ゼロの使い魔 13 聖国の世界扉
ヤマグチノボル
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*INDEX*
*第一章 ロマリア
*第二章 才人の決意
*第三章 『オストラント」号の上で
*第四章 二つの騎士隊
*第五章 教皇の説得
*第六章 長槍
*第七章 世界扉
*第八章 笑顔の意味
工ピローグ
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第一章 ロマリア
ロマリア連合皇国。
ハルケギニアの中で最古の国の一つに数えられ……、短く“皇国”と呼ばれることの多いこの国は、ガリア王国真南のアウソーニャ半島に位置する都市国家連合体だ。
始祖ブリミルの弟子の一人、聖フォルサテを祖王とする“ロマリア都市王園”は、当初、アウソーニャ半島の一都市国家に過ぎなかった。しかし、その“聖なる国”との自負が拡大を要求し、次々と周りの都市国家群を併呑《へいどん》していった。
大王ジュリオ・チェザーレの時代にはついに半島を飛び出し、ガリアの半分を占領したこともある。
だが……、そんな大王の時代は長くは続かなかった。
ガリアの地を追い出されたあと、併合された都市国家群は、何度も独立、併合を繰り返した。そして幾たびもの戦の結果、ロマリアを頂点とする連合制をしくことになったのだった。
そのためか、各都市国家はそれぞれ独歩の気風が高く、特に外交戦略において必ずしもロマリアの意向に沿うわけではない。そういう意味では、まったく生い立ちは違うが、ハルケギニア北方の帝政ゲルマニアに似ていた。
ハルケギニアの列強国に比して国力で劣るロマリアの都市国家群は、自分たちの存在意義を、ハルケギニアで広く信仰される“ブリミル教の中心地である”という点に強く求めるようになった。
ロマリアは始祖ブリミルの没した地である。祖王、聖フォルサテは、“墓守”としてその地に王国を築いたのだ。
その子孫たちはその歴史的事実を最大限に利用し、都市ロマリアこそが“聖地”に次ぐ神聖なる場所であると、自分たちの首都を規定した。
その結果、ロマリア都市国家連合は“皇国”となり、その地には巨大な寺院……、フオルサテ大聖堂が建設された。代々の王は、“教皇”と呼ばれるようになり、すべての聖職者、及び信者の頂点に立つことになった……。
「……まったく、いつ来てもこの国は建前と本音があからさまですこと」
トリステイン女王アンリエッタは、馬車の窓から覗《のぞ》く、ロマリアの街並みを眺めて言った。
時はウルの月、フレイヤの週、オセルの曜日。五番目の月の七日目。
魔法学院では、ティファニアの編入で大騒ぎになっている頃《ころ》……。
宗教都市ロマリアは、ハルケギニア各地の神官たちが『光|溢《あふ》れた土地』と、その存在を神聖化している。そこかしこにキラキラ光るお仕着せに身を包んだ神官たちが歩き、敬虔《けいけん》な信者たちがにこやかに挨拶《あいさつ》を交わし合う……。
街には笑いと豊かさが溢れ、自らを『神のしもべたる民のしもべ』と呼び習わす教皇聖下のもと、神官たちが敬虔なるブリミル教徒たちを正しく導いている……。
そんな理想郷が、アウソーニャ半島の一角に存在していると、生まれた街や村を滅多《めった》に出ることのないハルケギニアの民は信じ込まされているのだが……。
「ありとあらゆる土地からなだれ込んできた平民たちが、好き放題に振る舞っているではありませんか。“理想郷”というより、まるで貧民窟《ひんみんくつ》の見本市のようですわ」
ため息混じりに、アンリエッタは眩《つぶや》いた。
通りには、ハルケギニア中から流れてきた信者たちが、救世マルティアス騎士団の配るスープの鍋《なベ》に列を成している。彼らはこの街にたどり着いたはいいが、仕事もなく、することもなく、着るものも食事もままならない。
その信者たちの後ろには、イオニア会のものらしい、石柱を何本も束ねたような豪華な寺院がそびえ、着飾った神官たちが談笑しながら門をくぐっている……。
新教徒たちが“実践教義”を唱えるのも致し方ないことね、とアンリエッタはひとりごちる。市民たちが一杯のスープに事欠く有様なのに、神官たちは着飾り、散々に賛沢《ぜいたく》を楽しんでいるのだから……。
昔、子供だった頃《ころ》、この街を訪れたアンリエッタは、そんなことには気づかなかった。居並ぶ各宗派の豪勢な寺院に夢中になり、輝くステンドグラスや、大きな宗教彫刻の織り成す至高の芸術に目を見張らせたものだ……。
ふと、視線をずらすと、目の前の席に腰掛け、居心地の悪そうに身をすくませた銃士隊長アニエスの姿が見える。
「どうしたのです? 隊長殿」
「いえ……、慣れぬ格好なものですから……」
アニエスは、いつもの鎖《くさり》帷子《かたびら》の代わりに、貴婦人が纏《まと》うようなドレスに身を包んでいた。そんな格好をしていると、凛々《りり》しい顔立ちとあいまって、どこぞの名家のお嬢さまのようにも見える。
だが……、武人としての目の光が、そんな優しい雰囲気を打ち消してしまっていた。
鋭く研がれた無骨な剣が宝石で飾られた鞘《さや》に収まっているような……、そんなちぐはぐな印象を与える銃士隊長を見つめ、アンリエッタは微笑《ほほえ》んだ。
「お似合いですよ」
「おからかいになりませぬよう」
憮然《ぷぜん》とした声で、アニエスが眩《つぶや》く。
「わたくしの使い方をお間違えですぞ。こんなピラピラした服を着るために、ロマリアくんだりまで来たわけではありませぬ」
「わたくしには秘書が必要なのです。護衛もこなせる、有能な秘書が……」
「剣を振るしか能のない、こんなわたくしに、秘書など務まりませぬ」
「近衛《このえ》隊長というものは、剣や指揮《しき》杖《じょう》を振るだけが仕事ではないのですよ。時と場合に応じて、やんごとのない身分のお方や、賓客を相手にすることもあるのです。一通りの作法は身につけていただかねば、わたくしが困ってしまいます」
アンリエッタは、すました顔で応《こた》えた。それでもアニエスは、どうにも納得のいかない様子。
「マザリーニ枢機卿《すうききよう》はどうなされたのです。本来なら、宰相のあの方がお供すべきでは……」
「彼以外に、わたくしの留守を頼める方がおりますか?」
まあ、そうですが……、と眩《つぶや》きながら、アニエスは軽くなった腰を不安げに見つめた。
「しかし、どうにも剣や拳銃《けんじゆう》を身につけていないと、不安で落ち着きませぬ」
「しかたありませぬ。それがこの国の作法のようですから」
アニエスたち護衛の銃士たちは、都市ロマリアの門をくぐった際に、剣を外したのである。馬車に積んだり行李《こうり》に入れる分にはかまわないが、この宗教都市での武器の携帯は許されない。ロマリアならではの特殊な作法だった。アンリエッタも、いつも持ち歩く水晶|杖《つえ》を鞄《かばん》におさめていた。
「これでは、万一の場合、陛下をお守りすることができませぬ」
不満げにそう眩くアニエスに、アンリエッタは窓の外を指し示した。そこには、聖獣ユニコーンに跨《またが》り、白いローブを羽織った騎士隊がいた。馬車の左右に挫え、厳重に国賓の一行を護衛しているのであった。
彼らの首には、銀の聖具がかかっている。始祖が手を広げたかたちのそのシンボルは、彼らが羽織ったローブの胸部分にも、大きく銀糸《ぎんし》で縫いこまれていた。
「ロマリア聖堂騎士団が、わたくしたちを守ってくれていますわ」
彼らは、この宗教都市で唯一武装を許された、ロマリアの精鋭中の精鋭騎士団だった。
ロマリア聖堂騎士……、それぞれの宗派ごとに構成されるこの国家騎士団は、その忠誠度をもって、ハルケギニア各列強の騎士団と明確に区別される。
彼らはまさに、教皇と信仰のためならば“死ぬまで”戦うのだった。その白き衣は、敬虔《けいけん》なるブリミル教徒にとっては光の象徴であり、異教徒たちにとっては、まさに恐怖の象徴だった。死ぬことを恐れない敵ほど厄介なものはない。
アニエスは、わずかに眉《まゆ》を曇らせて眩いた。
「彼らが、新教徒のわたくしまで命を賭《と》して守るとは思えませぬな」
アンリエッタは、アニエスのその自嘲《じちょう》を含んだ言葉にも動じず、
「神は、多少の教義の違いなどには目をつむってくれますわ」
ロマリアの神官たちが聞いたら卒倒するような言葉を平然と言ってのけた。
トリステイン女王の馬車の後ろには、アンリエッタ個人の秘書官や、政治家や貴族を乗せた一行が続いている。えり抜きの銃士や魔法衛士たちが、各馬車には配属されていた。
アンリエッタたちは、とある式典に出席するために、フネで大洋の上を通ってはるばるこのロマリアまでやってきたのだった。その招待状は、ティファニアを迎えに才人《さいと》たちを送り出したあと、入れ違いにアンリエッタの元に届いた。結果、アルビオンからティファニアを連れて帰ってきた才人たちとはすれ違いになってしまった。
ガリア上空を通れば快速船で三日の距離だが、アンリエッタはきな臭くなりつつあるガリアとの関係を危惧《きぐ》し、大きく迂回《うかい》する大洋上の航路を選択した。結果、到着までに一週間もかかってしまった。
だが……、その式典は二十日後に行われる予定になっている。
「ではお言葉に甘え、秘書としてお尋ねしますが……」
「どうぞ」
「どうして式典に先だって、二十日も早くやってきたのです?」
「式典出席は表向きの理由。わたくしたちは、これから秘密の折衝を開始するのです」
「教皇聖下と……、ですか?」
「ほかに誰《だれ》が?」
アニエスは、何か考え込むように下を向いた。
「どうしたのです? 隊長殿」
心配するような声でアンリエッタに問われ、アニエスは顔をあげた。
「……いえ、なんでもありません。つまらぬ質問、失礼いたしました」
ロマリアは、周りを城壁で囲まれた古い都市だ。古代に造られた石畳の街道が、整然とした街並みの間を縫っている。発展と縮小を繰り返した結果、乱雑な雰囲気漂うトリスタニアやガリアの首都リュティスと違い、綺麗《きれい》な白い石壁の街並みがどこまでも続いている。病的なほど、無垢《むく》な印象を与える清潔感が漂っていた。
「実に綺麗な街ですな」
アニエスが気を取り直すように、ロマリアの街の感想を述べた。アンリエッタは応《こた》えずに、不安げに指の先をいじり始めた。
式典に先だっての、お忍びの行幸ゆえに、馬車の御者台の横には、なんの旗も翻っていない。ただ、聖堂騎士の護衛と馬車の立派さから、やんごとない身分の方だろうと当たりをつけた市民たちが、立ち止まって振り返る。
そのうちにトリステイン使節団の三台の馬車は、太い大通りに出た。
通りの向こうに、六本の大きな塔が見えてくる。真ん中に一本、巨大な塔、それを囲むようにして五芒星《ごぼうせい》のかたちに塔が配置されていた。
そのかたちは、トリステイン魔法学院に似ていた。それもそのはず、この宗教国家ロマリアを象徴するこの建築物をモチーフに、魔法学院は建設されたのだ。
馬車の左右前後に控えた聖堂騎士たちは、門が近づくと一斉に前進した。門の左右に、一糸乱れぬ見事な動きで整列すると、腰に下げた聖具を模した杖《つえ》を掲げる。陽光に杖が煌《きら》めき、銀の鎖飾りのように壮麗な門構えの大聖堂を彩った。
「……ついたようですわね」
アンリエッタが眩《つぶや》く。窓からわずかに顔を出し、アニエスがため息をついた。
「あれが|ロマリア大聖堂《宗教庁》ですか。魔法学院に似ておりますが……、規模は馬と犬ほども違いますな」
確かに、似ているのはかたちだけで、塔の高さはそれぞれ五割増しほどもあった。
白いお仕着せに身を包んだ衛兵たちがアプローチに並び、門をくぐった女王の馬車に、両手を胸の前で交差させる神官式の礼をとる。ここでは万事が、宗教行事として執り行われるのだ。
しかし……、到着したというのに、馬車のドアを開けに来る神官も貴族もいない。馬車寄せに並んだ衛兵たちは、礼をとったまま身動きすらしない。
どうしたことか、と思案していると、玄関前に勢ぞろいした聖歌隊が、指揮者の杖《つえ》のもと荘厳な賛美歌を歌い始めた。
お忍びの女王を歓迎するための、ロマリア流のもてなしらしい。
「馬車の中で、一曲聞かせるつもりですかな」
アニエスが眩いた。
声変わり前の少年たちの清らかな歌声は、長旅で疲れたアンリエッタの心と体を、静かに癒《いや》していく。自分を労《いたわ》っての演出なら、聖エイジス三十二世も相当なものね、とアンリエッタはひとりごちる。
歌が終わると、指揮者の少年が振り向いた。
白みがかった金髪の、美しい少年だった。
「……月目?」
左右の瞳《ひとみ》の色が違う。オッドアイ……、ハルケギニアでは月目と呼ばれ、縁起が悪いものとされている。それなのに、聖歌隊の指揮者をつとめるとは……、よほどの事情があるのだろうか?
アンリエッタは聖歌隊のもてなしをねぎらうために、窓から左手を差し出した。指揮者の少年は、右腕を体の斜めに横切らせ、アンリエッタに礼を奉じて寄越《よこ》し、そのままの格好で近づいてくる。まるで、貴族か軍人のような仕草だった。
それから恭《うやうや》しく、宝石を扱うようにアンリエッタの左手を取り、唇をつけた。
「ようこそロマリアへ。お出迎え役の、ジュリオ・チェザーレと申します」
果たしてそれは、アルビオンで七万を迎え撃つ才人《さいと》を見送ったジュリオだった。
その優雅で気品ある仕草に心打たれたアンリエッタは、馬車の中から声をかけた。
「あなたは神官ですね」
「さようでございます。陛下」
「それなのに、まるで貴族のような立ち居振る舞いですわ。いえ、けなしているわけではありません」
ジュリオはにっこりと笑みを浮かべた。
「ずっと軍人のような生活をしていたものですから。先だっての戦のおりは、一武人として陛下の軍の末席を汚しておりました」
「まあ、そうでしたの」
アンリエッタの顔に、暗い影が一瞬よぎる。思い出したくない哀しい記憶を押し込め、アンリエッタは言葉を続ける。
「お礼を申し上げますわ。つらい戦いでした。ご苦労なさったでしょうね」
「ありがたいお言葉、痛み入ります。では、こちらにいらしてくださいませ。我が主《あるじ》が陛下をお待ちでございます」
ジュリオは馬車の扉を開けると、アンリエッタの手を取った。
アニエスもそのあとに続く。各馬車から降りてきた使節団の一行も、それぞれやってきた出迎え役のロマリア政府の役人たちと挨拶《あいさつ》を交わした。
彼らに手を振り、アンリエッタはアニエスだけを連れて、ジュリオの案内で先に進む。
大聖堂へと足を踏み入れたとき……、アンリエッタは聖エイジス三十二世の招待状を思い出した。
『式典の二十日ほど前に入国されたし。神の奇跡をお見せします』
神の奇跡とはいったいなんだろう?
期待と不安が入り混じり……、アンリエッタは軽く震えた。
玄関から大聖堂に入ると、明かり窓にはめ込まれたステンドグラス越しの陽光が、七色の光となってアンリエッタを包んだ。
「……綺麗《きれい》」と、ふと感想を漏らすとジュリオが微笑《ほほえ》む。
アンリエッタがさらに大聖堂の奥へと進むと、驚く光景が広がっていた。ここに来る途中の道で見かけたような貧民《ひんみん》たちが集まり、毛布にくるまって天井を見つめている。大聖堂の一階は、まさに救貧院の様相を呈していた。
「彼らは?」
アンリエッタが尋ねると、ジュリオは答えた。
「戦で荒廃したアルビオンからやってきた難民たちです。行き先の手配が決まるまで、ここを一時の滞在所として開放しております」
「教皇聖下の御差配ですの?」
「もちろんです」
アンリエッタは、このように難民を受け入れた教皇ヴィットーリオの仕事に感心した。聖堂議会の反撥《はんぱつ》も強かっただろうに。ましてや、ロマリアの象徴たる大聖堂を、このように開放するとは……。
独り言のように、ジュリオは言った。
「残念ながら、ロマリアはまったく、彼らが信じてやってきたような“光の国”ではありません。世界は矛盾に満ちています。教皇聖下はその矛盾を、なんとかときほぐそうとされているのです」
ロマリア教皇、聖エイジス三十二世は、執務室で会談中とのことだった。アンリエッタは外の謁見待合室でしばしの時間を遇こした。だが、ジュリオという話の上手なホストが隣に控えていたので退屈はしなかった。
三十分ほどもすると、扉が開いて中から子供たちが現れたのでアンリエッタは驚いた。あまり上等とはいえないが、きちんと手入れされた服に身を包んでいる。
「せいか、ありがとうございました」
年長と思《おぽ》しき少年が頭を下げると、周りの子供たちも一斉に頭を下げる。子供たちはきびすを返すと、ドアのそばにいるのがトリステイン女王ということにも気づかず、笑いながら駆け去った。
「おれ、せいかに“おぼえ”がいいって褒められちゃった」
「わたしも! わたしも!」
呆気《あつけ》にとられて、アンリエッタとアニエスがその様子を見守っていると、ジュリオがアンリエッタを促した。
「では、中へ。我が主《あるじ》がお待ちでございます」
教皇の謁見室は、雑然としていた。神官の最高権威である教皇の執務室……、というよりは、街の図書屋か大学の教授の部屋のようである。壁面にはぎっしりと本棚が並び、数数の蔵書が並んでいる。目につくタイトルを見るに、宗教書ばかりが並んでいるわけではない。
そのほとんどは、歴史書だった。戦史関係の書物が多い。博物誌も数多い。
戯曲《ぎきょく》に小説……、滑稽本《こっけいぼん》の類《たぐい》まであった。
そして大振りな机の上にも、乱雑に同じ表紙の本が積み上がっている。
最近、ロマリアの宗教出版庁が発行した“真訳・始祖の祈祷《きとう》書”だ。始祖の偉業が記された、聖なる書である。
その“真訳・始祖の祈祷書”を片付けている、髪の長い、二十歳ほどの男性がいた。アンリエッタは一瞬、その男性を召使か何かと勘違いした。だが……、その端正で美しい横顔を見た瞬間、はっとした。
「……教皇聖下」
その声で、教皇聖エイジス二十二世こと、ヴィットーリオ・セレヴァレは振り向いた。
「これはこれはアンリエッタ殿。少々お待ちいただきたい。今すぐにおもてなしの準備をしますから……」
笑うような声で、ジュリオが尋ねた。
「聖下、お言葉ですが、アンリエッタ女王陛下がトリステインからおいでになられたのですよ?」
「わかっています。わかっていますよジュリオ。だがね、わたくしは彼らにこの時間、文字と算学を教える約束をしていたのだよ」
はるばるここまで一国の女王を呼びつけておいて、待たせることも驚きだが……、その理由が街の子供たちに文字と算学を教えるためだったなんて!
無礼と怒るよりも、アンリエッタは呆然《ばうぜん》としてしまった。
線の細い、一種異常なぐらいの美しさを持つヴィットーリオを見つめ……、アンリエッタは悩んだ。いったい、このロマリア教皇はどういう人物なのだろう?
この前の、突然のトリステイン来訪といい、破天荒な人物ということは間違いないようだ。
「片付けなど、召使にやらせればよいではありませんか」
手をひらひら振りながら苦笑を浮かべて、ジュリオが言った。臣下の者にしては、随分と馴《な》れ馴《な》れしい態度だ。トリステインやガリアでは、自分の主《あるじ》にこんな態度をとる家来はいない。そこにもアンリエッタは驚いた。
「他《ほか》のものに任せるわけにはいきませんよ。本の整理というものは、自分でやらないといけません。じゃないと、どこにしまったのかわからなくなり、読みたくなったときに困りますからね」
そんな物言いをする教皇がおかしく、アンリエッタはふと笑みを漏らした。本を片付け終わった教皇は、そこでやっと女王の一行に目を向けた。
「遠路はるばる、ようこそいらしてくださいました」
見るものすべてを魅了せずにはいられない、そんな笑みだった。まだ二十をいくつか超えたばかりだというのに、その目には年を経た聖者だけが持つ慈愛の光が瞬いている。
この若さで教皇の座につくからには、どれだけの才能と努力が必要なのだろう?
そのどちらも、十分すぎるほどに持っているに違いない。でなければ、教皇の帽子は被《かぶ》れない。
いったい、この教皇はどれだけの才を……、持っているのだろう?
彼の掲げた理想のみならず、アンリエッタはそれが知りたくなったのだった。
だからこそ、政務で息もつけぬトリステインをわざわざ出でて、この逮く離れたロマリアくんだりまでやってきたのだ。
「聖下の思《おぼ》し召しですもの。敬虔《けいけん》なるブリミル教徒として、とりもなおさず、駆けつけて参りました」
深々とアンリエッタは頭《こうぺ》を垂れた。
公式の席で、アンリエッタの上座に腰掛けることのできる人間は二人しかいない。ガリア王ジョゼフと……、このヴィットーリオの二人である。したがって、低頭も作法に適《かな》っていた。
「頭をおあげください。なに、あなたのお国の宰相殿が譲ってくれた帽子です。かしこまる必要はどこにもありません」
さらっと、ヴィットーリオは口にした。それは事実である。ロマリアから派遣されたかたちのトリステイン宰相、マザリーニ枢機卿《すうききよう》は、次期教皇と目された人物であった。しかし、三年莉の教皇選出会議による、ロマリアからの帰国要請を、マザリーニは断ったのである。
それが故、|トリステイン《国》を乗っ取ろうとしている、などとありもしない噂《うわさ》を立てられたこともあった。しかし、事実無根の噂に過ぎなかったことはアンリエッタの即位ではっきりしている。
その内心は、女王であるアンリエッタも知らない。マザリーニも、その理由は決して話さない。
「マザリーニ殿は、ほんとうによくしてくださいます。では聖下、お言葉に甘え、質問をお赦《ゆる》し願えますか?」
「なんなりと」
アンリエッタは、後ろに控えるアニエスを、ちらっと見つめた。さっそく話題が訪問の核心に触れるために、人払いを、と考えたのだ。
しかし、ヴイットーリオは首を振る。
「いえ……、護衛隊長どのにも臨席願いましょう。どうやら、この方は何かをご存知のご様子ですから」
アンリエッタはアニエスをちらっと見つめた。アニエスはかしこまり、わずかに頬《ほお》を染める。そんな銃士隊長の姿を見るのは初めてで、アンリエッタは驚いた。
質問を許されたはいいが、さて、何から切り出したものか……、とアンリエッタが思案していると、
「この国の矛盾には気づかれましたか?」
ヴィットーリオは、逆にアンリエッタに質問をしてきた。アンリエッタははっとした表情を浮かべたが、すぐに真顔に戻り、頷《うなず》く。
「はい」
「ご覧のとおりです。恥ずかしながら、“光|溢《あふ》れる国”など、どこにもありません。パンに事欠く民がいる一方、各会の神官、修道士たちは思うままの生活をしています。信仰が地に落ちたこの世界では、誰《だれ》もが目先の利益に汲々《きゅうきゅう》としている」
「お言葉ですが、聖下のご威光をもってして……」
「やっております。これでも、わたくしは頑張っているのですよ。主だった各宗派の荘園《しょうえん》を取り上げ、大聖堂の直轄にいたしました。それぞれの寺院には救貧院の設営を義務付け、一定の貧民《ひんみん》を受け入れるよう、ふれを出しました。免税の自由市をつくり、安い値段でパンが手に入るよう、差配しております。その結果、新教徒教皇とわたくしを揶揄《やゆ》する輩も少なくありません。まったくバカな言い草です! 新教徒などと名乗る異端どもは、ただ自分が大きな分け前に預かりたい、レコン・キスタと変わらぬ連中ではありませんか」
頑張っている、それは嘘《うそ》ではないだろう。アンリエッタは大聖堂にいた貧民《ひんみん》たちや、先ほどのここから出てきた子供たちを思い出した。
「このわたしは、孤児院からお引き立てを頂いたのです」
ジュリオが、誇らしげな声で言った。
ヴイットーリオは頷《うなず》くと、言葉を続けた。
「だが、それが限界です。無理に神官たちからこれ以上の権益を取り上げようとすれば……、内乱になります。ブリミル教徒同士が、お互いの血を求め合う結果になる。わたくしは、わたくしを教皇にした人々から、今度はこの帽子を取り上げられることになるでしょうね。人は自分の持ち物が……、どれだけ正当な理由があろうとも……、召し上げられることを好みません。そしてわたくしは、人同士がこれ以上争うことに我慢できないのです。貴賎《きせん》や教義の違いによって相争うこと……、これ以上に愚かしいことがあるでしょうか? 人はみな、神の御子《おこ》なのですから」
アンリエッタは頷いた。そのとおりだと思っていた。
ヴィットーリオは両手を広げた。
「なぜ、かのように信仰が地に落ちたのか? 神官たちが、神を現世の利益をむさぼるための口実にするようになったのはなぜなのか?」
悔しげな声で、ヴィットーリオは言った。肩が震えだす。まるで己の無力さを、痛みで紛らわすかのように、彼は強く唇を噛《か》んだ。
「……力がないからなのです」
「力……」
「ええ。わたくしは、以前あなたにお会いした際に言いました。『力が必要なのです』と。我らの信仰の強さを、驕《おご》った指導者たちに見せつけねばなりません。つまらぬ政争や戦にあけくれる貴族や神官たちに、真《まこと》の神の力を見せねばなりません」
「……エルフから、聖地を取り返すことによって?」
そうです、とヴィットーリオは頷いた。
「“神の奇跡”によって、異教徒《エルフ》たちから聖地を取り返す……。真の信仰への目覚ましとして、これ以上のものはありません」
「神の奇跡……」
アンリエッタは息をのんだ。
先だって貰《もら》った手紙の末尾の一文が脳裏に蘇《よみがえ》る。
ヴィットーリオは、つい、と後ろを向くと、一つの本棚に向き直る。せいっ! と顔に似合わぬ掛け声をあげて、指をかけ、それをずらそうとし始めた。
しかし、どうにも力が足りず、本棚が動かない。ぺろっと舌を出し、愛婚《あいきよう》のある仕草でジユリオに頷《うなず》く。
「ジュリオ。手伝ってください」
「最初からそうおっしゃってくださればいいものを」
「何事も、自ら行わないと気がすまないのです」
二人はにこやかに微笑《ほほえ》みあうと、本棚を力を込めてずらし始めた。
ズズズズズズ、と重たい音と共に現れたのは……。
壁に埋め込まれた、大きな鏡だった。高さはニメイル、幅は一メイルほどの楕円形《だえんけい》のかたちをしている。
「これが、奇跡なのですか?」
アンリエッタが尋ねると、ヴィットーリオは首を振る。
「いえ……、わたくしの使える“奇跡”は、手に触れることができません。だが、奇跡とは触れずとも目に見えるものであらねばなりませんからね」
わたしの聖杖《せいじよう》を、とヴィットーリオはジュリオを促す。
聖具を模した杖《つえ》を、テーブルに置かれた傍らの小箱から取り出し、ジュリオは恭《うやうや》しくヴイットーリオに捧《ささ》げた。
それを手にしたヴィットーリオは、低く、祈るような声で呪文《じゅもん》を唱えた。
今まで耳にしたことのない、美しい、賛美歌のような透き通った調べだった。
ユル・イル・クォーケン・シル・マリ……。
聖者が、神に捧げる祈りのようでもあった。
どれだけの時間が過ぎたのであろうか?
随分と長い時間のようにも思えた。だが、実際には五分ほどの詠唱であったろうか?
