと同時に、地獄をみとめる宗教、神の愛を教会にとじこめてしまうような宗教もみとめることができなかった。彼の愛の観念は無限のものである。
「本書ごとき性質のものも、地上に無知と悲惨とがあるかぎりは、おそらく無益ではないだろう」というユゴーの序文の言葉が、不幸にしてなおあてはまる現代において、「レ・ミゼラブル」は一人でも多くの人に読まれてよい古典の第一に挙げられるべきものであろう。
なお最後にお断りしておきたい。
ユゴーは「クロムウェル序」のなかで、「文学は人生総体の表現でなければならぬ」といった意味のことを言っているが、事実、ある文学史家などはこの大長編を、一つの歴史小説であるとともに、同時にジャン・ヴァルジャンの心の苦悩を描いた哲学小説であり、一面また苛酷な「法」に対する人間性を擁護する社会小説であり、さらに物語の筋からいえばメロドラマ風の探偵小説であり、物語そのものの性格からいえぱ抒情小説だともいっている。この点からすれば、ある意味では、この大長編にはまたあまりに「人生総体の表現」が氾濫しているとともいえるのである。
少なくとも、この「レ・ミゼラブル」という大小説は一種の原始林の巨木のごときもので、物語の主軸となるものは一般向きのきわめて興味深いものだが、物語中、しばしば本筋に関係のとおい専門的な考証や研究が、あたかも樹木が勝手にその枝葉をのばすがごとくに繰りひろげられているのである。専門家の特殊な文学愛好家でないかぎり、その考証や研究にぶつかって退屈し、読みつづける意欲を失ってしまう。したがってすでに久しい以前から原作中の本筋に直接関係のあるものばかり、すなわち枝葉的考証や研究をすっかり伐りとった、しかも原文に忠実な一般向きのアブレジェ版が読者のあいに要望されていた。しかし、なにぶんにも原作が膨大なこと、枝葉の刈りかたが困難なこと、角を矯《た》めて牛を殺すような結果におちいるおそれのあることなどの理由で、なかなか、その実現をみることがなかった。
ところが先年、訳者が「レ・ミゼラブル」の名訳者豊島与志雄先生の懇切なるご教示をうけて、このはなはだしく危険な仕事を厚顔にも断行したのであるが、幸いにも、その結果は、多大の斧が加えられたにもかかわらず、なお、赤い血の脈々と通うものをみとめることができた。それはこの小説がひめている不可思議な力によるものであろう。本書はそれに訳者がさらに手を加えたものである。ただし、本書が従来出版されていた「ああ無情」や「ジャン・ヴァルジャン物語」などの抄訳本とは異なるものであることを、読者はよく了解していただきたい。(訳者)