手紙
モーム/西村孝次訳
目 次
手紙
環境の力
解説
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手紙
埠頭《ふとう》には烈しい日ざしが照りつけていた。雑沓した大通りをトラックやバス、自家用車にハイヤーなどの車がひっきりなしに往き来し、運転手はみな警笛を鳴らしていた。人力車が軽い足どりで人ごみのあいだを縫って行くし、苦力《クーリー》たちは息を切らしながら互いに叫び合っている。重い袋をかついだ苦力たちは、小走りに駈け抜けながら通行人に、どいた、どいたとどなっている。行商人が大声で品物の名を呼び立てている。シンガポールは何百という人種の交流点だ。だからあらゆる色の人種が、まっ黒なタミル人、黄色い中国人、褐色のマレー人、アルメニア人、ユダヤ人やベンガル人が、声を嗄らして互いに呼び合っている。しかしリプリー・ジョイス・アンド・ネイラー法律事務所のなかは快い涼しさであった。ぎらぎらした埃《ほこり》っぽい外の通りから入ってくるとうす暗く、表の絶えまない喧騒にひきかえて気持ちよくしずかだった。ジョイス氏は私室で、テーブルを前に、扇風機の風を真正面から受けていた。悠然と椅子によりかかり、両肘を肘かけにかけたまま、のばした両手の指先をきちんと組み合せている。正面の長い棚に並んでいる壊れかかった判決録に視線が注がれている。戸棚の上には、さまざまな弁護依頼人の名前を入れた漆塗《うるしぬ》りの四角なブリキの箱が載っていた。
ノックの音がした。
「お入り」
白の麻服を着こなした中国人の書記が扉をあけた。
「クロスビーさんがお見えになりましたが」
きれいな英語で、一語一語に正確なアクセントをつけて話す、そしてジョイス氏はその言葉の豊富なのによく驚いたものだった。王芝孫《ワン・ジェスン》は広東《カントン》の生れだが、グレイズ・インで法律を勉強した。将来は自分で法律事務所を開くつもりで見習いのためにこの一、二年リプリー・ジョイス・アンド・ネイラーで働いているのである。勤勉で、まめで、まず模範的な人物であった。
「お通しして」ジョイス氏はいった。
立ち上って来訪者と握手をすると椅子をすすめた。腰をおろすと客は光を受けた。ジョイス氏の顔は影になったままだった。生れつき無口な男で、今もまる一分間も物もいわずにロバート・クロスビーをじっと見ていた。クロスビーは、優に六フィートをこえる大男で、肩幅の広い、たくましい体格だった。ゴムの栽培をやっているのだが、しょっちゅう栽培地を歩き廻っている運動や、一日の仕事が終ると楽しみとしているテニスで、みごとな体である。すっかり日焼けしている。毛深い手、不恰好な深靴をはいた足はとてつもなく大きく、あの大きな拳骨を一撃くらおうものなら、ひ弱いタミル人などはひとたまりもなくお陀仏になるだろう、などとジョイス氏はぼんやり考えていた。しかしその青い目にはそんな獰猛《どうもう》な色はなかった。ひとを信じきっているやさしい目つきである。大柄な、これといって特長のない造作の顔は、あけっぱなしで、率直で正直だった。だがこのときの顔には何か深い悩みの色が浮んでいた。ゆがんでおり、やつれていた。
「ここ一晩か二晩おちおち寝てないといったような様子ですな」ジョイス氏はいった。
「そうなんだ」
このときジョイス氏は、クロスビーが卓上に置いていた鍔広《つばひろ》の、古いフェルト帽に気がついた。それからクロスビーのはいている、赤毛の毛脛《けずね》を丸出しのカーキ色の半ズボンや、ノーネクタイに開襟《かいきん》のテニス・シャツ、袖口を折りかえした汚れたカーキ色の上衣などをひとわたり見まわした。ゴムの木々のなかをさんざん歩きまわったその足でやってきたとでもいった恰好だった。ジョイス氏はかすかに眉をひそめた。
「しっかりなさらなくちゃあ、ねえ。気をおちつけなくっちゃあ」
「なあに、大丈夫さ」
「奥さんにお会いになりました、今日?」
「いや、今日の午後会うことになってるんだが。ねえ君、とんでもない話だよ、あれを逮捕するなんて」
「やむをえなかったんでしょうな」ジョイス氏は例の穏やかな、しずかな調子で答えた。
「保釈で出すくらいにはしてくれそうなもんだと思ってたんだがね」
「非常に重大な事件ですからねえ」
「ひでえもんだよ。あれはだね、ああした場合ちゃんとした女なら誰だってすることをしただけだよ。ただね、十人の女が九人まではその勇気がないというまでのことさ。レズリーみたいなあんなおとなしい女ってあるもんじゃない。蝿一匹だって殺しゃあしない。まったく、癪《しゃく》にさわるったら、ねえ君、あれと一緒になって十二年にもなるんだぜ。あれのことがわからないと思うかい? ちくしょう、もしこのおれがその野郎をひっ捉《つかま》えてでもいろ、首っ玉をねじ上げて四の五のいわさずたたき殺してしまってやるんだが。君だってそうするだろ」
「なあに、みんなあなたの味方をしてますよ。ハモンドのことをよくいう人間なんてひとりもいませんや。私たちは奥さんが出られるようにしようと思ってるんです。陪審員だって裁判官だって法廷に出ないさきにちゃんと無罪の判決を下す腹をきめていると思うんですがねえ」
「何から何までばかげきってる」クロスビーは激していった。「まず第一にだ、拘引したってことが間違ってるよ、それにまた、可哀そうにあれだけ苦しめたそのあげく、裁判という責め苦にあわせようてんだから、ひどすぎる。シンガポールヘ来て以来、会うひとごとに、男だろうが女だろうが、そりゃあ奥さまが絶対に正当ですともといわない人間は、ひとりだってないんだから。こんなに何週間も未決にほうりこんでおくなんてけしからんと思うんだ」
「法は法というものです。とにかく、奥さまも人を殺したってことは自白してらっしゃるんですからねえ。ひどいにはひどい、ですからあなたにしても奥さまにしてもほんとうにお気の毒だとは思うんですが」
「ぼくなんかはどうだっていいんだがね」クロスビーが遮《さえぎ》るようにいった。
「だが殺人が行われたというのは、これは事実なので、だから文明国においては裁判はどうもやむをえないことですから」
「世を毒する者どもを根絶するのも殺人なのかね? あれはいわば狂犬でも殺すようなつもりであいつを射殺したんだよ」
ジョイス氏はまた深々と椅子によりかかって、またしても十本の指先をきちんと組み合せた。それは小さな屋根組みたいな形だった。一瞬黙っていた。
「これは法律顧問として、わたくしの義務を欠くことになりますので」やがて、例の冷静な、鳶色《とびいろ》の目でもって相手の依頼人を眺めながら、すこしも変らない調子でいった、「申しあげるのですが、わたくしとしてちょっと気がかりになる点が一カ所あるのです。奥さまがただの一発ハモンドを射たれたのだったら、事件は一切ごく簡単にかたづいたでしょうよ。困ったことに奥さまは六発射っておいでなのです」
「あれの話は至って簡単じゃないかね。ああした事情だと誰だってあれしか仕様がないさ」
「多分ね」ジョイス氏はいった、「むろんわたくしも非常にごもっともな説明だとは思います。ですが事実というものに目を蔽《おお》ったところで仕方がない。他人の立場に立ってみるということも常にいい考えなのですからねえ。そこで、もしわたくしが大英帝国の検事として奥さまにたいして訴訟を起すとするとわたくしが訊問を集中するのはまさにこの点だ、ということを否定するわけにはいきません」
「おい君、そんなばかな話って」
ジョイス氏はロバート・クロスビーに鋭い視線を投げた。形のよい唇のあたりにちらりと微笑の影が掠《かす》めた。クロスビーはいい男だが、しかしどうもあまり利口とはいえない。
「なあに大したことでもありますまい」弁護士は答えた、「ちょいとご注意申しあげたほうがいいと考えたまでなんです。どうせもう長いことはないでしょう、ですからひとつすっかり済みましたら、奥さまとご一緒にどこか旅行にでもお出かけになってです、なにもかもお忘れになることですなあ。無罪だということはもう太鼓判を押したも同然ですがそれにしても、こうした裁判沙汰というやつは気にかかるものですから、お二人とも休養をおとりになる必要があるでしょうね」
はじめてクロスビーはにっこりとした、そしてこの微笑がおかしいほど容貌を一変させた。あの無骨さが消えてただ心の善良さだけが現われるのである。
「レズリーよりもわしのほうに必要でしょうな。あれはじつによく堪えていますぜ。いや全く、勇気のあるいい女ですよ」
「ええ、奥さまの自制力にはわたくしなども舌を巻いている次第なので」弁護士はいった。「あれだけの決断がおありになるとは夢にも思いませんでしたからねえ」
クロスビー夫人の弁護人としての職務上、かれは逮捕以来たびたび夫人に会う必要があった。できるだけ不自由をさせまいとして打てるだけの手は打ってはあったものの、夫人が刑務所にあって、殺人犯として公判を待つ身であることには変りなかったのだ、だから精神的に参ってしまったとしても何の不思議もないはずであった。この試練を夫人は泰然《たいぜん》として堪えているようだった。さかんに本も読めば、許された限りの運動もするし、当局の好意で、これまでいつも退屈な余暇の手なぐさみにしていたレースの枕かけを今も作っていた。ジョイス氏と面会するとき、夫人は涼しげな、清楚な服を着ており、髪も綺麗に結い、爪にはマニキュアまでしていた。態度もおちついたものだった。境遇上のいろいろ些細な不便について冗談をいうことさえできた。こんどの悲劇について語るその口吻《こうふん》には何か気まぐれといったふうな調子すらあったが、やはりこれとてこの女の育ちのよさのせいで、だからこそこんなに重大な事件の渦中にありながらそんなもののいいかたをしては何か少々おかしいということに気がつかないのだな、とジョイス氏は考えるのだった。それは驚きだった、というのは夫人がユーモアを解する女だなどとはついぞ考えたこともなかったからである。
夫人とはかなり以前からときおり会って知っていた。シンガポールヘ出てくると大抵ジョイス夫妻のところへ食事に来たし、一度か二度は海岸にある夫妻のバンガローで一緒に週末をすごしたこともあった。かれの妻も夫人の家に二週間あまりも滞在し、ジェフリー・ハモンドとは幾度か会っていたのである。この二組の夫婦は、親密とはいわないまでも、かなり昵懇《じっこん》の間柄であり、それなればこそ事件の直後さっそくロバート・クロスビーはシンガポールまでとんで来て不幸な妻の弁護にぜひ一肌抜いでもらいたいとジョイス氏に頼んだわけであった。
はじめて会ったときにうち明けた事件の顛末《てんまつ》は、後になっても夫人はいささかも陳述を変えなかった。惨劇直後の数時間の当時でも、そうして今も、夫人の供述の冷静さはすこしも変らなかった。理路整然と、穏やかな、淡々たる調子で、ただひとつ見せた心の乱れといえば供述が一、二の事柄に触れると、ぽっと頬を赤らめるときだけであった。およそこうした事件の起りそうな女とは想像できなかった。三十を出たばかりで、蒲柳《ほりゅう》の質の、背は高からず低からず、美しいというよりは淑《しと》やかなほうである。手首や足首はたいそう華奢《きゃしゃ》だが、痛々しいほど痩せていて、白い皮膚をとおして手の骨が見え、静脈も太く青く透いて見えた。顔はやや黄色味を帯びて、血の色がなく、唇もほとんど色がなかった。瞳の色もそれと気づかぬくらいである。淡褐色の房々とした髪の毛は、かすかに自然のウェーヴがかかっている。すこし手を加えればたいそう美しく見える髪だったろうが、クロスビー夫人がそうした工夫をこらそうとするような女とは思えなかった。ものしずかな、快活な、出しゃばらない女である。物腰に魅力があり、それでもしその割に人気がなかったとすればそれはひどくはにかみ屋だったからである。これは、ゴム栽培者のさびしい生活を考えれば、まったく無理からぬ話で、自宅で、知合いのひとたちと一緒だと、例のものしずかな態度ながら愛嬌がよかった。ジョイス夫人は、二週間の滞在から戻ってきたときなど、ほんとうに感じのいい奥さまよと夫に語ったほどである。世間の噂よりはずっといいかただわ、ともいった。そして一旦知り合いになってみると夫人がどんなによく本を読んでいるか、どんなにおもしろい女であるかに驚くのだった。
よもやそんな女が殺人罪を犯すなどとは到底信じられなかった。
ジョイス氏はできるだけ相手を元気づけるようなことをいってロバート・クロスビーを送り出し、ふたたび自分の部屋でひとりになると、訴訟事実の要領書をひらいてみた。しかしそれは機械的な動作にすぎなかった、というのはもうすみずみまで知りつくしていたからである。この事件は目下センセーションを起しており、シンガポールからペナンまで、マレー半島中のクラブというクラブ、食卓という食卓で、論じられていた。クロスビー夫人の陳述した事実というのは簡単だった。夫は商用でシンガポールヘ出張していたので、その晩はひとりきりだった。おそく、九時十五分前に、ひとりで夕食をすませると、食後は居間でレースを編んでいた。居間はヴェランダに続いている。召使いどもは白人屋敷のなかの裏手にある自分たちの住居に引き上げてしまったあとだったので、バンガローにはほかに誰もいなかった。庭の砂利道を踏む足音に夫人はハッとしたが、深靴の足音で、どうやら現地人というよりも白人らしい、自動車の着いたような物音は聞こえなかったから、だとするとこんな夜の時刻にいったい誰が訪ねて来たのだろう? 誰かがバンガローにつづく階段を上ってくる足音がして、ヴェランダを横切ると、夫人のいる部屋の扉口に姿を現わした。最初の瞬間その来訪者が誰であるかわからなかった。シェードをかけたランプのところに坐っていたし、その男は闇を背にして立っていた。
「入っていいでしょうか?」男はいった。
その声を聞きわけることもできなかった。
「どなた?」夫人は尋ねた。
めがねをかけていたが、はずしながらそういった。
「ジェフ・ハモンドですが」
「あら。さあどうぞ、お茶でもおあがりになって」
夫人は立って行って真心こめて握手をした。かれの来訪は夫人にはちょっと意外だった、というのは隣り同志とはいえ近頃は夫人もロバートもかれとはそれほど親しくしているわけではなく、夫人にしてもここ何週間も顔を合せたこともなかったからである。ここから八マイルばかり離れたゴム園の管理人をしているのだが、なぜまた択《よ》りに択ってこんな時刻に訪ねてきたのだろうかと夫人は不審に思った。
「ロバートは留守なんですけれども」夫人はいった。「今夜はシンガポールヘ参る用がございましてね」
おそらくかれとしてもこうした訪問が一応説明を要するものだと考えたのであろう、かれはこういった。
「それはどうも。今夜は何か妙にさびしくなったものですから、お宅じゃどうしてらっしゃるかなとちょっとお寄りしたわけなんです」
「いったいどんなふうにしていらっしゃいましたの? 車の音がしませんようでしたが」
「向うの街道で降りてきたんですよ。もうお二人ともお休みになってらっしゃるかもしれないと思ったものですから」
これはなるほどもっともであった。栽培主というのは労働者の点呼をするために夜明けに起きるのである、だから晩飯がすむとすぐにも寝てしまう。事実ハモンドの車は翌日バンガローから四分の一マイルほど離れたところで発見された。
ロバートが留守なので部屋にはウィスキーもソーダ水もなかった。多分もう寝てしまっているボーイを呼ぶのもと思って、夫人は自分でとってきた。客は自分で飲みものを調合しパイプにたばこをつめた。
ジェフ・ハモンドにはこの植民地に友人が大勢いた。今では四十近い年輩であるが、ほんの子供のころから世の中に出ていた。大戦が勃発すると真っさきに志願した一人で、戦線では天晴れの働きだった。膝の負傷で二年後に兵籍を除かれたが、DSO〔殊勲章〕とMC〔戦功十字勲章〕と二つも勲章をさげてマレー連邦へ帰ってきた。玉突きにかけては半島きっての名手の一人だった。元は、ダンスが巧くテニスも上手だったが、今ではもう踊れないし、テニスも、足が不自由では、以前ほどにはいかなかったが、先天的な人気者で誰にでも好かれた。背が高く、美男子で、魅力的な青い目、形のよい頭、髪の毛は黒い捲毛だった。この男に玉に疵《きず》は女好きが過ぎることだと故老たちはいっていた、そして今度の事件のあとでもそれ見ろといわんばかりに頭をふって、奴はきっとこいつでしくじるってことは初めからわかっていたんだ、などと断言したものである。
さてハモンドはこの地方の消息や、近いうちにあるシンガポールの競馬、ゴムの値段、それから最近このあたりに出没する虎をわたしが射とめてみせますから、などといったことをレズリーに話しはじめた。レズリーは編みかけていたレースの枕掛けをある期日までに――というのは本国にいる母親の誕生日に送ってやりたかったので――仕上げたいと思っていた、それでまためがねをかけ直して、枕の載っている小さいテーブルを自分のほうへ引きよせた。
「そんな大きなロイドめがねなんぞおかけにならんほうがいいですねえ」かれはいった。「なんだって美しいかたがわざわざ自分をみっともなく見せようとなさるんだろうなあ」
夫人はこのことばにちょっとハッとした。こんな調子で話しかけられたことは今までについぞなかったことだ。これは軽く受け流しておくに限ると夫人は考えた。
「あら、わたくしそんなすばらしい美人だなんてちっとも思ってはいませんわ、でもね、ずいぶんぶしつけな聞きかたをなさるんですもの、ですから仕方なしに申しあげますけど、きれいだと思われようと思われまいとそんなことなんともございませんわ」
「とんでもない、汚ないなんて。とてもお美しいですよ」
「まあ、お口のお上手だこと」レズリーは、皮肉な調子で、答えた。「でもそうだとすると、あなたはほんとうにどうかしてらっしゃいますわねえ」
かれはクスリと笑った。そして椅子から立ち上がるとレズリーのすぐそばの椅子にかけた。
「でも奥さんのこの手が世にも美しい手だってことはまさかそうでないとはおっしゃりますまいね」かれはいった。
かれはその手をとろうとするような身ぶりをした。レズリーは軽く相手を打った。
「あれ、ご冗談ばっかり。さ、元の椅子に帰ってちゃんとしたお話をなすって、でないとお帰りになっていただきますわ」
かれは動かなかった。
「ご存じないんですか、こんなにまであなたを想っていることを?」
レズリーはやはり冷然としていた。
「存じませんわ。そんなことちっとも信じませんわ、それにほんとうだとしましてもそんなことをあなたの口から伺いたくはございません」
かれと知り合いになってからこの七年間というもの一度だってかれから特別な親しみを示されたような覚えはなかっただけに、このことばを聞いてレズリーの驚きはいっそう大きかった。戦争から戻ってきた当座はお互いによく会っていたし、一度かれが病気になったときなど、ロバートはわざわざ迎えに行って車でこのバンガローまで連れて来てやったこともある。かれは二週間も泊っていた。しかしお互いの興味は違っていたし、知り合いの程度にとどまってついに友情というまでには至らなかった。ここ二、三年というものはほとんど会っていなかった。ときどきテニスにやってくるとか、誰か栽培者の家のパーティーなどで顔を合わすことはあっても、ひと月に一度会わないようなことも珍らしくなかった。
かれはまたもう一杯ウィスキー・ソーダを乾《ほ》した。来る前に飲んでいたのではないかしらとレズリーは思った。どこか様子に変な節《ふし》があり、それがいささか不安だった。相手が勝手に飲んでいるのをレズリーは嫌な思いでじっと見守っていた。
「わたくしだったらもうよしにしますけれど」それでもまだ愛想よく、レズリーはいった。
かれはグッと飲みほすとグラスをおいた。
「ぼくが酔っぱらってこんなことをいってるとお思いになる?」かれは突然そう尋ねた。
