ゼロの使い魔 18 滅亡の精霊石
ヤマグチノボル
第一章 恋人
ガリアの首都、リュティスの郊外に位置したヴェルサルテイル宮殿の中庭には、いくつもの天幕が張られていた。そのうちの一つ、三角に立てた支柱に紺色の帆布が張られた小さな天幕の中で、才人とルイズは唇を重ねていた。
元素の兄弟のジャックに襲われたものの、からくも窮地をルイズに救われた才人は、目の前の小さな身体を夢中になって抱きしめ、唇をその唇に押しつけた。
数週間ほど会えなかった時間が、愛しさとなってあふれ、どんなに強く抱きしめても、もどかしさが残る。セント・マルガリタの修道服を着込んだままのルイズは、黙って才人の腕に包まれ、なすがままになっていた。
才人の手が、思わずルイズの薄い胸に伸びる。するとルイズはそっとその手を離した。
「ごめん……。自分勝手すぎるよな」
はっとして、才人はルイズから身体を離した。なにせルイズは、自分とアンリエッタの口づけを見て姿を消したのである。あんな姿を見せておきながら、許してもらおうだなんて、そんなムシのいい話はない。
ルイズはただじっと、鳶色《とびいろ》の瞳で自分を見つめている。思わず身をすくめたが、その目には怒りの色は浮かんでいなかった。それからルイズは、自分の修道服に視線を移した。
セント・マルガリタ修道院を抜け出したときから身につけているので、あちこちが擦り切れたり、汚れたりしている。
ルイズは、はう、と小さなため息をつくと、口を開いた。
「散歩したいわ」
天幕の外に出ると、空には双つの月が輝いていた。
かがり火に照らされてぼんやりと浮かぶヴェルサルテイル宮殿の中庭には、今才人が出てきたような小さなものや、十人ぐらいは入れそうな天幕が、密集して張られている。そこでは、迎賓館に入れなかった各国の下級貴族や、兵隊たちが寝泊まりしていた。
今は、ガリア新女王の即位を祝う、園遊会の真っ最中なのだ。
ルイズは、そんな天幕の間を、すいすいと縫うように歩いて行く。才人は、半歩遅れてついていく格好になった。
「どこに行くんだ?」
そう尋ねたが、返事はない。どうやら、あてどなく歩いているようだ。中庭、と一言で言うが、ヴェルサルテイルの敷地は広い。ちょっとした街ぐらいの大きさがある。いつしか、天幕の群れからは遠ざかり、二人は大きな花壇に挟まれた場所に出た。
|アンスール《八月》の今は、暑い盛りである。夜といえど、辺りには熱気が漂っていた。このあたりにはもう、かがり火はたかれていないので、月明かりだけが頼りだった。
目の前からは、わずかな水の音がする。近づくと、そこは噴水だった。
ルイズは、噴水に腰かけると、足を組んで空を見つめた。そして、つぶやくように言った。
「いろいろ考えたのよ」
いろいろってなんだろう。もしかして、もう俺にはついていけないとか、そんなことを言われるのだろうか? 才人は不安になった。
でも、そうじゃなかった。ルイズは考えを整理するような顔になると、言葉を紡ぎはじめたのだった。
「わたしね、あんたと離れてる間に、いっぱいいろんなことを考えたの。なんにも考えないようにしようと思ったんだけどね。つらかったから。悲しかったから。でもね、それで気づいたの。ああ、わたし、逃げ出してるだけなんだって。嫌なことから。つらいことから……」
それからルイズは、自分の右手を見つめた。
「でも、それって卑怯よね。どんなに心がつぶれそうでも、わたし、力を持っちゃったんだもん。その力を必要としている人がいるのに、それに目をつむるってことだもん」
それは、いつか自分も思ったことだった。
「そうだね」
才人は頷いた。
ルイズは一旦は逃げ出したものの、それは卑怯だと自分で気づき、その意志で戻ってきたのだ。ルイズはちゃんと自分の力と向かい合い、答えを出している。
自分は欲望に負けて、そんなルイズを裏切ったのだ。
「俺……、そんなお前にキスする資格なんてないのに……。つい夢中になっちまって。ごめん」
ぺこりと頭を下げると、ルイズの目がわずかにつり上がった。でも、なんだか疲れたように苦笑を浮かべる。
「そうね。わたしも何度も思ったわ。どうしてこの人、わたしを傷つけることばっかりするんだろうって。そのたびに頭にきて、殴ったり逃げたりして。でも、そういうのにもう疲れちゃった。だからもう、好きにすればいいわ」
その言葉は最後通告だった。才人は頭をハンマーで殴られたように感じた。でも、ここで落ち込んだ顔を見せたら、自分の運命から逃げ出さなかったルイズに何か失礼なような気がした。
「……俺がしたいことは、お前のそばにいることだけだよ。でも、俺はどうもバカで節操がないから……。俺、お前の使い魔でいい。それ以上なんて思わない。だから……」
才人はそこで言いよどんだ。するとルイズは、才人の言葉を促した。
「だから、なによ?」
「もし、お前が恋人つくっても、ちゃんと俺はお前を守る……、って、俺、何言ってんだろ。初めからただの使い魔なのに……」
するとルイズは、あきれた顔になった。
「だからさ、もうそういうのやめてよ。あんた、わたしが恋人つくったら、命がけなんかで守れないくせに」
「ば! ばか! そんなことねえよ!」
「そんなことあるわ。わたしだって、恋人でもない男に、義務感だけで守られちゃたまんないわ」
「う……」
「そういう意味で言ったんじゃないわ。ほんとに文字通りの意味で言ったのよ。あなた、わたしがどんなにわがまま言ってもわたしを助けてくれた。命まで張ってくれた。わたしだって、そんなあなたに意地悪いっぱいしたの。殴ったり蹴ったり、果ては何も言わずに逃げ出して心配かけたり……。だからお互いさまなの」
ふぅ、とルイズは小さなため息をついた。そして、何かをふっ切るような声で言ったのだった。
「恋人つくっても、ですって? それができるならとっくにそうしてるわ。でも、どんなにつらいところを見せられても、頭にきても、わたしだめなの」
「……だめ?」
「うん。あなたにキスされると、頭がぼーってなっちゃうの。会えないときは、いっつもあなたのことばかり考えてるの。寝てるときも、あなたの夢ばかり見るの。どうして? あなたがわたしの使い魔だから? いつも助けてくれたから? 何度も好きだよって言ってくれたから? いっつも強く抱きしめられて、キスされたから?」
訴えかけるようなルイズの声に、才人は驚いて動けなくなった。ルイズがそこまで自分のことを考えていたことがうまく信じられず、才人は呆然と立ち尽くした。
「どれでもないのかもしれない。全部そうなのかもしれない。でも、そんなのどうでもいいわ。きっと、わたしがそう思うってことがすべてなんだわ。悔しいけど、全部ほんと。頭にくるけど、そう思っちゃうの。だから好きにすればって言ったの。わたし、あなたが何をしても、たぶんきっと何も変わらないから」
それからルイズは、ぶつぶつと何事かつぶやき始めた。聞くと、わたしほんとにばかね最悪だわなんでそんなふうに思っちゃうのかしらでも全部ホントでどうしようもなくってああというかわたしってば何言ってるのかしらここまで言ったらもうおしまいじゃないのわたしの負けじゃないのまあいっか負けとか勝ちとかないからいいわ。
そんな風に目を細めて、うらめしげにぶつぶつつぶやくルイズを見て、才人は激しく感動した。
ルイズ……、そこまで俺のこと……。命張った甲斐あったわ……。
ああ、何を言おう?
もうよそ見はしないとか? 馬鹿な。そんな失礼な言い草があるか。そんなのは言わずもがなの、当たり前のことじゃないか。
ルイズの言葉を要約するなら、何があってもわたしはあなたを想い続けるだろう、とそういうことだった。これほどまでに、自分を信頼しきっている女の子を、自分は何度裏切ってきたのだろう。俺のことなんか好きじゃないんだろ、とどれだけその気持ちを侮ってきたのだろう。
その言葉に、なんと言って応えればいいのかわからない。
「あ……、俺……」
何か言わなくちゃならない。でも、何も出てこない。
そうだ。
どうして俺が、こんなにルイズに惹かれるのかをちゃんと言おう。才人は、深く深呼吸すると、まっすぐにルイズを見つめた。
「お、俺も言っていいか?」
「ん?」
きょとんとした顔で、ルイズは才人を見返した。
「しょ、正直に言ってしまいます」
「しまいますって何よ。キモいわね」
「キモいって言うなよ。そ、そんなキモい俺がお前はいいんだろ?」
「まあね。でもキモいわ」
「うるせえ。いいから黙って聞け。あのな、俺……、変な話だけど、お前を見てると、こいつ、どこか別の世界に連れていってくれるんじゃないか? って。そんな気持ちになるんだよ。わくわくするような、ここじゃないどこか。たぶん、いい悪いを抜きにして、お前がいろんなところに俺を連れまわしたからだと思うんだけど。そりゃ、つらいこともあったし、悲しいこともあった。死にそうにもなった。でも、楽しかったのも事実なんだ」
「正直に迷惑だったって言いなさいよ。お世辞なんかいいわ」
「迷惑じゃねえよ! いや、正直言うと、少し迷惑でした」
「殴るわよ」
「でも、それ以上に楽しかった! ドキドキした! 嘘じゃねえよ。そんな気持ちになるのは、お前だけなんだ。お前は、俺をどこかに連れていってくれる気がするんだ」
ルイズは、じっと冷たい目で才人を見つめた。
「姫さまにだってドキドキしたんでしょ」
「し、してない……」
冷や汗を流しながら、才人は言った。
「うそばっかり。あんた、すっごい顔してキスしてたわ」
キス時の顔を思い出したらしく、ルイズの肩がピリピリ震え始めた。そして、ほあ、と息を吸う音と同時に足が持ち上がる。才人はとっさに身をかがめた。
しかし、いつもの蹴りは飛んでこなかった。
ルイズは上げた足を見つめて、やれやれと首を振りながら、足を再びおろした。
「蹴らんの?」
「蹴らない。だから正直に言って。姫さまとキスしたとき、どきどきしたの?」
才人はうつむいて、それから顔をあげて、最後に深呼吸した。
「ちょ、ちょっと」
再びルイズの足が持ち上がった。才人は、それを見て覚悟を決めたらしく、涙を流さんばかりに絶叫した。
「ど、どきどきしました! それもすごく!」
ルイズの全身が痙攣したように震えだした。何度も足を持ち上げ、蹴りを繰り出そうとするように動くが、ルイズはこらえきった。
「ここで蹴ったら終わりだわ」
そうつぶやき、足をおろす。
「まあね。姫さまってば、色気は無駄に一人前だかんね」
「ルイズ……」
才人が冷や汗を垂らしながら言うと、ルイズは冷ややかな目で才人を見つめた。
「もう、いちいちそんなことで怒るのやめたの。無駄だから」
するとルイズは、ゆっくりと才人に近づいてきた。両手を広げてその顔を包みこむ。
「わたしが一番なんだからね」
「あったりまえだ」
才人が思わずキスをしようとすると、するりとルイズはその唇から逃れた。不安な顔になって、ルイズ? と尋ねると、ルイズはさらりと、驚くことを言ってのけた。
「み、みみみ、水を浴びたいな」
「はい? 水?」
その言葉の意味がわからずに、才人は問い返した。すると今度ははっきりとした声で、ルイズは言った。
「水を浴びたいなって、言ったわ」
穏やかだが、何かを決心した声だった。
「水浴びって……、また、どうして」
「だって、セント・マルガリタを出てから、一回もお風呂に入っていないのよ。汗かくし、服だって着たっきりだし……」
「で、でも、こんな時間じゃ風呂だって……」
迎賓館に用意された湯浴み場だって、深夜の今は閉まっているだろう。するとルイズはさらに驚くことを言ったのだった。
「水浴び場なら、ここにあるじゃない。立派なのが。ほら、今も水をさんさんと噴きだしているじゃないの」
と、指さしたのは、目の前の噴水だった。
「で、でもな? お前、これは噴水……」
「いいじゃない。汚い水ってわけじゃないんだし。それに、今は夏だし」
そう言うと、ルイズははっしと修道服に手をかけた。
「ば、ばか! だいたい、ここは外!」
「いいじゃない。こんなに真っ暗で、誰も歩いてないわ。見てるとしたら、月ぐらいよ」
そのときになって、どうしてルイズがこんなところまで自分を引っ張ってきたのか、才人は理解した。きょろきょろ何かを探しているようだったが……、噴水を探していたのか!
才人があわあわとするうちに、ルイズは肩から修道服を脱いだ。するっと、丸い輪になって、修道服がルイズの足もとに滑り落ちる。
シュミーズ姿のルイズが月明かりに浮かび、才人は思わず目をそらした。
「お、お前……」
さらっと、小さな衣擦れの音が響き、それからちゃぷん、と噴水に足を踏み入れる音が聞こえてきた。
「つめたくって、気持ちがいいわ」
「は、早くしろよ」
後ろを向いたまま、才人は言った。ちらっと盗み見たい衝動にかられたが、今ルイズの肌を見てしまっては、我慢できなくなってしまう。
昔は才人の前で、なんの恥じらいもなく着替えていたルイズだが……、はっきりとその肌を見たことはない。
そんな風にやきもきしていると、ルイズはさらに驚くべき言葉を繰り出してきた。
「背中洗って」
「で、でも……」
いいのか? と言おうとしたら、
「手が届かないのよ」と、軽く怒ったような声が聞こえてきた。
才人が振り返ると、ルイズは噴水の中、こちらに背を向けて座っていた。ルイズの白い背中が、月明かりに照らされ、かたちのいいラインを夏の夜に浮かび上がらせている。
細いが、妙に色気のある背中で、才人は鼓動が跳ね上がっていくのがわかった。
思わずつばをのみこみそうになり、才人はこらえた。そして、一歩を踏み出す。
噴水の縁の前で靴を脱ぎ、ジーンズをたくしあげる。
足を踏み入れると、ひんやりと冷たい水の感触が足をくすぐった。
そして……、見下ろすと、ルイズの美しい背中があった。長い桃色の髪は、首筋から左右にわかれ、肩から背中を彩っている。
そりゃあ、何度もルイズを抱きしめたことはある。でも、直接素肌に触れたことは、ほとんどなかった。
ゆっくりと手を伸ばし、ルイズの背中に触れた。ルイズの肌の感触が、手のひらに伝わってくる。滑らかで温かく、しっとりと汗ばんだルイズの素肌は、才人に強く生≠意識させた。好きな人間が生きている≠ニいうことが、これほど愛おしく感じられた瞬間は初めてだった。
噴水の水をすくい上げ、ルイズの背中にかけた。そして、手のひらでゆっくりと洗う。才人の手が動くたびに、ルイズの背中がぴくっと震える。
才人は、喉がカラカラになっていくように感じた。このまま手を前に伸ばせば……、ルイズの柔らかい、いろんな部分に触れることができる。
でも、自分にその資格があるんだろうか?
あれだけ、ルイズを傷つけた自分に、ルイズの素肌に触れる資格はあるんだろうか……。
そのときだった。
ふと、手が止まった才人の心中に気づいたのか、ルイズがぽつりとつぶやいた。
「ねえサイト」
「な、なにっ?」
「わたし、きれい?」
小さな、消え去りそうなぐらいに小さな声だったけど、はっきりと聞こえた。
「う、うん」
思わずそう言うと、ルイズはゆっくりと立ち上がった。
「お、おい! お前! ちょっと!」
才人は慌てに慌てた。いったい、ルイズが何をしようとしているのか、まったく理解できなかったのだ。とにかくわかるのは、目の前に何一つ身につけていないルイズがいるということだけだった。
「姫さまよりもきれい?」
落ち着いた声だった。
「うん……、だって、姫さまのそんな姿、見たことないし……」
「シエスタよりもきれい?」
「シ、シエスタのだって、見たことないっつの」
「そう。ならいいわ」
「お、おい……」
才人が心の準備をする間もなく、ルイズはこちらを振り向いた。見たら死ぬ、きっと死ぬと思いながらも、才人は目をそらすことができなかった。
夢にまで見た、ルイズの裸身がそこにあった。
「…………」
月明かりは、ぼんやりと、だが十分に、ルイズの美しい裸体を染め上げていた。わずかに膨らんだ胸の先端も、臍《へそ》の下のかすかな陰りも、余すところなく才人の視線にさらされていた。
「ルイズ……」
肩の荷がおりたような声で、ルイズは言った。
「もうね、つまらない意地はるのやめたの。今まで、ご褒美だとかなんとか、散々言いたいこと言ってきたけど、ほんとは、わたしがしてほしかったの。キスしてほしかったし、ぎゅっと抱きしめてほしかった。でも、言うのが恥ずかしかったから、言わなかったの」
ルイズは顔をあげて、才人を見つめた。
「あなたのも見せて」
才人は、真顔になると頷いた。そして、マントにパーカー、ズボンに下着を脱いで、噴水の縁に置いた。
二人は、生まれたままの姿で、向かい合った。どちらからともなく手を伸ばし、固く抱き合った。
「俺……」
「なぁに?」
「この瞬間のために、生まれてきたんだな」
どこまでも真剣な、でも温かい声で才人は言った。不思議と、先ほどまでの興奮はおさまり、穏やかで、平和な気持ちで胸がいっぱいになる。
「わたしも、同じ気持ちだわ」
しばらくの間、二人はそうして抱き合っていた。ルイズが、つぶやくように言った。
「ねえサイト。お願いがあるの」
「うん」
「他の子に目移りしてもいいわ。浮気したってかまわない。でも……」
「でも?」
「わたしより、先に死んじゃだめよ。それだけ約束して。わたし、きっと、あなたがいなくなるのだけは、耐えられそうにないから」
「それは俺のセリフだ」
才人も、言った。
「他の男とキスしたっていい。何してもいい。でも、絶対に俺より先に死ぬな」
「じゃあ、死ぬときはいっしょね」
才人はルイズの顎を持ち上げた。ルイズは、従順にそれに従うと、目をつむった。唇が重なり合う。
長いキスのあと、ルイズは腰の辺りに何か違和感を感じたらしい。下を向いて、そこにあったものを見て、顔を赤らめる。でも、決心したような顔で、言った。
「……する?」
才人は、一瞬苦しそうに唇を噛んだが、すぐに笑みを浮かべた。
「ううん。いい」
「……したくないの? だって、男の子って……」
「……し、したくないわけないだろ。でも、今はまだ早い。やらなきゃならないことがいっぱいあるし……。それに……」
「それに?」
「そういうことは、結婚してからだ」
ルイズは、恥ずかしそうにうつむいた。そして、はにかんだ声でつぶやく。
「ありがとう」
二人は、噴水から出ると服を身につけた。乾燥したハルケギニアの夏の空気が、すぐに二人の身体を乾かしてゆく。
才人が手を差し出すと、ルイズはそれを握った。
「ねえサイト。さっきはああ言ったけど、わたし、やっぱりあなたが浮気したら怒るかもしれない」
「それは当然だろ。俺だって、お前が浮気したら許さない」
「自分は散々しておいて、勝手なこと言うのね」
ちょっと拗ねたような声で、ルイズは言った。でも、満更でもないのか、才人に寄り添う。二人は、ぴったりとくっついたまま、歩き出した。
どこまでも幸せな気分で、才人はルイズを見つめた。
そのときだった。
不意に。
ほんの不意に、才人の中に生まれた感情があった。
ルイズが戻ってきた。
そして、俺にすべてをゆだねてくれると言っている。
すごく嬉しい。
でも……。
そうやって満たされると、今まで気づかなかった感情に触れた。
なんだこれ?
妙に焦った顔になった才人に、ルイズは気づいた。
「……どうしたの?」
「いや……、ちょっと……」
考え込んだ才人を、ルイズは心配そうな顔で見上げた。
「真っ青なんだけど」
「いや。ほんとに、なんでもない」
双月が優しく二人を照らし、染め上げた。
第二章 ワルドとフーケ
連合皇国首都ロマリア……。
碁盤の目のように、整然と並んだ街道に、急ぎ足の女の姿があった。
濃い栗色の長い髪を額の真ん中で分け、眼鏡の奥の瞳を理知的に光らせ、きっと口を一文字に結んだ顔は、整っていると評するに十分だった。
紺に染められたシャツに白いスカート、手には本を数冊抱えたその姿は、一見どこかの書記官のようだった。
だが、何気ない足取りの中、女は油断なく辺りに目を光らせている。
大都市ロマリアは、熱狂に包まれていた。若き教皇、聖エイジス三十二世により、聖戦≠ェ発動されたためだ。エルフより聖地≠奪回するまで終わらない巨大な祭典だ。
壁のいたるところには、義勇兵として聖戦参加を呼びかけるポスターや、|エルフ《異教徒》を抹殺すべしとのスローガンが掲げられ、聖堂騎士たちが、隊伍を組んで大通りを歩いていく。通りを行く神官たちは、そんな騎士団を見かけると立ち止まり、祝福を与えるべく、聖具のかたちに印を切る。
そんお祭り騒ぎの中、女は何気ない足取りの中に緊張を潜ませながら、一本の路地へと足を進める。
そこは、光の国ロマリアの、その光が当たらない場所だった。壁の隅には汚水や生ごみが溜まり、えも言われぬ臭いを発している。通りのそこここには、各国から流れてきた難民の子供たちが、薄汚れた格好で座り込んでいた。女が通りかかると、子供たちは目を輝かせて、立ち上がる。
「おねえちゃん! おねえちゃん!」
すると、女はポケットから銅貨を取り出すと、近寄ってきた子供たちに手渡す。あちこちから子供はやってきて、しまいには十数人にも増えた。子供たちは、女から銅貨をもらう順番をめぐって、争いを始めた。
「ほら、ちゃんとあげるから。喧嘩をして取り合ったり、盗みをしたりするんじゃないよ」
ぴょんぴょん跳ねるように去っていく子供たちを、女は目を細めて見送った。それから女は、後ろを振りかえり、何者にもつけられていないことを確認すると、漆喰が剥がれ落ちた、ボロボロの建物の中へと入っていく。
玄関に入ると、二階へと続く階段があり、女はそこを上った。二階には、いくつも似たようなドアが並んでいる。どうやらここは、|アパルトマン《共同住宅》のようだった。
一番奥の部屋へと向かうと、女は扉を開いた。中には部屋は一つきり。外観と同様、ずいぶんと安普請の居室だった。窓のそばに置かれた大きなベッドの上のシーツには、ところどころツギがあたっているし、壁紙は色あせ、元の色がどうだったのかすらわからない。
しかし、そのボロ部屋は異彩を放っていた。樫の木の丸テーブルの上には、本がうず高く積み上げられ、のりきらない本が床の上にまで転がっている。
まるで図書館が引っ越してきたかのような、その風情だった。そして、本の山に埋もれるようにして、一人の長身の男が、椅子に腰掛けて本を読んでいた。
「無用心だね。ワルド」
灰色の瞳を本に向けたまま、ワルドは口を開いた。
「いまさら、俺を狙うやつなどおるまい」
アルビオンでレコン・キスタに参加していたころに比べ、幾分痩せた以外は、ほとんど変わりがない。平民が着るような、簡素な衣装に身を包んでいたが、全身から発される空気は、歴戦の貴族のものだった。
女……、かつて土くれ≠ニ呼ばれた女盗賊フーケは、持ってきた本をどさりとワルドの隣に置いた。
「まったく。アルビオンでの戦争が終わってからこっち、あんたは学者にでもなったみたいだね」
ワルドはそれに答えず、
「また子供に金をバラ撒いていたな?」
「どうしてわかるんだい?」
「外から声が聞こえた。目立つことはするな、と言っているだろうが」
するとフーケは、眉をつり上げた。
「あのね、あの子たちだって、好きで物乞いなんかやってるわけじゃないんだ。知ってるかい? あの子たちは、アルビオンからの難民なんだよ。あんたたちが好き勝手やった挙句に、こんなろくでもないとこで生活する羽目になってるのさ」
アルビオン敗戦のあと、フーケとワルドはこのロマリアまでやってきたのである。ワルドは、それ以上、何も言わずに本を読み続けた。
歴史書だった。
といっても、ただの歴史書ではない。フーケが苦労して盗み出してきた、ロマリア宗教庁に眠る、秘伝の書だった。そこには、宗教国家ロマリアが、過去に行ってきた様々な弾圧や、対外戦争について書かれているのだった。
黙々と本を読みふける男の態度が気に障ったのか、フーケはいらだった声で言った。
「ねえワルド。そろそろ話してくれてもいいんじゃないの? どうしてこのロマリアまでやってくる気になったのさ?」
ワルドは、無表情のまま本のページをめくる。するとフーケは、すっとワルドの胸元からペンダントを引き出した。ロケットになっているらしいそれをぱかっとあけると、中から綺麗な女性の肖像画が現れた。
「そばにいてくれる女じゃなく、母親の絵をいまだに入れとくなんて。愛想つかされても、文句は言えないよ」
フーケがそう言っても、ワルドは知らぬ顔。
「ねえワルド。わたし、これでもあんたの力になってやろうって言うんだよ。いったい、あんたの母親に何があったのさ? あんたがすべてを捨ててレコン・キスタに身を投じたのも、聖戦まっただ中のロマリアまでやってきたのも、全部それが関係してるんだろ?」
それでもワルドが何も言わないので、フーケはとうとう業を煮やしたらしい。
「あっそ。そこまで頑なに無視を決め込むつもりなら、もういいよ。本を盗ってくるのはこれで最後にさせてもらうわね。だいたい、こんな本なんて、いくらにもなりゃしないんだ」
それから、と言って、フーケはワルドの耳をつまんで言った。
「抱かれるのもごめんだね」
ワルドは本から目をそらさずに、口を開いた。
「俺の母はアカデミー≠フ主席研究員だったんだ」
「アカデミーって、あの怪しげな研究をしているところかい?」
「ああ。まあ、俺の母はそこで歴史と地学の研究を行っていた。でも、あるときを境に、心を病んでね。アカデミーをやめて、屋敷から一歩も出なくなった。父や親族は、『女だてらに難しい学問をするからだ』なんて言ってた。俺もそう思ってた。まったく、母はおかしくなってたよ。うわごとのように、ジャン・ジャック、聖地を目指すのよ≠チて、何度も繰り返すのさ。しまいにゃ、父は奥の部屋に母を閉じ込めた」
するとフーケは、眉をひそめた。
「あきれた。母君は気の毒だけど、そんな戯言《たわごと》を真に受けて、レコン・キスタに参加したってわけ?」
「俺も、ずっと戯言と思っていた。そんな母を、恥にさえ感じていた。つらく当たったこともある。いい加減にしてくれ! ってね」
「どうしてまた、母君の願いをきこうなんて考えたのさ」
ワルドは、懐から一冊の本を取り出した。それを無言でフーケに手渡す。
「なんだい? これ」
「母の日記帳だ」
「あきれた。どこまで親離れができてないのさ」
フーケは、その日記帳を読み始めた。どうやら、ワルドが生まれてからつけられたらしい。ワルドが生まれたときの喜びが、感動に震える文章で書いてある。
それからは、アカデミーの研究員としての日々が綴られていた。
ワルドの母は、ハルケギニアの大地に眠る風石について研究していたようだ。内容は難解で、日記であるゆえ他人に読ませることを考えていないので、非常に読みにくかったが……、同じ土系統使いのフーケには、ぼんやりとだがそれがわかった。
「あんたの母君は、効率のいい採鉱について研究してたみたいだね。でも、いったいこれと聖地がどう結びつくっていうのさ?」
そうつぶやき、ページをめくる。
しばらく読み進めたとき、フーケの指が止まった。
そこにはたった一言、こう書かれていた。
わたしは恐ろしい秘密を知ってしまった。この大陸に眠っていた、大変な秘密を……
その日を境に、日記の内容は恐ろしい秘密≠ノ恐怖するものになっていった。
こんなことは誰にも話せない。わたしはどうすればいいんだろう。おお神さま!
