ゼロの使い魔11 〈追憶の二重奏〉
ヤマグチノボル
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ゼロの使い魔11 追憶の二重奏
使い魔として異世界ハルケギニアに『召喚』されてしまった高校生・才人は、ご主人さまのルイズとともに、ガリアに囚われていたタバサを無事に救出。隣国ゲルマニアでつかの間の休息をとっていた。ルイズは「才人に好かれている」という自信をつけ、二人はちょっといい雰囲気なような、でも素直にはなれない状況が続いていた。そんな中、ルイズはアンリエッタへ向けてお詫びの手紙を出し、やがてその返信が届く。ルイズの故郷ラ・ヴァリエールに来るようにと指示され、なぜかルイズは激しく怯えはじめる。理由のわからない才人は楽観視していたが、待ち受けていたのは……!? 大好評の異世界使い魔ファンタジー、ついに待望の11巻!
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ヤマグチノボル(やまぐち・のぼる)
1972年2月、茨城県生まれ。『カナリア〜この想いを歌にのせて』(角川スニーカー文庫)でデビュー。著書に『グリーングリーン鐘ノ音ファンタスティック』『つっぱれ有四川』『魔法薬売りのマレア 千日力ゲロウ』『ストライクウィッチーズ』(角川スニーカー文庫)「描きかけのラブレター』(富士見ミステリー文庫)『サンタ・クラリス・クライシス』(富士見ファンタジア文庫)『グリーングリーン鐘ノ音スタンド・バイミー』(MF文庫J)など多数。『グリーングリーン』『GonnaBe??』『ゆきうた』『私立アキハバラ学園』『魔界天使ジブリール』『そらうた』など、ゲームシナリオライターとしても活躍中。
◎兎塚エイジ(うさつか・えいじ)
8月16日生まれ。大阪出身、大阪在住の大阪人。
現在、サラリーマンをしながらイラストを描かせて頂いてます。
イラスト仕事歴は
「道士さまといっしょ」(電撃文庫)
「ふたりはなめこじる」(電撃hp)
「神曲奏界ポリフォニカ えきさいと・ぶるう」(GA文庫)
「悪魔憑きの目覚め」(富士見文庫)
「ゼロの使い魔」シリーズ(MF文庫J)
などです。
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※INDEX※
※第一章 フォン・ツェルプストー……………11
※第二章 女王と公爵……………………………31
※第三章 烈風カリン……………………………47
※第四章 ラ・ヴァリエールの家族……………63
※第五章 新学期…………………………………106
※第六章 個人授業………………………………125
※第七章 ロマリアの教皇………………………152
※第八章 ヨルムンガント………………………166
※第九章 ウエストウッドの再会………………192
※第十章 二重奏の心……………………………217
エピローグ…………………………………………255
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登場人物
・ルイズ
才人のご主人さま。伝説の系統「虚無」を使うことができる。貴族としてのプライドのためか、才人には素直に接することができないでいる。
・ティファニア
アルビオンで才人を助けてくれたハーフ・エルフ。優しい性格で、争いを好まない。
・キュルケ
タバサの親友の、情熱的な少女。「微熱」の二つ名を持つ。今はコルベール先生に夢中。
・タバサ
「雪風」の二つ名をもつ、風系統の魔法を得意とする少女。実はガリアの王族のお姫様でもある。
・平賀才人(サイト)
ルイズの使い魔として召還された高校生。現在はトリステインから騎士の身分を与えられている。
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[#地から2字上げ]口絵・本文イラスト●兎塚エイジ
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第一章 フォン・ツェルプストー
深い、濃い黒いゲルマニアの森の中、フォン・ツェルプストーの城はあった。城といっても、トリステインのそれとはかなり趣《おもむき》を異にしている。
元は石造りの、歴史ある立派な建築物であったのだろうが、無秩序に増築を重ねたために建築当初の何倍もの大きさに膨れ上がっている。その建築の様式も一定ではない。
旧《ふる》いトリステインやガリアの古代カーペー朝に見られる、高い尖塔《せんとう》が特徴のヴァロン調の建物かと思えば、壁が途中からアルビオン式の重厚な城壁へと変貌《へんぼう》を遂げている。
ロマリア調の繊細《せんさい》なレンガ造りの塔の隣に、大きな石でくみ上げられた古ゲルマニアの城塞《じょうさい》がそびえている……、といった具合の、見た目と格式をまったく無視した、乱雑な造りであった。トリステインやガリアの貴族が見たら、眉《まゆ》をひそめるような造りの城であったが、変化と革新を尊ぶ火の国ゲルマニアらしい、力強い造作ともいえなくもない。
そんな城の一室で、ぽかぽかとした春の陽気にあてられ、才人《さいと》はぐっすりと眠り込んでいた。かなりの大冒険をやらかしたあとだったので、激しく身体《からだ》が疲れていた所為《せい》もある。
深い眠りの中、才人は夢を見ていた。懐かしい夢であった。
故郷の夢。地球の夢……。
台所で、母が料理を作っている。自分は、その様子を後ろから見つめている。
「母さん、何を作っているの?」
「あんたの好きな、ハンバーグだよ」
そんな何気ない会話が、なぜか胸に突き刺さる。母が振り返る。見慣れた母の顔。どこまでも優しく、穏やかな母の顔……。
「才人《さいと》、お前、どうして泣いてるの?」
「あれ?」
才人は目をこする。気づくと、涙が溢《あふ》れていた。
「変な子だね」
そう言って笑う母の顔が、いつしかタバサの母に変わっていた。才人は驚いて、叫び声をあげた。
「うわあ!」
才人は自分の叫び声で目を覚ました。
「夢か……」
母の夢を見るのは、これで二度目であった。遠く離れているというのに、不思議とほとんど思い出すことはない。
才人はベッドから起き上がると、窓の外を見た。太陽は中天を過ぎたばかり。隣のベッドには、マリコルヌとギーシュが寝ているはずであったが、姿が見えない。とっくに起き出したあとなんだろうか。
服を着ると、才人は自分たちに用意された部屋を出た。
「サイト」
ドアのそばに、ルイズが立っていた。
「お、ルイズ。おはよう」
才人が挨拶《あいさつ》すると、ルイズはなぜか恥ずかしそうに目を伏せる。
「昼食の用意ができたそうよ。皆、先に行ってるわ」
「起こしてくれたっていいじゃないかよ」
「起こしたわよ。でもあんた、起きないんだもの」
「そ、そっか。ごめん」
バツが悪そうに、才人は言った。先ほどの夢を思い出し、なぜか恥ずかしくなる。深い夢の世界に、自分は旅立っていたのかもしれない。それが母の夢ということが、妙に照れくさかった。
ガリアの古城からタバサとその母の二人を救い出したのは、五日ほど前。キュルケの実家である、このゲルマニアのフォン・ツェルプストーに到着したのは、つい昨晩のことであった。ルイズと才人《さいと》、キュルケ、ギーシュとモンモランシー、マリコルヌ、タバサとその母、そしてシルフィードの八人と一匹は、無事、国境を越えることができたのだった。
街道沿いにはところどころ検問が置かれていて、タバサとその母が奪われたことを知ったガリア軍が旅人を取り締まっていたが、そのたびに一行は、変化の呪文《じゅもん》で要人に化けたシルフィードやキュルケの機転でうまく立ち回り、検問を突破した。
地方のガリア軍の規律が乱れていたことが、一行の脱出を容易なものにした。検問に立つ地方軍兵士たちの士気は低かった。簡単に買収に応じた兵もいれば、まったくやる気のない態度で馬車の中を改めようともせず、「行け」と顎《あご》をしゃくった兵もいた。どうやらガリア王政府は、直轄《ちょっかつ》の軍以外からはあまりよく思われてないようであった。
何よりも幸いだったのは、ゲルマニアとの国境に配備されていた隊である。東|薔薇《ばら》騎士団と名乗る、精鋭の騎士隊が、そこに詰めていたのである。
一行は緊張した。彼らは厳重に馬車の中を改めると、変装したタバサを見つけ出した。眠るタバサの顔から化粧を拭《ぬぐ》い、
「この少女は……」と呟《つぶや》いた。
それは、カステルモールと名乗る騎士団長の若い騎士であった。その瞬間、キュルケは杖《つえ》を握り、才人は剣を構えた。
しかし、カステルモールは、馬車から出るなり大声で、
「問題なし! 通ってよし!」
と、越境を許可したのである。一行の馬車が国境を越えるとき、彼は見事な騎士の礼を送ってよこした。彼は、捕まえるべき才人たちとタバサを逃がしてくれたのだ―――――。
目を覚ましたタバサにことの次第を告げると、「そう」と言って目をつむった。
「あいつにも味方がいるんだな。敵ばかりじゃないってことだ。安心したよ」
才人は国境を越える際のそんなやり取りを思い出し、うんうんと頷《うなず》いた。
「タバサは?」
「そこの部屋で寝ているわ」
ルイズは、自分たちに用意された部屋の、廊下を挟んで正面の扉を指差した。才人は頷くと、扉を軽く押した。鍵《かぎ》はかかっていない。軽い音を立てて、扉が開いた。
扉の隙間《すきま》から、才人は部屋の中を覗《のぞ》いた。
大きなベッドの上に母子が寄り添って寝息を立てている。
才人たちが救い出した、タバサとその母であった。
「とにかく、やっと安心だな」
隣に立ったルイズも、頷く。
「そうね。一応、ここはゲルマニアだし……、ガリアも好きにはできないでしょう」
才人は頷くと、気になっていたことを尋ねた。
「なあ、お前が昨日、出した手紙だけどさ……」
ルイズがトリステインのアンリエッタ宛《あて》にフクロウで手紙を出したのは、昨晩のことである。ルイズは屋敷につくなり、長いお詫《わ》びの文をしたためたのであった。
まず、タバサを無事救出できたことの報告に始まり、次に無断で国境を越えたことに対するお詫びと、二、三日中に帰国するのでお裁きを頂きたいとの旨を記した。
「ちゃんと俺《おれ》も捕まえろって書いたんだろうな?」
ルイズが手紙を書くところはじっと見ていたが、こっちの文字がわからないので、なんと書いたのかわからなかったのである。ルイズは、自分一人で罪を被《かぶ》るんじゃないだろうか? と思ったので、一応尋ねてみたのであった。
「あったりまえじゃない」
ルイズは澄ました顔で言った。
しばらく才人《さいと》は、ルイズの目を覗《のぞ》き込んだ。鳶色《とびいろ》の瞳《ひとみ》が、強い意志の光を湛《たた》えてキラキラと光っている。
「ほんとか? お前、嘘《うそ》ついてるんじゃないだろうな。言い出したのは俺なんだからな。やっぱり俺が責任とらないとな……」
ルイズはそんな風に、ぶつぶつ呟《つぶや》く才人を、ちょっと怪訝《けげん》な目で見つめた。
「捕まったら、あんた帰れないでしょ」
「まあ、そうだけどさ。でも……、俺は一応、騎士隊の副隊長なんだから……」
才人は最近こうである。何かというと『責任』とか『こっちの世界で俺ができること』とか、言い出して、ルイズを当惑させる。自分の世界に帰りたくないのだろうか?
「はいはい。もうその話は終わり。ほら行きましょ。皆待ってるわ」
才人は去り際に、母に寄り添うタバサを見つめた。すると……、心のどこかが、ずきん、と疼《うず》いた。その疼きは奇妙な違和感であった。
「どうしたの?」
「な、なんでもねえ」
才人とルイズは、母子が眠る部屋を離れ、皆の待つ食堂へと向かう。
廊下に並ぶ、フォン・ツェルプストー城の調度を見ながら、ルイズが文句をつけた。
「しっかし、こんな趣味の悪いお屋敷、初めて見たわ」
そう言われても、ハルケギニアの城の調度の善《よ》し悪《あ》しなんて、才人にはわからない。まあ、言われてみればトリステインでは見かけない像や絵画が並んでいる。
「この廊下の造りは、トリステイン調なのに、なんで東方の神像なんか飾っとくのよ。意味わかんないわ。というかトリステインのまねをしているだけでも腹が立つのに、そこに東方の像ってなによ。バカにするにもほどがあるわ」
ルイズが指差したのは、いくつもの腕を持った神さまの像である。修学旅行で見た、千手観音像にちょっと似ていた。どうやらルイズには、故郷の調度に、そんな飾りつけが許せないらしい。
「見てよ。今度はジョバンニ・ラスコーの宗教画《イコン》よ。色合いがなっちゃいないわ。壁の色と全然あってないじゃない。もう、これだからゲルマニアの成金田舎貴族は……」
ぶちぶちと文句をつけるルイズに、才人《さいと》は困ったような声で言った。
「なあルイズ」
「あによ」
「壁や像や絵もいいんだけどさ……、その、お前の格好……」
「わたしの格好がどうしたのよ?」
つん、と横を向いてルイズは言った。
「……その踊り子衣装、いい加減脱いだらどうだ?」
ルイズの格好はタバサを救い出すときに着用に及んだ、東方の踊り子衣装のままである。なんというか、その衣装は要所要所を隠すだけのデザインのために、どうにも隣にいると目のやり場に困るのである。
「しかたないじゃない。これしか服がないんだもん」
なぜか勝ち誇ったような声で、ルイズは言った。
「あるじゃん! それに着替える前に着てた、魔法学院の制服が!」
「あれ、汚れてるんだもん。着たくないわ」
「別に汚れてないだろ! あれ!」
才人はルイズから目をそらしながら叫んだ。なんだか見てると、どうにかなってしまいそうな気分になるのであった。
「それに、ここはキュルケのお屋敷だろ? そんな格好、キュルケの家族や、召使の人に見られてもいいのかよ」
ちょうどそこに、赤い、派手なお仕着せに身を包んだ若い女性の使用人が通りかかった。
ルイズは澄ました顔で、羽織ったマントで身体《からだ》を覆う。なるほどそうすれば、ルイズの細い肢体はすっぽりと隠れてしまう。
「ほら、こうすれば見えないもん」
一礼して使用人が通り過ぎたあと、ルイズは挑発するかのように、マントの端をつまんでヒラヒラと振った。
ちらちらと、ルイズの白い肌が目に飛び込んできて、才人は顔を赤くして顔をそむけた。
「や、やめろよ……、そういう風にマントひらひらさせるの……」
するとルイズは、頬《ほお》を染めて横を向いた。
「どうして?」
「どうしてってお前、み、見えるじゃん」
「なにが見えるのよ」
「肌っていうか、そういうのが……」
「ばっかじゃないの? あんたもしかしてご主人様の肌を見て、興奮してるの? 信じられない! なんていうけだもの! 死んだほうがいいわ。森で」
ルイズは顔を真っ赤にしたまま、言い放った。
「恥ずかしがるぐらいならやるなよ!」
「は、恥ずかしくないもん! 使い魔に見られたって平気だもん!」
慌てた声でルイズは言った。最初、馬車の中では才人《さいと》が夢中になって見つめるのが面白く、調子にのって踊り子衣装の自分を見せつけてみた。見せつけるだけでは飽き足らず、終《しま》いには挑発してみた。
しかし、冷静になってみると激しく恥ずかしい行為であった。わたしってば何考えてるのよ、と、皆が寝静まったあと、毛布の中でルイズはじたばたと暴れた。暴れに暴れ、悩みに悩みまくった。
今の自分の行為を、神さまがご覧になったらどう思うであろうか?
ああ神さまだけじゃない、ちいねえさまに見られたら?
そう思うと、顔から火が出るほどに恥ずかしく、ルイズは自分を呪《のろ》った。
馬車の中で悩みぬいたあと……、ルイズは閃《ひらめ》いたのである。
[#挿絵013]
死んじゃうぐらいに恥ずかしいけど、気持ちいい、ということに。
ああ、他の女の子じゃなく、自分に視線が集中するのがこんなに気持ちがいいなんて思わなかった。するとどうしても、この踊り子衣装に身を包んでいたくなってしまうのである。恥ずかしいけど、妙に勝ち誇った気分が羞恥心《しゅうちしん》を飛ばしてしまう。
「ジロジロ見ないでよね。とにかく。ほんとに他意とか、深い意味とかないんだから。着たくて着てるだけなんだから」
怒ったような声で、ルイズは言った。ほんとはすごく嬉しいのだが、それを認めるのが無性に腹が立つ。なぜかわからないが、腹が立つのである。自分の中のそんな矛盾と闘いながら、ルイズは言葉を続けた。
「あんまりジロジロ見たら、お仕置きだかんね。はあ、なんて生まれてきてはいけない生命体なの? あんたってば」
そんな言葉が、才人《さいと》の自尊心を傷つけたらしい。才人はさらにぐいっと首を横にずらし、完全にルイズから視線をそむけた。
「誰《だれ》が見るか」
しばらく二人は無言で歩いた。そのうちにルイズは、視線が来ないことに業を煮やし始めた。つまらない。
壁にかけられた鏡を見つけたルイズは、そこの前で立ち止まった。
「なんか可愛《かわい》い子がいるわ」
「ほら、行くぞ」
「と思ったらわたしだったわ」
「はいはい」
才人は相変わらず目をそらしたままだった。ルイズはだんだん腹が立ってきた。心の中で、怒りの言葉が回り始める。好きと言ったくせに好きと言ったくせに好きと言ったくせに。
どうして見ないのよどうして見ないのよというか見てよ見とけ見なさいよ見たら怒ってあげるから見なさいよ。
イライラがつのり、ルイズはとうとう奥義《おうぎ》に出た。そっと指を立てて、頬《ほお》の横に添えてみたりし始めたのである。
「いい感じだわ」
「ほ、ほら行くぞ」
才人もそわそわしながら、ルイズを促す。相変わらずそっぽを向いている。ルイズの頭に、カァ―――ッと血が上った。こんなに可愛いわたしが、こんなに可愛いことしてんのにどゆこと。いかんのじゃないの。そうゆうの。プライドが聳《そび》え立つ山脈のように高いルイズは、そりゃもう頭に血が上ってしまった。その結果、ルイズは暴挙に躍り出た。
「む、むむむ、むむ」
「む、がどうしたよ」
「む、むむむむむ、胸の布、ず、ずずず、ずず、ずらしたら、どど、どうなるのかしら。可愛《かわい》いに色気がプラス。無敵ね」
「はぁ!?」
「わたし、無敵なんだから。色気プラスで、使い魔いちころなんだから」
才人《さいと》も、負けず嫌いでは人一倍である。そんな風に言われて、ここでルイズを見たら、勝ち負けでいうところの負けである。したがって右手で思いっきり太ももを捻りあげ、見たい≠ニいう欲望から身を守り始めた。
「む、むむ、胸の布、ずずず、ずらしてみよっかな」
「ずらしてみればいいだろ? だ、誰《だれ》も見ないし。そんなもの」
「あったまきた」
「きてろ」
「ずらすわ」
才人は、太ももを捻り上げる指に力をこめた。痛みで、脂汗が流れた。マジで、流れた。でも見ない。見ないと男が決めた。だから見ない。
ルイズは胸を覆う布に手をかけた。ずらす、と言ったが手が動かない。恥ずかしい。いや、恥ずかしいなんてもんじゃない。死ぬ。頭が羞恥《しゅうち》で茹《ゆ》だって死ぬ。
でもずらす。身分は女王陛下に返上したが、貴族のプライドがかかっている。なんとしてでも、使い魔の視線を主人たる自分に向けさせねばならない。じゃないと気がすまない。
とにかくめちゃくちゃなのだが、頭に血が上ったルイズはそんなことに気づかない。目先のプライドで頭がいっぱいである。
「わぁ〜〜〜〜〜!」
怒鳴って、胸の布をずり下ろした。
才人は驚いた。何が驚いたって、ルイズが叫んだ瞬間、自分の意思をまったく無視して頭が動いたのである。くるっと、そりゃもう見事に頭がルイズの方を向いた。
才人の目に飛び込んできたのは、ずらされた踊り子衣装の胸布、そしてそれにかけられたルイズの指、さすがに咄嗟《とっさ》に思いとどまったのか、真ん中の手前まであらわになったルイズの胸……、というか平原であった。
才人は昆虫並みの反射速度で、ルイズに躍りかかった。そのまま抱きつき、
「ごめん。やっぱダメだったみたい」
我に返ったルイズは、襲いかかってきた才人の頭を掴《つか》み、引き離そうとした。
「ちょ、ちょっとやめ……、やめなさいよ! な、なな、なに考えて……」
才人の熱っぽい目が見える。な、なんて目よ。そんなに夢中になられたら、わたし、わたし……、と、意志とは裏腹にルイズの目が閉じてゆく。
「お、俺《おれ》たち……、トリステインに帰ったら捕まっちゃうかもしれないんだろ?」
「……そ、そうよ」
ぼーっとした頭の中で、ルイズは考えた。もし……、今回の件で自分が牢《ろう》に入れられることになったら?
才人《さいと》には、しばらく会えないかもしれない。
「……そしたらさ、今だけ、だよな? こうやって、二人っきりの時間っていうかさ」
そう言われると……、才人に抱きすくめられているこの時間がかけがえのないもののように感じられた。熱い才人の目と、そんな想《おも》いが、手から抵抗しようとする勢いを奪っていく。
「い、いいの?」
ルイズはもじもじとしながら、唇を尖《とが》らせた。
「そ、そゆこと、き、聞かないでよ。ばか……」
そんな風に恥じらうルイズが激しくいとおしく、また愛らしく、才人は頭が沸騰した。ぎゅーっとルイズを抱きすくめる。
ルイズは心の中で呟《つぶや》いた。
ああ、ご先祖さまごめんなさい。ルイズ・フランソワーズ、仇敵《きゅうてき》フォン・ツェルプストーの屋敷で、どうやら星になりそうです。門をくぐるだけでもアレなのに、まさかこんな場所で、こういうことになろうとは思いもよりませんでした。ご先祖さま、お母さま、姉さま、ちいねえさま、みんなごめんなさい……。
そんな風に激しく頭を茹《ゆ》だらせていると……。
廊下の端に動く、赤い髪が見えた。ルイズの反応は素早かった。才人の股間《こかん》を蹴《け》り上げ、まるでコメツキバッタのように跳ね起きる。
「いつまでも起きてこないから、様子を見に来てみれば」
ギーシュが首を振りながら、顎《あご》に手を置いて悩ましげなポーズをとった。
「あなたたち、人の家で何をしてるの?」
さすがに呆《あき》れた声で、キュルケが言った。
ルイズは口を真一文字に結んで、冷や汗をたらしながら震える。それから一同に背を向けて、
「く、首に虫がついてたから、取ってもらってました」
「なんで胸の布をずらす必要があるの?」
意地悪な笑みを浮かべて、キュルケが尋ねた。ルイズの身体《からだ》が固まった。ゆっくりと床に膝《ひざ》をつき、肩を落とした。
才人は床でぴくぴくと震え続けていた。
キュルケはルイズの横にやってきた。その肩に手を回し、いたずらっぽく呟《つぶや》いた。
「色気たっぷりの仕草だったわよ? あたし、負けるかと思っちゃった」
「ち、違うもん。色気とかそういうの、関係ない仕草だもん。というかずれてたから、直しただけだもん」
ぴくぴくとこめかみを震わせながら、ルイズは必死の言い訳を並べた。
「いいのよ。そんなあなたにプレゼント」
「いらないわよ」
「トリステインからの手紙よ」
一行は緊張した顔で、キュルケの部屋に集まった。
「随分と早いわね」
「きっと、それだけお怒りなのよ。あなたの国の女王さまは」
キュルケが、やれやれと両手を広げて言った。ルイズは、キュルケに渡された手紙を見つめた。上等の羊皮紙で作られた封筒に、トリステイン王国の花押《かおう》が押されている。見慣れた百合《ゆり》の紋……、まごうことなくアンリエッタからの返書である。
この手紙の中に、これからの自分の運命が記されているのだ。アンリエッタは自分をどう裁くつもりだろう?
緊張で手が震える。才人《さいと》も緊張した顔で自分を見つめていた。ギーシュとモンモランシー、マリコルヌも息をのんでルイズの挙動を見守っている。
いつまでも封を破らないルイズに、キュルケが言った。
「ねえルイズ。あなた、そんな手紙ほうっておきなさいよ。トリステインに帰る必要なんかないじゃない。あたしの家で使ってあげるわよ」
「あんた、コルベール先生が心配じゃないの?」
コルベールは、国境付近の宿場町でルイズたちを逃がすために身を挺《てい》したのであった。その後、どうなったのか誰《だれ》も知らない。先にフォン・ツェルプストーに到着していた『オストラント』号の乗組員たちも知らなかった。
「ジャンなら平気よ。きっと、どこかに隠れてるのよ。そのうち連絡がくるわ。まあ万が一捕まってたら、また助けに行くだけの話だわよ」
「だめ。これ以上、他の誰にも迷惑をかけるわけにはいかないわ」
ルイズは深く深呼吸すると、一気に封筒を開いた。中には手紙は一枚きり。そして短く一行、記されていた。その文面を見たルイズは震えだした。
「な、なんだよ! なんて書いてあるんだよ!」
緊張に耐えられなくなった才人が詰め寄った。
「それだけしか書いてないの? というかなんて書いてあるの? 見せなさいよ」
キュルケが、ルイズの手から手紙を取り上げた。
「なになに、ラ・ヴァリエールで待つアンリエッタ≠ら、よかったじゃない。あなたのご実家、すぐ隣じゃない。面倒がなくっていいわね」
とぼけた声でキュルケが言った。ルイズの震えは、極限まで達した。ぽつりと、ルイズは呟《つぶや》いた。
「実家はまずいわ」
「どうして? ご家族に弁護してもらえばいいじゃない」
「弁護どころか、わたし、殺されるわ」
観念したように、ルイズはうなだれた。
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第二章 女王と公爵
トリスタニアの王宮の執務室で、女王は一人悩んでいた。先ほど、ゲルマニアにいるルイズに手紙を出したばかりである。
無事でよかった、とほっとするのと同時に、面倒なことにならなければよいが、という不安も広がっていく。
「今のところ、ガリアは何も言ってこないけれど……」
ふう、と気だるげにため息をつくと、扉がノックされた。
「どなた?」
「私です。陛下」
銃士隊隊長のアニエスであった。
「ああ、いいところにいらしてくださいました。隊長殿」
アンリエッタは立ち上がると、扉を開けた。鉄のような、凛々《りり》しいアニエスが現れ、恭しく女王に礼をする。
「信用できる部下を数名選んで、出かける支度をしてください」
「いつでも支度はできております。陛下は行き先だけをおっしゃってくださればよいのです」
アニエスの武人らしい物言いに、アンリエッタはわずかに微笑を浮かべた。
「では、ラ・ヴァリエールへ。非公式の訪問ですので、馬車もそのように」
「なにやら、お悩み事のようですね」
アニエスは、アンリエッタの疲れたような顔に気づき、部屋を出ずに言葉をかけた。
「ええ。ルイズから手紙がきたの」
「ということは無事、ガリアの姫君を救出できた、ということですね」
「そのようですね。謹《つつし》んでお裁きをお受けします、などと書いてあったわ。あの子、わたくしがどれだけ心配したのか、わかっていないのね」
「お裁きを与えればよいではありませんか」
アンリエッタは黙ってしまった。
「ガリアからの、公式の抗議はあったのですか?」
アンリエッタは首を振った。
「ならば、脱獄と無断越境のみ、罪を問えばよろしいではありませんか。いえ、最近動向が不穏なガリアの、元王族を手元に置いておくことは政治的に悪い話ではありませぬ。勲功といっても差し支えはありますまい。したがって、賞罰なし、というところに落ち着かれては?」
「隊長殿は、お優しいのね」
「陛下は、ラ・ヴァリエール殿とその一行を、お裁きになりたいのですか?」
「友人だからと目こぼしをしたら、皆に示しがつかないではありませんか」
アニエスは、優しい目になって、アンリエッタを見つめた。
「陛下は、無理をしておいでです。身内に目こぼしをしない貴族は、この宮廷のどこを見て回っても、見つけることはかないませぬ」
「だからこそわたくしが、毅然《きぜん》とした態度を見せねばならないのです」
アンリエッタは、少女の潔癖《けっぺき》さを思わせる仕草で、唇を噛《か》んだ。アニエスはすらりと剣を抜いた。
「わたくしは陛下の剣です。ご命令とあらば、この剣でもっていかような働きもしてみせましょう。また、剣であると同時に私は盾でもあります。いざ陛下の御身に危険が降りかかった際には、この身体《からだ》を盾となし、陛下をお守りする所存でございます。しかしいざというとき、この宮廷にいる貴族の、何人が陛下の盾となることができるでしょうか?[#底本「できるしょうか?」修正] いざというときに頼りになるのは、私のような軍人とは別の倫理と理屈で、陛下に忠誠を捧《ささ》げつくすことのできる人物です。何があっても、己の信念を曲げない、鉄の心を持った人物です。そのようなご友人をお持ちであれば、是非とも大切になされるべきです。陛下」
アニエスの言葉に、アンリエッタは唇を噛んだ。指で、服の裾《すそ》をいじり始める。
「しかし陛下のおっしゃるとおり、ただ赦《ゆる》したのでは示しがつきますまい。このようなことで、陛下の鼎《かなえ》の軽重が問われてはつまりませぬ。では、しばらくは無給で、何か雑役を与えてはいかがでしょうか?」
アンリエッタは不安そうに呟《つぶや》いた。
「それで、皆は納得してくれるかしら」
「彼らに匹敵する手柄をあげた貴族が、この宮廷に何人おりますか?」
アンリエッタは黙ってしまった。
「それが皆の答えです」
アニエスは一礼すると、女王の馬車を用意するために執務室を出て行った。一人残されたアンリエッタはルイズからの手紙を見つめた。
それから泣き出しそうな顔になって、
「誰《だれ》も彼も、勝手なことばかりして! 人の気も知らないで! わたくしだけではなく、お父上や、ご家族にもしかってもらいますからね!」
ひとしきり怒りの言葉を吐き出したあと、アンリエッタは手紙を胸に押し当てた。その上、ルイズの家族に話さねばならないことがあって、かなり気が重いのである。
でも、まずは友人の無事を感謝しよう、とアンリエッタは思った。
「無事でよかった。ほんとうによかった。始祖ブリミルよ、わたくしの友人を無事、連れ戻してくれたことに感謝いたします」
執務室の外に出たアニエスは、馬屋に赴《おもむ》き馬車を用意させた。屯所《とんしょ》に向かい、そこにたむろっていた銃士たちから、連れて行く隊員を選出する。副長を呼び、留守中の指示を与える。すべての準備を終えるのに、十分もかからない。愛馬に跨《またが》ると、城門をくぐり外に出た。
そこには深いフードを被《かぶ》った男性がいて、アニエスを待っていた。
男を見つけると、アニエスはそのそばに馬を寄せた。
「今からラ・ヴァリエールに向かう。お前も来い」
「わたしを牢《ろう》に入れるために、城に来たのではないのかね?」
男はフードをずらした。コルベールの一見のん気な顔が、そこから現れる。
「脱獄|幇助《ほうじょ》の件はうやむやになった」
「なぜだね?」
「たった二人の手引きで脱獄が成功したなどと、公にするわけにはいかんのだそうだ」
アニエスはつまらなそうに呟いた。コルベールはすまぬ、といったように頭を下げると、
「ではなぜ、ラ・ヴァリエールへわたしを連れていくのだね?」
「教え子に会いたくはないのか」
そう言われ、コルベールは大きな笑みを浮かべた。
「おお! そうなると、彼らは成功したんだな! よかった! ああ、本当によかった!」
アニエスは部下の銃士を呼び、コルベールの馬を用意させた。それから供の銃士たちを城門の前に整列させ、女王の馬車を待った。
ラ・ヴァリエールの城では、一家勢ぞろいで客の到着を待ちわびていた。ダイニングルームの大きなテーブルの上には豪華な昼餐《ちゅうさん》の料理が並んでいる。しかし、そこにいる誰《だれ》もが料理に手をつけようとはしない。
上座に腰掛けたラ・ヴァリエール公爵は美髯《びぜん》を揺らし、気難しそうな灰色の瞳《ひとみ》を輝かせて、テーブルを叩いた。ばん! と大きな音がしたが、召使も含めてダイニングルームの誰もが動じない。公爵がこのように怒りをあらわにすることは、別に珍しいことではないのであった。
「ルイズの奴《やつ》は、どこまでこのわしに心配をかければ気がすむのだ!」
「お父さまの言うとおりだわ。家族のゆるしなく、戦争に参加したと思えば、勝手に国境を越えてガリアに潜入しただなんて! 戦争になったらどうするの!」
眼鏡《めがね》の奥の鋭い瞳を輝かせて、エレオノールが父の言葉に同意を示した。彼女は知らせを受けて、トリスタニアのアカデミーからとんできたのである。
父と姉の言葉を黙って聞いていたカトレアが、ルイズとお揃《そろ》いの桃髪を揺らして、コロコロと笑った。
「すごいじゃない。ガリアからクラスメイトを救い出すなんて。なんだか英雄|譚《たん》みたいですわね。わたし、自分のことみたいに誇らしいわ」
エレオノールが、じろりとそんなカトレアを睨《にら》みつけた。
「笑ってる場合じゃないでしょう? あなた、いやにあの子の肩を持つけれど、どういうこと? この前、跳ね橋の鎖を錬金で溶かしたのあなたでしょう?」
「さあ、覚えてませんわ」
カトレアはコロコロと笑い続けた。
「いいこと? 今度はあの子、国法を破ったのよ。陛下直々お裁きを下しに、こちらにいらっしゃるんじゃないの。お家取り潰《つぶ》し、なんて事態になったら大変よ!」
「大げさですわ」
カトレアは笑いながら言った。
「大げさじゃないわ。ただでさえ、この前の戦に出兵しなかった件で、王政府からは快く思われていないのよ」
そうである。ラ・ヴァリエール公爵家はこの前のアルビオン戦役で、一兵たりとも兵を送っていない。その結果、莫大《ばくだい》な軍役免除税が課せられることになった。ラ・ヴァリエール公爵家はそれをおとなしく払ったが、出征した貴族の中には、そんな公爵家を『不忠者』とこき下ろす者も存在した。
「別に王家に反旗《はんき》を翻《ひるがえ》したわけじゃないでしょう。それに陛下はルイズの幼馴染《おさななじ》みじゃない。厳しい罰をお与えになるとは思えないわ」
「そんな昔のことを、覚えているわけないじゃないの。おまけにフォン・ツェルプストーから帰ってくるですって? ご先祖様が聞いたらさぞかしお嘆きになるでしょうね!」
それまで黙っていた、三姉妹の母であるラ・ヴァリエール公爵夫人が口を開いた。
「陛下にお裁きを頂く前に、当家で罰を与えればよいのです」
その言葉に、ダイニングルームの空気が凍りついた。厳しかったラ・ヴァリエール公爵の顔に、焦りの色が浮かぶ。
「だ、誰が罰を与えるのだね?」
「そう言った手前、わたくしが与えましょう」
一家の後ろに控えていた、それまで動じなかった召使たちが、わずかに身体《からだ》を震わせ始めた。
エレオノールが珍しく作り笑いを浮かべ、
「な、何も母さま自らお与えにならなくても……、ねえ、カトレア?」
カトレアも、ちょっと困ったような声で、
[#挿絵030]
「わ、わたしもそう思いますわ」
こほんとラ・ヴァリエール公爵が咳《せき》をした。
「なあカリーヌ。娘たちの言うとおりだ。何もお前が自ら……、だろう? ジェローム」
公爵は、そばに控えた執事に同意を求めた。
「あ。いけませぬ。私、用事を思い出しました」
老執事は、慌てて逃げ出した。それが合図で、召使たちはいっせいにダイニングルームを飛び出していってしまった。
ばたんと、ドアが閉まる音と同時に、公爵夫人は立ち上がる。表情はまったく変わらない。ただ、ゆらりとその身体《からだ》から強烈な何かが立ち上る。
「娘の不始末の責任は、教育を施したわたくしにあります。そうですわね? あなた」
ラ・ヴァリエール公爵は、カチカチと震えながら口ひげをいじり始めた。昔を思い出したのである。若く、美しく、そして、峻烈《しゅんれつ》だった自分の妻の過去を……。
「そうだ! わ、わしがきっちりと厳しく言い含めよう! もう二度と、このようなことは……」
その言葉が途中で轟音《ごうおん》にかき消される。パラパラとテーブルの上に埃《ほこり》が舞い落ちる。見ると、ダイニングルームの壁が消失していた。なんとも強力な風の呪文《じゅもん》であった。
杖《つえ》を構えた公爵夫人は、参った、とでも言うように首を振った。
「これ以上、弱く放つのは難しいわね……、まあ、なんとかなるでしょう」
「カ、カリーヌ! だから、ルイズにはわしが……」
じろっと、公爵夫人は夫の顔を睨《にら》んだ。
「だいたいあなたが娘に甘いからこうなるのです! 厳しいのはいつも表面だけではありませんか! 長い間、黙って見ておりましたが、おかげで随分とわがままに育ってしまったようね!」
妻に怒鳴られ、公爵は思わず頭を押さえた。
「ご、ごめんなさい!」
「お家も大事、娘も大事では、通る道理も通りませぬ。この烈風≠ェ、娘に罰を与え、陛下にご覧になっていただきます」
「なあルイズ。お前、どうしたんだよ?」
才人《さいと》は、怪訝《けげん》な顔でルイズを見つめた。ラ・ヴァリエールの領地へ向かう馬車の中、ルイズはずっと震えっぱなしなのである。同時に激しく落ち着きがない。
向かい合った前の座席に腰掛けた、ギーシュとマリコルヌ、そしてモンモランシーも、そんなルイズを不思議そうに見つめていた。
「あなた、熱病にでもかかってるの? 寒いの?」
呆《あき》れた声で、才人《さいと》の隣に座ったキュルケが、気だるげに髪をすいていた手を止めて尋ねた。その隣にはタバサが座っている。キュルケの屋敷に母を残しての、トリステイン行きであった。キュルケは母親と屋敷に残るように勧めたのだが、タバサは頑《かたく》なにこばんだのである。まあ、キュルケの屋敷なら残していっても安心だろうということで、一行はタバサの同行を了承した。そんなタバサの母は、未《いま》だに心を病んだままだ。ただ、前のようにタバサを見て怯《おび》えることはなくなった。
「ねえタバサ、あなたもルイズ、変だと思うでしょ?」
話を振られ、タバサはルイズに視線を移す。珍しく、本を広げていない。アーハンブラ城から逃げ出す際に、ミスコール男爵の部屋から見つけ出した長い杖《つえ》を握り締め、どこか遠くに視線を合わせていた。
タバサはガタガタわなわなと、落ち着きなく震えるルイズを見て、
「怯えてる」
と呟《つぶや》いた。
「アーハンブラ城に乗り込むときより、怖がってるじゃない。そんなに実家に帰るのがイヤなの? 変な子ね」
才人はルイズの実家を思い出した。厳格を鎧《よろい》にして着込んだようなルイズパパ、ラ・ヴァリエール公爵のワシのような眼光……。
ルイズの性格をさらにきつくしたような長姉エレオノール……。
そんな家族に、責められるのが怖いのだろうか?
