レ・ミゼラブル(上)
ヴィクトル・ユゴー/斎藤正直訳
目 次
第一部 ファンティーヌ
第一章 正しき人
第二章 失墜
第三章 一八一七年のこと
第四章 委託は時に放棄となる
第五章 転落
第六章 ジャヴェル
第七章 シャンマティユ事件
第八章 反撃
第二部 コゼット
第一章 ワーテルロー
第二章 軍艦オリオン
第三章 死者への約束の実行
第四章 ゴルボー屋敷
第五章 暗がりの追跡に無言の猟犬
第六章 墓地はいかなるものでも受納する[#ここで字下げ終わり]
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序
法律と風習とによって、ある社会的処罰が存在し、それが人為的に文明社会のなかに地獄をつくり、さらに世間的不幸によって、神聖な人間の運命を紛糾させているかぎり――下層階級なるがゆえの男の失格、飢えによる女の堕落、陽《ひ》の目をみないことによる子供の萎縮、それら三つの問題が解決されないかぎり――つまりある方面において、社会的窒息が生ずる可能性のあるかぎり――言葉をかえていえば、また広い見方をすれば、地上に無知と悲惨とがあるかぎり、本書のような書物も、おそらく無益ではないだろう。
一八六二年一月一日 ヴィクトル・ユゴー
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主要登場人物
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ジャン・ヴァルジャン……一切れのパンを盗んだため、十九年間徒刑場につながれる。放免後、マドレーヌ及びユルティーム・フォーシュルヴァンと変名し、数奇な運命をたどる。
ミリエル司教(シャルル・フランソワ・ビヤンヴニュ)……ディーニュの司教閣下。
バティスティーヌ……ミリエル司教の妹。
マグロワール……ミリエル司教の召使。
プティ・ジェルヴェ……サヴォワ出の煙突掃除をして歩く少年。放免後まもないジャン・ヴァルジャンに金を盗まれる。
ファンティーヌ……コゼットの母。パリで男にすてられ、郷里で女工、ついで売笑婦となり病死。
コゼット……ファンティーヌの娘。私生児。田舎にあずけられ虐待される。のちジャン・ヴァルジャンに救われる。
テナルディエ夫妻……飲食店の経営者。コゼットをあずかり虐待する。のちにパリにでて悪事をたくらむ。
エポニーヌ、アゼルマ……テナルディエの娘。
ガヴローシュ……テナルディエの息子。
ジャヴェル……徒刑囚ジャン・ヴァルジャンを追求する廉潔で無慈悲な警視。
フォーシュルヴァン……ジャン・ヴァルジャンに命を救われ、のちパリの修道院の庭番となり、ジャン・ヴァルジャンをかくまう。
マリユス・ポンメルシー……コゼットの恋人。共和主義者の暴動に参加し、ジャン・ヴァルジャンに救われてコゼットと結婚。
ジョルジュ・ポンメルシー……陸軍大佐。ワーテルローの戦場でテナルディエに救いだされる。マリユスの父。
ジルノルマン(リュック・エスプリ)……ブルジョワの老人。頑固な王党派。マリユスの祖父。
アンジョーラ、コンブフェール、クールフェーラック、プルーヴェール
……以上の四人は政治秘密結社ABC友の会のメンバー。反乱を起し、防塞にたてこもって国民軍に抵抗する。
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第一部 ファンティーヌ
第一章 正しき人
一
一八一五年に、シャルル・フランソワ・ビヤンヴニュ・ミリエル氏はディーニュの司教だった。七十五才ばかりの老人で、一八○六年いらいディーニュの司教の職についていた。
彼がその教区に到着した頃、彼についてなされたいろいろな噂《うわさ》や評判をここにしるすことは、物語の本筋《ほんすじ》にはすこしも関係のないことではあるが、すべてに正確を期するという点だけででも、おそらく無用のことではあるまい。
嘘《うそ》にせよ、真実にせよ、人の身の上についていわれることは、その人の生涯のうちに、とくにその運命のうちに、しばしば実際の行為とおなじくらいに重要な位置をしめるものである。ミリエル氏はエクスの高等法院の評議員の息子で、高貴な法官の家柄《いえがら》だった。つたえられるところによれば、彼の父は自分の地位をつがせようとして、当時法院関係の家庭にかなり広く行われていた習慣にしたがい、息子をごく早く十八才か二十才かのときに結婚させたそうである。しかし、そうした結婚にもかかわらず、彼は多くの噂の種《たね》をまいたとかいうことだった。背はすこし低いほうだったが、品位と優美と才気とをそなえた立派な男だった。その生涯の前半は、社交と情事とのうちにあけくれた。
そのうちに革命となり、いろいろな事件があいついでおこり、法院関係の家柄はみんな虐殺され、追放され、狩りたてられて、分散してしまった。シャルル・ミリエル氏は革命のはじめからイタリアに亡命した。彼の妻は、そこで前からながくわずらっていた肺病のために死んだ。彼らには子供がなかった。ついでミリエル氏の運命にどんなことがおこったか。フランスの旧社会の崩壊《ほうかい》、一家の没落、一七九三年の悲惨な光景――恐怖の念を深めて遠くからながめる亡命者たちにとっては、おそらくいっそう恐ろしかったろうその光景、それらが彼の心のうちに、俗世間をすてて孤独にのがれるという考えをおこさせたのであろうか。世の中の変動によってその一身や財産に打撃をうけてもびくともしない人をも、時としてその心を打って顛倒《てんとう》させる、あの神秘な恐るべき打撃が、当時彼がふけっていた気晴らしや悦楽《えつらく》のさなかに突然落ちかかってきたのだろうか? それは誰もいうことはできなかっただろう。ただ知られていたことは、イタリアから帰ってきたとき、彼は司祭になっていたということだけだった。
一八○四年には、ミリエル氏はブリニヨルの主任司祭だった。すでに年とっていて、まったく隠遁《いんとん》の生活をしていた。
皇帝〔ナポレオン〕の戴冠式《たいかんしき》のあった頃、なんであったかもう誰もよくおぼえていないが、あるちょっとした職務上の事件のため、彼はパリに出かけねばならなかった。多くの有力な人々のなかでも枢機官《すうきかん》フェーシュ氏の所へ彼はいって、自分の教区民のために助力をねがった。ある日、皇帝が叔父《おじ》のフェーシュ氏をたずねたとき、この立派な司祭は控え室にまたされていて、ちょうど皇帝がそこを通るのに出会った。皇帝はこの老人が自分をものめずらしそうにながめているのを見て、ふりむいて突然こういった。
「わしをながめているこの老人は、どういう者か?」
「陛下」とミリエル氏はいった。「陛下はひとりの老人を見ておられます。そしてわたくしはひとりの偉人をながめております。わたくしどもはおたがいに、なにかのためにはなりましょう」
皇帝はすぐその晩に、枢機官《すうきかん》に司祭の名をたずねた。それからまもなくミリエル氏は、自分がディーニュの司祭に任ぜられたのを知ってひどくおどろいた。
ミリエル氏の前半生についてつたえられた話のなかで、結局どれだけが真実だったか、それは誰にもわからなかった。革命前にミリエル氏の一家を知っていた家はあまりなかったのである。
ミリエル氏は、小さな町に新らしくやってきた人がいつもうける運命にであわなければならなかった。そこにはかげ口をきく者はきわめて多く、考える人間は非常に少ないのがつねである。彼は司教でありながら、また司教であったがために、それを甘んじてうけなければならなかった。しかし結局、彼についてのいろいろな評判は、おそらく単なる評判にすぎなかっただろう噂《うわさ》であり、風評であり、無駄《むだ》口であって、南方のどぎつい言葉でいう、あのなが談議《だんぎ》というやつにすぎなかっただろう。
しかしそれはそれとして、九年間ディーニュで司教職にとどまった今、小都市や小人《しょうじん》どもの話題となるそうしたはじめの噂話は、まったく忘れられてしまった。誰もあえてそれを語ろうとする者もなく、あえてそれを思いだしてみようとする者もなかった。
ミリエル氏は老嬢であるバティスティーヌ嬢をつれてディーニュにきたのだった。彼女は十才年下の妹だった。
彼らの召使としては、バティスティーヌ嬢と同年配のマグロワール夫人とよばれる女中がひとりいただけだった。彼女は|司教さまの召使《ヽヽヽヽヽヽヽ》だったが、老嬢の小間使で、司教閣下の家政婦であるという二重の肩書をもつようになっていた。
バティスティーヌ嬢はひょろ長い、色の青い、やせた、おとなしい女だった。「尊敬すべき」という言葉がしめす理想そのままの女だった。というのは、およそ女が尊敬されるためには、まず母であることが必要であるように思われる。バティスティーヌ嬢は美しかったことはかつていちどもない。これまで引きつづいて神さまの務《つと》めをしてきたというにすぎない彼女の一生は、一種の白さと輝きとを彼女にあたえたのだった。そして年をとるにつれて、善良の美しさともいえるようなものを彼女はえた。若い頃のやせた身体つきが、成熟すると透明な感じをおびてきた。そして身体をすかして心のなかの天使がみえるようだった。処女であるというより、なおいっそう霊という感じがした。その身体は影でできているようにみえた。男女の性をもつにたりないほどの肉体で、光りをつつんだわずかな物質にすぎなかった。いつもうつむいてる大きな眼、霊が地上にとどまっているというだけのものだった。
マグロワールは背の低い、色が白くてふとった、忙しそうにしている年寄りで、第一にいつも非常に働いているため、第二に喘息《ぜんそく》のために、いつも息をきらしていた。
ミリエル氏はその到着の日に、司教を旅団長のすぐつぎに位させる勅令によって、その司教邸におさまった。市長と市会議長とがだいいちに彼を訪問し、彼のほうではまずはじめに将軍と知事とを訪問した。
二
ディーニュの司教邸は施療《せりょう》院のとなりにあった。
司教邸は広大な美しい家で、シモールの修道院長で、一七一二年にディーニュの司教となった、パリ大学神学博士アンリ・ピュジェ閣下によって、十八世紀のはじめに建てられた石造の|やかた《ヽヽヽ》だった。まったく堂々たる邸宅だった。
施療院は、せまい低い二階建ての建物で、小さな庭がひとつあるだけだった。
到着して三日後に、司教は施療院を見舞った。それがすむと、こんどは院長にも自分の家にきてくれるようにねがった。
「院長さん」と彼はいった。「今、なんにん病人がいますか?」
「二十六人おります」
「わたくしのかぞえたところでも、そうでした」と司教はいった。
「ベッドがあまり近よりすぎています」と院長はまたつづけていった。
「わたくしもそう思いました」
「部屋がみんな小さすぎて、空気がよくかよいません」
「わたくしにもそうみえました」
「それに、陽《ひ》がさしましても、恢復《かいふく》しかけた患者たちが散歩するには、庭が小さすぎます」
「わたくしもそう思いました」
「今年はチフスがありましたし、二年前には、粟粒発疹熱《つぶはしか》がありましたし、そんな流行病でもありますと、ときには百人もの患者がありますが、実にどうしてよいかわかりません」
「わたくしもそういうときのことを考えました」
「どうも、しかたがありません。あきらめるほかはありません」と院長はいった。
この会話は、司教邸の一階の回廊食堂でなされた。
司教はちょっとだまっていたが、それから突然、院長のほうをふりむいた。
「院長さん」と彼はいった。「この部屋だけでどれくらいベッドが置けますか?」
「閣下のこの食堂にですか?」と院長はあっけにとられて叫んだ。
司教は部屋を見まわして、眼で間尺《まじゃく》をはかり計算をしてるらしかった。
「二十はおけるだろう!」と彼はひとりごとのようにいって、それから声をたかめた。「院長さん、すこし申しあげたいことがあります。明らかにまちがったことがあるのです。あなたのほうは、五つか六つの小さな部屋に、二十六人はいっています。わたくしのほうは三人きりですが、六十人くらいははいれる家にいます。それがまちがっているのです。あなたがわたくしの家にすみ、わたくしがあなたの家にすみましょう。わたくしにあなたの家をあけていただきましょう。あなたの家はここです」
その翌日、二十六人の貧しい人々が司教邸にうつされ、司教は施療《せりょう》院のほうにうつった。
ミリエル氏には少しも財産がなかった。彼の一家は革命のために零落《れいらく》した。が、妹のほうは五百フランの終身年金をもらっていて、それは司教邸にいれば彼女ひとりの費用には十分だった。ミリエル氏は司教として国家から一万五千フランの手当をうけていた。
司教のこんどの家は、一階に三部屋、二階に三部屋、その上にひとつの屋根裏部屋があり、家のうしろに約二反歩たらずの庭があった。二人の女が二階にゆき、司教は階下にすんだ。道路に面したとっつきの部屋は食堂となり、つぎの部屋が寝室となり、三番目の部屋が礼拝《らいはい》所になった。この礼拝所から出るには寝室を通らなければならないし、寝室から出るには食堂を通らなければならなかった。礼拝所の奥のほうに、人を泊《と》めるときの寝台が置いてある、しめきった寝所がひとつあった。司教はこの寝台を、教区の事務や用事でディーニュにくる田舎の司祭たちに提供していた。
各部屋はみんな赤い煉瓦でしかれ、それは毎週洗われた。すまいは二人の婦人の手できりまわされていたので、いたるところきれいで居心地がよかった。それが司教が許したただひとつの贅沢《ぜいたく》だった。彼はいった。「それは貧しい人々からなにものもうばいはしない」
しかし、司教にはむかしからの所持品のなかから、銀製の食器が六組と、スープ用の大きなスプーンがひとつ残っていたことをいわなければならない。それがそまつな白いテーブル・クロスの上に光りかがやいているのを、毎日マグロワールはながめて喜んでいた。
この銀の食器のほかに、彼が大|叔母《おば》の形見として贈られた二つの大きな銀の燭台《しょくだい》があった。それには二本のろうそくがたてられて、たいてい司教の煖炉《だんろ》の上に置かれていた。夕食に客がある場合には、マグロワールは両方のろうそくに火をともして、その二つの燭台を食卓の上に置いた。
司教の部屋には、寝台の枕もとに小さな戸棚があった。マグロワールはそのなかに毎晩六組の銀の食器と、一本の大きなスプーンをしまった。戸棚の鍵はいつもつけっぱなしだったことをいっておかねばならない。
家には錠のおろされる戸は一枚もなかった。石段もなく、すぐに大聖堂の広場にでられる食堂の戸口は、昔の牢屋の戸口のように錠前と閂《かんぬき》とがつけられていた。しかし司教はそういういっさいの金具をとりのぞいてしまったので、戸口は昼も夜も掛金《かけがね》でしめられるだけだった。通りがかりの人は誰でも、いつでも好きなときに、ただそれを押しさえすればよかった。
はじめ二人の婦人はこの|しまり《ヽヽヽ》のない戸口をひどく心配したが、司教は彼女たちにいった。「よかったら自分の部屋に閂《かんぬき》をつけさせるがいい」それでついに彼女たちも彼と同様に安心した、少なくとも安心したようにふるまっていた。ただマグロワールだけはときどき恐ろしがった。司教のほうは、彼が聖書の余白にかきこんだつぎの三行の句に、その考えが説明され、あるいは少なくとも示されている。「医者の戸は決してとざされていてはならぬ、司祭の戸は常にひらかれていなければならぬ。ここに微妙《びみょう》な意味がある」
またほかのところに彼は書いていた。「汝に宿をもとめる者に、その名をたずねるべきではない。すすんで名のれない者こそ、とくに避難所の必要な人だからである」
ある日のことたまたま、クールーブルーの司祭だったか、またはポンピエリーの司祭だったか、ある立派な主任司祭が、たぶんマグロワールにそそのかされてであろう、司教につぎのことをたずねてみた。誰にでもはいろうとする人にはいつでもはいれるように、昼夜、戸をひらいておくことは、いささか軽率すぎませんか。それに、そのように戸|締《じま》りのない家には、なにか不幸なことがおこる心配はありませんか。すると司教は、おごそかに、しかもやさしく司祭の肩に手を置いていった。「神が家をまもって下さらなければ、人がどんなにそれをまもってもむだでしょう」
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第二章 失墜
一
一八一五年十月のはじめ、日没前およそ一時間ばかりの頃、徒歩で旅をしているひとりの男が、ディーニュの小さな町にはいってきた。ちょうど人家の窓や戸口にはあまり人のいない時間だったが、それでもいくらかの人々がそこにいて、一種の不安の念をおぼえながらその旅人をながめていた。おそらくこれ以上みすぼらしいふうをした旅人は、めったにみられるものではなかった。それは中背《ちゅうぜい》の幅広い頑丈《がんじょう》な、元気ざかりの男だった。四十六か七、八くらいであろう。革のひさしのたれた帽子が、陽《ひ》にやけ、風にさらされ、汗の流れている顔の一部をかくしていた。黄色がかったそまつな布のシャツは、ただ襟《えり》のひとところで銀の小さなとめ金でとめてあるきりなので、そのあいだから毛深い胸がみえていた。ネクタイはよれよれになって、紐《ひも》みたいになっている。青い綾織《あやおり》のズボンは傷《いた》んですりきれ、片ひざには穴があいている。ぼろぼろの灰色の上衣には、より糸で縫われたみどり色のラシャのつぎあてが、一方の肘《ひじ》にあたっている。背中にはいっぱい物のつまった、かたく締金《しめがね》でとめた、まだ新らしい兵隊の背嚢《はいのう》をおい、手にはふしくれだった大きな杖をもち、足には靴下もはかずに鉄鋲《てつびょう》をうった短靴をはいていた。頭は短く刈りこみ、ひげを長くはやしていた。
汗、暑さ、徒歩の旅、ほこり、それらのものがその荒れすさんだ全体の姿に、さらになにかしら汚《きた》ならしい感じを加えていた。
髪は短くて、逆《さか》だっていた。だが、もう大分ながいあいだ刈らなかったらしく、少しのびはじめていた。
誰も彼を知ってる者はいなかった。明らかに通りすがりの男にすぎなかった。どこからきたのだろうか。南方から、たぶん海辺からきたのだろう。というのは、彼がディーニュにはいってきたのは、七カ月前にナポレオンが、カンヌからパリヘゆくときに通ったのと同じ道からだったから。この男は一日じゅう歩きづめだったにちがいない。ひどく疲れているようにみえた。下手《しもて》の旧市場のあたりの女たちがみたところによると、彼はガッサンディ大通りの並木の下に立ちどまって、そのはずれにある泉の水を飲んだ。ひどくのどが渇《かわ》いていたにちがいない。彼のあとをつけていった子供たちは、彼がそれからまた二百歩ばかりいって、また市場の泉のところに立ちどまって水をのむのを見た。
彼はポワンシュヴェール街の角《かど》まできて左に曲り、市役所のほうへ足をはこんだ。彼は市役所にはいり、それから十五分ばかりして出てきた。門のそばの石のベンチに憲兵がひとり腰かけていた。旅の男は帽子をぬいで、ていねいにその憲兵に頭をさげた。だが憲兵は挨拶《あいさつ》もかえさずに、旅の男を注意深くながめ、なおしばらくうしろ姿を見送ってから市役所のなかにはいっていった。
当時ディーニュの町にはクロワ・ド・コルバという看板の、立派な宿屋があった。そこの主人はジャカン・ラバールといって、グルノーブルでおなじようにトロワ・ドーファンという宿屋の看板をだしている、もうひとりのラバールという者の親戚だというので、町ではかなり尊敬されていた。皇帝上陸のときには、このトロワ・ドーファンの宿屋について、いろいろの風説がその地方につたえられたものである。が事実はこうである。グルノーブルにはいってきたとき、皇帝は知事の邸宅にゆくのをことわり、わたくしは知りあいの男の家にゆくのだからといって、トロワ・ドーファンの宿屋にいったということなのである。そのトロワ・ドーファンのラバールの光栄が、二十五里へだたったクロワ・ド・コルバのラバールの上にまで反映していた。町では彼のことを、グルノーブルの男の従弟だといっていた。
旅の男はその地方で一番上等なその宿屋のほうへ歩みをむけた。そしてすぐ街路にむかってひらいてる料理場にはいった。|かまど《ヽヽヽ》はみんな火が燃えており、炉《ろ》には威勢《いせい》よく焔《ほのお》がたっていた。主人は同時に料理人頭で、|かまど《ヽヽヽ》や|なべ《ヽヽ》を見てまわり、馭者《ぎょしゃ》たちのためにこしらえるうまい食事の監督をし、ひどくいそがしかった。馭者たちがとなりの部屋で、声高に笑ったりしゃべったりしてるのが聞えた。旅をしたことのある人は誰でも知ってるとおり、およそ馭者ほど贅沢《ぜいたく》な食事をするものはいない。ふとった兎《うさぎ》が、白|鷓鴣《しゃこ》や雷鳥とならんで長い鉄串《てつぐし》にささって火の前にまわっており、かまどの上には、ローゼ湖の大きな二匹の鯉《こい》とアロス湖の一匹の鱒《ます》とが焼かれていた。
主人は戸があいて、新らしく誰か入ってきた音をきいて、かまどから眼をはなさずにいった。
「なんのご用ですか、お客さん?」
「食事と泊《とま》りです」と男はいった。
「なに、おやすいご用です」と主人はいった。そのとき彼はふりむいて旅人の様子をじろりとながめたが、つけ加えていった。「金を払ってくだされば……」
男はポケットから革の大きな財布をとりだして答えた。
「金は持っています」
「では承知しました」と主人はいった。
男は財布をポケットにしまい、背嚢《はいのう》をおろしてそれを戸のそばに置き、手に杖を持ったままで火のかたわらの低い腰掛けのところにいって腰をおろした。ディーニュは山間の町で、十月になれば夜はもう寒かった。
その間主人は、あちらこちらといったりきたりしながら、旅人から眼をはなさなかった。
「すぐに食事はできますか?」と男はいった。
「ただいますぐに」と主人はいった。
その新来の客がこちらに背をむけて火にあたっているうちに、亭主のジャカン・ラバールはポケットから鉛筆をとりだし、窓のそばの小さなテーブルの上にちらばっていた古新聞紙のすみをひきさき、欄外の空白に一、二行ばかり文句をかき、べつに封もせず、料理場の手伝いをしてるらしい子供にわたした。亭主が耳もとにひとことささやくと、子供は市役所をさしてかけていった。
旅人はそれらのことにはちっとも気がつかなかった。彼はもういちどたずねた。
「食事はすぐですか?」
「ただいますぐに」と亭主はいった。
子供はもどってきた。なにかの紙きれを手に持っていた。主人は返事をまってたかのように、いそいでその紙きれをうけとってひらいた。彼は注意深く読んでるらしかったが、やがて頭をふってしばらくじっと考えこんだ。それから彼は一歩旅人のそばによった。旅人はなにか暗い思いに沈んでいるようだった。
「あなたは」と主人はいった。「お泊《と》めするわけにはいきません」
男はなかば席から立ちあがった。
「どうして! 私が金を払わないとでも思ってるのですか。前金で払ってほしいんですか? 金は持ってるといってるじゃありませんか」
「そんなことではありません」
「じゃいったいなんです」
「あなたは金は持ってる……」
「そうです」と男はいった。
「だがわたしのところには」と主人がいった。「部屋がないのです」
「うまやでもいい」と男はいった。
「だめです」
「なぜ?」
「みんな馬でいっぱいです」
「それでは」と男はまたいった。「物置のすみっこでもいい。わらがひと束《たば》あればいい。だが、まあ、そんなことは食事をたべてからのことにしよう」
「食事もあげることはできません」
その断乎《だんこ》たる調子に男は思わず立ちあがった。
「ええっ! 食事も! 私は腹がぺこぺこなんだ。私は夜があけてからずっと、歩きどおしなんだ。十二里も歩いてきたんだ。金は払う。なにか食わせてくれ」
「なにもありません」と主人はいった。
男は笑いだして炉《ろ》やかまどのほうをふりむいた。
「なにもないって! じゃ、あれは?」
「あれはもう約束ずみのものです」
「だれに?」
「馭者の方たちに」
「何人いるんだい?」
「十二人」
「二十人分くらいはあるじゃないか」
「すっかり約束ずみで、みんな前金がいただいてある」
男はふたたび腰をおろした。そしてべつに声を高めるでもなくいった。
「私は宿屋にいるのだ。腹がすいてる。ここをうごくわけにはゆかない」
そこで主人は彼の耳もとに身をかがめて、彼をぎょっとさせたほどの調子でいった。
「出てゆきなさい」
そのとき、旅人は前かがみになって、杖のさきの金具の所で火のなかに小枝のもえ残りをおしやっていたが、驚いてふりかえった。そしてなにか返答しようとして口をひらきかけたとき、主人はじっと彼を見つめて、やはり低い声でいいたした。
「さあ、もう文句をいうことはない。きみの名をいってあげようか。きみはジャン・ヴァルジャンというのだ。それからきみがどんな人だかいってあげようか。きみがはいってくるのを見て、わたしは感づいたんだ。私はすぐ市役所に人をやった。そしてここに役所からの返事がある。お前は字がよめるだろう?」
そういいながら彼はその見しらぬ男へ、宿屋と市役所の間を往復した紙きれをひろげてつき出した。男はその上にちらっと眼をとおした。亭主はちょっとだまったあと、またいった。
「わたしはどなたにもていねいにすることにしてる。さあ、出てゆきなさい」
男はうなだれ、下に置いた背嚢《はいのう》をまたとりあげ、そして出ていった。
彼は大通りのほうへすすんでいった。はずかしめられ、悲しみに沈んでいる者のように、彼は人家のすぐわきにそって、ただあてもなくまっすぐに歩いていった。いちどもふりかえらなかった。もしふりかえったならば、クロワ・ド・コルバの亭主が入口に立って、宿のお客や通りすがりの人たちにとりまかれ、声高に話しながら彼のほうを指さしているのが見えただろう。そしてそこに集まってきた人たちの眼つきのなかにみられる軽蔑《けいべつ》や恐怖の色によって、彼がやってきたことが、やがて町じゅうの一事件となるだろうことを見てとっただろう。
だが彼は、それらのことは、なにも見なかった。ちょうど悲しみに沈んでるひとがするように、疲れを忘れてただ知らない通りをむやみに歩きつづけていた。と彼は急にはげしく空腹を感じた。夜はせまっていた。彼はどこか泊まるところはないかとあたりを見まわした。
立派な宿屋は、彼に対して今やとざされてしまった。彼はそまつな居酒屋や、みすぼらしい木賃宿《きちんやど》をさがした。
ちょうど通りのはずれに、明りがともっていた。鉄の支柱につるされた一本の松の枝が、たそがれのほの白い空にうきだしていた。彼はそこへいってみた。
はたしてそれは一軒の居酒屋だった。
旅人はちょっと立ちどまって、窓からそのなかをのぞいてみた。天井の低い部屋のなかは、テーブルの上に置かれた小さなランプと炉《ろ》に燃えてるまっ赤な火でてらしだされていた。四、五人の客が酒を飲んでいて、主人は火にあたっていた。自在鈎《じざいかぎ》につるされた鉄のなべが火の上で煮《に》たっていた。
その居酒屋は、同時に宿屋のようなものを兼ねていて、入口が二つあった。ひとつは通りに面し、ひとつはわらくずのいっぱいちらかってる小さな中庭にむいていた。
旅人は通りに面した入口からはいるのをはばかった。彼は中庭にはいり、なおちょっと足をとめ、それからおずおずと把手《とって》をまわして扉を押した。
「どなたかな、そこにいるのは?」と主人がいった。
「晩めしと、ひと晩とめていただきたいんです」
「よろしい。晩めしと、とまりならここでできますよ」
彼は、はいってきた。酒を飲んでた客たちがみんなふりかえった。ランプが彼の片方をてらし、炉《ろ》の火が一方をてらした。彼が背嚢をおろしてるあいだ、みんなはしげしげと彼をながめまわしていた。主人はいった。
「火はおこってるし、晩めしはなべに煮えてる。まあこっちへきて火にあたりなさるがいい」
彼は炉のそばにいって腰をかけた。疲れきった両足を火の前にのばした。うまそうな匂《にお》いがなべからにおっていた。まぶかにかぶった帽子の下からみえる彼の顔には、ほっとした様子といつも苦しみにあっている人間のけわしい色とがいっしょになって浮かんでいた。
それはまた、頑丈な、精桿《せいかん》な、そして陰気な顔つきだった。その顔だちには妙に複雑なところがあって、一面つつましそうにみえる反面、なんだか凄《すご》く気味のわるいものを感じさせるものがあった。
ところが、その時テーブルにいた客たちのなかにひとりの魚屋がいた。彼はこのシャフォー街の居酒屋にくる前に、自分の馬をラバールの宿屋のうまやにあずけにいってたのである。おまけにまた、彼は偶然その日の朝、そのあやしい男がブラ・ダースの街道を歩いてるのに出会ったのである。男はもうだいぶ疲れてたらしく、彼に会うと、馬のしりにでもいいから、のせてくれないかとたのんだ。魚屋にそれに答えもしないで、足をはやめた。その魚屋は三十分ばかり前には、ジャカン・ラバールをとりまいていた人だかりのなかにいた。そして彼自身、クロワ・ド・コルバのお客たちに、その朝の気味悪い出合《であい》について話をしてきかせたのだった。で、彼は自分の席からこっそり居酒屋の亭主に会図《あいず》した。亭主は彼のところへやってきた。二人は低い声でなにか話しあった。見知らぬ男はまたなにか考えこんでいた。
亭主は炉《ろ》のところにもどってくると、突然男の肩に手を置いていった。
「お前さんはここから出ていってもらおう」
男はふりかえって、おだやかな調子でいった。
「ああ、あなたも知ってるんですね」
「そうだ」
「私はもうひとつの宿屋からも追い出された」
「だから、この宿屋からだって出ていってもらうのだ」
「ではどこへゆけというんです」
「勝手なところへいくがいい」
男は杖と背嚢とをとって、出ていった。
彼が出てきたとき、クロワ・ド・コルバからあとをつけてきて、そこで彼の出てくるのを待ってたらしい数人の子供たちが、彼に石を投げた。彼はおこってひきかえし、杖で子供たちをおどかした。子供たちは鳥が飛びたつように一散に逃げ散った。
男は監獄の前を通りかかった。門のところに、呼びりんの鐘《かね》についてる鉄の鎖《くさり》がさがってた。彼はその鐘を鳴らした。
くぐり戸がひらいた。
「門番さん」と彼はていねいに帽子をぬいだ。「私をなかに入れて今晩だけ泊《と》めてくださるわけにはいきませんか」
なかからそれに答える声がきこえてきた。
「監獄は宿屋じゃない。悪いことをして、つかまるがいい。そしたら入れてやる」
くぐり戸はまたとざされた。
彼は庭の沢山あるせまい通りにはいっていった。生垣《いけがき》でかこまれた庭つづきのなかに、彼は一軒の小さな二階家を眼にとめた。下の窓には明りがさしていた。彼は居酒屋でしたように、垣根ごしに窓からなかをのぞいてみた。石灰《せっかい》で白くぬった大きな部屋の中には、プリント模様の更紗《さらさ》の布がかかってる寝台がひとつと、片すみに揺《ゆ》り|かご《ヽヽ》がひとつ、数脚の木製の椅子《いす》と、壁に二連発銃が一|丁《ちょう》かかっていた。部屋のまん中の食卓には食事がだされていた。銅のランプがそまつな白いテーブル・クロスをてらし、錫《すず》の水差しは銀のようにかがやいてなかに酒がいっぱいはいっており、褐色のスープ鉢からは湯気がたっていた。食卓には陽気でくったくのなさそうな顔つきの四十|恰好《かっこう》の男がすわってて、ひざの上では小さな子供がたわむれていた。そのそばには若い女が、もう一人の子供に乳をふくませている。父親も子供もにこにこ笑ってて、母親もやさしくほほえんでいた。
男はこのやさしい、なごやかな光景の前に、しばらくうっとりと立っていた。彼の心のうちにどんな考えが浮かんだか? それをいえるのは、ただ彼だけだったが、たぶん彼はその楽しそうな家は自分をもてなしてくれるかもしれないと思ったのだろう、こんなに幸福にみちた家からは、おそらく多少のめぐみはえられるかもしれないと。
彼はごく軽く窓ガラスをたたいた。
なかの人にはそれが聞えなかった。
彼はふたたびたたいた。彼は女がこういうのをきいた。
「あなた、誰かきたようですよ」
「そんなことはないよ」と夫は答えた。
彼は三度目をたたいた。
夫は立ちあがってランプをとりあげ、そして戸口のほうへいってドアをあけた。
それは背の高い、なかば農夫らしい、なかば職人ふうの男だった。左の肩まである大きな前掛をかけ、その上に帯をしめ、ポケットみたいなところに、槌《つち》や赤いハンケチや火薬入れやそのほかいろんなものを入れていた。頭をずっとうしろにそらし、広くはだけて襟《えり》を折ったシャツは白い大きな裸ののどをむきだしにしていた。濃い眉毛《まゆげ》、黒い大きなほおひげ、ぎょろりとした眼、下半面がつきだした顔、そしてそれらの上に言葉ではいいあらわせない、妙に落ちつきはらった不気味な感じがただよっていた。
「ごめんください」と旅人はいった。「金を出しますから、どうかいっぱいのスープをいただけないでしょうか。それからあの庭のなかの小屋のすみに今晩ねかしてもらえませんか。いかがでしょう、金はさしあげますが?」
「お前さんはどういう人だね?」と主人はたずねた。すると男は答えた。
「私はピュイ・モワソンからきた者です。一日じゅう歩き通しに歩いてきたのです。十二里も歩いてきたのです。いかがでしょう? 金は出しますから?」
「わしは」と農夫はいった。「お金をだし、たしかな人なら泊《と》めないわけではないが。だがお前さんはなぜ宿屋にいかないのかね」
「宿屋には部屋がないんです」
「なに、そんなことがあるものか。今日は市《いち》の立つ日でもなし。お前さんラバールの家にいってみたかね」
「いきました」
「で?」
旅人は当惑《とうわく》したように答えた。
「なぜだか知りませんが、泊めてくれないんです」
「それじゃシャフォー街のあの男のとこへいってみたかね?」
男はますます困ったような様子をしてきた。彼は小さな声でつぶやくようにいった。
「そこでも泊めてもらえないんです」
農夫の顔には疑惑の|いろ《ヽヽ》が浮かんだ。彼ははじめて、その男を、頭から足の先までじっとながめた。と突然、身をふるわせながら叫んだ。
「お前さんは例の男ではあるまいね……」
彼は男をじろりとながめて、うしろに二、三歩さがり、テーブルの上にランプを置き、そして壁から銃をとりはずした。
そのあいだに、「お前さんは例の男ではあるまいね」という農夫の声をきいて、女も立ちあがり、両腕に二人の子供をだいて、いそいで夫のうしろにかくれ、胸もあらわにびっくりした眼つきでその見知らぬ男をおそるおそるながめながら、低い声で「|どろぼう《ヽヽヽヽ》」とさけんだ。
だが、そうしたことは、想像もつかないほどわずかなあいだにおこなわれたのだった。主人はまるでまむしでも見るように|例の男《ヽヽヽ》をしばらくじろじろながめていたが、やがて戸のそばまで来ていった。
「出てゆけ」
「すみませんが……」と男はいった。「水をいっぱい」
「ぶっぱなすぞ!」と農夫はいった。
それからあらあらしく戸をしめてしまった。大きな二つの閂《かんぬき》のさされる音が聞えてきた。一瞬ののちに雨戸もとざされ、鉄の横木のさされる音が外まで聞えた。
夜は次第に、あたりにおおいかぶさってきた。アルプスおろしの寒い風が吹いていた。暮れ残りの昼のあかるみで、その見なれぬ男は通りにつづいた庭のなかに芝土をもりあげてつくったらしい小屋のようなものを見つけた。彼は思いきって木柵《きさく》をこえて庭のなかにはいった。小屋に近よってみると、入口にひどくせまい戸がついてて、道路工夫が路ばたにたてる掘立《ほったて》小屋に似ていた。彼は本当にそれが道路工夫の小屋だと思った。彼は寒さと飢えに苦しんでいた。彼は腹ばいになって、その小屋のなかにはいりこんだ。なかはあたたかで、かなりよいわらの寝床ができていた。彼はしばらくその寝床の上に横になっていた。すっかり疲れきって、身を動かすことすらできなかった。背中の背嚢がじゃまになるので、やがて彼はその負革《おいかわ》のとめ金をはずしはじめた。そのとき、恐ろしいうなり声がきこえてきた。彼は眼をあげてみた。大きな番犬の顔が、小屋の入口の闇のなかに浮きだして見えた。
それは犬小屋だったのである。
彼も力のある恐ろしい男だった。杖をかまえ、背嚢を楯《たて》にし、うまく犬小屋からでることができた。だが、おかげで服の破れがいっそう大きくなった。
彼はまたその庭から外へ出た。しかし犬を近よらせないためにあとずさりしながら、杖をふりまわさなければならなかった。
やっと木柵をこえて通りに出たが、彼はもはやただひとりで、宿《やど》るべき場所もなく、身をおおう屋根も身をよせる所もなく、わらの寝床とあわれな小屋からさえも追い出されたのだった。彼は、とある石の上にとうとう腰をおろすというより倒れてしまった。そして、その時、そのそばを通った人があったら彼の叫ぶ声をきいただろう。「おれは犬にもおよばないのか!」
やがて彼は、また立ちあがって歩きだした。そして町から出ていった。野原のなかで、なにか樹木か、つみあげられたわらでも見つけて、そこに身をよせようと思ったのである。
彼はしばらくうなだれて歩いていった。人家のある所から、すっかり遠くはなれてしまったように思えた頃、眼をあげてあたりを見まわしてみた。野原のなかにやって来ていた。前方にはみじかく刈られた切株におおわれた丘があって、まるで坊主《ぼうず》刈りの頭みたいだった。
地平線はまっ暗だった。それはただ夜の闇《やみ》のせいばかりではなかった。低くたれこめた雲が丘の上にたちこめているらしく、それは次第にたかくのぼってきて、空をもおおわんとしていた。だが、月がまさに出ようとする頃、なお中天には暮れ残った明るみがただよっていて、雲はたかい空に一種のほの白い円屋根をつくり、そこから明るみが地上におちてきていた。
そのため地上は空よりも明るく、妙に気味の悪い光景だった。野原にも丘の上にもなにもなく、ただ二、三歩はなれたところにまがりくねった不恰好《ぶかっこう》な木が一本立っているだけだった。
この旅の男は、事物の神秘な光景をひしひしと身に感ずるほどの知力や精神の微妙な習慣は、少しももっていなかった。しかし、眼の前に見えるその空、その丘、その平野、その樹木、それらのうちになにかしら深いわびしさがこもっていたので、彼はちょっと立ちどまって物思いに沈んでいた。それから突然くるりとうしろをむくと、そこからいそいでたち去った。人間には、ときどき自然さえも敵意をもってるように思える瞬間があるものである。
彼はまたもどってきた。ディーニュの市門はもうとざされていた。ディーニュ市は、宗教戦争のとき、ながく包囲に耐えたところで、あとでこわされたが一八一五年にはなおその周囲に、方形の塔のついた古い城壁があった。彼はその城壁の割れ目をぬけてまた町にはいった。
もうたぶん、八時くらいにはなっていただろう。彼は町の様子を知らなかったので、ふたたび前のようにむやみやたらに町のなかを歩きだした。
こうして彼は知らないうちに県庁のところにで、それから神学校のところまでやってきた。大聖堂の広場を通るときには、彼は教会にむかって|こぶし《ヽヽヽ》をふりあげた。
その広場の角《かど》に印刷屋があった。ナポレオン自身によって口授《こうじゅ》されたエルバ島からもたらされた皇帝の宣言と、親衛隊に対する布告がはじめて印刷されたのは、この印刷屋においてだったのである。
まったく疲れはてて、もはやなんの望みもなく、彼はただ、その印刷所の門口にあった石の腰掛けの上に、身を横たえるよりほかはなかった。
そのとき、ひとりの年をとった婦人が教会から出てきた。彼女は暗闇《くらやみ》のなかに横になって寝ているその男に目をとめた。
「あなたはそこでなにをしてらっしゃるのですか?」と彼女は聞いた。
彼はあらあらしく、腹だたしげに答えた。
「親切なおかみさん、ごらんのとおり私は寝てるんですよ」
ところが偶然にも、その夫人は実際また親切なおかみさんとよばれるにふさわしく、R侯爵夫人だったのである。
「まあ、その腰掛の上で?」と彼女はいった。
「私は十九年のあいだ、木の寝床に寝起《ねお》きしたのです」と男はいった。「今日は石の寝床で寝るだけのことです」
「あなたは兵隊さんだったのですか?」
「そうですよ、兵隊だったんです」
「なぜ宿屋へおいでにならないのです?」
「金がありませんから」
「困りましたね」とR夫人はいった。「わたしはいま四スーしかもち合わせがありませんが」
「いいからそれをください」
男は四スーを受けとった。R夫人はつづけていった。
「それぽっちでは宿屋に泊《と》まれませんでしょう。ですが、あなたは宿屋をたずねてみましたか。そんなふうにして、一晩あかすなんて、とてもできるもんじゃありませんよ。きっと寒くて、おなかもおすきなんでしょう。おなさけに泊めてくれる人もありましょうに」
「|ほうぼう《ヽヽヽヽ》でたのんでみたんですがね」
「それで?」
「どこからも追い出されたんでさあ」
その親切なおかみさんは男の腕をとり、広場のむこうにある司教邸とならんだ小さな低い家を指さした。
「あなたは」と彼女はいった。「どの家もみんなたずねてみたんですか?」
「ええ」
「あの家をたずねてみましたか?」
「いや」
「たずねてごらんなさい」
二
その晩ディーニュの司教は町に散歩に出たあと、かなりおそくまで自分の部屋にとじこもっていた。彼は『義務』についての大著述にとりかかっていた。この著述は不幸にして未完成のままになっていた。司教は神父や教会博士たちが、その重大な問題について述べたことを、ひとつひとつ注意深くしらべていた。彼の著作は二部にわかれ、第一はすべての人の義務、第二は自分の属している階級に応じての各人の義務。すべての人の義務は大きな義務で、それは四つある。聖マタイがそれをあげている、神に対する義務(マタイ伝第六章)、自己に対する義務(同第五章二十九、三十節)、隣人に対する義務(同七章十二節)、万物に対する義務(同第六章二十、二十五節)。その他のいろいろの義務については、司教はほかのところでしめされ、述べられていることをすでに知っていた。君主および臣下の義務は『ローマ人への書』に、役人や妻や母や若者たちの義務は『ペテロの書』に、夫や父や子供や召使のそれは『エペソ人への書』に、信者のそれは『ヘブル人への書』に、処女のそれは『コリント人への書』に。司教はすべてそれらの教えから、よく調和したひとつの全体をつくろうとつとめ、そしてそれを人々に示そうと思っていた。
彼は八時にはまだ仕事をしていて、ひざの上に大きな本をひろげ、小さな四角い紙片に骨折って書きこみをしていた。そのとき、マグロワールがいつものとおり、寝台のそばの戸棚に銀の食器をとりにはいってきた。やがて司教は、食卓の用意もできて、たぶん妹が自分を待っているだろうと思って、書物をとじ、机から立ちあがって食堂にはいってきた。
食堂は煖炉のついてる長方形の部屋で、戸口は通りに面し、窓は庭のほうにむいていた。
マグロワールは、はたして食卓をととのえおわっていた。
彼女は用事をしながらバティスティーヌ嬢と話をしていた。
ランプがテーブルの上に置かれていた。テーブルは煖炉の近くにあり、煖炉にはかなり勢いよく火が燃えていた。
マグロワールは、司教がはいってきたとき、大げさな調子でしきりに話しこんでいた。いつも老嬢によく話すことで、司教にもなじみのことがらだった。つまり入口の戸締りのことだった。
夕食のためになにか買物に出たとき、マグロワールは、あちこちで話されていることをきいてきたらしい。顔つきの悪い浮浪人《ふろうにん》の噂《うわさ》がとりざたされていた。あやしい流れ者が町にはいりこんできたのだった。そいつはきっと、町のどこかにひそんでるにちがいない。今晩おそく家に帰る人でもあれば、その男に出会ってひどいめにあうかもしれない。その上、県知事と市長とが反目《はんもく》しあっててなにか事件をおこして、たがいに相手をおとしいれようとしている際だけに、警察の手もゆきとどいていない。だから賢明な人は、自分で警察のかわりに警戒しなければならない。戸締りはかたくして、閂《かんぬき》をさし横木をいれておくべきである。戸は|しっかり《ヽヽヽヽ》しめておかねばならない。
マグロワールはこの最後の一句を力をこめていった。しかし司教は、かなり冷えこんでいるように感じられた自分の部屋からやってきて、煖炉の前にすわってあたたまり、それからほかのことを考えてて、マグロワールが口にした言葉はべつに心にかけなかった。マグロワールはそれをふたたびくりかえしていった。そのときバティスティーヌ嬢は、兄の気にさわらないように、それでいてマグロワールにも満足がゆくようにと思って、おずおずしながら、いってみた。
「お兄さま、マグロワールのいってることを聞かれましたか?」
「なにかぼんやり聞いたようだが」と司教は答えた。それからなかば椅子をまわし、両手をひざの上に置いて、心のこもった、そしてすぐに楽しそうになるその顔を年とった召使のほうにあげた。煖炉の火が下からその顔をてらしていた。
「ええ、なんだね? どうかしたのかね? なにか恐ろしいことでもあるというのかね」
するとマグロワールは、またその話をやりなおし、自分でも気がつかなかったがいくらか大げさに話した。ひとりの流れ者が、ひとりの人でなしが、ある危険な乞食が、いまちょうど町に来ているらしい。その男はジャカン・ラバールの宿屋にいって泊めてもらおうとしたが、宿屋では受けつけなかった。その男がガッサンディ大通りから町にはいってきて、うす暗い通りをうろついているところを、みかけた人がある。背嚢と縄《なわ》をもってる恐ろしい顔つきの男である。
「ほんとうかね?」と司教はいった。
司教にそのように問いかけられてマグロワールは力をえた。彼女は司教がいくらか心配しているのだと思った。彼女はここぞとばかりにまくしたてた。
「ほんとうですとも、そのとおりでございますよ。今晩、町に、なにかきっと不幸なことがおこります。みんなそういっております。その上、警察があんなに手うすですもの。山国なのに町には街灯さえないのですから! 夜、外にでも出ようものなら、そこらじゅうまっ暗なのでございますからね。それでわたしは申すのですよ。それにお嬢さままでわたしとおなじようにおっしゃるのですよ……」
「わたしは」と妹はそれをさえぎった。「わたしはなにもいいはしないよ。お兄さまのなさることは、みんないいことなのですからね」
マグロワールはその異議《いぎ》も耳にはいらないようにつづけていった。
「わたしどもは、この家がひどく無用心だと申すのです。もしお許しいただければ、錠前屋のポーラン・ミュズボワのところへいって、前についてた閂《かんぬき》をもういちど戸につけにくるように申しましょう。閂はあの家にありますから、すぐにできます。せめて今晩だけでも閂をつけなければいけませんわ。誰でも通りがかりの人が把手《とって》で外からあけられるような戸は、なによりいちばん恐ろしいものではございませんか。それに旦那さまはいつでもおはいりなさいといわれます、その上、夜中にだって、おはいりという許しがなくてもはいれるのですもの……」
そのとき、誰かがかなり強く戸をたたいた。
「おはいり」と司教はいった。
戸がひらいた。
それは急に大きくひらいて、まるで誰かが力をいれて決然と押しひらいたみたいだった。
ひとりの男がはいってきた。
この男をわれわれはすでに知っている。泊《とま》り場所をさがしながら、さっきうろついていた旅人である。
彼ははいってきて、一歩すすみ、そしてうしろに扉を引いたまま立ちどまった。肩に背嚢を負《お》い、手に杖をもち、眼にはあらあらしい、大胆な、疲れていきりたったような色をうかべていた。煖炉の火が彼をてらしていた。嫌悪《けんお》の情をおこさせるような姿で、まるで気味の悪いばけもののようだった。
マグロワールは声をたてる力さえなかった。彼女は身ぶるいしてぼうぜんとたちつくした。
バティスティーヌ嬢は、ふりむいてはいってきた男をみた。そしておどろいて腰をうかしたが、それからしずかに煖炉のほうへ頭をめぐらして兄をながめた。彼女の顔は深いしずけさとおだやかさをとりもどした。
司教は落ちついた眼つきで、その男を見つめていた。
彼がその新来の男になにかたずねるためだったろう、彼が口をひらきかけたとき、男は両手を杖の上に置いて、老人と二人の婦人とをかわるがわる見くらべ、そして司教が口をきくのをまたずに高い声でいった。
「おききください。私はジャン・ヴァルジャンという者です。私は懲役人《ちょうえきにん》です。私は徒刑場《とけいじょう》で十九年間くらしました。四日前に放免されて、ポンタルリエヘゆくために旅にでたのです。ツーロンから四日間歩きました。今日は十二里歩きました。夕方この町に着いて宿屋にいったのですが、追い出されました。市役所に黄色い通行券をみせたためです。見せなければならなかったのです。もう一軒の宿屋にもいってみました。が、出てゆけっていうんです。どちらもそうです。誰も私を入れてくれません。監獄にゆけば門番があけてくれません。犬小屋にもはいりました。が、犬も人間のように、私にかみついて追い出してしまったのです。私がどういう者か、犬も知っていたのでしょう。私は野原にいって、星のしたに野宿しようと思いました。ところが星もでていません。雨が降りそうでした。雨の降るのをとめてくれる神様もないのかと私は思いました。そして、どこかの戸のかげにでも寝る場所を見つけようと思って、また町にはいってきました。むこうの広場のところで石の上に寝ようとしていますと、ある親切なおかみさんがあなたのうちをさして、あそこをたずねてごらんなさいといってくれました。それでたずねてきたのです。ここはいったいなんというところですか。あなたの家は宿屋ですか。私は金を持っています。自分の積立て金です。徒刑場で十九年間働いてえた百九フラン十五スーです。金はきっと払います、金は持ってるんですから。私はひどく疲れています。十二里歩いたのです。ひどく腹がへっています。泊《と》めていただけましょうか?」
「マグロワールや」と司教はいった。「もうひとり分だけ食器の用意をなさい」
男は三歩すすんで、食卓の上にあったランプに近よった。そしてよく腑《ふ》に落ちないような顔でいった。
「いや、そんなことではないんです。わかったのですか。私は懲役人ですよ、囚人ですよ。監獄から出てきた者ですよ」彼はポケットから大きな黄色い紙片をとりだしてひろげた。「これが私の通行券です。ごらんのとおり黄色です。このために私はどこへいっても追い出されるんです。よみませんか、私にもよめますよ。徒刑場でならったのです。志望者のために学校ができてるんです。いいですか、通行券にこう書いてあります『ジャン・ヴァルジャン、放免囚徒、生地……これはどうでもいいことだ――徒刑場に十九カ年間いたる者なり。家宅破壊、窃盗《せっとう》のため五カ年。四回脱獄をくわだてたため十四カ年。いたって危険な人物なり』このとおりです! 誰でも私を追っぱらうんです。それをあなたは泊めようというんですか。ここは宿屋ですか。食べものと寝床とを、私にあたえてくれるというのですか。あなたのところにはうまやでもあるんですか?」
「マグロワールや」と司教はいった。「寝間の寝台に白いシーツをしきなさい」
二人の婦人がどんなふうに司教に服従していたかは、すでに説明したところである。
マグロワールはその命令どおりにするために部屋を出ていった。
司教は男のほうをむいた。
「さああなた、おすわりなさい、そして火にあたりなさるがいい。すぐに食事にします。食事をしているあいだには寝床の用意もできるでしょう」
その言葉で男はすっかり納得《なっとく》したようだった。そのときまで陰うつでけわしかった彼の顔の表情に、おどろきと疑惑と喜びの色がうかんで、異様な様子になった。彼は気ちがいのようにつぶやきはじめた。
「ほんとうですか。なに、私を泊めてくださる? 私を追い出さない! 囚人を! 私のことを|あなた《ヽヽヽ》とおよびなさる。お前とおっしゃらない! 私は、畜生、出てゆけ! ともいわれた。あなたも私を追い出されることと思っていました。それで私はすぐに素性《すじょう》をいったのです。おお、ここを私に教えてくれたあのおかみさんは、なんといい人だろう! 食事をする! 寝床! ふとんとシーツのある寝床! 世間の人と同じように! もう十九年のあいだ、私は寝床に寝たことがないんだ! あなたはほんとうに私を追い出さないんですね! あなたは立派な方だ! もちろん私は金を持っています。お払いします。ごめんください、ご主人、お名前はなんとおっしゃるんですか? おのぞみだけの金は払います。あなたはいいお方だ。あなたは宿屋のご主人でしょう、そうじゃないんですか?」
「わたくしは」と司教はいった。「ここにすんでいる司祭です」
「司祭!」と男はいった。「おお、立派な司祭さん! じゃあなたは私に金をもとめないのですね。司祭、そうではないんですか、あの大きな教会の司祭では? おや、そうだ、私は馬鹿だった! 私はあなたの円い帽子に気がつかなかった!」
しゃべりながら彼は片すみに背嚢と杖とを置いて、それから通行券をポケットにしまい、そして腰をおろした。バティスティーヌ嬢はおだやかな眼つきで彼をながめていた。彼はつづけていった。
「司祭さん、あなたはほんとに情け深い方だ。あなたは軽蔑ということをなさらない。いい司祭さんというものは実にありがたいものだ。あなたは私に金を払わせはしませんね」
「いいです」と司祭はいった。「金はとっておきなさい。いくら持っています? 百九フランとかいいましたな」
「それと十五スー」と男はつけ加えた。
「百九フラン十五スー。それだけたまるのにどれだけかかりました?」
「十九年」
「十九年!」
司教は深くため息をついた。
男はあとをつづけた。
「私はまだその金をすっかり持っています。四日間のあいだに、グラースで車の荷おろしの手伝いをしてもらった二十五スーしか使わなかったのです。あなたが司祭さんだからいいますが、徒刑場にも、ひとりの監獄づきの司祭がいました。それから、ある日私は司教も見ました。みんなが閣下といっていました。マルセイユのマジョールの司教でした。沢山の司祭の上にたつえらい司祭なんです。どうも私にはうまくいえません。その方面のことはまるで縁《えん》が遠いんです――あなたがたにはわかりきったことでしょうが――その司教が徒刑場のまん中で、祭壇の上でミサをとなえました。頭の上に金でできた、先のとがったものをかぶっておられました。まっ昼間の太陽にそれが光っていました。私どもはならんでいました、三方に。私どもの前には、大砲と火のついた火縄《ひなわ》とが置かれていました。よく見えませんでした。なにか話をされましたが、あまりむこうのほうだったので私どものところまでは聞えませんでした。司教というものはそうしたものです」
彼が話しているあいだに、司教は立っていって、あけっぱなしになっている戸をしめた。
マグロワールがもどってきた。彼女はひとり分の食器をもってきて、それを食卓の上に置いた。
「マグロワールや」と司教はいった、「その食器をできるだけ煖炉の近くに置きなさい」そして客のほうにふりむいた。「アルプスの夜風は大変きびしいですからね、あなたはきっとお寒いでしょう」
司教がその|あなた《ヽヽヽ》という言葉を、やさしいおもみのある、いかにも上品な声でいうたびに、男の顔はかがやいた。辱《はずか》しめられたものは他人の尊敬に飢えている。
「このランプは、あまり明るくないな」と司教はいった。マグロワールはその意味を了解した。そして閣下の寝室の煖炉の上から二つの銀の燭台をとってきて、それにすっかり火をともして食卓の上においた。
「司祭さん」と男はいった。「あなたはよい方だ。あなたは私を軽蔑なさらない。私のために明るくもてなして下さる。私がどこからきたか、かくさなかったのに」
司教は彼のそばにかけ、しずかに彼の手にさわった。
「あなたはわたくしに誰であるかいわなくてもよかったのです。ここはわたくしのうちではなくて、イエス・キリストの家です。この家の戸ははいってくる人にむかってその名をたずねません、ただ心に悲しみのあるなしをたずねるだけです。あなたが苦しんでおられ、飢えと渇《かわ》きとを感じておられるなら、あなたは歓待《かんたい》されます。わたくしに礼をいってはいけません、わたくしがあなたを自分のうちに迎えいれたのだといってはいけません。誰も、安息所をもとめる人をのぞいては、誰もここは自分のうちではありません。ここはわたくしのうちというより、あなたのうちなんです。どうしてわたくしがあなたの名前を知る必要がありましょう。それに、あなたがいわれない前からわたくしはあなたの名前を知っています」
男はびっくりして眼を見ひらいた。
「ほんとですか、あなたが私の名前を?」
「そうです。あなたの名前はわたくしの兄弟というのです」
「司祭さん」と男は叫んだ。「ここにはいってくるとき、私はひどく腹がすいていました。けれど、あなたがあまり親切なので、いまではもうどうなのかわからなくなってしまいました。そんなことは通りすぎてしまったんです」
司教は彼を見まもっていった。
「あなたは大変苦しんだのですね」
「そりゃもう! 赤い着物、足の鉄丸、板の寝床、暑さ、寒さ、労働、囚人の群れ、打棒! なんでもないことに二重の鎖でしばられていました。ひとこといいまちがっただけでも監禁です。病人まで鎖がつけられてるんです。犬、そうです、犬のほうがまだしあわせです! それが十九年間! 私は四十六才です。そしてこんどは黄色い通行券! そういうわけです」
「なるほど」と司教がいった。「あなたは悲しみの場所から出てこられた。が、お聞きなさい。百人の正しい人々の白衣よりも、悔《く》いあらためた一人の罪人の涙にぬれた顔に対して、天にはより多くの喜びがあるでしょう。もしあなたがそのいたましい場所から、人間に対する憎しみと怒りとの思想をもって出てこられるなら、あなたは憐《あわ》れむべき人で、もしそこから好意と平和との思想をもってこられるならば、あなたはわれわれの誰よりもまさった人です」
そのあいだにマグロワールは夕食をととのえた。水と脂肪とパンと塩とでできたスープ、少しばかりの豚の脂《あぶら》肉、一片の羊肉、いちじく、新らしいチーズ、それに裸麦《はだかむぎ》の大きなパン。彼女はまた、司教のふだんの食べものにそえて、モーヴの古いぶどう酒の瓶をだした。
司教の顔には急に人をもてなす人に特有の快活な表情がうかんだ。
「どうか食卓に!」といって、いつも他人と食事をともにするときのように、彼は男を自分の右にすわらせた。バティスティーヌ嬢はまったくおだやかに、そして自然に、彼の左の席についた。
司教はいつものとおりお祈りをしてから、自分でスープをついだ。男は貪《むさぼ》るように食べはじめた。突然、司教がいった。
「なにかテーブルにたりないようだね」
マグロワールはそこに必要だった三人分の食器をそろえただけだった。しかし、司教が誰かと食事をともにする場合には、無邪気な見栄《みえ》ではあるが、テーブル・クロスの上に六組の銀の食器をすっかり置いておくのが家のならわしになっていた。そのやさしい贅沢《ぜいたく》の見栄は、貧しさをも、ひとつの品位たらしめているこの平和で厳格な家のなかにあっては、一種の子供らしい愛嬌《あいきょう》だった。
マグロワールは司教の注意した意味をさとり、なにもいわずに部屋を出てゆくと、まもなく余分の三組の食器をもってきて、テーブルの上に置いた。
三
さて、そのあとテーブルでどんなことが起ったかをつたえるには、のちにバティスティーヌ嬢がその夜のことを、ボワシュヴロン夫人にあてて書いた手紙の一節をかきうつすことにこしたことはない。その手紙のなかには、囚人と司祭との会話がありのままにのべられている。
[#ここから1字下げ]
……その男は、誰にも注意をむけませんでした。ただ飢えた者のように、むさぼり食べていました。けれど、スープのあとで彼はいいました。
「ありがたい神さまの司祭さん、こんな食べものは私には結構すぎます。ですが、申しあげたいのは、私を一緒に食べさせてくれなかったあの馭者たちは、あなたよりもっと贅沢《ぜいたく》をしています」
ここだけの話ですが、その言葉はいくらかわたしに不快な感じをあたえました。兄は答えました。
「彼らはわたくしよりずっと疲れています」
「いいえ」と男はいいました。「余計に金を持っているんです。あなたは貧乏だ、よく私にもわかっています。あなたはたぶん司祭でもないんでしょう。それとも司祭なんですか。ああ、神さまが公平だったら、あなたはたしかに司祭には、なってるはずですが」
「神さまはこの上もなく公平ですよ」
しばらくして兄はまた申しました。
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたがこれからゆかれるのはポンタルリエでしたな」
「旅程もちゃんときめられてるんです」
わたしはその男が答えたのは、たしかそのような言葉だったとおぼえています。
「あした、私は夜明けに出立《しゅったつ》しなければなりません。旅をするのはつらいものです。夜は寒いし、昼は暑いんです」
「あなたのゆかれる土地は、いいところですよ」とわたしの兄はいいました。「革命のとき、わたくしのうちは落ちぶれて、わたくしは最初フランシュ・コンテにのがれ、そこでしばらく働いて生活しました。わたくしは強い意志をもっていたのです。仕事は沢山あって、ただ勝手にえらべばよかった。製紙場、製革所、製油所、製鋼所、そのほか少なくとも二十余りの鉄工所があって……」
兄はそれから言葉をきって、わたしのほうへ話をむけました。
「ねえ、あの土地に親類はなかったかね」
「ええ、あります」とわたしは答えました。「革命前にポンタルリエの門衛長だったリュスネさんがいます」
「そうそう。しかし、一七九三年には、もう親類なんかないも同様だった。ただ自分の腕だけだった。わたくしは働いた。ヴァルジャンさん、あなたがおいでになるというボンタルリエには、ほんとに素朴《そぼく》な楽しい仕事がひとつあります。それはフリュティエールといわれてるチーズ製造所です」
そのとき、わたしの兄は男に食事をさせながら、ポンタルリエのチーズ製造所がどんなものであるか、くわしく説明してやりました。
それからひとつわたしの心を動かしたことがございます。その男は前に申したとおりの者ですが、兄は彼がはいってきたとき、キリストについて二、三のことを申しましたほかには、食事のあいだもまたその晩のあいだ、ずうっとその男に身分を思いおこさせたり、自分が誰であるかを知らせるようなことは、ひとこともいわなかったのです。ちょっと考えれば、多少の説教などをして囚人の上に司教の威厳を示し、通りがかりの印象をふかくしてやるいい機会だったように思えます。また、その不幸な男をうちに入れてやったことですから、その身体を養ってやるとともに心をも養ってやり、いくらかその罪を責めるとともに、訓戒《くんかい》や忠告をあたえ、また、彼の将来の善行をすすめながら少しの慈悲をほどこしてやりますのに、ちょうどいい場合のようにも思われるのです。が、兄は彼がどこの生れであるかを聞きもしなければ、その経歴をたずねもしませんでした。それも彼の経歴のうちに罪があったのでして、兄はそれを思い起させるような話をいっさいさけてるようでした。いろいろ考えますと、兄の心のうちにどういう考えがあったか、わたしにもわかるような気がします。ジャン・ヴァルジャンというその男は自分のみじめさをはっきり心に感じていたので、それを忘れさせ、普通の待遇をしてやって、たといひとときでも、ほかの人と同じような人間であると信じさせるのが最上の策《さく》だ、と思ったにちがいありません。実際、それこそ慈悲ということをよく了解した仕方《しかた》ではないでしょうか。いずれにしましても、わたしがここに断言しえますことは、たとい兄がそういう考えをもっていたとしても、兄はわたしに対してすら、そういう素振《そぶり》を少しもみせなかったことです。兄はどこまでもいつもの晩とおなじようでした。兄は食後のお祈りをしまして、それから男のほうへむいて、きっともうお休みになりたいでしょう、といいました。わたしも旅人をしずかに眠らせるために、はやくひきさがるべきだと考え、マグロワールと二人で、二階の部屋にあがりました。けれど、すぐそのあとでわたしはマグロワールに、自分の部屋にありました鹿の皮を男の寝床にもたせてやりました。夜は凍《こご》えるように冷えますが、それがあればあたたまれましょう。ただ残念なことに、その皮はもう古くて毛がすっかりなくなっています。それは兄がダニューブ河の水源に近い、ドイツのトットリゲンにいました頃、わたしが食卓で使っています象牙《ぞうげ》柄の小さなナイフと一緒に買ってきてくれたものです。
マグロワールは、すぐにまた二階にもどってきました。わたしどもは、洗濯物をひろげる部屋で神へのお祈りをはじめ、それから二人ともひとことも口をきかずに、それぞれ自分の部屋にひきさがりました。
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四
さて、その晩、食事がおわったとき、ビヤンヴニュ司教は妹におやすみをいったあと、デーブルの上の二つの銀の燭台のひとつを自分の手にとり、ひとつを客にわたし、そしていった。
「さあ、あなたの部屋にご案内しましょう」
その家の構造は、寝床のある礼拝《らいはい》所にゆき、またそこから出てくるのに司教の寝室を通らなければならないようになっていた。彼らがその寝室を通りぬけるとき、ちょうどマグロワールが寝床の枕もとにある戸棚に、銀の食器をしまっていた。それは毎晩彼女が寝にゆく前にする最後の仕事だった。
司教は客を礼拝所の寝床に案内した。すでに白く新らしい寝床ができている。男は小卓の上に燭台を置いた。
「それでは」と司教はいった。「よくおやすみなさい。あしたの朝はおでかけの前に、うちの牝牛からとれる乳を一杯温くしてさしあげましょう」
「ありがとうございます」と男はいった。
そのやわらぎにみちた言葉を発したかと思うと、彼はだしぬけに一種異様な身振りをした。もし二人の婦人がそれを見たなら、恐らくちぢみあがっただろう。そのとき男がどういう感情にかられたのか、今もってわれわれにもよくわからない。なにかあることを知らせんがためであったか、それともおどすためであったか? 彼自身にもわからない一種の本能的な衝動《しょうどう》だったのだろうか。彼は突然、老司教のほうへふりむいて、両腕をくみ、あらあらしい眼つきで見つめながらしゃがれ声で叫んだ。
「ああ、なるほど! こんなふうにあなたのすぐそばに私を泊《と》めるんですな!」
彼はふと口をつぐんで、なにか恐ろしい笑い方をしながらつけ加えた。
「よく考えてみましたか、私が人殺しでないというようなことを誰かがいいましたか?」
司教は天井のほうに眼をあげて答えた。
「それは神の知られるところです」
それから司教は、右手の二本の指をあげて男の上に祝福をあたえた。が、彼は首もたれなかった。そしてふりむきもせずに、寝床にはいっていった。
寝所《アルコーヴ》に人が泊《とま》るときには、礼拝所のなかに大きなサージのカーテンが一方から他方へ引かれて、祭壇をかくすことになっていた。司教はそのカーテンの前を通るとき、ひざまずいて短いお祈りをした。
そのあとで彼はすぐに庭に出た。そして歩きながら、夢想にふけり、瞑想《めいそう》にしずみ、なおひらかれている人間の眼に、夜、神が示すあの偉大な神秘な、あるものに心も頭もすっかりひたしてしまった。
男のほうはひどく疲れきっていたので、立派な白いシーツさえ、なにがなにやらわからなかった。囚人たちがやるように、鼻息でろうそくの火を消し、着のみ着のまま寝床のなかに身をなげだして、すぐさまぐっすり寝こんでしまった。
司教が庭から自分の部屋に帰ってきたとき、十二時が鳴った。
数分ののちには、その小さな家のなかは寝しずまってしまっていた。
ジャン・ヴァルジャンは、ブリーの貧しい農家に生れた。子供のときに、文字もおそわらなかった。成人してからファヴロールで樹木の枝切り人となった。母はジャンヌ・マティユといい、父はジャン・ヴァルジャン、あるいはヴラジャンといった。ヴラジャンはもちろんあだ名で「ヴワラ・ジャン」(ほらジャンがいる)を省略したものであろう。
ジャン・ヴァルジャンは陰気ではないが、考えこむたちの男だった。それは愛情の深い性質の人にある特徴である。しかし、全体としてジャン・ヴァルジャンは、かなりのんびりした、ぱっとしない男だった。彼はごくはやくに両親をうしなった。母は産褥熱《さんじょくねつ》の手当がゆきとどかなかったために死に、父は彼と同じく枝切り職だったが木から落ちて死んだ。ジャン・ヴァルジャンに残ったものは、七人の男女の子供をかかえて寡婦《かふ》になっているずっと年上の姉だけだった。その姉が、夫のあるあいだは、若い弟の彼を自分の家にひきとって育てた。そのうちに夫は死んだ。七人の子供のうち、いちばん上が八才で、いちばん下は一才だった。ジャン・ヴァルジャンのほうは二十五才になったときのことだった。彼はその家の父代りとなり、こんどは彼のほうで自分を育ててくれた姉を養った。それは単に義務としてそうなっただけで、どちらかといえばジャン・ヴァルジャンのほうではあまり面白くもなかった。そんなことで彼の青春時代は、骨はおれるがあまり金にならない労働に費された。彼がその地方で「いろ女」などもってるのをみかけた者は誰もいなかった。彼は恋をするひまなどなかったのである。
夕方、疲れて帰ってきて、彼はだまって夕食を食べた。姉のジャンヌおばさんは、よく彼の食べてるそばから、牛肉や豚肉の切れや、キャベツの|しん《ヽヽ》など、食べもののいいところを彼の皿からとって、それを自分の子供にくれてやった。彼はいつも食卓に身をかがめ、ほとんど顔をスープのなかにつけるようにして、ながい髪を皿のまわりにたらし自分の眼をかくしながら、なにも見ないようなふうをして姉のするままにさせておいた。
ファヴロールには、ヴァルジャンのあばら屋から遠くないところに、道路のむこう側に、マリー・クロードという百姓女がいた。ヴァルジャンの子供たちはいつも腹をすかしていて、ときどき母の名前をいってはマリー・クロードのところへ牛乳を一瓶借りにでかけてゆき、それを生垣《いけがき》のかげや小路の角で、たがいに壷《つぼ》を奪いあいながら飲んだ。しかもそれを大急ぎでやるので、小さい女の子たちはよく、牛乳を前掛けや胸のなかにたらした。もし彼らの母がそんな|たかり《ヽヽヽ》を知ったら、きびしくその罪人たちをこらしめただろう。だが、せっかちでむっつりやのジャン・ヴァルジャンは、母に知らせずにマリー・クロードに牛乳代を払ってやったので、子供たちはとがめられずにすんだ。
彼は枝切りの時期には、日に二十四スーの収入があった。それからまた、刈入れ人や人夫や、農場の牛飼人や耕作人などとして雇われていった。彼はできることはなんでもやった。姉もやはり働いたが、七人の子供をかかえてはどうにも仕方がなかった。彼らはしだいに貧困につつまれて衰えてゆく、悲惨なひと群《むれ》の人たちだった。そのうち、きびしい冬がやってきた。ジャンには仕事がなかった。一家にはパンがなかった。一片のパンもなかったのである、文字どおりに。そこへきて七人の子供が――
ある日曜日の晩、ファヴロールの教会の広場に面したパン屋のモーベル・イザボーという男が、これから寝ようと思っているとき、格子《こうし》とガラスとでしめた店先に、はげしい物音を聞きつけた。かけつけてみると、ちょうど格子とガラスとをいちどにたたき破った穴から、一本の手が出ているのをみつけた。その手は一片のパンをつかんで持っていた。イザボーは急いで表にとびだした。泥棒は足にまかせて逃げだした。イザボーはそのあとを追っかけてとりおさえた。泥棒はすでにパンをなげすてていたが、手には血が流れていた。その男こそジャン・ヴァルジャンであった。
それは一七九五年のことである。ジャン・ヴァルジャンは「夜間家宅を破壊して窃盗を働いた|かど《ヽヽ》により」当時の裁判官の前につれてゆかれた。彼は前から小銃を持っていて、誰よりも上手で、少しばかり密猟もやっていた。それが彼の不利となった。密猟者に対して、世間は当然こころよく思っていなかった。密猟者は密輸入者とともに、きわめて盗賊に近いものである。しかし、ついでにいうならば、これらの人々と憎悪すべき都会の殺人者とのあいだには、大きなひらきがある。密猟者は森林中にすみ、密輸入者は山中、あるいは海上にすむ。都会は腐敗した人間をつくるゆえ、また残忍な人間をつくる。山や海や森は野性の人間をつくる。それは人間のあらあらしい面をいっそう強めるが、しかし、それでもなお人間の人間的な面をうしなわせはしない。
ジャン・ヴァルジャンは有罪を宣告された。法典の規定は形式的である。われわれの文明においても恐ろしい瞬間がある。処刑がひとつの破滅《はめつ》を宣告する時がそれである。社会が全く遠ざかってゆき、精神をもつひとりの人間が二度と立ちなおれないまでに社会から見捨てられてしまうその時は、いかに恐るべき瞬間であることか! ジャン・ヴァルジャンは五カ年の懲役に処せられた。
彼はツーロン港に送られた。首に鉄の鎖をつけられ、荷車にのせられて、二十七日間の旅ののちにそこへ着いた。ツーロンで彼は赤い獄衣を着せられた。過去の生涯はいっさい消えうせ、名前さえもなくなった。彼はもはやジャン・ヴァルジャンでさえなかった。彼は二四六○一号だった。姉はどうなったか? 七人の子供はどうなったか? 誰がそんなことにかまっていよう。若い一本の木が根本から切り倒されるとき、そのひとつかみの木の葉はどうなるだろうか。
それはいつも同じことである。それらの憐れな人々、神の子である人々は、いらい助けてくれる人もなく、みちびいてくれる人もなく、かくれる場所もなく、ただ、風のまにまに散らばっていった、おそらくはひとりひとり別々に。そしてしだいに、孤独な運命の人々を呑《の》み去るあの冷たい霧のなかに、人類の暗澹《あんたん》たる歩みのうちに、多くの不幸な人々がつぎつぎに消えうせるあの悲惨な暗黒のうちに、沈んでいった。彼らはその土地を去った。彼らの住んでいた村の鐘楼《しょうろう》も彼らを忘れた、彼らのいた田畑も彼らを忘れた。ジャン・ヴァルジャンさえも獄中の数年ののちには彼らを忘れた。かつて傷をおった彼の心のなかには、もはや傷跡があるのみだった。ただ、それだけである。
ツーロンにいたあいだに、彼はただいちど姉のことを聞いたことがある。それはたぶん囚《とら》われてから四年目の終りごろだったと思う。その噂《うわさ》がどうして彼のところまで伝わってきたかはわからない。ただ彼らを国で知っていた誰かが、姉を見かけたというのだった。彼女はパリにいた。サン・シュルピスの近くの、貧しい通りであるジャンドル街に住んでいた。手もとにはひとりの子供、末の小さな男の子だけがいた。ほかの六人の子供はどこにいったのだろうか? 彼女自身もおそらくそれを知らなかったろう。毎朝彼女はサボー街三番地のある印刷所にでかけ、そこで紙を折ったり、製本の仕事をして働いていた。朝の六時、冬には夜の明ける前に、そこへゆかなければならなかった。印刷所とおなじ建物のなかに学校があって、彼女は当時七才になる子供をそこへつれていった。彼女は六時に印刷所にはいるのだが、学校は七時にしかはじまらないので、子供は学校のはじまるまで中庭で一時間またなければならなかった。冬に戸外で、まだ暗い朝の一時間である。印刷所は子供をなかにいれなかった。子供はじゃまになるからというのである。朝、職工たちは、うす暗がりのなかにそのかわいそうな子供がねむそうに敷石の上にすわり、あるいはかばんの上にちぢこまっているのを、通りがかりによく見かけた。雨が降るときなどは、門番の婆さんがかわいそうに思って、その小屋のなかに入れてくれた。そこにはひとつのそまつな寝台とつむぎ車と、二つの木の椅子とがあるだけだった。そして子供はそのすみっこのほうで、なるべく寒くないように猫のそばに身をよせて眠った。七時に学校の門がひらくと、子供はそこへはいってゆくのだった。ジャン・ヴァルジャンが聞いたのはそれだけのことである。ある日、彼はその話を聞かされたのだったが、それはほんの一瞬の稲光《いなびかり》にすぎなかった。愛する人たちの運命に突然ひとつの窓がひらかれたのだが、それはすぐにまたとざされてしまった。その後、彼はもうなにもきかなかった、永久に。彼らの消息はもうなにも彼のもとには伝わらなかった。そしてふたたび彼らを見かけることも、彼らに出会うこともなかった。この悲しい物語のなかにも、ふたたび彼らはでてこないだろう。
その四年の終りごろに、ジャン・ヴァルジャンに脱獄の機会がきた。彼の仲間はそういう場所においてよく行われるように、彼を助けた。彼は徒刑場をぬけだした。二日間、野原を自由にさまよった、もしそれが自由といえるなら。あとをつけられ、たえずうしろをふりかえり、ちょっとした物音にもとびたち、すべてのものに恐れをいだき、煙のたちのぼる屋根にも、通りすぎる人にも、犬の吠《ほ》えるのにも、馬の走るのにも、時計のなるのにも、昼はものがよく見えるが夜は見えないので、街道にも小路にも、くさむらにも、また眠るにも、すべてに恐れをいだいた。そして二日目の夕方、また捕えられた。三十六時間なにも食べず一睡もしなかったのである。海事法廷はその罪によって彼を三カ年の延刑にした。それで彼の刑期は八カ年になった。
六年目にまた脱獄の機会があった。彼はそれをのがさなかった。やはり脱走は成功しなかった。彼は点呼《てんこ》のときにいなかったのである。大砲がうたれた。その晩、見まわりの人々は、彼が建造中の船の竜骨の下にかくれているところを発見した。彼は自分を捕えにきた看守に抵抗した。脱獄と抵抗。それは特別法に規定されていて、五カ年の増刑と、そのうち二年の二重鉄鎖の刑に処せられた。計十三カ年。
十年目にまた機会がきた。そして彼はそれに乗じたが、やはりうまくゆかなかった。しかしその新たな未遂《みすい》犯のために三カ年、計十六カ年。おわりに十三年目だったと思うが、彼は最後にもういちどやってみたが、四時間身をかくしただけでまた捕った。その四時間のためにまた三カ年、計十九カ年。一八一五年十月、彼は放免された。彼は窓ガラスを破りパンの一片を手にしたために、一七九六年にそこにはいったのだった。
ところで、ここにちょっとひとこと挟もう。本書の著者が刑法問題と法律上の処刑判決について研究してるあいだに、一片のパンの窃盗がひとりの運命の破滅の出発点となった例に接するのは、これが二度目である。クロード・グーという男も一片のパンを盗んだ。ジャン・ヴァルジャンも一片のパンを盗んだ。イギリスのある統計によると、ロンドンにおいて行われた窃盗中、五件のうち四件までは、その直接原因が飢えにあることを証明している。
ジャン・ヴァルジャンはすすり泣き、ふるえながら徒刑場にはいった、そして全く無感動になってそこから出てきた。彼はそこに絶望をもってはいり、そこから陰うつをもって出てきた。
徒刑場から出てきたとき、ジャン・ヴァルジャンが、|お前は自由の身となった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という不思議な言葉を耳にしたとき、その瞬間は嘘《うそ》のようであり、はたしてその言葉を耳にしたかどうか信じられなかった。強い光明の光、生きてる者の真の光明の光が、さっと彼のうちにはいってきた。しかし、その光はまもなく薄らいだ。ジャン・ヴァルジャンは自由のことを考えて眩惑《げんわく》していた。彼は新らしい生活を信じていた。だが、彼はすぐに、黄色い通行券と道ずれの自由が、どんなものであるかを見てとった。
それをめぐって多くの苦《にが》い思いをした。彼は徒刑場にいたあいだに積立てた金が、百七十一フランには達するだろうと計算していた。日曜日と祭日とのきめられた休日は、十九年間におよそ二十四フランの減少をきたしたことを、彼が計算に入れるのを忘れていたのは、つけ加えておかねばならないが、それにしても、積立て金はいろいろな場合の差引き額によって、百九フラン十五スーに減らされていた。それが出獄のときにわたされた。
彼はそれらのことが少しもわからなかった。そして損害を受けたのだと思った、露骨《ろこつ》にいえば、盗まれたのだと。
釈放された翌日、グラースで彼はオレンジの花の蒸溜《じょうりゅう》所の前で、みんなが車から荷をおろしているのを見た。彼はその手伝いをしたいと申しでた。仕事は急ぎのことだったので、働くことを許された。彼は仕事にかかった。彼は要領がよく、器用で頑丈だった。そしてできるかぎり精を出した。主人は満足そうにみえた。ところが彼が働いているあいだに、ひとりの憲兵が通りかかって彼に眼をとめ、身分証明書を見せよといった。で黄色い通行券を見せなければならなかった。そのあとで、ジャン・ヴァルジャンはまた仕事にかかった。それよりちょっと前に、彼はそこで働いてる者のひとりに、その仕事で一日いくらになるかとたずねた。相手は三十スーだと答えた。彼は翌朝そこを出発しなければならなかったので、その夕方、蒸溜所の主人の前にいって、金を払ってくれるように願った。主人は一言も口をきかずに、ただ二十五スーをわたした。彼は不足をいった。貴様にはそれで沢山だという返事。彼はしつっこくいい張った。主人はまともに彼をじっと見つめていった、|監獄に気をつけろ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》!
そこでまた彼は、盗まれたのだと考えた。
社会は、国家は、彼の積立て金を減らすことによって大泥棒を働いた。いまや彼を小さく盗むのは個人だった。
釈放は解放ではない。ひとは徒刑場から出る、しかし処刑からは出られない。
グラースで彼に起ったことは以上のとおりである。ディーニュで彼がどんなふうにあしらわれたかは、すでに見てきたところである。
五
大聖堂の大時計が午前二時をうったとき、ジャン・ヴァルジャンは眼をさました。
彼が眼をさましたのは、寝床があまりよすぎたからだった。やがて二十年にもなろうというあいだ、彼は寝床に寝たことがなかったのである。そして、彼は服はぬいでいなかったが、その感じはきわめて新奇なもので、眠りをみだしたのだった。
彼はそれまでに四時間ばかり眠った。疲れが消えていた。彼は休息に多くの時間をあたえることになれていなかった。
彼は眼をひらいた。そしてしばらく闇のなかをすかして見たが、ついでまた眼をとじて眠ろうとした。
いろんな感情が一日のうちに起ったときに、雑多なことが頭をみたしているときに、ひとは眠りはするが、もはや二度と寝つけるものではない。眠りはふたたびくるときよりも、はじめにきたときのほうが安らかである。彼に起ったことが、まさにそれだった。彼はふたたび眠ることはできなかった。そして考えはじめた。
彼はちょうど、自分の頭のなかにいだいている考えが、混沌《こんとん》としているような状態にあった。脳裡《のうり》には、一種のほの暗い雑踏がこめている。昔の思い出や、ついさき頃の記憶などが雑然と浮かんできて、それが入りみだれて混乱し、形をうしない、馬鹿に大きくひろがり、それからたちまち姿を消して、しぶきをあげる泥んこ水のなかにでもはいったみたいだった。沢山の考えが湧《わ》いてきたなかで、たえず姿を現わしては、ほかの考えを追い払うひとつの考えがあった。その考え、それをここにすぐのべておこう――彼はマグロワールが食卓の上に置いた六組の銀の食器と大きなスプーンにめをつけたのだった。
その六組の銀の食器のことが、彼の頭にこびりついてはなれなかった――それは、ついそのむこうにある――数歩のところに。彼がいまいる部屋にくるためにとなりの部屋をぬけて来たとき、ちょうど年とった召使がそれを寝台の枕もとの小さな戸棚にしまっていた――彼はその戸棚をよく見ておいた――食堂からはいってくると右手に――厚みのある品だ、そして古銀だ――大きなスプーンと一緒にすれば、少なくとも二百フランにはなりそうだ――それは彼が十九年間にえた額の二倍にもあたる――もっとも、|政府が盗み《ヽヽヽヽヽ》をさえしなければもっともうけていただろうが。
彼の心は、まる一時間ものあいだ、相反する二つの考えをたたかわせ、そして迷っていた。三時が鳴った。彼は眼をひらき、突然なかば身をおこし、手をのばして寝所の片すみになげすてておいた背嚢にさわってみた。それから両脚を寝台からぶらさげて、足さきを床につけ、ほとんど自分でも気のつかないうちに、そこに腰かけてしまった。
彼はしばらくのあいだ、その恰好《かっこう》のまま、ぼんやり考えこんでいた。寝しずまった家のなかに、ただひとり眼をさまして闇のなかにそうしている彼の姿は、もし見る人があったらたしかに不気味な思いをしただろう。突然、彼は身をかがめて靴をぬぎ、それを寝台のそばの敷物の上にそっと置いた。それからまた考えにしずんだ姿勢にもどって、もうじっとして動かなかった。
その兇悪《きょうあく》な瞑想《めいそう》のうちに、今のべたところの考えがたえず彼の頭に出入りしてかきみだし、一種の圧迫を加えていた。それから彼はまた、なぜともなく、夢想の機械的な執拗《しつよう》さで、徒刑場で知りあったブルヴェという囚徒のことを考えた。その男のズボンはただ一本の木綿の編紐《あみひも》のズボン吊りで、つりとめられてるだけだった。そのズボン吊りのチェックの縞《しま》がたえず彼の頭に浮かんできた。
彼は、そんな状態でじっとしていた。そして、もし大時計がひとつ――十五分か三十分の――をうたなかったなら、いつまでも、おそらく夜明けまでそのままでいただろう。だが彼にはその時計のひとつの音が、さあ! というように聞えたらしかった。
彼は立ちあがって、なお一瞬ためらって耳をすました。家のなかはどこも|しん《ヽヽ》としている。で彼はほのかに見えている窓のほうへまっすぐに、こきざみに歩いていった。外はやみ夜ではなかった。ちょうど満月で、風に追われる大きな雲のかたまりが、その上を流れていた。そのため外は影と光とが入れかわり、あるいは暗く、あるいは明るくなり、そして家のなかはうす明りがこめていた。雲のために明滅《めいめつ》するそのうす明りは、足もとをてらすには十分で、ゆききする人影にさまたげられる穴ぐらの風窓からおちる一種の蒼白《あおじろ》い光に似ていた。彼は窓に近より、それを調べてみた。窓には格子もなく、庭にむいていて、その地方の風習にしたがって、小さなひとつの|くさび《ヽヽヽ》でしめてあるだけだった。彼はその窓をひらいた。しかし、はげしい寒風が急に部屋のなかに吹きこんできたので、またすぐそれをしめた。彼はただながめるというより、むしろ研究するといったふうな注意深い眼つきで庭をながめた。庭はわけなくのり越えられるくらいの、かなり低い白壁でとりまかれていた。庭の奥の、ずっとむこうに、彼はおなじ間隔《かんかく》をおいた木立の梢《こずえ》をみとめた。それによると、壁はある大通りか、あるいは木のうわった裏通りと庭との|さかい《ヽヽヽ》になってるらしかった。
その一瞥《いちべつ》をあたえてから、彼はもう決心したもののように行動した。彼は寝台のところにもどり、背嚢をひらいてなかをさぐり、なにかをとり出して寝床の上におき、靴をポケットにねじこみ、ほうぼうを締《し》めなおし、背嚢を肩におい、帽子をかぶり、手さぐりで杖をさがしてそれを窓のすみにいって置き、それから寝床のところにまたもどってきて、そこに置いたものを決然と手につかんだ。それはみじかい鉄の棒に似たもので、端《はし》が猟用の槍《やり》のようにとがっていた。それは|てこ《ヽヽ》ででもあったろうか、あるいは、棍棒ででもあったろうか。
昼間だったら、それが坑夫用の燭台にほかならないことがすぐにわかったろう。当時、ときどき囚徒たちは、それをツーロンをとりまいてる高い丘から岩を切りだすことに使っていた。そして彼らが坑夫用の道具を使っていたのは、めずらしいことではなかった。坑夫の使う燭台はぶあつい鉄でできていて、下の端がとがって岩のなかにつきたてられるようになっていた。
彼はその燭台を右手に持ち、息をこらし、足音をひそませながら、隣りの部屋の扉のほうに近づいていった。その扉のところに着いてみて、彼はそれがちょっとひらいているのを発見した。
司教はそれをしめておかなかったのである。
六
ジャン・ヴァルジャンは耳をすました。なんの音もしない。
彼は扉を押した。彼はそれを指の先でそっとやった、まるで猫が扉をあけるみたいにこっそりと。扉はほとんど気づかないくらいにゆるやかに、前より少し大きくひらいた。
彼は一瞬まってみた。それからふたたび、こんどは少し大胆に押した。扉はやはり音もなく、押されるままに動いた。しかし、扉のそばにひとつの小さい机があって、それが入口をふさいでいるような恰好《かっこう》になっていた。彼は困難をみてとった。どうあっても、もっと大きくひらかねばならない。
彼は肚《はら》をきめて、前よりいっそう力をいれて三度押した。ところがこんどは肘《ひじ》金の油がきれていたので、突然闇のなかにきしむ音が、ながくあとをひいて鳴った。
ジャン・ヴァルジャンは身をふるわせた。その肘金の音は、彼の耳には最後の審判のラッパのようにはげしくひびいた。彼は胆《きも》をつぶして、ふるえながら爪《つま》だっていた足の|かかと《ヽヽヽ》をおろした。こめかみに動脈が鍛冶屋の槌《つち》のようにはげしく脈打っているのがきこえ、吐息《といき》は洞穴《どうくつ》からでる風のような音におもえた。老人は眼をさましたかもしれない、二人の老婦人はまさに声をたてようとしてる、十五分とたたないうちに全市がわきかえり、憲兵が動きだすだろう。一瞬、彼は身の破滅だと思った。
数分がすぎた。扉はすっかりひらいている。彼は耳をすました。家の中には物音ひとつしていない。錆《さ》びついた肘金のきしみは、誰の眼もさまさなかったのだ。
第一の危険はすぎ去ったが、おそろしい胸さわぎはまだおさまらなかった。しかし彼はもううしろにひかなかった。もはや身の破滅だと思ったときでさえ、ひかなかったのである。今はもう、はやくやりとげようということしか考えなかった。彼は一歩ふみだし、部屋のなかにはいった。
部屋のなかはまったくしずまりかえっていた。あちこちに形のはっきりしないものがぼんやりと見わけられた。それは昼間だったら、机の上にちらばった紙や、ひらかれたままの二つ折り本や、台の上につみかさねられた書籍や、着物の置いてある肘掛椅子や、祈祷台《きとうだい》などだとわかるのだが、そのときには、ただ暗い角や、ほの白い場所をつくっているだけだった。ジャン・ヴァルジャンは物にぶつからないようにしながら、用心して足をすすめた。部屋の奥に寝こんでいる司教のしずかな規則的な呼吸の音がきこえてきた。
彼は突然足をとめた。司教の寝台のすぐそばまできていたのである。自分でも思いがけないほどはやく、そこまでやってきたのだった。約三十分ばかり前から、大きな雲のかたまりが空をおおっていた。が、彼が寝台の前にたちどまった瞬間、その雲は心あってか、ふいにさけて月の光を蒼白《あおじろ》い司教の寝顔におとした。その全体の顔つきは、満足と希望と至福との漠然《ばくぜん》とした表情にかがやいている。それはほほ笑《え》み以上の、ほとんど光輝といってよかった。睡眠中の正しい人々の魂は、ある神秘な天界をながめているものである。その天界の反映が司教の上にあった。その天界こそ、すなわち彼の良心であった。
ジャン・ヴァルジャンは月の光の影のなかにいた。彼は鉄の燭台を手に持ち、そのかがやいている老人の姿におどろいて身動きもしないで立っていた。今まで彼はそういう光景を見たことがなかった。その信頼しきった様子は彼をおそれさせた。精神の世界において、もっとも壮大な光景は、いまにも悪事をしようとしながら、しかも正しい人の睡眠をながめながら、不安におののいている良心であろう。
彼のうちにどんなことが起ったか、それは誰にもいえないだろう、そして彼自身でさえも。それを推測するには、まずもっともおだやかなものと、もっとも狂暴なものとの対立を想像してみるがよい。ただ明らかなことは、彼が感動し、顛倒《てんとう》していたということである。しかし、その感激はいかなる性質のものであったろうか?
