諜報員アシェンデン
サマセット・モーム/篠原慎訳
目 次
第一章 英国情報部工作班長R
第二章 家宅捜索
第三章 ミス・キング
第四章 メキシコ革命の敗者
第五章 ある女スパイの物語
第六章 間違えられた犠牲者
第七章 パリヘの旅
第八章 革命の志士と女芸人
第九章 偽りのレポート
第十章 売国奴
第十一章 陰に隠れて
第十二章 英国大使の過去
第十三章 コインで賭けを
第十四章 ロシアヘの旅
第十五章 恋とロシア文学
第十六章 ロシア革命と洗濯物
訳者あとがき
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第一章 英国情報部工作班長R
九月の初めだった。第一次世界大戦の戦火が発したとき、作家アシェンデンは海外にいた。ようやくの思いで故国イギリスへ辿《たど》り着いた彼は、ある私的な集まりの席で中年の陸軍大佐にひきあわされた。名前はうっかり聞きもらしたが、その場は何とはなしに世間話をして別れた。後刻、会場を出ようとした彼のところへ、その大佐がつかつかと歩み寄って話しかけた。
「失礼だが一度私のところへ来て下さらんか。ちょっと話したいことがあってね」
「いいですよ、いつなりと」
「あしたの十一時ごろってのはどうだろう」
「結構です」
「所番地をお教えしておこう、名刺をお持ちかな?」
名刺を渡すと、大佐は、所番地を鉛筆で走り書きして戻してよこした。次の日の朝、教えられた町を捜して行くと、そこはひと昔前に、高級住宅地として名を売った町だった。もっともいまは、虚名をほしがる成り上がり者が、そこに住んでいるということを自慢の種にするだけの地区になっていた。教えられた家は、表に「売り家」という札がかかっていた。よろい戸はすべて閉ざされ、人が住んでいるような気配はなかった。玄関のベルを押すと、さっとドアが開き、そこに下士官がひとり立っていた。この素速さには、いささかドギモを抜かれた。下士官はむっつり押し黙ったまま、奥の細長い部屋へ案内して行った。昔は食堂として使っていたらしく、豪華なインテリアだったが、それが、あちこちに無造作に置いてあるいとも素っ気ない事務机やイスと、奇妙な対照を示していた。何か執達吏に差し押えをくった部屋といった感じだ。
大佐は、これはあとでわかったことだが、イギリス陸軍情報部の工作班長でRという暗号名を持っていた。彼が部屋に入るのを認めると椅子から立ち上がって、手を差しのべた。イギリス人としてはごくふつうの背丈で、やせた体躯《たいく》をしていた。浅黒い顔は深いシワに刻まれ、薄く白い髪に、歯ブラシのような口ヒゲといった風貌《ふうぼう》だ。しかしなんといっても最大の特徴は、青い両の目がくっつきそうに近寄っていることだ。いささかヤブニラミの気味さえあった。けわしく冷酷で、用心深そうな目つきだ。このため顔全体が、狡賢《ずるがしこ》い感じで、とても信用のおけそうな人物には見えなかった。それでも態度は快活で気持ちがよかった。
しばらくアシェンデンに、ありきたりの質問を続けたあと、いきなりズバリと、言葉を投げてよこした。「君は秘密諜報部員としてうってつけの資格を持っている」事実彼はヨーロッパの数か国語に通じていたし、作家という職業が何よりの隠れミノになる。小説の資料集めという口実で、中立国へなら自由に出入りできた。そんなことを話し合っている間に、Rはこうも言った。
「小説のネタになるような事実を、いくらでも拾えますぞ」
「いや、そんなことはいいんですよ」
「つい先日もこういう事件があったよ。そっくりそのまま小説になるような話でね。フランスのある大臣が、カゼの療養のためにニースへ行ったと思いたまえ。その男はある重要な文書をアタッシュ・ケースに入れて持っていた。国家機密に属する重要書類だ。ニースへ着いて数日後、大臣は、町のレストランかナイトクラブで、ブロンド美人と出会って親しくなったんだネ。そして女をホテルへ連れ込んだんだ。まア、フランス人らしい手の速さだが、とにかく、その夜ベッドを共にして、あくる朝日を覚ますと、アタッシュ・ケースもろとも、女が消えていたってわけだ。寝る前に女と一緒に軽く酒をのんだらしいんだが、大臣が何かで背を向けたスキに、グラスに薬を入れられたというんだ」
Rはここまで話すと、どうだといわんばかりに、目を光らせてアシェンデンを見すえた。
「ドラマチックだろう、君」
「先日の事件とかおっしゃいましたが、いつのことです」
「先週だよ」
「驚きましたねそれは」
アシェンデンは声をあげた。
「そういう事件なら昔から芝居や小説であきるほど見聞きしてますよ。いまさらなぞっていく興味も必要もありませんね」
Rはちょっと鼻白《はなじら》んだ。
「何なら関係者の名前や日時をお教えしてもいいよ。その文書を盗まれたために、連合国側はたいへんな目にあってるんだからね」
「諜報活動というものがその程度のことでしたら」
アシェンデンは溜息《ためいき》まじりに言った。
「作家としちゃ何のインスピレーションも感じませんね。そういう話にはもうあきあきしてるんです」
しかし結局、Rとの間で話が決まり、アシェンデンは、こまかい指示をメモして辞去することになった。翌日、ジュネーブへ出発という手筈まで決まっていた。帰ろうとする彼に大佐が言った言葉は、さりげなく発したものだけに、よけい心にひっかかった。
「この仕事につく前にぜひとも知っておいてもらいたいことがある。忘れないでくれたまえ。つまり、任務を達成してもほめられず、窮地に陥っても援助は得られないということだ。それでもいいね?」
「もちろんです」
「じゃせいぜい頑張ってくれたまえ」
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第二章 家宅捜索
アシェンデンはジュネーブへ帰る途中だった。その夜のレマン湖はいささか荒れ模様で、山から吹き降ろす風が肌《はだ》に冷たかった。しかし、おんぼろ蒸汽船は、よたよたしながらも湖上の荒波をかきわけて進んでいた。吹きつける雨は、ミゾレに変わろうとしていたが、召使を怒鳴《どな》りつけるヒステリー女のように、甲板に当たり散らしていた。アシェンデンは、報告書を書いて発送するために、フランス領へ行って来たのだった。
数日前の午後五時ころ、彼に直属しているインド人のエイジェントが、彼をホテルへ尋ねて来た。そのインド人とはべつに接触する約束もなかったし、緊急のとき以外は会うなという命令があったので、彼がそのときホテルに居合わせたのは、まったく偶然の幸運だった。インド人の話によると、ドイツの諜報部で働いているベンガル人が、最近ベルリンから、重要書類を持ってジュネーブへ来たということだった。当時ドイツは、イギリス軍およびフランス軍の一部を、インドにくぎづけにしようとして、そういう情勢をつくるための工作に奔走していた。そのベンガル人を逮捕して一時的に小康を得ることには成功したが、肝心の文書はどうにも発見できない。アシェンデンのエイジェントは、勇敢で聡明《そうめい》な男で、イギリスの国益に反しない程度に、同国人との交わりを保っていた。その線から彼は、ベンガル人がベルリンへ行く前に、安全をおもんぱかって、問題の文書を入れたカバンを、チューリッヒ駅のクローク・ルームに預けたことを探り出した。当のスパイは、刑務所に入って裁判待ちという状態だったので、その文書を味方の手に渡すことは不可能だった。ドイツ軍情報部としては、一刻も早くその文書を入手する必要があり、ふつうの外交ルートではそれが不可能だとわかると、駅舎に押し入って盗み出すよりしかたがないという結論に達した。
アシェンデンはこのニュースを聞いたとき、いかにも大胆で利口なやり口だと感嘆した。というのも、彼の平常の任務がバカバカしいほど退屈だったからだ。彼は、ベルンのドイツ軍情報部のボスが、柔軟な頭脳を持った切れ者だということを認めざるをえなかった。しかしチューリッヒ駅襲撃が翌朝の二時に予定されており、もはや躊躇《ちゅうちょ》しているヒマはなかった。ベルンのイギリス官憲との電話・電報での連絡は危険だったし、インド人エイジェントも行動を掣肘《せいちゅう》せられていた。彼にとってはアシェンデンに会いにくること自体が危険この上もない冒険だったし、アシェンデンの部屋を出るところなど敵に見られようものなら、背中にナイフを突き刺された変死体となって湖に浮いていたなんてことになりかねなかった。この場合、アシェンデンが、みずから出かける以外に方法がなかった。
幸い、ベルン行きの列車に間に合うことがわかり、彼は帽子とコートをひっつかむと階段を駆け降りて、来合わせたタクシーに飛び乗った。四時間後、彼はベルン支部の玄関で、ベルを押していた。この支部で、彼の名前を知っている人物はひとりしかいなかったが、彼はすぐさまその人物に面会を求めた。面識はなかったが、背の高いくたびれた感じの男で、ひとことも口をきかずに彼をオフィスへ伴って行った。アシェンデンはとりあえず用向きを話した。
「うちで手を打つにしてももう時間がありませんな。午前二時までにチューリッヒへ着くことは不可能ですよ」
こう言ってしばし瞑黙《めいもく》していたが、
「すべてはスイスの官憲に任せましょう。彼らは電話が使えるし、ドイツ側が計画を実行に移すまでに、駅舎を完全な警備下におくことも可能です。とにかく、あなたはジュネーブへ帰った方がいいですね」
彼はアシェンデンと握手をかわすと玄関まで送って出た。その後の経過がいかようなものになるか、アシェンデンには見当もつかなかった。複雑な機械の一部品でしかない彼には、全体の動きなどうかがい知るすべもなかったのだ。初めか終わり、または中間の一事にかかわりを持つだけで、彼の任務が全体の中でどのような役目を果たしているのか、ほとんどわからなかった。それはちょうど、いまはやりの現代小説が、互いにつながりのないエピソードを羅列して、読者にその構成を強要するのに似ていた。
毛のコートとマフラーで体を包んではいたが、針で刺すような冷気は体のシンにまでしみ通った。船内のサロンは暖かい灯に満たされていたが、彼はそこへ入るのを躊躇した。万一そこにこの船の常連客でもいて、彼が定期的にスイスのジュネーブとフランスのトノンの間を往復している理由を|せんさく《ヽヽヽヽ》されたりすると面倒《めんどう》なことになると思ったからだ。彼は、甲板の物陰で、暗い退屈な時間をすごした。ジュネーブの方角に視線を送ったが、灯火ひとつ見えなかった。雪にかわりかけたミゾレが、陸地を覆《おお》い隠していた。レマン湖は、好天に恵まれると、フランス庭園のプールのように、穏やかで、人工的な表情を見せるのだが、ひとたび荒れだすと、外洋にも似た厳しさを呈した、ホテルへ帰ったらすぐ暖炉に火をいれ、暖かいバスを使って、パジャマにガウンといった恰好《かっこう》で晩メシを食おう、と考えた。パイプをくゆらしながら、好きな読書にひたれると思うと、この船旅のみじめさもいくぶん薄らぐ感じさえした。水夫がふたり、吹きつけるミゾレを避けるために、前かがみに首をすぼめながら、重々しい足取りでそばを通りかかった。そのうちのひとりが怒鳴りつけるように言った。
「もう着きますよ」
ふたりは舷側へ行くと、スライド式になった手すりをひらき、タラップヘの通路をあけた。アシェンデンは、吠えさかる暗黒の向こうに、埠頭《ふとう》の灯をかすかに認め、なんとも言えない歓びを感じた。数分後に汽船は接岸した。目の辺までマフラーで覆い包んだ彼は、一団となって上陸を待つ船客の中にいた。
毎週一度はレマン湖を渡ってフランス領へ行き、定期の報告をして新しい指示を受ける……これまで幾度となく繰り返してきたことだが、人々にまじって舷側に立ちながら下船を待つときは、いつもかすかなおののきを感じた。彼のパスポートには、フランス領へ入ったということを証明する記載は何もなかった。汽船は、レマン湖を一周し、その間、フランス領に二か所寄港するが、始発・終点ともスイス領なので、問われればヴェヴェーかローザンヌへ行って来たのだと答えることもできた。しかし彼はいつも、秘密警察に尾行され、フランス領へ入ったことを発見されているのではないかという疑念につきまとわれていた。尋問にあうと、パスポートに何の記載もないことを、どう説明しようもなかった。もちろん、いちおうの弁明は用意しているが、それが相手を納得させうるものだとは、彼自身考えていなかった。たとえスイスの官憲が、単なる旅行者と認定するにしても、その間、二、三日は不愉快な留置場暮らしを余儀なくされるし、国外追放にでもなると、エイジェントとしては致命的だった。
スイス人たちは、祖国が、あらゆる陰謀の巣窟となっており、諜報機関のエイジェントや、スパイ、革命主義者、アジテーターが、主要な町のホテルに出没していることを知っていた。そして中立を保持するためにも、交戦国による干渉を断固排除しようと決心していた。埠頭では、いつものように警官が二名、下船する客を見守っていたが、アシェンデンは、できるだけ何気ないふうを装ってその前を通り過ぎ、無事に構外へ出たときはほっとした。彼は闇に包まれて元気よくホテルヘと歩を進めた。厳しい荒天は、舗道からいつもの端整さを奪っていた。商店は閉じ、ときたますれ違う歩行者も、何か得体の知れないものの盲目の怒りから逃げようとするかのように、肩をすぼめ、小さくなって歩いていた。暗い厳しい夜の中で、文明が、その人工味を恥じて、自然の怒りの前に縮こまっているといった感じだった。吹きつけるアラレで舗道は滑《すべ》りやすく、彼は足許に注意して歩かなければならなかった。湖に面したホテルに着くとボーイがドアを開けてくれたが、それと同時に烈風が吹き込み、フロント・デスクの上の書類を一気に空中に飛び散らせた。アシェンデンは、一瞬、照明に目を奪われて立ちすくんだ。そしてフロントで、手紙が来ていないかどうかを尋ね、何も来てないとの返事で、エレベーターに乗ろうとした。そのときボーイが、来客がふたり部屋で待っていると告げに来た。しかし彼には、ジュネーブに知人はいなかった。
「えッ?」
驚いた彼は答えた。
「どなた様だね」
彼はかねがねボーイにはチップをはずみ、便宜をはかってもらっていたので、こういう場合にもボーイの応待は丁重だった。ボーイはニコリと笑って言ってのけた。
「実は警察の方らしいのですが」
「どういう用件で?」
「それはおっしゃいません。どこにおいでだと訊《き》かれましたので、お散歩ですとお答えしたら、それじゃ待たしてもらうとおっしゃって……」
「いつ来たんだね」
「一時間前です」
アシェンデンはドキリとしたが、むろん表情には現わさなかった。
「じゃお会いしよう」
エレベーター係は彼を招じ入れようとしたが、寒いから階段を歩いて上がると言って断わった。考える時間が欲しかったのだ。しかし三階までゆっくり上がりながらも、足は鉛《なまり》のように重かった。刑事が会いに来た理由は明白だったし、いろんな尋問に満足に答えられる自信はなかった。秘密諜報員《ひみつちょうほういん》として逮捕されたら、少なくとも今夜は留置場で過ごさなくてはならない。あれほど待ち望んでいた暖いバスも食事も駄目になるのだ。あらゆるものを投げ捨ててホテルを飛び出そうかとも考えた。パスポートは身につけているし、今なら国境行きの汽車便がある。スイス官憲が判断に迷っている間に安全圏へ脱出できるのだ。
それでも彼は階段を上がって行った。この種の危険は承知の上でジュネーブへ来たのだ。ちょっとした難関に遭遇すると、すぐ怯《おじ》けづいて任務を放棄するというのはいやだったし、思い切ってぶつかった方がいいように思われた。もちろん何年もスイスで刑務所暮らしをするのはイヤだが、秘密諜報員という職業にたずさわっている限り、たとえば王侯の暗殺と同じように、一か八かの賭《か》けは覚悟しなくてはならない。彼は三階に上がると自室へ足を向けた。生来彼には軽率さとでも言うべき資質があった。このためいままでにさんざん批評家に叩《たた》かれた経験を持っていたのだが、ドアの前で瞬時立ち止まっている間に、彼にはいま自分の置かれている情況がなんとも滑稽味を帯びたもののように思えてきた。そして思い切って一気に片付けてしまおうという気概が湧き起こった。ノブを回してドアを開き、来客に立ち向かったとき、彼の表情にはごく自然に微笑が浮かび、発した言葉もまたさりげなかった。
「これはどうも」
部屋は灯火に明るく、暖炉には火が入っていた。しかし室内は、待ちくたびれたふたりの客が吹かした安い葉巻の煙でにごっていた。ふたりはいま入って来たといわんばかりに、コートも帽子も着けたままだった。しかしテーブルの上の灰皿にたまった灰は、ふたりが、もうかなりの間部屋にいたことを示していた。ふたりとも屈強な体躯で、口ヒゲを生やし、「ラインゴールド」に出てくる伝説の巨人、ファフネルとファゾルトを連想させた。いかにも無粋なブーツ、椅子にふんぞり返った態度、それでいて油断のない機敏な表情から、一見してスイス官憲の有能な刑事だとわかった。
アシェンデンはまずぐるりと室内を見回した。乱れてはいないが確かに人の手がつけられている、きちょうめんな性質の彼は本能的に看《み》てとった。おそらくふたりが、彼の持ち物を検査したのだろう。しかし疑問を持たれるような文書は置いてないので、さほど驚きはしなかった。暗号は暗記してイギリスを発つ前に破棄していたし、ドイツから送られてくる情報は、いつも第三者の手を経て渡され、それはまたただちに適当な所へ移送されていた。したがって部屋を捜索されてもこわがる必要はないのだが、スイス官憲に、秘密諜報員と悟られたのではないかという疑問が心に焼きついた。
「どういうご用件でしょう?」
愛想よく尋ねた。
「部屋は暖かいし、コートや帽子はお取りになったらどうです」
帽子をかぶったまま部屋に坐り込むとは何たることか!
「いやすぐ失礼しますから」
とひとりが答えた。
「通りがかりにお寄りしたんですが、ボーイが、すぐお帰りになるというので、待たせてもらっとったんです」
そう言ったまま帽子を取ろうともしない。アシェンデンはマフラーを取り、重いコートを脱いだ。
「葉巻はいかがです」
彼は箱ごとふたりの刑事に突き出した。
「そいじゃ遠慮なく」ファフネル面《つら》した方の男が一本つかみ出した。ファゾルトの方は、ありがとうともいわず、無遠慮に手を延ばした。しかし、葉巻の箱のラベルが高級品のものだったので、ふたりの態度には微妙な変化が起こり、帽子を脱いだ。
「この天気じゃ散歩もたいへんだったでしょう」
ファフネルは、葉巻の先をかみ切って、ペッと暖炉の中へ吐き飛ばしながら言った。
アシェンデンは、諜報部員としてはもちろん、実生活者としても一種の生活の知恵ともいうべきものを持っていた。何事によらず、できうる限り真実を語るという主義である。むろん自分に都合の良いところだけという巧みさではあったが、右の質問にもさりげなく答えた。
「私を何だと思ってらっしゃるんです? こんな天気に散歩へ出かけるほど酔狂《すいきょう》じゃありませんよ。きょうは病気の友達をヴェヴェーまで見舞いに行ってきたんです。いや、湖の船旅は冷えましたよ」
「われわれは警察の者です」
ファフネルがぼそっと言った。彼らとてアシェンデンが自分たちの身分に気づいているということは承知の上なのだ。しかし彼は、しいて愚鈍さを表わさない程度に、とぼけて、快活に応じた。
「ほう、そりゃどうも」
「パスポートはお持ちですか?」
「もちろん。戦時ともなれば、外国人はいつもパスポートを身につけてなくちゃなりません」
「賢明ですな」
彼は真新しいパスポートを差し出した。それには、三か月前にロンドンから来たこと、その後、スイスを出たことがないということ、それ以外の記載はいっさいなかった。相手はねめ回すようにそれを念入りに見てから、相棒に渡した。
「不正はないようだ」
アシェンデンは、暖炉の前で体を暖めながらタバコをくわえていたが、べつに言葉をはさまなかった。彼は面倒くさそうに刑事たちの方を見たが、内心の杞憂《きゆう》とはうらはらに、他人事《ひとごと》のように装っていた。ファゾルトはファフネルにパスポートを返した。後者は思い入れよろしくそれを指ではじきながら口を切った。
「署長に命令されましてな……」
ふたりは彼に目を注いでいた。
「二、三お訊きしたいことがあるんです」
こういう場合には、まっこうから反駁《はんぱく》すべき理由がない限り口を閉ざしている方が賢明である。しかしその沈黙も、なまじ当方から不用意な発言をして答えに窮した結果というのでは具合が悪い。彼は次の言葉を待った。この戦術には刑事もいささかとまどった。
「最近ですな……深夜にカジノがひけて客がどやどやと出て行くとき、あまりその騒ぎがひどいというので、署へ苦情が殺到してるんです。あなたの場合はいかがですな? この部屋は湖に面しているし、カジノ帰りの客がすぐ前の道を通りますから、騒ぎ声がすれば、お聞きになってると思うんですが」
一瞬アシェンデンは呆然とした。この刑事め、いったい何を話しているのだ。巨人が打ち鳴らす大ダイコを聞いたように耳がガンガンした。署長の命令とはいえ、大の男がふたりも揃って、彼がバクチ客の騒音に悩まされたかどうかを訊きにくるとは三文芝居もいいところだ。明らかにワナと見えた。しかし、うわべにせよ、あくまでも何気なく発せられた言葉をいちいち詮索して、自分勝手な意味を付会するのは愚かなことだ。批評家諸氏がときとして陥る落とし穴だ。アシェンデンは人間という動物の愚昧《ぐまい》さにある種の信頼さえおいていた。これは彼のいままでの人生でも大いに益するところがあった。相手がこのような質問を発するからには、彼が不法行為を犯したという証拠を握っていないからなのだ。容疑者と看《み》なされたという確証はなかったし、部屋の捜索でも何ひとつ収穫がなかったのだ。それにしても、スパイ容疑者に対してなんという不手際を見せたものだ。この刑事たちめ! 彼らがアシェンデンに面会を求めるに際してどのような理由を考え出したか、差し当たって彼は三つの理由を思いつき、なんならそれを口にしようかとも考えたが、これは彼らに対して明らかに侮辱的なものだった。刑事たちは彼が思っていたより愚かだった。しかし、幸い彼は愚か者に対しては寛容な性質を持ち合わせている。いまも刑事たちに対して、自分でも思いもよらない優しい感情が湧いた。肩の一つも叩《たた》いてやりたい気分にさえなった。しかし、表面は重々しい顔付きで口を開いたものだ。
「実は私はよく眠るたちでしてね」
このセリフは彼がいかにも世慣れない純粋《うぶ》で良心的な人間であるかのように響いた。
「いちど眠り込んだら何も耳に入らないんです」
この言葉には当然刑事たちが、うすら笑いを浮かべると思ったが、ふたりは固苦しい表情をくずさなかった。アシェンデンは、英国人にふさわしいユーモアの持ち主だったが、このときは彼はいささか高圧的な態度をとり、声音にも重みを加えた。
「まア、たとえ騒ぎに目を覚ましたとしても、警察へ苦情を持ち込むなんてことはやりませんね。いまみたいに世の中がみじめで、苦難に満ちているときに、自分で楽しむ術を知ってる連中をあえて拒否するのは野暮で酷ですよ」
「同感ですな」
と刑事はもっともらしい口吻でもらした。
「しかし、安眠妨害には間違いない事実ですし、署長が調査を命じたのも当然のことでして」
いままでスフィンクスよろしく沈黙を守っていた刑事が、こんどは積極的に話しだした。
「パスポートを拝見したところでは作家でいらっしゃるようですな」
アシェンデンは、先ほどまでの混乱からうって変わって、ことさら快活な調子で答えた。
「そう、作家です。いろいろ苦労の多い職業ですが、それなりにまた楽しみもあるもんでしてね」
「そうでしょうとも」
ファフネルが応じた。
アシェンデンがそれにニガニガしくつけ加えた。
「作家の名声なんて、結局は虚名ですかな?」
「ジュネーブヘは何をしに?」
この質問は、あまりにも、さあらぬ態で発せられたために、思わず構えをくずしかけた。愛想のいい刑事は、苦虫をかみつぶしたような顔の威嚇的《いかくてき》な刑事よりも危険なものである。
「芝居を書きに来たんです」彼は机の上の原稿を手で指し示した。刑事の四つの目がその手を追った。ちらとそれを見た彼は、ふたりが原稿に気がついたのを知った。
「芝居ならなにもスイスで書かなくてもイギリスで書けるでしょう」
問われてアシェンデンは、これまでよりずっと柔和な微笑を浮かべた。この種の質問には以前から心づもりができていたし、安堵《あんど》して答えた。彼にはその結果がみものだった。
「それはそうですが、いまは戦時中で私の国も混乱してまして、静かに芝居を書く雰囲気《ふんいき》じゃないんですよ」
「コメディですか悲劇ですか?」
「あア、コメディです。それもごく軽いタッチの……。芸術家には平和な静かさが必要でしてね、創造という仕事に要求される魂の独立性といったものを保つには、どうしても静かな環境に身を置かなくちゃなりません。その点じゃ、スイスは中立国ですし、私にふさわしい環境が得られると思ったわけですよ」
ファフネルはかすかにファゾルトに肯《うなず》いてみせたが、アシェンデンには、彼が自分のことを愚鈍だと思っているのか、戦乱にあえぐ世界からのがれようとしている逃亡者と考えているのか、いずれの判断もつかなかった。しかしともあれ、刑事は、彼を尋問しても益のないことがわかったのだろう、しだいになげやりな態度になり、数分後には席を立った。
いかにも愛想よさそうに握手し、ドアを閉めたとき、アシェンデンは、大きく安堵の溜息をもらした。そして、思い切り風呂の湯を熱くして、ゆったりと心地よい気分で服を脱ぎ始めた。
実は前日、ちょっとした事件があり、神経をとがらしていたのだ。彼の指揮下に、通称ベルナールというスイス人がいるが、その男が最近ドイツから帰って来たので、市内のあるカフェで会いたいという指令を出した。しかしアシェンデンは、彼と面識がなかったので、ミスが起こらないように、レポを通じて合い言葉を伝えてあった。時間もわざと客の混まない昼メシ時を選んだ。カフェに入ると、ベルナールとおぼしき男がすぐ目に入った。その男はひとりぽつんと坐《すわ》っていた。アシェンデンは男に近寄って、なにげなく合い言葉をかけた。約束通りの答えが返ってきたので、彼のそばに腰をおろして、デュボネを注文した。このスパイは、ずんぐりした小男で、シケた恰好をしていた。とがった頭に短く刈り込んだ髪、そして落ち着きのない青い目が、くたびれた顔にくっついていた。どう見ても信用のおけそうな男ではないが、ドイツへ潜入してまでスパイ行為をやってのけようという人間はそうざらにいるものではない。前任者が彼を雇ったのも無理はないと思った。彼はドイツ系スイス人で、ドイツ語|訛《なま》りのフランス語をしゃべった。男はすぐ給料を催促したので、封筒に用意してあった金を渡した。金はスイス・フランだった。それから男は、ドイツ滞在中の出来事を大略説明し、アシェンデンの周到な質問にも答えた。彼は給仕だったので、ライン河畔のとあるレストランに就職したという。これは情報集めに都合のよい職場だった。二、三日スイスへ行ってくると言って出て来たそうだが、その理由も疑いを容れないものだったし、再び帰りに国境を越えるのにもさして問題はなさそうだった。アシェンデンは彼の行動に満足し、新しい指示を与えて会談を打ち切ろうとした。
「いいでしょう」
ベルナールは口を切った。
「しかしドイツへ帰る前に、もう二千フランばかし欲しいんですがね」
「金を?」
「そうだ。それもいますぐこの場で欲しいんだ。あんたがこの店を出る前にね」
「気の毒だがそいつは無理だね」
この冷たい答えに、男はその醜悪な顔をいっそう醜くした。
「どうしても出してもらいてえんだ」
「それだけよけいな金を払う理由があるとでも言うのかね?」
スパイは顔を前に寄せると、アシェンデンにだけ聴こえる低い声で、怒りをぶちまけた。
「いまもらったようなはした金で、死ぬか生きるかの仕事ができるかってんだ。つい十日ほど前にも、マインツである男が挙げられて射殺されたんだ。あんたの手の者じゃなかったんですかい?」
「マインツヘはひとりも派遣してないよ」
アシェンデンは言葉を選んで慎重に答えたが、スパイが言ったことは、まぎれもない事実だった。マインツからの通信が急に杜絶《とだ》えたのでもしやと思っていたのだが、彼の言葉ですべてがわかった。
「君はこの仕事を引き受けたとき、報酬の額を納得していたはずだよ。イヤならイヤとそのときに言えばよかったんだ。とにかく私には一ペニーでも余分に出す権限はないんだ」
「こういうものを持ってんだがな」
ベルナールはポケットからピストルを取り出すと、意味ありげにいじくり始めた。
「それをどうしょうと言うんだ。質にでも入れるのかね?」
男は怒気も露《あら》わに肩をすぼめると、ピストルをしまい込んだ。ベルナールがもし演劇のイロハでもかじっておれば、こんなコケ威《おど》しが何の意味もないということがわかっていたはずだ。
「金はくれないってんですね?」
「もちろんだ」
初めはいくぶんアシェンデンに取り入ろうとしていた男の態度が、この一言でやや厳しいものに変わった。しかし彼は最初の姿勢をくずさず、声も上げなかった。やくざな男だが、スパイとしてはやはり信頼できそうだった。アシェンデンは報酬の釣り上げをRに交渉してやろうと心に決めた。彼は周囲の情景に注意をそらした。少し離れたテーブルでは、太った黒ヒゲのスイス人がふたり、ドミノをやっていた。また一方のテーブルでは、メガネの青年が、驚くべき速さで、便箋をめくりめくり長い手紙を書いていた。また別のところでは、スイス人一家(たぶんロビンソンとでもいうような名前だろう)が、夫婦と子供四人でテーブルをかこみ、二杯のコーヒーをさも大事そうに飲み回していた。カウンターの後ろでは、豊かな胸を黒い絹のドレスに包んだレジの女が、地方新聞に読みふけっている。こう見てくると、アシェンデンは、いま自分がおかれている状態がなんとも現実離れのしたグロテスクなものに思えた。彼の書く芝居の方がまだしもリアルであった。ベルナールは微笑を浮かべたが、口をついて出た言葉はその微笑とはうらはらなものだった。
「あっしが警察へ行ってあんたのことをタレこんじまえば、あんたは一ぺんでパクられるんですぜ。スイスのムショがどんなもんかご存じですかい?」
「いや、近ごろときどき想像してみることはあるがね.君は知ってるのか?」
「知ってまサ。あまりいい心持ちのところじゃござんせんよ」
アシェンデンは、書きかけの芝居を仕上げる前に逮捕されるのではないかと心配になった。途中で執筆を断たれるなど考えただけでもイヤだった。逮捕されるにしても、政治犯としてか、また普通の刑事犯としてか、まるで見当がつかなかった。そして後者の場合(ベルナールが経験したのはこっちに違いない)、物を書くことを許されるのかどうか、訊いてみようと思ったが、なんだか彼を侮辱することになりそうなのでそれは断念した。しかしいくらか気が楽になって、相手の脅迫にも冷静に応じることができた。
「逮捕されても刑期はせいぜい二年ってとこだろうね」
「少なくってもな」
「いや、最高で二年だよ。わかってるんだ。それだけでも私には十分だが。まア正直に言って苦痛な時間だろうね。しかし、君が今後味わう苦痛に比べたら軽いもんさ」
「どうしようってんだ?」
「われわれは君に報復するよ。戦争だっていつまでも続くもんじゃない。君は給仕が職業だ。戦争が終わったら当然その職に専念して自由にやりたいと思うだろう? しかし、いまここで私にトラブルが起これば、君は一生、連合国への立ち入りを禁止されるよ。こりゃどう考えても君の損だと思うがね」
ベルナールは無言のまま、苦い顔をして大理石を張ったテーブルに視線を落とした。アシェンデンは勘定をすませて帰るならいまが潮時だと考えた。
「まアその辺のところをよく考えてみるんだね。このままドイツへ帰ると言うんなら、新しい指示はもうすでに与えてある。報酬もいままで通りの経路で支払ってやるよ」
スパイは肩をすぼめた。アシェンデンには、この会談の結果がどう出るか予測できなかったが、あくまでも威厳をつくろって出て行くのがいちばんいいと感じて、その通りにした。
彼は湯が熱すぎはしないかと、そっと片足を浴槽につけてみた。ベルナールは結局どういう決心をしたのだろう……? 湯はヤケドしない程度の熱さだったので、少しずつ体を沈めていった。まア感じとしては、スパイがあのまままっすぐドイツへ帰るのが自分に得だと考えたようだった。とすれば、密告したのは他の者だということになる。おそらくこのホテルにいる人間だろう。背を浴槽の端につけてあお向けになり、体が熱さに慣れてくると、彼は満足げに溜息をもらした。彼はしみじみと考えた。
「まったく人間ってやつは、昔もいまも、相も変わらずバカバカしいことを繰り返してるが、人生にはそれが何か意味のあるように思えるときがあるんだから妙なもんだ……」
きのうの昼下り、あの難所をなんとか切り抜けることができたのは幸運だったとしか言いようがない、逮捕されて刑でも決まったら、Rは、そうかいといった調子で肩をすくめ、あの男も間抜けなやつだと、さっそく代わりの人物を捜しにかかるに違いない。いつかRは、窮地に追い込まれても助けは求められないと言ったが、Rは確かにそういう冷酷さを持った男だった。アシェンデンはいまそれを身にしみて感じていた。
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第三章 ミス・キング
心地よげに湯につかりながら、アシェンデンは、この調子なら執筆中の芝居もどうにか完成できそうだと思って気分がよかった。警察は何の収穫もあげえなかったし、たとえ今後彼の監視を続けるにしても、彼がよほどのヘマをやらない限り、思い切った措置を取るとは思えなかった。もちろん今日の事件で彼は慎重な態度をとるようになったが(二週間前ローザンヌにいる彼の同僚が禁固刑に処せられていた)、あまりビクビクするのもばかげていた。事実、彼の前任者ごときは、自分の地位の重要さに意識過剰に陥り、四六時中尾行されているのではないかと怯《おび》え続け、ついにはあまりのストレスで精神に異常をきたして解任されたのだ。
一週間に二回、アシェンデンは、フランス領サボイから、バターとタマゴを売りに来る老いた百姓女に会うために、市場へ行くことになっていた。老婆はいつも仲間の女たちと一緒だったが、国境での検問はおざなりなものだった。国境を通過するのはいつもしらじらと夜の明けるころだったが、警備員たちは、この騒々しい女の一群をなるべく早く通してしまおうと、検査をいい加減にすませ、暖かい火のそばに駆け戻ってタバコをくゆらすのだ。
実際この老婆は温和というか無邪気というか、重量たっぷりの体つきで、顔はまん丸く、日焼けして、口許にはいつも人のいい微笑をたたえていた。どんなに勘の鋭い刑事でも、人のいいこの老婆の両の乳房の間に、彼女と中年に達しようという英国人作家を法廷に立たせるような紙片が隠されているなどとは夢にも思いつかなかったろう(老婆は息子が戦場に引っ張り出されるのを防ぐためにこういう危険を犯していたのだ)
アシェンデンは、ジュネーブの主婦たちが、あらかた買い物をすませてしまう九時前後に市場へ行き、雨が降ろうが風が吹こうが、寒かろうが暑かろうが、いつもどっしりとカゴの横に坐り込んでいる老婆の前に立ち、半ポンドほどのバターを買うのだった。そして十フラン札を出してツリをもらうとき、例の紙片を一緒に受け取り、何気なく立ち去るのだ。唯一の危険は、彼がその紙片をポケットに入れてホテルへ帰るときだったが、先の事件のあとは、極力身につけている時間を短くすることにした。
アシェンデンは、湯がぬるくなってきたので、ホウと物憂い溜息をもらした。しかし湯の蛇口《じゃぐち》には手が届かなかったし、足指で軽く回せるほどその蛇口は調子がよくなかった。わざわざ立ち上がって湯を出すくらいなら、いっそのことそのままあがった方がましだ。かといって、足で浴槽のセンを抜いて湯を落とし、無理に風呂から出ることもいやだったし、男らしくさっと立ち上がる意志もなかった。世間の人はよく彼のことを男らしい決断力をそなえた人物だと噂《うわさ》していたが、そうした噂には、十分な根拠の上に立ったものは少ない。ぬるくなった風呂からあがるのにさえこれだけ逡巡《しゅんじゅん》している彼の姿を見たら人々はなんと思うだろう。
彼は浴槽の中でぐずぐずしながら、いま書いている芝居のことを考え始めた。いろんなジョークやセリフのやりとりが頭に浮かんだが、こういう類のものはホンにしたり舞台に乗せたりすると、たちまち色褪《いろあ》せてしまう。このことはいままでの苦い経験でよくわかっていた。こんなことを考えているうちに、彼は湯がどうにも我慢できないほど冷えてきていることを忘れていた。その瞑想も突然のノックで破られた。いま人に部屋へ入り込まれるのはいやだったので、あえて「どうぞ」と言う気はなかったが、ノックは執拗に繰り返された。
「どなたです?」と彼はいらだたしそうに叫んだ。
「お手紙ですが……」
「じゃ入りたまえ。ちょっと待ってくれ」
