ゼロの使い魔17 黎明の修道女《スール》
ヤマグチノボル
第一章 才人の絶望
「うう……」
才人が目覚めると、そこは屋敷のベッドの上だった。窓からは昼の光が漏れている。
「だいじょうぶですか! サイトさん!」
「俺……」
朦朧とした声でそう言うと、シエスタが焦った声で尋ねた。
「いったい、昨日なにがあったんですか?」蒼白な顔のまま、逆に才人は尋ねた。
「シエスタ、俺、どうなってた?」
「どうなってたって、あんまりにもサイトさんの帰りが遅いから、わたし捜しに行ったんです。そしたら、街道の横にサイトさんが倒れてて……、ミス・ヴァリエールは見つかったんですか?」
ずきっと後頭部が鈍く痛んだ。その痛みで、才人は昨晩の出来事をありありと思い出す。ルイズを捜しに屋敷を飛び出したこと。元素の兄妹と名乗る二人の男女に襲われたこと。恐ろしいほどの巨大なドゥドゥーのブレイド=Bそして、そのブレイド≠吸い込んでバラバラにはじけ飛んだ……、
「デルフ……」才人はベッドの横に立てかけた日本刀を見て、呟いた。
「デルフさん? あの剣ですか? そういえば、どこにもありませんでしたけど……」
「もういない。バラバラになっちまった」
才人は、気の抜けたような声で言った。シエスタは、まあ、と叫んで両手で口をおおった。あのインテリジェンスソードと、才人の仲の良さはシエスタもよく知っている。
「そんな! デルフさんが、し、死んじゃったんですか……?」
才人は、昨晩のことを語り始めた。一人で飲んでいたら、台所で鍵を見つけたこと。
「ほら、あの……、入れない地下室あっただろ? あそこの鍵だったんだ。地下室の奥にはちょっと小綺麗な部屋があって……、そこはお城とつながってて……、その先には……」
お城とつながっていた。
その言葉で、シエスタは何か気づいたらしい。
はっと驚いた顔になり……、それから思案するように首をかしげた。
「もしかして……」
「じょ、女王陛下がいたんだ……」
「アンリエッタさま……、ですよね。女王陛下、他にいませんものね」
じろりと、シエスタは才人を睨んだ。
「ああ、それで、二人してその地下室に興味を持って……、見にいったんだ。で、二人でその部屋を見物してるところ、どうやらルイズに……」
「見てただけじゃないでしょう?」
そう強い調子で言われて、才人は頷いた。
「なに、したんですか?」
「キス……」
話をそこまで聞いたシエスタは、急に厳しい顔つきになると、才人の頬を思いっきり叩いた。パァーンッ! と乾いた音が、寝室に鳴り響く。
「これはミス・ヴァリエールの代わりです」
ぼんやりした才人の目が、驚きに見開いた。
「で?」
「でって……」
ショックから未だ廃人のような才人は、ぼんやりとした声でシエスタに尋ねた。
「それからです」
才人は言われるがままに、再び語り始めた。ルイズの置き手紙を見つけ、慌てて追いかけたこと。途中で妙な貴族の兄妹にでくわしたこと。馬に同乗したら、いきなり自分を殺しに来たと言われたこと。その兄のほうとの戦いの最中、魔法を吸い込みすぎたデルフリンガーがバラバラにはじけ飛んだこと……。
デルフがバラバラに……、と言った瞬間、才人の中でそれが現実≠ノなった。ショックのあまりぼんやりしていた記憶が固まり、親友の死≠ェ心を満たしていく。才人の両目から、ぽたぽたと涙がこぼれおち、頬を伝った。
「う……、シエスタぁ……、デルフが死んじゃったよぅ……、あんな、あんないいやつだったのに……」
シエスタも目にいっぱいに涙をためて、再びそんな才人の頬を張った。
才人は、驚いた顔でシエスタを見上げた。何か言おうとして、才人の口が止まる。
「なに泣いてるんですか」
「え? だ、だって……」
「泣いてる暇なんかないじゃないですか」
ぐしっぐしっとシエスタは、目の下をこすりながら言った。
「わたしだって、泣きたいです。でも、泣いてる暇なんかないから、泣きません。ミス・ヴァリエールを捜さなくちゃだめじゃないですか。サイトさんが襲われたってことは、もしかしたらミス・ヴァリエールにも危険が及んでいるかもしれないってことです」
才人ははっとした。そうだ、シエスタの言うとおりだ。
「わたし……、ミス・ヴァリエールとサイトさんを取り合っている仲ですけども、それでもミス・ヴァリエールが大好きです。正直憎らしいときもありますし、性格はお世辞にもいいとは言えないですけど、わたしはあの人が大好きです。だってあの人、貴族なのにわたしが同じベッドで寝ててもなんにも言わないんですよ? 恋仇のわたしなのに」
才人はぎゅっと拳を握り締めた。握り締めた拳で、目の下をぬぐう。
「デルフさんが死んじゃって、わたしだって悲しいです。でも、ミス・ヴァリエールに万一のことがあったら、デルフさんに怒られるんじゃないですか? 相棒、なにやってるんだ? って」
才人は頷くとベッドから起き上がった。デルフリンガーの最後の言葉が蘇る。
娘っこに、ちゃんと謝るんだぜ……
「……シエスタの言うとおりだ。こうしてる場合じゃない」
精一杯声に力を込めて、そう言った。でも……、声は震え、身体は倒れそうだった。必死になって自分にこうしている場合じゃない≠ニ言い聞かせ、才人はベッドのそばの日本刀を握り、ベルトに差し込んだ。
シエスタは、そんな才人の手を握った。
「そうです! それでこそサイトさんです!」
「でも、ルイズがいったいどこに行ったのか……、見当もつかないからな……」
「とりあえず、行きそうなところをかたっぱしから当たってみましょう」
才人とシエスタは、すばやく身支度すると、ヘレン婆さんを呼んで留守番を頼んだ。二人の様子にただならぬ雰囲気を感じたヘレン婆さんは、真剣な顔で頷いた。
ルイズが向かったと思われる方向へと、街道を歩いた。
しばらく歩くと、昨晩、ドゥドゥーと戦った辺りまで来た。ところどころ地面が深くえぐられ、ドゥドゥーの魔力の強さをうかがわせた。デルフリンガーの破片を探したが……、見つからなかった。どうやら完全に溶けてしまったようだ。
いったい、あの兄妹は誰に頼まれて自分を襲ったんだろうか……。だが、まあ考えてみれば自分は有名人だ。自分が知らないだけで、誰かの恨みをかっているのかもしれない。というか、平民の自分がここまで出世しただけでも、妬む貴族は多いだろう。
才人は日本刀の柄を握り締めた。誰が自分を襲わせたかなんて、今考えることじゃない。何が襲ってこようが、降りかかる火の粉は払うだけだ。
でも……、今自分は戦えるだろうか? ルイズもデルフもいない、そんな状態で、ドゥドゥーのような強力な敵にかかられたら?
才人の身体を、恐怖と絶望が包んだ。
「……デルフ、俺、お前に頼りっきりだったんだな」
なんだか、自分の身体が自分のものじゃないみたいだった。身体の芯が、ぽっかり抜け落ちたようだった。
駅まで歩き、馬を借りた才人たちは、とりあえずトリスタニアまでやってきた。『魅惑の妖精』亭に顔を出すと、夜の仕込みを行っている最中だった。
「あーらサイトくんにシエちゃんじゃないの!」
そう言って出迎えてくれたスカロンだったが、才人たちの顔を見て顔色が変わる。
「いったい、何があったの?」
「……ルイズを見ませんでしたか?」
才人が死にそうな顔でそう尋ねると、スカロンは目じりを下げて、にやりと笑みを浮かべた。
「あらあら。予行練習でもう怒らせちゃったの? それじゃ、卒業後のスイートホームなんて絶対に無理ね!」
その言葉で、才人は膝をついた。とにかくもう、必死に奮い立たせていた心が、そんな一言であっさりぽっきりと折れてしまったのだ。才人の弱さを責めてはいけない。所詮は、まだ少年なのだった。
「そうです……。こんなんじゃ、新生活なんて絶対に無理です……。ラ・ヴァリエールのご両親にも認めてもらうなんてできないし。俺、いったい何やってるんだろう……。まさか、こんなことになるなんて……」
「まったく。どうせ他の子に鼻の下伸ばしたんでしょ? だから浮気はシエちゃんだけにしときなさいって。いっつも言ってるじゃないの。あらん、言ってなかったかしらん?」
さらに追い打ちをかけようとしたスカロンを、シエスタが止めた。
「スカロンおじさん! やめて! サイトさんは今、親友まで失ってボロボロなんです!」
「親友って?」
「あのしゃべる剣さんです。サイトさん、昨晩誰かに襲われたんです」
しんみりした声でシエスタが言うと、スカロンも真顔になった。
「なるほど……、やっぱり、心配したとおりになったってわけね」
スカロンは、ナマコのように床にのたくる才人を見下ろして言った。救国の英雄も、こうなってはただのろくでなしである。
「だから、一刻も早くミス・ヴァリエールを捜さないと……」
うん、とスカロンも頷いた。それからてきぱきと指示を飛ばす。
「さてさて、ではまずフクロウ便でルイズちゃんの行きそうなところに、かたっぱしから手紙を出すのよ。クラスのお友だち、そして騎士隊のみんな。それからご実家に……、王宮ね!」王宮と聞いて、シエスタの肩がぴくんと震えた。
「……王宮には、いないと思うけど」
「どうして? アンリエッタ女王陛下は、ルイズちゃんと幼馴染みじゃなかったの?」
それからスカロンは、床につっぷしてもうだめだおれはだめだこの世にうまれるべきではなかった時代の継子だド・オルニエールの泥だんごだ腐ったみかんだあ!Myみかんは柳沢きみおだあれはおもしろかった、とわけのわからない自虐の言葉をぶつぶつと呟いている才人と、シエスタを交互に見つめ、かぱっと唇をひし形に開き、脂汗を流して小刻みに震えだした。
「も、もしかして……、サイトくんの浮気の相手って……、いやまさか……、でも昨今のサイトくんの手柄を見るに……、国一番の騎士と、お姫様の密会なんてよくある話で……、でもそれが現実にとなると……、ああトレビアン!」
スカロンは感極まり、後ろにひっくり返った。
「おじさん! しっかり! しっかりぃ!」
シエスタに揺さぶられ、スカロンは夢見るような声で呟く。
「ミ・マドモワゼルは歴史の裏舞台に立ち会っちゃいました! ああ、トレビアンヌー!」
それからすっくと立ち上がり、シエスタの肩をぽんぽんと叩いた。
「シエちゃんも、もしかしたら歴史に残るかもしれないわ。そうなったら、おじさんにいろんなお話をしてね。おじさんそれを戯曲にして、世に出るから」
「いい加減にして! もう!」
シエスタがそう叫ぶと、裏で洗い物をしていたジェシカが、すっ飛んできた。
「どうしたの? なにがあったの?」
スカロンがかくかくしかじかと説明すると、ジェシカは目を丸くして才人を見つめた。
「えええええええええええええええッ!」
スカロンとジェシカは、ひそひそと、これはトリステイン王国最大のスキャンダルよだの、このことが世に出たら王政府がひっくり返るだの、口々に呟き始めた。
「だから、誰にも言っちゃだめだからね! 戯曲にするなんてもってのほかよ!」
シエスタがきっ! と睨むと、二人はやっとおとなしくなった。
「そうね……。なんだか命がいくつあっても足りないようなこと耳にしちゃったわ。誰にも言わないから安心してね?」
「そうして」
「まあ、それはともかく、女王陛下にもお知らせしておいたほうがいいわ。ミス・ヴァリエールは陛下の女官なんだから。いやはや、これはもう大変なことになっちゃったわね!」
そんなわけで、才人は何通もの手紙を書いた。ルイズがそっちに行っていないか? というような内容だ。今は夏休みなので、それぞれの実家に生徒たちは帰っている。ギーシュたち水精霊騎士隊《オンディーヌ》の面々も例外ではない。ルイズの実家では、才人の話を聞いてくれそうなのはカトレアだけだったので、彼女宛に手紙を書いた。カトレア宛の手紙を書いていると、才人は胸が痛んでどうしようもなくなった。カトレアに、ルイズは俺が守ります、と約束したのに……、逃げられてしまったのだから。トリステインには、郵便制度こそないが、フクロウを使った日本の宅配便のような業者が手紙や荷物なんかを届けてくれる。
トリスタニアにあるそんなフクロウ便の事務所の一つに手紙を預けた。二、三日中には配り終えることができるとのことだった。
悩んだ挙句、才人は直接アンリエッタの元に赴くことにした。誰かに襲われたことも、報告する必要があった。
シエスタを『魅惑の妖精』亭に残し、王宮へと向かった。近衛の副隊長ということで、才人はすぐに謁見待合室に通される。
いったい、どんな顔をしてアンリエッタと顔を合わせればいいのだろう? いや……、自分はどういう態度をとればいいのだろう?
俺は姫さまが好きなんだろうか?
アンリエッタを見て美しい≠ニ思わない男はいないだろう。恋の経験の少ない才人にだって、アンリエッタの魅力が並はずれたものであることがわかる。
でも、と才人は思った。
そんなのはただの言い訳だ。だから、その魅力に抗えなくてもしょうがない、と俺は言いたいのか? そんなの最低じゃないか。
謁見待合室の扉が開き、衛士が才人を呼んだ。
「女王陛下が、水精霊騎士隊副隊長ヒラガ殿をお召しです」
才人は立ち上がると、扉をくぐった。そこにいたアンリエッタは、才人の想像とは違った姿を見せていた。何やら思いつめたような顔で、椅子に腰掛け、一通の手紙に見入っている。
才人が現れたことに気づくと、顔をあげ、にっこりと笑みを浮かべた。その笑みには、昨晩見せた艶のある何かは含まれていない。単純に、副隊長の足労を労う笑みだった。才人も、硬く表情をつくった。アンリエッタは、軽く手を振ると人払いをした。扉のそばに立った衛士が退出していく。衛士が立ち去ったことを確認すると、アンリエッタは深いため息をついた。その美しい横顔に、憂いが宿っていく。
「よかった。ちょうどあなたを呼ぼうと思っていたのです」
「俺を?」
「はい……。実は先ほど、ルイズからこのような手紙が届いたのです。いきなりどうしたのだろうと思いまして……」
才人は嫌な予感がした。手紙を読んで、その予感が的中したことを知る。そこには、自分をガリア王との交渉官から外して欲しい、及び司祭の職を返上するとの旨が記されてあった。
「そして、永久に御暇をいただきたいと……」
ルイズは本気で自分たちの前から姿を消すつもりなのだ。
「実は……」
才人がそう切り出すと、アンリエッタの肩がぴくりと震えた。唇をかみ締め、恥じ入るかのように硬く身をこわばらせる。そうすると、女王としての威厳が消え、年相応の少女の顔になる。そういったときのアンリエッタは、どうしようもないぐらいに魅力的だった。それとも、あんな夜を過ごしたあとだから、そう見えるのだろうか。
「あの部屋での一部始終を、ルイズは見ていたんです」
「そう……」やっぱり、といった顔で、アンリエッタはせつなげに目を伏せた。
「悪いことはできないものね」
そんなアンリエッタの魅力から逃れるように、才人はきっぱりと言った。
「……今日はルイズがいなくなったことを報告しに来たんです。でも、自分から姫さまに家出を告げたんですね」
才人は手紙を見つめた。そこにはアンリエッタを非難するような言葉は一言も書かれていない。ただ、暇乞いと、今までの厚遇に関する礼が述べられているだけだった。
これを書いたルイズの気持ちを想像すると、才人は胸を締めつけられる気がした。もう、これっきり会えないのだろうかと思うと、才人はどうしようもない気持ちになった。
「ルイズが行きそうな場所に心当たりはありますか? 一応、クラスメイトや仲間や、ラ・ヴァリエールには手紙を書いたんですけど……」
思いつめたような顔で、アンリエッタは言った。
「……女性が身を隠すとなれば、修道院と相場は決まっております。国内の修道院に触れを出して、ルイズらしき女性が門を叩かなかったかどうか尋ねてみます」
「俺は、とりあえず……、国中を捜してみます」
そう言うと、アンリエッタは苦しそうな声で応えた。
「……ですが、国事は国事。ガリア女王即位祝賀園遊会までには、戻っていただかないと」
しばし考えたが、才人は頷いた。仕事は仕事だ。それは、やらなくちゃいけないことだ。ルイズの分まで、自分ががんばらなければならない。
でも、もしルイズが見つからなかったら……。そんな状態で、うまく仕事が務まるのかどうか、自信がなかった。まあ、以前どおりのタバサなら、自分に胸襟を開いてくれるだろう。
「はい。とりあえず、期日までには戻ります。それまでに見つかればいいんですが……。海に落ちた宝石を見つけるようなものですから」
宝石という言葉を聞いたとき、アンリエッタはしめやかに目を閉じた。それでも、落ち着いた声で言った。
「そうですわね。ルイズにとって、あなたは宝石……。そしてあなたにとっても。わたくしは過ちを犯したのですわ。でも……」
アンリエッタは顔をあげると、きっぱりと言い放った。
「後悔はしておりませんわ」
才人は思わず息をのんだ。アンリエッタはたおやかな手を胸の上に置き、彫刻のように形のいい唇を緩やかに結んでいる。あのとき感じた妖艶な色気は微塵も感じられない。ただ、強固な意志の力が……、女王として鍛えられた精神の強さが、その全身から発せられている。凛々しい、毅然としたその態度に才人は激しく心打たれた。
太陽の明かりの下で見るアンリエッタは、聖女のように美しかった。
この人は、夜と昼の顔を持っている
自分の意志とはかかわらずに、その二つをアンリエッタは自由に引き出せるのだ。
こんなに魅力的な女性がいるんだろうか?
才人ははっ! と気づく。そう感じた自分を強く恥じる。自分のこの気持ちが……、ルイズを失わせたんじゃないか……。
最低だ
才人は心の中で呟いた。
俺は最低だ
そう思いながらも、目の前の女性に惹かれる自分が、才人にはゆるせなかった。
第二章 逃避行
ルイズはとぼとぼと街道を歩いていた。屋敷を出るときに乗ってきた馬は、ド・オルニエールを出るときに、近くの農家に預けてきてしまったので、徒歩である。
トリスタニアと、西シャンルー地方に出るヴェル・エル街道の分岐点で、ルイズは一旦迷った。首都のほうが身を隠しやすいが、誰に出会うとも限らない。地方に向かえば、目立ってしまうが行き先がばれる心配は薄い。したがってルイズは、西シャンルー地方へと足を向けた。
才人たちは、トリスタニアに向かったので、この分岐点はまさに運命の分かれ道だった。
夜通し歩き続けて、日が昇るとルイズは街道沿いの木陰で眠った。目を覚ますと、ちょうど昼ごろだった。さんさんと照りつける太陽を見て、ルイズは激しい悲しみに襲われた。
もう、わたしが帰る場所はないんだ
才人も、アンリエッタも……、誰も自分を必要としていない。
当然だわ
ルイズは、そう思った。
虚無の担い手などと言われながら、わたしはほとんどそれに値する仕事をしてない。いつも足を引っ張ってばかり。おまけに随分とサイトを困らせることもした。愛想を尽かされるのも、当然だわ
実際にはそんなことはまったくないのだが、昨晩の才人とアンリエッタの姿を見てしまっては、もうルイズに自分を信じることはできなくなっていた。
ただ、大きな無力感と悲しみだけが、ルイズの全身を包んでいた。
うつむいて、ルイズは涙をぼろぼろと流し続けた。通りがかった農夫が、大丈夫ですかな、お譲さん、と問いかけてきたが、ルイズは返事もせずにただ泣き続けた。
通りゆく農民や旅人が、そんなルイズを怪訝そうに見つめては、幾人も通り過ぎて行った。
どれぐらい泣いただろうか?
夕方ごろには、悲しみは深い虚無感へと変わっていった。
さあ、どうしよう
帰る場所もないけれど、行くあてもない。実家に戻ることも論外だった。というかもう、知っている人間には会いたくなかった。
かといって、ここにいてもしかたない。すっかり気の抜けた顔で、ルイズはまた歩き出した。ド・オルニエールから離れるために……。
その日の夜に到着した最初の宿場町で、ルイズは宿をとった。ボロボロの旅籠だったが、一応個室があった。三日ほど、ルイズはそこで泣いて過ごした。そのうちに、涙も出なくなる。
三日目の朝、ルイズは冷たい水で顔を洗った。そうすると、頭が少しすっきりとした。すべてのポケットを探ると、百エキューほどお金が入っていた。他に持ってきたのは着替えが少しと、わずかな日用雑貨。それと杖と始祖の祈祷書と水のルビーのみ。
この木賃宿の宿代は一日半エキュー。食事代は切り詰めてその半分。となると、四か月ぐらいはここで暮らせる計算になる。でも一か所にいるわけにもいかない。やはり、どこかの修道院にでも潜り込むのが、一番いいのだろうか?
「でも、そんなのすぐに見つかっちゃうわ」
ルイズは深いため息とともに、呟いた。
自分は生活のためにお金を稼いだことなどない。家出をしてみたけれど、どうやって生活すればいいのだろう?
そこまで考えて、ルイズは首を振った。
「どーでもいいわ」
そう。もうどうでもいい。こうなったらなるようになってやる。ルイズはごそごそと荷物の中から手鏡を取り出して覗き込んだ。鳶色の目はどんよりと濁り、乾いた涙が頬にこびりついている。髪はよれよれで、ここ数日櫛も入れてなかったのでところどころ軽くカールした髪が飛び出していた。唇は色を失い、着たっきりのシャツはよれよれであった。こうなっては天下の美少女も台無しであった。
「……散々ね。ルイズ・フランソワーズ」
ルイズは深くため息をついた。
「あなたのあだなにぴったりの顔じゃないの。ゼロ。ゼロのルイズ。……そうね、もともとわたしはゼロ≠セったんだわ。何もなかった。初めっから、こうだったのよ。伝説の担い手だの、アクイレイアの聖女だの、さんざん持ち上げられたわたしなんて、しょせんはこれだけの女なんだわ」
ははん、とルイズはせせら笑った。
「そりゃ、サイトも姫さまにもなびくってものよね」
そう呟くと、どうしようもない虚無感が心を覆っていく。寂しいのだけど、なんだかもう、心はぴくりとも動かないのだった。
「とりあえず、お酒でも飲もうかしら……」
ルイズは、階下の居酒屋で酒を飲むことにした。さすがは木賃宿。ギシギシと床はきしみ、テーブルは埃と食べかすだらけ。椅子の間を鼠が走り回っている。どう見てもやんごとない身分に見えるルイズはこの宿で、すでに噂になっていたらしく、そこにいた客たちは一斉にルイズを見つめ、ニヤニヤと笑みを浮かべた。
そんな視線を意に介した風もなく、ルイズは初老の酒焼けした主人にワインを注文した。主人は胡散臭げにルイズを見つめ、
「三日もお泊まりになっていただいて言うセリフじゃねえが、この宿は貴族のお嬢さんが、お使いになられるような場所じゃありませんぜ」
ルイズはそこで、周りを見渡した。好奇心むき出しの顔で、ろくでもない男たちが自分を見つめているではないか。
こんなところで酔っ払っていたら、あっという間に噂が広まり……、自分がここにいると宣伝しているようなものだ。
まったく、お酒を飲むのも大変だわ……、とぶつぶつ呟きながら、ルイズは宿を出た。
次にルイズが立ち寄った場所は、トリスタニアから二日ほど離れた場所にある、シュルピスという宿場町だった。伯爵が治めるこの街は、何個かの街道が繋がる、かなり大きな街であった。しばし身を隠すにはうってつけの場所である。
その宿場町でルイズは一計を案じた。
宿をとると、持ってきた衣装の中で、一番派手なものを取り出した。そして、『魅惑の妖精』亭にいたときに買い求めた化粧道具で、いかがわしいメイクを施した。化粧道具の底に、タバサを救い出す際、変装するために使った魔法の染料が残っていることに気づき、ルイズは目立つ桃色がかったブロンドの髪を、くすんだ茶色に変えた。
「これで、わたしも立派な夜の女だわ」
衣装も化粧も、まったく似合っていないが、ルイズは満足した。これで誰も自分が貴族の娘だなんて思わないだろう。
夕方になると、しゃなりしゃなりと、ルイズは腰をくねらせながら酒場へと向かい、ワインを注文した。主人は胡散臭げにルイズを見たが、それでも黙って注文の品をよこした。
ルイズはコップにワインを注ごうとして、思い直す。今の自分は貴族のお嬢さまなんかじゃない。おとなしく酒が飲みたかったら、それなりの演技をせねばならない。
「そうそう。わたしみたいなろくでなしは、壜《びん》から飲むのよ」
ワインの壜を掴み、ルイズは直接口をつけ、そのままぐびぐびと飲み干した。一気に三分の一ほど飲み干し、激しくせき込んだ。
「げほ! げほげほ!」
あっという間に顔が真っ赤になっていく。あまり酒に強くないルイズは、恨めしげにワインの壜を見つめた。そうしていると……、才人の顔がワインの中に浮かびだす。
「あんたなんか大っきらい」
目を細めてそう呟き、ルイズはワインを再び一口流し込んだ。でも、酔いが回り始めると、思い出すのは才人との楽しかった日々ばかり……。
呼び出した日のこと……、ゴーレムから救い出してくれたこと……、初めて踊った晩餐会……。そして、初めて唇を重ねたときのこと。
胸躍る思い出が、鮮やかに蘇ってきて、ルイズはせつなくなった。
「忘れるわ。忘れなくっちゃ。ろくでなしは、思い出なんかに縛られないのよ」
ルイズは再びワインを一口飲んだ。奥のほうで、若い酔った男が立ち上がり、そんなルイズに近づいた。あまり人相のよろしくない顔だった。
「お譲ちゃん、いい飲みっぷりじゃねえか。俺にも一杯くれねえか?」
酒臭い息でそう言われ、ルイズの目がつりあがる。
「あっちに行きなさいよ」
まあまあそう言わずに……、と肩を掴んできた男を、ルイズは思いっきり蹴飛ばした。
「このわたしを誰だと思ってるの! おそれおおくもこうしゃ……」
そこまで言って、ルイズは言葉を切った。自分が貴族だとバレるわけにはいかない。いきなり蹴飛ばされた男は、目に怒りを宿らせてルイズを睨んだ。
「おそれおおくもなんでえ」
「た、ただの夜の女よ。ろくでなしともいうわね。うおっほん」
ルイズは手を曲げて、顎の下に置き、精一杯に夜の女を演じてみせた。
「だったらなおさら酒の相手をしろって言うんだ」
まあ、もっともだった。
「ふざけないでくださる? 誰があんたの酌なんか……、きゃっ!」
ルイズは悲鳴をあげた。男がルイズの手を掴んだのだ。
「離して! 離しなさいよ!」
魔法を唱えようにも、杖は部屋に置いてきてしまった。じたばたと暴れたが、屈強な男の力に抗うすべはない。
「どこのガキだかしらねえが、生意気な娘だ。すこしばかりお仕置きしてやる」
男はずるずるとルイズを酒場の外に引きずっていこうとした。主人や他の客は、とばっちりを恐れてか見て見ぬふり。とうとうルイズは、酒場の外まで連れ出される。
「離しなさいってばぁ!」
ルイズは、そう叫ぶと男の手に思いきり噛みついた。脂臭《やにくさ》い手の味に、ルイズは思わず吐き気を覚えた。
「あいだッ! なにしやがんでぇ!」
男は跳び上がり、ルイズに向かって拳を振り上げた。
「助けて! サイ……」
思わず才人の名前を呼びそうになってしまい、ルイズは怒りに燃えた。
「あんたなんかだいっきらい!」
「上等だ!」
男の拳が飛んできて、ルイズは身をすくめた。だが、男の拳がルイズを襲うことはなかった。空気の塊に弾き飛ばされ、男は地面に転がったのである。
「見てられませんわ見てられませんわ見てられませんわ」
そんなことをぶつぶつと呟きながら、暗がりの中から一人の少女が現れた。白いフリルがたくさんついた黒のドレスに身を包んでいる。黒い頭巾の中の、人形のような白い顔の中、鋭い翠眼が光っていた。
「な、なんでぇ! 貴様!」
男は立ち上がると毒づいたが、少女の握った小さな杖に気づいて顔色を変えた。
「き、貴族……」
「あら? わたしは貴族じゃありませんわ。でも、メイジだから魔法が使えるの。あなたにとってみれば、どちらでも同じことでしょうけど」
にやっと少女は笑みを浮かべた。すると、鬼気迫る何かがその端正な顔に浮かび上がる。男は、「くそっ!」と舌打ちすると、その場を離れていった。
ルイズはしばらく呆けた顔をしてたが、慌てて少女に頭を下げた。
「あ、危ないところをありがとう……」
「いいのよ。大丈夫? 怪我はありませんこと?」
ルイズは首を振った。
「あなた、ここでお酒を飲んでいらしたの?」
少女は酒場を指差した。こくりとルイズが頷くと、
「じゃあ、わたしもここでいただこうかしら。あなた、付き合ってくださる? 一人のお酒って、なんだか気が滅入るじゃない」
「え?」
一瞬ルイズは戸惑ったが、返事をする前に少女はつかつかと店の中へと入っていったので、慌ててあとを追いかけた。
「わたしはジャネットというの。あなたのお名前は?」
乾杯のあと、ジャネットと名乗る少女はルイズにそう尋ねた。ルイズはジャネットを、じっと見つめた。まるで血が通っていないかのような白い肌。人形のような顔に、その服装。年は、自分とあまり違わないように見えた。
だが彼女は……、魔法が使えるのに貴族ではないという。傭兵か何かだろうか。
でも、その格好を見るに、とても傭兵には思えない。いったい、何者なんだろう?