フーケは、つばをのみこんだ。どうやら、その恐ろしい秘密とやらを、ワルドの母は誰にも話さなかったようだ。なぜなのだろうか? アカデミーの研究員なのに?
聖地に向かわねば、わたしたちは救われない。でも、聖地をエルフから取り返そうとすることも、また破滅……
恐ろしい秘密についての、具体的な記述はどこにもない。ただ、その秘密≠一人で抱えることは、心を病むに十分だったらしい。
可愛いジャン。わたしのジャン・ジャック。母の代わりに聖地を目指してちょうだい。きっと、そこに救いの鍵がある……
その日を最後に、うわごとのような散発的な記述が続くようになり……、ジャン・ジャック。聖地へ……≠ナ、日記は終わっていた。
「俺がその日記帳を見つけたのは、二十歳のときだ。母の部屋を整理していて、発見したんだ」
「あんたの母君を悪く言うわけじゃないけど、ただの妄想にしか思えないよ。恐ろしい秘密、なんて言われてもね。この内容を信じて、聖地を目指す気になった、なんて言うんじゃないだろうね?」
「信じる信じないじゃないんだ」
ワルドは、疲れたような声で言った。
「何を言ってるんだい?」
「母は俺が死なせた」
「なんだって?」
「俺はそのとき、十二になったばかりでね。屋敷でパーティが行われた日だった。パーティの最中、どうしたわけか、母は奥の部屋から出てきてしまったんだ。で、廊下を大騒ぎしながら歩いてた。俺の名を何度も呼びながらね。俺は心底、そんな母がイヤになってね、奥の部屋へ連れていこうとした。階段の上で、母は俺に抱きついてこようとした……」
ワルドは、無表情のまま、義手の左手を見つめた。
「俺は思わず母を突き飛ばしてしまった。十二ってな、そういう年なんだ。母の愛情が、うっとうしくてたまらない。ましてや、狂人のようになっちまった母なんて、恥以外の何物でもなかった。ほんの軽く押したつもりだったんだが、母は足を踏み外した。階段から転げ落ちて、首がぽっきり折れちまった。今でもよく覚えてる。ぐんにゃりと曲がった母の首……」
ワルドは目をつむった。
「事故ってことで、父は処理した。おそらく、父も母の扱いには困ってたんだろう。罪にさいなまれた俺は何度も自分を慰めた。母はもう、死んでたようなものだ。俺は悪くない≠チてね」
フーケは、じっとワルドの話に聞き入っていた。ワルドは抑揚のない声で話を続けた。
「それから、二十歳になるまでの八年間、俺はずっと修行に明け暮れた。そうでもしないと母殺し≠フ罪からは逃れることができないと思ってた。でも俺は二十歳のときに、その日記帳を見つけてしまった。母が心を病んだのには、理由があったんだ。俺はそんなことも知らずに、母をただの心の弱い人間だと軽蔑してたんだ」
ワルドは、椅子の背に身体を預けるようにして身を沈めた。
「わかるだろ、マチルダ。俺にとって、聖地に向かうことは義務なんだ。そこに何があるのか、それはどうだっていいんだ。母の最期の願いだ。俺は、聖地に行かなくちゃいけないんだ」
フーケは手を伸ばすと、優しくワルドの首をかき抱いた。
「やっとわかったよ。どうしてわたしが、あんたのそばから離れられないのか。あんたは孤児なんだね。自分で自分を捨てちまった、可哀想な孤児さ。わたしはそんな子供を見ると、ほっとけないんだよ」
フーケは優しくワルドを抱きしめた。まるで母のような、慈愛がこもっていた。小さく、フーケは子守唄を口ずさんだ。
それから、心配そうな声でフーケはワルドに尋ねた。
「あんた……。聖戦≠ノ参加する気なの?」
「ロマリアの狂気に付き合うのはウンザリだが、それが一番手っ取り早いんだろうな。その前に、母をそこまで追い込んだ恐ろしい秘密≠ニやらの中身を知りたくなってね」
「それでわたしに書物を盗ませてたってわけか。まったく、皇国図書館に忍び込むのは、結構大変なんだよ。で、何かわかったの?」
「今のところ、それらしいことは何もわからん。ロマリアなら、何かをつかんでいると思ったんだが……。しかし、この国もずいぶんとえげつないことをしているな」
ロマリアの秘密執行機関の記録書をテーブルの上に放り投げながら、ワルドは言った。
「弾圧、暗殺、破壊活動……。疑わしいと見れば殺す。気に入らないとなると滅ぼす。始祖の御為とあらば、世界さえも滅ぼすんじゃないかってぐらいの暴れっぷりだな。まったく、あのレコン・キスタが小物に思える」
「実際、小物だったじゃないの」
トントン
そんな会話を交わしていると、扉がノックされた。フーケはすっと身を離すと、懐から杖を引き抜いた。
ワルドも立ち上がりながら、傍らに置いた軍杖に手をかける。
トントン
再び、ドアがたたかれた。ワルドはちらっとフーケを見る。フーケは、心当たりはない、というように首を振った。
ワルドは、ドアに向けて口を開いた。
「どなたですかな?」
「ロマリア政府の使いで参りました」
少女の声だった。小声でフーケがつぶやく。
「……つけられるようなヘマはしてないよ」
「現につけられているだろうが」
ワルドはドアに近寄ると、右手を軍杖に置いたまま扉を開けた。そこに立っていた人物を見て、ワルドの目がわずかに細まった。
ロマリア政府の使い≠ノしては、実に意外な人物だった。年のころは、十五ほどだろうか。白い巫女服に身を包んだその姿は、まるで寺院の助祭のようだった。
射すくめられるようなワルドの視線にさらされ、少女は身をすくめた。
「ロマリア政府が、いったい我々に何の用でしょう?」
ワルドが問いかけると、少女は震える声で言った。
「あ、あの……、ワルド子爵と、ミス・サウスゴータでお間違えないですよね?」
ワルドは、少女の後ろを見やり、感覚を研ぎ澄ませた。廊下、そして階下……。そして建物の外。どこにも、誰かが隠れている様子はない。
こちらの素性を知りながら、少女は一人で来たらしい。その勇気には、素直に感嘆した。
否定するより、素直に肯定したほうが面白そうだ、とワルドは判断した。まあ、否定したところでしかたがない。最悪、騎士隊にでも囲まれる羽目になるだろう。
「そうですが。でも、私たちはもう、レコン・キスタとはなんの関係もありませんよ」
「知っております」
「どうして我々を知っているのです?」
「あなたがたは有名人ですから……」
ワルドは後ろを振り向いた。フーケが、やれやれと言わんばかりに両手をあげる。
「失礼ですが、あのその、あなたがたが入国してから、常に監視させていただいていました。申し訳ありません」
ワルドは笑みを浮かべた。さすがはロマリア、といったところか。一応、かなり入念に変装して、身元を偽って入国したつもりだったのだが。
「あなたがたの手のひらの上で、泳がされていたというわけですな。では、我々が行っていたつまらないこそ泥も、ご存知というわけだ」
少女は、こくりと頷いた。
「本はお返しします。もう、読んでしまいましたから。それで勘弁願えませんか。我々は、あなたがたとことを構えようという気はさらさらありません。単に調べ物がしたかったのです。それに、聖戦≠燻x持しております。なんなら協力してもいい」
ワルドがそう言うと、少女は、ほっとしたようにため息をついた。
「そう言ってくださると、助かります。実はその、あなたがたの協力がほしくて、私は主人に遣わされたのです」
「あなたの主人とは?」
すると少女は恭しく一礼して、懐から一通の手紙を取り出した。差出人の名前を見て、ワルドは表情を変えた。
民のしもべ。ヴィットーリオ・セレヴァレ
「……教皇、聖エイジス三十二世聖下が、あなたの主人なのですか?」
少女は、頭を下げたまま、ワルドに告げた。
「わが主は、あなたがたをお待ちでございます」
第三章 ジョゼットの園遊会
女王即位記念園遊会が開かれて三日後……。
ヴェルサルテイルの宮殿の中庭には、大きな舞台がしつらえられていた。本日はダンスの披露会であった。着飾ったガリアの貴族たちが、演目『始祖の降臨』を演舞するのだ。
降臨する始祖ブリミルを模した、歌劇のようなものだ。舞台の上では、始祖を迎え入れる天使に扮した貴族たちが踊っている。
楽士たちが、軽やかな曲を奏でる中、ジョゼットは袖裏の天幕の中で震えていた。
「やっぱり無理だわ。あんな、みんなが見てる場所で踊るなんてできない」
ジョゼットの役は……、この演舞劇の主役、聖女の役である。
傍らに控えた美貌の神官は、そんなジョゼットの頭をやさしくなでた。
「大丈夫。昨晩、いっしょに練習したじゃないか」
「そうだけど……」
「みんな、新しい女王≠フダンスを心待ちにしてるんだ。彼らの期待を裏切ってはいけないよ」
次第に曲のテンポがあがり始める。いよいよ自分の番がやってきたのだが、それでもジョゼットは一歩を踏み出すことができない。己が身を包む、青いダンス衣装に目をやる。大胆に、背中と胸元が開いたドレスだった。まるで子供のような、華奢な自分の体に似合っているとは、到底思えない。この衣装も、一歩を踏み出せない理由のひとつだった。
踊っている貴族の女性たちは、誰もが女性らしいラインに恵まれている。あんなところで踊ったら、自分が比べられてしまうようでイヤだった。
「安心するんだ。女王のダンスにケチをつけるやつなんていないよ」
「周りの人にどう思われたってかまわない」
きっぱりと、ジョゼットは言った。
「じゃあ、いいじゃないか」
「あなたに、みっともないところを見られるのがイヤなの。みんな、上手だわ。みんな、きれいだわ。あんな場所で踊ったら、あなたきっと、わたしをみっともない女の子だって思うもの」
「まさか。きみより素敵な子なんていないよ」
ジュリオはそう言うと、やさしくジョゼットの頭をなでた。もうそれだけで、ジョゼットは胸がいっぱいになった。
「じゃあ、ぼくもいっしょに踊ろう」
「え?」
驚く間もなく、ジュリオはジョゼットの肩を抱いて、舞台の真ん中へと躍り出た。それまで踊っていた貴族たちが、いっせいに退き、観客からは歓声と大きな拍手がとんだ。
その歓声で、ジョゼットはもうすくんでしまった。
でも……、目の前でジュリオが踊り始めると、その歓声がぴたりとやんだ。それほどにジュリオの踊りはすばらしかったのである。
ジョゼットも目を見張った。軽やかにステップを踏みながら、ジュリオはジョゼットに手を差し出した。導かれるままに、ジョゼットもダンスを踊り始めた。
ジュリオの踊りを見ていると、ジョゼットの心の中に、温かい何かが満ちていった。徐々にうきうきと、心が弾んでいくのがわかる。
頬が赤く染まっていく。すっと、ジュリオが頬を寄せ、素敵だよ、とつぶやいた。
そうか
と、ジョゼットは気づいた。
この胸の高鳴りの正体に。
五秒ごとに襲ってくる不安の正体。
失いたくないと思う、この瞬間。
軽やかな音楽。
周りから聞こえてくる、歓声と拍手。
向こうに見えるのは、自分の髪の色と同じ、青い壁石で造られたきらびやかな王城。
目の前には、最愛の男性がいて、自分に微笑みを向けている。
頬に伝うのは涙。
こんな感情は、一度として感じたことはなかった。
最近、時々感じるこの気分……、なんていうのかわからなかった。
でも、やっと今、その感情の名前がわかる。
わたし、幸せなんだ
万雷の拍手に包まれ、ジョゼットは天幕の中へともどってきた。額を伝う汗が心地いい。こんなに身体を動かしたのは、いつぶりだろう?
「上手じゃないか」
ジュリオが、そう言ってほめてくれた。ジョゼットは、はにかんだ顔で、
「ジュリオがいっしょに踊ってくれたからよ。わたし、つられて踊ってただけだもの」
「みんな満足しているよ。いやぁ、たいしたもんだ」
「次はどうするの?」
「ぼくたちの女王陛下におかれては、ダンスの労を癒す休憩の時間が与えられる。そのあとは晩餐会さ」
すると、少し休めるらしい。
「ジュリオもいっしょ?」
すると、もちろんだとも、と言ってジュリオは頷くのだった。
天幕を出ると、取り巻きの貴族たちがわっとジョゼットを取り囲む。供についているジュリオに、訝しい目を向ける者もいたが、表立って文句をつける家臣はいない。
自分たちの女王が、誰の助けを得て冠を被っているのか、彼らはよく理解していたのである。冠を被る少女がロマリアの傀儡であっても、旧オルレアン派の自分たちを、再び陽のあたるところに連れ出してくれたことに変わりはない。
そんな女王の聖戦℃x持についても、彼らはなんとも思っていなかった。相手が誰であれ、戦場で血を流すのは、自分たちではないからだった。
宮廷の入り口で家臣団と別れ、居室につくと、ジョゼットはベッドに飛び込んだ。
それから起き上がり、ちょこんとベッドに腰掛け、ジュリオに向けて両手を伸ばす。ジュリオはそんなジョゼットを抱えあげると、強く抱きしめた。ジョゼットがねだるように首をかしげると、ジュリオは唇にキスをしてくれた。
唇を離したあと、「幸せだわ」と、思わずつぶやく。
この世に、自分より幸せな女の子はいるんだろうか?
こうぐるりと部屋を見回してみても、素晴らしい調度が揃っている。セント・マルガリタの共同部屋とは、まさに雲泥の差があった。そして、自分の持ち物は、それだけではない。この宮殿。そして、ひいてはこのガリア王国が……。
その瞬間……。
ジョゼットの脳裏に、三日前の記憶がよみがえる。この部屋に立っていた、自分と同じ顔の少女……。双子の姉。
自分が感じているこの幸せは……。
そう思った瞬間、何か黒いものが心に滑り込んできた。それは今感じている幸せと等量の、罪悪感だった。
そうだ、今自分が感じている幸せは……。
急に顔を曇らせたジョゼットを見て、ジュリオは首をかしげた。
「どうしたんだい?」
「わたし、こんな幸せを、姉さんから奪ってしまったんだわ」
するとジュリオは、こくりと頷いた。
「そうだよ」
ジョゼットは、はっきりとそう言ったジュリオをまっすぐに見つめた。
「きみは、姉から冠を奪ったんだ。自分の幸せのためにね」
「はっきり言うのね」
「嘘をついてほしかったのかい? それとも何か、綺麗なことを……、そうだな、幸せってのは、誰かの不幸の上に成り立っているとか、そんなろくでもないことを言って、慰めてほしかったのかい?」
ジョゼットは唇を噛んだ。それから、目にいっぱい涙をためると、言い放った。
「わたしは薄汚い泥棒よ。どんな罪深いことをしても、あなたに嫌われるのがイヤなの。そのためには、なんだってするって決めたの。後悔なんてしないわ」
ジュリオは、しばらくジョゼットを見つめていた。そして小さく、
「よく言った」とつぶやいた。
「知ってるわ。あなたが、ちっともわたしのことなんか愛してないってこと。ただ利用するためだけに、わたしにキスしたんだってこと。それでもわたしいいの。そばにいられるだけで幸せなの」
ジュリオは目をつむった。この少年にしては珍しく、肩が少し震えていた。
ジョゼットを寝かしつけたあと、ジュリオは居室を出た。右手の甲を見やり、そこに書かれた文字を見てしばし目をしばたたかせた。それから、口をへの字に曲げ頭をかくと歩き出した。
目の前から一人の女性が歩いてくるのに気づき、ジュリオは立ち止まる。長い、青い髪を持った若い女だった。
まるで侍女のような、質素な服に身を包んだその女は、ジュリオに一礼するとそばを通り過ぎようとした。その背に向けて、ジュリオは声をかける。
「イザベラ殿下ではありませんか」
イザベラは立ち止まると、振り向いた。
「何かわたくしに御用ですか?」
「ジュリオ・チェザーレと申します。あなたと一度、ゆっくりお話をしたいと思っていたのです」
「ロマリアの神官さまにそうおっしゃっていただけるとは。光栄でございますわ」
優雅に一礼したイザベラに、ジュリオは単刀直入に切り出した。
「あなたは、騎士団をお持ちと聞きましたが」
「騎士団? また、ご冗談を!」
イザベラは笑い出した。しかし、ジュリオは笑わない。
「北花壇騎士団。ガリアの花壇騎士は、それぞれの方角に位置した花壇の名前がついておりますが……、北側には花壇が存在しません。でも、その名をつけた騎士団は存在する……。その道では有名な話ですね」
「で、わたくしがそこの団長だとおっしゃるわけですね」
「そうです」
ジュリオは、これ以上の問答は面倒だ、とでもいうようにイザベラを見つめた。その視線を真っ向から受け止めながらも、イザベラは迷った。
彼は完全にこちらの正体をつかんでいる。
そして多分、女王が入れ替わったことにこちらが気づいているのでは、と疑っている。ならば……、とイザベラは計算をめぐらせた。
結論が出たが、口にするのは憚《はばか》られた。
それは賭けだった。
これを口にすれば、自分は消されるかもしれない。だが、相手の信用を得るにはこれしかない。
口の中が乾き、鼓動が速くなる。抑えようかとも考えたが、これでいい、と思い直す。こちらを与しやすい≠ニ思ってくれたほうが多分うまくいく。
イザベラは、無理に笑みを浮かべた。無理して強がっている風になったが、それも計算のうちだった。
「では、わたくしもひとつ、質問させていただいてもよろしいでしょうか?」
「まだ、わたしの質問に答えていませんよ」
それを無視して、イザベラは言った。
「今現在、冠を被っておられるのは、どなたなのです?」
それは同時に、ジュリオの問いへの返答でもあった。ジュリオは、にっこりと笑った。
「あなただけは誤魔化せないと思っていたのですよ」
「誤解なきよう。そのことであなたがたを責めるつもりはありませんの。むしろ、感謝を捧げたいくらいですわ」
「なぜでしょう?」
「ご存じのとおり、わたくしは前王ジョゼフの娘です。いわば、シャルロット女王の仇の娘……。その上、わたしはシャルロット女王がわたくしの騎士団に所属していた際、その死を願ってかなり危険な任務に投入いたしました。したがって、相当に恨みをかっておりますゆえ」
それはまったく本当の話だった。どこまでこちらの事情を知っているのかはわからぬが、この話を信じない理由はない。
「いつ、処刑されるのかとびくびくしておりました。あなたがたは、命の恩人といっても差し支えありませんわ」
「となると、話は早い。あなたに、我々の味方になっていただきたいのですよ。もちろん、莫大な報酬と相当な地位を約束しましょう」
「興味深いお話ですわ」
「では、お味方になってくださるのですね?」
頷きそうになったが、イザベラはこらえた。
「その前に条件をひとつ」
「なんでしょう」
「具体的な報酬の額をお聞かせ願いたいわ」
「わかりました。では、あなたが得ていた報酬の二倍を約束しましょう」
イザベラは首を振った。
「三倍です。あなたがたは、わたくしに祖国を裏切れというのですから」
ジュリオは、しばらく値踏みをするようにイザベラを見つめていたが、こくりと頷いた。
「いいでしょう」
「強欲な女だと思わないでくださいまし。狂王の娘にとって、この王宮は住みよいところではありませんの」
「いえ。はっきりおっしゃっていただいたほうが、こちらもやりやすいですから。ではさっそく、あなたに頼みごとをしたい」
「なんなりと」
「滞在しているトリステイン人の動向をうかがってほしいのです。女王から、一騎士にいたるまで、全員です。特に、シュヴァリエ・ヒラガ殿と、ミス・ヴァリエール。この二人からは監視の目を外さないでいただきたい」
「先日、トリステインからの刺客に襲われた連中ですね。意外なことに、襲ったのはわたくしの元配下の騎士でした。傭兵まがいのことをしていたようでしたわ」
才人を襲ったのは、あの元素の兄弟の一人だった。そのことを思い出し、世間話のように振ってみた。
「そうだったのですか。世間は狭いですね。では、見張りの件、お願いします」
と、ジュリオの返答はあまり興味がないように感じられた。どうやら、あの元素の兄弟と、ジュリオたちはなんらの関係もないようだ。
イザベラは、こくりと頷いた。
「お任せください。あの融通のきかない聖堂騎士よりは、マシな仕事をしてさしあげますわ」
「それは楽しみだ。では、ごきげんよう」
そう言うと、ジュリオは去っていった。その背が完全に見えなくなったあと、イザベラは大きなため息をついた。
あのジュリオ、華奢な見かけとは裏腹に、刃のような切れ味を秘めていた。なるほど、女王を入れ替えるなどという、大胆不敵な陰謀を任されるだけのことはある。
ささやくような声で、イザベラはつぶやいた。
「うまく出し抜いたかしら。地下水」
すると、腰に差したインテリジェンス・ナイフの声が響く。
「まあまあの演技でございましたな」
「さて。じゃあ、動きやすくなったところで、陛下の居所を探るわよ」
アニエスを連れて、アンリエッタはヴェルサルテイルの中庭を散策していた。シャルロット女王がロマリアの陰謀で何者かに入れ替わり、聖戦を支持したことで、アンリエッタは意気消沈していた。
今のところ、自分たちに打つ手はない。イザベラが、タバサの居所を捜し当ててくるのを待つしかない。
もし、タバサの居所がわからなかったら……。
それはあまり想像したくない。このままガリアは、ロマリアの意のままになってしまうのだろうか。
「園遊会も、あと一週間ほどで終わってしまいますわね」
アンリエッタがそう言うと、アニエスが頷いた。
「そうですな」
「それまでに、なんとかシャルロット女王を捜し出し、再び女王の座に据えねばいけませぬ。そして、聖戦支持を撤回していただかねば……」
「そうですな」
再び、アニエスは気のない調子で頷いた。
「あなたは気楽ですわね。隊長殿」
じろりと、アンリエッタはアニエスをにらんで言った。しかし、それでもアニエスは涼しい顔。
「あなた、これって大変なことなのよ。もしかしたら、エルフたちと戦になるかもしれないのよ」
「今は待つしかありませぬ。気を揉んでみても、何かが変わるわけではありませんからな」
「それはそうだけど……」
「気を張り詰めてばかりいたら、いざというとき戦えませぬ。女王たるもの、ゆったりとお構えになってください。こう言ってはなんですが、人は所詮、運命には逆らえぬのですから」
そう言われて、アンリエッタは、はぁ、と小さくため息をついた。
「やはり、頼りがいがありませんか?」
「ですから、臣下にそういう質問をするのがいけないのです」
するとアンリエッタは、唇を尖らせた。
「わたくしだって、たまに本音を漏らしたいわ。心を許せる相手がほしいのです」
それでもアニエスは、澄ました顔で横を向いている。彼女は、仕えるべき主人との距離感について、己の持論があるのだろう。
誰か、心許せる相手はいないのかしら……
不意に、心当たりを思い出す。
異世界からやってきた、水精霊騎士隊《オンディーヌ》の副隊長。思えば、彼にはなんでも打ち明けられたような気がする。
どうしてなんだろう
と、思い、なんとなくその理由に思い当たる。それは……、たぶん彼がこの世界の人間じゃないからだ。彼は今では自分の騎士として働いてくれているし、何度も手柄をあげ、自分と祖国を救ってきた。
でも、彼はこの世界の人間ではない。未だに、異邦人≠ニしての雰囲気が、身体から滲んでいる。そんな彼だから、逆に安心できるのかもしれない。だからなんでも話せるのかもしれない。
でも、そんな彼は、親友ルイズの恋人だ。寂しいから、心許せるからといって、甘えてはいけない。
先日、幼いころのようにルイズと殴り合ったあと、アンリエッタは深く反省したのである。そんな昔からの友達を、傷つけるようなまねはしてはいけない……。
そんな風に頷きながら歩いていると、アンリエッタはとある東屋のある場所へと出た。茨が絡まった、感じのいい場所である。
そこのベンチに、見慣れた二人が座っているのを見て、アンリエッタは目を見開いた。
「おや。ルイズとサイトではないですか」
アニエスが、声をかけようとすると、アンリエッタはそれを制した。
「……んな、どうしたのですか?」
怪訝な顔のアニエスに、アンリエッタは指を立ててみせた。
ルイズと才人は、ベンチに二人並んで腰掛け、何をするわけでもなくじっと前を向いていた。なんだか……、二日前の夜以来、恥ずかしくてお互い口を利いていない。
才人は、隣でじっと膝の上でこぶしを握りしめるルイズを見つめた。
わずかに頬を染め、口をへの字に結んでいる。着たっきりだった修道服を脱ぎ捨て、アニエスから借りた私服に着替えていた。すっぽりと頭から被るタイプの麻のシャツに、硬い綿の半ズボン。
その、地味ーな衣装の下に、まばゆいばかりの裸体が隠れていることを、今の才人は知っている。
そう思うと、白いなんでもないシャツが、ルイズの肌を引き立てる無垢なカンバスに思えてくるから不思議だった。
ああああ……、と才人は心の中で呻きをあげた。肌を見る、ということは、かなり距離を縮めたということなのに……。こうやって隣にいても、なんだか激しく緊張する。
隣にいるのが、いつものルイズと思えない。
胸があんなかたちと色をしているルイズ。
そして、へ、へその下とか。
お尻のかたちとか。
とかとか。
月明かりに照らされた、そんな部分を思い出し、才人は息がカラカラになるような想いを味わった。
何を話せばいいのかわからず、かといってそれ以上ルイズを見ていることもできずに、才人は目をそらす。
しかし目をそらした瞬間、頭の中に飛び込んでくるのは、瑞々しいルイズの裸体だった。それが脳裏にちらちらしてしまう自分が、なんだか汚い生き物になったように感じて、才人は無理に別のことを考えようとした。
そうだ、と今はそんなことを考えている場合じゃない。
タバサと、その双子の妹とやらが入れ替わって、大変なことになっている。それに、自分を襲う連中の存在……。元素の兄弟といっただろうか?