彼の眼は老人からはなれなかった。彼の態度とその顔つきとに明らかにうきだしていたただひとつのことは、異様な不決断だった。まるで、ひとつは身をほろぼし、ひとつは身を救う、このふたつの深淵の間にためらっているようだった。眼前の頭を打ちくだくか、あるいはその手に唇をつけるか、そのどちらかをしようとしてるもののようだった。
数分ののち、彼の左手はゆっくりと額《ひたい》にあげられた。彼は帽子をぬいだ。それから、その手は同じようにゆっくりとまたおろされた。ジャン・ヴァルジャンはじっとながめはじめた。帽子を左手に持ち、棍棒を右手に持ち、あらあらしく頭の上に髪の毛を逆《さか》だてて。
司教はそのおそるべき視線の下で、深いやすらかな眠りをつづけていた。
月の光の反映は、煖炉の上に十字架像の姿をぼんやりうきださせていた。それは両手をひらいて、ひとりには祝福をあたえ、ひとりには罪のゆるしをあたえるために、その二人を抱《いだ》こうとしてるように思われた。
突然、ジャン・ヴァルジャンは帽子を額の上にのせた。それから、司教のほうを見ずに、寝台にそって足をはやめながらその枕もとにみえている戸棚のほうへまっすぐにすすんだ。彼は錠前をこじあけようとするみたいに、鉄の燭台を高くあげた。が、そこには鍵がついていた。彼はそれをひらいた。だいいちに彼の眼にはいったものは、銀の食器のはいってる籠《かご》だった。彼はそれをとり、もうなんの用心もせずに足音にも気をとめずに大股《おおまた》に部屋を通って扉のところにゆき、礼拝所にはいり、窓をひらき、杖をとり、窓をまたぎ、背嚢に銀の食器をしまい、籠を投げ捨て、庭をぬけ、虎のように壁をとびこえ、そして姿を消した。
七
翌朝、日の出るころ、ミリエル司教は庭を散歩していた。
そこヘマグロワールが、すっかりとりみだしてかけつけてきた。
「旦那さま、旦那さま」と彼女は叫んだ。「銀の器《うつわ》の籠《かご》はどこにあるかご存知でいらっしゃいますか」
「知ってるよ」と司教はいった。
「まあ、ありがたい! わたしはまたどうなったかと思いまして」
司教は花壇のなかでその籠をひろったところだった。彼はそれをマグロワールに差し出した。
「ここにあるよ」
「え? なかにはなにもないじゃございませんか。銀の器は?」
「ああそう、お前が心配してたのは銀の器だったのか。それはどこにあるかわたしも知らないよ」
「まあ、なんということでしょう! 盗まれたんでございますよ。ゆうベのあの男が盗んだんですよ、きっと」
元気のいいマグロワールはすぐに礼拝所へとんでゆき、寝所にはいり、それから司教のところへもどってきた。
「旦那さま! あの男は逃げてしまいました。銀の器《うつわ》は盗まれたんですよ」
そう叫びながら彼女は、庭のすみを見た。そこには壁をのりこえた跡《あと》があった。
「もし、あそこから逃げたのですよ。まあ、悪い奴、銀の器を盗んだんですよ」
司教はちょっとだまっていた。それからまじめな眼つきになって、おだやかにマグロワールにいった。
「だいいち、あの銀の食器だが、あれはわたしどものものだったのかね?」
彼女は呆然《ぼうぜん》としてしまった。しばらく沈黙がつづき、それから司教はつづけていった。
「マグロワールや、わたしはあやまってながいことあの銀の器を自分だけのものにしていた。が、あれは貧しい人たちのものなんだ。あの男は明らかに貧しい人だったじゃないかね」
「まあ、なんとおっしゃいます! なにもわたしやお嬢さまのためではございません。わたしどもにはどうだってかまいません。ですけど、これから旦那さまはなんでお食事なさいます?」
司教はびっくりしたように、彼女を見つめた。
「ああ、そんなことなら、錫《すず》の器があるだろう」
マグロワールは肩をそびやかした。
「錫は臭《にお》いがしますよ」
「では、鉄の器は?」
マグロワールは意味ありげに、顔をしかめて見せた。
「鉄は妙な味がします」
「それでは、木の器がいい」
数分ほどして、彼は前夜ジャン・ヴァルジャンがすわっていたその食卓で朝食をとった。食事しながらビヤンヴニュ閣下は、なにもいわない妹と、なにかぶつぶつ不平をいってるマグロワールに、パンの切れを牛乳にひたして食べるには、スプーンもフォークもいらなければ、また木でつくったそんなものもいらないということを、快活にのべたてた。
「まあ、なんてことをお考えなんだろう!」と、マグロワールはいったりきたりしながらつぶやいた。「あんな男を家に入れるなんて! その上自分の近くに寝かすなんて! 盗まれただけですんだのが仕合《しあわ》せというものだわ! 考えただけでも身ぶるいがする!」
兄と妹が食卓をはなれようとしたとき、誰か戸をたたくものがあった。
「おはいり」と司教はいった。
戸がひらいた。と、異様なあらあらしい一群の人たちが入口に現われた。そのうち三人の者が一人の男の首すじを押えている。三人は憲兵で一人はジャン・ヴァルジャンだった。彼らをひきいているらしい憲兵の班長が戸口に立っていた。彼ははいってきて、軍隊式の敬礼をしながら、司教閣下のほうへすすみ出た。
「閣下……」と彼はいった。
その言葉に、うなだれていたジャン・ヴァルジャンはあっけにとられた様子で顔をあげた。
「閣下だって!」と彼はつぶやいた。「じゃあ、この人は司祭じゃないんだな……」
「だまってろ!」とひとりの憲兵がいった。「この方は司教閣下だぞ」
そのあいだにミリエル司教は、老いの身のできるかぎりのすばやさで、前にすすみ出た。
「ああ、よく来なすった!」と彼はジャン・ヴァルジャンを見ながら叫んだ。「わたくしはあなたに会えてうれしい。ところでどうなすった、わたくしはあなたに燭台もあげたのだが。あれもやっぱり銀で、二百フランくらいにはなるでしょうに、なぜ食器と一緒にもってゆきなさらなかった?」
ジャン・ヴァルジャンは眼をいっぱいみひらいて、どんな言葉をもってしても説明できないような表情で、この尊敬すべき司教をながめた。
「閣下」と憲兵の班長はいった。「では、この男のいったことはほんとうでありますか。この男は逃げるように歩いていましたので、つかまえてみますと、この銀の食器を持っていました……」
「そしてこう申したでしょう」と司教はほほ笑みながらその言葉をさえぎった。「一晩泊めてもらった年よりの司祭からもらったのだって。よくわかっています。そしてあなたはこの人をつかまえて、ここまでつれてこられたのでしょう。それはあやまりでした」
「そういうわけでしたら」と班長はいった。「このまま放免しますが」
「ええ、もちろんです」と司教は答えた。
憲兵たちはジャン・ヴァルジャンをはなした。彼はうしろにさがった。
「ほんとに私はゆるされたのかな?」と彼は、ほとんど舌もまわらないような声で、まるで夢の中にでもいるようにつぶやいた。
「そうだ、ゆるされたんだ。それがわからんか」とひとりの憲兵がいった。
「さあ、でかける前に」と司教はいった。「ここにあなたの燭台がある。それももってゆきなさい」
彼は煖炉のところへいって、二つの銀の燭台をとり、それをジャン・ヴァルジャンのところへもってきた。二人の婦人は、なにもいわず、身振りひとつせず、司教のさまたげになるような眼つきさえしないで、彼のするままをじっと見ていた。
ジャン・ヴァルジャンは身体じゅうをふるわせ、やがて、放心したように機械的に燭台をうけとった。
「それでは」と司教はいった。「安心してゆきなさるがよい。ついでにいっておきますが、こんどおいでなさるときには庭のほうからまわってこられるにはおよびませんよ。いつでも表の戸口から出入りなすってよろしい。戸口は昼夜ともハンドルでしめてあるきりですから」
それから憲兵のほうをむいた。
「みなさん、どうかお引きとりください」
憲兵らはたち去った。
ジャン・ヴァルジャンはいまにも気をうしないかけているようにみえた。司教は彼に近づいて、低い声でいった。
「忘れてはいけません、決して忘れてはいけませんぞ、この銀の器《うつわ》は正直な人間になるために使うのだと、あなたがわたくしに約束したことを」
なにも約束したおぼえのないジャン・ヴァルジャンは、ただぼうぜんとしていた。司教はその言葉をいうのに強く力をこめたのである。彼はおごそかにまたいった。
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善にむすばれています。わたくしが今|あがなう《ヽヽヽヽ》のはあなたの魂です。わたくしはあなたの魂を暗い考えや破滅の精神から引きだして、それを神にささげます」
八
ジャン・ヴァルジャンは逃げるようにして町を出ていった。彼は大急ぎで野原のなかにつきすすみ、ゆきあたりばったりに、街道といわず小路といわず、むちゃくちゃにたどっていって、始終《しじゅう》あともどりしていることには気づかなかった。そのようにして、昼のあいだずっとさまよいつづけて、なにも食べはしなかったが、べつに空腹も感じなかった。彼はまったく新らしい無数の感情のとりこになっていた。一種のいきどおりを感じていたのだが、それも誰に対してだか自分にもわからなかった。感動したのか、または屈辱《くつじょく》を感じたのか自分でわからなかった。ときどき異様な感傷をおぼえたが、それとたたかい、それに反撥《はんぱつ》するのにここ二十年間のかたくなな心をもってした。そういう状態は彼を疲らせた。彼はまた不当な不幸によって、身につけるにいたった一種の恐ろしい落ちつきが、心のなかでぐらつくのをみて不安をおぼえた。その恐ろしい落ちつきにかわろうとしてるものがなんであるか自問してみた。ときとしては事件がこんなふうにならずに、憲兵につれられて牢に投げこまれたほうがほんとうによかったと思った。そのほうが彼の心をみだすことは少なかっただろう。季節はよほどふかまっていたが、なおここかしこの生垣に、おくれ咲きの花が残っていて、通りすがりにその香りが、彼に幼なかった頃のことを思い出させた。それらの思い出は、彼にはほとんどたえがたいものだった、もうながいあいだ、そういう思い出が浮かんできたことはかつてなかったのだから。
言葉にいいあらわしがたい考えが、そんなふうに一日じゅう彼のうちに集まってきた。
太陽がかたむいて沈もうとする頃、小石さえ影を地面にながくひくころ、ジャン・ヴァルジャンはまったく荒涼たる霜枯《しもがれ》色の曠野《こうや》のなかの、ひとむらの茂みのかげにすわった。地平線にはアルプス連山がそびえてるばかりだった。遠い部落の鐘楼の影さえ見えなかった。彼はディーニュからたぶん三里くらいは来ていた。平野を横ぎっている一筋の小路が、茂みから数歩のところに走っていた。
彼は考えにしずんでいた。その様子は出会う人の眼に、彼のまとってるぼろ着をいっそう恐ろしくみせただろう。と、そのとき、彼の耳に楽しそうなひびきがきこえてきた。
彼はあたりを見まわした。すると十才ばかりのサヴォワ生れの少年が歌をうたいながら、小路をやってくるのがみえた。少年は手廻し琴を脇《わき》につり、モルモットの箱を背に負《お》っていた。地方から地方へわたり歩いて、ズボンの破れ目から膝小僧《ひざこぞう》をのぞかせてる、あのひとなつっこくて快活な少年のひとりだった。
歌をうたいながら少年は、ときどき歩みをとめて、手に持ってる数個の貨幣を手玉にとって遊んでいた。おそらくそれは彼の全財産だっただろう。その貨幣のなかには四十スー銀貨がはいっていた。
少年はジャン・ヴァルジャンには気がつかないで、茂みのそばに立ちどまった。そしてひとにぎりの貨幣をほおりあげた。それまで彼はじょうずにそれをみんな手の甲に受けとめていたのだった。
が、こんどは、四十スーの銀貨が手からすべって、茂みのほうへころがって、ジャン・ヴァルジャンのところまでとどいた。
ジャン・ヴァルジャンはその上にすばやく足先をのせた。
だが、少年の眼はその銀貨のあとをおっていって、彼がそうするのを見ていた。
少年はすこしもおどろかないで、彼のほうにまっすぐやってきた。
それはひどく淋しい場所だった。眼のとどくかぎり、野にも道にも誰もいなかった。高く高く空を飛んでゆく渡り鳥の群の、弱いかすかな鳴き声がきこえるばかりだった。子供は背を太陽にむけていたので、髪の毛が金色の糸のようにかがやいていた。そしてジャン・ヴァルジャンのあらあらしい顔はまっ赤な光であかくてらされていた。
「おじさん」とそのサヴォワの少年は、なにも知らない無邪気な子供らしい信頼をこめていった。「ぼくのお金を?」
「お前の名はなんというんだい?」とジャン・ヴァルジャンはいった。
「プティ・ジェルヴェだよ」
「いっちまえ」とジャン・ヴァルジャンはいった。
「おじさん」と少年はまたいった。「ぼくのお金を返しておくれよ」
ジャン・ヴァルジャンは頭をたれて、答えなかった。
少年はまたつづけた。
「ぼくのお金を、おじさん」
ジャン・ヴァルジャンの眼はじっと地面を見つめていた。
「ぼくのお金をさ!」と少年は叫んだ。「ぼくの白いお金を! ぼくの銀貨をさ!」
ジャン・ヴァルジャンはその声をちっともきいてないようだった。少年は彼の作業衣の襟《えり》をつかんで彼をゆすった。同時に、自分の貨幣の上にのせられた鉄鋲《てつびょう》の打ってある大きな彼の靴を動かそうとあせっていた。
「ぼくのお金をよう! 四十スー銀貨をよう!」
少年は泣いていた。ジャン・ヴァルジャンは頭をもたげた。でも彼は、なおすわっていた。彼の眼つきはみだれていた。彼はおどろいたように少年を見つめ、それから杖に手をのばして、恐ろしい声で叫んだ。
「だれだ、お前は?」
「ぼくだよ、おじさん」と少年は答えた。「プティ・ジェルヴェだよ。ぼくだよ、ぼくだよ! ねえ、おねがいだから四十スー銀貨を返してよ。ねえ、おじさん、足をどけてよう!」
彼は子供だったけれど、いらだってきてほとんどおどすような調子になった。
「さあ、足をどけてくれますか。足をどけて、さあ!」
「まだ貴様いたのか!」とジャン・ヴァルジャンはいった。そしてやはり貨幣の上を足でふまえながら、突然すっくと立ちあがって、どなりつけた。「うせやがれ!」
少年はびっくりして彼をながめた。そして頭から足の先までふるえあがり、ちょっとぼんやりしていたが、急にふり返りもしないで声もたてずに一目散《いちもくさん》に逃げだした。
が、しばらくゆくと息がつづかないのでたちどまった。そのあいだ、ジャン・ヴァルジャンはぼんやり考えこんでいたが、彼のすすり泣きを耳にした。やがて少年の姿は見えなくなった。
太陽は沈んでいた。
ジャン・ヴァルジャンのまわりに夕やみがせまってきた。彼はその日なにも食べていなかった。ちょっと熱もあるらしい。
彼はそのまま、そこにさっきからずっと立ちつづけていた。少年が逃げだしたときのままの姿勢だった。ながい、不規則な間《ま》をおいては呼吸が胸をふくらました。彼の眼は数歩前のところにすえられて、草のなかにおちている青い陶器のふるいかけらみたいなものを、注意深く見つめているようだった。と、突然彼は身ぶるいした。夕ベの冷気を感じたのだった。
彼はまた帽子をまぶかにかぶり、手さぐりで機械的に上衣のボタンをはめ、一歩足をふみ出して地面から杖をとりあげようとして身をかがめた。
そのとき、四十スーの銀貨が彼の眼にとまった。足でなかば地面の中にふみこまれて、小石のあいだに光っていた。
彼はまるで電気にふれたみたいだった。「これはなんだ?」と彼は口のなかでいった。そして二、三歩うしろにさがった。けれど、一瞬前まで足でふみつけていたその場所から、眼をはなすことができなくなっていた。
やがて彼は身体を|けいれん《ヽヽヽヽ》させながらそのほうへすすんでゆき、それをつかみ、身をおこしながら遠く平野を見渡しはじめた。おびやかされた野獣がかくれ場所をもとめるように、つったちながら身をふるわして、地平線をぐるりと見まわした。
彼はいそいで少年の姿が消えた方向に歩きだした。百歩ばかりいって立ちどまり、あたりをながめたがなにも見えなかった。彼はあらんかぎりの声をふりしぼって叫んだ。
「プティ・ジェルヴェー! プティ・ジェルヴェー!」
彼は口をつぐんでまった。なんの返事もない。野は荒涼として陰うつだった。まわりにあるものは見|透《す》かせない闇と、声をのみこむ静けさばかりだった。
彼はまた歩きだした。それから駈けだした。そしてときどき立ちどまっては、もっとも恐ろしい、またもっとも悲しげな声をしぼって、空にむかって叫んでみた。
「プティ・ジェルヴェー! プティ・ジェルヴェー!」
もし少年がそれを聞いたとしても、おそらくこわがって姿を現わさなかっただろう。
そこへ馬にのった一人の司祭が通りかかった。ジャン・ヴァルジャンはそばに近づいてたずねかけた。
「司祭さん、子供がひとり通るのをみかけませんでしたか? プティ・ジェルヴェっていうんです」
「わたしは誰にも会いませんでしたよ」
彼は財布から五フランの貨幣を二つとり出して、それを司祭にわたした。
「司祭さん、これを貧しい人たちに施してください――司祭さん、十才ばかりの小さな子供でした。たしか一匹のモルモットと手廻し琴を持ってました。ご存知ありませんか」
「会いませんでしたな」
ジャン・ヴァルジャンはあらあらしく五フランをもう二つとり出して司祭にあたえた。
「貧しい人たちにやってください」
それから彼はしどろもどろにつけ加えた。
「司祭さん、私を逮捕してください。私は泥棒です」
司祭はひどくおびえて、馬に拍車をくれて逃げだした。
ジャン・ヴァルジャンは最初に行った方向にまた走りだした。
彼はそんなふうに、あたりを見まわしてよび叫びながら、かなり長いあいだ行ったが、もう誰にも出会わなかった。二、三度なにか人が横たわってるようにみえるところや、うずくまってるのじゃないかしらと思えるほうへかけて行った。だが、それらは、みんなただの茂みだったり、地面に出てる岩にすぎなかった。それから彼は、とうとう三つの小路が交叉しているところに来て、立ちどまった。月が出ていた。彼は遠くに眼をやって、最後にもういちど叫んだ。
「プティ・ジェルヴェー! プティ・ジェルヴェー! プティ・ジェルヴェー!」
その叫びは夕方の|もや《ヽヽ》のなかに消えうせて、こだまさえかえってこなかった。彼はなおもつぶやいた。「プティ・ジェルヴェー!」しかしその声はよわよわしく、ほとんど舌がまわらないみたいだった。それは彼の最後の努力だった。彼のひざは急に立っていられなくなった、まるでなにか眼にみえない力が、悪心の重みで彼をおしつぶすかのように。彼はある大きな石の上にがっくり身を落して、両手で髪の毛をつかみ、顔をひざにおしあて、そして叫んだ。
「ああ、おれはみじめな男だ!」
そのとき、彼は胸がいっぱいになって泣きだした。十九年このかた、涙を流したのはそれがはじめてだった。
ジャン・ヴァルジャンは司教の家から出てきたとき、前にのべたとおり、これまでの考えからまったく外にでていた。彼は自分のなかに起ったことを自分でも了解することができなかった。その老人の天使のような行いや、やさしい言葉に反抗して心をかたくした。「あなたは正直な人間になることをわたくしに約束なすった。わたくしがあがなったのはあなたの魂ですぞ。わたくしはあなたの魂を邪悪な精神から引きだして、それを善良な神にささげます」
この言葉がたえず彼の心にかえってきた。彼はその神のような寛容《かんよう》さに対し、心のなかの悪の要塞《ようさい》である傲慢《ごうまん》をもって反抗した、彼は漠然と感じていた、その司祭の罪のゆるしは、自分に対する最大の襲撃であり、もっとも恐るべき打撃であって、そのために自分はまだ、おののきゆり動かされているのだと。もしその寛容さに抵抗することができるなら、自分のかたくなな心はついに動かすべからざるものとなるだろう、もしそれに譲歩するなら、多くの年月のあいだ他人の行為によって自分の心のうちにみたされ、自分でも喜ばしく思っていたあの憎悪の念を、すてなければならないだろう。もうこんどは勝つか負けるかのほかはない。そして戦いは、決戦は、自分自身の悪意とあの老人の仁慈とのあいだに行われているのだ。
それらのはっきりした意識をもって、彼は酔える人のようにたち去ったのだった。そのようにして、すさんだ眼つきをしながら歩いているあいだ、ディーニュのあの事件から自分の身にどんな結果が起るかを、彼ははっきりさとっていただろうか。ある声がつぎのことを彼の耳にささやいたのであろうか、すなわち、彼は自己の運命のおごそかな瞬間を通りすぎてきたこと、もはや彼にとっては中間は存在しないこと、もしいま最善の人とならないとすれば最悪の人となるであろうということ、いわば司教より高きにのぼるか、囚人よりもなお低きに落ちるか、いずれかをとらねばならない場合であること、もし善良となろうとするなら天使とならなければならないこと、邪悪にとどまろうとするなら怪物とならなければならないということ。
ただ確実だったこと、彼自身うたがわなかったことは、彼がもはや以前と同じ人間ではなく、彼の内部がすべて変化していたということである。司教が彼に語り、彼の心にふれたということを否定する力はもはや彼になかったことである。
そういう精神状態にあって、彼はプティ・ジェルヴェに出会い、彼の四十スーを盗んだ。なぜか? 彼自身もしっかりとそれを説明することはできなかったろう。それは彼が徒刑場からもってきた悪念の最後の働き、いわば最上の努力ででもあったのか。衝動の名残《なごり》、力学の慣性《ヽヽ》といえるものの結果であったのか。そうであったろう、そしてまたおそらくそれよりなお小さなものだったろう。簡単にいえば、盗みをしたのは彼ではなかった、彼の人ではなかった。それは知性が多くの異常な新らしいものにがんじがらめにされて、もがいているあいだに、習慣と本能とによって貨幣の上にただぼうぜんと足を置いた彼の獣性であった。知性がめざめて、その獣的なわれとわが身の行為をみたとき、ジャン・ヴァルジャンは苦悶《くもん》してあとずさりし、恐怖の叫び声をあげた。
彼はまず最初、よく考えよく反省してみる前に、はやく身をのがれんとする者のように、ただむやみと金を返すために少年を見つけだそうとあせった。それから、それがむだなことで、また出来ないことだと知ったとき、絶望して立ちどまった。ああ、おれはみじめな男だ! と叫んだとき、彼は自分のありのままの姿をみとめていたのだった。そして彼は自分自身がもはや幻の存在のごとく思われたほど、すでに自己を超えていたのだった。そして一方、肉と骨とをそなえた醜《みにく》い囚人ジャン・ヴァルジャンのほうは、手に杖をにぎり、胴に作業衣をまとい、窃盗品でいっぱいになってる背嚢を背におい、決然とした、しかも沈うつな顔をし、のろうべき計画にみちた思念をいだいて、そこに立っていたのである。
そして彼は、いわば面《めん》とむかって自己をながめ、同時にその幻覚をとおして、ある神秘な奥深いところに一種の光明をみた。彼ははじめ、それをたいまつの焔《ほのお》かと思った。が、自分の心のなかに現われてきた、その光明をいっそう注意してながめているうちに、それが人間の形をそなえていることに気づいた。彼はその焔が司教であることに気がついたのである。
彼の良心は、自己の前に置かれた二人の者、司教とジャン・ヴァルジャンとをかわるがわるながめた。後者をうちくだくには前者でなければならない。その幻想がつづくにつれて、司教の姿はしだいに大きくなって彼の眼にかがやきわたり、ジャン・ヴァルジャンの姿はしだいに小さくなって消えていった。やがて彼はひとつの影にすぎなくなり、忽然《こつぜん》と消えうせた。そして司教ひとりがあとに残った。
ジャン・ヴァルジャンはながいあいだ泣いていた。女よりよわよわしく、子供よりおびえて、熱い涙を流してむせび泣いた。
泣いているうちに、彼の脳裡《のうり》には、しだいに明るみがさしてきた。異常な明るみ、よろこばしい、しかも同時に恐ろしい明るみだった。彼の過去の生涯、彼の最初のあやまち、彼のながい贖罪《しょくざい》、外部の愚鈍《ぐどん》と内部の冷酷さ、あれほど多くの復讐の計画をたててたのしみにしていた釈放、しかも司教の家で起ったこと、彼がなした最後の一事、少年から四十スーを盗んだこと、司教のゆるしのあとに行われただけに、いっそう卑劣《ひれつ》でいっそう兇悪だったその罪、すべてそれらのことが明らかに、かつてなかったほどの明るさで彼の心によみがえってきた。彼は自分の生涯をながめた、そしてそれは彼の眼に嫌悪《けんお》すべきもののようにうつった。彼は自分の魂をながめた。そしてそれは彼の眼に恐怖すべきもののようにうつった。しかし、おだやかな明るみが彼の生涯と彼の魂との上にさしていた。その時彼は、天国の光明によって悪魔を見たように思った。
そんなふうにして、彼はどのくらい泣いていたか、泣いたあとでなにをしたか、どこへいったか、誰もそれを知らなかった。ただひとつたしかなことは、その夜、当時グルノーブル通《がよ》いをしていた馬車屋が、朝の三時頃ディーニュに着いて、司教邸のある通りを通りかかったとき、ひとりの男がビヤンヴニュ司教の家の前で、祈るような恰好《かっこう》をして闇のなかの敷石の上にひざまずいているのを、見かけたということである。
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第三章 一八一七年のこと
一
一八一七年に、四人の若いパリっ子が「面白い狂言」を仕組んだ。
彼ら四人のパリっ子のうち、ひとりはトゥルーズの生まれ、第二番目はリモージュ生まれ、第三番目はカオール生まれ、第四番目はモントーバンの生まれだった。四人ともみんな学生だった。しかしパリの学生、つまりパリで勉強することはパリで生まれることと同じことである。
これら四人の青年は、べつにとりたてていうほどの者ではなく、いたってありふれた人物で、どこにでもあるといった型の青年たちだった。よくもなく悪くもなく、学問があるでもなく無知でもなく、天才でもなければまた愚物でもなかったが、彼らは今や二十才という楽しい青春の花ざかりだった。
四人のうち、トゥルーズ生まれの男をフェリックス・トロミエスといい、カオール生まれのはリストリエ、リモージュ生まれはファムイユ、最後のモントーバン生まれはブラシュヴェルといった。もちろんそれぞれ女をもっていた。ブラシュヴェルは、イギリスにいっていたことがあるのでファヴォリットという女を愛していた。リストリエは、花の名をあだ名にしてるダーリアという女を熱愛していた。ファムイユは、ジョゼフィーヌを略してゼフィーヌとよぶ女をこの上ない女と思いこんでいた。トロミエスは、美しい金髪のためにブロンドとよばれるファンティーヌという女をもっていた。
その若い男たちはおなじ仲間であり、若い女たちもおなじ友だち同志だった。そういう恋愛はいつも友情とかさなるものである。
賢いのと分別があるのとはべつである。その証拠には、彼女たちのだらしのない日常生活をべつにすれば、ファヴォリットとゼフィーヌとダーリアとは分別のある女で、ファンティーヌは賢い女だった。
賢い? そしてトロミエスを愛する? ある人は頭をかしげるかもしれない。しかし、愛は知恵の一部なりとソロモンは答えるだろう。そして、われわれはただこういうだけにとどめておこう、すなわち、ファンティーヌの愛は、最初の愛であり、ただひとつの愛であり、誠実な愛だったと。
四人のうちで、ただひとりの男から|お前《ヽヽ》とよばれていたのは彼女だけだったのである。
ファンティーヌは、いわば民衆の奥底から咲いた一輪の花ともいえるような人間のひとりだった。社会のはかりしれぬ暗闇の底から生まれでてきたので、彼女は額《ひたい》に無名ならびに不明の印をおされていた。彼女はモントルイユ・シュル・メールで生まれた。どういう親からか? 誰がそれをいいえよう。彼女の父も母も、まったくわからなかった。彼女はファンティーヌという名だったが、なぜファンティーヌというのか? ほかの名前がなかったからである。彼女の生まれは、まだ執政内閣のある時分だった。彼女には姓もなかった、家族がなかったから。洗礼名もなかった、その土地には教会がなかったからである。まだ小さい頃、通りをはだしで歩いていると、通りがかりの人がいい名だといってつけてくれた名を彼女はもらったのである。雨降りに、雲からおちてくる水のしずくを額にうけるように、彼女はその名前をもらったのだった。それ以来彼女は小さなファンティーヌとよばれた。誰も彼女のことをそれ以上知ってる者はいなかった。このひとりの人間は、そのようにしてこの世にやってきたのである。十才のとき、ファンティーヌはその町を去って、近くの農家に雇われていった。十五才のときに「金|儲《もう》けに」パリに出てきた。ファンティーヌはきれいで、できるだけ純潔をまもっていた。彼女は美しい歯をした、可愛らしい金髪の娘だった。彼女は結婚財産として、生まれつき黄金《こがね》と真珠《しんじゅ》をもっていたわけなのである。つまり黄金とは頭の上に、真珠は口のなかにあった。
彼女は生活のために働いた。それから、やはり生活のために、というのは心もまた飢えていたので、彼女は愛した。
彼女はトロミエスを愛した。
トロミエスは年とった、万年学生だった。金持で年に四千フランの収入があった。年に四千フランといえば、サント・ジュヌヴィエーヴの山(パンテオンの丘)ではすてきな身分だった。トロミエスは三十才の道楽者で、身体はおとろえていた。しわがより、歯がぬけていた。頭がそろそろはげかかっていたが、彼は平気な顔をして自分のことをこういってた。「三十才にしてはげ、四十才にして腰がたたず」と。消化が悪く、一方の眼にはいつも涙がにじんでいた。だが、彼はよそ目の若さがなくなるにつれてますます元気になった。歯のないところはしゃれでおぎない、はげたところは快活さで、健康の悪いのは皮肉でおぎなった。そして涙のにじんでる眼はたえず笑っていた。身体はくずれていたが、なお花を咲かしていた。彼の青春は年齢より、はやく逃げだそうとしていたが、整然と退却の太鼓を鳴らし、爆笑してる彼は人目にはとても元気そうにしかみえなかった。ヴォードヴィル座に作品を送って拒絶されたこともあった。ときどきは、つまらない詩もつくった。その上、彼はなにごとも凝ってかかり、よわい者の眼にはそれが強い力にみえた。そのため、皮肉家で頭ははげていたが、みんなの上に立っていた。
ある日、トロミエスはほかの三人をそばによんで、神託でもさずけるような身振りをしながらいった。
「もう一年も前からファンティーヌとダーリアとゼフィーヌとファヴォリットが、なにかびっくりするようなことをしてくれといっている。われわれもそれをはっきりと約束している。女どもはしょっちゅうそのことをいっているし、ことにぼくには矢のさいそくだ。ちょうどナポリの年とった女たちが一月の護神にむかって叫ぶようだ。|黄色な顔の神様《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|奇跡をあたえて《ヽヽヽヽヽヽヽ》くださいませ! われわれの美女たちはたえずぼくにいう、トロミエス、いつびっくりするようなことをしでかすの? 一方、親父どもからも同じようなうるさい手紙がまいこむ。両方からの繰言《くりごと》だ。ぼくはもう時機がやってきたように思う。ひとつ相談しよう」
そこでトロミエスは声をひくめて、なにやらこっそりささやいた。よほど面白いことだとみえて、同時に四人の口から大きな笑い声がとびだした。そしてブラシュヴェルが叫んだ。
「そいつは、うまい考えだ!」
煙草の煙がたちこめてる、一軒のコーヒー店がすぐそばにあった。彼らはそこへはいっていった。その後、彼らの相談はものかげに消えてしまった。
ひとに知られぬその相談の結果は、四人の青年が四人の若い女をまねいて、つぎの日曜日に演じた底抜けの騒ぎの楽しい遊びとなってあらわれた。
二
その日は、はじめからしまいまで|あけぼの《ヽヽヽヽ》のような日だった。自然までその日は休日で笑い楽しんでいるようにさえみえた。サン・クルーの花壇は香りをただよわせ、セーヌの河風はそよそよと木の葉をゆるがし、樹々の枝は風のままにうごき、蜜蜂はジャスミンをおそい、蝶の群れはのこぎり草やクローバーやからす麦のなかをとびまわり、ロワ・ド・フランスの壮大な庭園には鳥が群れをなしてあそんでいた。
うかれた四組の男女は、太陽や草原や花や木のあいだで、光りかがやいていた。
そしてこの楽園で、彼らはしゃべり、うたい、走り、おどり、蝶を追い、ヒルガオをつみ、背の高い草むらで|つゆ《ヽヽ》にばら色の透《す》き編《あみ》の靴下をぬらし、若々しく、くるおしく、なんのくったくもなく、あちこちでたがいに接吻しあっていた。ただひとりファンティーヌだけは、みんなになじまないで漠然《ばくぜん》とした夢みるような想いにとじこもり、恋心をいだいていた。
「あんたは」とファヴォリットは彼女にいった。「あんたはいつも妙な顔をしてるわね」
そこには快楽がある。それらの楽しい男女の遊山《ゆさん》は、人生と自然への深い呼びかけであり、すべてのものから愛撫《あいぶ》とかがやきとをさそいだすのである。かつてひとりの魔女がいて、恋する者たちのために野と森とをつくった。そこで恋人たちの永遠の野遊びの学校がはじまった。それはたえずひらかれており、木々の茂みと学生とがあるあいだはつづくだろう。
貴族も大道の研《と》ぎ屋も、華族も平民も殿上人《でんじょうびと》も町人も、みなその魔女の臣下である。ひとは笑い楽しみ、たがいにさがしもとめ、讃美の光輝が空中にただよう。愛することはいかに万物の姿をかえることか! 公証人書記も神となる。そして、可愛いい叫び、草のなかのかけっこ、突然の抱擁《ほうよう》、かえって音楽のようにひびく言葉のなまり、ひとことのうちにほとばしる愛情、口から口へうつしあう桜んぼ、それらはみな燃えあがり、天国の栄光のうちにつつまれる。美しい娘たちは楽しくその美を浪費する。永久におわらないかのようである。
昼食のあと、四組の男女は当時、王の花壇とよばれていた所に、インドから新たに来た植物を見にいった。今ちょっとその名を忘れたが、当時それはサン・クルーにパリじゅうの人をひきつけたものである。幹の高い不思議な面白い灌木で、無数のこまかな技が糸のようにみだれ、葉はなく、沢山の小さな白い花形のものでおおわれていた。そのため樹は一面に花の咲いた髪のように見えた。いつもそのまわりは見物の人で黒山のようになっていた。
その灌木を見てから、トロミエスは叫んだ。
「ろばにのせてやろう!」
ろば屋に賃金の交渉をして、彼らはヴァンヴとイッシーとをまわって帰ってきた。ところがイッシーで面白いことがあった。当時陸軍御用商人ブゥルガンの所有だった公園ビヤン・ナシォナルは、偶然にもすっかりひらかれていた。彼らは門をはいって、洞窟《どうくつ》のなかの人形の隠者《いんじゃ》を見、有名な鏡の間の不思議な仕掛けをためしにいった。また彼らはベルニス修道院長が祝福した二本の栗の木にゆわえられている、大きな綱のぶらんこをはげしくゆすった。トロミエスが美人連をかわるがわるぶらんこにのせてゆすると、ちょうどグルーズの好んで描いた絵のようにそのすそがまくれたので、みんなはどっとはやしたてた。
ただファンティーヌだけはぶらんこにのらなかった。
「あんなふうに気どってるの、あたしは大きらい」とファヴォリットがしんらつにつぶやいた。
ろばからおりたのちも、やはり面白いことばかりつづいた。彼らは船でセーヌ河をわたり、パッシーから歩いてエトアール市内までいった。彼らは朝の五時から起きでてきてたのだ。
「なあに、日曜にはくたびれることなんかないわ」とファヴォリットがいった。「日曜には、くたびれるほうもお休みだわ」
そして三時頃に、楽しみに夢中になってる四組の男女はロシヤ山をかけおりた。ロシヤ山というのは、当時ボージョンの丘にたっていた奇妙な建物で、シャンゼリゼの並木の上に、その波状をした線がみえていたものである。
ところで、みんながこうして遊びに夢中になっているうちにも、ときどきファヴォリットが大きな声で叫んだ。
「で、びっくりするようなものって、なあに? あたし、はやく知りたいわ」
「まあお待ちよ」とそのたびに、トロミエスが答えていた。
ロシヤ山を遊びつくしてから、彼らは夕食のことを考えた。そして陽気な八人も、ついにすこし疲れをおぼえて、ボンバルダ料理店へ引きあげた。
食卓での雑談、恋のささやき。いずれおとらずとらえがたいものである。恋のささやきは雲であり、食卓の雑談は煙である。
ファムイユとダーリアとは鼻歌を歌っていた。トロミエスは酒を飲んでいた。ゼフィーヌは笑い、ファンティーヌはほほ笑《え》んでいた。リストリエはサン・クルーで買った木のラッパを吹いた。ファヴォリットはやさしくブラシュヴェルをながめていった。
「ブラシュヴェル、あたし、あんたをほんとに愛しててよ」
その言葉がブラシュヴェルの質問をひきだした。
「もしぼくがお前を愛さなくなったら、ファヴォリット、お前はどうするんだい」
「あたし!」とファヴォリットは叫んだ。「ああ、そんなことおよしなさいよ、冗談にも! もしあんたがあたしを愛さなくなったら、あたし追っかけて、しがみつき、ひっとらえて水をぶっかけてやるわ、警察につきだしてやるわ」
ブラシュヴェルは自尊心をくすぐられた男のように、うれしそうににやりと笑った。ファヴォリットはまたいった。
「ええ、警察にどなりこんでやる。ほんとにいやんなっちゃうわ。にくらしい!」
ブラシュヴェルはうっとりとして、椅子《いす》にぐっと身をそらせ、得意そうに両の眼をとじた。
ダーリアは食べながら、そのさわぎのなかで声をひそめてファヴォリットにいった。
「じゃ、あんたはほんとにあの人に首ったけなの、ブラシュヴェルに?」
「あたし、あの人、大きらいよ」とファヴォリットはフォークをとりあげながら、同じように低い声で答えた。
「あの人、とても|けち《ヽヽ》よ。それよりあたし、うちのむこうにいる、可愛いい男が好きなの。若いんだけど、そりゃあ立派よ。あんた知ってて? 見たところ、なんだか俳優のようだわ。あたし俳優って大好き。その男が帰ってくると、そのお母さんがいうのよ、ああ、うるさいことだ、またわめきたてるんだから、頭がわれそうだって。鼠のはうようなきたないうちなのよ、まっ暗な小さな家よ、とても高いところにあるの。そのうちのなかで、うたったり、|せりふ《ヽヽヽ》をよんだりするんだけど、なにがなんだかわかりゃしない、ただ声だけがきこえてくるだけよ。代言人のとこへいって裁判のことを書くんで、今でも日に二十スーとかもらうんだって。サン・ジャック・デュ・オー・パのもとの聖歌隊員の息子なのよ。ほんとにきれいよ。あたしに夢中なの。ある日なんか、パンケーキの粉をねってるあたしを見ていったわ、お嬢さん、あなたの手袋の揚《あ》げ菓子をつくってくれたら、ぼくがたべてあげますよって。ほんとに、あんなすてきなお世辞は芸術家でなくっちゃいえやしないわよ。そりゃあ、いい男よ。どうやらあたしも夢中になりそうだわ。でもどうだっていいわ、あたしブラシュヴェルに、あんたに惚れてるっていっておくの。あたし嘘《うそ》がうまいでしょ、ね、じょうずでしょ!」
ファヴォリットはちょっと言葉をきって、それからまたつづけていった。
「ダーリア、ねえあたしつまんないわ。夏じゅう雨ばかりだし、いやあな風が吹くし、風はなんのたしにもならないしね、ブラシュヴェルはすごく|けち《ヽヽ》だしさ。市場にはめったにグリーンピースがないんで、なにをたべたらいいかわかりゃしない。イギリス人がいうように、ほんとうに、あたし憂うつを感じるわ。バターはひどく高いしね、それにどう、あたし達、寝台のそばで食事をしてるんだもの。ほんとに世の中がいやになっちゃうわ」
一人がうたえば、他の一人がやかましくしゃべりたて、それがまたときどき一緒《いっしょ》になって、ただもう大変なさわぎだった。
ファヴォリットは、両腕をくんで頭をうしろにさげ、じっとトロミエスを見つめていった。
「さあ! びっくりするようなことは?」
「そうだ。いよいよ、その時がきた」とトロミエスは答えた。「諸君、このご婦人たちをびっくりさせる時がやってきたんだ。ご婦人諸君、しばらくわれわれを待っていてくれたまえ」
「まずキスからはじまるんだ」とブラシュヴェルがいった。
「額《ひたい》にだぜ」とトロミエスがつけ加えた。
みんなおごそかに、それぞれ自分の女の額にキスをあたえた。それから口に指をあてながら、四人ともつづいて扉のほうへ行った。
ファヴォリットは彼らが出てゆくのを見て手をたたいた。
「そろそろ面白くなってきたわ」と彼女はいった。
「あまりながくかかっちゃいやよ」とファンティーヌが小声でいった。「みんな待ってるから」
三
あとに残された若い娘たちは、二人ずつ一緒になって窓の手すりにもたれながら、首をかがめ、窓から窓へ言葉をかわして、なおしゃべっていた。
彼女たちは四人の青年がたがいに腕をくみながら、ボンバルダ料理店から出てゆくのを見た。
「ながくかかっちゃいやよ!」とファンティーヌは叫んだ。
「なにをもってきてくれるんでしょう」とゼフィーヌがいった。
「きっと、きれいなものよ」とダーリアはいった。
「あたし」とファヴォリツトはいった。「金でできたものがいいわ」
だが彼女たちはまもなく、川縁《かわべり》のどよめきのほうに気をとられてしまった。
ちょうど郵便馬車と駅馬車が出かけるところだった。南と西とへ大ていの馬車は、当時シャンゼリゼを通っていったものである。その多くは河岸にそって、パッシーの市門から出ていった。黄色や黒にぬられ、おもおもしく荷をつんで、多くの馬にひかれ、行李《こうり》やシートの包みや鞄《かばん》などのため、変な形になり、客をいっぱいのみこんでいる馬車がつぎつぎに、道路をふみならし、敷石に鍛冶《かじ》場のように火花をちらし、ほこりをまきあげ、おそろしい勢いで群集のあいだを走っていった。そのさわぎが若い娘たちをよろこばせた。ファヴォリットが叫んだ。
「なんていうさわぎなんだろう! 鎖《くさり》の山がとんでゆくみたいだわ」
ところが、さっき|にれ《ヽヽ》の木の茂みのなかにわずかに見えていた一匹の馬が、ちょっと足ぶみしてからまたかけだした。ファンティーヌそれを見てびっくりした。
「変だわ!」と彼女はいった。「あたし、駅馬車は途中でとまるもんじゃないと思ってたわ」
ファヴォリットが肩をそびやかした。
「ファンティーヌって、ほんとにひとをびっくりさせるわね。おかしな人ね。ちょっとしたつまらないことにもすぐにびっくりするんだもの。たとえばあたし旅行するとするでしょう。駅馬車にこういっておくのよ、先に行ってるから通りがかりに河岸のところでのせておくれって。するとその駅馬車が通りかかって、あたしを見つけると、とまって、のせてくれるのよ。毎日あることよ。あんたってほんとに世間しらずなのね」
そんなことをしているうちにしばらく時がたった。と突然ファヴォリットが、急に眼でもさましたとでもいったような恰好《かっこう》をした。
「ところで」と彼女はいった。「びっくりすることはまだかしら」
「そうそう」とダーリアがいった。「例のびっくりすることだったわね」
「あの人たち、ずいぶんおそいわね!」とファンティーヌがいった。
ファンティーヌがこういって、しばらくしてため息をもらしたとき、さっき食事の際、そばについていたボーイがはいってきた。なにか手紙らしいものを手に持っていた。
「それなあに!」とファヴォリットがたずねた。
ボーイは答えた。
「みなさまへといって旦那様方が置いてゆかれた書きつけです」
「なぜすぐにもってこなかったの」
「旦那方が」とボーイはいった。「一時間たってからでないと、渡してはいけないとおっしゃったものですから」
ファヴォリットはボーイの手からその紙片をひったくった。それははたして一通の手紙だった。
「おや!」と彼女はいった。「宛名がないわ。でもこう書いてあるわ」
びっくりすることとはこれである。
彼女は急いで封をきり、それをひらいて読みはじめた。(彼女は字がよめるのだった)
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愛する恋人たちよ!
われわれに両親のあることはご承知であろう。両親、あなたがたはそれがいかなるものかよくご存知ではあるまい。幼稚で正直な民法では、それを父および母とよんでいる。ところが、彼ら両親は悲嘆《ひたん》にくれ、彼ら老人はわれわれに哀願《あいがん》し、それら善良な男女はわれわれを放蕩息子《ほうとうむすこ》とよび、われわれの帰省をねがい、われわれのために子牛を殺してご馳走しようといっている。われわれは徳義心深いがために、彼らの言葉にしたがうことにした。あなたがたがこれを読まれる頃には、五頭の威勢のいい馬がわれわれを父母のもとへはこんでいるだろう。ボシュエがいったように、われわれは退陣する。われわれは出発する、いや、もう出発したのである。われわれはラフィットの腕にだかれ、カイヤールの翼にのって逃れるのである。われわれは社会のなかに、義務と秩序のうちに、一時間三里をゆく馬にのって矢のようにもどるのだ。県知事、一家の父、野原の番人、国会議員、その他すべての世間の人のように、われわれの存在もまた祖国に必要である。われわれを尊敬されよ。われわれは自己を犠牲にするのだ。急いでわれわれのために泣き、そのあとすぐに、|あとがま《ヽヽヽヽ》をもとめられよ。もしこの手紙があなたがたの胸をはり裂けさせるなら、またこの手紙をも裂かれんことを。さらば。
およそ二年のあいだ、われわれはあなたがたを幸福にした。それについてはぼくたちを怨《うら》み給うな。
ブラシュヴェル
ファムイユ
リストリエ
トロミエス
追白《ついはく》、食事の払いはすんでいる。
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四人の若い娘はたがいに顔を見あわせた。
ファヴォリットがだいいちに、その沈黙をやぶった。
「なるほどね。とにかく面白い狂言だわ」
「おかしなことだわ」とゼフィーヌはいった。
「こんなことを考え出したのは、ブラシュヴェルにちがいないわ」とファヴォリットがいった。
「そう思うとあの男が好きになったわ。いなくなると恋しくなる、まあそうしたものね」
「いいえ」とダーリアはいった。「これはトロミエスの考えたことだわ、うけあいよ」
「そうだったら」とファヴォリットはいった。「トロミエスばんざいだわ」
「トロミエスばんざい!」とダーリアとゼフィーヌが叫んだ。そして彼女たちは笑いこけた。
ファンティーヌも一緒になって笑った。しかし、一時間後に自分の部屋に帰ってから、ファンティーヌは泣いた。前にもいったように、それは彼女の初恋だった。そして、夫に対すると同じように、トロミエスに身をまかせていた。そればかりか、このあわれな娘には、すでにひとりの子供ができていた。
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第四章 委託は時に放棄となる
一
パリの近くのモンフェルメイユというところに、今はもうなくなったが、十九世紀のはじめの頃、一軒の飲食店らしきものがあった。テナルディエという夫婦がだしていたもので、ブーランジェ小路にあった。戸口の上のほうには、壁にたいらに釘づけにされた一枚の看板がみられた。看板にはひとりの男が他のひとりの男を背負っているようにみえる絵がかいてあった。背中の男は、大きな銀の星がついてる将官のふとい金モールの肩章をつけていた。血を示す赤い斑点《はんてん》がいくつもつけられている。画面のほかの部分は、一面に煙で、たぶん戦争を示したものだろう。下のほうにはつぎのごとき銘《めい》がよまれた。「ワーテルローの軍曹へ」
旅籠屋《はたごや》の入口に箱車や手車があるのは、いかにも普通のことである。が、一八一八年の春のある夕方、ワーテルローの軍曹の飲食店の前の通りをふさいでいた馬車は、なおくわしくいえばそのこわれた馬車は、いかにも大きくて、もし画家でも通りかかったらきっと注意をひくだろうと思われるほどだった。それは森林地方で厚板《あついた》や丸太をはこぶのに使われる荷馬車の|まえ《ヽヽ》車だった。
なぜそんな荷馬車の|まえ《ヽヽ》車がそこの小路に置かれているのかというと、第一に往来をふさぐためで、第二には錆《さ》びさせてしまうためだった。昔の社会にはいろいろな制度があって、そんなふうに、風雨にさらして通行のじゃまをするのがいくらもあった。そしてそれもほかにはなんの理由もなかったのである。
さて、その鎖のまん中が、心棒の下の地面近くまでたれさがっていた。そして、そのたるんだところに、ちょうどぶらんこにでものるみたいに、二人の小さな女の子が腰をかけてうれしそうによりそっていた。ひとりは二才半、ひとりは一才半くらいで、小さいほうの子は大きいほうの子の腕にだかれていた。うまくハンカチをむすびつけて二人が鎖から落ちないようにしてあった。
二人の子供は、気のきいたきれいな身なりをさせられて、生き生きとしていた。まるで錆《さ》びついた鉄のなかに咲いた二つのバラのように、二人は眼をかがやかせ、みずみずしい頬《ほお》に笑いをうかべていた。年下の子は、可愛らしいおなかをあらわにみせていたが、その不作法さもかえって幼児の聖《きよ》らかさを感じさせた。そこから数歩はなれて、宿屋のしきいのところに、あまり人好きのしない顔だちの母親が、鎖につけたながい紐《ひも》で二人の子供をゆすりながら、母親に特有の動物的で同時に天使のような表情をうかべ、なにか危険なことが起りはしないかと気づかいながらみまもっていた。
彼女は二人の子供をゆすりながら、当時、はやっていた有名な恋歌を調子はずれの声で低くうたっていた。
余儀《よぎ》なし、と勇士は言いぬ……
歌をうたいながら、子供を見まもっていたため、彼女には小路で起っていることが聞えも見えもせず、なにもわからなかった。
ところが、伎女がその恋歌のはじめの一節をはじめたとき、誰かが彼女のそばにきていたのだった。突然、自分の耳もとにひとの声を彼女は聞いた。
「まあ、可愛いいお子さんですこと」
みると、ひとりの女が彼女からすぐ二、三歩のところに立っていた。その女もひとりの子供を腕にだいていた。
女はそのほかに、ずいぶん重そうにみえる大きな旅行|鞄《かばん》を持っていた。
その女の子供は、おそらくこの世でみられる、もっとも聖《きよ》い姿をしたもののひとつだった。二つか、三つの女の子だった。身なりのきれいなことも宿屋の子供におとらなかった。上等のリンネルの帽子をかぶり、着物にはリボンをつけ、帽子にはレースをつけていた。頬《ほお》はリンゴみたいで、くいつきたいほどだった。だが、その眼は、きっと大きな、みごとな睫毛《まつげ》をしてるだろう、と想像する以外にはなんともわからなかった。子供は眠っていたのである。
母親のほうは見たところ貧しそうで、また悲しげだった。もとの百姓にかえろうとしているような女工らしい服装をしていた。まだ若かった。あるいはきれいな女だったかもしれないが、服装ではそうはみえなかった。ほつれさがってる一房《ひとふさ》の金髪からみると、髪はいかにも豊かそうにみえたが、あごで結びつけた尼のような帽子のために、すっかりかくされていた。美しい歯があれば笑うたびに見えるのだが、その女はすこしも笑わなかった。眼はずいぶん前から涙のかわくまもなかったようにみえた。顔は蒼《あお》ざめている。疲れきって病気でもしてるようなふうである。彼女は、腕のなかに眠ってる女の子を、子供を育てたことのある母親の、独特な顔つきをしてのぞきこんでいた。手は陽《ひ》にやけて、茶褐色の斑点がうきだし、食指《しょくし》は固くなって、針をもった傷あとがついていた。
それはまさしくファンティーヌだった。しかし、ちょっと見には、とてもそうとは思えなかったが、よく注意してみれば、彼女はまだあの時の美しさを身につけていた。あの「面白い狂言」から十カ月が過ぎ去った日のことだった。
その十カ月のあいだに、どんなことが起ったか? それは想像にかたくない。捨てられたあとの苦境。ファンティーヌはすぐにファヴォリットたちとも別れ別れになってしまった。男たちのほうからの綱が切れれば、女たちの結び目もとけてしまう。もし半月も過ぎてから、お前たちはおたがいに友だちだったといわれたら、彼女たちはきっとびっくりしただろう。ファンティーヌはまったくの孤独になってしまった。それに労働の習慣はうすらぎ、快楽への好みは増していた。
ファンティーヌには金をうる途《みち》がなかった。彼女はどうかこうか字は読めたが、書くことができなかった。彼女は代書人に頼んでトロミエスに手紙を書いてもらった。それから第二、第三と手紙を書いてもらった。が、卜ロミエスからはなんの音沙汰《おとさた》もなかった。彼女はその男のことで心を暗くした。彼女は、もはや誰に訴えるすべもなかった。大変な失敗だった。しかし、読者も知るとおり、彼女の心は純潔で貞淑《ていしゅく》だった。彼女は漠然《ばくぜん》と自分が破滅のうちにおちいりかけてること、いっそう悪い境遇にすべりこみかけてることを感じた。
勇気が必要だった。彼女は勇気をもっていた、そして意地を張った。生まれ故郷の、モントルイユ・シュル・メールの町に帰ってみようという考えがふとうかんだ。そこへゆけばたぶんだれかが自分を見知っていて、仕事をあたえてくれるだろう。だが自分のあやまちをかくさねばならない。そしてそのためには、彼女は男との別れよりさらにつらい別れをしなければならないだろうということを、ぼんやりとながら感じていた。
彼女は自分自身の華美はしりぞけて麻の着物を着、絹ものや飾りやリボンやレースなどはみんな小さな娘に着せてやった。それは彼女に残っていた、ただひとつの見栄《みえ》であり、それはきよい見栄だった。彼女は自分のものはみんな売り払って、二百フランをえた。が、こまごました負債を払ってしまうと、八十フランばかりしか残らなかった。二十二才の年で、春のある美しく晴れた日の朝、背中に子供をおってパリをあとにしたのである。そうやって子供と二人で歩いてゆくのを見たものがあったら、きっと憐れに思ったろう。その女は世の中に子供のほかには、なにももたなかった、そしてその子供は世の中にその女以外になにももたなかった。ファンティーヌはその女の子に自分で乳をあたえ、そのため胸部を疲らせ、すこし咳《せき》をしていた。
彼女は身体を疲らせないように、一里四スーのわりで、ときどき、当時パリ近郊の小馬車といわれてた馬車にのったので、その日の正午頃には、モンフェルメイユのブーランジェの小路にさしかかった。
テナルディエ飲食店の前を通りかかったとき、あの二人の女の子がぶらんこにのってよろこんでるのを見て、彼女は心をうたれ、その楽しそうな様子にみとれて立ちどまったのだった。人の心をひきつけるものはいくらもある。二人の女の子は、母なるファンティーヌにとっては、その心をひくもののひとつだった。
彼女は心を動かされて、二人の女の子を見まもった。天使のいるのは楽園の近いことを示す。彼女はその飲食店の上に、神の手でかかれた不思議な|此の処《ヽヽヽ》という文字を見るような気がした。二人の女の子はいかにも幸福そうだった。で、彼女の口から前にいったつぎの言葉が自然に出てきたのだった。
「まあ、可愛いいお子さんですこと!」
どんなにたけだけしい動物でも、自分の子供を可愛がられるとおとなしくなるものである。母親は顔をあげて礼をいった。そして、自分はしきいの上に腰掛けていたので、その通りがかりの女を戸口の腰掛にすわらせた。
「あたしはテナルディエの家内《かない》なんです」と二人の子供の母親はいった。「私どもはこの飲食店をやっていましてね」
それからまた、例の恋歌にかえって、口のなかでうたった。
余儀《よぎ》なし、われは、勇士なれば……
そのテナルディエの家内というのは、ふとった角ばった赤毛の女だった。その不恰好《ぶかっこう》な様子はちょうど女兵隊という型だった。そして変なことには、小説を読みすぎたためか妙に|ぶって《ヽヽヽ》いた。まだ若くて、やっと三十になるかならない年頃だった。もし彼女がそこに腰掛けていなくて立っていたら、その高い背丈《せたけ》と、市場でもうろついていそうな大きな肩幅は、おそらくはじめから旅の女をおどろかせ、警戒させて、われわれがこれから語るようなことは起らなかっただろう。ひとりの女が立っていないですわっていた、ただそれくらいのことに運命の糸はからむのである。
旅の女はすこし手加減《てかげん》して身の上を語った。
女工であったこと、夫が死んだこと、パリで仕事がなくなったこと、仕事をさがしに出かけること、自分の故郷へゆくこと、子供は少しは歩けるが年もゆかないので、ながくは歩けないこと、抱いて歩かねばならなかったこと、そのため、子供はいつか眠ってしまったことなどを話した。
そして、そういって彼女は子供に熱い接吻をしたので、子供は眼をさました。子供は眼をひらいた。母親のような青い大きな眼だった。そしてみた、なにを? なにかを。そして、またすべてを、小さな子供に特有なまじめな、またときとして|きつい《ヽヽヽ》まなざしで。
それからその女の子は笑いだした。そしていくら母親がひきとめても、|しゃにむに《ヽヽヽヽヽ》地面に滑《すべ》りおりてしまった。
テナルディエのおかみさんは、二人の子供をぶらんこからおろしてやり、そしていった。
「三人でお遊びよ」
そのくらいの年頃には、すぐに仲良しになってしまうものである。まもなくテナルディエの二人の子供は、新らしく来た子供といっしょに地面に穴を掘って遊んだ。とても楽しそうだった。
新らしく来た子供はとても快活そうだった。母親の善良さはその子供の快活さのうちに現われる。子供は木の一片を拾ってきてそれをシャベルにして、|はえ《ヽヽ》くらいの小さな穴を元気そうに掘った。墓掘り人夫のするようなことも、子供がすると可愛ゆくなる。
二人の婦人は話をつづけていた。
「あなたのお子さんの名は?」
「コゼットといいます」
ほんとうの名はウューフラジーだった。しかし母親はコゼットにしてしまった。母親や民衆のやさしい本能からである。
「おいくつですか」
「じき三つになります」
「うちの上の子とおなじですね」
そのうちに三人の女の子は一緒に集まって、ひどく気をひかれてうっとりしてる様子だった。一大事件が起ったのである。大きなトカゲが地面の下から出てきたので、それに見とれているのだった。子供たちのかがやいた額《ひたい》はくっつきあっていた。それはまるで一つの後光のうちにある三つの頭のようだった。
「子供はほんとにすぐ仲よくなるものですね」とテナルディエのかみさんが叫んだ。「あんなにしてると、まるで三人の姉妹のようですわ」
その言葉はおそらく旅の母親がまち受けていた火花だった。彼女はおかみさんの手をとり、その顔をじっと見つめていった。
「わたしの子供をあずかっていただけませんか」
テナルディエのかみさんは承知とも不承知ともつかない、びっくりしたような身振りをした。
コゼットの母親はつづけていった。
「ねえ、わたしは娘を故郷へつれてゆくわけにはゆきませんの。それでは仕事ができませんもの。子供づれでは仕事の|くち《ヽヽ》がみつかりません。あちらの人はほんとに変なんですの。わたしがお店の前を通りかかったのは神様のお引きあわせですわ。わたしはお子さんたちのあんな可愛くきれいで楽しそうなところを見まして、ほんとに心をうばわれてしまいました。ああ、いいお母さんだわ、そうだ、わたしの子供も一緒だったら、三人姉妹のようにみえるだろうと思いましたわ。それに、わたしはすぐにもどってまいります。子供をあずかっていただけませんでしょうか?」
「考えてみましてから」とテナルディエのかみさんはいった。
「月に六フランさしあげますから」
そのとき、店の奥から別の声がひびいてきた。
「七フランより少なくちゃいかん。それに、六カ月分前払いでなけりゃ」
「六七、四十二」とテナルディエのかみさんはいった。
「それをさしあげますから」と母親はいった。
「そのほかに、支度金に十五フラン」と男の声はつけ加えた。
「全部で五十七フラン」とテナルディエのかみさんはいった。彼女はその数字をいった口からすぐに、またなんとなしにうたいだした。
余儀《よぎ》なし、と勇士は言いぬ……
「さしあげますとも」と母親はいった。「八十フランもっていますから。それでも|くに《ヽヽ》へゆけるだけは残りますもの、歩いてさえゆけば。あちらへいったらお金を儲《もう》けまして、少しでもたまったら子供をつれにまたもどってまいります」
男の声がまたひびいた。
「その子は着物はもってるね」
「あれはあたしの亭主ですよ」とテナルディエのかみさんはいった。
「ええ、着物はありますとも。大事な子供ですもの――わたしは、あなたの旦那さんだとわかっていましたわ──それも上等の着物なんです。みんなわたしの旅行|鞄《かばん》のなかにあります」
「それを置いてゆかなくっちゃいかんよ」と男の声がした。
「ええあげますとも!」と母親はいった。「子供を裸で置いてゆくなんて、それこそとんでもないことですわ」
主人の顔がそこに現われた。
「じゃ、よろしい」と彼はいった。
取引きはきまった。母親は一晩その宿屋ですごし、金をあたえ、子供を残し、子供の衣類を出してしまって軽くなった旅行鞄の口をしめ、その翌朝、いずれ近いうち、またすぐに帰ってくるつもりで出かけていった。
テナルディエの近所のひとりの女が、たち去ってゆくその母親に出会った。そして帰って来ていった。
「通りで泣いてる女を見ましたけど、可哀そうでたまりませんでしたよ」
コゼットの母親が出発してしまったとき、亭主は女房にいった。
「これであした、期限つきの百十フランの手形が払える。五十フランだけ、たりなかったんだ。執達吏《しったつり》と拒絶証書とをさしむけられるところだった。うまくお前は子供で|わな《ヽヽ》をかけたもんだ」
「べつにそういうつもりでもなかったのさ」と女房はいった。
二
繁昌《はんじょう》するには悪人であるだけではたりない。この飲食店の経営はすでにうまくいっていなかったのである。旅の女からまきあげた五十七フランのおかげで、テナルディエは拒絶証書をさけることができ、契約を履行《りこう》することができたが、翌月彼らはまた金の必要ができて、かみさんはコゼットの衣類をパリにもってゆき、公益質屋に入質して六十フランをつくった。その金がまた、なくなってしまうと、テナルディエ夫婦はその小さな女の子を、慈善のために置いてやっているというような気になり、それにつれてあつかい方も変ってきた。その子供にはもう衣類もなくなったので、テナルディエ夫婦は自分の子供たちの古いスカートや、おふるのシャツなどを着せたが、もちろんそれは|ぼろ《ヽヽ》衣だった。食べものといえば、みんなの食い残しを食べさせ、犬猫同様のあつかいだった。事実、彼女は犬猫とおなじような木の皿で彼らと一緒に食卓の下で食事をした。
母親は、あとでまたのべるが、モントルイユ・シュル・メールに落ちついて、子供の消息を知ろうとして毎月手紙を書いた。もっと正確にいえば、書いてもらった。テナルディエ夫婦はそれにいつもきまって、こう答えた。「コゼットはすてきな暮しをしている」
はじめの六カ月が過ぎると、母親は七カ月目の七フランを送り、それからもかなり正確に月々の義務をはたした、一カ年もたたないうちにテナルディエはいった。「ありがたい仕合《しあわ》せだ! 七フランばかりでどうしろというのだ」そして彼は手紙をやって十二フランを請求した。子供は仕合せで、「うまくいってる」といわれたので、母親はその要求をいれて十二フランずつ送ってよこした。
一方を愛せば必ず他方を憎むような性質の人がいる。テナルディエのかみさんは、自分の二人の女の子をひどく可愛がったので、そのために他人の子を憎んだ。母親の愛にもいやしい面があるというのは、思ってもなげかわしいことである。コゼットはその家ではごく少しの場所をしめるばかりだったが、テナルディエのかみさんにとっては、それだけ自分の子供たちの地位が奪われ、また自分たちの呼吸する空気がへらされるように思われるのだった。彼女はそういった性質の多くの女とおなじく、日々一定量の愛撫《あいぶ》をあたえ、同時にまた一定量の打《ぶ》ったり、ののしったりをしないと気がおさまらなかった。もしコゼットがいなかったなら、二人の子供はどんなに可愛がられたにしても、きっとその両方を受けたことだろう。しかし他人の子供が彼女たちのかわりに、ぶたれる役をひき受けてくれた。二人の子供は愛撫ばかりを受けた。コゼットはなにをしても必ず不当なはげしい叱責《しっせき》を頭上にあびた。世間のことはなにも知らず、また神のことも知らないそのよわよわしいやさしい子供は、自分とおなじような二人の小さな子供が、|あけぼの《ヽヽヽヽ》の光のなかに生きているのをそばに見ながら、たえず罰せられ叱られ虐待《ぎゃくたい》され、そして打たれていた。
テナルディエのかみさんがコゼットにつよくあたっていたので、娘のエポニーヌとアゼルマも彼女に意地が悪かった。その年齢の子供たちは母親のひな形にすぎない。ただ形が小さいだけのものである。
一年が過ぎ去った。そしてまた一年。
村ではこんなことがいわれていた。
「テナルディエ夫婦は感心だ。あそこへ捨ててゆかれたあわれな子供を育ててやってる」
コゼットは母親に捨てられたのだと思われていた。
テナルディエは、どういう方面からさぐったのかわからないが、子供はたぶん私生児であって、母親はそれを公《おおやけ》にすることができないのだということを知っていた。そこで「餓鬼《がき》」も大きくなって、「沢山食う」ようになったから月に十五フラン送れ、でなければ子供を送り返すといっておどした。彼は叫んだ。
「女に勝手にされてたまるもんか。秘密にして隠していやがるところへ子供をたたきつけてやるだけだ。も少し金を出さなきゃあ、置いてやらねえぞ」
母親は十五フランずつの金を送ってくるようになった。
年々に子供は大きくなっていったが、苦しみもそれにつれて増していった。コゼットは小さいときには、ほかの二人の子供の苦しみの身代りをつとめ、大きくなってくると、それもいいかえれば、五つにもならないうちに、彼女は女中となってしまった。
五つでそんなことがあるものか、という人があるかもしれない。が悲しいかな、それは事実である。世の中の苦しみは何才からでもはじまる。孤児で泥棒になったデュモラールという者の裁判が最近にあったではないか。法廷の記録によれば、はや五才のときから彼は世の中にただひとりだった、そして「生活のために働き、そして窃盗《せっとう》をなしていた」
コゼットはいいつけられて使い歩きをし、部屋や庭や往来の掃除をし、皿を洗い、荷物運びまでした。テナルディエ夫婦は、モントルイユ・シュル・メールにいる母親からの支払いが、思わしくなくなりはじめたため、ますますそんなふうにコゼットを扱うことを当り前のことのように考えるにいたった。
もし、コゼットの母親が、あれから三カ年ののちにモンフェルメイユに帰って来たとしても、もう自分の子供を見わけることはできなかったろう。はじめてテナルディエの家に着いたときには、あれほど生き生きとしていたコゼットは、今は、やせ衰えてあおざめていた。
不正は彼女をひねくれた性質にし、不幸は彼女を醜《みにく》くした。以前の面影《おもかげ》はただ美しい眼が残っているだけだったが、それはかえって痛ましい感じをひとにあたえた。大きい眼だったのでいっそう多くの悲しみがそのうちに見えるようだった。
その土地ではコゼットのことを雲雀《アルーエット》と呼んでいた。綽名《あだな》の好きな世間の人々は、その名を小さな女の子につけてよろこんだ。小鳥くらいの大きさで、ふるえ、恐れ、おののき、毎朝その家でもまた村でも一番に起きあがり、いつも夜の明けないうちに往来や畑に出ていたのである。ただ、そのあわれなアルーエットは決して歌わなかった。
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第五章 転落
一
テナルディエの家に小さなコゼットを預けてから、ファンティーヌは旅をつづけて、モントルイユ・シュル・メールに着いた。
それは読者の記憶するとおり、一八一八年のことである。
ファンティーヌはもう十年も前にその故郷を出たのだった。ファンティーヌがしだいに困窮《こんきゅう》へとおちいっていったあいだに、その町は栄えていった。
いつ頃からか、昔からモントルイユ・シュル・メールには、イギリスの黒玉とドイツの黒ガラスとをまねて製造する特殊な工業があったが、原料高がブレーキとなって、いつまでもあしぶみ状態をつづけていた。ファンティーヌがそこに帰った頃には異常な変化がその「黒い装飾品」の製法に起っていた。一八一五年の末に、ひとりのあるよそ者がやってきて、町に住みつき、その製法にふとある考案をめぐらして、樹脂のかわりに|うるし《ヽヽヽ》を使い、今までの|はんだづけ《ヽヽヽヽヽ》の鉄環のかわりにただはめこみの鉄環を使った。ただそれだけのことが、大変な革命をひき起したのである。それは実際、原価をいちじるしく低下させた。そのため第一、働く者たちの賃金を高く払ってその地方の利益となり、第二にはその製造法を改善して購買者《こうばいしゃ》のためにはかり、第三には多く儲《もう》けながら、なお安く売ることができて製造者側の利得ともなった。三年もかからないうちに、その製法の考案者はありがたいことに金持となり、なお結構なことに周囲の人々をも金持にした。彼はその地方の人ではなかった。誰も彼がどこの生まれだかも知らなかったし、やって来た当時、彼はあまりひとの注意をひかなかった。
ひとの噂《うわさ》によれば、彼は数百フランくらいのはした金を持って町にやって来たという。
たしか、十二月のある夕方、背嚢《はいのう》を負《お》い、手に大きな杖をついてこっそりモントルイユ・シュル・メールの小さな町にはいってきたとき、ちょうど大火が町の役所に起った。その男は焔《ほのお》のなかにとびこんで、身の危険をもかえりみないで二人の子供を助け出した。それは憲兵の隊長の子供だった。そのため彼の通行券を調べてみようとする人もなかった。そのことがあってから彼の名前が人々に知れた。それはマドレーヌさんというのだった。
その男はおよそ五十才ばかりで、いつもなにかに気をとられてるようなふうをしていたが、親切だった。彼についていえることはただそれだけだった。
彼がたくみに改良してくれたその工業の急速な進歩のおかげで、モントルイユ・シュル・メールは全国でも主要な産業中心地となった。まがい黒玉を多く消費するスペインからは、毎年|莫大《ばくだい》な註文があった。取引きの点では、その町はロンドンやベルリンなどと肩をならべるまでになった。マドレーヌさんの利益は相当なもので、二年目には、男女のためにそれぞれ広い仕事場のついた大きな工場をたてるまでになった。飢えたものはその工場に行きさえすれば、きっと仕事とパンがえられるのだった。彼は男には善良な意志、女には純潔な風儀、そしてすべてのひとに誠実であることをもとめた。
彼は男と女の仕事場を二つにわけた。それは女たちに貞節を守らせるためだった。彼がいくらかきびしかったのは、ただその点についてだけだった。モントルイユ・シュル・メールは兵営のある町で、風俗のみだれる機会が非常に多かったので、なおいっそう彼は厳格にしたのだった。とにかく彼がそこに来たことはひとつの恩恵であり、彼がそこにいることは天の賜物《たまもの》だった。そして、町の人たちの間には仕事がなくて困ってる者や、貧乏な者などだれもいなくなった。どんなぼろぼろの財布《さいふ》にも金のないことはなく、町のどんな憐れな家にもなんらかのよろこびがないことはなかった。
マドレーヌさんはどんな人でも使った。彼はただひとつのことしか要求しなかった。すなわち、正直な人であれ! 正直な娘であれ! ということだった。普通の商人としてはかなり妙なことだが、金を儲《もう》けることだけが彼のおもな目的とはみえなかった。他人のことばかり考えて、自分のことはあまり考えないように思われた。一八二○年には、ラフィット銀行へ自分の名義で六十三万フランの金を預けていたそうだが、それだけの金を預金する前には、町のためや貧しい人のためにすでに自分の金を百万フラン以上も使っていたのである。
町の病院は設備が非常に悪かったので、彼はそこに十個のベッドを寄付した。モントルイユ・シュル・メールの町は山の手と下町とにわかれていて、彼が住んでいた下町には学校がただひとつしかなく、それもこわれかけた、ひどい破屋《あばらや》だった。で彼は二つの学校をたてた、ひとつは男の子のために、もうひとつは女の子のために。そして、両方の教師に政府からもらえる薄給の二倍の給料を自分の金で払ってやった。これにおどろいたある人たちにむかって彼はこういうことをいったそうである。「国家の一番重要な官吏というのは、保母《ほぼ》と教師との二つです」自分の金で彼はまた、当時ほとんどフランスに知られていなかった幼稚園をたて、また老衰した労働者や、身体のきかない労働者のために救済基金を出した。彼の製作所はひとつの中心をなしていたので、沢山の貧しい家族たちが住む新らしい街区が、そのまわりにすぐにできてしまった。彼はそこにまた無料の薬店をたててやった。
はじめのうちは、彼が仕事をやりだすのをみて、口さがない人々はいった。「金|儲《もう》けをたくらんでる豪気な男だな」ところが自分で金をためる前に、その地方を豊かにしてやってるのをみて、彼らはまたいった。「ははあ、野心家だな」それがある点まであたっているらしく思われたのは、彼が宗教を信じていて、当時いいことだとされていた教義をある程度までまもっていたからである。彼は日曜日には必ず小ミサを聞きに教会に出かけていった。いたるところに競争心をかぎつけるその地方のある代議士は、やがて彼の信仰に不安をおぼえだした。その代議士はもと帝政時代の立法部の一員で、彼がその子分でまた友だちであったオトラント公爵、すなわちフーシェという名前で世に知られているオラトワール派の一長老と、宗教上の意見を同じくしていた。内々で彼は神のことをそれとなく笑っていた。しかし金持ちの工場主マドレーヌが七時の小ミサに行くのをみて、自分の競争者があらわれたように思い、マドレーヌにうち勝とうと決心した。彼はイエズス会の司祭を懺悔聴聞僧《ざんげちょうもんそう》にえらび、大ミサや夕べの祈祷《きとう》などに出かけていった。当時の野心なるものは文字通り鐘楼《しょうろう》への競争であった。そういう警戒から、貧しい人たちも神とおなじく利益をえた。なぜかといえば、その立派な代議士もまた病院に二つのベッドを寄付したから。それで寄付のベッドは十二になったわけである。
そのうち一八一九年に、ある朝ひとつの噂《うわさ》が町じゅうにひろまった。マドレーヌさんが、知事の推薦とその地方につくした功績とによって、国王からモントルイユ・シュル・メールの市長に任命されるということだった。新来の彼を野心家だなどといった人たちは、よろこんでその時のくるのを、待っていたのだといわんばかりに、「それみたことか、おれたちがはじめになんといったか」といった。モントルイユ・シュル・メールの町じゅうはどよめいた。噂ははたして事実だった。数日後には、その任命が官報にのった。が、その翌日マドレーヌさんは辞退した。
そして、その同じ年の一八一九年には、マドレーヌの発見した新製造法による製品は、工業博覧会に出て人目をひいた。審査員の報告によって、国王はその発明者にレジォン・ドヌールのシュヴァリエ勲章をあたえた。小さな町の人たちはまたひとさわぎした。「なるほど、彼がほしがっていたのは勲章だったのだな!」しかし、マドレーヌさんはその勲章も辞退してうけなかった。
まさしくその男はひとつの謎だった。口さがない人々はやむをえずこんな苦しいことをいいだした。「つまり彼は山師《やまし》なんだ」
前にもいったように、その地方はずいぶん彼のおかげをこうむり、貧しい人々はすべての点で彼のおかげを受けていた。彼はそんなふうに世間につくしていたので、ついにみんなは彼を尊敬するようになり、また彼はひどくおだやかな人だったので、人々はついに彼を愛するようになった。とくに彼に使われてる職工たちは彼を崇拝した。そして彼はその崇拝をうけるのに、一種の憂うつな重々しい態度をみせた。彼が金持だということが一般に知れわたると、「社交界の人々」は彼に頭をさげ、町では彼をマドレーヌ氏と呼んだ。だが、彼の職工や子供たちはやはりマドレーヌさんと呼んでいた。彼はそのよび方のほうをよろこんでいた。彼の地位がたかまるにつれて、招待は降るようにやってきた。「社交界」は彼を引きいれようとした。モントルイユ・シュル・メールの気どった小客間は、はじめのうちはいうまでもなくこの職人には閉ざされていたのだが、今ではこの百万長者にむかって大きくひらかれた。申し出は彼のもとに殺到《さっとう》した。しかし彼はそれをみんなことわってしまった。
それでも人の陰口《かげぐち》はやまなかった。「彼は無学であまり教養のない男だ。いったい、どこからやってきた奴かわかりゃしない。上流社会でまもられる作法を知らないんだろう。字がよめる証拠さえないじゃないか」
彼が金を儲けるのをみたとき、人々はいった。「彼奴《あいつ》は商人だ」彼が金をまきちらすのをみては人々はいった。「彼奴は野心家だ」彼が名誉を辞退するのをみて人々はいった。「彼奴は山帥だ」また彼が社交界をことわるのをみていった。「彼奴は下等な人間だ」
彼がモントルイユ・シュル・メールにやって来て五年目、すなわち一八二○年に、その地方における彼の功績は輝かしいものがあり、その地方の衆人の意見も一致していたので、国王はふたたび彼を市長に任命した。彼はこんどもまた辞退した。しかし知事はその辞退を受けつけず、知名な人々が彼のもとに頭をさげにくるし、一般の人たちは道で彼に哀願《あいがん》するなど、どうしてもその職を受けないわけにはいかなくなった。ことに彼にそうした決心をさせたのは、卑しいひとりの老婆がほとんど怒ったような調子で、彼にあびせかけた言葉だったらしいということである。その女は家の戸口のところで不満そうに彼によびかけた。「いい市長さんが必要です。人間は、自分にいいことができるのに、それをしないでいいものでしょうか」
これが彼の立身の第三段目だった。マドレーヌさんはマドレーヌ氏となり、マドレーヌ氏は市長殿になったのである。
二
ところで、彼はその頃でもなお、はじめにやってきたときと同じように質素な|なり《ヽヽ》をしていた。灰色の髪、生じめな眼つき、労働者のように陽《ひ》にやけた顔色、哲学者のように考えぶかい顔つき。いつも|つば《ヽヽ》のひろい帽子と、襟《えり》までボタンをかけたそまつなラシャの長いフロック・コート。市長の職務はちゃんとはたしてはいたが、それ以外には孤独な生活を送っていた。ひとにもあまり言葉をかけなかった。礼儀ぶったことはさけ、簡単な挨拶にとどめてさっさといってしまい、話をするよりもほほ笑《え》み、ほほ笑むよりもむしろ金をあたえた。女たちは彼のことを、こういった。「なんという人のいい、世間ぎらいの人でしょう!」彼の楽しみは野外を散歩することだった。
彼は書物を前にひらいて読みながら、いつもひとりで食事をした。よく選択されたわずかの本をもっていた。本が好きだった。本は冷やかであるが、安全な友である。財産とともにひまができると、彼は自分の精神を養うことにその時間を使ったらしかった。モントルイユ・シュル・メールに来てから、一年一年と彼の言葉はていねいになり、上品になり、やさしくなっていった。
彼は散歩のとき、よく小銃をもってでかけたが、それを使うのはごくまれだった。たまたまそれを使うようなときには、決して当らないということがなく、ひとを恐れさせるほどの腕前だった。彼は無害な動物は全然殺さなかった。また彼はかつて小鳥を撃ったことがなかった。
もう決して若いとはいわれない年齢だったが、彼はすごい大力をもっているということだった。必要な者には手助けをしてやって、倒れた馬を起してやったり、泥ぬまにはまった車を押してやったり、逃げだした牡牛の角をつかんで引きとめてやったりした。家を出るときはいつもポケットに金をいっぱい入れていたが、帰ってくるときにはみんななくなっていた。彼が村を通るときには、ぼろを着た子供たちがうれしそうに彼のあとを追っかけて来て、蝿《はえ》の群れのように彼をとりまいていた。
彼にはまた、むかしきっと田舎住いをしていたにちがいないと思われるような|ふし《ヽヽ》が多分にあった。なぜなら、彼はいろんなことに役だつ秘訣《ひけつ》を知ってて、それを百姓たちに教えてやったからである。麦の虫を撲滅《ぼくめつ》するため、普通の塩水を穀倉にまいたり、床板の裂け目に流しこんでおくことを教えたり、穀象虫《こくぞうむし》を駆除するために、壁や屋根や垣根や家のなかなど、すみずみにオルヴィオの花を吊しておくことを教えたりした。空穂草《うつぼぐさ》や黒穂草《くろぼくさ》や鳩豆草やガヴロールや紐鶏頭《ひもげいとう》など、すべて麦を害する有害な雑草を畑から根絶させるためのいろいろな「処方」を知っていた。また養兎《ようと》場にモルモットをいれて、その臭《におい》で野鼠のくるのを防《ふせ》がした。
ある日、彼はその地方の人々が一生懸命にイラクサを抜きとってるのをみかけた。その草が抜きとられて、うず高くつまれながら、乾ききってるのをながめて、彼はいった。
「もう枯れてしまっている。だが、その使い途を心得ておくのはいいことだ。このイラクサは、若いうちは葉が、りっぱな野菜となる。ときがたつと、大麻《たいま》や亜麻《あま》のように繊維やすじが沢山できる。イラクサの織物は麻布とおなじようだ。こまかく切れば家畜の餌にいい。ひきくだけば角《つの》のある動物にいい。その種子《たね》をまぐさにまぜて使えば動物の毛なみをよくする。根は塩とまぜれば黄色いきれいな絵具となる。その上イラクサは、りっぱなまぐさで、二度も刈りいれることができる。作るにしてもなんの手数もいらない。ちょっと地面があれば、手入れをすることもいらないし、地面をたがやす必要もない。ただその種子は熟してくると地に落ちるので、収穫がちょっとむつかしい、ただそれだけだ。ちょっと手をかければ、イラクサはずいぶん役に立つんだが、うっちゃっておけば害になる。そこで抜きとって枯らしてしまう。人間にもイラクサに似た人たちが沢山いる」それからちょっとだまってから、またつけたした。「よくおぼえておきなさい、世の中には悪い草も悪い人間もいない。ただ育てる者が悪いだけなんだ」
子供たちはまた、とくに彼が好きだった。麦わらや椰子《やし》の実で、ちょっとした面白いおもちゃをつくってくれたから。
教会の戸に黒い喪《も》の幕がかかっているのをみると、彼はいつもそこにはいっていった。ちょうど人々が洗礼式をさがすように、彼は埋葬《まいそう》をさがした。またやさしい心をもっていたので、|やもめ《ヽヽヽ》ぐらしや他人の不幸に彼は心をひかれた。喪服《もふく》をきてる人や、黒衣をまとった家族や、枢《ひつぎ》のまわりで悲しんでる司祭たちのなかに彼はよくはいっていった。他界の幻《まぼろし》にみちたあの葬礼の哀歌に、よろこんで自分の考えをうちまかせているみたいだった。眼は天にむけ、無限のあらゆる神秘に対する一種のあこがれの情をもって、死の暗い深淵のふちに立って歌うそれらの悲しい声に耳をかたむけた。
彼はいろいろと善行をしたが、ちょうど人が悪事をするときかくれてするように、それをひそかにするのだった。人目をさけて多くの家にはいりこみ、そっと梯子段《はしごだん》をのぼってゆく。のちになって、彼の同情をうけた気の毒な人たちが自分の家の屋根裏に帰ってみると、自分の不在中に戸がひらかれている。それも、ときには無理にこじあけられている。彼は叫ぶ。「ああ、どんな悪者がきたんだろう!」だがそこにはいって最初に見いだすのは、家具の上に置き忘れられてる金貨だった。「悪者」は実はマドレーヌさんだった。
彼はひかえめで、また悲しそうな様子をしていた。人々はいった。「あの人こそ、金持であっても傲慢《ごうまん》でなく、幸福なのに満足そうなふうもしてない」
ある人たちは、彼は不思議な人物で、けっして誰もはいったことのない彼の部屋には、翼のついた砂時計があり、十字に組合わした脛骨《けいこつ》や頭蓋骨などで飾られていて、いかにも隠者《いんじゃ》の穴ぐらみたいだといった。その噂《うわさ》はひろく町にひろがって、ついに町の若い立派な婦人で意地の悪い者が四、五人集まって、ある日彼の家をたずねて彼にたのんだ。
「市長さん、あなたのお部屋を見せてくださいな。みんなが洞窟だといってますから」彼はほほ笑《え》んで、即座にその「洞窟」へ彼女らをまねいた。彼女らは好奇心のためにまったく馬鹿をみた。普通のありふれたかなりそまつなマホガニー製の家具が簡単にならべられ、十二スーの壁紙のはられた部屋にすぎなかった。彼女らの眼にとまったものといえば、煖炉《だんろ》の上にある古い型の燭台が二つだけで、「調べてみると」銀でできてるらしかった。いかにも小さな町に住んでる者にふさわしい観察だった。
一八二一年のはじめに、諸新聞は「ビヤンヴニュ閣下とあだ名された」ディーニュの司教ミリエル氏の死を報じた。八十二才をもって聖者のごとくに永眠したというのだった。彼の死の報知は、モントルイユ・シュル・メールの地方新聞にも転載《てんさい》された。マドレーヌ氏はその翌日から、黒の喪服《もふく》をつけ、帽子に喪章《もしょう》をつけた。
町の人々はその喪装に眼をとめて、いろいろ噂をしあった。そのことはマドレーヌ氏の生まれについてひとつの光明を投ずるように思われた。人々は彼があの尊い司教と関係があるように推論したのである。「彼はディーニュの司教のために喪章をつけた」と町の社交界で噂にのぼった。それが大いにマドレーヌ氏の地位をたかめ、にわかにモントルイユ・シュル・メールの貴族社会において重きをなすようになった。その小都市のサン・ジェルマンともいうべき区の人々は、おそらく司教の身よりの者であるマドレーヌ氏の四旬節の勤めをやめさせようとした。ある晩、社交界の主脳ともいえるひとりの老婦人が、老人への好奇心から彼にたずねたことがあった。
「市長さん、あなたはきっと亡《な》くなられたディーニュの司教のご親戚でございましょうね」
「いいえ、ちがいます」と彼はいった。
「でも、あなたは司教のために喪服をつけていらっしゃるではありませんか」
「若いころ司教の家に使われていたことがあるからですよ」と彼は答えた。
なおひとつ、人々の注意をひいたことには、地方をまわって煙突掃除をして歩いてるサヴォワ生まれの少年が町にやってくるたびに、市長はその少年を呼んで名前をたずね、そして金をあたえた。サヴォワ生まれの少年たちはそのことをよく語り合い、沢山の少年がそれからのち、町に立ちよってゆくようになった。
三
時がたつにつれて、マドレーヌ氏の反対派はしだいになくなってしまった。立身した人たちがいつも受けるあの中傷《ちゅうしょう》や誹謗《ひぼう》は、はじめのうちは彼に対してもかなりつよくなされたのだが、やがてそれらは単なる悪口になり陰口《かげぐち》になり、そしてついにまったくなくなってしまった。全市がこぞって彼を尊敬し、一八二一年頃には、その地方において市長どのという言葉は、一八一五年ディーニュにおいて司教閣下といわれた言葉とまったくおなじ調子で口にされるようになった。その付近では十里もはなれた所からマドレーヌ氏に相談にくる者もあった。彼は争いを終らせ、訴訟をやめさせ、敵同士を和解させてやった。だれもが彼を裁判官とみなした。彼は自然法則の書物をその心としているらしかった。まるで伝染するように、彼に対する尊敬の念は、六、七年のあいだにしだいにその地方全部にひろまった。
ところが、町や地方を通じて、その尊敬に絶対に感染しないものがただひとりいた。マドレーヌさんがどんなことをしようと、彼はそれに敵意をもち、まるで一種のどうにもならぬ頑固《がんこ》な本能がたえず自分自身を警戒させ、不安にさせているみたいだった。実際ある種の人のなかには、あらゆる本能とおなじように、純粋で完全な真の動物的本能が存在しているように思われる。その本能は反感や同感を起させ、ある性格の者ともう一方の性格の者とをきびしく色わけしている。そして少しもためらうことも、惑《まど》うことも、黙することも、自分自身にあざむかれることもなく、愚かとはいえ決してまよわず、知性のあらゆる忠告や理性のあらゆる訴えにも決してがんとして応ぜず、運命がいかにかわろうとも、猫のような人間の存在として犬のような人間をひそかにいましめ、ライオンのような人間の存在として狐《きつね》のような人間をいましめる。
マドレーヌ氏が愛情にあふれたおだやかな様子で、万人の祝福にとりまかれながら街を通るとき、しばしば鉄鼠色のフロックを着、大きなステッキを手にして、縁《ふち》をひきさげた帽子をかぶった、一人の背の高い男が、うしろからふりかえりながら、市長の姿が見えなくなるまでその後姿を見おくっていることがあった。そうしたとき、その男は腕をくみ、かるく頭をふり、下唇と上着とを一緒に鼻の下までつき出して、一種意味ありげなしかめっ面《つら》をするのだった。その顔つきを翻訳してみれば、たぶんこんなことになるらしかった。「いったいあの男は何者だろう?……たしかどこかで見たようだが。とにかく、おれはあんな奴にだまされんぞ」
彼はジャヴェルといって、警察につとめている男だった。
彼はモントルイユ・シュル・メールで、むつかしい、しかし有用な警視の役目をしていた。彼はマドレーヌの来た当時のことは知らなかった。国務大臣で当時パリの警視総監《けいしそうかん》をしていたアングレス伯の秘書官シャブイエ氏の引きたてで、現在の地位をえたのだった。彼がモントルイユ・シュル・メールに来たとき、大製造業者の財産はすでにできあがっており、マドレーヌさんはマドレーヌ氏となっていた。
ジャヴェルは牢獄のなかで、トランプ占いの女から生まれた。女の夫は徒刑場にはいっていた。ジャヴェルは大きくなるにつれて、自分が社会の外にいることに気がつき、社会のなかに帰ってゆくことに絶望していた。社会は二種類の人間をその外に厳重に追い出していることを彼はみとめた、すなわち社会を攻撃する人々と、社会をまもる人々とを。彼はその二つのいずれかをえらぶほかはなかった。彼は同時にまた自分に、厳格、規律、潔白といったようなある素質があるのを感じ、それとともに、自分が属している浮浪階級に対していいがたい憎悪《ぞうお》をおぼえた。
彼はそこで警察につとめた。彼はその方面で成功した。四十才のときには警視になっていた。
彼は青年時代、南部地方の監獄に雇われていたこともあった。
さてこれから、また話をすすめる前に、さきにジャヴェルについていった人相をもう少しくわしく説明してみよう。
ジャヴェルの人相というのは、ひらぺったい鼻と、深い二つの鼻孔と、鼻孔から頬《ほお》の上のほうにはいあがっている大きなひげとでできていた。その二つのひげの森と、二つの小鼻の洞穴《ほらあな》とを見る者は、はじめは誰もある不安を感じるのだった。ジャヴェルはめったに笑ったことがなく、たまに笑ったときには、おそろしくうすい唇がひらいて、ただ歯だけでなく歯ぐきまでもむきだし、野獣の鼻面《はなづら》にあるようなひらたいあらあらしいしわが、鼻のまわりにできた。まじめな顔をしているときにはブルドッグみたいで、笑うときには虎のようだった。その上、頭が小さく、あごが大きく、髪の毛は額《ひたい》をおおって眉毛《まゆげ》の上までたれ、両眼のあいだのまん中にたえず怒りのしるしのようなしかめた線があり、眼つきは薄気味わるく、口はきっと引きしまって恐ろしく、その様子には残忍で人を威圧《いあつ》する力があった。
この男の身体には、ごく単純で比較的善良ではあるが、誇張されてるためにほとんど醜悪《しゅうあく》にさえなっている二つの感情がながれていた。すなわち、主権に対する尊敬と、叛逆《はんぎゃく》に対する憎悪と。そして彼の眼には、窃盗、殺害、すべての罪悪は、ただ叛逆の変形にすぎなかった。上は総理大臣から下は田野《でんや》の番人にいたるまで、およそ国家に奉職している者をみな、盲目的な深い一種の信用でつつんでみていた。いちど法を犯して罪悪のほうにふみこんだ者をみな、軽蔑と反感と嫌悪《けんお》とをもってみていた。彼は絶対的であっていっさいの例外を認めなかった。一方では彼はいった。「お上《かみ》の職務をおびてるものは、絶対にあやまることはない、役人は決して不正なことをしないものだ」他方で彼はまたいった。「こいつたちには、もう救済の途《みち》はない、なんらの善すらなすことができない奴らだ」 世の中には極端な精神をもっていて、刑罰をつくる権利というか、いいかえれば刑罰を定める権利を、人間のつくった法則がもっているように信じ、社会の底に地獄の川、スティックス(三途の川)を認める者がいる。ジャヴェルもまたそういう意見を多分にもっていた。彼は禁欲主義で、まじめで厳格だった。そして、憂うつな夢想家だった。狂信家のように謙遜《けんそん》でまた傲慢《ごうまん》だった。彼の眼は錐《きり》のように、冷たく、そして鋭かった。彼の一生は二つの言葉につづめられる、すなわち監視と取締りと。彼は世間の曲りくねったもののなかに直線をもたらした。彼は自分が世の中に役立つということをもって良心とし、自分の職務をもって宗教としていた。彼の探偵たることはまるで宗教における司祭のようなものであった。彼の手中におちた者こそ不幸なるかなである。彼は父がもし脱獄したとすれば父を逮捕し、母がもし禁令《きんれい》を犯したとすれば母をも告発しただろう。
そのジャヴェルという男は、いつもマドレーヌ氏の身の上にそそがれてる眼のようなものだった。それは疑いと臆測《おくそく》とにみちた眼であった。マドレーヌ氏もついにそれに気づくようになった。しかし彼はべつになんとも思っていないらしかった。ジャヴェルには、ひとことも問いかけないし、またジャヴェルをさぐりもしなければ、ことさら彼をさけもせず、その気味悪い圧迫するような眼をじっと受けとめながらべつに気にもとめていないらしかった。彼はジャヴェルに対しても、ほかの人たちに対するのと同じように気やすくおだやかに扱った。
ジャヴェルの口からもれた二、三の言葉から察すると、彼はかれら仲間特有の意志と、本能的な一種の好奇心とをもって、マドレーヌさんがほかの所に残してきた前半生の足跡を秘密にさぐっていたらしい。そして、市長につながるある行方不明の家族について、ある地方で多少の消息を知ってる者がいるということを、彼はかぎつけてたらしかった。ときとすると暗《あん》にそれを言葉にあらわすこともあった。あるときなど、彼はふとつぶやいたことがあった。「奴のしっぽを押えたようだ!」それから彼は三日のあいだひとことも口をきかずに考えこんでいた。そしてとらえたと思った糸もきれたらしかった。