寝室のドアが開くのを聞きながら、彼は体をバスタオルで包んで入って行った。ペイジ・ボーイが書き付けを手にして待っていた。それは口頭で答えればすむ類のものだった。ホテルに滞在中の婦人が夕食のあとブリッジにつき合ってくれないかと言ってきたのだ。そして最後には大仰《おおぎょう》な書式で、「ヒギンス男爵令嬢」と署名してあった。アシェンデンは、スリッパをはき、電気スタンドで本など読みながらゆっくり夕食を摂《と》る心づもりだったので、よほど断わろうかと思ったが、この際、食堂へ姿を出した方が賢明だと考え直した。彼が刑事の訪問を受けたということはもうホテル中に知れ渡っているだろうし、それゆえにまた結局、何の容疑も受けなかったということを宿泊客に悟らせるのが得策だと考えたのだ。
彼を密告したのがホテルの宿泊客のだれかだということがふと心をよぎった。当然陽気な男爵令嬢の名前が浮かんだ。密告者が彼女だとしたら、彼女とブリッジをやるのもまた一興ではないか。彼はボーイに喜んでご招待をお受けするという伝言をたのみ、ゆっくり夜会服に着替え始めた。男爵令嬢《バロネス・フォン・ヒギンス》はオーストリア人だったが、彼女は戦争勃発後初めての冬ジュネーブに落ち着いたとき、名前をフランスふうにした方が何かにつけて便利だと気づいた。英語もフランス語も完璧に話せたが、ドイツ系とはほど遠い彼女の姓は、祖父のものだった。祖父はヨークシャー生まれの厩番《うまやばん》だったが、十九世紀の初めブランケンシュタイン公に連れられてオーストリアに渡った。彼はロマンチックで魅力ある人生を送った。ハンサムな若者だった彼は、内親王のお気に召し、そのかかわりを抜け目なく利用して、最後には男爵に叙せられ、イタリア宮廷への特命全権大使として一生を完うしたのだった。男爵令嬢は唯一の遺族だったが、不幸な結婚に破れたあと、祖父の姓を名乗るようになったのだ。彼女はこの離婚話の一部をいつも親しい知人に語っていた。もっとも祖父が全権大使だったことはしばしば口にしていたが、彼の前身が厩番だったことは絶対話さなかった。
アシェンデンはこれらの情報をウィーンから聞き込んで知っていた。彼女と接近するにつれて、彼女の過去を知っておく必要があると思ったからだ。なかでも彼女の資産が、ジュネーブでの派手《はで》な生活を支えるほどのものでないということが注意をひいた。現在の境遇が立場上スパイ行為には有利だったから、どこかの諜報機関が手回しよく彼女を手先につけたことは十分予想しうることだった。アシェンデンは、彼女が自分と同じ仕事にたずさわっていることに疑いを容れなかった。このことは彼女とのかかわりに、なんとはなしに親しさを加えた。
食堂はすでに満席だった。彼はテーブルにつくと、難関を切り抜けた後のほっとした気分でシャンパンを注文した。もちろん英国政府の金であるが。男爵令嬢は明るいきらめくような微笑を投げてよこした。年齢は四十過ぎで、作法は大時代的で華やかだったが、そこには一種の厳しさがあった。しかし美人であることは確かだった。血色のいい顔に、金属的な輝きを持った金髪、可愛い感じだったが、それでも男を魅きつける魅力はない。彼女の髪の毛がスープの中に入っていたらいやだろうな、と彼は思った。美しい顔立ちで、ブルーのひとみ、ツンと通った鼻筋、薄桃色の白い肌、ただその肌がいささか骨ばった感じなのが唯一の難点だった。惜し気もなく肩をあらわにし、豊かな胸は大理石のように輝いていた。しかしそれでいて、男の気を魅《ひ》く色気がどこにも見えなかった。衣裳はぜいたくなものだったが、宝石類はほとんどつけておらず、多少その方面の知識のあるアシェンデンは、彼女のボスが、衣裳だけは不自由させないが、指輪や真珠まで買い与えるのは不都合だと考えたのか、はたまたその必要がないとしたのか、そのいずれかであると結論を下した。しかし彼女は宝石類がなくても結構華美な印象を与えた。Rが話していたフランスの好色大臣の例はともかく、彼女がこれはと思って目をつけた男にいくら媚態《びたい》を示しても、相手の方で尻ごみしてしまいそうだった。
料理がくるまでの間、アシェンデンはあたりの連中を観察した。ほとんどの者は顔見知りだった。この時代ジュネーブはまさに陰謀のルツボで、その本拠はこのホテルだった。ここにはフランス人、イタリア人、ロシア人、トルコ人、ルーマニア人、ギリシャ人、エジプト人といろんな人種が集まっていた。アシェンデンの部下のブルガリア人もいた。もっとも、彼は安全をおもんぱかって、そのエイジェントとはジュネーブ市内では口をきいたこともなかった。エイジェントはいま、ふたりの同国人とテーブルを囲んでいたが、両日中には、万一殺害されるようなことがない限り、レポとして行動に移るはずだった。別のテーブルには、人形じみた顔に、チャイナ・ブルーの目をした、小柄なドイツ人|娼婦《しょうふ》がいた。彼女はしょっちゅうジュネーブを離れてレマン湖をめぐり、ベルンヘまで足を延ばしていた。そして商売かたがた、ちょっとした情報を集めていたが、それでもベルリンではそれに慎重な考慮を払っていることは間違いなかった。もちろん彼女は、男爵令嬢とは格が違うし、情報取りの相手も商売柄、小物だった。
次にアシェンデンは、ホルツミンデン伯爵の姿を認めてハッとなった。いったい伯はこんなところで何をしているのだ……? 伯はヴェヴェー駐在のドイツ側エイジェントで、ジュネーブにはときにしか姿を現わさなかった。一度アシェンデンは、伯が旧市街の人気《ひとけ》のない街角で、一見いかにもスパイらしい男に話しかけているのを見たことがある。そのとき彼は、ふたりの会話の内容を探ろうと必死になったものだ。しかし伯との出会いは過去につながってアシェンデンの気分をほぐした。伯とは戦前ロンドンで交友があったのだ。名家の出身で、ホーエンツォーレルン家の血縁だった。伯は英国が好きだった。ダンス、乗馬、射撃、と万能選手で、イギリス人よりイギリス人らしいと言われたものだ。長身|痩躯《そうく》で、仕立てのいい服を着用し、髪はドイツふうに刈り込んでいた。そしていまにも会釈《えしゃく》しようとするかのように前かがみに体を折り曲げる様子は、長い間宮廷生活を送った者に特有な癖と見うけられた。いや、感じられたと言った方が正確かも知れない。彼は礼儀正しく、美術にも造詣《ぞうけい》が深かった。しかしアシェンデンも伯も、互いに相手を知らないふりをしていた。ふたりは互いの仕事を知っていた。よほど彼をからかってやろうかとも思ったが……確かに長年つき合ってきた相手をまるで初対面の人間のように扱うことは奇妙と言わねばならない。しかしいかにしても、ドイツ側にイギリスのエイジェントだと悟られる証拠を与える危険があるので、それは断念した。アシェンデンは困惑した。ホルツミンデンはいままでこのホテルに足を踏み入れたことはなかったし、それにはそれなりの理由があるはずだった。
アシェンデンは、珍しく食堂に現われたアリ殿下に関係があるのではないかといぶかった。このホテルでは、偶然と思えることでも、そのまま受け取ることは危険だった。アリ殿下は、エジプト大守の近親で、大守が廃立されるとともに、故国をのがれて来たのだ。彼は極端な反英主義者で、エジプトで内乱を起こそうとやっきになっていることは関係者の間で広く知られていた。前週、大守は極秘裡にこのホテルに数日滞在し、アリ殿下と何かをひそかに話し合っている。殿下はフサフサとしたアゴヒゲをたくわえた小柄な肥満した男で、ふたりの娘とムスタファというパシャ(高官)を従えていた。パシャは秘書として殿下の周辺のことをいっさい取りしきっていた。この四人が揃って食事をとっているのだが、シャンパンをがぶ飲みするだけで、誰もひとこともしゃべらなかった。ふたりの姫君はとんだはねっかえりで、毎晩のようにレストランで土地の若者たちと踊り狂っていた。ふたりともずんぐりと背が低く、浅黒い顔に黒い瞳を光らせていた。そのけばけばしい衣裳は、パリの平和通りよりむしろ、カイロの魚市場にふさわしいものだった。殿下はいつも自室で食事をとるが、ふたりの姫君は毎晩食堂に降りて来ていた。そしていつも小柄なイギリス人の老婆がそれとなくつきそっていた。ミス・キングと称せられる女で、ふたりの家庭教師だ。いっか廊下で姉君の方が、アシェンデンも思わず息を飲むような激しさで、老婆をフランス語でののしっているのにぶつかったことがある。ありったけの怒声をはりあげ、老婆をひっぱたいたものだ。そしてアシェンデンの姿を認めるや怒気もあらわにねめつけ、部屋へ飛び込むとガタンとドアを閉めた。これにはさすがの彼もあっけにとられ、何も知らないふりをしてほうほうの態でその場を立ち去った。
彼はホテルへ来たときから、なんとかこのミス・キングに取り入ろうと努力してきたが、いともそっけなく白眼視されてきた。初めは帽子を取ってあいさつしたのだが、ぎごちない会釈が返ってきただけだった。次の機会には言葉をかけたのだが、これも冷淡な返答でしりぞけられ、相手は露骨に彼とかかわりを持つのをいやがっているふうだった。しかしこれくらいのことで引き退るアシェンデンではない。精いっぱい、強引に押しまくり、やっと口をきく機会をつかんだ。彼女はさっと身構えると、英語|訛《なま》りのフランス語で言った。
「知らない方とはお近づきになりたくありませんの」
そう言うとくるりと背を向け、それ以後まったく彼を黙殺してしまった。
彼女は、シワだらけの皮袋で骨を包んだような小柄な老婆で、顔もそれにふさわしく深いシワに刻まれていた。頭髪はネズミがかったカツラで、精巧な代物《しろもの》だが、ときとしてずれていることがある。顔は極端な厚化粧で、そげた頬《ほお》に濃《こ》い紅をつけ、唇もどぎついほど紅く塗っていた。着ているドレスがこれまたいやというほど派手なもので、古着屋から手当たりしだいに買い込んできたような奇妙なものだった。そして昼間は、ばかでかい、少女のかぶるようなけばけばしい帽子をかぶっていた。一方|靴《くつ》は、ごく小さいスマートなもので、ヒールが高い。こうしたアンバランスは、いっそグロテスクで、見た人は吹き出す前に、ぎくりとする。街を行く人たちも、呆然として口をポカンと開いて眺めていた。
ミス・キングは、殿下の母君に家庭教師として招聘《しょうへい》されて以来、一度もイギリスへ帰ったことがないという噂だった。それ以後の長い年月の間に、彼女がカイロのハレムでいかような見聞をしたかを想像すると、興味を覚えずにはいられなかった。彼女の年齢ははかり難い。しかしその目は、不幸にも死に到った東洋人の姿をいくど見てきたことだろう。どのような暗い秘密を知っていることだろう。彼女の出身地はわからなかったが、故国にはもう身寄りも友人もいないに違いない。反英的な気持ちを持っていることはわかるが、冷淡な応待からして、彼を警戒するように言い含められているに違いない。彼女はフランス語以外は話さなかった。昼食や夕食時に、ぽつねんと坐っている孤独な姿からは、何を考えているのか見当もつかなかった。食事をすますとすぐ部屋に閉じこもり、ついぞ休憩室に姿を現わさなかった。大胆な服装をして安カフェでちんぴらどもと踊り狂っているふたりの姫君をどう思っているのだろうか……ただ彼女は、食堂から出て行くときアシェンデンとすれ違うときなど、能面のように感情を表わさない顔に、不快な表情を見せているときがあった。とにかく、彼に嫌悪感を持っていることは確かだった。お互いに視線が合うと、しばらく凝視し合った。しかし彼女のそれには、無言の侮蔑《ぶべつ》がこめられているようであった。病的で悲哀を誘う風情《ふぜい》があるからまだしものこと、厚化粧をしたらシワだらけの顔にただ、人を侮蔑するような表情を浮かべようものなら、そこにはなんとも救いようのないこっけいさを感じずにはいられない。
さてヒギンス男爵令嬢だが、食事をおえると、ハンカチやバッグを手にして、ぎょうぎょうしぐおじぎする給仕を尻目に、広い食堂を気取って歩いてくると、アシェンデンのテーブルのところでふと立ち止まった。華やいだ色香だ。
「ブリッジをつき合って下さるそうでありがたいですわ」と、ほとんどドイツ語訛りのない完壁な英語で言った。「お支度ができましたらいつでもあたくしのところへいらして、コーヒーでも召し上がって」
「すてきなドレスですね」
「こんなひどいものしか着るものがございませんのよ。パリへ行けなくて困ってますの。ドイツ人ってひどいですわ」声を荒げるとRの発音がドイツ語的にひびいた。「なんでまたドイツ人はあたくしの国を戦争に引きずりこんだんでしょうね」
そしてフーと溜息をつき、ちらっと笑顔を見せるとそのまま出て行った。アシェンデンは最後まで食堂でねばっていた。彼が席を立ったとき、食堂はほとんどもう空っぽだった。ホルツミンデン伯のそばを通るとき、からかい気分でちらっとウィンクしたが、このドイツのエイジェントは何の反応も示さなかった。もしも気づいていれば、それがどういう意味か頭をひねったであろう。アシェンデンは二階へよると男爵令嬢の部屋のドアをノックした。
「どうぞお入りになって」と言って彼女はドアを開いた。そして優しく彼の手を取って招じ入れた。あとのふたりはすでに来ていた。アリ殿下と秘書だ。ふたりの姿を見てアシェンデンはあっと息を呑んだ。
「ご紹介いたしますわ殿下。こちらアシェンデンとおっしゃる方です」
彼女はなめらかなフランス語で言った。アシェンデンは会釈して、差し出された手を握った。殿下は素速く彼の顔に視線を移したが、口を開かなかった。令嬢はさらに言葉をついだ。
「パシャとは初めてでしょう?」
「いやどうも、よろしく」秘書官殿は彼の手を柔らかく握りながら言った。「あなたのブリッジの腕のほどは男爵令嬢からうかがってます。殿下も夢中でございましてね、さようでございますね、殿下?」
「ああ、好きだよ」
ムスタファ・パシャはふとった大男で、四十五、六歳だろうか、大きい目がくるくると動き、アゴヒゲを黒々とたくわえていた。ディナー・ジャケットのYシャツの胸には、大粒のダイヤが光っている。この男、非常に口数が多く、一度しゃべりだすと、袋から玉が溢れ出るように、とめどもなく言葉が口をついて出る。これもアシェンデンの気をひくための努力だった。一方殿下の方は無言で坐ったまま、重い瞼の下から静かにアシェンデンを見つめていた。恥ずかしいのだろうか……。
「クラブではお見かけしませんが」とパシャが言った。「バラカはおきらいなんですか?」
「ほとんどやりませんね」
「男爵令嬢は読書家で、あなたが著名な作家だとおっしゃってますが、あいにく私の方は英語ができませんので」
男爵令嬢はまた盛んにアシェンデンを持ち上げたが、彼は適当に、礼を失しない態度で耳を傾けていた。彼女は客にコーヒーと酒類を用意しておいて、カードを取り出した。アシェンデンはこのときになってもまだ、このゲームに招かれた訳をいぶかっていた。手前みそかもしれないが、およそ彼は、自分の人格や能力について冷静な目を持っているつもりである。しかし、ことトランプに関する限り自信も何もなかった。言ってみればまア二流の腕で、いままで名の売れた連中とカードをやってみて、とても足許にも及ばないということをいやというほど味わされていた。これからやろうというのはコントラクト・ブリッジで、ゲームのやり方さえ知らなかった。しかも賭け金が高く、ゲーム自体は何かの口実にすぎないのだろう。しかし本番のゲームがどういうものか、まるで見当もつかなかった。彼がイギリスのエイジェントだということに気がついて、どんな男かひとつ見てやれといった意味合いかもしれなかった。
彼はここ両日、変な空気を嗅ぎ取っていたが、改めていまその正体を見た思いだった。しかしこの集まりがどういう意味のものか、まるで見当がつかなかった。部下のスパイたちも、ヒントになるような情報はもたらさなかった。ただ、男爵令嬢のこの招待が、スイス警察の家宅捜索とつながりがあることは明白だった。ブリッジの集まりも、スイス当局が何の収穫も得られなかったことがわかってから急に手配されたもののようだった。この推測はあくまでも憶測の域を出なかったが、それだけにまた興味も覚えた。彼はゲームをやりながら、相手方のおしゃべりに加わった。もちろん言葉の選択には気をくばり、他の三人の言葉にはことさら注意した。話題は戦争に関することが主で、男爵令嬢とパシャは反独感情をあらわに表現した。令嬢は祖父の出生の国(もともとヨークシャーの厩番だったのだが)が好きだと言い、パシャはパリを心のふるさとだと気取り、モンマルトルとその夜遊びの楽しさを得意げに語った。そのとき殿下がおもむろに重い口を開いた。
「パリはいいところだよ」
「殿下はパリに豪華なアパートをお持ちなんです」と、秘書が口を添えた。「そりゃ見事な絵や等身大の彫像がいくつも飾ってありましてね」
アシェンデンは、エジプトが国をあげて独立を熱望しているのに心を寄せていると同情するような言葉を吐き、ヨーロッパではウィーンがいちばん楽しい都であるとつけ加えた。うわべはともかく、四人はこうして和気あいあいとして語り合った。しかし三人が、スイスの新聞にもまだ出ていない情報を彼から引き出すつもりだとしたら、とんだ見当違いだと内心せせら笑った。おしゃべりの途中、「この連中、私を買収する気でいるのじゃないだろうか」とも疑ってみた。
三人とも遠回しで、計算した言葉使いだったので、しかとはわからなかったが、感じとして、彼らの言わんとしていることが汲みとれた。すなわち、いま世界中の人々が望んでいる戦火の終結に、賢明な作家が一役買って出れば、それだけで祖国に貢献できるし、彼自身も莫大な金銭を得られるということだ。初対面ではあるしそれ以上のことはしゃべりそうになかったが、アシェンデンはなるべく|婉曲に《えんきょく》、それも言葉ではなくて愛想のいい身のこなしで、もっと詳しい話を聞かしてもらいたいという素振りを示した。パシャと美しいオーストリア女との間で言葉をかわしている間に、殿下の鋭い視線が彼に向けられているのが肌に感じられた。心を読まれたのではないかといやな気持ちだった。そしてこの殿下はなかなかの切れ者だと、頭でより肌で感じた。彼が辞去したあと、他のふたりに、こいつは時間のムダだ。あのアシェンデンとかいう男のことは放っておいてもよい、などとのたまうかも知れない。
十二時をすぎて間もなく、一勝負おえたところで、殿下が立ち上がって言った。「もうおそい、アシェンデンさんはあすもご多忙だろうし、これ以上お引き留めできんよ」
アシェンデンはこの言葉を、もう帰ってもらいたいという意味にとった。あとで三人がどんな話をするのか……いささか不審の念を抱きながら部屋を出た。自室に入ると、くたくたに疲れていた。三人もやはり当惑しているに違いない。彼は服を脱ぎながらも瞼《まぶた》がふさがりそうで、ベッドに入るなり寝込んでしまった。
五分も眠ったろうか、ドアをノックする音で目をさました。しばらく耳をすましてその音に聞き入ってからやっと返答した。
「だれです」
「メイドです。開けて下さい。大至急お話ししたいことがあるんです」
寝入りばなを起こすとは何事だと憤慨しながら、明かりをつけ、薄くなりかけた髪をなでつけた。シーザーじゃないが、薄っ禿げの頭を人に見られるのがいやなのだ。彼はドア・ロックをはずして、開けてやった。そこには寝乱れた髪のままのメイドが立っていた。エプロンもつけず、あわてて服だけはおってきたような様子だった。
「エジプトのお姫さま方の家庭教師、あのイギリス人のお婆さんが危篤《きとく》で、お客さまに会いたいとおっしゃってるんです」
「私に?」と彼は答えた。「そんなバカなことはないよ。だって夕食のときはふだんと変わりなかったんだよ」
彼は困惑して、心に浮かぶまま言葉も選ばずに口にした。
「お会いしたいとおっしゃってるんです。お医者さまもお連れしてくれと言われますし……もう長くもちそうにありません」
「何かの間違いだろう、あの人が私に会いたいなんて」
「お名前も部屋番号もおっしゃったんです。とにかく、早く、早くって」
アシェンデンは肩をすくめて、部屋に戻り、スリッパとガウンを引っかけた。そして念のためにピストルをポケットに忍ばせた。もともと彼は、銃より頭脳の働きに信をおいていた。銃を持っていると、見当はずれのときに発砲する恐れが多いし、バカでかい音を立てる。しかし銃のハンドルをまさぐっていると自信めいたものを感じるのは確かだし、この突然の呼び出しにはうさんくさいものがあった。あの愛想のいいエジプトの殿下主従が、ワナをかけるなどという、バカな真似《まね》をするはずはないが、いまのアシェンデンのように毎日単調な仕事をやっていると、えてして一八六〇年代のメロドラマに臆面《おくめん》もなくひたりたくなるものだ。恋のやっこが、使い古された口説《くぜつ》を厚かましく口にするように、偶然の出来事が、かびくさい文学的手法をよみがえらせることもある。
ミス・キングの部屋は二階上にあった。メイドに伴われて廊下を渡り階段を上りながら、あの家庭教師に何が起こったのかを尋ねた。
「よくはわかりませんが、発作が起きたようです。あたし、夜勤の者に起こされたんですけど、ブリデーさんがすぐこいと言っているっていうので……」ブリデー氏とはホテルの副支配人だ。
「いま何時だね」とアシェンデンが訊いた。
「三時ごろですわ」
ミス・キングの部屋の前につくと、メイドがノックした。ドアを開けたのはブリデー氏だった。彼氏も突然叩き起こされたらしく、素足にスリッパをひっかけ、グレーのズボンをはき、パジャマの上にフロック・コートという、なんともちぐはぐな恰好だった。まさに気違いじみている。ふだんはきれいになでつけている髪も、ピンとさかだっていた。彼はすっかり恐縮していた。
「どうもお騒がせして申し訳ございません。でもどうしてもお呼びしてくれってことで、先生もそれを勧《すす》めますもんで……」
「いや私はかまいませんよ」
アシェンデンは奥へ入った。そこは狭い部屋で、どういうわけか電灯がすべてついていた。窓口は閉ざされ、カーテンがおりていた。むっとするほどの暑さだ。アゴヒゲを生やしたゴマ塩頭のスイス人医師が、ベッドのわきに坐っている。ブリデー氏は、服装もめちゃくちゃで当惑した表情だったが、副支配人の威儀を保とうと必死だった。そしてもったいぶったしぐさでアシェンデンを紹介した。
「ミス・キングがお会いしたがっていたアシェンデンさまです。こちらはジュネーブ医師会のアルボス博士です」
医師は無言でベッドを指さした。ミス・キングが横たわっていた。その様《さま》にアシェンデンはショックを感じた。彼女は大きい白木綿のナイトキャップをかぶり、顎《あご》の下でヒモを結んでいた。茶色のカツラは化粧台の上のスタンドにかぶせてあったが、これは部屋に入ったときすぐ気がついていた。白いゆったりとした夜着は首のところまで覆《おお》い隠している。ナイトキャップも夜着も昔のもので、ディケンズの小説でよく見たクルックシャンクの挿絵《さしえ》を思い出させた。彼女の顔は、寝る前に化粧落としに使ったクリームでぎらぎらしていたが、それもいい加減にやったらしく、眉墨《まゆずみ》が黒いシマになっているし、頬紅もむざんに尾を引いていた。ベッドに横たわった彼女は子供のように小さく、老醜もあらわだった。
「八十歳はこえてるだろう」と彼は思った。
その姿はもう人間などというものではなく、さながら人形だった。変屈で皮肉なオモチャ屋が、手すさびに作ったよぼよぼの魔女といった姿だ。あお向けに寝ているのだが、体が小さいために、上にかけた毛布がほとんどふくらんでいない。顔も入れ歯をはずしたためか、いつもよりずっと小さく見えた。縮んだ顔にくっついた異様に大きな黒い両眼が、ぼんやり開いて虚空を見つめていたが、これがなければ死人と間違えそうだった。それでも彼の姿を見たときは目の表情が変わったようだった。
「どうも、こんなことになってお気の毒ですね」と彼はつとめて快活に言った。
「口がきけないんですよ」と医者が答えた。「メイドがお呼びしに行ってる間に、また発作がありましてな。いま注射をしたところです。もう少しすれば片言ぐらいしゃべれるようになるでしょう。あんたに何か話したいことがあるようです」
「それじゃ待ってましょう」
老婆の黒い瞳に安堵の色が浮かんだように見えた。そうして一、二分の間、四人の男女がベッドを囲んで、死に瀕した老婆を注視していた。ブリデー氏がその沈黙を破って口を開いた。
「私がいてもべつに役に立つようなこともないようですから、休ませていただきます」
「ああ、いいですよ」と医者が応じた。「あんたにはべつに用事もないから」
ブリデー氏はアシェンデンに向かって訊いた。
「ちょっとお話があるんですがいいでしょうか?」
「いいですよ」
この気配に、ミス・キングの瞳に恐怖にも似た表情が浮かんだ。
「驚くことはありませんよ」医者がなぐさめるように言った。「アシェンデンさんはどこへも行きません。あなたがいてくれと言えば、いつまででもいてくれますよ」
副支配人はアシェンデンをドアの外まで引っ張って行き、なかばドアを閉じると、中の人間に聞こえないように小声で話しかけた。
「実はあなたを見込んでぜひお願いしたいことがあるんです。と言いますのも、ホテル内で死人を出すというのは、営業上、非常に都合が悪いんです。他のお客さまに不快な思いをさせるのは、どうしても防がなくてはなりません。遺体は私の責任においてすぐ適当に処置いたしますから、このことは他のお客さまにはご内聞にお願いしたいんですが」
「そういうことならご安心下さい」
「あいにく支配人が留守をしているんですが、こういうことがあったと聞いたらいやな顔をするでしょう。できれば救急車を呼んで病院へ移したいんですが、玄関へおろすまでに死んでしまうなどと言って、医者がどうしてもそれを許さないんです。だからまア、ここで息をひきとっても私の責任にはならないと思うんですが」
「死に神ってやつは時を選ばないからね」アシェンデンがつぶやくように言った。
「なんといってもあのトシですからね。もうとっくに死んでても不思議はないくらいですよ。エジプトの殿下も、何を思ってあんな老婆を家庭教師に雇ったんでしょう。まったく東洋人ってのは困り者ですよ」
「殿下はどこにいるんです? 長年彼女を使ったきた人なんだから、起こしたらいいでしょう」
「それがいまホテルにいないんです。秘書とお出かけになったきりでして、バカラでもやってるんでしょうが、ジュネーブ中を捜し回るわけにも参りませんからね」
「じゃお姫さんたちは?」
「まだお帰りじゃありません。毎日のように朝帰りってやつでして。ダンスに夢中なんですよ。どこにおいでになるかは存じませんが、家庭教師が危篤になったくらいで、お遊びの場から引っ張って帰ったりしたら、ふくれっ面をなさるのがせいぜいで。いや、そういう方たちなんですよ。お帰りになったらボーイがお知らせするでしょうが、かえってお喜びになるんじゃないでしょうか。婆さんの方もまた、あのご一家がきらいなんです。さっきも、夜番に起こされて部屋へ入り、殿下はどこにいますかと尋ねますと、『いや、いや!』と泣き叫ぶしまつでしてね」
「じゃそのときはまだ口が……?」
「ええ、どうにか。ところが驚くじゃありませんか、英語で話したんですよ。いつもはフランス語しか話さない人が。極端なイギリスぎらいの方だったんですがねえ」
「それで私を呼んだわけは?」
「わかりませんね。何かあなた様にすぐお話しなくちゃいけないことがあるとか言ってましたが、部屋番号まで知ってるのには驚きましたよ。初めは私、お呼びするのを拒んだんです。半狂乱の老婆の頼みを聞き容れて、この真夜中にお客さまにご迷惑をおかけしたくありませんからね。だいいち、安眠妨害でしょう。ところがあの医者が来て、どうしてもと言うもんでして……。私どもとしましても迷惑の限りです。朝までお待ちなさいと言うと、あの婆さん、泣き出すしまつでしてね」
アシェンデンは副支配人の顔をしげしげと眺めてみた。言葉は大仰そのものだったが、それは表面だけで、内心ではいささかも昂ぶっていないと看てとった。
「医者にあなたのことを訊かれましたのでこれこれしかじかの方だと答えますと、じゃ同じ国の人だから会いたがっているのだろうと言ってました」
「そうかもしれないね」と、アシェンデンはそっけなく答えた。
「じゃ私はこれで休ませていただきます。片がついたら起こすように夜勤の者に言っておきますから。幸い夜の時間が長い季節ですから、うまくいくと、夜が明ける前に遺体を運び出すという具合になるかもしれません」
アシェンデンは部屋へ入った。とたんに瀕死の老婆の黒い瞳が彼にくぎづけになった。何か声をかけてやるべきだと思って口を開きかけたが、死ぬとわかっている人間に慰めの言葉などかけて何になろう。
「お加減が悪いようですね、ミス・キング」
彼女の目にさっと怒気が走った。そらぞらしい言葉に腹を立てたのだろう。
「お待ちいただけるんでしょうか?」と医者が訊いた。
「そりゃもう、もちろんです」
最初、夜勤の者が、ミス・キングの部屋からの電話で起こされたらしいが、受話器をとっても声が伝わってこない。その後もベルが鳴り続けるので、上へあがってドアをノックした。しかしいっこうに返答らしきものがないので、合カギでドアを開いて中へ入ると、ミス・キングが床に倒れていたというわけである。電話も床に落ちていた。急に気分が悪くなって、電話で助けを求めようとしたが、とたんに発作で倒れたようだ。夜勤の者があわてて副支配人を呼んで来て、ふたりで彼女をベッドに寝かしたらしい。ついでメイドを起こし、医者を呼んだのだ。こうした一連の経過を、医者は老婆の枕許でしゃべったのだが、老婆にはフランス語がわからないと決めこんでいるようだった。というより、すでに死体と看なしているのだ。医者はさらに言葉をついだ。
「医者としてもこれ以上のことはできません。ここに詰めていてもムダですよ。何か異常な変化でもあったらお電話を下さい」
ミス・キングの容態が少なくともあと数時間は激変しないと悟ったアシェンデンは、肩をすくめて言った。
「いいでしょう」
医者は子供をあやすようにミス・キングの頬を軽く叩いて、
「お眠りになることですな。朝になったらまた来ますから」
彼は医療器具をカバンに放り込み、手を洗って、コートをはおった。アシェンデンは彼をドアのところまで送って行った。医者は軽く握手すると、ヒゲに覆われた口をもごもごと動かして今後の予想を語った。部屋へ引き返そうとしたアシェンデンの視線にメイドの姿が入った。彼女は、恐ろしい死に神を前にしたように、不安な面持ちで椅子の端っこに坐っていた。大きいぶざまな顔が、疲れと眠気のせいでむくんでいた。アシェンデンはその姿に同情して言った。
「これ以上ここにいても無益だよ。部屋へ帰って眠ったらどうだね」
「お客さまおひとりにはお任せできませんわ。せめてあたしだけでもおつき合いしないと」
「そんな気遣いは必要ないよ。君はあしたも早くから忙しいんだろう」
「毎朝五時起きしなくちゃいけませんの」
「じゃ少しでも眠っとくべきだね。朝起きたとき、ちょっと顔を出してくれればそれでいいんだから、さアさア」
彼女はやっと重い腰をあげた。
「それじゃお言葉に甘えまして。でもあたし、ここに詰めていてもいいんですのよ」
アシェンデンは笑いながらかぶりを振った。
「じゃお休みなさい。おかわいそうなお婆さんですわね」
メイドが出て行くとアシェンデンひとりになった。ベッドわきに坐ると、また老婆の視線とぶつかった。まばたきひとつせずにじっと見つめられるとこっちが当惑するばかりだ。
「何もご心配することはありませんよ、ミス・キング。軽い発作ですからね。まアいまに口もきけるようになると思いますよ」
彼女の黒い瞳に、何かを話そうとして必死になっている様子がありありと浮かんだが、むろんこれは内心のあせりを象徴していた。心は話したくてうずうずしているのだが、麻痺した体が言うことをきかないのだ。彼女のもどかしさが顔全体に現われ、涙があふれて頬をぬらした。
「取り越し苦労をして自分を責めちゃいけません。少し辛抱してれば、何でも話せるようになるんですからね」
待っている時間なんかないんだという絶望的な思いが彼女の目に現われたと思ったが、この推測には彼自身、自信はなかった。あるいは、彼自身の心の投影を彼女の目に見たのかも知れなかった。ドレッシング・テーブルの上には、粗末な化粧道具が載っていた。銀の裏打ちをしたヘアブラシ、銀縁の鏡。部屋の隅には古くさいトランクがあり、衣裳タンスの上には、手アカで光った帽子入れが載っていた。磨きこんだ紫檀《したん》の家具をそなえた豪華なホテルの一室だけに、彼女のそうしたみすぼらしい持ち物がいっそう哀れを感じさせた。部屋の照明が明るすぎて、異様な雰囲気だった。
「電灯を少し消したら落ち着くんじゃないんですか?」アシェンデンが尋ねた。
彼はベッドぎわの照明だけを残してぜんぶ電灯を消し、また腰をおろした。彼はむしょうにタバコが吸いたかった。ところがまたしても彼女の視線にぶつかった。老いさらばえた婦人の生への執着が、目にだけ集中していた。大至急、彼に話したいことがあるらしいのだが、いったいそれは何だろう? どういう話なのか……? 彼を呼んだのは、死期が近いのを悟って、同国人に死に水をとってもらいたかったのだろうか? 祖国を離れて長く異境で生活してきた彼女としては当然の気持ちだろう。少なくとも医者はそう解釈していた。しかし特に彼を選んだのはどういうわけだろう。ホテルにはイギリス人がほかにも泊まっているではないか。インド総督府の役人上がりで、いまは楽隠居の身分の老夫婦もいる。死に水をとってもらうのならあの夫婦の方がずっとはまり役だ。それなのに、いままであれほど白眼視してきたアシェンデンを呼ぶとは奇怪というほかはない。
「私におっしゃりたいことがあるんですか?」
目の表情で答えを読みとろうとしたが、ふたつの黒い瞳は意味ありげに彼に向けられたままだ。意味ありげにと言ったが、その意味は全く見当もつかなかった。
「ご心配なく、どこへも行きはしませんよ。お望みならいつまででもいてあげます」
何だというのだまったく。黒い瞳は、火でもついたように怪しい輝きを見せたが、いぜんとして彼を凝視している。ひょっとするとアシェンデンがイギリスのエイジェントだということを知っていたから呼んだのではないかと、自問自答してみた。死期を悟って、いままで長い年月、彼女をしばってきたものに突如反発を感じたのではないだろうか? それとも、数十年も眠っていた愛国心がよみがえったのか……(私もこんなバカげた夢想にとりつかれるとはヤキが回ったもんだ。まるで三文小説の筋書じゃないか)……そして自分なりに祖国の役に立つようなことをしたいと思い始めたのでは……? 当時はだれも異常な精神状態で、愛国心というものは(平和な時代には政治屋や宣伝屋や軽率な愚か者の専売特許だが、戦時になるとごく平凡な市民でもこいつにとりつかれる)、ときとして人に異常な行動をとらせるものだ。ともあれ、老婆が殿下とそのふたりの姫君に会いたがらないというのは奇妙なことだった。彼女はひょっとすると、常日ごろ自分を祖国に対する反逆者だと考えており、この際その償《つぐない》いをしたいと望んでいるのだろうか? しかしそんなバカなことはありえない。彼女は寿命の尽きた一介《いっかい》の老婆にすぎないのだ。しかし、右の推測をたわいもない憶測として片づけるのには抵抗を感じた。アシェンデンは、ふだんの常識とはうらはらに、老婆が何か重要な秘密を打ち明けようとしているのだと確信した。彼の正体を知っていて、その秘密を何かの役に立ててもらえると思って彼を呼んだのだ。死に直面した彼女はこわいものなしだった。しかしその秘密とは本当に重要なものだろうか? アシェンデンは彼女の目が何を語ろうとしているのかを読み取ろうとして前かがみに顔を近づけた。ごくくだらないことで、錯乱した彼女だけが重要だと考えている類のものかもしれなかった。彼はおとなしい平凡な人間をあえてスパイ扱いし、何の波乱もない所でことを起こそうとする人間にはあきあきしていた。ミス・キングが口をきけるようになっても、役に立つようなことを言う可能性はきわめて少ないと思った。
しかしこの老婆は、いろいろなことを知っているに違いない。鋭敏な耳目で、高官たちにも秘密にされている重要事項を嗅《か》ぎ取るチャンスをつかんだに違いないのだ。アシェンデンは、自分の身辺で、何か重大な事柄が画策されようとしている気がしたことを思い浮かべた。その日に限ってホルツミンデンがホテルに来たというのも気になった。またバクチ狂いのアリ殿下とパシャが、一晩をつぶして彼とブリッジをやったのはなぜだろうか……何か新しい陰謀が企まれているのかもしれない。あるいは、一大事が発生しようとしているのかもしれぬ。老婆が言わんとしていることは、世界情勢を一変させうるものかもしれないのだ。戦争の勝敗を決しかねない情報ではないのか? ところが当の老婆は口もきけない状態でベッドに横たわっている。アシェンデンは長い間、じっと彼女を見つめていた。
「戦争に関係のあることですか?」
彼は突然大声で尋ねた。
目がかすかに動揺し、戦慄《せんりつ》にも似たものがその面上をよぎった。これは確かな反応だ。何か奇怪な恐るべきことが起ころうとしているのだ。彼は息をのんだ。いまにもこわれそうな小さな体が突然震えだし、最後のあがきともいえる強い意志力で、上半身を起こした。彼はあわててその体を支えた。
「イギリス……」とたったひと言、しわがれた声でつぶやくと、彼の腕のなかに倒れかかった? 寝かせて頭を枕にのせると、老婆はもうこときれていた。