考えなきゃいけないことは山ほどある。
それなのに、頭の中をぐるぐる回るのは、ルイズの裸だけだった。
頭を抱えて、のぉおおおおおお、とか唸り始めた才人を見て、ルイズはちょっとすねた声で言った。
「なに唸ってるのよー」
「え? いや……、な、なんでもない」
誤魔化すようにそう言った才人に、
「……く、比べてるのね? 今まで見てきた女の子と、比べてるんだわ」
こぶしを握りしめて震え始めたルイズに、才人は首を振った。
「え? 違う! 違うよ!」
「じゃあ、どういう感想を抱いたのか、ちゃんと話しなさいよね」
前を見て、ふんふん鼻を鳴らしながら、ルイズが言ったので、才人はしかたなしに感想を述べることにした。
「え、えっと……、色がとにかく綺麗で……」
「色? なんの?」
「胸のさ……」
そこまで言ったら、グーが飛んできて才人は横に転げた。
「な! なにすんだよッ!」
「恥ずかしいじゃないの! なんでそういうこと言うのよ!」
「お前が聞いたんじゃないかよ!」
う、とルイズは振り上げたこぶしを下ろし、ぶつぶつとつぶやき始めた。
「そうね。わたし聞いたわね。でも、言いようってあるわ。そういうの大事なの、すごく」
そして再び、ルイズはうつむいてこぶしを握りしめた。
「でも、いいのかな……」
才人は、ぽつりと言った。
「ん? なにが?」
「いや……、こんなに俺、幸せでいいのかなって」
「どういう意味?」
「だってさ、今すっごい大変じゃないか。タバサはさらわれてるし、聖戦だって始まっちまうかもしれない。それなのに……」
と才人は頭を抱えた。
「いいじゃない。わたしたちは、ガリア女王の入れ替わりに気づいてない<tリをしなくちゃいけないのよ。逆に、こうやって十分に油断しているところを見せなきゃいけないわ。タバサの居所がわかるまではね」
「違う。あのな、俺、不謹慎にも幸せなんだよ。幸せな気分でいっぱいなんだ」
「どんなときだって、幸せなときは幸せな気分になるものよ。それにいちいち罪を感じてたらきりないわ。っていうか、いったい何がそんなに幸せなのよ」
「お前が俺を認めてくれたってことだよ。こんなにも嬉しいなんて。嬉しくって、どうにかなっちまいそうで、どうしようもないんだよ」
才人がそう言うと、ルイズも口を開いた。
「認めるって何よ。ちゃんとわたし、あんたのこと認めてきたじゃない」
「違う。俺、わかったんだ。女の子が、男を認めるって、それしかないんだ」
「それってつまりその、身体を許すってこと?」
「そう。いや、まだなんつうかしたわけじゃないけど。お前はいいって言っただろ。はっきり。それが嬉しいんだ。すごく」
ルイズはさらに顔を真っ赤にさせた。才人がこんなに喜ぶなんて思ってなかったのだから、しょうがない。いまさら、許すってはっきり言ったぐらいで……。
「だから、俺、いいのかなって。俺一人、こんなに幸せでいいのかなって。なんか不幸だったり、苦労してる人たちに、すまなく思うんだよ」
ルイズはそこで、才人の手を握った。
「いいんじゃない」
「いいのかな……」
「わたしね、たまに思うの。だってわたしたちだって、そういう危険の上にいるのよ。今はいいけど、もしかしたら明日、タバサを助けに行った先で死ぬかもしれない。ロマリアの陰謀で命を落とすかもしれない」
それから、ルイズは才人に寄り添った。そして、その腕に頬をうずめて、小さな声で言った。
「だから、あなたに肌を見せたのは、わたしの気持ちはきっと何があっても変わらないってことだけじゃないの。時間を大事にしたいの。二人でいられる時間ってあんまりないし、それに、いつ死ぬかわかんないから。後悔したくないの」
その言葉に、才人は電気で打たれたようになり、思わずルイズを抱きしめた。
「あのね、別にわたしたちが死ぬかもなんて思ってないのよ。慎重にならなきゃいけないのはわかるけど、絶対に死なない、何があっても大丈夫って、そう思ってる。でも、なんていうか、その……」
「一瞬一瞬を大事にしたいって。そういうことだろ?」
ルイズは、才人の胸の中で頷いた。
「うん。そういうこと」
才人は、ゆっくりルイズの唇に自分のそれを重ねた。熱いルイズの吐息が混じったキスは、才人を夢見心地にさせた。
息が止まるような幸せな時間の中で初めて、才人ははっきりと思えた。仲間や、周りの人たちにも、こんな幸せな気持ちになってほしい、と。
だから、タバサは絶対に助ける。
だから、聖戦は絶対に止める。
そのとき……、不意に昨日と同じ不安に襲われた。
でも、俺にそんなことできるのか?
元素の兄弟に、二度も後れをとった俺に……。
才人はゆっくりルイズから身体を離すと、
「どーしたのよ。昨日からヘンよ。あんた」
「いや……」
「なによ。わたしといるのに不満なの? やっぱりあんた……」
「違う違う! そうじゃない!」
「じゃあ、ちゃんと言いなさいよ」
「いやね?」
才人は首を振りながら言った。
「俺、ちょっと弱すぎじゃねえのかなって……。元素の兄弟とかいう連中に、二回も後れをとっちまったし……。俺がもうちょっと強けりゃ、デルフを失うこともなかった。ジャックに負けて、お前にあんなみっともないところを見せることもなかった」
「誰だってたまには負けるわ。人間だもの。しょうがないじゃない」
ルイズがそう言って慰めようとすると、才人は首を振った。
「いやいやいや。そんなのんきなこと言ってる場合じゃねえ。負けたら死んじまうだろ。お前のことだって守れない」
「わたしが助けてあげるわよ」
きょとんとした顔でルイズが言ったら、
「それじゃだめなんだ!」
と、才人は強い調子で言った。
「な、なによ。いいじゃない。使い魔とメイジはパートナー。そうでしょう?」
「情けねえじゃねえか」
ルイズは、唇を尖らせてそう言う才人を見つめた。
せっかくの甘い雰囲気がどこかにいってしまったので、ルイズは頬をふくらませた。才人はいつもこうだ。
大好きな女の子といっしょにいるくせに、すぐに自分の世界に入ってしまう。
でも、ルイズは怒ったりしなかった。ちょっと前なら、こんな風になったら頭に血が上っていたものだが……。
肌を見せ合ったからかもしれない≠ニ、ルイズは思った。
さらに絆が深まった気がするからかしら……。
だからもう、このぐらいでは怒ったりしないの……。
そっとルイズは、才人の肩に頬をのせた。
その間、才人はじっと考え続けた。
俺……、もっと強くなりたい
負けた悔しさが、今頃になってふくれあがってきて……、才人はぐっとこぶしを握りしめた。
才人とルイズ、二人のそんな様子を見たあと……、アンリエッタはこっそりと立ち上がった。小さな声で、
「仲がおよろしいこと」と、つぶやく。
アニエスは、何も言葉を発さずに涼しい顔。アンリエッタは元来た道を引き返すように歩き出す。
わずかに硬い声で、アンリエッタはアニエスに尋ねた。
「なんとしてでも、聖戦は止めねばいけませんね」
「そうですな」と、アニエスも頷いてみせた。
第四章 策謀
暗がりの中、タバサはまんじりともせずに、ベッドの上に座っていた。
目覚めると、自分はここにいたのである。気づいてから、丸々一日が過ぎていた。
いたって普通の寝室のように見えたが、窓がない。一つだけある扉は、分厚い造りで、外から鍵がかかるようになっていた。
部屋に置かれた調度は、上等なものだったが……、どうやら貴人を閉じ込めておくための部屋のようだった。つまりは牢獄だ。
扉は頑丈で、たたいてもビクともしない。杖を取り上げられた自分は、ただの少女に過ぎない。まるで無力だった。
ジュリオに意識を失わされたことは、はっきりと覚えている。その直前に見た、自分と同じ顔の女の子……。
魔法で作られた存在ではない、それは一目見たときに感じた。では、自分の双子なんだろうか? そのような存在は、聞いたことがないが……。
そのとき、ちらりと聞いたガリア王家の禁忌を思い出す。
双子は、どちらか片方だけが育てられる……。
ではやはり、あのとき見た顔は?
とにかく、ロマリアの陰謀に間違いない。
園遊会はいったい、どうなっているんだろうか?
シルフィードは? 母は? イザベラは?
そして、トリステインの友人たちは?
心配だったが、今はどうしようもない。
扉をよく見ると、下の方に小さな別の扉があった。その前には、パンと干した果物と水差しが置かれていた。なるほど、ここから食事を出し入れできるようになっているのか。間違いなく、この部屋は牢獄ね、とタバサは頷く。
丸一日、こうして放っておかれているのだが、いったい、自分を捕らえた連中は何をたくらんでいるのだろう?
ぐぅううっと、お腹が鳴った。タバサは一昼夜まるまる何も食べていなかったことに気づき、扉の前に置かれた食べ物に手を伸ばす。
毒が入っているかもしれない、と思い直し、パンを再び皿に戻した。
そのとき、足音が廊下に響いた。
タバサは、びくっと身体を震わせると、後ずさる。
鍵を外す音が聞こえ、ギィイイ、と重たげな軋みとともに扉が開いた。
現れたのは、何度か顔を合わせたことのある、美しい青年だった。タバサは軽く驚いた。自分をここに連れてきた連中の背後に、彼がいることは不思議ではなかったし、おそらくは彼の命令であろうこともわかっていたが、まさか直接こうやって姿を見せるとは思わなかったのだ。
「まずはお詫びを申し上げねばいけませんね」
タバサは黙ったままだった。じっと、ヴィットーリオを見つめ続けた。若い教皇は、部屋着といって差し支えない、ラフな麻の衣装に身を包んでいる。
そんな格好で教皇がいるということは、ここはロマリアが借り上げている宿か、大使が暮らす邸なのだろうか。
いや、邸だろう。でなければ、こんな部屋は用意できない。
別に憎しみは湧かなかった。彼らは親切で自分を女王に据えたわけではない。なんらかの手を打ってはくるだろうと予想していたが、まさか大胆にも替え玉を用意するとは。ここまで想像を超えてくるとは思わなかった。
かといって、何も抵抗できずに相手の策略に落ちるとは……。油断していたことは、認めなくてはいけない。
「シルフィードは?」
「隣の部屋で眠っています」
「ここはどこ?」
「リュティスにある、ロマリア大使の邸です」
淡々と、ヴィットーリオは告げた。嘘ではないだろう、とタバサは判断した。そして、理解した。ここまで正直に話すということは、自分を再び表に出すつもりはないということだ。
「あの子は誰?」
「あなたの双子の妹です」
タバサの目が見開かれた。先ほどの予想が、現実の輪郭を伴うと、ショックは予想以上だった。自分は一人っ子ではなかったのだ。姉妹がいたのだ。同じ顔の、もう一人の自分……。
だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
「わたしをどうするつもり?」
「ちょっとした旅行に付き合っていただきたいのです」
「旅行?」
予想外の返答だった。
「そうです」
「どこへ連れていくの?」
冷たい目でにらんだタバサに、ヴィットーリオは変わらぬやさしい抑揚で言った。
「火竜山脈です」
「そこでわたしを始末するつもり?」
「始末とは穏やかでありませんね。わたくしたちは、あなたに味方になってほしいのです。このような目に遭わせておいて、おこがましいとは思うのですが……」
タバサは無言で教皇を見つめた。お前たちになんか、絶対に協力するものか、という意思の光が、その目の奥に宿っていた。
「嫌われたものですね」
と、にっこりと笑みを浮かべて、ヴィットーリオが言った。
「狂信者に協力する愚か者はいない」
敵意を隠さずに、タバサは言った。するとヴィットーリオは、首を振る。
「わたくしたちは、聖地≠取り戻さねばならないのですよ」
「そのために、どれだけの人が、死ぬと思っているの?」
「逆ですよ」
あっさりと、ヴィットーリオは言った。静かな、やりきれない声だった。
「どういう意味?」
「それをあなたにも理解していただきたいから、火竜山脈へと向かうのです」
「わたしは、あなたたちのすることが理解できない」
「あなたは、神話を信じてはいませんね? 本質的には信仰とも無縁だ。違いますか?」
しばし考えていたが、タバサは頷いた。
「わたくしも同じです。信仰の本質は、己の良心を他者にゆだねることですから。行きすぎればたやすく狂気になる。だが、狂気≠ニ決めつけてしまうのも、また危険なことなのです。神話や信仰を、ただの嘘や盲目と切って捨てるのは容易い。だが、その二つは、確実に真実の一片を含むのですよ」
タバサはじっと、ヴィットーリオを見つめた。
「あなたは強い心をお持ちのようですね。こんな話をしながらも、ここからどうやって逃げ出そうか。そしてわたくしたちを止めようか、そんなことばかりを考えている。そんなあなただから、是非ともわたくしたちの味方になっていただきたいのです。なに、火竜山脈に向かえば、自然とわたくしたちの信仰について、ご理解いただけるでしょう」
そう言うヴィットーリオは、どこにも気負いがなかった。間違いなくそうなる、と確信している声だった。
「何か魔法でも使って、心を操ろうというの?」
「わたくしはこう考えております。神は人の心の中に住むと。神のしもべたるわたくしが、神の住処を汚すわけはありません」
いったい、わたしを説得するどんな自信があるというのだろう?
元々つかみどころのない人物だったが、益々得体が知れなくなり、タバサはわずかに震えた。
タバサの部屋を辞したヴィットーリオを扉の隣で待っていたのは、ジュリオだった。ジュリオは優雅に一礼すると、主人に向き直った。
「聖下。火竜山脈の観測隊より、報告が届いております」
「見せてください」
書簡を受け取ると、ヴィットーリオはゆっくりと目を通した。
「以前の結果と、変わりはないようです」
「というと、あと、四日後ということですね」
ヴィットーリオは頷いた。
「で、彼ら≠ノ招待状は届けましょうか? 見張りは一応、つけておきましたが……」
ジュリオは真面目な顔で言った。するとヴィットーリオは首を振る。
「それには及ばないでしょう」
「まだお隠しになるのですか? これ以上、彼らに隠して、なんの益があるというのですか」
「できれば、偶然を装いたいのです。もう、これで信用してもらわねば、我々には打つ手がありません。それこそ、彼らを抹殺せねばいけなくなる」
「ふむ」
「見せたいものがあるから、などと言えば、彼らはまた我々を疑うのではありませんか?」
疲れた声で、ヴィットーリオは言った。珍しく、この教皇の顔には憂いと疲労が浮かんでいる。
「まあ、そうかもしれませんね……」
ジュリオも、悩むような仕草を見せた。
「放っておいても、入れ替わった友を助けるために、我らを追うでしょう」
「彼らが入れ替わりに気づいていれば、の話ですが」
「気づいているでしょう。彼らは我らの兄弟≠ネのだから。この程度の陰謀は見破ってもらわねば、この先が思いやられる」
そのとき、ととと、と、料理の皿を抱えた一人の召使いの少女がやってきた。彼女は、教皇とジュリオに会釈すると、扉板の下につけられた、小さな扉をあけて、中に料理の皿を差し込む。
再び会釈すると、召使いの少女は元来たほうへと歩き出す。
その少女の腰には、守刀のように、小さなナイフが光っていた。
イザベラからタバサ発見の報が届いたのは、園遊会が始まって四日目のことだった。一通の手紙が、夕方アンリエッタの泊まる部屋に届けられたのである。
差出人は書かれておらず、中には意味をなさない単語の羅列が躍っていた。アンリエッタはイザベラからもらった暗号表を頼りに、それを解読した。
「シャルロット女王陛下は、ロマリア公使バドリオの屋敷に囚われている。本日夜八時、救出の計画を講じたく伺いたく候」
末尾には、イザベラのイニシャルが躍っている。
アンリエッタは、気分が優れないといって、夜の晩餐会の不参加をガリア側に告げ、腹心の人物たちを自室に呼び寄せて、イザベラの来訪を待った。
部屋に呼び寄せたのは、ルイズ、才人、そしてギーシュ。タバサの友人であるキュルケに、アニエス。
「タバサの居場所がわかったんですか?」
才人は入ってくるなり、そう言った。アンリエッタは頷いた。
「ええ。そうらしいですわ」
すさっとギーシュは、立て膝をついた。
「ちびっ子、いやさ、シャルロット女王陛下救出作戦は、このわたくしめ率いる水精霊騎士隊にお任せくださいますよう」
そんなギーシュを、才人がいさめた。
「おいおい、そんな大勢で行ってどーすんだよ。それに、公使の屋敷だろ? ここは外国だし、それに向こうもつまりは外国の大使館だ。まさか正面から踏み込むわけにはいかんだろ」
「サイトの言うとおりだわ」と、キュルケも頷いた。
「こっそりと忍び込んで、こっそりと救い出す……。あなたたちが一番苦手な仕事じゃないの」
うぐ、とギーシュは黙りこくった。
「そりゃ……、正々堂々正面からぶつかって相手を負かすのが騎士隊の本分であってだね」
「それに、こないだのアーハンブラのようなわけにはいかないわ。今度は街中なのよ。派手なことをしたら、逆にこっちが捕らえられる」
キュルケの言葉に、アンリエッタも頷いた。
「ガリア官憲がすべて味方というわけではありませんからね」
そのとき、ドアの向こうから声が響いた。
「イザベラ・マルテル嬢のお越しでございます」
扉が開き、夜会服姿のイザベラが現れた。まずはアンリエッタに向かって、恭しく一礼した。
「こうやって、わたくしたちをお訪ねになっても大丈夫なのですか?」
挨拶もそこそこにアンリエッタが尋ねると、イザベラは頷いた。
「実は、あなたがたの監視をロマリア側より頼まれているのです」
部屋に緊張が走る。ギーシュなどは、すでに杖に手をかけていた。
「誤解なきよう。わたしは皆さんの味方です。協力するふりをしているだけです。ですから、堂々とこうやって、見舞いを装って皆さんのところに入り込めるというわけですわ」
それからイザベラは、一同に説明した。
「はっきりと申し上げますと、あの場所から陛下を救い出すことは不可能です。調べたのですが、公使の屋敷にしては、信じられないほどの厳重な警備が施されています。魔法の障壁や罠が幾重にもかけられているし、常に聖堂騎士一個中隊が詰めています。正面からかかるなら、優秀な騎士中隊が、三つは必要でしょう」
一同は、愕然とした顔になった。街中でそんな騒ぎを起こしたら、大変なことになる。それに、こちらにはそれほどの手勢もない。
「その上、そこの屋敷には教皇も出入りしているようです」
「尋常じゃない警備は、彼の警護も務めているというわけですわね」
アンリエッタが、眉をひそめてつぶやく。
「密かに潜入しての救出は?」
と、キュルケが尋ねた。
「あれだけの警備では、わたしの部下にも不可能です。地下水≠ニ呼ばれる手練れを一人潜り込ませるのが限界でした。しかし、彼一人では救出はできません」
しん……、とした空気が流れた。
しばらく考え込んでいた才人が、顔をあげて言った。
「移送時を狙うしかないみたいだな」
イザベラは頷いた。
「そうですね。いつまでもあそこに閉じ込めておくつもりはないでしょう。必ずや、どこかに移動させるはず。そのときを狙って、助け出す。それしかありませんね」
そのとき……、再び扉の外から、女官の声が響いた。
「お知らせにございます」
「何かしら」
ルイズが扉を開けると、焦った顔で女官が告げた。
「明日、教皇聖下が急遽ロマリアに帰られるそうです。つきましては、見送りの式を行うので、陛下におかれてはご来賓の栄を賜りたし、とのことです」
ルイズはアンリエッタを振り返る。緊張した面持ちで、アンリエッタは頷いた。扉が閉まる音と共に、キュルケが口を開いた。
「まだ園遊会も途中なのに、国に帰るなんて妙ね」
そこで、イザベラが何かに気づいたように言った。
「もしや……、教皇といっしょにロマリアへ連れていくつもりでは……」
全員が、はっとした顔になった。
「教皇といっしょなら、護衛も完璧だしね」
困った声で、キュルケが言った。
「いつまでもガリアに置いておくわけにもいかないだろうしな」とギーシュ。
素早く決断したのはイザベラだった。
「衣装を用意しますので、皆さんお着替えください」
「え?」
「明日の朝、見送りの群衆に紛れてバドリオ公使の館の近くに待機します。陛下が教皇の一行にいれば、好機を見て、道中救い出す。わたしの騎士団も全力を持って、この計画に参加します」
「なに、ぼくたちだけでやれますよ」
と、ギーシュが例によって安請け合いした。
「それは無理です。あなたがたは、この国の土地勘がない。連絡役として、わたしの腹心をおつけします。彼の指示に従ってください」
と、きっぱりとイザベラは言った。
第五章 教皇の告白
「確かに、あの警護の群れを見ると、ぼくたちだけではどうにもならなかったようだな」
と、ギーシュが言った。
数百人もの聖堂騎士が、屋敷の前に整列している様は、荘厳というには物々しすぎた。
翌朝……、ロマリアへと出立する教皇聖下を一目見ようと、集まったリュティス市民でごった返すバドリオ公邸の前までやってきた才人たちだった。
才人にルイズ。そしてキュルケ。水精霊騎士隊からはギーシュとレイナールとマリコルヌ。アンリエッタは公式の席で教皇を見送るべく、ここから離れた貴賓席にいる。ギムリ率いる水精霊騎士隊と、アニエスが、その護衛にあたっている。
つまり、才人たちは救出隊トリステイン班ということだった。
才人たちが姿を見せないと、ロマリア側に怪しまれるので、イザベラが一計を案じていた。スキルニル≠ニ呼ばれる、その者の血を振りかけると、姿かたちがそっくりに変身する人形を用いて、影武者を用意したのだ。以前、ミョズニトニルンがそれを使って、シエスタそっくりの動く人形を作り出し、自分たちを苦しめたことを覚えていたルイズたちは、その人形の実力を知っている。滅多なことではバレないに違いない。
才人たちはマントを外し、目立たないように修道士の格好に変装していた。すっぽりと被るタイプの修道服は、中に得物を隠しやすいので、こういった場合に好都合だった。
「ほんとに、タバサもいっしょなのかしら」
心配そうな声で、ルイズが言った。
「間違いないと思うわよ。だって、ロマリアにとってタバサは火薬樽みたいなものよ。こんな外国に長く置いておくわけがないわ。教皇といっしょにロマリアに運び込めるんなら、そうするはず」
キュルケがそう言うと、ギーシュがとぼけた声で恐ろしいことをさらりと言った。
「どうして生かしておくんだろう。邪魔なら始末するんじゃないかな」
「ギーシュ」
才人がたしなめるような声で言ったが、ギーシュは言葉を続けた。
「だって、生かしておく意味が、あまりないじゃないかね」
「お前なぁ……」
親友のキュルケを前にして、言うべき言葉か、と思った才人はあきれた顔で言った。
「そりゃそうだが。最悪の場合を考えて行動しておかないと、無駄な犠牲を生むことになる。死んでる人間のために、部下を危険な目に遭わせるわけにはいかんよ」
真顔でギーシュは言った。う……、と才人も黙りこくった。
「確かにギーシュの言うとおり。でも、きっとタバサは生きてる」
「どうしてそう思うんだね?」
「そのつもりなら、とっくにそうしてるわ。それに、何か危険があったら、張りついてる……、なんだっけ、地下水≠ニかいう北花壇騎士《シュヴァリエ・ド・ノールパルテル》が知らせてくれるでしょ」
「もし、彼女が殺されたらどうする?」
レイナールが、キュルケに尋ねた。
「ロマリアのやつら、皆殺しにしてやるわ」
あっさりと、キュルケは言った。
「きみ、そうなったら戦争だぜ」
あきれた声でギーシュが言った。
「そしたら先頭に立って、突撃するわ」
「物騒なこと言うなあ」
「当然じゃないの」
その言葉に、才人は考えた。
もし、友達や大事な人間が殺されたら……、俺はどうするんだろう
たとえば、ルイズが誰かの手にかかったら?