しかし、およそ人間のうちには真に確実なものなどありえないものである。それにまた、人間の本能の本性というものは、みだされ、惑《まど》わされ、迷わされることの多いものである。そうでなければ、本能は知性にまさり、動物は人間よりすぐれた光明をもつにいたるだろう。
ジャヴェルは明らかに、マドレーヌ氏のまったく自然な態度と落着きとに、やや心を惑わされていたのだった。
ところがある日、彼のふしぎな態度がマドレーヌ氏にただならぬ印象をあたえたらしかった。どんな機会にか、それをつぎにのべよう。
四
ある朝、マドレーヌ氏はモントルイユ・シュル・メールの敷石のない小さな通りを歩いていた。そのとき、彼はさわぎをききつけ、少しはなれたところに一群の人だかりを認めた。彼はそこにいってみた。フォーシュルヴァン爺さんとよばれる老人が馬の倒れた拍子《ひょうし》に馬車の下敷きになったのだった。
このフォーシュルヴァンは、当時マドレーヌ氏がまだもっていた数少ない敵のひとりだった。以前は公証人をしてて、田舎者としてはかなり教育のあるほうだったフォーシュルヴァンは、マドレーヌ氏がこの地にやって来た当時、商売をしてたが、それがしだいに|うまく《ヽヽヽ》ゆかなくなりかけていた。彼は一職人のマドレーヌ氏がだんだん裕福になってゆくのをみて嫉妬《しっと》の念をもやした。そして、機会あるごとにマドレーヌ氏をやっつけるような態度をとった。そのうちに彼は破産してしまった。で、もはや自分のものとしては荷馬車だけとなり、家族も子供もなかったので、食べるために荷馬車屋となったのだった。
さて、馬は両脚を折ってしまったので、もう立つことができなかった。老人は車輪のあいだにはさまれている。車からの落ち方が悪かったので、車全体が胸の上に押しかかるようになっていた。車には、かなりの荷物がつまれていた。フォーシュルヴァン爺さんは悲しそうなうめき声をあげていた。みんなは彼を引き出そうとしてみたが、だめだった。むちゃなことをしたり、まずい手だしをしたり、下手《へた》に動かしたりしようものなら、ただ彼を殺すばかりだった。下から車をもちあげない限り、彼を引き出すことは不可能だった。ちょうどその出来事が起ったときに来あわせていたジャヴェルは、人を使って、起重機をとりにやらせた。
そこヘマドレーヌ氏がやって来た。人々は彼に敬意をはらって路をひらいた。
「助けてくれ!」とフォーシュルヴァン老人は叫んだ。「この年寄りを助けてくれる者はおらんのか」
マドレーヌ氏はそこにいた人々にむかっていった。
「起重機はありませんか?」
「今とりにいってるところなのです」とひとりの農夫が答えた。
「どれくらいの時間で、ここへもってこれますか?」
「一番近い所へ、フラショまでいったのですが……そこに鉄工所があるんですがね、でも十五分くらいはたっぷりかかるでしょう」
「十五分も!」とマドレーヌ氏は叫んだ。
前の日に雨が降って地面はしめってやわらかになっていた。車は刻一刻と地面にくいこみ、しだいに老荷馬車屋の胸をつぶしにかかっていた。五分とたたないうちに、彼の肋骨《ろっこつ》がくだかれるのはわかりきったことだった。
「十五分もまってるわけにはとてもいかない」とマドレーヌはそばで一緒にみている農夫たちにいった。
「でも、仕方がありません!」
「車はだんだんめりこんでゆくのに……」
「だけど、市長さん!」
「いいですか」とマドレーヌ氏はいった。「まだ車の下にはいりこんで背中をもちあげるだけの余地はじゅうぶんある。ちょっとの間だ。そしたらこのかわいそうな老人が引き出せるんだ。誰か腰のしっかりした勇気のある者はいないか。ルイ金貨五枚出そう!」
誰も動く者はなかった。
「十ルイ!」とマドレーヌ氏はいった。
そこにいた者はみんな眼を伏せた。そのうちひとりがつぶやいた。
「こいつは、ちょっとやそこらの強い奴じゃとてもだめだ。自分がつぶれてしまうかもしれないんだからな!」
「さあ! 二十ルイだ!」
やはり誰も答えるものはなかった。
「やる意志がないんじゃない」と誰かがいった。
マドレーヌ氏はふりかえった。と、ジャヴェルがそこに立っていた。市長はさっき、ここへ来たとき、ジャヴェルがそばにいるのに気がつかないでいたのである。
ジャヴェルはつづけていった。
「みんなにないのは力だ。そんな車を背中でもち上げるようなことは、|とてつもなく《ヽヽヽヽヽヽ》恐ろしい奴でなくっちゃだめなんだ」
それから彼は、マドレーヌ氏をじっと見つめながら、一語一語に力を入れていった。
「マドレーヌさん、あなたがおっしゃるようなことのできる男は、私はただひとりだけ知ってますよ」
マドレーヌ氏はぞっとした。
ジャヴェルは無頓着《むとんじゃく》なふうをしながらも、やはり彼から眼をはなさずにつけ加えた。
「その男は囚人でしたよ」
「ええ?」とマドレーヌ氏はいった。
「ツーロンの徒刑場の」
マドレーヌ氏は蒼《あお》くなった。
そのうちにも荷車はやはり徐々にめりこんでいった。フォーシュルヴァンはあえぎあえぎ叫んだ。
「息がきれる! 胸の骨が折れそうだ! 起重機を! なにかを! ああ!」
マドレーヌ氏はあたりを見まわした。
「二十ルイもらってこの老人の命を助けようと思う者は誰もいないのか?」
誰も身を動かさなかった。ジャヴェルはまたいった。
「こんな起重機のかわりをつとめるような人間は、ただひとりしか知りませんな。あの囚人なんだが」
「ああ、もうつぶれちまう!」と老人は叫んだ。
マドレーヌ氏は頭をあげ、じっと自分のほうを見つめているジャヴェルの鷹《たか》のような眼に出会い、ついで、さっきから、手のほどこしようがなく、その場につっ立ったままでいる農夫たちを見、それからさびしそうにほほ笑《え》んだ。そして一言《ひとこと》も口をきかないで膝《ひざ》をかがめ、人々があっと叫ぶまもなく車の下にはいっていった。
期待と沈黙との恐ろしい一瞬がつづいた。
マドレーヌ氏がその恐ろしい重荷の下に腹ばいになって、二度ばかり両|肘《ひじ》と両|膝《ひざ》とを一緒にあわせようとして失敗したのが、みんなからよくみえた。人々は叫んだ。
「マドレーヌさん! 出ておいでなさい!」
フォーシュルヴァン老人自身もいった。
「マドレーヌさん、およしなさい! わたしはどうせ死ぬ身です、このとおり! わたしのことはかまわないでください! あなたまでつぶれます!」
しかしマドレーヌ氏は答えなかった。
そこにいる人々は息をはずませた。車輪はそのまま、刻一刻と地面のなかにめりこんでいった。そして、もうマドレーヌ氏まで車の下から出ることはほとんどできないまでになった。
と、突然みんなの眼に、その車の大きな輪が動きだし、だんだんあがってきて車輪がなかば|わだち《ヽヽヽ》から出てきたのがうつった。息をきらした叫び声がきこえた。
「はやく! 手伝ってくれ!」マドレーヌ氏は最後の渾身《こんしん》の力をふりしぼったのだった。
ひとりの人間の献身がすべての者に力と勇気をあたえた。みんなは、つき進んだ。そして荷馬車は多数の腕で引きあげられ、フォーシュルヴァン老人は救われた。
マドレーヌ氏は立ちあがった。汗が流れていたが顔色は蒼《あお》かった。服は破れて泥まみれだった。一同は涙を流した。老人は市長のひざに唇をつけ、彼を神様とよんだ。マドレーヌ氏は幸福な、きよらかな苦難の、なんともいえない表情を顔にうかべていた。そしてジャヴェルのほうにそのしずかな眼をむけた。ジャヴェルは、なお彼を見つめていた。
フォーシュルヴァン老人は荷馬車から落ちたとき、ひざの関節《かんせつ》をはずしてしまった。マドレーヌさんは彼を診療所にはこばせた。その診療所は工場とおなじ建物のなかに、労働者たちのために彼がもうけたもので、慈善看護婦の二人の修道女がいっさいの用をしていた。翌朝老人はベッドわきのテーブルの上に千フラン札を見つけた。そしてそこには、「あなたの荷馬車と馬とを私が買いうけました」というマドレーヌさんの書いた紙片がそえられていた。荷馬車はこわれ、馬は死んでいたのである。フォーシュルヴァンは全快したが、ひざの関節は不随《ふずい》になったままだった。マドレーヌ氏は修道女たちと司祭の推薦をもらって、パリのサン・タントワーヌ区のある修道院の庭番にその老人を世話してやった。
マドレーヌ氏が市長に任命されたのは、その後しばらくしてからだった。彼が全市の全権をにぎったとき、ジャヴェルは主人の衣の下に狼《おおかみ》の匂《にお》いをかいだ犬のような、一種の戦慄をおぼえた。そのときから彼は、できるだけマドレーヌ氏をさけるようにした。ただ職務上やむをえず市長と顔を合せなければならないときには、深い尊敬をこめて口をきいた。
マドレーヌさんによってもたらされたモントルイユ・シュル・メールの繁栄は、前にのべたように、実際に眼でみた面でもよく現われていたが、ほかにもうひとつその証拠があった。それはちょっと眼につかないものであるが、おなじように意義深いものだった。もともと、住民が苦しんでいるとき、仕事がないとき、商売がふるわないでいるときには、納税者は金がないために課税をこばみ、あるいは納期をおくらせる。そのために政府のほうでもまた強制的に徴収をするので多額の金が浪費される。しかし仕事が多く、一般に幸福で豊かなときには、税金はわけなく納入され、政府の費用は少なくてすむ。すなわち住民の貧富は、つねに正しいバロメーター、すなわち税金の徴収費をもっている。ところで、モントルイユ・シュル・メールの地区では、七年間に税金の徴収費はその四分の三の減少をみた。そのため時の大蔵大臣ド・ヴィーレル氏はとくにこの地区を模範としてしばしば表彰《ひょうしょう》した。
ファンティーヌが彼女の故郷にもどってきたときには、その地方は、ちょうど右のような状態にあった。しかし、誰も彼女をおぼえてる者はいなかった。だがさいわいにもマドレーヌ氏の工場の門が、したしく彼女をむかえてくれた。彼女はそこへいって、女工の仕事場にはいることをゆるされた。その仕事にファンティーヌは、なれていなかったので、能率をあげることができず、一日じゅう働いても大して金にならなかった。しかし、それでもことは足りた。問題は解決され、彼女は自活できるようになった。
五
ファンティーヌは自分がひとりで暮してゆけるのをみて、一時は非常なよろこびを感じた。自分で働いて正直に暮してゆくということは、なんという天のめぐみであろう! 働くことへの熱情がほんとうに彼女にもどってきた。彼女は鏡をひとつ買って、自分の若さや、立派な髪の毛や、きれいな歯などを写しては楽しみ、ほかのいろいろのことは忘れて、もう自分のコゼットのことや未来の希望のことしか考えなかった。そうした彼女はまったく幸福にくらしてるといってもよかった。小さな部屋を借り、代金はこれから働いて払うことにしていろいろな道具をそろえた。それだけが以前のだらしない習慣の名残《なごり》だった。
彼女は結婚したことがあるとはいえないので、コゼットのことは口にしないように用心していた。
はじめのうちは前にもふれたように、テナルディエのところへも几帳面《きちょうめん》に金を送ってた。しかし彼女は自分の名が書けるだけだったので、テナルディエのところへ手紙をやるのに、代書人にかいてもらわなければならなかった。
彼女はたびたび手紙を出した。それが人目をひいた。ファンテーヌはよく「手紙を書いてる」とか、「気どってる」とかいう|ささやき《ヽヽヽヽ》が女工のあいだに立ちはじめた。
他人の行為というものについては、かえってそれに関係のない者が一番その機密を知りたがるものである。――なぜあの人はいつも夕方にしかこないんだろう。だれそれさんはなぜ木曜日には、きっとでかけるんだろう。なぜあの人はいつも裏通りばかり歩くんだろう。なぜあの夫人はいつも家よりずっと手前で馬車からおりるんだろう。なぜあの奥さんはうちに沢山あるのにレター・ペーパーを買いにやるんだろう。云々《うんぬん》――世にはそういうことにひどく興味をもってるものがいるものである。
そういう人たちは、自分に関係のない、そうした謎をとく鍵を手に入れるために、多くの善事に費す以上の金と時間と労力を費すものである。そしてそれもただ理由もなく、自分の楽しみのためにするだけで、好奇心をもって好奇心を満足させるだけなのである。彼らは幾日間も男や女のあとをつけてみたり、町|角《かど》や戸口で寒い雨の降る晩に、幾時間も見張ってみたり、使い走りの者に金をにぎらせたり、辻馬車や召使をそそのかしたり、女中を買収したり、門番にとりこんだりする。なんのために? なんの理由もない。ただ見たい、知りたい、さぐりたいばっかりのためである。ただいろんなことを、|いいふらし《ヽヽヽヽヽ》てみたいばっかりのためである。そしてしばしば、それらの秘密が知られ、それらのかくしごとが公《おおやけ》にされ、それらの謎が明るみにされると、とんでもない結末、決闘、失脚、一家の没落、生涯の破滅などが起り、それがまた、なんの利害関係もなしに単なる本能から「すべてを発見した」彼らの大きなよろこびとなるのだ。悲しいことである。
ある人たちはただ噂をしたいばかりに悪者となることがある。そういう人たちの会話、客間での世間話、控え室でのおしゃべりは、すぐに薪《たきぎ》をもやしつくしてしまう炉《ろ》のようなものである。彼らには多くの燃料がいる。そしてその燃料の|たね《ヽヽ》にされるのは近所の人たちなのである。
そのようにしてファンティーヌはひとから目をつけられた。
その上、彼女の金髪と白い歯をうらやむ者がひとりならずいた。
ファンティーヌは、よく工場の人中でそっとわきをむいて涙をふくことがあった。それは彼女が子供のことや、おそらくは、かつて愛した男のことを考えているときだった。過去のわびしいきずなをたちきることは痛《いた》ましい仕事である。
近所の噂では、ファンティーヌが少なくとも月に二回、いつもおなじ宛名で配達料も払って手紙を出すということがたしかになった。そしてついに「モンフェルメイユ旅館主、テナルディエ様」という宛名まである人たちに知られるようになってしまった。彼らは酒場で彼女の秘密を代書人にしゃべらせたのだった。代書人は人のいい老人だったが、秘密の袋をあけないことにはいい酒で胃袋をみたすことができなかったのである。で結局、人々はファンティーヌが子供をもってることを知った。「どうみても普通の娘じゃない」ひとりのおしゃべりな女は、モンフェルメイユまで出かけてゆき、テナルディエ夫婦と話をして帰って来ていった。
「三十五フラン使ってやっとわかったわ。子供も見てきましたとも!」
ファンティーヌは工場に来て、もう一年以上になっていた。ところがある朝、仕事場の監督が市長からだといって五十フランをわたし、もう彼女は仕事場にこなくてもいいといいそえ、この地方からたち去るようにと市長殿の名でいいわたした。
それはちょうど、テナルディエが六フランから十二フランを要求したあと、さらにこんどは十五フランを要求してきたその月だった。
ファンティーヌは途方《とほう》にくれた。彼女はその地を去ることができなかった。部屋代や道具の代金などがたまっていた。そうした負債を返すには五十フランではたりなかった。彼女はふたこと、みこと口ごもりながら哀願《あいがん》した。しかし監督はすぐに仕事場をたち去るようにというばかりで、とりあわなかった。それにファンティーヌは腕の悪い女工にすぎなかった。絶望というよりはずかしさでいっぱいになって、彼女は仕事場を去り、自分の部屋に帰った。彼女の過去のあやまちは今ではもう、みんなの知るところとなっていたのである!
彼女はもうひとことも、弁護の言葉を口にするだけの力も自分に感じなかった。市長さんに会ってみるがいいとすすめてくれる人もあったが、それもしかねた。市長は親切であればこそ五十フランくれたのである。そして彼は正しい人であればこそ自分をくびにしたのである。彼女はこのさばきに服した。
だが実はマドレーヌ氏はそれらのことについてはなにも知っていなかったのである。人生においては大てい事件はそういうふうにむすばれてゆくものである。マドレーヌ氏は女の仕事場にはほとんどはいらないことにしていた。仕事場の頭《かしら》として彼は、司祭から紹介されたひとりの独身の老女をすえておいた。そしてその監督にすべてをまかせた。実際それは尊敬すべき確実公平な潔白な女性だった。しかし彼女は施しものをするといった方面の慈悲心には非常に富んでいたが、ただひとの心を理解し、ひとをゆるすという方面の慈悲心はそれほど深くもっていなかった。マドレーヌ氏はいっさいのことを彼女に信頼してまかしておいた。最善の人々はしばしば自分の権力を他にゆずらなければならなくなることがあるものである。その監督が訴えをきき、さばき、ファンティーヌの罪をみとめて処罰したのも、まったく自分がにぎっている権力をもってしたのであって、また善をなすという確信をもってしたのだった。
五十フランというのは、マドレーヌ氏から女工への施しや補助として託されている金からさいてあたえたものだった。彼女はその金の計算報告はいつもしないでよかったのである。
ファンティーヌはその地で女中奉公をしようと思って、家から家へとたずねてまわった。しかし誰も彼女をやとってくれようとしなかった。彼女はそれでも町を去ることができなかった。彼女に道具を、それもずいぶんひどい道具を売りつけた古物商は、彼女にいっていた。「もしお前が逃げだしたら、泥棒だといって逮捕してもらうだけだ」部屋代のたまってる家主は彼女にいった。「お前は若くてきれいだ、払えないことがあるものか」彼女は五十フランの金を家主と古物商とにわけあたえ、古物商には道具の四分の三をもどして必要なものしか残しておかなかった。そして彼女は仕事も籍もなく、ただわずかに寝台があるだけで、その上百フランほどの借りのある身となった。
彼女は守備隊の兵隊のそまつなシャツをぬいはじめ、日に十二スーだけお金がかせげるようになった。しかし娘のほうへだけでも十スーずつやらねばならなかった。彼女がテナルディエヘ送金をおくらしはじめたのはこのときからだった。
ファンティーヌはいろいろなことをおぼえた。冬のあいだまったく火の気《け》なしですますこと、二日ごとに一リアール(四分の一スー)だけの粟《あわ》を食べる小鳥を捨ててしまうこと、スカートを|ふとん《ヽヽヽ》にし、ふとんをスカートに仕立てなおすこと、正面の窓の明りで食事をしてろうそくを節約することなど。貧乏と正直とのうちに老いはてた弱い人々が一スーの金をどんなふうに使うかは、あまりひとの知らないところである。ところがそれはついにひとつの才能ともいうべきものになるものである。ファンティーヌはそのぎりぎりの才能を身につけ、そしてすこしは元気をとりもどした。
この時分、彼女はある近所の女にいった。
「なあに、あたしはこう思っていますわ、五時間ねむって、あとの時間は針仕事でもしてれば、どうにかパンだけは手にはいるわ。それに悲しいときには少ししか食べませんもの」
そして、このような失意のうちにも、自分の小さな娘がもしそばにいたら、どんなにかしあわせだろう、と彼女は思った。彼女は娘をよびよせようと思った。しかし、どうしてそんな事ができようか。テナルディエには大変な借りがあるし、旅に出れば、また金がいる。そうした金を彼女はどうして手にいれることができよう!
仕事を失ってから、はじめのうち、ファンティーヌは、非常にはずかしがってなるべく外へは出ないようにしていた。
通りに出ると、みんながうしろからふりかえり、自分を指さしているのに彼女は気がついていた。みんなは彼女をじろじろみてゆくが、挨拶する者はひとりもなかった。通りすがりの人たちの冷《ひや》やかな鋭い軽蔑の視線は、北風のように彼女の肉を通し、心をつらぬいた。
小都市にひとりの不幸な女性がいる場合、彼女はすべてのひとの嘲《あざけ》りと好奇心との下に裸にせられずにはいられないもののようである。パリにおいては、少なくとも誰も顔を知った者がいない、そして、それはひとつの闇であり、かくれ家とおなじである。彼女はどんなにパリにゆきたいと思ったことか! しかしそれは今ではまったく不可能なことだった。
貧乏になれたように、彼女は軽蔑にもまたなれざるをえなかった。彼女はしだいにあきらめていった。二、三カ月後には、彼女ははずかしさなどふりすててしまって、なにごともなかったように外出しはじめた、「どうだってかまうものか」と彼女はいった。彼女は顔をしゃんとあげて、なにかをあざけるようなにがい微笑をうかべながらいったりきたりして、自分でもだいぶ自分がずうずうしくなったように感じた。
過度の労働はファンティーヌの身体を疲らせた。そしていつものかるい乾いた咳《せき》がひどくなってきた。彼女はときどき隣りのマルグリットにいった。
「さわってごらんなさいよ、ほらあたしの手の熱いこと」
六
ファンティーヌが解雇されたのは冬の末だった。そして夏が過ぎ、冬がふたたびやって来た。日はみじかく、仕事は少ない。冬、身体をあたためる火もなく、光もなく夕方はすぐ朝につづき、霧、うす明り、窓は灰色で、物の姿もおぼろである。空は風窓のようで、一日は穴ぐらのなかのようだった。太陽もみすぼらしい様子をしていた。恐ろしい季節! 冬は空の水を石となし、人の心も石となした。その上ファンティーヌは債権者たちに悩まされていた。彼女のかせぐ金はあまりに少なかった。負債はかさんでいた。金を送らないのでテナルディエのところからはひっきりなしに手紙が来た。彼女はそのなかの文句におびえ、またその配達料でふところをいためた。ある日の手紙によると、小さなコゼットにこの冬の寒さにきせる着物がない、どうしてもウールのスカートがいるので、少なくとも十フラン送ってくれということだった。ファンティーヌはその手紙を受けとって、一日じゅうそれを手ににぎりしめていた。その晩、彼女は通りの片すみにある理髪店にはいって、櫛《くし》をぬきとった。美しい金髪が腰のあたりまでたれさがった。
「みごとな髪ですね」と理髪師はいった。
「いくらで買います?」
「十フランなら」
「じゃ切ってよ」
彼女はその金でトリコットのスカートを買って、テナルディエの所へ送った。
そのスカートはテナルディエ夫婦を怒らせた。彼らが求めていたのは金だった。そのスカートはエポニーヌにあたえられ、あわれなコゼットは相変らず寒さにふるえていた。
ファンティーヌは心のなかで思った。「あたしの子供はもう寒くないわ。あたしの髪を着せてやったんだもの」そして、彼女は小さなまるい帽子をかぶって毛の短くなった頭をかくしたが、それでもなお美しくみえた。
しかし、その時以来ファンティーヌの心のうちには、ある暗い変化が生じた。もはや自分の髪は束《たば》ねることができないのだと思うと、彼女はなんだか自分のまわりの人たちが誰かれとなしに憎らしくなってきた。彼女はながいあいだ、みんなと同じようにマドレーヌさんを尊敬していたが、自分を追い払ったのは彼であり、自分の不幸の原因は彼であると、いくどもくり返して考えてるうちに、彼をもまた、いや、とくに彼を憎《にく》むようになった。職工たちが工場の門から出てくる頃その前を通りかかったりでもすると、彼女はわざと笑ったり歌ったりしてみせた。
そんなふうにしてあるとき、彼女が笑ったり歌ったりしてるのを見たひとりの年とった女工はいった。「あの娘の終りはよくないよ、きっと」
ファンティーヌは自分の娘だけは大事に思っていた。彼女が堕落《だらく》してゆけばゆくほど、彼女の周囲が暗黒になればなるほど、そのやさしい小さな天使は彼女の魂の奥でいっそう光りかがやいてきた。彼女はよくいっていた。「お金ができたらあたしはコゼットと一緒に住もう」そして笑った。咳《せき》はなお去らなかった。いつも背中に汗をかいていた。
ある日、彼女はテナルディエからつぎのような手紙を受取った。「コゼットが今こちらにはやってる病気にかかった。粟粒《つぶ》|はしか《ヽヽヽ》というやつだ。いい薬をのませてやりたいが、薬代がない。一週間以内に四十フラン送ってくれなければ、子供は死んでしまうだろう」
ファンティーヌはその手紙をよんで、大声で笑いだし、となりの婆さんにいった。
「まあ、おめでたい人たちね、四十フランですとさ。ねえ、ナポレオン金貨二つよ。あたしにどうしてそんな金がかせげると思ってるのかしら。ばかだわ、この田舎の人たちは!」
それでも、彼女は軒窓《のきまど》の近くへいって手紙を読みかえした。それから階段をおりて、笑いながらとびはねて出ていった。
道で彼女に会った人が聞いた。
「あんた、どうしてそんなにはしゃいでるの」
「田舎の人たちがあんまりばかばかしいこと書いてよこすんだもの。四十フラン送れ、ですとさ。ばかにしてるわ!」
彼女が広場に通りかかったとき、そこには大勢の人だかりがしていて、おかしな形の馬車をとり巻いていた。馬車の平屋根の上には、赤い着物をきたひとりの男が立って、何かしゃべっていた。それは地方をわたり歩く香具師《やし》の歯医者で、総入歯や歯磨粉や強壮剤などを売りつけていた。
ファンティーヌはその群集のなかにまじって、いやしい俗語や美辞麗句《びじれいく》をごっちゃにした長談議をきいて、ほかの人たちと一緒に笑いはじめた。歯医者はみんなと一緒に笑ってる美しい彼女をみて、突然いった。
「そこで笑ってる娘さん、あんたの歯はまったくきれいだ。お前さんのその羽子板を二枚売ってくんなさるなら、一枚につきナポレオン金貨ひとつあげるがな」
「なによ、あたしの羽子板って?」とファンティーヌはたずねた。
「そりゃ前歯のことさ、上の二枚の」
「まあ、恐ろしい!」と彼女は叫んだ。
「ナポレオン金貨二つ!」とそこにいた歯ぬけの婆さんがつぶやいた。「なんてしあわせな娘かよ!」
ファンティーヌは男の声がきこえないように、耳にふたをして逃げ出した。男のしゃがれ声が追っかけてきた。男は叫んでいた。
「考えてみなよ、べっぴんさん! ナポレオン金貨二つだぜ、ずいぶん役にたつぁね。もし気があったら、今晩ティヤック・ダルジャンの宿屋においで、おれはそこにいるからな」
ファンティーヌは部屋に帰った。彼女は怒っていた。そしてそのことを親切な隣りのマルグリット婆さんに話した。
「いったいそんなことってあるかしら。恐ろしい男だわ。どうしてあんな奴をこの辺にほっておくんだろう。あたしの前歯を二本抜けだなんて、ほんとに恐ろしいことをいう奴だわ。髪の毛ならまた生《は》えるけど、歯じゃあね。あん畜生! そんなことするくらいなら、六階から真逆《まっさか》さまに敷石の上に身を投げたほうがましだわ。今晩ティヤック・ダルジャンの宿屋で待ってるといったわ」
「で、いくらくれるといったね?」マルグリットはたずねた。
「ナポレオン二つだって」
「じゃ、四十フランだね」
「ええ、四十フランになるわ」
ファンティーヌは考えこんだ。そして仕事にかかった。やがて十五分もたつと縫いものをやめて階段をのぼってゆき、テナルディエの所からきた手紙をまた読みかえした。
部屋に帰ってから、彼女はそばで仕事をしていたマルグリットにいった。
「なんだろう、粟粒《つぶ》|はしか《ヽヽヽ》って、あんた知ってる?」
「ああ、知ってるよ、ひどい病気だよ」
「じゃ薬が沢山いるだろうね」
「そりゃあね、大変な薬がね」
「どうしてそんな病気にかかるのかしら?」
「すぐにとっつく病気だよ」
「じゃ子供にもあるのね?」
「おもに子供がかかるのだよ」
「その病気で死ぬことってあるのかしら?」
「ずいぶんあるよ」
ファンティーヌは部屋を出ていって、もういちど階段の上で手紙を読んだ。
その晩、彼女は出かけていった。
翌朝マルグリットは夜明け前にファンティーヌの部屋にはいっていった。彼女たちは一緒に仕事をして、二人で一本のろうそくですましてたのである。みると、ファンティーヌは蒼《あお》ざめて氷のようにつめたい身体をして寝台の上にすわっていた。彼女は夜中ずっと寝てなかったのである。帽子がひざの上に落ちている。ひと晩じゅうともされていたろうそくは、もうほとんどもえつきていた。
マルグリットは彼女のひどくとり乱した様子にびっくりして、しきいの上に立ちどまったまま叫んだ。
「おや、まあ、ろうそくがもえきってるじゃないの。いったい、これはどうしたんだね!」
それから彼女は、髪のない頭を自分のほうにむけてるファンティーヌをながめた。彼女は一夜のうちに、十才も老《ふ》けこんでしまっていた。
「まあ! お前さんどうしたの?」
「なんでもないのよ。これで、恐ろしい病気にかかってるあたしの子供も安心だわ」
そういいながら彼女は、テーブルの上に光っているナポレオン金貨を婆さんに示した。
「おやまあ! 大変なお金だこと! どこからそんな金貨を手に入れたのさ」
ファンティーヌはほほ笑《え》んだ。ろうそくの光が彼女の顔をてらしていた。赤い唾液《だえき》が唇のはしについてて、口のなかには暗い穴があいていた。二本の前歯が抜かれていたのである。
彼女はその四十フランをテナルディエのもとに送った。しかし、手紙で知らせてきたコゼットの病気は金を手に入れるためのテナルディエ夫婦の策略《さくりゃく》だったのである。ほんとうはコゼットは病気ではなかった。
ファンティーヌは鏡を窓から投げ捨てた。彼女にはもう寝台もなかった。ただ残っているものは、自分では掛|布団《ぶとん》だといっていた|ぼろぎれ《ヽヽヽヽ》と、床にひろげた一枚の敷布団と、わらのはみ出た一脚の椅子だけだった。小さなばらの鉢植えをもっていたが、それも忘れられて部屋の片すみで枯れていた。他の片すみにはバター用の壷《つぼ》があって水がはいっていたが、冬にはその水が凍って、氷のまるい輪でなんども水のさされた跡が見えていた。彼女はもう前から羞恥《しゅうち》の感情をうしなっていたが、その頃には更に身だしなみの心使いさえなくなっていた。そうなってはもうおしまいだった。
彼女は汚れた帽子をかぶって平気で外に出かけた。ひまがないのか、もう下着をつくろいもしなかった。彼女に金の貸しのある連中は彼女をいじめつづけて、少しの休息もあたえなかった。彼女はそういう連中に往来でも出会い、家の階段でも会った。古道具屋はほとんど道具をとりもどしてしまってるくせに、それでもたえず彼女にいっていた。「いつになったら払うつもりなんだ。ふてえ|あま《ヽヽ》だ」彼らはいったい、彼女をどうするつもりなのか! 彼女は、いつも追いまわされているような気がした。そしてしだいに彼女のうちに野獣のようななにかが芽ばえだしてきた。その頃テナルディエからまた手紙が来た。こんどはすぐに百フラン送れ、でなければ大病から病《や》みあがりのコゼットを寒空の往来に追い出すだけだ、というのだった。「百フラン」とファンティーヌは考えた。「日に百スーだって|ろく《ヽヽ》にかせげる仕事がないというのに」
「いいわ」と彼女はいった。「身体にのこってるひとつのものを売っちまうことにしよう」
不幸なファンティーヌは売笑婦となってしまったのである。
七
それから八カ月か十カ月ばかりのちに、一八二三年の一月のはじめ、雪の降ったある晩、しゃれ者で閑人《ひまじん》のひとりが、大きなマントにあたたかく身をつつんで、士官たちのあつまるカフェの窓の前をうろついているひとりの女をからかっていた。女は肩のあたりもあらわに夜会服を着て、頭には花をさしていた。そしてしゃれ者のほうは葉巻をふかしていた。そんなとき葉巻をふかすのは、当時の流行だった。
女が前を通るたびに、彼は葉巻の煙をふっかけながら悪体《あくたい》をついていた。彼は自分では自分の悪口が気のきいた面白いものだと思いこんでいたが、それはまずこんなものだった。
「やあ、まずい顔だね!……いい加減《かげん》に身をかくしたがいいね!……歯がないんだね!……」
その男の名はバマタボワ氏といった。雪の上をいったりきたりしている女は、ただ化粧をしたというばかりの陰気なおばけのような姿で、彼には返事もしなければふりむきもしなかった。そして、やはりだまったまま陰うつにそこを規則的に歩きまわり、笞刑《ちけい》をうける兵隊のように五分間ごとに男の嘲《あざけ》りの的《まと》となっていた。どんなにひやかしてもあまり反応がないので、閑人はひどく機嫌をそこねたらしい。彼は女がむこうへ通り過ぎたすきをねらって、笑いをこらえながら抜き足で女のうしろにしのびより、身をかがめて敷石の上からひとにぎりの雪をつかみ、不意にそれを女のあらわな両肩から背中に押しこんだ。女は叫び声をあげて、むきなおったかと思うと豹《ひょう》のようにおどりあがり、男にとびつき、あらんかぎりのひどい悪態をあびせながら男の顔に爪をつきたてた。ブランデーの飲みすぎのため声のしゃがれた女のののしり声は、前歯の二本なくなった口から不気味にほとばしり出た。女はファンティーヌだった。
そのさわぎで、士官たちはどっとカフェからとび出してきた。通行人も足をとめ、大きな輪をつくって笑ったり、どなったりして、はやしたてた。そのまん中で、二人は旋風《せんぷう》のようにとっ組みあっていた。それが男と女であることも見分けがつかないほどだった。男は帽子を落したまま、身をもがいていた。女は帽子も前歯も髪の毛もなく、怒りのため蒼《あお》くなった恐ろしい形相《ぎょうそう》でわめきたてながら、なぐったり蹴《け》ったりしていた。
そのとき、突然背の高い男が見物人のなかからとび出して、女の泥にまみれたサテンのドレスの胸もとをつかんでいった。
「ちょっとこい!」
女は頭をあげた。狂気《きちがい》のようなわめき声は急にやんだ。眼はガラス玉のようになり、蒼《あお》かった顔はさらにまっ蒼になって、恐怖におののいていた。背の高い男がジャヴェルであることが彼女にはすぐにわかったのだった。
しゃれ者はそのあいだに逃げていってしまった。
ジャヴェルは見物人を押しのけ、うしろにそのみじめな女をしたがえて、広場のすみにある警察署のほうへ大股に歩き出した。女はただ機械的にされるままになっていた。二人ともひとことも口をきかなかった。多くの見物人はひどく面白がって、ひやかし半分についていった。極端な悲惨は卑猥心《ひわいしん》の的《まと》となる。
警察の天井の低い部屋には、煖炉《だんろ》がたいてあった。部屋前には番兵がひかえてて、鉄格子にガラスのはまった戸が通りにむかってついていた。ジャヴェルはその戸をひらき、ファンティーヌと一緒になかにはいってうしろの戸をしめた。やじ馬連はがっかりしたが、なかをみようとして爪《つま》立ちながら警察署のよごれたガラス戸の前に首をのばした。好奇心は大喰《おおぐら》いとおなじである。見ることはすなわち喰《くら》うことである。
なかにはいるとファンティーヌに、おびえきった犬のように片すみにちぢこまって、身動きもしなければ口もきかなかった。
署詰めの班長がろうそくをともしてテーブルの上に置いた。ジャヴェルは腰をかけて、ポケットから印《いん》のしてある一枚の紙をとり出し、なにか書きはじめた。
この種の婦人は法律上まったく警察の処分にまかされていた。警察ではなんでも勝手に処置して思うままに彼女たちを罰し、彼女たちが仕事とよび自由とよんでいる二つの悲しい事柄も一方的にとりあげてしまうのである。ジャヴェルは感情を動かさない男である。彼のまじめくさった顔つきは、全然無表情だった。しかし彼は心のなかでは慎重に考えをめぐらしているのだった。彼は自分の脳裡《のうり》にあるすべての考えをよび起し、自分がなそうとしている大事に、心を集注していた。彼はその女の行為を調べれば調べるほど、ますます嫌悪をおぼえた。明瞭にひとつの罪悪が行われてるのを目撃したのだった。あの往来で、ひとりの選挙権のある土地所有者によって代表される社会が、ひとりの女から侮辱《ぶじょく》され傷つけられるのを見たのである。ひとりの売笑婦がひとりの市民に害を加えたのである。
ジャヴェルは書きおわってからそれに署名した。そして、その紙をたたんで署詰めの班長に渡しながらいった。
「もう二、三人ひとをよんで、この女を牢につれてってくれ」それからファンティーヌのほうをむいていった。「お前は六カ月間牢にはいるんだぞ」
不幸な女はぞっと身をふるわせた。
「六カ月、牢に六カ月!」と彼女は叫んだ。「日に七スーずつしかとれないのに六カ月! じゃ、コゼットはどうなるだろう。娘は、ああ、娘は! あたしはまだテナルディエに百フランばかり借りがあるのに。警視さん、考えてもみてください」
大勢《おおぜい》の人の泥靴でよごれてじめじめした床の上に、彼女は身を投げた。そして立ちあがろうともしないで、両手をにぎり合せたまま、膝頭《ひざがしら》ではいまわっていた。
「ジャヴェルの旦那」と彼女はいった。「どうぞおゆるしください。決してあたしが悪かったんじゃありません。はじめからごらんになってたら、きっとおわかりになったはずです。あたしが悪かったのでないことは、神様にちかいます。知りもしないあの男の人が、あたしの背中に雪をおしこんだんです。だれにもなんにもしないでおとなしく歩いてるときに、背中に雪をおしこむなんて法がありますか。それであたしはかっとなったんです。あたしはこのとおりちょっとばかり身体も悪いんです。その上、前からあの人は、あたしに、むちゃをいって、からかったんです。まずい顔だね、歯がないんだねって。歯のないことは自分でもよく知ってますわ。だからあたしはなんにもしなかったんです。冗談いってるんだと思ってました。あたしはおとなしくしていたんです。口もききませんでした。そのときです、あの人があたしに雪を入れたのは。ジャヴェルの旦那、警視さん、はじめからそこにいて見ていて、あたしのいうことがほんとうだといってくれる人は誰もいないんでしょうか。おこったのは、あたしが悪うございましたわ。だけどあたし、あまりとっさのことだったので、つい自分をおさえることができなかったんですもの。誰だって、つい、かっとすることはあるものですわ。それにあんな冷たいものを、不意に背中のなかに入れられてごらんなさい。あの人の帽子を台なしにしてしまったのはあたしが悪うございましたわ。でもなぜあの人は逃げていったんでしょう。あたしはあやまるつもりでいましたのに。ああ、神様。あたしはいつでもあやまります。だから今日のところはどうぞおゆるしください、ジャヴェルの旦那。ねえ、あなたはご存知ないでしょうが、牢屋では七スーしかもらえないんです。お役人の知ったことじゃないでしょうが、七スーしかもらえないんです。それだのに、あたしはどうしても、百フランも払わなければならないのです。そうしないと娘はあたしのところへ返されるんです。ああ神様、あたしは娘と一緒に住めない、あたしはあんまり汚《けが》らわしい! あたしのコゼット、天使のようなあたしの娘。可哀そうに、お前はどうなるんだろう! 旦那、きいて下さい、話はこうなんです。娘をあずかってるのはテナルディエといって、田舎者で宿屋をしてる夫婦者ですが、とてもわけのわからない人たちなんです、お金ばかりほしがって。どうぞあたしを牢にいれないでください。お情けにどうか、ジャヴェルの旦那!」
彼女はそういいながら身体を二つに曲げ、身をふるわせてすすり泣き、首をあらわにして両手をにぎり合わせ、乾いた咳《せき》をしながら苦しそうに声をしぼって相手をなだめるように訴えた。その瞬間、ファンティーヌはまた美しくなっていた。ときどき彼女は言葉をきって、ジャヴェルのフロックのすそにやさしく唇をつけた。彼女は花崗《かこう》岩のような冷やかな心さえやわらげたろう。しかし、木のような心はやわらげることはできないものである。
「よろしい」とジャヴェルはいった。「いうだけのことは聞いてやった。もうすんだのか。それじゃ、さあゆけ、六カ月だぞ。父なる神でもどうにもできないことなんだ」
|父なる神でもどうにもできない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というそのおごそかな言葉をきいて、彼女はもはや判決がくだされたのだと知った。彼女はその場にへなへなとくずれおちながら、口のなかでいった。
「お慈悲を!」
ジャヴェルは背中をむけた。
兵士たちが彼女の腕をとらえた。
しばらく前からそこにひとりの男がはいってきていた。誰もそれに気がついていなかった。彼は戸をしめ、それによりかかって、ファンティーヌの絶望的な訴えをきいていたのだった。
身をおこそうともしないあわれな女に、兵士たちが手をかけたとき、男は一歩すすんで暗がりから出て来た。
「どうか、しばらく!」
ジャヴェルは眼をあげて、そこにマドレーヌ氏をみとめた。彼は帽子をぬいで不満な様子で挨拶をした。
「失礼しました、市長どの……」
この市長どのという言葉は、ファンティーヌに不思議な刺戟《しげき》をあたえた。彼女は地下からとび出した幽霊のように、突然すっくと立ちあがった。そして両手で兵士たちをおしのけ、人々がひきとめる間《ま》もなく、もうマドレーヌ氏のほうへまっすぐにすすんでゆき、われを忘れたようにじっと彼をみつめて叫んだ。
「市長さんというのはお前さんのことですかい」
それから彼女は突然笑いだして彼の顔に唾《つば》をはきかけた。
マドレーヌ氏は顔をふいていった。
「ジャヴェル君、この女を放免しておやりなさい」
ジャヴェルはその瞬間、自分は気が狂ったのではないかと思った。彼はその一瞬のあいだに、あいついで、そしてほとんど同時に、いまだかつて感じたことのないほどの、いくつかの激情を経験した。売笑婦が市長の顔に睡《つば》をはきかけるのを見たこと、それはいかにも奇怪なことで、どんなに恐ろしい想像をたくましくしてみても、ありうべきことではなかった。そう信じることさえ、すでに冒涜《ぼうとく》であるような気がした。また一方、この女はいったい何者で、また当の相手の市長もまた、本当のところはいったい何者であろうかと考え、両者のあいだに、あるいまわしい関係を心のなかで漠然《ばくぜん》と描いてみた。そして女の奇怪な侮辱のなかに、ごく簡単なある理由を想像してぞっとした。それにしても市長が、この行政官が、しずかに顔をふいて、「この女を放免しておやりなさい」というのを見たとき、彼はなにかに眩惑《げんわく》されたようにぼうぜんとしてしまった。なんの考えも言葉も出てはこなかった。おどろきの度合があまりにもつよかった。彼は口もきけないでぼんやり、そこにつっ立っていた。
また市長の言葉はファンティーヌにも同じく不思議な一撃をあたえた。彼女は自分のまわりを見まわし、そして自分自身にいうように低い声でいいだした。
「放免してやれ、六カ月の牢には入れるな! それをいったのは誰だろう。いや誰がいえるものか。あたしのききちがいかしら。市長の奴がいうはずがない。ジャヴェルの旦那、あなたですか、あたしを放免してやれっておっしゃったのは。きいてください、そしたらきっとあたしを許してくださるわ。このひどい市長です、もとはといえばみんなこの市長のおいぼれのおかげです。察してください、ジャヴェルの旦那、この人があたしを追い出したんです。工場でいろんなことをいいふらす乞食ばばあどものおかげです。あんまりひどいじゃありませんか、正直に仕事をしてるあわれな者を追い出すなんて! あたしはおかげでこんなみじめな不幸な人間になってしまいました。あたしは今までシャツをぬって一日十二スーばかりかせいでましたの、それが九スーにへってしまったんです。それではもう暮してはゆけません。それにあたしには娘のコゼットがいますの。だから、いやな商売でもしなけりゃ、とてもやってゆかれなかったんです。これでおわかりでしょ、あの市長の奴が、なにもかもみんな不幸のたねなんですわ。あたしより悪い女はどこにでもいます。それにその女たちはあたしよりもっと楽《らく》をしていますわ。ああ、ジャヴェルの旦那、あたしをゆるしてやれとおっしゃったのはあなたでしょう。よく調べてみてください。あたしは家主さんにだって、きちんと部屋代を払っていますわ。あたしが正直なことは誰にきいてもわかります」
マドレーヌ氏は注意深く彼女の言葉に耳をかたむけていた。彼女がしゃべってるあいだに、彼はチョッキをさぐって財布をとりだし、それをひらいてみた。が、それは空《から》だった。彼はそれをまたポケットにしまった。彼はファンティーヌにいった。
「いくら借りがあるといいましたかね?」
ジャヴェルのほうばかりを見ていたファンティーヌは、彼のほうをふりむいた。
「誰もお前さんに口をきいちゃいませんよ!」
そして彼女は兵士たちへ言葉をむけた。
「ねえ、あなたたちもあたしがこの人の顔に唾《つば》をはきかけたのを見たでしょう。ああ、市長の古狸《ふるだぬき》め、あたしをおどかしにきたんでしょうが、誰がお前さんをこわがるものかね。あたしはジャヴェルの旦那がこわい。親切なジャヴェルの旦那がこわいのさ!」
そういいながら、彼女はまた警視のほうへむいた。
「ねえ、警視さん、ものごとは公平にしていただかなけりゃいけませんわ。あたしはあなたが正しいことも知っています。本当は、ごくつまらないことですわ。ひとりの男が冗談に女の背中にちょっと雪を入れた。それが士官たちを笑わせた。人間って、暇さえあれば、他人をからかって面白がっているものですわ。あたしはたまたま、そういった連中のやり玉にあがっただけなんですわ。ただそれだけのことですわ。それからあなたがいらっした。あなたは秩序を保たなければならなかった。あなたは悪い女をひっぱってきた。けれど、あなたは親切だからよく考えてみて、あたしを放免してやれとおっしゃった。それは子供のためですわね。なぜって、六カ月も牢屋にはいってては子供を養うことはできませんもの。ただ二度とあんなことをするなとおっしゃるんでしょう。ええ、あたしは二度とあんなことはいたしません。ジャヴェルの旦那、もうこんどはどんなことをされようと決して手出しはいたしません。ただ今日は、あたしはあんまり大声を立てすぎましたわ。つらかったんですもの。あの人が雪を入れようなんて、夢にも思ってなかったんですもの。それにさっきも申しあげた通り、あたし身体もあまりよくないんですの。咳《せき》が出て、なんだか熱いかたまりで胸がやけそうですわ。用心せよってお医者さまもいいましたわ。ちょっと、手を出して、さわってごらんなさい。こわがらなくてもいいでしょう。ここですよ」
彼女はもう泣いてはいなかった。彼女は自分の白い胸もとにジャヴェルの大きな手をあて、そしてほほ笑《え》みながら彼をみつめた。
突然彼女は着物の乱れをなおし、戸のほうへ歩いてゆきながら低い声でいった。
「みなさん、ゆるしてやれって警視さんがおっしゃったから、あたしゆきますわ」
彼女は把手《とって》に手をかけた。今一歩で外に出るところだった。
ジャヴェルはそのときまで身動きもしないで床に眼を落し、どこかに場所をかえられるのをまってる彫像のように、この光景のまん中につっ立っていた。だが、把手《とって》の音が彼の眼をさまさせた。彼は頭をあげた。
「下士官」と彼は叫んだ。「女が外に出てゆこうとしてるのが見えないのか。そいつをゆるせと誰がいった」
「私です」とマドレーヌ氏はいった。
ファンティーヌはジャヴェルの声にふるえあがって、泥棒が盗んだ品物を放すように、把手から手をひいた。マドレーヌの声に彼女はふりむいた。そしてそのときから、一言も発しないで息もつかずに、マドレーヌからジャヴェルヘ、ジャヴェルからマドレーヌヘとかわるがわる眼をうつした。
マドレーヌが|私です《ヽヽヽ》といったとき、ジャヴェルは市長のほうへむきなおり、唇を紫色にし、怒った眼つきをし、全身をこまかくふるわせ、そして眼をふせながらも断乎たる声で、あえて市長にいった。
「市長どの、それはなりませぬ」
「なぜです?」とマドレーヌはいった。
「この女は市民を侮辱しました」
「ジャヴェル君、まあききたまえ」とマドレーヌはなだめるようなおだやかな調子でいった。
「きみは正直な人だ。きみに説明してあげるのはむつかしいことじゃない。きみがこの女を引きたててゆくとき、私はその広場を通った。まだそこには大勢《おおぜい》の人がいた。いろいろきいてみると、悪いのはあの男のほうで、拘留《こうりゅう》しなければならぬのもあの男のほうだよ」
ジャヴェルは答えた。
「この女は市長を侮辱したのです」
「それは私一個人のことだよ。それは私が自分でどうにでもすればいい」
「市長どの、お言葉ですが、女の侮辱はあなたひとりだけにとどまらず、実に法を犯すものです」
「ジャヴェル君、最高の法は良心です。私はこの女のいうことをきいた。そして自分のなすべきことを知っている」
「わたくしには、あなたのおっしゃることは、いっこう了解できません」
「それでは、私の言葉にしたがうがよろしい」
「わたくしは自分の義務にしたがうのです。わたくしの義務はこの女が六カ月間入牢することを要求します」
マドレーヌ氏はおだやかに答えた。
「よくおききなさい。この女は一日たりとも牢にいれてはなりませぬ」
その断乎《だんこ》とした言葉をきいて、ジャヴェルはじっと市長をみつめ、深い敬意をこめながらもいった。
「わたくしは市長どのに反対するのを残念に思います。これは生涯にはじめてのことです。あなたがお望みですから、あの一市民の事件だけにとどめましょう。わたくしは現場にいました。この女があの市民にとびかかったのです。彼はバマタボワ氏といって、選挙資格のある男で、立派な四階建の家をもっています。そういったことも参考にすべきです。だが、それはともかくとして、この事件は第一わたくしに関係のある道路取締法に関するものです。わたくしはこのファンティーヌという女をとりおさえます」
その時、マドレーヌ氏は腕をくみ、まだ町の人で誰もきいたことのないほどのきびしい声でいった。
「きみのいう事実は市内警察に関することです。刑事訴訟第九条、十一条、十五条及び六十六条に示すように、私はその判事たるべきものです。私はこの女を放免することを命ずる」
ジャヴェルは最後の努力をこころみようとした。
「しかし、市長どの……」
「不法監禁に関する一七九九年十二月十三日の法律第八十一条を思い出されるがいい」
「市長どの、どうか……」
「一言もならん」
「しかし……」
「おさがりなさい」とマドレーヌ氏はいった。
ジャヴェルは市長の前に地面まで頭をさげ、そして出ていった。
ファンティーヌは戸口から身をよけ、ジャヴェルが前を通るのをぼうぜんとながめた。
だが、彼女も異常な混乱にとらわれていた。彼女は自分の自由と生命と、魂と子供とを手ににぎって、二人の人が目前に争うのを見たのだった。ひとりは自分を暗黒のほうへ、ひとりは自分を光明のほうへつれもどそうとした。その争いは恐怖のために大きく見えて、二人が巨人のように思われた。ひとりは悪魔の巨人のように口をきき、ひとりは善良な天使の巨人のように語った。天使は悪魔にうち勝った。そして彼女を頭から爪先《つまさき》まで戦慄させたことは、その天使、その救い主が誰あろう、自分が呪《のろ》っていたその男、自分のすべての不幸のもとだと考えてきたあの市長、あのマドレーヌ氏その人であろうとは! それもはげしく彼を侮辱してやったその瞬間に自分を救ってくれようとは! 自分は思いちがいをしていたのだろうか?
ジャヴェルが部屋を出ていったとき、マドレーヌ氏は彼女のほうをむいていった。
「私はあなたがいったことはなにも知らなかった。あなたが工場を去ったことさえ知らなかった。なぜ私に訴えなかったのです。まあそれはいい、私はあなたの借りを払ってあげよう。子供を呼んであげよう。それともあなたが子供のところへゆかれてもいい。ここにいようと、パリヘゆこうと、どこでもいい、あなたしだいです。いるだけの金は出してあげる。よくおききなさい、私はあなたにいいます、みんなあなたがいった通りなら、私はそれを疑いませんが、それならあなたは決して堕落したのでもなければ、神様の前に汚《けが》れた身になったのでもありません。ほんに気の毒な方です!」
それは、あわれなファンティーヌには身にあまるほどのことだった。コゼットと一緒になる! 自由に、豊かに、幸福に、正直に、コゼットと一緒に暮らす! この悲惨のただなかに突然現実の楽園がひらける! 彼女は思わずわれを忘れて、自分に話しかけるその人をぼうぜんとして見まもった。そして、「おお、おお!」と二、三のすすり泣きの声が口から出るばかりだった。ひざは自然にさがり、彼女はマドレーヌ氏の前にひざまずいた。マドレーヌ氏は、それをとめる間《ま》もなく、自分の手がとられて唇が押しあてられるのを感じた。そしてファンティーヌは気をうしなった。
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第六章 ジャヴェル
マドレーヌ氏は自宅にある病室にファンティーヌをうつさせ、そこの修道女たちに託した。彼女はその夜、気を失ったまま、高い声で|うわ《ヽヽ》言をいいつづけていたが、やがてふかい眠りにおちた。
翌日の正午頃、ファンティーヌは眼をさました。彼女は自分のベッドのすぐそばに人の息をきいた。垂幕《たれまく》をひらいてみると、そこにマドレーヌ氏が立っていた。彼の眼には祈りの色がこもっていた。その視線をたどってみると、壁に釘《くぎ》づけにされた十字架像に眼をすえているのだった。
そのときからマドレーヌ氏の姿は、ファンティーヌの眼にはまるで変って映るようになった。彼が光明につつまれてるようにも思えた。彼は祈りのうちにわれを忘れていた。彼女はじゃましないようにしばらく黙っていたが、やがておずおずと口をひらいた。
「そこでなにしていらっしゃいますの?」
マドレーヌ氏は、もう一時間もそうしていたのだった。彼は彼女が眼をさますのを待っていたのである。
「加減はどうです」
「よろしゅうございます。よく眠りました。だんだんよくなるような気がします。もうたいしたことありませんわ」
だが彼はそのとき、彼女が最初に発した質問しか耳にはいらなかったように答えた。
「私は天にまします殉教者《じゅんきょうしゃ》に祈っていました」そして彼は胸の中でつけ加えた。「地上にいるこの受難者《じゅなんしゃ》のためにも」
マドレーヌ氏は、前夜とその日の午前中とを調査についやし、いまではもうすべてを知っていた。
「あなたはずいぶん苦しみましたね。しかし不平をいってはいけません。いまではあなたは天からえらばれた者の資格をもっていられる。人間はいつもそういうふうにして天使となるものです。それは人間の罪ではありません。ほかにしようがなかったからです」
彼は深いため息をついた。
ジャヴェルのほうではその晩一通の手紙を書いた。翌日それを自分でモントルイユ・シュル・メールの郵便局にもっていった。それはパリヘ送ったもので、宛名には警視総監秘書シャブイェ殿としてあった。警察署のあの事件が噂《うわさ》にのぼっていたので、局長やほかの人々はそれがジャヴェルの辞表だと思った。
マドレーヌ氏もまた急いでテナルディエ夫婦に手紙を書いた。ファンティーヌは彼らに百二十フラン借りになっていた。彼は三百フラン送って、そのうちからすべてを差し引き、母親が病気で子供に会いたがっているから、すぐに子供をつれてくるようにいってやった。
テナルディエはおどろいた。
「畜生、子供を手ばなしてたまるものか」と彼は女房にいった。「この雲雀《ひばり》娘がこれから乳の出る牛になろうというものだ。馬鹿者があのおふくろにひっかかったのだ」
彼は五百フランとなにがしかの覚え書をうまくつくって送ってきた。そのなかには三百フランあまりの二つの内訳《うちわけ》がのっていた。そのひとつは医者代で、もうひとつは薬代で、どちらもエポニーヌとアゼルマとのながい病気の手当代と薬代だった。コゼットは病気にはかからなかった。ただ彼女と二人の姉妹の名前をちょっとかき変えるというだけの手間《てま》がかかっただけだった。テナルディエは覚え書の下に三百フラン受けとりました、と書きつけた。
マドレーヌ氏はすぐまた三百フラン送って、はやくコゼットをつれてきてくれと書いてやった。
「なあに、子供は手ばなすものか」とテナルディエはいった。
そのうちにも、ファンティーヌは恢復《かいふく》しなかった。修道女たちは「その女」を受けとって看病はしたが、はじめはいやいやながらだった。貞節な女性の不運な女性に対する軽蔑は、女の威厳《いげん》からくるもっとも深い本能のひとつである。しかし、やがてファンティーヌは彼女たちの心をやわらげた。ファンティーヌはひかえめでやさしい言葉をもっていた、そして彼女のうちにある母性がひとの心を動かした。ある日、彼女が熱にうかされながらつぎのようにいうのを修道女たちはきいた。
「あたしは罪深い女でした。けれど子供があたしのとこへくるなら、それは神様があたしをお許しなさったことになるんだわ。汚《けが》れた生活をしてるあいだは、コゼットをそばによびよせたくありませんでした」
マドレーヌ氏は日に二度ずつ彼女を見舞いにやってきた。そのたびに、彼女はたずねた。
「もうすぐコゼットにあえますかしら」
彼は答えた。
「たぶんあすの朝にはね。今にくるかと私もずっと待っているのです」
すると母親の蒼《あお》白い顔はかがやいてきた。
「ああ、そしたらあたし、どんなにかしあわせでしょう!」
彼女の病気はなかなか恢復しなかったと前にいったが、本当はそれどころか、かえって容態は重くなるようだった。医者は彼女を診察して頭をふった。
マドレーヌ氏は医者にたずねた。
「いかがでしょう」
「あいたがっている子供でもありませんか?」
「あります」
「では至急およびなさるがよろしい」
マドレーヌ氏は身をふるわせた。
ファンティーヌは彼にたずねた。
「お医者さまはなんといわれまして?」
「はやく子供をつれてくるようにといいました。そうすれば元気になるだろうと」
マドレーヌ氏はむりに笑い顔をみせていった。
「ええ、そうですとも! でもテナルディエの人たちはどうしたんでしょう、あたしのコゼットをひきとめておくなんて。ああ、娘がくるんですわ、とうとうあたしの幸福があたしのそばに!」
「私は人をやってコゼットをつれてこさせましょう。もし、やむをえなければ自分でいってこよう」
彼はファンティーヌの言葉どおりにつぎのような手紙を書いて、それに彼女の署名をさせた。
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テナルディエ様
この人ヘコゼットをおわたしください。
いろいろな費用はすべてお支払いいたします。
なにとぞよろしくお願いいたします。
ファンティーヌ
[#ここで字下げ終わり]
ところが一方、ちょうどそのとき当のマドレーヌ氏の身にまつわる大事件がもちあがっていたのである。人生がそこに形づくられているふしぎな石をどんなによく刻《きざ》もうとしてもむだである。運命の暗い鉱脈がつねにそこに現われてくる。
ある朝、マドレーヌ氏は書斎にこもって、自分がモンフェルメイユに旅をする場合のことを考えて、市長としての緊急な二、三の事務を前もって整理していた。そこへジャヴェルがなにか申しあげたいことがあって来たと、とりつがれた。その名前をきいてマドレーヌ氏はある不快な印象を禁じえなかった。警察署でのあの事件いらい、ジャヴェルは前よりいっそう彼をさけていた。そしてマドレーヌ氏はジャヴェルの姿を少しも見なかったのである。
「とおしておくれ」と彼はいった。
ジャヴェルははいって来た。
マドレーヌ氏は煖炉の近くにすわり、手にペンをもって、道路取締り違犯の調書がのっている記録をひらいて、なにか書き入れながらそれに眼をすえていた。彼はジャヴェルが来てもそれをやめなかった。彼は憐れなファンティーヌのためにいろいろ考えてやることを途中でやめることができなかったのである。それで自然応待も冷淡になった。
ジャヴェルは自分のほうに背をむけている市長にうやうやしく礼をした。しかし、市長は彼のほうへ眼をむけないで、そのまま記録に書きこみをつづけていた。
ジャヴェルは部屋のなかに二、三歩すすんだ。そしてその静けさをやぶることなく無言のまま立ちどまった。
もしひとりの人相家があって、ジャヴェルの性質をよく知り、この文明につかえる蛮人《ばんじん》、ローマ人とスパルタ人と僧侶と下士とのおかしな雑種人、嘘《うそ》ひとついえないスパイ、この純粋無垢な探偵を、長いあいだ研究し、さらにまた、マドレーヌ氏に対する彼の昔からのひそかな反感や、ファンティーヌに関する彼と市長との争いなどを知っていて、しかもこの瞬間の彼をよく見たならば、その人相家は、きっと「なにごとが起ったのだろう?」と思ったにちがいない。彼の正直で明晰《めいせき》でまじめで誠実で厳格で狂暴な内心を知っている者にとっては、彼の心に大変化がもちあがったことを明らかに見てとったであろう。
ジャヴェルはいつも心にあることはすぐに顔にもあらわした。彼はあらあらしい気質のひとによくあるようにすぐに説をかえた。が、このときほど彼の顔つきが不思議な、意外な表情をしていたことはかつてなかった。部屋にはいってくるや、まったく怨恨《えんこん》も怒りも疑いもふくまない眼つきで、マドレーヌ氏に身をかがめ、それから市長の肘掛椅子のうしろの数歩のところに立ちどまった。そして今はかしこまった態度で、決してやさしさを知らない、そしてあくまで忍耐づよいひとのように、市長がふりむくのを待っていた。落ちついたまじめな様子をして、手に帽子をもち、眼をふせ、そして顔には隊長の前に出た兵士と裁判官の前に出た罪人との中間的な表情をうかべていた。
彼がもっていたと思われるあらゆる感情や記憶は消えうせてしまっている。その花崗《かこう》岩のような単純で、しかもはかりがたい顔の上には、ただ憂うつな悲しみのほかは、なにもみられない。彼のあらゆる表情は、屈従と決意と、なにかしら積極的な自虐《じぎゃく》といえるようなものを示していた。
ついに市長はペンを置いてなかばふりかえった。
「さて、なんですか、ジャヴェル君?」
彼はなにか考えこんでるように、ちょっとだまっていたが、やがて卒直さをうしなわない悲しげな荘重さをもって声を高めていった。
「はい、市長どの、有罪な行為がなされたのです」
「どんな行為です?」
「下級のある役人がある行政官に見のがすことのできないような不敬を働きました。わたくしは自分の義務としてその事実の報告にまいったのです」
「その役人というのはいったい誰です?」
「わたくしです」とジャヴェルはいった。
「きみが?」
「わたくしです」
「じゃ、行政官というのは誰です?」
「市長どの、あなたです」
マドレーヌ氏は椅子の上に身をおこした。ジャヴェルはなお眼をふせながら謹厳な顔をしてつづけた。
「市長どの、わたくしの免職を当局に申したててくださるようお願いにあがったのです」
マドレーヌ氏はおどろいて、なにかいおうとした。ジャヴェルはそれをさえぎった。
「あなたはわたくしのほうから辞職すべきだとおっしゃるでしょう。しかしそれではたりません。自分から辞職するのはまだ名誉なことです。わたくしは罰せられるべきです。追放されなければいけない人間です」
「どうしてそうむちゃなことをいうのです。いったいどういう意味ですか。きみは私に対してどういう有罪な行為を犯したのです。きみは自分で自分を責め、免職されることをお望みだが、私に対してどんな悪いことをしたというのですか?」
「いま、説明します、市長どの」
ジャヴェルは胸の底からため息をもらした。そして冷やかに、また悲しげにいいだした。
「市長どの、六週間前、あの女の事件から、わたくしは憤慨《ふんがい》のあまりあなたを告発しました」
「告発!」
「パリの警視庁へ」
ジャヴェルと同様にあまり笑ったことのないマドレーヌ氏も、笑いだした。
「警察権を侵害した市長としてですか」
「前科者としてです」
市長は顔色をかえた。
なお眼をふせていたジャヴェルはつづけた。
「わたくしはそれを信じていました。ずっと前からそう考えていました。ある類似点、あなたの腰の力、フォーシュルヴァン老人の事件、あなたの射撃のうまさ、少しひきずり加減のあなたの足、そのほかいろいろとくだらないことです。そしてついにわたくしは、あなたをジャン・ヴァルジャンという男だと信じたのです」
「え?……なんという名前です?」
「ジャン・ヴァルジャンという名の男です。それは二十年前、わたくしがツーロンで副看守をしていたときに見たことのある囚人です。徒刑場を出てからそのジャン・ヴァルジャンは、ある司教の家で窃盗《せっとう》を働いたらしいのです。それから街道でサヴォワの少年をおどしてなにかうばったらしいのです。八年前から姿をくらまして、誰もその男がどうなったか知る者がなかったのですが、捜査はつづけられていました。わたくしは勝手な想像をめぐらし……つい大変なことをしでかしてしまったのです。わたくしは怒りにかられてあなたを警視庁へ告発しました」
「で、なんという返事がきました」
「わたくしは気狂《きちがい》だという」
「それで?」
「警視庁当局の調査のほうが正確でした」
「それはよかった、きみがそれをみとめられたことは」
「みとめざるをえなかったのです。ほんとうのジャン・ヴァルジャンが発見されたのですから」
マドレーヌ氏はもっていた帳簿を手から落した。彼は頭をあげて、じっとジャヴェルを見つめた。そしてなんともいいようのない調子でいった。
「ほう!」
ジャヴェルはつづけた。
「実は、こういうわけなのです、市長どの。アイイ・ル・オー・クロシェのちかくの田舎に、シャンマティユ爺さんというひとりの老人がいたのです。去年の秋、そのシャンマティユは酒造用のリンゴを盗んだため捕えられました。それだけなら懲罰《ちょうばつ》だけで、すむところでした。しかし天命が待ってたのです。予審判事《よしんはんじ》は、当時町の牢がこわれかけてたので、シャンマティユをアラス県の監獄におくることにしました。ところが、そのアラスの監獄にはブルヴェという前科者がいまして、獄内での行いがよかったので牢番にされていました。シャンマティユがそこに着くと、ブルヴェは叫びました、『やあ、わしはこの男を知ってる。こいつはいわくつきの男だ。おい貴様、おれを見ろ。貴様はジャン・ヴァルジャンだな』『ジャン・ヴァルジャンだと! いったい誰のこったい』とシャンマティユはおどろいたふうをしました。が、ブルヴェは、『白《しら》ばくれちゃいけねえや。貴様はジャン・ヴァルジャンだ。ツーロンの徒刑場にいたろう。二十年前のことだ。おれと一緒にいたじゃねえか』シャンマティユは否定しました。ありそうなことです。調査がすすめられました。私のほうにも調べがきています。結局こういうことがわかったのです。シャンマティユは三十年ほど前にファヴロールを中心に各地で枝切り職をやっていた。ところがファヴロールでゆくえがわからなくなった。それからずっとあとになってオーヴェルニュに姿をみせ、ついでパリに現われた。そこで彼は車大工をやり、娘がひとりあって洗濯女をやっていたというが、それは証拠不十分でした。そして最後にあの土地にやってきた。ところで窃盗罪で徒刑場にはいる前、ジャン・ヴァルジャンはなにをしていたかというと、枝切り職でした。そして、どこでかというと、やはりファヴロールで。なお、その上ほかにも事実がある。ジャン・ヴァルジャンはその洗礼名をジャンといい、母は姓をマティユといっていた。で、徒刑場を出ると、前身をくらますために母の姓をとってジャン・マティユと名のったという推察《すいさつ》はいたって自然なことです。そして彼はオーヴェルニュにいった。その地方ではジャンをシャンと発音するので、彼も自然シャン・マティユとよばれた。で、その男はそのままシャンマティユとかわった。……おわかりになりましたでしょう。ツーロンのほうを調べてみますと、ジャン・ヴァルジャンをみたという者はブルヴェのほかに二人の囚人しかいません。それは無期徒刑囚のコシュパイユとシュニルディユという二人です。その二人をつれて来て自称シャンマティユという男をみせると、彼らは少しもためらわずに、ジャン・ヴァルジャンだとみとめたのです。ちょうどそのとき、わたくしはパリの警視庁に告発状を送ったのです。その返事には、わたくしは気が狂ったのだ、ジャン・ヴァルジャンは捕えられてアラスにいるということでした。ここでジャン・ヴァルジャンを捕えたと思っていたわたくしがどれほどおどろいたかお察しください。わたくしは予審判事に手紙を書きました。わたくしは判事のところによばれ、やがて眼の前にジャン・ヴァルジャンが引き出されてきました……」
「すると?」とマドレーヌ氏は言葉をはさんだ。
ジャヴェルは厳格な、また悲しそうな顔をして答えた。
「市長どの、事実は事実です。残念ですがその男はジャン・ヴァルジャンだったのです。わたくしもそれをみとめました」
マドレーヌ氏は低い声でいった。
「たしかですか?」
ジャヴェルは深い確信から出る悲しげな笑い声をたてた。
「ええ、そりゃたしかですとも!」
彼はテーブルの上にあったインク吸いとり用の粉の箱から、木の粉を機械的に二、三度つまみながらしばらく考えこんでいた。それからつけ加えた。
「そして、ほんとうのジャン・ヴァルジャンを見ました今では、どうしてほかの人をそうだと信じこんでしまったのか、自分にもわかりません。市長どの、どうかわたくしをおゆるしください」
六週間前、大勢の署詰めの警官たちの面前で自分を侮辱《ぶじょく》し、自分に「おさがりなさい!」といったその人にむかって、いまそのまじめな嘆願の言葉を発しながら、傲慢《ごうまん》な彼ジャヴェルは、自分でも気がつかないような、素朴《そぼく》さと威厳にあふれていた。ところが、マドレーヌ氏は彼のその嘆願に答えるのに、ただつぎのような思いがけない質問を発したのである。
「で、その男はなんといっていました?」
「いや、市長どの、事件はただごとではありません。彼がジャン・ヴァルジャンだとすれば、再犯となるのです。塀《へい》をのり越え、枝を折り、リンゴを盗むくらいは、子供ならいたずらにすぎませんし、大人なら軽罪ですみますが、それが囚人となると、完全な犯罪として成立するのです。侵入と窃盗、それがみんなそろうわけです。そうなると、もう軽罪裁判の問題ではなく、重罪裁判の問題です。数日間の監禁どころか、終身徒刑です。それにサヴォワの少年の事件もあります。それも問題となるべきです。そしてそうなるとまた、一面では当然弁護上の論争も生じてくるわけです。もちろん彼がもし、ジャン・ヴァルジャンでなかったならば、当然弁じたてるところです。しかしジャン・ヴァルジャンは|くせもの《ヽヽヽヽ》です。その点からも、わたくしはたしかにあの男だとにらんでいるんです。ほかの者なら逆上するところです。きっとわめきたてるでしょう。火の上で煮たってる鍋《なべ》のように、自分はジャン・ヴァルジャンではないといってさわぎたてるところです。ところが、奴はなにもわからないようなふりをして、こういってるだけなのです。『わしはシャンマティユというものだ、わしはそれ以外の人間じゃない!』奴はとぼけたふうをして馬鹿をよそおっています。なかなか巧妙です。しかし証拠は十分です、四人の人間から認定されたのですからね。いずれ有罪になるでしょう。アラスの重罪裁判にまわされています。わたくしも証人としてそこへゆくことになっています。召喚《しょうかん》されたのです」
マドレーヌ氏はまた机のほうをむいて、記録を手にしていた。そしてなにか用に追われているように読んだり書き入れをしたりして、しずかに頁をめくっていた。しかし、そのうちまた彼はジャヴェルのほうにふりむいていった。
「わかりました。ジャヴェル君、実際そういうくわしいことは私にはあまり関係のないことです。われわれにはほかに急ぎの用があります。ジャヴェル君、あのサン・ソーヴ街のかどで野菜を売ってるビュゾーピエ婆さんの家へすぐにいってくれませんか。そして馬車ひきのピエール・シェヌロンを訴え出るようにいってください。あの男は乱暴な奴で、その婆さんと子供とをひき殺そうとしたのです。処罰しなければいけません。つぎに、ギブール街のドリス未亡人とロー・ブラン街のルネ・ル・ボセ夫人の家とに警察規則違反があるといってきていますから、それの調書もつくってきてください。だが、まってください、それじゃあ、どうも君にあんまり仕事をたのみすぎることになりますな。それにきみは、ちかいうちに出かけることになってるのでしたね。一週間か十日かすると、きみはあの事件のことでアラスにゆくとさっきいいましたね」
「いやもっとはやくですよ、市長どの」
「では、いつです?」
「あした裁判になるので、わたくしは今晩駅馬車で出かけると、さっき申しあげたと思いますが」
マドレーヌ氏は眼につかないほどのかすかな、驚いたような身振りをした。
「その事件はどのくらいつづきますか?」
「ながくて一日ですむでしょう。おそくとも判決は明晩くだされるでしょう。判決はもうわかっていますから、それを待たずに、自分の供述をすましたらすぐ帰るつもりです」
「なるほど」とマドレーヌ氏はいった。
そして手振りでジャヴェルに、もう部屋を出ていってもいいとつげた。しかし、ジャヴェルはたち去らなかった。
「失礼ですが市長どの……」
「まだなにか用ですか?」とマドレーヌ氏はたずねた。
「市長どの、まだひとつ思い出していただきたいことが残っています」
「なんですか?」
「わたくしを免職されなければならないことです」
マドレーヌ氏は立ちあがった。
「ジャヴェル君、きみは立派な人だ、私は尊敬しています。きみは自分で自分の過失を大きくみすぎている、こんどのことはただ私一個人に対する非礼にすぎません。私はきみに職にとどまっていてもらいたいのです」
ジャヴェルはその誠実な眼つきでじっとマドレーヌ氏をながめた。その眼底には、聡明《そうめい》ではないが、しかし厳格潔白な内心が見通されるようだった。彼はしずかな声でいった。
「市長どの、わたくしはお説に従うことができません」
「くりかえしていうが、ことは私一個人だけのことです」
しかしジャヴェルは、自分のあるひとつの考えばかりにこだわりつづけていった。
「過失を大きくみすぎるといわれますが、決して大きくみすぎてはいません。わたくしはあなたを不当に疑ったのです。それはなんでもありません、疑念をいだくのはわたくしども仲間の権利です。しかし、証拠もないのに、一時の怒りにかられて復讐するという目的で、あなたを囚人として告発したのです。尊敬すべきひとりの人を、市長を、行政官を! これは重大なことです。きわめて重大です。あなたを侮辱したこと、すなわち当局を侮辱したことになるのです。もしわたくしの部下がわたくしのしたようなことをしたら、わたくしは彼を職をけがす者として追放するでしょう。……市長どの、もうひとこといわせてください。わたくしはこれまで他人に対してしばしば厳格でした。それは正当なことでした。わたくしは正しくふるまってきたのです。しかしいま、もしわたくしが自分自身に対して厳格でないならば、わたくしは今まで正当にしてきたこともみんな不当になります。どうして、自分自身に対してだけ、他人よりあまくすることができましょうか。他人を罰するだけで自分を罰しない! そういうことになれば、わたくしはあさましい男となってしまいます。このジャヴェルの恥知らずめ! といわれてもしかたがありません。
市長どの、わたくしはあなたがわたくしを寛大にとりあつかわれることを望みません。あなたが他人に親切なのをみて、わたくしはずいぶん憤慨しました。わたくしはあなたに親切にしていただきたくないのです。市民に対して売笑婦をかばう親切、市長に対して警官をかばう親切、上司に対して下級の者をかばう親切、わたくしはそれをさして悪しき親切とよびます。社会の秩序をみだすのはそういう親切がもとです。ああ、親切なるはやさしく、正当なるはむつかしきかなです。もしあなたが、わたくしのはじめに信じていたような人だったなら、わたくしは決してあなたに親切ではなかったでしょう。
おわかりになっただろうと思います。市長どの、わたくしは自分以外のほかのすべての人たちをとりあつかうように、自分自身もとりあつかわなければなりません。悪人をとりおさえ、ならず者を処罰するとき、わたくしはしばしば自分自身にむかっていいました、お前がつまずくとき、お前があやまちを犯してとりおさえられるとき、そのときこそ思い知るがいい! と。いまわたくしはつまずきました、あやまちを犯してとりおさえられています。さあ免職にして、たたき出してください。それが当然です。わたくしには両の腕があります、土地をたがやして働きます。なんとかなります。市長どの、職務を立派につくすには実例を示すべきです。わたくしはたんに警視ジャヴェルの免職をもとめます」
それらの言葉は、卑下《ひげ》と自負《じふ》と絶望と確信との調子のうちに語られた。そしてその異常に正直な男に、なんともいえないあるおかしな重々しさをあたえていた。
「まあ、考えて置きましょう」とマドレーヌ氏はいった。そして彼は手をさし出した。
ジャヴェルはうしろにひきさがった。そしてあらあらしい調子でいった。
「それはごめんこうむります、市長どの。そんなことがあってもいいものでしょうか、市長が間諜《かんちょう》にむかって握手をあたえるなどということが」
彼はそしてなお、口のなかでつけたした。
「そうです、間諜です。警察の職権を濫用《らんよう》していらい、わたくしは間諜にすぎません」
それから彼は低く頭をさげて、扉のほうにすすんだ。扉のところで彼はふりむき、なお眼をふせたままいった。
「市長どの、わたくしは後任がくるまで仕事をつづけております」
彼は出ていった。そのしっかりしたおもおもしい足音が、敷石の廊下を遠ざかってゆくのをききながら、マドレーヌ氏は深いもの思いにしずんだ。
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第七章 シャンマティユ事件
一
ジャヴェルが訪れてきた日の午後、マドレーヌ氏はいつものとおりファンティーヌを見舞いにいった。
ファンティーヌのそばにゆく前に、彼はサンプリス修道女を呼びよせた。
この敬虔《けいけん》な婦人はファンティーヌに愛情をいだいていた。おそらくファンティーヌのうちにある美徳を感じたのであろう。そして彼女はほとんどほかのことをうち捨ててファンティーヌの看護に身をささげていた。
マドレーヌ氏はサンプリス修道女を片すみに呼んで、ファンティーヌのことをくれぐれもたのんだ。彼女はあとになってから気がついたのであるが、その時の市長の声にはただならぬ調子がこもっていた。
彼はサンプリス修道女からはなれ、ファンティーヌに近づいていった。
ファンティーヌは毎日、マドレーヌ氏のくるのを待っていた、ちょうどあたたかい陽《ひ》ざしとよろこびの光を待つかのように。彼女はよく修道女にいった。
「あたしは市長さんがここにいてくださるときしか、生きてる心地がしませんわ」
彼女はその日、熱が高かった。マドレーヌ氏を見るなり彼女はたずねた。
「あの、コゼットは?」
彼はほほ笑みながら答えた。
「もうすぐ来ますよ」
マドレーヌ氏はファンティーヌに対して、いつもとちっとも変った様子をみせなかった。ただいつもは三十分だけなのに、その日は一時間も彼女のそばにいた。それをファンティーヌはひどくよろこんだ。彼はまわりの人たちに、病人にどんなことにでも不自由をさせないようにとくり返したのんだ。その時ちょっと彼の顔に暗い|かげ《ヽヽ》がさしてるのに気づいた人もあったが、しかし医者が彼の耳に身をかがめて、「だいぶ容態《ようだい》が悪いようです」といったことがわかると、その理由はすぐにうなずかれた。
それから彼は市役所にもどった。役所の給仕は、彼が市長室にかかっているフランスの道路明細地図を注意深く調べているのを見た。市長は紙に鉛筆でなにか数字を書きつけた。
町はずれに、スコーフラエルをフランス流にスコーフレール親方とよばれるひとりのフランドル人が、貸馬や「貸馬車屋」をやっていた。マドレーヌ氏は市役所からその家にやっていった。
そのスコーフレールの家にゆくのにいちばんの近道は、マドレーヌ氏が住んでた教区の司祭館のある人通りの少ない路だった。司祭は、みんなのいうところによると、ものわかりのよい立派な尊敬すべき人だった。マドレーヌ氏がその司祭館の前を通りかかったとき、路にはただひとりの通行人しかいなかったが、その通行人はつぎのことを目にした。市長は司祭の家を一度通り越してから足をとめ、じっとそこにたたずんでたが、それからまた足をかえして司祭館の戸口のところまでもどってきた。その戸口には呼び鈴の鉄の戸|たたき《ヽヽヽ》がついていた。彼はすぐにその槌《つち》を手にかけてふりあげた。それから不意にためらって手をとめ、なにか考えてるようだったが、やがて槌をふりおろすのをやめ、しずかにそれをもとにもどし、そして前とちがって少し急ぎ足で道を歩いていった。
マドレーヌ氏がたずねていったとき、スコーフレールは家にいて、馬具をつくろっていた。
「スコーフレール君」と彼はたずねた。「馬のいいのがあるかね」
「市長さん、うちの馬はみんなようがす」とそのフランドル人はいった。「あなたがいい馬とおっしゃるのは、いったいどういうやつで?」
「一日に二十里も走れる馬なんだ」
「なんですって!」とその男はいった。「二十里!」
「そうだよ」
「箱馬車をつけてですかい?」
「ああ」
「それだけ走って、そのあとどのくらい休めるんです?」
「場合によっちゃあ、あくる日またとばさなくてはならないが」
「おなじ道のりですかい?」
「そうだ」
「いやはや! 二十里ですな」
マドレーヌ氏は鉛筆で数字を書きつけておいて紙片をポケットからとり出した。彼はそれをフランドル人に見せた。それには、五、六、八半という数字がかいてあった。
「このとおりなんだがね」と彼はいった。「合計十九半だが、まあ二十里だね」
「市長さん」とフランドル人はいった。「ようがす、おひきうけしやしょう。あの可愛いい白馬でがす。ときどきあいつが歩いてるのをごらんなすったでしょう。バ・ブロネ産の可愛いいやつです。どえらく元気ものでしてな。最初は乗馬にしようとしたんですが、どうもあばれ者で、だれかれかまわずに地べたにふり落すという代物《しろもの》でがす。性《たち》が悪いというので誰も手をつける者がなかったんでさあ。そこをあっしが買いとって馬車につけてみたんで。ところが旦那、それがやつの気に入ったとみえて、おとなしいことは小娘のようで、走るといったら風のようでがす。ええ全くのところ、乗るわけにはいきませんや。乗馬になるのは気にあわないとみえまさあ。誰にだって望みがありますからな。引くのならいい、乗せるのはごめんだ、やつの心はまあそんなもんでがしょう」
「その馬なら、いまいった旅ができようというわけだな?」
「ええ二十里くらいは。かけ通しで八時間たらずはやれまさあ。ですが条件づきですぜ」
「どういう?」
「だいいちに、半分いったら一時間休ませてくだせえ。そのときに喰《く》いものをやるんでがすが、宿の馬丁が麦を盗まないように、喰ってるあいだ、ついていてもらいてえんで。宿じゃ麦は馬に喰われるより、うまやの小僧どもの飲みしろになっちまうのを、よくみかけやすんで……」
「誰か人をつけておくことにしよう」
「第二に……馬車は市長さんがお乗りになるんですかい?」
「そうだ」
「馬の手綱《たづな》をとることをご存知で?」
「ああ」
「じゃ馬を軽くしてやるために、荷物をつけないで、旦那ひとりでお乗りになってもらいやしょう」
「よろしい」
「ですが旦那ひとりだと、ご自分で麦の番をしなけりゃなりませんぜ」
「承知してる」
「それから一日三十フランはいただきてえんで。休む時間も勘定に入れてですぜ。それよりゃ、びた一文も引けねえ。それから馬の喰《く》い料も旦那もちにしていただきてえんで」
マドレーヌ氏は財布からナポレオン金貨三枚をとり出し、それをテーブルの上に置いた。
「では、これが二日分の前金だよ」
「それから第四にそんな旅にゃ箱馬車はあまり重すぎて馬を疲らすおそれがありまさあ。いま、あっしのうちにある小馬車で我慢していただきてえんでがすが」
「よろしい」
「かるいが、幌《ほろ》はありませんぜ」
「そんなことはどうでもいい」
「でも旦那、今は冬ですぜ……」
マドレーヌ氏は答えなかった。フランドル人はいった。
「ひどい寒さでがすが、よろしゅうござんすか」
マドレーヌ氏はなおだまっていた。スコーフレール親方はつづけていった。
「雨が降るかもしれませんぜ」
マドレーヌ氏は顔をあげていった。
「その小馬車と馬とを、あすの朝四時半に私の家の門口につけてもらおう」
「承知しやした、市長さん」とスコーフレールは答えた。それから彼はテーブルの木のなかについているしみを親指の爪でこすりながら、自分のずるさをおしかくすときのフランドル人共通な、なにげないふうを装っていった。
「ちょっと思いだしたんですがね、旦那はまだどこへゆくともおっしゃらなかったですな。いったいどこへおいでになるんでがす?」
彼は話のはじめからそのことばかり考えていたのだが、なぜかそれをききかねていたのだった。
「その馬の前脚は丈夫かね?」とマドレーヌ氏はいった。
「丈夫でさあ。くだり坂にゃちょっとおさえてくだされりゃいいんでがすよ……おいでになろうってとこまでにゃ、くだり坂が沢山あるんですかい?」
「あしたの朝四時半きっかり門口まで忘れないようにたのんだよ」とマドレーヌ氏は答えた。そして出ていった。
フランドル人は、あとで自分でもいってたように、「全くあっけにとられて」しまった。
市長が出ていって二、三分した頃、戸がまたあいた。こんどもまた市長だった。
彼はさっきと同じように、なにか物思いにふけってて、ほかのことには全然気をとられていないようだった。
「スコーフレール君」と彼はいった。「きみが私に貸そうという馬と馬車は値段に見積ってどのくらいになるかね、馬に馬車をのせて?」
「旦那、馬に馬車をのせるんじゃねえ、引かせるんでがすよ」とフランドル人は大声で笑いながらいった。
「そうそう。それで?」
「旦那が買いとってくださるんですかい?」
「いや、ただ万一のために保証金を出しておくつもりなんだよ。帰ってきたらその金を返してもらうさ。馬車と馬とでいくらに見積るかね?」
「五百フランに、旦那」
「じゃあ、それだけここに置いとくよ」
マドレーヌ氏はテーブルの上に札を置き、それから出ていった。そしてこんどはもうもどってこなかった。
スコーフレール親方は千フランといわなかったのをひどく残念がった。馬と馬車とで百エキュ(五百フラン)の価だったのである。
フランドル人は女房をよんで、その事を話した。いったい市長はどこへゆくんだろう? 二人は話し合った。
「パリヘでもゆくんだろうね」と女房がいった。
「おれはそうは思わねえ」と亭主はいった。
ところがマドレーヌ氏は煖炉の上に数字を書いた紙片を置き忘れていった。フランドル人はそれをとりあげて調べてみた。
「五、六、八半、これは宿場のかずにちがいねえ」彼は女房にむかっていった。「わかったぞ」
「なにがよ?」
「ここからエダンまで五里、エダンからサン・ポルまで六里、サン・ポルからアラスまで八里半、市長はアラスヘ出かけるんだ」
マドレーヌ氏は家に帰った。
スコーフレール親方の家からの帰りに、彼はまるで司祭館の戸口がなにか誘惑物ででもあってそれをさけるかのように、まわり道をした。それから彼は自分の部屋にあがってゆき、そしてなかにとじこもった。彼はよくはやくから床につくことがあったので、それはべつにあやしむべきことではなかった。しかし、マドレーヌ氏のただひとりの召使であり同時に工場の門番をしていた女は、彼の部屋の明りが八時半に消されたのを見た。そして彼女はそのことを帰ってきた会計係の男に話し、こうつけ加えた。
「旦那様は病気じゃないでしょうか。なんだかご様子がかわってましたが」
この会計係の男はマドレーヌ氏の部屋のちょうどま下の部屋に住んでいた。彼は門番の女の言葉を気にもかけずに床について眠った。夜中に彼は眼をさました。夢うつつのうちに彼は、頭の上でなにか物音がしてるのをきいたのだった。彼は耳をすましてみた。誰かが上の部屋を歩いているようなゆききする足音がきこえてきた。彼はなお注意して耳をすました。するとそれが、二階の床の上を歩いてるマドレーヌ氏の足音であることがわかった。彼はそれが不思議におもえてならなかった。マドレーヌ氏が起きあがる前にその部屋に足音のするなどということは、日頃なかったことなのである。しばらくすると彼は、戸棚がひらかれ、またしめられるような音を聞いた。それからなにか家具が動かされる音がして、それからしばらくひっそりとした。と、また足音がはじまった。彼は寝台に身を起した。すっかり眼がさめて、じっと眼をすえて見ると、窓越しにすぐ前の壁に、明りのついたどこかの窓の赤い火影《ほかげ》がさしている。その光の方向をたどってみると、それはマドレーヌ氏の部屋の窓らしかった。火影がゆれてるところからみると、普通の明りではなく、なにか火をもやしているらしかった。窓ガラスの枠《わく》の影がそこにうつっていないところからすると、窓はすっかりひらかれているにちがいない。この寒い夜に、窓がすっかりひらかれてるなんて、ただならぬことだった。だが彼はそのまま、また眠ってしまった。一、二時間後に彼はまた眼をさました。ゆっくりした規則正しい足音が、やはり頭の上でゆきつもどりつしていた。
火影はなお壁の上にさしていた。しかし、それはもうランプかろうそくの反映のようにうすくしずかになっていた。窓は相変らずひらかれていた。
ところで、その頃マドレーヌ氏の部屋のなかで起ってたこととは、まさしくつぎのごときものであった。
二
読者はおそらくすでにマドレーヌ氏がジャン・ヴァルジャンにほかならぬことを察せられただろう。
あのプティ・ジェルヴェの事件ののち、ジャン・ヴァルジャンにどんなことが起ったかについては、すでに読者の知っていること以外にあまり多くをつけ加える必要はない。そのときいらい、前にのべたように彼は全く別人になった。司教が彼に望んだことを、彼は実現した。それはもはや単なる変化でなくして、変容だった。
彼は首尾よく姿をかくし、記念として燭台だけを残し、司教からもらった銀の器《うつわ》を売りはらい、町から町へとしのび歩き、フランスを横ぎり、モントルイユ・シュル・メールに来て、前にのべた通りのことを考えつき、いらいモントルイユ・シュル・メールに居《きょ》をさだめ、過去のために悲しい色にそめられた自己の心と、後半生のために夢のようになった前半生とを感じながら、心楽しく、平和と安心と希望とをいだいて生活していた。そしてもはや二つのことしか考えなかった。すなわち、自分の名前をかくすことと自己の生をきよめること、人生をのがれることと神につかえること。
その二つの考えは彼の心のうちに密接にむすばれ、ただひとつのものとなっていた。二つともおなじように彼の心を奪い、彼をしたがえ、彼のこまごました行為さえも支配していた。そして普通は両者がひとつとなって彼の世に処する道を規定し、彼の眼を人生の悲惨なもののほうへむかわせ、彼を親切で素朴な人間とし、彼にいつもおなじような助言をあたえていた。しかし、ときとしては両者のあいだに争いが起った。かかる場合、読者の記憶するとおり、この、モントルイユ・シュル・メールのすべての人たちがマドレーヌ氏とよんでた人物は、第一を第二のものの犠牲とし、自己の安全を自己の徳行の犠牲に供することを躊躇《ちゅうちょ》しなかった。そのようにして彼は、あらゆる控え目と用心にもかかわらず、司教の二つの燭台を保存し、司教のために喪服をつけ、通りすがりのサヴォワの少年をよんではたずね、ファヴロールにおける家庭のことをしらべたり、ジャヴェルの疑惑の眼もかえりみずにフォーシュルヴァン老人の生命を救ったのである。前に語ったように、彼は賢人聖者または正しい人々にならって、自己のだいいちの義務は自己に対するものではない、と思っているらしかった。
しかし、こんどのようなことは、今までの彼にはかつて起ったことはなかった。この不幸な人を支配していた二つの考えがかくもはげしく相争ったことは今までになかったのである。ジャヴェルが書斎にはいってきて発した最初の言葉で、彼は漠然《ばくぜん》と、しかし深くそれを感じた。地下深く埋めておいたあの名前が意外にも口にされた瞬間には、彼は唖然《あぜん》として自己の運命の恐ろしさ、不思議さにぼうぜんとなってしまった。ジャヴェルの言葉をききながら、彼はそこにかけつけ自分の名を名のり、シャンマティユを牢から出し、自分がそこに入ろうという考えが、まず最初に浮かんだ。それは肉体を生きながらきざむほどの、苦しいたえがたいことだった。しかし、そうした考えはまたすぐに過ぎ去った。彼は考えた、「待てよ! 待てよ!」彼はその最初の立派な考えをおさえつけ、その悲壮な行いの前にたじろいだ。
もちろん、司教の神聖な言葉をきいて、ながいあいだの悔悛《かいしゅん》と自己犠牲とののち、みごとにはじめられた贖罪《しょくざい》の生活のただなかにあって、このように恐ろしい事情に直面してもなお少しもおくせず、底には天国がうちひらけているその深淵にむかっておなじ歩調ですすみつづけたなら、それはどんなに立派なことだったろう。しかしどんなに立派なことだったにしても、彼には、それはできなかったのだ。われわれは彼の魂のなかで、いかなることがなしとげられていたかを明らかにしなければならぬ。そしてわれわれは彼の魂のうちになにがあったか、それしか語ることはできない。まず最初に彼をかりたてたものは、自己保存の本能だった。彼は急いで考えをまとめ、感情をおししずめ、大危険物たるジャヴェルがそこにいることを考え、恐怖のためにすべて決断をあとまわしにし、自己のとるべき道に対して考えることをやめ、戦士が楯《たて》を拾いあげるように自己の冷静をとりもどした。
その日一日の残りを彼はそういう状態のうちにすごした、内心の混乱と外部の深い平静をもって。いわゆる「大事をとる」ということをしか彼はしなかった。すべてはまだ脳裡《のうり》に漠然《ばくぜん》といり乱れていた。その混乱は、なんのまとまった観念もみとめられないほどはげしいものだった。ただある大きな打撃を受けたということ以外は、彼自身、自分がわからなかっただろう。彼はいつものとおりファンティーヌの病床を見舞い、親切な本能からいつもより長くそこにとどまり、自分のなすべきことを考え、万一不在になる場合のために彼女を修道女たちによくたのんでおかなければならないと思った。しかも、アラスヘはゆかねばなるまいとぼんやりと感じてはいたものの、一方では少しもその旅を決心していたわけではなかった。実際のところ、自分はなんらの疑念もかけられるわけではないのだ、これからの裁判に列席したところで少しも不都合はないとひそかに考えた。そしてあらゆる事変の準備をととのえておくために、彼はスコーフレールの馬車を約束したのだ。
彼はかなりよく食事をした。
自分の部屋に帰って彼は考えこんだ。
彼は自分の立場を考えて、それが異常なものであることを知った。あまりに異常だったので、ほとんど言葉にはいえないほどの不安な衝動にかられ夢想の最中にぱっと椅子から立ちあがり、扉をしめて閂《かんぬき》をさした。それでもなにかがはいってきはしまいかと恐れた。
まもなく彼は明りを消した。それがわずらわしかったのである。
誰かが自分を見るかもしれないと彼は思ったらしい。
誰が? 人が?
