ゼロの使い魔 14 水都市《アクイレイア》の聖女
ヤマグチノボル
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第一章 花壇騎士の反乱
ガリア王国の王都リュティスの真ん中を流れるシレ川……。
その中州に発達した旧市街と呼ばれる中心地から延びたボン・ファン街を三十分ほど王都郊外へと馬で走る。
すると街並みが途切れ、代わりに長い石壁が延々と続く場所に出る。昼でもその石壁の切れ目を見ることはかなわない。
その長い石壁の向こうにあるのが、ガリア王族が暮らすベルサルテイル宮殿であった。なぜこのような街外れに宮殿が建設されたのかは、その規模を見れば理解できる。
これほど贅《ぜい》を凝らした大宮殿を造れる土地は、リュティス市街のどこを探してもなかったのだ。
双月が雲に隠れたおかげで、闇《やみ》が重く肩にのしかかるようなその夜……、宮殿東側の赤|薔薇《ばら》門の前を騎乗して闊歩《かっぽ》する騎士の姿があった。
宮殿壁には魔法のたいまつが掲げられ街道を照らしていたが、それでも闇は濃い。昼に降った雨のせいで、その闇は湿気を含み、粘つく空気となって騎士たちを包んでいた。
右側を歩く若い騎士が、白百合《しらゆり》が飾られた帽子のひさしを持ち上げ、疲れた声で言った。
「しかし、両用艦隊《バイラテラル・フロッテ》が反乱とは……。司令のクラヴィル卿《きょう》は王政府に忠誠厚いことで知られた人物ではありませんか。それが反乱とは! 昨今の祖国はいったいどうなってしまったのでしょうか。伝統が地に落ち、政治は腐敗し、貴族たちは蔵の金貨を増やすことしか考えず、平民どもはその分け前に与ることしか考えておりませぬ。そこにとうとう反乱までが!」
若い騎士は一息つくと、小さな声で街で流行っている小唄《こうた》を歌い始めた。
「神と始祖より寵愛《ちょうあい》されし我がガリアよ。ハルケギニアに燦然《さんぜん》と君臨する我がガリアよ。何ゆえに始祖から勘当された? なにゆえに神から愛想をつかされた? おおガリア。かぐわしき花の香りはどこへ消えた。おおガリア。麗しき我が祖国よ。なにゆえに艦隊までもが愛想をつかす?」
ガリアの北西海岸に面した軍港サン・マロンを母港とする両用艦隊が突如反乱を起こし、現在軍港は閉鎖中であるとの報告が届いたのは今朝のこと。リュティスには戒厳令がしかれ、いくつもの騎士団や連隊がサン・マロンへと向かっている。
現在、艦隊と軍港を包囲した部隊の間ではにらみ合いが続いているらしい。
その若い騎士と同じく南百合花壇騎士団所属の老騎士は、後輩をわずかに哀れんだ目で見つめた。
「きみは本当に、両用艦隊が反乱を起こしたなどと思っているのかね」
「そのように聞いておりますが。だからこそ、我々がこうやって夜中の警邏《けいら》に駆り出されておるのでしょう。まあ、サン・マロンの鎮圧任務に駆り出された他《ほか》の騎士団に比べれば、楽な任務といえましょうが……。反乱勢とはいえ、同じガリア人に杖《つえ》を向けるのはあまりぞっとしませんからな」
老騎士はため息をつくと、驚くべき言葉を切り出した。
「頭を下げた回数で艦隊司令に選ばれたような男が、主人に噛《か》みつけるわけがなかろう」
「どういうことですか?」
「すべては陛下の思《おぼ》し召《め》しということだよ」
老騎士は長年軍服を着込んできたものだけがまとう、疲労と慧眼《けいがん》が入り混じった目で、石壁の向こうを見やった。
「……なんと! それはまことですか?」
若い騎士は、入団以来、ずっと自分の教師でもあったこの老騎士を見上げた。彼がこの年になっても一介の騎士に過ぎないのは、家柄のみがその理由であった。彼がせめて男爵の位でも持っていれば、今頃《いまごろ》は騎士団を預かる身分にもなっていただろう。
文武に優れた彼の言葉は今まで外れたことがなかった。それゆえに若い騎士は彼を心から尊敬し、その発言を頭から信じ込んできたのである。
なるほど驚くべき言葉だったが、その彼が言うからには本当のことに違いない。
「……では包囲した部隊とにらみ合っているというのは?」
「おそらく芝居だろうな。いいかねフランダール君、あの陛下は無能王≠ネどと呼ばれて内外から馬鹿《ばか》にされているが、わたしはそうは思わん。陛下は……、不敬を承知で口にするが、恐ろしい男だよ。わたしは軍杖《ぐんじょう》を腰に下げてより爾来《じらい》四十年、王家に仕えてきた。駆け巡った戦場の数は両の指をあわせても足りん。だが、そんなわたしでもあの王さまより怖い男を知らぬ」
若い騎士は老騎士を見つめ、それから深いため息をついた。
「……わたしたちはその芝居に付き合わされているということですかな」
「騎士とはそういうものだ。所詮《しょせん》は誰《だれ》かの手のひらの上で踊る喜劇役者に過ぎぬのだ。わかっているだろうが今わたしが話したことは、誰にも口外はならぬ。このことが陛下の耳に入れば、わたしだけでなく、きみの首まで飛ぶだろうからな」
若い騎士は緊張の色を浮かべ、頷《うなず》いた。
二人は左側に鬱蒼《うっそう》と森が広がる場所に出た。テーニャンの森だ。王室の御猟場《ごりょうば》となっているこの森の一角に、若い騎士はさっとうごめく影を見つけた。
「なにやつ!」
若い騎士はすばやく馬に拍車をいれ急行した。明かり≠フ呪文《じゅもん》を唱え、影がいたと思しき辺りを照らす。
黒いローブに身を包んだ男が浮かび上がった。観念したのか、身じろぎすらせずに堂々と立っている。若い騎士は杖《つえ》を構えると、男に突きつけた。
「フードを取れ!」
男はゆっくりとフードをはずした。そこから現れた顔を見て、若い騎士は驚きの声をあげた。
「カステルモール殿!」
フードの下のその顔は、東|薔薇《ばら》騎士団団長のバッソ・カステルモールであった。若い騎士とさほど変わらぬ年でありながら、騎士団長を任されるほどの使い手である彼は有名人だった。数々の彼の武勇、そして顔を知らぬ花壇騎士はいない。
そんな彼は、なぜか硬い表情で若い騎士を見つめている。
若い騎士は首をかしげながら、杖を鞘《さや》に収めた。
「どうしてこんなところにおられるのです? 東薔薇騎士団は……、サン・マロンに向かったのではありませんか?」
「……理由は聞かずに、ここを通していただきたい」
苦しそうな声で、カステルモールはつぶやく。若い騎士は困ったように首を振る。おそらくなんらかの密命を受けているのだろう。だが、こちらも勤務中だ。
「そういうわけには参りませぬ。なにせこのようなご時世ですからな。夜間外出禁止令はご存知でしょう? この辺りで出会ったものすべて、身分官職問わずに連行せよと命令を受けております。だがまあ、形式に過ぎません。あなたほどの人物なら、詰め所で書類にサインをしていただければそれで結構。さあ、とりあえずこちらへ……」
しかしカステルモールは身動きひとつしない。
「カステルモール殿?」
そのとき、後ろで成り行きを見守っていた老騎士が叫んだ。何かに気づいたのだ。
「フランダール! 杖《つえ》を抜け!」
言うなり老騎士は杖を引き抜いた。
「な、どういうことです?」若い騎士がそう呆《ほう》けた声でつぶやくのと、カステルモールの後ろから風のロープが飛んで、老騎士の身体《からだ》に絡みつくのが同時だった。
慌てて若い騎士が杖を引き抜こうとすると、深々と空気の塊が腹にめり込んだ。振り向くと、カステルモールが厳しい表情で、すばやく引き抜いた軍杖《ぐんじょう》を構えている。暗がりから次々に黒いローブに身を包んだ騎士たちが姿を現した。
「……どうして」
そう呟《つぶや》くと、若い騎士の意識は薄れていった。
倒れた二人の警邏《けいら》の騎士を縛り上げる部下を見つめて、カステルモールはため息をついた。見つかるとは、失態だった。とはいっても、ここまで八十人からの騎士団が誰《だれ》にも見咎《みとが》められずにやってこれたのが僥倖《ぎょうこう》だったのだろう。
カステルモール率いる東|薔薇《ばら》騎士団に、両用艦隊反乱の報が届いたのは昨日の朝のこと。
だが、現王政府に対し密《ひそ》かに叛意を抱いている東薔薇騎士団の精鋭たちはそんな報告はまったく信じなかった。すぐさま各地に潜む協力者たちに情報の提供を求め、正午過ぎには真実を手に入れていた。
反乱とは真っ赤な嘘《うそ》。
現王ジョゼフの陰謀。
ロマリアに対し領土的野心を抱いたであろうジョゼフの、味方をも欺《あざむ》くその陰謀に、カステルモールをはじめ東薔薇騎士団は激昂《げっこう》した。反乱軍を装い、同盟を結んだ隣国に侵攻するなど、あってはならない事態だ。この陰謀が後に明るみに出れば、ガリア王国の威信は地に落ち、その輝かしい歴史は闇《やみ》の向こうに消え去るであろう。
そしてその二時間後、両用艦隊を包囲せよとの名目でサン・マロンへの移動が命じられたとき、カステルモールはついに決心したのである。
両用艦隊の旗艦名は皮肉にも『シャルル・オルレアン』。自分で殺した弟の名前を旗艦につけるとは、贖罪《しょくざい》のつもりなのだろうか?
……ならば、艦隊に陰謀の片棒を担がせるような真似《まね》はすまい。
そればかりか、あの無能王は、自分たちまで茶番の役者に仕立て上げようとしている。
包囲? 何を包囲せよというのだ? 包囲して、どうせよというのだ? おそらく自分たちはただの見物人役なのだろう。他国を納得させるための、彩《いろど》りの一部に過ぎない。
もう我慢がならぬ。決起のときは今である……。
サン・マロンへ向かう途中、東|薔薇《ばら》騎士団は夜を待ってリュティスへと引き返した。夜を徹しての進軍で、四時間後にはこのようにリュティスに舞い戻ることができた。みちみち、協力を取りつけてあった各連隊へ急使を飛ばしながらの早がけであった。
親子ほども年の離れた副団長のアルヌルフが近寄り、その耳に顔を近づける。
「三つの連隊が協力を確約した、との報告がただ今届きました。彼らは朝にはリュティスに到着します」
「心強いな」
カステルモールは、この日初めての笑顔を浮かべた。現王政府に反感を抱く貴族や軍人は少なくない。だが、実際にことを起こすとなれば話は別だ。謀叛《むほん》人の汚名は誰《だれ》も着たくない。
それでも三つの連隊がすぐさま決起に応じた。自分の判断は間違っていなかった。カステルモールがジョゼフの首を上げれば、残りの連中もすぐになびくだろう。
「三日後にはトリステインに亡命あそばされているシャルロットさまを玉座にお迎えできるな」
カステルモールは、いいようにこき使われていた王女の顔を思い出し、首を振った。オルレアン公の優しげな顔を思い出し、胸が熱くなった。
「……殿下、殿下の御無念を晴らすときがついにやってまいりました。殿下は貧乏貴族の家に生まれたわたくしを、『見込みがある』の一言で騎士団にお引き立てくださいました。そのご恩に報いるときが、ついにやってきたのです」
カステルモールは顔をあげると、高々と杖《つえ》を掲げた。
「諸君! 騎士団諸君に告ぐ! 我らはこれより、簒奪者《さんだつしゃ》より王座を取り返す! そののちに、しかるべきお方にお返しするのだ! 恐れるな! 我らは叛軍《はんぐん》にあらず! 真のガリア花壇騎士、ガリア義勇軍である!」
騎士団から歓声があがった。
「この石壁の向こうに眠る男こそ、神と始祖と祖国に仇《あだ》なす謀叛《むほん》人である! 諸君、われに続け!」
カステルモールはそう叫ぶと、魔法を唱えてフライ≠ナ石壁を飛び越えた。次々に騎士たちはその背に続いた。わらわらと集まってきた警備の兵たちを東|薔薇《ばら》騎士団の騎士たちは魔法で吹き飛ばし、一直線にジョゼフがいるグラン・トロワへと突進していった。
ジョゼフは玉座に腰掛けて、オルゴールを聴いていた。
ぼんやりと虚空《こくう》を見つめながら、ゆっくりと腕を持ち上げ、調べを奏でる指揮者のように手を動かす。
陶酔しきった表情を浮かべながら始祖の調べに身を委《ゆだ》ねていると、玉座の間に衛士を連れた大臣が飛び込んできた。
「陛下! 陛下! 大変です! 謀叛です! 謀叛ですぞ!」
慌てふためきながら、大臣はジョゼフの玉座に跪《ひざまず》く。
「東薔薇騎士団が謀叛を起こしました! 警護の者を蹴散《けち》らし、このグラン・トロワに侵入いたしました! 今現在、鏡の間で親衛隊が必死の抵抗を続けておりますが多勢に無勢! まもなく防衛線は破られ、ここにやってくるでしょう!」
現在宮殿を守る貴族はわずか二十名に過ぎない。代々衛兵をつかさどるベルゲン大公国出身の傭兵《ようへい》たちが数百名|駐屯《ちゅうとん》していたが、メイジばかりの騎士団が相手では、戦力に数えられようはずもない。例の陰謀≠ナ、ほとんどの部隊や騎士団が王都を出払っていた。
その隙《すき》をつかれたのだった。
絶体絶命のピンチにもかかわらず……、ジョゼフは恍惚《こうこつ》とした表情を崩さない。まるで大臣の叫びが調べの一部とでもいうように、オルゴールの音色に聴き入っていた。
「陛下! 陛下! 早く地下通路へ! わたしの護衛隊が警護を仕《つかまつ》ります!」
その剣幕にやっと気づいたように、ジョゼフは顔をあげる。
「どうした?」
「謀叛です! 何度も申し上げているではありませんか!」
「ああ。そうか。そういえば、そういう可能性もあったな。忘れていたよ」
ジョゼフは大きく頷《うなず》くと、ゆっくりと立ち上がる。
「ではこちらへ!」
そう言って案内しようとした大臣をさえぎり、ジョゼフは悠然と玉間の入り口を見つめた。入り口の向こうからは、衛士と謀叛《むほん》の騎士たちの剣戟《けんげき》が響いてくる。その恐ろしい響きで、大臣は腰を抜かし、へたへたと床に崩れ落ちた。
「ああ、ああ……、終わり、終わりです……」
魔法の飛ぶ音や、杖《つえ》同士がぶつかり合う恐ろしい音がぴたりとやんだ。ゆっくりと、勝者が玉間の入り口に姿を現したときも、ジョゼフはじっと立ち続けていた。
「おや、カステルモールじゃないか。いったいどうした? きみの部隊には、サン・マロンへ向かうよう命じたはずだが」
カステルモールはジョゼフの問いに答えず、杖を突きつけた。
「現ガリア王ジョゼフ一世。神と始祖と正義の名において、貴様を逮捕する」
「ほう。いったいどんな罪で余を逮捕するつもりなのだ? 国王を裁く法は、ガリアには存在せぬぞ」
「祖国に対する数々の裏切り行為だ。貴様は王の器ではない」
どやどやと東|薔薇《ばら》騎士団の騎士たちが玉間になだれ込み、次々に軍杖《ぐんじょう》をジョゼフに突きつけていく。
「さあ! 杖を捨てろ!」
すると、ジョゼフは大声で笑った。
「なにがおかしい!」
「いやぁ、面と向かって『王の器ではない』と言われたのはさすがに初めてなものでな。カステルモール、お前はなかなか見所があるじゃないか。正直、ただ頭を下げるしか能のない、おべっかつかいだと思っていた」
「なめるな! 貴様を欺くための演技に過ぎぬ!」
「実に余は……、人を見る目というものが欠けているな。お前の言うとおり、まったくもって王の器などではない。真実、お前の叛意すら見抜けなかったのだからな。無能もここに極まれり! だ。あっはっは!」
そしてジョゼフは、再び大声で笑う。呆気《あっけ》にとられた一同を尻目《しりめ》に、ジョゼフは背中を向けた。
「どこへ行く!」
「寝るのだ。いや、そろそろ眠いのでな。話なら、明日にしてくれぬか?」
ほんとうにそのつもりのようだ。カステルモールは怒りを通り越し、呆《あき》れてしまった。もしかしたらこの王は、本当に頭が弱いのかもしれぬ。
だが、赦《ゆる》すわけにはいかない。
「ジョゼフを拘禁しろ」
何人かの騎士たちが、罠《わな》を警戒しながらジョゼフに近づいていく。残りの騎士たちも、呪文《じゅもん》を唱えながらジョゼフに杖《つえ》を突きつけた。副団長のアルヌルフが執事のように近づき、カステルモールに耳打ちする。
「罠があるかもしれません。ご慎重に」
カステルモールは頷《うなず》いた。よもや罠があろうが、八十名からの騎士を止められる罠など存在しない。どんな魔法を使おうが、これだけの手練《てだ》れの騎士に囲まれて、逃げられるわけもない。ジョゼフは今まさに、猟師に捕らえられたウサギだった。
だが、騎士がジョゼフの腕に手をかけたとき……、不可思議なことが起こった。
すっと、ジョゼフの姿が一瞬で掻《か》き消《き》えたのだ。
「なんだと?」
カステルモールが叫ぶ。騎士たちは反射的に魔法を撃ちはなった。玉座が、立てられた衝立《ついたて》が、玉座の後ろにかけられた緞子《どんす》が、豪華な彫刻がほどこされた鏡が、火や風の魔法を受けてボロボロになっていく。
だが、どこにもジョゼフの姿はない。
誰《だれ》かがディテクト・マジックを慌てて唱える。なんらかの魔法で隠れたのならば、これですぐに見つかるはず……、だが、玉間のどこにも魔法の反応はない。
一人の騎士が、明かり取りの窓から顔を出して叫んだ。
「あそこにいます!」
「なに?」
カステルモールは騎士を撥《は》ね除《の》け、その窓に飛びついた。
「おーい、どうした? なにを探しているのだ?」
いったい、どんな技を使ったものか、ジョゼフは中庭の噴水の横に立っていた。騎士たちは青ざめた。魔法のエキスパートの彼らでも、ジョゼフが一瞬で中庭に移動できた理由がわからなかったのである。それができそうな魔法は、唯一風系統の偏在《ユビキタス》≠ナあったが、これほど見事に姿を消したり出したりは不可能だ。
それに、魔法の才能がないといわれたジョゼフに風のスクウェアが扱えるはずがない。
中庭に面した明かり取りの窓は小さく、そこから出ることは不可能だ。カステルモールは焦った声で命令を下した。
「中庭に回れ! 急げ! あいつを逃がすな!」
騎士たちが慌てて駆け出していく。
その叫びが届いたのか、中庭のジョゼフは大声で笑った。
「逃げも隠れもせぬよ! 安心しろ! それより、余は今宵《こよい》のベッドを変えることにした。早く逃げたほうが身のためだぞ」
「なんだと?」
ジョゼフは呪文《じゅもん》を唱え始めた。
エオルー・スーヌ・フィル・ヤルンサクサ……
かつて聞いたことのないルーンの並びだった。カステルモールは攻撃呪文を唱えるのも忘れ、その呪文に一瞬聞き入ってしまう。
オス・スーヌ・ウリュ・ル・ラド……
カステルモールは、背筋にひやりとしたものを感じた。驚く。自分は恐怖している! 風のスクウェアの自分が……、魔法の才能がないとあざけられ、無能王と呼ばれた王の呪文に恐怖しているのだ。
冷静になれ!
カステルモールは自分に言い聞かせた。
八十人からの騎士を吹き飛ばせる呪文など存在しない。魔法は強力だが、その力には限りがある。ましてや、自分たちは宮殿の中にいるのだ。その自分たちを、中庭からどうやって攻撃しようというのだろう?
「この無能王が! 自分の心配をしろ!」
カステルモールは杖《つえ》を振り上げ、呪文を唱えた。一瞬にして巨大な氷の槍《やり》が出来上がる。生かして捕らえ、市民たちの前で裁判にかけたかったが、こうなっては致し方ない。
それをジョゼフに放とうとした瞬間、ジョゼフがゆっくりと、オーケストラの指揮者が演奏を開始するときのように杖を振り下ろしたのが見えた。
ハッタリもいい加減にしろ。
無能王め。
貴様に扱える呪文など……。
「な?」
ぐらりと床が揺れた。その揺れのおかげで放ったアイス・スピアーの狙《ねら》いがそれ、ジヨゼフから離れた地面に突き刺さる。
「団長殿!」
隣に控えたアルヌルフが叫ぶ。カステルモールはそちらに首を向ける。アルヌルフの身体が遠ざかっていく。見ると、床石が大きくずれていくではないか。
カステルモールはそこでやっと理解した。
宮殿全体が、崩壊しつつあることに。
「馬鹿《ばか》な! いったいどうやって!」
呪文《じゅもん》の見当をつける暇はなかった。見上げたカステルモールの目に、崩れ落ちてきた巨大な天井石が映った。
美しい青石で組み上げられたグラン・トロワが、東|薔薇《ばら》騎士団の騎士たちを飲み込みつつ、地響きを立てながら崩壊するさまを、ジョゼフは大声で笑いながら見つめていた。中には反乱勢のみならず、使用人や大臣や、味方の衛士がいたのにもかかわらず、ジョゼフは笑い続けた。
大きく土煙が舞い上がり、辺りは唐突に静かになる。
「これが爆発《エクスプロージョン》≠ゥ。便利な呪文だな。城のつなぎ目を爆破させただけでこの威力。使いようでは、もっと面白いことができそうだな」
ジョゼフは手に持った始祖のオルゴール≠見つめながらつぶやいた。それから、ポケットから始祖の香炉≠取り出した。優しく撫《な》でると、中から芳香が漂ってきた。
「だが、爆発≠ニいえど、おれの一つ目の虚無≠フすばらしさにはかなわぬわ」
中庭に立った自分を見たときの騎士たちの慌てぶりを思い出し、ジョゼフはさらに笑みを浮かべた。
そこに慌てふためきながら、護衛の騎士の生き残りが駆け寄ってきた。
「陛下! よくぞご無事で!」
そちらのほうを振り向きもせず、ジョゼフは命令した。
「人を集めろ。瓦礫《がれき》の中から叛徒《はんと》どもの死体を引きずりだし、リュティスの各街道の門に吊《つ》るせ。朝になってのこのこやってきたバカどもは、それを見て余に逆らう愚を悟るだろう」
騎士は地獄の底で悪魔を見たときのような顔でジョゼフを見つめ、すぐに低頭した。
「……は、はっ!」
命令に従うべく、騎士は駆け出していこうとする。
「待て」
呼び止められ、騎士は稲妻に打たれたかのように直立した。あくびをしながら、ジョゼフは騎士の背に告げた。
「その前にベッドを用意しろ。どこでもかまわん。まったく、眠くてたまらぬわ」
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第二章 即位三周年記念式典
教皇の即位三周年記念式典は、ここ都市ロマリアから北北東に三百リーグほど離れた、ガリアとの国境付近の街アクイレイアで行われる。その期間は二週間にも及ぶ、大きなお祭りだ。
そのアクイレイアへ向けての出発の準備に、ロマリア大聖堂は大わらわであった。
五つの塔と、巨大な本塔に囲まれた中庭では、各文官、武官、司祭たちがそれぞれの宗派の紋が描かれた竜籠《りゅうかご》に乗り込んでいる。本塔の上には、巨大な御召艦《おめしかん》が停泊し、教皇の座乗を待っていた。そこの桟橋《さんばし》は、教皇の移動の際のみに、使用が許可されるのだ。
ペガサスに跨《またが》った聖堂騎士たちがその上空を飛び回り、警護を行っていた。
ギーシュたち水精霊騎士隊《オンディーヌ》の面々は、アンリエッタと共に御召艦に乗艦する予定であったが、とある事情で乗艦を遅らせていた。
一同は大聖堂の本塔にバルコニーのように張り出した桟橋で、仲間の到着を待ちわびていたのだった。
「いったい、サイトはどうしたんだろうなあ……」
マリコルヌが心配そうに呟《つぶや》く。
そう。
出発の時間が近づいているというのに、肝心の才人《さいと》が姿を見せないのだ。昨日の訓練にも姿を見せなかったので、一同はかなり気を揉《も》んでいた。
「まさか、怖《お》じ気《け》づいたんじゃないだろうな?」
一人の生徒が、ちょっと怒ったような声で言った。教皇を狙《ねら》うガリアの陰謀を阻止せよ、と水精霊騎士隊の面々は聞かされている。
よりによってハルケギニアで最高権威とされる教皇聖下を狙おうというのだ。ガリアの陰謀といっても、いったいガリアのどこが陰謀を企《くわだ》てているのか知らないが、なんにせよ敵はよほどの覚悟でくるだろう。
怖じ気づいたとしても無理はない。
何人かの生徒が、やっぱり平民あがりだからなぁ……、とかつぶやき始めると、ギーシュが「うーん」と唸《うな》って首を振った。
「そんなことはないと思うなあ。なにせ彼はぼくのワルキューレにやられてもやられても立ち上がってきた男だからね」
「いや、そっちはともかく、七万に立ち向かっていった男だよ。ガリアの陰謀なんか怖がるもんか」
マリコルヌが頷《うなず》きながら、ギーシュのうぬぼれ混じりの言葉を軽く訂正して、才人《さいと》が怖《お》じ気《け》づいた論を否定した。
すると……、それまで黙っていたレイナールが、口を開いた。
「いやぁ……、実は昨日、サイトを見たんだ」
「なんだって?」
一同の目が、メガネをかけた生真面目《きまじめ》そうな雰囲気の少年に集まる。
「昨日の朝方のことなんだがね。見たんだよ、サイトがルイズといっしょに大聖堂を出て行くところをね」
「どうしてそれを言わないんだよ!」
マリコルヌに言われて、レイナールはバツが悪そうに頭をかいた。
「だって……、その、サイトの立場がないじゃないか。訓練をサボって、女の子とデートだなんて……。でも、サイトの気持ちもわかるんだ。危険な任務の前日、せめて恋人と過ごしたい。なにせ、命を落とすかもしれないんだからね」
「それはぼくたちだって同じじゃないか」
ギムリがそう言ったが、ギーシュが首を振る。
「一番危険なのはサイトだよ。あいつは幾度も敵《ガリア》に煮え湯を飲ませてきたからね。まあ、どっちにしろ、それならそろそろ来るだろう」
なるほど、アンリエッタとアニエスの二人に連れ立って、ルイズとティファニアが現れた。ルイズの格好を見て、ギーシュたちは目を丸くする。
「うわあ! 尼さんの格好じゃないか!」
ルイズとティファニアは、白い神官服に身を包んでいた。ところどころ合わせ目にはオレンジのラインが走る、ゆったりとした服だ。首から大きな聖具を下げたその姿は、立派な巫女《みこ》に見えた。
「彼女たちは、巫女として式典に参加することになったのだ」
アニエスがそう説明した。
ティファニアの大きな耳が、フードにすっぽりと隠れている。いつもの帽子よりは具合がいいだろう。巫女に手を出すブリミル教徒はいない。絶好の隠《かく》れ蓑《みの》といえた。
だからだろうか、ティファニアの表情はいつもより明るい。
一方、ルイズはなぜか沈んだ顔だった。ぎゅっと聖具を握り締め、なにごとかお祈りの言葉を呟《つぶや》いている。そんなルイズの顔を見ていると、ギーシュは不安な気持ちになった。
才人のことを聞きたくても、アンリエッタの前なのでかなわない。どうしたもんか、と思っていると、アンリエッタがギーシュの疑問を口にした。
「サイト殿はどうなされたのです? 姿が見えないようですが……」
ギーシュが顔をあげた。
「私も気になっていたのです。ルイズ、サイトはどうしたんだ? 昨日はきみといっしょだったようだけど」
するとルイズは、ぎゅっと聖具を握り締めた。その様子に、アンリエッタが何か気づいた様子で、ルイズに尋ねた。
「ルイズ、あなた、何か知ってらっしゃるの?」
ルイズは深呼吸すると、自分に注目する一同に告げた。
「サイトは帰りました」
一同は唖然《あぜん》とした。アンリエッタは目を丸くして、ルイズを見つめる。ティファニアは口を押さえた。ギーシュが、驚いた声でルイズに尋ねる。
「魔法学院にかい?」
ルイズは首を振った。
「彼の故郷に帰ったの」
その場にいた一同は固まった。
「ルイズ! いったいどういうことなんだ? 説明してくれ!」
ギーシュが慌てながら、ルイズの肩を掴《つか》んでゆすった。ゆっくりとルイズはその手を振り払うと、
「サイトが、ロバ・アル・カリイエからやってきたことは知っているでしょう?」
水精霊騎士隊《オンディーヌ》の面々は頷《うなず》いた。才人《さいと》がいわゆる東方≠ニひとくくりに呼ばれる地域から来たことは、みんなが知っていた。
「……そこから、お母さんからの手紙が届いたの。帰ってきてくれって」
「それで帰したってのかい?」
ルイズは頷いた。マリコルヌは、あああああああ、と頭を押さえて呻《うめ》いた。
「だからって、こんなときに帰さなくたっていいじゃないか! よりにもよってこんな大変なときに……」
するとルイズは、厳しい顔つきになった。
「何を言ってるのよ! こんなときだから、帰したんでしょ! 今までどれだけサイトがわたしたちのために戦ってきてくれたと思ってるのよ。あなたたち貴族でしょ! 己にかかる火の粉は己で払うべきよ」
ルイズは唇を噛《か》むと、聖具を握り締めて言葉を続けた。
「とにかくこれ以上、わたしたちの戦いにサイトを巻き込むわけにはいかないわ」
マリコルヌが、困ったような声で言った。
「なんだかよくわからないけど……、それはもう、サイトに会えないってことかい? お母さんに会ったらまた帰ってくるのかい?」
ルイズはしばらく目をつむっていたが……、こくりと頷《うなず》いた。それから蒼白《そうはく》になり、聖具を握り、何事か呟《つぶや》き始めた。神に捧《ささ》げる祈りの文句だった。
水精霊騎士隊《オンディーヌ》の少年たちは、ルイズのその仕草に顔を強張《こわば》らす。
「お祈りはあとにしてくれよ。もう一個質問だ。いいかい?」
「いいわ」
「それはその、サイトの意思なのかい? サイトが自分で帰るって言ったのかい?」
ルイズは首を振った。
「わたしが帰したのよ」
「どうやって!」
「その方法は言えないわ」
一同はルイズの隣に立つ、緊張した顔のアンリエッタに気づき、それ以上の追及をやめた。国家の重大な機密……、そういう空気を感じ取ったのである。
でも、そのルイズの言葉は一同を刺激した。問い詰めないまでも、非難の言葉が水精霊騎士隊の少年たちから次々飛んだ。
「だがなあ、とんでもない! とんでもないよ! いくらサイトがきみの使い魔だからって、自分勝手すぎるじゃないか!」
「勝手じゃないわ! ちゃんと考えたもの!」
マリコルヌが、首をかしげた。
「そうかい? ぼくにはそう思えないけどな。サイトはもしかしたら、ぼくたちといっしょに戦いたかったかもしれないじゃないか。というか、彼ならそう思うはずだ」
少年たちは頷きあった。ルイズは何か言おうとしたが、アンリエッタにさえぎられた。
「あなたがたは、わたくしに恥をかかせるつもりなのですか?」
周りでは、ロマリアの神官や役人たちが、トリステイン女王とその護衛隊の一行のやり取りを、興味深そうに見つめている。
女王自らの注意に、少年たちは顔を赤らめた。
「騎士の一人が欠けたのは問題ですが、それで慌てふためく近衛隊も問題です。わたくしは、勇敢な騎士を隊士に選んだつもりですが……」
威厳ある態度でそう言われて、少年たちは畏《かしこ》まる。アンリエッタはルイズを促すと、フネから延びた桟橋《さんばし》へと歩き出す。水精霊騎士隊《オンディーヌ》の少年たちは、顔を見合わせ無言で後を追いかけた。
ルイズは用意された自分の船室に入るなり、ベッドの上に膝《ひざ》をついてお祈りを始めた。同室のティファニアは、ルイズのそんな様子を心配げに見つめる。
ティファニアの心は突然の出来事に混乱していた。
才人《さいと》が帰った?
