ゼロの使い魔10 〈イーヴァルディの勇者〉
ヤマグチノボル
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底本データ
一頁18行 一行40文字 段組1段
文庫判15センチ
ISBN4840117667
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ゼロの使い魔10 イーヴァルディの勇者
才人は使い魔として異世界ハルケギニアに『召喚』されてしまった高校生。トリステインとアルビオンの戦いの後、ご主人さまであるルイズとともに学院に戻った彼は、女王アンリエッタから騎士に任命される。誰かに必要とされることで、才人は次第に「こっちの世界でみんなの力になりたい」という思いを強くしていく。ルイズは、態度こそ今までどおりに邪険にしながらも、「サイトが一番幸せになる方法」を考え始めるが、敬愛するアンリエッタまでが才人を英雄視していることで、自分が才人に好かれているという自信が持てないでいた。一方、タバサは母を救い出そうと、単身母国ガリアへと向かい――。大人気の異世界使い魔ファンタジー、第10弾!
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ヤマグチノボル(やまぐち・のぼる)
1972年2月、茨城県生まれ。『カナリア〜この想いを歌にのせて』(角川スニーカー文庫)でデヴュー。著書に『グリーングリーン鐘ノ音ファンタスティック』『つっぱれ有栖川』『魔法薬売りのマレア 千日カゲロウ』(角川スニーカー文庫)『描きかけのラブレター』(富士見ミステリー文庫)『サンタ・クラリス・クライシス』(富士見ファンタジア文庫)『グリーングリーン鐘ノ音スタンド・バイ・ミー』(MF文庫J)など多数。『グリーングリーン』『Gonna Be??』『ゆきうた』『私立アキハバラ学園』『魔界天使ジブリール』『そらうた』など、ゲームシナリオライターとしても活躍中。
◎兎塚エイジ(うさつか・えいじ)
8月16日生まれ。大阪出身、大阪在住の大阪人。
現在、サラリーマンをしながらイラストを描かせて頂いています。
イラスト仕事歴は「導士さまといっしょ」(電撃文庫)「ふたりはなめこじる」(電撃hp)「ハノン〜君の目指す明日へ〜」(GA文庫)「悪魔憑きの目覚め」(富士見ドラゴンブック)「ゼロの使い魔」シリーズ(MF文庫J)等です。
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ゼロの使い魔10
〈イーヴァルディの勇者〉
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※INDEX※
※第一章 『オストラント』号…………………11
※第二章 エルフ…………………………………41
※第三章 不安と嫉妬……………………………57
※第四章 女王と騎士たち………………………86
※第五章 兄弟……………………………………109
※第六章 囚われの六人…………………………121
※第七章 過去の清算……………………………145
※第八章 旧オルレアン邸………………………167
※第九章 アーハンブラ城………………………186
※第十章 イーヴァルディの勇者………………213
エピローグ…………………………………………247
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登場人物
+ルイズ+
才人のご主人さま。
+才人+
現代日本から召還された、ルイズの使い魔。
+シエスタ+
騎士になった才人の専属メイド。
+アンリエッタ+
トリステインの若き女王。ルイズの幼馴染みでもある。
+キュルケ+
『火』系統の魔法を得意とする、恋多き女。
+タバサ+
無口な少女。魔法が得意。
+ギーシュ+
ルイズのクラスメイトで、水精霊騎士隊の隊長をつとめる。
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[#地から2字上げ]口絵・本文イラスト●兎塚エイジ
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第一章 『オストラント』号
「はふぅ」
ルイズは深いため息をついた。ここは、『オストラント』号の甲板。目の前では、ギーシュやマリコルヌらをはじめとする魔法学院の生徒たちがはしゃいで大騒ぎしている。
その輪の真ん中にはコルベールがいた。以前、学院がアルビオン軍の傭兵《ようへい》隊に襲われたときに命を落としたと聞いていたが、実は生きていて、こっそりキュルケがゲルマニアに連れ帰っていたらしい。
どうしてキュルケがそんなことをしたのか不思議で、ルイズは首をかしげた。
「あらルイズ。わたしのジャンのフネはどう?」
そんなルイズの肩に手をまわすようにして、キュルケがにっこりと笑った。
ルイズは甲板から伸びた、『オストラント』号の翼を見つめた。通常のフネの三倍はあろうかという、長大な翼だった。普通、フネに取りつける翼は、木材を支柱として、帆布を張るのだが、このフネは違った。強度を得るために、木材の代わりに長い鉄のパイプが使われている。百メイルにも及ぶまっすぐな鉄のパイプなど、トリステインでは造れない。
翼の中間には巨大なプロペラがついた機関室がでん! とのっている。あれがコルベール自慢の水蒸気機関≠ニいうものらしかった。いつぞやの愉快なヘビくん≠雛形《ひながた》にしてコルベールとツェルプストー家が作ったものらしい。見た目は大きな煙突が二本突き出た鉄の箱。石炭を燃やして熱せられた水から発生する蒸気の力で、巨大なプロペラを回転させる機関である。
その二つともが、冶金《やきん》技術に優れたゲルマニアの匠《たくみ》の技であった。
「すごいフネね」ルイズが短く感想を述べると、
「これほど長くて丈夫な、フネの支柱に使えるような鉄材を加工するなんて、トリステインでは無理! ルイズ、理解できて? あたしのジャンの設計を、現実のものとするためには、ゲルマニアの火の技術が必要だったのよ。火のツェルプストーと炎蛇の、まさに運命の出会い! すなわち愛の結晶ね!」
得意げにキュルケは髪をかきあげる。教師をつかまえてあたしのジャン′トばわりのキュルケに呆《あき》れて、ルイズは言った。
「今度は先生ってわけ? あんたってば、ほんとのほんとに見境なく惚れっぽいのね」
「素敵な殿方に惹《ひ》かれるのは、本能よ。あたしはそれに忠実ってだけよ」
「なんでまた、死んだ≠ネんて嘘《うそ》ついて連れて帰ったのよ」
ルイズが尋ねると、キュルケはちょっと寂しそうな表情を浮かべた。しかしすぐに大きな笑顔を浮かべ、
「大人《おとな》にはいろいろと事情があるのよ。ややこしい事情がね」
手のひらをひらひらと振りながら、コルベールの元へ駆け寄る。
コルベールのほうは、生徒たちに『オストラント』号の説明をしているところであった。
「この大きな翼を使って浮力を得ることで、風石の消費を抑え、長大な航続距離を稼ぐわけですな……、って、うわ!」
いきなりキュルケに抱きつかれたコルベールは悲鳴をあげる。生徒たちから笑いが漏れた。その生徒たちの中に、才人《さいと》はいる。なんともはや、無邪気に笑っている。
そりゃ生きてて嬉《うれ》しいのはわかるけどさ……、とルイズは唇を尖《とが》らせた。
昨日の姫さまとのキス、ちゃんと説明してよね。
落下の最中、キスされて、まあいっか……、なんて思ったのも一瞬、やっぱり才人とアンリエッタとのあの接吻《せっぷん》は尋常の関係じゃない。二人の間に、熱い空気が漂っていたのをルイズは見逃さなかった。アンリエッタを問い詰めたら、その気持ち、本物かどうかわかりませぬ……、などと言い放った。やばい。七万を止めたおかげで、なんだかトリステインの英雄となりつつある才人に、アンリエッタもその目を曇《くも》らせているようである。
そんな女王の気持ちに対し、才人はどうなんだろう? やっぱりアンリエッタがいいんだろうか?
二人のキスを、ルイズは思い出した。アンリエッタも才人も歌劇の登場人物のような、熱い何かをその目に宿らせていた。なにあの目。まるで、知らずにいた運命に気づいたような、そんな目であった。
あんだけわたしのこと好き好き言ってるくせに、それってどうなのよぉ〜〜〜〜、とすっかりのぼせ上がったルイズはボコボコとフネの舷壁《げんへき》を蹴《け》りまくった。
「ご機嫌斜めですね」
見ると、お盆を持ったシエスタが立っていた。
「なんであんたがここにいるのよ」
唸《うな》り声に近い声でルイズは言った。シエスタは、今では才人《さいと》の専属メイドである。今の時間は、部屋で掃除でもしているはずである。
「集まった生徒の皆さんが、このフネの上で昼食をとるって言うもんですから。食事を運ぶ人手が足りなくなって、わたしも呼ばれたんです。それにしてもすごいおふねですね。こんなに長い翼のおふね、わたし初めて見ました」
シエスタは、昨晩ルイズがミョズニトニルンに襲われたことは知らない。この『オストラント』号も、なぜかゲルマニアで生きていたコルベールが造ったすごいフネ、ぐらいの認識しかないようだった。無邪気な顔で、きょろきょろと甲板やマストや翼に視線を移している。
シエスタの持った盆の上には切ったパンにハムやら野菜やらをのせた軽食がのっていた。ルイズはそれを一つ取ると、無言でほおばり始める。
シエスタは、ルイズに近づくと耳元でささやいた。
「で、ミス・ヴァリエールは舞踏会でサイトさんに見つけてもらったんですか?」
ぐ、とルイズは食べているパンを喉《のど》に詰まらせた。そんなルイズにシエスタは目を細めてつぶやく。
「どぉーだったんですか? おやおやおや、その様子を見ると、駄目だったみたいですね。というと、賭《か》けはわたしの勝ちですね。勝ちということは……」
シエスタは顔をぱあっと輝かせた。
「一日、サイトさんを貸していただきますからね。ミス・ヴァリエールは、用事ができたと言って、お部屋を空けてください。だいじょぶです。そんなですね、ミス・ヴァリエールが考えているようなヘンなことしませんから。ただちょっと演劇の稽古《けいこ》をするだけですから。『メイドの午後』ってタイトルの小説のですね、ワンシーンをですね、練習しようかなって。そういう……」
しかし、ルイズは返事をしない。ぷるぷると震えながら、一点を見つめている。
「聞いてるんですか? ミス」
シエスタはルイズの視線の先に気づき、目を丸くした。
「女王陛下じゃありませんか!」
ちょうど、女王アンリエッタその人が護衛をひきつれ、こっちに歩いてくるところであった。彼女は、昨晩|催《もよお》されたスレイプニィルの舞踏会に出席するために、魔法学院に滞在していたのである。甲板に集まった生徒たちから歓声がわいた。突然現れたアンリエッタを見て、コルベールが深々と頭を下げる。
「すばらしいフネですわね。ミスタ」
「恐縮です」
そんなコルベールとアンリエッタのやり取りを見つめ、シエスタはため息をついた。トリステインの花、と形容されたアンリエッタの美貌《びぼう》は、貴族の子女に交じっても、やはり異彩を放っていた。高貴な雰囲気がこれでもかと漂い、平民のシエスタを圧迫する。
しかし……、アンリエッタはそんな中にも、どこか親しみやすさを感じさせる雰囲気を持っていた。貴族の女性は、みんなお高くとまり、澄ましているように見えたが、その頂点に君臨するアンリエッタには、あまりそういったものは感じられない。何者とも張り合う必要がないからだろうか。
「わたし、こんなお近くで女王陛下を拝見するの初めてです。故郷の家族が聞いたら、きっと羨《うらや》ましがりますわ……」
しかしルイズは無反応。じっと、まっすぐに、アンリエッタを見つめている。いったいミス・ヴァリエールはどうしたのだろう? とシエスタは首をかしげていたが、そのうちに顔を輝かせた。想《おも》い人が、人ごみを掻《か》き分けて現れたのである。
「サイトさん……」
果たしてそれは、水精霊騎士隊《オンディーヌ》のマントを羽織った才人《さいと》であった。隣にはギーシュの姿も見えたが、シエスタの目にはもう才人しか映っていない。
ギーシュはアンリエッタの前まで来ると、優雅に一礼する。半歩下がって後ろに立った才人もギーシュに合わせ、慣れぬ騎士の仕草で一礼した。その平民上がりの不器用さが、さらにシエスタの胸をときめかせる。
「陛下、馬車の支度が整いました」
ギーシュが恭《うやうや》しく一礼して言った。憧《あこが》れの女王に直接仕える喜びからか、これ以上ないほどに得意げな態度である。どことなく恥ずかしそうな才人とは対照的であった。
「ご苦労さまです」
アンリエッタは、そう言うと、労をねぎらうかのように右手を差し出した。ギーシュはそのままの姿勢で固まった。
「ギーシュさん?」
「おい……」
才人が、小さくギーシュをつつく。そのままの姿勢で、ギーシュは横に倒れた。アンリエッタが驚いてあとじさる。
「ど、どうなさったんですか?」
「気絶してます」
才人がせつなげに言うと、集まった生徒たちは爆笑した。
どうやらギーシュは感極まって意識を失ったらしい。
「では、代わりに副隊長さんに、感謝の気持ちを伝えたいと思います」
アンリエッタが軽く緊張した声で言うと、周りにさっと緊張が走った。才人はシュヴァリエとはいえ、元平民(ほんとは異世界人だが)である。以前、トリスタニアで御手《みて》を許されたことは知っていたが、いざ目《ま》の当《あ》たりにするとかつては想像すらできなかった光景に頭がくらくらする。
才人《さいと》はふとアンリエッタの顔を見上げ、顔を赤らめ、わずかに伏せた。女王に手を差し出され、緊張しているのだと周りの貴族生徒たちは考えたが、シエスタの目にはそう映らなかった。目を細め、女王と才人の顔を交互に見つめる。
「……え?」
シエスタの口から、驚きのうめきが漏れた。さすがは恋する娘、一瞬、アンリエッタの目の中に光った熱い何かを見逃さなかったのであった。
「そ、そんな、まさか……」
ありえない、と思いながら、ルイズのほうを向いた。こっちはこっちで、大変なことになっていた。拳《こぶし》をぎゅっと握り締め、俯《うつむ》き、直立不動でなにやらぶつぶつとつぶやいている。
「ミス? ミス?」
シエスタは慌ててルイズを揺さぶった。ぶつぶつぶつとルイズの口からは、呪詛《しゅそ》のような言葉が漏れ続けている。
「犬のくせに犬のくせに犬のくせになに考えてんのそれありえないからおそれおおいったらありゃしないというか姫さまも姫さまだわ節操ないったらありゃしない本気じゃないのふざけてるわなにがこの気持ちどうなのかわかりませぬよ許せないやっぱり許せない犬のくせに犬と女王? お笑いだわよふんとに」
「ミス! ミス!」
シエスタは青ざめてルイズをさらに揺さぶった。
「あによ」
「……あれ! あれ、どういうことですか!」
小声でささやきながら、シエスタはアンリエッタと才人《さいと》を指差した。
「どういうこともこういうこともああいうことも、あんたの見たとおりよ」
シエスタはくらくらと地面にへたりおちた。
「信じられません」
「わたしだって信じられないわよ」
アンリエッタはルイズに気づいたらしい。何の邪気もこもってない笑顔を浮かべ、近づいてくる。
そのあとから、バツの悪そうな顔をした才人もやってくる。息を吹き返したギーシュもついてきた。ルイズはふんっ! と才人から顔を背け、アンリエッタにぎこちない会釈をした。
「わたくし、これからお城に戻るのだけど……、その前にあなたとゆっくり昼食がとりたいの。いいかしら?」
「いいも悪いも、ありませんわ。陛下のおおせのままに」
アンリエッタはにっこりと笑った。それから才人のほうを振り向き、
「あなたもいらしてくださいますか?」
「そ、そりゃもう! よろこんで! はい!」
ギーシュが、直立不動でこたえた。モンモランシーがその場にいたら、魔法でお仕置きしかねない勢いであった。
しかし才人は、すまなさそうに首を振る。
「もうしわけありませんが……、ちょっと、その、用事がありまして」
その様子を見守っていた生徒たちから、呆《あき》れ声があがった。女王の誘いを断るなど、通常は考えられない。ましてや昼食の陪席など、並の貴族が望んでも得られぬ光栄である。
アンリエッタは一瞬、寂しそうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔に切り替えた。
「いいのです。騎士ともなれば、いろいろ忙しいこともあるでしょうから」
女王と昼食の陪席を賜ることになった一行は、ぞろぞろと『オストラント』号を下りていく。ギーシュ、ルイズ、アンリエッタ……、給仕の手が必要だと感じてか、シエスタもルイズのあとをついていった。
あとに残された才人は顔をあげると、キュルケとコルベールの元へと向かった。
さっきまで二人の周りに集まっていた生徒たちは、別に陪席できるわけではないのに女王一行のあとについて行った。おかげで、やっとのことでコルベールは解放されたのであった。
「どうしたの? サイト。女王さまのお誘いを断るなんて。あなた随分偉くなったじゃないの」
「ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「そうそう。あたしも聞きたいことがあるのよ。あなたたち、昨日|誰《だれ》かに襲われてたでしょ? あれ、誰?」
「俺《おれ》もよくわからない」
「なにそれ。あと、タバサはどうしたの? 昨日はあなたたちといっしょだったのに、今日は一向に姿を見せないし……」
「俺が聞きたいのは、そのタバサのことなんだ」
才人《さいと》はキュルケに、昨晩のことを話した。
ルイズがミョズニトニルン≠ニ名乗る謎《なぞ》の女性に襲われ、さらわれそうになったこと。助けに行こうとしたら、なんとタバサが攻撃をしかけてきたこと。
「ほんと?」
キュルケは目を丸くした。
「ああ。でも、俺はあいつを傷つけることはできなかった。気づいたら、剣の切っ先をはずしてた。俺は腹に一発食らったけど、あいつも急所は狙《ねら》えなかったんだろう。致命傷じゃなかった」
才人はシャツをめくって、昨晩タバサにえぐられた傷を見せた。騎士隊の水の使い手に癒《いや》してもらったおかげで、傷はふさがっているが……、ジ|ャ《氷》ベ|リン《槍》≠フ呪文《じゅもん》でつけられた生々しいあとが残っている。
「どんな心変わりがあったのか知らないけど……、それからあいつは、それまで味方だったやつを攻撃したんだ。で、いっしょにシルフィードに乗って、ルイズをさらった敵を追っかけていたら、先生に助けられたってわけだ」
キュルケは考え込むようにしていたが……、すぐに顔をあげる。そして走り出す。
「キュルケ、どこに行くんだ」
才人とコルベールは顔を見合わせると、キュルケのあとについていった。
キュルケの行き先は、寮塔の中のタバサの部屋であった。
しかしそこはもぬけの殻。どこにもタバサの姿は見えない。キュルケは腕を組むと、考え事を始めた。それから才人に真顔で尋ねた。
「あの子が、この学院に帰ってきたのはいつ?」
「えっと……、十日ほど前だったかな」
キュルケは、しかめっつらになった。
「まったく……。あの子ったら、何にも言わないんだから。ほんとに水臭いわね」
「どういうことだ?」
「あの子ね、あたしといっしょにゲルマニアに行ったんだけど……、ジャンの無事を確認したら、『帰る』って言って、ほんとに帰っちゃったの」
「おいおい、でも、あいつが学院に戻ってきたのは十日ぐらい前だぜ?」
「だからよ。その間、きっと何かまた任務≠ナも受けてたんだわ。ったく……」
「任務≠チてなんだよ! 穏やかじゃねえな。そういやあいつ、言ってたな……。襲ったわけはあとで話す≠チて。なあキュルケ、教えてくれよ!」
キュルケは、ん〜〜、と額に手を置いたが、
「まいっか。いまさらあなたに隠してもしょうがないわよね。あの子がガリア人ということは知ってる?」
才人《さいと》は頷《うなず》いた。それは、騎士隊勧誘のときに図書館でタバサから直接聞いた。
「ただの貴族じゃないのよ。あの子は、ガリアの王族なの」
「王族だって?」
「そうよ」
キュルケは、才人に説明してくれた。タバサがこのトリステイン魔法学院に留学してきた哀しいいきさつを……。
現国王の弟であったタバサの父親のオルレアン公が、現国王派に殺されたこと。タバサの母親は、タバサをかばって毒をあおぎ、心を病んでしまったこと。
そしてタバサは、厄介払いのようにトリステインに留学させられたこと……。
「でも、そんなガリア王家のなにが許せないって……」
キュルケはぎりっと唇を噛《か》んだ。いつもは小ばかにしたような笑みを浮かべている顔に、その系統を偲《しの》ばせる火のような怒りが浮かぶ。
「そんな仕打ちをしておきながら、面倒な事件が起こると、あの子に押しつけることよ」
「……面倒な事件?」
「あの、ラグドリアンの一件を覚えてる?」
才人は、あの美しい湖での出来事を思い出した。哀しい記憶が蘇《よみがえ》る。ウェールズの死……、アンリエッタの涙。そして、水の精霊との約束……。
そういや、指輪のこと忘れてたっけ……、とつぶやいたあと、才人は顔をあげた。
「ああ、覚えてるよ。お前たちとやりあったっけな」
「あれも、ガリア王家からの命令だったの」
「じゃあ、昨晩|俺《おれ》たちを襲ったのも……」
「ガリア王家からの命令でしょうね」
才人の顔に怒りが浮かんだ。
「ゆるせねえ」
「それよりミス・タバサが心配じゃないかね」
それまで黙って話を聞いていたコルベールが、深刻そうに眉《まゆ》をひそめて言った。
「部屋にもいないってことは、もしかして、さらわれたんじゃ……」
才人も心配そうに言うと、キュルケは首を振った。
「あの子は、捕まるほど間抜けじゃない。きっと、姿を隠したんだと思うわ。誰《だれ》にも迷惑がかからないように。あの子はそういう子だから」
「でも……」
「そのうち連絡がくると思う。動かないほうがいいわ。今は信じて待ちましょう」
キュルケは、窓の外を見つめて言った。心底、信じきっているといった声で、才人《さいと》は少し感動した。
「ルイズに話していいか?」
才人が尋ねると、キュルケは頷《うなず》いた。
「話したほうがいいでしょ。あの子も、巻き込まれてるんでしょ。参っちゃうわよねえ、伝説の使い手なんかになっちゃうと……。あのヴァリエールには荷が重すぎるわ。虚無≠ネんてねぇ。まったくねぇ」
「知ってたのかよ!」
驚いた声で才人が叫ぶと、
「いつだか、あのハンサムなアルビオンの王子さまが蘇《よみがえ》ってお姫さまをさらったとき、サイト、あなた自分で言ったじゃないの。『伝説の真似事《まねごと》してるだけさ』って。でもって死者にかけられた魔法を解除したルイズのあの呪文《じゅもん》……、四系統魔法じゃないじゃない。伝説……、そして四系統じゃない魔法。虚無≠カゃないかって思ってたけど……。あなたの態度を見るに、ほんとだったみたいね」
キュルケは目を細めて、にやっと笑みを浮かべた。
その頃《ころ》女王の一行は、ルイズの部屋で昼食をとっていた。オスマン氏をはじめとする学院の職員たちは食堂をお使いになっては、と言ったのだが『私事ですので』と、アンリエッタは断った。
そんなわけでルイズの部屋には急遽《きゅうきょ》大きなテーブルが用意され、女王の昼餐《ちゅうさん》のための席が設けられていた。
用意されたテーブルには、窓を背にして上座にアンリエッタ、向かって右隣にルイズ、そしてギーシュと続く。給仕役のシエスタは、後ろに立って緊張した表情を浮かべている。女王の給仕をするような事態が自分の人生に起こるなんて、夢にも思っていなかったのである。シエスタは、アンリエッタの横顔をときたまちらちらと盗み見ていた。
先ほどの、アンリエッタの才人への熱い視線を思い出すのか……、目を白黒させている。どうやら未《いま》だにうまく信じられないようだ。
アンリエッタはアンリエッタで、楽しそうにギーシュのおしゃべりに耳をかたむけていたと思えば、すぐに窓の外に視線をうつし、せつなげにため息などついている。
そんな様子を見て、アンリエッタの想《おも》いはかなり深いのではないか? との疑念が、ルイズの心の中に巻き起こる。
昨晩は、つい、カッとなって叩《たた》いてしまったが……、それはアンリエッタの気持ちが、本気かどうかわからなかったからだ。ちょっと気になって……、程度で手を出されたらたまらないと思ったからだ。でも、そうじゃなかったとしたら?
アンリエッタの気持ちが本気だったら?
自分はどうすればいいんだろう?
幼い頃《ころ》より、アンリエッタの意に沿うことが絶対≠ニ信じてきたルイズにとって、それを考えると頭が真っ白になる。脳が考えることを拒否してしまうのである。
そんな風に悩んでいると、料理に何か交じっているのに気づいた。ちょうどパイ皮で鳥を包んだ料理を食べているところだったのだが、ナイフで切り分けると、ぴょこんと一枚の紙が出てきたのである。
それには、こう書かれていた。
『未《いま》だに信じられませんので確かめてください』
振り向くと、緊張しきった顔のシエスタが立っている。どうやらメモを忍ばせたのは、このメイドらしい。ルイズはため息をついた。よっぽどアンリエッタが本気なのかどうなのか、知りたいのであろう。ルイズは小さく、わからないわ、とつぶやく。
つぶやいたあと、今の独り言、姫さまに聞こえなかったかしら? と不安になる。そっと女王の顔を盗み見ると、アンリエッタは幸いにも心ここにあらずの様子。ギーシュはギーシュで、アンリエッタのそんな憂い顔を見つめるのに夢中であった。
シエスタはもじもじしているルイズを急《せ》かすように、ついついと背中をつつく。そのたびにルイズは身をよじらせた。あんまりにもシエスタがしつこいので、ルイズはその足を踏んづけた。
「いたっ!」
シエスタがぴょこんと跳ね上がる。
「どうしたの?」
アンリエッタは怪訝《けげん》な顔をして、ルイズとシエスタを見つめる。
「な、なんでもありません!」
ルイズはシエスタの書いたメモを、くしゃくしゃに丸めてポケットにねじ込んだ。するとシエスタは、がしゃん、とお盆を取り落とした。
今度はメイド、なにをしておるのか、と思って見ていたら、シエスタはお盆を拾うフリをしてテーブルの下に潜《もぐ》り込み、クロスを持ち上げて、ルイズの足の間に顔を出した。
その唇が、ゆっくりと動く。
「た し か め て く だ さ い」
ルイズは太ももでシエスタの頬《ほお》を挟んだ。
「もごごごごごご……」
再びアンリエッタが、ルイズに視線を戻す。
「どうしたの?」
アンリエッタはメイドが消えたことなどにはまったく気づいてない口調で言った。
「ほ、ほんとになんでも……」とルイズは太ももでシエスタの顔をおさえながら、冷や汗を垂らした。
再びアンリエッタは、物憂《ものう》げに窓の外を見つめた。見ると、料理にはほとんど手がつけられていない。ああ、アンリエッタはほんとに参っているようだ。
ルイズは大きくため息をついた。
じゃあ、サイトはどうなのかしら。アンリエッタと唇を合わせていたときの、才人《さいと》の表情が蘇《よみかえ》る。熱っぽい、あの視線……。自分にも同じものが向けられていたかどうか、今となっては自信がない。もしかしたら才人はわたしより、姫さまのほうが……。
怒りが沸々《ふつふつ》と湧《わ》き上がってくるのを、ルイズは感じた。
ねえ、ルイズ・フランソワーズ。
わかってるの?
あの犬、あんだけ好き好き言ったくせにご主人様を裏切って、他所《よそ》の女に尻尾《しっぽ》を振ってるのよ。
しかもその相手、姫さまなのよ。
よりにもよって、わたしの一番大事なアンリエッタ女王陛下、その人なのよ。
う、ううううう、裏切りだわ。
こ、こここここ、こんな裏切りってないわ。
やっぱり、キスで誤魔化《ごまか》されてる場合じゃないわ!
どうにもこうにも、イライラがつのる。つい、力が入ってしまい、太ももで締めつけていたシエスタが、苦しそうなうめきをあげた。
「ミ、ミス……、むぐ……。くるしい……」
そのときである。
扉が開いて、深刻な顔の才人が入ってきた。
「サイト」
「サイト殿」
「サイトさん」
身分も立場も違う娘たちは三者三様の呼び方と表情で、突然の客を迎え入れる。
ルイズは怒りを浮かべた目で、才人を睨《にら》みつけた。
アンリエッタは、頬をわずかに染めてうつむいてしまった。
テーブルの下からはい出たシエスタは憧《あこが》れと寂しさをブレンドした一番複雑な表情で才人を迎えた。雲の上以上に、高貴な存在である女性の気持ちを……それを二つも、手に入れてしまった才人の存在が誇らしくもあり、信じられなくもあり……、さらに遠くに行ってしまったように感じたのである。
「どうした。きみはなにか用事があったんじゃないのかい?」
この場で一人、才人の闖入《ちんにゅう》をまったく歓迎していないギーシュが言った。せっかくの女王陛下との陪食に、水を差された気分であったのだ。
才人《さいと》はそんなギーシュを無視して、アンリエッタに一礼した。
「姫さま」
「なんでしょう」
不意をつかれたアンリエッタは、未《いま》だに頬《ほお》をわずかに染めている。ルイズやシエスタ以外では、気づかない程度ではあるが……。アンリエッタは内心の動揺を悟られまいと、唇をきゅっと真一文字に結んだ。
しかし、才人の次の言葉で、アンリエッタの頬の赤みが消え、一瞬で白く染まった。
「ルイズを襲った連中の正体がわかりました」
「なんですって?」
その部屋にいた全員が、目を丸くした。
才人は、先ほどキュルケから聞いた話をその部屋にいた全員に話した。足りない分は、才人にくっついてきたキュルケとコルベールが説明してくれた。
「そんな、ガリアが……」
アンリエッタは、信じられない、といったように首を振る。
「でも、間違いなくガリア王国とやらの仕業らしいですよ。じゃなきゃ……」
才人は言いにくそうに、つけくわえた。
「タバサが、俺《おれ》を襲うわけがないんだ」
「あのちびっ子も、随分と苦労してるんだな……」とギーシュが首を振る。
アンリエッタの顔は蒼白《そうはく》であった。宰相であるマザリーニの言葉が蘇《よみがえ》る。
『ガリアの動向には注意が必要ですぞ』
どうしてガリアがアルビオン分割の折、港一つのみで満足したのか、その訳がわかった。ガリアが真に狙《ねら》っていたのは伝説の能力虚無≠ナあったのだ。
いったいガリアが虚無≠フ力を得て、何をしようとしているのかはわからない。ジョゼフ王の企みなのか、それとも有力な貴族の独断なのか……、どちらにしろ、よからぬ企みであることは間違いないであろう。
才人は目に怒りを宿らせて、アンリエッタに告げた。
「姫さま。俺をガリアに行かせてください」
「サイト」
ルイズがたしなめようとしたが、才人は聞かずに言葉を続ける。
「どこの誰《だれ》だか知らないけど、タバサにひどいことをして、ルイズをさらって、俺を殺そうとした連中がいるんでしょう? 捜して、二度とそんなことを考えないように教育してやる」
ギーシュが驚いた声をあげた。
「ガリアに乗り込むだって! おいおい、戦争になるぞ!」
「なんだよギーシュ。お前、隊長だろ? 副隊長がやられてんのに、仇《かたき》をとってくれないのかよ」
才人《さいと》は不満げに言った。
「いや、仇《かたき》をとるのはそりゃあ、やぶさかじゃないが……、向こうは外国なんだ。騎士隊のぼくたちが乗り込んだら、ただケンカをしに来たじゃすまなくなる」
アンリエッタも、ギーシュの言葉に頷《うなず》いた。
「サイト殿、お気持ちはわかりますが……、ギーシュ殿の言うとおりだわ。今ではあなたはトリステインの騎士。むざむざと、罠《わな》にかかりに行くようなものですわ」
「でも……」
才人は悔しそうに唇を噛《か》んだ。
「とりあえず、わたくしにお任せください。何か証拠になるものはあったかしら……」
「ガーゴイルの破片がありますわ」
ルイズが助け舟を出した。昨晩、自分や才人を襲ったガーゴイルの破片だ。それは学院の庭や、外の平原に未《いま》だ散らばっている。
「そうね。それがガリアで作られたものだと証拠を得たら、大使を呼んで厳重に抗議いたします」
「そんな。せっかく敵の正体がつかめてきたっていうのに!」
才人はなおも食い下がった。そんな才人の手を、アンリエッタは握り締める。
「お願い。あなたたちを危険な目にあわせたくないのです。もう、誰《だれ》か大事な人間が……、傷つくことにわたくしは耐えられないのです。そうとわかったら、国家をあげて、よからぬことを企んでいるガリアから、あなたがたを守ります」
ギーシュはアンリエッタのその言葉に胸うたれたらしく、恭《うやうや》しく膝《ひざ》をついた。
「陛下……、わたくしはこの一命、陛下に捧《ささ》げております。陛下の幼馴染《おさななじ》みであるルイズ嬢は、陛下の御身も同然。一命にかえても、敵に指一本たりとも触れさせません」
「ありがとうございます。ギーシュ殿」
アンリエッタはにっこりと笑った。それから才人のほうを向いた。
「あなたも約束してくださいまし。決して、危険なことはしないと」
その声に、真剣な何かが混じっている。
アンリエッタの目がわずかに潤んでいることに才人は気づいた。そんな目するなよ……、と才人は心の中でつぶやいた。
泣き出しそうなアンリエッタの目を見ていると……、そばにいて守ってやらねばいけないような、言うことをきかなければいけないような、そんな気持ちになるのであった。敵の正体がおぼろげに見えた以上、こっちから出向いて、ルイズを襲った連中をとっちめてやろうと思っていたのに。
そんな熱いやる気に水をさされたような気分になってしまい、才人はぎゅっと奥歯を噛み締める。ちらっと救いを求めるように、ルイズのほうを見つめると……、ぷいっとルイズは頬《ほお》を膨らませて目を逸《そ》らす。
どうやら昨晩の一件で、完全につむじを曲げているらしい。まあ、敬愛するアンリエッタと、使い魔の自分が唇を重ねているところを目撃してしまったのだから、無理はない。
でも……、ルイズに怒る権利はあるんだろうか?
才人《さいと》の心は全力で否定する。ない。ないのである。
だって、あれだけ才人が好き好き言ってるのに、ルイズは一度も才人に『好き』なんて言ってくれたことがない。こんだけ好き好き言ってんだから、嘘《うそ》でも一回ぐらいは言うのが筋なんじゃないだろうか。
やっぱりアルビオンで言われた『ご褒美《ほうび》よ』というのは本音だったんだろうかと、才人はせつなくなった。使い魔として、自分を繋《つな》ぎ止めておくための、甘い餌《えさ》……。
どこが甘い餌だよ、と才人は起伏にとぼしいルイズの身体《からだ》を見て心の中でつぶやいた。
餌っていうのはな……、と、思った瞬間、目の前のアンリエッタに気づいた。ドレスに包まれたアンリエッタの身体は、実に女性らしい起伏に富んでいる。ティファニアほどではないが、十分にボリュームのある胸元から覗《のぞ》く谷間が、目に飛び込んでくる。その谷間の感触が、未《いま》だ手にひらに残っていた。
同時に熱いキスを思い出し、才人は頬《ほお》を染めた。
いつもの毅然《きぜん》とした表情と……、夢中になって自分を求めてきた表情のギャップが、魅力の奔流《ほんりゅう》となって才人を包む。
すると……、どうにも才人の心は乱れてしまうのであった。ルイズが好きだ。それは揺るがない、はずなのに……、つい、脳裏にアンリエッタの顔が浮かんでしまう。
愛する人を亡《な》くして、寂しいだけなんだろうか?
冷静に考えたら、そうだ。
でも……、もし、もし、そうじゃなかったら?