ルイズが胡散臭げに自分を見ているのに気づき、ジャネットは笑みを浮かべた。
「だいじょうぶよ。あなたをどうこうしようなんて思っていませんわ。わたしはただ、ちょっと暇つぶしの相手が欲しいだけなの」
怪しいことは怪しいが……、確かに他意はなさそうだった。とにかく、自分のことを知っているようには見えない。
それにルイズはこの少女の纏う、どことなく危険な空気に惹かれた。年は自分とあまり変わらないように見えるのに、このようないかがわしい酒場でも臆する風もなく落ち着いている。周りの客も、チラチラとたまにこちらを盗み見ているが、先ほどのように絡んでくるやつはいない。どうやらジャネットの持つ雰囲気に呑まれているようだった。
「わたしは……、ヴァネッサ」
さすがに本名を名乗るわけにもいかず、ルイズは偽名を名乗った。かつて流行った女優の名前であった。ちょうど、壁に幾人もの女優に交じって、彼女の肖像画が貼られていたのだった。
ジャネットはルイズの顔を覗き込んだ。
「なんだか、どこかで出会ったような気がするんだけど……、気のせいよね」
つい五日ほど前、ルイズとジャネットはド・オルニエールの街道ですれ違っている。目標《ターゲット》だった才人が、追いかけていた女の子、それが目の前のルイズだった。
だが、中止になった任務のことなど、ジャネットの頭の中から消えていたし、ほとんど髪の色しか覚えてないので、魔法の染料で髪を茶色に染めた目の前の少女が、あのときの女の子と同一人物だとはまったく気づかなかった。
ルイズはルイズで、それどころじゃなかったので、覚えていようはずもない。というか、あのときはジャネットたちとすれ違ったことにさえ、気づいていなかった。
「そうだと思うわ。わたし、あなたのこと全然知らないもの」
なんらかの理由で、自分を捜しにきた人物かしら? とルイズは考えた。ロマリアの密偵か、才人たちが自分を捜すために放った探偵の類だろうか? と見当をつけたのである。
でも、それならば『会ったような気がする』なんて言わないはずだ。あくまで無関係を装おうとするだろう。
ジャネットのその言葉が、逆にルイズの信頼を得た。
その上……、ルイズは誰か適当な話し相手が欲しかった。それほどに寂しさが募っていたし、一人酒にもうんざりだった。目の前の気さくなミステリアス少女は、暇つぶしの話し相手にはうってつけのように思えた。
「もう一度、お名前をうかがってもいいかしら?」
「ヴァ、ヴァネッサ」
「偽名ね? あなた、嘘をつくのが相当お下手のようね」
「ぎ、偽名じゃないわ……。ろくでなしのヴァネッサ。札付きの悪女よ。この辺りじゃちょっとしたもんなんだから!」
すました顔で、ルイズはワインを飲んだ。
「あなた、貴族じゃないの?」
ルイズはぶほっ! とワインを噴き出した。
「違う。あくじょ! あ! く! じょ!」
「全然悪女なんかには見えなくってよ。だってあなた……」
ジャネットはルイズの頬をぺろっと舐めあげた。
「殿方を知らないでしょ? 匂いと味でわかりますわ。箱入りの貴族娘の味がするもの」
ルイズはさらに顔を真っ赤にさせた。味でわかるって……、どういうこと? とその妙な鋭さに感嘆したが、質問による羞恥がそんな疑問を上回った。
「し、知ってるもん! 毎日いっしょに寝てたもん!」
「でも、抱かれたことはないんじゃなくって?」
さらにジャネットは顔を近づけてきた。
「そんな貴族のあなたが、こんなところで妙な格好をして、お酒を飲んでいる。ということは、つまりあなたはその殿方に振られた。それとも、浮気の現場でも目撃しちゃった? いやいや、もしかしたらあなたの片思い? いてもたってもいられなくなって思わず家を飛び出した。捜索隊の目をくらますために、そんな格好で変装したつもりになってる。そんなとこじゃなくって?」
ずばり言い当てられて、ルイズは頭が真っ白になった。それでも必死に取り繕う。
「ば、ばかじゃないかしら。占い師なら間に合ってるわ。よそでやりなさいよね」
「ごまかさなくてもいいじゃない。年頃の娘が家出をするなんて、理由は二つ。失恋か、ご両親とケンカしたか。そのどちらかしかありえなくってよ。で、ご両親とケンカでは、やけ酒とはいかないわね。つまり失恋。でしょう?」
ジャネットは、きゃっはっは、と大声で笑った。どうやらこの黒白美少女は、かなり鋭いようだ。ルイズはふん、とそっぽを向いた。
「だったらどうだっていうの? このあばずれのヴァネッサ姐さんは忙しいの。あんたみたいな暇人を相手にしている場合じゃないのよ。さっきはありがとう。それじゃ、失礼するわ」
なんだかその鋭さに、ルイズは妙な不安を覚え、立ち上がろうとした。
すると、ジャネットに腕を掴まれた。ジャネットはただじっとルイズの目を覗き込んでくる。その絡みつくような眼光に、ルイズは気圧された。
「あなた、気に入ったわ」
ルイズの胸が、思わず一瞬高鳴った。その高鳴りを、ルイズは必死に抑えた。な、なによ……、相手は女の子じゃないの……。
それでも、ジャネットはある種の魅力を放っていた。危険な中に、人懐こい何かがあるのだった。そんな人間に会うのは初めてで、ルイズは改めて彼女に興味を覚えた。
危険だろうがなんだろうが、関係ないじゃない。もう、どうなったってかまわないもの<泣Cズは再び椅子に座った。
「じゃ、乾杯」
ジャネットは、杯を合わせた。
「へえ、そう。親友だと思ってたお友だちに……、それはショックだわね」
「そうよ。あの女……、色気だけは一人前なのよ。仕事はたいしてできないくせに、大したタマだわ! そしてあのばか……、ああゆう危険な色気にはばかみたいに弱いのよ。まあ、ばかだからしょうがないのよね」
へろへろになりながら、ルイズはありのままに語った。すでにアンリエッタはあの女′トばわりである。
「こ……、こうやってベッドの上で抱き合ってたわ。こうやって! がっしりと! 冗談じゃないわ! んな、な、なんなのよぅ〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!」
ルイズはがしがしと床を踏みつけた。
「それからこ、ここ、こんな風に唇を……、どーなってんのよぅ〜〜〜〜〜〜ッ! あんなうっとりしてぇ〜〜〜〜〜〜〜ッ! 信じられないッ! よくも……、よくもよくもあの女……、親友≠ニかさんざん言ってたくせにぃ……。どこが親友なのよ男とるのが親友だってんなら確かに親友ねとゆーかあっちこっちでフェロモンばらまいてんじゃないわよ正直迷惑なのよそんなヒマあるなら仕事しなさいよそういうのは一人部屋にいるときだけおやんなさいよああそうよお好きなだけばらまきなさいってなもんよ」
ふつふっと怒りがわいてくる。話し始めると、ルイズはもう止まらなかった。次から次へと、呪詛の言葉を吐き出し続けるのだった。
ついで怒りをなだめるように、ルイズはワインを喉に流し込む。まあ、べろんべろんになったからといって、二人の名前を言うほど愚かではなかったが。
そんなルイズをニヤニヤしながら見つめていたジャネットは、
「女同士の友情なんて、はかないものだわ」
「そうね。……ほんとにそうね」
「いいじゃない。わたしがお友だちになってあげるわ」
ジャネットは、ルイズに顔を近づけた。ルイズはちょっとたじろいだ。この子……、まさか、違うわよね?
なんか、話に聞くじゃない?
女なのに、女の子が好きな……。
「あ、あなたは何をしている人なの?」
話題を変えるように、ルイズは尋ねた。それに、気になってもいた。
「そうね……、なんと言ったらいいのかしら。まあ、なんでも屋みたいなものかしら?」
「なんでも屋?」
「ええ、そうよ。頼まれれば、たいていのことは引き受けるわ」
意味ありげに、ジャネットは笑った。なんでも屋? なにそれ。いったい何者なんだろう?
「一人でやってるの?」
「兄弟でやっているわ。今もちょうど、上の兄たちが仕事の交渉をしているの。わたしはこの宿場街でひとりで待つように言われたのよ。まったく! 兄さまたちったら、未だわたしが子供だと思っているのよ! 失礼な話だわ!」
ジャネットはむくれてみせた。そんな様子に、ルイズは親近感を覚えた。自分も、家族たちに子ども扱いされて怒ったことがあったっけ……。
だが、そんなことも、遠い昔のように感じる。涙を流しつくしたあとは、そういった思い出たちも……、誰かの物語の中のように感じるのだった。
物思いにふけっているルイズに視線を戻し、楽しげな声でジャネットは言った。
「あなた、何かして欲しいことある?」
「え?」
「例えば、復讐とか……。あなた、気に入ったから特別に安くしてあげる」
「何言ってるの? 冗談言わないで」
「冗談じゃないんだけどなぁ……。じゃあ、あなたはこれからどうしたいの?」
ルイズは、ため息混じりに呟いた。
「そうね……、誰もわたしのことを知らない土地に行って、誰にも邪魔されずにひっそりと過ごしたいわ。でも、そんなの難しいわよね」
するとジャネットは、ちょっと待って、と言って考え込み始めた。
「んー、確か、そんな場所があったと思うけど……、どこだったかしら?」
「ほ、ほんと?」
思わずルイズも食いついた。
「昔、そこにとある貴族の隠し子を運んだことがあるのよ。きっと、あなたの言う『ひっそりと暮らしたい』という条件にぴったりの場所だわ」
「どこにあるの?」
「んー、どこだっけ……。よく覚えてないのよ。兄さまたちに聞けばわかると思うわ。二、三日の間に来ると思うから、ここで待っていましょう」
第三章 仲間と出会い
一週間ほど経つと、トリスタニアの王宮に、手紙の返事と共に水精霊騎士隊の面々が集まり始めた。『ルイズを見なかったか?』という才人の問い合わせに、驚いて飛んできたのである。トリステインの西の端にあるグラモン領からやってきたギーシュは、家の竜籠を使って飛んできたのでそれほど遅れずに到着した。
宮廷の前庭に降り立つと、今や全魔法衛士隊の隊長となったド・ゼッサールがギーシュを出迎えた。
「グラモン殿。いいところに来られた」
「いったい、何があったんです? なんでも、ルイズがいなくなったとか……」
「わしにも何がなんだか……。とりあえず彼女はほら、国家の機密にかかわる人物だろう? したがって、内密に捜査を命じられたのだが……」
「見つかってないんですね?」
こくりと、ド・ゼッサールは頷いた。
「で、サイトはどこにいるんです?」
「はぁ、で、貴殿の副隊長なのだが……、それがちょっと参っておってな」
「参っているとは?」
「なにやら中庭で、怪しげな儀式を行っているのだよ。当人は、煩悩がどうのこうのと言っておるが……」
ギーシュは首をひねった。いったい、才人までどうしてしまったというのだろう? とりあえず事情を詳しく聞くために、ギーシュはまずは中庭へと向かった。
ギーシュが中庭につくと、そこにマリコルヌとレイナールとギムリがいた。彼らの実家は近いので、早々に到着したらしい。
「やあきみたち。サイトはどうしたね?」と尋ねると、マリコルヌが指差した。
中庭の真ん中に、才人が頭に白い鉢巻をまいて正座していた。そんな才人の周りには、丸太が何本も立っている。ちょっと離れたところでシエスタが神妙な顔でやはり正座をしていた。
「あいつは、何をしているんだね?」
「ぼくにもよくわからん。なんでも、心身を鍛えるためとかなんとか」
しばしの時間が流れた。見守るギーシュたちにも、なんだか張りつめた空気が届く。ごくり、とギーシュが唾を飲み込んだ瞬間……。才人の肩がぴくりと動き、その右手が左腰につけた剣に伸びた。
手が剣に触れた刹那……、才人は上体を起こし、片膝立ちになった。同時に、才人の右手が消えた。ひゅんっ! と何かが空を切る音が聞こえ、才人の四方に置かれた丸太が震えた。最後に、ちん、と乾いた音がした。剣を抜いたのかと思いきや、鞘におさまったままである。
ほんの瞬きするぐらいの間だったので、いったい何が起こったのか、見物していたギーシュにはまったくわからなかった。
「なんだね? あれは」
「あいつ、目にもとまらぬ速さであの剣を抜いて、丸太を斬ったんだ」
驚くことに、斬られた丸太の上半分は地面に落ちることなく、その下半分の上に鎮座していた。上半分と下半分がわずかにずれていることから、四本の丸太が見事切断されたことがわかる。
「抜いた? だが、剣は、鞘におさまっているじゃないかね」
とぼけた声でギーシュが言うと、レイナールは首を振った。
「剣を抜いて、丸太を斬って、鞘におさめたんだよ。なんでも、あいつの国の剣技らしい」
瞬きするほどの時間の間に、才人はそれを行ったらしい。なるほど、さすがは剣の名人だとギーシュは感嘆したが、
「まあ、すごいといえばすごいが、その剣技とルイズの失踪と、煩悩とが、どう関係しているんだね?」
「知るもんか」
次に才人は正座へと戻る。シエスタが立ち上がり、ととと、と駆け寄って額の汗をぬぐう。
そろそろよかろうと、ギーシュたちは才人に近づいた。
才人は近づく友人たちには目もくれず、ただじっと目をつむっていた。
「やあサイト。いったい何があったんだね? ルイズが消えたそうじゃないか」
「いつもしょってる剣はどうした? なんだか見たことのない剣をさしてるけど……」
才人は唇を噛んだ。
「デルフ……。あいつは……、俺をかばって……。くそっ!」
「かばって? どういうことだ?」
「ああ……、戦いの最中、魔法を吸い込みすぎて……」
「なんだなんだ! 穏やかじゃないな! いったい誰に襲われたんだ!」
少年たちは、才人に詰め寄った。
「わからん。ただ、メイジの二人組だった」
才人がそう答えると、少年たちは、むむむ、と頷いた。
「ふむ、誰かの雇った刺客だろうな。まったく、最近のきみにはなんだか敵が多そうだからなあ……」
「有名人だしな」
「それと、ルイズの失踪は関係してるのかい?」ギムリが、心配そうな声で尋ねた。
一同は神妙な顔になって、才人を見守る。才人は拳で地面を叩いた。シエスタが、そんな主人に代わって口を開いた。
「いえ。サイトさんが襲われたことと、ミス・ヴァリエールの失踪はまったくの無関係です」
「じゃあ、ルイズはどうして姿を消したんだね?」
「サイトさんがとある高貴な女性と、唇を重ねているところを、ミス・ヴァリエールが目撃したのです」
シエスタはその自分の言葉で、何やら逆上したらしい。ぎろりと才人を睨むと、しゃがんでその顔を覗き込んだ。
「ねえ、サイトさん。気持ちよかったですか?」
「心頭滅却煩悩退散心頭滅却煩悩退散心頭滅却煩悩退散……」
才人はぶつぶつとそんなことを呟き続けている。
「よかったに決まってますよね。あのお方、あんなにきれいなんだものね。あんなに色気がすごいんだものね。わ、わたしより胸だって大きくってスタイルもよろしくていらっしゃるものね」
シエスタは才人の首を絞めあげた。
「う、浮気はわたしだけにしてくださいねって! 言ったのにッ! やくそくしたのにッ! なんでサイトさんは高貴が好きなんですかぁ! 野に咲く可憐な花の良さだってもっと知るべきですッ!」
「で、いったい相手は誰なんだ?」きょとんとした顔でギーシュが尋ねた。シエスタは、目を細め、たらりと冷や汗を流した。ギーシュが真実を知ったら卒倒するに違いない。
二人が答えないので、やれやれとギーシュは両手を広げた。
「ま、誰でもいいさ。きみはほんとにどうしようもない男だなあ。少しはぼくを見習いたまえ。少しは」
ギーシュがそんなことを言ったので、レイナールが呆れた声で突っ込んだ。
「きみを見習った日には、ルイズは毎日家出しなきゃいけないだろうよ」
才人はシエスタをいなすと、ゆっくりと立ち上がった。それから、ギーシュたちにぺこりと頭を下げる。
「とにかく、わざわざ来てくれてありがとう」
泣きだしそうな苦しい笑顔で、才人は言った。努めて爽やかさを演出しています、とそんな声だった。
「いや、まあ、どうせ暇だったし……」
「で、ルイズはお前たちのところに行ってないんだな?」
「ああ」
「これで今のところ全滅か……。シエスタ、トリスタニアの宿は全部当たったっけ?」
「はい。修道院も。全部」
この七日間というもの、才人は居合で精神を清めたつもりになったあと、トリスタニアの宿という宿を捜しまわっていたのである。暇な兵隊も駆り出されたが、ルイズの影さえ掴めなかった。それもそのはず、ルイズはトリスタニアとは逆の街道を行ったのだから……。
才人が出した、ルイズを見なかったか? という手紙の返事も、芳しくないものばかりだった。一様に、見ていない、とのこと。
カトレアからの返事も届いていた。彼女には隠し立てをするつもりはなかったので、すべて正直に書いた。彼女の返事も、こちらには来ていない、という内容だった。
ルイズの身を案じていること、両親にも報告したところ、あの子のことだから、すぐに戻ってくるだろう、と楽観していること、でも、ことがことだけに自分にはそうは思えない、早くルイズをなんとか見つけ出して欲しい……。
その返事を読んだとき、才人は涙を流した。とりたてて才人を責めるような言葉は書かれていなかったからだ。
自分のしでかしたことで、いろんな人たちに心配をかけてしまったのだ、ということが重く肩にのしかかってきた。
そんな才人は自分たちだけで捜しますと言ったが、アンリエッタは取り合わなかった。ルイズはただの女官ではない。トリステインのみならず、ハルケギニアにとってその存在自体が重大な、虚無の担い手だ。もし、ロマリアにさらわれでもしたら、一大事である。したがって、手すきの警邏の貴族を使って、捜索隊が編成された。
彼らはトリスタニア市街と、主だった街道沿いを探索している。
そんな立場を考えれば、ルイズは自分の行動にもっと責任を持たねばいけない。今回の行動は、軽はずみに過ぎる。
かといって、才人もアンリエッタもルイズを責めはしなかった。非は、明らかに自分たちにあったから……。
「よし。となると、トリスタニアにはいないということか……。じゃあ、次は街道沿いの宿を当たろう。捜索隊が、見過ごしたかもしれないし……」
才人がそう言うと、シエスタも頷いた。
「ぼくたちも手伝うよ」
心配そうな顔でそう言ってくれた友人たちの手を、才人は強く握った。
「悪い……。ほんとすまない。助かる。恩にきる」
そのとき、渡り廊下から柔らかい叫びが聞こえた。
「サイト〜〜〜〜!」
振り返ると、いつもの緑のワンピースに身を包み、大きなつばのついた帽子をかぶったティファニアが駆け寄ってくる。
「はぁはぁ、ルイズがいなくなったって……、ほんとうなの?」
ティファニアは、夏休みの間中、トリスタニアの孤児院で過ごす予定だったのだ。
「みんなとピクニックに行っていたら、いきなりあんな手紙が届いたものだから、ほんとにびっくりしちゃって。いったい何があったの?」
さて、なんと言おうかとみんながじっとりと汗を流していると、次にコルベール先生とキュルケが正門のほうからやってきた。
「いやいや、やっとあのせんしゃ≠フ運用方法を考えついて、ミス・ツェルプストーの家で改装を行っていれば……、ミス・ヴァリエールがいなくなったというではないかね。いったい、どうしたのだね?」コルベールに尋ねられ、才人は苦しそうに言った。
「俺が……、その、他の女性と、その……、唇を合わせているところを……」
コルベールは一瞬ぽかんとしたが、やおら腕を組むとうんうんと頷いた。
「なるほど。そういうことか……、まだ若いきみだからしょうがないといえばしょうがないんだが……、それは傷ついただろうなあ」
キュルケが両手を広げて言った。
「まったく、だからちゃんと忠告してあげたのに。『女で苦労しそうよ』って」
ティファニアは、怒りを含んだ目で才人を見つめた。マリコルヌが近づき、ティファニアに恭しく一礼した。
「ミ・レィディ。この件についての感想をどうぞ」
ぽつりと、ティファニアは言った。
「サイト最低。ルイズがかわいそう」
才人は思わず地面に膝をついた。
「あ、ああああああ……、あああ……」
「もっと言ってあげてよ。モテねえやつが、たまたま手柄をあげてちょっとモテるようになるとこれだからさ。ウッカリ浮かれて大騒ぎだかんな! おいおい田吾作、自分の立場忘れてんなよゥ……、この成金野郎がァ……」
マリコルヌは目をつりあげて、げしげしと才人を踏みつけた。実にモテ話に厳しいマリコルヌであった。あぐ、ひぐぅ……、と才人は情けない声をあげるばかり。落ち込むときはとことん落ち込む才人である。
キュルケが、首をかしげて言った。
「でも……、いったい浮気の相手は誰なの?」
「それがコイツ、言わないんだよ」マリコルヌが才人の背中を踏みつけながら言った。
「でもさ、あのルイズが家出したのよー。なんのかんのいってさ、メイドといちゃついたぐらいじゃそんなに怒らなかったじゃないの。だから、気になるのよね。もしかして、よっぽど近い相手……、とか?」
そこでギーシュやレイナールの目の色が変わった。
「きみ、もしやモンモランシーじゃあるまいね?」
「ブリジッタじゃないだろうな?」
「ア、アニエスさんじゃないだろうね?」
ギムリがそんなレイナールに突っ込んだ。
「きみはああいうのが好きだったのか」
「ち! ちがう! ちょっと聞いてみただけだ!」
顔を真っ赤にして、レイナールが叫んだ。そんな騒ぎをよそに、才人は首を振った。
「……違う」
「じゃあ誰なんだね! なんだか気になるじゃないかね〜〜〜〜!」
ギーシュたちに詰め寄られる才人を見て、キュルケが、首をかしげた。
「どうしたね?」
隣にいたコルベールがキュルケに尋ねる。
「いや……、もしかしたらって。女のカンなんだけど」
「きみのカンは当たるからね。言ってみなさい」
キュルケは、コルベールの耳元でごにょごにょと思いついた名前を告げた。
「まさか!」
「いや……、だってあのルイズがそれだけのことをするには、よほど信頼を寄せてた人物じゃないかなーって思うのよね」
さすがに苦いものを噛んだような声でキュルケが言うと、コルベールもなんだかそうではないだろうか? という気になってきた。でも、まさか……。
仮にも天下の女王陛下に限って、そんな!
でも、昨今の才人の人気を鑑みるに、あながちありえない話でもないような気がしてきた。女王とはいえ、アンリエッタは未だ十八歳の瑞々しい乙女ではないか。巷で大人気の騎士に心が動いたとしても、しかたがない。
そして……、ルイズはそのアンリエッタと大の仲良しではなかったか? となると、ルイズが家出をやらかしたのも、才人が決して名前を言わないのも納得できる。さすがに、その名前は口に出せないだろう。
自分が歴史的なスキャンダルに立ち会っているかもしれないことに気づいたコルベールは、じっとりと粘っこい汗を首の後ろに感じた。
このことが公になれば、命を落とす者も現れるだろう。そのぐらいに王族の醜聞というものは、油断ができないのだ。
いったい誰だ! 吐くんだ! と騒ぎ立てる少年たちに向かって、コルベールは冷静さを装いながら、ぽんぽんと手を叩いて言った。
「あー、諸君。今は相手が誰だろうが、いいじゃないかね。とりあえずミス・ヴァリエールを捜すのが先決だ。そうは思わんかね」
まあ、それもそうだな、と少年たちは頷きあい、厩のほうへと歩き出す。膝の埃を払い落としている才人に、ギーシュが、ぼりぼりと頭をかきながら言った。
「なあサイト」
「なんだ?」
「捜すのはいいんだが。もし見つかったとして、どーするんだね?」
「どーするって?」
「いやなに、ルイズにはルイズの気持ちがあるだろうさ。きみとはもういっしょにいたくないってきっぱり言われたらどーするんだね」
才人はしばし考えた。それから、寂しそうな声で言った。
「そんときはそんときだ。とにかく、今は会って謝りたい」
しばらくギーシュは黙っていたが、あまり気乗りのしない顔で、
「まあ、それしかないんだろうなあ」と、言った。
さて、その頃ルイズは、シュルピスの『陸の白鯨』亭で、ジャネットと共に彼女の兄弟を待っていた。『陸の白鯨』亭は、特に上等でもなく、それほど安い宿でもなく、身を隠すにはうってつけだった。二人は、そこの部屋を一室借りきった。
ルイズは酒を飲んで、ジャネットに愚痴の限りを尽くしていた。堰をきったように、ルイズは想いのたけをぶちまけた。ジャネットはジャネットで、そんなルイズを楽しげに見つめながら、話を聞いてやっていた。
「でね? ジャネット聞いてる?」
ルイズの声は、すっかり打ち解けた調子である。二日間という時間は、酒の力も手伝い、ルイズから緊張と疑いをすっかり奪っていた。
「聞いてるわ」
「あいつね、わたしに言ったんだから。俺が好きなのはお前だけだ! って! 何度も! こぉーんな顔して! それなのに! よりにもよってわたしの親友とキスするってどーゆーこと? ねえッ!」
「ほーんと、そんなやつ死んだほうがいいわね」
ジャネットが、笑みを浮かべながら言うと、ルイズはうんうんと頷く。
「そー思うでしょ? あ、あ、あ、あの犬ッ! わ、わ、わ、わたしの、こ、こ、こと、こ、ここ、こぉーんな顔して、も、もも、求めてきたくせにッ! よ、よよよよ……! よ!」
ルイズはそこで、怒りのあまり激しくむせた。ジャネットがすかさずワインの壜を手渡す。ルイズはぐびぐびと飲み干すと、目を回して後ろにぶっ倒れる。
五分ほどぴくりとも動かなかったが、やおらむくりと起き上がり、
「よ、よその女にもおんなじことしてたんだわぁ〜〜〜〜〜ッ! わ、わたしだけって言ったくせにッ! もうほんと想像しただけでわたしの頭はでんぐりかえっちゃうのよッ! あのうそつきぃ〜〜〜〜〜ッ!」
それから再び後ろにぶっ倒れる。ジャネットは立ち上がり、テーブルの上の水差しを引っ掴み、ルイズの顔の上からどぼどぼと水をかけた。するとルイズはまたまたむくりと起き上がり、据わった目でジャネットを見つめた。
「ねえジャネット。わたし、なんだか恥ずかしいことをたくさん言ってしまった気がするわ」
「そんなことないわよ」涼しい顔で、ジャネット。
「それならいいんだけど」
ルイズは深いため息をつくと、
「で、いつになったらあなたの兄弟は来るのよ。いい加減、待ちくたびれたわ」
ジャネットの兄妹が、ひっそりと暮らせる場所≠ニやらを知っているというから、ルイズはこうやって待っているのだ。そろそろ二日が経とうとしている。
「いいじゃない。ゆっくり待ちましょう」
少し酔いのさめたルイズは、ちょっと疑問に思ったことを尋ねることにした。
「でも、どうして見ず知らずのわたしのために、そこまで親切にしてくれるの?」
「あなたが気に入ったからよ」
ジャネットは微笑を浮かべた。本当に人形のように美しい顔だ。そして、人形のようにその印象はどことなく冷たい……。
それからジャネットは、ついっとルイズの顎を持ち上げた。
「だって、こんなに可愛いんだもの。生意気そうで、でも傷つきやすそうで、それでいてまっすぐな目……。ただ可愛いだけじゃなくって、どうにも侵しがたい気品があるんだもの」
「え? え? え?」
ルイズが目を丸くしていると、ジャネットはルイズの髪をつまみ、その先で自分の鼻をくすぐった。
「それにとても細くて……、綺麗な髪ね。まるでお人形みたい。あなたみたいな子を、ほんとの美少女っていうんだわ」
人形みたいなのはあなたじゃないの、と言おうとしたが……、言葉にならなかった。
前にも感じた疑問が、ルイズの中で膨れ上がってきたのだ。
この子……、やっぱり例の特殊な趣味の子じゃないかしら?
女の子なのに、女の子が好き。そういう特殊な人物が存在するということを、ルイズは知っていた。魔法学院でも、何度かそういう噂を耳にしたことがある。
だから、こんなに自分に親切にしてくれるんじゃないの?
まあ、見るからにロマリアの手のものではないし……。ジャネットは、神や信仰とは、一番遠いところに位置しているように思える雰囲気を纏っていた。
それなのに、自分に親切にしてくれる。
となると……。やっぱり……、特殊な趣味の人?
「…………」
ルイズは横目でジャネットを見つめた。白い肌はまるで夜の砂漠のよう。そして二つの細長い翠眼は、月明かりを受けて光るオアシスだった。
なんて綺麗なんだろう、とルイズは一瞬見とれてしまう。するとジャネットは、いきなり真顔になって、
「食べてもいい?」
なんて聞いてきたのだった。あまりにも無邪気な、このお菓子食べていい?≠ョらいの調子で、ルイズは思わず頷きそうになってしまった。
「だ! だめよ! なに言ってるの!」
するとジャネットは、きゃははははは! と大声で笑った。
「あーおかしい! あなた、本気にするんだもの! もう、ほんとあなたって駆け引きができないタイプね。ますます気に入ったわ」
どうやらからかわれただけのようだ。ルイズはむすっとすると、
「どうせわたしは単純よ」と、呟いた。
そのとき、扉がノックされた。ジャネットの顔に緊張が走る。
「……あなたの兄弟?」
ジャネットは無言で首を振り、油断なくテーブルの上に置かれた小ぶりな杖に手を伸ばす。
「王軍の巡視隊だ! ここをあけろ!」
その声で、ジャネットはルイズのほうをちらっと見つめた。酔いがさめたような顔をしている。唇の端に笑みを浮かべ、ジャネットは立ち上がると扉を開いた。
そこには、王軍の士官服に身を包んだ二人の貴族が立っていた。
一人の貴族が、「二人組か……」と小さく呟いた。
「いったい、何事ですの?」
ジャネットが尋ねると、
「いや……、さる重要人物を捜索しておりましてな」
ジャネットが握った杖から貴族と見当をつけたのか、丁寧な物腰になって男は言った。
「さる重要人物? 穏やかではないですわね」
「レディ、あなたはここで何をしておられるのかな?」
「侍女といっしょに、兄たちを待っておりますの」
そ知らぬ顔でジャネットが言うと、巡視の貴族はちらりとルイズを見やった。彼らは顔を見合わせると、
「……桃色がかったブロンドの貴族の少女ということだったな」
「しかも一人きりだそうだ。こちらのレディは、侍女を連れている」
それでどうやら、自分たちの捜している人物ではないと判断したらしい。
失礼をいたしました、と頭を下げ、巡視の貴族たちは部屋を出て行った。ルイズは、ほっとして思わずため息をついた。
間違いなく、今の貴族は自分を捜していた。髪を染めたり、下賤な格好をした甲斐があったというものだ。やはり……、アンリエッタは自分を捜すために捜索隊を出したらしい。
わたしが虚無の担い手だから? それとも、友人だから?
そう思うと、ふつふっと冷たい怒りがわいてくる。
それならば……、あいつに手なんか出さないで欲しかった。今ごろ、アンリエッタも才人も、後悔しているんだろうか?