才人の隣で、ルイズはじっと聖堂騎士の隊列を見つめている。屋敷の前に、揃いの隊服を着て、左右に分かれて整列しているさまは、まるでおもちゃの兵隊を才人に思い出させた。
ルイズがもしあいつらに殺されたら……、俺は戦争も辞さずに仇を討とうとするだろうか?
その問いの答えが出る前に、屋敷の扉が開き歓声が轟いた。教皇ヴィットーリオが姿を見せたのだ。
何台もの馬車が、通りの向こうから現れ、才人たちの前を通り過ぎて屋敷の前に止まる。連れの書記官や秘書官と共に、一番大きな馬車にヴィットーリオは笑顔を振りまきながら乗り込んだ。
ゆっくりと隊列が動き出す。先導は聖堂騎士隊一個中隊が務め、その後ろに大臣や神官団が乗った馬車が数台並ぶ。教皇の馬車がそれに続き、荷物を満載した馬車が五台ほど、そのあとからついていく格好になった。
さらにそのあとに、聖堂騎士隊が続くのである。総勢五百人近い、大所帯だ。さすがは教皇聖下ご一行といった風情だった。
「ジュリオの姿が見えないな」
才人が言った。
いつも影のようにヴィットーリオに寄り添うジュリオの姿がない。
「きっと、入れ替わった偽者といっしょにいるんだわ。誰かついてないといけないでしょ」
ルイズがそう言って、才人は納得した。
「その通りでございます」
後ろから声がして、才人は振り返った。すると、そこにはメイド服の若い女性が立っていた。まるで見覚えのない顔である。
すかさずレイナールとギーシュが飛びかかり、そばの路地へと引き込んだ。マリコルヌが、杖を引き抜き、メイド少女に突きつけた。
「お前、何者だ?」
「イザベラ様より遣わされました。あなたがたとの連絡役を仰せつかったものです」
「名前は?」
「地下水」
「怪しいなあ。特にこのスカートちゃんが……」
マリコルヌは杖を舌で舐めあげた。どこぞの拷問官ですか、といった態度だったが、地下水と名乗る少女が、くいっと身体をひねると、腕をつかんでいたギーシュとレイナールは地面に転がる。
同時に腰の短剣を引き抜くと、マリコルヌの腰に向けて一閃させる。
「ふえ? のぉおおおおおおおお!」
マリコルヌのベルトが切れて、ズボンがずり下がる。慌ててマリコルヌはズボンをつかんだ。
「わたしの姿格好は、お気になさらぬよう」
才人はまじまじと少女を見つめた。地下水? この前イザベラのところまで案内してくれた娘は、こんな顔だったろうか?
「こないだと顔が違うんだけど」
こんなに幼い顔立ちじゃなかった。背も低いし、髪の色もまったく違う。
「まあ、深く考えないでください」
地下水はにっこりと笑うと、再び真顔になった。また魔法だ、なんかの魔法だ、魔法の変装術だ、と才人は納得することにした。
「シャルロット女王陛下と、その使い魔は、眠らされてすでに馬車に運び込まれています」
「やはり」
「どの馬車だい?」
地下水は、小さな声で言った。
「教皇聖下の馬車です」
そのころ、ヴェルサルテイル宮殿……。
出立前のジュリオを、ジョゼットが心配そうな顔で見つめていた。
「行っちゃうの?」
「すぐに戻るよ」
ジョゼットは、いやいやをするように首を振る。
「わたし、一人じゃ、何をすればいいのかわからないわ」
「バルベリニ卿がいる。彼がぼくの代わりに、すべて指示してくれる」
「ジュリオがいいの。違う。ジュリオじゃなきゃイヤなの」
子供のように駄々をこねるジョゼットを、ジュリオは優しくあやすように言った。
「わかってる。戻ってきたら、ずっといっしょだ」
「ほんと?」
「ああ。ほんとだ。イヤでもそうなる」
すると、ジョゼットは怒ったような顔になった。
「イヤなんかじゃないわ。でも、それ本当なの?」
「ああ」
するとジョゼットは顔を輝かせた。
「ほんと?」
「ほんとうだとも」
「それなら、我慢するわ」
ジュリオはジョゼットにキスをすると、窓を開いた。青い鱗をきらめかせた竜が飛んできて、キュワッ! と、一声鳴き声をあげた。
ジュリオは窓から身を躍らせ、風竜の背にまたがる。竜は上昇し、あっという間に空の彼方へと消えていく。
ジョゼットは不安げな顔で、その竜を見送った。
揺れる馬車の中で、タバサは目を覚ました。隣では、シルフィードが寝息を立てている。正面には、本を読む教皇ヴィットーリオの姿があった。
「お目覚めですか」
ヴィットーリオは、本を閉じるとタバサに向き直る。窓にはカーテンがかかっていて、外から中が見えないようになっている。
天井に取りつけられた装置の魔法の淡い光が、馬車の中を照らしていた。タバサは寝息を立てるシルフィードの口元に手をやった。
本から目を離さずに、ヴィットーリオは言った。
「これは忠告ですが、暴れたり、脱出しようなどと考えないでいただきたいのです。この馬車の前後は聖堂騎士二個中隊が固めている。杖もなしに、そんなことをしようとしたら、あなたは命を失うことになる」
タバサは視線を、ヴィットーリオの持った本に移した。
「これですか? これは名簿です。過去何度か、虚無の担い手と、その使い魔……、そして秘宝と指輪、いわゆる四の四は揃いそうになりました。何故だと思います?」
タバサは首を振った。
「故郷を追われ、この|土 地《ハルケギニア》≠ノ移り住まざるを得なくなった始祖ブリミルは、この地がどのような力で動き、息づいているのか、知っていたのですよ。あなたもご存じでしょう? 先住≠ニ呼ばれる精霊の力……。我々はいくつか、それを利用しています。水の力の結晶……、水石=Bゴーレムを作り出す際の、原料としてよく用いられる土石=Bこの前、ジョゼフ王が用いた火石、そして……」
ヴィットーリオは、ポケットから何かを取り出した。それは、瓶に入ったキラキラと光る透明な結晶だった。
軽く瓶を振ると、結晶は輝き出す。すると、ヴィットーリオの手から瓶は浮かび上がった。
「この風石≠ナす。我々はフネを浮かべるために用いていますね。風使いのあなたには、百も承知のことでしょうが」
ヴィットーリオは、空を指さした。
「アルビオン大陸が浮かんでいるのも、この風石≠フ力によるものであることは、ご存じのことと思います」
それでも、タバサは応えずに、じっとヴィットーリオを見つめていた。
「先住の力は、偉大であると同時に驚異なのです。その驚異の自然の力が、我々に牙をむきそうになったときに、四の四は復活しそうになった……。でも、揃わなかった。それは驚異ではなかったからです。でも今は違う」
タバサはわずかに口を開いた。教皇の話に、聞き入ってしまったのである。
「明確な危機となって、我らを滅ぼそうとしている。だからこそ四の四は復活し……、我らは聖地を目指さねばならぬのです」
「……明確な危機?」
「そうです。それを今から、あなたにお見せしようというのです」
第六章 破滅の精霊石
教皇の一行は、早すぎず遅すぎずのペースで、ロマリアを目指していた。おそらくは三日ほどの行程だろう。竜篭を用いればそりゃあ一日でつくのだが、教皇の行幸というのはそう単純なものではない。立ち寄った先々でのブリミル教徒との触れあいも、教皇としての大事な仕事であった。
何せ、立ち寄った街で説教の一つもすれば、街の人間たちにとっては末代までの語りぐさになるし、赤子に祝福をさずければ、親戚一同始祖と教皇の御為ならば、死をも辞さない神の戦士になる。
聖戦を遂行しようとしているロマリアにとって、この行幸は大きな政治的意味を持つのだった。
従って、どこに行っても教皇は街の人間に囲まれる。というより、教皇の一行が、だ。それが、才人たちに救出作戦を難しくさせていた。
下手にタバサを奪おうとしたら、つまりは、聖堂騎士だけでなく、街の住人までも敵に回すことになるのだ。また、暗殺を恐れてか、聖堂騎士の警護は、まさに蟻の忍び込む隙間もないといった風情だった。さすがの北花壇騎士にしても、その警備の網をくぐるのは不可能のようだった。
道中も、また難しかった。
先回りして罠をしかける余裕もなかったし、街道の周りはほぼ開けている。森の中で奇襲をかけようにも、手勢は少なすぎた。
救出は、ほぼ手詰まりに思えた。
リュティスを出発して二日目……。
翌日には、虎街道≠フ入り口に、教皇一行が達しようというその日……、近くの宿屋で、才人たち一行は作戦会議を行っていた。
辺りは、教皇に会いに来た近隣の住人であふれている。修道服姿の一行など、珍しくもないので、ただ群衆に紛れる分には好都合だった。
「絶対に失敗は許されない、って、難しいわね」
キュルケが、テーブルに肘をついて言った。
「だが、ここらでなんとしてでも救わねばならない。ロマリアに入られたら、取り返しがつかないからな」
真剣な顔で、レイナールが言った。
才人は、やきもきしながら頭をひねらせていた。目と鼻の先に、タバサがいるのに手がない。隣では、ルイズも目をつむり、一生懸命に何か考え込んでいる。それでも、いい知恵は出ないのだろう。
「やはり、正面から乗り込むしかないのかな。みんなでぶつかれば、一人ぐらいタバサのところにたどり着くんじゃないのかい?」
マリコルヌが、頷きながら言った。
「そんなの無理だよ。しかたない。こうなったら囮作戦だ」
「囮作戦?」
「ああ」と才人は頷いた。
「俺が、余所で暴れて気をひく。その隙に、お前らタバサを……」
すると、後ろから声がした。
「そんなことをしても無駄ですよ」
「え?」
振り返ると、屈強な身体つきの男が立っていた。みんなの手が、一斉に修道服の杖や刀に伸びる。
「わたしです。地下水≠ナす」
男は言った。
「男じゃないのよ!」
ルイズが叫ぶと、
「いえ。その者は紛れもなく地下水≠ナす」
後ろからイザベラともう一人、背の高い男が現れた。やはり、修道服を着込んで、目深にフードを被っている。
男がフードをとると、才人はあっ、と小さな声をあげた。以前、リネン川の中州で決闘を装ってタバサへの手紙を渡してきた男じゃないか。
男は才人を見ると、にやっと笑みを浮かべた。
「久しぶりだな」
「あなたは……」
「東薔薇騎士団団長、バッソ・カステルモール殿です」
イザベラが、彼を全員に紹介した。
「初めに、聞いたときは信じられなかったのだがな」と、カステルモールはイザベラを冷たい目でちらっと見つめた。
「だが今現在、冠をかぶっている少女を見て、確信せざるを得なかった。あれはシャルロットさまではない。是非とも本物のシャルロットさまを取り返し、再び王座に据えねばならぬ。トリステインの騎士でありながらの助太刀を、いたく感謝する」
カステルモールは、才人たちに向かって深々と一礼した。
イザベラは、一同を見回した。
「さて、我が方の戦力を説明します。まずはわたしが率いる北花壇騎士が、わたしとここにいる地下水≠含めて七名。残りは、すべて教皇一行の監視に当たっています。そして、カステルモール殿率いる東薔薇騎士団。こちらが二十名」
「まだ実戦を経験していない者もいるが……。いずれもわたしに忠誠を誓う者ばかりだ」
集まった一同は、静かにどよめいた。
「そして、トリステイン水精霊騎士隊の皆さんが、グラモン隊長以下四名。そのうちの一名は、アルビオンの英雄≠アとシュヴァリエ・ヒラガ殿。そして、陛下のご友人が二名。総勢、三十三人のメイジが、こちらの手勢です」
「ちょっとしたものだな」
ギーシュが、感心した声で言った。
「さて、それでは指揮官として……、わたくしが指揮官で問題ありませんね?」
イザベラは、厳しい顔で言った。その場の全員が頷く。特に異論があろうはずもなかった。これは普通の作戦ではない。北花壇騎士団団長という、裏の仕事に長けた人間に任せるのが一番だった。
「では作戦を述べます」
イザベラはテーブルの上に地図を広げた。
「ここで、全力を持って教皇の一行に攻撃をしかけます。目指すは教皇の馬車のみ。そこにたどり着いた者が、馬車の中から陛下を救い出します。その後は、街の外れに用意したグリフォンを使って、陛下にリュティスまで逃げていただく」
唖然とした顔で、ギーシュが言った。
「聖堂騎士二個中隊に、これだけの人数で攻撃をかけるって?」
「そうです」
「全滅だよ! どう考えたって!」
「我々は、緊密なチームではありません。それぞれ国も別、組織も別の寄せ集めです。緻密な救出作戦など立てようもないし、また連中が引っかかるとも思えません。とにかく馬車にとりつき、誰かが救い出す。そしてその誰かは、陛下を守ってリュティスまで逃げる」
「確かにそれしかあるまいな」
カステルモールも頷いた。
「我らは騎士隊だ。正面から攻めるしか、能のない連中ばかりだ。下手に策を弄せば、逆に策におばれることになるのが関の山だ」
それまで考え込んでいた才人は顔をあげた。
「俺は反対だな」
「と、申しますと?」
「無駄な犠牲が発生する。タバサを助けるために、みんな死んじまったら元も子もない」
その言葉に、ルイズも頷いた。
「サイトの言うとおりだわ」
「しかたないんじゃない?」
キュルケが、首をかしげて言った。
「なにがしかたないのよ」
ルイズが、そんなキュルケに向き直る。
「だって、ここでタバサを取り返せなかったら、大変な戦になるかもしれないじゃない。そしたら、もっとたくさん死ぬでしょ」
才人は、はっとして、その場にいる全員を見回した。何気ない顔だったが、誰もが真剣な色をその目に浮かべている。
先ほどは、焦った顔をしていたギーシュやマリコルヌでさえ、そうだ。
こっちの人間じゃない俺はやっぱり甘い
彼らは、あっさりと覚悟を決めているのだった。
なんだか無性にルイズの手が握りたくなった。そっと手を伸ばし、でも引っ込める。この場にいる連中だって、今のこの瞬間、誰かの手を握りたいに決まってる。
自分だけがそれをするのは、なんだか不公平だ。
でも、この戦、どうなんだ?
勝ち目はあるのか?
才人は心の中で首を振った。
無理だ
十倍の敵を相手にして、勝てるわけがない。その上、相手はあの聖堂騎士だ。これまでの戦いで得た経験を総動員して、彼我の戦力を冷静に計算する。
……どうあがいても無理だ。馬車に近づく前に、魔法で蜂の巣になってしまう。数人は生き残ることができるかもしれない。でも、タバサを連れて逃げることは……。
聖堂騎士はペガサスにまたがっている。グリフォンを使おうが、空から追われて、逃げきれるものか……。
ほぼ不可能に近い。
でも、可能性はなくはない。もしかしたら幸運が重なり、タバサを連れ出せるかもしれない。そのわずかな可能性に、彼らは賭けようというのだった。さすがはハルケギニアの貴族。覚悟を決めれば、そういうものなんだろう。
でも、俺は……。
才人はルイズを見た。
あっさり死を覚悟してしまった仲間たちを見た。
死なせたくない。死んでほしくない。
気づいたら、才人は口を開いていた。
「だめだ。そりゃあれだ。やけっぱちってやつだ。ここでみんな死んで、確実に聖戦が止められるってならありかもしれないけど……。成功しないかもしれないだろ。いや、ほとんど無理だろ。そんな危険な博打には賛成できない」
「七万に立ち向かった男の言葉とは思えんね」
ギーシュがあきれた声で言った。
「あんときとは事情が違う。俺一人じゃない。みんなの命がかかってる。理屈じゃわかるよ。もっと大変なことになるかもしれないって。でも、だからといって、みすみす仲間を犬死にさせられるもんか」
再び沈黙が訪れた。
「では、どうしようというのです?」
沈黙を破るようにして、イザベラが尋ねた。そのとき、才人は他ならぬ教皇ヴィットーリオの言葉を思い出した。
我らは力を背にして、エルフと交渉するのです
もちろん、交渉が決裂すれば戦だ。
でも、話す余地はあるのだ。それは、教皇自身が認めているじゃないか。
才人は決心したように口を開いた。
「交渉してみる」
「無理だ! 何を材料に交渉しようというのだ? しかも、聖戦を発動してるんだ。向こうは聞く耳など持たないぞ」
カステルモールが言った。才人はしばらく考えていたが、そのうちにルイズに尋ねた。
「|イリュージョン《幻影》≠ナ、大軍を作れないか?」
「そりゃ、作れるけど……」
よし、と才人は頷いた。
翌朝……。
宿場街を出発した教皇一行の前衛を務めるのは、カルロ・トロンボンティーノ率いるアリエステ修道会付き聖堂騎士隊だった。
街を出て、一時間ほどもすると、周りは荒涼とした荒れ地となっていく。そろそろ火竜山脈も近い。ロマリアとガリアをつなぐ虎街道≠焉Aもうすぐであった。
カルロは聖歌を口ずさみながら、夢見心地で聖戦の様を想像していた。
憎いエルフどもを、聖なる魔法で焼き尽くす様を想像すると、胸の奥から熱い想いがふくれあがってくる。
そんな風に、とんでもない妄想に浸っていると、部下が震えながら前方を指さした。
「隊長殿……、あ、あれ……」
「なんだ? うろたえるな。聖堂騎士の風上にもおけんやつめ」
そう言いながら前方に目をやると、カルロも目を丸くした。
「なんだ? あれは……」
前方五百メイルほどの場所にいるのは、数千以上の軍勢だった。騎兵や大砲の姿も見える。
「止まれ! 止まれ!」
カルロがペガサスの歩みを止めると、隊列は停止した。すぐに教皇の元へと使いをやった。
「いったい、どこのバカどもだ? 恐れ多くも教皇聖下の歩みを止めるとは……」
目のきく部下の一人が、軍勢の幟《のぼり》に気づく。
「あれは……、ガリア南部諸侯の紋章です!」
「南部諸侯だと?」
いったい、自分たちを止めるどんな理由があって立ちはだかろうというのだ? 南部諸侯は、この前の王継戦役でも真っ先に味方になった連中だ。
すると、軍勢の中から、三騎が前に出た。白旗を掲げ、こちらに駆けてくる。
「軍使ですぞ」
「なんだ、戦のつもりか? 我ら神の軍団に戦をしかけるつもりか!? 罰当たりめ!」
怒りに震えながら、カルロは軍杖を引き抜いた。
目の前までやってきた三騎士は、カルロの前、二十メイルほどの距離で立ち止まる。真ん中の一番背の高い騎士が、ついっと前に進み出る。
「教皇聖下のご一行とお見受けする! 我は東薔薇騎士団団長、バッソ・カステルモールと申す者! 教皇聖下に伺いたい議があり、こうして参った次第! お取り次ぎ願いたい!」
怒りに震えながら、カルロは言葉を返した。
「教皇聖下の歩みを遮るとは、不敬であろう! それに、その背後の軍勢はなんなのだ!? 我らに戦をしかけるつもりかッ!」
「己の主人を取り返すために集まった軍勢です。おとなしく我らの主人を返してくだされば、逆に国境まであなたがたを護衛してさしあげましょう」
「寝言を申すな! どんな理由があろうが、我らに杖を向ければ、貴様らは異端ということになるぞ!」
「我らを異端となじる前に、お聞かせ願いたい。聖下はどなたを馬車にお乗せになっているのだ? 誰がそのお方をお国に連れ帰る許可を与えたのだ? 返答如何では、わたしはこう振り上げた腕を、前におろさねばならぬ」
「それは脅しか? 貴様は、教皇聖下を脅そうというのか!」
カルロは、軍杖を構えたまま、一歩前に出ようとした。
そのとき、カルロの背後から声が響いた。
「何を騒いでいるのです?」
「聖下……」
カルロは思わず膝をついた。教皇ヴィットーリオは、落ち着いた表情で、カステルモールと才人と、地下水を見つめた。
教皇ヴィットーリオに見つめられた才人は、心の底まで見透かされたように感じた。
バレたか?
背後の軍勢は、ルイズが作り出した|幻 影《イリュージョン》≠セった。本物そっくりにしか見えないが、幻に過ぎない。同じ虚無の担い手のヴィットーリオには、見破られてしまうのではないだろうか?