そのときの自分の心がどう変化するのか、自分にもわからない。でも……、一つだけ、確かなことがあった。
誰《だれ》もアンリエッタの素顔を知らない。
この毅然とした表情を崩さない年若い女王の、素顔を知るものはいない。
どこまでも弱い、一人の少女としての素顔を知るものはいない。
ルイズさえも……、おそらくは知らないだろう。
ほんとのアンリエッタは、幾重にも高価なレースで覆われた普通の女の子だ。キスをすれば頬が上気するし、抱きしめれば胸に頬をうずめてくる。胸も頬も、すべてが柔らかい、か弱い女性なのだ。
もっと……、その先にある顔が見てみたい。キスの先にある顔は、いったいどんな顔なんだろう。そんな考えが脳裏をよぎり……、才人は首を振った。
なんだか、それはとてもいけないことのように思えたのだった。
でも、そのいけなさこそが、アンリエッタの魅力だった。だめだ、と思っても、つい溺《おぼ》れてしまうような底なしの魅力を、この女王は持っていた。見てるとどうにかなりそうな気がして、才人《さいと》は目を逸《そ》らした。
ルイズとシエスタは、ちょっと離れたところに立って、見つめあったり、顔を伏せたりする才人とアンリエッタを冷えた目で見つめていた。シエスタは嫉妬《しっと》を通りこしてとうとう感動したらしい。
「じょ、女王陛下を射止めるなんて、やっぱりサイトさんは素敵ですわ……」
うっとりしてそんなことを言うもんだから、シエスタはルイズに足を踏まれた。
「ひゃん!」
「余計なこと言わないの」
「でも、あの女王陛下のお顔……、恋をしてらっしゃるお顔、女のわたしが見ても、たまらなく魅力的ですわ。おもわず見とれちゃいます……、あう!」
シエスタはルイズに頬《ほお》をつねられて、悲鳴をあげる。
「姫さまは、勘違いしてるだけなの」
「勘違い……、ですか?」
「そうよ。生まれたばかりのアヒルの子供は、最初に見たものを親だと思い込むらしいわ」
「興味深いお話ですわ」
「姫さまも同じよ。ウェールズさまをなくされて、沈みきったところに、たまたまあの犬ッコロに出くわしただけよ。そんなわけだから、わたしがなんとしてでも、姫さまをあのワンコロの魔手からお救いしてさしあげなければいけないわ」
「素直じゃありませんわね……。取られたくないって正直におっしゃればミス・ヴァリエールも少しは可愛《かわい》いのに……、あう!」
シエスタはルイズにさらに頬をつねられる。
「知ってる? あの犬ってば、キスの次はひどくいやらしいの。いつだか小舟の上で、わたしの太ももを触ったときなんか、こんな手つきで、な、なななななな、んなななななな撫《な》で上げてきたの。あれを姫さまにするところ想像したら、なんだか世界のすべてが許せなくなってくるわ。わたしの姫さまを、汚すなんて許さないんだから。万一汚したら、その日があいつの命日よ」
「手つきなんか、よく覚えてらっしゃいますわね……、ひゃう!」
終《しま》いには、ルイズはシエスタのお尻《しり》をつねり上げた。シエスタはひゃう! だの、ひう! だの呻《うめ》きながら跳び上がったが、才人とアンリエッタは二人の世界に入り込んでいて気づかない。いつでもめでたいギーシュは、アンリエッタの照れと赤面を自分の忠誠に対し与えられたものだと勘違いして感極まり、とっくに気絶していた。
キュルケはコルベールに、しなだれかかって言った。
「平和だわねぇ……。ジャン」
困った顔でそんな光景を見つめていたコルベールは、頭をかいた。
「まあ、所詮《しょせん》はつかの間の休息だ。いいじゃないかね。ところでミス・ツェルプストー。その……、なんだ、ジャン≠ヘ勘弁してくれんかね」
キュルケはにっこりと笑ってコルベールの頬《ほお》にキスをした。
「い・や。あと、何度もお願いしてるでしょ。きちんとキュルケ≠ニお呼びになって」
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第二章 エルフ
ガリアとトリステインの国境沿いに位置したラグドリアン湖、その近くにある、古ぼけた屋敷の前に、風竜に跨《またが》った青髪の少女が降り立った。
屋敷の門にはガリア王家の紋が見えるが、醜い十字の傷で辱《はずかし》められていた。ここはタバサの母がひっそりと暮らす家……、旧オルレアン家の屋敷であった。
タバサは昨晩破り捨てた手紙の内容を反芻《はんすう》した。ガリア王家の判が押された手紙であった。そこには短く、こう書かれていた。
『シャルロット・エレーヌ・シュヴァリエ・ド・|パル《花》テル《壇》。右の者のシ|ュ《騎》ヴァ|リ《士》エ≠フ称号及び身分を剥奪《はくだつ》する。追って書き。上記の者の生母、旧オルレアン公爵夫人の身柄を王権により拘束する。保釈金交渉の権利を認める由、上記の者は、一週間以内に、旧オルレアン公邸に出頭せよ』
保釈金の交渉≠ニはまた、随分ナメた言い回しだ。タバサを騙《だま》す気もないに違いない。つまりは母親を人質にとったから、おとなしく投降しろ、という意味だ。その後はタバサの裏切りに対する形式的な裁判が開かれるのであろう。その結果は……、運がよくって絞首刑。悪ければ……、あまり想像したくない。
朝の爽《さわ》やかな風が、春の日差しと共に頬をなぶる。そんな爽やかな風を、一瞬で凍《い》てつかせるような冷たいオーラを纏《まと》ったまま、タバサは屋敷へと、一歩、足を踏み出した。
お座りしたシルフィードが、きゅい、と心配そうな声をあげた。
おとなしく投降するつもりか? とその目が尋ねている。
「平気」
タバサは前を向いたまま、忠実な己の使い魔にそう告げた。すると、後ろからちょこちょこと大きなシルフィードが近づいてくる。
タバサが振り向くと、シルフィードは立ち止まる。
「待ってて。すぐ済むから」
シルフィードは首を振る。
この賢い竜にはわかっていた。自分の主人は、もちろん投降する気など、ない。戦って、母親を取り返すつもりなのだ。もちろん、ガリア王政府もタバサがおとなしく杖《つえ》を渡すとは思っていないだろう。その風の魔法を封じこめるために、強力な使い手を大量に用意したに違いない。
裏切った以上、タバサを生かしておく理由はどこにもない。もともと王家は、タバサの命を奪いたがっていたのである。しかし父と同じく謀殺《ぼうさつ》したのでは、旧オルレアン公派を憤らせる結果になる。従って、危険な任務に投入し、処理しようと考えていたのだ。
でもタバサは、その任務をことごとく果たしてのけた。現王派は、さぞかしやきもきしていたことであろう。
今回は……、そんなタバサを、大手を振って殺せるチャンスなのだ。
いやな空気が屋敷を覆っていることに、シルフィードは気づいていた。その空気は、肌を刺すような冷たい感触となって、シルフィードの鱗《うろこ》をちくちくと刺激する。
「わかってるでしょ。今から戦いに赴《おもむ》くの。あなたはいつものとおり、空で待ってて」
シルフィードは、タバサの戦いに参加したことはない。『帰りの足がなくなるから』という理由で、いつも空の上で主人の戦いが終わるのをじっと待っていた。
しかし今回は違う。
タバサの敵は、ガリア王国なのだ。
今まで相手にしてきた、幻獣やメイジや、亜人とはまったく規模が違う相手なのだ。
一国と一人では、どうあがいても勝ち目はない。
この旧オルレアン屋敷は、すでにタバサの懐かしい思い出の場所ではない。
かといって戦場でもない。
タバサを葬《ほうむ》るために用意された死刑執行人が待ち受ける場所であり、棺《かん》おけであり、墓地であった。
戦場≠ネらばともかく、墓地≠ノ愛する主人を一人で行かせるわけにはいかない。
そんな健気《けなげ》な視線で自分を見つめるシルフィードを、タバサはじっと見つめた。
小さく、言い聞かせるような口調でタバサは言った。
「あなたが待っているから、わたしは戦える。帰る場所があるから、わたしは戦える」
シルフィードは、しばらく身じろぎもしなかったが……、目にいっぱい涙をため、大きく頷いた。
「きゅい」
優しい手つきで、タバサはシルフィードの鼻面を撫《な》でる。シルフィードは、ぐっと顔を持ち上げると、空へと羽ばたいた。
屋敷の上空をぐるぐると旋回するシルフィードを見つめ、タバサはいつもと変わらぬ表情で、「ありがとう」とつぶやいた。
玄関の大きな扉に、鍵《かぎ》はかかっていなかった。
タバサが押すと、ぎぃ〜〜〜〜、と重たい音を立て、扉は開く。
いつもなら執事のペルスランが飛んでくるのだが……、しんと冷えた朝の空気以外、タバサを迎えるものはいない。屋敷の中には、何人かの使用人がいるはずなのだがまったく人の気配はなかった。
その身長より長い、節くれだった杖《つえ》を無造作に右手にさげ、ゆっくりとタバサは奥へと向かう。
いつもの表情、いつもの足取りだったが、怒りがタバサの周りの空気を変えている。
屋敷奥の母の居室に通じる長い廊下を歩いていると……、廊下の左右に並んだ扉が一斉に開いた。
扉が開くと同時に、一斉に矢が飛んでくる。タバサはまったく動じずに杖を振った。
ピキッ! と空気の中の水蒸気がはぜる音がして、氷の壁がタバサの周りに現れ、飛んできた矢をはじき返す。
その矢が挨拶《あいさつ》であるかのように、ついで開いた扉から、兵士が飛び出してくる。しかし……、よく見ると剣を構えたそれは人間ではない。
意思を付与された魔法人形、ガーゴイルであった。
死を恐れぬ頑丈なガーゴイルに、近距離で一時《いっとき》に十数体もかかってこられたのでは、並のメイジでは対処できない。
しかし、今のタバサの魔力は怒りで膨れ上がっている。
杖を振りかぶると、その先が青白く輝き、周りを無数の氷の矢が回転した。短い髪の毛が、発生したタバサを中心とする竜巻によって激しくなびく。
今まで発揮したことないスピードと威力のウ|ィン《氷》ディ|・《の》アイシ|ク《矢》ル≠ェ、十数体のガーゴイルを同時に射抜き……、吹き飛ばした。
射抜かれたガーゴイルは、氷の矢が帯びた魔力で、一瞬で氷結する。ほとばしる魔力が、行き場を求めての結果だった。
強烈な怒りが、本人も気づかないまま、タバサのランクを一段階上げていたのだった。
風の二乗、水の二乗が、十八番《おはこ》のウィンディ・アイシクル≠ノ宿っている。
今のタバサが相手では、並の使い手は対峙《たいじ》することすら適《かな》わぬだろう。
ガリアの秘密騎士、北花壇騎士としての経験と、強烈な風のスクウェア・スペルが、この小柄な青髪の少女をハルケギニアでも有数の戦士に変えていた。
タバサは母の居室の前に立ち、取っ手に手をかけた。
鍵《かぎ》はかかっていない。
観音開きの扉を無造作に引いた。
ベッドと、小机が見える。ベッドの上に、母の姿はなかった。
窓が開いていて、春風が吹いてくる。
壁の周りには本棚があって……、男が一人立っていた。
薄い茶色のローブを着た、長身で痩《や》せた男だ。つばの広い、羽根のついた異国の帽子を被《かぶ》っている。帽子の隙間《すきま》から、金色の髪の毛が腰まで垂れていた。タバサが立った部屋の入り口に背を向け、壁に並んだ本棚に向かって、熱心に何かしているようだ。
ぱらぱらとページをめくる音がする。驚いたことに、男はどうやら本を読んでいるらしかった。敵に背中を向けて、本を読んでいる刺客など聞いたことがない。
その背に向け、タバサは小さく口を開いた。
「母をどこへやったの?」
男は、呼び止められた図書室の司書のように振り向いた。まったく日常的な仕草で、殺気、敵意は微塵《みじん》も感じられない。
「母?」
ガラスでできた鐘《かね》のような、高く澄んだ声だった。
切れ長の目の奥の瞳《ひとみ》が、薄くブルーに光っている。随分と美しい、線の細い顔立ちであった。しかし……、まったく年齢がわからない。少年のようにも見えるし、四十と言っても信じてしまいそうな、妙な雰囲気を持っていた。
「母をどこへやったの?」
同じ抑揚《よくよう》で、タバサは繰り返した。男は困ったように、本を眺めていたが……、再び口を開いた。
「ああ。今朝、ガリア軍が連行していった女性のことか? 行き場所は知らない」
ならば用はない、とでもいうように、タバサは無造作に杖《つえ》を振った。ウィンディ・アイシクルが男の胸を襲う。
しかし、タバサの氷の矢は男の胸の前でぴったりと停止した。彼が魔法を唱えたそぶりはどこにもなかった。
停止した矢は床に落ちて、粉々に砕け散る。
壁……、というより、矢自体が勢いを失った、そんな感じである。いったいどんな魔法を使っているのだろう?
タバサは慎重に杖を構えた。相手の出方を窺《うかが》おうと思ったのだ。
「この物語≠ニいうものはすばらしいな」
男の次の行動は、タバサの意表をついた。なんと男は、再び本棚から先ほど読んでいた本を取り出したのだ。
「我々には、このような文化がない。本≠ニいえば正確に事象や歴史、研究内容を記したものに限られる。歴史に独自の解釈をくわえて娯楽として変化させ、読み手に感情を喚起させ、己の主張を滑り込ませる……。おもしろいものだな」
異国のローブを纏《まと》った男は、まったく敵意のこもっていない声でタバサに告げた。
「このイーヴァルディの勇者≠ニいう物語……、お前は読んだことがあるかね?」
男が目を本に移した瞬間、タバサは再び、男に向けてウィンディ・アイシクルを放った。今度は倍の量だ。
しかし……、やはり氷の矢は男の手前で勢いを失い、床に落ちる。
タバサの呪文《じゅもん》をまったく意に介さずに、男は言葉を続ける。
「はてさて、お前たちの物語≠ニは本当に興味深いな。宗教上は対立しているのに……、我々の聖者の一人が、お前たちにとっても勇者であるようだ」
タバサの顔に、焦りの陰が浮かぶ。どうして自分の氷の矢が、途中で止まるのかが理解できない。なんらかの風の魔法だろうが、そのような系統呪文は見たことも聞いたことがない。
タバサは気づいた。
系統呪文?
呪文の系統は、この世界にもう一つ存在する。
北花壇騎士として何度も戦ってきた、亜人たちが使用する呪文……。
「先住魔法……」
さも不思議そうな顔で、男はつぶやく。
「どうしてお前たち蛮人は、そのような無粋な呼び方をするのだ?」
それから、まったく裏表のない声で、
「ああ、もしやわたしを蛮人と勘違いしていたのか。失礼した。お前たち蛮人は初対面の場合、帽子を脱ぐのが作法だったな」
男はそう言うと帽子を脱いだ。
「私はネフテス≠フビダーシャルだ。出会いに感謝を」
金色の髪から……、長い尖《とが》った耳が突き出ている。
「エルフ」
タバサは喉《のど》から驚きの声を搾り出した。
男はエルフだった。
ハルケギニアの東方に広がる砂漠に暮らす長命の種族……。
人間の何倍もの歴史と文明を誇る種族。
強力な先住魔法の使い手にして、恐るべき戦士。
杖《つえ》を握るタバサの手に、力がこもる。
北花壇騎士として、様々な敵と渡り合ってきたタバサにも、立ち会いたくない相手が二つあった。一つ目は竜。人の身で、成熟した竜と渡り合うのは危険が大きすぎる。竜の火力、生命力は、単純に魔法の力を凌駕《りょうが》する。
そして二つ目が、目の前に立つエルフであった。
初めて見るエルフに、タバサは戸惑い……、ついで恐怖した。その魔力は噂《うわさ》どおり、尋常じゃない。なにせ、自分のウィンディ・アイシクルが届きもしないのだから……。
「お前に要求したい」
ネフテス≠フビダーシャルと名乗ったエルフの男は、気の毒そうな声で、タバサに告げた。
「要求?」
「ああ。我の要求は、抵抗しないで欲しい、ということだ。我々エルフは、無益な戦いを好まない。我はお前の意思にかかわらず、お前をジョゼフの元へ連れていかねばならない。そういう約束をしてしまったからな。だから、できれば穏やかに同行願いたいのだ」
伯父王の名前を聞いて、タバサの血が逆流した。
怯《おび》えてどうする。自分は、母を取り返すと決めたのだ。エルフだろうが、神だろうが、ここで引くわけにはいかない。
恐怖でしぼみつつあった心が、再びたけり狂う嵐で満ちていく。
魔力は気力だ。
気力は感情だ。
強い感情の力は、魔力の総量に影響する。
荒れ狂う怒りと激情の中、冷たい雪のように冷えきった冷静な部分が、タバサに足せる系統が増えたことを教えてくれる。
スクウェアの威力を持ったトライアングルスペルを、タバサは唱え始めた。
「ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ハガラース……」
タバサの周りの空気が、揺らいだかと思うと一瞬で凍りついた。
凍った空気の束が、無数のヘビのように体の周りを回転する。
氷と風が織り成す芸術品のような美しさと、触れたものを一瞬で両断するような鋭さを兼ね備えた、|氷 嵐《アイス・ストーム》≠ェ出現した。
ぶぅお、ぶぅお、ぶるろぉおおおおおおッ!
部屋の内装を切り裂き、|氷 嵐《アイス・ストーム》は荒れ狂った。
嵐の目が、身体《からだ》から杖《つえ》に移る。
同時に目の前の亜人《エルフ》めがけて杖を振り下ろす。それらのことが、わずかコンマ数秒の間に為《な》された。
どんな防御魔法がかかっていようが、一撃で吹き飛ばすかに見えた。
しかし……、金髪長身のエルフは自分めがけて突っ込んでくる猛り狂う|氷 嵐《アイス・ストーム》を、まるで無視した。
視線はタバサから動かない。
敵意も、怒りも、その細い瞳《ひとみ》には感じられない。
タバサは、エルフの瞳に宿るものの正体を知って、愕然《がくぜん》とした。
なんと、そこにあるのは遠慮≠ナあった。
スクウェアの威力を持つ攻撃魔法が己を襲わんとしているのに……、未《いま》だエルフはタバサを敵と認めてさえいないのだ。
エルフの体が氷嵐に包まれた……、ように見えた瞬間。
氷嵐の回転が、いきなり逆流した。
そのまま氷嵐は同じ勢いを保ったまま、タバサめがけて飛んでくる。
「イル・フル・デラ……」
タバサは咄嗟《とっさ》にフライ≠フ呪文《じゅもん》で飛んで避けようとした。
実戦豊富なタバサは、一瞬で呪文を完成させる。
解放。
飛び立とうとした瞬間、タバサの目が大きく見開かれる。
飛べない!
いつしか、足がせり出した床にのまれている。粘土のように形を変えた床が、がっちりとタバサの足首をつかんでいた。
タバサは呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。
「エルフの先住……」
言葉は完成しなかった。
タバサは己の作り出した|氷 嵐《アイス・ストーム》≠ノのみ込まれ、意識を失った。
ボロボロになって転がったタバサにビダーシャルは近づいた。タバサの小さな身体《からだ》は、己が作り出した氷の刃《やいば》によって無数の傷がついている。傷から流れた血と、水が入り混じり、床に敷かれた絨毯《じゅうたん》がひどいことになっていた。
ビダーシャルは、倒れたタバサの首筋に手を当てた。虫の息だ。
「この者の身体を流れる水よ……」
朗々と、長身のエルフは呪文《じゅもん》を唱え始めた。ハルケギニアの人間が先住≠ニ名づけている魔法を、実際使用するエルフや亜人たちは、精霊の力≠ニ呼んでいた。
タバサの身体の傷が、筆で絵の具を塗られるように、ふさがっていく。系統魔法の治癒《ちゆ》≠謔閨A傷のふさがる速度は速い。
ビダーシャルは、傷のふさがったタバサを慎重に抱えあげた。
窓の外を見ると、一匹の風竜が自分を見ていることに気づいた。どうやら、今しがた倒したばかりの少女の使い魔か何からしい。その目が怒りに光っている。
その目の光で、ビダーシャルはシルフィードがただの風竜ではないことに気づいた。
「韻竜《いんりゅう》か……」
すぐにシルフィードの正体を言い当てる。
韻竜とは、絶滅したといわれる古代種である。知能が高く、先住の魔法を操り、言語感覚に優れた幻獣である。
自分の腕の中で昏睡《こんすい》する少女……、韻竜を使い魔にするとは、よほどの手練《てだれ》なのであろう。自分が契約≠オた場所でなかったら、危険だったかもしれない。
「韻竜よ。お前と争うつもりはない。大いなる意思≠ヘ、お前と私が戦うことを望んでいない」
大いなる意思≠ニは……、エルフや韻竜など、ハルケギニアの先住民が信仰している概念だ。彼らが精霊の力≠ニ呼ぶものの源であり、自分たちの行動を決定づけている存在……。人間たちにとっての神のようなものだった。
目の前の韻竜は、大いなる意思と言われても、引かなかった。かえって勇気を奮《ふる》い立たせるかのように、唸《うな》り始めた。
この竜は恐怖≠知っている。エルフが、精霊の力≠フ行使手として、己より数倍もの実力を秘めていることを知りながら、自分に牙《きば》をむいている。
「魂まで蛮人に売り渡したか。使い魔とは、哀しい存在だな」
ビダーシャルがつぶやくと同時に、シルフィードは壁を突き破って、飛びかかってきた。
しかし、ビダーシャルは顔色一つ変えない。ただ、手をシルフィードの前に突き出した。
痩《や》せぎすなエルフが、手一つで大きな竜を止めている様は異様であった。シルフィードはじたばたともがこうとした……、が、動けない。
あまりにも強力すぎる魔力であった。
ビダーシャルは、シルフィードの頭の上に左手をかざす。ゆっくりと……、シルフィードのまぶたが閉じる。
どすん! と気を失って床にのびた韻竜《いんりゅう》を見下ろし、ビダーシャルはつぶやいた。
「大いなる意思≠諱c…。このような下らぬことに精霊の力≠行使したことを赦《ゆる》し給《たま》え……」
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第三章 不安と嫉妬《しっと》
ルイズの部屋は、相変わらず妙な緊張に包まれていた。
放課後、才人《さいと》とルイズはお茶をとっていたのだが……、給仕をするシエスタの態度が、どうにもルイズを刺激するらしかった。
「サイトさん、どうぞ」
シエスタはにこにこしながら、才人に焼いたばかりのビスケットを差し出した。シエスタは、そこが自分の席だと言わんばかりに、隣に腰掛けている。
「あ、ありがとう……」
才人はルイズの表情を、恐る恐る確かめた。
ものすごく不機嫌な顔で、ルイズはそんな二人をじとーっと睨《にら》みつけている。怒りが、黒い波動となって才人を襲う。
そんなルイズに才人はこう言いたかった。
どうして怒る。
お前はべつに、俺《おれ》のこと好きでもなんでもないだろうが。
ご褒美《ほうび》なのに、なぜ怒る。
しかし言っても始まらないし、面と向かって言われたら傷つくので、言葉には出さない。才人《さいと》がシュヴァリエになろうが貴族になろうが、ルイズにとってはただの使い魔なんだろう。いつか会える、と偽の墓の前で言いきったルイズも、ウエストウッド村のベッドの中でもあんだけ可愛《かわい》かったルイズも、結局は使い魔に対しての愛情なのだ。
わかってたじゃないか才人……。
才人は自分にそう言い聞かせた。
ルイズは優しいところもあるが……、それは自分が好きだからではない。
才人のご主人さまはとにかく真面目《まじめ》なのだ。真面目だから、一生懸命に任務を果たそうとしたり、幼い頃《ころ》に忠誠を誓ったアンリエッタに、未《いま》だに身も心も捧《ささ》げている。
真面目だから……、使い魔の自分を大事にするし、ときにはがんばったご褒美《ほうび》と言ってキスさせてくれたり、そこはご褒美じゃないかもしれないが胸を触っても怒らなかったり、身体《からだ》を許そうとまでしてしまうのである。最近は『帰る方法を探してあげる』なんて言い始めている。自分の力は、ルイズの願望成就には必要だろうに、それを曲げてまで才人の幸せを考えてくれている。
そう。
とにかくルイズは真面目なのだ。
才人は、そんな真面目なルイズが好きだった。
でも……、ルイズは自分のことを好きではない。もし、自分のことを好きだったら、あれだけ好き好き言ってるんだから、一回ぐらいは『好き』と言ってくれるはずである。どう考えたってそうである。それなのに言わない……。
真面目で、ある意味バカ正直なルイズである。そこまで許してるのにその言葉を言わないってことは……、ほんとに好きではないんだろう。
やきもちを焼くのは、所詮《しょせん》使い魔への独占欲……。
ほとんど初恋に近かっただけに、才人は打ちのめされた。
「どうしました?」
隣を見ると、シエスタが困った顔で才人を見つめている。考えてみれば……、いつも変わらぬ愛情を自分にぶつけてくれるのは、このシエスタだけだ。
じゃあアンリエッタはどうなんだろう?
才人は首を振った。
彼女は寂しいだけだろう。寂しくって、他《ほか》に頼れる人間がいなくって、たまたまそこにいた自分にもたれかかっているだけだ。いい気になるなよ、才人。まったく、高貴な女ってやつぁわがままで……、と才人はぶつぶつつぶやいた。
「高貴な女性が……、どうしたんです?」
「え? いや……」
「そんなことより、ほら、口をあけてください。あーんです、あーん」
シエスタが才人にビスケットを突き出す。思わず口をあけようとしたとき、ビキッ! とカップが割れる音がした。
そちらを見て、才人《さいと》は震えた。
ルイズが、カップの破片をくわえている。どうやら、口で割ったらしい。
「お、お前、カップ割るなよ。危ないよ」
ルイズは才人の言葉をまったく無視して、割れたカップをシエスタに突き出す。ぶすっとした声で、
「おかわり」
シエスタは、はいはい、と立ち上がると、冷えきったお茶の残りを欠けたカップに注ぐ。にっこりと微笑《ほほえ》んで、それをルイズに差し出す。
「どうぞ♪」
ルイズはシエスタをぎろっと睨《にら》みつけた。
「ちゃんと新しいの淹《い》れなさいよ。ほんとに使えないメイドね。できることといったら、犬に色目を使うだけじゃないの。お茶一つ満足に淹れられないなら、ちゃっちゃと田舎に帰るがいいわ」
シエスタはまったく笑みを崩さずに、ティーポットの中の出がらしを捨てた。新しい茶葉をポットに入れようとして、茶葉が切れていることに気づき、困った顔をした。
それからぽん、と何かに気づいたように手を打って、外に飛び出していく。五分ほどして、手にいっぱいの雑草を拾ってきた。
鼻歌交じりに、それをポットに入れ、どぼどぼとぬるまったお湯を注ぐ。ポットからカップに注ぎ、ルイズに馬鹿《ばか》丁寧な態度で差し出した。
ルイズは無言でそれをシエスタの頭から注いだ。シエスタは笑顔を浮かべたまま、ハンカチを取り出し、顔をゆっくりと拭いた。それからポットの中のお茶を、自分が今しがたされたように、ルイズの頭の上に注いだ。
二人は笑顔で見つめ合っていたが、どちらからともなく飛びかかり、がっちゃんごっちゃん取っ組み合いをやらかし始めた。才人はものすごくせつなくなり、小さな声で、「やめろ」と言った。しかし、二人は髪の毛をつかみ合い、歯をむき出しにして絡み合っている。
ああ……。まったく……。
こないだ襲われたばっかりだというのに、平和なもんだ。
才人としては、敵の正体がわかったからには、こっちから乗り込んで白黒つけたいのである。なに、戦争になるわけじゃない。相手はガリアの王様だか大臣だか将軍だか大貴族だか知らないが、お目通り願って、正々堂々と、いったいルイズを使って何をする気だ! と、やりたいのである。
でも……、姫さまに止められてしまった。まあ、言い分はわかる。こないだ戦争がやっと終わったばかりで、新たな火種を作りたくないのだろう。
でも、外交でなんとかするっていったってなあ……。いくら証拠を用意したって、向こうがそんなの知らないよ? と言えばそれっきりだろう。
せっかく黒幕がわかって、なんとかしてやる! と勢いこんだ矢先だったので、割り切れないモヤモヤが残る。
なまじっか騎士なんかにならなかったほうが、身軽に行動できたかもしれない。
いや……、と才人《さいと》は首を振った。
トリステインの騎士だから……、なんて言い訳じゃないのか?