それはあの、いつかアルビオンのウエストウッド村で聞いた、異世界≠ネんだろうか。
……さっきルイズは『母からの手紙が届いた』と言っていたっけ。どうやってその異世界から手紙が届いたのかティファニアにはよくわからなかったが、ルイズがそう言うからには本当のことなんだろう。
そういえば、才人は自分が暮らしていた村で、故郷を想って泣いていたことがあった。あのとき自分は才人を慰めた……。
そのときのことを思い出し、ティファニアは複雑な気分になった。故郷に帰れてよかったね、と思う反面、なんだか妙に寂しい気持ちになったのである。せっかくおともだちになれたのに、こんな唐突にお別れしなきゃならないなんて……。
詳しい話をルイズに聞きたかったが、彼女はお祈りに没頭していてまったく取りつく島がない。ティファニアがそのはちきれんばかりの胸の下で腕を組んで困っていると、ドアがノックされた。
扉を開けるとアニエスを従えたアンリエッタが立っている。
「アンリエッタさま」
アンリエッタは、ルイズに近づいた。しかし、ルイズはそれにも気づかず、お祈りを続けていた。
「ルイズ、お願いだからお祈りをやめてこちらを向いてちょうだい」
そこでやっとルイズは顔をあげた。それでも、アンリエッタに顔は向けずに押し黙ったままだ。
アンリエッタは、教皇の世界扉《ワールド・ドア》≠フ呪文《じゅもん》を思い出す。
「ルイズ。サイト殿はほんとうに、ご自分の世界へ帰ってしまわれたの? あなたはこの前、聖下やチェザーレ殿となにか話していましたね。聖下の虚無≠使って、サイト殿をほんとうに帰してしまったの?」
こくり、とルイズは頷《うなず》いた。
いったい、どうしてまたルイズは才人を帰してしまったんだろうか?
詳しい話を聞きたかったが、今は時間がない。
アンリエッタはルイズの肩に手を置くと、耳元で囁《ささや》いた。
「あとでゆっくり話を伺《うかが》います」
それからアンリエッタは、水精霊騎士隊《オンディーヌ》の居室に赴き、この件で慌てたりすることがないように訓辞した。少年たちはなんだか納得いかないような顔つきだったが、なにせ女王の言葉であるので、しょうことなしに頷《うなず》いた。
アンリエッタは一人居室に帰ってくると、アニエスを下がらせた。
それから肘《ひじ》をつき、窓の外を眺めながら、アンリエッタは涙を流した。涙は双月の光に輝き、アンリエッタのかたちのいい頬《ほお》を彩る。
涙を流しながら、アンリエッタはいかに自分がルイズの使い魔の少年に頼っていたかを理解した。関係のない世界のために、自分たちはどれだけの苦労を彼にさせたのだろう。
そんな彼が、帰るべき世界に帰った。
喜ぶべきことじゃないの
今までが間違っていたのだ。それだけの話だ。これからは、自分たちだけでなんとかしなくてはいけない。なにせ、わたしは女王なのだから……。
理屈ではそう思えても、なぜかアンリエッタの美しい目からは涙が流れ続けた。
きっと唐突なお別れに、心の準備ができていないのだ、とアンリエッタは思った。
水路の向こうから、ロマリア教皇ヴィットーリオを乗せた船が現れると、マルティラーゴ広場に集まった観衆から歓声が沸《わ》いた。
ガリアとの国境にほど近いここアクイレイアの街は、石と土砂を使って埋め立てられたいくつもの人工島が組み合わさってできた水上都市だ。街の中を細い水路がめぐり、まるで迷路さながらのその都市は、歴史上、数々の陰謀やロマンスの舞台ともなった。
教皇の御召艦《おめしかん》『聖マルコー』号が、ゆっくりと降下し、乱暴にも見える勢いで着水する。海面が盛り上がり、小さな波となって広場へと押しよせ、広場を水浸しにした。だが、集まったアクイレイアの市民たちは怒るでもなく、溢《あふ》れた海水を浴びたり、夢中になってビンにつめたりしている。
この海水は聖水≠フひとつとされ、信仰厚いアクイレイアの民の宝物なのだった。
この街ではすっかりお馴染《なじ》みとなった、教皇御召艦到着の際のちょっとしたお祭り騒ぎである。
乱暴なのは着水だけで、フネはゆっくりと広場の岸壁に近づき接舷《せつげん》した。もやいが放たれ、フネを固定する。
賛美歌を歌う聖楽隊を先頭に、教皇を迎えるタラップがごろごろと運ばれてきた。フネの舷縁《げんえん》に取りつけられると、広場の中央部からタラップの降り口まで、紫のラシャの布が敷き詰められる。
アクイレイアの市長、レッツォニコ卿《きょう》と、フェラーリ大司教が共にタラップの下まで赴き、膝《ひざ》をついて賓客を出迎える。
まず、タラップの上に現れたのは、護衛の聖堂騎士団だった。礼装の純白のマントに身を包み、聖杖《せいじょう》を胸の上に掲げて下りてくる。
長い長い聖堂騎士の行列が終わると、都市ロマリアからやってきた神官団が続く。これまた、フネのどこに積み込んでいたんだといわんばかりの長蛇の列である。
それが終わると、歓声がさらに沸いた。
水精霊騎士隊《オンディーヌ》の少年たちに前後を守らせ、巫女《みこ》服の美少女に挟まれたトリステイン女王アンリエッタが姿を見せたからだ。同盟国のうら若き女王は、このアクイレイアにおいても大変な人気を誇っている。
いつしかトリステイン女王万歳の響きが混じり、アンリエッタは軽く手を振ってそれに応えた。
そして……、それらすべての賓客を露払《つゆはら》いに、本日の主演俳優が姿を見せると辺りは急に静まりかえった。大声を張り上げていた水売りの少年までが帽子を脱いで、胸の前で聖印を切る。
教皇聖エイジス三十二世、ヴィットーリオ・セレヴァレが、そのまばゆいばかりの威光を振りまきながら現れたとき、集まったアクイレイアの民は、思わずため息を漏らした。
まるで背負った光が、自分に降り注いでくるように感じたのだ。
ヴィットーリオが手を上げて、にっこりと笑みを浮かべたとき……、その沈黙が一瞬にして破れ、大きな歓呼の声が響いた。
教皇たち一行が到着したその夜……、アクイレイアの聖ルティア聖堂では、会議室の円形の大きなテーブルに、今回の作戦を知る者たちが集められていた。
ティファニアとルイズは、アンリエッタの隣に座っている。その隣にはアニエス。さらにその横には緊張した顔のギーシュがいる。
残りの半円には、ロマリア側の関係者だ。
真ん中には教皇ヴィットーリオ。その隣にはジュリオ。そして連れてきた各聖堂騎士の隊長たちが並ぶ。その隣に、青ざめた顔のアクイレイア市長と、聖ルティア聖堂の大司祭が座り、何事か不安げに言葉を交わしていた。
今回の計画を聞かされた市長が、不安げな声で、
「計画は伺《うかが》っておりますが……、ほんとうにガリアは聖下の御身を狙《ねら》っているのでありましょうか?」
混乱を避けるために、ほんとうは伝説の虚無の担い手≠狙っている、ということまでは話していない。
ヴィットーリオはにこやかな顔で頷《うなず》いた。
「間違いありません。あのガリアの無能王≠ヘハルケギニアの王になりたいのです。そのためには、神と始祖とこのわたくしが邪魔なのです」
さらりと教皇自らにそう言われ、市長は額《ひたい》の汗を拭《ふ》いた。正直、どうして自分の就任中にこんな面倒ごとが舞い込んできたのだ、と泣き出したい気持ちでいっぱいだった。
「そうだとしても、やはり聖下の御身を危険にさらすというのは……」
即位三周年記念式典の間、教皇は数人の神官と巫女《みこ》と共に、ずっと祈りを捧《ささ》げ続ける。
その間、街にはハルケギニアの各地からやってきた信者たちが押し寄せ、祈りを捧げる教皇を一目見ようと列を成す。
その見物客にまぎれて、ガリアはなんらかの行動を起こす、と教皇たちは考えていた。市長にとっては悪夢のような計画だった。万一教皇の護衛に失敗すれば、自分はおめおめと教皇の暗殺を許した無能な市長として歴史に名を残すことになってしまう。
「市長殿の憂慮《ゆうりょ》は当然です。だが、我々は水をも漏らさぬ陣容で敵を迎え撃つ予定です」
ジュリオが立ち上がり、黒板に今回の計画を書き始めた。
「ご存知のとおり、怖いのはまず魔法です」
チョークを使い、ジュリオは聖堂の図面を描いた。
「そのため、敵に魔法を使わせぬために、聖堂の周囲をディテクト・マジックを発信する魔道具を用いた結界で囲みます」
ジュリオは聖堂の図の周りに、いくつものしるしをつけていった。
「もちろん、杖《つえ》は見学の際には持ち込めません。ただ、なんらかの方法で魔法を使おうとしたら……、使用した瞬間に、この装置で見破られ、詠唱者は周りを囲んだ騎士たちによってすぐさま捕縛されるでしょう」
市長の顔が、少しほっとしたものになった。
「それだけではありません。当然、教皇の周りにはエア・シールド≠幾重《いくえ》にも張り、その御身を守ります。通常の魔法や銃では、どうにもならないでしょうね」
ならば安心だと、市長と司祭は顔を見合わせて頷きあう。
一同はその計画に感じ入っているようだったが、一人納得できない顔色を浮かべている人物がいた。
ティファニアである。
彼女はその話を聞いて……、なんだか腑《ふ》に落ちない気持ちになったのだ。幼い頃《ころ》、屋敷に乗り込んできてエルフの母を殺したのは、王命を受けたアルビオンの正騎士団だった。
国家という組織が、ほんとうに邪魔者をまとめて排除したいとき……、それもこの一撃で勝負がつくと思われるとき、陰謀を用いるだろうか? 暗殺者などという手段をとるだろうか?
本気で完全に消し去りたいならば、別の手段を用いるんじゃないだろうか?
確実で、間違いのない方法を……。
おずおずとティファニアは手をあげた。
「ミス・ウエストウッド。なにか?」
ジュリオがにこやかな笑顔でティファニアを見つめる。
「は、はい……。質問よろしいですか?」
「もちろんです」
「あの……、こんなに偉い人たちが集まっている中で、僭越《せんえつ》とは思うのですが、どうしても気になってしまって。その……、ガリアがもし軍隊を出してきたらどうするんですか?」
アンリエッタが微笑《ほほえ》みを浮かべた。
「ティファニアさん、その心配はありません。ガリアとて由緒ある王国。王権同盟のれっきとした一員です。レコン・キスタなどとは違い、面子《めんつ》というものがあります。まさか、同盟を破って国境を越えて王軍を動かすような真似《まね》は……」
そこまで言って、アンリエッタは自分以外の誰《だれ》もが笑っていないことに気づいた。ジュリオが頷《うなず》きながら、ティファニアの言葉を肯定する。
「その可能性は五分といったところでしょうか」
「なんですって?」
アンリエッタの顔が蒼白《そうはく》になる。淡々と、ジュリオは言葉を続けた。
「先週まで、国境付近でのガリア軍の活発な行動は見られませんでした。しかし現在、新たな情報は入ってきておりませんので、十分に警戒せねばなりません。対する我が軍の布陣ですが、国境付近に精鋭の聖堂騎士隊に率いられた四個連隊九千が駐屯《ちゅうとん》中です。かつその上を、ロマリア皇国艦隊が守っております。この艦隊に対抗できる空中戦力は、ガリアの両用艦隊≠フみです」
「国境付近に軍を集めたのですか? 挑発行為ではありませんか!」
アンリエッタは立ち上がると、大声をあげた。
「挑発ととるならそれも結構。我々の仕事がやりやすくなります」
「話が違いますわ! 聖下、あなたは戦争を起こすおつもりですか?」
ヴィットーリオは首を振った。
「我々ではありません。起こすのはガリアです」
「あなたはブリミル教徒同士が血を流すことに我慢がならないとおっしゃったではありませんか! その舌の根が乾かぬうちに、戦争の準備を行うとは! 意味がわかりませぬ!」
「我慢がならないからこそ、できうるものなら一撃で終わらせたい。そう思って今回の計画を立てたのです。とりあえずご安心を。ガリア軍は確かに強大ですが、打つべき手は打っております」
「卑怯《ひきょう》ですわ! 今日の今日までお隠しになるなんて!」
「アンリエッタ殿」
優しく、それでいて威厳に満ちた低い声でヴィットーリオは言った。その声は、まるで魔法のようで、聞くものすべてを黙らせてしまう迫力に満ちていた。アンリエッタは唇を噛《か》み締《し》めると、首を振る。
「わたくしは戦争を憎むと申しましたが、その可能性は一度も否定しておりません。すべての状況に対し、対抗できる手段を用意しているだけです」
「……詭弁《きべん》ですわ。どうして即位三周年記念式典の場として、このガリアとの国境に近いアクイレイアを選んだのか、やっと本当に理解できました。敵より引き出したいのは陰謀ではない。……戦なのですね」
ヴィットーリオはわずかに憂いを含んだ声で言った。
「選ぶのはわたくしではありません。あくまでガリアです。そして可能性は、今のところ五分五分なのです」
市長と大司祭は、会話のあまりの内容に卒倒していた。即位三周年記念式典がいきなり戦争の話になっているのだから、無理もない。ティファニアも、自分の発言がもたらしたこの状況に恐れおののき、両腕で身体《からだ》を押さえて震えている。
一方ギーシュは腹を決めたのか、目をつむって天井を仰いでいた。アニエスはいつもと変わらぬ表情だった。聖堂騎士隊の隊長たちも、まるで顔色を変えない。
アンリエッタは一人立ち上がると、傍らでじっと黙ったままのルイズを見つめた。
「……でも、そうなると残念ながら協力はかないませぬ。なぜならわたくしは、ルイズを決して戦の道具にせぬ、とその父君と約束したのですから。さあルイズ、行きましょう」
しかしルイズは立ち上がらない。申し訳なさそうに、じっと俯《うつむ》いたままだった。
「ルイズ?」
ジュリオが、小さな声で言った。
「ミス・ヴァリエールは神と始祖の名において、誓約くださいました。我々の理想にその御身を捧《ささ》げてくださると。彼女はもうあなたの臣下ではなく、真の神の僕《しもべ》であり、我々の兄弟なのです」
誓約、と聞いてアンリエッタの顔色が変わった。貴族にとって誓約は絶対だ。それをたがえることは、自殺にも等しい行為なのだった。
「ほんとうなの? あなた……」
こくりと、心苦しそうにルイズは頷《うなず》いた。
アンリエッタはため息をつくと、両手を広げた。そして、はっと気づいた。才人《さいと》は間違いなく、教皇の世界扉《ワールド・ドア》≠ナ故郷に帰ったのだろう。
でも……、『ハルケギニアの理想』のために虚無≠使う、と言いきった教皇が、一騎士のためにその切り札を使うだろうか?
そんなわけがない。
アンリエッタは、ロマリアが何を条件にルイズの誓約を引き出したのか、理解した。
使い魔には代わりがいる。でも、担い手≠ヘそうじゃない。
怒るというより、悲しくなった。どこまでもやるせない、悲しい何かがアンリエッタを包んだ。それは無力感だった。今まで感じたことがないほどの無力を味わいながら、疲れきった目でアンリエッタは教皇ヴィットーリオを見つめた。
「お見事ですわ。どこにも逃げ道はないようですわね。聖下がそのお若さで、教皇の帽子を被《かぶ》れた理由が、ようやくこのおろかな女王にも理解できましてよ」
ヴィットーリオは、わずかに顔に憂いを浮かべ、言った。
「言ったではありませんか。わたくしには理想があるのです。そしてその理想に届くためならば、手段を選ぶつもりはないのですよ」
アンリエッタは顔を真っ赤にした。怒りと恥で我を忘れそうになったが、こらえた。考えてみれば、教皇の言うことのほうがもっともなのだ。
戦に備えるのは、まったくもって当然のこと。それをもってしてロマリアを責めることはできない。
「よくわかりました。これから聖下のお言葉は、布で濾《こ》したあと、慎重に理性を働かせて拝聴することにいたしましょう。ただ、もう一つの件に関しましては、正式に抗議することにいたします」
「なんなりとおっしゃってください。やましいところなど、何一つありませんから」
どこまで本気かわからない態度で、ヴィットーリオは言い放つ。
「では伺《うかが》いましょう。聖下は、わたくしの近衛騎士に暇《いとま》を出されたとか。他国の騎士の進退をお決めになるなど、教皇聖下といえども重大な内政干渉。どう申し開きをするおつもりですか?」
厳しい声でアンリエッタは言った。教皇はまったく悪びれた風もなく、
「お言葉ですが、シュヴァリエ・ヒラガ殿はあなたの近衛隊副隊長である前に、ミス・ヴァリエール個人の使い魔なのではありませんか? その主人である彼女より『お願いだから帰してくれ』と言われたので、ブリミル教徒として、己の信義に従ったまでのことです。だが、アンリエッタ殿のお言葉はいちいちごもっとも。あなたに相談しなかったのは、わたしの怠慢です。ご希望通りの補償はいたします」
「ほんとうに、彼を帰してしまったのですか?」
ヴィットーリオは大きく頷《うなず》いた。
「はい。彼の魂の拠《よ》り所《どころ》≠ヨ扉≠開きました。そう、わたくしは彼をとりもなおさず故郷≠ヨと帰したのです。ええ、それがわたくしのすべきことのように思えましたから」
なんてことを……、と呟《つぶや》き、アンリエッタは首を振った。ルイズが、ばたん、と立ち上がり、一同にぺこりと頭を下げた。その小さな肩が震えている。
「ルイズ」
「……申し訳ありません。気分がすぐれないので、失礼させていただきます」
アンリエッタはしばらく教皇をにらんでいたが、悲しげに首を振った。
「あなたは恐ろしい人ですわ。教皇聖下。この件が片付きましたら、ロマリア連合皇国との付き合い方を、多少考えることになりそうです」
ヴィットーリオは、優雅に礼を返した。
「過分なお褒めの言葉を頂き、誠に光栄です」
その日の夜……。
ルイズは自分に用意された部屋で、一人祈りを捧《ささ》げていた。
才人《さいと》と別れてからというもの、ルイズはほとんどの時間を祈りに捧げている。そうしていないと、心が潰《つぶ》されてしまいそうになるからだった。
いや……、もう潰れているのかもしれない。
だって……、先ほど戦の可能性がある≠ニ言われても、自分の心は何も感じなかった。まるで遠い世界の出来事のようにしか思えなかった。
始祖よ。尊き神の代弁者たる始祖よ。我を導く偉大なる始祖よ。空に星を与えたまえ。地に恵みを与えたまえ。人に恩寵《おんちょう》を与えたまえ。そして我には平穏を与えたまえ……。
何度も繰り返した祈りの文句。
だが、何度その言葉を繰り返しても、心に平穏は訪れない。ルイズはお祈りをやめると、ベッドに横たわった。両手で目を覆うと、とめどなく涙が溢《あふ》れてきた。
泣いてしまうと、思い出すのは才人《さいと》のことばかり。
こんな気持ちになることはわかっていたのに……、どうして自分は才人を帰すことを選んでしまったのだろう。
耐えられるわけがない……、それはわかっていた。
今頃《いまごろ》才人はどうしているんだろう。
お母さんに会えただろうか?
向こうの世界で懐かしい人たちに会えば……、自分のことなど忘れてしまえるだろう。才人は何度も好きと言ってくれたけど……、わたしはそれにきちんと応えることもできなかった。いろいろと理由をつけては、意地を張って、才人の気持ちをはかるような真似《まね》を何度もした。
そんなわがままな女の子のことなら、すぐに忘れることができるだろう。
でも、わたしは?
ルイズは首を振った。
いつまでこんな苦しい時間が続くんだろう。
このままじゃ、わたし……、ハルケギニアに一生を捧《ささ》げることすらできない
それができないのならば……、自分の存在の意味など無い。
自分はもう、いわばハルケギニアのゴーレムなのだ。教皇に誓約したときに、そう決定づけられた。だが、捨てた心に振り回されているようでは、ゴーレムにすらなれないではないか。
このままでは……、自分はただの役立たずだ。
自分の心に平安を与える方法は、すなわちこのハルケギニアの大地に平安をもたらす方法であるはずなのに……。
忘れなくちゃ
ルイズは一つだけその方法があることを知っていた。
でも、それをしたら、自分が自分でなくなる……。
だが、こんな自分に価値があるんだろうか?
才人を帰したことは間違いじゃないはずなのに、すでにもう後悔している自分……。
そんな卑怯《ひきょう》な自分に、どんな価値があるというのだろう?
せめて聖女になろうと思って、祈りを捧《ささ》げ続けていたが……、祈りだけでは限界がある。
ほんとうの聖女≠ノなるためには、やはり神の奇跡≠ノ触れねば、なることはかなわないのだろうか。
真の神の奇跡……、虚無≠ノ。
部屋を抜け出したルイズがやってきたのは、隣のティファニアの部屋だった。元は神官たちが寝起きしていた宿舎なので、同じょうな造りの扉が左右に並んでいる。扉を叩《たた》くと、やはりティファニアも寝られなかったらしい、立ち上がる音が聞こえ、誰何《すいか》する声が響いた。
「わたしよ」
ルイズが言うと、慌てて扉が開かれる。寝巻き一枚の姿になったティファニアが、ルイズを中に促した。
「……あの、その。その……。わたしも混乱してるの。いろんなことがありすぎて。でも……」
ティファニアは言いにくそうにもじもじしたあと、
「どうしてサイトを帰してしまったの? ほんとにどうして? ……確かにそうするのは当然だと思うけど。でも、ルイズ、あなた……」
ルイズは顔をあげた。それから、
「お願いがあるの」
と小さく言った。
「お願い? どんなお願いなの?」
でも、ルイズは黙ってしまった。その先を言葉にすることには、とても勇気がいるようだった。ティファニアも困ってしまい、二人して黙っていると、扉がノックされた。
誰《だれ》だろう? と思い尋ねると、小さな声で、
「わたくしです」
開けるとアンリエッタが立っている。
「ルイズが入るのが見えたものですから……」と言いにくそうに呟《つぶや》く。
アンリエッタはまず、ルイズとティファニアに深々と頭を下げた。
「あなたがたお二人には、申し訳の言葉もありませぬ。戦の道具にせぬと約束しながら、結局はこうなってしまいました」
ティファニアは首を振った。
「いえ……、まだ戦になると決まったわけではありません。それに……、あらゆる可能性に備えるのは、悪いことだとは思いませんわ」
そうね、とアンリエッタはため息をついた。
「なにせガリアは押しも押されぬハルケギニアの大国。陰謀だけで解決できぬとなれば、軍を繰り出してくることも……。予想できてしかるべきでした。それなのに理想に酔い、あなたがたまで巻き込んで……。ああ、わたくしは女王の器ではないのかもしれませぬ」
さらりと心情を吐露してのけた従姉《いとこ》に、ティファニアは目を丸くした。
「……女王の器ではない、などと、気安く口にされては困ります。誰《だれ》かの耳に入ったら、大変ではありませんか」
アンリエッタは、はっ! とした顔になり、また深く頷《うなず》いた。
「そうですわね。あなたはわたくしの従妹《いとこ》だからなのか、どうもついつい言葉が滑ってしまいます」
それからアンリエッタは、真剣な面持ちでティファニアの顔を見つめた。
「ティファニアさん、あなたはかまわないのですか? もし、戦になっても……、あなたはわたくしたちに協力してくれるのですか?」
ティファニアは考え込み、それから首を振った。
「……本心を言うと、わからないのです。わたしはサイトに連れられて、外に出てこられたんです。だから、彼の判断に従おうと思っていました。でも……」
「もう、帰られてしまった。そう、そのことをルイズ、あなたに尋ねに来たのです」
アンリエッタは、ずっと俯《うつむ》いているルイズに向き直った。
「どうしてサイト殿を帰してしまったの? 確かに彼はこの世界の人間ではありません。元の世界へ帰るのが道理でしょう。でも……、ルイズ、あなたは……」
アンリエッタのその言葉で、ティファニアも頷《うなず》いた。才人《さいと》は、ルイズのことが好きだったのだ。そして、おそらくルイズも……。
「大事な人でした。以上でも、以下でもありません」
心の一部を抑えたような声でルイズが言った。
「だから……、一生懸命に考えたんです。彼にとってなにが幸せなのか。その幸せのために自分が何をすればいいのか」
しばしの沈黙が流れた。アンリエッタはため息をつくと、そう……、と呟《つぶや》きルイズの肩を抱きしめた。
「ほんとうにあなたは優しくって、バカね。ルイズ・フランソワーズ。あなたって、昔からそうよ。親切のつもりで、余計なおせっかいをしてしまうの。サボテンの鉢植えに、水を一生懸命にあげて枯らしてしまうように。……サイト殿は、あなたの騎士になることを望んでいたでしょうに」
「でも、それでもそうしたほうが、彼のためなんです。人にはそれぞれ住むべき世界というものがあります」
「わたくしはあなたの意見を常に尊重したいと思っているわ。だって、幼いころからの馴染《なじ》みなんですもの。でも、サイト殿の意向を決めるのはあなたではないと思うのよ。まったく、そんな大事なことを、わたくしになんの相談もせずに決めるなんて……」
アンリエッタは寂しそうに首を振ると、目をつむった。
「いやだわ。わたくし、十分なお礼もしてさしあげられなかった。あの方は、わたくしたちに何度も何度もお力を貸してくださったのに……」
しんみりした空気が漂い、そばで聞いていたティファニアもなんだか泣きたくなってしまった。
アンリエッタはルイズの着込んだ巫女《みこ》衣装に目をやった。式典の間中、ルイズとティファニアはこの格好で教皇のそばに控えるのだ。式典の彩りだけでなく、虚無の担い手が一堂に会する≠スめの処置だった。
ガリアの手のものを、引き寄せるための……。
でも、ルイズがこの服に袖《そで》を通したのには、もうひとつの理由があるのだろう。
「……あなた、修道院に入るつもりね? そうでしょう?」
「いえ」とルイズは首を振った。
「この件が片付き、教皇聖下と陛下がその御理想を達成なさったと判断されたとき……、そのときこそ出家の許可をいただきたく存じます」
アンリエッタはルイズの手を握った。
「……厳しいことを言ってごめんなさい。一番つらいのはあなただったわね」
「でもわたし……、やはり耐えられそうにないんです」
ぽつりと、ルイズは言った。それから決心したように、ティファニアのほうを向いた。
「だからティファニア。お願い」
「ルイズ。あなた、まさか……」
ティファニアはルイズの願いの内容に気づき、青ざめた。
「そう。わたしの中から、サイトの記憶を消して欲しいの」
「なんですって?」
ルイズの言葉に、アンリエッタも色を失った。
「いけません! そんな……、だって、だってサイト殿は……、あなたの……」
「だから、消す必要があるんです!」
ルイズは聖具を握り締めて怒鳴った。
「もう二度と会えない。わかっています。自分でそうしたんですから。でも、このままではわたしはただの役立たずです。ハルケギニアの聖女にはなれそうもありません。だから……」
「ルイズ、ルイズ、そんな頼みは聞けないわ。だって、そんなことをしたら、あなたはあなたでなくなってしまう」
「だからいいんじゃない」
ルイズは涙を流しながら叫んだ。
「わかって……、ティファニア。同じ虚無の担い手なら、わかって欲しいの。わたしもう、耐えられないの。この先、耐える自信がないのよ。だから……、お願い」
ティファニアはどうしていいのかわからず、アンリエッタのほうを向いた。アンリエッタは蒼白《そうはく》な色を浮かべていたが……、そのうちにしめやかに瞼《まぶた》を閉じて、小さく頷《うなず》いた。
「……わたしからもお願いするわ。生きてなお会えないというのは……、死別と同じくらい、悲しいことなのでしょうから」
しばらくティファニアは迷っていたが……、ルイズの目を真剣な面持ちで見つめた。
「ほんとうにいいの? サイトの記憶を消したら……、大事な思い出もなくなってしまうのよ。あなたにとって、宝石のような時間が永久に失われてしまうの。それでもいいの?」
ルイズは巫女《みこ》服のポケットからブローチを取り出した。いつだか、才人《さいと》がトリスタニアで買ってくれたものだ。ルイズはそっとそれをティファニアに手渡した。
そして、こくりと小さく頷く。
ティファニアは悲しげに首を振ると、頷いた。
「わたしはいつまでも忘れないわ。大事なおともだちだったから。でもルイズ、あなたにしてみれば、その記憶が……、傾けた気持ちの分だけ、あなたを苦しめるんでしょうね。こうするのが、あなたの選択が……、正しいとはとても思えない。でも、それがあなたのためだというなら……。だって、あなたも大切な人だもの」
ティファニアは、杖《つえ》を握るとゆっくりと呪文《じゅもん》を唱え始めた。
ナウシド・イサ・エイワーズ……
ティファニアの呪文の調べの中、ルイズは才人の思い出を一つ一つ確かめていった。消えていく運命にある記憶たちを、ルイズは何よりも愛《いと》しく感じた。
ハガラズ・ユル・ベオグ……
初めて会ったときのこと……。こんなヤツが使い魔なんて、とがっかりした日。
ニード・イス・アルジーズ……
ゴーレムに踏《ふ》み潰《つぶ》されそうになったとき助けてくれたこと。貴族がどうした、と、頬《ほお》を殴られたこと。フリッグの舞踏会でいっしょに踊ったこと。アルビオンでの冒険。傷心の中、シルフィードの上でのキス。
ベルカナ・マン・ラグー……
始まった戦争の中で、何度も衝突しあったこと。
自分たちのために、捨《す》て駒《ごま》を引き受けた才人《さいと》。
数えるのも愚かしいほどの、幾多の冒険。
何度も諦《あきら》めかけた生。それらすべてを解決してくれたルイズだけの騎士。
日ごとに、かけがえのない絆《きずな》が生まれていき……、強く固く自分たちを結びつけた。
二人で過ごした数多《あまた》の夜。
何度も交わした唇……。
それらすべてが消える。
わたしは……、とルイズは呟《つぶや》いた。
才人のために別れを選び、自分のために記憶を捨てる
ほんとにわがままね
でも神さま。赦《ゆる》してください。
わたし……、きっとこれから虚無≠ノなるんですから。名実共に、からっぽのからっぽになるんですから。水のない水筒に。心を失《な》くした人形に……。
だから、わたしの罪をお赦しください。
虚無
自分の系統に相応《ふさわ》しい姿だ、とルイズは思った。
呪文《じゅもん》が完成して、ティファニアは杖《つえ》を振り下ろす。アンリエッタは思わず目を背《そむ》けた。部屋の中に、虚無|呪文《じゅもん》の光が瞬き……、唐突に掻《か》き消《き》えた。
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第三章 エルフのガンダールヴ
才人《さいと》が目を覚ますと、そこはだだっぴろい草原だった。
「はい?」
俺《おれ》……、こんなとこで寝ていたっけ?
いや、そんなわけないだろう。自分はロマリアの、大聖堂にいたはずだ。でもってルイズとデートして、なんだか様子がおかしくて……、部屋でワインに何か混ぜられて……。
ルイズにここまで運ばれたんだろうか。
でも、なんのために?
つうかここどこよ?
半身を起こし、ぼんやりとした頭を振って、才人は辺りを見渡す。自分が寝ていたのは、ちょっと小高い丘の、一本の木の根元だった。燦々《さんさん》と太陽が照りつける中、そこだけオアシスのように日陰になっている。木漏れ日が眩《まぶ》しく、才人は目を細めた。
草原はどこまでも続いている。はるか遠くに山と森が見えた。
さて……、と、才人は胡坐《あぐら》をかくと、首をかしげた。
ここは、ロマリアのどっかの草原なんだろうか?
