ゼロの使い魔 外伝 タバサの冒険2
ヤマグチノボル
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*INDEX*
*第五話 タバサとギャンブラー………11
*第六話 タバサとミノタウロス………69
*番外編 シルフィードの一日…………125
*第七話 タバサと極楽鳥………………141
*第八話 タバサと軍港…………………191
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口絵・本文イラスト●兎塚エイジ
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第五話 タバサとギャンブラー
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トリステイン魔法学院に、二つの月が淡く、優しい光を送り込んでいた。
ハルケギニアでも有数の格式と歴史を誇る、この学園の本塔の二階ホールでは、貴族の学び舎《や》らしい宴《うたげ》が開かれていた。
フリッグの舞踏会である。
女神の名前がついたこの舞踏会は、毎年春、ウルの月の第一ユルの曜日に開かれる。生徒や教師の枠をこえ、さらなる親睦《しんぼく》を深めることを目的とした舞踏会だ。
この舞踏会でいっしょに踊ったカップルは、将来結ばれるという言い伝えがあるため、男子生徒たちは夢中になって目当ての女子生徒にダンスを申し込み、女子生徒たちは女子生徒たちで、意中の男子生徒をちらちらと盗み見ている。
一人の男子が、女子生徒にダンスを申し込み、やんわりと断られて悔しげに壁を叩《たた》いている。
たくさんの男子生徒に囲まれた魅力的な女子は、遠くで歓談する目当ての男子生徒にさかんに流し目を送るが、彼は気づかない様子。
さて、パーティ会場のいたるところで行われている、そんな熱い駆け引きとは無縁の少女がいた。
タバサである。
短くまとめた青い髪と、透《す》き通るような碧眼《へきがん》が彩る顔は、よくよく見ればかなりの美人であった。しかし、彼女は二つの点で、男子生徒たちの眼中に入らなかった。
まずはその幼い身体《からだ》つき。
黒い、パーティドレスに包まれた百四十二サントの身長は、十五歳にしては低すぎる。おまけに、すとん、と薄い子供のような肢体《したい》は、ダンスや恋のパートナーとしては面白みに欠けた。
もう一つはその性格である。
なにせタバサはしゃべらない。この世に会話というものが存在しないと信じ込んでいるかのように、まったく口を開かない。
話しかけても無反応、ということは広く知られていたために、子供のようなタバサに魅力を感じる酔狂《すいきよう》な男子がいたとしても、ダンスの誘いには二の足を踏んだであろう。無視されることに不快を感じない貴族は、そうそういないのである。
そんなわけで、この日もタバサは、いつもの舞踏会と同じように、黙々と料理と格闘していた。
「あなた、踊らないの?」
燃えるように赤い髪の女性が、そのボリュームたっぷりの肢体の魅力に釣り合う数の男子生徒を引き連れて現れた。
キュルケである。
タバサは親友の方を見ようともせずに、こくりと頷《うなず》いた。
「まったく! 今日の主役は、フーケを捕まえたあたしたちなのよ。楽しまないでどうするの」
昨日、タバサたちは、土くれのフーケと呼ばれる盗賊メイジを捕らえたのである。学院から『破壊の杖《つえ》』を盗み出した悪名高き女盗賊を捕らえた功績により、学院長のオスマン氏より「本日の舞踏会の主役はきみたちじゃ」とのお墨付きを頂いている。
「この場にいる誰《だれ》より、今日の舞踏会を楽しむ権利があるっていうのに! ほら見て御覧なさいな、あの堅物のルイズだって踊ってるわ。相手は自分の使い魔だけど」
キュルケは、会場の一角を指差した。そこでは桃色の髪の少女と、黒髪の少年が、頬《ほお》を染めて踊っている。黒髪の少年は不器用なステップを繰り返すが、桃色の髪の少女は文句をつけるでなく、少年の踊りに合わせて身体《からだ》を揺らしていた。
「まったくダーリンってば、あとであたしが踊ってあげるって言ったのに……、腹が立つわね」
そう言いながらも、本気で怒っているようには思えない。キュルケは確かあのサイトとかいう少年に「恋した!」なんて騒いでいたはずだが……、別に本気ではなかったようだ。キュルケと桃色の髪の少女……、ルイズは仲が悪いから、そのボーイフレンドを取り上げてみたくなっただけなのかもしれない。
まあ、そのあたりのことには、タバサは興味がない。キュルケは目を細めると、タバサの肩に腕を回してきた。
「いいこと? これは親友としての命令よ。とにかく、あなたもたまには舞踏会を満喫しなさい。いっつも黙々と料理をたいらげてるだけじゃないの。今日あなたのパートナーを見つけてきてあげるから、ちょっと待ってなさいな」
キュルケはタバサの頬にキスをすると、人ごみの中へと消えていった。その後を、取り巻きの男子生徒たちが追う。再び一人になったタバサは、サラダの皿へと手を伸ばした。
そのとき……。
舞踏会の喧騒《けんそう》の中、窓から一羽の伝書フクロウが飛び込んできた。灰色のフクロウは、まっすぐにタバサの元へとやってくると、その肩に留まった。
タバサの表情が、わずかに硬くなった。フクロウの足から、書簡を取り上げる。そこには短く、こう書かれていた。
『出頭せよ』
ぼんやりとしていた目に、強い光が宿る。諸々の感情がこもった光だ。タバサはまっすぐに人気《ひとけ》のないバルコニーへと向かった。
手すりから身を乗り出し、タバサは口笛を吹いた。何か大きな生き物の羽ばたく音が聞こえると同時に、タバサは手すりから夜の闇《やみ》へと身を躍らせた。
「タバサー、候補を見繕《みつくろ》ってきたわよ。好きなのを選んで……、え?」
タバサのダンス相手の候補を、十人ほども連れてテーブルに戻ってきたキュルケは、親友が姿を消していることに気づいた。
「どこ行っちゃったのかしら」
きょろきょろとキュルケは辺りを見回した。しかし、青い髪の小柄な少女の姿はどこにも見えない。
キュルケは首を傾《かし》げた。
「まったく、あの子ってば、すぐにいなくなっちゃうんだから!」
トリステインの南西に位置したハルケギニア一の大国、ガリアの首都リュティス……。
都の郊外に築かれた、壮麗なヴェルサルテイル宮殿の一角に桃色の壁の小綺麗《こぎれい》な小宮殿があった。
プチ・トロワと呼ばれるこの小宮殿の中では、その主《あるじ》が首を長くして訪問者を待ちわびていた。
「あの人形娘はまだなの?」
イライラした声で召使に尋ねたのは、ガリア王ジョゼフの娘イザベラ。
腰の上まで伸びた長い青い髪と、碧眼《へきがん》が美しい娘であったが、そんな美徳を意地の勇悪そうな笑みが打ち消している。
召使の少女は機嫌を損ねた姫に恐れをなし、ベッドのそばに控えたまま、ぶるぶると震えていた。
「もう、そろそろかと……」
「退屈しのぎに、賭《か》けでもしようか」
イザベラがそう呟《つぶや》くと、召使はひっ! とあとじさった。
「あと十分以内に、あの人形娘が来たら、お前の勝ち。来なかったら、わたしの勝ち。どう?」
召使はただただ震えるのみ。イザベラは、たまらない、といった笑みを浮かべ、そんな召使の頬《ほお》を杖《つえ》で撫《な》でた。
「わたしが負けたら、そうね、お前を貴族にしてやろう。なあに、爵位の一つや二つ、どうとでもなるわ」
召使の少女は、ガタガタガタと、まるで地震のように大きく震えだした。
「でも、お前が負けたら……、その首をもらうよ」
召使の少女が卒倒した瞬間、呼び出しの衛士がイザベラに駆け寄り、何事か耳打ちした。つまらなそうにイザベラは鼻を鳴らす。
緞子《ごんす》の陰から、顔を出したのはタバサであった。黒いパーティドレス姿のタバサを見て、にやりと笑みを浮かべ、
「珍しく着飾っているじゃないの」
タバサは返事をせずに、じっと立ち尽くして、命令を待った。イザベラは物憂げにテーブルから羊皮紙に書かれた書簡を取り上げると、タバサに放ってよこした。
それを受け取ると、タバサは小さく一礼して、居室を出て行こうとする。
「お待ち」
イザベラはベッドから立ち上がると、タバサのパーティドレスの裾《すそ》をつまみあげた。
「ずいぶんといいものを着てるじゃない。こんなものを買えるほど、手当はもらっていないはず。盗んだんじゃないだろうね」
「母様のお下がり」
イザベラの顔が、一瞬ひるんだ。しかし、すぐに取り繕うと、
「今度の任務の予行練習に、わたしとゲームをしようじゃないか」
と、言われてもタバサはまだ今回の任務の内容に目を通していない。しかし、そんなことにはおかまいなしに、イザベラはポケットからコインを取り出した。
それを弾くと、手のひらの上でキャッチする。
「裏か表か。うまく当てたら、金貨百枚やろうじゃない。でも負けたら、その服をもらうわ。どう、受ける?」
タバサはじっと手のひらを見つめていたが……、首を左右に振った。
「あっはっは! 臆病《おくびよう》だねえ!」
ほっとしたような顔で、イザベラは笑い、タバサの頬を小突き回す。
「あんたみたいな臆病の能無しに、どうして|北 花 壇 騎 士《シュヴァリエ・ド・ノールパルテル》の任務が務まるのか、わたしには理解できないよ! あっはっは! あは……」
笑いの最中、イザベラはタバサの目に気づく。どこまでも冷たい、氷のような目。吸い込まれてしまいそうなほどに、透明な目……。イザベラはその奥に潜む、わけのわからない迫力に気圧《けお》され、思わずあとじさる。自分と同じ目の色なのに……、その深さは水たまりと海ほどの違いがあった。
イザベラは胸をそらし、必死に威厳を取り繕うと、タバサに挑むような視線を投げかけた。
「ふん。今度の任務を直々にわたしが説明してやる。ベルクート街に賭博場《とばくじょう》ができてね、馬鹿《ばか》な貴族どもから派手に大金を巻き上げているのさ。軍警《ぐんけい》を使って店を取《と》り潰《つぶ》したっていいんだが、そうなったら恥をかいちまう貴族が何人もいるんで、おおっぴらに取り締まるわけにもいかない。で、あんたの出番ってわけ。小生意気な賭博場を、潰してくるんだ。儲《もう》けるカラクリも、きっちり暴いてくるんだよ」
「………」
「今回は、怪物や亜人を相手にするのとは勝手が違うよ。ちょっとやそっと戦いが上手だからって、どうにもならないよ」
イザベラはにやっと笑みを浮かべた。それからタバサの足元に、金貨の入った財布を投げた。
「ほら、軍資金だ」
タバサはそれを、無表情のまま拾いあげた。
「賭博場《とばくじょう》で、お前はド・サリヴァン伯爵家の次女、マルグリットと名乗りな。いいね?」
イザベラはそう言うと、改めてタバサに退室を促した。
ガリアの首都リュティス……、中州を挟んで街の北東側は、リュティス市立劇場を中心に、四方に繁華街が延びている。
繁華街の一通り、東西に延びたベルクート街は、貴族や上級市民たちがやってくる高級店が並んでいた。仕立て屋、宿屋、宝石店、リストランテ……。
昼前のこの時間、通りをゆくのは、暇を持て余した貴婦人たちが多かった。召使の少女を従えた着飾った奥方たちが、ゆるゆると通りを練り歩いている。
そんな中、一風変わったいでたちの主従がいた。
タバサと人間に化けたシルフィードである。
「おねえさま、今日はとってもかわいい! なんだかシルフィも嬉《うれ》しい! きゅい!」
白いお仕着せに、革靴を履いたシルフィードが、楽しげにきゅいきゅいとわめいた。タバサは、最近貴婦人たちの間で流行っている男装姿であった。
青い乗馬服に、膝丈《ひざたけ》のブーツ。そして大きなシルクハット。
子供のような身体《からだ》つきのタバサが、そんな格好をするとまるで少年のように見える。大きな杖《つえ》を背中に背負い、タバサは黙々と歩く。
シルフィードは日傘を持って、タバサに掲げながら、半歩後ろからついて歩く。買い物に来た貴族のお嬢様と、そのお付の侍女といった風情《ふぜい》であった。
「で、おねえさま、今度の任務はなんなの? 街中でこんな格好をするってことは、荒っぽい任務じゃないみたいね。きゅい」
嬉しげに、シルフィードは歌いだした。
「ということは〜♪ 怪我《けが》もしない〜♪ 嬉しい〜〜♪ おいしい〜〜♪ るる、るーるーるー」
微妙な音程でシルフィードが歌い始めたので、タバサは小さな声で文句をつけた。
「うるさい」
「だって暇なんだもの。おまけに、こんな窮屈《きゅうくつ》な服を着せてからに。シルフィに歌わせたくなかったら、きちんと今回の任務を説明するのね! きゅい!」
シルフィードは、主人の頭をぐりぐりとこねくり回した。
「あなたには、理解できない」
冷たい声でタバサにそう言われ、シルフィードは怒ってしまった。
「ばかにしないで欲しいのね! これでもシルフィは古代種の眷属《けんぞく》です。人間とは根本的にデキが違うのね! そ、そ、それなのにバカにしたのね! シルフィの頭を憐《あわ》れんだのね! 許さない!きゅいきゅい!」
そんな風に騒ぎ始めたシルフィードを、通りを行く人々が怪訝《けげん》そうな表情で見つめている。
タバサは、杖でぽかぽかとシルフィードのアタマを叩《たた》いた。
「いたい、いたいよう」
「しずかに」
道行く人々の視線に気づき、シルフィードは慌てて首をかくかくと動かした。
「今のは、昨日見たお芝居のセリフなのね。きゅい」
シルフィードが、人間に化けた風韻竜《ふういんりゅう》とバレたら、大変な騒ぎになってしまう。タバサは黙々と杖でシルフィードをつつきまわし、お仕置きをくわえた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。もう言わないのね。きゅい! きゅいきゅい!」
そんなやり取りを続けながら、一人と一匹がやってきたのは、一軒の宝石店であった。大きな木枠にガラスの窓がついた、豪勢な飾り棚が店の玄関の左右に作られている。
その飾り棚の中には、様々なカットが施《ほどこ》された宝石が、銀や金やプラチナの台座に収まり、ネックレスや指輪やイヤリングとなってキラキラ輝いていた。綺麗《きれい》なものが好きなシルフィードが、ガラスに張りついて大騒ぎを始めた。
「うわあ! とっても綺麗なのね! シルフィも欲しいのね! きゅいきゅい!」
タバサはそんなシルフィードを相手にせず、店の中へと入っていく。
店の中は広く、魔法で加工された一体型のガラスケースに収められた宝石が、たくさん並んでいた。タバサはどの宝石にも興味を示さずに、まっすぐ店の奥へと向かう。
一際綺麗なショーケースの中、大きなブルーダイヤモンドが光っていた。じっとブルーダイヤモンドを見つめるタバサに、すぐに店員が駆け寄ってきた。
整髪油で黒い髪を撫《な》でつけた、目が鋭い壮年の店員は恭しくタバサに一礼すると、
「いらっしゃいませ。お嬢様。本日は何をお探しですかな?」
タバサはショーウィンドウの中の、ブルーダイヤモンドを指差した。
「これ」
店員はかぶりを振った。
「お嬢様、失礼とは存じますが、その宝石は売り物ではございません」
「これが欲しい」
タバサはそう繰り返した。店員の目が光る。
「二千万エキューはいたしますが……」
宝石一個の額としては、法外な値段であった。金持ちで有名な大貴族の、総資産にも匹敵する額である。
それでも、タバサは小さく頷《うなず》いた。
「買った」
動じない声で、店員は言葉を続ける。
「では、手付けを頂きますが……」
タバサは無言で銅貨を三枚取り出すと、店員の手に握らせた。ふざけるな、と怒鳴られそうな金額である。
「確かに頂きました。では、こちらへ……」
店員はにっこりと笑みを浮かべると、先に立って歩き出した。カーテンで仕切られた奥の間に入り、大きな棚の横についた紐《ひも》を引っ張った。
魔法でできた仕掛けが作動し、ずるずると棚が横にずれ、大きな扉が現れた。
「どうぞ……」
店員はその扉を開く。扉をくぐると階段があり、地下へと続いていた。タバサは階段を下りた。階段の突き当たりには、大きな鉄の扉があり、横には小さなカウンターがあった。
扉の左右に立った詰襟姿のドアマンが、現れたタバサに一礼する。カウンターの前には、黒服の執事が立って、タバサに恭しい態度で告げた。
「貴族のお客さまでいらっしゃいますか。では、こちらで杖《つえ》をお預かりします」
隣に立ったシルフィードが、心配そうにタバサの顔を覗《のぞ》き込む。杖はメイジの命だ。これがなくては、スペルを唱えることができない。杖を預けるという行為は、|北 花 壇 騎 士《シュヴァリエ・ド・ノールパルテル》、雪風のタバサがただの女の子になってしまう、ということを意味していた。
タバサは、動じた風もなく、杖を執事に渡した。
それを丁重に羅紗《らしゃ》の布で包むと、執事はにっこりと微笑み、ドアマンに目配せする。
ドアマンが扉を開くと、中からどっと、眩《まばゆ》い光と、人々の喧騒《けんそう》と、酒とパイプ煙草《たばこ》の匂《にお》いが溢《あふ》れてきた。
「地下の社交場、“天国”へようこそ!」
きわどい衣装に身を包んだ女性が、入り口をくぐったタバサにしなだれかかった。どうやら、客たちの相手をする女性のようだ。
「まあ! こんなお小さいのに! 坊ちゃん、誰《だれ》かの付き添いで来たの?」
タバサは首を振った。
女は馴《な》れ馴《な》れしい態度で、タバサの首をかき抱いた。
「あら、よく見たら、女の子じゃないの! どこの商家のお嬢ちゃんだい? どっちにしろ、ここは子供の来るところじゃないよ!」
女がそう叫んだら、奥からでっぷりと太った人物が現れた。年のころは四十を過ぎたあたりだろうか。見たところ人当たりのよさそうな商人風だが、目が笑っていない。
「ばかもの。貴族のお嬢さまと、商人の娘を間違えるな」
男は女をしかりつけると、奥へと下がらせた。
「接客係の失礼をお詫び申し上げます。当カジノの支配人である、ギルモアです」
タバサは男に関心を払わずに、辺りを見回した。あちこちで、様々な賭《か》け事《ごと》が行われている。サイコロ、カード、ルーレット……。それらに群がっているのは、いかにも金持ちそうな連中ばかりだ。酒を運ぶ女たちを周りにはべらせ、豪快に笑うもの、思いきり大金をすったのか、頭を抱えて台に突っ伏すもの……、あちこちでそんな悲喜劇が繰り広げられている。
「どうしてこんな地下にカジノを造ったのだ? といった顔をされてますな? いやなに、こんな商売をしているうちに、顔色で思っていることがわかるようになりましてな」
ギルモアと名乗った男は、言葉を続けた。
「知っての通り、カジノは合法ですが、賭け金に上限が定められています。しかし当カジノは、裕福な商家の旦那《だんな》様や、名のある貴族の方々にも満足いくような賭け金を設定させていただいておるのです。したがってこんな地下で細々と営業させていただいている次第。ですから、お嬢さまのような貴族のお客様は大歓迎……」
男はぺこりと頭を下げた。
「安心が第一の当カジノゆえ、慎重を期すために、お名前を伺っております」
タバサは言われたとおりの偽名を名乗った。
「ド・サリヴァン家の次女、マルグリット」
「ありがとうございます。マルグリットお嬢さま、今日はどのようなゲームでお遊びですかな?」
タバサはカジノをゆっくりと見回し、一つのゲームを指差した。
「あれ」
タバサがついたテーブルは、サイコロを使った賭博《とばく》であった。
ルールは単純である。三つのサイコロを振り、出た目を当てる遊びだ。タバサはもらった金貨をチップに変えると、さっそく張り始めた。興味深そうにシルフィードが、タバサの後ろから覗《のぞ》き込む。
初め、タバサは小さく張った。
「そんなちみっこく張らないのね。もっとこう、どばーっと張るのね」
タバサは無言で、盤上《ばんじょう》のダイスを見つめている。
出た目は、三、一、四。
“小”である。タバサが張ったのは、“大”の目である。タバサの張ったチップが、ディーラーの手で回収されていく。
「ああ! 負けちゃったのね! でも一枚だから傷は浅いのね!」
張っているタバサが無言無表情な分、後ろに控えるシルフィードが激しく一喜一憂した。しかし……、張っているチップが少ないとはいえ、最低のレートは金貨一枚分である。なるほど、かなりの高レートの店であった。
タバサは黙々と張りを続けた。預かってきた金は、百エキューほどに過ぎない。負け続けたら、あっという間にすってしまう。
しかし、そんなことはおかまいなしに、一枚ずつ張り続けるタバサを見て、シルフィードがおろおろとし始めた。
「あ、おねえさま。そろそろやばいのね。ほら、また負けた。なんだかもう、シルフィはらはらなのね」
十四回の張りのうち、タバサは二、三回しか勝っていない。
しかし、十五回目……、サイコロを振るディーラーの手を見るタバサの目が、キラリと光った。
タバサは一気に、おおよそ三十エキュー分の金貨を、大に張る。
サイコロの目は、六、四、三。
“大”である。
タバサの目の前に、チップの山が積みあがる。
シルフィードが小躍りして喜んだ。
「おねえさま! すごい! きゅいきゅい!」
そのまま首にかじりついて、ぐいぐいと頬《ほお》を擦《す》り寄せる。タバサはちびちびと数回張って、様子を見ながら大きく張る、ということを繰り返し、手元のチップを増やしていった。
数時間後……。
タバサの目の前には、チップの山が積まれることになった。その額はおおよそ数千エキューほど。
そのチップの山を見たシルフィードが、「わたしもするのね」と、数枚握って消えていく。ルールをよく知らないので、すぐにすっては帰ってくる。
しかし、そんな損などまったく苦にならない。小さな女の子が、たくさん儲《もう》けだしたので、周りにはギャラリーが集まるほど。タバサが一発当てるたびに、周りからは歓声が飛んだ。
若い、長い髪の美しい男が、そんなタバサの隣に座り、香水の匂いを振りまきながら、愛想笑いを浮かべた。
「お嬢さん、すごいじゃないですか。何かお飲みになりますか?」
周りにいた貴婦人たちが、不満の声をあげた。どうやらその若い男は、このカジノで人気の給仕であるようだった。
長い銀髪をかきあげると、切れ長の目が現れる。まるでナイフのような視線だが、人懐っこい光をも含んでいる。魅力的な顔立ちであった。
「お客さまお相手係のトマと申します。どうかお見知りおきを……」
シルフィードが、胡散臭《うさんくさ》げに若い男を見つめ、タバサにぼそぼそと呟《つぶや》いた。
「おねえさま、この男、おねえさまに色目を使ってるのね」
「色目を使っているわけじゃありませんよ」
トマはにっこりと笑った。
「このお嬢さまに妙に惹《ひ》かれるものを感じて、お近づきになりたいと思った次第」
タバサはトマの方を向きもせずに、短く注文した。
「スパークリング・ワイン」
かしこまりました、と頭を下げ、トマは去っていく。
「おねえさま!」
シルフィードが、そんなタバサの頭をかき抱き、ぶんぶんと振った。
「今日という今日は、このシルフィ言わせていただきます。確かにシルフィはおねえさまに、『恋人をつくれ』なんて言ったのね。ですから、男性に興味をお持ちになったのも理解できます。むしろ喜ばしい。でもね? あの男は駄目なのね! なんかいけない香りがぷんぷんするのね! あんなのとかかわり合いになったら、おねえさまきっと不幸になります。ええ、そりゃもうなのね。きゅい」
心配してくれているのであろうが、ちょっと、いやかなりうっとうしいシルフィードの興奮っぷりであった。どうやらこの風韻竜《ふういんりゅう》は、自分が気に入った異性しか、タバサに近づけるつもりはないらしい。
いつものようにそんなシルフィードを無視して、タバサがさらに賭《か》けを続けようとしたとき……、隣のテーブルから怒声が響いた。
「どうなってるんだ! このワシをバカにするのも大概にしろ!」
店内の視線がいっせいにそちらを向いた。激昂《げっこう》してぷるぷると震えているのは、中年の貴族であった。
マントのつくりから、街の下級官史あたりであろう。蒼白《そうはく》な顔をして、怒りに震えている。
「どうなさいました? 旦那《だんな》さま」
店の支配人ギルモアが、にこやかな笑みを絶やさずに貴族に近づく。
「どうなさった、だと? あの場面で、フォー・ファイアがそろうなんてできすぎもいいところだ! イカサマだ!」
「これはこれは、言いがかりと申すもの。ご存知のとおり、当店は貴族のお客さまが来店された際には、必ず杖《つえ》をお預かりする規則になっております。“魔法”を使われたら、こんなちっぽけな店は一発で潰《つぶ》れてしまいますからな! しかしながら、それは我々も同じ条件。見ての通り、杖を持ったディーラー、シューターはどこにもおりませぬ。なんなら、ディテクト・マジックをお使いになられても結構ですよ」
「ぬぬぬ……、では、魔法を使わないイカサマであろう!」
「カードを切り、配ったのはあなたさまでございます。直接ディーラーとやり取りする賭博《とばく》では、公平さと、当店の誠実さを示すために、そうさせていただいているのですが……」
低姿勢だが、どこか小ばかにしたような口調であった。貴族の客は、大股《おおまた》で出口に消えていく。
「お騒がせして、大変申し訳ありません」
そんな騒ぎを、唖然《あぜん》として見つめていた客たちに、ギルモアは頭を下げる。しかし……、本当の騒ぎは、その直後に起こった。
先ほどの貴族の客が、杖を握って現れたのである。預けたカウンターから杖を返してもらうと、帰らずに引き返してきたのだ。
「この、平民|風情《ふぜい》が……、貴族をナメくさりおって!」
ゲームに興じていた客たちが悲鳴をあげて逃げ惑う。
貴族の握った杖の先に、巨大な火の玉が現れた。その火の玉は、ギルモアへと吸い込まれる……、かに見えた瞬間。
素早い影が、ギルモアを抱えて転がった。
「トマ!」
見守っていた客たちから、驚きの声があがる。その素早い影は、果たして給仕のトマであった。
「貴様!」
激昂《げっこう》した貴族は、さらに魔法を放とうとした。その瞬間、トマはギルモアから離れ、弾かれたように立ち上がり、貴族の懐に飛びこむ。
左手の袖《そで》の隙間《すきま》が、キラリと光った。
次の瞬間、貴族の持った杖が真ん中から両断され、先端が床に転がる。
「んなっ!」
貴族の口から間が抜けた声が漏れた。トマは素早く貴族の右手を握り、その喉元《のどもと》に袖から引き抜いた短剣を突きつけた。なんとも、見事な短剣の使い手であった。
「賭博場《とばくじよう》内は、魔法の使用が禁じられております。閣下」
「うお……、おのれ……」
怒りと恥辱《ちじよく》で、目を白黒させながら、貴族が唸《うな》る。
「お引き取りを……」
「貴様、貴族にこんなことをしてただですむと思っておるのか!」
「お言葉ですが、平民ごときに杖《つえ》を切り落とされたことがお上の耳に入れば、そのお立場が危ういことになるかと……」
トマはにっこりと笑って言った。
貴族は怒りに震えていたが、大きく舌打ちすると賭博場《とばくじよう》を出て行った。他の貴族の客は苦い顔になり、平民の客からは拍手が飛んだ。その拍手に、トマは優雅に一礼する。
「あの人、すごいのね。口がうまいだけじゃないみたいね。貴族をやりこめちゃうなんて! きゅい」
シルフィードが、驚いた声で言った。タバサはそんなトマをしばらく見つめていたが……、そのうちにテーブルへと視線を戻し、再び張り始めた。
トマの仕草……、袖《そで》から剣を引き出した仕草に、妙に引っかかりを感じた。どこかで見たような……、でも、思い出せない。
タバサは軽く目をつむり、その考えを頭から追い出す。今は目の前のテーブルに集中せねばならない。でなければ負けてしまう。
夜もふけた頃《ころ》、勝ちに勝ったタバサの目の前には、チップが山と積まれていた。その数はおおよそ一万数千エキューほど。いやはや、見事な勝ちっぷりである。
いつしか周りには、ギャラリーが溢《あふ》れていた。
そして、本日何十回目かの張りのとき…………。
タバサはいきなり、二千エキューの大金を賭《か》けた。
苦しそうな色を浮かべていたシューターの顔が、さらにゆがんだ。冷や汗をたらしながら、サイコロを振る……。
三つのサイコロが、二つのゾロ目をそろえてしまう。シューターは頭を抱えた。息をのんで見守っていたギャラリーからどよめきが起こった。
タバサの前のチップが、一気に倍に膨れ上がる。シューターはがっくりと肩を落とし、首を振った。
少女とは思えぬタバサのギャンブルの才能に、全員が唖然《あぜん》としていた。
そこに、ギルモアが揉《も》み手《て》をしながらやってくる。
「お嬢さま……、これはこれは大変な大勝でございますな。さて、そろそろ夜もふけてまいりましたが……」
どうやらタバサは店の予想以上の大勝をしたようだ。このまま勝ち逃げされては困る、との響きが混じっている。タバサは店主の意に沿うような言葉を返した。
「続ける」
ギャラリーたちから、再びどよめきが起こる。
ギルモアの目が、わずかに細くなった。指をぱちん、と弾くと、シューターがほっとしたような顔になり、ぺこりと頭を下げてテーブルから離れて奥へと消えていく。
「申し訳ありませんが、このテーブルは、シューターが体調を崩してしまったので、お開きとさせていただきます。さて、そろそろ小さな賭《か》け額にも飽きた頃《ころ》ではございませんか?」
タバサは頷《うなず》いた。空気の読めないシルフィードが、きゅいきゅいとわめいた。
「おねえさま! 勝負は引き際が肝心なのね! きゅい!」
「おやおや、お連れさまは乗り気ではないようですな……。どうなされます?」
「きゅ〜〜〜い〜〜〜! お肉どんだけ買えると思ってるのね!」
そんなシルフィードを制して、
「続ける」
タバサは言った。
「ありがとうございます。お嬢さまのようなお強いお客と、ゲームができることは、カジノを経営するものとしてこの上ない喜びです。どうぞご遠慮なく、勝っていってくださいませ」
ギルモアは心にもないお世辞を言いながら、一礼する。
「では、お席をご用意させていただきます」
タバサは、首を振った。
「おや、お気持ちが変わってしまわれましたかな?」
「少し休みたい」
休憩するために、タバサに用意されたのは豪奢《ごうしゃ》なベッドや机が置かれた別室だった。上客が泊まったりするのだろう。ベッドの隣には呼び鈴が置かれ、壁には絵画や彫刻がかざられている。随分と快適な部屋であった。勝ちまくった客を引き止めるために造られたのかもしれなかった。
椅子《いす》に座って、いつものように本を取り出したタバサに、シルフィードがきゅいきゅい文句をつけた。
「まったく……、勝ってるうちが華だというのね。ああ、こんなお部屋に釣られて、勝った分をそっくり吐き出すのがせきの山なのね! きゅい!」
タバサは本から顔を離さず、
「勝ちにきたわけじゃない」
「負ける勝負なんかしちゃだめなのね!」
タバサはシルフィードの耳を引っ張った。魔法を使った盗聴を警戒してか、小さく呟《つぶや》く。
「……この賭博場《とばくじょう》を潰《つぶ》すのが、今回の任務」
「きゅい」
「間違いなく、なんらかのイカサマをしてるはず。それを見つけて、客たちに教える。それで終わり」
なるほど、とシルフィードは頷《うなず》いた。
「で、おねえさまは、さっそくそのきっかけを見つけたってわけね?」
タバサはシルフィードの目を覗《のぞ》き込むと、ふるふると首を横に振った。はあ〜〜〜、とシルフィードはため息をついたあと、タバサの頭をぐりぐりとかいぐりまわす。
「お前はほんとに使えない小娘ね。ちゃっちゃと任務終わらせて、勝ったお金でシルフィにお肉を買うのが裏の任務なのね。忘れちゃだめなのね」
タバサは、例によってされるがままである。
「では、シルフィがなんとかしてあげるのね! イカサマとやらを見つけてあげるのね!きゅい!」
タバサは本から顔をあげると、シルフィードをじっと見つめた。それから首を左右に振り、
「あなたには無理。今回は頭脳戦」
と言い放った。
「それはつまり、シルフィの脳が足りてない、と言いたいわけなのね?」
「そうは言ってないけど、近い」
シルフィードは、きゅいきゅいきゅい! と怒りに満ちた抗議の声をあげた。
「こ、この、古代種のシルフィをつかまえてて、足りてないとは上等なのね!」
「……ゲームでイカサマを見つけることは、いつもの戦いとはまったく違う」
どこまでも冷静な声で、タバサが言った。
「シルフィだって、お役に立ちたいのね」
「気持ちだけもらう。おとなしくしてて」
シルフィードは諦《あきら》めたように、
「なによなによ。バカにして。つまんない! つまんない! ちょっと散歩でもしてくるのね!」
気分を害したシルフィードは、ドアを開けて廊下に出た。似たような、豪華な扉が廊下に沿って十個ほども並んでいる。リュティスの金持ちたちは、毎夜こんなところに泊まって遊んでいるのだろう。
「あるところには、お金ってあるのね。きゅい。まったく、おねえさまってばこのシルフィをなんだと思ってるのかしら……」
ぶつぶつ呟《つぶや》きながら、シルフィードは歩き出した。
一人きりになったタバサは再び本に視線を戻す。その額から、一筋、冷や汗が流れる。先ほどから気を落ち着かせるために本を読んでいたのだが……、内容が頭の中に入ってこない。
イカサマを見つける……、と言ったものの、手がかりが掴《つか》めない。
先ほどの大勝は、シューターの癖を見切ったのと、運が半分ずつだ。賭《か》け金のあがる次からが本番なのだが、いったいどのような手を使ってくるのか、想像もつかない。
先ほどの、暴れた貴族を思い出す。
魔法でイカサマをしているんだろうか?