騎士だろうがなんだろうが、ほんとに突き止めたかったら……、自分は行動したはずだ。
そう。
一番モヤモヤした気分になるのは、自分自身に対してであった。
アンリエッタに止められたとき、実のところ才人はほっとしたのである。
これで危険なことに首を突っ込まないですむ、と、ほっとしたのである。相手はガリア王国……、あのアルビオンを一発で敗北に追い込んだ国じゃないか。
そんな連中のところに乗り込まないですんだ、との安心が、胸に浮かんでしまったのであった。
情けねえ。何が騎士だよ……、と、才人はせつなくなった。
そんな才人のせつなさとは裏腹に、目の前ではルイズとシエスタが取っ組み合いをやらかしている。
ますます気が滅入《めい》り、思わず才人は口にしてはいけない言葉を言ってしまった。
「お前たち、少しは姫さまを見習って、おしとやかにしろよ……」
ルイズとシエスタの動きがぴたりと止まった。
急激に部屋の空気が変化していく。
才人は脇《わき》の下につめたいものが流れるのを感じた。
本能が身体《からだ》に危険を知らせる。体が震えだす。
ルイズは、う〜〜〜〜ん、と伸びをすると、準備運動を始めた。シエスタも、腰に手を当てて、後ろにのけぞったりしている。
「シエスタ。あんたはしっかり身体を押さえててね」
「かしこまりました。ミス・ヴァリエール」
才人は、よっこらせ、とわざとらしく立ち上がった。
「さてと、それじゃあボクは騎士隊の訓練に行ってきます。ルイズ、あとはよろしくね。シエスタ、お茶おいしかった。ありがとう」
ドアにはたどり着けなかった。シエスタに腕をつかまれ、ルイズに足を引っかけられる。床に転んだ才人は泣きそうな顔で二人を見上げ、尋ねた。
「二倍?」
「ううん」
ルイズとシエスタは、特大の笑みを浮かべて言った。
「四倍」
メイジとメイドの二人に、徹底的に痛めつけられた才人《さいと》は、ぐったりと床の上にのびた。ルイズはその上に座り込み、肘《ひじ》をついた。隣に立ったシエスタがハフゥ、とため息をついた。
「わたし最近、自分がミス・ヴァリエールに似てきたような気がしますわ」
「ありがとう」むすっとした顔で、ルイズ。
「べつに褒《ほ》めてませんわ」
シエスタは疲れた声でそう言った。それからしゃがみこんで才人の頬をつんつんと突きながら、
「……ねえ、ミス・ヴァリエール」
「あによ」
「わたしたち、いがみ合ってる場合じゃありませんわ。ほんとどうしましょう」
「なにがよ」
「女王陛下ですわ! あの目! ミス・ヴァリエールもごらんになったでしょう? ああ、相手がミス・ヴァリエールならともかく……」
「ともかくなに? ともかくなに? ともかくなに?」
ルイズはシエスタを杖《つえ》でぐりぐり突きまわす。よよよ、とシエスタは床に崩れ落ちたが、ルイズは執拗《しつよう》にシエスタを突きまわした。
「ねえメイド。ナメてんの? あんた貴族ナメてんの?」
「すいません! ナメてません! えっと、ミス・ヴァリエールも十分魅力的ですけど! 冷静になって考えれば、相手が女王陛下ではもう、夢も希望もありませんわ!」
「どーしてよ」
「なんでもやり放題じゃありませんか! ああ、きっと騎士にしただけではあきたらず、そのうちお城勤務をお命じになるんですわ……。そして夜な夜な……」
「夜な夜な、何よ」
シエスタは気絶した才人《さいと》の脇《わき》の下に手を伸ばし、よっこらせと立たせた。そして操り人形の要領で、才人の口《くち》真似《まね》をした。
「おっす。俺《おれ》、サイト」
「なにそれ」
「女王陛下がなさるであろう狼藉《ろうぜき》をお芝居風に、ミス・ヴァリエールに伝えたいと思いまして」
「……やってごらんなさい」
シエスタは才人の手を器用に動かし、操った。
「やあ。俺サイト。シエスタ大好き」
「変な嘘《うそ》つかないで」
「作中のセリフですから」
澄ました顔でシエスタは続けた。
「俺サイト。ルイズはぺったんこ、やばすぎ」
「なんですってぇ?」
「だから、作中のセリフですってば」
「あんた、作中とやらで姫さまの狼藉を描くのか、己の心中を述べるのか、早いとこ選びなさい。魔法飛ぶわよ」
シエスタはわかりました、とつぶやくと、劇を開始した。
「俺サイト。今日は女王陛下のお部屋に呼ばれてきたんだ。いったい、何をやらされるのかなあ? あ、姫さまだ! どんな御用ですか!」
次にシエスタは、才人の前に回り、がばっと抱きついた。気絶している才人は、シエスタにもたれる形になる。
「ああ! 騎士さま! わたくし、あなたをずっとお慕い申し上げておりました!」
「姫さま! いけません! 俺には、シエスタって決めた人が!」
「いいのです! 所詮《しょせん》メイド風情ではありませんか!」
シエスタは、才人をベッドに押し倒した。
「わたくし女王ですから! 胸も女王ですから! 胸も女王ですから! こんな胸! いやん!」
シエスタはそう言って、気絶した才人の手を自分の胸に押しつけたので、ルイズはその頭をぱかーん! と殴りつけた。
「いたいじゃないですか」
「やりすぎよ。というかどこでそんな三文芝居覚えてくるのよ」
シエスタはごそごそと、私物をまとめて置いてあるスペースから、一冊の本を取り出した。
「なにこれ」
「今、トリスタニアで流行《はや》っている本ですわ」
「字が読めたの? あんた」
ルイズは驚いた声で言った。読み書きできる平民は少ないのであった。
「学院に奉公するにあたって、寺院で習ったんです」
ふぅん、とルイズは本のタイトルを見つめた。
「なぁに? 『バタフライ伯爵夫人の優雅な一日』?」
ぱらぱらとページをめくるルイズの顔が、見る間に真っ赤に染まっていく。
「な! なにこれ! なんていかがわしい!」
汚らわしそうに、本をばさっとベッドの上に放った。
「興味ないんですか?」
「あるわけないじゃない! こんなの読んだら、バチが当たるに決まってるわ! 始祖ブリミルがお赦《ゆる》しにならないわ!」
シエスタは、ぽそっとルイズの耳元でささやいた。
「二章がすごいんです」
「知らないわ! 二章なんて!」
「二章がすごいんですってば。このマダム・バタフライがですね、お気に入りの騎士を、己の権限を利用して寝室に呼びつけるんです。その際、騎士に要求する言葉がすごいのですわ」
「知らない! 知らない!」
そう言いつつ、ルイズの目は先ほど投げ捨てた本のほうを、ちらちらと向いている。
「『お前が望むやり方で、このわたしに奉仕しなさい』。そう言ってマダム・バタフライは、騎士に奉仕させるんです! それがもう! きゃあきゃあきゃあ! 言えません! きゃあきゃあきゃあ!」
シエスタは顔を真っ赤にして、ルイズの肩をぽかぽかと叩《たた》いた。それから本を取り上げ、再び突き出す。
ルイズの目の前で、シエスタはページをめくっていった。真っ赤だったルイズの顔が、ページをめくるたびに沸騰《ふっとう》しそうなほどに赤らんでいく。
「わたし、思うんです」
「あが。あががががががが」
ルイズは震えながら、相槌《あいづち》にならない相槌をうった。そこに書かれている内容は、ルイズの乏しい知識を雲の高さほどにも超えている。本の中で起こっていることは十分の一も理解できないが、とにかくすごい内容が、ルイズの頭に飛び込んでくる。
「女王さま、きっとサイトさんにここに書かれていることします。絶対。高貴な方って、なんていうか、きっと性的に歪《ゆが》んでると思うんです。その……、高貴な方ってご自分を取り繕《つくろ》わなければいけないじゃないですか。その結果、口にはできない欲求がたまりにたまって、ぼかーん」
「しないわ!」
「ぼかーん」
「姫さまはこんなことしない!」
ルイズは本を取り上げ、床に叩《たた》きつけた。
「わっ! 五十五スゥもしたのに!」
「こ、こんなこと! こんな汚らわしいこと! こいつだって姫さまにしないもん! いくら命令だからって、そんな……」
「騎士は命令には絶対! そうじゃありませんか! よしんばサイトさんがしたくなくっても、女王陛下がお命じになれば逆らえませんわ! 言うじゃありませんか! そりゃもういと哀しきは宮仕え……」
「だ、だって……、こいつわたしにメロメロだもん! いっつも言ってるもん! わたしのこと好きって! はん! 命令だからってするわけないじゃない? ねぇ……」
余裕を気取って髪をかきあげるルイズを、シエスタは冷ややかに眺め、
「サイトさんがいっつもミス・ヴァリエールにおっしゃっているという、『好き』なんですが……」
「あによ。歯切れが悪いわね」
「怒っちゃいやですよ?」
「怒らないから言いなさいよ」
「その『好き』なんですけど」
「ええ」
「もしかしたら……、使い魔だからじゃないかと思うんです」
ルイズは呆然《ぼうぜん》として、シエスタを見つめた。まるで予期しなかった方向からの指摘だった。
「わたし、メイジと使い魔の関係のことなんかよく知りませんけど……。使い魔って、メイジを守るためのものでもあるわけでしょう? 皆さんの使い魔……、ギーシュさまのもぐらとか、ミス・ツェルプストーの火とかげとか……、ご主人さまのこと大好きじゃありませんか。でも、使い魔じゃなかったら、あんなに懐きませんわよね」
いやな予感が全身を襲う。でも……、とルイズは首を振った。
「でも! でもでも! 才人《さいと》は、ルーンが取れて使い魔じゃなくなったときでも、再びわたしの使い魔になることを選んだわ! 好きじゃなかったら、どうしてそんなことするのよ!」
「責任感、って可能性もありますわ」
シエスタは冷静に分析して、ルイズに告げた。
「責任感?」
「ええ。サイトさんはこう見えて、責任感の強い人です。だから味方が七万の大軍に追われているときも殿軍をつとめたり、騎士隊の副隊長をお務めになったりしてるんじゃありませんか。ミス・ヴァリエールの使い魔になって、お手伝いする……。それが果たせてない≠ニ思ったから、再びミス・ヴァリエールの使い魔になる運命をお選びになったんじゃ……」
ルイズは力なく、膝《ひざ》をついた。慌てたシエスタは、ルイズの腕をつかんだ。
「そ、そんな落ち込まないでください! あくまで可能性ですわ! 可能性! そんなこともあるんじゃないかって……」
もう、ルイズにはシエスタの言葉は届かない。もしかしてそうかも? という思いで膨れ上がっている。確かにシエスタの言うとおりかもしれない。
サイトが自分に向けている好意は……、使い魔として契約したときに与えられた、偽りの感情かもしれないのだ。
ルイズの心に、認めたくない暗雲が広がっていく。
どうしよう、とルイズはぽつりとつぶやいた。
その夜……。
才人《さいと》はギーシュたちと、水精霊騎士隊《オンディーヌ》のたまり場で酒を飲んでいた。
たまり場というのは、コルベール先生の研究室の隣にしつらえられた、ゼロ戦格納用の小屋である。余ったスペースに机を置いて、周りに古くなって使われなくなった椅子《いす》を並べると、そこは居酒屋に変身したのであった。夕食のあと、才人たちはここに集まって、騎士隊のことを相談したり、つまらぬ話をしたり、馬鹿《ばか》話で盛り上がったりするのであった。もちろん、一番比重が大きいのは馬鹿話である。
とろんとした顔で、ワインを流し込む才人にギーシュが言った。
「もう九時を回ってるけど、いつまでもここで飲んでていいのかね?」
「いいんだよ」
才人は憮然《ぶぜん》とした声で言った。
隣にいたマリコルヌが、心底信じられないといった顔で、
「ルイズと、専用メイドがきみの帰りを待ってるんだろう? それなのに部屋に戻りたくないってのは、どういうわけなんだよ」
うわぁあああああ、と才人は頭を抱えて震えだした。マリコルヌはそんな才人にむかっ腹がたったらしい。テーブルに突っ伏した才人の耳元で、なにやら愚痴《ぐち》を垂れ流し始めた。
「そりゃ、ルイズはああいう性格だし、子供みたいな体つきだから、あんまり人気はなかったけどさ。なんだかんだいってとんでもない美少女じゃないか。あの体つきがいやらしいメイドだって、きみを慕ってるんだろう? そりゃ、給金を払えばメイドぐらい雇えるけど、心まで捧《ささ》げてくれるメイドなんてそうそういないよ。羨《うらや》ましい話だね!」
「ば、ばか! そんないいもんじゃねえんだよ!」
がばっと才人《さいと》が顔をあげ、マリコルヌに言い放つ。マリコルヌはぴきっと頬《ほお》を引きつらせると、ぐいっとワインを飲み干した。マリコルヌの目がすわり始める。
「……いいもんじゃない=H ナメてるのか? 成金」
「な! 成金だと!」
「文句あんのか? 成金。七万止めて、貴族になっちゃったー♪ か? えっへっへどんなもんだいぼくシュヴァリエー♪ か? おまけにもってもてー♪ か?」
「こ、この……、ぽっちゃりさんが……、やんのかっ!」
才人がそう言うと、マリコルヌは酒に酔った頬に凶悪な笑みを浮かべた。
「おもしろい。やってもらおうじゃないか。しがない成金のお前が、貴族のこのぼくをどうするって?」
「く、くぉの……。お前なんか、お前なんかなぁ……」
サイトは強いぞ、やめとけ、と誰《だれ》かが言った。才人も胸を張る。しかしマリコルヌはなんの躊躇《ためら》いも見せずに、シュヴァリエ・サイトを突き飛ばす。
「なっ!」
「七万の軍勢より怖いもん教えてやるよ、ボクちゃん。いいか、こちとら生まれてこのかた十七年……、春夏秋冬朝昼晩……」
マリコルヌはぴくぴくと震えたあと、思いっきり才人を怒鳴りつけた。
「もてねぇえええええええええええええええんだよッ!」
「……え?」
「もてねぇつらさがお前にわかるか? 七万の軍勢だって裸足で逃げ出す恐怖だぜ。ああ、竜でもエルフでも連れてこいや。そんなん、ただのアマちゃんの戯言《ざれごと》だぜ。怖くもなんともねえよ。モテねえ≠サの事実の前にはよゥ……」
マリコルヌの魂の叫びに、才人は思わずあとじさった。七万のアルビオン軍より迫力のある、魂の叫びであった。ふとっちょのマリコルヌはまるで無敵の悪魔のような雰囲気を滲《にじ》ませ、才人に詰め寄った。
「二人の女の子に言い寄られて、どうしたってッ!? おいこらッ! 平民ッ!」
「えっと、その……」
完全に才人はのまれ、もじもじと指をいじり始めた。
「貴様さっきなんつったって、聞いてるんだよ。貴族様がよ、成り上がった平民風情に、ご下問《かもん》あそばされてるんだよ」
「そ、そんないいもんじゃないって……」
「聞こえねえ」
「いいもんじゃ、ない、です。はい」
マリコルヌは首を振った。
「貴様は侮辱してんのか? このぼくを侮辱してんのか? 生まれてこのかた十七年、女の子から一度だって詩の一節すら贈ってもらったことのない、というか目を合わせただけで、ぷ、とか笑われる人生を送ってきたこのぼくを侮辱してんのか? おい、教えてくれよ。幸せってどんな味なのかこの風上のマリコルヌ・ド・グランドプレに教えてくれよ。なあ」
見かねたギーシュが、マリコルヌの肩に手を置いた。
「マリコルヌ。きみはちょっと飲みすぎたみたいだな……、ぐえッ!」
その顔にマリコルヌの拳《こぶし》がめりこむ。ギーシュはよろよろと崩れ落ちた。マリコルヌはどうやら酒乱の気があるらしい。困ったぽっちゃりさんであった。
「恋人がいるやつぁ、このマリコルヌに説教すんな。風よりはええ、拳が飛ぶぜぇ……」
才人《さいと》はその鬼気迫るオーラに震えた。
「聞け。恋人がいるやつは一歩前へ。で、息すんな。貴様らは、ぼくの前で呼吸する権利すらない」
むちゃくちゃな理屈だったが、その迫力に誰《だれ》も文句が言えない。何人かの生徒が、そんなマリコルヌに頭を下げる。
「ご、ごめん……。よくわかんないけど、とにかくごめん」
マリコルヌは、唇をへの字に曲げ、小刻みに震え始めた。
「……すまないと思うんなら、出してよ」
「え?」
「女の子、出してよ」
そんなこと言われても……、と才人たちは顔を見合わせる。
「出してくれたって、いいじゃないかよ。ぼくでもいいって子、出してよ。いや、むしろぼくがいい子、出してよ。ぼくじゃなきゃダメな子、出してよ」
人間じゃないなら……、と誰かが言った瞬間、マリコルヌの魔法が飛んだ。ドット≠ニは思えない凶悪な威力の風魔法で、そいつは派手に吹っ飛ぶ。
「ねぇ。人間じゃないって、どういうこと?」
「……ネ、ネコとか。トカゲとか。一応、メスとオスは間違えないようにがんばるから」
弱々しい声で言った誰かを、マリコルヌは再び風魔法で吹っ飛ばす。
「だめだ……、もうだめだ。お前ら、ぼくを完全に怒らせたな」
マリコルヌがわなわなと震えたとき、格納庫の扉がばたん! と開いた。
腕組みをしたルイズとモンモランシーを筆頭とする、女子生徒たちである。彼女たちは、才人やギーシュ、そして自分の恋人たちに文句をつけ始めた。
「いつまで飲んでるのよ。門限八時でしょー!」
そう言ってルイズが才人の耳をつまむ。
「ギーシュ。あんた今日、わたしに詩を読んでくれるって言ってなかった?」
そう言ってモンモランシーが、床にのびたギーシュをつま先でつつく。
「忘れたの? 今晩約束してたじゃない!」と他《ほか》の女の子も騒ぎ始めた。
自分の目の前で繰り広げられる、そんないちゃいちゃに我慢できなくなったマリコルヌは絶叫した。
「ぼくにも女の子を出してよぉおおおおおおおッ!」
次の瞬間、がぼッ! と板を張っただけの格納庫の天井が抜けて、マリコルヌの上に何かが落ちてきた。
マリコルヌは思いっきり下敷きになり、ぐへっ! とトカゲの断末魔のようなうめきをあげ、床にのびた。
信じられない出来事に、周りの生徒たちは目を丸くする。
落ちてきたのはなんと……、青い長い髪の綺麗な女性であった。年の頃《ころ》は二十歳ぐらいだろうか? 騎士見習いの少年たちは、目をまん丸に見開いて凝視した。
その女性は素っ裸だったのである。白い、雪のような白い肌を惜しげもなくさらしている。きょとんとした顔で、辺りをきょろきょろと見回すと、よろよろと危なげな足取りで立ち上がろうとしたが……、不器用に転ぶ。
「きゅい……」
まるで生まれたての小鹿《こじか》が初めて立ち上がるときのように、青髪の女性はやっとのことで立ち上がった。しかし、肌を隠そうともしない。女生徒たちは、むすっとしてそれぞれの恋人の目をふさぐ。ルイズだけは才人《さいと》を蹴《け》り回した。
立ち上がったその女性は、きょろきょろと男子生徒を見回し……。
「いたぁ! きゅいきゅい!」と叫んだ。
どうやら目当ては才人だったようで、おもむろに飛びついた。
「な、なんだ!」
慌てた声で才人が叫ぶ。いきなり裸の女性に抱きつかれたので、激しく気が動転した。
「会えてよかった〜〜〜! きゅいきゅいきゅい!」
きゅいきゅい騒ぎながら、青髪の女性は才人を抱きしめてぴょんぴょん跳ねた。ルイズの顔が青くなり、ついで赤くなり、目がつりあがり、髪の毛が逆立った。
「もうほんとこの犬っていうか獣っていうか信じらんない次から次へとどっから見つけてくるのかしら! ええいもうむぅきぃ〜〜〜! とにかく死になさいよね!」
とかなんとか怒鳴りながら、後ろから才人の股間《こかん》に右足蹴りを叩《たた》き込み、うっと腰を曲げた才人の顔に左ひざを叩き込み、倒れた才人の上で派手なダンスを開始した。
すると青髪の女の子は、そんなルイズを突き飛ばす。
「なにすんのよ!」
「大変なのね! 大変なのね! 大変なのね!」
一連の騒動で、すっかり酔いがさめた才人が言った。
「いったいなにが大変なんだよ。というかお前|誰《だれ》なんだよ。つうか服着ろよ!」
とりあえずこれを着てよ、とモンモランシーが、羽織っていた肩掛けを手渡す。
「お姉さまを助けてなのね!」
お姉さまを助けて! きゅいきゅい! と青髪の女の子は何度も喚《わめ》いた。
「お前はいったい誰なんだよ!」
困ったように、青髪の女性は首をかしげた。
「えっと、その、イルククゥ。お姉さまの妹なのね。あ、お姉さまってのはここでいうタバサその人なのね」
「タバサの妹だって?」
一同は、青髪の女性の言葉に目を丸くした。
「妹……、には見えないよな」
才人《さいと》が腕を組んでそう言うと、イルククゥはきゅいきゅい喚いた。
イルククゥはたどたどしい言葉で説明を始めた。
タバサが裏切った結果、ガリア王政府はタバサのシュヴァリエの地位を剥奪《はくだつ》し、その母親を拘束する旨、伝えてきたこと。
タバサは母親を救い出すために、単身ガリアに向かったこと。
しかし、そこで圧倒的な魔力を誇るエルフに捕まってしまったこと。
「で、俺《おれ》たちに助けて欲しいっていうわけか」
才人が言うと、きゅい、とイルククゥは頷《うなず》く。
胡散くさげな顔で、ギーシュがイルククゥを見つめた。
「……この女性は、ルイズやきみを襲ったガリアの手の者なんじゃないかね?」
ルイズが襲われたことを聞いたギーシュが、疑問の表情を浮かべた。
「タバサが囚《とら》われになって、それを助けてくれって言い分もなんだか怪しいわ。もしかしてワナなんじゃないの?」
モンモランシーも疑いの眼差しをイルククゥに投げつける。イルククゥは困ったように、きゅい……、としょぼくれる。
「怪しいんだよ! お前! どう見たって妹には見えないんだよ!」
「そこは信じてなのね」
「やっぱり、ガリアのワナじゃないのかね?」
ギーシュがそう言うと、イルククゥは怒りを含んだ声で、
「たりないくせに、ナマ言うんじゃないのね」
「な、なんだとぉ!」
「証拠を見せるのね! きゅい!」
イルククゥは小屋を飛び出していった。なんだなんだとあとを追いかけていくと、暗闇《くらやみ》の中に見慣れた巨体が現れた。
「シルフィード!」
それは果たして、タバサの使い魔、シルフィードであった。
「お前のご主人は捕まっちまったのか!」
才人《さいと》が尋ねると、シルフィードは大きく頷《うなず》いた。
「待ってろ! すぐに助けてやるからな!」
シルフィードは嬉《うれ》しそうにきゅいきゅい喚《わめ》くと、才人の頭をくわえて振り回す。どうやらそれが喜びの表現らしい。
「この風竜がそうだと言うんなら、信じざるを得ないな」
「使い魔だもんね」
ギーシュとモンモランシーが顔を見合わせて、頷きあう。
マリコルヌが、首を振りながらつぶやく。
「ところでさっきの女の子はどうしたんだ?」
シルフィードはなぜか気まずそうに顔を逸《そ》らす。いきなり羽ばたくと、夜空へと飛び上がって見えなくなった。
「なんだあいつ?」
しばらくすると、暗がりから先ほどの青髪の少女が駆けてくる。
「どこ行ってたんだよ」
才人が尋ねると、
「ト、トイレなのね」
「というかあんた、タバサの妹のくせに、なんでお姉さんより大きいのよ。それに服着てないって普通ありえないでしょ?」
「ぎ、義理の妹なのね。服は……、その、シルフィード! から飛び降りたときに脱げたのね」
冷や汗をたらさんばかりの勢いである。才人はその様子でこの女の人を理解した。タバサの義理の妹に当たる人は……。
「少し、脳が可哀想な人なんだよ。疑ったら悪いよ」
ぽん、とルイズの肩に手を置いて、才人は真顔で言った。
「え? そ、そうなの?」
イルククゥは緊張にいたたまれなくなったのか、いきなり両手を広げて、首を横にカクカクと動かした。
「きゅいきゅい」
意味不明の動きとセリフである。
「……そうみたいね」
その仕草でルイズは納得した。王族には何気にアレが多いのである。とにかくワナにしては、イルククゥは天然過ぎた。きっと、彼女がもたらした情報に裏はないに違いない。
「ところで、シルフィードはどこに行ったんだ?」
「あ、あの! あの子は怪我《けが》してるのね。傷を治すために、ちょっと出かけたのね」
「あなたも怪我《けが》してるじゃないの」
モンモランシーが、イルククゥの足の怪我《けが》に気づく。水魔法をかけたが、うまくふさがらない。
「結構ひどい怪我なんじゃないの?」
しかしイルククゥは首を振る。
「たいしたことないのね! すぐに治るから大丈夫なのね!」
モンモランシーは首をかしげたが、自分の実力が低いせいだろうと考え、せつなげに唇を噛《か》んだ。
一行はこれからの作戦を練るために、小屋へと戻っていく。モンモランシーもあとについていく。
ほっとしたような顔のイルククゥに、マリコルヌが話しかける。
「なあ。タバサの妹さんとやら」
「きゅい?」
「ぼくは、さっき、ぼくでもいい子が欲しいよぉ! なんて怒鳴ったんだ。そしたらきみが落ちてきた」
「きゅい」
「きみは天がぼくに与えてくれた妖精《ようせい》かもしれないね」
マリコルヌは頬《ほお》を染めて、イルククゥに手を伸ばした。しかしイルククゥはあっさりその手を無視して、小屋へと駆け込んでいく。
後に残されたマリコルヌは、ふぉ〜〜〜〜〜〜〜ッ! と絶叫して、空を仰いだ。
星は、見えなかった。
[#改ページ]
第四章 女王と騎士たち
「なんで一人で行くかな……」
話を聞き終わった才人《さいと》は、せつない声でつぶやいた。
イルククゥがもたらした情報で、小屋の中は深刻な空気がただよい始めている。
ギーシュや騎士たちは、うむむ、と眉間にしわを寄せ、考えこんでいた。
悔しい、と才人は思った。タバサは一人で行ってしまったのだ。おそらく、才人たちにこれ以上迷惑をかけたくなかったのだろう。
そう思うと、才人は自分が恥ずかしくなった。
アンリエッタに止められたとき、ほっとした自分が許せなくなった。
こっちの世界でできることを考えよう、なんて思ってたくせに、いざとなると二の足を踏んだ自分が許せなかった。
それはしかたないのかもしれない。
なにせガリア王国は大国で……、あれだけ強大なアルビオン軍を一撃で敗北させた連中だ。
昨日まではそんな連中とどうやって戦えばいいのかわからなかった。
闇雲《やみくも》に剣を振り回すだけでは、絶対に勝てない。アンリエッタに止められたおかげで、どうやって戦えばいいのか、さっぱり見当もつかない連中を相手にしなくてすんだ。だから自分はほっとしたのだ。
でも、方法がわからないなら、考えればいいじゃないか。
きっと何か、方法はあるはずだ。
今、やっとその決心がついた。考えて、行動する決心がついたのだ。
ほっとした自分が許せない。考えることもせずに、しかたねえよな、と心のどこかで諦《あきら》めていた自分が許せない。
今までモヤモヤしていたものが、どこかに飛んでいくように感じる。晴れ晴れした気分で、才人はイルククゥに言った。
「よく知らせてくれたな。安心しろ、俺たちが絶対タバサを助けてやるから。なあみんな!」
才人がそう言うと、その場の半数が頷《うなず》いた。
「当然だ。騎士として、見過ごすわけにはいかないな」
「どんな事情があるにしろ、女の子を拘束するなんて許せない! ぼくはやるぞ! ぼくはっ!」
マリコルヌが拳《こぶし》を握り締めて叫ぶ。女の子、というところに反応したらしい。
しかし、そんな勇ましい意見が出る一方、二の足を踏む者もいた。
「でも……、やっぱり冷静に考えれば、そいつはできないよ」
そう言ったのは水精霊騎士隊《オンディーヌ》の実務を担うレイナールであった。彼は皆が馬鹿《ばか》騒ぎをしている間、隅っこのほうでちびちびと酒を飲んでいたのだが……、いざ問題が持ち上がると、自分の出番だとばかりに前に出てきたのである。
「なんだよ。お前、怖気《おじけ》づいたのか?」
才人《さいと》が詰め寄ると、レイナールは冷静な声で言った。
「怖気づいたわけじゃない。ただ、ぼくたちはもう、女王陛下の騎士なんだぜ? 好き勝手に動けるわけないじゃないか」
そうだそうだ、と何人かの少年たちが同調する。
水精霊騎士隊の生徒たちは、真っ二つに意見が分かれた。クラスメイトを助けに行かないで、何が騎士だ、という才人を筆頭とする一派。
相手は外国である。ぼくたちが首を突っ込むわけにはいかない、というレイナールを筆頭とする一派。
喧々《けんけん》諤々《がくがく》の議論が続いたあと、一同は矛先を隊長に変える。
「なあギーシュ。お前、隊長だろ? 決めてくれよ」
そんな風に二派に挟まれ、ギーシュはしどろもどろになった。
「ぼ、ぼくが決めるのか?」
「あったりまえだろ」
「そ、そうだな……、どっちも、その、あれだ。意見としてはもっともだな。女の子も、騎士隊の職務も……」
「もっともじゃなくて、決断しなさいよ」
モンモランシーが、イライラした声でギーシュを促した。ごくん、とギーシュは唾《つば》を飲み込む。それから、再び頭を抱えて悩み始めた。
「まったくもう! あんたねぇ……」とモンモランシーが言いかけたとき……。
ルイズが、怒ったような声で言った。
「もう、さっきからなんなの? あんたたち! だったら、行きたい人たちだけで行けばいいじゃない! 騎士隊全員で行く必要なんかどこにもないじゃない。助けに行きたい人は、助けに行く!」
その場の全員が、あっけにとられたようにルイズを見つめた。
「そういうわけには……、仮にも騎士隊なんだからさ」
むっとした声で才人が言ったら、ルイズはその股間《こかん》を蹴《け》飛ばした。
ぐえ……、と崩れ落ちた才人の頭の上に足を乗っけて、すっかり定番となったポーズでルイズは喚《わめ》く。
「意見一つまとまらないで、何が騎士隊よ! というかあんた、ほんとに助けに行きたいんだったら、今頃《いまごろ》飛び出してるんじゃないの? こんなところでいつまでもウダウダやってる場合じゃないでしょーがッ!」
そう言われて、才人はルイズの足の下で、はっ! とした。
「そ、そうだな……」
騎士隊ということにこだわり、自分は肝心なことを忘れていた気がする。ちょっと前だったら、自分はとにかく飛び出していたんじゃないだろうか?
慎重になった、といえば聞こえはいいが……、もしかしたら、ついた肩書きを失いたくない自分もいるんじゃないだろうか?
アンリエッタに止められて、ほっとしたことより恥ずかしくなった。まったく、こっちの肩書きにこだわってどうするんだよ……。
才人《さいと》は立ち上がると、頷《うなず》いた。
「よぉし。タバサを助けたいと思う騎士は俺《おれ》についてこい!」
おおーっ! と歓声があがった。
しかしルイズは、さらに眉《まゆ》をひそめた。
「待ちなさいよ。きちんと筋は通さなきゃダメでしょ」
「筋?」
「そうよ。きちんと姫さまに報告して、援助なり協力を仰いだ上で、ガリアに乗り込むのよ。盗賊団やそんじょそこらの怪物を相手にするわけじゃないの。相手はガリア王国なのよ」
才人は、手を腰に置いてそう言い放つルイズを、眩《まぶ》しく見上げた。
足の下で、うっとりと自分を見上げる才人を見て、ルイズは思った。
タバサ。
青い髪の小さな女の子……。
正直あの子、何を考えているのかわからないけど、いつだってわたしたちを助けてくれたじゃない。だったら行くわ。行かなくちゃ。
昔だったら、そんな風には考えなかっただろう。
咄嗟《とっさ》にそんな風に考えた自分に驚く。
昔だったら、祖国とアンリエッタに対する想《おも》いから、すぐに助けに行く≠ネんて判断にはならなかっただろう。
タバサと自分が、それほど仲がよかったとは思えない。
でも……、タバサはいつも理屈抜きにわたしたちを助けてくれた。
こいつみたいに……、と、ルイズは足下の才人を見つめる。
才人も、理屈抜きに自分を助けてくれた。
だから、自分たちをいつも助けてくれたタバサを、わたしも理屈抜きに助けに行く。
ああ、自分は変わりつつあるのかもしれない。
昨日までは、アンリエッタや祖国を妄信することが、貴族の名誉だと思っていた。でも、本当はそうじゃない。そのことにルイズは気づき始めていた。だから先日はいきなりアンリエッタを叩《たた》いたりできたのかもしれない。
アンリエッタと祖国の代わりに、自分は何を信じればいいのかまだよくわからないけど……、今は心の赴《おもむ》くままに行動しようと思った。それが正しいことのように、ルイズには感じられた。
ルイズはぐぬー、と才人《さいと》を睨《にら》む。
わたしだって、やるときゃやるんだから。
自分ひとりだけ、かっこつけたりえらそうにして! ばか! ばかばか!
よし! 今からお城に向かうぞ! と立ち上がる才人を見つめて、ルイズは思った。
そんな風に理屈抜きに自分を助けてくれた才人の気持ちが……。
シエスタが言うように使い魔≠ニして与えられた感情だったら?
言い知れぬ不安を打ち消すように首を振る。
ルイズは才人のあとを追って駆け出した。
水精霊騎士隊《オンディーヌ》のメンバーとルイズたちは、学院外に停泊している『オストラント』号までやってきた。タラップを駆け上り、船長室を目指す。
どんどん! と扉を叩くと、眠そうな顔をしたコルベールが這《は》い出てきた。
「んにゃ? なんだね?」
隣の部屋から、あくびをしながらしどけない格好のキュルケも出てきた。
「なによー、こんな夜更けに……」
「今すぐお城に向かってください!」
「いったい、何事だね?」
「タバサがガリア王国に拘束されたんです!」
才人がそう言うと、キュルケの眉《まゆ》がつりあがった。
「なんですってぇ?」
コルベールも、顔を曇《くも》らせた。
「ほんとうかね?」
「ええ。シルフィードとタバサの義理の妹って人が知らせてくれたんです」
「それで、今からガリアへ向かうっていうの?」
冷静な声で、キュルケが尋ねた。
「いや……、まず助けに行く許可と協力をもらいに、姫さまのところに行くんだ」
キュルケはじっと才人を見つめたあと、納得したように頷《うなず》いた。
「じゃあすぐに出発だ。ミス・ツェルプストー。水蒸気機関を頼む」
「了解《ヤー》!」
キュルケは頷くと、水蒸気機関に火を入れにすっ飛んでいった。コルベールが船長室備えつけの鐘《かね》を打ち鳴らすと、フネ全体に鐘が鳴り響く。ツェルプストー家お抱えの乗組員たちが、フネのあらゆる部分から飛び出てくる。
「諸君! 出港ですぞ! もやいを放ってください!」
地面に固定するためのロープが、素早く断ち切られ、『オストラント』号はぶわりと浮き上がった。
『オストラント』号は、瞬間最高速度は遥《はる》かに劣るが、平均すれば竜に匹敵する巡航速度を発揮する。おおよそ帆走船の三倍近い。一時間たらずで、トリスタニアの上空までやってきた。
上空にフネを残し、才人《さいと》たちはレビテーション≠ナ王宮の中庭に降り立つ。警備にあたっていたのは、例によってマンティコア隊であった。
ひげ面の人のよさそうな隊長は、現れた人影を見て呆《あき》れた声をあげた。
「曲者《くせもの》かと思えば、貴殿たちか……。いったい、今度は何事かね?」
「ド・ゼッサール殿。陛下に取り次ぎ願いたいわ」
ルイズがそう言うと、マンティコア隊の隊長は、しかめっつらになった。
「こんな夜更けに無理を申すな、と普通なら突っぱねるところだが……、貴殿らが相手ではいたしかたないのであろうな」
才人たちの話を聞いたアンリエッタは、しばらく黙りこくった。
それから顔をあげ……、
「あなたたちが直接向かうことは許可できません」
ガリアへの通行手形を発行、その上、国境沿いまで護衛の隊をつけましょう、ぐらいの協力を得られるものと思っていた才人たちは、頭から冷水を浴びせられた気分になった。
「向こうの大使を呼びつけて、詳しく事情を聞くことにいたします。ルイズを襲った一件とあわせ、厳重に抗議いたしますわ」
「そんな。じゃあ、どうするんですか? 俺たちに、黙って見てろって言うんですか?」
