ゼロの使い魔 12 妖精たちの休日
ヤマグチノボル
[#地付き]口絵・本文イラスト/兎塚エイジ
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《》:ルビ
(例)亘《わた》って
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(例)|白の国《アルビオン》
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プロローグ[#地から5字上げ]39行
※第一話
白の国(アルビオン)からの編入生
第一章[#地から5字上げ]303行
第二章[#地から5字上げ]528行
第三章[#地から5字上げ]941行
第四章[#地から5字上げ]1219行
※第二話
水精霊騎士隊、突撃せよ
第一章[#地から5字上げ]1506行
第二章[#地から5字上げ]1676行
※第三話
サイトの一日使用権
第一章[#地から5字上げ]2231行
第二章[#地から5字上げ]2428行
あとがき[#地から5字上げ]2782行
[#ここで字下げ終わり]
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プロローグ
魔法学院はアルヴィーズの食堂。
トリステイン魔法学院に通う貴族の子弟たちは、朝昼晩の三食に亘《わた》って、ここで食事をとるのが習わしである。
アンリエッタの命令で、アルビオンからティファニアを連れてきた日から、一週間ほど経っていた。
そんなこの日も、才人《さいと》たちは例によって三年生用のテーブルで朝食を食べていた。
長い、食堂のテーブルは、入り口を正面にして縦に三列並んでいる。正面に向かって左側が三年生、真ん中が二年生、右側が一年生のテーブルだった。
「しっかし、彼女の人気はすごいな」
才人は肉を切っていたナイフをとめて、軽く呆《あき》れた声で呟《つぶや》いた。
「なに? 人気?」
目の前に座っていたギーシュが、目を丸くして振り返る。才人とギーシュの周りには、例によって水精霊騎士隊の隊員たちが集まっている。昼間だというのに酔っ払った彼らは、赤く染まった目をギーシュや才人と同じほうに向けた。
そこには……、金髪と悩ましい身体《からだ》のラインが眩《まぶ》しい妖精《ようせい》が、ちょっと戸惑った表情を浮かべていた。
ティファニアであった。
アンリエッタの口利きで、一ヶ月遅れで一年生のクラスに編入することになったティファニアは、入学してすぐ、学院中の話題を独り占めにした。
それほどに、アルビオン王家とエルフの血がブレンドされて出来上がった芸術品のような彼女の美貌《びぼう》は眩《まばゆ》かったのである。
もちろん……、その両方の血は秘密であった。彼女の正体を知るものは、アンリエッタとオスマン氏と才人《さいと》とルイズ、そしてキュルケとタバサとギーシュの他《ほか》にはいない。
二重の秘密に包まれたティファニアは、目に見える一方の秘密……、エルフの血を隠すために、耳を覆うかたちの帽子を被《かぶ》っていた。
そんな格好で授業を受けたり、食堂に入ることは本来なら許されない。しかしティファニアは『肌が日に特別弱い』という表向きの理由で、屋内で帽子を被ることを許可されていた。窓から入る太陽光に当たっただけで彼女の弱い肌は焼けてしまう、と、アンリエッタからの要請で彼女の後見人となったオスマン氏は教師や生徒たちに説明した。
本来ならそんな嘘《うそ》は誰《だれ》も信じなかったに違いない。
しかし……、ティファニアの肌の白さは、日焼けを嫌う貴族の女子生徒たちの中でも群を抜いていた。ティファニアの肌を見れば、誰もがこの子は太陽に抗《あらが》えない、と思い込むであろう。
そんな淡く光る青い月のような儚《はかな》さと、その儚さに似合わぬアンバランスな肢体、アルビオンからやってきた訳ありの貴族としての生い立ち……。
その三つの要素が絡み合い、謎《なぞ》めいた魅力を醸し出し、ティファニアの周りの男子生徒たちはすっかり参ってしまったのである。
魔法学院の制服に身を包んだティファニアの周りには、目の色を変えた男子生徒たちが十数人、飴玉《あめだま》に群がるアリのように集まっていた。
「人気だな。いや、大人気だな」
ティファニアを見つめながら、ぽかんと口を開けてギーシュが呟《つぶや》く。
「あいつらは、いったい何を考えているんだ。まるでお姫さまと家来だ」
ギーシュの右隣に座る、水精霊騎士隊の実務を担《にな》うつもりでいるレイナールが、メガネをちょいと持ち上げながら言った。
なるほど、レイナールの言うとおりである。
一年生の紺色だけでなく、二年生の茶色、三年生の黒のマントまで見える。
彼らはティファニアがお茶を一口飲めばすぐさまお代わりを注《つ》いでやり、ティファニアが前菜を一口食べたらすぐさま自分の分を勧め、ティファニアが肉料理に手を伸ばせば代わりに切り分ける、といった具合であった。
大変なのはティファニアである。一気に十人以上もの給仕に傅《かしず》かれることになったこの金髪の美少女は、持ち前の引っ込み思案さを存分に発揮し、そんな煩わしい状況にも文句一つ言えず、されるがままになっている。
集まった男子生徒たちの視点は、ティファニアのその透き通るような白肌のとんでもない美少女顔と、とある一点を交互に動いていた。
そのとある一点について、ギーシュが感想を漏らす。
「ぼくはね、アルビオンからこっち、ずっと深く考えていたんだ。そして結論に達した」
ギーシュの左隣に座っていたマリコルヌが、にやっと唇の端を持ち上げて、ニヒルな笑みを浮かべた。
「ギーシュ、お前の結論をこの”風上”に聞かせてくれたまえよ」
まるで討論の授業で、自信たっぷりに自説を述べるかのようなもったいぶった口調でギーシュは応《こた》えた。
「よかろう、ぼくの結論だ。あのティファニア嬢の胸部についている二つの鞠《まり》状の物体は、世の中の半数の人間を狂わせる、魔法兵器だ」
「つまりその、世の中の半分の人間というのは……」
「男性だよ。きみ」
マリコルヌは、顎《あご》に指を置いて深く考え込んだ。しかる後に重々しい仕草で口を開く。
「兵器というのは、つまり性的な意味において?」
「もちろん、性的な意味においてだ」
二人の低脳は、才人《さいと》の目の前で『もっともだ』といわんばかりに頷《うなず》きあう。
「きみは天才だな、ギーシュ」
「それはちと性急な結論だな。ぼくの仮説は、まだ検証を経ていない」
ギーシュは、ぐいっとコップのワインを飲み干した。
「さて、行くぞ」
がたんと、ギーシュは立ち上がった。マリコルヌも、のそり、と立ち上がる。今から陛下の拝謁を賜《たまわ》る、といわんばかりの態度で、二人は身だしなみを整え始めた。
二人の低脳は頷きあうと、ゆっくりと一年生のテーブルへと向かう。
レイナールが才人に尋ねる。
「あいつらは、何をする気なんだ?」
「ほっとけ。バカがうつる」
水精霊騎士隊の面々は、ギーシュとマリコルヌを心配そうに見つめた。
酔っ払った二人は、ティファニアに群がる一年生を押しのけた。近衛隊《このえたい》で三年生のギーシュとマリコルヌに文句を言える一年生はいない。人垣が割れ、ティファニアへ通じる参道が完成する。
ギーシュとマリコルヌは、胸をそらせてその参道を歩く。
ティファニアの横に立ったギーシュは、緊張でさらに縮こまるティファニアに深々と一礼する。
次の瞬間“それ”は起こった。
ギーシュは無言でティファニアの猛烈な二つの魔法兵器……、胸に手を伸ばす。ティフアニアの顔が、えぐ、といった感じに歪《ゆが》む。一瞬で食堂の空気が凍りついた。
「あのバカ」
才人が立ち上がる。
しかし次の瞬間、ギーシュの身体《からだ》は、突然現れた巨大な水柱に包まれた。水中花のように、水柱の中、ギーシュの身体がおがこげ、と蠢《うごめ》く。後ろを見ると、例によってモンモランシーが立ちつくし、無表情のまま杖《つえ》を振っている。
ぴきーんと凍りついた食堂の雰囲気の中、水柱はモンモランシーの杖にあわせてゆっくりと動き、外へと運ばれていく。
食堂からは死角になっていて見えない場所で、水柱が弾《はじ》ける音がする。ついで、ギーシュの叫び声が響いた。
「ちょっと確かめたくなっただけなんだ! だって、あんなものを見たらきみ、学術的好奇心が膨れに膨れ上がって、膨れ上がってどうしようもなくなってしまって! こぼ!ぐげこぼ!」
ばしゃばしゃと大量の水がギーシュを襲う音が才人《さいと》たちの耳に届く。
荒れ狂う水音が響き続け……、そのうちに静かになる。
才人はため息をつくと、再び料理に手を伸ばす。そんな才人にレイナールがつぶやく。
「解せないな」
「いつものあいつだろ。酔っ払って調子に乗りやがって……。なんにせよ手が触れる前で
よかった」
「いや、きみのことだよ」
「俺?」
才人はきょとんとして、レイナールを見つめた。
「ああ。いつもなら先頭きって行ってたはずだ」
「ティファニアの胸が本物かどうか確かめに? そこまで俺はバカじゃないよ。あいつらといっしょにするなよ」
レイナールは、メガネを持ち上げると、才人を見つめた。
「いや確かに、きみは割と照れ屋なところがあるから、いくら酔ったからとはいえ、こんな真っ昼間から堂々と本物かどうか確かめに行ったりはしないが……、行きたくてうずうずして、つい腰が浮きかけてまた座りなおすぐらいのことはするはずだ」
鋭すぎる、レイナールの指摘であった。
「そんなきみなのに、どうしたんだよ。その余裕は……」
「いいから食おうぜ。冷めちまう」
才人は涼しい顔で、料理を食べ始めた。そのとき……、数人の少女が、才人の周りに群がった。筆頭は、二年生のケティである。周りにいるのは、一年生の女の子たち。
「サイトさま! デザートにこのプディングはいかがですか?」
冷気の魔法がかけられたミルクとフルーツで作られたプディングは、ひんやりとおいしそうだった。才人は澄ました態度で、ありがとう、と頷《うなず》くとそれを受け取った。
そんな才人を、水精霊騎士隊の面々は羨《うらや》ましそうに見つめた。
「サイトさんはほんとうに凛々しくおられますわ」
「それほどでもないヨ」
軽く気取った態度で、才人はギーシュばりに足を組んだ。そんな姿でも、脳に”幻想”のオブラートがかかった女子たちは歓声をあげる。
「かっこいい! やっぱりサイトさまは、ギーシュさまなんかとは大違いですわね」
ケティは、冷たい目でギーシュが去っていった方角を眺めた。
「そんなことないヨ。俺だって、あまり変わらないヨ。まあ、あいつらみたいにバカはしないだけさ。あっはっはのは」
うっとりとした目で、女の子たちは才人《さいと》を見つめる。
「いやだ……、サイトさまって、ほんとうに素敵なお方なのね」
「それだけじゃないわ。とてもお強いのよ」
「そうですわ! なにせ、あのアルビオン軍を一人で止めたお方なんですもの!」
ケティが、うっとりとした顔で言った。
「サイトさまなら、あの乱暴な空中装甲騎士団も、やっつけておしまいになられるわ!」
「ケティさんも、あのクルデンホルフ家の連れてきた騎士団が、お嫌いなの?」
一人の少女が、ケティに尋ねる。
「ええ。だってあの方たち、わたしが散歩に出かけたら、ずっとついてくるのよ! 花を摘みに行きませんか? なんて話しかけてきたわ!」
「まあ下品ね!」
「ほんとよ! サイトさまとは大違いだわ!」
きゃあきゃあ、と女の子たちは噂《うわさ》しあう。
そんな姿を見て才人は思った。
余裕が大事なのだ。
がっつかない、余裕の態度が、花のように|ミツバチ《女たち》を吸い寄せるのだ。
ああ、こんな風にモテたことがついぞあっただろうか?
シエスタはきゃあきゃあ言ってくれたが……、“多”ではない。
多人数の女の子たちに、きゃあきゃあ言われるのが、こんなに気持ちがよく、かつ幸せな気分になるものだとは……。
ルイズの魔法で、“こっちにいるための理由”が頭の中にあったときは、こんな風に現状を楽しむ余裕はなかった。女の子たちの声援も、どことなく遠くのほうで響いていたような、そんな気がする。錯覚かもしれないけれど……。俺《おれ》ってほら、単純だから……。
どっちにしろ、とにかく今は心地よい。
女の子の声が一つ“きゃあ”と響くたびに、甘美な脳内分泌液が染み渡っていく。
そんな風にきゃあきゃあ言われながら、才人はちらっと横目で、ルイズたちのテーブルを見つめた。そこではルイズが澄ました顔でご飯を食べている。
しかし……、ときたまこっちをチラチラ横目で見ているのがわかる。チラチラと見ながら、ときたまルイズは皿をガシガシとフォークでつつく。
才人は鼻腔《びこう》を広げ、“優越感”を胸いっぱいに吸い込んだ。
ほらほら。
出来上がってきましたよ。あのネコ。
そんな言葉を脳内でつぶやいた。
さてさて、どうして才人《さいと》は、こんなに勝ち誇っているのだろうか?
”余裕が大事”と言い放つ才人の真意とは?
ルイズをネコ扱いの意味は?
それは、アルビオンから帰ってくる、フネの中での”誤解”が原因だったのである。
ティファニアを連れて、アルビオンからフネに乗った才人は……、その一船室で、ルイズと唇を重ねた。
ルイズの気持ちが伝わってくる、熱いキスだった。
これだけ熱けりゃよかろうと、キスを交わしたあと、才人は当然とばかりにルイズに手を伸ばした。ルイズ、いい具合に火照ってます。したがって自分、手、出します。
才人はそう判断したのだ。
しかし、なんと、ルイズは恥ずかしそうに俯《うつむ》いて……、伸ばした才人の手を振りほどいたのである。そして消え入りそうな声で呟《つぶや》いたのだった。
「……だから、やだ」
拒否された才人は傷ついた。信じられなかった。あんだけ熱いのにどうして? てな具合である。
「な、なな、なんで?」
するとルイズは、怒ったように怒鳴った。
「二度も言わせないで!」
ルイズのその声に反応して、隣の部屋からキュルケの声が響いた。
「どうしたのー? ルイズ」
「な、なんでもない!」
なんだか、そんなやり取りで、それまで漂っていた甘い雰囲気がどこかに行ってしまった。二人は顔を見合わせると、お互い顔を赤らめてベッドに潜り込んだ。
そして、目をつむって寝ることにしたのである。
このとき、才人は気づかなかったが……、ルイズは才人を拒否したわけではない。
ただ、場所を選びたかっただけなのである。
先ほどのルイズのセリフは消え入りそうなほど小さかったので、前半の一部が才人の耳に届かなかった。
『……だから、やだ』
この言葉の前には、「フネの中』という言葉が存在した。
『フネの中だから……、やだ』
ルイズはこう言ったのだった。
別に才人《さいと》を拒否したわけではない。
しかし……、才人はどうにもヌケていたので、そこまで気がまわらず、船室のベッドの上、ルイズの言葉をこねくり回して、理解しがたい結論に飛びつくのであった。
“好き”が足りねえんだ。
ルイズの気持ちは確かに俺《おれ》を向いているかもしれない。
でもまだ……、すべてを許すまでには高ぶってないに違いない。
どうしたらいい? 俺。
その瞬間……、才人の心にひらめくものがあった。
いつかのルイズの黒ネコ姿を思い出したのである。
そういや、ルイズってネコっぽいよな,
大粒の瞳《ひとみ》がくるくる変わり、気まぐれに才人を翻弄《ほんろう》するところなんてそっくりだ。
ええと、ネコという動物を手なずけるには、どうすんだっけ?
そうだ。
ネコは、こっちから近づいたら逃げるんだ。
そして澄ました顔で、無視しやがる。
ああ、それってルイズ。
じゃあ、こっちが無視したらどうだ?
そういうときのネコは、まず様子をうかがってきて……、それでも無視を続けると、痺《しび》れを切らして近づいてくる。
そして終《しま》いには、ゴロゴロ鳴きながら頬《ほお》を擦《す》り寄せてくる……。
これだ。これだよ!
才人はベッドの中、我が意を得たり、とばかりに頷《うなず》いた。
な、な、ナメんなよ〜〜〜、桃髪生意気能天気め……。気まぐれに翻弄しやがって……。お前が頬を擦り寄せた瞬間、く、くく、首根っこ捕まえてやる。やや、やっからな!
つまり才人は、底なしにヌケていた。
さて、才人がそんな誤解妄想を抱いているとは露知らず、アルビオンから帰ってきた日の夜、健気《けなげ》なルイズはお風呂《ふろ》に行き、念入りに身体《からだ》を洗った。それから祭壇室に赴き、始祖ブリミルに対しての長い長い懺悔《ざんげ》を行った。
始祖ブリミルよ……、婚姻より前に、その、なんていうかその、言えませんその、そのいわゆる、いわゆるその、行うことをその、お赦《ゆる》しくださいその、でもだってしかたがないじゃありませんかその、あいつきっと、わたしが許さなかったらその、絶対|他《ほか》の女の子とその、いやもうほんと、頭カラッポメイドとかいるんでしかたなくその、敬愛していた姫さまもなんか一時は怪しくてその、胸がおかしいハーフエルフまで最近はそばにいるんで血迷いやしないかその、ああ、そういう比較的|身体《からだ》が女性らしい女の子だけじゃなくってその、青い髪の小さなガリアのお姫さまもいてその、いやあの子はそういう気持ちじゃないって女のカンでわかるんですけどその、万が一ってこともあるしその、というかあのバカは小さいとか大きいとかあんまり関係ないことが判明してその、となると余計に危険対象が増えるわけでその、とにかくそういうわけなので、お赦《ゆる》しください。かしこ。
懺悔《ざんげ》なんだか妄想なんだかわけのわからない文言を吐き出したあと、ルイズは右手と右足を同時に出しながら自分の部屋に戻った。
才人《さいと》はどんな顔してんのかしら。やっぱ緊張してるのかしら、と思いながら部屋に入ると、使い魔ってばなんだか余裕の態度で、お茶など飲んでいる。
自分がこんなに、特別な夜を迎えて緊張しているというのに、いつもの様子と変わらない。それどころか目を細くしながら、『やァ、ルイズ。穏やかな夜だネ』とかわけのわからないことを口走った。
なにそれ? と思いながらもルイズはベッドに入った。
ついで才人も入ってきた。
その後にメイドも入ってきた。
なぜかこの部屋で暮らす三人は、こうやってベッドで川の字になって寝るのである。すっかり習慣になってしまった。
ルイズは緊張のあまり、失神しそうになった。しかし、まだ早い。才人だってバカじゃない。シエスタが寝静まってから、その、いわゆるその、行動に出るに違いない、と思い、必死になって寝たフリをした。
すぐにシエスタの寝息が聞こえてきた。
ルイズの緊張は頂点に達した。あまりに緊張して、握り締めた毛布を噛《か》み破ってしまったぐらいである。
そしてとうとう……、才人の手が伸びて肩に置かれた。
ガタガタガタと全身が震《ふる》えた。
「……ばか、シ、シエスタがいるじゃない。もう、それなのにご主人さまに手をそ、のの、伸ばすなんてどういうつもりよ」
てっきり、小さく声をかけられ、どこかへ案内されると思ったのである。倉庫とか。いや、さすがにそれはあんまりなので何か都合のいい別室とか。しかし、このベッドでとは。隣でシエスタが寝ているベッドでとは! なんてこの使い魔は大胆なんだろう!
驚いたが、やっぱりシエスタじゃなく自分に手を伸ばされた優越感と歓喜で、ルイズの心はいっぱいになってしまった。
シエスタが横にいるのに……。
メイドが横にいるのに……。
頭カラッポメイドがよこに! いる! のに!
そう。メイド。
よくも今までぇ〜〜〜、なんでもないことでえ〜〜〜、勝ち誇ってぇ〜〜〜、くれたじゃない? これでわたしの勝ち!
でも、やっぱり横で他《ほか》の女の子が寝てるトコでだなんて……、あ。
ひ。
才人《さいと》の手がルイズのネグリジェの中に滑り込んだ瞬間、そんな声が喉《のど》から漏れて、ルイズの頭の中は真っ白になってしまった。
メ、メイドがいるのに! メイドがいるのに。めいどがいるのに……、ひ、ひゃん!
才人の手は大胆な動きでネグリジェを巻き上げ、ルイズの薄い胸をあらわにさせてしまった。ルイズは目をつむり、顔を真っ赤にさせて、息と動悸《どうき》を荒くさせた。
もう何も考えられなかった。
ただ一つ理解できていたのは……、こんなにドキドキしたのは生まれて初めてということだけだった。
才人の口から出てくるであろう言葉が、いくつもの予想のセリフとなって、ルイズの頭をめぐる。
オ、オーソドックスに、『愛しているよルイズ』かしら。
それとも、「怖がらないで』かしら?
なによなによ。あんた、こんなときなんて言うのよ。いやだ、きっとわたしその言葉、一生忘れないわ。恥ずかしいし、癪《しゃく》だけど忘れないわ。もうやだ、やん……。
しかし……、才人の口から漏れた言葉は、
「グゥ……」
ルイズの予想を、そびえたつ火竜山脈ほどにも超えたものだった。
今のなに?
寝息?
ま、まさかね……。
「グゥグゥ」
真に迫った寝息が聞こえてきて、ルイズは焦った。
寝たふり? どして?
胸に滑り込んだ才人の手を試しに握ってみた。まったく反応はない。それどころか、するりとネグリジェの中からすり抜けてしまった。
「グゥ。グゥグゥ」
ルイズは恐る恐る振り返った。
そこにあったのは、まこうことなき才人の寝顔であった。幸せそうな顔で、口から涎《よだれ》など垂らしているではないか。
ルイズの顔が青くなり、ついで赤く染まった。唇の片方がつりあがり、クケ、とうめきが漏れた。
死刑でしょ。
普通、死刑でしょこれ。
何事か。
準備ができてしまったこんなに可愛いご主人様が横で寝ているのに、寝息を立てるとは何事か。
杖《つえ》に手が伸びた。とりあえず灰に変えるつもりだったが、思いなおす。
まぁ、疲《つか》れてるのかもしれないし……、ね。
布団を被《かぶ》り、ルイズは目をつむった。なかなか寝付けない夜が始まった。
翌日、ルイズは考えた。やっぱり……、隣でメイドが寝てるのはまずい。他人がいる部屋で……、というのは、貴族としては大変よろしくない。
したがってルイズは、才人《さいと》が『そろそろ寝るかぁ』と呟《つぶや》き、ベッドに入ろうとしたとき、わざとらしく椅子から立ち上がった。
「さ、ささ、さ」
「さ?」
「散歩でも、し、しし、してこようかしら!」
「お、風流だな。まだ夜は冷えるから、風邪ひくなヨ」
才人はにこっと笑うと、そんな世迷言《よまいごと》を言った。引っ込みがつかなくなり、ルイズはネグリジェ姿で表に出た。
二時間待ったが、才人は来なかった。部屋に戻ってみれば……、大口を開けて寝ていた。今日こそ灰ね、と思って杖を握ったが、思いなおす。
疲れてるのよ。きっと。
その翌日も、ルイズは散歩に出かけた。四時間待った。才人は来なかった。部屋に戻ったら、才人はベッドに潜り込んで深い寝息を立てていた。
そのまた翌日。
ルイズは三度目の正直の散歩に出かけた。
やはり待てど暮らせど才人はやってこない。ルイズは地面に棒切れで絵を描いて時間を潰《つぶ》した。鈍感サイトが跪《ひざまず》いて素敵貴族ミス・ヴァリエールに赦《ゆる》しを請うの図である。
気づくと朝だった。力作ができあがった。
そろそろさすがに気づくでしょうと翌日もルイズは散歩に出かけた。
はう、才人《さいと》来ません。
ルイズは半泣きで絵を描き始めた。絵の内容は、間抜けな使い魔才人が選ばれし貴族ミス・ヴァリエールの手によってとうとう縛《しば》り首になるの図であった。朝までかかって、ルイズは大作を描きあげた。
そんな風にして、一週間が過ぎたのである。
いつの問にか、ルイズの絵画は連作となり、才人はその連作の中で十二回|鞭《むち》で叩《たた》かれ、十回縛り首になり、八回地獄に落ちて、四回虫けらに生まれ変わってルイズに踏《ふ》み潰《つぶ》された。
ルイズの怒りはこれ以上ないぐらい頂点に達し、ついに悟りの境地まで達し、それから冷えた何かとなってルイズを包んだ。
しかし、ことがことだけに、そんな怒りを表にすることはできない。
それはダイヤモンドより硬い、ルイズのプライドが許さない。
必死になって怒りを抑え込み、青い顔でときたまわなわなと震《ふる》えるだけのルイズを、才人は“おやおやデキあがりつつある”と評した。
実態はまったくの逆だったが、調子に乗っている才人は気づかなかった。
才人の鈍感は、まこうことなきホンモノだったのである。
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第一話 |白の国《アルビオン》からの編入生
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第一章
トリステイン魔法学院の放課後、ほとんどの女子生徒たちは食堂から張り出したテラスで、お茶を飲むのが日課であった。
ルイズ、モンモランシー、キュルケの三人は、丸いテーブルを一つ使って、会話とお茶を楽しんでいた。
しかし、話しているのは主にキュルケで、聞き役はモンモランシーである。ルイズはといえば、目を血走らせ、何かを一生懸命にしたためている。
ときたま眠そうに、ふぁあああああ、とあくびをかます。
「ねえルイズ。あたしが話してるのに、あくびするなんて失礼じゃない?」
「っさいわね」
キュルケの話題は主に、一週間ほど前のアルビオンでの冒険のことである。
「ところで、いやぁ、あの大きなゴーレムすごかったわねえ」
キュルケが心底楽しそうな口調で言えば、ルイズが眉《まゆ》をひそめる。
そんな二人を見て、モンモランシーがじろりと睨《にら》んだ。
「なによ。ゴーレムってなによ。あなたたち、いったいアルビオンに何しに行ったのよ」
モンモランシーはアルビオン行きに同行してないために、何があったのか知らないのである。もちろん、ティファニアの正体も知らない。
「それは言えないわよねぇ…。さるやんごとないお方の秘密が絡んでるんだもの」
キュルケがもったいぶって言えば、モンモランシーはちょっとむっとした顔になって、
「いいわよ。別に知りたくもないわ。わたし、政治がらみのことに首を突っ込む気ないから」
強がってみせた。
それからモンモランシーは長い巻き毛を揺らして、テラスの向こうに広がる中庭に視線を移した。ちょうど、金髪のティファニアが通りかかったところであった。
困ったようにもじもじとしながら歩くティファニアの後ろには、何人もの男子生徒がぞろぞろとくっついている。その中にギーシュの姿を見つけ、モンモランシーは苦々しい顔になった。
「あいつ! あんだけ痛めつけたのに! まだ懲《こ》りないようだわ!」
その言葉で、眠たげだったルイズの目が一瞬、キラリと光った。顔をあげ、ティファニアの取り巻きの中に才人《さいと》の姿がないことを知ると、ちょっと考え込むように目をつむった。
それから再び書き物へと目を移す。
「ねえルイズ! あなたたちが連れてきた子はなんなわけ? わたし、政治の世界には興味ないけど、あの子にだけは興味あるわ! 建物の中でも帽子を外さないし、自分のことは一切しゃべらないし!」
「胸が大きいし?」
キュルケが、誘《さそ》うような口調でモンモランシーを挑発する。
「ふんだ! あんなのニセモノでしょ! はしたない! あんな底上げ技術で殿方の気をひこうだなんて!」
モンモランシーがそうまくし立てたとき、ルイズは立ち上がった。
「あらルイズ、どうしたの?」
「帰る」
ルイズは、目を爛々《らんらん》と光らせながら呟《つぶや》いた。その目の中に、冷えた怒りの氷嵐が渦巻いている。
キュルケは、目を細めて笑みを浮かべた。
「サイトによろしくね」
その言葉で、ルイズの左肩がびくっ! と動いた。その痙攣《けいれん》はついで右肩に移動する。徐々にその揺れは大きくなり、ルイズの全身がわなわなわなと震《ふる》え始めた。
ぎくしゃくとぎこちない歩き方で、ルイズは寮《りょう》塔へと向かう。怒りが、ルイズをまっすぐに歩かせないのだ。
そんなルイズは中庭で、これから訓練に向かうであろう水精霊騎士隊の男子たちとすれ違った。もちろん、その中には才人《さいと》がいた。
わいわいがやがやと、才人たちは近づいてくる。
ルイズは立ち止まった。才人の顔を真正面から見ないように、横を向いた。正面から見たら、きっと何かが爆発してしまう。そう感じたからだった。
才人もルイズに気づいたらしい。しかし、澄ました顔で目をそらす。横目でそんな才人の顔を盗み見るルイズの頭に、かぁっと血が上った。これ以上ない、というくらいにルイズは震えた。しかし……、皆が見ている前で、怒りを爆発させるわけにはいかない。そんなの、貴族のプライドが許さない。
ルイズは深く深呼吸すると、がしッ! と太ももをつまんだ。激痛が走る。それで怒りを抑え、ルイズは再びぎくしゃくと歩き出した。
すれ違いざま、才人ではなく、隣にいたマリコルヌがルイズに声をかけた。
「やあルイズ! 今から訓練でね、きみの使い魔を借りるぜ」
「ど、どど、どどどどどどどどどどどどど」
「ど?」
マリコルヌの顔が、一瞬青ざめる。
「どどどどど、どうぞご自由に」
震《ふる》える口調でルイズは言った。才人《さいと》も澄ました顔で横を向いたまま。
そんなルイズと才人を交互に見つめ、マリコルヌは首を傾《かし》げた。
「どうしたんだい? ケンカでもしたのかい?」
「けんか? あっはっは! そんなことするわけないじゃないか! さて諸君、急こうじゃないか! 訓練の時間は短いからね!」
才人は、マリコルヌを促すと妙に浮かれた足取りで歩き出した。マリコルヌや騎士隊の面々は、首を捻《ひね》りながら才人のあとを追いかけた。
ルイズは唖然《あぜん》とした顔でその背中を見送った。その顔が、ついで真っ赤になる。わなわなわな、と震えたあと、ルイズはポケットから先ほどのノートを取り出した。そこにさらさらさらと、何事か書き込む。再びそのノートをポケットに入れ、ルイズは歩き出した。
その夜……。
女子|寮《りょう》の部屋の中、シエスタの給仕でルイズと才人はワインを嗜《たしな》んでいた。嬉《うれ》しそうな声で、シエスタが二人にワインを注ぎながら言った。
「こないだ、マルトーさんから頂いたワインです。なんでも、ガリアのワイン品評会で二等賞に輝いた逸品なんですって。名前は忘れちゃいましたけど……」
しかし、才人とルイズは黙々とワインを傾《かたむ》けるばかりである。
シエスタはそんな二人を、怪訝《けげん》な面持ちで見つめた。
アルビオンから帰ってきてこっち、二人はこんな風なのである。お互い、ほとんど口をきかない。なんだか怒ったように黙りこくり、目も合わせようとしない。
それにルイズは、夜中になるとどこかに行ってしまう。いったいどこで何をしているのだろう? 目の下にクマをつくって帰ってくるのだが、その剣幕から何も聞けないでいた。才人に相談したら、『ルイズなりにいろいろ考えることがあるんじゃないカナ』と、妙に浮かれた答えが返ってくるばかり。
まったく、二人の様子と態度の意味がわからない。
そんな雰囲気がイヤでシエスタはわざわざワインを貰《もら》ってきたのだが……、よいお酒も雰囲気の緩和《かんわ》にはあまり効果はなかったようだ。
「じゃあそろそろ寝ますか」
シエスタはベッドを用意すると、二人を促した。今日はルイズは夜中の散歩には出かけないようだ。もそもそと、才人とルイズはベッドに入る。お互い背を向けて、二人は丸まった。シエスタは寝巻きに着替えると、才人の隣にちょこんと滑り込む。
そろそろと才人の肩に頬《ほお》を乗せようとしたが……、シエスタは妙なオーラに気づく。そのオーラはルイズの背中から発されているのであった。
どよんどよん……、とそのオーラはルイズの背中で淀《よど》み、蠢《うごめ》き、シエスタを圧迫する。
シエスタは才人《さいと》に伸ばした手を引っ込めた。
なぜか、そうしないといけない気がしたのだ。
才人の肩に頬《ほお》を預けようかどうかとしばらく迷ったあと……、昼間の疲《つか》れがどっと身体《からだ》を襲い……、シエスタは寝息を立て始めた。
シエスタが眠りにつくと、ルイズの身体が動き始める。
くるりと同転し、才人のほうを向いた。
才人も起きていたようだ。横目で、そんなルイズを見つめる。
ぼそりと、怒りを通り越した声でルイズは呟《つぶや》く。
「なんで昼間は無視するのよ〜〜〜〜〜。というか最近、ずっとそんな感じじゃない〜〜〜〜〜。なんなのよ〜〜〜〜〜」
いろいろと尋ねたいことがあったが、深い質問はできない。とりあえず昼間の態度から攻めることにしたのである。
涼しい声で、才人は言った。
「え? おまえが無視するからだろ?」
「こ、こういうときは、そっちが話しかけてくるのが当たり前じゃない!」
すると才人は微笑を浮かべてルイズに言った。なんだか温《ぬる》い、微笑であった。
「勝手な理屈こねるなヨ。わがままさんだなルイズは。明日も早いんだ。ほら寝るぞ」
才人は目をつむると、シエスタのほうを向こうとした。するとルイズは、ふにゃっと顔
を崩し、毛布の中でじたばたと暴れた。なんだか、とても悲しくなってしまったのである。
「そっち向いちゃだめ」
そして才人の袖《そで》をついついと引っ張った。
しかし、つれない態度で才人は言った。
「おやすみ」
「こ、こっち向きなさいよね!」
しかし、才人はシエスタの方を向いたままである。
「いいもん。そんな使い魔しらない!」
ルイズは毛布を引っかぶる。しかし……、すぐに気になったのか、再びこっそりと様子をうかがうかのように毛布から顔半分だけ出した。
それでも、才人の背中は依然向けられたまま。
ルイズは半泣きになると、悔しそうに、う[#濁点付き平仮名う、1-4-84]…、う[#濁点付き平仮名う、1-4-84]…、と唸《うな》った。しかし、どうにもこうにも才人は振り向かない。
そのうちに才人は寝息を立て始めた。
寝てる!