だが、悲しいかな、彼が部屋に入れまいとしたものは、すでにはいってきていた。彼がその眼をさけようとしたものは、すでに彼を見つめていた。彼の良心が。
彼の良心、すなわち神が。
しかしはじめは、彼は自分にあざむかれていた。彼は安全と孤独とを感じた。閂をして彼はもう誰にもつかまることがないと思った。ろうそくを消して、彼はもう誰にも見られるはずがないと思った。そこで彼はほっと安心した。両|肘《ひじ》を机の上につき、手のひらに頭を支え、暗やみのなかで瞑想《めいそう》しはじめた。
「自分はいったいどこにいるのか──夢をみているのではないか──なにをきいたのか――ジャヴェルに会って、彼があんなことをいったのはほんとうなのか──そのシャンマティユというのはいったい誰なのか──では自分に似ているのか──そんなことがありえようか――きのうは、自分はあれほど落ちついていて、なにひとつ夢にも知らなかったのに──で、きのうの今時分はなにをしていたのだろう──この出来事はいったいどういうことなのか──しまいにはどうなるのか──どうしたらいいか」
はじめの一時間はそのようにして過ぎた。
彼の困惑《こんわく》はますます増すばかりだった。
彼の行為の目ざしていたきびしい宗教的目的をほかにしては、彼が今日までなしてきたすべてのことは、自分の名を埋《う》めるがために掘る穴にほかならなかった。自己を反省してみるときや、眠れぬ夜半《よわ》に、彼がもっとも恐れたのは、その名前がひとの口から出るのをきくことだった。そのときこそ自分にとっては、すべての終りであると思った。その名前がふたたび世間に現われるときこそ、この新生活も自分の周囲から消えうせ、またおそらくはこの新らしい魂も自分のなかで消滅するであろうと。彼はそういうことがあるかもしれないと思っただけで身をふるわせた。もしそういうときに誰かが彼にむかってやがて時がくるだろう、その名前が彼の耳になりひびき、その嫌悪《けんお》すべきジャン・ヴァルジャンという名前が、突然夜の暗やみから姿を現わし彼の前につっ立ち、彼が身をつつんでいる秘密のヴェールを消散させる恐ろしい光りが彼の頭上に突然かがやくだろう、そしてまた、その名前はもはや彼をおびやかさないだろう、その光りはますます闇《やみ》をこくするのみだろう、ひき裂《さ》かれたヴェールはなおいっそう秘密をふかめるだろう、その地震はかえって建物を強固にするだろう、その異常な出来事は、もし彼が望むなら、彼の存在を同時にいっそう明らかにし、いっそう不可測にするという結果をきたさないだろう、そして、ジャン・ヴァルジャンの幻と直面することによって、立派な一市民たるマドレーヌ氏はいよいよ光栄と平和と尊敬とをうるにいたるだろう──そう誰かが彼にむかっていったとしても、彼は頭をふって、そうした言葉を狂人のたわごととなしただろう。しかし、それらのことがまさしく起ったのである。すべてそれらの不可能事と思われたことは事実となった。そして神は、それらの予想を絶したことが現実のこととなるのをゆるしたもうたのであった。
彼の妄想《もうそう》はますますはっきりした形をとってきた。彼はしだいに自分の立場を了解した。
彼はなにかある眠りからさめたような気がした。そして、立ちながら、ふるえながら、足をふみとめようとしながらも、暗黒のなかに急な坂を深淵の縁《ふち》まですべり落ちてゆくような思いをした。彼は闇のなかに、見知らぬひとりの男をはっきりとみた。運命はその男を彼ととりちがえ、彼のかわりに深淵のなかにつき落そうとしている。その淵がふたたびとざされるためには、誰かが彼自身か、もしくはその男かが、そこにおちいらなければならなかった。
心の明るみは、もはや一点の|かげり《ヽヽヽ》をも残さなくなった。彼はつぎのことをみとめた。「徒刑場には自分の席があいている。どんなにしてみても、その空席はつねに自分を待っているのだ。プティ・ジェルヴェからの盗みが自分をそこにつれもどす。それはさけることのできない決定的なことである」そしてつぎにはまた彼は自分にいった。「いま、自分はひとりの代理人をもっている。そのシャンマティユという男は運が悪かったのだ。もう恐れることはない。ただシャンマティユの頭の上に、墓石のようにいちど落ちたら永久にあげることのできないその汚辱《おじょく》の石がはめられるままにしておけばよいのだ」
彼のうちには一種、言葉につくせないふるえが突然起った。それは誰も、一生に二度、三度とは経験することのないものだ。内心の一種の痙攣《けいれん》とでもいおうか、心のなかの疑わしいものすべてをゆり動かし、皮肉と喜びと絶望からなるものであり、心のうちの哄笑《こうしょう》ともいうべきものだった。
彼はまたにわかに明りをともした。
「で、それがどうしたというのだ!」と彼は自分自身にいった。「なにに恐れているのか! なにをそんなに考えるのか? 私は助かったのだ。すべてはすんだのだ。新らしい自分の生活に過去が割りこんでくる口は、今までほんのわずかにふさぐことができないでいた、ただひとつの扉しかなかったのだ。しかし、その扉も、いまやとざされてしまったのだ。永久に! ながいあいだ自分の心をみだしていたあのジャヴェル、自分の素性《すじょう》をかぎ出したらしい、いや、実際かぎだして、いたるところ自分のあとをつけていたあの恐ろしい本能、つきまとって離れなかったあの恐ろしい猟犬、彼ももはや途に迷い、ほかに気をとられて、全く自分の足跡を見うしなったのだ。しかも彼はそれで満足している。自分を落ちつかせてくれるだろう。彼は彼のジャン・ヴァルジャンをとらえたのだ! 誰にわかるものか。彼さえもどうやらこの町を去りたがっている。それもひとりでにそうなったことで、私はそれになんのかかわりもない。そうだ、それになんの不幸なことがあろう。おそらく私をみる者は、私に大きな災難がふりかかったと思うだけだろう。しかも結局、誰の上に災難がふりかかるとしても、それはすこしも自分のせいではない。すべては天意によってなされたのだ。明らかに天がそれを望んだからだ。天の定めることをみだす権利が私にあろうか。いま私はなにを求めようとするのか。私はなにに干渉《かんしょう》しようというのか。私に関係したことではないのだ。なに? 私は満足してないと! ではなにが私にたりないのか。ながいあいだ望んでいた目的──夜ごとの夢、天への祈り、身の安全、それを今えたのだ。それを求めたのは神である。私は神の意志に反してはなにごともすることはできない」
しかし彼はなんのよろこびも感じなかった。
二千年前の罪人《キリスト》にむかっては「進め!」といったように、いま彼にむかっては「考えよ!」という、ある神秘な力に彼は駆られたのだった。人間は確かに自分自身にむかって話しかけることがある。思考する存在にしてそれを経験しなかった者はひとりもあるまい。言葉というものは人間の内部において、思想より良心へ、良心より思想へと往復するときほど壮厳なる神秘さをとることはない。本章でしばしば用いられる「彼はいった」または「彼は叫んだ」という言葉は、ただそういう意味にのみ理解されねばならない。人は外部の沈黙を破ることなく、内心において自らにいい、語り、叫ぶものである。そこには非常な喧騒《けんそう》がある。口以外のすべてが、われわれのうちにおいて語る。魂のなかの現実は、それが眼に見えず、手に触れられないからといっても、それは現実でないという理由にはならない。
彼はなおもつづけて自問した。「目的は達せられたのだ!」という言葉の意味を、きびしく自分にたずねてみた。しかし、それはどんな目的だったか。名をかくすことか。警察をあざむくことか。彼がなしたことはそんな小さなことのためだったのか。ほんとうに偉大であり真実である、もっとほかの目的をもっていなかったのか。自分の身をではなく、自分の魂を救うこと。正直と善良とにかえること。正しき人となること! 彼がつねに望んでいたこと、あの司教が彼に命じたことは、とくに、いや単に、そこにあるのではなかったか。「お前の過去に扉をとじよ!」しかし彼はその扉をとざさなかった。卑劣《ひれつ》なことをしてふたたびそれをひらいた。彼は泥棒に、もっとも卑しい泥棒にふたたびなろうとした。他人からその存在と生活と平和と太陽のあたる場所を奪おうとした。彼は殺害者となろうとした。ひとりのあわれな男を殺そうとした、精神的に殺そうとした。その男に、恐るべき生きながらの死を、徒刑場という大空の下の死をあたえようとした。もし身を投げ出し、その痛《いた》ましい誤りから男を救い、自分の名をあかし、義務としてふたたび囚人ジャン・ヴァルジャンとなったならば、それこそ真に自分の復活の道であり、のがれ出た地獄に永久に戸をとざす道ではないか! 外見上はその地獄に落ちることであったにしても、実際にはそこから脱することだ。それをしなければならぬ! それをしなければ、なにもしなかったと同じではないか――彼はあの司教がすぐそばにいるように感じた。世間の人は彼の仮面をみた、しかし司教は彼の素顔《すがお》をながめている。世間の人は彼の生活をみるが、司教は彼の魂をみている。アラスヘゆき、偽りのジャン・ヴァルジャンを救い、真のジャン・ヴァルジャンを告発しなければならない。それこそ最大の犠牲であり、もっとも痛切な勝利であり、なすべき最後の一歩だ。それをしなければならぬ。悲痛な運命よ!
「よろしい」と彼はいった。「これを決行しよう。義務を果そう。あの男を助けてやろう!」
彼は自分でも気づかないうちに、その言葉を声高に叫んだ。
彼は書類をとって、それを調べ、貧しい小売商人たちからとっておいた借用証書の一|束《たば》を火中に投げこんだ。それから手紙を一通したためて封をした。そのとき部屋に誰かいたなら、その人は「パリ、アルトワ街、銀行主ラフィット殿」という文字をその封筒の上に読みとっただろう。
彼は机から紙入れをとり出した。そのなかには紙幣や、その年彼が選挙にゆくときに使った通行券などがはいっていた。
ラフィット氏への手紙を書きおえると、彼は紙入れと一緒にそれをポケットに入れ、そしてまた部屋のなかを歩きはじめた。
彼の瞑想《めいそう》は少しもその方向を変えてはいなかった。彼は自分の義務をなお明らかにみつめていた。「ゆけ! お前の名を名のれ! 自首して出よ!」
しかし、ある瞬間には彼は自分自身にいった。「私はあまり事件を大げさに考え過ぎてるかもしれない。結局、そのシャンマティユは大した者ではない。要するに彼は盗みをしたのだ」
彼は自分で答えを出した。「その男がリンゴをいくつか盗んだとしても、一カ月の監禁くらいなものだ。徒刑場にはいるのとはわけがちがう。それに彼が盗んだということもわかったものではない。証拠があったのか。ジャン・ヴァルジャンという名前が落ちかかったので、証拠などどうでもよくなったのだろう。いったい検事などという者はいつもそういうやり方をするではないか。囚人だったということだけで泥棒したということにされてしまったのだ」
またある瞬間にはこうも考えた。自分が自首して出たなら、自分の勇気と過去七年間の正直な生活と、この地方のためにつくした功績とは、十分に考慮されてゆるされることになるかもしれない。
しかし、そういう想像はすぐに消えてしまった。そして彼は苦笑しながら考えた。プティ・ジェルヴェから四十スー盗んだことは、明らかに自分を再犯となすものだ。その事件も必ず現われてくるだろう。そうなれば法律の定めるところによって終身懲役《しゅうしんちょうえき》に処せられるだろう。
最後に彼はまた自分にいった。すべては必然のなりゆきである。自分の運命は定められているのだ。自分には天の定めをみだす力はない。自分はただどちらにしても、外に徳をよそおって内に汚れをひめておくか、あるいは内に聖《きよ》きをだいて外に汚辱《おじょく》を甘受《かんじゅ》するか、そのひとつをえらばなければならぬ。
そのように多くの沈痛な考えをめぐらしながらも、彼の勇気はすこしも衰えなかった。しかし彼の頭脳は疲れてきた。彼は、つい自覚を失って、ほかのこと全く関係のないことを、あれこれと考えはじめた。
こめかみの血管がはげしく波うっていた。彼はなお部屋のなかを歩きつづけていた。聖堂の時計がまず十二時をつげ、つぎに市役所の時計が鳴った。彼はその二つの大時計が十二うつ音をかぞえた。そしてその二つの鐘の音をくらべてみた。
彼は寒気《さむけ》がした。そして少し火をたいた。窓をしめることには気がつかなかった。
そのうちにまた彼は昏迷《こんめい》状態におちいっていた。十二時をうつ前に考えていたことを思い出すのに、かなりの努力をしなければならなかった。やっと、そのことが頭にうかんできた。
「ああ、そうだ、私は自首しようと決心したのだった」
それから突然彼はファンティーヌのことを考えた。
「ところで、あの可哀そうな女のことは!」
そこでまた魂の危機がやってきた。
彼の瞑想のうちに突然現われたファンティーヌは、意外なひとすじの光りのようなものだった。彼には自分のまわりのすべてがその光景を変えたように思われた。彼は叫んだ。
「ああ、私は今まで自分のことしか考えなかった。私は自分一個の都合しか考えなかったのだ! もし自分が自首して出たら、私は徒刑場に送られるだろう。それもよい、しかし、あとに残されたこの町はどうなるだろう。ここには一つの町、多くの工場、労働者、男、女、老人、子供、あわれな人々がいる。私はそれらをはぐくんできた。すべて煙のたち昇るところ、その火のなかに薪を投じ、その鍋《なべ》のうちに肉を入れてやったのは私である。私はこの地方全部を活気だたせ、豊かにし、富ましてやった。私がいなければ魂がないようなものだ。そしてあの女、思いがけなくも私がそのあらゆる不幸の原因となったあの女! そしてつれてきてやると彼女に約束した子供! もし私がいなくなればどうなるだろう。母親は死んでしまうだろう。そして子供はどうなるかわからない。私が自首するとしたら、結果はそういうことになるのだ。もし自首しないとしたら! まてよ、もし自首しないとしたら?」
彼はちょっと考えをとめた。しかし、そういう時間は長くつづかなかった。彼はしずかに答えを出した。
「ところであの男は、シャンマティユは徒刑場にゆく。それは事実だ。彼は盗みをしたのだから、それもしかたがない。私はここにとどまって働きつづけよう。金を儲《もう》けてこの地方にふりまこう。すこしも自分の身にはつけまい。私がすることはみんな自分のためではないのだ。住民はふえるし、工業は活気だってくるだろう。田畑であった所に町ができ、荒地であった所に田畑ができる。貧しさや窃盗や殺害や、あらゆる罪悪がみんな消えうせる。あのあわれな女も自分の子供を育てる。そしてこの地方全部が富み栄え、正直になるのだ! ああ、私は愚かだった。自首して出るとは、まあなんということをいったのだろう。あわててはいけない。どこの奴ともわからない泥棒を、多少重すぎるがしかし正当である刑罰から救うために、一地方全部が破滅しなければならないというのか。ひとりのあわれな女が死に、ひとりのあわれな子供が路傍《ろぼう》に倒れなければならないというのか。犬のように! あの小さなコゼットは、世の中に助けとなるものは私だけしかない、そして今では、あのテナルディエのあやしげな家で、寒さのためにきっと蒼《あお》くなってるだろう。そこにもまた悪党がいる。そして私はこれらのあわれな人々に対する自分の義務まで欠こうとしている。自首して出ようとしていた。なんという馬鹿なことをしようとしたのか。まず悪いほうから考えるとして、そうすることは自分にとって悪い行いであると仮定し、あとになって私の良心がそれを私に非難すると仮定するとしても、自分だけにしかあたらないそれらの非難を、自分の魂だけにしか関係のないその悪い行いを、他人の幸福のために甘んじてうけることにこそ、そこに献身があり、そこにこそ徳行があるのではないか」
こんどはいくらか満足できそうな気がした。
「そうだ、その通りだ」と彼は考えた。「私は正しい。私は解決をえた。結局、なにかにしっかりつかまらなければいけない。私の心はきまった。もう迷うまい。もうひくまい。なるままにまかせよう。これはすべての人のためであって、自分ひとりだけの利害のためではないのだ。私はマドレーヌである。マドレーヌのままでいよう。ジャン・ヴァルジャンなる人間は不幸なるかな! それはもはや私ではない。私はそんな人は知らない。いま誰かがジャン・ヴァルジャンになっているとするなら、その人自身で始末をつけるがいい。それは私の関係したことではない。それは実に闇夜《やみよ》のうちにただよっている不運な宿命を負った名前である。もしそれが誰かの頭上に落ちかかったとすれば、その人の災難とあきらめるほかはない」
彼は煖炉の上にあった小さな鏡のなかをのぞいた。そしていった。
「おや、決心がついたので私はほっと安心したのか! 私は全く生まれ変った人間のようだ」
彼は数歩あるいて、不意に立ちどまった。
「さあ、いちど決心した以上は、どんな結果になってもびくともしてはいけない。私をあのジャン・ヴァルジャンにむすびつける紐《ひも》がまだ残っている。それをたち切らなければいけない。この部屋に私を訴える品物が、無言の証人となる品物が残っている。それらをなくしてしまわなければいけない」
彼は鍵をとり出してひとつの錠前のなかにさし入れた。その錠前は壁にはられた壁紙の模様のいちばん暗い色どりのなかにかくされていて、ちょっと見ただけではその鍵穴もみえないくらいだった。が、そこに一種の戸棚みたいなものがついていた。そして中には、青い麻の仕事着と、古いズボンと古い背嚢《はいのう》と、両端に鉄のはめてある大きな、とげとげした棒とがはいっていた。一八一五年十月、ディーニュを通った頃のジャン・ヴァルジャンを見たことのある人は、そのみじめな服装をよく覚えているだろう。
彼はちらっと扉のほうをみやった。それから急に身を動かして、ながい間危険をおかして大事にしまっておいたそれらのものを、目もくれずにひとかかえにして火のなかに投げこんだ、ぼろの服も、杖も、背嚢も、みんな。
やがて部屋のなかと正面の壁とが、まっ赤にゆらめく焔《ほのお》で明るくてらしだされた。すべてのものが燃えだしたのである。
背嚢は、そのなかにはいっていた汚ないぼろと一緒に燃えつきて、灰のなかになにか光ったものが残った。身をかがめてみれば、それが銀貨であることはすぐにわかっただろう。いうまでもなく、サヴォワの少年から奪った四十スーの銀貨だった。
彼は火のほうは見ずに、やはりおなじ歩調で部屋のなかを歩きまわった。
突然彼の眼は、煖炉の上でぼんやり光っている二つの銀の燭台にとまった。
「ジャン・ヴァルジャンがまだあのなかにいる」と彼は考えた。「あれもこわさなければいけない」
彼は二つの燭台をとった。火はまだ十分おこっていて、燭台をすぐにとかしてわけのわからぬ地金にすることができた。
彼は炉《ろ》の上に身をかがめ、ちょっと身体をあたためた。
彼は燭台のひとつで火をかきまわした。そしてもうちょっとで二つの燭台が火の中に入れられるところだった。そのとき、彼は自分の内部から自分を呼ぶ声をきいたような気がした。
「ジャン・ヴァルジャン! ジャン・ヴァルジャン!」
髪の毛は逆《さか》だって、彼はなにか恐ろしいことを耳にしてる人のような顔つきになった。
「そうだ、そのとおりにやってしまえ!」とその声はいった。「やりかけたことははたせ。その二つの燭台をこわすがいい。司教のことも忘れるがいい! すべてを忘れよ。あのシャンマティユも消してしまえ! さあ、それでよし。祝うがいい。それでみんなきまりがつき、決定し、すんだのだ。そこにひとりの男が、ひとりの老人がいる。ひとから、自分がどうされようとしてるかわからないような奴だ。おそらくなにもしてやしない罪のない男かもしれぬ。お前の名前がすべての不幸をもたらしたのだ。彼の上にお前の名前が罪悪のようにのしかかっている。お前とまちがえられ、処刑され、悲惨と恐怖のうちに余生を終ろうとしている! それでよし。お前は正直な人間となっておれ。市長のままで、尊敬すべきそして尊敬された人としてとどまり、町を富まし貧しい人々を養い、孤児をそだてて幸福に、有徳の人に称讃されて日を送れ。そしてお前がここで喜びと光りとにつつまれているあいだに、一方には赤い獄衣をつけ、汚辱《おじょく》のうちにお前の名をにない、徒刑場のなかでお前の鎖を引きずってる者がいるだろう。そうだ、うまくできあがったものだ。みじめな奴!」
彼の額《ひたい》から汗がながれた。彼はあらあらしい眼つきを二つの燭台の上にすえた。そのあいだにも彼の内部から、きこえてくる声はやまなかった。声はつづけていった。
「ジャン・ヴァルジャン! お前の周囲には多くの声があって、大きなひびきをたて、大声に語り、お前をたたえるだろう。それから誰にもきこえないひとつの声があって、暗黒のうちにお前をのろうだろう。いいか、よくきくがよい、恥知らずめ! すべてそれらの祝福は天にとどかぬ前に落ちて、神のもとへ昇ってゆくのはただひとつののろいだけだろう!」
その声は、はじめはきわめてよわく、彼の良心のもっともうす暗いすみから起ってきたのだったが、しだいにはげしく恐ろしくなり、いまでは彼の耳にはっきりひびいてきた。そして彼のうちから外に出て、外部から話しかけるように思えてきた。彼はその最後の言葉をひどくはっきり聞いたような気がして、一種の恐怖を感じて部屋のなかを見まわした。
「誰かいるのか」と彼はすっかりうろたえて大声でたずねた。
それから白痴《はくち》に似た笑い声をたてた。
「馬鹿な! 誰もいるはずはない」
しかしそこには誰かがいたのである。ただそれは、ひとの眼には見えない者だった。
彼は二つの燭台を煖炉の上に置いた。
そして彼はふたたび単調なうちしずんだ歩調で歩きだした。それが下の部屋に眠っていた会計係の男の夢をさまたげ、突然その眠りをさましたのだった。
その歩みは彼をやわらげ、また同時に彼を狂おしくさせた。
そしてどんなに考えをめぐらせても、つねにまた瞑想の底にある痛切なジレンマに落ちてゆくのだった。「天国のうちにとどまって悪魔となるか! あるいは地獄におちて天使となるか!」
午前三時が鳴った。彼はほとんど休みなく五時間のあいだ、部屋のなかを歩きまわっていたが、最後にやっと、倒れるように椅子に身をおとした。そして、彼はそのままそこに眠った。
眼をさますと、氷のように冷たくなっていた。明け方の風のような冷やかな風が、あけ放したままの窓を、あちらへこちらへとゆすっていた。煖炉の火は消えていた。ろうそくも燃えつきようとしていた。まだ外は暗い夜だった。
彼は立ちあがって窓のところにいった。空には星も出ていなかった。
突然鋭い物音がひびいたので、彼はそちらのほうに眼をやった。それは敷石の上にひびいている馬蹄《ばてい》の音だった。
「あの馬車はなんだろう」と彼は考えた。「いったい、誰がこんなに早く来たんだろう」
そのとき、部屋の戸がかるくたたかれた。彼は頭から足の先までふるえあがった。そして恐ろしい声で叫んだ。
「誰だ?」
「わたしでございますよ、旦那さま」
その声で門番の婆さんであることがわかった。
「なんの用だ?」と彼はいった。
「旦那さま、もう朝の五時になりますよ」
「それがどうしたんだ」
「馬車がまいりましたが」
「なんの馬車が?」
「小馬車でございます」
「どういう小馬車だ?」
「小馬車をおいいつけなすったんじゃございませんでしたか」
「いいや」と彼はいった。
「馭者《ぎょしゃ》は旦那さまのところへきたって申してますが」
「なんという馭者だ?」
「スコーフレールさんの家の馭者でございます」
「スコーフレール?」
その名前を耳にして、彼はまるで電光のひらめきで顔をかすめられたように身をふるわせた。
「あっ、そうだ! スコーフレール」
それから、かなりながい沈黙がつづいた。彼は指先でろうそくのしんのまわりの熱いろうをとって丸めていた。
婆さんはいまいちど声を高くしていった。
「旦那さま、どう申したらよろしゅうございましょう」
「よろしい、今ゆくといってくれ」
三
さて、小馬車がアラスの郵便宿の門をくぐったのは、晩の八時近くだった。旅客は馬車からおり、宿屋の人たちにはほとんど目もくれず、副馬《そえうま》をかえし、そして小さな白馬をうまやにひいていった。それから彼は一階にある撞球《どうきゅう》場の扉をおしてなかにはいり、そこに腰をおろして、テーブルの上に肘《ひじ》をついた。六時間でするつもりの旅は十四時間かかっていた。
宿のおかみがはいって来た。
「旦那はお泊りでございますか。お食事はいかがでございますか?」
彼は頭を横にふった。
「馬丁が申しますには、旦那の馬はたいそう疲れているそうでございますが」
この問いに彼ははじめて口をきいた。
「あの馬で、明朝すぐまた出立するわけにはゆかないかね?」
「とんでもない、旦那、二日くらいはとても休みませんことには……」
彼はたずねた。
「ここは郵便取扱所のあるところでしたな?」
「さようでございます」
おかみは彼を郵便取扱所に案内した。彼は通行券を示して、その晩、郵便馬車でモントルイユ・シュル・メールに帰る方法はないかとたずねた。ちょうど郵便夫のとなりの席があいていた。彼はそれを約束して金を払った。
「では」と所員はいった。「発車の午前正一時には、まちがいなくここに来てください」
馬車のうちあわせをすますと、彼は郵便宿を出た。そして町を歩きはじめた。
彼はアラスの町には不案内だった。通りはうす暗く、彼はでたらめに歩いた。彼は|がんこ《ヽヽヽ》に通行人に道をたずねようとしなかった。小さなクランション川を越すと、せまい小路の入りみだれたところにふみこんで、道がわからなくなった。ひとりの町の人が提灯《ちょうちん》をつけて歩いていた。ちょっとためらったのち、彼はその男にたずねてみることにした、そしてまず、ほかに誰か自分のたずねることをきいてる者はいないかと警戒するかのように、前後を見まわしてからはなしかけた。
「ちょっとうかがいますが、裁判所はどちらでしょうか?」
「あなたは町の人ではないとみえますね」とかなり年とった町の人は答えた。「ではわたしについておいでなさい」
歩きながら町の人はいった。
「もし裁判がみたいのでしたら、ちょっとおそすぎますよ。いつも、法廷は六時にとじますから」
しかし二人がそこの広場に来たとき、町の人はまっ暗な大きな建物の正面の明りのついた四つのながい窓をさしていった。
「やあ間に合った。あなたは運がいい。あの四つの窓が見えましょう。あれが重罪裁判所です。光りがさしているところをみると、まだすんでいないとみえます。事件がなが引いたので、夜までやってるのでしょう。あなたは事件になにか関係でもおありなんですか。刑事問題ででも? あなたは証人ですか?」
彼は答えた。
「私はべつに事件に関係があって来たのではありません。ただちょっと、ある弁護士に話したいことがあるものですから」
「いや、そうでしたか」と町の人はいった。「そら、ここに入口があります。番人はどこにいるのかな。その大階段をのぼってゆかれたらいいでしょう」
彼は町の人の教えるとおりにしたがった。そしてやがてある広間に出た。そこには大勢の人が、法服の弁護士をまじえた集団をところどころにつくって、なにかささやいていた。
法廷に通ずる扉のところにひとりの守衛が立っていた。彼はその守衛にたずねた。
「この扉は、そのうちあきますか?」
「いや、あきません」と守衛は答えた。
「ええ! 開廷になってもあかないのですか。いま裁判は休憩に入ってるんでしょう?」
「裁判はいままたはじまったところです」と守衛は答えた。「しかし扉はあけられません」
「なぜです?」
「なかは満員ですから」
「なんですって! もうひとつの席もないのですか?」
「ひとつもありません。もう誰もはいることはできません」
守衛はそこでちょっと言葉をきったが、またつけくわえた。
「裁判長のうしろに二、三の席がありますが、そこにはお役人しかはいれません」
そういって守衛は彼に背をむけた。
彼は頭をたれてそこから去り、控室を通って、まるで一段ごとにためらっているかのように、ゆっくりと階段をおりていった。たぶん自分自身と相談していたのであろう。前日からの彼のうちに戦われていたはげしい争いは、まだ終ってはいなかった。階段の途中の平《ひら》段までおりたとき、彼は|らんかん《ヽヽヽヽ》にもたれて腕をくんだ。それから突然フロックの胸をひらき、手帳を出して一枚の紙をやぶり、手早くつぎの一行をしたためた。「モントルイユ・シュル・メール市長、マドレーヌ」それからまた大|股《また》に階段をのぼって、まっすぐ守衛のところへゆき、その紙片をわたし、きっぱりした態度でいった。
「これを裁判長のところにもっていってもらいたい」
守衛はその紙片をちょっとながめてから、彼の言葉にしたがった。
アラスの重罪裁判を司《つかさど》っていたドゥーエの控訴院判事は、一般に、またふかくその尊敬すべき名を知られていたマドレーヌ市長を、世間の人と同じようによく知っていた。守衛が評議室から法廷に通ずる扉をそっとひらいて、裁判長の椅子のうしろに低く身をかがめて、紙片をわたし、「この方が法廷にはいられたいそうです」とつけくわえると、裁判長は急に敬意をふくんだ態度をとって、ペンをとりあげ、その紙片の下のほうに数語をしたため、それを守衛にわたしていった。
「お通ししなさい」
いまや、われわれがここにその生涯を語りつつあるその不幸な人は、守衛が去ったときと同じ態度のままで、同じ場所に、広間の扉のそばに立っていた。彼はぼんやり考えこみながら、「どうぞこちらへおいでください」と誰かがいうのを耳にした。さっきは彼に背をむけて冷淡にかまえていた守衛が、いまは彼に低く身をかがめていた。と同時に彼になにか紙片をわたした。彼はそれをひらいた。ちょうど近くにランプがあったので、彼は読むことができた。
『重罪裁判長はマドレーヌ氏に敬意を表わします』
彼はその数語を読んで、なんだかひどくにがにがしく感じたかのように、紙片を手のなかにもみくちゃにした。
彼は守衛について中にはいっていった。
やがて彼は、壁板のはられたいかめしい部屋のなかに出た。そこには誰もいなかった。ただみどりのテーブル・クロスのかかったテーブルの上に二本のろうそくがともっていた。そして彼の耳にはなお、彼をそこに残していった守衛の最後の言葉がひびいていた。「これが評議室でございます。この扉の銅の把手《とって》をおまわしになりますれば、ちょうど法廷の裁判長どののうしろにおいでになれます」
最後の時が来た。彼は考えをまとめようとしたができなかった。思索の糸が脳裡《のうり》にたちきれるのはとくに、人生の痛《いた》ましい現実に思索をくわえる必要をもっとも多く感じるときにおいてである。
ふと彼は、重々しくまた反抗的な、なんともいえない身振りをした。それは、「馬鹿な! 誰がいったい自分にこんなことをしいるのか?」という意味らしく、彼の仕草には、そういった意味らしいものがよく現われていた。それから彼は急にむきをかえ、自分の前にいまはいってきたばかりの扉を見て、そのほうに歩いてゆき、それをひらいて再び外へ出ていった。部屋の外には、廊下がせまく長く、段々や戸口に仕切られ、さまざまに折れ曲り、ここかしこには病人用の豆ランプに似た反射灯がついていた。彼はほっとため息をつき、耳をすましたが、前にもうしろにもなんの物音もしなかった。彼は追われる者のように逃げ出した。
廊下のいくつかの角《かど》を曲ったとき、彼はなお耳をかたむけた。あたりはやはり同じような沈黙と闇ばかりだった。彼は息をきらし、よろめき、壁に身をささえた。壁の石はひややかに、額《ひたい》の汗は氷のようにつめたくなっていた。彼は身をふるわせながらたちすくんだ。
そしてそこにただひとり、暗やみのなかにたたずみ、寒さと、さらにある別のもののために、身体をふるわせながら彼は考えた。
彼はすでに夜中じゅう、さらに一日じゅう考えつづけてきたのだった。そしてもはや自分のうちには、ただひとつの声をきくのみだった。
だが、こうして十五分ばかり過ぎた。ついに彼は首をたれ、苦しいため息をもらし、両腕をたれ、またもとの部屋にひきかえした。彼はまるでうちひしがれたようにゆっくりと足をはこんだ。逃げるところをとらえられて引きもどされるような様子だった。
彼はふたたび評議室にはいった。最初に彼の眼にとまったのは、扉の引金だった。そのみがきあげた銅のまるい引金は、彼の眼には恐ろしい星のようにかがやいていた。まるで羊が虎の眼を見るように彼はそれを見つめた。
彼の両眼はそれからはなれることができなかった。
ときどき彼は足をすすめ、その扉に近づいていった。
もし耳をすましたなら、漠然《ばくぜん》とした、ささやきのような隣りの部屋のひびきをききとることができたろう。しかし彼は耳をすまそうとしなかった。そして、なんの物音もきかなかった。
しかし、彼は突然、自分でもどうしてだか知らないうちに、扉のそばに来ていた。彼はけいれんする手で、その把手《とって》をつかんだ。気がついた時には、彼はすでに法廷の中にはいっていた。
四
彼は一歩前にすすみ、うしろ手で機械的に扉をしめ、そしてそこに立ったまま眼前の光景をながめた。
そこはじゅうぶんに明りのとおっていない広い部屋で、場内は時々ざわめいたかと思うと、またひっそりとしずまりかえっていた。刑事訴訟の審問機関はその陰うつな壮重さをもって、群集のなかで運行されていた。
彼が立っている広間の一隅には、判事たちがぼんやりした顔つきで、すり切れた服を着て、眼をとじたり爪をかんだりしていた。他の一隅にはそまつな服をきた群集がいた。それからまた思い思いの姿勢をした弁護士や、正直ないかめしい顔の兵隊たち。しみのついてふるい壁板、きたない天井、緑というよりもむしろ黄色くなったサージのかけてあるテーブル、手あかで黒くなってる扉、羽目板の釘《くぎ》につるされて光りよりもむしろ煙のほうを多く出している居酒屋にでもありそうなランプ、テーブルの上の銅の燭台に立ってるろうそく、うす暗さとみにくさとわびしさ。そしてすべてそれらのものには一種尊厳な印象があった。なぜならひとはそこにおいて、法律とよぶ人間の重大機能と、正義とよぶ偉大な神聖事とを感ずるのであるから。
それらの群集のうち誰も彼に注意するものはなかった。人々の視線はただ一点に集中されていた。裁判長の左手の壁ぞいに小さな扉によせかけた一脚の腰掛があった。いくつものろうそくにてらされたその腰掛の上には、二人の憲兵にはさまれてひとりの男が腰をかけていた。
それが例の男だった。
市長の眼は、べつにさがしもしないで、まるでそこに男がいるのをはじめからわかっていたかのように、自然にその男のほうへむけられた。
そのとき市長はまるで、年とった自分自身をそこに見るような気がした。もちろん顔は全然おなじわけではなかった。しかしそのおなじような態度や様子、逆立《さかだ》った髪、あらあらしい不安な眼、広い上衣、それは十九年間徒刑場の敷石の上で拾い集めたあの恐ろしい思想の嫌悪《けんお》すべき一団を魂のなかにかくし、憎悪にみちた心をいだきながらディーニュの町にはいっていったあの日の自分の姿と、全くそっくりではなかったか。
彼は身をふるわせながら思った。「ああ! 自分もふたたびあんなになるのか」
その男はすくなくとも六十才くらいにみえた。なんともいえぬ粗暴で愚鈍《ぐどん》な、ねじけた様子をしていた。
扉の音で、そこにいた人たちは横にならんで彼に路をひらいた。裁判長はうしろをふりかえり、はいって来たのがモントルイユ・シュル・メールの市長であることを知って、会釈《えしゃく》した。検事もまたおなじように、彼を見て会釈した。だが彼のほうではそれにはほとんど気がつかなかった。彼は一種の幻覚のとりこになっていた。彼はあたりをながめた。すべてがそこにあった。二十七年前のときとおなじ裁判機関、おなじ夜の時刻、判事や憲兵や傍聴者などのほとんどおなじ顔ぶれ。ただちがっている点は裁判長の頭の上にひとつの十字架がかかっていることだけだった。ただそれだけが彼の処罰のときの法廷になかったものだった。彼が判決をうけたときには、神はいなかったのである。
彼のうしろにひとつの椅子があった。彼は人に見られるのを恐れて、その上に身をおとした。席についた彼は、判事席の上につみかさねてあった厚紙とじのかげにかくれて、広間全体の人々の前に自分の顔をかくした。もう人に見られずにすべてを見ることができた。そして彼はしだいに落ちつきをとりもどしていった。
彼はジャヴェルをさがしたが、見つからなかった。証人席はちょうど書記の机でかくれていた。それに広間の明りもじゅうぶんでなかった。
彼がはいってきたとき、被告の弁護士が弁論をおえようとしているところだった。人々の注意は極度に緊張していた。審理は三時間も前からつづいていたのである。三時間のあいだ、人々はその男、極端に馬鹿なのか極端に悪賢いのかわからないその男が、ただ「それらしい」という漠然とした臆説の重荷の下にしだいに屈してゆくのをながめていた。読者の知ってるように、その男は浮浪人で、ピエロンの園とよばれる果樹園から、りんごの実のなってる小枝を折ってもち去ろうとするところを近くの畑で捕えられたのである。身辺調査が行われ、証人たちの供述《きょうじゅつ》も一致した。事件は最初から明白だった。起訴された罪状は次のとおりだった。被告は、りんごを盗んだ窃盗犯人たるのみでなく、実は無頼漢《ぶらいかん》であり、元徒刑囚であり、最も危険な悪漢であり、ながいあいだ法廷より追求されていたジャン・ヴァルジャンとよばれる悪人である。彼は八年前ツーロンの徒刑場を出たその足で、サヴォワの少年から大道で窃盗を働いた。これは刑法第三百八十三条に規定された犯罪である。これについては人物証明がなされるのをまって、さらに追求されるべきである。彼はいま新たに窃盗を働いた。これは実に再犯である。よってまず新たな犯罪について処罰し、つづいて、更に過去の犯行については、のちに処罰さるべきものである。
この起訴に対して、また証人たちの一様な供述に対し、被告はまずなによりもおどろいたようだった。彼はそれを否定しようとするらしい身振りや手つきをし、ときどき天井を見あげていた。彼はかろうじて口をきき、当惑した様子で返答をしたが、しかし頭から足先にいたるまで彼の風態《ふうてい》は、この彼の返答を否定していた。彼は自分をとりまいて攻めよせる裁判官たちの知力の前に白痴のごとく、また自分を捕えんとするそれらの人々のなかにあって、まるで局外者のごとくふるまっていた。しかし彼は、いま彼の未来に関するもっとも恐るべき問題に直面していたのだった。疑いなくそれらしい、という推定は各瞬間ごとに人々の間に増していった。そして群集は、おそらく彼自身よりなおいっそうつよい関心をもって、不幸な判決がしだいに彼の頭上にかぶさってくるのをながめていた。もし彼がジャン・ヴァルジャンと同一人であることが認定せられ、あとでプティ・ジェルヴェの事件までが判決せられるなら、徒刑はおろか死刑にまでもなりそうな情勢だった。
弁護士は、あのながい間弁護士流の一種の雄弁としてつくりあげられてきた、地方なまりを使った言葉で、かなりよく被告の弁論を行った。
弁護士はまずりんご窃盗事件の説明からはじめた。美辞麗句《びじれいく》をもっては説明に困難な事柄である。しかしベニーニュ・ボシュエもかつて弔辞のなかで一羽の牝鳥《めんどり》のことにふれなければならなかった。しかも彼はそれをみごとにやってのけたのだった。いま弁護士は、りんごの窃盗は具体的には少しも証明されていない旨を論証した。──被告シャンマティユは、壁をのりこえ、もしくは枝を折っている事実を誰にも見られたのではない。――彼はただその枝(弁護士はあくまで小枝《ヽヽ》といった)を持っているところを押えられただけである。──そして、彼は、地に落ちているのを見つけてひろったまでだといっている。どこにその反対の証拠があるか? おそらくその一枝は、ある泥棒によって、壁をこえたあと折られ、盗まれ、見つかってそこに捨てられたものにちがいない。その点、明らかに窃盗事件は存在したのだ。――しかし、その窃盗事件の犯人がシャンマティユであったというどんな証拠があるか。ただ、徒刑囚だったという前歴、しかも、不幸にしてそれはよく確証されたらしいことを弁護士も否定しなかっただけだ。被告はファヴロールに住んでいたことがある。被告はそこで枝切り職をやっていた。シャンマティユという名前は本来ジャン・マティユであったろう。それは事実である。それは四人の証人も、シャンマティユを囚徒ジャン・ヴァルジャンであると躊躇《ちゅうちょ》するところなく確認している。そういう符合とそれらの証言に対しては、弁護士も被告の否認、利己的な否認としか、もちだしえなかった。しかし、たとえ彼が囚徒ジャン・ヴァルジャンであったにしても、それは彼がりんごを盗んだ男だという証拠になるだろうか? それは要するに推定であって、証拠ではない。しかし被告は「不利な態度」をとった。それは事実で、弁護士も――誠実なところ──それを認めざるをえなかった。被告は頑固《がんこ》にすべてを否認した。窃盗もまた囚人の肩書をも。だがこの後者のほうはたしかに自白したほうがよかっただろう。そうすればあるいは判事たちの寛大な処置をかいえたかもしれなかった。弁護士もそれを前もって彼にすすめておいたのだった。しかし、被告は頑強《がんきょう》にそれを否認した。きっとなにも自白しなければ、すべてをすくいうると思ったのだろう。それは明らかにあやまりだった。しかし、同時にまたそのように思慮のたりないところも、よろしく考慮すべきではないか。この男は明らかにおろかである。徒刑場におけるながいあいだの不幸、徒刑場を出たあとのながいあいだの困苦、それが彼を愚鈍《ぐどん》にしたのである、云々《うんぬん》。被告はまずい弁解をしたが、しかし、それは彼を処刑すべき理由にはならない。
ただ、プティ・ジェルヴェの事件にいたっては、弁護士もそれを論議すべきものをもたなかった。それはまだ訴件のうちにはいっていなかったのである。結局、もし被告がジャン・ヴァルジャンと同一人であると認定せられるにしても、監視違反囚に対する警察法にのみ適用され、再犯囚にたいする重罪に処さないようにと、弁護士は陪審員《ばいしんいん》および法官一同にむかって懇願しながらその弁論をむすんだ。
次席検事は弁護士に対して反駁《はんばく》した。それは検事の通例として、しんらつで、はげしいものであった。
彼は弁護士の「公正」をほめ、そしてその公正さをたくみに利用した。彼は弁護士のみとめたすべての点によって、逆に被告を攻撃した。弁護士は被告がジャン・ヴァルジャンであることをみとめたようだった。彼はその点をとらえた。被告は、したがってジャン・ヴァルジャンである。この点はすでに起訴のなかに明らかで、もはや抗弁の余地はない。そこで次席検事はこの事実のもとにたくみに論法をととのえ、犯罪の根本および原因にさかのぼり、ロマンティック派の不道徳を痛論した。次席検事はいかにもまことらしく、シャンマティユ、いな、いいかえればジャン・ヴァルジャンの犯罪は、その背徳文学の影響であるとした。その考察がすんで、彼は直接ジャン・ヴァルジャンにほこさきをむけた。ジャン・ヴァルジャンとはいったい何者であるか? 彼はそこでジャン・ヴァルジャンのことをこまごまと説明した。地より吐《は》き出された怪物|云々《うんぬん》。それらの説明のモデルはテラメーヌ〔ラシーヌの戯曲フェードル中の人物〕の物語のなかから、もとめられたものであった。それは悲劇には無用のものであるが、つねに法廷の雄弁にはおおいに役立っているものである。次席検事はさらに、翌朝のプレフェクチュール紙の絶讃をなお高めようとして、いっそう雄弁調にすすめていった。――そして被告は実にかような人物である、云々。浮浪人であり、乞食であり、生活の方法をもたぬ奴である、云々。──被告は過去の生涯によって悪事になれ、入獄によっても少しも性質があらたまらなかった。プティ・ジェルヴェに関する犯罪はそれを証明してあまりある、云々。──被告は不敵な奴である。大道において、のり越した壁より数歩のところで、盗んだ品物を手に持ってる現行犯を押えられ、しかもその現行犯を、窃盗を、侵入を、すべてを否認し、自己の名前までも否認し、同一人なることまで否認している。しかしここに、そのひとつひとつをもちださないが、数多くの証拠がある。また、その証拠をべつにしても、なお四人の証人が認めているのだ。すなわちジャヴェル、あの公明正大な警視ジャヴェル、及び被告の昔の汚辱《おじょく》の仲間、ブルヴェ、シュニルディユ、コシュパイユの三人の囚人。その一致した恐るべき証言に対し、彼はいかなる反証をもっているか? 彼は単に否定するだけだ。なんという頑強さだろう! 陪審員諸君、諸君はよろしく公平な判断をくだされることと思う、云々。──次席検事がそう語っているあいだ、被告は多少感嘆をまじえたおどろきをもって、ぼうぜんと口をひらいてきいていた。人間の力でよくもそのように語りうるものだと、彼は明らかにおどろいたのである。ときどき、論告のもっとも「劇烈な」瞬間、おさえかねた雄弁が華麗《かれい》な文句のうちにあふれ出て被告を暴風雨のようにおそいかかる瞬間には、彼は右から左へ、左から右へとおもむろに頭を動かした。それは一種の悲しい無言の抗弁であり、彼は弁論のはじめからそれだけで満足していたのである。彼のもっとも近くにすわっていた二、三の傍聴人たちは、彼が二、三度口のなかでこういうのをきいた。「バルーさんにたずねなかったからこんなことになるんだ!」──そのおろかな態度を次席検事は陪審員たちに注意した。――それは明らかに故意にやっているもので、被告の愚鈍をしめすものではなく、実に巧妙と狡猾《こうかつ》さを示すものであり、法廷をあざむく常習性のあらわれであり、被告の「根深い悪賢さ」をあらわすものである、と。──そして次席検事は最後に、プティ・ジェルヴェの事件はこれを保留しておき、被告に厳刑を要求して弁論をおえた。
ここに厳刑というのは、読者も知るとおり、無期徒刑をさすものである。
弁護士はまた立ちあがって、まず「検事どの」にその「みごとな弁論」をたたえ、つぎにできるかぎりの答弁をこころみた。しかし彼の論調はにぶっていた。地盤は明らかに彼の足下にくずれかけていた。
五
弁論の終結をつげる時がきていた。裁判長は被告を起立させ、常例のごとくたずねた。
「被告はなお、なにか申しひらきをすることはないか」
男は立ったまま手に持っているきたない帽子をひねくっていた。裁判長の言葉もきこえぬらしかった。
裁判長はふたたび同じ問いをくり返した。
こんどは被告にもきこえた。彼はその意味を了解したらしく、眼がさめたというような身振りをし、周囲を見まわし、突然検事の上に眼をすえて語りはじめた。それはまるでなにかが爆発するような調子で、支離滅裂《しりめつれつ》な言葉がいちどに先を争って口からほとばしり出てくるかのようだった。
「わしのいうのはこうだ。わしはパリで車大工をしてた。バルー親方の家でだ。そりゃえらい仕事だ。車大工というのはいつも外で、中庭で仕事をしなくっちゃならねえ。冬なんかひどく寒いから、自分で腕を打ってあたたまるくらいだ。年をとってくりゃ、もう人並みの扱いはしないで|おいぼれめが《ヽヽヽヽヽヽ》っていやがる。わしは一日に三十スーきりもらわなんだ。親方はわしが年とってるのをいいことにしたんだ。それにわしは、娘がひとりあった。洗濯女をしてたが、そっちでも少ししか金はとれない。だが二人でどうにかやっていけた。娘のほうもつらい仕事よ、雨が降ろうが、雪が降ろうが、身を切るような風にふかれて、腰まである桶の中で一日働くんだ。娘は夕方に帰ってきてすぐ寝ちまう。そんなに疲れるんだ。そのうち、娘は死んじまった。夜遊びもしない、いい子だった。わしはほんとのこといってる。調べたらすぐわかることだ。そうだ。調べるたってパリは海のようなもんだ。誰がシャンマティユ爺《じい》なんかを知っていよう。だがバルーさんなら知ってる。バルーさんの家できいてみなさるがいい」
彼がいい終ったとき、傍聴人はふき出してしまった。彼はそのほうをながめ、わけもわからずに自分でも笑い出した。
このことはさらに彼にとって非常な不利をまねくことになった。
親切で注意深い裁判長は口をひらいた。彼は陪審員たちに、こう告げた。
「被告が働いていたという以前の車大工親方バルーという者を召喚《しょうかん》したが、出頭しなかった。破産して行方がわからないのである」
それから被告のほうにむいて、自分がこれからいうことをよくきくようにと注意していった。
「そのほうはよく考えてみなければならぬ場合にある。きわめて重大な推定がそのほうにかかっているのだから、最悪の結果をきたすかもしれない。被告、そのほうのために本官はいまいちどいってやる。つぎの二つの点をはっきりと説明せよ。第一にそのほうはピエロンの果樹園の壁をのりこえ、枝を折って、りんごを盗んだか否か。いいかえれば侵入窃盗の罪を犯したか否か。第二に、そのほうは放免囚ジャン・ヴァルジャンであるか否か」
被告は裁判長のほうをむいて口をひらいた。
「まず……」
それから彼は自分の帽子をながめ、天井を見あげ、それきりだまってしまった。
「被告」と検事はするどい声でいった。「気をつけるがいい。そのほうは審問にはなにも答えないが、そちのその|いつわり《ヽヽヽヽ》の当惑をみても罪はじゅうぶん明らかなのだ。みんなすっかりわかってるぞ。そのほうはシャンマティユという者ではない、徒刑囚ジャン・ヴァルジャンだ。そのほうはファヴロールの生まれで、そこで枝切り職をやっていた。それからピエロン果樹園に侵入してりんごを盗んだことも明白だ。陪審員諸君もじゅうぶんみとめられることと思う」
被告はふたたび席についていたが、検事がいい終ると、いきなり立ちあがって叫んだ。
「旦那はわるい人だ、旦那は! わしははじめからいいたかったが、どういっていいかわからなかったのだ。わしはなにも盗みはせん。わしはりんごのなってる枝が折れて地面に落ちてるのを見つけた。それを拾った。それがこんなに面倒なことになろうとは知らなかったんだ。わしはもう三カ月も牢にはいってる。旦那方はわしを悪くいって、返事をしろ! といいなさる。憲兵さんは親切に、肘《ひじ》でつついて返事をするがいいと小声でいいなさる。が、わしはなんと説明していいのかわからない。わしは学問もしなかったつまらん男だ。それがわからないというのは旦那方のほうがまちがってるんだ。わしは落ちてるものを拾いあげたまでだ。旦那方はわしのことを、ジャン・ヴァルジャンだといいなさる。わしはそんな人は知らん、それは村の人かも知れん。わしはロピタル大通りのバルーさんの家で働いてたんだ。わしはシャンマティユという者だ。旦那方はわしの生まれた所までいってきかしてくださる。だが自分じゃどこで生まれたかしらないんだ。わしはオーヴェルニュにもいたし、ファヴロールにもいた。だが、オーヴェルニュやファヴロールにいた者はみんな牢にいた者だといいなさるのかね。わしは泥棒なんかしなかったというんだ」
検事はそのあいだ立ったままでいたが、裁判長にむかっていった。
「裁判長どの、被告は故意に自分を白痴《はくち》としてとおそうとしている。しかしそうはゆかない。わたしはもういちど囚人ブルヴェ、コシュパイユ、シュニルディユ、および警視ジャヴェルをこの場に召喚することを要求します。いまいちど、被告とジャン・ヴァルジャンとが同一人か否かということを証人たちに尋問したいのです」
「検事にちょっといっておくが」と裁判長はいった。「警視ジャヴェルは公用のため、供述を終ってすぐにこの町を去っている。検事および弁護士の同意をえてそれを彼に許可したはずだが」
「まさしく裁判長どの、おっしゃるとおりでございます」と検事はいった。「ただ、わたしは彼が二、三時間前に、この席で供述したことを陪審員のみなさん方にもう一度もちだしたいのです。ジャヴェルは立派な人物であり、下役ではあるが、重要な役目は厳正にはたす男です。彼の供述はこうでした、『わたしは被告の否認を打消すために、心理的推定や具体的証拠さえ必要としない。この男をじゅうぶん知っている。この男はシャンマティユという者ではなく、恐るべき徒刑囚ジャン・ヴァルジャンだ。彼はプティ・ジェルヴェに関する窃盗およびピエロンに関する窃盗のほかに、わたしはなお、故ディーニュの司教閣下の家においても窃盗を働いたとにらんでいる。わたしはツーロンの徒刑場の副看守をしていたときに彼をしばしば見ていた。わたしはこの男をよく知っていることをかさねて申しあげる』」
そのきわめて簡明な申立ては、傍聴人、および陪審員にふたたび強い印象をあたえたらしかった。検事はジャヴェルを除いた三人の証人、ブルヴェ、シュニルディユ、コシュパイユをふたたびよびよせて厳重に尋問することを主張して席についた。
裁判長は守衛に命令をつたえた。ただちに証人の部屋の扉がひらかれた。守衛は万一の場合の時をかんがえ憲兵をひとりともない、囚徒ブルヴェをつれてきた。傍聴人は不安に息をこらし、彼らのすべての胸はただひとつの心をもっているかのように、みな一時におどりあがった。
前囚人ブルヴェは、中央監獄の暗灰色の上衣を着ていた。六十才ばかりの男で、事務家らしい顔つきと、悪者らしい様子をそなえていた。彼はある新らしい悪事でまた監獄にはいっていたのだが、獄内での善行をとりたてられて牢番になっていたのである。
「ブルヴェ」と裁判長はいった。「そのほうは刑を受けた身だから、宣誓することはできないが……」
ブルヴェは眼をふせた。
「しかしながら」と裁判長はつづけた。「法律によって体面を汚された者のうちにも、神の慈悲によって、なお名誉と公正の感情はとどまりうる。この大切なときにあたって本官はその感情にうったえたい。答える前によく考えよ。一方には、そのほうの一言によって身の破滅をきたすかもしれない男があり、他方には、そのほうの一言によって公明になるかもしれない正義があるのだ。重大な場合である。間違った判断をしたと思ったらいつでも前言を取消してよろしい。──被告、起立しなさい──ブルヴェ、よく被告を見、記憶をたどって被告がそのほうのむかしの仲間、ジャン・ヴァルジャンであるとみとめるかどうか、魂と良心とをもって申したててみよ」
ブルヴェは被告をながめた。それから裁判長のほうへむきなおった。
「そうです、裁判長どの。最初に彼だとみとめたのはわたしです。わたしは説をかえません。この男はジャン・ヴァルジャンです。一七九六年にツーロンにはいり、一八一五年にそこを出ました。いまあんな馬鹿な様子をしていますが、それはおいぼれたからでしょう。徒刑場ではずるい奴でした。わたしはたしかにこの男をおぼえています」
「席につけ」と裁判長はいった。「被告はそのまま立っておれ」
シュニルディユがつれてこられた。その赤い獄衣と緑の帽子が示すように、彼は無期徒刑囚だった。彼はツーロンの徒刑場で服役していたが、その事件のためによび出されていた。いらいらした顔に|しわ《ヽヽ》のよった、弱々しそうな、きいろい肌の、図々しげな、落ちつきのない五十才ばかりの男で、背が低く、眼つきには非常なするどさがあった。
裁判長はブルヴェにたずねたときとほとんどおなじ言葉をくり返した。
シュニルディユはふき出した。
「なあに、知ってるかって! わしら五年もおなじ鎖につながれてたんだ。おい、爺《じい》さん、なにをそう口をとがらしてるんだい」
「席につけ」と裁判長はいった。
守衛はコシュパイユをつれてきた。シュニルディユとおなじように、徒刑場からよび出された、赤い獄衣を着た無期徒刑囚だった。ルールドの田舎者で、ピレネー山地の山男だった。彼は山中で羊の番をしていたが、羊飼いから盗賊に転落したのである。
裁判長はおごそかな言葉で彼の心を動かそうとした。そして前の二人にしたように、そこに立ってる男を少しもためらわず迷わず、彼が誰であるかを認めうるかとたずねた。
「こいつはジャン・ヴァルジャンだ。起重機のジャンともいわれてた。それほど、こいつは力が強かったんだ」
まじめに、誠実になされたその三人の断定をきくたびごとに、傍聴人のあいだには被告の不利を予知するささやきが起った。新らしい証言が前の証言に加わってゆくごとに、そのささやきはますます大きくなり、ながくなった。被告のほうは、それらの証言をびっくりしたような顔つきできいていた。それがまた、彼に反対する者たちには彼の自己防衛の手段だとみえたのだった。第二の証言が終ったとき、彼はほとんど満足らしい様子でちょっと声高にいった。「結構だ!」第三番目には彼は叫んだ。「すてきだ!」
裁判長は彼に声をかけた。
「被告、いまきいた通りだ。なにかいうことはないか?」
「わしはすてきだ! というのだ」と彼は答えた。
どよめきが場内に起り、ほとんど陪審員にまでおよんだ。その男がもはやのがれられる余地のないことは明白となった。
「守衛」と裁判長はいった。「場内をとりしずめよ。これより弁論の終結を宣告する」
そのとき、裁判長のすぐそばに、なにか動いたようだった。と同時に人々はある叫び声をきいた。
「ブルヴェ、シュニルディユ、コシュパイユ! こちらを見ろ」
その声をきいた者はみんなぞっとした。それほど悲しい、そして恐ろしい声だった。人々の眼はその声のした一点にむけられた。法官席のうしろにすわっていた特別傍聴人の|ひとり《ヽヽヽ》が、判事席と法廷とをへだてる半戸を押しひらき、広間の中央につっ立っていた。裁判長も検事もバマタボワ氏も、そのほか多くの人がその男を認めた。そして同時に叫んだ。
「マドレーヌ氏だ!」
六
それは実際マドレーヌ氏だった。書記席のランプが彼の顔をてらしていた。彼は手に帽子を持っていた。その服装には少しも乱れたところがなく、フロックはきちんとボタンがかけられていた。ひどく蒼《あお》ざめて、かるくふるえていた。アラスに着いた頃には、まだなかば白髪《しらが》まじりだった髪の毛も、いまは全く白くなっていた。そこにいた一時間前から急に白くなったのである。
人々はみな頭をあげた。その時のみんなの感動は名状すべからざるものだった。聴衆たちは一瞬ためらった。あの声はいかにも痛烈で、そこに立っている人はいかにも平静で、人々にははじめはなんのことだかわからなかった。誰がいったい叫んだのかわからなかった。あれほど恐ろしい叫び声を発したのがその落ちついた人だとは、誰にも思えなかった。だが、その不決定な時間は数秒しかつづかなかった。裁判長や検事が一言を発するまもなく、憲兵や守衛が身をうごかすまもなく、まだそのときまでマドレーヌ氏とよばれていたその人は、証人コシュパイユ、ブルヴェ、シュニルディユの三人のほうへすすんでいった。
「お前たちは私を知らないか?」と彼はいった。
三人はびっくりしたまま、頭をふって知らないという意味を示した。コシュパイユはおそるおそる軍隊式の敬礼をした。マドレーヌ氏は陪審員および法官席のほうへむいて、おだやかな声でいった。
「判事諸君、被告を放免していただきたい。裁判長どの、私を逮捕していただきたい。あなたのさがしておられる人物は、彼ではない、この私である。私がジャン・ヴァルジャンである」
みんな息をひそめた。最初のおどろきの動揺についで、墓場のような沈黙がきた。人々はその広間のなかで、なにか偉大なことがなされるとき群集をおそうあの一種の宗教的恐怖を感じた。
そのうち裁判長の顔には同情と悲哀《ひあい》の色がうかんだ。彼は検事とすばやく合図をかわし、陪席判事たちと低い声でなにか、ふたこと、みこと話しあった。彼は傍聴人にむかって、すべての人にその意味がわかるような調子でたずねた。
「このなかに医者はいませんか?」
次席検事は口をひらいた。
「陪審員諸君、いま法廷をみだしたこの不思議な意外な出来事は、ここに説明するまでもない感情を諸君ならびにわたしにあたえるものです。諸君はみな少なくとも世間の名声によって、名誉あるモントルイユ・シュル・メールの市長マドレーヌ氏をご存知のことと思う。もしこのなかに医者がおられたなら、マドレーヌ氏につきそってご自宅まで送りとどけていただきたい」
マドレーヌ氏は検事に最後までいわせなかった。彼はおだやかな、しかし威厳のこもった調子で検事の言葉をさえぎった。
「検事どの、私はあなたに感謝します。しかし、私は気が狂ったのではありません。いまにおわかりになる。あなたはひどいあやまちを犯されようとしていたのです。この男を放免してください。私はただ自分の義務をはたすのです。私が問題の罪人です。この事件をはっきり見とおせる者はただ私ひとりです。私はあなたに事実を語っている。いま私のしてることは、天にいます神がみておられる。それでじゅうぶんです。私はここにいるから、あなたは私を逮捕されることができます。それにしても、私は私なりに最善をつくしてきたのです。私は名を変えて身をかくし、富をえ、市長にまでなりました。私は正直な人の仲間にはいろうとした。しかし、それは不可能なことのように思われてきました。私はここに自分の一生を物語ろうとは思いません。いずれ、そのうち、すべてがわかるでしょう。私は司教閣下のものを盗んだ、それは事実です。私はプティ・ジェルヴェのものを盗んだ、それも事実です。ジャン・ヴァルジャンという男は憐れむべき悪人だというのも当然でしょう。しかし、罪はおそらく彼にだけあるのではありますまい。
きいていただきたい、私のように堕落した人間は、天に対して不平をいう資格もないし、社会に対して意見をのべる資格もないでしょう。しかし、私がぬけ出そうとしたあの汚辱《おじょく》はひとを傷つけるのもはなはだしいものです。徒刑場が囚人をつくるのです。この点を少し考えていただきたい。徒刑場にはいる前、私は知力のとぼしい一個の憐れな田舎者でした、一種の白痴でした。しかし、徒刑場が私を一変させてしまった。愚かだった私は、悪人となった、危険な人物となった。そして苛酷《かこく》さが私を破滅させたとおなじように、その後|寛容《かんよう》と親切とが私を救ってくれました。いや、諸君には私がこんなことをしゃべってもわからないでしょう。私のうちの煖炉の灰のなかをさがせば、七年前に私がプティ・ジェルヴェから奪った四十スー銀貨が見つかるはずです。私はもうこれ以上なにも申しません。私を逮捕していただきたい。検事どの、あなたはマドレーヌが気が狂ったというんですか、私のいうことを信じないんですか! それは困ります。少なくともこの男を処刑しないでいただきたい。ここにジャヴェルがいないのは残念です。彼なら私をみとめるでしょうに」
彼はここで三人の囚人のほうをむいた。
「おい、私のほうではお前たちをおぼえてるぞ! ブルヴェ! お前は思い出せないのか?……」
彼は言葉をきってちょっとためらった。それからいった。
「お前が徒刑場で使っていたあの弁慶縞《べんけいじま》の、編んだズボン吊りを、お前はおぼえていないか」
ブルヴェは愕然《がくぜん》とした。そしておそるおそる彼を頭から足先まで見おろした。彼はつづけていった。
「シュニルディユ、お前は自分のことをシュ・ニ・ディユとよんでたはずだ。お前には右の肩にひどい火傷《やけど》のあとがある。お前はT・F・Pという三文字のいれずみを消すために、火のいっぱいはいった火鉢に肩を押しあてた。だが、そのいれずみの字はまだ残っているはずだ。どうだ、そのとおりだろう」
「そのとおりです」とシュニルディユはいった。
彼はまたコシュパイユにむかっていった。
「コシュパイユ、お前には左の肘《ひじ》の内側に、火薬でやいた青い字の日付がある。それは皇帝がカンヌ上陸の日で、一八一五年三月一日とかいてある。袖《そで》をまくってみろ」
コシュパイユは袖をまくった。すべての人の眼がそのあらわな腕の上に集まった。ひとりの憲兵がランプをさし出した。日付はちゃんとそこに書かれていた。
その不幸な人は傍聴人と判事たちのほうへむきなおった。顔には微笑をうかべている。その微笑を見た者は、いまなお思い出しても心が痛むのだった。それは勝利の微笑であり、同時に絶望の微笑でもあった。
「よくおわかりでしょう」と彼はいった。「私はジャン・ヴァルジャンです」
その広間のなかには、もはや判事も憲兵もいなかった。ただじっと見まもってる眼と感動した心があるばかりだった。誰もが自分のなすべき職分を忘れていた。およそ荘厳《そうごん》な光景の特質というものは、すべての人の魂をとらえ、すべての目撃者を単なる傍観者にしてしまう点にある。おそらく、そのときに感じたことは誰も説明できなかっただろう。
明らかに人々は眼前にジャン・ヴァルジャンを見たのである。その男の出現は、一瞬間前まであれほど漠然としていた事件を、明白にするにじゅうぶんだった。それ以上なんらの説明もまたないで、すべての人々は、自分のために処刑されようとしてるひとりの男を救うために身を投げ出した彼の簡単でしかも壮厳な行為を、まるで電光に照らされたように、ひと目で了解したのであった。その印象はやがて、すみやかに消えるにしても、その瞬間はそれに抗することのできない力をもっていた。
「私はこれ以上法廷を乱したくはありません」とジャン・ヴァルジャンはいった。「私を逮捕されないようですから、私は引きとります。私はいろいろしなければならない用事があります。検事どのは、私がどういう者か、どこへゆくのか、よく知っておられる。いつでも私を逮捕することができましょう」
彼は出口のほうへすすんでいった。誰もひとことすら発する者もなく、また手をさしのべて引きとめようとする者もなかった。みんなは彼の前に身をひいた。神聖なある瞬間が、群集の心をうったのである。彼らはマドレーヌ氏に路をひらいた。彼はゆっくりした足どりで、彼らのあいだを通っていった。誰が扉をひらいたのか、彼が出口に来たときには、扉もたしかにひらかれていた。彼はそこでふり返った。
「検事どの、ご都合でいつでもよろしいです」
それから彼は傍聴人のほうへむいていった。
「みなさん、ここに列席されたみなさん、みなさんは私を同情にあたいする人間だと思われるでしょう。ああ、しかし私がこのことをなそうと決心した瞬間の自分の苦しみがどんなものであったかを思うとき、私は自分こそうらやむにたる人間だと思いました。でもしかし、実はこの私はこういうことが起らないほうをむしろ望みたかったのです」
彼は出ていった。そして扉はひらかれたときとおなじように誰からともなくとざされた。荘厳なことを行う者は、群集のうちの誰かによってつねに奉仕されるものである。
それから一時間とかからないうちに、陪審員たちの裁決は、あのシャンマティユをいっさいの起訴から釈放した。放免されたシャンマティユは、どいつもこいつもみんな気狂いばかりだと考えながら、その場の光景には、少しもわけがわからずに、唖然《あぜん》として帰っていった。
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第八章 反撃
一
夜は明けはじめていた。ファンティーヌは高熱と不眠との一夜をすごしたが、それでもそれは楽しい幻にみちたものだった。朝になってやっと眠りについた。夜通し彼女についていたサンプリス修道女は、そのあいだを利用してキナの新らしい水薬をつくりに薬局にはいっていった。彼女は夜明けのほの暗い光りのなかで、薬剤や薬瓶の上に身をかがめていた。と、不意に彼女はうしろをふり返って、かるい叫び声をあげた。マドレーヌ氏が彼女の前に立っている。彼はだまってそこにはいって来たのだった。
「まあ、あなたは市長さまではございませんか!」と彼女は叫んだ。
彼はそれに低い声で答えた。
「あの可哀そうな女はどんなぐあいです」
「ただ今は、そう悪くはございません。でもずいぶん心配いたしました」
彼女は病人の様子を話した。ファンティーヌは前日はひどく悪かったが、今では、市長が子供を引きとりにいっていると思いこんでいるので、だいぶよくなったと。彼女はあえて市長にたずねはしなかったが、彼がモンフェルメイユから帰ってきたのでないことを、その様子から見てとったのである。
「ほんとのことをいわないでおかれてよかった」
「そうです。だけど、あのひとがあなたさまにあって、子供がいないのに気がついたら、なんと申したらよろしゅうございましょう」
彼はちょっと考えこんだ。
「神さまがなんとか教えてくださるでしょう」と彼はいった。
「ですけど、嘘《うそ》など申せませんもの」と修道女は口のなかでつぶやいた。
日の光りが部屋のなかに流れこんできた。そしてマドレーヌ氏の顔を正面からてらしていた。修道女はふと眼をあげた。
「まあ、市長さま!」と彼女は叫んだ。「どうなされたのでございますか? あなたさまの髪はまっ白になってますわ!」
「まっ白に!」と彼はいった。
サンプリス修道女は化粧用の鏡などもっていなかった。彼女は医療具入れのなかをさがして、小さな鏡をとり出した。病人が死んで、もう呼吸していないことをたしかめるために医者がつかうものである。マドレーヌ氏はその鏡をとって、それに自分の髪の毛をうつしてみながらいった。
「ほほう!」
彼はその言葉をまるでほかのことに心をうばわれているみたいに、無関心な調子でいった。
修道女はなにかしら異様なものを感じて、ぞっとした。
「あの女に会ってもいいでしょうかね」
「あなた様はあの女に子供をつれもどしてやるつもりはないんでございますの?」と彼女はやっとのことでたずねた。
「もちろん、そのつもりでいます。だが、それには、すくなくとも二、三日はかかりますよ」
「ではその時まで、あのひとに会わないことになさっては?」と彼女は、おずおずしながらいった。
マドレーヌ氏はしばらく考えこんでいるようだったが、やがて落ちついたおもおもしい調子でいった。
「いや、私はあの女に会わなけりゃならない。たぶんそのうちすぐ、私はいそがしい身になることだろうから」
修道女はその「たぶん」という言葉に気がつかなかったらしい。
「ではおはいりください、あのひとはやすんでいますけど」
彼は、扉の|たてつけ《ヽヽヽヽ》が悪いので、その音が病人の眼をさまさせはしないかとちょっと注意してから、ファンティーヌの部屋にはいり、寝台に近づいてカーテンをすこしばかりひらいてみた。彼女は眠っていた。胸からはきだされる息には悲しげな音がきこえていた。その音はその種の病気には固有のものだった。しかしその苦しそうな呼吸も、彼女の顔の上にみちあふれ、彼女の寝姿を一種別のものにしてるなんともいえない晴朗な気分を、ほとんど乱してはいなかった。彼女の蒼《あお》ざめた色は、今は白色になっていた。その頬《ほお》にはあざやかな色がうかんでいた。処女と青春のなごりをとどめ、いまの彼女にただひとつ残っている美しいあのながい金色のまつ毛は、低くとざされながらゆらめいていた。彼女の全身はかるくふるえていた。眼にはみえないが、いまにも飛びたとうとぴくぴくしてる翼かなにかで、彼女はどこかへとんでゆこうとしてるみたいだった。そのような彼女の姿をみては、これが、もうほとんど絶望の病人だとはとても信じられなかったろう。彼女は、今にも死のうとしているより、今にも飛び去ろうとしているみたいだった。
サンプリス修道女は、彼と一緒にはいってきてはいなかったが、彼は寝台のそばに立って、部屋にいる誰かが彼に沈黙を命じているかのように、指を口にあてていた。
ファンティーヌは眼をひらいた。彼女は彼を見た。そしてほほ笑みながら、しずかにいった。
「あの、コゼットは?」
ファンティーヌはべつにびっくりした身振りも、喜びの身振りもしなかった。
「あの、コゼットは?」というその簡単な問いは、深い信念と確信とをもって、なんの不安も疑念もなくいわれたので、マドレーヌ氏はすぐに答えることができなかった。彼はなにか機械的に答えた。しかし、なんと答えたのか、あとになって自分でも思い出せなかった。
ちょうどそこへ医者が知らせを受けてやって来た。彼がマドレーヌ氏に助け舟を出した。
「まあまあ、落ちついて」と医者はいった。「子供はあちらに来てますよ」
ファンティーヌの眼は急にかがやいて、顔じゅうを明るくてらしだした。
「どうぞ、あたしのところへ抱いてきてくださいまし」
なんという人の心を動かす母親の幻想であろう! コゼットは彼女にはいまだに抱きかかえられるほどの小さな子供として考えられていたのだった。
「まだいけませんよ」と医者はいった。「今すぐにはいけませんよ。まだあなたには熱があります。子供を見たら興奮して身体にさわるでしょうから、まずすっかり、あなたの身体をなおしてからね」
彼女はいらだって、その言葉をさえぎった。
「あたしはもうなおってますわ! なおってますといっているのに! この先生はなんてわからずやでしょう。ああ、あたし、子供にあいたいわ。あいたいわ!」
「ほらごらん」と医者はいった。「そんなに興奮するんでしょう。そんなふうでいるうちは、子供にあうのは反対ですよ。子供にあうだけではなんにもならないからね、子供のために、あなたは生きなければなりません。あんたがよくなってきたら、私が自分で子供をつれてきてあげますよ」
あわれな母親は頭をさげた。
「先生、お許しください。むかしは、今のような口のききかたをしたことはありませんでしたけど、あんまりいろんな不仕合《ふしあわ》せがつづいたものですから、どうかすると自分のいっていることが自分でわからなくなるんです。あたしにもよくわかってますわ。あんまり心を動かすことをご心配になっているんですわね。あたし、先生のお許しになるまでまってますわ。ですけど、娘にあっても身体にさわるようなことは決してありませんわ。あたしは娘をみています。夕ベから眼をはなさないでいます。いま娘が抱かれてあたしのとこへきても、しずかに口をききますわ。モンフェルメイユからわざわざつれてきてくだすったんですもの、子供の顔をみたがるのはあたりまえじゃありませんか。先生のよろしいときに、あたしのコゼットをだいてきてくださいね。あたしはもう熱はありませんわ、なおってるんですもの」
マドレーヌ氏は寝台の近くの椅子にすわっていた。ファンティーヌは彼のほうに顔をむけた。彼女はまるで子供のように、自分でもいったとおりしずかに、そしておとなしくしてるのを見せようと努力していた。そうしていれば誰もコゼットをつれてくるのに反対しないだろうと思っているらしかった。しかし、自分をおさえながらも、彼女はマドレーヌ氏にいろいろなことをたずねてやまなかった。
「市長さま、旅は面白うございましたか。あたしのために子供を引きとりにいってくださいまして、ほんとに、なんというご親切な方でしょう。ただ、ちょっとだけ子供の様子をきかせてくださいましな。子供は旅にも弱りませんでしたでしょうか。ああ、あたし、娘の顔をおぼえていないわ。ああ、あいたいわ。市長様、娘は可愛ゆうございましたか、きれいでございましょうね。一目みたらすぐつれていってもよろしいんです。ねえ、あなたはご主人ですから、あなたさえお許しになれば!」
彼は彼女の手をとった。
「コゼットはきれいですよ。だが、あなたは落ちつかなくっちゃいけませんよ。あなたはあまりせきこんでしゃべり過ぎます。それに寝床から腕を出したりして。だから咳《せき》が出るんですよ」
実際、はげしい咳が彼女の言葉を一語一語さまたげていた。
彼女は不平をいわなかった。あまり性急に訴えすぎて、みんなに安心させようとしていたのがむだになりはしないかと恐れていた。そしてほかの関係のないことをいいだした。
「モンフェルメイユはたいへんいいところでございましょう? 夏になるとよく人が遊びにいきますわ。テナルディエの家は、はやっています? あのあたりは旅の客が多くないですもの。であの宿屋も、まあ料理屋みたいなものですわね」
マドレーヌ氏はやはり彼女の手をとったまま、心配そうに彼女の顔を見ていた。彼はたしかに彼女になにかいうためにやってきてたのだが、彼はそれを口にだすのをためらっていた。医者は診察をすませて出ていった。ただサンプリス修道女だけが二人のかたわらに残った。
そのうち突然その沈黙を、ファンティーヌの叫び声がやぶった。
「娘の声がする。あ、娘の声がきこえる!」
彼女は息をこらして、うれしそうに耳をそばだてた。
ちょうど中庭にひとりの子供が遊んでいた。門番の女の子か誰か女工の子供だろう。ファンティーヌが聞いたのはその小さな娘の歌う声だった。
「あれはあたしのコゼットだわ! あたしはあの声をおぼえている」
子供は来たときのように、また不意にいってしまった。声は聞えなくなった。ファンティーヌはなおしばらく耳をかたむけていたが、またその顔は暗くなった。
しかし、彼女の心の底にあった楽しい考えがまたうかび出してきた。彼女は枕に頭をつけて、ひとりごとをつづけた。
「あたしたちは、なんて仕合《しあわ》せになることだろう! だいいち、小さな庭がもてる。マドレーヌさまが約束してくださったもの。娘はその庭で遊ぶことだろう。それにもう字もおぼえなければならないわ。字の綴りを教えてやろう。草のなかで蝶《ちょう》をおっかけることだろう。あたしはそんな娘の姿がみられるんだわ。それから、聖体拝受もさせてやらなければならない。ああ、いつそれをするようになるかしら?」
彼女は指を折ってかぞえはじめた。
「ひい、ふう、みい、よう……もう七つになる。五年したら白いヴェールをかぶらせ、すき編《あ》みの靴下をはかせましょう。ああ、ほんとにあたしは馬鹿だわ、娘の最初の聖体拝受のことなんか考えたりして」
そして彼女は笑い出した。
マドレーヌ氏はファンティーヌの手をはなし、眼を伏せて深い考えに沈みながら、まるで風の吹く音を聞くように、それらの言葉に耳をかしげていた。と、突然彼女は口をつぐんだ。それで、彼もまた機械的に頭をあげた。彼女はなんだか、ひどく恐ろしげな様子をしはじめていた。
彼女はもう口をきこうとしなかった。息さえひそめている。そしてなかば身を起し、いまの今までかがやいていた顔をまっ蒼《さお》にして、部屋のむこうはしになにか恐ろしいものを見つめてるようだった。その眼は恐怖のために大きく見ひらかれた。
「おや!」とマドレーヌ氏は叫んだ。「どうしたのです! ファンティーヌ」
彼女は答えなかった。しかし、なお見つめているものから眼をはなさなかった。彼女は片手で彼の腕をとらえ、片手でうしろを見るように合図した。
彼はふり返ってみた。そこにはジャヴェルが立っていた。
二
特使が逮捕状をもってきたとき、ジャヴェルはもう起きあがっていた。
彼は近くの衛兵所からひとりの伍長と四人の兵隊をつれてきて、彼らをマドレーヌ氏宅の中庭に残しておいて、なにげなくやってきた。彼は門番の女からファンティーヌの部屋を聞いた。門番の女は兵隊たちが市長をたずねてくるのになれていたので、べつにあやしみもしなかった。
ファンティーヌの部屋にくると、ジャヴェルは把手《とって》をまわし、看護婦か探偵のようにそっと扉をおして、なかにはいって来た。
くわしくいえば、彼はなかにはいったのではなかった。帽子をかぶったまま、あごまでボタンのかかったフロックに左手をつっこみ、なかばひらいた扉のあいだに立っていたのだった。曲げた腕のなかには、うしろにかくしていたふとい杖の鉛の頭がみえた。
彼は誰にも気づかれずに、一分ばかりそうしていた。と突然ファンティーヌが眼をあげて彼を見、マドレーヌ氏をふりむかせたのだった。
マドレーヌ氏の視線とジャヴェルの視線がかちあったとき、ジャヴェルは身体も動かさず、位置をもかえず近づきもしないで、ただ恐ろしい顔と姿をして、そこにつったっていた。およそ人間の感情のうちで、そのような喜びほど恐ろしい姿になりうるものはない。それは実に、地獄に落ちた者をみつけた悪魔の顔だった。ついにジャン・ヴァルジャンを捕えたという確信によって、魂のなかにあるすべてが顔の上に現われ出たのである。
清廉《せいれん》、真摯《しんし》、誠直、確信、義務の感情などは悪用されるときには嫌悪すべきものとなるが、しかしそれでもなお壮大さをうしなわない。人間の良心に固有な、そうしたものの威厳は、人をおびえさせるときにもみられるものである。そういう兇暴な狂信者の無慈悲な喜悦《きえつ》のうちにあったジャヴェルは、しかし無智な勝利者と同じように、あわれむべき者だった。