アンリエッタは、困ったような顔になった。それから才人を見つめ、
「あなたたちが向かって、どうなるというのです?」
「でも、でも!」
「タバサ殿は初め、あなたとルイズを襲った連中の一味だったというではありませんか。そのようなものを助けるために、どうしてあなたがたが向かわねばならぬのです?」
「途中で裏切ってくれたから、ルイズを助けることができたんです。彼女は俺たちの……、恩人なんです。ルイズの恩人ということは、トリステインの恩人じゃありませんか」
才人は必死でアンリエッタに詰め寄った。
「では、百歩譲って彼女を我らの恩人ということにいたしましょう。しかし聞けば、タバサ殿はガリアの<V|ュ《騎》ヴァ|リ《士》エ≠ニのこと。極端なことを言えば、彼女をどうしようが、それはガリアの勝手ではありませんか。わたくしたちが、それに口出しすることは、内政干渉と取られましょう」
「行くのは俺たちです。トリステイン政府の密使や軍じゃない」
「あなたたちは、今ではわたくしの近衛隊《このえたい》なのですよ。意図がどうであろうと、トリステイン王国≠フ行動と受け取られます。向こうで犯罪人とされている人物を救出などしたら、重大な敵対行為ととられてしまいます」
才人《さいと》たちは、事の重大さに言葉を失った。
「戦争になるかもしれません。あなたがたはそれでも行くと言われるの?」
きっぱりとそう言われ……、集まった水精霊騎士隊《オンディーヌ》の生徒たちからも、ため息が漏れた。
「女王陛下のおっしゃるとおりだよ」
「戦争になったら大変だ」
レイナールをはじめとする生徒たちは、口々に才人を説得にかかった。
「わかった」と才人は言った。
「お前たちは先に学院に戻れ」
「サイト。何度も言うが、ぼくたちは別に怖がっているわけじゃ……」
レイナールが説得するような目を才人に向けた。
「わかってるって。別にお前たちを臆病者《おくびょうもの》とか思ってるわけじゃないよ。女王さまの言うことももっともだし、お前たちの気持ちもわかる。ただ、もうちょっと話があるんだ」
ほっとしたような空気が流れた。水精霊騎土隊の面々は、女王陛下の執務室を辞していく。あとに残されたのは、ギーシュとマリコルヌ、そしてルイズと才人だけになる。
「諦《あきら》めてくださいましたか?」
訴えかけるようなアンリエッタの目に見つめられ、気持ちが一瞬揺らぎそうになる。
そんな風に見つめ合っていると……、厳しく険しい女王の仮面が外れ、この前キスを交わしたときのような無防備な表情が現れる。
女王としてではなく……、親しい人間として、行って欲しくない。
その表情が、才人にそう言っている。
アンリエッタのそんな顔をじっと見ていると、決心が揺らぎそうになる。
でも……、やはり、そんなことは認められない。情に訴えかけられても、自分を助けてくれた人間を見捨てることはできない。
納得できない。
ゆっくりと、才人は肩に羽織ったマントを脱いだ。
「な、何をするんだきみは」
ギーシュが慌てた声で言った。
才人は脱いだマントを恭《うやうや》しくアンリエッタに手渡す。
「……な」
アンリエッタは驚いた顔で、才人を見つめた。
「お返しします。短い間だったけど……、お世話になりました」
「あ、あなたという人は……」
わなわなとアンリエッタは震えた。
「これで、トリステインには迷惑はかからない。そうですね?」
しばらくアンリエッタは震えていたが、小さく、泣きそうな声で、
「ばか……」とつぶやく。
若き女王は備えつけの鐘《かね》を鳴らした。
「何事ですか?」と、おっとり刀で警護番のマンティコア隊が駆けつけてくる。
「この者たちの武装を解除し、拘束してください」
才人《さいと》を指差してそう言ったアンリエッタを見て、ギーシュが青い顔になった。ルイズも蒼白《そうはく》になる。
「姫さま!」
「いや、ですが……、しかし」とマンティコア隊隊長のド・ゼッサールは頭をかいた。事情がよく飲み込めなかったのだ。
「早く」
女王陛下に促され、襟《えり》を正して才人に向き直る。
「命令ですからな。ゆめゆめお恨みなされるなよ」
そう言って才人の剣を取り上げ、後ろ手に縛った。ギーシュとマリコルヌはどうしよう、と顔を見合わせたが、才人がおとなしく捕縛されたのでしかたなくそれにならった。他《ほか》の隊員たちが二人の杖《つえ》を取り上げ、同じように縛り上げる。
「しばらく……、頭を冷やしてください」
哀しそうな顔でアンリエッタが告げると……、魔法衛士隊は才人たちを引っ張っていく。
あとには、ルイズとアンリエッタが残された。二人きりになると、アンリエッタは椅子《いす》に身体《からだ》を横たえた。
「どうして! どうして殿方はわかってくださらないの! 望んで危険に身をさらすなんて! ガリアに向かってどうなるというのです! 大国に拘束された一人の騎士を捜し出すことなど、まるで池に沈めた小石を見つけ出すようなものだというのに! それに、他国で自由に動けるわけがないではありませんか! おまけにガリアは虚無を狙《ねら》っている! ルイズ、あなたの虚無を! どれほどの危険が待ち受けていると思っているの! いったい……、何を……」
取り乱した女王を見つめ、ルイズはアンリエッタの気持ちが、かなり本気に近いことを知った。ガリアとの関係悪化の阻止というより……、アンリエッタは女の本能で才人に行って欲しくはないのだろう。
そんなアンリエッタを見たら……、昔までのルイズだったら同じように取り乱したに違いない。
自分の気持ちとアンリエッタの気持ちを天秤《てんびん》にかけ……、あくまで譲らずに張り合うのか、それとも忠誠心から譲るのか、悩んでしまっただろう。
でも、今のルイズは妙に冷静であった。
今は、そんなことで悩んでいる場合ではない。
やらねばならぬことは……、タバサを助けること。
そのために、為《な》すべきことをせねばならない。
それが高貴に生まれた者の義務なのだ、とルイズは思った。
ルイズはアンリエッタの肩に、優しく手を置いた。
「姫さまのおっしゃることはもっともです。一人の魔法学院生徒と、傾国の可能性を天秤《てんびん》にかければ、後者が勝りますわ」
「そうよね。ルイズ。わたくしは間違っていないわよね。ああ、しばらくの間、お城で頭を冷やして欲しいわ」
「ただ……、正しいことがすべて納得できるとは限らないのです」
「……え?」
アンリエッタは覆った手をどけ、顔をあげた。
「わたしたちには、わたしたちが通すべき筋≠ェあるように思います」
「どうしたの? あなたは、何を言っているの?」
呆然《ぼうぜん》としてアンリエッタはルイズを見つめた。
「わたしはずっと、姫さまに仕えることがその筋≠セと信じてまいりました。でも……、このところというもの、心のどこかが言うのです。姫さまへの妄信は、わたしの進むべき道ではないと」
「ルイズ……」
不安げな表情でアンリエッタはルイズを見つめる。
「わたしは、今回、ガリアのシュヴァリエ・タバサ殿を救いに行こうと決心いたしました。それがわたしの通すべき筋≠セと思いましたから。同時に、それに姫さまが反対なさるであろうことも知っておりました。姫さまには、姫さまの立場がおありになるのですから。女王としてのお立場が……」
「あなたまで、いったい何を言うの?」
「それを知りながら……、今回、わたしは姫さまに報告に参りました。なぜでございましょう? 反対されると知りながら、どうしてわたしは告げに参ったのでしょう? それもまた、同じように通すべき筋≠フように感じたからです。己の信じる筋≠通す……。見失いつつあった、わたしの貴族としての魂の在《あ》り処《か》は、そこにあると存じます」
幼い頃《ころ》の特別な日々を共有した二人の少女は、女王と、一人の貴族として対峙《たいじ》した。
「ルイズ、忘れたの? あなたはわたくしの臣下なのよ。そのわたくしの意に背くというの?」
ルイズは無言でマントを脱ぐと、アンリエッタに捧《ささ》げた。
「……ルイズ。ルイズ! あなたは何をしているのかわかっているの!? おお、マントを脱ぐということは……」
「ええ。これでわたしはもう、トリステインの貴族ではございません。ただのルイズでございます。陛下におかれては、ガリアに向かったわたしたちを、反逆者としてお扱いくださいますよう、お願い申し上げます。わたしたちの出発後、こうハルケギニア中に布告なさってください。近隣諸国政府に告ぐ。反逆者が逃亡中、国境を越える可能性あり。見つけ次第貴国の法に基づき処罰されたし=Bさすれば、お国の大事とはなりませぬ」
アンリエッタはしばらく震えていたが……、首を振ると、再び残りの衛士を呼んだ。
かしこまる衛士に向かって、アンリエッタは告げた。
「この者を逮捕してください。わたくしがいいと言うまで、城から出してはなりませぬ」
「は、はっ!」
衛士はかしこまると、ルイズに一礼する。
「杖《つえ》をお渡しください」
アンリエッタはルイズを見つめて言った。
「あなたの言うことは、間違っていないわ。立派だと思います」
しばらくの間があった。
ぺこりと礼をすると、ルイズは杖を衛士に渡す。
部屋から連れ出されるルイズの背中に、哀しそうな声でアンリエッタは告げた。
「自信はないし、うまくやれているとは思えない。でもね、わたくしは女王なのよ。ルイズ」
才人《さいと》たちは、城の西に建てられた塔の一室にまとめて監禁された。
十畳ほどの部屋には、ベッドや机も用意されている。おそらくは貴人用に造られた部屋なのだろう。しかし、貴人用といっても、牢《ろう》であることには変わりはないようだ。
窓と扉には太い鉄格子がはまり込み、分厚い扉の外には大きな矛斧《ハルバート》を担いだ衛兵が二人立っている。
ギーシュとマリコルヌは、ベッドに座ってせつなさそうに窓の外を見ている。窓から差し込む双月の明かりが、鉄格子の形に影を落とす。それを見て、ギーシュがせつなげな声でつぶやく。
「はぁ……、参ったなぁ。父上や兄上が今のぼくの状況を知ったら、悲しむだろうなぁ。近衛《このえ》の隊長になったときは、とても喜んでくれたのになぁ。グラモン家の誇りとまで言ってくれたのになぁ」
マリコルヌも深いため息をついた。
「まさか陛下がここまでお怒りになるとはなあ」
才人《さいと》は何も悪くない二人の友人が気の毒になって、思わずぺこりと頭を下げた。
「すまねえ。俺《おれ》につき合わせたばっかりに……」
ま、いいか、と、ひらひらと手を振りながら、ギーシュは才人に言った。
「気にするな。騎士隊をまとめられなかったぼくも悪いよ。まあなんだ、ぼくは隊長なんだから、副隊長につき合うのも仕事のうちなんだろう」
「やっぱり外国にさらわれた女の子を助けに行くってのは、領地で狐《きつね》を狩ったり、盗賊団を征伐《せいばつ》したりするのとはわけが違うんだなあ。ぼくたち、怒られちゃったね」
すっかり酔いのさめた顔で、マリコルヌがつぶやく。
「でもどうして、お前たちは俺につき合ってくれたんだ? 皆といっしょに、帰ればよかったんだ」
「楽しいからね」
あっさりとギーシュは答えた。
「こんな風に、牢に閉じ込められたりしてるのにか?」
「ああ。女の子とつき合うのも楽しいが……、やっぱり貴族と生まれたからには、胸躍るような冒険に身を投じてみたいじゃないか! 城に幽閉《ゆうへい》される! 確かに父上も兄上も悲しむだろうが、こんな経験、そうそうできないぞ!」
ギーシュはあっはっは、と大声で笑った。ううむ、やっぱりこいつは大物かもしれない、隊長にしたのは正解かもしれない、と才人は思った。もちろん、ただのバカという可能性も捨てきれないが。
「ぼくは勇気を身につけたいんだ」
ぽつりと、マリコルヌは言った。
「勇気?」
「ああ。いざというときの勇気が欲しくってさ。戦争にも行ってみたけど……。ぼくは震えてただけだった。怖くて、泣いちゃったしね。どんなときにも逃げ出さない、勇気が欲しいのさ」
「そっか……」
と、才人《さいと》とギーシュはしんみりとしてしまった。しかし直後に、
「そんな勇気があったら、モテるかもしれないだろ?」
と、マリコルヌが恥ずかしそうに言ったので、しんみりは台無しになった。
「で、サイト」
「なんだよ」
ギーシュが、真顔になって才人を覗《のぞ》き込んだ。
「きみにはなにか策があるんだろう?」
「策?」
「ああ、やけにあっさりおとなしく捕まったじゃないか。当然、ここから脱出できる策があってのことなんだろ?」
きょとんとした顔で、才人は答えた。
「ないよ」
ギーシュとマリコルヌは、目を丸くした。
「へ?」
「策なんかあるわけないだろ。デルフも取り上げられちまったし。どーすんのさ」
「きみってやつぁあああああ! ああああ、捕まっちゃったじゃないかよぉ……! よりによって敬愛する女王陛下にぃいいいいい!」
ギーシュは頭を抱えて喚《わめ》き始めた。
「何言ってんだ。さっきはこんな経験できて嬉《うれ》しい≠ネんて言ってたくせに」
「それとこれとは話が別だぁあああああ!」
マリコルヌはしょぼんと肩を落とした。急に心配になってきたらしい。
「女王陛下、ぼくたちを許してくれるかな……。まさか、縛り首なんかにならないよな?」
才人は、そこで笑顔を浮かべた。
「ルイズがなんとかしてくれるよ。あいつは何せ、姫さまの幼馴染《おさななじ》みだからな。きっとうまいことやって、怒った姫さまをとりなして、協力を取りつけてくるよ。それまでここで待ってようぜ」
才人がそう言った瞬間、扉の前に人影が現れた。小窓に、桃色の髪が見える。
にっこりと才人は笑った。
「ほら、言ったとおりだろ?」
扉が開き、ルイズが顔を見せる。なぜかマントを羽織っていない。
「遅かったじゃねえか。待ってたぜ」
しかしルイズは返事をしない。むすっとした表情で、つかつかと入ってくると、どすん、と才人の隣に腰を下ろした。
「え? ルイズ……、俺《おれ》たちを出しに来てくれたんじゃ……」
ルイズを中に入れた衛士は再び牢《ろう》の扉を閉める。がちゃん! と魔法の鍵《かぎ》がかかる音で、才人《さいと》とギーシュとマリコルヌは、自分たちの運命が変わらないことを理解した。
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第五章 兄弟
「いやはや! たいしたものだな! エルフの先住魔法とやらは!」
ガリア王国の首都、リュティスのヴェルサルテイル宮殿。
壮麗《そうれい》な宮殿の中でひときわ異彩を誇る、青のレンガで造られたグラン・トロワの一室で、ガリア王ジョゼフは異国からの客人を前に、豪快な笑い声をあげた。
客人であるエルフのビダーシャル卿《きょう》は、まったく笑みを浮かべない。彼は本日、旧オルレアン屋敷で、裏切った北花壇騎士を捕縛して、ここまで運んできたのであった。
彼の獲物である、七号≠ニいう符丁で呼ばれていた北花壇騎士は、後ろ手に縛られ、床に転がされている。エルフに深い眠りの魔法をかけられ、静かに寝息を立てていた。
「我が姪《めい》を、なんなく捕らえるとは……、その先住の魔法《わざ》は本物のようだな」
ビダーシャル卿は、金色に光る髪をそよがせ、口を開いた。
「お前の要求……、裏切り者を捕らえる、という条件は満たした。これで、交渉の権利を得たと解釈してよろしいか?」
「よかろう。エルフ王の使者よ」
ジョゼフは、ビダーシャル卿を促した。
「王≠ニいう言い方は正確ではない。我らはお前たち蛮人の言うところの王≠ヘ持たない」
静かな声で、長身のエルフは言った。
蛮人≠ニ呼ばれても、ジョゼフは憤らなかった。ガリアはエルフの住まう土地と東で国境を接している。エルフとの長年に亘《わた》る交流……、決して友好的とはいえない交流であったが、を持つ彼は、エルフたちの人間に対する蔑視《べっし》には慣れている。
「首長≠ナあったか? いや、統領≠ナあったか。とにかくお前たちは入れ札で時の指導者を選出するのであったな? 随分と面倒なことをするものだな」
「血統で指導者を固定することの愚を、我らは早くから学んだ。王≠ニいう呼び名で、我らが統領≠呼ぶことは、我らに対する重大な侮辱である」
「では、ネフテス≠フテュリューク統領の意を述べよ。ビダーシャル卿《きょう》」
ジョゼフは正式な呼び方で、エルフの使者にそう告げる。
「我らが守りし、シャイターンの門≠フ活動が、最近活発になっている」
「聖地のことか?」
「お前たちにとっては聖地でも、我らにとっては忌まわしきシ|ャ《悪》イタ|ー《魔》ンの門≠セ。そこがこの数十年というもの、活発に動き始めている。我らはこれをお前たちがいうところの虚無≠フ力……、シ|ャ《悪》イタ|ー《魔》ンの復活と考えた」
「我らにとっての聖なる力を、悪魔の力というか。お前たちエルフは、本当に傲慢《ごうまん》だな」
「力は持つ者によって、光にも闇《やみ》にも変わる。かつて我らの世界を滅ぼしかけた力だ。お前たちにとっては神の力かもしれぬが、我らにとっては悪魔の力だ。闇の象徴だ。我らの予言にはこうある。四の悪魔|揃《そろ》いし時、真の悪魔の力は目覚めん。真の悪魔の力は、再び大災厄をもたらすであろう=v
「揃われては困る、ということか」
「そういうことだ。六千年前の大災厄以来、かつて何度か、悪魔の力は揃いそうになった。そのたびに我らは恐怖した。我らは大災厄をもたらしたシ|ャ《悪》イタ|ー《魔》ンの門≠そっとしておきたいのだ。知を持つものが触れざる場所にしておきたいのだ。それでこそ世界の安全は保たれる」
「で、余になにをせよと言うのだ? 余が望むまいが、揃うときは揃う。揃わぬときは揃わぬ。強い力とはそういうものだぞ」
「ここは我らの国ではないゆえ、揃うのは阻止できぬ。それは干渉というものだ。お前は|ハルケギニア《蛮人世界》で最大の集団を束ねる国王なのだろう? お前の持つ影響力を行使し、悪魔の門≠ノ近づこうとする一派を抑えて欲しい」
「あれだけ強力な魔法を使うお前たちにしては、随分と消極的ではないか。怖ければ、うってでればよい。その力を持って、お前たちの言う悪魔≠ニやらを滅ぼしたらどうだ?」
そうなった場合、まず真っ先に蹂躙《じゅうりん》されるのはガリアだというのに、余裕の態度でジョゼフは言い放つ。まるで、それを望んでいるかのようだった。
「我らは争いを好まぬ。我らにとっての闇が、お前たちの光であることも承知している。お互いが共存できればそれにこしたことはない」
ジョゼフは楽しげに、鼻を鳴らす。わずかにビダーシャル卿《きょう》が眉《まゆ》をひそめる。
「お前も、シ|ャ《悪》イタ|ー《魔》ンを信望する狂信者の一員なのか?」
始祖ブリミルを悪魔と言い放つエルフに、ジョゼフは笑いかけた。
「余は神も始祖をも信じてはおらぬ。余が信じているのは己だけだ」
「知っている。だから我らは、交渉相手にお前を選んだのだ。もちろん、相応の見返りを用意するつもりでな」
「申してみよ」
「向こう百年間の、|サハラ《砂漠》≠ノおける風石の採掘権と、各種の技術提供」
風石は、フネを空に浮かべるために不可欠の物質だ。風の先住の力の結晶である。|エルフの地《サハラ》には、それが大量に眠っているのだった。
そして砂漠を切り開いて人の住む土地に変えるエルフの技術は、人間のそれを遥《はる》かに上回る。
その二つの提供は、まさに破格の申し出といえた。
「気前がいいな」
「お前たちの信じる理想を曲げさせるのだ。当然だ」
ジョゼフはわかった、というように頷《うなず》いた。
「よかろう。あともう一つだ」
「なんだ?」
「エルフの部下が欲しい」
ビダーシャル卿の眉《まゆ》がわずかに曇《くも》る。
「……交渉してみよう。意に沿うように善処する」
「その必要はない。お前でいい。余の命ある限り、余に仕えよ」
ビダーシャル卿は言葉を失った。
黙るエルフに、ジョゼフは言い放つ。
「蛮人に仕えるのはプライドが許さぬか? お前たちは世界の均衡を、平和を、守りたいのだろう? はは、余の理想と一致するではないか。その余に仕えるということは、エルフの理想を守ることに他《ほか》ならない」
「本国の意向もある。我の一存では……」
初めて言葉を濁したエルフを、ジョゼフは一喝《いっかつ》した。
「バカが。自分で決めろ!」
エルフは蒼白《そうはく》な顔になってジョゼフを睨《にら》みつけていたが……、そのうちに一礼した。
「……よかろう。仕えよう」
「では、下がってよい。ネフテスには余が了解した旨、伝えておけ」
しかし、ビダーシャル卿は立ち上がらない。じっとジョゼフを見つめていた。
「なんだ? 文句があるのか?」
「一つ、お前に聞きたい」
「言え」
「お前は何を考えているのだ? お前が、世界の均衡と平和を望んでいるとは、その態度と顔を見るに……、我には思えぬ。その上、我らは、お前たちの信じる神を……、いくらお前が信じぬとはいえ、お前が属する民族のよりどころであろう、神を、聖者を侮辱しているのだぞ? 正直なところを言えば、相当の悶着《もんちゃく》を想像していた。一筋縄ではいかぬと、本国では予想していた。どうしてあっさり我々に協力するのだ?」
つまらなそうな声で、ジョゼフは答えた。
「退屈だからだ」
「なんだと?」
「いいから去れ」
ジョゼフは尊大な態度になって、手を振った。
ビダーシャル卿《きょう》が退出したあと……、ジョゼフは床に倒れたタバサに近づいた。
エルフの眠りの魔法で目覚めないタバサを優しく抱え起こし、己が腰掛けていた玉座に横たえる。あどけないタバサの寝顔には、弟の面影が残っている。
誰《だれ》よりも優しく、聡明であったオルレアン公……。
タバサの頬《ほお》を撫《な》でながら、ジョゼフはつぶやいた。
「お前は本当に、将棋《チェス》が強かったな。お前ほどの指し手はどこにもおらぬ。だからシャルル、お前がいなくなってしまったから、おれの相手はもう、おれだけになってしまったよ。ああ、おれは退屈と絶望で死にそうだ。毎日が棘《とげ》でできた絨毯《じゅうたん》の上を素足で踊るダンスのようだ。なあシャルル。今度の|ゲーム《対局》が決まったぞ。|エルフ《亜人》と組んで、人の理想と信仰を潰《つぶ》すのだ。今度の|ボード《将棋盤》はハルケギニアを超え、|エル《サ》|フの《ハ》土地《ラ》や聖地を含む全世界だ。組んだといっても、おれが考え、おれが指すのだ。エルフも国も、すべてがおれの駒《こま》なのだ。どうだ? おれはすごいだろう? シャルル……」
タバサの寝顔の中に、ジョゼフは弟を見た。
ゆっくりと……、記憶が、遠い日の記憶が蘇《よみがえ》る。
ジョゼフは、眠っているタバサに語りかけた。
「皆、お前が王になることを望んだ。シャルル、お前は誰よりも魔法の才に優れていた。ああ、お前は五歳で空を飛んだ。七歳で火を完全に操った。十歳には銀を錬金した。十二歳のときには水の根本を理解した。おれには何一つできないことを、お前はたやすくやってのけた」
ジョゼフはタバサの髪を撫でた。
自分と同じ青い髪。シャルルと同じ、青い髪を。
「おれがどんな気持ちでそれを見ていたか、お前にはわからないだろうな。いや、わかっていたのか? お前は、おれにいつもこう言っていたな。『兄さんは、まだ目覚めていないだけなんだ』と。家臣や父にバカにされるおれを見て、お前はこうも言ってくれたな。『兄さんは、いつかもっとすごいことができるよ』と。おれを気遣って、わざと失敗したりしたこともあった。でも、わかっているか? お前のそんな優しさに触れるたび、おれはどうしようもなく惨《みじ》めな気持ちになったんだよ」
ジョゼフの目から涙がこぼれた。
「おれはそんなお前が羨《うらや》ましくてたまらなかった。おれが持たぬ美徳、才能をすべて兼ね備えたお前が羨ましくてたまらなかった。でもな、憎くはなかったんだよ。本当だ。あんなことをしてしまうほど、憎くはなかった。あのときまでは……」
ジョゼフは目をつむった。
すると……、三年前、父王が倒れたときのことが、ありありと蘇《よみがえ》った。
病床の父は、臨終にあたって二人の王子のみを枕元《まくらもと》に呼んだ。ジョゼフとオルレアン公は、緊張しながら枕元に立つ。
次の王が決まる瞬間であった。
小さく弱々しい声で、父王は二人に告げた。
『……次王はジョゼフと為《な》す』
信じられない言葉であった。
宮中の誰《だれ》もが、オルレアン公シャルルこそが次王にふさわしいと思っていた。妃《きさき》である母さえも、長男の自分を暗愚と呼び、シャルルを王に推していた。
しかし……、父王は自分を王と決めた。
ジョゼフの中に、とてつもない歓喜が生まれた。自分を次王に叙すとは……、父は病気で惚《ぼ》けたのだろう。しかし、王の言葉は絶対だ。自分は王になったのだ。
次に生まれた感情は……、シャルルに対する優越感であった。あれほど、皆に王にふさわしい、と言われていたシャルルの絶望はいかほどのものだろう?
自分のものになるはずであった権力が、一瞬で指の間からすり抜けた絶望はいかほどのものだろう? シャルルの悔しがる顔を想像した。それが見たくてたまらなくなり……、ジョゼフは弟の顔を横目で盗み見た。
そこにあった顔を見て……、ジョゼフは絶望した。自分の下衆《げす》な想像が、まったく外れていたことを知った。
『おめでとう』
シャルルはにっこりと笑ってそう言ったのだった。そのときの一字一句を、ジョゼフははっきりと脳裏に描くことができる。
『兄さんが王になってくれて、ほんとうによかった。ぼくは兄さんが大好きだからね。ぼくも一生懸命協力する。いっしょにこの国を素晴らしい国にしよう』
なんの嫉妬《しっと》も、邪気も皮肉もこめられていなかった。本気で兄の戴冠を喜ぶ弟の顔が、そこにあった。ジョゼフのシャルルに対する嫉妬が、強い憎しみに変わったのはその瞬間だった。
苦しそうな顔で、ジョゼフは言葉を搾り出した。
「どうしてお前は、悔しがらなかったのだ? どうしてお前はそこまで優しかったのだ? どうしてお前は、おれが持たぬものすべてを……、手に入れていたのだ? シャルル、恨むなら、己の才と優しさを恨め。お前のあの晴れ晴れとした顔が、お前を殺したのだぞ」
あの日……。
猟《りょう》に出かけたオルレアン公を毒矢で射抜いたのは、ジョゼフ自身であった。
「……お前は言ったな。『兄さんは、まだ目覚めていないだけなんだ』と。目覚めたぞ! 虚無≠セ! 伝説だ! お前の言ったとおりだ! ああ、お前はこうも言ってくれた! 『兄さんは、いつかもっとすごいことができるよ』と! やっている! おれは世界を将棋盤《チェスボード》にして、対局《ゲーム》を楽しんでいる! すべてがお前の言ったとおりだ! えらいやつだ! お前は本当にすごいやつだ! シャルル!」
しばしの黙考のあと……、ジョゼフは眠るタバサの唇に触れた。
「口元が母に似ているな……、シャルロット。あのようになってさえ、お前の母は美しい。美しい母に感謝しろ。お前が飲むはずだった水魔法の薬を代わりにあおいだ母を……」
ジョゼフは、眠るタバサに言い聞かせるように言葉を続ける。
「あの水魔法の薬は、エルフが調合したのだ。先住とやらの複雑な薬だ。人の手ではどうにもならぬ。血を分けたお前に、再び試すのはさすがに心が痛むが……。しかし、どうにもならぬ。やらねばならぬ。なぜならお前は、飼い主であるこのおれに楯突いたのだからな。首輪をしっかりとはめねばならぬ。そうだろう? シャルロット」
何も知らぬ者が見たら、慈悲深そうに見える笑みを浮かべながら、ジョゼフは凶悪な言葉をつむぎだす。
「あのエルフが薬を調合するまで、残された時間を楽しめ。血を分けたお前に対する、最後の慈悲を与えよう。お前から奪った王侯の時間を与えようではないか。エルフが建てし崩れ落ちた城で、王女の一時《いっとき》を過ごすがいい。はは、エルフの薬で心を失くすお前にふさわしい。伯父らしいことを何を一つしなかった伯父からの贈り物だ……」
ジョゼフはタバサの手を握ると、そこに己の額を押しつける。
「ああ! 悲しいことだ! もしあの日のシャルルのあの笑顔がなければ、お前は今頃《いまごろ》、こんな険しい寝顔でなく、眩《まばゆ》い笑みを浮かべていただろうに! エルフの魔法などで苦しむこともなかったろうに!」
額をタバサの手に押しつけながら、ジョゼフは涙を流した。聖職者の前で懺悔《ざんげ》を行うかのように、ジョゼフは苦しげな声を搾り出す。
「お前の愛した女性を、娘を、痛めつけても……、あの日の痛みには適《かな》わん。祖国を、ハルケギニアを使って人々を苦しめても……、あの日の後悔には適わん」
ゆっくりとジョゼフは立ち上がる。悔恨の涙が消えたその目には、深い憎しみが宿っていた。
「だからシャルル。おれはもっと大きな世界をこの手のひらにのせて遊んでやる。あらゆる力と欲望を利用して、人の美徳と理想に唾《つば》を吐きかけてやる。お前をこの手にかけたときより心が痛む日まで……、おれは世界を慰み者にして、蔑《さげす》んでやる」
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第六章 囚《とら》われの六人
才人《さいと》は、鉄格子の間から差し込む日差しに気がついた。隣ではルイズが肩に頭をのせ、寝息を立てている。ギーシュとマリコルヌはベッドに並んで寝転び、いびきをかいていた。
「朝か……」
結局|悶々《もんもん》として、やりきれなくて、一睡もできなかった。
ルイズはふにゃふにゃと口を半開きにして、なにやらつぶやいている。
「ざーんねーんでした。姫さまは、所詮《しょせん》寂しいだけでした。ふにゃ……」
いったいこいつは、どんな夢を見ているのだろう。今はこんな鉄格子のはまった場所で、一晩過ごしている場合じゃない。早くタバサを助けに行かなければならないのに……。
「ばっかじゃないの? 姫さまにフラれたからって、いまさら相手なんかしてあげないんだから……」
才人はルイズをつついた。
「ふにゃ……」
目を覚ましてないルイズは夢と現実の区別がついていないのか、才人を見るなり怒鳴りつけた。
「姫さまの代わりなんてひどい! というか誰《だれ》でもいいんでしょー! そうよね! 誰が一番なのか、い、いい、言いなさいよ!」
「……なに言ってんだお前」
呆《あき》れた才人《さいと》がそう言うと、ここが夢の世界ではなく現実であることに気づいたらしい。
顔を真っ赤にすると、才人をぽかぽか殴り始めた。
「夢見ただけよ! 夢!」
「殴るなよ!」
「夢とはいえやったのはあんたなんだから、責任取りなさいよね」
顔を真っ赤にしたまま、ルイズはそっぽを向いた。やってられないので、才人は大きくため息をついた。
「お前なぁ……、よくのん気に夢なんか見てられるよな」
「なによ」
「てっきり、姫さまをうまいこと説得して、今頃《いまごろ》タバサを助けにガリアに向かってる頃《ころ》だったのに……」
「わたしが悪いって言うわけ?」
「お前が姫さまに、報告しなきゃって言うから来たんじゃねーか!」
「当たり前じゃない」
「人助けだ! 報告なんかしてないで、すぐに駆けつけていれば、こんなことにはならなかったんだよ!」
するとルイズは真顔で才人を見つめた。
「サイト。それは違うわ。人助けだからこそ、きちんと筋を通さなければいけないわ」
「どうしてだよ」
「もし、勝手に行って失敗したらどうするの? ガリアはわたしたちを、トリステインの間諜《かんちょう》だと思うでしょう。だって、わたしは姫さまの女官で、あんたは近衛《このえ》の副隊長なんだもの。そうしたら大変だわ。ガリアはトリステインに対し、厳重に抗議をするでしょうね。戦争の口実にするかもしれない。もしかしたらそれが目的なのかもしれない」
「そんな……」
「ないって言いきれる? 実際そんなのどうかわからないけど、可能性が捨てきれない以上、ある≠ニ考えて行動しなきゃだめ。わたしたちを何度も冷酷な方法で襲ったガリア王国よ? 何をするかわからないわ。そうしたら、姫さまのみならず、トリステインにまで償《つぐな》いきれない迷惑が及ぶかもしれない。その所為《せい》で、関係ない人が傷つく可能性だってある。わたしだってタバサを助けたい。でも、誰《だれ》かに迷惑がかかることになってはいけない。それこそ、頭に血が上っての勝手な行動というものだわ」
才人は恥ずかしそうに目を伏せた。
「ごめん……。でも俺、やっぱりやりきれねえよ。理屈じゃお前の言うことが正しいってわかるんだけどさ。そんでも、俺ならできるかもしれないってことが、こうやって普通にできなくって……、ああくそ、やっぱイライラする!」
「そうね……。姫さまはわかってくださるかもと思っていたけど……、甘かったみたいね」
「なんとか脱出できねえかなあ」
ぼんやりと、才人《さいと》は鉄格子を見つめた。
「お前の虚無≠ナ、なんとかなんないの?」
「無理。ディスペル≠ェきくかどうかわかんないし、第一|杖《つえ》がないわ」
「つかえねえなあ」
「あんただって剣がなかったら、ただの人じゃないの」
「つかえねえなあ」
今度は自分に向けて言った。それでも才人は望みを捨ててない様子で、
「……とにかく脱出できたらガリアに行くつもりだけど、心配すんなよ。お前の言う、トリステインへの迷惑はかからないようにするから」
「どういう意味?」
「俺《おれ》、昨日副隊長やめてきたじゃねーか。ただの人で通すよ」
「やっぱり甘いわねぇ……」
と、ため息つきながら、ルイズが言った。
「どういう意味だよ!」
「そんなの相手が信用すると思ってるの? 騎士をやめたぐらいじゃダメよ。せめてお尋ね者になって、初めて関係が切れたっていえるのよ」
「お前に貴族がやめられるかよ。せめて俺と同じことしてからそういう生意気は……」
才人はそこまで言って、初めてルイズの格好に気づいた。気が気ではなかったので、わからなかったのだが……、
「マントとタイ留め、どうしたんだよ!」
「女王陛下にお返ししてきたわ」
「お返ししてきたって、お前……」
「っさいわね! これでわたしだってただのルイズよ! あんたとおんなじ平民! へ・い・み・ん! ごちそうさま! 姓もプライドも捨ててきたわ! だから自分だけかっこつけたような気にならないでよね!」
才人は激しく感動した。
ルイズと出会って以来の感動だった。
この桃髪美少女魔法使いのプライドが高いはずのご主人さまは……、あれだけこだわっていた貴族≠ニいう肩書きをあっさり捨てたのだ。
ルイズみたいな女の子にとって、それはどれほど勇気がいることだろう。
自分が今まで築き上げてきた人生を捨てる覚悟がなければ、そんなことはできない。貴族という身分は、ある意味ルイズにとってすべてだったのだから。
「お、お前……」
「ざーんーねーんでしたっ! あんた、高貴な女性、大好きだもんねっ! ただの女の子の使い魔になっちゃって、さぞかしがっかりしてるでしょうね!」
「そ、そんな……、俺《おれ》、感動してるんだよ……。お前がそこまでするなんて……」
「うそばっかり! 昨晩だってちらちら姫さまの顔見て、顔赤くしてたわ! 信じられないわ! 貴族や王女さまが好きなんでしょ! 犬のくせに! ちゃんちゃらおかしいんだから!」
そう喚《わめ》きながら、ルイズはシエスタに言われた不安が胸に広がるのを感じた。
自分に対する好き≠ェ使い魔としてのそれだったら?
才人《さいと》の気持ちは、本当はアンリエッタに向いているんだけど……、使い魔としての好き≠ェ、その邪魔をしているだけだとしたら?