ルイズはわなわなと震《ふる》えた。
なんなのよ! この一週間のこいつの態度、なんなわけ?
フネの中であれだけのことしといて、この手のひら返したような態度はなに?
信じられない!
毛布の中、ルイズは怒りをぐるぐると回転させた。
いっつも好きだって言ってなかった? もしかしてあれ嘘《うそ》なの?
アルビオンでのフネのこと、もしかして一時の気の迷いとか?
しばらくルイズは毛布の中でじたばたと小刻みに暴れたが……、どうにもならない。どうしてそんなに冷たい態度をとるのだろう。冷静になってみれば、なんとなく思い当たる節がある。才人《さいと》はいつも好き好き自分に言ってくれるが……、自分は気持ちを伝えていない。
でも、でもでも、しかたないじゃない!
才人が帰るときに、気持ちを伝えるって決めたんだもの!
だからこそ、早いところ帰る方法を探しに行きたいのだが、このバカときたらずるずると居ついている。まあ、なんとなくその理由もわかるけど……。
虚無の担《にな》い手の自分は、ガリアに狙《ねら》われている。
タバサと、その母の問題も解決していない。
それらを放り出して帰るのは、才人の責任感が許さないのであろう。
ガンダールヴとして与えられたこっちにいるための理由としての、偽りの責任感じゃなく、才人個人の責任感として……。
でも、こっちにいるならいるで、もう少し優しくしてよね。というかほったらかしってどゆこと?
何が桃髪能天気よ! 好きで桃色なんじゃないわよ!
こないだのセリフやいろんなことが次々、頭の中に蘇《よみがえ》り、ルイズは混乱と怒りで震《ふる》えた。こうなってしまうと、言われた言葉や、以前の態度が蘇り、さらにルイズを苛立《いらだ》たせるのであった。
そんな苛立ちの中、ルイズは徐々に不安になっていく。
一番間抜けなのは……、そんな風に自分が「帰る方法を見つけてから気持ちを伝える』と決めたはいいけれど、その前に才人の気が変わることだ。
もし自分じゃなく、他《ほか》の女の子に惹《ひ》かれて、『やっぱこっちにいる』なんて言い出されたらどうしよう。
頭の中に、数々の魅力的な女の子の姿が浮かぶ。
姫さまは、どうやら一時の気の迷いだったらしいけど……、未《いま》だ自分と才人の近くには、油断ならない女の子がたくさんいる。
そこで寝ている健気《けなげ》なシエスタ。
どうやら才人《さいと》に尽くすつもりの小さなタバサ。
でも何より、警戒しなくてはいけないのは……。
ルイズの脳裏《のうり》に、昼間の出来事が蘇《よみがえ》る。アルビオンから連れて帰ってきた、金髪の妖精《ようせい》の姿がまぶたの裏に浮かぶ。
胸がおかしいハーフエルフ。
彼女の取り巻きの中に、自分の使い魔が入らない、という保証はどこにもないのだ。才人は自分のことを好き好き言うが、どんだけ気まぐれな性格をしているのか、そばにいる自分が一番よく知っている。
そうよ。こいつ、いっつも大きい子見てたじゃない。
そんな不安が生まれると、ルイズはもうどうにもならなくなった。
いや、自分より小さなタバサだって怪しい。ルイズより小さい! それって最高! なんて言い出して夢中になるやも限らない。
帰る方法を探す前にそんな事態が訪れてしまったら?
自分の気持ちを伝える前に、才人の気持ちが変わってしまったら?
わたしはハルケギニア一の間抜けとして歴史に名を残すかもしれないわ。
考えれば考えるほど頭が混乱する。
そのうちにルイズは考え疲《つか》れ……、睡魔《すいま》の誘惑に抗《あらが》いきれなくなり……、寝息を立て始めた。
ルイズが眠ったことに気づくと、才人《さいと》は目を開いた。
ほんとに寝たのかどうか確かめるために、ちょんちょんと鼻をつつく。くか〜〜〜、と可愛らしい寝息が響く。どうやらきちんと寝ているようだ。
才人は心の中、凱歌《がいか》をあげた。
ルイズの扱いはネコのそれに近い、と判断した自分は間違ってなかった。
こっちが近づくと、ルイズは調子に乗る。そりゃもう、天をつくぐらいに能天気に調子に乗る。熱っぽく見てあげている才人を見つめ、『いやだ、可愛いって罪ね!』ぐらいのことを平気でのたまうのである。
しかし……、ほら、このようにちょっと冷たくしたらどうだ?
まず、こちらの反応をうかがうために離れる。夜の散歩がそうだ。
それでも追いかけないでいると……、不安げにこっちの様子をうかがい、しかる後に近づいてくる。ああ、ぴったしじゃねえか。
すげえ。天才だ俺……。
そう。余裕が大事なのだ。才人は強く心に言い聞かせた。余裕こそが、ルイズのような、自分が世界の中心と思っている女の子を振り向かせるのだ。
しかし、こうやって寝顔を見ていると、ルイズはほんとに可愛い。
すっと伸びた鼻筋……、長い睫毛《まつげ》が被《かぶ》さった、閉じられた目のかたち……、小さくて、わずかにぽてっとした唇。
思わず唇に自分のそれを近づけようとして……、才人は首を振る。
まだだヨ。
まだなんだヨ才人。
もうちょっとで、ルイズは完全に転ぶ。今、手を出してみろ。
勝ち誇ったルイズの顔が浮かぶ。
イヤなモグラ! やっぱりわたしに触りたいのね! どうしよっかな。ああそうだ!触りたかったらわたしのこと、一冊の本になるぐらい褒めてよね。じゃないと何もしてあげなーい。なーい。
ぐらいのことを平気で言い放つだろう。
負けてたまるか、と才人は己の右手首を握り締めた。
我慢だ才人。勝利の甘い果実はすぐそこだぜ? ここで誘惑に負けたら、今までの……、アルビオンから帰ってきてからこっちの努力が、すべて水の泡じゃねえか。
しかし、どうにもこうにもルイズは可愛い。唇を伸ばし、引っ込め、手を伸ばし、引っ込め、を繰り返していると、後ろから声がした。
「なにしてるんですか?」
シエスタの声だった。
振り返ると、ニコニコと笑みを浮かべている。
「お、起きてたの?」
「何かがさごそ音がするもんですから。起きちゃいました」
にこっとシエスタは笑った。
「ご、ごめん……」
と、才人《さいと》が言うと、シエスタは首を振った。
「帰る方法、探しに行かないんですか?」
いきなりの言葉に、才人はぎょっとした、
「……え?」
「ミス・ヴァリエールがいつもおっしゃってるんです。『あのバカ、まったくいつになったら帰る方法探しに行くのよ』って」
ぽりぽりと才人は頭をかいた。
「そりゃ帰りたいさ」
「じゃあどうして?」
ぐいつと、シエスタは身体《からだ》を近づけてきた。
「世話になった人たちの問題が解決してない。ほっぽりだしたら、後味が悪い」
才人が真面目《まじめ》な声でそう言うと、シエスタは微笑《ほほえ》んだ。
「やつばりサイトさんは、わたしが決めたサイトさんだわ」
「へ?」
真顔でそんなこと言われて、才人は赤面した。
「でもいつか……、サイトさんは帰っちゃうんですよね。そうなったらお別れなんですか?」
急にしんみりした空気が二人の間を覆う。
「それは……」
「わたし、イヤですからね。そんなの」
才人は黙ってしまった。
そう。
もし、帰る方法が見つかったとして……。
自分は素直に、こっちの人たちとお別れできるんだろうか?
ルイズと、お別れできるんだろうか?
そう考えると、帰る方法探しにも、あまり積極的な気分になれなくなってくる。帰りたい。でもルイズとは別れたくない。
そんな矛盾《むじゅん》する二つの希望の間で、才人《さいと》は揺れた。
才人が考え始めると、シエスタはにっこりと笑った。
「あまり難しく考える必要はないんじゃないですか? そのときがきたらそのとき考えればいいんです」
シエスタにそんな風に言われ……、才人はアルビオンから帰ってきて以来、なんだか胸の中で渦巻いていたもやもやが晴れていく気がした。
「シエスタ、頭いいな」
そうだな、と思う。
考えたって始まらない。
そのうち、きちんと答えが出るだろう。今は目の前のことだけ考えよう。
「とにかく今を楽しまないのは、損です。だからいっぱい楽しみましょうね。そのお手伝いならいくらでもしますから!」
がばっと、シエスタは才人に抱きついてきた。柔らかな胸が押しつけられ、才人はそれだけで悶絶《もんぜつ》しそうになった。
シエスタは熱っぽい目で才人を見上げると、積極的に唇を押しつけてくる。
「ちょ、ちょっと……」
「しっ……。ミス・ヴァリエールが起きちゃいますよ?」
悪戯《いたずら》っぽい笑みを浮かべ、シエスタが言った。軽く唇を才人に押しつけると、シエスタは才人を熱っぽく見つめた。
「楽しむのはいいですけど、他《ほか》の女の子とこういうことしちゃダメですからね」
「う、うん」
「ミス・ヴァリエールはまあ、しょうがないですけど。たとえば、そう、サイトさんがアルビオンから連れてきた方とか」
「テファ? まさか! 友達だよ」
「こっちがそう思ってても、向こうがそう思ってないことだってあるんですから」
シエスタにそんなことを言われ、才人はぎょっとした。
「ど、どういう意味?」
しかしシエスタは答えない。毛布を被《かぶ》ると、おやすみなさい、と言って目をつむる。
「シエスタ、ちょっと。さっきの……、ぐえっ!」
頭に衝撃が走り、才人は恐る恐る振り返った。
「ふが……」
ルイズが、両腕《りょううで》を大きく広げて寝息を立てている。どうやら寝ぼけて、才人の頭を叩《たた》いたようだ。
才人は唇に手をやり、それから叩かれた頭をさすった。それから困ったように口をへの字に曲げながら、ルイズの布団をかけなおしてやった。
両腕《りょううで》を頭の後ろで枕《まくら》にして、才人《さいと》は目をつむる。
シエスタの言葉で、ティファニアのことが脳裏に浮かんだ。
そういや、アルビオンからいきなり外国に連れてこられて、困っていないだろうか?
昼間の様子を見るに、そんなに心配することもないのかな。
どうやら、かなりの人気者になっているみたいだし……。
話しかけようと思っても、取り巻きが多くてそれどころじゃない。夜、寮《りょう》の部屋を訪ねてもいいけど、一人になりたい時間もあるだろうし。
それに……、なにせティファニアには秘密が多すぎる。その秘密を知られちゃいけない、と考え、接触を控えていた部分もあった。とんでもない手柄をたてて平民から貴族になった才人は、よくも悪くもここでは有名人なのだ。そんな才人と親しげにしていたら、余計にあの子何者? と勘ぐられてしまう。
でも、そろそろ様子を尋ねにいこう、と才人は思った。ほとんどあのウエストウッド村しか知らなかったティファニアにとって、いきなり外国で暮らす、ということはかなりのストレスに違いない。いくら本人が『外の世界を見てみたい』と望んでいたからって、ストレスには変わりないだろう。
明日あたり、ティファニアと話してみよう。
そんなことを考えながら、才人も眠りの世界へと旅立っていった。
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第二章
魔法学院の朝は、寮《りょう》塔から本塔にある食堂へと向かう、女子生徒たちの姿で始まる。
男子寮は本塔にあるので、男子たちはこっちにやってくる女子生徒たちを、食堂の中二階から張り出したバルコニーから眺めながら、朝食のメニューを噂《うわさ》しあうのである。
才人《さいと》はバルコニーに肘《ひじ》をつき、ギーシュやマリコルヌとそんな様子をぼんやりと眺めていた。
女子生徒の中に、ティファニアを見つけ才人は手を振った。ティファニアも気づき、手を振り返す。
ギーシュが、才人に尋ねた。
「あんな魔法兵器を見て、きみはよく冷静でいられるな」
「お前たちがおかしいんだよ。胸ムネむねって。おっぱい星人かよ」
「あんなものを見てしまったら、そりゃ星人にもなるさ」
ギーシュはそれから才人を、心配そうに見つめた。
「なんだよ」
「きみ……、もしかしてまだ、ルイズの魔法が抜けきっていないんじゃないのかね? もしかして、今度は使い魔だからルイズしか見えなくなっているとか。そういうことはないかね?」
マリコルヌも、才人に疑わしそうな視線を向けた。
「そうそう。ルイズの魔法なんか知らないけど、ヘンだよサイト。こないだ、ぼくたちに付き合ってくれなかったしな。せっかくホンモノかどうか確かめるチャンスだったのに……」
二人の低脳は、顔を見合わせて、うむ、と頷《うなず》きあう。
「バカ言うなよ。いいか、お前たちに一つ教育してやる」
才人は得意げに腕《うで》を組んだ。
「是非とも頼む」
「ええと、例えば、俺たちは犬だとする」
「犬なんていやだよ」
「同意だ」
「例えばの話だっつの。いいか、俺たちは犬で、骨をくわえているとする。一生懸命になって、手に入れた骨だ。そこで新しい骨を見つけた。さあどうする?」
ギーシュが、すかさず答えた。
「拾う」
「ばか。今までくわえていた骨はどうするんだ? 落っこっちゃうだろ?」
ギーシュは、はっ! とした顔になった。
「つまり、きみの言いたいことはこうだな? 今までくわえていた骨はモンモランシー。道端に落ちている骨は、あのムネがおかしいティファニア嬢や、女王陛下、そして一年のシゲルのクラスのマリアンヌ、同じく一年生の軽い巻き毛が眩《まぶ》しいマルゴ……」
「お前はいつの問にそんなチェックしてんだよ。まあ、とにかくそういうことだな。二つ骨をくわえることは、人間には無理なんだよ」
才人《さいと》はわかったように首を振った。
「つまり、きみはもう骨をくわえている、ということなんだな?」
「ああ。くわえている骨、怒っちゃうだろ。そういう態度を見せないことがなにより大事なのさ」
「ということは、きみ……」
ギーシュがにやっと笑みを浮かべ、才人の横腹をつついた。
「ルイズをもう、きちんとその口でくわえたのかい? そのときの様子を、微《び》に入り細に入り、語りたまえよ」
才人は首を振った。しかし、何故か自信たっぷりである。
「まだだ。しかし……、時間の問題だな」
「あのじゃじゃ馬を、よくもまあ手なずけたもんだな!」
「ちょっと冷たくしてみたら……」
才人は手を広げて、空を仰いだ。調子に乗っていた。
「し、しし、尻尾《しっぽ》ふってきやがったぜぇ。ちくしょう、今まで散々調子に乗りやがってぇ……。見てろよ……、俺が味わった屈辱を何倍にもして返してやるぜぇ……」
空を見上げ、わなわなと震《ふる》えながら才人は拳《こぶし》を握り締めた。
そんな才人をギーシュは頼もしげに見つめる。
「いやぁ、それでこそ副隊長。そうだよ、女の子にばかにされっぱなしじゃ、貴族はやってられないよなぁ」
「貴族はともかく、そのぐらいしてもバチは当たらないと思う。今までの態度を鑑《かんが》みるに、な」
「なあ、きみ」
そんな才人に、ギーシュは目を細めて言った。
「ん?」
「こないだから、ずっと思っていたんだが……」
「なんだよ」
こんなバカ話をしているときなのに、妙に真面目《まじめ》な口調である。
「こっちにずっといたらどうだ?」
「へ?」
それからギーシュは、ちょっと恥ずかしそうに顔を伏せた。
「なんというかね……、きみのいた国はどうか知らないが、こっちにだって可愛い女の子はいるし……、貴族にだってなれたじゃないか。もしルイズに放り出されるようなことがあったら、ぼくの領地に来ればいい。きみ一人ぐらい、養ってやるぜ」
いきなりそんなことを言われて、才人《さいと》はなんだか照れくさくなった。その照れを誤魔化《ごまか》すために、才人は横を向いて言った。
「どういう風の吹き回しだよ。お前がそんなこと言うなんて」
「う、うるさい! いいじゃないかね!」
ギーシュも横を向いた。
才人は空を仰いだ。
こっちの世界でずっと暮らす、かぁ……。
ルイズの魔法によるものかどうかは知らないが、『こっちの世界で何か自分にできることを探す』という呪縛《じゅばく》から解放され、里心に目覚めた自分だ。
やはり、家族の絆《きずな》は断ちがたい。
でも、今のギーシュの発言で、心に芽生えた気持ちはなんだろう?
ルイズへの思慕とは、また違った感情だった。
照れくさいだけじゃなく、なんだか心地よい、妙な気分だった。
そんな才人を見つめ、ぽつりとマリコルヌが呟《つぶや》いた。
「ねえ副隊長」
「ん? なんだよ」
我に返った才人は、マリコルヌのほうを向いた。
「くわえる骨がない子は、どうするの?」
淡々と、マリコルヌは尋ねた。才人とギーシュは顔を見合わせる。それから二人はなだめるような笑みを浮かべた。
「ど、どうしたらいいんだろうな」
「教えてよ」
聖職者のような、慈愛に満ちた笑顔でマリコルヌは尋ねた。ギーシュが誤魔化すように、二人を促した。
「さて諸君! そろそろレディたちが席に着き、朝食が並ぶ時間だ! 食堂に戻ろう!」
「そうだな!」
才人もわざとらしく頷《うなず》く。
「教えてよ。太陽さん」
食堂へと消える二人を尻目《しりめ》に、 マリコルヌは太陽を仰いで言った。
魔法学院では朝食のあと、一回の授業を挟《はさ》んで、三十分の休み時間が設けられている。
その休み時間、一年生のソーンのクラスでは、金髪の妖精《ようせい》が肘《ひじ》をついて物憂げにため息をついていた。
ティファニアであった。
こうやって外の世界に出られたのはいいけれど……、なんだか倒れちゃいそうだわ。
心の中で、そんな言葉を呟《つぶや》く。
そんな疲労は、今日に始まったことではない。
才人《さいと》たちの手引きでトリスタニアへ到着したのち、様々な出来事がわずか一日二日の問に起こり……、ティファニアは初日から疲《つか》れて死にそうになってしまった。
入国手続き、マザリーニ枢機卿《すうききょう》とマリアンヌ太后陛下への目通り……、しかし自分の従姉《いとこ》にあたるアンリエッタ女王陛下への目通りはかなわなかった。アンリエッタは、ロマリアへ親善訪問に出かけたあとで不在だったのである。
一番つらかったのは、親代わりであった孤児たちと別れるときだった。彼らはトリスタニアにある修道院に引き取られることになったのだが、やはり別れの瞬間はお互い泣いてしまった。思わず、村に帰ろうか、と言ってしまったティファニアに、子供たちは首を振った。
「ぼくたちなら平気だよ。心配しないで」
年長のジムは、そう言って目をこすり、笑った。
しかし、しんみりしたお別れの時間はそれほど貰《もら》えなかった。トリスタニアに到着したその日のうちに、アニエス隊長率いる銃士隊に警護され、ティファニアは魔法学院へとやってこなければならなかった。
事情を聞いていたオスマン氏に引き合わされ、寮《りょう》の一室を与えられた。一日の休みをおいて、ティファニアはクラスメイトたちに紹介された。
それから十日ほどが過ぎた。
見るもの聞くものすべてが目新しく、毎日がそれまでの一年分と同じ密度を持っていた。トリステイン魔法学院は、ウエストウッド村とはまったく環境が違う。子供たちと森の小動物しかいなかったウエストウッド村と違って、ここには年頃《としごろ》の貴族たちが何百人もいて、それだけでティファニアは目が回りそうだった。
心労はそれだけに留まらなかった。
おとなしい性格のティファニアは、どちらかというと、静かに学園生活を送りたかったのだが……、彼女の容姿がそれを許してくれなかった。
今の彼女の心を一番疲れさせるものは……、あまり意識することのなかった自分の容姿が引き起こした結果と、その結果が生み出した逆恨みに近いいらぬ嫉妬《しっと》であった。
肘《ひじ》をついて物憂げにため息をつくティファニアの周りに三人の男の子が現れた。
編入初日から、ティファニアにつきまとうようになった少年たちである。三人の中で一番背の高い、そばかすが目立つ少年が、ティファニアの前で一礼する。
「ミス・ウエストウッド」
育った村の名を、ティファニアは仮の姓にしていた。
ティファニア・ウエストウッド。
随分怪しい名前であったが、つまらぬことで家名を汚《けが》さぬために仮の名を使う貴族は少なくない。正体は世を忍ぶ名門貴族だろうと当たりをつけたのだろうか、ティファニアの名前をどうこういう貴族はいなかった。
さて、そばかすが目立つ少年は、夢中になってティファニアを口説き始める。
「|白の国《アルビオン》から来られたレィディ。あなたの肌は、そのお国の名前のように白く透き通るようで……、あまりにも眩《まぶ》しくて目が焼けてしまいそうです! さて、なにかお飲み物をお持ちしましょうか? なんなりとこのシャルロにお申しつけくださいませ」
すぐにもう一人が、シャルロと名乗った少年を押しのける。
「いやいやいや! 是非ともぼくに、その大役を任せてください!」
たかが飲み物を運んでくるのに、大役もなにもないものだが、トリステイン貴族はおしなべてこのように物言いが大げさなのである。ティファニアは、ちょっと困ったような笑みを浮かべ、手を振った。魔法学院にやってきてから、一番多用している仕草であった。
「ありがとう。でも喉《のど》かわいてないから」
努めて笑顔を浮かべると、三人はせつなそうに首を振った。シャルロなどは、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて、その場に倒れこむような雰囲気である。
「ではでは、午後になったらわたしと遠乗りなどいかがですかな?」
一人の少年がそう言うと、今度は五人ばかりの集団が現れた。
「遠乗りならぼくも誘《さそ》うぞ」
「ぼくもだ」
「いやいや、ここはぼくが……」
「ぼくの馬は、アルビオンの生まれですよ!」
「お好きな馬をおしゃってください。速いのならメクレンブルク種、疲《つか》れない馬ならアルヴァン種、もちろんぼくはどっちも持っております」
八人に増えたテイファニアの崇拝者《すうはいしゃ》たちは、喧々囂々《けんけんごうごう》の議論をおっぱじめた。議題はもちろん、誰がティファニアを遠乗りに誘うのか、ということ。
困りきったティファニアは、被《かぶ》った帽子のつばを掴《つか》み、深く顔を埋めた。
「あの、日焼けするといけないから……。遠乗りはちょっと」
秘密を隠すための建前《たてまえ》を使い、ティファニアは誘《さそ》いを断ろうとした。しかし、墓穴を掘ってしまったようである。
待ってましたといわんばかりに、シャルロがにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「そう思ってほら、ぼくは帽子を用意したよ。つば広の、トリスタニアで流行の羽白帽子ですよ」
見事な生地の、大きな白い帽子であった。ティファニアの被《かぶ》った帽子より、つばが二倍も広い。
「ほら、被ってごらんよ」
シャルロはティファニアの帽子に手を伸ばした。咄嵯《とっさ》にティファニアは帽子を押さえ、首を振る。
「い、いい。ありがとう」
ティファニアは帽子を掴《つか》んだまま、教室を飛び出していってしまった。後に残されたシャルロは、呆然《ぼうぜん》と立ち尽くす。
「そんなにぼくの帽子、気に入らなかったのかな?」
周りの男子が、一斉にそんなシャルロを小突き回し始める。
「おいシャルロ! お前のせいで”金色の妖精《ようせい》”が機嫌《きげん》を損ねてしまったじゃないか!」
そんな騒ぎを遠巻きに見ていた女生徒の一人が、苦々しげに舌打ちした。
見事な長い金髪を左右に垂らした少女である。背は低めだったが、身にまとう高飛車な雰囲気が、辺りを圧迫していた。青い、気の強そうな瞳《ひとみ》が|爛々《らんらん》と怒りに輝いている。
彼女は廊下《ろうか》へと消えたティファニアの背中に向かって、はき捨てるように呟《つぶや》く。
「殿方の扱いがなってないわね。まあ、田舎育ちのようだから、しかたがないのでしょうけど」
金髪二つくくりの少女がそう眩くと、周りにいた少女たちが一斉に頷《うなず》いた。
「そうですわそうですわ! その上、未《いま》だにベアトリス殿下にご挨拶《あいさつ》がないなんて! これだから田舎者は困りますわ!」
ベアトリス殿下と呼ばれた金髪の少女は、得意げな笑みを浮かべた。どうやら周りの少女たちは、彼女の取り巻きのようだ。
ベアトリスは、ティファニアが来るまで、その生まれの高貴さとちょっと人目をひく可愛らしい容姿で、一年生のクラスの人気を独り占めにしていた少女であった。しかし、ティファニアがやってきたことで、その天下はあっけなく終わってしまった。さっき、ティファニアにまとわりついていた少年たちは、つい先日までベアトリスを神とあがめていた連中だった。
「田舎育ちかもしれないけれど、”田舎者”なんて…言ったら失礼だわよ」
人を小ばかにするような薄い笑みを浮かべながら、ベアトリスは言った。
「申し訳ありません! ベアトリス殿下!」
褐色の髪の少女が、ぺこぺこと頭を下げる。
「ただ、わたしの生まれたクルデンホルフ大公家は、現トリステイン女王陛下であらせられるアンリエッタさまと縁の深い家ですの」
「そうですわ! ベアトリス殿下! なにせクルデンホルフ大公家は、先々代のフィリップ三世陛下の伯母上の嫁《とつ》ぎ先の当主様の御兄弟の直系であらせられるんですもの!」
「トリステイン王家と血縁関係!」
一人の少女がそう叫ぶと、残りの少女たちが唱和する。
「トリステイン王家と血縁関係!」
「その上、クルデンホルフ大公国は、小国といえどれっきとした独立国ですわ!」
ベアトリスの母国、クルデンホルフ大公国は、功あって時のトリステイン王から大公領を賜《たまわ》った独立国である。まあ、いわゆる名目上の独立で、軍事及び外交は他《ほか》の地方貴族と同じく王政府に依存《いぞん》していたが。
しかし名目上に過ぎぬとはいえ、独立国ということには変わりない。ベアトリスも、礼式の上では”殿下”と呼ばれてしかるべき一族の一人であった。
「つまり、わたしをないがしろにするということは、トリステイン王家をないがしろにするのと同義,彼女、アルビオン育ちのようだから、大陸《ハルケギニア》の事情に疎《うと》いのは無理からぬことだけれど、礼儀はきちんとわきまえないとね」
「殿下のおっしゃるとおりですわ!」
「さてさて、あの島国人に礼儀というものを、教えてあげなくてはね」
ベアトリスは、意地の悪い笑みを浮かべた。
教室を出たティファニアは、帽子をきゅっと両手で握りながら、小走りで廊下《ろうか》を駆《か》け抜けた。本塔を出て、中庭に飛び出す。
あまり人の来ないヴェストリの広場までやってくると、ふぅ、とため息をついて火の塔のそばにある噴水の縁《ふち》に腰掛《こしか》けた。
見てみたい、と、ずっと思っていた外の世界は、想像以上に騒がしく、ガサツで、勝手に家に上がりこむ押し売りのようだった。
空を見上げた。
この青い空だけは、ウエストウッド村と変わらない、とティファニアは思った。退屈だったかもしれないけれど、楽しく、穏やかだった日々……。
そんな日々を思い出し、不意に泣きそうになってしまい、ティファニアは帽子のつばに深く顔を埋めた。
子供たちは元気にやっているだろうか? 自分みたいに、心労と不安で押しつぶされそうになっていないだろうか? そんな心配とこれからの生活に対する不安が入り混じり、ティファニアの目から涙がこぼれた。
そんな風に俯《うつむ》いて一人泣いていると、いきなり声をかけられた。
「ミス・ウエストウッド?」
ティファニアは顔をあげた。同じクラスの女生徒が五人ばかり立って、ティファニアを見下ろしている。慌ててティファニアは立ち上がった。
「こ、こんにちは」
褐色の髪の子が、金髪二つくくりの少女に向けて紹介するように手を伸ばし、ティファニアに尋ねた。
「あなた、こちらの方をご存知?」
えと、誰《だれ》だったろう?
同じクラスの人とはわかるのだが、名前が出てこない。
「ご、ごめんなさい。お名前をまだうかがってなかったわ」
恥ずかしそうにそう言うと、褐色の髪の子の目がつりあがる。
「あなた、こちらのお方をどなたと心得るの? 未《いま》だにお名前すらご存知ないなんて!本来なら編入初日に挨拶《あいさつ》があってしかるべきお方よ」
「ほんとうにごめんなさい。わたし、まだこっちに慣れてなくて……」
どうやら相手は怒っているらしい。ティファニアはしどろもどろになった。
「よくってよ」
金髪二つくくりの少女は、右側の髪房をかきあげた,その仕草に、獲物を追い詰めるときの喜びが混じっている。
褐色の髪の少女が、そんな彼女をティファニアに紹介する。
「こちらのお方は、ベアトリス・イヴォンヌ・フォン・クルデンホルフさまにあらせられるわ」
その名前でベアトリスのすごさがわかるでしょ? と言わんばかりの態度で、褐色の髪の少女はふんぞり返る。まるで自分が大公家の娘でもあるような態度だった。
しかしティファニアは、ずっと森の中で育ったために世情に疎《うと》い。クルデンホルフなんて吹けば飛ぶような小国の名前など、知るはずもなかった。
それでも相手の機嫌《きげん》を損ねては、と思い一生懸命に笑顔を浮かべた。
「まあ、それはそれは。よろしく。クルデンホルフさん」
しばしの時間が流れた。
ベアトリスのこめかみがひくついた。褐色の髪の少女が慌てて、ティファニアに詰める。
「ミス・ウエストウッド! クルデンホルフさんはないでしょう? あなたの目の前におられるお方は、クルデンホルフ大公国姫、ベアトリス殿下なんですのよ!」
「は、はぁ」
ティファニアは当惑の表情を浮かべた。ティファニアはある意味、この世界のルールとは無縁に生きてきたのである。そういう意味では、貴族や階級制度に対する感覚は、異世界からやってきた才人《さいと》のそれに近い。
まあ、“大公国”や“殿下”の意味は知っていたし、それがこの世界でどういう地位を築いていて、どういう扱いを受ける存在なのかも一応は理解していた。
ただ、それを肌で実感してはいなかった。つまり、世の中には、呼び方一つでへそを曲げる人種がいることを、ティファニアはよくわかっていなかったのである。
殿下?
とにかくいきなり飛び出た宮言葉に、ティファニアは戸惑った。
えと、ここは皆が平等に机を並べる学《まな》び舎《や》ではないの?
そんな尊称で呼びかける必要がどこにあるのだろう?
疑問に思ったが、自分は新入りである。とりあえず相手の機嫌《きげん》をこれ以上損ねては、と考え、ティファニアは素直に頭を下げた。
「ほんとにごめんなさい。わたし、アルビオンの森の中で育ったものだから……、大陸の事情に疎《うと》いの。失礼があったようなので、お詫《わ》びするわ。えと、殿下」
「それが殿下にお詫びを捧《ささ》げる態度なの? まったく、まともな社交も知らずに育ってきたんでしょうね!」
「そんな娘を、この由緒正しいトリステイン王国へ留学させようだなんて! 親御さんのお顔を拝見したいものだわ!」
「……ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい」
ティファニアはぺこぺこと何度も頭を下げた。しかし、ぽっと出の田舎者に、クラスの男子の人気を奪われた女子生徒たちの怒りはおさまらない。
「ミス・ウエストウッド。あなた、帽子を被《かぶ》ったまま、謝罪をする気なの?」
褐色の髪の少女が、にやっと笑って言った。
「そうよそうよ! リゼットさんの言うとおりだわ!」
ティファニアは帽子を押さえた。
この帽子を取るわけにはいかない。帽子を取ったら、長い耳があらわになってしまう。自分にエルフの血が混じっていることがバレてしまう。そうなったら大変である。
ここを追い出されてしまうかもしれない。
いや、それだけではすまないかもしれない。ハルケギニアの人間たちが、どれだけエルフを嫌っているのか……、ティファニアは知っている。
ティファニアは、顔から血の気が引いていく気がした。
もし、見られたら……、虚無呪文《じゅもん》”忘却”で記憶を奪えばいいのだろうか?
えと、いっぺんに五人も?