ファンティーヌは市長が彼女を奪いかえしてくれたあの日いらい、ジャヴェルを見なかった。病人だった彼女にはなにもよくわからなかったが、ただ彼がふたたび自分を捕えに来たのだということだけは信じていた。彼女は彼の恐ろしい顔を見るにたえなかった。息がつまるような気がした。彼女は両手で顔をかくして苦しそうに叫んだ。
「マドレーヌさま、助けてくださいませ!」
市長はいかにもやさしい落ちついた声で彼女にいった。
「安心しなさい。あの人が来たのはあなたのためではありません」
それからジャヴェルのほうにむいていった。
「きみの用事はわかっている」
「さあ、はやく!」とジャヴェルは答えた。その|ひとこと《ヽヽヽヽ》の語調のうちには、なにか、あらあらしい狂気じみたものが感じられた。「さあ、はやく!」というより、むしろ「はあやく!」といったように聞えた。それはもはや人間の言葉ではなく、動物の吠《ほ》え声のようなものだった。
彼はいつものようなやり方はしなかった。一言の説明もしなければ、逮捕状もみせなかった。彼の眼にはジャン・ヴァルジャンは一種不思議なとらえがたい勇士であり、五年間手にかけながら倒すことのできなかった暗黒の闘士だった。その逮捕状はことのはじめではなく終局だった。彼はただ「さあ、はやく!」とだけいった。
そういいながらも、彼は一歩も前に出てこなかった。いつも悪党を自分のほうへ手荒く引きつけるあの眼つきを、鉤《かぎ》のようにジャン・ヴァルジャンの上に投げつけた。二カ月前、ファンティーヌが骨の|ずい《ヽヽ》まで貫ぬかれたように感じた眼つきが、やはりそれだった。
ジャヴェルの叫ぶ声に、ファンティーヌは眼を見ひらいた。しかし、そこには市長さんがいる。なにをこわがることがあろう。
ジャヴェルは部屋のまん中まですすんだ。そしていった。
「さあ貴様、こないか!」
あわれなファンティーヌはあたりを見まわした。そこには修道女と市長とのほかは誰もいなかった。貴様《ヽヽ》というひどい言葉はいったい誰にむけられたのだろう。自分よりほかに誰もいない。彼女はふるえあがった。
その時、彼女は異常なことを見た。それほどのことは夢にだって、熱にうかされた、もっとも暗黒な昏迷《こんめい》のうちにあってさえ、彼女は見たことがなかった。彼女は探偵ジャヴェルが市長の首すじをつかまえたのを見た。市長がうなだれたのを見た。彼女は世界が消えてなくなるのを見たような気がした。
ジャヴェルは事実ジャン・ヴァルジャンの首すじをつかんだのだった。
「市長さま!」と彼女は叫んだ。
ジャヴェルは声をあげて笑い出した。歯をすっかりむき出した恐ろしい笑い顔だった。
「もう市長さんなどという者は、ここにはいないんだぞ!」
ジャン・ヴァルジャンはフロックの襟《えり》をとらえた彼の手をはなそうともしなかった。
「ジャヴェル君……」
ジャヴェルはそれをさえぎった。
「警視どのといえ!」
「あなたに内々でひとこといいたいことがあるんですが」
「大声でいえ、大声で! 誰でもおれには大声でいうのだ」
ジャン・ヴァルジャンは、やはり声を低めていった。
「あなたにぜひひとつお願いがあるのですが……」
「大声でいえというのに」
「しかし、あなただけに聞いてもらいたいので……」
「おれになんだっていうのだ。おれはきかん!」
ジャン・ヴァルジャンは彼のほうにむいて、早口にごく低い声でいった。
「三日の猶予《ゆうよ》をあたえてください! このあわれな女の、子供をつれにゆく三日の間だけです。必要な費用は払います。一緒に来てくださってもよろしいんです」
「笑わせやがる!」とジャヴェルは叫んだ。「なんだ、おれは貴様がそんな馬鹿だとは思わなんだ。逃げるための三日の猶予をくれっていうのだろう。そいつの子供をつれてくるためというんだな、結構なことだ。なるほどうまい考えだ!」
ファンティーヌはぎくりとした。
「あたしの子供!」と彼女は叫んだ。「あたしの子供をつれにゆく! じゃ子供はここにいないのかしら! ねえ、修道女さん、いってください。コゼットはどこにいるんですの。あたしに子供をください、マドレーヌさま、市長さま!」
ジャヴェルは足をふみ鳴らした。
「まだそこにひとりいたのか! しずかにしろ、ばいため! 徒刑囚が役人になったり、淫売婦が貴族のとり扱いを受けたり、なんという処だ! だがもう、そうはいかんぞ。いよいよ、その時がきたんだ」
ジャヴェルはファンティーヌをにらみつけ、ジャン・ヴァルジャンのシャツとカラーとネクタイとをつかみながらつけくわえた。
「もうマドレーヌさんも市長さんもないんだぞ。泥棒がいるだけだ、悪党が、ジャン・ヴァルジャンという懲役人が。そいつを今おれが捕えたんだ。それだけのことだ」
ファンティーヌは、こわばった腕と両手でそこにとび起きた。そして、ジャン・ヴァルジャンを見、ジャヴェルを見、修道女を見、なにかいいたそうに口をひらいた。ごろごろという音がのどの奥から出て、歯が、がたがたかちあった。彼女は苦悶のうちに両腕をさしのべ、両手をけいれんさせながらひらき、溺《おぼ》れる人のようにあたりの空気をかきまわし、それからばったり枕の上に倒れた。その頭は枕木にぶつかって、腕の上にがっくりとたれた。口はぽかんとひらき、眼はひらいたまま光りをうしなっていた。
ジャン・ヴァルジャンは自分をつかんでいるジャヴェルの手の上に自分の手を置き、赤子の手をひらくようにそれをひらいてジャヴェルにいった。
「あなたはこの女を殺したのだ」
「はやくかたをつけろ」とジャヴェルはいきりたって叫んだ。「おれは理屈を聞きにここへ来たんじゃない。護衛の者が下にいる。すぐにゆくか、でなけりゃ手錠だぞ!」
部屋の片すみに古い鉄の寝台があった。かなりひどいもので、修道女たちが病人を看病しながら寝るときに使われていた。ジャン・ヴァルジャンはその寝台に歩みより、いたんでいるその枕木をまたたくまにはずした。それくらいのことは彼のようなつよい腕力の持主には、たやすいことだった。彼はその枕木になっていたふとい鉄棒をしっかとつかんで、ジャヴェルを見つめた。
ジャヴェルはドアのほうへあとずさった。
鉄棒を手にしたジャン・ヴァルジャンはゆっくりとファンティーヌのほうに歩いていった。そこまでゆくと彼はふり返って、やっとききとれるくらいの声でジャヴェルにいった。
「今しばらく私の邪魔はしてもらいますまい」
ジャヴェルは、たしかにふるえていた。
彼は護衛の者を呼びにゆこうと思ったが、そのあいだを利用して、ジャン・ヴァルジャンは逃走するかもしれなかった。で、彼はそのままそこに居残って、杖のはしをにぎりしめながら、ジャン・ヴァルジャンから眼をはなさずにドアを背にしてつっ立っていた。
ジャン・ヴァルジャンは寝台の枕木に肘《ひじ》をつき、額《ひたい》に手をあてて、そこに横たわって動かないファンティーヌを見つめはじめた。彼はそのまますっかり気をとられて無言でいた。きっと、彼女のこと以外に、この世のことはなにも思っていなかったのだろう。彼の顔にも態度にも、もはやいいしれぬ憐憫《れんびん》の情しかみられなかった。そしてその瞑想をしばらくつづけたあと、彼はファンティーヌのほうに身をかがめて低い声でなにかささやいた。
彼は彼女になんといったのか、この世から捨てられたその男は、死んだその女になにをいえたのだろうか。地上の誰にもそれはきこえなかった。死んだ女にはそれがきこえただろうか。
ジャン・ヴァルジャンはその両手にファンティーヌの頭をとり、母親が自分の子供にするように、それを枕の上にのせ、それからシュミーズの紐《ひも》をむすんでやり、帽子の下の髪をなでつけてやった。それがすむと、彼は彼女の眼をとざしてやった。
ファンティーヌの顔は、そのとき、異様に明るくなったようにみえた。
死、それは大いなる光輝への入口である。
ジャン・ヴァルジャンはたれていた彼女の手の前にひざまずいて、それをとってしずかに唇におしあてた。
それから立ちあがって、ジャヴェルにいった。
「さあ、これからどうにでもしてもらいましょう」
三
ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンを市の監獄に投げこんだ。
マドレーヌ氏の逮捕はモントルイユ・シュル・メールに、ひとつのセンセイションを、いや、むしろ非常な動揺を起した。悲しいことであるが、|あの男は徒刑囚《ヽヽヽヽヽヽヽ》であったというそれだけの言葉で、ほとんどすべての人は彼を捨ててかえりみなくなったことを、ここにかくすわけにはゆかない。わずか二時間たらずのうちに、彼がなしたすべての善行は忘れられてしまった。そして彼はもはや「一徒刑囚」にすぎなくなった。しかし、アラスの出来事の詳細は、まだ知られていなかったことをいっておかねばならない。一日じゅう町の隅々で、つぎのような会話がかわされた。
「きみは知らないのか、あれは放免囚だったとさ――誰が?――市長が──なに、マドレーヌ氏が?──そうだ──ほんとうか――彼はマドレーヌというんじゃなくて、なんでもベジャンとかボジャンとかブージャンとかいう恐ろしい名前だそうだ――へえ!――彼はつかまったのだ――つかまった!――護送するまで市の監獄に入れられてるんだ――護送するって? これから護送するって、どこへつれてゆくんだろう――むかし、大道で強盗をやったとかで、重罪裁判に廻されるそうな──なるほど、ぼくもそんな奴だろうと思ってた。あまり親切で、あまり申し分がなく、あまり物がわかりすぎた。勲章はことわるし、餓鬼《がき》どもには誰にでも金をやっていた。それをみて、わたしはきっとなにか悪いことでもしてきた奴だろうと、いつも思っていた」
そのようにして、マドレーヌ氏とよばれていた幻は、モントルイユ・シュル・メールの町から消えうせてしまった。ただ全市中に三、四人の人が彼の記憶を忠実に保っていた。彼につかえていた門番の婆さんもそのうちのひとりだった。
その日の晩、その忠実な婆さんは、おびえきって悲しみに沈みながら、門番小屋のなかにすわっていた。工場はとざされ、正門は閂《かんぬき》がさされ、通りには人影もなかった。家のなかにはファンティーヌの死体のかたわらで通夜をしているペルペチュとサンプリスとの二人の修道女がいるだけだった。
そして、その晩も、いつものマドレーヌ氏が帰ってくる頃になると、善良な門番の婆さんは機械的に立ちあがり、引出しからマドレーヌ氏の部屋の鍵をとりだし、それをマドレーヌ氏がいつもそこからはずしてもってゆく釘にかけ、そのそばに手燭《てしょく》を置いて、まるで彼をまっているみたいだった。それからまた、彼女は椅子に腰をおろして考えはじめた。その人のいい、あわれな婆さんは自分でも知らずにそれらのことを、今日もくりかえしていたのだった。
それからおよそ二時間あまりすぎてからだったが、彼女はやっと夢想からさめて叫んだ。
「まあ、どうしたというんだろう。あたしはあの方の鍵を釘にかけたりなんかして!」
ところが折もおり、ちょうどそのとき、部屋のガラス窓がひらいて、そこから一本の手が出てきて鍵と手燭とをとり、火のついたべつのろうそくから手燭のろうそくに火をうつした。
門番の婆さんは眼をあげて、思わず口をひらこうとした。のどもとまで叫び声が出たが、彼女はそれを押しころした。彼女はその手、その腕、そのフロックの袖《そで》をおぼえていた。
それはマドレーヌ氏だった。
彼女は数秒間、口がきけなかった。
「まあ、市長さま!」と彼女は叫んだ。「あたしは、いまあなたは……」
彼女はいいよどんだ。その言葉につづく言葉は、はじめのいい方に対して敬意をかくことになるのだった。ジャン・ヴァルジャンは彼女にとっては、今でもやはり市長さまだった。
彼は彼女の思ってることをいってやった。
「牢屋だと思ってたというんだろう。私はなるほど牢屋にいた。だが私は窓の格子をこわし、屋根の上から飛びおり、そしてここに来たのだ。私は自分の部屋にあがってゆくから、サンプリス修道女をよびにいってくれ。きっとあの憐れな女のそばにいるだろうから」
婆さんはいそいでその言葉にしたがった。彼は彼女になにも注意はあたえなかった。自分で用心するより以上に、彼女は自分をまもってくれるだろうと信じきっていたのだった。
彼は自分の部屋に通じる階段をあがっていった。上までゆくと、手燭《てしょく》を階段の一番上の段に置き、音のしないように扉をひらき、手さぐりですすんでいって窓と雨戸をしめ、それから手燭をとりにもどってきて、部屋にひきかえした。
それは必要な注意だった。窓が通りから見えることは、読者の思い起すところであろう。
彼はあたりをじろじろ見まわした。テーブルや椅子や、三日前から手もつけられていない寝台など……一昨日のとり乱したあとは少しものこっていなかった。門番の婆さんが片づけたのだった。彼女は、鉄のはまった杖の両端と、火で黒くなった四十スー銀貨を灰のなかから拾いあげ、ていねいにテーブルの上に置いていた。
彼は一枚の紙をとって、それにつぎのように書いた。「これは鉄をかぶせた私の杖の両端と、重罪法廷で語ったプティ・ジェルヴェから奪った四十スー銀貨である」彼はその紙の上に銀貨と鉄片をおき、部屋にはいったときすぐに眼につくようにしておいた。彼は戸棚からふるいシャツを引きだし、それを裂いた。そしていくつかの布ぎれをつくって、二つの銀の燭台をつつんだ。彼はべつにいそいでも、そわそわしてもいなかった。司教の燭台をつつみながら、黒パンをかじった。たぶんそれは脱走しながら持ってきた監獄のパンであろう。
誰かがドアを低く二つたたいた。
「おはいりなさい」と彼はいった。
サンプリス修道女だった。
彼女は色|蒼《あお》ざめて、両眼は赤くなり、もってるろうそくの火は手のふるえでゆらめいていた。彼女はさっきまで泣いていたのだった。そしていまはふるえていた。その日一日の感動で、その修道女はひとりの女性となってしまっていた。
ジャン・ヴァルジャンは一枚の紙になにか数行書きおわると、それを修道女にさし出した。
「どうかこれを司祭さんにわたしてください」
その紙は折りたたんであった。彼女はその上に眼をおとした。
「読んでもよろしいのですよ」と彼はいった。
彼女は読んだ。「ここに残してゆく一切《いっさい》のものをご監督くださるよう、司祭どのにお願いいたします。そのなかから訴訟費用を支払っていただきたい。残りのものは貧しい人たちに施してください」
修道女はなにかいおうとしたが、言葉にもならないようなつぶやきを発することしかできなかった。それでもやっとのことで、これだけいうことができた。
「市長さま、最後にもういちどあのかわいそうな人を見ておやりになりませんか」
「いや、私は追跡されています。あの部屋でつかまるだけです。それではかえって彼女の霊をみだすことになるでしょう」
彼がそういいおわるかおわらぬうちに、階段で大きな物音がした。二人は階段をあがってくるそうぞうしい足音を聞いた。と同時に、とてもそれ以上は出せそうもないようなかん高い声で、門番の婆さんが叫ぶのがきこえた。
「あなた、あたしゃ誓って申しますよ、昼間も晩も、だれひとりここへはいりゃしませんよ。あたしゃいちども門からはなれなかったんですからね」
ひとりの男が答えた。
「それでもあの部屋に明りが見える」
二人には、それがすぐジャヴェルの声だとわかった。
その部屋は扉をひらくと、それで右手の壁のすみがかくれるようになっていた。ジャン・ヴァルジャンは手燭の火をふき消し、そのすみにはいった。
サンプリス修道女はテーブルのそばにひざまずいた。
扉はひらかれた。
ジャヴェルがはいってきた。
数人の者のささやく声と、門番の婆さんのいいはる声とが廊下にきこえた。
修道女は眼をあげなかった。彼女は祈っていた。
明りは煖炉の上にあって、ごくあわい光りをなげていた。
ジャヴェルは修道女を見て、ぼうぜんと立ちどまった。
ジャヴェルの本質、彼の元素、彼の呼吸の中心、それはあらゆる権威に対する尊敬であった。もちろん彼にとっては、宗教上の権威がすべての権威の上にあった。彼はこの点についても、ほかのあらゆることと同じように、厳格で皮相的で正確だった。彼の眼には、司祭は誤りをすることのない者であり、修道女は罪を犯すことのない者だった。
修道女を見て、彼のだいいちの動作はひきさがろうとすることだった。
けれど、彼をとらえ、彼を反対の方向にがんとして押しすすめるひとつの義務があった。彼の第二の動作は、そこに立ちどまり、すくなくともひとつの問いをかけてみることだった。
しかも相手は生涯いちども嘘《うそ》をいったことのないサンプリス修道女だった。ジャン・ヴァルジャンはそれを知っていた。そして彼女を尊敬していたのは、とくにそのためだったのである。
「童貞さん」と彼はいった。「この部屋には、あなたひとりですか?」
恐ろしい一瞬だった。あわれな門番の婆さんは気が遠くなるような心地がした。
修道女は眼をあげて答えた。
「はい」
「だが」とジャヴェルはいった。「しつっこくおたずねするのをお許しください、わたしの義務ですから。あなたは今晩、誰かひとりの男をみかけませんでしたか。その男が逃走したので、さがしているところです。あのジャン・ヴァルジャンという男です。その男をみかけませんでしたか?」
修道女は答えた。
「いいえ」
彼女は嘘《うそ》をいった。しかもつづいて、少しもためらわず、即座に、献身的に、つづけて二度も嘘をいった。
「失礼しました」とジャヴェルはいって、ていねいにお辞儀をしてひきさがっていった。
おお、聖《きよ》き貞女よ! あなたはすでに長いあいだこの世の人ではなかった。あなたはあなたの光明の世界で、あなたの姉妹の貞女たちや、あなたの兄弟の天使たちとともにいたのだ。その嘘もあなたのために天国でかぞえられんことを!
サンプリス修道女の確答は、ジャヴェルにとっては決定的なものであり、彼はふき消されたばかりの、テーブルの上でまだ煙っていた手燭《てしょく》の怪しさにも気をとめなかった。
それから一時間ほど過ぎてから、ひとりの男が木立と靄《もや》のあいだをぬってパリのほうにむかって、モントルイユ・シュル・メールからいそいで遠ざかっていった。彼に出会った二、三人の荷車屋の証言によって、彼はひとつの包みをもち、身には作業衣をまとっていたことが立証された。どこで彼はその作業衣を手に入れたか? 誰にも知られていなかった。ところで数日前、町の工場の病室でひとりの老職工が死んだが、残ってたものといえば作業衣だけだった。彼が着ていたのは、たぶんそれだろう。
最後にファンティーヌのことについて、一言しておこう。
われわれ人間はみなひとりの母親をもっている、大地を。ファンティーヌはその母親にかえされた。彼女はすべてのひとのものであり、誰のものでもない墓地、貧しい人々の消えてゆく無料の墓地の一隅《いちぐう》に埋められた。たださいわいにも、神はその魂がいずくにあるかを知りたもうている。
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第二部 コゼット
第一章 ワーテルロー
一
一八一五年六月の十七日から十八日にかけての夜に、雨が降らなかったならば、ヨーロッパの未来は今とちがっていたであろう。数滴の水の増減が、ナポレオンの運命を左右した。ワーテルローをしてアウステリッツの勝利の結末たらしめるためには、天はすこしの雨を降らせるだけでよかった。空を横ぎる、時ならぬ一片の雲は、世界をくつがえすにじゅうぶんであった。
ワーテルローの戦いはようやく十一時半にしか始まらなかった。それはブリュッヘルの戦場にかけつけるだけの時間をあたえたのである。なぜ十一時半にしかはじまらなかったか、それは土地がしめっていたからだ。砲兵が動き出すために、土地が少しかたまるのを待たなければならなかったのである。
ナポレオンはかつて砲兵将校だった。この非凡な将軍の根本は、実に執政《しっせい》内閣に対するアブーギル戦の報告中に「わが砲弾のあるものは敵兵六人を倒せり」といわしめたあの性格であった。彼のあらゆる戦略は砲弾のためにたてられていた。ある特点に砲兵を集中させることに、彼の勝利の鍵があった。彼は敵将の戦略をまるでひとつの要塞《ようさい》のようにあつかい、そのすきまをねらって攻撃した。霰弾《さんだん》をもって敵の弱点を圧倒し、大砲をもって戦機を処理した。彼の天才のうちには、射撃法があった。方陣を突破し、連隊を粉砕《ふんさい》し、戦線をやぶり、集団をつきくずし散乱せしめることは、すべて彼にとってはただ間断なく撃ちに撃つことだった。そして彼はその仕事を砲弾にまかせた。それは恐るべき方法であり、それが天才とむすびついて、この不思議な戦いの闘士をして十五カ年間天下に無敵たらしめたのである。
一八一五年六月十八日、彼は砲数の優位をたもっていただけに、なおさら砲兵をたのみにしていた。ウェリントンが百五十九門の火砲しかもたなかったのに対して、ナポレオンは二百四十門をもっていたのである。
かりに土地がかわいていたとしてみよ。砲兵は動くことができて、戦いは朝の六時に始まっていただろう。そして午後二時には彼の勝利に帰して終りをつげ、プロシャ軍をして戦局を変転せしめるまでには三時間をあましていただろう。
その敗北についてはナポレオンのほうにどれほどの落度があっただろうか? 難破の責《せめ》はその水先案内者に帰せられるべきであろうか?
明らかにナポレオンの身体は衰弱していたが、それとともに当時多少とも精神力の減退《げんたい》をきたしていたのだろうか? 戦役の二十年間は剣の鞘《さや》とともにその刀身をもそこない、身体とともに精神をもそこなっていたのだろうか。思想上の天才に対しては、老年も彼らに力をふるうことはできず、ダンテやミケランジェロのような人々にとっては、老いることはすなわち成長することであるのに、ハンニバルやボナパルトのような人々にとっては、老いとは萎縮《いしゅく》することなのだろうか。ナポレオンは勝利に対する直接的知覚をうしなったのだろうか。彼はもはや、暗礁を見わけることも、わなを察知することも、くずれかかっている深淵の岸を見破ることもできないまでにいたったのだろうか。彼は四十六才にしてすでに最期《さいご》の狂乱にとらわれていたのだろうか。運命の巨大なその馭者も、もはや図体ばかり大きな猪突者《ちょとつしゃ》にすぎなくなっていたのだろうか?
われわれはそうは考えない。
この戦争についての彼の作戦が傑出《けっしゅつ》したものであったことは、万人のみとめるところである。同盟軍の中央をただちに突き、敵軍中に穴をあけ、それを両断し、その一方のイギリス軍をハル方面にしりぞけ、他方のプロシャ軍をトングル方面にしりぞけ、ウェリントンとブリュッヘルとを二個の破片となし、モン・サン・ジャンをうばい、ブラッセルを占領し、ドイツ軍をライン河に圧迫し、イギリス軍を海中に追い落さんとしたのである。
二
ワーテルローの戦いのはっきりした模様をとらえようと思うなら、地上に横たえたAの大文字を想像すればそれでたりる。Aの左の足はニヴェルの道であり、右の足はジュナップの道であり、両方をつなぐ横の棒はオーアンからブレーヌ・ラルーへの落ちくぼんだ道である。Aの頂《いただき》はモン・サン・ジャンで、そこにウェリントンがいる。左下のはしはウーゴモンで、そこにジェローム・ボナパルトとともにレイユがいる。右下のはしはラ・ベル・アリアンスで、そこにナポレオンがいる。Aの横棒が右の足と交叉《こうさ》している点の少し下がラ・エ・サントである。横棒の中央が、ちょうど勝敗の決した要点である。あの獅子《しし》の像がたてられたのはそこであり、それは期せずして近衛師団のもっとも立派な勇武の象徴となった。
Aの上方に二本の足と横棒との間にかこまれた三角形は、モン・サン・ジャンの高地である。その高地の争奪が戦いの全局であった。
両軍の両翼は、ジュナップの道とニヴェルの道との左右にのびている。そしてエルロンはピクトンに対峙《たいじ》し、レイユはヒルに対峙していた。
Aの頂点のうしろ、すなわちモン・サン・ジャンの高地の背後に、ソワーニュの森がある。
戦場そのものについては、起伏したひろい地面であると想像すればよい。ひとつの高みからつぎの高みが見られ、そしてその起伏はしだいにモン・サン・ジャンのほうへ高まってゆき、そこで森に達している。
戦地に相敵対した二個の軍隊は、二人の闘士である。それはひとつの取っくみ合いである。たがいに相手を投げだそうとする。彼らはなにものにでもしがみつく。茂みもひとつの足場であり、壁の一角も拠点となる。拠《よ》るべき一軒の破屋《あばらや》がないためにも、一個連隊が遁走《とんそう》する。平地のくぼみ、地勢の変化、好都合な横道、森、低い谷なども、軍隊とよばれるその巨人の足をとめ、退却をはばむことができる。戦場より出る者は敗者である。そのため、責任を帯びた司令官にとっては、わずかな木の茂みをもしらべ、少しの土地の高低をも研究する必要がある。
両将軍は、今日《こんにち》ワーテルロー平原とよばれるそのモン・サン・ジャン平原を、細心に研究しておいた。すでにその前年よりウェリントンは、あらかじめある大戦の準備としてそこをしらべておくだけの先見の明をもっていた。はたして六月十八日、その土地においての決戦にあたって、ウェリントンは有利な地位をしめ、ナポレオンは不利な地位にたった。イギリス軍は上手《かみて》に、フランス軍は下手《しもて》にあった。
この戦いの最初の局面はひろく知られているところである。両軍ともその発端《ほったん》は、不安な不確実なもので、ためらいと恐れをいだかしめるものだった。しかしフランス軍のほうよりもイギリス軍のほうがなおさらそうであった。
雨は終夜降りつづけた。地面はそのどしゃ降りにこねかえされていた。水は鉢にたまったように、平原のくぼ地のここかしこにたまっていた。あるところでは輜重車《しちょうしゃ》は車輌まで泥水につかった。馬の腹帯は泥水をしたたらしていた。もし密集した輜重車の雑踏のため、まきちらされた小麦や裸《はだか》麦が、わだちを埋めて車輪の下敷にならなかったなら、いっさいの運動は、ことにパプロットの方面の谷間のなかの運動は不可能だったろう。
戦いははじまるのがおそかった。前に説明したとおり、ナポレオンはその全砲兵を拳銃のように手中ににぎり、戦地のここかしこと狙《ねら》いをさだめるのをつねとしていたので、馬に引かれた砲兵隊が自由に動きまわり、駈けまわりうるまで待つことにしたのである。それには太陽がのぼって地面をかわかさねばならなかった。しかし太陽の出るのはおそかった。こんどはアウステリッツのようにすぐにはゆかなかった。最初の大砲の一発がひびいたとき、イギリスの将軍コルヴィルは時計をながめて、十一時三十分であることをたしかめた。
戦闘は猛烈にはじまった。おそらく皇帝がのぞんだより以上猛烈に、ウーゴモンに対するフランス軍の左翼によって開始された。同時にナポレオンは、ラ・エ・サントにむかってフランス軍の右翼を突進させた。
ウーゴモンに対する攻撃は多少|擬装《ぎそう》だった。ウェリントンをそこに引きつけて左翼を牽制《けんせい》しようとするのが、その計画だった。もしイギリスの近衛の四個中隊と勇敢なベルギーのペルポンシェル師団とが頑強《がんきょう》に陣地を維持しえなかったなら、その計画は成功していただろう。が、ウェリントンはそこへ味方を集めずに、全援兵としてただ近衛の他の四個中隊とブルンスウィックの一隊とだけをさしむけるにとどめておくことができた。
パプロットに対するフランス軍右翼の攻撃は徹底的だった。イギリス軍の左翼を敗走せしめ、ブラッセルからの道をたちきり、あるいはきたるべきプロシャ軍の通路をさえぎり、モン・サン・ジャンを強奪《ごうだつ》し、ウェリントンをウーゴモン方面にしりぞけ、ついでそれよりブレーヌ・ラルー方面にしりぞけ、さらにハル方面に追うこと、それはもっとも確実なことだった。ただ二、三の事故をのぞいては、その攻撃は成功した。パプロットは占領され、ラ・エ・サントは奪取された。
ここに特記すべき一事がある。イギリスの歩兵のうちには、とくにケンプトの旅団のうちには多くの新兵がいた。それらの若い兵士たちは、フランスの恐るべき歩兵に対してきわめて勇敢であった。彼らは無経験のため、かえって大胆《だいたん》にやってのけた。ことにみごとな散兵戦を行った。散兵戦における兵士は、多少各自開放されて、いわば自分がそれぞれ指揮官となるものである。それらの新兵は、フランス兵に似かよったある巧妙さと、勇猛《ゆうもう》さとを現わした。その未熟な歩兵には活気があった。
ラ・エ・サントの占領後、戦いは混乱をきたした。
その日の戦闘は、正午から四時までの間、まったくつかみどころのない局面がつづいた。戦いの中心はほとんど不明で、混戦の雲霧《うんむ》に包まれていた。たそがれの色さえくわわった。うち見れば、その靄《もや》のなかには広漠《こうばく》たるうねりがあり、まばゆいばかりの幻影があり、今日《こんにち》ほとんど知られていない当時の軍装があって、焔《ほのお》のようなまっ赤な毛帽、ゆらめく腰の革帯のかざり、擲弾用《てきだんよう》の筒、軽騎兵の外套《がいとう》、多くのひだのある赤い長靴、金モールでかざった重々しい軍帽、緋色《ひいろ》のイギリス歩兵、銅の帯金と赤い飾毛とのついたながめの革の兜《かぶと》をかぶってるハンノーヴァーの軽騎兵、ひざをあらわにしたチェックの外套を着てるスコットランド兵、フランス擲弾兵の大きな白いゲートル、それは実に戦いのための戦線ではなくて、絵巻のなかの光景だった。
多少の暴風雨的混乱はつねに戦いにつきものである。──ある暗澹《あんたん》たるもの、ある天意的なるもの──各歴史家はそれらの混戦のうちに勝手な筋道《すじみち》をたてる。しかし将軍たちの策略のいかんにかかわらず、むらがりたつ軍勢の衝突ははかるべからざる反撥《はんぱつ》を起すものである。実戦においては、両指揮官の二つの計画はたがいに交叉《こうさ》し、またたがいにさまたげる。戦場のある地点はある他の地点より多くの兵士をのみつくす、あたかも、多少ともやわらかい地面はそこにそそがれる水をまた多少ともはやく吸いとるように。そういう場所には予期以上の多数の兵士をそそがなければならない。意外な損失をきたす。戦線は糸のように浮動し、曲折《きょくせつ》し、血潮の河は盲目的にながれ、前線は波動し、出入りする連隊はあるいは岬をなし、あるいは入江をなし、その暗礁はたがいに先へ先へと移動し、歩兵がいた所には砲兵が到着し、砲兵がいたところには騎兵が馳《は》せつけ、あらゆる隊伍は煙のごときものと化す。
三
四時頃には、イギリス軍は危険な状態にあった。オレンジ大侯は中央を指揮し、ヒルは右翼を、ピクトンは左を指揮していた。大胆不敵なオレンジ大侯はオランダ・ベルギーの連合軍にむかって叫んでいた。「ナッソー! ブルンスウィック! 断じて退《ひ》くな!」ヒルは弱ってウェリントンのほうへよりかかってきた。ピクトンは戦死した。イギリス軍がフランス軍の第百五連隊の軍旗を奪ったと同時に、イギリス軍のピクトン将軍は弾丸に頭をつらぬかれて戦死をとげたのだった。ウェリントンにとっては、戦は二つの支持点をもっていた。すなわち、ウーゴモンと、ラ・エ・サントと。しかし、ウーゴモンはなお支えてはいたが焼かれており、ラ・エ・サントはすでに奪われていた。そこを防いでいたドイツの一隊は、生き残った者はわずかに四十二人で、将校にいたっては五人をのぞいて、みな戦死し、あるいは捕虜になっていた。その農家のうちだけで三千の兵士が殺された。イギリス一流の拳闘家で無敵といわれていた近衛の一軍曹も、そこであるフランスの少年|鼓手《こしゅ》のために殺されていた。ベーリングは撃退され、アルテンはきりはらわれた。数多くの軍旗はうしなわれていた。そのうちには、アルテン師団のものもあり、ドゥ・ポン家のある大侯がささげていたルネブールグ隊のものもあった。灰色のスコットランド兵も、もはや残ってはいなかった。ポンソンビーの重竜騎兵も潰滅《かいめつ》していた。その勇敢な竜騎兵は、ブローの槍騎兵《そうきへい》とトラヴェールの胸甲騎兵《きょうこうきへい》とのために敗走させられたのだった。その千二百騎のうち残ったものは六百で、ハミルトンは負傷し、メーターは戦死して、三人の中佐のうち二人もうち落されたのだった。ポンソンビーも七つの槍でえぐられてたおれた。ゴードンもマーシュも戦死していた。第五と第六との両師団は粉砕されていた。
ウーゴモンは危倹にさらされ、ラ・エ・サントはすでに奪われ、いまはただ中央の拠点《きょてん》が残っているのみだった。その拠点はなお支持されていて、ウェリントンはそこに兵員を増加した。彼はそこに、メルブ・ブレーヌにいたヒルをよび、ブレーヌ・ラルーにいたシャッセをよびよせた。
イギリス軍のその中央は、少し中くぼみの形になっていて、兵員は密集し、強固に陣をかためていた。それはモン・サン・ジャンの高地をしめていて、背後には村落をひかえ、前には当時かなりけわしかった斜面をもっていた。そして堅固な石造の家屋を背にしていた。その建物は当時ニヴェルの領有で、道路の交叉点のしるしになっており、十六世紀式の建築で、砲弾もそれに対しては、ただはね返るだけで破壊することができなかったほど頑丈にできていた。高地のまわりには、イギリス軍はここかしこに生垣を倒し、さんざしのあいだに砲眼をこしらえ、木の枝のあいだに砲口をさしいれ、いばらのなかに銃眼をあけていた。その砲兵は茂みの下にひそめられていた。その策略は、もちろんどんな|わな《ヽヽ》さえも許す戦争においてはとがめられるべきものではないが、いかにも巧妙に行われていたので、敵の砲座を偵察するため午前九時に皇帝からさしむけられたアクソーも全く気づかず、立ちかえってナポレオンに報告したところでは、ただ、ニヴェル及びジュナップからゆく両道をさえぎっている二つの防塞《ぼうさい》のほかには、なんらの障害もないというのだった。ちょうど畑の作物がたかくのびている時期で、高地の縁《ふち》には、ケンプト旅団の一隊、第九十五連隊が、カービン銃をかまえて、たかい麦のあいだに伏しているのだった。
そのように安全、かつ守りを固くしたイギリス・オランダ軍の中央は好適な地位に置かれていた。
その陣地の危険な点は、ただソワーニュの森で、それは当時戦場に接していて、グレナンデルとポワフォールとの二つの池でしきられていた。そこに退くとすれば、隊形は乱れるにちがいなかった。連隊はただちに分散をきたすにちがいなかった。砲兵は沼のなかに進退をうしなうにちがいない。
ウェリントンは、シャッセの一個旅団を右翼からぬき、ウィンケの一個旅団を左翼から抜き、それを中央に加え、つぎにクリントンの師団をも加えた。そしてそれらの手中のイギリス軍、ハルケットの数個連隊、ミッチェルの旅団、メートランドの近衛軍、などの主力になお支持隊として、ブルンスウィックの歩兵、ナッソーの徴集兵《ちょうしゅうへい》、キエルマンゼーゲのハンノーヴァー兵、およびオンプテーダのドイツ兵などを加えた。それで彼は二十六個大隊をひきいることになった。シャラスがいったように、右翼は中央の背後にたてなおされた。砲兵の大部隊は、今日《こんにち》いわゆる「ワーテルローの博物館」がある場所に、土嚢《どのう》でかくされていた。ウェリントンはなおその上、サマセットの近衛竜騎兵千四百騎をあるくぼ地にもっていた。それは世の定評にはじない勇敢なイギリス騎兵の半分だった。ポンソンビーは粉砕されたが、サマセットは残っていたのである。
ウェリントンは不安ではあったが、なお平然として馬にまたがり、モン・サン・ジャンの古い風車小屋の少し前方、|にれ《ヽヽ》の木の下に、終日おなじ姿勢で立っていた。──その風車小屋は今もなお残っているが──ウェリントンはそこに、冷然たる勇気をもって立ちつくしていた。砲弾は雨と降ってきた。副官のゴルドンは彼のそばで倒れた。ヒル卿《きょう》は破裂する榴弾《りゅうだん》をさしながらいった。
「閣下、閣下のご指図はなんでありますか。もし戦死される場合にはあとにいかなる命令を残されますか?」
「私の通りにせよということだ」とウェリントンは答えた。彼はまたクリントンに簡単にいった。
「最後のひとりまでここにふみとどまれ」
戦いは明らかに不利になってきた。ウェリントンはタラヴェラやヴィットーリアやサラマンクなどのむかしの戦友たる部下に叫んでいた。
「諸君よ、退却など考えられようか。古き国イギリスを考えてみよ!」
四時頃、イギリスの戦線は後方に動きだした。と突然、高地の頂《いただき》には砲兵と狙撃兵とのほか、なにも見えなくなった。その他のものは姿を消した。全連隊は、フランスの榴弾《りゅうだん》と砲弾とに追われて、後方深くしりぞくようにみえたのだった。
四
皇帝は病気にかかっていて、馬上で局所に苦痛を感じて困難ではあったが、かつてその日ほど上機嫌《じょうきげん》なことはなかった。心情を表にあらわすことのないその顔つきも、朝から微笑をたたえていた。彼は前哨《ぜんしょう》の全線を見まわって、あちこちに立ちどまっては騎哨《きしょう》に言葉をかけた。二時半にはウーゴモンの森の近くに、彼は一縦隊の行進する足音をきいた。一時、彼はそれをウェリントンの退却であると思った。彼はベルトランにいった。
「あれは撤退するイギリス軍の後衛だ、オステンドに到着した六千のイギリス兵をわしは捕虜にしてみせよう」
彼は雄弁な口をきいた。三月一日上陸のとき、ジュアン湾の熱狂している農夫を元帥にさし示しながら、「おいベルトラン、すでにかしこに援兵がいる」と叫んだときのような活気を彼はふたたび示した。そしていま六月十七日から十八日にかけた夜、彼はウェリントンをあざけチていた。「小癪《こしゃく》なイギリス人に少し思い知らせてやろう」とナポレオンはいった。雨ははげしくなり、皇帝が語ってるあいだ雷鳴がとどろいていた。
午前三時半に、彼のひとつの空想はうしなわれた。偵察にさしむけられた将校たちは、敵がなんらの運動もしていないことを報告した。なにものも動いてはいなかった。陣営のひとつのかがり火も消されてはいなかった。イギリスの軍隊は眠っていた。地上はしんと静まりかえって、ただ空だけが荒れていた。四時に、ひとりの農夫が斥候《せっこう》騎兵によって彼のところへつれてこられた。その農夫は、イギリスのある騎兵旅団が、たぶんヴィヴァイアンの旅団であろうが、最左翼としてオーアンの村に陣地をうつしにゆく案内者となった、ということだった。五時には、二人のベルギーの脱走兵が来て彼につげたところでは、イギリス軍は会戦をまちうけているということだった。ナポレオンは叫んだ。
「ますますよい。わしはあいつらをしりぞけるよりも、打ちやぶってやりたいのだ」
ナポレオンとウェリントンとの会戦の場所であるさまざまな勾配《こうばい》をなした平地の起伏は、一八一五年六月十八日と今日とは大いにその有様を異《こと》にしている。その災厄の場所から、すべて記念となるものを人々は奪い去ってしまって、実際の形態はそこなわれたのである。そしてその歴史も面目をうしなって、もはやそこに痕跡《こんせき》をみとめがたくなっている。二年後にウェリントンはふたたびワーテルローを見て叫んだ。「私の戦場は形がかえられてしまった」と。
今日獅子の像の立っている大きな盛土《もりつち》のある場所には、その当時ひとつの丘があって、ニヴェルの道のほうへはのぼれるくらいの傾斜で低くなっていたが、ジュナップの道のほうではほとんど断崖《だんがい》をなしていた。その断崖の高さは、ジュナップからブラッセルへゆく道をはさんでいる二つの大きな墓のたった丘の高さによって、今日なおはかることができる。事実戦いの当時はその丘は、ことにラ・エ・サントの方面では、きわめてけわしく、のぼるに困難だった。その勾配はそこでは非常に急だったので、イギリスの砲兵隊は下のほうに、戦闘の中心地である谷間の底にある百姓家を見ることができないほどだった。一八一五年六月十八日には、雨のためにそのけわしさはいっそう増し、どろんこのためにそれをのぼることはいっそう困難になり、単によじのぼるばかりでなく、泥のなかに足をとられなければならなかった。高地の上にそって、遠くから見たのでは気づかれない一種の溝《みぞ》が走っていた。
その溝はいったいなんであったか? ブレーヌ・ラルーはベルギーのひとつの村であり、オーアンもやはりそのひとつの村である。そして二つとも土地の起伏のあいだにかくれ、約一里半ばかりの道で相通じている。その道は高低不規則な平原を横ぎっていて、しばしばうね溝のようになって丘のあいだをつきぬけているので、ところどころで峡谷《きょうこく》をなしている。一八一五年にも今日と同じく、その道はジュナップの街道とニヴェルの街道とのあいだで、モン・サン・ジャンの高地の上をつらぬいていた。その道は、今日でもそうであるが、昔も大部分は塹壕《ざんごう》の形をしていた。それも時としては約十二フィートもあろうというほど深い塹壕で、そのあまり急な斜面の土はどしゃぶりの雨のために、ところどころくずれ落ち、ことに冬にはそれがはなはだしかった。戦いの日、モン・サン・ジャンの高地の縁にあっては、断崖の上にある溝となり、地面のなかにかくされた|わだち《ヽヽヽ》となったそのくぼ道は、誰の眼にもきづかれなかったのである。
五
さてワーテルローの朝、ナポレオンは満足であった。
それも当然だった。彼によってたてられた作戦計画は、前にのべたとおり、実際驚嘆すべきものだった。
いちど戦端がひらかれるや、いろいろな変転がナポレオンの眼前に起った。ウーゴモンの抵抗。ラ・エ・サントの頑強。ボーデュアンの戦死。戦闘力をうしなったフォア。ソアイの旅団が粉砕された意外な城壁。爆発管も火薬|嚢《のう》も用意していなかったギーユミノーの不運な軽卒《けいそつ》。砲兵隊が泥ぬまに足をとられたこと。護衛のない十五門の砲があるくぼ道でアクスブリッジのために転覆《てんぷく》されたこと。イギリス戦線に落下した破裂弾も、雨のためにしめった土のなかにはいりこんで泥を爆発させ、泥をはねとばすばかりで効果の少なかったこと。ブレーヌ・ラルー方面のピレーの威嚇《いかく》運動が無効におわったこと。十五個中隊の騎兵のほとんど全部が損失したこと。イギリス軍の右翼の動揺も少なく、左翼もあまり破れなかったこと。第一軍団の四個師団を梯形《ていけい》隊にせずに密集させたネーの意外なまちがい。そのために正面二百人あての二十七列の深さの密集部隊が霰弾《さんだん》をあびせられたこと。その集団のなかに恐るべき穴が砲弾によってあけられたこと。襲撃縦隊の隊伍《たいご》のととのわなかったこと。その側面に突然あらわれた横射砲兵隊。危地におちいったブールジョワとドンズローとデュリュット。撃退されたサオー。高等理工科学校出の猛者《もさ》ヴィユー中尉が、ラ・エ・サントの門を斧《おの》で打ち破ったときに、ジュナップからブラッセルへゆく道の曲り角《かど》をさえぎっているイギリス軍のバリケードから発した俯瞰銃火《ふかんじゅうか》のために負傷したこと。グルーシーの遅延。ウーゴモンの果樹園のなかで一時間たらずのうちに殺された千五百人の味方の兵士。なおそれより短時間のうちに、ラ・エ・サント付近でたおれた千八百人の兵士。それらのはげしい変転は戦陣の雲霧《うんむ》のようにナポレオンの眼前に過ぎ去ったが、ほとんど彼の眼をみだすことなく、その泰然自若《たいぜんじじゃく》としたおごそかな顔をすこしもくもらせなかった。
ナポレオンは戦闘を凝視《ぎょうし》することになれていた。彼は局部の悲痛な出来事をいちいち加算しはしなかった。個々の数字は、その総計たる勝利をあたえさえするなら、それほど重大なことではなかった。その初戦がどんなに錯乱《さくらん》しようとも、彼はそれにおどろきはしなかった。すべては自分の手中にあり、終局は自分のものである、と彼は信じていたのである。彼はすべてに超然たる自信をもっていて、機を待つことを知っていた。そして天運と自己とを同地点に置いていた。彼は運命にむかっていうかのようだった。「汝の勝手にはならぬぞ」
なかば光りと影とのうちにあってナポレオンは、幸運のうちに保護され災厄《さいやく》をまぬがれているように感じていた。あらゆる事件も自分には不利をもたらさないということ、あるいはむしろ自分に加担《かたん》してくれるということを、彼は知っていた、少なくとも知っていると信じていた。
しかし、過去にペレジナ、ライプチヒ、及びフォンテンブローなどのことをへてきた以上は、ワーテルローとても安心はできないはずであった。ひとつの人知れないしかめっ面が、天の奥に見えていた。
ウェリントンが退却し出したとき、ナポレオンはおどりあがった。彼は突然、モン・サン・ジャンの高地が引きはらわれ、イギリス軍の正面が姿を消したのをみとめた。その敵軍はふたたび集合したのではあるが、とにかく姿をかくしたのだった。皇帝はなかばあぶみの上に立りあがった。勝利の輝きがその眼にひらめいた。
ウェリントンがソワーニュの森に圧迫され、破られる。それはイギリスがフランスのためにとどめをさされることだった。クレシー、ポワティエ、マルプラケ、ラミリーなどの敗戦の復讐がなされることだった。マレンゴーの勇士(ナポレオン)がアザンクールの恥をそそぐことであった。
皇帝はそのとき、恐ろしいその変転を考えながら最後にいまいちど双眼鏡をもって戦場の四方を見まわした。うしろには銃をたてた近衛兵の一隊が、敬虔《けいけん》な眼つきで下から彼をあおぎ見ていた。彼は考えていた。傾斜をしらべ、坂を注意し、木の茂みや、麦畑や、小路などをよく観測し、またいちいち藪までもかぞえているらしかった。二つの大道のイギリス軍のバリケードを、二つの大きな鹿砦《ろくさい》を、彼はことにじっとながめた。ひとつはラ・エ・サントの上にジュナップからゆく道にあるバリケードで、イギリスの全砲兵中から残って戦場の底を俯瞰《ふかん》してる二門の大砲で守られていた。もうひとつはニヴェルからゆく道にあるバリケードで、シャッセ旅団のオランダ兵の銃剣がひらめいていた。彼はそのバリケードの近くに、ブレーヌ・ラルーのほうへゆく横道の角《かど》にある白ぬりの聖ニコラのふるい礼拝堂をみとめた。彼は身をかがめて、案内者ラコストに小声で話しかけた。案内者は頭を横にふった。
皇帝はまた身を起して考えこんだ。
ウェリントンは退却したのである。もはやその退却を潰滅《かいめつ》に終らせるだけの問題だった。
ナポレオンはにわかにふりむいて、戦勝の報告をさせるためパリヘの急使を全速力でつかわした。
ナポレオンは雷電をも発しうる天才のひとりだった。
彼はいまやその雷電の一撃を見いだした。
彼はモン・サン・ジャンの高地を奪取することを、ミローの胸甲《きょうこう》騎兵に命じた。
胸甲騎兵の数は三千五百、四分の一里の前面にひろがり、偉大な馬にまたがった巨人たちの軍隊であった。中隊にして二十六個、そして後方には掩護《えんご》として、ルフェーヴル・デヌエットの師団、精鋭な憲兵百六人、近衛軽騎兵千百九十七人、及び近衛槍騎兵八百八十人がひかえていた。彼らは装毛のない兜《かぶと》をかぶり、錬鉄の胸甲をつけ、革袋にはいった鞍馬用ピストルと長剣をつけていた。
やがて副官ベルナールは彼らに皇帝の命令をつたえた。ネーは剣をぬいて先頭に立った。偉大な騎兵隊は動き出した。
恐るべき光景があらわれた。
それらの騎兵は、剣を高くあげ、軍旗を風にひるがえし、ラッパを吹きならし、師団ごとに縦列をつくり、ただひとりのように同一の運動のもとに整然として、城壁をつき破る青銅の槌《つち》のように、まっしぐらにラ・ベル・アリアンスの丘を駈《か》けおり、すでに多くの兵士がたおれている恐るべきくぼ地にとびこみ、戦雲のうちに姿を消したが、ふたたびその影から出て、谷間のむこうにあらわれ、つねに密集して、頭上に破裂する霰弾《さんだん》の雲をついて、モン・サン・ジャンの高地の恐ろしい泥ぬまの坂をかけのぼっていった。猛烈に、堂々と、びくともせずに駈《か》けのぼっていった。小銃の音、大砲のひびきのあい間《ま》にその巨大な馬蹄《ばてい》のひびきがきかれた。二個師団で二個の縦列をなしていた。ヴァティエの師団は右に、ドロールの師団は左に。遠くからながめると、まるで高地の頂上へ巨大な二個の鋼鉄の毒蛇がはいあがってゆくようであった。それはあたかも神の異変のごとく戦場を横断していった。
一方、不思議にも同数であった、二十六個大隊のイギリス兵が、それらのフランス二十六個騎兵中隊をむかえ撃たんとしていた。高地の頂のうしろに、覆いをかけた砲座のかげに、イギリス歩兵は二個大隊ずつ十三の方陣をつくり、第一線に七個方陣、第二線に六個方陣をそなえて二線に陣をたて、まさにきたらんとするものを狙《ねら》い撃ちにしようと、しずかに鳴りをひそめて身動きもしないで待ちうけていた。彼らには胸甲騎兵の姿が見えず、胸甲騎兵にも彼らの姿が見えなかった。彼らはただ人馬の潮《うしお》の駈《か》けあがってくるひびきに耳をすましていた。その三千騎の、しだいに高まるひびきを、大速歩の馬の交互に調子のとれたひずめの音を、剣のひびきを、そして一種のあらあらしい大きな息吹《いぶき》の音をきいた。恐るべき一瞬の静寂がくると、つぎに忽然《こつぜん》として、剣を高くふりかざし、腕の長い一列が高地の頂にあらわれ、ラッパと兜《かぶと》と軍旗と、それから灰色のひげをはやした三千の頭が「皇帝ばんざい!」を叫びながらあらわれた。すべてそれらの騎兵はいまや高地の上に出現し、まるで地震がおそいきたったかのようだった。
と突然、悲壮な光景が展開した。イギリス軍の左方、フランス軍のほうからいえば右方にあたって、胸甲騎兵の縦列の先頭が恐ろしい叫びをあげて立ちあがった。方陣をも大砲をも一蹴《いっしゅう》しようとする狂猛と疾駆《しっく》とにかられ熱狂して高地の頂点に達した胸甲騎兵は、彼らイギリス兵とのあいだにひとつの溝を、ひとつの墓穴を見出したのである。それはオーアンからの凹路だった。
それこそ恐怖すべき瞬間だった。割れ目が、意外にも馬の足下に断崖をなし、両断崖のあいだに四メートルばかりの深さをなし、口をひらいてそこに待ちうけていた。そのなかに第二列は第一列を突き落し、第三列は第二列を突き落した。馬は立ちあがり、後方におどり、仰向けに倒れ、空中に四脚をはねまわし、騎兵をふり落し、おし潰《つぶ》した。もはや退却の方法はない。全縦隊はすでに発射された弾丸に等しかった。イギリス軍を粉砕するための力は、かえってフランス軍を粉砕した。苛酷な凹路は満たされるまではのみくだしてやまない。人馬もろともそこに転げこんで、たがいに圧殺しながらその深淵のうちに一塊の肉片と化してしまった。そしてその墓穴が生きた人間でみたされたとき、その上をふみ越えて他の者が通りすぎた。デュボワの旅団のほとんど三分の一はその深淵のなかに落ちてしまった。
それが敗戦のはじまりだった。
土地のいいつたえによれば、もちろん誇張されてはいようが、二千の馬と千五百の人とがオーアンの凹路に埋められたという。その数にはもとより、戦闘の翌日そこに投げこまれた他の死骸《しがい》のすべてが算入されていよう。
ついでに一言しておくが、一時間以前に単独攻撃をしながらルネブールグ隊の軍旗を奪ったのは、かくも痛ましい目にあったデュボワの旅団だった。
ナポレオンはミローの胸甲騎兵にその襲撃を行わせる前に、その土地をよく観測した。しかし凹路をみとめることができなかった。それは高地の表面にひとすじのしわさえ見せていなかったのである。だが、ニヴェルの街道との交叉点をしめしている小さな白い礼拝堂から気がついて注意をよびおこされ、彼は案内人のラコストに、おそらく障害物の有無についてであろう、なにかききただした。案内人は否《いな》と答えたのである。ひとりの百姓の頭のひとふりからナポレオンの破滅は生じきたったともいえるだろう。
その他の災《わざわい》がなおつづいて起ることになった。
しかし、もし、以上のような悲惨な錯誤《さくご》がなかったとして、ナポレオンは勝利をうることが可能であっただろうか? 私は否と答える。なぜに? 敵がウェリントンであったがためか、またはブリュッヘルであったがためか? 否、それは実に神の意《こころ》だったからである。
ボナパルトがワーテルローの勝利者となる、それはもはや十九世紀の原則に合っていなかった。ナポレオンがもはや地位をしめることのできない他の多くの事実が生じかかっていた。ナポレオンには不幸な世運の意志がすでにずっと以前に宣告されていた。
この巨人の倒れるべき時機は来ていた。
人類の運命のうちにおけるこのひとりの過度の重さは、つりあいを乱していた。この個人は自分ひとりで、天下の衆人よりもいっそうの重みをなしていた。ただ一個人の頭のなかに過剰に集中された人類の全活力、ひとりの頭脳に集められた全世界、もしそれが持続したならば、文化の破滅をきたしたであろう。いまや、みだすべからざる最高の公明は、考慮しなければならない時機にたちいたっていた。物質上の秩序におけると同じように、精神上の秩序においても規定の重力関係があって、その関係の基礎となるべき原則、および要素は、おそらく不満の声をあげていただろう。煙る血潮、みちあふれた墓地、涙にくれる母親、それらは恐るべき論告者である。大地にしてもあまりに重い荷に苦しむときには、神秘なうめき声をもらし、無限の深淵がそれをききとるのである。
ナポレオンは無限なもののなかで、すでに告発され、彼の没落はさだめられていたのだった。
彼は神をなやましていた。
ワーテルローは一個の戦闘ではなかった。それはひとつの世界の方向転換であった。
六
くぼ道と同時に砲列があらわれた。
六十門の砲と十三の方陣とはねらいうちに胸甲騎兵たちの上に雷火をあびせかけた。勇猛なドロール将軍はそのイギリスの砲列に挙手の礼をした。
イギリスのすべての騎馬砲兵は、方陣のなかに駈けもどっていた。胸甲騎兵たちは足をとめるひまさえなかった。凹路の災厄《さいやく》は彼らの大半をうしなわせたが、彼らの勇気をくじくことはできなかった。彼らはその数が減ずればますます勇気をますような勇士たちだった。
ただヴァティエの縦隊のみがその災厄を受けたのだった。ネーはまるでおとし穴を予感したように、ドロールの縦隊を左方にまわらせたため、それは全部到着していた。
胸甲騎兵はイギリスの方陣の上におどりかかった。
手綱《たづな》をゆるめ、剣を口にくわえ、ピストルを手にして、全速力の突進、それが襲撃の光景だった。
戦闘のうちには、精神が人間を硬化させ兵士を立像にかえ、全身を花崗《かこう》岩と化してしまうほどの瞬間がある。イギリスの軍隊は、狂猛に襲撃されながら、たじろぎもしなかった。
そのときこそ、恐怖すべき光景となった。
イギリスの各方陣の全正面は同時に攻撃された。荒れくるう旋風は彼らをとりまいた。しかしその冷然とした歩兵は、なんの反応もおこさなかった。第一列はひざを折り、胸甲騎兵を銃剣の上にむかえ、第二列は彼らに銃火をあびせた。第二列の背後には砲兵が大砲をこめ、方陣の前面はひらいた。胸甲騎兵たちはそれに応ずるに陣地粉砕をもってした。彼らの偉大な馬は立ちあがり、戦列をまたぎ越え、銃剣の上をおどりこし、そしてそれらの生きた四壁のうちに山のようにぶつかっていった。砲弾は胸甲騎兵たちのなかに穴をあけ、胸甲騎兵たちは方陣のなかに穴をあけた。隊列は馬に粉砕されて形をなくした。銃剣は人馬の腹部をつらぬいた。そして、おそらくほかで見ることのできない異様な殺傷を出現した。方陣はその狂暴な騎兵によって荒らされはしたが、崩壊しないで形をちぢめた。無尽蔵《むじんぞう》の霰弾は攻撃軍のまん中に破裂した。その戦闘の光景は凄惨《せいさん》をきわめた。方陣はもはや隊伍ではなくて噴火口だった。胸甲騎兵はもはや騎兵隊ではなく、暴風雨だった。各方陣は雲におおわれた火山であり、熔岩《ようがん》は雷電と闘争した。
胸甲騎兵たちは凹路の災害で数をへらされて、比較的少数でありながら、そこでほとんどイギリス軍の全部と渡り合った。しかし彼らは十分な働きをして、その数をおぎなった。そのうちにハンノーヴァー兵の数隊が退《しりぞ》きはじめた。ウェリントンはそれを見た、そして手中の騎兵のことを思いついた。もしナポレオンが同じときに、手中の歩兵のことを思いついていたならば、彼は勝利をにぎっていただろう。その失念はとりかえしのつかない彼の大失敗となった。
襲撃を加えていた胸甲騎兵たちは、突然自分たちが攻撃され出したのに気づいた。イギリス騎兵が彼らの背後に迫っていた。前には方陣があり、うしろにはサマセットがあった。サマセットは千四百の近衛竜騎兵をひきいていた。また彼は右にドイツの軽騎兵を指揮してるドルンベルグを、左にはベルギーのカービン騎兵を指揮してるトリップを擁《よう》していた。胸甲騎兵は歩兵と騎兵とから前後左右より攻撃され、四方に敵対しなければならなかった。しかし胸甲騎兵たちにとってなんであろう。彼らは旋風であった。その勇気は言葉ではいいつくせないほどのものとなった。
その上、彼らは背後にもたえず鳴りひびく砲門を受けていた。それらの退くのを知らぬ勇者の背後をおそうためには、それほどまでにしなければならなかったのである。
これほどのフランスの勇士に対しては、それに匹敵するイギリス兵が必要だった。
それはもはや混戦ではなかった。黒い影であり、狂乱であり、精神と勇気との熱狂的な憤怒《ふんぬ》であり、稲妻《いなづま》のような剣の大旋風であった。たちまちにして千四百の近衛竜騎兵は八百にされてしまった。その中佐フーラーは戦死した。ネーはルフェーヴル・デヌーエットの槍騎兵と軽騎兵とを引きつれて駈けつけて来た。モン・サン・ジャンの高地は、奪取され、奪還され、また奪取された。胸甲騎兵は騎兵のほうをすておいて歩兵のほうにむかった。あるいは、なおよくいえば、その恐るべき群集はたがいにつかみあって一団となったのである。方陣はなお支えていた。十二回の突撃がなされた。ネーはその乗馬を殺されること四回におよんだ。胸甲騎兵のなかばは高地の上にたおれた。その戦闘は二時間にわたってつづいた。
イギリス軍はそのためにひどく動揺した。もし胸甲騎兵たちが凹路の災厄のために最初の突撃力が弱められていなかったならば、彼らは敵の中央を撃破し勝利を決定していたことは万人のうたがわないところである。その非凡な騎兵は、タラヴェ及びバダホースの戦いにのぞんだことのあるクリントンをして色をうしなわせた。四分の三までうち負かされたウェリントンすらも、さすがにこの敵をほめたたえた。彼はなかば口のなかでいった。「あっぱれだ!」
胸甲騎兵たちは、十三の方陣のうち七つを全減させ、六十門の砲をあるいは奪取し、あるいは破壊し、イギリスの連隊旗六個をうばって、それを三人の胸甲騎兵と三人の近衛軽騎兵とが、ラ・ベル・アリアンスの農家の前にいる皇帝のもとにはこんでいった。
ウェリントンの地位はあやういものとなった。その異常な戦いは、まるでたけり狂った二人の傷ついた勇士の決闘だった。たがいに戦い、なお抵抗しながら、その血潮をすべてうしないつつあった。両者のどちらが先にたおれるだろうか。
高地の闘争はひきつづいた。
どのくらいまで胸甲騎兵たちはつきすすんでいたか。誰もそれを語ることはできないだろう。ただ確実なことは、戦いの翌日、モン・サン・ジャンの馬車の積荷計量台の木組のなかに、すなわち、ニヴェルとジュナップとラ・ユルプとブラッセルとの四つの道がであって交叉しているところに、ひとりの胸甲騎兵とその馬とのたおれているのが発見されたことだった。その騎兵はイギリスの戦線を突破したのである。その死骸を引き起した人々のひとりが、今なおモン・サン・ジャンに住んでいる。彼の名はドアーズといって、当時十八才だった。
胸甲騎兵たちは敵の中央を突破しえなかった点では彼らの襲撃は成功しなかった。その高地は両軍のものであり、同時にそれはどちらのものでもなかった。しかし結局はその大部分がイギリス軍の手中にあった。ウェリントンは村と一番高い平地とをにぎっていた。ネーは高地の縁《ふち》と斜面しかしめていなかった。両軍ともここを墓地として根をおろしたかのようだった。
しかしイギリス軍の弱りかたは、もはや回復すべからざるもののように見えた。その軍隊の出血は恐るべきものだった。左翼のケンプトは援兵をもとめた。「一兵もない、そこで戦死せよ」とウェリントンは答えた。それとほとんど同時に、両軍の消耗を語るめずらしい一致であるが、ネーもナポレオンに歩兵をもとめてきた。ナポレオンは叫んだ。「歩兵! どこで手に入れてくれというのか、わしに歩兵をつくれとでもいうのか!」
だがイギリス軍のほうがはるかに悩んでいた。鉄の鎧《よろい》と鋼鉄の胸当とをつけたその偉大なフランス騎兵隊の狂猛な圧力は、歩兵を押しつぶした。軍旗のまわりに立っている数人の兵が、一個連隊の位置をしめしているものもあった。そういう一隊はもはや大尉あるいは中尉によって指揮されてるのみだった。
フランス軍のほうでは、ドロール、レリティエ、コルベール、ドノブ、トラヴェール、及びブランカールなどが戦線から脱落したのに対し、イギリス軍のほうではアルテンは負傷し、バーンは負傷し、デランシーは戦死し、ヴァン・メルレンは戦死し、オンプテーダは戦死し、ウェリントンの幕僚《ばくりょう》は大半戦死していた。こうした出血をくらべるとき、被害はイギリス軍のほうがはなはだしかった。
しかし、鉄石大公ウェリントンはそれでも泰然としていた。イギリスの参謀本部にしたがって観戦していたオーストリアの武官ヴィンツェントとスペインの武官アラヴァとは、大公の敗北を信じていた。五時には、ウェリントンは時計を出してみた、そしてつぎの憂うつな言葉が彼の口からつぶやかれるのがきかれた。「ブリュッヘルがくるか、夜がくるか!」
しかも、ちょうどその頃だった、銃剣のはるかな一線が、フリシュモンの方向にあたって高地の上にひらめきだした。
ここにおいて、この巨大な活劇に変転が起った。
七
ナポレオンの痛《いた》ましい誤算は世に知られているところである。グルーシーを待ちのぞんでいたところへ、不意にあらわれたのがブリュッヘル。生命《いのち》ではなくて死がやってきたのである。
ブリュッヘルの副官ビューローの案内人となっていた牧童が、森林から進出するのにプランスノアの下手からよりもフリシュモンの上手からすることを、もし彼にすすめていたら、十九世紀の形勢はおそらく今とちがっていただろう。ナポレオンはワーテルローの戦いに勝っただろう。プランスノアの下手以外の道からすすんだら、プロシャ軍はとうてい砲兵を通すことのできないような谷間に出て、ブューローは到着しえなかっただろう。
もし一時間も遅延していたら、プロシャのムッフリング将軍もいったように、ブリュッヘルはもはやウェリントンをそこに見出さなかっただろう。「戦いは敗れていた」だろう。
ブリュッヘルはディオン・ル・モンに露営していたのだが、夜明けから出発していた。しかし道路は通行に困難をきわめ、各師団はぬかるみのなかに足をとられた。砲車はわだちのなかに、砲車の輻《や》がはめこんである部分まで没した。その上、ワーヴルのせまい橋でディール河を越さなければならなかった。しかも、ブューローの前衛がまだシャベル・サン・ランベールに着かない前に、すでに正午になっていた。
ワーテルローの戦いは、二時間はやくはじめられていたなら、午後四時には終っていたはずで、ブリュッヘルはすでにナポレオンによって勝利をにぎられた戦場に到着することになっただろう。
正午頃皇帝は、望遠鏡ではるか地平線の彼方《かなた》に見えてきたある影をみとめて、それに注意を集中した。彼はいった。
「彼方《かなた》に雲らしいものが見えるが、どうも軍隊らしい」
それから彼はダルマシー公にたずねた。
「スールト、あのシャベル・サン・ランベールのほうに見えるものを、きみはなんと思う?」
元帥は双眼鏡をそのほうにむけて答えた。
「四、五千の軍勢です、陛下。グルーシーにちがいありません」
皇帝はドモンの軽騎兵の一隊をさいて、その不明な一点のほうに偵察を出した。
ブューローは実際動いていなかった。彼の前衛はきわめて手うすで、なにごともなしえなかったのである。彼は本隊を待っていなければならなかった。そしてまた、戦線にはいる前に兵力を集中せよとの命令を受けていた。しかし五時に、ウェリントンの危機を見て、ブリュッヘルはブューローに攻撃の命令をくだし、つぎの有名な言葉を発した。「イギリス軍に息をつかせなければいけない」
それからまもなく、ロスティン、ヒレル、ハッケ、リッセルなどの各師団は、ロボーの軍団の前面に展開し、プロシャのギヨーム大公の騎兵はパリスの森から現われ、プランスノアは火焔につつまれた。そしてプロシャの砲弾は、ナポレオンの背後に予備としてひかえていた近衛兵の隊列にまで、雨と降りはじめた。
八
それからのことは、よく知られているとおりである。第三の軍勢の突入、戦闘の分裂、にわかにとどろく八十六門の砲、ブューローとともに到着したピルヒ一世、ブリュッヘルみずからひきいたツィーテンの騎兵、押しかえされたフランス軍、オーアンの高地から掃蕩《そうとう》されたマルコニェ、パプロットから駆逐されたデュリュット、退却するドンズローとキオー、半側面より攻撃されたロボー、掩護《えんご》をうしなったフランス各連隊の上に夕ぐれとともにおそいかかった新戦闘、攻勢をとってすすんで来たイギリス軍の全線、フランス軍のうちにあけられた大きな穴、たがいに助けあうイギリスとプロシャの霰弾、殲滅戦《せんめつせん》、最前線の惨劇、その恐るべき崩壊のもとに戦線にたつ近衛兵。
彼らはまさに戦死の時が迫ってくるのを感じて、「皇帝ばんざい!」を叫んだ。ついにその絶叫にまで破裂した彼らの苦悶《くもん》ほど、ひとを感動させるものは、すべての歴史を通じてあるものではない。
それからの近衛兵の背後に起った敗走は痛ましいものだった。
軍隊は、にわかに四方から、ウーゴモン、ラ・エ・サント、パブロット、プランスノアなどから同時に退却してきた。裏切り者! という叫びについで、逃げろ! という叫びが起った。潰滅《かいめつ》する軍隊はなだれのようなものである。
あらたにやってきたプロシャの騎兵は、突進し、駈けまわり、なぎたおし、きりまくり、粉砕し、殺戮《さつりく》し、みな殺しにしようとした。馬はとびだし、大砲はそこに残された。輜重兵《しちょうへい》たちは弾薬車から馬をはずし、その馬を奪って逃走した。行李《こうり》車は四つの車輪を上にして転覆《てんぷく》し、道をふさいだ。そのためにそこで多くの虐殺が行われた。人々はたがいに押しつぶし、踏みにじり、死んだ者をのり越えて走った。腕と腕とはつかみ合った。狂気の一団は、道路を、小路を、橋を、平野を、丘を、谷を、森をみたし、四万の兵士の逃亡でごったがえした。叫び声、絶望の声、麦畑のなかに投げこまれる背嚢《はいのう》と銃剣、剣でわずかに切りひらかれる通路、もはや戦友もなく将校もなく将軍もなく、あるのはただ言語に絶した恐怖のみだった。
九
近衛兵の数個の方陣は、流れのなかの岩のように、潰走のなかにふみとどまって、夜になるまでもちこたえていた。夜がくると、死もまたやってきた。彼らはその二重の暗やみを待ちうけ、すこしも動揺することなくそれにつつまれるままになっていた。各連隊はたがいに孤立し、四方に寸断されてる全軍とは連絡もとれずに、それぞれ死にのぞんだ。彼らはその最後の戦闘をするために、あるいはロッソンムの高地の上に、あるいはモン・サン・ジャンの平地のなかに、陣地をしいていた。見捨てられ、うち敗られ、恐るべき形相《ぎょうそう》をしたそれらの陰惨な方陣は、そこで最後の苦悶にあえいだ。ユルム、ヴァグラン、イェナ、フリーランは、そのうちで戦死をとげた。
まだうす明りの晩の九時頃、モン・サン・ジャンの高地のすそに、なおその方陣のひとつが残っていた。それはまだ無名の一将校カンブロンヌによって指揮されていた。敵弾の一斉射撃のたびに、方陣はその数を減じ、しかもなお応戦していた。たえずその四壁を縮小しながら、霰弾に対して銃火をもって答えた。
その一隊がもはやひとにぎりの兵数にすぎなくなったとき、その軍旗がもはや一片のぼろにすぎなくなったとき、弾丸《たま》を打ちつくした彼らの銃がもはや棒切れにすぎなくなったとき、うずたかい死骸の数がもはや生き残った集団より多くなったとき、その荘厳な瀕死《ひんし》の勇者のまわりにただようある神聖な恐れが、勝利者たちをおそってイギリスの砲兵は息をついて沈黙した。そしてその最後の一瞬をおしとどめてひとりのイギリスの将軍が──ある者はそれをコルビールだったといい、ある者はメートランドだったといっているが──彼らにむかって叫んだ。「勇敢なるフランス兵よ、降伏せよ!」カンブロンヌは答えた。「くそっ!」
カンブロンヌの一言に、イギリス人の声は答えた、「打て!」。砲列は火をふき、丘は震動し、すべての青銅の口からは最後の恐ろしい霰弾が噴火と飛び、えんえんたる煙が月の出にほの白くまきあがった。そして煙がちったとき、そこにはもはやなにものも残っていなかった。この勇敢で恐るべき残兵はふっ飛んでいた。近衛は全滅していた。恐ろしい生きものだった角面|堡《ほう》の四壁はそこに横たわり、ただ死骸のあいだにここかしこに、あるうごめきが見られるばかりだった。そのようにして、ローマの軍団よりも偉大なフランスの軍団は、雨と血潮とにしめった地上に、陰惨な麦畑のなかに、モン・サン・ジャンにおいて消滅したのである。いまではその場所を、ニヴェルの郵便馬車を馭《ぎょ》しているジョセフが、朝の四時に、口笛をふきながら楽しそうに馬にむちをくれながら通っているのである。
十
一八一五年六月十八日の夜は満月だった。その月の光はブリュッヘルの残忍な追撃にさいわいして、逃走兵の行方をてらしだし、たけり狂ったプロシャ騎兵にその不幸な群れを思うままにふみにじらせ、虐殺を助長させた。大破滅にはしばしばこうした夜の悲劇的なたわむれがともなうものである。
最後の砲撃が終ったとき、モン・サン・ジャンの平原には人影もなかった。
イギリス軍はフランス軍の陣営を占領した。敗者の床《とこ》に眠ること、それは、勝利の慣例的な確認である。彼らはロッソンムの彼方《かなた》に露営をはった。プロシャ軍は潰走者のあとを追って前進をつづけた。
あらゆる軍隊は一つの尾をもっている。蝙蝠《こうもり》のような者ども、なかば盗賊であり、なかば従僕である者ども、戦争とよばれるうす暗がりがうみだすあらゆる種類の蝙蝠、すこしも戦うことをしない軍服をきた|かかし《ヽヽヽ》、仮病《けびょう》つかい、恐るべきびっこども、ときとしては女房とともに小さな車にのって品物を盗んでまわりそれをまた転売するもぐりの酒保係ども、将校に案内役をかって出る乞食ども、軍隊に寄生する小使ども、かっぱらいども、それらの者どもを行進中の軍隊は昔──われわれは現代のことをいっているのではない──うしろにひきつれていた。専門語で彼らは「落伍兵」とよばれた。そういう者どもについての責任は、どの軍隊にも、どの国民にもなかったのである。彼らはイタリア語を話してドイツ軍にしたがい、フランス語を話してイギリス軍にしたがう奴らである。
六月十八日から十九日にかけての夜、戦死者の所持品がつぎつぎに奪われていった。ウェリントンは厳格だった。現行を見つけたらただちに銃殺せよとの命令をくだした。しかし、掠奪《りゃくだつ》は執拗《しつよう》だった。戦場の片すみで銃火がひらめいているあいだに盗人たちは他の片すみで掠奪した。
月の光はその平原を不気味にてらしていた。
真夜中ごろ、オーアンの凹路のほうにあたって、ひとりの男がうろついていた、というよりむしろ、はいまわっていた。その様子から察すると、前にその特性をのべておいたあの落伍者のひとりで、イギリス人でもなく、フランス人でもなく、農夫でもなく、兵士でもなく、人間というよりむしろ死屍《しかばね》を喰《く》う鬼であり、死人のにおいにさそわれてはいだし、窃盗《せっとう》を勝利と心得、ワーテルローを荒《あら》しにやって来たものらしかった。
外套に似たうわっ張りをまとい、不安そうにもまた不敵な様子で、前にすすんだり、うしろをふりむいたりしていた。いったいその男は何者だったのか? おそらく昼よりも夜のほうが、彼については多くを知っていただろう。彼は袋こそもたなかったが、外套の下には大きなポケットが、いくつかついていたにちがいない。ときどき彼は立ちどまって、誰かに見られてはいないかと、さぐるようにあたりの平原を見まわし、突然身をかがめ、地面にあるなにか黙々としてうごかないものをかきまわし、それからまた立ちあがっては姿をかくした。そのしのび歩くさま、その態度、そのすばしこいふしぎな手つきなど、ノルマンディーの古い伝説に「アルール」とよばれてる、廃墟《はいきょ》にすむたそがれの悪鬼を思わせるのだった。
ある種の夜の水鳥は、沼地のなかでそのような姿をしてることがある。
もしその夜の靄《もや》をじっとすかして見たならば、ニヴェルの大道の上に、モン・サン・ジャンからブレーヌ・ラルーへゆく道の角《かど》に立ってる一軒の破家《あばらや》のうしろにかくれるようにして、チャンをぬった屋根のついた酒保商人の小さな車のようなものがとまっているのが、遠くから認められただろう。くつわをつけたままイラクサを喰《く》ってる飢えた|やせ《ヽヽ》馬がそれにつながれていて、その車のなかには、そこにつんである箱や包みの上に女らしい人影があった。おそらくその車と平野をうろついてるあの男とのあいだには、なにかの関係があったのかもしれない。
夜空はすみわたっていた。中天には一片の雲もない。地上は血潮で赤く染っていても、月は白い。空の無関心がそこにある。平野の上には、霰弾のために折られた木々の枝に皮だけがぶらさがって、夜風にしずかにゆれていた。微風が、ほとんどひとつの息吹《いぶき》が、灌木の茂みをそよがせていた。
イギリスの陣営の巡察兵や当直士官のゆききする足音が、ぼんやり遠くにきこえた。
ウーゴモンとラ・エ・サントとはなお燃えていた。ひとつは西に、ひとつは東に二つの大きな火焔をあげ、地平線の丘の上にひろく半円にひろがってるイギリス軍の野営の明りが、そのあいだを帯のようにつないでいて、両端にざくろ石をつけたルビーの首飾りがひろがってるようだった。
凹路の断崖は、ぎっしりつみかさねられた馬と騎兵とでいっぱいだった。死骸はその凹路を平地と水平にし、升《ます》にきちんとはかられた麦のようにその縁《ふち》とたいらになっていた。上部は死骸の山、下のほうは血潮の川。それが一八一五年六月十八日の夜におけるその道路の有様だった。血はニヴェルの大道の上まで流れてきて、その大道をふさいでいる鹿砦《ろくさい》の前に大きな池をなしてあふれていた。今でも、その場所を指摘することができる。しかし、胸甲騎兵たちが落ちこんだのは、読者もおぼえてるように、反対のほうのジュナップの大道の方面においてであった。死骸のつみかさなった厚さは、回路の深さに比例していた。凹路の浅いドロールの師団が通った中央の方面では、死骸の層もうすくなっていた。
前にちょっとふれておいた、あの夜のうろつきものは、その方面へいっていた。彼はその広大な墓場をあちこちさがしまわった。彼はじっと眼をすえていた。嫌悪《けんお》すべき死人点検でもするように通っていった。彼は足を血にひたして歩いていた。
突然、彼は立ちどまった。
彼の数歩前のところに、凹路のなかに、死骸の山の縁《ふち》に、それらの人と馬とのおりかさなった下から、指をひろげた一本の手が出ていて、月の光にてらされていた。
その手にはなにか光るものが指についていた。金の指輪だった。
男は身をかがめ、ちょっとそこにうずくまった。そして彼がふたたび身を起したときには、差し出てる手にはもう指輪がなくなっていた。
男はものおじした獣のような恰好《かっこう》をして死人の山のほうに背をむけ、ひざをついたまま地平線をすかし見ながら、地に食指をつけて上体をうかし、頭だけを凹路の縁《ふち》から出してあたりをうかがっていた。
それから、彼は決心して立ちあがった。
そのとき、彼はぎくりとした。うしろから誰かにつかまれてるような気がしたのである。
彼はふりむいて見た。それはさっきのひらいてた手で、指をとざして彼の外套のすそをつかんでいた。
普通の人ならおびえるところだったが、その男は笑い出した。
「なんだ」と彼はいった。「死人じゃないか。憲兵よりまだおばけのほうがいいや」
そのうちにその手は力つきて彼をはなした。人の努力も墓の中ではすぐにつきるものである。
「ははあ」と男はいった。「この死人め、まだ生きてるのかな。ひとつみてやろう」
彼はふたたび身をかがめ、死人の山をかきまわし、じゃまになるものを押しのけ、その手をつかみ、その腕をとり、頭をひきあげ、身体をひき出し、そしてしばらくするうちに、もう生命のない、あるいは少なくとも気をうしなってるひとりの男を凹路のかげのほうへ引きずっていった。それはひとりの胸甲騎兵で、将校であり、しかも相当の階級のものらしかった。大きな金の肩章が胸甲の下からのぞいていた。もう兜《かぶと》はなかった。ひどいサーベルの傷が顔についていて、顔一面、血だらけだった。しかし顔のほか、手足は無事らしかった。
彼はその胸甲の上に、レジォン・ドヌールの銀の十字章をつけていた。
男はその勲章をもぎとり、外套の下のポケットの底へおしこんでしまった。
そのあとで、彼は将校の内|懐《ぶところ》をさぐって、そこに時計をさぐりあて、それを取りあげた。それからチョッキをさぐり、そこに財布を見つけ出し、それも自分のポケットにねじこんだ。
その死にかかった将校に、男がそこまで手助けしてやったとき、将校は眼をひらいた。
「ありがとう」と彼はよわよわしくいった。
男のとりあつかい方のあらあらしさと、夜の冷気とが、彼を瀕死《ひんし》の状態からひきもどしたのだった。
男は返事をしなかった。そして頭をあげた。人の足音が平原にきこえていた。たぶん巡察兵が近づいてくるのだろう。
将校はなにか低くつぶやいた。その声のうちには死の苦しみがこもっていた。
「どちらが勝ったか?」
「イギリスのほうだよ」と男は答えた。
将校はいった。
「ぼくのポケットのなかをさがしてみてくれ。財布と時計があるはずだ。それを出してくれ」
それはもう取られていた。
男はいわれたとおりのことをする真似《まね》をした。そしていった。
「なにもありません」
「だれか盗んだな」と将校はいった。「残念だ。きみにあげるんだったが」
巡察兵の足音がしだいにはっきりしてきた。
「人がくる」と男はたち去ろうとするような身振りをしていった。
将校は苦しそうに腕をもちあげて男をひきとめた。
「きみはぼくの生命を救ってくれた。きみはなんという名前だ?」
男はいそいで低声《こごえ》にいった。
「わたしはあなたと同じようにフランス軍のものです。もうお別れしなけりゃなりません。もし捕まったら銃殺されるだけです。わたしはあなたの生命を救ってあげた。あとは自分でなんとかしてください」
「きみの階級はなんだ?」
「軍曹です」
「名前はなんというのか?」
「テナルディエです」
「ぼくはその名を忘れまい」と将校はいった。「そしてきみもぼくの名前をおぼえていてくれ。ぼくはポンメルシーというのだ」
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第二章 軍艦オリオン
一
ジャン・ヴァルジャンはふたたび捕えられていた。
読者は、そのいたましい詳細をここに長たらしくのべないほうを好むだろう。われわれはただ当時の新聞にのったつぎの二つの小記事をうつすにとどめよう。それはあのおどろくべき事件がモントルイユ・シュル・メールに起ってから数カ月後のものである。
この二つの記事は、やや簡単にすぎるものである。ひとの記憶するとおり、その頃にはまだガゼット・デ・トリブュノー(法廷日報)はなかったのである。
第一の記事はドラポー・ブラン紙の、一八二三年七月二十五日のものである。