昨晩、才人がアンリエッタの願いを振り払ったのも理解できる。
自分が与えた使い魔としての契約は、才人のほんとうの気持ちをも捻じ曲げてしまったのかもしれない……。
とにかく才人の今の気持ちは、アンリエッタに向いているのかもしれない。それを邪魔しているのは、自分が与えた偽りの気持ち……。
「別に貴族や王女さまが好きなわけじゃねえよ」
才人は憮然《ぶぜん》として言った。
「どうだかわかんないわ!」
言い知れぬ不安を振り払うように、ルイズは声を荒らげた。
「だからそんなに怒るなって。言ってるだろ? 俺はお前のことが……」
「言わないで!」
ルイズは耳をふさいでうずくまる。才人はびくっ! と身を震わせると、傷ついたように手を引っ込めた。
「わかったよ。もう言わない」
そんなこと言って欲しくないのに、どうにもならない。ルイズは泣きそうになってしまった。
こほん、と咳払《せきばら》いが聞こえ、二人は前を見つめた。
そこには、いつしか目を覚ましたギーシュとマリコルヌが、微妙なやり取りをするルイズたちをじっと見つめているではないか。
ルイズは耳まで真っ赤になった。
今のやり取りを全部見られていたのであった。
「ち、違うの! 今のは違うの!」
「いや、ぼくは別にいいんだが。マリコルヌが……」
ギーシュの隣のマリコルヌが、わなわなと怒りで肩を震わせている。
「なぁギーシュゥ……。ぼく、限界だよゥ……。目の前であんなやきもち混じりのラブゲームゥ……」
マリコルヌが飛びかかってきたので、ルイズは咄嗟《とっさ》に才人を突き出した。二人はもんどりうって倒れる。
「もうこうなったらきみでいい。抱け」
諦《あきら》めきったマリコルヌが遠い目でそう言ったので、才人《さいと》は深くせつなくなった。
「抱いてよ」
「あああ、まったく……。こんなことしてる場合じゃねえだろうが!」
才人がため息をついてそう言った瞬間……。
窓の外から閃光《せんこう》と大音量が響いてきた。
「……な!」
ギーシュとルイズが、跳び上がって窓に張りつく。そこには、驚くべき光景が広がっていた。
『オストラント』号が、巨大な羽をきらめかせ、低空飛行で何かをばら撒《ま》いている。
「な、なんだあれは……」
『オストラント』号からは派手な音楽と、魔法で拡大した声が響く。
「トリスタニアの皆さまに申し上げます。トリスタニアの皆さまに申し上げます。ゲルマニアのフォン・ツェルプストー家が、最新式水蒸気船『オストラント』号のお披露目にやってまいりました。街を歩く皆さまも、お城にお勤めの皆さまも、どうか近づいてご覧になってくださいまし」
「モンモランシーの声じゃないか!」
果たしてそれは、『オストラント』号で一行の帰りを待っているはずのモンモランシーの声である。
城の中庭では、警護の騎士や兵隊たちや、通りがかった貴族たちが、なんだなんだと空を見上げている。
竜騎士が何騎も近づいて、『オストラント』号の周りをぐるぐる回っている。どうやら、他所《よそ》でやれ! 帰れ! と警告しているらしい。しかし『オストラント』号は気にした風もなく、旋回を続けている。
才人たちを閉じ込めた部屋の扉の前に立つ衛兵たちも、外の様子が気になるようで顔を見合わせている。
「あいつら……、どういうつもりだ?」
「なに考えているのかしら」
そんな感想を漏らしていると、扉の外から、どさっ! と衛兵が倒れる音がする。振り返って、才人たちは息をのんだ。
「キュルケ!」
果たして小窓の格子越しに見えたのは、赤い髪が眩《まぶ》しいキュルケと……。
「先生! コルベール先生!」
髪のない額が眩しい、コルベールであった。扉に駆け寄った囚《とら》われの四人に、キュルケは指を立ててみせた。
「静かにしてて」
コルベールは倒れた衛兵の腰から鍵《かぎ》の束を取り上げると、それを扉の鍵穴に差し込んだ。
なかなか合う鍵が見つけられずに、もたつく。
そのうちに、がちゃり、と音がして扉が開いた。
「キュルケ、先生!」
四人が廊下に出ると、コルベールは笑顔を浮かべた。
「喜ぶのと説明はあとだ。急ぎたまえ」
この塔は貴人を幽閉《ゆうへい》するためのものなので、私物を別に保管する小部屋がすぐ隣にあった。コルベールはまるでこの塔の構造を熟知しているように動き、小部屋の中から才人《さいと》のデルフリンガーと各人の杖《つえ》を見つけだす。
それらを握り締めた四人に、キュルケはローブを放って寄越《よこ》した。それらを纏《まと》い、一行はキュルケとコルベールに続いて階段を駆け下りる。
途中に何人もの衛兵が倒れていた。
「これ、お前たちがやったのか」
「寝てるだけよ」
キュルケが楽しそうな声で言った。いったい、これだけの数をどうやったら無力化できるんだろう? 不思議に思っていると、下から衛士メイジを先頭とする、何人かの兵士が上ってきた。塔の異変に気づいた一隊だった。
「貴様ら! 何をしている!」
言うが早いか、先頭のコルベールが反応した。短く呪文《じゅもん》を唱え、杖を突き出す。空気の塊が隊長と思《おぼ》しき衛士を吹き飛ばす。
「なっ!」
もう一人の衛士の懐に飛び込んだかと思うと、その腹に杖を使って当身《あてみ》を叩《たた》き込んだ。下から上がってきた一隊は、先頭の二人が倒れたのでコルベールに届かない。
コルベールは当身を叩き込みながら呪文を唱えていたらしい。浮き足立った衛兵たちの上に、緑色の雲状の霧が発生した。衛兵たちは、眠りの雲に巻かれてぱたぱたと糸が切れた操り人形のように倒れていく。
その手際のよさに、才人たちは驚いた。まさかコルベールがこんなに強かったなんて……。てっきり彼は昼行灯《ひるあんどん》と思っていたルイズやギーシュは、唖然《あぜん》としてことの成り行きを見つめていた。
杖を使って当身を食らわせたり、素早く口元を読まれぬよう呪文を唱えたり、まともな貴族の戦い方ではない。
「城の警護隊も質が落ちたな……」とつぶやき、コルベールは再び駆け出す。中庭に出ると、そこの連中は、上空を舞う『オストラント』号に夢中であった。
どうやら『オストラント』号と歩調を合わせての救出作戦だったらしい。
宮中に入ってくる客はともかく、出る客のチェックは薄い。コルベールが魔法学院の身分証を差し出すと、あっけなく門を通ることができた。一行は城下町へと飛び出していく。
「せ、先生すごいですね……」
やっとのことで落ち着いた才人《さいと》が言うと、コルベールはなぜか物憂《ものう》げな表情を浮かべた。
城を抜け出した一行は、キュルケの先導で以前働いたことのある『魅惑の妖精《ようせい》』亭に向かった。そこには驚いたことに、馬や旅装が用意されていた。
「お友達を助けに行くんでしょ? 協力するわよぉ〜〜〜」
『魅惑の妖精』亭主スカロンが身をくねらせて、才人たちに微笑《ほほえ》む。
「準備がいいな……、いったい誰《だれ》が俺《おれ》たちが捕まったことを知らせたんだ?」
キュルケに尋ねると、酒場の隅から、ちょっと恥ずかしそうにレイナールや、帰ったとばかり思っていた騎士隊の連中が出てきた。
「お前たち、学院に帰ったんじゃないのか?」
眼鏡《めがね》をついついと持ち上げながら、レイナールは言った。
「どうせ反対されて諦《あきら》めると思って、きみたちの帰りを中庭でこっそり待ってたんだ。そしたら、きみたちが捕まって連れていかれるのが見えたから……」
「フネで待ってるあたしたちに知らせてくれたってわけよ。で、わたしとジャンで計画を立てて、この『魅惑の妖精』亭にも協力を仰いだってわけ」
得意げにキュルケが言った。
才人は嬉しくなった。騎士隊は別にバラバラになったわけじゃなかったのだ。こうやって、いざとなったら助けてくれる仲間たちであった。
そんなキュルケたちに、才人は頭を下げた。
「す、すまねえ……。タバサを助けるって言いながら、俺たちが捕まっちゃしょうがないよなあ」
そんな才人の肩を、コルベールがぽんぽんと叩《たた》いた。
「謝るのは、ミス・タバサを助けてからにしよう。安心している暇はないぞ。さてさて、本番はこれからだ」
がばっとコルベールは、テーブルの上に地図を広げる。その場の全員が、緊張した顔になって地図に見入った。
コルベールは、一本の街道に線を引いた。
「我々は、陸路でガリアへ向かう」
「フネで行かないんですか?」
「きみたちが脱走したことがわかれば、真っ先に疑われるのは、今空に浮かんでいるあの『オストラント』号だ。なにせ、我々はあのフネでここトリスタニアにやってきたんだからな。追っ手はあのフネに我々が逃げ込んだと思うだろう。だから我々はそれを逆手に取る。『オストラント』号に十分に追っ手をひきつけさせ、反対方向のゲルマニアへと向かわせる。宮廷の連中に、我々がゲルマニアからガリアへ侵入すると思わせるのだ」
「なるほど」
キュルケが残りの理由を説明した。
「それにね、あんな大きなフネで国境を越えたら、すぐにガリア軍に見つかっちゃうじゃない。で、ガリアで降りたあとはどうするの? 上空に待機させておく? ガリアの竜騎士隊に見つかって、あっという間に撃沈されちゃうわよ」
「とにかくあのフネは、危険なことには使いたくない。ミス・タバサを助け出したあとは、あのフネで東に行く。そうだろう?」
コルベールが、悪戯《いたずら》っぽい笑みを浮かべて才人《さいと》を見つめる。はい、と感動しながら才人は頷《うなず》いた。
「したがって我々は馬で国境を越え、ミス・ツェルプストーが知っているという、ラグドリアン湖畔《こはん》の旧オルレアン公の屋敷へと向かう。そこがミス・タバサの実家だそうだ。何か手がかりになるものがあるかもしれない。さて、とりあえずの計画は以上だ。諸君、なにか質問はあるかね?」
まるで授業のときのようにそう尋ねたコルベールに、才人は尋ねた。
「一ついいですか?」
「なんだね」
「どうして、そこまでしてくれるんですか? 先生には先生っていう立場があるでしょう?」
どうしてそんなことを聞くのだ? とコルベールは不思議そうな顔になった。
「ミス・タバサはわたしの生徒だ。教師が生徒を助ける。まったくもって当然じゃないか」
タバサが目を覚ますと、そこは夢の国であった。
広い寝室の真ん中に置かれた天蓋《てんがい》つきのベッドに、自分は横たわっていた。
公女時代にさえ一度も袖《そで》を通したことのないような、豪華な寝巻きに身を包んでいる。
眼鏡《めがね》を探すと、ベッドの隣の小机の上に、宝石を散りばめた眼鏡立てが置いてあるのに気づく。そこに立てかけてあった。
「…………」
それをかけ、身体《からだ》を改める。どこにも異常は感じられない。見回すと、ベッドや小物に劣らず、周りの調度も豪華であった。前カーペー時代の調度であった。ガリアが芸術的に、軍事的に、最大の栄華を極めた時代である。
「目覚めたか?」
声のするほうに顔を向けると、あの長身のエルフがいた。部屋の入り口付近に置かれたソファに座り、本を読んでいた。咄嗟《とっさ》に杖《つえ》を探すが、どこにも見当たらない。こうなっては自分に抗《あらが》うすべはない。
タバサはゆっくりとベッドから下りた。ここは決して、夢の国などではない。自分をあっけなく倒してのけたこのエルフがいる以上、ただの現実の延長だ。
「あなたは何者?」
「ネフテス老評議会議員……、いや、今はただの|サハラ《砂漠》≠フビダーシャルだな」
「ここはどこ?」
「アーハンブラ城だ」
博識なタバサはその城の名を知っていた。エルフの土地である|サハラ《砂漠》≠ニの国境近くにある、ガリアの古城。首都リュティスを挟んで、ラグドリアン湖とはほぼ正反対の場所に位置している。どうやら自分は意識を失っている間に、そこまで連れてこられたらしい。
「母をどこにやったの?」
先日と同じ質問をタバサは繰り返した。長身のエルフはあっけなく、答えてくれた。
「隣の部屋だ」
タバサは駆け出した。扉に駆け寄っても、エルフは咎《とが》めようとはしない。タバサが寝かされていた部屋は、どうやら貴人を泊めるために設計された部屋であるらしい。扉の向こうは、召使用の小部屋であった。母はそこのベッドに横たえられていた。
「母さま」
つぶやいて駆け寄る。母は寝息を立てていた。呼びかけても、目を覚まさない。どうやら深く眠っているようであった。
部屋の隅の鏡台に、母が娘と思っている人形が置いてある。かつて母が自分に買ってくれた人形であった。そのとき自分はその人形にタバサ≠ニ名づけた。
心を病んだ母は、その人形を現在シャルロット≠ニ呼んでいる。
そして自分は今、タバサと名乗っている。自分の分身のようなその人形は、無造作に鏡台の上に置かれていた。
憎々しげに、タバサはドアから顔を覗《のぞ》かせたビダーシャルを睨《にら》む。エルフはよく通る澄んだ声で、タバサに言った。
「暴れるのでな、寝ていただいている」
「わたしたちをどうするつもり?」
ビダーシャルは捕まえられてきた実験用の砂漠ネズミを見るような、僅《わず》かな憐《あわ》れみを含んだ目で、タバサを見つめた。
「その答えは二つある」
ビダーシャルのその言葉で、タバサは自分と母の運命が違うことを知った。
「母をどうするの」
タバサはまず、母をどう扱うのかを尋ねた。
「どうもせぬ。我はただ、守れ≠ニ命令されただけだ」
「わたしは?」
ビダーシャルは、一瞬、どうしようか迷うそぶりを見せたあと、先ほどと同じ抑揚《よくよう》で続けた。
「水の精霊の力で、心を失ってもらう。その後は、守れ≠ニ命令された」
タバサは一瞬で理解した。このエルフは、自分を母のようにすると言っているのだった。
「今?」
「特殊な薬でな。調合には十日ほどかかる。それまで残された時間をせいぜい楽しむがよい」
「あなたたちが、母をくるわせたあの薬を作ったの?」
ビダーシャルは頷《うなず》いた。
「あれほどの持続性を持った薬は、お前たちでは調合できぬ。さて、お前には気の毒をするが、我も囚《とら》われのようなものでな。これも大いなる意思≠フ思《おぼ》し召しと思って、諦《あきら》めるのだな」
タバサは立ち上がると、部屋の窓に近づいた。
眩《まぶ》しい太陽の下、崩れかけた城壁が見える。アーハンブラは打ち捨てられた廃城だったはずだが、この整えられた貴人室を見るに、ジョゼフが改築したのかもしれない。
城壁に遮《さえぎ》られ、中庭や城の外までは目が届かないが、本丸から張り出した大きなエントランスが見下ろせた。そこには槍《やり》や銃を持った兵士が立っている。武装した兵がこの城に何人いるのかはわからないが、杖《つえ》がない以上、母を連れての脱出は不可能だろう。
「わたしの使い魔は?」
シルフィードがどこにもいないことに気づき、尋ねる。
「あの韻竜《いんりゅう》か? 逃げた」
どうやら一目でシルフィードの正体を見抜いたらしい。高位のエルフには、造作もないことなのだろう。
逃げた、と言われてタバサはほっとしたが……、きっとシルフィードは魔法学院の皆にタバサが捕まったことを知らせたに違いない。
タバサは唇を噛《か》んだ。
キュルケや、才人《さいと》の顔が浮かぶ。
できれば自分を助けようなどと、考えないで欲しい。迷惑をかけぬために、自分は出発を誰《だれ》にも知らせなかったのだから。
でも……、その心配はしなくても大丈夫だろう。なにせタバサを捕らえたのはガリアである。自分を助けに来る、ということは一国に喧嘩《けんか》を売るのと同じである。そんなリスクをキュルケも才人も犯すとは思えない。ましてや才人は、今ではトリステインの近衛《このえ》騎士ではないか……。
でも、彼なら、そんなリスクを意に介さないかもしれない。なにせあの才人ときたら、自分との生きるか死ぬかの戦いのときに、死を顧みずに狙いを外したのだ。
そんな自分の思考の迷走に……、タバサは小さく首を振った。
こんな風に考えが行ったり来たりするなんて。
もしかして、わたしは、助けに来て欲しいのだろうか。
まさか。
自分はずっと一人でやってきたのだ。
それに……、誰が助けに来ても無駄だろう。残された時間はあとわずか。その後は、自分はエルフの薬で心を失くす。エルフの先住魔法は、人の手ではどうにもならない。
心を失うというのに、タバサは妙に冷静だった。
このエルフにはどうあがいても絶対に勝てない。杖《つえ》を持っていてさえ、手も足も出なかったのだから、素手の自分では……、蟻《あり》と象以上の差があろう。
北花壇騎士として幾多の戦いを潜り抜けてきたタバサは、戦力を分析することに優れている。その優れた自分の戦士としての感覚が、タバサに抵抗の愚を教えてくれる。タバサの冷えた心を、ついぞ感じたことのない無力感が覆っていく。その無力感は、タバサから、怒りという名の最後の感情をも摘み取ってしまった。
甘い、諦《あきら》め衣を心に纏《まと》わせ、タバサは軽く唇を噛《か》んだ。
不思議なもので、そんな感情に支配されてしまうと、母と同じ場所に行ける、ということが一種の救いにさえ感じられた。
そんなタバサにビダーシャルが言った。
「退屈なら、本を読め。いくつか持ってきた」
ビダーシャルの指差す先には、オルレアンの屋敷から持ってきたらしい本が数冊並んでいる。
「この『イーヴァルディの勇者』は実に興味深いな」
旧オルレアン公邸でも読みふけっていた本を掲げて、ビダーシャルはつぶやく。
『イーヴァルディの勇者』は、ハルケギニアで一番ポピュラーな英雄譚《えいゆうたん》だ。
勇者イーヴァルディは始祖ブリミルの加護を受け、剣≠ニ槍《やり》≠用いて竜や悪魔、亜人に怪物、様々な敵を打ち倒す。これといった原典が存在しないため、筋書きや登場人物のみならず、伝承、口伝、詩吟、芝居、人形劇……、数限りないバリエーションに分かれている。
|メイジ《貴族》が主人公ではないため、主に平民に人気がある作品群だ。
「我らエルフの伝承は、似たような英雄を持っている。聖者アヌビス≠セ。彼は大災厄≠フ危機にあった|我らの土地《サハラ》を救ったとされる。この本によると、光る左手を勇者イーヴァルディは持っているな。我らのアヌビス≠ヘ、やはり聖なる左手を持っていた。エルフと人間の違いはあれど、興味深い共通点だ」
平民向けの物語である『イーヴァルディの勇者』は、ハルケギニアではまともな扱いを受けていないといっていい。研究するものは異端だの愚か者だの呼ばれ、神学や文学の表舞台には決して立てぬし、焚書《ふんしょ》の憂《う》き目《め》にあった時代さえ存在する。所詮《しょせん》は貴族支配に不満を持つ平民が、適当に生み出した御伽噺《おとぎばなし》といわれていた。光る左手にしたって、イーヴァルディの勇者≠ニして伝えられる物語すべてに出てくるわけではない。イーヴァルディは女性のこともあったし、男性のこともあった。神の息子だったときもあったし、妻だったこともあった。ただの人だったこともある。それだけいい加減な物語群なのだ。
ビダーシャルはタバサに『イーヴァルディの勇者』を手渡した。
タバサはおとなしく本を受け取り、母が眠るベッドに腰掛けた。ビダーシャルは頷《うなず》くと、部屋を出て行く。
ベッドに腰掛けて母の顔を眺めていると……、タバサは幼い頃《ころ》を思い出した。母はむずかる自分を寝かしつけるために枕元《まくらもと》で、よくこうやって本を読んでくれたものである。
その頃、一番多く読んでもらったのは、確かこの『イーヴァルディの勇者』ではなかったか?
タバサはゆっくりとページをめくり始めた。
研究の対象には決してなりえないが、『イーヴァルディの勇者』はおもしろい。そのために人気があって広く読まれているのだ。勧善《かんぜん》懲悪《ちょうあく》、単純明快なストーリーは読むものを選ばない。タバサも子供の頃は夢中になって読んだものだ。そのうちに興味は別のものに移り……、開かなくなったが、読書の楽しみを教えてくれたのはこの『イーヴァルディの勇者』であった。
本のページをめくる音が、静かな小部屋に響く。
ページをめくるうちに、タバサは声を出していた。
いつかの母のように。
イーヴァルディはシオメントをはじめとする村のみんなに止められました。村のみんなを苦しめていた領主の娘を助けに、竜の洞窟《どうくつ》へ向かうとイーヴァルディが言ったからです。
ふと母を見ると、いつの間にか目を覚ましていた。呼んでも目覚めなかったのに……。タバサは鏡台に置かれている人形を取ってこようとした。あの人形がないと、母は取り乱すのだ。しかし……、いつもと様子が違うことに気づく。
驚いたような顔で自分を見つめている。いつもなら、『わたしの娘を返して!』と、騒ぎ立てるはずであった。しかし、鏡台の人形には興味を示さず、じっと自分を見つめている。
この『イーヴァルディの勇者』の一節で、わずかに昔を思い出してくれたのかもしれない。諦《あきら》めきったタバサの心の中に、一抹の希望が湧《わ》いた。おそらくは摘み取られてしまう希望だろう。でも、その希望は暗闇《くらやみ》の中の一本のロウソクのように、優しく淡く光る。
タバサは朗読を続けた。
シオメントは、イーヴァルディに尋ねました。
『おお、イーヴァルディよ。そなたはなぜ、竜の住処《すみか》へ赴《おもむ》くのだ? あの娘は、お前をあんなにも苦しめたのだぞ』
イーヴァルディは答えました。
『わからない。なぜなのか、ぼくにもわからない。ただ、ぼくの中にいる何かが、ぐんぐんぼくを引っ張っていくんだ』
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第七章 過去の清算
コルベールたちの作戦はうまくいった。
予想通り、王宮の追っ手は逃げ出した才人《さいと》たちが『オストラント』号に乗り込んだものとばかり思い込んだのである。
竜騎士たちが全力で飛び上がった頃《ころ》には、『オストラント』号は快速を利用してトリステインとゲルマニアの国境を越え、フォン・ツェルプストーの領地へと逃げ込んでいた。
変装した才人たちは、途中の駅で馬を換えながら、一日半駆け通し、国境から十リーグの地点にある宿場町までやってきた。
タバサ救出隊のメンバーは、才人、ルイズ、キュルケにコルベール、そしてギーシュにマリコルヌ、治療する人が必要でしょ、と言ってついてきたモンモランシーの計七人。多すぎても目立つし、水精霊騎士隊《オンディーヌ》の残りは囮《おとり》として『オストラント』号に乗り込んでいた。タバサの義理の妹というイルククゥは怪我《けが》をしているために、学院に残ることになった。
この先はいよいよ国境である。
国境を越えるための作戦は、すでになされている。上空からついてきているシルフィードに跨《またが》り、夜陰に乗じてガリアに空から忍び込むのだ。ここまで馬に乗ってやってきたのは、怪我の癒《い》えていないシルフィードが、七人の重さに長時間は耐えられないためである。
「トリステインより、ガリアのほうが危険は少ないわ」
キュルケはそう言った。確かに、トリステインではいまやお尋ね者だが、ガリアでは無数に存在する密入国者の中の七人である。向こうが何もつかんでいなければの話だが……。
「とにかく腹ごしらえをしようよ。腹が減っちゃ戦はできないからね」
マリコルヌがそう言ったので、一行は一番|流行《はや》っていそうな宿屋へと入った。旅人ばかりの宿客は、テーブルについた才人《さいと》たち一行を気にも留めない。
ガリアに潜入するために、各人は旅芸人に変装していた。
手を挙げて給仕を呼んだマリコルヌは真っ赤な上衣に、半ズボン、尖《とが》った木の靴といった道化姿である。丁寧に目の下を黒く染めている。その似合いっぷりに、才人は噴き出しそうになった。
ギーシュは髪の毛を切って作った付け髭《ひげ》を鼻の下に蓄え、頬《ほお》綿を口に含み、『魅惑の妖精《ようせい》』亭にあった商人服に身を包んでいる。そうすると立派な酒売りになった。
キュルケは、東方の踊り子の服に着替えている。額に宝石のついたサークレットをはめると、どこに出しても恥ずかしくない看板ダンサーができあがった。
モンモランシーも同じように露出度の高い踊り子衣装を着込んだ。もじもじ恥ずかしそうにしているので、ちょっと怪しいがなかなかのものである。
ルイズの身体《からだ》に合う踊り子衣装はなかったので、地味な村娘の格好をさせられた。草色のワンピースに身を包み、目立つ桃色の髪は茶色に染められ、頭巾《ずきん》を被《かぶ》っている。そうすると、一座付きの下働きに見えた。
コルベールは僧服を羽織っていた。同行する説法師というわけだ。
才人は羽根のついた帽子を被り、脚絆《きゃはん》を巻き、普通にデルフリンガーを背負っている。剣舞をする役者といったところか。
こうして旅芸人の一座ができあがる。衣装が微妙にボロいのが、ガリアで一旗あげようとする風情に見えて効果的だった。
「なんでこんな格好しなくちゃならないのよ」
モンモランシーがわなわなと震えながら言った。
「いつもの格好そのままじゃ、貴族っていってるようなものじゃないか」
ギーシュがとりなすように言った。
「他《ほか》に格好はなかったの? いやだわ。ジロジロ見られるんだもの」
酔客たちは、胸を隠す布と、大きく膨らんだ腰布を身につけたキュルケとモンモランシーを、好色そうな目でちらちら見つめている。自尊心の高いモンモランシーには、そんな視線が耐えられないのであった。
「っていうか人前でおへそを出すなんて考えられないわよ。なんなのよこれ。下品もいいところじゃないのよぅ……」
「たまにはいいじゃないの。似合ってるわよ」
キュルケが楽しそうな声で言った。
「じろじろ見てもらえないかわいそうな人もいるんだから……」
「なにそれ。わたしのこと言ってるわけ?」
頭巾《ずきん》を巻いた下働き少女のルイズが、キュルケを睨《にら》んだ。
「あんた、随分とのん気なものね。あんたの親友を助けに行くってのに、そのふざけた態度はなんなわけ?」
「じゃあ、あんたみたいに眉間《みけん》にしわ寄せて、難しい顔してれば成功するの? それで成功するんなら、あたしだってそうするわ」
二人はぐぎぎぎぎぎ、と睨みあった。
「喧嘩《けんか》すんなって。仲良くしなきゃ、成功するもんも成功しねえよ」
才人《さいと》が言うと、コルベールも頷《うなず》いた。
「サイトくんの言うとおりだ。我々はチームなんだ。些細《ささい》な齟齬《そご》が、大きな亀裂《きれつ》につながることを各自理解して、行動せねばならない」
ジャンがそう言うならそうするわ! とキュルケが笑みを浮かべて飛びついた。
そんな旅芸人の一座は、今晩ガリアに潜入して、旧オルレアン公邸に向かうのである。
「そこに行けば、本当に何か手がかりがつかめるんだな?」
才人が、厚切りのハムを挟んだパンを齧《かじ》りながらキュルケに聞いた。
「あの子は元王族よ。元王族を拘禁《こうきん》するには、それなりの扱いというものがあるわ。必ずなんらかのかたちで情報は入ってくる。それにお金を使えば、街で得られない情報なんてないのよ」
こういった世事には妙に詳しいキュルケが、ワインを飲みながらにっこりと微笑《ほほえ》む。行き先を調べることには自信があるのだろう。
とりあえず夜までは時間があるので、才人《さいと》たちは宿屋でゆっくりと休むことにした。一日半というもの駆け通しで、疲れきっていたのだった。
一行はベッドが二つある大部屋を借りた。キュルケはさっさとベッドに潜《もぐ》り込むと、コルベールを引っ張り込み、寝息を立て始めた。おすそ分けとばかりに、マリコルヌがその脇《わき》に潜り込む。ギーシュとモンモランシーはもう片方を使った。踊り子姿に興奮したのか、ギーシュはいそいそとモンモランシーに手を伸ばしたが、ぱしんと払いのけられ、恨めしそうに反対側で丸くなった。
ルイズと才人は、壁を背にして座り込む。
窓の外を見ると、日はまだ中天に近い。夕方までは、あと六時間ほど潰《つぶ》さなくてはならない。
「寝ないの?」
ルイズが隣に座った才人に尋ねた。
「ん? 眠くなったら寝るよ。でも、誰《だれ》か見張ってたほうがいいだろ」
才人は、屈託のない顔で言った。
ルイズはずっと気になっていたことを、尋ねるつもりになった。
「どうして、あんたってそう面倒ごとに首を突っ込むわけ? 言ったじゃない。帰る方法探してあげるわよって。それなのに、今度は外国にまで潜入する気? 言っとくけどね、ある意味戦争より危険よ。見つかったら、わたしたち犯罪者よ。名誉もなければ、捕虜《ほりょ》としての権利も認められないのよ」
「そっくりそのままお前にお返しするよ」
「あのねえ、わたしはいいのよ。何度も救ってくれた人間を助ける。それはどっちかというと、貴族としてのわたしの問題なの」
「貴族やめたんだろ?」
「マント脱いだだけで、心は貴族よ。貴族ってのは、心の持ち方よ」
「俺《おれ》だってそうだよ」
「だから、あんたはこっちの世界の人間じゃないじゃない。あんたには、あんたの心の持ち方があるでしょ」
才人は腕を組んで、壁に寄りかかった。
「貴族も平民も心の持ち方もあるもんか。助けてくれたやつを助ける。人間だったら当たり前だろ」
「そうだけど……」
「それだけじゃない。なんていうかさ、誰かのために戦ったり、がんばったりする。大変だけどさ、楽しかったりするんだよね。七万に突っ込んでからこっち、ぼやーっとしてるときなんかに、考えちゃうんだ。俺に何ができるのか? ってね。昔……、日本……、いやこれは俺が生まれた国だけどさ、そこにいたときは、そんなこと考えもしなかった」
才人《さいと》はルイズを横目で見つめた。
「だからいいんだよ。俺はやりたくてやってるんだ。義務感とか、そういうんじゃない」
ルイズは考え込んだ。
いつかデルフリンガーが言っていた言葉を思い出す。
『主人の詠唱を聞いて勇気がみなぎるのは、赤んぼの笑い声を聞いて母親が顔をほころばすのと理屈はいっしょさ。そういう風にできてんのさ』
今の才人の誰《だれ》かのために何かしたい≠チていう気持ちも、ガンダールヴとして後天的に与えられたものだとしたら?
自分が与えた左手の紋章は、才人を才人じゃないものに変えてしまったのかもしれない。
そして、もう一つの疑念。
先だってのシエスタの言葉が蘇《よみがえ》る。
『それって使い魔として与えられた気持ちなんじゃないですか?』
お城の牢《ろう》で、不安に感じたこと……。
危険に飛び込む勇気だけでなく、才人が言う自分に対する好き≠焜Kンダールヴとして与えられたものだとしたら?
二つの疑問はふくらみ、ルイズを押しつぶしそうになった。そんな感情で好き≠セなんて言われたくない。でも、才人はちっとも悪くない。全部自分の責任なのだ。
ルイズが黙って膝《ひざ》を抱えてしまったので、才人は心配になった。
「どうした? いきなり黙っちまって」
「なんでもない」
「お城でもそうだったじゃねえか。なんだよ。俺、なんか気に障ること言ったか?」
「ううん……、ただあんたが勇気を見せるたびに、わたしは不安になるんだわって」
ルイズは目をつむると、才人に寄りかかった。才人はその肩を抱いてやった。
自分の肩にかけられた手を見ながら、ぽつりとルイズはつぶやいた。
「嘘《うそ》と本当って、どうやって見分けるのかしら……」
「なんか言ったか?」
ルイズは首を振った。
「……なんでもない。夜まで寝ましょう」
揺さぶられて才人は目を覚ました。見ると、キュルケが目の前にいた。
「時間よ」
目をこすると、いつしか夜になっている。才人は緊張した。いよいよ、今からガリアへ侵入するのだ。周りの皆も、大なり小なり才人と同じ気持ちらしい。
道化姿のマリコルヌが、顔をぴちゃぴちゃ叩《たた》いている。
「何をしてるんだ?」
「き、気合を入れてるんだ」
ギーシュはモンモランシーの肩を引き寄せると、夜空を指差した。
「もしぼくが救出に失敗してあんな風に輝く星になってしまったら……」
「立派なお葬式を出してあげる」
それからモンモランシーは、一同を見回して言った。
「あんたたちが心配だから一応くっついていってあげるけど、危ないことはしないでよ。絶対だからね。言っとくけど、ほんとは荒っぽいこと、だいっ嫌いなんだから」
「大丈夫だよ! 命に代えてもぼくはきみを守ってみせる!」
そう言って胸を叩くギーシュを、モンモランシーは疑わしい目で見つめた。
「あんたが一番当てにならないのよ。まったくもう、なんだかイヤな予感がするったらないわ。人生って、とにかくなんでも、それを望まない人の元へ優先的に届けるんだから」
モンモランシーはぶつくさ言いながら、杖《つえ》を踊り子衣装の隙間《すきま》に差し込む。
そんなモンモランシーの予感は、十秒で当たった。
一階に下りた一行は、なんだか様子がおかしいことに気づいた。誰《だれ》もいないのである。明かりは消され、扉は閉まっている。
宿は大体、一階が酒場になっている。この宿屋も例外じゃない。書き入れどきの時間ではないか。通常なら閉まっているなど考えられない。
一同は顔を見合わせる。扉を指差して、キュルケがギーシュに顎《あご》をしゃくった。ギーシュは首を振ると、マリコルヌを見つめる。マリコルヌは丁重に一礼すると、才人《さいと》を指差した。
「俺《おれ》?」
才人が言うと、全員が頷《うなず》いた。
「すばしっこい」
自分の能力をちょっと恨みながら、才人は扉をあけた。ぎぃ〜〜〜、と音を立てて扉が開く。外はもう、闇《やみ》に包まれていた。しかし……、やはり誰もいない。
才人は後ろを振り返って言った。
「……なんだか様子がおかしいな」
その瞬間、一斉に大量のかがり火が灯《とも》った。
かがり火の明かりに照らされて、大勢の兵士が浮かび上がる。
「動くな! 女王陛下の銃士隊だ! 杖を捨てて、おとなしく投降しろ!」
果たして、兵士の真ん中に立っていたのは、物々しい戦支度に身を包んだ銃士隊隊長アニエスその人であった。
どうやら宿場町の客を避難させ、包囲網をこっそり作っていたらしい。さすがは裏の仕事に慣れた銃士隊ならではの手際のよさである。
「アニエスさん! 俺《おれ》です! お願いだから行かせてください!」
才人《さいと》はそう叫んだ。しかし、かがり火に照らされるアニエスの顔には、アルビオンで見た人懐っこい部分はどこにもない。
鉄のような軍人の顔を崩さずに、冷たく言い放った。
「お前たちを行かせるわけにはいかぬ。陛下の命令だ」
キュルケが首を突き出して、のん気な声で言った。
「あらら。すごいじゃない。どうしてわたしたちが陸路で国境を越えるってわかったの?」
「あのフネが頭とするならば、こちら側は背中だ。お前たちメイジと戦ううちに、背中から殴る癖がついてしまってね」
あんな囮《おとり》にはかからぬ、と言いたげな態度で、アニエスは言った。
アニエスは両手を上げた。銃士たちが一斉に銃を構える。
「お願いです! 友達が困ってるんだ! アニエスさんだって、仲間が捕まってたら助けるでしょう?」
「この前は助けてくれたじゃない!」
ルイズも叫んだ。しかし、アニエスは首を振る。
「言っただろう? わたしは陛下の剣に過ぎぬ。お前たちの気持ちがわからぬではないが、命令は命令なのでな。いいから杖《つえ》を捨てろ。わたしとて、お前たちと争いたくはない」
取り付く島はどこにもないようだった。銃で狙《ねら》いをつけられている以上、シルフィードを降ろすことはできない。乗っている間に、蜂《はち》の巣にされてしまう。反撃も論外だった。タバサを助けるために、銃士隊を傷つけるわけにはいかない。
万事休すだった。
「銃兵ごとき、全部焼き払ってあげるわよ」
あっさりとキュルケが言った。才人は首を振る。
「ダメだ」
「ぼくの風魔法で、銃を取り落としてみせようか?」
「なんならぼくの土魔法で、足首をつかんで動かなくさせてやる」
ギーシュとマリコルヌが言った。モンモランシーが、そんな二人を諫《いさ》める。
「やめといたほうがいいわよ。相手が何人いるかわからない。たぶん、見えてるだけで全部じゃないわ」
「ミス・モンモランシの意見に賛成だな。おそらく家々の隙間《すきま》や路地の暗がりにも、兵を配置して包囲しているだろう」
コルベールが頷《うなず》きながら言った。
「先生……」
小さな声で、コルベールは一同に指示した。
「私が炎の魔法で、壁を作る。その隙《すき》にきみたちは風竜で行きなさい」
「はい?」
「ジャンってば、何を言うの?」
しかしコルベールは真顔である。
「アニエス殿は、私を見れば動揺する。わずかだが時間が稼げるはずだ」
キュルケの顔色が変わった。
「ジャン! いけないわ!」
真顔になったキュルケに一同は驚く。コルベールとアニエスの確執を、キュルケ以外は知らないのだ。
そんなキュルケを諭すような声でコルベールは言った。
「こうするしかないんだ」
「あたしが残るわ。あの銃士隊の隊長さんに、よおく言い聞かせてあげる」
「ミス・タバサのお屋敷はきみしか知らんのじゃないかね? きみたちはガリアに向かい、なんとしてでも彼女を助けなさい」
そう言われ、キュルケは何も言えなくなってしまった。苦渋の表情で頷《うなず》いた。
「ちょっと先生! よくわかんないけど、先生を置いていけませんよ!」
才人《さいと》も怒鳴る。コルベールは首を振る。
「いいからここは私に任せて行きたまえ」
コルベールは才人を押しのけ、宿屋の扉の前に出た。
アニエスの顔が一瞬|呆《ほう》けたようになった。その隙《すき》を逃さず、コルベールは口笛を吹いた。上空から待ってましたとシルフィードが降りてくる。
シルフィードの着地と同時に、コルベールは|炎 壁《ファイヤー・ウォール》≠フ呪文《じゅもん》を唱えた。
地面から幾筋もの炎が立ち上り、シルフィードとアニエスの間に壁を作る。
「先生!」
「ほら、行くわよ!」
怒鳴る才人の腕を、キュルケが引っ張った。先に跨《またが》っていたマリコルヌが、才人に風の魔法をかけ、シルフィードに跨らせる。続いてキュルケが飛び乗った。
「行って! シルフィード!」
きゅい! と一声鳴いて、シルフィードは飛び上がる。あっという間に、コルベールやアニエスをはじめとする銃士隊の面々が小さくなった。
才人はせつなげな声で言った。
「まったく、アニエスさんも融通がきかねえなあ。大丈夫かな……、先生」
ふとキュルケを見て、才人は息をのんだ。どんなときでも飄々《ひょうひょう》とした態度を崩さないキュルケが、唇を強く噛《か》み締めて火のような怒りを浮かべているのだ。
「キュルケ……」
ルイズが心配そうな顔で声をかけても、キュルケは返事すらしない。
「……あの女。あたしのジャンに指一本でも触れてごらんなさい。髪の毛の一本まで灰にしてやるから」
上昇するシルフィードに気づき、アニエスは我に返った。ついで咄嗟《とっさ》に出たのは、射撃命令であった。