そうなったら、そこここに隠れたギーシュやガリアの騎士たちが、強襲をかける手はずだった。もちろん、奇襲の効果は望めない。成功率はさらに低くなるだろう。
思わず冷や汗が流れる。
「聖下」
才人は、被っていたフードを脱いだ。才人の顔を見て、カルロの顔がゆがんだ。
「貴様……!」
しかし、ヴィットーリオの表情は変わらない。才人は言葉を続けた。
「タバサ……、いや、シャルロット女王陛下を返してください。彼女は、あなた方の戦いに関係ないはずだ」
ヴィットーリオは否定せずに、笑みを浮かべた。
「あなた方が、我々に協力してくださると言うなら、お返ししましょう」
才人は言葉につまった。
「ご存じでしょう? わたしは何も、ガリアがほしいわけではありません。きっちりと、四の四の足並みを揃えたいだけなのです」
「どうして聖戦なんかするんですか! 何も不自由なんかしてないじゃないですか! 聖地なんかほっとけばいいじゃないですか!」
「我々には、聖地≠必要とする理由があるのです。よければ、一日お付き合いしてくださいませんか? 話したいことと、見せたいものがあるのです」
丸め込むつもりだな、と才人は思った。
そのときだった。
左端に立っていた地下水≠ェ、いきなり魔法を放った。手のひらから、眩い光があふれ、辺りは閃光に包まれた。
思わず才人は目を押さえた。カルロと周りにいた聖堂騎士も、同じように眩しさで顔を覆う。どうやら地下水と打ち合わせていたらしい、カステルモールだけが素早く動いた。さすがは風≠フスクウェア。一瞬で二十メイルの距離を詰めると、ヴィットーリオを羽交い締めにして、その首に杖を突きつけた。
「動くな!」
慌てて杖を引き抜こうとする聖堂騎士に、カステルモールは叫んだ。
「杖を捨てろ」
それから、血相を変えて集まってきた聖堂騎士たちに向かって、カステルモールは命令した。ためらうように、聖堂騎士たちは教皇と、己の軍杖を交互に見つめる。教皇ヴィットーリオは、薄い、いつもの温かな笑みを浮かべたままだった。
「杖を捨てるように命令してください。さもないと、わたしは聖下のお命を奪わねばなりません」
ヴィットーリオは、口を開いた。
「皆さん。この方の言うとおりにしてください」
聖堂騎士たちは、その言葉で軍杖を地面に投げ捨てた。素早く地下水が駆け寄り、その杖に、錬金をかけて溶かしていく。
カステルモールは、呆然としている才人に向かって叫んだ。
「早く! 馬車から陛下をお救いしろ!」
才人はその言葉で我に返った。相手を人質に取ることの是非など、問うても始まらない。これは戦いなんだ。目的のためなら、手段を選ばない非情さ……。自分はある程度、そのことを学ばないと、誰も助けられない。
「わ、わかりました!」
才人は馬車に駆け寄り、ドアを開いた。中では、タバサとシルフィードが並んで腰掛けていた。
「あなた……」
唖然としているタバサに向かって、才人は言った。
「助けに来た! 急げ!」
「きゅい! きゅいきゅい! 信じられないのね!」
シルフィードが叫んで、才人に抱きついてきた。
「シルフィード、竜に戻ってタバサを乗せるんだ」
「了解なのねー!」
と、シルフィードは元の姿に戻る。そして、ひょいっとタバサをくわえると、その背に乗せた。
聖堂騎士たちを尻目に、シルフィードは空へと駆け上がる。
そのころになると、隠れていた仲間たちが駆け寄ってきた。
「サイト! 大丈夫?」
「ややややや! や! やったな! サイト!」
北花壇騎士や、東薔薇騎士団の騎士たちは、次々聖堂騎士の軍杖を取り上げ、錬金で溶かしたり、折ったりし始めた。カルロが、苦々しげにつぶやく。
「貴様ら……。異端どころではないぞ。お前たちのみならず、親族一同、宗教裁判にかけてやるからそう思え。一族全員、皆殺しだ」
そんなカルロに向かって、ヴィットーリオを人質に取ったカステルモールは嘯《うそぶ》いた。
「あいにく、わたしには身寄りがなくってね」
仲間たちは、一本ずつ杖を使用不能にしていたが……、何せ二個中隊からの杖だ。使い物にならなくするだけでも、かなりの時間がかかる。
「一ヵ所にまとめて、燃やそう」
追撃をされたらたまらない。こちらが優位のうちに、徹底してことを運ばねばならない。聖堂騎士から杖を集めようとしたとき……。
上空からシルフィードの悲鳴が聞こえた。
「きゅいきゅい!」
見上げると、遥か上空から稲妻のように急降下してきた一匹の風竜が、シルフィードに体当たりをしたところだった。
風竜は、よろけたシルフィードを追い回し、その背からタバサを奪い取ろうとする。
「ジュリオ!」
その背にまたがった人物を見て、才人は叫んだ。すべての獣を操るヴィンダールヴ。神の右手と呼ばれる使い魔が操る風竜は、鮮やかな動きでシルフィードを一気に捕まえようとする。
「こっちに逃げろ!」
その声が届いたのかどうか、シルフィードはタバサを乗せたまま急降下しようとした。だが、うまくいかない。素早く、まるで鷹のような動きを見せ、ジュリオのアズーロは、シルフィードの背からタバサをくわえて奪い取る。
杖を持たぬタバサは、ただの少女だ。何も抵抗できずに、されるがままだった。タバサをくわえたアズーロは、力強く羽ばたき、ロマリアの方へと飛び去った。
「きゅいっ!」
シルフィードが、才人の前に滑り込んでくる。
「くそッ!」
才人はそう叫んで、シルフィードの背に飛び乗る。
「わたしも行く!」
飛び立とうとした瞬間、ルイズが飛び乗ってきた。ついで、キュルケも飛び乗る。
「三人は多いよ!」
「レビテーション≠燻gえないあなたたちだけで、どうするのよ!」
確かに、と才人は頷き、怒鳴った。
「シルフィード! 追え!」
きゅいっ! とわめいて、シルフィードは上昇した。
「急げ! ロマリアに逃げ込まれたら面倒なことになる!」
シルフィードは力強く羽ばたいた。ジュリオのアズーロは、すでに遠くの点となっている。
地上でその様子を見ていたカステルモールたちや、聖堂騎士と教皇の一行はしばらく呆然としていたが……、それぞれ馬やペガサスにまたがると、二匹の風竜を追いかけ始めた。
「くそ! あいつら速いな! シルフィード! もっとスピードは出ないのかよ!」
「これで全力なのねー!」
シルフィードは、アズーロと同じ風竜だが、未だ幼生である。ヴィンダールヴのジュリオに操られた風竜には、追いつけない。
「これじゃあ、国境を越えられちゃうわ!」
前方に、巨大な山の連なりが見えてきた。火竜山脈だ。東西に延びて、ハルケギニアを分断する山脈……、あの山脈の向こうは、ロマリアなのだ。
火竜山脈が見えた瞬間、恐ろしいことが起こった。ぽろっと、アズーロの口からタバサが落ちるのが見えたのだ。
「サイト! タバサが!」
ルイズが悲鳴をあげた。
アズーロは旋回して急降下すると、再びタバサをくわえた。無理に旋回したので、アズーロは大幅に速度を落としている。
「あの子、わざと暴れて落ちたわね」
キュルケがつぶやく。
その言葉に、才人は心を熱くした。もしかしたら、地面に墜落していたかもしれない……。それなのに、タバサは空に身を躍らせたのである。
命がけでつくってもらったチャンスを逃がすわけにはいかない。
「行け! シルフィード!」
「了解なのねー!」
ぐんぐんと、シルフィードは距離を詰めた。アズーロは加速して逃げようとするが、速度が上がらない。
「シルフィード! ぶっつけろ!」
「わかったのねー!」
シルフィードは、思いっきり体当たりをかまそうとした。しかし、アズーロはひらりとかわす。だが、その瞬間、刀を引き抜いた才人はジャンプしていた。左手でアズーロの爪をつかみ、アズーロの旋回にあわせて身体を持ち上げ、背中に飛び乗る。
ジュリオの反応より速く、首をつかんで刀を突きつけた。
「下りろ!」
しかし、ジュリオは涼しい顔。
「ちょうどいい。きみも見物していけよ」
「ふざけるな!」
才人は怒鳴った。
「まったく……、きみはどうしてそう、人の話を聞かないんだ?」
「お前たちが、勝手なことばかりするからだ。聖戦だのなんだの、寝言ばっかり言いやがって! いいから下ろせ!」
ジュリオはやれやれと首を振ると、アズーロを降下させた。
地面に降り立った才人は、タバサに駆け寄る。
「タバサ!」
「……平気」
タバサをキュルケに預け、才人は再びジュリオに向き直る。
「なあジュリオ」
「なんだね?」
「話があるんだ」
「いいね。ぼくの方でも、一度きみとゆっくり話したいと思っていたんだよ」
「なんで聖戦≠ネんかやらなくちゃいけないんだ? 聖地なんかほっとけばいいじゃねえか」
するとジュリオは、成績の悪い友人に、教え諭すような顔になって言った。
「ぼくらは一つにまとまる必要があるからさ。考えてごらんよ。どうしてぼくらは、六千年も戦争を繰り返してきたんだ? 元はといえば、皆同じ民族なのに、不毛な土地争いや、面子で、ずいぶんと血を流してきた」
「知るか」
「心のよりどころをなくした状態だったからさ。聖地≠ェ、異教徒に奪われた状態で、いったい何を信じればいいんだ?」
「だからエルフ相手に戦争するっていうのか?」
「ああ。彼らは本来ぼくたちのものであるべき土地を不当に占拠している」
「……ったく。そんな理由で」
しばらくジュリオは才人を見つめていたが、いきなり笑い出した。
「あっはっは! そんな顔をするなよ!」
「なに笑ってるんだよ!」
「いやなに。ほんとは、ぼくもそう思うんだ。そんな理由で戦争していたらキリがないってね。聖地なんかほっときゃいい。そんなことより、女の子と遊んでいる方が、百倍も千倍も楽しいじゃないか」
「なんだと?」
才人は青くなった。こいつは……、ふざけているのか?
「今までの聖戦≠セってそうさ。わけもわからず、とにかく聖地≠取り返さなくちゃってんで、何度もエルフ相手に戦いをしかけた。そんな面子だけで勝てるわけがない。何回ぼくらのご先祖は、みっともない負けっぷりをさらしてきたんだろうな」
「お前……。バカにしてるのか?」
才人は、カッとしてジュリオを殴ろうとした。しかし、ひらりとジュリオは才人のこぶしをかわす。
「おいおい、このぐらいでそんなに怒るなよ。先が思いやられる」
才人は、憎々しげに、ジュリオをにらんだ。
「お前らは……、人なんだと思ってるんだ。いっつもふざけて小馬鹿にしやがって! 周りの人間を全部、自分たちの駒だとでも思ってやがるのか?」
「まさか。そんなこと思っちゃいないよ」
「嘘つけ! あのタバサの妹って子……。冠被ってる子だよ。あの子はなんて言って騙したんだ? 自分の姉を裏切らせたんだ。薬でも使ったんだろ!」
するとジュリオは、わずかに真顔になった。
「薬? バカを言うな。そんなもの使うもんか」
「じゃあ、どうしたんだ? それとも、まさか……」
才人は、ぎりっと唇を噛んだ。
「惚れさせて、言うこと聞かせてるんじゃねえだろうな?」
するとジュリオは、両手を広げた。この少年にしては珍しく、必死になって繕ったような態度だった。
「だったらどうだっていうんだ?」
憎々しげにそう言うジュリオに、才人は激高《げっこう》した。
「てめえ……、最低だな。自分に惚れてる女の子を、利用するなんて……。最低じゃねえか。お前らの神さまが聞いたらなんて言うだろうな」
するとジュリオの顔色が変わった。
「なんだと?」
目の色が変わり、いつもの冷笑が完全に消えた。才人は、軽蔑するように唇の端を持ち上げて言った。
「お前らの良心≠ニやらはどこ言ったんだよ? それとも神さまのためなら、自分に惚れてる女の子を利用してもいいってのか?」
ジュリオは素早く動くと、思いきり才人を殴りつけた。才人は後ろに派手に吹っ飛んだ。
「なにすんだてめえ!」
立ち上がりざまに、才人は刀に手をかけた。
「やる気か?」
「ぼくの良心がどうしたって?」
ジュリオはまったく臆した風もなく、才人を再びぶん殴った。
「てめえ……」
刀を引き抜こうとして、才人はジュリオの顔に気づいた。怒りに我を忘れた顔だ。いつもの人をバカにしたような口調も消えている。
「お前、ガンダールヴの俺と、素手でやろうってのか? 獣も使わないで」
才人はわけがわからなくなった。とにかく、ジュリオは前後もわからなくなっているらしい。とにかく、素手の相手に武器を使うわけにもいかない。
才人は立ち上がると、刀を放り上げた。それを、慌ててルイズが拾い上げる。
「サイト……」
「てめえなんかにおれの良心のなにがわかるっていうんだよッ!」
ジュリオの口調は、以前のガキ大将だったころのものだった。
才人はジュリオのこぶしを、左腕でガードした。そして、間髪いれずに右手で殴りつける。格闘訓練もそれなりに行ってきた。くぐり抜けた実戦の数もある。ガンダールヴの力を使わずとも、そんじょそこらのやつに、殴りっこで負けるつもりはない。
だが、ジュリオも体術は相当なものだった。才人のこぶしをなんなくかわし、蹴りを放ってきた。才人はその足をつかむと、思いきり押し倒す。馬乗りになって、ジュリオの端正な顔にこぶしをたたき込む。
しかし、才人の優位も続かない。ジュリオは足を持ち上げると、器用に才人をひっくり返した。
延々と、二人は殴り合った。その剣幕と迫力に何も言えず、ルイズとキュルケとタバサは困ったように見つめるだけだった。
クタクタになるまで殴り合ったジュリオと才人は、地面にぶっ倒れた。ジュリオも才人も悲惨なことになっている。才人の顔はふくれあがり、左目が見えなくなっている。ジュリオは鼻から派手に鼻血を垂れ流し、これまた頬がふくれあがっていた。
素手で殴り合ったものだから、お互いの手も腫れていた。二人とも小指なんか倍ぐらいになってしまい、うまく握ることもできなかった。
荒く息をつきながら、才人は言った。
「……おかしいんじゃねえのか? お前。なにキレてるんだよ」
するとジュリオは、苦しそうに口を開いた。
「いいなきみは」
「なにがだよ」
「何も悩まずに、人を好きになれて」
「どういう意味だよ」
「ぼくが、何も感じないと思ってるのか? 必死に好きにならないように努力して……、それでも、好きになっちまって。そんでも利用しなきゃいけない。そんなぼくの気持ちが、お前なんかにわかるか」
「じゃあ、利用なんかしなきゃいいじゃねえか」
「馬鹿野郎」
「なんだよ」
「誰のためにやってると思ってるんだ。みんな、全部お前らの……、このろくでもない土地の上に住んでるお前たちのためにやってることじゃないか」
それからジュリオは泣いた。ぐしっ、ぐしっと目頭を拭い、みっともなく泣いた。ジュリオが泣くところなど想像したことがなかった才人は、途方に暮れた。
しばらく泣いたジュリオは、むくりと起き上がる。困ったような顔をしたキュルケとタバサが近寄り、才人と二人に、拙いながらも癒し≠フ魔法をかける。どちらも痛み止め程度にしかならかったが、少し気持ちが落ち着いてきた。
ジュリオは、ぽつりと言った。
「もういいよ。お前らなんかどうとでもなっちまえ。ここに住んでる連中もどうでもいい。せいぜい、数少ない土地でも争って死んじまえ」
「ジュリオ、どうしたの? なにを言ってるの?」
ルイズが、怪訝な声で尋ねる。
「見てりゃわかるよ」
撫然とした声で、ジュリオは言った。
「何がわかるんだよ!」
才人がそう、ジュリオに詰め寄った瞬間……。
地面が揺れた。
ヴィットーリオを人質に取ったまま、カステルモールたちは才人たちを追いかけていた。
騎乗した彼らの後ろから、ちょっと離れて聖堂騎士たちもついてくる。
遠見≠フ呪文で、才人たちの乗った風竜を追いかけていた貴族が、
「おい! 着陸したぞ!」
と叫んだ。
「よし」とカステルモールたちは、馬の速度を速めた。
そんな速駆けを始めて十数分後……。
激しく地面が揺れ出した。
「うわ! 地震だ!」
馬が足をもつれさせ、次々に足を止めた。何騎かが勢い余って転んでしまうほどの大きな揺れだった。
「激しいぞ!」
揺れはしばらく続き……、唐突にやんだ。
「ずいぶんと激しい地震だな。こんなの、生まれて初めてだ」
カステルモールがそうつぶやいたとき、彼の前に魔法のロープでぐるぐる巻きにされて、馬にまたがっていた教皇ヴィットーリオが口を開いた。
「始まりましたね」
「なんだと? 何が始まったんだ?」
「大隆起≠ナすよ」
「なんだそれは?」
カステルモールが尋ねたとき、再び激しい揺れが始まった。今度の揺れは、一回目の比ではなかった。馬は次々地面にしゃがみこむ。徒歩の人間たちも、立っていることができなかった。それほどに激しい地震が始まったのだった。
「くっ!」
カステルモールは、またがっていた馬から放り出される。ヴィットーリオも、地面に転げ落ちた。カステルモールは這いながら、ヴィットーリオの元へと向かう。まるでうねる海のように、地面は揺れている。
「いったいこれはなんなんだ!」
ヴィットーリオは応えない。ただ、まじめな顔である方角を凝視していた。
カステルモールも、そちらの方を向いた。
今度はもう、言葉は出なかった。
「な、なんだこりゃ!」
ギーシュやマリコルヌも、激しい揺れで、地面に手をついていた。そばにいたレイナールが、呆然として前方を見ていることに気づく。
「おいレイナール。どうした?」
レイナールは応えない。ゆっくりと指で前を指し示す。その光景を見て、二人はあんぐりと口をあけ、ついでお互い顔を見合わせた。
それから、どちらからともなく手を伸ばし、お互いの頬をつねりあう。
「いてえ!」
ギーシュとマリコルヌは、泣きそうな声で言った。
「……夢じゃない」
東薔薇騎士、北花壇騎士、聖堂騎士たちは、お互いを警戒することも忘れ、面前で繰り広げられる、巨大な自然の惨劇に見入っていた。
一人の騎士が、ぽつりと、誰に言うとでもなくつぶやいた。
「そ、そういや、アルビオン大陸も、元はハルケギニアの一部だって……」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ、という腹の底にくるような響きが耳に届く。揺れは一向におさまらない。
ぼんやりとした声で、才人は言った。
「山が……、浮いてる」
遠くに見える火竜山脈……、その山脈が、見える範囲すべて、空へと浮かび上がっていく。『壮大』という言葉さえ、陳腐に思える光景だった。
ロケットが打ち上がるように、山脈≠サれ自体が空へと浮かぼうとしているのだった。そのころになってようやく、猛烈な砂埃がこちらに届き、辺りは夜のように薄暗くなる。才人は激しくむせた。
「なんだよあれ……。どうなってんだよ」
ジュリオが、才人に説明した。
「大隆起≠セ。徐々に蓄積した風石が、周りの地面ごと持ち上がってるのさ」
「風石が?」
確か、フネ≠空に浮かべるために使われている物質だ。先住の風の力の結晶だとか……。
「……ああ。このハルケギニアの地下には、大量の風石が眠ってる。平たく言うとだな、風石ってのは、精霊の力の結晶さ。徐々に地中で精霊の力≠フ結晶化は進み、数万年に一度、こうやって地面を持ち上げ始める」
「持ち上げ始める=H」
ジュリオは、疲れた声で言った。
「そうだ。ここだけじゃない。今はハルケギニア中に埋まった風石が、飽和している状態なんだ。いずれパンケーキを裏返すみたいに、ハルケギニアの地面はあちこちで浮き上がる。わかったかい? ぼくらが聖地を目指さなくちゃいけないわけが」
「どうして黙ってたんだよ!」
吐き捨てるようにジュリオは言った。
「これだけ頭の固いお前たちが、ぼくらの話を素直に信じるか? バカは現物を見なきゃ信じないだろうが」
揺れが収まった三十分後、教皇ヴィットーリオが、聖堂騎士やカステルモールやギーシュたちといっしょに、才人らの元にやってきた。
火竜山脈で、本日こんなことが起こるのは、聖堂騎士たちも知らされていなかったようで、みな、一様に惚けたような顔をしていた。
「驚かれましたか?」
すっかり気を抜かれた才人たちに、ヴィットーリオは言った。
「そりゃ……。山が持ち上がるところなんて、初めて見ましたから」
才人がそう言うと、ヴィットーリオは笑みを浮かべた。
「浮き上がった大地は、徐々に風石を消費して、再び地に還ります。アルビオン大陸は、かつての大隆起≠フ名残なのです」
「ほんとうに、ハルケギニアの大地全部が、めくれあがってしまうのですか?」
焦った顔でルイズが尋ねると、ヴィットーリオは首を振った。
「いえ……。全部ではないでしょう。ただ、わたくしたちが独自で行っている調査では、ほぼ五割の土地が、こうして浮き上がるとの予測が出ています。誤差があるにしても、相当の被害を被るでしょう。数十年の間に亘って、この現象は各地で続きます」
「じゃあ、住むところがなくなるってことですか?」
唖然とした声で、ギーシュが言った。
「そうです。今日明日というわけではありませんが、将来、このハルケギニアの半分は人の住める土地ではなくなります。そうすれば残った土地を争う、不毛の戦が始まるでしょう。それを食い止めるために、我々は虚無≠ノ目覚めたのです。そのために我々は、異教《エルフ》≠ノ奪われし聖地≠取り戻すのです」
「聖地には……、何があるんですか?」
あっさりと、ヴィットーリオは言った。
「始祖ブリミルが建設した、巨大な魔法装置です。|先住の力《精霊力》を打ち消すことができるのは、虚無≠フ力のみ。我々は四の四を携え、聖地《魔法装置》を奪還する。そしてこの地の精霊力《災厄》をはらうのです」
「こんな……、こんな大事なことを、どうして今まで黙ってたんですか!」
才人は、こぶしを握りしめて叫んだ。
するとヴィットーリオは、先ほどジュリオが言った言葉を繰り返した。
「このような話を、誰が信じるというのです? 現物を見なければ、人は信用しませんからね。それに、話せばあなたがたは誰かに言うでしょう。『この話は本当なのか?』って。噂は広がり、余計なパニックを引き起こす」
そうかもしれない、と才人は思った。
現実として、山脈が持ち上がるところを目にしなければ、こんな話を聞かされても、信じる気にはなれなかっただろう。
「言ったじゃないか」
ジュリオが、あきれた声で言った。
「ぼくたちは本気≠ネんだって。死にものぐるいなんだって。聖地を取り返すためなら、なんだってやるんだって。あの言葉は、嘘でもなんでもなかったんだぜ。まったく、きみたちは頑固だな! ほんとなら、もっと初めから協力してほしかったんだ。今日の大隆起≠ヘつまり、ぼくたちの切り札さ。きみたちに信用してもらうためのね」
ヴィットーリオは、才人の手を握った。
「協力してくれますね? ガンダールヴと、その主人よ。我々は、そう遠くない未来、子孫たちに安心して過ごせる土地を残したい。聖戦≠ニいっても、初めは交渉します。平和裏にエルフが聖地≠返してくれるなら、何も問題はない。そうでなければ戦いになりますが、それはしかたない。我々にだって、生き延びる権利はあるはずですから」
才人たちは顔を見合わせた。
イザベラも、カステルモールも、ギーシュにマルコルヌ、そしてレイナール。タバサとキュルケも、どうしていいのかわからない顔をしていた。
あまりにも話が大きすぎて、意外すぎて、頭がうまくついていかないのだ。
でも……、山脈は浮き上がり、見上げると雲のような大きさで空に浮かんでいる。その光景は、事実として胸に飛び込んできた。
でも、だからといって、すぐに納得できる話でもない。
今まで、ロマリアが自分たちにしてきたことを考えると、おいそれと『協力します』とは言い切れない。
そうやって悩んでいると、ルイズが才人の手を握った。そして、ヴィットーリオに向き直る。
「わたしたちの一存では返答できません。考慮する時間をいただきたく存じます。でもその前に、条件がいくつか」
「どうぞ」
「まず、これからはわたしたちに隠し事はなさらぬようにお願い申し上げます」
「約束しましょう」
それから、ルイズはタバサを見つめた。
「次に、正統なるガリア女王に、冠を返還すること」
「それはできません」
「何故ですか?」
「ガリアは大国。女王が担い手でなければ、末端までの士気が上がりませぬ」
どこまでも冷静な声で、ヴィットーリオは言った。
「じゃあタバサは……」
才人がそう言ったら、タバサ自身が答えを出した。
「わたしは、あなたたちと行動を共にする」
「いいのか?」
「初めからそのつもり。もともと、冠を被ったのも、あなたたちに協力するため。わたしにそうしろと言ったのは、ロマリアの寄越した偽者だったけど……」
そう言うとタバサは、才人の手を握った。
「では決まりですね」
ヴィットーリオは、周りを見回した。
「ここにいる全員が証人だ。我々は、ここで初めて真実をわかちあい、真の兄弟となった。我らの前途に、神の加護がありますように」
周りにいた東薔薇騎士団と、聖堂騎士たちは、それぞれお互いを怪訝な顔で見ていたが、そのうちに手を取り合い、抱擁し始めた。
才人たちは、なんだか納得しがたいといった顔で、そんな様子を眺めていた。顔をさすりながらジュリオが、そんな才人に向かって言った。
「なんだ、釈然としないって顔だな」
「そりゃそうだ。というか、お前らの筋書き通りに動かされたってのがなんだか気に入らん」
「そう言うなよ。これでも、こっちだってずいぶんと我慢してたんだ」
「どういう意味だよ」
「ぼくたちは、きみたちを始末して、新しい担い手にかけたってよかったんだぜ」
「なんでそうしなかったんだよ」
才人がそう言うと、ジュリオはため息をつくように言った。
「情が湧いたんだよ」
「は?」
「いっしょに戦ったり、対立したりしてるうちにね。大を生かすために小を切る。いつもそう割りきれるほど、ぼくたちだって強くない。ったく、強くなれれば、ちっとはマシだったんだろうさ」
才人はジュリオを見つめた。
ずいぶんとひどい顔だ。ところどころ腫れ上がり、血がこびりついている。いつものクールなハンサムは、どこにもいない。
そして……、先ほどの言葉を思い出す。
何も悩まずに、人を好きになれて
こいつは……、俺と変わらない年のくせに、こんな真実を胸に秘めたまま、あんなに飄々と振る舞っていたのか。