「そうとしか思えないじゃこざいません?」
「そりゃあ、嘘だ。ぼくは初めて奥さんにお目にかかったときから好きだったんだ。ぼくはできるだけいうまいとしてきた、だがとうとういっちまった。ぼくは、ぼくは奥さんが好きで、好きで、堪らないんだ」
レズリーは立ち上って用心ぶかく枕を押しのけた。
「さ、お帰りになって」
「まだ帰りませんよ」
とうとうレズリーもカッとしてきた。
「では、ずいぶんおばかさんね、あなたって、ロバート以外に愛する人なんてひとりだっていないってことがおわかりになりませんの、それにもしまたロバートを愛していないとしましても、よもやあなたのようなかたを愛するはずはありませんわ」
「そんなこと、どうだっていい。ロバートは留守ですぜ」
「今すぐ帰ってくださらなければボーイたちを呼んで、表へ突き出してもらいますよ」
「呼んだって聞こえるものか」
レズリーはもうすっかり腹を立てていた。ヴェランダへ出るような動作をした――そこからならボーイの耳にもきっと聞こえる――ところがかれに腕をつかまれてしまった。「はなしてください」レズリーは憤然としていった。
「そうはゆかない。さあもうぼくのものだ」レズリーは「ボーイ、ボーイ」と大声で呼んだが、さっと口を手でふさがれてしまった。そしてアッというまもなく両腕に抱きしめられ激しく接吻されていた。身悶えしながら、火のような相手の口から唇をはなそうとした。
「いけません、いけませんたら」レズリーは叫んだ。「はなしてください。いやです」
それからどうなったかレズリーにはわからなくなった。それまでに交されたことばはひとつびとつはっきりと覚えていたのだが、それからのかれのことばは、いわば恐怖の靄《もや》を通してレズリーの耳を襲ったのである。女の愛を一途《いちず》に求めていたようだった。はげしい愛の誓いが口をついて迸《ほとばし》った。そしてたえず嵐のような抱擁のうちに女を抱きしめていた。どう仕様もなかった、なにしろ相手は頑丈な大の男であり、両腕はしっかり両脇にしめつけられているのだから。もがいても駄目で、だんだん力がつきていくような気持だった。失神するのではないかという気もした、そして男の熱い息が顔にかかると堪らないほどムカムカした。その口を、目を、頬を、髪の毛を男は接吻しつづける。締めつける男の腕力で死にそうだ。抱き上げられた。蹴返そうとしたが、ますます強く抱きしめられるばかりだった。もう体は運ばれていた。相手はひとことも口をきかなかったが、その顔が蒼白で目は欲情に燃えていることがレズリーにはわかった。寝室へ連れこむつもりなのだ。もはや人間ではない、一匹の野獣だった。ところが駈け出した途端に前にあったテーブルにつまずいた。膝の傷で歩行が幾らか不自由だった上に、女を抱き上げていたその重みでそのままドッと倒れてしまった。はずみに女は相手の腕から身をもぎ離していた。ソファのうしろに逃げた。やにわに相手も立ち上ると、女に向って躍《おど》りかかってきた。机の上に拳銃があった。臆病な女ではなかったが、その晩は夫が留守なので、床につくとき寝室へ持っていくつもりだった。だから偶然そこに載っていたのである。ところが女はもう恐怖で気違いのようになっていた。自分の行為が自分にもわからなかった。ドンという音がした。ハモンドのよろめく姿が目に映った。男はアッと叫んだ。何かいったようだが、はっきり聞きとれなかった。男は部屋からヴェランダへよろめき出た。もうすっかり逆上し、我を忘れてしまって、あとを追って出た、すこしも覚えてはいないが、そうだったのだ、追って出ていたにちがいない、追いすがりながら無我夢中で、一発また一発と、六発とも空になるまで、射ってしまったのだ。ハモンドはヴェランダの床に倒れた。倒れて血みどろの肉塊となってしまった。
ボーイたちが、銃声に驚いて、駈けつけてきたときには、女はまだ拳銃を手にしたままハモンドのそばに突っ立っておりハモンドは息が絶えていた。無言のまま一瞬みんなのほうをじっと見た。みんなは恐怖のあまり凝然《ぎょうぜん》と立ちすくんだ。女は拳銃を取り落すと、そのままものもいわずに居間へ戻っていった。寝室へ入って中から鍵をかけるのを一同は見送っていた。誰も死骸に手を触れる勇気はなく、恐怖におびえた目でじっと見つめながら、興奮して互いに低声《こごえ》で話し合っていた。やがてボーイ頭《がしら》が気をとり直した。長年のあいだこの家に仕えている中国人で、利口な男だった。主人のロバートはオートバイでシンガポールヘ出かけたので、自動車はガレージに残っていた。ボーイ頭は下男に命じてその車を出させた。すぐにも地方官補に会って事件を報告しなければならない。かれは拳銃を拾い上げてポケットに入れた。地方官補はウィザーズという男で、ここから三十五マイルばかり離れた、いちばん近い町の郊外に住んでいた。その家まで一時間半ほどかかった。みんな寝しずまっていたので、ボーイたちを起さねばならなかった。やがてウィザーズが出てきたので用件をつたえた。ボーイ頭は証拠物件だといって例の拳銃を出して見せた。地方官補は一旦なかへ入って着替えをすますと、車を呼ばせ、まもなく一同のあとから人影の絶えた街道を走らせていた。クロスビーの家に着くとちょうど夜が明けはなれてきた。ヴェランダの階段を駈け上っていったが、ハモンドの死体が昨夜のまま横たわっているのを見るとハッとして立ち止った。そっと顔に触ってみた。すっかり冷たくなっている。
「奥さんは?」かれはハウス・ボーイに尋ねた。
中国人は寝室のほうを指さした。ウィザーズは扉口に立ってノックした。返事がない。もういちどノックしてみた。
「クロスビーの奥さん」かれは声をかけた。
「どなた?」
「ウィザーズですが」
また言葉が途切れた。やがて扉がしずかに開いた。目の前にレズリーが立っていた。眠らないでいたのであろう、ゆうべ食事のときに着ていた茶会用の服のままであった。立ったまま無言でじっと地方官補の顔を見ていた。
「お宅のボーイが呼びにきましたのでね」かれはいった。「ハモンドの件ですが。いったいどうなさいました?」
「わたくしを辱かしめようとしたのです、ですから射殺しました」
「なるほど。でも、ちょっとお出になっていただいたほうが。様子をくわしく伺わなくちゃなりませんから」
「今は駄目。申しあげられませんわ。しばらく猶予をいただかなければ。主人を呼びにやってくださいな」
ウィザーズはまだ若い男だった、それに自分の不断の仕事とは余りにも勝手ちがいなこうした突発事件をどう処置していいかよくわからなかった。レズリーはあくまで供述を拒みつづけたが、そのうちにロバートが帰ってきた。そこで初めて二人の前に一部始終をうち明けたが、その後も何回その話をくりかえしたかしれないのに、いちども寸分も違ったことはなかったのである。
ジョイス氏の考えがいつも戻っていくのは発射した数という点であった。弁護士たる者としてレズリーが一発だけでなく、六発も射ったということが気がかりでならなかった、しかも屍体検証の結果そのうちの四発までが極めて近距離から射ちこまれていることがわかった。相手が倒れると馬乗りのようになって拳銃の中味をありったけ射ちこんだ、とさえ思えるほどであった。レズリーの自白したところによると、それまでの出来事についてはあれほど正確な記憶が、この点へくるとすっかり駄目だ、という。心がまるで空白なのだ。自分でもどうにもならない狂乱状態だったからというふうにもとれる。だがこのものしずかな落着いた婦人に限って自制を失った狂乱などというものはおよそありえないことだった。この女を知ってからジョイス氏はもうかなりの年になるが、いつも感情の冷たい女とばかり思っていた。あの惨劇後の何週間というものもレズリーの冷静さは驚くべきものがあった。
ジョイス氏は肩をすくめた。
「こういうことなんだな、きっと」かれは考えた、「いくらお上品そうに構えていようと女のなかにはどんな恐ろしい残忍性がひそんでいるかわかったものじゃない」
ノックする音が聞こえた。
「お入り」
例の中国人の書記が入ってきて扉を締めた。わざと、しずかに、だが何か心に決するところでもあるように締めて、それからジョイスのいるテーブルのほうに進み出た。
「お邪魔じゃありませんでしょうか、ちょっと内々に申しあげたいことがあるんでございますが?」かれはいった。
この書記の几帳面で仰山《ぎょうさん》なもののいいかたがジョイス氏にはいつもちょっと嬉しかったのだが、今もにっこりとしたのである。
「いや、べつに」かれは答えた。
「お話し申しあげたいと存じますのは、あの、デリケートな他聞をはばかることなんでございますが」
「いいたまえよ」
ジョイス氏の目がこのはしこそうな書記の目と会った。いつものとおり王芝孫はこの土地での流行の尖端を行くような服装をしていた。ピカピカよく光るエナメル革の靴に派手な絹靴下をはいている。黒いネクタイには真珠とルビーのネクタイ・ピンが光っており、左手の薬指にはダイヤ入りの指輪をはめていた。清楚な白い上衣のポケットから金の万年筆と金の鉛筆がのぞいている。金の腕時計に、ごく小さい鼻めがね。ちょっと咳払いをしてから、こういった。
「お話と申しますのは例のクロスビーの刑事事件に関することなんでございますがね」
「それで?」
「ある事実を聞きこみましたのですが、実は、それによりますと今度の事件の様子がすっかり変ってくるように思われますので」
「事実とは?」
「はい、つまり今度の惨劇の不幸な犠牲者に宛てて被告から出した手紙が一通ある、ということを聞きこみましたのです」
「なにも驚くには当らんさ。この七年間には無論クロスビー夫人としてはハモンド氏宛てに手紙を書く機会も多かったろうからね」
ジョイス氏はこの書記の頭のよさを大いに認めていただけに、そのことばは何か腹に一物ありそうな気がした。
「それは大いにあるでこざいましょう、ねえ。クロスビーの奥さまは故人とのあいだにしばしば文通もあったにちがいございません。たとえば晩餐に招待するだとか、テニスの試合の申込みだとか。わたくしなども初めてその問題を聞かされたときはそう思いました。ところが、その手紙というのは、故人となられたハモンド氏の死の当日に書かれたものなんでございます」
ジョイス氏はまつげ一本動かさなかった。いつも王芝孫と話をするときのあのちょっと興味ありげな微笑を浮べながらじっと相手の顔を見つめていた。
「誰だい、その話をしたのは?」
「それは、実は、さる友人の口からわかった事情なんでこざいまして」
ジョイスはこの上いい張るような馬鹿な真似はしなかった。
「無論ご記憶でもございましょうが、実は、クロスビーの奥さまはあの惨劇の晩までもう何週間も文通がなかったと、そう供述しておりますですねえ」
「その手紙をもってるのかね?」
「いいえ」
「内容はどうなんだ?」
「その友人が写しをくれましたが。ご覧にいれましょうか?」
「うん」
王芝孫は内ポケットから嵩《かさ》ばった紙入れを出した。書物だの、シンガポール・ドル紙幣だの巻たばこ賞品券だのが一杯入っていた。その雑然とした中から王はやがて薄葉ノート用紙の半ピラをとり出してジョイス氏の前に置いた。その手紙の内容は次のようであった。
[#ここから1字下げ]
R.は今晩留守ですのよ。ぜひお目にかからなければならないことがあります。十一時にお待ちします。あたし、必死なの、ですからもし来てくださらねば、もうあとどうなっても知らないから。家まで車をつけないでね。――L.
[#ここで字下げ終わり]
それは中国人が外国人の学校で教えられるあの流れるような書体で書かれていた。少しもこれといって特色のないその書体が、不吉な内容といかにもそぐわなかった。
「どうしてわかるんだい、この手紙がクロスビー夫人の書いたものだってことが?」
「話してくれました友人の人格を十分に信用しているからでございます、はい」王芝孫は答えた。「それに嘘だか本当だかは造作なくわかることなんでして。はたしてクロスビーの奥さまがこのような手紙を書かれたかどうかくらいは、むろん、奥さまの口からすぐ聞けることでございますからねえ」
話の初めからずっとジョイス氏はとり澄ました書記の顔から目をはなさなかった。今やその顔つきに或るかすかな嘲笑の色を見てとったような気がした。
「クロスビー夫人がこんな手紙を書くなんて考えられん」
「そういうご意見でしたら、まあそれまでなんでございますが。友人がこのことを話してくれましたのも、わたくしがこの事務所におります関係上、これが予備検事に報告されるよりも前にこの手紙のあることをご承知になりたいのではないかと、そう思ったまでのことでございますから」
「ほんものは誰が持ってる?」ジョイス氏は問いつめた。
王芝孫はこの質問やその質問の仕方に相手の態度の変ったことに気づいたような様子はなかった。
「これは、もちろん、ご存じでもございましょうが、ハモンド氏の死後、或る中国人の女と関係のあったことが発覚いたしましたねえ。手紙というのは現在その女が持っておりますので」
ハモンドにたいする世評をもっとも悪化させた原因のひとつはこれであった。何カ月間か中国人の女を家に囲っていたという事実が露《あら》われたのである。
一瞬ふたりとも黙ってしまった。じっさいいうべきことはいいつくしたし、お互いに腹の底をすっかり読んでしまったのだ。
「どうもありがとう、芝孫。いずれよく考えてみよう」
「ありがとうございました。で、友人のほうへはその旨を伝えておきましょうか?」
「そうだね、きみからひとつ連絡をつけておいたほうがいいかもしれない」ジョイス氏は重々しい調子で答えた。
「かしこまりました」
また丁寧に扉をしめて、書記が音もなく部屋を出て行ったあと、ジョイス氏はあれこれと考えにふけった。きれいな、まるで特長のない書体で書かれた、レズリーの手紙の写しをじっと見つめた。漠然とした疑惑が心を悩ました。いかにも当惑させるような疑惑だったので強いて頭から払いのけようとしてみた。きっとこの手紙には何か簡単な言い開きがあるにちがいないし、定めしレズリーならすぐそれができる、だが、ああ、とにかく言い開きが必要なのだ。かれは椅子から立ち上って、手紙をポケットにしまうと、ヘルメット帽を取った。事務所を出るとき王芝孫は机で何かしきりに書きものをしていた。
「ちょっと出かけてくるからね、芝孫」かれはいった。
「ジョージ・リードさんが十二時にお見えになる約束でございましたが。どちらへお出かけだと申しあげましょうか?」
ジョイス氏は薄笑いを洩らした。
「わかりませんとでもいっておきたまえ」
だがこれから刑務所を訪ねようとしているのを王芝孫が感づいていることはかれにもはっきりわかっていた。犯罪があったのはベランダであるし裁判もベランダ町で行われるはずであったが、この土地の刑務所には白人の婦人を収容する設備がないのでクロスビー夫人はシンガポールヘ護送されていたのである。
かれが待っている部屋へ夫人は案内されて入ってくると、その細い、特色のある手を出して、にこやかな微笑を見せた。相変らず清楚な身なりで、房々とした、薄色の髪を念入りに結っている。
「思いもかけませんでしたわ、けさお目にかかれますなんて」と愛想よく、挨拶した。
まるで自宅にでもいるようなふうで、今にもボーイを呼んでお客さまにジンを差し上げておくれとでもいいつけそうな、そんな気がジョイス氏はして仕方がなかった。
「いかがです?」かれは尋ねた。
「ありがとうございます、とても元気でいますわ」チラと楽しそうな影が目を掠《かす》めた。「安静療法にはすばらしいところでしてよ」
付添い人が出て行ったので二人きりになった。
「どうぞおかけなさいまし」レズリーがいった。
椅子を引きよせた。なんといって切り出せばいいか見当がつかない。相手があんまり落着きはらっているので、わざわざ出かけてきた用件ではあるがそれを持ち出すのは不可能に近いような気がする。美人ではないが様子にどこか人を牽《ひ》きつけるものがある。端麗とでもいうべきものだが、しかしそれは育ちのよさからきているもので社交界の粉飾などは少しもない。ひと目見ただけでどんな家に生れどんな環境のなかで育ってきたかがわかるのである。何としてもこの女性を隈雑《わいざつ》という観念と結びつけることはできなかった。
「お昼からロバートに会えますので楽しみにしていますのよ」愉しげな、屈託のなさそうな調子で、そういった。(この女の話を聞いているのは実に気持がいい、声も抑揚もいかにもはっきりとその属する階級を示しているからだ)「気の毒に、ずいぶん気疲れしているようでこざいますわ。もう暫くで何もかもかたづくと思うとほんとうに嬉しくって」
「なにもうたった五日のことです」
「そうですわね。わたくし、毎朝目を覚すたびに、『また一日近くなった』って、自分で自分にいって聞かせますのよ」そういってほほえんだ。「まるであの学校時代、お休みを待ちかねた、あの気持でございますわ」
「それはそうと、こう考えてもよろしいですかな、つまり、あの事件の起る前、数週間というものハモンドとのあいだには全然交渉がなかった、と?」
「もちろんでございますとも。いちばん最後に会いましたのがマクファレンさまのお宅でテニス会のあった日。それもほんのひとこと、ふたこと口をきいただけでございますわ。あそこは、ほら、コートも二面あって、あの人とはとうとう同じ組にならずじまいでしたから」
「じゃあ手紙などもお出しになりませんね?」
「ええ、もちろん」
「その点、間違いございますまいね?」
「ええ、大丈夫ですわ」かるく微笑しながら、夫人は答えた。「晩餐かテニスにでもお招きするほか手紙を書く用事などございませんし、それだってもう何カ月も絶えておりますもの」
「一時はずいぶん親しくしてらした。それがまたすっかり招待までおよしになったのはどうしたわけなんでしょうかねえ?」
クロスビー夫人は痩せた肩をすくませた。
「人ってものはやっぱり飽きることもございますもの。あの人とはこれといって気の合うところもございませんし。そりゃあ、あの人が病気をなすったときはロバートと二人で出来るだけのお世話はいたしましたわ、でもここ一、二年というものはすっかりお丈夫のようですし、たいそうみんなの人気者でしたから。なにかとずいぶんお忙しいのを、なにも招待攻めにするにも当るまいと思いましてね」
「それっきりですね、きっと?」
クロスビー夫人は一瞬ためらった。
「ええ、でもいっそ申しあげたほうがいいかしら。実はあの人が中国の女と同棲してるってことが耳に入りましたの、するとロバートはそんなやつは家に来てもらいたくないって申しますものですし、それにその女というのはわたくし以前に見たことがございますのよ」
ジョイス氏は背のまっすぐな肘掛椅子にかけて、顎に片手をあてたまま、穴のあくようにレズリーの顔を見つめていた。気のせいだったのだろうか、レズリーがそういったとき、突然、ほんの一秒の何分の一かではあったが、その黒い瞳のなかを、鈍い赤い光が掠《かす》めたのは? それはただごとではなかった。ジョイス氏は居ずまいを直した。十本の指先をキチンと揃えた。そしてゆっくりと、ことばを選びながらいった。
「では申しあげていいと思いますが、奥さまの筆蹟でジェフ・ハモンド宛ての手紙が一通あるのですが」
かれは瞳をこらして相手の顔を見守った。相手は身動きひとつしなければ顔色ひとつ変えず、しばらくして答えた。
「以前にはよく何かの招待やら、あの人がシンガポールヘ行くとわかると買物をお願いしたり、簡単な手紙を出したこともございました」
「その手紙というのは、ご主人がシンガポールヘ行って留守だから会いに来てほしいということなんですがねえ」
「まあ、とんでもない。そんなこと、わたくしが致しますものですか」
「とにかくひとつ読んでごらんなさるとよろしいでしょう」