参ったなあ、と思いながら身体《からだ》を確かめる。どこにも変わったところはない。いつものパーカーに、ジーンズ。マントは脱いでいたので羽織ってない。
ルイズといっしょにいたときと同じ格好だ。とにかく……、あの大聖堂の一室で自分は意識を失い、ここまで連れてこられたことだけは間違いないようだ。
でも、なんで俺草原で寝てるんだろ……。
意識を失うたびに、自分はとんでもないところに連れてこられるなあ、としばしぼんやりしていると、遠くに人影が見えた。こちらに向かって歩いてくる。
誰《だれ》だろう。
咄嗟《とっさ》に背中に手をやったが、デルフリンガーはない。デートのとき、外していたことを思い出す。ちょっと不安になったが、近づいてきた人物は才人に危害を加えるつもりはないようだ。のんびりとした歩調で、ゆっくりと歩いている。
徐々にその人物の輪郭《りんかく》がはっきりしてきた。なんだかどこかで見たことのあるかたちの、草色のローブを身に纏《まと》っている。顔はフードに隠され、よく見えない。だが、その身体のラインから、どうやら女性であることが窺《うかが》えた。
近くまで来ると、目を覚ました才人に気づき、その女性が声をかけてきた。
「あら、起きた?」
そして、フードを軽くあげた。才人《さいと》は、う、と胃が締めつけられる気がした。そこに現れたのが、恐ろしいほどの美人さんだったからである。
年の頃《ころ》は二十歳前後だろうか。
大人びた雰囲気の中に、なんだか妙な茶目《ちゃめ》っ気《け》がある。人懐っこい笑みを浮かべると、才人に向かって革袋を放った。
「水を汲《く》んできてあげたわ」
才人はそれを受け取ると、ごくごくと飲み干した。ぷはぁ、と一息つくとまじまじと女性を見つめる。
「わたしはサーシャ。あなたは? こんなところで寝ているのを見ると、旅人みたいだけど。それにしては、何にも荷物を持ってないけど……」
「サイトといいます。ヒラガサイト。旅をしてるわけじゃないです。起きたら、ここに寝かされてました」
ふーん、と女性はまじまじと才人を見つめ、それからフードを外した。長い耳が現れて、才人は驚いた。
「うわ! エ、エルフ!」
「あらあなた。わたしを知ってるの?」
「は、はい……」
「へえ。珍しいわね」
女性は、興味深そうに才人を見つめた。
珍しい? その言葉に、才人は微妙に違和感を覚える。ハルケギニアでエルフを知らない人間はいない。
「水をありがとうございます。ところで、エルフを知ってる人間が珍しいってどういうことですか?」
「さあ? だって会う蛮人会う蛮人、わたしのことを珍しいとか言うんだもの。まったく……、ここはどこの田舎なのよ」
蛮人、と言われて才人は少しむっとした。確かビダーシャルも自分たちのことをそう呼んでいた。
「ハルケギニアじゃないんですか?」
「ハルケギニア? なにそれ?」
サーシャはきょとんとした。
ハルケギニアを知らない! そんな! 才人は焦った。ということは……、少なくともここはハルケギニアじゃないのだ。
才人《さいと》はそろそろ、夢を疑うことにした。さて、痛かったら夢じゃない。現実である。というわけで、思いっきり自分の頬《ほお》を叩《たた》いた。
ぱぁ〜〜〜〜ん! と乾いた音がする。激痛で才人は地面に蹲《うずくま》った。
「なにしてるの?」
「いや……、夢かなと思いまして」
「そうだったらわたしも幸せね」
才人は必死になって記憶を探る。エルフがいない土地で、ハルケギニアじゃないところ……。となると、あの、いわゆる|ロバ・アル・カリイエ《東方》という場所だろうか?
「じゃあ、ロバ・アル・カリイエ?」
「なにそれ。よくわからないけど、わたしはサハラ≠ゥらやってきたわ。でもってここはあいつが言うにはイグジスタンセア≠ニいう場所らしいわ」
イグジスタンセア……。聞いたこともない土地名だ。
というか、なんで自分はこんなところで目覚めたんだろう。
誰《だれ》がやったんだろう?
あの教皇かしら。でも、自分をこんなところに放り出して、いったいなんのメリットがあるんだろう。それとも、あのジョゼフ王の陰謀だろうか?
でも、自分はロマリアの総本山、大聖堂にいたんだぞ。いくらジョゼフ王でも、あそこに手は出せないだろう。いやいや、でも虚無≠セしなあ。忍び込む手なんかいくらでもありそうなもんだ。
ジョゼフ王?
才人は、とても大事なことを思い出した。
才人はうわぁああああああ! とわめきながら頭を抱える。
「どうしたの?」
「いや……、思い出したんだけど、今、俺《おれ》たち大変なんすよ……。ここでこんなことしてる場合じゃない」
「どんな風に大変なの?」
茶目《ちゃめ》っ気《け》たっぷりに、サーシャは才人の顔を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「いやね? まあ言ってもわかんないでしょうけど、とてもとても悪い王さまがいてですね、俺たちにひどいことをするんです。そいつをやっつけるための作戦発動中だったのに……。肝心|要《かなめ》の俺がこんなとこで油売っててどうすんですか、という」
「それはわたしも同じよ」
サーシャは、やれやれと両手を広げた。
「今、わたしたちの部族は亜人の軍勢に飲み込まれそうなの。こんなところで遊んでいる場合じゃないのよ。それなのに、あいつったら……」
「あいつ?」
と、問い返すと、サーシャは黙ってしまった。見ると、わなわなと震えている。よっぽどあいつ≠ノ対し、言いたいことがあるんだろう。
まじりっけなしの、本物のエルフの女性を見るのは初めてだったので、才人《さいと》はまじまじとサーシャを見つめてしまった。
ティファニアに似た、薄い金髪。透《す》き通るような翠《みどり》色の瞳《ひとみ》に、長い睫毛《まつげ》が被《かぶ》る。鋭いけど、なんだか眠そうな、ちょっと垂れ気味の目元が微妙に色っぽい。全体的な顔のつくりは、ティファニアから幼さを除いたような、きりりとしたものだった。
そしてローブに包まれたすらりとした長身が、中性的な雰囲気を漂わせる。
ティファニアにどこか親しみやすさを感じるのは、やっぱり半分人間の血が混じっているからだろう。だが……、本物のエルフであるこの女性にも、別段怖さは感じなかった。以前見たことのある唯一のエルフであるビダーシャルは、縮こまるような恐怖を感じたのに……。
やっぱり、エルフにもいろんなエルフがいるんだ、と才人は一人納得した。そのあたりの塩梅《あんばい》は人間と変わらないのだろう。
才人は再び辺りを見回した。時間は昼ぐらいか……、と思ったら遠くに雲が見え、徐々に大きくなっていく。
ぽつりぽつりと雨が降り出し、才人とサーシャは木陰に隠れた。
「なんだかとてもヘンな気分」
雨を見つめながら、サーシャが呟《つぶや》く。
「ヘンな気分?」
「ええ。実はね、わたしって結構人見知りするのよ。それなのにあなたには、あんまりそういう感じがしない」
へええ、と才人は思った。まあ言われてみれば、自分もこのサーシャに恐怖に類する印象は一切感じなかった。いくらティファニアを知っているとはいえ、かつて自分たちを苦しめた相手であり、現在ハルケギニアで最強の敵として恐れられている真正エルフを前にしているのに……。
「俺《おれ》もそんな感じですよ」
すると、サーシャは才人《さいと》の顔を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「な、なんすか?」
綺麗《きれい》な妙齢《みょうれい》の女性にこうやって見つめられると、激しく鼓動が高まる。サーシャは眉《まゆ》をひそめた。
「初めて会った気がしないのよ。どうして?」
「どうして、と言われても……」
そういわれてみると、才人もなんだかそういう気持ちになってきた。一回も会ったことのないエルフの女性。
それなのに……、なんだかどこかで会ったことがあるような奇妙な感覚に襲われる。これって、確か……。
「デジャヴュ、じゃないすかね」
「既視感?」
「ええ。そういう気分になることって、結構あるっていいますから」
「ふーん……」
でも、それだけじゃない気がした。いったい、どうしてだろうと考えていると……。
目をわずかに細め、厳しい顔つきになってサーシャが立ち上がった。
「どうしたんですか?」
「下がってて」
なんだどうしたんだ、と慌てていると、草原の向こうから灰色の何かが顔を突き出した。
「……犬?」
「のん気ね。狼《おおかみ》よ」
「え? あれが狼?」
狼を見るのが初めてだった才人は、二十メイルほど離れた場所でこちらを見ている獣を見つめた。確かに犬とは雰囲気が違う。目つきが鋭く、油断なくこちらの様子を窺《うかが》っている。
「わたしたちを、今日の夕食にするつもりなのよ」
「一匹で?」
「まさか」
なるほど、次から次へと、狼たちは姿を現した。どうやら身を低くして草の間に隠れ、こちらに近づいてきたようだ。
それから円を描いて、才人たちの周りをぐるぐると回り始める。唸《うな》り声《ごえ》もあげず、その顔色は先ほどから変わらない。獲物を狩るのは、彼らにとって単なる日常なのだということを強く匂《にお》わせる行動だった。ただ、目だけは真剣さを持ってこちらを見つめている。
なるほど、犬じゃない。狼《おおかみ》だった。
「なにか武器はないですか?」
「どうするの?」
「いや……、ちょっと武器には自信があるんですよ。狼ぐらいだったら追い払えるくらいの」
「あら偶然ね。でも、わたしのほうが自信があるわ。幸か不幸かね」
「まあまあ、持ってるんなら貸してください。なんでもいいです。その辺りの棒っきれじゃ駄目なんで」
ガンダールヴの能力がなくても、剣ぐらいなら扱える。ただ、獣相手の戦闘はまた勝手が違う。やっぱりガンダールヴの能力を発動させたい。
「いいから。まかせてちょうだい」
サーシャは懐《ふところ》から、短剣を取り出した。
次の瞬間……、才人《さいと》は大口を開いた。自分が見たものが信じられなかったのだ。
短剣を握った瞬間、サーシャの左手≠ェ輝き始めた。正確に言うと、手の甲が!
そこには随分と見慣れた……、今ではあらゆる意味で自分の一部分になってしまったルーン文字が刻《きざ》まれている!
「ガ、ガ、ガガガガガガガガ、ガンダールヴ!」
「あらあなた。わたしを知ってるの?」
「知ってるもなにも!」
才人は左手のルーンを、サーシャの目の前に差し出した。
「まあ! あなたも?」
驚いた顔だが、それほどびっくりした様子はない。
「じゃあ手伝って」
ひょいっと、懐からもう一本の短剣を取り出し、才人に放った。才人はそれを握り締める。エルフがガンダールヴ? なんで? どうして? というか俺《おれ》の他《ほか》にもガンダールヴが? いったいどういうこと?
そんな才人の混乱を見透かしたように、一匹の狼がダッシュして襲ってきた。
やべえ。
考えるのは今じゃない。才人は素早く反応すると身を屈《かが》めて、飛びかかってきた狼の腹の下に身を潜り込ませ短剣を突き上げた。
ギャンッ!
腹をえぐられた狼《おおかみ》は悲鳴をあげ、地面の上をのた打ち回る。サーシャのほうを素早く振り向くと、二匹の狼が同時に飛びかかるのが見えた。
「!」
一瞬、姿が掻《か》き消《き》えたかのように才人《さいと》は感じた。それほどにサーシャの身のこなしは素早かった。アラビアのダンサーのようにくるくるとローブの裾《すそ》が翻るのだけが見えた。
飛びかかった狼は、それぞれ足と首を斬《き》られ、地面に転がる。サーシャは足を斬られた狼の首に短剣を突きたて、とどめを刺した。
残りの狼たちはその様子を見て、後ずさりながら唸《うな》る。才人が短剣を構えて近づくと、身を翻して逃げていった。
辺りに再び静寂が戻る。
「どうしてガンダールヴが……」
エルフがいて、ここがハルケギニアじゃなくて、もう一人のガンダールヴがいる。才人はワケがわからなくなった。
だが、すぐに持ち前の楽観が心に満ちていく。
どうせまたナンカの魔法だ。
まったくもう、魔法ってやつは……、目覚めたら知らない場所とか普通にやっちゃうんだから……、なんでもアリなんだから……、とぶつぶつ呟《つぶや》き、才人はほっぺをぱぁ〜〜〜ん! と張った。
「どうしたの? 怪我《けが》した?」
心配そうにサーシャが覗《のぞ》き込《こ》んできた。
「なんでもないです。平気です」
才人は頷《うなず》きながら言った。とにかくハルケギニアに帰らなければならない。今は大変なときなんだ。それを第一に考えて、他《ほか》のことは後回しだ。
とりあえずの手がかりは、彼女を使い魔にしてのけた人物だ。その人物なら、何か知っているかもしれない。
「あなたを、ここに呼んだという人に会いたいんだけど」
「わたしもよ。でも、ここがどこかわからないし……。ニダベリールはどっちかしら? まったく、魔法の実験か何かしらないけど、人をなんだと思ってるのかしら」
「魔法の実験?」
「そうよ。あいつは野蛮な魔法を使うの」
野蛮な魔法……、それは虚無≠ネんだろうか?
虚無の使い手は四人だけだと思っていたが、他《ほか》にもいるんだろうか?
才人《さいと》は好奇心が膨《ふく》れ上がるのを感じた。
雨は次第に強くなり、才人たちを否応《いやおう》なしに叩《たた》いた。こうなっては、木の下に隠れていても無意味だ。サーシャは豪快にがばっとローブを脱いだ。
布を細い身体《からだ》に巻きつけるような下着姿になったので、才人は思わず目を覆った。
「どうしたの?」
「一応、見たらまずいかなーって……」
「しかたないじゃない。濡《ぬ》れるわけにはいかないでしょ」
サーシャはぎゅっとローブを絞ると、それを頭の上に両手で持ち上げた。ほら、と言つて才人をその即席の傘の下に招き入れる。
ローブからは、甘く粉っぽい独特の香りがした。異国《いこく》情緒《じょうちょ》漂う香りだった。これがエルフの香りか……、としばしうっとりしていると……、目の前に鏡のようなものが現れた。
いつだか見たことのある、サモン・サーヴァントのときの扉に似ている。
「なんだありゃ」
すると……、サーシャの顔が険しくなった。
眉間《みけん》に皺《しわ》がより、見るからに凶悪な表情になる。才人は思わず、ひっ! と呻《うめ》いて後ずさりした。
怖い。
このエルフ怖い。
やっぱり、エルフは怖い種族なんだ……。
先ほど狼《おおかみ》を斃《たお》したときよりも遥《はる》かに暴力的な雰囲気を漂わせ、サーシャはその鏡のようなものをにらみつけた。
その中から出てきたのは、小柄な若い男性だった。真面目《まじめ》そうな顔に、撫《な》でつけた金髪がキラキラと光っている。そして、裾《すそ》を引きずるような長いローブを羽織っていた。
慌てた様子でぺこぺこと謝りながら、男は駆け寄ってくる。
「ああ、やっとここに開いた。ご、ごめん。ほんとごめん。すまない」
サーシャの肩が震えたかと思うと、とんでもない大声がその華奢《きゃしゃ》な喉《のど》から飛び出した。
「この! 蛮人が――――――――ッ!」
そのままサーシャは男に飛びかかり、こめかみの辺りに見事なハイキックをかました。
「ぼぎゃ!」
男は派手に回転しながら地面に転がった。サーシャは倒れた男の上にどすんと腰掛けると、「ねえ。あなた、わたしになんて約束したっけ?」
「えっと……、その……」
「はっきり言いなさいよ。蛮人」
「蛮人すいません」
サーシャは再び男の頭を殴りつけた。
「ぼぎゃ!」
「もう、魔法の実験にわたしを使わないって、そう約束したでしょう?」
「した。けど……、他《ほか》に頼める人がいなくって……。それにこれは実験じゃなくって、つまりその……、魔法の効果が及ぼす結果についての研究であって……」
「それを実験っていうんでしょう?」
サーシャは男の頭を叩《たた》きながら言った。
「いや、ほんとに申し訳ない。だがね、仕方ないじゃないか! 今は大変なときなんだ。あの罰当たりの……」
「だいたいねえ、あなたねえ、生物としての敬意が足りないのよ。あんたは蛮人。わたしは高貴なる種族であるところのエルフ。それをこんな風に使い魔とやらにできたんだから、もっと敬意を払ってしかるべきでしょ? それを何よ。やれ、記憶が消える魔法をちょっと試していいかい? だの、遠くに行ける扉を開いてみたよ、くぐってみてくれ、だの……」
「しかたないじゃないか! 今、ぼくたちは大変なんだよ! なにせあの強くって乱暴なヴァリヤーグどもが……。数が少ないぼくたちは、この奇跡の力、魔法≠もって対抗するしかないんだから!」
「わたしにとっては、あなたたちもヴァリヤーグも変わらないわ!」
才人《さいと》はその様子を、一種のデジャヴュのように見つめていた。ガンダールヴと虚無の関係は(彼らが本物であったとして。まあ本物なんだろうけど)、どこでもこうなんだろうか? 虚無が絡むと、どうして女はここまで怖くなれるんだろう。まあ、自分たちとは、関係が逆のようだが……。
この人が、このイグジスタンセアとかいう世界での虚無の担い手なんだろうか?
才人は、ごほん、と咳《せき》をすると、二人に近づいた。
「あの……、ちょっとお尋ねしたいんですけど……」
サーシャの下敷きになっていた男は、才人を見上げて照れくさそうな顔になる。
「やあ。きみは?」
「才人っていいます。平賀《ひらが》才人。妙な名前ですいません」
「そうそう。この人も、わたしと同じ文字が手の甲に……」
「なんだって? きみ! それを見せてくれ!」
男は真顔になって跳ね起き、才人の左手の甲に飛びついた。
「ガンダールヴじゃないか! 魔法のように素早い小人!」
「いや、ぼくは小人じゃないですけど……」
「いいんだ! いいんだ! ほらサーシャ! 言ったとおりじゃないか! ぼくたちの他《ほか》にも、この変わった系統≠使える人間がいたんだ! それってすごいことだよ!」
彼は才人《さいと》の手を強く握ると、顔を近づけてきた。
「お願いだ! きみの主人に会わせてくれ!」
その剣幕に、才人は辟易《へきえき》しながら首を振った。
「そうできればいいんですけど。いったい、どんな魔法でここに飛ばされたのかわかんなくって……」
そうか、と男はちょっとがっかりしたが、にっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「おっと! 自己紹介がまだだったね。ぼくの名前は、ニダベリールのブリミル」
才人の身体《からだ》が固まった。
その名前には聞き覚えがあった。
「はい?」
「ん? どうしたい?」
「も、もも、もう一度名前を言ってくれませんか?」
「ニダベリールのブリミル。ブリミル・ル・ルミル・ニダベリール」
ブリミル?
ちょっと待て。
それって、それって……。あのハルケギニアの民が、皆して拝んでいるという……。
「始祖ブリミルの名前?」
「始祖? 始祖ってなんだ。人違いじゃないのかい?」
男はきょとんとして、才人を見つめた。
才人の中で、何かがぐるぐるぐると回り始めた。
虚無の担い手が、始祖ブリミルを知らないはずがない。ということは単なる同名の人物じゃない。
と、いうことは。
いやそんな。
そんなバカなことが……。
ないって言い切れる?
魔法が飛び交う世界……、地球と異世界を繋《つな》げちまうような魔法が存在する世の中で、過去に行ける*v@があったっておかしくない。
ブリミルその人。
才人《さいと》はまじまじと若い男を見つめた。そりゃ……、神さまみたいな人だって、実在≠フ人物であることには違いないだろう。
その人にだって若い頃《ころ》があり、普通の生活があり……、そして、生きていた時代があった。
自分がいるその世界は、ブリミルがいる世界……。
つまり、六千年前のハルケギニア
ほんとに夢じゃなかろうな?
いや。
この空気の感じ。
そして踏みしめた大地の感触。
いったいどうしたんだ? と不安げに自分を見つめる二人の男女。
初代虚無の担い手と、その使い魔ガンダールヴ。
彼らの肌の質感。そして動き。
どれもこれも、夢じゃない。
夢なんかじゃない。
「いったい、ほんと、どうなってんのよ」
なんだかもう、その現実に耐えきれず……、才人《さいと》はがっくりと膝《ひざ》をついた。
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第四章 水の都
即位三周年記念式典が始まり、ギーシュたち水精霊騎士隊《オンディーヌ》は街中の警備を命じられた。アクイレイアは、複雑な水路が入り組んだ狭い街だ。そこにハルケギニア中からブリミル教徒たちが集まってきたのだからたまらない。
細い、幅が二メイルもない道は、押しあいへしあいする信者たちで埋まっている。教皇がルイズたち巫女《みこ》を従え、朝の五時から祈りを捧《ささ》げている聖ルティア聖堂の前など、まるで戦場だった。
青地に白の百合《ゆり》と聖具の紋をあしらったサーコートに身を包んだギーシュたちは、見学者たちの整理におおわらわであった。
整理というが、実際には戦争≠ノ近いものがあった。教皇のお姿を一目だけでも拝見しようとするブリミル教徒たちは、我先へと聖ルティア聖堂の入り口から中へと押しかけようとする。だが、一般の見学は、聖堂の外からと定められている。
したがってギーシュたちは、なんとか教皇聖下を間近で見ようとするブリミル教徒たちと、果てしない死闘を繰り広げる羽目になったのだった。
「こ! この! 見学はそこの線からと定められているんだ! 入ってくるなぁ!」
「やいやい、こっちはゲルマニアからわざわざ旅してきたんだ! ちょっとぐらいかまわねえだろ!」
「この子牛に聖下から祝福をいただくまでは、おれは国に帰れねえんだよ!」
「教皇聖下に一目でいいからお会いさせろ!」
水精霊騎士隊《オンディーヌ》の少年たちは、杖《つえ》を抜いて押しかける平民たちに対峙《たいじ》したが、逆にナメられる始末。
「おら! どけ! 怪我《けが》したくなかったらすっこんでろ!」
「そういうわけにはいかん! おとなしく見学したまえ! わからんのか!」
なかなか見学の順番が回ってこない民衆の怒りは、とうとう警備の騎士たちへと方向を変えた。
「こいつらをやっちまえ!」
「こ、この……!」
魔法探知装置があるおかげで、魔法を使うわけにもいかない。ギーシュは冷や汗を垂らしながら、配下の騎士たちに命令した。
「諸君! 杖を抜け! ここで食い止めるんだ! だが魔法はいかんぞ!」
杖でぽかぽか殴りつけたが、血走った目つきのブリミル教徒たちには火に油。
逆にマリコルヌは杖を奪われ、散々に小突き回されることになった。
「わ! わ! やめろ! この平民どもが! 無礼もの!」
「生意気な貴族のガキめ! やっちまえ!」
ギーシュたちはマリコルヌの加勢に向かったが、暴徒と化した民衆に囲まれ、掴《つか》まれ、殴られ、蹴《け》られ、散々な目にあわされた。
「こいつめ! いくら口で言ってもわからんようだ!」
怒ったギムリが、ついに魔法を唱えようとした。一人の男の頭を抱えて拳で殴りつけていたギーシュが、焦った顔になる。
「いかん! きみ、魔法はいかんよ!」
そのとき……、白い上衣を纏《まと》った一団が聖堂の中から飛び出してきた。
「聖堂騎士!」
神と始祖の守り手たる聖堂騎士の恐ろしさは、誰《だれ》もが知っている。聖具を模した杖を振り回し、聖堂騎士たちは詰めかけた民衆に躍《おど》りかかった。
「我らに逆らうものは異端とみなす!」
その言葉と純白の上衣に恐れをなし、暴徒たちは慌てて引き下がっていく。一人の聖堂騎士が帽子のつばを持ち上げ、少年たちに小ばかにしたような笑顔を見せつける。
「カルロ殿!」
ギーシュたちを救ったのは、この前ロマリアの酒場で水精霊騎士隊《オンディーヌ》と乱闘を繰り広げた、カルロ・クリスティアーノ・トロンボンティーノ率いるアリエステ修道会付き聖堂騎士隊だったのだ。
「おやおや、書生騎士諸君ではないか。暴徒のあしらいは、学院では教えてくれなかったのかな?」
聖堂騎士隊の面々から笑い声が飛んだ。ギーシュたちは屈辱で震えた。
「あの副隊長はどうした? たしか、ヒリギャ・シットとかいうヘンな名前の」
「ヒラガ・サイトだ!」
「ああ、そんな名前だったな。で、どこに行ったんだ? 姿が見えないようだが……」
水精霊騎士隊の少年たちは困った顔になった。マリコルヌが、小さな声で言った。
「……こ、故郷に帰ったんだ」
「なんだと? 大事な任務を放り投げて逃げ出したのか? さすがは平民あがりだな!」
カルロは大声で笑った。聖堂騎士たちもいっしょになって笑い転げる。
「臆《おく》したのであろうよ! なにせ今回の相手は大国だからな!」
「随分と勇敢な副隊長だな!」
うぬ、言わせておけば、とギムリが前に出ようとしたが、ギーシュとレイナールに止められた。ギーシュは、低い声で言った。
「カルロ殿。あなたは一万の軍勢に、一人で立ち向かえるかね?」
「一万? バカを言うな。いくらわたしが相当な使い手といっても、できることには限りがある」
「ぼくの副隊長は完璧《かんぺき》にそれをやってのけた。しかも相手は一万じゃなく、七万だった。せめて一万を食い止めてから、彼の勇気を問いたまえ」
カルロは笑い飛ばそうとした。が、ギーシュが真顔だったので、つまらなそうに顎《あご》をしゃくった。
「ふん、行け。ここはわたしたちが警備する」
すごすごと聖堂騎士に場所を譲る少年たちに、カルロは言葉を続けた。
「ああ、明日からここには来なくていいぞ。きみたちは今日から街での警邏《けいら》任務だ。怪しいやつがいたら報告しろよ」
そんな風に言われて腹が立ったが、しかたなく少年たちは街の警邏に出かけた。警邏といえば聞こえはいいが、なに、お前たちは足手まといだからその辺で遊んでいろ、と言われたようなものである。水路道路が入り組んだ狭い街には人が溢《あふ》れ、騎士隊が警邏《けいら》するどころではない。
ギーシュたちは聖堂横の広場の片隅に固まって座り込み、ぼんやりと浮かれ騒ぐ人々を見つめていた。いくつもの屋台が並び、酒や雑多なものを売りさばいていた。
「やっぱり、サイトがいないとダメなのかなあ……」
売り子たちの張り上げる声を聞きながら、マリコルヌが元気のない声で呟《つぶや》く。それは騎士隊の少年たちもぼんやりと考えていたことだった。やっぱり、どこかで才人《さいと》に頼っている自分たちがいる。そして、突然のお別れに心がついていっていないのだ。
「ルイズめ、勝手なことしやがって!」
ギムリが拳を固めて、地面を叩《たた》いた。
「……でも、気持ちはわかるよ。あいつ、よく知らないけど遠いとこから来たんだろ? 東方だっけ? 家族に会いたい気持ちはみんないっしょだ。ルイズはなんのかんの言っても女の子だから、いつまでもそんなヤツに戦いをさせるのがイヤだったんじゃないのかなあ」
レイナールが立ち上がり、両手を広げて言った。
「おいおい、いつまでめそめそしてるんだ? サイトがいなくたって、なんとかしてみせようじゃないか。ここで手柄を立てて、ぼくたちだってアルビオンの英雄≠ノ負けず劣らずの実力を持っていることを証明するんだ」
何人かの少年たちが頷《うなず》く。
「でも、もう警備はいいって言われちゃったぜ。手柄を立てるどころじゃないよ」
沈黙が彼らを包んだ。
そんな中……、ギーシュが一人、楽しげに鼻歌なぞ歌いながら、何かを一生懸命に作っている。見ると、そばにはどこで買ってきたのか酒の杯まで置かれているではないか。
「なに酒なんか飲んでるんだよ。ギーシュ」
「ん? もしかしたら戦になるかもしれんからな。景気づけだよ。ほら、きみも試してみろ。ヒッポクラテスとかいうカクテルだ。ジンジャーと砂糖をワインに垂らし込んだものだが……、なかなか味が深くてうまいぜ」
呆《あき》れた声でレイナールが言った。
「戦になんかなるもんか。ブリミル教徒がこれだけ集まっている場所に戦なんか仕掛けたら、どんなことになるかガリアだって承知しているはずさ。世界を敵に回すことになるぜ!」
するとギーシュは、ちょっと眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
「まあ、まともな王さまならそう考えるだろうな……。まともならね。でも、あのガリアの王さまは、なんかとんでもないことをしそうだよ。こないだガリアに乗り込んだぼくには、そう思える。きっと一筋縄じゃいかんだろうな……。おっと! 彫《ほ》りすぎた!」
「なあギーシュ、さっきからきみはいったいなにを作ってるんだい?」
「ん?」
ギーシュは顔をあげると、マリコルヌに手の中のものを見せた。なんと、それは白い貝殻であった。女性の横顔のレリーフが彫られている。
「ブローチを作ってるんだよ。ロマリアじゃ、こうやって貝殻に彫り物をして女性に贈るんだそうだ。モンモランシーを怒らせたままだからね。なんとかご機嫌をとらないとなあ! あっはっは!」
さすがにマリコルヌは、眉《まゆ》をひそめた。
「まったく、こんなときなのに、よく貝殻なんか彫ってられるな。戦になりそうなんだろ? おまけにぼくたちの仲間のサイトが、帰っちまったんだぜ?」
「別にいいじゃないか。聞いたときにゃ驚いたが、ここでやいのやいの言ったって、サイトが帰ってくるわけじゃない。きみ、人生は楽しむためにあるんだぜ」
ギーシュはそう言うと、能天気に笑った。
「ぼくはそんなきみが羨《うらや》ましいよ。随分勇気があるんだな」
皮肉っぽくマリコルヌが言った。
「いや……、なんというかな」
「うん」
「言い訳が欲しいんだよな。きっとね」
「言い訳?」
「ああ。あんな恐ろしい連中と戦になるかもしれん、と考えたら正直怖くてね。だからこうやって、死んじゃいけない理由を積み上げてるのさ。ぼくはモンモランシーにこのブローチを届けなきゃいけない。だから死ねないぞ、とまあ、そんな感じだな」
笑いながらギーシュは酒の杯を飲み干した。マリコルヌは、ま、それももっともだな〜、と悩ましげに首を振った。
少年たちは、二人のそんな様子に不安になった。
「ガリアにいる敵って……、よくわからないけど、そんなに恐ろしい連中なのかい?」
レイナールが、ごくりと唾《つば》を飲み込んで尋ねた。ギーシュは、うむ、と大きく頷《うなず》いた。
「恐ろしい」
「強いのかい?」
ギーシュは悩むように腕を組んだあと、大きく頷《うなず》いた。
いつの間にか、ギーシュの周りを少年たちは取り囲み、その顔を食い入るように見つめている。
「どんな風に強いんだ?」
マリコルヌとギーシュは顔を見合わせる。それから、お前が言えよぉ、みたいな感じで肘《ひじ》をつつき合わせる。
「はっきり言え! 言ってくれ!」
結局、ギーシュがぽつりと言った。
「エルフがついてる」
エルフ……、それはハルケギニアの貴族にとって、まさに恐怖の象徴だった。
少年たちの顔色が変わった。お互いに顔を見合わせると、はははは……、と力なく笑い合う。ギムリが目を細めてマリコルヌの肩を叩《たた》く。
「それ、ほんとか?」
「いやもう、それが、ね、ホントのホント。参っちゃうよね」タバサを救出しに行ったときのことを思い出し、マリコルヌが冷や汗を垂らしながら呟《つぶや》く。
少年たちはよっこらせ、と立ち上がると、一目散に駆け出そうとする。ギーシュが大声で制した。
「待ちたまえ! 諸君! 安心しろ!」
ギーシュのその言葉に、少年たちは振り返った。
「ぼくがいる」
親指を胸に当て、不敵な笑みを浮かべてギーシュが呟く。少年たちは顔に絶望の色を浮かべると、首を振って逃げ出した。
「待て待て! きみたちはそれでも貴族かね!」
その言葉で少年たちはやっと我に返り、膝《ひざ》をついて空を仰ぎ始めた。
「まいった……、それを言われるとなぁ……」
「なあに、負けるって決まったわけじゃないそ。それにだね……」
「なんだよ」
「ぼくにはどうしてもサイトが帰ってそれっきり、なんて思えないのさ。なんとなく、そのうちひょっこり顔を出すと思うんだよ。そう、ぼくたちがにっちもさっちもいかなくなったときにね。ここで逃げたらヤツに笑われるぞ? 俺《おれ》は逃げなかったぜってね」
そう言われてみると、少年たちはそうかもしれない、と思い始めた。なにせ根は単純な連中である。
「まあ、そうとなると逃げ出すわけにはいかんけどさ……」と、ぶつくさ言い始めた。
「だから、せめて今は楽しくやろうじゃないかね。人生は一度っきりなんだからな!」
そんなこんなで、少年たちはとうとう酒盛りをおっぱじめた。とんでもない警邏《けいら》である。
広場から見える聖堂の窓の向こうに、小さく巫女《みこ》姿のルイズを見つけたギムリが、苦々しげに言った。
「まったくルイズのやつ……、ぼくらがこれだけ気を揉《も》んでいるのに、のん気にお祈りなんかしやがって……。エルフと対峙《たいじ》するぼくたちの身にもなれってんだ」
「おいおい、ぼくらより、もっとルイズは悩んでいるだろうよ。サイトを帰す≠ネんてよほどの決心がいったことだろうぜ」
少年たちはしんみりしてしまった。そこに色とりどりの道化《どうけ》の格好をした楽団が通りがかり、派手な音楽をかき鳴らし始めた。敬虔《けいけん》なブリミル教徒たちから、うるさい! と野次が飛ぶ。
ひょいっとギーシュは立ち上がる。
「おいギーシュ、どこに行くんだ?」
「なあに、そろそろお祈りも休憩だ。ルイズを慰めてやろうじゃないか」
昼になり、聖ルティア聖堂の祭壇で祈りを捧《ささ》げていた教皇ヴィットーリオが立ち上がった。そばに控えた神官たちに付き添われ、奥の控え室へと向かう。昼餐《ちゅうさん》の時間なのだ。
巫女服姿のルイズとティファニアも目配せすると立ち上がった。窓の外の観衆に向かってぺこりと一礼すると、歓声が沸《わ》いた。
「とっても素晴らしい典礼だったわね。わたし、誇らしい気分になったわ。教皇聖下の巫女を勤めさせていただいてるなんて、未だによく信じられないわ」
ルイズはにこやかな顔で、隣のティファニアに言った。
「そ、そうね」
「わたしたち、神に選ばれた系統の持ち主なんだってことが、とてもよく実感できたわ……。ああ、もっと頑張らなきゃ」
目をキラキラさせながら語るルイズを見て、ティファニアは戸惑いの色を浮かべた。
ほんとによかったのかしら?