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第四章 メキシコ革命の敗者
「マカロニは好きかね」とRが訊《き》いた。
「そりゃどういう意味です。私に詩が好きかと尋ねるのと同じことですよ。詩と言ってもいろいろありますが、私はキーツもワーズワースもベルレーヌもゲーテも好きです。同じように、マカロニと言ってもいろいろあるんですよ。スパゲッティ、タグリアテリ、リガトン、ベルミチュリ、フェッチェニ、ファルファリとね。それとも、ただマカロニぜんぶをさして言ったんですか?」
「マカロニだよ」と口数の少ないRはぶっきらぼうに答えた。
「私は単純な食べ物が好きでしてね。ゆで玉子、カキ、キァビア、若鮎《わかあゆ》、焼いた鮭《さけ》、小羊の焼肉(これは鞍下肉がいいですな)、雷鳥の冷肉、蜜を塗ったパイ、ライスのプディングといった具合です。しかしなんといっても、毎日食ってあきがこず、食べ過ぎてもいっこうに食欲の減退を感じないものといえば、まア、マカロニですな」
「じゃ都合がいいね、こんどイタリアへ行ってもらいたいんだよ」
アシェンデンはRに会うために、ジュネーブからリオンヘやって来た。Rより早目に着いたので、約束の時間までの暇つぶしに、この繁華な町を、退屈で散文的な、それでいて闊達《かったつ》のある街並《まちなみ》みをぶらついて回った。ふたりは広場に面した、とあるレストランに腰をおろしていた。その店はフランスのこの地方ではいちばんうまいものを食わせるという定評があったので、Rを迎えるとすぐ連れて来たのだ。しかし、リオンの連中は美食家が多いせいか、店はたてこんでおり、なかには詮索好きな人間がいて、他人の話の筋道から、あわよくば有用な情報の一片でもとらえようと聞き耳をたてているかもしれない。だからふたりは当たり障《さわ》りのない会話でお茶をにごしていた。そのうちに店自慢の料理も平らげてしまった。
「もう一杯ブランデーを飲むかね?」
「いや、結構です」
たしなみ深いアシェンデンはそう答えた。
「戦争ってやつは厳しいもんだが、ストレス続きじゃたまったもんじゃない。たまにはこうやってそのストレスを和らげる知恵が必要だよ」
Rはそう言ってビンを取り、自分とアシェンデンのグラスにブランデーを注いだ。
アシェンデンは、しいて断わるのも悪い気がしたので、なすがままに任せていたが、この上役のビンの持ち方があまりにも無様《ぶざま》なので、一言いわざるをえなかった。
「私は若いときよくこう言って大人に教えられたもんですよ。女を抱くときは腰を、ビンを持つときは首をってね」
「気のきいたご教示はありがたいが、わしはビンは腰で持ち、女には近よらん主義でね。今後もそれは変えんつもりだ」
さすがのアシェンデンも言葉に窮して口を閉ざした。彼がブランデーをすすっていると、Rは勘定書を持ってこさせた。たしかに彼は重要人物で、多数の部下の生殺与奪の権を握り、彼の言葉は、大英帝国の運命を手中にしている連中でも耳を傾けざるをえぬほどの実権を持っていた。しかしこれほどのRも、給仕にチップを渡すという段になると、とたんにまごつき、それが顕《あらわ》に態度にも現われる。チップの額が大きすぎはしまいか、はたまた少なすぎて笑い物にされるのではないだろうかと、はた目にも困惑しきっている様子が笑止千万《しょうしせんばん》だった。勘定書がくると、Rは百フラン紙幣を数枚アシェンデンに渡してこう言ったものだ。
「払ってくれんか、君。わしはどうもこのフランスの数字ってやつが苦手でね」
ボーイがふたりの帽子とコートを持って来た。
「ホテルヘお帰りになりますか?」アシェンデンが尋ねた。
「その方がよさそうだな」
まだ早春だというのに気温が高く、ふたりはコートを腕にかけて歩いた。アシェンデンは、Rが応接間ふうのくつろいだ部屋が好きだということを知っていたので、そういう部屋を予約しておいた。ふたりはホテルへ着くとその部屋へ入った。旧式なホテルで、間取りもゆったりしていた。グリーンのベルベットを張り、どっしり落ち着いたマホガニーの応接セットがあり、大きいテーブルの回りには椅子がきちんとすえてあった。薄よごれた壁紙を張った壁には、ナポレオン戦争を描いた鉄製の版画がいくつか懸っており、天井にはバカでかいシャンデリアがぶらさがっていた。昔はガスを使ったらしいが、今は電球が入っている。その光が、寒々とした部屋に冷たい、厳しい感じを与えていた。
「こりゃいいね」とRは部屋に入りながら言った。
「しかしあまり居心地はよくないでしょう」
「ああ。でもこのホテルじゃいちばん上等の部屋なんだろう。わしはこれで十分だよ」
彼は応接セットの椅子を引き寄せると、それに腰をおろしながら葉巻に火をつけた。そしてベルトをゆるめて、上衣のボタンをはずした。
「わしは昔からシェルート(葉巻の一種)がいちばん好きだったんだが、戦争このかたハバナのとりこになってね。しかし、これもいつまで続くかねえ……」
彼の口辺に微笑が浮かんだ。
「世の中ってやつはどっちに転んでも、誰かが得をして誰かが損をするもんだ」
アシェンデンは椅子をふたつ引き寄せると、ひとつの方に腰をおろし、もうひとつに足を載せた。これを見たRが、「いいことを思いついたな」と言って、自分も、もうひとつ椅子を引き寄せ、これでよしといった風情でブーツをその上に載せた。
「隣の部屋は何だね?」
「寝室です」
「じゃ向こうのは?」
「宴会場ですよ」
Rは立ち上がると、やおら部屋の中を、ぐるぐると歩きだした。そして窓のところへ行くと、退屈しのぎにといった調子で、厚ぼったい横うねり織りのカーテンの隙間《すきま》から、外をのぞいた。そして椅子のところへ戻るとまた心地よげに足を載せて言った。
「必要以上の危険は冒さない方がいいな」
彼は物思いに沈んだような様子でアシェンデンの方を見やった。薄い唇にかすかな笑いをたたえてはいたが、くっつきそうに寄り合った青い両の目は、冷酷で厳しい表情を保っていた。アシェンデンは慣れているからいいようなものの、Rのその視線は見る人をどぎまぎさせる。いま胸に抱いている話題をどういうふうに切り出そうかと思案しているのだ。ふたりの間を数分の沈黙が埋めた。
「今夜ある男がわしに会いにくることになっている」
Rがまず口を切った。
「その男が乗った汽車は十時前後に着くはずだ」
Rはちらっと腕時計に目をやり、「アダ名を禿頭《はげあたま》のメキシコ人と言うんだ」とつけ加えた。
「なぜです」
「なぜって、頭に毛がないメキシコ人だからそう呼ぶんだ」
「明快そのものの即物的なアダ名ですね」
「いずれ君もその男にたっぷり身の上話を聞かされるだろう。なにしろ口から先に生まれてきたような男でね。初めてわしと会ったときは、そりゃみすぼらしい恰好だったよ。メキシコで革命騒ぎに巻き込まれて、着のみ着のまま国をのがれて来たとか言ってたがね。わしに言わせりゃあれは服なんてもんじゃなかったな。それから君、そいつに会ったら将軍とか閣下とか呼んでやりたまえ、喜ぶから。自分じゃウエルタ軍の将官だったと言っとるんだが、少なくともこのウエルタという名前だけは本当らしい。とにかく、その男の話じゃ、事がうまく運んでたら、いまごろは陸軍大臣をはじめ、他のいろんな要職についてたはずだというんだ。わしは、こいつは使えると思ったね。悪い男じゃないんだ。ただ、いつも香水の匂いをぷんぷんさせてるのが気に入らんがね」
「それで私はどうすればいいんです」
「その男をこれからイタリアへ派遣するんだ。ちょっと難かしい指示を与えたんだが、君はその監視役だ。なにしろ大金を持たせてやるんだからね。おまけにそいつはバクチと女には目がないときてる。君はジュネーブからアシェンデン名儀のパスポートで来たんだろうな」
「はい」
「別のを一枚用意してある。外交官用のもんで、名前はサマービル、フランスとイタリアのビザ(入国査証)がついてる。まアふたりで仲よくやってくれ。やつは調子にのると面白い男だし、任務の上からも、お互いに親密になっとかなくちゃいかんからな」
「で、どういう仕事なんです」
「君に話していいもんかどうか、決心がつきかねてるんだよ」
アシェンデンは黙っていた。そしてふたりはそのままさりげなく相手の様子をうかがっていた。ちょうど汽車に乗り合わせた他人同士が、お互いに相手が何者かを心中ひそかにさぐり合っているのと同じ具合だった。
「わしだったら、おしゃべりはもっぱら将軍の方に任せるね、絶対必要だと思ったこと以外は口にしないことだ。やつの方もその点は心得ていて、とやかく質問をすることはないと思うがね。自分じゃ紳士のつもりでいるんだから」
「ところで、その男の本名は?」
「わしはいつもマヌエルと呼んでるよ。あまりお気に召さんようだが、とにかく、マヌエル・カルモーナっていうのが名前だよ」
「察するところ、どうもその男、ハシにも棒にもかからない|やくざ《ヽヽヽ》のようですな」
Rは青い目に微笑を浮かべた。
「そこまで断定するのはどうかねえ。もちろん、パブリック・スクールの出身じゃないし、賭け事をやるにしても、君やわしとは全く違った考え方でやるしね。たとえばポーカーをやるときに、君が金製のシガレット・ケースをそばに置いといたとする。やつはゲームに負けたら、さっさとそのケースを質屋に放り込んで、その金で借りを返すだろう。すきがあれば、君の細君だって盗みかねん。そして君に気づかれたら、さっと手を引いて、君とふたりで仲よく、パンの最後のかけらまで食おうっていうずうずうしさを持ってるんだ。しかしまた一方じゃ、グノーの『アベ・マリア』を聴いて涙を流すっていう純情さも持ち合わせている。しかし、やつの自尊心を傷つけるようなことをしたら、犬ころみたいに君を射殺するだろう。メキシコじゃ、酒と男の間にわけて入るのは侮辱とされてるらしいからね。やつに聞いた話じゃ、いつか、何も知らないオランダ人が、やつとカウンターの間をすり抜けたので、やっこさんとっさに銃を抜いて拳ち殺したそうだよ」
「その男は処罰されなかったんですか?」
「ああ、なんでも向こうじゃ名門の出らしいんで、事件はもみ消しになり、新聞にはそのオランダ人が自殺したという記事になって出たそうだ。まア自殺と同じようなもんだがね。とにかくこの『禿げ頭のメキシコ人』は、人の命など|う《ヽ》の毛ほどにも考えていない怪物なんだ」
話を聞きながらじっとRの顔を見ていたアシェンデンは、ここまで聞いてギクリとした。そしてよりいっそう注意深く、上司のくたびれた、シワに刻まれた浅黒い顔を見すえた。
Rのこの言葉にはもちろん深い意味がこめられていた。
「もちろん、人命の価値についちゃ、世上いろんな愚にもつかん議論があることは知ってるよ。むしろ、ポーカーの賭けなんかの方が、それ本来の価値を持ってると言えるだろう。ありゃ自分で望むだけの価値がつけられるからね。戦場でだって同じことが言えるね。指揮官は兵隊をただの員数としか考えん。部下のひとりひとりを人間扱いするようなおセンチな将軍は、指揮官としちゃ失格だからね」
「しかし、いくら員数だと言っても、兵士だって人間です。物を感じたり考えたりしますよ。消耗品扱いされたら、もういやだと言って拒否することだってできるはずです」
「まアとにかくいまは、君とわしとでそんな議論をやってるときじゃない。情報によると、コンスタンチン・アンドレアディなる人物が、われわれがノドから手を出しても欲しいようなある文書を持って、コンスタンチノープルを出発している。この男はエンベル・パシャ直属のギリシア人スパイで、エンベルにえらく信用されてるんだ。文書のほかには、ある極秘事項で紙には書けないような情報を、口頭で託したらしい。彼はイサカ号という船でピリーウス港を出て、ブリンディシで上陸してローマに向かう予定だ。ローマに着いたらドイツ大使館に文書を渡し、大使にその極秘情報を口頭で伝えるらしいんだ」
「なるほど」
このときイタリアはまだ中立的な立場をとっていた。ドイツと敵対している欧州各国は、あくまでもその中立を維持させようとその工作に奔走していた。連合国側全体としてもこれと同時に、イタリアを自分の陣営に引き入れてドイツに宣戦布告をさせるべく必死の努力を傾けていた。
「イタリア当局とは摩擦を起こしたくない。万一のことがあれば致命的なことになる。しかしアンドレアディは絶対ローマへ入らせちゃいかん」
「いくら金がかかっても?」
「金なんか問題じゃない」Rは唇を皮肉にゆがめた。
「どういう方法でやります?」
「君はそんなことを考えなくてもいいよ」
「これでも想像力の強い方ですがね」
「メキシコ人と一緒にナポリへ行ってくれたまえ。あの男はむしょうにメキシコへ帰りたがってる。仲間の連中が革命を企ててるんで、いざとなったときには一気にメキシコへ帰れるように、できるだけ海のそばにいたいってわけさ。しかしそのためには金が必要だ。金はわしが米ドルで用意してある。今夜にでも君に渡すから、持って行きたまえ」
「大金ですか?」
「あたりまえだ。しかしあまりカサばると都合が悪いと思って、千ドル紙幣にしてある。メキシコ人がアンドレアディが持ってる文書を取って来たら、それと引き換えに渡してやってくれ」
ある質問が喉もとまで出かかったが、アシェンデンはやっとそれを飲み込み、別のことを尋ねた。
「そのメキシコ人ですが、自分の任務はわかってるんでしょうな?」
「もちろんだよ君」
このときドアにノックの音がし、当のメキシコ人が部屋に入って来てふたりの前に立ち止まった。
「いま着いたんです。よろしく頼みますよ大佐」
Rは立ち上がった。
「遠路ご苦労さん。紹介しとこう、これはサマービルさんって方でね、君と一緒にナポリへ行くことになってるんだよ、カルモーナ将軍」
「そりゃどうも」
アシェンデンは彼と握手したが、その握力のあまりの強さに思わず身をひいた。
「まるで鋼鉄みたいな手だ」とアシェンデンがつぶやいた。
将軍は自分の手にちらりと視線をくれると、
「けさマニキュアをさせたんだが、あんまりいいできじゃありませんな。私は爪をもっと磨きあげた方が好きなんですよ」
そう言われて爪を見ると、いずれも先が尖り、まつ赤なマニキュアをしてある。アシェンデンにはそれが鏡のように光って見えた。
彼は寒くもないのに、アストラカンの襟《えり》がついた毛のコートをはおり、一挙一動のたびに振りまく香水の匂いがつんと鼻をついた。
「まア将軍、コートなんか脱いで葉巻でもやりたまえよ」とRが言った。
メキシコ人は背が高く、やせてはいたが、見る者に威圧感を与えた。ブルーのサージのスーツをスマートに着こなし、上衣の胸ポケットには絹のハンカチがきちんと収まり、手首には純金の腕輪といったスタイルだった。顔の造作はりっぱだが、いずれもやや大ぶりで、茶色の目は油っこくぎらついていた。アダ名通り頭には毛が一本もなかった。黄色味を帯びた肌《はだ》は、女のように滑《なめ》らかで、眉毛も|まつげ《ヽヽヽ》もない。くすんだ茶色のカツラの毛はやや長めで、芸術家気取りにわざと乱してある。この頭とシワひとつない青白い顔は、しゃれのめした服とあいまって、初めはちょっと奇怪な印象を与えた。まったく鼻もちのならない、相手にするのがバカバカしいような男だが、たしかに人の目を魅きつけるものを持っている。その異様さゆえに無気味な魅力があった。
彼は椅子に坐ると、ズボンのひざの線がくずれないように、ちょっとたくし上げた。
「どうだねマヌエル、きょうは女を何人ふってきたんだね」
Rが冗談めかしてひやかした。
将軍はアシェンデンの方を向いて言った。
「大佐は私が女にもてるので妬《や》いてるんですよ、私の言う通りにすれば、女ぐらい何人でも手に入ると、いつも言ってるんですがね。まア要は男としての自信だな。ふられるのを恐れてちゃ女はものになりませんや」
「バカを言え。女の扱い方は人それぞれ違うもんだ。君は、女が抵抗しがたい何かを持ってるんだよ」
メキシコ人は満足げに顔をくずした。また彼は、それをあえて隠そうともしない。英語は達者だったが、スペインふうのアクセントにアメリカ流のイントネーションという複雑な英語だった。
「いや、実を言いますとね大佐、汽車の中で、リオンにいる義母に会いにくる途中だというかわいい女と話をしたんですよ。ちょっと年をくっていて、私の好みよりいくぶん細い体をしてましたがね、これがどうして話のわかる女で、お蔭でこっちは楽しませてもらいましたよ」
「まアいいさ。この辺で本題に入ろう」とR。
「ええどうぞ」そう言うと彼は、アシェンデンの方をちらっと見やった。
「サマービルさんは軍人ですか?」
「いや」とR。「作家だよ」
「世の中はいろんな人間が寄り集まって作るもんですからね。あんたとお知り合いになれて嬉しいですよ、サマービルさん。これでも私、作家に興味を起こさせるような話をたくさん知ってます。あんたとならウマが合いそうですな。だってあんたは人に同情する心根をお持ちのようだし、私はまたそういうことに敏感なたちですからな。ほんと言って、私は神経のかたまりのような男ですよ。だから私に反感を与えるような人間にぶつかると、一ぺんでガタガタと参ってしまうんです」
「まア楽しい旅ができるといいですね」
「ところで相手はいつブリンディシに着くんです」
メキシコ人がRの方を向きながら訊いた。
「この十四日にイサカ号でピリーウスを発つことになってる。おそらくボロボロの古船で船足もおそいだろうが、ブリンディシヘは早めに行った方がいいね、君たちは」
「そりゃそうです」
Rは立ち上がると、両手をポケットに突っ込んだままテーブルの端に腰掛けた。上衣のボタンをはずしたヨレヨレの制服姿は、上等の服をきちんと着こなしたメキシコ人と比べると、いかにも貧相でだらしなく見えた。
「サマービル君は、君の任務の内容は何も知らない。君もまたしゃべってほしくない。秘密保持という点からもね。彼の任務は、君の工作に必要な金を渡すことだけだ。工作の方法いかんは君の自由な裁量に任す。しかし彼のアドバイスがほしいと思ったら、いつでも求めていいからね」
「私は他人にアドバイスを求めない主義でしてな」
「それから万一失敗するようなことがあっても、サマービル君を巻き込むことだけはさけてほしいね。この人に嫌疑がかかっちゃ困るんだ」
「私は名誉を重んじる男ですよ大佐」とメキシコ人は威儀を正して言った。「友人を裏切るくらいなら、自殺した方がましです」
「そのことをいまサマービル君に話してたんだ。ともあれ、計画が予定通り成功したら、例の文書と引き換えに、約束した報酬をサマービル君が渡すことになってる。君がどうやって文書を入手するかは、彼の関知しないところだ」
「そりゃ言うまでもないことです。それからひとつだけはっきりさせておきたいことがあるんですが、私がただ金もうけのために任務を引き受けたんじゃないってことは、サマービルさんもご存じなんでしょうな?」
「もちろんだよ」
Rは彼の目を見すえながら重々しく答えた。
「私はこれでも、身も心も連合国側に捧げてるんですよ。ドイツがベルギーの中立を侵したことは許し難《がた》いと思ってるんです。仮に報酬を受け取るとしても、それは私が愛国者だからですよ。サマービルさんは黙って信用してていいんでしょうね?」
Rは肯《うなず》いた。メキシコ人はこんどはアシェンデンの方を向いて口を切った。
「いまわれわれの同志が、搾取と破滅をもっぱらとする圧政者の手から祖国を解き放つために、解放戦を企画してるんです。私が受け取る金はすべて銃や砲弾のために使うつもりです。私個人としては、金なんかほしくありません。私は一介の兵士です。パンのかけらとオリーブの実さえあれば生きてゆけます。まアいわゆる紳士のなりわいとしてふさわしいものといえば、戦争とバクチと女、この三つですよ。銃をかついで山へ入って行く分には金は一文もかからんでしょう。しかしそれがもっと規模が大きくなって、いまヨーロッパでやってるような大部隊を動かしたり大砲をガンガンぶっ放したりするってのは、こりや戦争本来の意味から言えば、邪道そのものでしょうな。それから女ですが、あれはこっちで誘わなくても私にくっつきたがるし、バクチはバクチでほとんど勝ってしまうんですよ」
ハンカチには香水、手首には金の腕輪というこの異様なけばけばしさを持つ男に、アシェンデンは感じ入るところがあった。その辺の街角で見かける人間とはまるでケタはずれの男なのだ(ふつうの人間なら初めの間こそ暴政に怒りを示すが、結局最後には屈服してしまう)。人間というものが持っている怪奇的な面に興味を持つ連中にとって、この男はまさに珍重すべき存在であった。カツラをかぶり毛のない大きい顔をしていたが、彼には一種の風格があった。およそ常識とはかけはなれた男だが、軽くあしらえる男じゃないという印象を人に与えた。その自己満足たるや、驚嘆にあたいすべきものだった。
「旅行カバンはどこにあるんだね、マヌエル」と、Rが訊いた。
いままで得々としゃべり続けていたのを出し抜けに冷たくさえぎられた恰好で、ちょっと眉を曇らせたが、さして不快な表情は見せなかった。アシェンデンは、彼が大佐のことを、微妙な感情の動きを感じない無神経な野蛮人だと考えているのではないかといぶかった。
「駅へ預けてきましたよ」
「サマービル君は外交官用のパスポートを持ってるから、なんなら彼の荷物と一緒に無検査で国境を通せるよ」
「荷物と言っても私のは服と下着だけですが、サマービルさんがそうしてもいいとおっしゃるんなら、お頼みしましょうかね。パリを発つ前に、絹のパジャマを半ダースほど買って持ってるんですよ」
「君の方はどうかね?」とRがアシェンデンに尋ねた。
「カバンひとつだけです。部屋においてありますが……」
「ホテルの者が起きてる間に駅まで届けてもらった方がいいね。汽車が出るのは一時十分だ」
「えっ?」
まさかその夜すぐ出発とは思ってなかったのでこれにはいささか驚いた。
「できるだけ早くナポリへ行った方がいいと思うんだ」
「いいでしょう」
Rは立ち上がった。
「わしは寝るからね。あとは好きなようにしてくれ」
「じゃ私は街の散歩としゃれますかな」とメキシコ人がおどけて言った。
「生ま身の人間の生態に興味があるんですよ。百フランばかり貸していただけませんか大佐。小ゼニを切らしてるもんで」
Rはサイフを出して将軍に金を渡した。そしてアシェンデンに訊いた。
「君はどうする? ここで時間まで待ってるかね?」
「いや、私は駅へ行って本でも読みますよ」
「ふたりとも出て行く前にハイボールでも飲みたまえ。どうだねマヌエル?」
「せっかくですが、私はシャンパンとブランデーしか口にしない主義でしてね」
「ミックスして?」と、Rがそっけなく尋ねた。
それに応えて閣下はまじめくさって言った。
「そうとは限りませんよ」
Rはブランデーとソーダを注文し、それがくると、Rとアシェンデンはめいめい自分でミックスして飲んだが、メキシコ人は生のブランデーをタンブラーに四分の三ほど満たし、ゴクゴクと、音を立ててふた口で飲みほしてしまった。そしてやおら立ち上がると、アストラカンの襟《えり》のついた例のコートをはおり、大胆なスタイルの黒い帽子を片手に持つと、もう一方の手を、愛する女を別の男に譲り渡す二枚目役者の演技よろしく、Rの方へ差し出した。
「じゃ大佐、おやすみなさい。いい夢をごらん下さいよ。もう、当分お会いできないと思います」
「ヘマをやらんように頼むよ。万が一失敗しても絶対口を割らんように」
「噂じゃ、イギリスの海軍兵学校には、こういう言葉が金文字で書かれているそうですね。いわく、イギリス海軍には不可能という言葉はない、と。私にも失敗という言葉は通じないんです」
「同義語ならいくらでもあるがね」とRが皮肉にやり返した。
「じゃ駅でお会いしましょう」と言うとメキシコ人は派手な所作でふたりに別れを告げた。
Rは微笑しながらアシェンデンを見た。この人物は、微笑するとかえって顔が狡猾《こうかつ》に見えるから不思議である。
「君、あの男をどう思うね?」
「すっかり面くらいましたよ、あれは山師ですか? クジャクみたいに気取り屋で見栄坊だし、それにあのおぞましい恰好……、ほんとに女にもてるんでしょうかね、彼が言うほど。信用できるんですか、あんな男?」
Rは低く笑うと、やせてじじむさい手を石鹸《せっけん》で洗うようなふりをした。
「君のお気に召すと思ったんだがねえ。やっこさん全く個性的だろう。わしは信用できると思うね」Rの目が急にうつろになった。「われわれを裏切ったところで彼の得にはならん」ここでRはしばらく口を閉ざし、「とにかく、危険は承知の上だ。乗車券と金を渡すから、君はすぐ発ってくれたまえ。わしはもうくたくたで、早く寝たいんだ」
十分ほどしてアシェンデンは、ボーイに荷物をかつがせて駅へ向かった。
汽車の発車まで二時間近くあったので、彼は待合室に落ち着いた。照明もほどよく、小説を読むのにはちょうどよかった。パリ発ローマ行きの汽車の到着時間が近づいても、メキシコ人は現われなかった。アシェンデンはちょっと心配になり、プラットフォームへ上がって彼を捜した。アシェンデンには「汽車恐怖症」とでもいうべきいやな持病があった。汽車が到着する一時間ほど前になると、もしや乗り遅れるのではないかという不安が頭をもたげ始めるのだ。彼はホテルのポーターが、いつも時間ぎりぎりにならないと荷物を運び出さないのに腹を立て、ホテルのバスがなぜ時間がせっぱつまるまで発車しないのか理解できなかった。またバスが出ても、道路で通交止めにあったりすると憤激し、駅の赤帽の怠惰な動作もしゃくにさわった。世の中の者がよってたかって彼を遅らせようと企んでいるのではないかとさえ思うのだ。柵の間を通るときも人が邪魔をするし、一方、乗車券売場でも、彼よりあとの汽車に乗る連中が長い列を作り、券を買った者がまたどいつもこいつも、腹立たしいほどの慎重さでツリを数えて時間をくうし、自分の手荷物をチッキにするときにも無限の時間がかかるようでいらいらするしまつなのだ。友人たちと旅行する場合でも、彼らは新聞を買いに行ったり、プラットフォームをぶらついたり、この連中きっと乗り遅れると心配してやっているのに、知らない人間と立ち話をしたり、急に電話をかけたくなって駆け出して見えなくなったりで、いつもハラハラしながらひとり憤慨するのが常だった。実際、みんなが彼を乗り遅れさせようとはかっているとしか思えなかった。彼は少なくとも発車三十分前にはシートに落ち着き、荷物を頭上の棚に乗せてないと、平静でいられなかった。ときには発車時刻よりずっと先に駅へ着き、予定の列車より早く出るやつに乗ることさえあった。しかしともかく、汽車に乗るときはいつもいらいらして、乗り遅れはすまいかという不安にとりつかれるのだ。
ローマ急行の発車信号が出ても、メキシコ人の姿は見当たらなかった。アシェンデンはますますいらだち、プラットフォームを往ったり来たり、待合室をのぞいたり、手荷物を預けてある「手荷物室」へ行ったり、さんざん駆けずり回ったが、メキシコ野郎の姿は見えない。この急行には寝台車がなく、大勢の人間が乗り降りしていた。彼は一等車に席をふたつとってあった。デッキに立ってプラットフォームを見回したり、その間には時計を見たりで気が気ではない。相棒が現われなければ旅行の意味がないのだ。赤帽の「ご乗車ねがいます」という声を聞きながら、荷物をまとめて汽車を降りようと決心した。あのバカ者め! 姿を見たらどなりつけてやろう。発車まであと三分だ。そして二分、一分……。夜中なのでもう人影もまばらで、乗るべき者はみんなシートにおさまっていた。そのとき禿頭のメキシコ人が姿を現わした。赤帽ふたりに荷物を持たせ、山高帽の男と一緒に、悠然とホームを歩いてくるではないか。そしてアシェンデンの姿を見つけると手を振ってみせたものだ。
「やあどうも、いましたね。どうなったのかと思って心配してたんですよ」
「何を言ってるんだ。早くしないと汽車が出てしまうじゃないか」
「あわてなくても大丈夫ですよ。いい席がとれましたか? 駅長はもう帰宅していないんですが、こちらさんは助役です」
アシェンデンがうなずくと、助役が帽子をとってあいさつした。
「しかしこりやふつうの車輌だ。こんなものに乗って旅をするのはイヤだね私は」彼は助役の方に向き直って微笑んでみせた。「なんとかしてくれんかね君」
「かしこまりました、閣下。個室《コンパートメント》へご案内いたします」
そう言うと助役は、ふたりを先導して、ベッドがふたつしつらえてあるコンパートメントへ入れてくれた。メキシコ人は満足そうにあたりを見回し、それから赤帽が荷物を整理しているのを見ていた。
「これなら上等だ。どうも手数をかけてすまなかったな」彼は山高帽の助役に手を差し出した。「あんたのことは忘れんよ。こんど大臣に会ったらあんたの親切のほどをよく話しておくから」
「いや、恐れ入ります、将軍。お役に立てて嬉しゅうございます」
汽笛が鳴って汽車が動き始めた。
「こりゃ一等車よりずっといいですね、サマービルさん。旅行するときは要領が第一。でないと、しなくてもいい損をしますからね」
しかしアシェンデンの不機嫌はまだ続いていた。
「何か知らんが、時間ぎりぎりにくることはないでしょう。これで乗り遅れでもしてたら、大の男がふたり、まぬけ面をさらすことになったんですよ」
「いや、間違っても乗り遅れるようなことはありません。私は駅に着いたとき駅長に一発かませてやったんです。私はメキシコ陸軍の総司令官、カルモーナ将軍だってね。リオンへ立ち寄ったのはイギリスの陸軍元帥と会談するためだ。発車時間に遅れるようなことがあったら汽車を待たせておいてくれ、必要とあればわが国政府から命令を出させてもいい、という調子ですよ。私は以前にも一度このリオンへ来たことがあるんですが、ここの女はいいですぞ。パリジェンヌほどシックじゃありませんが、なんとなくいいところがあるんです。こりやもう私が体で知ってますから否定できませんよ。おやすみになる前に、ひとくちブランデーを飲みませんか?」
「いや、ほしくないね」アシェンデンは面白くもないといった調子でぼそっと答えた。
「私は寝る前に必ず一杯やるんですよ。神経が休まりますからな」
彼はスーツ・ケースをのぞき込んで、すぐブランデーのビンを取り出した。そしてラッパ飲みにぐいと口中に液体を流し込み、手の甲で唇を拭うと、タバコに火をつけた。そして、ブーツを脱いでベッドに横になった。アシェンデンは灯を細めた。
「どうも、どっちがいいか決め難いですね」メキシコ野郎は考え深そうに言った。「美人に口づけしたまま眠る方が心地いいのか、はたまたタバコをくわえたままの方がいいのか、ね? メキシコへ行ったことがありますか? じゃあしたゆっくりお話しましょう。おやすみなさい」
ほどなくしてアシェンデンは、彼の寝息を聞いたが、そのうち自分も寝入ってしまった。やがて目が覚めたが、相手は身じろぎもせずに熟睡している。毛のコートを脱いで、毛布代わりに使っていた。しかしカツラはつけたままだ。突然ぐらっと車体が揺れると、ブレーキをきしませながら汽車がとまった。アシェンデンが、何ごとだろうといぶかってる間に、メキシコ人はもうすでに腰に手を当てて立ち上がっていた。
「どうしたんです」と彼が叫んだ。
「さアね、停止信号でも出たんでしょう」
それを聞いて相手はどっかとベッドに腰をおろした。アシェンデンは電灯をつけた。
「熟睡してたわりに目ざといですな」
「仕事が仕事だもんで癖になってるんですよ」
アシェンデンはその仕事が人殺しか、陰謀をはかることか、はたまた一軍を指揮することか、よほど尋ねてみようと思ったが、あまりにもぶしつけなような気がして口をつぐんだ。将軍はバッグを開けるとまたビンを取り出した。
「ひとくちどうです? 夜中にとっぴょうしもなく目が覚めたときなんか、これに限りますぞ」
アシェンデンがほしくないと言うと、彼はまたラッパ飲みで、多量の液体を喉に注ぎ込んだ。そしてフーッと大きく息をつくとタバコに火をつけた。彼はほとんど一ビン、ブランデーを飲みほした。街をほっつき歩いている間にも相当飲んだに違いないのだが、まったく酔いの気配を見せない。動作や言葉使いにも、アルコールを口にしたような様子は見られなかった。
汽車が再び動きだし、アシェンデンはまた眠りにおちた。目を覚ますともう朝だった。けだるい気分であたりを見回すと、メキシコ人はもう起きて、タバコをくゆらしていた。彼の回りの床には吸いガラが散らばり、空気は煙でにごっていた。夜気は体に毒だから、窓は開けないでくれと、アシェンデンにくどいほど言って、窓を開けさせなかったせいだ。
「起こしちゃ悪いと思って、横になってたんです。先に顔を洗いますか、それとも私が……?」
「私は急がないからどうぞ」とアシェンデンが答えた。
「私は古株の闘士ですからね、簡単にやっつけてしまいますよ。あなたは毎朝歯を磨くんですか?」
「ええ」とアシェンデン。
「私もそうなんですよ。ニューヨークにいたころからの習慣でしてね。きれいな歯並みってやつは男の身だしなみのひとつですよ」
将軍はコンパートメントの中にある洗面台に向かって、ゴクゴク、ブクブクとやりながら、勢いよく歯を磨いた。そして、バッグからオーデコロンのビンを出してタオルにふりかけ、顔と手をこすった。次にクシでていねいにカツラの毛をととのえた。寝ていてもずれなかったのか、それともアシェンデンがまだ眠っている間にきちんとかぶり直したのか、とにかく、まともに頭にかぶさっている。彼はもうひとつビンを取り出したが、それにはスプレーがついていて、バルブを押してシャツとコートに香水の霧をふりかけ、ついでにハンカチにもたっぷりしみこませた。そして、世間さまに対する義理を果たした人間のように上機嫌で顔をにやつかせ、アシェンデンに向かって言った。
「さてと、これできょう一日の戦闘準備が完了しました。化粧道具はこのままにしておきますから、自由に使って下さい。このオーデコロンはパリでいちばん上等のやつですから、どうぞご心配なく」
「いや、どうも。私は水と石鹸さえあればいい方だから」
「水? 水なんて風呂でだけ使うもんです。なにしろ肌に悪いんですからな」
汽車が国境に近づいたとき、アシェンデンは、前夜将軍が突然起き上がって腰に手を当てたときの様子を思い出して、こう注意した。
「銃を持ってるんなら私に預けなさい。外交官のパスポートを見せたら検閲を免かれます。しかしあんたは身体検査をされるかもしれないし、この際ごたごたは避けたいですからね」
「こんなもんは武器とは言えん、ただのオモチャですよ」そう言いながら彼は腰のポケットから弾をいっぱい装填したバカでかいリボルバーを取り出した。「いっときでもこいつを身に着けてないと、正装した気分になれないんですよ。しかしあんたの言う通り、危険はさけなくちゃならない。ナイフも預かってもらいましょうか。私は銃よりナイフの方が好きなんです。武器としちゃずっとエレガントですからな」
「人それぞれ癖があるもんです。あんたはナイフの方が慣れてるんでしょう」
「銃なら引き金をひけばそれでいいが、ナイフを使うとなると、やはり、技術を要しますからな」
あれっと思う間に彼はチョッキをさっと開き、ベルトからもぎとるように、殺気のこもった長身のナイフを引き出した。そして彼はその大きい、醜悪な、毛のない顔に微笑を浮かべて、ナイフをアシェンデンに手渡した。
「サマービルさんとやら、こいつは凄《すご》い代物《しろもの》ですぜ。私もこんなみごとな刃物を持ったのは初めてです。刃はカミソリみたいに鋭くって、しかも頑丈この上もない。タバコの巻き紙でも太いオーク材でも一振りです、まったく狂いがないですからね。たためば、学校の生徒が机に彫刻するときにでも使えるんですよ」
カチッという音とともにナイフをたたみ、アシェンデンに渡した。アシェンデンはそれを銃と一緒にポケットにしまいこんだ。
「ほかに何か?」
「手ですな」と、メキシコ人は傲慢《ごうまん》そうに答えた。「しかしいくら国境の警備員でも、手を問題にすることはないでしょう」
アシェンデンは初めて彼と握手したときのあの力強さを思い出してぞっとした。大きい、長い、なめらかな手だった。しかし、その甲にも手首にも毛が生えていない、ただ、赤いマニキュアをした尖った爪には、一種の妖気《ようき》が漂っていた。
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第五章 ある女スパイの物語
アシェンデンとカルモーナ将軍は、国境で別々に所定の手続きを了《お》えると、コンパートメントに戻った。アシェンデンは相棒に銃とナイフを返して、フッと溜息をついた。
「さて、これでひと役おえましたね。ひとつトランプでもやりませんか?」相棒が提案した。
「それもいいですね」アシェンデンが応じた。
メキシコ人は再びバッグを開いて、隅の方から手アカによごれたフランス製のカードを一組取り出した。エカルテをやらないかと訊かれて、知らないと答えると、それじゃピケットをやろうと言いだした。これなら手すさびにやったことがあるので、ふたりは賭け金を決めると、さっそくゲームを始めた。ふたりともせっかちな方なので、初めと終わりをダブらせ、四本の手を縦横に使ってめまぐるしいほどの速さで勝負を争った。アシェンデンにも結構いい手がくるのだが、相手の方はいつも、更にいい手を持っている。アシェンデンは大きく目をあいて、勝負ごとにはつきものの偶然の不公平さを相手が自分に都合のいいようにトリックを使って変えているのではないかと、注意を怠らなかった。しかし彼は、べつにインチキをやってるふうはなかった。こうしてアシェンデンは次から次へと負け続けた。まったく一方的な負け方で、手も足も出ない。そして最後には負け数がどうにもならないほど多くなり、ついに千フランにまで達した。当時の千フランといえば大金だ。将軍はむやみやたらとタバコの煙を口から吹き出していた。彼は自分でタバコを巻くのだが、指をちょいとひねって舌でなめ、あっという間に巻いてしまう。やがて彼はシートに背を当ててふんぞり返った。