かれはポケットから例の写しを取り出して相手に渡した。夫人はチラリと見たが、ふふんといった微笑を浮べるとそのままかれに返した。
「わたくしの筆蹟ではございません」
「左様、真物《ほんもの》をそのまま写したものだそうです」
女は改めて文句を読みはじめたが、読んでいくうちにその顔には怖ろしい変化が現われた。蒼白い顔が見るもぞっとするような顔に変った。真っ蒼《さお》になった。にわかに肉が落ちたようで、骨の上に皮膚をぴんと張ったみたいだった。唇をギュッと引いて、歯並みが現われたので、しかめつらをしたような形相になった。眼球も飛び出さないばかりの目でジョイス氏をひたと見つめた。不気味な死相を目のあたりに見ているようだった。
「これがどうしたとおっしゃいますの?」夫人は呟《つぶや》くようにいった。
口の中がひどく乾いて嗄《しゃが》れ声しか出ないのである。もはや人間の声ではなかった。
「それは奥さまからこそ、お伺いしたいのですがねえ」かれは答えた。
「だってわたくしの書いたものじゃございませんもの。ほんとうにわたくしの書いたものでは」
「気をつけてものをおっしゃらなければ。もし真物が奥さまの筆蹟だったら何と否定なさろうと無駄ですよ」
「いいえ、偽造ですわ」
「その証明はむずかしいでしょうね。真物だという証明なら造作ないことですが」
さっと悪感《おかん》がその痩身《そうしん》を掠めた。しかし額には玉のような汗が流れていた。ハンドバッグからハンカチを出して掌の汗を拭いた。それからもういちどちらりと手紙に目をやると、ジョイス氏を横目でうかがった。
「日付がございませんのね。もしかわたくしが書いてすっかり忘れてしまっているのでございましたら、よっぽど昔のものかもしれませんわ。ちょっとお待ちになって、そんなような場合を何とか思い出してみますから」
「日付のないことは承知していました。万一この手紙が検事の手にでも渡ろうものならボーイたちを反対訊問するでしょうね。ハモンドが死んだ日に誰がこの手紙をかれのところへ届けたかすぐにわかることですから」
クロスビー夫人は両手をはげしく握りしめたかと思うと椅子にかけたままフラフラとなったので卒倒でもするのではないかという気がした。
「わたくし断じてそんな手紙書いた覚えはございませんわ」
ジョイス氏はしばらく黙っていた。とり乱した夫人の顔から視線をはずして、床の上を見つめた。考えをめぐらしていたのである。
「そういうことでしたらこの問題はもうこれ以上お伺いする必要はありますまい」やっと沈黙を破って、かれはゆっくりといった。「もしこの手紙の持主がこれを検事の手に渡すのが適当だと考えるようにでもなりますと、奥さまも覚悟をなさる必要が」
そのことばはこれ以上もはやいうことはない旨を示していたが、しかしかれは席を立とうとはしなかった。待っていたのだ。ずいぶん長いこと待ったような気がした。レズリーのほうには目をやらなかったが、夫人が身動きもしないで坐っていることはよくわかっていた。夫人は声ひとつ立てない。とうとうかれのほうから口をきった。
「もう何もお話がなければ事務所へ帰ろうと思いますが」
すると夫人はこう尋ねた、「もしか他人があの手紙を読むようなことがありましたら何と思うでしょうかしら?」
「うまく嘘をついたものだと思うでしょうな」ジョイス氏はぴしりと答えた。
「いつ?」
「はっきりとおっしゃいましたでしょう、少なくともこの三カ月というものハモンドとは一切交渉はなかったと」
「何もかもわたくしにはひどいショックだったものですから。あの怖ろしい晩のことはまるで悪夢のようで。ちょっとしたことをひとつくらい忘れてしまったからといってべつに不思議でも何でもございませんわ」
「そいつはどうも困りましたねえ、奥さまの記憶はハモンドとの対談をあれほどはっきりと微に入り細にわたって覚えておいでになる、だのにかれが死んだあの晩わざわざ奥さまから呼ばれてバンガローを訪ねてきたんだという、そんな重大な点をお忘れになったとは」
「忘れたってわけではございませんわ。ああしたことがあった後では申し上げにくかったのですもの。あのひとがわたくしの招待で来たと申しあげましても、皆さんはどなたもほんとうになさらないだろうと思いました。ほんとうにわたくし馬鹿でしたわ。でもすっかりわからなくなっていましたし、それに一旦ハモンドとは一切交渉がなかったと申しあげてしまった以上もうどこまでも白を切るより仕方ございませんでしたの」
そのときはもう夫人は例のみごとな落ちつきをとり戻して、ジョイス氏の探るようなまなざしを虚心に受け流していた。そのものやわらかさにはまったく兜《かぶと》をぬぐほかはなかった。
「それならばですねえ、この点の説明が必要でしょう、つまり何故《ヽヽ》ご主人の留守の晩にお呼びになったかという」
夫人はじっと弁護士の顔を真正面から見た。なんでもない目と思っていたのはかれの間違いだった、なかなか美しい目で、かれの見た目に狂いがなければ今や涙で光っていたのである。声も何かひび割れたようなところがあった。
「ロバートをびっくりさせて喜ばせようと思っていましたの。来月がうちのひとの誕生日なのでございましてね。新しい鉄砲をほしがっているのを知っていたものですから、でもわたくし、猟の道具のことなどまるで存じませんし。だものですからジェフに相談したらと思いましてね。あのひとに頼んで註文していただこうと」
「どうもまだ手紙の内容がはっきりと思い出せないようですねえ。もう一度ご覧になります?」
「いいえ、見たくはございませんわ」夫人はあわてて答えた。
「婦人のかたが、それもたいして親しくもない人間に鉄砲を買う相談にのってもらいたいくらいのことでこんな手紙を書くとお考えになりますか?」
「そりゃあすこし大げさで気分が出すぎているようでございますわねえ。でもね、わたくしよくそんなふうな書きかたをいたしますのよ。そりゃあ自分でもずいぶん馬鹿だとは思いますけれど」夫人はにっこり笑った。「それに結局、ジェフ・ハモンドとはそう遠い知合いというわけではございませんでした。あのかたが病気のときは、わたくし、まるで母親みたいに看病してさしあげましたし。主人のいない留守に呼びましたのは、あんなやつは家へ入れないと申しますからでございますわ」
ジョイス氏はいつまでも同じ場所に坐っているのが堪らなくなった。立ち上ると部屋のなかを一、二度往きつ戻りつしながら、さてなんといったものだろうと適当なことばを考えていた。それから、今まで坐っていた椅子の背に凭《よ》りかかった。かれはひどく厳粛な調子でゆっくりと切り出した。
「奥さん、これは重大な、すこぶる重大な話なんですがねえ。この事件は比較的簡単に運んできました。ただひとつ、説明のほしい点があった。というのはわたしの見たかぎりでは、奥さんはハモンドが倒れてからなお四発も弾丸を撃ちこんでおいでになる。これはちょっと考えられないことですからねえ、か弱い、恐怖におびえている婦人、しかも不断は自制心のある、おとなしい、教養ある婦人がです、こうしたまるで手に負えぬ怒りにわれを忘れてしまうなどとは。しかも無論ありえないとはいえますまい。ジェフリー・ハモンドはみんなからも好かれ大体において評判のよい男ではあったらしいが、そりゃあわたしだって奥さんが正当防衛だったとおっしゃるその行為だってやりかねまじき人間だということは証明してみせるつもりでした。あの男の死後はじめてわかった事実、つまり中国人の女と同棲していたということなどは、それこそ屈強の判定の材料だったわけでしてね。そのためにせっかくあの男に集まりそうな同情まですっかりなくしてしまったのですからねえ。わたしたちとしてはこうした醜関係が広く世人の心に呼び起す反感というものを大いに利用してやろうと決めていた。現に今朝もわたしはご主人に無罪放免は間違いないと申しあげたばかりなんで、それもただ気休めにだけいったわけじゃありません。陪席者だってわざわざ協議に立つまでもなかろうと思っていたのです」
二人はじっと顔を見合せた。クロスビー夫人は妙に身じろぎひとつしなかった。まるで蛇に魅入られて体の自由を失った小鳥みたいだった。かれは前と同じしずかな調子で話をつづけた。
「ところがこの手紙一本で事件の様子が一変してしまったのです。わたしは奥さんの顧問弁護士です、法廷では奥さんの弁護人として立つわけです。奥さんから承ったお話はそのまま信じておくといたしまして、その内容に従って奥さんのために弁論いたしましょう。そりゃあわたし自身が奥さんの供述を信じているかどうか、それはわかりません。弁護人の義務なるものは法廷に提出されている証拠物件だけでは有罪の判決を下すに不十分であるということを満廷の人々に納得させることであり、弁護人個人として依頼人の罪の有無に関して何と考えようとそれは全然もう問題外なのですからねえ」
レズリーの目に微笑の影の掠めたのにはさすがのかれも驚いた。ムッとして、かれは幾らか冷淡な調子でつづけた。
「ハモンドがお宅を訪問したのは奥さんのたっての頼み、失礼ながらヒステリーじみたとさえいってよいような招待で来たんだ、このことだけはまさか否定なさいますまいね?」
クロスビー夫人は、いっときためらって、なにか考えているようだった。
「それはすぐわかってしまいますわ、宅のボーイのひとりがこの手紙をあのひとのバンガローへ届けに行ったってことは。自転車で行ったのですもの」
「世間というものが奥さん以上におめでたいものだなどとお考えになっちゃいけませんよ。この手紙は今まで誰の頭にも浮ばなかった新しい疑念を抱かせるようになりますね。この写しを読んだときわたし自身がどう思ったかは申しあげますまい。わたしとしては奥さんの首の助かるのに必要なことだけをお伺いすればよろしいのです」
クロスビー夫人は疳高《かんだか》い叫び声をあげた。恐怖のあまり真っ蒼になって、飛び上った。
「死刑だっておっしゃいますの?」
「ハモンド殺害が正当防衛でないときまれば、有罪人の判決を下すのが陪席者たちの義務でしょうからねえ。罪名は殺人犯なんですよ。死刑を宣告するのが裁判長の義務というもんでしょうなあ」
「でもどんな証拠によってですの?」
「どんな証拠だかわかりませんね。奥さんのほうがご存じでしょう。わたしはべつに知りたくもない。だがもし疑問が起る、取調べが始まる、現地人たちを訊問する、ということにでもなった日には――何が出てきますかねえ?」
突然、夫人はクタクタになった。かれが手を出して支える間もなく床の上に倒れてしまった。失神してしまったのである。かれは水でもないかと部屋を見廻してみたが、生憎なかったし、それに他人に入ってきてもらいたくなかった。夫人の体を床に寝かせると、そのかたわらに跪《ひざまず》いて意識の回復するのを待っていた。夫人が目を開いたときそのなかにすさまじい恐怖の色を見るとかれは何かハッとした。
「じっとしてらっしゃい」かれはいった。「すぐよくなりますから」
「まさか死刑にするなんて」夫人はささやくようにいった。
それから、ヒステリーのように、泣き出したので、かれは小声で宥《なだ》めにかかった。
「どうかしっかりしてください」かれはいった。
「もうしばらく」
夫人の勇気は驚くべきものだった。冷静をとり戻そうと努めているのがかれの目にもはっきりと映ったが、まもなく元のしずかな様子に帰った。
「さ、起してくださいません?」
かれは手を貸して立たせてやった。腕をとって、椅子のところまでつれて行った。夫人はぐったりしたように腰をおろした。
「ちょっとの間、なんにもいわないでくださいな」夫人はいった。
「いいですとも」
とうとう夫人から口をきったときそれはかれにとって思いもかけぬことばだった。夫人はちょっと溜息をついた。
「なんだかひどくまずいことばっかりしてしまったような気がいたしますわ、わたくし」夫人はいった。
かれは返事をしなかった、それでまたしても沈黙がつづいた。
「その手紙を手に入れることはできないものでしょうか?」とうとう夫人がいった。
「そりゃあ持ち主のほうで売るつもりでもなければ、まさかわたしのところへそんな話を持ってくるはずもないと思いますがねえ」
「誰ですの、持ち主ってのは?」
「ハモンドと同棲していた例の中国人の女なんです」
一瞬レズリーの頬のあたりにチラリと生色が閃いた。
「高いことをいうでしょうか?」
「なかなか抜け目のない勘定をしているらしいですね。大分出さなけりゃあ手に入れるのはむずかしいでしょうな」
「じゃ、あたくしを死刑にしようとおっしゃるの?」
「そんなに簡単なことだとでも考えてらっしゃるんですか、不利な証拠物件をこちらの手に捲きあげてしまおうってことを? 証人を買収するのも同然なんですよ。そんなことを奥さんからいい出せた義理じゃありませんね」
「それじゃあわたくしはどうなるのでございます?」
「法は枉《ま》ぐべからず、です」
夫人は真っ蒼になった。さっと悪寒が体を掠めた。
「何もかもお任せいたしますわ。もちろん変なことなどお願いする資格はございませんもの」
そんな涙につぶれた声をジョイス氏は予想さえしていなかったが、平生のあの自制力を知っているだけにそれはまったく堪えがたいほど胸に迫るものがあった。夫人はうちひしがれたような目でこちらを見上げている、だからもしこの哀願を斥《しりぞ》けてしまったらおれは一生あの目に悩まされるだろうと、かれにはそんな気がするのだった。どうせ、あのハモンドが生き返ってくるはずもないのだ。この手紙のほんとうの事情はどうなんだろうとかれは考えてみた。この手紙一本で夫人が挑まれもしないのにハモンドを殺してしまったのだと決めては穏やかでない。かれも東洋に住むようになってもうずいぶんになる、だから弁護士としての良心もおそらく二十年前ほどにはやかましくはなかったであろう。かれはじっと床を睨《にら》んでいた。よくないとはわかっているがひとつやってみようと、かれは決心した、だがそれは何か咽喉《のど》にでもつかえるようでレズリーにたいして鈍い憤りをさえ感じた。ちょっと切り出しにくかったのである。
「ご主人のほうの工合がどうですかよくわかりませんがね?」
頬のあたりに赤味がさして、夫人はすばやくチラッとかれのほうを見た。
「錫《すず》鉱業の株もかなりございますし、ゴム園のほうにもわずかながら株がございますので。まあお金のほうなら何とかできると思いますわ」
「何に要るのかお話しにならなくちゃなりますまい」
夫人はいっとき黙っていた。なにか考えている様子だった。
「うちのひと、今でもわたくしを愛してくれておりますから。わたくしを助けるためならどんな犠牲だって払ってくれますわ。手紙を見せる必要などありますかしら?」
ジョイス氏はちょっと眉をひそめた、だが、逸早《いちはや》く見てとると、夫人は言葉をつづけた。
「ロバートとは古いお友達でいらっしゃいますわねえ。わたくしのためにお願いするのではございませんの、あの正直で、やさしいひとのために、ついぞあなたにご迷惑などおかけしたことのないあのひとがいろんな苦しい思いをしないですみますようにお願いしているのですわ」
ジョイス氏は返事をしなかった。立ち上って帰ろうとすると、夫人は、いつものあの淑《しと》やかさで、手をさしのべた。さっきからの出来事で衝撃をうけ、顔つきなどもゲッソリやつれてはいたが、けなげにも相手を丁重に送り出そうと努めていたのである。
「ほんとうにいろいろとご迷惑ばかりおかけいたしまして。なんとお礼を申してよろしいやら」
ジョイス氏は事務所に戻った。じっと、何をしようというでもなく、自分の部屋で腰をおろしたまま、考えこんでいた。奇怪な空想が次々と脳裡に湧いてくる。かすかな身震いが起る。やがて予期していたように用心深く扉をノックする音が聞えた。王芝孫が入ってきた。
「お昼を食べに行こうと思っていたところですが」かれはいった。
「よろしい」
「何かその前にご用でもおありではないかと存じまして」
「いや、べつに。リードさんのほうは改めてお約束をしておいただろうね?」
「はい。三時にお見えになりますそうで」
「うん」
王芝孫はくるりと後を向くと、扉のところまで歩いて行って、例の長い細い指を把手にかけた。それから、なにか思い直しでもしたように、ふり返った。
「何か例の友人におことづけはございませんでしょうか?」
じつにきれいな英語を話す王芝孫ではあるが、それでもRの発音はうまくできず、「友人」を fliend と発音するのである。
「何の友人だね?」
「クロスビーの奥さまが故人のハモンドに書いた手紙の件の」
「ああ、そうか! 忘れていた、夫人にその話はしてみたんだがね、そんなものは書いた覚えがないってことだ、きっと偽造だろう」
ジョイス氏はポケットから写しを出して王芝孫に渡した。王芝孫はそんな意味ありげな手に乗らなかった。
「でございますれば、万一その友人が手紙を検察官代理に渡しましてもご異存ございませんでしょうな」
「ないさ。だが一体そんなことをしてきみの友人ってのは何になるのか、わからんねえ」
「はい、わたくしの友人は正義のためにそうすることが義務だと考えているのでございましょうよ」
「わたしは自分の義務を果そうとする人間を邪魔するような男じゃ断じてないよ、芝孫」
弁護士と中国人書記の視線が合った。どちらの唇にも微笑の影は見えなかったが、二人は完全に互いの腹の中がわかったのである。
「よくわかりました、はい」王芝孫はいった、「ですがこのクロスビー刑事事件を研究いたしましたところでは、もしかような手紙が出てまいりますとわれわれ被告側にとりましてはたいへんなことになるのではないかと考えるのでございますが」
「きみの法律家的|慧眼《けいがん》にはいつも大いに敬服しているよ、芝孫」
「で、ちょっと思いついたことでございますが、つまりわたくしから友人を説きつけて例の手紙を所有しております中国人の女に手紙をわれわれのほうへ譲ってくれるように話をつけましたら、よほど面倒が省けると思いますのですが」
ジョイス氏はぼんやりと吸取紙の上に人の顔をいたずら書きしていた。
「きみの友人というのは商売人なんだろうね? どんな条件ならその手紙を手離すように話がつけられると思う?」
「それが手紙を持ってるのではございませんので。持ち主は中国人の女なのでございまして。友人というのはこの女の親戚にすぎませんので。この女というのが無智なものでございましてね。わたくしの友人が教えてやるまではその手紙の値打ちも知らなかったのです」
「友人というのは幾らと相場を踏んでいるんだい?」
「はい、一万ドルなので」
「なんだって! いったい全体よくもクロスビー夫人に一万ドルの金ができるなどと思えるものだ! その手紙はそりゃあ偽造なんだぜ」
そういいながらかれは王芝孫の顔を見上げた。この一喝にも書記は平然たるものだった。机のそばに、慇懃《いんぎん》に、冷静に、油断なく立っていた。
「クロスビー氏はベトン・ゴム園の株を八分の一にセランタン河ゴム園の株の六分の一はお持ちでございます。それだけの財産を抵当にいただけますれば御用立てしてもいいと申します友人もございますが」
「たいそう顔が広いんだね、芝孫」
「はあ」
「とにかくだ、犬にでも食われろっていってくれたまえ。朝飯前に言い開きのできる手紙くらいに五千ドル以上はビタ一文だってクロスビー氏に出してくれとはいえん」
「その中国人の女はべつにその手紙を売りたくはないんだそうでございまして、はい。友人がやっとのことで説得しましたような次第で。先刻申しあげました値段以下じゃあ話にはなりますまい」
ジョイス氏は王芝孫の顔を少なくとも三分間は見つめていた。その探るようなまなざしを書記は平然として受け流した。伏目がちに慇懃な態度を失わない。ジョイス氏はかれという人間をよく知っていた。利口なやつだ、芝孫という男は、とかれは心のなかで思った、いったい幾ら上前をはねるつもりなんだろう?