それ自体は不可能ではないが、ここは小鳥と子供たちしかいなかった森の中ではない。真っ昼間の魔法学院である。
誰《だれ》が見ているとも限らない。クラスメイトにそんな怪しい魔法をかけたことがバレたら、本当に追い出されてしまう。
ティファニアは本当に困ってしまった。
エルフの血が混じっていることは隠し通さねばならない。
かといって、“忘却”も使えない。
そうなると、絶対にこの帽子を脱ぐわけにはいかないのだった。
「帽子、脱ぎなさいよ」
ティファニアは首を振った。
「ごめんなさい。この帽子は脱げないの。脱いだら、その……」
「日焼けしてしまう、と言いたいのでしょ?」
「う、うん。そうなの。だから……」
こくこくとティファニアは頷《うなず》いた。
「何も一日中外せと言ってるわけじゃないわ。ほんの数秒じゃない」
それでもティファニアは帽子を押さえたまま動かない。業を煮やしたのか、リゼットを筆頭としたベアトリスの取り巻き少女たちは、ティファニアの帽子に手を伸ばした。
「脱ぎなさいよ。ほら」
「ゆ、ゆるして……、お願い」
帽子のつばを掴《つか》んでの、小競り合いになった。
「おい、なにやってんだ?」
男の声がして、一同は振り返る。見ると、黒い髪の少年が驚いた顔で突っ立っていた。
「サイト!」
まさに地獄で仏といった表情で、ティファニアは才人《さいと》に駆《か》け寄った。その腕《うで》に寄り添い、恥ずかしそうに俯《うつむ》いた。
「おいどうした? 苛《いじ》められてたのか?」
ティファニアは応《こた》えない。
才人はティファニアを取り囲んだ五人ほどの女子のグループを眺めた。腕を組んで、才人を睨《にら》みつけている。
あんたにカンケーないでしょ? あっち行きなさいよ。
そんなオーラを感じて、才人《さいと》は震《ふる》えた。
怖い。
日本にいた頃《ころ》、通っていた高校の女子グループを思い出した。目立つ女の子がいると、こうやって徒党を組んで苛《いじ》めるのである。
ティファニアはとびっきりの容姿を持つ美少女なので、女子たちの逆鱗《げきりん》に触れたんだろう。いやもうほんと、その辺のさじ加減はハルケギニアでも変わらないようだ。
もっとこう、ファンタジーな世界なんだからそんなことすんなよなー、と思うのだが、女子の苛めに世界は関係ないようである。
才人は困ってしまったが、とにかく苛めは見過ごせない。
それに苛められていたのは、才人たちが連れてきたティファニアである。貰任というものがあるのである。連中に、今後このようなことをしないよう、きちんと注意しなくてはいけない。
「お前たち、ティファニアになにをしてるんだ。よってたかって、卑怯《ひきょう》だとは思わないのか。きみたちは、あー、それでも貴族か」
才人は、精一杯の威厳《いげん》を込めて一年生の女子たちに言った。紺色のマントを翻《ひるがえ》し、褐色の髪の少女が才人を冷たい目で見つめた。
「お前たち! お前たちですって! 皆さん聞きました?」
「聞きましたわ! “お前たち”とは随分な言い草ですわね!」
一年生の苛《いじ》めっ子女子グループは、顔を見合わせてきゃあきゃあとわめき始めた。才人《さいと》は頭が痛くなった。
「というかイジメちゃダメだろ。な?」
恐る恐るそう言ったら、リゼットが、才人の言葉をまったく無視して顔を近づけた。
「あなた、こちらの方をご存知?」
そう言って、自分たちの真ん中に立つ一番背の低い少女に向けて、手を差し伸べる。金髪を左右に分けて垂らし、得意げに少女はふんぞり返る。
「いや、全然」
きょとんとしてそう言ったら、女の子たちはさらに黄色い金切り声を張り上げた。
「まあ! どこの田舎者かしら! 彼女はベアトリス・イヴォンヌ・フォン・クルデンホルフ殿下にあらせられるわ! 頭《ず》が高《たか》くってよ!」
才人は困ったように頭をかいた。
「いや、頭が高いと言われても……」
ベアトリスと紹介された金髪二つくくり少女は、才人を上から下までじろじろと眺め回した。それから、ふふん、とせせら笑うように、言った。
「あまりこの辺りでは見ない顔だけど、あなたハルケギニア人?」
違う。地球人である。でも、それを言うわけにはいかない。才人はこにょごにょと言葉を濁した。
「いや、俺はその、ロバ・アル・ナントカから……」
才人は異世界人ということを隠すために、|ロバ・アル・カリイエ《東方》出身ということにしているのだった。
ベアトリスは、目を細めて才人を見つめた。それから、ああ、というように頷《うなず》く。
「あなた、なんだっけ……、水精霊騎士隊のヒリガル・サイトンさんでしたっけ?」
一年生の女子たちは、まあ、と目を丸くした。
七万の軍勢を止めた才人は、”優れた剣士”としてかなり名が知られている。おまけに今や、近衛《このえ》の副隊長である。女の子たちは不安げに、顔を見合わせ始めた。
なるほど、権威を振り回す連中は権威に弱い。才人は胸をそらすと、わざと威張った声で言った。
「そうだ。俺が水精霊騎士隊の副隊長、シュヴァリエ・ヒラガだ。女王陛下の近衛隊だぞ。頭が高い。ええい、頭がたかーい」
すっかり気分は、日本で見た時代劇である。
しかしベアトリスは、臆した風もない。
「それがどうかなさいまして? 近衛だろうがなんだろうが、ただの騎士|風情《ふぜい》に下げる頭は持ってませんの」
才人《さいと》の顔が青ざめた。こいつ……、こっちは近衛《このえ》だってのにビビらない。もしかして、相当な偉いさん? やばい?
そこに、救世主が現れた。
「おーいサイト。そこで何油を売ってるんだね? 放課後の訓練に使うワラ人形の準備はできたのかね?」
近づいてきたのは、ギーシュとモンモランシーであった。やった、形勢逆転だ! 才人はそっちを振り返らずに、大声で怒鳴った。
「やあ隊長ー いいところに来たな! ちょっとこの一年生を叱《しか》ってやってくれよ。生まれがどうのこうので生意気言うんだよ」
「なんだそれは! けしからんな!」
勢い込んで、ギーシュが駆《か》け寄ってくる。
才人は心の中で凱歌《がいか》をあげた。
泣いてビビっても遅いぜ? ベアトリスとやら!
なにせギーシュの家は、親父が元帥《げんすい》の名門グラモン家!
その上、モンモランシ家もなにやら由緒ある家系らしい。
さて、貴族のお嬢さん、タイコーだかなんだか知らねえが、本物の旧《ふる》い貴族を前にして虚勢を張れるもんなら張ってみやがれ。才人は得意げにふんぞり返った。
しかし……、近づくギーシュとモンモランシーを見ても、ベアトリスの表情は変わらない。それどころか、ベアトリスを見たギーシュの顔が、う、と青くなった。
余裕たっぷりの態度で、ベアトリスは顎《あご》を持ち上げた。
「お久しぶりですわ。ギーシュ殿」
殿?
「い、いやあ……、これはこれは、クルデンホルフ姫殿下……」
姫殿下?
「お父上はお元気?」
「は、はい。おかげさまで」
敬語?
様子がおかしい。才人の額から冷や汗が流れた。ギーシュはさっきまでの威勢はどこへやら、妙にかしこまった態度じゃないか。モンモランシーも、なんだか気まずそうにもじもじしている。
「おやおや、ミス・モンモランシもごいっしょじゃありませんこと? わたし、今年からここで学ぶことになりましたの。どうぞよろしく」
下級生とは思えない態度で、ベアトリスは言い放つ。ギーシュとモンモランシーは、そんなベアトリスに、ぺこりと頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします。なにか困ったことがあったら、すぐにご相談ください」
「ところでギーシュ殿」
「は、はいっ!」
「騎士隊の隊長になられたのはおめでたいご出世だけど、部下の教育はきちんとしておいてくださらないこと? 礼儀を知らない騎士は、傭兵《ようへい》や夜盗となんら変わりがありませんわ」
ベアトリスは澄ました態度で、行きますわよ、と取り巻きを促した。
「ミス・ウエストウッド」
去り際に、ベアトリスはこれまで蚊帳の外だったティファニアに声をかけた。
「は、はいっ!」
「いいこと? せめてわたしがいる場所では、そのみっともない帽子をお脱ぎなさいね。このわたしの前で帯帽するなんて、クルデンホルフ大公家に対する侮辱《ぶじょく》も甚《はなは》だしくってよ。おほ! おほ! おっほっほ!」
高笑いを残して、ベアトリスとその取り巻きたちは立ち去っていく。
小さく手を振って見送るギーシュとモンモランシーに才人《さいと》は噛《か》みついた。
「おいおい! 隊長さん! モンモンさん! どうしたの! 下級生にナメられちゃってるよ!」
「いやあきみ。彼女はまずいよ」
「まずいわよ」
「お前ら旧《ふる》い家柄の名門貴族じゃなかったのかよ!」
「確かにきみの言うとおり、グラモン家は代々王家に仕えてきた由緒ある家系で、爵位《しゃくい》はともかく格の上では大公家といえど、そうそうヒケをとるものではない」
「モンモランシ家も、そうね」
「じゃあなんでぺこぺこしてんだよ」
「現実は歴史に勝る」
「へ?」
「グラモン家は武名高い名門中の名門だが、なにせ領地の経営に疎《うと》い」
イヤな予感がした。
「もしかして、あいつの家からお金借りてるとか?」
図星だったらしい。ギーシュは遠い目になった。
モンモランシーも、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「うちも似たようなものね」
ギーシュは気を取り直すように、顎《あご》に手をやり首を振る。
「クルデンホルフ大公家は、なにせ一国構えてしまうほどの大金持ちだからなあ。きみも仲良くしておくにこしたことはないよ」
「ふざけんな。あんなイヤな女と仲良くできるか」
「おいおい! 揉《も》め事《こと》はごめんだぜ! 彼女はおまけに、自前の親衛隊まで連れてきて、身辺を警護させてるんだ! ちょっと怒らせたら、彼らが飛んでくるよ!」
自前の親衛隊?
「なんだそりゃ」
「なんだ、きみは知らなかったのか。平和な性格してるな……」
ギーシュは才人《さいと》とティファニアとモンモランシーを、正門の前まで引っ張っていった。
「見たまえ」
才人は、目を丸くした。
魔法学院の正門の前には、広大な草原が広がっている。いつの問にこしらえたのか、そこにいくつもの天幕が設けられているではないか!
天幕の上には、空を目指す黄色の竜の紋章が描かれている。天幕の周りには、大きな甲冑《かっちゅう》をつけた風竜が何匹もたむろしていた。
口をぽかんと開けた才人に、ギーシュが説明した。
「あれがクルデンホルフ大公国親衛隊“空中装甲騎士団《ルフトパンツァーリッタ−》”だ」
その名前は、ぼんやりと聞き覚えがあった。ああ、先日、朝食の席でケティたちが噂《うわさ》していた騎士団じゃねえか。
下品でナンパされたとかなんとか。そのときはまったく気にも留めなかったが……、そうか、あんなトコにいたのか……。
「先だってのアルビオン戦役で、クルデンホルフ大公国は連合軍にあの騎士団を参加させなかった。虎《とら》の子だからってね。アルビオン竜騎士団が壊滅した今となっちゃ、ハルケギニア最強の竜騎士団と言われているよ」
竜はこうして見ているだけでも、二十匹はいた。タルブで、アルビオンで戦った才人は竜騎士の実力をよく知っている。彼らはわずか数十騎で、何千人もの兵隊に匹敵する戦力単位なのだ。
「む、娘が留学するぐらいで騎士団つけるかあ2」
才人は呆《あき》れた声で言った。
「金持ちの貴族というのは、とにかく見栄を張りたがるからな」
ギーシュが、己の行状を棚にあげて感想を述べた。
才人はティファニアの方を向いた。
心配そうに、ティファニアは才人を見つめている。
「テファ、安心しろ。騎士団がなんぼのもんだっつの。俺があいつに改めて言ってやるよ。帽子ぐらいでガタガタ言うなって」
ティファニアは、唇を噛《か》んで首を振った。
「いいの。サイトたちに迷惑がかかったら大変だし……、気持ちは嬉《うれ》しいけれど、自分でなんとかするわ」
「サイト、ティファニア嬢の言うとおりかもしれないそ。ぼくたちが口を出したら、それこそ立場が危うくなる」
「そうよ」
「おいおい、ガリアに乗り込んだ英雄の言葉とは思えないな。あのときに比べたら、大公国の姫なんて可愛いもんだろ」
「いやぁ、そう事は単純じゃない」
ギーシュは、うむむ、と眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
「タバサを救いに行ったときは、こっそり隠れて侵入しただろ? 現に、この学院ではあの冒険を知る者はぼくたち以外にいないじゃないか。その上、ガリアからの公式の抗議がないから、陛下だってお目こぼしくださったんだ」
「この学院で、外国の姫さまを怒らせたら、さすがに陛下だって目を瞑《つぶ》るわけにはいかないわ。あなたたち、何せ近衛隊《このえたい》でしょ? 大公国の姫さまを怒らせるなんて、言語道断よ」
そこまで二人に言われて、才人《さいと》は困ってしまった。
そんな才人に、ティファニアがにっこりと笑いかけた。
「ありがとうサイト。気持ちだけでも嬉しいわ」
「……テファ」
「ほんとにいいの。教室で帽子を被《かぶ》ってるわたしが悪いの。やっぱり嘘《うそ》はよくないわ」
何か決心したように、ティファニアは頷《うなず》いた。
「心配かけてほんとうにごめんなさい」
たたたた、と小走りでティファニアは駆《か》けていく。才人は心配そうに、風にたなびく眩《まばゆ》い金髪を見守った。
放課後、訓練も終わってルイズの部屋に引き上げてきた才人は、ルイズに今日のことを相談した。
「ティファニアなんだけどさ、クラスでどうやらイジメられてるみたいなんだよね」
ベッドに座って才人の話を聞いていたルイズは、
「ほっとくべきね」
と首を振った。
「つめてぇ! そりゃないだろ。クラスでイジメにあってるんだぜ。あの気弱なティファニア、そのうちイジメ殺されちゃうよ。なあルイズ、お前の家、公爵家じゃねえか。生意気な苛《いじ》めっ子に一言言ってくれよ」
しかし、それでもルイズは首を縦に振らない。
「わたしたちが口を出すべき問題じゃないわ。ティファニアのクラスの問題じゃない。こんなことで、三年生のわたしたちが口を出したら、余計にティファニアの立場が悪くなっちゃうわ」
冷静に、ルイズは言った。でも、納得がいかない。才人《さいと》はなおも食い下がる。
「確かに、お前の言うことは正論かもしれないけど……、ティファニア、こっちで誰《だれ》も頼れる人間がいないんだぜ。せめて俺《おれ》たちが助けてやらないと……」
「だからそれが余計なお世話だっていうの」
「余計なお世話だと! 当然だろ! 俺たちが連れてきたんだから!」
才人はつい頭に血が上って、語気を荒らげてしまった。
「あのね、これからあの子は貴族として、一人で生きていかなくちゃいけないの。それこそ、誰にも頼らずにね。クラスでちょっとぐらい意地悪されたからって参ってちゃ、ハルケギニアじゃ生きていけないわ。己に降りかかる火の粉は己で払う。それが貴族よ」
厳しい顔で、ルイズは言った。
才人はその顔で、一年前のことを思い出した。
クラスでバカにされていたルイズ。
ゼロとバカにされ、友達一人いなかったルイズ。
貴族のプライドをかけて、ゴーレムに立ち向かっていったルイズ……。
そんなルイズにしてみれば、今置かれたティファニアの立場など、全然たいしたことないように思えるのだろう。
「それに……、あの子はわたしと同じ“虚無の担《にな》い手”なのよ。普通の貴族じゃいられない運命を背負ってるの。ほんと、こんなことぐらいで誰かに頼っていたら、そのうち、自分の力に押しつぶされちゃうわ」
才人は何も言い返せなくなってしまった。
ルイズの言うとおりかもしれない。
でも、でも……。
見ると、ルイズはいつのまにかこっくりこっくりと櫂を漕いでいるではないか。
「お前なあ、人が真面目《まじめ》な話してるのに、寝るなよ」
「……誰のせいで寝不足だと思ってるのよ」
「へ?」
ルイズはついっと顔をそらすと、ベッドにもぐってしまった。取り付く島もなくなって、才人は困ったように頭をかいた。
ベッドの中で、ルイズは顔を赤らめた。
さっきの自分の言動が、恥ずかしくなったのである。
どんなイジメっ子だか知らないが、一言言ってやればよいではないか。ティファニアの後見はラ・ヴァリエール公爵家だと言って、釘《くぎ》をさしてやればよいのである。
確かにさっき自分が言ったことは、正論だ。
クラスで苛《いじ》められたからって、いちいち助けてやったら、きりがない。虚無の担《にな》い手のティファニアは、望むと望まざるとにかかわらず、危険を覚悟しなければならないのだ。意地悪なクラスメイトなんか及びもつかない強大な敵に、いつ何時|狙《ねら》われるとも限らないのである。
でも……、それは本音じゃない。
ほんとは、嫉妬《しっと》したのである。
最近、なんだか冷たいくせに、ティファニアのことになると夢中になっている。そんな態度に、腹が立ったのである。
でも、もちろんそんなことは口に出せない。
そんな風に嫉妬した自分の気持ちが許せなくって、ルイズは布団の中で唇を噛《か》んだ。
嫉妬で、差し伸べるべき手を差し伸べないなんて、わたし……、最低じゃない。
こんなわたしだから、才人《さいと》は冷たくなってしまったんだろうか?
考え始めたらキリがなくなってきて……、眠気もとんでしまい、ルイズは布団の中で、ぽろぽろと隠れて涙を流すのだった。
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第三章
翌日の一時限目。
一年生のソーンのクラスでは、“土”系統の授業が始まろうとしていた。
教鞭《きょうべん》をとるのは、ミセス・シュヴルーズ。
“赤土”の二つ名を持つ彼女は、名簿を開くと出欠を取り始めた。
「ミス・ウエストウッド」
ティファニアの名が呼ばれた。
しかし、返事はない。
「ミス・ウエストウッド?」
もう一度繰り返す。やはり、返事はない。教室を見回しても、見慣れた帽子はどこにも見えない。
「ミス・ウエストウッドは欠席と……。欠席の理由を知っている人はいますか?」
教室の誰《だれ》も答えない。
一番後ろの席に座ったベアトリスとその取り巻きたちは、首を捻《ひね》るミセス・シュヴルーズを眺めながら、底意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「ベアトリス殿下。あの子、今日はお休みみたいですわ」
「帽子の代わりに、仮面でも用意してるんじゃなくって?」
クスクスクス、と取り巻きたちは面白くもない冗談に、含み笑いをこぼす。
「ミス・ウエストウッドの欠席の理由を知っている人は、いないのですか?」
繰り返し尋ねたが、やはり返事はない。
ミセス・シュヴルーズは困ったように肩を揺らす。アルビオンから来たばかりで、いういうと心労が溜《た》まっているのだろうか? それを相談できる友人もまだ作れていないようだ。おとなしく、あまり社交的とはいえない性格をしていたから、友達を作るのが下手なのだろう。あとで様子を見に行こうと思いながら、ミセス・シュヴルーズは授業の下準備を始めた。
「では皆さん。今日は先週に引き続き、”錬金”の授業を行います。先週は真鍮《しんちゅう》を作り出す授業を行いましたが……」
そこまで言ったとき、教室の扉がぎいいいい…、と開かれた。教室中の視線が一斉にそこに集まる。立っていたのは……、ティファニアだった。
「なによあの格好」
ベアトリスの取り巻きの一人が、感想を漏らす。
確かにティファニアの格好は妙だった。
魔法学院の制服ではなく……、袖《そで》の部分が波打ち花びらのようなかたちをした、砂色の変わったローブを着用に及んでいる。ハルケギニアではあまり見ることのないデザインだった。フードを深く被《かぶ》ったまま、ティファニアはおずおずと教室へと入ってきた。
「ミス・ウエストウッド。遅刻ですよ」
ティファニアはなにやら決心したように、胸の前でぎゅっと拳《こぶし》を握り締めている。
「制服はどうしたのですか? そのふざけたローブをお脱ぎなさい。今は仮装パーティの時間ではありませんよ」
「その変なローブ、帽子の代わりのつもり? なんだか道化師みたいね!」
リゼットが茶々を入れた。ティファニアにあまりよい感情を持っていなかった女子たちが、一斉に笑った。
そんな笑いの中、ティファニアは凹を開いた。
「こ、これは道化師のローブなんかじゃありません! わたしの母が着ていたローブです!」
その剣幕に、教室中がシーンとなった。
ミセス・シュヴルーズが、ティファニアに近づき、そのローブをまじまじと眺めた。
「変わったつくりですわね……、この縫製《ほうせい》のやり方は、砂漠の民のそれに……、ん? んん? んっ! こ、これは!」
ミセス・シュヴルーズは、小さく震《ふる》えだした。
「嘘《うそ》でしょう? あなたの母というお方は……、もしや、エ、エエ、エ……」
意を決したように、ティファニアはがばっとフードを脱いだ。
その下から現れた長い耳を見て、教室が騒然となった。
「エルフ!」
一人の生徒が叫んだ。
生徒たちはパニックに陥り、われ先へと席を立ち、ティファニアから離れた。ミセス・シュヴルーズはその場で腰を抜かしてしまった。よたよたと壁のほうへと逃げようとするが、太った身体《からだ》を持て余し、うまく動けないようだ。
おたおた、と四つんばいになって逃げようとするミセス・シュヴルーズに、ティファニアは近づいた。
「ひぃ! お、お助け!」
「な、なにもしません! 落ち着いてください!」
それからティファニアは、昂然《こうぜん》と顔をあげた。窓から差し込む日の光が、ティファニアの顔を眩《まばゆ》いばかりに染め上げた。金髪がきらきらと輝き、まるで妖精《ようせい》のように美しいティファニアの顔を彩る。古代の宗教画から抜け出してきたような、その神々しい姿に、生徒たちは一瞬心打たれた。しかし、すぐに長い耳に恐怖を抱き、怯《おび》えた表情を浮かべる。
「皆さん、どうか怖がらずに聞いてください。わたしには、見てのとおり、エルフの血が流れています。でも、皆さんに危害をくわえようとなんてちっとも思っていません! それどころか、いっしょに学びたいと考えて、アルビオンの森から出てきたのです!」
「ふざけないで!」
リゼットが叫んだ。そうよそうよ、と何人かの生徒たちが同調する。
男子生徒たちは、今まであがめてきた分と恐怖が入り混じり、どうしていいかわからない様子。ミセス・シュヴルーズは未《いま》だに震《ふる》えていた。
すっとベアトリスが立ち上がった。
その顔が怒りに震えている。
「みなさん! 騙《だま》されてはいけませんわ! ハルケギニアの歴史は、エルフとの抗争の歴史! どんな事情があろうが、彼女は我々の仇敵《きゅうてき》ですわ!」
ティファニアは息を吸い込むと、震える声で叫んだ。
「確かにエルフは、ハルケギニアの人々と対立してきたわ! でもわたしの父と母は違う! 父は母をとても愛していたし、母も父を愛していた! わたしはこの身体《からだ》に流れる母からもらったエルフの血も、父から貰《もら》った人間の血も愛している!」
「なによあなた。ハーフなの? エルフに魂を売った人間の娘? ただのエルフより性質《たち》が悪いわ!」
ティファニアの顔が蒼白《そうはく》になった。それから、小さく震え始める。生まれて初めての、強い怒りがティファニアの身体を包んでいた。
「父を侮辱《ぶじょく》しないで!」
そのときである。
教室の窓ガラスを破って、外から十人ほどの騎士が飛び込んできた。教室中に再び生徒たちの悲鳴が巻き起こる。度重なる出来事にミセス・シュヴルーズはとうとう気絶してしまった。
騎士たちは鈍い青色に光る甲冑《かっちゅう》を着用に及んでいた。兵隊でもあるまいし、甲冑を着込む騎士団《メイジ》は珍しい。ただ唯一の例外を除いて……。
一人の男子生徒が、甲冑の胸に光る、空を目指す黄色の竜の紋章を見て叫んだ。
「空中装甲騎士団《ルフトバンツァーリッター》!」
生徒たちは、ハルケギニアの最強の一つに数えられる騎士団を目にして、感嘆のうめきをあげた。
隊長と思《おぼ》しき男が、ベアトリスを守るようにして、ティファニアの前に立ちふさがる。腰から細身の軍杖《ぐんじょう》を引き抜き、驚いた顔のハーフエルフに突きつけた。
「それ以上殿下に近寄るな」
騎士たちはつま先から頭のてっぺんまで訓練が行き届いた動きで、さささささ、と音も立てずにティファニアの周りを取り囲む。
ティファニアは両腕《りょううで》で自分の身体《からだ》を抱きしめ、小さく震《ふる》え始めた。
「動かないほうがよくってよ。その忌々しい耳を身体から離したくなかったらね。知ってるわ。あなたたちエルフは”先住魔法”が使えるんでしょ? 悪魔の魔法ね、杖《つえ》を使わずに唱えられるなんて!」
「わ、わたしは先住魔法は使えないわ。ほんとよ。それに先住魔法は悪魔の魔法なんかじゃない。母さまが言ってた。どの魔法も同じだって。使う人の心がけが、魔法を光にも闇《やみ》にも変えるんだって」
「おだまり。誰がエルフの”混じりもの”の言葉なんか信じるっていうの」
「でも、わたし……、みんなと仲良くしたいの! 信じてっていうのは難しいかもしれない。でも……」
「ふん。“わたしたちと仲良くしたい”と言うんなら、あなたは薄汚い砂漠の悪魔じゃなく、わたしたちと同じ神を信じていると解釈していいのね?」
まさかそんなことはないでしょう? とでもいうような勝ち誇った顔で、ベアトリスが言った。
「アルビオンにいた頃《ころ》は、毎週祭壇にお祈りを捧《ささ》げていたわ。母がそうしていたから。本心から信仰を捧げているかどうかは、わたしにはわからない。でも、みんなと仲良くできるのなら、わたしも信じることにする」
「ではあなたに、それを証明していただきましょう」
「証明?」
ベアトリスは、これはチャンスだ、と言わんばかりの態度で言い放った。
「そうよ。そうね、あのね、そうー 異端審問を受けていただきましょうか! わたしは始祖ブリミルの敬度なるしもべ。洗礼を受けた日に、宗教庁からクルデンホルフ司教の肩書きも頂いているの。異端審問を行う権利は、十分に持っていてよ」
“異端審問”
その言葉で、.教室がざわついた。
ちょうど同じ頃・…・・。
三年生のクラスで、才人《さいと》はどうしたものかと机に肘《ひじ》をついて考えこんでいた。隣にルイズはいない。なんだか気分が悪いから、と言って授業を休んでしまったのである。
しかし、才人が心配しているのはそのことではない。ティファニアのことであった。
今頃《いまごろ》、苛《いじ》められてないだろうな……、と心配になってしまってしかたがない。昔、噂《うわさ》に聞いた女子のイジメを思い出した。
茶巾《ちゃきん》絞り、という技がある。
スカートの裾《すそ》を持ち上げて、頭の上で縛《しば》るのである。
イ、イジメってホントよくねえ……、テファにそんなことされたら俺……、と頭の中で想像する。才人《さいと》は鼻を押さえた。つうっと自然に、ナチュラルに鼻血が流れたのである。
バリーン! と階下の教室から、窓ガラスの割れる音が響いたのはその瞬間だった。教室が騒然となる。
なんだなんだ、と何人かの生徒が窓に近づいた。外では、胸鎧《むねよろい》と兜《かぶと》を装着した風竜が、何匹も乱舞していた。
「あれは、クルデンホルフの姫君が連れてきた竜騎士隊じゃないか」
一人の生徒が言った。なるほど、先日学院の外の広場に駐屯していた竜たちだ。天幕に翻《ひるがえ》っていた旗と同じ紋章が兜に光っている。
見ていると、階下の窓から何人もの騎士が飛び出してきて、竜に跨《またが》った。一人の騎士がティファニアを抱えている姿を見つけ、才人は目を丸くした。
「テファ!」
竜はばっさばっさと羽ばたき、天幕のところまで飛び去った。才人は駆《か》け出した。そのあとに、退屈な授業に飽き飽きしていた生徒たちが続く。彼らは、三度の飯より、酒より、揉《も》め事《ごと》が大好きなのである。
ティファニアは、魔法学院の外の草原に設けられた天幕の前の地面に乱暴に転がされ、杖《つえ》を突きつけた騎士たちに囲まれた。
「……わたしをどうする気?」
怯《おび》えた目で、ティファニアは周りを見渡した。青い甲冑《かっちゅう》に身を包んだ恐ろしい騎士たちが、自分を取り囲んでいる。その縁《ふち》の外には、騎士より恐ろしい風竜たちが、威嚇《いかく》の唸《うな》り声をあげている。常人なら、それだけで気絶してしまうような光景だった。
これではどうにもならない。
“忘却”の呪文《じゅもん》を唱えようにも、これだけの騎士に囲まれては身動きができない。ちょっとでも呪文を唱えるようなそぶりを見せたら……、一斉に魔法が飛んでくるだろう。
ティファニアは己のうかつさを呪《のろ》った。
やはり……、正体を明かすべきではなかった。まさか、これほどの扱いを受けることはないと、高をくくっていた。才人たちと出会って……、エルフの血が混じった自分を見ても怖がらなかった才人たちと出会って、トリステインの人たちもそうだろうと油断していたのだ。
でも、それは間違いだった。エルフがいかに、この世界《ハルケギニア》で恐れられ、疎《うと》まれ、嫌われているのかをティファニアは実感した。
エルフというだけで殺された母の姿が脳裏《のうり》に浮かぶ。
他所の世界を見てみたい、なんて考えた自分は、なんと浅はかだったんだろうか!
周りを囲む騎士たちの姿と、あの日サウスゴータの屋敷で、母を魔法で殺した騎士たちの姿がだぶる。
自分も、母と同じようにエルフというだけで殺されるんだろうか?
ティファニアは震《ふる》えた。震えは大きくなり、止まらなくなった。
騎士たちの輪が割れて、ベアトリスが姿を現した。左右に垂らした金髪をいじりながら、楽しそうな声でベアトリスはティファニアに尋ねた。
「異端審問を知ってる?」
ティファニアはぶるぶると首を振った。
「あなた、言ったわよね。『始祖ブリミルを信じている』って。エルフの血が混じったあなたが、“信仰”を口にしたのよ。わたしたちハルケギニアの民の神を信じている、って言ったの。だからそれを証明してもらうわ。”自分は異端ではない”ということを、始祖と神の代理人たる司教の前で、証明するの。それが異端審問よ」
その目の色で……、ティファニアは気づいた。
このベアトリスは、自分がエルフだから、痛めつけようとしているわけではないことに。
自分が気に入らないから、痛めつけるのだ。
だって……、その目に憎しみの光はない。かつて『エルフだから』という理由で母を殺した騎士たちの目には、消しようのない仇敵《きゅうてき》に対する憎しみの炎が宿っていた。
だが、このベアトリスの目に光るのは……、“歓喜”だ。
自分を痛めつける理由を見つけたから、彼女は喜んでいるのだ。
怯《おび》えの代わりに、ティファニアの身体《からだ》を怒りが包んだ。気丈に顔を持ち上げて、ティファニアはベアトリスを睨《にら》んだ。
「……可哀想《かわいそう》な人」
「なんですって?」
「全部が自分の思い通りにならないと、気がすまないのね。子供なのね、あなた」
ベアトリスの顔が真っ赤に染まった。
乾いた音が響く。
ティファニアの頬《ほお》を、ベアトリスが叩《たた》いたのだ。
「さて、異端審問を執り行うわ。煮立った釜《かま》の中に、一分問つかるの。もし、あなたが本当に始祖ブリミルのしもべなら、その湯はちょうどいい湯加減に感じるでしょう。でも、あなたが忌まわしい異教徒なら、茹《ゆ》で肉になってしまうでしょうね」
騎士の一人が呪文《じゅもん》を唱えると、天幕のそばにあった、煮炊きに使っていたらしい大釜《おおがま》に火が入る。強力な魔法の炎で、大釜の中の水はぐらぐらとすぐに沸騰《ふっとう》を始めた。
もちろん、ブリミル教徒だろうが、異教徒だろうが、そんな煮立った湯につかれば命はない。異端審問とは、つまり宗教を利用した処刑なのだった。
そのとき……、騒ぎを聞きつけた学院の生徒たちが駆《か》けつけてきた。生徒たちは、竜騎士に恐れをなし、遠巻きにベアトリスたちを見つめた。
観客が揃《そろ》ったことを確認すると、ベアトリスは勝ち誇った顔で叫んだ。
「クルデンホルフ司教ベアトリスの名において、今から異端審問を執り行います! 敬虔《けいけん》なるブリミル教徒の皆さん、よくご覧になってくださいまし!」
異端審問だって! と生徒たちからざわめきが起こる。
そんな生徒たちの輪を割って、怒りに震《ふる》えた少年が飛び込んでくる。
才人《さいと》だった。
「なにしてんだ! お前らぁ!」
ティファニアの顔が一瞬輝いたが、すぐに曇《くも》る。
「異端審問よ」
「異端だかなんだか知らねえが、テファを離せよ! 自分のしてることわかってんのか?」
才人はティファニアに近づこうとした。しかし、すぐに後ろから羽交い絞めにされた。
振り向く。才人を羽交い絞めにしているのは、マリコルヌだった。後ろにギーシュ、そしてレイナールや水精霊騎士隊の面々が見える。
「なにすんだよ!」
「やめろ、サイト」
「なんでだよ!」
「まずいんだよきみ。実にまずい」
才人はギーシュのその言葉にカッとなった。
「はぁ? お前……、家がお金借りてるからって、見過ごすつもりか?」
「違う。そうじゃない」
真顔で、ギーシュは言った。
「だったら、あの竜騎士隊が怖いんだな? 情けねえ!」
「きみ、わかってるのか? 異端審問だぞ!」
マリコルヌが、いつになく真剣な声で叫んだ。
「それがどうした! あいつら、テファ一人をよってたかって苛《いじ》めてんだぞ!助けないでどうすんだよ!」
「ここでかばったら、ぼくたちまで異教徒ということになっちゃうんだよ! そうなったら洒落《しゃれ》ではすまないんだ! 家族だけじゃない、親族一同まで累が及ぶんだ!」
その言葉で、才人は青くなった。
「マジ?」
「ほんとうだ」
ギーシュが、低い声で言った。
「……くそ」
才人《さいと》は膝《ひざ》をつくと、地面を拳《こぶし》で叩《たた》いた。
そんなやり取りをする一同を見て、ベアトリスはにっこりと笑った。それからティファニアに再び向き直る。
「ミス・ウエストウッド。あなたが羨《うらや》ましいわ。お抱えの騎士隊までお持ちになられて。そんなあなたの奉仕者に免じて、一度だけチャンスをあげる。すぐここを出て、あなたの田舎にお帰りなさいな。そうしたら、今までの無礼を全部忘れてあげる」
しばしの静寂が流れた。
その場の全員が……、集まった生徒たちや、水精霊騎士隊の面々すべてが、ティファニアに注目した。みんなが、こう望んでいたに違いない。
頷《うなず》いてくれ、と。
でも、ティファニアは頷かなかった。
彼女は昂然《こうぜん》と顔をあげると、ベアトリスに言い放った。
「いや。絶対にいや」
「……な!」
「わたし、外の世界を見てみたいって、ずっと願ってた。そこにいるサイトたちが、わたしのそんな夢をかなえてくれたの。だから帰らない。あなたみたいな卑怯者《ひきょうもの》に、帰れと言われて帰ったら、サイトたちに合わせる顔がないわ」
ティファニアのその言葉で、周りに集まった生徒たちから歓声が沸いた。
確かにその長い耳には驚いたが……、ティファニアはどうにも邪悪と恐れられた砂漠の妖精《エルフ》には見えなかったのだ。
それに先ほどの口上は、なんとまっすぐであろうか!