「つかぬことをお訊きしますが、任務の遂行中なら、バクチの負けもイギリス政府が支払ってくれるんですか?」
「とんでもない」
「じゃこの辺で見切りをつけましょうか。負けを経費でおとせるんなら、ローマへ着くまででもやるんですがね。まアあんたは私に同情的な態度で接してくれるし、あんた個人の金を巻き上げちゃ申し訳ないですからな」
彼はカードをわきへ片づけた。アシェンデンは情けなさそうに紙幣をあらため、メキシコ人に渡した。彼はそれを数えると、例の気取った手つきでていねいに折りたたみ、サイフにしまった。そして体を前に乗り出して、優しくアシェンデンのひざを叩いたものだ。
「私はあんたが好きだ。謙虚で気取りがなくって、イギリス人特有のあの傲慢《ごうまん》さもない。だからこれは本当に心から忠告するんですがね、今後は知らない人間とは絶対ピケットをやっちゃいけませんよ」
この言葉にアシェンデンはちょっとムッとした。それがまた顔に現われたのだろう、メキシコ人が彼の手を握って言った。
「まさかいまの言葉がカンにさわったんじゃないでしような? 私は毛頭《もうとう》そういうつもりじゃなかったんですからね。そりゃ私と比べたら、あんたの腕はちょっと落ちますが、ほかの連中とやったら必ず勝ちますよ。いや、ほんとです。これからもずっとご一緒できるんなら、カードに勝つ秘訣をお教えしてもいいんですがね。カードは金をもうけるためにやるもんで、負けちゃ意味がないですよ」
「勝つのはやっぱり実力でしょうね、恋愛でも戦争でも。私はツキなんてもんは信じないんです」アシェンデンはにたりと笑いながら言った。
「笑いましたね、あんた? 負けても笑ってるようでなきゃ男と言えませんよ。あんたはユーモアと良識に富んだいい人だ。将来は出世間違いなしです。私がメキシコへ帰って、領地を取り戻したら、ぜひたずねて来て下さい。王侯なみのご接待をしますよ。粒よりの馬を揃えて乗っていただきましょう。闘牛へもお伴します。お気に召す女の子がいたら、ちょっと耳うちして下さい、いつでも夜伽《よとぎ》をさせますよ」
彼は昔語りを始めた。以前持っていた広大な領地、ハシエング(大農園)、鉱山のことなど。封建時代の領主のような生活だったらしい。とにかく話の真偽などはこの際問題ではなかった。彼の口からもれるひびきのいい言葉には、豊醇《ほうじゅん》なロマンスの香りがあった。今は昔の豊かな暮らしを語り、その雄弁なジェスチャーは、黄褐色の草原、広大な緑の農園、牛の大群、静寂の底に沈むような、月夜の夜気に溶け込む盲目の歌人の歌、それに合わせるギターの爪弾《つまびき》き、などを聞く者の心に彷彿《ほうふつ》とさせた。
「みんななくしてしまいましたよ、きれいさっぱり。パリにいるころはスペイン語を教えたり、アメリカ人(もちろん北アメリカ人ですが)に、夜の街を案内して小ゼニを稼ぐといったていたらくでしてね。一度の晩餐《ばんさん》のために千ドルも使っていたこの私が、めくらのインディアンよろしくパンをねだって歩く境遇にまでおちたんです。美人の手首にダイヤの腕輪をはめて喜んでいた私が、年寄った母親ぐらいの老婆から、服を恵んでもらうっていう惨《みじ》めさでしたよ。辛抱ですね何ごとも。人間ってやつは不幸をしょって生まれてくるんですよ。しかしその不幸も永遠に続くってことはないもんでして、もうそろそろ機が熟してきました。いまに一旗あげてやりますよ」
彼は薄汚れたカードを、いくつかの山にわけた。
「カードで占《うらな》ってみましょう。こいつはウソをつきませんからな。昔もっとこのカード占いを信じていたら、とんだヘマをやらかして、いまいったような辛苦をなめずにすんだんですよ。しかしまア、良心の呵責《かしゃく》だけは受けなくてすみましたね。私のような運命に突き落とされたらだれでもやるようなことをやったまでなんです。でも、その気があれば避けられたあることを、やむをえない事情があったにしろ、やってしまったのは、いま考えても残念でたまらんですな」
彼はカードを調べると、そのうちの数枚を選りわけて(どういう要領でやったのかアシェンデンには見当もつかなかったが)、片端に置くと、残りのカードを切って、またいくつかの山にわけた。
「カードは私に警告してくれてたんです。そりゃもうはっきりと警告してくれたんですよ。いまでも心に焼きついてます。恋と黒髪の女と危険と裏切りと死と、ね。言ってみりゃ顔のまん中に鼻がくっついてるのと同じように明白なことで、どんなバカでもその意味はわかったはずです。それを、いつもカードをいじくってる私が迂闊《うかつ》にも見すごしたんです。何をやるにしてもまずカードをめくってみる私がね、まったく弁解の余地のないことですよ。酔って頭が変になってたんでしような。恋ってやつがどういうもんか、あなたたち北方民族にはおわかりにならんでしょう。あいつにとりつかれると、夜もろくに眠れないし、食欲はなくなるしで、まるで熱病にかかったみたいにやつれてしまうんです。まったく錯乱状態に陥って、気違い同様ですよ。そして自分の欲望を満足させるためならどんなことでもやってのけるんです。私みたいな男が恋のやっこになると、愚行・犯罪、なんでもお構いなしです。しかしまた一方じゃシ・セニョール、英雄的な行為をやらかすこともあるんです。エベレストより高い山に登ることも、大西洋より広い海を泳ぎ渡ることだってやりかねませんからな。とにかく鬼神《きしん》のごとしですよ。私はある女のせいでいまのこういう境遇に陥ったんです」
禿頭のメキシコ人は、そこまで話すと、もう一度カードを眺め、小さな山の中から数枚を抜き出し、あとを残してまたそれを切り直した。
「私は実によく女に愛されましたよ。数をかぞえたらきりがないくらいで。いや、なにも見栄で言ってるんじゃないんです。そのいきさつをいちいち説明するわけにはいきませんが、これはまったくの事実なんです。メキシコ・シティへ行って訊いてごらんなさい。マヌエル・カルモーナがどういう男か、どれほど女にもてたか、どれほど大勢の女どもの抵抗を受けてこれをなでぎりにしたか、をね」
アシェンデンは、眉をひそめ、彼を見やりながら考えた、Rという狡猾《こうかつ》な男は、自分の配下を選ぶときはほとんど本能的とでも言うべき的確さを示すのだが、こんどばかりはミスを犯したのではないのか……そう思うと彼は不安になってきた。このメキシコ人は自分が女にもてるってことを本気で信じているのだろうか? それともただのホラ吹きなのか? 彼はカードをいじくっていたが、そのうちに四枚だけ残してあとを捨てた。そしてその四枚を裏返しにしてきちんと一列に並べた。彼は一枚一枚さわっていたが、表には返さなかった。
「ここに私の運命が出てます。こいつだけはどんな力をもってしても変えることはできません。思い切りよくめくって見りゃいいんですがどうもね。これをやるときはいつも胸がふるえるんですよ。どんな不運な卦《け》が出るかわかりませんからね、それこそ一か八かでカードをめくるんです。勇気じゃだれにもひけはとりませんが、こういう場合になると、自分の運命を決めるカードを見る勇気が失せてしまうんだからわれながら不思議ですよ」
事実彼は、四枚のカードの裏を不安そうに見つめていた。またそれがはっきり表情に顕《あら》わだった。
「なんの話をしてましたっけ?」
「女という女があなたの魅力には抗し難いって話だったでしょう」
アシェンデンはそっけなく答えた。
「ところがひとりだけ、この私に抵抗したやつがいるんですよ。初めて会ったのは、メキシコ・シティの女郎屋でした。私が階段を上って行く途中で、降りてくる彼女とぶつかったんです。たいした美人じゃなかったですよ。もっと美しい女をごまんと知ってましたからね。しかし彼女には、なにか私の心をとらえるものがあったんですよ。そこで女将《おかみ》に、彼女を私の部屋へよこしてくれと頼んだんです。この女将はメキシコ・シティでも名の売れた婆さんでしてね、ラ・マルケサ(侯爵夫人)ってアダ名で呼ばれているくらいです。女将の話じゃ、その女は住み込みじゃなくて、ときどき現われて商売をしてるんだってことでした。私は女将に、その翌日の夜あの女を呼んでおいてくれ、私がくるまで待たせておいてくれ、と言い含めて帰ったんですが、翌晩予定の時間より遅れて行くと、女は待たされるのはいやだからってもう帰ったと言うんです。自分で言うのもなんですが、私は生来気のいい男でしてね、女の気まぐれや男をじらす技巧はむしろ女の魅力のひとつだと思ってるくらいです。とにかくその場は笑いでごまかし、女に百ドル紙幣を送ってやって、次の日には時間通りくるからって約束したんです。ところが翌日、時間きっちりに行ってみると、女将のやつ、私に百ドル紙幣を返してよこし、あの娘はあんたをきらってるよ、とこうくるじゃありませんか。なにをなまいきな、と私も笑い返し、ちょうど持ち合わせていたダイヤの指輪を女将に託し、これでなんとか女の気を変えてもらえないかと頼み込んだんです。ところがあくる朝、女将が指輪のかわりに赤いカーネーションを一本持って断わりに来ましてね。これにはさすがの私も正直いって、笑っていいのか怒っていいのかとまどいましたよ。だいたい私は、これはと目をつけた女にふられたことはないし、金に糸目はつけないたちでしてね。金なんて美人に使わなきゃ意味がないでしょう? だから女将に言ってやったんですよ。女のところへ行って千ドルを渡して、その夜、夕食につき合うように説き伏せろって談判したんです。するとしばらくして女将が帰って来て、女は食事がすんだらすぐ帰してもらうって条件でなら応じてもいいと言ってるってんですよ。しょうがないから、それで結構だと言ってやりましたが、もちろんこっちは、女が本気でそんな条件をつけたなんて思っちゃいませんや。気を魅くための芝居だと思ったんです。その夜、とうとう女がうちへ現われました。さっきは美人じゃないなんて言いましたっけ? それがとんでもない。すこぶるつきの美的なんですよこれが。あんな優雅な美人はまたといないでしょう。私はもうウットリしてしまって……なにしろ優雅でウイットに富んでましてね。アンダルシア人の魅力をすべてそなえた完璧な美女なんです。要するに、女そのものなんですな。なぜ君は私にこうも冷たいんだと訊くと、フンと笑いとばされましたよ。そこで私は、ここぞとばかり、ありったけの技巧をろうして女の歓心を買おうとつとめました。もうわれを忘れた恰好でね。しかし食事が終わると、女はさっと立ち上がって、おやすみなさい、ときたもんです。私がその素っ気なさを詰《な》じり責めますと、女は、食事がすんだらすぐ帰すって約束のはずだ、あたしはあなたを名誉を重んじる紳士だと思って信用して来たんだ、こう言い返してきましたよ。私はいさめたり、口説いたり、わめいたり、どなったり、あらゆる手を使ったんですが、女は約束は約束だってウンと言わない。それでもやっと最後に次の夜、同じ条件で食事につき合うってことを約束させたんです。バカな男だと思うでしょうが、私の心は幸せに溢れていました。そうやって七日間、毎日千ドル出して食事につき合ってもらったんです。毎晩約束の時間が近づくと、初めて闘牛に出る新米《しんまい》の闘牛士同様に、胸をわくわくさせて女が現われるのを待つって状態でしたが、女の方はというと、これがいっこうに変わらずで、私をからかい、笑い物にし、じらせて楽しむといった具合で、こっちは最後にはもう何が何だかわからなくなりましてね、すっかり女のとりこになったんです。後にも先にも、あんなに女というものをいとおしく思ったことはありませんな。ほかのことなんか考える余裕がなく、心は女のことで乱れに乱れ、何もかもうっちゃってしまったんです。私は愛国者で、自分の国を愛しています。われわれ少数の仲間が語らって団結し、われわれを虐《しいた》げている圧政をはね飛ばしてやろうと話を決めていたんです。身入りのいい地位はみんなほかの連中にとられ、われわれだけがまるで商人のように税金をたっぷり絞り上げられ、さんざんみじめな思いをさせられてましたからね。しかし、われわれ仲間には資金も人間もまだゆとりがありました。計画を練り、実行に移すところまで準備ができてました。その代わりいろいろ雑用が多かったですねえ。やれ会議だ、やれ武器弾薬の手配だ命令書の作成だってね。ところが私は女にかまけてそういうことにまるで手をつけなかったんです。
こうまで女に愚弄されたらどんな男でも怒るでしょう。ところが私はそうじゃなかった。わがままいっぱい、気まぐれな生き方をしてきたこの私が怒らなかったんですよ。女にすげなくあしらわれて、かえって欲情がつのったんです。女は私に愛情を感じるまでは身をまかさないと言ったんですが、私はそれをもろに信じました。愛情を感じさせるように仕向けるのが男のつとめだと思ったわけです。私にとつちゃ彼女は天使も同じで、時がくるのを辛抱強く待つつもりでした。私のこの激しい恋情が、いっかきっと彼女に通じるだろうと信じていました。そのときの私の恋情は、あらゆるものを焼きつくす草原の火事のようなもんでしたよ。そしてついに、ついにですよ、女が私への愛を打ち明けたんです。私は感動のあまり、その場にくずおれて死んでしまうんじゃないかと思ったくらいです。そのときの歓《よろこ》び! 気が狂わんばかりでしたよ。よし、私が持ってるものはぜんぶ彼女に捧げよう、彼女の髪を飾るためなら夜空に輝く星でも叩き落としてやろう。自分がいかに彼女を愛してるか、その愛の証のために何かしたい、不可能なこと、信じられないような奇跡を行ないたい、身も心も名誉も、私の持ってるものすべてを、私のすべてを捧げたい、もう一途《いちず》にそう思い込んだもんです。そしてその夜、彼女を抱きながら、われわれの秘密の計画のことを打ち明けました。同志の名前もぜんぶね。すると私の腕の中で蕩《とろ》けかかっていた彼女の体がさっと堅くなり、瞼《まぶた》に一条の光が輝いてピクリと動き、何かはわかりませんが、こいつは何か訳がありそうだなと直観的に感じました。私の顔をなでる彼女の手も、思いなしか、かさかさと冷たいんですな。突然、ある疑惑が心に芽生え、同時にカードの予言を思い出しました。恋と黒髪の女、危険、裏切り、死……カードは三回もそういう卦《け》を出したんですが、気にもとめてなかったんです。私は何も気づかないふりをしてました。女は私の胸に顔をうずめて、そんな恐ろしいことを聞くのは初めてだ、なんてつぶやきやがった。そして誰それはその計画に関係があるのかときたもんです。私は答えてやりました。その反応いかんで、彼女の正体を確かめられると思ったからです。絶妙極まるキスと愛撫《あいぶ》におりまぜて、女は陰謀の細部まで私から吸い取ってしまいました。ここまできて私は確信を持ちました。あんたはいま私の前に坐ってますね。この事実は否定できない。それと同じですよ。まアとにかく私は、女が敵側のスパイだということを事実として悟ったんです。女は大統領が放った密偵で、悪魔的な魅力で私を誘惑し、われわれの陰謀を吐かせたんです。いまやわれわれ一同の生命は女の手に握られている、このまま女を帰したら、二十四時間以内にわれわれは全員殺されるだろう。しかし私は彼女を愛してる、心から愛してる……私は身も心も焼き尽くすような欲情の苦悩にのたうち回りました。とても言葉で表わせるようなもんじゃありませんよ。愛情もそうなるともう歓びじゃない、耐えがたい苦痛ですよ。しかし、考えようじゃ、あらゆる歓びを超越した、恍惚《こうこつ》にも似た苦悩とも言えますね。聖徒たちが神への陶酔《とうすい》にとらわれたときに感じるというあの天国の苦悩もかくやと思わせるもんでしたよ。女を生きて帰しちゃいかん、ぐずぐずしてると勇気がくじける、とそれしか考えてなかつたですね。
『あたし眠くなったわ』
『じゃおやすみ』
『じゃおやすみなさい、いとしい人』
これが女の口から出た最後の言葉でした。ブドウのように黒ずんで、かすかに湿りけを帯びたあの瞼《まぶた》、女の重い瞼が、目を覆い、しばらくすると乱れのない鼓動が乳房を通して伝わってきて、女が眠ったことがわかりました。ねえ、いいですか、私は女を愛してたんです。だから女に死の苦しみを味わわせたくなかった。女はスパイです。ええ、でも私は女に死の恐怖をなめさせることは、愛するがゆえに、できなかった。なんとも変なことですが、女に裏切られていながら、ひとかけらの怒りも感じない、卑劣なことをやってのけた女を憎めないんですよ、どうしても。ただ私の魂が夜の闇に吸い込まれるような感じがしただけです。かわいそうに、哀れなやつだ……女への憐欄で涙が溢れそうでした。私は女の体を抱いていた腕、たしか左腕でした、をそっとはずし、右腕で自分の体を起こしました。美しい寝顔でした。ナイフを抜いて一気にその愛らしいノドを掻き切ったとき、私は思わず顔をそむけました。女は目を覚ますこともなく、眠りの世界からそのまま死の世界へ移って行きました」
メキシコ人はそこで口をつむぐと、目の前に伏せて並べてある四枚のカードを、眉をひそめてにらんでいた。
「カードは教えてくれてたんです。なんでその警告を無視したんでしょう。もう見たくもありませんや。呪われたカードだ。捨てて下さいよ」
彼は荒々しくカードを床に叩き落とした。
「私は無神論者ですが、あのときは女のためにミサをあげてもらいましたよ」彼は背もたせに寄りかかると、また一本タバコを巻いた。そして火をつけるとぐっとひと息吸い込んで、肩をすくめた。
「あんたは作家だそうですが、どういうものを書くんです?」
「小説ですよ」
「探偵小説ですか?」
「いや」
「どうしてです? 私はあれしか読みませんよ。私が作家だったらやっぱり探偵物を書くでしょうな」
「探偵物は難かしいんです。普通じゃ思いもつかないような事柄を考え出さなくちゃいけませんしね。いつか殺人の話をつくったんですが、あんまり巧妙にできすぎて、犯人の罪を立証する方法がないんですよ。それに探偵物ってやつには|きまり《ヽヽヽ》がありましてね、必ず最後には謎が解け、犯人が法の裁きを受けるという筋でなくちゃいけないんですよ」
「殺しが巧妙なやり口で行なわれたときは、まず何よりも犯行の動機を見つけることが大事ですな。動機がわかれば、それまで見のがしていた証拠も目につきますよ。しかし動機がないと、どんな有利な証拠があっても、決定的な決め手にはなりません。たとえば、もしあんたが闇夜に、人気のない通りでどこかの知らない人間を刺し殺したとしても、だれもあんたを疑ったりしないでしょう? しかしもしそれが、あんたの奥さんの密通の相手だったり、あんたの弟だったり、はたまた過去にあんたをだましたり侮辱したりしたことのある人間だったら、一枚の紙切れ、一本のヒモ、偶然口にした言葉ひとつでも、あんたを絞首刑にするのに十分な証拠になりますからね。彼が殺されたときのあんたのアリバイは? 事件前後にあなたを見た人がいるか? しかし被害者がまったく未知の人間なら、あんたは何の嫌疑も受けないですむ。『切り裂きジャック』だって、犯行現場を押えられなかったら、逃げきっていたかもしれませんよ」
アシェンデンはこの辺でもう話題を変えたかった。ふたりはローマで別れる予定だし、お互いの行動を話し合っておいた方がいいと思ったからだ。メキシコ人はブリンディシヘ、アシェンデンはナポリへ行く。彼はナポリでは、ホテル・ド・ベルファストに泊まるつもりだった。それは港のそばにある二流の大きいホテルで、商用の旅行者や、つつましい観光客がよく利用していた。彼はそのホテルの部屋番号をメキシコの将軍に教えておこうと思った。そうすれば将軍は、必要なときはいつでも、玄関からじかに部屋へこられる。アシェンデンは次の停車駅の売店で封筒を買い求め、ブリンディシの郵便局留めにして、彼自身の手で、自分の宛名を書かせた。あとはアシェンデンが紙片に部屋番号を書いて投函するだけでよかった。
メキシコ人は肩をすくめて言った。
「どうもこんな手を使ってまで用心するのは子供じみてますな。危険は絶対ないですよ。まア何かミスが起きても、あんたに疑いのかかるようなヘマはやりませんから」
「どうもこういう仕事にはあまりなじみがないもんでしてね」とアシェシデン。「大佐の指示に従って動くだけで、必要以上のことには関知しない主義なんです」
「それはそれでいいんですよ。万一非常事態に陥って、思い切った手段をとらざるをえなくなったら、私はたぶん官憲にとらわれて、政治犯として扱われるでしょう。しかし、いずれイタリアは連合国側について参戦するはずですから、そうなったら私は無罪放免ってことになります。あらゆる事態を考えて心づもりはしております。この任務がどういう結果に終わるか、それについては、何も心配する必要はありませんよ。まあテームズ河畔ヘピクニックにでも行くつもりでいて下さい」
ローマで彼と別れ、ナポリ行きの汽車にひとり乗ったとき、正直いってアシェンデンは安堵感を覚えて溜息をもらした。あのおしゃべりの、異様な男と別になれて嬉しかったのだ。将軍はコンスタンチン・アンドレアディに会うためにブリンディシへ行ったのだが、もしも彼のしゃべったことが半分でも事実だったとしたら、そのギリシャ人のスパイの命運はきわまったと見ていい。アシェンデンは自分がそのギリシャ人でなくて幸せだと思った。そのスパイはいったいどういう男なんだろう? 自分がワナにかかることなど夢想だにせず、機密文書と危険な情報をたずさえて、青いイオニア海を渡って来る男のことを考えると、それだけでもう気分が悪くなった。いや、これが戦争というものの実態で、キッドの手袋などはめて戦争ができると思うやつがいるとしたら、そいつはよほどの愚か者に違いない。
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第六章 間違えられた犠牲者
アシェンデンはナポリへ着くとすぐ、ホテルに部屋をとり、その部屋番号を活字体で用箋にしるし、禿頭のメキシコ人宛てに投函した。そしてRから何か指示が届いているかどうかを知るために、イギリス領事館へおもむいた。しかし領事館ではすでに何もかも承知していて、手配も完了していた。そこで彼は仕事のことはいちおうおいて、お遊びに専念しようと肚《はら》を決めた。南国のナポリともなると春はもうたけなわで、家並みにふりそそぐ陽差しは汗ばむほどだった。
この町は馴染《なじ》みだった。喧騒《けんそう》に満ちたサン・フェルナンド広場、スマートな造りの教会があるプレビチスト広場には、なつかしい思い出があった。キアイア通りは、相変わらず人々の声で湧きかえっている。街角に立って上り勾配の細い露路を見上げると、両端の家並みの間にかけわたしたヒモに、満艦色《まんかんしょく》の洗濯物が、祭礼のときの旗のようにひらめいていた。水平線はるかにカプリ島を見ながら海浜を歩き、ポシリッポにまで到った。そこには彼の青春を彩《いろど》った館があった。その館を見ると、過ぎ去った若い日々の想い出が、甘い感傷を伴って心に浮かんだ。それから、やせた小馬にひかれた馬車で、ガタガタ道をガレリアまでとってかえし、涼しい日陰に坐ってアメリカーノを飲みながら、大げさなジェスチャーでしゃべりながらあたりを遊び歩いている人たちを眺め、彼らの表情や恰好から、その現実のなりわいまでをも想像したりした。
こうしてまる三日、アシェンデンは怠惰な生活を送ったが、これはこの町の雑多で陽気な雰囲気にふさわしい、楽しい時間だった。朝から晩まで何もせず、ただ気の向くままに歩きまわった。このときの彼は、名所旧跡ひとつでもみのがしたら損だというような観光客でもなく、取材のために街を見る作家(作家というやつは沈む太陽を見て流麗な文章を考えたり、ひとの顔を見てその性格の内面にまで入りこもうとする)でもなかった。むしろ、ただ目に入るものを何でも見て楽しもうとする放浪者に似た存在だった。
美術館へ行って小アグリアッチの像を見た。この像には、ある甘い思い出があったのだ。また、その昔、馴染んだチチアーノやブリューゲルの絵を見に画廊まで行ったこともある。しかしいつも最後には、サンタ・キアラ教会へ戻って来た。この教会の建物の持つ優雅さ、陽気なところ、宗教なんて何だというような浮薄な点、そしてその背後に感じられる官能的な感じ、その華美で優雅な線、これらがすべてアシェンデンには、明るくほこりっぽい愛すべき町とそのおしゃべりで快活な住民たちの姿を、裏返しに誇張して表わしているように思えた。人生は素晴らしくて哀しいものだ、金のないやつは悲しい、しかし金が人生のすべてじゃない、とにかく浮世ははかないものだ、楽しめるときには大いに楽しむのがいちばんだ、そういう、心情を象徴しているように思えた。さア、みんな腕を組んで一緒に楽しくやろうじゃないか、彼ら流に言えばこうだった。
ナポリへ着いて四日目の朝、アシェンデンがひと風呂あびて、タオルと格闘しているとき、彼の部屋へさっと入って来た男がいた。
「だれだ!」
「大丈夫、私ですよ」
「何だ、君か! どうしたんだいったい?」
禿げのメキシコ人だったのだ。彼はカツラを替えていた。こんどのは黒い髪を短く刈り込んだやつで、まるでフチなしの帽子のをかぶってるように見えた。このために顔の印象がすっかり変わっていた。以前のも奇態だったが、これはまたなんという変わり方だ! 服までお粗末な灰色のやつだった。
「すぐ失礼しますよ。やっこさんいま、ヒゲを剃《そ》ってるんです」
アシェンデンはこの言葉に緊張して頬があからむのを感じた。
「じゃ見つけたのかね」
「それがすごく簡単でして。例の船に乗ってるギリシャ人ってのがお目当ての男ひとりでしてね。船が着くとすぐ乗り込んで行って、ピリーウスから乗船した友人を捜しに来たんだと言ったんです。ジョージ・ディオゲニディスって男なんだってね。そんな男がいるはずがないんで、わざと途方にくれたふりをしてアンドレアティに話しかけたんです。やつはやっぱり偽名を使ってました。ロンバルドスなんてね。船を降りてからやつがまず、何をしたと思います? 床屋へ飛び込んでヒゲをあたってもらおうってんですよ。どう解釈しますこれを?」
「べつに……だれだって旅のあとにはヒゲぐらい剃りたいと思うだろう」
「ところが私の解釈はそうじゃない。長くのばしてたアゴヒゲを落として人相を変えようってんですよ。これはうまいやり方ですな、こういう点、ドイツ人ってのは頭がいいですからね。お話をごく自然に作りあげて危なげがない。詳しいことはあとでお話しますがね」
「そういう君だって姿形を変えてるじゃないか?」
「ああ、このカツラのことですね。ちょっと見ると別人みたいでしょう?」
「正直いって私も別人だと思ったよ」
「何ごとも用心にしくはありませんからね。やつとはもう、俺お前の仲になりましたよ。ブリンディシでまる一日すごさなきゃならないのに、やつときたらイタリア語がまるでだめで、私がガイド役をつとめてやったら大喜びしましてね、二人三脚この町までやって来たんです。ホテルもこのホテルでして。あしたローマへ発つと言ってますが、目を離すようなことはしません。ていよく|まか《ヽヽ》れたなんて私の恥ですからな。ナポリを見たいと言うから、隅から隅まで案内してやると言ってあるんです」
「なんできょうローマへ行かないんだろう?」
「だからそれもお芝居のひとつですよ。やっこさん戦争成金だなんて吹いてるんですよ。沿岸航路の汽船を二隻持ってたのを売ったなんて言ってます。パリでひと旗あげるつもりなんだそうです。パリへ行くのが生涯の夢だったんだが、やっとその夢がかなえられるって筋書ですよ、だれかが作ったセリフなんでしょうが、これだけ聞き出すのがやっとのことでした。私の方もスペイン人というふれこみで、ブリンディシへ行ったのは軍需品の買い占めのことでトルコと打ち合わせるためだと吹き込んでおきましたが、その話にはやつめ乗ってきましたよ。しかし相手もさる者で、肝心のことは何もしゃべらない。もっともむりに口を割らせようとあせっちゃ警戒されますから、強くは押しませんでしたがね。しかし文書を身につけてることは間違いありませんよ」
「どうしてそんなことを……?」
「カバンにはさほど注意しないで、ときたま腹のあたりを触るんです。ベルトかチョッキの裏地に縫い込んであるんですよきっと」
「しかし、なんでまた選《よ》りに選ってこのホテルへ連れ込んだりしたんだね」
「だっていろいろと便利でしょう。手荷物をのぞいて見ることだってできるし」
「君もこのホテルに泊まるのかね?」
「いや、それほど愚かじゃありませんよ、夜行でローマへ行くので、泊まれないと言ってあるんです。じゃもう行きますよ。十五分後に床屋の前で会うことにしてるんです」
「やるね、君も」
「今夜連絡したいことがあるかもしれないんですが、どこにいます?」
アシェンデンは、一瞬、このメキシコ人の方を見つめていたが、かすかに眉根を寄せて目をそらした。
「今夜はずっとこの部屋にいるよ」
「いいでしょう。廊下に人影がないかちょっと見てくれませんか?」
アシェンデンはドアを開けて外をのぞいたが、だれもいなかった。いかに大衆的なホテルでも、季節が季節だけに空室がほとんどなのだ。ナポリには外人の姿はほとんどないし、彼ら目当ての商売は不景気なのだ。
「大丈夫だよ」とアシェンデン。
この言葉で、メキシコ人は臆《おく》するふうもなく堂々と出て行った。アシェンデンはドアを閉めると、ヒゲを剃り、ゆっくり服を着けた。街の広場にはいつもと同じように南国の太陽がふりそそいでいたし、往きかう人も、ヤセ馬が引くうすよごれた馬車も、相も変わらずだった。しかし、それらから受ける印象は、過去三日間のものとはまるで違っていた。いっこうに気分が引き立たないのだ。ともかくいつもの通り街へ出て、公衆電話で、領事館へ彼宛ての電報が来ているかどうかを訊き合わせた。何もないとの返答なので、クックという旅行社へ行って、ローマ行きの汽車の時間を調べた。夜中の十二時過ぎに一本、それを外《はず》すと朝五時の便しかない。彼としては夜中の便を利用したかったが、メキシコ人の予定がわからないのでどうしようもない。メキシコ人がもし本当にキューバへ帰りたいのなら、まずスペインへ行った方がいい。旅行社の社告では、翌日ナポリからバルセロナ行きの船便がひとつあった。
アシェンデンは、ナポリにも、もう飽きがきていた。けばけばしい街並みを見ていると目が疲れるし、ごみごみした風景は耐え難かった。特にあの喧騒が我慢できない。彼はまたガレリアへ行って、一杯きこしめした。そして午後は映画館へ飛び込んだ。そしてホテルへ帰ると、翌朝早く出発すると言って、料金を精算してもらい、手荷物を駅へ運ばせた。部屋に残っているのはカバンひとつで、中にあるのは暗号の解読書と数冊の本だけだった。街の食堂でメシをすませてホテルへ帰り、メキシコ人からの連絡を待つために退屈な時間をすごした。その様子はどう見てもイラ立っていた。本を開いたがくだらないので、もう一冊を手にした。面白味がないので没頭できないのだ。腕時計を見たが、いかになんでもまだ時間がありすぎる。少なくとも三十ぺージくらいまで読むまでは時計を見まいと自分に言い聞かせたが、神経を集中することができない。ただページを繰るだけだ。思わずまた時計に目をやった。呪いたくなる。まだ十時半にしかなってない。メキシコ人はどこで何をしているのかと思いわずらい、ヘマをやってくれなければいいのにと、それだけが気がかりだった。やばい仕事を引き受けたもんだ。窓を閉めてカーテンを引いておいた方がいい。いらだたしそうに、立て続けにタバコを吹かした。そしてまた時計に目をやる。まだ十一時十五分をすぎたばかりだ。
ふと、ある疑念が湧いて、胸が高鳴り始めた。好奇心から脈をはかってみたが、驚いたことにこれが正常なのだ。暖かい夜で、部屋は蒸し暑いくらだったが、手足は冷えていた。自分の見たくない光景を、想像たくましく思い浮かべるとは愚の骨頂だ、いまいましい! 作家としての立場でなら、殺人という事態についてよく考えることがある、しかしいつもは結局、『罪と罰』のあの恐ろしい描写が頭に浮かんでくる。殺人のことなど考えたくないのだが、それは情け容赦なく心に押し入ってくる。手にしていた本を膝《ひざ》の上におき、目の前にある壁(よごれたバラ模様の茶色の壁紙が貼ってあった)をみつめながら、自問自答した。ナポリで殺人を犯すとしたら、どんな方法をとるべきか……? 現場としては別荘あたりだろう。湾に面し、深い植え込みのある庭を持ち、水族館がある、というような別荘だ。夜ともなると人気がなく、まっ暗で、太陽のもとでは行なえないようなことが、よく起こる。用心深い人間は暗くなるとそんなところへは立ち寄らない。ポシリッポを出ると道はとたんに寂しくなり、ところどころに山へ通じる小路があり、夜はまったく無人であった。しかし恐怖におののいている者をどうやってそこまで誘い出すのか? 湾にボートでこぎ出す方法もある。しかしこれは船頭に顔を見られる。船頭なしで、手こぎでボートを出そうとしても、貸してくれるところはあるまい。湾の付近には、夜中に荷物を持たずに訪れても、何も訊かずに泊めてくれるいかがわしい宿もある。しかしこれだって、部屋へ案内してくれるボーイに顔を見られてしまう。それにその前に、宿帳をかねた細かい質問書に何かと書き入れる必要がある。
もう一度時計を見た。彼はもうくたくただった。本を読む気力さえ失せて、ただぼんやり坐っているだけだった。
そのときドアがそっと開く気配がして、彼は飛び上がった。身が縮むほど驚いたのだ。眼前にはメキシコ人の姿があった。
「驚いたようですね」と、彼は笑いながら言った。「ノックなんかしちゃかえってまずいと思ったもんですから……」
「ホテルへ入るのを誰にも見られなかったかね?」
「夜番に入れてもらったんですが、ベルを鳴らしたとき眠ってたらしく、私の顔も見ませんでしたよ。どうもおそくなってすみません。着替えをしてたもんですから」
禿頭のメキシコ人は、元通りの恰好《かっこう》に戻っていた。朝とはまた人相ががらっと変わっているのには驚いた。体もいちだんと大きく、浮わついた調子になり、顔形まで変わっているように見えた。目はきらめき、上機嫌だった。アシェンデンをちらっと見ると、
「まっ青なお顔をしてますよ。こわいんですか」
「文書は手に入ったのかね?」
「いえ、それが身につけてないんです。これだけなんですよ」
彼は厚ぼったいサイフとパスポートをテーブルの上に投げ出した。
「こんなものは必要ない、どけてくれ!」
アシェンデンはせきこみながら言った、メキシコ人はひょいと肩をすくめると、またそれをポケットにしまった。
「ベルトの中には何か……? しきりに気にしてると言ってたじゃないか?」
「金だけですよ、サイフの中身も調べましたが、手紙類と女の写真だけです。文書は今夜私と出かける前に、カバンヘでもしまったんでしょう」
「なんてことだ」とアシェンデン。
「やっこさんの部屋のカギを持ってます。ふたりで忍び込んで荷物を調べてみましょう」
アシェンデンは、胃の脇がむかつくようなイヤな感じがした。メキシコ人はいたわるように言った。
「危険はありませんよ、アミゴ」
まるで子供に言って聞かせてやるような調子だ。
「おいやなら私ひとりで行ってもいいんですよ」
「いや、私も行くよ」
「ホテルの者はみんな眠ってます。アンドレアディ氏もぐっすりです。しかし靴だけはぬいで下さい」
アシェンデンは無言だったが、自分の手がかすかにふるえているのに気がついて眉をしかめた。彼はヒモをといて靴をぬいだ。メキシコ人もそれにならった。
「先に行って下さい、左へ折れてまっすぐ行けばいいんです。三十八号室です」
アシェンデンはドアを開けて廊下へ滑り出た。照明は暗くしてあった。あとに続くメキシコ人がまったく楽な気分なのに、自分はどうしてこうびくついているのか、体面を失ったようで、はなはだ面白くない。目ざす部屋の前に着くと、メキシコ人がカギを入れてロックをとき、中へ入った。そして電灯のスイッチを入れた。アシェンデンも彼に続き、ドアを閉めた。窓のシャッターは降りていた。
「もうこっちのもんです。ゆっくりやりましょう」
メキシコ人はそう言うとポケットからカギ束を取り出し、一つ二つと試していたが、やっと合うのがあって、スーツ・ケースを開けた。中は衣類でいっぱいだった。
「安物ですね」と彼はつかみ出しながら、軽蔑するように言った。「安物買いのゼニ失いってやつで、結局いいものを買った方が得なんですよ。そこがまア、紳士と紳士でない者との相違ですがね」
「おしゃべりをしないと手が動かないのかね?」
「人間ってやつは危険に出会うとそれぞれ違った反応を示すもんです。私は興奮するだけですが、あんたは不機嫌になるようですな、アミゴ」
「つまり私はおびえているが、君は平気だということだ」
アシェンデンは率直に言った。
「いや、神経の問題にすぎませんよ」