先ほどの涙を思い出す。
ボロボロと、まるで子供のように泣いていやがった。
「ちくしょう」
と、才人は言った。
「何がちくしょうなんだよ」
ジュリオが、じろっと才人をにらんで言った。
「とりあえず、さっきはすまなかった。なんだ、お前の良心がどうのこうのなんて。でもお前も悪いんだからな。人を騙しやがって」
「もう騙さないよ」
撫然とした声でジュリオは言った。才人は横を向いたまま、ジュリオに手を差し出した。
「なんだこれ?」
「握手だ。でもまだ協力するって決めたわけじゃないぜ」
ジュリオはしばらくその手を見つめていたが、やはりそっぽを向いて握りしめた。
第七章 我が家
「そうそう。あ! ダメじゃない! もっと注意して操作しなさい!」
トリステインの南部に位置するモンス鉱山。一番深い、十六番坑道の最奥部で、作業着に着替えたエレオノールが騒いでいた。
彼女の前では、水精霊騎士隊の少年たちが、一生懸命何かの機械をいじっている。それは、地中に眠る風石≠フ鉱脈を探す魔法装置だった。地中を掘り進み、風石の鉱脈を見つけると、こちら側のランプが光るのである。
先端から土を取り込み、後ろから排出する。ミミズを参考に作られたこの装置は、通常、二百メイルほどの深さを探ることしかできない。だが、この風石探査装置は、土≠フアカデミー主席研究員である、エレオノールが改造した特注品だった。
ほぼ一リーグの深さまで掘り進み、風石≠探ることができる。だが、その代わりに何人ものメイジが、絶えず遠隔操作≠フ呪文を唱え続ける必要があったし、その操作は慎重を極めた。そうでないと、途中で壊れたり、動きが止まってしまう恐れがあった。
水精霊騎士隊の少年たちは、緊張の汗を額に浮かべながら、呪文を唱えていた。とにかく、臨時の調査隊指揮官が怖くてたまらないのである。
長い距離の先にまで、遠隔操作≠伝わらせないといけないので、連携の取れた詠唱が必須なのだが……、このような繊細な詠唱に慣れていない騎士隊の少年たちは、さっきから失敗しまくっているのであった。
「ったく! 何が秘密任務よ! せめてアカデミーの助手ぐらい使わせてよね!」
イライラしながらエレオノールは言った。園遊会から帰るなり、アンリエッタはアカデミーに風石鉱山の調査を命じた。しかもかなり深く掘って調べろとの命令であった。その上極秘で、助手には水精霊騎士隊の少年たちを使えときたものだ。
そんなわけで、こういった学術調査は素人の少年相手に、エレオノールはイライラしっぱなしなのだった。
「エレオノール様……、止まってしまいました」
マリコルヌが、ぶるぶると震えながら、エレオノールに告げる。瞬間、エレオノールの目が怒りに光る。
「はぁ? あなた! さっきもトチったじゃないの! またなの? どういうつもりなの?」
すると、さらにマリコルヌは弱々しい声を出した。
「だって……、ボク、昨日寝てないし……。それに、こ、こういう作業は得意じゃないし……」
エレオノールの額が、ピクッ! と動いた。何言ってるんだこいつは、といった顔で、ギーシュが見つめる。こんな言い訳を並べたら、エレオノールみたいな女の人はさらに怒る。鈍感には自信があるギーシュにだって、そのぐらいはわかる。さすがにギーシュが何か言おうと思って身を乗り出すと、レイナールに止められた。
「彼の顔を見るんだ」
「はぁ? あなた! 今日の任務は聞いていたんじゃないの? それなのに寝てないってどういうこと? たるんでる証拠だわ!」
ギーシュはマリコルヌの顔を見て、う! と呻いた。表情は震えているが、目元に浮かんでいるのは……、歓喜≠セ。
「わざと怒らせてるんだ。すごいテクニックだよ」
レイナールが顔を引きつらせて言った。
マリコルヌは、それから『生まれてすいません』とか『なんかダルいです』とか、さらにエレオノールを怒らせるようなセリフを連発した。
「……ボク、疲れちゃいました。休みくださいよ。お姉さん」
当然のようにエレオノールは激高した。おもむろに呪文を唱えると、杖の先に、ピキーンと鞭が伸びた。それで散々にマリコルヌをたたき始めた。
「このッ! この能なしの豚がッ! まともに仕事もできないごくつぶしがッ! 疲れた≠ナすってッ? 疲れた≠ナすってぇええええッ!」
「はぎッ! う、生まれてッ! 申し訳ありませンッ!」
「お前みたいなァ! 豚の死骸はァッ! 土に還れッ!」
「ぶ、豚はッ! つ、土にッ! 地は塩にッ!」
そんな風なプレイが始まったとき……、坑道の上から才人が帰ってきた。カラのトロッコをガラゴロと押している。魔法が使えない才人は、排出された土石を外まで運ぶ仕事をしているのだった。才人一人でやっているので、かなりの重労働だった。
しかし、疲れているのでよろけ、思わずエレオノールにぶつかってしまう。
「きゃっ!」
勢い余って、エレオノールは頭から地面に突っ込んだ。
「す、すいません!」
才人は謝った。エレオノールは、ゆらりと立ち上がる。その顔に、泥がびっちりとこびりついていた。
「うわぁ! 女帝のお顔が! 女帝さまのご尊顔に泥がッ!」
マリコルヌが余計なことを騒ぎ立てる。エレオノールはゆっくりと顔をぬぐう。その雰囲気に才人は、ただならぬものを感じ、思わず後ずさる。
昔のルイズを、十倍にして百をかけて、容赦ない≠ニいう単語をスパイスにして振りかけたような恐怖を才人が襲う。
「あなた……、ほんとにイライラするわね」
「も、申し訳ありませんッ!」
気づいたら才人は土下座していた。そうしなければいけない、また、そうしなければ死ぬ、という原始的な恐怖に全身を貫かれていたのだった。
「そういえば、あなたには言いたいことがたくさんあったわ。ラ・ヴァリエールの娘を娶《めと》りたいなんて大それた欲望をい、いいいいいい、いだ、いだだだいて、ふぉ、ふぉ、ふぉおおおおおきながら……」
声が震えだしたので、才人は、死ぬ≠ニ思った。
「う、うわ、浮気をするなんて……、信じられないんですけど……、どうして男ってこう、平民も貴族も、さ、ささささいっていなのかしら……」
「お姉さん……、あの……、それはその……」
「成り上がりがッ! 成り上がりの分際で浮気までしてッ!」
エレオノールは才人を思いきりたたき始めた。次に現れたのはルイズである。虚無≠オか使えないルイズも、こういうときは雑用である。外から昼食の篭を持ってやってきたのであるが、才人をたたいているエレオノールを見て、驚いて駆け寄った。
「ねえさま! エレオノールねえさま! 落ち着いてください!」
そんな勢いで腰に飛びつく。するとエレオノールは、じろりと末の妹をにらみつけた。
「ルイズ! いいところに来たわね! ちょうどいいわ!」
「ひ、ひう!」
びくん! とルイズはにらまれて直立した。
「あなたにはプライドってものがないのッ! こんな野良犬に浮気されてッ!」
その瞬間、ルイズは凍りついた。
「ねえルイズ。あなたね、仮にも公爵家の娘が、こんなぽっと出の!」
エレオノールは才人を指さした。
「シュヴァリエ風情にナメられたのよ!」
するとルイズは、わなわなと震えだした。でも、勇気を振り絞って、言い放った。
「エ、エレオノールねえさまには関係ないことなの。これはわたしたち二人の問題なの。もうわたし、子供じゃないの」
子供じゃないの、そう言ってから、ルイズはわずかに頬を染めた。その染め具合に、何かピンときたのか、マリコルヌが言った。
「ありゃ。子供じゃないってさ」
水精霊騎士隊の少年たちはいきりたった。慌ててエレオノールは詰め寄った。
「ルイズ! あなたまさか! わたしより先に!」
ルイズは頬を染めたまま、横を向いた。才人は、緊張のあまり死にそうになった。
そう叫んだ瞬間、エレオノールは周りの少年たちが自分をじっと見ていることに気づき、激しく顔を赤らめた。
「……な、なにを見てるのよ!」
それからきっとなって、エレオノールは叫んだ。
「いいからほら! 作業を再開しなさい!」
そんなやりとりのあと、再び魔法装置は動き始めた。エレオノールは、操作盤にとりつき、そこに置かれたいくつもの計器を見始めた。
三百……、四百……、五百……、とゆっくりと、時間をかけて、装置の先端は地中に潜り込んでいく。
そして、八百を過ぎたとき、エレオノールの目がぴくりと動いた。
「ねえさま?」
不安げに顔を近づけたルイズだったが、エレオノールの顔は真剣そのものだった。
「止めて」
遠隔操作≠ナ操っていた少年たちは、一斉に手を止める。エレオノールは魔法を唱え、細やかな操作をし始めた。
微妙に動く計器の針を見守るその顔が、みるみるうちに青くなっていく。
その場の全員が、固唾をのんでエレオノールを見守った。
「なにこれ……。こんな大きな風石の鉱脈が育ってたなんて……」
「ということは、やっぱり……」
ルイズ、そして水精霊騎士隊の少年たちは顔を見合わせた。
「深い場所に、これだけの鉱脈がもし眠っていたら……。ちょっとしたショックで、大陸ごと持ち上がるわ」
冷や汗を流しながら、エレオノールは言った。バカ騒ぎで恐怖心を押し殺していた少年たちは、我先にと逃げ出そうとする。
「こら! 逃げない! 今日明日ってわけじゃないわよ! おそらくは、数十年……、まあ、とんでもなく運が悪けりゃ数年っていうか!」
まあ、そんでもこれはちょっと困ったわね、というかほんとにどうしたものかしら、とエレオノールはつぶやき始めた。
「……こんな深くまで採掘することは不可能だし。……よしんばできたとしてもこれだけ大量の風石を運ぶことだって」
ああああああ! どうしよぉおおおおおおお! と少年たちは頭を抱えて絶叫を始めた。ルイズと才人は、そんな仲間たちの様子を見つめて、どちらからともなく手を握りあった。
才人たちの報告を受けたアンリエッタは、がっくりと肩を落とした。
「……このトリステインでも、同様の事態が起こっているということは。やはり教皇聖下の話はほんとうなのでしょうか」
二週間ほど前、アンリエッタは帰還してきた才人たちから、火竜山脈で起こった恐るべき事態を聞かされたのだった。
半信半疑だったが……、三日後、空の彼方に現れた、百二十リーグもの長さの、新たな浮遊島≠見るにつけ、信じざるを得なかった。
現在、その浮遊島≠フ帰順をめぐって、ロマリアとガリアは係争中であるという。
才人とルイズに挟まれたかたちのエレオノールは、恭しく一礼すると、
「おそらくは間違いないと思われます」
「そうですか」
と言うなり、アンリエッタは黙ってしまった。
火竜山脈で、山並みが宙に浮く≠ニいった事件は、すでにハルケギニア中を巡っていた。ハルケギニアの市民たちには、風石≠フ暴走である、と真相が伝えられている。ただ、それがハルケギニア全体にわたって起こりえる事件なのだということは、慎重に伏せられていた。
アンリエッタは、しばらく考えていたが、そのうちに顔をあげると毅然とした顔つきになった。
「よろしい。トリステイン王国は、ロマリアに協力することにいたします」
それなりの葛藤はあっただろう。だが、考えている暇はない。事の是非を問うても始まらない。
住む場所がなくなる
この事実だけは、すべての倫理に優先した。
いったん決断すると、アンリエッタの行動は早かった。
アンリエッタは、手早く、大臣や将軍を集め、協議に移った。
聖戦≠支持するからには、再び外征軍を組織する必要がある。ロマリアやガリア、そしてゲルマニア、各列強が分割統治するアルビオンに向けて、密書が飛んだ。そして、教皇ヴィットーリオに向けて、近いうちに各王を集めての会議の開催を打診した……。
三日ほど、王宮でアンリエッタの雑事を手伝ったルイズと才人は、クタクタになってド・オルニエールに帰ってきた。
暦の上では、すでに|アンスール《八月》の月も半ばを過ぎている。来月からは新学期が始まるのだが、もうすでに二人とも、のんびり学院に通っていられるような身分ではなくなっていた。
屋敷につくと、シエスタが満面の笑みで迎えてくれた。
「おかえりなさい! サイトさん! ミス・ヴァリエール!」
ヘレン婆さんも奥から出てきて、ぺこりと頭を下げた。
「おやおやお帰りなさいまし。旦那様がた」
「おいしい料理をたくさん作って待ってましたからね!」
なるほど、シエスタの言葉通り、食堂には大量の料理が並んでいた。そして、新しい顔もあった。
一人の青い髪の少女が、厨房から皿を持ってやってきたのだ。きゅいきゅいきゅい、と楽しげに歌いながら、その後ろから同じように大きな鍋を頭にのせた長い青髪の女の子も現れる。
「おいしい料理〜。おいしい料理〜。楽しい料理〜。楽しい食卓〜♪」
タバサが無言でテーブルに皿を置くと、シエスタが慌てて駆け寄った。
「ミス・タバサ! おやめになってください! そんなガリアの王族の方に……」
するとタバサは首を振った。
「もう、わたしは王族じゃない。この家に仕える召使い」
そうである。タバサは、なんと王族としての権利を捨てて、ほんとにジョゼットに王権を委譲してしまったのだ。シャルロットという名前と共に……。
タバサの母も、イザベラもタバサに翻意を促した。でも、タバサはこちらでの生活を選んだのである。しかし一応、条件はついていた。
聖戦≠ェ終わるまで、才人たちの手伝いをする。その後はガリアに帰る。が、再び冠を被るかどうかは決めていない。しかし、双子の片方がいなかったことにされる♀オ習だけは廃そうと決めていた。
タバサの意を受けたイザベラが、その悪習を絶ちきるために、ガリアで奮闘していた。セント・マルガリタからは、順次少女たちが生まれた家に戻るための準備をしているころだろう……。
ガリアが生まれ変わる手伝いならしてもいい、とタバサは決めていた。だが、まずはサイトたちの冒険を手伝うことが先決だ。
それでもおろおろするシエスタに向かって、シルフィードがにこにこ笑いながら言った。
「気にすることないのね。お姉さまは好きでやってるのね。ほらおちび。例のアレを披露してごらん?」
タバサはこくりと頷くと、手に持った皿を上に放り投げた。上にのった大きなローストビーフのかたまりが宙に舞う。シルフィード以外のその場の全員が、うわぁ! と叫んだ。その瞬間、タバサは杖を振った。
するとローストビーフが薄く切れ、それぞれの皿の上にぱたぱたぱたとのっかっていく。
「すごい! よくできました! なのね!」
ぱちぱちとシルフィードが拍手した。タバサは相変わらずの無表情。才人がおもしろがって手をたたいた。
「やるなあ。すごいよ!」
するとタバサの頬が、軽く上気した。それで調子に乗ったのかどうかはわからないが、次にパンを取り上げた。
「はい! はい! はい! おちびがパンをどうにかします! なのね!」
タバサは細長いパンを上に放り投げた。再び杖を振る。すると今度は、縦に分かれて、細長いスティックとなり、次々にグラスに刺さっていく。
「なんで縦なの?」とルイズが言ったら、シルフィードがグラスにクリームを注ぎ始めた。
「こうやって食べるのねー」シルフィードがおいしそうに、パンのスティックの先にクリームをつけて食べ始める。
なるほど、と感心していると、扉が開いて陽気な声が響いた。
「あら? あなたたち、やっと帰ってきたの?」
「おやおや、きみたち帰ってきていたのかね」
キュルケとコルベールだった。彼らは、王政府からの依頼で、オストラント号≠フ整備を行っていたのである。来るべきエルフとの聖戦≠ノ、オストラント号は正式に参加することになったのだった。
「かなりいろんな装備をつけたぞ。あとでゆっくり披露しよう。きみのひこうき≠煢^用できるようになっているほか、戦車≠フ大砲も取りつけた」
と、コルベールは才人の肩をたたいた。コルベールはタイガー戦車の大砲を、そっくり艦載したのだった。
現在、オストラント号は近くの湖に浮いている。このド・オルニエールが、現在母港ということだった。
キュルケとコルベールの着席を待って、シエスタがワインを注ぎ始めた。
「では、皆さん! サイトさんとミス・ヴァリエールの無事帰還を祝って!」
かんぱーい! と、唱和が重なった。
楽しい会話がしばらく続いたが、そのうちにコルベールがぽつりとつぶやいた。
「で、王政府は決定したのかね?」
才人はこくりと頷いた。
「なるほど。ではまた慌ただしくなるなあ」
「いったい、次はどんなお仕事なんですか? またおうちを空けるんですか?」
シエスタが、きょとんとした顔で才人に尋ねた。
「もしかして、あの噂になっていた、火竜山脈の浮き上がり事件が関係してるんですか? おどろきですよねー。山脈が浮いちゃうんですもん。まったく自分で住んでますけど、この世界ってどうなってるんでしょうね。たまにとんでもないことが、さらっと起こりますよね」
才人は青くなった。シエスタには、聖戦のことは話していない。余計な心配をかけたくなかったし、この件は極秘なのだった。
そんな妙に重い空気を感じ取ったのか、シエスタが明るい声で言った。
「まあ、なんてことないですよ。どんなことがあったってサイトさんたちなら解決しちゃいます。だって今まで、大変なことたくさんあったけど、どうにかなってきたじゃないですか。だから今度のお仕事も、きっとそうです。大丈夫ですよ」
シエスタのその言葉で、その場の全員が、なんだか救われたような表情になった。
「ま、暗くなっても始まらないわよね。今を楽しまないと……、ね? ジャン、そうでしょ?」
そう言うとキュルケは、コルベールの頭にクリームをかけた。
「きみは、なんかというとわたしの頭に、食べ物をのせるが……、趣味なのかね?」
タバサは黙々と食事を続けている。
「お前は、怖くないのか?」
と、才人がタバサに尋ねたら、こくりと頷いた。
「あなたがいる」
そうか、と才人は頷いて、なんだか嬉しくなった。隣のルイズを見ると、ワインを一口ふくみ、ほわーっと、息をついていた。
それから、何かを反芻するように、うっとりとした顔で宙の一点を見つめている。もしかして、この前の夜を思い出しているんだろうか、と思ったら胸が熱くなった。
いろんな人間の顔が、頭をよぎる。
ルイズとキュルケ。
ギーシュたち水精霊騎士隊の連中と自分。
そしてタバサとイザベラ……。
ここにはいない仲間たち。
そうだ、と才人は思った。
昔はいがみ合った連中だって、こうやって仲良くなれる。
エルフだって、きっとこっちの現状を知れば、協力してくれる。きちんと説明すれば……。
「よし、食べるぞ!」
才人は、夢中になって料理を食べ始めた。そして、シエスタに注がれるままにワインを飲み干していく……。
そのうちに才人は酔いつぶれてしまった。疲れているところに流し込んだものだから、しかたない。
キュルケがあくびをし始め、さぁジャン寝ましょ、と言って首根っこをつかんで二階の部屋へと消えていく。
ヘレン婆さんも、じゃああたしゃそろそろと言って、帰り支度をしてさっさと出て行ってしまった。
するとシエスタは、ほらサイトさんしっかり、と言って腕をつかんで起き上がらせる。
「ほげ……」
「うわぁ、もう、べろんべろんですね」
シエスタは、才人を背負うと、よっこらしょと乙女に似合わない言葉を吐いて、二階の寝室へと運びこんだ。
「今日は久しぶりですから、わたしがお借りしちゃいますね! ミス・ヴァリエール!」
部屋に入ってきたルイズに、シエスタは満面の笑みで告げる。
「そ。わかったわ」
と、ルイズは平気な顔で髪をブラシですき始めた。シエスタは一瞬、きょとんと目を丸くした。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
シエスタは寝かせた才人に抱きつき、
「きゃあきゃあ! きゃあきゃあ!」と派手にわめいて頬を寄せた。
ちらっとうかがうようにルイズのほうを見たが、それでもルイズは動じないで髪をすき続けている。
シエスタは目を細めた。
どういうこと? なんでミス・ヴァリエールは平気なの?
「サイトさんにキスしちゃいますよー」
シエスタは、寝ている才人に唇を近づけた。それでもルイズは、ぴくりとも動かない。
「……なに余裕かましてるんですか?」
「え? 別に」
どうしたの? と言わんばかりにルイズが応えた。鋭いシエスタは、すぐに何かに感づいた。
「ガリアで何かありましたね?」
そこで、ルイズはすさっと足を組んだ。そして髪をかきあげ、心底余裕を演出する声で、
「べつに」
と言った。
もう、それだけでシエスタは頭に血をのぼらせた。ルイズに近寄ると、
「なにしたですか」
と、目を三白眼にして言い放った。
「ほんとに、なんにも、なくってよ」
シエスタは、ルイズをにらんだ。そんなシエスタを、ルイズは哀れみの色を含んだ目で見つめて、言った。
「あのね、わたしたち、わかりあっちゃったの。なんていうの?」
「身体で?」
「下品なこと言わないで」
「合わせてしまったですか?」
するとルイズは、軽く唇を噛んで、横を向いた。
「軽く? 入っちゃった?」
女同士なので、言葉を選ばないシエスタだった。
「ばかね! してないわよ! その……」
恥ずかしそうに、ルイズはうつむいた。
「途中まで?」
「っん。まあ、そんなとこね」
そこでシエスタは、凶悪な笑みを浮かべた。
「なによ」
「そのぐらいで勝ち誇れるミス・ヴァリエールが可愛いです。さすがは、おこちゃまの中のおこちゃま。キングオブおこちゃまですわね」
「うるさいわね。余計なお世話よ。わたしがおこちゃまなら、あんたは色ボケメイドじゃないの。一年中発情期。もうほんと、なんであんたみたいな盛りのついたメス犬に、給金なんか払わなくっちゃいけないわけ?」
「文句は女王陛下におっしゃってくださいまし。あと、わたしがメス犬なら、さしずめミス・ヴァリエールはメネズミですわね」
「あんたね、貴族捕まえてネズミはないでしょうが」
「ちゅうちゅう」
「わんわん」
二人はお互いの声を真似て、にらみ合った。
「ちゅうちゅうって言ってください。ちゅうちゅうって」
「わんわんって言いなさいよ」
それから二人は、額を思いきり押しつけ合った。
「ま、とにかく今日はわたしの番ということで」
シエスタはぺこりとルイズに一礼すると、才人の横に潜り込んだ。やっとおとなしくなったわ、とルイズがほっとしていると、
「せいっ!」
とそんなかけ声が聞こえてきた。
「はぁ?」
「とうっ!」
見ると、シエスタが派手に下着を脱ぎ捨てている。
「ちょっとッ! あんた何してんのよッ!」
「見ればわかるじゃないですか。こういうのはおあいこですから」
「なにがおあいこよッ! メイドとしての分をわきまえなさいよッ!」
ルイズは慌ててシエスタに飛びかかり、ぐぐぐ、とその顔を押さえて才人から引き離そうとした。裸で抱きつかれたら並ばれてしまうではないか。
そのときである。
ばたん! と扉が開き、枕を持ったタバサがシルフィードに背中を押されて入ってきた。
「はいっ! そんな修羅場にお姉さまも交ぜてなのねー!」
「…………」
ルイズとシエスタが、あっけにとられて見ていると、シルフィードはタバサを脇の下から持ち上げて、才人の隣に押し込んだ。
「なにやってんのよ! バカ竜!」
「バカ竜じゃないのね。韻竜《いんりゅう》なのね」
「どっちだっていいわよ! あんたたちには部屋を一個貸してるでしょー!」
「だって……、お姉さまが、眠れないって……」
「言ったの?」
「いや、言ってはいないのね。でも、態度でわかるのね。なんかもじもじして、たまにそっちの方の部屋見て……」
そこまで言ったときにタバサは杖でぽかぽかとシルフィードを殴りつけた。
「いたいのね! いたいのね! というか使い魔としてちゃんとお役目果たしてるだけなのねー!」
「いいから、部屋に戻りなさい」
「戻ってください」
と、ルイズとシエスタはタバサとシルフィードをにらんだ。
「…………」
それでもタバサは、動かない。ただじっと、才人の隣で身じろぎもしないのだった。
「なによ。タバサ、あなたもしかして……」
ルイズがそう言うと、タバサはわずかに頬を染めた。
「ガチじゃないですか」
シエスタがあきれた声で言うと、タバサは恥ずかしくなったのか、とうとう毛布の中に潜り込んだ。
ルイズの目がつり上がった。
「シエスタはまだしも、わたしと被る子はだめ」
「どーゆー基準ですか」
ルイズは毛布をひっぺがそうとしたが、タバサはがっしりと毛布をつかんで離さない。
「うわ、お姉さま! 正直すぎてかわいいのねー!」
シルフィードが嬉しそうに、きゅいきゅいわめきながら部屋の中をぐるぐる回り始める。
「まあ、安心するのね。桃髪ぺったら娘」
「誰が桃髪ぺったら娘よ。バカ竜。調子に乗ってると自然に返すわよ」
「お姉さまは、お前たちと違って、まだ初《うぶ》なおこさまなのね。発情期のお前らと違って隣で眠れるだけで幸せって年頃なのね」
「いちいちイラっとくる竜ですね」
「はい。メイドは黙っとけなのね。でも、お姉さまはかわいそうな子なのね。ずっと一人で寂しい想いをしてきて、やっと得られた安住の場所なのね。隣で寝るぐらい、我慢してあげるのね。それが大人の女の優しさってものなのね」
む……、とルイズは唸った。確かに、今更タバサに隣で寝られたぐらいで、今の才人と自分の絆がどうにかなるわけがない。まあ、ここでムキになるのも大人げない。
そう考えたルイズはしかたなく認めることにした。
「しょうがないわね」
そして、才人の右側はとられてしまったので、しかたなしに左側に潜り込もうとしたら、シエスタに首を振られた。
「今日は、わたしの隣です」
ぐぬぬ、とルイズは唸ったが、まあいいわと首を振る。ま、今日ぐらいは我慢してあげよう。
深夜……。
才人は、頭を振りながら目を覚ました。
かなり飲んだので、頭が痛い……。どうやら酔いつぶれてベッドに寝かされたようだ。隣から、すぅすぅと女の子の寝息が聞こえてくる。左側で、ぴとっと腕に頬を寄せて寝ているのは、どうやらシエスタのようだ。なんだか愛しくなって、頭をなでる。
そして……、右側から聞こえてくる、小さな寝息はルイズだろうか?