おそらく必死になって自分を捜しているだろう、二人を想像した。それでも、やはり……、戻る気にはなれない。
「あなた、随分とお偉い人なのね」
「な? なにを言ってるの?」
ジャネットは、ルイズの髪をいじりながら呟いた。
「染めてるのね。元の色は、何色かしら……。ブロンド? 赤毛? それとも……、桃色がかったブロンド?」
「……そ、それは」
「あの人たち、あなたを捜してたんでしょ? 感謝して欲しいわ。話を合わせてあげたんだから」
すぐに気持ちが顔に出るルイズは、唇を噛んで俯いた。
「いいのよ。あなたが何者だろうが、わたしにとってはどうでもいいこと。とにかくあなたは逃げ出してきた。それでいいじゃない。わたしは気にしないって言ってるの」
ここまで言われてはしかたがない。ルイズは小さく、
「ありがとう」とお礼を言った。
そんな素直なルイズを見て、ジャネットは笑みを浮かべた。
「ほんと、あなたみたいな純な子がいながら、浮気する男が信じられないわ」
「だからね? 別に純じゃないわ。これでもちょっとは知られたヴァネッサ姐さん……」
「もうそれはいいって言ってるじゃないの。でも、どうして逃げ出してきたの? あなたぐらい可愛かったら、男なんてすぐに戻ってくるわよ。現にああやって、巡視まで駆り出して一生懸命あなたを捜してるじゃないの」
ルイズは俯き、目をつむると寂しそうな声で言った。
「……その人、わたしの何倍も魅力的なの。だからいいの。それにあいつには、敵が多いの。その人だったら……、わたしの何倍も上手にあいつを守れるわ」
ジャネットは、ルイズを愛しそうな視線で見つめた。
「あなた、その人のことがほんとうに好きなのね。いったいどんな人なのかしら。気になるわぁ……」
ルイズは、ワインの壜を掴むと、今まで使わなかった杯に注いだ。それを飲み干し、物憂げにひじをテーブルについて、呟いた。
「好きじゃないわ。ほんとに、ぜんぜん好きなんかじゃないの」
ルイズの目から、ぽろっと涙がこぼれた。そのまま、ぐしぐしとルイズは目の下をこする。
「好きじゃないもん。好きじゃ……」
ジャネットは、そんな風に泣き出してしまったルイズの肩を抱いた。
「ほんとうにヘンな子。あなた、どうしてそんなに自信がないの? こんなに可愛いのに……。そして……」
ジャネットは、ルイズの首筋に唇を近づけた。そして、軽くぺろっと舐めあげる。
「……味でわかるわ。あなた、ほんとうにとんでもない力を持ってるのね。一目で惹かれるはずだわ」
泣きじゃくるルイズに、ジャネットのその声は届かなかった。
第四章 シュルピス
才人たちは三隊に分かれ、トリスタニアから延びる、三つの主だった街道をそれぞれ行くことにした。
まず、ラ・ヴァリエールに通じてゲルマニアへと延びるロラン街道。ラグドリアン湖や、途中で分岐してラ・ロシェール方面へと延びるグリフォン街道。
そして、海岸に出て、海沿いにガリアへと延びる、ヴェル・エル街道だった。
ゲルマニアへ向かうロラン街道には、キュルケとコルベールが向かうことになった。グリフォン街道は、ギムリとレイナール。
そして、ド・オルニエールのそばを通るために一番可能性が高いと思われるヴェル・エル街道は才人とシエスタとギーシュにマリコルヌ、そしてティファニアが向かうことになった。もし、トリスタニアに来ていないとすれば……、ルイズはこの街道を行ったと考えられるからだ。
アンリエッタからは、二週間後には帰ってきて欲しいと言われている。もし、見つからなかったら……、すばやくトリスタニアに戻らねばならない。
ルイズがいなくなってちょうど八日目の朝、才人たちは早々に馬で出発した。速駆けできたので、昼過ぎにはド・オルニエールを過ぎて、一番最初の宿場町へと到着する。くしくも、ルイズが一週間前に前に宿泊した場所だったが、もちろん才人たちが気づくわけもない。
小ぢんまりとした、猫の額ほどの宿場町なので、めぼしい宿はすぐに見回ることができた。だが、ルイズの情報を得ることはできなかった。
「ルイズはこの街には寄ってないのかな……」
ギーシュがそう言うと、ティファニアが一軒の宿屋を指差した。
「あそこにも、宿屋があるわ」
見るからに、ボロっちい木賃宿だった。シエスタが首を振る。
「ミス・ヴァリエールが、あんな汚い宿に泊まるなんて思えませんわ」
「ホントだよ。冗談は胸だけにしといてタッチ」
マリコルヌが、そう言いながらティファニァの胸に手を伸ばす。きゃっ! とわめいて、ティファニアは後ろに跳び退《すさ》り、マリコルヌを恨めしげに見つめた。
「ガ、ガールフレンドに言っちゃうんだから!」
「望むところだ。言うがいいさ! あの子はむしろ、ぼくをとっちめる材料ができたって喜ぶだろう。ブタ、ブタ、ちっとこぉー。ブタ、ブタ、さまよい歩けェ……」
マリコルヌが遠い目になってにじり寄ってきたので、ティファニアは泣きそうになった。そんなマリコルヌの頭をシエスタがフライパンで殴りつける。コ、コ、コォ……、と白目をむいてマリコルヌはぶっ倒れた。
そんな騒ぎをよそに、才人は木賃宿を見つめた。いつものルイズなら、こんなところには泊まらないだろう。でも、今のルイズはきっと……、いつもの<泣Cズじゃない。
「お、おい!」才人がずんずんとその木賃宿に向かったのを見て、ギーシュが呼び止めた。
「まあ、聞くだけ聞いてみようぜ」
マントをつけた才人が入っていくと、一斉に客が振り返る。店の中は、安酒と焦げた肉と、男たちの体臭が入り混じり、軽くむせそうになった。そして、もうもうと、パイプ煙草の煙が溢れている。
茶色く酒焼けした店の主人は、才人をちらりと見るなり、そっぽを向いた。
「ちょっと伺いたいんですが。数日前に、小さな貴族の女の子が来ませんでしたか?」
しかし、主人は『知らない』とでもいうように、首を振る。
「サイト、行こうぜ」ギーシュが言ったが、才人は椅子に腰掛けると、金貨を一枚カウンターの上に置いた。その金貨に一瞥をくれると、
「注文は?」と主人は言った。
「いや……、こいつで知ってることがあったら、という意味なんだけど」
才人が困った声で言うと、主人は無言でワインの壜を置いた。
「うちは道案内や人捜しはやってねえ」
主人がそう言うと、店内の男たちから笑い声が飛ぶ。才人はため息をつくと、ワインの壜を取り、一気にぐびぐびと飲み干した。
「行こうぜ」才人は立ち上がった。
「待ちな」主人は、そんな才人を呼び止める。
「あんたが捜してるのは、こうなんだ、桃色がかったブロンドの小さな貴族娘か?」
「そう! それだよそれ!」才人は思わず、カウンターににじり寄る。
「その娘なら、なんだ、ここに泊まってたぜ」
「ほんとですか?」
「嘘ついてどうする」
「何か言ってましたか?」
「何も。毎日、部屋に閉じこもっていたしな。さすがに見かねてな、貴族の娘さんが泊まるような店じゃねえ、と言ったら出て行ったよ。三日か四日ほど前だったかな」
「どっちに行きました?」
「そこまでは知らんね」
才人は礼を言うと、店を出ようとした。その背に、店の主人が声をかけた。
「ウチの酒を飲んだ貴族はあんたが初めてだ」
才人は振り返ると、マントをつまんで言った。
「こんなの着てるけど、俺は結局貴族≠ノゃなれませんでしたよ。だからあいつも出て行ったんだ」
店から出てきた才人を、みんなが取り囲む。
「ルイズはこの店に泊まってたみたいだ」
「おおおお! でも、なんでまたこんなボロい店に……」
「金がなかったんだろ」そうは言ったが、なんとなくルイズの気持ちが想像できた。泊まる宿すらどうでもいいぐらいに、ショックを受けたのだ。あの気位の高いルイズが……。
「この街道で間違いないと思う。急ごう。ああ、他の街道を行ったみんなに、フクロウで知らせておかないと」
ルイズの手がかりを見つけ次第、フクロウを使って知らせる手はずになっていた。こういうときのために、魔法の割り札を持った相手に手紙を届ける専門のフクロウがいるのであった。才人は、コルベールたちとレイナールたち宛に、ルイズの手ががり発見、と短い手紙を書いた。その手紙を、持ってきたフクロウにくくりつけ、大空に放す。ばっさばっさとフクロウは飛んでいった。
「ここから馬で半日のところに、シュルピスって街があるぜ」
「結構大きな街だね」ギーシュも頷く。
「よし。じゃあ次はそこに向かおう」
マリコルヌが言った。
途中、何度か馬を替えながら、深夜の三時にシュルピスに到着したときには、一行はへとへとに疲れ果てていた。無理もない、この二日間というもの、ほとんど寝ていないのだ。
「とりあえずどこかに泊まろうぜ。少しは寝ないと身体がもたないや」
シュルピスはハルケギニアのどこにでもあるような、人口が千人ぐらいの宿場町だった。宿屋だけでなく、様々な地方から運び込まれた品が集まり、広場には毎日市が立ってにぎわっている。だが、この時間はあまり出歩く人もない。
ところどころ焚かれたかがり火だけが、頼りなげに道を照らしている。
宿屋は街道沿いに二十軒ほど並んでいるらしいが、小さい民宿や、裏路地の木賃宿も含めれば、結構な数がありそうだった。トリスタニアの夜も、東京で育った才人には、まるで真っ暗だったが……、地方の街だともう、闇の底だった。
この闇では、ルイズを捜すどころではない。
「そうだな。一休みして、朝になったら宿を当たろう」
才人たちは、手近な宿に飛び込んだ。『貴族の羽飾り』亭という仰々しい名前だったが、中は狭く、あまり上等とはいえない宿だった。だが、それでもみんな疲れていたので、空いている部屋を二つ取り、男と女に分かれて早々に引き込んだ。
ベッドに飛び込んでみたものの、才人はなかなか寝付けなかった。ルイズの手がかりを見つけたことは素直に嬉しいが、本当に見つかるのだろうか?
そして、もし見つけたとしても、ルイズが自分をゆるさなかったら?
今まで、怒りこそすれ、こんな風に自分の前から姿を消したことなどなかった。
ゆるしてくれなかったら、どうすればいいんだろう?
才人はどうにも寝付けずに、階下へと下りていった。酒場には、人の姿はなかったが、ろうそくの明かりが灯っている。ワイン棚から一本取り出し、カウンターの上に金貨を置いた。
才人は一人、ぼんやりとワインをあおり始めた。
そうしていると、階上から誰かの足音がした。見ると、ギーシュだった。彼はコップを一個カウンターの裏から持ってくると、自分でワインを注いだ。
「眠れないのかね?」
尋ねられ、才人は頷いた。
「ああ」
「しっかし、いったいルイズはどうするつもりなんだ? まったく、あのわがままルイズが一人で生きていけるわけなんかないじゃないかね。修道院にでも入るか、どこかのお金持ちの家に潜り込んで、お妾さんにでもなるしかないのになあ」
才人は苦しそうな顔になって、やめてくれ……、と呟いた。
「きみはわがままだな! 浮気しておいて、相手がするのはゆるせないだなんて!」
そう言ってから、ギーシュは悩ましげな顔になる。
「なんてな。まあ、そういうもんだな。実際」
「なあギーシュ……、俺って実際なんなんだろうな……。あれだけルイズが好きだと思ってたのに、他の女性の魅力に、ころっと参ってしまうだなんて……」
才人が頭を抱えていると、ギーシュがあっけにとられた顔で言った。
「そんなの、当たり前じゃないかね」
「そりゃ、お前はそうかもしれないけどな……」
「ぼくだけじゃない。きみだってそうじゃないか。だから、そのナントカっていう高貴な女性と唇を重ねてしまったのだろう? いいとか悪いとかじゃなく、きみはそういう生き物なんだよ。いったい、何を悩んでるんだね」
それでも才人は、首を振った。
「そ、それじゃあ、俺はうそつきじゃないか……。好きなのはお前だけだって、何度も言ったのに……」
「そりゃ、そのときはそう思ったんだろうさ。ぼくだって、別に嘘をついているわけじゃない。いつだって、そのときは本気でそう思うんだ。きみが一番だ!≠チてね」
「でも、それは都合のいい言い訳じゃないのか?」
すると、ギーシュはちょっといらついた声になった。
「言い訳? おいおい、ばか言っちゃいけない。この世にはどれだけ魅力的な女性がいると思ってるんだ? その人たちに感じた想いは本物だよ。それを言い訳だって? ちがうね! 強い魅力の前では、人は抗えない。それだけの話じゃないかね」
「でも、でもな……」
頭を抱えた才人に、ギーシュは言った。
「もっと正直になりたまえよ」
「は? 俺は正直だよ! 正直にこうやって悩んでるんじゃないか!」
「はっきり言うがね、きみは他の女性に対して魅力を感じたことなんかにゃ悩んでない。保証するよ。きみが悩んでるのは、たった一つ。ルイズに嫌われたくない≠セ」
才人は真っ青になった。急速に酔いがさめていく。まさにギーシュの言ったとおりだったからだ。
「だろ? きみはな、心のどっかでそういうもんだ≠ニ思ってる。いかにそういう自分を正当化しようか、その上でどうルイズにゆるしてもらうのか、そればっかり考えてるんじゃないかね?」
「そんなことねえよ! だいたい、どうしてそうなるんだよ!」
才人はどん! とテーブルを叩いて怒鳴った。するとギーシュは、真顔で言い放つ。
「ぼくがそうだったからだ。ぼくはね、自分で言うのもなんだが、非常に女性の魅力に敏感なんだ。綺麗な人を見ると、つい我を忘れて想いのたけをぶちまけてしまう……。でもな、ぼくだってな、そういう自分はまずいと思ってたんだ。だって、ぼくにはモンモランシーがいるじゃないか! きみはぼくのことを、どうしようもない能天気でただのお調子者だと思っているのかもしれないが、それは違うんだぞ。ぼくだってな、悩んだんだ」
ギーシュはそこで、一息ついてワインを飲み干す。エンジンがかかってきたのか、さらに一気にまくし立て始めた。
「だからぼくは一時、キレイさっぱり他の女性を口説くことをやめた。そりゃもう見事にやめたんだ。いつだったかな……。とにかく、きみに会う前のことさ。ぼくは毎日、モンモランシーのために尽くした……。キレイな女性が通り過ぎても、お、キレイだな≠ニ思うぐらいで、決して言葉には出さない日々が続いた……」
才人は身を乗り出して、ギーシュの言葉に聞き入った。
「でもな、それは不自然な行為だったんだ。ぼくの心は次第に枯れていった……。モンモランシーにかける言葉さえ、次第にマンネリになっていった。その言葉、昨日も聞いたわ≠ネんて言われてしまう始末さ! そのときぼくは思ったね。もしかして、これは不自然≠ネ状態なんではないかと! だからぼくの心は枯れていくんだ!」
ギーシュはそこで、才人の肩を掴んだ。
「魅力≠感じるのはどこだ?」
「え? ええ?」
「魅力的な女性に、魅力≠感じるのはどこだ?」
「こ、こころ?」
「そうだ! 己の心だ! だが、それは誰が創ったんだ? 神さまだ! 己の心は神さまが創ったんだ! 魅力的な女性だって、神さまが創ったんだ! それを褒めて何が悪い! そりゃ、褒めれば自然口説きになってしまう! だから、ぼくは思ったね! 美しいものを美しいと感じてしまうこの気持ちが罪ならば、神さまに問うべきだと! ぼくはこれでも敬虔なるブリミル教徒だ。神の御心に背いてはあいならん。だから神さまの意に沿うことにした」
「で、とりあえず魅力を感じたら口説きまくるってワケか」
「そうだ」
「お前は死んだほうがいいと思う」
「なんでだね!」
「モンモランシーの気持ちはどうなるんだよ。お前が他の女口説くたびに傷ついてるぞ。それが原因でこの前だってフラれたんだろうが」
「そりゃそうだ。これはぼくの理屈で、モンモランシーの理屈じゃないからな」
ギーシュは、そこで一旦言葉を切ると、才人に向き直る。
「だからぼくは、モンモランシーを他の女性の十倍、大切に扱う。ほんとはこれでも、足りないぐらいなんだろうな。でも、しないよりはマシだ。現にモンモランシーは、なんのかんのいってぼくをゆるしてくれる」
「なんて理屈だ!」
「おいおい、どうして他の女性に魅力を感じてしまったんだろう=Aなんて、どうでもいい理由で悩んでいるキミの百倍マシだと思うがね。そんなのしょうがないじゃないか。いや、きみだってほんとはしょうがない≠チて思ってるんだ。それよりきみは、ルイズに優しくしてたのかい?」
「し、してたよ!」
才人は叫んだ。
「きっと、ルイズのほうではそう思ってなかったのさ。きみの優しい≠カゃ足りなかったんだ。だからきみの元から逃げ出したんだ」
「う……」
才人はなんだか丸め込まれそうになった。思えば、自分は、優しくするどころか、随分ルイズにヘンなことをしなかったか? レモンちゃんだの小さいにゃんにゃんだの言わせてみたり……。ルイズはロマンチックなのがいい、っていっつも言っていたのに、自分がやっていたことといえば……。
「俺、ただの変態じゃねえか……」
すると、後ろから声をかけられた。
「ちがうね。きみは、レヴェルの高い&マ態だよ」
「マリコルヌ!」
丁寧にパジャマ姿である。おまけに枕も抱えている。
「お前な、ホテルの食堂ってのはパジャマで歩き回っちゃ……」
と、そんな旅行のしおりみたいな注意を才人が言うと、
「なに言ってるんだ。きみたちの声で起きちゃったんだよ」
マリコルヌは文句を言った。
「さて、ギーシュはどうやらきみが優しくしなかった≠ィかげでルイズが逃げ出したと言っているが、ぼくの意見はちょっと違うね。ぼくが見るに、サイトはそうとうよくやっていた」
「そうかね? ぼくにはそう見えないが……」
ギーシュが疑問を呈すと、
「よくやっていたさ! なあギーシュ、相手はあのルイズだぜ。考えてもみろ。確かに顔はまあまあさ。そこはぼくも認める。でもなんだあいつ。あの身体! 細くてやせっぽちで、まるで板じゃないか! 子供じゃあるまいし、十七であれはない。ないよ。それでもちょっとはしおらしくしてればまあ可愛いさ。でも、なんだあいつ! 二言目には犬。どんだけサイトががんばろうが犬。おいおい、テメエの身体鏡で見てから言えっつの。テメエの性格省みてから言えっつの」
「むむむ……」
ギーシュはうなり始めた。
「そんなルイズなのに、サイトはけなげだったよ。可愛い可愛いお前可愛いレモンちゃんなんつって、必死で口説いてた。さて、誓って言うが、ルイズにそんだけの価値はないね」
「お前な……、人の好きな女捕まえて、そこまで言うか……」
「言うね! ぼくはかねがね、ルイズのどこがいいんだ? って思ってた。サイト、恥じることはないよ。きみは英雄じゃないか。どんな女だって、今のきみにはなびくんだ。それなのに、ルイズ一筋だったきみはえらい。というかありえない。ちょっとの余所見で家出をするなんて、あの女、勘違いしてる」
才人は、がばっと立ち上がると、マリコルヌの胸倉を掴んだ。
「ばか! お前な、ルイズは可愛いんだ! なんもわかってねえ!」
「ほう? どこがどう可愛いんだい?」
「いつもは、確かに怒りっぽいんだけどな……、べ、ベベ、ベッドの中だと可愛いんだ。すごい従順になって、なんでも言うこと聞くんダ」
上ずった声で、才人は言った。
「ほんとかい?」
「ああ。お前だって聞いただろうが。レモンちゃん」
「レモンちゃん聞いた」
「普通は言わない」
「言わないな」
「つまりは、そういうことだ」
「ふむ」
それから才人は、夢見るような口調になって言った。
「あいつな、昼間は確かにお前の言うとおりかもしれん……。生意気で、わがままで……、でも、夜のあいつは違うんだよ……。知らない! とか言うんだけど、目は期待に燃えてるんだ。毛布をこう、鼻の下までかぶって、恥じらいと期待が入り混じった震える目で俺を見やがるんだ。それにな、ルイズは確かにまな板かもしれないけど、なんだか妙に女っぽい身体してるんだ。腰なんかこうくびれてて、背中のラインなんかまるで神さまが創ったレーシングコースだぜ。全部が小さいんだけど、とりあえず胸以外は妙なヴォリュームがあるんだ。それはもう、言葉にゃできないけど、なんだかすごいんだ。あああああ! めちゃくちゃにしてやりたい!」
「めちゃくちゃにしたの?」
「ま、まだ……」
「ぷ。情けない」
マリコルヌが笑みを漏らしたので、才人は掴んだ胸倉を引き上げた。
「お前だってまだだろうが! だいたいいっつも邪魔したのはお前だろうがッ!」
そんな騒ぎをしていると、後ろからじとーっと、冷たい視線が投げかけられていることに気づく。
振り向くと、ティファニアとシエスタが立って、自分たちを冷めた目で見ているではないか。
すかさずマリコルヌは、ごほんと咳をすると、ティファニアに向かってぺこりと一礼した。
「ミス、感想をどうぞ」
「サイト最低。ルイズがかわいそう」
シエスタも、冷たい声で言った。
「そんなに魅力を感じてるのに、どうして浮気しますか」
「ミス。もっと、もっとお願いします」
「サイト最低」、
才人は、あああああ……、と頭を抱えてうずくまる。マリコルヌがそんな才人の頭をげしげしと踏みつける。
「なあボクちゃん。お前、ほんとに変態だな! そりゃルイズも逃げ出すわ!」
自分を棚にあげてそんなことをのたまうマリコルヌに踏みつけられながら、才人はせつなくなった。そうだ、あんなに可愛いルイズがいながら、俺は何をやってるんだ……。
そう思うと、自分のしたことが、どうにもゆるせなくなってくる。
ティファニアが、怒った声で言葉を続ける。
「ねえサイト。そんなに大好きなルイズに同じことをされたら、どう思うの? 他の男の子と、ルイズがキスしたらどうするの? わたし、きっとサイト傷つくと思うな!」
ほんとにそのとおりで、才人は何も言い返せなかった。
「ごめん……」
「謝るのはわたしにじゃないでしょ。ルイズじゃない!」
それからティファニアは、ギーシュとマリコルヌに向き直った。
「あなたたちもあなたたちだわ! 勝手な理屈を振り回して! 女の子をなんだと思ってるの!」
いつもはおとなしいティファニアの剣幕に、ギーシュとマリコルヌもたじたじとなった。
「すいません」
「ティファニアさん、かっこいいです……」
そんなティファニアを見て、シエスタは目を潤ませていた。
「……あう。ちょっと恥ずかしいけど、言わなくちゃって。だって、男の子たち、あまりにもわがままなんだもの……。ねえサイト」
「はい」
ティファニアに呼びかけられ、才人は正座した。
「あのね、ルイズはね、サイトにその……、そうゆうヘンなことされても言わされても、全然怒ってなかったよ? あれだけプライドの高いルイズが、だよ? きっと、それだけサイトのこと信用してたんだと思うの」
「そっか……」
熱が冷めたように、才人はうな垂れた。確かに怒っているようには見えなかった、が、改めてこう他人の口からそうだと言われると、ルイズのけなげさとか、自分への気持ちとかが浮き彫りになる。
どうやってゆるしてもらおうか、なんて考えるのはやめよう
窓から差し込んでくる朝日を見ながら、才人は思った。
精一杯謝ろう。ゆるしてもらえるかどうかなんてのは、二の次だ
そんな爽やかな決心を人知れずしている才人の頭を、マリコルヌが踏みつけた。
「なに一人でわかったようなツラしてんだっての。お前なんかただの変態だっての」
相手が弱っていると調子にのるマリコルヌであった。
さて、ちょうどその頃。
朝もやがけぶるシュルピスの街の入り口に、騎乗の二人組の男が現れた。フードのついた灰色のローブを纏った姿は、まるで修道僧のようだった。
だが、二人の会話は信仰とはほど遠いところに位置していた。
「まったく! ダミアン兄さんは欲張りすぎるよ! 十万エキューで十分じゃないか! それが二十万エキューは欲しいだなんて……」
背の低いほうが、困った調子で言った。深くかぶったフードの奥には、好奇心の強そうな少年の顔が見えた。
先日、才人を殺そうとしたドゥドゥーだった。
「俺たちの計画には金がいる。お前だって知ってるだろ?」
隣の大男が、野太い声で言った。筋骨隆々とした、まるでメイジとは思えない男だった。ローブの上からでも、膨らませたボールを皮膚の下に押し込んだような、はちきれんばかりの筋肉が見て取れた。
「でもね、ジャック兄さん、ぼくにはダミアン兄さんが急ぎすぎているように思えるんだよ。いいじゃないか。十万エキューだって破格だよ!」
「あいつらからは、もっと引き出せると踏んでるんだ。ダミアン兄さんの交渉術はたいしたもんさ! こないだお前を苦しめたターゲット、あいつ、なんだっけ?」
「そう! あいつ! 意外に強いからびっくりしたよ。ヒリガルだか、ヒラガットだか……、そんな名前のやつだ。剣でぼくを苦しめやがった。英雄英雄と持ち上げられているのも、まんざら嘘じゃなかったってことなんだろうな」
「そのヒリガル殿は、依頼人たちにとっては、絶対に排除したい人物だ。おまけに、そいつをやれるのは、おれたちぐらいなもんだ。絶対に依頼人たちは折れるよ」
「そうかなあ……」
ドゥドゥーは、それでも浮かない顔。ジャックはそんな弟をちらっと見やると、
「それより、ジャネットのいる宿はどこなんだ?」
「え、えっと……」
「おい! お前、まさか宿の名前を忘れたと言うんじゃないだろうな? ジャネットからの手紙を読んだのはお前だけなんだぞ! しっかりしてくれよ!」
「ま、待ってくれよ!」
ドゥドゥーは青くなった。
「えっと、その……、あの……、途中まで出てきてるんだ! 確か、海だか陸だか川だか……、そんな名前の宿だったような……」
「この! 待ち合わせの場所を忘れるやつがあるか! それぐらいなら、ちゃんと俺たちに見せてから手紙は捨てろ!」
「資料になるものはすべて捨ててしまえって言ったのは兄さんじゃないか!」
ジャックは首を振ると、ドゥドゥーの頭を掴んでぐりぐりと動かした。
「お前、このことがトリスタニアで交渉を続けているダミアン兄さんに知れたら、大変だぞ」
するとドゥドゥーの顔が青くなっていく。
「……か、勘弁してくれよ」
「だったら、早いところジャネットの居場所を捜してこい!」
第五章 ジャックとの初対戦
結局、一睡もしないままに才人たちは宿を当たることになった。才人とシエスタ、ギーシュとマリコルヌとティファニアの二つのグループに別れ、通りの左右をそれぞれ一軒ずつ巡っていく。
三軒ほど回ったが、芳しい答えは得られない。
「この街は通り過ぎたんですかね」
シエスタが言った。
「どーなんだろうなー」
才人は四軒目に入った。そこは『我々の海』亭という、大きめの宿屋だった。小さなカウンターがあって、主人がパイプを吹かしていた。
才人は何度も繰り返したように、カウンターの主人に尋ねた。
「ちょっとお尋ねしますが……、このぐらいの背の高さの、貴族の女の子が泊まってませんでしたか? 年は十七だけど、もっと幼く見えます。一応、人形みたいに可愛いんだけど……」
すると主人は、うーん、と首を振る。
「ここもだめか……」
宿を出ようとしたときに、ものすごい勢いで灰色のローブ姿の男が飛びこんできた。
「うわあ!」
才人たちを弾き飛ばし、ローブ男はカウンターに詰め寄る。
「おい! 親父! ここにメイジの女の子が泊まってないか? 年の頃は十七で、黒白の服を着てて、人形みたいに可愛いんだ!」
その声に、才人は思わず振り返った。
カウンターの親父は、首を振ると、
「貴族のお嬢様の間では、一人旅が流行っているんですかな? 今しがた来た貴族のかたも、同じようなことを聞いてきましたな!」
ローブ姿の男は慌てて振り返り、才人と目が合った。その顔が、しまった、という具合に歪んだ。
才人は口をぽかんと開けた。
あいつは……、つい九日ほど前、デルフをバラバラにして、俺を半殺しにした連中の片割れじゃねえか!
「てめえ……」
「サイトさん?」
「シエスタ、みんなのところに逃げろ。こないだ俺を狙ったやつだ」
「は、はいっ!」
はじかれたように、シエスタは駆け出していく。
才人は刀に手をかけた。デルフリンガーを失ったときの悲しみ、そして怒りが急速に膨れ上がり、才人の感情を受けて、左手のルーンが輝きだした。
こいつ……。
柄も通れとばかりに、刀で深く腹を抉《えぐ》ったはずなのに、ドゥドゥーはぴんぴんとしている。おそらく、水の使い手であろう、あの少女に怪我を癒してもらったのだろう。ドゥドゥーの強烈なブレイド≠ニいい、両方とも相当な使い手だ。
油断なく周りに目をくばりながら、才人は腰を落とした。
「お前に、聞きたいことがたくさんあるんだけどな」
するとドゥドゥーは、心底参った、といった具合に手を振った。
「今日は休日なんだよ」
「人を殺そうとしといて、休日もくそもあるか」
二人のただならぬ雰囲気に、店の主人が青くなる。
「おいあんたら! 喧嘩ならよそでやってくれ!」
その声で、才人は顎をしゃくった。
「外に出ようぜ」
その瞬間、ドゥドゥーは杖を抜き、呪文を唱えた。
エア・ハンマー
巨大な空気の塊に、才人は宿のドアごと吹き飛ばされ、通りに転がる。
「くそッ!」
すぐさま立ち上がるも、ドゥドゥーは脱兎のごとく駆け出していた。
「待てッ!」
才人はそのあとを追いかけた。
通りの向こうから走ってくるドゥドゥーを見て、ジャックはその巨体をすくめた。
「あいつ、いったい何をやってるんだ……」
「兄さん! 兄さん! 大変だ!」
「いったい何が大変なんだ。言ってみろ」
「えっと! その、例のターゲットがいた!」
はぁ? とジャックは口をまん丸に開いた。ついで、ドゥドゥーの後ろから猛烈な勢いで駆けてくる剣士を見て、目を丸くする。
「お前、何やってるんだ!」
「ぼくのミスじゃないよ! 偶然だってば!」
魔法を唱えようとして、ジャックは思い直す。報酬の折り合いがついていない今、あいつを殺すわけにはいかない。殺してしまったら、報酬どころの騒ぎではない。ただ働きになってしまう!
「ったく! 面倒なことになりやがった!」
ジャックは短く呪文を唱えた。すると、才人の足元の地面が盛り上がり、大きな土の手となって才人の足を掴もうとした。
だが、左手で刀の柄を握っていた才人は、驚くべき反応速度を見せて刀を抜き放ち、その手を切断する。
ヒュウ、と軽く口笛を吹いて、ジャックは次の呪文を唱えた。地面の土がぼごっ! と塊ごと宙に浮き上がり、何体ものゴーレムができあがる。
戦士の格好をしたゴーレムは、とんでもないスピードで才人に躍りかかったが、才人はなんなくそのゴーレムを切り裂いて向かってきた。
「なるほど、お前がてこずっただけのことはあるなあ……」
馬に飛び乗ったドゥドゥーに、ジャックは言った。
「どうしよう!」
「どうしようもこうしようもないだろうが。殺しちまったら元も子もない。逃げるしかないだろう」
こともなげに、ジャックは言った。
駆ける才人は、相手が二人なのを見て取った。
だが、何人いようが同じことだった。あいつら……、誰に頼まれて俺を狙いやがったのか知らねえが、よくもデルフを!
どうして自分にとどめを刺さなかったのか、なんであれほど強力な魔法を操れるのか、とか、そんな疑問は頭から飛んだ。
強烈な憎しみと、デルフリンガーを失った悲しみが入り混じる。戦いの経験が、その二つの感情を冷静さ≠ノ変換させる。
だが……、頭の中がすぅっと冷えていった瞬間……、才人の心の中に、とある感情が滑り込んできた。
「……くっ」
駆ける足が鈍る。
心に滑り込んできたのは……、恐怖≠セった。
あのバカでかいブレイド=B
そして、デルフリンガーをバラバラにした魔力……。
もっと大きい敵と戦ってきたこともある。
もっとたくさんの敵と戦ったこともある。
でも……、あいつらは違う=B
今までの敵とは、何かが違う。
俺じゃ勝てない
心の中の、そんな恐怖が自分にそう教えてくれる。
才人はそんな恐怖を理屈で抑え込んだ。
何言ってるんだ。
どんな敵だって、打ち破ってきたじゃないか。ほら才人、あの大きいやつを見ろ。メイジのくせに、あんなにでかいなんて……、はは、ただの的だ!
それでも恐怖は薄れない。
なんでデルフがいないんだ
「くそっ!」
なんでルイズがいないんだ
「確かに、一人だけど……、よォ!」
考えろ、才人。恐怖に負けるな
巨体のメイジは、呪文を唱えている。
なんだ? 土の壁? それとも錬金≠ゥ硬化≠ナも使って身体を硬くする?
それごと切り裂いてやる
才人が握った刀は、さすがはブリミルからのプレゼント。無銘だったが本物の打刀《うちがたな》≠セった。そんな業物に、硬化≠ニ固定化≠フオマケがついている。
ガンダールヴの自分が振るえば、このハルケギニアのもので、斬れないものなんかない。
だが……、それでも恐怖は消え去らない。
とうとう小刻みに身体が震えだす。
「くそッ!」
距離が十五メイルに達したときに、才人は跳躍した。
ジャックの前に、分厚い土の壁ができあがり、ついでそれが輝く鋼板となる。才人は両手で握った刀で、それをなんなく切り裂く。
そのままの勢いで降下し、ジャックの左腕に深々と刀を突き立てた。
だが、ジャックは顔色一つ変えない。それどころか、刀を突き立てたまま、左腕を振り回した。
「なんだってッ?」
驚いた才人は、地面に叩きつけられた。間髪いれず、ジャックの拳が才人を襲う。陽光に、ジャックの拳がキラキラと輝いている。
ただの拳じゃない!
才人は身体を回転させ、紙一重でジャックの拳を避ける。
地面に、易々とジャックの拳はめり込んだ。
「いや、お前、身が軽いなあ」
ずぼっと地面から抜き出た拳は、硬い鋼鉄と化していた。ドゥドゥーもそんな真似をしていた。己の身体に硬化をかけるのは、こいつらの得意技のようだ。
しかし、さっきは左腕に刀を突き立てたはずなのに……、そこから血の一滴すらも流れていないとは、どういうことだ?
立ち上がった才人に、ジャックは笑顔を見せた。
「お前……、随分とやるなあ。でも、まだお前と戦うわけにはいかんのだよ」
才人が駆け寄ろうとした瞬間、ジャックは呪文を唱えた。土が盛り上がり、一瞬で細かい塵へと分解した。単純な錬金≠セったが、その量が違う。
才人たちを中心とした、街の一角が、もうもうと立ち込める土ぼこりに覆われる。
「くそッ!」
視界をさえぎられ、あっけなく才人は戦闘能力を失った。ここは街中だ。闇雲に刀を振り回したら、誰を傷つけるか知れたもんじゃない。
土ぼこりが晴れたあと……、ドゥドゥーとジャックは姿を消していた。まさに煙《けむ》に巻かれた才人は地団太を踏んだ。
「くそッ! くそッ! ちくしょう!」
唖然とした顔の通行人たちを掻き分け、ギーシュたちが現れた。
「サイト! 大丈夫か!」
「今のが、先日きみを襲った連中かい?」
「逃げられたみたいだな」
才人は刀を鞘におさめると、拳で地面を叩いた。
「そう悔しがるなよ。またチャンスはあるさ」
ギーシュにそう慰められたが、違う。
悔しかったのは、あいつらを逃がしたからじゃない。
逃げてくれて、ほっとしている自分がいた。
あいつらと戦わなくてすんだ。
そのことに安心している自分がいた。
デルフの仇なのに……、俺は逃げようとした。
何が英雄だ。
「くそ……! デルフ……! 俺だけじゃ、やっぱり、あいつらに勝てそうにねえよッ!」
『陸の白鯨』亭の窓から、一部始終を見物していたジャネットは、にたりと笑みを浮かべた。今しがた、自分の兄弟と戦っていたのは、ド・オルニエールで中断した仕事≠フ相手じゃないか。
彼が、どうしてこの街にやってきたのか?