しゃべりながら彼は、次々に衣服をつかみ出して、素速く、しかし注意深く調べていた。結局スーツ・ケースの中には一枚の文書もなかった。彼はナイフを出すと、裏地を裂き始めた。これも中身にふさわしい安物でゴムでくっつけてあった。文書など隠してあるようには見えなかった。
「ありませんね。部屋のどこかに隠してあるんでしょう」
「どこかに預けたってことはないのかね? たとえば、どこかの領事館とか……?」
「床屋でヒゲを剃ってるわずかの間を除いちゃ、やっこさんから目を離したことはないんですよ」
引出しや戸棚もあけてみた。床には敷物はなかった。ベッドの下や、中も、マットレスの下まで捜した。彼の黒い瞳がくるくると動き、物を隠せるようなところを追っていた。この視線をのがれるものは何もあるまいと思われるほどの執拗《しつよう》さだった。
「下のフロント係にでも預けたんじゃないのかな?」
「それならとっくに気づいてますよ私が。やつもそんなうかつなことはやりますまい。この部屋にあるはずなんですが、どうも解《げ》せませんな」
彼はまだ未練げに部屋を見回し、この不可解な謎を解こうとして眉根をよせて考えこんだ。
「とにかくここを出よう」とアシェンデン。
「ちょっと待って下さい」
メキシコ人はヒザをつくと衣類を手速くきちんとたたんで、スーツ・ケースに戻し、カギをかけると立ち上がった。そして電灯を消すとそっとドアを開き、外の様子をうかがった。そしてアシェンデンにうなずいて廊下へ出た。続いてアシェンデンが出ると、彼はドアをロックして、カギをポケットに収め、アシェンデンの部屋へ急いだ。自分の部屋に入り、ドアをロックしたアシェンデンは、油汗のにじんだ手や額を拭った。
「やっと終わったね、やれやれだ」
「だから危険はないと言ったでしょう。しかしこれからどうします? 『文書が見つかりません』じゃ、大佐が怒りますよ」
「とにかく私は五時の汽車でローマへ向かうから電報で指示を仰ぐよ」
「それじゃ、私もお供しましょう」
「君はさっさとこの国から出た方がいいんじゃないかな。バルセロナ行きの汽船があした出るそれに乗りたまえ。必要なときは、私がバルセロナへ尋ねて行くから」
メキシコ人はにたりと笑って、
「私を避けたいんでしょう。まアこういうことには、あなたまだ不慣れなんだから無理もありませんがね。いいでしょう、バルセロナへ参りましょう。スペインのビザ(入国査証)は持ってますから」
アシェンデンは時計を見た。午前二時すぎである。汽車が出るまでには三時間近く時間がある。相棒は鼻歌でもうたいそうな様子でタバコを巻いている。
「ひとつ夜食といきましょうか。腹がへってたまらないんです」
アシェンデンは食べ物と聞いて吐き気がしたが、ノドは乾いていた。メキシコ人と一緒に外へ出るのはいやだが、さりとて、ひとりでホテルにいるのもいやだった。
「こんな時間に開いてる店があるかな?」
「見つけますよ。まかしといて下さい」
アシェンデンは帽子をかぶり、アタッシュ・ケースを取り上げた。ふたりは階下へ降りた。玄関ホールでは、ボーイが床にマットレスを敷いて、イビキをかいていた。起こさないように忍び足で通りすぎようとしたが、フロント・デスクの奥の壁に作りつけてある整理棚に、封書が一通入っていたのが目についた。手に取ってみると、彼宛てのものだ。ふたりはまた忍び足で玄関を出てドアを閉めた。そして急ぎ足でそこを離れた。百メートルほど行ったところにある街灯の下まで一気に歩み寄って、手紙を取り出して読んだ。領事館から届いたもので簡単にこうしるしてあった。
「同封の電報を今夕受電致しました。緊急のものやも知れず、とりあえず当領事館の者にホテルまで届けさせます」
彼が部屋でおびえていたころ、十二時前に届けられたのだろう。電報は暗号文だった。
「あとで解読しよう」
アシェンデンはそうつぶやくと電報をポケットに収めた。
メキシコ人は、知り尽くした町のように、人けのない通りを、アシェンデンを連れてどんどん歩いて行き、袋小路の奥の、あるいかがわしそうな居酒屋へ入った。
「リッツほどじゃありませんがね、この時間に食事のできる店といえば、こういうところしかないんですよ」
アシェンデンは、むさくるしい細長い部屋の片隅に案内された。そこにはピアノが一台あり、やせぎすの若者がその前に坐っていた。両側の壁からテーブルが突き出しており、それぞれにベンチが並べてある。男女いりまじった大勢の客が、ビールやワインを飲んでいた。女たちはみんな大年増《おおどしま》で、厚化粧の醜い顔をしていた。しかしそのけばけばしい外観や騒々しいおしゃべりは、かえって彼女たちから生気を奪っていた。アシェンデンとメキシコ人が入って行くと、みんな一様にふたりに視線を投げかけた。テーブルについたアシェンデンは、いまにも笑い出しそうな女たちの媚《こ》びた流し目を避けるために顔をそむけた。やせたピアノ弾きがピアノを叩くと、数組かの男女が踊り始めた。男の数が足りないので、女同士で踊っているのもあった。将軍はスパゲッティ二人前とカプリ・ワインを一ビン注文した。そしてワインがくるとむさぼるように一杯飲みほし、スパゲッティを待ちながら、あたりに坐っている女たちを見まわした。
「踊りませんか?」とアシェンデンに言った。「私も適当な女を捜して一曲踊りますよ」
彼は立ち上がると、ちょっと目のきれいな、歯並びの白い、この一群の女のなかではわりといける女のところへ歩み寄った。そして立ち上がった女を抱いて踊り始めた。これがどうしてなかなかうまい。彼は何やらしゃべり始めた。女が笑い、彼にダンスを申し込まれたときのあの投げやりな態度を一変させて生々とした様子になった。ふたりは陽気にしゃべっていた。曲が終わり、女を元の席へ坐らせると、将軍はアシェンデンのところへ帰って来てまたワインを一杯飲んだ。
「あの女どう思います」彼はもう興奮していた。「わるかないでしょう。ダンスってのはいいもんです。あんたも女をつかまえて踊ってみなさい。いい店でしょうここは? こういう穴場を捜すのが得意でしてね。勘ってやつかな?」
またピアノが鳴り始めた。さっきの女がメキシコ人の方に顔を向けた。そして彼が親指で床を指すと、喜んで飛び上がった。彼は上衣のボタンをはめ、背をまるめてテーブルの端に立ち、女がくるのを待っていた。彼は女を振りまわし、しゃべったり、笑ったり、いつの間にか店中の者と仲よくなっていた。スペイン語の訛《なま》りはあるが、流暢《りゅうちょう》なイタリア語で、誰かれとなく駄じゃれを飛ばし合っている。みんな彼の冗談に笑いこけていた。ボーイが山盛りのスパゲッティを二皿持って来たが、メキシコ人はそれを見ると、とたんにダンスをやめ、女を席へ帰して、急いで戻って来た。
「もう腹ぺこですよ。うまい晩メシをたっぷり食ったんですがね。あんたはどこで食いました? 少しは食べたらどうです」
「食欲がないんだ」
それでもアシェンデンは食べ始めた。すると不思議なことに彼にも確かに食欲があるのだ。禿頭のメキシコ人は、スパゲッティを大口にほおばりながら、楽しそうにもりもりと食っている。目を輝かせ、陽気にしゃべりまくる。先ほどの女が踊っている間に自分の身の上話をしたのだろう、彼はそれを聞かせてくれた。アシェンデンはパンの大きなかたまりを口に押し込むと、ワインをもう一ビン注文した。
「ワイン?」と将軍は軽蔑したように叫んだ。「ワインなんて酒じゃありませんよ、シャンパンでなくちゃ。ワインじゃ喉の乾きもとまりませんよ。どうです、アミゴ、だいぶ気分がよくなったでしょう?」
「おかげでどうにかね」とアシェンデンは苦笑しながら答えた。
「慣れですよ、要するに慣れってやつですな」
彼は手を延ばしてアシェンデンの腕を叩こうとした。
「それは何だ!?」
アシェンデンはぎくりとして訊いた。「袖口についてるシミだよ」相手はちらっと袖を見て、
「ああ、これですか? 何でもないですよ。血です。ちょっとケガをしましてね。切ったんです」
アシェンデンは黙っていた。彼の目は壁にかかっている時計をさぐっていた。
「汽車の時間が気になるんでしょう? もう一曲踊ったら駅までお供しますよ」
メキシコ人は立ち上がると、自信たっぷりといった調子で、そばにいた女を抱いて、踊りの輪の中へ入って行った。アシェンデンは憂鬱《ゆううつ》な気分で彼を眺めた。のっぺりした顔の上に、ブロンドのカツラを載っけたこの異様な怪物が、なんとも優雅な踊りを見せるのだ。小さい足は、ネコかトラの足のように、軽やかに床を踏んでいた。その動きはリズム感にあふれ、相手をしているけばけばしい装いの女は、酔ったようにうっとりしている。彼の爪先には、女を抱きしめた長い腕には、音楽があった。腰から下へ微妙な動きを見せる長い脚にも音楽が躍《おど》っていた。邪悪な怪物ではあるがネコのような優雅さを、美ともいえる何物かを発散していた。見ていて恥ずかしい感じもするが、心を魅きつけるものがあった。そこには今は滅亡したメキシコの原住民、前アズテック族の石の彫刻を思い起こさせるものがあった。野性味と活気に溢れ、奇怪で冷酷だが、思わず心魅かれるような、かわいらしさを持っているのだ。このまま彼を置き去りにして一晩中踊らせておいてもいいのだが、まだ仕事の話が残っている。アシェンデンはそのことが気になっていた。文書と引き換えにRから預かった金を、このマヌエル・カルモーナに渡すように指示されているのだが、肝心の文書はどこにもない。このあとどうすればいいのか……アシェンデンにはわからなかった。そこまでは関知してないのだ。メキシコ人は手を振りながらそばを踊って行く。
「この曲が終わったら出ましょう、払いをすませといて下さい、すぐですから」
彼の心の中をのぞいてみたかった。どういう考え方、動き方をするのか想像だにつかないのだ。そのうちご当人が、香水をしみこませたハンカチで額の汗をふきながら帰って来た。
「面白かったかね将軍?」と、訊いてみる。
「あたりまえでしょう。あんなクズみたいな女ですがね、そりゃ構わないんです。私は女体を抱き締めたときの感じが好きなんです。女の情欲が、熱気に溶けるバターのように、骨のずいまでしみわたるにつれて、女の目が潤《うる》み、唇が喘《あえ》いでかすかに開く、あの感じが好きなんですよ。あんなクズみたいなやつですが、女に変わりはありませんからね」
ふたりはやっと外へ出た。メキシコ人は歩いて行こうと言ったが、その地区でそんな時間に流しのタクシーなどいるはずがない。しかし上は星空だった。もう夏に近い夜気があたりを支配していた。歩きだしたふたりは、亡霊にも似た寂とした静けさに包まれていた。駅に近づくにつれ、家並みが突然灰色の線をはっきり見せ始めた。夜明けがすぐそばまで来ているのだ。夜の闇に戦慄《せんりつ》がはしった。人間の魂がおののき、不安に包まれる一瞬だった。もうこれで夜が明けないのではないのか、あすという日がないのではないか、はるか原始の昔から人間がうけついできた愚かしくも恐ろしいおののきだった。しかし駅舎に入るとそこはまだ夜が支配していた。赤帽が数人、芝居の最後の幕が降りたあとの舞台係よろしく、ぶらついており、兵士がふたり、くすんだ制服に身を包んで身じろぎもせずに立っていた。
待合室は空っぽだったが、アシェンデンとメキシコ人は、いちばん奥まった片隅に腰をおろした。
「汽車の発車まで、まだ一時間ある。暗号電報を解読してみよう」
そう言って、アシェンデンはポケットから電報を取り出し、アタッシュ・ケースから解読書を抜き出した。彼はあまり複雑なものは使ってなかった。それは二部からなり、一部は薄い本だが、他の一部は紙片一枚でこれは完全に記憶してイギリスを発つ前に破棄していた。彼はメガネをかけて作業を始めた。メキシコ人はシートの隅でタバコを巻いては吹かしていた。こちらの作業などいっこうに興味なしといった様子で、つかの間の休みを楽しんでいた。アシェンデンは乱数表と首っ引きで、一語一語と紙にしるしていった。彼は暗号解読のときは、ぜんぶ解き終わるまで、一語一語の意味を考えないことにしていた。さもないと性急に結論を出して誤りを犯すことになりやすいからだ。最後の一語まで解読し了えると、次のような文章になっていた。
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コンスタンチン・アンドレアディは病気のためピリーウスに在り。出発は不可能、ジュネーブへ帰って指示を待て。
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初めは何のことかわからず、読み直した。彼は全身をうちのめされたように感じた。そしてこんどばかりは自制心を失い、怒気も鋭くメキシコ人に向かってつぶやいた。
「なんて殺人狂だ、お前が殺したのは全く別の男だぞ!」
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第七章 パリヘの旅
アシェンデンはかねてから、自分は日常の生活で退屈することはないと主張していた。退屈する人間は、そういう資質がないのであり、楽しみを外に求めるのは愚か者だという意見だった。しかし彼は自分を過大評価することはしない。文壇では名を売っていたが、それでおのれをくずしたことはない。ベストセラーの小説や大当たりの芝居を書くと、その作家の名は一躍耳目を集めるが、そうした場合でも、真の名声と虚名とを厳しく区別していた。前者に対しては、目に見える利益をもたらさない限り、いたって冷淡だった。もっとも彼は自の名声ゆえに、たとえば汽船に乗るとき、思いもよらず豪華なステート・ルーム(専用個室)に入れてもらえたようなときは、あえてこれにさからわなかった。また税関の係員が、たまたま彼の短篇小説でも読んでいたため、荷物を開かないで通関してくれた場合でも、文学にもこういう余得があるのだと、それを喜んで認める主義だった。しかし熱心な演劇学生などが、演技論などを戦わせにくると溜息《ためいき》をもらしたものだ。また小説好きのご婦人たちが、彼の作品を熱心にほめあげるのを聞くと、死にたくなるような差恥《しゅうち》を感じた。しかしともあれ、彼は自分の知性を信じており、退屈しようなどとは思いもしなかった。
事実彼は、どんな人物と相対しても面白く会話を交すことができた。周囲の連中が、借金の相手のようにその姿を見たら逃げ出すような退屈な人間を相手にするときでも、彼はいつも同じ態度を持した。これはおそらく、作家としての職業的な本能のせいだろう。地質学者が化石に対したときと同じように、彼にとって作品の材料が、人間世界のあらゆるものが材料となりうるのだが、退屈の種となるはずがない。そしていま彼は、ふつうの人間ならこれ以上望みえないというほどの豊富な楽しみの材料を持っていた。ヨーロッパでいちばん住み心地がいいジュネーブで、一流のホテルに陣取り、船を雇って湖へこぎ出したり、馬を借りて郊外の砂利道をゆっくり走らせたりする。何もかも整然と手を加えたこの地方では、思う存分、速駆けを楽しむほどの芝生がほとんどないからなのだが……。またあるときは古寂《ふるさ》びた街を散策して過ごすこともあった。落ち着いた風格を漂わせる灰色の石造りの家屋を眺めて、はるかにすぎ去った遠い昔の思想や魂に思いをはせるのだ。ルソーの『告白録』を読み返したり、『新エロイーズ』に二度三度と取り組んであえなく敗退したりした。
執筆もまた怠らなかった。仕事の性質上社交に精出すのがはばかられたため、知人はほとんどなかったが、同じホテルに泊まっている人間とは、たまにおしゃべりをすることもあり、決して孤独ではなかった。日々の生活は充実し、変化に富み、何もすることがないときは、瞑想《めいそう》にふけった。こういう環境で退屈するなどとは考えられなかったが、空にただよう一片のちぎれ雲のように、退屈に陥る可能性が皆無とは言えなかった。その昔フランスのルイ十四世がある儀式に列するために、廷臣をひとり伴おうとして呼びにやらせた。廷臣が伺候したとき王は準備をおえてまさに出御しようとしていた。王はその廷臣に向かって冷たくこう言い放ったそうである。「ジェ・ファイ・アタンドル」つたないながらこれを訳すと、「余は危うく待たされるところであったぞ」となる。アシェンデンも、いまや、危うく退屈するところであった。
彼は湖畔を馬で走りながら考えた。もっともこの馬は尻が大きく張り出し首の短い斑馬《ぶちうま》で、一見したところ、昔の絵などによく描かれているいかにも精悍《せいかん》そのものの馬といった感じだが、相当の駄馬で、拍車を精いっぱい加えてもやっと小走りという程度だった。彼は想像をたくましくした。彼の属している秘密謀報機関の高級幹部連中は、ロンドンの本拠で巨大な機構をあやつりながら、興奮に満ちた生活を送っているのではないか……手持ちのコマを思うがままに動かしたり、無数の糸で思うがままの模様をあみ出したり(アシェンデンは比喩が好きでやたらと使う癖がある)、種々様々の|はめ《ヽヽ》絵の断片をつなぎ合わせて絵を創っているのではないだろうか……。しかし正直なところ、彼のような小者は、秘密謀報機関の一員に加えられても、一般に考えられているほど波乱に富んだ冒険を味わっているわけではなかった。彼の仕事は、市役所の吏員の仕事と同じで、あくまでも単調で波乱がなかった。一定の期間をおいて直属のスパイ連中に会い、報酬を渡し、またこれはと思う者がいたらスパイとして雇って指示を与え、ドイツへ潜入させ、情報が送られてくるのを待ってそれを上部へ転送する。週に一度はフランスへ行き国境の向こう側にいる同僚と会って話をし、ロンドンからの指示を受領する。市の立つ日には市場へ出かけて行って、バター売りの老婆が湖の向こうから持ってくる通信を受け取る。いつも耳目を開いて身辺を注意している。ときには長いレポートを書く。もっとも彼の場合、本部へ送っても、誰も読んでくれる人間がいないと信じているので、つい不注意に駄じゃれを挿入して、あとで本部からきびしくその軽率さをたしなめられるということもあった。
彼のやっている仕事は決して不必要だとは言えなかったが、単調のそしりを免かれなかった。ときにはもっと気のきいたことをやってやろう、フォン・ヒギンス男爵令嬢と浮気のひとつもしてやろうかと考えてみたこともある。彼女がオーストリア政府の密偵だということはもう明らかだったので、彼女との浮気には得るものがあると期待していたのだ。彼女と機知を争い合うのもまた一興ではないか? 相手は必ずワナを仕掛けてくる。知恵をしぼってそれを避けるという知的作業を繰り返していれば、頭がさびつくのを防げるという利益もある。彼女もこのたわむれには興味ありとにらんだ。花を届けたら感情もあらわな手紙を寄こしたのだ。彼と一緒に湖ヘボートをこぎだし、白い細長い手で水とたわむれながら「愛」を語り、「失恋」の悲しさをほのめかした。食事をともにして、フランス語の散文訳の『ロメオとジュリエツト』の芝居を見た。しかしRから、何をくだらぬお遊びをやってるのだ、という詰問の手紙を受け取ったときには、いったいどこまで押して行けばいいのか自分でも決めかねている状態だった。Rのいわく、「たまたま入手したる情報によれば、貴殿はフォン・ヒギンス男爵令嬢と称する女性と浮名を流しているとのこと。さりながらかの女性は枢軸側のエイジェントにして、単なる社交上の交際を除いてはいっさいのかかわりを持つことは望ましくない」
アシェンデンは肩をすくめた。どうやらRは、彼のことを、彼自身が考えているほど利口だと思っていないらしい。それにしても、いままで、このジュネーブに、彼の監視を任務のひとつとしている人物のいることを知らなかったとは迂闊としか言いようがない。彼が任務を怠っていないか、ミスを犯しはしないかと、常に監視している者がいるのだ。アシェンデンは面白くなかった。Rってのはなんと狡猾《こうかつ》でいまいましい爺《じじい》だろう。自分で直接危険を冒すことはせず、だれをも信用せず、部下を思うがままに操《あやつ》り、しかも部下の能力をいかようにも評価しようとしない。アシェンデンは彼の行動をRに通報した人物を突き止めようとした。まずホテルのボーイではないかと疑ってみた。Rがボーイというものに絶大な信頼を置いているからだ。彼らはいろんなことを目にする機会が多いし、情報を拾いやすい場所に比較的自由に立ち入れる。彼は男爵令嬢をも疑ってみた。彼女が連合国側のいずれかの国のスパイだとしても、不思議ではない。以後彼は大年増の令嬢に礼儀を失しない程度に接してはいたが、ことさら親しくするのは差し控えた。
アシェンデンは馬首を返して、ゆっくりジュネーブへ帰った。厩舎の馬丁がホテルの玄関で待っていた。鞍《くら》から滑り降りると馬丁に馬を渡してホテルへ入った。フロントでは電報が待っていた。簡単にこうしるしてあった。
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マギー叔母重態。パリのロティ・ホテル。可なれば見舞われたし。レイモンド
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レイモンドとはRの仮名である。しかしアシェンデンには「マギー」などという叔母はいなかったので、これはパリへ行けという命令だと解した。かねてから想像していたのだが、Rはヒマさえあれば探偵小説に読みふける性癖があるらしい。機嫌のいいときは、作家の空想の所産である奇怪な手を真似《まね》て実行に移して喜んでいるふうがある。そしてそれをやりおえると、自己嫌悪に陥って、部下に当たり散らすのだ。
アシェンデンは、ごくさりげなく電報をカウンターにおくと、パリ行きの急行の発車時間を尋ねた。そして時計を見て、これからフランス領事館へ行ってビザ取得の手続きをする時間があるかどうかを確かめた。彼はパスポートを持ってこようと自室へ上がって行こうとしたが、エレベーターのドアが閉まる瞬間に、ボーイに声をかけられた。
「電報をお忘れですよ」
「そうか、うっかりしてた」
男爵令嬢がなにかの拍子に彼がパリへ発ったことを知っても、叔母の重態の故だということが、これでわかるはずだ。戦時中は、何ごとによらず、自分の行動をはっきりさせておくのがいちばん利口だ。フランス領事館の連中とは親しかったので、ビザもすぐ出してくれた。ボーイに切符を買っておくように連絡すると、すぐホテルへ取って返して風呂に入り、服を着替えた。彼はこの突然の旅行の前途を想像して少なからず興奮していた。寝台車でもよく眠り、急な動揺で起こされるようなことがあっても驚かなかった。タバコをくゆらしながら横になっているのは気持ちがよかったし、狭い車室だがひとりきりでいられると思うと気分が安らいだ。車輪がレールの継ぎ目に当たるたびに響いてくるリズミカルな響きが、ひとり物思いにふける頭に心地よかった。広野の夜気を切り裂いて突っ走る気持ちは、宇宙を飛ぶ星のような感じだった。しかもこの旅の終わりに何が待ち構えているのか、かいもくわからないのだ。
パリは冷え冷えとして、小雨が降っていた。ヒゲがのび、ひと風呂あびて横になりたかった。しかし彼は上機嫌だった。駅からRに電話してマギー叔母さんの容態を訊いてやった。
「君が叔母さん思いで嬉しいよ。さっそく駆けつけてくれたんだね」とRが含み笑いをもらしながら答えた。「だいぶ悪いんだが、君の顔を見たらまた元気になるかもしれないよ」
素人はこれだから困る。プロのユーモリストならこんなまずいジョークは口が裂けても吐《は》かないものだ。ジョークとそれを口にするものとの関係は、蜜蜂と花のそれのように、軽やかで即応的でなくてはならない。あくまでもさりげなく、あとをひかないのが極意で、人を傷つけるなどもってのほかだ。花に近づく蜂が羽音をたてるぐらいなら許せる。しかしこれはあくまでも、感覚の鈍い連中にそれとなくしらせるという意味合いでだ。しかしアシェンデンは、プロに似合わず、他人のまずいジョークにも耐えうる寛容さを持っていた。だからRにもあえて皮肉を言わず、彼の調子に合わせてこう言った。
「叔母さんにはいつお会いできますか? よろしくお伝え下さい」
Rは電話の向こうでクックッと笑った。アシェンデンは苦い顔で吐息をもらした。
「君に会う前に紅のひとつもつけたいと思ってるらしいよ。君もよく知ってるように、人にはいちばんいいところを見せたい叔母さんだからね。十時半ごろってのはどうだ。叔母さんとの話がすめば、ふたりでどっかへ行って食事でもしよう」
「いいですね」とアシェンデン。「じゃ十時半にロッティというところで」
ひと風呂あびて、さっぱりしたところで、ホテルへ行くと、以前会ったことのある当番兵がすぐRの部屋へ案内してくれた。中へ通されてふと見ると、Rは、あかあかと燃える暖炉の火に背を向けて、秘書に口述筆記をさせていた。
「坐りたまえ」
そう言ったきりRは口述を続けた。
いかにも居心地のよさそうな部屋で、ハチに活《い》けた一束のバラは、女の手が行き届いていることを示していた。大きいテーブルの上には書類が散らばり、Rは、この前会ったときよりも老けて見えた。肉付きのうすいくすんだ顔にはシワが増え、頭髪はいっそう白くなっていた。仕事に追われて休むヒマもないのだ。朝は七時に起き、夜中まで働いていた、制服はパリっとしているが、Rが着るといちだん落ちて見えるから奇妙である。
「以上だ」とR。「すぐタイプしてくれ。昼食に出る前にサインするから」そして当番兵の方に向かい、
「君は席をはずしてくれ」
秘書は二十代の少尉で、臨時徴集で軍役についたシビリアンのようだったが、書類をかき集めると出て行った。当番兵があとに続いて出ようとするとRがその背中に声をかけた。
「ドアの外にいてくれ。用があるときは声をかけるからね」
「わかりました」
ふたりきりになるとRは、彼としては精いっぱいの優しさを振りまきながら言った。
「汽車の旅はどうだったね?」
「ええ、まア……」
「この部屋をどう思うね」Rはあたりを見回しながら言った。
「悪くはないだろう。戦争の厳しさを和らげようと思えば、いろいろ知恵をしぼらなきゃいかん」
とりとめのない話をしながらも、Rの視線はアシェンデンに厳しく注がれていた。くっつきそうに寄り合った青い両の目に見すえられると、頭の中を見すかされてこんな空っぽなのかとバカにされたような思いがする。事実、Rは、たまに気分が昂揚して口が軽くなったときなど、部下をバカか|ならず《ヽヽヽ》者としか考えてないことを、顕《あら》わに表情に出した。これはしかし、Rのような職業・立場にある者にとって、克服しなければならない欠陥の一つである。バカか|ならず《ヽヽヽ》者かと選ぶなら、Rはならず者の方を選んだ。この連中はやることが決まっているし、それに応じて対策を立てることができるからだ。彼は職業軍人で、インドや他の植民地で長い生活を送ってきた。戦争勃発時にジャマイカに駐屯していた彼を、陸軍省の高官でたまたま彼の才能や人柄を覚えていた者があの男ならと目をつけて、情報部に入れたのだ。Rは高官の期待を裏切らず、抜群の才能を発揮して、すぐ工作班長という重要な地位についた。限りないエネルギーと組織力を持ち、機敏で勇敢で、かっ決断力をそなえていた。唯一の欠点といえば、生涯を通じて、社会的地位のある人間と個人的に親しんだことがないということだ、特に女性との交友は皆無だった。彼の知っている女性はといえば、同僚や特定の政府要人、実業家の細君たちに限られていた。開戦と同時にロンドンへ帰り、情報部の仕事についたとき、やむをえず美人で聡明な女性たちと接触することになったが、そのたびに、日ごろの冷静さを失い、どぎまぎしたものである。なんだか気恥ずかしかったのである。しかし、しだいに彼女たちにも慣れ、女性関係でも才能を示し始めた。Rはアシェンデンの鑑識眼を評価してないようだが、それは作家というものの資質に無知であるゆえだ。アシェンデンは、一束のバラを見ただけでRの女性関係を読み取っていた。
Rが彼をパリへ呼んだのは世間話をするためではないはずだ。いつ肝心の用件を切り出すのだろうかといぶかったが、Rは長くは無駄話を続けなかった。
「ジュネーブではうまくやってるらしいね」
「認めていただいて恐縮です」
とたんにRの表情が厳しく冷酷なものに変わった。しかし口のきき方はあくまでも冷静だった。
「実はやってもらいたいことがあるんだ」
アシェンデンは黙っていたが、自分の才能を認められていると思って少しこそばゆかった。
「チャンドラ・ラルという人物のことを聞いたことがあるかな?」
「いいえ」
一瞬、大佐の額にいらだたしそうな影がよぎった。部下たる者は、上司が知ってほしいと思っていることは、すべて心得ているべきだという考えなのだ。
「いったい君はいままでどこに住んでたのだ」
「メイフェアのチェスター通り、三十六番地です」
Rの黄味がかった顔に微笑が浮かんで消えた。このすっとぼけた答えが、彼の皮肉な心情にピタリ来たのだろう。テーブルに歩み寄ると、その上にのっている書類カバンを開いた。そして一葉の写真を取り出してアシェンデンに渡した。
「その男だよ」
東洋人を見慣れないアシェンデンには、その男が、いままで彼が見かけたインド人の誰とも区別ができなかった。定期的にイギリスを訪れ、新聞に顔写真の出る王族のひとりかもしれない。太った色の黒い男で、唇は厚く、鼻は肉感的だ。黒く密生した頭髪には縮れがなく、写真に撮っても大きく写る目は、やはり黒く濡《ぬ》れたように澄んでいる。背広を着た恰好《かっこう》は、いかにも窮屈で着心地が悪そうだった。
「これはインドの服装をしてる」とRがもう一葉の写真を渡した。
この写真は、もう一葉の顔と肩だけのとは違って、全身が写っており、撮ったのもかなり以前のようだった。体もほっそりして、大きい鋭い目は食いつきそうに光っている。カルカッタのインド人が撮ったもので、背景もそれらしく変わったものだった。チャンドラのうしろには、哀れげな一本のヤシの木と海の風景が描かれていた。片手を、一面に彫刻をほどこしたテーブルの上においている。そばにゴムの木の鉢植が載せてある。しかしターバンを頭にかぶり、長い薄手の衣装をまとった姿には、少なからず威厳がそなわっている。
「どう思うね、この男のことを?」
「まア個性的とでも言いましょうか、一種独得の力強さを感じますね」
「この男に関する資料だ。読んでみてくれ」
タイプで打った数ページの綴りを渡されて、アシェンデンは腰を降ろした。Rはメガネをかけてサイン待ちの手紙を読み始めた。アシェンデンは最初はざっと概要だけをつかみ、二度目は細部にも注意して読んだ。チャンドラ・ラルとは相当危険なアジテーターらしい。職業は弁護士だが、政治にも手を出し、イギリスのインド支配を手厳しく批判している。いまでいう武装ゲリラで、数回も反乱を起こし、死傷者を出している。一度は逮捕され、懲役二年の判決を受けているが、開戦時にはすでに出獄しており、活発な反英運動を続けていた。彼はインドにおける反英運動の中心的存在で、各地で反乱を起こして、在印英軍のヨーロッパ戦線への転進をくいとめていた。彼はドイツ側から多額の援助を受けて運動を展開していた。二回ないし三回の戦闘に直接関係しており、これは何のかかわりもない数名の現地人を殺傷しただけで終わったが、現地人に与えた衝撃は大きく、志気にも影響を及ぼしていた。
彼は当局の追求を巧みに逃れ、まさに神出鬼没の活躍を示していた。警察の捜査はいつも後手に回り、ある市にいるという情報を聞き込んでそこへ手を回したときには、彼はもう一仕事おえて立ち去ったあと、というようなことの繰り返しで、ついには殺人犯人として多額の賞金がかけられるありさまだった。しかし彼は巧みにインドを逃れ、アメリカからスウェーデンヘ、そしてついにベルリンへ入った。そしてヨーロッパ各地で、インドから派遣されている現地人部隊の間に、反英的な気分を創り上げる陰謀に従事している。これらの事実がいっさいの批評説明なしに、ただ淡々と綴ってあった。しかし、そのぶっきら棒な語り口からも、謎《なぞ》と冒険の、息をのむような、間一髪の危険と逃亡の臭いが立ちこめていた。そして最後に次のように結んであった。
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Cはインドに妻とふたりの子供を残している。女性関係はなく、酒もタバコも飲まない正直者として通っている。莫大な金が彼の手を通じて動いたが、適当な使途(!)に使われたかどうかを疑われたことがない。明らかに勇敢で、勤勉である。約束は必ず果たすということを誇りにしているといわれる。
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アシェンデンはRに綴りを返した。
「どうだね?」
「狂信的ですね」アシェンデンはこの男にはむしろロマンチックで魅力的なところがあると思ったが、そんな「たわけたこと」をRが好まないことを知っていたのであえて口に出さなかった。
「どうも、非常に危険な存在らしいですね」
「インドはおろか、世界中探しても、こんな危険な策謀家はいないよ。悪党どもが束になってかかってもかなわないほどの危害を及ぼしている。ベルリンにはこういう手合いのインド人がいっぱいいるんだが、やつはそのブレーンだ。やつさえいなきゃ、ほかの連中は無視してもいい。根性があるのはやつだけだ。この一年やつを追い回したんだが、どうにもならなかった。しかしついにチャンスをつかんだ。こんどこそ逃がさんぞ」
「どうしようってんです?」
Rは無気味に笑った。
「殺すんだ。できるだけ早く消してしまうんだ」
アシェンデンは答えなかった。Rは狭い部屋を行きつ戻りつ考えていたが、暖炉の前に立ち止まってアシェンデンを見すえた。薄い唇は皮肉げにゆがんで笑いを浮かべていた。
「いまの資料の最後のところに、やつには女性関係がないと書いてあったろう。まアそれは事実なんだが、それももう終わりだ。やっこさんとうとう恋の奴《やっこ》になりおってね」
Rは書類カバンのところへ行き、青いリボンで束ねた手紙を取り出した。
「見たまえ、これはみなやつのラブ・レターだ。君は作家だ、こういうものに興味があるだろう。読んでもらいたい。これからの任務にも役立つはずだ。持って行きたまえ」
Rは手紙の束をカバンに放り込んだ。
「やつほどの有能な闘士が、色恋にふけるなんてことは奇怪千万と思うだろう。わしもまさかとは思っているんだがね」
アシェンデンはテーブルの上のバラに目をやったが、何も口にしなかった。勘の鋭いRはその視線に気づき、不意に顔をけわしくした。君は何を見つめているんだ! と訊きたそうな様子だった。こういう表情をするときのRは、部下に対して一片の情愛も抱いてない。しかしRは何も言わなかった。そして元の話題に返って言った。
「ともかく、そういうわけでね、チャンドラはジュリア・ラザリという女と恋に落ちたんだ。やっこさん、もうその女に夢中なんだな」
「どういういきさつで知り合ったのかご存じですか?」
「むろん、知ってるよ。ジュリアという女は踊り子だ。スパニッシュ・ダンスが得意なんだが、これがイタリア人でね。芸名は、ラ・マラゲーニア。君も知ってるだろう、絹のベールに、扇《おうぎ》を持ち、頭には大きなクシという恰好で、スペイン音楽に合わせて踊るんだ。ジュリアはもう十年もそれ専門でヨーロッパ中を踊り歩いてるんだ」
「女としちゃいける方ですか?」
「いや、最低だ。イギリスヘも巡業に来たことがあってね、ロンドンでも二、三回ステージに立ったんだが、週十ポンドの身入りもなかったらしい。チャンドラはベルリンのティンデル・タンゲルという店で彼女を見染めたんだね。あの店は君も知ってるだろう、名前は売れてるが安っぽいミュージック・ホールさ。大陸じゃ踊りを売春婦としての値を上げるための手段に使ってたらしいね。わしの考えじゃ」
「戦争中だというのにどうやってベルリンへ入ったんでしょう?」
「一時スペイン人と結婚してたことがあるんだ。一緒には暮らしとらんが、その女房ってことにしてたんだろう。スペインのパスポートで旅回りをやってたんだからね。チャンドラのやつ一途に打ち込んだらしいよ」Rはインド人の写真を手に取ると考え深そうに見つめていた。「まさかこの油ぎった色黒の小男にそんな魅力があるとは思わんだろう。ぶくぶくと太りおって! ところが女の方は、これまたやっこさんに劣らないほど夢中になっとるらしい。コピーだが女の手紙も持ってるよ。本物はやつが持ってるがね。ピンクのリボンでも使って束ねてあるんだろう。とにかく女の方もぞっこんだ、わしは作家じゃないが、手紙を読めば恋心が本当かどうかぐらいの判断はつく。君も読んで感想を聞かせてくれ。|ひとめぼれ《ヽヽヽヽヽ》なんてことはありえんと、よく人はいうがね」
Rはアイロニーをにじませて笑った。とにかくきょうはご機嫌がいいのだ。
「でもどうやってその手紙を入手したんです」
「どうやって入手した? どうやってだと思うね? 女は国籍がイタリアだもんだから、結局ドイツから国外退去になってね。オランダとの国境で放り出されたんだ。そしてイギリスでの公演契約があったので、オランダでビザをもらってる」Rは書類をがさがさやってその日付を拾い出した。「去る十月二十四日にロッテルダムからハリッチへ渡っている。それからロンドン、バーミンガム、ポーツマス、その他でステージに立ち、二週間前ハルで逮捕されたんだ」
「逮捕理由は?」
「スパイ行為だ。ロンドンへ護送され、わしはわざわざハロウェイ刑務所まで行って面会したんだ」