そっと手を伸ばすと、小さな手に触れた。
ああ、やっぱりルイズだ……。さらに大きな愛しさがこみ上げてくる。
この前の……、噴水での肢体を思い出し、さらに才人は心を震わせた。
ちょっとでいいから……、触りたい。
いいよな。そのぐらい。あれ以来、ゆっくり二人の時間も持てなかったし、とかなんとか、様々な理由をつけながら、才人はルイズに触れることにした。
そろそろと手を伸ばすと、ルイズにネグリジェに触れた。
思いきって、胸に手を伸ばす。
平原……、だけど、なんか前はもっとあったような気がする。
でも、あんまり触ったことないし、と思い直し、直に触りたい欲望に負けて、首の隙間から手を差し込んだ。
すると、びくっ! とルイズの身体が震えた。
小さな声で、
「……起きてる?」
と尋ねると、こくりと頷く気配がした。
やばい。
キスしたい。才人は素直に言葉にした。
「……キスしたいんだけど」
すると、しばらくの間があって、今度はためらうように小さくこくりと頷く気配がした。
才人はそろそろと手を伸ばし顎とおぼしき部分に触れた。そのまま引き寄せる。そして唇を重ねる……。
どうやらルイズは激しく緊張しているようだ。とても強ばった雰囲気が、唇から伝わってくる。
抱きしめたくて、才人は腰に手を伸ばした。細い腰に右手を伸ばすと、ルイズは身体を近づけてきた。なんだか夢中になってきてしまい、才人は思わずネグリジェをたくしあげようとしてしまう。すると、びくっ! とルイズは震えた。そして、手を伸ばしてあらがおうとする。
「……恥ずかしいの?」
すると、こくりと頷く。
「……いいじゃん。一回見たんだから」
しばらくの間があって、ルイズの手から力が抜けた。
そのままゆっくりとネグリジェをたくしあげた。小さく、ルイズの身体が小刻みに震え出す。そんな恥じらいがまた愛しく、才人は再びキスをした。
今度は、先ほどよりは強ばっていなかった。舌を差し込むと、おずおずと小さな舌を絡めてくる。もうこれはどうしようもない平賀才人じかに胸さわりまーす。
右手を、ルイズの薄い胸に当てた瞬間……。
びくんっ! と身体が震えて、唇から声が漏れた。
「あ」
才人の頭の中で、疑問符がめぐる。今の声は?
ルイズのじゃない。
だ、誰?
思わず、頭に手を伸ばす。
髪が短い。
「タ、タバサ!?」
思わずそう叫ぶと、
「なになにどうしたのよ」
「なんですかなんの騒ぎですか」
と、ルイズとシエスタの声が左側から響いてきた。
「わ! なんでも! なんでもない!」
「なによ……。もう、何があったのよ」
ルイズがそうつぶやきながら、魔法のランプをつける。
「…………」
明かりの中に浮かんだのは、ネグリジェをたくしあげられ、ぴくぴくと震えて目をつむるタバサと、そのタバサに覆い被さるようにして腰を抱いている才人の姿だった。
寝ぼけたルイズの目が、一瞬で凶悪なものに変わる。
「……なにやってんの? あんた」
「い! いや違う! お前と間違えて!」
思わずそう叫んだら、タバサが、え? という顔になった。しばらくそのまま表情は固まっていたが、そのうちに目から涙が一粒ぽろりと落ちる。
「…………」
無言で自分を見つめるタバサの視線に耐えきれず、才人は首を振った。
「え? いや! そうじゃない! お前も最高!」
ルイズの全身が震えだした。
「な、なな、なにしてももう逃げ出さないし、あ、ああ、諦めるって言ったけどぉ……」
「ちが! ちが! ちが!」
「わ、わわ、わたしと被ってる子はだめ。立場ないじゃない。た、たた、立場が……」
「いやぁ、考えてみればミス・ヴァリエールは中途半端ですわね」
シエスタが、両手を広げて感想を言った。
才人は這って逃げだそうとしたが、ルイズに捕まった。
「間違えた、だけ、なのに……」
「不幸な事故ね。わかってる。でも、やっぱり気が済まないから」
才人の絶叫が、屋敷中に響き渡った。
第八章 サハラのエルフ
照りつける日差しが、砂漠《サハラ》の大地を焼いていた。どこまでも続くように感じられる砂の海の中、ぽっかりと島のようにその泉はあった。
直径は百メイルほどだろうか。周りをちょっとした森に囲まれた泉のほとりには、小さな小屋があった。きめ細やかな白い塗り壁で、ほぼ正立方体に近いかたちをしていた。ハルケギニアでは、見ることのない作りの小屋だった。
小屋の前からは桟橋が延び、泉の中程まで続いている。その桟橋の先向こう、一人の少女がぷかぷかと浮いていた。
何一つ、身体にはまとっていない。細い身体は少年っぽくも見えた。でも、すんなりと伸びた手足と、長い透き通るような金髪が、彼女に健やかな色気と、妖精のような雰囲気を与えていた。おそらくハルケギニアの民が彼女を見たら、美の妖精の化身と見まごうようなその姿だった。
ゆらゆらと水面に浮いたまま、彼女は眠っているかのように目をつむっている。焼けつく日差しにあぶられているというのに、彼女の肌はシミ一つない白を保っていた。その秘密は漂う空気にあった。
風石と水石……、ときに水精霊の涙と呼ばれる、先住の結晶を使った魔法装置により、このオアシスを包む空気は、余計な日光を遮断し、その上、快適な湿度と温度を保っているのだった。
先住の魔法《技》に長けた、エルフならではの技術だった。
水面に漂う少女の耳は、ぴんと伸び、人間に比べると幾分鼻も高い。
少女は、エルフだった。
その目が、突然ぱちりと開く。薄いブルーの瞳で、空の一点を凝視する。空の一角に小さな点が現れ、ぐんぐんと大きくなっていく。
それは、一匹の風竜だった。ハルケギニアの風竜より、幾分大きい。少女の視界の中、風竜は徐々に大きくなり、翼をはためかせながら少女の近くへと着水した。
「!」
派手な水しぶきがあがり、エルブの少女の身体は波に翻弄される。水のなかで派手にもがいたあと、水面から顔を出して、ぶは、と息をついた。
「ちょっと! アリィー! 何すんのよッ!」
少女の口から、甲高い声が響いた。
風竜の上には、線の細い雰囲気の若い男のエルフがまたがっていた。
「急いでるんだ! こんなところで寝ているきみが悪い!」
アリィーと呼ばれた男は、少女の姿を見て顔を真っ赤にした。
「おい! ルクシャナ! お前、その格好はなんだ! ムニィラ様が知ったら大変だぞ!」
「あら。いいじゃない。だってここはわたしの家よ。母さまに文句を言われる筋合いはないわ」
「突然、誰かが訪ねてきたらどうするんだ!」
「ここに? あなたぐらいしかこないわよ」
きょとんとした顔で、ルクシャナは言った。するとアリィーはさらに顔を真っ赤にさせた。
「ぼくたちはまだ婚姻前だぞ! 大いなる意志が、お許しにならない!」
「あらあなた。じゃあわたしの肌を見たくないの?」
「そ、それは……、わからない! うるさい! だいたい、そんな格好でいていいわけがあるか! 我々は、この世界を管理するべく選ばれた高貴なる種族で……。いつでもその自覚を持ってだな!」
ルクシャナは、やれやれと両手を広げた。
「まったく! 婚約者のあなたまで、そんな評議会のおじいちゃんみたいなこと言うの?」
するとアリィーは、ますます声を荒らげた。
「その仕草はなんだ! 蛮人のジェスチャーじゃないか!」
すると、ルクシャナはきょとんとした顔で言った。顔の横で広げた両手を見つめ、にこっと笑った。
「これ? あきれた≠ニきにするんですって。この前、近くに来た蛮人の行商人に教えてもらったのよ。いっぱい愉快な仕草を教えてもらったわ。たとえばね……」
「もういい! 早く服を着て、出かける用意をしろ!」
アリィーが怒鳴ると、ルクシャナは、つまらなそうに唇をとがらせ、そのまま桟橋の上に上がろうとした。
「だからそのまま上がるな!」
ふんっ、と澄ました顔で、ルクシャナはアリィーを無視して桟橋を歩き出した。胸を張って堂々と桟橋を歩くさまは、まさに砂漠を統べる妖精としての気品と自信に満ちあふれている。
濡れた金髪の先から、水滴が落ちて、妖精の足跡を彩った。
白壁の小屋の中は、様々なものであふれていた。ベッドに机、そして奥には炊事部屋に通じるドアが見える。
それらの造りはエルフのものらしく、あまり装飾のない、こざっぱりとしたものだった。でも、普通のエルフの家庭にあるものはそれぐらいで、あとはいわゆる蛮人≠スちの雑貨であふれている。
一番目につくのは、壷や皿などの食器だった。エルフが見たら、下品な装飾としか思われない、宝石がゴテゴテついたネックレスやティアラなども無造作に壁に飾られている。
奥の壁には本棚があった。お情けのように置かれたエルフの図鑑や歴史書に並んで、人間世界《ハルケギニア》≠ナ書かれた雑多な書物が大量にあった。一番多いのは、通俗的な小説や、戯曲のたぐいだった。イーヴァルディの勇者≠ゥら、今、ハルケギニアで流行のバタフライ夫人<Vリーズまで並んでいた。
床にはエルフが好む絨毯の代わりに、ガリア産のレースのカーテンが敷かれている。よく見るとカーテンだけでなく、使い方が誤っている品々がたくさんあった。なぜか箒が、天井から大量にぶら下がっているし、傘は開かれたまま裏返しにされ、ゴミ箱になっていた。
壁際に置かれたレイピアに突き刺さっている干した果物を一切れつまみとると、ルクシャナはそれをくわえたまま、身体を布で拭き始める。
肌着をつけると、アリィーが部屋に入ってきて、眉をひそめた。
「……まったく、いつ来ても蛮人の部屋のようだな」
「いいじゃない。わたし、エルフのものより好きよ。こうなんか、ゴテゴテしてて」
ルクシャナは、服を着終わると、羽根飾りのたくさんついたローブを頭からすっぽりと被った。
「で、評議会がいったいわたしに何の用なの?」
「ビダーシャル様が、蛮人世界から帰ってきたんだ」
「叔父さまが!?」
ルクシャナは、目を見開くと駆けだした。そして、オアシスに浮いて水を飲んでいた風竜に飛び乗った。
「おい! まてよ! ぼくをおいていくな!」
アリィーは慌ててその背を追いかけた。
風竜に乗って三十分も飛ぶと、鮮やかなエメラルドブルーの海が見えてきた。そして、海岸線から突き出た、巨大な人工都市の姿が視界に浮かぶ。
同心円が幾重にも連なったようなかたちの、直径数リーグにも及ぶ人工島……。エルフの国ネフテスの首都、アディールだった。
その同心円の中心目指して、風竜は飛んだ。
中心には、巨大な……、としか形容できない、白塗りの建築物があった。二百メイル近い高さのそれは、塔というよりは、才人たちの世界でいうビルディングに近いかたちをしている。もちろん、こんなに高い高層建築物は、|ハルケギニア《人間世界》には存在しない。
風竜は、その建物の屋上に降り立った。そこでは、何頭もの風竜がつながれて、絶えず誰かが下りたり、また乗ってどこかに飛び立ったりしている。
この建物こそが、ネフテスの評議会本部……、通称カスバ≠ニ呼ばれるエルフ世界の中枢だった。国境という概念を持たないエルフたちは、数多くの部族に分かれ、広大な砂漠≠フ各地に暮らしている。その部族たちは、自分たちの代表をこの首都に送り、その種族代表で構成される評議会≠ノよって、このネフテスは動いている。
そして評議会の中から数年に一度、代表たちの入れ札により、統領≠選ぶのだ。
ルクシャナとアリィーは、風竜から下りると、屋上にある階下へと降りるための昇降装置に飛び乗った。
「四十二階」と告げると、昇降装置は動きだし、二人を目的の階へと運んでいく……。
その階には、評議会の議員たちが、それぞれ執務を行う部屋が並んでいる。
その一室の前で、アリィーは声をあげた。
「ビダーシャル様。ルクシャナを連れてまいりました」
すると扉が開いて、ビダーシャル卿が顔を見せた。
「久しぶりだな。ルクシャナ」
「叔父さま!」
ルクシャナは満面の笑みで、ビダーシャルに飛びついた。
「ねえねえ、蛮人世界はどうだった? 聞かせて! 何か珍しいものは見た? 触った? 持ってきた?」
「どうでした?」と、アリィーは心配そうな顔。この婚約者の叔父が、かなり大変な経験をしてきたのだということは、噂に聞いていた。
「テュリューク統領に、ことの次第を報告したばかりなんだがね」
ビダーシャルは苦笑を浮かべた。
そして、二人に語り始めた。
話を聞き終わった二人は、顔を見合わせた。それから、信じられないというように首を振る。
「ほんとに、その蛮人の王は、叔父さまが作った火石≠ナ、何千人もの人間を焼き殺したの?」
「そうだ」
「どうしてそんなことをするのかしら?」
「知らぬ。わたしが聞きたいぐらいだよ」
ビダーシャルはため息をついた。
「そして、その男は自分の使い魔に殺されたのね。でも、おかしいわ。蛮人の魔法使いの使い魔って、主人に忠誠を誓うって聞いたことがあるわ。どうして?」
「わたしだってわからんよ」
「もう。叔父さまったら、わからないことばかりね。いったい、何をしに蛮人の国に行ったのよ」
「だからな、わたしは交渉をしに行ったのだ。さっき言っただろうが」
「そして、蛮人の王の家来になっちゃったんでしょ? 情けない!」
「ルクシャナ」
アリィーが、ルクシャナをたしなめた。ビダーシャルは苦笑した。
「まあな。だが、あらがえぬ妙な迫力を持った男だったよ。|悪魔の力《虚無》≠フ使い手だけのことはあった、と言うべきかな」
「でも、その交渉の相手が殺されてしまったということは……」
「そうだ。つまり、交渉は失敗したのだ」
ビダーシャルの言葉に、アリィーは青ざめた。
「さて、新たなる|悪魔の力《虚無》≠得た連中は、遅かれ早かれ|この地《サハラ》にやってくるだろう。シャイターンの門≠開きに……」
「困りましたね……」
悩んでしまった二人を見て、ルクシャナは首をかしげた。
「どうして困るの? また交渉しに行けばいいじゃない」
「もう、交渉する相手がおらぬのだ。で、本日お前を呼んだわけだが……」
するとアリィーは、青い顔になった。
「いやですよ! ぼくは!」
「まだ何も言っていないではないか」
「わかりますよ! ビダーシャル様と、統領閣下のお考えになることなど、こちとらお見通しです!」
「なら話は早い」と、ビダーシャル。
一人、話の展開が見えないルクシャナだけが、交互に二人の顔を見つめて言った。
「いったい、何がどうなっているの? わたしにもわかるように説明して」
「きみの叔父君は、このぼくに戦士小隊を率いて、蛮人の国に乗り込めとおっしゃっているのだ」
「さすがは、その年で|ファーリス《騎士》≠フ称号を得ただけのことはあるな」
ビダーシャルは、笑みを浮かべて言った。
「え? なにそれ! すてきじゃない!」
ルクシャナは夢中になって叫んだ。
「すてきなもんか! それで、悪魔を一人さらってこいって言うんでしょう?」
「そうだ。この仕事は、きみのように若く勇気にあふれた青年にこそふさわしい」
「どうして、悪魔をさらう必要があるの?」
「今は……、悪魔の復活の時代なのだ。だが、四の四が揃わねば、あやつらはその真価を発揮できぬ。また、殺してしまうわけにもいかぬ。新たな悪魔が生まれるだけだからな」
「それで、さらうってわけ?」
「ああ。生かしておくうちは、あやつらは手詰まりになる」
「すごい! 大冒険だわ!」
夢中になって、ルクシャナは手をたたいた。するとアリィーは、また眉をひそめた。
「ルクシャナ! また、きみは蛮人の仕草なんかを……」
「ねえアリィー。それってほんとすばらしいことよ! 蛮人世界を見られるなんて機会、そうそうあるもんじゃないわ!」
「おいおい、きみはほんとに無邪気だな! ビダーシャル様、わたしは絶対に蛮人世界なんかに行きませんからね! 悪魔をさらってこいなんて命令、断固拒否します!」
「おや、それは困ったな」
するとすかさず、ルクシャナが言った。
「わたしも連れてって! アリィー! いいでしょう?」
「きみ! 何を言うんだ! ただの学者のきみが参加できるような仕事じゃないんだよ!」
「なによ。あなた、叔父様の命令がきけないっていうの?」
じとりとルクシャナはアリィーの顔をにらんだ。
「きけないよ! 断固拒否権を発動するね! 命がいくつあっても足りないよ!」
「そう」
ルクシャナは腕を組んで、そっぽを向いた。
「いいわ。じゃああなたとの婚約は解消ね。恋人から最大の楽しみを奪う男なんて許せないわ。わたしも拒否権を発動します」
「な、なんだって!」
アリィーは唖然としてルクシャナを見つめ、それから何気なく窓の外に目をやっている、婚約者の叔父に視線を移した。
「……ビダーシャル様。ハメましたね?」
「なんのことだ? 一人の大人であるルクシャナが決めたことだ。わたしに口を挟める問題じゃないよ」
第九章 邂逅
才人たちがド・オルニエールに帰ってきて、三日が過ぎた。特に王宮から連絡もなかったので、才人たちはのんびりと過ごしていた。トリスタニアの孤児院で、子供たちと過ごしているティファニアから、お変わりない? という手紙が来たぐらいで、比較的平穏だった。
帰ってきて初日の夜以来、才人の寝室は毎日戦場の様子を呈していた。今まではルイズとシエスタに挟まれて眠る、という、微妙な均衡を保っていたのだが、そこにタバサが加わったのだ。
夜になると、枕を抱えたタバサが、シルフィードに押されてやってくる。さて、二人なら一応隣に入れるのだが、三人になると一人余ることになる。
ルイズは当然のように、右隣を主張した。とにかく自分は才人にとって一番で、未来永劫それは変わらなくって、公爵家三女の自分もまあやぶさかでないのだから、これはしかたないのだった。
シエスタも当然左側を主張した。自分はいつも常にお世話をしているのだから、これは当然というわけである。それに他の部屋で寝たらお化けが出る、と真顔で言った。
するとシルフィードがタバサの代わりにすかさず反論した。この子はとてもかわいそうな境遇に育ってきたのであるから、お前ら二人は譲歩すべきだと。それにこの子は、お前ら色ボケと違って、ただそばにいられるだけで幸せという、今時類を見ない、いい子であると。韻竜の世界でも人気者だと。
そんな会議の中、才人は蚊帳の外だった。四人娘がきゃあきゃあわあわあぴいぴいわめくのを、そっと膝を抱えて見守るのだった。
幸せ? と尋ねられたら、だろうね、と答えるしかない、微妙な時間だった。いざ一人の女の子に決めると、なんかモテだす。そういや昔はがっついてたな、あのころは、地味女子にさえチョコを間違えられる俺だったのに……、と遠い過去を振り返り、人生というのは、まことままならないものであることよ、と悟りを開くのだった。
結局、調停者を買って出ているシルフィードが結論を出した。
「わかりました。では、お姉さまは。上」
「上?」
シルフィードは、こくり、と頷いた。
「そうなのね。だって横がお前らにとられている以上、上しかないのね」
「それは、まずいだろ」
と、才人が言ったら、それまで黙っていたタバサが、無表情のままぽつりと言った。
「間違えたの?」
才人は冷や汗を垂らした。正直に間違えたと言えばタバサを傷つける。でも、そうじゃないと言ったらルイズが……。
しかたなしに、才人は頷いた。
「じゃあ、上でいいです……」
「いいですってなんなのね。ありがとうございます、なのね。普通だったらお前みたいなよぼよぼの人間風情が、お姉さまの布団になれるなんて光栄ありえないのね」
そんなことを言いながら、才人の頭をがしがしと噛んだのであった。
さて、そんなこんなで場所も決まり、ベッドに入ろうとしたときのことだった。
いきなり、階下から扉をガンガンとたたく音が響いてきた。
「……こんな夜中に誰かしら?」
「近所の人かな?」
才人がそう言ったとき、シエスタが心配そうな顔になった。
「まさか……、サイトさんを狙っているという……」
ルイズと才人は顔を見合わせた。
そう。
元素の兄弟≠ニ呼ばれる殺し屋……。このド・オルニエールでデルフリンガーを破壊し、そしてガリアでも命を狙ってきた、謎の兄弟。
ガリアの官憲に捕らえられたジャックは、頑なに沈黙を保ち、脅そうが拷問にかけようが、まったく口を開かないという。
才人は、目に凶暴な光を宿らせて、ベッドのそばに置いてある刀を握りしめた。左手のルーンが光り出す。
「デルフの仇を討ってやる」
ルイズも、真剣な顔で杖を握りしめた。
「あっさり片付けてあげるわよ」
タバサも、節くれ立った杖を、無言で握りしめる。
「しかし、あいつらも無謀だな……。今、この家にゃキュルケもコルベール先生もいるんだぜ。飛んで火にいる夏の虫だな」
部屋の外に出ると、すでにキュルケとコルベールも、杖を握ってその場にいた。
才人たちは、慎重に階下に向かい、扉の両脇に並んだ。
ドンドンドン!