「でもまあ、取って食われるわけじゃないだろ。こないだ、参戦の許可を貰《もら》いにいくときだって、そんなに怖がってなかっただろ」
「事情が違うわ」
ルイズは、震える声で呟いた。
「事情?」
「こないだは参戦の許可を貰いにいったのよ。規則≠破ったわけじゃないでしょ」
才人は、ルイズの肩をぽんぽんと叩《たた》いた。
「規則というか、法律を破って怒るのは姫さまや王政府だろ? そりゃ、お前の父さんや姉さんも怒るだろうけど。というか俺《おれ》、そういや打ち首とか言われたんだっけ……」
ルイズパパの怒り顔を思い出し、才人は震えた。
「それどころじゃないわ。わたしの家には、規則を破ることが、死ぬほど嫌いなお方がおられるの」
ルイズは両手で自分を抱きしめると、さらにひどく震え始めた。
「な、なんだよ! そんなに怖いのかよ! いったいどっちなんだ? お前の父さんか? それとも、あの姉さんか?」
「か、かかか」
「か?」
「母さまよ」
才人《さいと》は、以前ちらっと見たことのあるルイズの母親を脳裏に蘇《よみがえ》らせた。確かにものすごい高飛車オーラを放っていたが、おとなしく座っていただけだった。そんなに震えるほど怖い人物にも思えない。
「お尻《しり》でも叩《たた》かれんのか?」
そう言ったら、ルイズはとうとうお腹《なか》を押さえてうずくまる。
「ルイズ! ルイズ! なんなんだよ!」
「へええ、ルイズの母君って、そんなに怖いのかい?」
マリコルヌが、惚《とぼ》けた声で言った。
呪詛《じゅそ》の言葉を吐き出すような声で、ルイズが呟《つぶや》く。
「あんたたち……、先代のマンティコア隊隊長、知ってる?」
「知ってるも何も有名人じゃないか! あの烈風<Jリン殿だろ? 常に鉄のマスクで顔の下半分を覆っていたという……。王国始まって以来の、風の使い手だったらしいね。その風魔法は、烈風どころか、荒れ狂う嵐のようだって」
マリコルヌの言葉で、ギーシュも思い出したらしい。
「エスターシュ殿が反乱を起こしたときに、たった一人で鎮圧してのけたという、あの烈風%aだろ? そういや父上が言っていたよ。まだ若かった頃《ころ》の父上が、一個連隊率いて前線のカルダン橋に赴《おもむ》いたら、カリン殿の手ですでに鎮圧されたあとだったってね。あの烈風≠セけは相手にしたくないって、いっつも言っていたな」
口々に、彼らは昔の英雄の話をし始めた。
「一人でドラゴンの群れをやっつけたこともあるんだろ?」
「ゲルマニア軍と国境付近で小競り合いになったとき、烈風殿が出陣した、という噂《うわさ》が立っただけで、敵が逃げ出したらしいよ」
「でも、とっても美しいお方だったって話ね。噂では、男装の麗人《れいじん》とか……」
「まさか。あんなに強い女性がいるもんか……、って、男装?」
モンモランシーの言葉で、ギーシュが青い顔になった。
「も、もしかして、あの烈風<Jリン殿って……」
吐き出すような声で、ルイズが言った。
「母君よ」
馬車の中の一同は、顔を見合わせ、ついで困ったようにルイズに尋ねた。
「うそ」
「ほんとよ。で、当時のマンティコア隊のモットー、知ってる人いる?」
その場の全員が首を振った。さすがに隊のモットーまでは知らなかった。
「鋼鉄の規律≠諱B母さまは、規律違反を何より嫌っているの」
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第三章 烈風カリン
女王の馬車がラ・ヴァリエールの屋敷の跳ね橋を渡ったのは、トリスタニアを出発して二日目の昼のことであった。お忍びの訪問であるので、取り巻きはアニエス以下、大きなフードを被《かぶ》ったコルベールと、銃士が五名のみ。
一行が跳ね橋を渡りきり、城門をくぐると、集まった屋敷中の下僕たちが一斉に礼をした。中庭のポールに、するすると小さなトリステイン王家の百合《ゆり》紋旗が掲げられる。お忍びの女王を迎えるための、ささやかな礼である。
アニエスは馬を下りると、馬車の扉を開けた。
城の本丸へと続く階段の真ん中に魔法衛士隊の制服を見つけ、アニエスは目を細めた。
「どうなさいました? 隊長殿」
アンリエッタは、階段の真ん中に立つ騎士を見つけ、驚いた声をあげた。
「マンティコア隊の衛士ではありませんか」
なるほど、騎士は幻獣マンティコアの大きな刺繍《ししゅう》が縫いこまれた黒いマントを羽織っていた。
「マンティコア隊は、現在城勤めのはずですが。おまけにあの羽根飾り。隊長職の帽子ですぞ」
「しかし、ド・ゼッサール殿にしては、身体《からだ》が細いですわね」
「というかここにおられるはずがありますまい」
ゆっくりと衛士は階段を下りてきた。銃士たちが警戒して、女王の周りを取り囲み、腰の拳銃《けんじゅう》に手をかける。
アニエスは一歩進み出ると、騎士の前に立ちふさがった。騎士の羽根飾りの下の顔は、下半分が鉄の仮面に覆われている。その鋭い眼光に一瞬気圧されそうになり、アニエスは剣の柄《つか》を握り締めた。
「ラ・ヴァリエール公爵ゆかりの者か? 陛下を迎えるというのに、なんとも過ぎた悪ふざけだ。名乗られい」
しかし、騎士はアニエスの言葉に応《こた》えず、膝《ひざ》をつくと深々と礼をした。
「お久しぶりでございます、陛下。とはいっても、私を覚えているはずはありますまい。私がお城に奉公していたのは、それはもう、三十年も昔のことでございますから」
「まあ」
アンリエッタはぽかんと口を開けて、騎士を見つめた。なるほど、そのマントはよくよく見れば随分と色あせ、年月を経《へ》たものであった。しかし、手入れがいいのか、綻《ほころ》びや破れは見当たらない。
「先代マンティコア隊隊長カリーヌ・デジレでございます。とはいっても、当時は仮の名を名乗っておりました。王家に変わらぬ忠誠を」
先代のマンティコア隊長、と聞いて、アンリエッタの顔が綻んだ。
「では、あなたがあの烈風<Jリン殿!?」
「はい。その名をご存知とは、光栄でございます」
「ご存知もなにも、有名ではありませんか! アニエス殿、この方が伝説の魔法衛士隊隊長の烈風<Jリン殿です! 彼女の数々の武勇伝を聞きながら、わたくしは育ったのですわ!」
アンリエッタは、おてんば少女だった頃《ころ》のキラキラした顔に戻り、カリーヌの手を取った。
「わたくし、子供の頃大変あこがれましてよ。火竜山脈での竜退治! オーク鬼に襲われた都市を救った一件……。きらびやかな武功! 山のような勲功! 貴族が貴族らしかった時代の、真の騎士! 数々の騎士が、あなたを尊敬して、競ってまねをしたと聞いております!」
「お恥ずかしい限りです」
「何をおっしゃるの! で、わたくし、そんなあなたの秘密を一つだけ知っておりますのよ! 実は女性、そうよね? 引退後は風のように消えたと聞きましたが、ラ・ヴァリエールにおられたのですね。現在は何をしておられるのですか?」
カリーヌは、すっとマスクを外した。その下の顔を見て、アンリエッタは目を丸くした。
「公爵夫人! 公爵夫人ではありませんか!」
アニエスも驚いた顔になった。
「では、この方が……」
「ラ・ヴァリエール公爵夫人、つまりルイズの母君だったとは……」
「結婚を機に、私は衛士の隊服を脱いだのです。そのときの話は、話せば長くなりますゆえ、ご容赦願います」
「了解しました。でもなぜ……」
なぜ、かつて脱ぎ捨てた隊服を身に纏《まと》っているのだ? と、アンリエッタは尋ねているのであった。
カリーヌは立ち上がった。
「今日の私は、公爵夫人カリーヌ・デジレではございません。鋼鉄の規律を尊ぶ、マンティコア隊隊長カリンでございます。国法を破りし娘に罰を与え、もって当家の陛下への忠誠の証《あかし》とさせていただきます」
「罰ですって! 烈風殿が、ルイズに罰をお与えになるですって!」
アンリエッタは物々しい戦支度のカリーヌを見つめ、首を振った。顔から血の気がひいていく。なにかルイズに罰を与えるつもりではいたが、そんな気持ちが一瞬で萎《しぼ》んでしまう。この人は、わたくしなんかより苛烈《かれつ》な罰をお与えになるに違いない。その上わたくしまで罰を与えたら、きっとルイズは死んでしまうわ!
「乱暴はいけません! わたくしは、その、あのですね、ルイズに罰を与えにやってきたのではありませぬ。わたくしも若いゆえ、当初は憤りもいたしました。しかし、よくよく考えてみたのです。確かにルイズはわたくしの許しなく国境を越えましたが……、それも友人を案じての行為。厳しく注意はするつもりですが、激しい刑罰を与えるつもりはありません」
「陛下のお優しいお言葉、痛み入ります。しかしながら、陛下の王権は始祖により与えられた神聖不可侵のもの。ならばその名において発布された国法もそうあらねばなりませぬ」
カリーヌはさっと右手を上げた。城の天守の陰から、黒い、巨大な影が飛んでくる。着地と同時に激しい砂埃《すなぼこり》が巻き起こる。
老いて巨大な、幻獣マンティコアであった。
「尊ぶべき国法がなおざりにされては、陛下の王道が立ち行きませぬ。それを破りしが、我が娘となれば、なおさら赦《ゆる》すわけには参りません」
カリーヌは五十過ぎとは思えない軽やかな身のこなしで、マンティコアに跨《またが》った。
「カ、カリン殿!」
ぶわッ! と、マンティコアはワシのかたちをした翼を羽ばたかせる。目を見張るようなスピードで、主人を乗せた幻獣は大空に舞い上がった。
ラ・ヴァリエールの城は、王都よりゲルマニアの国境に近い。国境を越えて三時間も行くと、城の高い尖塔《せんとう》が見えてきた。
「な、なあルイズ……。お前の母さんが、そのマンティコア隊の烈風%aだとしてもだよ?」
重苦しい沈黙を破って、才人《さいと》が口を開いた。しかし、ルイズは何も応《こた》えない。その頃《ころ》、ルイズは震えるのを通り越し、ぽかん、と口を開けて天井を見つめていた。
「三十年も経てば、人間も変わるだろ? な? 確かに昔は怖い怖い騎士さまだったかもしれないけど、今はいい年なんだから、そんな無茶《むちゃ》しないよ。罰っていったって、せいぜい納屋に閉じ込めるぐらいだよ」
「……あんたは、わかってないわ」
臨終の床の重病患者のように、ルイズは言った。
「若い頃の激しさを、維持できる人間なんてそうそういないわよ」
モンモランシーが、わかったようなことを呟《つぶや》く。
「……あんたたち、わかってないわ」
「そんなに心配するなよ」
「……わかりやすくいうと、わたしの母よ。あの人」
その言葉に、馬車の中の全員が緊張した。才人はその空気に耐えられなくなり、大声で笑った。空元気である。
「あっはっは! そんなに心配するなって!」
「そうそう! いくら伝説の烈風殿だって、いまじゃ公爵夫人じゃないか! 雅《みやび》な社交界で、戦場の垢《あか》や埃《ほこり》もすっかり抜け落ちてしまったに違いないよ!」
そのとき、窓の外を指差して、タバサがぽつりと呟いた。
「マンティコアに跨《またが》った騎士がいる」
ルイズは跳ね起きると、パニックに陥ったのか、馬車の窓を突き破って外に逃げ出した。
ゴォオオオオオオオオオオオッ!
その瞬間、巨大な竜巻が現れ、逃げ出したルイズを絡めとる。
「な、なんだあれ」
才人が唖然《あぜん》とした次の瞬間……、竜巻は大きく膨れ上がり、馬車全体を包み込んだ。激しい勢いで、馬と馬車を繋《つな》ぐハーネスが吹き飛び、逃げる間もなく馬車は地上に馬を残して空へと跳ね上がった。
「なんだこりゃあああああああ!」
才人《さいと》が怒鳴る。
「ぎぃやああああああああああ!」
ギーシュが絶叫する。
「うわぁああああああああああ!」
マリコルヌが叫ぶ。
「いやぁあああああああああああああああ!」
モンモランシーが喚《わめ》く。
「参ったわねぇ……」
キュルケがぼやく。
「…………」
タバサは無言だった。
馬車はまるで、巨人の手に掴《つか》まれたかのように空中で翻弄《ほんろう》された。馬車の中の六人は、まるでシェーカーに入れられたカクテルだった。
「あいだッ! でッ! ぎゃッ!」
壁に、座席に、お互いにぶつかり合い、六人は悲鳴をあげ続ける。竜巻は唐突に止《や》み、馬車は空中から地面へと落下する。
「落ちる! 落ちる! 落ちる!」
ワイヤーの切れたエレベーターの中にいたら、こんな気持ちになるのだろうか? と、才人がアホなことを考えていると、ふわりと馬車が浮かぶ。
騎士がレビテーション≠かけたのだ。
ゆっくりと馬車は地面に着地したが、散々にシェイクされた一行は、馬車の中でぐったりと横たわる。
才人は必死の思いで、馬車から這《は》い出た。ルイズは、フラフラと地面に落ちてくるところであった。
「ル〜イ〜ズ〜!」
叫んで駆け寄ろうとしたが、目が回ってうまく動けない。そこにゆっくりと、幻獣に跨《またが》った黒いマントの騎士が現れた。彼女が例のルイズママであろうか。しかし、怖い。
そこに立っていたのは、厳しい≠ニいう言葉をよくこねて、鋳型《いがた》に納め、恐怖≠ニいう炎で焼き固めた騎士人形であった。
倒れたルイズの横に立ち、娘に呼びかける。
「起きなさい。ルイズ」
ルイズはがばっと身を起こすと、
「母さま……」
と、呟《つぶや》き、ガタガタと熱病にかかったように激しく震え始めた。まるで、シェパードに凄《すご》まれる小型犬のようであった。ルイズも怒ると怖いが、纏《まと》う恐怖オーラは、熊《くま》とネズミほども違う。
「あなた。何をどう破ったのか、母さまに報告しなさい」
「その……、む、無断で国境を、その」
「聞こえませんよ」
「む、無断で国境を」
竜巻が飛んだ。ルイズは一瞬で上空二百メイル近く放《ほう》り投げられ、ちっぽけな落ち葉のようにくるくると回転しながら落ちてきた。
「母はあなたに、どのような教育を施しましたか?」
桃色の髪はボサボサになり、スカートがどこかに吹っ飛んで下着が丸見えになっていたが、恥じらう余裕さえルイズは失っていた。
「こ、国法を破ったことは深くお詫び申し上げます! でも、事情があったのです!」
騎士は杖《つえ》を振った。
「多少手柄を立てたからといって、調子にのってはいけません。事情があろうがなかろうが、国法を破ってよいわけがないでしょう。結果として、それはさらに多数の人間を不幸にしてしまう可能性を秘めるのです」
暴風が吹き荒れ、ルイズをもみくちゃにした。
才人《さいと》は見てられなくなり、ルイズの前に飛び出した。
「や、やめてください!」
「あなたは?」
黒いマントを羽織り、鉄の仮面で顔の下半分を覆ったカリーヌが才人に尋ねた。
「えっと……、その、ルイズの使い魔です」
「ああ」
と、カリーヌは頷《うなず》いた。
「あなたはこの前、ルイズの供をしていた少年ですね。そう、あなたが使い魔だったの」
才人はボロボロになったルイズを抱え起こした。
「おい! 大丈夫か? 生きてるか?」
「ふにゃ……、もう、だめ……、ふにゃ」
ルイズはヘロヘロで、うまく呂律《ろれつ》も回っていない。無理もない。巨大な洗濯機の中にぶち込まれて、洗濯、すすぎ、脱水、を食らったようなものだ。天下の美少女も、こうなってしまっては台無しである。
カリーヌはさらに杖を構えた。
「ちょ、ちょっと! もういいじゃないですか! ルイズはもうボロボロですよ!」
そんな才人に、ギーシュたちが声をかける。
「やめとけ、サイト。家族間の問題だ。というかお前、命が惜しくないのか?」
カリーヌはじっと才人《さいと》を見つめた。
「使い魔ということは、主人の盾も同然。盾を吹き飛ばすのは、これも道理。恨んではなりませんよ?」
巨大な竜巻がカリーヌの背後に現れる。先ほど、馬車を包み込んだものと同じぐらいの規模だ。才人はデルフリンガーを握り締める。左手のルーンが光る。
「なあデルフ」
「あんだね?」
「あれ、やばい?」
巨大な竜巻をさして、才人が呟《つぶや》く。
「やばいね。ただの竜巻じゃねえ。間に真空の層が挟まってて、触れると切れる。恐ろしいスクウェアスペル……」
解説を聞いている暇はなかった。
自分めがけて飛んできたそれを、咄嗟《とっさ》に才人は剣を使って受けきろうとした。
「やめろ! 逃げろ!」
デルフリンガーが叫んだが、間に合わない。才人の身体《からだ》は無数のカミソリによって傷つけられたかのように、切り傷が走る。
[#挿絵051]
「い、いてぇええええええええ!」
「言っただろうが! こいつはカッター・トルネード≠セよ! 俺《おれ》が吸い込む前に、お前さんの身体《からだ》がもたねえんだって!」
才人《さいと》は血だらけになったが、それでも踏みとどまる。
恐怖と、混乱で麻痺《まひ》していたルイズの目に飛び込んできたのは、ボロボロになった才人であった。恐怖で真っ白に染まっていた心が、突然燃え上がった火のような怒りで覆い尽くされていく。いつものルイズなら、母に反抗することなどありえない。そういう風にしつけられ、そう育ってきた。
気づくとルイズは杖《つえ》を構え、虚無≠フルーンを唱えていた。
そのルーンの調べがカリーヌの耳に届き、彼女はわずかに眉《まゆ》をひそめる。聞いたことのないルーンだ。火でもない。水でも、風でもない。ましてや土でもない。
ルイズは杖を振り下ろした。才人を巻き込んで、荒れ狂っていた竜巻カッター・トルネード≠ェ光り輝いた。
カリーヌは、見慣れぬ光に一瞬たじろいだ。
娘が唱えた呪文《じゅもん》は、いったいなんなのだ?