「一万ドルといえば大金だぜ」
「でもきっとクロスビーさんは奥様を死刑になさるよりはそのくらいはお払いになりますでしょう」
またしてもジョイス氏は黙りこんでしまった。芝孫のやつ、まだまだどんなことを腹に持っているか知れたものではない。あんなに安く手を打とうとしないところをみるとよほどしっかりとした根拠をつかんでいるにちがいない。あの一万ドルという金額にしても、誰が采配《さいはい》をふるっているかはわからないがロバート・クロスビーの手で調達できるぎりぎり最高の金高だということを承知の上で決めたものなのだ。
「その中国人の女ってのは今どこにいるんだね?」ジョイス氏は尋ねた。
「友人の家にいるのでございますが」
「ここへ来てくれるかね?」
「こちらからいらっしゃいましたほうがよろしかろうと存じますが。何なら今夜にでもお供いたしてよろしうございます、そうすれば手紙は女からお渡しいたしますから。まったく無学文盲の女でございましてねえ、小切手というものがよくわかりませんので」
「小切手で渡そうなんて思ってやしないさ。紙幣で持っていくつもりだ」
「一万ドル以下でございましたらお出でになりますだけ勿体ない時間つぶしにすぎませんですから」
「よくわかったよ」
「昼飯をすませましたらば友人に伝えに行って参りますから」
「いいとも。じゃあ今夜十時にクラブの前で待っていてくれたまえ」
「承知いたしました」王芝孫はいった。
かれはジョイスにちょっと頭をさげて部屋を出て行った。ジョイス氏のほうも、お昼にするべく外出した、クラブヘ行ってみると、果してロバート・クロスビーの姿を認めた。立ちこんだテーブルについていたので、ジョイス氏は、空席を探してそのそばを通りすがりに、軽く相手の肩口を突いた。
「お帰り前にちょっとお話したいことがありますが」かれはいった。
「ああ、結構。君のいい時にそういってくれたまえ」
どんなふうにやってみるかジョイス氏には決心がついていた。食事がすむとブリッジの三番勝負をやってクラブから人の出払うのを待った。ほかならぬこの問題でクロスビーを事務所に訪ねたくはなかった。やがてクロスビーは娯楽室に入ってくると勝負のつくまで眺めていた。他の連中がそれぞれの用事で出ていってしまい、かれらは二人きりになった。
「どうも困ったことができたんですがねえ」ジョイス氏は、できるだけさりげない調子で切り出した。「実は奥さんがあのハモンドのやられた晩にかれに家へ来てくれとの手紙をお出しになったらしいんですよ」
「そんなばかなことが」クロスビーは大きな声を出した。「あれはハモンドとは一切交渉がなかったと始終いってたじゃないか。現にこのわたし自身知ってるが、あれはここふた月というものあの男の顔も見てやしないよ」
「しかしとにかくその手紙というものがあるんですからねえ。ハモンドが同棲していたあの中国人の女の手にあるんです。奥さんはね、あなたの誕生日に贈物がしたかった、それでハモンドを買いものの相談相手になすったのです。ところがあの兇行のあとで感情の興奮から、奥さんはそれをすっかり忘れておいでになった、で一旦ハモンドとは交渉ございませんといってしまった以上、あれは思い違いでしたとはどうも気がさしていえない。それはね、むろん、どうにも困ったことなんですが、しかしまあ無理もないと考えられますがねえ」
クロスビーは一言もいわなかった。かれの大きな、赤ら顔にはありありと当惑の色が見えていた、それでジョイスは何ともののわからぬ男かと思うと何かホッとしたようでもあり同時にいらだたしくもあった。じつに血のめぐりの悪いやつだ、そしてジョイス氏は馬鹿には我慢がならなかったのである。しかしこんどの事件以来クロスビーの心痛にはこの弁護士の心の琴線に触れるものがあった。そしてクロスビー夫人が、わたくしのためではない、主人のためだと思って助けてくださいといったのは確かに急所をついたのであった。
「いまさら申しあげるまでもありませんが、もしその手紙が検事の手に渡ったとしたらかなり厄介なことになるだろうと思うんです。奥さんは嘘をつかれた、だからその嘘の説明をしてみろということになる。ハモンドが、招ばれもしないのに、勝手に闖入《ちんにゅう》した、というんじゃあなくて、招待があってお宅に伺ったのだ、ということになると少々話が違ってきますからねえ。陪席者の意見だって相当ぐらつくでしょうから」
ジョイス氏はちょっとためらった。今や決心を切り出すべき時機である。もしこれが笑ってもいいような場合だったら、自分はこんな重大なことをやってのけようとしている、ところがこちらが一肌脱いでやっている肝心のご当人ときたら、問題の重大さも何もてんでわかってやしないんだ、と考えてみるとおかしくさえなったであろう。かりに考えてみてくれたとしたところで、ジョイスのやつは弁護士として商売柄誰でもする当り前のことをしているにすぎないのだと考えるくらいが関の山だろう。
「ねえロバートさん、あなたはわたしの弁護依頼人だが、また友人でもある。あの手紙はこちらの手に入れなくちゃいけないと思うんです。かなりの金がかかるにはかかります。それさえなければこんなことをお話しはしない」
「いくらだね?」
「一万ドル」
「ばかに高いじゃないか。株の暴落だの、何だのかんだので、それじゃあまるで身代限りだ」
「すぐおできになります?」
「まあ何とか。錫《すず》鉱業の株とぼくの関係している二つのゴム園を担保にすればチャーリー・メドウズからでも融通してもらえるだろうがね」
「じゃあひとつ願えませんでしょうか?」
「絶対に入用なのかね?」
「奥さんの釈放がご希望ならばね」
クロスビーは真赤になった。口もとが妙にひきつった。
「だが……」なんといっていいかわからなかった、顔はもう紫色に変っていた。「だがぼくには何が何だかわからん。あれは言い開きができるはずだ。まさかあれが有罪になるというんじゃああるまいね? 社会の害虫みたいなやつをやっつけてそれで死刑になるなんて法があるか」
「もちろん死刑じゃありません。ただ殺人罪というだけでしょうよ。まあ二、三年で出られるでしょう」
クロスビーは急に立ち上ったがその顔は恐怖で歪んでいた。
「三年」
ようやくかれのあの鈍い頭にも何かがぼんやりとわかりかけてきたようだった。かれの心の闇を紫電が一閃《いっせん》して掠めたごとくであって、あとは元の深い闇に帰ったのであるが、ただ何か見たというわけではないがほんのそれと認めたくらいのものが記憶となって残った。ジョイス氏はクロスビーの大きな赤い手、これまでかれがやってきたさまざまな仕事ですっかり荒れて硬ばった手が、震えているのを知ったのである。
「あれは何を贈物にくれようと思っていたのかな?」
「奥さんのお話では新しい鉄砲を上げたかったとか」
もういちどあの大きな赤い顔がさらに真赤になった。
「金のほうはいつ用意しなくちゃならんのかね?」
もはやその声には何か異様な響きがあった。なにか目に見えないものに咽喉《のど》をつかまれたままものをいっているような声であった。
「今夜の十時です。六時ごろ事務所までお持ち願えるでしょうね?」
「その女が来るんだね?」
「いや、こちらから出向くんです」
「金はぼくが持っていく。ぼくも一緒にいく」
ジョイス氏は相手を見つめた。
「そんなことをなさる必要がありますかねえ? この問題はわたくしにすっかりお任せなすったほうがよかろうと思いますが」
「金はぼくの金なんだぜ、君? 一緒にいくよ」
ジョイス氏は肩をすくめた。二人は立ち上って握手をした。ジョイス氏はつくづくと相手の顔を眺めた。
十時に二人は人気のないクラブで落ち合った。
「万事よろしゅうございますね?」ジョイス氏は尋ねた。
「うん。金はポケットに入れてある」
「それじゃあ参りましょう」
二人は石段を降りた。もうひっそりとなった広場にジョイス氏の車が待っていた、そして二人が車のところまでくると王芝孫《ワン・ジェスン》が一軒の家の蔭から出てきた。かれは運転手の横に坐って道の指図をした。車はヨーロッパ・ホテルの前を過ぎ海員ホームのそばを上ってヴィクトリア街に入った。ここでは中国人の商店がまだ店を開いていて、閑人《ひまじん》らしい連中がぶらついており、車道には人力車や自動車や馬車がせわしげな空気をかもしていた。急に車がとまって芝孫がふりかえっていった。
「ここからお歩きになったほうがいいと思います」
一同が車から降りるとかれはドンドン歩き出した。二人は一、二歩おくれてついていった。やがてかれが、ここでございます、といった。
「ちょっとお待ちになって。入っていって友人に話してまいりますから」
かれは、通りに面した一軒の商店へ入っていったが、カウンターの蔭に中国人が三、四人立っていた。よく見かける妙な、店に何ひとつならべていない、じっさい何を売っているのだろうかと怪しまれるような店であった。白い麻服を着て胸のところに大きな金鎖《きんぐさり》をのぞかせているひとりのでっぷりした男に何か話しているのが見えたが、その男はチラッと外の闇をすかして見た。芝孫に鍵を渡すと芝孫は出てきた。待っている二人を手招きしたかと思うとそのまま店の横手の入口に消えてしまった。二人もつづいて入ってみると階段の下に出た。
「ちょっとお待ちください、マッチをつけますから」かれはそういったが、いつもよく気のきく男である。「お上りくださいまして、どうぞ」
日本マッチで足もとを照してくれるのだが、ほとんど闇を払うにはたりなかったので二人はかれのうしろから手探りで上っていった。二階へ上るとかれはひとつの扉を鍵であけて中へ入ってガス・ランプに火を入れた。
「お入りください、どうぞ」かれはいった。
小さな四角な部屋で、窓はひとつしかなく、家具といってもマットをかけた低い中国ふうの寝台が二つあるきりだった。片隅に、精巧な錠前のついた大きな箱が一つ置いてあり、その上に阿片用のパイプをのせたうすぎたない盆が一つとランプがのっていた。部屋の中には阿片の苦っぽい臭いが徴かに漂っている。二人が腰をおろすと王芝孫はシガレットを出して二人にすすめた。途端に扉が開いてさっきカウンターのうしろにいた例の肥った中国人が入ってきた。非常に流暢な英語で二人に挨拶すると、王《ワン》とならんで腰をかけた。
「お話の女はすぐ参りますから」芝孫《ジェスン》がいった。
店の小僧が茶器と茶碗をのせた盆をもって入ってくると、中国人は二人にお茶をすすめた。クロスビーはことわった。中国人は二人で何か低声《こごえ》で話し合っていたが、クロスビーとジョイス氏は口をきかなかった。やっと外で声がした。誰か低声で呼んでいる。すると中国人が戸口へ行った。戸を開けて二言、三言なにかいっていたが、やがてひとりの女をつれて入ってきた。ジョイス氏は女の顔を見た。ハモンドが死んでからずいぶん話は聞いていたが、見たのは初めてだった。肥り気味の、年もあまり若くない、下卑た、鈍感そうな顔をした女で、白粉を塗り頬紅をさし眉は細い黒い一線に作っているが、どこかただ者でないような印象を与える。深い水色の上着に白いスカートをはき、服装はまったくの西洋流というのでもなければ中国式というものでもない、しかし足には可愛いい中国の靴をはいていた。首には重い金の鎖をかけ、手首には金の飾り環をはめ、金の耳飾りをつけ、真っ黒い髪には手のこんだ金のピンをさしていた。ゆっくりと、自信満々たる様子で、そのくせ何か重そうな足取りで入ってくると、王芝孫のそばの寝台に腰をおろした。王が何かいった、すると女はうなずきながら二人の白人に興味なさそうな視線を投げた。
「このかただね、手紙をもってられるのは?」ジョイス氏が尋ねた。
「はい、さようでございます」
クロスビーは一言もいわずに、ポケットから五百ドル紙幣の束をとり出した。二十枚数えて芝孫に渡した。
「ちゃんとあるか確かめてくれたまえ」
書記は勘定してみて肥った中国人に手渡した。
「確かにございます、はい」
中国人はもういちど数えてポケットにしまった。また何か女にものをいうと女は胸のところから一通の手紙をとり出した。芝孫に渡すと、芝孫はちょっと手紙に目を投げた。
「間違いなくこれでございます」といって、ジョイス氏に手紙を渡そうとすると横からクロスビーがひったくった。
「見せたまえ」かれはいった。
ジョイス氏はかれが読み終えるのをじっと見ていたが、終るのを待って手をさしのべた。
「わたくしがお預りしておいたほうがよろしいでしょう」
クロスビーは手紙を丁寧にたたみおえるとポケットにしまった。
「いや、ぼくが貰っておく。高い品物だからねえ」
ジョイス氏は何とも返事をしなかった。三人の中国人はこのちょっとしたいきさつをじっと見守っていたが、しかしそれをどう考えていたか、いや、考えたりなどしたかどうか、それさえかれらの無表情な顔つきからはわからなかった。ジョイス氏は立ち上った。
「今晩まだご用がございましょうか?」王芝孫は尋ねた。
「ない」かれは王が約束の分け前を貰うためにあとに残りたいのだということがわかっていた、それでかれはクロスビーのほうを向いていった。「よろしゅうございますか?」
クロスビーは答えをしないで、立ち上った。例の中国人が戸口へ行って扉を開けた。芝孫は蝋燭《ろうそく》の燃えさしを見つけてきて火をつけて階段を照らしてくれた、そして二人の中国人は往来まで送ってきた。女だけはひとり残ってじっと寝台に腰かけたまま紙巻を喫《す》っていた。一同が往来に出ると中国人は別れてふたたび二階へ引返して行った。
「その手紙をどうなさるおつもりですか?」ジョイス氏は尋ねた。
「しまっておくさ」
二人は車を待たせておいたところまで歩いていった、そしてジョイス氏がお乗りになりませんかとすすめた。クロスビーは首を振った。
「歩くよ、ぼくは」ちょっとためらいながら足をもじもじさせていた。「ハモンドが死んだ晩シンガポールヘ行ったのはだね、ひとつは鉄砲を譲りたいというある知人からそいつを買うためもあったんだよ。お休み」
かれは足早やに闇のなかに消えていった。
裁判はジョイス氏の予想どおりだった。陪席者たちはクロスビー夫人の無罪を決定して入廷していたのである。夫人は自分に有利に証拠事実を陳述した。顛末《てんまつ》を簡単にしかも率直に述べた。予備検事は温厚な人物で自分の職務を大して喜んでいないことは明らかだった。必要な訊問さえいかにも嫌そうにやったのである。論告にいたってはむしろ弁護論といってもよかった、そして陪席者たちの合議の上での評決も五分とはかからなかった。それが発表されるや、満廷の傍聴人たちから起ったすさまじい歓呼の嵐をとめることはできなかった。裁判長はクロスビーの夫人に祝辞を述べ夫人は自由の身となったのである。
ジョイス氏の夫人は誰よりもはげしくハモンドの行為を非難していた。夫人は友人に忠実な女性だった、そして裁判がすんだら、結果については夫人も世人と同じく最初から疑っていなかったので、出発する支度のできるまで、ぜひともクロスビー夫妻に自分たちの家に泊ってくれるようにといっていた。あの気の毒な、けなげなレズリーをあんな怖ろしいことのあった家へ帰らせるなんて問題外だというのである。裁判の終ったのは零時半だった、そしてジョイス家に着くとすばらしい昼食が待っていた。カクテルも出来ており、ジョイス夫人のミリオン・ダラー・カクテルといえばマレー半島でも有名なものだったが、そのジョイス夫人がレズリーのために乾杯したのである。おしゃべりで、快活な女だったが、今日は殊《こと》にはしゃぎきっていた。それでちょうどよかったのである、なにしろほかの連中が黙りこんでいたのだから。夫人は別に気にもとめなかった。夫はいつも口数の少ないほうであり、あとの二人は長いあいだの心労でぐったりしているのも無理はない。食事中かの女は面白そうにひとりでしゃべり通しだった。コーヒーが出た。「ねえ、あなたがた」例の陽気な、騒々しい調子で夫人はいった、「お休みになったら、そしてね、お茶を召し上ってからお二人を海岸のほうヘドライヴにお伴しますわ」
ジョイス氏は、昼食を家でするのはごく例外のことなので、むろん事務所へ戻らなければならなかった。
「折角ですが、奥さん」クロスビーはいった。「これからすぐに、ゴム園のほうへ帰らなければならんものですから」
「今日じゃありませんでしょう?」夫人は大きな声を出した。
「いや、今すぐなんです。ずいぶん長らくほったらかしてありますし、さし迫った用事もありますから。しかし何とかこちらの方針のきまるまでレズリーをお預かり願えればたいへんありがたいんですが」
ジョイス夫人はまだ何かいおうとしたが、夫に遮《さえぎ》られた。
「用事がおありになれば、仕方がない、話はわかってるじゃないか」
弁護士のその語調には何か異様なものがあったので夫人は思わず夫のほうを見た。夫人は口を噤《つぐ》んだ。一瞬の沈黙があった。やがてふたたびクロスビーが口を開いた。
「失礼ですが、暗くならないうちに着きたいと思いますからこのまま失礼します」かれは食卓から立ち上った。「お前送ってくれるだろうね、レズリー?」
「ええ、もちろん」
二人はいっしょに食堂を出ていった。
「ずいぶん思いやりのない人だと思うわ」ジョイス夫人はいった。「今日という今日はレズリーにしてみれば一緒にいたいってこと、あの人だってわかってるはずだのに」
「やむをえない用事さえなけれゃまさか行きゃしないさ」
「そうね、じゃあたしレズリーのお部屋ができてるかどうか見てきますわ。ゆっくり一休みなさりたいわよ、きっと、それから面白いことでもしたいでしょうね」
夫人が部屋を出ていくとジョイスは坐り直した。やがてクロスビーがオートバイにエンジンをかける音がし、続いて庭道の砂利をかむ大きな音がした。かれは立って客間へ行った。クロスビー夫人が部屋の真ん中に、空を見つめて、立っていた、そして手には一枚の開いた手紙を持っていた。かれはすぐそれと悟った。かれが入っていくと夫人はちらっとそのほうを見たが死人のような真っ蒼な顔だった。
「知ってますわ、うちの人」夫人は呟《つぶや》くようにいった。
ジョイス氏は近づいていってその手紙を夫人の手からとり上げた。マッチをすって紙に火をつけた。燃えるのを夫人はじっと見つめていた。もう持っていられなくなるとタイル張りの床に落したが二人ともその紙片が縮れて黒くなっていくのを見ていた。それからかれは足でこなごなに踏みつけてしまった。
「何を知ってるんです?」
夫人はしばらくじっと相手を見つめていたがその目には異様な表現が浮んできた。軽蔑か、それとも絶望か? ジョイス氏にはわからなかった。
「ジェフがわたくしの愛人だったってことを知ってますのよ」
ジョイス氏は身じろぎ一つせず一言もいわなかった。