いや、ディテクト・マジックをお使いになられても結構、と、支配人は自信たっぷりに言っていた。あの自信は本物だ。ほんとうに魔法は使っていないのだろう。
となると……。
タバサは、給仕のトマの早業《はやわざ》を思い出した。袖《そで》から仕込み剣を抜き出した、あの早業……。風系統の使い手の自分でさえ、見切れぬほどの早業だった。
ということは、素早い手つきで行っているのだろうか?
いや、先ほどの貴族は自分でカードを切っていたらしい。
考えれば考えるほど、思考はまとまらない。なるほど、これはかなり手強い任務であった。亜人や幻獣を相手にしているほうが、何倍も楽に感じられる。
「やっぱり、人の最大の敵は人……」
そんな思考の迷宮に陥っていると、扉がノックされた。シルフィードが帰ってきたんだろうか? いや、シルフィードなら扉をノックなんかしない。
「誰《だれ》?」
「給仕のトマです。お嬢さま、飲み物を持って参りました」
トマの声であった。タバサの目が細くなる。
「入って」
ドアが開き、スマートなトマが部屋に入ってきた。恭しくタバサに頭を下げ、ワインの壜《びん》とグラスをテーブルの上に置いた。
「どうぞ」
ワインを置いたあとも、トマは部屋を出て行かない。
無言でワインの壜を手に取ったタバサに、
「失礼とは存じますが……、お嬢さまは、名家のお生まれではないですか?」
タバサは首を振った。
「このような仕事をしていると、人を見れば、どんな人間なのかすぐにわかるようになりましてね……。お嬢さまの立ち居振る舞いは、並の貴族にはまねのできない品位が備わっております。おそらくは、ガリア有数の名家の出身に違いありますまい」
「…………」
タバサはじっと、トマを見つめた。
切れ長の目……、その目の記憶に思い当たる。わずかなタバサのその変化を、トマは見逃さなかった。
「お久しぶりでございます。シャルロットお嬢さま」
「トーマス」
わずかに感情を含ませた声で、タバサは呟《つぶや》く。
「そうでございます。オルレアンのお屋敷で、コック長をつとめさせていただいていたドナルドの息子、トーマスでございます」
短く、トマと名乗っていた、懐かしいトーマスは、深々とタバサに頭を下げた。
「このような場所で再会できたのも、何かのご縁でございましょうか。シャルロットお嬢さまが、あの扉から現れたときには、跳《と》び上がるほどびっくりいたしました」
タバサの頭に、トマとの懐かしい記憶が蘇《よみがえ》る。
自分が小さい頃《ころ》からコック長をつとめていたドナルドの息子、トーマス。タバサより五つか六つ年長だった彼は、小さかった自分の遊び相手に、よくなってくれたものだ。執事のペルスランには、平民と必要以上に交わってはなりませぬ、としかられたものの、トーマスが教えてくれた遊びは、当時夢中であった読書と同じぐらい面白く、ペルスランの目を盗んで、タバサはよく厨房《ちゅうぼう》へと足を運んだ。
「あなたは器用だった」
タバサは、トーマスがよくやっていた手品を思い出した。トーマスは魔法も使わずに、ポケットから何個もボールや鳩《はと》を取り出してみたり、カードの模様を当ててみたり、果てはマントをかぶって姿を消してみせたものだ。
そんな姿を見て、タバサはいつも朗《ほが》らかに笑っていた……。
「あなたの手品を、一度も見抜けなかった」
「そうでございますな」
トーマスは笑った。
そのあと昔を思い出したのか、美しい顔を歪《ゆが》ませて、悲しげな色を目に浮かべる。
「あの忌まわしい事件のあと、お家はお取りつぶし、使用人も散り散りになってしまい……、父はすっかりふさぎこんでしまいました」
「ドナルドは?」
「あのあと、すぐに他界しました。最後まで、お嬢さまの身を案じておりました」
「そう……」
トーマスは顔をあげた。
「しかし、こうやってお嬢さまと再会できたことは、始祖の導きに他なりません。ご無事でなによりでござます。私ども使用人には、お嬢さまのご処遇など、なに一つ知らされませんでしたから。いやはや、様々な噂《うわさ》が耳に入ってきたものです。いわく、他国に人質として売られた、平民に身をやつされた、エチエンヌの城で幽閉されている、修道院に入れられ、尼になってしまわれた……、などなど」
トーマスは、にこっと他意のない笑顔を浮かべた。
「しかし、今のお嬢さまを見るに、そんな想像は杞憂《きゆう》だったようでございますな。見たところ、ご裕福な様子でおられる。ド・サリヴァン伯爵家のご養子になられたとか。あ、いや、これは出すぎた言葉でしたね」
「あなたは?」
タバサの問いに、トーマスは顔をほころばせた。
「こんなわたくしの身を案じてくださいますか! お嬢さまは相変わらずお優しい。ええ、父を亡くしたわたくしは、恥ずかしながらごろつきのような暮らしをしておりました。しかし、そんな折……、ここの支配人であられる、ギルモアさまに拾われたのです」
「…………」
「ギルモアさまは大変立派な方で、私に読み書きを教えてくださり、仕事もお与えになってくださいました。今のわたくしがあるのも、すべてギルモアさまのおかげなのでございます」
それからトーマスは、真剣な顔つきになった。
「さて、そんなお懐かしいお嬢さまに、ご忠告です」
「忠告?」
「はい。ここに先ほどのチップの九割を手形に変えたものを持ってまいりました。シレ銀行で換金できます。これをお持ちになって、裏口より逃げてくださいませ」
「どうして?」
「さる事情があって、それは言えませぬ。ただ、この後のゲーム、お嬢さまは決して勝てない仕組みになっております」
タバサは無言で、トーマスを見つめた。その目には、真剣にタバサの身を案じる色しか浮かんでいない。罠《わな》ではない。彼はほんとうのことを言っている、と判断したタバサは言葉を続けた。
「理由を教えて」
トーマスは困ったように首を振ったが、事情を話さねばタバサは納得しないと思ったのか、話し始めた。
「この賭博場《とばくじよう》は、喜捨院《きしゃいん》なのです」
「喜捨院《きしゃいん》?」
「そうです。富んでいる者から金を巻き上げ、貧しい人々に配る目的でつくられた賭博場《とばくじよう》なのです。したがって、お金をお持ちの方は必ず負ける、そういう構造になっております」
「誰《だれ》がつくったの?」
「ギルモアさまでございます」
タバサは欲深そうな支配人の顔を思い出した。トーマスの話が本当なら、人は見かけによらないということになるが……。
「そのようなわけで、勝った一割は、貧しい者への施《ほどこ》しとお諦《あきら》めくださいませ。残りは私の裁量にてお返しいたします。それで勘弁くださいませ」
タバサは答えなかった。そんなタバサの様子を見て、トーマスはわかってくれたもの、と思ったのか、手形を置くと、一礼して出て行った。
三時間後……。
タバサのために用意された個室のテーブルで、支配人のギルモアは対局相手の到着を待ちわびていた。用意ができたと、女給仕を使って部屋に知らせに行ったのだが、そこはもぬけのカラであった。
「まさか、逃げおったのではあるまいな?」
隣に立ったトマが、とぼけた声で、
「そういえば、先ほどチップを、手形に変えるよう申しつけられまして……」
ギルモアは目を剥《む》いた。
「ばかもの。なぜそれを早く言わぬ」
「相手が子供だったもので、何も疑わずに渡してしまいました」
「気が変わって、帰ってしまったのかもしれんぞ! 引き止めるよう、なぜ工夫をこらさぬ!」
神妙な顔で、トーマスは頭を下げた。
「申し訳ありません。しかし、チップとして一割ものお金を置いていかれました。子供ながら、立派な貴族でございました」
「忘れたのか? 我々は貴族から金を取り上げ、それを貧しいものに配るという、崇高な仕事をしておるのだ」
「さようでございます」
「ならば、その貴族を褒めるような口を叩《たた》くな」
「申し訳ありません」
トーマスは、ほっと胸を撫《な》で下ろした、そのとき……。
個室の扉がゆっくりと開いた。そこに立つ青髪の少女を見たとき、トーマスの顔がゆがんだ。
「お嬢さま……」
現れたのはタバサだった。ギルモアは満面の笑みになって立ち上がると、タバサに椅子《いす》を勧めた。
「おやおや! これはこれは! お待ちしましたぞ!」
タバサは、ギルモアの対面の席に腰掛けた。
「いやはや、お帰りになられたかと心配いたしました! もっともっと、お嬢さまから賭《か》け事《ごと》のコツを教えていただかねば、私どもなど干上がってしまいますからな!」
沈んだ顔で、トーマスは首を振る。そんな給仕の様子には気づかずに、ギルモアは賭け事のルールを説明した。
カードを使ったゲームであった。サンクと呼ばれる、配られた五枚のカードで役を競い合う遊びである。
「では私がお相手をつとめますが……、公平さを期すために、カードを切る役はお嬢さまにお任せいたします。好きなようにカードを切ってください」
タバサはカードを改めた。やはり、どこにも怪しい点は見つけられない。魔法がかかっているようにも見えなかった。マジック・アイテムだとしたら、ディテクト・マジックを使わずとも、タバサほどの使い手ともなれば、わずかな魔力を感じる。
なんの変哲もないただのカード……、そうとしか見えない。
タバサは顔をあげると、ギルモアに告げた。
「場所も選びたい」
一瞬、ギルモアはあっけに取られた顔になったが、すぐに笑顔を浮かべた。
「これはこれは。慎重でございますな! なにも仕掛けなどございませんよ。まあ、テーブルを変えることなど、まったくの無問題でございます」
タバサは用意された部屋を出ると、廊下を歩く。厨房《ちゅうぼう》に気づき、そこを指差す。そこなら、どんな仕掛けも施《ほどこ》されてはいない、そう考えたのである。
「これはまた、大変な場所を選んだものですな!」
厨房にいたコックや給仕たちは、外に追い出され、椅子とテーブルが運び込まれた。
ゲームが始まった。
タバサは恐ろしい速さでチップをすり始めた。タバサのいつもの勝ちパターンは、様子を見ながらちびちびと張りを続け、勝ちを確信したときに、一気に大張りにいくのである。
しかし今回は、そんな大張りがすべて裏目に出た。
ここぞという大勝負の際、あと一歩、というところで、相手の役に届かない。なるほど、先ほどの貴族が暴れた理由がわかるような、負けっぷりであった。
タバサの額に、うっすらと汗が浮かんだ。
残すところ数百エキューの際、タバサの手にチャンス手が来た。風の十三、十二、十一……、九……、とカードが続く。ここで風の十がくれば、ロワイヤル・ラファル・アヴェニュー。最強に近い役の一つがそろう。
そして引いた数は……、風の十。
高貴なる風の道が完成する。
タバサはそろそろとチップを賭《か》けた。しかし、ギルモアも降りない。
賭け金は釣りあがり……、タバサは有り金をすべて張った。
「いやはや! 驚くほどに大きな勝負になりましたな! では、お互いカードをあけることにいたしましょう!」
タバサは珍しく緊張の色を浮かべながら、カードを開いた。見事にそろったロワイヤル・ラファル・アヴェニューを見て、ギルモアの眉《まゆ》が軽く動いた。
「いや、これはまた、奇跡に近い役でございますな……」
「…………」
「“二度続く奇跡は、始祖の思し召し”という諺《ことわざ》がありましたな。となると、これは始祖の思し召し、ということになるのでしょうかな」
ギルモアは手札をあけた。
そこには……、炎の十三から、九までのカードが並んでいた。このゲームのルールでは、高貴なる風は、唯一高貴なる炎に負ける。その唯一の役が、ギルモアの手札であった。
偶然というにはできすぎている。
イカサマに間違いないのだが、いったいどんな方法なのか、見当もつかなかった。
一時間もたたずに、タバサの先ほどの勝ち分は溶けてなくなってしまった。圧倒的なまでの負けっぷりであった。
あっという間に文無しになったタバサは、それでも席を立とうとしない。頭の中では、どんなイカサマを使ったのか? それだけが渦巻いている。とにかくその手法を明らかにしなければ、自分の任務は成功しない。
「さて、お嬢さま。どうやらチップがなくなってしまったようですが……、これ以上お続けになるのなら、新たにチップを買っていただかなくては」
タバサは首を振った。
「おやおや、それではゲームは続けられませんな。これにてお引き取り、ということになりますが……、お家のお名前で、賭け金をお借りになることもできますよ?」
再びタバサは首を振った。今名乗っている名前は偽名である。そんなことをしたら、さらに窮地に陥る結果になってしまう。
いつしか、廊下に面した窓から、ギャラリーが覗《のぞ》いていた。タバサみたいな小さな女の子が、支配人を相手に勝負をしてるのが面白いのであろう。ギルモアはそんな観客の目を意識してか、とんでもない提案を出してきた。
「お嬢さま、こういうのはどうです? お金がないなら、服を賭《か》けては」
その提案に、集まった観客から、野次と歓声と怒声が飛んだ。
タバサは頷《うなず》いた。相手のイカサマを見破れていない。このまま帰るわけにはいかない。再びゲームが始まった。
しかし……、どうにもタバサは相手の手が見破れない。
上着を脱いだ。
シャツを脱いだ。
ズボンを脱いだ……。
四つの勝負で、タバサはレースのついたシュミーズ姿になってしまった。タバサの薄い胸が、悔しさで上下する。
ギルモアはそんな貴族の少女を見て、楽しげに笑みを浮かべた。
タバサの中に悔しさが膨れ上がる。
魔法を使った勝負なら、今まで負けたことはない。でも……、一度戦いの場と方法が変われば、自分は能無しではないか。
レースのシュミーズ……、これをとられたら、あとは下着一枚きりである。
「お嬢さま、お続けになりますかな?」
ギルモアが言った。タバサは頷いた。ギルモアの横で震えていたトーマスが、タバサに駆け寄った。
「お嬢さま、おやめくださいませ。勝負事に熱くなっても、いいことなど何一つありません! このままでは、お嬢さまはいい物笑いのタネです! 私の知っているシャルロットお嬢さまなら……」
タバサは短く、言った。
「わたしはもう、シャルロットじゃない」
「お嬢さま」
「おやおや、お知り合いですか!」
そう言いながら、ギルモアはトーマスを疑わしげに見つめる。こいつ、何か余計なことを言ってないだろうな? と、そんな顔であった。
「では、次はそのシュミーズをお賭けになるということで……」
タバサは必死になってカードを切った。ゆっくりと、あらゆる場所に注意を払いながら、そのカードを配る。
どこにもおかしいところはない。そして自分の手にはチャンス手。
ギルモアには、また自分より、一手いいものが入っているのだろうか?
わからない。
もう、何も判断できない。わかっているのは、何回やってもイカサマの尻尾《しっぽ》が掴《つか》めない、ということだけだ。タバサは己の無力さに歯噛《はが》みした。
手札があけられた。
案の定……、ギルモアの手が、一歩上を行っている。自分のカード、相手のカード、どうやったらここまでコントロールできるのだろう?
「では、その一枚を脱いでいただこう」
タバサは震える手で、シュミーズの肩紐《かたひも》に手を置いた。そのまま下に下ろそうとしたとき……。
「待つのね!」
廊下から、素《す》っ頓狂《とんきょう》な声が響いた。
振り返ると、青い髪の忠実な使い魔、シルフィードが立ってこっちを見ていた。一斉にその場の全員の視線が、シルフィードに向けられる。
「おねえさまへの狼藉《ろうぜき》、許せないのね!」
「おやおや、お連れさまではございませんか。今は大事な勝負の最中です。水を差さないでいただきたい」
シルフィードは珍しく、激しく炎のような怒りの色を、その目に浮かべていた。
「でも、もっと許せないのは、こっちなのね!」
後ろ手に持った籠《かご》を、シルフィードが突きつけたとき、勝負の最中、まったく動かなかったギルモアの顔色が変わった。
「貴様! それをどこで!」
「あんたたち薄汚い人間が、どこで悪さをしようとも、この古代種……、いや、もとい、とっても偉いシルフィードにはすべてお見通しなのね! 廊下に出てみたら、なんだか助けを求める声が聞こえるのね! ええ、シルフィにしか聞こえない、“大いなる意思”によってつくられた言語で、助けを求める声がなのね!」
シルフィードの持った籠から、一匹の小さなイタチ……、が、ひょこっと姿を見せた。普通のイタチと違い、大きな青い、澄んだ光る目を持っている。
その姿が見えた瞬間……、タバサとギルモアが使っていたカードが、一斉に同じイタチのような生き物に姿を変えた。
「これは“エコー”! 偉大なる古代の幻獣なのね! そのエコーの持つ“精霊の力”を利用して、あくどい金稼ぎの片棒を担がせるなんて、“大いなる意思”への侮辱も甚だしいのね!」
どうやら、そのエコーという生き物は、先住の“変化”の魔法で、姿を変えられるらしい。なるほど、タバサが魔力を感じ取れなかったのも無理はない。先住の魔法と呼ばれる、精霊の力は、メイジたちの使う系統魔法とは根本から違う。
カードに化けていたエコーたちは、高い、澄んだ声で鳴きながら、シルフィードの元へと駆け寄る。シルフィードも二言、三言、なにやら似たような言葉で返事をした。エコーたちはシルフィードにまとわりついた。
「こんなにかわいいエコーたちの子供を利用して、大人のエコーに言うことをきかすなんて! お前みたいなのは、このシルフィードがじきじきに成敗してやるのね!」
シルフィードが叫んで、飛びかかろうとした瞬間……。
その後ろにいた客たちが、ギルモアに飛びかかった。
「こいつめ! 騙《だま》しやがって!」
「つるしあげろ!」
しかし……、そんな連中の前に、トーマスが立ちふさがる。
群がる客たちの前で、すらりと袖《そで》から剣を抜き放つ。
「ギルモアさまに手出しは許さん」
トーマスの実力を知っている客たちは、たたらを踏んだ。その隙《すき》に、トーマスは袖から何かを取り出し、口で先端を引きちぎる。中には燐《りん》が仕込んであったらしく、激しい煙が巻き起こり、客たちはパニックに陥った。
煙が晴れたあと、トーマスとギルモアの姿は掻《か》き消《き》えていた。
「ギルモアさま、こっちです」
トーマスの手引きで、ギルモアは裏通りに通じる抜け道から外に出た。ごみごみした狭い路地裏では、猫たちが集会を行っていたらしく、いきなり割れた仕込み壁に驚き、ふにゃあ! と鳴き声をあげて逃げ惑う。
「しかし、あの連れの娘……、どうしてエコーの声が届いたのだ。通常、人間には聞こえぬ鳴き声だというのに……」
ギルモアが、混乱した調子で言った。
「疑問はあとです。今は姿を隠して、再起をはかりましょう」
「う、うむ……」
歩き出そうとした二人の前に、小さな影が立ちふさがる。
「お嬢さま」
タバサであった。
急いで来たのか、シュミーズにマントを羽織っただけの涼しげな格好だった。しかし手には、しっかりと節くれだった杖《つえ》が握られている。
「どうして、この抜け道がおわかりになったのですか?」
「風を辿《たど》った」
こともなげに、タバサは言った。地下につくられたカジノの空気の流れは、特定の方向を向いている。とはいっても、よほど鋭敏な感覚を持っていないと、知覚できないほどの風の流れである。
タバサは、すっと手を突き出した。
「シレ銀行の鍵《かぎ》」
預金を預けてある銀行の金庫の鍵を出せ、とタバサは言っているのであった。引き出される前に、イカサマによって負けた客に、分配して返さねばならなかった。そうしなければ恥をかいてしまう貴族が、何人もいるのであった。
その言葉で、ギルモアは何かに気づき、いきなり地面に頭を擦《す》りつけた。
「あなたさまは、もしや政府のお役人ですか? そうならば、どうかお見逃しくださいませ! 我らは義賊でございます。富める方々からほんの少しお金をちょうだいし、それを貧しい人々に……」
そこまで言ったとき、タバサの後ろからシルフィードが顔を出した。
「そんなの大嘘《おおうそ》なのね! エコーたちが言ってたのね! お前は、施《ほどこ》しなんか一切してないのね! 全部自分の懐に入れて、好き放題の生活をしていたのね!」
ギルモアは、悔しげに立ち上がると、ポケットから火打石式の小型|拳銃《けんじゅう》を抜いた。
「当たり前だ! 誰《だれ》が貯めた金を配るようなまねをすると思っている! トマ! こいつらをやってしまえ!」
トーマスはせつなげな表情を浮かべたあと……、ギルモアを守るように、前に出た。
「トーマス」
タバサは翻意《ほんい》を促すように、トーマスの名前を呼んだ。しかし、トーマスは首を振る。
「薄々と、わかっておりました。でも彼は……、それでもギルモアさまは……、行くところのなかったわたくしを拾ってくれた恩人なのです」
それからトーマスは、悔しげな顔でタバサを睨《にら》んだ。
「お嬢さまは王政府の人間ですか?」
一瞬の間ののち、タバサは頷《うなず》いた。
「なぜですか? どうしてお嬢さまは……、お父上をお殺《あや》めになった王政府に協力するのですか? わたくしには、そちらの方が理解できませぬ。貴族ではないわたくしには、お嬢さまの考えがわかりかねます。シャルロットお嬢さま……。どうして?」
「わたしはもう、シャルロットじゃない」
トーマスは、猫類の動物が獲物に飛びかかる瞬間のように、軽く身を沈ませた。いつの間にか右手は、左の袖口《そでぐち》に添えられている。
タバサは無造作に、杖《つえ》を左手に下げたまま。
「お嬢さまを傷つけたくはありませぬ。杖《つえ》をおおさめください。この距離ならば、私はメイジにも引けをとりませぬ」
タバサは、貴族を見事にあしらった先ほどのトーマスを脳裏に浮かべた。仕込み剣だろうか。いや、次も同じ手とは限らない。いったいどのような手を使うのか、想像もできない。
タバサは杖を構えた。
「お嬢さまと、ことを構えねばならぬとは……、これ以上、悲しいことはありませぬ」
「…………」
「お嬢さまは、私めの手品を見切れたことはございませんでしたな」
トーマスの美しい、切れ長の目が、さらに細まる。
タバサは呪文《じゅもん》を詠唱した。
「イル・フラ……」
それより早く、トーマスの手が動いた。
袖《そで》から飛び出したのは、キラリと光る投げナイフであった。正確にタバサめがけて飛んでくる。タバサは唱えたエア・ハンマー、空気の鉄槌《てっつい》を、防御に使わねばならなかった。空気の塊にナイフが弾かれ、壁に突き刺さる。
そのナイフはフェイントであった。
次にトーマスは先ほどの煙幕弾を噛《か》み千切る。狭い路地裏に煙がもうもうと立ちこめ、辺りは真っ白になった。トーマスは左手から剣を引き抜いた。ごろつき時代に、何度もメイジと悶着《もんちゃく》を起こしていたトーマスは、メイジ相手の戦いになれていた。
このような場合……、メイジはまず視界を確保しようとする。煙を払うために呪文を使うはずだ。その呪文の声を聞き取り、そこに攻撃をしかける……。
そのようにして、トーマスは何度も勝利を収めてきた。
今回も同じだ。
タバサの呪文の詠唱を待てばよい……。
だから、いきなりタバサが真正面に現れたとき、トーマスは驚愕《きょうがく》した。トーマスが慌てて剣を突き立てるより速く、タバサの杖がトーマスの鳩尾《みぞおち》にめり込む。
どことなくほっとした声で、トーマスは呟《つぶや》いた。
「呪文を唱えずに、杖を剣のようにお使いになるとは……、貴族の戦い方とは思えませぬな」
「手品のコツは、見せている手が囮《おとり》。あなたが教えてくれた」
「なるほど、逆に魔法が誘い手でしたか……」
満足そうに頷《うなず》いて、トーマスは地面に崩れ落ちる。
タバサは悲しそうに目をつむった。
ギルモアから貸金庫の鍵《かぎ》を取り上げたタバサは、魔法で眠らせたトーマスとギルモアを街の外れにある宿屋へ預けた。
別に彼らを捕縛せよとの命令を受けていたわけではない。王宮に居場所を知らせるつもりもない。どのみちタバサには、彼らの罪を問うつもりはなかった。どんな手を使っても勝つ。それが勝負というものだと、タバサは思っていた。賭博《とばく》だって例外じゃない。
タバサは小宮殿に出頭し、任務を終了させた。
任務を成功させたタバサを、イザベラは憎々しげに睨《にら》みつけ、運がいいね、と一声言い残し、寝室へと戻っていった。
そして魔法学院へ戻るため、タバサは再びシルフィードに跨《またが》り、空をゆく。
「しっかし、あいつら許せないのね! シルフィの遠い遠い、いやもう遠すぎるけど親戚《しんせき》みたいな仲間たちを使ってひどいことするのね! あのギルモアって男、昔森で偶然あのエコーの子供を拾ったそうなのね。枯れ葉に化けたエコーの子供を見て、その能力に気づいたと。でもって、返してやるから言うことを聞け、なんつって、あのインチキをやらせていたらしいのね」
タバサは無言で、カードを弄《いじ》っていた。
弄りながら、今回の任務を反笏《はんすう》する。
それにしても盲点であった。
人間には先住魔法は使えない。その先入観があったから、まさか“先住の魔法を使う生き物を利用する”などの方向に考えが巡らなかった。
まだまだ自分には修行が足りない。あらゆる戦いを学び、実力をつけねばならない。それができなければ……、自分の本懐は遂げられないであろう。
「ところで、おねえさま、あずかったお金はどうしたのね? 百エキューはあったのね」
「返してきた」
無造作にタバサは言った。
「ええ〜〜〜! 信じられない! どれだけお肉が買えたと思ってるのね! きゅい!」
「…………」
「今回はシルフィの得点なのね! このわたしがいなければ、おねえさまはその雪みたいな肌を、衆目にさらしていたのね! 感謝するのね! きゅい!」
そんなシルフィードの目の前に、タバサは一枚の金貨を突き出した。
「でも、一枚だけ持ってきた」
「やったあ! お肉! おーにーく!」
しかしタバサはそれに答えず、びん、と弾くとクロスさせるように握り、両手をシルフィードの頭の上に突き出した。
「どっち? 当てたら、全部お肉を買ってあげる」
シルフィードは、びくん! と身体《からだ》を震わせた。
「う、う〜〜〜ん、右のような気もするし、左のような気もするし……、えっと……、う〜〜〜ん」
「どっち」
「待ってなのね! 今一生懸命考えてるのね! おねえさまの癖からいって右? いや、とみせかけて左?」
シルフィードはうんうん唸《うな》り始めた。この分では、学院についても決められないに違いない。
タバサはそんなシルフィードから目を離し、空の向こうを見つめた。
もっと……、もっと強くならねばならない。
あらゆる意味で。
そう決心する一人を乗せた悩める一匹は、魔法学院を目指して、飛び続けた。
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第六話 タバサとミノタウロス
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「おねえさま、おなかがすいた。おなかがすいた。きゅいきゅい!」
そう言って騒ぐのは、タバサを乗せて空を飛ぶ、使い魔のシルフィードである。しかし、タバサは本のページに視線を落とし、シルフィードの呼びかけには応《こた》えない。
とある任務からの帰り道である。
いつも、まっすぐ魔法学院に帰るだけなので、シルフィードとしては、たまには寄り道などしてみたいのである。
「ねえねえ、おねえさま。トリステインに帰る途中、村とか街がたくさんあるのね。きっと、その地方特有のお料理とかあるに違いないのね。つまりは、地方の珍味ってやつなのね。試すの、悪くない考えだと思うのね」
タバサはそんなシルフィードのおねだりに頷《うなず》いたことはない。ただ一言、「時間がない」と言って無視をする。
「たまにはいいじゃないのね。ほら、あそこに風韻竜《ふういんりゅう》は街を発見。尖塔《せんとう》とか、寺院があって割と素敵な街なのね。さてさて、どんな名物があるのか気にかかるのね。ああ、気になりだしたらおなかが限界まですいたのね〜〜〜! もう飛べない。だめきゅい」
フラフラとシルフィードは落下し始めた。もちろん演技である。するとタバサは本を閉じた。
「わあ! やっとその気になったのね! きゅい!」
違った。タバサは今まで読んでいた本を鞄《かばん》にしまうと、新しい一冊をとりだし、読み始めた。
シルフィードの顔が青くなった。いや、元々青いのだが、さらに真っ青になった。
「期待させといてひどいのね〜〜〜〜〜〜!」
怒ったシルフィードは、地面めがけて急降下を開始した。タバサは途中で振りきられ、空中に投げ出される。しかし、まったく動じずにページをめくった。
街のはずれの森の中に着陸したシルフィードは、素早く“変化”の呪文《じゅもん》を唱えた。
「我をまとう風よ。我の姿を変えよ」
シルフィードの周りに、青いつむじ風がまとわりつき……、その姿を麗しい若い女性へと変えた。
先住魔法、“変化”の呪文である。
タバサのそれとそっくりな青い長い髪を翻《ひるがえ》させ、人間に化けたシルフィードは上を見上げた。小さなタバサが、落下してくる。
彼女は地面に激突する瞬間、大きな長い節くれだった杖《つえ》を小さく振って、“レビテーション”を唱える。お座りの姿勢のまま、地面に降り立つと、何事もなかったように本を読み続ける。
「本の虫娘、じゃあお前はここで日が暮れるまで本でも読んでいるがいいのね。シルフィードは、あの街で何かご馳走《ちそう》を食べてくるのね。きゅい」
街へと向かって走り出したシルフィードは再び小走りで戻ってくる。
「これじゃ、きっとまずいのね。おねえさまたち人間のいうところの、すっぱだか状態なのね」
シルフィードは、タバサの肩からマントをひっぺがし、それを身体《からだ》に巻きつけた。木に絡まっていたツタをむしりとり、腰に巻く。
「これでOKなのね」
どこからどう見てもOKではなかったが、シルフィードは満足げに頷《うなず》いた。再び駆け出し……、森の中から街道に飛び出し、街を囲む城壁の中へと消えていく。
そんな風に使い魔が消えてしまったというのに、タバサはじっと本を読み続けていた。静かな森の中に、タバサがページをめくる音だけが響く。
三十分もした頃《ころ》、シルフィードが駆け足で戻ってきた。
「お金がないのね! ダメって言われたのね!」
シルフィードはきゅいきゅいわめきながら、タバサの身体をまさぐり始めた。
「ああ〜〜〜! 早くお金を出すのね! ほら! さっさとお出しなのね!」
人が聞いたら強盗と間違われそうなセリフを、シルフィードはまくし立てる。
しかたなくタバサは立ち上がった。このままでは身ぐるみ剥《は》がされかねない。
「やったあ! きちんとシルフィードにご飯を食べさせる気になったのね!」
きゅいきゅいきゅい、とシルフィードはわめいた。
街をぐるりと囲む煉瓦《れんが》造りの城壁に、ぽっかり開いたアーチ状の入り口をくぐると、城壁と同じ煉瓦で組み上げられた、こぢんまりとした宿場街があった。街道を挟み、建物は並んでいる。人口は数百人といったところだろうか。
主要な街道から外れた宿場街のためか、それほど行き交う馬車や旅人は多くはない。一軒の酒場を指差し、シルフィードはわめいた。
「おねえさま! ここ! ここのお店なのね! ほら、中からとってもいい匂《にお》いがするのね!」
シルフィードが指差す店に、タバサは入っていった。
木でできた粗末なテーブルが三つ。客は老婆と、行商人らしい男が二人。奥にはカウンターがあって、太った中年の店主が入ってきたシルフィードを見て眉《まゆ》をひそめた。
「またきやがったか! さっきも言っただろうが。金のねえやつに食わせる料理はないってね!」
シルフィードは、怒った声でわめいた。
「お金はもってきたのね!」
「ほんとか? おまけに子供まで連れてきやがって……」
そこまで言って、店主はタバサの格好に気づいた。大きな杖《つえ》に、五芒星《ごぼうせい》のタイピン。
「へ? 貴族?」
「ここにおわすお方をどなたとお思いなのね。泣く子も黙るガリアの北花壇……」
シルフィードがとうとうと口上を述べようとしたので、タバサはついっと杖を動かして、その頭を叩《たた》いた。
「あいたっ! なな、なんでもないのね。泣く子も黙る、ガリアのただの騎士さまなのね」
「とにかく貴族のお客さまなら話は別だ。ささ、空いてる席におかけください。貴族さまをお迎えするような上品な店じゃあねえが、この辺りでは割と評判でね」
店主は次々に料理を運んできた。なるほど、シルフィードの鼻が反応しただけあって、どの料理もなかなかうまそうである。
「これもおいしいのね。あ、これもおいしい。このワインで煮込んだお肉なんて、とろけるほどに柔らかいのね。おいちびすけ、このあぶり鳥をためしてみるのね。中に野菜やらキノコやらが詰まってて、たいしたもんなのね」
ぱくぱくとシルフィードは料理を食べ始めた。タバサも、それに続く。食べ始めると、タバサは早い。小さな身体《からだ》のどこにそんなに入るんだ? というくらい次々と料理をたいらげていく。
そんな中……、一番隅のテーブルに座っていた老婆が立ち上がった。老婆はさっきからタバサの食べっぷりをじっと見ていたのだが……。
老婆はよろよろとタバサたちのテーブルに近づいてくると、その足元にひざまずいた。
枯れ木のように、痩《や》せこけた老婆であった。ボロボロの麻の服を纏《まと》い、革の靴には穴があいている。薄汚れた頭巾《ずきん》の奥の目には、この枯れ果てた身体のどこにあったのだろうかというぐらい、涙がいっぱいに溜《た》まっていた。
「ん? どうしたのね?」
シルフィードがきょとんとした声で尋ねると、老婆は涙声でタバサに訴えかけた。
「騎士さま! 騎士さまにお願いがありますのじゃ!」
「お願い? おなかがすいてるのね? じゃあ、いっしょに食べるのね。きゅい」
人のよいシルフィードは、皿を突き出した。しかし老婆は首を振る。
「違います、違います、わたしは物乞《ものご》いではありませんのじゃ。騎士さまをこれと見込んで、お頼みしたいことがありますのじゃ」
奥から店主が出てきて、老婆の肩を掴《つか》んだ。
「おいばあさん! そういうことは他所《よそ》でやってくんな! 商売の邪魔だ! 失礼しました騎士さま。このばあさん、頭が少しアレなんで」
「お前に話しているわけじゃないよ! 黙ってておくれ! ごほ! ごほごほ!」
クソババア……、と、咳《せ》き込《こ》む老婆に店主が腕を振り上げた。
その腕をタバサの杖《つえ》が、遮った。
「騎士さま?」
「かまわない」
小さくタバサが首を振ったので、店主はしかたなくカウンターの奥へと消える。
タバサは咳き込む老婆の前にしゃがみこみ、ワインの杯を差し出した。
「飲んで」
老婆はすするようにワインを飲んだ。ゆっくりとその呼吸がおさまっていく。
「おお、この婆の頼みを聞いてくれますか……」
「ほっときなせえ! このばあさん、昨日ふらりとやってきたと思ったら、来る客来る客に同じことを話すんでさ! まったく薄気味悪いったらありゃしねえ!」
タバサは店主の言葉を無視して、老婆を促した。
「話して。なにがあったの」
「ミノタウロス?」
タバサたちのテーブルで、老婆はとつとつと自分たちの村、エズレ村に起こった悲劇を語った。
最近、村の近くの洞窟《どうくつ》に、ミノタウロスと呼ばれる牛頭の怪物が住み着いた。
ミノタウロスは若い娘を生贄《いけにえ》に要求しているのだという。毎月一人寄越さねば、村人を皆殺しにすると脅しているらしい。
「騎士さまに、是非ともあの罰当たりな怪物を退治して欲しいのでございます……」
老婆は泣きながらに訴えた。
「十年ほど前にも、一度ミノタウロスは住み着いたのです。そのときも、こうやって行きずりの騎士さまにお退治願ったんでございます」
「領主様に訴えな! それが筋ってもんだ!」
「エメルダ様にはもう訴えただよ! だが、多忙を理由に断られちまっただよ! まったく絞るだけ年貢を絞るくせに、いざとなるとナシのつぶてだわさ! こんなちっぽけな村一つ、どうなってもいいってことだわさ!」
すると店主は、困ったように言葉を返した。
「なんだね、まあ、気の毒だが……、それがお上ってもんだ。というかなぁ、知ってるだろ? この辺りじゃ最近、子供の誘拐事件が流行ってる。ミノタウロス退治どころじゃねえんだよ」
「なんだい、わたしらみたいな貧乏人は、黙って娘がとられるのを我慢しろっていうのかえ?」
「いや、そうは言ってねえが……、物事には順番ってものがあるだろうよ」
老婆はそれ以上、店主の言葉に耳を貸さずに、タバサに向き直った。
「重ねてお願い申し上げます。なにとぞ、あの化け物を退治してくだされ。最初に生贄に選ばれたのは、わたしの孫娘なのでございます……。可愛い可愛い娘なんです。まだ嫁入り前だってのに、この世の幸せをなに一つ知らんで死ぬなんて、ほんとに可哀想《かわいそう》な話じゃありませんかえ」
それまで黙って聞いていたシルフィードが、老婆の肩に手を置いた。
「おばあさん、可哀想だけど、ミノタウロスはまずいのね。おねえさまは相当なやり手だけど、今回ばかりは相手が悪いのね。したがって辞退させていただきます」
ミノタウロスは首をはねてもしばらくは動くことのできる生命力を持ち、巨大ゴーレム並みの怪力を誇る、恐ろしい怪物だ。