その理由に気づいてジャネットは笑みを浮かべたのだ。
「……いったい、なんの騒ぎ?」
寝ぼけ眼をこすりながら、ルイズがベッドから起き上がってくる。そんなルイズに、ジャネットは言った。
「なんでもなくってよ。ただの酔っ払いのケンカ」
「……迷惑ね。目が覚めちゃったじゃないの」
眠そうな目のルイズを見て、ジャネットはますます笑みを濃くした。
どこかで会ったような気がすると思っていたけど……、まさか、あのときすれ違った女の子だったなんてね
つまり、このルイズが逃げ出してきた相手とは……、自分たちのターゲット。
退屈な仕事だと思ってたけど……、面白くなってきたじゃないの
「で、あなたの兄弟はまだなの?」
「来たわよ」
「え? ほんと?」
ルイズの目が輝いた。
そのとき、扉がノックもなしに開いた。
ジャックとドゥドゥーだった。
「あら。遅かったじゃない。お兄さまがた」
「こいつが、宿の名前を忘れてな」
ジャックは、ドゥドゥーの頭を小突いた。
「でも! こうやってちゃんと思い出したじゃないか!」
「だったら初めから覚えておけ!」
兄の叱責をよそに、ドゥドゥーはルイズを見て、目を丸くした。
「女の子だ!」
ジャックは眉をひそめた。
「お前、また心を操って人形≠作ったのか」
ルイズは怪訝な顔で、ジャネットを見つめた。
人形?
いったい、何を言っているの?
それからルイズは、いきなり現れた二人の男を見つめた。灰色のローブに身を包んだその姿は、まるで修道僧のようだった。
だが……、身につけている雰囲気が違う。握った杖を見るに、メイジなのだろうが貴族でもないようだ。
「ねえジャック兄さま」
「なんだ?」
「いつだかほら、どこかの伯爵の隠し子を運んだ修道院があったじゃない」
「ああ、二年くらい前の仕事だな」
「あの場所、覚えてる?」
ジャックは、ちらっとルイズを見つめ、それからジャネットに視線を戻した。
「覚えてるよ」
「よかった。教えてくれる?」
「どうしてだ?」
ジャネットは、にっこりと邪気のない笑みを浮かべた。
「この子が、そこに行きたいっていうから」
するとドゥドゥーが、呆れたと言わんばかりに両手を広げた。
「おいおいジャネット! お前、何を言ってるんだ? 仕事で得た情報をだな、そうカンタンに教えちゃっていいと思ってるのか? だいたいあの修道院は、秘密の場所で……、ガリアの王政府だって、知ってるのは数人の……」
「そんなの関係ないじゃない」
「お前な! いつもはぼくに、仕事の秘密は守れって文句言うくせに!」
ルイズはそのやり取りに、なんだか眩暈がした。いったい、この人たちは、どんな仕事をしてるんだろう? 聞くと、ガリア政府の秘密の仕事をしてたみたいだけど……。
まあ、彼らが何者だろうが関係ない。
自分が隠遁できる場所を知っている……、それで十分じゃないか。
「いいだろ。教えてやるよ」
「ジャック兄さん!」
ドゥドゥーが叫んだ。
「ダミアン兄さんが聞いたら、怒るよ! 絶対に!」
「まあ、怒るだろうな。でも、教えなかったら、ジャネットはもっと怒るぞ。だろ? ジャネット」
ジャネットの頬は、軽く上気していた。そして、嬉しそうに微笑む。
「こいつ……、昔っからそうだ。気に入った人間見ると、なんでもしてやりたくなるんだ。よかったな、お嬢さん」
ジャックはルイズを見て言った。ルイズはジャックの身体が発する圧力みたいなものに押され、怯えたように頷く。
ジャックは鞄から羊皮紙とペンを取り出すと、さらさらと何かしたためた。
「ガリアの海沿いの街……、グラヴィルに行って、そこのサンドウェリー寺院のマチスっていう司祭にこれを見せな。たぶん、あんたが望む場所に連れていってくれるはずだ」
ルイズに渡そうとしたその手紙を、ジャネットはさっと取り上げた。
「おい、ジャネット……」
「送ってくわ。この子、一人じゃ国境も越えられないだろうし」
「お前……、仕事は? どーするんだよ!」
「どーせ、未だに交渉の決着がついてないんでしょ? ダミアン兄さんがいないし。それに、わたしがいなくたって、どうにでもなるでしょう?」
「ま、その通りだな」
ジャネットはジャックに飛びつき、その頬にキスをした。
「ありがと! ジャック兄さま。一番怖い顔してるけど、一番優しいわよね!」
そして、あっけにとられているルイズに向き直る。
「ほら。急いで支度して。すぐに出発するわよ。さてさて、ここからグラヴィルまで三日ってとこかしら」
「は、はい……」
「ああそうだ。深いフードのついたローブでも羽織って、顔をしっかりとかくしてね? どこでどんな追っ手に会うかわからないから……」
こくりと頷いたルイズに、ジャネットは真顔になって言った。
「さてと。じゃあ最後に、これだけ聞いておくわね」
「え?」
「今からあなたを連れて行く場所は、秘密の場所≠ネの。この意味がわかる? つまり、入ったらもう二度と出られないってこと。それでもいいの? もう二度と、彼には会えなくってよ?」
その一言で、ルイズは青ざめた。頭の中に、氷の棒を差し込まれたようだった。芯から冷えていく。
才人にもう会えない
そのことが、急に現実として重くのしかかってくる……。
でも……、自分はそれを覚悟して飛び出してきたんじゃないか。
だって、才人はもう……、自分よりうまく彼を守れる人と、愛し合っている。
才人のそばだけが、唯一自分の居場所だと思っていた。でももう、そこには戻れない。
となれば……、会ったらつらいだけだ。というか、これ以上傷つきたくなかった。そんな痛みには、耐えられそうになかった。
あのときルイズは死んだのよ。ここにいるのは、ただの抜け殻……
「かまわないわ」
ルイズがそう言うと、ジャネットは再び笑みを浮かべた。
「自分の愛≠ノ殉じるのね? いいわ、わたし、そういうのダイスキよ」
第六章 ダミアンとゴンドラン卿
エレオノールは、研究室の椅子に腰掛け、机の上の書類を左手でずっといじっていた。
眉間にしわを寄せ、人差し指でこめかみをぐりぐりとこね回す。これが彼女の癖だった。悩み事があると、目をつむり、眉間にしわを寄せ、口をへの字にまげて、いつまでもこの仕草を続けるのである。
そんなときの顔は、末の妹にそっくりだった。
「しかし、あの子……、まだ帰ってこないのかしら?」
ルイズが失踪したとの報告を実家から受けて、エレオノールが思ったのは、
言わんこっちゃない≠セった。
いっしょに暮らし始めたら、いろいろと粗も見えたのだろう。まあ、ただの癇癪で、すぐに帰ってくるでしょう、なんて思っていたのだが、ルイズはまだ帰ってこないようだ。
ちょっと心配になってきたエレオノールはド・オルニエールに行って、詳しい話を才人から聞こうと考えていたのだが……。
「それどころじゃなくなっちゃったわね」
さっきからいじっていた、今朝届いたばかりの書類をつまみあげる。
「なによこれぇ……。こんどはわたしってわけ?」
そこに書かれていたのは、自分に命じられた研究だった。それにしても、おかしな研究である。
「錬金を常時放出する魔法装置≠ナすって? 始祖像ばっかり作ってたわたしに、いったい何をさせようというのよ」
さすがにこれは何かある……、そう思ったエレオノールは、立ち上がった。すらりと高い、細身の身体に壁にかけたマントを羽織る。机に置かれた帽子をかぶると、立派なアカデミーの研究員のできあがりだった。
「さてと……。でも最上階って、苦手なのよね……」
そんなことを呟きながら研究室を出て、扉に鍵をかける。
アカデミー≠ヘ、三十階もある魔法の塔だ。円形の塔の周りに部屋が配置され、部屋に包まれるようにして廊下が走る。
そして塔の真ん中には、昇降装置≠ェあった。風石を使って、各階に人を運ぶ装置だった。見た目は、才人の世界のエレベーターとよく似ている。昇降装置の扉に設けられたレバーを下げると、籠が降りてきて、目の前で止まる。
乗り込んで、『最上階』と短く告げると、籠に取りつけられたガーゴイルの像の目が光り、籠は上昇を始めた。
最上階に達すると、目の前には五芒星が描かれた大きな鉄の扉があった。左右に控えたガーゴイルの目が光ると、エレオノールに向かって光が延びた。
光がその瞳を確認すると、すぅっと扉が開く。
「…………」
いつ来ても、なんだか慣れない場所だ。扉が開いたそこは、アカデミーの評議会長室玄関……。トリステインの知をつかさどる機関の、最高責任者が執務を行う場所の入り口だった。
玄関室の左右には扉が置かれ、真正面には机があって、若い女性が書き物をしていた。
エレオノールに気づき、顔をあげる。
「あら。ミス・ヴァリエール。どうされました?」
議会長秘書の、ミス・ヴァランタンである。理知的で、冷たい感じのする女性だった。エレオノールと同年代であったが、あまり親しく口を利いたことはない。というか、正直苦手な女性だった。
「ゴンドラン卿に面会したいのですけど」
エレオノールがそう言うと、ミス・ヴァランタンは首をかしげた。
「お約束はおありですか?」
「いえ、特に」
そう答えると、ミス・ヴァランタンは困ったような顔になった。
「となると、面会の申し込みをしていただかねばいけませんわ。それが規則ですから」
すると、エレオノールの額に青筋が浮いた。ぴくっと眉を震わせ、エレオノールは議会長秘書に詰め寄る。
「宮廷から来た監督官や、田舎から出てきた書生じゃないのよ。主席研究員のエレオノール・ド・ラ・ヴァリエールが来たと。そう告げてくださらない?」
それでもミス・ヴァランタンは反応しない。
「それはよく存じ上げておりますわ。たとえ女王陛下がこられようが、わたくしはこう申すだけですわ。規則ですから≠ニ」
エレオノールの額に浮いた青筋が増えた。ミス・ヴァランタンに顔を近づけると、
「融通のきかない人ね」と、怒りに震える声で言った。
「ここまでわがままを押し通そうとなさる研究員は、ミス・ヴァリエールだけですわ。少しは他の方の行儀を見習っては? そうすれば、ご結婚だってうまくいくでしょうに……」
冷たい笑みを浮かべ、さらりとミス・ヴァランタンは禁句を言った。
エレオノールは、にっこりと笑みを浮かべると同時に杖を引き抜いた。しかし、ミス・ヴァランタンもさるもの。ほぼ同時に杖を抜いて、エレオノールの鼻先に突きつけていた。
「このアカデミー%烽ナ、攻撃魔法を人に使えば除名……、覚えておいでですか?」
「誰も攻撃魔法なんか使わないわ。あなたのよく開く口を閉じる魔法を、ちょっと唱えるだけじゃないの」
そんな一触即発の空気の中、悲鳴のような声が、机の上に載った小さな水晶のしゃれこうべから響いた。
『こらこら! きみたち、やめたまえ!』
しゃれこうべに向かって、エレオノールは叫んだ。
「ゴンドラン卿。あなたの秘書に、礼儀を教えてあげているだけですわ」
『わかったわかった。……しかたがないな、入りたまえ』
すると左手の扉が開いた。去り際に、エレオノールはミス・ヴァランタンを思いきり睨みつける。
執務室の中は、様々な魔道具や、美術品で溢れていた。まるでおもちゃ箱をひっくり返したような部屋の真ん中で、背の高い老紳士が椅子から立ち上がった。
髪は銀色に光り、鼻の下には小さく刈り込まれたひげがあった。整ってはいたが、あまり覇気の感じられない顔立ちだった。それが、この老人の印象を、薄いものにしていた。
アカデミー&]議会議長、ゴンドラン卿だった。
「まったく……、いったいなんの用なんだね? ミス・ヴァリエール……」
口の中でもごもごと、言い難そうに呟くゴンドラン卿に、エレオノールはつかつかと近ついていく。
「なんの用もこんな用もありませんわッ!」
エレオノールはゴンドラン卿に近寄ると、思いっきり怒鳴りつけた。もう、それだけで気の弱そうなゴンドラン卿は、たじたじになってしまう。
「そんな大きな声を出さないでくれよ……、こっちは年寄りなんだから……」
「出しますとも! いったい、この研究命令書は、どういうことなんですのッ!」
エレオノールは、書類を突き出した。
「ああ……、これか、うん。その、あのだね、王政府の偉いサンがどうしてもって……」
「別に異端とは思いませんが、この伝統あるアカデミー≠ナ行うべき研究ではありませんわ!」
「まあ、確かにきみの言うとおりなんだが、わしにも立場というものがだね……」
汗を拭き吹きゴンドラン卿はエレオノールをなだめた。
「いったい、王政府は何をお考えですの? この前は、ヴァレリーが妙な研究を命ぜられたし……」
「さ、さあ……、わしも何がなんだか……」
腕を組み、じろり、とエレオノールは細い目でゴンドラン卿を睨んだ。
「何かお隠しになっているんじゃありませんこと?」
「わしが!? きみに!? とんでもない! なにも隠してなどおらんよ!」
ゴンドラン卿は慌てた調子で、手を振った。
「ほんとうですか?」
「ほ、ほんとうだ! うん。あのだな、きみ、王政府が何をたくらんでいるのかは知らん。きっと、彼らには彼らの考えがあるんだろう。だがな、ここで恩を売っておくことは、悪いことではないそ。ミス・ヴァリエール、確かきみは、新しい高速魔法炉が欲しいと言っておったな?」
「う……」
エレオノールは弱みをつかれてあとじさった。何せ研究には金がかかる。トリステインの知の結晶とはいえ、予算に振り回されるのはいつものことだった。
「土&薄蛯フ研究費を引き上げるよう、評議会で根回しもしておこう。どうだね?」
エレオノールは、こめかみに人差し指を当てて、ぐりぐりとやり始めた。しばらく悩んでいたが、恥ずかしそうな声で、
「で、でもですね? やはり、納得のいかない研究をするわけには……」
「何を言っておるんだね? もう学生でもあるまいに。研究にはパトロンが必要なんだ。このアカデミー≠セって例外じゃない」
「…………」
ゴンドラン卿は、エレオノールの肩に手を置いた。
「きみのような優秀な研究員が、もっとよりよい環境で仕事に打ち込めるよう、わしなりに努力しておるつもりなのだよ」
エレオノールは、苦しそうな声で呟いた。
「……マ、マンドラゴラの畑があと二枚あってもいいんじゃないかと」
「そのように取り計らおう」
それがとどめで、エレオノールは部屋をフラフラと出て行った。
一人残されたゴンドラン卿は、扉が閉まると、ふぅ、とため息をついて椅子に腰を下ろした。すると、乱雑に組み上げられた棚の後ろから、小さな影が現れた。
十歳くらいの少年だった。
短い金髪の悪戯坊主といった風情で、まったくこの部屋には似つかわしくない。少年は、楽しそうな声でゴンドラン卿に言った。
「押されっぱなしではありませんか。灰色卿=v
「あのミス・ヴァリエールは苦手なんだよ……。腕はいいんだがね」
それから少年に向き直り、困ったような声で言った。
「さてと。聞いてのとおりだダミアン君。きみの注文をそのまま受けると、大変なお金がかかる。二十万エキュー? バカを言っちゃいけない! 十万エキューだ。それが我々の限界だ」
「他の方たちからの出資はもう望めないのでしょうか」
「伝統を守るためには金がかかる……、それ以上の金を出しては、今度は自分たちの体裁が危うくなる、だそうだ」
「トリステイン貴族の伝統を守りたいのでしょう?」
ゴンドラン卿は、深く椅子に腰掛けた。
「ああ。だが、他のきみたちのわがままはすべて聞いたぞ。次はきみたちが聞く番だと思わんかね?」
しばらくダミアンは考え込んでいたが、
「十八万エキューですな。それ以上はどうあってもまかりません」
「十二万エキューだ」
「お話になりませんな!」
吐き出すように言い捨てると、ダミアンは首を振った。そんな仕草をする彼は、どうにも十歳の少年とは思えなかった。
「どうにも折り合いがつかんな! しかし、どうして、そんなに金が必要なんだね?」
呆れた声でゴンドラン卿が尋ねると、
「夢があるんですよ」
「夢?」
「ええ。夢です」
ダミアンはそこで、初めて少年のように笑った。
研究室に帰ってきたエレオノールは、テーブルに突っ伏した。
「なに丸め込まれてるのかしら……、わたし……」
最近のアカデミーはどうも妙だ。次々と命じられる、不可解な研究内容……。王政府からの横槍? いったい誰が? それ本当なの?
とはいっても、アカデミーで毎日研究ばかりしていた自分に黒幕などわかろうはずもない。
そうだ、とエレオノールは思い出す。
ルイズに聞いてみよう。
あの子、陛下の女官だっていうし……、宮廷の事情には明るいだろう。
「あ」
そこまで考えて、ルイズが現在、家出の真っ最中だったことを思い出し、エレオノールはがっくりと肩を落とした。
「あの子……、いったいどこで何をやっているのかしら……」
第七章 修道女ルイズ
どうにもこうにも目まぐるしい五日間だった。
シュルピスから三日かけて、ルイズはグラヴィルに到着した。グラヴィルは海岸沿いのひなびた漁村で、サンドウェリー寺院は港を臨む丘の上にあった。
サンドウェリー寺院のマチス司祭は、やってきたルイズとジャネットを怪訝な顔で見たが、ジャックが書いた手紙を見せると、表情が一変した。
『そ、そんな……、いやでも……』
だが、マチス司祭が悩んでいたのは数分で、すぐにてきぱきと用意をした。竜籠を手配し、何がなんやら戸惑っているルイズにこう言い含めた。
今からあなたが赴く修道院は、とある事情があってそこで暮らすことを余儀なくされた女たちばかりだ。
彼女たちのことを深く詮索しないこと。
そして……。
ルイズは首から下げられた聖具を見つめた。どこにでもあるような、ただの聖具だったが、これを首から下げると……、なんと驚くべきことに顔の形と髪の色が変わっていった。どうやら高度なフェイス・チェンジ≠フ魔法が付与されているらしい。
『これを決して外さないこと……』
マチス司祭は、そうルイズに告げた。そして、絶対に本名を名乗ってはいけないと申し含めた。どうやら、自分がこれから行く場所は、かなりワケありのところらしい。まあ、そうでもなければ、身を隠すなんてできないだろう。
竜籠に乗り込むときに、ルイズはジャネットに深く礼をした。何から何まで、彼女には世話になりっぱなしだった。
『さようなら。ほんとにどうもありがとう』
そう言ったものの、ジャネットは首を振った。
『さよなら。でもね、なんだかまたすぐに会えそうな気がするわ』
『二度と出られないんじゃなかったの?』
ルイズがそう言うと、
『そうね。でも、そんな気がするのよ』
と、本気か冗談かわからない調子でジャネットは言った。
そんなこんなでやってきたセント・マルガリタ修道院は、なるほど今の自分にぴったりの場所だった。
「海の風が身に染むわ……」
きらきらと鱗のように光る外海≠フさざなみを見つめながら、ルイズは言った。このセント・マルガリタ修道院にやってきてから、二日が過ぎた。
「こんな場所がハルケギニアにあったのね」
まさにここは陸の孤島≠ナあった。
突き出した岬の突端に位置するこの修道院には陸路が通じていない。切り立った岸壁は、船も近づけない。ここにやってくるには、自分がそうしたように空から来るしかない。つまり、誰もここにやってくることはできない……。
身を隠すには、うってつけの場所だった。風になぶられ、髪が頬にかかる。その色は、見事なまでのブルネットだった。一度鏡で見たが、鳶色の瞳は黒目になり、鼻も輪郭もまるで別人になっていた。
聖具によってかけられた魔法のおかげだ。たとえ家族だろうが、今の自分を見てもルイズだとはわからないだろう。
そんな風にまるきり別人になってしまうと、なんだか覚悟もついた。以前の自分の顔を思い出せなくなる頃には……、きっとこの胸の痛みも忘れてしまえるに違いない。
「スール・ヴァネッサ」
背後から声をかけられ、ルイズは振り返る。ジャネットに名乗った偽名をそのまま使っていた。ここでのルイズは|スール《修道女》・ヴァネッサ=Bそれ以上の肩書きは誰も必要としていない。
「はい」
と、振り向くと、修道院長が立ってルイズを見つめている。初老の人が良さそうな女性だった。周りを見回して、辺りに誰もいないことを確かめると、修道院長はルイズに近寄り、小さな声で言った。
「さて、もう一度念を押しておきますが……、ここに来られた以上、過去はお忘れになっていただかねばなりません。わたくしはあなたが何者で、どうやってここを知ったのか……、それすら尋ねません。ですからあなたも、他の修道女の素性を探ってはなりません」
「もちろんですわ。過去を忘れるために来たんですもの」
ルイズは言った。
この修道院長は、到着したときもまったくルイズの過去を詮索しなかった。つまり彼女は、余計なことを知りたくないのだ。
「それと、あなたが首から下げた聖具ですが……。ここの規則で、決してこれを外してはいけません。あなたには、その理由はおわかりですね? しかし、生まれてすぐにこの修道院にやってきた乙女たちは、その聖具の秘密を知りません。したがって、聖具にかけられた魔法について口外することも固く禁じます」
ルイズは頷いた。
「よろしい。もうわたくしから申すことはありません。共に、穏やかに、神への祈りを捧げましょう。この身が朽ち果てるまで……」
そう言い残すと、修道院長は去っていく。ルイズは、自分がこれから暮らすことになるセント・マルガリタ修道院を見回した。小さな修道院と、宿舎が、狭い岬の突端の上に建っている。岩場の隙間を利用して、貯水池と段々畑が作られていた。
それらが、魔法学院の中庭ぐらいの土地に押し込まれている。ここで暮らす女は三十人ほど。週に一度、空から輸送船がやってきて生活に必要なものや食料などを置いていく……。
ここで、毎日お祈りして暮らすんだわ
ほんの十二日ほど前までは、ド・オルニエールでのんびりとした日々を過ごしていたはずなのに、今日はこの世の果てのような修道院で、海を眺めている。
ほんとうに人の運命なんてわからないものね……。
そんな物思いにふけりながら歩いていると……。
「ヴァネッサさん! ヴァネッサさん!」
前から三人ほどの、若い修道女が走ってきた。彼女たちはあっという間にルイズを取り囲むと、口々に騒ぎ始めた。
「ねえヴァネッサさん、どちらからいらしたの?」
「わたしが尋ねるのよ!」
「ここに来る前までは、何をしてらしたの?」
先ほどの修道院長の注意が吹っ飛ぶような、質問の嵐である。ルイズがしどろもどろになっていると、若い修道女たちはさらに詰め寄ってきた。
「こらッ!」
修道女の後ろから、怒鳴り声が響いた。
「ジョゼットさん!」
つかつかとやってきたのは、長い銀髪の少女だった。ジョゼットと呼ばれたその銀髪少女は両手を腰に置くと、すまし顔で、
「あなたたち、修道院長にいつも言われているでしょう? 俗世のことに、興味を持ってはいけませんよって」
すると、少女たちはにやりと意味ありげな笑みを浮かべた。
「あら。ジョゼットさんにそんなことを言われる筋合いはないわ。一番俗世に興味がおありになるくせに」
「なによそれ。どういう意味かしら?」
「どうもこうもないわ。だって、ねー」
ジョゼットが、じろりと睨むと、少女たちはきゃあきゃあわめきながら駆けていった。唖然としたルイズにジョゼットはぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさいね。悪い子たちじゃないのよ。ただ、ほら、ずっとこんな場所にいるから……、退屈しているだけで」
「そうね」
ルイズは納得した。なんとなく、この修道院には二種類の女がいると見当をつけていた。自分のように、世を捨てたくてやってきた女……。
割と年配の女性たちがそうだ。彼女たちは、他人を寄せつけない雰囲気を周りに放ち、日がな一日お祈りばかりしている。
もう一方は、比較的幼く若い修道女たちだ。たぶん……、彼女たちは生まれながらにしてここにやってきたのだろう。存在が明るみに出るとまずい、貴族の私生児……、そんなところだろう。そういえば、朝食の席で、隣の部屋から赤ん坊の泣き声も聞いた。
彼女たちは、自分がどうしてこんなところにいるのか、それすらも理解していないに違いない。だから、さっきの少女たちのように明るいのだ。
ルイズがそんな考えにふけっていると、ジョゼットは手を差し出してきた。
「わたし、ジョゼットっていうの。よろしく」
「……ヴァ、ヴァネッサよ。よろしく。スール・ジョゼット」
「ジョゼットでいいわよ。ここじゃ誰も、そんな堅苦しい呼び方はしないわ」
ジョゼットは、笑みを浮かべて言った。
さてさて、ルイズはなぜかそんなジョゼットに、子犬のように懐かれる羽目になった。
この修道院は、朝と夕方の二回、毎日決まった時間に食事をとるのだが、ジョゼットはすまし顔で隣に座ってきた。
それだけではない。
ジョゼットは、やってきて間もないルイズの世話係に立候補して、ベッドまで隣を確保してしまったのである。
さすがにルイズはウンザリした。せっかく、ひっそりと暮らしたいと思ってやってきたのに、どうしてここまで懐かれねばならないのだろう?
ベッドが隣同士になったその晩、ジョゼットはあれやこれやとルイズに話しかけてきた。内容はといえば、たわいのないことばかり。
「ねえヴァネッサ。わたし、あなたの素性は尋ねないわ。規則だから! でもね、外≠フお話だったらかまわないでしょう?」
「……外?」
「ええ。ねえ、外の世界では、若い女の子はどんな服を着るの?」
「そんなの、他の誰かに聞いてちょうだい」
つれなくそう言っても、ジョゼットは諦めない。
「じゃあ、男の子とデートしたことある? それぐらいだったらいいわよね」
ルイズの脳裏に、使い魔の姿が浮かんだ。せっかく忘れるためにやってきたのに! 不意に怒りを覚え、ルイズは強い調子で、
「……いい加減にして! 眠いのよ!」
「なによ。怒らなくたっていいじゃない」
そう言って、ジョゼットはやっと自分のベッドに潜り込んだ。
さて……、いざこうやって安息の地≠ノついて、少しほっとしてみると……。
思い出すのは才人のことばかりだった。
やけくそのように、こんな辺鄙なところまでやってきてしまったが……。
ここで暮らす以上、もう二度と才人には会えない。
思えば、いつも眠るときには才人がそばにいた。そうじゃないと安心して眠れなかった。シュルピスにいたときはワインが眠りの世界に運んでくれたが、ここは修道院だ。そんなものはない。酔っていない状態で才人のことを思い出すと……、針で刺されたように胸が痛む。
使い魔の気持ちが、自分にない、ということが……、これほどつらいことだとは思わなかった。たまに余所見をしても、気持ちは自分にあると思っていた。
でも……、才人のあんな顔を見てしまったあとでは、もうそうは思えない。
サイトが好きなのは……、わたしじゃない。姫さま。アンリエッタ・ド・トリステインその人……
祖国で一番の女性。すべての貴族の上に君臨する、一番尊い女性……
自分に勝ち目なんかない。そう思うと、ルイズはどうにもこうにも、自分がちっぽけな存在に感じてしかたがなくなるのだった。
ちっぽけなルイズ。ゼロのルイズ。やせっぽちで性格の悪い女の子……。
「……ひっぐ。えぐ……、えっぐ」
気づくと、ルイズは嗚咽を漏らしていた。周りに聞こえないように、毛布をかぶった。泣いているところを、これからいっしょに暮らさねばならない女の子たちに見せるわけにはいかない。
でも、自分の隣のベッドで寝ているジョゼットには聞こえてしまったようだ。ジョゼットは起き上がると、そっとルイズの毛布の中に潜り込んでくる。
「どうしたの?」
「だ、だいじょうぶ……、だから……、ひっぐ」
「ごめん。わたし、何かまずいこと言っちゃった?」
心配そうな声に、ルイズの心はますます高ぶった。
「ほ……、ほんとに、なんでもない……、えっぐ」
するとジョゼットは、黙ってルイズの頭を抱きしめた。
「いいのよ。お泣きなさいな」
「やだ……」
「どうして?」
「は、恥ずかしいじゃない……、えっぐ。……弱虫だと思われちゃう。ひっく」
泣きじゃくりながらルイズがそう言うと、ジョゼットは優しい声で言った。
「いいじゃない。弱虫で。わたしだって弱虫だよ」
ジョゼットは、ずっとルイズの頭を撫で続けた。
翌朝……、ルイズは泣きはらした目で、むくりと起きた。隣では、ジョゼットがすうすうと軽やかな寝息を立てている。
こうして見ると、幼い顔立ちだ。とはいっても、自分と同じくその顔は首から下げられた聖具で変えられているのだろうが……。
この子はおそらく……、生まれてすぐにここにやってきたのだ
だから外の世界のことを聞きたがったのだろう。
ここでの生活しか知らない、おそらく同年代であろう少女の顔を、ルイズはじっと見つめた。ルイズは今まで自分が……、世界で一番不幸な少女だとばかり思っていた。
でも、ここしか知らないジョゼットたちは、自分が不幸であることすら知らない。そんな子に、自分は慰められたのだ。
そう考えると、昨晩泣いた自分が随分と身勝手で、わがままだったように思えた。
外の世界の話ぐらい、なんでもないじゃないの。
ジョゼットが、ゆっくりと身を起こした。
「ふぁあああああ……、おはよう。ごめんね、あなたのベッドで眠っちゃったみたいね」
ルイズは首を振った。
「いいのよ。あのね、昨晩はごめんね。外のお話でよかったら、させてちょうだい。気晴らしにもなるし」
すると、ジョゼットは目を輝かせた。
「ほんと?」
こくりと、ルイズは頷いた。
セント・マルガリタ修道院での生活は、厳密に時間に縛られていた。朝起きるとまず、修道女たちは礼拝堂で祈りを捧げる。そのあと、掃除をして朝食。農作業や、雑務が午後の三時ぐらいまで続く。
夕方まで自由時間があって、それから夕食。
夕食のあとは、お祈りをして、すぐに寝てしまう。まさに夜明けと共に起きて、日の入りと共に眠る生活だった。今まで貴族の暮らしに慣れていたルイズは、こんな質素な生活があることにびっくりした。
そして、ルイズはわずかな自由時間を使って、ジョゼットたちに外の世界の話をしてやった。彼女たちは、目を輝かせ、ルイズの話をまるで英雄譚のように聞くのだった。
その日もルイズのベッドの上に集まり、少女たちはルイズの話を夢中になって聞いていた。四人ほどで毛布をかぶり、ひそひそとやるのである。あまり騒ぐとたしなめられるので、こうするよりほかになかった。
ろうそくの明かりすらないので、もう真っ暗だった。
「そうね、お休みの日には遠乗りをしたりするわ」
「遠乗り?」
「そうよ。馬に乗って、遠くまで駆けるの。楽しいわよ」
「ねえねえ、馬ってなに?」
なんと、ジョゼットをはじめ少女たちは馬を知らなかった。そういえば、この狭い修道院で、馬の姿は見かけなかった。
「なんていうかな……、乗ることのできる動物?」
「竜とどっちが大きいの?」
「そりゃあ、竜のほうが大きいわ」
「わたし、犬なら知ってる! この前、おフネにのっているの見たもの」
「あの、ギャンギャン吼える生き物? うるさかったわ」
「馬って、空は……、飛べないんだよね?」
「似たような飛べる生き物ならいるわ。ペガサスとかグリフォンとか……」
「なにそれ! どんな生き物なの?」
日々の生活、食べ物、街の様子……、そういったものを、彼女たちは熱心に聞きたがった。でも話の途中で、ルイズは妙なことに気づいた。
馬を知らない少女たちなのに、妙に世間のことに詳しいのである。たとえば、今、街で流行っている帽子のかたちとか……、レースやアクセサリーを扱うお店の名前だとか。
ガリアの首都、リュティスの街並みもよく知らないのに、そういった街の端々のディテールを知っていたりするので、ルイズは驚いた。
「よく知ってるわね。波打ったつばの帽子が流行っているなんて」
そう言ったら、一人の少女が得意げな顔で言った。
「たまにいらしてくださる神官さまが、街の流行を教えてくださるの」
こんな秘密の修道院にも、訪れる客はいるらしい。なるほど、そういった人たちから、外の話を聞くぐらいしか娯楽はないんだろう。
「でも、ジョゼットさんは、もっといろんなことを教えてもらっているようだけど!」
一人の少女がそんなことを言うと、ジョゼットは首まで赤くなった。
「何を言うの! 変なこと言わないで欲しいわ!」
「あら? 違ったの?」
少女たちはにやにやと笑みを浮かべた。
「ほら、ジョゼットさんが真っ赤になっちゃった! 真っ赤なリンゴ!」
「いい加減にしてちょうだい! それってあなたたち、冒涜よ!」
頬を染めて、ジョゼットは怒鳴った。どうやらジョゼットとその神官殿は、微妙な関係であるようだ。ルイズは、ジョゼットが羨ましくなった。
「だから外の世界の話を聞きたがったのよねー」
「違うもの!」
ジョゼットは夢中になって否定している。そんな姿に、ルイズはかつての自分をダブらせた。ああ、わたしも、誰かにああやってからかわれると、あんな風に夢中になって否定したっけ……。
甘い記憶と、鮮烈な痛みが入り混じり、ルイズはため息をついた。そんな様子を意にも介さず、乙女たちは次なる質問を繰り出してくる。
「ねえ、ヴァネッサさん。キスしたことある?」
その質問で、ルイズの心はぷつん、と切れた。思い出が津波のように押し寄せて、一瞬で心が耐えきれなくなったのだ。
ルイズは白目をむいて、倒れこむ。ジョゼットがゆすっても、さすっても、意識はない。どうやら気絶してしまったようだ。
「……いやだ。恋人どうしのキスってそんなにすごいのかしら」
そんな風に話していると、ぷはぁ、とルイズは息を吹き返す。
「大丈夫? ヴァネッサ」
「へ、平気……」
ルイズは、首を振りながら呟いた。すると、他のベッドから咳払いが聞こえてくる。どうやら、ちょっと騒ぎすぎたようだ。
少女たちは、静かにルイズのベッドから抜け出し、自分のベッドへと戻っていく。
静けさが戻ったあと……、ルイズは目を閉じた。
キスしたことある?