「もう何年も前から愛人だったのですわ。戦争から帰ってきてすぐといっていいくらいでしたの、あのひとが愛人になりましたのは。どんなに用心しなくてはいけないかってことはわたくしたち知ってました。愛人になってからはわたしわざとあのひとが嫌になったような振りをしていましたし、あのひとだってロバートのいるときはめったに家に来ませんでした。週に二、三度、ふたりできめたある場所へわたくしがいつも車でいくとあのひとも来てくれました、でもロバートがシンガポールヘ行って留守になると夜おそく、ボーイたちが帰ってしまってから、いつもバンガローへ来てくれました。たえず、しょっちゅう、会ってましたわ、でも誰ひとりこれぽっちも気づいたものはいなかったのです。それが最近、この一年ばかり前から、あのひとの様子が変ってきました。どうなったのかわたくしにもわかりませんでしたけれど。あのひとからもう愛されなくなるなんてどうしても信じられませんでしたわ。あのひとだってそんなことがあるもんかっていつもいうんですもの。わたくし、気が違いそうでした。泣いたり騒いだりもしました。わたくしを憎んでるんじゃないかと思うこともありました。ああ、あのころの苦しみがわかっていただけたら。地獄の苦しみでした。もうわたくしという女があのひとにはいらないのだってことがわかりました、でもわたくし、どうしてもあのひとをはなしたくなかった。ああ! あのつらさったら! わたくし、あのひとを愛してましたわ。身も心も捧げましたわ。あのひとはわたくしの命でした。だのにあのひとは中国の女とかと一緒になっているってことを聞いたのです。とてもほんとうとは思えませんでした。思いたくなかったのです。でもとうとうその女に会ってしまいました、この目でちゃんと見ましたわ、金の腕環に金の首飾りをして、村を歩いているのを見ました、いい年をして、ぶくぶく肥った、あの中国の女。わたくしよりも年上ですわ。ゾッとしますわ! あのひとの情婦だってことは村ではみんな知っていました。すれ違ったとき、あの女もこちらを見ました、そしてわたくしもあのひとのものだってことを女のほうでも知っているということがわかりました。わたくしはあのひとを呼びにやりました。ぜひお目にかかりたいって。あの手紙、お読みになりましたわねえ。あんなものを書くなんてどうかしてたんですわ。もう自分でも何をしてるかわからない。どうにでもなれって気持ちでした。もう十日も会ってませんでした。千秋の思いでした。しかもその前別れるときあのひとはわたくしを抱きしめて接吻して、気にすることはないなんていっておきながら。それでわたくしの腕からすぐあの女のところへいったのだと思うと」
夫人は低い声で、しかしはげしい調子で話していたが、ここでちょっと息をつくと両手を振りしぼるようにした。
「ああ、口惜《くや》しい、あの手紙。今まであれほど用心していたのに。あのひと、わたくしの書いたものはいつも読むとすぐ破り棄てていました。ですからあの手紙だけが残っていようなんてどうしてそんなことを? あのひとは来てくれましたわ、それでわたくし、中国人の女のことは知ってるからといってやりました。すると、そんなことは嘘だというのです。スキャンダルにすぎんというのです。もう何が何だかわからなくなってしまいました。なんといったか覚えていません。ああ、あのときこそ憎くて憎くて。八つ裂きにしても飽きたりないくらいでした。ありったけの悪態をついて、恥をかかしてやりました。あの顔に唾をひっかけてやってもたりない気持ちでした。すると、とうとうあのひとは憎々しげにこちらを見ました。お前には飽き飽きした、二度と顔を見るのも嫌だといいました。死ぬほどうんざりしているともいいました。それから例の中国人の女のこともほんとうだと白状したのです。もう何年も、戦争の始まる前から、知っている、ほんとうに心から愛しているのはあの女だけだ、あとの女は慰さみにすぎんといいましたわ。それから、知ってくれてありがとう、これでやっと解放してもらえるだろうからね、とまでいいました。それからどうなったか何も覚えていませんわ、無我夢中でした、カッとなりました。ピストルをつかんで射ちました。何か叫び声を上げたので当ったと思いました。あのひとはよろよろと、ヴェランダへ逃げ出しました。わたくしは追いすがるようにしてもう一発射ちました。あのひとは倒れた、するとわたくしはおおいかぶさるようにして一発また一発と討ちつづけましたが、そのうちにピストルがカチッ、カチッと鳴っているのに気づき、もう弾丸がないのだと知ったのです」
息を切らしながら、やっと夫人はことばを切った。もはやそれは人間の顔ではなく、残忍と、怒りと苦痛とにゆがんでいた。このものしずかな、上品な女性にこんな悪魔のような激情があろうなどとはとても考えられなかったであろう。ジョイス氏は一歩身をひいた。呆然として相手を見つめていた。それは顔ではなかった、ものをいう世にも忌わしいひとつの仮面だったのである。そのとき隣りの部屋から呼び声がした。大きな、あたたかい、晴れ晴れとした声が。ジョイス夫人だった。
「いらっしゃいよ、レズリー、お部屋ができましてよ。立ってられないほどお眠いにちがいありませんわねえ」
クロスビー夫人の容貌は次第におちついてきた。あんなにはっきりと出ていた激情が、まるで手でもって皺《しわ》になった紙をのばすように消えていって、たちまちいつもの冷ややかな穏かな滑らかな顔に返った。やや蒼ざめてはいたが、唇からはこころよい、なごやかな微笑が洩れていた。ふたたび元の上品な立派なとさえいってよい女性であった。「はい、ただいま、ドロシー。すみませんわね、たいそうご面倒をおかけして」
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環境の力
ヴェランダに腰をおろして、かの女は昼食に夫が戻ってくるのを待っていた。朝の涼しさがなくなるとマレー人のボーイが日除けをおろしてしまったが、かの女はちょっとその一枚をあげて河のほうが見えるようにしておいた。息づまるような真昼の日光を浴びて河は屍衣《しい》のような白さだった。現地民がひとり、丸木舟に乗ってぽちゃぽちゃやっているが余り小さいので水面上には見えないくらいである。白昼の色彩は灰のようで生色がない。炎熱の程度によって色調が違って見えるにすぎない。(それはちょうど、東洋の音楽の、短調のメロディーに似ており、曖昧《あいまい》な単調さでもって神経をいらだたせるのである。耳は、どこで不和音から協和音へ移るのかと苛々《いらいら》しながら聴いているのだが、いつまで待っても無駄なのだ)蝉《せみ》が気違いじみた声をふりしぼって耳ざわりな音をかき立てている。それは石の多い小川のせせらぎに劣らず絶え間が単調である。ところが突然、その音が一羽の鳥の、甘い豊かな啼《な》き声で消された。すると一瞬、かの女はイギリス鶫《つぐみ》のことを思い、胸がせつなくなった。
やがてバンガローのうしろの砂利道を踏む夫の足音が聞こえてきたので――その道は夫が勤務している役所へ通じているのだが――かの女は夫を迎えるために椅子から立ち上がった。夫は低い階段を駈け上ると――というのはバンガローは基礎杭を打ってその上に建ててあるから――扉のところにボーイが待っていて日除け帽を受けとった。食堂と客間を兼ねている部屋の中へ入って来て、妻と顔を見合せるとその目はよろこびに輝いた。
「やあ、ドリス。お腹すいた?」
「もう、ペコペコよ」
「なに、ひと浴びしてくれば、すぐ食べられるから」
「お早くね」ドリスは微笑んだ。
化粧室へ姿を消したかと思うと、軽快な口笛が聞こえ、いつも妻から叱言《こごと》をいわれているぞんざいな調子で、服を脱いで床に放り投げた。年は二十九だが、まだ小学生みたいだ。いつになっても大人になりそうもない。もしかしたら、この男と恋に落ちたのもそのせいだったかもしれない、というのはいくら惚れた目にも欲にも好男子とは見えぬ相手であったからだ。小柄な、まるまっちい体つきで、満月のような赤い顔に、碧《あお》い眼をしている。かなりのにきび面《づら》である。つくづくとその顔を眺めてみて、ドリスはどこひとつとして褒《ほ》めていいところがないと告白せざるをえなかったことがある。あなたは全然あたしの好きなタイプじゃないわ、とよくいったものである。
「美男子だなんていった覚えはないがね」かれは笑った。
「あなたのどこに参ったんだか、あたしいくら考えてもわからないわ」
だが、むろん何もかもすっかりわかっていたのである。夫は陽気な、朗らかな男で、なにごともあまりくそ真面目にとらず、たえず笑ってばかりいる。自分ばかりか、相手までも笑わせる。人生というものを真剣な問題とは考えず、面白おかしいものだと見ているのだが、その微笑にはなかなか魅力がある。一緒にいると、ドリスは幸福な、やさしい気持ちだった。そして夫のあの明るい碧い眼に見られる深い愛情に心を打たれるのである。こんなふうに愛されていれば何の不足があろう? 一度など、蜜月のあいだに、夫の膝の上にかけながら両手で顔を挟んでこういったことがある――
「みっともよくない、おデブちゃんだけれどね、ガイ、あんた魅力的ね。愛さないではいられないわ」
感情の波に溺れドリスの目は涙でいっぱいになった。一瞬、夫の顔も極度の感情のために歪み返事の声はやや震えていた。
「少々脳味噌のたりない女と結婚しちゃったとは男子一生の不作だよ」
ドリスはくつくつと笑った。望んでいたとおりの、いかにも夫らしい返事だった。
九カ月前にはこの男の噂《うわさ》を聞いたことがなかったとは今では嘘みたいな気がする。母親といっしょにひと月ほど避暑に行っていた、ある小さな海辺の町で逢ったのだった。ドリスは某国会議員の秘書をしていた。ガイは賜暇《しか》で帰国中だった。ふたりは同じホテルに泊り合わせ、たちまちガイは自分の身の上をすっかり話して聞かせたのである。センブルーの生まれで、父親はその地で二代目の回教国王《サルタン》の下に三十年間も仕えていたが、自分も学校を出ると同じ官途についた。その国に一身を捧げていたのである。
「けっきょく、イギリスってのは、ぼくにとって外国なんです」かれは語るのだった。「ぼくの故郷はセンブルーなんですよ」
そして今やセンブルーはドリスの故郷ともなったのである。一カ月の休暇の最後の日にかれはドリスに求婚した。ドリスは求婚されることを知っていて、ことわってしまうつもりだった。夫に先立たれた母親のひとり娘で、母親から離れてそんな遠くへ去って行くわけにいかなかったのである、ところがいざとなると、自分でもどうしてそうなったのかまったくわからないのだが、ある思いもかけぬ感情に足をすくわれたようになって、申し込みを承諾してしまったのだ。こうして今、夫が主任をしている小さな奥地駐屯所におちついてからもう四月《よつき》にもなる。ドリスはたいそう幸福だった。
一度ドリスも、申し込みを拒絶しようと決心していたのでしたわと打ち明けたことがあった。
「拒絶しなくて惜しかったと思う?」碧い眼をぱちぱちさせながら明るい微笑を湛《たた》えて、かれは尋ねてみた。
「そうしていたら、あたし、ほんとうにおばかさんだったと思いますわ。運命だか、チャンスだか、何だかそういったものが入ってきて、もうあたしの手には負えなくなってしまいましたのよ!」
さて、浴室へ通じる階段をがたがたガイが駆けおりて行く音がする。騒々しい男で、裸足でさえ静かに歩けないのだ。ところが足音だけでなく何か叫ぶ声がした。この地方のことばで何かいったのでドリスにはわからなかった。それから今度は誰かが、低い、しゅうしゅういうような囁《ささや》き声で、夫に話しかけている。水を浴びようとしているところを待ち伏せするなんて、ほんとに嫌なひとだ。夫がまた何かいっており、その声は低かったが、怒っているのはよく聞きとれた。相手の声も今度は高くなった。女の声だ。誰か苦情をいいに来たのだなとドリスは思った。こんなふうにこっそりとやってくるのはマレーの女らしいやり口だ。だが女はガイからあまりよい返事は得られなかったらしい、夫が「出て行け」といっているのが聞こえたのだから。それくらいのことはドリスにもわかったし、それからあとで夫が扉に錠をおろす音も聞こえた。体に水をかける音がして(その水浴の仕方が今だにドリスには面白いのであるが、浴室は寝室の下、地面の高さにある。大きな水槽が置いてあって小さなブリキの手桶で水をかぶるのである)それから二、三分すると夫は食堂へ戻ってきた。髪がまだ濡れている。ふたりは昼食の卓についた。「あたしが疑り深い嫉妬深い女でなくてよかったことね」ドリスは笑った。「水浴びの最中に御婦人と何か盛んに話してらっしゃるんだもの、何とも思わなかったらおかしいくらいだわよ」
夫の顔は、いつもはあれほど朗らかなのに、入ってきたときは不機嫌な様子だったが、やっと明るくなった。
「あんまりうれしくもない女に逢ったんでね」
「お声の調子で、そうらしいとは思ったけれど。ほんとういうと、若いひとに向かってすこし無愛想すぎたわねえ」
「ずうずうしい女さ、あんなところで待ち伏せするなんて!」
「何の用でしたの?」
「いやあ、それがわからないんだ。部落《カンポン》の女だがね。亭主と喧嘩したか何かなんだ」
「今朝もその辺をうろうろしていたのと同じひとじゃないかしら?」
夫はちょっと顔をしかめた。
「誰かうろついてたかい?」
「ええ、あなたの着換え部屋へ入って、いろいろ揃えたりかたづけたりしましてね、それから浴室へ降りていきましたの。階段を降りていくと誰かドアからこっそり外へ出るのが見えたものですから、外をのぞいてみたら女のひとがひとり立ってましたのよ」
「話しかけた?」
「何の用って聞いてみたら何かいったけれど、あたしにはわからなかったわ」
「どんな人聞にせよこの辺をうろつき廻られちゃ困る」かれはいった。「ここまで入ってくるって法はないよ」
夫は微笑した、しかしドリスは、愛している女特有の鋭い直覚でもって、夫が、いつものように目と一緒でなく、唇だけで微笑していることに気づき、いったい何が心配なのかと、いぶかしく思った。
「けさは何をしていたの?」夫が尋ねた。
「いえ、大して別に。ちょっと散歩に出たくらい」
「村を通って?」
「ええ。男の人がね、鎖につないだ猿に木登りをさせて椰子《やし》の実をとらせてましたけれど、ちょっとハラハラしましたわ」
「ちょっとした見ものだったろう、それ?」
「ねえ、あなた、それを見物してる小さい男の子が二人いたけれど、ほかの連中よりずっと色が白いんですのよ。混血児じゃなかったかしら。話しかけてみたけれど、二人とも英語はちっとも知らないの」
「村には二、三人、混血の子がいるよ」夫は答えた。
「誰の子供ですの?」
「母親は村の娘だよ」
「父親のほうは?」
「いや、そういう質問はね、この土地では出すと少々物騒だということになってるんでね」ちょっと間をおいて、「現地民を妻にしている男が大勢いるからね、そういう連中が国へ帰ったり結婚したりするときは金をやって別れて、村へ送り返すのさ」
ドリスは黙っていた。夫の無頓着な話しぶりが少し冷淡なように思えた。やっと返事をしたとき、ドリスの率直な、開けっぱなしな、可愛らしいイギリス人らしい顔は、しかめ面に近くなっていた。
「でも子供はどうなりますの?」
「適当に養育されているに間違いないと思うね。大抵の男は、自分のできる範囲で、相当の教育を受けるにたるだけの金を渡すようにしているのだよ。役所で書記として使っても貰えるしねえ。だからそれでいいのさ」
ドリスは少しばかり悲しそうな微笑を見せた。
「とても結構な制度だと思えとおっしゃっても無理だわ」
「あまり厳格なことをいってはいけないんだよ」夫は微笑み返した。
「厳格じゃありませんわ。でもあなたがマレー女を一度も奥さんになさらなかったのはありがたいわ。ずいぶん嫌だったろうと思うわ。あの二人のチビがあなたの子だったらと考えただけでも」
ボーイが皿をかえた。献立はまずきまりきったものである。まずい川魚から始まるのだが、どうにか口に合うようにするためにはトマト・ケチャップをどっさりかけねばならない。次が何かのシチューと来る。ガイはウスターソースをかけた。
「前のサルタンの考えではここは白人の女の住める国ではないというんだね」しばらくして夫はいった。「だからむしろ――現地民の娘と世帯をもつことを奨励されたわけさ。もちろん事情はもう一変している。国内はすっかり穏やかになったし、昔よりはうまくこちらの風土に適応していくこともできるようになったと思うんだ」
「でもねえ、あなた、あの二人の子供ね、大きいほうがやっと七つか八つ、もうひとりは立つくらいでしたわ」
「奥地の駐屯所はとてもさびしいからねえ。なにしろ、丸半年ひとりの白人にも遇《あ》わないことが珍しくないんだから。まだほんの若造でこんな土地へやって来るんだからなあ」例の魅力のある微笑を浮べると、その丸い、まずい顔が、すっかり変ってしまう。「まあ、言訳は立つというものさ」
その微笑にはドリスはいつも勝てなかった。それが夫の奥の手だったのである。ドリスの目は、ふたたび和やかにやさしくなった。
「それは確かにそうね」ドリスは小さなテーブル越しに手をのばすと夫の手の上に重ねた。「あなたを若いうちにつかまえて、あたしほんとに運がよかったこと。正直な話、あなたもそんな生活をしていたなんて聞かされたら、あたしもうすっかり取り乱しちゃうでしょうね」
かれは妻の手をとって握りしめた。
「ここへ来て、幸福?」
「ええ、とっても」
リンネルの上衣を着たドリスは、たいそう涼しげで清新だった。暑さも苦にはならなかった。茶色の目はきれいだが、若さの魅力以上のものがあったわけではない。しかし、素直な表情は嫌味がなかったし、黒い、短い髪の毛は、さっぱりとしていて艶やかだった。いかにも生き生きとした娘という感じを与えたし、ドリスを使っていた国会議員から非常に有能な秘書だと思われていたのも、さこそとうなずかれたのである。
「あたしこの土地がすぐ好きになりましたわ」ドリスはいった。「ひとりでいる時間が長くても、ついぞさびしいなどと思ったことはありませんもの」
もちろんドリスもマレー群島を描いた小説を読んでいたから、大きな気味のわるい河と静まり返った、底知れぬジャングルとの陰鬱な土地という印象を作りあげてはいた。小さな近海航路の船が河口に錨《いかり》をおろし、十二、三人のダイヤク人〔ボルネオの一種族〕の漕ぐ大型ボートが、この駐屯所まで二人を運ぶべく待ち受けているのを見たとき、その風景の、不気味というよりもむしろ親しみの持てる美しさに、ドリスは息をのんだくらいである。そこには、梢《こずえ》でさえずっている小鳥の楽しげな歌声のような、思いもよらなかった陽気さがあった。河の両岸には紅樹林《マングローヴ》やニッパ椰子の木立ちがあり、そのうしろには緑濃く茂った森があった。遠方には、目路《めじ》のかぎり、青い山脈が、幾重にも、つらなっている。閉じこめられているとか陰気だとかいう感じはなく、むしろ喜びに溢《あふ》れた空想が浮き浮きとさまようことのできる広々とした開放的な空間という感じである。木々の緑が太陽の光のなかで輝き、空は晴れやかに楽しげだ。恵み深いこの国土が微笑を浮かべて歓迎の手をさしのべているような気持ちだった。
舟は、片側の岸にぴたりと沿って、漕ぎ進み、はるか頭上を二羽の鳩が飛んでいた。生きた宝石かと見まがうばかりの、一閃の色彩が、舟の行く手を横切って走る。かわせみである。二匹の猿が、しっぽをぶらぶらさせながら、一本の枝に並んで腰かけている。川幅の広い、濁った河を隔てた向う岸の、ジャングルのそのまた先きの、水平線の上に、小さな白い雲が列をなしているが、ほかには雲はなく、それらがまるで、幕のあがる前に、舞台の袖で、緊張して心たのしく出を待っている、白い衣裳のバレエの踊り子の列のようだった。ドリスのこころは歓喜で一杯だった。そして今も、それらのことを想い出しながら、感謝と信頼にみちた愛情のまなざしを夫に向けるのであった。