その上、家柄を笠《かさ》にきて威張る一年生に、反感を覚えていた生徒たちは少なくなかったのである。
「離してやれよ!」
「そうよ! オスマン氏から、きちんと事情をうかがってからにしたら!」
浴《あ》びせられるそんな言葉に、ベアトリスの顔がひくついた。
「空中装甲騎士団《ルフトパンツァーリッター 》! お望みどおり、審問さしあげて!」
空中装甲騎士たちがティファニアに近づき、手を伸ばした。
その瞬間、才人はマリコルヌの手を振りほどき、ティファニアに駆《か》け寄った。空中装甲騎士が、さっとベアトリスの前に出て、杖《つえ》を才人に突きつける。
再び生徒たちから歓声が沸いた。
「サイトさまよ! きっとあんな下品な騎士団やっつけちゃうわ! なにせサイトさまは、七万の軍勢を止められた英雄なのよ!」
そう、才人《さいと》はアルビオン戦役での撤退戦のおり、七万の軍勢を止めた男だ。
それだけじゃない。
噂《うわさ》で伝え聞く、功績の数々……。平民ながらギーシュを倒した手並みは、全員が覚えていた。きっと一人で、あの恐ろしい空中装甲騎士団をやっつけてしまうに違いない!
その場の全員が、鬼人のように暴れまくる才人を期待した。
だが……、才人の行動は違った。
なんと、両手をついて、地面に頭をこすりつけたのである。
「ええと、その、クルデンホルフ姫殿下。お願いだ。テファを連れてきたのは俺《おれ》だ。すべては俺の責任だ。だから、許してやってくれ」
「あらあなた。このわたしに逆らおうというの?」
「あは! そんな、逆らうつもりなんかないよ! あくまでお願い申し上げてんだ。ほら、このとおり!」
才人は愛想笑いを浮かべ、再び深々と頭を下げた。
「これほど頼んでもだめ?」
「だめ」
「ここまで頭を下げても?」
「しつこくてよ」
才人は、はぁあああああああああ……、とせつなげなため息を漏らした。初めから暴れればよかったかな、と後悔しながら、才人は背中のデルフリンガーに手を伸ばした。
「相棒……、遅いよ……」
それは、まったくの無謀だった。
杖《つえ》を構えていた騎士たちは、反射的に魔法をぶっ放す。才人の両手は、氷の矢で地面に縫いつけられた。
「ぐッ……」
「おいおい、剣で我々をどうにかしようと考えたのか? 愚か者め!」
周りに集まった生徒から、はあ〜〜〜、とがっかりしたため息が漏れた。そんなため息を聞きながら、才人はせつなさでいっぱいになった。
しょうがねえじゃねえか……。だって、暴れたら……、異端になっちまうんだろ?
そうなったら、ギーシュや水精霊騎士隊のみんなに迷惑がかかる。才人の主人であるルイズには、真っ先に責が及ぶだろう。だから才人はとりあえず頭を下げたのである。
しかし、腕《うで》が痛い。ひとまず立ち上がって、なんとかデルフ握って、テファをさらってからいろいろと考えよう、成功する確率はさて何十分の一かなあ、と思いながら、腕に力を込めた瞬間……。
ごろん、ばしゃん、と、大釜《おおがま》が地面に転がる音が聞こえた。
音のしたほうを向くと……、戦乙女のかたちをした青銅のゴーレムが、大釜をひっくり返したところだった。煮えたぎったお湯で火が消え、しゅうしゅうと派手な音を立ててい
|青銅のゴーレム《ワルキューレ》?
唖然《あぜん》として、ギーシュのほうに視線を向けた。そこには緊張しきった顔のギーシュが、杖《つえ》である造花のバラを握り締め、ぷるぷると震《ふる》えていた。
「ギーシュ!」
生徒たちが、一斉に叫んだ。
「ミスタ・グラモン。どういうおつもり? このクルデンホルフ大公家に、逆らう気かしら?」
「いやその」
「いやその?」
「この手が……、勝手に動きまして。てへっ」
ギーシュは、ぺしぺしと自分の手を叩《たた》いた.、
「おふざけにならないで」
「いやその」
「はっきりおっしゃいなさいな」
ギーシュは、はああああああああああ! と心底大きなため息をついた。それからぶつぶつぶつと呟《つぶや》き始める。
「参ったなあ……、異端審問だっていうのに……、ああ、参ったなあ、相手はクルデンホルフ大公家だっていうのに……、ああ、ああ、参ったなあ、おまけに空中装甲騎士団まで控えてるっていうのに……、ダメなんだよ……、こんなに観客がいると、ぼくはダメなんだよ。カッコつけないと気がすまないんだよ。ぼくはバカだ。おおバカだ」
「ミスタ・グラモン?」
名前を呼ばれて、とうとうギーシュは覚悟を決めたらしい。
覚悟を決めたら、あとは早かった。
ギーシュはささっと襟《えり》をなおし、背筋を伸ばした。
すると気の抜けた顔に、目が覚めるよヶに精気がみなぎっていく。
なんのかんの言っても、ギーシュはこの世界の貴族であった。命のやり取りが日常茶飯事の世界で育ってきた、武家の末裔《まつえい》であった。
「婦女子や友を見捨てては騎士の恥。かといって異端審問で果てるは武門の名折れ。となれば杖で、白黒つけねばなりますまい」
ギーシュは臆《おく》した風もなく、薔薇《ばら》の造花を、“ハルケギニア最強のひとつ”と名高い空中装甲騎士団に突きつけた。
「グラモン伯爵家《はくしゃくけ》四男ギーシュ。謹《つつし》んでお相手仕る」
そんなギーシュの姿を見て、隣にいたマリコルヌが叫ぶ。
「水精霊騎士隊! 杖《つえ》とれぇええええええええええッ! 隊長に続けッ!」
一斉に、水精霊騎士隊の面々は杖を引き抜いた。さすがいずれもそれなりに腕《うで》に覚えのある生徒たちばかりである。いざとなれば、誰《だれ》も怯《おび》えた表情など浮かべない。
ベアトリスはわなわなと震《ふる》えていたが、怒りと悔しさが頂点に達したのだろう。大声で命令を下した。
「空中装甲騎士団前《ルフトパンツァーリッター、フォー》へ!」
がしゃん! 大きな音を立てて、騎士団が一歩前に出た。
一番大柄な騎士がさらに前に進み出て、ギーシュたちに杖を突きつけた。どうやら彼が騎士団長らしい。面頬《めんぼお》の間からのぞく、横に伸びたいかめしいカイゼル髯《ひげ》を揺らして、ごつい口を開く。
「学生の騎士ごっこが。怪我《けが》ですむと思うなよ」
ギーシュは笑みを浮かべた。いつものなよっとした笑みじゃない。ここにやってきたばかりの才人《さいと》を容赦《ようしゃ》なく痛めつけたときの、凶悪な匂《にお》い漂う冷酷な笑みだった。
「お気遣い痛み入る。さて、ぼくの戦乙女《ワルキューレ》に、どこを突いて欲しいのか言いたまえ」
面頬からのぞく騎士団長の顔に赤みがさした。
呪文《じゅもん》を唱えると、氷の矢が何本もギーシュめがけて飛んだ,しかし、青銅の戦乙女が短槍《たんそう》を交差させ、ギーシュの身体《からだ》を守る。
ガキンッ! と音がして、短槍に矢が跳《は》ね返された。
素早くマリコルヌが呪文を唱え、風魔法をぶっ放した。怒りで我を忘れていた騎士団長は、マリコルヌのエア・ハンマーを避《さ》けきれず、まともに正面から食らい、吹き飛ばされた。地面にぶつかった際の甲冑《かっちゅう》の重みで、腕があらぬほうに捻《ね》じ曲《ま》がる。
騎士団長は悲鳴をあげた。
空中装甲騎士団から怒号が巻き起こり、ついで次々ルーンを唱える声が、合唱のように響き渡った。
負けじと水精霊騎士隊も呪文を唱え、魔法をぶっ放す。
敵味方観客入り乱れての、派手な魔法の撃ち合いが始まった。
普通だったら、あっという間に水精霊騎士隊は、空中装甲騎士団に圧倒されていただろう。それほどに両者の実力には差があった。なにせ向こうはハルケギニア最強のひとつに数えられた竜騎士団。それに引き換えこっちは、向こうの騎士団長が言うとおり、学生の騎士ごっこに毛が生えた程度に過ぎない。
しかし……、竜騎士は竜に乗ってこそ、その実力を発揮する。重い甲冑《かっちゅう》は、竜に跨《またが》っていればこそ、鎧《よろい》としての機能を十分に全うするのだ。地面の上では、ただの重石《おもし》に過ぎない。学生相手に竜が使えるか、との妙なプライドに空中装甲騎士団はこだわり、不慣れな地上戦を行う羽目になった。結果、その実力を半分も出せなかった。
それに引き換え、水精霊騎士隊は戦意|旺盛《おうせい》であった。いつも訓練を行っている草原が戦場だったのも、プラスに働いた。それほどに地の利というものは大きいものだ。
しかし、 一番大きかったのは……、
「ギーシュさま! がんばって!」
「マリコルヌさま! 右! 右ですわ!」
歓声を送る観客の存在だった。自分のガールフレンドが、片思いの相手が見ている、という状況は、男の実力を数倍にさせる。
双方の事情を照らし合わせた結果……、互角の戦いが繰り広げられることになった。
頭から血をだらだらと流したマリコルヌが、それでも笑みを浮かべながら風の刃を乱射する。重い甲冑の隙間《すきま》から刃は飛び込み、騎士の足を切り裂いた。
いつも冷静なレイナールが、獣のような咆哮《ほうこう》をあげながら炎を振り回す。熱せられた甲冑に耐え切れず、騎士は地面をのたうち回る。
ギーシュの青銅の戦乙女は、ガンダールヴもかくや、と唸《うな》らせるほどのスピードで軽快に動き回り、重たい甲冑を着込んだ騎士を次々突きまくる。
もちろん、水精霊騎士隊も無傷とはいえない。いずれの隊員も、どこかに怪我《けが》を負わされ、傷と血だらけになっていた。
敵も味方も、一人、また一人と動けなくなり、地面に倒れていく。すぐさま周りで見ていた生徒が取りつき、水魔法で敵味方なく介抱する。
戦場の神に魅入《みい》られたように、水精霊騎士隊と空中装甲騎士団は果てのない激戦を繰り広げた。どちらの陣営も、倒れようが動けなくなろうが、水魔法で治されると、再び戦場に飛び込んでいくものだから始末が悪い。
それもしかたがない。お互い、譲れないプライドがかかっているのだ。
学園のほぼ生徒全員を観客に従えた、水精霊騎士隊。
主君であるベアトリスが後ろに控えた、空中装甲騎士団。
才人《さいと》は、まるっきり毒気を抜かれた顔で、いつ終わるのか見当もつかない戦いを、ぼんやりと眺めていた。両手を怪我していたので、武器が握れず、戦いに参加できないのだ。すっかり才人は忘れ去られ、誰《だれ》も水魔法をかけてくれなかった。よしんば手がなんともなくても、こんな恐ろしい戦いには飛び込めなかっただろう。それほどに周りは狂気に溢《あふ》れていた。
目を開けていられないほどに、様々な魔法が才人の頭の上を飛び交い、命中した不幸な貴族の悲鳴が響く,悲鳴は怒号に変わり、誰《だれ》かの悲鳴が生み出される。
呪文《じゅもん》を唱えるルーンのほかに、あっちだ! いやこっちだ! よくもやりやがったな!ばか味方だ! 後ろからとは卑怯《ひきょう》だぞ! うるさいお前はさっき横からとかなんとか、そんな叫び声まで聞こえてくる。端的にいうなら、めちゃくちゃだった。
そのうちに、殴り合いがあちこちで始まった。鬼人のような顔をしたマリコルヌが、一人の騎士の頭に噛《か》みついているのを見て、才人《さいと》はなんだかせつなくなった。
一人の騎士が、ぼんやりと見ている才人に気づき、魔法も使わずに飛びかかってきた。どうやら呪文が切れているらしい。
才人は深呼吸すると、怪我《けが》した手を気合で握り締める。なんだかかなり疲《つか》れた気分で、狂気が支配する戦場へと素手で飛び込んでいった。
戦いは、いつまでも続いた。騒ぎを聞きつけた教師たちがすぐに集まってきたのだが、なにせ大乱戦なので手がつけられない。オスマン氏に注進にいった教師がいたが、ほっとけ、とつれない答えが返ってくるばかり……。
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第四章
その頃《ころ》。
シエスタがルイズの部屋を掃除していると、外から激しい音が聞こえてきた。
「まあ……、なにかしら?」
シエスタは、窓に近寄り外を見た。しかし……、塔と学院の城壁が死角になって、音のする方向がよく見えない。
激しい音はいつまでも続いた。どうやら、魔法が炸裂《さくれつ》している音らしい。炎が荒れ狂う音や、氷の槍《やり》が硬いものにぶち当たってはぜる音、巨大な土の塊がつぶれる音、様々な音が届いてくる。それに続き、悲鳴や怒号まで聞こえてきた。
「いやだわ。また戦争が始まったのかしら?」
そのとき……、ベッドがのそりと動いた。見ると、ネグリジェ姿のルイズが、泣きはらして真っ赤になった目で、ぼんやりと立ち上がった。髪の毛はくしゃくしゃで、頬《ほお》には涙の筋がこびりついている,ひどい顔であった。
「あら、ミス・ヴァリエール。お目覚めになったんですか?」
ルイズは返事をせずに、激しい音が響いてくる窓のほうをちらっと眺めた。そして、忌忌しそうな声で、呟《つぶや》いた。
「うるさいな……。人がせっかくせつなさと悲しみに浸《ひた》っているというのに……」
「ねえ、なんだかすごい音がしますわね。戦争でも起こったのかしら……。いやだわ。って、ミス? ミス・ヴァリエール?」
ルイズはネグリジェのまま、ふらりと部屋を出て行った。その手に、しっかりと杖《つえ》が握られている。
シエスタは追いかけようとしたが、その背中から立ち上るどす黒いオーラに怯《おび》えてあとじさる。
「はう。なんだか今のミス・ヴァリエールは、竜より怖いですわ」
はあはあはあ、と才人《さいと》は荒い息をついた。散々使いまくった拳《こぶし》は赤く腫《は》れ、原型をとどめていない。隣では金髪を血で真っ赤に染めたギーシュが、バラの造花を構えている。その造花を振り、弱々しくギーシュは呟《つぶや》いた。
「ワ、ワルキューレ」
しかし……、その花びらは散ってしまい、造花は丸裸になっていた。
「打ち止めだ」
ギーシュはため息混じりに言った。相手から奪った面頬《めんぼお》を被《かぶ》ったマリコルヌが、肩で息をしながら隊長と副隊長に告げた。
「こっちの残りの手勢は、たった六人だよ」
メガネの割れたレイナールの隣に、二人ばかり立っている。他《ほか》の隊員は地面にぶっ倒れ……、完全にのびていた。もう水魔法も打ち止めなのだった。
それに対し、空中装甲騎士団は十人ほどが立っている。とっくに甲冑《かっちゅう》を脱ぎ捨てていた。彼らも散々な体《てい》だった。髪の毛に、顔に血がこびりつき、折れた腕《うで》をブラブラさせているものもいた。
周りでは、生徒全員が固唾《かたず》をのんで見守っている。観客を味方につけていたとはいえ、水精霊騎士隊は格上の騎士団を相手にして相当善戦したといってよい。
「向こうも、こっちもそろそろ限界だな」
ギーシュが言った。
「ああ。あと一度突撃を受けきったら……、終わりかな」
マリコルヌが答える。たぶん……、水精霊騎士隊の生き残りは、向こうの突撃を受けきることはできないだろう。戦いが長引くと、やはり経験と実力がものを言う。生き残りの数に、その現実は如実に表れていた。
才人は、ボロボロになった仲間たちを、熱っぽい目で見つめた。身体《からだ》のあちこちが悲鳴をあげているというのに、どこか晴れ晴れとした気分だった。
それどころか、楽しくてしかたがない。
「はぁはぁ、こんなときに言うのもなんだけどよ」
「なんだね?」
「俺《おれ》、楽しくてしかたがねえ」
するとギーシュは、にっこりと笑った。マリコルヌも笑った。レイナールも、残りの少年たちも笑みを浮かべた。
「来るぞ」
空中装甲騎士団は、隊長の号令のもと整列すると、一斉に突撃してきた。
ギーシュが杖《つえ》を構えると、大声で命令した。
「諸君! 前進だ!」
残りの体力を振り絞り、よたよたと才人《さいと》たちは駆《か》け出した。
その瞬間……。
二つの騎士団の間に、小さな光の球が生まれた。
「な?」
見る間にそれは巨大に膨れ上がり……、爆発した。
「ぎやあああああああああああああ!」
「ひぎぃいいいいいいいいいッ!」
白い閃光《せんこう》は、二つの集団を吹き飛ばし、徐々に収束していった。
ぷすぷすと、地面がくすぶる中……、生徒たちの集団をかきわけて、桃髪の少女がゆらり、と現れた。ただの少女なのに、纏《まと》うオーラが違う。
歴戦の空中装甲騎士団も、持てる以上の勇気を発揮していた水精霊騎士隊も、地面に倒れたまま、ゆっくりと歩いてくる少女を呆然《ぼうぜん》と見つめた。この二つの騎士団の争いに、水を差せるのは竜ぐらいなものだろう。
それが一人の少女によって、唐突に試合終了を告げられようとしている。
空中装甲騎士の一人がよろよろと立ち上がり、
「……き、貴様はなんだ!」
怒鳴った。
まるつきりの薮蛇《やぶへび》であった。桃髪の少女は、杖を振ると、その騎士の目の前に爆発を起こし、なんなく吹っ飛ばした。
「……るさいのよ」
才人を含む、水精霊騎士隊の隊員たちが叫んだ。
「ルイズ!」
「あんたたち、うるさいのよ。わかってる? こっちは寝不足なのよ。やっとのことで寝付けるかしら、と思ってたのにぼんばかぼんばかぼんばかぼんばか……」
ルイズは自分の言葉に、だんだんとイライラしてきたらしい。
「ぼぼぼぼ、ぼんばかぼんばかって。ははは、花火なら、よよよよ、他所でやりなさいよね。ねねねねね、眠れないじゃないの」
ルイズはぎりっと唇の端を噛《か》み締めると、ぷるぷるわなわなびくびくと震《ふる》え始めた。体中が痙攣《けいれん》するほど、怒りは頂点に達したらしい。周りの空気が、怒りのオーラで揺らいだ。生徒たちが怯《おび》えた。空中装甲騎士たちも怯えた。周りにいた風竜も怯えた。ルイズは怒っていた。
「眠れないじゃないのー!」
ルイズは怒鳴ったあと、ぶつぶつ呟《つぶや》いて呪文《じゅもん》を完成させた。水精霊騎士隊、空中装甲騎士団、ともにはいつくばってその場から逃げ出そうとしたが、間に合わなかった。
振り下ろした杖《つえ》の先から、再び眩《まばゆ》い閃光《せんこう》が生まれ……、巨大な爆発音が、観客たちの耳をつんざいた。
爆発と煙がおさまったあと……、観客の生徒たちが目にしたものは、ルイズの|“エクスプロージョン”《爆発》で、更地になってしまった草原と、完全に意識を失い、ぶっ倒れている水精霊騎士隊と空中装甲騎士団の面々であった。
生徒たちは、爆発の真ん中で、未《いま》だ半分寝ぼけた顔で立ち尽くすルイズを、呆然《ぼうぜん》と見つめていた。
「ルイズの爆発、すごくなったなあ……」
「ある意味ありゃ、兵器だな」
と、“虚無”の復活を知らない生徒たちは、口々に感想を漏らす。まさかこんな身近に、伝説が転がっているなど思いもしない。
爆発の半径から離れたところで様子をうかがっていたベアトリスは、ぶるぶると震えながら、ネグリジェ姿で立ち尽くすルイズに近づき、それでも精一杯に虚勢を張りながら怒鳴りつける。
「あ、あなた! どういうおつもり!」
「はぁ? あんただれ?」
ルイズは、杖で肩をかきながら、気だるい声で尋ねた。よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりの態度で、ベアトリスは答える。
「ベアトリス・イヴォンヌ・フォン・クルデンホルフですわ! クルデンホルフ大公国はトリステイン王家とも縁深き、れっきとした独立国! アンリエッタ女王陛下にこの無礼はきっちり報告しますからね!」
「クルデンホルフ? ゲルマニア生まれの成金がなに寝言言ってるのよ。女王陛下に何を注進するですって? 笑わせないで。言っとくけど、わたし今、ものすごく機嫌《きげん》が悪いの。ごちゃごちゃ言うと、そのチンケな家ごと潰《つぶ》すわよ」
ルイズが言うと、ベアトリスは顔を真っ赤にした。
「な、な、成金と言ったわねえ〜〜〜〜〜!」
「何かというと家の名前を持ち出すなんて、まんま成金じゃないの」
「あなたの名前をうかがってなかったわ! 名乗りなさいな!」
「ルイズ・ド・ラ・ヴァリエール」
ベアトリスの目がまん丸に見開かれた。
「ラ・ヴァリエール? 公爵家の?」
「他《ほか》のどのヴァリエールがあるっていうのよ」
ベアトリスはグギギギギ、と唇を噛《か》んだ。家を出るときに言われた言葉を思い出す。トリステインで逆らってはいけない相手は三つある、と出がけに父は言ったのだった。
一つはトリステイン王家。
もう一つは宰相《さいしょう》マザリーニ。
そして最後に……、トリステインでも随一の歴史と格式を誇る、ラ・ヴァリエール公爵家。この三つ以外なら、ケンカを売ってもよい、と父は告げた……。
しかしベアトリスは頭に血が上っていた。な、何がラ・ヴァリエールよ。こっちは大公家よ。歴史と格式はともかく、財産と宮廷の席次ではそうそう負けないわ。
それに……、こちらには切り札があるのだった。
ベアトリスは、腕《うで》を組んで、さらに虚勢を張った。
「ラ・ヴァリエール先輩。今、わたしが何をしてるかご存知? 異端審問よ。異端審問。今まさに、審問の真っ最中。それに水をお差しになるということは、先輩も異端の一味と解釈してよろしいのかしら? あの名門公爵家のお嬢さんが異端だなんて! とんでもないスキャンダルになるでしょうね!」
しかしルイズはまったく動じない。
「異端審問? 司教の免状は?」
ベアトリスの顔が青くなった。そんなもの、持ってはいない。クルデンホルフ大公国の司教の資格、というのは先ほどティファニアの耳を見たときに思いついた、真っ赤な嘘《うそ》だったのである。トリステインの貴族なら、事情は知るまい、と思っていたのだが……、ルイズは鋭かった。
「ええと、その、実家にあるのよ!」
ルイズの目が、細くなった。
「あなた、司教ってウソね」
「え? ウソじゃなくってよ! 何をおっしゃるかと思えば……、はん!」
「異端審問には、司教の免状だけでなく、ロマリア宗教庁の審問認可状が必要なはずよ。それも知らないなんて、どういうこと?」
ルイズがそう言うなり、周りの生徒たちの目つきが変わった。異端審問、という響きで頭の中が真っ白になっていたが……、言われてみればルイズの言うとおりである。ベアトリスの言葉には怪しい部分が多すぎた。
「おい! ベアトリス! 始祖ブリミルの名を使って気に入らない女の子を苛《いじ》めるなんて、それが貴族のやり方か!」
「トリステインで司教を騙《かた》れば、火刑だぞ!」
生徒たちはベアトリスににじり寄った。いずれも、元々プライドの高いトリステイン貴族である。騎士団まで連れてきて威張りちらしたベアトリスを公然と非難できるので、われ先へと詰め寄った。
ベアトリスは震《ふる》えながら、膝《ひざ》をついた。頼みの空中装甲騎十団は、いずれものびている。絶体絶命であった。
このままでは吊《つ》るされてもおかしくない空気に包まれたとき……、とととととと、と金髪の妖精《ようせい》がベアトリスに駆《か》け寄ってきた。
ティファニアであった。
一人の生徒が、そんなティファニアに声をかけた。
「ミス・ウエストウッド。あなたには彼女を裁く権利がある。あなたに流れる血の釈明より先に」
ティファニアはベアトリスの前に進み出た。ひう、と呻《うめ》いて、ベアトリスは腰を抜かしたまま、あとじさった。その背が、生徒たちの壁に遮《さえぎ》られる。
唇を噛《か》んで、ティファニアはベアトリスを見下ろした。それから、意を決したように、顔をあげた。
ベアトリスの顔からさらに血の気がひいていく。覚悟を決めたように、ベアトリスは目をつむった。
その場の全員が、ティファニアの言葉に注目した。これだけの侮辱《ぶじょく》を受けたのである。普通なら、殺されてもベアトリスは文句は言えない……、はずであった。
しかし、ティファニアの言葉は、皆の予想を裏切っていた。
なんとティファニアは、膝《ひざ》をついてベアトリスの手をとると、
「お、お友達になりましょう」
と言ったのである。
その場にいた生徒全員が、あまりの言葉にすっ転んだ,まるで予想外で、拍子抜けしたのである。
「ミス・ウエストウッド? あなたには、彼女を裁く権利があるんですよ?」
生徒の一人が呆《あき》れた顔で、ティファニアに言った。頭がおかしくなったと思ったのである。しかし、ティファニアは首を振った。
「ここは学院でしょう? 学《まな》び舎《や》で裁くの裁かないの、なんておかしいわ」
「でも……、でもですね! どう考えてもですね!」
「それにわたし……、ここにお友達を作りに来たの。敵を作りに来たんじゃないわ」
ティファニアは、何か覚悟を決めた顔で言った。
その言葉に、誰《だれ》も何も言えなくなってしまった。その沈黙を破ったのは……、ベアトリスの泣き声だった。
「ひ……、ひう。ひっぐ」
恐怖の緊張の糸が切れ、安心した瞬間……、涙がどっとこぼれてきたらしい。がけっぷちから落ちそうになり、間一髪助かった子供のように、ベアトリスは泣いた。
「う、うう、うえ[#「え」に濁点]〜〜〜〜〜ん」
無防備な泣き声だけが、更地になってしまった草原に響く。その泣き声に当てられて、生徒たちは頭をかいた。所詮《しょせん》子供のわがままで、これ以上糾弾する気も失《う》せてしまったのだった。
「終わったかの?」
生徒たちの壁をかきわけて、学院長のオスマン氏が現れた。オスマン氏は白い髯《ひげ》をこすると、にっこりと笑った。
それからほぼ学院生徒全員の前で、ティファニアの肩に手を置き、こう告げた。
「あー、先ほど彼女は命をかけて、ここで学びたいと言った。その言葉から学ぶところは大きい。よいか諸君、もともと学問というのは命がけじゃ。己の信じるところを貫き通すためには、ときに世界を敵に回さねばならぬときもある……、忘れるでないぞ」
生徒たちは、今頃《いまごろ》出てきて何を言ってるんだ、といった顔つきになったが……、とりあえず頷《うなず》いた。オスマン氏は満足げに頷くと、言葉を続けた。
「しかし、いつも命がけでは息が詰まる。ケンカも息抜きの一つかもしれんが、人死にが出てからでは遅い。それになにより面倒じゃ。こんな騒ぎはもうこれきりにして欲しい。よいか、彼女の後見人はこのわしじゃ。その上ティファニア嬢は、女王陛下からよしなに頼まれた客人でもある。今後彼女に侮辱《ぶじょく》的な……、その血筋について何か講釈を垂れたい生徒がいたら、王政府を敵に回す覚悟で述べなさい。よいかね」
女王陛下からよしなに頼まれたって?