「撃て!」
銃を構えていた銃士たちは、一斉に引き金を絞る。
夜空に、射撃音が鳴り響く。
しかし……、すでにシルフィードは高く上昇していて、弾は届かない。黒色火薬の発射煙がもうもうと立ち込める中、アニエスははっと気づく。
自分は、友人たちを撃ったのだ。
剣を教えた生徒を撃ったのだ。
捕まえろ≠ニ、命令されてはいたが……、もちろん殺すつもりなどない。本気で撃つつもりもなかった。でも、自分は咄嗟に射撃命令を下した……。
しかたない、とアニエスは首を振る。自分は軍人なのだ。命令を忠実に実行することが、存在に意義を与えてくれるのだ。
それより……、こっちだ。
アニエスにとって、任務より大事なことが一つだけ存在する。
復讐《ふくしゅう》だ。
アニエスは憎々しげにコルベールを睨《にら》んだ。
「生きていたのか。神に感謝する。貴様が死んだとばかり思っていたから、私は生きる意味を失いかけていた。さあ、正々堂々、決着をつけようじゃないか。杖《つえ》を抜け」
アニエスは、すらりと剣を抜き放つ。
しかし、コルベールは杖を構えない。ぽいっと地面に捨てると、座り込んだ。
「どうした! 杖を取れ!」
「私を殺したまえ。貴官にはその権利がある」
「なんだと?」
アニエスは唇をゆがめた。
「貴官は私の生徒を撃ったが、私は貴官を憎まない。それが軍人だと理解しているからだ。先ほど、アニエス殿は言われたな? わたしは陛下の剣だ≠ニ。私もそうだった。私も、王国の杖≠セったのだ。私は焼き尽くせ≠ニ言われたら、忠実にそれを実行した。それが正しい貴族の在り方だと、ずっと思っていた」
「黙れ!」
「でも、貴官の村を……、いや、罪なき人々を焼き払ったとき、それが間違いだと知った。私は王国の杖≠ナある前に、一人の人間なのだ。どのような理由があろうと、罪なき人々を焼いていいわけがない。命令だろうとなんだろうと、それは赦《ゆる》されることではないのだ」
「だから杖《つえ》を拾えと言っている!」
「私は、研究に打ち込んだ。一人でも多くの人間を幸せにすることが、私にできる贖罪《しょくざい》と考えた。いや……、贖罪などとは傲慢《ごうまん》だな。これは義務≠ネのだ。私にとって、生きて世の人々に尽くすことは義務≠ネのだ。私には死≠選ぶことすら、赦《ゆる》されないのだ」
「貴様は、生きて世に尽くせば、罪が消えるとでも思っているのか? 貴様が世に尽くすことで、私の家族の、友人の無念が晴れるとでもいうのか?」
「晴れぬ。晴れるわけがない。罪は消えぬ。いつまでも消えぬ。この身が滅んでも、罪は消えぬ。罪とは、そういったものだ。私はだから、貴官に私の死を委《ゆだ》ねる。私にとっては、死を選ぶことすら傲慢だが……、唯一、私の死を決定できる人物がいる。貴官だ。あの村の唯一の生き残りである貴官だけが、私を彼らの慰めのために殺す権利を持っているのだ」
アニエスは目をつむった。
それから、かっ! と見開き、大股《おおまた》でコルベールに近づく。コルベールは、じっと目を開いたまま、まっすぐ前を見つめていた。
アニエスが剣を振り上げても、コルベールは目をつむらなかった。
剣が一閃《いっせん》した。
しかし……、血しぶきは舞い上がらない。アニエスの剣が裂いたものは、コルベールが羽織った僧服であった。首の後ろが切られ、首筋が覗《のぞ》いていた。
そこに引き攣《つ》れたような火傷《やけど》のあとが覗いていた。
アニエスの記憶が、二十年前へと遡《さかのぼ》る……。
燃え盛る村の中……、自分は誰《だれ》かに背負われていた。
引き攣《つ》れた火傷《やけど》のあとが目立つ醜い首筋を持った男であった。
気づくと自分は浜辺で毛布に包まれて寝ていた。
その男は、自分の命を救ったのである。気まぐれなのか? 罪の意識からだろうか? 今となってはわからない。
ただわかるのは……、自分の村を焼き、そして自分を救ったのが、目の前の男ということだけであった。皮肉なものだ、とアニエスはつぶやいた。
自分を救った理由を尋ねる気にはなれない。
今となっては、どうでもいいことだ。
剣を鞘《さや》にしまいながら、アニエスは低い声で告げた。
「百二十九人だ。覚えておけ。貴様はその十倍、いや、百倍の人間に尽くせ」
コルベールは悲しげに首を振った。
「百三十一人だ」
「なんだと?」
「妊婦の方が二人いた」
アニエスは空を仰いだ。
二つの月は雲に隠れて見えない。深い闇《やみ》だけが、空を覆っていた。
「私はお前を決して赦《ゆる》さぬ。幾たび生まれ変わっても、お前を呪《のろ》う。だが……、復讐《ふくしゅう》は鎖だ。どこかで誰かが断ち切らねば、永遠に伸び続ける鎖だ。私がお前を殺せば、お前の生徒たちは私を恨むだろう。決して私を赦さぬであろう。ジャン・コルベール。だからお前の生徒たちに感謝しろ。私は今日この剣で、その鎖を断ち切ったのだから」
アニエスはコルベールに顎《あご》をしゃくった。
「来い。せめてお前を連れて帰らねば、私の立場がない」
コルベールは立ち上がり、深々とアニエスに頭を下げた。二人はしばらくそのまま動かなかった。銃士隊の隊員たちも、じっとそこに立ち尽くしていた。
しばらくしてアニエスは歩き出した。コルベールも歩き出す。
「捕縛せぬのかね」
「貴様が逃げ出すなどとは思っていない」
歩きながら、アニエスは硬い声で言った。
「私は貴様の言うことが理解できる。よい軍人とは、そういうものだ。命令とあらば、からくり人形のように体が反応する。私は先ほど、剣を教えた生徒を撃った。気づいたら、射撃命令を出していた。当たる当たらないは問題ではない。私は生徒を、友人を撃ったのだ。貴様の言うことは、本当はよくわかっていた」
アニエスの目からは涙が溢《あふ》れている。鉄の塊のような、銃士隊の隊長は、人目を憚《はばか》らずに涙を流していた。
「わたしは、貴様の言葉が理解できる自分が赦《ゆる》せぬ」
銃士隊とコルベールは、トリスタニアへ向かうために用意された馬車へと歩いた。
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第八章 旧オルレアン公邸
シルフィードに乗って国境を越え、旧オルレアン公邸に到着したときには、時刻は深夜零時を過ぎていた。
雲の隙間《すきま》から双月が顔を覗《のぞ》かせる。
オルレアン公邸はラグドリアンの湖畔《こはん》から漂う霧と、双月の明かりに照らされ、夜に妖《あや》しく浮かび上がった。
「ここがタバサの実家か……」
才人《さいと》がつぶやく。
ルイズは才人の背中に隠れるようにして、屋敷の様子を窺《うかが》った。
ギーシュは唾《つば》を飲み込み、杖《つえ》にしている薔薇《ばら》の造花を握り締める。
モンモランシーは自分たちを乗せてきたシルフィードの様子を確かめていた。怪我《けが》がまだよく癒えていないシルフィードは、ここまで飛ぶのがやっとだったらしく、荒い息をついている。モンモランシーは、そんなシルフィードに水の魔法をかけてやった。
「大丈夫? シルフィード」
「きゅい」
門から、馬車が通れる幅のアプローチが玄関へと続いている。アプローチの左右は鬱蒼《うっそう》と木が茂り、明かりの消えた屋敷をさらに不気味に演出した。
「じゃあ、慎重に……」
とギーシュが言ったら、キュルケがずんずんと歩き出した。
「お、おいキュルケ! 危ないじゃないか! まずは作戦だよ作戦!」
「敵が出てきてくれれば、それはそれで好都合。というか敵が罠《わな》を張っているなら、作戦なんか立てたって無駄よ」
まっすぐにキュルケは玄関へと向かい、大きな扉を押し開いた。
ぎぃ〜〜〜、と重たい音を立て、扉は開く。
しん、と冷えた静けさが、ホールに漂っている。
「誰《だれ》もいないわね」
一行はそれぞれ得物を構えながら、慎重に屋敷の中を探っていった。廊下を歩きながら、ギーシュが壁についた傷に気づく。
「ここで戦ったみたいだな」
見ると、壊れたガーゴイルが転がっている。キュルケが近づき、剣士の姿をかたどった魔法像《ガーゴイル》を確かめる。
「どうしたの?」
ルイズが尋ねると、キュルケは鼻を鳴らした。
「あの子の風魔法……、いつもの威力じゃないわね」
「どういうこと?」
「この破壊力、トライアングルのそれじゃない。スクウェア・クラスの威力よ」
ルイズと才人《さいと》が、キュルケが指差したガーゴイルを覗《のぞ》き込む。すっぱりとガーゴイルは風の刃《やいば》か何かで両断されていた。それがスクウェア・クラスと言われても、ルイズにはわからなかった。
才人にも、『切れ味がすごい』ぐらいにしか思えなかったが、キュルケがお墨付きを与えるぐらいだから、相当な威力なんだろう。
破壊されたガーゴイルが、タバサの足跡であった。
奥まったところに、一つの部屋があった。
扉を開いて一行は中に入る。
そこは惨状を呈していた。
嵐でも発生したかのように、部屋の中はめちゃくちゃになっている。元はベッドだった家具が切り裂かれ、羽毛と木と布との細かい破片となって、部屋の中に散らばっている。壁には無数の切り傷がついていた。
入り口の向かい側の壁が、窓ごと吹っ飛んで外が見えている。
キュルケは慎重に床を調べ始めた。
床のある一点を指差して、一同を集める。
「ここ見て。床のこの地点で、タバサは竜巻状の魔法を唱えたみたいよ」
なるほど、その一点を中心にして、床に渦巻き型の傷が壁際までついている。
「うわ……、もしかしてこの部屋の惨状は……」
ギーシュが、荒れ果てた部屋を見つめて言った。
「そうね。その魔法でつけられたようね。というか、その魔法のみ≠ナね」
ごくりと、ギーシュとマリコルヌは唾《つば》を飲み込む。その魔法の威力を想像したのだった。キュルケが楽しげな声でつぶやく。
「こんだけ強力な魔法をぶっ放しといて、あの子負けたの? いったいどんな相手よ。それって……」
いつの間にか、壁の穴からシルフィードが顔を出している。その壁の穴は、シルフィードの大きさとほぼ同じだった。
「その穴、あなたが空けたの? シルフィード」
きゅい、とシルフィードは頷《うなず》く。
「タバサの相手はなんだったの?」
シルフィードは、前足を伸ばして頭の上に突き出す。その仕草で、とある単語に気づいたキュルケがつぶやいた。
「エルフ?」
大きく、シルフィードは頷いた。
一同は息をのんだ。
「エルフー」ギーシュが目を丸くして、わなわなと震えた。
「相手が悪いよ!」マリコルヌが叫んだ。
「冗談じゃないわよ! エルフなんて!」
さすがのキュルケも唇を噛《か》んだ。ルイズも肘《ひじ》を抱えて悩みだす。
「おいおい、エルフってそんなにやばいのか? お前たち、いっつもエルフエルフ騒いでるけど……」
エルフといえば才人《さいと》はティファニアしか知らない。言うほど危険とは思えないのだが……。
「あんたの剣に聞いてみなさいよ。いかにエルフが強力な相手だか、教えてくれるでしょうから」
才人はデルフリンガーを抜き放つ。
「なあデルフ」
「もう。俺《おれ》に話しかけるの、こういうときだけじゃねーか」
不機嫌な声で、デルフリンガーが答えた。
「そう言うなよ。なんかみんなエルフってだけで怯《おび》えてるけど……。ほんとにそんなに怖いの?」
「怖いよ」
あっさりとデルフリンガーは答えた。
「そ、そうなんか……」
「エルフが相手じゃ、スクウェア・メイジでも分が悪いわね」
モンモランシーが、困った顔でつぶやく。
「そんなに! マジで!?」
「強力なのは、その扱う魔法なの。先住魔法=B直接見たことはないけれど、杖《つえ》も持たずに唱えられるらしいわ。エルフはその先住魔法をどんな種族よりもうまく扱うといわれているのよ」
「なあデルフ。その先住の魔法ってなんだ? あれだろ、水の精霊が使うって言ってたやつだろ? それにお前も、その先住のなんやらで動いてるとかなんとか言ってなかったか?」
「まあね。先住魔法ってのは、系統魔法が生まれるずっと前から存在する、生の力≠司《つかさど》る魔法さ。お前さんたちメイジが唱える系統魔法は、個人の意思の力で大なり小なりの理《ことわり》≠変えることで効果を発揮させるが……、先住魔法は理≠ノ沿う」
「もっとわかりやすく言ってくれよ」
「要は、どこにでも存在している自然の力を利用するんだ。生命力、風、火、水……、ありとあらゆる力をね。人の意思と、自然の力、どっちが強いのか、想像してみな」
「じゃあ、タバサをとっ捕まえたエルフは、どんだけ強力な先住魔法を操ったっていうんだよ。その強力さ具合を教えてくれよ」
「俺より、もしかしたらそこの風竜のほうが詳しそうだな」
「シルフィードが?」
「なあ。いつまでとぼけてるんだ? 韻竜《いんりゅう》よ」
「いんりゅう?」
一同はきょとんとした。真面目《まじめ》に勉強をしていたルイズとモンモランシーだけが、はっ! とした顔になった。
「まさか……、だって、韻竜はずっと昔に絶滅したはずじゃ……」
「そこにいるんだから絶滅なんかしてねぇんだろうさ」
「なあシルフィード。俺、よくわかんないけど、お前ってその、韻竜なの? それなに?」
シルフィードは、つぶらな瞳《ひとみ》で才人《さいと》を見つめた。それから困ったように、きゅいきゅい鳴きながら首を左右に振り始めた。
「違うってよ」
「なあ韻竜よ。おそらく主人から、『正体を明かすな』とでも言われてるんだろうが……、今はそんなことを言ってる場合じゃねえようだぜ? お前の大事な主人がとっ捕まってるんだ。いわば非常事態ってやつだよ。こいつらに、お前の一番やりやすい方法で先住魔法≠フ恐ろしさを見せつけてやりな」
シルフィードは困ったように、首を激しく左右に振り始めた。
「きゅいきゅい! きゅいきゅい!」
それから観念したように目をつむると、かぱっと口を開いた。目の前にいた才人《さいと》は慌てて後ろに飛びのいた。
「な、なんだよ! 俺《おれ》を食う気か!?」
シルフィードがやけくそに近いような声で、鳴き声とは違うものを喉《のど》から搾《しぼ》り出した。
「食べないのね! きゅい!」
デルフリンガーを除く、その場にいた全員が口をあんぐりとあけた。マリコルヌが、直立不動で怒鳴った。
「竜が! 竜がしゃべったぁああああああああ!」
「しゃべったら悪いの? ああもう! お姉さまがしゃべるなって言うから我慢してたのに! そこの剣おしゃべりなのね! きゅいきゅい!」
シルフィードはそれから、悲しげな声で泣き喚《わめ》いた。
「ああ! お姉さまとの約束やぶっちゃった! 絶対しゃべっちゃダメって約束してたのに! きゅ〜〜い! きゅ〜〜〜い!」
ギーシュとマリコルヌは、散々におろおろわめいたが、多少、韻竜《いんりゅう》に関する知識を持っていたルイズとモンモランシー、そしてキュルケは割と冷静だった。才人もびっくりしたが、竜がしゃべるぐらいでなんだ、と冷ややかに対応する。
水の塊だって、フクロウだってしゃべる。今さら竜がしゃべるぐらいでは驚かない才人である。
「韻竜ってなんだ?」ルイズに尋ねると、
「伝説の古代竜よ。知能が高く、言語感覚に優れ、先住魔法を操る……、強力な幻獣よ」
「へえ、お前、そんなすごいやつだったのか」
才人はシルフィードの鼻面を撫《な》でた。嬉《うれ》しそうに、きゅい、とシルフィードは鳴いた。
「なあ韻竜。先住魔法のすごさを、軽くこいつらに見せてやれよ」
デルフリンガーがいたずらっぽい声で、シルフィードに告げる。
「先住≠ネんて言い方はしないのね。精霊の力と言って欲しいのね。わたしたちはそれをちょっと借りてるだけなのね」
「じゃあその精霊の力とやらを、軽く見せてやりな」
シルフィードは、ハウ、とため息をつくと、呪文《じゅもん》を唱え始めた。ルーンじゃない、口語の呪文が牙《きば》の間から漏れる。
「我をまとう風よ。我の姿を変えよ」
風がシルフィードの体にまとわりつき、青い渦となる。
一同はあっけにとられて、シルフィードを見つめる。青い渦は光り輝いたかと思うと、一瞬にして消えた。
すると……、その場にあったはずのシルフィードの姿は掻《か》き消え、代わりに二十歳ほどの若い女性が現れた。長い青い髪の麗人である。
というかその姿は……。
「お前、あのイルククゥじゃねえか!」
「うっわ! きみはシルフィードが化けた姿だったのか!」
才人《さいと》とギーシュが驚いてのけぞる。タバサの義理の妹、と名乗り、才人たちの前に現れた女性そのものであった。
「まあ、ざっとこんな感じなのね。精霊の力を借りれば、お前たちの姿をとることも、お茶のこさいさいなのね」
見事に……、人間の姿になっている。さすがに服までは変化できないので、生まれたままの姿である。
生まれたままの姿。
はだか。
ルイズは才人をきっ! と見やった。こないだは小屋の天井を破って落ちてきた≠フで、じっくりと鑑賞する心の余裕がなかったのだろう。
しかし今は相手がシルフィードとわかってしまった。こうなっては遠慮はいらないのだろう。才人たち男連中は頬《ほお》を染めて、シルフィードの肢体に見入っている。
ギーシュが、胸の大きさを表すように、自分の胸の前で両手をお椀《わん》型に動かした。
才人は首を振り、ギーシュのそれより大きい直径のお椀を描く。
会議に加わったマリコルヌが、うん、と大きく頷《うなず》いた瞬間、ルイズのハイキックが才人の後頭部を直撃した。才人が崩れ落ちると同時に、モンモランシーの水魔法が完成して、ギーシュを水責めにした。
ルイズは野暮ったい草色のワンピースの上に羽織ったコートを、シルフィードに放った。
「これ着てなさい」
「え〜〜〜、ごわごわするからやだ。きゅい」
「きゅいじゃないのよ。着るの」
鬼のような目で、ルイズに睨《にら》まれ、シルフィードはしぶしぶコートを身に着ける。ルイズサイズで小さいので、ぴちぴちになってしまう。結果、胸のかたちがよくわかる。床に倒れた才人が、こっそりシルフィードを見つめているのに気づき、ルイズは後ろから才人の股間《こかん》を蹴《け》り上げた。
ひぐ、と喚《わめ》いて才人は床に転がる。ルイズはその背中にどすんと腰掛けた。
「先住魔法≠ェいかにすごいのかってのはわかったわ」
モンモランシーも頷く。
「そうね。あれだけ大きな体が、こんなに小さな姿になっちゃうなんて。しかも、どこからどう見ても立派な人間じゃないの。たいしたもんだわ。こんなの、どんな強力な水の使い手にだって無理よ」
得意げにシルフィードはきゅいきゅいと喚いた。
正体を現し、しゃべり始めたことでシルフィードと意思の疎通は図りやすくなったが……、シルフィードも詳しいことまでは知らなかった。
「だからしゃべらなくても事足りると思ってたのね」
とにかくシルフィードの説明はこうだった。
この部屋にエルフがいた。
タバサがとてもすごい雪の嵐の魔法を唱えた(壁や床の傷はそのときのもの)。
エルフはめちゃくちゃ余裕の態度で、避《よ》けるそぶりすら見せなかった。
驚くべきことが起こった。エルフを包みそうになった瞬間、嵐は反転して、タバサを襲ったのだ。タバサは自分の魔法で倒れた。
シルフィ怒って壁を突き破って襲いかかったけどあっけなくやられた。
どうしてやられたんだかよくわからない。
「なのね」
シルフィードは、どうだと言わんばかりに胸をそらす。拙《つたな》い伝聞であったが、まあ、なんとか様子は理解できた。
「というか先住魔法を使ったのかどうかすら怪しいわね」
ルイズがそう評したらキュルケも頷《うなず》く。
「あなたにしちゃ、いい分析だわ」
「どーゆー意味よ」
じろっと睨《にら》むルイズに、キュルケは床や壁を指差して言った。
「タバサの魔法以外、ここで攻撃魔法は使われてないわ。いったい全体、エルフはどんな先住魔法を使ったのかしら。ほんとうにそれは使われたのかしら」
その場の全員は、押し黙ってしまった。わけのわからない恐怖に、押しつぶされそうになったのだ。
未知の魔法を使う、未知の敵……。
アルビオン軍なんかとはわけが違う種類の恐ろしさ。
敵がメイジなら、対策の立てようもある。
相手が軍隊なら、交渉する余地もある。
でも……、エルフは違う。
噂《うわさ》や伝説が一人歩きするばかりで、トリステイン人の誰《だれ》もが、実際に相見《あいまみ》えたことは、この数百年というものなかったのだった。
「で、タバサはどこに連れていかれたんだろう。あいつがどうやって戦って、負けて、捕まったのかはわかったけど、行き場所の手がかりを見つけなきゃ、話にならんだろとにかく、その手がかりを探そうぜ」
才人《さいと》がそう言って、部屋を出ようとしても、キュルケ以外は動かない。
「なんだよお前ら。怖くなったんじゃないだろうな?」
「エ、エルフは……、なんていうか、その、実際問題としてすごくまずいと思うんだ」
ギーシュが、首をかしげながらつぶやく。
「あいつらは、捕らえた人間を食べるっていうぜ。情け容赦なく、女子供まで殺したりするって話だ。残酷なだけじゃなく、恐ろしく強いんだ。わずか十人で小国を一晩で滅ぼしたこともあるらしい」
「なんだよ! もう! ここまで来て怖気《おじけ》づくやつがいるかよ! なんのためにガリアまで来たっていうんだ? タバサを助けるためじゃねえか! ここまで苦労してやってきた甲斐《かい》がねえだろ? 先生だって、囮《おとり》になって俺《おれ》たちを行かせてくれたんじゃねえか」
それでもギーシュとマリコルヌ、そしてモンモランシーは動かない。なんだか困ったように、もじもじとするばかり。
そのときである。
廊下に通じる扉の隙間《すきま》に、一瞬影が映った。
素早く才人《さいと》はデルフリンガーを握り、構えた。次にキュルケが、遠慮なしに魔法をぶっ放す。
大きな炎の玉が、扉に当たり、派手に燃え上がった。
「おやめくだされ! おやめくだされ!」
廊下にいた人物の悲鳴が聞こえてくる。聞き覚えがあるのか、キュルケが目を丸くした。
「ペルスラン! ペルスランじゃないの!」
「おやおや、そのお声はツェルプストーさま!」
恐る恐ると、顔を覗《のぞ》かせたのは、オルレアン公屋敷の老執事、ペルスランであった。彼はキュルケを見ると、おいおいと泣き始める。
「再びお会いできてうれしゅうございます」
「いったい、何があったの?」
キュルケが尋ねると、泣く泣くペルスランは語り始めた。
「あのろくでなしの王軍がやってきたのは、三日前の夜のことでございます。ああ、私は臆病者《おくびょうもの》でございます。杖《つえ》を持った将校や、恐ろしげな槍《やり》を持った兵隊を見るなり、急に怖くなり、奥さまをお守りすることも忘れ、壁の向こうにありまする隠し小部屋に隠れてしまったのです。王軍が引き上げたあとも、私は怖くて小部屋から出られませんでした。部屋にはあの恐ろしいエルフがいたからでございます」
奥さまとはタバサの母親のことだと、キュルケは一同に説明した。
「王軍の連中は、奥さまを怪しげな魔法で眠らせ、引っ張っていってしまいました。私は怖くてずっと小部屋に隠れておりました。その翌日にシャルロットさまがやってきて、エルフと対決されたのです。ああ! あのときのシャルロットさまの魔法ときたら! 私はこのオルレアン家にお仕えして数十年になりますが、もう、見たことも聞いたこともないような威力でございました! 壁の向こうに隠れた私まで、冷たさで凍えるようでありました! その風の強さときたら、お屋敷ごと吹き飛んでしまうようでありましたよ! しかしながらあのエルフは、シャルロットさまのそんな恐ろしい魔法を受けきったばかりか……」
「わかってるわ。で、そのエルフがタバサを連れていったのね?」
「はい。間違いございません。風竜をも倒してしまい、シャルロットさまを両手に抱きかかえるようにして連れていきました。ああこの老骨も魔法が使えたら! いや、せめて剣を握れる年であったなら! むざむざと奥さまとお嬢さまを王軍などに引き渡しはしなかったものを!」
「タバサを連れていった先はわかる?」
ペルスランは首を振った。
「それは、わかりませぬ……」
「そっか、残念ね」
キュルケと才人《さいと》は肩を落とした。
「参ったな。やっぱり足で捜すしかねえか」
「リュティスに赴《おもむ》いて、情報屋を片っ端から当たりましょう」
そんな相談をする二人に、ペルスランは言った。
「ですが、奥さまを連行した先なら知っております」
「ふぇ??」
「奥さまを連れ去った兵隊が、仲間とこう話しておりました。『アーハンブラ城まで運ぶのか。まったく、反対側じゃねえか』と」
キュルケはにっこりと満面の笑みを浮かべて、ペルスランの手を握った。
「ツェルプストーさま?」
「大手柄だわ! 恥じることはないわ、あなたはどんな騎士にも真似《まね》できない、大きな戦果をもたらしてくれたのよ」
「ですが……、シャルロットさまの居所までは……」
「同じよ。別にする理由がないわ」
「アーハンブラ城ってどこだ?」
「ガリア王国の東の端にある城よ。有名な古戦場じゃないの」
「昔、幾度となくエルフとやりあった土地じゃないか。聖地解放軍に参加したぼくのご先祖は、そこでエルフにやられたんだ」
ギーシュが震える声で言った。続けてマリコルヌが同じような声で、
「ぼくのご先祖も、最後の聖地回復連合軍に参加して、エルフに散々負けて逃げ帰ってきたよ。で、そのご先祖はこうぼくたちに言い残した。『ハルケギニア中の貴族を敵に回しても、エルフだけは敵に回すな』とね」
モンモランシーも眉間《みけん》にしわを寄せて、語り始めた。
「まぁ、ハルケギニアの貴族が、エルフと戦争して勝ったことは何度かあるけど……。代表的なのはトゥールの戦いね。ガリア・トリステイン連合軍が、エルフ軍とサハラ$シ部で激突して、勝利したの。でも、そのとき連合軍は七千……」
「エルフはたった二千じゃなかったか?」
「ほんとうは五百らしい。あまりにも格好がつかないんで、報告では数倍になったのさ」
マリコルヌの発言を、ギーシュが訂正した。
「つまりエルフに勝利するには十倍以上の兵力が必要ということだ」
呆《あき》れた声で、キュルケが言った。
「別にあたしたちがエルフと対峙《たいじ》するって決まったわけじゃないでしょう?」
「そうだ。キュルケの言うとおりだ。居場所もわかったんだ。俺《おれ》は行くぜ」
歩き出した才人《さいと》とキュルケを、四人はじっと見つめていたが……、しかたなく追いかけた。シルフィードも嬉《うれ》しそうにきゅいきゅい喚《わめ》きながらあとを追う。
ペルスランが、そんな一同に深々と頭《こうべ》を垂れた。
「お願いします! 皆様方! なにとぞ奥さまと、お嬢さまをお救いくださいますよう!」
任せといて、と、キュルケが手を振った。
ルイズは、あっさりと歩き出した才人を、不安げに見つめた。
キュルケが向かうのは理解できる。
だって二人は親友じゃない。
でも、才人はそうじゃない。タバサは何度も危機を救ってくれた恩人だけど……。
それなのに才人のあの勇気……。
あれだけエルフは怖いと言われても、怯《おび》えた様子一つ見せない。
やっぱり、あの勇気はガンダールヴとして……。
才人は振り返った。
「どうしたルイズ。置いてくぞ」
ルイズは首を振り、不安を振り払い、才人を追いかけた。
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第九章 アーハンブラ城
もともとアーハンブラ城は、砂漠の小高い丘の上に、エルフが建築した城砦《じょうさい》である。
それを多大なる犠牲を払って、ハルケギニアの聖地回復連合軍が奪取したのは、今を遡《さかのぼ》ること千年近く昔のこと。
聖地回復連合軍は、その先に国境線を制定し、エルフに『ここはわれわれの土地だ』と告げた。結果、そこが国境線になったのであった。
かつて砂漠に暮らすエルフに国境≠ニいう概念はなかった。ただ、人間という生き物が、国境≠決めねばどこまでも貪欲《どんよく》に土地を切り取り我がものにすることを知ったエルフは、その人間たちが引いた線を、国境≠ニしてしぶしぶ認めることにしたのである。
その城砦は、幾度となくエルフの土地に侵攻するための拠点となったため、何度もエルフの攻撃を受けた。そのたびに取ったり取られたりを繰り返し……、数百年前の戦いで、聖地回復連合軍がその主となり、現在に至る。城砦の規模が小さいため、軍事上の拠点からは外され廃城となっていたが……、そのおかげで逆に栄えることになった。
アーハンブラ城が建つ丘の麓《ふもと》はちょっとしたオアシスが広がっている。そのオアシスの周りに小さな宿場街ができ始め……、アーハンブラ城周辺は軍事拠点から、砂漠を旅する旅人が立ち寄るちょっとした交易地になったのだった。
エルフが腕をふるったアーハンブラ城の城壁は見事な出来栄えで、幾何学模様の細かい彫刻に彩られ、夜には双月の明かりを受けて白く光り、砂漠を旅する人々に幻想的な眺めを提供している。
ハルケギニアの人々にとって、そんなアーハンブラ城周辺は、異国情緒あふれる美しい場所であった。
さて、その美しい小さな宿場町の、小さな居酒屋『ヨーゼフ親父の砂漠の扉』亭は、最近アーハンブラ城の噂《うわさ》で持ちきりであった。
王軍の一部隊がやってきて、城に駐屯《ちゅうとん》し始めたからである。
|エルフの土地《サハラ》で陶磁器を買いつけてきた商人が、店の主人にささやくように言った。
「アーハンブラ城に最近やってきた兵隊だが……、なんであいつらが来たか知ってるかい? 親父」
旅から旅へと渡り歩き、ここで居酒屋を構えることになった苦労人の親父は、シチューの味を見ながら首を振る。
「知らんね」
「この辺の連中は、なんだ、宝物でも発掘しに来たんじゃねえか、なんて噂してるようだが……、本当は違うらしいぜ」
「そうかね」
親父は興味のない仕草を崩さない。余計なことに首を突っ込まないのが、長生きする秘訣と知っているのだった。
「なあ。一杯|奢《おご》ってくれたら、その話をしてやってもいいぜ?」
「興味ないね」
タダ酒にありつき損ねて、行商人の男は鼻を鳴らす。そんな男の隣に、砂塵《さじん》よけのフードがついたローブに身を包んだ女が腰掛ける。
「素敵なお話じゃない?」
フードの隙間《すきま》から覗《のぞ》く褐色の肌と赤い唇が、相当の美人を思わせる。行商人はごくりと唾《つば》を飲み込む。
「ご主人。この方に一杯差し上げて?」
男の杯にエールがなみなみと注がれる。
「ありがてえね。ひひ」
「じゃあ聞かせてもらいましょうか」
テーブルに戻ってきたキュルケを、一同は拍手で迎えた。旅芸人衣装の上に、皆してお揃《そろ》いの、砂漠用のローブを羽織っている。
一行がこのアーハンブラにたどり着いたのは、昨晩のこと。
オルレアンの屋敷から、徒歩と街道を行く駅馬車を乗り継ぎ、一週間かかった。トリステインはガリアへ何の警告も発しなかったらしく、旅芸人姿の一行が道行く人々に怪しまれることはなかった。いや、途中何度か警邏《けいら》の騎士には正体を怪しまれたものの、世間をよく知るキュルケの機転で逃れたのである。
「まったくあんたたちってば……、あたしにばっかり聞き込みさせて、どういうつもりよ」
「だって、きみが一番うまいじゃないか。適材適所ってね」
ギーシュがもっともらしく頷《うなず》く。
「すごいな……、次から次へと情報集めちまうんだから」感心した声で、才人《さいと》。
「ほんとどうにかしなさいよね。あんたたち。ったくトリステインの貴族ってば、自尊心ばっかり高くって、噂《うわさ》を集めることすらできないんだから」
モンモランシーは、キュルケのその言葉に恥ずかしそうに顔を伏せたものの、ルイズの目がつりあがる。
「できるわ。わたし、こないだトリスタニアで酒場の給仕までやったじゃない」
「あのバレバレだったやつぅ?」
ルイズは頬《ほお》を膨らます。そういえば、あのときはキュルケに散々な目にあわされたのである。でも、今はそれどころではないので、しかたなく口を閉じた。
「で、何がわかったんだ?」
キュルケから散々奢られて知ってる限りのことを吐き出させられた先ほどの行商人は、酔いつぶれてカウンターに突っ伏して寝ている。
一行は作戦会議の場所を二階の部屋へと移した。人月があるためである。
部屋に入るなり、キュルケは聞いた情報を話し始めた。
「やっぱりここの城で間違いないようだわ」
「というと?」才人《さいと》が促す。
「あの商人が、駐屯《ちゅうとん》している兵隊から聞いたらしいの。自分たちがやってきたのは、連れてきた貴人≠守るためだってね。話によると没落した王族らしいとか。そして肝心なのは、その貴人が親子≠チてことよ」
「つまりタバサとお母さんってわけか」
「そう思っていいんじゃない?」
一同は、真剣な顔になった。
「ただいま」
部屋の扉が開いて、マリコルヌが入ってくる。
「遠見≠フ呪文《じゅもん》を使って、城を調べてきたよ」
風系統のメイジであるマリコルヌは、魔法を使って遠くから城を調べていたのだった。目立つのでシルフィードも使えない。そのシルフィードは、未《いま》だに人の姿に化けたまま、疲れたのかベッドで寝息を立てている。人に化けていると精神力を激しく消耗するらしかった。
マリコルヌは丁寧にスケッチした羊皮紙をテーブルの上に広げる。そこにはアーハンブラ城の見取り図が描かれていた。もちろん建物の内部まではわからないが、中庭と城壁、天守や塔などが、きっちり描かれていた。
「苦労したよ」
「たいしたもんだな……」
ギーシュが賛嘆の声をあげる。
「駐屯してるガリア軍は一個中隊どころじゃないな。二個中隊はいたよ。兵隊が三百人、貴族の将校が十人ちょいってところかな」
かなりの数である。
「なるほど。ありがとう。さてと、得られる限りの情報は集まったわね」
すっかりキュルケがリーダーであった。なるほど、こういった特殊な計画では、プライドが高く正攻法しか知らないトリステイン貴族に出番はない。
「で、どうやってタバサをあの城から救い出すんだ?」
「ぼくたちはほとんどメイジだ。奇襲すれば三百くらいだったらなんとかなるんじゃないか? こっちにはシルフィードや、七万を止めたサイトだっているし……」
ギーシュがそう言ったら、キュルケは首を振る。
「だめよ。そんなドンパチやったらすぐにどこからか援軍が飛んでくるし、タバサに危害が及ぶかもしれない。タバサが別の場所に連れていかれちゃう可能性もあるわ」
「じゃあどうするんだい? 兵隊全員に魔法をかけて眠ってもらうとか?」
「そのとおりよ」
キュルケはいたずらっぽく微笑《ほほえ》んだ。
「そんなことは不可能だよ! 向こうは、三百人からいるんだぜ? スリープ・クラウドでも唱えようものなら、一発で囲まれてしまうよ!」
「眠らせるのは、呪文《じゅもん》だけじゃないわ。モンモランシー」
「なあに?」
「|眠 り 薬《スリーピング・ポーション》を調合できる?」
「できるけど……、どうやって飲ませるのよ。飲み水なんかに仕込んでも、すぐにバレちゃうわよ」
「作戦があるのよ。いいから強力なやつを、できる限りたくさん調合して。ギーシュ、あなたはこの辺りで売ってるお酒を、買い占めてきてちょうだい」
「酒に混ぜるのか? でも、兵隊が一斉に飲んでくれるもんかね」
「御託はいいから、すぐに行って。ほらお財布よ。マリコルヌは、引き続き城砦《じょうさい》の様子を窺《うかが》ってちょうだい」
「わかった」
飛び出していこうとする一同に、キュルケは言った。
「で、エルフを見たら……」
三人はびくっ! と震えた。聞きたくない単語であった。三人は勇気を振り絞って、頭からその単語を追い出していたのである。
「逃げて。絶対に戦おうなんて思わないで。忘れちゃいけないのは、あたしたちは決して戦いに来たんじゃないってこと。エルフはもちろん、ガリア軍ともね。あたしたちは慎重にアーハンブラ城に忍び込み、慎重にタバサとその母君を救い出す。そう、友人を救い≠ノ来たのよ。あなたたちが傷つくようなことになったら、本末転倒だわ。だからエルフに限らず、危険を感じたら逃げて。それは臆病《おくびょう》でも、なんでもないことよ」
三人はわかった、というように頷《うなず》いた。
「あたしの親友を救い出す作戦に協力してくれてありがとう。あなたたちの勇気に感謝するわ」
キュルケは丁寧に一礼した。そんな殊勝なキュルケを見るのは初めてだったので、三人は怯《おび》えた顔を改め、真剣な顔つきになった。
三人が出て行ったあと、キュルケは才人《さいと》とルイズに向き直る。
「さてと……」
「俺《おれ》たちはどうするんだ? なにすればいい?」
「休んでて。あなたたちは切り札よ。英気を養ってちょうだい」
「切り札ってどういう意味?」
あっさりとキュルケは言った。
「エルフと戦ってもらうわ。ガリア軍は騙《だま》せても、おそらくエルフは騙せない」
「な! なによそれ! わたしたちは傷ついてもいいってこと? もしかしたら死ぬかもしれないじゃない! わたしたちは死んでもいいって言うの? 切り札じゃなくて、捨て駒《ごま》じゃない! さっすがツェルプストーね! わたしがそこまで嫌いなの!?」
キュルケは真顔で言った。
「違うわ、ルイズ。嫌ってるんじゃなくって、認めてる≠フよ。たぶん、あたしたちではエルフに勝てない。可能性があるのは、あなたの伝説≠セけよ」
ルイズは、目を丸くした。
「知ってたの?」
「知らないと思ってるのは、いつだって自分だけよ。というかあたしたちの前で唱えておいて、その言い方はないんじゃない?」
ルイズは顔を赤くした。
「先祖の非礼は謹《つつし》んでお詫《わ》びするわ。この非力なわたくしめにあなたの聖なるお力をお貸しくださいますよう」
キュルケは膝《ひざ》をついた。さすがにルイズは慌てた。ラ・ヴァリエールに謝罪するフォン・ツェルプストーはその長い抗争の歴史の中で初めてである。
「あ、頭をあげなさいよ! なんなのよもう! これで断ったらわたしが悪者じゃないの! というか、わたしはもう貴族の名前は捨てたのよ! ただのゼロのルイズよ。だから、あんたの言うこと聞いたって、別に構わないわよね」
横を向いて、恥ずかしそうな口調でルイズは言った。
「へ? あんた貴族捨てたの?」
「そうよ。マントも姓も、陛下にお返ししてきたわ」
「あらら! じゃあタバサを助けたら、ゲルマニアに来なさいな! メイドとして雇ってあげてよ?」
「ふざけないで!」
キュルケはなんだか感極まったらしく、ルイズをぎゅっと抱きしめた。
才人《さいと》はそんな二人を、ちょっと眩《まぶ》しい気持ちで見つめた。それから、体力を温存するために、ベッドに向かう。
エルフに勝てる自信はまったくない。というか、どうやって戦えばいいんだろう?