それだけじゃない。
その皮膚《ひふ》は刃や矢弾など受けつけないぐらいに硬いのである。その上、ミノタウロスはほとんど洞窟から出てこない。狭い洞窟では、身軽なタバサは動きを封じられる。おまけに、よどんだ空気の中では、風魔法はその威力を完全には発揮できない。
「なあばあさん。そこの騎士さまは、まだ子供じゃねえか。それに一文にもなりゃしねえ仕事に、手をつける貴族がいるもんかい」
「金ならあるよ! 村中で集めたんだ!」
老婆は革袋を取り出し、タバサの前にぶちまけた。銅貨がバラバラと舞い落ちる。しかし、目につくのはせいぜい銀貨が数枚。キラキラ光る金貨は一枚も入っていない。
店主がため息混じりに言った。
「三エキューもねえじゃねえか」
タバサはすっくと立ち上がった。老婆はその足に取りすがった。
「騎士さま! 後生でございます!」
「その金で命を捨てろっていうほうが、無茶だぜ」
シルフィードもすまなさそうに頭を下げる。
「村を捨てることをお勧めするのね」
タバサが、ぽつりと呟《つぶや》いた。
「どこ?」
「え?」
一瞬、老婆は戸惑ったが、了解の意味と気づき泣き崩れた。
「おおお、ありがとうございます! ありがとうございます!」
「おねえさま!」
シルフィードが、きゅいきゅいわめいて、タバサの翻意《ほんい》を促そうとした。
「さすがにミノタウロスはまずいのね! 洞窟《どうくつ》の中で勝負するしかないのね! おねえさまみたいな風使いには、それが激しく危険なのね!」
しかし一旦《いったん》決断したタバサは梃子《てこ》でも動かない。
老婆を促すと、すたすたと歩き出した。
「ああもう! 知らないのね! 穴の中で戦うなんてごめんなのね! シルフィはここで待ってるのね!」
シルフィードは床の上に、どすん! と座りこんだ。そうしていたってタバサが戻ってくるわけもない。店主がそんなシルフィードに声をかけた。
「あんたも若いのに、無鉄砲な主人に仕えて大変だなあ。まったく、貴族とはいえ、まだ子供だろうに。その上、ミノタウロスの恐ろしさを知らんわけでもあるまいに」
「ほんとなのね! あのちびすけ、シルフィの助言を聞いたことないのね!」
「同情するよ。うん」
店主は頷《うなず》いた。それから右手を差し出す。
「で、お勘定」
「同情するんじゃなかったのね?」
「それとこれとは、まったく話が別だ」
シルフィードはそわそわしていたが、おもむろに立ち上がると店を飛び出した。
「ああもう! おねえさま! 待ってなのね! 待ってなのね! きゅい!」
「やい! 待ちやがれ!」
タバサに追いついたシルフィードは、怒る主人にタバサからもらった金を払い、ぶちぶち文句を言いながら村への道を歩き始めた。
老婆は、ドミニクと名乗った。道すがら、ドミニクはタバサたちに語った。
ミノタウロス討伐を依頼したが、領主さまはナシのつぶてなこと。
「わたしらの村、エズレ村はわずかな畑があるばかりのなにもない村なんですえ。絞るだけ絞ってもあまり税が取れぬ村など、守るおつもりにはならんのでしょうな……」
街から徒歩で三時間ほども行くと、そのエズレ村が見えてきた。鬱蒼《うっそう》と茂る森を背後に抱いた、小川に挟まれた小さな村である。なるほど、領主が見捨てたのも頷《うなず》けるようなわずかな畑が広がるばかりの寒村である。
村の周りは、獣よけの柵《さく》に囲まれていた。棒切れで作った粗末な門をくぐると、あちこちから村人が集まってくる。
「騎士さまを連れてきたよ!」
その声で、村人たちの間から歓声が飛んだ。が、村人たちはタバサを見ると、途端にがっかりした表情になる。
「なんでえ……、子供かい……」
「こ、子供といったって、騎士さまにはかわるまいよ!」
ドミニク婆さんがそう騒いだが、村人たちは肩を落として、それぞれの家へ帰っていってしまった。シルフィードが、深いため息をついた。
「おねえさま、ほら、村人もああ言っているし、今回は帰るのね」
しかし、タバサはそんなシルフィードの言葉に耳を貸さずに、ドミニク婆さんを促した。
「あなたの家はどこ?」
「こっちです。いやはや、村人たちの無礼をお詫《わ》びします……。気を悪くなさらんでください。みんな、必死なんです」
ドミニク婆さんの家は、村のはずれにあった。土を焼いて固めた壁の、素朴な造りの家であった。ドミニク婆さんが扉を開くと、中では可愛い少女と、その母親らしき女性が、二人抱き合ってさめざめと泣いているところであった。
入ってきたドミニク婆さんを見て、少女が顔をあげた。
「おばあちゃん!」
「ジジ、もう大丈夫だよ。ほら、騎士さまを連れてきたからね」
ジジと呼ばれた少女は、十七ぐらいの娘であった。栗色《くろいろ》の長い髪に、茶色の瞳《ひとみ》がくりくりと動いている。なるほど、ミノタウロスでなくてもとって食べてしまいたくなるような愛らしさである。
「まあ!」
ジジは一瞬、タバサを見て悲しそうに口を歪《ゆが》めた。次にタバサの握った、大きな節くれだった杖《つえ》を見て顔を輝かせる。
「なんて大きい杖かしら!」
母親らしい女性が、タバサの足元にすがりついた。
「ありがとうございます! どうかこの娘を救ってやってくださいませ!」
その夜……、タバサはジジの一家に歓待された。藁《わら》にもすがる思いの一家は、とぼしい食材をはたいて精一杯の料理を作り、タバサの前に差し出した。
タバサはすぐには料理に手をつけず、どうやってミノタウロスが生贄《いけにえ》を要求したのかを尋ねた。母はおそるおそるといった様子で、獣の毛皮を一枚持ってきた。
「これを……」
革の内側に血文字で、『次に月が重なる晩、森の洞窟《どうくつ》前にジジなる娘を用意するべし』 と書いてあった。
ハルケギニアの空に浮かぶ二つの月が、重なるのは明日の晩である。
タバサはその文字をじっと見つめた。筆跡は荒かったが、ハルケギニアで公用となっているガリア語であった。悪知恵の働くミノタウロスは、人の言葉をも操るのだ。
「この手紙が広場の掲示板に張られたのは、先週のことですが……、その際、森へ消えていく牛頭の化け物の姿を、何人もの村人が目撃しています。ああ、十年前と同じです。洞窟に住み着いたミノタウロスは、十年前もこうやって毎月、娘を一人要求したんです。そしてとうとう、この子の姉も……」
悲しそうな声でジジを見つめ、ジジの父は言った。
「街を通りがかった騎士さまが、あの憎らしいミノタウロスを退治してくれなかったら、この村は全滅していたに違いないよ」
ドミニク婆さんが、街の食堂で言った言葉を繰り返す。
「十年前も我々は、有り金を持ち寄って街へ討伐してくれる方を捜しに行ったんです。ラルカス様と名乗る騎士さまを見つけ、退治をお頼みすると快く引き受けてくださいました。ラルカス様はかなり苦戦され、大怪我《おおけが》を負われましたが、火の魔法を駆使されて、見事ミノタウロスを退治なさったのです」と、ジジの父は説明した。
「なんであの洞窟にばかり、ミノタウロスは住み着くんだろうね……」ジジの母親が疲れた声で言った。
しばらく沈黙が流れたあと……。
ジジの父は、顔の周りのひげを揺らしてタバサに尋ねた。
「騎士さまは、何をなさっておいでなんですか? 助けてくださるのはとてもありがたいが、どうして我らの願いを聞いてくれたんで?」
タバサは短く答えた。
「修行中」
なるほど、とジジの父は頷《うなず》いた。どこかの大貴族に仕えることのできるような実力を蓄えるために、諸国を修行してまわっている貴族は少なくない。
「……おそれながら騎士さま、お願いがございます」
黙々と料理を口に運んでいたタバサは、ジジの父の声に顔をあげた。
「その……、どれだけ強力な魔法をお使いになれるのか、ちょっと使ってみてくれませんか?」
ジジの母が、声をあららげた。
「何を言ってるんだい、あんた! 失礼なこと言うもんじゃないよ! せっかく助けてくださるっていうのに……」
「でもお前、見たところ騎士さまは大変お小さい。万が一力及ばず、わしらの娘のために、犠牲になられては申し訳ねえ」
真面目な声でジジの父は言った。
「この騎士さまにだって、ご家族がおられるだろうに。ご修行は結構だが、向かう相手を間違えてはいけねえよ」
すっくとタバサは立ち上がった。ジジの母とドミニク婆さんが驚いた顔になった。
「失礼をお詫びします! どうか! どうか娘をお助けください!」
二人は、気分を害したタバサが帰ってしまうのではないかと心配したのだった。
タバサは杖《つえ》を振ると、短くルーンを唱える。
風がそよぎ、窓がそっと開いた。
「え?」
次にタバサは、先ほどより長いルーンを唱える。
「ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ウィンデ」
空気中の水蒸気が一瞬で氷結して、何本もの氷の矢となった。
氷の矢が、窓の外へと飛び出して、派手な音を立てて何かに突き刺さる。
「ひッ!」
一家は頭を抱えてうずくまる。ジジの父はおそるおそる顔をあげ、窓へと駆け寄った。
「うひゃあ……」
木でできた柵《さく》を支える杭《くい》に、氷の矢が一本ずつ深々と突き刺さっていた。その正確な狙《ねら》いと、固い木にめり込む威力を見て、父親は感嘆の声をあげる。
「失礼いたしました。どうか見事ミノタウロスを討ち果たし、ご修行の糧となさってくだせえ……」
寝る前に、タバサはジジの父に一つだけ質問した。
「十年前も、娘の指定はあった?」
「いえ……、十年前は、ただ“若い娘”と書いてあったように思いますが……、だからくじ引きで決めたんです。それが何か?」
タバサは、首を振った。
「なんでもない」
タバサにはその家で一番上等な寝床が用意された。といっても、ジジの家……、というかこのあばら家は部屋が一つっきりなので、家族全員がここで寝るのであった。壁に設けられた暖炉の火が消えると、部屋は真っ暗になる。タバサのおかげで安心したのか、ジジの両親とドミニク婆さんの寝息がすぐに聞こえてくる。
シルフィードはなかなか寝つかれず、同じ寝床で寝ているタバサの頬《ほお》をつついた。タバサも起きていたようで、シルフィードに顔を向けた。
「ねえおねえさま。昼間は黙っていたけれど、今度という今度は言わせていただきます。ミノタウロスがどれだけ危険なのか、戦ったことのないおねえさまは知らないのね」
「知ってる」
「なにがどう危険なのか言ってみるのね」
「なかなか死なない」
「おやおやよく知ってるじゃないのね。ほめてあげるのね」
シルフィードは、タバサの頭をぐりぐりと撫《な》でた。
「そう。あいつら、生命力が尋常じゃないのね。首をはねても動き回るのね。でも、それだけじゃないのね! 皮膚《ひふ》が鋼鉄みたいに硬いのね! ちょっとやそっと傷つけたぐらいじゃ、びくともしないのね!」
「わかってる」
「わかってないのね。おねえさま、自分の系統ご存知? 風。そう、風なのね。おねえさまは風を刃や矢にかえて、相手を切り刻むのがお得意なんだけど、その“刃”がミノタウロスにはほとんど通用しないのね! 立ち向かうのは自殺行為なのね。きゅい」
タバサは応《こた》えずに、毛布に潜り込む。
「ああもう!」
じたばたするシルフィードの肩を、ちょんちょんと誰《だれ》かが叩《たた》いた。
「で、でで、出たのね!」
慌てるシルフィードの耳に、すまなさそうな声が届く。
「わ、わたしです……」
薄い寝巻きに身を包んだ、ジジであった。彼女はタバサに向き直ると、申し訳なさそうに首を振った。
「騎士さま……、申し訳ありません。よければ、このままお帰りになってください。わたしのために、誰かが犠牲になるのは耐えられません」
タバサはぽつりと、小さく言つた。
「あなた一人の問題じゃない」
ジジは、その言葉で黙ってしまった。そうだ。彼女で味をしめたミノタウロスは、腹がすいたらまた村人に生贄《いけにえ》を要求するに違いない。
どこかで誰かが絶ち切らねば、犠牲者の鎖はどこまでも伸び続けるのだ。
「寝て」
「……騎士さまはすごいですわ。こんなにお小さいのに……、魔法ってやっぱりすごいんですね。完全無欠の、奇跡の技なんですね……」
ジジは、思いなおすように呟《つぶや》く。タバサはぽつりと、独り言のように応《こた》えた。
「魔法は完全じゃない」
そう短く言い残し、タバサは、小さく寝息を立て始めた。
いったいこのちびすけには、何か勝算があるのだろうか? といぶかしみながら、シルフィードもしかたなく眠りについた。
翌日、朝が来てもタバサは目覚めなかった。
太陽が昇っている間、タバサは眠り続け……、夜になる。
時刻は八時ぐらいだろうか。やっとのことで、のそのそとタバサは寝床から這《は》い出てきた。心配そうな顔の一家がタバサを覗《のぞ》き込んでいる。
「……騎士さま。いよいよですが」
タバサは頷《うなず》くと、隣でぐうぐう寝ていたシルフィードをぺちぺちと叩《たた》いた。依然、“変化”の呪文《じゅもん》で人間に化け続けているシルフィードは脳が疲れるために睡眠の量が半端じゃない。したがってほぼ一昼夜寝ていてもまだ寝たりないぐらいの勢いである。
そんなシルフィードは寝ぼけた声をあげた。
「ふがふにゃ……、もう食べられないのね。そんなにお肉もらっても、シルフィ困っちゃうのね。きゅい」
タバサはさらにシルフィードを叩いた。
「ふぎゃ! なんなのね! なんなのね!」
「そろそろ行く」
するとシルフィードは、その髪と同じぐらい、真っ青な顔になった。
「はあ……、やっぱり行くのね。きゅい」
次にタバサは、ジジの父を振り向いた。
「洞窟《どうくつ》まで案内して」
「こんなことだと思ったのね」」
村から歩いて三十分、鬱蒼《うっそう》と茂る森をくぐり、切り立った崖《がけ》にぽっかりと開いた洞窟の前で、シルフィードは呟《つぶや》いた。
ここまでタバサたちを案内してきたジジの父は、先に村へと帰した。素人がいても邪魔なだけと判断したタバサは、帰って、と言ったのだが、なかなか父親は首を縦に振らなかった。何度も強く説得すると、悔しそうに武器代わりのクワを握り締め村へと戻っていった。
シルフィードはジジの衣装を無理やり着させられ、洞窟の前で縛られて転がされている。
目立つ青い髪は、ジジと同じ茶色に染め上げた。
「……シルフィの鱗《うろこ》の色である蒼《あお》を、こんな色に染め上げてからに。あのちびすけ、わたしをなんだと思っているのね。この誇り高き古代種たるシルフィに対する、種としての敬意が感じられないのね。いつか噛《か》みついてやるわ。きゅい」
近くの茂みに隠れたタバサに、シルフィードは呪《のろ》いの言葉を投げかけた。
シルフィードがそんな呪いの言葉を吐くのも無理はない。
いやはや、ぽっかりと崖に口をあけた洞窟は実に不気味であった。高さは五メイル、幅は三メイルほど。中は真っ暗でどれだけ深いのかもわからない。今にも中から牛頭の怪物が現れそうで、シルフィードは震えた。腕を縛るロープは、すぐに解けるようになっているとはいえ、それでも不安でたまらない。
しかし……、タバサはミノタウロスに勝てるんだろうか?
確かにタバサは滅法強い。
それはシルフィードも認めている。
しかし魔法には相性がある。刃系の攻撃が多い風系統は、硬い皮膚《ひふ》を持った生物と相性が悪い。そして、ミノタウロスはその代表なのだ……。
シルフィードは空を見上げ、そろそろ重なろうかという二つの月に祈った。
「大いなる意思よ。この可哀想《かわいそう》な使い魔を守りたまえなのね」
どれだけ待っただろうか。
三十分にも、二時間にも感じられた。双月がゆっくりと重なり、辺りが薄暗くなった頃《ころ》……。洞窟の中ではなく、右側の茂みが、ガサリ、と動いた。タバサが隠れた地点とは、シルフィードを挟んで逆の方向である。
「きゅいきゅい! きゅい!」
伝説の風韻竜《ふういんりゅう》とは思えない、情けない悲鳴をシルフィードはあげた。
次の瞬間……、薄い月明かりに、大きな牛の頭が、のそつと現れた。
「きゅい〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!」
さらに激しい悲鳴が、シルフィードの喉《のど》から絞り出される。
やがて怪物の身体《からだ》全体が現れた。
がっちりとした大男の身体であった。身長はニメイル近い。手に大きな斧《おの》を下げ、ゆっくりと辺りをうかがうようにしてシルフィードに近づいてきた。
「ミノタウロス!」
シルフィードはじたばたと暴れた。後ろ手の縄をほどこうとしたが、慌てているのでうまくほどけない。
「おねえさま! 助けて! おねえさま!」
しかしタバサの返事はない。というか出てこない。ミノタウロスは近づき、シルフィードの腕をがしっと掴《つか》んだ。
「いやぁあああああ! 怖い〜〜〜〜! きゅいきゅいきゅーい!」
“変化”の呪文《じゅもん》を解けばすぐにでも逃げられるのだが、恐怖ですくみあがったシルフィードは、そんなことも忘れてしまい、首を振って暴れまくる。
すると……、ミノタウロスの顔が近づき、シルフィードに呟《つぶや》いた。
「動くな。殺すぞ」
「へ?」
「よっこらしょ」
ミノタウロスはシルフィードを抱え上げ、そのまま元来た方角へと引き返し始めた。なんだか様子がおかしいことに、シルフィードは気づいた。
臭いが……、亜人特有の獣臭がしないのである。その代わり、うっすらと汗のかおりがただよう。
汗?
とりあえずじたばた暴れるのはやめて、シルフィードはミノタウロスを観察した。そうすると……、首付近の皮と首の間に、微妙な隙間《すきま》があることに気づいた。
「きゅい?」
その上よく見ると腕に生えた毛は、獣のそれじゃない。どう見ても人間の毛であった。シルフィードの中に、ふつふつと怒りがわいてきた。
こいつはミノタウロスじゃない! ミノタウロスに化けた人間だ!
わめいてタバサにそれを知らせようと思ったが、とっくにタバサはそれに気づいているに違いない。人間なら、おそらく一人じゃない。仲間がいるはずだ。タバサはそう考えて、自分たちを尾行しているんだろう。シルフィードは、叫ぼうとした声を飲み込んだ。
「きゅいきゅいきゅいきゅいきゅい……」
小さく怒りの声を漏らすと、ミノタウロスに化けた男に凄《すご》まれる。
「うるせえ。黙ってろ」
お前なんか、おねえさまに懲らしめてもらえばいいのね! と心の中でシルフィードは叫んだ。果たして、男が向かう先にカンテラの明かりが見えた。
明かりを中心に、ならず者たちの姿が浮かぶ。
その数は五人。
薄汚れた革の上着に身を包んだ人相の悪い連中である。それぞれ手に武器を持っていた。錆《さ》びた短剣が二人、ホイールロック式の拳銃《けんじゅう》を握った男が二人。最後の一人は、長柄の槍《やり》を握っている。
「持ってきたか。ジェイク」
拳銃を握った、太った男の言葉が、さらにシルフィードの頭に血をのぼらせる。この韻竜《いんりゅう》の自分を捕まえて、“モノ”扱いは許せない。
しかしシルフィードは騒がず慌てず、怯《おび》えたふりをした。
「あわわわわわ……、あなたたち、何者なのね……」
ミノタウロスの姿に化けた大男が、つまらなそうな声で言った。
「お前にゃ、関係ねえ」
「剣を持った人が二人に、銃が二人。槍まで持っちゃってからに……。ミノタウロスの人は大きな斧《おの》なのね。ああ、怖いのね。あう、恐ろしいのね」
激しくわざとらしいが、シルフィードはタバサに聞こえるような声で言った。ジェイクと呼ばれたミノタウロスに化けた大男が、シルフィードを地面に放り出した。
「お前……、よく見りゃ、ジジじゃねえな?」
「なんだと? エズレ村で、売れそうな別嬪《べっぴん》はあの娘ぐれえのもんだぜ?」
男たちは、シルフィードを取り囲んだ。シルフィードは慌てて首を振った。
「違わないのね! ジジなのね! きゅい!」
「ちげえねえ。ジジはこんな顔じゃねえ」
「こいつでもいいじゃねえか。よく見りゃ、かなりの美人じゃねえか。ジジより高く売れそうだぜ」
拳銃を握った太っちょがそう言ったが、ジェイクは取り合わない。
「そういうわけにはいかねえ。こいつなんだか怪しいぜ。おいお前、何者だ? ……領主の手の者じゃねえのか?」
「違うのね」
ジェイクは低い声でシルフィードに尋ねた。
「おい、エズレ村の村長の名前を言ってみろ。お前があの村の者なら、言えるはずだな」
シルフィードは、たらり、と冷や汗をたらした。そんなの、知らない。
「どうした! 村長の名前が言えねえとはどういうことだ!」
「きゅい」
「きゅいじゃねえだろ!」
男たちはそれぞれの得物を、シルフィードに突きつけた。
その瞬間。
暗闇《くらやみ》の中から、氷の矢が音もなく次々と飛んできた。
「ぎゃ!」
男たちの肩に、手に、正確に氷の矢は突き立ち、男たちは握った武器を取り落とす。
「おねえさま!」
暗がりの中からタバサが現れた。男たちは残った手で、武器を拾い上げようとしたが、タバサに制された。
「動かないで。次は心臓を狙《ねら》う」
突然現れた貴族に、男たちはすぐに戦意を喪失する。利き腕がやられた以上、武器を拾って貴族に反撃するなど論外であった。
小さい身体《からだ》から、冷たい、氷のような威圧感を放ちながら、タバサは小さな声で尋ねた。
「あなたたちは、何者?」
男の一人が、震えた声で答える。
「み、見てのとおりの人売りでさ」
こうやって目をつけた若い娘や子供を誘拐して、いろんなところに売りつける連中だ。ハルケギニアには、こんな連中がうようよしているのだ。
「こいつら! このシルフィをモノ扱いしたのね〜〜〜! 許せないのね!」
飛びかかろうとするシルフィードに、タバサは言った。
「仕返しはあと。縛り上げて」
「は、はいなのね!」
シルフィードは、自分の腕や身体に巻きつけられていたロープを使って、男たちの手首を一まとめに縛り上げる。次に武器を拾い上げ、ととと、とタバサの横へと駆け寄った。
「おねえさま、もしかして、こいつらがミノタウロスじゃなくって人間の人さらいということに気づいていたのね?」
「確信はなかった」
ぽつりと、タバサは言った。
「いつ気づいたの?」
「手紙。あの字は、ミノタウロスが書いたにしては整いすぎていた。それに……、ミノタウロスが娘の指定をするなんて、考えられない。若い娘なら誰《だれ》でもいいはず」
シルフィードは、じっと小さな主人を見つめた。
「……なんでシルフィに黙ってたのね」
あっさりと、タバサは言った。
「敵を欺くには、味方から」
「おねえさまは、絶対いい死に方しないのね。さて、じゃあ誰《だれ》があの手紙を書いたか言うのね!」
しかし、男たちは答えない。
「早く誰がリーダーか言うのね!」
「私だ」
縛り上げられた男たちからではなく、後ろから声がした。タバサは咄嗟《とっさ》に振り返ったが、後ろに立った男のほうが速かった。
「ラグーズ・イサ……」
先ほどタバサが放った呪文《じゅもん》と同じ、ウィンディ・アイシクルが飛んだ。氷の矢が、タバサの節くれだった杖《つえ》を吹き飛ばす。
暗がりの中から、小さな杖を持った男が現れた。
「これはこれは……。こんなところで、貴族様が何をしておいでなのかな?」
男は四十過ぎほどの、痩《や》せ気味の貴族であった。
いや……、貴族の名を捨てた、ただのメイジだ。髯《ひげ》も髪もしばらく手入れをしていないらしく伸び放題。貴族の象徴であるマントも羽織っていない。
その目は欲で濁り、頬骨《ほおぼね》の浮いた顔は、世俗の垢《あか》に塗《まみ》れている。
タバサはじっと男を見つめた。メイジは風魔法を唱え、男たちを縛っていたロープを切りとばした。形勢逆転を見て取ってか、先ほど武器を奪われた男たちが、再びシルフィードから武器を取り上げ、下卑た笑みを浮かべながらタバサとシルフィードを取り囲む。
誘拐団のリーダーらしいメイジは、上から下までタバサを眺め回した。
「見たところ、かなりの高貴の生まれのようだが。武者修行かね。しかしまあ、随分と間の悪い」
「誰?」
短く、タバサは尋ねた。
「はは。名前など、何年も前に捨てた」
宮廷内外の勢力争いに敗れたり、破産して身をやつす貴族は少なくない。この男もそんな一人なのだろう。
「そうだな、“オルレアン公”とでも呼んでもらおうか。あの間抜けな王弟と同じさ。兄に冷や飯を食わされてね、反発して家を出た」
タバサの顔が、怒りで歪《ゆが》んだ。こんなやつに、父の名前が使われるのは許せなかった。
「しかし、なかなか世の中は甘くないもんでね。不本意ながら、今は不幸な娘たちの奉公先を斡旋《あっせん》する仕事をしている」
「素直に人売りだって言うのね!」
シルフィードがわめいた。しかし、メイジの男は涼しい顔。
「ああ、そうともいう。しかしなぁ、今日はいい日だと思わんかね。相当な上玉と、貴族の娘が手に入るなんてな。こいつらを縛り上げろ。おっと、抵抗するなよ」
杖《つえ》を取り上げられたメイジは無力だ。タバサは荒くれ男たちに、手足を縛り上げられてしまった。シルフィードは怒りに震えながら、“変化”の呪文《じゅもん》を解いて、男たちに襲いかかろうとした。
しかし、メイジと武装した六人が相手では、韻竜《いんりゅう》の姿に戻っても勝てるかどうかわからない。なにせ自分は、まだ幼生なのだった。
「でも、お前たちみたいなやつらは許せないのねー!」
シルフィードがそう怒鳴って呪文を解除しようとした瞬間である。
メイジの男の腕が、肩から吹っ飛んだ。
「え?」
メイジは、一瞬なにが起こったのかわからない、というように、地面に落ちた己の腕を見た。その目が大きく見開かれ、ついで絶叫がその喉《のど》から絞り出た。
「ぎぃやああああああああああああああああ!」
武器を構えた男たちが、騒然となった。
「な、なんだ! なんだこいつは!」
メイジの後ろから現れた巨大な生き物を見たとき、男たちはパニックに陥った。高さは二・五メイルはあるだろうか。丸いボールを繋《つな》ぎ合《あ》わせたような筋肉が体中に盛り上がり、見る者を圧倒する。その右手には、子供の大きさほどもある大斧《おおおの》を握り締めていた。今まさに、メイジの右腕を切り落とした大斧であった。
そして、異様なのはその頭である。
太い角が巻貝のようにねじれながら生えていた。
突き出た口からは涎《よだれ》が垂れ下がる。
鼻と口から吐き出された息が夜風に当たり、白くにごる。
首の上に存在するのは、紛れもなく雄牛《おうし》のそれであった。
灰色の身体《からだ》を揺らして、怪物は咆哮《ほうこう》した。
「うるぅろぉおおおおおおお!」
「ミノタウロス! ほんものじゃねえか!」
男たちは、ミノタウロスめがけて拳銃《けんじゅう》を撃った。しかし、銃弾はミノタウロスの厚い皮に阻まれ、中にめり込むことすらできずに勢いを失い、ぽとん、と地面に落ちる。
一歩ミノタウロスが歩き出すと、男たちはリーダーであるメイジを置いたまま、算を乱して逃げ出した。
ミノタウロスはあとを追いかけるでもなく、縛られ、地面に転がされたタバサたちを見下ろす。その身体《からだ》から発せられる獣臭は紛れもなく、亜人のそれであった。
シルフィードは、ロープに巻かれたまま震えた。
ミノタウロスは大斧《おおおの》を振り上げる。
シルフィードは目をつむった。
ぶん! と風を切る音がして……、地面に大斧が突き刺さる音がする。
「きゅい?」
おそるおそる目を開くと、大斧はなんとシルフィードを縛ったロープを切り落としていた。しかし、すごい力である。大斧を、まるで包丁を使うようにして軽々と扱い、手首からすぐそばのロープを切り落としたのであるから。
ミノタウロスは、次にタバサのロープを切り落とした。
それから、地面をのたうちまわる腕を失ったメイジに向かい……、その腕を再び肩に押し当てた。その喉《のど》から、野太い声が響く。獣の咆哮《ほうこう》ではなく、れっきとした人の声である。しかし、どことなくぎこちない。ミノタウロスの喉を使って、無理やり声を絞り出している……、そんな風にも聞こえた。
「イル・ウォータル……」
「じゅ、じゅ、呪文《じゅもん》?」
シルフィードは慌てた。
ミノタウロスが呪文を使うなど、聞いたこともない。
メイジの腕が、みるみるうちに繋《つな》がっていく。なんとも見事な、|水系統の呪文《ヒーリング》であった。
腕を繋げてもらったメイジはぐったりと地面に横たわった。
「こいつをそのロープで縛りなさい」
ミノタウロスが丁寧な口調で言った。シルフィードは頷《うなず》くと、呻《うめ》くメイジをさっきまで自分を縛っていたロープで縛り上げる。
ロープを解き終わったタバサは、ミノタウロスに尋ねた。
「……あなたは?」
「そうだな。この姿では、わたしが何者なのか気になるだろうな。まあいい。きみたちは貴族のようだから、説明しよう。こっちに来たまえ」
ミノタウロスは、タバサたちを促した。
連れてこられたのは、先ほどの洞窟《どうくつ》であった。縛り上げたメイジをシルフィードが背負い、一行は中へと入っていく。冷えた、湿った空気が奥から流れてくる。中は真っ暗であった。
「おお、きみたちはこの暗がりでは、歩けないな。これを使うといい」
ミノタウロスは隅に転がっていた松明《たいまつ》を取り上げた。たびたび使われているのか、湿っていない。タバサは“着火”の呪文《じゅもん》を唱え、その松明《たいまつ》に火をともした。
洞窟《どうくつ》の中は予想以上に広かった。
染み出る水が岩盤を溶かして作られた鍾乳洞《しょうにゅうどう》だと、ミノタウロスが説明した。柱のような石筍《せきじゅん》が地面から何本も突き出し、天井からは石氷柱が垂れ下がる。松明の明かりに、それらの鍾乳石《しょうにゅうせき》やむき出しになった石英が照らされ、キラキラと光った。
一行は、ミノタウロスを先頭に黙々と歩く。
洞窟の壁近くに、石英の結晶がいくつも固まって輝いている場所があった。
「うわぁ、綺麗《きれい》なのね!」
シルフィードはよく見ようと近づいた。すると、ミノタウロスが大声をあげた。
「近づくな!」
「きゅいっ!」
「……いや、すまぬ。その辺りは土がむき出しになってて滑るから危険なんだ。さあ、こっちだ」
さらに奥へと進むと、部屋のように開けた場所に出た。そこには雑多なものが運び込まれていた。机、椅子《いす》……、ミノタウロス用に作られているのかかなり大きい。かまどもあった。その上にはなべがぐつぐつと煮えたぎっている。いくつものガラス壜《びん》、そして秘薬が詰められた袋や、マンドラゴラが栽培されている苗床……。
そこは、洞窟の中につくられた実験室であった。
「あなたは……」
タバサはミノタウロスを見上げた。
「ラルカスという。元は……、いや、今もだが、貴族だ」
ラルカス……、その名前にタバサは聞き覚えがあった。村で聞いた名前だ。
「十年前に、ミノタウロスを倒してのけたという」
「ああそうだ。そのわたしが、どうしてこんな格好をしているのか、気になるだろうな」
ラルカスは十年前のことを語った。
村人たちに頼まれ、この洞窟に住み着いたミノタウロスを火の魔法で退治したラルカスは、ミノタウロスのその生命力に驚いたのだという。
「なにせ、焼いても切っても、なかなか死なないのさ。亜人たちの生命力にはたまに驚かさせられるが、このミノタウロスは特別だ。この生命力にわたしは惹《ひ》かれた」
「生命力?」
「ああ。実は……、わたしの身体《からだ》は不治の病に侵されていた。余命を使っての、最後の旅行をしていたのだ。そのとき、この身体に出会った……。わたしは火も多少扱えるが、選ばれし系統は“水”だ」
その話を驚いて聞いていたタバサは、先ほどの呪文を思い出した。千切れた腕をくっつ
けてしまうほどの、“ヒーリング”……。
「わたしは己の身体《からだ》を捨てることを決心した。そして……、禁忌《きんき》とされる脳移植を、このミノタウロスの身体に行ったのだ。自分自身の手でね」
なんとも恐るべき告白であった。このミノタウロス……、いやラルカスは、自分の脳をミノタウロスの身体に移したというのであった。
「驚いたかね?」
タバサは頷《うなず》いた。
「まあ、それも無理はなかろう。しかしな、この身体はすばらしいぞ。いいかね、魔力は脳に由来する。呪文《じゅもん》を使うにはまったく問題がないどころか、この身体を得てからは精神力も強くなった。体力、生命力だけでなく、魔法もさらに強力になったのだ。それからわたしはずっと、ここで研究に打ち込んでいる」
「寂しくないのね?」
シルフィードが尋ねると、ラルカスは唇のはしを持ち上げた。牙《きば》が見えて、シルフィードはすくみあがった。
「もともと独り身だ。洞窟《どうくつ》も、城も大して変わらぬ」
それからラルカスは、う、と呻《うめ》いて頭を押さえた。
「どうしたのね?」
シルフィードが近づこうとすると、
「さわるな!」と怒鳴られた。
「きゅいっ!」
シルフィードは咄嗟《とっさ》にタバサの背後に隠れる。しばらくラルカスは荒い息をついていたが……、首を振った。
「……すまぬ。たまに頭痛が激しくなるのだ。まあ、些細《ささい》な副作用さ。わかったら、もういいだろう。あのメイジを連れて村へ帰れ」
去り際にラルカスは、わたしとここのことは誰《だれ》にも言うな、と、タバサとシルフィードに釘《くぎ》をさした。
村へと帰ると、タバサとその使い魔は村人たちの歓声で迎え入れられた。突き出した人売りのメイジを見て、村人たちは散々に罵《ののし》りの言葉を投げかける。
そのメイジは、明日、街に出て役人に引き渡すことになった。
その夜……、タバサたちには村をあげての料理が振る舞われた。といっても貧しい村なので、たいしたものは出なかったが。
タバサは、あまり上等とはいえない料理だろうが別に文句はない。黙々とサラダを口に運んでいる。随分と苦い野菜だが、そういう味が好物らしい。
「いやぁ、お小さいなんて言って大変失礼しました。しかし、元貴族がミノタウロスを騙《かた》って人さらいをくわだてるとは……」
村長がそう言って、何度もタバサに頭を下げた。
ロープで縛られたメイジは、部屋の隅に転がされていた。一人の村人が近づき、
「おい、向こうの村や、街の近くで最近子供の誘拐が流行ってるが、それも全部おめえの仕業だろ?」
メイジはふるふると首を振った。
「……いや、知らない。俺じゃない。俺はつい一週間ほど前にこの辺りに流れてきたんだ」
「嘘《うそ》をつけ! まあいい、お上にきっちり取り調べてもらえばいいだけの話さ」
「ほんとだ! 十年前のミノタウロスの話を街で聞いて、それで今回の計画を立てたんだ! 嘘じゃない!」
そんなメイジを横目で見ながら、シルフィードが呟《つぶや》く。
「まったく、元貴族だっていうのに、潔くないのね」
しかし……、サラダを口に運ぶタバサの手がぴたりと止まる。
「おねえさま?」
タバサは黙りこくると、なにやら考え始めた。
翌朝……。
ジジの父と、村の男たちが人さらいのメイジを街に連れていくことになった。そこで役人に引き渡すのである。タバサも同行する手はずであったが、出発の直前、タバサは首を振った。
「用事がある」
用事? とジジの父親たちはいぶかしんだが、まぁ、タバサがいなくても問題はないので、メイジを連れて街へと向かった。
シルフィードは首を傾《かし》げた。
「用事ってなんなのね?」
タバサは答えない。森に向かってずんずんと歩き出した。
「もう! なんなのね! ちゃんと説明するのね!」
シルフィードは、そんな主人のあとを追った。
タバサがやってきたのは、昨日の洞窟《どうくつ》であった。
「なんなのね。あのラルカスさんに用事があるのね?」
それでもタバサは答えずに、いつもよりわずかに硬い表情を浮かべ、中へと入っていくのであった。
昼間でも、洞窟の中は闇《やみ》の世界である。
タバサは“ライト”を唱え、杖《つえ》の先に明かりを灯《とも》した。奥へと進んでいく。
途中でタバサは立ち止まった。きらきら輝く石英の結晶がいくつも見える場所である。シルフィードが近づこうとして、ラルカスに怒られた場所だ。
タバサは石英の結晶に近づいた。慌てたシルフィードがわめいた。
「そっちはダメなのね。滑るって言ってたのね」
タバサはまったく気にせずに、石英の結晶の辺りを確かめ始めた。なるほど、硬い鍾乳洞《しょうにゅうどう》の床の中、そこだけ土がむき出しになっている。
「…………」
タバサはしゃがみこむと、土を掘り返し始めた。土はやわらかく、簡単に掘り返せた。中から出てきたものを見て、シルフィードは呻《うめ》いた。
「ほ、骨なのね……」
果たしてそれは人骨であった。小さな頭骨は、おそらく子供のものだろう。そんなものがいくつもいくつも出てきて、シルフィードは真っ青になってしまった。
「十年前にここに住み着いていたミノタウロスの犠牲者なのね?」
タバサは首を振った。
「新しい」
なるほど、骨はそれほど劣化していない。
洞窟《どうくつ》の奥から、野太い声がした。
「……帰ったのではなかったのかね?」
タバサとシルフィードは声の方を向いた。明かりの奥の暗がりから、ラルカスの声は響いてきた。
「この骨はなに?」
わずかに硬い調子で、タバサが尋ねる。しばしの沈黙があって、返事がきた。
「……この辺りに住む、サルの骨だよ」
タバサはゆっくりと、洞窟の奥へと向けて杖を構えた。
「子供をさらっていたのは、あなた」
返事は、“ウィンディ・アイシクル”であった。タバサも得意とする氷の矢が何本もタバサめがけて飛んできた。
ガッ! ガガガガガガガガッ!