アシェンデンとRはしばらく黙ってお互いを見つめ会っていた。肚《はら》の探り合いってところだ。アシェンデンは、いまの話がすべて事実かどうかを考えていたし、RはRで自分の話が相手にどれほどの効果を与えたかをさぐっていた。
「どうしてその女に目をつけたんです?」
「ドイツ人がジュリアを何週間もベルリンで自由に踊らせておき、何の理由もなくドイツを出すはずがないと思ったからさ。スパイ行為をやらせるにはもってこいのチャンスだし、相手だからね。モラルも節操もない踊り子だが、それだけに、ベルリンが金を出してもいいと思うようなことを聞き込む機会もまたあるだろうというわけだ。いっそ思うがままにイギリスヘこさせて何をやらかすか見てやろうと考えたんだ。そしてずっと尾行をつけた。ところがあの女、週に二、三回オランダのあるところへ手紙を出すんだな。そしてその返事がまた週に二、三回オランダからくる。女の手紙は仏独英の混合という奇態なやつでね。彼女は英語を少し、フランス語はこりゃうまくしゃべるんだ。ところが、返事の方はぜんぶ英語なんだ。立派な英語だがイギリス人が書いた英語じゃない。はなやかで大げさな文体でね。これを書いたのは何者だろうかと思案したよ。ふつうのラブ・レターのように見えるが、どうにもお熱いものなんだ。手紙を出した場所はドイツだが、その主はイギリス人でもフランス人でも、ドイツ人でもない。これだけはハッキリしてる。じゃなぜ英語で書くのか? 英語を他のヨーロッパ各国語よりよく知ってる人種というと東洋人だ。トルコ人やエジプト人じゃない。彼らはフランス語の方が得意だからね。すると東洋人で英語がうまく書ける人種といえば、インド人と日本人だ。で、わしの結論は、ベルリンで工作を行なってるインド人のひとりだということになった。もっとも、この写真を見るまではチャンドラ・ラルだとはわからなかったがね」
「で、写真はどうやって?」
「彼女が持ってたんだよ。それがまた巧みに隠してあってね。コミック・シンガーや道化師、それにアクロバット・ダンサーなどの舞台写真と一緒くたに、トランクの中にぶち込んであったんだ。ふつうなら君、ステージ衣裳をつけて写したミュージック・ホールの芸人の写真だ、くらいに思って見過ごしてしまうからね。事実、彼女は逮捕されて、この写真の主は誰かと訊かれて、名前なんか知らない、インド人の魔術師にもらったもので、どこの誰か知らないと白を切ったんだ。しかし、わしは幸い利口な男をその任務につかせてたんでね、その男が、カルカッタで撮った写真がそれだけなのは変だと思ったわけだ。彼は写真の裏にナンバーが打ってあったのに気づいて、そのナンバーを写し取ったんだな、むろん写真はトランクに戻しといたがね」
「ところで、ついでながら伺っておきますが、その写真に気づいた男ってのは、どれほど利口なんです?」
Rは目を光らせた。
「君の知ったことじゃない。ハンサムな男だよ、それだけは言っておく。この際、そんなことはどうでもいいだろう。とにかく写真の番号をカルカッタに送って照会したんだ。しばらくして返事をもらったときは嬉しかった。ジュリアの愛情の対象がほかならぬチャンドラ・ラルだとわかったんだから。それからジュリァの監視をより厳重にした。すると彼女はどうも、海軍士官が好みらしいんだね。こりゃ彼女を責めてもしようがない。連中は、女性には人気があるからね。しかし、身持ちが悪い上に国籍もあやふやな女が、戦時中に海軍士官とねんごろになるってのはあまり賢明じゃないな。ほどなくして、彼女に不利な証拠が手に入ったんだ。少しだがね」
「どうやって情報を送ってたんです?」
「送ってやせんよ。ドイツ側にはね、送ろうともしてなかった。ドイツが彼女を放り出したのも故《ゆえ》なしじゃない。ドイツのためじゃなくて、チャンドラのために働いてたんだ。イギリスでの契約が切れたら、またオランダに渡って、彼に会うつもりだったらしいね。まあスパイとしちゃ利口な方じゃないな。神経質に注意してたらしいが、案外気楽な仕事だったんだね。だれも彼女に目もくれなかったんだ。しだいに熱中して、これだと思った情報はぜんぶ送ってたらしい。なんの危険もなくね。ある手紙の中でこう言ってるんだよ。
『お知らせしたいことがたくさんあるの、モン・プチ・チュー《あたしのかわいいひと》、あなたが知ったら|大喜びするようなこと《エクストレームマン・アントレッセ》よ』フランス語のところにはアンダーラインがしてあったよ」
Rはここでひと息入れると両手をこすり合わせた。くたびれた顔が、自分の狡猾さに酔っているような歓びを表わしていた。
「おかげでスパイ組織の全貌が明らかになった。もちろん女なんか|め《ヽ》じゃない。目的はチャンドラだ。それで、写真を押収して、とりあえず女を逮捕した。証拠は十分すぎるほどあるからね」
両手をポケットに入れたRは、醜い笑いを口辺に浮かべて唇をゆがめた。
「ハロウェイはあまりたのしい所じゃないからね」
「たのしい刑務所なんてないでしょう」
アシェンデンが皮肉った。
「一週間ほどわざと放っておいてやったよ。どれくらい自分で自分をさいなむかを見るためさ。そして行ってみると、案の定、ひどく神経をやられてる。女看守の話じゃ、すごいヒステリー状態だったらしい。なるほど彼女は打ちのめされてズタズタになってたよ」
「美人なんですか?」
「会って見りゃわかるよ。少なくともわしの好みにはあわんな。あれでもちゃんと着飾って化粧でもすりゃもっとましになるとは思うがね。わしは叔父さんよろしく厳しく尋問した。恐怖の神を吹き込んでやったんだ。少なくとも十年はくらいこむだろうってね。おどかしたんだ。いやそこまではいかん。おどかそうとしたってとこかな。まアその辺のところだ。もちろん彼女は否定したよ。しかし証拠はそろってる。絶対言い逃れはできんと保証してやった。そうやって三時間は彼女とすごしたね。その間に彼女はボロボロになり、ついにすべてを白状したよ。そこでわしが持ちかけた。チャンドラをフランスヘおびき出してくれたら自由の身にしてやるとね。もちろん彼女ははねつけたさ。死んだ方がましだと言いおったよ。ヒステリックになってわめき散らしたが、わしは吠えるだけ吠えさせた。そしてよく考えておけ、あすかあさってまたくるから、もう一度よく話し合おうって、その場は引き揚げてきた。実際はそれから一週間も放っておいたんだがね。さすがにその間に考えたんだろう。次に行くと、この前わしが言ったのはどういうことだったかと、静かに訊くんだ。二週間もがき苦しみ、わしの期待通り、ついに限界まで来たんだね。そこでわかりやすく条件を説明すると、受け容れると言うんだ」
「どうも私にはよくわかりませんね」
「わからん? いやしくも秘密謀報部員なら、どんなバカでもこれくらいのことはわかるはずだ。いいかね、彼女がチャンドラをスイス国境を経てフランス領に誘い込んでくれたら、彼女は自由の身になれると保証したんだよ。スペインヘでも南米へでも、旅費こっち持ちで逃がしてやろうってわけさ」
「いつどうやって女にチャンドラを誘い寄させるんです?」
「やつは女に首ったけだからね、しきりに会いたがってる。そこでオランダのビザがとれないという手紙を出させたんだ(ふたりはドサ回りが終わったらオランダで会う予定だったんだ)。しかしスイスヘなら入国できるってね。中立国だし安全だからさ、やっこさんこれに飛びついてきたよ。そしてローザンヌで会うという約束ができた」
「ほう……」
「それでやっこさん勇んでローザンヌへ行くと、女はいなくて一通の書状が待ってるってわけだ。フランスの官憲がどうしても国境を通過させてくれないので、トノンへ行きます、という内容だ、トノンはレマン湖を渡ってちょうどローザンヌの真向かいにあるフランスの町だ。そこへ女がやつを誘い出す」
「でも男の方が行きますかね?」
Rは一瞬、口を閉ざしたが、愉しそうな笑顔でアシェンデンの方を見た。
「いやでも女は呼びつけるさ、彼女には十年の懲役が待ってるんだよ」
「なるほど」
「彼女は今夜イギリスから護送されてくる。君はその身柄を受け取って夜行でトノンへ行ってくれたまえ」
「私が?」
アシェンデンは驚いた。
「そうだよ。お手のもんの仕事じゃないか。作家ってやつは人間の感性には人一倍鋭いはずだよ。それにトノンで二、三日すごすのも気晴らしになるだろう。小さいが小ぎれいな温泉町だよ。華やかさもあるしね。もっともこりゃ平和時の話だが。まアゆっくり温泉にでもつかってくるんだね」
「女を連れて行ってどう動けばいいんです?」
「そりゃ君の裁量にまかすよ。参考までにわしが思いついたプランを書いておいたんだが、読んでみようかね?」
アシェンデンは注意深く耳を傾けた。Rのプランは単純で明快だった。聞いていてアシェンデンは、そういうプランを組み立てられる頭脳というものに感嘆の念を禁じえなかった。
しばらくしてRは、昼メシを食おうと言いだし、どこか気のきいた連中の出入りする店へ連れて行ってくれと頼んだ。オフィスでは果断で自信に満ち、何ごとによらず鋭敏な反応を示すRが、レストランへ入るとなると、とたんに、小娘のように恥ずかしがるのだから愉快である。わしは固くなっていないぞ、ということを示すために、いつもより声高にしゃべり、いささか度がすぎると思うほどくつろいだ態度をとるのだ。戦争になって現在のような重要なポストにつくまでは、ごく平凡なしけた生活を送っていたことを、その態度が現わしていた。しゃれたレストランで有名人とテーブルを並べてメシを食うのは大好きなのだが、初めてシルクハットをかぶった学生のようにこちこちになり、給仕長の鋭い視線に出会うと縮こまってしまうのだ。ちらちらっと素速くあちこちに視線を送り、血色の悪い顔に、きまりわるそうな、それでいて、これで満足だという表情を浮かべている。アシェンデンは黒衣の女をRに示した。顔は醜いが、体の線がみごとで、首もとには真珠の長いネックレスが光っている。
「あれはブリード夫人といって、テオドール大公の囲い者ですよ。女としちゃヨーロッパでも実力者のひとりでしょう。利口な点でも指折りの女でしょうね」
Rの目線が、ついと彼女の上にとまり、頬が紅く染まった。
「まったくね、これが人生ってもんだ」
アシェンデンは好奇心に満ちた目でRを眺めていた。贅沢《ぜいたく》というやつは、味わったことのない人間に突然投げ与えられると、危険な存在になる。Rはなるほど狡賢《ずるがしこ》い人間だが、目の前に繰り広げられている俗なきらびやかさや、うわべだけの華やかさのとりこになっている。教養をつめば、バカな話とそうでない話との区別がつくように、贅沢が習慣になっていれば、うわべだけのきらびやかさなど、見ただけでヘドが出そうになるものだ。
食事をおえてコーヒーを飲むころになると、Rはもうすっかり上等の食事と雰囲気に酔ったようになっていた。それを見てアシェンデンは、心にくすぶっていた話題に火を点じた。
「例のインド人ですが、なかなか立派な人物のようですね」
「たしかに切れ者だよ」
「ほとんどひとりで、インド駐在の全イギリス軍を相手にするだけの勇気を持ってる人物ですからね、これには感心しないわけにはいきませんよ」
「わしは感傷的な気分であの男を批評しようとは思わんね。危険な犯罪者にすぎんよ」
「砲兵の二、三中隊と歩兵が六個大隊もあれば、彼だっていままでのような凶悪な手は使わないでしょう。そこいら辺にあるものを武器にして戦ってるんですからね。その点じゃ責められませんよ。結局、自分の利益のためにやってるんじゃないんですから。祖国の解放を目的にしてるんですからね。表面から見る限り、彼の行動は正当化されてますよ」
しかしRにはアシェンデンの言ってることの意味などわからなかった。
「そりゃ君、もってまわったこじつけだよ。病的な考え方だよ。われわれはそんな考え方に陥っちゃいかん。要はひっとらえて、すぐにでも射殺することだ」
「もちろんです。彼は戦争を宣言したんですから、自分でも命を賭《か》けてるはずです。だから私はあなたの指示を実行しますよ。そのためにここへ来たんですからね。しかし、彼には賞賛すべきもの、尊敬にあたいするものがあるってことを認めても非はないと思いますよ」
Rはここでまた部下に対する冷静で厳しい判断を下した。
「こういう仕事をやる場合、熱っぽい情熱でやる者と、冷静な態度で事に当たる者と、どっちがふさわしいか決めかねてるんだ。敵対してる連中を憎悪し、敵を倒すと、個人的な怨恨でも晴らしたような満足感を覚える者がいる。もちろんこういう連中は仕事はよくできる。君はこうした連中とは違う。まるで仕事をチェスか何かのように考えていて、どっちに転んでもなんとも感じないようだね。その点はわしにはよくわからんな、むろん仕事によっちゃ、君みたいな男がぴたりの場合もあるがね」
アシェンデンは黙して答えなかった。そして勘定を払うと、Rと一緒にホテルへ歩いて帰った。
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第八章 革命の志士と女芸人
汽車の発時刻は八時だった。アシェンデンは手荷物を預けてプラットフォームをぶらついて、ジュリア・ラザリが乗っている車輌を見つけた。彼女はシートの隅に小さくなって、顔を見られないように、照明から顔をそむけていた。ブーローニュでイギリスの官憲から彼女の身柄を引き取った刑事がふたり、護送にあたっている。ひとりは、レマン湖のフランス領岸でアシェンデンと一緒に働いたことのある男で、彼が近づくと肯《うなず》いてみせた。
「食堂車でメシを食わないかって訊いたら、ここで食いたいと言うもんですから、弁当を注文してやったんですが、いいでしょう?」
「かまわんさ」
「私と相棒は交替で食堂車へ行って、どっちかひとりがこの女といるようにします」
「思い遣《や》りのあるはからいだね。発車したらひとつ私もここへ来て、彼女とおしゃべりをしよう」
「それがどうもあんまり口をきかないんですよ」と刑事。
「そりゃ君、はしゃいでしゃべれと言ったって無理さ」
彼は二等の乗車券を買うと、自分の車輌へ戻った。ジュリアのところへ行ったとき、彼女はもう弁当をしまおうとしていた。バスケットの中をひょいと見ると、食欲がないのか、ほとんど手をつけていない。アシェンデンの姿を見て、監視に当たっていた刑事がドアを開けてくれた。そしてアシェンデンの目くばせで席をはずした。
ジュリアはぶすっとした表情で彼の方を向いた。
「もうじゅうぶん食べたんだろうね」
女の前に腰をおろしながら彼が訊いた。彼女はかすかに肯いたが、言葉は口にしなかった。彼はシガレット・ケースを出して、
「一本どうだね?」
相手はちらっと彼を見て、躊躇《ためら》っていたが、やはり無言で一本抜き取った。彼はマッチをすって火をつけてやりながら女の顔を見てハッとなった。べつに理由といってはないが、美人だろうと予想していたのだ。東洋人はブロンドによわいという定説もある。しかしこの女はいわゆるブロンド美人とはかけ離れた、浅黒い顔をしていた。髪は頭をすっぽり覆った帽子に隠されて見えなかったが、目はまっ黒だった。もう相当な歳で、三十五にはなるだろう。青白い肌はたるんでシワが目立った。それに化粧をしてないせいか、よけいやつれて見える。およそ美人といえる代物《しろもの》ではないが、目だけはきれいだった。体は大柄で、こんな大女じゃとても優雅な踊りなどできないだろうと思った。スペインふうの衣裳をつけたら、あるいは大胆で見映えがするのかもしれないが、こうして粗末な服に身をくるんで汽車に乗っているのを見ると、あのインド人が血道をあげるような魅力はどこにもない。
彼女はアシェンデンを値ぶみするような目つきでじっと見つめていた。いったい何者なんだろう、といぶかっているのだ。鼻から煙を吹き出すと、それに目をやり、そして再びアシェンデンにその視線を向けた。しかしこのいかにも尊大でむっとした表情は、実はただの仮面で、内心は不安でびくびくしているのだ。彼にはそれがわかっていた。女はイタリア訛《なま》りのあるフランス語で言った。
「あんた、誰」
「名前を知ってもどうってことはないだろう、マダム。私はトノンへ行く。ホテル・ド・ラ・プラスに君の部屋を予約しておいたよ。いまそこしか営業してないんでね。でも居心地のいいホテルだよ」
「ああ、あんたなのね、大佐があたしに話してた人って。あんたがあたしの看守ってわけね」
「まア形の上だけさ。君のやることには干渉しないつもりだ」
「どっちみち看守には違いないわ」
「こんな役目は早くご免をこうむりたいよ。私のポケットには、君のパスポートやその他の必要書類が入ってる。君がいつでもスペインへ行けるようにね」
女はシートの隅に身を投げ寄せた。暗い照明の中に青白く、目だけは黒く、浮かんでいた彼女の顔に、突然、絶望の影が走った。
「ひどいわ。あの爺《じじ》むさい大佐を殺せたら喜んで死んでやるのに! あの男には人間らしい心なんてないのよ。ひとをこんな目にあわして……」
「君がこういう不幸な状態に陥ったのは気の毒だとは思うがね、スパイ行為がどんなに危険なゲームか、知らなかったのかね?」
「あたし秘密を売ったわけじゃないわ。悪いことはしてないわよ」
「そりゃチャンスがなかったからだろう? 君は自供書にサインしたはずだよ」
彼はできるだけ優しく、病人にでも話すように話しかけた。声音にもけわしいところを出さなかった。
「ああ、あたしもバカなことをしたもんだわ。大佐の言う通りに手紙まで書いたりしてさ。あれでもうじゅうぶんじゃない? 彼が返事をよこさなかったらあたしはどうなるの? 来たくない人をこさせようたって無理な話よ」
「返事はもう来てる。私が持ってるよ」
女は喘《あえ》いで声を上げた。
「見せて! お願いだからその手紙を見せてよ!」
「見るのはかまわないが、返してくれないとだめだよ」
彼はチャンドラの手紙を出した。女はひったくるようにそれを取って、むさぼるように読み始めた。手紙は八枚あったが、読んでいるうちに涙が溢れ、頬を伝ってしたたり落ちた。泣きながら彼女は愛の言葉をあげ、恋人の愛称をフランス語やイタリア語で呼んだ。これは女がRの指示に従って、スイスで会いたいと書き送った手紙に対するチャンドラの返事だった。彼はその手紙にこおどりしたらしく、情熱的な辞句をつらねて、別れてからの時間がどんなに長く思われたか、どんなに彼女に会いたかったか、そして思いもかけず早く会えることになったが実際に会うまでがもどかしいとか、るると書き綴ってあった。彼女は読みおえると、ぽろりと手紙を床に落とした。
「あたしを愛してくれてるのよ、わかるでしょう? これはほんとです。あたしにはわかってるの」
「ほんとに彼を愛してるのかね?」
「あたしのような女に親切にしてくれたのはあの人だけよ。それこそ一日も休まずヨーロッパの町から町へ、ミュージック・ホールを流して歩くのは、楽な生活じゃないのよ。そういうとこに出入りする男にはろくなやつがいないしね。最初はあたしもあの人がそういう連中のひとりだと思ってたのよ」
アシェンデンは手紙を拾うと、ポケットに収《しま》った。
「十四日にローザンヌのホテル・ギボンで待ってるという電報を君の名でオランダから打って、ある」
「じゃ、あしたじゃないの?」
「そうだね」
女は頭を起こして黒い瞳に光を加えた。
「あんたたち、あたしになんてことをやらせようっていうの? よくも恥ずかしくないわねそれで」
「いやなら何もしなくってもいいんだ」
「いやだと言ったらどうなるの?」
「責任をとってもらわなきゃならないね」
「刑務所へ入るのは真っ平よ!」
彼女は悲鳴を上げるようにして言った。
「いやよ、絶対いや! あたしもうそんなに長く生きられないんだもん。十年もの懲役だなんて……ほんとに十年もの懲役になるのかしら?」
「大佐がそう言ったんなら、ありうることだろうね」
「ああ、あの爺《じじい》ね。冷酷な顔して。憐みなんてひとっかけらもないんだから。十年も刑務所に入ってたらあたしどうなると思う? 考えただけでもいやよ、イヤ!」
このとき汽車が、とある駅に停った。そして廊下にいた刑事がドアを叩いた。ドアを開けると絵葉書を渡された。それはフランスとスイスの国境にある駅、ポンタルリアの変哲もない風景で、銅像をまん中にすずかけの木が数本という広場の写真だった。アシェンデンはそれにエンピツをそえて渡しながら言った。
「彼氏に何か書いてくれないかね。このポンタルリアで投函するんだ。ローザンヌのホテル宛てにね」
女は彼をちらっと見やったが、何も言わずに絵葉書とエンピツを取ると、言われた通りに書いた。
「じゃ裏にこう書くんだ。『国境で手間取っておくれましたが、異常ありません。ローザンヌで待っていて下さい』あとは好きなことを自由に書いていいよ」
彼は葉書をもらうと、彼女が、言った通りに書いたかどうかを確かめ、帽子に手をのばした。
「じゃ、私はこれで失礼する。せいぜい眠っておくんだね。あしたの朝、トノンへ着いたら起こしてあげるから」
もうひとりの刑事も食堂車から帰って来ていた。アシェンデンが車輌から出ると、ふたりの刑事が中に入った。ジュリアはまたシートの隅にうずくまった。アシェンデンは絵葉書を、待っていたエイジェントに渡すと、自分の寝台車へ帰った。
翌朝、目的地のトノンへ着いた。いささか寒気が厳しかったが、明るい陽光が降りそそいでいた。アシェンデンは手荷物を赤帽に渡すと、プラットフォームを歩いて、ジュリアとふたりの刑事がいるところへ行き、肯きながら言葉をかけた。
「いやア、おはよう。なにも待ってることはなかったのに」
ふたりの刑事は帽子に手をやると、女に別れのあいさつをして去って行った。
「あの人たちどこへ行くの?」
「任務が終わったんだよ。もう君の前には現われないよ」
「じゃこれからあんたに監視されるわけね」
「いや、だれの監視も受けんよ。私はこれから君をホテルまで送って行くが、あとはいっさいつきまとわない。まア、ゆっくり休むんだね」
アシェンデンの赤帽が彼女の手荷物を持ち、彼女が引換証を渡した。駅を出るとタクシーが待っていた。アシェンデンは女をそれに押し込んだ。ホテルまではかなりの道程で、彼女がときどきちらっと流し目をくれるのを頬に感じた。彼は一言も発しなかった。ホテルに着くと、経営者が……細い遊歩道の曲がり角に建っている小さいかわいいホテルで、見晴らしがよかった……ジュリアのために予約してあった部屋に案内してくれた。アシェンデンはその親爺《おやじ》に向かって、
「この部屋なら申し分ないね。すぐ降りて行くから」
親爺はおじぎすると退って行った。
「できるだけ居心地のいいようにあんばいするよ、マダム」とアシェンデン。「ここは君の部屋なんだからね。何でも好きなものを注文していいよ。ほかの客と全く同じように振舞いたまえ。ほんと全く自由にしていいんだから」
「外へ行くのも自由?」
女がすかさず訊いた。
「もちろん」
「もちろん、刑事が両脇について、でしょう?」
「いやいや。このホテルを自分の家同様に思ってもらっていいんだ。外へ出て行こうが、いつ帰ってこようが、君の自由だよ。ただし、私に内緒で手紙を出したり、許可なしにトノンを離れないということを誓ってもらいたいな」
女はじっとアシェンデンを見つめていた。意味がわからず、夢ではないかと考えたらしい。
「そりゃこういう立場だからどんなことでも誓うわ。無断で手紙を書いたりこの町を離れたりすることは絶対しません」
「ありがとう。じゃこれで辞去しよう。あしたの朝また伺うからね」
アシェンデンはそう言って肯くと出て行った。途中五分ばかり警察に立ち寄って手筈が整っているかどうかを確認し、タクシーを駆って丘を登って、この土地へ定期的に来たときにいつも泊まることにしている一軒家へ辿《たど》り着いた。風呂に入ってヒゲを剃《そ》り、スリッパをはくとなんとも気分がよかった。彼は怠惰な気持ちに陥り、午前中は小説を読んですごした。
このフランス領トノンでもアシェンデンの存在を目立たせるのは望ましくなかったので、日暮れてから警察の者がひそかにやって来た。フェリックスという名の色の浅黒い小男で、鋭い目つきをして、アゴに無精ヒゲを生やしていた。くたびれたスーツをまとい、カカトのすりへった靴《くつ》をはき、いかにも失業中の弁護士事務所の書記といった恰好だった。アシェンデンは彼にワインをすすめ、ふたりは暖炉のそばに坐った。
「いやア、あの女、素速かったですね」と刑事が口を切った。
「あなたがホテルを出てからものの十五分もたたないうちに、衣類や装身具類を持って出て行きましてね、それを市場のそばにある店で売り払ったんです。そして昼すぎ、定期便の汽船が着くと、埠頭《ふとう》へ行ってエビアンまでの切符を買ったんです」
エビアンはすぐ隣の町で、やはりフランス領だが、汽船はそこから湖を横切ってスイスへ行くのだ。
「もちろん、パスポートを持ってないので、乗船は断わられましたよ」
「パスポートを持ってないことを、どう説明したかね?」
「忘れて来たんだと言ってましたよ。そしてエビアンにいる友達に会いたいんだからって、しきりに係員をくどいてました。百フラン札を握らそうとさえしましてね」
「思ってたよりバカな女だな」
翌朝十一時ごろ、女に会いに行ったが、彼女が逃亡をはかったことなど、彼はおくびにも出さなかった。さすがにその日は身づくろいする時間があったと見えて、髪もきちんとし、口や頬にも紅をさしていた。最初会ったときのあのひどいやつれは感じられなかった。
「本を持って来てあげたよ。手持ちぶさただろうと思ってね」
「あんたに関係ないでしょう」
「避けようと思えば避けられる苦痛を、味わわせたくないんだよ。とにかく置いてゆくから自由にやりたまえ。読む気が起これば読めばいいし」
「まだわかんないの? あたしあんたを憎んでんのよ」
「そうあからさまに言われると、あまり気持ちのいいもんじゃないね。しかし私を憎むっていう理由がわからんね.私はただ、上の命令で動いてるだけだ」
「話があるんならはっきり言ってよ。まさかあたしのご機嫌伺いに来たわけじゃないんでしょ?」
アシェンデンはにやりと笑った。
「実は恋人に手紙を書いてもらいたいんだ。パスポートに不備な点があって、スイスの官憲は国境通過を許可してくれない。だからここへ来てほしい。落ち着いたいい町で、ここにいると戦争なんかどこでやってるのかと思うくらいだ。ぜひこのトノンへ会いに来てくれ云々《うんぬん》とね」
「あの人、そんなバカじゃないわ。きっと断わってくるわよ」
「だから最善を尽くして説得してもらいたいんだ」
女は長い間じっと彼の顔を見すえていたがやっと口を開いた。内心の葛藤《かっとう》がありありと現われていた。ここでアシェンデンの言う通りに手紙を書いて、協力的な態度を見せたら時間を稼げるのではないかと……。
「じゃ言って下さいよ。その通りに書くわ」
「君が思う通りに、好きなように書いたらいいと思うがね」
「三十分だけちょうだい。書きあげるから」
「じゃここで待ってよう」
「どうして?」
「そうしたいだけだ」
女の目が怒りに光ったが、やっと自分を抑えたのか、何も言わなかった。小ダンスの上に筆記用具が載っていた。女はドレッシング・テーブルの前に坐って書き始めた。手紙を渡されたとき、ふと彼女を見ると、紅いルージュをひいてはいるが、顔色がとても悪かった。手紙そのものは、いかにも、物を書くことに慣れていない者のそれだったが、案外うまく書けていた。最後のくだりで、るると恋心を綴ったところでは、激しい恋情に溺《おぼ》れて、身も心もないといった感じが溢れていた。
「じゃこれにつけ加えて、『この書状を持参するのはスイス人で、絶対信用できます。途中、検閲にひっかかるといけませんので』とね」
女は一瞬ためらっていたが、言われた通りに書いた。
「『絶対』って、どう書くの?」
「まア適当に。それから封筒に宛名を書いていただこう。私はすぐ消えるから。歓迎されざる存在だからね」
彼は湖を渡るべく待機していたエイジェントにその手紙を渡した。その日の夕方、アシェンデンが返事を女に渡しに行った。もぎとるようにそれを手にした女は、しばらく胸に当てていた。そして内容を読んで、かすかに安堵《あんど》の声をもらした。
「あの人、こないのよ」
インド人流の華やかで誇張した表現で、会いにこられないのは身を斬《き》られるようなつらさだとしるしてあった。どんなに女に会いたがっているか、万難を排して国境を通過できるように骨折ってみてくれ、と懇願していた。また自分がフランス領へ姿を現わすことはできない、不可能だ。なにしろ自分の身には賞金がかかっており、狂人ででもない限りそんな危険は冒せない、と。そしておどけた調子で、「小男のふとっちょだが、恋人となれば君だって射殺されるのはいやだろう」
「来やしないわ」
女は繰り返した。
「来やしないから!」
「じゃこんどは、そういう危険はないと書き送るんだ。危険が感じられるようだったら、来てくれと頼んだりしないって。君を愛してるんならためらうな、と強調してね」
「いやよ! いやだわ!」
「駄々をこねるんじゃないよ。いやだと言って通る立場じゃないだろう」
女は突然、涙を流し始めた。床にひれ伏し、アシェンデンの足をつかみ、憐れみを乞うのだった。
「あたしを逃がしてくれたらどんなことでもするわ」
「バカを言っちゃいかんよ。君の恋人になれるわけでもないし。さアさア、よっく考えて。君がやるべきことはわかってるだろう」
立ち上がった女は、悪罵《あくば》の限りを尽くしてアシェンデンにくってかかった。
「その方が君らしくていいよ。手紙を書いてくれるかね。それとも警察を呼ぼうか?」
「あの人は来やしないわ。ムダよ」
「こさせた方が君の為だと思うがね」
「どういう意味よそれは? あたしができる限りのことをして、もしも失敗すれば、あんたたち……」
女はきっとなって彼を見すえた。
「そう、君かあの男か……ね」
女はギクっと全身を震わせた。そして胸に手を当てると、何も言わずに、ペンとインクの方へ向かった。しかし書きあがった手紙が彼の気に入らなかったので、もう一度書き直させた。終わると女はベッドに身を投げ、再び激しく泣き始めた。女の哀しみは本物だったが、その表現があまりにも芝居じみているので、アシェンデンは、さほど心を動かされなかった。彼の立場は、言ってみれば、治療し難い痛みをかかえて苦しんでいる患者を前にした医者と同じだった。いまにして、Rがこの仕事を彼に課した理由がわかった。冷静な頭脳と何ものにも動じない感情が必要なのだ。
翌朝は女に会わなかった。例の手紙に対する返事が来たのは夕食をすぎたあとで、フェリックスが郊外にある彼の滞在先へ持参した。
「どうだね、新しいニュースがあるかね」
「敵は必死になってるようですよ」
フランス人は笑いながら言った。
「女は昼すぎ、リオン行きの汽車が発車する間際に駅へ行ったんですよ。不安げな様子できょろきょろしてるので、そばへ行って、どうかしたんですか、と尋ねてやりました。警察の者だと名乗りましてね。そのときの形相の凄《すご》かったこと、殺してやると言わんばかりで、いまここにこうして立ってるのが不思議なくらいですよ」
「まアかけたまえよ、モナミ(君)」
「メルシー。それで女は姿を消しました。汽車に乗ろうとしてもムダだと悟ったようです。いや、もっと面白い話があるんですよ。汽船の乗務員に千フラン握らせて,ローザンヌへ渡らせてくれと頼んだんです」
「で、その男どう言った?」
「そんな危険は冒せないって断わったそうです」
「それで?」
小男のエイジェントは肩をすくめて、ニヤリと笑った。
「女はその乗務員に、もう一度よく話したいから、今夜十時に、エビアンへ通じる道路で会ってくれと頼んだそうです。しいてとは言わないが、あたしの心を理解してほしいってね。だから私はその男に、会いに行くのはかまわないが、重要な話が出たら隠さずに報告するように念を押しておきました」
「その男は信用できるんだろうね?」
「ええ、そりゃもう。女が監視されてるってこと以外は何も知りませんよ。ことさら警戒することはないと思いますね。いい青年で、私は子供時分から知ってるんです」
アシェンデンはチャンドラの手紙を読んだ。恋情をこめて書いた内容で、心のうずきで織りなした切々たるものだった。本物の恋か? アシェンデンの経験から言っても、これは本物だった。何時間も何時間も湖畔を歩きながらフランス領の方を見ながら過ごしたこと、お互いすぐ近くにいながら、いかに絶望的に離れていることか! 繰り返してフランス領トノンヘは行けないと述べ、これ以上私を責めないでくれ、という。彼女のためならどんなことでもやるが、こればかりはその勇気がない。しかもどうしてもと言われるとその言葉には抗し難い。しかしこの際、切に彼女の理解を乞いたい、としるし、このまま会わずに帰るのかと思うと胸も張り裂けんばかりだ、なんとか監視の目をごまかして逃げる方法はないものか、こんど会ったら二度と放さない、という誓いの言葉で結んであった。できるだけ感情を抑えて文章にも意を用いていたが、行間から溢れ出る思慕の炎は、用箋も燃えよといわんばかりの激しさだった。まさしく恋に狂った者の手紙だった。
「女と船員との会談の結果はいつわかるのだね」アシェンデンが尋ねた。
「十一時から十二時までの間に、船着き場で会うことにしてます」
アシェンデンは腕時計を見た。
「私も一緒に行こう」
ふたりは丘を降り、寒風をさけるために埠頭に入って、じっとうずくまっていた。やがて男が近づいてくるのがわかった。フェリックスが埠頭の陰から出て行った。
「アントワンヌ」
「フェリックスの旦那ですね。女から手紙をことずかりましたよ、あしたの朝一番の船でローザンヌへ届けてやるって約束したんスけどね」
アシェンデンは船員の姿をちらっと見やったが、彼とジュリアの間でどういうやり取りがあったかは訊かなかった。彼は手紙を受け取り、刑事のかざす懐中電灯の光でそれを読んだ。お粗末なドイツ語だった。
[#ここから1字下げ]
絶対こっちへ来ちゃだめ、あたしのいままでの手紙なんか気にしないで。危険です。愛しています、かわいい人。こないでちょうだい。
[#ここで字下げ終わり]
手紙をポケットに入れると、船員に五十フラン渡し、そのまま家へ帰ってベッドに入った。しかし翌日、ホテルへ彼女を尋ねて行くと、部屋にはカギがかかっていた。ノックしたが返答がない。そこでドア越しに呼びかけた。
「ジュリア、ここを開けなさい。話したいことがあるんだ」
「あたし寝てるのよ、気分が悪くって。だれにも会いたくないの」
「とにかく開けなさい、病気なら医者を呼んであげるから」
「だめよ、帰って。だれにも会いたくないの」
「どうしても開けないというんなら、カギ屋を呼んでムリにでも開けるよ」
しばらく沈黙があったが、やがてカギ穴にカギを差し込む音がしてドアが開き、彼は部屋の中に身を移した。女はガウン姿で、髪はバサバサだった。ベッドから抜け出したばかりなのだ。
「もう精も魂も尽き果てたわ。何をする気力もないの。見てちょうだいこのあたしを。病気だってことはわかるでしょう。ゆうべから苦しみ通しなのよ」
「もう長くはここに引き留めるつもりはないよ。医者に診てもらうかね?」
「医者にかかってもどうなるもんでもないわ」
彼は昨夜船員から受け取った手紙を彼女に渡してやった。
「この手紙はどういう意味だね」
女はそれを見て大きく吐息をもらし、蒼白の顔が更に蒼くなった。
「私の許可なしに町を離れたり手紙を書いたりしないと約束したはずだよ」
「あたしが素直に約束を守ると思ってたの?」
嘲《あざけ》りをこめた声がはね返ってきた。
「いや。実を言うとね、君を留置場ではなくて、居心地のいいホテルへ泊めたのは、君のみじめさをおもんぱかったせいじゃない。もちろん外出は自由だが、留置場へ鎖でつないでおくのと大差はないんだ。トノンから逃げ出すチャンスなどありはしない。届きもしない手紙を書くのは愚かだとしか言いようがないね」
「チキショウ!」
女は全身の力をこめて呪いの言葉を投げつけた。
「まアかけたまえ。こんどは先方へ届く手紙を書いてもらうからね」
「いやよ、もう書かないわ。一文字だって書かないから」
「ここへくるとき、あることをやってもらうってことを承知してたはずだよ」
「やるだけのことはやったわ。もうおしまいよ」
「少しは考えてみたまえ」
「考えてるわよ。考えに考えたわ。もうどうなと好きなようにして、あたしは構わないわ」
「よろしい。五分だけ待ってあげよう。その間に考え直すんだね」
彼は時計を出して眺め、乱れたままのベッドの端に腰を降ろした。
「まったく神経にくるわこのホテル。なんで留置場へ入れてくれなかったの? なぜ、なぜよ。どこへ行ってもスパイに尾行されてるような気がするわ。あんたがあたしにやらせようとしてることは破廉恥よ。恥知らずもいいとこだわ。あたしがどういう罪を犯したっていうの? 言ってよ、何をしたというのよ。これでも女なのよ。女にこんなことをやらせるなんて恥ずかしくないの? 無神経だわ」
声高《こわだか》の震え声が続いた。それは心からの言葉、叫びであった。そして五分が過ぎた。アシェンデンは何も言わずに立ち上がった。
「ええ、帰ってよ。出てってよ!」
女がまたわめいた。そして彼に罵声《ばせい》を浴びせかけた。
「すぐまたくるからね」とアシェンデン。