考えれば考えるほど、不安は大きくなる。
不安は多くなって、才人を押しつぶしそうになる。
でも……、キュルケと友情? を育《はぐく》みつつあるように思えるルイズを見ていたら、そんな気持ちを抱いたことが恥ずかしくなった。
「さてと、じゃあ俺《おれ》はお言葉に甘えてちょっと寝るよ」
「期待してるわよ。サイト。ジャンがいつも言ってたわ。サイトくんは、この世界を変えることができる人間だって。あたしもそれを信じてる。だからタバサの運命も、変えてあげてちょうだい」
才人は勇気を奮《ふる》って、無理して微笑《ほほえ》みを浮かべた。
「任せとけ」
才人《さいと》がベッドにもぐりこむと、先にベッドに寝ていたシルフィードが、ぱっちりと目を開けた。
「きゅい」
「なんだお前、起きてたのか」
シルフィードは青い髪の下の、これまた青い瞳《ひとみ》を輝かせて、
「ありがとうなのね」と、才人にお礼を言った。
「お姉さまを助けるために、みんながんばってくれてるのね。すっごく感動なのね。きっとお姉さま、みんなが助けに来たと知ったら、すごく喜ぶのね」
「…………」
「お姉さまはしゃべらないから、なんだか冷たく見えるけど……、ほんとはとってもやさしいのね。シルフィはお姉さまのことが大好きだけど、負けないぐらいお姉さまもシルフィのことが好き。お姉さまは何も言わないけど、そのぐらいのことは伝わってくるのね」
「うん……」
シルフィードは、ちょっと才人が元気がないことに気づいた。
「どうしたのね?」
「いや……、お前たちがちょっと羨《うらや》ましくなってさ」
同じ使い魔と主人でも、自分たちは全然わかり合えてない。
お互いの気持ちなど、さっぱり通じ合っていない。
「元気ないのね。慰めてあげるのね。でも、どうすればいいのかわかんないのね」
シルフィードはきゅいきゅい喚《わめ》きながら、才人を抱きしめてくれた。
やわらかいシルフィードの身体《からだ》に抱きしめられながら、ああ、いつになったらルイズは自分のほうを向いてくれるんだろう、と才人はぼんやりと思った。
立派になれば……、ちょっとは自分のほうを振り向いてくれるんじゃないかって、そう思ってた。でも……、そんなことはないみたいである。
なにせトリステインのお城で捕まっていたとき、好き……、と言おうとしたら、「言わないで!」なんて怒鳴られたぐらいであるからして。
確かに自分も悪い。
シエスタにデレデレしてしまうし、アンリエッタの顔を見ればどきどきしてしまうのだから。それはそれだけの魅力を秘めている以上、仕方がない。男の生理である。
でも、俺《おれ》がいつだって好き≠ニ言っているのはルイズだけじゃないか。
たぶん……、ルイズは恋する余裕なんてないんだ、と才人は思った。
誰《だれ》よりも真面目《まじめ》なルイズ。
誰よりも己の理想にこだわるルイズ。
使い魔の自分に、ご褒美《ほうび》よ、と言って、キスしてくれたり、その、お胸を触っても怒らなかったり、というのは……、別に傲慢《ごうまん》だからじゃない、と才人は思い直した。
このシルフィードが人間の自分をどうやって慰めればいいのかわからないように……、年頃《としごろ》の少年である自分に、どんなご褒美《ほうび》をあげていいのかわからないからなのだ。どうやって感謝の気持ちを伝えればいいのかわからないからだ。
それなのに俺《おれ》ってば、いっつも勘違いして……、と才人《さいと》は穴があったら入りたい気持ちになった。ルイズが俺に惚《ほ》れてるなんて!
俺ってば、調子にのってみっともない。ああ、みっともねえ!
ああルイズ。
自分の理想を貫き通すために、あれだけ心酔していたアンリエッタにマントを返してしまったルイズ。誰《だれ》よりも真面目《まじめ》で、気高いルイズ。
そんなルイズだから、才人は好きになってしまったのかもしれない。
ルイズみたいに、自分の生き方≠ニいうことにとことん拘《こだわ》る人間は、少なくても自分が生まれた世界で出会った人たちの中にはいなかった。そして、こっちの世界にも……。
いつかルイズが、自己の理想とやらを成就できたら、そのとき初めて誰かを好きになれるんじゃないだろうか? そのときそばにいるのは自分であって欲しい、と才人は思った。
そんなルイズの理想につりあうように、もっともっと、強くならなくてはならない。エルフだろうがなんだろうが、ビビってる場合じゃないのである。
才人は蛮勇を発揮して、大の字になって目をつむる。ルイズの理想にかなうためには、怖気《おじけ》づいたところなど、誰にも見せられないのである。
ベッドの上に大の字になって笑みを浮かべる妙な才人を見つめ、ルイズはさらに不安が大きくなった。
あんたエルフと戦えって言われてるのに、どうして怯《おび》えないのよ。
どうしていやがらないのよ。
ああ、やっぱり才人は使い魔として勇気を与えられてるんじゃないの?
ルイズは深くせつない気持ちになった。
翌日の夕方……。
アーハンブラ城の城門の前に立ち、警備を行っていた一人のガリア兵が、大きなあくびをした。隣に立っていた兵隊が、そんな一人をたしなめる。
「おい」
「ん? ああ……」
「しっかり門番してねえと、隊長≠ノどやされちまうぜ?」
「ミスコール男爵か? 大丈夫だよ。あいつはただの色ボケさ」
「違うよ。そっちじゃねえ。人間じゃないほうさ」
あくびをしていた兵隊は、急に眠気が吹っ飛んだのか、首をふるふると振った。
「おい、軽々しく名前を呼ぶんじゃねえ! くわばらくわばら……、おお、始祖ブリミルよ。我が魂を守りたまえ……」
「俺だって食われるのはごめんだぜ。だから名前は言ってねえじゃねえか。……しっかし、今日はどうなってやがるんでぇ。昼間、街に飯を食いに行ったらよ、酒は出せねえときたもんだ」
「はぁ? どういうこった?」
「どこぞの誰《だれ》かが、宿場町中の酒を買い占めたんだと。そのおかげで、どの酒場に行っても酒がねえなんてふざけたことになっちまってる」
「この退屈な砂漠のど真ん中で、唯一の気晴らしじゃねえか! ったく、どこのどいつがそんなろくでもねえことを……」
そんな会話を交わしていると、宿場町に続く坂道を一台の荷車が上ってくるのが見えた。
「なんだありゃ?」
荷車を引いているのは、派手な旅芸人の格好をした男女が七人ほど。台車にはめいっぱい樽《たる》が積んである。
門の前で、荷車は止まった。兵隊は槍《やり》を構えて一行に尋ねる。
「なんだお前たちは?」
ボリュームのある身体《からだ》を露出度の高い踊り子衣装に包んだ赤毛の女が、優雅に一礼した。
「旅芸人の一座でございますわ。兵隊さん」
キュルケであった。
「見ればわかる。こっちは街道じゃないぞ」
「知ってますわ」
キュルケは色っぽい流し目を送る。兵隊たちは、まるで一瞬で、サッキュバスにでも魅入られたかのようになった。
「わたしたちはお楽しみを売りに来たんですの」
「お楽しみ?」
兵隊たちは顔を見合わせ、それから荷台に積んだ樽の正体に気づく。一人が近づいて、樽の香りを嗅《か》いだ。
「こりゃあ酒じゃねえか!」
一人が憎らしげにキュルケを睨《にら》んだ。
「買い占めたのはお前たちか!」
「そうですわよ」
キュルケは兵士にしなだれかかった。キュルケの色香で、兵士の顔が情けないほどに崩れていく。
「怒らないでくださいな。かっこいい兵隊さん。あたしたちも、生きるのに精一杯なのよ。|エルフの土地《サハラ》を巡業してきたんだけど、あのケチなエルフったら、まったくあたしたちの芸術にお金を払ってくれないの」
「エルフに踊りがわかるわけねえだろ!」
兵隊たちは大笑いした。
「でしょ? だからあたしたちは、あたしたちの芸術を理解してくれるお客さんが必要というわけ。もちろん、お酒といっしょにね?」
「わかったぞ。お前たち、ただ、酒を売りに来たわけじゃねえな? 何か怪しいことを企んでるな?」
荷車の周りに突っ立った一同は、びくっ! と身を硬くした。
「ついでに踊りも売ろうってんだ。そうだろ」
キュルケは特大の笑顔を浮かべて言った。
「そのとおりよ。あたしたちのお酒に、街よりちょっと高い値段をつけてくれたら、踊りをサービスしてあげる。それでどう?」
「度胸のある女だな。気に入った。お前たちの商売の手伝いをしてやろう」
上官に報告しに兵士がすっ飛んでいく。
キュルケは振り向くと得意げに髪をかきあげる。その鮮やかな手並みに、一同は拍手をした。
才人《さいと》たちは、この城に駐屯《ちゅうとん》する部隊をまとめる十人ほどの貴族に引き合わされた。城のホールに入ってすぐ右隣の客間を、士官室として使っているようだった。
隊長はミスコール男爵という四十過ぎの貴族であった。彼は一目見るなりキュルケを気に入ったらしく、中庭での慰問会開催を許してくれた。
「ゲルマニアの女は、商売上手だな」
キュルケが酒につけた値段を聞いて、ミスコール男爵は笑みを浮かべた。
「その分の踊りと芸は披露いたしますわ」
ふむ……、と椅子《いす》から身を乗り出し、なめ回すようにしてキュルケの肢体を眺めた。ミスコール男爵の頭は禿《は》げ上がり、いかにも好色そうな雰囲気を漂わせている。
「よかろう。金は言い値を払おう。しかしだな、お前たちがよからぬことを企んでないかどうか、確かめる必要があるな……。こちとら、陛下から貴重な軍を預かっている身でな……」
「お疑いなら、個人的にあたしの踊りを披露してさしあげますわ」
キュルケが流し目を送りながらそう言うと、ミスコール男爵は目を細めた。
「かといって、兵どもの娯楽を取り上げては士気低下の懸念がある。芸が終わったら、私の部屋に来い。直接取り調べる」
周りの貴族が、不満そうな表情になった。
「これも隊長の職務のうちだな。あっはっは!」
大笑いする隊長に向かって、キュルケは妖艶《ようえん》な笑みを浮かべた。
「では、わたくしたちはさっそく準備をさせていただきますわ」
「部屋を出て行こうとするキュルケを、ミスコール男爵が呼び止める。
「その前に、お前たちが運んできた酒を一杯もらおうかね」
モンモランシーの顔が青くなる。すでに酒|樽《だる》には自分が調合した|眠 り 薬《スリーピング・ポーション》が混ぜてあるのだった。ここで彼に仕込んだ眠り薬に気づかれては、自分たちの計画は台無しである。
しかしキュルケは動じずに、樽を一個運んでこさせるとグラスについだ。
一同は息をのむ。
「どうぞ」
ミスコール男爵はグラスに鼻を近づけ、香りを嗅《か》いだ。モンモランシーは緊張のあまり倒れそうになった。自分が調合したポーションは無味無臭だが、ディ|テ《探》クト・マ|ジ《知》ックでも唱えられた日には一発である。
ミスコール男爵は眉間《みけん》にしわを寄せて、首を振った。
一同は氷のように固まった。バレたのだろうか?
「安物だな。貴族の口には合わん。全部、兵たちにくれてやれ」
そう言ってミスコール男爵は、床にグラスの中のワインを捨てた。
士官室を辞してホールに出たキュルケに、そっと才人《さいと》がつぶやいた。
「やばかったな……」
「あんなの序の口よ。本番はこれから。でも、あの中にエルフはいなかったわね」
「もしかしたら、ここにはいないんじゃないのか?」
「そうだったらいいんだけどね」
と、あまり期待していない口調でキュルケが言った。
アーハンブラ城の中庭には、三百人からの兵士が集まっていた。踊りはまだ始まらないというのに、兵士たちはかなり盛り上がっていた。
砂漠の真ん中のこの廃城で、わけのわからぬ警護任務を命じられ、退屈しきっていたのである。仲間はずれにしたら暴動でも起きかねないほど不満が溜《た》まっていたので、ほぼ全員が集められた。最少の警備の兵だけ残して、ほぼ全員である。
隊長のミスコール男爵は、エルフと共同でのこの警護任務に、内心腹を立てていた。ほとんどのガリア貴族がそうであるように、彼もジョゼフに対し、侮《あなど》りと不満の両方を抱いていたのである。はっきり言うと、嫌っていた。
副官が、兵の参加は半分ずつにしましょう、と提案したのだが、ミスコール男爵は首を振った。
「あの無能王≠ヘ、わしをこんなところに追いやったのだ。仮にもミスコール家は、ガリア有数の武門だぞ。こんな田舎でエルフと元公爵夫人のお守りをさせるとは……。気まぐれにもほどがある。まったく、誰《だれ》があんな子供と老婆を今さら狙《ねら》うものか。かまわぬ、兵全員を出席させろ」
そう言って彼は、中庭に引き出した豪華な椅子《いす》にどっかりと腰掛けた。
二つの月が、雲に隠れた瞬間……。
松明《たいまつ》を持った、痩《や》せた少年と小太りの少年が現れた。出てきたのが男だったので、兵隊の間からは野次が飛ぶ。二人は用意されたかがり火のやぐらに松明を放り込む。
それから二人は楽器を構えた。小太りの少年がぽんぽこと太鼓を叩《たた》き出す。痩せたハンサムは、笛を取り出すとぴーひゃらら、と吹き始めた。あまりにもへたくそな演奏だったので、野次は激しくなった。
しかし、暗闇《くらやみ》の中から踊り子の女たちが現れた瞬間、野次はぴたりと止《や》んだ。
踊り子の少女は全部で四人。
燃えるような赤い髪のグラマーが先頭。炎に照らされた顔に、妖艶《ようえん》な笑みを浮かべている。次に金髪の髪をロールさせた少女。恥ずかしそうに頬《ほお》を染めていた。
その次は桃色のブロンドの、まだ子供にしか見えない感じの少女であった。怒りにひきつった顔を真っ赤にさせていた。
最後は長い青い髪の麗人である。無邪気な、満面の笑顔であった。
兵士たちの間から、拍手や歓声や口笛が盛んに飛んだ。
宴《うたげ》が始まった。
タバサが目覚めると……、母のベッドの上だった。
本を片手に突っ伏したかたちで、自分はベッドの上に横たわっている。
隣では母が安らかに寝息を立てている。
どうやら自分は、『イーヴァルディの勇者』を朗読しているうちに、眠くなって寝てしまったらしい。
母の目が、小さく開いた。
暴れるかと思ったが……、母はじっと自分を見つめたまま動かない。もしかして正気を取り戻したのだろうか? との喜びが胸に広がり、タバサは母に呼びかけた。
「母さま」
しかし、母はなんの反応も見せない。ただ、自分をじっと見つめるのみだった。でも、それで十分だった。
タバサは鏡台に置かれた人形を見つめたあと、小さく微笑《ほほえ》んだ。
「シャルロットが、今日もご本を読んでさしあげますわ」
本のページをめくる。タバサは朗読を開始した。
イーヴァルディは竜の住む洞窟までやってきました。従者や仲間たちは、入り口で怯《おび》え始めました。猟《りょう》師の一人が、イーヴァルディに言いました。
「引き返そう。竜を起こしたら、おれたちみんな死んでしまうぞ。お前は竜の怖さを知らないのだ」
イーヴァルディは言いました。
「ぼくだって怖いさ」
「だったら正直になればいい」
「でも、怖さに負けたら、ぼくはぼくじゃなくなる。そのほうが、竜に噛《か》み殺される何倍も怖いのさ」
居室にビダーシャルが入ってきたときも、タバサは本から顔をあげなかった。母はエルフが入ってきても怯《おび》えない。この十日間ほどの間、ずっと毎日、タバサは母に『イーヴァルディの勇者』を読んでいた。他《ほか》の本では、昔のように取り乱すのである。だからタバサは、何度も同じ本を読み返していた。何度も声に出して読んだので、ほぼ暗記してしまったぐらいであった。
ビダーシャルは、本を読むタバサを見ると、わずかに微笑を浮かべた。
「その本がいたく気に入ったようだな」
タバサは答えない。今では、ビダーシャルが入ってきても、特に用事のない限り朗読をやめないようになっていた。
「旅芸人の一座が慰問に来たらしい。そこの中庭で芸を披露するそうだ。我にはまったく興味がないが、お前はどうだ。見物したいのなら、この部屋を出ることを特別に許可しよう」
タバサは顔をあげると首を振った。
ビダーシャルは僅かに硬い声になり、タバサに告げた。
「薬が明日、完成する」
ページをめくるタバサの指が止まる。
「お前がお前でいられるのは、明日までだ」
ビダーシャルがこの部屋から出る許可を与えたのは……、つまりは、刑の執行の前の最後の慈悲というわけだ。
「つまらぬ余興だが、少しでも慰めになるのではないかと考えた次第だ」
「情けはいらない」
短く、タバサは言った。
ビダーシャルは、そうか、とつぶやくと、部屋を出ていった。
最後の時間は、せめて母と過ごしたい。
再びタバサは『イーヴァルディの勇者』に目を落とす。
イーヴァルディは竜の洞窟《どうくつ》の中に入っていきました。付き従うものはありませんでした。松明《たいまつ》の明かりの中に、コケに覆われた洞窟の壁が浮かびあがりました。たくさんのコウモリが、松明の明かりに怯え、逃げ惑いました。
イーヴァルディは怖くて泣きそうになりました。皆さんが、暗い洞窟にたった一人で取り残されてしまったことを想像してください。どれほど怖ろしいことでしょう!
しかもこの先には、怖ろしい竜がひそんでいるのです!
でもイーヴァルディはくじけませんでした。
己に何度も、イーヴァルディは言い聞かせました。
「ぼくならできる。ぼくは何度も、いろんな人間を助けたじゃないか。今度だってできるさ。いいかイーヴァルディ。力があるのに、逃げ出すのは卑怯《ひきょう》なことなんだ」
何度も読み返すうちに、タバサはこの本のタイトルに幼い頃《ころ》感じた矛盾が、溶けていく気がした。
イーヴァルディの勇者≠ニはどういうことであろうか?
イーヴァルディという単語は地名ではなく、作中の少年の名前だ。普通だったら、タイトルは勇者イーヴァルディ≠ニ表記されるはずではないか?
子供のタバサは、かつてそんな疑問を抱いたのである。
でも、今ならタイトルの意味がわかる。
勇者≠ニいうのはイーヴァルディ自身を指さない。
彼の心の中にある衝動とか決心とか、そんな概念を、勇者≠ニいう単語は指しているのだった。
自分は子供の頃……、この本を読みながら憧《あこが》れたものだ。
みなこの本を読んで、イーヴァルディのような心の中に住む勇者≠ノ従い、英雄になることに憧れたが……、自分は違った。
自分は竜に囚《とら》われた少女に憧れた。勇者に助けてもらう少女になりたかった。楽しいながらも、退屈な日常から連れ出してくれる勇者をタバサは待ちわびた。
作中の少女と、自分の境遇を照らし合わせ、タバサは心の中で苦笑した。
なんだ、自分はこの少女になれたではないか。
今現在、自分は囚われの身になっている。
本と違うのは、自分には助けに来てくれる勇者など存在しないということだ。
今も、昔も……。
でも、それでいい。
自分はずっと一人でやってきたのだから。
誰《だれ》にも頼らず、心を許さず、すべてを一人で行ってきたのだから……。
でも……、この『イーヴァルディの勇者』を読んでいると、想像してしまうのだ。
自分を救い出してくれる、勇者を。
この禍々《まがまが》しい|洞 窟《アーハンブラ城》から、自分を救い出してくれる勇者を……。
心を失う前の最後のときだから、自分は素直に、そういったことを感じているのかもしれない。
明日にはなくなってしまう心を、タバサは愛しく感じた。幾重にも冷たい雪風で覆った心を、タバサは初めて愛しいと感じた。傍らの母の手を握り締める。
小さく、タバサは震え始めた。
[#改ページ]
第十章 イーヴァルディの勇者
キュルケの踊りは見事なものだったが、ルイズとモンモランシーとシルフィードはどうにも不器用であった。
キュルケは単純なリズムに合わせ、自らのダンスで旋律を作り出していく。後ろの三人は、それを見てなんとか真似《まね》をしようと動くのだが、どうにもさまにならない。
しかし娯楽に飢えた兵隊たちには、それでも満足のいくものだった。若い娘が、胸と腰とを布で隠しただけのあられのない格好で、踊っているのだ。
運ばれてきた酒もどんどん空になっていく。
ボリュームのある肢体をくねらし、赤髪の女はまるで炎の化身のように、妖《あや》しく、情熱的に揺らいだ。派手に揺れ動く赤い髪が、まるで燃え盛る松明《たいまつ》のようだった。
桃色の髪と金髪の少女は、それに合わせて腰を振るだけだったが、妙にその動きが高貴で、宮廷で催《もよお》されるダンスのような、やんごとない輝きを持っている。
青い髪の女性は、最初のうち、生まれたばかりの小鹿《こじか》のように不器用に体を揺り動かしていたが、そのうちにコツを覚えたらしく、楽しげに暴れている。暴れているといった表現がぴったりで、どうにも踊りには見えなかったが、満面の笑みが見る者を楽しくさせた。
兵隊たちは酒をぐいぐいと飲み干していく。
奥に腰掛けたミスコール男爵が席を立つ。彼は用意された酒を一滴も口にしていなかった。
ミスコール男爵お付の兵隊が、こっちに向かってくるのが見えた。それが合図であるかのように、キュルケはダンスを終了させた。
ルイズが心配そうに、キュルケに耳打ちした。
「あの隊長はお酒を飲んでないわよ。大丈夫なの?」
「あたしがなんとかするから任せといて。えっとモンモランシー。あなたの仕込んだ眠り薬は、きっちり飲んでから一時間で作用するように調合したのよね?」
「そうよ。個人差はあると思うけど……」
「じゃああと、三十分ほどね。あとは適当に兵隊たちの相手をしていてちょうだい。三十分後に、あたしも戻ってくるわ」
駆け寄ってきた兵隊が、キュルケに二言三言、つぶやいた。
キュルケはにっこりと笑って頷《うなず》くと、消えたミスコール男爵を追いかけていく。
残されたメンバーは顔を見合わせる。
「時間を稼げって言われても……」
酔った客たちは、口々に喚《わめ》き始める。
「なんでぇ! もう出し物は終わりか!」
「だったらこっちに来て、俺《おれ》たちに酌《しゃく》でもしやがれ!」
「わたし、いやぁよ! 兵隊に酌《しゃく》をするなんて!」
モンモランシーがわなわなと震える。こんな恥ずかしい衣装を着せられて平民たちの前で踊るのさえ屈辱なのに、酌ともなればもう、我慢がならないのであろう。
「お、踊るから! 黙ってて!」
第二部が始まった。しかし、キュルケを欠いた踊り子隊は、へたくそな音楽に合わせ、微妙なリズムで腰をフラフラと振るだけなので、兵隊たちはすぐに飽き始める。第一部のダンスの成功は、どうやらキュルケの存在に負うところが大きかったようだ。
「なんだそりゃあ! 金返せ!」
ワインのビンや、皿や骨が飛んでくる。
「くそう! 生意気な兵隊どもめ!」
ごいん! とワインのビンが頭にぶち当たったギーシュとマリコルヌが爆発しそうになる。
「ま、待てよ。ここで怒ったら作戦台無しじゃねえか」
才人《さいと》が慌ててそんな二人を諫《いさ》める。
「どうした! どうせ踊るんなら脱げ!」
「脱げばいいのね?」
シルフィードが嬉《うれ》しそうに、きゅい、と喚《わめ》いて服を脱ぎそうになったので、今度はルイズがその頭をぱかーん! と殴った。
「どうしてはたくのね!」
「あんた慎みってものを持ちなさいよ! 慎み!」
「そんな格好しといて慎みもないのね」
胸と腰をわずかに覆うデザインの踊り子衣装を指差し、シルフィードが言った。
「しかたないでしょー!」
混乱を極めるルイズたちに、兵隊たちの野次が飛ぶ。
「おいおい! どうなってやがるんだ!」
才人は、こほん、と咳《せき》をすると、背負ったデルフリンガーをすらりと抜いた。兵隊たちは一瞬で静かになる。
マリコルヌとギーシュが慌てて止めようとする。
「や、やめたまえ! 暴れてどうするんだね!」
しかし才人は、
「これより剣舞をお見せします!」
と、やけくその声で怒鳴る。
無言の兵隊たちが見守る中、才人は、デルフリンガーを振り回した。
「えんげつけん! とやぁ!」
ジャンプして、地面に突き立てる。
「ジャンプ切り! てやぁ!」
兵隊たちは無反応だったが……、そのうちに巨大な怒号が巻き起こる。
「な、な、ナメてんのかッ!」
「おれたちゃあ、毎日剣ふってんだよ!」
「何が悲しくてテメエなんぞのちゃんばらごっこ見物しなきゃあいけねえんだよッ!」
「やっべ、外した……」
兵隊たちは立ち上がり、飛びかかってこようとした、そのとき……。
やわらかい笛の音が鳴り響く。
「ふぇ?」
振り返ると、ギーシュが真顔で笛を吹いていた。マリコルヌも、真面目《まじめ》な顔で太鼓を叩《たた》き出す。ずいぶんと上品な調べであった。
「うわ、これ……、宮廷音楽じゃないの」
どうやらギーシュたちは、基本教養として覚えさせられていた貴族向けの演奏を開始したらしい。先ほどの旋律とはまったく違った、緩やかな曲である。
モンモランシーがゆっくりと、曲に合わせてダンスを踊り始めた。キュルケの踊りのような激しさはないが、気品と優雅さに満ち溢《あふ》れた動きであった。
大胆な衣装と優雅な宮廷ダンスの組み合わせが、兵士たちの心をつかんだらしい。おとなしく踊りを鑑賞し始めた。才人《さいと》はほっとした。
優雅なモンモランシーのダンスは、二十分ほども続いた。
そうこうするうちに、眠り薬が効き始める。兵士たちは、一人一人、舟を漕《こ》ぎ出してゆく。月明かりの下、モンモランシーは眠りを誘う妖精《ようせい》のように、ゆっくりと踊り続ける。
全員が眠りこけてしまうまでに、十分ほどの時間を要した。
モンモランシーの調合したス|リー《眠》ピング|・《り》ポー|ショ《薬》ンは、まる一日眠りこけてしまうという強力な代物だった。
中庭は巨大な寝室と化した。三百人からの兵隊や貴族が、突っ伏して寝転げている様は壮観であった。
才人たちは顔を見合わせると、楽器の中に隠しておいた杖《つえ》を取り出す。武装が終わると、一同はアーハンブラ城の天守へと向かった。崩れかけた白い城壁が、月明かりを受けて妖《あや》しく光る。
このあとはタバサとその母親をこの城から捜し出し……、救出する。
その前に、エルフとの対決があるかもしれない。才人はエルフがいないことを祈った。
アーハンブラ城は廃城らしく、ところどころが崩れている。危険な場所にはロープが張ってあり、その先に行けないようになっていた。内部はまさに迷路である。
キュルケは迷った振りをしながら城の内部を調べた。が……、タバサの姿は見つからない。眠り薬が効力を発揮する時間がきてしまうとまずいので、キュルケは一旦《いったん》捜索を諦《あきら》め、兵隊に教えてもらったミスコール男爵の部屋へと向かうことにした。
中庭に面したエントランスホールに入ってすぐの階段を上る。二階の通路の右に、最近になってからつけられたらしい鉄の扉がある。ノッカーを使って扉を叩《たた》くと、鍵《かぎ》を外す音がして、扉が開かれた。
「おお、待っていたぞ。ささ、入れ」
兵隊や部下の前ではそれなりに険しい顔をしていたミスコール男爵は、相好を崩してキュルケを迎え入れる。
「さて、では取り調べをせねばならんなあ。いやなに、これも王命でな、この城にやってきた人物はわしが隅から隅まで調べることになっておるのだ。そう、隅から隅までだ」
ミスコール男爵は、キュルケに手を伸ばした。しかしキュルケは、その手をやさしく払いのけた。
「調べるのはいつだってできるじゃありませんか」
そう言いながら、壁際に置かれたベッドに向かい腰掛ける。膝《ひざ》を組んで、笑みを浮かべた。
「ねえ、隊長さん。あたし好奇心の塊みたいな女なの。だからちょっとお尋ねしたいのだけど……、よろしくて?」
「何が聞きたいのだ?」
ミスコール男爵は、怪訝《けげん》な表情を浮かべる。
「隊長さんはここでとんでもない宝石を守っておられるとか」
「宝石だと? あっはっは! 残念だったな! われわれがここで守っているのは、ただの囚人の親子だ。なんだ、お前たちはありもしない宝石を盗みにきた盗賊か? では、念入りに取り調べねばならんなぁ……」
肩に回された手を、キュルケははね除《の》けない。
「その囚人とやらを、見てみたいわ。あたし、そういうのにすっごく興味があるの」
「変わった女だな。そんなものを見てどうする」
ミスコール男爵は、キュルケの踊り子衣装の裾《すそ》に、手を差し込んだ。
「ん?」
指先に触れたものに気づく。
ゆっくりとそれをつまんで引き出した。自分が握ったものを見て、ミスコール男爵はうめきを漏らした。
「貴様、メイジ……」
キュルケは笑顔を浮かべたまま、ミスコール男爵の手から杖《つえ》を取り上げて突き飛ばす。素早く呪文《じゅもん》を唱えると、杖の先に大きな炎球が現れた。
その火の玉を、倒れた男爵の鼻先に突きつける。自分の頭の数倍ほどもある大きさの炎球を突きつけられた男爵は、顔を恐怖にゆがませた。
「さて、じゃあその囚人のところに案内していただきましょうか」
「……貴様、オルレアン公派か? 現実を省みぬ亡霊め!」
「いいえ。ただの盗賊よ。言っとくけど、あたしは気が短いの。残りの髪の毛を頭ごと燃やされたくなかったら、さっさと案内することね」
ミスコール男爵は震えた。
「無理だ。それはできん」
「どうしてよ」
「あいつがいる。あいつに殺されてしまう」
キュルケの眉《まゆ》がつりあがった。
「あいつって、エルフ?」
「そ、そうだ。勘弁してくれ。金なら払う。だから……」
扉の向こうから、高い、澄んだ声が響いた。
「金がどうした?」
ミスコール男爵は、ひぃいいいい! と悲鳴をあげた。
「ビ、ビダーシャル卿《きょう》!」
扉が開いて、異国のフードを深く被《かぶ》った長身の男が姿を見せた。
男はキュルケを一瞥《いちべつ》すると、杖《つえ》の先の炎球を気にした風もなく怪訝《けげん》な声で問うた。
「お前は誰だ」
キュルケの返事は炎球だった。杖の先から放たれた炎球は、痩《や》せたエルフを包み込むような大きさに膨れ上がる。しかし、ビダーシャルは避《よ》けるそぶりさえ見せない。
炎球はエルフを一瞬で燃やし尽くす……、と思われた瞬間、その目の前で行き先を百八十度変えた。
「なっ!」
キュルケの口から驚愕《きょうがく》のうめきが漏れた。
才人《さいと》たちが、中庭から天守のエントランスに通じる階段を駆け上っていたとき……、天守の壁の一角がいきなり爆発した。
「なんだぁ!?」
ギーシュが絶叫した。
ついで、中から一人の人間が降ってくるのが見えた。
「キュルケじゃないか!」
壁の破片といっしょに、キュルケは地面に叩《たた》きつけられる。一同は倒れたキュルケに駆け寄った。
「ひどい怪我《けが》!」
モンモランシーは慌てて水魔法を唱え始める。シルフィードも変身を解くと、いっしょになって回復の魔法をかけ始めた。
「エルフ……、気をつけて……」
そう言うなり、キュルケはがっくりと気絶した。かなりのダメージであった。
「ギーシュ、マリコルヌ。キュルケを頼む」
「わ、わかった」
才人《さいと》は駆け出した。ルイズはそのあとを追いかける。
天守に通じる階段を上り始めた才人に、ルイズは後ろから抱きついた。
「待って! 待ってよ!」
「なんだよ!」
才人は怒鳴った。
「相手はエルフなのよ! 慎重にいかないと……」
「そんなことしてる暇ねえだろ! キュルケがやられたんだ! 早く行かないとタバサが危険だろ!」
ルイズも大声で怒鳴った。
「あんただって危険じゃない!」
「……ルイズ?」
才人は呆然《ぼうぜん》としてルイズを見つめた。肩で息をつきながら、ルイズは首を振った。
「わたしは、あんたのその勇気が怖いの……。七万の敵に突っ込んでいったり、エルフをも怖がらない勇気が怖いの……」
「どういう意味だよ」
「あんたのその勇気……。ガンダールヴとして与えられた偽りの勇気じゃないの? 怖がってちゃ、主人を守れないから、勝手に発動する勇気なんだわ」
「はぁ?」
「わたし、自分が許せないわ。わたしが与えたガンダールヴの契約は、あんたを、あんたじゃないものに変えちゃったんだわ。だからお願い……、そんな勇気をわたしに見せないで」
ルイズは潤んだ目で才人を見上げた。
才人は、疲れたような声でつぶやいた。
「……そうだったらいいんだけどな」
「……え?」
「俺さ、勇気なんか持ってねえよ。恥ずかしいけど、ほんとのこと言うと、さっきから怖くて震えてる。武者震い? 冗談じゃねえ。俺は怖くて震えてるんだ」
「サイト……」
「七万に突っ込んだときだって、怖くて死にそうだったよ。怖くて怖くて、足がすくんで動かなかったよ。無理やり足を地面から引っぺがすようにして、前に歩いてるんだ。そんなのがガンダールヴの勇気だって? 馬鹿《ばか》いうな。んなもんあったら、こんなに怖くて震えるかっつうの」
「じゃあ、じゃあどうして……」
「情けねえところ見せられねえだろ! 一応、俺は男なんだよ! ああそうさ、なんの因果か男に生まれちまったんだよ。だから無理しなきゃ、格好つかねえだろ。おまけに俺はガンダールヴだ。普通じゃねえ、力をもらっちまった。なおさら逃げられねえよ。自分ならできるかもってことから、逃げられるわけがねえだろうが」
ルイズの目から涙がこぼれた。泣きながら、ルイズは才人《さいと》を叩《たた》いた。
「なんで叩くんだよ!」
「勘違いしちゃったでしょお〜〜〜〜!」
妙な逆ギレをされて、才人は戸惑う。でも、今は戸惑ったり、ルイズの相手をしてる場合ではない。
「いいから呪文《じゅもん》を用意しとけ」
こくりと、ルイズは頷《うなず》いた。才人は背負ったデルフリンガーの柄《つか》を右手でつかんだ。左手のルーンが光る。その左手で、ルイズの細い腰を抱いた。
「まあ、なんだ」
「ん?」
「通信簿に書いてあったんだ。流されやすい性格ってね。元々俺はそうなんだ。いまさら魔法だか伝説だか虚無だかのガンダールヴに流されたって、驚かねえけどな」
ルイズは眉間《みけん》にしわを寄せた。
「……どっちなのよ。あんたの勇気。本物なの? やっぱりガンダールヴなの?」
「確かにお前の虚無℃文を聞いてると心が躍るし、ちょこっと恐怖が消えていく。でもまあ、ガンダールヴの効果なんてそんぐらいだ。それ以外は……、流されやすい、俺自身の勇気とやらなんだろう」
涙を流しながら、ルイズは才人の袖《そで》をつかむ。じゃあ、才人の好き≠焉c…。
でも、甘い感傷に浸っている場合ではなかった。
次の瞬間、天守のエントランスから炎の球が何個も飛んできた。
才人はデルフリンガーを掲げる。小さな炎の球は、デルフリンガーに吸い込まれて消滅した。才人ははじかれたように突進して階段を駆け上り、エントランスの柱を切り裂く。
太い柱は両断され、後ろにいたミスコール男爵が現れた。
「ひ!」
呪文を唱えさせる暇を与えずに、才人はその腹に剣の柄を叩き込んだ。ミスコール男爵は床に崩れ落ちる。
倒れたミスコール男爵を足でつつきながら、
「こいつがエルフ?」とルイズに聞いた。
「違うわよ。あんたも知ってるでしょ。エルフは耳が尖《とが》ってて……」
二階に通じる階段の上に、人影が現れた。
澄んだガラスの鐘《かね》のような声が響く。
「お前たちも、さっきの女の仲間か?」
そのシルエットを見て、ルイズは言った。
「あんな風にすらりとしてるのよ」
エルフは広い階段から、ゆっくりと下りてくる。握り締めたデルフリンガーが、せつなげな声で言った。
「エルフか……、どうしようもねえな。ここは引いたほうが無難だぜ」
「引いたらタバサを助けらんねえだろ」
エルフは一歩ずつ、階段を下りてきた。
「わたしはエルフのビダーシャル。お前たちに告ぐ」
エルフ≠ニいう単語を自己紹介の中に混じらせることで、才人《さいと》たちの恐怖を促そうとしたのだろうか?