呪文が完成すると、ヴイットーリオは緩やかに、祝福を与えるように優しく、杖を鏡に向けて振り下ろす。
アンリエッタがじっと見つめていると……、鏡が光りだした。
光が唐突に掻《か》き消《き》え……、鏡になにやら映り始める。
今、この部屋のものではない映像だ。
その光景を見て、アンリエッタはうめきを漏らした。
「……これは」
生まれてよりこのかた、一番の驚愕《きょうがく》がアンリエッタを包んだ。
満足げな声で、ヴィットーリオは眩《つぶや》く。
「これが始祖の系統……、“虚無”です」
「虚無」
「古代……、呪文《スペル》とは神への祈りの言葉でありました。我々は、神への祈りを通じて、|奇跡の技《魔法》を手に入れたのです。信仰が地に落ち、神がおかくれになったこのような時代でも、その本質は変わりませぬ。このような祈りに近い呪文《じゅもん》の系統こそ、神との対話には相応《ふさわ》しい」
「聖下……、では、あなたは」
アンリエッタは、震えながらヴィットーリオを見つめた。
「そうです。アンリエッタ殿。神のしもべたる民のしもべになることを運命付けられたわたくしに、神はこの|奇跡の技《虚無》をお与えくださいました」
「おお……、聖下。聖下」
アンリエッタは神々しい輝きに打たれ、思わず脆《ひざまず》いた。
「我々は、集まらねばなりません。多くの“祈り”によって、さらに大きな奇跡を呼ぶために」
第二章 才人《さいと》の決意
年始から数えて五番目のウルの月も半ば過ぎ……、第三週エオローの週初めユルの曜日。空はどこまでもからっと晴れ上がり、魔法学院の四つの中庭を照らしていた。
放課後、授業が終わった生徒たちはめいめい気に入りの中庭に集って、休みの日に出かける相談や、トリスタニアに新しくできた居酒屋のことや、誰《だれ》と誰が付き合ってるとか、来週、ティワズの週に延期されて行われる予定のフリッグの舞踏会のことなど……、明るい話題に打ち興じていた。
さて、そんな生徒たちの明るい、楽しげな雰囲気が突然の闖入《ちんにゅう》者によって破られた。
「きゃぁああああああああ! 破廉恥《はれんち》騎士隊だわ!」
「みなさん! お逃げになって! 大変だわ!」
アウストリの広場に女生徒の悲鳴が響き渡り、男子生徒たちは眉《まゆ》をひそめた。彼らは、自分たちだけいい思いをした連中が(結果として彼らは虫以下の扱いを受ける羽目になったのだが)どうにもこうにも羨《うらや》ましく許せなかったのである。
そんな侮蔑《ぷぺつ》のまなざしの中、どうどうと歩くのは我らが水精霊騎士隊《オンディーヌ》の面々だった。彼らはどこまでも真剣な面持ちで、二列縦隊で行進してくる。
先頭に立つのは、隊長のギーシュ。彼が薔薇《ばら》の造花を模した杖《つえ》を掲げると、後ろにいたマリコルヌが絶叫した。
「全隊! 止まれ!」
ざっ! と統率のとれた動きで、彼らは停止した。行進の訓練が行き届いている動きだった。騎士隊にとって、“行進”は重要な仕事である。毎日一時間は行進の練習に当てていた甲斐《かい》があったようだ。
ギーシュが、掲げた杖を振り下ろす。するとマリコルヌが、大声で絶叫した。
「騎士隊! 構え!」
騎士隊の生徒たちは、さっ! と背負った何かを引き抜いた。杖ではなく、それは箒《ほうき》だった。ベララ羊歯《しだ》の葉を使って作られた、大きな箒である。
「目標! アウストリの広場内のゴミ各種! 掃討せよ! 掃討せよ! 掃討せよ!」
隊員たちは、わぁ〜〜〜〜〜と掛け声をかけながらめいめいに散らばると、ささささ、と掃除を開始した。魔法学院の貴族生徒たちは、その辺りにぽいぽいと食べかすやら空《あ》き壜《びん》やらを放り捨てるので、いつもはメイドや給仕たちが、こまめに掃除をしている。
そんな使用人の代わりに、水精霊騎士隊が放課後の中庭掃除を申しつけられたのは、三日ほど前のこと。件《くだん》の女子|風呂《ぶろ》覗《のぞ》き事件に対する、学院側からの罰である。
マリコルヌが、そそくさと身を縮ませながら、女子生徒が固まっている場所に近づく。
「きぃやあああああああ! 破廉恥《はれんち》騎士が来たわ!」
卑屈と歓喜が入り混じった笑みを浮かべ、マリコルヌは女子生徒の中に躍りこんでいく。
「だめじゃないですか。お嬢さまがた。こんなにゴミをお散らかしになって……」
女生徒たちは、そんなマリコルヌを見て逃げ惑う。
「こっちに来ないで! 来ないで!」
だって、そっちにゴミがあるから……、落ちてるから……、と何故か喜悦の表情を浮かべたマリコルヌが近づく。
「マ、マリコルヌさま……」
逃げ惑う女生徒の中に、いつかたまり場でマリコルヌが詩を読んで聞かせた黒髪のおとなしそうな少女がいた。
「やあ、ブリジッタ。元気かい?」
額《ひたい》に汗を光らせ、爽《さわ》やかな笑顔を浮かべるマリコルヌに、ブリジッタは涙目で怒鳴った。
「マリコルヌさまの嘘《うそ》つき! そんな、そんな、お風呂《ふろ》を覗くような方だなんて存じませんでしたわ!」
ゴミを拾いながら、マリコルヌは眩《つぶや》くように言った。
「男にはね」
「マリコルヌさま……」
「……負けるとわかっていても、戦わなきゃいけないときがあるんだ」
ふ……、とマリコルヌはニヒルな笑みを浮かべた。
「意味がわかりません! マ、マリコルヌさまは人間のゴミですわ!」
ぴきーん、とマリコルヌの背筋が伸びる。
「ゴミ……、ゴミだなんて……、あああ……」
「撤回! ゴミ以下ですわ!」
マリコルヌは喜悦のあまり、地面に転がってカクカクと痙攣《けいれん》を始めた。実に困ったぽっちゃりさんであった。
一方、隊長のギーシュはわずかに緊張した色を浮かべて、箒《ほうき》でさっさっと地面を掃いていた。ぼごっと地面が盛り上がり、使い魔のモグラが顔を出す。
ギーシュの顔が、一瞬で涙で曇る。
「ヴェルダンデ!」
すさっと立《た》て膝《ひざ》になり、愛《いと》しい使い魔の首を、ギーシュはかき抱いた。
「……情けないぼくを許しておくれ。一時の気の迷いにおぼれたぼくを許しておくれ!」
モグラのヴェルダンデは、そんなギーシュの頭を、ごついガントレットのような手で、ごしごしと撫《な》で上げた。
「一時の気の迷いですって? 四六時中、気を迷わせているくせに、よく言うわね」
優しいヴェルダンデの後ろから、厳しい声が響いた。
「モンモランシー!」
果たして、そこに立っていたのは金色の巻き毛が眩《まぶ》しいモンモランシーだった。彼女は、しゃがんだギーシュを見下ろすと、冷たい目で言い放つ。
「今度という今度は、あなたがどういう人間かよお〜〜〜く、わかったわ。さようなら」
モンモランシーは手に持ったワインの壜《びん》を、どぼどぼとギーシュの頭にかけた。
「さよならって! どういう意味だい? モンモランシー!」
ギーシュは頭からワインをしたたらせたまま、悲鳴のような叫びをあげた。
「そのとおりの意味よ。というか、ダンスパートナーの申し込みを無視したときに気づいてよね」
「ああああ……」
ギーシュは頭を抱えて地面に崩れ落ちた。フリッグの舞踏家で踊った男女は結ばれるという言い伝えがあるのである。そんなことはちっともないのだが、縁起は縁起であった。
さて、風呂《ふろ》覗《のぞ》きの一件以来、モンモランシーに口をきいてもらえなくなったギーシュは、来週に迫ったフリッグの舞踏会のおり、真っ先に踊ってくれるよう、申し込んだのだ。機嫌をとるために用意した、巨大な薔薇《ばら》の花束を抱えて、
「まだ未完成の花束だ。最後の一本は……、キミダヨ」と、おそらくギーシュしか言えないであろう言葉と共に。
しかしモンモランシーはギーシュの手を無視して、ついっと顔を背《そむ》け、立ち去ってしまったのである。ギーシュは薔薇の花束を抱えて、呆然《ぽうぜん》と立ち尽くした……。
「あれは! お別れの合図だったのか!」
「そういうこと。もう話しかけないで。それじゃ、さよなら」
ギーシュは深く頭をたれ、己の愚かさを呪《のろ》うのであった。
水精霊騎士隊《オンディーヌ》の事務屋をかってでている生真面目《きまじめ》なレイナールは、修行僧のような顔で、目立たぬ場所のゴミを拾っていた。
「レイナールさん、とても真面目そうなのに……、人は見かけによらないですわ」
「しっ! ああいう人が一番怖いのよ! 心の中で、きっととんでもないことばかり考えているのよ」
女子生徒たちのそんなひそひそ声に堪えられなくなったレイナールは、がばっと顔をあげ、
「違う! ぼくはとめたんだ! 最初とめた! でも、でも……」
遠くにクラスメイトに囲まれたティファニアを見つけ、レイナールは地面に突っ伏した。
「ああああああ! あれが本物かどうか知りたいなんて思ったばっかりに……。神よ、始祖ブリミルよ、あなたの敬虔《けいけん》なるしもべたるこのわたくしは、深く懺悔《ざんげ》いたします! 恥ずべきこのわたくしは、己をムチ打ちの刑で戒めることにいたします!」
レイナールが呪文《じゅもん》を唱えると、杖《つえ》の先によくしなる空気のムチができあがった。おもむろにシャツを脱ぎ、レイナールがその空気のムチで自分の背中を叩《たた》き出したからたまらない。
その場の女生徒たちはきゃあきゃあわめきながら逃げ去った。
残りの男子生徒たちも、状況は似たようなものだった。せつなげに身体《からだ》を震わせ、それそれに自身の置かれた状況を噛《か》み締《し》めていた。
「まったく……、恥を知らない人たちってイヤね。貴族の風上にもおけないわ。女王陛下も、どうしてまたあんな連中を近衛《このえ》隊なんかにしたのかしら」
女子寮の自室の窓から、アウストリの広場で繰り広げられる悲惨な光景を目にして……、ルイズが呆《あき》れた声で言った。
桃色がかったブロンドの少女の前には、黒髪の少女が腰掛けている。二人の前には、ティーカップが置かれていた。ちょっと気まずそうな顔で、私服に身を包んだシエスタが、カップのお茶を一口すすり、眩《つぶや》いた。
「ほ、ほんとですね」
シエスタは、この前の一件を思い出し、顔を赤らめる。
「……でも、わたしも随分と恥知らずですわ。その……、あの……、ジェシカから貰《もら》ったその、あの……」
ルイズも顔を赤らめる。それから、
「その話はいいの」と、ぎろっとシエスタを睨《にら》んで言った。ルイズはそれから、隣に控えたメイドに顎《あご》をしゃくった。
「おかわり」
黒髪をカチューシャで束ねたメイドは、わなわなと震え、衣装に似合わぬ低い声で呟いた。
「……使い魔に、こんな格好をさせるのも、十分“恥知らず”の範疇《はんちゅう》に入る行為じゃねえのか?」
メイド服に身を包み、二人の給仕をしていたのは平賀才人《ひらがさいと》その人だった。
いやはや、実に見るも無残な姿である。
「いいじゃない。あんたメイド好きじゃない」
「そういう問題じゃねえ」
「問題亨 誰《だれ》が間題起こしたのよ」
ルイズは、目を細めて才人を冷たく睨《にら》んだ。
「ほんとだったら、あんたはお風呂《ふろ》覗《のぞ》きの罪で、あそこで罵声《ばせい》を浴びてる連中といっしょになって、中庭掃除をする羽目になってたのよ」
「あのな、俺《おれ》は元々現場につくまでそれが覗きだって知らなかったんだ。何度も言っただろうが。というかな!」
才人はメイド服を指でつまむと、怒鳴った。
「こんな服着させられるぐらいなら、あいつらといっしょに掃除するほうがマシだっつの!」
ルイズはゆっくりとお茶を飲み干すと、じろりと才人を睨みつけた。
「風呂覗きだけじゃないのよ」
「ぐ……」
「あんた、すっぱだかのあの子と、いったい何してたのよ」
「助けてくれたんだよ! だから、俺だけこうして、バツ掃除も課せられずに、のん気にメイドなんかやれてるんじゃないか。感謝しろよ。俺をメイドにしたかったんだろ?」
学院で一番|身体《からだ》の大きなメイドから借りてきた衣装に身を包まされた才人は、ちょっと気まずそうな声で言った。なんとなく、自分だけがバツを受けないことに対し、すまない気持ちになるのである。そりゃ自分はあの現場につくまで事情を知らなかったが……、覗いた事実には変わりない。そんな自分のことを誰にもチクらなかった水精霊騎士隊《オンディーヌ》の仲間たちへの想いもある。
それに、メイド服よりは、罵声を浴びながらのバツ掃除のほうがまだマシだ。才人にも、プライドというものがあるのだった。
「とにかくおかわり。シエスタにも注《つ》いでやって」
才人は乱暴にティーポットを取り上げると、ルイズとシエスタのカップに、交互に注いでやった。
「……あの、サイトさんごめんなさい」
シエスタは、深々と才人に頭を下げた。
「ん? なんでシエスタが謝るの?」
「……だって、この間、わたしサイトさんのこと、窓から蹴《け》り出《だ》したじゃありませんか。いくら、薬のせいとはいえ……」
「いいんだよ。結局、シエスタは薬を使わなかったじゃないか」
シエスタは、にこっと笑顔を浮かべた。
ルイズがイライラした声で、才人《さいと》を促した。
「そんな話はいいわ。とにかくわたしの前で、“薬”って言葉使わないで。ほら、今のあんたはメイドなんだから、お菓子でも用意しなさいな」
シエスタがそんな才人をうっとりした目で見つめている。
「……どしたの? シエスタ」
「怒っちゃいやですよ?」
「怒らないけど」
「あの……、サイトさん、思ったとおりすっごく可愛《かわい》いです。似合ってます」
「これが?」
才人はスカートをつまんでぴらぴらさせた。
「はい……、やっぱり正解でした」
「正解って……、もしかして俺《おれ》のこの格好、考えたのシエスタ?」
「はい。そうです。ミス・ヴァリエールがサイトさんにバツを与える与える騒ぐもんですから。いっつも痛いバツで、サイトさんかわいそうじゃありませんか。で、痛いのじゃなくて可愛いのにしましょうって」
「で、これ?」
「はい」
にこー、とシエスタは満面の笑みを浮かべた。
才人はこの部屋にいる人間たちに深く失望した。
この部屋に、味方はいない。そりゃもう、一人もいないのである。
となると、イヤミの一つでも言わねば気がすまない。よせばいいのに、性分というものだろうか。
楽しげに鼻歌を歌いながら、才人はクローゼットの上に置かれたクッキー箱を開けた。
隣には、クッキーに塗るクリームの入った壷《つば》がある。
才人はまず、ルイズたちの前に、箱から取り出したクッキーをのせた皿を置いた。それから、くるくるくるとバレリーナのように回転しながら、クリームの壷を二人の前に突き出した。
「お嬢さまがた」
「……なによ」
「……これ、クリームっていうんですか? これをクッキーに塗り塗りすると、おいしいらしいですよ」
ルイズのこめかみがひくついた。
「あらそう」
「お二方は、よくご存知かと……」
才人《さいと》は恭《うやうや》しく一礼した。
そこで、自分がやらかしたことに気づいて小さく震えだした。
しかし、ルイズは落ち着き払った態度で、壷《つぽ》の蓋《ふた》をとり、スプーンでクッキーにクリームを塗り始める。だが……、その顔からは表情が消えていた。クリームを塗るスプーンに思いきり力が込められ、クッキーはボロボロテーブルへとこぼれていく。
シエスタがわなわな震えながら立ち上がり、
「あの! サイトさん!」
「は、はい、マダム」
「言っときますけど、キス以上のことはなかったですから! お互い、クリームを身体《からだ》に塗りあったときに、薬の効果が切れたんです! どうやら何度も伝染した結果、効果が弱まってたみたいで!」
「は、はい」
「わ、わたしはちょっと舐《な》めちゃいましたけど! そんぐらいですから! わたしは綺麗《きれい》なままです! その、サイトさんのために……、ぽっ」
「おだまり」
ルイズは、『ぽっ』までセリフで耆ったシエスタに言い放つ。
それから、う〜〜〜ん、と背伸びをしながら立ち上がると、ダラダラダラと冷や汗を流しながらうなだれる才人《さいと》に、満面の笑みを向けた。
「やだもう。あんたって、ほんと、主人想いの使い魔ね」
「恐縮でございます」
「……だって、わたしがイライラしてるときに限って、わかりやすく、わかりやすーく、“はけ口にしてもいい理由”をつくってくれるんだもの」
「つい、出ちゃうんですよねー。ほんとに。結果はわかってるのに……、よくないですね。気をつけさせていただきます」
「気をつけるのはいいんだけど、その前にサイト、あなたは軽い罰を受けなくてはいけないわ。だって、やらかしてしまったんだものね」
「ですよねー。軽いの。そっすよねー」
「でも、わたしはとても優しいの。軽い罰だからっておざなりにはしないし、ちゃんとね、選ばせてあげるの。さあ一生懸命考えて、選ぶがいいわ。人生の選択肢だからね?」
「はい」
「いちー、生まれてきたことを後悔する」
「いやだなー」
「にー、いっそのこと死にたいと思う」
「それも困るなー」
ルイズはひくつきながらネコのような身軽さで椅子《いす》から跳び上がり、才人の首を足でひねって床に転がした。
「選びなさいよ。ほら。ほらほらぁ! クリームがどうしたっていうのよ! クククク、クリームがなんですってえ!」
才人はしばらくごめんなさいごめんなさいほんとにすいませんと繰り返していたが、ルイズの攻撃があんまりしつこいので、ぶちん、と切れた。
ルイズを振り払い、立ち上がる。
「ああああん? クリーム大好きなんだろ! はい、ナイスクリーム! ナイスクリーム! わたし今日からナイスクリーム!」
「なにがナイスクリームよ!」
宴《うたげ》が始まった。
その頃《ころ》……、学院長室。
「そうですか……、やはり、許可が下りませんでしたか」
そう言って、残念そうに首を振ったのはミスタ・コルベール。彼の目の前には、大きな机があり、その向こうでは椅子《いす》に腰掛けたオスマン氏が水ギセルをふかしている。
「きみの情熱は買うし、わしも彼のことについてはなんとかしてやりたいとは思っとる」
「ありがたいお言葉ですな」
「だがな、ミスタ・コルベール。王宮の言うことも、いちいちもっともじゃ。ハルケギニアの上には、またぞろ不穏な空気が流れておるでな……、したがって返答は“飛行許可は与えず”の一点張りじゃ」
「やはり……、そうでしたか」
「とぼけおって。きみはまったく、その顔に似合わぬ不遜《ふそん》な男じゃな。盗人《ぬすっと》が、何食わぬ顔で再びその屋敷の敷居をまたぎたい、じゃと?」
「ううむ、まったく、その、でしょうなあ」
コルベールは、先だって自分が手伝った冒険行を思い出し、頭をかいた。あんなことをしておいて、その当事国の“頭の上を通らせろ”なんて道理が通るはずもない。ガリアとの関係に神経を尖《とが》らせる王宮が、そんな一貴族の要求を撥《は》ね除《の》けるのも当然だ。
「まあ、そんなわけじゃ。せめて、時期を鑑《かんが》みなさい。あと、こちらはわしの決裁じゃが……、きみのこの願いも受け取るわけにはいかん」
オスマン氏は、羊皮紙の手紙をコルベールに突き出した。そこには、コルベールの署名と、その上に“暇乞《いとまご》い”から始まる一文が書かれている。
「きみはこの学院に必要な人間なのじゃ。悪いが、手放すつもりはないぞ」
「なにも職を辞するつもりはありません。ただ、少しの間、見聞を広めてくるだけです」
オスマン氏は、コルベールを細めた目で見つめた。一瞬、鋭い眼光が光る。
「きみの本質が研究者であることを、わしは知っておる。わしはな、その種類の人間が、興味の対象を見つけてしまったときの弊害に、一家言持っておるでな。はぁ、見るもの聞くもの、すべてが目新しいものばかりじゃろうて。まったくもう、そのときのきみの姿が、まぶたの裏に浮かぶわい。帰ってこられるわけがあるまい。そんな選択肢など、きみの脳裏からは霞《かすみ》のように掻《か》き消《き》えてしまうに違いない」
コルベールは反論できず、バツが悪そうに俯《うつむ》いた。
「確かにご恩もありますゆえ、やぶさかではありませんが……」
「きみがそうしてくれれば、わしはもう、何も言うことはない」
「これはまた、買いかぶられたものですな! 二十年もの間、放っておかれたものとばかり思っておりましたが」
こほん、とバツが悪そうにオスマン氏は咳《せき》をした。
「平時はそういうものじゃ。退屈は、人から興味や記憶を奪うものじゃ」
「では、暗雲立ち込める現在、図らずも存在をあなたに思い出していただけたこのわたくしは一生、奉職せねばいけない、ということなのですか?」
「なにもそのようなことは申していない。一生? なんとも大げさな男じゃ! 言ったじゃろう? 時期を鑑《かんが》みよ、と。ふん! 時期がくれば反対どころか旅費すら出してやるわい。だが、今はいかん。いかんのだ。ミスタ……」
オスマン氏は立ち上がると、コルベールの肩を抱いた。
「まあ、そんな哀しい顔をするな。慰めといってはなんだが、チクトンネ街にの、素晴らしい店があるそうじゃ。なんでも『魅惑の妖精《ようせい》』亭という、きわどい格好をした女給仕たちが、お酒を注《つ》いでくれるという店での……、そこで一杯|奢《おご》ってやろうじゃないの。のう」
「その店なら知っております」
「なら話が早い。ではさっそく、馬を用意させるかの。おっと、年寄りに馬はつらいな。こんなときの竜籠《りゅうかご》じゃ」
「今日は……、遠慮しておきます」
「何気に女好きのきみが? わし以上に? ほんと? どういう風の吹き回し?」
こほん、と恥ずかしげに咳をすると、コルベールは真顔になった。
「この知らせを届けたい友人がおりますゆえ」
コルベールがそう言うと、オスマン氏はつまらん、とでも言いたげな顔で首を振る。
「歳《とし》をとると、楽しみが減るもんじゃ。そんな年寄りのささやかな幸せを奪いおって……」
コルベールは、失礼します、と一礼すると、学院長室を出て行こうとした。
「待ちたまえ」
「まだ、何か?」
オスマン氏は窓の外の空を見つめた。夕闇《ゆうやみ》が、辺りを覆いつくそうとし始めている。
「……まったく、歳をとるというのはつまらんもんじゃ。見たくもない、空の色が見える」
「は、はぁ」
先ほどとは打って変わった、滅多《めった》に見せぬ厳しい表情をその皺《しわ》にまみれた顔に浮かべ、オスマン氏は言葉を続けた。
「戦は終わったが、この世界を包む鉛色の雲は晴れる気配がない。すまないが、ほんとにすまない話なのじゃが……、我々には必要なのじゃ」
「なにが必要なのですか?」
コルベールは、真顔になって尋ねた。
「彼や、その主人たちが……、そしてきみのような優秀な教師の力が必要なのじゃ。だからもう少し、この老いぼれた世界に付き合ってはくれんかの」
わたしはいいのですが、とコルベールは眩《つぶや》いた。
「……彼はどうなのです? 彼はこの世界の人間ではない。それなのに、彼は何度も、この国を救ってくれました。それはもう、あらゆる勲章を、爵位を授与しても足りぬほどに。それなのにまだ、『救え』とおっしゃるのですか?」
哀しそうな声で、コルベールは眩いた。
「我々は貴族ではありませんか。己の身にかかる火の粉を、己の杖《つえ》で払えなくてなんとします?」
「正論じゃな。これが、トリステイン一国のみの問題ならば、わしも同じ答えを用意したかもしれん。だが……、おそらくこれから起こるであろう“危機”は、もはやトリステイン一国の問題ではないのじゃ」
コルベールは息をのんだ。
「この世界《ハルケギニア》にかかる火の粉を払うには貴族ではなく、勇者が必要なのじゃ。きみのような。そして……、彼のような。わしを恨まないでくれよ。勇者を求めるのは、個人ではない。時代が……、大きな時のうねりが、それを求めるのじゃ。わかってくれ。ミスタ・コルベール」
ルイズの部屋では、嵐《あらし》のような暴虐の宴《うたげ》が続いていた。
シエスタがとばっちりをおそれ、部屋から退散してしまったあとも、果てのないようなルイズと才人《さいと》のとっくみあいは続いていた。
怒ったルイズはすばしっこい。まるでネコのように部屋の中を跳び回り、才人に的確にダメージを与えていく。才人は、ぴょんぴょん跳ねるルイズをやっとの思いでつかまえた。
「離しなさいよ! まだお仕置きは終わってないんだから!」
「……あのな、お前はいつもやりすぎだっつの!」
才人《さいと》はルイズをベッドの上に放り投げた。
「きゃん!」
悲鳴をあげたルイズに毛布を被《かぶ》せ、その上から羽交い絞めにした。
「…………」
すると、ルイズはまるで憑《つ》きものが落ちたようにおとなしくなった。あまりにもおとなしいので、才人は心配になり、そっと毛布をめくってみた。
すると……。
ルイズはぶすっと頬《ほお》を膨らませ、横を向いていた。
「な、なんだよ……」
と、才人が言うとルイズは、
「……もう、あったまきた」
と、すごくつまらなそうな声で言った。
「あったまきたのは俺《おれ》だっつの。こ、こんな格好させやがって……」
しかしルイズは才人の抗議など無視して、己の不満をぶちまける。
「あんたって、メイドが好きなのよ」
目を細め、才人をじっと見つめた。冷ややかだが、妙な艶《つや》っぽさがあった。才人は一瞬で、どきっ! として、しどろもどろになった。
「そりゃな、メイドは好きだけどな、中身とプラスでセットで好きなだけでな、衣装がスキとか、ましてや自分で着るとかは、さほどスキじゃなくってだね……」
ぽつりと、ルイズは言った。
「わたしがいなかったら、シエスタにクリーム塗ってたんだわ」
「ぬ、塗らないよ! なにそれ!」
「い、犬みたいに、クリーム舐《な》めたんだわ」
「舐めないよ!」
「舐めた!」
ルイズは、う〜〜〜〜、と、唸《うな》った。そんなルイズの顔を見て、才人はにやっと笑みを浮かべた。
「なんだ。やきもちやいてんのか。お前」
「やいてないもんやいてないもんやいてないもん!」
じたばたとルイズは暴れた。しかし、がっしりと才人が肩を押さえているので、どうにもならない。
「おいおい、暴れるなよ〜」
ルイズは例によって、才人《さいと》の股間《こかん》を蹴《け》り上《あ》げようとした。しかし……、才人はスカートをはいているのでうまく狙《ねら》いがつけられず、むなしくルイズの足は才人の太ももを叩《たた》くばかり。
勝ち誇った声で、才人はルイズを挑発した。
「ねー、使い魔のこと、ダイスキなんだもんねー。ルイズちゃんてばねー」
ルイズは顔を真っ赤にして、才人の手をがぶっと噛《か》んだ。しかし……、そんなに痛くない。才人の笑みに、凶悪ななにかが浮かぶ。
「どしたの? ミス・ヴァリエール。あんまり痛くないよ? そうだよね! 俺《おれ》のことがスキなんだもんね。犬いぬイヌってばかにしてる使い魔のことが、ルイズはスキなんだもんなあ。そりゃ、本気じゃ噛めないよなあ」
かぱっとルイズは口を離し、大きな声で怒鳴った。
「す、すきじゃないもん!」
「じゃあなんで」
才人は、力を込めて、ルイズの目を覗《のぞ》き込む。
するとルイズは、唇を尖《とが》らせて横を向くのだった。
「……あ、あんたが使い魔だからだもん」
「まだ言うか」
「そう! そうだもん! わたし、可哀想《かわいそう》なの。その……、始祖ブリミルの魔法がかかってるのよ。あんたが、その、余所見《よそみ》をすると怒っちゃうのは、自分をちゃんと守らせるようにっていう、本能みたいなものなのよ。もうほんと、わたしってば可哀想」
「うそつけ!」
「うそじゃないもん。ほんとだもん」
ルイズはすねたような口調で、自分に言い聞かせるように眩《つぶや》く。
才人は大きくため息をつくと、
「わかった」と言って立ち上がった。
「なにがわかったのよう〜〜〜〜」
ルイズは、布団に顔半分埋めて身を起こし、才人に尋ねた。
「帰る方法捜しに行く」
「え?」
ルイズの目が、大きく見開かれる。そんなルイズを試すように、才人は言葉を続けた。
「お世話になりました。さようなら。今日でお暇《いとま》をいただきます。俺が帰れば、別の使い魔召喚できるでしょ。そいつに助けてもらえ。じゃあな」
「ちょ! ちょっと待ってよ! そんないきなり! やだやだやだ!」
ベッドから跳ね起きると、ルイズはドアの前に立ちふさがった。そこで才人《さいと》の顔に気づく。にや〜〜〜、と妙な笑みを浮かべているではないか。
「……んな!」
ルイズの顔が、見る間に真っ赤に染まる。才人の頬《ほお》を平手打ちしようとしたが、ぎゅっとその手を握られ、ルイズはもがいた。
「騙《だま》すなんてさいて……」
そう怒鳴ろうとした瞬間、才人が真顔で自分の顔を覗《のぞ》き込んできたので、ルイズは言葉をのんだ。
「すきだよ。ルイズ」
不意打ちの一言で、ルイズの動きが止まる。
「わ、わたしはあんたなんか……」
その先を言おうとしたが、唇が塞《ふさ》がれた。
「む……」
突然のキスで、ルイズの全身から力が抜けていく。へなへなと床に崩れ落ちそうになる身体《からだ》を、才人が支えてくれた。強く抱きしめられ、ルイズはすぐに何にも考えられなくなってしまった。なんとも、単純な少女である。
唇を離すと、ルイズは小さく眩《つぶや》いた。
「……あ、あんたなんか、帰っちゃえばいいのよ」
「お、俺《おれ》だって掃りたい」
再びルイズは怒ったように目をつむる。才人はそんなルイズを抱きかかえた。そのままベッドに運び、ルイズの身体を横たえる。
ルイズは、目をつむったまま微動だにしない。
才人の額《ひたい》から、汗が激しく流れ始めた。ぶはぁ、と才人は止めていた息を吐いた。余裕の演技は、ここで打ち止めである。こうなっては、さすがにモテる男の演技ももうできない。ガクガクと激しくこわばった動きで、才人はルイズの横に正座した。
「…………」
ルイズは激しく顔を赤らめたまま、ベッドに横たわっている。
いいのだろうか、と才人は自問した。これはOKのサインなんだろうか。いつも誤解したり、怒らせたりで失敗ばかりしていたので、才人は慎重にいくことにした。
まずは深呼吸である。
大きく息を吸って、吐いた。
だが、そのあとどうずればいいのかわからない。いっそ頭を抱えて、逃げ出したくなったが、そんなことしたら一生後悔するに違いない。
かなりの勢いで頭が沸騰した才人《さいと》は、かなり斜めった質問をしでかした。
「あの……、とりあえず胸見ていい?」
びくん、とルイズの眉《まゆ》が動いた。大きさとか、そういうルイズのコンプレックス抜きにしても、この質問はない。だが、ルイズも才人に対する免疫が相当についていた。
とにかく、才人はヌケているのである。デリケートとか、優しくとか、そういうのを期待するほうが間違っているのである。ぴくぴく、とルイズは眉を動かすだけで我慢した。
「ボ、ボボ、ボタンをはずしまぁす」
その照れ隠しのおどけた口調が、さらにルイズをいらだたせた。思わず目をあけて、才人を睨《にら》んだ。
「だいすき」
テンパっているくせに、いざとなると勘の働く才人は噛嵯《とっさ》に魔法の言葉を口にした。再び頭の中に桃色の花びらが飛び回り、唇を尖《とが》らせ、とろん、と蕩《とろ》けた目になってルイズは横を向いた。
つまり、ルイズのヌケ具合も、才人に負けず劣らずであった。
震えながら、才人がルイズのシャツの第一ボタンを外したときである。
窓から烈風が吹き込み、ルイズと才人は床に転がった。
「ぎゃ!」
「な、なによぅ!」
慌てて二人が立ち上がると、窓の外に、ぷかぷかと風竜が浮かんでいる。その背には、いつもと変わらぬ表情の青髪の少女。
「タバサ!」
才人が叫んだ。
「ちょっと! なに覗《のぞ》いてんのよ! というか邪魔しない……、じゃなくって襲われているところ助けてくれてありがとう!」
ルイズは咄嵯にプライドを働かせ、そこまで叫んだが、急速に嫉妬《しっと》の炎が燃え上がる。
なんで邪魔してんのよ! この子!
ああ、きっと、このバカ犬のことが……。
ということは。
ルイズは、はた、と気づいた。こないだ、アルヴィーズの食堂で、素っ裸で倒れていたタバサの姿が脳裏に浮かぶ。
なによ。あんときゃ助けてもらっただけだ、ですってぇ?
嘘《うそ》じゃない!