生徒たちは一斉に緊張した顔つきになった。このエルフの血が混じった編入生は……、女王陛下ゆかりの人物なのだ。
そう言われてみると現金なもので、混じったエルフの血も、なんだか特別な……、恐れるというより、唯…無二の美徳にさえ感じられた。
その上、ほとんどの生徒が、エルフの血を引く者を見るのが初めてだった。オスマン氏の言葉で、恐怖より、好奇心が勝り……、ついにはその眩《まばゆ》い容姿への好意が、仇敵《きゅうてき》に対する嫌悪感を打ち消した。
生徒たちはティファニアに近づき、握手を求め始めた。
「よろしく。エルフって初めて見たけど、綺麗《きれい》なもんだね」
「わたし、オーク鬼みたいな生き物を想像してたのよ」
「それに、随分と真面目《まじめ》で、まっすぐな考え方をするんだね。人間の貴族よりも貴族らしいや」
ティファニアは感動した面持ちで、一人一人と握手を交わした。そんな様子を満足げに見つめると……、オスマン氏は辺りを見回して、言った。
「さて、仲直りがすんだら、怪我《けが》人を医務室に運んで、ここの後片付けをしなさい。まるで嵐《あらし》のあとのようじゃ」
生徒たちは頷くと、ぶっ倒れて、すっかり忘れ去られた水精霊騎士隊と、空中装甲騎士団の騎士たちを運び始めた。
オスマン氏はそれを見て頷くと、傍らのティファニアに顔を向けた。
「助けが遅くなってすまなかったの。ただ、普通に助け舟を出しては、なかなか真の友というのはつくりづらいからのう。特にお前さんのような、エルフの血を引く者ではの」
いえ……、と、人見知りするティファニアは顔を伏せた。
オスマン氏は、ごほんと咳《せき》を皿つすると、そこで真顔になった。
「さて……、最後に一つ、お前さんに尋ねたいことがある」
「はい?」
不安げな表情を浮かべ、ティファニアは首を傾《かし》げた。
「非常に大事な質問じゃ。学問というのはまこと命がけじゃのう……。わしの全存在をかけて、質問するぞ,きちんと答えるのじゃ」
「はい」
真剣な顔で、ティファニアは頷《うなず》いた。
オスマン氏は、堂々と指を突きつけた。
巨大な、という形容が陳腐に思えるほどのティファニアの胸に……。
臆《おく》したところは微塵《みじん》も感じられない。威厳《いげん》さえ感じさせる、落ち着き払った態度でオスマン氏は質問を発した。
「それはホンモノかの?」
ティファニアの顔が、真っ赤に染まる。真剣な質問らしいので、しかたなくティファニアは消え入りそうな声で答えた。
「……はい。そうです」
オスマン氏は耳に手を当てると、ティファニアの顔に近づけた。
「もっとはっきり、この年寄りに聞こえるように言ってはくれんかの。歳《とし》をとると、はぁ、耳が遠くなっていかん」
ティファニアは、さらに顔を赤くさせた。俯《うつむ》き、唇を噛《か》み締め、
「ほ、ほんものです!」
「ワ、ワンモアじゃ」
オスマン氏は、軽く頬《ほお》を染めて、そう呟《つぶや》いた。近くにやってきたミセス・シュヴルーズが、そんなオスマン氏の腹に当身《あてみ》を食らわせた。
ぐぼッ! とやばい呻《うめ》きをあげ、オスマン氏は白目をむいた。意識を失った老学院長の左右の腕《うで》を別の教師が握り、ずるずると運んでいった。
ティファニアは、しばらく顔を真っ赤にしたまま俯いていたが……、草原に吹く風に誘《さそ》われるようにして顔をあげた。
広い草原が……、どこまでも続いている。振り返ると、美しい塔が何本もそびえる、魔法学院が見えた。自分がこれから三年間、学ぶ場所だ。
ティファニアは、自分の耳を触った。母の血がこの身体《からだ》に流れていることを証明する、長い耳……。
どこか晴れ晴れとした気分で、ティファニアは笑みを浮かべた。
魔法学院の医務室は、水の塔の三階から六階までのフロアを利用して造られている。四階のベッドには空中装甲騎士団の面々が横たわり、三階のベッドには水精霊騎士隊の生徒たちが並べられた。
才人《さいと》は、女の子たちの声で目を覚ました。
「ギーシュさま! 包帯をお取り替えしましょうか?」
「いやあ〜〜〜ん! レイナールさまはわたしがお世話するのよ! お眼鏡《めがね》をお取りになってくださいな」
はぁ? と思ってカーテンをずらして見ると、隣のベッドでは、ギーシュやレイナールといった水精霊騎士隊の連中が、なにやらモテモテである。
栗色《くりいろ》の髪のケティが現れて、そんな女の子たちに文句をつけた。
「あなたたちは、あっちの副隊長さんのお世話をしてあげて!」
才人はどきっとした。しかし、次に飛び出た言葉は、才人をいたく失望させた。
「ええ〜〜〜〜、だってサイトさま、なんだか情けないんだもの。幻滅しちゃったわ」
「そうそう。いきなり頭をお下げになられたときは、がっかりしてしまいましたわ。きっと七万をお止めになられたのも、何かの間違いなんだわ」
「そうよね。よく見るとよわっちいし……」
どうやら、才人の人気は、先ほど真っ先に頭を下げた所為《せい》で、地に落ちてしまったらしい。反対に、堂々とケンカを売ったギーシュたちの人気はあがったらしい。いやはや、なんともわかりやすい連中だなー、と才人は思った。
反対側のほうに目を向けると、包帯でぐるぐる巻きにされたマリコルヌがいて、才人に向って親指をぐっと立ててみせた。
「ともだち」
マリコルヌは嬉《うれ》しそうに呟《つぶや》く。なるほど、マリコルヌのベッドの周りも、閑古鳥《かんこどり》が鳴いていた。いっしょにされてちょっとせつなかったが、なんとなく胸が熱くなった。
そんな深い意味はないだろうが、マリコルヌがぽつりと言った“ともだち”という言葉が妙に嬉しかったのである。
それに、さっきはこいつら、俺を助けるためにあの恐ろしい空中装甲騎士団に立ち向かってくれた。「みんなが見てるから」というわかりやすい理由はあったものの、それだけじゃないだろう。
ああ、あのとき……、ギーシュに『こっちの世界にいたらどうだ?』と言われたときの、妙なドキドキはこれだったんだな、と才人は気づいた。
つまり……、俺には友達ができたんだ。
いっしょになって笑ったり、バカ話したり、そして、命を張ってくれる友達が……。そんな風にしんみりとしていると、すっとカーテンが引かれて、金髪の妖精《ようせい》が顔を見せた。
「サイト」
「テファ」
「よかった……、ひどいことにならなくて」
そう言うと、ほっとしたような顔で、ティファニアはベッドに腰掛《こしか》けた。
「ありがとう」
ティファニアみたいなとんでもない美少女にお礼を言われて、才人《さいと》は妙に照れくさくなった。
「いや、礼を言うのは俺にじゃないよ。そこのギーシュや、マリコルヌに言ってくれ。あいつらが暴れてくれなかったら……」
「ううん。もちろんそれはとてもありがたいし、あとでちゃんと改めてお礼を述べるわ。でも、まず、サイトにお礼が言いたかったの」
「どうして?」
「だって、サイト、わたしのために頭を下げてくれたじゃない。サイトはちっとも悪くないのに……。それってとても難しいことだよね。わたしね、とっても嬉《うれ》しかった」
「……あ、あったりまえじゃねえか。友達のためだもの」
ティファニアは、にっこりと笑った。春の太陽のような、優しく温かい笑みだった。
「でも、テファには驚いたよ」
「わたし?」
「うん。だって、いきなり自分の正体をバラすんだもの」
するとティファニアは、はにかんだように言った。
「サイトが言ったんだよ?」
「俺?」
「そう。サイト、ウエストウッド村でわたしに言ったじゃない。“もっと自信を持てよ”って。その言葉をね、思い出したの。そうしたら、自分の身体《からだ》に流れる血のことを、かくしておくのがすごく恥ずかしいことに思えて……」
そっか、と才人は言った。思い出した、何気なく言った言葉だった。でも、ティファニアは、自分が言ったそんな何気ない言葉を大事にしてくれたのだった。
「でもまだ、自信は持てないけどね」
ティファニアは、ちょっと寂しそうに呟《つぶや》いた。
「はぁ? なに言ってんだよ」
呆《あき》れた声で才人が言ったら、ティファニアは声を潜めた。頬《ほお》を染めて、恥ずかしそうに眩く。
「まだおかしいところ、いっぱいあるもの」
「どこが?」
テイファニアは、唇を噛《か》んで、自分の胸を指差した。魔法学院のシャツの生地が、限界まで伸びている。二つの巨大な果実に押され、ボタンがはじけ飛びそうになっていた。ああ、ほんとうにティファニアの胸は恐ろしい。これ以上|身体《からだ》から血がなくなっては命にかかわるので、才人《さいと》は思わず鼻を押さえた。
確かにこんな胸をしてたら、クラスの人気を独り占めしてしまうだろうな……、なんて考えていると、ティファニアは悲しそうな声で語り始めた。
「さっき、学院長のオスマン氏にも言われたの。『それはホンモノかね?』って。わたし、やっぱりおかしいわ。だって、この学院の誰《だれ》も、こんな胸してないもの」
才人は慌てた。
「そ、それは……」
「そんなに、ホンモノっぽくない?」
悩んだ顔でそんなことを言われ、才人はぶんぶんと首を振った。
「い、いや。ホンモノっぽいよ。というかホンモノです。うん、ホンモノ」
「サイトはお友達だから、そんな風に言ってくれるんだわ」
「違うよ、全然違う」
ティファニアはしばらく悩んでいたが……、何かを決心したらしい。才人の手をぎゅっと握った。
「きっと、ホンモノっぽくない理由があるんだと思うの。だからちょっと、確かめてくれる?」
意味がわからなかった。才人は、は? と尋ねかえした。
「こんなこと、お友達じゃないと頼めない。だからサイト、お願い」
「ど、どういう意味?」
消え入りそうな声で、ティファニアは呟《つぶや》いた。
「……って、確かめて」
「はい?」
すう、と息を吸い込み、ティファニアは真剣な顔で言った。
「触って、確かめて」
才人は言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。理解したときには、歓喜と混乱と恐怖がいっせいに襲ってきて、才人は泣きそうになってしまった。いや、泣いた。涙が溢《あふ》れてきて、才人はどうにかなってしまいそうになった。
「ミス・ティファニア?」
「あのね? だからね、ホンモノっぽくない理由が何かしらあるから、そんな風に聞かれると思うのね。わたしじゃわからないから、確かめてって言ってるのよ」
「で、触っていいと」
こくり、とティファニアは恥ずかしそうに頷《うなず》いた。
友達だから、という理由でここまで許可するティファニアが眩《まぶ》しかった。才人《さいと》は心の底
から生きててよかった、と思った。我慢して、努力していれば、神さまはこうやって何か
しらのご褒美を与えてくれるのだ。捨てる神がいれば拾う神がいるのだ。
才人の全身が、震《ふる》えた。武者震いであった。
「ま、まあ、他《ほか》のやつが確かめるぐらいなら、いっそ俺《おれ》が。いや、むしろ俺が。というかここは俺じゃないと……」
「わ、わたしもそう思うの」
ティファニアは覚悟を決めたように、胸を突き出した。かつて太ももで味わった、極上の巨大な果実が目の前にあった。才人は手を持ち上げ、ゆっくりと伸ばした。シャツに指が触れた。それ以上先には進めない……、進んだら死ぬ、と思っていると、ティファニアが動いた。
ぐにょ。
手のひらの下で、果実がつぶれた。
やわらかく、張りがあった。というか緊張と歓喜で、手のひらの触感が鈍っていて、才人は十分の一も感触を味わえなかった。でも、それで十分だった。もし、十全にその感触を味わってしまったら……、ショックで才人は命を落としていたに違いない。
「……ど、どお? おかしいところある?」
「わからない。というか俺、そろそろ死ぬ」
才人のその予想は的中した。
正直にそれだけ答えた瞬間……、カーテンが引かれたのだった。
才人がそちらに目を向けると、ルイズとシエスタが立っていた。ルイズは魔法学院の制服に着替えていた。シエスタはいつものメイド姿。
二人は、ティファニアの果実を両手で握り締めた才人を見て、無表情のまま顔を見合わせた。ルイズはそれから、医務室付けの教師に声をかける。
「このベッドの患者の移送許可をいただきますわね」
シエスタが、軽く震えた声でルイズに言った。
「治療に必要なものをおっしゃってください。ミス・ヴァリエール」
ルイズは心底気の毒そうな声で答える。
「ありすぎて……、数えきれないわ。とりあえず、こいつの……」
「命」
二人は顔を引きつらせて、同じ単語をハモらせた。
才人は痛む身体《からだ》にムチうち、最後の気力を振り絞って跳《は》ね起きると、ああ、そういやここは塔の三階だったなあ、と思いながら、枕《まくら》もとのそばにあるガラス窓を突き破った。
窓ガラスの割れる音と、医務室にいた連中の悲鳴が重なる。
ここは三階で自分は大怪我《おおけが》を負っていたが、あの病室にいるより命の危険は少ない、と才人《さいと》は判断したのである。
急速に近づく地面を見つめながら……、才人は思った。
もし、骨折ですんだら────。
明日の太陽が奇跡《きせき》的に拝めたら────。
ティファニア、きみのその|ミラクル《胸》だけは、隠しておくべきだと。ゆったりした服を着るとか工夫すべきだと。そう言ってやろうと、才人は思った。
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第二話 水精霊騎士隊、突撃せよ
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第一章
「反省文。水精霊騎士隊副隊長、及び女王陛下直属女官ド・ラ・ヴァリエール嬢個人の使い魔である、わたくしことサイト・シュヴァリエ・ド・ヒラガは、トリステイン魔法学院の医務室において、ティファニア嬢の胸を右手と左手で包み込むように揉《も》みこみました。しかし、それはわたくし個人の要望によるものではなく、彼女個人の要請『ここおかしくない?』があったためであり、そこにはなんら性的な他意はなかったことをここに誓約いたします。ブリミル暦6243年、ウルの月ヘイムダルの週イングの曜円。女王陛下のサイト・シュヴァリエ・ド・ヒラガ」
才人《さいと》は重々しく、反省文を読み上げた。しかし、見るも無残な格好である。いつものパーカーを脱がされ、パンツ一枚になっている。首からは木でできた札が下げられていた。
そこには、トリステイン公用語でこう書かれている。
『わたしは大きな胸が好きではありません』
才人の横には、にこにこと微笑を浮かべたシエスタが立っている。その前には……、椅子《いす》に座ったルイズが才人に背を向けて、反省文に耳を傾《かたむ》けていた。
その背からは、未《いま》だ冷めやらぬ怒りのオーラが立ち上っている。あれからしばらく経《た》ったというのに、ルイズの怒りは収まらないどころか、さらに激しくなっていた。たぶん、小鳥ぐらいなら近づいただけで殺せるんじゃないか? と思わせるほどの、どす黒いオーラであった。
医務室で、才人が窓から飛び出してから三日が経っている。地面に激突しそうになった才人を救ったのは、タバサとその使い魔シルフィードであった。
それでなんとか奇跡《きせき》的に大怪我《おおけが》を免れた才人だったが……、負傷した身体《からだ》ではルイズから逃げられず、さらに魔法で怪我を負わされ、動けなくなったところを捕らえられ、部屋まで連れてこられ、それから三日というもの、暴力と反省強要を繰り返されることになったのだった。
ルイズの怒りは、今までのレベルを超えていた。とにかく、その、覚悟したのに放置され、おまけに妙な余裕をかまされ、お見舞いにわざわざ行ってあげたら、あのハーフエルフの胸をこう、握っていたのである。
ここまでコケにされては、もうどうにもならない。命を奪わなかっただけでも、感謝して欲しいぐらいである。
「今のサイトさんの反省文、どうですか? ミス・ヴァリエール」
シエスタが笑顔のまま、ルイズに尋ねた。
ルイズは無言だった。シエスタはやれやれというように首を振る。
「没だそうです」
才人《さいと》のこめかみが、びくん、と震《ふる》えた。いったい何回、反省文を作らせれば気が済むのだ。何度書いても、ルイズときたらお気に召さないらしい。
才人は、ルイズが先週繰り返した夜の散歩の理由を知らない。どんだけご主人さまのプライドを傷つけていたかを理解していなかったので、この扱いにはほとほと怒りが溜《た》まっていた。
ったく。そりゃ胸を触っていたけど、それはテファに頼まれたからだって言ってるだろーが! なんでこいつってば、こんなにやきもち焼きでわがままで、自分勝手なんだろうか、と才人はじわじわと怒りに震えた。
こんな女と結婚でもした日には、いったいどうなるんだろうか。
才人はそんな妄想に浸《ひた》った。
きっと……、会社から帰ってきたときにはくんくん匂《にお》いを嗅《か》がれる。
「香水の匂いがすんだけど」
「あ、電車の中でついたのかな。込んでてさ」
「半径二メートル以内に他《ほか》の女を近寄らせちゃダメって言ってるでしょー!」
「無茶言うなよ」
「無茶じゃないでしょ! 近寄ってきたら押しのけなさいよ!」
たぶん常識通じない……。
というか……、なんでこいつは、好きとも言ってくれないのに、独占欲だけはむき出しにするんだろう、と才人はルイズの背中を見つめた。
きっとルイズって、まだ子供なんだよな……、と才人は確か一つ年下の女の子の背中を見ながら思った。こっちの世界の一年は、十二等分された月、そして四週からなる週、八つの曜日からなっている。一年はつまり、三百八十四日となる。
ルイズは十六歳だったのだから、つまり才人の一個下になるのだが、一年が三百六十五日の世界から来た才人とのズレは十九×十六で三百四日になるから実際にはほとんど同じ歳《とし》になるんだろうかでもこっちの一日は地球とほとんど同じなんだろうか実際にはどうかわからないなあ……、などと考えながら才人は首を振った。数学は得意でも苦手でもなかったが、今考えることじゃない。
とにかくルイズは、才人とほぼ同じ歳である。
それなのに、こいつの子供っぽさはなんなんだろう。
と、才人は自分の鈍感さには気づかずに、ルイズにそんな感想を抱いた。
そう考えたら、ふつふつと冷えた怒りが湧いてきた。
ルイズときたら、逃げ出さないように、と才人の服まで没収したのである。おまけに首からこんな札まで下げさせて……。
なあルイズ。子供っぽいのは胸だけにしとけよな……。
才人《さいと》は、『わたしは大きな胸が好きではありません』と大書された木の板を、割れんばかりに握り締めた。
いや、嫌いじゃねえよ……、どっちかというと好きだよ、ただ、それがすべてじゃないけどナ……、と才人は目を細めて天を見上げたが、星は見えない。あるのは天井だった。ああ星が見たい、こんなときだからこそ星が見たいと漠然と思っていると、シエスタが小声で話しかけてきた。
「あの……、サイトさん。ちょっとお尋ねしたいんですけど」
「ん? どうしたの?」
見ると、なにやら深刻そうな顔である.、才人も、ちょっと真顔になった。
「ティファニアさんのって、ほんとに本物なんですか?」
「うん。本物だと思うよ」
「こんな感じでした?」
シエスタは、真顔のまま才人の手を握り、自分の胸に押し付けた。
ふにふに、と張りのあるシエスタの胸が才人の手のひらを押し戻す。普通だったら興奮して鼻血の一つも噴出するところだが、あまりにもシエスタが普通なので、才人もつられて、まるでタイヤの空気圧を測るかのようななんでもない態度で、シエスタの胸を握り締めた。
「こんな感じ、だったかな? ただ……」
「もっと大きかった、ですか? いいんですよ、はっきりおっしゃってくださって」
こくり、と才人は重々しく頷《うなず》いた。シエスタも頷く。
「じかに触ってみます? 大きさだけが、評価のすべてじゃないと思うんです」
シエスタが言った。才人もつられて、うむ、と頷いた。
「うむじゃないわよ」
ルイズは、傍らの乗馬ムチで、そんなメイドと使い魔を散々に叩《たた》きまくった。
「痛い、痛い」
「やめろよ! こら!」
その後、ルイズは引きつりまくった顔で、才人に命令した。
「反省文はどうしたの」
声が裏返り、身体《からだ》中が小さく痙攣《けいれん》している。怒り、という言葉を煮詰めて、体中にまぶしたような、そんなオーラが漂っている。
しかし、才人もいい加減限界だった。
あれだけ助けて。
あれだけ好きと言ったのに。
このルイズは、自分のその気持ちに答えを寄越《よこ》さないばかりか、不可抗力だと言ってるのにさらなる反省を要求する。
この子供め。
「……いい加減にしろよ」
「はい?」
ルイズは、じろっと才人《さいと》を睨《にら》んで言った。その追力に、才人は 一瞬でのまれた。
「いい加減にしてください」
完全に、ルイズは才人の話を嘘《うそ》だと思い込んでいた。
「いい加減にするのはそっちでしょ? 頼まれて、触ったなんて、嘘ばっかり! ねぇ?気持ちよかった? 触って、よかった? さぞかし気持ちよかったんでしょうね!」
才人のこめかみが、びくり、と震《ふる》えた。
「ああ、気持ちよかったよ! その、誰《だれ》かさんとは……」
「誰かさんって、誰?」
才人はその次を正直に答えたら、たぶん分子レベルで消滅すると思い、とりあえず誤魔化《ごまか》すことにした。
「ギーシュ」
しかし、今のルイズには何を言っても無駄だったらしい。
「へぇ、そう。わたしはギーシュ並みと。そう言いたいわけね」
「そ、そんなこと言ってないだろ!」
「悪かったわね。なくって。ほんとに、悪かったわね。というか、悪かったわね」
しかしルイズは聞く耳を持たない。二人はギリギリと歯を噛《か》み締めて睨み合った。しばらく睨み合ったあと、才人はため息をつくと部屋の隅に置かれたパーカーとジーンズとデルフを握り締めた。
「サイトさん! どこへ!」
シエスタが驚いた顔になった。
「出る。いつまでもこんな扱いされて、いられるかっつの」
才人はそのまま部屋を出て行った。シエスタがあとを追いかけようとしたが、ルイズに止められる。
「ほっときなさい」
「でも、でもですね……」
シエスタは才人とルイズを交互に見つめて、ため息をついた。
部屋を出た才人が、まずやってきたのはコルベール先生の研究室だった。火の塔の隣に建っている、ポロい掘っ立て小屋である。
明かりがついていたので、才人《さいと》はほっとした。今夜は先生のところに泊めてもらおう。
「コルベールせん……」
扉を叩《たた》こうとした才人の手が止まる。
「ねえジャン。そろそろ寝ましょうよ」
「ミス・ツェルプストー。そろそろ部屋に帰りたまえ。ここはわたしの研究室で、きみは生徒じゃないか」
「あら? 今更何をおっしゃるの?」
「ちょ、こら、やめたまえ、おいこら!」
才人はコルベール先生の研究室をあとにした。どうやらいろんな意味で、自分を泊める余裕はないように思えた。
次に才人がやってきたのは、男子|寮《りょう》がある本塔である。こうなったらギーシュの部屋に泊めてもらおう、と考えたのだ。
さてギーシュの部屋の前につき、扉を叩こうとしたら……。
「だからモンモランシー! いつも言ってるじゃないか! ぼくはきみだけの奉仕者だって!」
「うそばっかり。そこの服はなんなのかしら?」
「きみにプレゼントするためにトリスタニアから取り寄せたんだよ」
「全部サイズが違うじゃないの。いったい何人に贈るつもりだったのよ!」
そして、モンモランシーはぽかぽかとギーシュを叩き始めたらしい。どったんばったんと暴れる音が聞こえてくる。ギーシュ、お前も大変だな……、いいぜ。今夜は飲み明かそうぜ、と思いながら、ドアの陰に隠れるべく、才人は壁際に身を寄せた。
しかし、いつまで経《た》ってもモンモランシーは飛び出してこない。なんだなんだ、と扉に耳を寄せると、すすり泣くモンモランシーの声と、なだめるギーシュの声が聞こえてくるではないか。
「わたし、心配なの。あなた、今では近衛《このえ》の隊長じゃない。そんなの、女の子がほうっておくわけがないわ」
「ばかを言うなよ。ぼくはきみがいれば他《ほか》に何もいらないんだよ。さあ、ぼくの香水。その麗しい顔をこっちに見せてごらん」
皆の前では決して見せないモンモランシーのしおらしさに、才人は絶句した。なんだよ、モンモン可愛いところあるじゃねえか。
桃色の髪した誰《だれ》かさんとは大違いだぜ……、と呟《つぶや》きながら、才人はとぼとぼと歩き出した。
最後にやってきたのは、水精霊騎士隊のたまり場であった。集まる場所がないので、いつの間にかたまり場になってしまったが、元はといえば才人のシュヴァリエ年金で建てた、ゼロ戦を格納するための小屋である。
そうだよそうだ、最初からここに泊まればよかったんだよ、と近寄るとどうにも様子がおかしい。明かりがついているではないか。こんな夜更けに誰《だれ》だろう? また酒盛りでもやってやがるのか、なるほどそれなら俺も参加する。そんな風に少し明るくなった気分で窓から中を覗《のぞ》くと、信じられない光景が目に飛び込んできた。
「素敵な詩ですわ。マリコルヌさま」
黒髪《ブルネット》の髪を小さくまとめた清楚《せいそ》な感じの少女が、マリコルヌの隣に腰掛《こしか》けているではないか! 紺色のマントの色からして、一年生だろうか。なかなか可愛い女の子だった。二人で椅子《いす》に腰掛け、詩でも詠《よ》んでいるらしい。マリコルヌは、もったいぶった顔で、一節を口からつむぎ出す。
「ぼくの丸い腹も、きみとの夜を照らす双月の片割れとならん……」
腹はねえだろ、と思ったが、女の子はうっとりとして聞いている。どうやら先日の一件で、とうとうマリコルヌにも春がきたらしい。
マリコルヌは、ちょっとはにかんだ口調で、女の子に尋ねた。
「ねえ、ぼくの身体《からだ》をどう恩う?」
なんだよマリコルヌ。そんなの気にするなよ、と才人《さいと》はハラハラした。
女の子は、ちょっと困ったように目を泳がせたが、マリコルヌを気遣ってか笑顔を浮かべる。
「ちょっとお太いですけど……、わたしそんなの気にいたしませんわ」
ああ……、いい子じゃねえか、と才人は泣きそうになった。
しかし、なんだか様子が違った。マリコルヌはどうやら気にしていたわけではないようだった。
「……その“太い”を乱暴な言葉でいうと、なんて言うのかな?」
まるで鉱脈を見つけた山師のようなわくわくした口調で、マリコルヌは尋ねた。
「え? お、おデブとか……」
すごく困った顔で、女の子は答える。するとマリコルヌの頬が紅潮を開始した。
「その言葉を繰り返してくれたまえ」
「デ、デブ?」
「も、もっと。もっとだ」
女の子は泣きそうな顔になったが、同じ言葉を繰り返した。
「デブ」
「はぁはぁ。いいぞ。今度はもっと強く。罵《ののし》りの気持ちを忘れずに」
「デブ!」
「ンあぁ」
やっと掴《つか》んだ春だ。邪魔しちゃ悪いよなあ、と才人《さいと》はたまり場をあとにした。
どこにも居場所がなくなった才人がやってきたのは、本塔にあるアルヴィーズの食堂であった。開いていた勝手口から入り、食堂へと向かうと、そこには幻想的な光景が広がっていた。
なんと、昼間は壁際の棚に並べられた|アルヴィー《魔法人形》が、そこかしこで踊っているではないか。窓から差し込む、淡い双月の明かりとあいまって、なんだか夢の中のようだった。
「そういや夜になると踊るんだっけ」
いつかルイズがそんなことを言っていたように思う。
才人はアルヴィーが飾られていた棚に向かった。住人が踊っている間、ベッドとして利用させてもらおうと考えたのである。
才人はよっこらせ、と腰の高さほどの棚に上ると横になった。硬いのをのぞけば、なかなかおあつらえ向きのベッドである。
丸めたパーカーを枕《まくら》代わりに頭の下に押し込み、さてとりあえず寝るか、と目をつむった。
しかし、勢い込んで出てきたけど明日からどうしよう。
とりあえず、あの部屋には二度と戻るもんか。三日間の暴虐の限りを思い出し、才人は唸《うな》った。注いだ愛情の分だけ、理不尽な扱いへの怒りは大きい。
泣いて謝ったって、もう戻ってやらねえ、と才人は決心する。
考えれば考えるほど、頭はカッカしてくる。そんな風に眠れずにいると……、才人は棚の片隅からカタカタと妙な音がするのに気づいた。
なんだ、ネズミか?・と思ってそちらに目をやった。古ぼけた花瓶《かびん》が倒れ、その下にある何かが動いて、小さな音を立てている。
才人は手を伸ばして、花瓶をどかした。
「なんだこりゃ」
花瓶の下敷きになっていたのは、女性の姿をかたどった、|アルヴィー《小魔法人形》であった。ずっと隅っこに倒れていたために、埃《ほこり》だらけになっている。
「真っ黒じゃねえか」
才人は、ポケットからハンカチを取り出すと、そのアルヴィーを拭《ふ》いてやった。
「これでよし、と。ほら、お前も仲間といっしょに踊ってこい」
カタタ、カタカタ、と人形は小刻みに震《ふる》えて、才人の周りを回り始めた。
「お礼のつもりか? 面白いな」
それから礼をするように、体をかしげると、たくさんのアルヴイーが踊っている食堂のフロアへと飛び出していく。人形は舞踏会の輪に紛れ、すぐに区別がつかなくなった。
双月の明かりに照らされた無音の舞踏会は、神秘的ともいえる輝きを放っている。
才人《さいと》はいつだか、ルイズと踊った舞踏会を思い出した。
あれから一年も過ぎたのに……、ルイズの性格のキツさだけは変わらない。やれやれと、首を振りながら、才人は再び目をつむった。
一方、部屋に残されたルイズは、無言でベッドに潜り込むと、毛布を被《かぶ》った。
何がティファニアに頼まれた、よ。
そんな適当な嘘《うそ》に騙《だま》されるなんて思ってるの?
人をばかにするにもほどがある。
自分で触ったんでしょ。自分で……。
ルイズは布団をぎゅっと噛《か》んだ。
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第二章
翌日……。
水精霊騎士隊のたまり場では、春めいた会話が飛び交っていた。その会話の内容はというと……。
「おいギーシュ! すごい花束だな!」
そう叫んだのは、水精霊騎士隊一、身体《からだ》の大きなギムリであった。彼はメイジというより、剣を扱う兵隊のように筋肉が盛り上がった肩を揺らしながら、がっはっは、と豪快な笑い声をあげた。
「いやぁ、考えものだな! モテすぎるというのも!」
そう言って笑うギーシュの前には、女生徒からのプレゼントが溢《あふ》れている。格好のいい啖呵《たんか》を切った近衛《このえ》の隊長さん、ということで、ギーシュはかなりの人気を博しているのであった。元々美少年だし、黙っていればギーシュはモテるのだ。いやはや、モンモランシーがせつなくなって涙を流すのも無理からぬ、といったモテっぷりである。
しかし、そんなモテを発揮しているのはギーシュだけではない。
周りを見渡せば、プレゼントを貰《もら》っていない男子はいない。それだけ、著名な騎士団と互角といってよい戦いを繰り広げた水精霊騎士隊の人気は高まっていたのだった。
いや、一人だけプレゼントとは無縁の少年がいた。
部屋の隅っこで、空になったワインの壜《びん》に唇をあてて笛に見立て、ボー、ボー、とせつなげな音を奏でている才人《さいと》である。
ルイズとケンカして、部屋を飛び出てきた才人は当初、怒りに震《ふる》えていたが……、そのうちに怒り疲《つか》れ、哀しくなってしまったのである。
誤解だというのに、どうしてあそこまで怒るんだろう。
というかキス以外のことは何もさせてくれないくせに、怒る権利はあるんだろうか。
いやいやその前に、俺とルイズは付き合ってるんだろうか?
考えてみれば……、ルイズは時に、俺のこと好きだよなあ、という仕草や態度は見せるものの、それをはっきり口にしたわけではない。というか口にするのを拒《こば》んでいるそぶりすら見せる。きっと、なんらかの理由があって、ルイズはもう一歩を踏み出せないでいるのだ。
才人はそれがなんなのかわからなかった。
でもそれが使い魔以上恋人未満の関係から、俺を恋人にするのを拒んでいる…….
つまり、俺はまだルイズの恋人じゃない。
あれだけ唇を重ねても、それは結局“重ねた”以上の意味を持たないのだ。
俺、彼女いない暦十七年のままか……、いや、一年|経《た》ったから十八年? まあそんなことはどうでもいい。
とにかく、ルイズは自分のことが好き、と思い込んでいたために、いざそんな疑問が浮かぶと才人は悲しくなってしまうのである。
“ルイズは俺に惚《ほ》れてる”と、あんだけ調子に乗りまくっていた分、一旦《いったん》落ち込んだら底なしであった。深い闇《やみ》でできた沼にどこまでも沈んでいくように、才人は落ち込みまくるのであった。
ああ、ここにいる皆が羨《うらや》ましい。皆、彼女がいていいなあ……、俺にはいないんだ。わがままなご主人さまならいるけどナ……、とため息をつく才人に、ぱっくりと胸のあいた、派手なシャツに身を包んだマリコルヌが話しかけた。
「やあサイト。これどうだい? 似合うかい?」
才人はちらっとマリコルヌを見やった。似合う似合わない、というレベルではなかった。昔テレビで見た、罰《ばつ》ゲームのコメディアンのようだった。ぷっくりと出たお腹が、シャツの隙間《すきま》から覗《のぞ》いている。
それでも才人は、にっこりと、妙にヌルい笑みを浮かべた。疲れていたのである。
「似合うよ。よかったな」
マリコルヌは鼻腔《びこう》を広げると、そんな才人の肩を叩《たた》いた。
「どうしても着てくれって言うんだ! いやぁ、モテるってつらいね!」
はは、と才人《さいと》は乾いた笑いを浮かべた。才人が現在、ルイズとケンカして部屋を出ていることを知っている幾人かの生徒たちが、そんなマリコルヌに注意を促そうとしてか、
「よかったなマリコルヌ! さあ、こっちに来いよ!」
「いや、ぼくはサイトに聞いて欲しいんだ。なあサイト聞いてくれ。信じられないことに、ぼくは現在二人の少女に舞踏会でのエスコートを申し込まれている! このお腹でもいい。いや、むしろこの腹がいい、という少女たちだ! ぼくは彼女たちを、実に特殊だと思う。いやほんと、“特殊”という言葉以外で形容できない。だってぼくがいいって言うんだぜ! 信じられないだろ? さあサイト、決めてくれ。どっちの子がいいと思う? 一人はブルネットの髪の清楚《せいそ》な子で、もう一人は赤髪の情熱的な子だ」
才人は遠い目になって、ルルル……、と鼻歌を歌い始めた。危険信号だ、と感じたギーシュがマリコルヌに近寄り、その身体《からだ》を引き離し始めた。
「なあマリコルヌ。サイトはいま……」
ギーシュはこにょごにょとマリコルヌの耳元で何事か呟《つぶや》いた。するとマリコルヌは大声で笑い始めた。
「なんだサイト! またルイズとケンカしたのかい? しょうがない鈍感だな! ぼくが女の子の扱いというものを、教えてあげようか? ナハ! ナハ!」
マリコルヌは高らかに笑いながら才人の背中をばしばしと叩《たた》いた。ギーシュたちは青い顔になったが、才人は卑屈な笑みを浮かべ、あ、ありがとう、などと眩くのであった。
そんな才人を見かねて、レイナールがギーシュに眩いた。
「なあギーシュ。いくらなんでも、サイトが可哀想《かわいそう》だ」
「ん? ああ、そうだな……」
盛り上がっていたギーシュたちは、自分たちの浮かれ具合を反省した。水精霊騎士隊のすべての不幸を一人で引き受けてしまったような、才人の境遇に同情した。
「どうにかして、ヤツに元気になってもらいたいな」
「しかしまあ、こればっかりはどうにもならんなあ。なにせ、人の恋路だからね」
ギーシュはもっともらしく頷《うなず》いた。そんな中……、いつでも豪快なギムリが、なぜか小声でギーシュにささやいた。
「隊長殿。おれにいい考えがあるんだが」
「きみがか?」
ギーシュは、怪訝《けげん》な顔でギムリを見つめた。もともと、“いい考え”なんていうものが浮かぶタイプではない。こないだの騎士隊との大喧嘩《おおげんか》でも、魔法が切れたあと、先頭切って殴りに行ったのは彼であった。
「女とうまくいってない男を、一番慰めるものはなんだと思う?」
ギーシュは即答した。
「女」
「そのとおりだ。女で傷ついた男を慰めるのは女……、なんとも我々男は哀しい生き物だね」
「なにが言いたいんだね?」
ギーシュが促すと、ギムリは、目尻《めじり》を下げた。凶悪、と形容していい彼がそんなにやけた顔になるとは、よほどのことに違いなかった。
「大浴場を知っているね。そこは現在、男子用と女子用に分かれている」
「そうだな。なにせ、湯着を着用して、男女の区別なく入浴していたのはぼくたちの祖父の時代までだからな」
その頃《ころ》、入浴とはイコール混浴であった。とはいっても、才人《さいと》の世界でいう水着のようなものを身につけて入るのだが。
しかし、戒律の厳しくなったロマリアが、その習慣を宗教的理由から禁じたのである。ギーシュはその習慣が存在した時代に生まれなかったことを、深く恨むものたちの一人であった。それから入浴は、就寝前の祈りの前に身体《からだ》を清める、味気ないものに変化した。
現在のトリステイン魔法学院の風呂場《ふろば》は、本塔の地下に設けられている、白い大理石で造られた巨大なプールだ。通路を挟《はさ》んで同じものが二つ造られ、男子用、女子用となっている。
「風呂がいったい、どうしたんだね」
「女子用の風呂を、劇場として機能させるというのはどうだ? これ以上、男を奮い立たせる催しもないものだ。だろう?」
ギーシュの目が大きく見開かれた。
「女子風呂を覗《のぞ》こうというのか!」
しっ! とギムリはそんなギーシュの口を押さえた。その不届き極まりない発言に、騎士隊の少年たちが集まってくる。
ぷはぁ、とギーシュは口を開くと、真っ赤になった顔でまくし立てた。
「き、きき、貴族として恥ずかしいと思わんのかね! 婦女子の入浴を覗くだなんて!これ以上の破廉恥がかつてあっただろうか? いやない!」
「だがな、隊員の士気が下がっているのを、一員として見過ごすわけにはいかん。それにきみ、正直にいえば、覗きたいだろう? いやはや! 大事なことだぜ! “フリッグの舞踏会”はすぐそこだ。どの女性をエスコートするのか? これ以上貴族にとって大事なことはない! そして、服を着ていては、どの女性がダンスに優れているのかわからんだろう? 中身をきちんと吟味して、どの女性と踊りたいのか? いや、踊るべきなのか判断する。貴族の義務とさえいえるだろう!」
むちゃくちゃな理屈だったが、ギーシュの心が動き始めた。もとより、これ以上甘美な提案はないのだった。ギーシュはぷるぷると震《ふる》え始めた。
「いかん! いかんよきみ! 女子|風呂《ぶろ》は、厳重に魔法で守られている!」
「へえ、そうかい」
ギムリは余裕の態度で答える。ギーシュは心底悔しそうな顔でまくし立てた。
「いいかね、ぼくはこの学園に入学したときに、真っ先に調べたのだ。女子風呂はまるで要塞《ようさい》のような鉄壁の防御を誇っている! 半地下の構造で覗《のぞ》くためには陸路で接近するしかないのだが……、接近するためにはまず、周りを守る五体のゴーレムをなんとかしなくちゃならないんだ。そして、それらをクリアーしてもまだ難関が残っている! 魔法のかかったガラス窓の存在だ! これがもう、手のつけられないシロモノだ! 向こうからは丸見えだが、こっちからは決して覗けない! おまけに強力な“固定化”の魔法がかかってるから錬金なんかではどうにもならない! その上、魔法探知装置までついてるから、魔法ははなから使えない!」
先ほど口にした”貴族の誇り”が真っ向から吹き飛ぶ問題発言だったが、今となっては誰《だれ》も気にしていない。この場にいる全員が、たった一つのことで頭がいっぱいになっていた。
“ほんとうに覗けるのか?”