それはいらぬ節介というものであった。
そんなことをしなくても、その穏やかな声の中に無限の迫力があった。今まで対峙《たいじ》した敵とは違う、秘められた恐怖、というものを才人は感じた。
「な、なんだよ」
「去れ。我は戦いを好まぬ」
「だったらタバサを返せ!」
「タバサ? ああ、あの母子か。それは無理だ。我はその母子をここで守る≠ニいう約束をしてしまった。渡すわけにはいかぬ」
「じゃあしょうがねえ。戦うしかねえだろ」
あいつは強い。今までの戦いの経験がそれを教えてくれる。生物としての本能が、自分より優れた生き物を前にしたときの警告を発し始めた。
でも、才人は剣を握った。
剣を握り、前を見た。
しかし、足が言うことをきかない。
一歩エルフが歩くごとに、一歩才人は下がる。アニエスに教えられた言葉が蘇《よみがえ》る。
『隙《すき》を見つけろ』
どう見ても隙だらけだ。どこから剣を打ち込んでも、攻撃は当たる。
なんであそこまで無防備なんだ?
「相棒、無駄だ。やめろ」ちょっと焦った調子でデルフリンガー。
しかし……、才人は剣を構えて駆け寄った。
「お、うぉおおおおおッ!」
やけくそに近い声だった。震える足で駆け上る。ビダーシャルの手前で跳躍し、剣を振り下ろす……、が。
ぶわッ!
ビダーシャルの手前の空気がゆがんだ。
ゴムの塊にでも振り下ろしたかのように、剣が弾《はじ》き飛ばされる。まるでトランポリンに跳ね上げられたように、才人は後ろに吹っ飛んだ。
中庭に張り出したエントランスホールに、才人《さいと》は転がった。
エルフは階段の途中で立ち止まり、才人を見下ろした。
「立ち去れ。蛮人の戦士よ。お前では、決して我に勝てぬ」
ルイズが倒れた才人に駆け寄る。
「サイト!」
いてててて、と才人は立ち上がった。石畳の上に叩《たた》きつけられたので、一瞬体が動かない。ガンダールヴといえど、生身の体だ。素早く動けても、受けるダメージは人並である。
「なんだあいつ……、体の前に空気の壁があるみたいだ……。どうなってんだ」
デルフリンガーが、苦い声でつぶやく。
「ありゃあ反射《カウンター》≠セ。戦いが嫌いなんてぬかすエルフらしい、厄介でいやらしい魔法だぜ……」
「反射《カウンター》?」
「あらゆる攻撃、魔法を跳ね返す、えげつねえ先住魔法さ。あのエルフ、この城中の精霊の力≠ニ契約しやがったな。なんてえエルフだ。とんでもねえ行使手≠セぜ、あいつはよ……」
「先住魔法かよ。水の精霊のアレか」
「覚えとけ相棒。あれが先住魔法≠セ。今までの相手はいわば仲間内の模擬試合みてえなもんさ。ブリミルがついぞ勝てなかったエルフの先住魔法。本番はこれからだけど、さあて、どうしたもんかね」
「とぼけんな! 剣も通じない、魔法もダメだったらどうすりゃいいんだ!」
ビダーシャルは両手を振り上げた。
「石に潜む精霊の力よ。我は古き盟約に基づき命令する。礫《つぶて》となりて我に仇《あだ》なす敵を討て」
ビダーシャルの左右の、階段を造る巨大な石が地響きと共に持ち上がる。
段石は宙で爆発して、ルイズと才人を襲う。
ぶっ放した散弾のように無数に襲いかかる石礫を、才人は剣で受けきろうとした。しかし、量が半端じゃない。受けきれなかった分が体にぶち当たる。
才人はルイズの前に立ちはだかり、それを体で止めた。
額にぶち当たった一個が、才人の額を切り裂き、血が流れた。一瞬、気を失いそうになったが……、才人はこらえた。
倒れそうになる才人を、ルイズは支えた。
「ねえデルフ! どうすんのよ! いったいどうすりゃいいのよ!」
「どうもこうもねえだろが。お前さんの系統だけが、あいつをどうにかすることができるんだ。どうにかするのはお前だよ。ルイズ」
「でも、どんな魔法もきかないんでしょ! いったい何を唱えりゃいいのよ! ああ、始祖の祈祷書《きとうしょ》は学院に置いてきちゃったし、どうにもならないじゃない! 読めるときに読めるってなによ! いつでも読めるようにしときなさいよ!」
「お前さんはとっくにその呪文《じゅもん》をマスターしてるぜ」
「え?」
「解除≠ウ。先住魔法を無効化するには、虚無≠フ解除≠オかねえ」
「解除《ディスペル》ね!」
「でもな……、あのエルフはどうやらここいらの精霊の力すべてを味方につけてるらしい。それを全部解除するのは、大事だぜ。お前さん、それだけの解除≠ぶっ放すだけの精神力がたまってるかね」
ルイズははっとした。でも……、逃げ出すわけにはいかない。
だって才人《さいと》が、自分の前で剣を構えている。
使い魔が負けを認めぬ以上、主人の自分が負けを認めるわけにはいかない。
いや……、話はもっと単純だ。心|惹《ひ》かれている少年をおいて逃げ出すことなど、年頃《としごろ》の少女である自分にできるはずもないのであった。
心惹かれている、かもしれない≠謔ヒ、とルイズは思い直す。こんなときなのに、そんな余裕が自分にあることに驚く。
できるかもしれない。
ルイズは杖《つえ》を構えた。
メイジとその護衛の戦士が退散しないので、エルフは業を煮やしたらしい。
「蛮人よ。無駄な抵抗はやめろ。この城を形作る石たちと、我はすでに契約している。この城に宿るすべての精霊の力は我の味方だ。お前たちでは決して勝てぬ」
才人は歯をむき出しにして、唸《うな》った。
「……うるせえ長耳野郎。誰が蛮人だよ。俺《おれ》はお前みたいな、偉そうに余裕を気取ったやつが一番嫌いだ」
ビダーシャルは首を振ると、再び両手を振り上げる。次は壁の石がめくれあがり、巨大な拳《こぶし》に変化した。
「な、なにあれ」ルイズの口から、恐怖の声が漏れた。
どんなメイジにだって、あんな強力な防御呪文を唱えながら、巨大な石の拳を作り上げることなんかできない。
まるで粘土のように変化する石を見つめ、才人は震えた。
「あれがエルフの先住≠ゥよ……」
巨大な石の拳が、才人とルイズめがけて飛んできた。
居室で本を読み上げるタバサの耳に、巨大な爆発音が聞こえてきた。
そのあと、しばらく静寂が続いたが……、今度は何かが破裂するような炸裂《さくれつ》音が低く響いた。
母が怯《おび》えたように布団にうずくまる。
タバサはそんな母をやさしく抱きしめた。いったい何が起こっているのだろう?
大丈夫ですから、と母につぶやき、ベッドから下り、ドアに近づき扉を確かめる。
だが……、ロック≠フ呪文《じゅもん》で扉は固く閉じられていた。こうなっては杖《つえ》を取り上げられた自分になすすべはない。北花壇騎士として恐れられた、シュヴァリエ・タバサはもうどこにもいない。ここにいるのはどこまでも無力な、囚《とら》われのシャルロット・エレーヌ・オルレアンであった。外で何が起こっているのか確かめたくても、確かめることすらできない。
タバサはベッドへと戻った。
怯《おび》える母は、じっと『イーヴァルディの勇者』を見つめている。
タバサは本を取り上げると、幾度となく繰り返した朗読を始めた。
本を読み上げながらタバサは思う。
もしかしたら……、誰《だれ》かが自分を助けに来てくれたのだろうか?
シルフィードの顔が浮かぶ。
キュルケの顔が浮かぶ。
違って欲しい、とタバサは思った。おそらく、誰もあのエルフには敵わない。
最後に、才人《さいと》の顔が浮かんだ。
伝説の使い魔、との触れ込みの少年。
自分を負かした、剣の使い手。
シュヴァリエの自分を剣一本で負かしたあの才人なら……、もしかしたらここから自分を救い出せるかもしれない。
でも……、と首を振る。
そんな奇跡は起こらない。
あのエルフに勝てる相手など、存在しない。
期待は絶望につながっている。いつだって、そうだったじゃないか。
そう、期待が報われたことなど、かつて一度もなかった。
明日、自分は心を失う。その運命は変わらない。
タバサはゆっくりと、再び本を読み始めた。
イーヴァルディは洞窟《どうくつ》の奥で竜と対峙《たいじ》しました。何千年も生きた竜の鱗《うろこ》は、まるで金の延べ棒のようにきらきらと輝き、硬く強そうでした。
竜は震えながら剣を構えるイーヴァルディに言いました。
「小さきものよ。立ち去れ。ここはお前が来る場所ではない」
「ルーを返せ」
「あの娘はお前の妻なのか?」
「違う」
「お前とどのような関係があるのだ?」
「なんの関係もない。ただ、立ち寄った村で、パンを食べさせてくれただけだ」
「それでお前は命を捨てるのか」
イーヴァルディは、ぶるぶると震えながら、言いました。
「それでぼくは命を賭《か》けるんだ」
ルイズと才人《さいと》は、石の拳《こぶし》で中庭の中ほどまで吹き飛ばされた。キュルケを介抱していた仲間たちが駆け寄ってくる。
「サイト! ルイズ!」
身を挺《てい》してルイズの盾になり、石の拳をデルフリンガーで受けきった才人の右手は折れていた。
ぶらんとした才人の右腕に、モンモランシーが治癒《ちゆ》の呪文《じゅもん》を唱え始める。
苦しそうな声で、才人は言った。
「逃げろ。俺たちでなんとかする」
「いいから、黙ってろ」
マリコルヌが風の呪文を唱え、飛んでくる石の礫《つぶて》をそらす。
ギーシュが土の壁魔法を唱え、才人たちの前に大きな壁を作り上げた。
しかし、エルフの魔法は強力だった。
中庭に下りる階段の上に現れたビダーシャルは、なんなくギーシュの作り上げた壁を粉砕し、マリコルヌの風魔法をものともしない石礫を放ってくる。
才人は立ち上がり、デルフリンガーで石を弾《はじ》き飛ばした。
「まだ右腕は治ってないわ!」
モンモランシーが怒鳴る。
「そんな余裕はねえ」
「でも……」
「ルイズが呪文を唱えてる」
一同は振り返る。
そこではいつの間にか立ち上がったルイズが、杖《つえ》を構え、朗々と呪文を唱えていた。
ウル・スリサーズ・アンスール・ケン……。
ルイズは喉《のど》の奥から呪文《虚無》を搾《しぼ》り出した。
ギョーフー・ニィド・ナウシズ……。
己の中でうねる精神力が……、気力が……、かたちを変え、世の理《ことわり》を変えるべきスペルとなって、押し出されてくる。
自分の中に眠っていた精神力に、ルイズは驚く。
十六年もの間|溜《た》め込んだ精神力をエク|ス《爆》プロー|ジョ《発》ンに変え、トリステインを襲った大艦隊を吹き飛ばしたときのようなうねりが、自分の中から生まれてくるのだ。
どうして?
エイワズ・ヤラ……。
どうして?
ルイズは己に尋ねた。
どうしてわたしは、こんなに精神力が溜まっていたのだろう?
これほど長く虚無≠唱えられる精神力を、どこで得たのだろう?
精神力は心の強さだ。
怒りが、喜びが、魔法の力を倍増させることをルイズは知っていた。魔法の強さは、才能だけで決まるわけではない。
怒り? 喜び? 悲しみ?
そのどれらでもない感情に思い当たる。
ルイズの中に生まれた疑問は、一つの仮説を生み出した。
唯一、ルイズの中に大きくうねっていた感情……。
それが虚無の源なのだろうか?
ユル・エオー・イース!
呪文《じゅもん》は完成した。
デルフリンガーが怒鳴る。
「俺《おれ》にその解除《ディスペル》≠かけろ!」
ルイズは杖《つえ》をデルフリンガーに向けて振り下ろした。
虚無魔法≠ェデルフリンガーにまとわりつき、刀身が鈍い光を放った。
「相棒! 今だ!」
才人《さいと》は階段の上のビダーシャルめがけて突進した。
デルフリンガーを振り上げ、振り下ろす。
反射《カウンター》≠フ目に見えぬ障壁とぶつかり合う。
今度は弾《はじ》き飛ばされなかった。
ルイズの唱えた虚無≠ヘ、障壁の一点に集中し……、デルフリンガーの触れた部分を解除《ディスペル》≠オていく。
ねっとりした果実を切り分けるようにして、反射≠フ障壁が切り分けられていく。
時間にすれば一瞬だった。
障壁は切り裂かれ、ビダーシャルを守るべき精霊力は四散した。
長身のエルフは驚愕《きょうがく》の表情を浮かべた。
「シャイターン……。これが世界を汚した悪魔の力か!」
敵わぬと見て取ったのか、エルフは左手を右手で握り締める。指輪に封じ込められた風石≠ェ作動する。ビダーシャルは糸で引かれた人形のように、宙に飛び上がった。
「悪魔の末裔《まつえい》よ! 警告する! 決してシ|ャ《悪》イタ|ー《魔》ンの門へ近づくな! そのときこそ、我らはお前たちを打ち滅ぼすだろう!」
空へと消えていくエルフを見つめながら、才人たちはへなへなと地面に崩れ落ちた。ほっとすると同時に、気が抜けたのである。
後ろには三百人からの兵隊が眠りこけている。
目の前には、おびただしい数の瓦礫《がれき》が転がっている。
精神力を使い果たしたルイズは、地面に倒れて寝息を立て始めた。
ギーシュがぽつりとつぶやいた。
「このぼくがエルフに勝った。信じられない」
「別にあんたが負かしたわけじゃないでしょ」とモンモランシーが言った。
才人は倒れたルイズを抱え起こした。
「ほら行くぞ。仕事はまだ終わってない」
「どこに行くんだい?」
呆《ほう》けた声で、マリコルヌがたずねる。
「タバサを捜すんだよ」
才人《さいと》はルイズを抱えたまま、中庭から天守に通じる階段を上り始めた。
キュルケは目を覚ました。マリコルヌとシルフィードに抱きかかえられている。髪の毛の焼け焦げた香りが鼻をつく。巻き毛になっちゃったわね、とぼんやりと思った。肌の火傷《やけど》はそれほどではない。どうやらモンモランシーの水魔法が効果を発揮したようだった。
はてさて、自分の炎を自分で浴びることになるとは思わなかった。
あのエルフはどうしたのだろう? 前を歩く才人と、背負われたルイズの姿が目に入る。どうやらエルフはあの二人がなんとかしたようだった。
あたしは、史上初めてラ・ヴァリエールに感謝を捧《ささ》げたフォン・ツェルプストーになっちゃったわね、と思いながら、再びキュルケは気を失った。
イーヴァルディは竜に向けて剣をふるいましたが、硬い鱗《うろこ》に阻まれ、弾《はじ》かれました。竜は爪《つめ》や、大きな顎《あご》や、噴き出す炎で何度もイーヴァルディを苦しめました。
イーヴァルディは何度も倒れましたが、そのたびに立ち上がりました。
竜が止《とど》めとばかりに、炎を噴き出したとき、驚くべきことが起こりました。イーヴァルディが握った剣が光り輝き、竜の炎を弾き返したのです。イーヴァルディは飛び上がり、竜の喉《のど》に剣を突き立てました。
どう! と音を立てて竜は地面に倒れました。
イーヴァルディは、倒れた竜の奥の部屋へと向かいました。
そこには、ルーが膝《ひざ》を抱えて震えていました。
「もう大丈夫だよ」
イーヴァルディはルーに手を差し伸べました。
「竜はやっつけた。きみは自由だ」
そこまで読み終え、母に視線を落とす。安らかに寝息を立てている。先ほどまで響いていた恐ろしい音は、いつの間にか鳴り止《や》んでいた。
扉の向こうに、足音が響いた。
エルフのものでも、兵隊のそれとも違う。
なぜか、タバサの胸は鳴った。
期待が胸に膨らんでいく。
タバサはそれを否定しようとした。
だって、そんなことはありえない。
ありえないのだ。
こんな、ガリアとエルフの国境の地までやってきて、自分を救い出してくれることなどありえない。でも、タバサの耳は、風系統の担い手として鍛えられた耳は、その足音に覚えがあることを教えてくれる。珍しい形の靴。見たこともない、やわらかい足音の響く靴……。
扉をあけようとする音が響く。
ロック≠ェかかっていることに気づいたのか、ガン! と音がして扉は両断された。
学院を飛び出してきたときに見た、黒髪が目に入った瞬間……、タバサの顔は崩れた。懐かしい感情が、忘れていた気持ちが心の中に広がっていく。
安堵《あんど》であった。
才人《さいと》の次に入ってきたのは、ギーシュにマリコルヌだった。ルイズは才人に背負われていた。モンモランシーに、人に化けたシルフィードもいっしょだった。シルフィードに抱きかかえられるようにして、キュルケもいた。
「お姉さま! 無事だったのね! きゅい!」
「おお、よかったよかった! ここにいたのかね!」
ギーシュとマリコルヌも、笑みを浮かべた。キュルケは傷だらけで気を失っている。きっと自分のために戦ってくれたのだろう。
タバサは呆然《ぼうぜん》と、一同を見上げた。
ずっと自分は一人で戦ってきたと思っていた。
でも、自分は一人じゃない。
一人じゃないのだ。
ルイズを背負った才人《さいと》が近づいてきて、自分に手を差し伸べた。
「大丈夫か。怪我《けが》してないか?」
頬《ほお》に温かい何かが伝うのを、タバサは感じた。
タバサは子供の頃《ころ》のように泣いた。
忘れていた、安堵《あんど》の涙を流した。
涙を流しながらタバサは思う。
もしかしたら自分は探していたのかもしれない。
誰《だれ》にも頼れぬ孤独な戦いの中で、己で凍《い》てつかせた心の中で、ずっと、探していたのかもしれない。
囚《とら》われの場所から。
冷えた心の中から。
救い出してくれるイ|ー《勇》ヴァル|デ《者》ィを――――――――――――。
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エピローグ
アーハンブラ城にあった荷馬車を一台頂戴し、一行は夜陰に紛れて街道をひた走った。
シルフィードを使うわけにはいかない。まだ傷が癒《い》えていない身体《からだ》で、八人からの人数を乗せて飛ぶことは不可能であった。身体がまともでも、八人を乗せたら一時間も飛べない。しかたない。シルフィードは未《いま》だ幼生なのであった。
ここから馬車で二日ほどのゲルマニアへと一旦《いったん》入国し、ツェルプストーの領地を通ってトリステインに帰国する手はずであった。
御者台で手綱を握っているのは、ギーシュにマリコルヌ。二人は前を見つめ、疲労と躁《そう》が混じりあった声で会話を交わす。
「なあギーシュ」
「なんだね?」
「冷静に考えてみると、ぼくたち大変なことをしちゃったね」
「うむ。してしまったな」
「国の父上と母上は、どう思うだろうか。近衛隊《このえたい》に勤務するって言ったら、あんなに喜んでくれたのに……。国に帰ったら犯罪者だ。たぶん大変な迷惑をかけるだろうな。いやもう、かけてるかもしれない。参っちゃうね」
「後悔してるのかい?」ギーシュが尋ねた。
「正直に言えば、ちょっとね。でも、行かなかったらもっと後悔してたと思う。クラスメイトの女の子が、理不尽に捕まってる。助けに行かなかったら、ぼくは貴族じゃなくなる」
マリコルヌはため息交じりの声で言った。
「だから後悔してないよ」
ギーシュはそんなマリコルヌの肩をぽんぽんと叩《たた》いた。
「きみはいいやつだな! なぁに、そのうちに恋人だってできるさ。ぼくが保証する」
「ギーシュに保証されても嬉《うれ》しくないよ」
モンモランシーが、そんな二人の間に馬車の荷台から顔を突き出してため息をついた。
「はぁ、なんでここまでついてきちゃったのかしら……。気づいたら、ハルケギニアの果てじゃないの」
「参った参った! あっはっは!」
モンモランシーは脳天気に笑うギーシュを睨《にら》んだ。
「なに笑ってるのよ! 国に帰ったらどうするのって聞いてるのよ!」
「考えてない。そのときはそのときだよ」
「はぁ?」
「まずは国に帰ることを考えようじゃないか。助けたはいいが、無事に帰れる保証はどこにもないんだぜ? ガリア軍だけじゃない。やつらはどうやらエルフも味方につけてるみたいだしね」
「はう……」と大きなため息をついたモンモランシーの肩に、ギーシュは腕を回した。
「安心してくれ。ぼくのモンモランシー。きみはぼくが命に賭《か》けても守るから」
「なんだかわたしってば、完全に貧乏くじ引いたみたいね」
「大丈夫だよ! ぼくはなぜか運が強いんだ! 今回もなんとかなるよ!」
「違うわ。あなたを選んだそのこと自体が、間違いだったって言ってるの」
じろりとギーシュを睨んで、モンモランシーは言った。
「そ、そんな……」唖然《あぜん》としたギーシュの頬《ほお》に、モンモランシーは唇をくっつけた。
「へ?」
「なに情けない顔してるのよ。貧乏くじは引いたけど、別に後悔はしてないわよ」
「モンモン……」
熱っぽい目で見上げるギーシュに、モンモランシーは言い放つ。
「まったく。諦《あきら》めないで、絶対なんとかしてよね! 牢獄《ろうごく》なんてわたしイヤだからね!」
幌《ほろ》のついた荷馬車の荷台には、藁《わら》で包まれた親子とキュルケが寝息を立てていた。タバサの母は、モンモランシーの薬で眠ってもらっている。起きると暴れるためだ。タバサはそんな母親に寄り添うようにして眠っている。よほど気を張っていたに違いない。
キュルケも包帯に包まれて眠っている。モンモランシーの水魔法で、火傷《やけど》は癒《い》えていたが……、かなり体力を消耗していたのだろう。
シルフィードはキュルケとタバサにはさまれる形で眠っている。
荷台で目を覚ましているのは、才人《さいと》とルイズだけであった。
眠るタバサを見つめて、才人は言った。
「なあルイズ」
「なぁに?」
「タバサのやつ、どんな気持ちだったんだろうな。こんな風に、ずっと一人で戦ってきて……。俺《おれ》なんか考えてみりゃ恵まれてるわけだよな。なんのかんのいって、助けてくれる仲間や、お前だっているわけだし……。でも、こいつはたった一人だったんだよな」
「そうね」
「やっぱり、姫さまやアニエスさんにあれだけ反対されても、行ってよかったなって思うよ」
才人はしみじみとそう言った。ルイズも頷《うなず》いた。
「トリステインに帰ったらどうする? ルイズ。まずは先生を助け出して、どっかにかくまってもらうか?」
「あに言ってんのよ」
ルイズは、じろりと才人を睨《にら》んだ。
「え?」
「正々堂々、宮廷に出頭して、お裁きをいただくわ。わたしたちのしたことは、悪いことじゃないかもしれない。でも、姫さまや祖国に迷惑をかけたことには変わりはない。わたしたちは法を犯したのよ。謹《つつし》んで罰を受けねばならないわ」
「そうだよな。うん」
才人は疲れたように頷いた。いつまで牢屋《ろうや》にぶち込まれることになるんだろう? でも、後悔はしていない。やらなきゃ、もっと後悔していたと思う。
そんな才人を見て、ルイズは怒ったような声で言った。
「いいわよ。牢屋に入るのはわたしだけで十分よ」
「ふぇ?」
「陛下の女官であったわたしが、あなたたち近衛隊《このえたい》を扇動して行ったことにすればいいわ」
「な、なんだよ! ふざけんなよ! 俺がみんなをつれていったんだ! 俺の責任だ!」
でももう、ルイズは才人を見ていない。まっすぐに前を見つめ、きりりと引き締まった口元に、固い意志を浮かべている。
踊り子衣装を着ていても、ルイズの高貴さはかけらも損なわれてはいなかった。いやむしろ、そういった下々の格好が、ルイズの貴族としての所作を際立たせていたのである。
才人はルイズと出会った頃《ころ》のことを思い出した。才人がゴーレムに踏み潰《つぶ》されそうになったとき、『使い魔を見捨てるメイジはメイジじゃないわ』と言ったルイズ。ルイズはあの頃と何にも変わってない。己の中にある誇り≠、決しておろそかにすることのない少女……。
そんな想《おも》いを心の内に秘めたルイズは神々しいほど美しかった。俺《おれ》は、こんなルイズだから好きになってしまったんだ、と才人《さいと》は思うのだった。
「ルイズ……、俺……、やっぱりお前は偉いと思うよ。その……」
才人はルイズの左手におずおずと手を伸ばした。しかし、ぱしっ! とその手がはね除《の》けられる。
「触んないで」
「お、怒るなよ」
おろおろしながら、才人はルイズの肩に手を伸ばす。
「触んないでって言ってるじゃない」
ルイズは頬《ほお》を膨らませ、ぷいっと横を向いた。その頬が赤く染まっている。三度目に肩を抱くと、今度は払いのけなかった。怒ったように唇を尖《とが》らせ、身を硬くしている。
一言で言うと、そんなルイズは激しく可愛《かわい》かった。才人はもう、いてもたってもいられなくなり、唇を近づけた。
「やだ」
ルイズは拒んだ。
「そ、そうだよな。キスはご褒美《ほうび》だし。俺、何にもご褒美もらえるようなことしてないし。でもなんか、こう、したいんだ。すごく」
才人が焦った声で言うと、ルイズはにや〜〜〜〜〜〜っ、と特大の笑みを浮かべた。最高に意地の悪い笑みであった。
やっぱり……、こんな情けない顔は、ガンダールヴによって与えられたものなんかじゃない。先ほど才人が言ったように、勇気も愛も、きっと才人自身のもの……。
そう思ったら、安心と同時に優越感がひたひたと湧《わ》いたのである。やっぱりこいつは、わたしのドレイね。なんていうの、恋の奉仕者ね。
それなのにやきもきした自分が情けなかった。傷つけられたプライドが、名誉の回復を要求する。ルイズは立ち上がると腕を組んだ。
思いきり勝ち誇った声で、才人を見下ろした。
「へぇえええええ。あんた、わたしと何がしたいって?」
「……キ、キス」
「聞こえないわ」
得意げな仕草で髪をかきあげ、ルイズは傲慢《ごうまん》に言い放つ。
「キ、キスしたいと、言いました」
すでに才人は正座で敬語である。膝《ひざ》の上で拳《こぶし》を握り締め、悔しそうにぷるぷると震えている。しかたない。キスしたい、と言った時点で、もう負け確定なのであった。
「すごくしたい? 一応聞いてあげるわ。どのぐらい?」
「い、いっぱい」
「いっぱい? もっと具体的に言いなさいよ。あんた、わたしとキスしたいんでしょ? おこがましいったらないわ。ご主人さまとキスしたいなんて真顔で言うけだものの存在に、わたしは感動するわ」
「け、けだものじゃないもん」才人《さいと》はすでにもん≠ナあった。キスしたい一心で、才人の卑屈さが膨れ上がった結果であった。
「けだものじゃないの」
ルイズの眉《まゆ》がつりあがる。キュルケ、メイド、ジェシカ、胸モドキ、姫さま。いろいろプライドを傷つけられた思い出が、次々と形を変える万華鏡の模様のように脳裏に蘇《よみがえ》る。
その思い出に対する怒りがとうとうルイズを目覚めさせた。
奇跡の小悪魔っぷりを、ルイズは纏《まと》い始めた。誰《だれ》に習ったわけでもない。おそらくそれは、ルイズのどこかに眠っていたのだ。今までは、レベルが低くて表に出てこなかっただけなのだ。かつては無意識のうちにこぼれるだけだった己の小悪魔を、ルイズは才人の反応を見ながら操り始めた。
ルイズはにやっと笑みを浮かべ、まず腰に手を当てた。そのポーズだけで、もう才人は死にそうになった。
それだけでは飽き足らず、ルイズは片足を持ち上げ、足の裏を壁につけて寄りかかった。膝《ひざ》で踊り子衣装の腰布が持ち上がり、ルイズの微妙なラインを描く太ももを才人の目に焼きつけた。
同時に軽蔑《けいべつ》を多分に含んだ流し目を送る。
そうなると才人《さいと》はもう、呼吸をするだけで精一杯になってしまった。
鼻歌でも歌うような口調で、ルイズは才人に言い放った。
「で、わたしと何がしたいって言ったの? 何か言ったわよね? そのおもしろい形した口で。ユニークとしか形容しようのない笑える動きで。気味の悪い犬のよだれといっしょに、傑作単語を口にしたわよね。あんたってば」
「キ、キスゥ……」
「じゃ褒《ほ》めて」
果てしなく得意げな態度で、ルイズはさらっと言った。
「……え?」
「いっぱい褒めて。そうね、まずはあのメイドね。シエスタより、わたしが勝ってる部分を百個あげて。じゃないと何もしてあげない」
才人はしどろもどろになりながら、苦しそうに答えた。
「そ、そんなお前……、どっちが勝ってるとか……、お前にもいい部分があって、シエスタにもあって……、一概には……」
ルイズの目に殺気が宿る。がしっと、ルイズは才人の股間《こかん》を踏み潰《つぶ》した。
「あがごげ」
「そんないい子ちゃん、聞いてないのよ。褒めろって言ったの。あんたの主人を、あんたの支配者を、あんたの神を、褒めろって言ったの。聞こえなかった? 死んどく?」
混乱のきわみの中、才人は禁句を口にした。
「え、えっと……、ルイズはぁ! まず胸がぁ!」
「けなしてどーすんのよ」
ルイズの唇が凶悪にゆがんだ。がしっと、踏み潰す足に力をこめる。こぽっ……、と才人の口から妙な嗚咽《おえつ》が漏れた。
その瞬間……。
こほん、と咳払《せきばら》いの音がした。
ルイズが振り返ると、ギーシュとマリコルヌとモンモランシーが、御者台の上から見つめていた。
夢中になって、彼らの存在をすっかり忘れていたのだった。ルイズは顔を真っ赤にした。才人はなんだか夢の世界に旅立っていたので、何がなんだかわからなかった。
「その……、ルイズ。そのぐらいにしておかないと、きみの名誉が……」
困ったような声で、ギーシュは言った。
「ばかね! 退屈だから、ちょ、ちょっと芝居の稽古《けいこ》をしていただけよ! そうよねサイト!」
しかし才人は気絶していたので、答えることができない。ルイズは気絶した才人をいそいそと火事場のバカ力で起き上がらせ、以前シエスタがやったように、後ろに回って操った。
「やあ。おれサイト。今のハ芝居の稽古《けいこ》だったんダ」
ギーシュたちは首を振りながら、前を見る。マリコルヌがため息をつきながら馬に鞭《むち》を入れた。
一行を乗せた馬車は加速する。
不安や喜びや希望、そして誇りに自尊心……、いろんな想《おも》いを満載した荷馬車はゲルマニアの国境目指して、双月の明かりの下、街道を駆け抜けた。
タバサは夢を見ていた。
懐かしい、ラグドリアンの湖畔《こはん》のオルレアン屋敷……。中庭にテーブルが用意されて、優しかった父と母が、楽しげに料理を摘みながら談笑している。
自分は二人に見守られるようにして、母が街で買ってきてくれた人形……。タバサ≠ニ名づけた、お世辞にも造りが上等とはいえない人形相手に本を読んでいた。何度も読んだ、イーヴァルディの勇者≠明るい声で朗読している。今は出せない、朗らかな声が喉《のど》から溢《あふ》れていた。
時の向こうに消えた、優しい時間がそこにあった。
夢の中で、タバサはここが夢だと気づく。なぜなら、あんな風に温かい笑顔を浮かべる父は、もう、どこにもいないのだから。
執事のペルスランが現れて、
「お嬢さまの客人がおいでになりました」と、自分たちに告げた。おとおしして、と母が言った。シャルロットの友達かい? 珍しいな、と父が笑顔で言った。
中庭に学院の仲間たちが顔を見せた。
ギーシュとマリコルヌが、花束を持って現れた。モンモランシーもいっしょだった。
ルイズがちょっと恥ずかしそうな顔で、タバサに紙包みを手渡す。中にはお菓子がたくさん入っていた。
赤い髪が眩《まぶ》しいキュルケがいた。にっこりと笑って、自分を抱きしめてくれた。親友に抱きしめられ、タバサはわけもなく感動した。友人の温もりは何にも代えがたい。まるで自分の凍てついた心が溶けていくようにタバサは感じた。
もう一人の人間でない親友が空から降りてきて、タバサの顔を舐《な》め上げる。
「あなたが、皆に知らせてくれたのね」
シルフィードは、嬉《うれ》しそうに、きゅい、と一声鳴いた。自分に忠実なその使い魔の顎《あご》を、タバサは優しく撫《な》でてやった。シルフィードは目を細める。
最後に現れたのは才人《さいと》であった。
剣を背負った彼は、ゆっくりタバサに近づいてくると、頭を下げた。
「ごめんな。遅くなっちまって」
タバサは、はにかんだ笑みを浮かべて目をそらす。
抱えていた『イーヴァルディの勇者』が、手からすべり落ちた。
わたしは仕えるべき勇者を見つけたのだろうか
どこまでも優しい、温かい夢の中でタバサはそう思った。
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あとがき
ヤマグチです。ゼロの使い魔もとうとう十巻。素晴らしいですね!
アニメだけでなく、ゲームや漫画と、いろいろと世界が広がって、作品が書いた自分の手を離れて行く感じ、というものをひしひしと感じています。
ネット上でファンアートを目にすることも多くなりました。広がっていく感じがして、いいですね。宇宙と同じく、膨張してていいですね。泡状に宇宙は膨張しているらしいです。グレートウォールっていうのが、もう。どうなってんだ宇宙。すごいぞ宇宙。
十巻のテーマは、『勇者』です。勇者ってどういう人のことを言うんでしょうか。昔、ゲームやってて思ったんです。戦士は剣を持つ。魔法使いは魔法を撃つ。僧侶は傷を治す。盗賊はすばしっこい、とか、それぞれわかりやすくキャラが立ってるのに、勇者にはそれがない。だって剣も持てるし、魔法も使えるし……、いったい何をする人を指すんだろうか。
世界を救う人を勇者というのだろうか、と思いましたが、戦士も僧侶も、魔法使いも、世界を救うパーティに入ってるんだから勇者なんじゃないのだろうか。
考えてしまったわけです。勇者というのはプレイヤーの分身で、聞こえがいいから勇者なのだろう、と一人納得してゲームをやっていたのですが、最近、はたと気づきました。
勇者とは、勇気を発揮できる環境に身を置くことのできた幸運な人を指す言葉なのだと。
それは職業ではない、かといって勇気を持った人を指す言葉でもない。なぜなら勇気を持たない男はいないのですから。
それは個人の意思ではどうにもならない。たいていの場合、勇者とされる人は神に選ばれるところから勇者遍歴がスタートします。
つまり、勇者とはなる≠烽フでなく、なってしまう≠ワたは選ばれてしまう≠烽フであるのです。
神の無作為抽出によって選ばれた、勅撰《ちょくせん》勇気発揮人。それが勇者の正体なのです。そんな風に選ばれてしまった≠アとで発揮する勇気は、果たして本人のものなのでしょうか。それとも、神の意思の代弁に過ぎないのでしょうか。
そんな勇者は勇者で大事なのですが、可愛《かわい》い女の子とのラブコメ。これも大事です。なにせこれがないと、日本は国際競争力を失うのです。主人公は登場人物のすべての女の子と恋をせねばならない、とは二十一世紀の作家、ヤマグチノボルの弁ですので、ぼくはこれを踏襲したいと思います。というか登場人物、押しなべてヒロインズは、ぼくの欲求の代弁でありますので、つまりは恋をしながら書いていますので、そうならざるを得ない。キモい? バカいうな! 常識です。そんなこんなで十巻もよろしくお願いします!
[#地付き]ヤマグチノボル
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ゼロの使い魔10
イーヴァルディの勇者
発行 2006年12月31日
(初版第一刷発行)
著 者 ヤマグチノボル
発行人 三坂泰二
発行所 株式会社メディアファクトリー
平成十八年十二月二十三日 入力 校正 ぴよこ