詠唱の時間は短かったが、手加減されたスペルを解除するのには十分だった。ルイズのディスペルが、母の放ったカッター・トルネードを消し飛ばす……。
あっけにとられたカリーヌが再び呪文を唱えようとしたとき、後ろから抱きすくめられた。
「おやめください! もう、結構です! おやめください!」
ラ・ヴァリエールの城から、馬で駆けつけてきたアンリエッタであった。後ろにはアニエスも見える。
「これ以上、わたくしの前で争うことは赦《ゆる》しませぬ! しかもあなたがたは、親子ではありませんか! 続きがしたければ、わたくしに杖をお向けなさい!」
女王のその言葉で、ようやくカリーヌは杖を収めた。気力体力、共に限界だったルイズも、どう! と地面に倒れこむ。
アンリエッタは、倒れた才人に駆け寄った。
「ひどい怪我《けが》!」
慌てて水魔法の呪文を唱える。才人の怪我が、女王自らの|ヒー《治》リ|ング《癒》≠ナ癒《いや》されていく。血だらけの顔で、才人は呟《つぶや》いた。
「姫さま……」
「しゃべってはいけません! ひどい怪我です!」
アンリエッタは水魔法を続けざまに唱えた。
「ルイズは……」
ぴくん、とアンリエッタの頬《ほお》が震えた。
「大丈夫です。おともだちが介抱していますわ」
馬車の中から飛び出してきたモンモランシーが、ルイズの傷を治療していた。
「そっすか……」と呟《つぶや》くと、才人《さいと》は気絶した。
介抱するアンリエッタの隣に、カリーヌが深々と膝《ひざ》をつく。
「女王陛下、罪深き娘にはこのように罰を与えました。これ以上のお裁きは、この私めにお与えくださいますよう」
アンリエッタは大きくため息をつくと、
「もう! なんなのですか! あなたたちは! 親子で杖《つえ》を交わすなど、神と始祖ブリミルがお嘆きになりますよ! 最初からわたくしは、罰を与えるつもりはない、と言っているではありませんか!」
「杖をもって解決するのが、我ら古い貴族のやり方と申すもの」
「わたくしは無駄な血が流れるのが、何より嫌いなのです! そこのあなたたち! 早く怪我《けが》をした二人をお屋敷に運びなさい!」
アンリエッタの言葉で、ギーシュたちはルイズと才人にレビテーション≠かけ、屋敷に運び始めた。
[#改ページ]
第四章 ラ・ヴァリエールの家族
「今、虚無≠ニ言われましたか?」
その夜……、ラ・ヴァリエール家の居間では女王を囲み、秘密の告白が行われていた。暖炉のそばには、ラ・ヴァリエール公爵が椅子《いす》に座り、言葉少なく燃え盛る炎を見つめていた。父を挟んで、二人の姉が神妙な面持ちで話に聞き入っている。
先ほど衛士の服に身を包み、散々に暴れたカリーヌ・デジレは、公爵夫人の装いに戻っていた。そうすると鋭い目以外は、烈風≠ニ恐れられた騎士の面影はどこかに消えてしまった。なんとも素早い変わり身である。
ルイズと才人の友人たち……、ギーシュやキュルケたちは、別室で休んでいる。席を外して欲しい、とアンリエッタに言われたためだ。
さて、ルイズと才人は並んでソファに腰掛け、気まずそうに指をいじっている。カリーヌの風魔法で散々に切り裂かれた才人の身体《からだ》には、ところどころ包帯が巻かれている。アンリエッタの水魔法でも、完全に治すことはできなかったのだ。
上座に腰掛けたアンリエッタは、大きく頷《うなず》いた。
「そうです。ルイズの目覚めた系統は、あの伝説の系統……、虚無≠ネのです」
ラ・ヴァリエール公爵は、しばらく口ひげをいじっていたが、おもむろに立ち上がると、娘に近づいた。
それから優しく、ルイズの頭を撫《な》でる。
「そのような御伽噺《おとぎばなし》、どうにも信じられませぬな。虚無≠ヘ歴史の彼方《かなた》に消えた系統。信心深い神学者どもは、存在する≠ネどと言い張っておるが……」
カリーヌは、鋭い目を光らせて、小さく呟《つぶや》いた。
「わたくしは信じますわ」
「カリーヌ」
「先ほどのわたくしのスペルを、打ち消したルイズの呪文《じゅもん》……。見たこともないような輝きを放っておりましたもの。あれが虚無≠ネのね? ルイズ」
ルイズは頷《うなず》いた。
「そうです。母上」
「ふむ……」
ラ・ヴァリエール公爵は黙りこくる。エレオノールが、額に手をやり床に倒れてしまった。
「虚無……、虚無ですって? 信じられませんわ……」
カトレアが立ち上がり、そんな姉を介抱し始めた。
アンリエッタは言葉を続けた。
「信じられぬのは、わたくしも同じでした。しかし、これは事実なのです。虚無≠ヘ蘇《よみがえ》り、またその担い手はルイズだけではありません」
一家は、再び沈黙に包まれた。
永遠に思われるような沈黙であった。
ラ・ヴァリエール公爵が、その沈黙を破った。
「陛下の訪問の意図をお聞かせ願いたい」
意を決したように深呼吸すると、アンリエッタはまっすぐにラ・ヴァリエール公爵を見つめた。
「わたくしに、ルイズをお預けください」
「私の娘です。陛下に身も心も捧《ささ》げておりまする」
「そのような建前ではありません」
アンリエッタはアニエスを促した。アニエスは頷くと、傍らの大きな革鞄《かわかばん》をあけ、黒いマントを取り出した。その紫の裏地に記された百合《ゆり》紋の形を見て、ラ・ヴァリエール公爵は目を大きく見開いた。
「それは王家の紋……、マリアンヌ様がお若い頃《ころ》に着用に及ばれたマントではありませんか!」
「ルイズ、あなたに無断で国境を越えて、ガリアに侵入した罰を与えます」
「は、はいっ!」
「これを着用なさい」
「で、でも、これは……」
「ええ。これを着用するということは、あなたはわたくしの姉妹ということになりますわね。つまり、第二位の王位継承権が発生するということ」
「お、おお、恐れ多いですわ。というか恐れ多いというものでは……」
「あなたと、あなたが持つ力は大きすぎるのです。その肩には、常に巨大な責任と、祖国への義務が乗っていることを、二度と忘れないようにするための処置です」
厳しい目で、アンリエッタはルイズを見つめた。フラフラと、蛇に飲まれた蛙《かえる》のように、ルイズはそれを受け取った。
とんでもないルイズの出世を見守っていたラ・ヴァリエール公爵が、口を開いた。
「陛下、娘への分を越えた厚遇、感謝いたします。いや、どれほど感謝しても、これほどの厚遇に報いることはできないでしょう。しかし、私は陛下にお尋ねせねばなりません」
「なんなりと」
「娘の、その伝説の力を使って、陛下は何をなさるおつもりですか? なるほど、虚無≠ヘ伝説。先ほど、カリーヌの魔法を消滅させた手際からして、その威力はかなり強力なのでしょう。この前の戦役のように、他国との戦にお使いになられるのですかな?」
「そのたびのことは……、深く反省いたしました」
「我が娘は大砲や火矢ではありませぬ。陛下が娘に対してなんらかの勘違いをなさっておられるのならば……」
「ならば?」
「我らは悲しいことに、長年仕えた歴史を捨て、王政府と杖《つえ》を交えねばなりませぬ」
公爵としてではなく、娘を思いやる父としての言葉であった。そんな姿に、才人《さいと》は胸がじーんとするのを覚えた。
公爵のその言葉に、アニエスが咄嗟《とっさ》に剣を引き抜こうとした。アンリエッタはそれを押しとどめた。
「ではわたくしから、公爵に質問がございます。この国の品位と礼節と知性の守護者たる、旧《ふる》い貴族のあなたに質問がございます」
「なんなりと」
「どうして戦いは起こるのでしょうか? 英知を兼ね、万物の霊長として君臨し、あらゆる幻獣や亜人より秀でたはずの我らは、なにゆえ、同族で争いを重ねるのでしょうか?」
「…………」
「幾度となく、戦いが起こりました。大事な人々が傷つき、死ぬところもこの目で見てまいりました。このわたくしも、復讐《ふくしゅう》に狂い、戦いを引き起こしました。その結果、わたくしだけではなく、大勢の人が、大事な人間を……、親を、子を、兄弟を、友人を失いました。わたくしは、背負いきれぬ罪を負ったのでございます」
「……戦は陛下だけのこ責任ではございますまい」
「いえ、わたくしの名の下に、皆戦い、傷つき、命を落としました。わたくしが背負わずに、誰《だれ》が背負うというのでしょうか」
アンリエッタは深々と頭《こうべ》をたれた。
「わたくしは……、ルイズの力を……、何か正しいことに使いたいのです。ならばどうすればよいのか、今のわたくしには未《いま》だわかりませぬ。ただ、争いに用いるつもりはありません。それだけは信じてください。公爵」
「恐れながら陛下、争いに用いるつもりがなくとも、いずれ用いねばならぬときもあるでしょう。いや、強い力は人を惹《ひ》きつけます」
「公爵のおっしゃるとおりです。……今また、他国が暗躍しています。強い力を欲して、我らに手を伸ばそうとしている輩《やから》がいるのです。手元に置いておきたい、というのはそういった連中から、ルイズを守るためでもあるのです」
「私の不安は、まさにそこにあるのです。強い力を欲する敵がいる。では、陛下がそうならぬ、と誰が言えるでしょうか? 今、陛下のご決心のお言葉を頂きましたが、それが変わらぬという保証はどこにもありますまい。なにか、陛下のご決心を証明できうるものがございますかな?」
アンリエッタは困ったように目を伏せた。しばらく、何かよい方法はないかと考えあぐねたあと、ため息混じりに呟《つぶや》いた。
「ありませぬ。正直申し上げて、わたくしは己がうまく信じられませぬ。したがって、証明のしようなど、ございませぬ」
それからアンリエッタは、にっこりと微笑《ほほえ》んだ。屈託のない、見た者の心を打たざるを得ない、心からの笑みであった。
「ですからわたくしは……、心から信用できる友人を、そばに置きたいのかもしれませぬ。わたくしの間違いを糾《ただ》すことのできる、真の友人を。わたくしが道を踏み外したときには、遠慮なく杖《つえ》を向けることのできる、友人を……」
老公爵はアンリエッタを見つめた。しばらくその目を覗《のぞ》き込んだあと、ルイズに視線を戻した。
「いつかお前は、父にこう言ったね? 『目覚めた系統は火』だと。では、あれは嘘《うそ》だったのだね?」
恥ずかしそうに、ルイズは俯《うつむ》いた。
「申し訳ございません。父さま」
「よいかねルイズ。父に嘘《うそ》をつくのは、あれが最初で最後にしておくれ」
公爵は、次にアンリエッタに向き直った。
「私は旧《ふる》い貴族です。時代遅れの年寄りでございます。私の若い頃《ころ》は、多少、物事が単純でございました。名誉と誇りと忠誠、それだけを守れば、誰にも後ろ指をさされる心配はなかったのです。しかし……、今は時代が違うのでしょう。強い、伝説の力が蘇《よみがえ》った今、旧い正義、旧い価値観……、そういったものは意味を失っていくのでしょう」
娘を見る目で、公爵はアンリエッタを見つめた。
「陛下は先ほどこう言われた。己が信じられぬ≠ニ。そのお疑いの心が……、見えぬ未来へと漕《こ》ぎ出す、何よりの指針となってくれましょう」
「父さま」
ルイズが駆け寄り、父に抱きついた。
「大きくなったねルイズ。私のルイズ。この父親は、いつまでも甘えが抜けない娘だと思っていたよ。だが、とっくにお前は巣立っていたのだね」
父は優しく、娘の頭を撫《な》でた。
「父からの餞《はなむけ》だ。お間違いを指摘するのも忠義だ。そして……、間違いを認めることが、本当の勇気だよ。ルイズ、忘れてはいけないよ。私の小さなルイズ」
「……父さま」
「つらいことがあったら、いつでも帰っておいで。ここはお前の家なのだからね」
公爵はルイズの額に接吻《せっぷん》すると、ルイズの身体《からだ》をそっと離した。そして、アンリエッタに深々と頭を下げた。
「ふつつかな娘でありますが、お手伝いをさせてやってください。あなたの歩まれる王道に、始祖のご加護がありますように」
しばしの沈黙が流れたあと……、公爵夫人カリーヌが、ぽんぽんと手を打った。
「カリーヌ」
「難しい話は終わったようですわね。遅くなりましたが、夕餉《ゆうげ》にいたしましょう。遠路はるばるいらしてくださった陛下をおもてなしするにはつたない席ですが、どうか列席くださいますよう。ルイズ、あなたはお友達を呼んでいらっしゃいな。カトレア、エレオノール、ホストをよろしくお願いしますよ」
かつての武人っぷりを偲《しの》ばせる、きびきびとした歩みで、カリーヌは退室していった。そのあとを追って、姉たち二人が退出する。ルイズも、ギーシュたちを呼びに部屋を出て行った。
才人《さいと》も行こうとすると、アンリエッタに呼び止められた。
「……姫さま」
アンリエッタは一瞬顔を曇《くも》らせたが、無理やり浮かべたような微笑をしてみせた。
「ご無事でなによりですわ」
才人《さいと》は頬《ほお》を染めて俯《うつむ》いた。
「いえ……、申し訳ありません。勝手なことをしてしまいまして」
「勇気ある殿方というものは、野生の鷹《たか》や馬のようですわ。行くな≠ニ言っても、行ってしまうのですから」
アンリエッタは、アニエスから受け取ったマントを、才人に手渡した。シュヴァリエの紋が縫いこまれた、騎士用のマントであった。
「お返しします。女王が一度渡したものです。返却はまかりなりません」
「でも……」
才人は口ごもった。
「これはあなたを縛る鎖ではないのです。その羽ばたきを助ける翼です。羽織って損はないはずです」
アンリエッタにそうまで言われてはしかたない。才人は頷《うなず》くとマントを受け取った。
マントを羽織った才人を、嬉《うれ》しそうにアンリエッタは見つめた。
その目に、才人はちょっと驚いた。
最近才人に見せる、甘えるような、熱っぽいような、そんな色が消えていた。
その代わり、ほんの少しの寂しさと……、その寂しさが裏打つ決心のようなものが見て取れた。アンリエッタは才人の耳元に口を寄せると、小さく呟《つぶや》いた。
「ご安心を。もう、女王としての顔しか、見せませぬ」
「え?」
すっと、アンリエッタは左手を伸ばす。いつかのように間違えはしない。才人は軽く緊張しながらその手を取ると、その甲に口をつけた。
満足したようにアンリエッタは微笑《ほほえ》むと、部屋を出て行った。
影のように、アニエスが付き従う。
先ほどのアンリエッタの言葉はどういう意味だろう、と反芻《はんすう》する。なんだかよくわからないけど、自分はフラれたようだ。いや、恋にもなんにもなってなかった。だから違う。ちょっと違う。
やっぱり彼女は、ちょっと寂しかっただけなんだ。だから、あんな風に俺《おれ》に甘えた。でももう、大丈夫。さっきの言葉は、そんな風な意味なんだろうか。
少し寂しかったが、そんなアンリエッタは凛々《りり》しく眩《まぶ》しかった。
才人も退出しようとすると、最後まで残っていたラ・ヴァリエール公爵に呼び止められる。
「待ちたまえ」
びくん! と才人は震えた。ついで背筋に、寒気が襲ってくる。なんだか嫌な予感がしてならない。
脳裏に、この前の中庭での出来事が蘇《よみがえ》る。小舟の中で、ルイズを押し倒しているところを見られてしまい、自分は打ち首を仰《おお》せつかってしまった。
ルイズパパみたいに、身分の高い人はいちいち平民の顔など覚えていないものだ。
しかし、事情が事情である。あのときの光景は脳裏に焼きついていただろう。ルイズママ、カリーヌだって自分のことを覚えていたじゃないか。
「そういえば、きみの名前を聞いていなかったな」
「サ、サイトです。サイト・シュヴァリエ・ド・ヒラガと申します」
才人《さいと》は、爵位がついた名前を言った。そっちの方が怪しまれないと思ったのだ。
「初対面だな」
ラ・ヴァリエール公爵のその言葉で、才人は心の中、思いっきり安堵《あんど》のため息をついた。
よかった。殺されないですんだ。し、始祖ブリミルさま、ありがとうございます……、と才人は信じてもいない始祖に深い感謝を捧《ささ》げた。
「ああ。シュヴァリエになってからは、初対面だな」
一瞬で才人は、天国から地獄へと突き落とされる。ラ・ヴァリエール公爵は、才人の肩に手を置いた。
「なに、安心したまえ。陛下の近衛《このえ》騎士のきみを、打ち首にするわけにはいかんからな」
「あ、ありがとうございます!」
「しかし、夕食の前に軽く稽古《けいこ》をつけるぐらいはかまわんだろう?」
初老の男性とは思えない力で、公爵は才人の肩を握り締めた。
「いだ! あいだだだだ!」
「誰《だれ》の娘に狼籍《ろうぜき》を働いたのか、きっちり身体《からだ》に覚えてもらわねばならんからな」
ずるずると才人は、公爵に引きずられていった。
晩餐《ばんさん》会室で行われたその日の夕餉《ゆうげ》は話も弾《はず》み、楽しいものとなった。アニエスに連れられてやってきたコルベールと再会も果たした。おまけに、アンリエッタからお咎《とが》めなし、ということを聞いてギーシュたちは顔を輝かせ、大騒ぎに興じている。
しかし……、晩餐会も終わり、寝る段になっても才人は姿を現さない。
「そういえば、サイトくんはどうしたのかね?」
コルベールが尋ねたが、部屋の全員が首を振る。
「どこに行ったのかしらね」と、キュルケが呟《つぶや》いた。
皆が心配する中、才人がどこにいたのかというと、廊下で死んでいた。
「あ、歩けねえ……」
廊下にぐったりと横たわり、才人はため息をついた。昼間はルイズママ、そして夜はラ・ヴァリエール公爵に散々に痛めつけられ、身体《からだ》が悲鳴をあげている。
ルイズママの魔法もすごかったが、年寄りに見えたラ・ヴァリエール公爵もすごかった。目を燗々《らんらん》と怒りに輝かせ、震える才人《さいと》を数多の魔法でコテンパンにしてのけたのである。
娘を押し倒された父の目というのは、ものすごく、才人はまったく身動きできず、一方的にボコられたのである。組み手というよりは射的であった。もちろん、才人が的の……。
「……しっかし、なんちゅう親子だよ」
よろよろと立ち上がろうとして、ぐでッ! と倒れる。
「みんな今頃《いまごろ》、うまいもの食って楽しくやってるんだろうなぁ……」
壁を背にして、才人はへたり込んだ。窓の外には、双《ふた》つの月が見える。
しかし……、なんだかんだいって、ルイズは両親に愛されているんだな。一見、厳しいように見えるが……。
ルイズの母親だって、ひどい罰をルイズに与えたくないから、ひどい怪我《けが》にならない程度にルイズを痛めつけ、アンリエッタに『これで赦《ゆる》してくれ』なんて言ったんだろう。
ルイズの父だってそうだ。公爵家という身分を捨ててでも、ルイズを守ろうとした。
「俺は、もちろん、誰にもそんな風にかばってもらえないけどな」
身体についた傷を見ながら、才人はぼやいた。
「両親か……」
才人は、一年以上も会っていない、両親のことを思い出した。
いつだか、そんな風に自分をかばってくれたことがあった。あれは確か小学生の頃《ころ》ではなかったか。ある日いきなり、通学路が設定された。家から学校までの決められたルート、そこの道しか通ってはいけない、なんて決まりができたのである。つまりは寄り道を禁止するためだったのだが、才人はある日、違う道を通って、寄り道して帰ってきてしまった。いつもの文房具店に、いつも使っている消しゴムが売ってなかったからである。決められた通学路を通らなかった才人を見かけたクラスメイトがいて、先生に告げ口した。
才人は、先生に怒られた。
そのことを両親に話すと、「それはおかしい、お前は悪くない」と言ってくれた。
勉強しなさい、とばっかり言っていた母。無口なサラリーマンの父。どこにでもあるような、ごくごく普通の家庭……。
気づくと、才人は涙を流していた。
「あれ?」
変だな、と思って目をこする。
今まで、両親を想《おも》って泣いたことなどなかったのに……。
ルイズと、両親のやり取りを見て、何か思い出してしまったんだろうか?
しかし、こんな泣き顔を、ルイズや皆に見せるわけにはいかない。
暗い廊下で一人、才人《さいと》は膝《ひざ》を抱えてうずくまった。
「何をしてるの?」
澄んだ、優しい声が響いて、才人は跳び上がった。
ルイズは自分の部屋で、髪をとかしていた。
物心ついてから魔法学院に入学するまで、ずっと育った部屋である。十二メイル四方の、大きな部屋であった。天蓋《てんがい》のついた大きなベッドが、窓から少し離れた場所に置いてある。その上には、山のようにぬいぐるみが積まれている。豪華な彫刻が施された木馬に、大量の絵本。欲しい、と言ったものは、とりあえず買い与えられた自分……。
この部屋に住んでいた頃《ころ》は、早くこの屋敷を出たくてたまらなかった。母は教育に厳しく、自分たちの嫁《とつ》ぎ先のことしか考えていないように思われたし、父は近隣の付き合いと、狩猟《しゅりょう》にしか興味がないように見えた。
そして二人には、魔法の勉強をしろ、としか言われなかったような気がする。魔法ができない女の子は、きちんとしたところに嫁ぐことはできませんよ、と厳しく言われ、毎日が牢獄《ろうごく》のように感じていた。
でも、両親やこの屋敷は牢獄なんかじゃなく、自分を守る城だったのだ。目に見えない愛情で、自分は深く大事に守られていたのであった。
ベッドを見つめた。
「……小さくなったのかしら」
いや、そうじゃない。幼い頃、とても大きく感じられたあのベッドが、今小さく見えるのは自分が成長したからだ。
そんな小さく見える家具たちを懐かしく感じるのは、自分が多少、成長したからなんだろうか?
いや、とルイズは首を振る。
わたし、全然成長なんかしてないわ。
髪をブラシでとかしながら……、ルイズは深く反省をし始めた。
皆……、自分のことを心配してくれている。母も父も、アンリエッタも……。
それなのに自分は、勝手なことばかり繰り返している。
ふう、と可愛《かわい》らしくため息をついてルイズは首をかしげ、鏡の中の自分を見つめた。
「ねえルイズ。ゼロのルイズ。あなた、ほんとに伝説≠チて器じゃないわね」
そう自分に話しかけた。
ぺたん、と鏡台に頬《ほお》をのせて、ルイズは目をつむる。
「わたし……、これからどうすればいいのかしら……」
脳裏に、ガリアに赴《おもむ》く前にアンリエッタに切った啖呵《たんか》を思い出す。
『己の信じる筋≠通す……。見失いつつあった、わたしの貴族としての魂の在《あ》り処《か》は、そこにあると存じます』
まあね、とルイズは悩んだ。
己の信じる筋を通すのはかまわない。立派なことだろう。でも、それによって迷惑を被《こうむ》る人たちが発生したら? その数は少なくないはずだ。なぜなら、自分の持つ力虚無≠ヘ、大きすぎるからだ。自分が貫いた正義によって、傷つく人々が発生する。そんな可能性だってあるのだ。
自分がただの、普通の四系統の使い手だったら、こんなに悩みはしなかった……。
「本当に、どうすればいいのかしら……」
悩ましげにルイズは呟《つぶや》いた。すると脳裏に才人《さいと》の顔が浮かぶ。わたしがこんなに悩んでいるというのに、あのバカは何をしているんだろう? まだ寝ているのかしら? 夕餉《ゆうげ》の席にも、結局出席しなかった。遅れてやってきた父に尋ねたら、疲れたから寝るそうだ、と言ったきり、黙ってしまった。
ガリアに向かってからこっち、ずっと皆といっしょだったから二人っきりの時間がなかなか持てなかった。話したいことがたくさんあるような、そんな気がした。でも、目まぐるしく変わる状況が、自分たちにそんな時間を許さない。
「わたしのことが好きなら、こんな風に放《ほう》っておくなんてこと、しないでよね」
つまらなそうにルイズは言った。
でも、この屋敷にいる限り、この部屋にやってくることは難しいだろう。なにせ才人は、自分を押し倒すところをこの屋敷の全員に見られているのだ。
「……まったく、あのバカってば、間が悪いというか、本当に気がきかないんだから」
唇を尖《とが》らせ、ルイズは呟く。
ドアがノックされたのは、そのときだった。
「誰《だれ》?」
一瞬、才人かと思って胸をときめかせた。
「わたくしよ。ルイズ」
「姫さま」
アンリエッタの声であった。ルイズは慌てて駆け寄り、ドアを開いた。簡素な部屋着に着替えたアンリエッタが立って、微笑を浮かべている。
深々とルイズは頭を下げた。
「どうしたの? ルイズ」
「いえ……、姫さまにおかれましては、その、大変なご迷惑を……」
ふぅ、とアンリエッタはため息をついた。
「いいのよルイズ。もういいの。わたくしたちは対立したけれど、みんな無事だったわ。だからもういいの。あなたはあなたの筋を通しただけ。わたくしも、わたくしの筋を通さねばならなかっただけ」
「……姫さま」
「仲直りしましょ。ね?」
にっこりとアンリエッタは微笑《ほほえ》んだ。ルイズは思わず涙ぐみ、アンリエッタに抱きついた。
痛くて動けず、廊下にうずくまっていた才人《さいと》の前に現れたのは……、
「カ、カトレアさん」
ルイズと同じ桃色がかった金髪が眩《まぶ》しい、カトレアであった。ラ・ヴァリエール三姉妹の次女である彼女は、包み込むような、ほんのりとした色気を持った美女である。ルイズから険しさを抜いて成長させたら、こんな感じになるんじゃないだろうか、と思わせるスタイルと雰囲気を持つカトレアは、なんだか才人の好みを直撃するので、不意に目の前に現れられると息がつまりそうになるのであった。
「あらあら。まあまあ」
驚いた顔で、カトレアは才人の前にしゃがみこんだ。
「ひどい怪我《けが》ね……、大丈夫?」
[#挿絵075]
そう言って、カトレアは才人《さいと》の怪我《けが》を確かめ始めた。
「頭からも血が出てるじゃない」
そう言って頭を覗《のぞ》き込む。すると才人の目の前には、カトレアの……、ルイズの拡大発展型のスタイルの中、唯一妹とはまったく違う部分……、つまり胸が現れる。淡い桃色のブラウスに包まれたそれが目の前に現れたので、才人は死にそうになった。
「だ、大丈夫です!」
才人は慌てて立ち上がろうとした。しかし、すぐに激痛が走る。
「って! いだだだだだ!」
「無理しちゃダメ」
カトレアは、杖《つえ》を取り出すと呪文《じゅもん》を唱え始めた。
「イル・ウォータル・デル……」
|ヒー《癒》リ|ング《し》≠フ呪文であった。ラ・ヴァリエール公爵の魔法でつけられた傷が、ゆっくりとふさがっていく。
「あ、ありがとうございます」
才人はドギマギしながら、カトレアに頭を下げた。立ち上がり、その場から去ろうとすると腕を掴《つか》まれる。
「ダメよ。魔法だけじゃ完全にふさがらないもの。おいでなさいな、ちゃんと治療してあげるから」
カトレアはにっこりと微笑《ほほえ》んだ。なんとも慈愛に満ちた微笑で、才人は見ているだけで心が癒《いや》されていくように感じた。
激しく緊張しながらカトレアに連れてこられた先は、どうやらカトレアの自室であるようだった。中に案内されると、才人はびっくりした。
チチチチ、と泣いて才人の顔めがけて飛んできたのは、ムササビであった。
「うわあ!」
と、叫んで振り払うと、大きな何かにのしかかられた。
小熊《こぐま》である。
「く、くま!」
這《は》いつくばって逃げ出そうとすると、でん! と目の前に大きな何かが現れる。巨大なカメだった。次々と動物たちが寄ってきて、才人にまとわりつき、のしかかり始めた。
「こらこら。彼は怪我してるんだから、じゃれちゃダメよ」
カトレアがそう言うと、才人に群がっていた動物たちがのそのそと離れていく。
部屋の中はさながら動物園のようで、才人はいつかの馬車の中を思い出した。このカトレアは、そういえば動物が大好きなのである。
「す、すごいっすね」
感想を漏らしたら、カトレアは楽しげに笑った。
「驚いちゃったでしょう?」
「いえ……」
カトレアは、物入れの引き出しをごそごそと探り、中から包帯や薬などを取り出し、才人《さいと》の怪我《けが》を治し始めた。心底すまなさそうな声で、カトレアは呟《つぶや》く。
「母さまの次は父さまのお相手だもの。身体《からだ》がもたないわよね……。本当にごめんなさいね。悪い人たちじゃないのよ。ただちょっと融通がきかないっていうか……」
「ルイズの両親ですから。しかたないですよ」
そう言うとカトレアは、あはは、と笑った。それから激しく咳《せ》き込んだ。
「だだ、大丈夫ですか?」
「大丈夫。さっき、久しぶりに魔法を使ったものだから、身体が驚いちゃったみたいね」
「え?」
才人が驚いた顔をすると、カトレアは首を振った。
「あ、ごめんごめん。気にしないで。なんでもないんだから」
「そ、そうですか?」
「ええ。普段魔法を使わないだけだから」
なんだか、慈愛に満ちた言葉だった。思わず、才人の顔が綻《ほころ》ぶ。
「ねえねえ、よければ、お話ししてくださらない?」
何歳も年上なのに、まるで少女のような無邪気さでカトレアは言った。まったく遠慮なく、才人の顔を覗《のぞ》き込んでくる。
「な、何をですか?」
「あれから、いろいろ大変だったんでしょう。アルビオンでは、随分と危険な目にあわれたとか。わたし、随分心配したのよ。あなたとルイズのこと」
才人はカトレアに、この屋敷に参戦の許可を貰《もら》いに来てからのことを話した。戦争のこと。行方不明になったこと。七万の兵に突っ込んだときのことを、カトレアは目を丸くして聞いてくれた。
「そう……、ルイズの代わりに、あなた、とんでもなく危険な目にあったのね」
「いえそんな! 代わりっていうか、その、やっぱりそこは俺《おれ》が行かないと……」
「あなた、偉いのね。そんなすごい手柄をたてたっていうのに、全然偉ぶったところがなくって」
カトレアにそんな風に褒められると、才人は激しく照れた。
「いやそんな、そんな、その、そんなぁ……」
「ほんとうにすごいわ。ルイズは幸せものだわ。あなたみたいなナイトにめぐり合えて」
カトレアは、まったく他意なく才人を褒めてくれた。年上の女性に、そんな風に褒められると……、才人《さいと》はなぜか母親のことを思い出した。
もちろん、カトレアと自分の母は微塵《みじん》も似ていない。でも……、そのまったく含みのない褒め言葉は、母からかけられたものと変わりがなかった。そんなにたくさん褒められたことはない。でも、褒められた記憶は、いつまでも忘れないものだ。
たまたまテストの点がよかったとき……。
食器洗いを手伝ったとき……。
そんななんでもないことでも、母は大げさに褒めてくれたっけ……。
「どうしたの?」
心配そうに、カトレアが才人の顔を覗《のぞ》き込んだ。いつしか、才人は泣いていたのだった。
「ご、ごめんなさい! なんでもないです!」
「なんでもないのに、泣くわけないでしょう。どうしたの? わたしに話してごらんなさいな」
「いえ、ほんとに……、ほんとになんでもないです」
まさか母を思い出して涙ぐんだ、なんて言えない。そんなことをしたら弱虫になってしまうではないか。
「ごめんね。何か、思い出しちゃったみたいね」
カトレアはすまなさそうな顔になると、才人の頭をそっとかき抱いた。微《かす》かな香水のそれが混じった、ふんわりと優しいとてもいい香りがして、才人は目をつむった。
温かい、カトレアの胸に抱かれてそうしていると、心が落ち着いていく。同時に、とても懐かしいなにかを感じた。
「……どうして、どうして思い出すんですかね。こっちに来てから、あんまり思い出したりしなかったのに。変だな」
ぼんやりとした声でそう言うと、カトレアは優しい声で応《こた》えた。
「お母さん?」
「ええ」
カトレアはそれ以上、何も尋ねなかった。少し寂しい顔をして、
「ごめんなさい」と呟《つぶや》いた。どうしてカトレアが謝るのかわからなかったけど……、才人は、これ以上考えないようにした。目をつむって、カトレアの豊かな胸に抱かれていると……、深い海の中に、膝《ひざ》を抱えてたゆたっているような気分になり……、心が安らいだ。
アンリエッタとルイズの会話は、昔のように盛り上がった。
子供の頃《ころ》のように、きゃっきゃっ、と笑いながら、二人はいろんなことを話した。
「夏になると、よくこうやってここで過ごしたわね」
昔を懐かしむような目になって、アンリエッタが言った。
「そうですわね」
ふとルイズは、アンリエッタに相談したくなった。
「姫さま、わたし、相談したいことがあるんです」
「なあに?」
ルイズは先ほど、悩んでいたことをアンリエッタに尋ねた。
通したい筋を通すことで、誰《だれ》かが傷つく可能性があるのなら、自分はどうすればいいんだろう? ルイズの話を黙って聞いていたアンリエッタは、わずかに真剣な顔になり……、ルイズに頷《うなず》いた。
「わたくしは、女王よね」
「そうでございますわ」
「ええ、被《かぶ》らされたのかもしれませんが、冠を被っているわ。未《いま》だ若輩《じゃくはい》だけど……、政治のことも多少学んだつもり。そして、わかったことがあるのよ。この世から、争いごとがなくなることはないと」
「…………」
「でも、少しでも、なくすことはできるはず。言ったでしょう? わたくしはこれ以上、大事な人々が傷つくことに耐えられないと。それはわたくしだけじゃない。みんな同じだと思うわ。だから、わたくしのように大事な人間を失って傷つく人々を、減らすことこそがわたくしの使命だと思うの。それがわたくしの女王としての仕事だと。戦は、争いは決してなくならない。でも、減らすことはできるはず」
ルイズは、小さく頷いた。
「わたし、そんな姫さまのお手伝いがしたいわ」
「ありがとう、やっぱりあなたはわたくしの一番のおともだち。サイト殿と二人、どうか力になってくださいまし」
その言葉に、ルイズは軽く反応した。そういえば、アンリエッタの才人《さいと》への気持ちはどうなったのだろう? ルイズの不安に気づいたのかどうか、アンリエッタは微笑《ほほえ》んだ。
「彼のことなら平気よ。ごめんなさいねルイズ。わたくし、きっとどうにかしていたの。寂しくて、頼れる人もいなくって、きっと、困らせていたんだわ」
「ひ、姫さま、何を……」
「あの方は、あなたの騎士。わたくしの騎士じゃない。だってさっき、わたくしが治療しているのに、『ルイズは……』なんてわたくしに聞いたのよ。あんなに大怪我《おおけが》しているのに、いざとなると気になるのはあなたのことだけみたい」
「え? ええ?」
ルイズは耳まで真っ赤になった。アンリエッタはさらに、いたずらっぽい笑みを浮かべ、
「ねえルイズ。いつか、ここであなたと約束したわね。好きな人ができたら、お互いに報告するって。わたくし、あなたの報告をまだ聞いていないわ」
「……そ、そんな。まだ、好きな人なんて、い、いませんもの」
唇を噛《か》んで、心底恥ずかしそうにルイズは言った。
「嘘《うそ》ばっかり。あなたって、ほんとうに嘘が下手《へた》ね」
「う、嘘なんかじゃありません」
ルイズはベッドに潜り込むと、布団を被《かぶ》ってしまった。アンリエッタも飛び込み、ルイズを散々にくすぐり始めた。
「ほらルイズ! おっしゃいなさい? 誰《だれ》が好きなの?」
「いや……、姫さま! わたし、別に恋なんか……、ひゃん!」
散々にくすぐられ、ルイズはぐったりとしてしまった。
「そんなに惚《とぼ》けるのなら、カトレア殿に尋ねてみましょう」
「……ちいねえさま?」
「ええ、そうよ。いつか、この部屋の窓から、カトレア殿のお部屋に忍び込んだことがあったじゃない?」
アンリエッタの顔は、昔のキラキラした少女の頃《ころ》に戻っていた。
「そういえば、ございましたわ。確か、姫さまの魔法で……」
「ええ、あの頃わたくし、フライ≠覚えたてで[#底本「たてて」修正]、使ってみたかったのね」
ウキウキした表情でアンリエッタはルイズの手を取った。
「ほら、行くわよ」
「え? でも……」
「恋の悩みは、年長の方にお尋ねするのが一番!」
アンリエッタはルイズの手を引いて、窓をあけた。外には春の優しい夜風が舞っている。
アンリエッタは、杖《つえ》を構えると、ルイズの手を握って優しい夜空へと飛び出した。
才人《さいと》は、いつしかカトレアの膝《ひざ》に頬《ほお》をうずめていた。
「先ほど……、カトレアさんが言った勇気……、ほんとは俺《おれ》のものなのかどうか、よくわかんないんです」
「どういう意味?」
「ほら、俺はルイズの使い魔じゃないですか。あいつの呪文《じゅもん》の詠唱を聞いていると、心に勇気がみなぎってくる。デルフは……、あ、これは俺の剣の名前なんですけど、そいつが言うには、『主人の呪文を聞いて勇気がみなぎるのは、赤ん坊が母親の声を聞いて顔をほころばすのといっしょだ』だそうです。つまり、俺の勇気は……」
「使い魔になることによって、みなぎる勇気なのかどうなのかってこと?」
「はい。ルイズには、『俺の勇気だ』なんて言ってますけど、考えれば考えるほど、自信がなくなってくるんです。俺《おれ》が思うより、もっと心の深い場所で使い魔≠ノなっちゃってるんじゃないかって」
カトレアは才人《さいと》の頭を撫《な》でた。不思議なもので、そんな風にされていると安心する。そして、ずっと思っていたこと、心にひっかかっていたことが、すんなり言葉になって、口から溢《あふ》れてくるのであった。
「……不思議です。すっごく」
「なにが?」
「こうしてると、母さんを思い出します。カトレアさん、全然似てないのに。でも、なんだかあったかくって……」
「……そう」
「ほんとうに不思議です。俺、こっちに来てから、あんまり自分のいた世界のこと、思い出したことなかったのに」
「自分のいた世界?」
カトレアに問われ、才人ははっとした。自分が|こっちの世界《ハルケギニア》の人間じゃないことを話してはいない。でも……、カトレアには話してもかまわないだろう。
「俺はこの世界の人間じゃないんです」
「……そう」
「驚かないんですか?」
「なんとなく……、ううん、他の世界なんて想像もしたことなかったけど……、あなたがわたしたちと違う人間ってことは、その、平民って意味じゃなくてね、なんとなく感じてた」
才人はカトレアのその言葉で、以前会ったときに言われた言葉を思い出した。
『根っこから違う人間のような気がするの。違って?』
「だから、家族に会いたくても、会えないんです。でも、ずっと忘れてたのに。どうして、今になって思い出すんだろう」
「……抑えられていたんだと思うわ」
「抑えられていた?」
「ええ。人間の心ってよくできていてね、何かつらいことや、とんでもないことが起こると鍵《かぎ》がかかっちゃうの。おかしくならないためにね」
「…………」
「きっと、いきなり別の世界に連れてこられて、心がびっくりしたんだわ。で、故郷のことをなるべく思い出さないように鍵がかかってしまったのね。でも、何かきっかけがあったのね。心の鍵を外すきっかけが……」
才人は思った。そうだ。タバサや母とのやり取り、ルイズや両親との絆《きずな》……、たぶん、そんなものを見て、抑えられていた想《おも》いが蘇《よみがえ》ったんだ。
故郷への想い。母への想い。
才人《さいと》は目をつむった。
「……わたし、あなたのお母さんになれたらいいのに」
カトレアは、小さく呟《つぶや》いた。
「あは、カトレアさんとうちの母ちゃんじゃ、雲泥の差ですよ! もったいなくて涙が出ます。涙が……」
弱気なところを見せたくなくて、才人はおどけて言った。でも、涙がぽろぽろ溢《あふ》れてきて、どうにもならないのだった。カトレアは、才人を抱きしめてくれた。
「いい子ね。あなた、強い子だわ」
才人はしばらく泣き続けた。
こんなに泣いたのは久しぶりだ、というぐらい泣いた。
どのぐらい、そうして泣いていただろうか。
そうやって、カトレアの胸に抱かれて泣いていると……、不思議と心が安らいでくる。
どうしてだろう。ゆっくりと心が落ち着いていく。
「すいません……。みっともないとこ見せちゃって」
鼻をこすりながら、才人は言った。
[#挿絵089]
「みっともなくないわよ。泣きたいときは思いっきり泣いたほうがいいの」
「でも……」
「あは、あなた、負けず嫌いなのね。人に弱いところ見せるのが、好きじゃない。違って?」
「男って、そういうもんじゃないですか」
「大変ね。でも、たまには甘えることも必要だと思うわ。いっつも頼られてばかりじゃ、息がつまっちゃうでしょう」
才人《さいと》は、はっ! とした。周りにいる女性は、才人に頼ってくる女性ばかりだ。調子にのって強がっていたが……、ほんとは自分は、誰かに甘えたかったのかもしれない。
「……そうかもしれないです」
「違う世界ってことは……、もう、帰れないの?」
「わかりません。でも、俺《おれ》以外にもこっちの世界に来た人はいるけど……、帰れるかもしれないし、帰れないかもしれません」
カトレアは、まっすぐに才人を見つめた。
「帰れるわ。きっと帰れる。絶対、いつかお母さんに会える。家族の元に帰れる。わたし、そう思うわ」
力強くカトレアにそう言われ、才人は頷《うなず》いた。
「ありがとうございます」
「諦《あきら》めないで。はう、ごめんなさいね。わたしも、もっと身体《からだ》が丈夫だったら、あなたの帰る方法を探すのを手伝ってあげたのに……。そうだ! わたし、お母さんは無理だけど、お姉さんになってあげる」
いきなり何を言うのだろう。才人は慌てた。
「こ、ここ、こんな美人のお姉さんがいたら、毎日、早く家に帰りたくなりますね」
「ほら、お姉さんって呼んでごらん」
才人は頬《ほお》を染めた。
「そ、そんな……、もったいないですよ」
「もったいないなんて、そんなことないわ。ほら、言ってごらんなさい?」
優しいカトレアに、そんな風に言われ……、才人は思わず言ってしまった。
「お、お姉さん」
「つらかったら、いつでもここに帰ってらっしゃいね」
カトレアは、才人の頭を嬉《うれ》しそうに撫《な》でた。
「……はい」
心の中に温かい何かが満ちていく。家族には会えないかもしれない。でも……、自分にはこうやって優しくしてくれる人がたくさんいるのだ。
才人はごしごしと、まぶたを拭《ぬぐ》った。
「泣いてる暇、ないっすよね。ルイズの力を……、あの虚無≠狙《ねら》っている奴《やつ》がいるんです。そいつはタバサとそのお母さんにもひどいことをした。俺はそいつが許せない」
会ったことのない、ガリア王ジョゼフを才人《さいと》は想像した。
いったいどんな奴なんだろう?