やっぱり……、こいつってばぁ……。
床の上で呆然《ぽうぜん》としている才人《さいと》の後頭部に、ルイズは具合のいい回《まわ》し蹴《げ》りを叩《たた》き込《こ》んだ。
「げふ!」
そのまま前のめりに倒れた才人の頭に、がしっと足を乗っけて、ルイズは吼える。
「ややや、やっぱり、あんた、タバサに手を出してたのね」
「はぁ? 意味わかんねーよ!」
「おだまり。あんたがそういうことしなけりゃ、さっきのわたしたちを彼女が吹き飛ばすわけないじゃない」
ルイズは秒間三発の速度で、才人の身体《からだ》に蹴《け》りを叩き込んでいく。
「わたしに言ったセリフと、同じこと言ったんでしょうッ! 言いなさいよッ! ほらほらッ! 胸見ていい? とかッ! ばっかじゃないのッ! は、はは、鼻の下伸ばしたぐらいにしてッ! 伸ばしてッ!」
何がなにやらわからぬままに、才人はうめきをあげた。
「違う」
タバサが、小さくルイズの誤解を否定する。
「いいからあんたは黙ってなさいよ!」
すっと、タバサは杖《つえ》でルイズの背後を指し示す。
「お客」
ルイズが振り返ると、いつの間にか現れたミスタ・コルベールが、開いたドアの取っ手を握ったまま、呆然と突っ立っていた。
「取り込み中、すまなかったな」
コルベールは、頭をかいて言った。才人もルイズも、恥ずかしさのあまり、身を小さくして椅子《いす》に腰掛けている。
いつの間にか戻ってきたシエスタが、一行の前にお茶を置いた。タバサもちゃっかり、出窓に腰掛けて本を読んでいる。どうやらそこで、才人の護衛を気取るつもりらしい。
さて、椅子に腰掛けたコルベールは、大きなため息を一つついた。どうやら、かなりがっかりしているらしい。
「どうしたんですか? 先生」
才人《さいと》が水を向けると、コルベールは深いため息と共に、才人に頭を下げた。彼はメイド姿なのに、気にした風もない。そこは素直にすごい先生だった。
「まず、きみに謝らねばならぬ」
「はい?」
きょとんとしていると、コルベールは事の顛末《てんまつ》を語り始めた。
いよいよ、東方への『オストラント』号での探索行を計画したこと。“東方”へ向かうには、ガリア王国の上空を通らねばならぬ。
「商船にしろ探検船にしろ、外国の上空を公式に通過するためには政府の免許と、相手国の許可が必要だ」
はぁ、とコルベールは再び大きなため息をついた。
「ガリアが、許可をくれなかったんですか?」
心配そうな声で、才人が尋ねた。というか、あんなことをしておいて、その上空を素知らぬ顔で通ろうというのだから、この先生は意外に肝が太い。いや、ガリアは許可を求めてきたのが自分たちだとは知らないかもしれないが……。
「いや、その前に国の免許が得られなかった。オスマン氏に仲介を頼んだのだが……」
コルベールは首を振った。
妙な沈黙が一同を包む。それから、やおらコルベールは顔をあげ、
「……がっかりしないのかね?」
と才人に尋ねた。
才人はぼけっとしていたが、そのうちに慌て始めた。
「いやぁ、がっかりといえばがっかりなんですけど……」
それから気まずそうに、
「でも、まあ、解決していない問題もあるし、しばらくこっちに残る……、いや、残りたいです」
ルイズの目が大きく見開かれた。
タバサが、ぴくん、と眉《まゆ》を動かした。
シエスタは頬《ほお》を染めた。
その、率直な自分の言葉に才人自身が驚いた。真実、心の底から出た言葉だった。でも、ルイズの顔を横目で見ると、そうだな、と思えた。
「機会を逃すかもしれんよ。もしかしたら、一生帰れなくなるかもしれない」
コルベールにそう言われて、才人の心に、中庭で“奉仕活動”をしていた仲間たちの姿が浮かぶ。水精霊騎士隊《オンーデイーヌ》の連中。バカで、短絡的で、単純だけど……、自分を助けるために、恐ろしい竜騎士たちに向かっていった仲間たちだ。
あんなやつらがいるなら……、この世界にとどまっていてもいいかな。
「まぁ、そんときはそんときということで」
屈託のない言葉で才人《さいと》が言ったので、コルベールは残念そうに首を振った。
「わたしはきみのように達観することなどできないよ。見てみたいじゃないか! 魔法ではなく、技術が世の理《ことわり》を支配する世界! こことは違った価値観、違った人々が支配する世界……。まあ、きみがそう言うなら、とりあえず延期にしよう」
コルベールは首を振ると、部屋を退出していった。
残された一行の間には、しばしの間が流れた。まっさきに口を切ったのはシエスタで、嬉《うれ》しさと当惑と才人に対する慰めが入り混じったような口調で、
「あ、あの! サイトさんほんとに残念でしたね〜! でも、でもでも、わたしはちょっと嬉しいです。だって、サイトさんがこっちの世界に残ってくれたらもう、それだけでわたし嬉しいですから」
と言った。
「ミス・ヴァリエールもそうですよね!」と水を向けたら、ルイズはぷいっと横を向いて、
「全然嬉しくないわ」
と、怒ったような調子で言った。
「どうせこっちにいたってロクでもないことしかしないんだから」
「そんなことはありませんわ! サイトさんは何度もミス・ヴァリエールの、わたしたちの、ひいてはトリステインの危機を救ってくださったじゃありませんか!」
「まあそれは認めてあげるわ。でも、女の子たちに色目を使わせるために、わたし召喚したわけじゃないわ」
ルイズは、黙々と本を読み続けるタバサとシエスタを交互に見て言った。すると才人も負けじと眩《つぶや》く。
「あーあ、俺《おれ》だって残念だよ。ったく、こんなわがままで恩知らずなやつの使い魔だなんて……」
「じゃあ帰ればいいじゃない」
「そうできるんなら、とっくにしてるっつの」
二人は、お互い心にもないことを言い合い、そっぽを向いた。それから、才人はちょっと吹っ切れたような声で言った。
「でも、それほど不満じゃねえよ」
才人のその言葉でルイズは顔を赤くさせた。
それから才人《さいと》は、部屋を出て行こうとした。
ルイズはまるで子犬のように不安げな顔で才人を見つめる。でも、どこに行くの? とか聞けないルイズであった。
「サイトさん、どこへ?」
「散歩」
「その格好で、ですか?」
才人は己の姿を見た。メイド姿のままである。慌てて才人は着替え始める。
シエスタは、きゃあきゃあわめいて、手のひらで顔を隠す。しかし、指はだだ広がりである。タバサは気にせず本を読んでいる。ルイズは頬《ほお》を染めたまま、横を向いた。
服を着替え終えると、「あ、そうだ」と眩《つぶや》いて何かを捜し始める。捜し物は、ルイズの物入れの一番上の引き出しから出てきた。それを抱えて、才人は部屋を出て行った。
ばたん、とドアが閉まったあと、しばしの沈黙が流れる。何か誤魔化すように、ルイズは無言でテーブルの上のお菓子を食べ始めた。シエスタは、何食わぬ顔で掃除を開始した。
ルイズは黙々とクッキーを頬張りながら、窓に腰掛けたタバサと、その背後に見える夜の闇《やみ》を見つめた。
「夜も更けてきたわ。そろそろ自分の部屋に戻りなさいよ」
しかしタバサは、無言のまま動かない。本のページをめくる音と、ルイズがもしゃもしゃクッキーを齧《かじ》る音と、シエスタが箒《ほうき》で床を掃く音だけが、ルイズの部屋の中に響く。
「ねえタバサ。あんた、わたしの部屋に泊まる気?」
こくり、とタバサは頷《うなず》いた。
「どうして? サイトがいるからとか言わないでしょうね?」
シエスタの箒が、ぴたりと止まった。再びタバサは頷いた。
「どういう意味よ。それ」
わずかに嫉妬《しっと》を淒《にじ》ませて、ルイズが詰め寄ると、タバサは本を閉じて向き直った。
「あなたは、やりすぎる」
「なによ。文句があるっていうの? 言っとくけど、サイトはわたしの使い魔なの。わたしがどんなバツを与えようが、わたしの勝手でしょ」
「それでも危害を加えることは許されない。あれではいずれ、怪我《けが》をする」
「なにそれ。ナイト気取りってわけ?」
「“気取り”じゃない」
ルイズの目が細まった。
「……言っとくけど、それって重大な内政干渉よ」
タバサは真っ向から、嫉妬《しっと》と怒りの混じったルイズの視線を受け止めた。
「だから?」
ルイズは怒りに任せて杖《つえ》を抜いた。タバサも同時に、大きな杖を構える。ルイズの身体《からだ》から、ゆらりと強大な魔力のオーラが立ち上る。
“虚無”のオーラだ。
ルイズの心に膨れる嫉妬は、魔力となってルイズを包む。
タバサも、冷たい、舞う雪風のような風状のオーラを身体に巻きつけ、ルイズと対峙《たいじ》した。見かけはか弱い少女同士の睨《にら》みあいだが、竜とワイバーンの対決にも匹敵するような、恐ろしい雰囲気を撒《ま》き散《ち》らしている。
あわや戦争のようなその空気を、シエスタが払った。
「まあ! おふた方! まあまあまあ!」
まあまあ、と言いながらシエスタは二人の間に割って入り、二人にワイングラスを握らせた。
「アンジューの古いお酒が手に入ったんです! とりあえず飲みましょ? ね? ね? そんな恐ろしい杖はおひっこめになってくださいまし!」
二人は睨み合ったまま、グラスのワインを飲み干した。
「ふぅ」
シエスタは再びグラスにワインを満たす。
ルイズとタバサは、それも飲み干した。ワインの壜《びん》がカラになると、次の壜を取り出してくる。シエスタはワインを注《つ》ぎ続けた。
さて、なにやら荷物を抱えて才人《さいと》がやってきたのは、火の塔の隣にあるミスタ・コルベールの研究室だった。扉をノックすると、キュルケが顔を出した。薄手のネグリジェに身を包んでいるので、才人は目のやり場に困る。
「あら、サイト」
「先生いる?」
「いるけど……、お酒飲んでブツブツ眩《つぶや》いているのよ。なにがあったのかしら?」
才人が近づくと、コルベールは机に突っ伏して、へべれけになっていた。
「先生、どうしたんすか?」
「……ふにゃ。まったく、王宮の連中ときたら! 貴族ときたら! いつまでも魔法がすべてだと思っている! 世の中には、我々の知らない技術や文化がたくさんあるというのに……。まったく、つまらないプライドで小競り合いをしている場合ではないというのに……、お偉いさんたちときたら……」
王政府の許可を貰《もら》えなかったことが、相当ショックだったらしい。才人《さいと》はそんなコルベールがますます好きになった。
こんな先生になら……、渡してもいいよな、と思う。
才人は、コルベールの肩をゆすった。
「……ふにゃ。なんだね? ああ、サイトくんか。どうしたね?」
酒臭い息を吐きながら、コルベールは顔をあげた。
「先生……、これ」
才人は、持ってきた品を机の上に置いた。
「ん? これは……、いったいなんだね?」
銀色の、三十サント四方ほどの板状の物体を見て、コルベールは目を見開いた。
「……これは。きみの世界のものだな? 間違いない!」
一瞬で、コルベールの顔から酔いの濁りが消えていく。
「そうです。俺《おれ》がこっちに来るときに持ってきた唯一のもので……、ノートパソコンっていうんです」
「すごいな! いや、実にすごいなこれは! 見たまえ、ミス・ツェルプストー。まるでゲルマニアの寄木細工のようじゃないか!」
コルベールのそばで、まるで助手のような顔つきで事の成り行きを見守っていたキュルケも感想を述べた。
「いいえ、ジャン。ゲルマニアの寄木細工なんかより、ずっと精巧にできているわ。ねえサイト、これはいったいなんなの? あなたの世界の細工師《さいくし》がこしらえた宝石箱?」
あなたの世界、という言葉に引っかかりを感じ、才人がコルベールを見ると、
「……すまぬ。わたしが話してしまったのだ」
「あたしならいいじゃない。ねえ。誰《だれ》にも言わないわよ。他所《よそ》の世界から来た人間だってこと。ね?」
キュルケが屈託のない笑顔で頷《うなず》く。確かにキュルケならかまうまい。何気に口の堅い、義理堅い女性であることを知っている才人は、まあね、と眩《つぶや》いた。
「先生、これは寄木細工でも宝石箱でもないんです。なんというか……、説明しづらいんですけど、いわゆるたくさんの本が詰まった、一種の図書館みたいなものだ、と思ってください」
「図書館? これが? いやはや、驚いたな! こんな小さな箱が図書館だっていうのかね! きみたちの世界は、いったいどうなっているのかね?」
キュルケも目を見開いた。
「わたしたちは、小さくなって入るわけ?」
「いや……、そうじゃない。文字や絵や音が、小さくその、データっていうか、そういうのになって詰まってるんだ。さっきは図書館って言ったけど、ほんとは図書館以上の情報を詰めることだってできる。それはここに、現れる。鏡に、魔法の映像が映るみたいにね」
才人《さいと》はノートパソコンを開いて、液晶画面を見せた。
「ということは、この中にきみの世界の情報が?」
「……俺《おれ》が使ってたやつなんで、たいした情報は入ってないですけど。ほんとはこの機械を端末にして、いろんな人と情報を交換したりするんです」
「つまり、遠く離れたところにいる人間同士と? そういう意味かね」
才人は頷《うなず》いた。
実際、ほとんどインターネットばっかり使っていたので、データは入ってない。まあ、入っていたとしてもそれが役に立つかどうかはまた別間題だった。
「では、これを用いれば、きみの世界の情報がなんでも得られると。そういうわけなのだな?」
そこで才人は、残念そうに咬《つぶや》いた。
「まあ、電力があれば、ですけどね」
「でんりょく? でんりょくとはなんだね」
「あれです。つまり電気です。この機械は電気で動くんです」
「電気か! なるほど!」
コルベールは嘆息した。
「ねえジャン。電気ってなに?」
「この世界に存在する、いくつかの力のうちの一つだ。稲妻が光ったり、冬場に階段の手すりに触れたときに、ピリッときたりするのは、その電気の仕業なんだよ。ほとんど研究している学者はいないがね……」
キュルケは、ふーん、というように両手を広げた。
「われわれも呪文《じゅもん》で使うではないか。“ライトニング”系統の呪文がそれだ」
「しびれるヤツね。へえ、てっきり、毒かなにかと思っていたわ」
「……電池が入ってたんですけど。あ、電池っていうのは、電気を溜《た》めておく部分です。もう、切れちゃってるんで」
「よくわからないけど、その電気がないってことは、役立たずじゃない」
キュルケが、両手をあげてひらひらさせた。
「でも、何か研究に役立てればいいかなって」
「そうだな」とコルベールも頷《うなず》いた。
「これだけ精密な部品群……、見ているだけで、わくわくしてきたぞ」
子供のような目で、コルベールはノートパソコンを見つめた。
「今はせめて、これで我慢してください」
コルベールは、才人《さいと》を心配そうに見つめた。
「だが……、いいのかね? 十分に気をつけるつもりだが、わたしはこれを壊してしまうかもしれんぞ。大事なものなんじゃないのかね」
才人は首を振った。
「いいんです。どうせ、使い道ないし……」
どこか晴れ晴れとした声で、才人は言った。
ふむ、と頷くと、コルベールは再びノートパソコンに顔を戻す。もう、これを分解してみたくて、しかたがないのであった。
去り際に、キュルケが才人に文句をつけた。
「まったく、余計なことをしてくれたわね。あの調子じゃ、あと一週間はあたしがそばにいることも忘れてしまうわ」
部屋に戻ってきた才人《さいと》は、とんでもない光景を見て目を丸くした。タバサと、いつしか自分も飲み始めて酔いつぶれたシエスタが、くぅくぅベッドで寝ている。
ルイズだけが、一人ワインを飲んでいる。戻ってきた才人を見ると、とろん、とした目で言い放つ。
「ろこ行っれらのよ〜〜〜〜〜〜」
「コ、コルベール先生のとこ。つうか何してんだよ……、お前ら……」
ワインの壕《びん》が三本も床に転がっているので才人は驚いた。
「みんなでいっぽんずつ、なかよくのんらの。なかよくなかったかな? まあ、ろっちれもいいわ」
「お前……、よくつぶれなかったな」
酒の弱いルイズが、こんなに飲むなんて珍しい。
ルイズは、なんだか怒ったような声で、
「……らって、サイトが帰ってこないんらもん」などとヘロヘロの口調で言い放つ。
まさか、俺《おれ》が帰ってこないのをずっと待っていたのか! と思ったら、才人はなんだかルイズが可愛《かわい》くてたまらなくなった。
酔ったルイズは、才人をぼんやりと見つめ、
「サイロサイロサイロ」と、何度も名前を呼んだ。
「なんだよサイロって……」
「ほんろにー、あんらー、かえらなくれいいろ?」
帰らなくてもいいのか、と聞いているのだった。飲んでる間中、ルイズはずっとその言葉の意味を考えていたのである。
「ああ」
「ろうして(どうして)?」
「お前がいるから」
「うろばっかり(嘘《うそ》ばっかり)」
「うそじゃねえって。まあいいけど」
「しょうらい、ろうするの(将来、どうするの)?」
相当酔ったルイズは、話題がぴょこぴょことんだ。恥ずかしかったが、どうせ酔ってるし覚えていまい、と思い、才人はとんでもないことを口にした。
「ルイズと結婚する」
「ほんろに(ほんとに)? わらしと(わたしと)? ほんろに(ほんとに)?」
「うん。責任取れよな。よんだんだから」
「ころもはふらりがいいわ(子供は二人がいいわ)」
と、ルイズもとんでもないことをさらっと口にする。
「そ、そうだな」
「はーい、はーいはい。わらしー、お願いがありまふ(わたしー、お願いがあります)」
ルイズは手をあげると、いきなり立ち上がった。
「なんだよ」
酔っ払いって疲れるなー、とちょっとウンザリしながら才人《さいと》が言うと、ルイズは才人に指を突きつけた。
「わらしにー、胸が大きくなるとゆー、体操しなさーい」
「はい?」
「いつかー、あんらがー、いっれらー、おっぱい体操」
空気が固まった。
はぁ? と硬直していると、ルイズはがっしと才人の手を握り、
「こうするろ、おおきくなるっていってらー」
ルイズの薄くも、わずかな胸のふくらみが、才人の手のひらを刺激した。
「ル、ルイズ……」
わけがわからなくなりそうになっていると、ルイズは才人の耳元に口を寄せた。
「おおきくなればー、あんらー、よそみしないれしょー。れもー、ちいさいのがー、すきかもしれないのれー、わらしー、悩みろころらわー(悩みどころだわー)」
月明かりが、さす中……、才人の頭の中はルイズでいっぱいだった。
ルイズは才人に顔を近づけ、頬《ほお》をペロペロと舐《な》め始めた。
なんて可愛《かわい》いんだ。酔ってる所為《せい》でこうなら、一生酔ってて欲しい。そのままルイズを押し倒しそうになったが、思いとどまる。
今はこいつ酔ってるしなー、酔ってるときになんかしたら一生言われるしなー、ああ、でも我慢できないしな、どうしよう、ああ、どうしようと悩んでいると……。
夜空に影がさした。
同時に、月明かりを受け、キラリと何かが光った。
危険を感じた才人は一瞬で我に返る。
「なんだ?」
ルイズをそっと押し戻し、ベッドに横たえる。
「らによー、やっぱ文句あるんらないのー」
「いいから寝てろ」
才人《さいと》は咄嵯《とつさ》に、背中のデルフリンガーに手を伸ばす。
窓から顔を出すと、素早い影が空を飛んでいる!
何かがキラキラと光り、窓から顔を出した才人を襲う。
氷の矢だった。
自分めがけて飛んできたそれを、才人はバックステップでかわす。壁にぶち当たり、氷の矢は砕け散る。
夜空の影は素早く動き……、旋回。ついで才人めがけて突進してくる。
ガーゴイル?
竜?
ただ……、飛行物俸の上には騎乗する人物が見える。さっき魔法をぶっ放しやがったのは……、やつだ。
ガリア?
……ミョズニトニルン?
そんな思考の間にも、実戦慣れした身体《からだ》が反応する。近づいた瞬間、才人は窓からジャンプして、影に跨《またが》った人物の背後にすとん、と降り立った。
驚愕《きょうがく》のうめきと共に振り返った騎乗者の喉《のど》に、才人は羽交い絞めのようなかたちでデルフリンガーを押し当てる。
「待った! 待った!」
するとそいつは、大声でわめき始めた。
「へ?」
その声には聞き覚えがあった。
「頼む! 剣をどけてくれ! ぼくだよ! ルネだ! ルネ・フォンク!」
「ルネ!」
才人は驚いて、デルフリンガーを引っ込めた。月明かりに浮かんだ顔は……、アルビオンで才人といっしょに戦った竜騎士、ルネのふくよかな顔だった。
懐かしさで胸がいっぱいになる。
「久しぶりだから、驚かしてやろうと思ったんだ! でも、驚かされたのはぼくのほうだな。アルビオンで七万をとめたってのも頷《うなず》ける! たいした腕前じゃないか!」
地面に降りた二人はかたく抱擁しあった。
「いやあ、アルビオンで別れて以来だな!」
「あれからぼくは、首都警護竜騎士連隊に配属になったんだよ。毎日毎日、退屈な哨戒《しようかい》飛行の連続で、参っちゃうよ」
ルネは才人《さいと》の格好を、上から下まで舐《な》めるように見つめた。
「いやあ……、シュヴァリエになったって聞いたけど、金回りはよくないみたいだな。前と格好が変わらんじゃないか。年金はいくらだい?」
「五百エキュー」
「なんだ、ぼくよりいいじゃないか。まあ、近衛《このえ》だもんな。とにかく、服ぐらい買えよ」
「馬を買っちまって……、いや買わされたんだけど。それですっからかんだよ」
「見栄《みえ》をはって高いのにしたんだろ?」
そう言ってルネは笑った。才人もつられて笑った。
「おい、こっちに来いよ。飲もうぜ」
才人がそう言うと、ルネは首を振った。
「いや、遊びにきたわけじゃない。任務さ。きみにこの手紙を届けたら、すぐにとんぼ返りしなきゃいけない。竜騎士隊の人使いの荒さときたら、並大抵のもんじゃないね! なまじっか、空なんか飛べるもんじゃないぜ」
「手紙?」
「ああそうだ。さてと一応、形式をとらせてもらうぜ。なにせ、差出人が差出人だからな」
ルネはそう言うと、かっちりと軍人らしい直立をした。
「水精霊騎士隊《オンディーヌ》副隊長サイト・シュヴァリエ・ド・ヒラガ殿!」
「は、はいっ!」
才人も思わず、ぴーんと背筋を伸ばした。
「かしこくも女王陛下より、御親書を携えて参りました! 謹んでお受け取りくださいますよう!」
じょ、女王陛下? アンリエッタが自分に手紙? どういうことだ?
ルネは上衣の内ポケットから、何重にも封をされた手紙を取り出した。そして脆《ひざまず》いて、恭《うやうや》しく才人に差し出す。
「あ、ありがとう」
「その場で開封し、中の指示に従うようとの仰せでございます」
ルネは真顔で、才人にそう言った。
才人《さいと》は、重々しく頷《うなず》き、中の手紙を取り出した。
そこに書かれた文面を見て、才人の目が丸くなった。
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第三章『オストラント』号の上で
「諸君! これは名誉挽回《めいよぱんかい》の好機である!」
『オストラント』号の甲板で、ギーシュが水精霊騎士隊《オンディーヌ》の面々を前にして、大声で怒鳴った。
十人ほどの少年たちから、うおおおおおおおおお! と叫びがあがる。
「我々は、悲しい事件により誇りと名誉を傷つけられた……。あのままでは、我らの尊厳は地に落ち、子々孫々まで恥が残ったことであろう……。だが! 神はそんな我々をお見捨てにはならなかった! 女王陛下は、我々に名誉回復のチャンスをくださったのだ!」
再び歓声が沸きかえる。
隣で、なんだかぐったりとしている才人を、ギーシュは促した。
「では副隊長、みんなにこの壮大なる任務を話してやってくれ」
それは二日前、ルネによってもたらされた、女王陛下よりの命令書であった。
「えー、こほん。えー、本日はお日柄もよく、栄えある旅立ちを祝福してくださるようなお日様が……」
「そんな挨拶《あいさつ》はいいよ。早く、陛下からの命令を言ってくれよ」
ギーシュが緊張でトチくるった才人《さいと》の横腹をつつく。
「あー、では言います。ギーシュ・ド・グラモン殿及び、サイト・シュヴァリエ・ド・ヒラガ殿。女王陛下直属女官ルイズ・ド・ラ・ヴァリエール嬢と魔法学院生徒ティファニア・ウエストウッド嬢を貴下の隊で護衛し、連合皇国首都ロマリアまで、至急連れてこられたし」
「いいか! 一命に代えても彼女たちをお守りするんだ! いいな!」
ギーシュが活を入れると、騎士隊の少年たちは感動のあまり、空を見上げてポロポロ泣き始めた。
舷壁《げんへき》にもたれて、そんな様子を遠巻きに見ているのは、当の護衛される対象のルイズ、そしてコルベールといっしょに『オストラント』号を動かすためにくっついてきたキュルケ、そして青い髪の小さなタバサも見える。
「ほんとに偉いさんってのは、命令するだけで方法までは教えてくれないのね」
キュルケが、呆《あき》れた声で言った。
「至急連れてこられたし、なんて……、この『オストラント』号がなかったら、どうしようもなかったじゃないの。普通のフネなら、一週閻以上かかったわ」
東方への探検旅行を予定したコルベールは、魔法学院の隣まで、『オストラント』号を運び込んでおいたのである。当然、風石も満載されていた。
“至急”なんて言われても、手段のなかった才人たちは、コルベールに泣きついたのであった。
しかし……、そんなことをキュルケに言われたルイズは、微妙にうわの空である。なにやらぼやーっと頬《ほお》を染め、時折何か思い出しては、恥ずかしそうにもじもじしている。
「……どうしたの? ルイズ」
キュルケに尋ねられ、ルイズは我に返る。
「え? ええ? なんだっけ?」
「もう。なに昼間から夢見てるのよ。偉いさんは、命令するだけして、あとはほったらかしってこと」
こほんと、と誤魔化すように咳《せき》をすると、ルイズは一生懸命真面目な顔をつくろってみせた。
「お、お偉方の、期待以上の働きをしてこそ、忠臣というものだわ」
ルイズたちの背後の翼の上では、シュシュシュシュシュ……、と聞きなれない音を立てて、水蒸気機関が動いている。
「ところで、コルベール先生は?」
ルイズはキュルケに尋ねた。出航のときも顔を見なかった。彼がいなくては、このフネは動かないはずなので、乗っていることは乗っているのだろう。でも、姿が見えない。
「ジャンはサイトからのプレゼントに夢中なのよ」
呆《あき》れた声で、キュルケは言った。
「サイトからのプレゼント?」
「そうよ。なんだっけ、あの“のーとぱそこん”だかなんだか……。あんな平べったい板の、どこが面白いのかしら?」
いつかルイズも見たことのある、才人《さいと》が自分の世界から持ってきた機械……。どうして才人はコルベール先生にあげてしまったのかしら。
はた、とルイズは気づく。
それって……、もしかして才人の決意なんだわ!
俺《おれ》はこっちの世界に残るんだ。元の世界のものに未練はない……、という意思表示。
サイト……。
目頭が熱くなり、ルイズはもう、何も考えられなくなってしまった。
目で才人の姿を追い、ルイズは頬《ほお》を染める。ああ、昨晩は酔ってとんでもないことを言ってしまった気がするけど……。
いいわ。
いいじゃない。
その才人の覚悟に報いなきゃ……。
などと考えていると、キュルケがやれやれと両手を広げてみせた。そんなルイズの様子を見て、言いたいことも言えずに我慢していると思い込んでしまったのだ。
「まったく、いと哀しきは宮仕え……、お偉いさんの機嫌一つであっちに行ったりこっちに行ったり、あなたたちも大変ね」
ルイズはきょとんとして言った。
「は? 陛下の思《おぽ》し召しよ。別に大変じゃないわ」
「東に行きたかったんじゃないの? ジャンががっかりしてたわよー。あー、やっと東に行けると思ったのになあって。その反動で、サイトからのプレゼントに夢中みたい。あなただって言ってたじゃない。サイトの帰る方法を捜してあげたいって」
「そ、そうね」
気まずそうに、ルイズは俯《うつむ》いた。
「それなのに、あんまりがっかりしているようには見えないけど? どうして?」
にやっと、キュルケが笑みを浮かべてルイズの顔を覗《のぞ》き込む。
「そ、そんなことないわ! わたし、がっかりしてるもの!」
ルイズは、ムキになって叫んだ。
「へえー、そう」
キュルケは、ルイズの鼻をちょんちょんとつついた。
「あたしには、これでサイトをそばに置いておける〜、ってそんな風に見えるけど?」
ルイズは顔を真っ赤にした。それから、ぷいっと顔をそむけ、
「あらやだ。図星?」
「フネに酔ったの!」
と、ルイズは怒鳴って船室へと向かった。
自分たちに用意された狭苦しい船室に篭《こも》ると、ルイズはぐてっとベッドに横たわった。
うつぶせのまま布団に顔を押しつけ、ぐったりと身体《からだ》を伸ばす。
はあ、とルイズはため息をついた。
わたしは……、卑怯者《ひきょうもの》だわ。
才人《さいと》を引きとめておきたいんだわ。どこにも行って欲しくない。それがたとえ、才人の故郷であろうとも……。
この前、才人が冗談のつもりで「帰る方法捜しに行く」なんて言ったとき、自分は思わず、大慌てで止めに入ってしまった。
なんてわがままなのかしら、とルイズは自分を責めた。
そう思い始めると、いつか自分で決めた、『帰る間際に気持ちを伝えよう、自分の想いが才人を縛る鎖になってはいけないから』というのも、なんだか都合のいい言い訳のように思えてきた。
結局は勇気が出ないだけなんじゃないの?
臆病者《おくびようもの》だわ、わたし……。
さっきの浮かれ具合が恥ずかしく、ルイズはいつしか泣き出してしまった。
そんな風に泣いていると、扉が開いて才人が現れた。
「どうした? なんかキュルケと口げんかしてたみたいだけど……」
ルイズは、くいっと毛布を顔まで引っ張りあげた。
「なんだよ。どうしたんだよ」
才人はやれやれといった調子で、ルイズの隣に腰掛けた。ルイズはぴくりとも動かない。
まったく、気が強いくせに傷つきやすいんだから……、と才人は苦笑した。
たぶんキュルケに、また何か言われて落ちこんだに違いない。
こいつはまったく、俺《おれ》がいないとどうしようもないんだよな、と才人《さいと》は自惚《うぬぽ》れてみた。助けることも、慰めることも、励ますことも、きっと俺しかできない。
だって、めちゃくちゃわがままだからな、他《ほか》のやつだったら呆《あき》れて逃げちゃうだろうな……。となると、こいつは、俺がいなけりゃダメなんだ。たぶんいなかったら、死んでしまうんじゃないだろうか?