さっきの質問が、頭の中に蘇る。
あるわ。何度も……。
思えば自分たちは、キスで出会い、そしてキスですべてを失った。人生で一番嬉しかったときもキスの記憶で、悲しかったこともキスの記憶。
その二つのキスが入り混じり、ルイズはなんだかせつないような、気だるいような、そんな気分になった。ゆっくりと指で唇をなぞると……、様々な思い出が蘇る。
今日はサイトの夢を見るのかしら
ぼんやりと、ルイズはそんなことを思った。毛布をかぶり、その中で膝を抱えてまん丸になった。
それから毎晩、ルイズは夢の中で才人を見た。せっかく、覚悟してこんな陸の孤島のようなところまでやってきたというのに……、意味ないじゃない、とルイズはせつなくなった。忘れようにも忘れられないではないか。
夢の中の才人は、とても優しく、ルイズを抱きしめてくれた。そして耳元で甘く、愛の言葉をささやいてくれる……。でも、気づくと姿を消している。夢の中の自分は、そんな才人をあてどなく捜し回るのだった。場所は学院だったり、トリスタニアだったり、なぜかラ・ヴァリエールの実家だったりした。でも、そこがどこでも一つだけ共通しているのは……。
才人は決して見つからない、ということだった。
そんなわけで、ルイズはどんよりとした空気を纏い始めた。最初の頃は、珍しがってくっついていた少女たちも、近寄らないようになっていった。
ただ、そんな中、ジョゼットだけが変わらずにルイズに接してくれていた。
「ねえヴァネッサ。ちょっと尋ねたいんだけど……」
仲良くなって三日ほど経ったある日、ジョゼットは恥ずかしそうに尋ねてきた。
「なあに?」
「わたしの髪なんだけど……、この髪に似合う髪形ってなにかしら?」
「なんでも似合うんじゃない?」
ルイズのそっけなさに、ジョゼットは頬を膨らませた。
「相談にのってくれたっていいじゃない」
「……恋ね」
気だるげにルイズがそう言うと、ジョゼットは首をぶんぶんと振った。
「違うわ! もう!」
「バレバレなのよ。なんだっけ、たまにやってくる神官さんだっけ? やめといたほうがいいわ。恋なんて……」
「どうして?」
「だって、いつか裏切られるに決まってるもの」
ルイズがそう言うと、ジョゼットは呆れたように両手を持ち上げた。
「もう、どうしてあなたたち聖女≠チてそうなの?」
いきなり聖女と呼ばれ、ルイズは一瞬ドキッとした。以前、自分はアクイレイアの聖女≠ニ呼ばれたこともある。どうしてそれをジョゼットが知っているんだろう? と不安になったのである。
「せ、聖女……? どうして?」
「ああ、あのね、あなたみたいにこの修道院に途中からやってきた人のことをそう呼ぶのよ。いっつも暗い顔をして、まるでこの世の苦悩を一人で引き受けているような目をしてる。別にいいんだけど、いっしょに暮らしている人のことも少しは考えて欲しいわ」
どうやら聖女≠ニいうのは、皮肉が混じった隠語であるようだった。そんな物言いに、ルイズはむっとした。
「外の世界にはね、あなたの知らないことがいっぱいあるの。楽しいことも、悲しいこともね。もう、どうしようもないぐらいに傷つくことだってあるのよ」
思わず、そんな言葉が口をついた。
「そうね。そうかもしれない。あなたの言うとおり、わたしは何も知らないわ。ほんとに、ここの生活しか知らないんだもの」
すました顔で、ジョゼットは言った。
「…………」
「でもね、だからって、楽しいことも、悲しいことも知らないわけじゃない。わたしの世界は小さいかもしれないけど、ここにだっていろいろあるんだから……。あのね、恋じゃないわ。恋なんてしないし、していない。あの子たちはきゃあきゃあ騒ぐけれど、わかってる。だって、わたしたちは修道女だもの。そんなことはゆるされない。でも……」
ジョゼットは、それから、両手を組んで前に突き出した。
「あの人ね、わたしの髪を褒めてくれたの。この色……、まるで白髪みたいで、だいっきらいだった。でもね、綺麗って言ってくれたのよ」
ジョゼットは、にっこりと微笑んだ。
「ここには、綺麗な服はないけれど……、せめて次にその人が来るときには、髪形ぐらいは似合いのものにしたいのよ。それぐらいだったら、神さまだって目をつむってくださるわ。そう思わない?」
そんな言葉を聞いて、ルイズは恥ずかしくなった。要は、自分は嫉妬していたのだ。
「したことあるわ」
ぽつりと、ルイズは言った。
「え?」
「キス」
ジョゼットは、くすりと笑った。
「わたしには夢みたいな話だわ。恋人とキスなんて」
ルイズは、ジョゼットのかぶったフードをずらした。
「わたし、あんまりおしゃれのことには詳しくないけど、その髪とっても可愛いと思うわ。そうね、じゃあ、ちょっと真ん中からわけてみたら?」
ジョゼットは言われたとおりに、指で真ん中から髪をわけてみた。
「どう?」
ルイズはしばらくじっと見つめていたが……、
「ごめん微妙。やっぱりそのままのほうがいいわ」
ジョゼットは笑った。ルイズもつられて微笑んだ。
その日の夜、ルイズとジョゼットはこっそりベッドを抜け出した。別に示し合わせたわけでもなく、就寝のあとどうにも眠れずに横を見ると、ジョゼットも同じようにこっちを見ていたのだった。
並んで歩くと、ジョゼットは自分より十サントも身長が低いことに気づいた。
その横顔も、どことなく幼い……。
宿舎を出て、二人は岬の突端に出た。双月《ふたつき》が海に浮かび、きらきらと輝いている。波に散らされた光はまるで、無数に浮かんだ銀色の鱗のようだった。
ため息をつくように、ルイズは言った。
「いやだわ」
「なにが?」
「バカみたいに綺麗なんだもの」
「どうしてそれがいやなの?」
「綺麗なものを見ると、思い出しちゃうのよ」
「悲しかったこと?」
「うん」ルイズは頷いた。
「楽しかった思い出って、綺麗なものに包まれてるのよ。いっしょに見た風景とか、月明かりとか……」
「恋人といっしょに?」
「ええ」
「失恋したの?」
「そうかもね」
ジョゼットは首を振った。
「失恋して悲しいのはわかるわ。でも、そんな綺麗な思い出が、どうして悲しいの? 思い出は思い出じゃない」
「その思い出が、全部、嘘になっちゃったから。たった一つの悲しい出来事が、宝物みたいな思い出を、全部嘘に変えちゃったから」
海を見つめて、ルイズは言った。光の一つ一つが、涙に見えた。
「それがここに来た理由?」
「そうよ」
するとジョゼットは、ルイズの顔を両手で挟んだ。そして、じっとルイズの目を覗き込んできた。
「な、なに?」
「わたし、そんなことないと思うな。全部が嘘になっちゃうだなんて。よくわからないけど、あなたがそうだ≠ニ感じたものはちゃんと本物だったんだと思うわ」
「どういう意味?」
「楽しいこと。嬉しかったこと。それはきっと本物なのよ。嘘に見えてしまうのは、あなたに自信がないからだと思う」
ルイズは唇を噛んだ。
「どうしてあなたに、そんなことがわかるの?」
「わたしがそうだから。わたしも、たまに思うわ。あの方は、わたしのことなんて好いていないって。ただ、こんなところに住んでいるわたしたちを憐れんで、訪ねてきてくださるんだって。あの方ははっきりと、きみに会いに来る≠チて言ってくれたのに……。わたし、たまにその言葉を疑ってしまうのよ。そういうときって、決まって落ちこんでいるとき。鏡でこの銀髪を見ちゃったときとか……、ちっぽけな自分の身体を見たときとか。友達に意地悪なことを言ってしまったときとか。そんなときに、つい思ってしまうの」
ジョゼットは、そこで言葉を切ると、にっこりと微笑んだ。
「でももし、あの人が、ただわたしたちを憐れんでいるだけだとしても……。わたし、傷つかないわ。だって、もしそうだとしても、この髪を褒められたことや、きみに会いに来る≠チて言葉が、たとえ嘘だったとしても……、あのとき感じた、わたしの気持ちだけは本物だもの。それがあれば、わたし、生きていける。あなたみたいに、逃げ出したりしない」
ルイズは、ジョゼットのその言葉に頭を殴られたような気がした。
黙ってしまったルイズを見て、ジョゼットは恥ずかしそうに頬を染めた。
「ごめんなさい。生意気言っちゃったみたいね」
「ううん……」
ルイズは首を振った。
「あなたの言うとおりよ。わたし、逃げ出したんだわ。そうよ、あなたの言うとおり。わたし、何があってもあいつを信じるって決めたのに……。あいつの話を聞くことさえ拒否しちゃった」
話を聞いたら、もっとショックを受けたかもしれない。今以上に傷つくことになったかもしれない。でも、それでも……、真実を確かめようとすらせずに、自分は逃げ出したのだ。
ジョゼットといっしょに宿舎に戻ってきたルイズは、ベッドに潜り込んだが、なかなか寝付けなかった。隣のベッドから、ジョゼットの寝息が聞こえてくると……、どうしてそんな気持ちになったのか……、自分でもよくわからなかったが……、ルイズは再び起き出して、ベッドの横にある私物入れから、始祖の祈祷書≠取り出した。
いっしょに入れてあった水のルビー≠燻謔闖oす。杖と、この二つだけは、結局手放すことはできなかった。
今では自分の分身のように感じる、それらの品々をじっと見つめた。なんだか、予感めいた何かがあって、ルイズは毛布の中で始祖の祈祷書を開いた。
「…………」
どうして今なんだろう、とルイズは思った。
ページは淡く光り、今まで白紙だった場所に文字を浮かびあがらせている。
もし、四の担い手、四の使い魔、志半ばでこのいずれかが欠けても、虚無≠受け継ぐものは諦めるなかれ。虚無≠ヘ血を継ぐ他者に目覚めん。虚無を担いし者は、その他者を見つけ出せ。そして、異教より聖地≠取り戻すべく努力せよ。
必要があれば読める、とデルフリンガーはいつか言っていた。虚無の担い手が一人欠けている今、始祖の祈祷書は、自分たちにこの情報を与えるときと判断したのだろうか。
「これって……、虚無の担い手が死んでも、別の者にその力が宿るっていうこと?」
ルイズは、唇をかみ締めながら、そう呟いた。
となると……、自分たちの予想は外れていた。もし、このことをロマリアが知っていたとすれば……。
聖戦は続行できる
ルイズは毛布の中で、拳を握り締めた。
このことを、才人や姫さまに知らせないと……。彼らはもう、ロマリアの野望は潰えたと見て、安心しきっている。
でも、どうやって知らせればいいのだろう?
自分がいる場所は、陸の孤島で……、今のところここから出られるすべはない。
でも……、と、ルイズは心の中で首を振った。
ロマリアが、知っているという確証もない。自分の胸に秘めておけば、秘密が漏れる心配もない。この牢獄のような修道院で、自分と共に始祖の祈祷書を眠らせておけば、秘密が守れる可能性だってあるのだ。
ううん
ルイズは心の中で首を振った。
それは言い訳だわ。
わたしはただ……、もう関係のないこと≠ニ思いたがっている。サイトや姫さまに会ってこれ以上傷つきたくないから……。
知りたくなかった
ルイズは首を振った。どうして自分は選ばれてしまったのだろう。虚無の担い手などにならなければ、こうやって悩むことなんてなかった。ハルケギニアの未来なんて、自分には荷が重すぎるのだ。
そのとき……、隣のぺージに、文字が浮かんだ。
古代語のルーン。
それは、新たなのスペルだった。
「…………」
神と始祖は、この虚無≠ナ自分に何をさせようというのだろう?
浮かんだルーンは、なんだか自分を責めているように見えた。お前は、これほどの力を与えられながら、その力をなんら役にも立てずに、ここで朽ち果てるつもりか。
そう始祖の祈祷書に言われているように感じた。
……ああ、そうだ。そうなんだ。
自分は、何があってもサイトを信じる≠ニ決めたことから逃げ出しただけじゃない。自分に与えられた運命からも逃げ出したのだ。
大きな焦燥感が、ルイズを包んだ。
第八章 ジョゼットの決心
昨晩、ルイズにはああ言ったものの、ジョゼット自身、自信なんかなかった。自分だって……、もし彼の『これからはきみに会いに来る』なんて言葉が嘘だったら……、逃げ出したくなってしまうだろう。
でも、そんなことは認めたくなかった。ジョゼットにとって、あのロマリアの神官、ジュリオはすべてだったから。
ずっと……、自分はこのセント・マルガリタ修道院で、退屈な毎日を過ごすものだとばかり思っていた。ジュリオに会うまでは……。
彼がこの修道院にやってくるようになってから、灰色だった毎日は、鮮やかな色彩を伴いだした。そんなジュリオとの思い出は……、そんなにたくさんはないけれど……、かけがえのない宝物だった。
だからわたしは、あのヴァネッサの言葉に引っかかったんだわ。
宝石のような、大切な思い出が、嘘になんかなるわけない。何があったのかは知らないけれど、大事な気持ちや思い出は、絶対に嘘なんかにはならない。
隣の席で、朝食のパンを齧《かじ》っているルイズを、ジョゼットは横目でちらっと見つめた。なんだか、思いつめたような顔をしている。
心ここにあらずといった風情だ。
昨日の話を、引きずっているんだろうか。そんな疑問が頭に浮かんだが、すぐに消えていく。
さてさて、そんなことより、竜のお兄さまはいつになったら来るんだろう?
最後に会ってから、もう三週間以上が過ぎている。
ジョゼットは深いため息をついた。
宝石みたいな時間って、他の時間を石ころみたいにしちゃうんだわ
最後に来たときに、持ってきてくれた指輪を思い出す。淡いブラウンに光る大きな石のついた、見事な指輪……。
きみのものになればいいと思うよ
ジュリオの言葉が蘇る。ジョゼットの指に、指輪がきっちりとはまったことを確認すると、ジュリオは満足げに頷き、いつもの街の噂話もせずに帰っていった。
あれからなんの音沙汰もないが……、その言葉は、ジョゼットの胸に熱い余韻を残した。もし、指輪がわたしのものになったら……、ジュリオは自分をどうするつもりなんだろうか。
司祭の肩書きでもくださるのかしら。
それとも、なにか素敵な……、別のものだろうか。
そんなことを考えていたときだったから、外から竜の羽音が聞こえてきた瞬間、ジョゼットの顔は輝いた。いつもだったら、すました顔で内心の胸の高鳴りを抑えながら待つのだが、今日はもう我慢ができなかった。
ジョゼットは朝食もそこそこに、席を立つと、食堂を飛び出した。
青い鱗の竜が目に飛び込んできたとき、ジョゼットは泣きそうになる。その上から、丈の長い白いコートを羽織ったジュリオがとん、飛び降りる。
迷わずに、ジョゼットはその胸に飛び込んだ。
「お兄さま!」
「おやおや、まるで修道女とは思えないね! お祈りをしながら、拗ねた声で文句を言われるとばかり思ったのに!」
そこでジョゼットは、はっと気づき、ジュリオから離れる。
「そ、そうでしたわ。でもね、なんだか我慢ができなかったの」
それから顔をあげ、期待に震えた目でジュリオを見上げた。
「今日はゆっくり滞在できるの?」
ジュリオは残念そうに首を振った。すると、ジョゼットの顔に憂いがさす。
「どうしたんだい?」
「いえ……、なんでも。昨晩、新入りの子と話していたことを思い出しただけ。やっぱり、お兄さまは、ただわたしたちを憐れんでここにいらしてくださっているだけなのね」
ジュリオは笑った。
「そうだったとしたら、なにがまずいんだい?」
「何もまずくなんかありませんわ。ただ、わたしが愚かだったというだけ」
ジョゼットの小さい胸は、もうそれだけでつぶれそうになった。恋じゃない、なんて何度も自分に言い聞かせているくせに、いざ自分が失恋するところなんか想像できないのだ。
ヴァネッサを笑えないわ
ジョゼットは、首を振った。
「はいはい。人気者の助祭枢機卿さまはお忙しくていらっしゃるのね。はやくここでの用事をおすませになって、次の信者のところへ向かえばいいわ」
そう皮肉っぽく言ったら、ジュリオは笑った。
「じゃあその用事をすませよう。ジョゼット、きみを迎えに来たんだ」
「はい?」
いきなりのジュリオのセリフにジョゼットは面食らった。
「いろいろと準備があったもんでね。訪問が延びたことはお詫びするよ」
驚くというより、ジョゼットは腹が立った。冗談にもほどがある。そりゃあ、ジュリオといっしょに、外の世界を見られたらどんなに素晴らしいだろう!
それはジョゼットが、一番望んでいることだった。でも同時に、叶わぬ夢だということも理解している。自分はここから出られない。出てはいけない、ときつく教えられてきたから……。
「お兄さまは、冗談の才能がないのね。笑わせるなら、もっと気の利いたことを言うべきだわ」
「嘘なんかじゃないよ。ぼくは、これでも始祖に仕える神官だぜ? 嘘なんか、一度もついたことはない」
ジョゼットは、目をぱちくりとさせた。ジュリオの声が、真剣だったからだ。
「ほんとう……、なの?」
「ああ。このとおり、教皇聖下のお墨付きも貰ってきた。きみは本日より、ロマリア宗教庁の預かりになる」
いつもと違う、ジョゼットとジュリオの様子に修道院長や女司祭が集まってくる。
「いったい、何事でしょうか?」
不安げな顔の修道院長に、ジュリオは一枚の紙を見せた。
「こ、これは……!」
「親愛なる聖下よりのお手紙です」
「で、ですが……! 我々はこの国のやんごとない方々から、ここの管理を任されております! 預かった修道女を、彼らの許可なくここより出すことは……」
するとジュリオは、にっこりと笑った。
「あなたがたの主人は誰なのです? 尊き神と始祖ですか? それとも、この国の貴族たちですか?」
「そ、それは……」
「人のいいあなたがたは、この国の貴族たちに体よく利用されているだけではありませんか。彼らは神を恐れぬからこそ、このような牢獄≠造り上げたのでしょう? 恐れ多いことです!」
すると、修道院長はジュリオの足元にひれ伏した。
「おおお……、やはり、あなたがたはすべてをお知りになっておられるのですね?」
怯えてうずくまる修道院長の下に、ジュリオはしゃがみこみ、その肩に手を置いた。
「秘密というものは、隠しておくことが実に難しいのです。なぜならきちんと耳を持っている人間は、この世に五万といるのですから。また、人の口に戸を立てることは、この世で一番難しいことなのです」
「わたくしは、娘たちの出自≠ワでは知りませぬ。したがってそれをお尋ねになることだけはこ堪忍ください……」
「ご安心を。わたしたちはあなたを裁判にかけるためにやってきたわけではないのですから」
ジュリオは修道院長のそばに袋を置いた。
「我々を救う聖女≠フ今までの養育費です」
そしてジュリオは、ぽかんと口を開けているジョゼットに向き直る。
「じゃあ、行こうか」
「え? ええ! えええええええええ!?」
ジョゼットはもう、何がなんだかわからなかった。この修道院から出られるという。それも、ジュリオといっしょに……。
夢を見ているようだった。
もしかして、何か特殊な魔法でもかけられたのだろうか。
「どうしたんだい?」
どこまでも優しい声で、ジュリオ。
「ど、どうしたも、こ、こうしたもありませんわ! そんな、いきなり……」
「そうだね、身一つってわけにはいかないな。荷物をまとめておいで」
あっさりジュリオにそう言われ、ジョゼットは我に返った。
これは現実なんだ……。
ほんとうに、ジュリオは自分をここから連れ出してくれるというのだ。
「本気なの?」
そう尋ねると、ジュリオはこくりと頷いた。
「困ったな。どうすれば信じてくれるんだい」
ジョゼットは、ジュリオを見つめた。左右色の違う月目が、妖しい魅力を放っている。
その目を見ていると……、ジョゼットはたまらない気持ちになった。
これは現実なんだ
一旦、それを現実と認識したジョゼットの行動はすばやかった。
遠巻きに自分たちを見つめている修道女たちのところに駆け寄り、仲の良かった数人の元へと向かう。
呆然と自分を見つめる友人たちの手を、ジョゼットは一人ずつ握っていった。
「今までありがとう。わたし、そういうわけで行くね」
「え? ええ? ど、どういうこと?」
友人たちは、激しく混乱しているようだ。
ここから出て行く
なんて選択肢を、ほとんど真面目に考えてこなかったのだから、無理もない。自分だって、よくわからないのだ。というか、ジュリオが何を目的として自分を連れていくのかさえ知らない。
でも……、不安はなかった。ジュリオといっしょに行ける、ただそれだけで、ジョゼットはもうどうなってもよかった。
修道院長の元へと駆け寄り、ジョゼットはその手を握った。
「お世話になりました。育てていただいたご恩は忘れません」
疲れた顔で、修道院長はジョゼットを見上げる。何か言いたそうに口を開いたが、すぐに俯く。
「……考えてみれば、わたしは始祖の御心を裏切っていたのかもしれませぬ。必要とはいえ、あなたのように若い娘をこんなところに閉じ込めておくなんて。でも、気をつけるのですよ。外の世界は、こことは違って厳しいのですから」
ジョゼットは頷いた。そして、後も振り返らずにジュリオのもとへと向かう。
「荷物はいいのかい?」
「ええ。持っていかねばならぬものなど、何一つありませんから」
「なるほど、考えてみれば、きみはこれから全てを手に入れるのだから、それでいいのかもしれないね」
「大げさですわ! ただ、お兄さまがそばにいてくださるなら、わたしはそれで……」
「約束するよ」
ジュリオはジョゼットを抱えあげると、風竜の背に乗せた。そして、自分もひょいっと飛び乗る。
「それではみなさん、始祖のご加護を!」
まるで役者のような大仰なそぶりでそれだけ言うと、ジュリオの風竜は一気に上昇した。
ジョゼットは、竜の背中からどんどん小さくなるセント・マルガリタ修道院を見下ろした。十五年以上も過ごしてきた、自分の家……。
岬の突端に、へばりつくようにして建物と畑が見えた。
あれが、わたしのすべてだったんだ
「『どうしてわたしを連れて行くの?』なんて尋ねないんだな」
ジュリオが、笑みを浮かべて尋ねる。ジョゼットは、その背にしがみついた。
「ええ。意味ないですから」
「気にならないのかい? もしかしたら、ぼくはきみを騙しているのかもしれないよ」
「お兄さまがわたしを騙していようが、赴く先が地獄だろうが、かまいませんわ。だって……、この気持ちだけは本物ですから。どうしよう! なんだか、心に羽が生えたみたい。わくわくが止まりませんの。こんなの、生まれて初めてだわ」
「ぼくの言うとおりにしてくれるかい? ジョゼット。そしたら、なんでも言うことを聞いてあげるよ」
優しげな声で、ジュリオは言った。
「そうするつもりですわ。だって、わたし、外の世界のことは何も知らないんだもの」
ジョゼットは、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
いつしか、セント・マルガリタ修道院は雲に隠れて見えなくなっていた。その代わりに視界に飛び込んできたのは……、広大なハルケギニアの大地だった。
「すごい……、外の世界って、ほんとうに広いのね」
「きみはこれを、ポケットに入れることになるんだぜ」
ジョゼットは笑い飛ばしたが、ジュリオは笑わない。
「……お兄さま?」
「さあ、取り戻しに行こうじゃないか。きみが手に入れるべき世界を」
ジョゼットを乗せて飛び去っていくジュリオの風竜を、ルイズは食堂の窓から唖然として見つめていた。
ジュリオ? ジュリオよね?
そう。間違いなくあれはジュリオだった。あの月目……、そして男にしておくにはもつたいないほどの美貌。おまけにあの風竜。間違えるわけがない。
現れたときにも驚いたが、いきなりジョゼットを連れていったことにはもっと驚いた。
どうして?
だが、すぐにその理由に思い当たる。
昨晩、始祖の祈祷書に浮かび上がった言葉……。
『虚無≠ヘ血を継ぐ他者に目覚めん』
そして、おそらくは貴族、王族の隠し子たちが幽閉されているこのセント・マルガリタ修道院。
その二つが結びつく。
あのジョゼットは、虚無の担い手なんだ
おそらくは、この前死んだジョゼフの代わり……、そうに違いない。
このことを、すぐに姫さまに知らせなくちゃ
でも、心の中のもう一人の自分が言う。
その必要はあるの?
自分がここでひっそりと暮らしていれば……、虚無の担い手は揃わない。誰にも知られずに、じっとここで朽ち果てれば、聖戦を行うことはおぼつかなくなるだろう……。
でも、昨晩感じたように、その考えは、一種の逃げだった。
傷つきたくないから、やらねばならぬことから逃げ出しているのだ。
しょうがないとも思う。だって、あれだけ傷ついたんだから。それに、もしかしたら、ここでじっとしているほうが正解なのかもしれない。
いったい、わたしはどうすればいいの?
その問いには、誰も答えてくれない。
かつてずっとそうしてきたように、自分で決めるしかないのだ。
どっちが正解なんだろう。ううん、とルイズは首を振った。
自分はどうしたいんだろう
本気でここで朽ち果てるつもりなのか。
でも、もしそうなら、どうして杖と始祖の祈祷書を持ってきたのだ?
きっと、心の底で何かがしたい≠ニ思っているから、持ってきたんじゃないの?
心が砕けるほどに傷ついても、どこかでまだ、自分は自分を信じているんじゃないだろうか。
わたしには、わたしにしかできないことがある
そして、それを必要としている人たちがいる
ルイズは、ポケットの中から、水のルビーを取り出した。青く透き通った美しい石……。ずっと振り回されていた虚無≠フ力……。使いこなせないと半ば諦めていた力。
でももし、使いこなせるようになったら、自分には何ができるだろう。
ルイズは考えるのをやめた。
顔を上げると、呆然と地面に座りこんでいる修道院長の元へと駆け寄った。
「修道院長!」
「は、はい?」
「ここから出る方法を教えてください」
心をここに置き忘れたような声で、修道院長は言った。
「ありませぬ」
「次のフネが来るのはいつですか?」
「三日後です。でも、乗り込むことはできません」
ルイズは唇をかみ締めた。無理やり乗り込むことはできようが、派手なドンパチになるだろう。となると……。
ルイズは再び駆け出すと、ベッドのそばの私物入れから始祖の祈祷書と杖を取り出す。もどかしげに、水のルビーをはめる。
決して外してはいけないという聖具をむしりとる。
色鮮やかな桃髪が舞う。
そんなルイズを見て、修道女たちが悲鳴をあげた。
「ヴァ、ヴァネッサ……、何を……」
「わたしはヴァネッサじゃないわ。ほんとはルイズっていうの。ゼロのルイズ。あんたたちの大好きな聖女さまよ。覚えておいてね。わたし世界≠救っちゃう予定だから」
ルイズは岬の突端へと向かい、右側を見つめた。弓なりに広がる、ガリアの海岸が見える。
さてさて、ここからどのぐらい離れているのだろう?
三キロメイル?
いやもっと?
十キロメイル?
見当もつかない。
「ほーんと、何が虚無の担い手よ。使いづらい呪文ばっかり覚えさせて! ねえご先祖さま! こんなんいいからフライ≠フ一つでも書いときなさいよ!」
そう呟きながら、始祖の祈祷書を見つめる。
そこには、昨日浮かび上がった呪文が書いてある。
瞬間移動《テレポート》
どのぐらいの距離を飛べるだろう? もしかして、一気にロマリアまで飛べたりしちゃうんだろうか? それとも、短いのかしら?
わからない。
でも、迷っている暇はない。
ルイズは呪文を唱えた。
ウリュ・ハガラース・ベオークン・イル……。
そして杖を振り、一気に解放する。
その瞬間、ルイズの身体は修道院から百メイルほど離れた空中にあった。眼下には黒々と光る海……。ルイズの身体は、重力に引かれ、落下する。
その途中で、再びルイズは呪文を唱える。
ウリュ・ハガラース!