とにかくそいつに……、二度とルイズやタバサに手を出させるわけにはいかない。
帰るのは、それが終わってからだ。
「無理はしないでね」
カトレアは、才人を再び抱きしめた。
「わたし、あなたやルイズが無事でいてくれれば、他に何も望まないわ」
窓が割れる大きな音が響いたのは、その瞬間だった。
「な、なんだ!」
「あいたたたたたたた……」
「いけない、勢いあまってしまったわ」
なんと飛び込んできたのは、ルイズとアンリエッタであった。二人は痛そうに腰をさすりながら立ち上がると、才人を見て目を丸くした。
「あら。サイト殿」
「な! なんであんたがここにいるのよ!」
「それは俺のセリフだ! なんで窓から飛び込んでくんだよ!」
才人の問いには答えずに、ルイズの目がつりあがった。
「あ、あんたまさか、今度はちいねえさまってわけ? 信じられな〜〜〜〜〜い!」
ルイズは顔を真っ赤にして突進してきた。
「ぐおッ!」
助走をつけて三メイルもの距離をジャンプしたルイズのとび蹴《げ》りが、才人のこめかみに食らいこむ。倒れた才人の上に跨《またが》り、ルイズは首を絞め上げた。
「よりにもよってちいねえさま! よりにもよってちいねえさま! 許せない! こればっかりは許せないわ!」
才人の上に跨って、何やら喚《わめ》き散らすルイズを見て、部屋にいた動物たちが反応した。
わふわふ。わんわん。にゃーにゃー。がおがお。ぶひぶひ。
じゃれてるの? まぜて? と言わんばかりに、数々の動物が才人の上にのしかかり始めた。
「むぎゅ……」
重さで、才人の意識が遠のいていった。
気絶した才人を、ルイズは鬼の形相で見下ろした。
「寝てる場合じゃないわよ!」
「ルイズ、ルイズ! 殿方を蹴《け》っ飛ばすなんて、レディのすることではないわ!」
さらに才人《さいと》を蹴っ飛ばそうとしたので、さすがにアンリエッタが止めに入る。
カトレアが、コロコロと笑い転げた。
「いやだわルイズ。わたしがあなたの恋人にちょっかい出すわけないじゃない」
「恋人じゃないもん! 違うもん!」
ルイズは顔を真っ赤にして、腕をぶんぶん振り回した。
「……その、ちいねえさまに危険が及んだら、大変だなーって。そう思っただけで、その」
「怪我《けが》を治してただけよ。ほんとよ」
「……というかさっきの顔、わたし見逃さなかったわ。こいつ、ちいねえさまの胸に顔をうずめて、うっとりしてたわ。ち、ちいねえさまの胸に、か、かか、顔うずめてうっとりだわよ。よ、よくも、ちいねえさまの胸に。ちちちち、ちい胸に」
自分の言葉で、ルイズは頭に血がのぼったらしい。足を大きく振り上げたので、再びアンリエッタが止めに入る。
「ルイズ、あのね? しかたないじゃない!」
「なにがしかたないのですか」
アンリエッタは、この場を取り繕《つくろ》うかのように、思いっきり作り笑いを浮かべながら自説を披露し始めた。
「ええとね? その、カトレア殿はルイズにそっくりじゃない。ほら、髪の色とか。だからサイト殿はきっと、成長したルイズのことを考えて、うっとりとされていたに違いないわ」
「え?」
単純なルイズはアンリエッタの言葉に、なるほど、と思ってしまった。
「信じられませんわ! そんなの!」
そうは言ったものの、ルイズの心の中には歓喜の輪が広がっていく。
「ルイズは本当に幸せ者ね。こんな素敵な殿方に想《おも》いを寄せていただけるなんて」
カトレアも微笑を浮かべる。
「い、いい迷惑ですわ」
ルイズは口をもごもごさせて、恥ずかしそうに呟《つぶや》いた。
その夜……、気絶した才人をソファに横たえると、高貴な三人の娘たちは久しぶりにベッドに並んで寝転がった。カトレアを真ん中にして、左にルイズ。右にアンリエッタ。
「こうやって三人で寝るの、久しぶりですわね」
うきうきした声で、アンリエッタが言った。
「陛下は夏になると、我が家によくいらしてくださいましたわね」
「はい。あの頃《ころ》は、ほんとうに楽しかった。毎日、何も悩むことなどなくって……」
遠い目で、アンリエッタが言った。
「ケンカもたくさんいたしました」
「そうねルイズ。そのたびにわたくしたち、どっちが正しいのかカトレア殿に尋ねにきたわ」
少女の頃に戻り、三人は楽しく笑い転げた。
そのうちに、会話はルイズと才人《さいと》のことに移る。
「ねえルイズ、あなた、サイト殿にいっつもあんなに乱暴にしているの?」
「い、いつもじゃないわ!」
カトレアに尋ねられ、ルイズは顔を真っ赤にして否定した。
「いつもじゃない」
アンリエッタに言われ、ルイズは慌てた。
「た、たまたま姫さまが目撃なさっているだけですわ!」
ため息混じりにアンリエッタが言った。
「はぁ、そんなことじゃあなた、嫌われてしまうんじゃないかしら。でも、サイト殿はルイズにくびったけみたいだから、大丈夫なのかしら」
「姉さんは、いけないと思うわ。そんな風にいつも意地悪をしたら、逃げられてしまうわよ。引き合いに出すのはあれだけど、エレオノール姉さまをごらんなさい?」
ルイズの脳裏に、婚約を破棄されてしまった長姉の姿が浮かぶ。
「たまには殿方のわがままを許してあげることも大事よ。他の女の子と話しただけで怒ったりしたら、そのうちに愛想をつかされちゃうわよ。わたしイヤよ。姉さまだけじゃなく、ルイズが失恋するところなんて、見たくないわ」
「そ、そんなことないもん! あいつわたしにメロメロだもん!」
子供のようにそう叫んだら、カトレアは首を振る。
「変わらない人の心なんてないわ。余裕の態度で、たまには泳がせてあげなさいな。そうやっていれば、結局一番好きな人のところに戻ってくるわ」
ルイズは黙ってしまった。
ちいねえさまの言うことは、いつも正しい。
確かに自分には余裕とか、そういうの足りないわ。
アンリエッタとカトレアは、次々にルイズにアドバイスを施していく。
そんな三人のおしゃべりは、夜を徹して続いた。
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第五章 新学期
才人《さいと》たちは新学期の中、激しく暇を持て余していた。
ルイズの実家から帰ってきて、三目ほどが過ぎている。学院に戻ると、待っていたのはいつもの変わり映えのしない日常であった。
「ったく……。はっきりと悪いやつがわかったんだからよ、こっちから行ってケリつけるべきじゃないのかよ」
いつもの水精霊騎士隊のたまり場で、才人はテーブルに肘《ひじ》をついて言った。
「いつからそんな好戦的になったんだ? きみは」
ワインを飲みながら、ギーシュが言った。
放課後のこの時間、体《てい》のいいたまり場ができた貴族の少年たちは、とにかく飲みまくるのである。教師たちが苦い顔をすると、『訓練の垢《あか》をおとしてるんです』などと、もっともらしい言い訳を並べ立てる。一応水精霊騎士隊は女王の肝いりで創設された近衛《このえ》隊なので、訓練を引き合いに出されると教師も文句を言えないのであった。
「だっておかしいだろ。あいつら、ほら、あのガリア。国が大きいからって何様だっつの。ルイズや俺《おれ》を襲うわ、タバサとその母ちゃんにはひどいことするわ、やりたい放題じゃないかよ」
「お偉方なんてそんなものさ。欲しけりゃどんな手を使っても奪うし、気に入らなけりゃ闇《やみ》に葬るぐらいは朝飯前だよ。いちいち目くじらをたてていたらきりがないぜ」
ギーシュはもう、涼しい顔である。お咎《とが》めなし、ということになったら、本来の調子を取り戻したのである。
「タバサの母ちゃんのことだって、なんとかしてやりたいし……」
「まあ、そうだなあ。でも、エルフの薬でやられたんだろ? ぼくたちじゃお手上げさ」
いやまあ、そうなんだけどな、と才人は首を振った。
「とにかく、ガリアから公式の抗議がないだけ御の字というものだよ、きみ。普通だったら戦争が起こってもおかしくないんだぜ? なにせ向こうは大国ガリアの王様だ。こないだも言っただろうけど、ぼくたち個人が相手にするには大きすぎる相手だよ」
確かにガリアは未《いま》だに何も言ってこない。
その沈黙が不気味ではあったが、公にできない事情があるのかもしれなかった。
「大国の王様かぁ……」
才人はぼんやりと空を見上げた。確かに言われてみれば、そんな連中を相手にして生きて帰ってこられただけも御の字なのかもしれなかった。
でも、やっぱり許せない。
どうにかして懲《こ》らしめる方法はあるんじゃないかと、才人《さいと》は頭を捻《ひね》り始めた。でも、何も思いつかない。悪知恵に長《た》けた、野心豊かなガリア王ジョゼフだけではなく、向こうにはルイズと同じ虚無の使い手もいるのだ。そして、自分と同じ、虚無の使い魔も……。
大国と、虚無。どうにも大きすぎる相手だ。
剣を振り回すだけじゃ勝てない敵ってのもいるんだなぁ、と、軽くせつない気持ちに浸っていると、ギーシュに肩を叩《たた》かれる。
「とにかくだ! ぼくたちみたいな勇者には休息も必要さ。というか人生はきみ、楽しまなきゃ損だぜ? まあきみも飲みたまえ。ルイズの家では大変だったんだろ?」
「ま、まあな……」
結局、ルイズの家でガリア以上にもみくちゃにされ、疲労とダメージがたまり、才人はとうとう寝込んでしまった。やっと起きられるようになったのは今日の昼である。目覚めたら、ルイズもシエスタもいなかった。
しかたなしにここにやってきたら、こいつらは授業をサボって三日三晩もどんちゃん騒ぎを繰り広げていた。なし崩し的に才人も加わり、今にいたるのであった。
「いやぁ、しかし、きみたちはたいしたもんだな! なにせあのガリアに侵入して、タバサ……、いやガリアの王族の少女だっけ? を救い出してきたんだから! さすがは隊長と副隊長だよ!」
酔っ払った隊員の一人がまくし立てる。ギーシュは嬉《うれ》しそうに首を振りながら、
「なに、きみたちがきっちり援護してくれたおかげだよ。あのフネで、竜騎士隊をゲルマニア国境までひきつけてくれたんだからね。ぼくが将軍だったら、きみたちに勲章を授与しているところさ」
「そうか! やっぱり、ぼくたちも役に立ったんだな!」
「あったりまえじゃないかね! あっはっは!」
「おいギ〜〜シュ〜〜〜ゥ! お前、タバサのこと話しちゃったのかよ!」
「うん」
あっさりギーシュは頷《うなず》いた。
「お前って、ほんとに口が軽いのな!」
「な、なんだね! 別に知られて困るもんじゃないだろう!?」
才人に首を絞められて、ギーシュはもごもごとうめいた。
「どこで誰《だれ》に狙《ねら》われるかわからんだろ〜〜〜!」
「だ、大丈夫だって! 騎士隊以外の連中には話していない!」
「ほんとだろうな?」
「あったりまえじゃないかね。さすがのぼくだって、そこまでお調子者じゃない」
「自分のこと、きっちりわかってるじゃねえかよ」
そんなやり取りをしているところに、ふとっちょのマリコルヌが新一年生の女の子を引き連れて現れた。
「マリコルヌさま! すごいですわ!」
「もっとお話を聞かせてくださいな!」
なんだか可愛《かわい》らしい少女たちである。マリコルヌはなぜか、羽根のついた帽子を被《かぶ》り、ギーシュばりのシャツに身を包んでいた。なんだあいつ? と、騎士隊の少年たちの注目が集まる。
「困った小猫ちゃんたちだなあ。しょうがない、してあげようじゃないか」
「きゃぁああああ! すてきぃ!」
得意げに指を立てたマリコルヌに、周りの女子から歓声がとんだ。
「さて、アーハンブラの城についたぼくは、部下どもを指揮してガリア軍を眠らせた! そこでとうとうエルフの登場ときたもんだ!」
「きゃあきゃあ!」
「ぼくは恐れずに、杖《つえ》を突きつけてこう叫んだ! 『おい長耳野郎。命が惜しかったら、姫を置いて逃げ失《う》せな。じゃないと、手前の先住魔法より強力な、ぼくの風魔法が飛ぶぜぇ……』ってね。あ、この姫ってのはもちろん、タバサのことさ。あの小さい女の子ね」
「すごいですわ! エルフをやりこめるなんて!」
「まあね、なぁに、あんな連中見かけ倒しさ。ぼくが本気を出せば、ぴゅーって飛んじゃうさ。ぴゅーってね」
「お前がぁああああああ! ぴゅー≠黷・!」
才人《さいと》の飛び蹴《げ》りが、マリコルヌのみぞおちに叩《たた》き込まれる。
「ぎうほッ!」
マリコルヌはもんどりうって倒れた。
しかし、けろっとした顔で立ち上がる。
「やあサイト。今のぼくは、モテモテのオーラがかかってるから、そのぐらいのキックはへいちゃらだよ。やっつけたいなら、竜騎士一個軍団引っ張ってきな」
「お、おまえらってやつはぁ……。緊張感がゼロっていうかぁ……」
ぴくぴくと怒りで震える才人の肩を、マリコルヌがぽんぽんと叩いた。
「いやぁ、英雄っていいネ。この子たち、是非ともきみの活躍を聞きたいそうだよ。話してやれよ、副隊長さん」
「あなたがサイト殿ですかぁ?」
髪を左右に垂らした少女が、ブルーの瞳《ひとみ》を光らせて才人に尋ねる。新一年生の女の子たちは、キラキラした目で才人を見上げていた。後ろを見ると、いつぞやのケティもいる。
彼女は新一年生の肩を叩いて得意げに、
「そうよ。この方が水精霊騎士隊の副隊長、サイト殿よ。サイト殿がたてたキラ星のような手柄の数々を聞いたら、あなたたち目をまわしちゃうんだから!」
「いやぁ〜〜〜! すてきぃ!」
新一年生の女の子たちは歓声をあげる。険しかった才人《さいと》の顔が、徐々に崩れていく。
「そ、それほどでも……」
「冒険の話を聞かせてくださいな!」
すると後ろからギーシュがぬっ、と顔を出して、
「隊長に聞きたまえよ。隊長に……」
そして薔薇《ばら》をくわえて、優雅にポーズを決めた。
「グラモン家のお方だわ!」
「ギーシュ様ですわね! かっこいい!」
ギーシュは身震いした。
「もっと言いたまえ」
「え?」
「もっと、今言った言葉を繰り返したまえ」
「か、かっこいいって……」
すさっ! とギーシュは両手を前上方に突き出すと、顔の前に戻した。それから髪を右の指でいじり始める。
「水精霊騎士隊の、隊長、隊長、たいちょお、ギーシュ・ド・グラモンだ。なぁに、ぼくぐらい優秀じゃないと、こんな無骨な連中の隊長はつとまらん。およ、きみは可愛《かわい》いな。いや、きみはまるでラスコーの宗教画に描かれた聖女ジョアンナのようだな! おやおや、きみなんかまるで薔薇みたいじゃないか!」
ちょっと増えたボキャブラリーで、ギーシュは女の子を口説き始める。
「ねえサイト殿」
長い、ストレートの栗色《くりいろ》の髪を揺らして、ケティが詰め寄ってきた。
「な、なに?」
「わたしたち、その、女子援護団をつくったんです!」
「じょしえんごだん?」
「はい! 二年生と一年生の女子生徒たちで、編成されてます。ねー」
その場にいた女生徒たちが、ねー、と可愛く頷《うなず》きあう。
「水精霊騎士隊、大変なお仕事じゃありませんか。お手伝いする子たちが必要だと思うんです」
「お手伝い?」
才人がきょとんとしていると、ケティは傍らのバスケットから何やらごそごそと取り出した。
「はい! あのですね、つまらないものですけどわたしたちでお料理を用意したんです! 訓練の合間に食べてください」
ケティが料理を並べようとすると、詰め所のドアがばたーん! と破られて、シエスタを筆頭に厨房《ちゅうぼう》のメイドが飛び込んできた。
「シエスタ!」
シエスタたちメイドも、やたら大きな料理を抱えていた。
「サイトさん! ずっと寝ていらしたから心配しましたけど、元気になられて何よりです!」
「あ、ありがとう」
シエスタたちメイドはテーブルの上に次々料理を並べていく。
「ちょっと! 勝手なことしないでよ!」
貴族の女子生徒たちは、平民のメイドに文句をつけた。
しかしシエスタもさるもの、きっ! とケティを睨《にら》んだ。
「貴族の方々に料理を作らせたら、わたしたちの首がとんでしまいますわ! ねえ、みなさん?」
そうですわそうですわとんでもない話ですわ、とメイドたちは頷《うなず》きあう。
「そういうわけで、騎士隊のお食事のお世話はわたしたちがいたしますわ。お嬢さま方はご勉学に励んでくださいませ」
澄ました顔で、シエスタが料理をテーブルに並べ始めた。
ケティはむっとして、その料理の皿を取り上げ、もぐもぐと食べ始めた。
「食べないでください!」
「平民風情が生意気なのよ!」
メイドと女子援護団の女子たちは、お互いに譲らず、そのうちに押し合いになった。才人《さいと》はもみくちゃにされ、この世の春と地獄を同時に味わった。
テンパったマリコルヌが、
「ぼくを取り合ってケンカするのはやめてくれ!」と叫んで、両方から蹴《け》り飛ばされた。騎士隊の面々も巻き込まれ、たまり場の中は大騒ぎになった。
そんな様子を窓から見つめていた三年生の女子たちがいた。ルイズとモンモランシーとキュルケである。
モンモランシーはギーシュの態度を見て、
「またじゃないの! またじゃないの! 何がぼくは君だけの騎士だよ≠諱I まったく! 今日という今日はきっちり話をつけてやるわ! ルイズ! あなたも来なさいよ!」
そう怒鳴って入り口に向かおうとしたが、ルイズは動かない。
「なによルイズ。あなたも見てたでしょ。サイトってば、メイドだけじゃなく、一年生やあのケティとかいう有名人なら誰《だれ》でもいい女の子に囲まれて、鼻の下こぉーんなにのばしてたわよ。とっちめなくていいわけ?」
ルイズの返事は、モンモランシーの予想を大幅に裏切るものだった。
「いいわ。ほっときましょ」
そんなルイズの態度に、キュルケも目を丸くした。
「いやだわルイズ。あなたいったいどうしたの?」
「どうしたもこうしたもないわ。いちいち使い魔のやることに腹を立ててたらキリがないもの。というかね……」
ルイズは、つん、と澄まして上を向いた。
「どうせあいつ、わたしにメロメロだもん。迷惑だわ。というか困るわ。このわたしはなんとも思ってないのにね。あらあら、あの子たち、あんなバカ犬のどこがいいのか知らないけど、お料理渡すの渡さないので揉《も》めているわ。あの脳の弱かろう女の子たちがかわいそう……、バカ犬、ご主人さまに夢中なのに……」
キュルケが真顔でルイズの額に手を置いた。
「熱はないわね」
「ルイズ、何かいけないポーション飲んだでしょ?」
モンモランシーが心配そうな声で言った。
「飲んでないわよ。というかモンモランシー、あなたに教えてあげる」
「何を教えてくれるの?」
「いい女は、余裕が大事なの。それが高貴な女性のたしなみなの」
「高貴もなにも、そういやあなた、貴族の身分、返上したんじゃなかった?」
冷静にキュルケに突っ込まれたが、ルイズはやれやれというように首を振った。
「姫さまは、やっぱりとってもすばらしいお方だわ。わたし、そのお考えを聞いて感動したの。だからもう一度、きちんとご奉公することにしたの」
「女王陛下に、何か妙なことを吹き込まれたみたいね」
モンモランシーとキュルケは、顔を見合わせて頷《うなず》きあう。
「妙なことってなによ! ただ、殿方は泳がすのも大事って言われただけよ!」
「あらルイズ、あなた駆け引き? 駆け引き使ってるつもり?」
キュルケがにやっ、と笑みを浮かべて、呟《つぶや》いた。
「か、駆け引きってなによ! 駆け引きもなにも、わたし好きでもなんでもないもん!」
ルイズは顔を真っ赤にして、キュルケの言葉を否定した。
「あのねルイズ。いいこと教えてあげる。そう思ってるの、あなただけよ?」
キュルケは、ルイズの肩に腕を回した。
「そんなあなたが楽しすぎるから、あたし、あなたの恋路を手伝ってあげる。というかガリアでのお礼のつもりで持ってきた品があるの。それをあなたにあげるわ。恋の駆け引きを覚えるなら、それに似合った格好ってものがあるのよ?」
「いらないわよ!」
「あらそう。じゃああげない」
そう言われて、ルイズの中に好奇心が高まっていく。
「み、見るだけなら見てあげてもいいわ」
「あのねルイズ。この微熱が大人《おとな》の女性のたしなみってものをアドバイスしてあげるって言ってるのよ? わかってる?」
アドバイス。
その言葉で、数々の失敗が脳裏に蘇《よみがえ》る。
黒ネコ。
セーラー服。
やっちまった記憶で、ルイズの中にいいようのない恥ずかしさが膨れ上がってくる。
「だめ。他人のアドバイス、いっつも失敗したもん。やっぱり普通が一番だわ」
「誰《だれ》のアドバイス?」
「け、剣」
「サイトの、あのしゃべる剣? あなた、あんなただの鉄の板っきれの言うことと、こと恋に関しては百戦錬磨のキュルケ様の言うことを、同列に扱う気?」
正直、この女、キュルケ・フォン・ツェルプストーは気に入らない。でも……、確かにその恋の手練手管《てれんてくだ》だけは認めなくてはいけないのかもしれない。何せ、ラ・ヴァリエールはキュルケの一族に恋人を取られまくった家系なのであるからして……。
ルイズはぷるぷると震えながら、それでも精一杯威厳を保とうとする声で言った。
「ま、まあ、暇だし、ちょっと付き合ってあげてもいいわ」
「そうこなくっちゃ。楽しくなってきたわ!」
「わ、わたしも、聞くだけ聞いてあげる」
モンモランシーが頬《ほお》を染めて言った。
「いいわよ。まとめて面倒見てあげる」
ルイズとモンモランシーがやってきたのは、キュルケの部屋であった。相変わらず、なんというかゴージャスな部屋である。ベッドより大きな衣装ダンスが二つもあって、西側の壁には床から天井まで達する、巨大な姿見が置かれている。ラメ入りの緞子《どんす》や、レースのカーテンなんかが天井から垂れ下がり、彫刻や絵画、様々な美術品が所狭しと並んでいた。
キュルケは楽しくてたまらない、といった風情でベッドに腰掛けると、二人に命令した。
「さてと、じゃあ脱いで」
「はい?」
ルイズとモンモランシーは、きょとんとした。
「脱いで。今、どんな下着を身に着けているのか、このキュルケに見せなさいって言ってるの」
生徒の二人は顔を真っ赤にさせて抗議した。
「ねえキュルケ、はっきり言いますけど、わたしそんな趣味ありませんからね!」
「わたしもよ!」
「あたしだってないわよ。あなたたちに、恋のイロハを教えてあげようっていうんじゃないの。教師はあたし。あなたたちは生徒。絶対服従よ」
「ふざけないで!」
二人は怒りに震えて叫んだ。
「なによあなたたち。恋人があっちにフラフラ、こっちにフラフラするのが許せないんじゃなかったの? なるほど、ギーシュとサイトの気持ちがわかったわ。そんなにおこりっぽかったら、そりゃあ、他の女と仲良くしたがるわよねぇ」
く……、とルイズとモンモランシーは、悔しげに拳《こぶし》を握り締めた。
「いいから早く、シャツとスカートを脱いで、あたしにどんな下着を身に着けているのか見せなさいな」
意を決したように、モンモランシーがシャツを脱いだ。やせぎすなモンモランシーの身体《からだ》が、その下から現れる。
「脱いだわよ!」
その姿を見て、ルイズもしかたなしにシャツを脱いだ。
「スカートもよ」
肘《ひじ》をついて、キュルケが心底楽しげな声で命令した。ルイズははう! と叫びながらスカートのホックを外した。すとん、と輪になってスカートが床に落ちる。
モンモランシーとルイズを交互に見つめ、キュルケが講評を開始した。
「あなたたち、ホント子供ね」
「ななな、なんですってぇ!」
「そんな下着を、恋人に見せる気?」
「別に見せないわよ! ただ着てるだけよ!」
別にルイズもモンモランシーも、変な下着を身に着けているわけではなかった。白い、清楚《せいそ》なものである。でもって二人とも似たようなキャミソールに身を包んでいた。レースの飾りがついていて、なかなか高級な代物であったが、なるほど言われてみれば子供っぽいデザインであった。
「あのね、あなたたち」
「なによ!」
「下着に気を使わない女は、男に気を使われないものよ」
二人は「うぐ」と、黙ってしまった。
「あなたたち、出入りの商人や、お店の人が勧めるものを適当に買ってるでしょ。あの人たち、学生相手だからって、そういう子供っぽいデザインのものばっかり選ぶのよ」
キュルケは、部屋の隅に寝そべっていたサラマンダーに命令した。
「フレイム、こないだ実家から持ってきた行李《こうり》をお願い」
きゅるきゅると鳴きながら、サラマンダーはベッドの下から古ぼけた行李を引っ張り出してきた。キュルケは二人に顎《あご》をしゃくった。
「開けてごらんなさい?」
ルイズとモンモランシーは顔を見合わせると、二人で行李を開けた。
「んな!」
「な、なによこれ! いやらしい! いやらしいわ!」
[#挿絵115]
二人は中から現れた下着を見て、目を丸くした。思わず手で顔を覆う。キュルケは得意げに髪をかきあげた。
「あたしが、子供の頃《ころ》に身に着けていたものよ。あなたたち、それだったらサイズが合うんじゃない?」
プライドの傷つく言葉であったが、実際そのとおりだったので、二人は何も言い返せなかった。
「覚えておきなさいな。下着は、女の武器よ。殿方の心をえぐる魔法がかかってなくてはいけないの。見せずとも、身に着けることで大事にされる女のオーラが漂うわ」
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第六章 個人授業
さて、散々な騒ぎの中を、やっと抜け出した才人《さいと》は思うところがあって図書館へと向かっていた。図書館は本塔にある。入り口では眼鏡《めがね》をかけた司書が座り、出入りする生徒や教師をチェックしていた。ここには門外不出の秘伝書とか、魔法薬《ポーション》のレシピが書かれた書物なんかが置いてあるので、普通の平民では入れない。
若い女性の司書は才人をちらっと見てマントを確かめると、再び視線を読んでいた本に戻した。ううむ、騎士の身分はやっぱり役に立つなあ、と思いながら、才人は図書館へと入っていく。
「うお。いつみてもすげえなあ」
図書館に、まず圧倒されるのはその本棚である。
高さは三十メイルほどもある。眩暈《めまい》がしそうな高さである。どうやら、本塔の大部分は、この図書館でできているらしい。とにかく膨大な量の本に、才人はしり込みした。
時間は夜の八時過ぎ。何時までやっているのかな、なんて考えながら、才人は一冊を手に取った。アルファベットを崩したようなハルケギニアの文字が並んでいる。
しばらく眺めていたが、どうにもこうにも理解不能だった。
「まあ、そりゃそうだよな……」
なんでまた才人《さいと》が本なんかを眺めにきたのかというと、こっちの字を覚えようと思ったのだった。今度の敵は、大国の王様である。剣を振り回すだけでは話にならない。騎士という身分も得たことだし、読み書きぐらいできないと話にならん、と考えたのである。
「日本語の辞書ねえかな」
もちろんそんなものは置いていない。
でも、何ゆえ言葉は通じるんだろう?
いつかデルフリンガーに聞いたら、『よくわからんが、こっちにやってくるときにくぐったゲートに秘密があるんだろうさ』なんて答えが返ってきた。
まあ、とにかく魔法だろう。魔法のおかげで、本来は通じない言葉が通じているのだ。飛んだり跳ねたり、炎を出したり、怪我《けが》が治ったり、本気で惚《ほ》れ薬があったりするぐらいだから、どんな魔法があったって才人は驚かない。
もしかしたら、ルイズの虚無≠ェ関係しているのかもしれない。
担い手のルイズにも、どんな魔法が存在しているのかわかってないぐらいだから、翻訳機能を備えた魔法ぐらい普通に存在するんだろう。
でも、それならば字もわかるようにして欲しい、と才人は思うのだった。
いったいどうしたもんか、と頭を捻《ひね》らせていると、遠くのテーブルに見知った顔を見かけた。
「タバサだ」
青い髪の小さな少女。そういや助け出して以来、ほとんど口をきいてなかった。もともと話しかけにくい雰囲気だし、ルイズの実家に行ったりなんだりで忙しくてそれどころじゃなかった所為《せい》もある。
でも、どうして母親をゲルマニアに置いて、再び魔法学院に戻ってきたんだろう?