以前ルイズが火の塔から飛び降りようとしたことは知らない才人だったが、そんな風に想像した。
「おい、元気だせよ……、って、ルイズ?」
毛布を引《ひ》き剥《は》がすと、ルイズは目を赤くしているではないか。
「な、なんだよ。なんで泣いてるんだよ」
「サイト……、いいの? ほんとに、ほんとのほんとに帰れなくってもいいの?」
ルイズはぐしぐしとまぶたの上をこすりながら言った。才人は、優しい笑みを浮かべると、そんなルイズのまぶたの下をぬぐってやった。
「いや……、なんつうかさ。友達も仲間もできたし……、だったら、あんまり寂しくないかなって。ギーシュなんかさ、行き場所がなくなったらぼくのうちに来いよ、なんて言ってくれたんだぜ。どこまで本気か知らないけど、まったく調子だけはいいんだからよ」
ルイズは、その言葉で家族を思い出した。
ずっと厳しいだけだと思っていた父と母。
でも、それは間違いだった。
自ら罰を与えることで、無断で国境を越え、外国に潜入した罪の減免を願った母。
ルイズを戦の道具に使うというなら、王政府を敵に回すと言い放った父。
そして……、いつも慈愛に満ちた笑顔で自分を包んでくれるカトレア。
エレオノールだってきっと、自分を愛してくれている。
その家族に二度と会えない、なんて、自分だったら堪えられない。
「ダメよ。そんなの……。サイトの父さま母さまだって、サイトのこと……」
「いいんだよ」
笑いながら、才人は言った。
「ほんとのほんとにいいの?」
ルイズは、ぽつりと寂しそうに言った。
「母さまや父さまに、二慶と会えないかもしれないのよ?」
才人はちょっと考えた。ルイズは自分に対して負い目を感じている……。こっちの世界に連れてきてしまったこと。
いつまでも気にさせては、ルイズが可哀想《かわいそう》だ。気にしすぎて、泣いてしまったりするんだから。
だから才人《さいと》は嘘《うそ》をつくことにした。
「ほんとは、俺《おれ》には家族がいないんだよ」
「え?」
ルイズは、この前の力トレアの手紙を思い出した。そこには、才人が力トレアの胸で、故郷を想って泣いたことが書かれていた。
「嘘……、嘘よ。そんなの。ちいねえさまの手紙に書いてあったもの。あんたが、故郷を想って泣いたって……」
「ああ。うーん、そのなんていうかな。故郷を想って泣いたんであって、家族を想って泣いたわけじゃない。そりゃ、友達はいたし、親戚《しんせき》もいたけど……、家族はいないんだよ」
才人は、一生懸命、ほんとに聞こえるように言った。どうしようもないことで、これ以上ルイズを苦しめたくなかったのである。
「ほんとに、ほんと?」
「ああ。嘘ついてどーすんだよ。ヘンなヤツだな」
ルイズは、才人のそんな一世一代の嘘に、騙《だま》された。ルイズを苦しめたくない、という才人の真剣さが、嘘を信じ込ませたのであった。
「そう……、ごめんね。ヘンな話させて」
「いいよ」
才人はにっこり笑った。
「そんなわけで、俺には家族はいない。でも……、こっちにはいる。ルイズ、お前だ」
「わたし?」
「ああ。使い魔と主人って、ある意味家族以上だろ?」
その言葉で、ルイズは耳まで真っ赤になった。
「わたしの存在が……、あんたの母さまや父さまの代わりになるっていうの?」
「そんなのわからないよ。でも、なんていうかな……、好きな人の存在って、それだけで何かが違う。なんていうか、全部の代わりになるような、そんな気がするのさ」
才人は、真面目な声でそう言った。
ルイズはもう、その言葉だけで腰がくにゃっと抜けてしまった。
ふらふらと才人に寄りかかると、ルイズはぼーっと、呆《ほう》けたように目をつむった。
いやだわ。もう。
幸せというものが、何かかたちを伴って具体的に存在するとしたら……。
きっと今みたいな時間を、きっとそういうんだわ……。
ルイズはふらふらと才人《さいと》の頭を両手で抱きかかえ、自分から唇を近づけた。
二つの唇は重なりあい、舌が動いた。
お互いの唇の音だけが部屋に響く……、はずだった。
ぱらり。
「……ん?」
ぱらり。
ルイズの耳に、唇が動く以外の音が聞こえて、思わず目をあける。
ぱらり。
横を見ると、青い髪の少女がベッドに寄りかかって座りこみ、本のページをめくっていた。才人も顔をあげて、頬《ほお》を染める。
「……なにしてんの? タバサ」
「護衛」
ルイズの顔が、頭まで真っ赤に染まっていく。
「ご、護衛はいいわよ。というかときと場所を選んで……」
次に聞こえてきたのは、ドアの隙間《すきま》から流れてくるひそひそ声であった。
「……なんだ。終わりかい?」
「すごいわよね。タバサがいるのに気づかないなんて」
キュルケや、水精霊騎士隊《オンディーヌ》の面々の声が聞こえ、ルイズは思わず毛布を引っかぶった。才人は、頬を染めて、ぽりぽりと顎《あご》をかく。
調子にのった水精霊騎士隊の面々は、扉をどっ! と開いて船室になだれ込んできた。
面白すぎて、激しく浮かれたギーシュが、サイトの真似をし始める。
「好きな人の存在って、それだけで何かが違う、なんていうか、全部の代わりになるような、そんな気がするのさ」
それからギーシュは、腹を抱えて大笑いした。
「あっはっは! ぽ、ぼ、ぼくだってそこまでくさいセリフは言わんよ! きみぃ!」
歓喜のあまり、なんだかタガの外れたマリコルヌが、ルイズの仕草を真似し始めた。
「いやーん、サイトォ……、ルイズ、ルイズ、腰が抜けちゃったァ……」
ノリノリのギーシュが、そんなマリコルヌの身体《からだ》を支え、耳元で甘く囁《ささや》いた。
「大丈夫。ぼくがほら、ささえてあげるよルイズ」
「サイトォ、サイトォ、もっと甘い言葉で囁いてェ……、エッ!」
マリコルヌは最後までセリフを言えなかった。怒り狂ったルイズがエクスプロージョンで壁ごと無礼な連中を吹き飛ばしたのだった。
それでもルイズの怒りは収まらず、とりあえず手近にいた才人《さいと》をぽかぽかと殴りつけた。
「ばか! ばかばか! 知らない! もう知らない!」
平和なやり取りだったが、“虚無”の爪《つめ》あとは生々しかった。間抜けな連中のうめき声が響き渡り、集まってきた水兵たちはその破壊力のすさまじさに息をのむ。
タバサは、そんな中でも優雅にページをめくっていた。
ルイズと才人は、ロマリア到着まで、壁なしの船室で過ごす羽目になった。
夜……、皆が寝静まったあとも、ルイズは一人眠れずにベッドの中でもんもんとしていた。昼間の、才人の言葉が嬉《うれ》しくてしかたなかったのである。
その才人は、隣でぐうぐう眠りこけている。そういえば、いつしか同じベッドで眠ることが当たり前になっていた。
そんな才人に唇を近づけようとして……、ルイズは思い直す。
いつかのモンモランシーやキュルケの忠告が蘇《よみがえ》る。
許したら男は浮気する、らしい。つまり男は、女をコレクションのように集めたがる生き物ってことだ。女の中にも、そういう人はいるけれど。例えばキュルケみたいな。
その、許すのも、気持ちを伝えるのも、要はイコールよね。
この使い魔……、気持ちを伝えたとたん……、「もうルイズ制覇」と、勝ち誇って、きょろきょろ余所見《よそみ》をするんじゃないだろうか。
それに……、最近のわたしってば、ちょっと慎みが足りないわ、とルイズは軽く自分の頭を小突いた。
ちょっと、身持ちがなってないんじゃない? ルイズ。
というか、ほんとにわたしってば、いい雰囲気に弱いわ。ちょっと好き好き言われただけで、なんだかもうどうでもよくなってしまうのである。
街娘じゃないんだから……、とルイズは己の行いを反省した。
そんなほいほい許したらダメよ。結婚するまでダメよ。というか、結婚しても三ヶ月はダメなの。いや……、一ヶ月ぐらいにしておこうかしら。
まあ、それはともかく、才人にもっと優しくしてあげよう。
すぐに怒るのは頑張って卒業しよう。
余所見だってするわ。男の子ですもんね。
まあ、ちょっとぐらいの余所見も、許してあげよう。
でも、そんなことできるかしら? このわたしが……、と割と冷静に自己を分析しているルイズは脳んだ。……ま、少しずつ、できるようになればいいわよね。
それから、アンリエッタのことが心をよぎる。
いったい、わたしたちをロマリアに呼んで、どうするつもりだろう?
また何かが起こりつつあるのだろうか?
すべての事件が片付いて、落ち着けるようになったら……、そのときこそ、才人《さいと》に気持ちを伝えよう、とルイズは思った。
不思議なもので、そう思うと、この先どんな敵が現れようが、つらいことが待ち構えていようが、頑張れる気がした。
どこまでも幸せな気持ちで……、ルイズは才人に寄り添い、眠りについた。
さて、ちょっと離れた船室では、凶暴な胸を持つティファニアが、まんじりともせずに夜を過ごしていた。『オストラント』号は、長期の航海を想定していたので、船室の数が多い。
さすがキュルケの家が建造しただけあって、狭いが内装もしっかりしたものだった。寮の部屋と同じぐらい、ベッドもふわふわであった。
アルビオンの森の中から出てきて、真っ先に気に入ったのはこのベッドである。田舎で使っていた布団とは、デキが違う。柔らかく、身体《からだ》がふっかりと沈み込む。
ハルケギニアはイヤなことも多いけど、このベッドだけは褒めてもいい、とティファニアは思っていた。いつもなら、横たわるとぐっすりと眠ってしまうのに……、今日は違う。
ティファニアは、くいくいと己の長い耳を引っ張った。
アルビオンから出てきて一ヶ月ちょいで、再び旅立ちである。今度の行き先は、宗教国家ロマリアだという。
わけもわからず、旅の支度をしろと言われ、考える間もなくフネに乗せられたが……、大丈夫だろうか?
自分はエルフの血が混じっている。今から向かうロマリアは、ブリミル教の総本山ではないか。そんな場所で、自分の正体がバレたら……、魔法学院の騒ぎではないだろう。
目をつむったが、不安で眠れない。
才人たちは、大丈夫、俺《おれ》たちがついてる、テファに手出しはさせないよ、と言ってくれたが……、ほんとに大丈夫だろうか?
どうにも眠れずに、テイファニアはするりとベッドから抜け出すと、船室を出た。
ティファニアが向かったのは、甲板だった。
『オストラント』号は、シュシュシュ……、という水蒸気機関独特の音を立てて、空をゆく。舷《げん》縁から顔を出して眼下を見ると、月明かりの下、分厚い雲が黒々と広がっている。暗い海の底のように見えて、ティファニアは身震いした。
『オストラント』号は、時速五十リーグほどの速度で航行している。
舷側《げんそく》にもたれ、強い風に顔をなぶられていると……、これから自分を待ち受ける運命に、心が騒いでどうにもならなくなった。
ティファニアは、トリスタニアの孤児院で頑張っている子供たちのことを想像した。
あの子たちだって、きっと頑張ってる。
わたしも頑張らなくちゃ……。
自分に課せられた運命がなんであれ、どのみち、もう普通の生活は送れないのだ。それは、ウエストウッド村を出てきたときに、覚悟を決めたことだった。
いろんなものを見てみたい。
きっとこれからの様々な体験が……、自分の進むべき道を教えてくれるに違いないから。
とにかく、不安に負けては始まらない。
ティファニアは、ぐっと目に力を込めて、黒い雲を見据えた。その奥にあるものを、見透かすように……。
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第四章 二つの騎士隊
トリステインを発《た》って三日後、『オストラント』号はロマリア南部の港、チッタディラに到着した。なるほど、かなりの速度である。帆の張り方を工夫して、積荷を減らした快速船ですら、海上を通っては一週間はかかる距離である。
チッタディラは、大きな湖の隣に発達した城塞《じょうさい》都市だった。フネを浮かべるのに都合がいい、ということで湖がそのまま港になったのである。岸辺からいくつも伸びた桟橋には、様々なフネが横付けされていた。それだけ見ると、海に面した、普通の船が停泊する港とそう趣は変わらない。
さて、『オストラント』号が入港すると……、珍しいかたちのフネがやってきたというので、桟橋の周りには人だかりができた。才人《さいと》たちはちょっと困ってしまった。
才人たちのロマリア行きは、公式のものではない。
ガリアにその動向を知られないために、表向きは『学生旅行』という名目で入港したのである。もちろん、訪問の目的がお忍びで滞在しているアンリエッタの元へ向かう、ということも秘密である。
当然というか、入国に際し、官史と激しくモメることになった。
桟橋までやってきた、メガネをかけた融通が利かなさそうなロマリア官史に、トリステイン王政府発行の入国手形を見せると、彼は胡散臭《うさんくさ》げに一行と『オストラント』号を見つめた。
「トリステイン魔法学院生徒? にしては、とんでもないフネに乗っておるな。なんだこのフネは」
『オストラント』号は、ハルケギニアで常用される普通のフネよりも、翼が長い。それだけでなく、船尾に一個、両翼に一個ずつ、見慣れぬ大きなプロペラがついている。官史でなくとも、怪しいと思うであろう。
引率の教師という触れ込みのコルベールが、とぼけた声で応《こた》えた。
「はぁ。わたくしがゲルマニアで開発した新型船でして」
「翼の上についておる、あの怪しい櫓《やぐら》と羽はなんだ?」
尊大な態度で杖《つえ》を突き出し、官史はさらに尋ねる。
「蒸気の力を利用して、推進力に変える装置です。わたくしは“水蒸気機関”と呼んでおります」
官史はそこで、目を細めた。
「神の御業《みわざ》たる魔法を用いずに、そんな怪しい装置で空を飛ぶとは……、異端ではないのか?」
異端ですと! と、官史の助手が、びっくーん! と飛び上がり、そのあとに首から下げた聖具を握り締め、ぶるぶると震え始めた。ロマリアではすべての役人が神官なのだ。
ティファニアはその言葉で不安になった。
エルフの血が混じっていることを隠すために、例によってつばの広い帽子を被《かぶ》っていたのだが、くいっとそのつばを両手で引き下げる。
そんな様子が、官史の注意をひいたらしい。
「おいそこの。ちょっと帽子を取ってみろ」
ティファニアはがたがたと震えだした。
「どうした。帽子を取れと言ったのだ。聞こえないのか?」
官史の手が伸びると同時に……、タバサが小さくルーンを唱えた。その動きを見ていたキュルケが、仰々しく官史にしなだれかかる。
「あら! よく見るととっても男前!」
「な、なんだ貴様は!」
「毎日のお勤めご苦労さま。素敵な神官さん」
「いやなに……、というか離れろ! 穢《けが》れるではないか!」
「世の中には神さまにお祈りするより、楽しいことがたくさんあるんですの。ご存知?」
場の注目がそこに集まっている間に……、実戦魔法に優れたタバサは、最小の動きで呪文《じゅもん》を完成させた。ティファニアの帽子が、わずかに光った。
するとキュルケは、あっけなく官史から離れた。
「そうね。神官さまの言うとおり。ちょっとなれなれしかったですわ」
官史は、こほん、と咳《せき》をするとティファニアに再び命令した。
「帽子を取れ」
観念したように、ティファニアは帽子を外した。
「ふん……、帽子をしないほうが美人ではないか」
「え?」とティファニアは己の耳を確かめる。なんと! そこにあるのは人間のそれではないか! 驚いたティファニアは、傍らのタバサを見つめた。どうやらこの青髪の少女が、自分に何か呪文をかけてくれたようだ。
テイファニアの知らないその呪文は“フェイス・チェンジ”……、顔を変えることのできる高度なスクウェアスペルだ。いつしか、スクウェアクラスの実力を身につけるにいたったタバサだった。
とにかく、入国許可証に怪しいところはないし(トリステイン王政府発行の本物なので当然だ)、あとがつかえているので、官史はそれ以上問い詰めなかった。
一同はほっと胸を撫《な》で下ろした。
そんな風に難を逃れた一行だったが、運命の神というものは、皮肉なものである。思いもよらぬところから、災難を運んでくるのだった。
チッタディラから駅馬車に乗り、一日かけてとうとう都市ロマリアまでたどり着いた。
この国の慣習に従い、街への門をくぐる前に、杖《つえ》や武器をそれぞれ行李《こうり》に詰めたりせねばいけない。
そんなルールなど知らない才人《さいと》は、ついうっかり、デルフリンガーを背負ったまま、門をくぐろうとした。当然衛士に呼び止められる。
「おい、そこの貴様!」
ん? と振り返ったら、衛士はつかつかつかとやってきて、デルフリンガーに手をかけた。
「どこの田舎者だ! この街では武器をそのまま持ち歩くことは許されん!」
剣を持っていたので平民と思われたらしい。尊大な態度で衛士はデルフリンガーを才人の背中から引き抜くと、地面に投げ捨てた。
「な、なにすんだよ!」
衛士はそこで才人《さいと》の羽織ったマントに気づいた。
「なんだ貴様。貴族だったのか。それにしては剣など持ち歩くとは、どういう了見だ? 北のほうの国では、平民が貴族になれるらしいが、それか? なんとまあ、神への冒涜《ぽうとく》も甚だしい!」
才人は文句を言おうとしたが、鞘《さや》から離れたデルフリンガーが先だった。
「やいてめえ! 人を、いや剣を地面に放り出すとはどういう了見だ!」
「なんだ、インテリジェンスソードか。どっちにしろ、携帯はいかん。袋に詰めるか、馬につむかするんだな。……とにかく貴様、こっちに来い。怪しいやつだ」
そんな衛士に、なおもデルフリンガーは追い討ちをかけた。
「うるせえ! ボンクラ! この罰当たりの祈り屋風情が!」
「……祈り屋風情だと?」
あちゃあ、と才人は頭を抱えた。面倒ごとはごめんである。さっさとデルフリンガーを黙らせようと拾い上げたが、怒り心頭に発した剣はカチカチ暴れてなかなか鞘に収まろうとしない。ずっと鞘に入りっぱなしで、ストレスがたまっていたらしい。
「おう、何度でも言ってやらあ! 祈り屋風情が気に入らねえってんなら、別の呼び方を考えてやってもいいぜ」
「……剣の分際で! ロマリアの騎士を侮辱するということは、ひいては神と始祖ブリミルに侮辱をくわえるということだぞ!」
「うるせえ若造。おめえにブリミルの何がわかるっていうんでえ。いいから早いとこオレに謝って、得意のお祈りでも唱えやがれ」
うぬ! 許せん! と叫んで、衛士はデルフリンガーの柄《つか》を引っつかんだ。
「おいなにすんだ!」
才人が慌てて止めに入る。
「こいつめ! 炉にくべてドロドロの塊にしてやる!」
「おもしれえ! やれるもんならやってみやがれ!」
「やめろよ!」
押し合いへしあいになった。ルイズたちは、呆然《ほうぜん》とそんなやり取りを見守っている。余計な口を挟んで、さらにひどい操《も》め事《ごと》になってはまずい、と判断したのだ。
だが、結局操め事になる運命だったようだ。才人が、勢い余って衛士を突き飛ばしてしまったのだ。
「わ! ごめんなさい!」
「ごめんですむと思うのか! 神と始祖に仕えるこの身を突き飛ばすとはッ! 不敬もここに極まれり! やはり、貴様ら……。おのおのがた! 怪しい上に、不敬のやからがおりますそ! 出ませい!」
すると詰め所から、わらわらと衛士たちが溢《あふ》れてきた。
「不敬とな!」
「例の件に関係しているかもしれん! 取り押さえろ!」
手にはそれぞれ聖具を握っている。その聖杖《せいじょう》を見て、
「やば。あいつら、聖堂騎士《パラディン》だわ」
キュルケのその声に、タバサが反応した。
ピューッ、と口笛を吹くと、空からシルフィードがふってくる。タバサとキュルケはその背に飛び乗った。おろおろとしているティファニアを、タバサが“レビテーション”で浮かべ、シルフィードの上に跨《またが》らせる。
ただ一人ルイズは聖堂騎士たちの前に立ちふさがった。
「なんだ! 貴様は!」
ルイズは桃色の髪を逆立て、聖堂騎士たちに向かって怒鳴った。
「わたしたちはトリステイン王政府のものよ! 今現在、この国に滞在しているアンリエッタ女王陛下の御許《みもと》へ向かう途中ですの! わたしたちに手を出したらとんでもない外交問題よ! わかってるの!」
聖堂騎士たちは、顔を見合わせた。
「……アンリエッタ女王陛下?」
「そんな報告は受けてないぞ?」
しまった、とルイズは顔を青くした。そういえば、アンリエッタの行幸はお忍びである。そりゃあ、政府の偉いさんたちは知っているだろうが、下っ端騎士などは知らない者も数多くいるのだろう。
「貴様……、トリステイン女王の名まで持ち出しおって……、ますます怪しい連中だ」
「まとめてたっぷりと宗教裁判にかけてやる。覚悟しろよ」
あわわ、と立ちすくむルイズを、キュルケがひょいっと抱えあげる。
「ジャン、ギーシュ、騎士隊のみなさん、あなたたちは“フライ”で追いかけてきて。サイト! こっちよ! 乗って!」
才人《さいと》はデルフリンガーを握り締め、飛び上がったシルフィードめがけてジャンプした。そんな才人をシルフィードの足が、器用にキャッチする。
きゅい、と一声鳴いて、シルフィードは急上昇を開始した。水精霊騎士隊《オンディーヌ》やコルベールも、大慌てで“フライ”を唱え、シルフィードのあとを追う。
「異端どもが逃げたぞ! つかまえろ!」
詰め所から、ばっさばっさと、翼が生えた馬が飛び上がる。聖堂騎士たちはその馬に次次に跨《またが》ると、“不敬”から、とうとう異端にレベルアップした才人《さいと》たちを追いかけてきた。
その馬を見て、ルイズが叫ぶ。
「ペガサスだわ!」
ロマリア地方に生息する、翼の生えた聖なる馬……、ペガサスは、聖堂騎士|御用達《ごようたし》の騎乗生物だ。白く光るたてがみを翻し、ぐんぐんと一行に近づいてくる。
本来だったらペガサスの飛行速度は、風竜に及びもつかないが……、シルフィードは全力で逃げられない。
「“フライ”で飛んでる連中がいる以上、逃げきれないわね……」
そう眩《つぶや》くキュルケに、才人が詰め寄った。
「おいキュルケ! なんで逃げるんだよ! 余計に面倒なことになるじゃんか!」
あなたってば、と岐いてキュルケは髪をかきあげた。
「“聖堂騎士”の恐ろしさを知らないのね? 彼らに“不敬”と決めつけられたら、とんでもないことになるわよ? その場で略式宗教裁判が行われて、魔法で串刺《くしざ》しにされちゃうわ」
才人は青くなった。
ベアトリスとの騒動を思い出す。見ると、ティファニアは震えている。宗教裁判、と聞いて、こないだの耳騒動を思い出したのだろう。
空から見るロマリアの街は、整然と区画整理された碁盤のように見えた。どの区画にも、見事な彫刻が施された尖塔《せんとう》が眩《まぶ》しい建物が誇らしげにそびえたっている。
「まったく、こんな寺院ばっかりのところで神官の悪口青ったら大変だわよ。少しは考えなさいな」
キュルケにそう言われ、才人はデルフリンガーを睨《にら》んだ。
「おい、おしゃべり剣。反省しろよ」
デルフリンガーは情けない声をあげた。
「だってよう……、ずっと鞘《さや》に入りっぱなしでイライラしてたし……。第一おりゃあこの国がきれえなんだよ。この国をつくったフォルサテって男が、そりゃもういけすかないヤツで……」
「そんな大昔のことなんか水に流せよ! おかげで、こっちは余計な面倒を抱えちまったじゃねえか!」
才人《さいと》が責めると、デルフリンガーは鞘《さや》にすぽっと入って小さくカタカタ動いた。一応反省しているらしい。
振り向くと、水精霊騎士隊《オンディーヌ》の面々は、フラフラしながら飛んでいる。疲れたのだ。“フライ”はそれほど長い距離は飛べない。精神をずっと集中させねばならないからだ。
「限界ね」
キュルケは冷静な声で言った。下を眺めていたタバサが、杖《つえ》で一角を指し示した。
「酒場」
キュルケが頷《うなず》く。タバサの意を受けたシルフィードは、急降下を開始した。
「な、なによ! 地面に逃げてどうするのよ!」慌ててルイズが怒鳴る。
「あの酒場で篭城《ろうじょう》するのよ」
「篭城だって!」
才人とルイズは、声を合わせて怒鳴った。
「しかたないでしょ? 逃げきれないし、捕まったら大変だし……。こうなったらドンパチは避けられないわ。ま、昼間の酒場だったらすいてるでしょ」
シルフィードは目指す通りに滑り込んだ。通行人たちが、いきなり着陸した風竜に驚き、逃げ惑う。キュルケはシルフィードから飛び降りると、酒場の扉を蹴り開けた。
「いらつしゃい」と、これから降り起こる災難を知らずに、店主が笑顔を浮かべた。ざっと店内を見回すと、見越したとおり客はほとんどいない。神官風の男が一人、カウンターに座っているっきりだ。
昼間から酒を飲むのは不信心者とされるこのロマリアでは、昼間飲みたい者は、こっそり家で飲むのが普通である。キュルケはほっとした。迷惑をかける相手は、少ないほうがいい。
「なんにしやしょう。お嬢さん」
貴族の客と見て、もみ手をしながらやってきた店主にキュルケは言い放つ。
「このお店を、一日貸し切らせていただくわ」
「はい?」
きょとんとした店主は、続々と入ってきた貴族たちを見て、目を丸くした。
「な、何事で?」
キュルケは応《こた》えずに、さらさらと小切手を書くと、びらっと店主に放って寄越《よこ》した。
「こ、こんなに!」
「でも足りなくなるかも……、そのときは遠慮なさらずに言ってね」
「は、はいっ! でもいったい何をなさるんで? パーティでも開くおつもりですか?」
「そうよ。ちょっと花火が派手にあがるけど……、お気になさらないでね?」
花火?
店主は視線をずらした。そこでは、タバサの指揮のもと、水精霊騎士隊《オンディーヌ》の面々が椅子《いす》やテーブルを使ってバリケードを築いているところだった。
「ちょ! ちょっと! あんたら! 何をしとるんですか! わっ!」
店主のその声は、窓ガラスが粉々に砕け散った音で遮られた。外に展開した聖堂騎士たちが、魔法を放ったのだ。
「うわあ! なんだ! 何事だ! って、……聖堂騎士!」
通りに見える、純白のマントに縫いつけられた聖具の紋を見て、店主の腰がへなへなと抜けた。
「あ、あんたたち……、何者だ?」
キュルケは、気の毒そうに眩《つぶや》いた。
「下がって。危険よ」
才人《さいと》はぶるぶる震えるティファニアを店の奥まで連れていき、そこに座らせた。魔法学院の制服を、大きく持ち上げる胸を隠すように自分を抱きしめ、ティファニアは壁際に座り込む。
「サイト……」
「大丈夫。なにがあっても俺《おれ》が守る。俺のせいみたいなもんだし……、ごめん」
こくこくと、ティファニアは頷《うなず》いた。さてと、と才人はデルフリンガーに手をかけた。破られた窓の外には、いかめしい顔つきの聖堂騎士たちが並んでいる。
水精霊騎士隊の面々は、窓から下がったところにテーブルでバリケードを築き、杖《つえ》を構えて対時《たいじ》している。タバサとキュルケはその背後から、細かく指示を飛ばしていた。すっかり指揮官とその副官といった風情である。
たった一人だけいた客は、ギムリに外へ出ていろ、と言われたが、にっこりと拒否した。
「酒のさかなにぴったりだ」と言って、ワインをくいくい飲んでいる。
コルベールは、テーブルの隙間《すきま》から外に展開した聖堂騎士たちの動向を冷静にうかがっていた。本来なら、こんな乱暴は止めるべき立場の彼だったが、何一つキュルケのやり方に文句は言わない。こういう非常時には冷静な現実主義者になってしまうコルベールが何も言わないところをみると、乱暴に見えてもたぶんこれが正解なんだろうなあ、と才人は思った。
肝心のギーシュはというと、なんでこんなことになったんだぁ〜〜〜、と頭を抱えて、床に突っ伏していた。
ルイズは、なんだか怒りにブルブル震えている。とにもかくにも、この現状に我慢ができないのであろう。プライドの高いルイズは、誤解で不敬と侮辱され、犯罪者のような扱いをされている現状が許せないのだ。
才人《さいと》は腰を低くして、タバサとキュルケの元へと向かう。
「で、どーすんだよ」
キュルケはにっこりと笑みを浮かべた。
「さて勇敢な騎士諸君。作戦を説明するわ」
ごくり、と一同はキュルケの言葉を待った。
「とにかく時間を稼いでちょうだい」
「そ、それだけ?」
キュルケは頷《うなず》いた。
「ええ。ここで時間を稼げば、騒ぎが教皇聖下にも届くでしょ。そうすればアンリエッタさまだって気づくんじゃない?」
「随分と気が長い作戦だな……」
ギーシュが呆《あき》れた声で感想を漏らすと、
「あら? だったらあなた、あそこで聖堂騎士たちに宗教裁判にかけられてもいいの? あたしたち全員、神官を侮辱したかどでその場で有罪よ。魔法で打ち首、なんてあたしイヤあよ」
そこで才人が、決心したようにキュルケに言った。
「侮辱したのは俺《おれ》とデルフだけだ。俺が一人で話つけてくる」
「サイト!」
ルイズが叫んで、才人に駆け寄る。
「ダメよ! だったらわたしも行くわ」
恥ずかしそうに、ルイズは俯《うつむ》いた。
「だって、あんたはわたしの使い魔じゃない。あんたの責任はわたしの責任。だからわたしも行く」
才人は、感動した目でルイズを見つめた。
「ルイズ……」
するとルイズは頬《ほお》を染め、
「せ、責任は主人であるわたしにあるのよ。だから、勝手なことしちゃダメ」
「しないよ」
感極まって、才人《さいと》はルイズを抱きしめた。うっとりと頬《ほお》を染めて、ルイズもその背中に手を回す。
「しゅ、主人と使い魔は、一心同体なんだから……」
「わかってる。わかってるよ」
「オウ、他所《よそ》でやれや」
こめかみをひくつかせたマリコルヌが、二人を引き離す。イチャイチャしていた二人は顔を真っ赤にする。
キュルケが呆《あき》れた声で言った。
「どっちにしても、もう遅いわよ」
「それに、きみだけを行かせたら、ぼくたちの名誉に傷がつく。なあ?」
マリコルヌが、ぐ! と親指を立ててみせた。水精霊騎士隊《オンディーヌ》のみんなも、なんだか浮かれたように、そうだそうだ! とはやし立てる。
「だいたい、ロマリアの神官どもは嫌いなんだよ」
「聖堂騎士の横暴っぶりたらないぜ! いつかあいつらにはちょっと思い知らせてやろうと思ってたんだ。誰が一番偉いのかをな!」
そんな物騒な言葉も飛び交う。どうやら、そっちの方が本音だったらしい。
なんといってもハルケギニアの貴族は、こういう操《も》め事《ごと》がダイスキなのである。才人は、やれやれと首を振って言った。
「まったく……。何が神さまだ。昔っから、一番戦争を起こすのは神さままじりのときじゃねえか」
歴史の授業を思い出して、才人は言った。
宗教が違う、ただそれだけで、地球でも幾度となく戦いが起こってきた。みんな、口々に威勢のいい言葉を吐き出していたので、誰もそんな才人の独り言を聞いていなかった。
たった一人を除いて……。
それは、奥の椅子《いす》にたった一人腰掛けていた客だった。深くフードを被《かぶ》っているおかげで、顔が見えない。そんな彼は、才人の話を聞くと,ぷっと笑みを漏らした。それから、妙な声音で、呟《つぶや》く。
「おもしろいことを言うね。きみは」
「そっすか? いいけど、ほんとに危ないから外に出てたほうがいいですよ。ご迷惑をおかけして、すいませんけども」
「いや。ここで見物させてくれ」
変わり者だな、と思ったが、今はそれどころではない。
才人《さいと》は再びバリケードの向こうを見据えた。
「でも……、あいつら、攻めてこないわね」
キュルケが眩《つぶや》く。聖堂騎士たちは、最初に魔法で窓を吹き飛ばしたっきり、動きがない。どうやら窓も、中の様子を探るために吹き飛ばしただけらしい。
そのうちに、聖堂騎士が一人、輪から進み出た。随分とキザったらしい仕草で、くいくい顔を持ち上げながら、近づいてくる。才人が感想を漏らす。
「ギーシュみたいなヤツだな」
「いっしょにしないでくれたまえ」
美男子、と形容していい顔立ちの優しげな男だった。長い黒髪が、額《ひたい》の上でわけられ、左右に垂れている。
男は丁寧な仕草で一礼すると、店内に立てこもった一同に、柔らかい口調で話しかけた。
「アリエステ修道会付き聖堂騎士隊隊長、カルロ・クリスティアーノ・トロンボンティーノです。さて、酒場内の諸君、きみたちは完全に包囲されています。神と始祖との卑しきしもべたる我々は、無駄な争いを好みません。もうしわけありませんが、おとなしく投降していただけないでしょうか?」
「あたしたちの身の安全を保証してくれるっていうんなら、そうしてもいいわよ?」
キュルケが言い放つ。
「そうしたいのはやまやまなんですが……。我々はとある事件を抱えていましてね。怪しいやつはかたっぱしから捕らえて宗教裁判にかけろ、との命令を受けておるのです。したがって、あなたがたの無罪が神によって証明されたのち、そうさせていただきましょう」
水精霊騎士隊《オンディーヌ》の間から、抗議の声が飛んだ。宗教裁判というのが、名前を変えた処刑に過ぎないことを知っているのだった。
「ぼくたちは異端じゃないそ!」
「れっきとしたトリステイン貴族だ!」
「トリステイン貴族というなら、貴族らしくきちんと裁判を受け、身をもって証明すればいいだけの話ではありませんか。それができぬ、と言うならば、きみたちは忌まわしき異端ということになってしまいますが……」
「教皇聖下に問い合わせろ! 俺《おれ》たちはロマリアの客だぞ!」
才人が怒鳴ったら、カルロと名乗る聖堂騎士隊長は、やれやれと両手を広げた。副官らしき男が近寄り、何やらカルロに耳打ちする。
「それほど聖下にこだわるとは……。やはりあなたがたをなんとしても取り調べねばいけないようだ。しかたありません。流れずにすむ血が流れ、ふるう必要のない御業《魔法》をふるわねばならぬ……、ああ、これも神の与えたもう試練なのでしょう……」
カルロは胸元に下げた聖具を神妙に取り上げ額《ひたい》に当てた。すると、その綺麗《きれい》で優しげな顔だちが、見る間に凶悪な匂《にお》い漂うものへと変化する。
「神と始祖ブリミルの敬虔《けいけん》なしもべたる聖堂騎士諸君。可及的|速《すみ》やかに異端どもを叩《たた》き潰《つぶ》せ」
ぶわっ! と聖堂騎士たちから魔力のオーラが立ち上る。
カルロは、才人《さいと》たちに背を向けると、まるでオーケストラの指揮者のように、杖《つえ》を掲げた。
「“第一楽章”始祖の目覚め」
彼らは一斉に呪文《じゅもん》を唱え始めた。まるで唱和する聖歌隊のような、呪文の調べだった。
酒場内に緊張が走る。
珍しくタバサが焦った表情を浮かべ、水精霊騎士隊《オンディーヌ》の面々に指示を飛ばした。
「“エア・シールド”を張って。何重にも。すぐに」
水精霊騎士隊は、言われたとおりの呪文を唱え、バリケードの前に空気の壁を張った。
同時に、聖堂騎士たちの呪文が完成する。
それぞれ握った聖杖《せいじよう》の先から、炎の竜巻が伸び、幾重《いくえ》にも絡み合い、巨大な竜のかたちを取り始めた。
「なんだありゃ」
「賛美歌詠唱。聖堂騎士が得意とする呪文。厄介」
タバサが応《こた》えた。
それは、いつかのアンリエッタとウェールズの亡霊が作った、ヘクサゴン・スペルにも似た合体魔法だった。血を吐くような訓練と統率……、それに耐えることのできる聖堂騎士隊ならではの奇跡の業だった。
「ほんとにあんなの、店内にぶっ放す気かよ!」
才人が叫んだと同時に、炎の竜は店内めがけて襲いかかってきた。
酒場内の面々は、すくみ上がった。
幸いにも、事前に幾重にも唱えた“エア・シールド”が功を奏し、炎の竜の勢いは弱まる。しかし、水精霊騎士隊の唱えた“エア・シールド”では所詮《しよせん》焼け石に水に過ぎない。
空気の壁を突破してきた炎の竜を、最終的にとめたのはタバサの魔法だった。すっくと立ち上がると、唱えておいた呪文を解放する。
キラキラと光る氷の粒がタバサの周りをまわり始め、青白く光り輝いた。
“アイス・ストーム”
タバサの放った氷の嵐《あらし》が、炎の竜に絡みつく。
辺りは、もうもうと立ち込める水蒸気に包まれた。その霧が晴れると……、毅然《きぜん》と立つタバサの姿が見えた。酒場内の一同から歓声が沸く。
するとタバサは、
「精神力が切れた。あとは任せる」
と言って、奥へと引っ込む。
ごくり、と水精霊騎士隊《オンディーヌ》の面々は唾《つば》を飲み込む。タバサの強力な魔法は打ち止め……、となると、あとは自分たちでなんとかしなくてはいけない。
自分たちの魔法が破られたことで、聖堂騎士たちの表情が変わった。
「異端のくせにやるじゃあないか」
カルロは笑みを浮かべ、次の呪文《じゅもん》を指揮する。
炎が破られたので、次の“賛美歌詠唱”は“水”系統だった。詠唱と共に、幾重《いくえ》にも氷の矢が増えていく。
店内に飛び込んできた何百本もの氷の矢を防いだのは、コルベールの火魔法だった。
「ウル・カーノ・ジエーラ・ティール・ギョーフ」
講義でも行うように、淡々と魔法を唱えたコルベールの杖《つえ》の先から、先ほどの炎竜にも負けない大きさの蛇が巻き起こる。
炎の蛇は、氷の矢を食らいつくし、唐突に掻《か》き消《き》えた。何本かの氷の矢が、テーブルや椅子《いす》に突き刺さったが、それで終わりだった。
だが、コルベールもそれで呪文は品切れらしい。頭をかくと、
「諸君、次はきみたちでなんとかしたまえ」と言って、奥へと引っ込む。
通りに集まった見物人から、野次が飛んだ。宗教庁の権威をかさにきて、いつも威張っている聖堂騎士隊が苦戦しているのが、面白くてたまらないのだろう。
ぎりッ! とカルロの顔が歪《ゆが》む。
「うぬう……、おのれえ……、かくなる上はぁ……」
次はすごいのがくるぞ、と、生徒たちの間でひそひそ声が飛び交う。
才人《さいと》は、ルイズの肩を叩《たた》いた。
「さて、出番だぜ。ルイズ」
キュルケも、タバサも、コルベールもルイズを見つめた。彼女たちは、ルイズが伝説の担い手、ということを知っている。
自分たちの切り札……、“虚無”
始祖が扱いし、零番目の系統……。
水精霊騎士隊《オンディーヌ》の面々は、ルイズが“虚無”の担い手ということは知らない。だが、その爆発はどえらい威力だということは知っていた。従って、熱っぽい目でルイズを見つめる。
「あいつらを全員、吹っ飛ばしてやれよ! その間、ぼくたちがなんとしても防いでやる!」
次に聖堂騎士隊が放ってきた“賛美歌詠唱”は風系統だった。
ゴォオオオオオオオオオオオッ!