ドアにささっていたカギを抜きとり、廊下に出ると後手にロックした。階段を降りながらメモを走り書きして、雑役夫を呼んで警察へ持って行かせた。部屋へ上がって行くと、ジュリアはベッドへ体を投げかけ、顔を壁に向けていた。ヒステリカルに泣きそぼちながら小刻みに体を震わせている。彼が部屋に入ったのにも気づかないふうだった。彼はドレッシング・テーブルの前にある椅子《いす》に坐り、そこに散らかしたままになっている雑多な化粧品を所在なさそうに見回していた。どれも見せかけだけの安物で、薄ぎたなくよごれている。ルージュやコールド・クリームの薄よごれた小ビン、眉墨《まゆずみ》やマスカラの容器。ヘアピンには脂肪が白くくっついてきたならしかった。部屋そのものが散らかり放題で、安香料のニオイでむせかえるようだ。女は国から国へ、田舎の町から町へ、ドサ回りの旅暮らしで、数知れないほどの安ホテルを泊まり歩いたのだろうが、彼はそうした三流ホテルの部屋を想像してみた。いったいこの女、どういう生まれなんだろう? 品も何もない粗野な女だが、これで娘時代はどうだったのだろう? タイプとしても好みに合わないし、その過去も敬遠したくなるようなものらしい。またとりたてて誇れるような長所を持っていないようだ。彼は考えてみた。芸人一家の出身ではないだろうか(何世代にもわたって、踊り子やアクロバット芸人、あるいはコミック・シンガーという家族は、世界中にいるものだ)あるいは行きずりに知り合って恋人になった男が、その道の者で、一時パートナーとして暮らしたことがあるのかもしれない。それにしてもいままでどういう男たちとつき合ってきたのだろう。一座の芸人仲間、女芸人に手を出すのが当然だと思っている周旋業者やマネージャーたち、商人や金回りのいい実業家、巡業地のいなせな兄《あん》ちゃんたち……こういう連中なら彼女の豊満な肉体やセクシュアルな感じに魅きつけられるだろう。彼女にとって、連中は、金になるお得意さんで、安給料を補ういいカモだ。誰かれとなく平気で体を与え、周囲もそれを認めたに違いない。しかしカモの方は、旅の踊り子とのロマンスとして受け取るのだ。金で買った女の愛撫を受けながら、大都会の華やかさや、どうせ手の届きそうにない、それでいて、心をしびれさせる冒険と肉欲の世界を夢見たに違いない。
突然ドアにノックの音がしたので、彼はあわてて声をかけた。
「どうぞ」
ジュリアはぱっとベッドの上に起き上がって坐っていた。そして、
「どなた」
ドアが開くとそこに刑事がふたり立っていた。ブーローニュから彼女を護送し、トノンでアシェンデンに身柄を引き渡したちの刑事たちだ。彼女は大きく吐息をもらして叫んだ。
「あんたたち! 何しに来たのよ!」
「そら、起きるんだ」とひとりが言ったが、その声には鋭い厳しさがあり、生半可《なまはんか》なことでは容赦しないぞ、という意味がこめられていた。
「気の毒だが起きるんだね、君」とアシェンデン。「もう一度この人たちの厄介になるんだよ」
「起きれるもんか! あたしゃ病気なんだよ、ほんとうに。起きたって立てやしないんだから。あんたたち、あたしを殺すつもり?」
「服を着るんだ。着ないんならこっちの手で無理にでも着せるよ。あられもないことになると思うがね。さア、騒ぎを起こしちゃみっともないだろう」
「どこへ連れてこうってのさ?」
「イギリスへ連れて帰るんだよ」
刑事が彼女の腕をとらえた。
「触らないで、近寄らないでよ」
彼女は怒気もあらわに叫んだ。
「放っときたまえ」とアシェンデン。「この女だってみっともない騒ぎはしたくないだろう」
「服ぐらい自分で着るわよ」
女がガウンを脱ぎ、頭からドレスをひっかぶるのをアシェンデンは眺めていた。次に彼女は小さな靴にむりやり足を押し込み、髪を整えた。その間彼女はちらちらっと、素速い、しかし沈鬱な視線をふたりの刑事に投げていた。最後まできちんとやり通すかどうか、アシェンデンは気が気ではなかった。Rが聞いたら彼をこのバカ者と叱り飛ばすだろうが、彼にすれば、どうか無事にやり了えてくれるようにと、祈りたい心地だった。女がドレッシング・テーブルの方へ行ったので、彼も立ち上がってその前に坐らせた。女は手速くコールドクリームを顔になすりつけると、よごれたタオルでそれを拭き取り、白粉をはたいて、目に墨を入れた。女の手は震えていた。三人の男がそれを黙って見守っている。女は頬紅をつけ、唇に紅をひき、帽子を叩きつけるように頭に載せた。アシェンデンが刑事のひとりに合図すると、彼は手錠をポケットから出して女の方へ歩み寄った。
それを見た女がぎくりとして後ずさりし、両手を広げて叫んだ。
「いや、いや、いや! こいつらと行くのはいやよ! いやよあたし、絶対いやだから!」
「おい、このやろう、バカを言うんじゃない」
刑事が荒々しく怒鳴《どな》りつけた。
女は助けを求めるように(これには驚いた)アシェンデンに両手で抱きついた。
「このふたりにあたしを渡さないで、お願い。いやよあたし、いや!」
彼はなんとか彼女を振りほどこうとしてもがいた。
「残念だが何もしてあげられないんだ」
刑事は彼女の手首をつかんで手錠をはめようとした。そのとき彼女が大声を上げて床に突っ伏した。
「それほどいやならしかたがないね。できるだけのことはやってみよう」
アシェンデンの合図で、刑事たちは出て行った。彼は女の興奮がおさまるまでしばらく待っていた。そして床に突っ伏して激しく泣いている女を立たせて坐らせた。
「あたしにどうしろって言うの?」彼が叫んだ。
「だからもう一通チャンドラ宛てに手紙に書いてもらいたいんだ」
「あたしいま、頭が混乱してんのよ。文字なんて書けっこないわ。もう少し時間をちょうだい」
しかし彼は、女が恐怖に打ちのめされている間に、手紙を書かせた方がいいと思った。冷静になられたら都合が悪い。
「文章は私が言うから、その通り書けばいいよ」
女は深く溜息をついたが、ペンと用箋を手にするとドレッシング・テーブルの前に坐った。
「あたしが手紙を書いて……あんたがもし目的を遂げたら、あたしを自由にしてくれるって保証はある?」
「大佐はそう約束したんだ。改めて念を押しておくが、私は大佐の命令を実行するだけだよ」
「味方を裏切って十年もくらいこんだら、いい笑い物ね」
「そこのところはわれわれを信用してもらいたいね。われわれに意味があるのはチャンドラだ。彼を抜きにしちゃ、君の存在なんて無価値だよ。君は直接われわれに害を与える人間じゃない。手間暇をかけ、金まで使って君を刑務所に入れておく理由はないだろう?」
女はしばらく考え込んでいる。もう完全に自分を取り戻していた。感情を使い果たし、突然理性的な現実的な女性になったような感じだった。
「どういうふうに書くのか言ってよ」
アシェンデンはとまどった。女が自分の頭で考えたような、いかにも彼女らしい文章をつくる自信はあったのだが、いざとなると考え込まざるをえない。あまり流暢《りゅうちょう》でも、文学的でもいけない。人は感情が昂《たか》ぶると、メロドラマ的になり、文章も自然かたくなるものだ。小説や舞台ではいつもこれが失敗の原因になり、作家は、ふつう以上に表現を簡潔にし、誇張も控え目にしなくてはならない。事態はいまや重大だが、その中にややコミカルな要素が感じられた。
「あたしの愛する人が臆病者だとは知りませんでした」アシェンデンは口述を始めた。「もしもあなたが本当にあたしを愛しているのなら、あたしが来て下さいと頼んでいるのに、躊躇するはずがありません……『はずがない』に二本アンダーラインをしてね」彼は続けた。「危険はないとこのあたしが保証しているのです。愛情がないのなら、こなくてもいいのです。こないでちょうだい。安全なベルリンヘお帰りなさい。こんな状態はつくづくいやです。まったく孤独で、あなたを待ちくたびれて病気になってしまいました。毎日、きょうはくるきょうはくると自分に言い聞かせてきました。愛してくれているのなら躊躇しないはずです。それなのにまだ来てくれないのは、あたしを愛していないからです。あなたには愛想も何も尽き果てました。お金はないし、このホテルのサービスは最低だし、これ以上ここに留まっても意味がありません。パリへ行けば契約がとれます。向こうへ行けば、いろいろ骨折ってくれる友達がいるんです。あなたのためにさんざん時間と神経を使ったのに、得たものは何でしょう。もうおしまいです。さようなら。あたしほどあなたを好きになる女はふたりといないでしょう。いまのあたしには、パリの友達の申し出を蹴《け》る余裕がもうないので、電報を打ちました。返事がありしだいパリへ向かいます。愛してくれないからといってあなたを責めたりはしません。筋違いですもの。でも、ひとりよがりの恋を期待して、これ以上未練たらしく待ち続けるほどお人良しではありません。女は老けやすいですものね。さようなら。ジュリア」
書き終わった手紙を読み返してみたが、満足のいくものではなかった。しかし、これが精いっぱいというところだろう。女は英語をほとんど知らないので、発音通りに書いたらしく、綴りはでたらめだし、その書体も幼児のようにつたない。誤字を書いてそれを線で消しまた書きかえてあるところもあるし、二、三の文章はフランス語で書いてある。しかしこうしたことが、かえって手紙に迫真力を与えるから不思議だ。途中で涙を落としたのか、インクがぼやけているところもある。
「じゃ預かって帰ろう」とアシェンデン、「こんど君に会うときは、『もう自由だよ、好きなところへ行きなさい』と言えるといいがね。君はどこへ行きたい?」
「スペインよ」
「よろしい。手筈を整えておこう」
肩をすくめる女をあとにして部屋を出た。
いまのアシェンデンには待つことしかなかった。午後ローザンヌへ使いをやり、翌朝汽船の到着を待つために埠頭へ行った。乗船券発売所の隣に待合室があり、ここで刑事たちに待機しているように伝えた。汽船が着くと、船客は桟橋を一列になってぞろぞろと進み、ひとりずつパスポートの検査を受けてから外へ出る。もしもチャンドラが来てパスポートを出すとすれば、中立国発行のものを偽造したと思って間違いない。税関の係官に見破られて引き留められたら、その間に彼の姿特徴を見定めることができる。そして逮捕という段取りだ。船が着き、一群の船客が舷門に集まっているのを見て、胸がさわいだ。彼はひとりひとりの姿を見て行ったが、インド人らしい風貌の男はいない。チャンドラはこなかったのだ。アシェンデンはどうすればいいのかわからなかった。最後のカードをさらしてしまったのだ。トノンで降りた客は六人ほどで、検査を受けると思い思いの方向へ散って行った。そのあと彼はゆっくりと桟橋を歩いた。
「いや、どうしようもないね」
彼はパスポートの検査をやっていたフェリックスに言った。「お待ちかねのお客さんが現われないんじゃね」
「こういう手紙が来てますよ」
渡された封書を見ると、ジュリア宛てのもので、特徴のあるひねった書体は、明らかにチャンドラのものだった。そのときジュネーブ発のもう一隻の汽船が視界に入って来た。ローザンヌから更に湖の端の方まで回る船だ。トノンヘは毎朝、反対方向を回る汽船が出たあと二十分ほどして着くのだ。このとき彼の脳裡にあることがひらめいた。
「この手紙を持って来た男はどこにいる?」
「乗船券売場ですよ」
「じゃ手紙を渡して、託した者へ返すように言うんだ、女のところへ持って行ったが突き返された、とでも言わせるんだね。相手がもしも別の手紙を託そうとしたら、女は荷物をまとめてトノンを発つ用意をしているから、ムダでしょう、と言わせたらいい」
彼は刑事が命令通り男に手紙を渡し、何ごとか指示しているのを見届けて、丘の上の家まで歩いて帰った。
チャンドラが乗ってくるかもしれない次の船は、夕方五時に着く。アシェンデンはちょうどその時間、ドイツで行動している部下のエイジェントと重大な会合をすることになっていたので、少しおくれるかもしれないとフェリックスに伝えてあった。チャンドラが来ても簡単に拘引できるはずだ。パリへ護送するのに使う汽車も発時刻は八時すぎだから、何もあわてる必要はない。アシェンデンは会合をおえるとゆっくり湖の方へ降り始めた。まだ残照があり、丘の上の家から汽船が出港していくのが見えた。大事なときだ。彼はわれしらず歩調を速めた。突如、彼の方に向かって走ってくる人影が現われた。手紙を渡した男だ。
「早く早く!」男が叫んだ。「やつが来ました」
アシェンデンは胸をゆすぶられた。
「ついに来たか!」
彼も男と一緒に駆け始めた。男はあえぎながら、あの開封もしてない手紙をどうやって返したかを、とぎれとぎれに話した。インド人の手に返したとき、相手は驚きに顔を蒼くし(インド人の浅黒い顔があんな色に変わるとは思いもしませんでしたよ、と彼が言った)、自分の手紙がどうしてここにあるのかわからないといったふうに、何度も裏返しては眺めていたそうだ。溢れ出た涙が頬を伝って落ちた(グロテスクでしたよ、なにしろやっこさん、ふとってるでしょう)。そして男の知らない言葉で何かしゃべり、ついでフランス語で、トノン行きの船は何時に出るかと訊いた。船に乗り込んだ男はあたりを見回したがチャンドラの姿がない。しかしやっとその姿を確認した。長いコートに身を包み、帽子を目深かにかぶったチャンドラが、ひとり船首の甲板に立っているのだ。トノンへ着くまでじっとその方向を凝視していた。
「いまどこにいるんだね」とアシェンデン。
「私はまっ先に飛び降り、フェリックスさんに言われてそのままお迎えに来たので、いまどこにいるかは……」
「待合室にでも監禁してあるんだろう」
桟橋に着いたときアシェンデンは息切れしてぶっ倒れそうだった。彼は待合室へ飛び込んだ。数名の男たちが、床に倒れた男をぐるりと取り巻いて、声高に荒々しいジェスチャーで話し合っていた。
「どうしたんだ」
「見て下さい」とフェリックスが答えた。
目を開き口から少し泡を吹いたチャンドラが、死体となって横たわっていた。体は死の苦悶にゆがみ、目をそむけたくなるような姿だった。
「自殺ですよ。医者を呼びにやったんですが、なにしろあっという間の出来事でして」
アシェンデンはぞっとするような恐怖に体をゆさぶられた。
インド人が上陸したとき、フェリックスはその特徴から、手配中の人物であることを見抜いた。下船した客はただの四人で、彼は最後に降りて来たという。フェリックスは、前の三人のパスポートをわざと時間をかけてゆっくり検査して、さてインド人のパスポートを見る段になった。スペイン発行のもので不備な点はなかった。フェリックスは形式的な質問を重ねて、その答えを公文書に控えた。そしてしばらく彼を見つめてから口を切った。
「待合室へおいで下さい。ちょっと手続きがありますから」
「私のパスポートに不審な点でも?」
「そうじゃないんです」
チャンドラはためらっていたが、彼に従って待合室の入口のところまで来た。フェリックスがドアを開けてわきに立って言った。
「お入り下さい」
チャンドラが入るとふたりの刑事が立ち上がった。彼らが刑事で、自分がワナにかかったことを瞬間的に悟ったらしい。
「坐って下さい」とフェリックス。「ひとつふたつお訊きしたいことがあるんです」
「ここは暑いですね」とインド人が言ったが、なるほど小さいストーブがあり、部屋は熱気で充満していた。「コートを脱いでもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」フェリックスは愛想よく答えた。
チャンドラは、脱ぎづらそうに苦心していたが、それでもやっとコートを脱ぎ、かたわらの椅子にのせた。そして一同の者がはっと気づいたときには、彼の体がよろめき、どさっと床に倒れていた。コートを脱ぎながら、握っていたビンの中身を飲んだらしい。アシェンデンはビンの臭気をかいでみた。アンズの臭いがつんと鼻腔を刺した。
しばらくの間、一同は床に倒れた男を見おろしていた。フェリックスはそれが自分の過失のようにうちしおれていた。
「叱られるでしょうか?」と彼が神経質そうに尋ねた。
「君の責任じゃないと思うよ」とアシェンデン。「とにかくこれでこの男もわれわれに害を与えることができなくなったわけだ。私個人としちゃ、自殺してくれてむしろほっとしたね。彼が処刑される場面を想像すると、あまりいい気持ちのもんじゃない」
数分後に医者が到達して死亡を確認した。
「青酸ですよ」医者がアシェンデンに言った。
彼は肯《うなず》いた。
「私はジュリアに会いに行こう。もしもまだ数日ここにいたいようだったら、そうさせてやるよ。今夜中に発ちたいと言ったら、もちろんそうはからってやろう。駅に張り込んでいる連中に、彼女が現われても手を出さないように連絡しておいてくれないか」
「私が直接駅へ参りますよ」とフェリックス。
アシェンデンはまた丘を登った。もうとっぷり日が暮れていた。寒いが空には雲ひとつなく、薄明があった。新月が銀の光を放っている。彼はポケットの中で銀貨を三度ひっくり返した(新月を見たときこうすると幸運が訪れるという迷信がある)。ホテルへ入った彼は、急にその冷たい凡俗さに嫌気がさした。キャベツとボイルした羊肉の臭気が鼻をついた。ホールの壁には鉄道会社の派手なポスター、グルノーブルやカルカソンヌ、それからノルマンディの海水浴場のポスター等が貼りつけてある。二階へ上がって、ジュリアの部屋のドアを短くノックして、中へ入った。女はドレッシング・テーブルの前に坐り、鏡に映る自分の姿を、ただなんとなく、投げやりな様子で見つめていたが、べつに化粧をしているわけではなかった。彼女はアシェンデンが入ってくる姿を鏡でとらえ、急に顔色を変えて乱暴に立ち上がった。その拍子に椅子が倒れた。
「どうしたの? 顔色が悪いわ」
そう叫ぶとさっと身をひるがえして彼をにらんだ。彼女の顔はしだいに恐怖でゆがんでいった。
「あの人、つかまったのね」彼女は喘いでいた。
「死んでしまったよ」
「死んだ!? 毒を飲んだのね。あの人ってすばしっこいもん。とうとうあんたの手を逃れたんだわ」
「どういう意味だ。毒のことをどうして知ってる?」
「いつも身につけてたもん。イギリス人に生きてつかまるようなヘマは絶対やらないって言ってたわ」
アシェンデンはしばし瞑黙していた。女はよくもそんな秘密を守り通したものだ。かかる事態が彼自身の上に起こった場合を考えてみた。彼にはあんな芝居がかったやり方は、予想だにできない。
「君はもう自由の身だ。どこへなと好きなところへ行きなさい。だれも邪魔はしないから。そら、乗車券とパスポートだ。逮捕されたときに持っていた金もある。チャンドラをひとめ見たいかね?」
女はぎくりとした。
「いやよ、いや!」
「ならいいんだ。ちょっと君の意見を訊いただけだよ」
女は泣かなかった。感情を使い果たしてもう涙も出ないのだろう。まるで無感覚の動物のようだった。
「スペインの官憲に電報を打っておくよ。国境通過のとき面倒が起きないようにね。まアできるだけ早くフランス領を出ることだ」
女は何も言わなかった。アシェンデンもべつに言うことがなかったので、これでひきさがることにした。
「職務からとは言え、君に冷たく当たったのはすまないと思ってる。しかし君はこれで、いちばん苦しいときを切り抜けたわけだ。私としては、君が恋人の死によって受けた哀しい傷を、時が癒やしてくれるようにと祈るばかりだね」
彼は軽く頭を下げるとドアの方へ向かった。女の声がそのあとを追った。
「ちょっとお願い。一つだけ訊きたいことがあるの。それくらいの同情心はあるでしょう?」
「私にできることなら何でも……」
「あの人の持ち物はどうなるの?」
「知らないよ。なぜ?」
女の答えにはさすがの彼もたじろいだ。まさかとは思っていたのだ。
「去年のクリスマスにあげた腕時計をあの人、持ってるはずなのよ。十二ポンドもしたのよ。返してもらえる?」
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第九章 偽りのレポート
スイスを根拠地にして行動しているスパイ群の統括責任者としてここへ派遣されるとき、Rは、読んでもらえばわかるがこういうレポートを送ってほしいんだ、と言って一通の通信文をアシェンデンに渡した。タイプで打ったもので、レポーターはグスタフという偽名で諜報活動に従事している男だった。
「うちのスパイでもいちばん有能な男でね。彼が送ってくる情報はいつも満点で非の打ちどころがない。ひとつそれを注意して読んでもらいたいな。グスタフは利口な小男だが、ほかのスパイがやつより立派なレポートをよこしちゃいかんという理由はない。要はわれわれが必要としてる事柄を正確に説明するってことだ」
グスタフはバーゼルに住んでおり、フランクフルト、マンハイム、そしてケルンの各地に支店を持つスイスのある商社の社員ということになっていた。だから商用のためにと言えば、自由にドイツへ出入りできた。しょっちゅうライン河を旅して、部隊の動き、武器弾薬の生産状態、国民の志気いかん(Rは特にこの点を強調していた)、その他連合国側が欲しがっている種々の情報などの資料を集めていた。出張旅行の間、ひんぱんに細君へ手紙を出すが、この中に暗号でしるした情報が隠されており、細君はバーゼルでそれを受け取るとすぐジュネーブのアシェンデンのところへ送ってくる。アシェンデンはその中から重要なことだけを抜き出して、それぞれ適当なところへ送る。二か月に一度グスタフは家へ帰り、この地域で行動しているスパイたちのお手本になるようなレポートを作製するのだ。
彼を雇った者もグスタフには満足していたし、グスタフの方にも雇い主に満足すべき理由があった。彼の情報は利用価値があるので、他のスパイより高い報酬を受けていたし、スクープを取って来たときにはかなりのボーナスをもらっていたのだ。
こういう状態で一年余が過ぎた。そして何かがRに疑念を起こさせた。こういう点で彼は驚くべき鋭敏さを示す。頭で考えるというより、もっと本能的なものだ。何かおかしいぞ、という感じが突然ひらめいたのだ。アシェンデンには、はっきりこうだとは言わなかったが(Rは憶測の段階にあることは人にもらさない)、グスタフがドイツに行って留守の間に、すぐバーゼルへ行って、彼の細君と話をしろと命令した。どんなことを話すか、それはアシェンデンに任せるという。
バーゼルへ着くと駅へ荷物を預けた。泊まることになるかその日のうちに帰れるかわからなかったからだ。そしてグスタフの住居がある通りの角まで市電に乗り、尾行者がいないかどうかを素速く見極めて、目ざす家まで歩いて行った。いかにもつつましやかな感じのするアパートで、会社員や小商人の住居にふさわしいと思った。玄関を入ってすぐのところに靴《くつ》直しが店を開いていたので、アシェンデンは立ち止まった。
「グラボウさんはこちらにお住いですか?」
アシェンデンはあまり流暢でないドイツ語で尋ねた。
「ああ、あの人ならさっき上がってきましたよ。行ってみなさい。いるでしょう」
アシェンデンはぎくりとした。グスタフがマンハイムから出した手紙を細君の手を経て受け取ったのは、つい前日のことではないか。その手紙にグスタフは、ラインを渡った連隊の数を例の暗号でしるしてあった。ある質問を靴直しにしてみようかと思って口まで出しかけたが、やはりそれは賢明じゃないと考え、ただ礼を言って、グスタフの住まいがある三階へ上がって行った。ベルを押すと中で響くのがわかる。しばらくしてドアが開き、坊主頭にメガネをかけた、小ざっぱりしたみなりの小男が立っていた。じゅうたん用のスリッパーをはいている。
「グラボウさん?」アシェンデンが尋ねた。
「はい、そうですが……」
「入ってもいいですか?」
グスタフは光を背にしていたので、どんな表情をしているのか、よくはわからなかった。彼は一瞬ためらい、グスタフがドイツから手紙を出すときに使う名前を言ってみた。
「どうぞ、お入り下さい。よく来ていただけました」
グスタフは彼を狭苦しい部屋へ案内して行った。彫刻を施したオーク材のどっしりした家具があり、グリーンのビロードのテーブルクロスをかけた大きい机には、タイプライターが一台載せてある。例のお手本になるようなレポートを作っていたのだろう。開いた窓の下で、女がひとり、靴下をつくろっていたが、グスタフに声をかけられて立ち上がると、そばにあるものを片づけて部屋を出て行った。アシェンデンは、夫婦のなごやかな交歓の一時をぶち壊したのだ。
「どうぞ、おかけ下さい。ちょうどうちへ帰っていてよかったです。一度はお目にかかりたいと、かねがね思っていたんです。ついさっきドイツから帰ったばかりでしてね」彼はタイプライターのそばにある用紙をさし、「こんど持ち帰ったニュースをぜひ読んでいただきたいですね。とても値打ちのある情報ですよ」そこでくすっと笑って、「ボーナスは何度もらってもいいですからね」
愛想のいいことおびただしいが、アシェンデンは、この愛想のよさはくせものだと思った。目はメガネの奥で笑っていたが、アシェンデンを注意深く凝視している。ろうばいの影さえうかがわれた。
「あなたの出した手紙がここに着き、更に奥さんの手を経てジュネーブの私のところへ着いてからわずか数時間後には当のご本人が帰っている。さぞかし大事あわてで旅行したんでしょうな?」
「ありうることですよ。申し上げておきますが、ドイツ側は商用の手紙で情報がもれてるんじゃないかと疑ってるんです。だから郵便物をすべて、国境で四十八時間差し止めるという措置をとることに決めたんです」
「なるほど」アシェンデンはにこやかに言った。「手紙の日付を四十八時間ずらすという細工をしたのもそのためですな?」
「そんなことがありましたか? そりゃあたしのヘマですよ。日付を間違えたんです」
アシェンデンは笑いながら彼を見た。あまりにも見えすいた弁解だ。グスタフは仮にも商社員である。特にこの仕事では日付がいかに大事かくらいは百も承知のはずである。ドイツからの情報はまわりくどいルートを通して送られてくるので、早急に通報することは困難なのだ。だから「ある事件が何日に起こったか」ということは必須の条件であった。
「パスポートをちょっと拝見しましょう」
「どうしようと言うんです」
「あなたがいつドイツに入っていつ出たかを知りたいんですよ」
「ドイツヘの出入りをいちいちパスポートに記載してあると思ったら間違いです。あたしは特殊な方法をとるんですよ」
アシェンデンはしかし、この種の問題には精通していた。ドイツ側もスイス側も、国境の警備は厳重そのものである。
「ほう。なぜふつうの手段で国境を渡らないんです。あなたを雇ったのは、いいですか、あなたがドイツへ必需物資を輸出してるスイスの商社に関係しており、ドイツヘの出入りに疑念を持たれないという理由だからですぞ。ドイツ人と結託してドイツ側の検問所は難なく通れるかもしれませんが、スイス側の方はどうなんです」
グスタフはむっとした顔つきになった。
「おっしゃることがよくわかりませんね。あたしがドイツ側のスパイだとでも言われるんですか? あたしの名誉にかけて誓いますがね……あなただからこそ何もかもあけすけにお話してるのに、それを疑われたんじゃかないませんよ」
「両方から金をもらって、どちらにも害のないような情報を送るって人間は珍しくありませんからな」
「あたしの情報には価値がないとおっしゃるんですか? じゃなんであたしがほかの連中よりよけいボーナスをもらえるんです。大佐はあたしの働きにいつも最高の賛辞を呈してくれますよ」
こんどはアシェンデンが愛想よくする番だ。
「まアまア、そう居丈高《いたけだけ》にならなくてもいいでしょう。パスポートを見せたくないんなら、しいてとは言いませんよ。思い違いのないように念を押しときますが、われわれだって、エイジェントのもたらす情報をうのみにしたり、彼らの行動を監視もつけずに放っておくほどバカじゃありませんからね。どんなすぐれたジョークでも、のべつ幕なしに聞かされたらあきがきますよ。私はもともとユーモアを業とする作家ですからね、そういう苦い経験があるからよくわかるんです」アシェンデンはこの辺でひとつ威《おど》しをかけてやろうと思った。ポーカーでよくやる一か八かのブラフ(はったり)だ。「情報が入ってるんですぞ。あんたがドイツヘは行かず、われわれと契約して以来ずっとこのバーゼルにいて、送ってくるレポートはぜんぶ想像の産物だってことを裏付ける情報がね」
グスタフはアシェンデンの顔を見たが、そこには大らかなユーモアをたたえた表情しかなかった。笑いがゆっくりと口辺に浮かび、彼は肩をすくめた。
「月五十ポンドのはした金で命を賭けるほど愚かじゃありませんよ。女房を愛してるし」
アシェンデンは声をあげて笑った。
「いや、感心だね。英国情報部を一年もだまし続けてきて、それを自慢できるほどの人間はそうざらにはいないよ」
「何の苦もなく金もうけができるチャンスを握っただけですよ。戦争が始まると同時に、会社はあたしをドイツへ出張させるのをやめました。でもあたしは旅行者の話を聞いたり、レストランやビアホールで聞き耳をたてたり、ドイツの新聞を読んだりしましてね。虚実とりまぜてレポートや手紙を書くのは楽しいもんでしたよ」
「そうだろうねえ」
「どうするつもりです」
「べつに。どうしょうもないだろう? しかし今後は報酬を支払えない。それはわかってるだろうね」
「ええ、当然でしような」
「ところで、よかったら話してくれないかな。あんたはドイツ側とも同じゲームをやってたんじゃないのかね」
「いや、とんでもない」グスタフは驚いて叫んだ。「そんなことができますか。あたしは連合国側に同情的なんです。本当の心はあなたたちの方にありますよ」
「おや、どうしてだね。ドイツじゃ金がうなってるし、あんたがおすそわけにあずかっても不思議はない。あんたがその気になれば、向こうさんはいつでも金を出す用意ができてるよ」
グスタフは指でテーブルを叩いていたが、やおら、いまはもう無用となったレポートを取り上げた。
「ドイツ人とかかわり合うのは危険ですよ」
「利口な人だね、あんたは。今後サラリーは払えないが、われわれに利用価値のあるニュースを送ってくれたときは、ちゃんとそれなりの報酬は渡そう。しかし必ず事実の裏付けのあるもんでなくちゃいけない。金は結果によって出してあげよう」
「考えときましょう」
グスタフはそこで沈黙し、思案顔をしていたが、アシェンデンはそっとしておいた。タバコに火をつけ、吐き出した煙が消える様を見ながら、彼も考えていた。
「いま特に知りたいことってのはありますか?」
突然グスタフが尋ねた。
アシェンデンは微笑した。
「そうだね。ドイツがリュセルンにいるスパイに何をやらせているかを探ってくれれば、スイス・フランで二、三千は出してもいい。その男はイギリス人で、グラントリー・ケイパーという名前だ」
「名前は聞いたことがありますよ」と言ってしばらく黙っていたが、「ここにはいつまでご滞在です?」
「必要な時間だけね。ホテルに部屋をとったら、部屋番号をしらせよう。何か情報がとれたら尋ねて来てくれたまえ。朝の九時か、夜の七時にね」
「ホテルへ行くのは危険です。手紙を書きますよ」
「いいだろう」
アシェンデンが立ち上がると、グスタフがドアのところまで送って来た。
「これで機嫌よくお別れできますね」
「もちろん。あんたのレポートは、立派な見本として文書課に保存されるだろう」
それから数日アシェンデンはバーゼルの町ですごしたが、大して面白くもなかった。ほとんどの時間を、千年も昔なら一読の価値があったろうと思われる本をめくりながら本屋ですごした。一度は通りでグスタフの姿を見かけた。四日目の朝、一通の手紙がコーヒーと一緒に運ばれて来た。封筒は彼の知らない商社のもので、中にはタイプで打った手紙が入っていた。宛名も署名もなかった。しかしタイプライターというものが、筆跡と同じように、その書き主を現わすということを、グスタフはご存じないのかといぶかった。二度ばかり注意深くそれを読んで、すかしを見るために、明かりに照らし(探偵小説の探偵がよくやる仕ぐさを真似てみたのだ)、マッチをすって燃やしてしまった。そして燃えカスを手でくずした。
朝食をベッドで食べるという優雅な仕事をやってのけたあとだったので、彼はそのまま立ち上がり、荷物をつめて、すぐ次の汽車でベルンへ出た。そこからRへ暗号電報を打ち、二日後に、ホテルの寝室で口頭による指示を受けた。真夜中で廊下にも人影はなかった。彼はそれから二十四時間たたないうちに、わざとまわり道をして、リュセルンへ姿を現わしていた。
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第十章 売国奴
指示されたホテルに部屋をとると、アシェンデンは外へ出た。八月初めのからりと晴れた日で、雲ひとつない空に太陽が浮いていた。リュセルンは子供のころいちど来ただけで、覆いのついた橋や石のライオン像、そしてものういオルガンの音に聞き入ったことのある教会など、ぼんやりとではあるが覚えていた。しかし日陰になった埠頭にそって歩きながらも(湖は絵葉書のように極彩色で非現実的に見えた)半ば忘却に埋もれた風景をあえて思い出そうとはしなかった。それよりも、その昔そこを散策した恥ずかしがり屋の、それでいて来たるべき人生への希望(やっとこの中年になってからかなえられたのだが)に胸を燃やしていたひとりの少年の姿を思い浮かべようとした。しかしその記憶も、いちばん鮮明なのは自分のそれではなく、街人《まちびと》のそれだった。太陽と熱気と人々の群れ……汽車もホテルも汽船も人間で溢れ、港や街頭でも、休暇を楽しもうとする連中をかきわけるようにして進まなければならなかった。醜くふとった老人たちが多く、体臭が鼻をついたものだ。
しかしいま、この戦時下に訪れると、スイスがヨーロッパの遊園地になる前は、さぞかしこうであったろうと思われるほど荒涼とした風景を展開していた。ホテルはほとんど閉鎖され、街を往く人影もなく、無人の貸ボート屋では借り手のないボートが水辺で無為に漂っていた。湖畔ぞいの大通りでも、中立保持の気持ちを固い表情に表わした街人が、その信条をまるで、ダックスフントを後生大事に連れ歩いているようにして、まばらに歩いていた。
アシェンデンはむしろ孤独な歓びを味わい、湖水に面したベンチに腰をおろして感慨にふけった。湖はうそのように静まり、湖水はあくまでも碧《あお》く、そそり立つ山並みは雪を頂き、その美しさは、人の心を感動に誘うというより、むしろ腹立たしさを起こさせるほどのものだった。しかし、それでもなお、この景観には、メンデルスゾーンの『無言歌』のような、技巧のない純粋な何物かがあり、アシェンデンも思わず満ち足りた微笑を浮かべた。リュセルンというと彼は、ガラスのケースに入った|ろう《ヽヽ》細工の花とか、カッコーの時計とか、ベルリン毛糸の気のきいた織り物とかを思い出した。この好天が続く限り思い切り楽しんでやろう。公私混同ではないが、仕事のついでにひそかに自分の楽しみを見つけるのもまたよいではないか。
ポケットには、仮名を記入した真新しいパスポートが入っており、もうひとりの自分がいるようで愉快だった。この仕事についてから、ときどき自分に飽きるときがあるが、そういうときには、自分をRの気ままな創造物だと考えて気をまぎらわせてきた。つい先日の経験も彼にはけっこう面白いものだった。もっとも、驚くほど非情で鋭敏なRは、くだらん、のひとことで片づけてしまった。大体がRのユーモアとは、他人を嘲笑《ちょうしょう》する類のものであって、自分を他人のジョークの対象にするほどさばけてはいない。ユーモアを解するには、この人生というコメディの中で、自分を客観視して、同時に役者であり観客たりうる才能が必要なのだ。しかしRは軍人で、自分を自分で笑いの対象にするなどというのは、不健康で、非イギリス的で、愛国的でないという考え方をしていた。
アシェンデンはベンチから立ち上がると、ゆっくりホテルへ引き返した。小さい二流ホテルだが、あくまでもドイツ的で清潔であり、寝室からの眺めもよかった。ピカピカにワニスを塗ったヤニ松の家具は、寒い日にはさぞかしわびしい感じを与えるだろうが、暖かい日射しのさすこの季節には、明るくて気持ちがよかった。広間にはテーブルがいくつかあり、彼はその一つに陣取ってビールを注文した。女将《おかみ》はいまどきなぜこんなところへ来たのかと、しきりにそのわけを知りたがった。だから彼は腸チフスを患ってやっと回復したので、病後の保養に来たのだと説明してやった。そして検閲部に勤めているのだが、この際、ドイツ語の会話に磨きをかけたい、ドイツ語の先生に心当たりはないかと訊いてみた。
女将はブロンドの、赤ら顔のスイス人で、ユーモアに富み、おしゃべりだった。頼まなくても彼の話を繰り返しまき散らしてくれるだろう。こんどは彼が質問をする番だ。相手はよくしゃべった。要するにグチなのだが、ほとんどは戦争にかかわりのある話で、ふつうならいまごろホテルは満室で、余った客を近所の民家に泊めてもらうほどだが、戦争のおかげでがらあきだ、外からメシを食いにくる人も少しはいるが、泊まり客はふた組だというような内容だった。ひと組はヴェヴェーに住むアイルランド人の老夫婦で、避暑に来ているのだそうで、もうひと組はイギリス人とその細君だという。細君がドイツ人なので、やむをえず中立国へ来たのだそうだ。アシェンデンは後者にはさして関心を示さなかったが……女将の話から判断して男の方はグラントリー・ケイパーであることは明白だった……女将は彼の思惑などには一顧だに与えず、ふたりが毎日ほとんど山歩きをして過ごしているとだめを押した。ケイパー氏は植物学者でこの地方の植物に興味があるという。奥さんはとてもいい人で、おかわいそうでならない。でも戦争も永遠に続くはずがない……そんなことをしゃべり散らすと、あたふたと出て行ったので、アシェンデンも自室へ引き返した。