才人はタバサに近づくと、話しかけた。
「よう」
いつものように無視されるのかと思ったら、違った。タバサは読んでいた本を閉じると、才人を見上げた。
「はい」
無垢《むく》な子犬のような目で、タバサは才人に返事をした。なんだかその態度が意外で、才人はちょっと驚く。
「いやその……、何か用事があるってわけじゃないんだけど、もう大丈夫なのか? 身体《からだ》とか……」
「大丈夫」
「そ、そっか……、ああ、あと言っとかなきゃならないことがあった。ギーシュたちがさ、その、お前の正体皆にしゃべっちゃったんだよ。ガリアのお姫さまってこと……、ああ、元だっけ? まずいよなあ」
タバサは首を振った。
「別に。ほんとのことだもの」
「そ、そうか。でも隠してたんじゃないのか。偽名までつかって……」
「もう、関係ない。かまわない」
淡々と、まるで他人事のようにタバサは言った。
「お母さんは、いいのか?」
そう尋ねたら、タバサはちょっと俯《うつむ》いた。
「ゲルマニアにいたほうが、安心」
そばについていなくていいのか、という意味だったのだが、これ以上聞くのもためらわれた。きっと、タバサにはタバサの考えがあるのだろう。
それに元々無口な少女だ。質問攻めにしたら可哀想《かわいそう》だろう、と才人《さいと》は思った。今だって、無理して答えているのかもしれないのだ。
「そっか、わかった。読書の邪魔して悪かったな」
そう笑いかけて立ち去ろうとしたら、
「あなたも、読書?」
そう尋ねられた。
タバサに質問されるのなんか初めてで、才人は面食らった。
「え?」
思わず聞き返してしまう。
「あなたも、読書をしにきたの?」
「ああ、違う違う。読書どころか、こっちの字が読めないからさ。覚えようと思って……」
「こっち?」
聞き返され、才人は慌てた。
才人がこっちの世界の人間じゃないということを、タバサは知らない。知っているのはルイズにアンリエッタ、シエスタ、そしてカトレア、ティファニア、コルベールにオスマン氏……、そのぐらいだ。水精霊騎士隊の連中も知らない。
今更隠すことでもないような気がしたが、特に話す理由もないので黙っていることにした。
「ほら、俺《おれ》は元平民だからさ、字がわからないんだ。でも、騎士になったから、少しは覚えないとな、と思ってさ。でも……、やっぱり無理だったな。ちんぷんかんぷんだよ」
するとタバサは、すっと立ち上がり、本を抱えて立ち去ってしまった。
「あ、おい」
呼び止めたが、タバサはすうっと魔法で飛び上がり、遥《はる》か本棚の高みへと上っていってしまった。二十メイルもの高さなので、飛べない才人《さいと》は追いかけることができない。
やっぱり読書の邪魔をされてイヤだったのかなー、と思いながら図書館を出ようとすると、いきなり目の前にタバサがすとん、と降りてきた。
「うわっ!」
驚いた才人に、タバサはすっと本を突き出した。
「……え?」
「この本だったら、簡単だから」
どうやら、自分に合うであろう本を探しに行ってくれたらしい。しかし、いつもは他人のすることに無関心なタバサにしては意外である。受け取って、いったいタバサはどうしたんだろう、と思っていると、さらに驚くべきセリフをタバサは口にした。
「わたしが字を教えてあげる」
「はい?」
「本を眺めているだけじゃ、覚えられない」
「いやま、そうだけど……、いいのか? 結構大変だと思うよ。俺《おれ》、あんまり頭よくないし」
「かまわない」
タバサは才人の手を取ると、机に向かって歩きだした。
ハルケギニアの文字は、アルファベットに似ているが、少し違う。タバサはまず、文字の読み方を一つずつ教えてくれた。
「アー、ベー、セー」
どこかで聞いた言葉のようだったが、うまく思い出せない。もしかしたら、そう聞こえているだけなのかもしれない。
次にタバサは文字のつ一つを指差し、その意味を丁寧に教えてくれた。
しかし何が不思議って、いざ単語になると……、『序章』とか『八月』とか『わたし』みたいに、日本語に変換されて聞こえるのであった。
たぶんタバサは、ハルケギニアの発音を行っているんだろう。しかし、それが耳に届く頃《ころ》には日本語になっている。
そしてさらに不思議なことに、タバサが少しずつ言葉の意味を教えてくれるたびに、今までただの文字の連なりにしか見えなかった文章が、一瞬見ただけでその意味が理解できるようになっていった。まるで頭の中に翻訳機があるようだった。
そんなきっかけを掴《つか》むと早かった。
一時間もすると、簡単な文章なら読めるようになっていた。才人は、教科書として使っていた簡単な本をすらすらと読み上げていく。
「どういうこと?」
いつもと変わらぬ抑揚で、タバサが言った。
「え?」
タバサは、一文を指差した。
「ここには、皿の上のミルクをこぼしてしまった≠ニ書いてある。しかしあなたは、取り返しのつかないことをしてしまった≠チて読んだ」
「いや、そう読めたというか、なんというか。ごめん、違ったか?」
タバサは首を振る。
「ううん。あなたは間違えていない。この皿の上のミルクをこぼしてしまった≠ニいう文章は慣用表現。その意味は確かに、取り返しのつかないことをしてしまった≠ノなる」
タバサは言葉を続けた。
「あなたはさっきから、書いてあることと微妙に違う文章を読んでいる。でも、間違っていない。むしろよく要約されて、文脈からするとより的確な表現になっている。まるで文章全体を、言葉のように捉《とら》えているみたい。確かに、犬やネコを使い魔にすると、人の言葉をしゃべったりできるようになる。でも、それだけでは、要約が可能な理由の説明にはならない。今みたいな朗読はありえない」
[#挿絵125]
タバサは才人《さいと》を、蒼《あお》い、透き通るような目で見つめた。
才人は冷たい瞳《ひとみ》のその奥に、微《かす》かな好奇心の光を感じた。タバサは本当のことを知りたがっている。自分は何者なのかって……。
「……確かにへんだよな。いやその、なんていうかさ、正確にいうと俺、読んで≠ネいんだよ。タバサに言葉の意味を教えてもらったのがきっかけだと思うんだけど……、書いてあることの意味≠ェ直接わかるんだよね」
「どうして?」
「俺がこっちの世界の人間じゃないからだと思う。俺はたぶん、タバサたちとはまったく違う言葉でしゃべっているはずだ。つまり、言葉が頭の中で翻訳されてるんだけど……。なんで意味が微妙に変わるんだろう? ああそうか!」
才人はその理由に気づいて、思わず叫んだ。
「本の場合は、いったん俺の頭の中で翻訳されて、口に出すときにまたこっちの言葉に翻訳されてるんだ」
日本語で書かれた文章を英文にする。その英文を翻訳して再び日本語の文章にすると、最初の文章とは微妙に変わってしまう。本を読む場合はそれが起こってるんだろう、と才人は思った。
なるほど、そういうことか、うん、と納得していると、タバサに尋ねられた。
「こっちの世界?」
「しまった」
成り行き上、才人はタバサに自分の境遇を説明する羽目になった。タバサは鋭いので、これ以上|誤魔化《ごまか》すわけにもいかなかったのである。
「違う世界の人間。そう」
才人の話を聞いたタバサは、軽く目をつむった。
「信じてくれるのか?」
「あなたは嘘《うそ》はつかない」
タバサは、まっすぐに才人を見て言った。
才人はその言葉で、ちょっと、どきっ、としてしまった。なんだか照れくさくって、才人はタバサから顔をそらす。
こんな小さな女の子にどきどきするなんて、捕まるぞ俺、と思いながらも、まっすぐな瞳から目が離せない。
「あなた、帰りたくないの?」
「え?」
「自分の家に……、お母さんのところに、帰りたくないの?」
「そりゃ帰りたいさ」
才人《さいと》は言った。
「じゃあどうして」
帰らないの? と尋ねたつもりなんだろう。
才人は、首を振った。
「帰る方法がわからないんだ」
「探せばいい」
「見当もつかねえよ」
「探す気が、ないように見える」
タバサは言った。その言葉に、才人は頭をかいた。
「いや……、なんていうかさ、帰るのもいいんだけど、こっちの世界でやり残したこともあるし、帰るわけにもいかないんだよ」
「どういう意味?」
「ルイズの力を狙《ねら》っている奴《やつ》もいるし……」
「虚無?」
「知ってたのか」
「見ればわかる」
タバサは淡々と言った。なるほど、知識の塊のようなこの少女に隠し事をしたって無駄なんだろう。
「そう。だから誰《だれ》かが守ってやらなきゃしょうがねえだろ。それに……」
「それに?」
「俺《おれ》はガンダールヴなんて力を得ちまった。そんな俺にはこっちの世界で何かできることがあるんじゃないかって……、そんな気がするんだよね」
ぽつりと、タバサは言った。
「無理してる」
「え?」
「あなたの中に、もう一人のあなたがいて、そう言わせているように感じる」
才人はどきっとした。呟《つぶや》くような小さな声で、タバサは言った。
「……どっちがあなたの勇者なんだろう」
「なんだって?」
小さくて、よく聞こえなかった。タバサは顔を伏せると首を振った。
「なんでもない」
二人の間に、沈黙が訪れた。なんだか、気まずい雰囲気である。
先ほどの司書が閲覧室に顔を出して、そろそろ閉館の時間です、と告げた。才人はこれ幸いと立ち上がると、
「ありがとう。助かったよ。あとは一人で勉強するわ」
タバサは首を振った。
「最後まで付き合う」
「え?」
「難しい単語も存在する。ルーン文字だってある。一人じゃまだ無理」
言われてみればそうかもしれない。でも、これ以上付き合わせるのも悪い気がした。
「いいよ、お前の読書の時間を奪ったら悪いし……」
「かまわない」
タバサはそう言うと、本棚から再び何冊か本を取り出してきた。
「次の教科書」
「今から? もう遅い時間だぜ?」
こくり、となんのためらいも見せずにタバサは頷《うなず》いた。
たまり場に料理を提供したあと、シエスタたちは食器の片付けや掃除があったので途中退室した。帰り際、もう一度たまり場を覗《のぞ》いたら、見習い騎士の生徒たちがへべれけに酔っ払っていたが、才人《さいと》はいなかった。貴族の少女が作った料理と、自分たちが作った料理、どっちがおいしかったのかまだ感想を聞いていない。
早いところ感想を伺いたいわ、と思いながら部屋に帰ってくると、そこは桃源郷であった。
「ミス・ヴァリエール?」
シエスタは、才人の主人である桃色の髪の少女を見つめた。いや、そこにいるのは、少女の格好をした……、
「マダム・バタフライのできそこない?」
ルイズはつかつかつか、と歩いてくると、シエスタの前で腕を組んでみせた。どこで覚えてきたのか、腰を振りつつの妙な歩き方である。つん、と腕を組んで澄ました態度は、いつものルイズなのだが、なにかが違う。
「誰《だれ》ができそこないよ」
「す、すいません! それともなんですか、何か今から仮装パーティでも始まるんですか? わたし、何にも聞いてませんけど……」
「なんで仮装パーティなのよ」
ルイズはじろっとシエスタを睨《にら》んだ。
「だ、だって、ミス・ヴァリエールのその格好……」
シエスタは呆《あき》れた顔で、ルイズの衣装を見つめた。いつものルイズの部屋着は、丈の長いネグリジェか、可愛《かわい》らしいキャミソールである。
しかし、今日のルイズはどこから持ってきたのか、黒いベビードール姿であった。
ルイズは澄ました顔で、ベッドに座って足を組む。
「ふぅ」
「ぷ」
シエスタが含み笑いをした。ルイズは素早くシエスタに近づくと、馬乗りになって杖《つえ》でつつきまわした。
「なに笑ってるのよ。言ってごらんなさいよ」
「わ、笑ってません!」
ルイズは何かに気づいたように、シエスタから離れた。
「いけない。大人《おとな》の女は、このぐらいのことで怒ったりしないの」
「大人にしては、胸の部分が非常に余ってますけど……」
シエスタがベビードールの胸の部分を指差して言った。ルイズの頬《ほお》がぴくん、と震える。しかしルイズは、首を振って言った。
「胸の大きさなんて、レディの魅力には関係ないのよ。大事なのは仕草と教養と……」
「と?」
「雰囲気よ」
そして気だるげに髪をかきあげる。
ははぁ、どうやらルイズはまた誰《だれ》かに妙なことを吹き込まれたらしい。黒ネコ、メイド……、そして次は大人の女性というわけね、とシエスタは見当をつけた。
「でも、どっかの誰かさんは、雰囲気よりボリューム重視のような気がしますけど……」
待ってました、と言わんばかりに、ルイズは振り向いた。
「違うの。それはね、間違いだったの。知ってる? サイトってば、わたしに夢中なのよ」
「えー、だってサイトさん、女王さまにも想《おも》いを寄せられていたじゃありませんか。サイトさんも、なんだか満更じゃないって顔されてました。そこにどうやってミス・ヴァリエールが入り込むんですか。普通に考えたら難しくないですか」
ルイズは得意げに髪をかきあげた。
「それがあのバカ、わたしを選んだみたい」
「えー」
「姫さま自らおっしゃったの。サイトは、わたしのことしか見てないって。困っちゃうわ! わたし、好きでもなんでもないのに……、迷惑だわ。まあ選ぶなというのも可哀想《かわいそう》だし、想いを寄せられるだけなら、まぁいいかなって」
ルイズは嬉《うれ》しそうに、鏡の前でポーズをとり始めた。そんなルイズを冷ややかにシエスタは見つめ、
「ウキウキしてますこと」
「とにかく、そんなわたしはもっと大事にされなくちゃいけないの。で、大事にされるためにはまあ、それなりの格好をしなくてはね。胸が大きいだけで、頭がカラッポのメイドなどとは、そこが違うのよ。どう? 似合ってるでしょ」
きっぱりと、シエスタは言った。
「似合いません」
しばしの沈黙のあと、ルイズは杖《つえ》を取り出し、シエスタを突き始めた。
「なんつったの? なんつったの? なんつったの?」
「だって! ミス・ヴァリエールの身体《からだ》つき、どう見ても大人《おとな》からほど遠いんですもん! もっと可愛《かわい》いお召し物を身に着ければよろしいのに!」
ルイズは立ち上がると、シエスタに背中を向けた。
「そのうち、ついた雰囲気がカバーしてくれるわ」
「つくかなぁ?」
「つくわよ。なに言ってるのよ。こういうのって、気分が大事なんだから」
「ま、大人はいいですけど……、この間の約束どおり、そろそろ一日貸してくださいね」
「好きにしなさい? というか、よくってよ」
「ほんとに? いいんですか?」
「いいわよ。約束したじゃない。大人の女のその一。約束はきちんと守る」
「だったらそうさせてもらいますね。何着ようかしら。うふふ」
「よかったら、服も貸してあげるわ」
「ほんとですかっ!」
シエスタは小躍りすると、クローゼットを開けた。
「わたし、実は着てみたいなー、と思ってた服があるんですよ? ほら、これ!」
それはいつぞやルイズが身に着けていた、黒ワンピースであった。胸元が大きく開いた、袖《そで》なしのデザインである。
「そんな地味なのでいいの? ま、何着たっておんなじだけど」
嬉《うれ》しそうにシエスタはその黒いワンピースを身に着け始めた。
「うわ……、きつい! でも、思ったとおりこの生地伸びますね」
ルイズのワンピースを身に着けたシエスタは、嬉しそうに鏡の前でポーズをとった。
「うわぁ、これ、身体のラインがくっきりわかっちゃいますね。いやだわ、どうしよう。こんなの着てたら、いいですよ♪ って言ってるようなもんじゃありませんか。困りますわ……、そんなの……」
そう言いながら、茹《ゆ》だった顔でシエスタは身をよじらせる。確かに、黒いワンピースははちきれんばかりに膨れ、脱いだらすごいシエスタの胸をことさらに強調しまくっていた。大きく開いた胸元からは、白い谷間がこれでもかと言わんばかりに存在を主張する。
シエスタは己の武器をルイズに見せつけた。
「どうですか? 大人《おとな》って、こういう雰囲気をいうんじゃありませんか?」
「違うわ。あいつはきっと、わたしみたいな小さな子が好きなの。だから姫さまにも、あんたにもなびかなかったに違いないわ」
「いっつも、胸の谷間とか夢中になって見てましたけど」
「胸が大きすぎる珍しい生き物がいるなーって。きっと生物学的好奇心なんだわ。いいこと? わたしが纏《まと》うのはただの大人な雰囲気じゃないの。わたしみたいな小さくって高貴な子が大人の雰囲気を纏う。それがいいの。おまけにちょっとやそっとじゃ怒らない寛容さを持ち合わせてしまった。やだ、こりゃ無敵だわ」
「そういうもんですかね」
「そういうものよ」
ルイズは鼻歌交じりにポーズをとり始める。シエスタは、そんなルイズをなんだか疑わしげに見つめていたが……、窓の外に想《おも》い人を見つけ、大声をあげた。
「サイトさん!」
「サイト? ドアは開いてないわよ」
「窓の外を、飛んでました!」
「はい?」
ルイズは窓から顔を出した。
「な、なによあいつ!」
才人《さいと》がタバサに手を引かれ、二階上のタバサの部屋に入っていくのが、月明かりに見えた。ルイズはダッシュで部屋を飛び出すと、階段を二段飛ばしで駆け上り、タバサの部屋の扉をバァーンと開けた。
机に座ったタバサの後ろ姿と、横に立つ才人の姿があった。二人は同時に振り返る。
「なんだ、ルイズか。どうした?」
きょとんとした声で、才人が言った。
ルイズは怒りがわくのを覚えた。しかし、その怒りをぐっとこらえる。
平常心、平常心。
大人の女は、このぐらいのことで怒ったりはしないものよ。
別にまだ、浮気をしていると決まったわけではないし……。
余裕の態度を気取り、ルイズは髪をかきあげた。
「あら、あんた。こんなところで、何をしているの?」
「ああ。字を教えてもらってたんだ」
「字?」
「うん。こっちの字が読めたほうが、いろいろと便利だろ?」
どうやら才人《さいと》は、タバサに字を習っていたらしい。
ルイズの頬が、ぴくん、と動いた。どうしてわたしに言わないのよ。というかわたしに教えてくださいって言うのが筋なんじゃないの?
しかしルイズは、そんな怒りを飲み込んだ。
今のわたし大人《おとな》。今のわたしレディ。
ルイズは手のひらに、レディ、と書いてそれを舐《な》めた。
心の中の大人ルイズが、怒り狂う子供ルイズをなだめる。
いいこと? 子供ルイズ。大人の女はね、余裕の態度を忘れてはいけないのよ。
そんなこんなで冷静さを装い、ルイズは才人に尋ねる。
「あんた、習う相手を間違えてるんじゃないの?」
「だってタバサが教えてくれるって言うもんだから」
この無口少女が、自分から言い出したですって?
ルイズはちらっとタバサを見た。しかし、タバサは相変わらずの無表情。その目からはどんな感情も読み取れない。でも……、このタバサに限って、才人に恋愛感情を抱くなんてことはありえないだろう。たぶん、助けてくれたお礼のつもりに違いない。
そう安堵《あんど》したら、再び自信がわいてきた。
なにせ今の自分は、大人の魅力|溢《あふ》れる……。
「え?」
ルイズは、才人が恥ずかしそうに目を伏せたことに気づいた。
あう。いけない。
今、自分はほとんど下着姿もいいところではないか!
そんな格好で廊下に飛び出し、人の部屋にまで闖入《ちんにゅう》してしまったのだ。恥ずかしさで死にそうになったが、ルイズはこらえた。死ぬ気でこらえた。
字なんかより、どうなのよ。
こんな大人なわたしが、ほらほら、いきなり現れた。
部屋で見るより、インパクトが強いのではないだろうか?
ほら、どうなのよ。思いっきり夢中になるがいいわ。
こんな大人で、色気たっぷりなわたしに夢中になって、永遠の奉仕者になるがいいわ、とルイズは勝ち誇る。
ふぅん、とつまらなそうに呟《つぶや》いて、ルイズは壁に手をついて、腰を横に突き出した。
本人は色っぽいと思っているであろう仕草で、才人を悩殺しようととうとう軽く親指までくわえてのけた。
「ちょ、ちょっと。な、なんだよ。その格好は……」
のってきたわ。のってきたじゃないの。バカ犬。
やん、わたしのこの大人《おとな》な魅力に気づいてしまったのだわ。
調子にのりまくったルイズは、次に右手を首の後ろにおいて、腰をそらせ、才人《さいと》に流し目など送ってみた。ルイズの細い肢体が、妖しい雰囲気を帯び始める。
才人の顔がますます赤くなっていく。横のタバサの顔がまったくの無表情なのが、いい対比であった。
「おかしいだろ。それ……」
おかしくないの。
これがわたしの実力なの。
ねえ犬。
気づいた? 犬。
あんたってば、ご主人さまが持ち合わせた、とんでもない魅力に気づいてしまったようね。
さあ、今こそあんたはわたしの永久の奉仕者宣言をしなくちゃいけないわ。
ルイズはとうとう奥義《おうぎ》を繰り出した。
右手を胸の上において髪の毛を一筋くわえ、左手でベビードールの裾《すそ》をわずかに持ち上げてみせた。
「め、目のやり場に困るだろっ!」
才人が絶叫した。ルイズは心の中で、高らかに凱歌《がいか》をあげた。
「ぴっちぴちじゃねえかよ!」
え? ぴっちぴち?
「シエスタ、それ、ルイズのワンピースだろ? そんなの着るなよ! サイズがあってないじゃないか! だからその、身体《からだ》の各部分というかその、ラインがくっきりというかその、とにかく目のやり場に困るんだよ! というか誰《だれ》かに見られたらどうすんだよ!」
そっちか。
ルイズの中で、凱歌が音を立てて崩れていく。
ルイズの横に立ったシエスタが、いやん、と呟《つぶや》いて身をくねらせた。
「そんなにジロジロ見られたら、恥ずかしいですわ」
「恥ずかしいのはこっちだよ! もう!」
才人は顔を真っ赤にして目をそらす。
ルイズは、小さな声で才人に尋ねた。
「ご、ご主人さまは?」
「あ? そういやルイズ、お前なんかヘンな格好してるな。なにそれ。カーテン?」
カーテン?
ルイズの肩が、わなわなと震え出す。
ぽつりとタバサが呟《つぶや》いた。
「似合ってない」
同時に、才人《さいと》が爆笑した。
「うわルイズ! なにそれ! もしかしてベビードールかよ! いや、レースのカーテンでも身体《からだ》に巻きつけてるのかと思った」
ルイズは無言で倒立前転すると、才人の腹に、鮮やかな両足をそろえたキックを叩《たた》き込んだ。
壁にぶち当たって悶絶《もんぜつ》する才人に、ルイズは杖《つえ》を突きつける。
「あんたは死んで生まれ変わって死んで、二回ぐらい、死になさい」
しかし……、その前に杖を構えたタバサが立ちふさがった。
「なによ! あんた!」
「この人に手は出させない」
純粋にかばう言葉だったのだが、ルイズは深い意味にとってしまった。
「おまけに、手を出してたってわけ? いや、随分とお手がはやいことで」
「あのな……」
「わ、わたしより小さな子に、ちちち、ちち、小さな子に! 小さな子に!」
唯一のアドバンテージだと思っていた部分をあっけなく否定され、ルイズは震えた。そして杖を振り下ろす。
「うわあ!」
才人は頭を抱えた。
しかし……、何も起こらない。
あの恐怖の爆発音が響かない。
「あれ?」
ルイズの、間が抜けた声が響いた。
「なんだ? どうした?」
「出ないわ。エクスプロージョン≠ェ出ない!」
「命拾いか」
才人はそう呟いたが、ルイズはもう、半狂乱である。
「ええええ! どゆこと! なんで出ないのー!」
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第七章 ロマリアの教皇
宮廷の応接間に迎えた客を見て、アンリエッタはしばし呆然《ぼうぜん》としてしまった。
濃い紫色の神官服に、高い円筒状の帽子は、彼がハルケギニア中の神官と寺院の最高権威……、つまりロマリアの教皇であることを示している。
その地位は、ハルケギニアの各王よりも形式上高いために、アンリエッタは上座に彼を迎えていた。
しかし、その若い男の顔には、纏《まと》った神官服のカケラほども偉ぶったところがない。目元は優しく、鼻筋は彫刻のように整っている。形のいい小さな口には常に微笑がたたえられていた。そして……、誰《だれ》もが振り返るほどに美しい。ハルケギニア中の劇場を覗《のぞ》いても、彼ほどに美しい役者を見つけるのは難しいだろう。
その微笑《ほほえ》みはまるで、慈愛に満ちた神のようだ、とアンリエッタは感想を抱いた。
「どうなされました。アンリエッタ殿」
アンリエッタは我に返り、恥ずかしげに俯《うつむ》いた。
「申し訳ありません。教皇聖下。聖下のご威光に打たれて、しばし感動しておりました」
細い金糸のような髪をさらさらと揺らして、ロマリア教皇は笑った。
「ヴィットーリオとお呼びください。私は堅苦しいばかりの行儀を好みません。それが元で、本国の神官たちには、いつもしかられておりますがね」
「恐れ多いですわ。即位式には出席できませんで、大変失礼いたしました」
ヴィットーリオ・セレヴァレこと、聖エイジス三十二世の即位が行われたのは三年ほど前のこと。ハルケギニアの各王族は揃《そろ》って参列する慣わしであったが、アンリエッタは流行風邪をこじらせ、出席できなかったのである。
聖エイジス三十二世……、始祖の盾≠ニ呼ばれた聖者の名を受け継ぐ、三十二代目の教皇が、二十歳を僅《わず》かに過ぎたばかりの若者であること、とんでもない美青年であることは伝え聞いてはいたが、これほどとは思わなかった。
「かまいませぬ。即位式など、ただの儀式です。あなたが、神と始祖の敬慶《けいけん》なるしもべということに変わりはありません。それで私には十分なのです」
このエイジス三十二世は、若いながらもロマリア市民たちの支持を熱烈に受けているという。その理由は、この包み込むような寛大な雰囲気にあるのかもしれなかった。アンリエッタにそう思わせてしまうほど、この若い教皇には尊大なところが微塵《みじん》も感じられない。
しかし……、随分といきなりの訪問である。
聖エイジス三十二世のトリステインへの行幸が伝えられたのは、つい二日前のこと。宮廷は突然の賓客《ひんきゃく》におおわらわとなった。教皇がわざわざ出向いてくるなど、滅多《めった》にない。父王の戴冠式の折、先代教皇の来賓《らいひん》を賜《たまわ》ったのが最後である。
そんな聖エイジス三十二世の突然の訪問の理由はわからない。
母后《ぼこう》と宰相マザリーニを交えての会食もそこそこに、アンリエッタは人払いをして、応接間までやってきたのであった。
「しかし、ハルケギニアの華と謳《うた》われた、アンリエッタ殿は本当にお美しい。お会いできて光栄至極に存じます。僧籍になければ、ダンスの一つも申し込みたいところです」
「お尋ねしてよろしいでしょうか?」
「なんなりと」
「こたびの突然の御行幸の理由を、お教えくださいますか?」
まさか、茶飲み話に来たわけではあるまい。
すると聖エイジス三十二世は、深いため息をついた。
「アンリエッタ殿は、先だっての戦役をどうお考えか?」
アルビオンでの戦のことだ。レコン・キスタと名乗る貴族の連盟が、アルビオン王家を廃し、王政に頼らない全貴族の連合と聖地≠フ回復を掲げて始めた戦……。
トリステイン・ゲルマニア連合軍とのレコン・キスタのその戦いは、突然のガリア王国の参戦によって、連合軍の勝利に終わった……。
アンリエッタから最愛だった人物を奪った戦。
思い出したくない、つらい戦いであった。
悲しそうに、アンリエッタは顔を伏せた。
「悲しい戦でありました」
「…………」
「もう二度と、あのような戦は繰り返したくない。そう考えております」
聖エイジス三十二世は、満足げに頷《うなず》いた。
「どうやらアンリエッタ殿は、私の友人であるようだ」
「どのような意味でしょうか?」
「その通りの意味ですよ。私も、あの戦では心を痛めたのです。義勇軍の参加を決意したのも、なるべく早く、無益な戦を終わらせたかったからです」
無益な戦……、その言葉に、アンリエッタの心が強く反応した。
「益ある戦など、あるのでしょうか?」
聖エイジス三十二世は、大きく頷いた。
「アンリエッタ殿のおっしゃるとおりです。益ある戦など、あるはずがない。常々、私はこう悩んでおります。神と始祖ブリミルの敬慶《けいけん》なるしもべであるはずの私たちが、どうしてお互いに争わねばならぬのかと」
苦しそうな声で、アンリエッタは言った。
「わたくしは政治家としては未熟ですが……、人に欲ある限り、戦はなくならぬものと考えております」
「始祖ブリミルも、欲の存在は肯定しております。欲、それ自身が人を人たらしめていると。なればこそ、自制が美しいのだと。我ら神官が、妻帯に対する制約を設けたり、週に一度の精進を行っているのは、自制の在《あ》り方を忘れぬためなのです」
「すべての人が、聖下のような自制ができれば、この世から争いごとはなくなるでしょうに」
「そうあれば、これ以上のことはないでしょう。しかし私は現実主義者です。我らロマリアほどの信仰をハルケギニアの民に求めることの愚かさも、知り尽くしております」
「聖下の前で言う言葉ではありませんが、真の信仰が地に沈んだ、このような世の中ですから」
しばらく、教皇は言葉をつぐみ……、空を仰ぐようにして呟《つぶや》いた。
「この国は美しい国ですな。春に色づく田園、豊かな森、水の国の名に恥じぬ、美しい河川……。ロマリアは水が乏しい。実に羨《うらや》ましい話です。このような美しい国を、戦火の中に巻き込むことは、神への冒涜《ぼうとく》としか思えませぬ」
「その平和を守ることが、わたくしの使命、そう考えております」
アンリエッタは言った。なんだ、観光がてら実のない平和主義を説きに来たのか、ロマリアの教皇聖下も暇なことですこと、と軽くがっかりした。
壁にかけられた簡易なつくりの時計を見つめ、アンリエッタは立ち上がろうとした。
「では、部屋と召使を用意させますわ。好きなだけご滞在くださいませ。御観学の際には、護衛もつけさせましょう」
しかし、聖エイジス三十二世は立ち上がらない。
「聖下?」
「そのアンリエッタ殿の使命を果たすためのお手伝いをしに、今日は参ったのです」
人払いをした中庭に、聖エイジス三十二世とアンリエッタはやってきた。春の陽光が差し込む宮殿の中庭には、ガリアのリュティス宮殿ほどではないが、花壇が築かれ、様々な花々が咲き誇っていた。花壇の隙間《すきま》を縫うようにして設けられた小路《こうじ》を歩きながら、聖エイジス三十二世は押し黙ったままだった。
「わたくしに、見せたいものとは?」
痺《しび》れを切らしたように、アンリエッタは言った。聖エイジス三十二世は、花壇の一角に気づき、しゃがみこんだ。
「こちらをご覧ください」
そこにはアリが群れていた。
「アリがどうかいたしましたか?」
「赤いアリと、黒いアリが、餌《えさ》を挟んで争っております」
なるほど、小さな羽虫の屍骸《しがい》を奪い合って、赤アリと黒アリの群れが争っている。必死になって二種類のアリは争っている。
「小さなアリの間でも、争いは存在するのですね」
聖エイジス三十二世は、羽虫を取り上げると、ふたつに千切った。それを赤アリと黒アリ、両方の群れに投げ込んだ。
次第に二つの群れの争いは収まり、それぞれの獲物を抱えて巣に戻り始める。
「お見事な仲裁ですわね」
「アリは何に仲裁されたのか理解できていないでしょう。それは私が、アリの知覚できる以上に巨大な存在だからです。アリにとって、人間は絶大な力を持っています。私がその気になれば、アリの巣を滅ぼすこともできる。もちろん、そんなことをするつもりはありませんが」
「何がおっしゃりたいのですか?」
「要は力なのです。平和を維持するためには、巨大な力が必要なのです。相争う二つの集団を、仲裁することのできる巨大な力が……」
「どこにそのような力が……」
アンリエッタはそう言いかけて、目の色を変えた。
「そうです。アンリエッタ殿もご存知の、伝説の力……」
「なんのことだか、わたくしにはわかりかねますわ」
アンリエッタは咄嗟《とっさ》に惚《とぼ》けた。しかし、聖エイジス三十二世は、言葉を続けた。
「神は我らに力をお与えくださった。力というものは、色のついていない水のようなもの。白くするも、黒くするのも、人の心です」
「聖下、おお、聖下……」
アンリエッタは首を振った。
「始祖の系統をご存知ですかな」
「虚無≠ナすわ」
「はい。偉大なる始祖ブリミルはその強大な己の力を四つに分け、秘宝と指輪にたくしました。トリステインに伝わる、水のルビーと始祖の祈祷書《きとうしょ》もそうです」
「ええ」
「また、それを担うべき者も、等しく四つ≠ノ分けました。おそらく力が一極に集中することを恐れたのでありましょう」
アンリエッタはルイズのことを思い出した。そして、ルイズたちをつけねらう、未《いま》だ正体のわからぬガリアの担い手。アルビオンでひっそりと暮らす、会ったこともないハーフエルフの少女……。
彼女は無事だろうか?