「お手上げだよ。メイジには、どうにもならないんだよ!」
ギーシュは、泣きそうな声で呟《つぶや》くと、どかっと床に胡坐をかいた。
隊員たちの間から、「くそ!」「なんてことだ!」「余計なところに大金をかけやがって!」など、悔しそうな舌打ちが漏れた。
ギムリは、そんな隊長の肩を叩《たた》いた。
「さて、そんな風呂がある本塔の図面を、拝見できる栄誉に恵まれた貴族がいたとしたら?」
ギーシュの目が輝いた。
「ま、まさかきみは……」
「その幸運な貴族だよ」
一同から、うぉおおおおおおおお! と、窓が割れんばかりの歓声が沸いた。
「先日、図書室に赴いたときのことだ……。ぼくは学院の歴史を調べていたんだ。知っての通り、このトリステイン魔法学院は、長い歴史を誇っている。つまり、学院の記録書の棚もやたらと長くなる。おそらく何百年もの間、誰も触れてないような部分も存在する。そこを探っていたら……、こんな一枚の写しを見つけた。この紙だ」
その場の全員が、固唾《かたず》をのんでギムリが差し出した紙を見つめた。それは羊皮紙に描かれた本塔の図面であった。いくつもの注釈が、色あせた黒インクで書き添えられていた。
「どうだい? 本塔にかけられた”固定化”の部分が余すところなく記されている! おそらく、設計にあたった技師か誰《だれ》かが、控え用に写したものだろう。でも、それでぼくたちの計画には十分なのさ」
ギムリはにやっと不敵な笑みを浮かべてみせた。
ギーシュはわなわなと震《ふる》えた。
「ぼくが将軍だったら……、きみに勲章を授与しているところだ」
隊員たちも、銘々感動に震えたのか、空を仰いで涙を流す者、拳《こぶし》を握り締めて何度も頷《うなず》く者が続出する。
しかしそんな中、一人の少年が顔を真っ赤にして言った。
「諸君! 紳士諸君! ぼくは情けないそ!」
レイナールである。根が真面目《まじめ》な彼は、どうにもそんな計画が許せないらしい。一同は困ったように顔を見合わせ始めた。しかし、そんなレイナールに、何かを感じたらしいマリコルヌが、真顔で言った。
「ぼくたちは貴族だ。ましてや近衛隊《このえたい》だ。いつ何時、祖国と女王陛下のために、命を捨てるとも限らない。死は我々の隣に、いつもある。死は友であり、ぼくたちの半分だ」
「そのとおりだ! そんな貴族のぼくたちが……、その、風呂《ふろ》を……」
「さてきみは、あのティファニア嬢のものがホンモノかどうかわからぬまま、死にきれるのか」
レイナールの顔が蒼白《そうはく》になった。マリコルヌは、真剣な声で言葉を続けた。
「ぼくには無理だ」
レイナールはしばらく己の中で葛藤《かっとう》と闘っていたらしい。しかし……、とうとう我慢しきれずに、がくっと膝《ひざ》をついた。搾り出すような、魂の響きがレイナールの喉《のど》から漏れる。
「た、確かめたいです……」
マリコルヌは聖女のような笑顔を浮かべて、レイナールに手を差し出す。
「行こうぜ。ぼくたちの戦場へ」
ギーシュのヴェルダンデが掘る穴を、一同は這《は》いながら進んでいった。モグラの後ろに続くのは、隊長のギーシュ。その後ろにはギムリが続く。次にマリコルヌ。最後尾には才人《さいと》がいた。落ち込んでいた才人は、さっきの盛り上がりにも他人事だったので、何をしに行くのかわからなかった。
とりあえず“いいものを見せてやる”と言われて、才人はくっついてきたのである。
「地下に埋まっている部分の壁石には“固定化”はかかってない。あの図面を見る限りでは。信じていいのかね」
ギーシュが心配そうな声で、自分の後ろから這ってついてくるギムリに尋ねた。暗闇《くらやみ》の中、ギムリは大きく頷《うなず》いた。
「ああ。あの図面には、当時の設計主任、エルモン伯の許可印が押してある。まごうことなきホンモノさ。考えてみれば、地面の下とは盲点だった! なるほど風呂《ふろ》は半地下の構造になっている。窓ばかり注意がいって、地面に埋まった壁まで頭は回らなかった。頭だけ守って、尻《しり》がおざなりになるってのは、何も生き物だけじゃないってことだ」
掘り進むヴェルダンデが、ピタリと動きを止めて振り向いた。
「モグモグ」
ギーシュの顔に緊張が走る。壁にぶち当たったようだ。ということは……、
「諸君、目的地に到達したぞ」
全員から、感嘆のため息が漏れた。
「どうやら、地上のゴーレムも、地下までは反応しないようだな。静かなもんだ」
ギーシュは軽く杖《つえ》を振り、その先に魔法の明かりを灯《とも》した。ぼんやりと、淡い光がヴェルダンデの掘った穴の中を照らす。
ヴェルダンデが鼻で指し示す先に、灰色の石壁が見えた。
「ヴェルダンデ。その壁に沿って、穴を広げてくれ。ここにいる全員が入れるぐらいに」
あっというまに、ヴェルダンデはギーシュの要求にこたえた。
一方、壁を挟《はさ》んだ向こうでは、そんな計画の存在など露知らぬ乙女たちが、朗ちかな嬌声《きょうせい》。
浴槽は、横二十五メイル、縦十五メイルほどもある。学院の女子生徒が、一斉に入れるほどの大きさである。貴族の浴場らしく、張られたお湯には香水が混じっている。
ルイズは弧を描く壁に背をつけて、浴槽につかっていた。細い手足を無造作に投げ出し、ゆらゆらと揺れる水面を眺める。
ぼーっと辺りを見回す。見知った顔が、それぞれにくつろいでいる。キュルケはその身体《からだ》を誇示するかのように、壁際に設けられたベンチに足を組んで腰掛《こしか》け、壁から噴き出る蒸気に身をゆだねている。その隣では、浴場にもかかわらず杖を持ち込んでいるタバサが本を読んでいる。いつも杖を持ち込んでいるので不思議に思っていたが、彼女の生い立ちを考えればそれも致し方ないであろう。いつどこで敵に狙《ねら》われるのかわからない生活を送ってきたのだ。今は少しは安心できるようになったとはいえ、杖を肌身離さず持ち歩くのは彼女の習慣なんだろう。
鏡の前で、恥ずかしそうに自分の胸を持ち上げているのはモンモランシー。リボンを外し、後ろに撫《な》でつけた髪を下ろした彼女は、いつもより幼い感じがする。持ち上げた胸を見ては、つまらなそうに唇を尖《とが》らせている。別にいいじゃない。わたしよりはマシよ。
さて、そんな光景を眺めながらも、ついつい考えるのは、才人のことである。
朝起きると、隣に才人《さいと》はいなかった。
そのことだけで、ルイズは激しく落ち込んだ。まああれだけ啖呵《たんか》を切って出て行ったのだから、朝に戻っているわけもないのだ。理屈で考えれば納得できるのだが、どうにも気持ちが沈んだ。
確かに怒りすぎだな、とは思う。
三日間、パンツ一枚で反省文を書かせて朗読を繰り返させたのは、正直やりすぎたと思う。
でも……、どうにも許せないのである。
自分があれだけ覚悟して、夜中の散歩に出かけたのに……、そんなことにはまったく気づかない才人が許せない。
心配して見舞いに行ってみれば、ティファニアの胸を握り締めていた才人が許せない。
浴場の入り口付近から軽い歓声が沸いて、ルイズは顔をあげた。そこには、長い耳と、暴虐的な胸を持つ例の金髪の妖精《ようせい》が、恥ずかしそうに浴布で身体《からだ》を隠しながら立っている。
しかし、その胸はあまりにも大きすぎた。
浴布からはみ出た部分の体積が、ルイズの目に飛び込んでくる。なんだかそんな体積の物体が、胸の部分についていることがどうにも信じられない。
ティファニアはきょろきょろと辺りを見回すと、ルイズを見つけ、にっこりと笑って近ついてきた。あまり心を許せる友人ができていないのだろう。
でも今は、そんなティファニアと話せる気分じゃない。その妖精《ようせい》のような姿を見ていると……、なんだか自分がとてもちっぽけな、とるに足らない存在のように思えてくる。
顔を浴槽に沈め、ぶくぶくと息を吹いていると、ティファニアはおずおずとルイズの隣にやってきた。
「あの、お隣、いいかしら?」
「どこで湯につかろうが、あなたの勝手よ」
つい、そんなきつい言い方になってしまい、ルイズは恥ずかしくなってしまった。再びルイズは、お湯に顔を埋めて、ぶくぶくとやり始める。
ティファニアは、手のひらでお湯をすくって、珍しそうに見つめている。それから、誰《だれ》に言うでもなく口を開いた。
「広いお風呂《ふろ》ね。びっくりしちゃう。わたしたちが使っていたお風呂とは大違い」
「どんなお風呂を使っていたの?」
「蒸《む》し風呂《ぶろ》っていうのかな……、煉瓦《れんが》を組み合わせて、かまどみたいなのを造って、そこで焼いた石に水をかけて、蒸気を浴《あ》びるの。夏は近所の泉で沐浴《もくよく》していたわ」
だからこんな立派なお風呂は初めて、とティファニアは微笑《ほほえ》んだ。
「ほんとに感謝してるの」
唐突にティファニアは言った。
「え?」
「サイトにルイズ……、迎えに来てくれたみんな。そしてアンリエッタ女王陛下やトリステインの人たちにも……、わたし皆に感謝してる」
「どうして?」
「だって、皆がいなかったら、こんなにたくさんのいろんなもの、見ることはできなかったもの。外の世界ってすごいね。わたし、こんなお風呂、想像したことすらなかったわ」
ティファニアは両手をあげて、周りを見回した。
「……あれだけ、ひどいことされたのに?」
ルイズはベアトリスとその事件を思い出して言った。
「最初はしかたないわ。わたしはこんな耳してるし」
ティファニアは笑いながら、自分の耳をつまんだ。
「それとわたしね。こうやって、みんながいるときは、お風呂にも入ることができなかった。夜中にこっそり、だれもいないときを見計らって入っていたの。でも今はもうこわくない。堂々と入れる。あの事件のおかげよ」
ルイズはくったくのない笑顔をうかべるティファニアを、眩《まぶ》しそうに見つめたあと、軽く憂いを含んだ声で言った。
「危険なのは、エルフの血だけじゃない。あなたは“担《にな》い手”なのよ。いつ何時、誰《だれ》かにその力を利用されるかわからないのよ」
「ルイズを見ていれば、そんな心配はないわ。あなたは自分の意思で、魔法を使ってる。わたしもそうしたい」
屈託のないティファニアのその言い方に、ルイズは心を打たれた。
ますます自分が小さく、胸だけじゃなくって、その存在まで小さく、ちっぽけなものに感じられた。ティファニアは、何の干渉もなく育ってきただけに、自分というものを大事に育ててきたんだろう。
一方、己はいろんなものに縛《しば》られて育ってきた。
伝統。
誇り。
名誉。
そのことが己の行動を決定付けている。それが原因で、才人《さいと》と意見が食い違うことも多い。
何人かの生徒たちが、優雅に湯につかるティファニアを見て、ため息をつくのが見えた。ティファニアはまるで妖精《ようせい》のように美しい。昔、子供の頃《ころ》読んだ御伽噺《おとぎばなし》に出てくる、美の妖精のように見える。湯の下に見える、薄い胸……、自分の子供のような身体《からだ》を見て、あまりのボリュームの違いにルイズは哀しくなった。
サイトが触りたくなるのも、無理のないことかもしれない。
身体だけじゃない。
貴族の血を引きながら、平民のように育ってきたティファニアのほうが、異世界から来た才人と分かり合えることも多いんじゃないだろうか……。
自分が勝っている部分なんて、このティファニアに比べたらどこにもない。そんな劣等感がルイズを包む。
「ねえ、ティファニア」
「テファでいいわ」
「テファ。その、サイトを許してね」
「え?」
「あいつ、その、変態でどうしようもないけど、根はそんなに悪くないの。いきなり胸を触ったりして、驚いたかもしれないけど……、きっと悪気はないのよ。つい、手が伸びてしまったんだと思うの。主人のわたしからも謝るわ」
いきなり謝りだしたルイズを、ティファニアは怪訝《けげん》な面持ちで見つめた。それから、急に顔を真っ赤に染めた。
「ち、違うの。それはわたしから頼んだの」
ルイズの目が大きく見開かれた。
「わたし……、耳だけじゃなく……、この胸もおかしいと思うの。だって、どう考えても大きすぎるもの」
他《ほか》の人間が言ったら、嫌味になるような言葉だったが、ティファニアの言葉には純粋な疑問だけがあった。
「だからサイトに頼んだの。確かめてって」
「お、男の子にそういうこと頼むのって、おかしいと思うわ」
唖然《あぜん》とした顔で、ルイズは言った。するとティファニアは、顔を赤らめた。
「そ、そうよね。考えてみればそうだわ」
ルイズは呆《あき》れた。ティファニアの天然っぷりは、ルイズの想像を超えていた。たぶん、同年代の子と付き合ったことがないから、激しくどこかがズレているのだ。
「サイトって、初めてできた同年代のおともだちだから……、あんまり男の子って気がしないの。でも、例えば彼の恋人にしてみれば、許せないことだよね……」
ティファニアはしょぼん、として膝《ひざ》を抱えた。そうすると胸が寄せられ、まるで島のように水面から盛り上がる。
「それは触らせたら、ダメよ。そういう種類のものよ」
ルイズは冷ややかな視線で、ティファニアの胸を見つめる。あまりにも心が傷ついてしまうので、自分のそれは見ないように努めた。
「ごめんね。ルイズ……、サイトの恋人だもんね」
ティファニアがそう言ったとき、ルイズはがばっと立ち上がった。
「こ、ここ、恋人じゃないわ!」
激しく顔を真っ赤にさせ、ルイズはぷるぷると震《ふる》えた。そんなルイズを見て、ティファニアも顔を赤く染める。
「ル、ルイズ……、その……、なんていうの? 丸見えで……」
ルイズの顔が、さらに赤く染まる。なるほど、浴布で身体《からだ》を隠さずに立ち上がったので、全部がテイファニアの前にさらけ出されていた。再びルイズはお湯の中に身体を沈めた。
恥ずかしいと思うのと同時に、才人《さいと》のことが頭に浮かぶ。
才人が言ってたことは、本当だったのだ。
それなのに、自分ときたら……、ティファニアに対する劣等感で頭がいっぱいで、その言葉を信じられなかった……。
あれだけ才人は自分のために戦ってくれたのに……。
ルイズは激しく落ち込んだ。出て行ってしまった才人。このまま才人が戻ってこなかったらどうしよう。
もし、そうなったとしても、しかたない。自分は才人の言葉を信じられずに、あんなひどい扱いをしてしまったのだから。
ルイズはぶるぶるぶると震《ふる》え始めた。
「どうしたの? 寒いの?」
ティファニアが心配そうに話しかけてくる。
「違うの」
ルイズは言った。身を乗り出してくるティファニアの、細いウエストと信じられない大きさの胸が目に飛び込んでくる。男の子が十人いて……、自分とティファニアを比べたら。やっぱり十人がティファニアを選ぶんじゃないだろうか。
同じ虚無の担《にな》い手なのに……、どうしてこうも違うんだろうか。
一方、浴場の壁の向こうでは、男たちの計画が完遂《かんすい》されようとしていた。
ヴェルダンデが壁沿いに掘りあげた坑道に、横一列に腹ばいで並んだ水精霊騎士隊の少年たちは、己の杖《つえ》の先に全身全霊をかけ、一生に一度の気迫でもって、とある呪文《じゅもん》を唱え続けていた。
”錬金”
土系統の基本呪文。
その錬金をキリとなして、厚さ二十サントはあろうかという浴槽の壁石に、穴を開けるのである。
小さな穴だ。
その直径はおおよそ一サント。
少年騎士たちは、その錬金の威力のコントロールに傾注した。地面より上の壁には、”固定化”のみならず、”|探  知《ディテクト・マジック》”までかかっている。
地面の下にはその効果は及ばぬとはいえ、万が一にも探知されてはならぬ。それは計画の崩壊のみならず、彼らの破滅を意味していた。
したがって、その”錬金”には細心のコントロールが要求された。威力が強すぎてもいけない。かといって、弱すぎては硬い壁石に穴をうがつことはできない。
それは苦しく、また精神力を著しく消耗させる行為であった。一人の少年が、額から汗をたらし、激しく咳《せ》き込《こ》んだ。それから悔しそうな顔で、首を振る。
「もう駄目だ。ぼくは限界だ。これ以上、こんな繊細《せんさい》な詠唱には耐えられない……」
隣の少年が、真剣な顔でそんな仲間を叱咤《しった》する。
「何を言うんだ! ぼくたちの栄光はすぐそこだぞ! お前はこんなところで負けてもいいのか!」
肩を掴《つか》んで、泣かんばかりに説得する。
「想像しろッ! お前のその勇敢な頭脳で想像するんだッ! この壁の向こうにある桃源郷をッ! 戦士たちの魂が癒《いや》されるべきヴァルハラをッ! 数々の聖女たちが、伝説の妖精《ようせい》たちが、この壁の向こうで、ぼくたちを待っているッ! 栄光はすぐそこだァ! 諦《あきら》めるなァッ!」
少年は、涙を流した。ぐぉ、ぐぉおおおおッ! と唸《うな》ると、再び杖《つえ》を取り上げ、呪文《じゅもん》を唱え始めた。
呪文の合間に、少年騎士たちは一斉に叫んだ。
「ぼくたちはヴァルハラを想像するッ!」
才人《さいと》は、そんな連中を唖然《あぜん》として見つめていた。いったい何が起こっているのか、さっぱりわからない。こんな地面の下で、こいつらはなんで一生懸命に壁に穴を開けているんだろう。マリコルヌが後ろでぼんやりと見つめる才人を振り返り、ぐ! と親指を立てて見せた。
「待ってろよ。副隊長。この世の春を拝ませてやる」
どうやら彼らは“春”に向けて穴を開けているらしい。いったいどんな春なんだろう、と才人は疲《つか》れた頭で思った。
さてさて、どのぐらい、彼らは”錬金”を唱え続けたのだろうか?
暗い穴の中なので、時間の経過がよくわからない。五分にも、一時間にも感じられた。いや、もっと長かったかもしれない。
とにかく、水精霊騎士隊の努力が、実を結ぶ瞬間がやってきた。
暗闇《くらやみ》の中……、一筋の光が差したのだ。小さな穴が、開通した瞬間だった。
誰《だれ》かが歓声をあげようとしたが、すぐにその口が押さえられる。穴が開通した以上、大きな物音は厳禁であった。
次々と、小穴は開通していく。
「……向こうからは、この穴はわからないのかね?」
心配そうな声で、ギーシュが尋ねる。ギムリが頷《うなず》いた。
「……よほどのことがないかぎり、大丈夫だ。知っての通り、浴場の壁面には彫刻が彫ってあり、彩色までなされている。男子浴場と同じデザインのはずだ。こんな小穴は模様に見えるはずさ」
ギーシュは頷いた。
「なあきみ。ぼくはこの穴を、“ギムリ砦《とりで》”と名づけようと思う。難攻不落の要塞《ようさい》を陥落させた、素晴らしい砦だ。それを完成させたきみの功績を末永くたたえたい」
二人はひっしと抱き合った。
そのギーシュをマリコルヌがつつく。
「しっかり指揮を頼むぜ。隊長。ぼくたちの初陣だ」
「も、もちろんさ」
「で、栄えある一番|槍《やり》は?」
「決まってる。そこのサイトだ」
ギーシュは、奥のほうで膝《ひざ》を抱えていた才人《さいと》を指差した。
「へ? おれ?」
パチパチパチ、と小さな拍手が響く。
「サイト、羨《うらや》ましいな」
「しっかりやれよ」
と、爽《さわ》やかな声がかけられる。いったいなんなんだ。こいつらはなんで…生懸命、あんな石に穴を開けてたんだ。光が差し込んでくるけど、あの先には何があるんだ。さっぱり意味がわからない。
しかし指名されたので、才人は腹ばいになってギーシュの元へと向かった。皆に囲まれながら、才人は穴へと顔を近づけた。
「こいつで元気を出したまえ。サイト」
「う、うん……」
まず……、目に入ったのは湯気だった。
もうもうと立ち込める湯気……、そして湯気の向こうには白い壁。
どこだ? ここは?
次の瞬間、肌色の何かが目の前を通り過ぎる。
「え? もしかして、ふ、風呂《ふろ》?」
とぼけた声でそう呟《つぶや》いた瞬間、口を押さえられる。
「しっ! 声が大きい」
「お、お前ら……、もしかして女子風呂に穴を……」
「きみを元気づけるためだ」
「ば、ばか。俺《おれ》がこんな覗《のぞ》きで元気に……、ひう」
そこまで眩いた瞬間、才人《さいと》の喉《のど》が勝手に息を吸い込んだ。穴の向こうの空間は、まるで天国だった。裸の女子たちが、気持ちよさそうに入浴しているのである。
ただ一つだけ欠点をあげるならば、タオルのような布を、女子たちは身体《からだ》に巻いて移動していた。女子だけとはいえ、素っ裸になるのは抵抗があるらしい。まあ、男だってタオルは腰に巻くもんなぁ……、と才人はそんな感想を抱いた。
「テ、テファ?」
湯気の向こう、女子たちの問に、とうとう才人はティファニアの顔を見つけてしまった。隣にはルイズがいる。二人とも、壁を背にして湯につかっている。胸から下は、水面下なので見えない。
才人がその名前を口にした瞬間、騎士隊の面々は己の穴に突進した。
事の是非を忘れ、才人も目の前の光景に息を呑《の》んだ。なにせ、ルイズとティファニアが二人仲良く並んでいるのである。
なにせあれだけ着替えを手伝っていながら、才人はルイズの裸を見たことがない。下着姿なら何度も拝見したが……。
ルイズは着替えを手伝わせるときも、下着だけは自分で身につけていたからである。
好きな子が、何も身につけずに湯につかっているのだ。あらゆる道徳も理屈も吹っ飛んでしまった。
でもってティファニア。
こっちはもう、理由は要らない。ティファニアの裸、という単語は、“絶対”という意味でもあった。男と生まれたからには無視できない、魔法の塊であった。
才人は魅惑のシアターに釘付《くぎづ》けになった。
ティファニアの一挙手一投足が、才人の脳裏《のうり》をチリチリと焼いた。胸の上半分が見えるのである。小高い丘が、水面から盛り上がっているのである。
ティファニアが膝《ひざ》を組んだとき、さらにその丘が盛り上がった。
ホ、ホア、ホアアアア……、とせつないため息が水精霊騎士隊の面々から飛んだ。
そのとき才人は、この光景を目にしているのが自分だけではないことを思い出した。
皆が、見ている。
何も身につけていない、ルイズを。お湯につかっていて肝心なところは見えないとはいえ……。
ティファニアが、ルイズに何か言うのが見えた。次の瞬間、ルイズは軽く身を沈めた。
才人《さいと》はルイズのその仕草が、何を意味するのかすぐにわかった。あれは、何か我慢できないことを言われたときの仕草だ。ということは……。
ルイズは立ち上がる!
コンマ数秒の間に、才人の思考はそこまで予想した。
「お前ら見るなぁあああああああああー・」
絶叫して、才人は左右に転げまわる。
「な! なんだ!」
「おいよせッ!」
腹ばいになって並んだ少年たちは、玉突きの要領で覗《のぞ》き穴から視線をずらされる。ルイズが立ち上がったのは、その瞬間だった。
ルイズが劣等感に悩まされて、ぶくぶくと水面を泡立てていると……。
向こう側の壁沿いで入浴していた女生徒たちが、何やら騒ぎ始めた。
「今、男の子の声が聞こえなかった?」
「聞こえた!」
ティファニアが、心配そうな顔になった。
「誰《だれ》かしら?」
「ガリアの手の者かしら」
でも、どうやら違ったようだ。身体《からだ》を洗っていたモンモランシーが、いち早く壁に開けられた穴に気づく。
「ちょっとみんな! 壁に穴が開いてるわよ!」
湯気と壁に彫られた模様でよくわからなかったが、言われてみれば窓の下の壁に、一メイルほどの間隔で、黒い小さな穴が開いている。
すると壁の向こうから、撤退だ… とそんな声が響いた。
入浴していた女生徒たちが一斉に叫んだ。
「覗きだわ!」
モンモランシーが浴布を身体に巻きつけ、先頭に立って駆《か》け出した。
「みんな急いで! 杖《つえ》よ!」
覗き、と聞いて怒り心頭に発した女生徒たちは口々に叫びながら脱衣場のほうへと駆け出していく。
「この魔法学院で覗きを行うなんて! なんて命知らず!」
「みなさん! 絶対に逃してはなりませんわよ!」
ルイズとティファニアも、顔を見合わせると駆け出していった。
巣に殺鼠剤《さっそざい》をまかれたネズミのように、水精霊騎士隊の騎上たちはわれ先へと逃げ出した。必死の勢いではいずり、穴を飛び出す。そこは火の塔の隣の茂みだった。
「諸君! 固まっていては一網打尽だ! 散開するぞ!」
女子生徒たちの反応は素早く、中庭のあちこちで不埒者《ふらちもの》を捜《さが》す声がする。
「どっち?」
「あっちで声がしたわ!」
少年たちは、頷《うなず》きあうと夜の闇《やみ》にと散っていった。
その頃《ころ》|才人《さいと》は、逃げ遅れて未《いま》だ穴の中であった。最後尾であり、魔法の明かりを灯《とも》した少年たちが穴から出て行ってしまうと、辺りはまるっきりの暗闇になってしまった。
なんとか入り口へと到達したときには、時すでに遅し。
「この穴から入ったのよ!」
「まだ中にいるのかしら?」
穴の周囲は怒り狂った女子生徒たちにより包囲されていたのである。
才人は嘆息《たんそく》した。
ああ、俺はたった一人責任を負わされて、たぶんコテンパンにされるんだろうなぁ……。
誰《だれ》かが魔法の明かりを灯《とも》し、中に入ってこようとした瞬間……。
才人の周りの土砂が、吹き飛んだ。
「きぃやああああああああ!」
女の子たちの悲鳴が飛んだ。才人の身体《からだ》は、土砂ごと大きな竜巻によって巻き上げられ……、一瞬で才人は空中に放り投げられた。
「うわあああああああ! なんだ!」
地面に落下すると思われた瞬聞、空中で才人は何かにキャッチされた。自分を抱えた影は魔法を詠唱する。
「窓よ。その戒めを解き放て」
本塔の窓の鍵《かぎ》が外され、ついで”念力”でその窓が開く。
落下の方向を変え、影に抱かれた才人は窓から本塔へと飛び込んだ。
そこは、アルヴイーズの食堂だった。
影は咄嵯《とっさ》に才人を柱の陰に引き込む。
やっとのことで、暗がりに目が慣れると、自分に寄り添い、柱の陰に押し込む人物の輪郭《りんかく》が明らかになってくる。
「タバサ?」
まず、目に飛び込んできたのはタバサの青い髪だった。
「しっ。目をつむって」
タバサはそう呟《つぶや》くと、なぜか才人《さいと》の目の前に杖《つえ》を掲げ、視線を遮《さえぎ》った。
「ど、どうして……」
言われたとおり目をつむり、やっとのことでそれだけ眩くと、
「あなたはわたしが守る。どんな場合でも」
なんとも頼もしい答えが返ってきた。
「で、でも……、俺《おれ》たち覗《のぞ》きを……」
「状況は問わない」
淡々とタバサは言った。覗きだろうがなんだろうが、タバサは才人の味方になる、そう言っているのだった。おそらく才人の叫び声でことに気づき、穴の中に取り残されたことをいち早く察知して救い出してくれたのだ。実に、恐るべき戦士の勘だった。
「ありがとう」
才人は感極まった声で言った。
入浴を覗いていたのに……、タバサは自分を助けてくれるという。その気持ちに感動した。
「……ありがとう。でも、そろそろ目を開けていいかな」
「だめ」
「どうして? 俺が目を開けると、何かまずいことがあるのか?」
「ある」
いったいなんなんだろう。
「よければ、教えてくれないかな。見えないと不安になる」
タバサは、わずかに小さな声で眩いた。
「わたしは、服を着ていない」
「は?」
才人の身体《からだ》に、激しく緊張が走った。ということは、今、俺の身体にこうやって押しつけているタバサは……。
「はだか?」
「そう」
タバサは言った。
「な、なんで?」
「服を着る暇《ひま》がなかった」
そのとき……、食堂の中に追っ手が入ってきた。
「何人ぐらい捕まえたのかしら?」
「半分ぐらい。水精霊騎士隊の連中だったなんて、驚きだわよ」
どうやら何人かの少年たちは捕まってしまったらしい。遠くのほうから、悲鳴がいくつか響いていた。
「……許してくれえ〜〜〜!」
ついで、魔法が飛び交う音。ぐしゃっと何かがつぶれる音。そしてまた悲鳴。命乞《いのちご》いの声。才人《さいと》は暗がりの中、震《ふる》えた。自分も捕まったら……、ただではすまない。現場に行くまで計画を知らなかった、なんて言い訳通用しない。
食堂の扉が開き、たたたたた、と、女の子たちの足音が近づいてきた。とうとうここまで追っ手の手が伸びたのだ。
タバサは、ぎゅっと才人の身体《からだ》を壁際に押し付けた。小さなタバサの身体が、自分の上半身にぴったりと寄り添っている。
着込んだパーカーの向こうには、生まれたままの姿のタバサがいるのだ。タバサの幼い身体を想像し、妙に興奮して才人は死にたくなった。
タバサに興奮したら、人間終わりだぜ……、才人。
いや、そうか?
タバサは体つきこそ幼いが、自分より二つばかり年下に過ぎない。
ということは……、安全圏?