それにまた、夫婦の居間を整えるときの何と面白かったこと! とても大きな部屋だった。床の上には、ドリスが着いたときは、破れた泥まみれのマットが敷いてあった。ペンキの塗ってない板の壁には(ひどく高いところに)王立美術院派の絵のグラビヤ写真や、ダイヤク人の楯や剣がかけてあった。卓上には、くすんだ色の、ダイヤク族の布がかけてあり、ブルネイ産|真鍮《しんちゅう》の器の、よく磨かせねば使えないような品物だの、巻たばこの空鑵だのマレーの銀貨だのが散らばっていた。廉価版の小説や革表紙のすっかりいたんだ何冊かの古い旅行記の並んでいる粗末な木の本棚があり、もうひとつの棚には空壜ばかりが並んでいた。それは、だらしがないが手ごわい独身者《ひとりもの》の部屋であった。ドリスはそれを面白がりはしたが、同時に堪らないほど可哀そうな気もした。それこそ、味気のない、わびしいガイの生活の姿であったのだ。ドリスは夫の首にすがりついて接吻した。
「かわいそうな坊や」そういってドリスは笑った。
ドリスは手さきが器用だったので、まもなくこの部屋をどうにか住めるようにした。あれこれと並べ直したり、どうにも仕様のないものは棄ててしまった。結婚の贈物が役に立った。今では室内は親しみのもてる居心地のよいものとなった。ガラスの花瓶には美しい蘭が生けられ大きな鉢には花の咲いた灌木《かんぼく》がこんもりとさしてあった。これが自分の家だ(ドリスは生れてから今日まで狭苦しいアパートにしか住んだことがなかった)そして自分が夫のためにこんなに感じのよい住居にしたのだと思うと、いうにいえない誇らしい気持ちだったのである。
「お気に召して?」すっかり済むとドリスはそう尋ねてみた。
「まあね」夫は微笑した。
わざとこんなふうに控え目にいうところが、ドリスにはとても嬉しかったのである。ふたりがこうして互いに心から理解し合っているのは何という楽しいことであろう! 二人とも感情をあらわに示すのを恥しがる性質なので、よほど特別な場合でないと皮肉な冗談のほかいい合ったことはなかったのだった。
昼食が済むと夫は午睡をするために長椅子に横になった。ドリスは自分の部屋へ行こうとした。夫のそばを通ろうとしたとき、ぐいと引き寄せられ、身をかがめてキスされたので、ドリスはちょっとびっくりした。昼日中の半端な時刻に抱き合うなど、この夫婦の習慣にはないことだった。
「おなかがくちくなったのでセンチメンタルにおなりなのね、うちの坊やちゃん」ドリスは、からかうようにいった。
「さあ、早く出て行って、せめて二時間はその顔を見せないでおくれね」
「いびきをかいては駄目よ」
ドリスは出て行った。ふたりとも夜明けに起きるので、ものの五分と経たぬうちにぐっすり眠りこんでいた。
夫が浴室で水をはね返している音でドリスは目を覚ました。バンガローの壁は共鳴板みたいで、ひとりのしていることは必らずもうひとりの耳につくのである。ドリスは体がだるくて動きたくなかったが、ボーイがお茶を持ってくる音が聞こえたので、跳ね起きて自分の浴室へ駈け降りて行った。水は、冷たいというほどではなかったが、こころよい爽《さわ》やかさだった。居間へ戻ってみるとガイがラケット・プレスからラケットを取り出しているところだった、というのは夕方の短い涼気のなかでテニスをするからである。六時になると、もう夜であった。
テニス・コートはバンガローから二、三百ヤードのところにあるので、お茶が済むと、時間がなくなるのを気づかいながら、二人はぶらぶらとそのほうへ降りて行った。
「あら、ちょっと」ドリスがいった、「あそこに、けさ遇《あ》った娘がいるわ」
ガイは急いで振り返った。一瞬その女に視線をそそいだが、何もいわなかった。
「なんてきれいなサロンをつけてるんでしょう」ドリスはいった。「どこで手に入れるのかしら」
二人はその娘のそばを通りすぎた。ほっそりとした小柄な娘で、この民族特有の大きな、黒い、きらきら光る目と、ゆたかな黒髪をしていた。二人が通りすぎても身じろぎもせず、異様な目つきでじっとこちらを見つめていた。ドリスはそのとき、娘が初めに思ったほど若くないことに気づいた。顔立ちはやや肥り気味だし肌も黒いが、たいそうきれいである。小さな子供を抱いていた。それを見てドリスはちょっと微笑んだが、女の唇がそれに答えて綻《ほころ》ぶことはなかった。あくまで無感動な顔である。ガイのほうを見ずに、ドリスだけを見ている、そして夫はまるでその女の姿など見なかったみたいに歩いて行った。ドリスは夫のほうへ顔を向けた。
「あの赤ちゃん、可愛いじゃない?」
「気がつかなかったが」
夫のその顔色にドリスはぎょっとした。死人のように蒼ざめて、少なからずドリスの気になっているにきびが、いつもより余計に赤くなっているのだ。
「あのひとの手や足を御覧になって? 公爵夫人かもしれないわ」
「現地民はみんな手足がきれいなんだよ」夫は答えたが、いつものような朗らかな調子ではなく、無理に口をきいている、とでもいったふうだった。
だがドリスはごまかされなかった。
「誰なの、御存知?」
「村の娘のひとりだよ」
そのときはもうコートに着いていた。ガイはネットのところまで行ってよく張ってあるのを見定めると、振り返った。例の女はまださっきすれちがったところに立っていた。目と目が会った。
「あたしがサーヴァ?」ドリスがいった。
「うん、ボールがそちらにあるから」
ガイはひどく調子が悪かった。いつもは十五《フィフティーン》のハンディをつけても負かすのに、今日はドリスのほうが楽に勝ってしまった。それに、試合のあいだ口をきかない。平生は口やかましくて、自分がボールを落したといってはその間抜けさ加減を口惜しがったり、妻の届かないところヘボールをうちこんだといってはからかったり、始終何か大きな声を立てているのである。
「今日は駄目ね、あなた」ドリスが叫んだ。
「とんでもない」相手は答えた。
妻を負かそうと、ボールを打ち飛ばしはじめたが、幾度やってもネットに引っかかってしまう。こんなに硬ばった顔をしているのを、ドリスはついぞ見たことがなかった。調子がよくないので、少々機嫌が悪くなるなんて、そんなことがあるかしら? 日が落ちたので、二人はテニスをやめた。さっき前を通ってきた例の女は、帰りにもそのまま同じ場所に立って、またもや、無表情な顔で、二人が通りすぎるのをじっと見守っていた。
ヴェランダの日覆いはもう揚げてあって、二人のための二つの長椅子のあいだのテーブルには酒壜やソーダ水が置いてあった。これが夫婦の一日のうちで酒を飲む最初の時刻で、ガイはジン・スリング〔ジンに砂糖および種々の香料を加えて氷を割った清涼飲料〕を二杯作った。二人の前には川筋がひろびろとひろがり、対岸のジャングルは刻々と近づいてくる夜の神秘に包まれていた。現地民が一人、ボートの舳《へさき》に立って、二本の櫂《かい》をあやつりながら、上流へ向かって漕いでいた。
「ぼく、なってなかったねえ」沈黙を破って、ガイがいった。「少々暑さにあてられたようだ」
「困りましたわね。熱病になるんじゃないでしょうか?」
「なあに、大丈夫さ。明日は元気になるよ」
くらやみが二人のうえに迫っていた。蛙がうるさく鳴き、ときおり夜鳥が短い調べの歌を歌っているのが聞こえた。螢がヴェランダをかすめて飛びかい、まわりの木立ちを小さな蝋燭《ろうそく》をともしたクリスマス・ツリーみたいに見せるのだった。螢はやわらかな光りを放った。ドリスは低い溜息を耳にしたような気がした。なんとなく胸騒ぎがする。ガイはいつもはあんなに陽気だったのに。
「どうしたの、坊やさん?」ドリスはやさしくいった。「お母さんにうち明けるのですよ」
「何でもないんだ。もう一杯やってもいい頃だな」夫は快活に答えた。
翌日かれはこれまでどおり朗らかだった。郵便が着いた。近海航路の汽船は月に二回、河口に立ち寄るが一回は炭田地方へ行く途中、あとの一回はその帰り道である。往路には郵便を運んでくるので、ガイはボートを出してそれを取りにやる。変化に乏しい夫婦の生活にとって郵便が着くのは大きな刺戟である。手紙だの、イギリスの新聞やシンガポールからの新聞だの、雑誌、書籍など、来たもの全部を初めの一日か二日でざっと拾い読みして、そのあと何週間もかけて丁寧に読むのである。絵入り新聞などは二人で奪い合いをする。ドリスが郵便にあまり夢中になっていなかったら、夫の様子が変っていることに気づいたかもしれない。それがどういう変化であるかはドリスにははっきりいえなかったであろうし、ましてその理由をいうことはむずかしかったであろう。夫の目には何か警戒の色があり、口もとは心配のため少したるんでいた。
それから、多分一週間ほどして、ある朝、日覆いをおろした居間でマレー語の文法を勉強していると(ドリスはマレー語を熱心に習っていたからであるが)、邸内で何か騒がしい音がした。ボーイが、何か怒ったような声でものをいうと、べつな男、おそらく水汲みの男の声らしいのが聞こえ、次に女の、甲高い、罵《ののし》るような声が聞こえた。やがて取っ組み合いが始まった。ドリスは窓のところまで歩いて行って日覆い戸を開いた。水汲み男がひとりの女の腕をつかんで引っぱっており、ボーイはうしろから両手でその女を押していた。ドリスはすぐそれがこのあいだの朝、邸内をうろついていて午後にはテニス・コートのところにいた、あの女だと知った。女は胸もとに赤ん坊を抱いている。三人とも大声で怒鳴り立てていた。
「やめて」ドリスは叫んだ。「何をしてるの?」
その声に水汲み男が急に手を放したので、まだ背後から押されていた女は、地面に倒れた。突然、静かになり、ボーイは脹《ふく》れっつらで空《くう》を見つめていた。水汲み男は一瞬ためらっていたが、こそこそと逃げて行った。女はのろのろと起き上り、赤ん坊を抱き直して、そのまま無感動な顔つきで、ドリスをじっと見つめた。ボーイが女に何かいったが、それはドリスにわかる言葉だったとしても聞こえなかったであろう。女が顔色を少しも変えないところを見るとさっきの言葉を受けつけなかったらしいが、それでもゆっくりとその場を離れた。ボーイが門のところまで送って行った。引返してくるのを見てドリスは声をかけたが、ボーイは聞こえない振りをした。だんだん腹が立ってきて、ドリスは烈しい調子で呼んだ。
「すぐにお出で」ドリスは叫んだ。
突然、ドリスの怒りに満ちた視線を避けながら、ボーイはバンガローのほうへ進んできた。中へ入って戸口のところに立った。むっつりした調子でドリスの顔を見た。
「あの女に何をしていたの?」ドリスはいきなり尋ねてみた。
「旦那《トワン》さんが、あの女、ここへ来る、よろしくない、いいます」
「女のひとをあんなふうに扱ってはいけないのよ。わたしが許さないから。今見たとおりに旦那さまにお話しするからね」
ボーイは返事をしなかった。そっぽを向いていたが、長い睫毛《まつげ》のはしからじっとこちらを見ていることは感じられた。ボーイを退《さが》らせた。
「もういいわ」
一言もいわずに背を向けるとボーイは勝手元のほうへ戻って行った。ドリスはすっかり腹が立ってしまって、もう一度マレー語の勉強にかかることができなくなっていた。しばらくすると例のボーイが昼食の卓布を敷きに入って来た。突然、ボーイは扉口のほうへ行った。
「どうしたの?」ドリスが尋ねた。
「旦那さん、いま来る」
ガイの帽子を受けとるためにボーイは出て行った。耳が聰《さと》いので足音をドリスが聞かないさきに聞きつけていたのである。ガイはいつものようにすぐには階段を上って来なかった。足をとめたので、とっさにドリスは、これはボーイが今朝の出来事を告げるために迎えに行ったのだ、と見当をつけた。ドリスは肩をすくめた。ボーイは明らかにあの話を自分のほうが先に話したかったのだ。だが夫が入ってきたときドリスはぎょっとした。夫の顔は真蒼だった。
「あなた、いったいどうなすったの?」
ガイはたちまち真赤になった。
「なんでもないよ。なぜ?」
あんまり意外だったので、すぐいうつもりでいたことを一言もいわずに夫を部屋の中へ通してしまった。入浴と着替えにいつもよりも暇どったが、部屋へ戻ってくると昼食が始まった。
「あなた」一緒に腰をおろしながら、ドリスはいった、「このあいだ遇った女のひとね、けさまたここへ来たのよ」
「そうだってね」夫は答えた。
「ボーイったら、とても手荒らなことをするの。仕様がないから、あたし、止めたのだけれど。あなたからきつくいってやってくださいね」
マレー生れのこのボーイは、ドリスのいっていることはすっかりわかるのだが、聞かないような振りをしていた。ドリスにトーストを渡した。
「あの女にはここへ来るなといってある。もしまた来たら追い出してしまえといいつけておいたよ」
「あんなに乱暴にしなければいけなかったのかしら?」
「どうしても出て行こうとしなかったんだよ。まああの程度の乱暴は仕方なかったんじゃないかと思うがねえ」
「女があんな扱いを受けるところを見るの、ほんとに嫌だわ。赤ん坊を抱いてもいたことだし」
「赤ん坊ともいえんさ。三つになるんだから」
「どうして知ってらっしゃるの?」
「あの女のことなら何でも知っているさ。ここへやってきて皆を悩ます権利なんか少しもないんだ」
「どうしようというんでしょう?」
「自分のしたいとおりのことがしたいのさ。騒ぎを起したいのだよ」
しばらくの間ドリスは何もいわなかった。夫の言葉の調子にびっくりしたのである。きびきびした話しぶりである。お前とは何の関係もないことだといわぬばかりである。これは少し不親切ではなかろうか? 夫は神経質になり怒りっぽくなっている。
「今日の午後はテニスはやれないかもしれないよ」夫はいった。「なんだか嵐になりそうだから」
ドリスが午睡から覚めてみると雨が降っていて、外へは出られなかった。お茶の間のガイは無口で放心したようであった。ドリスは縫いものをとり出して仕事にかかった。ガイはまだ初めから終りまで目を通していないイギリスの新聞を読みはじめた。しかし落ちつかなかった。大きな部屋の中を行ったり来たりして、それからヴェランダへ出て行った。降りしきる雨を眺めていた。何を考えているのだろう? ドリスは何となく不安だった。
晩飯のあとでやっと夫は話し出した。簡単な食事のあいだ、いつものように陽気に振舞おうとつとめていたが、その努力は見えすいていた。雨はやんで、星月夜だった。二人はヴェランダに出ていた。虫が来ないように居間のランプは消してあった。二人の足もとに、力強い、怖るべきのろさで、黙々と、運命のように神秘的に、河が流れていた。宿命に特有なあの怖ろしい熟慮と無情とをその河は持っていた。
「ドリス、話したいことがあるんだが」夫は不意に口をきった。
声がいつもとすっかり違っていた。しっかりした声で話しつづけるのが困難らしいと思うのは勝手な考えだろうか? 夫が悩んでいると思うと胸が少し痛むような気がして、そっと夫の手のなかへ自分の手をあずけた。夫はそれを押しのけた。
「やや長い話になるんだがね。あまりいい話でもなし、それにどうも話しにくいんだ。途中でとめたり、何かいったりしないでおくれね、話し終るまでは」
暗いので夫の顔は見えなかったが、さぞやつれているだろうと思った。ドリスは返事をしなかった。夫はたいそう低い声で話したのでほとんど夜のしずけさを破るようなことはなかった。
「この土地へ出て来たとき、ぼくはまだやっと十八だった。学校を出てすぐだった。クアラ・ソロールに三カ月いて、それからセンブルー河の上流の、とある駐屯地へやられたのだ。むろんそこには司政官とその細君がいた。ぼくは官舎に寝とまりしていたが、食事は司政官夫婦と共にしたし、宵のうちはずっと一緒だった。とても気楽だった。ところがこの駐屯地にいた男が病気になって、帰国することになった。戦争で人手が不足していたからぼくがここをまかされることになったのだ。もちろんぼくはまだ子供だったが、言葉は現地民同様に話せるし、みんな、おやじのことを忘れずにいてくれた。ぼくは一本立ちになれたので大得意だった」
パイプの灰を落し、たばこをつめかえる間、夫は黙っていた。マッチを擦《す》るとき、ドリスは、夫のほうを見ないでも、その手が震えているのがわかった。
「ぼくはそれまで一人きりで暮したことは一度もなかった。むろん家には両親もいたし、大概は助手が一人いた。それから学校では当然の話だがいつでも仲間と一緒だった。こちらに来る途中、船のなかにも、いつでも周りに人がいたし、K・S・〔クアラ・ソロールのこと〕でもそうだったし、最初の任地でも同じだった。そうしたところの連中も大抵みんなぼくの家族の者と同様だった。ぼくはいつでもひとなかで暮らしていたような気がする。ぼくは人間が好きなんだ。賑やかなおしゃべりなんだ。騒ぐのが好きなんだ。ぼくという人間はどんなことにでも笑えるのだが、それには誰か一緒に笑ってくれる人間がいなくてはね。ところが、ここはそうじゃなかった。もちろん昼間はよかったんだ。仕事があったし、ダイヤク人たちと話もできた。昔は首狩り族だったし、時にはちょっとしたいざこざもなかったわけではないが、みんな実におとなしい奴ばかりだった。奴らとはぼくはとても仲がよかったんだよ。むろん冗談口の相手としちゃあ白人がほしくはあったが、現地民だっていないよりはましだよ、それに、連中がぼくをまったくの異人扱いしなかったからぼくとしてはそれだけ気安くもあったわけさ。仕事も好きだったなあ。日が暮れてからヴェランダに出て、ひとりぼっちで苦味ジンをやってるのは、これはちょっとさびしかったが、でも本は読めたね。ボーイたちもそばにいた。ぼくのボーイはアブヅルという名だった。ぼくの父親を知っていた。読書にも倦きると大きな声でその男を呼んで暫らく無駄話をすることもできた」
「困ったのは夜だった。晩飯がすむとボーイたちは戸を全部閉めて村へ寝に行ってしまう。ぼくはもうまったくひとりぼっちだ。バンガローのなかで聞こえる音といえば、ときどき家守《やもり》の鳴く声だけ。そいつが、しんと静まり返ったところから、いきなり、出てくるので、ぼくはよく跳び上ったものだよ。村のほうからは銅鑼《どら》や爆竹の音が聞こえてくる。面白そうにやっているし、それもつい目と鼻のさきだが、ぼくはこのままここにいなければならない。本を読むのにも倦きてしまった。刑務所に入れられたってあんなに囚人みたいな気持ちにはなれなかったろうよ。毎晩、毎晩同じなんだ。ウィスキーを三杯も四杯も飲んでみるけれども、ひとりで飲むなんて大して面白くもおかしくもないから、ちっとも気分が晴れない。かえって翌日になって気がめいるばかりだ。晩飯のあとですぐにベッドに入ってみても、眠れるはずはない。ベッドに横になっていると、だんだん体がほてってきて、余計に目が冴えてくるし、どう自分の始末をつけていいかわからなくなる。まったく、あのころは夜が長かった。ねえ、わかってくれるかな、ぼくはもうすっかり元気がなくなって、自分が可哀そうになって、時には――いま考えるとおかしいが、なにしろ当時ぼくはやっと十九歳と六カ月だったんだからねえ――時にはよく泣いたものだよ」