アルビオン王家の忘れ形見、つまりは自分の従妹《いとこ》にあたる少女……。慎《つつ》ましやかに暮らすのが、彼女の幸せだと聞いたからそっとしておいたが……、それで彼女は大丈夫なのだろうか? アンリエッタのそんな想《おも》いを、現実の会話が引き戻す。
「その上で、始祖はこう告げたのです。『四の秘宝、四の指輪、四の使い魔、四の担い手……、四つの四が集いし時、我の虚無は目覚めん』」
「なんと恐ろしい力でありましょう」
「言ったでしょう? 神がお与えになった力です。白になるも黒になるも、人次第です」
「過ぎたる力は人を狂わせます。わたくしは母からそう習いました。わたくしも、そう思います。できることなら、そっとしておきたいのです」
「その状態で何年、我らは無益な争いを繰り広げてきたのですか?」
アンリエッタは言葉を失った。ハルケギニアの歴史は抗争の歴史。まさにその通りであった。
聖エイジス三十二世は、ポケットから何かを取り出した。色とりどりの飴玉《あめだま》であった。それを、アリの群れに投げ込む。
アリたちは、突然の恵みに夢中になった。大量の飴玉に取りつき始める。先ほどのように争いはしない。これだけの量があれば、争う必要などないのだった。
「強い力には、それに見合う行き先が必要です。我らはそれを、すでに持っているではありませんか」
「行き先?」
「今投げた飴玉がなにか、わかりますか?」
「わかりませぬ」
「聖地≠ナす」
聖エイジス三十二世は告げた。
「……聖地」
エルフが守る、始祖ブリミルが光臨せし土地。ハルケギニア中の王国が何度も連合して奪回を目指したが、ついぞ果たせなかった土地……。
「聖地は、ただの聖なる土地ではありません。そこは我らの心の拠《よ》り所なのです。拠り所なくして、真の平和はありません」
「でも……、エルフは強力な……」
「先住魔法を使う。そうです。ハルケギニアの王たちは、何度も敗北しました。しかしながら、彼らは始祖の虚無≠持っておりませんでした」
「……また争うのですか? 今度はエルフと? おっしゃったではありませんか! もう争いはたくさんだと!」
「強い力の存在は争うことの愚を、エルフたちにも知らしめてくれるでしょう。強い力は使うものではありません。見せる≠スめのものであるのです」
聖エイジス三十二世は、力強い目でアンリエッタを見つめた。その目には、いささかの曇《くも》りも感じられない。ただ、己とその信仰に絶対の自信を置く、聖職者の目であった。
「……見せるためのもの?」
「そうです。我らはエルフたちと、平和的に交渉≠キるのです。そのためにはなんとしてでも強大な力……、始祖の虚無≠ェ必要なのです」
アンリエッタはこの若い教皇の考えに引かれていく自分を感じた。現実的で、無駄がなく……、そして見果てぬ理想への憧《あこが》れを感じた。理想と現実、相反する事柄に、必死に折衷を見つけようとする苦悩を感じた。
それは今現在の自分の姿でもあった。
でも、どうしても踏み出せない。
勇気が出ない。
そんなアンリエッタを見て、教皇は笑みを浮かべた。
少年のような笑みであった。
少年は大人《おとな》になる前に一度は、このような壮大な理想を持つという。その理想は大人になるにつれ、現実に飲み込まれていく。
しかしこの教皇は、その少年のまま大人になったような……、そんな気がした。
「聖下のお話は壮大すぎて……、人の身であるわたくしには、それが正しいのかどうか判じかねます。しばしのお時間をいただけますか?」
「アンリエッタ殿のおっしゃることは大変ごもっともです。しかし、あまり猶予《ゆうよ》がありません」
「猶予とは」
「ガリアです。哀しいことに、かの国は信仰なき男に治められている。民の幸せより、己の欲望を是とする狂王が支配しております。アンリエッタ殿、私たちには、お互い真の味方が必要なのです」
アンリエッタの脳裏に、ガリア国王ジョゼフの姿が浮かんだ。諸国会議の折の人を食った態度。何度も|ルイズ《虚無》をつけねらった野心家。実の弟であるオルレアン公を虐《ぎゃく》し、姪《めい》であるタバサに非道を繰り返した残虐な男……。
「お心当たりがあるでしょう? かの男に、始祖の虚無≠与えるわけにはいきませぬ」
「はい」
アンリエッタは頷《うなず》いた。それだけはまったく同意できた。
「神と始祖のしもべたるハルケギニアの民のしもべである教皇として、私はあなたに命じます。お手持ちの虚無≠一つところに集め、信仰なき者どもよりお守りくださいますよう」
アニエスは、女王と教皇の中庭での会談をじっと見守っていた。周りには銃士隊の面々が見える。彼女たちは、遠巻きに護衛を行っているのであった。
会談はようやく終わったらしく、アンリエッタは小さく手を動かし、アニエスを呼んだ。
アニエスは女王の元へと向かい、膝《ひざ》をついた。
「隊長殿、教皇聖下がお休みになります。お部屋にご案内してください」
「御意」
立ち上がり、アニエスは教皇の前に進み出た。
「聖下、ご案内つかまつります」
「ご苦労様です」
顔をあげたアニエスは、聖エイジス三十二世の顔を見て息をのんだ。いつも崩さない、冷静沈着な軍人の仮面が掻《か》き消え、その目が丸く見開かれる。
「どうなさいましたかな?」
優しげな教皇の言葉で、アニエスは慌てて頭《こうべ》を垂れた。
「し、失礼をいたしました」
アニエスは、激しい動悸《どうき》を感じながら……、歩き出した。一瞬で二十年前に引き込まれたような、そんな気がした。
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第八章 ヨルムンガント
「ルイズ、授業に行くぞ」
才人《さいと》は、ルイズを起こそうとした。しかし、ルイズは毛布を引っかぶったままベッドから出てこない。
「起きろよ」
才人は毛布を引っ張った。しかし、強く引っ張り返される。どうやらルイズはベッドから出てくる気はないらしい。そんな様子を見ていたシエスタが、才人の肩をつんつんとつついた。
「ん?」
シエスタは才人に抱きつくと、大声を出した。
「そんな! サイトさん! 朝からそんな!」
それでも、ルイズはベッドから起きてこない。どうやらかなり落ち込んでいるようである。
「なあルイズ……、そんなに落ち込むなって」
すっとシエスタは才人から離れ、呟《つぶや》くように言った。
「サイトさんが、ミス・ヴァリエールが落ち込むようなことするからです」
「は? してないよ。俺《おれ》」
「嘘《うそ》ばっかり。だったらどうしてこんなにミス・ヴァリエールが落ち込むんですか? あの女の子に何をしたんですか?」
「あのなあ、俺は字を教えてもらってただけだって!」
「ほんとですか?」
「あったりまえだろ。なんで俺がタバサにそんなことしなきゃならないんだよ。ルイズは、魔法の調子が悪くて落ち込んでいるんだろ。ほら、ルイズ。ちょっと調子が悪いぐらいでなんだよ」
才人はゆさゆさとルイズを揺さぶった。
「サイトさん」
「ん?」
「あんな小さな子が……。なるほど、そういうご趣味だったんですね。母が言ってました。必要以上に若い子が好きな男は、将来やらかすよって」
「あのね」
「でも、そんなやらかすであろうサイトさんが……、わたし……」
シエスタはぽっと顔を赤らめたので、才人は頭が痛くなった。
「とにかくルイズを起こさないと……、ほらシエスタ、そっち持って」
才人《さいと》とシエスタは、いっせーので毛布を引き剥《は》がした。毛布にくっついて、ルイズがごろん、と床に転がった。昨日のベビードールの上に、ネグリジェを羽織った妙な格好であった。夜は冷えるので、シエスタが着せてやったのである。
「おいルイズ。朝だぞ」
「ふにゃ」
才人に頬《ほお》をぴちゃぴちゃと叩《たた》かれたが、ルイズはほぼ無反応。ただぼんやりと天井を見つめるのみである。
「うわあ、ほんとに抜け殻みたいになってますわ」
シエスタはルイズをつついた。
「ふにゃ」
「ミス・ヴァリエール、起きてくださーい」
「ふにゃ。ふにゃにゃ」
「わ、結構面白いですね。これ」
シエスタはルイズをつつきまわした。しかしルイズはされるがまま。
「参っちゃったな……。なあルイズ、誰《だれ》だって調子の悪いときはあるよ。そんなに落ち込むなって」
するとルイズは、やっとのことで口を開いた。うつろな、独り言のような声である。
「ダメよ。あれから何度やっても虚無≠ェ撃てないの。というか何を唱えても爆発すらしない。今までそんなことなかったわ」
「調子が悪いだけだよ」
しかし、そんな才人の慰めは、床にのびるルイズには届かない。
「どうしよう……、虚無≠セけがわたしのすべてなのに……、それがなくなっちゃったら、またゼロのルイズじゃない……」
「振り出しに戻る、でいいじゃねえか」
しかしルイズはもう応《こた》えない。その視線は、ぼんやりと虚空をさ迷っている。
「デルフー」
才人は剣に尋ねてみることにした。最近、放《ほう》っておかれることの多いデルフリンガーは、不機嫌そうに応えた。
「あんだよ。もうほんと、聞きたいことがあるときだけ呼ぶんじゃねーよ。切りたいものがあるときだけ抜くんじゃねーよ。もう俺《おれ》に飽きたんだろ?」
「いいから。ルイズが虚無を撃てなくなったわけを教えてくれよ」
「精神力が切れたんだろ」
「なるほど。なんだっけ、眠れば回復するんだっけ」
「いや、虚無≠フ場合はそうことは単純じゃねえな。普通の系統魔法なら、何日か寝れば大体回復するが……、虚無≠ヘ今までコツコツと溜《た》めてきた分を消費する。ほら、ルイズがいつだか巨大なエクスプロージョンをぶっ放しただろ?」
「ああ、あの巨大戦艦を沈めたやつか」
「あれは、生まれてこのかたずっと溜まってた精神力を消費してぶっ放したんだ。だからあんだけ大きなやつが撃てたのさ。それからは、少しずつ残りの精神力を消費してきたんだろう。二度とあんなでっかいやつは撃てなかっただろ?」
言われてみればそうかもしれない。あんな巨大な光の玉には、未《いま》だお目にかかっていない。
「じゃあ、またコツコツ溜めればいいだけの話だろ」
「でもなあ、再び虚無≠ェ撃てるようになるにはどんだけかかるかわからねえ。一年か、二年か……、はたまた十年か」
「そりゃ気が長い話だな」
「強いってことは、それだけ使いづらいってことさ」
才人《さいと》はルイズを見つめた。床にぐでっと伸びて、泣きはらしたのか目を赤くしている。
そんなルイズを見ていたら、才人はせつなくなってしまった。
「なあルイズ、しばらく休もうぜ。お前は十分に働いたよ。神さまが休めって言ってるんだよ」
「……そういうわけにはいかないわ」
「なんで」
「こうしている間にも、どこで誰《だれ》かがよからぬことを企《たくら》んでいるかもしれない。あんたの帰る方法だって探さなくちゃならない。やらなきゃならないことはいっぱいあるじゃない。それなのに……、これじゃわたしただの役立たずじゃない……」
ルイズは再び泣き出した。そんなルイズをシエスタが慰める。
「そんな……、ミス・ヴァリエールは役立たずなんかじゃありませんわ。こんなに愛らしいじゃありませんか。そこにおられるだけで、皆を慰めるお力をお持ちでございますわ。ほら、泣き止《や》んでくださいな」
しかしルイズは泣き止まない。そんなルイズが可哀想《かわいそう》になってしまったのか、シエスタまで泣き出してしまった。
さて、どうしたもんか、と頭を悩ませていると……。
「サイトォ〜〜〜〜〜〜〜〜! ご下命が来たぞ! 我が水精霊騎士隊に、陛下のご下命だ!」
ギーシュが飛び込んできた。
「ご下命?」
「そうだ! ルイズと、我ら水精霊騎士隊に直々のご下命さ! ああよかった! 罰こそいただかなかったが、陛下の御不興を買ってしまったかと戦々恐々としてたんだ!」
「お前のどこが戦々恐々としてたんだよ。バカ騒ぎをしてたくせに」
「そんな意地悪を言うなよ。顔では笑っていても、心中穏やかじゃなかったんだぜ。とにかく、そんなぼくの心配は杞憂《きゆう》だったみたいだな。ぼくたちに対する、陛下の信頼は揺るがなかったというところだね」
「で、姫さまはなんだって?」
「とにかくお城に来てくれとのことだ。ああ、参ったなぁ。また授業に出れないではないか!」
嬉《うれ》しそうにギーシュは身震いした。
才人《さいと》は、ルイズがこんなときだし、面倒ごとはちょっとごめんであった。しかし……、自分たちの無断越境を許してくれたアンリエッタの頼みを断るわけにもいかない。
才人は素早く支度をした。といっても、デルフリンガーを背負っただけである。
「ほかの皆は?」
「とりあえず、ぼくときみと、ルイズだけでいいみたいだな」
「ルイズはいい」
「え? なんでだい」
[#挿絵165]
「行くわ」
すっくと、ルイズは立ち上がった。
「無理すんなよ。調子悪いんだからよ」
「調子がよかろうが悪かろうが関係ないわ」
「いったい、どうしたんだね?」
ギーシュが、怪訝《けげん》な顔で二人を見つめる。
「いや、こいつな? 今、呪文《じゅもん》が……、あいでっ!」
いきなりルイズに股間《こかん》を蹴《け》られ、才人《さいと》は悶絶《もんぜつ》した。
「……余計なこと言わないで。姫さまは何かお困りなのよ。わたしが行かないでどうするのよ」
そのとき、窓から一羽のフクロウが飛び込んできた。
「あら。トゥルーカス。どうしたの?」
その名前に才人は覚えがあった。どこだっけ? と頭を捻《ひね》っていると、そのフクロウはルイズに一通の封筒を手渡した。
「ルイズさまにお手紙です」
「手紙?」
ルイズはその手紙を読み始めた。一瞬、顔が輝いたが……、再びその顔が曇《くも》っていく。
みるみるうちに蒼白《そうはく》になっていった。
「どうしたんだよ。誰《だれ》からの手紙だよ」
返事はない。ルイズはその手紙をポケットにねじりこむと、着替えるためによたよたと歩き出した。
「おい、お前、ほんとに大丈夫なのかよ」
厩《うまや》で、自分の馬に鞍《くら》をつけながら才人は尋ねたが、ルイズは応《こた》えない。きゅっと唇を真一文字に結んで、黙々と馬に跨《またが》った。
やれやれ、簡単な任務だといいなあ、と思いながら校門をくぐると、空からシルフィードが降ってきて、一同の前に着陸した。
「なんだよ! お前たち!」
見ると、タバサとキュルケが乗っている。
「わたしも行く」
そう口を開いたのは、キュルケではなくタバサであった。
「この子、窓からあなたたちを見かけたら、すぐに飛び出していくんだもの。びっくりしたわよ」
キュルケが両手を広げて言った。
「な、なんでお前が?」
才人《さいと》はちょっと驚いて言った。昨晩、熱心に字を教えてくれたことといい、随分と協力的である。
「愚問ね。あなたに助けてもらったからでしょ」
「別に助けたのは俺《おれ》だけじゃないよ」
才人は言った。
「きっと、あなたは特別なのよ」
キュルケがにやっと笑いながらそう言った。
「ルイズ、乗せていってくれるってよ」
才人はルイズに呼びかけた。
しかしルイズときたら、心ここにあらずといった風情である。馬に跨《またが》ったまま、一人先に行こうとしている。
「おいルイズ。馬で行かなくてもいいだろ。運んでくれるって言うんだから、シルフィードで行こうぜ」
才人がそう言っても、ルイズは馬に鞭《むち》をくれて走り出す。
「なんだあいつ」
さっき、手紙を読んでから態度がさらにヘンである。いや、いつもルイズはヘンだしな、と思いながら才人はギーシュに続いてシルフィードに飛び乗った。
シルフイードは勢いよく羽ばたいて、空に駆け上った。
眼下を見ると、ルイズは前のめりになってぱからっ、ぱからっ、と必死になって馬を走らせている。放《ほう》っておくわけにもいかなく、才人はシルフィードに頼んだ。
「シルフィード、あいつも乗せてやってくれよ」
「きゅいきゅい」
嬉《うれ》しそうにシルフィードは鳴くと、降下してルイズと跨った馬をいっしょくたにくわえあげた。竜にくわえられた馬は驚いて、ヒヒーン! と鳴き叫んだ。
シルフィードは器用に長い舌を動かし、ルイズだけを背中に放り込んだ。
どでっ! と涎《よだれ》だらけになったルイズを、才人は抱きとめてやった。
そんな乱暴にされているというのに、ルイズときたら文句を言うわけでもなく、肩を抱いてぶるぶると震えているではないか。
「ん? どうしたの? この子」
先ほどの手紙になんて書いてあったんだろう?
才人は気になった。
自分の虚無≠ノ関することで、誰《だれ》かに何か言われたんだろうか?
才人は先ほどのフクロウの正体に気づいた。
そういや、あれはルイズの実家にいたフクロウじゃないか! いつぞや、カトレアの馬車の中であのトゥルーカスが飛んできたことを思い出し、才人《さいと》は膝《ひざ》を打った。
あの厳しい家族の誰《だれ》かに、何か言われたに違いない、と才人は見当をつけた。その手紙の内容は、きっと精神力が切れて、虚無≠ェ撃てなくなったルイズにとって、追い討ちをかけるようなものだったんだ。
とりあえず自分から話してくるまで、そっとしておこうと才人は思った。
王宮に到着した一行を待ちわびていたのは、随分と悩んだ様子のアンリエッタであった。女王は水精霊騎士隊の面々を見つめ、
「ようこそいらしてくださいました。あなたがたにお頼みしたいことがあるのです」
「どのようなご用命でございましょうか?」
膝をついたギーシュに、アンリエッタは頼みごとを打ち明けた。
「アルビオンの虚無の担い手を、ここに連れてきていただきたいのです」
「ティファニアを?」
才人が驚いた声で言うと、アンリエッタは深く頷《うなず》いた。
「……やはり、虚無の担い手を一人住まわせておくわけには参りませんから。それに彼女はアルビオン王家の忘れ形見だし、つまりはわたくしの従妹《いとこ》ではありませんか。やはり、放《ほう》っておくわけにはいきませぬ。ルイズ、あなたを襲ったように、いつ何時《なんどき》ガリアの魔の手が伸びるやもしれませぬ」
「彼女は一人じゃありませんよ。孤児たちといっしょに暮らしてるんです。ティファニアは彼らのお母さん代わりなんだ」
「ならば、その孤児たちも連れてきてください。生活は保障いたしましょう」
「……わかりました。それほどにご心配なら、連れてきますよ」
「ありがとう。お願いするわね」
アンリエッタは深いため息と共に、椅子《いす》に肘《ひじ》をついた。その様子に、才人は首をかしげた。
「なにかご心配ごとでもあるんですか?」
「いずれ話します。今は急いでくださいまし」
「フネで行ったら時間がかかるよなぁ……」
すると、後ろに控えたタバサが、小さく呟《つぶや》いた。
「シルフィード」
「そうだ。シルフィードなら、フネより速いぞ」
ギーシュも頷く。
アンリエッタはタバサに気づき、その手を取った。
「ガリアの姫君でございますわね。ご協力を感謝いたします。いずれ改めて、あなたのご境遇と今後の身の振り方を相談させてくださいまし」
タバサは小さく頷《うなず》く。
「帰りには、ロサイスまでフネを用意させましょう。とにかく、早くアルビオンへ向かってくださいまし」
アンリエッタは、深く悩んでいる様子で、そう一行に告げた。才人《さいと》は、ルイズとアンリエッタを交互に見つめた。仲良しの二人が口をきかないのは珍しい。お互い、心ここにあらず、といった風情である。それほどに心悩ます事態が、二人の心には渦巻いているのだ。
いったい、それはなんだろう、と才人は気になった。
海沿いのガリアの街、サン・マロン。
ガリア空海軍の一大根拠地であるここには、ハルケギニアの各空軍基地と同じように様様な建物が並んでいる。鉄塔のような空飛ぶフネの桟橋《さんばし》をはじめ、レンガ造りの建物がいくつも立ち並ぶ。
市街地から離れた一角に、その建築物はあった。レンガと漆喰《しっくい》で造られた土台の上に木枠と帆布でくみ上げられた、円柱を縦に半分に切って寝かせたような建物である。
周りには衛兵が立てられ、近郊の市民たちが容易に近づけないようになっていた。
一隻の巨大なフネが、その建物の前に建てられた鉄塔へと近づく。
歩哨《ほしょう》に当たっていた兵隊がそのフネを見上げ、
「やぁ、シャルル・オルレアンじゃねえか」
「相変わらずでっかいフネだなあ」
三年前に亡くなった王弟の名がつけられたそのフネは、ガリア王室のお召艦《めしかん》である。全長百五十メイルとその全長は、アルビオン空軍のレキシントン号が沈んだ今となっては、ハルケギニア最大の艦であった。
しかし、進空したのがつい最近のため、戦闘力という点では艦齢《かんれい》の古かったレキシントン号よりはるかに勝る。片舷《かたげん》百二十門、合計二百四十門もの大砲を備え、数々の魔道具を改良した武器が備えつけられたその艦は、ハルケギニア最強国ガリアの象徴ともいえた。
マストに翻《ひるがえ》る王室の座上旗を見て、衛兵は息をのんだ。
「おい、旗を見ろ。王さまが乗ってなさるぜ」
「ほんとだ。なんだ、こんな田舎に視察かい」
衛兵は、のん気な声で呟《つぶや》く相棒に目を細めてみせた。
「この実験農場≠ェできてからこっち、ヘンじゃねえか?」
「なにがだね」
「だってよ、怪しい連中が次から次へとやってくるじゃねえか。ついには、王さまのお出ましだ。ここだけの話だがな、イルマンの奴《やつ》がエルフを見たって言ってたぜ」
低い声で、相棒が呟《つぶや》いた。
「エルフ? いくらなんでもそりゃ嘘《うそ》だろ。あの酔いどれのイルマンの言うことなんざ、当てになるかい」
「いやいや、それが本当らしい。そんときゃ珍しく素面《しらふ》だったそうだ。夜中に取り巻きを引き連れて、この実験農場≠フ中に入っていったって。帽子の隙間《すきま》から、長い耳が覗《のぞ》いてたって言ってたぜ」
相棒は震えた。
「怖がらせるない」
フネが鉄塔に取りつき、集まった基地つきの楽団が王を迎える演奏を開始した。儀仗兵《ぎじょうへい》が鉄塔から延びる石畳の通路の左右に並び、杖《つえ》やマスケット銃を構える。
フネから延びたタラップに、堂々たる偉丈夫の遠目にも鮮やかな青髪が見える。
「あの無能王≠ヘ、こんな建物をおったてていったい何を考えていやがるんだ」
「でもってよ……」
相棒は後ろを振り向いた。自分たちが守る、巨大な実験農場≠見上げて呟く。
「この中ではいったい、何をやってやがるんだ?」
実験農場≠フ中に入ったモリエール夫人は、その気温に眉《まゆ》をひそめた。中はまるで蒸し風呂《ぶろ》のようである。
「暑いですわ」
そう呟いて、傍らの愛人を見上げる。しかし、美髯《びぜん》の王はまったく暑さを感じていないようだ。そばに控えた学者風の男が、弁解するように呟いた。
「申し訳ありませぬ。空気や音を逃さぬように、この建物は帆布で全体を覆っているのです。中の空気は春の陽光に熱せられるだけ、熱されておりまする。無数のかまどにくわえて、溶鉱炉《ようこうろ》までございます。暑さはいかんともしがたいでしょうな」
「いったい、ここでわたくしに見せてくださるものはなんですの?」
気味が悪そうに、モリエール夫人は呟いた。怪しげな壜《びん》やら鍋やらがたくさん並び、メイジの研究員たちが一生懸命になにやら実験を行っている。そのそばでは大きな溶鉱炉がぐつぐつと煮えたぎり、真っ赤に溶けた鉄が鋳型《いがた》に流しこまれている。
研究者風の男たちが幾人も行ったり来たりしては、せわしなく立ち働く作業員たちに何事か指示を与え、立ち去っていく。そこで働く誰《だれ》もが、そう言い含められているのか、近づくジョゼフにさえ、関心を払おうとはしない。
その一角を過ぎると、何本もの大きな金床が並んでいた。そこでは、何人も鍛冶師《かじし》が取りつき、十メイル四方はあろうかという鉄板を打ち出していた。膨大な量の鉄板が積み上げられている。
「あんな大きな鉄板を、どうなさるおつもりなんですの?」
モリエール夫人が尋ねると、ジョゼフは美髯《びぜん》を揺らして答えた。
「鎧《よろい》を作っておるのだ」
「まあ! 誰《だれ》がそんな大きな鎧を着るのですか?」
しかしもう、ジョゼフは答えない。
そのうちに一行は、建物の中心部と思われる、開けた場所についた。そこには貴賓《きひん》席が設けられ、ジョゼフの到着を待つ腹心たちが控えていた。
「お待ちしておりました。ジョゼフさま」
そう言って恭しく頭を下げたのは、深いフードに顔をうずめた細身の女であった。モリエール夫人も、何度か宮廷で見たことのある姿である。モリエール夫人は、その女に何か冷たいものを感じ、そっとジョゼフに寄り添った。
「おおミューズ! 余のミューズ!」
しかしジョゼフは、そのフードの女に駆け寄ると、強く抱きしめた。ミューズと呼ばれたフードの女の唇が、歓喜のかたちに曲がる。モリエール夫人は、眉《まゆ》をひそめた。
「例のものが完成したと聞いてな。このように飛んで参ったのだ」
「ビダーシャル卿《きょう》の協力があってこその成功です」
ミューズの隣に立った男は、やせぎすの身体《からだ》をわずかに折り曲げ、ジョゼフに礼をした。大きな帽子を被《かぶ》っているので、やはり顔は見えない。小さな口のみが、わずかに覗《のぞ》いている。
「おおビダーシャル! よくやってくれた! 難航していたヨルムンガント≠フ作成に、よくぞ協力してくれた!」
「我は、任務を達成できなかったからな」
つまらなそうな声で、ビダーシャルは言った。その言葉遣いに、モリエール夫人はさらに眉をひそめた。王とも思わぬ言葉遣いであったが、ジョゼフは気にした風もない。
「なに、このヨルムンガント≠フ完成で、そんな些細《ささい》な失態など帳消しだ」
「ですが陛下、姪御《めいご》がトリステインの手に渡るのは、あまり面白くない事態と申せましょう」
「あのトリステインの小娘に、この余にはむかう度量などあるものか。捨て置け」
ジョゼフはもう、新しいおもちゃに夢中である。
モリエール夫人は、この美髯の王が夢中になっているヨルムンガント≠ニはいったいなんなのか、興味が引かれた。
「陛下、教えてくださいまし。いったいその、ヨルムンガント≠ニはなんですの?」
「いつかあなたが余にくださった騎士人形を覚えているか? あれだよ」
「騎士人形でございますか?」
モリエール夫人はあっけにとられた。ただのおもちゃの人形を作るために、この王はこんな仰々しい建物を建てたのだろうか?
この王ならそれをやりかねない、とモリエール夫人は思った。あんなに大きな箱庭を作り、一日中戦争ごっこに興じていたジョゼフである。
「まあ見ておれ」
ジョゼフは用意された椅子《いす》に腰掛ける。隣にモリエール夫人も座った。
開けた場所が、目の前に広がっている。古代のコロシアムを思わせるような、円形の造りであった。
「いったいここで、どんな出し物が始まりますの?」
「余興だ。余興だよ! 実に楽しい余興が今から始まるのだ」
ジョゼフは、少年のような目で、目の前のコロシアムを見つめる。モリエール夫人もじっと待っていると……、西側に設けられた柵《さく》が開き、中からずしん! ずしん! と地響きを立てて、高さ二十メイルはあろうかという、巨大なゴーレムが現れた。
「土ゴーレムではありませんか」
見せたいものはこれなんだろうか、とちょっとがっかりした声でモリエール夫人は言った。なるほど見事なゴーレムであるが、土ゴーレムなんか珍しくもなんともないではないか。
土ゴーレムは合わせて三体現れた。
一体がコロシアムの隅に置かれた大砲を持ち上げた。その大砲を操作して、まるで拳銃《けんじゅう》でも扱うように、火薬をつめ、弾をこめる。その動きに、モリエール夫人は息をのむ。ゴーレムは普通、大きくなるほど歩く、壊すといった単純な動きしかできない。
あのような巨大さで、器用な動きができるゴーレムは珍しい。
「西|百合《ゆり》花壇騎士団の精鋭たちが作り上げた、スクウェア・クラスの土ゴーレムでございます」
ミューズがそう説明する。
なるほど、スクウェア・クラスの……。
「あのゴーレムが、ヨルムンガント≠ネのですか?」
しかしもう、ジョゼフは答えない。
そのとき。
ジョゼフの唇の端が持ち上がり、猛禽類《もうきんるい》のような顔つきになった。
東側の柵が開き、一回り大きなゴーレムが現れた。
モリエール夫人の目が、大きく見開かれた。小さく、声にならないうめきを漏らす。
それほどに現れたモノ≠ヘ巨大であるばかりでなく、禍々《まがまが》しい雰囲気を放っていたのである。
「な、なんですの? あれは……」
全長二十五メイルにも達しようかという、その巨人は、まるで人がローブを羽織るようにして、帆布で身体《からだ》を包んでいた。天井にも達しようかという大きさである。しかし、見るからにゴーレムとは動きが違うことが見て取れる。
一歩、巨人が歩く。
ずしん! と地響きが響き、モリエール夫人の座った椅子《いす》が揺れた。
しかし、無骨なのは音だけで、まるで人間のような、滑らかで流れるような優雅な歩みであった。
「あ、あんな風に滑らかに歩けるゴーレムがいるなんて……」
モリエール夫人が呟《つぶや》く。
「滑らかに歩けるだけではない」
ジョゼフが歓喜に耐えぬ、といった面持ちで呟く。
三体のゴーレムは、腰を低く落とすと、現れたヨルムンガント≠取り囲むように動いた。
左右のゴーレムが、動いた。
巨体に似合わぬ素早さで、ゴーレムは拳《こぶし》を繰り出す。
「ひっ」
大きな土煙が舞い、モリエール夫人は思わず目を閉じる。
ヨルムンガントが、左右から巨大ゴーレムに押し潰される光景がまぶたの裏に浮かぶ。
おそるおそる目を開くと……、そこには驚くべき光景が広がっていた。
ヨルムンガント≠ェ、左右から繰り出された土ゴーレムの拳を、がっちりと掴《つか》んでいたのである。
「なんて力……」
そんな感想を抱いたあと、さらに恐るべき光景が、モリエール夫人の目を襲う。
ヨルムンガントは、左右のゴーレムを引っ張り、自らの前でぶつけ合わせた。先ほどとは比べものにならない土煙が舞い上がり、モリエール夫人は激しく咳《せ》き込んだ。
二体のゴーレムをまるでパン生地のようにこねくり回し、ただの土の塊にしてしまった。
最後の一体が、ヨルムンガントに向けて大砲を構えた。思わずモリエール夫人は叫びをあげた。
「いけません! あんな大砲を撃ったら、ヨルムンガントが粉々になってしまいますわ! 危険です!」
モリエール夫人のそんな叫びは届かず、ゴーレムは砲尾に火縄を差し込み、大砲を発射した。轟音《ごうおん》が響き、猛烈な火線が目を焼き、真っ黒な煙が舞い上がる。
屋根代わりの帆布がバタバタと、激しい音を立てる。
モリエール夫人は再び目をつむる。今度こそはバラバラになってしまったに違いない……、そう思って目を開くと、ヨルムンガントはそこに立っていた。
大砲の弾によってローブのように着込んでいた帆布が引き裂かれ、ヨルムンガントの地肌が覗《のぞ》いていた。
鋼鉄の鈍い光が、モリエール夫人の目に飛び込んでくる。
「鎧《よろい》を……、なんて分厚い鎧を着こんでおりますの……」
そんな鎧を着込んでいるにもかかわらず、ヨルムンガントは素早い動きで突進した。ヨルムンガントのタックルを食らった土ゴーレムは、一瞬でバラバラになってしまった。
目の前で繰り広げられる、そんな信じられない光景を前にして、モリエール夫人は完全に言葉を失った。
しばしの沈黙のあと、モリエール夫人はやっとの思いで言葉をひねり出した。
「陛下は……、なんというモノをお作りになったんですの」
「先住と伝説、二つの技《魔法》が出会ったことでもたらされた、奇跡の産物だよ」
「……こんな怪物が十体もいたら、ハルケギニアが征服できますね」
「十体? 余は、この|ヨルムンガント《騎士人形》を用いて、騎士団を編成するのだ」
先ほど作られていた、鎧用であろう巨大な鉄板の量を思い出し、モリエール夫人の目が裏返った。
目の前の光景と、ジョゼフの言葉に耐えきれず、失神してしまったのだ。
「お気に入られましたか?」
ミューズ……、ミョズニトニルンが近づき、ジョゼフの前に膝《ひざ》をつく。
「もちろんだ。なかなかいい出来ではないか。この騎士人形は……」
「実戦で使ってみませんと真価ははかりかねます」
「ちょうどよい連中がいるではないか」
ジョゼフは笑みを浮かべた。
「|我が兄弟《虚無の担い手》よ。我が姪《めい》を救い出したように、簡単にはいかぬぞ。このヨルムンガントは……」
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第九章 ウエストウッドの再会
「こ、ここがその、胸が不自然なハーフエルフが住むという村だな」
そわそわした調子で、ギーシュが言った。
「そういう言い方すんなよ」
「きみが言ったんじゃないかね。そのハーフエルフの少女の特徴を教えてくれと言ったら、耳が長い。あと、『胸がおかしい』って」
「あなたたち、こそこそなにやら話していると思ったら、そんなよからぬ会話をしてたってわけね」
キュルケがにやにやしながらからかうような調子で言った。
「だ、だってこいつが、どうしても特徴を聞きたいっていうもんだから!」
「ぼくの所為《せい》にしないでくれたまえよ」
「でも、ほんとにその子、胸がおかしいの? あたしとどっちがおかしいの?」
キュルケが、自分の胸を持ち上げた。
「し、知るか」
ちょっと照れたように、才人《さいと》は言った。
ウエストウッド村に一行が降り立ったのは、夕方になろうかという時間であった。月の関係からアルビオンがトリステインにかなり近づく日であったのだが、それでもフルスピードで飛ぶシルフィードでも半日かかった。
一行は、ガリア行きのときに比べたら、随分と砕けた雰囲気であった。今回の任務は、ティファニアを連れて帰ってくるだけである。