それ以上唱えると海に落ちる! 再びルイズの身体は、遠い海岸めがけて瞬間移動した。空中で振り返り、ルイズは叫んだ。
「なによ! ほとんど進んでないじゃないの!」
セント・マルガリタ修道院からは、二百メイルほどしか離れていない。それでも諦めずに、ルイズは呪文を唱えた。
このまま瞬間移動≠唱えつつ、ルイズは海岸まで移動するつもりなのだった。でも、精神力がそれまで持つかどうか……。でも、一旦飛び出した以上、後戻りはできない。
ルイズは目を開くと、一心不乱に呪文を唱え続けた。
第九章 二本の杖、一つの王冠
さて、ジュリオがジョゼットをセント・マルガリタ修道院から連れ出してから二日後のこと……。
ガリア王国の首都リュティスでは、ガリア女王シャルロットことタバサが、完成なった|新 王 宮《ヌーベル・グラン・トロワ》を、家臣団と共に見上げていた。
時は夕刻。そろそろ闇のとばりが、壮麗なる宮殿を包み込もうとしている。それでもなお、王家の象徴たる青い石で組まれた宮殿は、瑞々しい美しさを誇っていた。
タバサの隣に控えたイザベラが、感嘆の声を漏らした。
「前より綺麗になったようだわ」
タバサの代わりに、その感想に答えたのは、その隣にいた宰相のバリベリニ枢機卿だった。彼は満足げに頷くと、
「新しい女王陛下をお迎えするのですから、以前のままというわけには参りません」
イザベラは、ちらりとバリベリニ卿を見やったが、返事をしなかった。彼女は、このロマリアからやってきた宰相をあまり信用していなかった。
確かに仕事はできる。四日後に予定されたシャルロット新女王即位祝賀園遊会の開催を取り仕切るのは、彼だった。バリベリニ卿は、古今の祭事に詳しく、出席者の招待、および会場の席次、そして晩餐会のメニュー、果てはほぼ一週間にもわたる園遊会のスケジュールの調整から催しのダンスの演目まで、すべてをそつなくこなしてのけた。そういった作法にうるさいガリア貴族にも文句のつけようのない、見事な仕事ぶりだった。
だが、その隙のなさっぷりが、イザベラは気に入らなかった。有能だからこそ、油断はならない。下手をすると、国をのっとられることになるかもしれない。
だが……、タバサの戴冠がロマリアの協力なしには不可能だったことを考えると、彼を国に追い返すわけにはいかない。そんなことをしたら、タバサは国中の寺院や信者を敵に回すことになってしまう。
当の主君のタバサは、そんなイザベラの葛藤を知ってか知らずか、ぼんやりと新王宮を見つめている。彼女にとっては、宮殿の姿などどうでもいいに違いない。
そのとき、礼拝堂が、夕方六時の鐘を鳴らした。イザベラは、ほっとした表情になると、家臣団に向き直る。
「さて、皆様がた。陛下が夕食を召し上がるお時間です」
それは、家臣団への解散の合図だった。タバサは、晩餐をイザベラと母后の三人でとるのが常だった。そして人ではないがもう一人。
タバサの使い魔のシルフィード。
それ以外は、何人たりも相伴には預かれない。
今晩こそは招かれはしないだろうか? と、物欲しげな顔でタバサを見つめる大臣や貴族たちを尻目に、イザベラは恭しくタバサに一礼すると、先にたって歩き出した。
いつもの離れの食堂では、母が娘と姪の到着を待ちわびていた。タバサとイザベラが入っていくと、オルレアン夫人は顔をほころばせる。
「さあさあ娘たち。席についてちょうだい。今日は、あなたたちの大好きな子牛のフルーツソース和えですよ。ほら、ここまでいい香りが漂ってくるでしょう?」
タバサとイザベラは、オルレアン夫人を挟むようにしてテーブルについた。すぐさまペルスランが駆け寄り、その前に置かれた杯に、食前の発泡酒を満たしていく。
オルレアン夫人は、ゆっくりと、だが確実に昔の美貌を取り戻しつつあった。発泡酒が三人の高貴な女性の口を濡らしていくと、次第に口調も軽やかになる。もっぱら話題を振るのはオルレアン夫人だった。あまり政治的な話題に話が及ぶことはない。昔話も、あまり突っ込んだものは語られなかった。たわいのない、街の話や、好きなオペラの話題が多かった。
そして、シルフィードがお得意のおしゃべりできゅいきゅいとわめき散らす……。
そんな時間は、イザベラから、刺さったとげのような憎しみや劣等感というものを取り除いていった。そんなものがなくなると、イザベラはタバサが、無二の姉妹のように感じられてしかたがなくなるのだった。
幼い頃の一時期……、ほんとにそう感じていたように。
今ではイザベラは、タバサの陰から補佐をして、その玉座を堅固なものにすることこそが、自分の使命だと思うようになっていた。
「ねえエレーヌ。よろしいかしら」
いつしか酔ったシルフィードがテーブルに突っ伏して寝てしまい、話題が途切れた頃を見はからい、イザベラはタバサをミドルネームで呼んだ。大臣たちの前では、陛下≠ニ呼んで、臣下として以外の態度を見せないが、こういった私的な場所では幼い頃のようにミドルネームで呼ぶのが常だった。
「バリベリニ卿のことだけど、重要な仕事を任せすぎじゃないかしら。あまり、よくないことのように思うけど」
そう言うと、タバサは首を振った。
「表向きの仕事を任せているだけ」
肝心なことに手を触れさせるつもりはない、と言っている。その言葉に、イザベラは頷いた。確かに、園遊会の式の仕切りは派手だが、国政の中枢にかかわるわけではない。
「ならばいいのだけど。あと、騎士≠使って彼の監視を行いたいのだけど、いいかしら」
タバサはちょっと考えたあと、こくりと頷いた。
「ありがとう」とイザベラは言ったが、実はすでに何名かを彼の周囲に放っている。バリベリニ卿の屋敷に訪れる客、出される手紙、果ては夕食のメニューまで、イザベラはすべてを把握していた。
とりあえず今のところ、彼の周囲に怪しいところは見られない。でも、油断はならない。
ロマリアの光と影について、北花壇騎士《シュヴァリエ・ド・ノールパルテル》団をまとめていたイザベラは熟知していた。彼らは伊達にブリミル教の総本山として数千年にわたって君臨してきたわけではない。
「あらあなたたち。また何か心配事でもあるの?」
優しい声で叔母に言われ、イザベラは首を振った。
「なんでもありませんわ。叔母上」
この叔母に、心配事はかけられない。イザベラはこの数週間で、この叔母に母親のような愛情を抱くようになっていた。オルレアン夫人のほうでも、タバサに対するそれと同じように、イザベラに接してくれている。
「そろそろあなたの即位祝賀園遊会ですね」
まるで人事のように、オルレアン夫人は黙々と料理を口に運ぶタバサに言った。
「母上はやはり出席しないの?」
ぽつりと、タバサが言った。オルレアン夫人は首を振る。
「わたくしはもう、公の場には姿を見せたくないの。ゆるしてちょうだいね」
タバサはわびしげに、食事の手を止めた。家臣たちの前では、いつもの無表情だったが、ここで家族と共に過ごしているときは、年相応の表情を見せるようになってきたタバサだった。
するとオルレアン夫人は、手を伸ばしてタバサの手を握った。
「あなたなら、この母がいなくても外国の客人たちの前で立派に振る舞えますよ」
タバサは、こくりと頷いた。
この親子は、わたしが守るのだ
この温かな晩餐の席につくたびに、イザベラはそう思うのだった。
晩餐のあと、タバサは完成なったグラン・トロワの自室にやってきた。
「ふわ〜〜〜、おなかがいっぱい。ではシルフィは寝るのね。女王さま」
シルフィードは部屋の隅に置かれた毛布の束の上にごろんと横になると、すぐに寝息を立て始める。
ベッドの上には、昼間女官が持ってきたたくさんの服が無造作に放り出されていた。
即位祝賀園遊会ともなれば、朝、昼、晩と毎日三回は着替えることになる。国中の一流の仕立て屋が誂えたきらびやかなドレスが、主人に袖を通されるのをじっと待っていた。
その一つを手に取ってみる。細かい網の目が、無数に走ったレースのドレス。透けてしまうんじゃないだろうかと思ったが、要所はきちんと隠すようにデザインされている。
なんだか前衛的なデザインのものが多く、幼い自分の身体に合うかどうか、それが心配だった。
どうして心配に思うのだろう
その理由に気づき、タバサは頬を染めた。
タバサは、小机の上に置かれた書類を取り上げる。それは有力な各国の出席者の名簿だった。トリステイン王国の末席に書かれた名前に目を留め、タバサは目を細める。
トリステイン外交官および水精霊騎士隊副隊長=サイト・シュヴァリエ・ド・ヒラガ・ド・オルニエール
外交官に任ぜられるとは……。おそらく学園での自分との交友から、任命されたのだろう。その上、名前が長くなっていた。どうやら領地を拝領したらしい。
そこはどんな土地なのだろう。
お屋敷はあるのだろうか。
どのような作物があって、どういう人たちが住んでいるのだろう。
そして、あの怒りっぽいルイズもいっしょなのだろうか。
まだ見たことのない、才人の住むド・オルニエールをタバサは想像した。
あの人に会える
リネン川で別れてから、随分と顔を合わせてないように感じる。あのとき、自分は才人の偽者にそそのかされ、王冠をかぶる羽目になった。
そのことが、どうにもゆるせず、あまり才人のことは考えないようにしていたが……、こうして会えると思うと嬉しさが先に立つ。
彼には恋人がいる。その子の名前も名簿に書いてある。彼女にも、タバサは友情と尊敬の念を抱いていた。彼の扱いには、多少疑問を覚えることはあったが。
そんな彼女がいたとしても……。
一曲ぐらいならいいでしょう?
そう。
一曲。
他国の外交官と、ダンスを踊る……。外交の一環だ。どこにも、おかしいところなんかない。
そのときに何を着よう。
先ほどの、網の目のようにレースが編みこまれたドレスが目に入る。それを両手でつまみ、タバサはじっと見つめた。
シルフィードが寝ていることを確かめると、そっと着ていた服を脱ぎ、そのドレスに袖を通してみる。
「…………」
やはり、予想していたように、ドレスはぴったりと身体に張りつき、透けた網の隙間から下着のかたちが丸わかりだった。
いったい、これをデザインした職人は、どんな下着を身につけることを想定したのだろう? これは……、そうだ、寝室でつけるようなものではないのか?
寝室……。
そこまで想像して、タバサは頬を染めた。
「わたし、変」
首を振りながら、次のドレスをつまむ。それは、前のよりは多少マシに思えた。黒く輝く美しい布でできたドレスだった。
だが、着てみてタバサは驚いた。太ももより上から、ぴったりと身体に張り付き、身体のラインをはっきりさせてしまうようなデザインだったのである。これでは、自分の身体つきがあらわになってしまう。まるで子供で、これではダンスの相手は幻滅してしまうに違いない。
でも……、あの人はそういうのが好きかもしれない。だって、ルイズだってお世辞にも体形に恵まれているとは言いがたい。
となると、あまり気にしなくてもいいのかもしれない。
そこまで考えて、タバサは微笑んだ。
もしかして……、わたしは今、幸せなのだろうか
女王としての不安はある。だが、ガリアの家臣団は層が厚く優秀で、王が替わっても問題なく機能を始めている。家族との生活は温かく、タバサは楽しい日々を思い出しつつあった。
ロマリアは油断ができないが、今のところ目立った干渉はしてこない。
そして……、想い人……、かもしれない人にも会える。
たぶん、一曲ぐらいは踊ることもできる。
頬がほころびそうになった瞬間……。
不意に、父の顔がよぎった。
伯父の顔も。
何度も自分を苦しめたミョズニトニルン。
そして、リネン川で死んでいった将兵……。
いつだか事件を解決したおりに甲板から手を振ってくれたヴィレール少尉や、日焼けした司令長官の顔を思い出す。彼らももう、この世にはいない。
あの王継戦役で死んだ、幾人もの貴族や兵士たち。
自分のこの、穏やかで緩やかな生活は、彼らの死の上に成り立っていることを思い出す。その事実が窓の外から吹き込んでくる隙間風のように、タバサの心を凍らせていく。
幸せを、自分はかみ締めていいんだろうか……。
そんな想いに囚われたときだった。
窓≠ェノックされた。
窓?
風のいたずらだろうか? と一瞬思った。分厚いカーテンがかかった窓の向こうは、こちらからは見えない。だが確か……、バルコニーがあったはず。
一瞬、シルフィードかと思ったが、きちんと部屋の隅で寝息を立てている。
ガンガン……。
もう一度、窓は鳴った。間違いない。誰かが窓ガラスを叩いている。タバサはベッドに立てかけられた杖を握った。タバサは護衛士を近くに置いていない。自分がそこらの護衛士より、腕が立つというのもある。それに、護衛士自体が危険な場合は少なくない。
静かに近づき、タバサは無言でカーテンをめくった。
窓ガラスの向こうにいたのは……、自分だった。
一瞬、自分の姿がうつっているのだと思ったが、すぐに違和感に気づく。
服が違う。そして、窓枠の向こうに彼女は立っている。
自分と同じ、青い髪。そして眼鏡。まるで自分自身の姿……。一瞬、スキルニル≠ゥと思った。血を吸った者の姿に変化する魔法人形。
それともゴーレムか……。
だが、タバサにはわかった。それは、まごうことなき血の通った人間であることが。
……誰?
わたし?
激しい動揺が、タバサから戦士の勘を奪っていた。だから隣の窓が開き、そこからすっと誰かが忍び込んできたときも反応が遅れた。
杖を握られて、タバサは思わず振り返る。
左右色の違う、月目が光っていた。
ジュリオだった。
「……あなた」
「こんな真夜中に、あなたのように高貴の女性の部屋を訪れるにしては、無作法だったと存じますが……」
タバサは身体をひねり、ジュリオの腹に蹴りを叩き込もうとした。だがジュリオは身体をひねってそれをかわすと、タバサの顔に布を押し当てた。
その布には|眠 り 薬《スリーピング・ポーション》≠ェしみこませてあった。タバサは、床に崩れ落ちる。
その音で、シルフィードはやっとのこと目を覚ました。
立っているジュリオと倒れたタバサに気づき、慌てて駆け寄る。
「な! なんなのね! あなた! お姉さまに……」
次の瞬間、窓の外から部屋に入ってきた影に気づき、立ち止まる。
「え……、お姉さまがもう一人……?」
そんなシルフィードにジュリオは無造作に近づいた。
右手をその肩の上に置いた。すると、手の甲に書かれたルーンが光りだす。
「そういや君は、獣だったね。韻竜の使い魔」
「きゅ……、きゅい……」
シルフィードの身体が固まったように動かなくなる。
「ぼくも同じ使い魔だ。ヴィンダールヴっていうんだ。きみみたいな獣≠操ることができる。さてと……」
ジュリオは眠ってしまったタバサとシルフィードをベッドのそばに横たえた。そんなジュリオに、タバサの姿をした少女が、怯えたように語りかける。
「お兄さま。いったい、これは……」
「きみをあそこに閉じ込めていた連中の娘だよ」
ジョゼットは、倒れている少女を見つめた。
そこにいるのは、昨日鏡の中で見た己の姿だった。ジョゼットは、ジュリオに連れ出されたあと……、とある寺院に連れていかれたのだ。
そこでペンダントを外すように言われ、言われるがままに外したのだった。
すると……、顔から何か紐が抜けていくような感覚が走り……、髪が光りだした。鏡を見て驚いた。そこにあるのは、今までとは似ても似つかない顔だったからだ。
『きみは魔法で顔を変えられていたんだ』ジュリオは言った。
昨晩、鏡で見た顔。今、目の前に横たわる少女の顔。その二つはまさに瓜二つで、まったく違いは感じられない。
これがわたしの本当の顔?
でも、それが……、自分の顔だという実感が持てない。透き通るような青い髪も、なんだか馴染みがない。
そしてここはどこだろう?
ジュリオの風竜でやってきたこの場所は……、月明かりに浮かんだこの建物は、想像を遥かに超えるほどに大きく、壮麗で見事だった。
セント・マルガリタ修道院しか知らないジョゼットには、まるで夢の国のようだった。
そして、そこで暮らす、この自分と同じ顔を持つ少女はいったい……。
「わたしを閉じ込めていた?」
ジュリオは頷いた。
「きみはこのガリア王国の王族……、正確に言えば、今は亡きオルレアン公シャルルの娘だ。そして、彼女は……、きみの双子の姉さ」
ガリア王国?
王族?
双子?
信じられない言葉が、次々とジュリオの口から飛び出した。ジョゼットは、寺院で少女たちと語り合ったことを思い出す。
わたしは、貴族のなにがしの忘れ形見で……
「信じられないわ。わたしが、ガリアの王族だなんて……」
セント・マルガリタ修道院の周りを囲んでいたのは、ガリアと呼ばれる国だとは理解していた。そこが、王さまや貴族と呼ばれる人たちが統括しているとも……。
でも、自分がその頂点に君臨する一家の生まれということは、なかなか信じられない。
「そりゃ信じられないだろう。でも、ほんとのことなんだよ」
「わたしの双子の姉妹……」
タバサの顔を、ジョゼットは見つめた。初めて見る肉親の顔だったが……、何も心に浮かんでこない。そうなのだ、としか思いようがない。
「で、いったいどうするの?」
「どうもこうもない。きみは、今日からこのガリア王国の王さまになるんだ」
ご冗談を、と言おうとして、身体が固まる。ジュリオの目は、まったく笑っていなかった。
「わたしが、王さま? 無理よ! だって、そしたらこの子はどうなるの? わたしの姉という人は……」
「もちろん、代わりにあの修道院へ行ってもらう。ジョゼットとしてね」
それでもジョゼットは、考えこんだままだった。
「このために、わたしを連れ出したの?」
ジュリオは、こくりと頷いた。ジョゼットは、急に悲しくなった。自分の正体など、どうでもよかった。ただ、ジュリオのそばにいられれば……。
ジュリオも、自分と同じ気持ちだとばかり思っていた。でも、そうじゃない。ジュリオは自分を利用するために……。
でも、ジョゼットはそのことを口にしなかった。
ヴァネッサの気持ちが、今になって理解できた。
楽しかった思い出が、嘘になってしまったから
こういうことなんだわ。
きらびやかな思い出が、色あせていくようにジョゼットは感じた。
ジョゼットは、唇を強くかみ締めた。
でも……、ここで逃げ出したら。
わたしはヴァネッサと同じになってしまう。
あのとき感じたわたしの気持ちだけは本物。それだけは譲れない。絶対に
わたしは、彼を信じるって決めた。たとえ、何があろうとも……。その先に、どんな現実が待ち受けていようとも……。
「わたしは、何をすればいいの?」
強い意志を宿らせた目で、ジョゼットは言った。
「何も。ただ立って、話を聞いていればいい。言われたとおりに動けばいい。何かを言わねばならないときは、前もってぼくが指示する。そのままを口にすればいい」
「そうすれば、お兄さまのためになるの?」
「ぼくだけじゃない。きみのためでも……」
そこまで言ったら、ジョゼットは首を振る。
「違うの。わたしのことなんかどうでもいいの。ごまかさないで。お兄さまのためになるのかどうか、それだけでいいの」
ジュリオは、そこで初めて口元に浮かべた微笑を崩した。
「ああ。ぼくのためになる。ぼくが望むとおりになる」
「ならばいいわ。ねえお兄さま、一つ約束して。これからはすべてをわたしには打ち明けてほしいの。思っていることを、正直に話してほしいの。わたしが傷つくとか、裏切るかもしれないからとか、そんなことは考えないで。それだけでわたしには十分だから」
「約束するよ」
ジュリオは頷いた。
「あと、もう一つ」
「なんだい?」
「キスして」
まっすぐにジュリオを見つめ、ジョゼットはきっぱりと言った。ジュリオはジョゼットの顎を乱暴にも見えるやり方で掴むと、強引に唇を重ねた。
ジョゼットは、されるがままに、目をつむる。
しばらく唇を重ねたあと、ジュリオは言った。
「俺の女になれ」
本気かどうか、口調からはわからない。自分を操るための言葉なのかもしれない。でも、ジョゼットにとってはどうでもよかった。
満足げに、ジョゼットは言った。
「最初から、そのつもりだったわ」
翌朝……。
オルレアン夫人が朝食をとっていると、バリベリニ卿がやってきた。
「お食事中に失礼いたします。太后陛下」
「なにか?」
声に冷たい調子が混じったが、オルレアン夫人はそれを隠そうともしなかった。このロマリアからやってきたバリベリニ卿が、あまり好きではないのだった。
そのとき食堂には、ペルスラン一人がいるきりだったが、バリベリニ卿は軽く目配せをして、人払いをするようオルレアン夫人を促した。
「ペルスラン、庭の花の様子を見てきてちょうだい。夏の暑さで枯れかかっているといけませんから」
ペルスランが部屋を出て行くと、バリベリニ卿はとんでもないことを切り出した。
「恐れながら陛下。本日はこのわたくし、陛下に赦免を与えるために参上しました」
「赦免? こんな朝から何を申すかと思えば! わたくしがどんな罪を犯したというのですか! 毎日、ここでひっそりと暮らしているわたくしが!」
「どんな人間も、知らずのうちに罪を犯すものでございます。ですが、ガリアの太后さまともなれば、話は別でございます。よもや、ご自分の罪をお忘れになられるわけがありますまい」
「あなたは、このわたくしが、間違いなく罪を犯したというのですね?」
「はい。できれば思い出していただきたいものでございます」
「おやおや、ロマリアの枢機卿殿ともなれば、まさになんでもお見通し! そうですわね、つい三日前のことです。わたくしは、育てている花を枯らしてしまいました。なにぶん、このような場所に閉じこもっておりますと、季節の移ろいを忘れるものです。暑さに参っている花に気づけなかったのは、罪と申すものですわ」
「花も命でございますが、わたくしが言いたいのは、もう少し大きなものでございます」
「おやおや! 暑さに参ったのは、花ではなく、あなたのようですわね」
「陛下。これは冗談ではありませぬ。真面目な話でございます」
「人を呼びますよ」
さすがに怒りを含ませた調子で告げると、バリベリニ卿は首を振った。
「先ほどはああ申し上げましたが、お忘れになられてもしかたがありますまい。なにせ、陛下がその罪を犯したのは、もう随分昔のこと……。そう、あれは確か、シャルロット女王陛下がお生まれになったときのことでございますから」
オルレアン夫人は、その言葉で真っ青になった。
「あなたは何を言いたいのです?」
「少しばかり、当時の様子を説明させてくださいませ。六二二七年の、ティールの月、ヘイムダルの週、エオーの曜日のことでございます。風光明媚なオルレアン公のお屋敷の太陽の間で、オルレアン公シャルル殿下は、今か今かと第一子の誕生を待ちわびておりました」
「ええ。よく覚えておりますとも。わたくしが娘を産んだ日ですから」
心の内の動揺を悟られまいとして、オルレアン夫人は硬い声で言った。
「公が、輝かしい赤子の泣き声を聞いたのは、午前九時の……」
「八時です。五分と過ぎてはおりませんでした」
徐々にオルレアン夫人の声が震えていく。
「そうでございましたな。だが、赤ん坊の泣き声はひとつではありませんでした。その数分後、もうひとつの泣き声が響いたのです」
オルレアン夫人はひじをつき、両手で顔を覆った。何度も首を振る。
「わたくしは、ガリア王家の紋章の意味を知っております。交差した二つの杖は、かつてその王冠をめぐり、合い争い、共に斃《たお》れた何千年も前の双子の兄弟を慰めるためのもの……。そのときより、ガリア王族にとって双子が禁忌となったのは自然のことでありましよう。でも、親の情愛としてはいかがなものでありましょうか? 王家の禁忌とはいえ、同じ血を分けた姉妹を……、容姿まで分かち合った姉妹を、天界と地獄に振り分けるのはゆるされることでありましょうか?」
オルレアン夫人は、指の隙間から搾り出すような声をつむぎだす。
「……あなたは何者ですか?」
「陛下。あのときその場にいた全員は、固く秘密を守り通しました。ですが、人間は罪を墓場まで持っていくことはできません。わたくしが昨年、その死に際し赦免を与えたのは、当時陛下のお子を取り上げた産婆でございました」
「あなたは、聖職者失格ですわ」
「教義とは、神のために存在します。神の御為ならば、それを曲げることは罪にはなりませぬ」
「なるほど、あなたはこのわたくしに赦免を与えるとおっしゃいました。ならば謹んでゆるしを請うことにいたしましょう。どうやらあなたはすべてをご存じのようですから。確かにわたくしたち夫婦はあの日、二つの命を授かりました。わたくしたちに選択は二つしかありませんでした。どちらかの命を絶つか、それとも、決して人目の触れない場所へ送るかです! ええ、そうするより他は選べなかったのです! わたくしたちには、王族であることを捨てることすらゆるされませんでした!」
オルレアン夫人はその場に泣き伏した。
「神はおゆるしになられます。さて、本日参ったのは、そればかりではありませぬ。そのように捨てざるを得なかった子に、償いをしてさしあげたいとは思いませんか」
「……え?」
次の瞬間……、オルレアン夫人の目の前に、一人の少女が姿を見せた。タバサとまったく変わらぬ髪形を施され、まったく同じデザインの眼鏡をかけている。
だが、一目見ただけでオルレアン夫人は彼女の正体を理解した。
「おおおお……、そんな……、まさか……。そのようなことが……」
ふらふらと立ち上がると、呆然と立ちすくむ少女を抱きしめた。
「……母さん?」
「ゆるしてちょうだい……。母をゆるしてちょうだい……。まったく無力だった母を……。あなたを救うことができなかった母を……」
とめどなく悔恨の涙が流れる。永久に会うことはないと思っていた、もう一人のシャルロット……。自分たちは、彼女に名前をつけることすらできなかった。
呆然と立っていたジョゼットも、親子の情愛に動かされ、涙を流した。自分には存在しないと思っていた母……。物心ついてから、一度も顔を合わせたことはないが、なぜかそれが母だと理解できた。
抱きしめられると、どうにもたまらず、涙が流れるのであった。
「よくぞ帰ってきてくれました。この母をゆるしてくれますか?」
「ゆるすも何も、わたくしは何も恨んではいません。昨日、真実を知ったばかりですから」
ジョゼットがそう言うと、オルレアン夫人は頷いた。
「もう、王家といっても、今はもうあなたの姉と、従姉と、このわたくしがいるっきりです。王家の禁忌など、これきりにしてしまいましょう。これからは家族仲良く暮らしましょう」
オルレアン夫人は、感動に震える声で言った。
「宰相殿、あなたにはお礼を申さねばなりません。陛下をここへ呼んでください。三人で、朝食をとることにします」
するとバリベリニ卿は、おかしなことを、とでも言うように首をかしげた。
「宰相殿?」
「陛下なら、そこにおられるではありませんか」
「ご冗談を」
オルレアン夫人はそう言った。だが、バリベリニ卿の顔は、ちっとも笑っていない。
「冗談など言ってはおりませぬ。そこのお方が陛下であって、どうしていけないのですか? わたくしにはまったく違いがわかりませぬ」
オルレアン夫人は絶句した。言われてみれば、それは本質の部分で正解だった。シャルロットと、もう一人のシャルロット。思えば、あの日どちらがその名前を名乗っていても、まったくおかしくはなかった。ただ、生まれた時間が数分違うだけで、目の前の娘と、シャルロットはその運命を分けたのだ。
「そして、王家の禁忌というものを軽くお考えですな! ことを公にしたら、国中の何人の貴族が反旗を翻すとお思いですかな? 王族ゆかりというだけで、忠誠のためにその禁忌に殉じた貴族は、一人や二人ではないのですそ!」
「あなたは、自分の姉を……、あの場所へ追いやろうというのですか?」
震える声で、オルレアン夫人は娘に尋ねた。ジョゼットは首を振る。
「まさか! そんなことは考えておりません。ただ、わたしの信じる人が、そうせよとおっしゃるのです。結局、それが一番幸せなんだって。わたしだって姉さんと暮らしたいわ。でも、無理なんでしょう?」
それから、ジョゼットは母に尋ねた。
「でも、母さまがそうしろと言うなら、わたしは修道院へ戻ります」
それもまた、本心だったが……。
だが、オルレアン夫人には、そうしろと言うことはできなかった。どうして再び、あの場所へと戻れと言えるだろう? 赤子の頃から、誰も知らないような修道院で、誰にも顧みられることなく生きてきた娘に、そんなことが言えるだろうか?
床に膝をついたオルレアン夫人に、バリベリニ卿は近づいた。
「神は常に平等であれ、と教えます。自分の娘に光のみ与えることができぬのならば、せめて光と闇を交互に与えるべきです。そうは思いませんか?」
第十章 即位祝賀園遊会
|アンスール《八 月》の第一週、フレイヤのハガルの曜日のこと。
園遊会出席のためにヴェルサルテイルへと向かう、トリステイン王政府一行はガリア王国の港町、アン・レーに到着した。
大きな湖を利用して造られた港には、ハルケギニア各国からのフネが並び、実に壮観であった。
『ヴュセンタール』号を降りたアンリエッタ女王一行は、ここから馬車で四時間ほど離れたヴェルサルテイルに向けて出発したが、容赦なく照りつける夏の日差しに耐えかね、ラ・ヴァレ橋を越えた辺りで休息を取ることになった。
しかし、ガリアからの迎えの使節も合わせれば、数百人からの大所帯である。街道沿いのその空き地は、まるでお祭り騒ぎとなった。まずはアンリエッタ女王の天幕がしつらえられ、小姓や兵士たちは、近隣の家々を回ってわら束を仕入れてくる。それを敷き詰めると、臨時のソファが出来上がった。
近所の農民たちが、焼きたてのパンや果物などを籠につめて売りにきた。ワインを売りにくる者もあった。あちこちで、陽気な笑い声や、歌声が起こり始めた。
水精霊騎士隊の少年たちも、ワインやつまみを買ってきては、陽気に騒ぎ始めた。女王陛下の一行といえど、街中でもなければあまり格好をつけたりはしない。
ましてや、しばらく続いた戦も終わったばかりである。多少の羽目はずしはお答めなしだった。だが、そんなお祭り騒ぎの中、浮かない顔があった。
「はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
才人である。
二週間もの間、ルイズを捜索したが、初めに立ち寄った宿場街から、ぷっつりとルイズの足跡は途絶えた。
捜せども、捜せども、ルイズの姿は見つからなかったのである。さすがに不安になったようで、ルイズの実家でも捜索隊を編成した。カトレアから、そのような手紙を貰った。挨拶に行こうかと考えたが、
『父さまがあなたを殺してしまってはいけないから、なるべくラ・ヴァリエールには近づかないように』
と、結んであった。
とにかく、捜索は自分たちに任せて、あなたは仕事に戻れと言われたので、才人はこうやってトリステイン使節の一行に加わっている。
それはしかたない。ルイズの分まで、交渉官として働かねばならない。でも……、二週間捜してもルイズが見つからなかったことで、もう二度とルイズに会えないんじゃないか? そういった想いに囚われ、才人はすでに公務どころではなくなっていた。
がっくりと才人はうな垂れ、一行から離れた場所で、小枝を拾うと地面をつつき始める。
ルイズに会えない
そう思うと、もう何もかもがどうでもよくなってしまう。自分を狙っていた連中を取り逃がしたことも、今から行われる園遊会も、何もかもがまるで現実感のない、テレビの向こうの出来事のように思われるのだった。
とうとう才人は、地面にルイズの顔を描き始めた。
暗いを通り越し、キモさ全開であった。
「桃髪のー、綺麗なー、おーんなーのーこー、だーれかさんにー、つーれられーて、いーちゃった〜〜〜〜〜♪」
幼稚園のお遊戯の時間で歌った童謡の替え歌を歌いながら、才人はルイズだか宇宙人だかわからないシロモノを地面に描いていた。今の姿を見たら、さすがのシエスタもひくに違いない。そのぐらい、才人の落ちっぷりといったらなかったのである。そのシエスタは、ド・オルニエールに残っている。一応、コルベール先生も、もしルイズが戻ってきた場合に備えていっしょに残ってくれていた。
「景気の悪い顔してるな! とりあえず飲めよ」
マリコルヌが近づき、そんな才人の口にワインの壜を差し込んだ。
「ふもごごごごごごご!」
ワインの壜が一気に空になっていく。
ぷはっと口を離し、
「なにすんだ!」
「そんなツラしてたってなあ、もうルイズは戻ってこないよ。諦めろ」
「そ、そんな……」
「完全に愛想つかされたんだよ。もう会いたくないって。そういう意思表示なんだよ」
才人は地面に膝をつくと、ぷるぷると震え始めた。さすがに見かねたギーシュたちが、マリコルヌを才人から引き離そうとする。
「お、おい。マリコルヌ、やめろよ……」
「何言ってんだお前ら!」
そんな少年に向かって、マリコルヌは絶叫した。
「今はな、サイトが男になれるかどうかの瀬戸際だぞ? 男はな、別れを自分のモノにして、大きくなっていくんだよ。今こそ、コイツは現実を見なくちゃならないんだ」
マリコルヌは、うんうんと頷いて見せた。
「なんか中途半端に立派なこと言ってるけど」
久々にタバサに会いたいと言ってくっついてきたキュルケが、隣のティファニアに言った。
「ほんとに困った人ですね」
ティファニアがそう言うと、マリコルヌは首を振り、神妙な顔で近づいてきた。さっと、ティファニアは両手を胸の前で組み、警戒心をあらわにした。
「ミス・ウエストウッド、実は……」
マリコルヌがそう言った瞬間、ティファニアは首を振った。
「いや」
「まだ何も言ってないじゃないか」
「どうせヘンなこと言うんでしょう」
するとマリコルヌは、寂しげな笑みを浮かべた。
「参ったな……、まあ、いつもの言動がああでは、仕方ないけどな……。今回はちょっと真面目なんだ」
さすがにそこまで言われてはしかたない。ティファニアは頷いた。
「言ってみて」
「あいつにさ、そのでっかい胸、見せてやってくんないかな?」
何がイヤって、マリコルヌの声が実に爽やかだったことだ。声のトーンには、友だちのために、という響きが篭っていた。その顔には、純粋に友だちを案じるものが浮かんでいた。ただ言葉だけが最悪だった。
「やっぱりさ、落ち込んでるときには胸。それもでっかいやつ。それしかないんだよね。実際にはさ、胸なんて……、なんていうやつもいるけど、そんなのはミス・ウエストウッドのそれを知らないモグリであってさ」
さすがにティファニアは、これは虚無かな、と杖を振り上げた。
しかしマリコルヌは言葉を止めない。
「おや? 魔法かい? きみはあれか? サイトに元気になって欲しくないのか? きみはそれでもサイトの友だちか! ぼくはだな! 純粋にサイトのためにだね!」
「えい」
小さく呪文を唱え、ティファニアは杖を振り下ろした。
「ぼく、ピーヨコのピヨちゃん。ピーヨピヨ」
ぱたぱたと両手を振って、マリコルヌは歩き出す。ティファニアは才人の元へと向かった。ぶつぶつと、廃人のように才人は何かを呟いている。
そんな才人を見ていると、ティファニアは無性に悲しくなった。
「大丈夫よサイト。絶対にルイズは戻ってくる。そしたらちゃんと謝ってね? わかった?」
「ほんとに、戻ってくるのかな……」
その言葉に、ティファニアは頷いた。
「大丈夫。ルイズは、自分の仕事を放り出したりしない。絶対に、そのうち戻ってくるから……」
ティファニアは、何度もそう言って、才人を慰めた。
女王の天幕では、アンリエッタが早馬で到着したアニエスの報告に耳を傾けていた。
「参りましたね」
そう言って、アンリエッタはため息をついた。シュルピスの街で、才人が自分を襲った一味を発見したとの報告を受けて、アニエスを調査に向かわせたのである。
だが、その報告は芳しくないものだった。
「シュルピス近辺をくまなく捜索しましたが……、目当ての輩は見つかりませんでした。なお、同時にシュヴァリエ・ヒラガ殿に対し含むところを持つ貴族を調査しましたが……」
アニエスの困ったような調子で、アンリエッタは察した。
「多すぎる、そう言いたいのでしょう?」
「そのとおりです。平民あがりの風当たりについては理解しているつもりでしたが、想像以上でした。民衆からの人気が、そのまま嫉妬に跳ね返ったようです。魔法学院生徒を持つ家以外……、すべてに動機が存在するとみても、あながち間違いではありませぬ。率直に申し上げて、お手上げですな」
アンリエッタは頷いた。男爵の位を与えていたら、今ごろどうなっていたことか……。
「ですが、一つ有力な手がかりを得ました」
「おっしやってください」
「裏の世界で名の通った連中が、最近トリステインに潜入したとか」
「裏の世界?」
「ええ。どうやら汚れ仕事を専門にやっていたようです。かなりの腕っこきで、ガリアではあの……、北花壇騎士≠ノ所属していたとか。こたびの政変で、トリステインに流れてきたようです」
北花壇騎士。ガリアの非公式の騎士団。アンリエッタもその存在は耳にしたことがあった。諜報、暗殺……、そういった闇の仕事を生業とする騎士らしからぬ騎士。
「連中≠ニ申しましたね?」
「ええ。元素の兄弟≠ニ申す連中です」
アンリエッタは、才人の言葉を思い出した。
女のほうが、男のほうを兄さま≠ニ呼んでいたと……。
「おそらく、彼らで間違いないでしょう」
「実はわたしも、かつて何度かその名前は耳にしたことがあります。神出鬼没。狙った獲物は逃がさない。そして……、依頼された任務は失敗したことがない」
「でも、サイト殿にとどめを刺さなかったのは……」
「理由はわかりませぬ。脅しのみだったのかもしれません」
「それなら、まだよいのですが」
「次は脅しではすまないかもしれませぬ」
アンリエッタは悔しげな顔で、首を振った。
「いっそのこと、国中の要職に平民を登用してあげようかしら」
「面白いとは思いますが、内乱になるでしょうな」
やはり、国内の有力な貴族と結婚するべきなのだろうか。まったく、女王などといいながら、自分にはなんの力もないではないか。近衛の騎士一人守ることができないなんて!