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──パ・ド・カレー郡において、最近かなり異常な一事件が起った。マドレーヌ氏とよばれる他県のひとりの男が、その地方のふるくからの工業である黒玉及び黒ガラスの製造を、新らしい製法によって数年前からたてなおしていた。彼はそれによって、自分の財産をつくり、またその地方の生活をもうるおしていた。その功績により彼は市長にえらばれた。しかし、警察では、そのマドレーヌ氏が実はジャン・ヴァルジャンという男で、一七九六年窃盗のために処刑された前科者であり、監視違反者であることを発見した。ジャン・ヴァルジャンはふたたび徒刑場に送られた。逮捕される前に彼は、ラフィット銀行にあずけていた約五十万以上の金をうまくひき出したらしい形跡《けいせき》がある。もとよりその金は、彼が自分の商売によってきわめて正当にえたものだということである。ジャン・ヴァルジャンがツーロンの徒刑場に送られていらい、その金がどこにかくされているか発見することはできなかった。
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第二の記事はジュルナル・ド・パリ紙のであるが、前記のものよりいくらかくわしく、日付はおなじである。
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──ジャン・ヴァルジャンというひとりの放免徒刑囚が、最近ヴァール県の重罪裁判所に出廷した。その前後の事情は人の注意をひくにたるものだった。その悪人はたくみに警察の眼をのがれ、名前をかえ、北部のある小都市で市長にまで成功していた。彼はその都市にかなり注目すべき産業をおこした。しかし検察官のたえざる努力によって、彼はついに仮面をはがれて逮捕された。ひとりの売春婦の妾《めかけ》があったが、彼が逮捕されたとき、おどろきのあまり死んだ。この卑劣漢は異常な大力の持主で、うまく脱走した。しかし脱走後三、四日にして、警察はふたたびパリで彼を捕えた。ちょうど首都からモンフェルメイユ村へかよう小馬車にのろうとしているところだった。しかし、彼はその三、四日の自由なあいだに、ある著名な銀行にあずけていた大金を手にいれたということである。その金額は約六、七十万フランにのぼるという。告訴状によると、彼はその金を誰にも知られない場所にうめたらしい、そして誰もそれをつきとめえなかったそうである。それはともかくとして、そのジャン・ヴァルジャンという男は、最近ヴァール県の重罪裁判にまわされた。約八年前に、大道で子供をおどし、その所持品を盗んだという罪名によってである。その盗賊は少しも自己弁護をしなかった。そして検事のあざやかな弁舌によって、その強盗には共犯者があったこと、及びジャン・ヴァルジャンは南部の盗賊団の一味だったことが立証された。その結果、ジャン・ヴァルジャンは有罪とみとめられ、死刑の判決をうけた。犯人は上告することをことわった。しかし、国王のかぎりない寛容によって、無期徒刑に減刑された。ジャン・ヴァルジャンは、ただちにツーロンの徒刑場に送られた。
[#ここで字下げ終わり]
ジャン・ヴァルジャンは徒刑場でその番号がかわった。彼は九四三○号とよばれた。
いっておくが、モントルイユ・シュル・メールの繁栄はマドレーヌ氏とともに消え去った。惑乱《わくらん》とためらいにみちたあの夜に彼が予見したことは、すべて事実となってあらわれた。彼がいなくなったことは、町にとって、はたして魂のなくなったことだった。彼の失墜《しっつい》ののち、モントルイユ・シュル・メールには、大人物の失脚後におこる利己的な分配が行われた。こうした繁栄の必然的な分割は、人類の共同村で毎日ひそかに行われている。いまやマドレーヌ氏の大きな工場はとざされ、その建物は荒れるままにまかされ、職工たちは分散してしまった。ある者はその地を去り、ある者はその職を去った。それいらい、すべては大となるよりも小となり、善のためにするよりも利得本意となった。もはや中心となるものがなく、いたるところに争いが起り、反目があった。マドレーヌ氏はすべてを支配しみちびいていたが、ひとたび彼が失墜すると、誰も私利にのみ汲々《きゅうきゅう》として、共同精神は競争心とかわり、親切は苛酷《かこく》とかわり、すべての者に対する創立者の慈愛はたがいの憎しみにかわった。マドレーヌ氏のむすんだ糸目はみだれ、そして切れてしまった。人々は製品の工程をごまかし、品質を粗悪にし、信用をなくした。販路はせばまり、註文はへった。職工の賃金は低くなり、工場は休業し、破産がやってきた。もはや貧しい人々に対する助けもなくなってしまった。いっさいのものが消えうせたのである。
国家のほうでも、どこかに誰かがいなくなったのを感じてきた。重罪裁判所がマドレーヌ氏とジャン・ヴァルジャンとが同一人であることを判定して徒刑場をふとらせてから、四年もたたないうちに、モントルイユ・シュル・メールの郡では収税費が倍加した。そしてド・ヴィレール氏は、一八二七年二月にそのことを国会でのべている。
二
一八二三年十月の末に、ツーロンの住民は、軍艦オリオン号が大暴風雨に遭《あ》ったのち、損所を修理するために入港してくるのを見た。このオリオン号は、のちにプレストで練習艦として用いられたが、当時は地中海艦隊のなかに編入されていたものである。
オリオン号は造船|工廠《こうしょう》の近くに碇泊《ていはく》した。
さて、ある日の朝、オリオン号をながめていた群集はひとつの事故を目撃した。
船員たちは、ちょうど帆をはっていた。すると、右舷《うげん》の大三角帆の上端をおさえる任務をおびた水夫が、身体の平均を失った。彼はよろめいた。それを見て、造船工廠の海岸にあつまっていた群集は叫び声をあげた。頭をまっ先にして、水夫は帆桁《ほげた》をぐるりとまわりながらさかさまに深海にむかって両手をひろげた。その途中で彼はさがっている綱を片手でつかみ、さらに両手でつかんでそこにうまくぶらさがった。海は彼の下に、眼をまわすような深さをたたえている。綱は彼の墜落のためにぶらんこのようにはげしくゆれた。
彼を助けにゆくには恐ろしい危険をおかさなければならなかった。水夫たちは、あらたに徴発されて働いていた沿岸の漁夫たちで、あえてその危険をおかそうとする者は誰もいなかった。そのうちに不運な水夫は弱ってきた。遠いので顔の苦悩の色はわからなかったが、しだいに力の弱ってゆくのが手足にはっきりみとめられた。両腕はみるもおそろしいほど引っ張られていた。ふたたびよじ登ろうとする努力は、ぶらさがった綱の動揺をいたずらにますばかりだった。彼は力を失うのを恐れて声もたてなかった。もはや彼が網をはなす瞬間を待つばかりである。彼が落ちてゆくのを見まいとして、人々は瞬間ごとに顔をそむけた。
そのとき突然山猫のようなすばやさでひとりの男がマストをよじのぼってゆくのがみられた。その男は赤い着物を着ていた。徒刑囚である。みどりの帽子をかぶっていた。無期徒刑囚である。マストの上につくや一陣の風がその男の帽子をふっとばし、白髪の頭がみえた。それは青年ではなかった。
実は船のなかで徒刑労役として働いてたひとりの囚人が、その事故が起るとすぐに当直士官のところへかけつけ、すべての水夫が尻ごみしてふるえてるうちに、ただひとり、生命《いのち》をかけて水夫を救いにゆく許可を士官に求めたのだった。士官がうなずくとみるや、彼は足の鉄輪についてた鎖を鉄槌《てっつい》の一撃でうちくだき、ひとすじの綱を手にして|はり《ヽヽ》綱にとびついたのである。
またたくまに彼は帆桁《ほげた》の上に着いた。彼は数秒のあいだ、じっと帆桁を目ではかっているらしかった。そのうちにも風は綱の先端の水夫を吹き動かし、見物してた人たちにはその数秒がいく世紀ほどもながい時間に思えた。ついに囚人は眼を空にあげ、そして一歩をふみ出した。群集は息をついだ。みると、彼は帆桁の上を走っていった。その先端にくると、彼は持っていた綱の端《はし》をそこにゆわえ、他の端を下にたらし、それからその綱をつたっておりはじめた。いまや深淵にぶらさがっているのはひとりではなく、二人となった。
そのうちに囚人は水夫に近づいた。いま一分もおそければ、その水夫は疲れきって絶望し、深淵のうちに身を落すところだった。囚人は一方の手で綱に身をささえながら、他方の手で水夫をその綱でしっかとつなぎとめた。それから、ついに彼は帆桁の上にまたよじのぼり、水夫を引きあげてしまった。彼はそこでちょっと力を恢復《かいふく》させるために水夫を抱きとめ、それから彼をわきにかかえ、帆桁の上を横木のところまで歩いていって、そこからさらにマストまでゆき、そこで彼を仲間の手にわたした。
その瞬間、群集はどっと喝采《かっさい》した。老看守たちのなかには涙をうかべた者もあった。女たちは海岸の上でたがいにだきあった。一種の感きわまった興奮の声が、「あの男をゆるしてやれ!」と異口《いく》同音に叫ぶのがきこえた。
そのあいだ、男のほうはまた労役に服するために、義務としてただちにそこからおりはじめた。はやく下につくために、彼は綱具をすべりおり、それから下の帆桁の上を走り出した。人々の眼は彼を追った。ところが、一瞬、人々ははっとした。疲れたためかそれとも眼がまわったのか、彼はちょっとためらい、ぐらついたようにみえた。と突然群集はたかい叫び声を発した。囚人は海中に落ちたのである。
あんな高いところから墜落すればことは生命にかかわる問題だった。軍艦アルジェジラス号がちょうどオリオン号とならんで碇泊《ていはく》していた。あわれな徒刑囚はそのあいだに落ちたのだった。彼は両艦のどちらかの船底にまきこまれる恐れがあった。四人の男がいそいでボートにとびのった。群集は彼らに声援した。不安がふたたび人々の心をとらえた。男は水面にうかびあがらなかった。まるで石油|樽《たる》のなかに落ちこんだように、波ひとつたてずに海中に消えうせてしまった。人々は水中をさぐり、またもぐってもみた。しかしむだだった。夕方まで捜査がつづけられた。が、死体さえ見つからなかった。あくる日、ツーロンの新聞はつぎの数行をかかげた。「一八二三年十一月十七日──昨日、オリオン号の甲板で労役に服していた一囚徒は、ひとりの水夫を救助してもどる途中、海中に墜落して溺死《できし》した。死体は発見されなかった。察するところ、造船|工廠《こうしょう》の尖端《せんたん》の橋柱にからまったものだろう。その男の在監番号は九四三○号で、ジャン・ヴァルジャンという名前である」
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第三章 死者への約束の実行
一
一八二三年のクリスマスは、モンフェルメイユではとくににぎやかだった。その冬のはじめは、なんだかとてもあたたかく、まだ氷もはらなければ雪もふらなかった。香具師《やし》たちがパリからやって来て、村長の許しで村の大通りに仮小屋をたて、また行商人の一隊もおなじように許しをえて、教会の広場からブーランジェの小路まで露店をたてつらねていた。たぶん読者も記憶してるだろう、そのブーランジェ小路にはテナルディエの飲食店があったのである。
宿屋や飲食店はどこもいっぱいだった。しずかな田舎が、にぎやかに活気だっていた。
そのクリスマスの晩、テナルディエ飲食店の天井の低い広間では、馬方や行商人など数人の男が数個の燭台のまわりに陣どって酒を飲んでいた。
コゼットはいつものとおり、料理場のテーブルの横木に、煖炉《だんろ》に近く腰をかけていた。彼女はぼろを着て、素足《すあし》のまま木靴をはき、炉の火の明りでテナルディエの娘たちの毛糸の靴下をあんでいた。二人の子供がとなりの部屋でいかにも面白そうに笑ったり話したりしている声がきこえてきた。それはエポニーヌとアゼルマだった。
煖炉のすみに、一本の革のむちが釘《くぎ》につるしてあった。
ときとすると、家のどこかにいる小さな子供の泣き声が、酒場のさわぎのあいまにきこえてきた。先年の冬、テナルディエのかみさんがうんだ男の子である。「どうしたんだろう、あんまり寒いから子供ができたのかもしれん」などといってた、それがいまではもう三才あまりになっていた。彼女はその子供を育ててはいたが、少しも可愛がっていなかった。子供のはげしい泣き声があまりうるさくなると、亭主はいった。「子供が泣いてるぞ、いってみてやれよ」すると母親はいつも答えるのだった。「かまうもんですか! わたしゃ、くさくさしちまうよ」そしてかまってもらえない子供は、暗やみのなかで泣きつづけるのだった。
また新らしく四人の旅人が到着した。
コゼットは悲しそうになにか考えていた。彼女はまだ八才にしかならなかったが、いろいろと苦しい目にあってきたので、まるで年とった女のように、陰うつそうにもの思いにふけるのだった。
彼女のまぶたは、テナルディエのかみさんにぶたれて黒くなっていた。そのため、かみさんはときどきこんなことをいうのだった。「眼の上にしみなんかつくってさ、なんてみにくい子だ!」
コゼットは考えていた――もう夜になってる、まっ暗な夜になってる。不意にやって来たお客さんの部屋の水差しや、水がめに予備の水などを入れておかなければならない。水がめにはもう水がない。
ただちょっと彼女がほっとしたことには、テナルディエのうちでは、誰もあまり水を飲まなかった。のどが渇《かわ》いた人がいないというわけではなかったが、その渇きは水がめよりもむしろ酒瓶《さかびん》をほしがるほうの渇きだった。酒盃《しゅはい》がならんでるなかで、一杯の水を求める者は、みなから野蛮人とみなされる恐れがあったのである。しかし、コゼットが身をふるわせるようなときもあった。テナルディエのかみさんが、かまどの上に煮たってるスープなべのふたをとってみて、それからコップを手にしていそいで水がめのところにいった。かみさんは栓《せん》をひねった。娘は頭をもたげて彼女の様子をじっと見まもっていた。少しばかりの水がたらたらと栓の口から流れ、コップに半分ほどたまった。
「おや」と彼女はいった。「もう水がない!」
それから彼女はちょっと口をつぐんだ。娘は息もつかなかった。
「いいさ」とかみさんは半分ばかりになったコップを見ながらいった。「これで間に合うさ」
で、コゼットはまた仕事にかかった。だが、十五分ばかりのあいだは、心臓が大きな毬《まり》のようになって胸のなかでおどってるような気がした。
そういうふうにして過ぎ去ってゆく時間をかぞえながら、彼女ははやくあすの朝になればいいがと思っていた。
酒を飲んでたひとりの男が、ときどき表をながめては大きな声を出した。
「かまどのなかみてえにまっ暗だ!」「いまごろ提灯《ちょうちん》なしで外を歩けるなあ、猫ぐらいのものだ!」
それをきいてコゼットはふるえあがった。
突然、この宿屋に泊《とま》ってる行商人のひとりがはいってきた。そしてあらあらしい声でいった。
「わしの馬には水をくれなかったんだな」
「やってありますとも」とテナルディエのかみさんはいった。
「いやおかみさん、やってないぜ」と商人はいった。
コゼットはテーブルの下から出てきた。
「いいえ、やりましたよ!」と彼女はいった。「馬はのみましたよ。桶いっぱいみんなのみましたよ。このわたしが水をもっていって、馬に口をききながらやったんですもの」
それはほんとうではなかった。コゼットは嘘《うそ》をついていた。
「こいつめ、こぶしぐれえちっぽけなくせに、山のような大きな嘘をつきやがる」と商人は叫んだ。「馬は水をのんでるもんか、この、はなったらしめ! 水をのんでいないときにゃ、この馬は息をふくくせがあるんだ。おれはよく知ってるんだぞ」
コゼットはいいはった。そして心配のあまりかすれた声で、ほとんどききとれないくらいの声でつけくわえた。
「でも、とてもよくのんだんですよ!」
「なんだって!」と商人はおこっていった。「ばかなことをいうんじゃねえ。ぐずぐずいわないで、はやくおれの馬に水をやるんだ」
コゼットはまたテーブルの下にはいりこんだ。
「ほんとにそうですとも」とテナルディエのかみさんはいった。「馬に水をやってないなら、はやくやらなけりゃいけない」
それから彼女はまわりを見まわした。
「ところで、あの畜生め、どこへいったかな?」
彼女は身をかがめて、テーブルのむこうはしの、酒を飲んでる人たちの足の下にうずくまってるコゼットを見つけた。
「出てこないか」とかみさんは叫んだ。
コゼットはかくれていたその穴から出てきた。かみさんはいった。
「このろくでなしめ、馬に水をおやりったら」
「でもおかみさん」とコゼットはよわよわしくいった。「水がありませんもの」
かみさんは戸をおしひらいた。
「そんなら、汲みにいってくるさ!」
コゼットはうなだれた。そして煖炉のすみにいって空《から》の桶《おけ》をとりあげた。
その桶は彼女の身体よりも大きく、中にらくにすわれるくらいだった。
かみさんはかまどのところにもどり、スープなべのなかのものを木のスプーンでしゃくって、味をみながらぶつぶついった。
「水は泉にいきゃいくらでもある。あんな性《しょう》の悪い子ったらありゃしない。ああ、このたまねぎはよせばよかった」
それから彼女は引出しのなかをかきまわした。そこには小銭《こぜに》だの、こしょうだの、にんにくだのがはいっていた。
「ちょいと、おたふく」と彼女はつけくわえた。「帰りにパン屋で大きなパンをひとつ買っておいで。ほら、十五スーだよ」
コゼットのエプロンの横に、小さなポケットがついていた。彼女はものもいわずに、その貨幣をとってそのポケットに入れた。
それから彼女は、手に桶をさげ、ひらいてる戸を前にしてじっと立っていた。誰か助けに来てくれる人を待ってるみたいだった。
「いっといでったら!」とテナルディエのかみさんは叫んだ。
コゼットは出ていった。戸はとざされた。
二
テナルディエの宿は村のうちでも教会に近いほうにあったので、コゼットはシェルに面した森の中の泉に水を汲みにいかねばならなかった。
彼女はもうほかの店は一軒ものぞいて見なかった。ブーランジェの小路から教会のちかくまでゆく間に、露店の明りが道をてらしていたが、やがて一番おわりの店の灯火《とうか》も見えなくなってしまった。あわれな娘は暗闇のなかをつきすすんだ。恐怖にとらわれていたので、歩きながら桶《おけ》の柄を力いっぱい動かした。ゆれるたびに、桶の柄から出る音が彼女の道づれだった。
進めば進むほど闇はますますこくなっていった。道には人影さえなかった。しかし、そのうちやっとひとりの女に出会った。その女は彼女の通り過ぎるのを見てふりかえり、立ちどまって口のなかでつぶやいた。
「いったいあの子はどこへゆくんだろう? まるでおばけのようだが」そのうち女は、それがコゼットであることに気がついた。
「まあ」と女はいった。「雲雀《ひばり》娘だったのか」
そのようにしてコゼットは、シェルのほうに面したモンフェルメイユの村はずれの、曲りくねった人気《ひとけ》のない小路のいりくんだところを通っていった。そして道の両側の人家や壁だけでもあるあいだは、かなり元気に進んでいった。ときどき彼女は、鎧戸《よろいど》のすきまからろうそくの光りがもれるのを見た。それは光明であり生命だった。そこには人がいた。彼女はほっとすることができた。しかし、先へゆくにつれて、彼女の歩みはほとんど機械的におそくなっていった。最後の人家の角《かど》を通りすぎたとき、コゼットは立ちどまった。最後の露店のところからそこまでゆくのも、すでにむつかしいことだった。いまやその最後の人家から先へゆくことなど、ほとんど不可能だった。彼女は桶を地面におろし、髪のなかに手をさし入れ、しずかに頭をかきはじめた。怖《こわ》がって決断に迷ってる子供によくある態度である。
もうそこはモンフェルメイユの村ではなく、野原のなかだった。暗いさびしい闇のひろがりが彼女の前にたちふさがっていた。彼女はその闇を絶望的な眼で見やった。そこにはひとつの人影もなく、けものの姿があり、またおそらくは、ばけものもいるだろう。彼女はじっとすかして見た。草のなかを歩きまわるけものの足音がきこえた。木のあいだをうろついてるばけものの姿がはっきり見えた。そのとき、彼女はまた桶の柄を手にとった。恐怖が彼女を大胆《だいたん》にした。「かまやしない!」と彼女はいった。「水はなかったといってやろう」そして彼女は心をきめて、またモンフェルメイユの村にひきかえした。
百歩ばかりもどったとき、彼女はまた立ちどまって、頭をかきはじめた。こんどはテナルディエのかみさんの姿がうかんできた。その恐ろしい姿は、山犬のような口をして、眼は怒りにもえたっていた。娘は自分の前と後とを悲しい眼つきで見やった。どうしたらいいだろう? どうなるんだろう? どっちへいったものかしら? 前にはテナルディエのかみさんの姿があり、うしろには夜と森とのいろんなばけものがいた。しかし、ついに彼女はテナルディエのかみさんの姿の前にしりごみした。彼女はふたたび泉への道をとって、走り出した。走りながら、モンフェルメイユの村を出て、走りながら森のなかにはいり、もうなにも見ず、なににも耳をかさなかった。息がきれたので走るのはやめたが、それでもなおつづけて進んだ。無我夢中で、ただ前へと進んだ。
走りながら彼女は泣きたくなった。
森の夜のふるえがすっかり彼女をとりかこんでしまった。彼女はもうなにも考えなかった。かぎりない夜が少女の前にあった。
森の入口から泉まで七、八分の距離だった。コゼットは昼間よく通っていたので、その道は知っていた。で、ふしぎに道に迷うこともなかった。本能の一部が残っていて、彼女を漠然《ばくぜん》とみちびいていたのだった。そのあいだ、彼女は右にも左にも眼をむけなかった。木の枝のあいだや茂みのなかから、なにか出てきはしないかと恐れたのだった。そして彼女は泉にたどりついた。
それは赤土まじりの地面に水で掘られた、深さ二フィートばかりの天然のせまい水たまりだった。まわりにこけが生《は》え、アンリ四世の襟飾《えりかざ》りとよばれるながい縞《しま》のある草がしげり、またいくつかの大きな石がしいてあった。ひとすじの水が、さらさらと音をたててそこからしずかに流れ出ていた。
コゼットは息をつくまも待たなかった。まっ暗だったが、彼女はその泉には|なれて《ヽヽヽ》いた。いつも身をささえる泉の上にさし出た若い柏《かしわ》の木を、暗やみのなかに左手でさぐってその一枝を見つけ、それにつかまって身をかがめ、桶《おけ》を水のなかにつけた。そのとき彼女はひどく気がたかぶってたので、いつもの三倍も力が出た。しかし、そうして身をかがめてるうちに、エプロンのポケットのなかのものを泉に落してしまったことには気がつかなかった。十五スー銀貨が水のなかに落ちた。コゼットはそれを見もしなければ、その落ちる音を耳にもしなかった。彼女はほとんどいっぱいになった桶をひきあげ、それを草の上に置いた。
ここまでやってしまうと、彼女はすっかり疲れきったのを感じた。すぐにもたち去りたかったが、桶に水を汲むのにあまり骨を折りすぎたので、もう一歩もふみだす力がなかった。しかたなくそこにすわってしまった。草の上に身を落し、そのままじっとうずくまった。
彼女は眼をとじた。それからまた眼をひらいた。どうしてそうしたのか自分でもわからなかった。しかし、ほかにどうしようもなかったのである。
彼女のそばには、桶のなかにゆらいでる水が輪をえがいて、それが白い炎の蛇《へび》のように見えた。
頭の上には、煙の壁のような広い黒雲が空をおおっていた。暗やみの陰惨《いんさん》な仮面が娘の上におおいかぶさっていた。
木星は彼方《かなた》の空に沈もうとしていた。
娘は不安なまなざしをあげ、名も知らぬその大きな星をながめて、恐ろしくなった。実際その遊星は、そのとき地平線すれすれのところにかかって、たなびく深い|もや《ヽヽ》をすかしてみると、赤味をおびた恐ろしい色に見えた。そしてその|もや《ヽヽ》が不吉な赤い色にそまって、星をいっそう大きく見せていた。ちょうどまっ赤な傷口のようだった。
寒い風が野原の上をわたっていった。森はまっ暗で、木の葉のそよぎもなく、夏のあいだの、おぼろげな、さわやかな明るみもなかった。大きな枝がぬっとつき出ていた。やせた妙な形の茂みが、木立のまばらなところで音をたてていた。背のたかい草むらは北風の下にうなぎのようにうごめいていた。いばらはよじれ合って、餌食《えじき》をさがし求めてる爪のはえた、長い腕みたいだった。枯れた雑草が風にふきとばされて通りすぎた。まるでなにかに追っかけられて恐れて逃げてゆくようだった。どっちをむいても、ただ陰うつな恐ろしげなものばかりにぶつかった。
なにを感じたのか自分でもよくわからなかったが、コゼットはそういう自然の広大な暗黒に、しっかりとつかまえられてるような気がした。彼女をとらえてるのは、もはや単に恐怖だけではなかった。恐怖よりなお恐ろしいなにかがあった。彼女はふるえあがった。彼女の心の底まで凍らしたその戦慄《せんりつ》がいかに異常なものであったか、それをいいあらわす言葉はないだろう。彼女の眼は兇暴になっていた。彼女はあしたまた、きっと同じ頃にそこに来ずにはいられないだろうという気がした。
そのとき一種の本能から、そのわけのわからない、恐ろしいふしぎな状態からぬけ出すために、彼女は大きな声で一、二、三、四と十までかぞえはじめた。それが終るとまたはじめからくりかえした。そのため彼女はようやく、まわりの本当の様子がはっきりわかるようになった。水を汲むときにぬらした手が、やっとつめたく感じられてきた。
彼女は立ちあがった。すると、また恐ろしくなった。彼女にはもう、ひとつの考えしかなかった、逃げ出すこと。森を通りぬけ、野を横ぎり、人家のあるところまで、窓のあるところまで、火のともったろうそくのあるところまで、足にまかせて逃げのびること。前にある桶が彼女の眼についた。彼女はテナルディエのかみさんをひどく恐れていたので、それを捨ててゆくわけにはいかなかった。彼女は両手で桶の柄をつかんだ。
桶は水がいっぱいで重かった。彼女は十歩ばかり進んで、ちょっと息をついだ。それからまた桶をもちあげ、ふたたび歩き出したが、こんどは前よりも少しながく歩いた。が、やはり立ちどまらなければならなかった。しばらく休んでまた歩き出した。前のほうに身をかがめて頭をたれ、老人のようにして歩いた。そして立ちどまるたびに、桶からこぼれる冷たい水が彼女のあらわな脚の上に流れた。それも夜に、森の奥で、冬に、人の眼を遠くはなれた所で。そして彼女はわずか八才の子供だった。その悲しい有様をながめていたのは、そのときただ神だけだった。
そしてまた、きっと彼女の母も、ああ!
彼女は少しずつ進んでいた。立ちどまる時間をすくなくし、できるだけながく歩こうと、いくらやってみてもだめだった。こんなふうでは村にもどるのに一時間以上もかかるだろう、そしておかみさんにぶたれるだろう、そう考えては心を痛めた。そして、その心配は夜にただひとりで森のなかにいる、という恐怖にかさなっていた。もうすっかり疲れてしまったが、まだ森のなかだった。彼女はよく知っている古い栗の木のそばまで来たとき、よく休むためにちょっと長く立ちどまった。それから全力をよびおこして桶をとり、元気を出して歩き出した。しかし、あわれな少女は、思わず声をたてないではいられなかった。「おう、神さま! 神さま!」
そのとき、彼女は急に桶が少しも重くないのを感じた。なにか、とても大きな手が、桶の柄をつかんで勢よくもちあげてるのだった。彼女は顔をあげた。黒い大きな姿が、暗闇のなかで彼女とならんで歩いていた。それは彼女のうしろからやってきたひとりの男で、彼女は、今までその男が近づいてくる足音をすこしも耳にしなかったのだ。男はひとことも口をきかずに、彼女が持ってる桶の柄に手をかけていた。
我々人間には、人生のいかなる出来事にたいしても、それに平然として応ずる本能がある。少女はべつに恐怖を感じなかった。
三
男は彼女に言葉をかけた。おもおもしい低い声だった。
「これはお前さんには重すぎるようだね」
コゼットは顔をあげて答えた。
「ええ」
「かして、ごらん」と男はいった。「私が持ってあげよう」
コゼットは桶をはなした。
「なるほど、ずいぶん重い」それから男はつけ加えた。「お前さんはいくつになる?」
「八つ」
「こんなものを遠くからもってきたのかね?」
「森のなかの泉からなの」
「これからゆくところは遠いの?」
「ここから十五分ぐらい」
男はちょっと口をつぐんだが、やがて不意にいった。
「で、お母さんがいないんだね」
「きっと、いないんでしょう。ほかの人はみんなお母さんをもってるけど、あたしはもってないの」
そしてちょっとだまったあとで、彼女はまたいった。
「あたしには、はじめっからお母さんはなかったんだわ」
男は立ちどまって桶を地面におろし、身をかがめて子供の両肩に手を置き、暗闇のなかでその姿をながめ、顔を見ようとした。
コゼットのやせた弱々しい顔が、空のうすら明りのなかにぼんやりうき出してみえた。
「名前はなんというの?」
「コゼットよ」
男はまるで電気にうたれたようだった。彼は、なお彼女をよく見、それから両手を彼女の肩からはずし、桶をとりあげ、そして歩き出した。
やがて、彼はまたたずねた。
「いったい誰が今じぶん、森のなかまで水を汲みにやらしたの?」
「テナルディエのおかみさんなの」
「テナルディエのおかみさんというのはなにをしてるの?」
「うちのおかみさんよ、宿屋をやってるの」
「宿屋?」と男はいった。「じゃ私は今夜そこへいって泊《とま》ろう。案内しておくれ」
男はかなりはやく歩いた。が、コゼットはたやすくついていった。もう疲れも感じなかった。ときどき彼女は眼をあげて、安心と信頼にみちた様子で彼を見あげた。それまで彼女は神というものに心をむけることも、お祈りをすることも教わっていなかった。しかしいま、希望と喜びに似たなにかを心のうちに感じ、天のほうへ昇ってゆくなにかを心のうちに感じた。
しばらくして男はまたいった。
「テナルディエのかみさんのうちには、女中はいないのかね」
「いないの」
「お前さんひとりなのかい」
「ええ」
それからまた言葉がとぎれた。コゼットは口をひらいた。
「でも、女の子が二人いるの」
「なんという女の子?」
「ポニーヌとゼルマっていうの」
テナルディエのおかみは、小説的な二人の名前をそんなふうにちぢめてよんでいた。
「ポニーヌとゼルマって、どういう人たちかね」
「テナルディエのおかみさんのお嬢さんなの」
「じゃ、その人たちはなにしてるの?」
「きれいなお人形や、いろんなものをもってて、遊んでるわ」
「一日じゅう?」
「ええ」
「そしてお前さんは?」
「あたしは働いてるの」
「一日じゅう?」
子供は大きな眼をあげた。夜で見えはしなかったが、それには涙がにじんでいた。子供はしずかに答えた。
「そうなの」
ちょっとだまったあと、彼女はまたいい出した。
「用がすんでから、いいっていわれるときにはあたしも遊ぶことがあるの」
「どんなことをして?」
「すきなことして。なんでもさせてくれるわ。でもあたしはおもちゃはあまりもってないの。ポニーヌとゼルマはあたしにお人形をかしてくれないわ。あたしは鉛のちっちゃな剣をひとつもってるきりなの、これくらいの長さの」
子供は小指を出して見せた。
「それじゃ切れないね」
「切れるわ」と子供はいった。「菜っ葉なんか切れるわ」
二人は村に着いた。彼らはパン屋の前を通った。しかし、買って帰らなければならないパンのことをコゼットは忘れていた。男はもういろいろなことをたずねることをやめて、陰うつにだまりこんでいた。それでも教会の前を通り過ぎて、露店がならんでいるのを見ると、コゼットにたずねた。
「おや、縁日だね」
「いいえ、クリスマスよ」
彼らが宿屋に近づいたとき、コゼットはおずおずと男の腕につかまった。
「おじさん」
「なんだい?」
「うちの近くにきたわ」
「で?」
「あたしに桶をもたしてちょうだい」
「なぜ?」
「ほかの人にもってもらってるのが見つかると、おかみさんにぶたれるもの」
男は彼女に桶を渡した。
コゼットは思わず、玩具《おもちゃ》店にならべてある大きな人形のほうをちらっとながめた。それから家の戸をたたいた。
戸があいて、おかみさんがろうそくを手にして出てきた。
「お前か、この乞食《こじき》娘が! なんだってこんなにながくかかったんだ。どこかで遊んでたんだな、このすれっからしめ!」
「おかみさん」とコゼットは身体じゅうをふるわせていった。「あの方が泊《と》めてもらいたいって……」
おかみは、宿屋の主人がいつもするように、じゃけんな顔をすぐやわらげた。そして新来の客のほうをむさぼるようにながめた。
「あなたですか」と彼女はいった。
「そうです」と男は答えながら帽子に手をあてた。
金のある旅客はそんな丁寧《ていねい》なことはしないものである。その男の服装と荷物を見てとったおかみは、また冷やかになった。
「おはいりなさい、おじいさん」
|おじいさん《ヽヽヽヽヽ》はなかにはいった。おかみはまたじろっと彼の姿をながめ、すっかりすり切れたフロックと破れかかった帽子をよく見た上で、まばたきをして亭主の肚《はら》をさぐった。亭主は馬方たちといっしょに酒を飲んでいたが、ちらっと人さし指を動かしてそれに答えた。それは客が一文なしらしいという意味だった。おかみはそれを見て叫んだ。
「お前さん、お気の毒だけど、部屋があいてませんよ!」
「どこでもいいから泊《と》めていただきたい」と男はいった。「物置でも、うまやでもよろしい、一部屋分の払いはしますから」
「四十スーですよ」
「四十スー、承知しました」
「そんならようござんす」
「四十スーだと!」とひとりの馬方がおかみに小声でいった。「普通は二十スーじゃないか」
「あの男には四十スーだよ」とおかみはやはり小声で答えた。「それより安くちゃ貧乏人は泊《と》められないよ」
「まったくだよ」と亭主もそっと口をはさんだ。「あんな男を泊めるとなると、うちの看板にかかわるからな」
そのあいだに男は、腰掛の上に包みと杖とを置き、テーブルにむかって席についた。コゼットはいそいでそこにぶどう酒の瓶《びん》とグラスをならべた。水桶をいいつけた商人は、それを自分の馬のところにもっていった。コゼットはまた料理場のテーブルの下の、いつもの場所にもどって編物をはじめた。
男はグラスにぶどう酒をそそいで唇をつけたかと思うと、すぐに異様な注意でコゼットをながめはじめた。
コゼットはみにくかった。しかし、もっと楽しい生活をしてたらおそらくきれいだっただろう。彼女の小さな陰うつな顔つきは、すでに前にのべておいた。しかし、なおいいそえれば、彼女はやせて蒼《あお》ざめていた。もうすぐ八才になろうというのに、やっと六才くらいにしか見えなかった。くぼんで、なにかの深いかげをたたえてる大きな眼は、多くの涙を流したために、ほとんどその光りをうしなっていた。唇のすみには囚人や重病人などに見られるような、日々の苦しみからくる|いびつなくいこみ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ができていた。両手はかつて母親が想像したように、「しもやけでくずれて」いた。
そのとき、ちょうど彼女をてらしていた火のせいで、骨ばってるところがうきだして、やせてるのがひどく目立った。いつも寒さにふるえてるので、両膝《りょうひざ》をきっちりくっつけるくせがついていた。着物はやぶれさけ、夏にはいかにも貧相にみえ、冬には見る人にぞっと寒気《さむけ》を感じさせるほどだった。身につけてるものは穴のあいた麻布ばかりで、一片の毛織ものもなかった。ところどころに肌がのぞいて、どこもかしこも青い斑点《はんてん》や、黒い斑点がついていた。それはテナルディエのかみさんにぶたれた跡《あと》だった。あらわな両脚は赤くかじかんで、かぼそかった。鎖骨《さこつ》の上がひどくくぼんでるところを見ると、かわいそうで涙がこぼれるほどだった。彼女の全身、その歩き方、そのものごし、声の調子、ひとこというごとに息をつく様子、その眼つき、その沈黙、そのちょっとした身振り、それらはただひとつの思いをあらわしていた、すなわち|おびえ《ヽヽヽ》を。
それが彼女の全身にあらわれていた。いわばそれにおおわれていた。恐怖のために、両肘《りょうひじ》を腰につけ、|かかと《ヽヽヽ》をスカートの下にひっこめるようにし、できるだけ小さくちぢこまり、わずかに生きてるだけの息をついていた。そしてそのおびえてる様子がほとんど彼女のくせになってて、それはただ度合が高まるにつれてかわるだけだった。眼の底にもおどおどしたかげがあり、そこにも恐怖の念がやどっていた。
そういう恐怖の念がつよくコゼットを支配してたので、彼女はいま帰ってきて、着物がぬれていたにもかかわらず、火のそばにいってそれを乾かそうともしないで、そのままだまって仕事をはじめたのだった。
八才のその娘の眼つきは、いつもひどく暗く、ときには、いかにもいたいたしく、どうかすると白痴《はくち》かあるいは悪魔にでもなるのではないかと思われるほどだった。
前にもいったように、彼女はお祈りするとはどういうことかを知らず、かつて教会に足をふみいれたこともなかった。「そんなことをしてやるひまなんかあるものか」とテナルディエのかみさんはいっていた。
黄色いフロックの男はコゼットから眼をはなさなかった。
突然テナルディエのおかみが叫んだ。
「そうそう、パンは?」
コゼットはかみさんが高い声を出すとき、いつもするように、すぐにテーブルの下からはい出してきた。
彼女はすっかりパンのことを忘れていた。で、たえずおびえてる子供特有の便方をつかって、嘘《うそ》をついた。
「おかみさん、パン屋さんはしまっていましたの」
「戸をたたけばいいじゃないか」
「たたきました」
「それで?」
「誰もあけてくれません」
「ほんとか嘘か、あしたになればわかるさ」とおかみさんはいった。「もし嘘だったら、ひどいめにあわしてやる。それから十五スーの銀貨をお返しよ」
コゼットはエプロンのポケットに手を入れて、まっ蒼《さお》になった。十五スー銀貨はそこにははいっていなかった。
「これ! あたしのいうことがきこえないのかい」とおかみさんはいった。
コゼットはポケットを裏返したが、なにもなかった。あのお金はいったいどうなったのだろう! 不幸な娘は口をきくこともできなかった。まるで石のようにかたくなってしまった。
「お前はあの十五スー銀貨をなくしたのかい」とおかみさんは声をあらだてた。「それとも盗むつもりかい」
おかみさんはそういいながら、煖炉のところにつるされていた|むち《ヽヽ》のほうへ手をのばした。
「ごめんなさい、おかみさん。もうしませんから」
そのあいだにフロックの男は、誰も気がつかないうちに、チョッキのかくしのなかをさぐった。もちろんほかの客たちは酒を飲んだり、カルタをしたりして、ほかのことにはいっさい注意をむけてはいなかった。
コゼットはおびえて煖炉のすみにちぢこまり、なかばあらわな小さな手足をひっこめてかくそうとした。おかみさんは|むち《ヽヽ》をふりあげた。
「ちょっと、おかみさん」と男が口をはさんだ。「さっき、その娘さんのエプロンのポケットからなにか落ちてころがってきましたよ。たぶんそれじゃありませんか」
と同時に彼は身をかがめて、床の上をさがすようなふりをした。
「ほら、ここにありますよ」と彼は身をおこしながらいった。そして一枚の銀貨をおかみにさし出した。
「ああ、これですよ」と彼女はいった。
それは二十スー銀貨だった。実はそれではなかった。しかしおかみはそれで|とく《ヽヽ》をすると考えたのだった。彼女は銀貨をポケットに入れて、ただ恐ろしい眼つきで娘をにらみつけながらいった。
「またこんなことをしたら承知しないよ」
コゼットは、おかみさんが「彼女の巣」とよんでた、いつもの場所にもどった。そして見知らぬ旅の男をじっとみつめた彼女の大きな眼には、これまでになかったある表情がうかんでいた。それはまだ無邪気なおどろきの情に過ぎなかったが、そこにはあっけにとられた一種の信頼感がまじっていた。
「ところで、夕飯はどうします」とおかみは男にたずねた。
彼は答えなかった。なにか深い思いにふけっている様子だった。
「いったいなんという男だろう」とおかみは口のなかでつぶやいた。「ひどい貧乏人なんだな。夕食の金ももっちゃいまい。宿銭だけでも払えるかしら。でもまあよく床に落ちてた金を盗もうとしなかったものだ」
そのうち、一方の扉がひらいて、エポニーヌとアゼルマとがはいってきた。
二人ともまったくきれいな小娘だった。田舎娘というより、むしろ町の娘といいたいくらいで、可愛らしかった。二人はつやつやした栗色の髪の毛をたばね、ひとりは長く髪を背中にたらし、二人とも活発で、身ぎれいで、ふとって、いきいきとして、丈夫そうで、見る目にも気持ちがよかった。あたたかそうに、いっぱい着物をきこんでいたが、その沢山かさねて着た着物も、母親の手ぎわで着つけの美しさがそこなわないように気がくばられていた。冬のよそおいも春のすがすがしさを消さないようにとりつくろってあった。二人は光りかがやいていた。その上二人は自由気ままだった。その身なりや、快活さや、さわぎまわってる様子には、みなから大事にされていることがよくでていた。二人がはいってきたとき、テナルディエのかみさんは、可愛いさあまって、わざとこごとをいうような調子でいった。
「ああ、お前たちもここにきたのかえ!」
それからひとりずつひざに引きよせ、髪の毛をなでつけてやり、リボンをむすびなおし、母親特有のやさしい仕草《しぐさ》をして、そこから手をはなしながらいった。
「まあ、まあ、みっともない恰好《かっこう》をして!」
二人は煖炉のすみにいってすわった。人形をひとつ持ってて、それをひざの上でもてあそびながら、うれしそうにささやき合った。ときどきコゼットは編物から眼をあげて、二人が遊んでるのを悲しそうにながめた。
エポニーヌとアゼルマは、コゼットのほうには眼もくれなかった。コゼットは二人にとっては犬も同様だった。それら三人の小娘は、みんなの年齢をあわせて二十四にしかならなかったが、すでに大人の社会のあり方をよくあらわしていた。一方に羨望《せんぼう》を、他方に軽蔑《けいべつ》を。
テナルディエの娘の人形は、もうよほど色あせ、古ぼけ、あちらこちらこわれてはいたが、それでもなおコゼットには立派なもののように思えた。彼女は人形というものを、すべての子供によくわかるいい方をすれば、ほんものの人形というものを、生まれてまだいちどももったことがなかった。
部屋のなかをいったりきたりしていたテナルディエのかみさんは、コゼットがぼんやり仕事もしないで、二人の娘が遊ぶのに見とれてるのを、ふと見つけた。
「これ!」と彼女は叫んだ。「それで仕事をしてるのかい。おぼえておいで、|むち《ヽヽ》でぶってでも働かしてやるから」
見なれぬ客は、椅子にすわったままおかみのほうをふりむいた。
「おかみさん」と彼はおずおずしたように、しかしほほ笑みながらいった。「まあ。遊ばしておやりなさいよ」
もしそういうことが、夕食のとき一片の羊の焼肉でも食べ、ぶどう酒の一本もあけるような、ひどい貧乏人の様子をしてない客からいわれたのだったら、ひとつの命令と同じような力になったかもしれない。しかし、そんな帽子をかぶった男が希望を申し出たり、そんなフロックを着た男がなにかいったりすることは、テナルディエのおかみには許すべからざることのように思えた。彼女ははねつけるようにいいかえした。
「仕事をさせないわけにはいきませんよ、ものを食べますからね。なにもさせないで食べさせておくわけにはいきませんからね」
「いったい、なにをこしらえさせてるんですか」と男はやさしい声でいった。その調子は、彼の乞食《こじき》のような服装や人夫のような肩幅と妙な対照をなしていた。
おかみは、いかにも面倒だが、答えてやるといわんばかりにいった。
「靴下ですよ、あたしの娘どものね。もうみんななくなっちゃって、そのうち|はだし《ヽヽヽ》にならなきゃならないところですからね」
男はコゼットのまっ赤になっているかわいそうな足をながめ、そしていった。
「どれくらいかかったら、あの子はその靴下を仕上げられるんですか」
「まだ三、四日はたっぷりかかるでしょうよ、なまけものだから」
「じゃ、その靴下ができあがったら、いくらくらいになるんです」
おかみは軽蔑したような眼で男をじろっと見た。
「安くて三十スーくらいですね」
「じゃ、それを五フランで売ってくれませんか」と男はいった。
「なんだ!」とそれをきいていたひとりの馬方が太い笑い声をたてて叫んだ。「五フランだと。べらぼうな、鉄砲玉五つだと!」
亭主のテナルディエも、もう口を出すときだと思った。
「よろしゅうござんす。そういうことがしてみたいんでしたら、その靴下一足を五フランで差しあげましょう。お客のおっしゃることはことわるわけにはいきませんからな」
「すぐにお金を払っていただきましょう」とおかみは、いつものしごく簡単確実なやり方でいった。
「ではその靴下を買いますよ」と男は答えた。そしてポケットから五フランの貨幣をとり出してテーブルの上に置きながら、つけたしていった。「お金は払っておきますよ」
それから彼はコゼットのほうにむきなおった。
「もうお前さんの仕事は私のものだ。勝手にお遊びよ」
おかみは一言もなかった。彼女は唇をかんで、顔には憎悪《ぞうお》の表情をうかべた。
だが、コゼットはふるえていた。そして思いきってたずねてみた。
「おかみさん、ほんとですか。遊んでもいいんですか?」
「お遊び!」とおかみさんは恐ろしい声でいった。
「ありがとうございます、おかみさん」
コゼットは口ではおかみさんに礼をいっていたが、その小さな心のなかでは客に礼をいっていた。
テナルディエはまた酒を飲みはじめた。女房はその耳もとにささやいた。
「あの黄色い服の男は、いったい何者でしょう」
「わしは大金持ちがあんなフロックを着てるのを見たことがある」とテナルディエはもったいぶって答えた。
コゼットはそこに編物をほうり出した。だが、その場所からは出てこなかった。彼女はうしろの箱から古いぼろ切れと小さな鉛の剣とをとり出した。
エポニーヌとアゼルマのほうは、あたりにおこったことにはすこしも気をとめていなかった。二人はちょうど、大事なことをはじめたところだった。猫をつかまえたのである。人形はほうり出してしまっていた。そして年上のほうのエポニーヌは、猫が啼《な》きもがくのもかまわずに、赤や青の布切れでそれに着物をきせようとしていた。その大変むつかしい仕事をやりながら、妹に子供特有のやさしいみごとな言葉で話しかけていた。
「ねえ、この人形のほうがあれよりよっぽど面白いわよ。動いたり、泣いたり、それに、あったかいでしょ。ねえ、これで遊びましょうよ。これがあたしの小さな娘、あたしが奥さまよ。あたしがあんたんとこへゆくと、あんたがこの娘を見るの。そのうち、あんたはおひげを見つけてびっくりするの。それから耳を見つけ、こんどはしっぽを見つけてびっくりするのよ。で、あんたはあたしにいうの、あらまあ! って。するとあたしがいうの、ええ奥さん、これがあたしの小さな娘ですよ、いまどきの小さな娘はみんなこうですよって」
小鳥がなんででも巣をこしらえてしまうように、子供はどんなものでも人形にしてしまうものである。エポニーヌとアゼルマが猫に着物をきせてるあいだに、コゼットのほうでは剣に着物をきせていた。彼女はそれがすむと、腕にかかえて寝つかせるためにしずかに歌をうたった。
人形は女の子が一番ほしがるもののひとつで、また同時にそのもっとも可愛いい本能をしめすもののひとつである。世話をやき、下着をきせ、かざりたて、着物をきせ、またぬがせたり、いいきかせたり、少しはこごともいったり、ゆすって可愛がったり、寝つかせたり、そしてそれを生きもののように考える、それらのことのうちに女の未来がふくまれている。夢想したりおしゃべりしながら、小さな衣裳や産衣《うぶぎ》をつくりながら、かわいいドレスや小さな胴衣や小さな下着をつくりながら、子供は若い娘になり、若い娘は大きな娘となり、大きな娘は妻となる。そして最初にうむ子供は最後の人形となる。
人形をもたない少女は、子供のない婦人と同じく不幸で、また同じように不自然なものである。
テナルディエのおかみは、|黄色い服の男《ヽヽヽヽヽヽ》に近よって様子をさぐった。「うちの人のいうとおりだ」と彼女は考えた。「これはラフィットさんかもしれない。金持ちのうちにはおかしな人もあるものだから」
彼女は男のテーブルのところへいって肘《ひじ》をついた。
「旦那……」と彼女はいった。
その旦那《ヽヽ》という言葉に、男はふりむいた。おかみはそれまで彼を、|お前さん《ヽヽヽヽ》とか|おじいさん《ヽヽヽヽヽ》とかよんでいたのだった。
「あの、旦那」と彼女はやさしげにとりつくろっていった。その仕草《しぐさ》は彼女のじゃけんな態度よりなおいっそういや味なものだった。「あたしはあの子を遊ばしてやりたいのですよ。決してそれに反対してるわけじゃないんですよ。でもあの子はただで、ひきとってるんですよ。だから仕事をさせないわけにゃまいりませんので」
「じゃ、あなたの子じゃないんですか、あの娘は」と男はたずねた。
「あのように、まあ、慈善のために引きとってる貧乏な子なんですよ。いくら国許《くにもと》に手紙を出してみましても、もう六カ月というもの返事もありません。きっと母親は亡《な》くなったのにちがいありませんよ」
「ああ!」と男はいって、なにか考えにしずみこんでしまった。
「その母親といったって、べつに|しれた者《ヽヽヽヽ》じゃありません」とおかみはつけ加えた。「子供を捨てていったくらいなんですから」
そういう会話のあいだ、コゼットは自分のことを話されているのだと、ある本能から感じたらしく、テナルディエのおかみさんから眼をはなさなかった。彼女はぼんやりきいていた。
そのうちに酒を飲んでいた連中は、大てい酔っぱらって、ますます陽気になり、下品な歌をくり返しうたっていた。
コゼットは例のテーブルの下で火を見つめていた。その眼には火が赤くうつっていた。彼女は、それから自分でつくった赤ん坊を揺《ゆ》りはじめた。そして、そうしながら低い声でうたっていた。
「お母さん死んだ、お母さん死んだ!」
黄色い服の「大金持ち」は、おかみがうるさくすすめるので、ついに食事をとることにした。
「なにを差しあげましょう」
「パンとチーズ」と男はいった。
「なんだ、これはてっきり乞食にちがいない」とおかみはまた考えた。
酔っぱらいの連中はたえずうたを歌いつづけていたが、テーブルの下の娘もまた自分の歌をうたっていた。と、急に彼女は歌をやめた。彼女はふりむいた拍子に、テナルディエの娘たちの人形が、猫のためにほうり出されて、料理場のテーブルから数歩のところにころがってるのを見つけたのだった。彼女は着物をきせた剣をすてて、部屋のなかを見まわした。おかみさんは亭主になにか小声で話しながら金をかぞえていた。エポニーヌとアゼルマは猫をおもちゃにしていた。彼女はそのすきをのがさなかった。コゼットは膝《ひざ》と手とではい出してから誰も見ていないことをもういちどたしかめ、それから、いそいで人形のところまではっていってそれをつかんだ。そしてすぐ自分の場所にもどり、人形を腕のなかにだきしめてすわり、それをかくすように身をよじった。
誰も彼女を見てる者はなかった。ただ、そまつな夕食を食べているあの旅の男のほかは。
コゼットの喜びは十五分ばかりつづいた。
しかし、非常に用心してはいたが、コゼットは人形の片足が出ていることに気がつかなかった、そして煖炉の火がその足をはっきりてらし出していることに。そのばら色にかがやいた足が、突然アゼルマの眼についた。彼女はエポニーヌにいった。
「あら! 姉さん!」
二人の娘はあっけにとられて遊びをやめた。コゼットがずうずうしく人形をとっている!
エポニーヌは立ちあがって、猫をもったまま母親のところへいって、その|すそ《ヽヽ》をひっぱった。
「うるさいね!」と母親はいった。「どうしたんだよ!」
「お母さん、まあ、ごらんよ!」と子供はいった。そしてコゼットのほうをゆびさした。
コゼットは人形をもってることに有頂天《うちょうてん》になって、もうなにも目にも耳にもはいらなかった。
テナルディエのかみさんの顔には一種特別な表情がうかんだ。こんどは自尊心が傷つけられたので、ひどく腹をたててしまった。コゼットが自分の分際《ぶんざい》をこえて、「お嬢さんたち」の人形に手をつけたのだった。怒りのためにしゃがれた声で、かみさんは叫んだ。
「コゼット!」
コゼットは大地が足の下でぐらついたようにふるえあがった。
「コゼット!」とおかみさんはくりかえした。
コゼットは絶望的に、しかし大事そうにしずかに人形を下に置いた。それからなお人形から眼をはなさないで、両手を組合わせ、それくらいの年頃の子供には、みるも恐ろしいことであるが、その手をねじり合わせた。その日のいろいろな恐ろしいこと、森のなかにいったこと、水のいっぱいはいった桶の重かったこと、お金をなくしたこと、|むち《ヽヽ》をつきつけられたこと、そういった恐ろしさにあってもまだ出てこなかったものが、いまや彼女から出てきた。すなわち涙が。彼女は声をあげてすすり泣いた。
そのあいだに例の客は立ちあがっていた。
「どうしたのです」と彼はかみさんにいった。
「わかりませんか」とかみさんはいって、コゼットの足もとに横たわってる人形をさした。
「で、あれがどうしたんです」
「あの乞食娘が、うちの子供の人形に手をつけたんですよ」とかみさんは答えた。
「それで、そんなに大さわぎをしてるんですか!」と客はいった。「あの子が人形で遊んだのがどうしていけないんですか?」
「あのきたない手でさわられちゃあ――あの身ぶるいがするほどきたない手で」
するとコゼットは、さらにはげしくすすり泣いた。
「しずかにしないか!」とかみさんは叫んだ。
男はまっすぐに表の戸口のほうにゆき、それをひらいて出ていった。
彼が出てゆくと、かみさんはそのすきをねらって、テーブルの下のコゼットをしたたか蹴《け》りつけた。そのため娘は大きな叫び声をあげた。
戸はまたひらかれた。男は眼のさめるような人形を両手にかかえてそこにあらわれた。その人形は、通りで村の子供が朝からほしそうにながめ入っていたものだった。男は人形をコゼットの前にすえた。
「さあ、これがお前さんのだ」
彼はそこにきて一時間以上にもなるが、そのあいだ、なにやら考えこみながらも、あの玩具《おもちゃ》屋の店がランプやろうそくの光りでまぶしいばかりにてらされて、その宿屋のガラス戸ごしにイリュミネーションのように見えていたのを、ぼんやり見てたものと思われる。
コゼットは眼をあげた。男が人形をかかえて自分のほうにやってくるのを、まるで太陽が近づいてくるのを見るようにしてながめていた。|これがお前さんのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という、いままできいたこともない言葉を耳にして、彼女はその男をながめ、人形をながめ、それからそろそろとあとずさりをしながら、テーブルの下の壁ぎわにかくれこんでしまった。
彼女はもう泣きもしなければ、声もたてなかった。じっと息でもころしてるような様子だった。
テナルディエのかみさんと、エポニーヌとアゼルマとは、みなそこに立ちすくんでしまった。酒を飲んでた連中までその手をやすめた。部屋のなかは、おもおもしい沈黙にみたされた。
おかみは石のようになってだまったまま、また男を|せんさく《ヽヽヽヽ》しはじめた。「このじいさんはいったい何者だろう。貧乏人かしら、大金持ちかしら。きっとその両方かもしれない、といえばまあ、泥棒だが」
亭主は人形と客とをかわるがわる見くらべた。彼はまるで金袋でも嗅《か》ぎ出したみたいに、その男を嗅ぎわけているようだった。もっとも、それはほんの一瞬の間のことだった。彼は女房のほうに近づいて、低い声でささやいた。
「あの人形は少なくとも三十フランはするぞ。馬鹿な真似をしちゃいけねえ。あの男の前に膝《ひざ》をさげろよ」
「さあ、コゼットや」とかみさんはやさしくしたつもりの声でいった。けれども、それは意地悪女のすっぱい蜜から出てくる声だった。「人形をいただかないのかい」
コゼットは思いきって穴から出てきた。
「コゼット」とテナルディエも甘やかすような声でいった。「旦那が人形をくださるんだ。さあ、もらいな。その人形はお前のだよ」
コゼットはびっくりしたようにそのみごとな人形をながめた。その顔はまだ涙にまみれていたが、その眼は喜びでかがやいていた。そしておかみさんのほうをむいておずおずしながら、口の中でつぶやいた。
「よろしいんでしょうか、おかみさん」
そのときの彼女の、同時に絶望と恐怖と歓喜とのこもった様子は、いかなる言葉をもってしても書きあらわすことはできないものだった。
「いいとも! お前んのだよ。旦那がお前にくださるんだから」
「ほんとなの、おじさん」とコゼットはいった。「ほんとなの、あたしのですか、この|奥さま《ヽヽヽ》は」
男の眼には涙があふれているらしかった。彼は感情がたかぶっていて、涙を流さないために口もきけないような状態にあるように思われた。彼はただコゼットにうなずいてみせ、その「奥さま」の手をコゼットの小さな手ににぎらせてやった。
「あたし、このお人形にカトリーヌって名をつけよう」と彼女はいった。
コゼットのぼろぼろの着物に、人形のリボンやばら色のぱっとしたモスリンの着物が押しつけられてるのはいかにも異様な光景だった。こんどはエポニーヌとアゼルマがうらやましそうにながめていた。
コゼットはカトリーヌを椅子の上に置いた。それから自分はその前の地面にすわって、じっと見入って、だまったまま身動きもしなかった。
「さあ、お遊び、コゼット」と男はいった。
「ええ、遊んでるのよ」と彼女は答えた。
天からコゼットのところへ送られた見ずしらずの男を、テナルディエのおかみはそのとき、この世でもっとも憎むべき者のように思った。しかし、自分を抑《おさ》えなければならなかった。彼女はなにごとにも夫を真似ようとしていたので、仮面をかぶることにはよくなれていたが、それでもそのときの感情にはほとんどたえがたいものがあった。彼女はいそいで自分の子供たちを寝床に追いやった。それからコゼットもねかすように、その黄色い服の男に許しを求めた。そして、|今日は大変疲れていますから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》などと、いかにも母親らしい様子でつけたした。で、コゼットは、両腕にカトリーヌを抱いて寝にいった。
男はテーブルの上に肘《ひじ》をついて、またなにか考えこんでるような様子をしていた。商人や馬方たちは遠くから彼をながめていた。あんなみすぼらしい服をきながら、平気でポケットからごっそり金を出して人形を買ってやった男は、たしかにすてきな、また恐ろしいじいさんにちがいなかった。
そのうちに酒飲みの連中もたち去ってしまい、酒場の戸もとざされ、火も消えてしまったが、不思議な男は、なお同じ席に同じ姿勢でじっとしていた。彼はコゼットが去ってからはもうひとことも口をきかなかった。
テナルディエ夫婦だけが礼儀と好奇心とからそこに残っていた。「夜どおしあんなふうにしてるつもりかしら」と女房はつぶやいた。
午前二時が鳴ったとき、彼女はついに根負けして亭主にいった。
「あたしはもう寝ますよ。好きなようにするがいいわ」
亭主は片すみのテーブルにすわってろうそくをつけ、新聞を読みはじめた。そういうふうにして一時間ばかりだった。亭主は少なくとも三度くらいはくり返して新聞を読んだが、男はいっこう身を動かそうともしなかった。
テナルディエは身体を動かし、咳《せき》をし、唾《つば》をはき、鼻をかみ、椅子をがたがたならしたが、それでも男は身動きもしなかった。「眠ってるのかな」とテナルディエは考えた。だが男は眠ってるのではなかった。
とうとうテナルディエは帽子をぬぎ、しずかに近よってゆき、思いきって彼に言葉をかけた。
「旦那、お休みになりませんか」
「ああ、そうだ」と男はいった。「うまやはどこにあります」
「旦那」とテナルディエは微笑をうかべていった。「ご案内しましょう」
亭主は明りをとり、男は包みと杖をとった。そして亭主は彼を二階の部屋に案内した。それは特別立派な部屋で、マホガニー製の家具がそなえてあり、船型寝台と赤いキャラコのカーテンがついていた。
「これはいったいなんですか?」と旅の男はいった。
「わたしどもの結婚のときの部屋でございます。今ではわたしどもはほかの部屋に寝るようにしています。一年に三、四度しか誰もはいらないのでして」
「私には、うまやでも同じだったのに」と男は無造作にいった。
テナルディエはそのあまりに愛想のない言葉を、耳にしなかったようなふりをした。
彼は煖炉の上に出てる二本の新らしいろうそくに火をともした。炉のなかにはかなりよく火が燃えていた。煖炉の上の硝子器《がらすき》のなかには、銀糸とオレンジの花のついた女の帽子が置いてあった。
「これは、なんですか?」と男はいった。
「旦那、それは家内の結婚のときの帽子ですよ」とテナルディエは答えた。
旅客はそれをながめたが、彼は、「ではあの怪物にも処女の時代があったのか」とでもいうような眼つきをしていた。
テナルディエは嘘《うそ》をいったのだった。その部屋は、その家を借りて飲食店にしようとしたときから、いまのままだったのである。彼はそれらの家具やオレンジの花の中古の帽子なども、よそから彼が買いとったものだったのである。それによって「自分の配偶者」には優雅《ゆうが》な光りをそえることになり、そうしておけばこの家もイギリス人のいわゆる立派な体面をそなえることになると、彼は考えたのだった。
亭主は自分の部屋にひきさがった。女房は床についていたが、眠ってはいなかった。亭主の足音がきこえたとき、彼女はふりむいていった。
「あたし、あしたになったらコゼットを叩《たた》き出してしまいますよ」
テナルディエはひややかに答えた。
「そうか」
彼らはそれからひとことも言葉をかわさなかった。
旅客のほうでは、部屋の片すみに杖と包みとを置いた。亭主が出てゆくと、肘掛椅子《ひじかけいす》にすわってしばらく考えこんだ。それから靴をぬぎ、ろうそくを一本とって、扉をひらき、なにかをさがすように眼をくばりながら部屋を出ていった。廊下を通って階段のところまでくると、子供の寝息のようなかすかな音がきこえた。その音にひかれて、彼は階段の下につくられてる――というより、階段でできてる一種の三角形の押入れみたいなところへやって来た。それは階段の下のすき間にすぎなかった。そこの古|籠《かご》や古|瓶《びん》などのあいだの埃《ほこり》やくもの巣などのなかに、ひとつの寝床があった。もっとも寝床といっても、穴があいてなかの|わら《ヽヽ》が見えてるふとんと、下まですけてみえるほど穴だらけの掛け布にすぎなかった。それだけがじかに床石の上に置かれていた。コゼットはそこに眠っていた。
男は近づいて彼女をながめた。
コゼットはよく眠っていた。着物もきたままだった。冬には、なるべく寒くないように着物もぬがないで眠るのだった。彼女は人形をしっかりとだいていた。
コゼットの寝てる物置のそばにひとつの扉がひらいたままになってて、そこからかなり広いうす暗い部屋が見えた。男はそこにはいっていった。奥のほうに一対《いっつい》の小さなまっ白い寝床が見えた。エポニーヌとアゼルマの寝台だった。
男はその部屋がテナルディエ夫婦の寝てる部屋につづいていることを察した。そして引きかえそうとしたとき、彼の眼は、そばの煖炉のなかにむけられた。そこには火もなければ灰もなかったが、男の注意をひくものがあった。それは可愛らしい大小二つの子供靴だった。クリスマスの夜、靴を置いて、親切な妖精《ようせい》が、それに立派な贈物をもって来て入れてくれるのを待つという、あの古くからの子供の習慣を、彼はそのときふと思い出した。エポニーヌとアゼルマとはそのことを忘れないで、めいめい自分の靴を片方ずつ煖炉のなかに置いていたのだった。男は身をかがめてのぞいてみた。
親切な妖精、すなわち母親はすでにやってきたとみえて両方の靴のなかにはそれぞれ新らしい十スー銀貨が光っていた。
男は立ちあがって去ろうとした。そのとき彼は、炉の奥のほうの暗いところに、もうひとつなにかがあるのをみとめた。よく見ると、それは木靴だった。不恰好《ぶかっこう》なみにくい木靴で、なかばこわれかかって、乾いた泥と灰とにまみれていた。いくらだまされても決して気をおとさない子供心のいじらしい信頼で、コゼットはそこに自分の靴を置いたのだった。
絶望のほかはなにも知らなかった子供のうちにも、なお残っているその希望こそ、崇高《すうこう》な、またやさしいものではないか。
その木靴のなかには、なにもはいっていなかった。
男はチョッキのなかをさぐって、コゼットの靴のなかにルイ金貨をひとつ入れた。それから彼は、ぬき足で自分の部屋にもどった。
四
翌朝、夜明けより二時間ほど前に、テナルディエは酒場の天井の低い広間で、ろうそくのそばにすわって、手にペンをとり、黄色いフロックの客への請求書をしたためていた。
女房はそばに立ち、なかば身をかがめて彼のペンのあとをたどっていた。彼らはひとことも口をきかなかった。家のなかにはただひとつの物音がしてるだけだった。それはコゼットが階段を掃除してる音だった。
十五分ばかりたってから、テナルディエはつぎの傑作をつくりあげた。
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一号室様への勘定書
一、夕食 三フラン
一、部屋代 十フラン
一、ろうそく代 五フラン
一、炭代 四フラン
一、サービス料 一フラン
合計 二三フラン
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「二三フラン!」と女房はちょっとためらいの色をうかべながら、思わず叫んだ。
あらゆる芸術家と同じように、テナルディエはそれでもなお満足していなかった。
「ふん!」と彼はいった。
それはまるで、ウィーン会議において、フランスの賠償金をきめてるキャッスルレーのような調子だった。
「なるほどそうね。それが当然よ」と女房は自分の娘たちの面前で、男がコゼットに人形をあたえたことを思いうかべながらつぶやいた。「それくらいあたりまえさ。だけど、あんまり多すぎやしない? 払うかしらね」
テナルディエは冷やかに答えた。そしていった。
「いや、払うさ」
その笑いは、確信と亭主の権威をはっきりと示したものだった。で、女房もべつにつよくいい張らなかった。彼女はテーブルをならべはじめ、亭主は部屋のなかをあちこち歩きまわった。しばらくして彼はまたつけ加えた。
「こっちは千五百フランの貸しがあるんだからな」
彼は煖炉のすみにいって腰かけ、両足をあたたかい灰の上にさし出しながら考えこんだ。
「ねえ」と女房がいった。「今日はどうあってもコゼットを叩《たた》き出しますよ、ようござんすか。あの畜生め! 人形をもってるところを見ると、あたしゃむかむかしてくる。あいつをこれから一日でも置くくらいなら、ルイ十八世のお妃《きさき》になったほうがまだましだよ!」
テナルディエはパイプに火をつけ、煙をふかしながらそれに答えた。
「お前からあの男に勘定書をわたしてくれ」
そして部屋から出ていった。
彼が出てゆくやいなや、例の旅の男がはいってきた。
テナルディエはすぐにまた客のうしろにあらわれ、女房にだけ見えるようにして、半分ばかりひらいた扉のところにじっと立ちどまった。
黄色い服の客は、杖と包みとを手に持っていた。
「まあ、こんなにおはやく!」とおかみはいった。「もうおたちですか」
そういいながら彼女は、工合《ぐあい》悪そうに勘定書を両手のうちにひねって、爪で折り目をつけていた。その冷酷な顔にはめずらしく不安そうな色がみえていた。どうみても貧乏人としか思えない男に、そんな請求書を出すことがなんだか不安になってきたのだった。
客はなにかに心をうばわれて、ぼんやりしてるみたいだった。彼は答えた。
「ええ、もうたちます」
「旦那は、モンフェルメイユに用事がおありじゃないんですか」
「いや、ただ通りがかったのです……で、勘定は?」
おかみはなにも答えないで、折りたたんだ請求書を彼に出した。
男はそれをひろげてながめた。が、彼の注意はほかのほうにむけられてるらしかった。
「おかみさん」と彼はいった。「この土地で、店のほうははやりますかね」
「どうにかこうにかですよ、旦那」
彼女は男が答えないので、悲しそうになげくような調子でまたいった。
「どうも、不景気でございますよ。出費がなにかと多うございますし、まああの小娘を食わしておくのだって大ていのことじゃございませんからね」
「どの娘ですか」
「あの、ごぞんじの小娘でございますよ、コゼットという。この辺ではみなさんに雲雀娘《アルーエット》っていわれてますが」
「ああ、なるほど」
「百姓って、なんて馬鹿なんでございましょう、そんなあだ名なんかをつけて。ねえ旦那、あたしどもは人さまに慈善をお願いすることなんかしませんが、自分で慈善をするだけの力はございません。それにあたしには自分の娘があるんですから、他人の子供を育てなきゃならないわけもありませんしね」
男はつとめてなにげない様子をよそおって口をひらいたが、その声はいくらかふるえていた。
「じゃ、その厄介者《やっかいもの》をつれていってあげましょうか」
「誰を、コゼットでございますか」
「そうです」
おかみの顔は、みにくい喜びの表情にかがやいた。
「まあ旦那、ご親切な旦那! あれを引きとってくださるのですか、どうかあれを引きとってつれてってくださいましよ。砂糖づけにするなり、食うなり、どうにでもしてよろしゅうございます。まあ、なんてありがたいことでございましょう」
「では、そうしましょう」
「ほんとですか、つれてってくださいますか」
「つれてゆきます」
「あの、すぐにですか?」
「すぐにです。呼んで下さい」
「コゼット!」とおかみはよんだ。
「だが」と男はいった。「勘定は払わなければなりません。いくらです」
彼は勘定書を一目見たが、おどろきの様子をおさえることはできなかった。
「二十三フラン!」
彼はおかみをながめて、またくり返した。
「二十三フラン?」
そうくり返した言葉の調子には、おどろきばかりでなく、疑惑がこもっていた。
「さようでございます、二十三フランです」
男はテーブルの上に五フラン貨幣を五つ置いた。
「では、あの娘をここへつれて来て下さい」と彼はいった。
そのとき、テナルディエが部屋のまん中に出てきていった。
「旦那の勘定は二十六スーでいい」
「二十六スー!」と女房は叫んだ。
「部屋が二十スー」とテナルディエは冷やかにいった。「それに夕食が六スー。娘のことについてはちょっと旦那に話がある。お前は席をはずしてくれ」
女房は千両役者が舞台に現われたような気がした。彼女は一言も返さないで出ていった。
二人だけになると、テナルディエは客に椅子をすすめた。客は腰をおろした。テナルディエは立っていた。
「旦那、まあおききください。わたしはまったくあの子が可愛いんでして」
男はじっと彼を見つめた。
「どの子です?」
テナルディエはつづけていった。
「妙なもんですよ、心をひかれるなんて。おや、この金はどうしました。まあこれはお納めください。で、わたしゃその娘が可愛いんでしてね」
「いったい誰のことです」と男はまたたずねた。
「なに、うちのコゼットですよ。旦那はあれをつれてってやろうとおっしゃるんでしょう。そこで、正直なところを申しあげると、実はわたしゃそれに不同意なんです。あの子がいないとなんとなく気抜けがしますのでね。ごく小さい時分から育てましたんで。そりゃ金もかかりましたとも。あれが病気にかかりまして、いちどに四百フランあまりの薬代も払ったことがありますが、神さまのためと思えば少しぐらいはしてやらなければなりませんや。親がありませんので、わたしの手ひとつで育てましたよ。実際あの子を大事にしています、まあ人情が出てきたんですな」
男はなおじっと彼をながめていた。彼はつづけた。
「失礼ですが旦那、通りがかりの人に、自分の子をこうしてわたしてしまう者もありますまい。わたしが申すことも道理でござんしょう。そこで、旦那はお金持ちで、お見受けしたところ立派な方で、それがあの子のためになるかどうかと申すのではありませんが、それでもよく事情がわかっていませんことにはね。おわかりでしょうが、あれをやるとしまして、あれがどこへゆくかぐらいは知って置きたいんです。見失いたかあありませんよ。どこにいるかぐらいは知ってて、ときどきは会いにもゆきましょうし、またあの子も、育て親があって自分を見ててくれてたということをいつかは知るというわけです。世間にはずいぶんと思いがけないことも起りますからね。わたしゃ旦那の名前さえ存じませんし、あれをつれてゆかれるとしたら、なにかちょっとした書きものでも、まあ通行券なりと、ちょっと拝見して置きたいと思いますが」
男は相手の心の底までもつらぬくような眼つきでじっと彼をながめ、断乎たる調子でいった。
「テナルディエ君、パリから五里くらいはなれるのに通行券をもってくる者はいませんよ。コゼットをつれてゆくといったらつれてゆくだけのことです。私の名前も、私の住所も、コゼットがどこへゆくかも、きみに知らせる必要はない。私はあの子を生涯二度ときみにあわせないつもりです。私はあの子をにがしてやろうというのです。それでどうですか、承知ですか、不承知ですか」
テナルディエは、悪魔や妖鬼などがなにかのしるしで自分よりまさった神のいることを知ったときのように、相手がなかなか手ごわいことをさとった。それはほとんど直感だった。彼はそれをすばやくはっきりとさとった。前夜、馬方たちと酒を飲みながら、煙をふかしながら、卑猥《ひわい》な歌をうたいながら、彼は猫のようにうかがい、数学者のように研究して、しじゅうその見なれぬ男を観察していたのである。彼は同時に自分のためと、またひとつは楽しみと本能から男をうかがい、まるで金ででもたのまれたように監視していたのだった。それでその黄色い上衣の男の一挙手一投足は、ことごとく彼の眼をのがれはしなかった。男がコゼットに対する興味をはっきりしめさない前から、テナルディエはすでにそのことを見破っていた。その老人の奥深い眼つきがたえずコゼットのほうへむけられてるのを見てとっていた。なぜ、そんなに興味をもつのだろう? いったい、何者だろう? 金をしこたまもっていながら、なぜあんなにみすぼらしい身なりをしてるのだろう? そういう問いを彼は自分に発し、そして解決できずにいらだっていた。彼はそのことを夜どおし考えた。あの男がコゼットの父親であるわけはない。では祖父だろうか? それならなぜすぐに名のらないのだろう! 権利のある者は、すぐにそれを示すはずである。あの男は明らかにコゼットに対してはなんらの権利ももっていないにちがいない。するといったい何者だろう? テナルディエはどう推測していいかわからなくなってしまった。彼はすべてを|かいま《ヽヽヽ》見たが、ついになにものもはっきり見わけることができなかった。とはいうものの、その男に、あれこれとしゃべりかけながら、これにはなにか秘密があって、男は身分をかくしたがってるのだなと思い、彼は自分の強味を感じた。ところが男のきっぱりした返答にであい、そのふしぎな男はただあやしいばかりで少しもとらえどころがないとわかったとき、今度は彼のほうが自分の弱味を感じた。彼は全くそういうことは予期していなかった。彼の推測はことごとく破れてしまった。彼はあらゆる考えを集中してみた。そして一瞬のうちに思いなおした。彼は一目で前後の事情を判断しうるようなすばしこい男だった。でいまや単刀直入にことをはこぶべき場合だと考えた。まるで他人の眼にはわからない熟慮断行の危機に立った大将軍のように、ついに彼は豹変《ひょうへん》した。彼は砲門をかくしていた幕を、突然ひきはらった。
「旦那、わたしゃ千五百フランいただきたいんです」
男はポケットから黒革の古い紙入れを出し、それをひらいて紙幣三枚を引き出してテーブルの上に置いた。それからその紙幣の上を大きな親指でおさえて亭主にいった。
「コゼットをよびなさい」
さて、そういうことが行われてるあいだに、コゼットはなにをしていたか?
その朝、コゼットは眼をさますと、木靴のところへ走っていった。彼女はそこに金貨を見出した。コゼットは眼がくらむような気がした。彼女の運命は、彼女を眩惑《げんわく》しはじめた。彼女は金貨がどんなものだか知りもしなかった。まだいちども見たことがなかった。彼女はそれを盗みでもしたように、いそいでポケットのなかにかくした。が、たしかに自分のものだということは感じていた。誰がそれを自分にくれたかも察していた。一種の恐ろしさにみちた喜びを感じた。彼女は満足だったが、それよりびっくりしていた。そういう立派な、きれいなものが、現実にあるとは思えなかった。人形は彼女を怖《こわ》がらせ、また金貨は彼女を怖がらせた。彼女はそういうすばらしいものの前になんとなく身をふるわせた。ただあの見しらぬ男だけは、彼女を怖がらせなかった。いや、かえって彼女を安心させてくれた。
すでに前夜から、おどろきのうちにも、また眠りのうちにも、彼女は小さな子供心にも、年とった貧乏な悲しそうな様子をしながら、金持ちで情け深いその男のことを考えつづけていた。その老人に森のなかで出会ってから、彼女にはすべてが一変したように思われた。空とぶ一羽の小さな燕《つばめ》よりもなお不仕合《ふしあわせ》なコゼットは、母のかげやその翼の下に身をかくすということがどんなものであるか、かつて知らなかった。五年この方、すなわち彼女の記憶にあるかぎり、あわれな小娘の彼女はたえずおののいていた。いつも不幸という、するどい寒風の下に裸でさらされていた。ところがいま、彼女は身に着物をまとったような心地がした。彼女はもうテナルディエのかみさんも、それほど怖くはなかった。もはやひとりぼっちではなく、誰かがそばにいてくれた。
彼女はきまった朝の仕事にいそいでとりかかった。自分の身につけてるルイ金貨のほうへ、前夜十五スー銀貨を落したおなじエプロンのポケットのほうへ、しきりに気をとられた。彼女はそれにさわってみようとはしなかったが、五分間もじっとそのことを考えてることがあった。階段を掃除しながらも、手をやすめてそこにじっとたたずみ、箒《ほうき》のことも、またなにもかも世の中のことを忘れて、自分のポケットの底にかがやいてるその星を心で見つめていた。
そんなふうにして考えこんでいるときだった。テナルディエのかみさんが彼女のところへやって来た。
亭主のいいつけでコゼットをさがしにきたのだった。ふしぎにも彼女はぶちもしなければ、どなりもしなかった。
「コゼット」と彼女は妙にやさしい声でいった。「すぐにおいで」
コゼットは天井のひくい広間にはいって来た。
見しらぬ男は、もってきた包みをとりあげ、それをひらいた。なかには、小さな毛織りの服、エプロン、綿麻の下着、ペチコート、ネッカチーフ、毛糸の靴下、靴など、すべて八才の少女に必要ないっさいの衣類がはいっていた。それらはみな黒色のものばかりだった。
「さあ、お前」と男はいった。「これをもっていってすぐに着かえておいで」
日が出ようとするころ、戸をあけはじめたモンフェルメイユの人々は、みすぼらしい身なりをした老人が、腕にばら色の大きな人形をかかえた喪服《もふく》の少女の手をひいて、パリ街道を歩いてゆくのをみた。彼らはリヴリーのほうへすすんでいった。
それはあの男とコゼットだった。
誰もその男を知ってる者はなかった。またコゼットも、ぼろを着ていなかったので多くの人はそれに気づかなかった。
コゼットはたち去っていった。誰と一緒に? 自分でもそれを知らなかった。どこへむかって? 自分でもそれを知らなかった。ただ彼女が知ってたことは、いまや自分はテナルディエの飲食店をあとにしてるということだけだった。誰も彼女には別れをつげようとするものもいなかった。また彼女も、誰に別れをつげようとも思わなかった。憎み憎まれたその家から彼女は出てゆくのだった。
心にただ圧迫のみを受けていたあわれなやさしい娘よ!