「すると、ある晩のことだ、晩飯が終り、アブヅルは後かたづけもすませて帰りがけに、ちょっと咳ばらいをするんだ。一晩じゅうひとりで家に閉じこもっていてさびしくはないか、というのだ。『いや、なあに、平気だよ』とぼくはいった。自分がどんな大馬鹿だか、奴に知られたくなかったんだが、奴は何もかも知っていたらしい。何もいわずに突っ立ったままだが、何かぼくにいいたいことがあるくらいはわかった。『何だい?』ぼくは尋ねてみた。『すっかりいってしまえよ』すると奴がいうには、もし女の子を家に入れて一緒に暮らす気があるなら、ひとり来たがってるのを知っている、というんだ。とても気立てのいい娘だから、お薦《すす》めできる。なにも面倒なことはないし、このバンガローに誰かおればいろいろと便利もある。つくろいものなどもするだろうし……なにしろ、ぼくはもうすっかり参っていたのだ。その日は一日じゅう雨だったので運動もできなかった。これでは何時間と眠れそうもないと思った。金は幾らもかからないし、実家は貧乏だからちょっとした贈りものでもやっておけば文句ないだろう、とボーイはいうんだ。二百海峡ドル。『まあ会ってごらんなさい。気に入らなければ帰してしまえばいいですから』とボーイはいうんだ。どこにいるのだ、と聞くと、『ここにいる』との返事だ。『呼んで来ましょう』ボーイは扉口へ行った。娘は母親とそこの踏段のところで待っていたんだ。二人は入ってきて床の上に坐った。ぼくは二人に菓子をやった。娘は、もちろん、恥ずかしそうではあったが、結構おちついたもので、何か話しかけると、にっこり笑うのだ。とても若くて、まだほんの子供といっていいくらいだが、十五という話だった。とてもきれいで、いちばん上等の晴着を着こんでいた。話が始まった。娘は口数は少なかったが、こちらがからかうとよく笑った。もっとなじみになればいろいろと自分の身の上を話すようになるだろう、とアブヅルはいう。娘に、ぼくのそばへ行って坐れ、といいつける。娘は、くつくつ笑って嫌だというが、母親も行けというし、ぼくも椅子にかけられるように余地を作ってやった。娘は真赤になって笑っていたが、やってきて、それからぴったりとぼくに寄り添った。ボーイの奴も笑った。『どうです、もう旦那に惚れてしまったじゃありませんか』と、そういうんだ。『置いておやりになります?』と尋ねる。『ここにいたいかい?』とぼくは娘にいった。娘は、ぼくの肩の上で、顔を隠して、笑っていた。とても弱々しくて小さかった。『よかろう。置くことにしよう』とぼくはいった」
ガイは身を乗り出して、ウィスキー・ソーダを呷《あお》った。「もう口をきいてもよくって?」ドリスが尋ねた。
「ちょっと待って、まだお終いじゃないんだから。ぼくはその娘《こ》に惚れてはいなかったよ、初めのころでさえ。ぼくはただ、バンガローに誰かがいるのもいいというんで受け入れたにすぎない。そうでもしていなかったら、気が狂っていたろうと思う、でなきゃあ深酒をするようになっていただろうよ。もうどう仕様もないところまで来ていたんだ。ひとりきりで暮らすには若すぎたんだねえ。ぼくは、きみ以外の女を愛したことは絶対になかったんだよ」ガイは一瞬ためらった。「女は、去年ぼくが、賜暇で帰国するまで、ここに住んでいた。うろついているところをきみに見られたのが、その女なんだ」
「ええ、そうだろうと思いましたわ。赤ん坊を抱いてましたわね。あなたの子供?」
「うん。女の子だ」
「あの子ひとりだけですの?」
「このあいだ村で男の子を二人見かけただろう。そんな話をしていたっけね」
「じゃ三人、子供がいますのね?」
「うん」
「まったく相当な子持ちなのね、あなたも」
その言葉で夫が急に体を動かしたようだったが、べつに何もいわなかった。
「あなたが不意に家内をつれてここへ現われるまで、結婚なすったってこと、知らなかったのかしら?」ドリスは尋ねた。
「ぼくが結婚するつもりだってことは知っていたさ」
「いつ?」
「ここを出発する前に、あれを村へ帰したんだ。もうこれでお別れだと、いって聞かせた。約束しただけのものはやった。一時の関係にすぎないことは、あれも最初から心得ていたのだ。ぼくはそんな関係が嫌になった。これから白人の女と結婚するつもりだということも話したんだ」
「だってそのときはまだ、あたしと逢ったこともないんでしょ」
「そうさ、それはわかってるよ、しかしぼくは帰国したら結婚しようと決心していたんだよ」いつもの調子の含み笑いをした。「きみに逢ったとき、そのことについてぼくがかなり落胆しかけていたことも今ならいったって構わない。ぼくはきみに一目惚れして、きみとでなければ誰とも結婚しないと決心しちまったんだ」
「なぜ話してくださらなかったの? あたしに自分で判断するチャンスを与えることこそ公正な態度だとはお考えにならない? 自分の夫が、ほかの女と十年も一緒に暮らして子供も三人あったことを知る、それが若い女にとってかなりの打撃だということくらいはあなたの頭に浮かんでもよかったでしょうに」
「きみにわかってもらえるとは思えなかったのでねえ。外地の環境というのは特別なんだから。これはもう毎度のことなんだ。十人の男のうち、九人までがやることなんだよ。きみが知ったらおそらくショックを受けると思ったし、しかも君というひとを失いたくなかったのだ。なにしろ、きみを無我夢中で愛していたんだからねえ。今だってそうだ。何もきみに知らせるにも当らなかったことだし、この土地へはもう二度と帰ってくることもあるまいと思っていた。賜暇帰国のあと同じ任地へ戻るのは、ごく稀《ま》れにしかないことなんだ。ぼくらがここに着いたとき、ぼくはあの女に、金はやるからどこかよその村へ行ってくれと頼んだ。初めは承知したんだがあとで考えを変えたのだ」
「なぜ今になってあたしにお話しになったの?」
「女がとんでもない騒ぎを起してきたからだよ。どうしてだかわからないが、きみが何も知らないことをあの女は感づいたんだ。感づくが早いか、たちまちぼくをゆすりにかかった。ずいぶん沢山の金を絞りとられる羽目になったよ。あいつを屋敷の中へ入れてはいけないといいつけた。けさ、女は、きみの注意をひくためだけにあんな騒動をおっぱじめたんだ。ぼくを脅かしたかったんだね。こんなことがつづいてはやりきれたものじゃない。きれいさっぱりと打ち明けるよりほか仕方がないと思ったんだ」
語り終えてから、長い沈黙がつづいた。とうとうかれは妻の手の上に自分の手を重ねた。
「ねえ、わかってくれるだろう、ドリス? 自分の悪かったことはよく心得ているんだ」
妻は手を動かさなかった。その手が自分の手の下で冷たいことを夫は感じた。
「あのひと、嫉妬してるの?」
「実はここで暮らしているころは何だかだと得なことはあったから、そういうものがなくなってしまった現在を余り喜んでいるとは思えないね。でもあの女は、ぼくがあれを愛していなかったように、ちっともぼくを愛してはいなかったんだ。現地民の女はけっして心から白人の男を好きにならないのだからねえ」
「で、子供たちは?」
「ああ、子供のことなら心配ないよ。困らないようにしてやってある。男の子たちが大きくなったらシンガポールの学校へやるつもりだ」
「子供のことなんかどうだっていいと思ってらっしゃるの?」
夫はためらった。
「きみには嘘も隠しもしたくない。子供たちがどうかなったら、ぼくだって悲しかろうよ。上の児が生れると知ったとき、子供の母親よりもずっと可愛いだろうという気がした。色が白かったら、きっと可愛がっていたろうよ。もちろん、赤ん坊のころは何だかおかしいような、いじらしいような気もしたが、自分の子供だという特別な気持ちはなかった。そうなんだ、それに違いないんだ、つまりね、ぼくにはあの子供たちが自分の家族だという気がしないんだ。自分で自分を責めたこともあったよ、そういうことはかなり不自然なことだと思ってね、しかしまったく正直なところ、自分の子供だろうが他人の子供だろうが大して変りなかったんだ。むろん、子供を持ったことのない人たちは子供のことでいろいろと愚にもつかないことをしゃべってるけどね」
これでもうドリスは聞くだけのことはすっかり聞いてしまったわけである。何かいうだろうと思って夫は待っていたが、何もいわなかった。身動きひとつしなかった。
「何かもっと聞きたいことある、ドリス?」とうとう夫のほうがいった。
「いいえ、なんだか頭が痛くって。休んだほうがいいと思いますわ」その声は、いつものとおり落ち着いていた。「何ていったらいいのか全然わからないんですの。もちろん、思いもよらぬ話ばかりでしたわ。少し考える時間をくださらなければ」
「ぼくにたいして非常に腹が立つ?」
「いいえ。ちっとも。ただ――ただ、しばらくひとりにしておいていただきたいの。いえ、そのまま。あたし、もう休みますから」
ドリスは長椅子から立ち上って夫の肩に手をかけた。
「今夜はたいそう暑いこと。あなたは着更《きが》え部屋でお休みになってね。お休みなさい」
ドリスは去って行った。寝室のドアに錠をおろす音が聞こえた。
翌朝ドリスの顔色が悪いので、妻が眠らなかったことが夫にもよくわかった。態度には少しも感情を害しているようなところはなく、口のききかたも普段と違わなかったが、落着きがなかった。まるで客とでも会話を交わしているみたいに、あれこれと話すのである。これまでついぞ夫婦喧嘩というものをしたことはなかったが、しかし二人のあいだに争いが起って、そのあとで仲直りをしてもまだ妻の気持ちが癒されなかったとしたら、きっとこんな調子でものをいうのだろうとガイには思われた。妻の眼差《まなざ》しがかれを不安にした。その目のなかに、ある異様な恐怖が読みとられるような気がした。晩飯がすむとすぐドリスはいった――
「あたし、今夜はとても気分がよくありませんの。すぐ休もうかと思うのですけれど」
「おお、それは、すまないね」夫は大きな声でいった。
「何でもないんですの。一日か二日で元気になりますわ」
「あとでお休みをいいに行くよ」
「いいえ、それはおよしになって。すぐに眠ってしまうつもりですから」
「そうかい、じゃあ、行く前にキスしておくれ」
妻が顔を赤らめるのがガイの目に映った。一瞬ためらう様子だった。が、目をそらせたまま、夫のほうへよりかかった。妻を両手で抱くと、夫は唇を求めたが、妻が顔をそむけたのでその頬に接吻した。すぐそのまま出て行くと、またドアの錠でそっと鍵をまわす音が聞こえてきた。夫はぐったりして椅子に身を投げ出した。本を読もうとしたが、妻の部屋の中のどんな小さな音にも聴き耳をたてずにはいられなかった。床《とこ》につくといったのに、何の物音も聞こえなかった。その、部屋の中の沈黙が、いうにいえないほどかれの神経を悩ました。手でランプを蔽ってみると、寝室のドアの下がほのかに明るかった。まだ明かりを消していないのである。いったい何をしているんだろう? かれは本を下に置いた。妻が腹を立てて自分に食ってかかっても、または大声を立てて泣き喚《わめ》いても、べつに意外とは思わなかったであろう。その辺までは何とかあしらえたのである。ところが、妻の冷静なのには度胆を抜かれてしまった。それに、あの目にあれほどはっきりと浮かんでいたあの恐怖は、あれは何であろう? かれはもう一度、前の晩妻に話して聞かせたことをすっかり頭のなかでくりかえしてみた。あんなふうにでも話すよりほか、どんな話しかたがあろうか。要するに、肝心なのは、自分は誰もがやるのと同じことをやったまでのことだ、しかもそれは妻に遇う前にすっかりすんでしまっていたことだ、という点である。もちろん、こんな結果になってみればおれは馬鹿だった、が、誰だってひどい目に会ってみてこそ賢くもなろうというものだ。心臓に手を当ててみる。ここがこんなに苦しいとは、変だなあ。
「傷心とか何とかいうのは、こういうときのことなんだな」かれはひとりごとをいった。「こんな状態がいつまで続くのかな?」
扉をノックして、ぜひとも話したいことがあるからといったものかな? あけすけにしゃべってしまったほうがいい。|なんとしても《ヽヽヽヽヽヽ》わかってもらわなくては困るのだ。ところが、この沈黙がどうにもおっかなくてやりきれない。こそとの物音もしない! やはり一人にしておいてやるほうがいいのかもしれない。なにしろショックだったのだから。あれがほしいというだけの時間を与えてやらなくてはいけない。けっきょく、あれも、こちらがどんなに献身的に愛しているか、知ってはいるのだ。辛抱すること、つまりこれだけである。あれのほうでも一人で闘っているのだろう。時間を与えてやらねばならない。辛抱しなければいけない。
翌朝、前の晩よりはよく眠れた、と夫は尋ねてみた。
「ええ、ずっとよく」妻は答えた。
「ぼくによっぽどひどく腹が立つ?」哀れっぽい口調で尋ねる。
率直な、開けっぴろげな目つきで妻は夫の顔を眺めた。
「ちっとも」
「ああ、そうか、そいつあありがたい。ぼくはひどい男、けものみたいな人間だった。きみからみれば憎むべきことだったのは、わかっているよ。でもね、赦しておくれよ、ね。まったくみじめな気持ちなんだからね、ぼくは」
「赦すも赦さないも。あなたを責める気持ちさえありませんもの」
夫は悲しげな微笑を見せたが、その目には鞭《むち》うたれた犬みたいな表情が浮かんでいた。
「ここ二晩ひとりで寝たが、あんまりいいものじゃないね」
妻は目をそらせた。その顔が、またちょっと蒼くなった。
「あたし、部屋のベッド、かたづけさせましたのよ。あんまり場所ふさぎでしたから。代りに小さなキャンプ・ベッドを置かせましたの」
「おい、何の話をしてるんだい、きみは?」
こんどはまともに夫の顔を眺めた。
「あたし、もうあなたの妻として一緒に暮らさないつもりですの」
「永久に?」
妻は首を横に振った。途方に暮れた様子でその顔を眺めていた。聞き違いではないか、まさかそんなことがと信じられぬ気がして、心臓が苦しく鼓動しはじめた。
「だけど、それはひどく不公平だよ、ドリス」
「あんな事情があったのに、あたしをこんなところまで連れてきたことこそ、すこし不公平だとはお思いにならない?」
「でもたった今きみはぼくを責めないといったばかりじゃないか」
「それはそのとおりですわ。でも、もうひとつのことはべつよ。あたしには、それはできませんわ」
「しかしそんなふうでどうしてこれから一緒にやっていけるだろう?」
ドリスは床を見つめた。深いもの思いに沈んでいるらしかった。
「ゆうべ、あたしの唇にキスしようとなすったとき、あたし――もう少しで嘔きそうでしたわ」
「ドリス」
ふいに夫のほうへ向いた妻の目には、冷たい敵意がこもっていた。
「あたしの寝ていたあのベッド、あれは、あの女のひとが子供をこしらえたベッドだったのね」見れば夫の顔が真赤になった。「ああ、たまらないわ。よくもそんなことが!」ドリスは両手を振りしぼったが、そのねじれた、そり反った指が、まるで小さな蛇が、のたうち廻るのに似ていた。しかし非常な努力をして自分を抑えていたのである。「あたし、すっかり決心がついたの。あなたにつれないことはしたくないけれど、あなたから要求してほしくないことがあるわ。そのこと、考えに考えてみたのよ。お話を聞いてから、昼も夜も、くたくたになるまで、そのことばっかり考えていたのよ。最初に考えたのは、出て行ってしまうことだったわ。今すぐにね。二、三日すると汽船がここへ来るんですから」
「ぼくがきみを愛してるってことが、きみには何の意味もないのかね?」
「あら、愛してくだすってるのはよくわかってますわ。あたし、そういうことはしないつもりよ。あたしたち二人ともにチャンスがほしいの。あたしだって、愛してきたのですもの、あなた」声が潤《うる》んできたが、泣きはしなかった。「あたし、理性を失いたくないわ。ほんとうに、つれなくしたくはないのよ。あなた、あたしに時間をくださる?」
「きみのいうことがぼくにはまるでわからないんだが」
「ただ、あたしをほっておいてほしいの。あたし、自分の気持ちにおびやかされているのよ」
では、やっぱりそうだったのだ。ドリスは恐れているのだ。
「どういう気持ちに?」
「どうかそれを聞かないで。あなたを傷つけるようなこと、いいたくないんですもの。多分そんな気持ちからは抜け出せると思うの。ほんとうに、抜け出したくって。やってみるわ、きっと。やってみますわ。六カ月、お暇をちょうだい。あなたのためなら何だってしますわ、でもたったひとつのことだけはべつなの」ドリスは、ちょっと訴えるような身振りをした。「あたしたちが結構仕合せに暮らせないというはずはありませんわ。もしほんとうに愛してくださるのなら、あなただって――あなただって辛抱してね」
ガイは深い溜息をついた。
「いいとも」かれはいった。「むろんぼくは、きみがしたくないことを強いてしてほしくないよ。きみのいうとおりにしよう」
まるで、急に老いこんで、動くのが大儀にでもなったみたいに、かれはしばらくぐったりとしていた。それから起ち上った。
「役所へ行ってくるよ」
帽子をとって、出て行った。
ひと月経った。女は男よりも上手に自分の感情を隠すものである、だから誰か夫婦を訪ねてきてもドリスが何かで苦んでいるとは察しがつかなかったであろう。ところが、ガイのほうは、心痛ぶりが誰の目にも明らかであった。まるい、人のよさそうな顔がやつれて、目もとには飢えたような、悩ましげな色が浮かんできた。じっとドリスを見守っていた。ドリスは陽気だったし以前と変らず夫をからかいもした。テニスも一緒にした。あれこれの話題についておしゃべりもした。だが、ドリスが、自分の感情を隠してある役を演じているにすぎないことは明らかであった、そしてとうとう、夫は自制しきれなくなって、例のマレー女との関係についてもう一度話そうとした。
「あら、あなた、あの話をまたむしかえしても何にもならなくってよ」妻は、さっぱりとした調子で答えた。「あたしたち、いいたいことはみんないいつくしましたし、あたしはちっともあなたを責めてはいないのですから」
「じゃあ、なぜぼくを罰するんだ?」
「まあ罰しようなどとは思ってないわ。何もあたしのせいで……」ドリスは肩をすくめた。「人間の心って、ずいぶん妙なものね」
「ぼくにはわからん」
「わかろうとなさらないで」
このことばは、きびしかったかもしれない、しかしドリスはそれを楽しげな、やさしい微笑でもってやわらげたのである。毎晩、寝る前に、ドリスは夫の体の上にかがみこんで、軽くその頼にキスをする。唇がちょっと触るというだけである。蛾が飛びすぎながら、さっと頬をかすめる、といったような工合であった。
二た月が過ぎ、三カ月過ぎ、そしてたちまち、いつ果つべしとも思えなかった六カ月が、終ってしまった。妻は約束を覚えているだろうかと、ガイは自分自身に問うてみた。今や妻の一言一句に、その顔のあらゆる表情、手の一挙一動に、せつないまでの注意を向けた。妻は依然として心のうちを覗《のぞ》かせなかった。六カ月の余裕を与えてほしいと妻はいった。よろしい、おれは与えてやったではないか。