こんなときなのに、姿を消しているルイズを、アンリエッタは初めて恨めしく思った。
「……あなたはいいわね。恋≠セけに生きられて」
「なにか?」
「いえ……、なんでもありませぬ」
少しはわたくしの立場を考えてくれたっていいじゃないの。わたくしには何もないんだから。ほんの少しの慰めも。心休まるときも……
ヴェルサルテイルに到着した一行は、すぐさま迎賓館に案内された。とはいっても、部屋が用意されるのは、アンリエッタや一部の大臣のみで、護衛をつとめる兵士や騎士たちは、周りに仮設された天幕で寝泊まりするのだった。
『明日から行事が目白押しでありますから、本日はごゆっくりお休みください』と言い残し、ガリアの使者は迎賓館の玄関から去っていく。
女官やアニエスを下がらせると、アンリエッタはやっと一人になれた。さて、この園遊会の出席には、様々な目的がある。
だが、中でも一番の目的は、新女王シャルロットの真意を掴むことだった。ロマリアの協力を得て戴冠したシャルロット女王……。ロマリアと協調して、聖戦を遂行するつもりなのか? そのあたりを見極めねばならない。
そんな大事なときだというのに……、国内はまとまっていない。平民出身の騎士に嫉妬を抱き、あまつさえ殺し屋を雇って排除しようとしている。
ルイズはルイズで、自分の任務を放り出してどこかに雲隠れしてしまった。
「みんな自分勝手だわ。誰のためにがんばっていると思っているの?」
アンリエッタは才人を呼んで、散歩でもしようと思った。ガリア女王との会見について打ち合わせる必要があったし、才人を襲った連中について、知らせる必要もあった。
でも、一番大きな理由は……。
会いたい
なんとなく、顔が見たい。
いろいろ理由はつけたけれど、結局それだけのようにアンリエッタは思った。
呼び鈴を鳴らして、アンリエッタは召使を呼んだ。
「しばし散歩をしたいから……、そうね、打ち合わせることもあるので、水精霊騎士隊のシュヴァリエ・ヒラガ殿を呼んでください」
召使は、すぐに外から才人を連れてきた。
ぐったりと、疲れた顔で才人は言った。
「お呼びだそうで」
「散歩をしたいのです。護衛を命じます」
才人は、直立すると恭しく一礼した。それなりに様になっているので、アンリエッタはなんだか少しおかしくなった。
迎賓館を出るまでのアンリエッタは、普通に厳格な女王で、一歩下がって後ろからついていく才人に目もくれなかった。
ヴェルサルテイルの迎賓館は、すでに社交場と化していた。あちこちで、豪華な衣装で着飾った大貴族や大使たちが、にこやかに談笑していた。アンリエッタが通りかかるたびに、彼らは慌てて居住まいをただして礼をよこすのだった。
まるで空気のように、アンリエッタはそれらを無視して歩く。公式の場でなければ、彼らに挨拶をする必要はなく、また、実際無視していても、まったく嫌味には見えなかった。
そうと意識したアンリエッタは、まったく見事な女王であり、一個の人間ということを忘れてしまうだけの威厳を辺りに振りまいている。後ろからついていく才人などには、誰も見向きもしない。
そんなアンリエッタは、あのとき、安宿で……、そしてド・オルニエールの地下室で見た人物と同じだとは、才人には思えなかった。
外はそろそろ、日の落ちようかという時間になっていた。迎賓館の外も、大勢の外国からの客でこったがえしている。
アンリエッタは、ローブのフードを深くかぶる。そうすると、そこにいるのがアンリエッタだとは、咄嗟にはわからなくなった。
アンリエッタは無言のまま、どんどんと歩いていく。ヴェルサルテイル宮殿は広く、ちょっとした街ぐらいの大きさがある。
そのうちに、迷路のように花壇が並んだ場所に出た。名前も知らない青い夏の花が、咲き乱れていた。
アンリエッタは、まっすぐにその中へと入っていく……。
その迷路状の中庭の途中には、小さなベンチがあった。そこに腰掛けると、アンリエッタはフードを取った。
むせるような花の香りと、湿気に包まれたアンリエッタの顔からは、先ほど見せた厳格さは消えていた。まるで村娘のように、のびをすると、アンリエッタは才人に向かって「あなたもおかけなさいな」と朗らかな声で言った。
才人は隣に腰掛ける。
「誰かに聞かれたくなかったものですから」
それからアンリエッタは軽く慌てた様子で、
「いえ、その、深い意味はありませんの」と言った。
才人もぎこちなく頷いた。
最近、二人はずっとこんな風だった。お互いに、あのことを話題には上らせない。最初に口を開いたのはアンリエッタだった。
「明日のことですが……、前にも説明申し上げたように、とりあえずシャルロット女王に、率直にお尋ねください。ロマリアと、どのような関係を結ぶつもりなのか」
「わかりました」
才人の声は、どこかうつろで、元気がなかった。
「それと……、あなたを襲った者たちの件ですが。元素の兄弟≠ニいうそうです。ガリアから流れてきた、裏の仕事に長けた連中とか……」
「そうですか」
力のない声で才人は言った。
「なんだか、他人事のようですわね。しっかりしていただかないと困ります」
「すいません。でも……、なんだか、力が出ないっていうか。それじゃいけないってわかってるんですけど……」
アンリエッタは眉をひそめた。なんだか、自分が責められているように感じたのだ。
「まるでわたくしが悪いような言い方ですわね」
「え?」
才人はアンリエッタを見つめた。その目に怒りの色を感じ、才人は慌てた。
「そ、そんな……、違います。いけないのは俺です。俺が……」
「わたくしたちは、悪いことをしたのですか?」
唇を尖らせて、アンリエッタは言った。
「それは……」
「ルイズがいなくなった。しかたないではありませんか。わたくしたちはそれだけのことをしたのですから。自分の意思で、それを行ったのですから。それともあなたは、意に沿わぬことをしたのですか? それなら、わたくしが一人でこの罪をかぶりましょう。でももし……、そうではないのなら……」
「ないのなら?」
「あなたには、そのように苦悩する権利はないと思いますわ」
才人は俯いた。
「……意に沿わなかったわけではないです」
するとアンリエッタは、冷たい目で才人を睨んだ。
「……男らしくないですわ」
「な、なんですって?」
「夢中だったではありませんか。まるでわたくしが誘惑したみたいだわ。ひどい人」
「そ、そうじゃないですか!」
「どこがそうなのか、おっしゃってくださいまし」
「こんな風に求めてきたのですよ! って言ったじゃないですか!」
するとアンリエッタは、さらに目を細めた。
「あれはただ、あなたの真似をしただけですわ。誘惑したわけではありません」
「俺は、あんな風にした覚えはないですよ! あんな色気たっぷりで……」
「色気に迷っただけだと。そうおっしゃりたいのね」
すると才人は、再び力なく肩を落とした。
「……なんていうか、なくしてみて、初めてわかったんです。いかに自分がルイズに依存してたのかって。いかにルイズのことが好きだったのかって。俺はトリステインを助けるために、七万に突っ込んだわけじゃない。ルイズを助けるために突っ込んだんです。ルイズがいるから、こっちの世界に残ることにしたんです」
「では、ルイズがいなくなったから、あなたもすべてを放り出して、元の世界へ帰るとおっしゃるの?」
才人は首を振った。
「いえ……、それは俺の理由です。理由は理由に過ぎません。とにかく俺は一旦引き受けました。だからちゃんとやります。落ち込んでてすいません」
するとアンリエッタは、ちょっと驚いた顔になり、ついで恥ずかしそうに頬を染めた。
「……申し訳ありません。わたくし、つい夢中になりすぎたみたいですわ」
「……いえ」
「あまり頼れる人がいないものですから。つい、甘えてしまうのです。きっと、あなたにも、ルイズにも甘えていたのですわ」
しばし、二人は見つめ合っていたが……、どちらからともなく顔をそらす。ぽつりと、才人は言った。
「俺……、向こうの世界にいるときですけど……、とっても適当に生きてました。悪いことはしなかったけど、いいこともしませんでした。何かに夢中になることもありませんでした。毎日はなんとなく過ぎていって、ある日突然大人になって、それでも大して変わらずに、のほほんと過ごすんだろうなあ、なんて思ってました。そして、それでいいって思ってました」
「…………」
「でも、こっちの世界に来て、初めて見つかったんです。生きる意味。俺がこの世に存在する意味。すっごく単純でした。ルイズです。あんな可愛い子見たことなかった。生意気で、わがままだけど、見てるだけでどうにかなりそうになりました。ルイズを助けるうちに、いろいろと手柄も立てて……、皆から必要にされて、もっとその理由が大きくなりました。皆から必要とされるって、とっても嬉しかったんです。だって、今までそんなことなかったから」
アンリエッタは、黙って才人の話を聞いていた。
「だから俺、ちょっと浮かれてたのかもしれません。浮かれて、一番大事なものを忘れてたのかもしれません。ルイズやデルフを失って初めて、それに気づいたんです」
しばらくアンリエッタは黙っていたが……、ゆっくりと目を閉じた。
「……そろそろ戻りましょうか」
「はい」
二人は立ち上がると、迎賓館に向かって歩き出した。いつしか双月が現れ、夜の花壇を優しく照らしていた。
そんな月明かりを見つめながら、才人はぼんやりと考えた。
俺がこの世界にいる意味ってなんだ?
自分の存在する意味。
こっちの世界に来るまでは、そんなものが……、意味≠ネんてものが存在すること自体、知らなかった。
たぶん、向こうの世界にいたら、自分はおそらくそれを考える間もなく大人になり、そして死んでいっただろう。
ちょっと前まで、それは明確だった。
ルイズのため。
見ていると、胸のドキドキが収まらなくなる女の子を守るため……。でももう、彼女はいない。自分の前から姿を消してしまった。
自分はこっちの世界に来て、いろんなものを見つけた。東京で過ごしている間には決して見つからなかったもの……。
でも、今は何が目的なのかわからなかった。世界はどうにも灰色で、何をすればいいのかわからなかった。
それでも、しなければならない仕事がある。降りかかる危険がある。
アンリエッタには『やります』と言った。が、そのどちらもうまくこなせる自信がなかった。
翌日から、大々的に即位祝賀園遊会が開催された。
朝から盛大な花火が打ちあがり、楽師たちはひっきりなしに音楽を演奏する。
完成なった新王宮≠フ前庭に集まった各国の指導者や名士たちは、これほどの短期間でこれだけの王宮を造り上げてしまうガリアの底力に、感嘆せざるをえなかった。
玄関の扉が開き、シャルロット新女王が新王宮から姿を見せたとき、集まった名士たちはその幼さに驚いた。彼女は十六歳と聞いていたが、どう見ても二つか三つは幼く見えたからだ。
また、その衣装も目を引いた。
このような場合、普通は派手できらびやかな衣装を着るものだ。大国ガリアの女王ともなれば、一流の仕立て屋が腕をふるった素晴らしい衣装を纏わねばおかしい。現に居並ぶ貴婦人たちは、新女王が身に纏うであろう、贅をこらした衣装が一目見たくて集まったようなものだ。ガリア女王の衣装は、ハルケギニアの流行を左右するといっても過言ではない。
しかし……、シャルロット新女王の羽織った衣装は妙だった。
まるで修道女が着るような、白い、簡易で質素な服だった。宝石も何もちりばめられていない。胸には、申し訳程度に聖具が描かれている。
左右に控えたお付きの貴族が、恭しく一礼すると、芝居がかった口調でディテクト・マジック≠フ呪文を唱えた。
これは大事な儀式である。
皆の前にいるのが、正真正銘のシャルロット女王であると、証明するためのものだった。魔法を感知した反応はない。集まった名士たちから、静かなため息が漏れる。
これで、女王は正真正銘、本人であると確認されたのだった。
シャルロット女王は、それから前庭に用意されたテーブルの最上座に向かい、そこで各国の名士たちから、お祝いの言葉を受け取る段取りになっていた。
ゆっくりと階段を下りてくる女王の姿を、皆が想像した。
だが……、シャルロット女王は、その場に立ち止まったまま、何かを告げるように、右手を上げた。
名士たちからざわめきが漏れた。
「ガリア王国を統べる女王として、みなさまがたに宣言いたします。ガリア王国は神と始祖ブリミルの良き僕として、ロマリア皇国連合の主導する『聖戦』に、全面的に協力いたします。ハルケギニアに始祖の加護があらんことを」
一瞬、会場は静まり返った。それから、波のようにざわめきが広がっていく。
やはり、新政府はロマリアの傀儡なのだとか、このためにロマリアはガリアに侵攻したのだとのささやきが、会場を揺らしていく。
「なんという……」
会場でその宣言を聞いたアンリエッタは、顔を蒼白にして倒れこんだ。そばに控えていたアニエスとギーシュが、慌ててその身体を支える。
一歩離れた場所で、水精霊騎士隊を率いていた才人も青くなった。
今の言葉はどういうことだ?
タバサが、ロマリアに協力するなんて!
まさに寝耳に水だった。
一瞬、あれはタバサではなく、別の誰かだろうか? と考えた。それとも、何か薬を使って……。
いや、と首を振る。
先ほど、ディテクト・マジックをかけられていたではないか。
となると、あれは正真正銘のタバサ……。
「なんで修道女みたいな格好してるのかななんて思ってたら……。あのちびっこ、やっぱりそういう思惑があったのか……」
「妙だと思ってたんだよ。ロマリアの言うがままに即位を決め込むなんて。ロマリアめ、うまいこと説得しやがったな」
マリコルヌとギムリが、そんなことを言った。
「違う」才人は言った。
「なにが違うんだ? 現にあいつは、聖戦に協力するって言ってるぜ」
「タバサがそんなこと言うわけがない!」
「そう、きみに約束でもしたのかい?」
そう言われて、才人ははっとなった。考えてみれば、タバサの口から直接『聖戦に反対する』なんて言葉はついぞ聞いたことがなかった。自分に懐いていたから、当然同じ考えだとばかり思っていたが……。
「あのなあきみ。政治信条と友情は別物だぜ。彼女は確かにきみと仲良しだったのかもしれないが、きみと考えが違ってたっておかしくはない」
レイナールが慰めるように言った。
才人は、足元がぐらつくように感じた。当のタバサは、階段を下りて、お祝いの言葉を受けるためのテーブルへと向かっていた。
才人は駆け出した。
テーブルについたタバサの前に、各国の名士が並んで挨拶をしている。膨大な列ができていたが、かまわずに才人は割り込もうとした。当然、他の貴族にたしなめられる。
「おい! どこの田舎者だ!」
しかたなく、最後尾に並ぶ。
遠目に見るタバサに、おかしいところは感じられない。多少雰囲気が変わったように見えるが、気のせいとも思える範囲だった。タバサが化粧をしていることに才人は気づいた。唇に紅を差し、睫《まつげ》を巻いた程度の軽いものだったが……。前と雰囲気が違うように感じるのは、その顔に施された化粧のおかげなんだろうか。
一時間もすると、やっと自分の番が来た。才人は目の前のタバサを見つめた。ちらっと向こうも自分を見つめるが、その目にはかつて感じた、親愛の色や、懐かしいといった感情がかけらもない。
「トリステイン王国大使、サイト・シュヴァリエ・ド・ヒラガ・ド・オルニエールと申します」
しかたなしに、とりあえず通り一遍の作法で挨拶をした。
「お久しぶり」
「お、覚えてくれてたのか?」
当たり前じゃないかと思ったが、タバサのそんな態度についそんな間抜けなことを言ってしまう。
「覚えてる」
その妙なやり取りに、周りの貴族たちが怪訝な顔になった。だが、タバサの後ろにいる男が、周りに向かって説明するように言った。
「ここなシュヴァリエ・ヒラガ殿は、陛下のご学友だったお方です。気さくにお声をかけていただければ、陛下も喜びましょう」
陽気な雰囲気を持った、神官服を着た男だった。若いのだろうが、妙に年齢がわからない。がっしりとした顎が、意志の強そうな雰囲気を放っている。
才人の視線に気づき、男は一礼した。
「宰相のバリベリニと申します。以後見知りおきを。虎街道の英雄殿」
才人も礼をした。それから、
「シャルロット女王陛下に、お話があるのですが……」と言った。
するとバリベリニ卿は慇懃な態度で首を振った。
「申し訳ありませんが、陛下はお忙しいのです」
「ええと、俺は一介の騎士ではありません。このように、トリステイン王国の正式な大使であり、交渉官です」と、真面目な顔でアンリエッタのお墨付きを見せたが、バリベリニ卿は首を振る。
「残念ですが……」
取りつく島もない。才人はタバサに向き直った。
「話があるんだ」
だが、それでもタバサはきょとんと才人を見つめるのみ。
「ヒラガ殿。失礼ですが……」
割って入ろうとしたバリベリニ卿に、才人は言った。
「あなたに尋ねてるんじゃない。俺はタバサに……、陛下に尋ねてるんです。なあ、お願いだ。聞きたいことがあるんだ」
だが、彼女の返事はそっけないものだった。
「忙しい」
才人は慌てた。
「なあ、さっきの言葉はほんとうなのか? 聖戦に協力するって……」
それがどうしたの? と言わんばかりの顔で、タバサはこくりと頷いた。
「お前……、どうした? いったい何があったんだ?」
「どうもしない」
その頃になると、妙な様子に周りの貴族たちが騒ぎ始めた。
「大使殿。あとがつかえております。お話なら、あとでわたしが伺いましょう」
「なあタバサ! どういうことだ! お前、ロマリアに何か吹き込まれたのか! どうなんだ!」
なおも詰め寄ろうとする才人に、バリベリニ卿は冷たい声で言った。
「それ以上、何かおっしゃれば、あなたに異端の疑いをかけねばならなくなりますぞ」
才人は何か言おうとした。だが、その口が背後から押さえられる。
「ほらサイト! 行くぞ! みなさまがた、お騒がせしました!」
ギーシュだった。見ると、周りには水精霊騎士隊の少年たちが集まっていた。そっと、ギーシュが才人の耳にささやく。
「……気持ちはわかるが、自重したまえ! ここはトリステインじゃないんだぞ!」
その言葉で、才人はやっと落ち着いた。
「……すいませんでした」
ぺこりと頭を下げて、才人はその場を後にした。
園遊会会場は、先ほどのシャルロット女王の発言で持ちきりだった。ほとんどの貴族は、困ったような表情を浮かべている。当然だろう。彼らの記憶にはカルカソンヌで両用艦隊を焼き尽くした炎が焼きついていた。エルフの先住魔法が生み出した、巨大な炎の玉……。
それに、エルフと戦うことほど愚かなことはない、と彼らは教えられて育ってきた。
だが……、面と向かってロマリァやガリア女王に逆らえる貴族はいない。ほんとうにエルフと戦になるのですかなあ、とまるで他人事のように話し合っていた。
第十一章 絆
その日の夜……。迎賓館。
アンリエッタの部屋の前で警護の任を行っていた才人は、中からアンリエッタに呼ばれた。
「……サイト殿」
疲れたような声だ。才人はいっしょに立っていたギムリに目配せすると、中へと入っていった。
「お呼びですか?」
アンリエッタは、寝巻き姿のまま、ソファにもたれかかっていた。あの、シャルロット女王の宣言を聞いてから、ずっとそうやって茫然自失の体だったのである。やっとのことで、人と話す余裕ができたのだろう。
「……シャルロット女王にお会いしましたか?」、
才人は頷き、アンリエッタに説明した。まったく、取りつく島がなかったこと……。
「まるで人が変わったようでした」
「そうですか。となると、思っていたより、事態は厄介ですわね」
「いったい、何があったんでしょうか」
するとアンリエッタは唐突に顔を押さえた。
「姫さま」
「もうたくさん。たくさんですわ! なんて狡猾で巧みな連中でしょう! ああ、なんなくガリアを手なずけてしまうなんて……」
「ですが、虚無の担い手は一人欠けた状態です。諦めるのはまだ早いですよ」
そうは言ったものの、才人の中には不安があった。もしかしたらロマリアは……、それもとっくに解決しているのかもしれない。
自分が死ねば、代わりの使い魔を召喚できるように……。
担い手もまた、代わりがいるのではないだろうか?
そんなことを考えていると……、窓が叩かれた。アンリエッタはびくっと身体を震わせると、才人に寄り添ってきた。
ここは二階のはずだが……。
才人は、まず、小声でギムリを呼んだ。怪訝な顔で部屋に入ってきたギムリに、アンリエッタを任せ、刀の柄に手を置いて、ゆっくりと窓に近づく。
ガンガン……。
再び、カーテン越しに窓が叩かれる。
「誰だ?」
そう尋ねると、声が響いた。
「……トリステイン女王陛下に宛てて、わが主人より言伝を持ってまいりました」
若い女の声だった。
「言伝? どうして窓から来るんだ?」
「扉より入ることができないからでございます。現在、ガリア王政府は混乱を極めております。その混乱について、是非ともトリステインの助力を仰ぎたいのです」
才人はアンリエッタのほうを振り返った。こくり、とアンリエッタは頷く。才人は窓を開けた。するりと、まるで滑り込むようにして女が一人入ってきた。どこからどう見ても、ただの若い街女にしか見えない。薄茶色の服に、淡いベージュ色のスカート。だが、メイジですらないのに、彼女は器用に壁に張りついていたのである。驚くべき体術といえた。
「わたくしは地下水≠ニ申します」
随分と妙な名前だったが、何かの通り名なのだろう。彼女はそれから、懐から一通の手紙を取り出した。それを恭しくアンリエッタに手渡す。
アンリエッタは、それを一読すると眉をひそめ、才人へと手渡した。
そこには、簡単にこう書かれていた。
『畏れながらトリステイン女王陛下に申し上げます。ガリア王政府に政変あり。現在の女王は、シャルロットさまではございません。詳しい話をさせていただきたく存じます。この者が案内さしあげます故、使者をおつかわしくださいますよう平にお願い申し上げます』
「じゃあやっぱり、あのタバサは……、タバサじゃないんだな?」
「いったい、差出人は誰ですか? なぜ、トリステインに助力を請おうというのですか?」
「詳しい話は、主人よりお伺いくださいませ。さ、急がねばなりません。使者を」
疑わしいし、もしかしたら罠かもしれない。でも、今は迷っていられないし、他に手もない。アンリエッタは、才人を見つめた。
「お願いできますか?」
「望むところです。ギムリ、ギーシュを呼んできてくれ」
おっとり刀で駆けつけてきたギーシュたちに、才人は説明した。
「というわけで、俺はちょっと行ってくる。ここは任せた。レイナール、いっしょに来てくれ」
才人は、供にレイナールを選んだ。こういう任務は、ペアで行うのが基本だった。また、レイナールは何気に腕が立つし、知恵もある。緊張した顔で、レイナールは頷いた。
才人は準備を整えたことを地下水に報告した。こくりと、女は頷いた。
才人とレイナールは、地下水に続いて迎賓館の窓から外に出た。そこは壁と建物にはさまれた、狭い場所だった。両脇を立ち木にふさがれ、周りからは死角になっている。いったい、ここからどう動こうというのだろう?
ロマリアが暗躍しているならば、当然自分たちには監視の目が光っているはずだ。城壁を越えようとしたら、すぐに衛士が飛んでくるだろう。
だが、地下水はそうはせずに、地面にしゃがみこむ。そこには、鉄の扉があった。おそらく、下水道か何かに通じる入り口なのだろう。音を立てないように、地下水は扉を開くと、中へと入り込む。才人も続いた。
はしごで五メイルほど下りると、ひんやりと冷たい空気がよどむ場所へ出た。足元に水の感触があった。そして、汚水の匂い……。
地下水は、そばにあったカンテラを掴み、短くコモン・ルーンを唱える。
魔法のカンテラに明かりがともる。なるほど、思ったようにここは下水道だった。
「こちらです」
入り組んだ迷路のような下水道を、まったく迷うそぶりも見せずに地下水は歩いた。どうやら、己の住む街のように、この下水道を把握しているようだ。
右、左、まっすぐ……。一リーグほども歩いた頃だろうか。一本の鉄の梯子があって、地下水はそこをよじ登る。
そこが目的地だったようだ。カンテラの明かりを消し、三人は外に出た。
月明かりに浮かぶそこは、どうやら打ち捨てられた寺院の中庭のようだった。ヴェルサルテイル宮殿は、リュティスの郊外に位置している。遠くに……、五百メイルは離れた場所に、ヴェルサルテイル宮殿の明かりが見えた。
寺院の中に、地下水は入っていく。ここの礼拝堂は随分と使われていないようだ。中は真っ暗だったので、地下水は才人とレイナールの手を握って案内してくれた。
礼拝堂には、地下へと下りる階段があった。そこを下ると、扉があった。地下水はその前に立つと、小さく言葉を告げた。
「地下水です」
鍵が外れる音が聞こえ、扉が開いた。カンテラの明かりが目に飛び込んでくる。そこは、寺院の司祭がかつて使っていたであろう、居室だった。ベッドと、机が置いてあった。一行を迎え入れてくれたのは、フードを深くかぶった若い女だった。
口元だけを覗かせ、才人に向かって礼をした。
「トリステイン王国からのお客様ですわね?」
女のしゃべり方は、貴族のものだった。どうやら彼女が、地下水の主人のようだった。
「トリステイン王国水精霊騎士隊のシュヴァリエ・ヒラガです。こちらは同騎士隊所属の、レイナール」
すると女は、フードを下ろした。カンテラの明かりに、長い青髪が舞う。彼女は、焦った声で二人に告げた。
「ガリア王国北花壇騎士団団長の、イザベラ・マルテルと申します」
「北花壇騎士団だって?」
それは確か、タバサが所属していたガリアの秘密騎士団ではないか? 政府の汚れ仕事を一手に引き受けていたという……。
「ご存じですか。ならば話は早い。時間もありませぬゆえ、急いでご説明さしあげます。先ほど手紙にも書いたとおり、今現在、ガリア女王を名乗っている娘は、シャルロットさまではないのです。別の者が入れ替わっております」
「どういうことですか?」
「わたくしも事情は存じません。ただ、三日前の朝、シャルロットさまに拝謁した際に、わたくしはすぐにその娘がシャルロットさまではないことに気づきました。同時に、これは何かの陰謀だと理解したのです」
「……そうだったのか」
「ですが、わたくしはそれに気づかないふりをいたしました。あの娘が、シャルロットさまであるように振る舞ったのです。何か事情を知らぬかと、太后陛下にも目どおりしようと考えましたが、病に伏せたとの仰せ。しかたなしに、手持ちの騎士を用いて秘密裏に調査を開始したのです。まだ、有力な情報は集まっていませんが……、敵に気づかれるわけにはいきませんから慎重にならざるをえません。でも、おそらくロマリアの手引きによるものと思われます」
才人は、理解した。やはり……、あのタバサはタバサではなかったのだ。聖戦≠もくろむ、ロマリアの陰謀だったのだ。
「ちくしょう……、やっぱりあいつら、ろくでもないことを考えていやがったな……。そしてタバサは? どこに?」
「それも判明しておりませぬ。ただ、全力を持って調査中です」
「わかりました。で、俺たちは何をすればいいんですか?」
「とりあえず、何もしないでください。迂闊に動くことは危険です。わたくしたちに多少の利があるとすれば……、入れ替わったことに気づいたことを、向こうが知らないことです。ですから、あなたがたも、気づいていないふりをしてくださいますよう。では、アンリエッタ女王陛下に、よしなにお伝えください」
「わかりました」
「何かあれば、手紙でお知らせします。ですが普通の手紙では、敵に渡った際に対処のしようがありません。これをお使いください」
それは、数字を利用した暗号表だった。
才人は頷くと、それをポケットにねじ込んだ。
「では、あなたも気をつけて」
そう言い残し、才人は外へ向かおうとした。
「お待ちください。地下水が案内します」
「あ、そうか」
あの下水道を、案内なしに帰ることはできない。だが、そう言ったあともイザベラは何か言いたそうな顔をしていた。
「何か?」
そう尋ねると、イザベラは才人にぺこりと頭を下げた。
「わたくしは……、前ガリア王、ジョゼフの娘でございます。父に代わって、お詫びを申し上げます」
才人の体が固まった。髪の色から、イザベラは王族ゆかりのものであると見当をつけてはいたが……。顔色を変えたレイナールが、何か言おうとして、口を開く。才人はすっとそれを制した。
「サイト」
才人は、言い直そうとするように口をつぐんだ。そして、しめやかな声で呟くように言った。
「お悔やみ申し上げます」
イザベラは、はっとしたように目を開き、深々と頭を下げた。
外に出ると、双月が炯々《けいけい》と光っていた。下水道の入り口に向かおうとすると、いきなり呼び止められた。
「おい」
才人は振り向いた。
瓦礫に腰掛けていた男が立ち上がる。月明かりに浮かんだその顔を見て、才人は絶句した。
「お、お前……」
そこにいたのは、シュルピスで見た顔だった。ドゥドゥーといっしょにいた巨漢……。
「いやぁ、懐かしい場所だな。そういやなあ、おれも昔よく、ここで依頼を受けたもんだよ。もしかしたら、お前も北花壇騎士なのか? いや、まさかな……」
「ここで何をしてるんだ」
才人がそう言うと、男……、ジャックは頭をかいた。
「野暮な質問するない。わかるだろ? やっと値段の折り合いがついてなあ」
「こいつ、何者だ?」
レイナールが呟く。
「俺を襲ったやつの仲間だ」
「じゃ、じゃあ……、刺客?」
「もっと格好いい言い方はないもんかね?」
レイナールは青くなり、ついで顔を真っ赤にさせて杖を抜いた。
「おいおい、やめておけ。おれはなんだ、そういうことはしたくないんだ。なんだほら、目撃者を全員殺す、とかな。いいじゃねえか見られるくらい。減るもんじゃねえし」
才人はポケットの中の暗号表をレイナールに手渡した。
「お、おい……」
「あとは頼む。こいつを陛下に届けてくれ」
「で、でもな……」
「こいつは俺にだけ用があるんだ。そうだろ?」
才人がそう言うと、ジャックは頷いた。
「ああ。そのとおりだ。他の連中に興味はねえよ。お前さんたちがここで何をたくらんでるのかもな」
「サイト……」
「早く。地下水さん、頼む」
地下水はこくりと頷くと、レイナールの腕を取って、下水道へと消えた。
才人はジャックに向き直った。こう強がってはみたものの……、いざ対峙すると、恐怖で身体がすくみそうになった。
シュルピスで、散々な目にあったことを思い出す。まさか、ガリアに来てまで襲われることになるとは……。
一瞬、逃げ出そうかとも思った。だが、こいつは依頼を受けて来ている。ここで逃げても、いつか再び襲われるだろう。
それに、先ほどの言葉を思うに、この辺りには詳しいのだろう。
「さてと、なんだあれだね。お前さんも、よっぽど恨まれたもんだね。外国まで追っかけて殺してくれなんざ……。まあ、そっちのほうが都合がいいのかもしれねえけどな。こっちでやりゃあ、国内の調査はおよばねえ。でも、まさかこんなところで出会うとはな! 隠れ家にちょうどいいと思って来てみりゃ、ターゲットのお前さんにばったり出くわすなんざ、おれもついてるぜ」
くそ、逃げても無駄だ
そうなると、腹を決めねばならなかった。だがどうしたことか、勇気を出そうとしても身体に力が入らない。引きつったように、手足はこわばっている。まるで子供の頃、初めて喧嘩をしたときのようだった。
才人のそんな様子を見て、ジャックは怪訝な顔になった。
「おいどうした? 元気がねえな。この前はがむしゃらに向かってきたくせに」
「な、なんでもねえよ」
ジャックは笑った。
「そうかい。そりゃよかった。怖気づいた相手と闘っても面白くねえしな。さてと、おれはお前さんを殺しにきたわけだが、恨んでくれるなよ。こりゃ仕事なんだ。好きでするわけじゃねえし、お前さんが憎いわけでもねえ。なんだ、きっちり引導は渡してやるから、諦めるんだな」
才人は腰の刀を抜き放った。左手のルーンが、光りだす。
「おいおい! 死に急ぐなよ! まだ話は終わってねえ!」
「ごちゃごちゃ言わないでかかってこいよ」
強がってはみたが、刀の切っ先が震えていることに才人は気づく。
「さてと、まずはお前さんの値段を教えてやる。おれはな、いつも仕事をする前に、そいつの値段を教えてやるのよ。自分にそれだけの価値があったと思えば、少しは気が晴れるんじゃねえかと思ってさ。お前さんの金額はなんと十四万エキューだ! こいつは豪気だぜ。小ぶりな城が三つも四つも買える値段だ! お前さんほどの値段のついたやつぁいなかった。誇りに思いな」
ふざけた野郎だ。おそらく、失敗するなんて夢にも思っていないに違いない。
「一人で大丈夫なのかよ」
「まあね。この前の手合わせで、おれ一人で十分だと思ったからな。言っておくが、おれはドゥドゥーの何倍も強いぜ。さてと、ほんとのほんとにこれで最後だ」
首の後ろから冷や汗が流れて背中を伝う。
踏み込めねえ
どうにもこうにも隙がない。こいつの威圧感はなんなんだ……。
「何か最後にやりたいことがあったら言ってくれ。この場でできることだったらなんでもかまわねえ。遺書だっていいぜ。まあ、書かれたらまずいことは消しちまうがね」
才人は無言で飛び込んだ。一足飛びで距離をつめ、ジャックの足をなぎ払おうとした。
「ったく! せっかちなやつだな!」
しかし、ジャックはなんなくジャンプして、足払いをかわす。
巨体に似合わぬ、軽やかな動きだった。
でも、その動きは読んでいた。才人はそのまま、すくい上げるようにして刀を振り上げた。
もらった!