コゼットは大きな眼をひらいて、大空をながめながらしっかりした足どりで歩いていた。彼女は新らしいエプロンのポケットにルイ金貨を入れている。ときどき身をかがめてはちらっとそれをのぞきこみ、それから老人を見あげた。彼女はまるで神さまの近くにでもいるような気持ちだった。
五
男とコゼットが立ち去ったとき、テナルディエは十五分ばかりじっとしていたが、やがて女房をよんで千五百フランを見せた。
「それだけですか!」と彼女はいった。
二人が家をもっていらい、彼女が亭主の仕事に批評がましい口をきいたのは、それがはじめてだった。
それは兄事に的《まと》を射ていた。
「なるほど、お前のいうとおりだ」と彼はいった。「|へま《ヽヽ》をやったな。おい、帽子をとってくれ」
彼は三枚の紙幣を折ってポケットにつっこみ、大急ぎで出ていった。しかし彼は方向をまちがえて、はじめ右のほうへいった。それから近所の者にたずねてほんとうの方向を知った。彼は独りごとをいいながら大股にすすんでいった。「あの男は黄色い服をきてるが、たしかに大金持ちだ。おれは馬鹿だった。はじめに二十スー出し、それから五フラン、つぎに五十フラン、それからまた千五百フラン、それもあっさり出してしまった。一万五千フランだって出したかもしれん。しかし今からだって追っつけねえことはねえ」
考えてみれば、あの男が子供のために前から着物の包みを用意してきていたことからしてあやしかった。それにはなにか秘密があるにちがいなかった。秘密をつかんでおいて手放すという法があるものか。金持ちの秘密は金をふくんだ海綿と同じだ。それをしぼってやらねばならぬ。そういう考えが彼の頭のなかにうずまいてた。「おれは馬鹿だった」と彼はひとりごちた。
モンフェルメイユを出て、リヴリーへゆく道が曲ってるところまでゆくと、その先は高原のつづいているのが遠くまで見渡される。で、そこまでゆけば男と娘が見えるものと彼は思った。だが、そこまできてもなにも見えなかった。そうしているうちに時はたつばかりだった。通りがかりの人々の言葉では、彼がさがしてる男と娘とは、ガニーに面した森のほうへいったらしかった。彼はそのほうにいそいだ。
二人はテナルディエより先に出かけていたが、子供の足はおそい。それにテナルディエは速く歩いていたし、その辺の地理にもくわしかった。
突然、彼は立ちどまって頭を叩《たた》いた。まるで大事なものを忘れて、ひっかえそうとしてる者のようだった。「銃をもって来るんだった!」と彼は思った。
ちょっと迷ったが彼は考えた。「ええい、ぐずぐずしてるうちに逃げてしまうわい!」
そして彼は大いそぎでまっすぐ進んでいった。やがてひとつの帽子が茂みの上にのぞいているのが眼にとまった。それはあの男の帽子だった。茂みは低かった。テナルディエは男とコゼットがそこにすわってるのを見てとった。コゼットのほうは小さいので見えなかったが人形の頭が見えていた。
テナルディエの見当はまちがわなかった。男は実際そこにすわってコゼットを休ませていたのである。テナルディエは茂みをまわって、二人の前に突然現われた。
「ごめんなすって」と彼は息をきらしながらいった。「旦那の千五百フランをもってまいりました」
そういいながら、彼は三枚の紙幣を男の前にさし出した。
男は眼をあげた。
「それはいったい、どういうわけです」
テナルディエはていねいに答えかえした。
「旦那、コゼットを返していただきたいと申すのです」
コゼットは身をふるわして、男にひしと寄りすがった。
男はテナルディエの眼のなかをのぞきこみながら、一語一語ゆっくりと答えた。
「きみがコゼットを、返してもらいたいのですと?」
「はい旦那、返していただきましょう。こういうわけなんです。よく考えてみますと、実際わたしゃ旦那に娘をお渡しする権利はないんです。わたしは正直な人間ですからな。この娘はわたしのものじゃなくって、母親のものです。この娘をあずけていったのは母親ですから、母親にだけしか渡すことはできません。母親は死んでるんではないかと旦那はおっしゃるんでしょう。ごもっともです。で、この場合わたしは、この人に子供を渡してくれといったような、なにか母親の署名した書きつけでももってきた人にしか、子供を渡すことはできませんのでして。あたりまえでござんしょう」
男はなんとも答えないでポケットのなかをさぐった。テナルディエは紙幣のはいった紙入れがまた出てくるのを見た。彼はうれしさにぞっとした。
「うまいぞ」と彼は考えた。「ひとつ談判をしてやろう。おれを買収するつもりだな」
紙入れをひらく前に、男はあたりを見まわした。まったく人里はなれた場所だった。森のなかにも、谷あいにも人影ひとつ見えなかった。男は紙入れをひらいた。なかからとり出されたのは、テナルディエが待っていたひとつかみの紙幣ではなく、一枚の小さな紙片だった。男はそれをひらいて、テナルディエの前につきつけていった。
「ごもっともです。これを読んでもらいましょう」
テナルディエは紙片をとりあげて読んだ。
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モントルイユ・シュル・メールにて、一八二三年三月二十五日
テナルディエ様
この人ヘコゼットをおわたしください。
いろいろな費用はすべてお支払いいたします。
なにとぞよろしくお願いいたします。
ファンティーヌ
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「きみはこの署名をおぼえていましょうね」と男はいった。
それはいかにもファンティーヌの署名だった。テナルディエはそれを認めた。
「その書きつけはうまく似せてある」と彼は口のなかでぶつぶついった。「まあ仕方《しかた》がない」
それから彼は絶望的な努力をこころみた。
「旦那」と彼はいった。「よろしゅうござんす、あなたがその人ですから。だけど『いろいろな費用』は払っていただかなけりゃなりませんよ。相当な額になりますからな」
男はすっくと立ちあがった。そしてすり切れた袖《そで》についたちりを指先ではらいながらいった。
「テナルディエ君、この正月に母親は百二十フランきみに借りがあるといってました。ところがきみは二月に五百フランの覚え書を送ってきて、二月の末に三百フランと三月のはじめに三百フラン受けとっている。そのときから九カ月たっているので、約束どおり月に十五フランとして百三十五フランになるわけです。ところがきみは前に百フランよけいにとってるから、残りの金は三十五フランになるわけです。それに対して私はさっき千五百フラン払ってあげた」
テナルディエの気持は、まるで狼がわなにかかってその鉄の歯でおさえつけられたときのようなものだった。
「こん畜生、何者だろう?」と彼は考えた。
そのとき、彼は狼と同様なことをした。彼は胴をふるわせた。大胆《だいたん》な態度は前にいちど成功したのだった。
「名前もわからない旦那」とこんどはていねいなやり方をすてて決然としていった。「わたしゃコゼットをつれて帰るまでです。さもなければ三千フランいただきましょう」
見しらぬ男はしずかにいった。
「さあおいで、コゼット」
彼は左手にコゼットの手をとり、右手で杖を拾いあげた。
テナルディエはその杖がばかに大きいことと、あたりに人影のないことに気がついた。
「銃も持たずに猟にきたわけだ。おれは馬鹿だった!」と彼は考えた。
が、彼はなお獲物を逃そうとしなかった。
「どこへゆくか見とどけてやれ」といって、遠くから二人の跡《あと》をつけはじめた。
木立がこんでいたので、彼は二人に近よらねばならなかった。男は茂みのもっとも深い所にきたときふり返ってみた。テナルディエは木の枝のかげに姿をかくそうとしたがだめだった。男は不安そうに彼に一瞥《いちべつ》をくれて、それから頭をふってまた歩き出した。テナルディエはまたその跡をつけた。そんなふうにして彼らは二、三百歩ばかりすすんだ。と突然、男はまたふりむいた。彼はまたテナルディエを認めた。こんどはすごい顔をして彼をにらみつけた。そこで、テナルディエもそれ以上|つけて《ヽヽヽ》いっても無駄だとさとった。彼はひっ返していった。
六
ジャン・ヴァルジャンは死んだのではなかった。
海に落ちたとき、いや、むしろすすんで海に身を投げたとき、彼は前にのべたように鎖からとかれていた。彼は水中をくぐって碇泊中のある船の下まで泳ぎついた。一|艘《そう》の小舟がその船につないであった。彼は晩まで小舟のなかにかくれていることができた。夜になってふたたび泳ぎだし、ブロン岬からほど遠くない海岸についた。金はもっていたので、服を手に入れることができた。バラギエの近くに一軒の居酒屋があって、その当時脱獄囚のために服を売っていた。ひどく儲《もう》かる商売だそうである。
それからジャン・ヴァルジャンは、法律の眼と社会の掟《おきて》とをのがれようとするすべての悲しい脱走人と同じように、人しれぬ曲りくねった道をたどった。ボーセの近くのプラドーに、はじめのかくれ場所を見つけた。それからオート・ザルプ県にはいり、ブリアンソンの近くのグラン・ヴィヤールの方向にすすんだ。手さぐりのような不安な逃走で、分れ道などは手さきまっ暗な|もぐら《ヽヽヽ》の穴のような道を歩いてるような気持ちだった。あとになって彼の逃走の跡は多少明らかになった。すなわち、エーン県ではシヴリューのあたり、両ピレネー県ではシャヴァイユ村の近くのグランジュ・ド・ドゥーメックといわれてるアコン、それからペリグーの近くではシャペル・ゴナゲ郡のブリュニー。そして最後にパリにはいった。それから彼がモンフェルメイユに来たことは読者のすでに見たところである。
パリに来て、彼のだいいちの仕事は七、八歳の少女のための喪服《もふく》を買うことであり、ついで住居を求めることだった。それがすんで、彼はモンフェルメイユにおもむいたのである。
彼はこの前の逃走のとき、すでにモンフェルメイユか、その付近にひそかに旅をしたのだった。それはうすうす警察のほうでさぐられていた。
だが、こんどは彼は死んだものと思われていた。そのため、彼をおおいかくしてる闇はさらに深くなった。パリで、彼は自分のことをのせてる新聞を手に入れた。彼はそれで安心し、まるでほんとにジャン・ヴァルジャンという自分が死んだような平和をおぼえた。
テナルディエ夫婦の毒牙からコゼットを救い出した日の夕方、ジャン・ヴァルジャンはふたたびパリにはいった。夕ぐれどき、コゼットとともにモンソー市門からはいった。その市門のところで幌《ほろ》馬車にのり、天文台の前の広場までいった。そこで馬車をおり、馭者に金を払い、コゼットの手をひいて、二人で暗い夜のなかをウールシーヌとグラシェールにつづく人気のない街を通って、オピタル大通りのほうへすすんでいった。
コゼットにとっては、その日は感動にみちた異様な一日だった。人通りのすくない飲食店で買ったパンとチーズを、生垣《いけがき》のかげで食べたこともあった。たびたび馬車をかえたりしばらくは徒歩でいったりした。彼女はすこしも不平をこぼさなかった。しかしだいぶ疲れていた。歩きながらしだいに彼女が手にひきずられるようになったので、ジャン・ヴァルジャンもそれに気がついた。彼はコゼットを背中におぶった。コゼットは人形のカトリーヌを手にもったまま、頭をジャン・ヴァルジャンの肩につけ、そのまま眠ってしまった。
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第四章 ゴルボー屋敷
一
今から四十年ばかり前のことである。ひとりでぶらぶら歩きまわって、サルぺートリェールの奥の裏街にはいっていって、大通りをイタリア市門のほうまですすんでゆくと、ついにパリの街もつきたとおもわれるような一|廓《かく》に出たものである。そこは、通行人のあるところをみると野原ではなく、人家や街路のあるところをみると田舎でもなく、田舎の街道のような通りには車の跡があり、草が茂っているところをみると町ではなく、人家がかなり高いところをみると村でもなかった。では、いったいどういうところなのか? 人が住んではいるが、誰の姿もみえない場所であり、ひっそりとしてはいるがやはり誰かがいる場所だった。それは大都会の並木街であり、パリの一街路ではあるが、夜は森のなかよりいっそう恐ろしく、昼は墓地よりいっそう陰気だった。
それはマルシエ・オー・シュヴォーという古い一廓である。
その場末のくずれかかった四つの壁のむこうまですすんでゆき、プティ・バンキエ通りをたどり、たかい壁でかこまれた菜園を右手に過ぎ、大きな海狸《ビーバー》の巣に似たタン皮のたばが立ってる牧場のところを通り、木片や|のこくず《ヽヽヽヽ》やかんなくずなどが山となって、その上には大きな犬がほえており、また木材がいっぱいならべてある庭を通り、しめきったまっ黒な小門がついてて、春には花をひらく苔《こけ》でおおわれてるながい、ひくいこわれかけの壁のところを通り、「貼紙《はりがみ》を禁ず」と大きな字のかいてあるくずれた、きたない土蔵の壁のところを通ってゆくと、ついにヴィーニュ・サン・マルセル街の角《かど》までゆけるのだった。
そのあたりは、あまり人にしられていないところである。当時そこに、あるひとつの工場のそばに、両隣の庭にはさまれた、一軒の破屋《あばらや》があった。それは外からちょっとみると、百姓家くらいの小さな家にみえたが、内部は大聖堂ほどの大きさをしていたのである。それというのも、外からはただ、戸口とひとつの窓が見えるきりで、ほとんど家の全体は通りからかくれていたからなのである。
その破屋は二階建てだった。よく見ると、第一に不思議な点は、戸口はいかにもみすぼらしいものだったが、窓のほうはもしそれが切石のなかにでもはまっていたら、立派な邸宅の窓としても恥かしくないほどのものだった。戸口の内側には、インクにひたした二筆で五二という数字が書いてあり、上のほうの薄板には五○という数字が書きなぐってあって、いったいどちらがほんとうかわからなかった。何番地だろう? 戸口の外からは五十番地というし、戸口の中からは反対していや五十二番地だという。
郵便配達人はその破屋を五十・五十二番地とよんでいた。だがその付近ではゴルボー屋敷という名前で知られていた。
ジャン・ヴァルジャンが足をとめたのはそのゴルボー屋敷の前だった。野生の鳥のように、もっともさびしい場所に自分の巣をえらんだのである。
彼はチョッキのなかをさぐって、一種の合鍵をとり出し、戸口をひらいてなかにはいり、それから注意ぶかく戸口をしめ、コゼットを背負ったまま階段をのぼっていった。
階段をのぼりきって、彼はポケットからもうひとつの鍵をとり出し、別の扉をひらいた。その部屋はかなりひろい屋根裏部屋みたいな様子をしてて、床にしかれた一枚のふとんと、ひとつのテーブルと、いくつかの椅子とがそなえてあった。ストーヴがひとつ片すみにあった。奥のほうに別室があって、折りたたみ式の寝台が置いてあった。
ジャン・ヴァルジャンは子供をその寝台の上にかかえていって、眼をさまさないように、そっとおろした。そして彼は前夜のようにコゼットの顔をながめはじめた。その眼つきには、よろこびの情があふれ、親切と、愛情とがいっぱいに溢れて、いまにもはちきれそうだった。小娘のほうは、ひどく強い人間か、逆にまた極端に弱い人間の場合によくみられる、なにもかも他人に自分の身をまかしきってる時のあのおだやかさをうかべて、誰と一緒にいるのか、どこにいるのかもしらないで、ぐっすり眠っていた。
ジャン・ヴァルジャンは身をかがめて、子供の手に唇をあてた。
九カ月前には、彼は息をひきとった彼女の母親の手に唇をあてたのだった。そのときと同じような悲しい敬虔《けいけん》な想《おも》いが、彼の心にいっぱいになった。
すっかり夜が明けても、子供はまだ眠っていた。十二月の太陽の青白い光りが、そのわびしい部屋の窓ガラスを通して、影と光との長いすじを天井にうつしていた。そのとき突然、重い荷をつんだ荷車が大通りをとおって、その破屋《あばらや》をあらしがおそったようにゆり動かし、土台から屋根まで震動させた。
コゼットはびっくりして眼をさまして叫んだ。
「はい、おかみさん、ただいま、ただいま!」
そして彼女は、まだ眠そうに眼も半分とじたままで寝台からとびおり、壁のほうに手をさしのべた。
「ああ、どうしよう、箒《ほうき》は!」と彼女はいった。
そして、そのときになってやっと、彼女はすっかり眼をひらいた。彼女の眼はジャン・ヴァルジャンのほほ笑《え》んでる顔にであった。
「ああ、そうだったわ!」と彼女はいった。
「おはよう」
子供はもともと幸福と喜びとにみちているから、突然よそからやってきた幸福と喜びをも、すぐにまた親しく受け入れるものである。
コゼットは寝台の下にある人形のカトリーヌをみつけ、それをとりあげた。そして遊びながらジャン・ヴァルジャンにいろんなことをきいた。ここはどこか?──パリとは大きな町か?──テナルディエのおかみさんのところから遠いのか?──もどってゆかなくてもよいのか?──そのほかいろんなことを。
それから不意に彼女は叫んだ。
「ほんとにここはきれいだこと!」
実はみすぼらしい小屋同然だったが、彼女はそこに自由を感じたのだった。
「掃除しましょうか」と彼女がいった。
「お遊び」とジャン・ヴァルジャンはいった。
そういうふうにして一日は過ぎた。コゼットはなにもわからなくてもべつに心配もせず、その人形と老人とのあいだで、ただもうむしょうにうれしそうにしていた。
二
翌日の明け方もジャン・ヴァルジャンはまたコゼットの寝台のそばにいた。彼はそこで身動きもしないで彼女が眼をさますのを見まもっていた。
あるあたらしいものが彼の魂のなかにはいってきていた。
ジャン・ヴァルジャンはそれまでに何者も愛したことがなかった。二十五年前から彼は世の中に孤立していた。彼は父であることも、愛人であることも、夫であることも、友であることさえもなかった。徒刑場における彼は、険悪で、陰うつで、単純で、無学だった。それでも老囚人の心は少しも|わるずれ《ヽヽヽヽ》てはいなかった。監獄を出てからも、ずっと頭にのこっていた姉と、姉の子供たちのことも、あらゆる手をつかってさがしてみたが見つからず、ついには忘れてしまった。人間の性質というものはそうしたものである。そのほかの青春のやさしい感情があったにしても、深淵のうちに消えてしまっていた。
しかし、コゼットをつれ出し、救い出したとき、彼は心のなかになにか動き出すものを感じた。彼のうちにあった情熱と愛情とがすっかりめざめて、その子供のほうへとびついていった。彼は子供が眠っている寝台の近くによっていって、喜びの情にふるえた。彼は母親のようなある熱望を感じた。そしてそれがなんであるか自分でもわからなかった。
年老いたあわれな、初初《ういうい》しい心よ!
コゼットは彼が出会った第二の光りだった。ミリエル司教は彼の心の地平線に徳のあけぼのの光りを、コゼットは愛のあけぼのの光りをもたらした。
はじめの数日は恍惚《こうこつ》のうちに過ぎ去った。
コゼットのほうでも、別人のようになってしまった。母に別れたときはごく小さかったので、もう母のことはすこしも頭に残っていなかった。なんにでもからみつく、ぶどうの若芽のような子供の通性として、彼女も誰かを愛そうとしたことがあった。しかしそれはうまくゆかなかった。みんなが彼女を排斥《はいせき》した。テナルディエ夫婦も、その子供たちも、またほかの子供たちも。で彼女は犬を愛したが、それも死んでしまった。それからはもう、悲しいことであるが、彼女は八才にしてすでに冷やかな心の持主になっていた。それは彼女の罪ではなかった。彼女にかけているのは愛の能力では決してなかった。それは愛する機会だった。そんなわけでコゼットははじめの日から、そのおじいさんを愛しはじめていたのだった。彼女はこれまでいちどもおぼえたことのない、花のひらくようなたのしい気持ちを味わった。
おじいさんはもう彼女には、年老いても貧しいとも思えなかった。ちょうどその物置のような部屋がきれいと思われたように、彼女の眼にはジャン・ヴァルジャンは美しかった。
それはあけぼのと、幼年と、青春と、喜びとの作用である。新らしい土地と生活も多少それをたすける。破屋《あばらや》の上にかがやく美しい幸福の色ほどこころよいものはない。ひとは楽しい幻の部屋を、生涯にいちどはもつものである。
自然は五十年という深い溝をジャン・ヴァルジャンとコゼットのあいだにおいた。しかし運命はその溝をうめてしまった。年齢はちがっても、不幸においては似たようなこの二つの根こそぎにされた生涯は、運命の手で不意にむすびあわされ、さからうことのできない力でつなぎあわされた。そして両者はたがいにおぎないあった。コゼットの本能は父をさがしもとめ、ジャン・ヴァルジャンの本能はひとりの子供をさがし求めていた。二人が出会うことは、おたがいに、さがしていたものを見いだすことだった。彼らの二つの手がふれあった神秘な瞬間に、二人の魂はとけ合ってしまったのである。
実際、シェルの森のなかで、闇のなかにジャン・ヴァルジャンの手がコゼットの手をにぎったとき、コゼットがうけた神秘的な印象は、ひとつの幻ではなくて現実だった。その子供の運命のなかにその男がはいってきたことは、神の出現であった。
それにまたジャン・ヴァルジャンはうまくかくれ家をえらんでいた。ほとんど完全といっていいほど安全に、そこで暮していることができた。
彼がコゼットと住んでいた別室つきの部屋は、大通りに面した窓のついた部屋だった。その窓はこの家の唯一のものだったから、前からも横からも隣人に見られる恐れはすこしもなかった。
この五十・五十二番地の建物の一階は、荒廃《こうはい》した小屋同様で、八百屋などの物置になってて、二階とはなんらの交渉もなかった。二階と一階とをへだてる床には、引戸も階段もなく、その破屋《あばらや》の横隔膜《おうかくまく》のようになっていた。二階には前にもふれたように、多くの部屋と数個の屋根裏部屋とがあったが、そのひとつにひとりの婆さんが住んでるだけだった。その婆さんがジャン・ヴァルジャンにいっさいの用をしてくれた。そのほかには誰も住んでいなかった。
婆さんは借家主という名義だったが、実は門番の役目をしてるにすぎなかった。クリスマスの日に、ジャン・ヴァルジャンに住む家を貸してくれたのは、その婆さんだった。まだ年金はもらってるが、スペインの公債に手をだして失敗したので、孫娘といっしょに、この部屋で暮したいのだと、ジャン・ヴァルジャンは婆さんにいっておいた。彼は六カ月分の前払いをして、道具を二つの部屋においてくれるように婆さんにたのんでおいた。その晩煖炉に火をたき、二人がくる準備をすっかりととのえてくれたのは、その婆さんだった。
数週間がすぎた。彼とコゼットはそのみじめな部屋のなかでたのしい生活をつづけていた。
夜明けごろから、もうコゼットは笑い、たわむれ、歌っていた。子供というものは小鳥と同じように朝の歌をもっている。
ときとするとジャン・ヴァルジャンはコゼットのひびの切れたまっ赤な小さい手をとって、それに唇をつけることもあった。あわれな子供は、いつもぶたれることばかりに馴れていたので、その意味がわからず、恥ずかしがって手をひっこめた。
ジャン・ヴァルジャンは彼女に読み方を教えはじめた。彼は彼女に綴りをいわせながら、自分が徒刑場で読み方を学んだのは悪いことをするがための下心からだったのをときどき思い出した。それが今では子供に教えることにかわっていた。彼はふかい感慨にふけりながら天使のような微笑をもらした。
彼はそのことに天の配慮《はいりょ》を感じ、人間以上のなにかの意志を感じ、われを忘れて瞑想《めいそう》にふけるのだった。善い考えも悪い考えとおなじく、その深淵をもっている。
コゼットに読み方を教えること、また彼女を遊ばせること、そこにほとんどジャン・ヴァルジャンのすべての生活があった。それからまた、彼は母親のことを話してきかせ、神にお祈りをさせた。
コゼットは彼を「お父さん」とよんでいた。それ以外の名を知らなかった。
コゼットが人形に着物をきせたりぬがせたりするのをながめ、また彼女が小鳥のように歌うのに耳をかたむけながら、彼は幾時間もじっとしていた。そのときから彼には、人生は興味にみちたもののように思われ、人間は善良で正しいもののように感じられて、もはや心のなかで誰も責めることもなく、また子供に愛されてるいまとなっては、|よぼよぼ《ヽヽヽヽ》になるまで生きるには及ばないという理由もまったくみとめられなくなった。まるでうるわしい光明でてらされるようにコゼットによってかがやかされる未来を、彼は自分のうちに見いだした。
これは一個の私見にすぎないが、しかし考えるところをここにいってしまいたい。すなわち、コゼットを愛しはじめた頃のジャン・ヴァルジャンの状態を見てみると、彼が正しい道をつづけて進むのにもはや彼を支える者が必要ではなかったかどうかは、うたがわしいことである。彼は人間の悪意と社会の悲惨とを新らしい方面から眼に見たのだった。もちろんそれは不完全で、事実の一面にすぎないものであった。彼はファンティーヌのうちに示された女の運命と、ジャヴェルのうちに現わされた公権とを眼の前に見せつけられたのである。彼は徒刑場にもどった、それもこんどは善を行ったがために。彼は新たな苦しみをなめた。嫌悪《けんお》と疲労とにまたとらえられた。司教の記憶さえも、あとになってまた勝利をえてかがやきだしはするが、一時は曇りかけたこともあった。おそらくジャン・ヴァルジャンは、落胆《らくたん》してまた墜落《ついらく》の瀬戸《せと》ぎわにあったのかもしれない。しかし、彼は愛を知ってふたたび強くなった。彼はコゼットを保護するとともに、コゼットは彼を強固にした。彼によって彼女は人生のなかにすすむことができたし、彼女によって彼は徳の道をつづけることができた。彼は少女の柱であった、そして少女は彼の杖であった。
三
ジャン・ヴァルジャンは用心して、昼間は決して外に出なかった。そして毎日夕方に一、二時間散歩した、ときにはひとりで、多くはコゼットとともに、その大通りのもっともさびしい歩道をえらんで、また夜になると教会にはいったりして。彼は一番近いサン・メダール教会によくいった。コゼットは、つれてゆかれないときは婆さんと一緒に留守をした。しかし老人と一緒に出かけるほうが少女にはうれしかった。人形のカトリーヌと楽しくさしむかいでいるよりも、老人と一緒に一時間の散歩をするほうがよかった。老人は彼女の手をひいて、歩きながらいろんな面白い話をしてくれた。
コゼットはすっかり快活になった。
婆さんは部屋をととのえたり料理をつくったり、買い出しにいったりした。
彼らは火だけはいつもたやさずにいたが、ごく困ってる人のように質素に暮していた。ジャン・ヴァルジャンは家具をはじめのままにしておいた。ただコゼットの小部屋にゆくガラスのはまった扉を、すっかり板の扉にかえただけだった。
彼はやはり黄色いフロックと黒いズボンと、古い帽子とを身につけていた。往来ではどうみても貧乏人としかみえなかった。親切な女たちが、ふりむいて一スー銅貨をくれることもあった。彼はその銅貨を受けとって、ひくく身をかがめた。またときには、慈悲をもとめてる不幸な人に出会うこともあった。そんなとき、彼はふりかえって誰か見てる者はないかとたしかめ、そっと近よってその手に貨幣をにぎらせてやって、足ばやにたち去った。だが、それだけ注意しても、結局、それは彼に不利をまねくことになった。彼はそのため、その一|廓《かく》では「施《ほどこ》しをする乞食」という名で知られるようになってしまった。
借家主の婆さんは、いたって無愛想で、近所の人々のことを|うの目たかの目《ヽヽヽヽヽヽ》でさぐりまわるような女だった。ジャン・ヴァルジャンも彼女に様子をさぐられていた。彼女はちょっと耳が遠く、そのためにおしゃべりだった。彼女はいろんなことをコゼットからききだそうとした。しかしコゼットは、モンフェルメイユから来たのだということしかなにも知らず、なにも語ることができなかった。婆さんが気をつけてると、ある朝ジャン・ヴァルジャンがおかしな素振《そぶり》で、人の住んでない部屋にはいってゆくのを見つけた。彼女は古猫のような足どりであとをつけていって、むかいあってる扉のすき間から彼をうかがった。彼はもちろん用心に用心をしていた。そのせいか、彼は扉に背をむけていた。しかし見ていると、彼はポケットのなかをさぐって小箱と鋏《はさみ》と糸とをとり出し、それからフロックのすその裏をほどきはじめ、その口から黄色っぽい一片の紙をぬき出し、それをひろげた。婆さんはそれが千フラン札であるのをみとめて、ぞっとした。千フラン札を見たのはそれが生まれて二度目か三度目だった。彼女はこわくなって逃げ出した。
しばらくしてジャン・ヴァルジャンは婆さんのところへゆき、千フランをくずしてきてくれるようにとたのんだ。そして、これは咋日受取った半期分の年金だとつけ加えた。「どこで受取ったんだろう。あの人は晩の六時にしか出かけなかった。国庫はそんな時間にあいてるはずがない」と婆さんは考えた。彼女は両替に行きながらいろいろと想像をめぐらした。そして、その千フラン札はいろんな尾ひれがついて、ヴィーニュ・サン・マルセル街のおかみさんたちのあいだにさかんな噂《うわさ》をまきちらした。
その後ある日のこと、ジャン・ヴァルジャンはチョッキ一枚になって、廊下で薪を鋸《のこぎり》でひいていた。婆さんは部屋のなかで片づけものをしていた。彼女はただひとりだった。コゼットは薪が鋸にひかれてゆくのに見とれていた。婆さんは釘《くぎ》にかかってるフロックをみつけて、しらべてみた。裏はもとどおり縫いつけられていた。婆さんは注意深くそれにさわってみた。そして裾《すそ》と袖《そで》つけとのなかに、紙の厚みが感じられるように思った。きっと千フラン紙幣が沢山はいっているのだろう。
婆さんはそのほかポケットのなかにいろんなものがはいってるのをみとめた。前に見た針や鋏《はさみ》や糸だけでなく、大きな財布、ひどく大きなナイフ、それからあやしいことには、いろいろな色の多くの|かつら《ヽヽヽ》など、フロックのどのポケットもみんな意外な出来事に対する用意の品がいっぱいつまってるようだった。
四
サン・メダール教会の近くに、ひとりの貧しい男がいた。彼はいつもそこの、今ではすたれて人影のない、共同井戸のそばにうずくまっていた。ジャン・ヴァルジャンはその男によく施しをしてやった。その前を通るときは、大ていいくスーかの金をめぐんでいた。ときには言葉をかけることもあった。
その乞食をうらやむ者たちは、彼のことを〈警察の者〉だといっていた。それはもう七十五才にもなる年とった寺男で、たえず口のなかで祈祷の文句をくりかえしていた。
ある晩のこと、コゼットをつれないで、そこを通りかかったジャン・ヴァルジャンは、近よっていっていつものように施しの金を手ににぎらせてやった。そのとき、突然乞食は眼をあげてじろっとジャン・ヴァルジャンを見たかと思うと、いそいでまたうつむいた。その動作は稲妻のようだった。ジャン・ヴァルジャンはぞっとして身をふるわせた。街灯の光でちらっとみたその顔は、いつもの寺男の平和な信心ぶかい顔ではなくて、恐ろしい、どこかで見たことのある顔に思えてならなかった。暗やみのなかで不意に虎と顔をあわせたような感じだった。彼は思わずちぢみあがって石のようになり、息をすることも口をきくこともできず、そこにいることも、また逃げだすこともできず、じっとその乞食を見まもっていた。
乞食はぼろぼろの頭巾《ずきん》をかぶった頭をたれ、もう彼がそこにいるのも気がついてないような素振《そぶり》をしていた。その異常な瞬間に、ジャン・ヴァルジャンが一言も発しなかったのは、本能の、おそらく自己防衛のかくれた本能のためだっただろう。乞食はいつもと同じような身体つきをし、同じようなぼろをまとい、同じような様子をしていた。「いやいや……」とジャン・ヴァルジャンはいった。「あれは気のせいだ。夢をみたんだ。そんなことがありうるはずがない!」だが、彼はひどく心を乱されて家に帰った。
ちらっと見たその顔がジャヴェルの顔だったとは、どうしても信じられなかったのである。
その夜、彼はそのことを考えながら、もういちど顔をあげさせるために、男になにかたずねてみればよかったと思った。
あくる日の夕暮、彼はまたそこへいった。乞食はいつものところにいた。
「どうだね、じいさん」とジャン・ヴァルジャンは銅貨をやりながら思いきって声をかけてみた。
乞食は顔をあげた、そして悲しい声で答えた。
「ありがとうございます、ご親切な旦那」
それはまさしくいつもの老寺男だった。
ジャン・ヴァルジャンはすっかり安心した。彼は笑いだした。「ジャヴェルだなんて、なにを見ちがえたんだろう」と彼は考えた。「おれはもう眼がぼやけてきたのかな」そしてもうそのことは考えなかった。
それから数日後のこと、晩の八時頃だったろう、ジャン・ヴァルジャンは部屋でコゼットに大きな声で綴りをよませていた。そのとき、彼は家の戸口がひらいて、またしまる音を耳にした。それが彼には、なんだか、ひどく変に思えた。一緒に住んでた、ただひとりの婆さんは、ろうそくを節約するためにいつも夜になるとすぐに寝るのだった。ジャン・ヴァルジャンは手ぶりでコゼットをだまらせた。
誰かが階段をのぼってくるのがきこえる。あるいは婆さんが、工合《ぐあい》でも悪くて薬屋にいってきたのかもしれない。彼は耳をそばだてた。足音は重々しい男のようなひびきだった。しかし婆さんは大きな靴をはいてるし、年とった女の足音は男の足音によく似てるものだ。ジャン・ヴァルジャンは明りをふき消した。
彼は低い声で「そうっと、寝床におはいり」とささやいて、コゼットを寝かしにやった。そして彼が彼女の頭に唇をあてるあいだに、足音はとまってしまった。彼はだまって身動きもせずに、背は扉のほうにむけ、暗闇のなかで息をこらした。彼が音のしないように部屋の入口のほうへ眼をやると、扉の鍵穴に光りが見えた。たしかにそこには、誰かが手にろうそくをもってきき耳をたてているのだ。
数分して光りはたち去った。が、なんの足音もきこえなかった。それでみると、扉のところで立ちぎきしていた男は、靴をぬいでいたにちがいなかった。
ジャン・ヴァルジャンは服をきたまま寝床に身をよこたえた。しかし、一晩じゅう眼をとじることができなかった。
夜明けごろ、疲れたのでうとうとしていると、廊下の奥にある屋根裏部屋の扉があいた。そのきしみで彼は眼をさました。それから前夜階段をのぼってきたのと同じ男の足音がきこえた。足音はだんだん近づいてきた。彼は寝台からとびおりて、鍵穴に眼をおしあてた。穴はかなり大きかったので、前夜家のなかにはいりこんできて扉のかげで立ちぎきしたその男が、通ってゆくのを見てやろうと思ったのである。案《あん》の定《じょう》それは男だった。こんどはべつに立ちどまりもせずに通りすぎていった。廊下はまだうす暗かったので、その顔はよく見わけられなかった。しかし、男が階段のところまでいったとき、外から差しこむ一条の光りが影絵のようにその姿をうき出させた。背の高い男で、ながいフロックを着、腕の下にふとい杖をかかえていた。それはジャヴェルの恐ろしい体つきを思わせた。
ジャン・ヴァルジャンは大通りに面した窓からもその男を見ることができた。しかし、そのためには窓をひらかねばならなかった。彼はそれをあえてなしえなかった。あきらかにその男は鍵をもっていて、自分の家にでもはいるようにやってきたのだ。誰がその鍵をあたえたのだろう? いったいどういうわけなんだろう?
朝の七時に婆さんが部屋を片づけにきたとき、ジャン・ヴァルジャンはするどい眼つきでじろっと彼女をながめたが、なにもたずねはしなかった。彼女はいつもとべつにちがった様子もしていなかった。
掃除しながら婆さんは彼にいった。
「旦那はきっと、夜中に誰かはいってきたのをきかれたでしょうが」
晩の八時といえば、彼女にはもう、ま夜中だった。
「なるほど、そうでしたな」と彼はごく自然な調子で答えた。「いったい、どういう人ですかい」
「あたらしく部屋を借りた人ですよ、この家のなかに」と婆さんはいった。
「で、なんていう人?」
「よくは存じませんが、デュモンとか、ドーモンとか、なんでもそんな名前でしたよ。やっぱり年金をもってる方ですよ、旦那のように」
彼女はべつになんの考えもなくそういったのだろうが、ジャン・ヴァルジャンはそれにある意味がこめられてるように感じた。
婆さんがいってしまったとき、彼はひきだしのなかに入れていた百フランばかりの貨幣をつつみ、それをポケットにいれた。そうするにも金の音がほかにきこえないようにと注意したが、五フランの銀貨がひとつ手からすべり落ちて、床の上に大きな音をたててころがった。
夕もやのおりるころ、彼は下におりていって、大通りを注意深く見まわした。街にはまったく人影がたえているように思われた。もっとも、そこに誰かがいて、彼の姿を見て並木のうしろにかくれようと思えばかくれることはできた。
彼は上にひきかえした。
「おいで」と彼はコゼットにいった。
彼はコゼットの手をとり、そして二人して出ていった。
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第五章 暗がりの追跡に無言の猟犬
一
ジャン・ヴァルジャンは、すぐにオピタル大通りをはなれ、裏通りのなかにまぎれこみ、できるだけ曲りくねって、追跡《ついせき》されてはいまいかとたしかめるために、ときどき急にひきかえしてみたりした。
そのやり方は、狩りたてられた鹿がよくやる方法である。猟犬をつかってする狩りで|逆逃げ《ヽヽヽ》といってるのがそれである。
ちょうど満月の夜だった。しかしジャン・ヴァルジャンは、そのために困るということはなかった。まだ地平線に近い月は、街を影と光りとで大きく区切っていた。ジャン・ヴァルジャンは人家や壁にそって影のなかに身をかくし、光りのほうをすかして見ることができた。しかし、彼はその時、逆にまた自分のほうでもむこうの影のほうを見ることができなかったことを、あまり念頭においていなかったらしい。ポリヴォー街につづくさびしい小路をすすみながら、うしろからつけている者はたしかにいないと思った。
コゼットはなにもたずねずに歩いた。世に出た最初の六年間の苦しみは、彼女の性質にある受動的なものをそそぎこんでしまっていた。その上、これからわれわれがなんどもみとめることであるが、彼女は自分でもよく知らないうちに老人のおかしな行動と波乱にみちた運命になれてしまっていた。彼女はその老人と一緒《いっしょ》にいれば安全だと思いこんでいた。
ジャン・ヴァルジャン自身も、コゼットと同じように、実はどちらへ自分がすすんでるのか知らなかった。コゼットが彼に身を託《たく》しているように、彼は神に身を託していた。そして誰か眼にみえない者が自分をみちびいてくれてるように感じていた。それに、彼はなんらはっきりした考えも計画ももたなかった。あの男がジャヴェルだったかどうかもたしかでなければ、またジャヴェルであったにしても、自分がジャン・ヴァルジャンであることを知ってたかどうかもたしかではなかった。彼は仮面をかぶってたではないか、彼は死んだと信じられていたではないか。
しかし、数日来、妙なことがおきていた。彼にはもうそれでじゅうぶんだった。もうゴルボー屋敷には帰るまいと決心した。そして、まるで巣から狩り出された|けもの《ヽヽヽ》のように、永住の場所を見つけるまでの一時身をかくす穴をさがしていた。
サン・テチエンヌ・デュモン教会で十一時がなったとき、彼はポントワーズ街十四番地にある警察派出所の前を通った。それからしばらくして、警戒の本能からふり返ってみた。そのとき派出所の門灯にてらしだされた三人の男の姿が、はっきり見えた。そのひとりは、派出所の門のなかにはいった。しかし先頭に立ってる男は明らかにあやしいと彼は思った。
「はやくおいで」と彼はコゼットにいった。そしていそいでポントワーズ街を去った。
彼はエぺ・ド・ボワ街からアルバレート街へとすすみ、ポスト街へはいりこんだ。
そこに四辻があった。月がその四辻を明るくてらしだしていた。ジャン・ヴァルジャンはその近くのある戸口に身をひそめた。もし男たちが自分のあとをつけてるとすれば、その明るみを通るときに、よく見えるにちがいないと判断したのである。
はたして三分とたたないうちに、彼らの姿が現われた。こんどは四人になっている。みんな背の高い男ばかりだ。ながい褐色《かっしょく》のフロックを着て、まるい帽子をかぶり、手には太い杖を持っている。その大きな身体と大きな拳《こぶし》とは、闇のなかのその歩きぶりとともに薄気味の悪いものだった。四つの怪物が市民にばけたとでもいいたいような恰好《かっこう》である。
彼らは四辻のまん中に立ちどまって、なにか打合せをするようにひとかたまりになった。首領らしき男が、ふりかえってジャン・ヴァルジャンがかくれた方向をさっと指さした。もうひとりは、頑固に反対の方向をさしてるらしかった。第一の男がむきなおった瞬間、月の光りがその顔をはっきりてらした。ジャン・ヴァルジャンは、まぎれもなくジャヴェルの顔を見た。
ジャン・ヴァルジャンにとっては、もはやうたがう余地はなかった。しかし、さいわいにも四人の男のほうには、まだ迷ってるらしいところがあった。彼は四人がためらってる時間を利用した。彼らにはマイナスの時間だったが、ジャン・ヴァルジャンにはプラスの時間だった。彼はかくれていた戸口から出て、ポスト街を植物園のほうにすすんだ。コゼットが疲れてきた。彼はコゼットをだきあげて歩いた。ひとりの通行人もなく、月夜のため街灯もともされていなかった。
彼は足をはやめた。
彼はオーステリッツ橋にさしかかった。
当時、まだ橋銭の制度があった。彼は番人のところへゆき、一スーわたした。
「二スーだよ」と橋番の老人がいった。「歩けるくらいの子供をだいていなさる。二人分払っていただきましょう」
彼はそこを通って手がかりを残しはしまいかと心配しながら金を払った。逃げるには、こっそりしのんでいかなければならない。
ちょうどそのとき、一台の大きな荷車が、彼と同じようにセーヌ河を右岸にわたっていた。もっけの幸《さいわい》だった。彼はその荷車のかげにかくれて橋をわたることができた。
橋の中ほどに来たとき、コゼットは足がしびれたから歩きたいといった。彼はコゼットを下におろし、またその手をひいて歩いた。
橋をわたり終えると、前方の少し右よりに建築材置場が見えた。彼はそこへすすんでいった。そこまでゆくには、月にてらされた|ひらけた《ヽヽヽヽ》場所をかなり歩かなければならなかった。彼はためらわなかった。追っかけて来た者たちは、たしかに路を迷って、自分はもう危険外にのがれ出てると彼は信じていた。まだ捜索《そうさく》されてはいるだろうが、跡はつけられてはいないだろう。
小さな街路、シュマン・ベール・サン・タントワーヌ通りが、壁にかこまれた二つの建築材置場のあいだに通じていた。その路はせまく、うす暗く、とくに彼のためにつくられてるように思えた。彼はそこにまぎれこみながら、うしろをふりかえってながめてみた。
そこから彼は、オーステリッツ橋をすっかり見渡すことができた。
四つの人影が橋にさしかかっていた。それらの人影は植物園を背にして、右岸にやってくるところだった。
その四つの人影は、もちろん、あの四人の男たちだった。
ジャン・ヴァルジャンは、ふたたび捕えられた|けもの《ヽヽヽ》のように、身をふるわせた。
ただひとつの希望がのこっていた。すなわち、自分がコゼットの手をひいて月にてらされた空地を通ったときには、たぶん四人の男はまだ橋にさしかかっていず、自分の姿をみとめなかっただろう。
はたしてそうだとすれば、前にある小路にはいりこみ、建築材置場か野菜畑か、建物のない空地に出て逃げのびることもできるにちがいない。
そのひっそりした小路なら、安心できるように思えた。彼はそのなかにはいりこんでいった。
二
三百歩ばかりいったとき、ジャン・ヴァルジャンは路の分岐《ぶんき》点に出た。どちらもななめに、左右にわかれていた。彼はちょうどYの字の二本の枝の前に立ったような工合《ぐあい》になった。どちらをえらぶべきか?
彼は躊躇《ちゅうちょ》しなかった。右をえらんだ。
なぜか?
左の枝は場末街《フォーブール》に、いいかえれば人のすんでる場所に通じていたが、右の枝は田舎のほうに、いいかえれば人のいない場所のほうに通じていたからである。
その時にはまたもや、二人のあゆみは次第におくれがちになっていた。コゼットの足がジャン・ヴァルジャンの歩みをおくらせていたのである。
彼はふたたびコゼットを抱きあげた。コゼットは彼の肩に頭をつけて、もう一言も口をきかなかった。
彼はときどきふりかえってはながめた。やはり注意して、路のうす暗いほうによって歩いた。路はうしろで一直線になっていた。最初二、三度ふりかえったときにはなにも見えず、ただひっそりしていたのでちょっと安心して歩いていった。それからまたしばらくしてふりかえってみると、通ってきたばかりの路に、遠く闇のなかになにか動いてるものが眼についたような気がした。
彼はただ前方に歩いていったというより、むしろ突進していった。ある横丁を見つけて、そこから逃げ出し、もういちど跡をくらますつもりだった。
彼はひとつの壁にゆきあたった。
しかしその壁はゆき止りになっていなかった。それは歩いてきた路につながってる横通りの壁だった。
そこでまた彼は心をきめなければならなかった。右へゆくか、左へゆくか。
彼は右のほうをながめた。小路は小屋や物置などの建物のあいだに、細長くつづいてて、そのむこうはゆき止りになっていた。
彼は左をすかしてみた。そちらはひらけていた。そして二百歩ばかり先で、ほかの街路に通じていた。安全なのは、そのほうだった。
彼はその小路の先にみえてる街路に出ようと思って、左へ曲ろうとした。そのときだった、彼が出ようとしてる街路とその小路との角《かど》に、じっと動かない黒い立像のようなものが眼にはいった。
それは誰か見張りにそこへやってきた男で、通路をふさいで待ちかまえてるのだ。ジャン・ヴァルジャンはあとずさりした。
どうしたらいいか?
もううしろにひきかえすだけの時間はなかった。さきほど後方の遠く影のなかに、なにか動くものが見えたのは、たしかにジャヴェルとその手下《てした》の者にちがいなかった。ジャヴェルはもうすでに、ジャン・ヴァルジャンが通りすぎたその路の入口にきていたのだろう。前後の事情から察してみると、ジャヴェルはその迷宮小路の地理をよく心得てて、手下のひとりを出口の見張りにさしむけるという先手をうったものとみえる。それらの推測は的確な形をとって、突風にひとにぎりの|ほこり《ヽヽヽ》がまいあがるように、ジャン・ヴァルジャンの脳裡《のうり》にくるおしく巻きあがった。彼はジャンロー袋小路をのぞいてみた。そこはゆき止りになっている。彼はピクピュス小路をのぞいてみた。そこには見張りの男がいる。月の光りに白くかがやいてる敷石の上に、彼は黒くうきだしてるそのいまわしい姿を見た。前にすすめば、その男の手に落ちる。うしろにひけばジャヴェルの手中に身を投げることになる。ジャン・ヴァルジャンは、じわりじわりせばまってくる網のなかにとらえられてるような気がした。
さしせまった危険にあることを感じた彼は、そばのうす暗い建物がなんとなく人気《ひとけ》なくひっそりしてるのに心をひかれた。彼はすばやくその建物を見まわした。そしてもしもそのなかにはいることができれば、たぶんたすかるだろうと思った。とっさのことにまずそういう考えと希望とをもったのである。
ドロワ・ミュール街に面するその建物の正面の中ほどには、鉛のふるい漏斗形《じょうごがた》の雨水受けが、どの窓にもついていた。そして中央の樋《とい》からわかれてその雨水受けにつながってる、いろいろな恰好《かっこう》の管が、建物の正面に木の枝のようにうきだしていた。
|ブリキ《ヽヽヽ》や鉄の枝の、奇妙なその生垣《いけがき》みたいなものが、まずジャン・ヴァルジャンの眼にとまった。彼はコゼットを車よけの石に背をもたせてすわらせ、だまってるようにいいつけて、管が地面についてるところに走っていった。たぶんそこからのぼって家のなかにはいりこむ方法があるだろうと思ったのである。しかし管はふるくなってて役にたたず、ほとんど壁からはなれてぐらぐらになっていた。その上しずまりかえった建物の窓にはどれもみな、屋根裏部屋の窓でさえ、大きな鉄|格子《ごうし》がはまっていた。それからまた、月の光りがその正面にいっぱいさしていて、そこをのり越えようとすれば、路の一方のはしで見張りをしてる男にみつかる恐れがあった。それにまた、コゼットをどうすればいいか? 四階の高さの家までどうして彼女をひきあげられよう。
コゼットを残しておいた壁の断面のところまでもどったとき、彼はそこが誰からも見られないことに気がついた。そこはどちらからも見えないようになっている所だったのである。その上、そこは影になっていた。そして、ふたつの門があった。あるいはそれを押しひらくことができるかもしれない。壁の上から菩提樹《ぼだいじゅ》の木と蔦《つた》とがのぞいているところをみると、なかは明らかに庭になっているらしかった。木にはまだ葉は出ていなかったが、少なくともそこに身をかくして夜の明けるまでひそんでることができるかもしれなかった。
時はすぎ去ってゆく、はやくしなければならない。
彼は正門にさわってみた。そしてすぐに、その戸は内外両方からしめきってあることがわかった。
彼はなお多くの希望をいだいて、もうひとつの大きな門に近づいていった。それはおそろしくいたんでいて、大きいのでいっそう弱そうに思えた。板はくさっており、三つしかない鉄の|たが《ヽヽ》も錆《さ》びきっていた。その錆びくちた戸は、押しやぶることができそうに思えた。
ところがよく見ると、それは門ではなかった。肘金《ひじがね》も、蝶番《ちょうつがい》も、錠前も、まん中の|あわせ目《ヽヽヽヽ》もなかった。鉄のたがは一方から他方へつづけざまにうちつけてあった。板の裂《さ》け目からのぞいてみると、セメントでかためたあら石や切石が見えた。その戸みたいなものは、ただ壁の上につけられた木のおおいにすぎないことを、彼は狼狽《ろうばい》しながらもみとめないわけにはいかなかった。板をはがすことはなんでもなかったが、その先にはさらに壁がある。
そのとき、規則正しく歩調をとった、重い足音が、むこうからきこえてきた。ジャン・ヴァルジャンは路のすみからのぞいてみた。七、八人の兵士が列をなして、ポロンソー通りに現われ出たところだった。銃剣の光るのが見えた。それが彼のほうにやってくるのだ。
その兵士たちは、ジャヴェルの高い姿を先頭にたてて、あたりに気をくばりながらゆっくりすすんできた。そして、ところどころで立ちどまった。明らかに彼らは、壁のすみ、戸口、小路の入口などをしらべながらやってくるのだ。
それはジャヴェルが道で出会って助力をもとめた巡邏《じゅんら》兵たちだろう。その推測はまちがいなかった。
ジャヴェルの手下の二人が、その一列に加わっていた。
彼らの歩調と、ときどき立ちどまる時間とをはかってみると、ジャン・ヴァルジャンのところまでくるには、十五分はかかりそうだった。それは実に恐ろしい瞬間だった。三度口をひらいた恐ろしい断崖《だんがい》から、ジャン・ヴァルジャンはわずか十数分をへだててるだけだった。そしてこんどの徒刑場は単なる徒刑場ではなく、コゼットを永久にうしなうことだった。墓のなかのような生活をしなければならなくなるのだ。
もはや逃げられる可能性はただひとつしかなかった。
ジャン・ヴァルジャンには、いわば二つの袋をもってるともいえる特性があたえられていた。ひとつの袋には聖者の考えがはいっており、もうひとつには囚徒の恐るべき才能がはいっていた。彼は場合に応じて、そのどちらかの袋をさぐるのだった。
いろいろな技能があったが、そのなかで、ツーロン徒刑場をしばしば脱走した経験から、物によじのぼる技術にはとくにすぐれていた。はしごもなく、|かすがい《ヽヽヽヽ》もなく、ただ筋肉の力だけで、首と肩と腰と膝《ひざ》とで身をささえ、ちょっとした、石のでこぼこにつかまって、直立してる壁を場合によっては七階くらいの高さまでもよじのぼることができた。
ジャン・ヴァルジャンは、菩提樹《ぼだいじゅ》の枝がさし出てる壁の高さを目分量ではかった。およそ十八フィートほどの高さだった。その壁が大きな建物の|きりずま《ヽヽヽヽ》と出あってる角《かど》のところの下のほうに、三角形の大きな角石があった。それはおそらく、そのいたって都合《つごう》のよいひっこんだ場所に、通行人と称する用便人を立たせないためのものだったろう。そういうふうに壁のすみをふさいだものは、パリにはいくらもあった。
その角石は高さ五フィートばかりだった。そこから壁の上までよじのぼらねばならない高さは、十四フィートに満たないほどだった。
壁の上には、ひらたい石があるだけで、なんのおおいもついてなかった。
ただ困るのはコゼットだった。コゼットのほうは壁をのり越えることができない。では彼女をすててしまうか? ジャン・ヴァルジャンはそんなことは夢にも考えなかった、といってつれてのぼることは不可能だった。その異常な壁のぼりをやるには自分ひとりで全力をつくさなければならない。少しの荷があっても、重力の中心をうしなって下に落ちるにきまっていた。
そこでひとすじの縄が必要になった。ジャン・ヴァルジャンはそんなものはもっていなかった。ポロンソー通りのそのま夜中に、どこで縄が手に入れられよう。もしそのときジャン・ヴァルジャンが一王国をもっていたとしたら、たしかに彼はひとすじの縄のためにはそれを投げ出しただろう。
あらゆる危急の場合には、それ相応のひらめきがあって、あるいは人を盲目にさせ、あるいは人の眼をひらかせるものだ。
ジャン・ヴァルジャンの絶望した眼は、ふとジャンロー袋小路の街灯の柱に落ちた。
その当時、パリの街路にはまだガス灯がなかった。夜になるとここかしこに立ってるランプの街灯に火がはいるのだったが、それは街の一方から他方にひっぱられて、柱のみぞにはめられた綱で、あげたりさげたりされた。その綱がまかれてる軸《じく》が、街灯の下の小さな鉄の箱のなかにはめこんであって、箱の鍵は点灯夫がもっており、またその綱にはある長さまで金属がかぶせられていた。
ジャン・ヴァルジャンは命がけの|早わざ《ヽヽヽ》で、街路をひととびに飛びこし、袋小路にはいってナイフの先で小さな箱の錠前のなかの閂《かんぬき》をはずし、そしてすぐにコゼットのところにもどってきた。彼はひとすじの綱を手にしていた。あらゆる手段を見つけ出すそうした日陰《ひかげ》の人々は、運命と争うときすばやく仕事をやってのける。
前に説明したように、その夜、街灯はともされていなかった。ジャンロー街小路のランプも、ほかのと同じく消えていた。で、そのそばを通っても、ランプが普通のところについていないことに眼をとめる者はなかっただろう。
ところでそのあいだ、時と場所と暗やみと、ジャン・ヴァルジャンが夢中になってることと、その異様な態度やあちこちとびまわっていることなどがしだいにコゼットを不安にした。ほかの子供だったらよほど前から大声で泣き出していただろう。が、コゼットはただジャン・ヴァルジャンのフロックのすそをつかんでひっぱっただけだった。しだいに近づいてくる巡邏《じゅんら》の兵士たちの足音が、ますますはっきりきこえてきた。
「お父さん」とコゼットはひくくいった。「あたしこわい。むこうからくるのはだれなの?」
「しっ! テナルディエのかみさんだよ」と不幸な男は答えた。
コゼットは身をふるわせた。彼はつけ加えた。
「だまっておいで。さわぐんじゃないよ。声を出したり、泣いたりすると、テナルディエのかみさんがねらってて、お前をとりもどしにくるんだよ」
それからべつにいそぎもせず、しかしすべてを|いちど《ヽヽヽ》でやってのけるようにして、しっかりと確実に――それも巡邏兵とジャヴェルとが刻一刻とせまってくる場合だけにいっそう、それはおどろくべきことだった――彼はネクタイをはずし、それをコゼットの腋《わき》の下に注意してゆわえ、さらにそれを|つばめむすび《ヽヽヽヽヽヽ》という結び方でしっかりと綱にゆわえ、その一端を口にくわえ、靴と靴下をぬいで壁のむこうに投げこみ、角石の上にのぼり、そして壁と|きりずま《ヽヽヽヽ》との角をよじのぼりはじめた。それはまるで、|かかと《ヽヽヽ》と肘《ひじ》とをはしごにかけてるかと思われるほど確実自在な身のこなしだった。三十秒とかからないうちに、彼は壁の上にはいあがっていた。
コゼットはあっけにとられて、ひとことも口をきかずに彼を見まもっていた。ジャン・ヴァルジャンのいいつけと、テナルディエのかみさんという名前が、彼女を氷のように冷たくちぢみあがらせていた。
突然彼女はジャン・ヴァルジャンが声をひくめながら自分によびかけてるのを耳にした。
「壁に背中をむけなさい」
彼女はそのとおりにした。
「口をきいてはいけないよ、こわがってはいけないよ」とジャン・ヴァルジャンはまたいった。
そして彼女は地面からひきあげられるのを感じた。
彼女は気がつかないうちに壁の上に来ていた。
ジャン・ヴァルジャンは彼女をとらえて背にかつぎ、その小さな両手を左手でおさえ、はらばいになって、壁の上を切りとられた断面のところまではっていった。そこには彼の推察どおり、ひとつの小屋があって、木の塀《へい》の上から屋根がさしでて、ゆるやかな勾配《こうばい》をなして地面近くにたれ、菩提樹《ぼだいじゅ》とすれすれになっていた。
うまい工合《ぐあい》になっていた。というのは、壁の内側は外側の街のほうよりずっと高かった。ジャン・ヴァルジャンは自分のずっと下に地面をみとめた。
彼が屋根の斜面のところに来て、壁の上からはなれようとしたとき、巡邏《じゅんら》兵のやって来たのを知らせるはげしい音がきこえた。ジャヴェルの雷のような声がした。
「袋小路をさがしてみろ! ドロワ・ミュール通りにもピクピュス小路にも見張りがついてる。きっと袋小路のなかにいるはずだ!」
兵士たちはジャンロー袋小路のなかにはいりこんでいった。
ジャン・ヴァルジャンはコゼットを負《お》いながら屋根をすべりおり、菩提樹にとりつき、そして地面にとびおりた。恐怖のためかそれとも気をはっていたためか、コゼットは息をひそめていた。両手にはちょっとかすり傷がついていた。
三
ジャン・ヴァルジャンがはいったところは、ごく広い異様なかたちをした一種の庭だった。とくに冬に、そして夜分に、ながめるためにつくられたかと思われるほど、さびしい庭だった。長方形をして、奥には、大きなポプラのならんだ通路があり、すみずみにはかなり高い木立があり、まん中はひらけた空地になってて、一本の非常に高い木、大きな茂みのようにねじれてこみあってる数本の果樹、四角な野菜畑、月の光りにかがやいてるメロン畑の鐘形の覆《おお》い、ふるい水肥溜《みずごえだめ》などがそれとなく見えていた。ところどころに石のベンチがあり、苔《こけ》で黒くなってるようだった。
ジャン・ヴァルジャンのそばには、彼がその屋根からつたっておりてきた小屋があり、薪《たきぎ》がつみかさねてあり、そのうしろに壁にくっついて石像がひとつあった。石像の欠けた顔は変な形の仮面のようになって、暗やみのなかにぼんやりうかんでいた。
小屋はもう荒廃してしまっていて、壁の落ちたいくつかの部屋がみられた。そのひとつには|いっぱい《ヽヽヽヽ》ものがつまってて、物置に使われてるらしかった。
ピクピュス小路のほうまで曲りながらつづいてるドロワ・ミュール街の大きな建物は、直角をなした二つの正面で庭をかこんでいた。その内側の正面は、外部の正面よりいっそう陰気だった。窓には鉄格子がはまり、灯火の影さえさしていなかった。上のほうの窓には監獄にあるような眼かくしがついていた。一方の正面の影が他の正面の上に落ち、さらに庭に落ちて、ひろい黒布をひろげたようだった。
そのほかには一軒の家も見あたらなかった。庭の奥は靄《もや》と夜の闇とで見えなかった。しかし二、三の壁がぼんやり見わけられて、それが組みあってるところをみると、まだほかにも耕作地があるらしく、また、ポロンソー街の低い屋根波も見わけられた。
その庭は全く想像もつかないほど荒涼たるものだった。人影ひとつなかったのは夜ふけのことだから当然として、まっ昼間でさえ人の歩くところではなさそうだった。
ジャン・ヴァルジャンの最初の注意は、靴をひろってはき、それからコゼットと物置のなかにはいりこむことだった。逃走者はどんなによく身をかくしても、それでじゅうぶんとは思えないものである。コゼットのほうもテナルディエのかみさんのことをまだ考えていて、彼と同じくできるだけ身をひそめようとしていた。
コゼットはふるえながら彼にすがりついていた。きこえるものとては、袋小路や街路をさがしまわってる巡邏《じゅんら》兵のさわがしい足音、石にぶつかる銃床《じゅうしょう》の音、配置しておいた見張り番によびかけるジャヴェルの声、よくききとれない言葉にまじったののしり声。
十五分もすると、そのさわがしいどなり声もしだいに遠のくように思われた。ジャン・ヴァルジャンは息をこらしていた。
彼はさっきからそっとコゼットの口に手をあてていた。
しかし彼がかくれていたその場所は、ふしぎなほどしずまりかえっていた。すぐそばの恐ろしいさわがしさも、そこまではなんら不安のかげを投げこんではこなかった。まるでそれらの壁は、聖書にある聾者《ろうしゃ》の石ででもつくられてるように思われた。
突然その深い静けさのなかに、新らしい物音が起った。天来の聖《きよ》い、なんともいえないひびきで、前の音が恐ろしかったのにくらべ、実にうっとりするようなひびきだった。暗やみのなかからつたわってくる讃美歌で、夜の暗い恐ろしい静けさのなかの祈りとハーモニーとの光り輝くような声だった。女の声、それも童貞女のにごりのない音色《ねいろ》と少女の無邪気な音色とがひとつにとけあった声、地上のものとは思われぬ声、赤子の耳になお残っており、臨終の人の耳にはすでにひびいているあの声にも似かよったもの。その歌声は庭にそびえてるうす暗い建物からもれてくるのだった。悪魔のさわがしい声が遠ざかって、天使の合唱が暗がりのなかから近づいてくるようだった。
コゼットとジャン・ヴァルジャンとはひざまずいた。
二人はそれがなんであるか知らなかったし、自分たちがどこにいるのかも知らなかった。しかし彼らは二人とも、その老人も子供も、その悔いあらためた者も罪無き者も、ひざまずかなければならないように感じたのだ。
それらの声はふしぎにも、その建物のさびしさを少しも消さなかった。人の住んでいない家のなかの、超自然的な歌ともいえたろう。
その声がうたってるあいだ、ジャン・ヴァルジャンはもうなにごとも考えなかった。彼はもはや夜の闇ではなく青空をながめていた。誰でも心のうちにもってる、あの昇天の翼がひらくのを彼ははっきり感じるような気がした。
歌はやんだ。おそらくそれは長くつづいたにちがいなかったが、ジャン・ヴァルジャンには、それがどのくらいだったか、わからなかった。恍惚《こうこつ》の時間はつねに一瞬としか思われないのだ。
すべてはふたたびもとの沈黙のうちにかえった。もう街路にも庭にも、なにもない。おびやかすものも、心を安めるものも、すべて消えうせてしまった。壁の上に生《は》えてるわずかばかりの枯草が、風にふかれてやさしくも悲しげなかすかな音をたててるばかりだった。
四
夜の北風が吹きはじめていた。それでみると、もう夜中の一時か、二時ごろにちがいなかった。可哀そうに、コゼットはなにも口をきかなかった。ジャン・ヴァルジャンは、彼女が地面にすわって自分に頭をもたせかけてるので、もう眠ってしまったのかと思った。彼は身をかがめて、彼女の顔をのぞきこんでみた。彼女は眼を大きくひらいて、なにか考えこんでるようだった。彼はなんだかひどく、彼女がかわいそうになってきた。彼女はまだふるえているのだ。
「眠くないかね」
「とても寒いの」と彼女は答えた。
それからしばらくして彼女はいった。
「まだ、むこうにいるの?」
「誰が?」とジャン・ヴァルジャンはきき返した。
「テナルディエのおかみさんが」
ジャン・ヴァルジャンは、もうコゼットをだまらせるためにとった手段のことなど忘れていた。
「おおそうかい! おかみさんならもういっちまった。もうこわがるものはないよ」
子供は重荷が胸からとり去られたように、ため息をついた。
地面はしめっていた。物置は四方があいてて、寒い風はだんだん鋭くなるばかりだった。老人は上衣をぬいでコゼットにかけてやった。
「ちょっと待っておいで、すぐもどってくるから」
彼はその破屋《あばらや》を出て、もっといいかくれ場所はないものかと、あたりをさがしながら大きな建物にそって歩きだした。いくつも戸口はあったが、どれもしまっていた。一階の窓にはみんな格子《こうし》がはまっていた。
建物の内側の曲り角をすぎると、アーチ形の窓がいくつもついてるところに出た。光りがさしてたので、爪先でのびあがって窓からのぞいてみた。それらの窓のなかは広間になってて、大きな石がしいてあり、アーチ形の壁と柱とで仕切られ、ひとつの小さな光りと大きな暗い影とのほか、なにも見わけられなかった。光りは片すみの終夜灯からきていた。広間のなかはひっそりして、なにも動くものはなかったが、じっと見てると、床石《ゆかいし》の上に喪布《もぬの》におおわれた人間らしい形が、ぼんやり見えるようだった。それはうつむいて床石に顔をつけ、腕を十字に組んで、死んだようにじっとして動かなかった。
それは広間のなかのうすら明りにたちこめた一種の|もや《ヽヽ》につつまれ、ぞっとするような恐ろしい光景となっていた。死んでいるのかもしれないと想像するのはおそろしいにはちがいなかったが、生きてるのかもしれないと考えるのはなおさら恐ろしいことだった。
彼は勇気を出して、額《ひたい》を窓ガラスにおしあてて、それが動きはしまいかとうかがった。だいぶ長いあいだそうしてうかがっていたが、横たわってるその形は少しも動かなかった。と、突然いいようのない恐怖を感じて、彼は逃げだした。うしろをふりかえることもできず、物置のほうにかけだした。もしふりむいたら、うしろからその人間らしい姿が腕をふりあげて、大股《おおまた》に追いかけてくるのが見えるにちがいないと思われた。
彼は息をきらして小屋にもどってきた。ひざががくがくし、腰には冷汗がながれていた。
いま自分はどこにいるのだろう。パリのまん中にこんな墓場のようなものがあろうとは、誰が想像できよう。このふしぎな家はなんだろう? 夜の神秘にみちた建物、天使のような声が闇のなかに人をまねく家、しかも近づいてゆくと突然に現われたその恐ろしい光景、かがやかしい天国の門がひらけるかと思うと、恐ろしい墓場の門がひらかれる。そして、それはたしかに現実の建物である、路に面して番地のしるしてある一軒の家である。夢ではない。しかし彼は容易にそう信じることができなかった。
寒気、心配、不安、その夜のいろいろの激情、そのために彼は実際熱が出ていた。そしてあらゆる考えが頭のなかに入り乱れていた。
彼はコゼットに近づいた。コゼットは眠っていた。
彼はそのそばにすわって、彼女をながめはじめた。彼女をながめてるうちに、しだいに心が落ちついてきて、すっかり自分をとりもどした。彼はつぎの真実を――自分の今後の生活のよりどころを、はっきりとみとめた、すなわちコゼットがいるあいだは、コゼットがそばにいるあいだは、自分のもとめるものはすべて彼女だけのためのものであり、自分が恐れるものがあればそれもみな彼女だけのためである、ということを。彼は彼女に着せるために上衣をぬいでいたが、それほど寒いとも思わなかった。
ところが、そういうもの思いにふけってるあいだに、少し前から妙な物音が彼の耳にきこえていた。ちょうど鈴をふってるような音だった。それが庭のなかにきこえていた。弱かったけれど、はっきりとききとれた。夜、牧場で家畜の頸《くび》についてる鈴からおこるかすかな音色《ねいろ》にも似ていた。
よく見ると、庭の中に誰か人がいた。
ひとりの男らしい人影が、メロン畑のなかを規則正しく立ちあがったりかがんだり、立ちどまったりして歩いていた。ちょうど、なにかを地面に引きずってるか、それともなにかひろげてるようだった。その男は|びっこ《ヽヽヽ》らしかった。
ジャン・ヴァルジャンは身をふるわせた。それは、不運な者たちがよくやる身ぶるいだった。そんな場合、彼らには、すべてに敵意があり、すべてが疑わしいように思われてくるものだ。ひとの眼につきやすいからといっては昼間をきらい、不意に襲われるからといっては夜をきらうのである。ジャン・ヴァルジャンは、いましがた庭に人影のないのを見ておののき、いままた庭に誰かがいるのを見ておののいた。
彼は幻の恐怖から現実の恐怖へとおちこんだ。考えてみると、ジャヴェルたちはおそらくまだたち去っていないだろう。彼らは必ずや通りに見張りの者を残していっただろう、あの男が自分を庭のなかに見つけたら、泥棒と叫んで彼らの手に自分をわたしてしまうだろう。彼は眠ってるコゼットをしずかに腕にだいて、物置の一番奥の、古い家具のつみかさなってるかげに、そっとつれていった。コゼットは身動きもしなかった。
そこから彼はメロン畑のなかにいる男の様子をうかがった。不思議なことには、鈴の音はその男の動作につれておこっていた。男が近づくと鈴の音も近づき、男が遠のくと鈴の音も遠くなり、男が立ちどまると鈴の音もやんだ。明らかに鈴はその男についてるらしかった。してみるとそれはいったい、なにを意味するのだろう。羊か牛ででもあるかのように、鈴をさげたその男はいったい何者だろう。
そんな疑問をくり返しながら、彼はコゼットの手にさわってみた。その手は冷えきっていた。
「ああ、これは!」と彼はいった。
それから彼は低い声でよんでみた。
「コゼット!」
コゼットは眼をひらかなかった。彼ははげしくゆすった。それでも眼をさまさなかった。
「死んだのかしら!」とつぶやき、彼は思わず頭から爪先《つまさき》まで、ぞっとふるえあがりながら、立ちあがった。
もっとも恐ろしい考えが、混乱した彼の頭を通りすぎたのだった。
コゼットはまっ蒼《さお》になって、彼の足もとの地面にぐったりよこたわって、身動きもしなかった。彼は耳をあててその呼吸をきいてみた。息はまだあった。しかしそれもほんのかすかで、すぐにもとまりそうに思えた。
どうして彼女をあたためるか、どうして彼女をさまさせるか? その一事より以外のことは、すべて彼の頭から消え去ってしまった。彼はわれを忘れて小屋からとび出した。
こうなれば、どんなことをしてでも、十五分とたたないうちにコゼットを寝床に寝かせ、火のそばにおいてやることがぜひとも必要だった。
五
ジャン・ヴァルジャンは庭の男のほうへまっすぐにすすんでいった。彼はチョッキのかくしにはいっていた貨幣の包みを手ににぎっていた。
男は下をむいていたので彼がやってくるのに気づかなかった。大股にとんでいったジャン・ヴァルジャンはすぐ彼のそばにきた。
彼はその男に叫んだ。
「百フラン!」
男はびっくりして眼をあげた。
「百フランあげる」とジャン・ヴァルジャンはいった。「もし今夜|泊《と》めてくれるなら!」
月の光りはジャン・ヴァルジャンの狼狽《ろうばい》した顔をまともにてらしていた。
「おや、あなたですか、マドレーヌさん!」
そんな夜|更《ふ》けに、不思議な場所で、見も知らぬ男からマドレーヌという名を不意にいわれたジャン・ヴァルジャンは、思わずうしろにとびのいた。
彼はどんなことでも予期していたが、そればかりは思いがけないことだった。彼にそういった男は腰の曲ったびっこの老人で、百姓のような着物をきて、左のひざに革のひざ当てをつけ、そこにかなり大きな鈴をぶらさげていた。その顔は月かげになっていたので見わけられなかった。
そのうちに老人は帽子をぬいで、ふるえながら叫んだ。
「まあ、マドレーヌさん、どうしてここへ来なすった? いったいどこからおはいりなすった? 天から降ってきなすったかね。そうそう、あなたが降ってきなさるなら、天からにちがいない。それにしても、その恰好《かっこう》は! ネクタイも、帽子も、上衣も着ていなさらない。まあどうしてここへおはいりなすったかね?」
その口ぶりは、田舎者の早口で、少しも不安をあたえるものではなかった。ただ、素朴《そぼく》な正直さと茫然自失《ぼうぜんじしつ》との入りまじった調子だった。
「きみは誰です? ここはどういう家です?」とジャン・ヴァルジャンはたずねた。
「まあなんということだ!」と老人は叫んだ。「わたしはあなたからここに入れてもらった男で、この家はあなたがわたしを入れてくださった所ですよ。ええ、わたしがおわかりになりませんかな?」
「わからない」とジャン・ヴァルジャンはいった。「どうしてきみは私を知ってるんです」
「あなたはわたしの命を助けてくださった」
そういったとき、男はむきをかえた。月の光りが彼の横顔をてらしだした。ジャン・ヴァルジャンはフォーシュルヴァン老人をそこに見出したのだった。
「ああ、きみだったか! なるほど思いだした」
「それで安心しましたよ!」と老人は怨《うら》むような調子でいった。
「ここでなにしてるんです?」
「なあに、メロンをかこってやってるんですよ」
ジャン・ヴァルジャンがそばに来たとき、フォーシュルヴァン老人は、実際、手に防寒用の|こも《ヽヽ》をもっていて、それをメロン畑にひろげてるところだった。
彼はつづけていった。
「わたしは考えたんですよ、月はいいし、霜がおりるだろう、どれひとつメロンに外套《がいとう》をきせてやろうかって」そして彼は、ジャン・ヴァルジャンを見て声をあげて笑いながらつけたした。「あなたにもそうしてあげなけりゃいけませんかな。だがいったいどうしてここへ来なすったかね?」
ジャン・ヴァルジャンは、いま自分はこの男から知られている、少なくともマドレーヌという名で知られている、ということをさとると、こんどはまた用心せずには話をすすめなかった。彼はいろんなことをきいてみた。不思議にも役割は一変して、いまやたずねかけるのは闖入者《ちんにゅうしゃ》である彼のほうだった。
「いったい、きみがひざにつけてる鈴はなにかね?」
「これですか、こりゃ人がわたしをよけるようにつけてるんですよ」
「なんだって、人がよけるように?」
フォーシュルヴァンは妙なまたたきをした。
「なに、この家は女ばかりでしてね、大勢《おおぜい》の若い娘さんたちですよ、わたしと顔を合わすのが|けんのん《ヽヽヽヽ》だと見えましてね、鈴で知らせてやってるんです。わたしがゆくと、みんな逃げていきますよ」
「これはどういう家かね?」
「ええ! ご存知でしょうが!」
「いや、知らないんだ」
「わたしをここの庭番に世話してくだすっておきながら!」
「まあなにも知らないものとして教えてくれたまえ」
「プティ・ピクピュスの修道院ですよ」
ジャン・ヴァルジャンは思い出した。偶然にも、いいかえれば神の摂理《せつり》によって、彼はサン・タントワーヌ街のその修道院に投げこまれたのだった。そこには、車から落ちてかたわになったフォーシュルヴァン老人が、彼の推薦で二年前からやとわれていた。ジャン・ヴァルジャンはひとりごとのようにつぶやいた。
「プティ・ピクピュスの修道院!」
「そうですよ。ですがいったい」とフォーシュルヴァンはいった。「マドレーヌさん、あなたはどうしてここにおはいりなすったかね。あなたは聖者にはちがいないが、それでも男にはちがいない。ここには男はいっさいはいれないんですがね」
「きみもここにいるじゃないか」
「わたしだけですよ」
「それにしても私はここにおいてもらわねばならないんだ」
「それはどうも!」とフォーシュルヴァンは叫んだ。
ジャン・ヴァルジャンは老人に近よって、おもおもしい声でいった。
「フォーシュルヴァン爺《じい》さん、私はきみの命を助けたんだ」
「それはもう、わたしがあなたよりさきに思い出したことですよ」とフォーシュルヴァンは答えた。
「むかし私がきみにしてやったとおりのことを、今日はきみが私のためにしてほしいんだよ」
フォーシュルヴァンはその|しわ《ヽヽ》の寄ったふるえる手のなかに、ジャン・ヴァルジャンの頑丈《がんじょう》な両手をにぎりしめ、口もきけないように、しばらく無言で立っていた。そしてついに叫んだ。
「おお、ちょっとでも恩がえしができれば、それは神様のお引き合せです。わたしがあなたの命を助ける! ああ、市長さん、なんなりとこの爺《じい》やにおっしゃってください」
美しい喜びが、その老人の姿を一変させた。彼の顔からは、光りがさしてるように思われた。
「いったい、なにをせよとおっしゃるんですか」
「それはいま話す。だが、きみには部屋があるかね」
「むこうに一軒建ての小屋をもってます。こわれたもとの修道院の裏手の、誰の目にもつかないひっこんだ所ですよ。部屋は三つありますが」
なるほどその小屋は、誰の目にもつかないようになっていたので、ジャン・ヴァルジャンも気がつかなかった。
「よろしい。ではきみに二つの頼みがある」とジャン・ヴァルジャンはいった。
「なんです、市長さん?」
「だいいちに、きみが私の身の上について知ってることは、誰にもいわないこと。つぎに、これ以上なにもききだそうとしないこと」
「よろしいですとも。わたしはあなたが決してまちがったことはなさらない方だということも、いつも正しい信仰をもっていらっしゃるということも知っています。それに、わたしをここへ入れてくださったのもあなたです。なんでもあなた次第です。わたしはどんなことでもやりましょう」
「さあ、きまった。それでは私と一緒《いっしょ》に来てくれ。子供をつれにゆくんだから」
「ええ!」とフォーシュルヴァンはいった。「子供がいるんですか!」
彼はそれ以上ひとこともいわなかった。そして犬が主人のあとにしたがうように、ジャン・ヴァルジャンのあとについていった。
それから三十分とたたないうちに、コゼットはよく燃えてる火にあたって血色がよくなり、老庭番の寝床のなかで眠っていた。ジャン・ヴァルジャンはもとどおりネクタイをつけ、上衣を着ていた。壁越しに投げこまれた帽子もみつけてひろってきた。ジャン・ヴァルジャンが上衣に手をとおしてるあいだに、フォーシュルヴァンは鈴のついたひざ当てをはずした。二人の男はテーブルに肘《ひじ》をついて火にあたった。テーブルの上にはフォーシュルヴァンの手で、チーズの一切れと、黒パンと、ぶどう酒の瓶と、コップ二つとがならべられていた。そして老人はジャン・ヴァルジャンのひざに手を置いていった。
「いや全く、あなたときたら、わたしのことがすぐにはわかりませんでしたな! あなたは人の生命《いのち》を助けておいて、その人を忘れてしまいなさる。それはよろしくありません。助けられた者はみんなあなたをおぼえていますよ。あなたは、まあ恩しらずなお人ですな!」
六
いままでいわばその裏面を見てきたともいえる以上の事件は、表面ではごく簡単な事情のもとに起ったのである。
ジャン・ヴァルジャンがファンティーヌの死んでる寝台のそばでジャヴェルにとらえられた日の夜、モントルイユ・シュル・メールの市《し》の牢屋を脱走したとき、警察のほうではその脱走囚は、パリのほうへ走ったにちがいないと想像した。パリはすべてを呑《の》みつくす大きな渦巻で、いちどそこにはいればすべてのものが海の渦巻に吸われるように、世の中の渦巻のなかに姿を消してしまう。どんな大森林も、人をかくすこと、その大群集におよぶものはない。
いろいろな逃亡者はそのことを知っている。警察のほうでもそれを知っていて、ほかでとり逃がした者をパリでさがすのである。で、警察はモントルイユ・シュル・メールの前市長もそこでさがした。ジャヴェルはその捜索の便宜《べんぎ》のためにパリによばれた。はたして彼はジャン・ヴァルジャンの捕縛《ほばく》に多大の力となった。彼の功績は警視総監秘書をしていたシャブーイェ氏の認めるところとなった。彼はジャヴェルにまえから目をかけてやっていたので、モントルイユ・シュル・メールから彼をパリの警察づきに抜擢《ばってき》した。彼はパリで各方面にわたって働き、そういう職務についていうのはちょっとおかしいが、大いに名誉ある技倆《ぎりょう》をしめした。
彼はもうジャン・ヴァルジャンのことを忘れていた。たえず獲物をあさっているそれらの猟犬は、今日の狼《おおかみ》のために昨日の狼を忘れるものである。ところが、一八二三年十二月のある日、ジャヴェルは一枚の新聞をよんでいた。彼はいつも新聞など見むきもしなかったが、王党派だったので、「総司令官大公」のバイヨンヌヘの凱旋《がいせん》の詳細を知りたいと思ったのである。そしてその記事を面白く読み終ったとき、頁《ページ》の下のほうにあるひとつの名前が――ジャン・ヴァルジャンという名前が、彼の注意をひいた。新聞のつたえるところでは、囚徒ジャン・ヴァルジャンは死んだというのである。しかもその事件ははっきりした文句で書かれていたので、ジャヴェルもなんら疑念をおこさなかった。彼はただひとこといった、「|うまくいった《ヽヽヽヽヽヽ》」と。それから彼は新聞を投げすてて、ふたたびそのことは考えなかった。
その後しばらくして、つぎのようなことが起った。
モンフェルメイユ村でふしぎな子供の誘拐事件が起った。パリの警視庁にとどいた報告によると、ある宿屋に託《たく》されていた七、八才の少女がひとりの見知らぬ男に盗まれたというのである。少女の名はコゼットといい、ファンティーヌという女の子供で、ファンティーヌは病院で死んでいたが、それがいつ、どこであるかは不明だという。その報告がジャヴェルの眼にふれた。そして彼は考えはじめた。
ファンティーヌという名前を彼はよく知っていた。ジャン・ヴァルジャンが彼女の子供をつれもどしにゆくために三日の猶予《ゆうよ》をくれといって彼を失笑させたことを思い出した。また、考えてみると、ジャン・ヴァルジャンがその村にむけて馬車にのったのは二度目のことで、その村には姿をみせなかったが、彼がその付近に、第一回の旅をしたことは、当時のディーニュの警察でもだいたい想像されていた。彼はそのモンフェルメイユの田舎になにをしにいったか? それはついに警察でも不明に終っていた。しかし、いまやジャヴェルはそれを了解した。ファンティーヌの娘がそこにいたのである。ジャン・ヴァルジャンはその娘をさがしにいったのだ。ところでこんどはその娘が見知らぬ男に盗まれたという。いったいその見知らぬ男とは誰だろう? ジャン・ヴァルジャンだろうか? しかしジャン・ヴァルジャンはすでに死んでいた。――ジャヴェルは誰にもなにもいわずに、駅馬車にのってモンフェルメイユにいってみた。
彼はそこへいって事を明らかにするつもりだったが、謎はかえって深まってしまった。
はじめのうちテナルディエ夫婦は、憤慨《ふんがい》してさかんにしゃべりまわった。そしてコゼットがいなくなったことが村中の評判となった。すぐにいろんな噂《うわさ》がたてられた。が、結局は子供が盗まれたということに帰着した。そこでついに警察への報告となったのである。そのうちにはじめの憤慨がうすらいでくると、テナルディエはそのみごとな本能によってすぐに眼をひらいた。検察官をわずらわすのは決して自分の利益にはならない、自分のうしろ暗い仕事がばれることになるだろう。梟《ふくろう》がきらう第一のことは、光りをさしつけられることである。それにはまず、受取った千五百フランのことをどういいわけしたらよいか。
で、彼はにわかに女房の口をつぐませ、一方、盗まれた子供のことを口にされるとびっくりしたような様子をした。自分にはなにもわからないのだ。もちろん、大事な娘があんなにはやく「もってゆかれた」ことを、はじめは苦情もいった。愛情の上からせめてもう二、三日ひきとめておきたかった。が、娘をつれにきたのは、子供の「祖父《じい》さん」で、いたって当然なことだった。彼が、のちになって、その祖父さんという言葉をつけ加えたので、事の風むきは、すっかり変ってしまった。ジャヴェルがモンフェルメイユにきてぶつかったのはそういう話であった。祖父さんという一語が|もしや《ヽヽヽ》という疑いを消し去ってしまった。
それでもジャヴェルは、二、三の質問をテナルディエとの話のあいだにはさんだ。「その祖父さんというのはどんな人で、なんという名前だったか?」それに対してテナルディエは無造作に答えた。「金持の百姓です。通行券も見ました。なんでも、ギーヨーム・ランベールという名だったと思います」
ランベールというのはいかにも正直者らしい信用のできそうな名前だった。ジャヴェルはパリへ帰った。
「あのジャン・ヴァルジャンはほんとに死んでいる。おれは馬鹿をみた」とジャヴェルは考えた。そして彼はまた、ジャン・ヴァルジャンのことを忘れはじめていた。
ところが一八二四年の三月になって、サン・メダール教区内に住む「施しをする乞食《こじき》」とあだ名されてるふしぎな男のことを、彼は耳にした。人の話では、その男は年金をもっており、ほんとうの名前は誰にもわからず、八才ばかりの少女と二人きりで暮してる。その少女は自分がモンフェルメイユから来たというだけで、その他のことはなにひとつ知っていないということだった。モンフェルメイユ! ジャヴェルは耳をそばだてた。その男からいつも施しを受けている警察の手先になってた乞食の爺さんが、彼にもっとくわしい話をした。「その年金所有者はごく無愛想である。晩にしか外に出ない。誰にも話しかけない。ときどき貧しい者に言葉をかけるだけである。人を近よらせない。汚ならしい黄色の古いフロックを着てるが、それには紙幣が縫いこまれている……」
その最後の点が強くジャヴェルの好奇心をそそった。彼は警察の手先になってた乞食になりすまして怪しい男をまちうけた。はたしてその男は、変装したジャヴェルのほうへやってきて施しをした。その瞬間をねらって、ジャヴェルは顔をあげた。そしてジャン・ヴァルジャンがジャヴェルの面影をみとめてぞっとしたと同じ気持を、ジャヴェルもジャン・ヴァルジャンの面影をみとめて感じた。しかし、暗がりのことではあるし、そこにあるいは見ちがいがあるかもしれなかった。ジャン・ヴァルジャンの死は公然のことになっている。用心深いジャヴェルは、うたがわしいあいだは誰の首にも手をかけなかった。
彼はその男のあとをゴルボー屋敷までつけていって、婆さんに口をひらかせようとした。それはべつにむつかしいことではなかった。婆さんは彼に、百フランの裏のついたフロックのことはほんとうだと断言し、千フラン札の話もした。彼女は実際にそれを見たのだ! 手をふれたのだ! で、ジャヴェルは一室を借りた。その晩からすぐにはいりこんだのである。彼はそのふしぎな借家人の声の調子をききとろうと思って、扉のそばで立ちぎきしてみた。だが、相手は鍵穴からろうそくの光りを見てとり、先手をうって口をつぐんでしまった。
翌日ジャン・ヴァルジャンはたちのいた。しかし、彼が床に落した五フラン銀貨の音が婆さんの注意をひいた。彼女はその金の音をきいて、彼がそこを去るつもりでいるんだと考え、いそいでジャヴェルに知らせた。夜になってジャン・ヴァルジャンが出かけたとき、ジャヴェルは二人の手下とともに、大通りの並木のかげに待ちうけていた。
ジャヴェルは警視庁に助力をもとめたが、逮捕しようとしている男の名前は明さなかった。彼はそれを自分だけの秘密にしておいた。それには三つの理由があった。第一に、少しでも不注意なことをすればジャン・ヴァルジャンに警戒心をあたえるかもしれない。第二に、死んだといわれている脱走囚、法廷の記録に「もっとも危険な種類の悪人」と前からきめられてる罪人、それを取り押えることは非常な成功で、パリの警察の古参者がジャヴェルのような新参者にそれをまかせておくはずはない。彼は自分の囚人が他人の手にうばわれることをおそれた。第三に、ジャヴェルは一種の芸術家で、人に意外の感をあたえることを好んだ。暗いところで傑作を仕あげて突然それを明るみに出したかったのである。
ジャヴェルは、ジャン・ヴァルジャンのあとをつけて、木から木へ、街路のすみからすみをつたって、一時も彼の姿を見うしなわなかった。ジャン・ヴァルジャンがもう大丈夫だと思ったときでさえ、彼の眼はジャン・ヴァルジャンの上にすえられていた。
なぜジャヴェルはすぐに彼を捕えなかったか? それはまだ疑問があったからで、ここに記憶すべきことは、当時の警察は個人の意のままに行動することができなかったことである。言論の自由のために、それは禁じられていた。根拠のない逮捕は新聞にかきたてられ、議会の問題とまでなったことがあるので、警察でも神経質になっていた。個人の自由をおかすことは重大問題だった。警官たちは見当をあやまることをおそれた。総監のほうでは責任を警官自身におわせた。黒星はすなわち免職につながっていた。つぎのような小記事が二十いくつの新聞にのったとしたら、パリじゅうにどんな反響をおこすか想像してみるがいい。「昨日、年金をもつ尊敬すべき白髪の老紳士が、八才の孫をつれて散歩していたとき、脱走囚として逮捕され、留置場に送られた!」
その上なお、くりかえしていえば、ジャヴェルには細心なところがあった。自分の内心の注意が、総監の注意に加わって慎重にも慎重をかさねていた。彼は実際うたがっていたのである。
ジャン・ヴァルジャンは彼のほうに背をむけて、暗やみのなかを歩いていた。