セーフ、いやアウトだ、と心の審判が判定を開始する。
女の子たちが、柱の陰に隠れた才人たちのそばへと近づく。才人の呼吸が速くなる。その鼓動を抑えるかのように、タバサがそっと胸に手を置いた。そんなことされると、さらに鼓動が激しくなり……、才人は酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせた。
柱の陰に、一人の女の子が近づく。才人は、タバサが視界に入らない程度に、杖《つえ》から顔をずらす。月明かりに照らされた顔は、モンモランシーであった。モンモン、こっち来るな……、勘弁してくれ……、と才人は祈った。
その祈りが天に通じたのだろうか。
食堂の外から、ギーシュの小さな叫び声が聞こえてきた。
どうやら》捕まってしまったらしい,
「……出来心なんだぁ〜〜〜」
モンモランシーの目がつりあがる。
「やっぱりね」
それだけで人が殺せるような凶悪な笑みを浮かべると、モンモランシーは駆《か》け出していく。残りの女の子もあとに続いた。
「やばかった……、ん?」
ほっと胸を撫《な》で下《お》ろしたのもつかの間、才人の後ろで、びくり、と何かが動いた。
カサ、カサカサカサ……、と何かがはいずって近づく音が響く。再び才人《さいと》の頭が、急速に冷えていく。
「……タバサ、この音、聞こえるか?」
「うん」
タバサの声は、心なしか震《ふる》えていた。
「なんの音だろ?」
「わからない」
才人は緊張をほぐすために、わざと明るい声で冗談を言った。
「幽霊だったりしてな。なんてな」
「やめて」
タバサはいきなり才人にしがみついてきた。胸と腹を通じて、タバサの細い身体《からだ》のかたちが、あますところなく才人の脳裏《のうり》に伝えられる。
小刻みにタバサは震え始めた。
「な、なんだよお前、もしかして幽霊が怖いのか?」
こくり、と小さくタバサは頷《うなず》いた。意外なタバサの弱点に、才人は参ってしまった。なんだよこいつ。可愛いところあるんだな、と思ったら、たまらなくなってきた。
神さま……、俺《おれ》は死んだほうがいいんでしょうか?
そのとき、とんとん、と肩を叩《たた》かれた。
明らかに人間のそれじゃない。思わず才人は口走ってしまう。
「か、肩叩かれた」
タバサはそれで撃沈したらしい。強張《こわば》っていた身体から力が抜け、ぐんにゃりと才人にもたれかかってきた。
「タ、タバサ」
才人は目を開いた。気絶してしまったタバサの、細い、白い背中が目に飛び込んでくる。なだらかなカーブがヒップへと続く。意外に女性っぽいラインに、才人は死にそうになったが、目を逸《そ》らす。
いったいあの音はなんなんだ、と振り返ると……。
意外なものが、そこにいた。
「お前……、昨日のアルヴィーじゃねえか」
それは、昨晩、才人がこのアルヴィーズの食堂で一夜を過ごしたとき、花瓶《かびん》の下敷きになっていた、少女の姿の|アルヴィー《小魔法人形》であった。
そのアルヴィーは会釈をするように身体を何度も傾《かたむ》ける。どうやら才人にお礼を言いにきたらしい。
「いや、気持ちは嬉《うれ》しいけど……、時と場合を選んで欲しかったな」
アルヴィーは再び闇《やみ》へと消えていく。素っ裸のタバサをそのままにしておくわけにもいかないので、とりあえず才人《さいと》はパーカーを脱いで、タバサの身体《からだ》にかけた。
万が一にも人目につかないように、柱の奥へと横たえ、守るようにその前に座り込む。
アルヴィーたちは、月明かりの中、舞踏会を開始した。
双月の明かりを受け、アルヴィーたちの舞踏会は無音のまま盛り上がっていく。
そんな幻想的な光景が、才人の心の中に、昨晩のことのように過去の舞踏会を甦《よみがえ》らせていく。
今から一年ほど前。
確か、フリッグの舞踏会、だっけ?
あの日、才人が一人、ベランダで無聊《ぶりょう》を囲っていると、ルイズがやってきた。白く眩《まばゆ》いドレスに見を包み、桃色の髪をバレッタにまとめたルイズは、神がかったように美しかった。
そんな回想に浸《ひた》る才人の足元に、再び少女のかたちをしたアルヴィーが近寄ってくる。
そのアルヴィーは、まるで才人にダンスを申し込むかのように、ぺこりと一礼した。
才人は微笑を浮かべる。
「俺に気をつかってんのか。はは、優しいなお前……。でも、俺とお前じゃサイズが違うよ。いいから、友達と踊ってきな」
アルヴィーはしばらく才人《さいと》の周りを回っていたが、そのうちに再び仲間たちの舞踏会の中へと消えて行く。
ルイズも、こんな風に俺にダンスを申し込んでくれたっけ……。
あのときのルイズはほんとに可愛かった。顔を赤らめて、
『わたくしと一曲踊って下さいませんこと? ジェントルマン』
なんて言い放った。
思えばあの言葉で、自分はルイズに参ってしまったのだった。
それから一年たった今も、その気持ちは変わらない。
プライドが高く、わがままで、短気なご主人さまだけど……、ルイズは何度か可愛らしい仕草を、態度を、言葉を才人にくれた。
ギーシュやマリコルヌたちとの友情、世話になったり助けられた人たちが抱えた問題、いろんな理由が才人をこっちの世界に繋《つな》ぎとめているけれど……。
一番大きいハルケギニアとの絆《きずな》は、なんといってもルイズのあの顔だ。
才人にダンスを申し込んだときの、照れたような怒ったような、ルイズの横顔だ。
あの横顔のために、才人は今までいろんな死地に飛び込んできたのだ。
それなのに、自分は 時の怒りに任せてルイズの部屋を出てきてしまった。
まったく……、今さら離れられるわけないじゃん。
これからどうしよう、と、ぼんやりと膝《ひざ》を抱えていると……。
「サイト」
名前を呼ばれて、才人は立ち上がった。
「いるんでしょ? 出てきなさいよ。さっき月明かりで、ちらっと見えたわ」
「ルイズ……」
才人は観念して、柱の隙間《すきま》から身体《からだ》を出した。
服に着替えたルイズが、才人を睨むようにして立っている。そんなルイズを見つめ、才人は観念した。自分もギーシュたちと同じように、甘んじてルイズの罰《ばつ》を受けよう。
知らなかったとはいえ、覗《のぞ》いたのは事実だしな……。
「あんたも、あの穴の中にいたの?」
疲《つか》れた声で、才人は言った。
「ああ。煮るなり焼くなり好きにしてくれ。逃げも隠れもしないよ」
しかしルイズは、才人の肩を押しやると、暗がりに押し戻した。
「ルイズ?」
ぽつりと、ルイズは顔を背けたまま言った。
「言いたいことあるんなら、言いなさいよ」
才人は、諦《あきら》めきった顔で、一応の経緯を説明した。
「元気が出るところに連れていってやるって言われて……、ついていったら女子|風呂《ぶろ》だったんだよ。正直に言うけど、覗《のぞ》く瞬間まで気づかなかった」
ルイズはじっと押し黙っている。
「はは……、そんなこと信じられるわけねえよな……。いいよ、どうせお前が信じるわけないしな。俺が何言ったって……」
「信じるわ」
ルイズは、なにやら決意がこもった声で言った。
「へ?」
才人《さいと》は拍子抜けした声で呟《つぶや》く。
「イヤね。ほんと、イヤね。あんたが、嘘《うそ》つけるほど頭よくないってわかってるのに、ついつい信じられなくって怒っちゃうのよ。わたしって」
怒ったような声で、ルイズは言った。
しばらくの問があった。信じられない、といった顔で、才人は口を開く。
「お前、俺の言ったこと信用するの?」
「するわ」
ルイズは言つた。
「医務室でのテファとのことも?」
こくり、とルイズが頷《うなず》いたので、才人は驚いた。一体全体どんな風の吹き回しだろう、と思ったが、ルイズが折れてくれるなら意地を張る必要もない。
「それはそれとして、あんたも悪いんだかんね」
「俺?」
ルイズは才人を見上げて、睨《にら》みつけた。
「そうよ。あんたが、わたしの自信を失わせるようなことばっかり……」
そこまで言ったとき、ルイズの中で感情が溢《あふ》れた。
くやしかったこと。かなしかったこと。才人が部屋を出て行って一日も経《た》っていないのに、もう二度と戻って来ないんじゃないかって思ってしまったこと。
いろんな想《おも》いが溢れてしまい、涙が溢れた。
ルイズは才人の胸を、ぽかぽかと叩《たた》いた。
「なんであんたって意地悪ばっかりするのよ。なんでわたしの嫌がることばっかりするのよ。なんで出て行くのよ。やだ……、いなくなっちゃやだぁ……、うえ〜〜〜〜ん」
ルイズはとうとう、顔をくしゃくしゃに歪《ゆが》めて泣き出してしまった。
こんな風に泣かれてはどうしようもない。才人の負けである。泣かしてしまった時点で、才人が全部悪い。
余裕をかまして、ルイズの気をひくような真似《まね》をした自分が悪いのだ。
ルイズはまだ子供かもしれないけど……、ちゃんと自分の過ちを認めるだけの器量がある。
「ごめんな」
「……いなくなったらやだ。……なにしてもいいけど、それだけはダメなんだから」
ぐず、ぐし、ぐしゅ、とルイズは目の下をこすりあげる。
才人《さいと》はどうすればいいのかわからず、そんなルイズの頭をくしゃくしゃと撫《な》でた。しばらくルイズはそんな風に泣いていたが……、そのうちに泣き止み、唇を尖《とが》らせて才人を睨《にら》んだ。
「どうした?」
「仲直りする」
「うん」
才人は頷《うなず》いた。
「違うの。サイトから言わないとダメなの」
「仲直りしよう。な」
才人は手を差し出した。しかしルイズはぷいっと横を向いた。
「レデイに仲直りを申し込むのよ。言葉じゃ足りないでしょ。もう」
「だったら、どうすりゃいいんだよ」
するとルイズは、怒ったような声で呟《つぶや》いた。
「キスして」
横を向いて、怒ったようにそんなことを言うルイズは、眩《まぶ》しすぎるほどに可愛い。才人はフラフラとルイズの頬《ほお》を持ち上げた。ふん、と鼻を鳴らして、への字口のままルイズは目をつむる。
唇を重ねると、ルイズはわずかに目を開いた。そしてまたつむる。
十数秒ののち、唇を離すと、ルイズはぶちぶちと文句を並べ始めた。主に才人の態度に対する、とりとめのない愚痴《ぐち》だった。よくわからないままに、才人はうんうんと頷いて聞いてやった。最後にルイズは、大きく深呼吸すると、才人に尋ねた。
「正直に言ってちょうだい」
「ああ」
「やっぱり、ティファニアみたいな子のほうが好きなんでしょ。わたしのような子供みたいな身体《からだ》した子は、あんまり好きじゃないんでしょ」
才人はルイズの目を見て、きっぱりと言った。
「俺《おれ》は男だから……、どうにも惹《ひ》かれることは否定しない。それは本能なんだ。だがな、だけどな……」
まっすぐにルイズの目を見て、才人は言った。
「ルイズみたいなのも好きだ。いや……、むしろそっちのほうが好きだ」
ルイズは一瞬、頬を染めた。
「ほ、ほんと?」
「ああ」
何か吹っ切れた顔で、才人《さいと》は言った。|清々《すがすが》しい笑顔だった。
「じゃ、じゃあ……」
ルイズは、はにかみながらシャツの胸元をいじくった。なんだかその仕草に、ときめく何かを感じて、才人の身体《からだ》を電流が走った。
「じゃあ、なに? じゃあ、なに?」
才人は息せききってルイズににじり寄る。
ルイズは息を大きく吸い込み、吐き出した。それから才人を見上げた。その頬が真っ赤に染まっている。
才人の背後で、ゆらり、と小さな影が立ち上がったのは、そのときであった。その小さな影は才人の背中に、ひし、と抱きついた。
「……こわい」
小さな声で、影は呟《つぶや》いた。それは……、生まれたままの姿のタバサであった。気絶から目覚めたばかりらしく、ぼんやりと夢見るような表情である。
かけておいただけだったので、パーカーが落ちてしまっている。才人の中で生まれた希望が、一瞬で絶望に変わっていく。
ルイズは青い髪の小さな少女、床に落ちた才人のパーカー、才人の顔へと視線をずらした。
そのたびに、ルイズの顔が甘いものから凶相へと変わっていく。
目がつりあがり、肩が、背中が、頭が、足が……、ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ、と震《ふる》えだす。
「誤解なんだ」
才人は、諦《あきら》めきった声で言った。
「へ、へぇ……、そそそ、そぉ……、ななななな、なるほどね……、わたしみたいに小さい子が好きって、どうやらホントのようね」
「誤解なんだ」
ルイズは呪文《じゅもん》を唱え始めた。才人はタバサに被害が及ばないように、隣にどけてやった。しかし、未《いま》だ夢見心地のタバサは、おばけ怖い、と子供のように才人の腕《うで》にしがみつく。
「わたしよりぃいいいいいいいい! ちいさなぁあああああああああああ! 子ぉおおおおおおおおおおにぃいいいいいいいッ!」
ルイズの呪文の威力が、めきり、と音を立てて跳《は》ね上がる。
はは、最初からこうなる運命だったんだ。
才人《さいと》はいっそ爽《さわ》やかな笑顔で、己の運命を受け入れるべく、両腕《りょううで》を広げた。
[#改丁]
第三話 サイトの一日使用権
[#改ページ]
第一章
トリステインの首都トリスタニア。
チクトンネ街に面した「魅惑の妖精《ようせい》』亭では、二人の黒髪の少女が談笑していた。
「ねえシエスタ。で、そろそろサイトはモノにしたの?」
無邪気にそう尋ねたのは、『魅惑の妖精』亭の看板娘のジェシカ。シエスタは、従妹《いとこ》にあたる少女にそう問われて、顔を赤らめた。
シエスタは昨日、実家から送ってきた春野菜を届けに駅馬車で『魅惑の妖精』亭までやってきたのだ。酒場を営むスカロンは、シエスタの母方の叔父にあたる。
「モノにしたなんて……。そんな言い方よくないわ、ジェシカ。第一サイトさんは、わたしのそういう人じゃないもの。ご奉公先の、ご主人さまよ」
いつもの魔法学院のメイド服ではなく、淡い草色のワンピースに身を包み、白いリボンのついた麦わら帽子を被《かぶ》ったシエスタは、恥ずかしそうにもじもじした。
「なに言ってるのよ。アルビオンでのシエスタの態度見てたらバレバレよ。とにかく、そんなんじゃまだみたいね」
ジェシカは、にやりと笑って言った。
「まったく、わたしの従姉《いとこ》とあろうものが、好きな男一人振り向かせられないなんて、信じられないわ」
シエスタは、困ったように視線を泳がせた。この一つ年下の従妹は、こと恋に関しては自分なんか及びもつかない百戦錬磨の達人なのである。
「……だって、サイトさん好きな人いるし」
もじもじしながら、シエスタは言った。親戚《しんせき》の前だと、いつもの大胆さも影を潜め、清楚《せいそ》な地が出てしまう。
「ルイズでしょ?」
ぴくり、とシエスタの眉《まゆ》が動いた。ちょっと硬くなった表情で、シエスタはお茶を飲んだ。ジェシカは、そんなシエスタを上から下まで眺めて、
「別に、あたしが従妹だからって贔屓目《ひいきめ》じゃなくって、シエスタ負けてないよ」
そんな風に言われ、シエスタはにこっと笑みを浮かべた。
「でも……、ミス・ヴァリエールとサイトさんは、とっても強い絆《きずな》で結ばれてるし……。いいの」
「なにがいいの?」
「わたしは二番目で……」
そう言ったとき、ジェシカの目がつりあがった。
「ちょっと! シエシエ! あんたなに言ってるのよ!」
「シエ?」
「だめよそんなの! ああ〜〜〜! もう、なんてことかしら! あたしの従妹《いとこ》がこんな負け犬思考だなんて……、情けない!」
ジェシカはまるで自分のことのように、地団太を踏《ふ》んで悔しがった。
「でも、わたしも割と大胆に……、その……。なんでもないっ」
自分は決して負け犬思考ではないことを伝えようとしたが……、シエスタは恥ずかしくなって、顔を赤らめた。シエスタは思いつめると大胆なこともしでかすが、元は控えめな性格である。ジェシカは、そんな従姉《いとこ》にぐっと顔を近づけた。
「ルイズとも知り合いだけど、今回はシエスタ、あんたの肩を持つよ。なにせ大事な従姉なんだからね」
「う、うん……」
シエスタは完全にのまれた顔で頷《うなず》いた。春野菜を届けにきて、説教されるとは思わなかった。
「まあ確かにサイトって、フラフラしてるようで割と一途《いちず》だしね…、ふざけてちょっかいかけても、そんなに乗ってこなかったし……」
そのとき、シエスタの目がじろりとつりあがった。
「ジェシカ?」
身を乗り出し、従妹の耳をつまむ。
「じょ、冗談だったの! ほんとよ!」
「もう、あなたが一番信用できない」
そんな目で従妹を睨《にら》むと、ぺろっとジェシカは舌を出した。
「だってそのときは、シエスタと知り合いだなんて知らなかったしさ……。まあ、今は協力するって言ってるんだから、そんなに怒らないでよ」
ジェシカはそう言うと立ち上がり、何かを取って戻ってきた。
「これ、なに?」
それは、紫色の壜《びん》であった。ハートのかたちというのが、いかにも胡散臭《うさんくさ》い。
「昨日、バカな貴族の客がいてさー、あたしにそれを飲ませようとしたんだよね。怪しいから問い詰めたら、惚れ薬だって。笑っちゃうよね」
「えええええ! 禁制の品じゃない!」
シエスタが叫ぶと、ジェシカは身を乗り出してその口を押さえた。
「しっ! 声が大きいよ! どうやらこの惚れ薬は特殊なモノで、一日しか効かないんだって。だからバレる心配はないよ。でも、一日あれば十分既成事実はつくれるだろ?」
ジェシカに悪戯《いたずら》っぽく言われ、シエスタの頬《ほお》が赤らんだ。
「でも……、やっぱり卑怯《ひきょう》だわ。そんなの」
「いいんだよ! 貴族《メイジ》に対抗するにゃ、魔法薬《ポーション》ぐらい使わなきゃ、公平とはいえないよ。遠慮なく使っちゃいな」
ジェシカはシエスタの鞄《かばん》に、その惚《ほ》れ薬をねじ込んだ。
翌日の夕方……。
魔法学院のルイズの部屋に戻ってきたシエスタは、机に肘《ひじ》をついて、その惚れ薬をじっと見つめていた。
心の中で、二つの想《おも》いがめぐる。
いっそこれを使ってしまおうか。
ぶるんぶるん、とシエスタは首を振った。
ダメよシエスタ。絶対にだめ!
こんな、魔法で人の心を操ろうだなんて、卑法だわ!
いつかのルイズを思い出す。モンモランシーが調合した惚れ薬で、ルイズは才人《さいと》にメロメロになってしまったのである。
魔法ってほんと怖い!
あのミス・ヴァリエールが、あんな風に秘めてる愛情をあらわにするなんて! バレバレだけど! サイトさん以外には! いや、最近はサイトさんも気づき始めて……、まあいいわ!
シエスタは女のカンで、どれだけルイズが才人に惚れているのか知っている。あれは相当なものね、とも思っている。自分も好きだが、もしかしたらルイズの好きはもっとすごいかもしれない。でも、プライドの塊のようなルイズが、それを才人の前では絶対に認めようとしないことも、併せて知っている。そんなルイズをあんな風にしてしまう魔法は、ほんとにすごい。
惚れ薬で変わつてしまったサイトさんなんて、サイトさんじゃないわー・
でも……、あんな風に好き好き言われたら、気持ちいいだろうなあ……、とちょっとうっとりとしてしまう。
一日だけなら……、と壜《びん》に手を伸ばし、だめよ! と手を引っ込める。
そんなことを何回も繰り返す。
そのうちに頭に妄想が浮かぶ。
使用例その一……、ミス・ヴァリエールが寝ている隙《すき》に飲ます。
シエスタはその際のさまを想像して、きゃあきゃあ! とわめき始めた。
隣でミス・ヴァリエールが寝ているのに! 大胆すぎますわ! 大胆のきわみですわ!
顔を派手にゆだらせながら、シエスタは、わなわなと震《ふる》えた。
その右手が惚れ薬へと延びる。その右手をすかさず左手で制する。
使用例その二……、『バタフライ伯爵《はくしゃく》夫人の優雅な一日』の第二章。
シエスタは顔を押さえると、わあわあわあ! とわめいた。
「そんな……、まずいわ。いや、まずいなんて単語は、小さすぎ。不謹慎《ふきんしん》! ええ、不謹慎のきわみ!」
そんな風に一人|身体《からだ》を抱きしめてもだえていると、ばたん! と扉が開いた、相当キツい顔のルイズが入ってきた。鎖を握り、何かボロ雑巾《ぞうきん》みたいなものを引きずっていた。
「ミス・ヴァリエール! それ、なんですか?」
「使い魔よ」
なるほど、見ればそれはかつて才人《さいと》だったものであった。
ズタボロになって、ときたまピクピクと動いている。
「あらまあ、なにしたんですか?」
シエスタはしゃがむと、つんつんと才人をつついて言った。
ルイズは、腕《うで》を組み、怒りが収まらぬ声で、
「一昨日、あんたが出かけた日に、お風呂《ふろ》を覗《のぞ》いたのよ」
「まあ」
「その上、ちち、ちちち、小さい子に……。わたしより、小さい子に……」
「まあまあ」
シエスタは転がった才人を見ていたら、不憫《ふびん》になってきた。才人は、いつもルイズのために命を張っているのに……、ちょっとぐらいの余所見《よそみ》はしかたないじゃありませんか……。
そりゃ自分も最近はルイズに似てきて、いっしょになって痛めつけてしまうこともあるが……。それはまあちょっとですから、とシエスタは腕を組んで頷《うなず》くのであった。
さすがにここまでやらかすルイズに、才人を任せるわけにはいかないんじゃないだろうか?
シエスタはこほん、と咳《せき》をすると神妙な顔でルイズに言った。
「ミス・ヴァリエール」
「なによ」
「そろそろサイトさんの一日使用権を行使させていただきます」
ルイズはそんなシエスタと才人を交互に見つめていたが、好きにすれば、と言って後ろを向いた。
シエスタは才人をしばったローブを解きはじめた。
「いた! いだだだだだだ!」
中庭のベンチに腰掛《こしか》け、シエスタに薬を塗ってもらいながら、才人はわめいた。
「大丈夫ですか? まったく……わたしの目がないと、ミス・ヴァリエールはやりたいほうだいなんだから」
「……大丈夫、じゃない。……ったくなんなんだよあの桃色子供女。さんざん俺《おれ》の身体《からだ》を苛《いじ》めやがって……」
才人《さいと》は忌々しそうにぶつぶつと呟《つぶや》いた。
「とにかく助けてくれてありがとう」
礼を言うと、シエスタは頬を赤らめた。
「えっと……、その、今日はですね、ミス・ヴァリエールに一日使用権を頂いたんです」
「一日使用権?」
「あ、はい! サイトさんは知らなかったですね。いつだかミス・ヴァリエールと賭《か》けをしてですね、それで一日サイトさんを好きにできる、いやもとい、お付き合いいただくとか、そういう」
シエスタは嬉《うれ》しそうにもじもじとした。
「そっかぁ。変な賭けしてるんだな……。とにかくそういうことなら喜んで付き合うよ」
シエスタの顔が、ぱあああっと輝いた。
「ありがとうございます!」
「で、何をすればいいの?」
「そうですね……」
シエスタは悩み始めた。こんなことなら、きちんとアイデアを練っていればよかった。勢いあまって、行使してしまったが……。
わたしは何をしたいの? シエスタ。
ねえ……、悩みに噛み、シエスタはひらめいた。
「そうだ! じゃあ今日は新婚さんごっこしましょう!」
「新婚さんごっこ?」
才人は呆《ほう》けた顔になった。
「はい! そうです! 今日は二人はその、新婚さんなんです!」
シエスタは、有無を言わさぬ迫力で才人に詰め寄った。その迫力にのまれ、才人はう、うん……、と頷《うなず》いた。
そんなシエスタが才人を引っ張っていったのは、スズリの広場にある使用人宿舎であった。レンガ造りのこぢんまりとした建物である。才人を連れたシエスタがそこに入ると、一日の仕事を終えたメイドの少女たちが駆《か》け寄ってくる。
「まあ! シエスタが恋人を連れてきたわ!」
そう叫んだのは、シエスタと同室だったローラである。眩《まぶ》しい金髪を揺らして、かつてのルームメイトの肩を叩《たた》いた。
「なあに、どうしたの? なんの用?」
気づくと周りには、魔法学院で働くメイドたちが鈴なりになっていた。彼女たちは昼間、食堂やホールで見せる、わずかに唇を持ち上げる仕事用の笑顔ではなく、素の少女の笑顔を見せていた。一様に才人《さいと》を指差し、意味深にニヤニヤ笑いを浮かべて何か噂《うわさ》しあっている。
まるで自分が見世物になったようで、才人は恥ずかしくなった。こんな風に注目を浴《あ》びるのには、どうにも慣れてないのである。
「ねえローラ、お願いがあるの」
シエスタはそんな騒ぎが満更でもないらしく、両手に頬《ほお》を添えながら、ローラに頼み事を申し出た。
「なあに?」
「あの……、部屋を貸して欲しいの。一日だけでいいんだけど……」
「いいわよ。メイド長には黙っててあげる」
にっこりとローラは笑った。周りから歓声が飛んだ。シエスタは顔を真っ赤に染めて、つかつかと昔使っていた部屋へと急ぐ。
「いいの? ここって男の人が入って……」
ちょっと心配そうな声で才人が尋ねる。ルイズの部屋も女子|寮《りょう》なのだが、才人は使い魔だからまあいいんだろう。でも、ここは大丈夫なんだろうか?
シエスタはにこっと笑った。
「ホントはダメです」
「うわ」
「でも、みんなやってますし……、恋人を入れたりとか。わたしもそういうの、ちょっと憧《あこが》れてて……、その……」
シエスタはもじもじとし始めた。
あれだけ日ごろは大胆なことを繰り返しているくせに……。ここは昔住んでた場所なので、その頃《ころ》の初々しさというか、そういう雰囲気を無意識のうちに取り戻しているのかもしれなかった。
二階に上ると、同じようなドアがいくつも並んでいる。街でよく見る宿屋のような造りであった。
「ここです。わたしが昔使ってた部屋」
シエスタは木の扉を開けた。中は狭い部屋だった。ルイズの部屋の半分もない。左右の壁際に、一つずつベッドが並んでいる。粗末な造りだったが、綺麗《きれい》に洗濯された真っ白なシーツがかかっている。女の子の部屋らしく、お香を焚《た》きこめた香りが鼻をついた。
「わあ、懐かしい」
シエスタはちょっとはしゃいだ顔で、窓をあけた。夕日に光る、本塔が見える。才人《さいと》が所在なく突っ立っていると、シエスタは椅子《いす》を勧めた。
「まあ、座ってくださいな」
才人が腰掛《こしか》けると、シエスタは机の上の水差しを取って才人に水を注《つ》いでくれた。
「で、新婚さんごっこって、何するの?」
才人が尋ねると、シエスタは顔を真っ赤にした。それからきゃあきゃあ、と一人なにやら盛り上がる。才人もいろいろ想像してしまい、鼻の奥がツン、としてきた。でも、いいんだろうか? シエスタと俺付き合ってるわけじゃないし……。
きゃあきゃあ言ってたシエスタは、それから険《けわ》しい顔になり、扉へと近づいた。扉をばぁーん、と開くと、廊下《ろうか》で扉に耳を当てて聞き耳を立てていたらしい女の子たちが中にどっとなだれ込んでくる。
「ちょっと! なにしてるのよ!」
シエスタは手を腰に置くと、大きな声で怒鳴った。きゃあきゃあ騒ぎながら、女の子たちはクモの子を散らすように逃げていく。
「ご、ごめんなさいね」
「いや、別に……。ちょっと驚いたけど。みんな昼間学園で見るときとは随分印象違うなあ」
貴族の女子|寮《りょう》内では、あまり付き合いは見られない。個人主義が徹底しているのか、友達同士で部屋を行き来する光景はほとんど見たことがない。
付き合いも社交の一種と捉《とら》える貴族の女子たちは、昼間、ホールやカフェテラスで談笑するのがお友達同士のお付き合いである。したがってこんな風に皆が仲良さそうな雰囲気は新鮮だった。
「そりゃ昼間はお仕事ですから。夜になれば地が出ちゃいますわ」
ははは……、と才人は笑った。一人のおてんば少女が、どうやってそこまで来たのか、窓の外からこっちを見つめている。
シエスタは、もう! と叫んで、カーテンを閉めた。
「で、新婚さんごっこなんですけど……」
ちょこん、とシエスタは椅子に腰掛け、才人を見つめた。
「は、はい」
才人も緊張して、シエスタを見つめる。
「わたし、お嫁さん。サイトさん、旦那《だんな》さん、です」
真顔でシエスタは言い放った。
「ままごとみたいなもんかな?」
恐る恐るそう言ったら、シエスタは顔を赤らめた。
「そ、そうですね。ただもうわたしも才人《さいと》さんも子供じゃないので……」
「はい」
「軽く大人が入ってます」
どんな大人なんだ。
才人は激しく緊張し始めた。
「じゃあ、とりあえず“あなた”と呼びますんで」
「どうぞ」
「あなた、お帰りなさい」
「ただいま」
シエスタは、激しく頬《ほお》を染めて、横を向いた。それから、ぷはぁ、と思いきり息を吐き出す。
「どうした?」
「い、息が一瞬止まりました」
そんな風に言うシエスタは、なんだか激しく可愛かった。いやもう、普通に可愛かった。才人はなんと言えばいいのかわからず、いっしょになってもじもじし始める。こ、これが新婚の照れかぁ……、なんて言葉が頭をよぎる。
「え、えっと、ご飯にします? それともお風呂《ふろ》に入ってきますか? あっと、そのその……、それとも……」
シエスタはきゅっと、シャツのボタンを握り締めた。才人はしまった、と思った。今、わたし? とべタに聞かれたら、自分に逃れるすべはないことに。
二人の間を緊張が包む。シエスタは立ち上がり、ドアを開けた。どどどど、と例によって少女たちがなだれ込む。シエスタは出て行きなさいよょ! と怒鳴って、友人たちを蹴り飛《と》ばす。それから壁に近づき、バンバンバン! とほうきで叩《たた》いた。薄い壁の向こうで、聞き耳を立てていたらしい少女たちが転げる音が響く。最後にシエスタは窓に向かって椅子《いす》をぶん投げた。きゃあああああ!とわめいて、一人の少女が首を引っ込める。
何事もなかったようにシエスタは戻ってきて、椅子に座る。
「わたし?」
と、可愛く首を傾《かし》げたシエスタに、才人は即答した。
「ご飯」
わかりました、と、にこっと笑みを浮かべ、シエスタは部屋を出て行った。才人は頭を抱えた。いろんな重圧が肩に重くのしかかってくる。
いや軽々しく一日使用権とやらに頷《うなず》いてしまったが……、自分はこの誘惑に耐えきれるだろうか? たぶんシエスタとむにゃむにゃなことになったら、ルイズに殺されるのだが、どうしてまたあいつは軽々しく送り出したんだろう?
罰《ばつ》の一種?