ルイズに懇願されて、ティファニアは才人《さいと》の記憶を消してしまったのだが……、そのときよりルイズはこんな感じである。
まるで熱に浮かされたように、ハルケギニアの理想を語り、いかに自分たちが重要な存在であるかをことさらにまくし立てる。
「そんなわたしたちの身を狙《ねら》うガリアの陰謀……、なんとしてでも阻止しないとね!」
「ちょ、ちょっと怖いけどね」
ティファニアが正直に感想を言えば、ルイズは目を吊《つ》り上げた。
「怖いなんて! まあ気持ちはわからないでもないけど、恐怖に負けちゃだめよ! それこそ、神と始祖に対する冒涜《ぼうとく》というものだわ」
「う、うん……」
まるでルイズは人が変わったようである。そりゃプライドは高かったけど……、こんなに極端じゃなかった。やっぱり、それだけ才人《さいと》の存在が大きかったってことなんだろうか?
そんな風に戸惑っていると、裏口の扉が開き、どやどやと派手な格好の一団がなだれ込んできた。
「やあ! お嬢さまがた! ごきげんよう!」
「……誰《だれ》?」
一瞬、ティファニアは入ってきた連中が何者かわからなかった。それぞれ、おかしな衣装に身を包み、顔には白粉を塗りたくっていたからだ。
「ギーシュ?」
「やあやあやあ、今から昼餐《ちゅうさん》だろ? アクイレイア名物のゴンドラにでも乗って、のどかに船旅としゃれこみませんか?」
「ゴンドラ? 素敵ね……、でも……、わたしたちこの聖堂を離れるわけには……」
「いいじゃないか。ちょっとは楽しみがないと、息が詰まってしまうだろ? それに、はっきり言うけど陰謀なんて起こりっこないよ。見たけど、街中さまざまなワナが仕掛けられてる。ぼくは一応土の使い手だからね。そういうことには気が回るのさ」
ギーシュも、伊達《だて》に街中をぶらぶらしていたわけではないようだ。
「こんな中、なんとかしようと思ったら軍隊でも持ってこないと話にならんと思う……。なんてね。とりあえずぱぁーっとやろうじゃないかね。ぱぁーっと!」
だが、ルイズが首を振った。
「あなたたち、何を言ってるの? わたしたちは聖なる巫女《みこ》として、教皇聖下のお手伝いをさせていただいている真っ最中なのよ。それに、いつなんどき敵の襲撃があるかわからないじゃない。いいこと……、きゃっ!」
しかしギーシュたちはルイズを抱えあげると、わっしょいわっしょいと運び始めた。
「ちょっと! あんたたち! 放しなさいよ!」
水路に浮かべられたゴンドラの上まで運ばれたルイズは、そこでギーシュたち水精霊騎士隊《オンディーヌ》のバカ騒ぎに付き合うことになった。
狭いゴンドラの上は少年たちが乗り込むとぎゅうぎゅうで、岸辺からは笑い声がとんだ。
「もう! あんたたちってば、不謹慎よ!」
マリコルヌが、そんなルイズに杯を突き出す。ギーシュたちは顔を見合わせた。
「強がってるんだよ……。可哀想《かわいそう》に。きみもつらかったよなあ……」
「なに言ってるのよ? つらい? 誰が?」
だが、ルイズはきょとんとした顔で、ギーシュを見つめる。道化《どうけ》姿のギーシュは、その格好に似合った間抜けな驚き顔を浮かべた。
「ルイズ……、きみは悲しくないのかい?」
「わたしが? どうして? というかあんたたち、早くこのバカ騒ぎをやめなさい!」
そんな風に怒られたものだから、思わずギムリが言い返した。
「そんな言い草はないだろ! だいたいきみがなあ、勝手にサイトを……、むぐ!」
水精霊騎士隊の少年たちは、ギムリの口を押さえた。
「まあまあまあまあまあ」
だが……、それでもルイズはきょとんとしている。
「……サイトって、なに?」
ゴンドラの上は騒然となった。
「ルイズ! ルイズ! とうとうショックでおかしくなっちゃったかぁ!」
「しかたないよな……、あれだけきみは……、その、サイトに……」
ギーシュたちは顔を押さえて嘆き始めた。その勢いでゴンドラがぐらぐらと揺れ、落ちそうになったルイズはギーシュたちを怒鳴りつけた。
「おかしくなった? もう、いい加減にして! ヘンなのはあんたたちよ。やれ、サイトサイトって……。なんなのよそれ」
「ひ、人の名前」
「人の名前? 随分ヘンな名前ね」
「きみはその、ヘンな名前の男を使い魔にしてたんだぜ?」
「つかいまぁ? おとこぉ? いい加減なこと言わないで! わたしにはまだ使い魔はいません!」
そこまでルイズは言いきり、得意げに腕を組むと、ふんっ! と顔をそむけた。ギーシュは、隣でもじもじしているティファニアを見つめた。
そういえば……、彼女はいつだかアルビオンで才人《さいと》の偽りの記憶≠ニやらを消したことがあったっけ……。
もしかしてあの魔法?
ギーシュはルイズやティファニアが、妙な魔法を扱うことを知っている。だからこそ彼女たちはアンリエッタの女官として、教皇の巫女《みこ》として、大事に扱われているのだった。
その魔法がなんなのか、ギーシュはよく知らない。
お偉方のことに首を突っ込むのはあまりよろしくない、と肌で感じているギーシュは、その辺のことは深く考えたことがなかった。いや、考えないようにしていた。下手すると出世に響くし、首が飛ぶかもしれないからである。
でも、今はそんなことを言ってはいられない。巫女服のティファニアの顔を、じっと覗《のぞ》き込《こ》んだ。女性にそんな態度を取ることのないギーシュにしては、珍しい行動だったので、少年たちは目を丸くする。
「ティファニア嬢。ご質問だ」
「は、はい」
「……きみ、もしかしてルイズに魔法をかけたんじゃないかね?」
ティファニアは、横を向いてぷるぷると震え始めた。ギーシュはぱちん、と指を弾《はじ》いた。
「ティファニア嬢を拘束したまえ」
嬉《うれ》しそうに、少年たちはティファニアに飛びかかり、ロープでぐるぐる巻きにした。途中、ルイズがきゃあきゃあわめいて文句を言ったので、同じようにロープで縛る。
縛り上げられたティファニアは、ゴンドラの中に転がされ、顔を真っ赤にさせてわなわなと震えている。
「ちょっと! あんたたちなに考えてるのよ! 女王陛下の近衛隊でしょ―――ッ! それがわたしたちを縛るなんてどーゆーこと? いい加減にしないと怒るわよッ! 陛下に言って叱《しか》っていただきますからね!」
そんなルイズを無視して、ギーシュはティファニアに詰め寄った。
「ルイズに魔法をかけたね?」
「か、かけてません」
ギーシュは再び指をぱちん、と弾いた。道化《どうけ》用の三角巾《さんかくきん》を被《かぶ》ったマリコルヌが、ノリノリでティファニアの身体《からだ》を手に持った羽根でくすぐる。
「吐けや。おじょうちゃん」
「ひ! ひう! くすぐらないで! くすぐらないでっ!」
身体が敏感なティファニアは、それだけで死にそうになってしまう。ぐったりしたティファニアに、さらにギーシュは顔を近づけた。
「ぼくは女性への乱暴を好まない。でも、時と場合によるぜ。マリコルヌ、ティファニア嬢の胸がホンモノかどうか、調べて差し上げろ」
「いい命令だ。実にいい命令だ。隊長どの」
マリコルヌの手が近づく。
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」
するとティファニアは、いきなり謝り始めた。
「やっぱりな」
「だって、そうしたほうがいいと思ったんだもの!」
「ちょっと! あんたたち! ティファニアになにしてんのよ!」
怒り狂うルイズに、ギーシュは優しい声で言った。
「なあルイズ。ちょっといいかい?」
「ほんとにまったくもう、なに考えてんのよ! 早くこのロープを解いて!」
「きみには使い魔がいた。ぼくたちと同じぐらいの少年だ。きみはそいつに何度も助けられた。で、彼はきみのことが好きだった。ほんとに忘れちまったのかい?」
ギーシュにそう言われても、ルイズはきょとんとするばかり。
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「あのね? 何度言えばわかるの? わたしに使い魔はいないのよ?」
「春の召喚の儀だ。きみは何回もサモン・サーヴァントを失敗して、最後に彼を喚《よ》び出した」
「ああ。わたしはそのとき、結局何も呼び出せなかったの。そのときは落ち込んだけどね……。ちゃんと理由があったの。その理由はわたしの系統に関することだから、あんたたちには話せないけど……。見てなさい、そのうち、とんでもない強力な使い魔が現れるわ」
ギーシュはがっくりとうなだれた。それから、恨めしそうにティファニアのほうを見つめる。悲しそうにティファニアは俯《うつむ》いた。
「……ルイズがそう言うんなら、そっちのほうが幸せなのかなって。……そう思ったの。だって、ほんとに苦しそうだったから」
「ぼくは男だからね。そうは思えない。男にとって、思い出は宝石だからね。でも、ルイズがそう決めたっていうんなら、ぼくが口を出すべきことじゃないのかもしれない」
それからギーシュは大きくため息をついた。
「でも、納得はできないけどね」
仲間たちを促し、ルイズとティファニアのロープを解いてやった。ゴンドラを岸につけると、ギーシュたちは下りていく。
後に残されたルイズは、ぷりぷりしながらその背を見送った。
「ほんとに、あいつら何考えてるのよ!」
そんなルイズを見つめながら、ティファニアは悩んだ。
ほんとに、自分は正しかったんだろうか?
これしか方法はなかったんだろうか?
よくわからない。なんだか悲しくなって、ティファニアは涙を流した。そんなティファニアを、ルイズは慰め始めた。
「どうしたの? 大丈夫? もう、あいつらってホントにデリカシーがないんだから! あとできっちり陛下に叱《しか》っていただきましょう? ね? ティファニア?」
深夜……。双月の明かりが曇り空に淡い光を灯《とも》している。
先日、教皇の御召艦《おめしかん》『聖マルコー』号が入港したアクイレイア港に、一隻の大型船が滑り込んできた。大きな翼を取りつけた異様な雰囲気のその艦は、着水のショックでバランスを崩すと、大きく船体を左右に振った。巨大な翼が海面を叩《たた》く。
勢い余って岸壁にぶつかりそうになったが、甲板から幾重《いくえ》にも風魔法が飛んだ。空気の塊が岸壁とフネの間に入り込み、クッションになって衝突から守った。
入港してきたのは、いつもより喫水《きっすい》を大幅に下げた『オストラント』号だった。甲板にならんだ貴族がいくつもの風魔法を用いて、やっとのことでその巨体を安定させる。
ついで黒尽くめの男たちが港の石造りの倉庫の陰《かげ》から現れて次々にもやいを投げ、フネを岸壁に固定した。
すると、ガラガラと音がしてフネの艦首が鳥のくちばしのように上下に開いた。大量に物資を搭載するための、コルベールの設計である。
舌のように突き出て岸壁に接した下側のくちばしに、何本もの丸太が並べられた。丸太の左右には貴族たちが並ぶ。その数はおおよそ二十名。先ほど甲板の上から、風魔法を飛ばした連中だ。
貴族たちの顔には疲労と緊張の色が浮かんでいる。無理もない。このアクイレイアまで大きくて重い荷物を運ばされてきたのだから……。
くちばしの奥の貨物庫からゴロゴロと音がして、大きな何かが魔法によって運ばれてきた。ちょっとした二階建ての家ほどもあるその物体は……、才人《さいと》が以前ロマリアのカタコンベで見せられたタイガー戦車だった。
タイガー戦車の下に並べた丸太でもって……、かつて、築城の際に大きな石を運んだように、タイガー戦車を移動させようというのだ。
戦車の上に立って、ロマリア貴族たちに指示を飛ばしているのはコルベールだ。
「諸君! 注意してくれたまえよ! 硬化≠かけてある丸太だって、十二万リーブルもの重さの鉄塊《てっかい》相手ではいくらももたぬ!」
なるほど、その重量に耐えられず、くちばしがギリギリと悲鳴をあげた。そして恐れていた事態が起こる。かけられた硬化≠フ耐荷重を越えた重量に、一本の丸太がグシャッと潰《つぶ》れてしまったのだ。
ゆっくりとタイガー戦車の巨体が右に傾《かし》いだ。このままではバランスが崩れ、海に落っこちてしまう。
「右! 右ですぞ! 早くレビテーション≠!」
くちばしの左右に並んだ風≠フ使い手たちが、すかさずレビテーション≠唱え、タイガー戦車の右側を持ち上げる。これほどの数のメイジをもってしても、浮かびあげることは到底かなわない。だが、くちばしのきしみはやんだ。
コルベールはほっと息をつくと、再び慎重に左右に並んだメイジたちを指揮しながら、タイガー戦車を石畳の広場へと揚陸《ようりく》させた。
へなへなとコルベールは、戦車の上にしゃがみこむ。もう、フネが墜落したり、戦車を海に落っことしたりの心配はない。安心しきったら、身体《からだ》から力が抜けたのだ。
「もういいぞ。ミス・ツェルプストー。ミス・タバサ」
タイガー戦車の砲塔上面の司令塔ハッチの蓋《ふた》が横にずれて開き、キュルケが顔を出した。頭には、車内で見つけた黒い士官帽を被《かぶ》っている。ついで隣の装填手《そうてんしゅ》用ハッチが開き、タバサが小さな頭をちょこんと出した。二人は、中で魔法を使い、戦車のバランスを保っていたのである。
集まった黒装束の男たちの中から、白い衣装に身を包んだ少年が現れ、コルベールに向けて一礼した。神官装束なのに、その礼は軍人のような趣《おもむき》だ。
ジュリオだった。
「ご苦労様です。ミスタ・コルベール。あなたがいなければ、この工芸品≠ヘここまで運ぶことができなかった」
コルベールはひょいっと戦車の上から飛び降りると、ジュリオと礼を交わした。
「この『オストラント』号は、多少の貨物を積めるように設計をしたが……、これほどの重量のものは想定外だ。二十人ものメイジに、絶えずレビテーション≠唱えさせ、それでやっと船底が抜けぬように処理できた。ほんとだったら、フネが浮かびあがることすらできないんだ。今回限りにして欲しいね」
コルベールがそう言うと、ジュリオは笑みを浮かべた。
「もちろんですとも。そう何度も無茶《むちゃ》をさせるつもりはありません」
それから、ジュリオは興味深そうに、タイガー戦車の後から運ばれてくる大きな樽《たる》を目にして言った。ゼロ戦用のガソリンが詰められた樽だった。
「で、こいつを動かすことはできそうですかね?」
「まあなんとかなるだろう。どうやら、この工芸品≠焉Aあの竜《りゅう》の羽衣《はごろも》≠ニ同じくがそりん≠ナ動くようだ。まあ、多少の質の違いはあるようだがね。とりあえず、構造を把握する時間が必要だ。すぐというわけにはいかん」
「結構です」
ジュリオは一礼した。
「さて、式典警護に使うのはいいが……、ちょっと大げさすぎんかね?」
コルベールは大きな鉄の塊……、タイガー戦車を見上げながら呟《つぶや》いた。この工芸品≠初めて見たときにはそれはもう、驚いた。飛行機械を見たときも驚いたが、今回もそれに負けず劣らずだ。
これほどの鉄を……、鋼鉄を用いて、寸分のくるいなく組み上げられた鉄の砦《とりで》。車体後部に納められた、竜の羽衣∴ネ上の技術で作られたであろうえんじん=B
突き出た大砲など、完全な芸術品だ。ここから撃ち出される砲弾はどれほどの精度を持って敵に届くのだろう? どれほどの威力を持って敵を破壊するのだろう?
純粋な知的好奇心が膨《ふく》れ上がり、早く試してみたくてたまらない。
しかし……、自分はこれをなんとか動かすことはできるだろうが、戦わせる≠アとは無理だ。それには才人《さいと》の左手の力がいる。才人がいなければ、これはただの大きな鉄の箱に過ぎない。
「ところでサイトくんはどうしたね? ロマリアで飲み別れたっきりでね。このアクイレイアに来ているのだろう? 会わせてくれんかね」
するとジュリオは、首を振った。
「彼は今、旅≠ノ出ていましてね。すぐというわけにはいきません」
「旅?」
「ええ」
にっこりと、ジュリオは笑った。こんなときに旅? とコルベールはいぶかしんだが、才人は女王陛下の近衛隊だ。なにやら密命でも帯びたのかもしれん、と思い直しそれ以上の追及をやめた。
黒装束の男たちは、とりあえず倉庫に運び込むべく、タイガー戦車の前面に取り付けられたフックにワイヤーを繋《つな》げる。
ワイヤーを沖仲仕たちが引っ張り、貴族の魔法がそれを手伝った。ゴロゴロと硬化≠フ呪文《じゅもん》がかけられた丸太の上を、タイガー戦車が滑り始める……。
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戦車のハッチから顔を出したキュルケは、ジュリオとなにやら打ち合わせるコルベールを、細めた目で見守っていた。
「なんだか臭いわね……。街はとっても綺麗《きれい》でよろしいけど。中は泥でドロドロだわ」
キュルケが呟《つぶや》くと、隣の装填手《そうてんしゅ》用ハッチから顔を出しているタバサが頷《うなず》いた。
「あなたの騎士さま、いったい何をさせられているのかしらね?」
帽子を外すと、キュルケはひょいっとそれをタバサに被《かぶ》せた。
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第五章 六千年前
その頃《ころ》……、といっても、その頃なのかどうか。
才人《さいと》がブリミルとサーシャに連れてこられたのは、ニダベリールと言われる村だった。
連れてこられたといっても、ゲートをくぐったら、そこがその村だったのである。ニダベリールと仰々しい名前がついているからには大きな街かなー、と思っていたら、拍子抜けであった。
そこは移動式のテントが並ぶ、小さな村だった。なだらかな丘の中腹に、木と布で作られた円形のテントがいくつも並んでいる。そばでは、ヤギが草を食《は》んでいた。
社会の教科書で見た、モンゴルの遊牧民の村のようだった。ハルケギニアとはまた趣《おもむき》を変えている異国《いこく》情緒《じょうちょ》漂う風景に、才人は心奪われて、しばし呆然《ぼうぜん》と立ち尽くした。
「こっちだ。ここがぼくの家だ」
ブリミルに案内されたのは、村で一番高い場所に作られたテントだった。テントの上には青い旗が翻っている。ブリミルって始祖だろ? キリスト教でいえばイエスさまだろ? イスラム教でいえばマホメットだろ? 仏教でいえば仏陀《ぶっだ》だろ? つまり偉い人だろ? こんな貧乏なとこに住んでるの? ほんとにホンモノ? と疑いでいっぱいになりながら中に入る。
中には粗末なテーブルと椅子《いす》が並んでいた。奥には藁《わら》を敷き詰めたベッドが見える。中東の絨毯《じゅうたん》のような、硬く織った布が地面に敷かれていた。
椅子を勧められ、才人《さいと》は腰掛けた。
「しかし、驚いたな!」
ブリミルは興奮した様子でまくし立てる。
「で、きみの主人はどこだい? ミッドガードの辺りかい? とにかく、その人に会いたいんだ」
才人はいつだかテレビでやっていた、タイムスリップして過去の偉大な人物に直接会うアニメを思い出した。わたしは徳川家康だ。日本で一番偉い将軍なのだと言いながら、やたらとフレンドリーに関が原の戦いを説明していたっけ……。
始祖ブリミルは、誰《だれ》もが知っている偉大なメイジなのに……、目の前の人物はどうもそんな風には見えない。
どこからどう見ても、ただの人である。
でも、そんなものなのかもしれない。伝説の人物だって、人間であることには変わりないんだろうし……。とにかく自分がそんなところにいるほうが不思議だし、気にするべき事柄だ。
才人は、こほん、と仰々しく咳《せき》をすると、二人を見据えた。
「会えません。無理です。絶対」
「どうして?」
「えっとですね、その……、沸《わ》いてるって思われたら悲しいですけど、ぼくはですね、六千年後の未来から来たんです」
自分がそんなSFを口にするときが来るなど……、地球にいた頃《ころ》もハルケギニアにいた頃も想像すらしたことがない。
案の定、ブリミルとサーシャの二人は顔を見合わせ、くくくくくく、と笑い始めた。
「……まあね。笑うところですよね。ここ」
「いや、すまない。まあ、きみが主人の存在をかばう気持ちもわかる。こんなご時世だしね。ぼくたちみたいな『変わった系統』使いは珍しいし、ヴァリヤーグたちにバレたら大変だもんな。話したくなったら、話してくれればいいよ」
そう言ってにっこりと笑う。
変わった系統、というのは虚無≠フことなんだろうか。きっとこの時代には虚無≠ニいう言葉はまだなかったんだろう。
「ヴァリヤーグってなんですか?」
才人《さいと》が尋ねると、ブリミルは苦々しい顔つきになった。
「……知らないのかい? 恐ろしい技術を持った、悪魔みたいな連中だよ」
才人はちょっと不思議な気分になった。たしか……、始祖ブリミルの敵は先住魔法を使うエルフだったんじゃないのか?
「ヴァリヤーグって、エルフのこと?」
才人が尋ねると、頭をぽかーん! と叩《たた》かれた。
「あいだっ!」
「なんでわたしたちが、あんな野蛮人なのよッ!」
ブリミルがとりなすように才人に告げる。
「彼女は我々とは、根本から違う種族だ。この広い世界のどこかで……、我々とは違う文化を持ち、息づいていたんだ」
「なるほど」
ブリミルは才人の左手を取った。
「だからわたしは、彼女にこうルーンを刻《きざ》んだ。ガンダールヴ。旧《ふる》い我々の言葉で、魔法を操る小人≠ニいう意味だ」
「あなたが刻んだんですか? このルーンは?」
ブリミルは頷《うなず》いた。
「そうとも。きみの主人は違うのか?」
才人は首を振った。ルーンは勝手≠ノ刻まれるはずだ。この頃《ころ》は、自分で刻んでいたんだろうか? ブリミルの話を聞くには、どうもそのようだ。
「違います。でも、魔法を操る小人って……、ガンダールヴは魔法なんか使えないんだけどなあ」
「それはきみが人間だからだね。普通の人間も使い魔になるんだな……。獣にあらずんば異種族とばかり思っていたが。とにかく彼女は我々とは違う魔法を使う」
「先住魔法?」
尋ねると、サーシャは首を振った。
「なにそれ。もう、ヘンな呼び方しないで欲しいわ。精霊の力と呼んでちょうだい」
才人は歴史の重みを肌で実感した。ガンダールヴの由来は……、魔法を使う小人≠ニいう意味らしい。それは、この初代ガンダールヴがエルフだったかららしい。なんとも不思議な話だった。
じっとサーシャを見つめていると……、ふわふわと現実感が希薄《きはく》になっていく。自分のご先祖様に出会ったような、なんともいえない気分だった。
「どうしてさっきは魔法を使わなかったの?」
「精霊の力を血なまぐさいことに使いたくなかったからよ」
つんと澄まして、サーシャは言った。
「エルフが魔法を使うのを知っているのか。博識だね」
「まあなんつうか有名ですから……。で、ヴァリヤーグとやらの恐ろしい技術って、なんですか?」
そう尋ねる才人《さいと》に、ブリミルは怪訝《けげん》な顔になった。
「ほんとのほんとにヴァリヤーグを知らないのかい?」
「はい」
「羨《うらや》ましいな。この世界のどこかに、彼らの脅威に怯《おび》えずに暮らしている人々がいるなんて! なるほど……、だからきみの主人はきみに口止めしているんだな」
納得したように、ブリミルは何度も頷《うなず》く。才人はもう、わけがわからずにきょとんとするばかり。
「そんなに恐ろしいなんて……。どんな技術なんだろう」
ブリミルは、悲しそうに首を振った。
「たぶん、すぐにわかるよ」
重い沈黙が流れた。耐えきれなくなった才人は、テントの中を見回した。別に目を引くものはない。だが、入り口から子供が顔を覗《のぞ》かせていた。十歳ぐらいの、可愛《かわい》らしい顔つきの女の子だった。
作務衣《さむえ》のような衣装に身を包み、腰にカラフルな紐《ひも》を巻いている。
「大丈夫だよノルン。こっちにおいで」
ノルンと呼ばれた女の子は、手に土釜《つちがま》を持ったまま、ちょこちょこと歩いてきて、テントの奥にしつらえられたかまどの上にその土釜を置いた。
「ああ、ペストーレを持ってきてくれたんだね。ありがとう」
どうやらペストーレというのがその料理らしい。次にその女の子は、懐《ふところ》から杖《つえ》を取り出すと呪文《じゅもん》を唱えた。
「わ、小さいのに魔法が使えるなんてすごいな。みんな貴族なのか?」
「貴族? よくわからないけど、ぼくたちはマギ族だ。魔法が使えるのは当然じゃないか」
というと、この村の住人全体がメイジってことか? そりゃ、貴族もびっくりだわ〜〜〜〜、と才人が感心していると、扉を破って若い男が飛び込んできた。
「族長! 大変です!」
がたん、とブリミルは立ち上がった。ノルンと呼ばれた女の子が、恐怖の色を浮かべてそのローブの裾《すそ》にかじりつく。
「来たか。早いな。もうこの場所がわかったのか」
そして、ノルンを置いてテントの外に飛び出していく。
「なんだなんだ?」才人《さいと》が驚いていると、サーシャが説明してくれた。
「来たのよ。ヴァリヤーグが」
サーシャはテントに立てかけてあった槍《やり》を取ると、才人に放った。
「な、どういうこと?」
「話はあと。とにかく、これを持ってついてきて」
わけもわからぬまま、才人は槍を握って外に飛び出した。彼らが恐れるヴァリヤーグとは何者なんだろう? 住人全体がメイジなのに、恐れる敵って…………?
村は大混乱だった。村の真ん中辺りの空き地に、若い男たちが杖《つえ》を握り、ブリミルを中心にして集まっていた。サーシャと並んで才人がそこに向かうと、ブリミルは彼らに指示を飛ばしているとこだった。
「ラグナル、きみは村の西側を守ってくれ。シグルズール、きみの組は北側で援護を頼む。ブリミル組、準備はいいか?」
十人ほどの若い男たちが腕を振り上げる。
「よし。ぼくたちは敵の正面へと突っ込んで時間を稼ぐ。サーシャ、行くぞ」
ブリミルは丘の向こうへと駆け出していく。才人はサーシャと並んでその後を追った。二百メイルも走ると、丘を越えた。
眼下に広がる光景を見て……、才人は、うう、と息をのんだ。
そこには……、大軍がいた。
まさに大軍としか形容のできない光景だった。どれほどの大軍なのか、見当もつかない。前方、四百メイルほどに、整然とした箱型の陣形を組んだ軍勢が、いくつも並んでいた。
先頭にいるのは騎馬隊だ。恐ろしい角のついた兜《かぶと》、そして胸鎧《むねよろい》を身につけている。その後ろには歩兵の隊列。四メイルほどもある長い槍を構え、まるで兵隊人形のように微動だにせず立っている。
「……あれが、ヴァリヤーグ?」
もし、あれが敵だとしたら……。何千、何万いるのかわからない。それに引き換え、こっちには数十人のメイジがいるっきりだ。いくらメイジとはいえ、相手になるわけがない。
その上、あの恐ろしい形をした兜《かぶと》や鎧の中身は、いったいなんなんだろう? ヴァリヤーグという名前から、才人《さいと》はオーク鬼などの亜人を想像した。
以前自分はあんな軍勢を止めたことがあったが……、今度の相手は行軍中でなく、整然と戦うための陣形を組んでいる。戦う準備ができている相手は隙《すき》がない。あのときのように真正面からかかっても、アリのように踏《ふ》み潰《つぶ》されるだけだろう。
先頭の騎馬に跨《またが》った将軍が、ゆっくりと右腕を上に掲げ、下ろした。軍勢がゆっくりと歩き出す。十歩歩くごとに立ち止まり、獣の吼《ほ》え声のような鬨《とき》の声《こえ》をあげた。
「……あれが敵っすか?」
才人が尋ねると、サーシャが頷《うなず》いた。
「そうよ。まったく……、なんで関係のないわたしがあんなのと……」
そう呟《つぶや》きながらも、サーシャは槍《やり》を握り締め、敵の軍勢を見据えた。
「完全武装の軍団じゃないっすか……。どーすんすか。いったい」
呆然《ぼうぜん》と目の前の光景を眺めていたら、背後からブリミルの詠唱の声が響いてきた。
エオルー・スーヌ・フィル・ヤルンサクサ
何度も聞いた、虚無≠フスペル。目の前の軍勢が、徐々に距離を詰めてきた。
オス・スーヌ・ウリュ・ル・ラド
ルイズのエクスプロージョン=Bいや……、こちらがオリジナルなんだろう。
ヴァリヤーグの軍勢は三百メイルまで達すると、一斉に長弓で矢を放ってきた。空が一瞬曇るほどの矢嵐《やあらし》だ。何百本もの矢が、頂点に達したあと重力に引かれて才人たちめがけて落ちてくる。
ブリミルのそばに控えたメイジたちが風魔法を唱える。タバサがよく使っていたウインド・ブレイク≠セ。
向かってきた何千本もの矢は、その風魔法によってそらされ、次々と才人たちの周りに突き立つ。
べオーズス・ユル・スヴュエル・カノ・オシェラ
十秒後、再び矢嵐が飛んできた。先ほどと同じ風魔法でそらされる。才人たちの周りは、突き立った矢で、まるで稲穂生い茂る田畑のように彩られた。
ブリミルの詠唱で、才人《さいと》の中から恐怖が逃げていく。代わりに満ちていくのは勇気だ。
軍勢は百メイル先にまで達した。
騎乗した将軍が再び腕を持ち上げ、振り下ろす。
先鋭に並んだ、槍《やり》を構えた重装歩兵たちが、鬨《とき》の声《こえ》と共に整然とした足並みで突撃してきた。あんな重そうな鎧を着たまま駆けることができるなんて、人間ではない。いったい、あの中身はどんな化け物だろうか。
ァラララララララララララレレレレレィ!
地を揺るがす、数千、数万もの雄たけび――――――――――――――――――。
サーシャが才人のほうを向いて、顎《あご》をしゃくった。
一糸乱れぬ動きで突撃してくる軍勢を目の前にして、あんな恐ろしい雄たけびを聞いたら普通は腰を抜かしてしまうだろう。
だが、背後に主人の詠唱を聞くガンダールヴは恐怖とは無縁だ。
ガンダールヴは主人の詠唱の時間を守るために特化した存在……。
千人の軍勢に匹敵する、武器のエキスパート。
その本来の姿に、今自分は立ち会っている
才人の中に、勇気が満ちる。
武器を構えたまま、サーシャと才人は突進した。
長槍《ちょうそう》を構えた軽歩兵たちは、一斉に槍を振り下ろす。だが、サーシャと才人は、構えた槍でもって、叩《たた》きつけられた何十本もの槍を受け止める。
そのまま弾《はじ》き飛ばし、槍を振り回しながら軍勢の真ん中へと突っ込んでいく。
「このッ!」
サーシャと才人は槍を風車のように回転させた。ガンダールヴの力でもって、重装歩兵たちはまるで藁《わら》人形のように吹き飛んだ。
一人の兜《かぶと》がはずれ、才人は敵の正体を知り、愕然《がくぜん》とした。
「……人間?」
オーク鬼でも亜人でもなく、そこにいたのは紛《まぎ》れもない人間だった。こんなに重そうな鎧を着たまま走ったり、整然と行軍したりできるなんて、どれほどの訓練を積んだのだろう?