荒れ狂う嵐《あらし》は、いつぞやのヘクサゴン・スペルほどではないが、それでもかなりの威力を秘めていることがうかがい知れる。
「俺《おれ》がとめる!」
才人《さいと》は飛び出し、デルフリンガーを構えた。嵐に巻き込まれながらも、デルフリンガーが魔力を吸収していく。才人は振り返ると、怒鳴った。
「ルイズ! 今だ! あいつらを“エクスプロージョン”で吹っ飛ばせ!」
緊張した顔で、ルイズは呪文《じゅもん》を唱え始る。
完成。
杖《つえ》を振り下ろし、エクスプロージョンを放ったが……。
ぼうんッ! となんだか情けない音と共に、聖堂騎士隊の前の地面を、わずかに掘り返しただけだった。
「……終わり?」才人は、剣で嵐を受け止めながら、間の抜けた感想を漏らす。
ルイズは呆然《ぽうぜん》と、己の呪文の結果を見つめた。
「な、なんで?」
キュルケがこくりと頷《うなず》いた。
「あー、きっと、幸せだからじゃないの?」
ルイズはぎくっとした。
「あんたの系統って、確かなかなか精神力が溜《た》まらないのよね。怒ったり、嫉妬《しっと》したり、そういう感情が必要なのに、あんた最近あんまり怒ってないでしょ?」
「え、えー。そんなこと、ないもん……」
恥ずかしそうに俯《うつむ》いて、ルイズはもじもじを始めた。そんなルイズに、とうとう嵐を受け止めきれなくなった才人がぶち当たる。
「ぶぎゃあ!」
と二人は、酒場の奥へと転がっていった。同時に嵐が吹き込んでくる。デルフリンガーによって吸い込まれていたとはいえ、バリケードを吹き飛ばすには十分だった。
聖堂騎士たちは、バリケードが吹き飛んだことを確認すると、聖杖《せいじよう》を構えた。
なにやら呪文《じゅもん》を唱えると、杖《つえ》の先端が赤、青、白……、様々な色に染まり始める。
「“ブレイド”だわ。来るわよ」
キュルケが眩《つぶや》く。
|ブレイド《刃》……。
騎士がよく使う、杖に魔力を絡ませて刃《やいば》とする魔法だ。得意な系統ごとに、その色と威力は違う。その上、杖の周りのみに発生させるために、効果が持続する。まさに、岩をも両断することのできる、白兵戦用の呪文であった。
カルロを先頭に、聖堂騎士たちは突進してきた。次々破れた窓をかいくぐり、飛びこんでくる。水精霊騎士隊《オンディーヌ》も、次々“ブレイド”を唱え、迎え撃つ。
窓際では大乱戦が始まった。
才人《さいと》もデルフリンガーを握り締め、加勢する。
水精霊騎士隊は、ほとんどがドット・メイジだ。魔法の威力不足を補うために、アニエス直伝の才人のもと、接近戦に力を入れてきた。その甲斐《かい》あってか、押され気味でもなんとか持ちこたえている。
杖同士がぶつかり合い、派手な音が飛び交う。
マリコルヌが除《うな》り声《ごえ》をあげて.杖を振り回している。冷静なレイナールは、何気に杖を使った接近戦が得意だった。右に左に器用にかわし、|チェスプロブレム《詰将棋》を解くように敵を追い詰めていく。
ギムリはその豪快な身体《からだ》をバーバリアンのように動かし、力任せに杖をぶん回す。
魔法の切れたタバサは、後ろで本を読んでいる。自分にできることがない、とわかると、随分と割り切るものであった。コルベールは魔力のかけられてない杖一本で、聖堂騎士と渡り合っていた。
キュルケといえば、店主と壊れた家具の交渉の真っ最中であった。乱闘で椅子《いす》や机が一つ壊れるたびに、店主は算盤《そろばん》を弾《はじ》き、キュルケに見せる。
「……ちょっと、高くない?」
「いやいや、いい木を使っておりますんで! はい!」
「半分は聖堂騎士隊に請求してよね」
ルイズは、ハラハラしながら、才人の方を注目していた。なにが虚無よ……、使いづらいったらありゃしない! と、自分の無力さに歯噛《はが》みする。
才人はルイズの心配を他所《よそ》に、一人の聖堂騎士の聖杖を、一撃で吹き飛ばした。ガンダールヴのスピードにたじろぐ聖堂騎士の腹に、デルフリンガーの柄《つか》をめり込ませ、悶絶《もんぜつ》させる。
さて次は……、と、見ると、辺りは乱戦だった。さて、どこに加勢しようかと見回すと、一体を残して、すべてのワルキューレを倒されたギーシュが、カルロの猛攻にたじたじになっていた。
“ブレイド”をまとわりつかせたバラの造花を握るギーシュと、一体のワルキューレを、なんなくカルロはあしらっている。
才人《さいと》が近づくのを見たギーシュは、首を振った。
「おいおい、加勢ならいらないよ。なに、これからが本番さ」
しかし、カルロは余裕の笑みを浮かべながら、ギーシュを追い詰めている。どうやら実力の半分も出してないようだ。
「言ったな? じゃあ、お望みどおり本番といこう!」
カルロは素早い動きで、ギーシュのバラの造花を手元からすくい上げるようにして弾《はじ》き飛ばす。ギーシュは、ぺたりと床に胡坐《あぐら》をかいた。
「参った。降参だ。サイト、あとは任せたよ」
そして、悪びれた風もなく口笛を吹き始めた。敵味方から、笑いがこぼれる。
カルロは、ゆっくりと才人に振り向いた。
「次はきみか。名乗りたまえ」
才人は剣を突き出すと、胸をはって思いっきり格好つけた。貴族っぽい身のこなしを真似て、堂々と名乗る。
「シュヴァリエ・サイト・ド・ヒラガだ。見知りおきを」
「ヘンな名前だな」
「黙れオカマ野郎」
才人のその言葉にカルロは笑みを浮かべて、聖杖《せいじよう》を突き出した。長さは三十サントほどだが、魔力のオーラが伸び、一メイルほどの長さに光っていた。
「きみはついてないな。誓って言うが、お命|貰《もら》い受ける」
「やってみやがれ」
才人はひとっとびで距離を詰めると、思いきりデルフリンガーを真上から叩《たた》きつけた。しかしカルロもさるもの、デルフリンガーをがっしりと聖杖で受け止めた。
二人は同時に、ばっと飛び退《すさ》る。
カルロは一瞬で才人の実力を見て取り、聖杖に込めた魔力を増幅させる。
「ほんとうに平民か……? 貴様」
「今は貴族だよ」
青白い、杖《つえ》の輝きが大きくなる。
「いざ!」
そして、鋭い突きを繰り出してきた。才人《さいと》の目には、その動きの一つ一つが見えた。なるほど、普通の人間ならかわせない。ギーシュがあっという間にやられたのも頷《うなず》ける。
でも、自分はそうじゃない。
才人はカルロの聖杖《せいじょう》の動きを見切り、ぴったりと“縦に”真ん中から両断した。こんなのはただのハッタリだが、敵意を喪失して欲しかったのだ。ばらんと、床に落ちた聖杖を眺め、カルロは膝《ひざ》をついた。
「き、貴様……」
うめくカルロに、才人は言い放つ。
「頼むよ。教皇聖下とやらに、連絡つけてくれないか? そうすりゃ、俺《おれ》たちの正体もわかるからさ」
「先ほどからわざとらしいことをぬけぬけと……。忌々しい異端どもめ! ……己の胸に聞け! お前たちの仲間が、なんらかの理由で聖下をかどわかしたのだろう? あの怪しいフネで運ぶつもりだろうが! 言え! どこで接触するつもりだ!」
はい? と才人はきょとんとした。カルロのその声で、激しい剣戟《けんげき》もやんだ。
「なんか誤解されてないか?」
額《ひたい》から、ダラダラと血を流したマリコルヌが、とぼけた声で言った。
「聖下をかどわかす? どういうことだ?」
聖堂騎士たちは、口々に才人たちをののしり始めた。
「異端の誘拐犯どもめ!」
意味がわからずに、才人たちがきょとんとしていると、背後で笑い声と共に誰《だれ》かが立ち上がる音がした。
「カルロ殿、ご苦労です。だが、聖下はさらわれてはいない」
フードの下から現れた顔を見て、聖堂騎士たちが目を丸くした。一斉に聖具を構え、神官の礼をとる。
「チェザーレ殿!」
チェザーレ殿? その名前には覚えがあった。才人は振り向き……、息をのんだ。そこにあった顔は、アルビオンでいっしょに戦ったジュリオじゃないか!
ジュリオは、変えていた声音を元に戻し、才人に挨拶《あいさつ》した。
「聖歌隊の指揮者もやってるもんでね。変声術が得意なんだよ。きみ、見事|騙《だま》されたな! あっはっは! やあやあ、実に久しぶりだなサイト! アルビオンできみを見送って以来かな! 無事でなにより!」
才人《さいと》は、そんなジュリオを呆《あき》れた顔で見つめた。
「なんだいその顔は。せっかくの再会だってのに、まるで竜にでくわしたトカゲのようじゃないか」
「いったいどのようなわけで、このような事態になったのかを説明していただきたい」
カルロが口を挟む。ジュリオは、ますます笑いを大きくした。
「いやなに。カルロ殿、聖下がさらわれた、という噂《うわさ》を流したのはぼくなんですよ。この方たちは怪しいものではない。我々のお客です」
「はあ? どういう意味です?」
才人たちがわけがわからずぽかんとしていると、ジュリオは説明をしてくれた。
「きみたちが今日、到着することはもちろん知っていた。でも、ただまっすぐ聖堂に向かうのもつまらないだろう? 余興を用意したのさ。聖下がかどわかされた、と噂を流して、反応を見てたんだ。そうすれば、真っ先にきみたちみたいなのは疑われるからね。ぼくは、チッタディラから、ずっときみたちをつけていたんだ。ここに降りようとしているのを見つけ、先回りした。なんだかやり口が強引だし、尾行にも気づかないなんて、ちょっとこれからのことが心配だったんだが……、まあ、聖堂騎士隊をあしらった実力を見るに、合格としよう」
「な、なんと人騒がせな……」聖堂騎士たちは呆然《ぼうぜん》とした。
水精霊騎士隊《オンディーヌ》の面々は、頭に血をのぼらせた。
「貴様! とんだ悪ふざけだ! おかげでぼくたちは宗教裁判にかけられるところだったんだぞ!」
ジュリオは涼しい顔で言い放つ。
「宗教裁判? これから、きみたちがすることになる仕事は、そんなのままごとに思えるような過酷な任務だぜ。ただ魔法をぶっ放したり、剣を振り回すことが得意なだけじゃ務まらない。このぐらいの危機は、力じゃなく頭で乗りきって欲しいものだね」
唖然《あぜん》とする一同を尻目《しりめ》に、ジュリオはつかつかとルイズとティファニアの元へと向かい、そこで優雅に一礼した。
「レデイ。お呼びだてしておきながら、非礼をお許しください。まさか、このような場所で、ご挨拶《あいさつ》を交わすことになるとは思いませんでしたが……」
再び、ジュリオは大声で笑った。そんな教皇付き神官の態度に、聖堂騎士たちが顔をしかめる。思いつくまま、勝手な行動をとる若き教皇とそのお付きの神官に、ほとほと手を焼いていたのであった。
外に、ばっさばっさと音を立てて、一匹の風竜が着陸した。ジュリオの風竜、アズーロである。後ろに、とっつかまえたシルフィードを従えていた。
「お前……。あのな、いろいろ話があるんだけどよ……。文句とか。文句とか」
才人《さいと》がぷるぷる震えながら言うと、ジュリオは気にせず一同を促した。
「まあまあ、食事でもしながら、難しい話はしようじゃないか。では、我らが大聖堂にご案内いたします。客人殿」
第五章 教皇の説得
大聖堂に到着すると、ルイズはアンリエッタに到着の挨拶《あいさつ》をした。
だが……、この女王は心ここにあらずの体であった。ああ、よくいらしてくれたわ、と言ったものの、この国にルイズたちを呼んだ理由は話してくれなかった。教皇聖下があとで説明してくれますわ、とアンリエッタはルイズとティファニアに言った。
「とにかく、長旅でお疲れになったでしょう。晩餐《ぱんさん》が用意されています。まずはおなかを満たしてくださいまし」
晩餐会は、二つの部屋で行われた。
まずは才人《さいと》を除いた水精霊騎士隊《オンディーヌ》とコルベールとキュルケ、タバサに与えられた部屋と、ルイズとテイファニアと才人、そして教皇ヴィットーリオが出席する大晩餐室だった。
キュルケたちには、ホストもつけられず、気ままに食事を取ることになった。水精霊騎士隊のメンバーはそんな扱いでもあまり気にした風もない。今日の戦いをさかなに、楽しげに笑い転げていた。
キュルケは傍らのコルベールを見つめた。この大聖堂についてからというもの、なんだかあまり元気がない。目の前に並んだ料理に手をつけず、組んだ手の上に顎《あご》をのせ、なにか考え込んでいる。
「どうしたの? ジャン。お料理がまずいの?」
キュルケは目の前のスープをスプーンでかき回した。
「確かにこのスープ、まずいわね。ほうれん草しか入ってないわ。精進《しようじん》日をきちんと守っている晩餐なんて初めてだわよ」
それでもコルベールは、じっと動かない。
「ほんとにどうしたの? 大丈夫?」
心配そうにキュルケが覗《のぞ》き込むと、コルベールはやっと顔をあげた。
「ん? ああ、すまん。なんでもないんだ」
それからしばらくスープを流し込んでいたが……、そのうちにポケットからルビーの指輪を取り出し、じっと見つめた。メンヌヴィルと戦って死にそうになったとき、キュルケが預かっていたものである。コルベールが全快したあと、キュルケはすぐに返して寄越《よこ》したのだった。
「ルビーがどうしたの? あなたまさか、昔の女でも思い出しているんじゃないでしょうね?」
冗談のつもりで言ったのだが、コルベールは頷《うなず》いた。
「……まあ、そんなところかな」
キュルケは目を細めると、コルベールの頭に茄《ゆ》でたざりがにを乗せた。それでもコルベールは動かない。それ以上|嫉妬《しっと》を見せるのもつまらないので、キュルケは話し相手を変えることにした。隣ではタバサが、無表情に料理をぱくぱく食べている。
「ねえタバサ。大|晩餐《ばんさん》室のテーブルでは一体何を話しているのかしら」
タバサは、くいっとワインを飲み干した。
「さあ。わからない」
廊下を挟んで隣の大晩餐室では、誰《だれ》もが口をつぐみ、ただ黙々と料理を口に運んでいた。ルイズの横には才人《さいと》が座り、その隣にはティファニアが腰掛けている。
才人は今日の出来事がどうにも腹に据えかねるらしく、時折ジュリオを見つめては、うぬ、あんにゃろ、とか咬《つぶや》いている。
ティファニアは緊張で身を縮こまらせていた。ぎくしゃくとフォークとナイフを扱い、先ほどからメインのオムレツを、口に運ぶでもなく何個にも切り分けている。
目の前にはルイズたちをここに呼んだアンリエッタがいた。
今も、何か考え事をするように、じっと目の前のワイングラスを眺めている。その隣には、銃士隊長アニエスが座り、やはり何か考え事にふけっている。
テーブルの上座には、教皇聖エイジス三十二世こと、ヴイットーリオ・セレヴァレが座り、隣に腰掛けたジュリオから本日の報告を受けていた。
先ほど、ルイズと才人とテイファニアは、教皇ヴイットーリオへの拝謁を許された。人懐こそうな笑顔で、彼はルイズたちを歓待してくれた。
まず、その美貌《ぴぼう》にルイズは圧倒された。彼は、まるで妖精《ようせい》のような輝きを放っていた。
次にルイズが感じたのは……、慈愛のオーラだった。それは、完全に私欲を捨てた人間だけが放てる、すべてを包み込むような光だった。一目見ただけで、ルイズは彼が、どうしてこの若さで教皇になれたのか理解できたような気がした。
才人もルイズと同じように感じたらしい。ヴイットーリオの眩《まぶ》しさにぽかんと口をあけ、それから参ったなあ、というように笑みを浮かべたのである。
「ジュリオの野郎はハンサムでもムカつく顔をしてるけど、こっちは別モノだな。こんな人いるんだなあ。ほんとに」と才人は、ルイズに感想を告げたのだった。
それから始まった晩餐会……。ヴィットーリオは自分たちの労をねぎらうばかりで、未だ肝心なことは話さない。まさかこちらから切り出すわけにもいかず、ルイズは気まずそうにもじもじとした。
いったい……、アンリエッタとこの教皇聖下が、自分たちに見せたいものはなんだろう?
ルイズは、隣に座った才人《さいと》をつついて言った。
「ねえ」
「ん?」
「陛下と教皇聖下はわたしたちに何を見せてくれるつもりなのかしら」
「わからん。でも、メシが終わったら見せてくれるんだろ。びっくりするかもしれないから、腹いっぱい食べて動じない心を養おうぜ」
確かに才人の言うとおり、やきもきしても始まらない。ルイズは料理に手をのばした。
報告を受けたヴィットーリオは、深々と一同に頭を下げた。
「わたくしの使い魔が、大変ご迷惑をおかけしました」
その言葉で、ルイズと才人は、ぶほっ! と食べていたものを噴いた。
「聖下……、今、なんと?」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません、とお詫《わ》びを申し上げたのです。ジュリオ、なぜ勝手にそのようなことをしたのです? わたしはただ、『迎えに行って欲しい』と頼んだはずですが」
ジュリオは月目をきらめかせ、笑みを浮かべた。
「そ、そうじゃありません!」
ルイズは思わず立ち上がる。
「今、聖下は『使い魔』とおっしゃいましたね?」
「はい。そうです」
ヴィットーリオは、ルイズとティファニアを交互に見つめ、頷《うなず》きながら言った。
「わたくしたちは兄弟です。伝説の力を宿し、人々を正しく導くための力を与えられた、兄弟なのです」
才人たちは突然のヴィットーリオの告白に、目を丸くした。ジュリオがあとを引き取るように、いつもはめていた右手の手袋を外した。
そこには……、才人の左手に光るガンダールヴの印と、似たような文字が躍っている。
「ぼくは神の右手。ヴィンダールヴだ。サイト、きみとは兄弟ということだよ」
ヴインダールヴ……、とティファニアが、呟《つぶや》く。
「ティファニア嬢は未だ、使い魔をお持ちでないから……、これで三人の担い手、二人の使い魔、そして……」
ヴイットーリオはルイズが傍らに置いた“始祖の祈祷《きとう》書”を見つめて言った。
「一つの秘宝、二つの指輪……、が集まったわけです」
ジュリオがヴイットーリオに小さく咬《つぶや》いた。
「指輪はあと一つ、くわわるかと……」
「となると、指輪は三つ……、ということですね」
大|晩餐《ぱんさん》室を緊張が包んだ。張り詰める空気の中、ヴィットーリオはアンリエッタの方を向いた。
こくりと、緊張した面持ちでアンリエッタは頷《うなず》く。
「さて、本日こうしてお集まりいただいたのは他《ほか》でもない。わたくしは、あなたがたの協力を仰ぎたいのです」
「協力とは?」
わたくしがお話ししましょう、とアンリエッタが口を開いた。
アンリエッタの話を聞き終わったルイズと才人《さいと》は、その途方もない話に、目を丸くした。
やっとの思いで、ルイズが口を開く。
「つまり……、姫さまがおっしゃりたいのは、わたしたちの力を使って、エルフから聖地を取り返したいってことなのですか? それでは、レコン・キスタの連中と変わりないではありませんか」
「違います。そうではないのよルイズ。“交渉”するのよ。戦うことの愚を、あなたたちの力によって悟らせるのです」
「……どうして、聖地を回復せねばいけないのですか?」
今慶は、ヴィットーリオが口を開く。
「それが、我々の“心の拠《よ》り所《どころ》”だからです。なぜ戦いが起こるのか? 我々は万物の霊長でありながら、どうして愚かにも同族で戦いを繰り広げるのか? 簡単に言えば、“心の拠り所”を失った状態であるからです」
どこまでも穏やかな、優しい声で、ヴイットーリオは言葉を続けた。
「我々は聖地を失ってより幾千年、自信を喪失した状態であったのです。異人たちに、“心の拠り所”を占領されている……。その状態が、民族にとって健康なはずはありません。自信を失った心は、安易な代替品を求めます。くだらない見栄《みえ》や、多少の土地の取り合いで、我々はどれだけ流さなくてもいい血を流してきたことでしょう」
ルイズは言葉をなくした。それはハルケギニアの歴史そのものであったからだ。
「聖地を取り返す。伝説の力によって。そのときこそ、我々は真《まこと》の自信に目覚めることでしょう。そして……、我々は栄光の時代を築くことでしょう。ハルケギニアはそのとき初めて、“統一”されることになりましょう。そこにはもう、争いはありません」
ヴイットーリオは、淡々と“統一”という言葉を口にした。幾度となく、ハルケギニアの各王たちが夢見た言葉……。
“統一”
「始祖ブリミルを祖と抱く我々は、みな、神と始祖のもと兄弟なのです」
ルイズはその言葉に心動かされた。だが……、どこか引っかかるものを感じる。ルイズがその引っかかりを口にする前に、才人《さいと》が口を開いた。
「あの……、いいですか? 聖下」
「どうぞ」
困ったような声で、才人は言った。
「俺《おれ》、その、あんまり頭よくないんで、聖下のおっしゃることがよくわからないんですけど……、それってつまり、剣で脅して土地を巻き上げる、ってことじゃないんですか?」
「はい。そうです。あまり変わりはありませんね」
ヴイットーリオはあっけなく才人の言葉を肯定した。
「そんな……、|エルフ《異人》が相手だからって、そんなことしていいんですか? 俺にはあんまり、いいことのようには思えないけど……」
「わたくしは、すべての者の幸せを祈ることは傲慢《ごうまん》だと考えています」
きっぱりと、ヴイットーリオは言った。
「わたくしの手のひらは小さい。神がわたくしに下さったこの手は、すべてのものに慈愛を与えるには小さすぎるのです。わたくしはブリミル教徒だ。だからまず、|ブリミル教徒《ハルケギニアの民》の幸せを願う。わたくしは間違っているでしょうか?」
「間違ってはいないと思います。でも……」
才人は考え込んだ。アンリエッタが、そんな才人の翻意を願うように、
「サイト殿。わたくしもよくよく考えてみたのです。そして……、教皇聖下のお考えに賛同することにいたしました。わたくしはかつて、愚かな戦を続けました……。もう二度と繰り返したくない。そう考えています。力によって、戦を防ぐことができるなら……、それも一つの正義だとわたくしは思うのです」
「反対です」
才人は、きっぱりと言った。
「サイト殿」
アンリエッタが、何か言おうとしたが、才人は頑として首をたてに振らなかった。
「やっぱり、卑怯《ひきょう》ですよそれ。ここにいるティファニアは……、エルフの血が混じっている。ティファニアの母さんたちを脅すような真似はしたくない」
テイファニアは、唇を噛《か》んだ。いろいろ思うところがあるのだが,自分は口を挟める立場にない、と思い込んでいるのであった。
アンリエッタは立ち上がると、ティファニアの元へと歩いていく。
「はじめまして。ティファニア殿。あなたの従姉《いとこ》のアンリエッタでございます」
そう言って手を握る。
ティファニアは、しどろもどろに、挨拶《あいさつ》を返す。
「……従姉」
「そうです。あなたの父君の|モード大公《プリンス・オブ・モード》は、前アルビオン王だけでなくわたくしの父、前トリステイン国王ヘンリーの弟君でもあらせられます……。つまりあなたは、わたくしの従妹《いとこ》になるのですわ」
アンリエッタはひっしとティファニアを抱きしめた。
「ああ、わたくしの従妹。つらい想いをさせてごめんなさい。そして、そのことを公にできぬわたくしを許してちょうだい」
ティファニアも、ほとんど唯一となった血縁者を抱きしめ、思わず涙をこぼした。大|晩餐《ばんさん》室は、しばしの静寂に包まれる。涙を拭《ふ》いたティファニアは、それでもしっかりと、アンリエッタに尋ねた。
「陛下。わたしの母の同胞と……、争うのですか?」
「そうではないの。きちんとお話しして、返していただくの。だって、あの土地は、本来我々のものなのですから。その際の交渉に、あなたに流れる血が、またとない架け橋になってくれることを祈ります」
ティファニアは俯《うつむ》いた。そして、
「わたし、ほんとに難しいことはわかりません。でも……、わたしの力が皆さんのお役にたてるなら、この上ない喜びだと思います」
「協力してくださるの?」
ティファニアは、憮然《ぷぜん》としている才人《さいと》の方を向いた。
「サイトが……、そうするって言うなら、わたしも手伝います。わたしはサイトに、外の世界に連れ出してもらったから……。サイトが決めたことなら、従います」
「サイト殿」
アンリエッタは、すがるような目で才人を見つめた。才人はアンリエッタにそんな風に見つめられ、決心が鈍《にぶ》りそうになった。でも……、やっぱり納得できない。
「ごめんなさい。聖下や姫さまの言ってることは立派だと思う。でも……、そんなことに、俺《おれ》やルイズの力を使いたくない」
「ルイズ、あなたはどうお考えですか?」
アンリエッタは、次にルイズの方を向いて尋ねた。
ルイズは、迷った。
アンリエッタやヴィットーリオの言うことはもっともだ。
自分たちはハルケギニアの貴族だ。
まずは、ハルケギニアのことを考えなくてはいけない。でなければ……、貴族でいる意味がない。昔だったら……、そんな風にアンリエッタの掲げる理想に頷《うなず》いていたかもしれない。
でも……、今のルイズは違う。
エルフだからといって、力をちらつかせる真似などしたくない。
平民にもいろんな人間がいる。
きっとエルフにも、いろんなエルフがいるのだろう。悪いエルフも、そしていいエルフも……。才人《さいと》やティファニアとの交流を通じて、ルイズはそんな風に思うようになっていた。
ルイズが黙ってしまったのを見て、アンリエッタは笑顔になり、頷いた。
「確かに、あなたには難しい選択かもしれません。でも……、いずれ選ばなくてはいけない。ただ、忘れないで欲しいのは、この前あなたに託した母君のマントの意味です。そこに縫いつけられた百合《ゆり》紋は、伊達《だて》ではありませぬ。そこには、トリステインの未来が……、ひいてはハルケギニアの未来がかかっているのです」
それでもルイズは頷けない。自分の中の何かが拒否するのだった。
アンリエッタは再び才人に向き直る。
「……あなたも、ルイズのためなら命をかけて戦うでしょう? 大事な人間を救うためなら、手段を選ばずに行動にでるでしょう。わたくしもそうです。二度と人同士が争うことに、我慢がならないのです。そのためなら、手段を選ぶつもりはありません」
「そのために、エルフたちがどうなってもいいと?」
才人が尋ねると、アンリエッタは頷いた。
「わたくしは、人の国の王なのです。聖下と同じく、その手のひらには限界があります」
その言葉には、力強い響きが伴っていた。
ヴィットーリオは、屈託のない声で言った。
「わたくしは、ロマリア教皇に就任して三年になります。その間、学んだことがたった一つだけあるのです」
言葉を区切り、ヴィットーリオは力を込めた。
「博愛は誰《だれ》も救えません」
しばらく、無言のまま食事は続いた。
そんな中、才人《さいと》はちょっと引っかかったことを尋ねた。
「あの……、質問いいですか?」
にこやかに、ヴィットーリオは頷《うなず》く。
「どうぞ」
「“虚無”を集めるのはいいんですけど……、ガリアのはどうするんですか?」
そう。ガリアの虚無の担い手とその使い魔は、ルイズたち他《ほか》の担い手を狙《ねら》い続けている。その正体は未だわからず、自分たちは防戦一方であった。
しかもその背後には間違いなくガリア王ジョゼフと、強力な先住魔法を操るエルフがいるのだ。彼らが自分たちに協力するなど考えられない。
『虚無を集める』などと一言に言うが、最初から顕《つまず》いているじゃないか。
しかし、ヴィットーリオは笑顔を浮かべた。
「もちろん、手を打ちます。そのために、皆さんにお集まりいただいたのです」
「どうやって?」
「三日後に、わたくしの即位三周年記念式典が行われます。ガリアとの国境の街、アクイレイアにおいてです。もちろん、ガリア王にもご出席をいただく」
「おとなしく出席しますかね?」
「さあ。それはどちらでもかまいません。そして、ミス・ヴァリエール、ミス・ウエストウッド。あなたがたにも、出席を願います」
ルイズが何かに気づき、立ち上がった。
「まさか! わたしたちを囮《おとり》に?」
「これはわたくしの式典……。事前にわたくしが“虚無の担い手”ということはガリアに流します。あなたがただけではありません。もちろん、わたくしも囮になるのです。わたくしは、何事も自分で行わないと気がすまない性質ですから」
「危険です!」
「危険は承知。だが、このまま受身でいるほうが、よほど危険です。ガリア王ジョゼフの野望は何か? それはおそらく、虚無の担い手を、己の持《も》ち駒《ごま》を除いて抹殺することです。そして、ハルケギニアを己がものにする……。彼は、“無能王”などと内外からあざけられておりますが、わたくしはそうは思いません。狡猜《こうかつ》で、残忍で、非情な男です。“無能王”とは、己が野望を隠す詭弁《きべん》に過ぎません。そんな狡賢《ずるがしこ》い男です。かならずや、三人|揃《そろ》ったとなれば、手を出してくるに違いありません」
「で、どんな作戦を用意するんですか?」
興味を引かれたらしい。才人《さいと》は身を乗り出した。
「サイト!」
ルイズがどなって才人を睨《にら》む。
「いいじゃないかよ。さっきの話には反対だけど、こっちは賛成だ。ガリア王の横暴には反吐《へど》が出る。散々|俺《おれ》たちを痛めつけやがって……、おまけにタバサにもひどいことをしやがった。許せないよ。どうせいつかなんとかしなくちゃならないんだ。早めに片付けておくに限る」
才人のその言葉に、ヴィットーリオは満足げに頷《うなず》く。
「おそらく、彼はまず“使い魔”の方を出してくるでしょう。あなたがたが何度か手合わせした、ミョズニトニルン……。あの、魔道具使いの女です」
「でしょうね」
「我々は、全力で“ミョズニトニルン”を捕まえるのです。ただ、決して殺してはなりません」
「なぜですか?」
「殺してしまっては、再び使い魔を召喚されるからです。生かして捕らえ、その存在を守る。そうすれば、ガリアの担い手は再び使い魔を召喚することができません。使い魔なしでは、虚無の担い手もその力を半減させるでしょう。そのときこそ好機。あとは交渉に持ち込み、ジョゼフ王を廃位に追い込む。そのあとは、時をみてあなたがたのご友人を玉座にすえてもよいでしょう」
「そりゃいいや! やりましょう!」
アンリエッタが、頼もしげな目で才人を見つめた。ジュリオも笑みを浮かべる。ティファニアも頷いていた。
ただ……、ルイズだけが首をたてに振らなかった。
「反対です!」
「どうしてだよ」
才人が怪認《けげん》な顔でルイズを見つめた。どこまでのん気なのかしら! とルイズは頭にきた。こっちには虚無の担い手が三人いる、とはいっても、使い魔はサイトとジュリオの二人だけだ。その上ジュリオはヴィンダールヴ。獣を扱うのがうまいといっても、虚無同士の戦いには力不足ではないだろうか?