素早くタバサは飛びのく。今までいた場所に、氷の矢が突き刺さる。
「下がってて」
小さく、タバサはシルフィードに命令する。こんな狭い場所では、元の姿に戻ることもできない。シルフィードは石筍《せきじゅん》の後ろに隠れた。
タバサは杖に灯した“ライト”を解除した。深い闇《やみ》が広がる。インク壜《びん》の中に身体《からだ》が沈んでいくような、重たい闇《やみ》だ。
そんな重たい闇の中から、低い声が響く。
「少女よ、諦《あきら》めろ。すべての利はわたしにある」
タバサは答えずに、呪文《じゅもん》を唱えた。
「ラグーズ・イス・イーサ……」
精神力を集中させ……、一本の長い氷の槍《やり》を作り上げた。
“ジャベリン”だ。
「一つ目の利……。まず、この闇だ。お前たちはわたしの姿が見えぬが、わたしには見える。闇はこの身体《からだ》の友だからな」
声で狙《ねら》いをつけようにも、洞窟《どうくつ》の中なので音が共鳴する。
しかし、夜目の利くシルフィードがタバサに告げた。
「おねえさまの斜め前、左三十度!」
タバサはその場所に向けて、渾身《こんしん》の“ジャベリン”を放った。鉄の鎧《よろい》さえぶち破る鋭さを込めた氷槍であった。
ぼごッ!
鈍い音とともに、命中の手ごたえを感じる。
「なかなか鋭い“ジャベリン”だな。しかし、この厚い皮膚《ひふ》は破れぬよ。さて、次の利点はこの身体だ。わたしの皮膚は知っての通り、風の刃や氷の矢など受けつけぬ」
風が揺らぎ、巨大な何かが急激に近づいてきた。巨体に押された空気が、分厚い塊となってタバサに届く。
同時に、何かが、ぶんっ! と唸《うな》って振り下ろされた。タバサはその空気の流れを感じ、後ろに下がってかわす。“風”使いならではの、空気を感じる鋭敏な感覚である。
横にあった石筍《せきじゅん》が、粉々に砕け散る。どうやら振り下ろされたのは、ミノタウロスの持つ大斧《おおおの》のようだった。
「利点、その三だ。わたしのこの体力は、人間など簡単にバラバラにできる」
闇から再び声が響く。
タバサは呪文を唱え、大きなつむじ風を起こした。洞窟に積もった埃《ほこり》を舞い上がらせ、相手の視界をふさごうと考えたのだ。
しかし、同時に唱えたラルカスの呪文がタバサの目論見を粉砕する。
激しい風が、舞い上がった埃を洞窟の奥へと吹き飛ばす。
「利点、その四。言っただろう? わたしはこの身体を得たことにより、さらに強力な精神力を得ることになった。おそらくスクウェアクラスにまで成長しているだろう」
奥に隠れたシルフィードが叫んだ。
「おねえさま! 逃げて! 分が悪いのね!」
「逃げようなどと考えないほうがいい。土地勘のない洞窟《どうくつ》だ。焦って駆け出せば必ず転ぶ。それに、どんなに速く駆けても、わたしの方が速い」
覚悟を決めたのか、杖《つえ》を構え、真正面からタバサはラルカスに対峙《たいじ》した。
総毛立つほどに感覚を研ぎ澄ませ、闇《やみ》の中のミノタウロスの動きを風で“見る”。
ラルカスの巨体が動くことで乱されたわずかな風が……、タバサにその動きを教えてくれる。風が、タバサにとっての“光”であった。
そんなタバサの様子を見つめ、ラルカスは笑った。しかし、笑い声は出ない。ただ、唇の端を吊《つ》り上《あ》げ、フゴフゴ、と咳《せ》き込《こ》んだような呼吸音を発するばかりである。
「笑うなど久しぶりでね。笑い方すら忘れてしまったようだ。しかし少女よ、小さいながら見事な構えだ。お前のような潔い、貴族らしい貴族は昨今珍しいな」
ラルカスが大斧《おおおの》を振り上げた。
それがラルカスの“杖”らしい。ミノタウロスの身体《からだ》を使い始めたときに、杖も変えたのだろう。
「貴族相手の決闘だな。いざ」
大斧を握ったミノタウロスが、メイジのように身構える姿は滑稽《こっけい》ですらあった。
タバサは冷たい声で言った。
「あなたは、もう貴族じゃない。血に飢えたけだもの」
闇《やみ》の中、ラルカスの目が一瞬赤く光った。タバサはその目を注視した。
「私は貴族だ。貴族らしく勝負をつけようではないか。“エア・ハンマー”だ」
ラルカスは大斧《おおおの》を胸の前に立て、見事な貴族の構えをとった。空気の動きでそれを感じたタバサもゆっくりとそれにならう。それを見守るシルフィードは気が気ではない。
ミノタウロスの身体《からだ》と、メイジの知能と技《魔法》を持つ怪物相手にどうやって勝てというのだ?
二人は呪文《じゅもん》を唱え、同時に空気の塊を放つ。
ブオッ!と放たれたふたつの空気の塊は、二人の問でぶつかり合う。ぐにょっと、陽炎《かげろう》が立ったように、そこだけ空気が歪《ゆが》む。
しかし、それは一瞬だった。
ラルカスの放ったエア・ハンマーは、タバサのそれより強力だったようだ。タバサの作り出した空気の槌《つち》を飲み込むと、さらに巨大な塊となってタバサを襲う。
巨大な空気の塊がぶつかり、小さなタバサの身体が吹き飛ばされる。洞窟《どうくつ》の壁にぶち当たり、ついでタバサは地面に叩《たた》きつけられた。
「勝負ありだな」
ラルカスはゆっくりとタバサに近づいてくる。
「少女よ、取り消せ。わたしは未だ貴族だ」
地面に倒れたタバサは、荒い息で呟《つぶや》く。
「……あなたはもう、貴族じゃない」
「取り消せ!」
そう怒鳴った瞬間……、ラルカスは頭を抱えて膝《ひざ》をついた。
「ふお……、うぉ……、ぐぅお……」
苦しそうに身をよじり、頭を抱えたまま地面の上をのたうちまわる。目が鈍く、深い赤に光りだし、その口から粘性の高い涎《よだれ》が垂れ始めた。
「ト、トリケセ……」
獣の唸《うな》り声のような声が、泡立った涎と共に吐き出される。追い討ちをかけるように、タバサは繰り返した。
「あなたは、ただの血に飢えた獣」
「ト、トリケセ……、オマエ、ウマソウ。トリ……、オマエ、ウマソウ。タベル」
見てられなくなったシルフィードが“変化”の呪文を解いた。
「ぶぎゃ!」
しかし狭いので、身体が洞窟の壁に挟まれて身動きが取れなくなってしまった。大きな翼をつっかえさせながら、シルフィードは叫んだ。
「おねえさま! 逃げて! なんか様子がヘンなのね!」
しかしタバサは逃げ出さない。じっとラルカスを、冷たい、蒼《あお》い瞳《ひとみ》で見据えた。
「ウマソウ。ダカラオレ、オマエヲタベル……」
ラルカスはタバサの小さな肩を掴《つか》み、かぶりつくように大口をあける。
タバサが身を捻《ひね》り、呪文《じゅもん》を唱えたのはその瞬間だった。
「ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ウィンデ」
一瞬で、ラルカスの口腔《こうくう》内の涎《よだれ》が氷結して、”矢”へと姿を変えた。涎でできた何本もの氷の矢は、喉《のど》や食道に次々飛び込んでいく。
ごぽっ、とラルカスの口から、血液が溢《あふ》れ出る。
己の涎でできた氷の矢で、胃袋をはじめとする内臓をずたずたに引き裂かれたのだ。
ラルカスはタバサの肩に手を置いたまま、ゆっくりと膝《ひざ》をついた。ぼたぼたと血を吐き出しながら、どう! と横に倒れる。
タバサは“ライト”の呪文を唱えて杖《つえ》の先に明かりを灯《とも》し、|ミノタウロス《ラルカス》の巨体を見下ろした。
その目から、赤い、獣の光が消えていく。ついで、ラルカスの血まみれの口が開いた。小さな“ライト”の明かりの中、苦しそうなラルカスの声が響いた。
「……三年ほど前だ。子供を襲う夢を見た。獣のように、わたしは子供に食らいついていた。それから何度もそんな夢を見るようになった。ああ、初めは、夢だと思っていたよ。目が覚めて……、ああ、意識が戻って、そばに転がった子供の骨を見ても、それが現実のことだとは思えなかった」
「…………」
「……だんだんと、自分の精神がミノタウロスに近づいていくのがわかった。とても空腹のときなど、不意に人間が食べたくなる。理性が否定しても、感情が言うことをきかんのだ。必死に抑えつけても、すぐにその欲求は首を持ち上げてくる。身体《からだ》の中にミノタウロスの意識が残っていたのか、それともわたしの心が身体に近づいていったのかはわからぬ。おそらく両方なのだろうな……、ごほ! ごほっ!」
ラルカスは激しく咳《せ》き込《こ》んだ。ごぽっ! と血を大量に吐き出す。それでもラルカスは、必死になって言葉を絞り出した。
「……死のうとも考えた。しかし、わたしには己の命を絶つ勇気がなかった。己の中の獣を殺そうとして、いろんな薬を調合したが無駄だった。日に日に、“わたし”でいられる時間は減っていった。だから……、これでよかったのだ。見事だ。わたしはかつて火を放ってこの洞窟《どうくつ》内を燃やし、このミノタウロスを窒息させて殺したのだが……、スマートなやり方とはいえぬな。お前のように、硬い皮膚《ひふ》を避けて内臓を狙《ねら》うことなど思いもつかなかった」
そこでタバサは初めて口を開いた。
「たまたま気づいた」
ラルカスは唇のはしをわずかに持ち上げた。笑顔を浮かべているのだった。
「礼を言うぞ。少女よ、最後にお前の名を教えてはくれんか」
タバサはわずかに目をつむったあと……、
「シャルロット」
己の本名を告げた。
「よい名だ」
小さく、タバサは頷《うなず》いた。
「ありがとう」
「ああ……、自分が自分でなくなるというのはイヤなものだな。実にイヤなものだ」
ラルカスは先ほどより大きな血の塊を、ごぽ、と吐き出した。
それが合図でもあるかのように、ラルカスの小刻みな痙攣《けいれん》が止まる。
ゆっくりと、徐々に、ラルカスの目から光が失われていった。
研究室ごとラルカスを火葬に処したタバサは、魔法学院に戻るために空の人となった。
珍しく本を広げるでもなく、ぼーっと空を見つめている。
シルフィードはそんなタバサがちょっと心配になった。
先ほどの光景はショッキングすぎる。
「さっきのラルカスさん……、自分が自分でなくなるのがイヤだって言ってたけど……、そのとおりなのね。きゅい」
タバサは答えない。じっと空を見つめている。
「安心して。シルフィは、おねえさまがおねえさまでなくなっても、ずっとおねえさまの味方なのね」
わけのわからないことをまくし立てて、シルフィードはきゅいきゅいとわめいた。
しばらく飛ぶうちに、シルフィードは空腹を覚えた。
「おねえさま。こんなときにアレだけど、おなかがすいたのね」
「我慢して」
「我慢できない! 考えてみれば、今日はまだなにも食べてないのね」
タバサは無言である。シルフィードは、眼下に村を見つけた。
「村発見なのね。降りるのね」
タバサは杖《つえ》を伸ばすと、シルフィードの頭をぽかぽかと叩《たた》いた。
「いたい。いたいよう」
「もう寄り道はしない」
ぼんやりとした声で、タバサは言った。なんだかそれ以上、シルフィードも何も言えな
くなり、押し黙ってしまう。
タバサを乗せた風韻竜《ふういんりゅう》は、気分を変えるかのように大声をあげた。
「じゃあ魔法学院に急ぐのね! きゅい!」
シルフィードは、速度をあげ始める。
強い風が目に入ったような気がして……、タバサは目をつむった。
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番外編 シルフィードの一日
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チチチチチ、と小鳥の鳴き声で、シルフィードは目を覚ました。
ここはトリステイン魔法学院の近くの森の中。シルフィードがその巨体を横たえるためにつくった、特別のねぐらである。
木をその牙《きば》と爪《つめ》で切り倒し、天井を拵《こしら》え、地面にはやわらかい藁《わら》を敷き詰めた。傍らには飲むための水が張られた飼い葉|桶《おけ》まで置いてあった。
ふぁあああああああ、とシルフィードは大口をあけてあくびした。
そのまま口をあけたままにしていると、先ほど鳴いていた小鳥たちが近寄ってきて、シルフィードの鋭く尖《とが》った牙にちょこん、ととまった。ちょんちょん、とくちばしを動かし、シルフィードの牙と歯の間に挟まった食べかすをついばみ始める。
歯の掃除が終わると、小鳥は飛び上がり、大空へと消えていく。それを見送ったあと、シルフィードはふああああああああ、と再びあくびをした。
雨露をしのぐ天井にと組み上げた枝の隙間《すきま》から、太陽の光が差し込んでいる。
「太陽さんおはようなのね」と、呟《つぶや》いたあと、シルフィードは慌てた顔で辺りを見回す。
しゃべっちゃった!
心の中で、そう呟く。
シルフィードが言葉を操る、古代の幻獣、韻竜《いんりゅう》の眷属《けんぞく》だということは秘密なのであった。
“バレたら面倒”という理由で、タバサは上空三千メイル以上の場所以外での、シルフィードの発声を禁じている。
自分の声を聞いたのが、枝の上でさえずる小鳥以外にはいないことを確かめると、シルフィードは安堵《あんど》のため息をついた。
さて、朝ごはんを食べに行こうとすると、がさがさ、と傍らの茂みで音がした。
「?」
顔を向けると、ひょっこりと小さな女の子が顔を覗《のぞ》かせていた。まだ、五歳ぐらいの子である。彼女は唖然《あぜん》とした顔で、シルフィードを見つめている。
手には籠《かご》を持っている。少女はこの近くの村に住んでいて、苺《いちご》かキノコを採りに来たのであろう。
シルフィードの額から、冷や汗が流れた。
今のシルフィの言葉、聞かれちゃった?
そんな風にひやひやしていると、少女はにっこりと笑みを浮かべた。
「竜さん竜さん。何をしてるの?」
シルフィードは首をかしげて、言葉がわからないフリをした。少女はさらに目を輝かせて、シルフィードのそばに寄ってきた。
「ねえねえ、竜さんどこからきたの?」
恐ろしい竜の姿を見ても、少女はまったく怖がった様子をみせない。なかなか変わった少女である。シルフィードはちょっと嬉《うれ》しくなって、身振り手振りで少女に説明を始めた。
大空の向こうを指差して、翼をぱたぱたと動かしてみせる。
「そらからきたの?」
シルフィードは、うんうん、と頷《うなず》いた。
「おそらからきた竜さん。かっこいー」少女はきゃはは、と笑って、シルフィードの首筋にかじりついてきた。なんだか嬉しくなって、シルフィードもきゅいきゅい、とわめいた。
「ねえねえ、今からなにをするのー?」
シルフィードは、大口をあけた。それからぱくぱくと口を閉じる。
「おしょくじ?」
きゅいきゅい、と首を振る。
「竜さんはなにを食べるの?」
シルフィードは翼をひろげ、ぱたぱたと動かした。
「鳥さん?」
ぶるぶるとシルフィードは首を振った。
「じゃあ、おさかな?」
うんうんとシルフィードは頷いた。
「ニナもおさかな好きだよ」
どうやら少女はニナというらしい。それから少女と一匹は、いろんなおしゃべりをした。といっても、しゃべるのはニナだけで、シルフィードは頷いたり、首を横に振ったりするだけだったが。
「またきてもいい?」
去り際にニナにそう言われ、シルフィードは大きく頷いた。
ニナが去っていってしばらくたったあと……、シルフィードがそろそろ学院に行って、ブランチでもとろうかなと考えていると、小さな籠《かご》が寝床の隣に転がっていることに気づく。
「なにこの籠?」
中を見ると、蛙苺《かえるいちご》と呼ばれる野いちごが、たくさん入っていた。今朝の少女の姿を思い出す。
「ああ、あの子が持ってた籠なのね。どうしよう。届けてあげたほうがいいのかな? でも、シルフィが行ったら大騒ぎになりそうなのね……」
シルフィードは無用の騒動をさけるために、なるべく人里に近寄らないよう、タバサに言われている。“変化”の呪文《じゅもん》で、人の姿に化ける手もあるが、この辺りで人間の姿になることも、固く禁じられている。
「揉め事はごめんなのね。早く学院に行ってご飯にしようっと」
シルフィードは頭を切り替えた。すると、様々なご馳走《ちそう》がまぶたの裏に浮かんでくる。
魚、馬、牛……。
最近のお気に入りは、池で捕まえる魚である。丸々と太ったタニア鯉《こい》や、白マスの味が舌の先に浮かんできて、知らず知らずのうちにシルフィードは涎《よだれ》を垂らしていた。
「決めた! 新鮮なおさかな食べたい! 学院でおねだりするのねー」
しかし……、飛び上がろうとすると、再び小さな籠《かご》が目に飛び込んできた。中に詰まっている蛙苺《かえるいちご》を見て、シルフィードの動きが止まった。
「あの子、この野いちごが食べたかったのね」
きゅいきゅい、と悩んでいたが……、シルフィードは結局持っていってあげることにした。
「こっそり行って、家の前にでも置いてくればいいのね。きゅい。そうすれば騒ぎにもならないのね」
シルフィードは籠を爪《つめ》で器用につまむと、陽光|眩《まぶ》しい空に飛び上がった。
村はすぐに見つかった。人間の足で三十分ほど、シルフィードの翼なら数分の距離に、その村はあった。
シルフィードはニナの家を探した。でも、どこがあの子の家なのかわからない。計算違いである。そうこうするうちに、村人に見つかったらしい。
「うわああ! 竜だ! 竜!」
カンカンカン、と鐘が鳴らされ、村人たちが家から飛び出してくる。田舎《いなか》に暮らす人たちにとって、竜は恐怖の象徴だ。魔法学院の使い魔だろうがなんだろうが、恐怖の象徴ということに変わりはない。一様に怯《おび》えた表情であった。
あちゃあ、困ったことになったな、と思いながらも、シルフィードは地面に着地した。
すると、さらに騒ぎが拡大する。
「降りてきやがった! いったい何しにきやがった!」
「おそらく、そこの学院の貴族の使い魔だろ? 平気じゃねえのか?」
そういう声もあったが、そんなのは少数で、すぐに最強の種族への恐怖が村人を襲う。
「出て行け! ほら! はやく!」
棒やくわでもって、シルフィードは追い立てられた。自分を取り巻いて見つめる村人の中に、母親らしき女性のスカートの裾《すそ》にしがみつくニナを見つけ、シルフィードはほっとひと安心した。彼女なら、自分を見ても怖がらない。
「きゅい」
ちょこちょこと近づくシルフィードの耳に飛び込んできたのは、ニナの母親の悲鳴であった。
「きぃいやぁああああああああ! 食べられちゃう! だれか! だれか助けて!」
シルフィードは母親を安心させるために、ぶんぶんと首を左右に振った。しかし、母親の恐怖は鎮まらないようだ。
でも、ニナは怖がらないはずだ。だってさっき、あんなにじゃれついてきたんだもの……。シルフィードはそこに一抹の期待を抱いて、さらに近づく。
だが、シルフィードの淡い期待は裏切られた。
ニナは怯《おび》える母親や村人と、シルフィードを交互に見つめた。
「この竜さん、怖いの?」
「そうよ。竜は恐ろしい生き物なのよ。まあ、……おとなしいところを見ると、魔法学院の貴族の使い魔ね、きっと。でも、放し飼いになんてしないで欲しいわ! ああ、竜なんて縁起でもない! いつ野生にかえるかしれたもんじゃない! まったく、貴族さまがたときたら自分の部屋と森の区別もつかないんだから!」
「そうなの? ほんとに怖いの?」
母親にそうまで言われ、少女の顔が恐怖に歪《ゆが》んだ。
「ほんとよ。竜はもともとこの世で一番凶暴で、強い生き物なの。そんな獣を飼いならす貴族さまがたはもっと怖いけどね」
「竜怖い……。怖いよう。うえ〜〜〜ん」
少女は泣き出してしまった。シルフィードは、わたしはそんなことないのね、と否定したかったが、言葉を発するわけにはいかない。もどかしげに首を振ったが、少女の泣き声は大きくなるばかり。
シルフィードは首をかしげ、哀しげにきゅい、と鳴いた。
せっかく届けに来たのに……、シルフィードは哀しくなった。村人たちの騒ぎはさらに大きくなる。銃を持ってこい! との叫びが聞こえ、シルフィードは慌てて籠《かご》を地面に置いて飛び上がる。
きゅいきゅいわめきながら、シルフィードは学院へと向かった。
学院にやってくると、塔の窓ごしに、授業を受けている貴族の子弟たちの姿が見える。その中のどこかに、シルフィードのご主人さま、タバサもいるはずだ。だが、朝の挨拶《あいさつ》は結構、と言い含められているので、シルフィードは別の場所へと向かう。
シルフィードがやってきたのは、本塔は正門玄関の裏側にある、アルヴィーズの食堂の裏口だった。ちょこんとお座りして、裏口を鼻面で叩《たた》く。するとがちゃりと扉が開き、ごつい身体《からだ》のマルトー親父が顔を見せた。
「なんでぇ。お前さんかい。ちょっと待ってな」
マルトー親父はそう言うと、豚や牛の骨や、肉のきれっぱしや魚などを持ってきた。シルフィードは先ほどの哀しみも手伝い、喜びが倍増する。きゅいきゅいわめき、マルトー親父の顔を舐《な》めあげた。
「よせやい。涎《よだれ》でびしょびしょになっちまう。まあなんだ、お前さんたちも苦労するね。あのわがままな貴族どもときたら、自分たちと同じように、お前さんたちが六時間もすりゃあ腹がカラッポになっちまう存在だってことを忘れてやがる」
マルトー親父はにっこりと笑って、骨をかじるシルフィードの鼻面を撫《な》でた。
「せいぜい主人は選ぶんだな。“青いの”」
きゅい、とシルフィードは頷《うなず》くと、マルトー親父の顔を舐めあげた。
おなかがいっぱいになると、哀しさが少し紛れた。でも、未だ心は沈んだままだった。
次にやってきたのはヴェストリの広場の片隅、いつだか才人《さいと》が家出の際に作ったテントである。その隣に着陸すると、のっそりとテントの中からキュルケのサラフマンダーが顔を出した。ついで、ギーシュのモグラもひょっこり顔を出す。最近、この辺りは使い魔のたまり場になっている。主人の授業中、暇を持て余した使い魔たちは、ここで時間をつぶすのである。
“よお。青いの”
サラマンダーのフレイムが、人間には低い唸《うな》り声にしか聞こえない発音で、ハルケギニアの先住言語でシルフィードに話しかけた。シルフィードたち古代の眷属《けんぞく》が用いた言葉である。使い魔となった獣たちは、いずれも言葉を操れるぐらいには知能が発達する。犬の芸以上に、主人の命令を理解するのはそういうわけだった。ただ、犬やネコのように人の近くにいなかった種族は、喉《のど》を人間の言葉用に動かせるほど、人を理解していない。結果、意思の疎通は一方通行となってしまう。
ただ、唸り声で意思を通じさせてきた獣たち同士なら話は別だ。
唸り声の高低と、刻んだ呼吸音で、彼らは言葉で意思を通い合わせた。
“どうしたい。青いの。元気がねえじゃねえか”
フレイムは、心配そうな顔でシルフィードの顔を覗《のぞ》き込んだ。心配そう、とはいっても、人間のように表情が変わるわけではない。ただ、目の光が微妙に変化するだけである。
“ちょっと哀しいことがあったのね”
シルフィードは今日の森と村でのことを、仲間たちに説明した。ジャイアントモールのヴェルダンデが、ひくひくと鼻を動かして感想を言った。
“おやおや、それは哀しいね。きみは韻竜《いんりゅう》だというのに、そこらの竜扱いされたのかい?”きゅい、とシルフィードは頷いた。彼ら使い魔仲間には、とっくにシルフィードが古代の竜、韻竜の眷属だということはバレている。しかし彼らは、仲間意識でもって、それを主人にも内緒にしてくれているのだった。
“でも……、怖がられたのは哀しいね。きみはこんなに気がいいのにね”
“ごつい顔をしているからだろ?”
フレイムがそう言って、チロチロと炎を口から吐き出した。笑っているのだ。
“ひどい言い方するのね!”
“まあ、人間にどう思われようがいいじゃないか。もともと違う生き物なんだ。別に好かれなくたって生きていける”
“問題発言だな。赤いの、きみは使い魔がイヤなのかい?”