だが、驚いている暇はない。恐るべき手練《てだ》れの戦士たちは、才人たちを押し包もうとして、次から次へと槍を繰り出してくる。
サーシャと才人は背をくっつけ、お互いの背後を守りながら槍を振るった。早く、早く、ブリミルが呪文《じゅもん》を完成させてくれることを祈りながら。
「魔法はまだかッ! 早くッ! もうもたねえ!」
一秒が、一分にも感じられるような密度の濃さにむせかえりながら槍《やり》をぶん回していると……。
ジェラ・イサ・ウンジュー・ハガル・ベオークン・イル
虚無≠ェ完成した。
ブリミルは軍勢の真ん中めがけて杖《つえ》を振り下ろす。
才人《さいと》の目の前で、真っ白な光球が膨れ上がり……、巨大な爆発が巻き起こる。爆発は軍勢を飲み込み、辺りに破壊と混沌《こんとん》を撒《ま》き散《ち》らす。
「ふごぉッ!」
絶叫と共に、才人は爆風に吹き飛ばされた。まるで津波に巻き込まれたときのように才人はもみくちゃになる。
「あだッ!」
地面に叩《たた》きつけられ、一瞬、気が遠くなる。咄嗟《とっさ》に受身をとったおかげで、なんとか重傷は免れたが、痺《しび》れるような痛みが身体《からだ》を包んでいた。
不意に腕を掴《つか》まれ、見上げると泥だらけのサーシャがいた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫じゃない……、というか俺《おれ》たちまで巻き込むなんて……、ルイズよりひでえや」
「ま、仕方ないわよね。ああするのが一番効果的だし……」
怒るでもなく、サーシャは言った。
「ほら見て」
見ると、そこは地獄絵図だった。巨大な爆発によって、前衛の重装歩兵はそのほとんどが吹き飛ばされ、地面に横たわり呻《うめ》きをあげている。よく訓練されているとはいえ、所詮《しょせん》は生身の人間のようだ。残りの軍勢は、ほうほうの体で後退していく。
「大丈夫か! すまない! ほんとうにすまない! きみの主人になんと言って詫《わ》びればいいのやら!」
そう叫びながら、ブリミルが駆け寄ってくる。才人はサーシャに肩を貸してもらい、なんとか立ち上がる。
「ま、生きてるからいいですけど……」
「そうか……、いずれきみの主人に挨拶《あいさつ》させてくれたまえ」
「無理だからいいです」
「そうか……。すまん、とにかく礼はあとで。よし、そろそろ村でも準備ができただろう。敵が再び態勢を整えないうちに撤退だ」
ブリミルは駆け出した。才人《さいと》たちもその背を追った。
「助かったわ。あなたがいなかったら、呪文《じゅもん》は完成しなかったかもしれない」
いやいや言いながらも、いざ戦いになれば主人の意に沿うのは、ガンダールヴの宿命なんだろうか。
そんなことを考えながら、才人は駆けるブリミルの背に尋ねた。
「ブリミルさん」
「なんだい?」
「なんであんな恐ろしい連中と戦っているんですか?」
「わかりあえないからだ」
「そっすか……」
独り言のように、ブリミルは呟《つぶや》いた。
「人は、自らの拠《よ》り所《どころ》のために戦う。だが、拠り所たる我が氏族は小さく、やつらに比する力を持たない。でも……、神は我々をお見捨てにならなかった。ぼくにこの不思議で強力な力を授けてくださった」
力強く、ブリミルは言い放った。
「ぼくたちは勝つよ。いつかきっと勝つ」
彼が正真正銘のブリミルだとしたら……、この先……、理由はわからないがエルフと争うことになる。そして彼は、その途中で死に至る……。
そんな彼がエルフを使い魔にしていることは、とても皮肉なことに思えた。もちろん、こんなことはブリミルには話せない。
才人《さいと》は、遠い遠い、果てしなく遠いルイズのご先祖さまの背を見つめた。
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村に戻ると、すっかりテントは片付けられ、出発の準備が整っていた。十分にも満たない時間で、これだけ手際よく撤収準備ができるなんて……。
きっと、これが彼らの日常なんだろう。
ブリミルは再び呪文《じゅもん》を唱えた。目の前に大きなゲートが開かれる。あれだけ巨大なエクスプロージョン≠撃ったあとなのに、こんなに大きなゲートを開いてのけるなんて、さすがは始祖≠ニ呼ばれた男だった。その魔力は、想像もつかない。
……いや、サーシャと出会ったときのことを鑑《かんが》みるに、異世界≠ノ開くわけではないだろう。となると、それほど精神力は必要じゃないのかもしれない。
彼が白在に異世界≠ヨと、このようなゲート≠開けるようになるには、もう少し時間が必要なんだろうか。
「女子供が先だ。早くくぐって」
女や、子供たちが中へと吸い込まれていく。このゲートは別の場所へと開いている。敵に見つからないこの世界のどこか……。
彼らは、こうやって何度も敵の襲撃をかわしながら逃亡し続けているのだ。ハルケギニアという土地で、貴族と呼ばれるようになるには、もうしばしの歴史が必要なのだろう。
男たちが中へと消え、才人とサーシャの番になった。
「さあ、次はきみだ。くぐりたまえ」
才人は光るゲートを見つめた。
この先はもしかしたら、後世、聖地≠ニ呼ばれることになる土地かもしれない。懐かしさと不安が入り混じった奇妙な気分で、才人はその光るゲートをくぐった。
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第六章 虎《とら》街道
ガリアの背骨≠ニも言われる火竜山脈は、その東端で趣《おもむき》を変える。その分水嶺《ぶんすいれい》は、南北にガリアとロマリアとを分ける国境になるのだった。
火竜山脈を下った先、内海に面した土地にはアクイレイアの街があった。そのわずか北方十リーグのところに、火竜山脈を南北に突き破る街道が存在する。
|ティグレス・グランド・ルート《虎 街 道》≠ニ呼ばれる、直線で十数リーグにもなる、間を谷に挟まれた細長い街道だ。
地層の断裂で生まれた山脈を引き裂く、幅が数十メイルほどの地峡《ちきょう》を利用して、数千年前にメイジたちが作り上げた街道である。ロマリア東部から、ガリアへ通じる唯一の街道のために、街道は常に行き交う商人や旅人で溢《あふ》れていた。
左右を切り立った崖《がけ》に挟まれている谷底にある街道は、あまり日が差さない。この街道が整備された頃《ころ》、昼でも薄暗いこの土地には旅人を襲う虎《とら》が……、人食い虎が暴れたという記録が残っている。討伐隊《とうばつたい》が何度か組織され、人食い虎が退治された頃、今度は山賊が出没するようになった。
街道を行き交う人々は、その山賊をかつての人食い虎になぞらえ、この街道を虎街道≠ニ呼ぶようになったのである。
だが、今現在は国境が安定したために山賊もほとんど出なくなった。たまに食い詰めた盗賊団が現れるばかりで、かつての暗いイメージはない。
街道の横にはかがり火が置かれ、途中開けた場所には宿場町もあった。
虎街道≠ヘ、華やかなハルケギニアの主街道の一つとして、ロマリアとガリアの反映に寄与していた。
そんな街道のガリア側の関所では、ちょっとした騒ぎが持ち上がっていた。
「通れねえ? お役人さん、どういう了見だい?」
関所の門が固く閉ざされ、その前には旅人や商人たちが群がっている。
「通れぬものは通れぬのだ。追って沙汰《さた》があるまで、待っておれ」
一人の商人が役人に詰め寄った。
「おい、待ってくれよ! 明日の晩までにこの荷をロマリアまで運ばないと、こちとら大損こいちまう! それともなんだ、あんたが代わりに荷の代金を払ってくれるとでもいうのか?」
「バカを申すな!」
次から次へと、街道の利用者たちは関所の役人に詰め寄る。
「教皇聖下の即位三周年記念式典が終わってしまうだよ! この日をわたしがどれだけ楽しみにしていたのか、あんたたちにわかるもんかえ!」
「サルディーニャに嫁いだ娘が病気なんだよ」
関所の役人はとうとう杖《つえ》を構えて、言い放った。
「わたしだって知らん! お上からは、街道の通行を禁止せよ、との命令以外、何も受けておらんのだ! いつになったらこの封鎖が解かれるのか、わたしのほうが知りたいくらいだ!」
集まった人々が、顔を見合わせる。そのとき……、一人の騎士が勢い込んで駆けてきた。馬から降りるのももどかしく、手綱を放り投げたまま役人に詰め寄った。
「急報! 急報!」
「どうなされた?」
「両用艦隊で反乱が勃発《ぼっぱつ》! 現在虎《とら》街道&面に進撃中!」
反乱? 進撃?
「冗談にもほどがありますぞ。両用艦隊で反乱など……」
騎士はそれに答えず、空を見上げた。北西の方角から……、小さな点がいくつも現れ、徐々に大きくなり艦隊のかたちをとり始めた。
「りょ、両用艦隊……」
だが、見上げた艦隊はいずれも艦尾に軍艦旗を掲揚していない。それはつまり、この艦隊がガリア王政府からの指揮下を離れたことを意味していた。
「……今は名もなき反乱艦隊ですな」
「どこに向かうつもりなんだ。この先はロマリアだぞ? 国境を越えて亡命するつもりなのか?」
集まった通行人たちも、不安げに空を見上げる。
「何か吊《つ》っているぞ!」
一人がそう叫んだ。艦隊の真ん中に位置した十隻ほどの戦列艦が、ロープで何か吊り下げている。よく見ると、いずれも人型をしていた。
「なんだありゃあ? ゴーレムか? ガーゴイルなのか?」
「生意気に甲冑《かっちゅう》を着込んでらあ」
鈍色《にびいろ》に輝く鎧《よろい》を着込んだゴーレムのような巨大な人型を見つめていると、役人の背筋に冷たいものが流れた。忌《い》むべき何かを、本能的に感じたのだった。
役人は、呆然《ぼうぜん》としてロマリアめがけて進撃する艦隊を見守った。
「いったい、何が始まるというんだ……」
元@シ用艦隊旗艦『シャルル・オルレアン』号の上甲板で、艦隊司令のクラヴィル卿《きょう》は、長い艦隊勤務で日焼けした顔を、困惑と期待にゆがめていた。
「意味がわからぬ。意味がわからぬ」
ぶつぶつと、そんなことを一生懸命に呟《つぶや》いている。
海と空の上で一生のほとんどの時間を過ごしてきた彼は、自分の主君の考えがまったく理解できないのだ。
反乱軍を装い、ロマリアを灰にせよ
端的に言って、彼が受けた命令はそれだけだった。候補生の頃《ころ》より三十年以上もの間、これほど妙で単純で残酷な命令を受けたことはない。
もとより政治には疎い人物である。自分より優秀な人間たちは、政治に興味を抱き、内紛に巻き込まれ勝手に自滅していった。
首をすくめ、ただただ忠実に命令を実行していたら……、気がつくと提督になっていた。幾度もの戦いを経験し、名実共に提督としての名声は高まっていった。
その地位に自分は相応しかったのだろうか?
常に頭にあったのは、そういう種類の問いだった。答えをじっくり考えるほど、提督勤務は暇ではなく、脳裏を過ぎる余裕もないほどには忙しくもなかった。
そして、時間は光の矢のように過ぎていった。
このまま大過なく過ごして……、たくさんの勲章を貰《もら》い、引退して、領地で狩りでもして暮らそうと考えていた矢先に……。
ロマリアをくれてやる
あの無能王は確かにそう言った。
一国をくれるというからには、最悪、大公の地位が約束されたようなものだ。いや……、ロマリアほどの規模の土地なら『王』と呼ばれるのが相応しいだろう。
王
それは、想像すらしたことのない地位だった。
現実感がない。
だが、その響きは甘く、クラヴィル卿の心をはやらせる。
「俺《おれ》は、自分が欲のない人間だと思っていた。いや、そう思い込んでいたよ」
独り言のように、クラヴィル卿は呟いた。自分に対する問いかけだと判断した、隣に立つ艦隊参謀のリュジニャン子爵が口を開く。
「領土を灰にして、どのような政《まつりごと》をさせるおつもりなのでしょうかな。我が陛下は」
皮肉が混じっていた。彼は、ジョゼフ王に含むところが大なのだった。
「知らん」
「率直ですな」
「お前との付き合いは、どれほどになるかね」
「十年以上にはなりますな」
「俺《おれ》はずっと、忠実に命令を守ってきた。気がついたら、今の地位まで上りつめていた。才があったなどとは、口が裂けても言わん。だが……、野心がなかったわけではない」
リュジニャン子爵は、疲れたような声で言った。
「わたしもですよ」
「なに、どこまで灰にするのかどうかは、俺の裁量だ。そのあたりの塩梅《あんばい》には、陛下も口を挟まんだろう」
「さて、そこまでうまくいくかどうか。サン・マロンで乗せた例の客……。あの妙な女と、この艦の腹に括《くく》りつけられた巨大な騎士人形。あいつらは、ほんとにロマリアを灰にしてしまうかもしれません。我々がどう考えようが、この艦隊は彼女の指揮下にありますからね」
シェフィールドと名乗るジョゼフ王直属の女官の顔を、クラヴィル卿《きょう》は思い出した。不吉な香り漂う女だった。あの女なら顔色一つ変えずに、比喩《ひゆ》でもなんでもなく、本当の意味でロマリアを灰にしてしまうかもしれない。
「それだけではありません。士官の間では、今回の作戦に対して、思うところがある者が多いようです。まあ、それは当然でしょうが……。噂《うわさ》では、王都《リュティス》で花壇騎士団による反乱騒ぎが起こったとか。すぐに鎮圧されたようですがね。偽の反乱艦隊で、ホンモノの反乱が起こったら……、後世の劇作家に格好のネタを提供することになりますな」
「艦隊の士官には全員領地をくれてやる。男爵の位もつけてな。リュジニャン、貴様は公爵だ」
リュジニャン子爵は頷《うなず》いた。
「すぐにふれを出しましょう。ところで……」
「なんだ?」
「この陰謀とやらで、何人死ぬのでしょうかね」
不意に、これは戦などではない、ということにクラヴィル卿は気づいた。
つまるところ、これは単なる賭《か》けなのだ。
ロマリアが灰になることも。
自分が王になれるかどうか、ということも。
艦の乗組員が、おとなしくいうことを聞くかどうか、ということも。
このような卑怯《ひきょう》な陰謀は聞いたことも見たこともない。だが、自分は逃げ出さなかった。痛む良心は、眠っていた大きな野心の前に吹き飛んだ。
俺《おれ》は心のどこかで、こういう賭《か》けを望んでいたのかもしれない
己をも含む、人の命をコインにして行うルーレット。
邪悪極まりない、慈悲のかけらもない、無惨な賭け……。
見張り員が、震える声で叫んだ。
「左前方! ロマリア艦隊!」
『シャルル・オルレアン』号の砲甲板で、ヴィレール少尉は怒りに震えていた。
「いったい、なんなんだ! この戦いは! 大義のかけらもないじゃないか!」
艦内の士官たちも、ヴィレール少尉と似たような気持ちだった。彼らは先日、わけがわからぬままに出撃準備を行わされ、ここまでやってきたのだった。
噂《うわさ》では、ロマリアに戦を仕掛けるとのことであった。
「わけがわからない……、どうしてぼくたちがロマリアと戦わなきゃならないんだ?」
水兵たちも、当惑した顔で士官たちの様子を見つめている。
上甲板から副長が駆け下りてきて、当惑顔の士官たちに告げた。
「艦隊司令長官より、両用艦隊¢S乗組員へ! 当作戦に参加した全将兵には、特別な恩賞が与えられる! すべての士官には爵位を! 兵には貴族籍を与えるとのことです!」
だが、砲甲板の誰《だれ》も歓声をあげなかった。冷ややかに、副長を眺めるのみ……。
「褒賞《ほうしょう》より、詳しい説明をいただきたい。我々は、いったい何のためにロマリアと戦わねばならぬのです? ロマリアは同盟国ではありませんか。命令に従うのは我々の責務とはいえ、いくらなんでも不可解すぎる」
そう詰め寄ったヴィレール少尉に、副長は言い放つ。
「持ち場に戻れ。そろそろ接敵するやもしれぬ」
「敵? 敵とはロマリア軍ですか? ロマリアがなぜ敵なのです? 彼らと我々の間に、戦になる、どのような理由があるというのです?」
ヴィレール少尉の仲間の砲術士官が、疑わしげな視線を副長に向けた。
「なぜ、我々は軍艦旗を掲げぬのですか?」
「そ、それは……」
「我々は反乱を起こしたのだ、という噂《うわさ》を耳にしました。寝耳に水です! いったい、誰《だれ》≠ェ反乱など起こしたというのです?」
「反乱だって!」
砲甲板の混乱は、頂点に達した。ヴィレール少尉は副長の胸倉を掴《つか》んだ。
「反乱を行うにも、それなりのやり方というものがあるでしょう! まずは全将兵を集め、いずれの側か恭順を問うのが作法というもの! いったい、艦長と司令長官は何をお考えなのか!」
「無礼者!」
副長は杖《つえ》を引き抜いた。ヴィレール少尉をはじめとする砲術士官たちも一斉に杖を引き抜く。一触即発の空気が砲甲板に漂う。
そこに伝令がすっ飛んできた。
「も、申し上げます! ロマリア艦隊が接近中! 砲戦準備!」
その報告で、副長は杖を収めた。
「……話はあとだ。とりあえず生き残ることを考えたまえ」
「くっ!」
悔しげに、ヴィレール少尉は壁を殴りつけた。
接近してきたロマリア艦隊は、四十隻ほどだった。新造の艦が多いとはいえ、数の上では百二十余隻を数える両用艦隊の敵ではない。
だが、接近してきたロマリア艦隊は一戦をも辞さぬ覚悟のようだ。船腹を見せて戦闘隊形を取ると、一斉に砲門を開いた。
そして、信号を送って寄越《よこ》した。
「接近中の国籍不明の艦隊に告ぐ。これより先はロマリア領なり。繰り返す。これより先はロマリア領なり」
もちろんロマリア艦隊側も、現れたのがガリアの両用艦隊ということは百も承知である。だが、こちらは軍艦旗を掲げていない。その問いかけは当然といえた。
クラヴィル卿《きょう》は、打ち合わせどおりの返信をした。
「我らはガリア義勇艦隊≠ネり。ガリア王政府の暴虐《ぼうぎゃく》に耐えかね、正統な王を据《す》えるべく立ち上がった義勇軍なり。ついてはロマリアの協力を仰ぐものなり。亡命許可を得られたし」
でっちあげである。
だが、正統な王を据えるために立ち上がった義勇軍、という肩書きにすれば、王権同盟はその効力を発揮できない。その四カ国同盟は、相手が共和主義者相手のときのみ、有効となるからだった。
「本国政府に問い合わせるゆえ、しばし待たれたし」
予想通りの答えが返ってきた。
さて、型どおりの挨拶《あいさつ》は済ませた。
これより先の行動計画は単純だ。
数で劣るロマリア艦隊を問答無用で吹き飛ばし、式典で賑《にぎ》わうアクイレイアに腹から吊《つ》った騎士人形≠一気に降下させる。
あとはジョゼフ王直属の女官、シェフィールドの指示に従う……。
だが、ロマリア艦隊は、さらに距離を詰めてきた。
まるで、こちらの行動を読み取っているかのようだった。
「やつら、我々の目的を知っているのですかな」
リュジニャン子爵がつぶやく。
「どちらでもよい。どのみち、やつらは灰になるのだ。戦闘準備!」
艦隊は一斉に回頭すると、ロマリア艦隊と併走を始めた。
「右砲戦開始! 目標! ロマリア艦隊!」
すぐさま砲甲板へとその命令が伝えられる。マストに旗流信号が掲げられ、旗艦の命令は各艦に伝えられた。
だが……、どれほど待っても、大砲の発射音が響いてこない。通常、旗艦が発砲しなければ、他《ほか》の艦は射撃を開始できない。他の艦も沈黙を保ったままだった。
「どうした? トラブルか? 誰《だれ》か、砲甲板を覗《のぞ》いてこい」
そばに控えた副長が硬い顔で下りていく。それから、苦々しい顔で戻ってきた。
「砲甲板で反乱! 戦闘拒否です!」
リュジニャン子爵が、苦笑を浮かべた。
「どうやら我々は、やはり後世の劇作家のネタのために、ここにいるようですな」
クラヴィル卿《きょう》は顔を真っ赤にさせた。
「甲板士官! 杖《つえ》を取れ! 砲甲板の連中を鎮圧するぞ!」
さて、クラヴィル卿が砲甲板へ向かおうとしたとき……、後ろから女の声が響いた。
「司令長官」
「こ、これはシェフィールド殿」
陛下直属の女官という触れ込みの、怪しいなりの女がそこに立っていた。黒い、まるで古代の呪術師《じゅじゅつし》を思わせるローブに身を包み、顔を隠すほどに深くフードを被《かぶ》っている。その隙間《すきま》から覗《のぞ》く唇は、まるで血をすすったかのように赤い。
「我々を降下させよ」
「だが……、まだアクイレイアの上空ではありません。ここはまだ国境線の上です」
クラヴィル卿《きょう》は、眼下の虎《とら》街道≠指し示した。
「かまわぬ。それより時間が惜しい」
「危険ではありませんか?」
シェフィールドは、にやりと笑みを浮かべた。
「敵軍など、脅威のかけらにすらならぬ」
クラヴィル卿は、その笑みで急激に現実に引き戻された。
「各艦に下令。砲戦準備解除。積荷≠投下せよ」
シェフィールドは振り向きもせずに、『シャルル・オルレアン』号が吊《つ》り下げたヨルムンガントに跨《またが》るべく、舷縁《げんえん》から飛び降りた。
メイジでもないのに軽やかに身を空中に躍らせ、ロープを掴《つか》み、ヨルムンガントの肩に舞い降りる。それを確認したあと、クラヴィル卿は甲板の水兵に命じて、吊り下げたロープを切断した。
艦隊の中ほどに位置した各艦から、次々に巨大な鋼鉄の甲冑《かっちゅう》が降下していく様が見えた。背中には、大砲、剣や槍《やり》らしきもの、たくさんの武器を背負っている。
こうやって間近で見ると、ゴーレムなどとは比べものにならぬ迫力を放っている。
ゆっくりと巨大甲冑たちは降下していく。レビテーション≠ナも発生させる魔法装置を、その内部に仕込んであるのだろうか。そうだとしたら、それだけでも恐るべき技術といえた。
噂《うわさ》では、あの甲冑人形の開発にはエルフが関わっていたらしい。それもさもありなん、と思える性能だ。
大砲をあのように、まるで銃器のように操られたら……、城壁などなんの防御にもならぬ。
そして、あのような巨大な甲冑人形が操る剣の破壊力はいかほどのものだろう?
あの甲冑を貫けるような魔法がどこにあるというのだ?
想像するだけで、背筋が震えた。
あの女……、シェフィールドとかいう、陛下直属の女官は、自分がまったく理解できぬ戦いを繰り広げようとしているのだった。
ロマリアを灰≠ノする。
実感がない言葉だった。だが、確かにあの凶悪な香り漂う甲冑《かっちゅう》人形なら、それも可能だろう。
「なんということだ」
目先の欲にくらんだとはいえ、自分もその手伝いをしようとしていたのだ。
これ以上あんな連中には関わりたくない、クラヴィル卿《きょう》はそう思った。
上空に占位した艦隊を除いて、ロマリア側で、空から落ちてくるヨルムンガント≠初めに確認したのは、虎《とら》街道≠フ出口付近に展開したティボーリ混成連隊だった。
彼らは、ガリア軍の侵攻に警戒せよ≠ニの命令を受け、式典の開始と同時に、ここで任務についていたのである。
ガリアの侵攻などあるわけがない、と笑っていた彼らだったが、上空にガリア艦隊を発見したときには、その考えを改めた。どういった理由があるのか、ガリア軍はほんとうにやってきたのである。
攻め込まれたときの行動は、すでに下知されていた。
敵種の如何《いかが》を問わず殲滅《せんめつ》せよ。額《ひたい》に文字の書かれた女を見つけた場合、必ず捕らえよ
連隊長をつとめる聖堂騎士は、緊張した声で呟《つぶや》いた。
「ガリア艦隊が投下したあの甲冑人形は……、ゴーレムか?」
甲冑人形たちは次々と、左右を高い崖《がけ》に挟まれた虎街道°ャ谷《きょうこく》の中に吸い込まれていく。
「あのゴーレムだけで、戦をするつもりなのですかな」
副長が、耳をいじりながら呟いた。
「見たところ、他《ほか》に降りた兵はいないな……。未だ艦に積んでいるのかな」
「どうされます?」
副長が尋ねた。
「どちらにせよ、今のうちに各個撃破したほうが楽に決まっている。行くぞ」
自信たっぷりに、連隊長は言った。彼の自信には、きちんとした裏づけがあった。自分の指揮下にあるのは、銃歩兵大隊だけではない。
移動できる砲兵≠焉A持っているのだった。
二個歩兵大隊が虎街道への進軍を始めると、その砲兵大隊≠ェ草を食《は》むのをやめ、のっそりと立ち上がった。
立ち上がったのは、甲長四メイルはあろうとかという、巨大な陸ガメであった。そしてなんと、ハルケギニアの南方に生息するその大ガメの背中には、太い青銅製のカノン砲が設置されていた。
『砲亀兵《ほうきへい》』だった。
ハルケギニアでは割とポピュラーな兵科である。
一般に思われているほど、カメは歩みの鈍い生き物ではない。
そのカメに背負わせることにより、大砲の迅速な展開を可能にさせたこの兵科は、ハルケギニアの攻城戦を一変させたと言われていた。
亀付きの兵隊たちは、カメの口に結わえられた手綱をたくみに操り、砲亀≠ノ進軍を開始させた。大砲を背負い、ずしっ、ずしっ、と足音を響かせて歩くカメは一種の滑稽《こっけい》さをかもし出している。
だが、このカメが背負った大砲は、滑稽とは一番遠いところに存在していた。動きの鈍いゴーレムなど、この砲亀兵大隊の一斉射を食らったらバラバラに吹き飛んでしまうだろう。
街道に入り、五リーグほど進んだ先で連隊長は一旦《いったん》部隊を止めた。
そこは峡谷《きょうこく》に挟まれた虎《とら》街道≠ナ唯一、開けた場所である。左右には建物が並び、ちょっとした宿場町になっていた。
いつもは旅人で賑《にぎ》わう場所だったが、ロマリア側でも通行を禁じたために人影はない。連隊長はそこに部隊を展開させ、先を窺《うかが》う。
一リーグほど先にうごめく影を見つけ、連隊長はにやりと笑った。おそらく敵は素人だ。
これほど狭く逃げ場のない場所で、のんびりとゴーレムを進軍させるとは……。
「あれでは、射的場の的ではないか。砲亀兵、弾込め」
カメに取りついた兵隊たちが、大砲に火薬と砲弾を込めた。砲亀兵が搭載したカノン砲の射程距離は二リーグ弱はあったが、ゴーレムほどの大きさにぶち当てるためには、五百メイルほどまで近づける必要がある。
連隊長はそれまで待って、一気にカタをつけようと判断した。兵隊たちも、小ばかにしたような笑みを浮かべ、軽口を叩《たた》き始めた。
だが、そのゴーレム≠ェ近づくにつれ、軽口は驚愕《きょうがく》の呻《うめ》きへと変わっていく。
「甲冑《かっちゅう》を着てやがる」
「なんだか、動きが軽くねえか?」
連隊長はその姿に、本能的な恐怖を覚えた。
ただのゴーレムじゃない。
「う、撃てッ!」
恐怖に震えた結果、連隊長は焦って射撃命令を出してしまう。
砲亀兵《ほうきへい》は次々にカノン砲を発射した。狭い谷に大砲の発射音が響き、共鳴する。カメは甲羅に首を引っ込め、砲台としてよく射撃の衝撃に耐えた。
命中を期待できる距離ではないとはいえ、目標は固まっているし、また門数も多い。
砲弾は見事ゴーレム≠フ群を包み込むように着弾し、辺りに煙を振りまいた。何発か命中したらしく、金属が響く音が聞こえてくる。
大口径のカノン砲だ。
命中すれば、ゴーレムなどバラバラに……。
だが……、煙の中、ゴーレムたちは何事もなかったかのように動いている。
「無傷です」
呆然《ぼうぜん》と副長が告げる。
「バカな……。カノン砲の直撃だぞ。城だってぶち壊す砲亀兵大隊の一斉射だぞ」
「次! 次射だ! 早く!」
だが、次射は行われなかった。ゴーレム≠ェ一斉に駆け出し、こっちに向かってきたのである。その手には、巨大な大砲が握られていた。
「ゴーレムが走ってる! ゴーレムが!」
「手に大砲を持ってるぞ!」
「ひぃいいいいいいいい!」
パニックに陥《おちい》った連隊の兵士たちは武器を放り出し、我先にと街道の出口へ向かって逃げ出した。
ヨルムンガントが、手にした大砲を一斉に放ったのはそのときだった。熱く焼けた榴弾《りゅうだん》が、逃げ出す連隊の真ん中で炸裂《さくれつ》した。
先ほどの砲亀兵のものとはまるで桁違《けたちが》いな大音声が響き、辺りはまるで地獄絵図のようになった。これほど狭い場所で、中に火薬を仕込んだ榴弾が爆発したのだからたまらない。
ティボーリ混成連隊はその一撃で壊滅した。
パチパチと火が弾《はじ》ける中、ヨルムンガントは街道を南下した。その姿は地獄を辺りに撒《ま》き散《ち》らす、古代の悪魔の軍団のようだった。
幸運にも生き残った兵隊が一人、首を引っ込めた砲亀のそばから、通り行くヨルムンガントの群を見上げた。
「ば、化け物……」
アクイレイアの聖ルティア聖堂の教皇控え室は、蜂《はち》の巣をつついたような騒ぎになっていた。神官たちは、次々運び込まれる国境付近での戦闘の報告に怯《おび》え、隅っこのほうで震えている。
聖堂騎士隊の隊長たちが、郊外に駐屯《ちゅうとん》した己の騎士隊に向かうべく、聖堂を飛び出していく。外では、突然中止になった教皇のミサの理由が、ガリア軍の侵攻のためと、火のような速さで噂《うわさ》が伝わり混乱のきわみを呈《てい》していた。
ハルケギニア全土より集まった外国からの信者たちは、とりあえず街から逃げ出そうとして右往左往の騒ぎを繰り広げている。
そんな中、アンリエッタはなにがなにやらわからぬままに、一人控え室の中に呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。
飛び交う怒号。
次々駆けつけてくる急使。
戦?
ガリアが戦を仕掛けてきたの?
その現実に、頭がついていかない。陰謀≠ナ済むものを、どうしてまた戦など仕掛けてきたのだろう?