そうかもしれない。今日のシエスタは手強い。しょっぱなからご飯お風呂わたしの三択を繰り出してきた。卑怯《ひきょう》だ。この先、どんな爆弾を持ってくるのか予想もつかない。
才人《さいと》は、暗くなり始める窓の外を見て、ぬゥおおおおおおおおおおお、と頭を抱え、苦悩した。
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第二章
使用人女子|寮《りょう》の厨房《ちゅうぼう》に立ったシエスタは、ひっきりなしにやってくる同僚《どうりょう》たちの猛攻に頭を痛めた。
「ちょっと! わたしは忙しいって言ってるでしょ!」
「ねえねえシエスタ、この香辛料を試しなさいよ! 彼、きっと喜ぶわよ!」
テレビも何もない世界である。他人の恋愛ごとは、何よりの娯楽であった。長い夜の暇《ひま》の潰《つぶ》し方を知らない少女たちは、久しぶりの恋愛イベントに夢中である。
「ねえねえ、今日きめちゃうの? きめちゃうの?」
そんなことを尋ねては、きゃあきゃあわあわあ、と煩《うるさ》いことこの上ない。シエスタはそのたびに料理の手をとめ、どいて! 邪魔でしょ! とか、友人たちを怒鳴りつけるのであった。
「でも、サイトさまって、今じゃ貴族なんでしょ? シエスタ、すごいわよねえ……。玉《たま》の輿《こし》じゃない!」
ルームメイトだったローラが、興味津々の顔で近づいてくる。
シエスタは首を振った。
「別に、貴族だからってお慕いしているわけじゃないわ」
「そうよね。貴族なんて、お高くとまってて、お付き合いしても窮屈《きゅうくつ》だもの。その点、あのサイトさまはいいわね。元は平民。今は貴族。結婚するには最高じゃない!」
「だから、身分は関係ないの」
シエスタは、ちょっと哀しい顔になって、シチューの鍋《なべ》をかき回した。そんなかつてのルームメイトの顔に、何か感づいたらしいローラが、シエスタの顔を覗《のぞ》き込む。
「そうよねえ。何度も手柄を立てられた立派な殿方ですもの。最近は、あの空中装甲騎士団との一件で、人気を落とされているみたいだけど、それでも輝かしいわ。貴族のお嬢さまがただって、ほっとかないでしょうね」
シエスタはちょっとむっとして、黙々と料理を続けた。
「でもシエスタ。あなただって全然負けてないわよ?」
「そうよそうよ!」
と、少女たちは頷《うなず》きあう。
「はいはい。とにかく料理を運ぶから、どいてちょうだい」
ローラは、何か計画があったらしい。少女たちに目配せした。すると、シエスタの周りを同僚《どうりょう》たちが取り囲む。
「な、なによ」
「それぇ〜〜〜〜〜!」
少女たちはいっせいにシエスタに取りつき、その服を脱がし始めた。
「な、なにするの! ちょっと!」
あっというまにシエスタは裸に剥《む》かれてしまう。
「ねえ、服返して!」
身体《からだ》の要所を手で隠しながら、シエスタが怒鳴るとローラは一枚のエプロンを手渡した。
「……なにこれ?」
「エプロン」
「他《ほか》には?」
「それだけ」
シエスタは耳まで真っ赤になった。
「い、いくらなんでも、はしたないと思うわ」
「いっしょにお風呂《ふろ》に入ったりしたくせに、今更なに言ってるの?」
ルームメイトはシエスタのアプローチを全部知っている。シエスタは顔を赤らめた。
「いいじゃない。ここ女子宿舎だし。他の殿方の目はないわ」
「そ、そういう問題じゃ……」
「貴族のお嬢さまがライバルなんでしょう? そのぐらいしなきゃ勝てないわよ。あなたにはあなたの武器があるんだから」
「わたしの武器?」
「そうよ」
ローラは、悪戯《いたずら》っぽい笑みを浮かべるとシエスタの胸からお腹を、ついっとなで上げた。
「この肌よ。あなたの肌のきめ細やかさには、いつも驚くわ。貴族のお嬢さまだって、あなたの肌にはかなわない。有効に使わなきゃ、もったいないじゃない? ねえ」
「そうよそうよ。それに、新婚さんはエプロン一つで旦那《だんな》さまに給仕するのよ!」
悪乗りした乙女たちが、口々にそんなことを言い放つ。シエスタはフラフラとエプロンを身につけた。確かに前から見れば、身体《からだ》は隠れるが……、横から見られると、非常に怪しい。
シエスタはゆだった頭で、料理を盆《ぼん》に載《の》せていく。しかしデザートが見当たらない。
「デザートのクリーム菓子をどこにやったの?」
そう尋ねると、さらにローラは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「デザートは、別よ」
その手に、カスタードクリームが入ったホイップが握られていた。
どのぐらい待っただろうか。
腹減ったなあ……、と思いながら才人《さいと》がぼんやりと肘《ひじ》をついて待っていると、扉が開いた。入ってきたシエスタを見て、才人は思いっきり椅子《いす》から滑り落ちた。
シエスタの格好は、どこからどう見ても常軌《じょうき》を逸《いっ》していた。
「シ、シエスタ……、それ……、伝説のはだかエプロン……」
フィクションの中でしかお目にかかったことがない、噂《うわさ》の裸エプロンだった。現実に存
在するとは……、と才人は死にそうになった。しかも微妙にアレンジがくわえられている。
なんといつもの膝《ひざ》までのニーソックスは着用に及んでいるのである。丁寧に、頭の上には
メイドカチューシャが光っていた。
「なんで、そんな……、そんな格好……」
ポロポロみっともなく感動の涙を流しながらそう言うと、シエスタは毅然《きぜん》として言った。
「暑いんです」
「あ、暑くないよ……。まだ春じゃないか……」
「暑いんです」
きっぱりと、シエスタは言った。それ以上何も言えなくなり、才人は黙ってしまった。激しく緊張しながら座っていると、シエスタは料理をテーブルに並べ始めた。腕《うで》を伸ばすたびに、エプロンの隙間《すきま》からはじけんばかりの胸が見えそうになる。同時に、素朴だが、おいしそうな料理が並んでいく。
シエスタが自分の席に座るために、才人《さいと》に背を向けたときが真の地獄だった。見える、見えるのである。その白い、眩《まばゆ》いほどにやわらかそうなお尻《しり》が見えるのである。見たらきっと自分は自分でなくなる。そう判断した才人は、必死に太ももをつねりあげ、視線をずらすのであった。
シエスタは才人の真正面にちょこんと腰掛《こしか》けた。
「お、おいしいと思います。食べてください」
その意味を二重にとりつつも、才人は料理を口に含んだ。肉なのか、魚なのか、野菜なのか、さっぱりわからない。ただ目の前のシエスタに、神経が集中してしまう。
「わ、わたしも頂きます」
シエスタはひょい、と何気なく腕《うで》を伸ばす。ただそれだけの仕草で、エプロンがたわめき、中にある脱いだらすごい果実が揺れる。横からだったら確実に見える。そんな才人の脳内のシアターを想像してか、シエスタはさらにとんでもないことをさらっと口にする。
「……椅子《いす》、動かして横に来ます?」
思わず才人が頷《うなず》きそうになった、そのとき……。
シエスタの後ろの窓にかかったカーテンが風でそよぎ、青い影が通り過ぎる。
「え?」
次にまた、青い影がゆっくり通り過ぎた。それはシルフィードに跨《またが》った、ルイズとタバサではないか。ルイズの目が、怒り、という文字では表せないほどに燃え上がっている、タバサはいつものように本を読んでいた。
才人《さいと》が固まっていると、シルフィードに跨《またが》ったルイズは何度も窓の外を通り過ぎた。その口が、通り過ぎるたびにこう動く。
『それ以上』
『近づいたら』
『殺す』
才人は震《ふる》えた。裸エプロンのシエスタを前にして、一晩中我慢しなければならないのだ。拷問《ごうもん》だ。これ以上の拷問はない。今すぐ、ここから逃げ出したい衝動にかられる。
自分の背後で何が起こっているのかわからないシエスタは、にっこりと微笑《ほほえ》み、才人にワインを注《つ》いでくれたり、終《しま》いには顔を真っ赤にして「スプーン落としました。拾ってください」とか言い放つ。
俺《おれ》はもう、駄目だ、さすがに今日で心を壊す、と思いながら、ごめん拾えない、拾ったらきっと俺は人間じゃいられない、でもありがとう、とか、夢遊病のように呟《つぶや》くのであった。
「トイレ」
とうとう才人は立ち上がり、部屋を出た。少し頭を冷やさないとどうにもならない、と感じたのである。
部屋に残されたシエスタは、勝負の時間が近づいていることを知った。鞄《かばん》から、ジェシカに貰《もら》った惚《ほ》れ薬を取り出す。
ハートマーク型の壜《びん》に、紫色の液体。震える手でガラスの蓋《ふた》を外した。きゅぽん、と軽い音とともに蓋は外れ、魔法薬《ポーション》独特の苦そうな香りが漂う。
それを才人のワイングラスに近づけた。壜を持つ手がぷるぷると震える。
どうしたのシエスタ。
早くこれを、ワインに注ぐの。
そうしたら、サイトさんはシエスタ、あなたのものよ?
シエスタは傍らのテーブルにあった鏡を見つめた。そこに映った自分の姿を見つめる。エプロン一枚きりの自分は、なんとも健康な色気を放っているではないか。
やっぱり……、薬でなんて卑怯《ひきょう》だわ。自分の魅力だけで勝負しないと……、ミス・ヴァリエールに申し訳がたたないわ。
ぐっと上を見て、シエスタは壜に蓋をした。
でも……、ほんとにサイトさんはわたしを見てくれるのかしら? ここまでやらかして、振り向いてくれなかったら……、わたしどうしようもないピエロだわ。
シエスタは悩みに悩んだ。
その瞬間、ばたん、と扉が開き、トイレに行っていた才人《さいと》が姿を見せる。
「きゃあ!」
シエスタは思わず持っていた壜《びん》を窓に向かって放り投げてしまう。
「……どしたの?」
鼻に丸めた布を差し込んだ才人が、尋ねる。
「い、いえ……、窓の外にまた友達の顔が見えたので……、あは♪」
シエスタは内心、ほっとした。そうよね、惚《ほ》れ薬でなんて卑怯《ひきょう》よね。
モンモランシーはスズリの広場を、イライラしながら歩いていた。
ギーシュのやつう……、とぶつぶつとつぶやく。
「お風呂を覗《のぞ》くなんて、信じられない!」
あのあと、水精霊騎士隊の少年たちは、怒り狂った女子たちに、コテンパンにされた。
空中装甲騎士団との乱闘で得た傷よりも、女子たちが与えた傷のほうが深かった。彼らは医務室に逆もどりするはめになったが、もう、誰《だれ》も見舞いには行かなかった。
今では水精霊騎士隊は、変態の代名詞になっている。まさに、三日天下であった。
退学を主張する教師もいたが、ほとんど湯気で何も見えなかった、という言い訳と、腐っても近衛隊《このえたい》、女王陛下に責が及んではならぬ、ということで、なんとか退学だけは免れた。結果、彼らは訓練の時間を使った、一ヶ月間の奉仕活動でなんとか許されることになった。
しかし、モンモランシーの怒りは収まらない。
今日はどんな水責めをあの変態隊長に課してやろうかしら、と考えながら歩いていると……、目の前にハートのかたちをした壜が、どすん! と音を立てて落ちてきた。
モンモランシーは、その壜を取り上げる。
「魔法薬《ポーション》じゃないの」
モンモランシーの趣味は、知っての通り魔法薬《ボーション》の調合である。今、空から降ってきたこの魔法薬の正体が、知りたくてたまらなくなった。
場をあけて、くんくん匂《にお》いを嗅《か》ぐ。
すぐにその正体に気づく。
こ、この香りは……。
その瞬間だった。何度も低空飛行しながらシエスタの部屋を偵察《ていさつ》していたシルフィードにあおられ、モンモランシーは思わず壕の口をくわえてしまう。
「げほっ!」
喉《のど》の中に、紫色の液体が注ぎこまれ、モンモランシーはむせた。
「いけない……、飲んじゃった」
そんなモンモランシーの前に、シルフィードが飛び降りてきた。
「ごめん、モンモランシー、大丈夫?」
降りてきたのは、ルイズだった。
モンモランシーは顔を伏せた。やばい、わたしの勘が正しければ、この魔法薬は……。
「さっき落ちてきたモノ、なに?」
ルイズが尋ねる。
「あ、あっちに行って!」
モンモランシーは叫んだ。しかし、ルイズはおかまいなしに近づいてくると、モンモランシーの手から壜《びん》を取り上げた。
モンモランシーは咄嵯《とっさ》に目を瞑《つぶ》ろうとしたが、遅かった。ルイズの桃色のブロンドと、つくりのいい美少女顔が目に飛び込んでくる。
「なにこれ? なんであの子はこんなものを窓から投げたの? ねえ、モンモランシー、これいったいなんだと思う?……え?」
ルイズは、自分を見つめるモンモランシーの表情が尋常じゃないことに気づく。頬《ほお》を染め、潤んだ目つきで自分を見ているではないか。
「なによ。その目……」
背筋にひんやりとするものを感じ、ルイズはモンモランシーから離れようとした。
「……ルイズ」
モンモランシーは熱に浮かされたような顔で、ルイズに近づいてくる。
「じゃあまたね。さよなら」
ルイズは駆《か》け出そうとしたが、その手ががっしりとモンモランシーに掴《つか》まれる。
「前から知ってたけど……、あなたってとんでもなく可愛いのね。ドキドキしちゃう……」
モンモランシーはルイズの腕《うで》を手繰《たぐ》り寄せ、その小さい身体《からだ》を包み込むように抱きしめた。ルイズの全身に悪寒《おかん》が走る。
「は、はなして! 気持ち悪い! 気持ち悪いってば!」
「そんなこと言わないで。ほら、わたしの胸の鼓動が聞こえる? あなたを思って、こんなに鳴り響いているの。わたしの身体を流れる水が、ただ一つの答えを教えてくれる……」
「やめて! やめて!」
「あなたが好きよって……」
モンモランシーは、ルイズの唇にがしっと自分のそれを重ねると、暴れるルイズを強く抱きしめた。モンモランシーのほうが、身体が大きい。非力なルイズは抵抗できずに、まるでクモに捕らえられた蝶《ちょう》のように茂みへと運ばれていった。
「やだ! モンモランシー! お願い! あのね! あんた女でわたしも女で! そういうことは! むぐっ!」
シャツを半分脱がされたルイズは、茂みから顔を突き出すと、いつの間にかベンチに座っていたタバサに叫んだ。
「ちょっと! タバサ! 助けて! お願い! このままじゃわたし!」
しかしタバサはまるっきりそっちのほうを向きもしない。
「偵察《ていさつ》は手伝う。他《ほか》は関係ない」
まるで人の恋路にくちばしを挟《はさ》むのはごめんだ、といった態度である。
「ちょっと! モンモランシー! そこだめ! 本気でそこ触ったらだめ! いやぁ! いやぁ! いやぁあああああああ!」
ルイズはずるずると茂みに引き込まれた。
十分ほど経《た》った頃《ころ》、ルイズはボロボロの身体《からだ》で茂みから這《は》い出してきた。そのスカートを握っていた、気絶したモンモランシーの腕《うで》が、こてん、と地面に投げ出された。モンモランシーもルイズも、散々な格好であった。服はあちこちが破れ、自慢の金髪と桃髪はボサボサである。
「な、なに考えてんのよ!」
茂みに向かって怒鳴る。貞操を守るために、ルイズは必死の抵抗を行ったのである。モンモランシーとルイズの格闘力はほぼ互角、力の差を、才人《さいと》相手に鍛《きた》えた技で跳《は》ね返し、ルイズはなんとか貞操を守り通したのである。
しかし……、今日のルイズはとことんツキに見放されていたらしい。
そこにキュルケが通りかかったのだ。
キュルケはボロボロのルイズとモンモランシーに気づき、そこで何が起こっていたのか、なんとなく理解したらしい。
「あなたたち……、女同士でなにしてるの? あっきれた。いくらお互い恋人に相手にされてないからって……、とうとう女にしたってわけぇ? 信じられない!」
さてさて、シエスタがジェシカから貰《もら》った惚《ほ》れ薬はとにかく安物だった。闇市《やみいち》で仕入れた、怪しい品である。その効果時間が短いのみならず、もう一つ致命的な欠陥を抱えていた。
効果が“伝染”するのである。
モンモランシーに唇を奪われたルイズに、惚れ薬の効果は移っていた。それに気づかず、真正面からキュルケを見てしまったものだからたまらない。
ルイズの頬が徐々に染まりだす。
キュルケは、目をつむったまま、指を立てて得意げに恋を語った。
「いいこと? 相手をモノにするのになにより大事なのは情熱よ。火のような情熱が、相手の心を溶かすの。あなたたちは……、むぐっ!」
キュルケは驚いた。いきなり自分の唇が何かに塞《ふさ》がれたのだ。
信じられない、といった顔で、キュルケは目の前の桃髪少女を見つめた。うっとりした顔で、自分に唇を重ねている。
あまりの予想外の出来事に、さすがのキュルケも腰を抜かした。へたり、と倒れこみ、ルイズの上半身を引《ひ》き剥《は》がす。
「ル、ルイズ? ちょっと、ど、どういう……」
「キュルケ。わたし、あんたなんかだいっきらいなんだから!」
「し、知ってるわ」
「勘違いしないでよね! か、顔見てたらドキドキしちゃうだけなんだから!」
「は、はい?」
「だから責任とって、ちょっとでいいから、じょ、情熱とやらを教えなさいよね!」
「あのね。ルイズあのね」
キュルケはのしかかるルイズを撥《は》ね除《の》けようとした。
しかし、慌てているのでうまくいかない。もみ合ううちに、シャツの隙間《すきま》にルイズの小さな手が滑り込む。
「なによ……、この女性らしいふくよかな胸……、わたしにないものをあなたはたくさん持っている。それが許せない。ああ許せない。ああ、微熱のキュルケ……」
ルイズの手が、自慢の胸をくにくにともみしだく。キュルケの全身に鳥肌が立った。
「や、やめてってばあ!」
珍しく、少女のような可愛い声がキュルケの喉《のど》から飛び出る。あまりの事態に、頭が混乱したのだった。
「ルイズ……、こっちを見て。あなたにとって誰《だれ》が一番必要な人間なのか、よく考えて」
そこに気絶からさめたらしいモンモランシーが加わってきて、さらに事態は混乱する。
「はなして! あんたみたいなペチャには用はないの! わたし、キュルケみたいな大きい子がいいの!」
「なに言ってるの。小さい胸には小さいなりに、魅力がつまってる。わたし、あなたのこの板みたいな胸、大好きよ……」
なにこれ。付き合っていられない。
モンモランシーとルイズがもみ合っている間、キュルケは腰が抜けたまま、はいつくばってそこから逃げ出した。見ると、近くにタバサがいる。
「タバサ! 助けて!」
ベンチに腰掛《こしか》け、夢中になって本を読んでいたタバサは、耳に吹きかけられた吐息で現実に引き戻された。
シルフィードだろうか? いや、自分の使い魔は、ルイズを下ろしたときにお腹がすいたと言ってどこかに飛んでいってしまった。
「……タバサ。あたしの小さいタバサ」
タバサは振り向いた。
親友のキュルケが、そこに立っている。
「?」
その腕《うで》が、すっと自分の背中をかき抱く。目が、怪しい光に彩られていた。
「あなたはあたしの一番の お と も だ ち」
確かにそれは間違いじゃないが……、違う。何かが違う。
いつものキュルケじゃない。
それが証拠に、キュルケの手がいきなり自分のスカートに差し込まれた。
「??」
タバサは無表情のまま、親友の手を見つめた。つつつつ、とキュルケの指が、自分の太ももをなで上げ、中心へと向かってこようとするではないか。
この行為には何か理由があるのだろうか、とタバサは首を捻《ひね》らせた。虫か何かがスカートの中に入ったのだろうか?
ついで、キュルケは甘く自分の耳朶《じだ》を噛《か》んできた。
「???」
「ほんとに可愛い……、あたしの小さなタバサ。あたし思うの。あなたに、まだまだ教えてないことがたくさんあるって。ひとつひとつ、予習しておきましょうね。あなたが大人になる前に……」
スカートの中の自分の下着をキュルケが脱がしにかかったときに、タバサは立ち上がった。頭の中に危険信号が鳴り響いている。とにかく、とんでもない危険の渦中《かちゅう》に自分が一瞬で放り込まれたことを、タバサは理解した。駆《か》け出そうとしたが、キュルケに抱きすくめられて地面に転がる。すぐに唇を奪われる。キュルケの舌使いといったらとんでもなく、するりとタバサの口に入り込み、タバサの全身から力を奪おうとした。
タバサはどんなときでも手放さない杖《つえ》を振った。
“エア・ハンマー”
空気の塊が、キュルケの身体《からだ》を吹き飛ばした。そんなキュルケにルイズが抱きつき、ついでモンモランシーが抱きつく。
何が起こっているのかさっぱりわからない。タバサは駆け出した。行き先はそばにある使用人宿舎。とにかくあそこに入り込み、篭城《ろうじょう》するのだ。
感じたことのない種類の恐怖が、タバサの全身を包む。珍しく、タバサの額に汗が光っていた。
「なんの音でしょう?」
階下から聞こえてきた音にシエスタは首を傾《かし》げた。
「すごい音だな」
まずは階下でドアが開く音。
しばらく後に、悲鳴が響いた。
どったんばったんと誰《だれ》かが暴れる音。そして悲鳴。続けざまに悲鳴。
「見てこようか?」
と才人《さいと》が立ち上がったときに、部屋に誰かが背中から飛び込んできた。
「ローラ?」
それは、自分のルームメイトだったローラではないか。
シエスタたちに背中を向けたまま、
「やめて……、お願い。わたしたち女同士じゃない。ねっ?」
とか、わけのわからないことを呟《つぶや》いている。
シエスタは、咄嵯《とっさ》に危険を感じ、才人《さいと》の手を握るとベッドの中に飛び込んだ。
同時に、どどどどどどどどッ! と部屋に数珠|繋《つな》ぎになった女の子たちが、なだれ込んできた。
それから先のことは、もう、女にとっては悪夢、男にとっては羨《うらや》ましいような、ちょっともったいないような……、とにかく普通ではお目にかかれない光景であった。
「ルイズ! わたしの可愛いルイズ! あなたの桃髪を見ていると、どうにか「なりそうなの!」
「キュルケ! 待ちなさいよ! あんたにはわたしがいるじゃない!」
「タバサ! あたしの小さなタバサ! 一から全部教えてあげる!」
「……可愛い」
「ああカミーユ! わたしのカミーユ!」
「ドミニック! 今夜は離さないわ! ドミニック!」
「おおローラー あなたの金髪があたしを狂わせるのよ!」
モンモランシーにルイズにキュルケにタバサ。そして女子使用人のほとんどが押し合いへしあいしながら、部屋の中を阿鼻叫喚《あびきょうかん》の騒ぎに染め上げていく。
才人とシエスタは、布団の中で震《ふる》えながら、その光景を見つめていた。
騒ぎは唐突に始まり、唐突に終わった。
ジェシカがくれた惚《ほ》れ薬はなるほど安物で、粗悪品だった。その効果は下品で、おまけに効果時間もうたい文句通りとはいかずに、わずかに一時間程度に過ぎなかった。
しかし、そのたった一時間でも、床にのびた少女たちに一生もののトラウマを植えつけるには十分であった。
二日酔いのように、痛む頭を振りながら、モンモランシーが立ち上がる。ボロボロのシャツに気づき、恥ずかしそうに身ぶるいしたあと、ふにゃっと寝起きの顔のルイズを見て、おえっぷ、と口を押さえた。
髪の毛や服がヨレヨレになったルイズも、自分のキスマークがつきまくったキュルケの褐色の胸元を見つめ、青ざめた顔になり、ついで顔を真っ赤に染めた。
キュルケはそんなルイズを見つめたが、なんとか余裕の態度を取り戻し、耳元でささやく。
「あなた、なかなか情熱的だったわよ」
部屋に集まった女の子たちは、原因を噂《うわさ》しあう。モンモランシーが、ポケットからハートマーク型の壜《びん》を取り出す。
「惚《ほ》れ薬よ。粗悪品だけどね」
「いったい、誰《だれ》が惚れ薬なんか……」
と、乙女たちは顔を見合わせる。そのとき……、ごそごそと布団の下からシエスタが顔を出す。
「わたしです……、ごめんなさい」
「シエスタ!」
その部屋の全員が、突然現れた犯人に注目した。
「なるほど。あのジェシカに貰《もら》ったってワケね」
ため息混じりに、ルイズが言った。
目の前には、ベッドの上に正座したシエスタと才人《さいと》がいる。毛布を身体《からだ》に巻きつけたシエスタは全部を語った。ジェシカに惚れ薬を貰ったこと。それを才人のワインに入れようとしたこと……。
「一日使用権は許したけど、そんな手を使っていいとは言ってないわ」
すると、シエスタはポロポロと泣き出してしまった。
「ほんとにごめんなさい……。こんな風に皆に迷惑がかかるなんて……。おまけに禁制の品なのに……。サイトさんもごめんなさい。わたしに人を好きになる資格なんてないわ」
部屋の中が、急速にしんみりとしてしまう。
その場の沈黙を破ったのは、才人だった。
「シエスタ、別に悪くないよ。だって使ってないじゃん。使うつもりがなかったから、外に投げたんだろ?」
シエスタの顔が輝いた。
「サイトさん……」
「とにかく、拾って飲んだモンモンが悪い。貴族のくせにアホか」
モンモランシーの顔が、怒りで真っ赤に染まる。
「なんでわたしのせいなのよ! だいたいルイズ、あんたが竜でフラフラ飛んでるから、風にあおられて飲み込んじゃったんじゃないの!」
女子たちはあなたが悪い、お前が悪い、とお互い罵《ののし》り始めた。才人《さいと》がうるさい、と言わんばかりに手を振った。
「もういいだろ。それにみんな、なかなか気持ちよさそうな……」
才人はそこではっとした。部屋中の女子の怒りに満ちた視線が才人をさす。
ああ、俺《おれ》はなんで一言多いんだろう、と思いながら、才人は一斉に手足に、魔法の攻撃を受け、気絶した。
そのうちに女子も去り、部屋に残されたのは気絶した才人とルイズ、そしてシエスタだけになった。
「ほんとにごめんなさい」
ぽろっと、シエスタがルイズに言った。
「わたし……、卑怯《ひきょう》です。ほんとはさっき、迷ったんです。使おうかどうしようかって。そしたらいきなりサイトさんが入ってきて……、思わず放り投げちゃったんです」
ルイズは謝るシエスタをじっと見つめていたが……、そのうちに首を振った。
「もういいわ」
ルイズはごそごそとポケットを探ると、シエスタに何かを手渡した。
一冊のノートだった。
「これ……、なんですか?」
「読んでごらんなさい」
そのノートは、才人がアルビオンから帰ってきてからこっち、ルイズがずっとしたためていたものだった。いわゆる秘密日記である,
いかに才人に冷たくされたのか、どんな風にプライドを傷つけられたのか、が延々と書き記されていた。
シエスタはそれを読んで、ルイズを見上げた。
「ミス・ヴァリエール……」
「わかる? こいつはね、そのぐらいの鈍感大王なの。だから、変な薬に頼りたくなる、その気持ちもなんとなくわかるわ」
シエスタは頷《うなず》いた。
それから、怒ったような声で、ルイズは言った。
「そんな簡単に諦《あきら》める、なんて言わないの。つまらないじゃない」
ひしっとシエスタはルイズに抱きついた。
「ああ、ミス・ヴァリエール……。わたし、サイトさんがいなかったら、あなたに一生を捧《ささ》げてもいいと思いますわ」
「よく言うわよ。でも、わたしも、あんたに何か友情みたいなものを感じるわ」
「貴族のお方に、お友達なんて言ってもらえて……、わたしはトリステイン一の幸せものですわ」
ルイズは笑顔を浮かべると、テーブルの上にあった壜《びん》を取り上げ、二つのグラスに注《つ》ぐ。
「ほら、ワインで乾杯しましょ」
「はい」
と頷きながらシエスタはそのグラスを手に取った。
「友情に」
二人は、グラスを合わせ、ついで中の液体を飲み干す。
「ねえミス・ヴァリエール」
「なによ」
「そういえば、さっきの騒ぎで、テーブルの上の料理やワインは床に散乱してしまったはずですけど」
「なに言ってるのよ。あるじゃないほら」
ルイズは、ハートマーク型の壌を持ち上げた。窓から差し込む双月の明かりで、中の液体がキラキラと怪しく輝いた。
その壌を見つめるシエスタの目が、とろん、と濁る。
「……そうですわね。ところでミス・ヴァリエール」
「……な、なによ」
ルイズの目も、妙に色気を含んだものに変わる。二人の顔が徐々に近づいていく。
「ミス・ヴァリエールって、世界一可愛いですわね。信じられない。まるで神が自らノミをふるわれた、芸術品のようですわ」
「ふん、よく言うわよ。でも、あんたもまあ、そこそこまあまあね……。ちょ、ちょっとは可愛いわ。ほんのちょっとだかんね。ほんのちょっと、見てるとドキドキしちゃうわね……。ばかぁ、ほ、ほんとにちょっとなんだからぁ……」
二人の唇が近づいていく。その唇がしっかりと合わさった。二人は荒い息で、お互い身につけたものをもどかしげに脱がしていく。
床に転がった才人《さいと》の上に、ルイズのシャツが、シエスタのエプロンがかぶさっていく。
シエスタは、床に転がったカスタードクリームのホイップを取り上げた。
「ねえミス・ヴァリエール」
「なによ。じ、じらすなんて偉くなったじゃない」
「デザートを食べたくないですか?」
それは、才人《さいと》に使う予定だった、ローラ伝授の最後の必殺技だった。なんと、シエスタは己の身体《からだ》に、クリームをまぶし始めた。
「デザートは、わたしです……、よぉく味わって、食べてくださいね」
ルイズは激しくシエスタに抱きついた。
「シエスタ、もう、こんなデザート許せないわ! 許せない! 全部食べてあげるけど、別に好きとかそういうんじゃないんだからね!」
「ああ、嬉しいです! ミス・ヴァリエール!」
二人は抱き合ったまま、ベッドに転がった。
才人は、二人の奏でる荒くも甘い吐息で目を覚ました。
月明かりの下、ベッドの上の毛布が、激しく動いている。
その毛布が剥《は》がれ、才人は目を丸くした。
シエスタとルイズが生まれたままの姿でお互いしっかりと抱き合い、唇を激しく重ねあっている。
才人は目の前の光景が信じられなかった。
二人の妖精《ようせい》が、愛を確かめあっているけど、これなに?
すぐにその正体に気づく。
ああ、これは夢だ。
夢に違いない。
でも、なんていい夢なんだ……。こんな夢なら、毎日見たい。というかどうせ夢なら……、俺も交ぜてもらいたい。というか目が覚める前に、なんとしてでも間に入らねば、俺は一生後悔するだろう。
ベッドでもつれ合う二人の“恋人”は、すぐに無粋な闖入《ちんにゅう》者の存在に気づいた。その目が、怒りに燃え上がっていく。
不幸にも、才人に伝染の効果は及ばなかった。惚《ほ》れ薬の効果が伝染するのは、飲んだ者が、飲んでいない者にキスした場合に限られるのだった。お互い同時に飲んでしまった二人は、もう目の前の美少女しか見えていない。
「一生のお願いです。俺も交ぜ……」
土下座した才人は、素早く毛布を身体に巻きつけ、ぴったりと合った呼吸でベッドから飛び出してきたルイズとシエスタに蹴《け》り飛《と》ばされた。
「なに見てるのよ!」
「あっちに行っててください!」
綺麗《きれい》に蹴《け》り飛《と》ばされ、窓から地面へと向かう道すがら……、才人《さいと》は思った。よしんばこのまま地面に激突して一生を終えるとしても……。
今日見たあの光景は。
至福の芸術は。
俺《おれ》の魂を慰め続けてくれるだろう、と。
[#改丁]
あとがき
ぼくが初めてラブコメさんに出会ったのは小学六年生の頃《ころ》、鈴木くんが「ノボル、カブト取りに行くべ」と言って、カブト虫を取りに風神山《ふうじんやま》に行ったときのことです。でも、お昼過ぎだったのでカブトはいませんでした。鈴木くんは、高いところにいるんじゃね?と言い出し、ぼくを見ました。鈴木くんは、いつも危ないことをぼくにやらせるのです。鈴木くんはケンカが強くて本気怖いので、ぼくはしかたなしに木の上に上りました。でも、木の上にカブトはいませんでした。カブトは日中、地面の中や木の皮の裏など、日が差さないところに潜り込むと知ったのは、高校生になってプロフェッサーカブトの異名を取るようになってからです。
とにかくぼくは、怖くて木の上から降りられなくなってしまいました。下から鈴木君の「いいから早くとってこいよ」、と声がします。お前が上れよカス、と思いましたが、言いませんでした。降りられなくて、ブルブルと震《ふる》えていると……。
「どうしたんだい?」
男の人の声がしました。
見ると、若い男の人が立って、ぼくを見上げています。その人がラブコメさんでした。
下りられないんですけど……、というと、その人は笑顔のまま木に上ってきて、ぼくの手を引いて下りてくれました。ありがとうございます、とお礼を言いますと、
「いいんだよ。でも、たまにラブコメを思い出してよ。恥ずかしがらずにさ」
と、軽い口調で言ったのです。
ラブコメさんとのそれからのことは長くなりますので割愛《かつあい》します。
そんなわけで、ぼくの心の中にはいつしかラブコメさんが住み着いたのです。ラブコメさんの教えは、ぼくにとって人生の指針となるべきものでした。
いわく、
『パンチラはみだりに使用するべからず』
またいわく
「真のパンチラは“チラ”すら行わず。心の目で見るものなり』
はたまた、
『|パンチラ《刀》は|ラブコメ《武士道》の魂なり。決しておろそかに扱うべからず』
パンチラばかりで恐縮ですが、ラブコメさんはそのように有意義な言葉でぼくを薫陶《くんとう》したのです。
あれから二十年以上がたち、ぼくはあの頃のラブコメさんの教えを元に、こうやってラブコメ分が、あと主にぼくの趣味がぎゅっと詰まった一冊を送り出すことができました。今回は冒険らしい冒険はありません。その代わり、咲き乱れる華《ラブ》があります。はじける果実《コメ》があります。
その名も、ゼロの使い魔十二巻『妖精《ようせい》達の休日』。
この一冊には、ぼくとラブコメさんとの交友の記録がつまっています。ラブコメさんは、最後にぼくにこう言いました。
「ラブはつまり覚悟だ。困難だが、絶対に実行しようと、心を決めることです。そしてコメはその過程だ。その過程が潤《うるお》えば潤うほど、人は覚悟を実行しやすくなる」
ぼくにはその意味がわかりませんでした。今も、よくわかっていません。
でもいつかきっと。
いつかきっと、ラブコメさんの言った言葉の意味が、わかるような気がするのです。
それが本当にわかるまで、ぼくはラブコメを書き続けることでしょう。
最後になりましたが、今回もイラスト、とんでもないスケジュールを押し付けてしまい、申し訳ありませんの兎塚《うさつか》さん。そして担当のSさん、Kさん。そして読者の皆さん、どうもありがとうございます!
[#地付き]ヤマグチノボル
[#改丁]
底本:「ゼロの使い魔12 妖精達の休日」MF文庫
2007年8月31日 初版第一刷発行