ヴェルダンデが尋ねると、フレイムは首を振った。
“イヤなもんか! メシには困らない。ご主人さまは優しくしてくれる。ドラゴンどもが威張ってる、あの火竜山脈に比べりゃここは天国だよ! 頼まれたってやめるつもりはないね”
フレイムはフゴフゴと鼻を鳴らした。今のフレイムの言葉は、ほとんどの使い魔が思うことでもある。そりゃあ多少の自由は制限されるが、厳しい自然に比べたら、“貴族の使い魔”という立場は決して悪いものではない。厳しい大自然は、“多少”どころではない自由を、彼らから奪うのが常であった。
“まったくもう、あなたたちは気楽でいいのね。身体《からだ》が小さいから、ここで寝起きできる。シルフィはそうはいかないのね。森で寝起きしてるシルフィには、ご近所づきあいというものがあるのね。嫌われたら、居心地が悪いのね! おまけに怖がられたら傷つくのね!”
きゅいきゅい、とシルフィードはわめいた。そんな仲間を見つめ、フレイムが感想を述べた。
“青いの。繰り返すが、贅沢《ぜいたく》を言ったら始まらないよ。ほら、そこの彼を見てみ?”
フレイムはあごをしゃくった。黒髪の少年が、塔の壁に設けられた水汲み場で、必死になって洗濯している。
“ああ、あの彼か。ギーシュさまをやっつけた……。ぼくは複雑な気分だよ。同じ使い魔として、貴族をやっつけた彼が眩《まぶ》しいけど、ギーシュさまを痛い目にあわせた仇《かたき》でもある”
“昔の話じゃないか。とにかく、彼は立派な使い魔、まさに使い魔の鑑《かがみ》だとぼくは彼を尊敬している。だが、彼の扱いを見たまえよ”
桃髪の少女が、黒髪の少年の背後に現れた。腕を組み、少年の背中を蹴り飛ばした。頭から水汲み場に突っ込み、少年はびしょ濡《ぬ》れになった。立ち上がり、なにやら抗議の言葉を撒《ま》き散らす。しかし彼の主人である桃髪の少女は、少年の抗議を無視して、その股間を蹴り上げた。
“あれは痛い。いや、痛いなんてものじゃないぞ”
少年は痛みで地面にうずくまる。少女ははいつくばった少年の頭の上に、足を置くと、腰に手を置いて怒鳴り散らし始めた。
フレイムが、深いため息を漏らした。
“彼は素晴らしい手柄を主人にもたらした使い魔なのに、あの仕打ちはどうだい? 彼はしかも人間じゃないか。二重の意味で、あの扱いはない。ないよ。凶暴なんて言われるぼくら火とかげだって驚く虐待っぷりだ”
“それに比べたら、青いの。きみの悩みは贅沢《ぜいたく》だね。近所に住む人間にどう思われたっていいじゃないか。怖がられるのがイヤ? 贅沢すぎる! 贅沢すぎるよ!”
仲間たちの意見はまあ、もっともといえよう。シルフィードは、きゅい、と哀しげに声を漏らすのだった。
シルフィードが去ったあと……、母親に散々説教を食らったニナは、しょぼんとしてうなだれていた。竜のそばなんかに行っちゃいけない、とニナは怒られたのである。そうこうするうちに、ニナは地面に転がっていた籠《かご》を見つめた。
「あ、あたしのかごー」
中にはぎっしりと蛙苺《かえるいちご》が入っている。ニナはこの甘酸っぱい果実が大好きなのであった。一つつまんで口に含む。じゅわっと、酸味が広がり、ニナは顔をしかめた。まだ、熟するにはちょっと早かったようである。
「かご、竜さんが持ってきてくれたんだ」
ニナは立ち尽くした。置き忘れてきたことに気づいたのは、家に帰ってきてすぐのことだった。
「……ママがいうとおり、ほんとに怖い生き物なのかな」
わからない。幼いニナにとって、母親の言葉は絶対である。でも……、今朝見たシルフィードは、そうは見えなかった。ニナは悩んだ挙句、村の寺院を訪ねた。
祈りを捧《ささ》げていた初老の神官は、入ってきたニナに気づき、優しげに両手を広げた。
「どうしたんだい? ニナ」
ニナは神官に今日のことを告げた。神官はゆっくりニナの話を聞くと、微笑を浮かべてニナに言った。
「竜は怖い生き物だ。それは間違いない。でも、“ニナはあの竜は怖い生き物には見えなかった”と言ったね? それもまたほんとうなんだろう。ニナはいい子だ。そのニナがそう思ったのだから、それはほんとうなのかもしれないね」
「どっちなの?」
「“怖い生き物”と決めて、近寄らないのも一つの方法だ。でも、自分が見たものを信じるのも、一つの方法だね。わたしにはどっちがほんとうかはわからない。結局、ニナが決めるしかないんじゃないかなあ」
ニナはぼけっと立ち尽くした。両手を広げた始祖像が、目の前にあった。
自分で決める……。そんな風に言われたのは初めてで、ニナは戸惑った。
夕方……、ねぐらにやってきたシルフィードの前に、一匹の魚が置いてあった。
「きゅい?」
シルフィードはその魚をつついた。すると、一枚の紙がするっと落ちてきた。達筆な文字で何か書いてある。
『竜さんへ。さっきは怖がってごめんなさい。竜さんは、親切にわたしの忘れた籠《かご》を届けてくれたのに、わたしは怖がってしまいました。わたしがおなじことをされたらかなしいです。だから謝ります。ごめんなさい。ママは竜さんを怖い生き物だと言ったけど、わたしはそうじゃないと思います。このおさかなは籠を届けてくれたお礼です。このおてがみは、神官さまに書いてもらいました。また遊びに行ってもいいですか? ニナ』
シルフィードは嬉《うれ》しいやら、驚いたやらで、目をきらきらと輝かせた。美しい月が照らす中、シルフィードは飛び上がり……、はずんだ声できゅいきゅいとわめいた。[#改ページ]
第七話 タバサと極楽鳥
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「なにこれぇ〜〜〜〜〜! 騙《だま》された! きゅい!」
ガリアの上空三千メイル。
リュティスへ赴《おもむ》くタバサを背に乗せて、風韻竜《ふういんりゅう》のシルフィードが前足を器用に使い、何かを口から取り出しながらわめいた。
「この伝説の風韻竜に、こんなまがいものを食べさせてからに!」
前足を自分の背中に伸ばし、そこで本を読み続けるご主人様の目の前に突き出す。それは茶色の、肉のようなパンのようなかたちをした、ブヨブヨの塊であった。
そんなシロモノを突き出されたタバサだが、まったくの無視である。目の前にあることすら気づかぬように、本のページをめくっている。
「お食べ」
シルフィードは、器用に首を動かして後ろを見ながら、身体《からだ》を捻《ひね》り、タバサの口にブヨブヨの塊をねじりこんだ。
タバサは、無表情のまま、それをもぐもぐと飲み込む。何一つ文句を言わずに、タバサはページをめくり続けた。
「まずいでしょ? おいしいわけがないの! きゅい! これなんなのね! お肉の味がするけど、お肉じゃない! ニセモノなのね!」
シルフィードが食べさせられているのは最近売り出された魔法を使った代用食である。肉があまり手に入らない庶民が買う、豆で作ったパン状の生地に、魔法で肉の味をつけたものであった。
うまいとはお世辞にもいえないシロモノだったが、肉がない食卓よりはマシなので、割と売れているのであった。
「食べられる」
タバサは、淡々と言った。シルフィードはきゅいきゅいわめいて抗議の言葉を吐き出し続ける。
「もう! シルフィはこう見えても美食家なのね! ほんもののおさかなと、お肉を要求します。主人は使い魔の食べ物に責任を持つべし。シルフィは使い魔として当然の権利を主張するのね」
「お金がない」
タバサはすべての主張を捻《ね》じ曲《ま》げる現実を口にした。
「いっつも新しい本を買い込むくせに、よく言うのね! 本なんか食べられないのね! もっとシビアな現実に目を向けて欲しいのね!」
「食事は、何を食べても身体の栄養になる。でも、本は頭の栄養。質が大事」
タバサは使い魔の要望を一蹴《いっしゅう》した。
シルフィードはきゅいきゅい、きゅーい、と頭を振って騒いだが、もうタバサは相手にしない。ただ黙って本を読んでいる。
「食べ物の恨みは恐ろしいのね!」
シルフィードはきゅいきゅいわめきながら、リュティスに向けて飛び続けた。
ガリアの首都リュティス。街の郊外の一角に広がるヴェルサルテイル宮殿のさらに一角、鮮やかな薄桃色の壁を誇るプチ・トロワでは、そこの主人がタバサの到着を待ちわびていた。
長い、タバサと同じ色の青い髪。しかし、その下の顔が持つ雰囲気は、基本は同じ“冷たさ”でも、血が繋《つな》がっているとは思えぬほどに違っていた。
タバサが涼しい、冷たい風のような雰囲気を纏《まと》っているのにくらべ、このガリア王女イザベラの纏ったそれは、“冷酷”の一言で片づけられる、見る者を不安にさせるものだった。
「……遅いねえ。ほんとにあの“人形娘”はわたしをイライラさせるねえ」
そんな冷酷さをむき出しにした声で唸《うな》ると、控えた女官や召使たちが、ひ、と怯《おび》えた表情になった。この王女が機嫌を損ねていると、非常にロクでもないのである。命にかかわる、といっても大袈裟《おおげさ》ではない。
「よし、酒肴《しゅこう》でも開こうじゃないか。この酒に料理……、なんてまずいんだい。もう飽き飽きしてしまったよ。お前らでたいらげな」
イザベラは、目の前のテーブルに置かれた様々な料理を一瞥《いちべつ》して言った。それは宮殿の厨房《ちゅうぼう》で働く、国中から集めた選《え》りすぐりのコックたちが作った豪華な昼餐《ちゅうさん》であった。一皿の値段で、庶民が一年は優に暮らせるであろう、料理たちである。
一同は、ほっとした表情を浮かべた。どんな難題を持ちかけられるか、と不安になっていたのである。酒肴ならなんの問題もない。
しかし、イザベラはそんな召使たちのほっとした顔に、冷水のような言葉を投げかけた。
「ただ、時間をかけちやいけない。一分でたいらげな。一秒でも遅れたら、一週間、食事抜きだよ」
召使たちの顔が、恐怖に歪《ゆが》んだ。その表情こそが至高のご馳走《ちそう》だと言わんばかりの顔で、イザベラは言い放った。
「食べ物に感謝しないやつは嫌いさ。わかったら、さっさとたいらげな。もう、七秒使っちまったよ」
召使たちは慌てて料理に飛びつき、食器を使うことも忘れ、両手で料理をむさぼり始めた。
「あっはっは! まるで家畜のようだねえ!」
イザベラは高らかに笑い声をあげる。
そのとき……、呼び出しの衛士の声が響いた。
「七号さま! おなり!」
イザベラの笑みが、一瞬で凍りつき、さらに鋭い、見る者を射殺《いころ》すような笑みに変わる。
「入っておいで!」
料理に群がっていた召使たちは、一様にほっとしたような表情を浮かべた。自分たちの暴君の興味の対象が、やっと別のものに移ってくれたからだった。
無言で入ってきたタバサを見てイザベラは、目の前で食い散らかされた料理を指差した。
「たまにはお前をもてなしてやろうじゃないの。ほら、一流のコックたちが腕によりをかけて作った料理だよ。お前なんかにゃ逆立ちしたって胃袋にはおさめられないようなご馳走《ちそう》だよ。食べな」
元は豪華な料理だったのかもしれないが、召使たちが散々に食い散らかしたあとなので、残飯のようになっている。元王族が、口にできるようなものではない。
タバサが無反応なので、イザベラは業を煮やしたらしい。杖《つえ》を持ち上げると、タバサに突きつけた。
「食べな。命令だよ」
タバサは無言のまま、テーブルに近づきフォークを握った。イザベラがにやっと笑みを浮かべた。
「フォークを使うんじゃないよ。宮廷に存在するフォークは、王族のみ使用を許されているんだ。知らないのかい?」
タバサはわずかに目を細めると、料理に手を伸ばした。手で肉や野菜の残骸《ざんがい》を掴《つか》み、それを口に含む。
「どうだい? おいしいだろ? わたしに感謝するんだね。お前なんか、一生かかっても口にすることはかなわないような高級な食材を使ってるんだ」
わずかに硬い表情で、右手だけを使い、黙々とタバサは料理をたいらげた。
食べ終わったタバサに、イザベラは任務を告げた。
「さて、今回の任務は……、正式な任務じゃない。いうなればわたしの私用さ。文句はないだろ? お前にとっちゃ、公式の任務だろうが、私用に過ぎなかろうが関係ないものね」
足を組みなおしながら、イザベラは冷ややかに命令した。
「同じような料理にゃ飽き飽きしちまってね。お前に極楽鳥のタマゴを取ってきて欲しいのさ」
後ろに怯《おび》えながら立っていた召使たちの表情が変わった。自分たちより過酷な運命に置かれたものを見る、同情を含んだものだった。
「……知っての通り、極楽鳥は一年に二度タマゴを生む。しかし今の季節、極楽鳥のタマゴは簡単には取れない。だから旬を待つしかないんだが……、わたしは“今”食べたいのさ。だからせいぜい命を張って頑張るんだね。“たかがわたしの美食”のためにね」
満足げに、イザベラは言い放った。
「極楽鳥のタマゴですって! きゅい!」
タバサから今回の任務を聞いたシルフィードは、驚きの声をあげた。王宮を出たタバサは、ガリアの南西へとシルフィードを飛ばしている。極楽鳥は、そこに聳《そび》える火竜山脈……、ガリアとロマリアとの国境になっている山脈に住む鳥なのだ。
「そう」
いつもの調子で、タバサは答える。
「取れるわけないじゃない! いいこと、おねえさま。極楽鳥は高い山の洞窟《どうくつ》に巣を作るんだけど……、同時にそこは“ファイアドラゴン《火竜》”の住処《すみか》でもあるのね! この季節、火竜は子育ての真っ最中! 近づいたらどんなものでもその強力なブレスで丸焦げにされちゃうのね!」
シルフィードの言うとおりであった。
だから、極楽鳥のタマゴの採取は、火竜がいない季節を狙《ねら》って行われる。この季節、『極楽鳥のタマゴを取りに行く』のは自殺行為に近いのだった。
イザベラが、タバサを自分の美食のためにそこに赴《おもむ》かせるのは……、嫌がらせ以外の何ものでもないのだった。
「子育て最中の火竜は、シルフィたち古代種たる韻竜《いんりゅう》相手だって、容赦しないのね! 火竜は知能の代わりに強力な炎を進化させてきた連中……、風竜みたいにものわかりがいいわけじゃないし、おまけに気が荒いのね! きゅい!」
そんな乱暴な連中のところに行くのはごめんだ、と言わんばかりにシルフィードはわめいた。しかしタバサは、首を縦に振らない。
「急いで。明日にはつきたい」
「もう! おねえさまはほんとに竜族の怖さがわかってないんだから!」
文句を言うだけ言ったものの、まさかタバサを放り出して逃げ出すわけにもいかず、シルフィードはしかたなしに火竜山脈へと飛んだ。
火竜山脈は、六千メイル級の山々が連なる、長大な山脈である。しかし……、高山に見られる頂付近の氷河や雪は見当たらない。
その“火竜”の名前どおり、赤い岩肌と黒い溶岩石が頂上付近まで延々と続いている。赤く焼けた溶岩流がいたるところで噴出し、さかんに降る雨を水蒸気へと変える。辺りは白くにごった霧と、むせるような熱気に包まれていた。
まるで山脈全体が蒸《む》し風呂《ぶろ》のようだ。
そんな火竜山脈の麓《ふもと》に立って、タバサは山の上を見上げた。極楽鳥が巣を作っているのは、ここから一リーグも登った岩肌の穴の中である。
しかし……、その辺りは火竜が生息している場所でもあった。直接、シルフィードに乗って空から向かえば、あっという間に火竜たちに見つかってしまう。したがってタバサは、麓《ふもと》からこっそり山を登り、極楽鳥の生息地に向かう方法をとったのだった。
「……この姿で、山を登るなんてごめんなのね」
竜の姿ではすぐに火竜に見つかってしまうために、シルフィードは例によって“変化”の呪文《じゅもん》で人間に化けていた。タバサが貸したおし着せに身を包み、長い、青い髪を揺らして、黙々と前を歩くタバサに向かってぶつぶつと文句を並べた。
タバサはそんな文句にはまったく応《こた》えずに、荒い岩を一つ一つ乗り越えていく。
もちろん登山道なんてものは存在しない。切り立った崖《がけ》や巨大な岩石が次々と、高い頂を目指すタバサとその使い魔の前に立ちふさがる。精神力を温存するために、魔法の使用は最小限にとどめ、タバサは手と足でそれらの障害をクリアしていく。
あまり扱いに慣れていない人の手足で主人についていきながら、シルフィードはわめいた。
「まったく、あの最悪姫の食い意地ったらないのね! たかが自分の食道楽のために、この韻竜《いんりゅう》のシルフィにこんな苦労をさせてからに……」
一リーグ進むのに、半日かかった。十五分歩いて五分休むということを繰り返したので、かなり時間をくったのだ。濛々《もうもう》と立ち込める水蒸気の中、瑠璃色《るりいろ》に光る鳥の羽が見えて、シルフィードは興奮した声をあげた。
「あの羽! 極楽鳥なのね!」
タバサは振り向くと、指を立ててみせた。
「そ、そうなのね。ここは同時に火竜の巣でもあるのね。きゅい」
びくびくと首をすくめて、シルフィードは腰を屈《かが》めたタバサに続く。この立ち込める水蒸気の中、極楽鳥の巣を探すのである。それはかなりの苦労事であった。
「しっかしおねえさま、この霞《かすみ》というか湯気、忌々しいのね。むしむしするし、視界は悪いしで散々なのね」
「でも、わたしたちを隠してくれる」
タバサはいつもの涼しい声で言った。シルフィードは、こんな灼熱《しゃくねつ》地獄のような世界でも、変わらず冷静なご主人さまを見つめた。
水蒸気と汗で、その額に青髪が張りついている。シャツも濡《ぬ》れて肌に張りつき、細い身体《からだ》のかたちをあらわにさせていた。山を登ってきたおかげで、その身体は泥だらけだった。
しかし、そんな姿になっても、タバサの冷たく高貴な雰囲気は揺るがない。目にはまったく疲労の陰は滲《にじ》んでいないし、その口元は本を読みふけっているときのように、すっと一文字に引かれている。
立っているだけで汗が噴き出るほどに蒸し暑く、火竜が闊歩《かっぽ》する恐ろしい場所なのに、タバサにはまったく動じたところがない。
「おねえさまはやっぱり並じゃないのね。きゅい」
タバサは腰を屈《かが》めたまま、岩のくぼみを覗《のぞ》き始めた。そういった岩のくぼみや隙間《すきま》に、極楽鳥は巣を作るのであった。
しかし……、極楽鳥の巣はなかなか見つからない。鳥の姿はときたま見かけるのだが、そうそうわかりやすい場所に巣は作らないのだろう。時間だけが、虚《むな》しく過ぎていく。
シルフィードはそわそわし始めた。いつ何時《なんどき》、あのガサツで乱暴な火竜が姿を現さないとも限らない。
「……おねえさま。今日のところは諦《あきら》めるのね。また明日にするのね。きゅい」
しかしタバサはそんな使い魔の提案には頷《うなず》かない。机の下に落ちた羽根ペンを探すかのような気安さで、ひょいひょい岩の隙間を確かめていく。
「あった」
やがて、ぽつりと、タバサが言った。
「ほんと? ほんとなのね?」
シルフィードも駆け寄り、タバサが指差す岩の隙間を覗き込んだ。
岩のかけらでできた、お椀《わん》のような形の極楽鳥の巣がそこにあった。動物の毛が敷き詰められた中には、瑠璃色《るりいろ》に輝くタマゴが三つ、きらきらと輝いている。
「すごい! ほんとにあった! きゅい!」
シルフィードは嬉《うれ》しくなって、腰を左右にフラフラと振り始めた。感情が高ぶると、人間の身体《からだ》で咄嗟《とっさ》にそれをどう表現すればいいのかわからず、シルフィードはこんな奇矯な動きをする。タバサはそんなシルフィードに一瞥《いちべつ》もくれずに、タマゴに手を伸ばした。
しかし、岩の隙間は深く、手が届かない。魔法を使おうとした瞬間……、巣の主《あるじ》が戻ってきた。
ビャアビャア! ビャアビャア!
タマゴと同じく、瑠璃色に光る翼とトサカを持った翼長七十サントほどの鳥が、タバサに爪《つめ》を立てようとして暴れる。タマゴを守ろうとしているのだ。健気《けなげ》な行為だが、タバサも命がかかっている。極楽鳥を追い払うように、手を振った。
すると極楽鳥は、空へと飛び上がり、さらに甲高い鳴き声でわめき始める。
ビャア! ビャアビャアビャア!
「ほんとに煩《うるさ》いトリなのね!」
シルフィードが文句を言った。
その極楽鳥の鳴き声に、イヤなものを感じて……、タバサは靄《もや》の中を凝視した。
「ん? おねえさま、どうしたの? 早くタマゴを取って帰るのね」
シルフィードがそう呟《つぶや》くのと同時に、靄《もや》の中から巨大な影が現れた。タバサは咄嗟《とっさ》に杖《つえ》を振り、魔法を唱えてシルフィードの身体《からだ》を弾き飛ばす。同時に自分も岩の陰に身を伏せた。
ゴォオオオオオオオオオツ!
太い柱のような炎が、タバサたちがいた空間をないでいく。
「火竜!」
シルフィードが怒鳴った。靄の中から現れたのは、全長十五メイルはあろうかという、大きな若い火竜だった。
その身体は風竜に比べて大柄で、爪《つめ》や牙《きば》も太く禍々《まがまが》しい。
しかし、なんといっても目を引くのは、その炎の結晶のような赤い鱗《うろこ》だ。まるで燃え盛る炎がそのまま具現化したような凶暴さを振りまきながら、火竜は上空で反転すると、再びタバサたちのほうへと向かってきた。
その瞬間、タバサは岩場の隙間《すきま》から躍り出た。
「おねえさま!」
シルフィードが叫んだ。
タバサはおそらく、一撃で勝負をつけるつもりなのだろう。
いきり立つ巨大な火竜と、小さな少女が対峙《たいじ》している光景は、一種の非現実的な感覚をシルフィードに味わわせた。
しかし、そんな小さなタバサには少しも臆《おく》した様子は見られない。身長より長い杖を凛《りん》と構え、強力な呪文《じゅもん》を繰り出すべく詠唱を開始する。
時間にしたらわずか数秒の間に、実戦魔法に通じたタバサは呪文を完成させる。杖の先に、大きな氷の槍《やり》ができあがる。
“ジャベリン”だ。
タバサは迫り来る火竜に向けて、ジャベリンを放つ。
しかし、火竜のブレスが、そのジャベリンを一瞬で蒸発させた。
「!」
タバサは驚愕《きょうがく》した。あれだけ太いジャベリンが、一瞬で燃やし尽くされるなんて!
冷静なタバサにも弱点はある。タバサは将棋《チェス》の対戦のように、一瞬で先を読んで作戦を組み立て、戦うのが得意だ。
したがって、途中で予想外の事態が起こると、判断を誤りやすい傾向がある。己の実力に自信を抱いているからこその、弱点だった。
タバサは火竜のブレスの強さを見誤ったのだった。
わずかに焦った色を浮かべ、タバサは呪文を唱えた。
氷の壁が、タバサの前に現れる。
“アイス・ウォール”
しかし……、火竜のブレスの前には焼け石に水の呪文《じゅもん》である。地面に伏せたシルフィードが怒鳴る。
「おねえさま! 無理! 逃げてなのね!」
しかし、遅かった。
火竜は真っ赤に燃えるブレスを吐き出す。
氷の壁が、炎に飲み込まれる。シルフィードが咄嗟《とっさ》に飛び出し、タバサの小さな身体《からだ》を抱えてブレスをかわした。
しかし、傍らをよぎった火竜の尻尾《しっぽ》が、ぶん! と唸《うな》ってそんな主従を弾き飛ばす。二人はまるで、ボールのように空中に投げ出された。
呪文を唱える間もなく、一匹と一人は地面に叩《たた》きつけられ、意識を失った。
「……気がつきました?」
タバサが目を覚ますと、そこはテントの中だった。寝床代わりの藁《わら》の上に、毛布をかけられ横たえられていた。むくり、と起き上がると身体が痛い。見ると、包帯が幾重にも巻かれている。
隣にはシルフィードが人間の姿のまま、寝息を立てていた。動物の革と、よくしなる木の枝で組み立てられたテントの中は、人一人が長時間生活できるような品々でいっぱいであった。
タバサは、いつか本で読んだ遊牧民たちのテントを思い出した。
そんなタバサの顔を心配そうに覗《のぞ》き込んでいるのは、年のころ十七、八の少女だ。長い髪は無造作に後ろで束ねられ、顔も泥で汚れている。服はボロボロになり、ところどころ穴があいている。
しかし、彼女の薄い鳶色《とびいろ》の瞳《ひとみ》には、強い意志の力が宿っている。生活臭漂う汚れた格好だが、高貴の生まれ特有の雰囲気を放っていた。
なるほど、右手には杖《つえ》を握っている。
貴族だ。
「あなたが、助けてくれたの?」
少女は頷《うなず》いた。
「そうです。あなたが火竜と戦うところを、ちょっと離れた岩陰から見てたんです。無謀ですわ。人の身で火竜に対峙《たいじ》するなんて……」
「どうやって助けてくれたの?」
「弾き飛ばされたのが見えたから、急いで音を立てて火竜の注意をそらしたんです。火竜が空を旋回している間に忍び寄って、風魔法であなたがたを運んだんです」
タバサとシルフィード、二人の身体《からだ》を魔法で持ち上げて運んでくれたらしい。火竜が戻らぬうちに、素早くそれを行ったとすれば、かなりの使い手だ。
そのうちにシルフィードも気づき、ぱちくりと目を開けて絶叫した。
「おねえさまぁ〜〜〜! 火竜がぁ〜〜〜〜〜! きゅ〜〜〜〜い〜〜〜〜!」
慌てた少女はシルフィードに取りつき、その口をふさいだ。
「しっ! 音を立てないでください! このテントは魔法で岩に偽装してるんです。音で火竜に気づかれてしまいます」
シルフィードは、んぐんぐと、言葉を飲み込んだ。
「あなたは、ここで何をしているの?」
タバサは、少女に尋ねた。
少女はリュリュと名乗った。
「わたしはルションの生まれなんです。行政官の娘として育ちました」
ルションはガリア西部の街だ。タバサは行ったことがなかったが、暖かい気候の住みよい街と聞いている。
リュリュはタバサに、自らの生い立ちを語った。行政官の娘として、何一つ不自由なく育ったこと。おいしいものを、たらふく食べて育ったこと……。
「そんなわたしの興味は、“美食”になったんです。世界中のおいしいものをお金に任せて買いあさりました。ロマリアやトリステインの店まで、わざわざランチを取るためだけに旅行したこともあります。で、そのうちに自分で作るほうに興味がうつっていったんです」
普通、女子といえど、貴族が厨房《ちゅうぼう》に立つことはあまりない。料理は身分の低いものの作業とされているからであった。
「お菓子作り程度なら文句を言われることもありませんが、貴族の娘が本格的に料理を学ぶとなると、風当たりも強くって……、いろいろあって、わたしは家を出てしまったんです。で、各地を放浪するうちに、一つの事実に気づいたんです」
リュリュは、ぎゅっと拳《こぶし》を握って、天井を見つめた。
「世の中のほとんどの人は、おいしいものを食べられない! ということに!」
その大声に、シルフィードはびくっ! と肩を震わせた。さっきは火竜に気づかれたらまずいから、という理由でシルフィードの大声を咎《とが》めたのに、一旦《いったん》自分の言葉に興奮し始めたら、そんなことなど忘れてしまったらしい。このリュリュという少女、見かけはおとなしいが、内にはなかなか熱いものを秘めているようだ。
「旅の途中、いろいろな人に親切にしていただきました……。寝るところが見つからずにうろうろしていたら、農夫の方が宿を提供してくださったこともあります。食べるものがなくって、おなかがすいて動けずに道端に寝転んでいたら、パンをもらったことも。わたし、思ったんです。そういう人たちが、親切で真っ当に生きている人たちが、かつてわたしたちが食べていたようなおいしい料理を食べられないのは間違っていると!」
リュリュは、さらに拳を強く握り、何度も頷《うなず》いた。
「美食は、貴族だけのものであってはなりません! 万民に認められるべき娯楽なのです!」
シルフィードが感動した顔で、リュリュに飛びついた。
「素晴らしい! シルフィ感動したのね! きゅいきゅい!」
恥ずかしそうに、リュリュは俯《うつむ》いた。
「……すいません。どうしても美食のことになると熱くなっちゃうんです」
タバサがぽつりと、いつもの声で尋ねた。
「そんなあなたが、ここで何をしているの?」
よくぞ聞いてくれました、といった顔で、リュリュは傍らからがさごそと何かを取り出した。それは……、ここに来る途中、シルフィードが食べていた代用肉であった。
「うわ! 肉の出来損ない!」
さらに恥じ入った声で、リュリュは俯いた。
「……そうです。出来損ないです」
「あなたが作ったの?」
その言葉の調子で、気づいたタバサが尋ねる。リュリュは頷《うなず》いた。
「……はい。わたしが考えたんです。庶民の方々に、おいしいものが行き渡るにはどうすればいいのかって一生懸命考えて、この代用肉を作りました。美食が一部の人間の特権なのは、その量が足りないからです。パンやニシンのように、誰《だれ》でも手に入るものになれば、ぐっとおいしいものも身近になるでしょう?」
タバサは頷いた。
「これは、“錬金”で豆から作った代用肉です。街の商人たちと取引して、お店に置かせてもらってます。それほど売れ行きは悪くないんですけど、でも……」
「味があんまりよろしくないのね」
そのとおりです、とリュリュは悲しそうな顔になった。
「まあ、肉っぽい気はするのね。でもなんていうのかな、肝心な何かが抜けているのね。それがこの肉っぽいものを、“肉”にするのをこばんでいるのね」
食べ物にはなかなかうるさいシルフィードは、もっともらしい顔で、うんうんと頷きながら呟《つぶや》く。
「まだ、修行が足りないせいです」
「へ?」
「わたしは、世の中のおいしいものを、もっともっと知る必要があります。だからここにいるんです」
「極楽鳥のタマゴ」
タバサがぽつりと言ったら、激しくリュリュは反応した。
「そうです! あなたがたももしかして?」
シルフィードとタバサは顔を見合わせ、それから大きく頷いた。
「じゃあ、目的はいっしょですね! ああわたし、世界七大美味の一つに数えられる、極楽鳥のタマゴを食べてみたいんです! それも、ほとんど手に入らない、この季節のタマゴを! きっと、手に入る季節より、おいしいに違いありません!」
「で、こんなところにテント張ってるってわけなのね」
「はい……。一ヶ月近くも狙《ねら》ってるんですけど、火竜に邪魔されてどうにも近づけないんです。あの極楽鳥は、敵が近づくと鳴き声で火竜を呼ぶんです」
さっきの極楽鳥の行動を思い出して、タバサも頷く。
「あの鳥、頭がいい」
「まず、親鳥をやっつければいいのね」
「……そんなことしたら、この辺り中の極楽鳥が集まってきます。火竜もいっしょに……。そうなったら生きて山を下りられるとは思えませんわ」
タバサも頷《うなず》いた。
リュリュは、困ったような顔で言った。
「それに……、極楽鳥は生涯一度しか伴侶《はんりょ》を選びません。殺してしまったら、もう片方はずっと独り身になってしまいます。こっちはタマゴを頂くんです。そんな殺生はできませんわ」
「じゃあどうするのね」
「それをずっと考えているんです」
「一ヶ月近くも?」
「はい」
リュリュはなんの屈託もなく頷く。
シルフィードは、呆《あき》れた声でタバサに呟《つぶや》いた。
「この子、優しくっていい子だけど、ずいぶんとのんびりやさんなのね」
夜になっても、二人の考えはまとまらなかった。
「二人で、火竜に立ち向かってみよう」と、タバサがぽつりと言えば、リュリュは首を振る。
「そんな恐ろしいことできません!」
シルフィードも、思いっきり首を振った。
「もう。このちびすけってば、冗談が上手なのね。さっき、自分で火竜の実力を思い知ったばかりなのね」
ぐりぐりと、シルフィードはタバサの頭を両手でこねくり回した。
「火竜はあんまり頭はよくないけど、そのブレスは、炎の魔法なんか足元にも及ばないほど強力なのね。おねえさまの作り出した氷なんか、あっという間に溶かされちゃうのね」
タバサは軽く唇を噛《か》んだ。悔しいのだろうか? そんな子供っぽい仕草を見せるタバサが可愛くて、シルフィードはきゅいきゅいわめいて首にかじりついた。
「もう! そんな微妙に負けず嫌いなおねえさまが可愛いのね! でも、大変危険だから火竜と戦うのは禁止なのね。他の作戦を考えるのね」
それまで腕組みをして考え込んでいたリュリュが、顔をあげた。
「……こういうのはどうでしょうか。どちらか片方が、音を立てて囮《おとり》になるんです」
翌日、タバサはゴツゴツした岩肌の中を逃げ回っていた。怒り狂った火竜が、三匹、そんなタバサを追いかけて炎を撒《ま》き散らす。
昨日は一匹だったのに……、どうやら近辺に住む火竜が集まってきたらしい。
タバサは風魔法を唱え、軽業師のようにふわりふわりと浮き上がり、ブレスをかわす。
作戦は単純だった。
タバサが火竜をひきつけている間に、リュリュがタマゴを取るのである。
しかし……、一匹でも手に余るのに、三匹が相手ではいつまでも逃げきれない。
タバサの顔に、汗が浮かんだ。気温と湿度だけでなく、焦りが珍しくタバサに汗をかかせていた。
執拗《しつよう》に火竜たちは炎を吹きかけ、タバサを追い回す。
そろそろ……、リュリュがタマゴを手にした頃《ころ》だろうか?