そのスピードに才人は自信があった。こいつらは身体の各部に硬化≠かけて銃弾や刃を防ぐのが得意だった。だが、この速さでは硬化をかける暇もないに違いない。
「おお、いやぁ、すごい速さだなあ」
しかし、手ごたえはなかった。驚くことに、ジャックは才人の刀を右手でつまんでいたのである。
「くっ!」
くるりと器用に回転して、ジャックは地面に降り立つ。
「さて、次はおれの番だ」
ジャックは呪文を唱えた。才人は身構えた。この前のジャックの攻撃を思い出す。土魔法を使い、壁や礫《つぶて》を操っていた。
だが……、土系統は攻撃には向かない。
対処できる自信はある。
何が来る?
足をすくおうとする土の手か?
それともゴーレムでも作り出すか?
それとも、拳を固めて殴ってくるのか?
だが、ジャックの攻撃はそのどれでもなかった。石ころを一つ取り上げた。それを無造作に、才人に向かって投げつけたのである。
投げるといっても、ただの速度ではない。まさに戦車砲のような速度と精度を持った投石であった。
あいつらは、先住魔法を身体の関節部に……
デルフリンガーの言葉が思い出される。
才人はその石を、なんとか刀ではじいた。だが、次の瞬間、ジャックは懐に飛び込んできていた。
その拳が、腹にめり込む。
才人は刀を放り出し、吹っ飛んだ。
「いやぁ、お前、なかなかだったよ」
地面に横たわった才人に、ジャックは言った。遠くに刀が転がっているのが見えた。全身を諦めと無力感が包んでいく……。
負けた
こんなにもあっけなく。
あいつは、魔法らしい魔法すら使っていないというのに……。
やはり……、どうにも心が震えない。
かつて背後にあの詠唱を聞いていると、いくらでもわき起こった心の震えがまったく起こらない。
自分は……、ルイズがいなければ、どうにもならない。そりゃそうだ。ガンダールヴ≠ヘ、主人の詠唱の時間を稼ぐために生み出された使い魔……。
主人がいなければ、その本分を見失うのは道理だった。
だめだ
諦めが全身を包んでいく。
突きつけられる杖が見えた。
「さてと……、じゃあもう一度尋ねてやる。何か最後にしたいことはないか?」
死≠ェ現実に迫ってきた。
というかもう、それは目の前にあった。
死んだら、ルイズに会えない。
会って、謝ることもできない。
そう思ったら……、どうにもならなくなった。
「……たくない」
「なんだって? 聞こえないぞ?」
「……死にたくない」
ジャックは困ったように首を振った。
「そりゃあいかん。おれも仕事なんでな。他のやつにしてくれよ」
「会いたい」
「会いたい? 誰に?」
「ルイズに会いたい」
「そいつもできない相談だな」
「ルイズ……」
とうとう、才人は泣き出した。すると、ジャックの顔に怒りの色が浮かんだ。
「な、なんだ? お前……、戦い終わって泣くのか? こ、この……、おれたちの戦いを侮辱するつもりか?」
「ルイズ……、ごめん……、俺……」
「やめろ! 泣くなばかもの! 十四万エキューにふさわしい最期を見せろ!」
感極まり、才人は絶叫した。
「ルイズゥウウウウウウウウウウウウウウウウウッ!」
むなしく、その絶叫は闇夜に吸い込まれていく。ジャックの顔に、幾重にも青筋が浮いた。
「き、貴様……、この期におよんで泣きながら女の名前を呼ぶとは……。うぬ、なんという軟弱。なんという貧弱。なんという柔弱……」
ジャックは杖を振り上げた。呪文を唱える。地面の土くれが盛り上がり、強力な錬金≠ノよって火薬へと変わる。
才人は、這って逃げようとした。
ジャックはその火薬を才人めがけて放った。
「塵も残らぬようにしてくれるわ!」
その瞬間だった。
宙に舞った火薬の中心に、小さな爆発が発生した。その爆発は、才人へと向かう前に、火薬を引火させた。巨大な爆発音が響き渡り、ジャックは爆発に巻き込まれ、後ろに吹っ飛んだ。
もうもうと、煙が立ち込めた。
「…………」
白い煙が晴れたのちに……、呆然と這い蹲《つくば》る才人が見たものは……。
「あんたなにやってんのよ」
月の明かりにまぶしい、桃色がかったブロンドだった。杖を握り、すっくと背を伸ばし、自分の前に立つ虚無の担い手≠フ姿だった。
才人を守るようにして、ルイズは目の前に立っていた。信じられなかった。まるで奇跡のように、ルイズは一瞬で目の前に現れたのだ。
修道服を身に纏い、杖を構えたその姿は……、奇跡のように神々しかった。その姿を見ているだけで、才人の両目からは涙が溢れた。
「ルイズ……」
「なっさけない使い魔。まったく、わたしってば、ほんとついてないわ。あんたみたいな弱っちいのが使い魔だなんて。ったく、これじゃ世界≠救えないじゃないのよ」
「ルイズ!」
思わず抱きつこうとしたら、顔に蹴りを入れられた。
「懐いてる暇があるんなら、さっさと剣を拾ってきなさいよ! まだ、勝負はついてないわ」
そのとおりだった。ゆらりと、煙の向こうに立ち上がる影があった。
「ぐ……、何者だ? 貴様……」
「何者? ご挨拶ね。あいにくと、あんたみたいな傭兵風情に名乗る名前はないわ」
「ば、ばかにしおって……。よかろう、お前もまとめてヴァルハラに送ってやる」
そう言うジャックの顔に、ルイズは見覚えがあった。あいつ確か……、シュルピスでわたしにセント・マルガリタ修道院の場所を教えてくれた男じゃないの。
どうしてあの男が、才人と戦っているんだろう。まあ、そんなことはあとで才人に聞けばいい。
刀を拾い、そばに戻ってきた才人にルイズは言った。
「あんた、あんなのに負けたの?」
「あんなのって……、あいつ、強いんだぜ?」
するとルイズは、こともなげに言った。
「どこが?」
ジャックはルイズに向けて、錬金≠ナ作り上げた無数の鉄の矢を放った。軽く杖を振り、ルイズはその前にいくつもの|エクスプロージョン《爆 発》≠発生させる。
鉄の矢は、吹き飛んだ。
バラバラと地面に落ちる鉄の矢を見て、ジャックは呆然とした。
「そ、その呪文はなんなんだ……」
目を凝らすルイズには、ジャックの纏う魔力のオーラが見えた。なるほど、確かに並じゃない。だが……、その魔力は不自然なものだった。たぶん、人為的に与えられたもの……。
確かにその魔力は強力だろう。
でも……。
わたしの敵じゃない
同時にそれも、理解できた。今の自分には、底なしに精神力がたまっている。アンリエッタと才人の一件が、自分に今までで一番の感情の高ぶりを与えてくれた。そう、人生の中でこつこつとためてきた精神力と同じぐらいの量が、一瞬でプールされるくらいの、感情の高ぶりを……。
今なら、どんな巨大な魔法でも放てそうな気がした。
同時に、セント・マルガリタ修道院からの脱出行……。結局、もよりの海岸までは、十リーグも離れていた。自分はその間を、小出しにした瞬間移動《テレポート》≠ナ渡りきったのである。
その経験は、ルイズに絶大な自信を与えていた。
わたしは、虚無を扱える
振り回されてなんかいない
ふつふつと心の底から何かがわき上がってくる。精神力が魔力になって、身体の中をうねっているのだ。
「誰も認めてくれなくたって、わたしがあんたを認めてあげるわ。ルイズ・フランソワーズ」
目の前に立つ桃色のブロンドの少女を見て、ジャックは目を丸くした。
「あいつ……、あのときの……」
ジャネットがセント・マルガリタ修道院に送っていった少女ではないか。髪の色が違うが……、間違いない。どういうことだろう。結局、向かわなかったのか? それとも、あの牢獄から脱出してきたというのか?
とにかく、なんという魔力だろう。
ジャックも相当な使い手だ。だから、ルイズの力が理解できた。
あの、常時錬金を放出する装置≠ニやらを持ってくればよかったかな、と考えた。だがあれは……、ダミアン兄さんの夢に必要なものだ。こんなところで使ってしまうわけにはいかない。となると……。
「簡単なことだ。命と引き換えにすればいい」
ジャックは呪文を唱えた。地面がぼこぼこと盛り上がり、大量のゴーレムが出現した。それを目の前の主従めがけて放つ。
だが、それはただの時間稼ぎに過ぎない。
再びジャックは呪文を唱え始めた。
十数体にも及ぶゴーレムを見つめ、ルイズは才人に命じた。
「ほら。雑魚がたくさん。あんたの相手よ」
才人は頷くと、刀を握って飛び出していく。大量のゴーレムだ。さすがはジャックの作り上げたゴーレム。動きが普通じゃない。まるでジャックの分身のようにすばやく、手ごわい動きで才人を翻弄しようとした。
だが……。
ウル・スリサーズ・アンスール・ケン……。
背後からルイズが呪文を読み上げる声が聞こえる。その響きは、才人に絶大なる勇気を与えてくれた。先ほどとは違う種類の涙がこぼれそうになる。
響くルイズの声が、美しい鈴の音のように心にしみこむ……。
この声。そしてその姿。
ルイズは美しい
この世の誰よりも美しく、俺の心を打つ。
才人はゴーレムの動きの先≠読んだ。未来位置を予測して、そこに刀を打ち込むのである。さっきはそんな動作は想像すらできなかった。
でも……、ルイズの詠唱を聞いていると、なんでもできるように思えるから不思議だった。まるで背中に羽が生えたように、身体が動くから不思議だった。
「なんだよ! 止まって見えるよ!」
的確にゴーレムを切り裂きながら、才人は絶叫した。
ルイズの耳に、ジャックの詠唱が届く。それは錬金≠セった。研ぎ澄まされたルイズの精神が、ジャックの意図するところを正確に判断する。
そして、ルイズに唱えるべき呪文を教えてくれる。
呪文を唱えるルイズには、もう辺りの喧噪は一切届かない。世界と切り離され、この世でたった一人になったような、そんな感覚があった。それでも精神と切り離された五感は、ルイズの意思とは別のところで情報を探知し続ける。
意識の隅で、ルイズは己の使い魔を意識する。
目の前で刀を振るい、襲いかかろうとするゴーレムを次々切り伏せている。
わたしを守るために……
そのときルイズは、自分たちが恋人という絆より、強いもので結ばれていることを知った。それは運命の鎖だった。別れようにも、自分たちは別れようがない。どちらが欠けても、大儀は果たせない……。
アンリエッタたちにジョゼットの存在を伝えにヴェルサルテイルまでやってきた自分が、才人の絶叫を耳にしたのは偶然だったのだろうか?
闇の中、自分を呼ぶ声が、はっきりと届き……、からくもその危機を瞬間移動≠ナ救うことができたのは、運命だったのだろうか?
それはいいことなのかどうか。
自分はそれを望んでいたのかどうか。
様々な想いが交差し、その震えを受けてオーラが輝く。
虚無のうねりがルイズを包む。
呪文が完成した。
時間をかけて練り上げた錬金≠、ジャックは地面に向けて放った。ぶわっと、自分を中心にした同心円状に、錬金の効果が広がっていく。
ジャックの強力すぎる錬金は恐るべき効果をもたらした。
半径百メイルほどの空間の土が、表土十サントほどの量の土が……、一瞬で火薬に変わる。残りの精神力を使い切って、練り上げた錬金だ。
これだけの量の火薬なら、半径数リーグにも爆発の影響は及ぶだろう。もちろん、その中にいる人間は逃げようがない。木っ端微塵になるだろう。
「兄さん! あとは任せたぜ!」
そう叫び、着火≠唱えようとした瞬間……。
ルイズが杖を振り下ろすのが見えた。地面が光り輝き……、火薬に変わった土が、一瞬で元の土へと変わっていく。
解除《ディスペル》≠セった。
ボッ、とジャックの放った着火≠ェむなしく地面に瞬いた。なんという魔力だろう。精神力を使いきった……、増強剤で増幅された自分の魔力を用いた錬金≠フ効果を上回るなんて……。
ジャックは白目をむいた。精神力を使い果たしたジャックは、地面に崩れ落ちた。
辺りに、静寂が戻った。
エピローグ
レイナールがアンリエッタや水精霊騎士隊の面々を連れてきたり、ガリアの官憲が大挙して押し寄せてきたりしたので、辺りは一躍騒然となった。
気を失ったジャックは、どうやら元北花壇騎士らしいとのことで、とりあえずガリアの官憲が拘禁することになった。才人は、ガリアの官憲にどうしてこんな場所にいたのだ? と尋ねられたが、ルイズを迎えに来て道に迷ったのだと説明した。以前の件も正直に話し、国内の貴族に命を狙われているらしいことも、合わせて付け加えた。
急いで駆けつけてきたアンリエッタは、まずは才人を見て、ほっとしたような表情を浮かべた。
そして、ルイズを加えた一同は迎賓館へと戻ってきた。
アンリエッタは、自分の部屋に才人とルイズのみを呼んだ。まずは、情報を整理したかったのだった。
才人はまず、この数週間に起こったことをルイズに説明した。ルイズを追いかけていたところ、元素の兄弟≠ニ名乗る一味に襲われて、デルフリンガーを失ったこと。
デルフリンガーの死を聞いて、ルイズは涙を流した。しばらく、しんみりとした時間が流れた。
だが、泣いている暇はない。才人は次々とルイズに語った。
そして今現在、タバサが誰かと入れ替わっているらしいこと。そのタバサの偽者は、ロマリアの手のものらしく、聖戦を支持する表明を発表したこと。
そしてアンリエッタには、改めて先ほどのイザベラとの会見を説明した。話を聞き終わったあと、アンリエッタはため息をついた。
「まったく……、次から次へと、よくもまあ問題が降りかかるものですわ……。まさか、ガリアにいる間を狙ってくるなんて!」
「どうやらガリアの秘密騎士だったようです。この辺りのほうがやりやすいと感じたんでしょう」
才人がそう言うと、アンリエッタは頷いた。それから、少し厳しい顔になってルイズに向き直る。
「それでは、あなたが何をしていたのかを説明してください」
ルイズは才人とアンリエッタに語り始めた。
飛び出して、毎日飲んだくれていたこと。シュルピスという宿場町で、妙な少女に出会ったこと。そいつの兄と名乗る人間に、秘密の修道院の場所を教わったこと……。
「ジャックという大男だったわ。で、驚くことに、そいつはさっきあんたを襲ったやつだったのよ」
「ということは、お前をシュルピスでかくまってたのは……」
「あんたを始末するように依頼された連中だったってわけね」
意外なつながりに、三人は驚いた。そして、セント・マルガリタ修道院での運命の出会いも、ルイズは話した。
「そこで仲良くなったジョゼットっていう子が、ジュリオに連れていかれるのを見たの。おそらく彼女が新しい虚無の担い手≠セわ」
二人は激しく驚いた。怒りと絶望が混じったが……、アンリエッタはそれに耐えた。やはり……、虚無の担い手には代わりがいるのだ。だからこそ、ロマリアはジョゼフが死んでも聖戦を遂行しようとしていたのだ。
「となると、あのタバサそっくりのやつは……」
「おそらくはそのジョゼットで間違いないでしょうね。その修道院では、特殊な聖具をつけるの。それをつけると、顔が変わってしまうのよ。たぶんあの子……、タバサの双子の姉妹なんだわ」
それを報告するために、自分は修道院を飛び出してきたのだ、とルイズは言った。
話が終わったあと……、ルイズはすっくと立ち上がった。どうにもこうにも事務的な態度だった。
「では、話も終わりましたので、わたしは失礼します。どこの部屋を使えばいいのでしょうか?」
「俺の個人天幕なら、外にあるよ。小さいけど」
するとルイズは、じろりと才人を睨んだ。
「どうしてあんたの天幕で寝なくちゃいけないのよ」
「そ、それは、だって……」
才人はルイズの怒りにしどろもどろになった。ああ、やっぱり……。戻ってきたとはいえ、ルイズはあの一件をゆるしてはいないのだ。まあ、当然なんだけど……。
するとアンリエッタがこほんと咳をして、澄ました声で言った。
「部屋など余っておりませぬ。ここは外国ですよ」
「そうですか。ならば、リュティスに宿を取ることにいたしますわ」
その冷たい態度に、アンリエッタは思うところがあったのか、才人に向き直る。
「ではサイト殿。あなたの天幕をルイズに与えてください」
「え? じゃあ、俺は……」
「わたくしの部屋に寝泊まりなさればよろしいわ」
アンリエッタは澄ました顔で言い放った。ルイズの肩がぴくんと、動いた。
「えええ? でも! そんな!」
「わたくしたちは今、とんでもない危険にさらされています。手練の護衛がほしいのです。大変でしょうが、夜通しわたくしをお守りください」
「で、でも……」
「いいですわね? ルイズ」
するとルイズは、引きつった顔で頷いた。
「いいも悪いもないではありませんか。陛下の御意のままに。そんなのでよければどうぞ。謹んで進呈いたしますわ」
するとアンリエッタも、わずかに眉を動かした。
「そんなのとは……、どういう意味かしら? ルイズ」
「わたくしのお下がりの犬でよければ、という意味ですわ」
アンリエッタは、落ち着きがなくなってきたように髪をかきあげた。それでも何か言ったら女王の尊厳が損なわれると思ったのだろうか。ゆっくりと才人に向けて笑みを浮かべた。
「ではサイト殿。主人のおゆるしも出たことだし、そうするがよろしいわ。でも、あんなことを聞いたあとなので、もしかしたらわたくし、うまく寝付けないかもしれません。多少、お酒に付き合っていただけるかしら」
頷くべきなのかどうか。というかもう、こういう冷たい女の戦いになるともう、才人はどうしていいのかわからない。まさに火薬樽が並んだ真ん中に、松明を持って立っているようなものだ。うかつに動いたら大爆発だ。
怒りに震える声で、ルイズは言った。
「姫さまはおいくつになってもまったくお変わりありませんわね。昔からそうよ。わたしがお人形で遊んでいると、『あらルイズ! かわいいじゃない。貸してちょうだい!』。そしてわたしから平気な顔でお取り上げなさいますわね」
「子供の頃のことなど、よく覚えていますわね」
「いやになるぐらい、いつもでしたから。でもサイト、せいぜい気をつけることね。この姫さま、取り上げることが楽しいだけ。すぐに飽きてポイなんだから」
慌てた声で、アンリエッタは叫ぶ。
「殿方と人形をいっしょにするなんて! ルイズ、あなたはどうかしていますわ」
二人はバチバチと火花を散らしあう。
「そ、外で寝ます。外で。姫さまとルイズはそれぞれ部屋と天幕をお使いください」
「まあ! そんなことをゆるすことはできません。とにかくあなたには、このわたくしの護衛を命じます。そうです。いついかなるときも。ええ、ベッドの中でも、ですわ」
とうとうルイズは爆発した。ぴくっぴくっと肩を震わせ、ぽつりと何事かを呟いた。
「……ったく。ほんとうに……、だけは一人前」
アンリエッタはゆっくりと視線をルイズに向けた。その表情が、まったくの無表情になっている。王宮で見る顔だ、と才人は思った。一触即発の空気が漂い始める。才人は確かに、導火線が燃える匂いを嗅いだ。
「何か言いましたか?」
「無駄な色気だけは一人前だと。そう申し上げたのです」
アンリエッタはぷるぷると震えだした。
「あなた、自分が何を言っているのか理解しているのでしょうね」
「そのお色気と同じぐらい政治も上手なら、祖国も安泰でしょうに……」
ルイズは芝居がかったしぐさで、身をひねった。
とうとうアンリエッタは怒り心頭に発したらしく、ルイズの頬を叩こうとした。だが、ルイズはひらりと身をかわす。
「ほーんと、王さまなんかおやめになって、タニアリージュ・ロワイヤル座で、女優でもなさるがよろしいわ! 満員御礼祖国安泰! すべて丸くおさまりますわ!」
次にアンリエッタは、ルイズに足払いをかました。往年のおてんばっぷりを偲ばせる、見事な動きだった。ひっくり返ったルイズは、ゆっくりと立ち上がる。
それから、じっとりとした目でアンリエッタを睨んだ。
「いいのかしら。姫さま。言っておくけど、今までの成績はわたしの二十七勝二十五敗二分けですわ」
「いいえ。わたくしの二十九勝二十四敗一分けのはずよ」
二人は、このあばずれ! だの、ばか女! 能無し女王だの、胸無し巫女だの、聞くに堪えない罵りをくわえながら、散々に取っ組み合う。
「やめろ! やめてください!」
才人は見てられなくなって、二人の間に割って入ろうとした。アンリエッタの拳が腹にめり込む。ルイズの蹴りが後頭部に飛ぶ。
才人はその場に崩れ落ちた。
才人が気絶してしまったあとも、熾烈な女の戦いはいつまでも続いた。そのうちに二人は息が切れ、同時にベッドの上に横たわる。
荒い息をついていたが……、どちらからともなく口を開いた。
「二十七勝二十五敗三分けですわね」
「二十九勝二十四敗二分けよ」
アンリエッタは、それから呟くように言った。
「あなた、相当ひどいことを言いましたね」
「姫さまも、相当ひどいことをわたしにしましたわ」
アンリエッタは、ぽつりと言った。
「サイト殿を、彼の天幕に運んでおあげなさい」
「いやです」
ルイズも、意地を張って言った。
「あのですね、ちょっと、一人になりたいのです」
しんみりとした声でアンリエッタは言った。
才人が目を覚ますと、そこは自分の個人天幕だった。ベッドのそばの折りたたみ椅子にルイズが腰掛け、ぼんやりと天幕の窓から外を見ていることに気づき、目頭が熱くなる。
その姿は、神々しいほどに美しかった。地味な修道服を身に纏ってはいたが、それはまったくルイズの魅力をスポイルしなかった。
何かを決心したように、軽くつりあがった目を窓の外に向け、形のいい口を一文字に結んでいる。
おぼれてしまうような色気を持つアンリエッタも確かに魅力的だ。でも……。
アンリエッタの美貌が魔性なら、ルイズの魅力はどこまでも聖≠セった。それは、いつもは見えないものだった。ただこうやって……、何かを決心したとき、勇気を奮うとき、ルイズはそれをちらっと見せてくれる。
色気のある女の子はたくさんいる。
でも、こんな顔を見せてくれる女の子は、ルイズの他にはいない。
喉から、搾り出すような声で、才人は言った。
「ルイズ……」
すると、ルイズは振り返った。
「何泣いてるのよ」
「いや……、だって……、お前が帰ってきてくれたことがうれしくて……」
才人は、単純な事実に気づいた。
自分がこの世界に残ろうと決めた理由。
ルイズがいるから。他に理由なんかなかった。そして才人は、ルイズに惹かれた理由に気づく。今まで、ずっと自分は退屈に生きてきた。東京にいるときは、のほほんと、のんびりと何も考えないで生きてきた。
でも、ルイズに出会っていろんなことを知った。
楽しいこと。うれしいこと。悲しいこと、つらいこと……。
初めてダンスを踊ったとき……、可愛いな、と思うと同時に、自分はわくわくした。胸を躍らせた。そしてルイズがいなくなった途端、自分は未来≠考えられなくなった。
ルイズは、俺をどこかに運んでくれそうな気がするんだ
ここじゃないどこか。今じゃないいつか。胸躍る、素敵な世界へ……。
それは気のせいかもしれない。ただの勘違いかもしれない。でもそう思える。感じられる。予感がする。それは何より貴重だった。
才人は立ち上がると、ルイズを抱きしめようとした。
だが、すっとルイズに遮られる……。
「甘えないで。あのね、わたしが戻ってきたのは、別にあんたに会いたいからじゃないわ。みんなに、虚無の担い手が復活したってことを、知らせないといけないと思ったからよ」
冷たい声でそう言われても、ルイズに再び出会えた喜びが勝る。才人はルイズをぎゅっと抱きしめた。もちろんルイズは派手にあがく。殴ったし、蹴りもした。それでも才人は、強く抱きしめてきた。
もう。なんなのこいつ。ほんと
姫さまとあんなことしたくせに。わたしがちょっと優しくしてあげたら、手のひらを返したようだわ。ほんと不愉快だった。ゆるせないとも思った。
でも……、才人に抱きしめられると、ほっとする自分がいた。まるで自分がパズルの一ピースになったかのように、その腕の中にぴたりとはまり込む。
そして、まるで本能のようにキスしたい≠ネんて思ってしまう。
これじゃナメられるわ。
そりゃ浮気されるわ。
だって、わたし、絶対にゆるしちゃうんだもの。泣けるほどに悔しい、事実だった。
才人が唇を近づけてきた。
「だめ。やだ。ぜったい」
「すき。大好きなんだ」
「あんた姫さまにもおんなじことしたじゃない。だから絶対にやだ」
そう言うと、才人は泣きそうな顔になる。
なんて顔してんのよ
「お願い」
「絶対にゆるさない」
「わかってる」
「わかってないわ。絶対にわたし忘れない。あんたと姫さまのこと、一生忘れない。一生ゆるさない」
才人は頷くと、唇を重ねてきた。
こいつ、絶対にわかってない
ルイズはそう思った。でも、そのキスは拒めなかった。
いつしか、夜が明けていたらしい。
窓から黎明の光が差し込んできて……、ルイズの黒い修道服を瑠璃色に染め上げた。
あとがき
牛乳を規定量の二倍入れても、フルーチェが二倍になるわけではないことを、十七歳の自分に言ってやりたい……。ヤマグチです。
ゼロの使い魔もとうとう十七巻です。現在のルイズの年齢と同じ巻ということで、なんとなく感慨があります。
ルイズというヒロインは、やはりぼくの中で特別でありまして、最初はナビゲーター≠ニして配置したつもりが、今ではとうとう導き手になってしまいました。よくも悪くも、彼女がこの長編を引っ張っているのです。
たぶん彼女がいなければ、ここまで続くことはなかった。それほどにぼくは彼女に依存しきっています。
いつかも書きましたが、ぼくには常にここではないどこか≠ノ対する強い憧れがあります。そしてまた、決して自分がそこに到達し得ないことも知っています。それは一種のあきらめです。でも、物語の中だけは違う。いくらでも、想像力の膨らむ限り、どこまでも未知の地平を目指すことができる。ぼくにとって物語をつむぐというは、一種の旅なのです。
そこへと導いてくるヒロインが、特別な存在に思えるのも当然といえるのかもしれません。というわけで、今巻はルイズの巻です。本書はまさに、ルイズにささげる一冊となっております。ぼくはルイズのすべてが愛おしい。笑うルイズも、喜ぶルイズも、怒るルイズも、悲しむルイズも、涙を流すルイズも愛おしい。
あの誇り高く気高い彼女のすべてが愛おしい。
ぼくはこのヒロインを世に送り出せたことを、誇りに思います。
さて、今回もそんなルイズを魅力的に描いてくださった兎塚さんに感謝を。いつもいつも心配かけてすいませんの担当Sさんに感謝を。いやほんとにいつも感謝してますよ。そして読者の皆さん、ありがとうございます!
まだまだ続きます。よろしくお願いします。
近所の日焼けサロンにて ヤマグチノボル
発行 2009年6月30日 初版第一刷発行
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