一人の騎士が、国境付近でガリア艦隊とにらみ合っているロマリア艦隊からの急報を携えてきた。
「攻めてきたのはガリアの反乱軍とのことです!」
その知らせを聞き、居並ぶ武官たちは一笑に付した。
「反乱軍がどうして外国に攻め入るのかね?」
「亡命を拒否されたから、とのことです」
武官たちは大声で笑った。
そばで聞いていたアンリエッタも、あまりに不器用な言い訳だ、と首を振る。
とうとう始まってしまった、と悲しみにくれた。
まさかガリアが本気で戦を仕掛けてくるとは思わなかった。
ここは外国なので、アンリエッタにはあらゆる指揮権が存在しない。何もできぬもどかしさだけが、心の中でめぐる。連れてきた水精霊騎士隊《オンディーヌ》とルイズだけがその手駒《てごま》であったが、どちらも先ほどから外で聖堂の警護に当たっている。
肝心の教皇ヴィットーリオは、奥の個人用控え室に数人の部下を連れて引きこもったまま、姿を見せていない。
アンリエッタはガリアの突然の侵攻は、ロマリアの挑発にあると判断していた。国境に兵など集めるから、ガリアを刺激してしまったのだ。
やはり、陰謀≠フみを引き出す謀略に留めておけば……、と自分の無力さに歯噛《はが》みした。
そのとき、アクイレイア駐在のガリア領事が、供の騎士を引きつれ尊大な態度で現れた。ヴィットーリオの代わりに臨時の執務を任されている武官団がその相手をした。
「遺憾に耐えませぬ。まこと遺憾に耐えませぬ。このたびは、我が国の叛徒《はんと》どもが、貴国に多大なる迷惑をかけているとのこと。我が王も深い憂慮の意を示されております。つきましては……」
事情を察している武官は、歯に衣《きぬ》を着せぬ物言いで領事に告げた。
「鎮圧の兵ならいらんぞ。さらに強盗の仲間を屋敷に引き入れるバカがどこにいる。帰ってジョゼフに伝えろ。信仰|篤《あつ》き我がロマリアの精兵は、ガリアの異端どもを一人残らず叩《たた》き潰《つぶ》してくれるとな」
「何をおっしゃるのか。これは反乱です。彼らはわが国にとっても……」
言葉を続けようとしたガリア領事に、ロマリア武官は杖《つえ》を突きつけた。居並ぶ神官たちから悲鳴があがる。
「武官殿、武官殿、聖堂を血で汚されては……」
恐怖で震える領事に、武官は言葉を投げた。
「失礼。我らロマリア武官はほとんどが聖堂騎士あがりなものでして。いささかの不調法はお赦《ゆる》し願う。だが、お言葉にはくれぐれも注意されよ。あなたがた文官にとって、言葉は我らの杖のようなもの。抜かれる際には、是非ともお覚悟を」
領事は何度も頷《うなず》くと、ほうほうの体で這《は》い出《だ》していった。見事な口上でガリア領事に恥をかかせた武官に、拍手が飛ぶ。
そんな騒ぎを見つめながら、アンリエッタは実感した。
戦が始まったのだ
教皇の控え室の扉が開き、共の神官団を連れたヴィットーリオがやっとのことで姿を見せた。アンリエッタの頭に血が上り、そばへと駆け寄った。平手打ちをしたい欲求をこらえ、アンリエッタは心の底に渦巻く感情を爆発させた。
「聖下! あなたはどう責任を取るおつもりなのですか! あなたの挑発で、ガリアは戦を仕掛けてきたではありませんか!」
「わたくしの挑発?」
怪訝《けげん》な顔で、ヴィットーリオが問い返す。
「そうです! あなたが、国境に軍など配備するから、いらぬ戦が起こる羽目になったのです!」
「これは異なことを。国境に軍を配備しなければ、我らには会議する時間すら与えられませんでしたよ。彼らが決死の覚悟で敵を食い止めているからこそ、我らはこうやって対策を練ることができたのです」
ヴィットーリオはアンリエッタに顔を近づけた。
「我が同胞≠殺すために、ジョゼフ王は軍を使った。それだけの話ではありませんか」
あっという間に言いくるめられ、アンリエッタは悔し涙を流した。
「でも、でも……、なにも戦になることは……」
「あなたは誤解しておられる。アンリエッタ殿。こたびの戦いは政争ではないのです。陰謀を暴いて失脚させる等の、宮廷のままごととは根本に意を変えるのです。どちらが滅亡するのか。この世から消え去るのはどちらなのか。そういう種類の戦いなのです。陰謀を暴くのはその手段の一つに過ぎません。そしてそう、戦もまた……、その手段の一つなのですよ」
アンリエッタは、呆然《ぼうぜん》としてヴィットーリオを見つめた。
峻烈《しゅんれつ》な信仰心の裏側にあるものに、アンリエッタは気づいた。
この教皇の心には……、まさに慈悲と残酷が無理なく同居しているのだ。
「交渉? 調停? そんなものはもはやこの戦いには存在しません。こうなったからには全力で相手を叩《たた》き潰《つぶ》す。同じ力を持つ以上、完全なる同盟か、完全なる敵対か。そのどちらかしかないのです。今回の件を、通常の外交と捉《とら》えられてはわたくしが困る。おそらく、ジョゼフ王もそうでしょう」
居並ぶ神官、武官たちに、ヴィットーリオは向き直った。思えばここには、ロマリアの中枢を担う人物が集っている。
その陣容を見て、アンリエッタはどうして気づかなかったんだろう≠ニ一人自問した。
陰謀の証拠を掴《つか》み、ジョゼフ王を退位に追い込む
エルフに聖地を返還するよう、交渉を持ちかける
それらが決裂したら、自分はどうするつもりだったのだ?
おとなしく引き下がる? バカな。それができるぐらいなら、初めから考えすらしない。だがヴィットーリオは違う。彼は交渉が決裂したら、すぐさまこうするつもりだったに違いない。それが早まっただけのこと……。
彼は言った。
『ブリミル教徒同士が争う愚を終わらせたい』
ああ、もともとヴィットーリオはそのために、国や民すべてを賭《か》け金にして、乾坤《けんこん》一擲《いってき》の博打《ばくち》をするつもりだったのだ。
大きな狂気をたった一度だけ用いて、すべてに片をつけるつもりなのだった。
「ガリアの異端どもは、エルフと手を組み、我らの殲滅《せんめつ》を企図《きと》している。わたくしは始祖と神の僕《しもべ》として、ここに聖戦≠宣言します」
聖堂が一瞬静まり返り、それから水が沸騰《ふっとう》したかのように沸《わ》いた。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
聖戦
ハルケギニアの民にとって、のるかそるかの大博打。
この世で人のみが行える、果てのない殺し合い……。
熱狂は収まらなかった。この瞬間より、彼らは神と始祖ブリミルのために、死をも恐れぬ戦士となった。
アンリエッタは、へたりと床に崩れ落ちた。聖戦≠ェ発布されてしまったのだ。味方が死に絶えるか、敵を殲滅するまで終わらない、落としどころのない狂気の戦が始まってしまったのだ。
もうどうにもならない。この戦をとめることはもう、誰《だれ》にもできない。
現代の、始祖ブリミルの名代となった男は、言葉を続ける。
「聖戦≠フ完遂は、エルフより聖地≠奪回することにより為すものとします。すべての神の戦士たちに祝福を」
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第七章 アクイレイアの聖女
門が開かれ、巫女《みこ》服に身を包んだルイズが現れたとき、聖ルティア聖堂の前に集った観衆たちは、熱狂的な歓声をあげた。
「聖女! 聖女! 聖女ルイズ!」
隣に立った教皇ヴィットーリオが、先ほどと同じ口上を伝えた。
「繰り返し申し上げます。わたくしは即位三周年記念式典のこの良き日に、悲しいお知らせをせねばなりません。異端の教えにかぶれた隣国ガリアの軍勢が、本日午前、大挙して我が聖なる祖国、ロマリア連合皇国に攻めてきたのです」
観衆から、ガリアに対する激しい罵声《ばせい》が飛んだ。ガリアから来た参拝客たちは、街の隅で固まって震えている。この日、一番不幸なのは彼らであった。彼らにとっても、まさに寝耳に水の事態だったからである。
「だが、敬虔《けいけん》なるブリミル教徒におかれては、心配することは何一つありません。神と始祖は、この災厄の日のために聖女≠遣わされました。それが彼女……、わたしの巫女をつとめていた、ミス・ヴァリエールです」
「聖女! 聖女ルイズ!」
再び歓声が飛んだ。ルイズは誇らしげな顔で一礼する。その隣には、蒼白《そうはく》な表情のアンリエッタと、とんでもないことになってしまった、と震えるティファニアの姿があった。
「わたくしは彼女に称号を与え、もって護国の聖人の列に彼女を叙《じょ》することを宣言します。この聖女が降臨された土地にちなみ、彼女をこう名づけます」
一旦《いったん》区切り、ヴィットーリオは言葉を続けた。
「アクイレイアの聖女≠ニ」
ルイズは教皇の前に跪《ひざまず》くと、頭《こうベ》を垂れた。教皇ヴィットーリオは、ルイズに祝福を与える。観衆たちの熱狂は頂点に達した。
「彼女がいる限り、神の国ロマリアは、この水の都アクイレイアは永久に不滅です。前線へと赴く彼女に祝福を! 神よ、アクイレイアの聖女に恩寵《おんちょう》を与えたまえ!」
「アクイレイアの聖女に恩寵を与えたまえ!」
ルイズは立ち上がり、誇らしげに手を振った。
観衆の声援に包まれていると、心の中からふつふつと勇気が湧き上がってくる。自分に与えられた神の力……、虚無=B
この力が、自分をここまで運んできてくれた。
何を唱えても爆発するだけだった自分の魔法は、いつも身から離さず携えている始祖の祈祷書《きとうしょ》≠ノよって目覚めたのである。
この魔法は、何度も自分と祖国の危機を守ってきた。
何度も、何度も……。
そのとき……、わずかに自分の心が震えた。ぴくりと、小さなものだったが、ルイズは妙な違和感を覚えた。
自分と祖国を守ってきたのは……、自分の魔法だけだったんだろうか?
その疑問は妙に心地よく滑り込み、ルイズの心を揺さぶった。
わたし、何を考えているんだろう?
そんなの、当たり前じゃないか。ルイズは心を落ち着かせるために、一つ一つの出来事を丁寧に思い出し始めた。
ゴーレムに踏《ふ》み潰《つぶ》されそうになったとき。
アルビオンでワルドに裏切られたとき。
タルブの上空で、アルビオン艦隊を吹き飛ばしたとき。
そして、アルビオン撤退戦の折、しんがりを命じられたとき……。
いずれの記憶にも、他《ほか》の影はない。
自分はこの力で、すべてを解決してきたのだ。間違いない。目をつぶれば、危機に陥《おちい》ったときに炸裂《さくれつ》した魔法の光が……、聖なる虚無≠ェ瞼《まぶた》の裏に浮かぶではないか。
でも、そう思うとき、胸のどこかが激しく痛む。なにやら行き場のない気持ちがあって、それが行き先を求めて暴れているようだった。
ルイズは胸を押さえた。心配そうに、ティファニアが顔を覗《のぞ》き込《こ》む。
「……大丈夫?」
「平気よ。ちょっと胸が苦しくなっただけ。緊張しているんだわ」
ちょうど教皇が聖戦≠フ発動を観衆に伝えたところだった。歓声が一際大きく響く。だが……、その歓声が自分の胸に届かない。
皆に期待される
自分はそのことのみを考えて、ここまでやってきたというのに、何故か心は震えない。あるのは空虚な何か≠セった。
どこまでも深い、吸い込まれそうな心の暗部にルイズは気づき、胸を押さえた。
「ルイズ。ほんとに……」
「大丈夫。ほんとに大丈夫。ただ、ちょっと横にならせて。ええ。ほんの十分でいいから……」
奥の控え室で、ルイズはベッドに横たえられた。そばにはアンリエッタがいて、その手をぎゅっと握り締めている。
「申し訳ありません。すぐに出陣せねばいけないというのに……」
「怖いのねルイズ。いいわ、しかたのないことよ。わたしがあなたにつけられた兵を率いて、前線に赴きます。あなたはここで休んでいてちょうだい」
「いえ、それには及びません。ただちょっと……、なんだか心に穴が開いているように感じるだけなのです」
「心に穴?」
「はい。これはなんなのでしょうか? 今まで、一度もこんな感情を持ったことなどないのに……」
アンリエッタはすぐにその正体に気づいた。かつて恋人を失ったアンリエッタは、その気持ちの理由が手に取るようにわかったのである。
「それはきっと……、愛よ。あなたの愛が……、行き先を失《な》くした愛が、あなたを苦しめているの」
「愛? ご冗談を! わたしはかつて誰《だれ》も愛したことなどありません」
「そうね。今のあなたはそうかもしれない。でも以前、その気持ちには向かう先があったのよ。あなたは必死になって否定していたけれど……。あったのですよ」
アンリエッタは悲しくなった。確かにティファニアの虚無は、才人《さいと》の記憶≠ルイズの脳裏から消し去ったのだろう。
でも……、彼に対する気持ち≠セけは残ったのだった。
宛先《あてさき》のない手紙のようなその気持ちが、ルイズの心の中で暴れているのだ。
「そんな……、わたしに愛≠ェあるとすれば、それはハルケギニアすべてに対する博愛と呼ぶべきものです。姫さま、褒《ほ》めてくださいませ。このわたしが聖人の列に叙《じょ》されたのです。ゼロのルイズとバカにされ続けたこのわたしが……。アクイレイアの聖女=Bこれほど誇らしい肩書きがあるでしょうか?」
そう言いながらも、ルイズはどこか苦しそうな顔だった。
聖人の列より、素晴らしいものがこの世にはある。アンリエッタはそうルイズに言ってやりたかった。でも……、それをルイズに言って何になろう? もう、ルイズの愛には向かう先がない。
聖女にでも、なるしかないではないか。
「聖女殿! 準備が整いました! ご出陣の用意を!」
騎士の一人がルイズを呼ぶ声がする。
ルイズは、胸を押さえながら立ち上がった。
「父さまも、母さまも、姉さまたちも、このことを聞いたらみんなわたしを褒《ほ》めてくださいますわ。わたし、それが誇らしいのです」
ルイズはにっこりと笑うと、聖堂の外へ出て行った。
後に残されたアンリエッタは、隅で泣きじゃくるティファニアに気づいた。アンリエッタはティファニアに近づくと、その手を握った。
「……わたし、とんでもないことをしてしまいました。苦しむのなら、と行ったことが、さらなる苦しみを与えてしまうなんて……」
「あなたはまだ、誰《だれ》も愛したことがないのね? わたしの従妹《いとこ》」
「はい」
ティファニアは頷《うなず》いた。
「なら、誰もあなたを責めることはできませぬ」
アンリエッタは控え室から聖堂の中を覗《のぞ》いた。聖戦が発動されたからなのか、神官を先頭にして信者たちが始祖像に向かって熱心にお祈りを捧《ささ》げている。
自分もああして一日中祈りを捧げていたことがあった。でももう、祈りを捧げる気持ちにはなれない。
始まってしまった聖戦=B
止められなかった戦を終わらせるために、アンリエッタは為すべきことを考え始めた。
「『虎《とら》街道≠ノ潜む敵部隊を殲滅《せんめつ》せよ』かぁ……。簡単に言ってくれるね。どうも」
そう、せつない声で呟《つぶや》いたのはマリコルヌ。隣では、ギーシュが馬に跨《またが》ったまま腕組みをして考え込んでいる。その後ろには、浮かない顔でぞろぞろとついてくる少年騎士たちの姿……。
照りつける明るい太陽と、その表情とがうまくマッチしない。
本日……、聖堂の警備任務についていたら、とうとうその報告はやってきた。
ガリア反乱軍の侵攻。
だが、反乱軍とは名ばかりで、実はジョゼフの意を受けた強力な軍勢らしい。
街道上空ではガリア両用艦隊と、ロマリア艦隊とがにらみ合いを続けている。
ロマリア艦隊は劣勢なのでこちらから仕掛けることができないのだが、なぜかガリア両用艦隊は攻撃をしてこないようだ。
そんな状況を説明されたあと、アクイレイアに駐屯《ちゅうとん》していたありとあらゆる部隊に出撃命令が下った。
そして、ギーシュたちには特別な命令が与えられた。
『アクイレイアの聖女≠アと、ミス・ヴァリエールの詠唱を援護せよ』
ルイズの魔法が、なにやら妙な効果を持ち、強力な威力を誇ることは皆が知っている。いつぞやのアルビオン戦役では、ほんとはしんがりを命じられたのはルイズという話ではないか。
いつしかゼロのルイズ≠ヘ女王陛下のルイズに変わり、今や教皇御自らアクイレイアの聖女呼ばわりである。なんとも大した出世だった。
露払いをつとめる憂鬱《ゆううつ》な顔つきの水精霊騎士隊《オンディーヌ》とは裏腹に、ルイズは意気揚々としていた。なんだか無理やり自分を奮い立たせているようにも見える。
その後ろには聖堂騎士隊を二つも従えていた。一つは例のカルロ率いるアリエステ修道会付き聖堂騎士隊。さらにその後ろには、民兵の連隊がくっついていた。
これらすべてがルイズの護衛だった。
どうやら我がアクイレイアの聖女≠ヘ、今回の戦の主力≠フようだ。
ルイズは顔を輝かせ、今回の戦いがいかに有意義なものであるのかをまくし立てる。
「なんとも名誉なことだわ。あんたたちもそう思うでしょ?」
マリコルヌが相槌《あいづち》を打った。
「名誉。名誉。ああ、名誉なことだね。なにせ聖戦≠ワで発動されたしね」
「そうよ! ああ、なんて素晴らしいのかしら! わたしたち、聖なる国の、聖なる代表なのよ。おごり高ぶる異端どもやエルフに、思い知らせてあげようじゃない!」
「随分とのん気だな」
「なによ。浮かない顔ね」
「いまどき、聖戦が発動されて喜ぶのは、神官どもに聖堂騎士ぐらいなもんさ。きみ、聖戦≠ェどんなものか知ってるのかい? なに、神と始祖ブリミルのためといえば聞こえはいいが、聖地を取り返すまで終わらない、恐ろしい戦なんだぜ。まったく、一銭にもなりゃしないよ! ぼくらのご先祖が、どんだけ聖戦≠ナ命や有り金をすったか教えてやろうか」
ギーシュも大きく頷《うなず》いた。
「神と始祖ブリミルが恩寵《おんちょう》たれたもうハルケギニアのために命を張るのはやぶさかじゃないが……。モノには限度ってもんがある。エルフを相手にするのは覚悟してたが、まさか聖戦とはね」
「なによなによ! 怖《お》じ気《け》づいたの? あんたたち、それでもトリステイン貴族なの!? ここで手柄をあげて、女王陛下と教皇聖下の御覚えをめでたくしようとか思わないの?」
「全滅したら、誰《だれ》がぼくたちの名誉を保障してくれるんだい」
すると、すっと後列からカルロが進み出て、ルイズとギーシュたちの間に割って入る。
「神が保障してくださる。神はすべての行いを見ておられるのだよ。聖戦≠ナ死ねば、その魂は|ヴァルハラ《天上》に送られる。そこで神の軍列に叙《じょ》されるのだ。これ以上の名誉があるかい?」
水精霊騎士隊《オンディーヌ》の少年たちは、澄ました神官戦士の声に呆《あき》れた顔になった。真顔で|ヴァルハラ《天上》≠ネどと言われると、どうにも居心地の悪い何かを感じるのだった。
「カルロ殿のおっしゃるとおりだわ。わたしたちは、ここで死すとも護国の神となりて、天上から聖なる戦を見守るのよ。いつしか、聖地≠取り返す日のために……」
「素晴らしい説教です。聖女殿」
ルイズは目をキラキラとさせながら、夢見るような口調で言った。
「わたし……、とても誇らしいわ。魔法の才能がないって言われて、いつもゼロゼロばかにされていた。……そんなわたしが、今こうして、神と始祖とハルケギニアのための戦いの先頭に立っている。こんな名誉ってないわ。これほど誇らしい日はなかったわ。今日、ここで死すとも、わたしの魂は永久に生きるでしょう」
「あなたはアクイレイア……、いや、ハルケギニアの聖女ですよ。ご安心ください。あなたの詠唱の時間は、我々が稼ぎます。なに、一命に代えても」
二人のそんなやり取りを、水精霊騎士隊の少年たちは、冷ややかに見つめる。
「で、そんな偉大な聖女どののご出陣なのに、教皇聖下はアクイレイアでのんびりご観戦かい? こないだは先頭に立って敵を粉砕するとかなんとか騒いでおられなかったか?」
黙って話を聞いていたギムリがそう言うと、カルロとルイズに杖《つえ》を突きつけられる。
「不敬だぞ!」
「不敬よ!」
「ごめん……。いや、すいません。ちょっと気になったもんで」
「聖下がその御身を危険にさらせるわけないじゃない! 聖下さえご健在なら、ハルケギニアは何度でも蘇《よみがえ》る! そう、たとえエルフに焼き尽くされてもね」
ルイズは拳を握り締めると、聖具のかたちに印を切った。
そんな様子を見つめ、
「聖女より、ゼロのルイズのほうがなんぼかマシだったね」
マリコルヌが、ぽつりとせつない声で言った。
「サイトがいなかったら、ルイズはこんな風になっちゃってたんだなあ」
ギーシュが、うんざりした調子で呟《つぶや》いた。
進軍を続けると、森の向こうに切り立った巨大な峡谷《きょうこく》が見えてきた。火竜山脈にぱっくりと開いた大きな切れ目……、虎《とら》街道≠セ。
その前には、幾重《いくえ》にも入り口を包囲した軍勢の姿が見える。急遽《きゅうきょ》展開したロマリア軍だ。どうやら敵勢は未だ峡谷の内部にいるらしい。
ルイズたちの隊列を認めたらしく、包囲線の中から一人の騎士が駆け寄ってきた。
「指揮官は! 指揮官はおられるかー!」
巫女《みこ》服を纏《まと》ったルイズが、すっと前に出で、澄ました顔で手をあげる。
「おお! あなたはもしや連絡のあった聖女殿! お待ちしておりました!」
「戦況を説明してください」
「はい! 敵勢はゴーレムらしき全長二十五メイルほどの甲冑《かっちゅう》人形どもです。十体ほどと見積もられますが、これがまた、どうにもならないほど強力でして……。先行したティボーリ混成連隊は全滅。文字通りの全滅です! 今現在、詳しい様子を窺《うかが》うために、斥候《せっこう》隊を出しておりますが……」
次の瞬間、虎街道≠フ入り口から煙がすさまじい速さでもうもうと溢《あふ》れ出し、ついで榴弾《りゅうだん》が続けざまに爆発する音が響く。
入り口をせつない顔で見つめたあと、
「全滅のようです」と呟《つぶや》いた。
「あとはわたしたちにお任せください」
ルイズはそう言うと、手をあげて進軍を開始した。口々に居並んだロマリア軍の将兵たちが、ルイズに歓声を送る。
「アクイレイアの聖女殿! 万歳!」
「我らが巫女殿! 敵を吹っ飛ばしてやってくれ!」
包囲した軍勢が左右に分かれ、ルイズたちを入り口の手前まで通す。
ぱっくりと開いた虎街道の入り口は、すべてを飲み込む巨大な竜の顎《あご》のようだった。切り立った崖《がけ》から突き出た岩は、すべてを切り裂く牙《きば》のように見えた。
立ち込める煙の奥を見据え、ルイズは次々に指示を飛ばす。
「誰《だれ》か、わたしの前まで敵を引っ張ってきてちょうだい。一撃で片をつけるわ」
カルロが頷《うなず》くと、ギーシュたちに顎をしゃくった。
「ご指名だ。行きたまえ」
未だ爆発煙と黒色火薬の匂《にお》い漂う峡谷の奥を指差し、ギーシュが言った。
「ぼくたちに、ここに飛び込めって言うのかい?」
「当たり前だ。我々は聖女殿を守らねばならん。君たちでは不可能な任務だ。だから可能な仕事を与えてやろうというのだ。感謝したまえ」
その物言いに、さすがに少年たちもキレた。
ギムリが杖《つえ》を引き抜くと、少年たちは一斉に杖を抜いた。
「貴族に死ね≠ニいうときには、それなりの作法があるんだぜ。くそ坊主」
「仲間割れしている場合じゃないでしょう!」
ルイズが叫んだ。
杖を突きつけあってにらみ合う騎士隊を諌《いさ》めたのはギーシュだった。
「諸君、杖を引っ込めようじゃないか。ルイズの言うとおりだ。ケンカしている場合じゃない」
「わかったら、早く行きたまえ」
苦々しげにそう言ったカルロに、ギーシュは向き直る。
「任務に赴《おもむ》く前に、正直なところを言ってもよろしいか」
「聞いてやろう」
「でははっきりと申し上げるが、ぼくはきみたちのやり方が気に入らない。そりゃぼくたちはブリミル教徒だ。ハルケギニアの貴族だ。教皇聖下が聖戦とおっしゃるのなら、従うまでだ。でも、ぼくは多少、アルビオンで地獄を見てきた。威勢のいいことばかり言ってる連中は、ぼくも含めていざというときにはからっきしだった。だから、いまいちきみたちにはついていけないのさ。なんというかな、そういうのは芝居の中だけにしておいて欲しいんだよ」
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カルロは顔を赤くしたが、なんとか怒りをこらえた。
「結構!」
「ギーシュ!」
ルイズが叫んだ。
「ルイズ。一つだけ約束してくれ」
「なによ」
「死ぬなよ。危なくなったら、すべてを放り出して逃げるんだ。サイトが言ってただろ。神さまや名誉のために死ぬのはバカらしいってな。聞いたときにはなんて言い草だと思ったもんだが、今ならわかる。死んだらご奉公は無理だぜ。みっともなくても生き残る。それがほんとの名誉だ。それに、きみを死なせたらサイトに恨まれるからね」
「だからそのサイトって誰《だれ》よ!」
ギーシュはきびすを返すと、腕を振り上げた。
「前進!」
少年たちがぞろぞろと後に続く。マリコルヌが、つまらなそうに呟《つぶや》いた。
「やれやれ。神さまのために死ぬってのは、いまいちどころかいまさんぐらいピンとこないけど……、友の恋人のためなら、命を賭《か》けるのもしかたない。参ったね」
ギムリが言った。
「まあしょうがないよな。あいつは何度もぼくたちを助けてくれたんだから」
レイナールが、メガネを持ち上げながら呟いた。
「で、隊長殿。そんな恐ろしい敵を相手にして、ぼくたちは任務を遂行できるのかい?」
ギーシュは真顔で言った。
「ぼくがいる」
今度は誰も逃げ出さなかった。結局のところ、彼らは貴族なのだった。
「うわぁああああああ!」っと絶叫して、才人《さいと》は起き上がった。
荒く息をつき、辺りを見回す。
「なんじゃここは」
そこは……、板壁の薄暗い部屋だった。自分はベッドに寝かされている。ヴァリヤーグたちに襲われ、ブリミルの出したゲートをくぐったはずなのに……。
いったい全体、何がどうなっているのかわからない。
「お目覚めかい?」
その声に振り返ると、ジュリオが椅子《いす》に腰掛けてこっちをじっと見つめていた。
「わ! なんだよお前!」
それから才人《さいと》は不思議そうに首を振る。
「む……、だとすると、やっぱりさっきのは夢だったのか……」
「夢?」
興味深そうに、ジュリオは才人を見つめている。
「ああ。随分ヘンな夢だぜ……。笑うなよ?」
「笑わないよ」
「なんと六千年前にタイムスリップした夢なんだよ。ほら、お前らが神さまとあがめる始祖ブリミルと、なんと初代ガンダールヴが出てきやがったんだ」
「ふむふむ」
「びっくりすることに、初代ガンダールヴはエルフで女だったんだぜ? そいつらといっしょに大軍と戦う夢だってんだから大笑いだよなあ」
するとジュリオは、にっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「あはは、ヘンな夢だね」
「だろ? まったく……。でも夢にしちゃ相当生々しかったな……。いやはや、ほんと戻れてよかったぜ。ところで、ここはどこなんだ?」
「アクイレイアの街だよ」
「それって、教皇聖下が創立三周年記念式典とやらを行っているという……」
「即位さ」
「どっちだっていいじゃねえか。でもまた、どうして寝かして連れてきたんだ? 逃げ出すとでも思ったのか?」
「いや、そうじゃない」
それから才人は、心配そうに顔を曇らせた。
「で、ガリアはどうした? あのミョズニトニルンは? やっぱり手を出してきやがったか?」
「ああ」
「そうだよな……。まだだよな。そうだとしたら、俺《おれ》とお前がこんなところで悠長にしていられるわけがねえもんな……、って! なんつったぁ」
才人《さいと》はベッドから跳ね起きると、ジュリオの胸倉を掴《つか》んだ。
「ガリアは両用艦隊に例の騎士人形を満載させて、我がロマリア連合皇国に攻め寄せてきた。今現在、国境では激しい戦闘が繰り広げられている」
「なんだと? ギーシュやルイズは?」
「彼らはすでに投入された。ちょうどついた頃《ころ》じゃないかな」
「こ、こうしちゃいられねえじゃねえか!」
才人はドアに取りついて、扉を開こうとした。が……、開けない。どうやら鍵《かぎ》がかかっているようだった。
「おいジュリオ! 開けろ!」
「まあ、そう焦るな。さて、目覚めたところで、ぼくたちはルイズとの約束を守らなきゃいけない」
「なに言ってんだよ! そんなのはあとだ! あいつらが戦ってるんだろ!」
「戦っている。でも、約束は約束だ」
「いったい、どんな約束をしたっていうんだよ!」
「こんな約束さ」
ジュリオは、立ち上がると鍵を外した。
「……ったく。開けるなら、さっさと開けろってんだ」
才人は扉を開けた瞬間、息をのんだ。
「…………」
そこは……、次の間だった。どうやらここは、修道院の寄宿舎か何かだった建物のようだ。そこは居間で、古ぼけたテーブルと椅子《いす》が並んでいる。
だが、才人の目が釘付《くぎづ》けになったのは、そんな家具じゃなく……。
|ゲート《扉》だった。
キラキラ光る、鏡のような形をした|ゲート《扉》。
才人は何度か、この魔法の扉を見たことがある。
先ほどの夢? の中で。
そしてもう二度ほど……、ルイズの使い魔になったとき……。
「こ、これは……」
「世界扉《ワールド・ドア》です。あなたの世界と、こちらの世界を繋《つな》ぐ魔法です」
横を向くと、教皇ヴィットーリオが立ち、にこやかに微笑《ほほえ》んでいる。
「約束って……。まさか」
「そうです。ミス・ヴァリエールに、あなたをご自分の世界に帰すよう、わたくしは頼まれました」
ルイズが頼んだ? どうして?