近海航路の汽船は河口を過ぎ、夫婦への郵便物を置いて、先きへ進んで行った。帰り船に託すべき手紙を、ガイはせっせと書き溜めた。二、三日経った。その日は火曜日で、プラーウは木曜日の明け方に出発して、汽船を待つことになっていた。食事のときだけはドリスも努めて話をするのが、ちかごろは夫婦は余り話をしていなかった。そして晩飯が済むと、二人は例によってめいめいの本をとり上げて読みはじめた。ところが、ボーイが後かたづけを終って寝に行ってしまうと、ドリスは本をおろした。
「あなた、ちょっとお話したいことがあるんですけれど」つぶやくようにいった。
ガイの心臓が急にどきんと躍《おど》って、さっと顔色の変るのが自分でもよくわかった。
「あら、あなた、そんな顔をなすっては嫌よ、そんなに怖ろしいことではないのですもの」ドリスは笑った。
しかし妻の声が少し震えているとガイは思った。
「うん、それで?」
「あなたにしていただきたいことがあるのだけど」
「おお、きみのためなら何だってやるよ」
かれは手をさしのべて妻の手をとろうとしたが、妻は手を引っこめた。
「あたしを故国《くに》へ帰らせていただきたいの」
「きみを?」かれはあっけにとられて叫んだ。「いつ? なぜまた?」
「あたし、できるだけは堪えてきました。もうどうにもならなくなりました」
「どのくらい行ってくるつもり? 行きっきり?」
「わかりませんわ。そうだろうと思うけど」それから、やっと思いきって、「ええ、行きっきりに」
「おお、何てこった!」
その声が普通でなかったので、これは泣くのだわとドリスは思った。
「ねえ、あなた、あたしを怒らないでね。ほんとにこれは、あたしのせいではないのだもの。どう仕様もないの」
「六カ月待ってほしいときみはいった。ぼくはきみの条件を呑んだ。ぼくがうるさくしたとは、きみにはいえないはずだ」
「ええ、そんなはずはないわ」
「ぼくがどんなに苦しい思いをしてるか、きみに知らせないようにやってきたつもりだよ」
「わかってるわ。とても感謝してるわ。ほんとうに親切にしてくだすったのだもの。でも、ねえ、あなた、もう一度だけいうけど、あなたのなすったことで、何ひとつあなたを責めてはいないのよ。つまりは、あなたはまだ若かったのだし。人並みのことをなすっただけの話ですものねえ。この土地のさびしさは、あたしにもよくわかるわ。ねえ、あなた、あたし心からあなたにすまないと思ってるのよ。初めっからあたしには何もかもわかっていたの。だからこそ、六カ月の暇をお願いしたわけなのよ。常識からすると、あたしはものごとを針小棒大に考えているでしょう。あたしはわからずやです。あなたにたいして不公平です。だけど、ねえ、常識など、このことは何の関係もないのだわ。あたしの魂全体が、いうことをきかないのですもの。村であの女やあの子供たちを見ると、ただもう脚が震えてしまうのです。この家の中の何もかもそうです。自分があのベッドで寝たことを考えると、もうぞっとして鳥肌が立つのよ……あたしがどんなに辛抱してきたか、あなたは御存知ないことよ」
「ぼくはやっとあの女を納得させて、この土地を去らせられそうに思うんだ。転任の請願も出しておいたしね」
「それでも駄目なの。あのひとは、いつもいるのよ。あなたはあのひとたちのもので、あたしのものではないんですもの。もしかしたら子供が一人きりだったらあたしも我慢できたかもしれないと思うのよ、でも、三人ではねえ。しかも男の子はみんなあんなに大きいし。十年間、あなたはあのひとと一緒に暮らしてらしたのね」今やドリスは積りに積っていた思いをぶちまけたのである。もう必死だった。「これは身体的なものなのよ、あたしにはどうにもならないし、このあたしよりも強いものなのよ。あのひとの、あの細い黒い腕があなたを抱きしめたことを思うと、身体的な嫌悪でいっぱいになってしまうの。あの小さな黒いベビーをあなたが抱いてるところを思うと。ああ、嫌らしいったら。あなたに触られることが、あたしには嫌で堪らないの。毎晩、あなたにキスするとき、あたし、そのため渾身《こんしん》の勇気を振るわねばならなかったの、両手をぎゅっと握りしめて、無理やりあなたの頬に触れたのよ」もはやドリスは、狂おしい苦悶で両手の指を握りしめたり開いたりし、声も調子が狂っていた。「今となっては責められるのはあたしだってことはわかってるわ。あたしは、愚かな、ヒステリー女よ。自分ではどうにか切り抜けたつもりだったの。駄目なの、もう今では永久に駄目だと思うわ。責任は全部あたしが負います。結果も喜んで引き受けます。ここにいろとおっしゃるならいます、でもここにいたら、あたしは死んでしまうわ。どうかあたしを行かせてくださいな」
そして今や、長いあいだ抑えに抑えていた涙が溢《あふ》れ出して、ドリスは身も世もなく泣きくずれるのだった。妻が泣くのをガイは一度も見たことがなかった。
「むろんぼくは、きみの意に反してまできみをここに引きとめておくつもりはないよ」夫は、しゃがれ声でいった。
ぐったり疲れはてて、ドリスは椅子の背にもたれた。顔つきがねじれて歪んでいた。普段あれほどおちついていた顔に、悲しみのために我を忘れた跡を見るのは、ひどく苦しいことだった。
「ほんとに御免なさいね、あなた。あなたの一生を台なしにしてしまったわ、でもあたしの一生も台なしになってしまったのよ。しかもあたしたちは幸福だったかもしれないのにねえ」
「いつ立つつもり? 木曜日?」
「ええ」
悲しそうに夫のほうを見た。夫は両手に顔を埋めていた。やっと顔を上げた。
「参っちゃった」夫はつぶやいた。
「行ってもよくって?」
およそ二分聞くらい、二人は、ひとこともいわずにそこにいた。蝉が、例の突き刺すような、しゃがれた、妙に人間めいた声で鳴き出したとき、ドリスは、ぎょっとして体を動かした。ガイは起って、ヴェランダへ出て行った。手摺りにもたれて、しずかに流れる水を眺めた。ドリスが寝室へ入っていく音が聞こえた。
翌朝、いつもよりも早く起きて、妻の寝室の前まで行き、ノックした。
「はい?」
「今日は川上のほうへ行く用がある。帰りはおそくなるから」
「ええ、いいわ」
ドリスにはわかったのだ。荷造りをする間、そばにいないで済むように一日中、外に出ているつもりなのだ。荷造りは、身を切られるような仕事だった。衣類を詰め終ると、居間の中の、自分の品物を見廻した。それらの品々を持ち去るのは堪らない気がした。母親の写真だけ取って、あとは一切残すことにした。ガイは夜の十時まで戻って来なかった。
「晩飯に帰って来られなくて、すまなかったね」夫はいった。「ぜひ訪ねて行かねばならなかった村の酋長のところで、いろいろと用事があったものだから」
夫の目が部屋のなかを見廻して、母親の写真がなくなっていることに気づいたことを、ドリスは見てとった。
「用意はすっかりできた?」夫は尋ねた。「夜明けに踏み段のところへ来るよう、船頭にいっておいたから」
「あたしもボーイに五時に起すようにっていっといたわ」
「お金をいくらか上げておいたほうがいいだろう」かれは机のところへ行って、小切手を書いた。抽《ひ》き出しから紙幣を何枚か出した。「この現金でシンガポールまで行ってね、シンガポールに着いたら小切手を金にかえられるからねえ」
「ありがとう」
「河口までぼくと一緒に行ってほしい?」
「いえ、ここでさようならしたほうがいいと思うわ」
「わかった。ぼくはもう寝るよ。一日中、歩き廻ったんで、くたくたになっちまった」
妻の手に触れることさえしなかった。自分の部屋に入ってしまった。二、三分すると、ベッドに横になる音が聞こえた。しばらくドリスは腰をおろしたまま、自分があれほど幸福で、またあれほどみじめだったこの部屋の中を、これが見納めと見廻わすのだった。深い溜息が出た。今夜必要な一つ二つの品物を除いて、荷造りはもうすっかり終っていた。
夫婦がボーイに起されたときは、まだ暗かった。二人は急いで服を着て、支度が整ったときは、もう朝食の用意ができていた。やがてボートをバンガローの下の桟橋《さんばし》まで漕ぎ寄せた音が聞こえ、それから召使たちがドリスの荷物を運びおろした。二人は、食事をしたといっても、それは見せかけばかりで、実は一物も咽喉を通りはしなかったのである。闇が薄れて行って、河の色が、すさまじく見えてきた。まだ朝にはなっていないが、もはや夜ではなかった。静寂のなかで、桟橋にいる現地民たちの声が、じつにはっきりと聞こえる。ガイは、手をつけてない妻の皿をちらりと見た。
「済んだら、そろそろ降りて行こうか。もう出かける時間のようだから」
妻は返事をしなかった。食卓から起ち上った。自分の部屋へ入って行って、忘れものがないかどうかを見てから、夫と並んで踏み段を降りた。短い曲りくねった小径《こみち》が河へ通じている。桟橋のところには、スマートな軍服姿の現地民の警備兵たちが整列していて、ガイとドリスの二人が前を通ると捧げ銃をした。ドリスがボートに乗り移るとき、船頭が手を貸した。ドリスは振り返って夫の顔を見た。何かひとこと最後の慰めのことばをいいたい、もういちど夫の赦しを求めることばを、と必死になってみたが、まるで唖《おし》にでもなったみたいに口がきけなかった。夫は手をさしのべた。
「じゃあ、さようなら、楽しい旅をするように祈るよ」
ふたりは握手した。
ガイが船頭にうなずくと、ボートは岸を離れた。暁は霧の立ちこめた河面に這いよって来たが、ジャングルの暗い木々のあいだにはまだ夜がひそんでいた。朝のほのぐらい中ヘボートが隠れてしまうまで、ガイは桟橋に立っていた。ほっと、吐息を洩らして、かれは踵《きびす》を返した。警備兵がもう一度、捧げ銃をするのに、かれは放心したようにうなずいていた。しかしバンガローへ帰りつくと、ホーイを呼んだ。部屋の中を歩き廻って、ドリスのものだった品々を一つ残らず拾い集めた。
「これをみんな包むんだ」かれはいった。「ここに残しといたって仕様ない」
それからヴェランダに腰をおろして、ある痛ましい、ある不当な、そしてあるのしかかってくる悲しみのように朝の光が少しずつひろがってくるのを見守っていた。最後に時計を見てみた。役所へ出る時刻だった。
午後は眠れなかった、頭もひどく痛んだ、それで、銃を携えて、ジャングルの中を歩き廻った。何も射たず、ただ、くたくたに体を疲れさすために歩いたのである。日暮れ近くに帰って来て、酒を二、三杯飲むと、もう晩餐のために着更えをする時刻だった。今では着更えの必要も大してなくなってしまった。気楽な服装でいたって構わないのだ。ゆるやかな土地ふうのジャケツにサロンを着けた。それがドリスの来る前、いつも着つけていた服装だったのである。裸足だった。いい加減に晩飯を済ますと、ボーイがあとかたづけをして出て行った。椅子にかけて『タトラー』〔ここではかりの新聞の名であるが、もともとは十八世紀にスティールやアディソンが発刊していた週三回の随筆専門の新聞名〕を読もうとした。家の中は、ひっそりとしている。読む気にもなれず、新聞は膝の上に落ちた。疲れはてていた。何も考える力がなく、頭の中は奇妙に空虚だった。その夜は蝉がやかましく、そのかすれたような、けたたましい鳴き声が、自分を嘲《あざけ》っているような気がした。こんなによく響く声が、あんな小さな咽喉から出てくるとは信じられないくらいだ。しばらくすると、遠慮がちな咳払いが聞こえてきた。
「誰だい?」かれは大きな声でいった。
返事がない。戸口を見てみた。蝉が鋭い声で笑った。小さな男の子が、そっと入ってきて、閾《しきい》のところに立った。ぼろぼろの肌着にサロンをつけた、小さな混血の少年だった。二人の息子の、兄のほうである。
「何の用だ?」ガイはいった。
少年は部屋の中へ進み入って、膝を折って坐りこんだ。
「誰のいいつけでここへ来た?」
「母ちゃんが行けって。何か、要るもの、ありませんか、っていってる」
ガイはじっとその少年を眺めた。少年はそれきり何もいわなかった。坐って、恥しそうに目を伏せたまま、待っていた。するとガイは、深い、せつない思いに打たれて両手に顔を埋めた。仕方ないじゃないか? もう終ってしまったのだ。終ってしまったのだ! 負けた。椅子の背に倒れかかって、かれは深い溜息をついた。
「母ちゃんにな、自分の荷物やお前たちの荷物をまとめなさいというんだよ。帰って来てもいいって」
「いつ?」少年は、無感動に尋ねた。
熱い涙が、ガイのおかしな、まるい、にきびだらけな顔を、したたり落ちた。
「今夜だ」(完)
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解説
多産とか多作とかということになると、現在のイギリス作家中、サマセット・モームは、たとえばオルダス・ハクスレーと並んで、もっとも知られた文学者のひとりといえるであろう。
しかもかれは、あらゆる文学のジャンルのなかで、詩だけを除いてすべてを試みている。長篇小説、短篇小説、戯曲、エッセー、評論、旅行記、選集、などにわたっており、その多様性はまことにめざましいものがある。そして、それらのうちの短篇小説ひとつをとり上げてみても、The Complete Short Stories of W. Somerset Maugham. First Published 1951. Reprinted 1952,1953. William Heinemaun Ltd. 全三巻は、じつに千五百七十六ページ、九十一篇の作品を収めているのである。
ここに集めた二篇は、ともに『キャジュアライナ樹』The Casuarina Tree と題して一九二六年ハイネマン社から単行本として出版された短篇集のなかに見えている。時に作者は五十二歳であったが、そのころかれは中国、南洋その他、世界の各地に旅し、さまざまな異国の土地に材を取った短篇の数々を書きはじめていた。そうして、東南アジアのイギリス領植民地を舞台に、そこに住むイギリス人たちの心理と生活を描いた六つの短篇を集めたのがさきの、『キャジュアライナ樹』なのである。
この樹については、作者自身が序文で伝えているように、三つの話がある。ひとつは、伝説によると、もしこの樹のどんな小さな切れっぱしでも、これを持ちこんで船に乗ると、必らず向かい風が起って船路にさからうばかりでなく、生命をさえ危くするほどの大暴風になりかねない、ということである。また、満月の光によって作られるこの樹の影のなかに立つと、その暗い枝模様のなかに不思議なささやきが聞こえて、未来の秘密がわかる、といわれている。さらに、広い入江などにマングローヴが生い茂って、長い歳月のあいだには海を埋立てて沼地になる、するとそこにキャジュアライナの樹がおのずと生え、今度はこれがその土地をしっかりと固め、肥やす役に立ち、ついにはそこにさまざまな植物が勝手気儘に繁茂するまでに土地を成熟させる、ところが、さてそれからこのような役目を果してしまうと、この樹はジャングルの無数の動物どもの貪婪《どんらん》な劫掠《きょうりゃく》に遭って枯死するにいたるのである。
こうした伝承のなかで、第三のものを作者が選んだことは、作品のテーマや筋からみても明らかであろう。
すなわち、前記『短篇全集』への序文で作者自らいっているように、「イギリス人はかれら(土着民)に正義を与え、かれらに病院と学校を設立してやり、かれらの産業を奨励した」一応、さまざまな植物が勝手気儘に繁茂するまでに土地を成熟させた、それから、このような、ともあれイギリス人自身にとっては「役目」と考えられるものを果してしまうと、ジャングルの無数の動物どもの貪婪な劫掠のために枯死してしまう、そのようなキャジュアライナの樹に、イギリス人をなぞらえたわけである。
『手紙』The letter はモームの短篇のうち、もっともすぐれた、また有名な作品である。
女主人公レズリー・クロスビーを、ここでただちにキャジュアライナの樹にたとえることはできないとしても、熱帯に咲いた妖しい花、いや、狂い咲きを強いられた哀れにもはげしいイギリスの一輪の花であることは確かだ。「美人ではないが、どこか人を惹《ひ》きつけるものがある。端麗とでもいうべきものだが、しかしそれは育ちのよさからきているもので、社交界の粉飾などは少しもない。ひと目見ただけでどんな家に生れどんな環境のなかで育ってきたかがわかるのである。何としてもこの女性を猥雑という観念と結びつけることはできなかった」女である。そのような女が、どんな「悪魔のような激情」を秘め、どんな「怖ろしい仮面」をつけていたことか! レズリーは「善良で、上品で、尋常な人間」のひとりであった。「わたくしは」とモームは書いている、「そうした人間を尊敬する、讃美さえする者だが、しかしかれらはわたくしが小説に書けるような種類の人間ではない。わたくしの書くのは、わたくしにこれなら使えると思えるような工合に行動することができる、と考えられるていの或る特異な性格を有する人間、あるいは何らかの事故、気質上の事故や環境による事故のために異常な事件にまきこまれた人間、の物語りなのである。ただし、くりかえしていうが、かれらは例外ではあるのだ」例外ではあるとしても、レズリーは、或る種の異常な事件にまきこまれた「尋常な」人間のひとりであり、しかもその尋常さこそ、女というものの怖るべき潜在性をいっそうあざやかに示すものにほかならなかった。
十のうち九まで正当防衛とみられた殺人事件が、一通の手紙の発見によって、まったく予想を絶した局面を呈する。けっきょくそれを一万ドルで買い戻し、事件は闇から闇へと葬られるのであるが、ただひとつ、いつまでも読者の脳裡から去りがたいのは、レズリーという女の美しい、そして怖ろしい罪であろう。これとても、しかし、「気質上の」という以上に「環境による」事故といえるかもしれない。そうだとすれば、レズリーという名のこれはキャジュアライナ樹といってもよかろうか。
レズリーにくらべると、『環境の力』 The Force of Circumstance の主人公、ガイのほうは、これはもうその表題からしても明らかなとおり、マレーの奥地という特殊な風土のために孤独と絶望と未開への執着に追いやられる人間である。かれには、丈明の女ドリスという妻があり、この妻は未開の環境に抗して生き抜くが、それは夫と別れる、というよりも、夫を捨てるという形をとらねばならなかった。そして、捨てられた夫は、文明へではなく、まさに「文化果つるところ」へと逃げこむほかなかった。今すぐ、今夜すぐ、戻って来いと、混血のわが子に叫ぶガイの頬をつたう涙は、哀切きわまるものがある。ひそかな同じ白人の愛人を射殺したレズリー、それから、同じ白人の妻に去られたガイ、ともに環境の力の犠牲者であった。
これら二つの短篇には、いずれも中野好夫、田中西二郎の両氏の名訳がある。負うところ多かったことを記して、感謝の意を表したい。
昭和三十年八月二十八日、信州野沢にて(訳者)
〔訳者略歴〕
西村孝次(にしむらこうじ) 一九〇七年、京都に生る。東北大学英文科卒業。明治大学教授。(主要訳書)「ワイルド全集」、ロレンス「翼ある蛇」、スティーヴンスン「新アラビヤ夜話」「宝島」「バラントレイ卿」、モーム「手紙」「雨」「東洋航路」等。