面倒なことは、精々《せいぜい》ティファニアを説得することぐらいであろう。危険なことはない、といった雰囲気が、一行の態度を明るいものにしていた。
面倒な任務でなくてよかった、と才人はほっとした。
何せ今はルイズの虚無が使えない。
そのルイズは、一人明るい雰囲気の蚊帳《かや》の外、ずっと黙りこくったままである。
キュルケが、才人をつついた。
「ねえサイト。ルイズ、いったいどうしちゃったの? 朝からヘンよ。黙っちゃって……」
「いや……、実はな」
言おうか言うまいか迷ったあと、才人はキュルケに打ち明けた。
「まあ! 精神力が!」
「しっ! 声が大きいよ」
才人は前を歩くルイズに聞こえないよう、声をひそめた。
「あらら、じゃあゼロのルイズに逆もどりってわけ? でも、爆発すらしないんじゃ、さらに重症ね」
「言うなよ。気にしてるんだから」
「でも、そっちの方がいいんじゃない?」
キュルケが、真顔で言った。
「なんでだよ」
「あの子に伝説≠ネんて、常々荷が重いって思ってたの。あたしぐらい楽天的なほうが、過ぎたる力にはちょうどいいのよ」
そうかもしれない、と才人《さいと》は思った。
才人は、懐かしい村を見回した。ウエストウッド村はほとんど変わっていない。森の中に建てられた、こぢんまりとした佇《たたず》まいの素朴《そぼく》な家々を見つめる。
ティファニアの家は、入り口からすぐのところにあった。藁葺《わらぶ》きの屋根から、煙が立ち上っている。
「お、いるみたいだな」
「いやぁ、こんな簡単な任務でいいのかねぇ。いつもの苦労に比べたら、なんだか拍子ぬけしてしまうよ」
ギーシュが鼻歌交じりに言った。
「もう、ほんとにお前ってば緊張感がない男だな」
「きみに言われたくないな。というか最近のきみはおかしいぞ」
「俺《おれ》が?」
「そうさ。副隊長になって張り切る気持ちもわかるがね、なんだか妙な使命感に振り回されているように感じるよ。昔のきみはもっとこう、適当だったじゃないか」
「そうか?」
「ああ。もっと気楽にいきたまえよ。気楽に! あっはっは!」
ギーシュは大声で笑った。
「そんな油断してるとね、ろくなことがないわよ」
キュルケが言った。
「望むところさ! 悪魔でもなんでも来い! さてと、この家だな」
ギーシュはティファニアの家の前まで来ると、大声をあげた。
「ご家中の方に申し上げる! 水精霊騎士隊隊長、ギーシュ・ド・グラモン! 王命により参上つかまつった! では御免」
返事もなしに、ギーシュは扉を開けた。
その身体《からだ》が一瞬で固まった。
「なによ。どうしたのよ。中で女の子が着替えでもしてたの?」
次にキュルケが呆《あき》れた声で、中を覗《のぞ》き込む。
やはり、その身体《からだ》が硬直した。
才人《さいと》とタバサは顔を見合わせた。
頷《うなず》くと、二人は同時に扉の中に顔を突っ込んだ。
扉の向こうは、居間になっている。才人もかつて食事をとったりしたテーブルに、二人が座っていた。
まず、呆然《ぼうぜん》とした顔で一行を見つめるティファニアの姿。
しかし、懐かしいティファニアに、声をかける余裕さえなかった。残りの一人が、問題だったのである。
最後に扉の中に首を突っ込んだタバサが、呟《つぶや》いた。
「フーケ」
果たして、ティファニアの家の客は、仇敵《きゅうてき》のフーケであった。才人の肩が震えだす。このアルビオンの地で、最期を看取《みと》ったウェールズの顔が蘇《よみがえ》る。
勇気ある皇太子を殺害したワルドに協力していた女。
盗賊、土くれのフーケ。
アンリエッタの泣き顔が、焼けたタルブの村が、あの悲惨なアルビオン戦役の数々の光景が、頭の中に蘇る。
「フーケェエエエエエエエッ!」
才人は絶叫すると、背中の剣を抜き放った。
左手のルーンが光る。
聞髪入れずに、才人はフーケに切りかかった。しかしフーケもさるもの。飛びかかった才人に臆《おく》することなく立ち上がり、杖《つえ》を抜き、剣を受ける。
一瞬の剣戟《けんげき》のあと、二人はぱっと飛びのいて距離をとった。
「なんでテメエがここに……」
「それはわたしのセリフだよ」
二人は互いに二撃目をくわえようと、じりじりと間合いをはかった。そのとき……、
「やめてぇッ!」
ティファニアが二人の間に飛び込んできた。
「なんで二人とも戦うの! サイト! 剣をしまって!」
「で、でも……」
「マチルダ姉さん! この方に手を出してはだめ!」
「マチルダ姉さん?」
才人はフーケを見つめた。人違いか? と思ったが、その鋭い目と、意志の強そうな顔は、紛れもなくかつてそのゴーレムと戦った、土くれのフーケである。
フーケはどうしたものか、とでもいうように、才人《さいと》とティファニアを交互に見つめた。それから、参った、というように首を振る。
「しかたないね」
才人は怒り憤懣《ふんまん》やるかたない顔で、なおも飛びかかろうとしたが……、ティファニアがその腕にしがみつく。
「お願い、サイト。やめて。何があったか知らないけれど、戦いはやめて。お願い……」
ティファニアは泣いていた。才人は、くそ! と怒鳴ると、剣を再び背中の鞘《さや》におさめた。そして、でんっ! と床に腰掛ける。
「ありがとう」
ティファニアが、泣きじゃくりながらお礼を言った。
ギーシュとキュルケ、そしてタバサが顔を見合わせた。
「あんたたちとも随分と久しぶりだねぇ。まずは旧交を温めようじゃないか」
フーケが、疲れた声でそう言った。
フーケと一行はしばらく睨《にら》みあっていたが……、まず、痺《しび》れをきらしたのかフーケがどかっと椅子《いす》に腰掛けた。
「あんたたちも、杖《つえ》をしまって、まずは座りな。長旅で疲れてるんだろう?」
一行はどうしようかと顔を見合わせたが、キュルケが「そうね」と呟《つぶや》いて腰掛けたので、しかたなくそれに習う。
「ねえティファニア。なんでこいつらと知り合いなのか、話してごらん」
ティファニアは、いいか? と言うように才人《さいと》を見つめた。才人は頷《うなず》いた。行きがかり上、説明しないわけにはいかなかった。
ティファニアは、フーケに説明した。
アルビオン軍を食い止め、死にそうになっていた才人を助けたこと。
迎えに来たルイズたちとも知り合いになったこと……。
「ああ、じゃああれはあんただったのかい。七万のアルビオン軍を一人で食い止めたっていうのは」
才人は頷いた。
「ふふ、やるじゃないの。少しは成長したようだね」
フーケは笑った。
「じゃあ次はこっちの番だ。お前とティファニアは、どうして知り合いなんだよ」
フーケの代わりにティファニアが、才人たちに説明した。
「いつか話したことがあったよね。わたしの父……、財務監督官だった大公に仕えていた、この辺りの太守の人がいたって」
[#挿絵193]
「ああ」
「彼女は、その方の娘さんなの。つまりわたしの命の恩人の娘さん」
「なんだって!」
才人は驚いた。
「それだけじゃないの。マチルダ姉さんは、わたしたちに生活費を送ってくださっていたの」
才人は何か言おうとしたが、フーケに遮られた。
「おっと。あんた、わたしの前職は言わなくていいよ。ここじゃ秘密で通ってるのさ」
「サイト、マチルダ姉さんが何をしていたか知ってるの?」
ティファニアが、身を乗り出して尋ねてきた。
「ん? あ、ああ……」
「教えて! 絶対に話してくれないのよ!」
フーケは、じろりと才人を睨《にら》んで言った。
「言ったら、殺すよ」
才人はしかたなく、苦しまぎれの嘘《うそ》をついた。フーケの正体を知ったら、ティファニアが悲しむだろうと思ったのである。
「……その、宝探しっていうか」
「トレジャーハンター? かっこいい!」
キュルケが、ぷ、と口を押さえた。
「笑うんじゃないよ」
「なによ、おばさん。ラ・ロシェールでの決着つけとく?」
キュルケの挑発に、フーケは苦笑を浮かべると、
「まあ、そんな仕事をしていてね。こいつらとはその、お宝を取り合った仲なのさ」
ほっとしたように、ティファニアが言った。
「だから仲が悪いのね。ダメよ。仲直りしなきゃ。ほら、乾杯しましょ!」
ティファニアは、戸棚からワインとグラスを取り出した。
仇敵《きゅうてき》同士の、奇妙なパーティが始まった。
誰《だれ》もが黙々とワインを口に運ぶばかりで、まったく会話は弾《はず》まない。あれだけ陽気だったギーシュさえ、うむ、うん、と呟《つぶや》くばかりで、言葉を発しない。キュルケは時折目を光らせ、胸元に差し込んだ杖《つえ》に手をやり、また戻す、ということを繰り返している。
ルイズは相変わらずぼんやりとしている。あれだけアンリエッタや自分たちを苦しめたフーケが、目の前にいるというのに、心ここにあらずである。
才人《さいと》は、ギリリ、と唇を噛《か》んでフーケを見つめた。
ああ、何度このフーケに、痛い目にあわされたであろうか。
そう思うと、今すぐにでも飛びかかりたい衝動にかられる。
黙々とワインを飲んでいたフーケが、そんな才人をあやすように尋ねた。
「で、今回は何しにきたんだい? ただ遊びに来たってわけじゃないんだろ」
才人は、フーケとティファニアを交互に見つめたあと……、言いにくそうに告げた。
「……ティファニアを、連れ帰りに来たんだ」
フーケの眉《まゆ》が、軽く動いた。
ティファニアも驚いて才人を見つめる。
才人は、身を乗り出した。
「ティファニア、俺《おれ》たちといっしょに、トリステインに行こう」
ティファニアは、困ったように身をよじらせる。
「でも……、わたし……」
必死になって、才人はティファニアを説得する。
「もちろん、子供たちもいっしょだ。生活はトリステインが保障する。外の世界が見たいって言ってただろ?」
するとティファニアの顔が、わずかに輝いた。
それから困ったように、ティファニアはフーケを見つめる。
才人《さいと》はフーケを睨《にら》んだ。
おそらく、ダメだ、とかなんとか言うに違いない。才人たちとの同行を、今までずっとティファニアを援助していたこいつが許すわけもない。
そうなったら、今度こそ剣の出番である。
才人は、デルフリンガーにそろそろと手を伸ばす。
緊張が部屋を包む。
一触即発の空気が流れる。
無限にも感じる時間が流れたあと……。
フーケは目をつむり、こくりと頷《うなず》いた。
「いいよ。行っておいで。ティファニア」
その場の全員の顔が驚きのかたちに歪《ゆが》んだ。
「お前もそろそろ、外の世界を見たほうがいい歳《とし》だ」
「おい! いいのかよ!」
「ああ。それに、わたしは今や文無しでね。仕送りをしたくてももうできないのさ。今日はそれを言いにきたんだ。ちょうどいいかもしれないね」
「マチルダ姉さん……」
ティファニアの顔が、くしゃっと歪んだ。フーケはそんなティファニアに近づき、その身体《からだ》をぎゅっと抱きしめた。
「馬鹿《ばか》な子だね。なんで泣くんだい?」
ごしごしと目の下をこすりながら、ティファニアが言った。
「だって、そんなに苦労してるんなら、どうして言ってくれなかったの?」
「娘に心配をかける親がいるかい?」
「マチルダ姉さんは、わたしの親じゃないわ」
「親みたいなもんだよ。だって、小さなときからずっと知っているんだものね」
その夜、ティファニアが泣きつかれて眠ってしまったあと……、フーケは帰り支度を始めた。
「おい、待てよ」
才人がそんなフーケに慌てて言った。
「なんだい? どうしてもやりあいたいって言うのかい? 面倒な子だね」
「違うよ。ティファニアに、挨拶《あいさつ》しなくていいのかよ」
撫然《ぶぜん》とした調子で、才人が言うと、フーケは首を振った。
「急ぐんでね。これでも、いろいろと多忙なのさ」
しんみりした別れが嫌いなのかもしれない。才人《さいと》はそれ以上、何も言えなくなって、ドアを出るフーケを見送った。思い出したように、フーケは振り返る。
「あの子をよろしく頼むよ。世間知らずなんだ。変な虫がつかないように、よく見張るんだよ」
「ああ」
才人は頷《うなず》いた。それからフーケは、一同を見回した。
「さて、次会うときは敵だね」
「今でも敵だけどな」
「まあね」
フーケは、薄い笑いを浮かべる。
「じゃあね。精々《せいぜい》、元気でやるんだね」
去ろうとするフーケに才人は尋ねた。
「今度はどこでどいつと悪巧みをするつもりだ?」
「わたしは、あんたたちがどうして、あの子を連れて行くのか聞かないよ。だからあんたも聞くんじゃない」
「どうして聞かないんだよ。心配じゃないのかよ」
フーケは、微《かす》かに寂しそうな表情を浮かべた。
「どんな道だろうが、わたしと行くよりは、マシだからさ」
ローブを深く被《かぶ》り、フーケは言った。
「あんたもたまには、故郷に帰るんだね。親に顔を見せてやりな。わたしみたいに、帰る場所がなくなっちまう前にね」
フーケが行ってしまったあと、才人たちは床につくことにした。ソファに座り込み、才人は眠れずに月を見上げた。
フーケに言われた言葉が、頭の中で渦巻いた。
『故郷に帰るんだね』
帰りたくても、帰れねえんだよ、と才人は呟《つぶや》く。でも本当に自分は帰りたいのだろうか? こっちでやりたいことを見つける、なんて、どことなく漠然としていて、掴《つか》みどころのない話じゃないか?
ぼんやりとそんなことを考えていると……、
「サイト」
名前を呼ばれた。
見ると、ルイズがそばに来ていた。
「ルイズ」
呼びかける。
ずっと黙っていたのに……、いったいどうしたんだろう。すっと手を伸ばすと、手がルイズの頬《ほお》に触れた。
濡《ぬ》れている。
ルイズは、泣いているのだった。
才人《さいと》は慌てた。
「おい、どうしたんだよ」
「ねえ」
「泣いてるじゃねえか」
才人の言葉を無視して、ルイズは言った。部屋は暗く……、表情はよくわからない。それが才人を不安にさせた。
「あんた、帰りたくないの?」
「……え?」
「故郷に、帰りたくないのかって、聞いてるの」
「どうして、いきなりそんなこと聞くんだよ」
「答えて」
才人は、ゆっくりと考え……、最近いつも繰り返していた言葉を口にした。
「いや、こっちの世界で、やれることをやってから帰ろうっていうか……」
「嘘《うそ》」
「嘘じゃねえよ」
「じゃあ、どうして、ちいねえさまの前では泣いたの? 故郷に帰りたいって、泣いたそうじゃない」
「それは……」
突然、思い出したからだ。カトレアの胸に抱かれていたら……、突然思い出してしまったのだ。母の温《ぬく》もりを。故郷を……。
「どうして、お前が知ってるんだよ」
「ちいねえさまからの手紙に書いてあったのよ」
ルイズは、才人にフクロウから届いた手紙を見せた。ルイズの様子がおかしくなった手紙だ。この手紙は、カトレアからのものだったのだ。
才人はテーブルの上のランプを引き寄せ、火打石で点火した。ランプの明かりに手紙をかざす。
タバサと勉強したおかげで……、字を追うだけで内容が頭に飛び込んできた。
そこには、ルイズの帰郷を喜ぶ挨拶《あいさつ》から始まり……、才人のことが書いてあった。
故郷を思って、才人が泣いたこと。
そんな才人《さいと》が心配であること。
ルイズは、なんとしてでも才人を故郷に帰す義務があること。
それは、何より優先させねばならないこと……。
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、ルイズは言った。
「どうして、あんたはわたしの前で泣かないの?」
「どうしてって……」
「どうしてあんたは、わたしに本音を打ち明けてくれないの?」
何故《なぜ》だろう
ぼんやりと、どことなく遠くなる思考で才人はそう思った。
ルイズのことが好きだから。
惚《ほ》れた女の前では、涙を見せられないから。
でも……、それだけじゃない。やっぱり、それだけじゃない気がした。
「ねえ、どうして?」
ルイズの問いに、後ろから小さな声が答えた。
「使い魔だから」
「タバサ」
ルイズの後ろに、いつしか小さな青髪の少女が立っている。
いやいやをするように、ルイズは首を振った。自分に言い聞かせるような声で、ルイズは言った。
「そう。そのとおり。タバサの言うとおりなんだわ。だからあんたは、わたしがそばにいると、帰りたいと心のそこから思わない。いや、思えない。こっちの世界に、いなければならない理由まで作り上げて、あんたはわたしのそばにいようとする。いや、させられてる」
「違う。それは違う。それは……」
うまく説明するのが難しい。
ただ、そう思ったことは確かで……、それはルイズの言うとおりなのかもしれない。才人の心の中から湧き出た気持ちなのかもしれない。
どちらにしろ、否定しきれない。
自分の心の中身が本当なのかどうか、そんなの才人にわかるわけがなかった。
「そんなこと聞かれても……」
「わたしも、気になっていた」
タバサが呟《つぶや》いた。
「あなたの言葉の習得の速さに感じた疑問……、それで、一つの事実を思い出した」
「事実?」
「使い魔は、主人の都合のいいように記憶≠変えられる。記憶とは、脳内の情報すべてのこと。あなたが簡単な勉強で、わたしたちの文字を覚えたのもそう。あまり故郷のことを思い出さないのもそう」
「そんなことはねえよ。俺《おれ》だって、たまには故郷を思い出して……」
「そのとき、そばにルイズはいた?」
その言葉で、才人《さいと》は呆然《ぼうぜん》とした。故郷を思い出してしんみりしたときは、何度かあった。
シエスタと、タルブの草原を眺めたとき。
このウエストウッド村で、ティファニアのハープの調べを聞いたとき。
カトレアに抱かれたとき……。
黙ってしまった才人を見て、タバサは言葉を続けた。
「ガンダールヴのルーン≠ヘ、あなたの心の中に『こっちの世界にいるための偽《いつわ》りの動機』を作ったのかもしれない。あなたは本当の気持ちをごまかされてる可能性がある。こっちの世界で何かしたい=Bそう思わされることで、本当の気持ちが見えなくなっているのかもしれない」
才人は驚いて、言った。
「そんなことあるのかよ?」
タバサは淡々と言葉を続けた。
「その効果は、時間が経《た》つにつれ、強くなる。使い魔が徐々に慣れ、最後には主人と一心同体にもなるのは、そういうこと」
「おいおい、そんな、自分が自分でなくなるなんて、そんなことが……」
才人がそう言ったら、デルフリンガーの声が響いた。
「まあな、自分のことは、自分が一番わからんもんさ」
気づくと、その場の全員が目を覚ましていた。
「確かに、最近のきみはおかしかったな。妙に生真面目《きまじめ》というか……」
ギーシュがうーむと悩みながら言った。
「まあね。主人に似たのかも、なんて思ってたわ」
キュルケも呟《つぶや》く。
ルイズが、目の下をこすりながら言った。
「だって、再会してからのあんた、少しおかしいもの。なんだか妙な使命感に目覚めちゃって……、そんなのあんたじゃないわ」
「でも……、でもな。それはこう、なんかうまく言えないけど、別にそれほど変でもないっていうか……、うーむ」
「サイト、それ、本当なの?」
「ティファニア」
すっかり眠っていたはずのティファニアも、才人《さいと》のそばに来て言った。
「わかんねえ。自分がどうなのか、自分じゃよくわからねえ」
皆に見つめられ、正直にそう呟《つぶや》くと、ルイズがティファニアのほうを向いた。
「ねえ、ティファニア。あなた、記憶を消せるじゃない。その部分を消すことができる? ガンダールヴのルーンが作った才人の心の中の、『こっちの世界にいるための偽《いつわ》りの動機』を消すことができる?」
「わからないけど……」
「できるだろうさ。虚無≠ノ干渉できるのは、虚無≠セけだ」
「おいおい、人の心に勝手なことすんなよ!」
才人は叫んだ。
「ねえサイト」
「なんだよ」
ルイズは、決心したような顔で才人に告げた。ルイズがこうなったら、意地でも自分の考えを曲げないのを、才人は知っていた。
「あんたの心の中には、二つのメロディが流れてる。認めたくないけど、それはやっぱり本当なのよ。いつまでも、そんな二重奏を続けさせるわけにはいかないわ」
困ったような声で、デルフリンガーが言った。
「でもな、娘っ子……。その部分を消したら、お前さんへの気持ちもなくなっちまうかもしれないんだぜ」
「いいわ」
ルイズは、きっぱりと言った。涙を拭《ぬぐ》いながら、ルイズは気丈に言い放った。
「め、迷惑だもん。す、好きでもない男の子に言い寄られるなんてひどい迷惑だわ。勝手にナイト気取りでおかしいわよ。ほっといてよ!」
「ルイズ……、お前……」
「ほら、さっさと魔法をかけられて、元のあんたに戻るがいいわ。元のあんたに戻ったら、帰る方法を探しなさい」
「ルイズ!」
ルイズは駆け出したが……、一旦《いったん》立ち止まり、俯《うつむ》いて言った。
「わたし、お手伝いしたいけど。今のわたしじゃ無理よね。本当のゼロのルイズじゃ……」
ルイズはそれだけ言い残すと、部屋を飛び出して行ってしまった。
駆け寄ろうとした才人の腕を、キュルケとギーシュが掴《つか》んだ。
「離せよ! 離せ!」
「ぼくはね、きみを友人だと思う。だからこそ、こうしたほうがいいと思うんだ」
「あたしも同じ気持ちよ」
二人は珍しく真剣な顔で、頷《うなず》きあう。
ナウシド・イサ・エイワース……[#斜字]
才人《さいと》の耳に、虚無のルーンが聞こえてきた。
ハガラズ・ユル・ベオグ……。[#斜字]
「ティファニア……」
見ると、真剣な顔をしたティファニアが、才人に向かって虚無のルーンを唱えていた。
ニード。イス・アルジーズ・ベルカナ・マン・ラグー……。[#斜字]
呪文《じゅもん》が完成する。
意識が薄れ……、才人はその場に崩れ落ちた。
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第十章 二重奏の心
「ただいま」
学校から帰ってきた才人は、自宅の玄関をくぐった。制服のジャケットを、玄関からすぐの居間に脱ぎ捨て、テレビをつける。
いつもの日課である。ぼんやりとテレビを見つめていると、電話が鳴った。
受話器を取る。
クラスメイトからであった。
『才人、あの番組、ビデオにとっといてくれよ』
「なんで俺がとらなくちゃいけねえんだよ」
『お前ぐらいしか暇なやつがいねえんだよ』
どうでもいい会話。
どうでもいい毎日。
でも、何にも代えがたい、愛《いと》しい毎日……。
才人は、インターネットをしようと思って、ノートパソコンの電源をつけた。
「あれ?」
つかない。
電源が入らない。
何度も押していると、母が後ろに立っている。短めの髪に、最近太り始めた身体《からだ》。
「母ちゃん。腹減った。飯にしてよ」
「まだだよ」
「なんでだよ。味噌汁《みそしる》が飲みたいよ」
なんだか無性に飲みたかった。
母の味噌汁。
なんでもない、どうでもいい味なのに、至高の味のように才人《さいと》は感じた。
「才人」
「なに?」
「あんた、やることやったのかい?」
「やることって?」
「あるだろ。やらなきゃならないことが」
「勉強?」
「それもそうだけど、あるだろ? 約束したことが」
「約束?」
「ああ。友達と大事な約束をしたんじゃないのかい?」
なんだろう、と才人は思った。
思い出せない。
焦って、思い出そう、思い出そうとするうちに、才人は目が覚めた。
ベッドの上であった。
そばにタバサが座って、本を読んでいる。
見覚えがあるベッドであり、部屋だった。ウエストウッド村の、ティファニアの家の部屋。
ここに滞在しているときに、使っていたものだった。
清々《すがすが》しい朝の光が窓から差し込み、才人は目を細めた。
どことなく……、すっきりしたような気分だった。
頭の中のもやもやが解けて、自由になった気分……。
才人が目覚めたことに気づくと、タバサは本を閉じた。
「どう?」
「ん? なんかすっきりした気分だけど……。これってティファニアの呪文《じゅもん》の所為《せい》なんかな? たっぷり寝た所為のような気もするし……。よくわかんねえ。いつもと変わらん気がするけど。でもやっぱり、何か消えたのかな」
タバサは頷《うなず》いた。
「皆は?」
「先に帰った。あの、ハーフエルフの女の子を連れて」
「そっか……。薄情な連中だな。人に変な呪文《じゅもん》かけといて、おまけに置いてけぼりかよ」
タバサは立ち上がると、才人《さいと》の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「どうしたい?」
「味噌汁《みそしる》が飲みてえ」
ぽつりと、才人は言った。自然と、そんな言葉が出てきた。
「それは、なに?」
「ああ、俺《おれ》の世界の飲み物で……、スープみたいなもんかな」
そう言ったとき、才人は頭を抱えた。
どっ! と激情が襲ってきたのである。
それは感情の奔流《ほんりゅう》だった。
今まで溜《た》め込んだ、抑えつけられていた郷愁≠フ二文字が、文字通り滝のような流れとなって、才人の頭を流れていく。
隣の席だった女の子。
いっしょに遊んでいた親友。
そんな人たちの顔が、浮かんでは消え、浮かんでは消えた。
いつも殴られていた体育の先生の顔も、脳裏に浮かぶ。そんな人間でさえ、懐かしく感じるのであった。
「どうしたの?」
「……帰りてえ。帰りてえよ」
そっか……、と才人は呟《つぶや》いた。
こんなに故郷を思い出して泣くってことは……。
きっと、こっちの世界にいるための偽《いつわ》りの動機≠チてやつは消えてしまったんだ。
こっちに来てから、一年以上も経《た》っている。
家に帰りたい。
味噌汁が飲みたい。
友達に会いたい。
学校に行きたい。
インターネットがしたい。
ずっと……、はりつめていたものが、ぷちんと音を立てて割れたように才人は感じた。
この前、カトレアが言ってた言葉を思い出す。
『とんでもないことが起こるとね、人間って心に鍵《かぎ》をかけてしまうのよ』
今はちょうど、その鍵《かぎ》が外れてしまった状態のようだった。
才人《さいと》は泣きながら、あー……、と、微妙にせつない声をあげた。
「どうしたの?」
タバサが尋ねた。
才人は、ぼんやりと左手のルーンを見つめた。
「なんだよ。ルーンはあるじゃねえかよ」
立てかけたデルフリンガーが答える。
「ティファニアが消したのは、こっちの世界にいるための偽《いつわ》りの動機≠セけさ。お前さんの使い魔としての能力には、まったく関係ねえ」
「……どうせなら、こいつも消しちまえばよかったんだ」
才人は、ルーンを見つめて言った。
「そうかもしれんね。そのルーンは、お前さんの心の震えに反応する。こっちにいる理由をなくしちまえば、こっちでの出来事に心が震えることもあるめえよ」
ぼんやりと、遠い声で才人は言った。
「なあデルフ」
「なんだね?」
「俺《おれ》の……、ルイズへの気持ちっていうかさ、それもやっぱり、使い魔のルーン≠ェ寄越した、偽りの感情だったんかな」
しばらくデルフリンガーは考え込んでいたが……、
「さあね。そいつは俺にもわからねえ。相棒の心のことだろうが」
「もし、そうだったとしたら……、俺はどうすりゃいいんだろうな」
「さて、どうすりゃいいんだろうなあ」
ルイズたちは、ロサイスへの道をとぼとぼと歩いていた。
「ここからロサイスは五十リーグは離れてるんだろ? そんな距離を歩くなんて、いや、随分と大変だな」
「しかたないでしょ。タバサが残るっていうんだから。帰る方法を探すって、そんなにサイトの生まれた国って、遠いところなの?」
ルイズは黙って唇を噛《か》んでいる。
「なんてね。ほんとはあたし、知ってるの。サイトが、別の世界とやらから来た人間だってこと。ジャンに聞いたのよ」
キュルケは、ちらっとルイズを見つめた。
「しかしまあ、あんたも冷たいわよね。そんな行き場所のないサイトを置いて行っちゃうなんて」
ルイズは押し黙ったまま、何も答えない。
「ねえルイズ」
「なによ」
「あたし、あなたにいろんなこと教えてあげたけど……、大人《おとな》の女性の振る舞い方とか、下着の選び方とか、愛され方とかね。でも、そんな嘘《うそ》のつき方は教えてなくってよ?」
「嘘じゃないもん」
キュルケは、ルイズの頭の上に手をのせて、顎《あご》を置いた。
「ほんとはあなた、怖いんでしょ」
「なにが」
「サイトの自分に対する気持ちが、使い魔としての気持ちだったらどうしようって……。あなたはそれを見たくない。だからこうやって結果を見届けずに逃げ出してる」
「違うわ」
「タバサが、預かる≠チて言ってくれなかったら、どうするつもりだったの? 放《ほう》っておいたの?」
「そんなことしないわ。姫さまが急いでティファニアを連れて来いって言うから、しかたなく先に行くだけよ。タバサがそう言ってくれなかったら、そりゃ残ってるわよ」
「言い訳だけは一人前なんだから」
「言い訳じゃないもん」
「もし、サイトのあなたに対する想《おも》いが、使い魔としてのそれだったら、あなたはどうするの?」
「どうもしないわ。とにかく、帰る方法を探してあげる。それだけだわ」
「じゃあその想いが、サイト自身の本物だったら?」
「か、帰る方法を探してあげるわ」
「今、照れたわね」
「照れてない。照れてないわ!」
「ほんとにわかりやすい子ね。あなた。やっぱり大好きなんじゃないの。サイトのこと」
「勘違いよ! ばか!」
「ねえルイズ。あなたの今の行動、卑怯《ひきょう》よ。相手の気持ちが偽《いつわ》りだったとしても、あなたの気持ちがそうじゃないならいいじゃない。今度こそ、自分自身の魅力で勝負すればいいだけの話だわ」
「……わたし、好きじゃないもん」
唇を尖《とが》らせて、ルイズは言った。
好きじゃない。わたしはあいつのことなんか好きじゃない。
心の中で何度も、ルイズは自分に言い聞かせた。
あったりまえじゃない。なんでこのわたしが、あんなやつのこと好きにならなくちゃならないのよ。きっとあれね、使い魔だから、わたしも恋してるみたいにやきもちやいたりするんだわ。そうだわ、わたしのこの気持ちは、あいつが使い魔だからなんだわ。
何度も言い聞かせるうちに……、ルイズの目から涙がこぼれた。
どうして、こんなに涙が出るんだろう。
わたし、臆病《おくびょう》だわ、とルイズは呟《つぶや》いた。
どんな敵が目の前に現れても、これほど怖いことはなかった。
サイトの気持ちが、使い魔として与えられた偽《いつわ》りのもの≠サの事実より、怖いことは存在しなかった。
だから自分は、こんなみっともなく、尻尾《しっぽ》を巻いて逃げ出しているのだった。
もし、サイトの『わたしに対する好き』が、ガンダールヴが与えた、偽りのこっちにいるべき理由≠セったら?
才人《さいと》と過ごした時間が……、全部|嘘《うそ》になってしまう。
宝物のような思い出が、かけられた言葉が、全部嘘になってしまう。
そうなったら、自分は死んでしまう、とルイズは思った。
この世で何より大事なものが……、全部嘘になってしまう。
そんなの、確かめられるわけないじゃない。
ぐしぐしと、ルイズは目の下をこすった。
ルイズたちの後ろを歩くティファニアが、後ろを振り向いて呟いた。ローブに、耳を隠すための大きな帽子を被《かぶ》った旅装姿である。
「……ほんとによかったのかなぁ」
ティファニアが、才人に忘却≠フ呪文《じゅもん》をかけたのは可哀想《かわいそう》だと思ったからだった。本当の気持ちを抑えて生きることのつらさを、ティファニアは知っている。
子供たちの母代わりとして暮らしてきたティファニアは、知らず知らずのうちに自分もそんな気持ちだったことに気づいたのだった。
無意識のうちに、やりたいことを我慢していた。だからティファニアは、才人に思わず忘却≠フ呪文をかけてしまったのだった。
こっちの世界にいるための偽りの動機≠消去するために……。
そんなティファニアの周りに、はしゃぎながら先を歩いていた子供たちが群がってきた。
一人の小さな少女が、ティファニアの袖《そで》を引っ張りながら尋ねた。
「ねえ、テファお姉ちゃん」
「なぁに? エマ」
「トリステインってどんなとこ?」
「さぁ、わたしも行ったことがないからよくわかんないな」
「楽しいといいね」
「楽しいわ、きっと」
ティファニアは、子供たちを安心させるために、微笑《ほほえ》んでやった。
新しい生活に対する期待と不安が入り混じる。
「今度会うときは、違うあなたなの? サイト……」
ティファニアは、小さな声で呟《つぶや》いた。
最後尾を歩いていたギーシュは、独り言を呟いていた。
「なんだか哀《あわ》れになって、サイトのこっちの世界にいるための偽《いつわ》りの動機≠ニやらを消すことに賛成してしまったが……、考えてみたら余計に可哀想《かわいそう》なことをしてしまったんではないかな」
もしかしたら才人《さいと》は、そう思うことで精神のバランスをとっていたのかもしれないではないか。帰りたい、やってられねえ、そんな風に健全に思うことはいいが、もし、もしだよ? 帰る方法とやらが見つからなかったらどうするのだ。
普通の神経だったら、参ってしまうんではないだろうか。
こっちの世界にいるための偽りの動機=wこっちの世界で自分ができることを探す』というのは……。それは使い魔だからというだけでなく、精神のバランスをとるために、才人の心が生み出した苦肉の策ではないのか?
でも、それはやっぱりあの手この手で帰る方法を探して、どうしようもなかった場合のことだな。才人が帰る方法を探しているのを見たことは、ついぞないではないか。
ギーシュは、自分がもし使い魔として召喚されたら? と想像した。
しかし、すぐに想像が行き詰まる。
えっと、まず、才人はどこからやって来たんだっけ?