はた、と才人《さいと》は気づいた。きっと……、母からのメールを読んで泣いているところを見られたのだ。だからルイズは、俺《おれ》を故郷に帰そうとしたのだろう。
才人は胸が熱くなった。
あの最後の笑顔は……、そういう意味だったのだ。
そんなルイズが、戦っている。
「帰れるわけないじゃないですか! ルイズが戦っているというのに!」
そう言いつつも、才人の目はゲートの向こうに吸い込まれた。開いたばかりなのか、徐徐にゲートは透き通り……。向こうの景色が見えた。
向こうの光景を見たとき、才人の全身から力が抜けた。
「あなたに合わせた世界扉《ワールド・ドア》≠ナす。そこに開くのは、当然至極といえましょう」
そんな……、と、気が抜けた声で呟《つぶや》く。
そこは懐かしい、夢にまで見た自宅の前だった。
膝《ひざ》をついたまま才人はそれをじっと見つめた。ブロック塀に囲まれた先にはコンクリートの小さいたたき。その上に置かれた鉢植え。
合板の安っぽい扉についた、何度となく握ったステンレスのドアノブ……。
日本にいたら、なんてことのない風景。
だが、今の才人にとってはどのような芸術的建築物よりも、素晴らしいものに見えた。思わず、足を一歩踏み出してしまう。
だが、才人はその足を止めた。
「……帰れないよ。だって、だってルイズが……、みんなが戦ってるんだ。どうして俺だけ帰ることができるんだよ!」
「それを選ぶのはきみ次第です。だが、選ぶなら早くしてください。わたしの精神力には限りがある。この扉が開いていられるのは、あと十数秒ほどです。そして、再び人が潜《くぐ》れるほどのゲートを開ける精神力はありません。これが最後です」
才人は突然迫られた決断に、胸が震えた。この扉をくぐれば、あの懐かしい日本に帰ることができるのだ。でも、それはルイズや仲間たちとの永久の別れを意味している。
ルイズやみんなのことは好きだ。
だが、間近で見る自宅は、抗《あらが》いがたい魅力を放っている。
夢? の中のブリミルの言葉が、不意に胸をよぎる。
『人は、その拠《よ》り所《どころ》のために戦う』
彼は確か、そう言っていた。
自分の拠《よ》り所《どころ》は……。
目の前の玄関が、様々な思い出を蘇《よみがえ》らす。待ち合わせていっしょに学校に行った近所に住む幼馴染《おさななじ》み。放課後、遊びに来た友達。学校に遅刻しそうになって飛び出たこと。小さい頃《ころ》に行った自転車の練習。塀《へい》を使ったキャッチボール。
そんなつまらないことが、鮮明に蘇る。そう、ここが自分の生活の場所だった。
「俺《おれ》の拠り所……」
そう呟《つぶや》いた瞬間、左目に突然光景がなだれ込んできた。
それは……、ルイズの視界だった。主人に危険が及ぶと発揮される使い魔の能力が発現したのだ。
視界の中、巨大な峡谷《きょうこく》が見える。
そして、居並ぶ軍勢。
突然、峡谷の中から巨大な煙が巻き起こる。その視界にギーシュたち水精霊騎士隊《オンディーヌ》の姿が映る。一様に緊張した表情。
視界を共有したルイズは歩き出した。
恐ろしい煙が噴き出す峡谷へと……。
戦いが始まろうとしている。
その様子を見て、再び才人《さいと》の足が止まった。
「……帰れるわけねえだろ」
でも、運命は残酷だった。
首を振る才人の目の前で、ゲートの向こうに見える玄関のドアが開いたのだ。
時間が止まったように感じた。
そこに現れた人物を見て、才人の目から、ごくごく自然に涙が流れる。
「母さん」
ゲートの向こうの母親は、一年前とあまり変わらない。いや……、多少|老《ふ》けただろうか? 才人の前では見せたことのない、疲れきった顔をしている。
母は、目の前のキラキラ光るゲートに気づき目を丸くした。
「ご安心を。向こうからは、こちらの様子は見えません。ゲートは一方通行ですから、くぐることもできません。ただ、光る鏡が浮かんでいるように見えるでしょうね」
左目に映るルイズの視界。
右目に映る懐かしい母の姿。
背後から、ジュリオの声が響く。
「左か? 右か? 選ぶんだ。兄弟」
才人《さいと》は目の前に手を伸ばした。
ここをくぐれば、母さんに会える。あれだけ心配をかけた、母に会える。
様々な想いが胸をめぐった。
テストでいい点をとって褒められたこと。
隣の家のガラスを割って怒られたこと。
卵焼きの味。味噌汁の味。まずいと言って残した魚の煮付け……。
勉強しなさい、と何度も言われたこと。
うるせえなあ、なんて、あの頃《ころ》は心の中で思っていた。
才人はゆっくりと、開いた手のひらを握り締めた。
目の前で、ゲートが掻《か》き消《き》えていく。
才人は一回だけ、目の下をこすった。
背後に立つジュリオは才人の背に突きつけていた拳銃《けんじゅう》を、ほっとしたように下ろす。
振り向いた才人は、もう泣いていなかった。
「俺《おれ》の剣と槍《やり》≠ヘどこだ」
「いいのかい? もしかしたら、最後のチャンスだったかもしれないよ」
「同じことを言わせるな。俺の剣と槍≠持ってこい。でもって、ルイズたちはどこにいる」
「アクイレイアの北方十リーグ。虎《とら》街道≠フ入り口だ。きみの槍≠ネら、三十分ほどでつくと思うよ」
ジュリオのその言葉で、才人は怒りに顔をゆがめた。
「全部お前らの手のひらの上なんだな。わかっててやりやがったな」
そして……、才人はジュリオの握った拳銃に気づく。
ジュリオは、悪びれた様子もなく言い放つ。
「勘違いするなよ。ぼくたちが必要とするのは、きみの左手に書かれた文字であって、決してきみじゃないということを」
才人は気づいた。こいつは……、もしゲートをくぐろうとしたら、後ろから撃つつもりだったのだ。
「お前……」
珍しく、ジュリオの顔から人を小ばかにするような色が消えた。
「おめでたいやつだな。異世界だって? そこに戻ればルーンが消える? あいにくと、そこまでぼくたちの絆《きずな》≠ヘ便利にできちゃいない。使い魔でなくなるルールは一つだけ。死≠セけだ。そうとも。ぼくたちは必死≠ネんだ。そのためには、なんだってやってやる。忘れるな。虚無の使い魔≠フ拠《よ》り所《どころ》は、絶対に主人≠カゃなきゃいけないんだ。覚えておけ兄弟、ぼくたちの拠り所≠ヘここ≠カゃなきゃいけないんだ。そうじゃなかったら、絶対に聖地は奪回できない」
才人《さいと》は拳を握り締めた。怒りで肩が震える。
「覚えとけ、あとで絶対ぶん殴る」
ジュリオは笑みを浮かべた。
才人はその顔に、遠慮のない一撃を叩《たた》き込む。ジュリオは避けるそぶりも見せずに、その拳を受けた。派手に吹っ飛び、ドアにぶち当たる。
倒れたまま、ジュリオは言った。
「この建物を出た目の前に倉庫がある。そこにきみの槍《やり》≠ェ置いてあるよ」
才人は扉を開けて出て行こうとした。が……、立ち止まる。
「聖下」
「なんでしょう?」
一部始終を顔色一つ変えずに見つめていた教皇ヴィットーリオに、才人は言った。
「もう一回だけ、扉を開いてください。そんぐらい、いいでしょう」
「どうした? 里心がついたのかい? さっき無理だって言ったじゃないか」
「小さいやつでいいんだ。指一本、くぐる程度でいい」
「やってみます。まあ、それぐらいでしたら、なんとか」
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第八章 鋼鉄の虎《とら》
「まったく……、何をもたもたしている!」
虎《とら》街道≠フ宿場街……、無人となったそこに、シェフィールドは、ヨルムンガント≠待機させていた。
彼女は薄い青色をしたモノクル≠その目にはめている。魔道具の一種だ。各ヨルムンガントの視界が、ここに映し出される。これにより、シェフィールドは十体のヨルムンガントを、まるで手足のように扱うことができるのだった。
降下してから一時間が過ぎていた。その間のロマリア側の反撃がなかなかしつこく、持ち込んだ大砲の弾と火薬が切れてしまった。
効率よく敵を殲滅《せんめつ》するためには、装備した剣≠セけでは心もとない。ヨルムンガントには先住魔法の反射≠ェかけられているとはいえ、完全に敵の攻撃が跳ね返せるわけではない。
攻撃を受け続ければ、反射≠フ効力は切れる。
敵の大砲やメイジの魔法を沈黙させる、飛び道具はやはり必要であった。
砲弾が切れた場合、フネが降下して補給する手筈《てはず》だった。
だが……、先ほどやっと始まったロマリア艦隊との砲戦が未だ終わらないのである。数で大幅に勝る両用艦隊であったが、三分の一の艦で、反乱及び戦闘拒否が発生していた。
結果、混乱した艦隊は、戦意に勝るロマリア艦隊に終始|翻弄《ほんろう》され続けていた。ミョズニトニルンの元に、補給のための艦を下ろすどころではないらしい。
補給を受けられないと、もう一つ困ったことがあった。
エルフの協力を得て開発された魔道兵器ヨルムンガント≠フ動力は先住魔法の結晶……、つまり風石≠ナあった。重い甲冑《かっちゅう》を身軽に動かすために、ヨルムンガントは大量の風石を必要とする。風石が切れれば、ヨルムンガントは身動きが取れなくなる。
そうなったら、いくら強力な甲冑人形といえど、ただの鉄の塊に過ぎない。散発的に現れる敵部隊を撃滅する際、激しく動いたために、そろそろ風石が心細くなりかけていた。ロマリア軍にかなりの出血を強いたとはいえ、喜べはしない。
目的はロマリア軍の出血ではなく、全滅≠セからだ。
そうでなければ、国土を灰にすることなどできない。ジョゼフがそう望む以上、シェフィールドはロマリアを完全に灰にするつもりだった。
このヨルムンガントさえいえば、国内の各都市に散らばるロマリア軍など、ものの数ではない。そう判断していた。
だが、ロマリア側は兵力を国境付近に集結させていた。
それでも、なんとしてでも目的は遂行されねばならない。そうでなければ、自分は存在の価値を失う。
気を揉《も》むシェフィールドの視界に、艦列から離れ、降下してきた一艦が目に入った。ヨルムンガントを空から偵察しようというのだろう。
シェフィールドは赤い唇をゆがめて、笑みを浮かべた。
艦がさらに近づいてくるのを待つ。
敵艦が上空百メイルほどに達したとき、シェフィールドは二体のヨルムンガントをしゃがませて、両手を組ませた。
その手の上に別の一体の足を乗せ、空へと放り投げた。
空に浮かんだヨルムンガントは、ハエトリグモのように敵艦に取りついた。相手はまさか、ゴーレムがジャンプする≠ネどと夢にも思わなかったのであろう。
積載量ギリギリに大砲や砲弾を積んでいる軍艦は、ヨルムンガントの重さに耐え切れず、落下した。地面に落ちると、十体のヨルムンガントがフネをバラバラにして、風石を引きずり出す。
ヨルムンガントたちは、まるで人間が豆でも食らうように、口の部分から奪い取った風石を飲み込んだ。
それからフネから大砲を奪い取る。ヨルムンガントは、砲弾と火薬を腰の袋に仕舞い込んだ。シェフィールドは満面の笑みを浮かべた。
「すごいな。あのゴーレム、飛んでフネを叩《たた》き落としやがった」
レイナールが、感嘆した声で呟《つぶや》く。
水精霊騎士隊《オンディーヌ》の少年たちはヴェルダンデが掘った穴を通って、宿場街が見えるところまでやってきた。地面に顔を出せる穴を作り、上にマントを被《かぶ》せ、さらにその上に土をかける。
なかなかに凝った偽装であった。
マントと地面の小さな隙間《すきま》から、少年たちはかれこれ三十分ばかり様子を窺《うかが》っていた。『入り口で待ち構えるルイズたちの前まで敵を引っ張る』といっても、いったいどうすればいいのか、見当もつかないのだった。
ギーシュが、困ったような声で言った。
「あれはゴーレムじゃない。アルビオンで見たのと同じもんだな」
「強いんだろ?」
「魔法が効かない。どうやらエルフの先住がかかってる。それをなんとかできるのは、ルイズの魔法だけだ」
少年たちは青くなった。
「さてさて、ほんとにどうしたもんか……」
ギーシュは悩んだ。下手に手を出したら剣と大砲でバラバラにされてしまうし、自分たちの魔法は利かない。
「いずれ待っていれば、ルイズたちの前に出てきてくれるんじゃないか?」
ギムリが言った。
「いや……、迂回《うかい》されるかもしれん」
「左右は切り立った崖《がけ》だぜ。どうやって迂回するっていうんだ」
「あの身のこなしなら、この崖をよじ登ることだってできるんじゃないか? とにかく、ロマリア軍が入り口を包囲していることはあいつらもわかってるだろう。バカじゃないんだから。おそらく、艦隊の支援が受けられるなら、真正面から包囲線の突破を図るだろうね」
レイナールが持論を述べた。ギーシュも頷《うなず》く。
「そうだね。だが、艦隊の支援が受けられないなら……」
「まともな指揮官なら、迂回か、艦隊決戦が終わるまでここで待機。どちらかを選ぶだろう」
マリコルヌは遠見≠フ呪文《じゅもん》を使い、空を見上げた。ダラダラと艦隊戦は続いている。双方、あまりやる気があるようには感じられない。一年経っても終わらなそうに見えた。
「ありゃあ、勝負つかないね」
レイナールの予想は当たった。騎士人形たちは、指をハーケンのように硬い岩壁に打ちたて、左右の崖をよじ登り始めた。どうやら、山伝いに進軍して、味方の側面をつくつもりのようだ。
「高さは二百メイル以上あるぜ? 本気で登るつもりか?」
「本気らしい。いやはや器用だな……、まるで軽業師《かるわざし》だよ」
ゆっくりと、ヨルムンガントはよじ登っていく。展開したロマリア軍は、入り口に砲口を向けている。両脇の崖を下って攻撃されたら、味方は混乱してしまうし、ルイズとの計画も失敗してしまう。
「しかたない。とにかく注意を引こう」
ギーシュはそばにいたヴェルダンデに口付けした。真顔だったので、少年たちはおぷ、と口を押さえた。モグラにキス。あまり見栄えのする光景じゃない。
「もしぼくが死んだら、ヴェルダンデ、きみはモンモランシーにこれを届けるんだ。いいね?」
髪を一房切ると、ギーシュはそれをヴェルダンデに手渡した。いやいやをするように、ヴェルダンデは目にいっぱい涙を溜《た》めながら首を振る。
「笑って見送っておくれ。ぼくは貴族なんだよ」
それを見ていた少年たちも、それぞれヘビやフクロウなどの自分の使い魔に髪を渡した。恋人や家族への言葉とともに……。
「レイナール、作戦を言え」
ギーシュが硬い声で言った。
「作戦? おいおいどうしろっていうんだ。魔法を撃ちまくり注意を引いて、あとはフライで逃げる。こっちに向かってきてくれればお慰み。そんぐらいだね」
「上等だ。行くぞ」
ギーシュは穴から飛び出すと、青銅の薔薇《ばら》を振り、ゴーレムを作り出す。少年たちもそれぞれ魔法を放った。
崖《がけ》をよじ登ろうとしていたヨルムンガントの甲冑《かっちゅう》に、次々魔法がはぜた。まったく効いた様子はない。ゆっくりとヨルムンガントが首を向ける。
「バカやろう! こっちだ!」
ギーシュたちは恐怖で震えながら野次を飛ばした。二体のヨルムンガントががちゃり、と地面に飛び降り、大砲をぶっ放した。
「風魔法!」
騎士隊の風使いたちが、自分たちの上に魔法の壁を作り上げた。見事大砲の弾を受け止め、その上で弾《はじ》ける。
ギーシュたちは散々に魔法をぶっ放しながら、相手を挑発した。青銅のゴーレムが、バカにするようにギーシュたちの前で踊り始めた。
「おい! ガリアの罰当たりめ! ぼくたちが相手してやる! こっちに来い!」
すると、二体ほどのヨルムンガントが、ずしんずしんと向かってきた。手には剣を握り締めている。
「きやがった! きやがった!」
「諸君! 撤退だ!」
ギーシュたちはフライの呪文《じゅもん》を唱え、すぐさま逃げ始めた。確かに空をゆくフライ≠フほうがヨルムンガントの歩行速度よりは速い。逃げ出すことも可能だが……。
「速度差に気をつけろよ! 相手に追撃を諦《あきら》めさせるな!」
騎士人形は時折立ち止まり、大砲に弾をこめてぶっ放す。葡萄弾《ぶどうだん》と呼ばれる、小さな弾を何個も放つ散弾の一種だ。
飛んでいる目標には当たりづらいとはいえ、こちらは生身である。
「ぐっ!」
一発食らったギーシュの肩から血が流れた。
「ギーシュ! 大丈夫か?」
「……く、平気だ。諸君! このまま飛ぶぞ! あの光に向かって飛べ!」
ギーシュは、遠くに見える虎《とら》街道≠フ出口を指差した。
「見つけた」
シェフィールドは、恋焦がれた少女のように、楽しげな声を漏らした。あの青銅のゴーレムを操っていた少年……。確か、アルビオンであのトリステインの小娘といっしょにいた少年ではないか。となると、奴の向かう先には、あのトリステインの担い手の小娘がいるということだ。
おそらく、あの小癪《こしゃく》なガンダールヴといっしょに。迂回《うかい》などしている場合ではない。
「お前も含めて、幾千、幾万もの軍勢だろうがすべて踏《ふ》み潰《つぶ》す。あいつはなに、七万の軍勢を止めたかもしれないが……、わたしはすべて潰すのさ。そう、虫を潰すみたいにね。お前たちなど、その一つに過ぎないんだよ」
ヨルムンガントは、力強く駆ける。どんな相手が来ようが、負けはせぬ。そういった高揚感が身体《からだ》を包む。
揺れるヨルムンガントの肩の上で、シェフィールドは思った。これほど強力な使い魔たる自分が……、なぜ何度もあいつらに煮え湯を飲まされてきたのだろう。
アルビオンで、トリステインで、幾度と無くあのトリステインの担い手と使い魔は自分を敗北に追いやった。
絆《きずな》の深さの差なのだろうか
自分とジョゼフのそれは、絆ではない。自分の一方的な盲従だ。それはわかっているし、それでいいと思っている。
だが……、どうにも感情が震えるのだ。認めたくない嫉妬が胸のそこから沸き起こる。あの二人の絆が……、愛というべきものならば、自分はその愛に負けたのだ。
許せぬ
同じ虚無の使い魔と担い手なのに、ジョゼフは己をかけらほども愛していない。
その事実を、あの青い薔薇《ばら》が燃え盛る庭園でシェフィールドは思い知った。そのときより、シェフィールドの胸には、暗い嫉妬の炎が燃えるのだった。
ミョズニトニルン、と描かれた額《ひたい》のルーンが力強く光る。
「今日こそ、踏み潰してやる。燃やしつくして灰にして、この大地に振りまいてやる」
シェフィールドは、ロマリアの大地が灰になろうがどうなろうがどうでもよかった。あの二人を……、この世から消し去ることさえできれば、それで満足なのだった。
そうしたら……、今度こそあのジョゼフは……、自分を……。
シェフィールドの唇がゆがむ。うっとりとした笑みを浮かべ、|ミョズニトニルン《神 の 頭 脳》は水精霊騎士隊《オンディーヌ》を追撃した。
「入っていってから一時間になるが……、あいつらは何をしているんだ? まさか、逃げたんじゃないだろうな?」
カルロが言った。ルイズの虚無≠フ詠唱はすでに完成している。かつてアルビオンであのヨルムンガントを爆発させたエクスプロージョン≠セ。
ルイズは毅然《きぜん》として、杖《つえ》を構えたまま瞑想《めいそう》するように立ち尽くした。虚無を唱えると……、わずかだが心の中の黒い穴が埋まる気がして気持ちが安らいだ。
街道の先から、叫び声が聞こえてくる。
「……うわぁあああああああああ」
ルイズは目を凝らした。
小さな点がいくつも飛んでくる。それはフライで飛ぶ水精霊騎士隊《オンディーヌ》だった。その背後に、二体のヨルムンガントが見えた。
シェフィールドが先行させた二体だ。
「ルイズゥウウウウウ! あとは任せたぞおおおおおおおおおお!」
次々に少年たちが自分のそばを飛び退《すさ》っていく。
ヨルムンガントは距離百メイルで待ち構えるルイズに気づき、大砲を構える。
だが、遅い。
ルイズは迫り来る二体のヨルムンガントめがけて、完成したエクスプロージョン≠放った。白く小さな光が、二体のヨルムンガントの間に生まれ……、膨れ上がり……、ヨルムンガントを包む。
「やったか?」
カルロが笑みを浮かべた。だが次の瞬間、その笑みが驚愕《きょうがく》にゆがめられる。うっすらと光が掻《か》き消《き》えたが……、何事もなかったかのように、ヨルムンガントは立っていた。
「無傷……」
ルイズも、呆然《ぼうぜん》とその様子を見つめた。
「……どうして?」
アルビオンで戦ったときには、エクスプロージョンは効いたはずだ。
ヨルムンガントの口と思しき部分が開き、シェフィールドの声が響いた。
『お久しぶりね。トリステインの虚無=Bこうやってお会いできる日を楽しみにしていたわ』
「ミョズニトニルン!」
『残念ね。エルフの技術で、装甲に焼き入れ≠施したのよ。表面のカウンター≠ヘ虚無≠ナ消し飛ばせても、残った威力では、下の装甲はどうにもできないよ』
心底、楽しそうな声だった。
「うわぁああああああああ!」
周りを守るカルロが、悲鳴をあげて逃げ出した。聖堂騎士隊は、群を為して遁走《とんそう》する。ルイズの周りには、誰《だれ》もいなくなった。
後ろで、ギーシュたちが叫んだ。
「ルイズ! 逃げろ!」
だが……、ルイズの足は動かない。
「わたしは……、聖女なのよ。逃げられるわけないじゃない」
獲物をいたぶるかのように、ゆっくりとヨルムンガントは近づいてきた。
「援護だ! ルイズを援護しろ!」
様々な魔法が飛んで、ヨルムンガントに襲いかかる。だが……、カウンターが破られたとはいえ、エルフにより焼き入れを施された甲冑《かっちゅう》は強固だった。
氷の矢や炎の球はもとより、錬金さえも受けつけない。
ルイズは呪文《じゅもん》を唱えようとした。効かぬなら、何度でも放つまでだ。
どんな危機でも諦《あきら》めない。そうやって、今まで何度も自分はピンチを切り抜けてきた。
ブンッ!
風が唸《うな》り、剣が振り下ろされる。ルイズの目の前の地面に、巨大な剣が突き刺さる。その風圧で、ルイズは後ろに吹き飛んだ。
杖《つえ》が手から離れて、ルイズは蹲《うずくま》る。
『お前……、今まで随分とてこずらせてくれたねえ。ただ殺しはしないよ。貴様が、わたしとジョゼフさまをコケにした分だけ苦しめてやる』
ルイズは立ち上がろうとした。だが……、腰が抜けて立てない。全長二十五メイルもあるヨルムンガントは、まさに恐怖の具現だった。
そんなのが二体も自分を見下ろしている。
周りを取り囲むロマリア軍が、一斉に射撃を開始した。砲弾が飛び、ヨルムンガントの巨体に炸裂《さくれつ》する。至近距離だ。さすがに外さない。
数十発の砲弾が、ヨルムンガントの表面ではじけた。反射≠フ淡い光が輝き、ことごとく攻撃を跳ね返す。
ルイズの周りに、砲弾のかけらが降り注ぐ。水精霊騎士隊《オンディーヌ》の誰かが、ルイズの上に魔法の防御を張った。
ついで、魔法がいくつもとんだ。だが、砲弾と同じだった。氷の矢も、火球も、電撃の光も、ヨルムンガントにはまったく効果がない。
「うわあああああああああああ! 化け物だぁああああああああああ!」
まずは兵が逃げ出した。それを止めるべき士官や騎士たちも、算を乱して逃げ出した。無理も無い。聖戦≠ニ言っても、攻撃が効かなければ犬死にだ。
相手を倒す武器≠ェなければ、勇気は発揮できない。
そんな中、たった一人ルイズは自分に言い聞かせた。
諦《あきら》めるな
今まで何度も、こんな窮地はあったじゃないか。
そのたびわたしは、それをくぐり抜けてきたじゃない。
神に選ばれた力で……。
この選ばれし系統虚無≠ナ。
ルイズはそばに転がった杖《つえ》に飛びついた。それを両手で握り、ヨルムンガントに突きつける。
「バカにしないで。わたし、何度もあんたたちに煮え湯を飲ませてきたのよ。今回だって、きっと負けないわ」
その言葉が虚しく響く。
『ほう。どうやって?』
「わたしの魔法でよ!」
『寝言にしか聞こえないよ。お前の魔法なんか効かないじゃないか! まったく虚無の担い手が呆《あき》れるよ!』
どうやってわたしは、いつも勝利を収めてきたの?
『お前の使い魔はどうしたね? いつも番犬のように、お前の前に立ちふさがっていたじゃないか。とうとう愛想をつかされたのかい?』
番犬?
「わたしに使い魔はいないわ! わたしはたった一人で……」
ルイズの頭が割れそうに痛んだ。再び膝《ひざ》をつく。
心の底の暗い穴が……、ぽっかりと開いた深淵が、ルイズを責《せ》め苛《さいな》んだ。
優しくって、愚かね。ルイズ
アンリエッタに言われた言葉……。
自分はほんとうに、たった一人で勝利を収めてきたんだろうか?
そんな自問。
そして……、何度もギーシュたちが口にした言葉。
サイトって誰《だれ》?
「……誰?」
その名前を思うと、心の底の暗がりが、自分を苦しめるぽっかりと開いた穴が、遠くへ掻《か》き消《き》えていぐように感じた。
行き場を求めてさ迷う気持ちが、帰るべき家を見つけたような感覚……。
ルイズは混乱した。そんなルイズを見て、シェフィールドが笑い転げた。
『忘れちまったのかい? それとも、ほんとのほんとに愛想をつかされたのかい? 無理も無いね、お前はほんとうにどうしようもない、能無しの中の能無しだからね! ああ、このわたしが、お前のような能無しに何度も土をつけられただなんて! まったく自分が情けないよ! だけど、それも今日で最後だ。お前が死ぬところを、あのお方に見せて差し上げる。そうすれば、あのお方も気づくはずさ。この世で、誰《だれ》が一番なのかってね』
ルイズの脳裏に、何かが瞬いた。
数々の窮地の場面。
それを切り抜けてきた自分。
でも、その自分は……、なんだか夢の中の出来事のように心もとない。あのわたしは……、わたしじゃない?
誰かが……、いた?
だとしたら、誰がいたの?
黒い影が、ルイズの心をよぎる。それは優しい影だった。その影が、記憶の中の自分を振り払い、自分の前に立ちふさがる。
「……けて」
ルイズの口から、ぽろっと言葉が漏れた。気丈ににらみつけていた目が、緩やかに崩れた。そのはしから、涙が一筋こぼれ、柔らかい頬《ほお》を伝う。
「たすけて」
気づくと、ルイズは救いを求める声を口にしていた。
『命乞いかい? 貴様、このわたしに命乞いをしているのかい?』
「サイト、助けて」
意味のわからぬ呪文《じゅもん》のように、ルイズの口からその言葉がこぼれた。誰かはわからない。でも、その名前を口にすれば、なんとかなるような、そんな気がしたのだった。
『おやおや、とうとう詠唱すら諦《あきら》めて命乞いか! まったく貴様の虚無≠ネど、我が主人の扱うそれに比べたら、子供のままごとだよ。虚無≠フ恥さらしめ! 死ね!』
ヨルムンガントは足を振り上げた。ルイズの視界に、巨大なヨルムンガントの足が映った。自分を踏《ふ》み潰《つぶ》す、巨人の鉄槌《てっつい》だった。
ルイズは目をつむって、絶叫した。
「サイト! 助けて!」
死にたくない。絶対に、死にたくない。
もし死んだら……、あの優しい影に、二度と会うことはできない。それは、死より悲しいことのように、ルイズには思えた。
……瞬間。
ガゴンッ!
硬い何かがぶち当たる鈍い音が響いた。
目を開けると、自分を踏《ふ》み潰《つぶ》そうとしていたヨルムンガントの足が……、ない=B
ゆっくりとヨルムンガントの巨体が、後ろに傾《かし》いでいく。岩壁にその巨体がぶち当たり、じたばたと暴れる。片足を失ったために、立てないようだ。
「え?」
何が起こったのか、よくわからない。
もう一体が咄嗟《とっさ》に岩陰に身を隠すのが見えた。
「ルイズーッ!」
自分を助け出すチャンスをうかがっていたギーシュたちが駆け寄ってくる。彼らはルイズを抱え起こすと、ヨルムンガントから離れた場所へと逃げ出した。
張りつめていた緊張の糸が切れ、ルイズは気を失った。
照準器を覗《のぞ》き込《こ》む才人《さいと》の視線の向こうで、ゆっくりとヨルムンガントが傾ぎ、岩と土砂を撒《ま》き散《ち》らしながら、峡谷《きょうこく》の岩壁に倒れこむのが見えた。
派手に土砂と岩のかけらを撒き散らす。
「ちょっと下だったかな」
三角形がいくつも並ぶ照準器のレンズを覗き込みながら才人は言った。ヨルムンガントの幅は、おおよそ六メイル……、と思っていたが、どうやら八メイルはありそうだ。
敵の大きさを見誤り、狙《ねら》った場所より下に着弾してしまったようだ。
照準器の倍率を調節する。
才人はわずかに88o砲の仰角を上げ、照準器のレンズに映る、真ん中の大きな三角の真上に倒れてもがくヨルムンガントをおさめた。
そして、握った発射レバーを思いきり引いた。
砲塔内に轟音《ごうおん》が響き、煙に包まれる。煙は天井のベンチレーターに吸い込まれ、外へと排出された。
光の矢のような88o砲弾が、倒れたヨルムンガントに吸い込まれる。
いくら先住魔法のカウンター≠ニいえど、想定する威力というものがある。相手の力が強ければ強いほど、効果を発揮するカウンターにも限界値はあった。
88o鉄鋼弾は、ハルケギニアの単位、距離2000メイルで84oの装甲板をぶち抜くことが出来る。そんな分厚い装甲は、この世界に存在しない。
それを貫くタイガー戦車の鉄鋼弾は、まさに想定外の存在だった。
秒速750m以上の速度で回転しながら、88o鉄鋼弾は倒れたヨルムンガントの胴体に命中し、散々貴族たちを苦しめた甲冑《かっちゅう》をまるで薄紙のように貫き、中で炸薬《さくやく》を爆発させた。
ヨルムンガントの甲冑が膨れ上がり……、バラバラに弾《はじ》け飛ぶ。
戦車砲の後尾から薬きょうが排出され、どすん、と布製のバッグに落ちる。その隣では、青い髪の少女が、自分の身長の半分ほどもある大きな砲弾を重そうに抱えていた。
「タバサ、それじゃない。先っぽが赤いヤツを頼む」
頷《うなず》くと、タバサは砲架から別の砲弾を持ち上げ、88o砲に押し込んだ。才人が教えたとおりに尾栓を閉める。
再び才人《さいと》は照準器を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
岩陰の問に隠れたヨルムンガントを探す。こちらを窺《うかが》うようにひょっこり顔を出した瞬間を、才人は逃さない。
「ばっか野郎。どこ見てやがる」
再び発射レバーを引いた。
轟音。
狙いたがわず、ヨルムンガントの顔に88o砲弾が命中する。ヨルムンガントはよろよろと崩れ落ちた。
「やったな! サイトくん!」
前部の操縦席に座るコルベールの声が、耳につけたヘッドフォンから響く。隣の無線手の席に座ったキュルケが、驚いた声をあげた。
「すごいわ……。二リーグは離れてるのよ。それなのに砲弾が命中するなんて!」
どうしてタイガー戦車と才人がここにいるのかというと……。
宿舎を飛び出した才人が、言われたとおり倉庫に向かうと、そこではコルベールの手により整備が終わったタイガー戦車とキュルケたちがいたのだった。どうやら彼らは、式典の間中、そこで整備を続けていたらしい。
才人はタイガー戦車にゼロ戦用のガソリンをしこたま詰め込み、ここまで自走してきたのだ。操縦は最初才人が行い、隣でその操作を見守っていたコルベールが、それに代わった。整備により、構造を熟知していたコルベールはすぐに操作に慣れた。
「この|ティグレス《虎》≠ニいったかな? 戦車の操縦は、あのひこうき≠ノ比べたらずっと簡単だな! ここをこうすれば、前に動き……」
コルベールはアクセルを踏みしめた。タイガー戦車のエンジンが吼《ほ》え、隠れていた小高い丘の茂みの中から姿を現す。そこの丘からは、虎《とら》街道≠フ入り口が一望できるのであった。
「この操作円盤を回せば、回頭する」
自動車のそれとよく似たハンドルを回した。すると、ぐるりと軽快にタイガー戦車は進路を変えた。
「……と。姿を現しては、まずかったかね?」
「いえ。どっちみち砲煙で位置はバレます。このまま突っ込みましょう。敵をこっちにひきつけないと」
タイガー戦車は地響きを立てて、虎街道≠フ入り口目ざして突進を開始した。ヨルムンガントを二体も破壊した鋼鉄の塊を認め、潰走《かいそう》していたロマリア軍から歓声が沸《わ》いた。
ヨルムンガントが破壊されるのを、シェフィールドはモノクルのレンズ越しに確認した。
「二リーグも離れた場所から、ヨルムンガントの装甲を撃ち抜いただと……?」
信じられない。
だが……、そんなことをやってのける存在を、シェフィールドは思い出す。
「とうとう現れたようだね。面白い。決着をつけようじゃないの。ガンダールヴ」
轟音《ごうおん》を立て、土を掘り返し、街道の入り口を目指すタイガー戦車の周りに、ロマリア軍の将兵が集まってきた。
才人《さいと》がハッチから顔を出すと、馬に跨《またが》って併走する一人の騎士が、才人に呼びかけた。
「援軍感謝! あの悪魔のような甲冑《かっちゅう》人形をやっつけるなんて……! 貴官の所属を述べられたし!」
「トリステイン王国、水精霊騎士隊《オンディーヌ》!」
「了解! お頼み申す! 旗がなくては士気に関わる! これを掲げられよ!」
騎士は才人に旗を放って寄越《よこ》した。それは、黒字に白抜きで、聖具が描かれた旗だった。
「なんだこれ?」
才人がきょとんとしていると、隣のハッチから頭をぴょこんと出したタバサが教えてくれた。
「聖戦旗」
そのデザインは、車体に描かれた鉄十字に似ていた。たしか、あれは十字架だったっけ……、と才人は記憶をあさって思う。
なんだか妙なことになってるな、と才人は一人ごちる。
地球の十字架が描かれた戦車が、異世界の聖具を背負って戦うんだから……。
才人は旗を、アンテナ基部に突きたてた。翻る聖戦旗に、ヨルムンガントによって下がったロマリア軍の士気が、一気に沸騰《ふっとう》した。
「教皇聖下万歳! 連合皇国万歳!」
才人に旗を手渡した騎士は、怒鳴りながら自軍へと引き返していく。
「諸君! 注目! 我らが聖戦に、トリステイン王国より強力な援軍だ! 臆《おく》するな! 始祖の加護は我に有り!」
でも、俺《おれ》が戦うのは……、と才人は呟《つぶや》いた。
信じてもいない、神さまのためなんかじゃねえ
才人《さいと》は聖戦旗の上に、外した自分のマントをくくり付けた。
百合《ゆり》紋|眩《まぶ》しいシュヴァリエのマントを翻させながら、タイガー戦車が軋《きし》みをあげて疾走した。
峡谷《きょうこく》の入り口に、ヨルムンガントが六体現れた。
才人の存在に気づいたシェフィールドは、一気に叩《たた》き潰《つぶ》すつもりなのだ。
それぞれ、手に先ほど奪った艦砲を握っている。才人は砲塔に潜り込み、ハッチを閉めた。再び砲手席に座り、照準器を覗《のぞ》き込《こ》む。
「先生! 止めて!」
ブレーキがかかり、タイガー戦車は土煙をあげながら停止する。
距離は千。
直接照準でも問題ないと、左手のルーンが教えてくれる。
照準器の中、並ぶ三角形の上にヨルムンガントが鮮明に映る。ハルケギニアの技術では想像すらできない、この望遠映像……。
ヨルムンガントはタイガー戦車に大砲を向けた。
その砲口が光る。
六体のヨルムンガントによる一斉射だ。
もくもくと立ち上る発射炎。
大砲の弾が、唸《うな》りをあげて飛んできた。周囲に着弾して、土煙が舞う。
ガィイイイイイイイイイイイインッ!