タバサは、そう思い、このときのために用意した呪文《じゅもん》を唱えた。
「ラグーズ・ウォータル・デル・ウィンデ!」
氷の粒が辺りに舞い、タバサの身体《からだ》を包んだ。
その粒が消えると、タバサの姿は掻《か》き消《き》えていた。追いかけていた火竜たちは、鼻を鳴らしながら辺りを捜し始める。
しかし、どうにもタバサは見つからない。
火竜たちは諦《あきら》めたらしく、一匹、また一匹と、己のねぐらへと帰っていった。
周りが静かになると、地面がぼこっ、と盛り上がり、泥まみれになったタバサが顔を出した。“|アイス・ストーム《氷 の 嵐》”で姿をくらまし、その隙《すき》に風呪文で穴を掘り、その中に隠れたのである。
顔についた泥をそのままに、リュリュとシルフィードがタマゴを取っている場所に近づくと、悲鳴が聞こえてきた。
「きゃああああああああ! たーすーけーてー!」
「ブレスをはかないでなのね! シルフィに熱い息吹をかけないでなのね!」
見ると、一際大きな雄の火竜が、二人を追いかけ回しているところであった。
タバサはこっそりと近づき、二人の姿を隠すように“|アイス・ストーム《氷 の 嵐》”をかけてやった。
「無理なのね」
その夜、シルフィードは泥だらけの顔で言った。
リュリュも諦《あきら》め顔で、首を振る。
「やっぱり、ダメなんですかね……。この季節の極楽鳥のタマゴは……。火竜の数を侮ってました。ハルケギニア中の火竜が、この季節は繁殖のために火竜山脈に集まるってのは、ほんとのことだったんですね……」
すっかり諦めムードが高まっている。
そんな中、タバサだけが本を読んでいる。
「おねえさま、シルフィたちが一生懸命考えてるのに、その『関係ない』的な態度はなんなのね」
タバサは、本を二人に突き出した。
「なになに? 『竜族の特徴とその生態』?」
リュリュがタバサが開いたページの一節を読み上げた。
「『火竜は、主に牛や馬などの動物を襲って食する。その際、火竜山脈の熱せられた地面に埋めて焼いたものを特に好む』」
「へええ、竜のくせに、焼肉が好きなのね」
タバサはぽつりと言った。
「これを大量に用意する」
「えええ? どうやって? 牛や馬をそんなにたくさん捕まえてくるんですか? 無理です!」
慌てるリュリュに、タバサは言った。
「あなたが作る」
「……え?」
リュリュは、一瞬、ぽかんと口をあけた。
「火竜の好物を魔法で大量に作り、それで引き寄せる。その隙《すき》にタマゴを取る」
「ちょっとやそっとの量じゃ、火竜はあざむけないのね! そんなに大量に作れるわけないのね!」
「でも、やってみる」
淡々と、タバサは言った。
翌朝……、山の麓《ふもと》の村まで下りてテントを張りなおし、タバサたちは魔法製の肉を作り始めた。
“代用肉”を作るための基本|呪文《じゅもん》は、錬金である。
“錬金”の特徴として、作りたいものに近ければ近い物質であるほど、難易度も下がり、より近いものを作ることができる。
“鋼鉄”を錬金するためには、“鉄”が一番やりやすい、とそういった具合だ。
そしてもう一つ。
錬金したいものを、よく知れば知るほど、さらに近いものが出来上がる。
あとは術者のセンスや、ランクにも関係するが……、もっとも大事なのは、その対象をよく知ること、そしていかに錬金したいものを思い浮かべることができるか。
「要は対象に対する情熱なんです」
リュリュは、そう言いながら目の前に置かれた肉のかけらや、藁《わら》や土に、杖《つえ》を突き出した。
その口から、“土”のルーンがこぼれる。淡い光に包まれ……、藁や土が変化していく。
「お肉なのね!」
シルフィードが、叫んで飛びつく。しかし、一口含んで吐き出した。
「ぺっ! なにこれ! 見た目は肉だけど、やっぱりおいしくないのね! こんなんじゃ火竜を騙《だま》すことなんて無理なのね!」
リュリュは肩を落とした。言ってから、シルフィードはしまった、といった顔になり、リュリュを慰め始めた。
「ご、ごめんなさいなのね。せっかく作ってくれたのに……」
夕方……、ぼんやりとリュリュは膝《ひざ》を抱えて、遠くの景色を見つめていた。火竜山脈の麓には、荒地が広がり……、溶岩の途切れた先には、綺麗《きれい》な緑の草原が広がっている。
火竜山脈自体は植物の生えぬ不毛の土地だが、山肌は植物に必要な栄養分をたぶんに含んでいる。荒地で有毒成分が除去され、残った養分が美しい草原をつくり上げているのだった。
そんな山脈の麓のこの村は、火竜山脈にいくつもある鉱山村の一つだった。火竜が子育てをするこの時期、山師たちは一時休業である。
酔っ払った山師たちは、村のはずれにテントを張った、酔狂《すいきょう》な貴族を見つめて笑っていた。この季節に山に入る物好き、ぐらいに思っているのだろう。
リュリュが何度目かのため息をついたとき、後ろに誰《だれ》かがいるのに気づいた。振り返ると、青い髪のタバサが立って、自分をその冷たい瞳《ひとみ》で見つめている。
「タバサさん」
タバサは黙って、リュリュの隣に腰掛けた。
「……どうしてわたし、本物そっくりのお肉を作ることができないんでしょうか。魔法の才能がないんでしょうか」
疲れたような声で、リュリュは言った。タバサは、ちょっと考え込んでいたが……、言いにくそうに言葉を口にした。
「……錬金は、元々そういうもの。完全に同じものを作ることは難しい。スクウェアの土の使い手でも、どこかに不純物が混ざる。実用上はそれで問題ないから、誰も気にとめないだけ。ただ……」
「ただ?」
「食べ物となると、話は別。わずかな違いでも、人の味覚は微妙な変化を感じ取る。だから食べ物を錬金することは難しい」
そうですよね、とリュリュはため息をついた。
「魔法は確かに強力だけど……、腕のいいコックの作ったお料理にはかなわないんですね。もう、諦《あきら》めようかなぁ……」
そんな風に疲れた声で言うリュリュに、タバサは冷たい声で言った。
「だったら、山を下りたほうがいい」
立ち上がり、歩き出したタバサに、リュリュは言った。
「そういえば聞いてませんでした。あなたがたはどうして極楽鳥のタマゴを取りに来たんですか?」
タバサは答えない。
ただじっと……、冷たい目でリュリュを見つめた。その目の中に、言うことのできない理由を感じ、リュリュは押し黙ってしまった。
きびすをかえしたタバサに、リュリュはなおも追いすがった。
「待って! 待ってください! タバサさん、あなたならわかると思うんです! あなたほどの使い手なら! 火竜に対峙《たいじ》できるあなたほどの騎士ならわかるはず! どうしてわたしの“錬金”は、料理に勝てないんですか? どうしてですか?」
タバサは、後ろを向いたまま答えた。
「あなたにとって、このことが切実な問題じゃないから。魔法は要は精神力の強さ。精神力の強さは、いかにそれを求めるかで決まる。美食は、あなたにとって絶対の存在じゃない。あなたは“食べ物がない”状態を、肌で感じたことがない。だから、本物の食べ物が作れない」
タバサのその言葉で、リュリュは恥ずかしそうに俯《うつむ》いた。
「そうですね。タバサさんの言うとおりかもしれません。ほんとはわたし……、完全に家を出たわけじゃないんです。家から、お金を送ってもらってるんです。食べ物がなくって、誰《だれ》かに恵んでもらったこともありましたけど……、仕送りが届くまでの一晩程度で。そんなわたしが、“肉が食べられない人たちのためにお肉を作る”なんておこがましいのかもしれません」
タバサの歩みは止まらない。なおもリュリュはタバサに尋ねた。
「でも、じゃあどうしろっていうんですか! 貴族の家に生まれたのは、わたしの責任じゃありません! でも、困っている人たちのためになんとかしたいと思うのも本当のことなんです! ねえ、教えてください!」
タバサは答えない。
リュリュは地面に膝《ひざ》をつくと、がっくりとうなだれた。
テントに戻ってきて、荷物をまとめ始めたタバサに、シルフィードが言った。
「おねえさま、どうしたの?」
「正攻法で行く」
シルフィードは青くなった。正攻法、聞きたくない言葉である。
「どういうことなのね。リュリュさんがお肉を作って、それを使うんじゃ……」
タバサは首を振った。
「無理」
シルフィードは、まるで全身の力が抜けたように、テントの床に膝をついた。
「……お父さまお母さま。先立つ不幸をお許しなのね。イルククゥは、しゃべることすらできない、下賎《げせん》な火竜の手にかかり、はかなくこの世を去るのね……。きゅい」
正攻法といっても、まっすぐ突っ込んだところで勝ち目はない。
そのためにタバサが選んだ作戦は、とんでもないものであった。
「作戦があると聞いたから、少しは安心したのに……、これじゃおねえさまの言う“正攻法”より危険度は増しているのね。きゅい」
そう文句を言うシルフィードの姿は、いつもと趣をかなり変えていた。真っ赤な鱗《うろこ》に、口からはみ出た長い牙《きば》……。
「このシルフィを、火竜に化けさせるなんて……、恐ろしいほどのバチ当たりなのね!」
“変化”の呪文《じゅもん》で火竜に化けさせられたシルフィードはきゅいきゅいきゅーい、とわめきまくった。
この子育ての期間、主に気が立って暴れるのは、雌にあぶれた雄の火竜である。
したがって、雌の火竜に化けたシルフィードが、辺りを練り歩けば……、雄が寄ってくるとタバサは考えたのだった。
しかし、火竜なんかに化けたことのないシルフィードは、かなり苦労した。この三日間というもの、シルフィードは火竜に化ける特訓をやらされたのである。
岩陰から近づく火竜を何度も見つめて“変化”を繰り返し、やっとのことでシルフィードの火竜姿はタバサの納得のいくレベルに達した。
「さて、肝心なことを聞くのね」
「なに?」
「シルフィがんばって、火竜をひきつけました。おねえさまはタマゴを回収しました。そのあと、シルフィはどうすればいいのね」
ぽん、とタバサはシルフィードの足を叩《たた》いた。
「まかせる」
しばしの時間が、主従の間に流れた。シルフィードは遠くを見ながら、
「シルフィはたまに、無性に野生にかえりたくなるときがあるのね。そう、たとえばこんなとき。おねえさまを、がっぷりと噛《か》んで飲み込んだら、多少はこんなやりきれない気持ち、晴れるかもしれないのね。きゅい」
タバサはシルフィードの言葉を完全に無視すると、極楽鳥の巣へと近づいていった。予定調和のように、ビャアビャア! と極楽鳥がわめき始める。
その鳴き声につられ……、毎度のように火竜が姿を現した。
シルフィードは深呼吸すると、ゆったりとした足取りで、しゃなりしゃなりと歩き出した。首筋をぴんと伸ばし、上を向き、つま先から地面を踏みしめる。ときたま羽を開き、閉じる。シルフィードの精一杯の媚態《びたい》である。
鳴き声につられてやってきたのは、若い雄の火竜であった。シルフィードに気づくなり、すぐに近寄ってくる。
鼻を伸ばし、シルフィードの首を嗅《か》ぎ始めた。
熱い、熱風のような火竜の吐息を首に感じ、シルフィードは身震いした。
「きゅい……、きゅ……、きゅきゅい……」
あまりの恐怖に、シルフィードの口から思わず小さな鳴き声がこぼれる。しかし、そんな鳴き声が火竜の気にいったらしい。しきりに求愛のダンスを寄越し始めた。翼を広げ、己の身体《からだ》の大きさを誇示するかのように、ぴょこぴょこ跳ねながらシルフィードの周りをまわり始めたのである。シルフィードたち韻竜《いんりゅう》はそんな間抜けな行動はしない。
思わず笑いそうになったが、シルフィードはこらえた。ここで自分の正体がばれたら……、あっという間に、焼け焦げたパンのようにされてしまうだろう。
一匹が集まると、二匹、三匹、と雄の火竜が集まってくる。次々と求愛のダンスに加わっていく。シルフィードは身震いしながら、タバサの方を盗み見た。深い靄《もや》のおかげで、姿は見えないが……、シルフィードは計画がうまくいくことを祈った。
タバサは巣の中の二つのタマゴに狙《ねら》いをつけた。頭の上では、タマゴを奪われそうになっている親鳥が、ビャアビャアとわめき続けている。
ぺこりと、タバサはそんな親鳥に頭を下げて、”念力”を唱えてタマゴを拾い上げる。
ビャアビャア! ビャアビャア!
極楽鳥が上空へとあがり、さらにわめき始める。向こうも必死なのだ。
タバサが取り上げたタマゴを籠《かご》に入れ、さて山を下ろうとしたとき……。
とてつもない太さのブレスが、タバサめがけて飛んできた。
ブォオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!
「!」
タバサは籠を抱えたまま、咄嗟《とっさ》に横っ飛びに飛んだ。万が一のときのために、先行して身体《からだ》に“フライ”をかけていたのである。
地面がブレスで溶け、そこだけ一本線、煮えたぎる溶岩となった。想像するだに恐ろしい温度のブレスである。
タバサが振り向くと……、体長十八メイルほどの巨大な火竜が、タバサを見下ろしていた。
その頭には、雄にあるトサカがない。
その鱗《うろこ》の色は雄に比べ濃く、まさに燃え滾《たぎ》る炎のようだ。
老成した雌の個体だ。
シルフィードに惑わされることなく、母親極楽鳥の鳴き声に反応したのだろう。
巨大な雌火竜は、子供を奪われる母親極楽鳥の怒りが乗り移ったかのように、一声鳴いた。
ビャアッ!
音量は違えど、その鳴き声は極楽鳥のそれとよく似ていた。この山脈に住む極楽鳥は、雌火竜の鳴き声をまねることで、タマゴを守ることを覚えたのだろう。
雌火竜は、大きく身体を振り回すと、タバサめがけて大きな尻尾《しっぽ》を振り回した。長い、ゴツゴツした突起がいくつもついた尻尾の先には、ハンマーのように大きなコブがついている。
タバサはその尻尾を“フライ”で宙に浮いてかわした。
尻尾のコブは地面から突き出た岩にぶち当たり、それをバラバラに粉砕した。
岩の破片がタバサを襲う。
大きな一つが背中に当たり、タバサは悶絶《もんぜつ》した。
地面に思いきり叩《たた》きつけられる。
背中が裂けそうになるほどの痛みに襲われる。それでもタバサはタマゴの入った籠《かご》を、しっかり小脇《こわき》に抱えていた。身体《からだ》をクッションにしてでも、この獲物は守るつもりだった。
よろよろとタバサは立ち上がる。
雌火竜は、そんなタバサを見下ろす。
老成した雌火竜は、優にシルフィードの三倍はあった。
赤い鱗《うろこ》の巨体を震わせ、雌火竜はタバサに咆哮《ほうこう》をぶつけてきた。
ビィヤァアアアアアアアアアアアアアッ!
並の動物や人間なら、それだけでショック死してしまうほどの、咆哮だった。
雌火竜とタバサは、オオカミとネズミほどもその大きさは違う。しかし雌火竜は、そんなネズミに大しても、手加減を加えるつもりはまったくないようだ。
次に天を仰いで、雌火竜は咆哮した。
口からゴボッと、火炎が溢《あふ》れる。
そんなわずかな火炎でも、周りの空気が揺らめく。
信じられないその熱量。
タバサはその炎と雌火竜の巨体を見つめ、戦慄《せんりつ》した。いくら魔法に優れていても、人の身では決してかなわぬ存在……、それがこの竜だ。
それを肌に届く熱気と共に感じながらも、タバサは右腕で杖《つえ》を構えた。
恐怖を、心の奥底に隠した怒りで抑え込む。
火のような恐怖を、氷の怒りで包み込む。
タバサは呪文《じゅもん》を唱えた。
「ラグーズ・イス・イーサ・ウォータル……」
タバサの杖の先に、太く、大きな“|氷の槍《ジャベリン》”が膨れ上がる。
雌火竜は、口を大きく開き、小さく不遜《ふそん》なネズミを燃やし尽くすべく、岩をも溶かすブレスを吐いた。
ゴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!
同時に、タバサもブレスめがけてジャベリンをぶっ放す。
炎の吐息と氷の槍《やり》は、激しく空中で絡み合った。
ブワッ!
氷の槍が、その巨大な熱量に負けて溶けていく。
炎の吐息が、氷の槍で冷やされ、燃え尽きていく。
時間にすれば……、わずか一瞬だった。
激しい水蒸気の霧が晴れたとき……、雌火竜は驚くべきものを見た。
自らの前で、杖を構えて対峙《たいじ》する人間の姿である。
「…………」
雌火竜は、自分のブレスを受けきる生き物がこの地上に存在することが信じられなかった。
ググルルルルル……。
喉《のど》の奥から、驚愕《きょうがく》の唸《うな》りが漏れる。
もう一度ブレスを吐こうとしたが……、心の中についぞ感じたことのない感情が膨れ上がっていく。
再び、この人間にブレスが防がれたら?
そのとき……、地上の王として君臨してきた自分は、どう振る舞えばいいのだろう? いや、防がれるのみならず……、自分が狩られる可能性だって否定しきれない。
野生の馬や牛を狩るように、自分がこの忌々しい人間に狩られたら?
雌火竜は、そんな己の心の中に生まれた感情の名前がわからなかった。
それは、この百年以上も生きた雌火竜の中に初めて生まれた、“恐怖”であった。
雌火竜は、その“恐怖”の感情を持て余した。
もう一度、目の前の、小さな青髪の少女を見下ろす。
その小さなサファイアのような青い瞳《ひとみ》には、なんの感情も窺《うかが》えない。
ただ冷たい、肌を刺す冷気のような決意が読み取れた。
“この人間は引かない”
と、雌火竜は思った。
そして……、その纏《まと》った冷たい風は、炎の塊のような自分の鱗《うろこ》を傷つけるかもしれない。
雌火竜は、いやいやをするように、首を振り、ウグル……、グル……、と呻《うめ》いた。困ったような呻きであった。
それから、翼を広げると空へと飛び上がり……、姿を消した。
雌火竜が去ったあと……、タバサはがくりと膝《ひざ》をついた。籠《かご》を抱える。
膝が…震えていることにタバサは気づいた。
もし……、次にブレスを吐かれたら、タバサに避けるすべはなかった。渾身《こんしん》の力で“ジャベリン”を放ったおかげで、精神力は打ち止めであった。
思わずタバサは目をつむって自分の肩を抱きしめた。そこに自分の身体《からだ》がある、ということがこれほど愛《いと》しく感じた瞬間は他にない。
もしかしたら、自分はあの火竜のブレスで、骨のかけらも残らず燃やし尽くされていたのかもしれないのである。
消し炭にならずにすんだ、その安堵感《あんどかん》が、タバサを年相応の少女に変えていた。
しかし、それで終わりではなかった。
タバサの耳に、シルフィードの叫びが飛び込んできたのである。
「おねえええさまぁあああああああ! 助けてなのねぇえええええ! こいつらしつこいのねぇえええええ! きゅい!」
振り返ると、火竜に化けたシルフィードがこちらに逃げ込んでくる。
その後ろには、何匹もの雄の火竜がくっついてくるではないか。
タバサの中に、どんよりとした絶望が広がっていく。
もう、呪文《じゅもん》は放てない。
「おねえさまぁあああああああああ!」
それでもタバサは、杖《つえ》を構えた。使い魔を見捨てるわけにはいかない。それはメイジとしてのプライドであった。
シルフィードを先頭に、火竜の群れがタバサの前に現れた。
そのとき……。
タバサの前方の地面が、青白く輝いた。
「?」
首を傾《かし》げる間もなく、青白い光は掻《か》き消《き》え、硫黄の匂《にお》いに包まれていた辺りには、えもいわれぬうまそうな香りが漂う。
火竜たちもそれに気づいたらしい。
散々シルフィードを追いかけ回していたのだが、一匹、また一匹と立ち止まり、鼻をひくつかせ始めた。
ビャオ、ビャオビャオ
その匂いの正体が、地面にあることに気づいた一匹が、鼻面を地面に潜り込ませた。
ビャオ!
その一匹は、歓喜の声をあげて、さらに地面へと鼻面をめり込ませ、中の物体をくわえあげた。
タバサは呆然《ぼうぜん》とした声で呟《つぶや》いた。
「……肉?」
果たしてそれは、いい具合に焼けた“肉”であった。
“肉”をくわえあげた火竜の口から食欲をそそる香り漂う肉汁が溢《あふ》れ、地面にぽたぽたと落ちる。
火竜たちは、次々に足元に広がる“肉”に群がり始めた。
辺りは、突然現れた美味なる食卓に対する歓喜の鳴き声で満ちていく。
やっとのことで雄の火竜たちから解放されたシルフィードが首を傾げた。
「何が起こったのね?」
タバサは、靄《もや》の中に立つ人影に気づいた。
リュリュが杖を構えて、荒い息をついていた。
「わたし……、三日間ご飯を抜いたんです」
リュティスに向かう、シルフィードの背中の上で、リュリュは言った。その手に握った籠《かご》の中には、タバサと一個ずつ分けた極楽鳥のタマゴが光っている。
「三日間も! 信じられないのね!」
シルフィードがきゅいきゅいとわめいた。リュリュには、そんなシルフィードの正体はガーゴイルと説明していた。
タバサは無言で、リュリュを見つめた。三日間の断食は、この貴族の少女の見た目を変えていた。断食の最中も、練習のために呪文《じゅもん》を唱え続けていたのだろう。頬《ほお》はこけ、目の下には青黒いくまができている。
それでも溌剌《はつらつ》とした声でリュリュは言葉を続けた。
「でもおかげで……、“食事に対する切実な気持ち”を学ぶことができました。あんなにお肉を食べたい、と思ったのは何せ生まれて初めてですから」
にっこりとリュリュは笑った。
「タバサさんのおかげです。わたし、このタマゴをおろそかにはしません。きっと、この味を再現してみせます」
「でも、こんなに苦労したんだから、よほどの味に違いないのね! きゅい! あのバカ王女にはもったいないのね! きゅいきゅい!」
シルフィードの言葉で、リュリュは首を傾《かし》げた。
「王女?」
タバサは無言で、シルフィードの頭を杖《つえ》で小突く。
「いたい! な、なんでもないのね! きゅい!」
それからリュリュは、じっと籠の中のタマゴを見つめていたが……、
「試してみます?」
と言った。
「えー、だってそれは、リュリュさんの修行につかうんでしょう?」
「修行といっても、食べるだけですから。味を再現するんです。一口あれば、用は足ります」
リュリュはそう言うと、タマゴを取り出し、呪文を唱えた。タマゴの周りの空気が熱せられ、瑠璃色《るりいろ》に輝くタマゴの表面が蒸されて土気色に変わっていく。
「なんかあんまりおいしそうじゃないのね」
「おいしさは、かたちや色には関係ないものですわ」
蒸されたタマゴの殻をむくと、ぷりんとした白身が現れる。いい匂《にお》いが辺りに立ち込めた。
「これが、幻の季節の、幻の極楽鳥のタマゴなのね……、きゅい」
二人と一匹は、なかよくタマゴを三等分すると、口に含む。苦労して手に入れた味だ。さぞかし夢見るような味に違いない。
「…………」
「…………」
しばらくの沈黙が流れた。
「……その、調理方法が悪かったんでしょうか」
リュリュが、悲しそうな声で呟《つぶや》く。
「そんなわけないのね。単純な調理方法こそが、その素材の味を最大限に引き出すのね。この季節のタマゴは……、どうにも食用には向かないらしいのね」
「なるほど……、幻の味は所詮《しょせん》、幻に過ぎなかったわけですね」
タバサが、一言で切り捨てた。
「まずい」
リュリュとシルフィードは、大声で笑った。
「あのわがまま姫のがっかりする顔が見物《みもの》なのね!」
シルフィードが嬉《うれ》しそうに、きゅいきゅいとわめいた。
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第八話 タバサと軍港
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ゲルマニア―――――――――。
トリステインとの国境沿いにある、フォン・ツェルプストーの屋敷では、青髪の少女がベッドのそばで患者を見守っていた。その手には、寝るときも、風呂《ふろ》に入るときも手放すことがない、愛用の節くれだった杖《つえ》が握られている。
ガリアの|北 花 壇 騎 士《シュヴァリエ・ド・ノールパルテル》、タバサであった。
窓の外には、雪がぱらついていた。すでにウィンの月も半ば……、冬の足音だ。傍らのテーブルに読んでいた本を置いて、タバサは豪華だが、どこか落ち着きに欠ける親友の部屋を見回した。古代の壺《つぼ》が並んでいるかと思えば、現代風の絵画が並ぶ。タバサの身長の二倍はあろうかという巨大な暖炉の上には、先祖伝来のものらしい大振りの軍杖《ぐんじょう》が二本、交差されて飾られている。しかしその隣には、傭兵《ようへい》が着込むような甲冑《かっちゅう》が吊《つ》り下げてある……、といった具合だ。
廊下から、かつかつと人の足音が近づく。
聞きなれた、親友のブーツの音だ。
扉が開き、赤髪と褐色の肌が眩《まぶ》しいキュルケが現れた。彼女は両手を広げると、
「父さまに説教されちゃったわ」
と、タバサに言った。
トリステインとアルビオンとの間に戦端が開かれたのは、半年ほど前のこと。アルビオン神聖共和国はトリステインのタルブに兵を降下させたが、トリステイン軍はこれを見事打ち破った。その後、キュルケの母国であるゲルマニアとトリステインは同盟を結び、半年ものあいだ、戦備を整えた。
そしてつい一週間前、アルビオンへの侵攻を開始したのだった。
アルビオンもそれを黙って見ていたわけではない。貴族の子弟を人質にとるべく、トリステイン魔法学院に手練《てだ》れの傭兵隊を派遣してきたのである。
学院の危機を救ったのは……、ベッドに横たわるコルベールであった。彼は身を挺《てい》して、傭兵隊の隊長メンヌヴィルを斃《たお》し、また自らも傷ついたのであった。
そんな彼は、学院を警護する銃士隊隊長アニエスと浅からぬ因縁を持っていた。コルベールを仇《かたき》と狙《ねら》うアニエスの目をくらますために、キュルケは「コルベールは死んだ』と嘘《うそ》をつき、『自分たちをかばってくれた彼を手厚く葬るため』という理由でもって、安全な自分の実家まで連れてきたのであった。
「『戦の最中に面倒を持ち込むな』だってさ。そりゃ祖国は戦争してるけどさ、従軍しないあたしたちには関係ないじゃない。ねえ?」
いつもの態度で、キュルケは目を細めてにやっと笑い、タバサにしなだれかかった。そんな親友の態度の奥にあるものを見抜き、タバサは優しくキュルケの頭をかき抱いた。
いつか……、キュルケが自分にしてくれたように。
そんな態度をとるタバサに、キュルケは一瞬驚いた表情を浮かべ……、ついでその目から涙がこぼれた。気丈なキュルケが涙をこぼすことは珍しい。まるで子供のように、キュルケは自分より頭二つ分は背の低い少女の膝《ひざ》に顔をうずめた。
「ありがとうタバサ。ほんとは、怖かったの。おかしいわよね。あたしが怖いだなんて。でも、怖かったの。あんな不気味で禍々《まがまが》しい炎は初めて見たわ。燃えているのは憎しみなのに、見える炎は歓喜に彩られているのよ」
メンヌヴィルの炎の魔法を、キュルケはそのように評した。タバサは頷《うなず》くと、何度も親友の頭を撫《な》でてやった。
「それに引き換え先生はすごいわ。彼を臆病《おくびょう》者と言った自分が恥ずかしい。臆病なのは、あたしよね……」
キュルケは、ベッドに横たわったコルベールを見つめた。その目に優しい何かが浮かんでいる。
そのとき……、窓から一羽のフクロウが飛び込んできた。
タバサの目が一瞬小さく曇《くも》る。
フクロウはタバサに一通の封筒を渡すと、すぐに飛び去っていく。タバサはゲルマニアに旅立つ前に、祖国に自分の行動を知らせていた。そうせねば、囚われになっている母に何をされるのか知れたものではない。
手紙を受け取ったタバサに、キュルケは尋ねた。
「任務?」
この青髪の小さな親友が、複雑な事情で伯父王の命じるまま、母国で過酷な任務をこなしていることをキュルケは知っている。
「あたしもいっしょに行くわ」
そう言うキュルケに、タバサは首を振った。
「でも……」
タバサはコルベールのほうを向いた。
「あなたにはあなたの仕事がある」
するとキュルケは、哀しげにため息をついた。タバサは、すっかりキュルケの気持ちに気づいていたのだ。
「……ごめんね。ほんとのこと言うと、先生のことが心配なの。ついていてあげたい。だって、命を救ってもらったんだもの。でも、同じぐらいあなたのことも心配なの。ああ、この身体《からだ》が二つあればいいのに!」
「一人でも大丈夫。心配しないで」
タバサは杖《つえ》を握ると立ち上がった。窓に近づく。すると、しんしんと降る雪を裂いて、忠実な使い魔が羽ばたいて飛んできた。
慌ただしく窓から出発しようとするタバサにキュルケは何か言おうとしたが……、言葉を飲み込む。キュルケは、一生懸命に笑顔を浮かべた。危険へと赴《おもむ》く友人を、涙で送るわけにはいかなかった。
「ねえタバサ。あたしね……、もしかしたら見つけたかもしれない。この胸に燃える情熱の行き場所を。杖《つえ》を振るべき理由を」
タバサは表情を変えずに、小さく頷《うなず》いた。その目に、満足そうな光が宿っている。タバサは窓から身を躍らすと、シルフィードの背に飛び乗った。
すぐに夜の闇《やみ》の中に、タバサと風竜の姿は溶けていってしまい……、見えなくなる。それでも、キュルケは窓のそばに立って、ずっとタバサが消えた闇を見つめていた。
冷たい雪風が窓から吹き込み……、キュルケの身体《からだ》を包む。祈るような声で、キュルケは小さく呟《つぶや》いた。
「無事に帰ってきてね……、あたしのシャルロット」
ガリアの軍港サン・マロン。海沿いに造られた巨大な軍港は、ガリア空海軍の一大根拠地である。海に面した桟橋や、地上に造られた鉄塔には、ガリア自慢の大艦隊が、事あればハルケギニアの空と海を制すべく帆を休めている。
海に浮かぶ帆船たちは風石を積み、空用の帆と羽を張れば、即、空軍艦へと早変わりする。“|両 用 艦 隊《バイラテラル・フロッテ》”と呼び習わされるその大艦隊は、ハルケギニア最強と恐れられたガリア王国の、力の象徴でもあった。
一番高い鉄塔に、周りの戦列艦より一際大きなフネが係留されていた。全長は百五十メイルほどもある、巨大な木製空中戦列艦である。
その巨艦こそが、ガリア両用艦隊旗艦『シャルル・オルレアン』号であった。三年前、狩猟の最中の“事故”で亡くなった王弟の名がつけられたその巨艦の第二作戦室では、昨今、軍港を騒がすとある事件に艦隊首脳部の面々が頭を痛めていた。
「爆発事件は今月に入ってすでに二件目ですそ」
艦隊参謀のリュジニャン子爵は、線の細い顔を曇《くも》らせる。上座に腰掛けているのは、艦隊総司令のクラヴィル卿《きょう》。五十過ぎてなお、日焼けした肌と刺すような視線が眩《まぶ》しい。空と海に半生を捧《ささ》げた生粋の武人である彼は、憎々しげに呟いた。
「まったく……、ネズミとコクゾウムシのほかに、このわしをてこずらせる敵がいるとはな……」
空や海でなら、無敵と呼ばれたアルビオン艦隊が相手でも怖気《おぞけ》づくことはない歴戦の提督は、大きなため息をついた。
「国王陛下は、このわしを信頼して艦隊をお預けになられたのだ。それが、おめおめと陸の上で、これほど無様な姿をさらすとは……、陛下に合わせる顔がないぞ」
そのとき……、窓の外に大きな爆発音が響いた。リュジニャン子爵は立ち上がり、窓の外を見て、小さく呟《つぶや》く。
「『黒真珠』号です」
「またか! こんな真っ昼間に堂々と! ええい、これで六隻もの艦がやられた! これでは参戦前に、|両 用 艦 隊《バイラテラル・フロッテ》は消えてなくなってしまうぞ!」
トリステイン・ゲルマニア連合軍とアルビオン新政府との間に戦端が開かれてからはや半年が過ぎようとしていた。
ガリア王政府の元には、両方の陣営から参戦を促す特使が毎日のようにやってくる。
しかし、“無能王”ジョゼフは未だどちらに味方するのか決めかねている……、そのような噂《うわさ》が首都から伝わってくる昨今、艦隊を預かるクラヴィル卿《きょう》は来たるべき参戦に備え、黙々と艦隊の整備に明け暮れていた。連合軍、アルビオン、どちらにつくにせよ、この両用艦隊は真っ先に投入される。それを預かるクラヴィル卿の責任は重大であった。
そんな最中に、“爆発事故”は次々と発生したのである。
いや……、事故ではない。フネの火薬庫を狙《ねら》い、何者かが爆発させているのだった。
「……せめて、犯人のめぼしはついたのか?」
リュジニャン子爵は首を振った。
王政府に不満を抱く新教徒に旧王弟派、ガリアの動向に神経を尖《とが》らせているトリステインにアルビオン……、爆破工作の理由を持つものは少なくない。いずれかの息のかかったものが、水兵に紛れて爆破工作を行っている、艦隊上層部はそのような結論に達していた。
「水兵の調査は済んだのか?」
リュジニャン子爵は頷《うなず》いた。
「しかし閣下。艦隊増強の結果、水兵の数は以前の倍に膨れ上がりました。中には出自の怪しいものも多数おりますゆえ……」
苦い顔で、リュジニャン子爵は上官に告げた。多数の、新しく雇い入れた水兵たちの背後関係を洗うことは不可能だ、そう言っているのであった。
「すべてはあの“無能王”の無策がもたらした結果です。盗賊団崩れや犯罪者、街のごろつきども……、生まれを問わずに雇い入れるからこのようなことになるのです。我々は陸軍ではありませぬ。艦を増やすことは、歩兵連隊を増やすようにはいかんのです」
クラヴィル卿は鋭い目でリュジニャン子爵を睨《にら》んだ。
「政治批判は、我々の仕事ではないぞ」
「申し訳ありません」
「とにかく、王政府に援軍を要請した。我々は空や海の上では無敵かもしれぬ。だが陸の上では釣られたニシンのようなものだ。まったく、手も足も出ぬ」
「おっしゃるとおりです。して、援軍とは?」
「|北 花 壇 騎 士《シュヴァリエ・ド・ノールパルテル》だ」
リュジニャン子爵の顔が、不快に歪《ゆが》んだ。王政府の汚れ仕事を一手に引き受ける北花壇騎士は、その存在自体、王軍の将兵たちに毛嫌いされている。反乱に目を光らせる監視者であり、その行動を王政府に逐一報告する密告者であり、些細《ささい》な疑いで暗殺を実行する処刑者である北花壇騎士は、王軍将兵にとって“悪魔”の代名詞ですらあった。
「そのようなものを艦隊に迎え入れることには賛成できかねますな」
「しかたあるまい。我々では艦隊に巣くうネズミを駆除できんのだ。闇《やみ》には闇を、というわけだ」
リュジニャン子爵は、大きなため息をついた。
「では、せいぜい、手練《てだ》れのものが来てくれることを祈りますか……」
扉がノックされた。甲板士官の声が響く。
「王政府より、使者殿が参っております」
「来たか」
クラヴィル卿《きょう》は、客を迎え入れるために立ち上がる。扉が開き……、待ちわびた“北花壇騎士”が姿を見せたとき、不快と期待の入り混じった表情は驚きに変わり、ついで失望へと変化した。
現れたのは、青い髪を持つ年端もいかない少女であったからだ。
「……王政府には、“騎士”を要請したはずだが?」
青い髪の少女は、なんら悪びれた風もなく、表向きの官職と名前を告げる。
「花壇騎士タバサ。王命により参上」
クラヴィル卿とリュジニャン子爵は顔を見合わせ、二人同時にがっくりとうなだれた。
「申し訳ありません、特任少佐。わざわざ首都からいらしていただいたのに……」
第二作戦室を出たタバサに、甲板士官のヴィレール少尉が一礼した。物腰の丁寧な、若い士官である。
彼は自分たちの上官の無礼を詫《わ》びているのであった。クラヴィル卿とリュジニャン子爵は、タバサを見るなり嘆息し、『わかった、あとは好きにしろ』と言って、タバサを軍議に参加させず、すぐに会議室から追い出したのである。子供のようなタバサになんの期待もしていないことは明白であった。
しかしヴィレール少尉は、タバサに対し侮ったような態度を見せはしない。花壇騎士は、時に王軍の中隊、大隊を指揮することもある。従ってすべての騎士が少佐以上の軍籍を持つ。軍人の少尉は、内心はともかく、上官に対する態度を見かけで変えはしない。
「現場は?」
さっそく仕事に取りかかるつもりのタバサは、先ほどの扱いを気にした風もなく、ヴィレール少尉に尋ねた。
「こちらです」
タバサと例によって人に化けたシルフィードが案内されたのは、本日、破壊されたばかりの『黒真珠』号が係留されていた場所だった。全長五十メイル、三十二門の砲を搭載していたフリゲート艦である。
しかし、その姿はもはやどこにもない。搭載した黒色火薬が爆発し、跡形もなく吹き飛んでいた。係留されていた鉄塔も、まるで巨人の手でこねられたようにぐんにゃりと折れ曲がり、無残な姿をさらしている。
バラバラになった破片が、辺りに散らばっていた。タバサは、腐食をふせぐためにタールが塗られて黒く変色した木片を取り上げた。油の匂《にお》い以外、何もしない。
「半数の乗員は上陸していたために難を逃れましたが……、艦長以下八十名の乗組員が、艦と運命を共にしました」
沈痛な声でヴィレール少尉が言った。戦に備え、満載していた火薬が爆発したのだ。骨も残らなかったに違いない。
「……原因のめぼしはついているの?」
ヴィレール少尉は首を振った。
「お恥ずかしい話ですが、仕掛けられた爆発物によるものなのか、なんらかの魔法によるものなのか、それすらもわかっておりません」
タバサは頷《うなず》いて、取り上げた『黒真珠』号の破片を見つめた。
こうなってしまっては、爆発の原因を探ることは難しい。
「犯人は警護の目をくぐって艦に侵入し、火薬庫を爆発させています。確実にいえることはそれだけです」
そんなタバサとヴィレール少尉を見つめ、シルフィードがわめいた。
「これだけたくさんの軍人さんがいて、情けないのね〜〜」
ヴィレール少尉は、タバサの後ろに立っている、青髪の麗人を見つめた。年のころは二十歳ほど。その美貌《びぼう》が眩《まぶ》しいが、いったいタバサとはどんな関係なんだろう?