なんだ、確か、ロバ・アル・カリイエの方角からやってきたと言っていたな。
よし。
ぼくは今、ロバ・アル・カリイエまで召喚された。
「うーむ」
ギーシュは首を捻《ひね》らせた。
うまく想像できない。ハルケギニアしか知らないギーシュは、他の土地のことなんてうまく想像できないのだ。
「酒場はあるのかね。あとお城とか」
それすらもよくわからない。少しは真面目《まじめ》に授業に出るべきであった。
しかたがないので、とりあえず自分の好きなものを置いてみた。
えっと……。
まず、女の子だな。
次に女の子。
もう一人、女の子がいて……。
最後に女の子だ。
で、忘れちゃいけないのは……。
「みんな可愛《かわい》い、という点だな、うん」
ギーシュははた、と膝《ひざ》を叩《たた》いた。
なんだ、そんな場所に召喚されたら、帰る必要なんかないじゃないか! この世の真実に気づいたギーシュは、この事実を落ち込んでいるルイズに教えてやろう、と駆け出そうとした。
しかし……、その肩がちょんちょんとつつかれる。
「ん? 誰《だれ》だね。今、忙しいんだ。あとにしてくれたまえ」
再び、その肩が叩かれた。
「まったく、ぼくの肩を叩く奴《やつ》は誰だ?」
ギーシュは目の前を歩く面々を見つめた。
「えっと、ルイズはいるし、キュルケもいるな。ティファニアとかいう、ハーフエルフの女の子もいるし……、ということはだ!」
ギーシユは、ぽん、と手を打った。
「きみはサイトだな! うんそうだ。どうしたね、戻ってきたのかね。というかきみの言うとおり、あのティファニアという女の子、胸が大変にけしからんな! あれはちょっと本物かどうか、確かめる必要があるとこのギーシュ、考えた。断然同意だろう? なあきみ!」
振り返ったギーシュは絶叫した。
「ぎぃやああああああああああああああああああああああああ!」
ギーシュの悲鳴で、前を歩くルイズたちは振り返る。
恐るべき光景が広がっていた。
高さ二十メイル以上はあろうかという巨大な剣士人形が、そこに立っていたのであった。
「な、なによあれ!」
朝の光の中、禍々《まがまが》しい雰囲気をあたりに撒《ま》き散らしながら、その巨大な剣士人形は眼下を睥睨《へいげい》する。鈍色に光る鎧《よろい》を纏《まと》い、手には身長ほどもある剣を握り締めていた。
滑らかな動きでその巨大な剣を振り上げ、地面に叩きつける。
巨大な粉塵《ふんじん》が舞い、ルイズたちは咳《せ》き込んだ。
「おひさしぶりね。虚無の担い手」
その声に、ルイズは聞き覚えがあった。アルビオンで、舞踏会の日の学院で聞いた声……。
ガリアの虚無の使い魔。
ルイズたちをつけねらう、謎《なぞ》の女……。
「あんたは! ミョズニトニルン!」
「覚えていてくれて光栄ね」
はっとして上を仰ぐと、その声は剣士人形の頭の部分から聞こえてくる。そこに入っているんだろうか。それとも、声を発しているだけで、別の場所にいるのだろうか。
おそらく後者だろう。
このミョズニトニルンは、魔道具を使いこなせる虚無の使い魔だ。自ら戦うということは、決してない。
「何しにきたのよ!」
「お礼をしに来たのよ。この前は、我々の姫君をよくもさらってくれたわね」
「なにが姫君よ! 幽閉して、心を奪おうとしたくせに!」
「心を奪う? あら、あなたも同じじゃなくって? 自分の使い魔の心を奪うなんて、随分と粋《いき》なことをするじゃない。|アルヴィー《小人形》≠ノ見張らせていた甲斐《かい》があるってものだわ」
ルイズは杖《つえ》を構えた。呪文《じゅもん》を唱える。
しかし……、やはり虚無≠ヘ発動しない。
我に返ったギーシュが魔法を唱えた。
青銅の戦乙女が現れる。
「ワルキューレ! あいつをやれ!」
青銅の戦乙女たちは、巨大な剣士人形に短槍《たんそう》を突きつけた。
しかし……、あっけなく短槍は弾《はじ》かれる。
「ちょっと……、そんなちゃちなゴーレムで、このヨルムンガント≠ノ傷をつけようっていうの?」
ヨルムンガントと呼ばれた巨大な剣士人形は、足を軽く動かした。
七体の戦乙女は、まるで人間の足にまとわりつくアリのように、吹き飛ばされる。ついでキュルケが、炎の魔法を唱えた。
巨大な炎球がヨルムンガントへと伸びたが、その球は表面でわずかに弾けただけであった。分厚い鎧《よろい》には、傷一つつかない。
「無駄よ。このヨルムンガントを、系統魔法でどうにかしようとすること自体、間違いだわ」
ヨルムンガントは、一歩踏み出した。中に人が入っているのではないか? と思わせるほどに、滑らかで流れるような歩みであった。
驚くべきことに、あんなに巨大な身体《からだ》なのに、足音がほとんど響かない。どうやら、ネコのような忍び足ができるらしい。
「なんてゴーレムなの!」
「ゴーレム? 失礼な言い方だね。このヨルムンガントをつかまえてゴーレムとはね!」
剣を振りかぶり、ルイズたちに向かって叩《たた》きつける。
その衝撃は、まるで地震だった。
「きぁああああああああああああああああッ!」
ルイズたちは地面に叩きつけられた。
パラパラと舞い散る土ぼこりの中、ヨルムンガントの腕が伸び、ルイズを握り、持ち上げた。
「ひ……」
ルイズは恐怖で、頭の中が凍りつくように感じた。
「サ……」
才人《さいと》の名前を呼ぼうとした。
しかし……、すぐにその名前を飲み込む。
自分には、その名前を呼ぶ権利はない。
偽《いつわ》りの心で、守ってもらうわけにはいかない。
ルイズは、きっ! とヨルムンガントを睨《にら》みつけた。
「ん?」
悩む才人の左目がふいにかすんで、巨大な騎士人形が映った。左目の視界の中、自分は空中で、散々にゆられている。遠くにギーシュたちの姿も見える。
いつぞや見た、ルイズの視線であった。
主人が危険な際、目に飛び込んでくるという……。
「まったく……、なんであいつってば、こう間が悪いわけ?」
なんだか恐ろしそうな騎士人形が暴れ狂う様を見ながら、つまらなそうに才人は言った。傍らに立てかけたデルフリンガーが才人に声をかけた。
「娘っ子がやべえのかね」
「ああ。見える。左目に、ばっちり映ってら」
「どうするね。はっきり言うが、好きでもなんでもないんなら、放《ほう》っておきな。心が震えねえガンダールヴは、ただの足手まといだよ。行くだけ無駄ってもんさ。おりゃあ、巻き添えはいやだからね」
才人は、深いため息と共に呟《つぶや》いた。
「どうせなら、使い魔の能力も、ついでに消して欲しかったぜ」
「なんで?」
「そしたら、行かなくてすんだじゃねえか」
デルフリンガーは、カタカタと笑った。
「ちげえねえ」
才人《さいと》は立ち上がると、デルフリンガーを握った。
「タバサ、向かってくれ」
「相棒、娘っ子のことは好きかね?」
撫然《ぶぜん》とした声で、才人は言った。
「ダメだ。やっぱり好きじゃねえ。あんな女、わがままで、バカで、気位ばっかり高くって……、おまけに最近は調子にのって褒《ほ》めろとか言い出すし。こう冷静に考えてみると、やっぱり全然好きじゃねえ。というか腹立つ。なにやられそうになってんだよ。迷惑だっつの」
「じゃあなんで、助けるんだね?」
「……そんな女だけど、悔しいことに見てるとドキドキすんだよね。もしかして、これが巷《ちまた》でいう一目ぼれだとしたら、俺《おれ》はその存在を呪《のろ》おうと思う。性格をよく知っていれば、起こらなかった事故だと思う。あーあ、せっかくさよならできるところだったのに……、って、え?」
次の瞬間、才人は驚いてタバサに詰め寄る。
「なあお前、今笑った?」
「気のせい」
「なあ、笑ったろ! なあ!」
窓辺にシルフィードが現れた。タバサが飛び乗る。デルフリンガーを握った才人も、シルフィードに跨《またが》った。
「しっかり掴《つか》まってて。とばす」
タバサは、いつもの調子で言った。
ヨルムンガントに握られたルイズは、じたばたと暴れた。
「離して! 離しなさいよ!」
「そう言われて離すやつがいたら、お目にかかりたいものだね」
ルイズの間近に、ヨルムンガントの顔が近づく。古めかしい剣士の兜《かぶと》の奥に、淡い明かりが灯《とも》っている。その周りは黒い。まるで空洞のように空っぽだった。
まるで南の地方にいるという、|一つ目鬼《サイクロプス》のようなヨルムンガントのその顔に、ルイズは震え上がった。
「おいおい、そいつは、系統と先住、二つの技が組み合わさった芸術の光だよ。怯《おび》えるなんてお門違いだよ」
「こんな化け物を作り上げて、あなたたちいったい何をする気なの!?」
「さあね。あんたもメイジならわかるだろ? 使い魔のわたしが判断することじゃない。使い魔は主人の命令で動く。それだけさ」
「違うわ!」
ルイズは絶叫した。
「使い魔だって、一個の生き物よ! 主人の命令に盲信する存在じゃない! それこそただのゴーレムだわ!」
「メイジが言う言葉かい。お前だって、自分の使い魔はそうやって扱ってきただろうに!」
「わたしは違うわ! いっしょにしないでよ! 大体ねえ、卑怯《ひきょう》なのよ! こそこそ隠れてないで、出てきなさいよ! いっつもこんな人形を使って戦わせて! 何が目的なの? 言いなさいよ!」
「煩《うるさ》い小娘だね! いいからさっさと虚無≠ぶっ放しな!」
その言葉で、ルイズは気づいた。
わたしに虚無≠撃たせたがっている?
もちろん、今は撃てない。
でも……、どんな理由があるのかは知らないが、虚無を撃たせることが目的ならば、簡単にこのまま自分を捻《ひね》り潰《つぶ》したりはしないだろう。
「おあいにくさま。杖《つえ》を振るのはね、相手が貴族の場合だけよ。あんたみたいな馬の骨に、唱えるスペルなんてないわ」
「言ってくれるね!」
ギリッと、ヨルムンガントが力を込めた。ルイズの顔が、苦悶《くもん》に歪《ゆが》む。
「ルイズ!」
下を見ると、ギーシュにキュルケ、そしてティファニアと子供たちが心配そうに自分を見上げている。
「逃げて!」
ルイズは叫んだ。
「でも、でも……!」
「わたしなら大丈夫! さあ早く! ティファニアと子供たちを連れて逃げて! お願い!」
キュルケは頷《うなず》くと、ティファニアと子供たちを促し、駆け出した。
しかし……。
「逃がさないよ!」
ルイズを握ったまま、ヨルムンガントは飛び上がった。巨体に似合わぬその身軽さに、ルイズは驚いた。忍び足ができるだけじゃない。
こいつは、まるで人間をそのまま大きくしたような存在じゃないか!
ヨルムンガントはキュルケたちの前に立ちふさがる。
「逃げようなんて考えちゃいけないよ。次逃げたら、容赦なく踏み潰《つぶ》す」
「子供まで踏み潰す気なの!」
「ああ。歩いているときに、うっかりアリを踏み潰すみたいにね。いちいち選んでられないだろ?」
ルイズはその物言いに震えた。なんとも楽しそうな、歌うような声であった。
「どうやら、あんたは虚無を撃てないようだね」
「な、なんですって! 撃てるわよ! 言ったじゃない! 貴族相手にしか……」
「そんなつまらない嘘《うそ》はよしな。何度も撃てるチャンスはやったんだ。それなのに、放ってこないってことは、あんたはもう、抜け殻。つまりは用なしってことさ」
ヨルムンガントは、ルイズを地面に放《ほう》り出した。
とっさにキュルケがレビテーション≠かけてくれたものの、援護はそれが限界だった。ヨルムンガントを止められるほどの系統魔法はそうそう唱えられない。
緩やかに落下したとはいえ、咄嗟《とっさ》の呪文《じゅもん》なので地面に叩《たた》きつけられ、ルイズの身体《からだ》を激痛が襲う。
息ができない! 動けない!
「じゃああんたから、踏み潰してやろうじゃない。アリでもお祈りは唱えるのかね」
ヨルムンガントが足を振り上げた。
ずしん! と音が響き……、濛々《もうもう》たる土ぼこりが舞う。
ルイズは恐る恐る、目を開いた。気づくと、空の上だった。シルフイードが間一髪、踏み潰されそうになったルイズを、ヨルムンガントの足の下から救い出したのだ。
「なにやってんだよ」
呆《あき》れた声に振り返ると、才人《さいと》が座り込んでいた。
ルイズは目を大きく見開いて、叫んだ。
「あ、あんたこそなにやってんのよ! 呼んでないでしょうが!」
次にタバサに目を移す。
「タバサ! あんたもよ! サイトの帰る方法探すの手伝いなさいって言ったじゃない!」
「お前なぁ、助けてもらってその言い草はねえだろ」
つん、とルイズは腕を組んで言い放つ。
「……まったく、ティファニアの魔法は効かなかったみたいね! このバカ、こうやって来ちゃうんだもん」
「効いたよ。効きまくりだよ。正直、俺《おれ》は寝ぼけていたみてえだな。こっちの世界でできることぉ? インターネットもないのにぃ? 無理! 照り焼きバーガーもないのに? 不可能! ああ、酔っ払っていたとしか思えねえ。恥ずかしい。これも全部、お前の所為《せい》だかんな。ゼロのルイズさんよ」
「え?」
「しっかし、まったく余計なことしやがって……。今より、まだそっちのほうがマシだったぜ。なーにが、虚無だっつの。なーにが、偽《いつわ》りの記憶消去だっつの。おかげで散々思い出したよ。一年分、思い出した。見ろ、わんわん泣いちまったじゃねえか。帰る方法が見つからないのに!」
才人《さいと》は赤く腫れた目を指差した。
ルイズはぷいっ! と顔をそらせた。
「よ、よかったじゃない。これですっきり、帰る方法を探しに行けるわね! もう、こっちの世界で俺ができること、なんて寝言言わないわよね!」
「ああ。おかげさまでなんだか目の前のもやもやが取れた気分だよ。ほんと、こっちの世界のことなんかどうでもいい。虚無だか聖地だか知らねえけど、勝手にやっててくれって感じだ。俺は帰るぞ。ああ帰る」
「ばか! ばかばか! じゃあさっさと行きなさいよ! わたしのことなんて放《ほう》っておけばいいじゃない!」
「うん。そんな憎らしいお前はいいけど、見てご覧、ほら、キュルケやギーシュ、ティファニアがやべえだろうが。シエスタとか姫さまとか、タバサの母ちゃんだってほっとけねえだろうが。自分一人だけで世の中回ってるとか思うなよ。俺は友達を助けに来ただけだ!」
「なんですってぇ?」
「俺がこっちの世界でできること≠チてのは精々《せいぜい》その程度なんだよ! 気づいたよ! 覚えとけよ、俺はガンダールヴである前に、一個の人間ですから! 平賀《ひらが》才人ですから!」
ルイズは頭に血がかぁ〜〜〜〜っと上るのを感じた。それはまったく理屈じゃなく、感情の高ぶりであった。
「わたしは? わたしはどうなのよ! その中にわたしは入ってないわけ!? なによ! やっぱり使い魔だから好き好き言ってたのね! さいってい!」
才人は怒りを通り越した声で叫んだ。
「あのなあ。あんだけ好き好き言ってるのに、応《こた》えてくれない女を好きになるやつなんていねえよ! いたら勲章やるから連れて来いよ!」
「え?」
「なんなのお前。誰《だれ》にも相手にされない、気位ばっかり高い、寝相が悪い、パンツははかない、胸が不自由な少女に同情したんで、しかたなーく好きってお情けで言ってやったら、本気にするし。しまいにゃ調子にのってもっと褒めろとか言うし。チラチラ見せといて挑発しといて、いざこっちがお情けでその気になってやったら、使い魔に対するご褒美だったのにぃ、勘違いしてるしぃ、涎《よだれ》たらしててキモいしぃ、とか言いやがる。胸と頭がゼロのくせに、勝ち誇るなバカ。現実を知れ。桃髪能天気」
「だって、そ、それはその……。というか、そこまで言ってないし……、どさくさに紛れてひどいこと言ってない? わたしも悪いから、今回はまぁ、許すけど、普通三回は殺してる言葉じゃない? それ」
「うるせえ。だからお前への好きは、可哀想《かわいそう》な少女に対する同情、及び、百歩譲って使い魔として好き。以上でも以下でもありません。俺《おれ》はこれから、そういうことにする」
「ちょっと待って! それはひどい! ひどい! ひどすぎるわ!」
ルイズは髪の毛を逆立てて叫んだ。
「おーい! ぼくも助けてくれえ!」
下からギーシュの声がした。見ると、ヨルムンガントに握られて苦しそうにうめいている。その隙《すき》にキュルケとティファニアは、子供たちを連れて遠くに逃げていた。
「あいつ、囮《おとり》になったみたいだな。やるじぇねえか[#底本「やるじぇねえか」ママ]隊長殿。褒めてつかわす。待ってろ!」
才人《さいと》はそう叫ぶと、シルフィードの上から飛び降りた。
落下と同時に、ギーシュを握ったヨルムンガントの左腕に才人は切りつけた。
しかし、キィ―――ン! と硬い音がして、才人の剣は弾《はじ》かれる。
「切れねえ!」
次の瞬間、ヨルムンガントの右腕が、止まった蚊《か》を叩《たた》くように才人に伸びた。才人は咄嗟《とっさ》に、切りつけたヨルムンガントの左腕を蹴《け》り、その恐るべき拳《こぶし》から逃れた。
「くっ!」
軽業師のように、才人は地面に降り立った。同時に、恐るべきスピードで、ヨルムンガントの足が伸び、才人を踏み潰《つぶ》そうとする。
ジャンプして、才人は足を避《よ》ける。
「なんだこいつ! ただのゴーレムじゃねえ! 速すぎる!」
いつだか戦った、フーケのゴーレムなんかとは、根本的に速さが違う。
フーケのゴーレムがカメなら、このヨルムンガントはネコだ。
もちろん、ただのネコじゃない。鋼鉄の腕と、足と、巨体と……、人間並みの器用さを兼ね備えていた。
才人は間合いを取るために、後ろに跳び退《すさ》った。
ヨルムンガントは腰から剣を抜いた。
「おまけに、あんな得物まで持ってるのかよ!」
大きく剣を振りかぶり、ヨルムンガントは才人《さいと》めがけて振り下ろす。
才人はそれを、横へのステップで交わす。しかし、完全に読まれていたらしい。
ヨルムンガントは左手を右肩に回すと、その器用な指先で、隠されていた投げナイフをまとめて三本放ってきた。
投げナイフといっても、一本が大剣の大きさだ。
当たれば人間なんかバラバラになってしまう!
二本は避《よ》けたが、三本目が避けきれず、才人は剣で払った。
続けざまに、ヨルムンガントは剣を振り下ろす。
恐ろしい速さだ。
才人は四連続の剣戟《けんげき》をなんとか交わし、踏み込みすぎたヨルムンガントの足を切りつけた。
しかし……、乾いた音と共に剣は弾《はじ》かれる。
「デルフでも切れねえなんて!」
「こいつはあれだ。例の|カウンター《反射》だな」
「あのエルフが使ってたやつかよ!」
アーハンブラ城での戦いを、才人は思い出した。
すると……、ルイズのディスペルしか、この鎧《よろい》には通用しない!
「でも、大量にカウンター≠使っているおかげで、鎧には刃は届いてる」
「実際、切れないんじゃ話にならないだろ!」
拳《こぶし》を横に飛んでかわしながら、才人は叫ぶ。
タバサのシルフィードの上で、ルイズははらはらしながら才人の戦いを見守っていた。才人の剣は、まったくヨルムンガントにダメージを与えていない!
「どうしよう……、あのままじゃ、サイト、やられちゃう……」
タバサがルイズのほうを向いた。
「虚無」
「撃てないのよ!」
「なぜ?」
「精神力が切れちゃってるの!」
「溜《た》めとかなきゃ」
「虚無は寝れば溜まるってもんじゃないのよ!」
タバサはしばらく考えていたが……、いきなりシルフィードを才人めがけて急降下させた。素早く呪文《じゅもん》を唱え、レビテーション≠ナ浮かべた才人を空中でキャッチした。
「なんだよ! 逃げるのかよ! ここで逃げたって、あんな素早い奴《やつ》が相手じゃ、捕まっちまうぞ! 子供たちもいるんだ!」
急に戦いを中断された才人《さいと》が怒鳴る。
「あなただけじゃ、勝てない」
「いやま、そうかもしんねえけど!」
「黙ってて」
タバサは、毅然《きぜん》とした声で言った。
「はい?」
次にタバサはルイズにも聞こえるような声で、才人に告げた。
「この前の続きをする」
「は? この前の続きってなんだよ! なんだかわからないけど、今はそれどころじゃ……、むぐっ!」
才人はそれ以上、しゃべれなかった。
なぜかというと……。
タバサの唇が、才人のそれを塞《ふさ》いでいたからである。
「む……、んむ……」
才人は突然のキスに、目を回した。
しかもタバサは、その小さな身体《からだ》に似合わない動きで、濃厚に舌を絡めてきた。まるでルイズに見せつけるようにして、タバサは才人の舌を吸い上げた。
ルイズは、目の前の光景が一瞬、何のことだかわからなかった。
突然のことに、頭が、ついていかないのである。
しかし……、タバサの唇が才人のそれをなぞるように動いたとき、これはキスだ、と気づいた。
ルイズの肩が、まるで地震のように震えだした。
「あ、あんたたちぃ……、こここ、こんなときにぃ……」
次にタバサは、ゆっくりと才人の首に腕を回し、強く抱きしめた。小さなタバサの身体が、才人に密着する。
ルイズの脳裏に、タバサが発した単語が蘇《よみがえ》る。
「しかも、こ、ここ、この前の続きですってぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!」
つまり、ルイズに隠れてこんなことをしていたということだ。
桃色の髪が、ぶわっと逆立ち、ルイズの鳶色《とびいろ》の瞳《ひとみ》が燃え上がった。激しい、燃えるような怒りがルイズの身体に満ちていく。
極限まで高められた怒りが、強い精神力を生み出し、魔力のオーラとなってルイズの身体を包んだ。
ゆらりと、陽炎《かげろう》のように立ち上るルイズの魔力を確認したタバサは、才人《さいと》の身体《からだ》からぱっと離れた。
「今」
ルイズは我に返り、呪文《じゅもん》を唱え始めた。
イサ・ナウシド・ウンジュー・セラ……[#斜字]
デルフリンガーの声が響く。
「ディスペルじゃねえ! 鎧《よろい》自体に攻撃は届く! エクスプロージョンで吹き飛ばしな!」
ルイズの中に、古代のルーンがうねり始めた。
エクスプロージョン
爆発。
それはルイズにとって、一番|馴染《なじ》み深い呪文であった。
エオルー・スーヌ・フィル・ヤルンサクサ[#斜字]
怒りが、自分の力の源なのだろうか?
呪文を唱えながら、ルイズはそう思った。
自分は、ずっと……、こんな怒りを溜《た》めて生きてきたのだろうか?
オス・スーヌ・ウリュ・ル・ラド[#斜字]
怒りと……、もう一つの感情に行き着く。
ベオーズス・ユル・スヴュエル・カノ・オシェラ[#斜字]
その感情を認めるのが怖い。
呪文の詠唱を完成させたルイズは我に返った。
完成させた呪文により、行き場を求めて、魔力が身体の中を回り始める。その魔力を肩、腕、手、指、杖《つえ》の先とめぐらせ……、ルイズはエキスプロージョン≠撃ちはなつ。
白い光が、ヨルムンガントの鎧の一点に現れた。
「うお……」
才人の呻《うめ》きが耳に届く。
タバサも、目を見開いてその光≠ノ見入っている。
光は、大きく広がってヨルムンガントを包み込んでいく。
同時にヨルムンガントの鎧《よろい》が、風船が膨らむようにして膨れ上がり……、ついで耳をつんざくような爆発音が響いた。
中に爆薬を仕込まれていたかのように、ヨルムンガントは四散した。バラバラになった鎧が、辺りに飛び散った。
煙舞い、ヨルムンガントの破片が転がる地面に降りると、隠れていたらしいキュルケたちが駆け寄ってくる。
「サイト! ルイズ! やったじゃない!」
「いやぁ! きみたちはさすがだな! あんな化け物をやっつけるなんて!」
「よかった……、村を出て早々、死んじゃうかと思った!」
ギーシュとキュルケとティファニアは、才人《さいと》の手をとって小躍りした。子供たちが駆け寄り、その輪に加わる。
しばらくそうやって、仲間たちは喜んでいたが……、キュルケとギーシュは真顔になって、才人の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「……あのだね、きみはまた、こういう活躍をしたいかね? その、なんだ、大きな敵をやっつけて人助けというか……」
才人は、心底疲れた声で言った。
「ふざけんな。もう二度とごめんだよ。頼まれたってやるもんか」
キュルケとギーシュは、にっこりと笑った。
「きゃあ! 情けない! かっこ悪い!」
「でも、それでこそサイトだ!」
「お前ら、ほんとに俺《おれ》のことナメてるよな……」
そんな風に和気藹々《わきあいあい》の雰囲気の中、一人肩を震わせている少女がいた。
ルイズである。
彼女はつかつかつか、と才人に近づくと、ギーシュたちと喜び合う才人の耳を掴《つか》んだ。
「な、なんだよ!」
ルイズは、笑みを浮かべた。しかし、その唇はひきつけを起こしたように震えている。
「どゆこと?」
「え?」
ルイズの目が、キラキラと光り始めた。
「この前の続きってどゆこと?」
才人は慌てた。
「ばか! あれはどう見ても、タバサの機転というかその」
「まあね。理屈じゃわかってるの。というか、犬のあんたが何しようが犬の勝手。でも不思議ね、感情がダメって言うわ。ええ、きっとあんたが使い魔だからよね」
直後、鬼のように目を吊《つ》り上げ、猛禽類《もうきんるい》が獲物を巣に運ぶようにして、ルイズはずるずると才人《さいと》を茂みへと引っ張っていく。
才人のせつない絶叫が、アルビオンの青空に吸い込まれていった。
そんな一同に隠れて、ヨルムンガントの鎧《よろい》を回収する影があった。
ミョズニトニルンである。彼女はバラバラになった鎧の一片を大事そうに抱え、
「あのような爆発に耐える鎧は……、エルフの魔法を使えばできるかしら? なるほど、面白くなってきたじゃないの」
と、呟《つぶや》いた。
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エピローグ
ロサイスからトリステインに戻るフネの中、才人は船室のベッドの上でうなされていた。ヨルムンガントとの戦いより、ルイズに食らったダメージの方が大きかったのである。
うーんうーん、とうなされながらも、才人はどこかすっきりした気分だった。なんだかやるべきことがまっすぐ見えてきた気分だった。
そんなこんなで、才人が天井を眺めていると……。
とんとん、とノックの音が響いた。
「誰《だれ》?」
「わたし」ルイズの声だった。
「……開いてるよ」と不機嫌な声で言ったら、バツの悪そうな顔をしたルイズが入ってきた。
「あのね。一応、聞いてあげる。大丈夫?」
「お前……、殴りすぎ。やりすぎ。はしゃぎすぎ」
ルイズは唇を尖《とが》らせて、すねるような口調で言った。
「あ、あんたが悪いのよ。あんたが、使い魔としての好きとか言うから。う、嘘《うそ》に決まってるわよね。そうよね。あんた、わたしのこと大好きだもんね」
才人《さいと》は、ルイズをじろっと睨《にら》んで言った。
「こんなことされて、そう言えるやつがいたら連れて来い。貴族にしてやるから」
「へ、へんだ。大好きなくせに」
「いやもう全然」
「好きなくせに」
「あのな、逆だろ? お前が俺《おれ》のこと、好きなんじゃねえか」
「ま、まま、ままま、まさか!」
ルイズは顔を真っ赤にすると、両手をぶんぶんと振った。
「大好きだから、あんなにやきもちやくんだろ? さっきのキスで怒って精神力が溜まったのだって、つまりはそういうことなんだろ。見え見えなんだよ」
するとルイズは、う〜〜〜、と半泣きで唸《うな》りだし、それから頷《うなず》いた。
「……そうね。そうかもしれないわ」
「……え?」驚いて、才人はルイズを見つめた。そんな様子に、ルイズは再びにや〜〜〜、っと勝ち誇った笑みを浮かべた。
「いやだ。犬が涎《よだれ》をたらしてるわ」
「だ、騙《だま》したな!」
「なにドキドキしてんのよ。ばかね」
照れを隠すように、才人は横を向いて言った。
「まったく……、あのな、そろそろ、きちんと帰る方法探すからな。やっぱり、味噌汁《みそしる》が飲みたいしな」
「味噌汁ってなによ」
「俺たちの国のスープ」
するとルイズは、ぽろっと言った。
「わたしも、飲んでみたいな。サイトの国のスープ」
すると才人の頬《ほお》が、キスのとき以上に赤らむ。
ルイズもなぜか照れて、しかたがなくなった。
「面倒くさいし、大変だけど……。でもまあ……、ちょっとぐらいだったらお前の仕事も手伝ってやってもいいけどな」
そんな風に冷たく言われながらも、ルイズは、心の中にぽっと火が灯《とも》るように感じた。きっとサイトはこれからも、こうやって悪態《あくたい》をつきながら自分を助けてくれるような気がした。
『なんでそんなこと、俺がやらなきゃならねえんだよ』
そう言いながら才人は、なんでもやってしまうんじゃないだろうか。
あのとき……、フーケのゴーレムから自分を助けてくれたように。
そして今日、ルイズを助けに来てくれたように……。
ぶっきらぼうな言葉の裏に、ルイズはなぜか、確かな才人《さいと》の愛情を感じる。ティファニアの呪文《じゅもん》をくぐり抜けた今……。それは使い魔として与えられたものじゃない、本物の愛情だ。
でもなぜ、自分は疑ってしまうのだろうか? 使い魔として与えられたものじゃないのだろうか? という不安が拭《ぬぐ》えないのだろうか?
……自分に自信がないからだ。
自信がないから、自分の気持ちを認めようとしないし、才人の言葉をすぐに疑ってしまう。だから、こんな言い方しかできないのかしら、と思いながら、ルイズは恥ずかしそうに、ぽつりと呟《つぶや》いた。
「あ、操られているのはわたしだもん」
「え?」
「使い魔に情を抱くように、わたしってば条件づけられているんだもん。だからやきもちをやいたりしちゃうし、したくもないのに、こんなことしちゃうのね。きっと」
ルイズは、才人の頬《ほお》を両手で掴《つか》むと、不意に唇を近づけてきた。
「え? ええ? んむ……」
二人の唇が、ゆっくりと重ねあわされる。
才人の唇をなぞるようにキスをしながら、ルイズはぼんやりと思う。
これから虚無を撃つときには、わたし、怒らなきゃいけないのかしら?
そのためには……、才人が、他の女の子と? どうやらそれが手っ取り早いようだ。なんて不便な精神力かしら、とルイズは震える。
じゃあ、他に心の底から怒るようなこと、あるかしら? と思う。
憎らしくて、せつなくて……、けどどうしようもなくって……、ルイズは重ねる唇を、さらに強く押しつけた。
しばらくそうやって、唇を重ねたあと……、ルイズはすっと唇を離す。
「虚無に操られて使い魔に情を抱くなんて、わたしってば可哀想《かわいそう》だわ。とっても可哀想な女の子だわ」
そんな言葉を呟きながら、ルイズは再び唇を重ねた。
唇を重ねながら……、才人はルイズのそんな言葉が嘘《うそ》だとわかる。
痛いほどにわかる。ルイズのキスは、妙に熱い。
その熱さが何より、ルイズの才人に対する想《おも》いを雄弁に語っていた。
いつかも見た、遠ざかるアルビオン大陸の下半分を覆う、白い雲を見ながら、才人は思った。
[#挿絵252]
俺《おれ》……、本当にティファニアの魔法は効いたんだろうか。
もともと偽《いつわ》りの動機≠ネんてものはこれっぽちもなくって、カトレアの言うように、『心が鍵《かぎ》をかけていた』だけなのかもしれない。
まあ、そんなこといくら考えたってしかたないよな、と才人《さいと》は持ち前の楽天さを発揮して、そう思った。
自分の心のことなんか、自分自身でわかるわけがない。
ただ、はっきりしていることがたった一つだけある。
ルイズを見ると、どうにもこうにもドキドキしてしまうこと。悔しいことに、そればっかりは、ティファニアの魔法の前でもあとでも変わらない。
ティファニアの家で見た夢を、才人は思い出す。
あのとき、母は才人にこう言っていた。
『やらなくちゃならないことがあるんじゃないのかい?』
所詮《しょせん》、男が生きている意味なんて、見てるとドキドキする女の子を守る。
運が悪けりゃ死ぬ。
へ、そんだけだもんな。
アルビオンから遠ざかるフネの中、ルイズと熱いキスを重ねながら、才人はそう思った。
[#改ページ]
あとがき
ゼロの使い魔もとうとう十一巻です。喜ばしいです。これもひとえに読者の皆さんと、この本にかかわってくださっている人たちのおかげでございます。この場を借りて感謝の言葉を述べたいと思います。どうもありがとうございます!
ここまで来ても、まだまだ世界が広がりそうな予感がします。いろんなところに行って見たい、というぼくの根本的な欲求は、未《いま》だおさまりそうにありません。
さて、たまに考えるのです。
どうして、ぼくは他所《よそ》の世界を見てみたい、なんて思うのだろうかと。以前ぼくは、それを『男の本能だ』と書きました。そこでふと思った疑問があって、本能≠ニいうものが、人間という種≠フ記憶とするならば、それは僕自身の欲求ではない。人間全体の欲求を、ぼくという固体が映し出しているに過ぎないのではないでしょうか。
そう考えてしまうと、ぼくの意思というものはどこにあるのだろうかと。
いろんな思考が交じり合い、ぼく≠ニいう人格は存在します。さて、そうなるとぼくはどこからどこまでがぼく≠ネんだろうか。
考えてしまったのです。
それを判じることは不可能です。なにせ、ぼくという人格は、今まで培《つちか》ってきた他者から与えられたもの、生まれつきもっていた本能、などと不可分に結びついていて、それ自体思考の海から取り出すことはできない類《たぐい》のものであるからです。
ああ、もしかしたら、人間はみんななにものかに操られているのかもしれない。他人とか、宇宙人でなく、もっとなにか別のもの。そしてそれは単一ではない。水とか空気とか、そういったマテリアルにさえ、わずかに干渉されているような、そんな気がします。
さてさて、こういったぼくってなに?¥態を、未完成の人格≠ニいって、人格が形成されるとなくなるそうです。が、ぼくはあまりうまく人格の形成≠ネんてことが信じられません。人格ってほんとうに形成されてるんですかね。形成されてる、と思っているだけで、ほんとうはそんなもの、どこにもないのかもしれません。
ま、そんな人格は人格で大切なのですが、可愛《かわい》い女の子とのラブコメ。これは大事です。なにせこれがないと、日本は日米安保を破棄され、国際的に孤立する危険を生じるのです。今回もルイズとか、やらかしますんで、どうか一つ。
まだまだ続くゼロの使い魔を、これからもよろしくお願いします!
[#地付き]ヤマグチノボル
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ゼロの使い魔11 追憶の二重奏
発行2007年5月31日 初版第一版発行
著 者 ヤマグチノボル
発行人 三坂泰二
発行所 株式会社メディアファクトリー
平成十九年五月二十五日 入力 校正 ぴよこ