一発が車体前面に当たり、粉々に砕け散った。
車体が派手に震動する。撞木《しゅもく》を突かれた鐘の中のように、激しい大音声が響き渡った。猛烈な痺《しび》れが全身を包む。隣のタバサが耳を押さえて蹲《うずくま》る。
だが、被害はそれだけだった。タイガー戦車の装甲板は、地球でいえば数百年前の大砲弾など、ものともしない。
才人は乗り込んだ戦車のペットネームの猛獣のように、歯をむき出して唸った。
「ボケが。人型が戦車に勝てるワケねえだろ。図体がでかいんだよ。無駄に高えんだよ」
発射レバーを引いた。
「地球ナメんな。ファンタジー」
相手のそれとは次元の違う速度で砲弾が飛びだし、ヨルムンガントに命中した。ぼごっ! と大穴が開き、後ろに倒れて動かなくなる。
残り五体のヨルムンガントは、戦車めがけて突撃を開始した。
距離八百で、次の一体を打ち倒す。六百で次。
一発撃ったあと、装填《そうてん》しながら後退する。ヨルムンガントの方が、移動速度は速い。だが……、後退するタイガー戦車に追いつくには、距離がありすぎた。
重そうなタイガー戦車だが、そのスピードは見た目から想像するほど鈍くは無い。距離を保ちながら移動して停止。そして再び射撃。
才人《さいと》はそんな後退射撃を繰り返した。
射的の的のように、タイガー戦車は突撃してきたヨルムンガントを撃ち倒す。|ガンダールヴ《才人》の登場に興奮したシェフィールドは、冷静さを失い、突撃を命じてしまったのだ。
そして、シェフィールドは戦車≠知らなかった。
遮蔽物のない、このように開けた場所で戦車砲の前に突撃する……、自殺行為も同義だった。
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第九章 絆《きずな》の記憶
続けざまに、現れた八体のヨルムンガントを倒したタイガー戦車に、水精霊騎士隊《オンディーヌ》の少年たちは駆け寄った。
「サイトだ! あれはサイトだぞ!」
アンテナに翻るシュヴァリエのマントを見て、マリコルヌが叫ぶ。
「すごいな! 鉄の箱に大砲がついてるぜ!」
「サイトが鉄箱のお化けでやってきたぞ!」
水精霊騎士隊《オンディーヌ》の隊員たちは、司令塔から顔を出した才人《さいと》にしがみついた。
「遅れてごめん」
その熱狂に照れくさいものを感じ、才人ははにかんで言った。腕に包帯を巻いたギーシュが涙ぐみながら、才人の手を握った。
「ぼ、ぼく、ぼくは……、きみが絶対くると……、だって、きみはふくたいちょおだから……」
「よせやい」
ギムリがそっと、抱えていたルイズを砲塔の上に乗せた。
「サイト、きみの主人だ。気を失ってるが……、まあ命に別状はないだろう」
才人《さいと》はルイズを見つめた。白かった巫女《みこ》服はドロドロに汚れ、頬《ほお》には血と土がこびりついている。
どうせ、また無茶《むちゃ》をしたんだろう、と才人は思った。
あんなに戦には反対していたのに……、先頭に立ちやがったな。自分を帰す代わりに、この戦への協力を約束したんだろう。
「ばか野郎」
才人は小さく呟《つぶや》いた。
それだけ、ルイズは自分を故郷に帰したかったのだ。才人は、優しくルイズの頬を撫《な》でた。
……ルイズはゆっくりと目を覚ました。
目の前にいる、黒髪の少年を見て、その目が見開かれる。
「……あんた、誰《だれ》?」
そして才人の手が自分の頬に触れていることに気づき、ルイズは思いきり才人を突き飛ばし、地面に飛び降りた。
「ぶ、無礼者!」
ギーシュたちが、あちゃあ、と顔を押さえた。
「なに言ってるんだ? お前……」
才人は愕然《がくぜん》として、ルイズを見つめる。どうやら自分のことを忘れているようだ。頭でも打ったんだろうか?
ギーシュが、参った参ったと首を振りながら、才人に告げる。
「どうやら、ティファニァ嬢の魔法で消しちゃったみたいだよ。きみの記憶を」
「はぁ?」
才人は口を開けて、ルイズを見つめた。
あの忘却? 使ったの? マジ?
唖然《あぜん》として、才人はルイズに尋ねた。
「俺《おれ》だよ。ほんとに忘れちまったのか?」
う〜〜〜〜、とルイズは唸《うな》った。まるで野良ネコのようだ。才人の全身からへなへなと力が抜けていく。
まったく、こいつは……、いつも一人で決着をつけて、勝手にことを進めちゃうんだから……。
「お前なぁ……、何考えてんだよ……。ほんとバカって単語は、お前のためにあるようなもんだね」
「だ、誰《だれ》がバカよ! 失礼なヤツね!」
「勝手に人の記憶を消すなんて……、何かんがえてんの?」
怒りと悲しさで、才人《さいと》は首を振った。なんて薄情なやつなんだ。ルイズは才人の境遇に同情して帰すことにしたんだろう。そこはいい。優しい子である。
でも、さっさと忘れることにしたのだ。そうじゃないと、明日に進めないもんね……。
逆の立場だったら俺《おれ》はそんなことはしない。いつまでもルイズとのことを覚えていて、いい思い出として人生の糧《かて》とするだろう……。
目の前の桃髪少女には、そんな麗しい気持ちはどうやら存在しないようだ。
「そうかそうか。そんなに忘れたかったのかよ! そりゃ俺はお前を怒らせるようなことばっかりしたかもしんないけど、いろいろ大変だったし、頑張ったんだぞ!」
怒りに任せて怒鳴りつける。記憶があろうがなかろうが、ルイズにとってはいけない態度で、言ってはならないセリフだった。
「わたしを怒らせるようなことしたですってぇ〜〜〜〜〜〜!」
そんな才人に、ギーシュは首を振った。
「違うよ」
「何が違うんだよ」
「きみはほんとに女心がわかってないな! きみの存在はそれだけ、ルイズの中で大きかったってことさ。会いたいのに会えない。生きているのに会えない。そんな状態に耐えられないほどにね」
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才人《さいと》は、はっ! とした。先ほどの怒りが、すぐに愛《いと》しい気持ちへと変化していく。
そんなにまで俺《おれ》のことを……。
才人はルイズを、じっと熱っぽい目で見つめた。
ルイズも……、なんだか頬《ほお》を染める。
戦車の上から飛び降りると、ルイズの手を握った。
「な、なによ……」
ルイズは顔を背けた。
「俺だ。平賀《ひらが》才人だ。またの名を、サイト・シュヴァリエ・ド・ヒラガ。お前の使い魔だった。忘れちまったのか? ほんとに?」
「サイト……? 使い魔?」
先ほど、思わず口にした名前だった。そして……、この少年が自分の使い魔? でも……、目の前の少年には、ほんとうに見覚えが無い。
「なあルイズ。聞いてくれ。お前はティファニアの忘却≠ナ、俺の記憶を消しちゃったんだよ!」
「はあ? なんでわたしがそんなことしなくちゃいけないのよ!」
「そこはそれ、愛って言うんですか。それほどまでにお前は俺のことを……、その、歯が浮く言い方でいえば、愛していた≠ニ。そういうことで……」
すると、ルイズの目が吊《つ》り上った。
「愛していた? 誰《だれ》が誰を?」
「お前が、俺を」
頬を染め、才人はゆっくりと頷《うなず》いた。どすん、と股間に一撃がくわえられ、才人はゆっくりと地面に崩れ落ちた。
「もう一回尋ねるわね。誰が、誰を?」
痛む股間を押さえ、
「みんな! このおとぼけさんに言ってやってよ! この桃髪万年春少女が、どんだけ俺を愛していたかを!」
マリコルヌがちょこちょこと駆け寄り、ルイズに耳打ちした。
「コイツ、夢見てんすよ」
周りの少年たちが、マリコルヌを押さえた。
「おい! ぽっちゃりぃ!」
「いや……、ついネ。仲間は多いほうがいいしネ」
ギーシュが頭をかきながら、ルイズに言った。
「まー、なんだ。確かにサイトの言うとおりだな。愛していたかどうかはともかく、きみが魔法で彼の記憶を消してしまったのはホントだ」
水精霊騎士隊《オンディーヌ》の皆も、頷《うなず》いた。するとルイズは、わかったわ、と頷いた。
「やっと信じやがったか……。ほんとに疑い深い女……」
「でも! わたしがコイツを愛してたなんて大うそだわ!」
「ま、確かにそこまでは正直わからんな」
「ギーシュ!」
「だってしょうがないだろ。ほんとに愛しているかどうかなんて、態度だけでわかるもんか」
「だいたいねえ! はっきり言わせてもらうけど、あんたなんてぜんっぜん好みじゃないの!」
ルイズは、才人《さいと》に指を立てて言い放つ。才人の顔が、情けないかたちにゆがむ。
「そ、そんなぁ……」
「うわあ、これはキツいね」
ギムリが言った。
「ア、アリじゃないの?」
マリコルヌは呼吸を荒くした。
「あんたは確かに、わたしの使い魔だったのかもしれない。そして、さっき助けてくれたことについてはお礼を言うわ。でもね……、愛していたとか寝言言わないで! わたしは『アクイレイアの聖女』よ! 聖なる乙女なのよ! わたしの愛はハルケギニアとブリミル教徒に向けられるものであって、あんたみたいな……」
ルイズは、燃え尽きてヨロヨロの才人に指を突きつけた。
「オモロ顔に向けられていいもんじゃないのよ!」
「さすがにこれは……、立ち直れないね」
レイナールがせつない声で言った。
「ますますアリだね」
マリコルヌが、さらに呼吸を荒くさせる。
ギーシュは才人《さいと》が可哀想《かわいそう》過ぎて泣いていた。コルベールにキュルケとタバサも、戦車から顔を出してそんな様子を興味深そうに見つめている。
いつしか、周りにはロマリア軍の将兵も集まって、面白そうに見物していた。
「……よっこらせっと」
ゆらりと、才人は立ち上がった。
「いいこと? わかったら、さっさと敵を追撃しなさい。ガリアの異端どもを残らず叩《たた》き潰《つぶ》すのよ。ほら! わたしの使い魔なんでしょ! さっさと仕事をする!」
腕を組んで得意げにルイズは言い放つ。
「オモロ顔か……、ま、そうかもしんないけどな。でもなルイズ。お前はそのオモロ顔になにしたか知ってるのか?」
「は? ほら! 急ぎなさいよ! 今は聖戦なのよ!」
「聖戦がどーした。お前らの神さまなんか糞くらえだ」
「罰当たりなこと言わないで!」
ルイズは才人の頬を叩こうとした。その手が、ぎゅっと才人に握られる。
「寝たふり」
「は?」
「キスしてんのに寝たふり」
「な、何を言ってるのよ……」
才人は妙なテンションで、言葉を続けた。
「ベッドで寝ていいって言ったじゃない。真っ赤な顔でベッドに寝ていいって言ったじゃない=v
「ちょっと! いい加減に……」
「小船。小船の上で、ご主人さまの好きなところ、一箇所だけ触ってもいいわ=v
周りの観客たちが、呆《あき》れた声で言った。
「ルイズ。きみはそんなことを言ったのか」
「い! 言ってないわ! こいつが適当なこと言ってるだけよ!」
「黒ネコ衣装。今日はあなたがご主人さまにゃん=Bアルビオン。わたしにも同じことして=B」
「ルイズってすごいね」
「というかさすがに引くね」
「サイト以上のアレじゃないか」
「どんだけ惚れ薬を飲んだら、そんな風になるんだろうな」
そんなひそひそ声に、才人《さいと》が答えた。
「素です」
「さすがにその素はないわ」
マリコルヌが、首を振りながらルイズの肩に手を置いた。回《まわ》し蹴《げ》りが飛び、マリコルヌの重そうな身体《からだ》が吹っ飛んだ。
「て、適当なことばっかり!」
返す刀で蹴り上げようとしたルイズの足を、才人は足を閉じて制した。
「全部ホントだ。なあルイズ、正直お前はアレです。ぶっちゃけ、アレすぎます。ぼくも相当なオモロ顔の妄想家ですが、きみはそれ以上です。正直、ついていける人はそういません」
「ぶ、ぶぶ、無礼者! 誰《だれ》か! こいつを逮捕なさい! 異端審問にかけてあげるわ! このアクイレイアの聖女に、聞いてればなんてことを……」
「でも、俺《おれ》はそんなお前が好きだ」
才人はルイズを抱きしめると、唇を重ねた。ルイズの顔が、耳まで赤くなる。
身体が自然に動いた。
なぜか、夢で会ったブリミルが、そうしろと教えてくれたように感じたのだ。
虚無の主人と使い魔の絆《きずな》は消せない
そう。
異世界でも離れない絆が……、魔法で消えるわけがない。
才人に唇を重ねられたルイズは、呆然《ぼうぜん》と立ち尽くした。振り上げた手が、途中で止まる。繋《つな》がった唇から、次々に何かが流れ込んできたからだ。
その流れ込んできた温かい何かがルイズの心の隙間《すきま》に……、吸い込まれていく。宛先《あてさき》のない手紙に、次々名前が書き込まれていくように、ルイズは感じた。
ところどころ空白だった思い出が、急激にかたちをとり始めた。
フーケのゴーレム、そしてアルビオン……、いろいろな場所での記憶が蘇《よみがえ》り、ついで……、様々な事柄が蘇った。恥ずかしいものも、その中には含まれる。
先ほどの才人が言ったことも……、鮮明に蘇っていく。
ぷはぁ、と唇を離し、ルイズは叫んだ。
「サイト!」
「思い出したか……、よかった」
「ど、ど、どどど……」
ぶわっとルイズの目に涙が溢《あふ》れる。
「ど?」
「どうして帰らないのよ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
そう叫びながら、ぽかぽかとルイズは才人《さいと》の胸を叩《たた》く。
「どうしてもこうしてもないだろうが。お前がいるからに決まってんだろ」
その一言でルイズの頬《ほお》が崩れ、思わず才人の顔を引き寄せ、自分から唇を重ねてしまう。
でも、すぐに皆が見ていることに気づき、思いっきり才人を突き飛ばした。
「ちょっと! 戦の最中だってのに! 何を考えているのかしら!」
「お前がしてきたんだろ! というか勝手に人を帰そうとしてんじゃねえよ!」
ルイズは、口の中でなにやらもごもごさせていたが、そのうちにボロボロ激しく泣き始めた。
「だって……、サイトがお母さんからの手紙見て泣いてるんだもん……、可哀想《かわいそう》になっちゃったんだもん……。わたしより、家族のほうがいいんじゃないかって……、そっちのほうがあんたは幸せなんじゃないかって……」
才人は、そんなルイズの頭を抱えて、優しく言った。
「自分の幸せは、自分で選ぶ。そして俺《おれ》の幸せは、たぶんここにあると思うんだよ……」
二人はひし、と抱き合った。マリコルヌの魔法が飛んで、二人は引き離される。
「はい。そろそろ終わり……、ネ。そんぐらいにしないと、お兄さんキレるからネ」
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凶悪な笑みを浮かべながら、マリコルヌは才人《さいと》の顔に聖戦旗を巻きつけた。
「今ほら、聖戦だから……、ネ?」
ルイズと才人は、顔を真っ赤にさせながら立ち上がると、ごほん、と二人並んで咳《せき》をした。
才人はルイズを車長席に座らせた。
砲塔の中が狭くなったが、ルイズは小さいのでなんとか身動きが取れる。
「残敵……、いるかね?」
ギーシュが言った。
「もう逃げ出したんじゃないか? いたら、手を出してくると思うけどなあ」
レイナールが答える。
才人は、峡谷《きょうこく》の奥を見据えた。
まだ……、終わっていない。そんな気がした。
「とりあえず、行ってみよう。あいつらを残しておいたら厄介だ」
少年たちは頷《うなず》くと、タイガー戦車を取り囲んだ。
「後ろから離れてついてきてくれ。お前らは生身だからな」
鋼鉄の虎《とら》は、虎街道≠フ中へと進撃を再開した。その後に水精霊騎士隊《オンディーヌ》が続く。彼らが峡谷に入ったのを見て、ロマリア軍もゆっくりと動き始めた。
峡谷の奥……、宿場街で、シェフィールドは手にしたジョゼフの肖像画を見つめていた。
あっという間に、手駒《てごま》のヨルムンガントが二体になってしまったことに、ショックが隠せないのだ。
敵の装備した長射程の大砲……。ヨルムンガントの装甲をものともしない、その威力。
どうしたら勝てるのだ?
自分こそが……、ジョゼフにとって最優秀の手駒。そうでなければいけないのに……。
担い手のピンチに駆けつけたガンダールヴを見た途端、頭に血が上ってしまったのだ。その結果、不器用な突撃を行ってしまった。
強力な敵に出会ったら、まずは引く。引いて様子を見る。
戦の初歩の初歩だ。
自分は、それすらも行えなかった。
神の頭脳が聞いて呆《あき》れるではないか。
だから……、とシェフィールドは呟《つぶや》いた。
ジョゼフさまはわたしを本当の意味で必要としてくれていない
誰《だれ》でも同じ、と思っているから……、自分は存在を許されている。
あの二人は違う。
お互いを必要としている。自分が勝てない理由はガンダールヴの能力でも、異世界からの兵器でもない。
その絆《きずな》≠セ。
身震いするほどに、シェフィールドは憤りを感じた。
ヨルムンガントは、また作ればいい。いずれチャンスはやってくる。
だが全滅するにしても……、あの鉄の箱≠セけは道連れにしないといけない。
シェフィールドは、先ほど叩《たた》き落した艦から、黒色火薬の樽《たる》を集め始めた。
タイガー戦車は、宿場街へと到達した。たった一日の戦闘で廃墟になってしまった街が、才人《さいと》たちを迎えた。
どこにも敵の姿は無い。
「いねえな……、逃げたんじゃないのか?」
「ちゃんと探しなさいよね」
キューポラから顔を出したルイズが、才人にそう告げる。
「お前が探せよ。そっちの方が断然外が見えるんだから!」
戦車の欠点は、視界が悪いことだ。きちんと索敵しようと思ったら、ハッチから顔を出さないといけない。
その瞬間……、建物の周りに置かれた樽が爆発した。
「うわ! なんだ!」
峡谷《きょうこく》に挟まれた狭い街が、あっという間に煙でいっぱいになる。元より狭い視界の照準器では、何も見えなくなる。
タバサがその正体を教えてくれた。
「黒色火薬」
タバサはすぐに、風魔法を唱えた。辺りの煙が上空へと巻き上げられていく。
「サイトくん! 前だ!」
コルベールの声が響く。薄く靄のように残る煙の中、ヨルムンガントが現れた。手を伸ばし、砲身を掴《つか》もうとした瞬間……、才人は発射レバーを握った。
バゴッ!
砲弾がヨルムンガントを吹き飛ばす。
次の瞬間……、車長用ハッチから顔を出していたルイズが叫ぶ。
「サイト! 上!」
まったくの死角だった。
マントを使い、壁に張り付いていたヨルムンガントが、上から襲いかかってきたのだった。導火線のついた火薬の樽《たる》を両手に握っている。
自分もろとも、タイガー戦車を破壊しようというのだろう。
「しまった!」
真上からの攻撃に戦車は無力だ。上に砲は向けられないし、よしんば向けられたとしても砲を向ける余裕もなかった。
才人《さいと》はルイズを戦車の中へと引きずり込んだ。
だが……、いつまで待っても爆発は起こらない。
「どうしたんだ?」
恐る恐るハッチから顔を出して見上げる。
青い鱗《うろこ》の風竜が、ヨルムンガントをがっしりと掴《つか》んで持ち上げていた。風竜は力強く上昇すると、ヨルムンガントを崖《がけ》の向こうに放り投げる。
バフゥウウウウウウウウウウウウウンッ!
長い余韻《よいん》を残す、鋭い爆発音が響き、爆風がタイガー戦車を叩《たた》く。
「風竜に助けられたわ。でも、すごい力ね……」
「シルフィード?」
隣のタバサが首を振る。
「違う。わたしの竜では、あんな重いものは持ち上げられない」
いったい何者だ? といぶかしんでいると、空の上からジュリオの笑い声が響く。
「あっはっは! 危ないところだったね。一個貸しにしとくよ!」
才人は悔しげに拳を握り締めた。
「そんぐらいで貸しになるか!」
背後から、聖堂騎士隊やロマリア軍が駆けてくるのが見えた。先頭に立つカルロが、大きく聖杖《せいじょう》を突き上げた。
「見よ! おごり高ぶるガリアの異端どもは殲滅《せんめつ》したぞ! 始祖の加護は我らにあり!」
おおおおおおおおお〜〜〜〜〜ッ! とロマリア軍の将兵たちは檄を飛ばす。
「あいつら、なんかしたっけ?」
遠巻きにそんな様子を見つめていたマリコルヌが呟《つぶや》いた。
さあ、とレイナールが両手をあげた。
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エピローグ
ヨルムンガントの全滅とともに、両用艦隊も撤退を開始した。周りでは勝利を祝うロマリア軍の声が響く。
その隣には小躍りして喜び合う水精霊騎士隊《オンディーヌ》の少年たちがいた。
コルベールは、キュルケとタバサに手伝わせながら、すぐさまタイガー戦車の損害を確かめている。彼は、根っからの研究者なのだった。
ゆっくりと引き上げていくガリア艦隊を見上げながら、才人《さいと》がぽつりと呟《つぶや》いた。
「また、始まっちまったな」
ルイズは、そうね、と頷《うなず》いた。
「ま、こうなったらとことん付き合ってやるよ」
するとルイズは、怒ったような声で言った。
「でも……、ひどいわ。聖下ってば。あんたを帰すって約束したのに……」
「あいつらは、お前の協力が必要だったから、そんな約束をしたんだ」
「え?」
ルイズは驚いた顔になって、才人《さいと》を見つめた。
「俺《おれ》の代わりはいる。死んでも、次また呼び出せばいい。でもお前の代わりはいない。そんなお前が協力を渋ってた。だから、俺の帰郷をエサにした。持ちかけたのはお前かもしれないけど……、あいつらはお前のそんな気持ちを利用しようとした」
「そんな!」
ルイズの肩が震えた。着ていた巫女《みこ》服を見つめると、それを脱ぎ捨てようとした。
「いいよ」
「でも! こんなのに袖《そで》を通していられないわ!」
「こんなところで素っ裸になる気か?」
ルイズは顔を真っ赤にさせた。
「気をつけろよ。あいつらは異常だぜ。おまけにその異常さに気づいてて、しかも肯定してやがる。 一筋縄じゃいかないぜ」
ルイズは恥ずかしそうに顔を伏せた。のん気に、アクイレイアの聖女などと呼ばれていい気になっていた自分が許せない。
「何が聖戦よ……」
「安心しろ。俺が絶対に、あいつらを止めてやる。ガリアの件が決着ついたら……、聖戦なんか終わらせてやる」
「やっぱり、あんたは帰るべきよ。こんな世界に付き合うことないわ」
すると才人は、きっぱりと言った。
「見たりない。だからまだ、帰らない」
「何を?」
「お前の笑顔」
ルイズは、ほんとに真っ赤になった。それから一生懸命に、頬《ほお》を動かして笑顔を作ろうとした。でも、照れくさいやら嬉しすぎるやらで、うまく顔が動かない。
それから才人は、思い出すようにぽつりと言った。
「……そういや俺、寝ているとき始祖ブリミルと初代ガンダールヴの夢を見たぜ」
「ほんと?」
「ああ。なんだかやたらリアルだったけど……、あれ本当に夢だったのかなあ」
「どういうこと?」
「もしかしたら、ほんとに俺、時間旅行したのかもしれない」
「そんなバカなこと、あるわけないじゃない」
んー、と才人は首を振る。それから左手を見つめる。
「でもさ、もしかしたら俺《おれ》のこのルーンの中に、その記憶が眠っているのかもしれないぜ。ガンダールヴの印の中に大昔の二人の記憶が……」
才人《さいと》はルイズに左手のルーンを見せた。
ルイズは最初信じる気にはなれなかったが……、先ほどの自分の件を思い出し……、少し考えを改める。
「言われてみると……、そうかもしれないわね。わたし、はっきりとあんたの記憶を消したのよ。それなのに、あんたとキスしたら……、身体《からだ》の中に何かが流れ込んできたの。それは間違いなく、あんたとの記憶だった。あんたが覚えていてくれた、わたしとの記憶≠セった。その記憶が、わたしの中にぽっかり開いた穴の中に、ぴったりはまり込んだの」
ルイズは才人を見つめながら言った。
今や自分の中での才人との思い出は、才人の目から見た思い出≠セった。
そこの記憶の中では自分自身が登場人物≠ネのだった。でも、人は記憶を自分の中で都合よく改変するという。だから、すぐに自分の主観に変換された部分も混じっている。
もしそうだとしたら……、自分たちはどれだけの絆《きずな》で結ばれているのだろう。
ルイズはうっとりとした。
まるで芝居を見ているような感覚で、ルイズは思い出を反芻《はんすう》する。
それは不思議な感覚だったけれど……、心地よかった。
視界などの感覚を共有できるなら、記憶を共有できてもおかしくない。
何かと特別な虚無≠フ主人と使い魔には、そんな芸当さえ可能なのだろう。
だから、正確でリアルな、始祖ブリミル≠フ夢を才人が見てもおかしいこととは思えない。ルーンが見せた、と言われると、むしろありえることのように思えた。
でも、一つだけ疑問が残る。
なぜルーンは、サイトにそんな夢を見せたのだろうか?
でも、幸せな気分だったので、そんな疑問はすぐに吹き飛んでしまった。
ルイズはじっと……、才人の手を握りながら思い出を反芻した。
ああ、才人はこんなときも自分を見ていたのだ、となんだかおかしくなる。
授業中、部屋の中……、寝ているとき。
馬で移動しているとき。買い物をしているとき。戦っているとき……。
幸せな気持ちで、ルイズは目をつむり、様々な記憶たちを慈しんだ。
そのうちにコツを覚えた。
一つ記憶を思い出すと、次々関連する光景が浮かんでくるのである。
「ん?」
ルイズは記憶≠ヘ、現実の思い出だけではないことに気づいた。明らかにおかしい光景も混じっていたからである。
自分が、才人《さいと》の世界らしい場所を歩いていく記憶……。才人の母親らしい人物に紹介されている記憶……、などなど。
ルイズは嬉《うれ》しくなって、にやけながら才人の横腹をつついた。
「もお、バカね。あんたってば……、ほんとにバカね。死んだほうがいいわ」
「う、うるせえ。なに見てんだよ。勝手に人の記憶あさるな」
そのうちに、ルイズの顔が蒼白《そうはく》になった。ついで、真っ赤になる。まるでゆでだこのように真っ赤になりながら、ルイズは酸欠の金魚のように口をぱくぱくとさせ始めた。
「なんだ? どうした?」
「あ、あんた……、わたしに何させてんのよ……、いくら想像の中だからって……」
才人の顔が青くなる。記憶を共有するということは……、つまり、妄想まで覗《のぞ》けるってことなんだろうか?
「へぇー、そう、あんた、わたしを犬呼ばわりしたかったの……。なんかあんたの記憶というか、汚らわしい汚らわしい妄想の中のわたしが……、こ、ここ、このわわわ、わたしが……『ルイズめはご主人さまの犬です〜〜〜』とか言ってるんだけど?」
「か、勘違いじゃないかなぁ〜〜〜?」
「し、しししし、しししし、しかももももももも、ベベベ、ベベベ……」
いかん、と思って才人は逃げ出そうとした。
「べべ、ベッドの上でぇええええええええええええええッ!」
ルイズは才人を引きずり倒すと、その背をげしげしと踏みつけ始めた。
「わ、わわ、わたしが犬扱いされて喜ぶなんて、ぜ、ぜぜ、絶対にありえないんだから! 犬はあんたでしょ! 間違えないでよッ! もうッ! ひ、人にあ、あんな格好ッ! あんな格好ッ!」
あんな格好ッ! と怒鳴りながら才人を踏みしめるルイズを、ギーシュたちはせつなげに見守った。
「あ、あんな格好って、どんな格好だろうネ」
マリコルヌだけが、キラキラ光る目でそんな光景を見つめていた。
「あんまり想像したくないな」
ギーシュが、首を振りながら呟《つぶや》く。
「ところで、ホントに始まっちゃったなあ。聖戦」
一同は空を見上げた。ペガサスに跨《またが》った聖堂騎士たちが、勝利を祝う聖具の紋を、魔法の煙で空に描いていた。
漂う聖具の紋が……、ハルケギニアの今後を見せているようで、ギーシュは身ぶるいした。
コルベールの点検を受けるタイガー戦車の砲手席の隣には、才人《さいと》のノートパソコンが置かれていた。
慌てていた才人が電源を切るのを忘れた所為《せい》で、そこにはメール画面が映っていた。
母さんへ。
驚くと思いますけど、才人です。黙って家を出てしまい、ほんとにごめんなさい。いや、ほんとは黙って出たわけじゃないけど……、言っても理解されないと思うので、そういうことにしておきます。とにかく、ごめんなさい。
メールありがとう。
心配してくれてありがとう。
さっき、ちょっとだけ母さんの顔が見えました。ちょっとやつれてたんで、悲しくなりました。食べるもの、食べてますか。心労で喉《のど》を通らないかもしれないけど、ちゃんと食べてください。
俺《おれ》は生きてます。
無事ですから、安心してください。
俺は今、地球とは別の世界にいます。
信じてくれないとは思いますけど、ほんとのことです。頭がおかしくなったと思われてもしかたないけど……、ほんとです。
そこでは、俺の友達や大事なひとたちが大変なことになっています。
そして、俺の力が必要なんです。
だからまだ……、帰れません。
でも、いつか帰ります。
お土産を持って、帰ります。
だから心配しないでください。
父さんやみんなによろしく伝えてください。
とりとめなくてごめんなさい。急いで書いてますんで。
母さんありがとう。
ほんとにありがとう。
心配してくれてありがとう。
結構大変だけど、俺《おれ》は幸せです。
生んでくれてありがとう。
それではまた。平賀《ひらが》才人《さいと》。
あとがき
社会科見学シリーズ。いかにゼロの使い魔が完成するか。
まず、原稿が遅れるとこまるのは絵描きさんです。文がないと描けないので、ほんとに大変です。そして編集部の皆さん。お休みがなくなってしまいます。大変です。
そしてもう一方、大変な人たちがいます。
印刷所≠ウんです。今日は皆さんに、原稿が遅れたらどうなるか? をリポートしたいと思います。
まず、被告(原稿が遅れた作家)は、都内某所にある虎の穴≠ニ呼ばれる印刷所に連れていかれます。
そこは地下室で、巨大な石臼《いしうす》のようなものを、鎖《くさり》に繋がれた牛が棒をくわえて回しています。これが輪転機《りんてんき》≠ナす。これが回り、印刷された本が生み出されるのです。皆さんは、輪転機というとコピー機のような綺麗《きれい》なものをイメージするでしょう? あれは政府のプロパガンダです。よい子のみんなは絶対信じてはいけません。現実は違います。本当の輪転機は、こうやって鎖に繋がれた牛が回しているのです。
輪転機《りんてんき》≠フ周りには屈強な男達が鞭《むち》を掴《つか》んで、待ち構えています。ぼくは震えながら、印刷所長≠フ前に並びます。網タイツをはき、親衛隊の帽子を被《かぶ》った、鬼より怖そうな女の人です。
彼女は鞭で床を叩きながら、ぼくに訊《たず》ねます。
「貴様はどこのブタだ?」
「め、メディアファクトリーで、ゼ、ゼロの使い魔を書いているブタです!」
所長の目がつり上がりました。彼女は印刷所の奥を指差します。そこには、一つの石臼が動きを止めています。隣では牛が暇そうに欠伸《あくび》をしています。
「見ろ。貴様のおかげで輪転機が止まっている。わかるか? 貴様のおかげで輪転機が、と ま っ て い る」
「ほんとすいません」
「回せ。ブタに回させてくださいと懇願しろ」
「ブ、ブタに回させてください」
それからぼくは原稿を遅らせた罪を全身の疲労で悔いながら、輪転機を一人で回すのです。重労働です。倒れようものなら、容赦なく鞭が飛んできます。
「ああっ!」
「ああ? ブタがああ≠ニ鳴くのか? どうなんだッ! どうなんなんだよッ!」
「ブヒ! ブヒヒ!」
「全身の痛みで感じろ! 遅れてすいませんと謝れッ! 謝るんだッ!」
痺れる痛みで、ぼくは思うのです。
ああ、原稿を遅らせてはいけないと。印刷所さんやいろんな人に迷惑がかかるのだと……。だからよい子の皆さんは、絶対に原稿を遅らせてはいけません。落とすなど、もってのほかです。
最後になりましたが、兎塚《うさつか》さん、今回も素敵なイラストありがとうです! あと編集部のみなさん。ほんとありがとうございます。そして読者の皆さん、いつもありがとう! それではまた! 輪転機回してきます!
ヤマグチノボル
発行 2008年5月31日 初版第一刷発行
2008/06/24 作成