かつてアルビオンで、鮮やかに竜騎士を撃墜してみせた手並みからいっても、彼が相当戦慣れしていることは間違いない。
ただ……、それは正規の戦闘においての話だ。虚無のみならず、古代の魔道具が飛び交う戦場で、どれほど役に立つものか?
その上、ティファニアの魔法は“忘却”のみ。強力だが、直接の戦闘に役立つ呪文《じゅもん》ではない。ヴィットーリオにいたっては、得意な呪文すらわからない。もしかして、強力なのかもしれないが、この優男の教皇に豊富な実戦体験があるとは思えない。戦いは魔法の強さだけでは決まらない。それを応用できる実戦能力が必要なのだ。戦いの経験が豊富ならば、“ドット”が“トライアングル”を圧倒する可能性だってあるのだから……。
それに対し……、相手はたった二人とはいえ、その力は未知数だ。
あらゆる魔道具を自在に操るミョズニトニルン……。
そして恐ろしい先住魔法を扱うエルフさえ味方につけている。
今まで自分たちは負けなかったが……、決定的な勝利をおさめることもできなかった。
いや、負けなかったことにしても、ただ運がよかっただけかもしれない。
向こうはまだ本気を出していない可能性だってあるのだ。
この前の騎士人形《ヨルムンガント》を思い出し、ルイズは震えた。一体でも相当てこずった。もし、あんなのが五体もいたら?
到底勝てるとは思えない。
「わたしたちは、ミョズニトニルン一人にすら苦戦しています。“担い手”が加わったときの戦闘力は想像すらできません。危険です。もっと慎重に……」
「我々に必要なのは勇気です。現状を変える勇気。これ以上、敵に力をつけられてしまう前に、決着をつけねばなりません」
きっばりと、ヴイットーリオは言いきった。才人《さいと》も大きく頷《うなず》いた。
「ルイズ、俺《おれ》は、聖下の言うことはもっともだと思うよ」
このバカ! とルイズは心の中で叫んだ。こっちは五人、といっても戦うのは主に才人と自分じゃないか。
というか、才人だ。
才人は、たった一人で、ルイズの詠唱の時間を稼がなくてはいけない。本気を出した敵を相手にして……。
だが、それは口に出せなかった。
保身に走ったと思われてしまう。才人の安全を口にすれば、主人の自分が、身の安全を優先したと思われてしまう。自らも囮《おとり》になる、と言いきった教皇は、ヴィットーリオが初めてであろう。教皇がそこまで言っているのに、矢面に立たない貴族は貴族ではない。ブリミル教徒ではない。異端とそしられても文句は言えなくなってしまう。
ルイズは苦しそうな口調で、反対を口にすることしかできなかった。
「……それでも、わたしは反対です。教皇の御身を危険にさらすような計画には賛成できません」
ヴイットーリオは、笑顔のまま、口を開いた。
「まあ、いきなり協力しろと言われて、すぐに納得できるはずもないでしょう。ゆっくりお考えください。きっとわたくしの方法が正しいとお思いになるでしょうから」
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第六章 長槍
翌朝。
「ん……」と、才人《さいと》は目をこすって起き上がる。
昨晩は、あれから誰《だれ》も話さなくなり、自然と晩餐《ぱんさん》会はお開きになった。
隣に寝ているルイズは、未だ寝息を立てている。昨日の話で疲れてしまったらしい。晩餐会のあとルイズは、考え込むように黙り、用意された部屋に引っ込むなりベッドに潜ってしまった。
最初の話はともかく、ガリア王に対する計画は賛成だ、と才人は思う。
エルフを力で脅すのは感心しないが、ガリア王は別だ。あんなひどいヤツはそういない。己の欲望のままに、自分たちを襲い、タバサの父を殺し、母の心をくるわせ、タバサ本人には地獄を見せた。
許せねえ。
ルイズだって同じ考えだと思っていたのに……、どうして反対するんだろう。
考えてもわからない。確かに教皇の計画は危険だが、不意をつかれるよりは安心できる。そして、いつか決着をつけねば、いつまでも不意をつかれるのだ。
どう考えたって、早めになんとかしたほうがいいじゃないか。
そんな風に考えていると、誰《だれ》かが部屋の扉をノックした。
扉を開けると、月目の眩《まぶ》しいジュリオが立って、笑みを浮かべている。
「おはよう。兄弟」
「俺《おれ》とお前は、別に兄弟じゃねえぞ」
才人《さいと》がむっとして言うと、ジュリオは笑った。
「そう言うなよ。同じ使い魔同士、仲良くやろうじゃないか」
「……お前って、あんまり仲良くしたいタイプじゃないんだよな。何考えてるのかわかんないし。ところでなんだよ。こんな朝っぱらから」
才人は元々このジュリオがあまり好きじゃないのだ。アルビオンで、ルイズがこのジュリオにお世辞を言われてちょっと顔を赤らめていたことを思い出す。ルイズに劣らず嫉妬《しっと》深い才人であった。
ジュリオは才人のイヤミにも動じずに、手を振った。
「きみに見せたいものがあるんだ」
「俺に?」
「ああ。すぐに用意してくれたまえ」
「ルイズは?」
尋ねると、ジュリオは首を振った。
「きみだけでいいよ」
ジュリオに連れてこられた先は、大聖堂の地下階にある、なんだか怪しい場所だった。螺旋《らせん》階段を下りると、湿った通路に出た。通路の左右には、わずかにかがり火によって明かりが灯《とも》されている。なんだか心細くなりながら先へと進むと、明かりが途切れた場所に出た。
ジュリオはかがり火の中から、火のついた薪《まき》を取り上げ、たいまつにしてさらに奥へと進む。
気づくと肌寒い。なるほど、奥からはひんやりとした空気が流れてくる。
「随分と怖いところだな。お化けでも出るんじゃないか?」
才人が身体《からだ》をこすりながら言うと、ジュリオは笑みを浮かべた。
「そうかもね。なにせこの辺りは、大昔の地下墓地《カタコンベ》がそのまま残ってるからね。そこを利用してるのさ」
「……墓地かよ。随分景気の悪いところに連れてくんだな」
ぶるぶる、と才人《さいと》が震えていると、ちょっと開けた場所に出た。丸い、円筒状の場所で、四方に鉄扉がついている。鉄扉は赤く錆《さ》び、埃《ほこり》がくっついていた。とても現在も使われているようには見えない。
「なんだよ。お墓を見せようっていうのか? 朝っぱらからそんなもの見せるなよ」
「まあね。でも、墓は墓でも、眠っているのは人じゃない」
「はぁ?」
鉄扉には、厳重に鎖で封印されていた。鎖についた錠前に持ってきた鍵《かぎ》を差し込むと、バチン! と大きな音がして外れた。
ジュリオは鎖を外すと、扉の取っ手を握り締めた。んぎぎぎぎぎぎ、と顔に似合わぬ声を出して引っ張ったが、扉はびくともしない。
「参った。錆《さび》が進んでらあ。手伝ってくれるかい?」
ジュリオはぺろっと舌を出して、才人を促した。
才人は舌打ちして、扉に手をかけた。二人で思いきり力を込めると、扉は、バゴッ! と、大きな音を立てて開いた。埃が舞い上がり、才人はむせた。
扉の向こうは真っ暗な部屋だった。
ジュリオの掲げたたいまつでは、奥のほうまで見渡せない。ただ、部屋はかなり広いようだった。声が遠くまで響く。ジュリオは、壁に設けられた魔法のランタンを探し始めた。
「確か、この辺りだったと思うけどな……」
「見せたいものってなんだよ。これで、ほんとにただの墓だったら怒るぞ」
「まあまあ。きつとびっくりするよ。あ、あった!」
ジュリオは魔法のランタンに手を突っ込み、ボタンを押した。
すると……、部屋中に取りつけられたランタンが、一斉に光り輝く。
闇《やみ》の中に、ぼんやりと浮かんだその部屋は、教室二つ分ほどの大きさだった。
「な、なんだよこりゃ……」
そこに置かれたものを見て、才人は息をのんだ。
「驚いたかい?」
ジュリオの声も、もう才人には届かない。そのぐらい、目の前の光景に圧倒されていた。才人から向かって右の棚に置かれていたのは……、銃器だ。
ハルケギニアのそれじゃない。
明らかにつくりが違う。
一丁を手に取ってみた。ずしりと重く……、握ると左手の印が光りだす。
「…………」
才人《さいと》は無言で、その銃を見つめた。木製の銃床《じゅうしょう》の下部に、箱型の弾倉が突き出ている。ハルケギニアには、このような連発式の銃はない。
なるほど、遊底の上には、かつて見慣れたアルファベットの文字が躍っている。
ENGLAND ROF
「イギリス製だ」
間違いない。これは、地球からやってきたものだ。才人は次に、別の銃を取ってみた。テレビやゲームで見たことのあるかたちをしている。たしか……、ロシア製の銃ではなかったか?
「こりゃあれだ。AK小銃だ」
イギリス製の小銃よりさらに長い弾倉を外してみた。そこには、弾がぎっしり詰まっていた。小銃の横には自動式、輪胴式の様々な拳銃《けんじゅう》……。
そんな現代の銃が全部で十数丁ほどもあった。壊れているものもあったが、数丁ほどは錆《さび》も浮かずにピカピカしている。
「見つけ次第、“固定化”で保存したんだが……、中にはすでに壊れていたり、ボロボロだったりしたものもあったんでね」
ジュリオが言った。
その隣の棚には、古臭い銃が並んでいる。ハルケギニアで使われている火縄銃やマスケット銃もあった。ただ、そこに書かれた文字は地球のものだった。
つまり……、これらは全部地球からやってきたのだ。
銃は全部で数十丁ほどだった。
その隣には、さらに年代モノの武器が並んでいる。様々な剣や槍《やり》、石弓……。ブーメランまであった。こうなるとハルケギニアのものと見分けがつかないが……、そこにある一本の日本刀を見つけて、才人はこれらの武器も、地球から来たものだと理解した。
様々なハンド・ウェポンの隣に並んでいるのは、雑多な兵器たちだった。大砲らしきものがあった。何やらミサイルランチャーのようなシロモノがあった。ただ、それらはすべて壊れていた。
ごろりと、ジェット戦闘機の機首部分が転がっているのには驚いた。
「……なんでここにこんなものがあるんだ?」
「東の地で……、ぼくたちの密偵が何百年もの昔から集めてきた品々さ。向こうじゃ、こういうものがたまに見つかるんだ。エルフどもに知られないように、ここまで運ぶのは結構骨だったらしいぜ」
才人《さいと》はシエスタのひいおじいさんでもあった、日本海軍のパイロットを思い出した。彼も、東の土地から飛んできたという……。
「さて、東の地と言ったが……、さらに正確に言うと、“聖地”の近くでこれらの“武器”は発見されているんだ」
ジュリオは、奥を示した。
「これで全部じゃないぜ」
乏しい明かりの中、奥にぼんやりと浮かび上がる、小山のようなものがあった。油布を被《かぶ》せられ、明かりに佇《たたず》むその姿は、テントのようにも見えた。
「なんだありゃ」
「見せてあげるよ」
無造作にジュリオは近づくと、油布を引っ張った。ずるっと、油布が地面に引き落とされ埃《ほこり》が激しく舞った。
舞い散る埃の中……、明かりにぼんやりと浮かんだものを見て、才人は絶句した。
「こ、こんなものまで……」
それは、巨大な鉄の塊だった。分厚い鉄板を作って組み上げられた箱が、ちょっとした二階建ての家ぐらいの大きさでもって才人を圧倒する。
そして、上の箱からは、長い、太い砲身が突き出ている。
「戦車……」
禍々《まがまが》しい迫力をもって、その鋼鉄の塊……、戦車は鎮座していた。昔の電車のように、分厚く塗られたグレーのペンキが、年代を予想させた。
車体には白と黒で、十字のマークが描かれている。砲塔には、白い文字で『324』とマークが入っていた。
「ドイツのタイガー戦車だ」
子供の頃《ころ》、たくさん作ったプラモデルのうちの一つ……、その姿形を思い出し、才人は眩《つぶや》いた。見まごうはずもない。映画で見るハリボテとは違い、実物の戦車は圧倒的だった。硬く、大きく、そして重い。ゼロ戦が兵器ながらも飛行機ならではの華奮《きやしや》さを感じさせるのに対し、この戦車の迫力は、これがまさに破壊のための存在であることを深く匂《にお》わせる。
才人は手を触れてみた。冷たい、鋼鉄の地肌が才人の手のひらをさす。暗がりに、左手の印が光った。
この戦車は生きてる、そう直感した。
「すごいよな。車の上に、大砲を乗っけるなんてね。大きいだけじゃなく、なんて精密にできたカラクリだろう! ぼくたちはこれらを“場違いな工芸品”と呼んでいる。どうだい? 見覚えがあるんじゃないか」
才人《さいと》は除《うな》った。
「お前……」
「ぼくたちはね、このような武器だけじゃなく、過去に何度も、きみのような人間と接触している。そう、何百年も昔からね。だから、きみが何者だか、ぼくはよく知っているよ」
才人は、鼻を鳴らした。
「そうか。まあ、今更隠すことじゃないしな。確かに俺《おれ》は異世界から来た人間だ。でも、それがどうしたっていうんだよ。懐かしいけど、それだけだ。どういうつもりなんだ?」
「きみと、ぼくたちの目的地は同じということだよ。“聖地”には、これらがやってきた理由が隠されてる。そこに行けば、必ず元の世界に戻れる方法も見つかるはずだ。違うかい?」
ジュリオの言葉に、才人は笑った。
「なんだよ、それが本音かよ。言っとくけど、考えを曲げるつもりはない。“虚無”で脅して、相手の土地を取り上げるなんてごめんだぜ。ガリア王の件はともかく、俺はそんなのに付き合ってられないね」
確かに地球のものを見て、懐かしくなる気持ちはある。でも、外国で日本のものを見た程度の感傷に過ぎない。考えを曲げるまでには至らない。
「ほら行こうぜ。せっかくロマリアくんだりまで来たんだから、こんな湿っぽいところじゃなくて、せいぜい観光を楽しませてもらう」
「おいおい、だから勘違いするな。ぼくはそんな話を聞かせてどうこうってつもりはない。ただ、きみにこの“場違いな工芸品”を進呈したくて連れてきたんだ」
「進呈?」
「ああ、二重の意味で、きみはこの“武器”たちの所有者になれる権利を持っている。まずは、これらがきみの世界から来たものだということ。きみの世界のものだから、本来の所有権はきみにある……、強引に言えばね」
ジュリオは人差し指を立てた。
それから、中指を立てて言った。
「もう一つの理由は、さらに大きい。これはもともときみのものなんだよ。ガンダールヴ」
「どういう意味だ?」
「つまり、これはきみの“槍《やり》”ってことさ」
「……槍?」
「そうさ。きみはこの歌を知ってるかい?」
ジュリオは、朗々とした声で、歌い始めた。さすが、聖歌隊の指揮をつとめるだけあって、その歌声はたいしたものだった。
神の左手ガンダールヴ。勇猛果敢《ゆうもうかかん》な神の盾。左に握った大剣と、右に掴《》つかんだ長槍《ちょうそう》で、導きし我を守りきる。
神の石手がヴィンダールヴ。心優しき神の笛。あらゆる獣を操りて、導きし我を運ぶは地海空。
神の頭脳はミョズニトニルン。知恵のかたまり神の本。あらゆる知識を溜《た》め込みて、導きし我に助言を呈す。
そして最後にもう一人……。記すことさえはばかれる。
四人の僕《しもべ》を従えて、我はこの地にやってきた……。
才人《さいと》は頷《うなず》いた。
「ああ、ティファニアが歌っていたな」
「ぼくはヴインダールヴ。ありとあらゆる獣を手懐《てなず》けることができる。ご婦人方もね。いや、こっちは獣ほど扱いはうまくないが……」
「はいはい」
才人はアルビオンでの、ジュリオの竜使いの巧みさを思い出す。竜騎士隊のルネも言っていた。
“あいつは、神官のくせに竜がうまく扱えるんだ”
「で、ミョズニトニルン。あのガリアの怪しい女さ。“魔道具《マジツクアイテム》”を使いこなす。きみも何度か手合わせしたはずだ。底知れない怖さを持ってる! 普通の戦いだったら最強だろうね。ああ、怖い女だ! あんな女はごめんこうむりたいね!」
ジュリオは才人に顔を近づけた。
「そして、きみはガンダールヴ。ありとあらゆる武器を扱うことができる。最後の一人は、ぼくもよく知らない。まあそれは今は関係ない。きみだ。きみ! 歌の文句にあるじゃないか。左手の大剣……、デルフリンガーのことだよ。でもって、右手の長槍《ちようそう》……」
「どう見たってこいつらは槍には見えないぜ」
才人はタイガー戦車を指差して言った。
「ガンダールヴは、左手の剣で主人を守る。そして、余った右手で敵に攻撃をくわえたのさ。当時考えられうる最強の“武器”でね」
「なんだって?」
「強いってことは、“間合い”が遠いってことだ。武器に関していえばね。そう、槍ってのは、剣の間合いより遠い敵を倒すためのもんさ。それが証拠に、剣士は通常、槍兵《そうへい》には勝てない。戦で剣を振り回すバカはいない。みんな銃か槍を持ってるだろ? 剣ってのはデルフリンガーに限らず、普通は“護身用”さ。さてその頃《ころ》……、六千年前、最強の武器は“槍”だった。それだけの話さ。時代と共に、武器も強くなった。さらに遠くの敵を倒すために槍はどんどん長くなり……、ついに“銃”や“大砲”になった。だが……、きみたちはさらに“槍”を進化させたようだな」
ジュリオは、タイガー戦車を叩《たた》きながら言った。
「きみは不思議に思わなかったのか? どうして、きみの世界からやってくるのが“武器”ばかりで、普通のモノがなかったのかを」
「それは、なんつうかサンプルが少なすぎて……」
「まあ、そうだな。さて、始祖ブリミルの魔法は未だに聖地にゲートを開き、たまにこういうプレゼントを贈ってくれる。考えられうる最強の武器……、ガンダールヴの“槍《やり》”をね。だからこれはきみのものだ。|ガンダールヴ《兄弟》」
才人《さいと》は胸が震えるのを感じた。槍ってのは、そういうことか……。ゼロ戦も、あのロケットランチャーも……、始祖ブリミルの魔法によるものだったんだ。
そして、たぶん自分も……。
「まあ、そんなわけできみに進呈するよ。ぼくたちが持っていても、使い方がわからないし……、その上作れないし、壊れても直せない。どんなに強い“槍”だろうが、量産できなきゃ意味はない。なにせ、ぼくたちはこいつに使う弾一つまともに作れないんだ。きみたちの世界は、いやはや! とんでもない技術を持っているね。エルフ以上だな!」
「聖地にゲート?」
「そうさ。ほかに考えられるかい? 聖地には穴がある。たぶん、なんらかの“虚無魔法”が開けた穴だ。きっとね。だから聖地に行けば、きみの帰る方法が見つかると思う。つまり、きみとぼくたちの目的地は同じ。違うかい?」
才人は首を振った。
「……もし帰りたくなったら、俺《おれ》は俺の方法で聖地に向かうよ。お前らはお前らの事情があるんだろうが、俺にとって別にエルフは敵じゃない。危害をくわえてくるやつは別だけどな。まあ、これはありがたく貰《もら》っとくよ。今度の戦いに役に立つかもしれないしな。それに、こういうの好きな人がいるんだ。きっと喜ぶと思う」
ジュリオは首を振りながら、才人の肩に手を回した。
「随分と頑固だな! ま、そんなところがぼくは気に入ってるんだけどな! じゃあ飲みにでも行こうじゃないか。今度はほんとに難しい話はナシだ。綺麗《きれい》な女の子がたくさんいる店を知ってるんだ! せっかくロマリアまで来たんだ。楽しんでってくれよ」
才人は果《あき》れてジュリオを見つめ、歩き出した。
去り際に振り返る。
自分のために用意された鋼鉄の“槍”たちが、出番を待つかのように、暗がりにひっそりと佇《たたず》んでいた。
教皇ヴィットーリオは、朝餐《ちようさん》のあと、礼拝室で一人祈りを捧《ささ》げるのが日課であった。その時間を、“自由時間”とヴィットーリオは呼んでいた。
多忙を極める教皇にとって、唯一の安らぎの時間ともいえる、長い祈りの時間であった。その礼拝堂は、大聖堂の二階に設けられていた。普通の人間はもちろん、立ち入りを許されない。礼拝堂の扉の横には、聖堂騎士が二人立って、祈りを捧げる教皇を守っていた。
コルベールがそのそばへと近づくと、聖堂騎士が聖杖《せいじよう》を構えた。
「何用か」
「おそれおおくも、教皇聖下に御用があって伺いました」
「聖下はただいま礼拝の最中だ」
「ならば、ここで待たせていただきたく存じます」
「約束はおありかな?」
「ありませぬ」
「では、待たれても困る」
聖堂騎士は行け、というように杖《つえ》を振った。それでもコルベールが去らないのを見て、片方の聖堂騎士が、もう片方に耳打ちした。もしや名のあるお方では……、と危惧《きぐ》したのだった。
「お名前を頂戴《ちようだい》したい」
「トリステイン魔法学院教師、ジャン・コルベールと申します」
聖堂騎士は鼻を鳴らした。教師風情が、教皇の祈りを妨げる法はない。
あわや聖堂騎士が杖を抜こうとしたそのとき、通路の向こうから切《き》り撤《そち》えた金髪の女騎士が現れた。ここに来たばかりの頃《ころ》、着込んでいたドレス姿ではなく、動きやすいチュニックの軽装だった。少年のような格好だったが、一応マントは羽織っているので、貴族に見えた。
「アニエス殿」
聖堂騎士はアンリエッタ女王陛下の銃士隊長に、挨拶《あいさつ》を寄越《よこ》した。アニエスも丁重な仕草で、頭を下げる。
「もしや貴殿も、聖下に御用が?」
「はい」と、アニエスは頷《うなず》き、コルベールに視線をずらす。
「どうやら同じ用事のようだな」
「そうだね」
コルベールは深いため息を漏らしながら、ポケットの中の“ルビー”を握り締めた。どうやらアニエスの知り合いのようなので、聖堂騎士たちはそれ以上コルベールを詮索《せんさく》しようとせず、持ち場につく。
三十分も待っていると、扉が開いた。聖堂騎士たちが礼をとる。
ヴィットーリオは、待ち入に気づくと、相好《そうごう》を崩した。
「アニエス殿ではありませんか。いかがなされました?」
アニエスは、まっすぐにヴィットーリオを見つめ、
「聖下に、お尋ねしたい義がございます」
ヴイットーリオは頷《うなず》いた。
「トリステイン銃士隊長のお尋ねでは、時間をさく他《ほか》ありませんね。さて、そちらの方も……」
コルベールは神妙な顔で口を開いた。
「聖下に、お返しせねばいけないものがございます」
「なるほど、どちらも込み入った事情がありそうだ。ここではなんですから、執務室へいらしてください」
執務室にやってきたヴィットーリオは、椅子《いす》に腰掛けると二人を促した。
「まずは、おくつろぎください」
しかしアニエスは腰掛けず、本題を切り出した。
「失礼の段、ひらにお赦《ゆる》しください。聖下は『ヴィットーリア』という女性をご存知ですか? 二十年前、ダングルテールの新教徒たちの村に逃げ込んだ女性のことを……」
ああ、とヴイットーリオは頷いた。
「知っていますよ。母です」
アニエスの顔が歪《ゆが》んだ。珍しく瞳《ひとみ》に涙を浮かべ、アニエスは片膝《かたひざ》をついた。かたやコルベールは顔を蒼白《そうはく》にさせる。
「やはり……、聖下を一目見たときから、気になっておりました。そのお顔立ち……、あまりにもかのヴィットーリアさまに瓜二《うりふた》つ……。聖下、母君の代わりにわたくしの感謝をお受け取りくださいませ。わたくしはあなたの御母君に、この命を救われたのです。卑怯者《ひきょうもの》の陰謀で、わたくしの村が焼き払われた際……、ヴィットーリアさまはわたくしをお庇《かば》いになり、お命を失われたのです」
ヴイットーリオは、笑顔を浮かべた。
「そうですか……、それはよかった。あの人も、最後は人のお役に立ったのですね」
次に膝をついたのは、コルベールだった。
「……聖下。どうかこのわたくしにお裁きをくださいませ」
「なぜです?」
「その女性を……、あなたの御母君を炎で焼いたのは、他ならぬこのわたくしでございますから。まさか、教皇聖下の御母君とは……、なんと運命は残酷でありましょうか。おそらく、神はわたくしを、聖下のお裁きを頂くためにロマリアへと遣わしたのでしょう」
アニエスは、苦しそうな声で言った。
「命令だったのだろう? 罪は貴様にはない。あるとすれば、命令を下した連中だ。そして……、その連中はこのわたしが直々に裁きを下した」
「だが! だが! 行ったのはこのわたしだ! この右手が杖《つえ》を振った! この口が呪文《じゅもん》を唱えた……」
「言うな!」
アニエスはコルベールを睨《にら》みつけた。しかし、コルベールはなおも言葉を続ける。
「ここに、御母君の指輪がございます。これをお受け取りになり、わたくしを罰してくださるよう、お願い申し上げます」
ヴイットーリオはそのルビーを見つめた。その目が見開かれ、それから再び穏やかなそれに戻る。ゆっくりと手を伸ばし、受け取り、ヴイットーリオはそれを指にはめた。
するすると指輪がすぼまり、ぴったりとはまった。
「お礼を申し上げねばなりますまい。わたくしの指に、この“炎のルビー”が戻るのは二十一年ぶりです」
「お礼?」
「そうです。あなたがたはご存知ないかもしれませんが、我々はこのルビーを捜しておりました。それがこのように指に戻った。今日はよき日です。まこと、よき日ではありませんか」
「では聖下……、お裁きを」
頭《ニラべ》を垂れるコルベールに、ヴィットーリオは手を差し伸べた。
「なぜ、あなたに裁きを与えねばならないのですか? 祝福を授けこそすれ、裁きなど与えようはずもありません」
「ですが、聖下、わたくしは聖下の御母君を……」
ヴイットーリオは指輪を見つめて言った。
「あの人は弱い方でした。自分の息子に神より与えられた“力”を恐れるあまり、この指輪を持って逃げ出したのです」
アニエスとコルベールは、まじまじとヴイットーリオを見つめた。その目には、母を殺害した下手人《げしゅにん》に対する怒りの色はまったく浮かんでいない。
深い、狂気にも似た信仰だけが、その目からは発されていた。
「彼女は異端の教えにかぶれ、信仰を誤りました。その上、“運命”からも逃げたのです。あなたの手にかかったのは、神の裁きといえましょう」
「聖下……」
何かを思い出すように、ヴィットーリオは目をつむった。
「……残されたわたくしは、人一倍努力しました。信仰を誤った母を持つ者と後ろ指をさされぬよう、朝も昼も夜も神学に打ち込みました。その甲斐《かい》あって、わたくしは今の地位を許されるほどになったのです」
ヴイットーリオは、コルベールの頭の上に右手を置いた。コルベールは、教皇の峻烈《しゅんれつ》なまでの信仰に畏怖《いふ》を抱いた。人の情までも打ち捨て、神を望むこの若い男に底知れぬ何かを感じた。
「ですから、祝福を授けこそすれ、裁きなど与えようはずもないです。ミスタ・コルベール、あなたに神と始祖の祝福があらんことを」
第七章 世界扉
明後日に教皇即位記念式典を控え、水精霊騎士隊《オンディーヌ》は大聖堂の中庭で“訓練”におおわらわだった。式典に出席するアンリエッタを護衛するため、というのは表向き、アンリエッタと教皇の敵をとっつかまえるために呼ばれたのだと聞き、大はりきりである。
「陛下は、栄えある任務に我らを選んでくださったのだ!」
マリコルヌが叫ぶと、一斉に、おー! と掛け声が飛ぶ。
「教皇の御身を狙《ねら》う悪辣《あくらつ》なガリアの異端どもの陰謀を食い止めろ!」
再び、生徒たちは声を合わせて叫ぶ。
「陰謀を食い止めろ!」
“虚無”の件を除いた計画を、アンリエッタは水精霊騎士隊に説明した。
『教皇が、何者かに狙われている。
今度の式典は、そんなガリアに潜む“異端”の攻撃を誘うものである。
その敵を、ロマリアは総力をあげて捕まえる。
したがって、水精霊騎士隊は、全力でそれを援護すること。
敵は恐ろしい魔道具を使用する。
トリステイン水精霊騎士隊においては、十分に注意してかかるように』
そんなアンリエッタからの命令に、水精霊騎士隊の士気は否応《いやおう》なしに盛り上がっていた。なんといっても魔法学院で得た汚名を返上するチャンスである。その上、この件で手柄をあげれば、故郷に凱旋《がいせん》できる!