シルフィードはにこっ! と満面の笑みを浮かべた。
「シルフィは従者なのね」
「はぁ、従者」
「従者、知ってる? 騎士の次に偉いのね」
「は、はぁ……」
ヴィレール少尉は、あまり突っ込むのはよそう、といった顔になり、再びタバサたちを案内するために歩き始めた。
タバサとヴィレール少尉は、係留された艦を一隻ずつ、見てまわった。しかし、ガリア|両 用 艦 隊《バイラテラル・フロッテ》は合計二百隻にもなろうかという大艦隊だ。丁寧に一隻一隻、改めることは不可能だった。そんな中、一つの疑問を見つけ、タバサは尋ねた。
「警護兵がいる艦と、いない艦がある」
なるほど、タバサの言うとおりだった。ある一隻の戦列艦の前には、槍《やり》やマスケット銃を構えた物々しいいでたちの兵隊たちが、艦を警備していた。しかし、次のフリゲート艦の前には誰《だれ》も立っていない。その差をタバサは尋ねたのである。
すぐにその疑問は氷解した。
「ああ、あの艦にはまだ火薬が積まれてないんです。艦は常に火薬をフルに積んでいるわけじゃないですから。全艦戦時積載に、薬場の生産が追いついてないんです。せっついてはいるんですが……、全艦がしこたま火薬を詰め込めるのには、あと二週間はかかるでしょうね」
次に、折れ曲がった鉄塔が見えてきた。周りにはロープが張られ、立ち入りができなくなっている。
「先月やられた、『ヴィラ』号です。まだ片づけが済んでません」
生々しく、先ほどと同じように破片が散らばっている。そこに一人の女性が立って、熱心に祈りを捧《ささ》げていた。
タバサは無造作に女性に近づいた。女性は顔をあげる。二十歳そこそこの若い女性だった。手には聖具を握り締め、藍《あい》と白の聖衣に身を包んでいる。神官であろう。長い金髪をきゅっと結い上げ、頭の上でまとめていた。
近づくタバサとヴィレール少尉に気づき、女性は一礼した。
「彼女は?」
「シスター・リュシー。この『ヴィラ』号の艦付き神官だった女性です」
戦列艦以上のフネには、神官が乗り込むのが通例である。彼、彼女たちは敬虔《けいけん》なブリミル教徒のために、毎日のお祈りや、告解など、宗教上の行事を司る。もちろん戦死者が出れば、彼らの死に水も取る。艦にとって、なくてはならない存在であった。
リュシーと呼ばれた女性は、タバサを見て軽く驚いた顔になった。
「首都からいらした花壇騎士殿です。今回の事件の調査に参られたのです」
「そうですか」
「ここで何を?」
タバサが尋ねると、
「乗組員たちのために、祈りを捧げておりました。戦も未だ始まらぬのに、このように泊地の事故で死を迎えるとは……、彼らも無念だったでしょうね」
痛ましげに、リュシーは鉄塔を見上げる。千切れたもやい綱が、風にはためいて虚《むな》しく揺れていた。まるで自らが繋《つな》ぎとめていた艦を悼むかのように……。
タバサはじっとリュシーを見つめていたが……、小さく彼女に尋ねた。
「あなたは告解をも受け持つの?」
告解とは、なんらかの罪を犯したものが神官に告白して、赦《ゆる》しを請う行為だ。神官にとって、重要な仕事である。
リュシーは頷《うなず》いた。
「はい」
「手がかりに近いことを耳にしたら、旗艦にいるわたしに教えて」
リュシーは困ったような顔になった。ヴィレール少尉は、タバサに囁《ささや》く。
「彼女は聖職者ですよ。告解にきた者の秘密を漏らすわけがない」
その声に、不快な響きが含まれている。すると、リュシーは顔をあげ、ヴィレール少尉を睨《にら》んだ。
「聖なる任務を、どのようにお心得ですか? 告解を聞き届けるわたくしたちは、神の代弁者なのです。わたくしたちが信者の秘密を漏らせば、彼らは己の罪と向き合う場所さえなくします。当然、そのような者が現れれば、改悛《かいしゅん》を求めますわ。何度言えばわかるのですか? わたくしたちは裁判官ではないのです。人を正しい教えに導くのが仕事なのです。その中には、もちろん犯罪者も含まれます。彼らが、神の御子ということに変わりはありませんから」
ヴィレール少尉は、やれやれというように首を振った。
「わかってますよシスター。まあ、艦隊付き神官に告解を行う犯人がいるとも思えませんが……」
しかしタバサは、かまわずにリュシーの手を握った。
「お願い」
そんなタバサに、シルフィードが文句をつけた。
「ねえおねえさま。彼女困ってるじゃない。きゅい」
そう言って、自分の胸ほどの高さにあるタバサの頭を、ぐりぐりとかいぐった。
「おねえさま?」
リュシーは、きょとんとしてタバサとシルフィードを交互に見つめる。
「あ、いやその。なんていうかその、このチビは義理の姉なのね。わたしはついでに従者もやっているのね」
シルフィードは妙な言い訳を並べ立てる。
そんな怪しい言葉にも、リュシーはにっこりと笑みを浮かべた。
「そうだったのですか。おねえさんのために……。それは素晴らしいことですわ。あなたは心の綺麗《きれい》な方ですね」
シルフィードのほうが明らかにタバサより年が上なのに、怪しみすらしない。リュシーはどこまでもまっすぐな瞳《ひとみ》で、手を差し伸べ、シルフィードに祝福を与えた。
「あなたに神のご加護がありますように」
そんなリュシーにシルフィードも感動したのか、きゅいきゅいわめいてその手を握る。
「あなた、シルフィの知ってる神官たちとは大違い! 威張らないし怒らないしヘンな目で見ないし!」
「神の前では、すべての存在は平等ですから」
リュシーははにかんだような笑みを浮かべた。それから、ぺこりと一礼して去っていく。
タバサはその背を見届けたあと、ロープをくぐると、残骸《ざんがい》の中へと入っていった。丹念に爆発事故現場を調べ始める。ヴィレール少尉も、いっしょになって捜索を開始した。
一時間ほど捜索したが……、何も怪しいものは見つからない。
「いったいどうやって、爆発させてるんでしょうかね」
独り言のように、ヴィレール少尉が言った。
「どう考えてもおかしいんですよ。最初の爆発が起こったときに、警護の人数を三倍にしたんです。貴族士官たちは、非番のものを除いてすべてかりだされました。それなのに、犯人は艦に忍び込んでる。そんなことができるわけはないんだ。メイジにだって無理ですよ」
「貴族の中に、怪しい人物はいないの?」
タバサが尋ねたが、ヴィレール少尉は首を振った。
「貴族士官は七百人からいますが……、みな、昔から勤務している方々です。補充の士官もいますが、身元はしっかりしてます。艦隊勤務の士官ってのは、ある意味、家族みたいなもんなんです。裏切り者がいるとは考えにくいですね」
「…………」
「やっぱり、新たに補充した水兵の中に、よからぬ企みをしている連中がいるんでしょうね。各艦に、そんな裏切り者がいて……、自爆してるのかもしれない。新教徒は平民と相場は決まってるから、魔法じゃなく、火打石でね。導火線を使ったら、すぐに見つかっちまうから。まさに自爆攻撃ですよ。新教徒の罰当たりどもなら、そのぐらいのことを平気でやりそうだ」
それからヴィレール少尉は首を振った。
「なんてね。新教徒だろうがなんだろうが、自殺は始祖と神がお赦《ゆる》しになりませんからね。とにかく、あの神官どもときたら、自分たちの信者がむざむざ殺されてるってのに、協力さえしようとしない。まったくもって苦労しますよ、特任少佐」
ヴィレール少尉は、リュシーの去っていった方角を見つめて言った。
タバサには、旗艦『シャルル・オルレアン』号の士官室が一つ、与えられた。子供と侮ってはいるが、それなりの扱いは保証するつもりのようだ。ただ、食事まで気を使うつもりはないらしい。その晩、従兵がやってきて小さなテーブルに並べた食事を見て、シルフィードは文句をつける。
「きゅいきゅい! なにこの料理! しおっからいだけの塩漬け肉に、苦いばかりのナツメヤシ! おまけにこのパンかたい〜〜、きゅい!」
シルフィードは、さかんにわめいた。美食家のシルフィードにとって、こんな食事は到底許せるものではない。どうやらこれは水兵の食事のようだった。貴族士官だったら、もうちょっとマシなものがテーブルに並ぶはずである。つまりタバサは、艦隊司令部にナメられているのであった。
そんな待遇は許せないので、撫然《ぶぜん》として唇を尖《とが》らせ、シルフィードはタバサを睨《にら》んだ。しかしタバサは、黙々と料理を口に運んでいる。
「もう。おねえさまは美食家のくせに、食事に文句をつけないのね」
「食べられるだけ、幸せ」
シルフィードはそっぽを向いた。
「じゃあシルフィいらない! こんなの食べられない! きゅい!」
するとタバサは無言で手を伸ばすと、シルフィードの分を食べ始めた。ひょいばく、ひょいばく、と皿の上の料理がなくなっていく。シルフィードはすねて横を向いていたが、すぐに耐えられなくなり、皿を取り上げがつがつ食べ始めた。
「ねえおねえさま。今回の事件をどうやって解決するおつもり? 話を聞いた分では、雲を掴《つか》むようなお話なのね。誰《だれ》がどうやってやっているのかもわからない。おまけにこんなにいっぱいあるフネのどれが爆発するのかなんて……、わかんないのね」
するとタバサは、わずかに表情を曇《くも》らせた。
「誰が“犯人”なのかはすぐにわかりそうな気がする」
「ええ? どうして? シルフィにはさっぱりわからないのに! いったい誰?」
タバサはもう応《こた》えない。黙々と食事を続ける。シルフィードはしかたなしに、再び美味とはいえない料理と格闘し始めた。
食事が済むと、シルフィードは早々に寝付いてしまった。
窓にはカーテンがかかっている。淡いランプの光だけが、部屋の中を照らしていた。
タバサは椅子《いす》に座り、珍しく本を開かずに、壁にかけられた一枚の絵をじっと見つめていた。
ここは、来賓用の士官室だ。壁には、戦場や歴代の艦隊司令長官の絵に交じり、このガリア|両 用 艦 隊《バイラテラル・フロッテ》旗艦の絵が飾られている。
その絵の隣には……、タバサと同じ髪の色の若い魅力的な男性の肖像画がかかっていた。
実物より、多少凛々しく誇張されている。
タバサの記憶の中にある彼は、もっと優しい笑顔を浮かべていた。
肖像画の下には、こう書かれていた。
『シャルル・オルレアン公』
自分を含む家族からは王族の権利を取り上げたのに、父の名をこのガリア両用艦隊旗艦に使ったのは、どういう心境によるものなのだろうか。
タバサは憎い仇《かたき》である伯父王の心中を想像した。
もちろん、わからない。わかるわけもない。それがどういう理由で発されたものであれ、知りたくもなかった。
タバサは立ち上がると、父の肖像画に向かって一礼する。
それから……、ランプを吹き消し、ベッドに潜り込んだ。
でも、眠れない。
去り際のキュルケの言葉が、頭の中をよぎる。
“わたし、見つけたかもしれない。杖《つえ》を振るべき理由を”
自分はなんのために杖を振るうのだろう?
復讐《ふくしゅう》のためだ。
父を殺し、母の心を奪った伯父王への復讐だけが……、自分を動かしている。そのためだけに|北 花 壇 騎 士《シュヴァリエ・ド・ノールパルテル》になり、手柄をあげ続けている。伯父王へ、すこしでも近づくために……。
だから今回の任務も、なんとしてでも成功させねばならない。一つの成功が、一歩伯父王への距離を近づけさせるのだから……。
真っ暗になった寝室で、タバサは考える。
艦隊への破壊工作……、その冷酷さで恐怖され、その無能さでさげすまれる伯父王が営む王政府に恨みを抱くものは無数に存在する。
だが、ある程度には大別できる。
まずは日ごろ弾圧されている新教徒。教義の解釈が違う、ただそれだけでガリア中の寺院や王政府から彼らは目の敵にされている。
そしてトリステインにゲルマニア。この両国がアルビオン側にたっての参戦を危惧《きぐ》して、妨害工作をしているのかもしれない。でも、この両国の仕業とは考えにくい。ガリアを味方にするべく、交渉を行っている。味方になるかもしれない艦隊を、破壊するとは思えない。
そして最後にもう一つの勢力……。
タバサは、まるで他人事のように呟《つぶや》く。
「もし、そうだとしたら、たぶんわたしのこの……、髪の色が教えてくれる」
翌日も、タバサは黙々と捜査を続けた。爆発現場に入り、辺りを丹念に捜索する。しかしやはり、めぼしいものは何も見つからない。
握った長い杖《つえ》でもって、木片のかけらをひっくり返し、下を改める。昼過ぎまで、タバサは捜索を続けた。
サン・マロンの港街は、一方を海岸、三方を丘陵に囲まれた防衛に適した土地だ。鉄塔の桟橋はその内陸部に並び、港街は丘陵沿いに発達していた。白い壁に、茶色の屋根が眩《まぶ》しい、綺麗《きれい》な町並みだった。
冷たい冬の潮風が、タバサの頬《ほお》をなぶり、軽く身をすくませた。そんなタバサに、シルフィードが声をかける。
「おねえさま、無駄なのね。こんなバラバラになってちゃ、証拠もなにもないのね」
そのうちにタバサは何かを見つけたらしい。小さな、キラキラ光る金属の破片だった。それを丹念に見つめ……、ポケットに入れる。
「おねえさま、いったい何を見つけたの?」
しかしタバサは、黙ったまま。
「見せて! 見せてなのねー!」
タバサに飛びつき、頭にかじりつく。人間の女性の姿でそんなことをしたものだから、なんだなんだと手すきの兵隊たちが集まってきた。
「見世物じゃないのね!」
シルフィードは慌てて首を振る。
その中に、ヴィレール少尉の姿があった。
「いったいどうしたんです?」
タバサは、ヴィレール少尉に拾ったものを見せた。
「こんなものを見つけた」
「これは……! 聖具じゃないですか」
ブリミル教徒が持ち歩く聖具は、始祖が腕を広げた姿を抽象化したものである。
「でも……、デザインが違う。表情がある」
始祖の容姿を正確に象《かたど》ることは不敬とされている。したがって、普通の神官が使う聖具には、顔はない。しかし……、この聖具はまさに若い始祖の姿を象っていた。
「……新教徒どもの聖具ですな」
周りに集まった兵隊たちも、口々に噂《うわさ》しあう。
「やっぱりやつらの仕業か!」
「ちくしょう。あの罰当たりどもめ……」
そんな騒ぎを聞きつけてか、神官服を着たリュシーがやってきた。彼女はタバサに気づくと、ぺこりと一礼する。
「よければ、その聖具を見せてはいただけませんか?」
タバサは、リュシーに聖具を差し出した。
「これは……」
「新教徒どもが、この艦隊に潜んでいる、ということですな」
ヴィレール少尉は、自分に言い聞かせるように頷《うなず》いた。
リュシーは、じっとタバサを見つめた。すると……、穏やかな聖職者の顔に、厳しい何かが浮かぶ。タバサもその目を見つめ返した。
その日、タバサはそれで調査を打ち切った。『シャルル・オルレアン』号の部屋に戻り、すぐにベッドに潜り込む。
翌朝……、たっぷりと睡眠をとったタバサはベッドから起き上がった。シルフィードは隣で大口をあけていびきをかいている。タバサが部屋の外に出ると、扉のそばに控えていた世話係のヴィレール少尉が声をかけた。
「おや? 特任少佐。どちらにお出かけですか?」
「寺院」
ヴィレール少尉は一瞬あっけにとられたような顔になったが、すぐにごくりとつばを飲み込んだ。
艦隊付き神官の寺院は、サン・マロンの市街ではなく、鉄塔の桟橋が並ぶ通りの突き当たりにあった。街の寺院とは違い、素焼きの煉瓦《れんが》でできた粗末な造りだ。冷たい潮風が吹きつける中、タバサは目的の場所を探す。
告解室は、寺院の一階、礼拝堂の奥に設けられていた。罪の告白をしにきた人間が、顔の見えないように開けられた小窓越しに、神官とそこで相対するのである。
在室の札が、告解室の壁にかけられている。タバサはカーテンをくぐると、硬い木の椅子《いす》に腰掛けた。
背の低いタバサが腰掛けると、カーテンのかかった小窓は、ちょうど口元のわずか下辺りにきた。信者と神官、お互いの顔が見えぬよう、配慮が為されているのだ。神官はここで聞いた信者の秘密を、決して外に漏らすことはない。
「あなたはどのような罪を犯したのですか? 神と始祖ブリミルは、すべてをお聞き届けになり、そのすべての罪を清めてくださいます」
澄みきった、リュシーの声だった。タバサは声色を使い、小さな声で言った。
「わたしは艦を爆破しました」
しばらくの沈黙があり、ため息混じりにリュシーが言った。
「調査にいらした騎士どのですね?」
タバサは応《こた》えない。椅子《いす》から立ち上がる音がして、こちらに回ってくるリュシーの足音が響く。カーテンが開けられ、リュシーが顔を見せた。哀しそうな顔で、リュシーはタバサを促す。奥は神官たちの宿直室になっていた。机とベッドのみの、軍艦のそれのような、シンプルな部屋である。他の神官はそれぞれ持ち回りの艦に乗っているのか姿が見えない。
リュシーはタバサを見つめ、困った顔で言った。
「どういうおつもりですか?」
「反応を知りたかった」
悪びれた風もなく、タバサは言った。
「騎士どのも、わたくしをお疑いなのね」
その声に、疲れた何かがこもっていた。
「も?」
タバサが問い返すと、リュシーはどうしようか、と悩むそぶりを見せたあと……、口を開いた。
「最初の爆発が起こったとき……、一番初めに疑われたのはわたくしなのです」
タバサはじっと黙って、リュシーを見つめた。
「どうして?」
しかしリュシーは答えない。困ったように手のひらを触っている。
さらにタバサが何か尋ねようとしたとき……、外から水兵や士官たちの怒号が聞こえてきた。
「『グロワール』号だ!」
「なにかしら?」
リュシーが不安げな表情で首を傾《かし》げた。
タバサは杖《つえ》を握ると、寺院の外に飛び出した。リュシーも続く。朝の光が眩《まぶ》しいなか、水兵たちが息せききって走っていくのが見えた。
一人の水兵に、タバサは尋ねた。
「どうしたの?」
水兵はタバサを見て、一瞬、軍港にどうして子供がいるんだ? というような表情になったがマントを認めて敬礼した。
「爆破犯が見つかったんです!」
『グロワール』号は、寺院から三百メイルほど離れた桟橋に係留されていた。鉄塔から張られたワイヤーに吊り下げられ、風石を運びこんでいる真っ最中であった。
甲板や、桟橋の下にはたくさんの水兵や士官が集まり、上を見上げて騒いでいた。
「あの野郎を叩《たた》き落とせ!」
そんな叫び声が聞こえてくる。タバサはヴィレール少尉の姿を見つけ、そばに駆け寄った。
「特任少佐」
「なにが起こってるの?」
ヴィレール少尉は、『グロワール』号のマストを指差した。一人の水兵が見張り台に立って、銃を構えて何か叫んでいる。
「あいつは、この『グロワール』号の水兵で、火薬庫の当直|歩哨《ほしょう》だった男です。同僚を刺し殺して、火薬庫に火をつけようとしたらしい」
どうやら、朝になり、艦内の空気が緩んだ瞬間を狙《ねら》って爆破に及ぼうとしたらしい。夜の間は、犯行を警戒して見張りも厳しい。貴族士官たちが取り押さえようとしたが、逃げられ、マストによじ登られてしまったようだ。
甲板にいる水兵が、銃を構えようとした。すると士官たちから叱咤《しった》の声が飛ぶ。
「撃つな! 生かして捕らえろ!」
まずいな、とヴィレール少尉が呟《つぶや》く。
「死んじまったら、背後にいる連中がわからなくなる」
ヴィレール少尉は、マストの上の男に届くように、大声で叫んだ。
「おい! 貴様の要求を言え! どうしてこんなことをする!」
しかし、男は答えない。それどころか、銃をくわえて、引き金に指をかけた。
「ちっ!」
仕事熱心で真面目なヴィレール少尉は杖《つえ》を構えて呪文《じゅもん》を唱えた。
“フライ”だ。
宙に浮き上がったヴィレール少尉を見て、周りの士官たちから叱責《しっせき》の声が飛ぶ。
「おい! ヴィレール! どうするつもりだ!」
「説得する」
「やめろ! 刺激するな!」
しかし生真面目なヴィレール少尉は男のそばへと向かい、叫んだ。
「よせ! 自殺は始祖ブリミルがお赦《ゆる》しにならない! 地獄に落ちるぞ!」
そんなヴィレール少尉の説得は、最悪の結果をもたらした。
「実践教義万歳!」
男は大きな声で叫んだ。ついで銃声が響く。
男の身体《からだ》から力が抜け……、甲板へと落下していく。タバサが“フライ”の呪文で甲板に上ったときには、男はすでに事切れていた。頭を撃ち抜いていたので、水魔法でも手の施《ほどこ》しようがない。
声で判断したとおり、二十歳をいくつか出たばかりの若い男であった。血まみれになって倒れた男の周りを、水兵や士官たちが、苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔で取り囲んでいる。
「やっぱり新教徒の仕業だったんだな! あのごく潰しどもめ!」
一人の士官が大声で叫んだ。自殺した男は先ほど、『実践教義』と口にした。新教徒たちが掲げている思想だ。ハルケギニアのほとんどの寺院は貴族と結びつき、その権勢をほしいままにしている。そんな腐敗した寺院の改革を目指す教義……、それが実践教義だ。
しかし、清貧を旨とするその思想は、平民すべてに人気があるわけではない。あまりに弾圧しては反乱の元凶となるため、放置されている状態であるが、表向きは一応国法で禁じられた教えでもある。水兵たちの反発はかなりのものだった。
怒りに皆が顔を歪《ゆが》めるなか、一人|蒼白《そうはく》な顔をしている人物がいた。先ほど男を説得しようとしたヴィレール少尉である。
一人の士官が彼に近づき、
「おいヴィレール、お前、よくも勝手なことをしてくれたな。おかげであいつから仲間を吐かせることができなくなっちまったじゃないか!」
「……す、すまない」
同僚に咎《とが》められ、ヴィレール少尉は深くうなだれた。士官たちに責められるヴィレール少尉を横目で見つめたあと、タバサは男の傍らにしゃがみこんだ。
男の目は、きっかりと見開かれていた。
新教徒。
自らの身体《からだ》を犠牲にして、貴族に反抗しようとした男……。
その目をしっかりと覗《のぞ》き込む。
「?」
タバサは死体の目の中に、妙な光を感じた。
魔力の光だ。
その光は、急速に目から消えうせていく。
「…………」
この男の友人だったらしい水兵が、男に取りついて泣き喚《わめ》いていた。
「ヨハン! ヨハン! どうしてお前がこんなことを! お前はあんなに真面目だったじゃないか! ここで金を貯めて、田舎《いなか》に帰って土地を買うんだって言ってたじゃないか! そんなお前が新教徒だって? 信じられないよ!」
そんな水兵を、士官の一人が引き離そうとした。
「おい水兵。新教徒というものは、シロアリみたいなものだ。いつの間にか忍び込んで、こうやって母屋を食いつぶす生き物なんだ」
「でも、でも大尉! こいつが新教徒だったなんて、俺《おれ》には信じられないんです!」
「この死体を片づけろ」
「せ、せめてわたしに埋葬させてください!」
「ならぬ。いいから早く持ち場へ戻れ。軍務だぞ」
「お願いです!」
「ええい、くどい!」
いらだった士官は、杖《つえ》を引き抜こうとした。
タバサはすっと手を伸ばし、その士官を制した。
「何か?」
「彼の言うとおりに」
士官は困ったように、タバサを見つめた。王政府から派遣された花壇騎士のタバサは、佐官に相当する。
「では、騎士殿にお任せいたします」
つまらなさそうにそう言い捨て、士官は立ち去っていく。あとにはヨハンの知り合いだった水兵と、がっくりとうなだれたヴィレール少尉が残された。
水兵は何度もタバサに頭を下げる。
タバサは再び、男の目を見つめた。先ほど感じた、魔法の光はすでに掻《か》き消《き》えている。ただ、その光は脳裏に焼きついている。タバサは脳内の図書館をあさり始めた。
熾火のように、静かに燃える光……、記憶の底から、タバサはその呪文《じゅもん》を救い出した。
「“制約《ギアス》”……」
小さな声で、タバサは呟《つぶや》いた。
翌朝……、ヨハンという男が埋葬されたのは、軍の墓地から離れた荒れ地だった。裏切り者を、戦士たちの魂が眠るべきヴァルハラに迎え入れるわけにはいかない、というのがその理由だ。
枯れ木や転がった石の間を、ひょうひょうと冷たい潮風が通り過ぎていく。
そんな中、短剣が、盛った土の上にぽつんと突き立てられている。それが墓石の代わりというわけだ。
夕刻、艦内で調べものを終えたタバサがシルフィードを伴ってそこへ向かうと、リュシーが膝《ひざ》をついて祈りを捧《ささ》げている最中だった。
タバサとシルフィードはその後ろに立って、お祈りが終わるのを待った。
しばらくすると、リュシーは顔をあげた。
「騎士どの……、いらしてたんですか?」
「相手は新教徒なのに、お祈りを捧げるの?」
「……神の御前では、すべては平等ですから。多少の解釈の違いで、人を差別するようなことがあってはなりません」
際どい発言だった。異端とされてもおかしくないような言葉だったが、リュシーはさらっと口にした。
「それに……、なんだか他人事とは思えないんです」
哀しげに、リュシーは顔を伏せた。
「他人事?」
「ええ、今朝方、お話できなかったことです……。その、わたくしは元から神官だったわけではありません。わたくしはとある件で、貴族の名を失くし、出家したものにございます」
「とある件?」
「はい。わたくしの父は|オルレアン公《王弟殿下》に仕えておりました」
その名前で、わずかにタバサの眉《まゆ》が動く。後ろに立ったシルフィードが、ごくりとつばを飲み込んだ。
「とはいっても、お屋敷の敷居をまたげる身分ではございませんでしたが……、それでも主君は主君。騎士殿もご存知でしょう? オルレアン公が、狩猟中の“事故”で亡くなったあと、宮廷に吹き荒れた粛清の嵐《あらし》のことを……。オルレアン公派と目された貴族は、根こそぎ命か官位を奪われました。わたくしの父も、その中に名を連ねていたのです」
リュシーは哀しげに目を伏せた。タバサの正体には気づかない様子だった。まあ、無理もない。彼女の父は屋敷に候できる身分ではなかったようだ。幼いタバサはおろか、オルレアン公にも直接目通りする機会は少なかったに違いない。その上、タバサは三年前とはかなり印象を異にしていた。王家の象徴ともいえる青髪にしても、その色を持つ貴族がいないわけではない。
目の前の少女が、父のかつての主君の娘だということに気づかない様子で、リュシーは言葉を続けた。
「父が処刑されたあと、わたくしの一家は屋敷と財産を奪われ、散り散りになりました。わたくしは寺院に身をよせ、出家することにいたしました。もう、俗世のことには関わりたくなかったのです。しかし、再びこのような事件に巻き込まれるとは……、どこまで神はわたくしに試練をお与えになれば気がすむのでしょうか……。わたくしは初め、真っ先に疑われました。何度も魔法をかけられ、嘘《うそ》をついていないか調べられたのです。旧オルレアン公派ではないかと、何度も尋問されたのです。確かに父はオルレアン公に仕えていました。でも……、わたくしは、ただひっそりと暮らしたい、ただの神官でございますわ。政治には関わりたくもありません」
タバサは、リュシーと出会ったときの、ヴィレール少尉の気まずそうな顔を思い出す。神官に対して取り調べを行うことは、縁起を担ぐ軍人たちにとって、悪夢のような行為だったに違いない。その気まずさが、リュシーに対してあんな態度をとらせたのだろう。
それからリュシーは、再びヨハンの墓に目を落とす。
「そんなわたくしですから……、このように虐げられた人々が、他人とは思えないのです」
彼女にとって、神官という“仕事”は逃げ込む場所に過ぎなかったのかもしれない。ならばこそ、新教徒の犯罪者にも祈りを捧《ささ》げることができるのだろう。
「宗派が違う、ただそれだけでどうしてここまで争わねばならぬのでしょう。新教徒も、旧教徒も、お互いを認めればよいのです」
タバサは、首を振った。
「新教徒の仕業じゃない」
リュシーは怪訝《けげん》な顔になった。
「ではいったい誰《だれ》が……」
「それはわからない。ただ、ヨハンには“制約《ギアス》”がかけられていた」
「制約《ギアス》?」
リュシーはますます当惑の色を浮かべた。
「大昔に使用が禁じられた心を操る|水系統の呪文《ヒーリング》。これをかけられたものは、任意の条件を……、時間や場所などの条件を満たしたときに、詠唱者が望む行動をとる。例えば“火薬庫に火をつける”等の簡単な行動を。発動するまでは、呪文《じゅもん》にかかっているのかどうかは見破れない。自分がかけられたことにも気づかない」
「誰《だれ》かがそれを行っているとおっしゃるのですか?」
こくりと、タバサは頷《うなず》いた。
「心を操るなど……、恐ろしいことですわ。まことに恐ろしいことですわ……」
リュシーは、哀しげに首を振る。それから顔をあげ、諦《あきら》めたような口調でタバサに尋ねる。
「やはり、わたくしをお疑いなのですか? 無理からぬことではありますが……。貴族士官たちは身元のしっかりした方ばかり。わたくしは、貴族の名を取り上げられて出家したような、怪しい経歴の持ち主ですからね」
タバサは首を振った。
「あなたじゃない。あなたは嘘《うそ》がつける人間じゃない」
リュシーはその言葉で、はっとした表情を浮かべた。それから目に涙を浮かべ、
「ありがとうございます」と言った。
『シャルル・オルレアン』号に戻る道すがら、シルフィードはきゅいきゅい、とわめきながら、タバサの頭を叩《たた》いた。
「この期におよんで、あのリュシーさんを疑っていたら、おねえさまの心根をこのシルフィ疑わねばいけないところだったのね。きゅい」
「…………」
「あの人、ほんとうにまっすぐな人。いまどき珍しいぐらいに。シルフィあの人が相手だったら、“大いなる意思”から始祖ブリミルに宗旨替えしてもかまわないのね。信じちゃいないけどね。きゅい」
きゅーきゅきゅっきゅ〜〜〜、と呻《うめ》きながらシルフィードはウネウネと身体《からだ》を動かした。感動しているらしい。
途中、タバサは立ちどまり、じっとヨハンの墓を見つめた。彼は“制約《ギアス》”の呪文《じゅもん》によって新教徒のフリをさせられ、乗艦を爆破する命令を与えられた。
その上、失敗すれば自殺を行うよう、“制約《ギアス》”に演目を刷り込まれていたに違いない。すっと目を閉じ、タバサは両手を組み合わせた。
誰かの目的の道具となり、あっさり殺された若者に向かって、タバサは静かに祈りを捧《ささ》げた。