再び扉がたたかれる。
才人は手を伸ばすと、鍵を外した。
「あいてますよ」
そう言うと、扉が開き、誰かが飛び込んできた。
「それッ!」
左右から、一斉に魔法が飛んだ。空気のロープ、そしてウィンディアイシクル……。キュルケは巨大な炎の玉を杖の先に作り出した。ルイズは第二陣に備え、エクスプロージョン≠詠唱している。
そして才人は飛びかかり、喉元に刀を突きつけた。
「おとなしくしろ!」
「……あなたたち、どういうつもり?」
高い、不機嫌そうな声が響く。床に転がされた人物の顔が、キュルケの炎に照らされて浮かび上がる。
「エレオノールねえさま!」
真っ青になって、ルイズは絶叫した。
「すいませんでした」
才人とルイズは、エレオノールの前に立たされて、がっくりとうなだれていた。その前に、エレオノールは足を組んで座っていた。エレオノールは怒り収まらぬ様子で、まさに女帝といった風格が漂っている。
キュルケたちは、相手がエレオノールだと知ると、関係ないとばかりに部屋に引っ込んでしまっていた。
「まったく! わたしと殺し屋を間違えるなんて! 言語道断だわ!」
ぷりぷりするエレオノールに、ルイズと才人は何度も頭を下げた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
エレオノールは、そんな風にごめんなさい、と連呼する才人とルイズを交互にねめ回したあと、おなかがすいたわ、と言い放つ。
すぐにシエスタがいそいそと食事を用意する。
はぐはぐ、と料理を口にするエレオノールに、ルイズが恐る恐る尋ねた。
「で、ねえさま、いったい今日はどんな用事でこられたの?」
するとエレオノールは、わずかに頬を染めた。
「まあ、用事ってほどじゃないけど。しばらくここで厄介になろうかと思ってね」
「ええええええええええ!」
ルイズは目を丸くした。
「え? どうして? なんでまた。お姉さん」
「だからあなたにお姉さんなどと呼ばれる筋合いはなくってよ」
エレオノールは、じろりと才人をにらんだあと、
「ま、まあ、たまには郊外の暮らしも悪くないんじゃないかってね」
「アカデミーはどうするんですか?」
「ここから通うわ」
「え? どうやって?」
「竜篭を持ってきたわ。あなたたち、世話をよろしくね」
なんだかその様子に、才人は感じるものがあって、試しに聞いてみた。
「も、もしかして……、おね、いやエレオノールさん、怖いんじゃ……」
するとエレオノールは、びくっ! と肩を震わせた。
ルイズも頷く。
「ああ。そうよねー。あの話。知ってるのわたしたちだけだし……」
ハルケギニア中の風石が、暴走を始めて半分の土地が住めなくなってしまうかも、という情報は、なるほど怖いに違いない。もしかしたら、明日にでも自分の真下の地面が持ち上がるかもしれないのだ。
才人は、昔よくテレビなんかで見た『大地震が東京を襲う!』的なものを思い出した。確かに、ああいう番組を見たあとは、無性に怖くなったりしたものだ。しかも今回は、たぶん確実に起こるのである。
「こ、怖くなんかないわよ」
エレオノールは、首を振って言った。だが完全に青ざめている。そんな素直じゃない態度が、なんだか才人の嗜虐心をくすぐった。
「うそ。怖いんでしょう」
「怖くないってば」
「可愛いとこあるじゃないですか」
つい、気さくにそんなこと言ったら、エレオノールの眉がつり上がった。
「バカにしているの? あなた」
「ねえさまは、昔からなにげに臆病でしたよね」
と、ルイズが言った。
「いいからもう! あなたたちは寝なさい! 子供は寝る時間よ! あと、明日はお話がありますからね!」
そんな風に叫びだしたので、ルイズと才人は慌てて二階へと逃げた。
さて、と気を取りなおしてベッドに入る。ちょこんとルイズが右隣に、シエスタが左隣に、そしてタバサがシルフィードに抱えられ、上にのせられた。
シルフィードは、ベッドのそばに丸くなると、くぅくぅと寝息を立て始める。いいのかなーと思っていると、タバサが顔をのぞき込んできた。
「ん、なんだ?」
「間違いなの?」
結構気にしているらしい。右を見ると、ルイズが猛烈に目を細めてにらんでいる。さて、そんな緊迫した空気の中、エレオノールが部屋に入ってきた。
「ルイズ。わたしはどこで寝れば……、って! なに! あんたたち! ちょっとぉ!」
同じベッドに寝ている四人を見て、エレオノールは絶叫した。
「い、いったい……、あんたたちは……、こ、婚前の男女が……、というかそれ以前の……」
と、エレオノールは泡を吹いてぶっ倒れた。
ルイズと才人は、一階の居間まで再び連れてこられた。当然、お説教である。
「さすがに、いっしょに寝ているなんて思わなかったわ」
エレオノールは、これ以上ないっていうぐらいに怒っていた。
「もう問答無用です。予定は変更。ルイズ、明日いっしょに、ラ・ヴァリエールに帰るわよ」
「……え?」
と、ルイズは青くなった。
「え、じゃないわよ。結婚前にベッドを共にしているなんて、始祖ブリミルがお許しになると思っているの? もう、一から母さまと父さまに教育していただきます」
するとルイズは必死に恐怖に耐えるようにして、言い放った。
「お、お断りします」
「何を言ってるの?」
「わたし、やらなきゃいけないことあるし」
「そうよね……、あなた、担い手≠ナすものね」
それからエレオノールは、深いため息をついた。
「だから言っているの。あなたとそこの彼は、伝説の力≠ニいう絆で結ばれているだけなの。あなたはまだ自分でも自分がよくわかっていないから、そこを勘違いしているの。これからあなたは、大事な仕事をするのだから、きちんとサポートしてくれる男性が必要よ。使い魔と伴侶は、分けて考えなくてはいけないわ」
エレオノールは、真顔で言った。
ここで何か言わなきゃ、男じゃない。才人は意を決して、言い放った。
「お姉さま」
「だからあなたに、お姉さまなどとは……」
「いいえ。言わせてくださいお姉さま。ぼくは確かに、お姉さまからしたら怪しい素性の人間かもしれません。でも、ルイズを守りたい、という気持ちでは、きっと誰にも負けません」
「あなた、さっき何人の女性といっしょに寝てたのよ」
ぐ、と才人は言葉につまった。そりゃあ理由はある。あるけど、それを言ったって始まらないし、なんもしてませんとか言ったって、信じてもらえそうにない。いや、正確に言えばしてる。でも、全部間違いだったり不可抗力だったり……、としどろもどろになっていると、
「その上浮気をかまして、ルイズは家出したんでしょう?」
がっくりと才人は頭をたれた。まさにそのとおりで、才人は何も言えなくなった。
「ねえルイズ。これでわかったでしょう? 彼はね、どうしようもない男なの。こんな男がいいだなんて、何か別の力で操られている証拠だわ」
しばらくルイズは、言葉を選んでいるように感じた。それでも、首を振る。
「帰らないわ」
「ルイズ」
「ねえさま。わたし、もう決めたんです。何があってもサイトについていくって。今までいろんなイヤなことあったの。何度も裏切られるようなことしたし、意地悪もされたし。正直言って、その、趣味がヘンだし。頭わいてるし。でも、でもね?」
ルイズは、才人の腕を握った。
「わたし、この人じゃなきゃダメなの。忘れようと思って、家出もした。でも、忘れることなんてできなかったの。毎日考えちゃったの。今、何してるのかな、とかそんなことばっかり気になったの」
「……ったく。恋は盲目っていうけど、本当ね! でも約束は約束よ。そこのあなた! わたし、あなたと約束したわよね? 貴族の仕草を身につけるって。さあ、やってごらんなさい?」
そういえばそんな約束をしていたことを思い出した。でも、最近はそれどころじゃなくって、練習なんか一つもやっていない。
いや、続けていたところで無駄だっただろうが……。
それでも才人は、一生懸命に一礼をしてみせた。貴族の魂とやらを込めて……。
「…………」
エレオノールは無言だった。才人はわずかに震えた。もしかして、努力が認められてオッケー?
だが、世の中はそんなに甘くなかったようだ。
「全然ダメじゃないの! あのね、公爵家の娘がほしいなら……」
するとルイズは、エレオノールの言葉を遮った。
「許してくれないっていうなら、わたし、名前を捨てるわ」
「はい?」
エレオノールは目を丸くした。
「貴族じゃなくたっていい。名前もいらない。だって、それはわたしが選んだものじゃないもの。感謝はしてるし、愛してもいる。でも、サイトはわたしが自分で選んだ唯一だから」
エレオノールは、口をぽかんとあけて、末の妹を見つめた。
「あなた、ラ・ヴァリエールを捨てるっていうの?」
こくりと、ルイズは頷いた。
エレオノールは、ソファの背もたれに身体を埋めると、はぇ〜〜〜〜、とため息をついた。
「ねえさま?」
「ん。待って。考えを整理するから」
エレオノールは眉間に皺をよせて、親指で額をぐりぐりとやり始めた。それから顔をあげて、ルイズを真顔で見つめた。
「本気?」
ルイズは、真剣な顔で頷いた。
「はぁ」
「ねえさま?」
「あなたがうらやましいわ。わたしには、この男のどこがいいのかさっぱりわからないけど、あなたがいいっていうんなら、きっといいところもあるんでしょうね」
ひどい言い草だったが、才人は心からほっとした。
「ルイズ」
「はい」
「きちんと、父さまと母さまには報告するのよ」
ルイズの顔が驚きに見開かれた。
「ねえさま?」
「あなたはほんとうにわたしにそっくり。頑固でわがままで、絶対に自分の言葉は曲げないんだから。まあ、あとで後悔するのも人生だわね」
「ありがとう! ねえさま!」
ルイズはエレオノールに抱きついた。
「まったく……。ああ、これだけは約束してちょうだい。今日から同じベッドは禁止。いいわね? 結婚前に、ベッドがいっしょなんていけません」
ルイズと才人は頷いた。
「まあ、元々はベッドが一個しかなかったからだもんね」
「それからあなた」
エレオノールは、眼鏡をついっと持ち上げると、才人をにらんだ。
「は、はいっ!」
「明日から、ビシバシ貴族のなんたるかをたたき込んであげるから、そのつもりで。仮にもラ・ヴァリエールの娘を娶ろうというのだから、それなりでは困ります。家柄がない分は、気品で補っていただくわ」
「はいっ!」
才人は最敬礼で一礼した。二人の仲を認めてくれるんなら、どんな難題だってのむつもりだった。
「わかったら、もう寝なさい。ああ、わたしのベッドも用意しておいてね」
二人は頷くと、二階へと戻っていった。
一人残されたエレオノールは、食事につけられたワインをグラスについで、飲み干した。
ほんのりと頬を染め、しばらく空のグラスをエレオノールは見つめていた。
「はう、どこかにいい男いないかしら……」
と、ぼんやりした声でエレオノールはつぶやいた。
二階に上がった才人とルイズは、シエスタのために用意した部屋を、エレオノールに使ってもらうことにした。ベッドもちゃんとあるので、わかるようにそこの扉を開けておいた。
「サイトはどこで寝るの?」
ルイズに尋ねられ、才人は隣の部屋を指さした。
「この部屋で寝るよ。ソファもあるし、しばらくはそこでいいや」
「え? それはまずいわよ」
「いいよ。だって俺、前はずっと床で寝てたんだぜ。わら束ひいてさ」
するとルイズは頬を赤らめた。
「ごめんね」
「いいよ、昔のことじゃねえか。じゃ、おやすみ」
扉を開けて、自分の部屋に入ろうとすると、ルイズが才人のシャツの裾をつまんだ。
「ん? どうした?」
するとルイズは、恥ずかしそうに顔を赤らめ、
「少し二人っきりになりたい」と言った。
そんなルイズは激しく可愛かったので、才人は、ルイズの言うとおりにすることにした。
まったく使用していない部屋だったが、きちんとシエスタやヘレン婆さんが掃除をしておいてくれたらしく、部屋の中には埃一つ落ちていない。
テーブルに置かれた魔法のランプをつけると、淡く優しい光が部屋の中に広がった。
ルイズと才人は、壁際に置かれたソファに腰掛ける。するとルイズはすぐに甘えるように寄り添ってきた。
才人はひどく幸せな気分だった。
さっき……、ルイズが口にした言葉がまだ耳に残っている。この、自分に寄り添う可愛らしい女の子は、先ほど家を捨てる≠ニまで言ってくれた。
初めて会ったときは……、なんてつんけんしててイヤなやつだと思ったものだけど、今ではもう無二の存在になっていて、それが少しおかしかった。
そうやってルイズにもたれて、考え事をしていると、様々な事柄が、人が、頭の中に浮かんでいく。
「どうしたの?」
ルイズが、才人にもたれて目をつむったまま、尋ねてきた。
「ん? ちょっと考え事してた」
「どんなこと?」
「人間って、見えてるだけがホントじゃねえんだなって。こうなんていうか、みんな心に言いたいことがあって、でも言えなくて」
「当たり前じゃない」
「俺、その当たり前がたまにわからなくなっちまうんだよな。さっきだって、エレオノール姉さんが、俺らの仲を認めてくれるなんて信じられなかった」
「そうね。でも、わたしもそうだわ。エレオノールねえさまがわたしにお許しをくれるなんて信じられない。初めてよ。そんなの」
みんな、ほんとの自分を隠してる、と才人は思った。
それには、たぶんいろんな理由があるんだろう……。
そのとき、才人の頭に、ジュリオの顔が浮かんだ。ロマリアの神官。教皇聖下の、いけすかない使い魔。ハンサムで、何を考えてるのかわからなくって……。
「そういやさ」
「ん?」
「ジュリオのやつもそうだな。あいつにも、言いたいこととか、隠してたことがあったんだなあ。イヤなやつで、正直今でも嫌いだけど」
「そうね」
「なあルイズ」
「なぁに?」
「俺、本当のことが知りたくなった。この世界でなにが起こってるのか。どうして俺はこっちの世界にやってきたのか。そして、俺ができることはなんなのか。なにが正しいのか。正しくないのか。俺はもう、そういうのから逃げない。俺にはわからないだの、バカだからだの、理由をつけて投げ出したくないんだ」
ルイズは、何も言わずこくりと頷いた。
「だからルイズ。俺には全部本当のこと話してくれ。思ってることとか。考えてることとか。隠さなくていい。気を使わなくていい。俺にとっては、お前がすべてだ。お前が何を考えてるのかな、とか、傷つけたかな、とか、いやがってはいないかな、とか、思っただけで、俺はもう何も考えられなくなっちまう。つまり、なんだ、止まりたくないんだ。なんか、世界がすごい速さで動いてて……、きっと止まったら死んじまう。そんな気がするから」
ルイズは才人を見つめた。それから、ぷっ、と噴き出した。
「ばかねえ」
「ふざけて言ってるんじゃないよ」
「ううん。違うの。とっくに、わたしはもう思ったことは口にしてるわ」
「ほんと?」
「うん。隠し事なんか何もしてない。昔はしてた。してほしいこととか、自分から言わなかったもの。ううん、言えなかったの」
「でも、今は言える」
こくりと、ルイズは頷いた。そして、優しい笑みを浮かべた。
それだけで部屋の空気が変わり、才人は息が止まりそうになる。いつもはぼんやりしている、生きてる≠チて実感に輪郭がつき、色がついた。
ルイズの口ってすごいかたちがいいな、と思う。そして、どうしてこんなにいい香りがするんだろう。自分をどこかに運んでくれそうになる香り。
ルイズの口が開いた。そして、魔法の言葉を紡ぎ出した。
「キスして」
エピローグ
ガリアとトリステインの国境付近の街道に、その妙な騎乗の一団は現れた。一様に同じ修道服に身を包み、深くフードを被っている。
一行は峠道にさしかかった。この辺りは物騒なところで、国境付近を縄張りにする山賊が、幅をきかせている場所だった。
こういった国と国との境目は、盗賊や山賊が跳梁する場所だ。旅人を襲い、すぐに隣の国に逃げ込む。もうそれで、官憲は手を出せない。
そんなわけで、商人や旅人たちは国境を超えるとき、武装して護衛をつけるのが普通だった。
だが、彼らのような修道僧を狙う者は少ない。僧に手を出すということは、神につばを吐くのと同じだったし、こちらのほうが大きな理由だったが、金を持っていないからだ。
だが、今日の狼たちはよほど飢えていたようだ。
鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた場所に入ったとたん、一行は十人ほどの一団に囲まれたのである。手にはそれぞれ、物騒な得物を握っている。剣に槍、そして銃。
「止まれ」
修道僧は行く手をふさがれ、立ち止まる。剣を握った男たちが近づき、馬から下りろ、と言い放つ。
「どうして馬から下りねばならんのだ?」
先頭の修道僧が、そう言った。すると、山賊たちは笑い転げた。
「そりゃあ、売り物になるからだろ!」
「ということは、お前たちは金がほしいのだな?」
ハルケギニアでの共通語である、ガリア語であったが、独特のなまりがあった。
「あたりまえだろ! 金がほしいから、こうやって一生懸命働いてるのさ!」
すると、真ん中にいた修道僧が、大声をあげた。
「働く? えっと、あなたたちにとって、こうやって他人からお金や物を奪い取るのは、職業の一つなの? それは認められているの? あなたたちは政府に税を支払っているの?」
美しい女の声だったので、山賊たちは色めき立った。
「おい、お前、顔を見せろ」
すると先頭の修道僧が、苛立った声をあげた。
「よせ。金ならやる」
そして、懐から袋を取り出し、地面に放った。一人の山賊がそれに飛びつき、感嘆の声をあげた。
「うお! 砂金だ! しかもこんなに!」
「では通るぞ」
そのまま、修道僧は通り過ぎようとした。しかし、山賊たちはなおも立ちふさがる。
「待ちなよ。俺たちゃ勤勉でね。いただけるもんは全部いただく主義なんだよ。馬も置いてけ。女もだ」
「断る」
「じゃあしょうがねえ。こっちで勝手にいただくぜ」
一人の山賊が、女とおぼしき修道僧に近寄った。
「さて、どんだけ上玉か、調べさせてもらうよ」
山賊の手が、女に伸びた瞬間、先頭の修道僧は厳しい声で告げた。
「そのフードを持ち上げたら、命をなくすぞ。一つしかないものだ。大事にするがいい」
すると山賊たちは、さらに大きな声で笑い転げた。
「坊さんがおれたちをどうにかするってよ!」
剣の先で、山賊はついっと女修道僧のフードを持ち上げた。その下からは、妖精のように美しい女の顔が現れた。
「おい! こいつぁ、値段はつかねえぞ」
山賊たちは色めき立った。
「おい。お前たちは、人を殺したことはあるのか?」
それまで黙っていた、女の隣の修道僧が口を開いた。
「ああ。月に一度は殺めてらあ」
そう言いながら、山賊は女修道僧のフードを、完全に引き下ろした。
「……え?」
フードに隠れて見えなかったものが見えた瞬間、男の思考が麻痺した。
耳が長い……。人間のものじゃない。確か、こんな耳を持つ種族が……。
なんだっけ?
とにかく強くて美しい……。
だが、結論は得られなかった。その前に、男は音もなく飛んできた木の枝に胸を貫かれていたからだ。
「エルフ!」
槍を握った別の山賊が絶叫した。
先頭の修道僧……、アリィーは、再び呪文を唱える。
「森の枝よ。矢となりて、敵を貫け」
口語のスペルに反応し、近くの枝が弾かれたように折れて、高速の矢となって叫んだ山賊に襲いかかる。矢は口に吸い込まれ、山賊の頸椎を貫いた。
銃を持った二人は、エルフめがけて引き金を引いた。
するとルクシャナの左右に控えたエルフが、呪文を唱える。
「風よ。盾となりて我を守れ」
銃弾は空気の盾に阻まれ、ビキンッ! と派手な音を立ててどこかに飛んでいった。山賊たちは我先へと逃げ出した。
「エ、エ、エルフだッ!」
アリィーは悲しげに首を振る。
「枝よ。敵を捕らえよ」
枝が伸び、逃げ出した山賊の腕や足に絡まる。枝の矢が飛び、山賊たちの喉や胸を貫いていく……。
全部が終わるのに、ほんの数秒しかかからなかった。アリィーたちは、山賊たちの死体を、木の枝を己の腕のように操って、森の中へと運んだ。そして、土の魔法を使ってあっという間に埋めた。
すべてが終わったあと、アリィーはルクシャナをしかりつけた。
「おいルクシャナ! 何を考えてるんだ! いきなりあんな質問をするやつがあるか!」
それでもルクシャナは涼しい顔。
「あら? 疑問に感じたら、なんでも質問するのがわたしたち学者の仕事よ」
「まったく……。いくら相手が蛮人の殺人者でも、命を奪うのは気分のいいもんじゃないんだぜ」
「わかった。気をつけるわ」
「そうしてくれ。だいたいなあ、海から行けば、こんな苦労はしないで済んだんだ! 陸路なんて時間もかかるし、第一危険じゃないか!」
「だって、海じゃ何も見られないじゃない。かわり映えのしない海面を眺めながら旅するなんて、ぞっとするわ。海は砂漠より退屈よ」
無邪気な声でルクシャナが言ったので、隣にいた若いエルフの男が笑った。
「これでは、どちらが隊長かわかりませんな。アリィー殿」
「イドリス、なにを言ってるんだ。ルクシャナが隊長に決まってるじゃないか。ぼくたちはお嬢さまの道楽につきあわされる、召使いみたいなもんさ」
苦々しい声でアリィーが言うと、ルクシャナは叫ぶように言った。
「よし! じゃあ命令するわ! 誇りある砂漠の民よ、世界を管理する高貴なる一族の軍団よ。前進せよ! 目標! トリステイン王国、ド・ド・ド……」
ルクシャナは言葉につまった。
「ド・オルニエールだ」
アリィーが、行き先を告げた。
「まったく……、蛮人のつける名前は覚えにくいわ。人も、土地の名前もね」
「きみは学者だろう?」と、あきれた声でアリィー。
イドリスともう片方のエルフ……、マッダーフは、笑い声をあげた。
砂漠の妖精たちは、深くフードを被り直すと、再び街道を進み始めた。
あとがき
こんにちは。ゼロもいよいよ十八巻。いよいよ物語も佳境に入ってきました。
佳境、いいですね。なんか無駄にあせりますね。佳境。作家にとって物語が佳境ということは、つまり人生も佳境なわけで。そろそろ人生というものを、真面目に考えたいな、とか思いながらXBOXでゲームをしたりする毎日です。
しかし、真面目に考える暇もなく、物語というものは勝手に転がり続けていくわけで。いったん勢いがつくと、もう作者にもどうすることもできなく、ライクアローリングストーン、線路は続くよどこまでも状態で、とにかくもう、ほんと、作者のぼくにもゴールの見えない状態であります。
とにかく、新章突入です。よろしくお願いします。
さて、今回新しいキャラクターが登場しました。皆さんお待ちかね、エルフです。よく一般には、エルフというのは森に住む美しい種族という感じなのですが、ゼロ世界のエルフは砂漠に住んでいます。これには理由があって、ぼくのエルフはイスラム世界をモチーフにしているからなんです。ぼくの記憶が正しければ、エルフ=イスラム世界を初めて書いたのは、かの『指輪物語』のトールキン博士なのですが、つまりはオマージュです。
そういったオマージュを積み重ねていると、実際、物語というものは多くの先人たちによって作られたものの延長にあるんだな、という思いを抱かざるを得ません。数々の物語が連なる鎖の先端に、きっといまぼくたちはいるんでしょうね。
おっと。今ここで、編集さんより『面白いこと書け』命令が出ました。実は今、ぼくはメディアファクトリーさんの会議室で、このあとがきを書いています。普通は家で書くんですが、ぼくは原稿が遅いので、いっつもスケジュールをぐっちゃぐちゃにしちゃうので、こういう事態が起こるんです。しかも今回は長いのです。四ページもある。それは、全体のページ数の調整の意味もあるんですが、なんで僕がそんな都合にあわせにゃならんのだと。ページ数考えないお前が悪い? もっともです。ごめんなさい。生まれてすいません。顔が面白いからそれ書けだと? な、な、な、どういうことだ。顔は関係ないだろ顔は。なまりが面白いからそれ書けだと? なんだとコラ表に出ろ。
はぁはぁ、出てきました! やべえ普通に負けた。Sさん喧嘩つえーわ。
でも、面白いこと書けっていわれても困りますよね。じゃあぼくのエルフに対する熱い想いは面白くないのかと。ぼくがどんだけエルフを好きなのか知ったら、泣くぞと。とにかくエルフ編突入です。すでに次巻のサブタイトルも決まっている。
『個人授業〜エルフのひみつ、お・し・え・て・あ・げ・ル』だ。かわいいエルフがー、いっぱい出てきてー、ヤマグチさまにご奉仕する話だ。オウお前かわいいな。ちょっとこっちこい。名前は? エル子? いい名前だ。触るぞ。触るぞ。ほら触るぞ。そこの髪の長いお前。金髪の。そうそうお前。触っていい? 触っていい? 名前は? エル美? いい名前だ。おれのこと好きか? 会ったばかりでわからない? そんな理屈なんかどーでもいいんだよ! もうフィーリングで決めろよ!
そこの小さいお前、足出せ。なんだその長いズボン。喧嘩売ってんのか。やんのか? あ? やんのか? エルフ語で愛してますって言え。エルフのしぐさで、愛のかたちを表現して、おれの納得いくように提示しろ。全裸で。
まあそんなわけで、エルフ編スタートです。お願いします!
最後になりましたが、兎塚さんいつもありがとうございます。もうこの本が出るころには終わってるでしょうけど冬コミがんばってください。今回もイラストいいですね! もうシュミーズの姿がね。シュミーズほしくなっちゃうぐらい、いいですね。ぽちっとな。やべえネット通販怖いわ。どうしよう。
担当のSさんありがとうございます。お、今日は珍しく一言があります。お願いします。「そうですねー。締め切り守ってください」だそうです。ふざけんなマジレスすんな。面白いこと言え。
そして読者の皆さん、ほんとにありがとうございます。ほんとに、こんなに続くとは思ってませんでした。でも現実として続いているのは皆さんのおかげです。これからもよろしくです! あと騎士姫もよろしくです!
ヤマグチノボル
2010年1月31日 初版第一刷発行
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