しかし……、先月アルビオンでミョズニトニルンと戦い、その実力を知っている隊長のギーシュは気が気ではない。
そんなギーシュは、さっきから落ち着きがなく、指示を出すのも上の空だった。
騎士隊は、大きなゴーレムを相手に戦闘訓練を行っていた。何人かいるライン・メイジにできる限り大きな土ゴーレムを作ってもらい、それを相手に攻撃魔法をぶつけるのである。
「あんなんで、大丈夫かね。サイト」
ギーシュが、心配そうな声で隣に立った才人《さいと》に尋ねた。
目の前の水精霊騎士隊は、大きなゴーレム相手に、攻撃魔法を放ち、やれ当たった外れただの、ぼくの魔法がとどめをさしたいやぼくのだ、と大騒ぎである。接近戦ではそれなりに強くなった水精霊騎士隊《オンデイーヌ》だが、やはりどうにも魔法の才能はそれほどでもない違中だった。
ライン・クラスのゴーレムにさえてこずっている。
人間が相手ならいざ知らず、どんな魔法を使ってくるのかわからないガリアの敵……、ミョズニトニルン相手には通用しないだろう。
「まあ、無理だろうな。でも、手柄をたてたがってるあいつらに見てろとも言えないしな」
冷静に戦力を分析して、才人《さいと》が言った。正直、仲間たちをこんな戦いに巻き込みたくはない。でも、アンリエッタの命令とあらば仕方ない。何せ彼らは、アンリエッタの近衛《このえ》隊なのだ。そして自分も……。
聖地を取り返すことに反対した負い目のようなものもある。もし、ガリアが手を出す気でいるならば……、なんとしてでもこの計画は成功させなくてはいけない。
「まあ、最後は俺《おれ》がなんとかするよ」
才人は、背中に背負ったデルフリンガーと、AK小銃の重みを感じながら言った。護衛任務につくということで、才人たちは特別に聖堂での武装を許されることになったのだ。
どれか銃を持っていたほうがいいな、ということで、才人はロシアのAK小銃を選んだ。こいつが一番頑丈で壊れにくい、と武器に勘の働くデルフリンガーが教えてくれたのだ。
「ぼくも全力をつくす気でいるが……、エルフにあのバカでかい騎士人形。もしかしたら、今度ばかりは生きて帰れないかもしれないな」
ギーシュはせつなげに、空を仰いだ。
昼食の時間になった。たっぷりと汗をかいた騎士隊の少年たちが、どやどやと食堂になだれ込んでくる。先に席について才人たちを待っていたルイズは、その中に才人の姿を見つけ、頬《ほお》を思いっきり膨らませた。
そんな風にぷりぷりしていると、才人が隣に腰掛けた。
「まだ機嫌悪いのかよ」
当たり前じゃない、とルイズは思った。
敵の矢面に立つのはサイトだ。アンリエッタも教皇も、それは十分承知の上のはず。一番危険な任務を押しつけられているくせに、ちっとも嫌がらないサイトが頭にくるのである。
そりゃあ、ガリアの“虚無の担い手”とはいつか決着をつけなきゃいけないけど……。
今の自分だってあまり役には立たない。なにせ、精神力が溜《た》まっていないのだから。
ルイズは、思わず強い調子で言ってしまった。
「ねえ」
「ん?」
「もっと自分を大切にしなさいよ」
ルイズが言うと、才人《さいと》は笑った。
「なによ。なにがおかしいのよ」
「いや……、この前と逆だなって思ってさ」
「え?」
「ほら、アルビオンでお前が捨《す》て駒《ごま》になりそうだったとき……」
ルイズはそのときのことを思い出し、顔を赤らめた。それから強い調子で才人を睨《にら》みつけた。
「ちょっと来なさい」
ルイズは才人の耳をつかむと立ち上がる。
「いでっ! なんだよ!」
食堂を出て、廊下の隅にまで才人を引っ張っていき、そこで強い調子で言い放つ。
「あのねえ! 危険さではあんときと変わらないのよ! いや、もっと危険だわ。わかってる? 敵は虚無の担い手を狂《ねら》ってる……、そのわたしたちが三人集まってるの! きっと本気で来るわ。今までみたいには、きっといかないわ!」
「お前、変わったな」
「はい?」
「いや、昔だったら、姫さまの言うことだったら、なんでも聞いてたくせに」
「真面目に聞いて!」
「はいはい」
「……あんた、自惚《うぬぽ》れてるのよ。きっと、今までがうまくいっていたから、今度も大丈夫、なんて思ってるんだわ。あんただけじゃなく、姫さまも、教皇聖下も……、あんたならなんとかすると思ってる。冗談じゃないわ! ええ、確かにあんたはたいしたものよ。アルビオンで七万を食い止めたし、ガリアではエルフにも打ち勝った。でも……、それはツイていただけだわ。一歩間違えば、わたしたちは屍《しかばね》をさらしていたわ」
「知ってるよ。そんなのは百も承知だ。そんなこた、戦った俺《おれ》が一番よくわかってる」
「だったらどうして安請け合いなんかしたのよ! はっきり言うけど、敵の矢面に立つのはあんたよ! 教皇聖下もティファニアも、言っちゃなんだけど戦いで役に立つとは思えない! ジュリオだって弱くはないわ。でも、所詮《しよせん》は獣を操るヴインダールヴ……。戦いに向いている使い魔ではないわ!」
ルイズは声を落とした。
「……ほんとにわかってるの? いざ戦いになったら、真っ先に狙《ねら》われるのは今まで敵に煮え湯を飲ませてきたあんたなのよ。確かにあんたはガンダールヴ。“神の盾”なんて呼ばれてる。でも……、わたしにとっては、ただの一人の男の子よ。姫さまだろうが、教皇聖下だろうが、盾なんかにはさせないわ」
才人《さいと》は、困ったように頭をかいた。それから、遠くを見つめて言った。
「俺《おれ》は今まで……、向こうの世界にいるときは、なんていうかな、誰《だれ》かのために生きるってことがなかったんだ。想像すらしたことがなかった。でも、こっちに来て、昔の俺は、ああ、そうだったんだなって。そんな風に思った」
「なに言ってるのよ」
「いや、まあ聞けよ。なんでかっていうと、なんでも揃《そろ》ってるからだと思うんだ。自分勝手に生きてても、なんとかなっちまう。わかるだろ? こっちの世界に比べたら、俺の世界にゃなんでもあるからなあ。月は一個だし、魔法はないけどな。まあ、それでうまくいってたんだから、それはそれでいいんだろうけどな」
「サイト!」
「そう。今まで“誰かのために”なんて一度も考えたことがなかった。随分のん気に生きてきたよ。でも、こっちに来て……」
才人はルイズを見つめた。
「なんとなくわかってきたんだよ。誰かのために生きるってことが。だから俺は逃げない。自分一人が危険なら、そりゃ逃げるさ。あほらしい。戦って、なんの得になるってんだ。でも、そうじゃない。危険にさらされているのは、俺の好きな人だ。だから俺は戦う」
ルイズは頬《ほお》を染めた。
でも……、ここで言い負かされるわけにはいかない。
“いつまでもいっしょにいたい”
そう思わせてくれた少年を、つまらない戦いで失いたくない。なんとか説得しようと言葉を探したが、うまく見つからない。
「サイト……」と顔をあげたら、後ろから名前を呼ばれた。
「ルイズ」
振り向くと、アニエスが立って、ルイズを見つめていた。
「陛下がお呼びだ。“始祖の祈祷《きとう》書を持って、すぐに来い」
ルイズは硬い顔になり、そのあとに才人を睨《にら》みつけた。
「ちょっと行ってくるけど、待ってなさいよ。まだ話は終わってないんだからね!」
と言い残し、歩き出したアニエスのあとを追った。
才人《さいと》は、食堂に戻るために歩き出した。ああ言ったものの、そりゃ危険な目にはあいたくない。それが本音である。
午後の訓練はどういったメニューにしようか、などと考えながら歩いていると、息せき切って走ってきたコルベールに出くわした。
「おや、先生、どうしたんですか?」
「できた! できたぞ!」
「何ができたんですか?」
コルベールは興奮しきっている。
「“のーとぱそこん”が動いたぞ!」
「なんですってえ?」
才人は素《す》っ頓狂《とんきよう》な声をあげた。
コルベールに用意された部屋にやってきた才人は、目の前にあったものを見て目を丸くした。そこに転がっていたのは、巨大な黒いバッテリーだった。
「な、なんでこんなものが……」
もしかして、昨日ジュリオに連れられていった武器倉庫にあったんだろうか? だが、まだコルベールには話していない。
しかし、その疑問はすぐに解けた。
「こんなものって……、これは竜の羽衣、あの“ひこうき”についていたものじゃないか」
きょとんとした顔で、コルベールが言った。
「これが?」
才人はまじまじとバッテリーを見つめた。なるほど、よくよく見れば現代のバッテリーに比べたら大きく、そして全体の印象は古臭い。
かたちはほぼ現代の車やバイクに使われているバッテリーと同じなのだが、よく見ると、漢字で『三菱《みつぴし》蓄電池三二型 昭和十八年六月』と書いてある。
ゼロ戦に積んであったものに間違いないだろう。
「もしかして……、これで電源を入れたんですか?」
するとコルベールは首を振った。
「いや……、そうではない。いいかね、きみはこのノートパソコンは“電気”で動く、と言っただろう? しかし、今は切れている。だから、動かない、と」
「はい」
「さて、このノートパソコンのどこに電気の元が入っているのかというと、ここだね?」
コルベールは、ノートパソコンのバッテリーを外して見せた。
「そうです。それが切れてて……、充電しないといけないんですけど。この世界にはコンセントがないっすからね」
「わたしは考えたのだ。きみのいう『ノートパソコン』のバッテリーに電気を供給するためにはどうすればいいのかを」
話すうちにコルベールは興奮してきたらしい。どこの世界も技術者は同じである。成功した自説を語り始めると、夢中になってしまうのである。
「まず、あの“ひこうき”も、電気を使うことに気づいた! それでもって、計測器や照準器、そして“えんじん”の中で揮発した油を爆発させているのだ。そして、“ひこうき”で使う電気は、この箱の中につまっておる」
「なるほど!」
才人《さいと》も興奮して、拳《こぶし》を握り締めた。
「で、“ひこうき”には、きちんとこの箱に電気を供給する装置がついておる! それが回転することにより、電気を作り出し、この箱に供給され、ひこうきに命を吹き込むのだ!」
「じゃあ、ゼロ戦の発電機を繋《つな》げたんですね! すげえ!」
「いや、それは無理だ」
あっけなく、コルベールは首を振った。
「へ?」
「なんというかな、同じ電気でも、こののーとぱそこんを動かす電気と、ひこうきを動かす電気は違うのだ。こっちの方は、より複雑な電気を必要とするようだ。ひこうきの装置と電気箱を使おうとしたわたしの目論見《もくろみ》はもろくも崩れ去った」
「……え? じゃあ、どうやって」
コルベールはにやっと笑った。
「魔法だ」
「魔法?」
「要は、こののーとぱそこんについているこの電気を溜《た》める箱が、電気を発生するようにしてやればよいのだ。そこに気づいたわたしは、“ひこうき”のバッテリーを調べた。電気が流れない状態と、流れる状態を比較し、中の成分を調べた。そして……、その研究成果を応用したのだ」
「つまり……」
「そうだ! “錬金”だ! わたしは“錬金”で、こののーとぱそこんの電気が切れた箱を、電気が流れる状態にしてやったのだ!」
「先生! すごいです!」
才人《さいと》は感動して、コルベールに抱きついた。
「あっはっは! で、サイトくん」
「はい?」
「で、電気を用意したはいいが、こののーとぱそこんは、どこをどうすれば動くのかね?」
教皇の執務室の前まで来ると、ルイズは扉を叩《たた》いた。
「どうぞ」と教皇の声がする。扉を開けると、椅子《いす》に腰掛けたヴィットーリオとジュリオ、そしてアンリエッタの姿があった。
部屋の隅には、緊張して佇《たたず》むティファニアの姿もあった。
「やあ、お待ちしておりました」
ヴイットーリオが立ち上がり、ルイズに手を差し伸べた。その手に光る指輪を見て、ルイズの目が見開かれる。
愛《いと》しそうにヴィットーリオは指輪を撫《な》でた。
「そうです。先日、わたくしの指に戻ったばかりの“四の指輪”の一つです」
「で、わたくしに用事とは……」
「“始祖の祈祷《きとう》書”を拝見させていただきたいのです」
ルイズはアンリエッタを見つめた。大きく、アンリエッタは頷《うなず》いた。
「始祖の秘宝は、新たな呪文《じゅもん》を目覚めさせることができる。わたくしはかつて、このロマリアに伝わる“火のルビー”と秘宝を用いて、呪文に目覚めたのです」
「どのような呪文ですか?」
ルイズは尋ねた。それは、今度の戦いに役に立つようなものなのだろうか?
「戦いに使用できるような呪文ではありませぬ。“遠見”の魔法をご存知ですか?」
「はい」
“風”系統の呪文だ。遼くの様子を見たり、映し出したりすることができる。オスマン氏の部屋に置いてある“遠見の鏡”などは、その魔法を利用したマジック・アイテムである。
“遠見”は便利な呪文だが、戦いに直接役立つ呪文ではない。
「わたくしの使える呪文は、それと似た呪文です。ただ、映し出す光景は違いますが……。ハルケギニアの光景ではないのです」
ルイズはちょっとがっかりした。敵の行動が逐一映し出せるならともかく、それすらもできないとなれば、無用の長物である。
がっかりしたような表情のルイズを諭すように、ヴィットーリオは言葉を続けた。
「“虚無”の中にもそれぞれ系統があるのです。四系統のようにはっきりとはしていませんが……。おおまかな系統というものが存在するようだ。わたくしはどうやら“移動”系のようです。使い魔もそうだし、呪文《じゅもん》もそう。あなたが、“攻撃”を司るようにね」
「では、ティファニアは? ガリアの担い手は?」
「未だはっきりとはしていません。ただ、占うことはできる。それを今から行うのです。さて、ではアンリエッタ女王陛下……」
アンリエッタは頷《うなず》くと、はめた指輪を外した。
風のルビーだ。
実に数奇な運命を辿《たど》った指輪だった。アルビオン王家、ウェールズ、そして才人《さいと》の手からアンリエッタへ……、と何度も持ち主を変えた“風”を、アンリエッタは部屋の隅にかしこまるティファニアに差し出した。
「ア、アンリエッタさま?」
「お受け取りくださいまし」
「で、でも……」
ティファニアは、顔を赤らめて恐縮する。アンリエッタは、ティファニアの手を取った。
「この指輪は、もともとアルビオン王家に伝わるもの……。その血筋があなたを除いて絶えた今となっては、あなたの指におさまるのが道理。その上、あなたは担い手ではありませんか」
ティファニアは、されるがままに、風のルビーを指へとはめた。ティファニアの白い、美しい指に、その風のルビーはよく似合った。
さて、とヴィットーリオはルイズの方を向いた。
「“始祖の秘宝”は宝の詰まった小箱のようなものです。それぞれに詰められた“宝《魔法》”は違う。そして、指輪は……、その小箱を開く鍵《かぎ》のようなもの。テイファニア嬢は、どんな宝を見つけだすのでしょうか。“始祖の祈祷《きとう》書”をティファニア嬢に見せてあげてください」
ルイズはいつかデルフリンガーが言っていた言葉を思い出した。
“必要があれば読める”
自分だけではなく、他《ほか》の“担い手”にとってもそうなのだろうか? ルイズの心に浮かんだ疑問に、ヴィットーリオが答えてくれた。
「“秘宝”は“四の担い手”を選びません。我らはそういう意味でも、兄弟なのです」
すると、ティファニアは、何か新たな呪文《じゅもん》に目覚めるのだろうか?
かつて、自分がそうやって新たな呪文を得てきたように……。
ルイズは、ティファニアに始祖の祈梼《きとう》書を差し出した。ティファニアは唇を噛《か》み締《し》めると、それを受け取った。
勇気を振り絞るようにティファニアは深呼吸した。大きすぎる胸が、上下に動く。それから、意を決したようにティファニアは目を開いた。己の運命を、毅然《きぜん》と受け入れるかのように……。
ゆっくりとティファニアはページを開く。
一枚、一枚、ティファニアはページをめくっていった。
「何か、文字のようなものは見えますか?」
ティファニアは首を振った。
「いえ……、何も」
「まだその“時期”にいたっていないようですね」
ティファニアはほっと安堵《あんど》のため息を漏らす。
「では、次はわたくしの番です」
ヴィットーリオは、ティファニアから“始祖の祈祷書”を受け取ると、なんのためらいも見せずに開いた。
すると……、今度は始祖の祈祷書のページが光り輝く。
眩《まばゆ》いその光に照らされたヴィットーリオは、まるで古代の聖者のような威厳を辺りに振りまいた。ジュリオが、敬虔《けいけん》な面持ちを浮かべ、床に膝《ひざ》をつく。
「聖下……、おお、聖下……」
アンリエッタが、その光に心打たれたように呟《つぶや》く。
ルイズも、声を失い、その光景に見入った。
自分以外の担い手が、“虚無”を会得する瞬間に立ち会っているのだ。
教皇ヴィットーリオの二番目の“虚無”。
光の中、ヴィットーリオは現れた文字を読みあげた。
「中級の中の上。“世界扉《ワールド・ドア》”」
才人《さいと》が電源スイッチを入れると、ブゥーン、と音がして、ノートパソコンが動き始める。
画面に現れた文字を見て、コルベールは息をのんだ。
「なんと細かく、美しく映るんだろう……」
「今、立ち上がりますよ」
才人《さいと》も、一年ぶりに見る画面に心を躍らせる。OSのロゴが浮き上がり……、デスクトップ画面が現れた。
「よかった。壊れてないみたいだな」
キラキラ光る画面を、コルベールは子供のように見守った。
「で、サイトくん」
「はい」
「これは何ができるのかね?」
「うーん……」
才人は悩んだ。それを説明するのは難しい。
「例えば、インターネットとか……」
「それはきみが言っていた、いろんなところと繋《つな》がって情報を取り出せる、というやつだな?」
「ええ」
「それをぜひ見せてくれないか?」
「いいっすけど、繋がらないと思いますよ?」
才人は言った。こっちは異世界だ。繋がるわけがない。
「まあ、ものは試しだ。やってみせてくれんかね?」
わかりました、と頷《うなず》いて、才人は接続のためのアプリケーションを開いた。
教皇の執務室には、“詠唱”の声が朗々と響いた。
ユル・イル・ナウシズ・ゲーボ・シル・マリ……。
ルイズは、その様子を呆然《ぽうぜん》として見守る。
先ほどの、呪文《じゅもん》の名称が、頭の中でぐるぐると回る。
〃世界扉”
それって……、それって、もしかして。
もしかして……。
ハガス・エオルー・ペオース……。
教皇は途中で詠唱を打ち切った。虚無の威力は詠唱の時間に比例する。そして、使う精神力もそれに応じて消耗するのだ。
そして……、宙の一点を狙《ねら》うかのように、杖《つえ》を振り下ろす。
初めに見えたのは……、豆粒ほどの小さな点だった。
水晶のようにキラキラ光る小さな粒が、空中に浮かんでいる……、そんな風に見えた。
徐々にその点は大きくなり、手鏡ほどの大きさに膨らむ。
「鏡……?」
それは鏡のように見えた。だが……、鏡ではない。映っているのは、見たこともない光景だ。高い、塔がいくつも立ち並ぶ……、異国の風景だ。
「これは……」
ルイズは眩《つぶや》く。
ハルケギニアの風景ではない。
まさか……、これは……。
呪文《じゅもん》の名前が、蘇《よみがえ》る。
“世界扉”
「この光景は……、まさか……」
ヴイットーリオが、満足げに頷《うなず》く。
「そうです。別の世界です。あなたたちの飛行機械がやってきた世界……、我々の前に幾度となく現れた“場違いな工芸品”の故郷です」
「これが……、才人《さいと》の故郷」
ルイズは、初めて見る才人の故郷に目が釘付《くぎづ》けになった。立ち並ぶ塔……、こんなにたくさんの塔が並んでいる都市など、ルイズは見たことがない。
いや、ただの塔じゃない。その太さは均一で、こうして見たところ、その高さはハルケギニアの城などとは比べものにならない。
洗練された技術をうかがわせる壁……、たくさんのガラスがキラキラと光る窓……。魔法では到底不可能な、芸術品のような塔だ。
そんなのが、いくつも並んでいるのだ。
ティファニアも、目を丸くしてそんな光景に見入っている。アンリエッタは、不安げに見つめていた。ジュリオは、そんなルイズたちを満足げに眺めている。
ヴイットーリオは言葉を続けた。
「わたくしが以前使えた呪文は、ただこの“世界”を映し出すものに過ぎませんでした。だが、今度の呪文“世界扉《ワールド・ドア》”は違う。この呪文は実際に、そちらの世界に穴を開けるのです」
そのうちに効果が切れたのか……、水晶の球は掻《か》き消《き》える。効果時間はわずか十数秒……。それだけ、魔力を消耗する呪文《じゅもん》なのだろう。なにせ、異世界に扉を開くのだから……。
ルイズは駆け出した。
「おい、ルイズ。どこに行くんだい?」
その背にジュリオが声をかける。
「決まってるじゃない! サイトに教えてあげるのよ! 帰る方法が見つかったって!」
「おいおい! そんなことをされたら困るよ」
ジュリオは、笑みを浮かべて言った。
「どういう意味よ」
「ぼくは、彼にそっちの世界から来たものを見せて、こう言ったんだ。『聖地に向かえば帰る方法が見つかるかもしれない』ってね。この魔法を見せたら、彼が聖地へ向かう唯一の目的がなくなってしまうじゃないか」
「そんな!」
「問題はそれだけではありません」
ヴイットーリオも口を開いた。
「この“世界扉”は、かなり精神力を消耗する呪文のようです。今はためしに、小さな扉を開いてみましたが……、これ以上大きな扉、そう、彼一人がくぐれるほどの大きさを作ろうとしたら、わたくしは精神力をすべて使いきってしまうでしょう。わたくしの“虚無”は、ハルケギニアのために使わねばなりません。使い道が見つかるまで、温存せねばいけないのです。彼を帰す、そのためだけに呪文は使えません」
「でも! でも!」
ルイズはヴィットーリオに詰め寄った。
ジュリオは、両手を広げて言った。
「それにルイズ。彼が帰ってしまって、ほんとうにいいのかい?」
「……え?」
「きみも困るんじゃないのか? 彼が、『帰る』なんて言い始めたら……」
ルイズははっとした。
「ねえルイズ。きみは、彼と別れることができるのかい?」
「それは……、それは……」
ルイズは小さく震え始めた。
いざ、そうなってみてルイズは理解した。
自分が……、才人《さいと》と離れられるわけがないことに。才人が死んだと思ったとき……、自分はどうしようとした? 火の塔から飛び降りようとしたじゃないの。
そんな自分が……、生き別れなんて選択できるの?
二度と会えない。
そんな状態に耐えられるの?
思えば、以前までの自分は甘かった。
帰る方法を捜してあげる……、何度も口にしたその言葉の意味を、自分は深く考えたことがあるの?
現実に、才人《さいと》が帰る方法が見つかった今……、震えているじゃないか。
才人が婦ってしまう可能性を、自分は本気で怖がっている!
蒼白《そうはく》になったルイズに、ヴィットーリオが言葉をかけた。
「人生は、選択の連続です。ミス・ヴァリエール。個人の愛を貫くのも正解。彼の幸せを願うのもまた正解……。どちらが間違いということはありません。かつてわたくしも選びました。信仰と情を天秤《てんびん》にかけたのです。その片方を選んだから、今のわたくしがあります」
アンリエッタも苦しそうな声で、ルイズに告げた。
「ルイズ……。何かを選ぶということは、何かを捨てるということなのです。サイト殿を帰さねばいけない。それも人として立派な考えです。ええ、彼はこちらの世界の人閲ではないのですから。でも……、己の愛のために人の良心を捨てることも、また一つの正義だと思います。“帰さねばいけない”そんな良心を捨てたからといって、恥じる必要はありませんよ」
アンリエッタは言葉を続けた。
「いいこと? しかも、今回救われるのは、あなたの“想い”だけではないのです。ハルケギニアの未来も救われるのです。わたくしたちの理想には、彼の力が必要なのですから……。慎重に考えて結論を下してください。ルイズ」
「サイトくん……」
コルベールは、呆然《ぼうぜん》と目を見開く才人に言葉をかけた。
しかし、返事はない。
才人の目は、ノートパソコンに釘付《くぎづ》けになっている。
そこには……、ネットに繋《つな》がったブラウザが開いていた。
繋がった。
どうして?
繋《つな》がるなんて、思ってなかった。
才人《さいと》の指は、カーソルのタッチパネルの上を動いた。
WEBメールのアドレスを探し出し、クリックする。
数秒の読み込みの時間があって、次々とメールが流れ込んできた。
ダイレクトメールがあった。友人からのメールがあった。
でも、一番多かったのは……、母からのメールだった。
何個もあった。
毎日二通も三通も、メールは届いていた。
最後のメールを開いた。
才人へ。
あなたがいなくなってから一年以上が過ぎました。
今、どこにいるのですか?
いろんな人に頼んで、捜していますが、見つかりません。
もしかしたら、メールを受け取れるかもしれないと思い、料金を払い続けています。
今日はあなたの好きなハンバーグを作りました。
タマネギを刻んでいるうちに、なんだか泣けてしまいました。
生きていますか?
それだけを心配しています。
他《ほか》は何もいりません。
あなたが何をしていようが、かまいません。
ただ、顔を見せてください。
次々にメールを開いていく。
文面はほとんど変わらない。
いなくなった才人を案じるメールが、たくさん並んでいる。
そのうちに接続は切れた。
開いた、大量のメールが、才人の目の前にあった。
ぽたりと、画面に涙が垂れる。
「サイトくん、それは……」
「メールです」
「メール?」
「手紙です。母からの」
コルベールは息をのんだ。それ以上、かける言葉が見つからず、コルベールはそっと部屋を出た。
教皇の執務室を飛び出したルイズは、走り出した。
才人《さいと》に会いたい。
結局、ルイズは折れた。
機を見て話す、ということで話はまとまった。
でも……、それは自分にとって都合のいい選択じゃないのか?
世界のため……、と言いながら、結局は自分のためじゃないのか?
そんな自分だからこそ、抱きしめて欲しかった。
情けないからこそ、存在を認めて欲しかった。
食堂に戻っても、才人はいなかった。水精霊騎士隊《オンデイース》の連中に聞くと、コルベール先生とどっかに行ったよ、と答えが返ってくる。
コルベールの居室に向かうと、ドアのところにコルベールが腕を組んで立っている。ルイズが近づくと、コルベールはすっと押しとどめた。
「先生、サイトは……」
尋ねると、コルベールは口の前に指を立ててみせた。
そして、ドアの隙間《すきま》から、こっそり中の様子をうかがわせてくれた。
「……サイト?」
才人は、机の前で身体《からだ》をかがめていた。机の上には何かある。ルイズはその妙な機械に見覚えがあった。才人がここに来たとき、自分に見せてくれた機械だ。
才人の肩が、微妙に上下している。
泣いているのだ。
「先生、いったい何が……?」
小声で尋ねると、コルベールは困ったような声でルイズに説明した。
「あれは……、サイトくんが自分の世界から持ってきた機械らしいんだが……、それにどうしたわけか手紙が届いたんだ」
「……手紙?」
あの機械は、どうやらそういう機械らしい。
「……誰《だれ》からの手紙ですか?」
「母君らしい。なんとも、可哀想《かわいそう》なことだ」
ルイズは、頭を殴られたようなショックを受けた。
才人《さいと》……、言ってたじゃない。
家族はいないって。
「でも……」
言いかけて、ルイズはすぐに気づいた。
才人は嘘《うそ》をついたんだ。
自分に、家族はいないって嘘をついたんだ。
どうして?