『シャルル・オルレアン』号に戻ってきたタバサは、艦隊総司令官室に直行した。艦隊の首脳部を集めた会議の席で作戦を告げると、一同は騒ぎ始めた。
「火薬を降ろすだって? バカな! 今は準戦時だ。わしは陛下から、“いち早く艦隊を使えるようにしろ”と命令されているのだぞ! それよりも早く新教徒を洗うのだ! 水兵たちに紛れておるのだろう? 調査を進めぬか!」
総司令のクラヴィル卿《きょう》は真っ先に反対した。彼は勇猛だが愚直な軍人の典型であった。命令に固執するあまり、現状を省みない。現実に六隻のフネが破壊されているというのに、火薬を降ろすつもりはないらしい。
「水兵一人ひとりを洗うのは不可能。それにこれ以上、フネを沈ませるわけにはいかない」
タバサが言うと、リュジニャン子爵をはじめとする艦隊首脳も頷《うなず》いた。
「確かに命令は命令ですが……、現実として六隻ものフネを我々は失っております。艦隊の士気も下がっておりますれば……」
「怖気《おぞけ》づいたか! 戦になれば、否が応にも損害は発生する! もしフネから火薬を降ろしたと同時に、開戦の詔勅《しょうちょく》が発せられたらなんとする! このわしが責任を負わねばならぬのだぞ!」
自分の責任問題のほうが、水兵たちの命より優先度が高いらしい。ガリア、いやハルケギニアのほとんどの将軍がそうであるように、彼もまた保身と出世が己のすべてであった。戦場での勇気、智謀《ちぼう》極めた作戦、すべてはそのために存在した。
タバサは淡々と言った。
「すべての責任はわたしが負う」
艦隊首脳の間に、沈黙が走った。重々しい口調で、クラヴィル卿が尋ねた。
「それは王政府から派遣された花壇騎士としての発言かな?」
「騎士として誓約する。責任はわたしが負う。だから艦隊の火薬をすべて降ろして」
クラヴィル卿は、それでもつまらなそうな顔で、命令書をしたためる。タバサは、それから一言付き添えた。
「でも、この『シャルル・オルレアン』号だけは、降ろさない」
一同の顔が、蒼白《そうはく》になった。
「そ、それはつまり、この『シャルル・オルレアン』号が……」
「狙《ねら》われるということ」
涼しい顔で、タバサは告げる。
「他の艦にすべきじゃないかね。この艦は、陛下の御召艦《おめしかん》だぞ。普通のフネとはわけが違う」
「この艦だからこそ、チャンスをつくってやれば相手は絶対に狙ってくる」
ぐうの音も出なかった。タバサの言葉は正論だった。だが、あまりにも犠牲を無視している。
旗艦を囮《おとり》にする。
軍学校の答案なら、零点間違いなしの作戦だ。だが……、相手は海や空に浮かんだ敵艦隊ではない。不正規戦では、この小さな|北 花 壇 騎 士《シュヴァリエ・ド・ノールパルテル》に一日の長《おさ》がある。自分は陸の上では、所詮《しょせん》門外漢なのだ……。
クラヴィル卿《きょう》は、この小さな少女の青い冷たい目の奥に、目的に邁進《まいしん》するためなら手段を選ばない冷酷さを感じ取った。納得がいったわけではない。だが、自分にはどうすればいいのかわからない。
「リュジニャン子爵」
副官に、クラヴィル卿は命令した。
「こうなっては致し方あるまい。あー、司令部を陸《おか》に移すぞ」
「わたくしも、その、お供させていただいてよろしいですか?」
「いかん。貴様は艦に残って、状況をわしに報告するのだ」
「そんな。無情な!」
わたくしはどうなるのですか? わたしにも退艦許可を! と騒ぐ艦隊首脳部を置いて、タバサは会議室を出た。
扉の隣には、ヴィレール少尉が相変わらず浮かない顔で立っている。どうやら昨日の失態……、ヨハンに引き金を引かせてしまった件を未だ気にしているようだった。
「ヴィレール少尉」
タバサが呼びかけると、ヴィレール少尉は、やっと気づいた、というように顔をあげた。
「あ、特任少佐。会議は終わりましたか」
タバサは頷《うなず》くと、ヴィレール少尉を見つめた。
「なにか?」
「疲れてる。少し休んだほうがいい」
「お気遣いは痛み入りますが、任務ですから」
ヴィレール少尉は、深いため息とともに呟《つぶや》く。
「せめて、任務に打ちこまねば……。くそ、私のせいで重要な手がかりが……」
タバサはしゃがみこむと、ヴィレール少尉のブーツに手を伸ばす。
「特任少佐?」
「紐《ひも》が外れている」
ささっと、タバサは編み上げのブーツの紐を結いなおした。その行動に、ヴィレール少尉は慌てた。靴の紐を直してくれる上官など、聞いたこともない。
「あ、ありがとうございます」
ヴィレール少尉は、苦しそうに顔を歪《ゆが》めた。己の中に溢《あふ》れる罪悪感に耐えかねるように敬礼すると、ヴィレール少尉は失礼します、と言って立ち去った。
『シャルル・オルレアン』号を除いた全艦隊から火薬を降ろせという命令は、その日のうちに実行された。樽《たる》に収められた火薬は再び、煉瓦《れんが》造りの保管倉へと戻されていく。
保管倉は、万一の爆発事故に備え、桟橋から離れた場所に造られている。ここを狙《ねら》われても、艦隊に被害は及ばない。それでもかなりの警備を配置した。
火薬を積んでいた艦は、おおよそ五十隻。そのすべての艦から降ろされた火薬|樽《だる》は、千本近い。薄暗い保管倉の中にそれらが次々と運び込まれる様は壮観だった。
保管倉の入り口に立って、火薬樽が積まれた荷車を引く水兵たちを見つめ、シルフィードが言った。
「あれが爆発しちゃったら、どうなっちゃうのね。きゅい」
タバサは応《こた》えずに、一冊のノートに目を通している。
「おねえさま、それなに?」
シルフィードが尋ねると、
「この事件の犠牲者名簿」
「怖いの読んでるのね」
最後までページをめくり、タバサは頷《うなず》いた。
「でもおねえさま……。自分の乗ってるフネにだけ、火薬を積んだままにするなんて、何を考えてるのね。下手したら、フネと運命を共にすることになっちゃうのね。艦隊のえらいさんたちが逃げ出すのも、無理はないのね」
タバサは応えずに、じっと犠牲者名簿の表紙を見つめている。シルフィードは哀しそうに、きゅい、と呟《つぶや》いた。
「おねえさまの考えていること、シルフィには丸わかりなのね。このフネを囮《おとり》にして、犯人をとっつかまえるつもりなのね」
ぺしぺしとシルフィードはタバサの頭を叩《たた》いた。
「なんで自分を大切にしないのねー。というか、ついでにシルフィも大切にして欲しいのねー。こんなところで爆発に巻き込まれて死ぬなんてごめんなのねー」
タバサは、シルフィードに言った。
「じゃあ、空で待機してて」
ちょっと待ってて、と言わんばかりの口調でタバサが言ったので、シルフィードは慌てた。
「じょ、冗談なのね! シルフィはおねえさまの第一の家来! 忠実な使い魔なのね! そんなおねえさまを一人残して空へ逃げるなんて……」
シルフィードは目をつむり、得意げに指を立てた。すかさずタバサが、
「どっかーん」
と爆発音をまねると、シルフィードは、きゅい! とわめいて傍らの立ち木のそばにうずくまり、震え始めた。
すぐにタバサの悪戯に気づき、シルフィードは顔をあげて文句を並べた。
「そういうこと言わないのね! 寿命が縮まったのね! 二百年ぐらい! きゅい!」
「大丈夫。わたしの見立てが正しければ……、今日の夜には事件は解決する」
タバサのその言葉に、シルフィードはぽかんと口をあけた。それから足元にしゃがみこむと、その顔を見上げる。
はぁ〜〜〜〜、とため息をついて、シルフィードは立ち上がる。
「信じてあげるわ。それに、おねえさまはシルフィがいなけりゃなんにもできないし。勝手に死なれたら寝覚めが悪いし。しかたなくつきあってあげるのね。きゅい」
するとタバサは俯《うつむ》いた。
「なに? 感激して泣いちゃってるの? そんなことじゃ、二つ名の雪風が泣くのね。冷酷非情なちびっこ魔法使い……。それがおねえさまなのね。きゅい」
「どかーん」
シルフィードは再び頭を抱えて、しゃがみこむ。再び騙《だま》されたことに気づき、きゅわきゅわ! とわめきながら立ち上がる。
タバサは頭を下げた。
「ありがとう」
シルフィードは、振り上げた右の拳《こぶし》を左手で包み込む。それから気恥ずかしそうにタバサを抱きしめた。
「ほんとうは怖いのね? まったく素直じゃないんだから! だいじょうぶ。なにがあっても、このシルフィが守ってあげるのね」
「沈みそうなフネからは、真っ先にネズミが逃げ出すって言うぜ」
「ちげえねえ」
艦隊首脳部が立ち去ってしまった『シャルル・オルレアン』号の中では、水兵たちがぼやいていた。いつにもまして、厳重な警戒である。
艦内には貴族士官が警備のためだけに二十人近くも配置され、百五十もの水兵が、裏切り者から火薬庫を守るためにかりだされた。
どう見ても鉄壁の布陣である。
メイジが二十人、ということは、もし一個連隊規模の敵に押し寄せられても守りきれるということを意味していた。
夕闇《ゆうやみ》が軍港を包んでいくと、甲板にはかがり火がたかれ、陰になる部分には必ず兵隊が置かれた。兵隊たちは、怯《おび》えた表情だ。無理もない。
そのうちに点鐘が、二度鳴った。午前一時の二点鐘だ。
士官の一人が、傍らで杖《つえ》をいじるヴィレール少尉に話しかける。
「“オルレアン公”を囮《おとり》にするのはいいんだが……、さすがにここまでやっちまったら、連中、姿を現さないんじゃないかね? 新教徒どもだってバカじゃない。メイジや兵隊がうじゃうじゃしているこんな竜の巣みたいな場所で、行為に及ぶとも思えんのだが」
しかしヴィレール少尉は答えない。
「おいヴィレール。どうした? 大丈夫か?」
頷《うなず》くヴィレール少尉の顔は蒼白《そうはく》だった。
「……気分が悪いのか?」
ヴィレール少尉は首を振った。
「立ってるのもつらそうじゃないか。医務室で休んでろよ。なぁに、これだけメイジがいるんだ。一人くらいいなくたって平気だよ」
士官は、水兵を呼ぶと、
「ヴィレール少尉を、医務室まで連れていけ」と命令した。
消毒用のアルコール臭が漂う、医務室のベッドに寝かされたヴィレール少尉はしばらく目をつむっていたが、水兵たちが立ち去ると、ぱちりと目を開いた。
音を立てぬよう、ゆっくりと立ち上がり、外へ出る。通路には見張りの兵がいた。
「おや? ヴイレール少尉。もうよくなったんで?」
そう尋ねる水兵の腹に、ヴィレール少尉が引き抜いた杖《つえ》の柄がめりこむ。水兵は悶絶《もんぜつ》して床に崩れ落ちる。
ついで、ヴィレール少尉の口からルーンが漏れる。
「イル・ウォータル・スレイプ・クラウディ」
|スリーピング・クラウド《眠 り の 雲》の呪文《じゅもん》だ。
伸ばした杖の先から、白い、ねっとりした煙が溢《あふ》れ、瞬く間に艦内へと充満していく。こういった軍艦内のように狭く入り組んだ場所では、“|スリーピング・クラウド《眠 り の 雲》”はおそるべき威力を発揮する。
新教徒が相手とばかり思い込み、メイジの襲撃をまったく予想していなかった兵士たちは、次々と眠りの雲に絡め取られ、深い眠りへと落ちていく。
ところどころ、魔法の明かりが灯《とも》された艦内を、ヴィレール少尉は黙々と歩いた。目的地は、中甲板にある火薬庫の前だった。三倍に増やされた見張りの水兵は、先ほど唱えた眠りの雲で眠りこけている。
火薬庫の扉には厳重に魔法の鍵《かぎ》がかかっている。ヴィレール少尉は魔法を唱えた。強力な風魔法で、鍵ごと扉が吹き飛ぶ。
ヴィレール少尉は一切の感情を浮かべない顔で、火薬庫へと入っていく。
火薬庫には、三十ほどの火薬|樽《だる》が収められている。これがすべて爆発すれば、『シャルル・オルレアン』号だけでなく、隣に係留された艦にまで被害が及ぶだろう。
なんのためらいも見せずに、ヴィレール少尉は杖《つえ》を構え、『発火』の呪文《じゅもん》を唱えた。
それを火薬|樽《だる》に向けて振り下ろす。
チリチリ、と樽の外板が赤く燃え出した。
数秒で中の火薬に引火して、ヴィレール少尉を含むすべてがバラバラになるだろう……。
しかし、爆発は起こらなかった。
樽の外板が燃え落ちて、ブスブスとくすぶり始める。樽に開いた穴から、ざらっと黒い何かがこぼれてきた。
「…………?」
ヴイレール少尉は、樽に近づき、その黒い粉を確かめる。
「?」
黒色火薬じゃない。それは……、ただの木炭であった。黒色火薬の原料ではあるが、引火しても爆発することはない。
「……わたしの錬金では、火薬を炭に変えるのが精々」
背後から少女の声がして、ヴィレール少尉は振り向いた。
青い髪の少女が立って、己を見つめている。
タバサだった。
風を使うメイジなら気づくほどに、その幼い顔の周りを微妙な風の流れが囲んでいる。その風でタバサは|眠 り の 雲《スリーピング・クラウド》を散らしたのだ。
ヴィレール少尉は杖を振り、呪文を唱えた。
「ウル・カーノ・イス・イーサ・ウィンデ」
真っ赤に燃える炎球が杖の先に現れる。タバサの背の丈ほどもある炎球は、まっすぐにタバサめがけて飛んでくる。炎球は避けられようが正確に目標を追いかける。その速度は風魔法ほど速くはないが、人の動きで逃げられるものではない。ましてや狭い艦内では、逃げる場所さえなかった。
タバサは、避けるそぶりさえ見せずに、その“炎球”を、杖で受けた。
炎球は杖ごとタバサを飲み込むように膨れ上がった……、瞬間、花火のように炎球はバラバラに飛び散った。杖を中心として、タバサは竜巻のように空気を回転させていたのだ。
炎の球をも、バラバラにしてしまうほどの風魔法を、タバサはなんなく操っていた。
失望したそぶりも見せず、ヴィレール少尉は素早く次の呪文を唱える。
火の使い手ながら、ヴィレール少尉はまるで冷気漂う氷のような雰囲気を纏《まと》っていた。どちらかというと、感情がすぐ顔に出るタイプだったはずなのに、その表情は彫像のように変わらない。その動きには無駄がなく、タバサを排除する――――――、その一点だけに向いている。
憎しみも、怒りも、歓喜も、いかなる感情も、情熱も感じられない冷たい炎。
何者かに操られているもの特有の動きで……、ヴィレール少尉は炎のかたちをしたムチを搾り出す。
ブンッ――――――――――――――――――。
風魔法で散らされようが、しなる炎は途切れずにタバサを襲う……、瞬間、タバサは初めて呪文《じゅもん》を発した。
「ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ウィンデ」
ウィンディ・アイシクル、タバサの周りに現れた、数十本もの氷の矢がヴィレール少尉めがけて飛んだ。
「!」
ヴィレール少尉は身をすくめる。
「?」
だが、その氷の矢は、ヴィレール少尉の横を、頭の上を、股の間をすり抜ける。そして、彼の背後にあった火薬|樽《だる》たちを粉々に砕いた。
ぶわッ!
中から水が溢《あふ》れ出た。タバサが火薬の代わりに詰めた水だ。溢れる水で、ヴィレール少尉が振り回していた炎のムチが消し飛ぶ。
水は熱気で一瞬で空気に溶けた。白い水蒸気が、ヴィレール少尉の視界を塞《ふさ》ぐ。
「ラナ・デル・ウィンデ」
タバサは間髪いれずに、呪文を唱えながらヴィレール少尉の懐に潜り込み、みぞおちにエア・ハンマーを叩《たた》き込んだ。
空気の当身を食らい、ヴィレール少尉は床に崩れ落ちた。
「…………」
戦いが終わると、奥にあった樽の蓋《ふた》が弾けとび、シルフィードがひょっこり顔を見せた。
「驚いたのね! ヴィレール少尉が犯人だったなんて! あんなにいい人そうに見えたのに! 人は見かけによらないのね! きゅい!」
タバサはヴィレール少尉の目を覗《のぞ》き込みながら言った。
「犯人は彼じゃない」
「きゅい?」
「ヴィレール少尉は“制約《ギアス》”で操られていただけ」
気を失ったヴィレール少尉の靴を、タバサは確かめた。編み上げのブーツである。よく見ると、紐《ひも》に青い髪が絡みついていた。
「それ、おねえさまの髪の毛なのね」
タバサはポケットから人形を取り出した。粘土でできた、小さな小魔法人形《アルヴィー》である。その背に、髪の毛を押し込む。タバサがいくつかコモン・マジックを唱えると、人形はぴょこんと立ち上がった。
「きゅい?」
「このアルヴィーは、髪の毛が行った場所に向かってくれる」
どこからか手に入れた、マジックアイテムのようだった。どうやら、この小さな青髪の主人には、犯人のめぼしがついているようだ。
タバサはヴィレール少尉を“レビテーション”で浮かび上がらせると、その足を握った。
このまま放置しては犯人にされてしまう。連れていくつもりのようだ。
ととととと、とアルヴィーが歩き出す。
タバサとシルフィードは、そのあとをつけ始めた。
アルヴィーの向かった先は、軍港付きの寺院だった。門についた魔法のランプに浮かび上がった人の像は、なんだか別の世界への扉を思わせる。
右手から潮鳴りが耳に届く。
シルフィードは寺院を見て、
「そんな、まさか……。あのリュシーさんなの? あのリュシーさんが、ヴィレール少尉や水兵さんたちに、魔法をかけてたっていうの?」
と、顔を青くして呟《つぶや》く。
「き、きっと他の神官さんなのね。きゅい」
「ヴィレール少尉をお願い」
タバサは|呪 文《レビテーション》を解いた。地面に落ちそうになる彼を、シルフィードが抱きかかえる。
「ついてきて」
扉を押し、タバサは中へと入った。
中では、金色の髪を解いたリュシーが立って、タバサをじっと見つめていた。昼間とはまったく雰囲気を異にしている。冷たい、人を刺すような何かが身体《からだ》を包んでいる。
それは怒りのオーラだった。
怒りが、魔力となって彼女の身体を包んでいるのだ。これほどのオーラを目の当たりにするのは初めてで、シルフィードはあとじさる。
見るものを凍りつかせるようなそのオーラを見ただけで、シルフィードにはリュシーの正体がわかった。
彼女は神官じゃない。
怒りで身体を前に動かしている、復讐《ふくしゅう》者――――――――――――――――。
魔力とは、感情のほとばしりに他ならない。スクウェアクラスにも匹敵するような、怒りのオーラを揺るがせながら、リュシーはタバサを見つめた。ついで、シルフィードに視線を移す。シルフィードが抱きかかえたヴィレール少尉に気づき、リュシーは大きく頷《うなず》いた。
「いつからお疑いになられたのです?」
タバサは首を振る。
「あなたの唱える“制約《ギアス》”のように、自動的に犯人へと通じる道をつくっただけ」
「どうして? 昼間と全然雰囲気が違うのね! というかリュシーさんが? どうして?」
シルフィードは混乱した。シルフィードは人ではない。だからこそ、人には敏感だ。その人がどういう人間で、どういう風にものを考え、どういうことをするのか、なんとなくわかる。
昼間のリュシーはまったく、あんなことができる人間ではない。艦を爆破するような、凶悪な人間には見えなかった。それは確信だった。
ただ……、目の前のリュシーはまったくの別人だった。
怒りに震える、復讐《ふくしゅう》者。
人はこれほどまでに、昼と夜で顔を変えるのだろうか?
リュシーはタバサを促した。
「わたくしの告解を聞き届けてくださいますか? 騎士殿」
タバサは頷《うなず》いた。
わずかにリュシーは笑みを浮かべた。哀しい笑みだった。
「本来なら、神官でないあなたに告解などお願いできようもないのですが……。わたくしも心の底から神官であったわけではありません。お互いさまということで」
以前とは場所を入れ替えて、青髪の少女と、神官を偽った女は告解室で対峙《たいじ》した。
信者の席に腰掛けたリュシーは、小さな声で、己の罪を語り出す。
「理由は申すまでもないでしょう。オルレアン公派であった、ただそれだけの理由で父を殺し、家族を散り散りにした王政府への復讐……、それのみです。わたくしはじっと、修道院で機会をうかがっておりました。艦隊付き神官として、|両 用 艦 隊《バイラテラル・フロッテ》への赴任が命じられたとき、ついに復讐のチャンスがやってきたと、わたくしは考えたのです」
「…………」
「方法は簡単です。騎士殿ももうおわかりだと思いますが、ここに告解に来た信者に、“フネの火薬|樽《だる》”を爆発させる。その“制約《ギアス》”を刷り込むだけ。罪の意識にさいなまれた信者は、すがりつくものを求めています。赦《ゆる》しを求めています。そんな信者たちに“制約《ギアス》”は恐ろしいほど簡単に、また強力にかかりました。しかもここは告解室。ここにやってくる人々は、ここにやってきたそのことさえ、他人には漏らしません。わたくしがここで“制約《ギアス》”をかけている秘密は完全に守られました」
タバサの隣で、リュシーの告解を聞いていたシルフィードが、小窓の向こうの信者席に座るリュシーに叫ぶ。
「でも、でも! 昼間のリュシーさんは、そんな復讐《ふくしゅう》を行っているようには見えなかったのね!」
リュシーは乾いた笑いを漏らした。
「そうです。内に秘めた復讐心を、心の底に沈める必要がありました。そうでなければ、勘のいい方には見抜かれてしまいますから。昼間は慈愛に満ちた神官として振る舞わねばなりません」
「いったい、どうやって……」
さらっと、リュシーは次の言葉を口にした。
「鏡を使って、己に“制約《ギアス》”をかけたのです。昼間は完璧《かんぺき》な神官を振る舞えるように。目の奥に光る“制約《ギアス》”の痕跡《こんせき》の光さえかき消すほどに完全な。復讐など、微塵《みじん》も感じさせないように。何度も、何度も“制約《ギアス》”をかけなおしました……」
シルフィードは戦慄《せんりつ》した。リュシーは……、復讐のために己の心をも変えたのだ。身体《からだ》を突き動かす復讐心を、たった一つの生きがいであろう復讐心をも、魔法によって抑えつけた。
復讐のために復讐心を抑えつける。
その心境がいったいどんなものなのか、シルフィードには理解できない。
どれほどの憎しみが、それを可能にするのか、シルフィードにはわからない。いつしか、目からは涙が溢《あふ》れていた。そんな憎しみを抱えて生きてきたリュシーほど哀しい人間は、どこにも存在しないに違いない。
「騎士殿に、質問してもよろしいですか?」
タバサは無言によって、肯定の意思表示をした。
「どうしてわたくしをお疑いになられたのです? 先ほどはここにたどり着くための道をつくっただけ、とおっしゃいましたが、それは嘘《うそ》でしょう。騎士殿は、初めからわたくしをお疑いでした」
そうだ、とシルフィードは思った。タバサは、昨日失態を犯した生真面目で敬虔《けいけん》な信徒であるヴィレール少尉が、すぐに告解に赴《おもむ》くことを見抜き、その足に魔法の仕掛けを施《ほどこ》した。
真実へ通じる道?
違う。
それはリュシーへと通じる道だ。
リュシーがすべての糸を引いている。その決定的な証拠を掴《つか》むために、タバサはヴィレール少尉を囮《おとり》に使ったのだ。
ぽつりと、タバサは言った。
「昼間のあなたは、綺麗《きれい》すぎた。真っ当すぎた」
しばらくの沈黙ののち……、リュシーは口を開いた。
「皮肉ですね。復讐《ふくしゅう》を隠すべき、偽りの信仰が……、わたくしの復讐心をあらわにするとは。すべては、神を、信仰を裏切った報いなのでしょうか……」
それから、どこか晴れ晴れとした声で、リュシーは言った。
「フネの残骸《ざんがい》の前で、あなたに会ったとき、予感しました。あなたは騙《だま》せないと。わたくし以上に復讐を胸に秘めざるを得ないあなただけは、誤魔化《ごまか》せないと」
「え?」
シルフィードは、驚きの声を漏らした。まさか、まさかこのリュシーは……。
リュシーはタバサの正体を知っていたのだ。
次の瞬間、小窓の向こうに拳銃《けんじゅう》がちらっと見えて、シルフィードは慌てた。
「おねえさま! 逃げて!」
しかしタバサは立ち上がらない。じっと、衝立《ついたて》を見つめている。この板の向こうの、リュシーの顔を見つめるように。
「お別れです。告解と言いながら、罪の赦《ゆる》しを請わないのもおかしい話ですが……、わたくしは地獄へと赴かねばなりませんから」
タバサは何の表情も浮かべぬまま、頷《うなず》いた。
どこまでも優しい声で、リュシーは言った。
「何か一つだけ、信仰なきわたくしに神の導きがあるとすれば。あなたに、わたくしの復讐《ふくしゅう》をとめていただくことが、そうだったのかもしれませんわね。シャルロット様」
衝立《ついたて》の向こうで、激しい銃声が響いた。その音は造りの古い告解室を震わせ、衝立にこびりついた埃《ほこり》を、パラパラと落とした。
タバサを背に乗せたシルフィードは、羽ばたいた。
眼下には、サン・マロンの軍港が広がっている。いくつものフネに、再び火薬が積み込まれている真っ最中であった。事件が解決するとすぐに、艦隊は失った力を取り戻そうとする努力を開始したのだ。アリが巣に荷物を溜《た》め込むような、無機質な光景だった。
そんな中、『シャルル・オルレアン』号のマストに、手を振る小さな姿が見える。
ヴィレール少尉だ。彼はリュシーの死とともに、かけられた“制約《ギアス》”の呪縛《じゅばく》から解放された。
彼が振る手だけが、艦隊を救ったタバサたちへの唯一の見送りだった。
シルフィードが翼を一振りするたびに、眼下のサン・マロン軍港が遠ざかる。
ぼんやりと、シルフィードは思う。
あの軍港で翼を休める艦隊は、これからどれだけの憎しみを生むのだろうか。
どれだけの復讐をつくるのだろうか。
リュシーが抱えたものなど、それらが生み出すものに比べたら、微々たるものに違いない。
タバサにいろんなことを尋ねたかったが、シルフィードのご主人様は背中の上で寝息を立てていた。寺院から出るとすぐに、タバサは気を失って倒れたのだった。
無理もない。
今回の件が、どれだけ彼女の心を傷つけたのか、いつもそばにいるシルフィードにもわからない。
きゅい、とシルフィードは鳴いて……、リュシーの魂の行き先を考えた。
永久に癒《いや》されぬ、彼女の罪を想像した。
タバサは彼女を見た今でも、復讐を胸に秘め続けるのだろうか。
涙が溢《あふ》れた。目から溢れる液体は、風韻竜《ふういんりゅう》のごつい顔をつたい、風へと絡められ、タバサの頬《ほお》に届く。
それでタバサはぼんやりと目を覚ましたのか……、言葉を発した。
「父さま」
事件を解決した軍港が遠ざかる。
父の名が冠された艦が遠ざかる。
どんな夢を見ているのだろう、とシルフィードは思った。
「父さま」
タバサは言葉を繰り返す。
シルフィードは、タバサの魂が癒《いや》される日を想像した。
復讐《ふくしゅう》の呪縛《じゅばく》が解けた日を、脳裏に浮かべた。
それは遠い、確実でない未来だ。
「学院に帰ったら、おいしいものを食べるのね。たくさん。そうよね、おねえさま」
シルフィードは明るい声で、うわ言で父を呼ぶタバサにそう言った。
力強く、翼を羽ばたかせた。
何かを振りきるように。主人の眠りが安らかならんと祈りを込めて。
[#改ページ]
あとがき
どもヤマグチです。
タバサの冒険もいよいよ二巻。よろこばしいですね。
今回は割と苦労しました。なにせネタが。ネタが!
ぼくは面白い、と思ったことは、とりあえず書いている作品に全部ぶち込んでしまうので、書き上げると何も残りません。やべえ、からっぽだ。おれ、からつぼのペットボトルだ、炭酸ください。自分にレモンの味のついた炭酸ください、と泣きながら必死になって充電するのですが、すぐに次の締切りが迫ってくる……。
連載は怖いですね。
実はこのタバサの冒険は、本編を書くより手間がかかっています。短編というのはなにげに大変で、文章量が四分の一だからって手間も四分の一になるとは限りません。中に込めるストーリーラインを作る手間は、長編と変わりなかったりするのです。
でも、そんな苦労をしたおかげで、面白い、密度の濃い作品ができたと思います。氷のような冷たい表情の下に、燃えさかる情熱を秘めた少女、タバサのいろんな活躍を楽しんでいただければ幸いです。
さて、外伝というのは不思議な物で、本編で語られない部分を語る、というコンセプトで始めた物語が、逆に本編の物語を進める上で、それに新たな刺激を加えてくれます。生徒に逆に教えを頂く、とでもいうような、奇妙な逆転現象が起こったりするのです。それは新鮮な体験でした。
外伝のためにつくった設定が本編にフィードバックされていく……。舞台となる世界設定を多方面から見ることによって、作品世界に新たな深みが生まれていく。
ファンタジーを書くということは、世界を作るという行為なのだ、ということをこの外伝を書き進めることによって、初めて肌で感じることができました。こうなったらもっと広めてやる、と思います。風呂敷《ふろしき》は広げてなんぼ。今ぼくの前には広げきった風呂敷があります。これをどうたたんでやろうか、と考えるのは、まさに至福の瞬間であります。
最後になりましたが、兎塚《うさつか》さん、今回も素敵なイラストをありがとうございます。いつもタバサの表情が絶妙なので驚かされます。素晴らしい。
担当のSさんにKさんもありがとうございます。連載もので短編が四つと言うことは締切り前のドキドキが四倍ということ。つまりは四倍の心労。ああ、ぼくももっと早く書けるようになりたいものです。ドキドキを半分にしてあげたい。
そして読者のみなさん、ありがとうございます。
今回もおもしろいです。読んで下さい。
ああ、もっと早く。もっと遠くへ。
追伸
今月発売のコミックアライブで、タバサの冒険の漫画版も始まります。おお、原作の空気を余すところなく伝えられている、と感激しました。こちらもあわせてお願いします!いろいろとゼロの使い魔ワールドが拡がっていき、とても喜ばしいです。
[#地付き]ヤマグチノボル
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この作品は、携帯サイト「最強☆読書生活」にて連載されていたものに、書き下ろしを加えたものです。
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ゼロの使い魔 外伝
タバサの冒険2
発 行 2007年10月31日
(初版第一刷発行)
著 者 ヤマグチノボル
発行人 三坂泰二
発行所 株式会社メディアファクトリー
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