悲しみ、不安、心配、落胆、かくれ家をコゼットと二人で、夜中に逃げ出して、再び第二のかくれ場所を、パリの街に、あてどもなくさがさなければならないというあらたな不幸、子供の足どりに自分の歩調を合せなければならない心づかい、すべてそうしたことがしらずしらずのうちにジャン・ヴァルジャンの歩き方を変化させ、彼の様子に老衰した感じをあたえていたので、警察の権化《ごんげ》のようなジャヴェルも、さすがに見当をあやまるほどだった。いや実際またあやまったのである。あまりそばによってゆくことのできない事情、亡命老家庭教師のような服装、彼を娘の祖父だと断言したテナルディエの言葉、また徒刑場で死んだという定説、それらのことがいっそうジャヴェルの脳裡《のうり》の疑念を深めていた。
で、彼はかなりまよい、その謎のような人物にいろんな疑問をかけながら、なお|あと《ヽヽ》をつけていった。
ところがかなり時期おくれだったが、ポントワーズ通りにさしかかったとき、ある居酒屋からさしてる明るい光りで、彼はまさしくジャン・ヴァルジャンの姿を見てとった。
世にはもっとも深い喜びにおどりあがる者が二つある。自分の子供にめぐりあった母親と、餌食《えじき》にありついた虎とである。ジャヴェルはそういう深い喜びにおどりあがった。
彼は恐るべき囚徒ジャン・ヴァルジャンの姿を確実に見てとるや、自分のほうは三人にすぎないことに気づいた。そしてポントワーズ通りの警察派出所に助力をもとめた。
そのあいだの遅延と、警官たちと相談するためにロランの四辻に立ちどまった時間とで、彼はあやうく獲物《えもの》の足跡を見うしないかけた。ところがジャン・ヴァルジャンは追跡者たちを河でへだてようとするにちがいないと、彼はすぐに感づいた。そして直線にすすむ本能によって、すぐにオーステリッツ橋のほうへいった。橋番に一言たずねて事実をとらえた。橋の上にさしかかると、ちょうどジャン・ヴァルジャンがコゼットの手をひいて月にてらされた空地を通るのが、河のむこうに見えた。シュマン・ベール・サン・タントワーヌ通りへはいってゆく姿も見えた。彼はそこに罠《わな》を張ったようになってる、あつらえむきのジャンロー袋小路のことを考え、ピクピュス小路に通ずるドロワ・ミュール通りのただひとつしかない出入口のことに考えついた。猟人などのいうように彼を|取り巻いた《ヽヽヽヽヽ》。その出口を見張るために警官のひとりをさきまわりさせた。造兵廠《ぞうへいしょう》の部署にもどる一隊の巡邏隊《じゅんらたい》が通ったので、それに加勢をもとめた。そういう勝負には、兵士は切札なのである。
彼は狩り出しにかかった。それは残虐な狂喜の時間だった。彼は獲物《えもの》を進むままにさせておいた。捕獲の時間をできるだけ長びかしたかったのである。自分の捕えたものがなお自由に動きまわってるのを見ることが面白かった。捕えたねずみを走らせてよろこぶ猫のような眼つきで、彼は獲物をうかがっていた。
ジャヴェルはゆっくりとすすんでいった。まるで泥棒のポケットを一つ一つさぐるように、その街路のすみずみをくまなくさぐりながらすすんだ。
ところが、|くも《ヽヽ》の巣のまん中まで来てみると、そこにはもう蝿はかかっていなかった。彼の憤激は察するにあまりある。
彼はドロワ・ミュール通りとピクピュス小路の角《かど》を見張っていた警官にたずねてみた。だが彼はなにも見かけなかった。
網を破って逃げたその囚徒はまだ遠くにいってるはずはないと信じて、ジャヴェルは番人をおき、罠《わな》と伏兵をもうけ、終夜その一|廓《かく》を狩りたてた。第一に彼の眼についたのは、綱を切られた街灯が乱れていることだった。それは大切な手がかりだった。その袋小路にはかなり低い壁がいくつもあって、庭につづき、庭のかこいは広い荒地に接していた。ジャン・ヴァルジャンはたしかにそこから逃げ出したにちがいないと思われた。そして実際、彼がもうすこしジャンローの袋小路のなかにはいりこんでいったら、ついに捕えられただろう。ジャヴェルはそこらあたりの庭と荒地とを、針でもさがすようにくまなく探索《たんさく》した。
しかし結局、彼は夜が明けるころ、二人の手下を残して見張りをさせ、まるで盗人につかまえられた間諜《かんちょう》のように恥じいって警視庁へ引きあげた。
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第六章 墓地はいかなるものでも受納する
一
コゼットを寝かすと、ジャン・ヴァルジャンとフォーシュルヴァンは、一杯のぶどう酒と一片のチーズとを、よくもえてる薪の火にあたりながら味わった。それから、その小屋のなかにあるただひとつの寝台にはコゼットが寝ていたので、彼らはそれぞれわら束《たば》の上に横になった。眼をつむる前に、ジャン・ヴァルジャンはいった。「これから私は、ここにおいてもらわなくてはならない」その言葉はひと晩じゅうフォーシュルヴァンの頭からはなれなかった。
二人ともねむれなかった。ジャン・ヴァルジャンは、もはやその正体を見やぶられてジャヴェルに跡をつけられていたので、もしパリの街のなかへ出てゆけば、自分とコゼットの破滅はわかりきっていた。彼のような立場にある不幸な者にとって、修道院はもっとも危険な、同時にもっとも安全な場所だった。もっとも危険だというのは、どんな男もそこへはいることができないので、もし見つかったら現行犯となり、しかも彼にとっては修道院から牢獄までただ一歩しかなかったからである。もっとも安全だというのは、もしそこに許されてとどまることができたら、誰からもさがしにこられる心配がなかったからである。誰も入ってこられない場所にすむこと、それが安全の道だった。
フォーシュルヴァンのほうでは、しきりに頭をなやましていた。彼はまず、ちっともわけがわからなかった。あの高い壁をどうやってマドレーヌ氏はのり越えてきたのだろう。それはとてものり越せるものではない。それに子供は何者だろう。二人はいったいどこから来たのだろう。フォーシュルヴァンは修道院にはいってから、モントルイユ・シュル・メールのことについてはなんの噂《うわさ》もきいていなかったので、そこでどんなことが起ったか少しも知らなかった。といって、マドレーヌ氏の様子は事情をたずねるのも気の毒なほどだった。彼は考えた。「聖者にはなにかとたずねるものではない」マドレーヌ氏は彼の眼からみれば、まだ立派な人だった。
ただジャン・ヴァルジャンの口からもれたわずかな言葉で、庭番はつぎのように推察した。すなわち、変動のはげしい時勢のために、マドレーヌ氏は破産したのだろう。そして債権者どもから追いまわされてるのだろう。それとも政治上の事件に関係して、身をかくそうとしているのかもしれない。そしてこの修道院を避難所ときめたのだろう。しかし、フォーシュルヴァンはマドレーヌ氏が庭のなかにいたこと、それも子供と一緒にいたことが、どうしても腑《ふ》におちなかった。二人を眼で見、二人を手でさわり、二人に話しかけたのだが、それでもなお夢のような気がしてならなかった。彼はいろいろと想像してみた。しかし、マドレーヌ氏は自分の命の恩人であるということしか、なにもはっきりしたことはわからなかった。そこで彼は心をきめた。彼はひそかに考えた。
「こんどは自分の番だ。わたしを引き出すために車の下にはいりこむのに、マドレーヌ氏はいろんなことを考えてみはしなかったんだ」彼はマドレーヌ氏を助けようと決心した。
しかし、彼を修道院にかくまうことは、なんと困難な問題であろうか? それでもフォーシュルヴァンはたじろがなかった。ピカルディー出の彼は、献身と善意と仁義のためにめぐらされる古い田舎者の多少の知恵とのほか、どんな梯子《はしご》ももたずに、修道院の難関と聖ベネディクトの規則の荒い崖をのりこえてみようとくわだてた。
彼は元来、利己主義者だったが、年をとってびっこにはなるし、身体はきかなくなるしで、もう世間になんの興味もなくなり、ただなにか|いい《ヽヽ》行いができるような場合には、今までに味わったこともない上等のぶどう酒を死ぬまぎわになって手にふれ、それをむさぼり飲む人のように、それに|とび《ヽヽ》ついてゆくのだった。その上、修道院のなかですでに数年間呼吸してきた空気は、彼の個性を枯らして、ついになにか|いい《ヽヽ》行いをしないではいられないようにしてしまった。
夜明けごろ、フォーシュルヴァンが眼をさましてみると、マドレーヌ氏はわら束《たば》の上にすわって、眠ってるコゼットをながめていた。フォーシュルヴァンは半身を起していった。
「まず」とフォーシュルヴァンはいった。「この部屋から外に出ないようにしなくてはいけません、子供もあなたも二人とも。一歩でも庭に出たら、もうおしまいです」
「なるほど」
「マドレーヌさん」とフォーシュルヴァンはまたいった。「あなたはいい時においででした。ひとりの修道女がひどく病気なんです。それでこちらはあまり注意されないですみます。もう死にかかってるのかもしれません。四十時間のお祈りがされています。家中が大さわぎです。みんなそのほうに気をとられています。死にかかってるのは聖者なんですよ。死にかかると祈祷がありますし、死ぬとまた祈祷があるんです。で、今日のところはここにいても安全でしょうが、あしたのことはわかりませんよ」
「しかし」とジャン・ヴァルジャンは注意した。「この小屋は壁のかげになってるし、木立もある、修道院から見えないと思うが」
「その上、修道女たちもここへは決してやってきませんよ」
「じゃ?」
「それでも娘たちがいます」
「娘たちというと?」
フォーシュルヴァンがそれを説明しようと口をひらいたとき、鐘がひとつなった。
「修道女が死にました」と彼はいった。「あれが喪《も》の鐘です」
そして彼はジャン・ヴァルジャンに耳をすますように合図した。
鐘はまたひとつなった。
「マドレーヌさん、喪の鐘です。一分おきに、死体が教会から運び出されるまで二十四時間つづきます。……ところで、さっきの話ですが、その娘たちが遊びまわるのです。休みのあいだに毬《まり》でもひとつ、ころがってこようものなら、禁止されてはいますけど、みんなここへやってきます。この辺をやたらにさがしまわるんです。その天使たちときたら、それはいたずらな悪魔ですよ」
「誰のことかね」
「娘たちですよ。あなたはすぐ見つかるでしょうよ。娘たちは大きな声を出します、まあ男の人が! って。ですが今日は大丈夫です。今日は休みがありません。一日じゅう祈祷があるはずです」
「わかった、フォーシュルヴァンさん。寄宿舎の生徒たちがいるんだね」
ジャン・ヴァルジャンはひそかに考えた。「コゼットの教育もここでできるだろう」
フォーシュルヴァンは力をこめていった。
「そうです、寄宿生の娘たちがいるんですよ。ここでは、男がいることはペスト患者がいるようなものです。ごらんの通り、猛獣かなんぞのように、わたしのひざにもこうして鈴をつけておくんです」
ジャン・ヴァルジャンはますます深く考えこんだ。「この修道院のおかげで助かるだろう」とつぶやいた彼は、それから声をあげていった。
「そうだ、むつかしいのは、どうやってこのままここにいるかだ」
「いえ」とフォーシュルヴァンはいった。「出ることがむつかしいんですよ」
「出るのが?」
「そうです、マドレーヌさん。ここにはいるには、まず出なければなりません」
そして、喪《も》の鐘がまたひとつなるのをまって、フォーシュルヴァンはつづけた。
「こんなふうにここにいるわけにはいきません。どこから来なすったかが問題になりますよ。わたしはあなたを知ってますから天から落ちてきたでよろしいですが、修道女たちにとっては、門からはいって来なければなりませんからな」
そのとき突然、べつの、かなり複雑な鐘の音がきこえた。
「ああ、あれは」とフォーシュルヴァンがいった。「|声の母《メール・ヴォーカル》たちをよぶ鐘です。参事会へゆくんです。誰かが死ぬと、いつも参事会があります。今の人は夜明けに死にました。死ぬのは大てい夜明けなんです。だがそれはともかく、あなたは、はいってきた所から出てゆくわけにはいきませんか。これはべつにむりにおききするわけじゃありませんが、いったいどこからはいって来られたんです?」
ジャン・ヴァルジャンは蒼《あお》くなった。あの恐ろしい街へまた出てゆくことは、考えただけでもぞっとする。虎がいっぱいいる森から出て、やっと外にのがれたと思ったのに、またそこへはいってゆけとすすめられたようなものだった。まだその一|廓《かく》には警察の者がうようよしている、警官は見張りをしているし、番兵はいたるところに立っているし、ジャヴェルもおそらく四辻の片すみに待ちうけているだろう。
「それはできない!」と彼はいった。「フォーシュルヴァン爺《じい》さん、まあ私は天から落ちてきたものと思っててもらいたい」
「ええ、わたしはそう思っています、そう思ってますとも。そんなことはおっしゃらなくともよろしいですよ。神様があなたをそばでよく見ようと思って手もとにとりあげ、それからまた下へおろされたんでしょう。ただあなたを男の修道院のなかへおろそうとして、まちがえて女の修道院におろされたんですよ。それ、また鐘がなります。門番へ合図の鐘です。門番は役所へいって、検死の医者をよこすようにたのむんです。それは人が死んだときにきまってやることです。修道女たちは医者がくるのをあまりよろこびません。医者というものはちょっとも信仰がないものですから。それにしても、こんどはずいぶんはやく医者をよびますが、どうしたんでしょうな。ああ、あなたのお子さんはまだ眠っていますね。なんとおっしゃるんですか」
「コゼット」
「あなたの娘さんですか。あなたは、そのおじいさんとでも?」
「そう」
「娘さんのほうは、ここから出るのにわけはありません。中庭にわたしの通用門があるんです。叩けば門番があけてくれます。籠《かご》を背負って娘さんをなかに入れて出ますよ。わたしが籠をかついで出かけたって、ちっともふしぎなことじゃありません。娘さんにはしずかにしてるようにいっといてくださればよろしいです。上に覆《おお》いをしておきます。シュマン・ヴェール街に果物屋をしてる婆さんで、わたしがよく知ってる者がいますから、いつでもそこにあずけられます。つんぼでして、小さな寝床もひとつあります。わたしの姪《めい》だが、あしたまであずかってくれと耳にどなってやりましょう。それからここにはいりなおす工夫をしましょう。ですが、あなたはどうして出たものでしょうな」
ジャン・ヴァルジャンは頭をふった。
「私は人に見られてはいけないのだ。フォーシュルヴァンさん、それが一番大事な点だ。コゼットのように籠にはいって出る方法はないものだろうか」
フォーシュルヴァンは左手の中指で耳たぶをかいた。非常に困ったことを示す動作だった。
そのとき、第三の鐘がなった。
「あれは検死医の者をいよいよ迎えにゆく合図です。医者は死人をみてから、死んでいる、よろしい、というんです。天国への通行券に医者が署名しますと、葬儀屋がお棺《かん》をとどけにきます。修道女《メール》さまだと修道女《メール》さまたちが、普通の修道女《スール》だと修道女《スール》たちが、死体を棺におさめます。それからわたしが釘《くぎ》をうつんです。それは庭番の仕事のひとつになっています。庭番は墓掘人の用もするんですよ。棺は教会の低い部屋に入れられます。そこは通りにつづいてて、検死の医者のほかは誰もはいることができません。もっとも、人夫だのわたしなどは人数のうちにはいりませんからな。わたしが棺に釘をうつのはその部屋のなかでです。それから人夫が棺をとりにきて、馬にむちをあてていってしまいます。そういうふうにして天国にゆくんですよ。空《から》の箱をもってきて、それになにか入れてもってゆく、葬式ってそんなものです」
ま横から低くさしてくる太陽の光りが、コゼットの顔にあたっていた。眠ってる彼女は、ぼんやり口を少しあけ、光りを吸ってる天使のようだった。ジャン・ヴァルジャンはその顔をながめはじめていた。彼はもうフォーシュルヴァンのいうことに耳をかたむけていなかった。
耳をかたむけられていないことは口をつぐむ理由とはならない。善良な老庭番は、しずかにくどくどと話をつづけた。
「墓穴はヴォージラールの墓地に掘るんです。なんでもその墓地はまもなく廃止になるということです。古い墓地でして、規定外のものだとか、規則に合わないとかで、とり払われるんだそうです。困ったものですよ。そこにはわたしの知ってる者がいます。メティエンヌ爺《じい》さんといいまして、墓掘り人足です。ここの修道女たちは特別にゆるされて、夜になってからその墓地に運ばれるんです。彼女たちのために特別な市庁の許可があるんです。ですがまあ、きのうからなんといろんなことが起こったもんでしょう! クリュシフィクシォンさまは死なれるし、それにマドレーヌさんまでが……」
「葬られるのだね」とジャン・ヴァルジャンは悲しそうにほほ笑《え》んでいった。
フォーシュルヴァンはその言葉じりをとりあげた。
「なるほど、すっかりここにはいってしまわれたら、全く葬られたことになりますな」
四番目の鐘の音がひびいてきた。フォーシュルヴァンは急に鈴のついたひざ当てを釘からはずして、それをひざにはめた。
「こんどはわたしの番です。院長さんがわたしをよんでいます。どれ一走りいってきます。マドレーヌさん、ここを動いちゃいけませんよ。待っててください。なにか工夫もつきましょうから。腹がすきましたら、あすこにぶどう酒もパンもチーズもありますよ」
ジャン・ヴァルジャンは彼の姿を見送った。彼はそのびっこの足で、できるだけいそいで庭を横ぎっていった。
それから十分とたたないうちに、フォーシュルヴァン爺さんは鈴の音で修道女たちを追いちらしてゆき、ひとつの扉をかるくたたいた。しずかな声がなかから答えた。
「おはいり」
その扉は、用のあるとき庭番をよびよせることになってる応接室の扉だった。その応接室は参事会室につづいていた。修道院長は部屋のなかにあるただひとつの椅子に腰かけて、フォーシュルヴァンを待っていた。
二
切迫した場合に、いらだって、深刻《しんこく》な様子をするのは、ある種の性格の人やある種の職業の人にありがちのことであるが、ことに司祭や修道者たちの場合にはそうである。フォーシュルヴァンがはいってきたとき、そういう様子が院長の顔にもあらわれていた。学識もあり愛嬌《あいきょう》もあるブルムール嬢、すなわちイノサントさまは、いつもはいたって快活な人だった。
庭番はおずおずしたお辞儀をして、部屋の入口に立ちどまった。院長は眼をあげていった。
「ああ、フォーヴァン爺《じい》さんですか」
修道院では彼の略したよび名が使われていた。
フォーシュルヴァンはまたお辞儀をした。
「お前をよんだのはわたくしです」
「それでまいりましたが」
「お前に話しがあります」
「わたくしのほうでもちょうど」とフォーシュルヴァンは内心びくびくしながらも思いきっていった。「院長さまに少々申しあげたいことがございます」
院長は彼をじっと見た。
「そう! なにかわたくしの耳に入れたいことがあるのですか」
「お願いがございますので」
「では、話してごらんなさい」
もと公証人書記をやったことのあるフォーシュルヴァン爺《じい》さんは、とぼけた百姓という型の男だった。一種の巧妙な無智というものはひとつの力である。誰もそれに用心しないので、かえってそれにあやつられる。修道院に住むようになってから、彼はうまく立ちまわっていた。いつもひとりで、庭の仕事を片づけながら、ただ好奇の眼を見張ることばかりしていた。往《ゆ》き来するヴェールをかけた女たちから遠くにはなれていたので、彼はほとんど自分の前には影が動きまわるのを見るだけだった。しかし、注意と洞察《どうさつ》力とで彼はついにそれらの幽霊に肉をあたえ、生きながらの死人をよみがえらすにいたった。まるで、つんぼのために眼がするどくなった人のようだし、まためくらのために耳がするどくなった人のようだった。彼はいろいろな鐘の音の意味をとくのに成功し、そしてとうとう謎のような沈黙の修道院の内部の秘密をことごとく知ってしまった。
ところがフォーシュルヴァンはすべてを知りながら、そのすべてをかくしていた。それが彼の手《ヽ》だった。修道院の者はみんな彼を馬鹿だと思っていた。それは宗教の上では大きな功徳《くどく》となる。|声の母《メール・ヴォーカル》たちはフォーシュルヴァンを重宝《ちょうほう》がった。彼はめずらしいほど無口だった。それで人々の信用をえた。その上、彼は几帳面《きちょうめん》で、果樹や野菜など手入れのためのはっきりした用事のほかには外出しなかった。そういうひかえめな態度が彼のためになった。それでも彼は二人の男にいろいろなことをしゃべらせた。修道院では門番に、そして応接室のいろんなことを知った。墓地では墓掘人に、そして墓場のいろんなことを知った。
爺さんは自分がよく思われていることを知ってるので、安心して院長の面前でかなり面倒《めんどう》な、しかもなにか意味をふくめたおしゃべりを田舎弁でやりだした。彼はくどくどと、老年であること、身体がよくきかないこと、仕事もしだいに多くなったこと、庭の広いことなどをいろいろ並べたててから、さていい出した。自分には一人の弟がある――(院長はちょっと身を動かした)――けれどもう年とっている――(院長はまた身を動かしたが、こんどは安心の身振りだった)――もし許されるなら、弟に来てもらって一緒に住んで助けてもらいたい。弟はすぐれた庭師である。自分よりはるかに役立つにちがいない――もし許されないなら、もう老年である自分は、全く弱りきって仕事にたえられないから、非常に残念だが暇《ひま》をいただかなければならないかもしれない――弟には小さな娘があるので、それをつれてくるだろう。そうなれば、ここで神様のもとでそだてられることになろう、あるいは修道女にならないともかぎらない。
彼がそう語りおわると、院長はロザリオを爪ぐっていた手をとめていった。
「晩までに丈夫な鉄の棒を一本手に入れることができますか」
「なにになさるのでございますか」
「物をもちあげるためです」
「承知しました、院長さま」
院長はほかには一言もいわずに立ちあがって、隣りの部屋にはいっていった。そこは参事会室で、たぶん|声の母《メール・ヴォーカル》たちが集まっていたのだろう。フォーシュルヴァンはひとりとりのこされた。
十五分ばかりすると、院長はもどってきて、また椅子に腰をおろした。
二人ともなにかひどく気にしてるらしかった。ここに二人のあいだでかわされた対話を、できるだけそのまま速記してみよう。
「フォーヴァン爺さん」
「院長さま」
「お前は礼拝《らいはい》堂を知っていますね」
「礼拝堂に、わたしはミサや祭式をきく自分の小さな席をもっております」
「それから聖歌隊席にはいったことがありますね」
「二、三度ございます」
「あそこの石を一枚おこしてもらいたいのです」
「あの重い石でございますか」
「祭壇のわきにある敷石です」
「穴ぐらをふさいでるあの石でございますか」
「そう」
「そういうことをするにしましても、二人いたほうが便利でございますよ」
「男のように強いあのアッサンシォン修道女がお前に手伝ってくださるでしょう」
「女の方と男とはべつでございます」
「お前の手助けといっては、ここには女しかおりません。誰でもできるかぎりのことをするよりほかはありません」
「さようでございますとも」
「自分自身の力に応じて働くことが貴いのです。修道院は工場ではありません」
「そして女は男ではございません。わたしの弟は強い男でございます」
「それから|てこ《ヽヽ》をひとつ用意しておきますように」
「あのような扉に合う鍵といっては、|てこ《ヽヽ》のほかにはありません」
「石には鉄の輸がついています」
「|てこ《ヽヽ》をそれに通しましょう」
「そして石は軸で廻るようになっております」
「それは結構でございます。穴ぐらをひらきましょう」
「そして四人の聖歌隊の修道女たちが立会ってくだされます」
「そして穴ぐらをあけましてからは?」
「またしめなければなりません」
「それだけでございますか」
「いいえ」
「なんでもおいいつけください、院長さま」
「フォーヴァンや、わたくしたちはお前を信用しています」
「わたしはなんでもいたします」
「そして何事もだまっていますね」
「はい、院長さま」
「穴ぐらをあけましたら……」
「またしめます」
「でもその前に……」
「なんでございますか、院長さま」
「そのなかになにか入れるのです」
ちょっと沈黙がつづいた。院長は躊躇《ちゅうちょ》するように下唇をとがらせ、やがていった。
「フォーヴァン爺さん、お前は今朝《けさ》ひとりの修道女が亡くなられたのを知っていましょうね」
「存じません」
「では鐘を聞きませんでしたか」
「庭の奥まではなにもきこえません」
「ほんとうに?」
「自分の鈴の音もよくきこえないぐらいでございますから」
「修道女《メール》は夜明け方に亡くなられました」
「それに今朝は、風のむきがわたしのほうへではございませんでしたから」
「クリュシフィクシォン修道女《メール》です。聖《きよ》いお方でした」
院長は口をつぐんで、心のうちでお祈りをとなえているように、ちょっと唇を動かした。そしてまたいった。
「三年前ですが、クリュシフィクシォン修道女《メール》の祈っていられたところを見たばかりで、ひとりのジャンセニスト派の人が、ベテューヌ夫人が、正教徒になられたことがあります」
「ああ、院長さま、いまはじめて喪《も》の鐘が耳にはいりました」
「修道女《メール》たちが、亡くなられたクリュシフィクシォン修道女を礼拝堂につづいてる死者の部屋へ運ばれたのです」
「わかりました」
「お前のほかには誰も、男はその部屋にはいることはできませんし、はいってはならないのです。よく考えてごらん。ありがたいことです、死者の部屋に男がはいるのは」
そのとき九時の鐘がなった。フォーシュルヴァンは額《ひたい》をふいた。
院長はまたなにか祈りらしい言葉をつぶやいて、それから口をひらいた。
「クリュシフィクシォン修道女は、生前沢山の人をほんとうの信仰にみちびかれました。亡くなられてからは、きっと奇跡を行われるでしょう」
「行われるでございましょうとも」
「フォーヴァン爺さん、死んだ方のお望みははたしてあげなければいけません」
「院長さま、庭のなかよりここのほうがよく喪の鐘がきこえます」
「その上、あの方はただ亡くなった人というよりも、聖者と申しあげたいお方です」
「あなた様のように、院長さま」
「フォーヴァン爺さん」
「院長さま?」
「カパドキアの大司教ディオドロス聖者は、みみずという意味の|アカロス《ヽヽヽヽ》という、ただの一字を墓石に彫るようにと望まれました。そしてそのとおりにされました。そうではありませんか」
「はい、院長さま」
「アクイラの修道院長メツォーカネ上人《しょうにん》は、絞首台の下に埋められることを望まれました。そしてそれもそのとおりにされました」
「さようでございます」
「チベル河口にあるポールの司教テレンチウス聖者は、通る人々が墓に唾《つば》をかけてゆくようにと、親殺しの墓につける印を自分の墓石にも彫るように望まれました。そしてそれもそのとおりにされました。死んだ方のお望みにはしたがわなければなりません」
「そうなりますように」
「フォーヴァン爺さん、クリュシフィクシォン修道女は、二十年のあいだ寝ておられた枢《ひつぎ》のなかに葬られなければなりません」
「当然のことでございます」
「それはただお眠りをつづけられることです」
「それでわたしはその柩《ひつぎ》に釘《くぎ》をうつのでございましょう」
「ええ」
「そして葬儀屋《そうぎや》の棺《かん》はやめにするのでございましょう?」
「そのとおりです」
「わたしはご命令どおりになんでもいたします」
「四人の聖歌隊の修道女《メール》たちがお手伝いしてくだされます」
「柩《ひつぎ》に釘をうつのにでございますか。お手伝いはいりません」
「いいえ、枢をおろすのに」
「どこへおろします?」
「穴ぐらのなかへ」
「どの穴ぐらでございますか」
「祭壇の下の」
フォーシュルヴァンはぞっとした。
「祭壇の下の穴ぐら!」
「祭壇の下の」
「でも、それは……」
「鉄の棒があるでしょう」
「ございます。しかし……」
「お前は鉄の輪に棒を差し入れてその石をおこすのです」
「しかし……」
「死んだ方のお望みにはしたがわなければなりません。礼拝堂の祭壇の下の穴ぐらのなかへ葬られること、けがれた土地のなかへ行かないこと、生きてるあいだお祈りをしている場所に死んでもとどまりたいこと、それがクリュシフィクシォン修道女の最後のご希望でした。あの方はそれを私どもに願われました、いいかえれば、おいいつけなさいました」
「けれども、それは禁じられています」
「人間によって禁じられていますが、神によって命ぜられているのです」
「もし知れましたら?」
「私どもはお前を信じています」
「おお、わたしはこの壁の石と同じで、決して口には出しません」
「参事会がひらかれています。私は|声の母《メール・ヴォーカル》たちに相談したのですが、評議の席で、クリュシフィクシォン修道女はご希望どおりにその枢《ひつぎ》におさめて祭壇の下に葬ることに、きまったのです」
「けれども院長さま、もし衛生係の役人が……」
「聖ベネディクト二世は、墓のことでコンスタンチヌス・ポゴナチウス皇帝と争われました」
「それでも警察の人が……」
「コンスタンス皇帝のときに、ゴールにはいってこられた七人のドイツの王さまのひとりだったコノデメールは、宗門の規定で葬られること、つまり祭壇の下に葬られることを、修道士たちの権利としてとくに許可されました」
「しかし、警視庁の検察官が……」
「世俗のことは十字架に対してはなんでもありません。フォーヴァン爺さん、わかりましたか」
「わかりました、院長さま」
「お前をあてにしてよいでしょうね」
「ご命令どおりにいたします。わたしはこの修道院に身をささげています」
「ではそうきめます。お前は枢《ひつぎ》のふたをするのです。修道女たちがそれを礼拝堂にもってゆきます。死者へのお祈りをとなえます。それからみんな修道院のほうへ帰ります。夜の十一時から十二時までのあいだに、お前は鉄の棒をもってくるのです。万事ごく秘密のうちにするのです。礼拝堂のなかには、四人の聖歌隊の修道女《メール》とアッサンシォン修道女とお前とのほかは誰もいませんでしょう」
「それと柱につかれている修道女が」
「それは決してふりむきません」
「けれども音はきこえるでしょう」
「いいえ、きこうとはしますまい。それに修道院のなかで知れることも、世間には知れません」
またちょっと言葉がとぎれた。院長はつづけた。
「お前はその鈴をはずすがよい。柱についている修道女にはお前の来たことを知らせるにはおよばないから」
「院長さま」
「なに、フォーヴァン爺《じい》さん?」
「検死のお医者さまはもうこられましたか」
「今日の四時にこられるでしょう。お医者をよびにゆく鐘はもうならされました。お前はそれを聞きませんでしたか」
「自分の鐘の音にしか注意しておりませんので」
「それでよいのです、フォーヴァン爺さん」
「院長さま、少なくとも、六フィートぐらいの|てこ《ヽヽ》がいりますでしょう」
「どこからもってきます?」
「鉄格子のある所には必ず鉄の棒がございます。庭のすみにも鉄の切れが山ほどございます」
「十二時より四、五十分前がよい。忘れてはなりませんよ」
「院長さま?」
「なんです?」
「まだほかにこんなご用がございましたら、ちょうどわたしの弟が強い力をもっておりますので。トルコ人のように強うございます」
「できるだけはやくやらなければいけませんよ」
「そうはやくはできませんのですよ。わたしは身体がよくききません。それでひとりの手助けがいるのでございます。だいいちわたしはびっこでございます」
「フォーヴァン爺さん、一時間ぐらいはかかるつもりでいます。それぐらいはみておかねばなりますまい。十一時には鉄の棒をもって、主祭壇のところへきますように。十二時には祭式がはじまります。それより十五分ぐらい前にはすっかりすましておかなければなりません」
「十一時きっかりに礼拝《らいはい》堂にまいります。聖歌隊の修道女たちとアッサンシォン修道女とがきておられるわけですな。なるべくなら男二人のほうがよろしゅうございますが、なにかまいません。|てこ《ヽヽ》をもってまいります。穴ぐらをひらきまして、枢《ひつぎ》をおろし、そしてまた穴ぐらをとじます。そうしても、なんの跡ものこりますまい。役人も気がつきますまい。院長さま、それですっかりよろしいんでございますな」
「いいえ」
「まだなにかございますか」
「空《から》の棺《かん》がのこっています」
フォーシュルヴァンは考えこんだ。院長も考えこんだ。
「フォーヴァン爺さん、棺をどうしたらいいでしょうね」
「それは地のなかに埋めましょう」
「空《から》のままで?」
また沈黙がおそった。フォーシュルヴァンは左の手で、困難な問題を解決したかのような身振りをした。
「院長さま、わたしが教会の低い室で釘をうつのでございます。そしてわたしのほかには誰もそこへはいれません。そしてわたしが棺《かん》に喪布《もぬの》をかけるのでございましょう」
「そうです。けれども人夫たちは、それを車にのせ、それから墓穴のなかにそれをおろすので、なかになにもはいっていないことに気がつくでしょう」
「なるほど、畜《ちく》……」とフォーシュルヴァンは叫んだ。
院長は十字を切って、じっと庭番の顔をながめた。〈生《しょう》〉というあとの一語は彼ののどにつかえて出なかった。
彼は、その悪い言葉を忘れさすために、あてずっぽうにあわててひとつの方法を考えついた。
「院長さま、わたしは棺のなかに土を入れておきましょう。そうすれば人がはいってるような工合《ぐあい》になりましょう」
「なるほどね。土は人間と同じものです。ではそうしてお前が空の棺を処分してくれますね」
「おひきうけします」
そのときまで心配そうで曇っていた院長の顔は、ふたたびはればれとなった。彼女は庭番に、上役が下役をさがらすときのような合図をした。フォーシュルヴァンは扉のほうへさがっていった。彼がいまにも出ようとしたとき、院長はしずかに、しかし声を高めていった。
「フォーヴァン爺《じい》さん、私は満足に思いますよ。あした葬式がすんだら、お前の弟をつれておいでなさい。そして、その娘もつれてくるようにいっておやりなさい」
三
フォーシュルヴァンがはいって来たとき、ジャン・ヴァルジャンは壁にかかってる庭番の背負い籠をコゼットに示しながらいっていた。
「よく私のいうことをおきき、コゼット。私たちはこの家から出なけりゃならない。だけどまたもどってきて、たのしく暮らせるんだよ。ここのおじいさんが、お前をあのなかに入れて、かついでいってくれる。で、あるおばさんのうちで私を待っているんだよ。私がすぐつれにいってあげるからね。テナルディエのおかみさんにつかまりたくないなら、よく、いうことをきいて、なんにもいってはいけないよ」
コゼットはまじめな様子でうなずいた。
「だまっていてくれましょうね」とフォーシュルヴァンがいった。
「それはうけあうよ」
「ですが、マドレーヌさん。あなたのほうは、どうします?」
フォーシュルヴァンは心配しきってちょっと口をつぐんだあと、やがて叫んだ。
「どうか、はいってこられた所から出ていってくださいよ」
ジャン・ヴァルジャンは最初にそういわれたときと同じように、ただひとこと答えた。
「できない」
フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンにむかって、というよりむしろひとりごとのようにつぶやいた。
「もうひとつ困ったことがある。土を入れるとはいったが、ただ身体のかわりに土を入れたんでは、どうもほんものとは思えないだろうて。うまくゆくまい。ぐらぐらして、動くだろう。人夫どもは感づくだろう。ねえ、マドレーヌさん、政府《おかみ》に気づかれるでしょうな」
ジャン・ヴァルジャンは彼の顔をまともにじっとながめた、そして気でも狂ったのではないかと思った。
フォーシュルヴァンはまたいった。
「どうして畜《ちく》……あなたは出られますか。あしたまでにはやってしまわなければなりません。あしたあなたをつれてくることになっています。院長さんはあなたを待っているんです」
フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンがはいることを許されたのは自分が修道院のためにつくす仕事の報酬《ほうしゅう》であることを説明してきかせた。自分は棺《かん》に釘をうち、墓地で墓掘人に立ち会わねばならぬこと。今朝死んだ修道女は、ながいあいだ寝床にしていた枢《ひつぎ》におさめてもらい、礼拝《らいはい》堂の祭壇の下にある穴ぐらのなかに葬《ほうむ》ってもらいたいと願ったこと。それは警察の規則で禁じられていることだが、何ごともこばめないほどの聖《きよ》い修道女の願いだったこと。院長と声の母たちとは相談して、死者の希望どおりにしてやろうときめたこと。自分が部屋のなかで柩に釘をうち、礼拝堂のなかで石のふたをおこし、穴ぐらのなかに死人をおろすこと。そして、そのお礼として弟を庭番に、姪《めい》を寄宿生に、二人とも家に入ることを院長が許したこと。弟というのはマドレーヌ氏であり、姪というのはコゼットであること。しかしマドレーヌ氏はいったん外に出ていなければ、ここへはつれこむことができないこと。そこに第一の困難があること。それからまた、第二の困難があること、すなわち空《から》の棺《かん》が。
「その空《から》の棺というのはなにかね?」とジャン・ヴァルジャンはたずねた。
「役所の棺ですよ。修道女が死にますと、役所の医者が来て、修道女は死んだというんです。すると政府《おかみ》から棺をよこします。そしてあくる日、その棺を墓地にはこぶために、車と人夫とをよこします。ところが人夫がやってきて棺をもちあげると、なかにはなにもはいっていない、ということになるんです」
「なにか入れたらいいだろう」
「死人をですか。そんなものはありませんよ」
「いや」
「じゃ、なにをいれろというんです」
「生きた人間をさ」
「どんな人をですか?」
「私をさ」
腰かけていたフォーシュルヴァンは、自分の椅子の下で爆弾が破裂したみたいにとびあがった。
「あなたを!」
「なぜいけないんだ」
冬空の日光のように、めったに笑ったことのないジャン・ヴァルジャンが、めずらしくほほ笑《え》んだ。
「マドレーヌさん、あなたはほんとに変った人ですな」
「人に見つからずにここから出ることが問題なんだ。そのひとつの方法さ。まず私に様子を知らせてもらいたいな。いったい、どういう工合《ぐあい》にされるのかね。その棺はどこにあるのかね」
「空《から》のほうですか」
「そうだ」
「死者の部屋とよばれる下の部屋です。二つの台の上にのっかって、喪布がかぶせてあります」
「棺の長さはどれくらい?」
「六フイートばかりです」
「その死者の部屋というのは、どういう所かね?」
「一階にある部屋で、庭のほうに格子《こうし》窓がありますが、それは外から板戸でしめてあります。戸口が二つあり、ひとつは修道院に、ひとつは会堂につづいてます」
「会堂というのは?」
「表につづいてる教会堂で、そこは誰でもはいれる会堂です」
「きみはその死者の部屋の二つの戸口の鍵をもってるかね」
「いいえ、わたしはただ修道院へつづいてる戸口の鍵しかもってません。会堂へつづいてるほうの鍵は門番がもっております」
「門番はいつその戸口をひらくのかね」
「棺をとりにきた人夫どもを通させるときしかひらきません。棺が出てゆくと、戸はまたしまってしまいます」
「棺に釘をうつのは?」
「わたしです」
「きみひとりだけで?」
「警察の医者のほかは、誰も死者の部屋にはいることはできません。壁にもちゃんと書いてあります」
「今晩、修道院の人たちが寝しずまったころ、私をその部屋にかくしてもらえないかね」
「それはできません。ですが、その死者の部屋につづいてる小さな暗い物置にならあなたをかくしておけます。そこはわたしの埋葬《まいそう》の道具を入れておく所で、わたしがその番人で鍵をもっています」
「あした何時ごろ棺車《かんしゃ》は棺をむかえにくるのかね」
「午後三時ごろです。埋葬はヴォージラールの墓地で行われますが、日が暮れるちょっと前です。すぐ近くじゃありません」
「じゃ私はきみの道具部屋に、夜から朝までかくれていよう。それから食物は? 腹がすくだろう」
「わたしがなにかもっていってあげましょう」
「きみは二時には、私を棺のなかに釘づけにしにやってくるんだね」
フォーシュルヴァンは尻込《しりご》みして、指の節をならした。
「それはどうもできませんな」
「なに、金槌をとって板に四、五本釘をうつだけだ」
フォーシュルヴァンにとっては異常なことも、ジャン・ヴァルジャンにとってはなんでもないことだった。ジャン・ヴァルジャンはもっとも危険な瀬戸《せと》ぎわをなんども通ってきたのである。誰でも監獄にはいったことのある者は、逃げ口の広さに応じて身をちぢめることを知っている。病人が生きるか死ぬかの危機にとらわれてるように、囚人も脱走の念にとらわれている。脱走は回復である。回復するためなら人はどんなことでもやってのける。行李《こうり》のような四角なもののなかに釘づけにされて運びだされ、ながいあいだ箱のなかに生き、空気のない所に空気を見出し、いく時間ものあいだ呼吸をつめ、死なない程度に息をしている、そんなことができるのが、ジャン・ヴァルジャンの恐ろしい能力のひとつだった。
フォーシュルヴァンはちょっと心を落ちつけて叫んだ。
「それでは、どうして息ができましょう」
「息はできるよ」
「あの箱のなかで! わたしなんか思っただけで息がつまりそうだ」
「|きり《ヽヽ》があるだろう。口のあたりに小さな穴をあけておいてくれ。それから上の板も、あまりぴったりしまらないように釘をうっててもらおう」
「ようござんす。ですが、もし咳《せき》や、くしゃみが出たりしましたら」
「一心に逃げようとする者は、咳やくしゃみはしないものだよ」
そしてジャン・ヴァルジャンはつけ加えた。
「フォーシュルヴァンさん、決心しなけりゃならないんだ、ここで捕まるか、棺で出るか、二つに一つを」
ジャン・ヴァルジャンは用心深いフォーシュルヴァンをついに納得《なっとく》させた。彼はつぶやいた。
「実のところ、ほかに方法もありませんからな」
ジャン・ヴァルジャンはいった。
「ただ心配なのは、墓地でどういうことになるかだ」
「そのことならわたしが心得てます。棺から出ることをあなたがうけあいなさるなら、あなたを墓穴から引き出すことはわたしがうけあいましょう。墓掘りの男は、わたしが知ってる者のうちでも評判の大酒飲みです。メティエンヌ爺さんといって、もうおいぼれです。その墓掘人は墓穴のなかに死人をいれますが、わたしが彼を自分のポケットのなかにまるめこんでやりますよ。こういうふうにしましょう。うす暗くなる前に、墓地の門がしまる四、五十分前にむこうにゆきつくでしょう。棺車は墓穴のところまですすんでゆくんです。わたしがついてゆきます、わたしの仕事ですから。ポケットのなかに金槌とのみと釘抜きとを入れておきます。棺車がとまると、人夫どもがあなたの棺を縄《なわ》でゆわえて、穴におろします。司祭がお祈りをとなえ、十字を切り、聖水をまき、それからいってしまいます。わたしはメティエンヌ爺さんと二人きりになります。それから彼を引っぱっていって酔っぱらわせましょう。メティエンヌ爺さんを酔っぱらわせるのに、ぞうさはありません。いつでもいい加減酔っていますから。わたしは爺さんをテーブルの下にねかしておいて、墓地にはいる鑑札をとりあげてしまってひとりでもどってきます。もしはじめから酔っぱらっていたら、いってやりますよ、もう帰っていいや、わたしがお前の分もやってやるからって。そういえば帰っていきます。それからあなたを穴から引き出してあげましょう」
ジャン・ヴァルジャンは彼に手をさしのべた。フォーシュルヴァンはいかにも素朴《そぼく》な田舎者の感動をもって、急いでその手をにぎりしめた。
「これできまった、フォーシュルヴァンさん。万事うまくゆくだろう」
「なにか、くいちがいさえなければ」とフォーシュルヴァンは考えた。「だが、もし大変なことにでもなったら!」
四
あくる日、太陽が西に沈みかかったころ、メーヌ大通りのまばらな通行人たちは、頭蓋骨や脛骨《けいこつ》や涙などが描いてある古風な棺車《かんしゃ》の通行に対して、みな帽子をぬいだ。喪布をはった幌馬車が一台、そのあとにつづいて、白い法衣のひとりの司祭と、赤い帽子をかぶったミサ答えの子供とがのってるのが見えた。黒い袖口《そでぐち》のついたねずみ色の制服を着た二人の葬儀人夫が、棺車の左右にしたがっていた。そのうしろに、労働者のような服装をしたびっこの老人がついていた。
白い布と黒い十字架の棺車がヴォージラールの墓地の並木路にさしかかったとき、太陽はまだ沈んでいなかった。棺車のうしろにしたがってるびっこの老人はほかならぬフォーシュルヴァンだった。
祭壇の下の穴ぐらにクリュシフィクシォン修道女を葬ること、コゼットをつれだすこと、ジャン・ヴァルジャンを死者の部屋にみちびくこと、それらはみな無事に行われ、なんの故障もおこらなかった。
ついでに一言するが、修道院の祭壇のしたにクリュシフィクシォン修道女を葬ったことは、きわめて軽微な罪にすぎない。それは一種の義務ともいえるような過《あやま》ちである。修道女たちはすこしの不安もなく、そればかりか心からの満足をもってそれを行ったのである。修道院にとっては、「政府」というものは宗教の権威に対する一干渉《いちかんしょう》にすぎず、またつねに論議の余地のある干渉にすぎない。法典などはどうでもよい。人間よ、すきなように法律をさだめるがいい。しかしそれは自分たち自身のためのものにとどめよ。シーザーへの貢《みつぎ》ものは、つねに神への貢《みつぎ》ものの残りにすぎない。君主さえも教義の前にはなんらの力をもたないのである。
フォーシュルヴァンはびっこを引きながら、ひどく満足そうに棺車のうしろについていった。彼の二つの秘密――彼の二重の策略、ひとつは修道女たちと謀《はか》ったこと、もうひとつはマドレーヌ氏と謀ったこと、ひとつは修道院のためのもの、他は修道院に反するもの、その二つが同時に成功したのである。ジャン・ヴァルジャンの落ちつきは、まわりの者を巻きこむほど力強いものだった。フォーシュルヴァンはもう成功をうたがわなかった。のこりの仕事はなんでもない。彼は二年ばかりのあいだに人のいい墓掘人メティエンヌを十回くらいは酔っぱらわしている。彼はメティエンヌを手玉にとって、自分のすきなようにとりあつかった。メティエンヌの頭はいつもフォーシュルヴァンのかぶせる帽子のとおりになった。で、彼は全く安心しきっていた。
墓地に通ずる並木路に行列がさしかかったとき、うれしそうにしていたフォーシュルヴァンは、棺車をながめて大きな両手をもみ合せながらなかば口のなかでいった。
「なんという狂言だ!」
突然、棺車はとまった。鉄格子の門のところについたのである。埋葬認可書を見せなければならなかった。葬儀人が墓地の門番と話し合った。その相談は大てい一、二分間かかるのだったが、そのあいだに、ひとりの見なれない男がやってきて、棺車のうしろにフォーシュルヴァンとならんだ。労働者らしい男で、大きなポケットのついた上衣をきて、小脇《こわき》に|つるはし《ヽヽヽヽ》を持っていた。
フォーシュルヴァンはその見知らぬ男をながめた。
「お前さんはなんだね」と彼はたずねた。
男は答えた。
「墓掘人夫だよ」
胸のまん中を大砲の弾でつらぬかれてなお生きてる者があるとしたら、おそらくそのときのフォーシュルヴァンのような顔つきをするだろう。
「墓掘人夫だと!」
「そうだ」
「お前さんが!」
「おれがよ」
「墓掘人夫はメティエンヌ爺《じい》さんだ」
「そうだった」
「なに、そうだったって?」
「爺さんは死んだよ」
フォーシュルヴァンは大ていのことは予期していたが、これはまた意外な、墓掘人夫が死のうなどとは思いもかけなかった。しかし、それは事実だ。墓掘人夫だからといって、死なないとはかぎらない。
フォーシュルヴァンはぽかんとしてしまった。ようやくにして、これだけのことを口ごもった。
「そんなことがあるだろうか」
「ところがあるんだ」
「だが、墓掘人夫はメティエンヌ爺さんだがなあ」彼はよわよわしくいった。
「ナポレオンのあとにはルイ十八世がでて、メティエンヌのあとにはグリピエがでる。おい、おれの名はグリピエというんだ」
フォーシュルヴァンはまっ蒼《さお》になって、そのグリピエをながめた。
背の高いやせた、色の蒼《あお》いまったく葬式にうってつけの男だった。まるで医者に失敗して墓掘人夫となったみたいな男だ。
フォーシュルヴァンは笑いだした。
「ああ、なんて変なことが起こるもんかな! メティエンヌ爺さんが死んだって! メティエンヌ爺さんは死んだが、ちっちゃなルノワール爺さんは生きてる。お前さんはちっちゃなルノワール爺さんを知ってるかね。一ぱい六スーのまっ赤なやつがはいってる瓶だよ。スュレーヌの瓶だ。ほんとによ、パリの本物のスュレーヌだ。ああ、メティエンヌ爺さんが死んだって。可哀そうなことをした。面白い爺さんだったよ。だがお前さんも、面白い人だね、おい、そうじゃないかい。一杯飲みにゆこうじゃないかね、これからすぐに」
男は答えた。
「おれは学問をしたんだ。第四学級まで出たんだ。酒は飲まん」
棺車は動き出して、墓地の大きな路をすすんでいた。
フォーシュルヴァンは足をゆるめた。そのびっこは、いまでは|かたわ《ヽヽヽ》だからというよりも心配のせいだった。墓掘人夫は彼の先にたって歩いていた。
フォーシュルヴァンはもういちど、メティエンヌ爺さんのかわりに突然現われたグリピエの様子をながめた。彼は若いが非常に老《ふ》けてみえ、やせてはいるがごく強い、そういうタイプの男だった。
「おい」とフォーシュルヴァンは叫んだ。
男はふりかえった。
「わたしは修道院の墓掘人夫だよ」
「仲間だね」と男はいった。
学問はないがごく機敏《きびん》なフォーシュルヴァンは、話のうまい、あなどれない相手であることをみてとった。
彼はつぶやいた。
「それじゃメティエンヌ爺さんは死んだんだね」
男は答えた。
「そうともさ。神さまが満期になった手形帳をめくってみられたんだな。するとメティエンヌ爺さんの番だった。で爺さんは死んだのさ」
フォーシュルヴァンは機械的にくりかえした。
「神さまが……」
「神さまだ。哲学者にいわせると永劫《えいごう》の父で、ジャコバン党にいわせると最高の存在者なんだ」
「ひとつ近づきになろうじゃないか」とフォーシュルヴァンはつぶやいた。
「もう近づきになってるよ。きみは田舎者で、おれはパリっ子だ」
「だが一緒に飲まないうちはへだてがとれないからな。盃《さかづき》をあける者は心もうち明ける。一緒に飲みにこないかね、ことわるもんじゃないよ」
「仕事が先だ」
これはとても駄目だ、とフォーシュルヴァンは考えた。修道女たちの墓地に通ずる小路にはいるには、あともう数回車輪がまわるだけだった。
墓掘人夫はいった。
「おいきみ、おれは七人の子供を養わなけりゃならないんだ。奴らを食わせなきゃならないから、おれは酒を飲んじゃおれないんだ」
そして彼はまじめな男が名句をはくときのように、満足そうにつけ加えた。
「子供たちの空腹は、おれの渇《かわ》きの敵さ」
棺車は一群の糸杉の木立をまわって、大きな路から小路にはいり、墓地にはいって茂みのなかにすすんでいった。フォーシュルヴァンは足をゆるめた。しかし棺車のすすみを遅らすことはできなかった。さいわいにも地面はやわらかで、その上、冬の雨にぬれていたので、車輪がめりこんでそのすすみを重くした。
彼は墓掘人夫に近よった。
「アルジャントゥイユのすてきな酒があるんだがな」とフォーシュルヴァンはつぶやいた。
「きみ」と男はいった。「おれはいったい墓掘人夫なんかになる身分じゃないんだ。親父は幼年学校の門衛だった。そしておれに文学をやらせようとした。ところが運が悪かった。親父は相場で損をした。そこでおれは文士たることをやめなければならなかった。それでもまだ代書人はしてるんだぜ」
「じゃ、お前さんは墓掘人夫ではないんだね」とフォーシュルヴァンはいった。
「両方できないことはないさ。兼任してるんだ」
フォーシュルヴァンはその終りの一語がわからなかった。
「飲みにゆこうじゃないか」と彼はまたいった。
ここでひとこと注意しておく必要がある。フォーシュルヴァンは気が気ではなかったのだ。そこでとにかく飲もうといい出したが、誰が金を払うかという点については、はっきりさせなかった。いつもフォーシュルヴァンがいい出して、メティエンヌ爺さんが金を払った。一杯やろうという提案は、新らしい墓掘人夫が来たという事情から自然に出てくることで、当然ではあったが、しかし老庭番は払いをしなければならない不愉快な時をあいまいにしておいた。ひどく心配はしていたものの、すすんで金を払おうという気にはなっていなかった。
墓掘人夫は、ちょっと相手を見くだしたような微笑をうかべながらいいすすんだ。
「食わなけりゃならないからな。それでおれはメティエンヌ爺さんのあとを引受けたのさ。まあ一通り学問すれば、もう哲学者だ。手の働きをしてる上に、おれは頭の働きもしてるんだ。セーヴル街の市場に代書人の店をもってるんだ。きみはパラプリュイ市場を知ってるかね。クロワ・ルージュの料理女どもはみんなおれの所へたのみにくる。おれはその色男どもへ手紙を書いてやるんだ。朝にはやさしい恋文を書き、夕べになれば墓穴を掘る。ねえ、そういうのが世の中さ」
棺はすすんでいった。フォーシュルヴァンは不安の絶頂に達して、四方をきょろきょろ見まわした。汗の大きな玉が額《ひたい》にながれた。
「だが」と墓掘人夫はなおつづけた。「二人の主人には仕えることができないものだ。おれもペンとつるはしの、どちらかをえらぶべきだ。つるはしは物を書く手を痛めるからな」
棺車はとまった。
ミサ答えの子供が喪布をはった馬車からおり、つぎに司祭がおりた。
棺車の小さな前の車輪の片方が、うずたかい土の上に少しのりあげていた。そのむこうに、口をひらいた墓穴がみえた。
「なんて狂言だ?」と、フォーシュルヴァンは唖然《あぜん》としてまたいった。
五
棺の中にいたのは誰か? それは読者も知っている通り、ジャン・ヴァルジャンだった。
ジャン・ヴァルジャンは、そのなかで生きていられるだけの準備をしておいた。そしてわずかに呼吸していた。
心の安静がいかにその他の一切のものに安静をもたらすかは、まったくふしぎなほどである。ジャン・ヴァルジャンが考えた計画は、前の日から着々と都合よくはこんでいた。そして彼はフォーシュルヴァンとおなじように、メティエンヌ爺《じい》さんをあてにしていた。彼は成功をうたがわなかった。これほど危険な状態でしかもこれほど完全な安心は、いままでにいちどもなかった。
棺《かん》の四方の板からは、恐ろしいばかりのやすらかさがただよってきていた。死人の休息に似たなにかが、ジャン・ヴァルジャンの落ちついた心のなかにはいりこんでくるようだった。
棺の底で、彼は死とたわむれている恐るべき芝居の各場面を、たどることができた、また実際たどっていた。
フォーシュルヴァンが上の板に釘をうちおわってまもなく、ジャン・ヴァルジャンは自分がもちだされるのを感じ、つぎに馬車ではこばれるのを感じた。動揺の少なくなったことで、敷石からかたい地面に出たこと、すなわち小路を通りすぎて大通りにさしかかったことを感じた。おもおもしいひびきで、オーステリッツ橋をわたったことを察した。はじめちょっととまったことで、墓地に来たことを知った。二度目にとまったとき、もう墓穴だなと思った。
突然人の手が棺を持ちあげたのを感じた。それから棺の板の上をこする、がさがさした音がきこえた。棺を穴の中におろすために、まわりを縄でゆわえてるのだなと察した。
それから彼が眼がまわるような気がした。
たぶん人夫たちと墓掘人夫とが棺をぐらつかせて、足より頭を先にしておろしたのだろう。それからやがてまた水平になって動かなくなったとき、彼ははじめてすっかりわれにかえることができた。穴の底に達したのである。
彼はさすがに一種の戦慄《せんりつ》をおぼえた。
冷やかでおごそかなひとつの声が上のほうにおこった。彼は自分にはわからないラテン語の言葉が、その一語一語とらえられるくらいゆっくりとひびいてくるのをきいた。
そのとき、彼は身をおおっていた板の上に、雨だれのようなしずかな音をきいた。たぶんそれは聖水だったのだろう。
おもおもしい声がいった。
「|安らかに憩わんことを《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
そして子供の声がいった。
「|アーメン《ヽヽヽヽ》」
ジャン・ヴァルジャンは耳をそばだてて、人の足音らしいものが遠ざかってゆくのをきいた。
「みんなたち去ってゆくのだな」と彼は考えた。「もう自分ひとりだ」
すると突然頭の上に、雷が落ちたかと思われるような音がした。
それはひとすくいの土が棺の上に落ちた音だった。
つぎにまたひとすくいの土が落ちてきた。
彼が息をしていた穴のひとつは、そのためにふさがってしまった。
第三の土が落ちてきた。
つぎに第四の土が。
いかに強い男とはいえ、それはあまりにもひどすぎた。ジャン・ヴァルジャンは気を失った。
棺の上では、つぎのようなことが起っていたのである。
棺車がたち去ったとき、そして、司祭とミサ答えの子供とが馬車にのってかえっていったとき、墓掘人夫から眼をはなさなかったフォーシュルヴァンは、墓掘人夫が身をかがめて、もり上げられた土のなかにつきさしてあるシャベルを手にとるのを見た。
そのときフォーシュルヴァンは最後の決心をした。
彼は墓穴と墓掘人夫とのあいだにつったち、両腕を組んでいった。
「金はわしが払う」
墓掘人夫はおどろいて彼をながめ、そして答えた。
「なんのことだよ?」
フォーシュルヴァンはくりかえした。
「金はわしが払う」
「なんのことさ?」
「酒だよ」
「なんの酒よ?」
「アルジャントゥイユだ」
「アルジャントゥイユって、どこにあるんだ」
「ボン・コワンのうちにある」
「なんだ、馬鹿にするない!」と墓掘人夫はいった。
そして彼はひとすくいの土を棺の上に投げこんだ。
棺はうつろな音をかえした。フォーシュルヴァンはよろめいて、自分も墓穴のなかにころげ落ちそうな気がした。彼はのどをしめられたようなしゃがれ声で叫んだ。
「おい、ボン・コワンの戸がしまらないうちにさ!」
墓掘人夫はまたシャベルで土をすくった。フォーシュルヴァンはいいつづけた。
「わしが払う!」
そして彼は墓掘人夫の腕をつかんだ。
「まあきいてくれ。わたしは修道院の墓掘人夫だ。お前さんの手助けにきてるんだ。仕事は晩にすればいい。まあ一杯飲みにいってからにしようじゃないか」
彼はそういいながらも、絶望的にしつっこくいいはりながらも、心では悲しい考えを浮かべていた。「酒はのむとしても、はたして酔っぱらうかしらん?」
「なあに」と墓掘人夫はいった。「どうしても飲もうというんなら、飲んでもいいさ。飲もうよ。だが仕事が終ってからさ、その前はいけない」
そして彼はシャベルを動かした。フォーシュルヴァンはそれをひきとめた。
「六スーのアルジャントゥイユだよ」
「またか」と墓掘人夫はいった。「鐘つきみたいな奴だな。いつも同じことばかりぶつぶついってやがる。いいかげんにしろよ」
そして彼は第二のひとすくいをほうりこんだ。
フォーシュルヴァンはもう自分がなにをいってるのかわからなくなってしまった。
「まあ一杯やりにゆこうったら」と彼は叫んだ。「金はわしが払うといってるじゃないか!」
「赤ん坊をねかせてからさ」
彼は第三のひとすくいをほうりこんだ。それからシャベルを土のなかにつきたててつけ加えた。
「おい、今夜は冷えるぞ。なにもかぶせないでゆくと、死人が泣きだして追っかけてくるぜ」
そのとき墓掘人夫はシャベルで土をすくいながら身をかがめた。その拍子に上衣のポケットの口が大きくひらいた。フォーシュルヴァンのぼうぜんとした眼が機械的にそこにすえられた。太陽はまだ地平線のむこうに落ちてはいなかった。そしてまだかなり明るかったので、その口をひらいたポケットの底になにやら白いものが見てとれた。
墓掘人夫がシャベルで土をすくうのに気をうばわれてるうちに、フォーシュルヴァンはうしろにまわって彼のポケットのなかに手をさし入れ、その白いものをぬき出した。
墓掘人夫は第四のひとすくいを墓穴のなかに投げこんだ。
彼が第五のひとすくいをするためにふり返ったとき、フォーシュルヴァンは落ちつきはらって彼の顔をながめ、そしていった。
「ときにお前さん、札《ふだ》をもってるかね」
墓掘人夫はちょっと手をやすめた。
「なんの札だ?」
「墓地の門がしまるんだ」
「だから?」
「札はもってるかというんだ」
「ああ、おれの鑑札か!」と墓掘人夫はいった。彼はポケットのなかをさぐってみた。
ひとつのポケットをさぐって、またもうひとつをさぐった。それからズボンのポケットを、一方をさがし一方を裏がえしてみた。
「ない」と彼はいった。「札がない。忘れてきたかな」
「十五フランの罰金だ」とフォーシュルヴァンがいった。
墓掘人夫の顔は草色になった。色の蒼《あお》白い男が蒼くなると、そういう色になる。
「なんということだ!」と彼は叫んだ。「十五フランの罰金だと!」
「五フラン銀貨三つだ」とフォーシュルヴァンはいった。
墓掘人夫はシャベルをとり落した。
こんどこそフォーシュルヴァンがいってやる番だった。
「なあに、お前さん、そう心配することはないさ。首をくくって墓をふとらそうっていうわけじゃあるまいし、十五フランは十五フランだが、まあ払わないですむ方法もあるさ。お前さんは新参だが、わしは古狸だ。こっちはなにもかもよく承知してるよ。うまいことを教えてやろう。ただこれだけはどうにもならない、日が沈んでゆこうとしてるということだけは。むこうの円屋根に、もう落ちかかってる。もう五分とたたないうちに、墓地はしまるってわけだ」
「そうだ」と墓掘人夫は答えた。
「これから五分間では、とてもこの墓穴はいっぱいになるまい、ずいぶん深い穴だからな。門がしまらないうちに出るだけの時間はないわけだ」
「まったくだ」
「するてえと十五フランの罰金だ」
「十五フラン」
「だがまだ時間はある……いったいお前さんはどこに住んでるんだ」
「市門のすぐそばだ。ここから十五分ぐらいはかかる。ヴォージラール街八十九番地だ」
「すっとんでゆけば門を出るだけの時間はあるさ」
「そりゃ、そうだ」
「門を出たら家へかけていって、札をもって帰ってくればいい。墓地の門番があけてくれる。札さえあれば、一文も払わなくてすむんだ。それから死人をうめればいいわけだ。それまで死体が逃げ出さないように、わしが番をしててあげよう」
「ありがたい! それでおれは助かる」
「さあ、今すぐ、かけてゆきな」とフォーシュルヴァンはいった。
墓掘人夫はおがまんばかりにありがたがって、彼の手をにぎってふり、そして駈《か》け出していった。
墓掘人夫が茂みのなかに見えなくなると、フォーシュルヴァンはその足音がきこえなくなるまで耳をすまし、それから墓穴のほうへ身をかがめて低い声でいった。
「マドレーヌさん!」
だがなんの答えもなかった。
フォーシュルヴァンはぞっとした。彼は墓穴のなかにおりるというよりころげこんで、棺の頭のほうに身をなげかけて叫んだ。
「生きておいでですか?」
棺《かん》のなかはひっそりしていた。
フォーシュルヴァンはふるえあがって息もつけなかった。それでも鋭いのみと金槌《かなづち》で上の板をはねのけた。ジャン・ヴァルジャンの顔がほの暗いなかに見えた。眼はとじ、色は蒼《あお》ざめている。フォーシュルヴァンの髪の毛は逆《さか》だった。彼はまっすぐに立ちあがり、穴の壁にもたれかかってやっとくず折れるのをささえた。彼はじっとジャン・ヴァルジャンをながめた。
ジャン・ヴァルジャンは色をうしなって、身動きもせずにそこに横たわっていた。
フォーシュルヴァンは吐息《といき》のようによわよわしくつぶやいた。
「死んでいなさる!」
それから立ちなおって、両のこぶしがひどく肩にぶつかるほどはげしく両腕を組んで、叫んだ。
「助けてあげたつもりがこんなことに!」
そしてあわれな老人はむせび泣きながら、ひとりごとをはじめた。ひとりごとは自然のうちにないものだと思うのは、あやまりである。心のはげしい動乱は、しばしばたかい声で語り出す。
「メティエンヌ爺さんが悪いんだ。あの爺め、なぜ死んじまったんだ。思いもよらないときに、くたばるなんてことがあるものか。マドレーヌさんを殺したのは奴なんだ。マドレーヌさん! ああ、棺のなかにはいっていなさる。もう逝《い》ってしまわれた。もうだめだ……いったいこれはなんてわけのわからないことだ。ああ、どうしよう! 死んでしまわれた! ところであの娘さんはどうしたものだろう」
そして彼は髪の毛をかきむしった。
遠く木立のなかに、ものの軋《きし》る、するどい音がきこえた。墓地の鉄門がしまる音だった。
フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンの上に身をかがめた。そして突然、彼ははねあがって、墓穴の中でできるだけうしろにとびのいた。ジャン・ヴァルジャンが眼をひらいて、彼をじっと見つめたのである。
死を見るのは恐ろしいことであるが、蘇生《そせい》を見るのもおなじように恐ろしいことである。フォーシュルヴァンはあまりの驚愕《きょうがく》に度をうしない、ものすごい顔になり、まっ蒼《さお》になり、石のようになり、生者を前にしてるのか死者を前にしてるのかわからなくなって、自分のほうを見つめてるジャン・ヴァルジャンの顔をしげしげと見つめた。
「私は眠ってしまった」とジャン・ヴァルジャンはいった。
そして彼はなかば身をおこした。
フォーシュルヴァンはひざをついた。
「ああ! ほんとにたまげた!」
それから彼は立ちあがって叫んだ。
「ああ、ありがたい! マドレーヌさん」
ジャン・ヴァルジャンは気絶したにすぎなかった。外の空気が彼をさまさせたのだ。
喜びとは、恐怖の潮《うしお》が引いていってしまうことだ。フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンとおなじくらいわれに返るのに、ずいぶん骨が折れた。
「死になすったんじゃなかったんだね! ほんとにあなたは人が悪い。生きかえりなさるまで、ずいぶん呼んだんですよ。あなたが死なれたら、わたしはどうなると思います? それにあなたの娘さんだって! 果物屋のおかみさんはわけがわからなくなってしまいますよ。子供をあずけておいて、おじいさんが死んでしまう。まあなんて話だ。ほんとに! ああ、あなたは生きていなさる! ほんとにありがたい!」
「おお寒い」とジャン・ヴァルジャンがいった。
そのひとことで、フォーシュルヴァンはすっかり現実によびもどされた。事情は切迫していた。二人は、われにかえってからも、なぜともなく心がみだれていた。そして場所が場所だけに、なにかしら不吉な雰囲気が二人におそってきた。
「はやくここを出ましょう」とフォーシュルヴァンが叫んだ。
彼はポケットのなかをさぐって、用意していた瓶をとり出した。
「ですが、まあ一口おやりなさい」
外の空気についで、その瓶がジャン・ヴァルジャンをすっかり回復させた。彼はコニャックを一口のんで、すっかり元気になった。
彼は棺から出た。そしてフォーシュルヴァンに手伝って、ふたたびそのふたを打ちつけた。
二、三分後には、二人とも墓穴の外に出ていた。
それにまた、フォーシュルヴァンも落ちついていた。彼はゆっくりかまえた。墓地はしまっている。墓掘人夫グリピエがくるきづかいはない。その「新参者」は家で札をさがしまわっている。札はフォーシュルヴァンのポケットのなかにあるから、家で見つかるわけはない。札がなければ墓地にもどってくることはできないのだ。
フォーシュルヴァンはシャベルをとり、ジャン・ヴァルジャンはつるはしをとり、二人して棺をうめた。
墓穴がいっぱいになったとき、フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンにいった。
「さあ、ゆきましょう。わたしはシャベルをもちますから、あなたはつるはしをおもちなさい」
日は暮れていた。
ジャン・ヴァルジャンは動きまわったり、歩いたりするのにちょっと苦痛を感じた。棺のなかで彼は身体をこわばらせ、いくらか死体のようになっていた。四枚の板のなかで、死の関節硬化にとらえられていたのだ。いわば死人とおなじで、墓からぬけ出さなければならなかった。
「あなたは、寒さでしびれてなさる」とフォーシュルヴァンはいった。「それにわたしまでびっこときています。でなければ足の裏をぶっつけ合って体をあたためるのですが」
「なあに」とジャン・ヴァルジャンは答えた。「少しゆけばらくに歩けるようになるさ」
彼らは棺車の通った道をたち去っていった。しまった鉄門と門番の小屋との前まで来たとき、墓掘人夫の札を手にしてたフォーシュルヴァンは、その札を箱のなかに投げこんだ。すると門番は綱をひき、門がひらいて二人は外に出た。
「なにもかもうまくいった!」とフォーシュルヴァンがいった。「あなたのお考えはたいしたもんだ、マドレーヌさん!」
彼らはヴォージラールの市門を大手をふって通りすぎた。墓地の近くでは、シャベルとつるはしとは、通行券とおなじ役目をした。
ヴォージラール通りには人影もなかった。
「マドレーヌさん」とフォーシュルヴァンは歩きながら人家を見あげていった。「あなたはわたしより眼がいい。八十七番地というのを見てください」
「ちょうどここがそうだよ」とジャン・ヴァルジャンはいった。
「往来には誰もいませんな」とフォーシュルヴァンがいった。「つるはしをわたしにください、そしてちょっと待っててくださいよ」
フォーシュルヴァンは八十七番地の家にはいってゆき、いつも屋根裏部屋に縁のある貧乏人の本能で、ずっと上までのぼっていって、ある屋根裏部屋の扉を暗やみのなかでたたいた。なかから誰かが答えた。
「おはいり」
それはグリピエだった。
フォーシュルヴァンは扉をひらいた。墓掘人夫のすまいは、あわれな人たちのすまいにいつもみるように、道具がなくてしかもとり散らかった屋根裏部屋だった。片すみには、古くてぼろぼろになった絨毯《じゅうたん》の上に、やせたひとりの女と大勢の子供とがひとかたまりになっていた。そのあわれな部屋のなかには、すべてかきまわされた跡があり、「ひとところだけ」地震に見舞われたような光景を呈していた。物の|ふた《ヽヽ》はとりのけられ、ぼろ切れはまき散らされ、瓶はこわされ、母親は泣き、子供たちはたぶんなぐられたにちがいない。すべてが、やっきになってさがされた跡をとどめていた。いうまでもなく、墓掘人夫は狂気のようになって札をさがしまわり、女房から瓶にいたるまで部屋のなかにあるものに、紛失の責を負わせたのである。彼はもう|ふてくされ《ヽヽヽヽヽ》ていた。
しかしフォーシュルヴァンは事件の結末ばかりいそいで、成功の裏のこの悲しい半面に眼もとめなかった。
彼はなかにはいり、そしていった。
「お前さんの|つるはし《ヽヽヽヽ》とシャベルをもってきたよ」
グリピエはあっけにとられて彼をながめた。
「ああきみか」
「あしたの朝、墓地の門番のところへいってみなよ、お前さんの札があるから」
彼はシャベルとつるはしとを下においた。
「いったい、そりゃどうしたわけだい?」とグリピエはたずねた。
「なぁに、お前さんはポケットから札を落したのさ。お前さんがいってしまってから、地面に落ちてるのをわしが見つけたんだ。死体はうめるし、墓穴はいっぱいにするし、お前さんの仕事はすっかりしておいた。札は門番が返してくれるさ。十五フランは払わんでもいいんだ。わかったかね」
「そいつぁ、ありがたい!」とグリピエはいっぱい喰《くわ》されて叫んだ。「こんどはおれに酒をおごらせてもらうぜ」
六
それから一時間ののち、まっ暗な夜のなかを、二人の男と一人の子供とが、ピクピュス小路の六十二番地にあらわれた。年とったほうの男が槌《つち》をとりあげて呼び鐘をたたいた。
その三人はフォーシュルヴァンとジャン・ヴァルジャンとコゼットだった。
二人の老人は、前日フォーシュルヴァンがコゼットをあずけておいたシュマン・ヴェール通りの果物屋へいって、コゼットをつれてきたのである。その二十四時間のあいだ、コゼットはわけもわからずに、ただだまってふるえながらすごした。恐れおののいて、涙さえ出なかった。ものも食べなければ、眠りもしなかった。しっかり者のおかみさんはいろいろとあやしたりたずねたりしてみたが、ただいつもおなじような暗い眼つきで見かえされるばかりで、なんの答えもえられなかった。コゼットは二日のあいだに見たり、きいたりしたことについては、なにひとつもらさなかった。いまは大事な場合だと彼女は察していた。いちずに「おとなしくして」いなければならないと思いこんでいた。
恐怖にかられてる小さな者の耳に、一種特別な口調でいわれる「なにもいってはいけない」というみじかい言葉のもつ絶大な力は、誰しもみな経験したところだろう。恐怖はひとつの沈黙である。その上、子供ほどよく秘密をまもる者はない。
しかし、その悲しい二十四時間がすぎ去って、ふたたびジャン・ヴァルジャンの姿を見たとき、彼女は非常な喜びの声をあげたので、もし考え深い人がそれをきいたら、深淵から出てきたものの声ではないかとあやしんだだろう。
フォーシュルヴァンは修道院の者だから通用門の合言葉を知っていた。それによって扉はひらかれた。
そんなふうにして、出てまた入るという二重の困難な問題は解決された。
前から知らされていた門番は、中庭から外庭に通ずる小さな通用門をあけてくれた。その門は今から二十年前まで、正門とむかいあった中庭の奥の壁のなかに見えていた。門番は三人をその門からみちびき入れた。そこから彼らは、前日フォーシュルヴァンが院長の命令をうけた奥まった応接室にはいっていった。
院長はロザリオを手にして彼らをまっていた。ひとりの|声の母《メール・ヴォーカル》が、ヴェールをさげてそのそばに立っていた。かすかなろうそくの火が、ほとんど申しわけに応接室をてらしていた。
修道門長はジャン・ヴァルジャンの様子を点検した。伏めの眼で調べるくらい、よくわかることはない。それから彼にたずねた。
「弟というのはお前ですか」
「はい院長さま」とフォーシュルヴァンが答えた。
「なんという名前ですか」
フォーシュルヴァンが答えた。
「ユルティム・フォーシュルヴァンと申します」
事実彼は、すでに死んではいたが、ユルティムという弟をもっていた。
「生まれはどこですか」
フォーシュルヴァンが答えた。
「アミアンの近くのピキニーでございます」
「年は?」
フォーシュルヴァンが答えた。
「五十才でございます」
「職業は?」
フォーシュルヴァンが答えた。
「庭師でございます」
「立派なキリスト信者ですか」
フォーシュルヴァンが答えた。
「家族の者のこらずがそうでございます」
「この娘はお前のですか」
フォーシュルヴァンが答えた。
「はい、院長さま」
「お前がその父親ですか」
フォーシュルヴァンが答えた。
「祖父でございます」
|声の母《メール・ヴォーカル》は院長にひくい声でいった。
「立派に答えますね」
ジャン・ヴァルジャンはひとことも口をきかなかった。
院長は注意ぶかくコゼットをながめた。
|声の母《メール・ヴォーカル》にひくい声でいった。
「みにくい娘になるでしょう」
二人の修道女は、応接室のすみでしばらくごくひくい声で話しあった。それから院長がふりむいていった。
「フォーシュルヴァン爺《じい》さん、鈴のついたひざ当てをもうひとつこしらえなさい。これからは二ついりますからね」
はたしてそのつぎの日、庭には二つの鈴の音がきこえた。修道女たちは我慢しきれなくなって、ヴェールのはしを上げてみた。見ると庭の奥の木立の下に、フォーヴァンと、もうひとりと二人の男がならんで鋤《すき》を動かしていた。一大事件だった。沈黙の規則もやぶられ、たがいにささやきあった。「庭番の手伝いですって」
|声の母《メール・ヴォーカル》たちはいいそえた。「フォーシュルヴァン爺さんの弟です」
実際ジャン・ヴァルジャンは正規に雇われたのである。彼は革のひざ当てと鈴とをつけていた。それいらい彼は公然の身分となった。名はユルティム・フォーシュルヴァンといった。
彼が、そういうふうに、修道院に雇われることを許されるにいたったもっとも有力な決定的原因は、「みにくい娘になるでしょう」というコゼットに対する院長の観察だった。
そういう予言をした院長は、すぐコゼットを好きになり、給費生として彼女を寄宿舎にいれてくれた。
これはいかにも当然のことである。修道院では鏡は決して用いないとはいっても、女は自分の顔について自覚をもっている。ところが、自分をきれいだと思ってる娘は、なかなか修道女などになるものではない。神に仕《つか》える心は、多くは美しさと反比例するものであるから、美しい娘よりみにくい娘のほうがのぞましい。したがってみにくい娘がはるかに好まれるにいたるのである。
コゼットは修道院でも、なお沈黙をまもっていた。
コゼットはごく自然に、自分がジャン・ヴァルジャンの娘であると思いこんでいた。その上彼女は何事も知らないので、なにもいうことがなかった。もし知っていたところで、おそらくなにもいわなかっただろう。前に注意しておいた通り、不幸ほど子供を無口にするものはない。コゼットは非常に苦しんできたので、どんなことにも恐れをいだいていた。口をきくことや、息をすることさえも恐れていた。ひとこと口をきいたために、自分の上に恐ろしい雪崩《なだれ》をまねいたこともしばしばあった。そしてジャン・ヴァルジャンに引きとられてからようやく安心しだしたにすぎなかった。彼女はすぐに修道院になれてきた。ただ人形のカトリーヌを惜しんだが、あえてそれを口に出しはしなかった。しかしいちど彼女はジャン・ヴァルジャンにいった。「お父さん、こうなるとわかってたら、あれをもってくるんだったわね」
コゼットは修道院の寄宿生になるについて、そこの制服を着なければならなかった。ジャン・ヴァルジャンは彼女がぬぎすてた着物をもらうことができた。それはテナルディエの飲食店を出るとき、彼が着せてやったあの喪服だった。まだそれほどいたんではいなかった。ジャン・ヴァルジャンはその着物や毛糸の靴下や靴にいたるまで、沢山の樟脳《しょうのう》や修道院にいくらもある各種の香料などをふりかけて、やっと手に入れた小さなトランクのなかにしまった。そしてそれを寝台のそばの椅子の上に置いて、いつもその鍵を身につけていた。コゼットはある日、彼にたずねた。お父さん、「あんなにいい匂《にお》いのするあの箱は、いったいなんなの?」
フォーシュルヴァン爺《じい》さんは、いろいろなその善行の報《むく》いをえた。第一に、心に喜びを感じていた。つぎに仕事が二つにわけられたので、ずいぶん楽になった。そして最後に、彼は非常に煙草がすきだったが、マドレーヌ氏がいるために、以前より三倍も多くすうことができ、しかもマドレーヌ氏が金を払うのでひどくうまく味わうことができた。
修道女たちは少しもユルティムという名を使わず、ジャン・ヴァルジャンをいつも、「もうひとりのフォーヴァン」とよんでいた。
もしその聖《きよ》い処女たちが、多少なりともジャヴェルのような眼をもっていたら、なにか庭の手入れのために用たしにゆくような場合、外に出かけるのがいつも年とって身体のきかない、びっこの兄のフォーシュルヴァンのほうで、決して弟のほうでないということに気づくにいたっただろう。しかし、たえず神のほうにばかり眼をむけていて、ほかのことをさぐるひまがなかったのか、あるいはとくにおたがいの身の上にだけ眼をむけるにいそがしかったのか、いずれにしても彼女たちはそのことになんらの注意も払わなかった。
その上、いつもだまって引っこんでいたことは、ジャン・ヴァルジャンにはいいことだった。ジャヴェルはその一|廓《かく》を一カ月以上も見張っていたのである。
その修道院は、ジャン・ヴァルジャンにとっては、深淵にとりまかれた小島のようなものだった。その四壁のなかだけが以後、彼の世界だった。そこで彼は、気をさわやかにするくらいの空はじゅうぶんに見ることができたし、心を楽しませるくらいにはじゅうぶんにコゼットを見ることができた。
きわめておだやかな生活が、ふたたびはじまった。
コゼットは毎日一時間ずつ彼のそばですごすことを許された。修道女たちは陰気だったが、彼のほうはやさしかったので、子供の彼女は両方をくらべてみて彼のほうをなつかしんでいた。きまった時間がくると、彼女は小屋のほうに走ってきた。そして彼女がくると、その破屋《あばらや》も楽園となるのだった。ジャン・ヴァルジャンも喜びにかがやき、コゼットにあたえる幸福によって、自分の幸福もまたましてくるのを感じた。人にあたえる喜びこそは微妙なもので、すべて反映されるものは弱まるものだが、時にはまた、かえっていっそう強いかがやきをもってまた自分に返ってくるものである。休憩の時間になると、コゼットが遊びかけまわるのをジャン・ヴァルジャンは遠くからながめた。そしてほかの子供たちの笑い声のなかにも彼女の笑い声をききわけるのだった。
というのは、いまではもうコゼットも笑いたわむれるようになっていたのである。
それとともに、コゼットの顔つきも、ある程度かわってきた。陰うつな影も顔から消えうせた。笑いは太陽のようなもので、人の顔から冬を追いはらう。
コゼットはやはりまだきれいではなかったが、それでもひどく可愛くなってきた。そのやさしいあどけない声で、もっともらしい口をきくのだった。
休憩がおわって、コゼットがまたむこうに帰ってゆくと、ジャン・ヴァルジャンは彼女の教室をながめ、また夜になると、立ちあがっては彼女の寝台の窓をながめた。
もとより神には神の道がある。修道院は、コゼットが彼にしたように、ジャン・ヴァルジャンのなかにまかれたミリエル司教の心を維持し完成していった。およそ徳の一面が傲慢《ごうまん》に接するのはたしかである。そこに悪魔の渡した橋がある。ジャン・ヴァルジャンは、おそらくその橋に、かなり近づいていた。そのとき神の摂理は、彼をプティ・ピクピュスの修道院になげこんだのである。自分を司教だけに比較してるあいだは、彼は自分の至らなさを知って謙譲だった。しかし最近になって、彼は自分を一般の人にくらべはじめ、傲慢《ごうまん》な心がきざしかかっていた。おそらくついには、しだいに人を憎む心にもどってしまうかもしれなかった。
ところが修道院はその坂の上に彼をひきとめた。
修道院は彼がみた第二のとらわれの場所だった。青年時代に、彼にとっては人生のはじめにあたる時代に、そしてその後つい最近にも、彼はとらわれの場所をみたのだった。それは恐るべき場所、戦慄すべき場所だった。その苛酷《かこく》さは裁判の不正と法律の罪悪であるように、いつも彼には思えたのである。ところがいまや、徒刑場のつぎに修道院をみた。そしてかつては徒刑場にあったことを思い、いまはいわば修道院の傍聴者であることを思い、その両者をおののきながら頭のうちで対照してみた。
ときとして鍬《くわ》の柄を杖にしてたたずみながら、底しれぬ夢想の螺旋《らせん》階段をしずかに降りてゆくことがあった。
彼は昔の仲間を想いおこした。彼らはなんとみじめな者たちであったことか。夜明けに起きて、夜まで働いていた。眠ることもろくろくできなかった。折りたたみ寝台に寝かされ、許されてるものはただ厚さ二寸のわらぶとんだけで、部屋は大寒の時分にだけしかあたためられなかった。恐ろしい赤い獄衣を着ていた。ただ恩典としては、酷暑のころ、麻のズボンをはき、酷寒のころ、荷車ひきのつかう毛織の上っ張りをひっかけることしか許されなかった。「労役」にゆくときのほかは、酒も飲めず肉も食べられなかった。もはや名前をもたず、番号ばかりでよばれ、いわば数字化されてしまって、眼をふせ、声をひくめ、髪をみじかくかられ、棍棒《こんぼう》の下で汚辱《おじょく》のうちに生きていたのである。
それから彼の考えは、眼前の人々の上にもどってきた。
それらの人々も、髪をみじかくかられ、眼をふせ、声をひくめ、汚辱《おじょく》のうちにではないが世間の嘲笑のうちに、背中を棍棒によってなぐられたことはないが、肩を責苦のむちで引き裂《さ》かれて生きていたのである。彼らにとっても、世俗の名前はなくなっていた。おごそかな呼名しかもっていなかった。決して肉は食べず、決して酒は飲まなかった。晩まで食べものを口にしないこともしばしばだった。赤い上衣は着ていないが、毛織の黒い法衣をつけ、夏は重く冬は軽いその苦行衣のままで、なにものもぬぎ、またなにものも重ねることができなかった。季節によってあるいは麻の服を着、あるいは毛の外套をまとうことさえ許されなかった。毎年六カ月のあいだサージを着て、そのため熱を出すものさえあった。厳寒のころもあたためられた広間もなく、決して火のたかれない独房に住んでいた。厚さ二寸のわらの|ふとん《ヽヽヽ》で寝ていたのである。それに、よく眠ることもできなかった。毎夜、終日の労苦のあと、まだ労苦のやすまらないうちに、眠ってまだ身体もよくあたたまらないうちに眼をさまし、起きあがって凍《こご》えるような暗い礼拝堂にいって石の上に両ひざをついてお祈りするのである。
またある日には、それらの人々は各自順番に、十二時間ひきつづいて床石《ゆかいし》の上にひざまずき、あるいは顔を床につけ、腕を十字にくんで平伏しなければならなかった。
かしこでは男たちだった。ここでは女たちだった。
その男たちはなにをしてきたのか? 窃盗を働き、暴行をおこない、掠奪し、殺害し、謀殺したのである。盗賊、詐欺師《さぎし》、毒殺者、放火人、殺害者、大逆人たちであった。そして女たちはなにをしてきたのか? なにもしたのではなかった。
一方には、強盗、密売、詐欺、暴行、猥《わい》せつ、殺人、あらゆる種類の冒涜《ぼうとく》、あらゆる種類の加害。そして他方には純潔|無垢《むく》のただ一事があるだけである。
完全な純潔! 徳によってなお地上にむすばれ、聖《きよ》さによってすでに天にむすばれて、ほとんどある神秘な昇天の域にまでたかめられたもの。
一方においては、声をひそめてたがいに犯罪をうちあけあい、他方においては、たかい声で過失を告白する。
一方には毒気、他方にはなんともいえぬ香気。一方には、世の視線をへだてられ、大砲で見張られて、ゆっくりと患者を蝕《むしば》んでゆく精神的なペスト。他方には、同じかまどのなかの、すべての魂の清浄な焔。かしこには暗黒、ここには影。しかも明るみにみちた影であり、光輝にみちた明るみである。
いずれも奴隷制度の場所。しかし前者には、解放の可能、つねに見えてる法律上の限界、そしてまた脱走。後者には、終身のとらわれ。そしてただひとつの希望として、未来の遠き末に、人が死とよぶあの自由のかがやき。
前者にあっては、人々は鎖によってつながれているだけであり、後者にあっては、人々は自分の信仰によってつながれている。
前者からでてくるものはなにか? かぎりない呪《のろ》い、歯ぎしり、憎悪、ふてくされの悪心、人類の協力に対する憤怒の叫び、天に対する嘲笑。
後者からはなにがでてくるか? 天の恵みと愛と。
そしてこのように似かよった、しかもこのようにちがった場所で、このように異る二種の人々は、おなじ一事をなしているのである、すなわち贖罪《しょくざい》を。
ジャン・ヴァルジャンは第一の人々の贖罪、個人的贖罪、自分自身のための贖罪をよく了解していた。しかし第二の人々の贖罪、なんら非難すべき点もなく、なんら汚点もない女性の贖罪を了解しなかった。彼は一種の戦慄をもって考えた。「なんについての贖罪なのか? どんな贖罪なのか?」
ひとつの声が彼の内心で答えた。「人間の慈愛のなかでもっとも神聖なもの、すなわち他人のための贖罪である」
そういう瞑想《めいそう》によって傲慢な心は消えうせた。彼はあらゆる方面から自分を検討してみた。彼は自分がとるにたらない存在であることを感じ、いくども涙を流した。最近六カ月のあいだに彼の生活のなかにはいってきたものすべては、あの司教の聖い命令のほうへと彼をみちびいた、コゼットは愛によって、修道院は謙譲によって。
ときとして夕方、たそがれのころ、庭に人影もなくなったとき、礼拝堂にそってる路のまん中に、はいってきたあの夜にのぞきこんだ窓の前に、贖罪をしていたあの修道女が平伏してお祈りをしていた例の場所にむかって、じっとひざまずいてる彼の姿がみられた。そのようにしてある修道女の前にひざまずきながら、彼は祈りをこめたのである。
彼は直接、神の前にあえてひざまずくことができなかったのである。
彼をとりまいていたいっさいのもの、その平和な庭、その香りたかい草花、楽しい叫び声をあげる子供たち、まじめで素朴《そぼく》な修道女たち、しずまりかえった修道院、そうしたものが徐々に彼のなかにしみこんできた。そしてしだいに、その修道院のような沈黙と、その花のような香りと、その庭のような平和と、その修道女たちのような素朴さと、その子供のような喜びとで彼の心はつくられるにいたった。それからまた、彼は生涯の二つの危機に際して相ついで自分を迎えいれてくれたものが、二つながら神の家であったことを考えた。
第一のものは、すべての戸がとざされ、人間社会からつきはなされたときに彼を迎えてくれ、第二のものは、人間社会からふたたび追跡され、徒刑場がふたたび口をひらいたときに彼を迎えてくれた。第一のものがなかったなら、彼はふたたび罪のなかにおちいっていただろう。また第二のものがなかったなら、彼はふたたび刑罪のなかにおちいっていただろう。
彼の全心は感謝のうちにとけさり、そしてますます愛の心を深めていった。
かくて、いく年かが過ぎ去った。コゼットはしだいに大きくなっていった。(下巻へつづく)