決まってる。
わたしに負担をかけまいとしたんだ……。
呆然《ぽうぜん》と、ルイズは立ち尽くした。
すると、ルイズの目からもボロボロ涙がこぼれてきた。
才人は、そうやってわたしに嘘をついてまで、気をつかってくれたのに……。わたしは今、何をしようとしたのだろう。
本当のことを言えない罪悪感を癒《いや》しに、その本人に抱きしめてもらいに来た……。
「わたし……、なんて卑怯《ひきょう》なのかしら」
小さく、押し殺した声でルイズは岐《つぶや》いた。
「ミス・ヴァリエール?」
当惑した声でコルベールが尋ねたが、ルイズの耳にはもう届かない。さっき、才人《さいと》は言っていた。
“なんとなくわかってきたんだよ。誰《だれ》かのために生きるってことが”
だから才人は……、自分に嘘《うそ》をついたのだ。自分のことを、大事に考えていてくれているから……。
それなのに、自分は才人のことをきちんと考えたことがあるのだろうか。
現に今もただ、自分が慰めて欲しいだけでここに来た――――――――――。
ルイズは駆け出した。
「あ、おい、ミス・ヴァリエール」
コルベールが呼び止めたが、ルイズは振り返らずに走り去った。
自室に飛び込んだルイズは、ベッドにうつぶせになった。
天井を仰いで、考える。
“わたしが……、すべきことはなんだろう”
自分のことを、一生懸命に考えてくれる男の子のために、わたしができることはなんだろう。
ずっと……、ルイズは考え続けた。
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第八章 笑顔の意味
才人《さいと》はコルベールの部屋で目を覚ました。テーブルに突っ伏した自分に毛布がかけられている。ベッドで寝息を立てているコルベールがかけてくれたんだろう。
いつしか寝てしまったらしい。窓からは朝の光が差し込んでいる。
ああ、昨日は泣きつかれて寝ちまったんだ、と思いながら、才人はノートパソコンの画面を見つめた。電源はとっくに切れていた。
もう一度コルベールに頼んで、電源を供給してもらおうかと思ったけど、やめた。
思い出せるぐらいに、暗記していたし……、見たところでどうしようもない。
窓から眺める空を見つめた。
この世界は……、どっかで地球と繋《つな》がっている。
いったい何がどうしていきなり繋がったんだろうか?
ま、戦車や飛行機がやってこれるんだから、電波なんか楽勝だよな。
ああ、とにかくほんとに繋がってるんだなあ、とぼんやりした頭で考えた。
そして、俺《おれ》って弱いな、と思った。
仲間ができたらできたで、こっちの世界に残っててもいいや、なんてすぐ思うし、メールを見たら地球に帰りたくなる。
というか弱いというより単純じゃないのか。
ま、無理ねえよな、あんなメール読んじまったらなあ、と思いながら才人はノートパソコンを置いたまま、コルベールの部屋を出た。
廊下をとぼとぼ歩きながら、才人は参ったな、と眩《つぶや》いた。
明日は、いよいよ教皇の即位三周年記念式典だっつうのに……、こんな気分でうまくやれるんだろうか。
とにかく、昨日のことはルイズには内緒にしておこう。
また、自分の所為《せい》にして落ち込むだろうし。
まずは目先の問題を考えようと、才人は前向きに考えた。
よし、せめて落ち込んだ顔は見せないようにしようと、無理にはりきりながら自分たちの居室を開けた。
「やあルイズ。いや、帰らなくってごめん。コルベール先生の部屋で飲んでたらつぶれちゃってさ……」
ルイズは、椅子《いす》に座って手鏡を覗《のぞ》いていた。朝帰りの才人を叱《しか》るわけでもなく、にっこりと簗って挨拶《あいさつ》を寄越《よこ》した。
「おはよう」
ルイズがいきなり笑顔を見せたことにも驚いたが、
「なに……? お前のその格好……」
「あ、これ? 昨日、街に出て買ってきたの」
ルイズの格好は、いつもの魔法学院の制服ではなく、可愛《かわい》らしい感じのブラウスに、短い紺色のシックなスカート姿だった。襟元には、赤いタイリボンが躍っている。
「なんで?」
才人《さいと》は、唖然《あぜん》として、尋ねた。よりによって今日という日に、ロマリアの大聖堂でお酒落《しゃれ》をする意味がわからない。
「ああ、明日の式典に出席するためか。でも、そんなんで式に出ていいんか?」
するとルイズは、コロコロと笑った。
「違うわよ。あんたといっしょに街を歩きたくて、買ったの」
「俺《おれ》と? どうして?」
「街でお祭りをやってるそうよ。ほら、教皇聖下の即位三周年記念で。貴族には貴族のお祭り。街には街のお祭りがあるの。で、わたしは、あんたとお祭りに行きたいの」
「でも、明日は……、やっぱ備えて訓練しとかなきゃなーって」
「いいじゃない。というか今更訓練なんかしたって、あんまり意味ないわよ。それに、たまには骨休みも大事よ」
ルイズは無邪気な仕草で、才人の腕を握った。
「ね、行こ?」
結局、なんだか妙に可愛らしいルイズの態度に引きずられるかたちで、才人は街へと出た。ルイズはぴとっと才人に寄り添い、腕を絡ませてきた。なんだ? どうしたんだ? とルイズを見ると、にこ〜〜〜、とルイズは笑みを浮かべた。
さすがに悪い予感がして、才人はルイズに尋ねた。
「なあルイズ」
「ん?」
「お前、何をたくらんでる」
するとルイズは、きゃははは、と笑った。
きゃはは? ルイズがきゃはは? 才人が頭の中をクエスチョンマークで満たしていると、ルイズはぐいっと才人に身体《からだ》を押しつけてきた。
「何にもたくらんでないよ」
「うそ!」
「嘘《うそ》じゃないって。ほんとにほんと。今日はいっしょにサイトと街を歩くの。そう決めたの」
にっこりと、何の邪気も感じられない笑み。こりゃ何かある、何かある、と思っていると、ルイズは指を立てた。
「あ、あとね! 今日はなんでも言うこと聞いちゃう」
「はぁ?」
「ほんとにほんとよ? だから、遠慮しないでなんでも言ってね」
にっこりと、首をかしげる。才人《さいと》はますます怪しくなり、試すためにこう言ってみた。
「じゃあ、パンツを見せろ」
当然、蹴《け》りが飛んでくるものと思い、咄嵯《とつさ》に才人は身を屈めた。
しかし、蹴りも拳《こぶし》も魔法も飛んでこない。ルイズは顔を赤らめると、素直にスカートを持ち上げてみせたのである。
「はい」
久しぶりに見る、レースのついたルイズの下着であった。
怒らない……。
というかここは街中……。通行人が来たので、才人は慌てて手を振った。
「わ! 見られるだろ!」
ルイズも頬《ほお》を染めて、慌ててスカートを下ろす。
怪しすぎる。
これはほんとにルイズなんだろうか?
誰《だれ》か化けてるんじゃないのか?
そう、例えば、ミョズニトニルンの魔道具とか……。
才人はこほん、と咳《せき》をすると、緊張しきって、次の言葉を口にした。
「じゃ、じゃあ、胸を触らせろ」
「いいわよ」
あっさりとルイズは頷《うなず》いた。笑顔のままで。
「じや,じゃあ触るぞ……」
才人はごくりと唾《つば》を飲み込みながら、ルイズの薄い胸に手を伸ばした。さわさわ……。
薄くも、微妙な膨らみが才人の手のひらを刺激する。
見ると、ルイズは頬を染めつつも笑顔である。なんとも幸せそうな顔である。才人は震えながら爆弾を口にした。ほんとにルイズかどうか、試さなくちゃいけない……。
「こ、これが胸?」
「うん。そうだよ」
笑顔で肯定。
絶対これはルイズじゃない! 別の何かだ!
「あっはっは、少し、ティファニアの垢《あか》でも煎《せん》じて飲めよ」
「いいの。わたしはこれで」
才人《さいと》は飛びのくと、身構えた。
「お前、何者だ!」
「だから、わたしはわたし。信じてよ」
「なんで怒らないんだよ!」
「だって、その、えっと……」
ルイズは何か言いにくそうに口ごもると、何かに気づいたように顔をあげた。
「そう! ほら、明日はいよいよ戦いじゃない? 怖いミョズニトニルンを相手にしなきゃいけないじゃない? だから、そのなんていうの? ご褒美! そうご褒美なのよ!」
楽しげに、ルイズは言った。
「お前、あれほど反対してたくせに……」
結局、ルイズは考えを変えたようだ。ま、こいつにとって貴族のプライドと姫さまは絶対だからなー、と才人は納得した。
「もっと触る?」
「いい! いいよ! 信じる! 信じるから!」
「ありがとう」
またまた、ルイズはにっこりと笑うのであった。ま、そういうことなら俺《おれ》も楽しもう、と才人は思った。こんな風にのんびりできることは、そう滅多《めつた》にない。それに、明日は命を落とすかもしれない。ま、何がなんでも生き残るつもりだが……。
明日に教皇就任式典を控えたロマリアの街は、前夜祭で盛り上がっていた。とはいっても、トリスタニアのように街中がお祭り騒ぎになるわけではない。
露店や出し物を出せる通りがあって、そこだけが盛り上がっている感じであった。ロマリアはそれでも、各地から巡礼の旅人がやってくる土地である。巡礼に来た商人たちは、ついでにいろんな品々を運んでくる。したがって、様々な品が並んでいた。
ルイズは綺麗《きれい》な服が並べられている露店に釘付《くぎづ》けになった。一生懸命、何かを選んでいる。
「なんだよ。スカーフでも欲しいのか? 買うんなら、もっといいの買ってやるよ」
才人《さいと》が言ったら、ルイズは首を振った。そして、地味な色の一枚を取ると、それを買い求めた。
「……お前、そんな色のスカーフなんかどうすんだよ」
女の子に似合う色とは思えない。黒地に、格子模様が描かれたスカーフ。だが、ルイズはそれを才人の首に巻いた。
「あんたの黒髪に、似合ってるわ」
「お、俺《おれ》に買ってくれたのか?」
「うん」
ルイズはにっこりと笑う。
「お前、まさか、また惚《ほ》れ薬でも飲んだんじゃないだろうな?」
「違うわよ。いいじゃない。気にしないでよ。だからご褒美よ」
なるほどこれもご褒美か、と才人は眩《つぶや》いた。
とりあえず今日は付き合ってやろう、と才人は思った。
才人とルイズは、ぶらぶらと通りを歩いた。この日ばかりは、神官たちも羽目を外していいらしい。酒を飲み、肩を組んで軍歌なんか歌っている。
来たときは堅苦しい印象を受けたが、こうして見るとハルケギニアの各都市とあまり変わらない。通りの真ん中に、笛や太鼓を持ち出して踊っている一団がいた。
ルイズは才人を引っ張って、中へと連れて行った。
「踊りましょう」
陽気なリズムの曲に合わせて、ルイズと才人は踊った。楽しそうに、ルイズは踊った。才人もつられて、ルイズに合わせてステップを踏んだ。
踊りつかれた二人は、通りに先日の酒場があるのを見つけた。聖堂騎士たちに追われたときに、立てこもった酒場である。
その店に入ってみると、テーブルがすべてピカピカの高級品に変わっていた。キュルケから巻き上げた修理代で新調したらしい。窓ガラスも、ステンドグラス入りに変わっている。
まるで違う店のように上等になっているではないか。
店主も上等な服を着てグラスを磨いていたので、二人は顔を見合わせて笑いあった。
中に入ると、店主はルイズと才人に気づき、気まずそうに顔を背《そむ》けた。
「この間はお騒がせしました」と、才人《さいと》がにやにや笑いながら言うと、店主は、無言で才人たちの煎に次々料理を運んできた。
そして、こっそりと才人に耳打ちする。
「また、来年も頼む」
ルイズと才人は、そこでも笑いあうのだった。
料理が運ばれてくると、ルイズは皿のスープをすくい、才人に突き出した。
「え?」
「あ、あーん」
ルイズのあーんは初めてで、才人は面食らう。ご褒美にしてはすごすぎる。いくらなんでも。
「お前、ほんとのほんとに、どうしたの? 怒らないから言ってみ? あれだろ、ゼロ戦でもぶっ壊したんだろ。で、俺《おれ》の機嫌をとろうとだな……」
「違うの。今日はわたし、可愛《かわい》いの。あんたに、可愛いわたしをたくさん見て欲しいの。ほんとにそれだけ」
才人はフラフラと口を開けた。ルイズは嬉《うれ》しそうに微笑《ほほえ》んだ。
再び外に出ると、ルイズは才人を見上げ、“そこのコップ取って”ぐらいの気安さで、
「ね、キスして」と言った。
「え? ここで?」
と、驚いて言ったら、頬《ほお》を染めて、なるべく人のいないところで、と言った。その唐突さにしどろもどろになっていると、ルイズは才人にぴとっと身体《からだ》を密着させ、手近な路地へと才人を押し込んだ。
そして、才人の顔をつかむと爪先立《つまさきだ》ちになって唇を重ねてくる。そのまま、激しくルイズは才人に唇を押しつけてきた。
しばらく唇を重ねたあと……、ルイズは顔を離し、またにっこりと、とびっきりの笑顔を見せた。
笑顔の理由がわからぬまま、才人も曖昧《あいまい》に笑みを浮かべた。
歩きながらも、ルイズが時折自分を見つめていることに才人は気づいた。才人がルイズの方を向くたびに、ルイズは微笑むのだ。そんなルイズが愛《いと》しく、また二人で歩くことが楽しく……、才人はこんな女の子を守るためなら、自分はどうなってもいい、と思えるのだった。
ただ、時々才人は母のメールを恩い出し、胸を痛めた。
「どうしたの?」
「なんでもない。なんでもないよ」
そのたびに才人《さいと》は無理に笑顔をつくって、首を娠るのだった。
散々遊んだ二人は夕方に大聖堂の自分たちの部屋へと帰ってきた。結局、言われるままに夕方まで付き合ってしまった。さて、冷静になって考えてみると、やっぱりおかしい。いくらご褒美とはいっても……、今日のルイズはおかしすぎる。
「つかれたでしょ。水飲む?」
ルイズは、水差しからコップに水を注《つ》ぐと、才人に渡した。それを一息で飲み干し、才人はルイズに尋ねた。
「なあルイズ」
「ん?」
「……お前、今日なんであんなに俺《おれ》に笑顔を見せたんだ?」
「だめ?」
また、ルイズはにっこりと笑った。
「おかしいよ! お前、俺と一年もいっしょにいたのに、二回しか笑顔を見せてねえんだぞ! それなのに、今日は七十二回も笑いやがった! おかしいよ!」
「数えててくれたのね。すごく嬉《うれ》しい。ありがとう」
ルイズは、また、にこっと笑った。天使のように、可愛《かわい》い笑みだった。
「だから、一生分、笑ったの」
「はい?」
「一年に二回。あんたとこれから、ずっといっしょにいたとして、三十年。いや、四十年かな? 五十年だったらいいわね……。そのときに見せるであろう、わたしの笑顔の回数」
「なに言ってるんだ?」
「わたしね、もう、一生笑わない」
笑いながら、ルイズはついっと涙を流した。
「ルイズ?」
「一生、誰《だれ》も愛さない。でもあんたはだめ。誰かを好きになって、わたしにしてくれたみたいに、その子を守ってあげて。あんたの世界で……」
涙の粒は、一筋|頬《ほお》を伝い、ルイズのかたちのいい顎《あご》のかたちをなぞった。
「え? え? ええ?」
そう咬《つぶや》いたとき、不意に眠気が走った。
「あれ?」
魔法だ、と気づいたときは、すでに遅かった。
「ルイズ……、お前……。さっきの水に……」
倒れそうになった才人《さいと》をルイズは抱きしめた。その顔を優しく両手で包み、唇を重ねる。
才人の身体《からだ》から、力が抜けていく……。
さっきの水には、才人の言ったとおり、眠りの魔法薬《ポーシヨン》が仕込んであったのだ。
才人を優しく抱きしめながら、ルイズは眩《つぶや》いた。
「さよなら……、わたしの優しい人。さよなら、わたしの騎士《シユヴアリエ》」
ひっく、とルイズは鳴咽《おえつ》を漏らした。
どれほどルイズは才人を抱きしめていただろうか。ゆっくりと才人をベッドに横たえ、しばらく身を寄せたあと、ルイズは立ち上がる。
「……いいわ」
そう告げると、後ろで扉が開いた。ジュリオが立って、にっこりと笑みを浮かべる。
「ほんとにいいのかい?」
まったくの無表情で、ルイズは頷《うなず》いた。
「ええ。サイトのために、“世界扉《ワールド・ドア》”を開いてあげて」
「で、そのためにきみは……」
「喜んで、あなたたちに協力するわ。ミョズニトニルンを捕まえることも、聖地を取り返すことも……。すべてよ。それだけじゃない。あなたたちとハルケギニアの理想のために、この一生を捧《ささ》げるわ。虚無の担い手として。ハルケギニアの貴族として……」
ジュリオは頷いた。
「“聖女“の誕生だね。じゃあ、さっそくこっちに来てくれ。彼がいなくなった以上、予定は変更だ。明日の計画を説明する」
部屋を出るときに、ルイズは一度だけ振り返った。涙がとめどなく溢《あふ》れ、頬《ほお》を伝う。涙を拭《ぬぐ》うこともせずに、ルイズは岐いた。
「さよなら。わたしの世界で一番大事な人」
エピローグ
ガリア王国の首都リュティス。
ロマリア教皇に“狂王”と呼ばれた男が、どこまでも美しい庭に立ち、辺りを脾睨《へいげい》していた。季節折々の花々で咲き乱れるヴェルサルテイルでも一番の花壇……。
南|薔薇《ばら》花壇であった。
ジョゼフにとって、一人遊《ソリティア》びとこの花壇が、退屈な日々の孤独の慰めであった。国中の庭師たちが、賛《ぜい》と技術の粋を集めて造った地上の楽園……。
二キロ平方メイルほどの土地に、数万本もの色とりどりのバラが植えられている。
その中でも、一際目立つのは青いバラだった。
今年……、幾度もの品種改良をくわえられ、やっと完成した、青い発色が固定された品種だった。
そのバラは、王族の青髪にちなみ、“ラ・ガリア”と名づけられ、まさにガリアを象徴する花となった。
ジョゼフは満足げに花壇を見つめた。この青いバラを固定するために、どれだけの巨費を投じたかわからない。
「まこと、見事な薔薇《ばら》園ですわ」
ジョゼフの隣で、モリエール夫人が感嘆の声をあげた。ジョゼフは満足げに頷《うなず》くと、
「この薔薇園に投じた金で、小国が一つ経営できるのだよ」
「世界で一番美しい王国ですわ。陛下はご趣味がよろしくあられますわ」
それから、モリエール夫人は、いたずらっぽい目でジョゼフを見つめた。
「どうして、この薔薇園をお造りになられたんですの?」
恋人として、モリエール夫人は甘い言葉を期待した。あなたに進呈するためだ、等の答えを期待したのである。だが、この王の答えは違っていた。
ジョゼフは、淡々とした声で言った。
「壊すためだ」
モリエール夫人は美しい唇を歪《ゆが》ませて、不満の意を表した。
「まあ! また、ご冗談を!」
「冗談? ああ、そうだな。そう聞こえるだろうな」
困ったような口調でジョゼフが言うので、モリエール夫人はさらに機嫌を損ねた。この王は、いつもそうである。どこまでが冗談で、どこまでが本気なのかわからない。
箱庭で延々と一人遊びに興じてみたり、巨費を投じてとんでもない|ゴーレム《ヨルムンガント》を作り上げ、それで騎士団を編成すると言ってみたり、気まぐれに戦争を起こしたと思えば、このような華麗な薔薇園を造ってみたり……。
「陛下に質問がございます」
「なんなりと」
「陛下は、わたくしを愛してくださいますの?」
ジョゼフは呆気《あっけ》にとられた顔でモリエール夫人を見つめた。何を言うのだ? といった顔だ。
「当たり前だ」
「そうならば、もっと優しくしてくださいまし」
モリエール夫人は泣き出してしまった。
「いったいどうしたというのだ?」
「愛する殿方に、邪険に扱われるのが我慢できないだけですわ」
さめざめと泣くモリエール夫人を、ジョゼフは驚いた顔で見つめた。
「今、なんと言った?」
「愛する殿方、と申しました」
「余を愛していると言ったのか? それは真《まこと》か? この無能王を? 国内外からそしられるこの余を、あなたは愛していると言ったのか?」
「はい。なぜそのように驚くのですか」
「あなたは金と地位が目当てなのだと思っていた」
モリエール夫人はさらに涙をこぼした。
「わたくしは、たとえ陛下が平民だろうが物乞《ものご》いだろうが、変わらずお慕い申し上げます。わたくしは、陛下がガリアの王だから愛したのではありませぬ」
ジョゼフは、興味を引かれた顔になった。
「では、なぜ愛したのだ?」
「陛下が寂しいお方だからです。世界の富を集める王でありながら、ひとりぼっちであるからです。わたくしは、そんな陛下のお心を癒《いや》したいのです。差し出がましい女だとお思いにならないでくださいませ。それが愛するということなのですから……」
ジョゼフは、にっこりと笑うと、モリエール夫人を抱きしめた。
「あなたは優しい人だな。モリエール夫人。余はあなたを愛そうと思う」
モリエール夫人は、ジョゼフの腕に抱かれ、恍惚《こうこつ》とした表情を浮かべた。
やっと……、この人から愛の言葉を頂いた。
そのことがとても嬉《うれ》しく、また、誇らしかったのである。
いつも、一人遊びに興じていた王。
己の中の寂しさと、常に一人闘っていた王……。
いつもそばにいたモリエール夫人には、その闇《やみ》がとてつもなく深く、誰《だれ》にも理解できない深淵であることがわかっていた。
そんな王を愛してしまった自分……。
わたくしの愛で溶かしてあげよう、とモリエール夫人は思った。
これからこのわたくしが、この王の心の隙間《すきま》を埋める水になるのだ。
そうすればきっと……、この王は政争で病んだ心を癒すことができるだろう。周りを驚かす、愚かな奇行をも改めるに違いない。美しい薔薇《ばら》を育て、それでわたくしの頭を飾ってくれるようになるだろう。
芳しい、愛の言葉と共に……。
「陛下、お願いがございます。これからは何卒《なにとぞ》、わたくしに本音を打ち明けてくださいませ。どんなつまらぬことでもかまいません。わたくしは、陛下と共に喜び、哀しみ……、そして愛をわかちあうことでしょう……」
しかし……、ジョゼフの口からは、どんな言葉も発せられなかった。
「陛下?」
その瞬間、モリエール夫人の目が大きく見開かれる。
「お、おおお……、陛下……、おおお」
信じられない、といった顔で、モリエール夫人は己の胸を見た。
力が身体《からだ》中から抜けていく。
どうして?
何が起こったのかまったく理解できぬまま、モリエール夫人は深い闇《やみ》の底へと落ちていった。
ゆっくりと、ジョゼフはモリエール夫人の胸に突き立てた短剣を引き抜いた。その刃には、艶《つや》やかに血が光っている。
見開かれたモリエール美人の目が、ゆっくりと閉じていく。地面に崩れ落ちたモリエール夫人を、ジョゼフはまったくの無表情で見下ろす。
それからジョゼフは、何のためらいも見せずに、目の前の薔薇《ばら》園に、そばにあった油壷《あぶらつぼ》の油をぶちまけた。火打ち石を用い、その油に火を放つ。
瞬く間に、手塩にかけて育てた薔薇園が燃え上がる。
ジョゼフは、ぼんやりとした顔で、その炎を見つめていた。すると……、炎の向こうから、一人の女が現れた。
深いローブを被《かぶ》り、燃え盛る炎をものともせずに歩いてくる。ローブの隙間《すきま》からは、赤い唇が覗《のぞ》いていた。
ミョズニトニルンであった。
ジョゼフの患実な使い魔は、地面に転がったモリエール夫人の死体を見つめ、
「愛されたのですか?」
と尋ねた。
ジョゼフは首を振り、
「わからぬ。そうかもしれぬし、そうではないかもしれぬ。どちらにせよ、余に判断はつかぬ」
「ではなぜ?」
なぜ、殺したのだ? と尋ねているのだった。
「余を愛していると言った。自分を愛するものを殺したら、普通は胸が痛むのではないか?」
「で、ジョゼフさまは胸がお痛みになったのですか?」
にこっと、わかっている、と言わんばかりの顔で、ミョズニトニルンは尋ねる。ジョゼフは首を振った。
「無理だった。今回も無駄だった」
ミョズニトニルンは満足気に頷《うなず》くと、ジョゼフに報告した。
「さて、ヨルムンガントが十体、完成したとの報告がありました」
「そうか。よくやった」
「お知らせはもう一つ。担い手が三人、ロマリアに集結しております」
ほう、とジョゼフは笑みを浮かべた。
「それはちょうどいいな。よろしい。ヨルムンガントを武装させ、“軍団《レギオン》”の指揮をとれ」
「御意」
ミョズニトニルンは、頷くと再び炎の中へと姿を消した。
ジョゼフは、テーブルに置かれた伝声用の鉄管を取り上げた。風魔法が付与された、声を遠くに伝えるためのガリアならではの魔道具だった。とはいっても、同じ建物内ぐらいにしか届かないが……。
「両用艦隊司令に繋《つな》げ」
すぐに、王都に参内していた両用艦隊司令の海軍大将に繋がる。管の向こうの提督に、ジョゼフは短く命令した。
「両用艦隊《バイラテラル・フロッテ》、軍港サン・マロンにおいて”軍団《レギオン》”を搭載せよ。目標、ロマリア連合皇国」
いきなりの命令に、管の向こうの提督は腰を抜かしたらしい。慌てふためいた声で、ジョゼフの命令を確認する。ジョゼフは言葉を続けた。
「宣戦布告? 作戦? いらん。目の前にあるもの、すべてを潰《つぶ》せ。城も、街も、村も、人も、すべてだ。草一本残すな」
「戦争ですか? それは、どのような戦争なのですか? というかロマリアは同盟国ではありませんか! つい先だって、王権同盟が締結されたばかりでは……』
「同盟? それがどうした。なんだというのだ。とにかく質問は許さぬ。ああそうだ、他国の干渉があっては面倒だ。貴様らは以後、反乱軍を名乗れ。国境を越えて亡命すると述べた上で、その先で暴れまくれ。そうすれば、ガリアに責は及ばぬ」
『そ、そんな! 意味がわかりませぬ!』
なんでも言うことをきく、という理由で提督に据えた無能な男だったが、さすがの無茶な命令に呆《あき》れていた。無能でもなんでもかまわない。艦隊をまっすぐ飛ばすことができればそれでいいのだ。どうせ片をつけるのはミョズニトニルンなのだから。それでも、連中に運ばせなくてはいけない。
ジョゼフは面倒になって、適当な言葉を並べた。
「いいから命令に従え。ああ、なんだ、これは高度な政治的判断なのだ。そうそう、お前たちの好きな陰謀だよ陰謀。うまくいったら、貴様にロマリアをくれてやる」
管の向こうで、提督は思考をめぐらせた。
ジョゼフは無能とあざけられることが多いが、決してケチではない。
“やる”と言って、くれなかったものは何一つないのだった。
それもそのはず。ジョゼフは“物欲”とか“権勢欲”といったものは、まったく持ち合わせていないのだから……。
結局、欲が勝ったのか、提督は了解しました、と、返事を寄越《よこ》した。
管をテーブルに叩《たた》きつけ、ジョゼフは呪詛《じゆそ》の言葉を吐き出した。
「ばか者どもが。何を言ってるんだ? おれは戦争がしたいわけじゃない。これは戦争などではない。戦争とは、利益を鑑《かんが》みてするものだ。ロマリアに戦争を仕掛けて.我々になんの益があるというのだ? たまたま神などまつっているから潰《つぷ》すだけじゃないか。そう。おれたちの魂の拠《よど》り所《ころ》とやらをな」
ジョゼフはテーブルを叩いた。
「ああ、おれは人間だ。どこまでも人間だ。なのに愛していると言ってくれた人間をこの手にかけても、この胸は痛まぬのだ。神よ! なぜおれにカを与えた? 皮肉な力を与えたものだ! “虚無”! まるでおれの心のようだ! “虚無”! ああ、ああ、それはまるでおれ自身じゃないか!」
ジョゼフは言葉を続けた。
「ああ、おれの心は空虚だ。腐った魚の浮き袋だ。中には、何も詰まっていない。からっぽのからっぽだ。愛《いと》しさも、喜びも、怒りも、哀しみも、憎しみすらもない。シャルル、ああシャルル。お前をこの手にかけたときより、おれの心は震えんのだよ。まるで油が切れ、錆《さ》びついた時計のようだよ。時を刻めず、ただ流れ行く時間を見つめることしかできぬガラクタだよ」
ジョゼフは天を仰いだ。その頃《ころ》になって、燃え盛る花壇に気づいた衛士たちが大騒ぎを始めた。火を消せ! 宮殿に燃え移ったら大事だ! との声が響く。しかし、ジョゼフはまったく意に介さない。
熱を帯びた目で、ただただ宙の一点を見つめ、うわごとのように眩《つぶや》くのみだった。
「さあ行こうシャルル。神を倒しに。兄弟を難《たお》しに。民を殺しに。街を滅ぼしに。世界を潰しに。さあ行こうシャルル。あらゆる美徳と栄光に唾《つば》を吐きかけるために。すべての人の営みを終わらせるために。どうだろう。そのときこそおれの心は涙を流すだろうか。哀しみにこの手は震えるだろうか。しでかした罪の大きさに、おれは悲しむことができるだろうか。取り返しのつかない出来事に、おれは後悔するだろうか」
ジョゼフは笑った。天使のように、無邪気に笑った。
「シャルル、おれは人だ。人だから、人として涙を流したいのだ」
あとがき
ヤマグチです。いよいよゼロも十三巻。喜ばしいです。
十三巻のテーマは“愛”です。飲んでませんよ。ええ、飲んでませんとも。昔は執筆のときにはアルコールはかかせませんでした。飲めば飲むほどに筆は進み、楽しくなり、そのうちにどうでもよくなり、なんで俺《おれ》はパソコンの前に座ってるんだろう、と根源的な疑問に目覚め、なんだか泣きたくなり、次に幸せになり、これは歌を歌わねば、と歌いだし、ついでだから踊らねば、と踊りだし、気づくとハダカで外を歩いていたものです。や、これはいけません、と驚いて家に帰ると大家さんが玄関の前で待っていて、「今度という今度は」で始まるお説教を聞かねばならなくなったものです。
今は飲みません。筆が進んでいたのは脳内の出来事に過ぎず、テキストエディタは真っ白だったことが何度もあったせいです。従って今は飲みません。酒はよくない。ほんとよくない。こんなものは、なくなってしまえばいい。
さて、愛です。
愛とはなんだろう? 考えれぱ考えるほどに、ぼくは思考の迷宮に陥るのです。それは強く相手を求めることであったり、いやかたちを変えた生殖本能に過ぎないのだ、という人もいれば、相手を思いやる心こそが愛だとか様々です。
ぼくも未だに結論を出せていません。いや、結論が出るとか出ないとか、そういう類《たぐい》のものではないのかもしれません。
したがって、この一巻では“愛”を書ききれませんでした。まったくもう、不徳の致すところです。だが、幸せなことにゼロの使い魔はまだまだ続く物語です。巻を進めるにつれ、この厄介な“愛”の謎が紐解《ひもと》ければいいな、と思います。だもんで、まだまだ付き合ってください。結論は未だ出ていないのですから。
さて、最後になりましたが、今回はほんとにギリギリまで粘りました。ほんとに、イラストの兎塚《うさつか》さん、印刷所及び編集部の皆様、どうもありがとうございました。
もっと早く書けるようになりたい。この頭の中にもやもやしている何かを、もっと迅速に言葉にできるようになりたいです。じゃないと、せっかく浮かんだ何かがどこかに消えていってしまう、そんな風に思います。
ヤマグチノボル
[#改ページ]
[#以下省略]
TEXT変換者です。
これで13本目です。
画像がきれいだととても楽にできます。
“”を補正しました
校正子