夕食は七時からだ。まっ先に食堂へ飛び込んで、入ってくる相客の顔を確かめようと、合図のベルが鳴るやいなや食堂へ降りて行った。食堂はなんの飾り気もないが、清潔に磨き上げた部屋で、寝室のと同じようなヤニ松のピカピカ光った椅子が並べてあった。壁にはスイス各地の湖の石版画がかかっており、小さいテーブルにはそれぞれ、花が活けてある、この画一的な飾りや整頓ぶりは、食事のまずさを予想させた。アシェンデンは、せめてそれを、ライン産の極上のワインで埋め合わせようと思ったが、なんだかぜいたくな気がし、かえって人の注意を魅くのではないかと思って注文を差し控えた。二、三のテーブルには半分ほど残ったホワイト・ワインのビンが載っていたが、それから判断しても同宿人たちがつつましい毎日を送っていることがわかったからだ、彼はラガー・ビール一杯で我慢することにした。
しばらくして、ひとりふたりと人が入って来た。ひとりはリュセルンに仕事のある者で明らかにスイス人だった。そして各自テーブルに着くと、昼食のとき、きちんとたたんでおいたナプキンを開いた。みんな水差しに新聞を立てかけ、無造作に音を立ててスープを吸いながら、読み始めた。そのうちに、白髪で口ヒゲを長くたらした、ひどく老齢の腰の曲がった男が、黒衣に身を包んだ小柄な白髪の老婆に伴われて入って来た。これぞ女将が話していたアイルランド人の大佐とその奥方に違いない。席に着くと大佐は、奥方のグラスに少しワインを注いでやり、自分のグラスにも少量注いだ。そしてふたりは静かに、太った親切なメイドが食事を運んでくるのを待っていた。
やっとアシェンデンが待ちかねていた夫婦が入って来た。彼はドイツ語の本を読むふりをしていた。彼らが入って来たときも、よそ目にはともかく、やっと自制して眉を上げただけだった。相手の男は四十五歳ぐらいで黒い髪を短く刈り込み、ややずんぐりした中背で、太い赤ら顔をきれいに剃っていた。エリの大きいオープン・シャツ、灰色のスーツという恰好で、細君を従えて堂々と入って来た。後ろに続く細君は、このために、いかにもつつましやかなドイツ婦人としか見えなかった。グラントリー・ケイパーは、椅子に腰をおろすと、ウェイトレスに向かって大声で、きょうはずいぶん歩いたと説明していた。どこかの山に登ったと言っていたが、これがウェイトレスには多大の感銘を与えたようだ。しかしアシェンデンは何の感慨も催さなかった。そしてケイパーは、少し英語詣りのある流暢《りゅうちょう》なドイツ語で、おそくなったので風呂に入る時間がなかったが、外で手だけは洗って来たよ、などとしゃべっていた。その声は響きがよく、態度も洗練されたものだった。
「早くしてくれ、腹ペコなんだ。ビールを……ビールを三本たのむ。ノドが乾いてからからなんだよ」
磨き上げられたこの食堂のだらけた雰囲気が、ケイパーの姿で生気を帯び、相客たちは突然ぴりっとした態度をとった。彼は細君に英語でしゃべり始めたが、陽気な大声のせいでだれにも聞きとれた。しかしまもなく細君が低い声でさえぎった。ケイパーは話をやめ、アシェンデンの方へ視線を向けた、彼は頬にそれを感じた。細君が別の人物が入って来たのに目をとめ、亭主の注意をそちらにそらせた。アシェンデンは読むふりをしていた本のページをくったが、ケイパーの視線が執拗《しつよう》に自分に注がれているのを感じていた。敵はこんどは低い声で細君に話しかけた。あまりにも低音で何語でしゃべっているのかもわからない。そしてスープを持って来たメイドに何かひそひそと尋ねていた。アシェンデンが何者か訊いているのだ。メイドもひそやかに答えていたが、聞こえたのは「いなかの人」という一語だけだった。
食事をおえた者が一、二名、ようじで歯をつつきながら出て行った。アイルランドの老大佐夫妻も立ち上がり、大佐は一歩しりぞいて老妻を通してやった。ふたりは食事中ひとことも言葉をかわさなかった。老夫人はゆっくりドアの方へ歩いて行ったが、大佐はこの地の弁護士らしいスイス人のところで立ち止まって何かしゃべっていた。老夫人はドアのところまで行くと立ち止まり、腰をかがめ、羊のような表情で夫が来てドアを開けてくれるのを待っている。この老夫人は自分でドアを開けたことがないのだろう。開け方を知らないと言った方がいいかもしれない。まもなく大佐が、いかにもじじむさい歩き方でやってくるとドアを開ける。夫人がまず外へ、そして大佐が続いた。このちょっとした出来事から、彼は老夫妻のこれまでの境涯に思いをはせた。ふたりの生い立ちや、その後の生活、その性格などを勝手に描いてみた。しかしそれも束の間のこと、いまのアシェンデンには創作などというぜいたくな楽しみにひたっている暇はないのだ。彼はそそくさと食事をおえた。
広間に入るとテーブルの脚にブル・テリアがしばりつけられていた。彼は通りすがりに、その垂れ下がった柔らかい耳を、なんとなく触ってみた。女将が階段の上り口に立っていた。
「誰の犬です」とアシェンデン。
「ケイパーさんのです。フリッツっていう名前ですが、ケイパーさんの話じゃこの犬の血統は英国王のそれより長いってことですよ」
フリッツはアシェンデンの足に体をこすりつけ、鼻で手のひらをくすぐった、アシェンデンが自室へ上がって帽子をとり、再び下へ降りてくると、ケイパーが玄関で女将と何やら話していた。彼の姿を見て急に話をやめて緊張したところをみると、どうやら彼のことを女将に訊いていたらしい。ふたりの間を通り抜けて表へ出て、ケイパーの視界から隠れて様子をうかがうと、相手はいぶかしげな目で彼の方をみつめていた。あの快活で陽気な赤ら顔が、そのときだけは、落ち着ぎのない狡猾《こうかつ》な表情を浮かべていた。
アシェンデンは街をぶらぶらと歩き、戸外に張り出したテラスでコーヒーも飲めるようになっている居酒屋《タバーン》を一軒見つけた。そして夕食のとき仕事上の義務感からビール一本でがまんしたのを埋め合わせてやろうと、その店にある最上級のブランデーを注文した。いままで耳にタコのできるほど聞かされてきた男についに会えたと思うと嬉しかった。しかも数日中にはその男と交友関係が持てそうなのだ。愛犬家の知己を得るのは、いともたやすいことだ。しかし彼には急ぐ必要がない。成り行きに任せればいいのだ。目標をとらえたら事をせいてはならない。
アシェンデンは情況を再検討してみた。パスポートによれば、グラントリー・ケイパーは、バーミンガム生まれのイギリス人で、年齢は四十二、結婚して十二年の妻は、ドイツ生まれで両親もドイツ人だ。これは表向きだれでも知っている。ケイパーの前歴は調査の結果判明していたがそれによると、社会へ出てまず勤めたのがバーミンガムのとある法律事務所で、そこから更にジャーナリズムの世界に移っている。カイロやシャンハイの英国紙に関係しているのだ。そして金銭詐取をはかって短期間であるが禁固刑をくらっている。出獄後二年間の足跡は不明で、次に現われたのがマルセーユの船会社だ。その後も海運の仕事にたずさわり、ハンブルクへ行き、そこで結婚して、ロンドンへ帰っている。ロンドンでは自分で貿易商をおこし、しばらくやっているうちに倒産して、再びジャーナリズムの世界に帰っている。ところが大戦|勃発《ぼっぱつ》と同時に、またもや海運会社に戻り、一九一四年八月には、ドイツ人妻と一緒に、サザンプトンで平穏な生活を送っていた。しかし翌年になると、妻の国籍のためにいまのポジションが耐え難いと会社に申し出た。会社側も、彼の勤務状態に不服はなかったし、彼の微妙な立場を認めて、ジェノア支店へ転勤したいという希望を受け容れた。しかしイタリアの参戦とともに辞表を出し、書類もきちんと整えて国境を越え、スイスに住みついたのだ。
こう見てくるといかにも正直で臆病な男で何の背景も経済的支えもないように思えるが、事実はとんでもないくわせ者なのだ。大戦の勃発と同時に、あるいはそれ以前から、ドイツ軍諜報部の手先になっていたのだ。彼はその仕事で毎月四十ポンドの報酬をもらっていた。危険で狡賢《ずるがしこ》男だが、スイスで取得できる情報を送って満足している状態なら特にどうこうする必要はなかった。どうせ大した情報が得られるわけはないし、むしろドイツ側にしらせた方がいいと思われる情報を、彼を通して送らせるというチャンスもあった。自分のことが調査済みなどということは夢にも知らないのだ。彼の手紙、出す分も受け取る分も多かったが、すべて厳重な検閲を受けていた。その中で使われている暗号もその道の専門家ならすぐ解けるようなものがほとんどだったし、遅かれ早かれ、彼を通して、英国内で動いている敵のスパイ組織に手をつけることも可能だった。
ところがやっこさん、ここでRの注意を喚起させるようなことをやってのけたのだ、これを知ったら身震いしたに違いない。とにかくRという男は敵にまわすと恐ろしい存在なのだ。ケイパーはチューリッヒで、ゴメスというスペインの若者と知り合った。これは最近英国情報部に入った男で、スペイン人ということでケイパーを信用させ、スパイをやっていることを探り出したのである。そのスペイン人も、自分を大物だと思わせたいという人間本来の欲望から、自分の身分を謎《なぞ》ありげにしゃべったに違いない。ケイパーの手でただちにドイツ側に通報され、ドイツに入ってからずっと監視されて、ある日、暗号で書いた手紙を投函しようとしたところを検挙された。そしてその暗号も結局解読されてしまった。彼は裁判にかけられ、死刑を宣告されて銃殺された。
この事件によって、有能で私欲のないエイジェントを一名失っただけではなく、安全かつ簡単な暗号を変更せざるをえないという事態を招いた。Rは不愉快だった。しかしRは復讐のために本筋を誤まるような男ではない。ケイパーが金のために祖国を裏切っているのなら、より以上の金を与えて寝返らせることも可能ではないのか? 連合国側のスパイをドイツに売り渡したことで、ドイツにおける彼の信用度は増しているに違いない。なればこちら側でも使いでのある存在となるだろう。しかしRは、ケイパーがどんな男かを知らなかった。日陰者の常で、ごくひめやかな生活を送っているからだ。写真も一枚あるにはあるが、パスポート用にとった小さいものだけだ。アシェンデンに与えられた命令は、まずケイパーの知己を得て、英国のために働くチャンスがあるかどうかを探ることだった。もしそのチャンスありと思ったら適当に当たりをつけ、脈があると判断したらある種の提案をしてもよい、というのである。
これは技巧を要する仕事で、人間に対する識見が必要だった。もしもケイパーが買収のきかない男だという結論に達したら、彼の行動を監視して報告しなければならない。アシェンデンがグスタフから得た情報は漠然《ばくぜん》とはしていたが、重要なものだった。その中に面白い点が一つある。ベルンのドイツ軍情報部のボスがケイパーの仕事ぶりが不活発だといって怒っているというのだ。ケイパーは報酬の引き上げを要求しているのだが、フォン・P少佐は、なればそれに見合う仕事をしろと回答したという。イギリスへ行けと要求しているのかもしれない。彼がスイスを出ればアシェンデンの仕事は終わりとなる。
「みずから絞首刑になるように説得しろといっても無理ですよ」そのときアシェンデンがRに言った。するとRのいわく、
「絞首刑じゃないよ君、銃殺だ」
「ケイパーは利口者ですよ」
「じゃ君の方がもっと利口になるようにつとめることだ」
アシェンデンは自分からケイパーに接近するのはよし、彼の方から接近させようと心に決めた。もしも成績をあげろと要求されているのなら、検閲部に勤めているという英国人と知り合うのもまた得策だと判断するに違いない。アシェンデンは彼にもらすべき情報をたくさん用意していた。もっとも、すべて枢軸国には無価値なものだった。偽名を使い、パスポートも偽造のものだったので、ケイパーに、彼が英国のエイジェントだと悟られる恐れはまったくなかった。
長く待つ必要はなかった。翌日、たっぷり昼食をとったあと、ホテルの入口に坐ってコーヒーを飲みながらうとうとしていると、ケイパーが食堂から出て来た。例の犬がはずむように駆けて来てアシェンデンにまつわりついた。
「おいで、フリッツ!」
ケイパーはそう叫ぶと、アシェンデンの方に向かって、
「どうも恐れ入ります。いつもはおとなしいやつなんですがね」
「いや、いいんですよ。べつにかみついたわけじゃありませんし」
ケイパーは入口で立ち止まった。
「こいつはブル・テリアです。大陸じゃ珍しい種類ですよ」話しながらアシェンデンを値踏みしている。彼はメイドに向かって叫んだ。
「コーヒーをたのむ! きょうお着きになったんでしょう」
「いや、きのうです」
「きのう? ゆうべ食堂でお見かけしなかったですね。ずっとご滞在のおつもりですか?」
「まだ決めてません。病後の保養に来たんですよ」
メイドがコーヒーを持って来て、ケイパーが彼と話しているのを見て、彼の坐っているテーブルに盆ごとを置いて行った。ケイパーは、かすかに狼狽《ろうばい》の苦笑を浮かべた。
「どうもこれじゃ押しつけがましくていけませんな。なんでまたメイドは私のコーヒーをこのテーブルに置いて行ったんでしょう」
「まアお坐り下さい」
「恐縮ですね。もう長く大陸に住んでるもんで、英国では紹介もなしに、めったやたらと他人に話しかけるのをよしとしない習慣があるってことを忘れがちなんですよ。ところで、お宅は英国人ですか? それともアメリカ人ですか?」
「英国人ですよ」
アシェンデンは生まれつき恥ずかしがり屋で、この歳になって何事だと、そういう性質をなおそうとしたことがあったが、生来の性質がそうたやすく改まるはずもなく、ときにはそれを恰好の道具として使うこともあった。彼はためらいがちに、ぎごちない口調で、前日女将に話したことを繰り返した。そして相手の反応で、女将がその話をそのままこの男にしゃべっていることがわかった。
「このリュセルンほどいい町はありませんよ、戦乱の中の平和なオアシスのようなもんです。ここにいると、戦争なんてどこでやってるんだ、という錯覚にとらわれますからね。だからわざわざやって来たんです。私はジャーナリストなんですよ」
「物をお書きになるんだとは思ってましたがね」アシェンデンはおずおずと、しかしほっとしたような微笑を浮かべて言った。
「戦乱の中での平和のオアシス」などというセリフは、海運会社で覚えたものでないことは確かだ。
「実は私、ドイツ女を妻にしてましてね」
ケイパーは顔を曇らせて言った。
「ほう、そうですか……」
「しかし故国を愛する気持ちは誰にも劣らないつもりです。根っからの英国人でしてね。これは私の個人的な意見ですが、大英帝国ほど人類に善なるものはこの世にありませんよ。しかしドイツ女を妻にしたばかりに、さんざんひどい目に遭《あ》いましてね。そりゃドイツ人にも欠点はありますが、正直なところ、世上言われているほど悪魔的な人種ではありませんよ。戦争が始まったとき、妻は英国でたいへんな辛苦を味わわされました。彼女がそれを、ひどい、と思ったのも無理ないことでしてね。なにしろ周囲の者がみんな妻をスパイだと看なしてるんです。ひとめ見ればわかりますが、笑止千万な噂《うわさ》ですよ。典型的なドイツの家庭婦人でして、家計のこと、主人の私のこと、そしてフリッツのことしか、念頭にないんです」ケイパーは犬の頭をなでながら低く笑った。「そう、フリッツは、ひとり息子です。そうだね? 当然私の立場は微妙なものになりましたよ。有力な新聞数紙とコネがあったんですが、各紙とも私の立場を認めてくれないんです。そこで要するにです、嵐が過ぎ去るまでいっさいを放棄して中立国へ避難するにしくはないと考えたわけです。妻とは戦争の話はいっさいやりません。しかし正直いってこれは私の性格が弱いからです。彼女は私より我慢強いし、この恐ろしい出来事を私の立場に立って考えてくれるんですよ」
「そりゃ変ですな」とアシェンデン。「大体が男より女の方が感情的な動物ですよ」
「いや、そこが妻の偉いところなんです。一度、ぜひご紹介したいですね。そうそう、申し遅れましたが、私はグラントリー・ケイパーという者です」
「私はサマービルと言います」とアシェンデン。
彼はそれから検閲部でやっている仕事のことを話した。すると相手の目にちらっと光るものがあった。やがて彼は、ここにいる間にドイツ語に磨きをかけたいので、会話の先生を捜しているのだと語った。そう言いながらふとある考えが心をよぎった。相手はと見ると、これも同じアイデアが浮かんだらしい。まったくふたりが同時に、その先生にはケイパー夫人がうってつけだと考えたのだ。
「女将に頼んだら捜してやるとは言ってくれたんですがね。もう一度頼んでみますかな。一日一時間でいいんですよ、私とドイツ語でおしゃべりしてくれる人がほしいんです。まアすぐ見つかるとは思うんですが」
「女将のすすめる人じゃだめですよ」
ケイパーが言った。
「やはり本物のドイツ語を話す人でないと。この辺の連中のはスイス訛《なま》りがありますからね。家内に心当たりを聞いてあげましょう。教養もあるし、あれのすすめる人なら大丈夫ですよ」
「そりゃどうも恐縮ですな」
アシェンデンは、このグラントリー・ケイパーなる男を落ち着いた気分で観察した。ゆうべは見えなかったが、目が小さく、灰緑色で、快活でユーモアのある赤ら顔にふさわしくない。それが絶えず落ち着きなく動くのだが、その奥にある心が不意に何かの考えにとらわれると、突然静止する。この様を見ていると、脳細胞の働きの奇妙さを感じずにはいられない。ともあれ、人の信用を得る目付きではない。しかしケイパーは、その欠点を、陽気で人のいい笑いと、日焼けした明るい大きな顔と、でっぷり太った体躯《たいく》と、そしていかにも好ましい野太い低音の声とでおぎなっていた。その彼が精いっぱい、愛想よくふるまっているのだ。会話を交しながらアシェンデンは、彼独得のはにかんだ表情、相手をつい魅《ひ》きつけてしまうあのさわやかで快活な態度で、ケイパーの心に信頼感を抱かせていった。それにしても、この男がスパイなのか、と思うと、皮肉な快感を覚えた。月々わずか四十ポンドの金で祖国を売っている売国奴と何気ない会話を交すのもまた面白いものだ。
アシェンデンはケイパーの手で敵に売り渡されたゴメスというスペインの青年のことを思い出した。彼は冒険好きの生きのいい若者だった。もともと諜報活動に入ったのも、金が目当てではなく、ロマンを求める情熱に動かされてのことだった。不器用なドイツ人を出し抜くのが面白くてたまらず、安手の冒険小説の登場人物にも似た役を演じてみるのが、げてもの好きな性格に訴えるものがあったのだろう。その若者が刑務所の地下に埋められていると思うと不愉快だった。まだ夢多き弱年で、物腰にも下卑たところがなかった。ケイパーは彼を死の世界に売り渡したとき、良心に痛みを感じなかったのだろうか?
「ドイツ語を、少しはご存じなんでしょう」
ケイパーはこの新しい知己に興味をそそられたように尋ねた。
「ええ、ドイツに留学したことがありますからね。昔は流暢にしゃべったもんです。しかしもうそのころから長い月日がたってますし、いまはまるでだめです。まア読む方はかなりやれるんですが」
「そういえばゆうべ、ドイツ語の本を読んでおられましたな」
間抜けな男だ! ゆうべは見かけなかったと、ついさっき言ったばかりではないか。アシェンデンは、どうしてこんな過失に気づかないのだろうかと、不思議な気がした。しかし不注意な過失はなかなか避け難《がた》い。アシェンデンも用心しなくてはいけない。そう思うと、急に彼は不安になった。サマービルさんと呼びかけられたとき、すぐ自然に反応できるだろうか……? もっともケイパーの過失も、アシェンデンの反応を知ることを意図したものだったのかもしれない。ケイパーが立ち上がった。
「家内が降りて来ます。毎日午後、ふたりで山へ登ることにしてるんです。山歩きのコースをお教えしてもいいですよ。このごろでも、草花が咲き乱れているところがありますからね」
「もう少し体力が回復するまで待ちましょう」アシェンデンは小さく溜息《ためいき》をもらして答えた。
彼は生来、顔色の悪い方で、うわべはいかにも弱そうに見えるのだ。階段を降りて来たケイパー夫人は、夫に迎えられふたりは往来へ出ていった。その回りを、フリッツが駆け回っている。たちまちケイパーがしゃべり始めた。アシェンデンとの会談の結果を話しているのだろう。アシェンデンは、湖水に明るい日射しを投げかけている太陽を見上げた。微風が木立ちの青葉をそよがし、散歩にはうってつけの条件がととのっていた。しかし彼は立ち上がって自室へ引き返し、ベッドに身を伏せて心地よげに昼寝を始めた。
その夜、食堂へ入って行ったとき、ケイパー夫妻はもう食事をおえようとしていた。昨夜食卓に出たあの巨大なポテト・サラダの山に再び立ち向かうには、どうしてもカクテルの一杯でも飲んでからでないとだめだと思い、酒場を見つけるために憂鬱《ゆううつ》な気分で町を歩き回っていたのだ。ケイパーは食堂を出ようとして、つと彼のテーブルに近寄り、一緒にコーヒーを飲まないかと誘った。広間に陣取っている夫妻のところへ行くと、ケイパーが立ち上がって、彼を細君に紹介した。彼女は固くなって頭を下げ、アシェンデンのくだけた挨拶にも顔をこわばらせたままだった。
どう見ても敵意のこもった態度である。しかしアシェンデンは、むしろこれで、気が楽になった。彼女は四十歳近くの平凡な女で、肌はうすよごれ、目鼻立ちもはっきりしない。ナポレオンの伝記に出てくるプロシアの王妃のように、茶色の髪を編んで頭に巻きつけている。体はずんぐりと四角ばり、肉付きがよくて、いかにも頑丈そうだ。だからといって、愚か者には見えなかった。むしろ聡明な方だろう。ドイツに長くいたアシェンデンはこのタイプのドイツ女をよく知っていた。家事もてきぱきやれば、山登りもする。しかも博学で教養がある、といった種類の女だ。彼女は日焼けした首筋をのぞかせた白いブラウスをはおり、黒いスカートに重い散歩グツという恰好をしていた。ケイパーは例によって快活な調子で、アシェンデンが彼にしゃべったことを、英語で細君に説明した。それもまるで初めて彼女に話すような態度なのだ。細君の方はそれをまた、むっつりした表情で聞いている。
「ドイツ語の読みの方はできるというお話でしたな」ケイパーが大きな赤ら顔に笑いを浮かべて言った。しかしその目は落ち着きなく動いている。
「ええ、しばらくハイデルベルク大学に留学してたことがあるもんですからね」
「あらほんと?」細君が英語で言った。このときだけはさすがの固い表情も、かすかな興味に魅かれてくずれかけた。
「ハイデルベルクならよく知ってますの、あたしも学生時代、一年ばかりいましたから」
彼女の英語は正確だったが、喉《のど》にひっかかったような声で、特有のストレスが耳障りだった。アシェンデンは、古い大学町とその周辺の美しい風物をほめそやした。彼女はじっと聞いていたが、その態度にはあくまでもゲルマン的な優越感が漂い、聞き耳を立てるというより、やっと我慢して聞いているのだという感じだった。
「ネッカーの渓谷の美しさは、世界でも指折りですわ」
「まだ話してなかったが」とケイパーが口をはさんだ。
「サマービルさんは、ここにおられる間にドイツ語の会話を練習なさりたいとおっしゃって、いまその先生をお捜し中なんだよ。君に誰かを推薦してもらえばいいとお話したんだがね」
「これといってお奨《すす》めできる人を知りませんもの。スイス訛りのドイツ語なんておぞましいばかりだし。サマービルさんもスイス人とお話しなすってちゃ、かえって変なドイツ語を覚えてしまいますわよ」
「仮に私があなたの立場にあれば、家内に頼んでレッスンしてもらいますね。こう言っちゃなんですが、家内は教養がありますからな」
「まあ、あなた、あたしは時間がありませんもの。自分のことで精いっぱいですわ」
アシェンデンはチャンス到来と看て取った。ワナが用意されているのだ。あとは飛び込めばいい。できるだけ恥ずかしそうに、しかも哀願するような態度で細君の方を向いて言った。
「もちろん奥さんにレッスンしていただけるんでしたら、こんな嬉しいことはありません。光栄ですよ。むろんお仕事の邪魔になるようなことは致しませんよ。私は病後の保養をしているところで、ほかに何もすることがありません。時間は奥さんの都合のいいときに合わせますよ」
夫婦の間に一瞬、満足げな空気が走った。そして細君の青い目が怪しく燃えた。
「単なるビジネスとして割り切ればいいと思うな。家内が小遣い稼ぎをしてはいかんということはありませんしね。一時間十フランってのは高すぎますか?」
「いいえ、十フランで一流の先生につけるんですから安いもんですよ」
「どう思うね君は? 一時間ぐらい都合がつくだろう。こちらさんのためにもなることだし。それにドイツ人が、英国で考えられてるような悪魔的な人種じゃないってことを、悟っていただけるよ」
細君は不愉快そうに眉をしかめた。それを見てアシェンデンは、これから毎日一時間この顔を見てすごさなければならないのかと思うと、いささか憂鬱だった。この太った根性曲がりの女と対坐して、話の種を見つけるとなると、脳ミソをしぼるような努力が必要だろう。細君の方も必死になっているのがはっきりわかった。
「それじゃサマービルさんに会話のレッスンをして差し上げることにしますわ」
「よかったですな」
ケイパーがまた小うるさく口をはさんだ。
「あなたは運のいいお人だ。いつから始めます? あすの朝十一時からってことにしたら?」
「奥さんさえよろしかったら私の方はそれで結構ですよ」
「ええ、あたしもその時間でしたら」
アシェンデンはこれでその場を離れたが、あとでふたりはしてやったりと事の成果に喜び合ったことだろう。
翌朝十一時ちょうど、ドアをノックする音が聞こえた。レッスンは彼の部屋でやることに決めてあったのだ。ドアを開けながら彼は、ある種のおののきを感じた。くったくのない、むしろいささか間の抜けた態《てい》を装いたかったのだが、知的でしかも情の強いドイツ女に面と向かうと、やはり固くならざるをえない。彼女は暗い不機嫌な表情で、明らかにアシェンデンとかかわりを持つのをいやがっているふうだった。腰をおろすと、彼女は横柄《おうへい》な態度で、ドイツ文学に関する質問を始めた。ミスを見つけるとずばりと訂正し、彼がドイツ語の構造の難かしさを話すと、はっきりと、しかも正確に、それを解明してみせた。彼にドイツ語のレッスンをするのはいやだが、やり始めた以上、良心的にやってのけようという心づもりらしい。
人にものを教える才能があり、しかもそれに情熱さえ感じるらしく、時がたつにつれていっそう熱が入り始めた。こうなると、彼が残酷な英国人だということさえ忘れがちになるようだった。彼は、彼女の内心の葛藤《かっとう》に気がついて、愉快な気分になった。だから、あとでケイパーにレッスンの具合を訊かれたとき、大いに満足であると答えたが、これはまさしく本音だった。ケイパー夫人は秀れた教師であり、興味ある人物だった。
「だから申し上げたでしょう。あんなすばらしい女性はいませんよ」
ケイパーが熱心に、明るい調子でこう言ったとき、初めて本心をのぞかせたように、誠実な様子が現われていた。
二、三日たつうちに、細君が彼に会話のレッスンをしているのは、ご亭主をより彼に接近させるためなのだとわかってきた。というのも、彼女の話題がもっぱら文学と音楽と絵画に限られているからだ。アシェンデンが試みに戦争の話を持ち出すと、あっさりはねつけられた。
「そういう話は避けた方がいいと思いますわ、サマービルさん」
彼女のレッスンは異常なまでの完璧さで続けられ、アシェンデンは授業料にみあう収穫を得たが、彼女は毎朝、彼の部屋へ入ってくるときは、いかにも不機嫌な表情をたたえ、彼に対する本能的な憎悪を、教えることの楽しみで、その間だけ、無理に横へ押しやっていた。アシェンデンは、いろいろ策を弄してやってみたが、すべてはムダであった。お調子をとったり、愚直にふるまったり、謙遜《けんそん》なふりをしたり、感謝したり、お世辞を言ったり、素直におどおどしてみたりと、あらゆる手を尽くしても、彼女の冷たい敵意は厳として溶けなかった。彼女は狂信的で、その愛国心たるや、私心はないが、すさまじいばかりで、ドイツ人絶対の優越感にとりつかれている。
彼女は英国にいるころドイツの進展を妨げる最大の障害がこの国にあると見ていたので、激しく英国を憎んでいた。彼女の理想はドイツが世界を握ることで、諸国はローマ帝国のそれより強大なヘゲモニーのもとで、ドイツの科学・芸術・文化を享受すればよいというものだった。この考え方は、アシェンデンのユーモアの感覚をひどく刺激した。見事だとしか言いようのない傲慢さである。しかし彼女は愚か者ではない。数か国語に通じて読書量も多く、その書評もセンスに溢れている。現代美術や音楽に関する知識も豊富で、これにはさすがのアシェンデンも驚いた。あるときはまた、ドビッシーの、きらめくような小品を、昼食前に弾いて楽しませてくれたこともある。フランス人の作品で軽やかすぎるという理由で、さも軽蔑したような演奏の仕方だったが、その優雅な気品や華麗さは、しぶしぶながら理解していた。アシェンデンが演奏をほめると、肩をすぼめて言った。
「デカダンな国のデカダンな音楽ですわ」そういうといきなりベートーベンのあるソナタの第一節の和音を力強い手で叩き始めたが、すぐまた手をひいた。
「弾けませんわ、練習不足で、でも英国人に音楽がわかるかしら? パーセル以後作曲家らしい作曲家が出ていないでしょう」
「いまの言葉をどう思います?」
アシェンデンは、かたわらに立っていたケイパーに笑いながら尋ねた。
「事実だとしか言いようがありませんな。なにしろ私の音楽の知識は、貧弱なもんですが、みんな家内から授かったもんでしてね。まア家内が練習しているときにいちどお聴きになることですな」彼は節くれだったごつい手を彼女の肩に置いた。「そりゃ美しい音色でしてね。思わず心を動かされますよ」
「他人様の前で」彼女は柔らかい口調でたしなめる。「バカな人ね」一瞬彼女は唇を震わせたが、すぐ平静さを取り戻していた。「あなた方英国人って、絵はだめだし、彫刻もだめ、音楽も創れやしないでしょう」
「ときに面白い詩を書くことがありますがね」アシェンデンはユーモラスに答えた。皮肉を言われて怒るほど野暮《やぼ》ではないつもりなのだ。そしてなんとはなしに詩の文句が二行口をついて出た。
「行手はいずこ、すばらしき船、白き帆の、荒れ狂う西風の胸に抱かれて」
「そうね……」細君が奇妙な身振りをしながら言った。「詩だけは英国人にも創れるのね。なぜかしら?」
驚いたことに彼女、例の喉にひっかかるような英語で彼が口にした詩行を暗唱してみせた。
「さア、グラントリー、昼食がもうできてるわ。食堂へ行きましょうよ」
ふたりが去ったあと、アシェンデンはあっけにとられて考えにふけった。
アシェンデンは、善人は躊躇《ちゅうちょ》なく賛美するが、だからと言って悪人にいら立つこともない。人に愛着を覚える前に、客観的な興味の対象にしてしまう場合が多いので、冷酷だと評されることがある。また愛着を感じても、相手の長所・短所をきびしく見分けてしまう。また人を好きになったとしてもそれは、その人の欠点が見えなかったからというのではない。欠点を気にせず、肩のひとつもすぼめて受け容れるか、相手に欠けている長所をこちらで勝手に付与してからのことである。友人に対しても初めから冷静な判断をもって接するので、友を失うこともほとんどない。
ケイパー夫婦についても偏見や感情抜きで観察することができた。細君の方はご亭主より、ともかく個性的な人間だったので、それだけ理解しやすかった。彼女ははっきりと彼をきらっている。彼女の立場とすれば当然彼に愛想よくしなくてはならないのだが、嫌悪感が強すぎるため、ときとしてそれが表面に出て無礼な態度となる。やれるものなら何もためらわずに彼を殺したであろう。しかしケイパーが太った手を彼女の肩に載せる様子とか、その下で彼女がかすかに唇をわななかせているありさまとかを見て、この無愛想な女と、卑しい太った男が、深い真摯《しんし》な愛情で結ばれていると思った。それはむしろ感動的でさえあった。
アシェンデンは、過去数日間に観察したこと、気がついたが大して意味がないと思われることなどをまとめて、思い返してみた。細君がご亭主を愛しているのは、彼女がご亭主よりも個性が強く、ご亭主の方で彼女によりかかっているためだと思われた。男の賛美ゆえに彼を愛しているのだ。おそらくこの、退屈と知性と無愛想とをつきまぜたような太り肉《じし》の醜い女は、ケイパーに会うまで、男性から賛美されたことなどないのだろう。彼の親切や陽気な口説《くぜつ》に、よどんだ命の血をかき立てられ、それを楽しんでいるのだろう。ケイパーは、体が大きいだけで、本当はただのいたずら坊主にすぎない。彼女はそれに母性愛的な愛情を抱いているのだ。今日の彼を創りあげたのは彼女で、ふたりとも相手を抵抗なく受け容れている。彼女はご亭主のあらわな欠点にもかかわらず彼を愛している……彼女ほど明晰《めいせき》な頭をしていればいつもこの欠点に気づいているはずだ……まさに愛しているのだ。なんたる不可思議か! イゾルデがトリスタンを愛したように愛しているのだ。しかし彼にはスパイ行為という汚点がある。いくら人間の弱点に寛大なアシェンデンでも、金のために祖国を裏切るなどという行為は、容認し難かった。
もちろん彼女は事実を知っている。それどころかケイパーは、最初彼女を通して接触を受けたのかもしれない。彼女に促されでもしない限り、こんな仕事を引き受ける男ではない。彼女は彼を愛しているし、根は正直で正義感の強い女だ。夫をこんな卑しい不名誉な仕事につかせるについて、自分自身をどう納得させたのだろう。アシェンデンは、その間の彼女の心の動きを探ってみようとしたが、ただ迷路に踏み込んだだけで、どうにも推測さえつかなかった。
グラントリー・ケイパーとなると、話は別である。どこといって長所は見当たらない。またアシェンデンも、彼に長所を求めているわけではない。ただこの野卑な大男には、特異なところ、思いもよらない点が数多くある。アシェンデンは、彼が自分をワナにかけようとして接近してくるのを、面白がって眺めている。会話のレッスンが始まってから数日すぎたころ、ケイパーは夕食をおえたあと、細君が二階に上がってから、アシェンデンの傍の椅子に、どかりと重い体をすえた。忠実なフリッツがすぐ駆け寄って来て、鼻先の黒い長い首を彼のヒザにのせた。
「こいつは頭が悪いんですが、心は優しいんですよ。この小さいピンク色の目をご覧なさい。愚かしさを現わしてるでしょう。しかもこの醜い顔。それでいて信じ難いほどの魅力があるんですな」
「長く飼ってるんですか?」
「手に入れたのは一九一四年、戦争が始まるすぐ前ですよ。それはそうと、きょうのニュースをどう思います? いや、家内とは戦争の話をいっさいしないもんですからね。心おきなく話し合える同国人とお会いできてまったくほっとしてるんです」
彼はアシェンデンに、安物のスイス製の葉巻を差し出した。アシェンデンは、これも仕事のうちだと物哀しい思いで、それを受け取った。
「もちろん勝つ見込みはありませんよ、ドイツは」とケイパー。「ぜんぜんそのチャンスはありませんね。英国の軍隊が大陸に入って来たら、たちまちやられてしまいますよ」
彼の語り口は真摯で、誠実で、自信に満ちていた。アシェンデンはそれに対して、ごくありきたりの合づちをうった。
「家内の国籍のために、戦争に関与する仕事ができないってのは、生涯を通じての痛恨事ですよ。戦争勃発と同時に志願したんですが、年齢がどうのこうのといって拒否されましてね。しかし戦争が長びくようなら、家内が何国人だろうと、何かやります。これだけは公言して憚《はば》かりませんよ。幸い私は数か国語に通じています。検閲部あたりでお役に立てると思うんですが。たしかあなたはあそこにお勤めでしたな?」
相手の狙《ねら》いはここにあったのだ。この計算された質問に対して、アシェンデンは、すでに用意しておいた答えを返した。ケイパーは椅子を寄せると声を落として言った。
「機密に属するようなことはあまり口にしない方がいいですよ。この辺のスイス人ときたらどいつもこいつも親独派ですからな。立ち聞きでもされるとまずいでしょう」
そして彼は話を切り換え、秘密めいたことをいくつかアシェンデンにしゃべった。
「あなただからこそ、こんな話をするんですがね、実はかなり重要な地位にある人物を数名友人に持ってるんです。もちろん彼らは私を信用してくれてますがね」
ここまで聞いてアシェンデンは逆に勇気づけられ、計算ずくではあったが、少し口をすべらせて、二、三の情報をもらしてやった。だから別れたとき、ふたりともこの会談には満足していた。おそらく、あしたの朝、ケイパーのタイプライターはうなりを立てるだろう。そしてベルンのあのエネルギッシュなドイツ軍少佐が、ほどなくして、興味溢れるレポートを受領するだろう。
とある夜、食事をおえて部屋へ上がろうとして、アシェンデンは、開け放しになっている浴室の前を通りかかった。中にケイパー夫婦がいた。
「入りませんか」
ケイパーが陽気に叫んだ。
「フリッツを洗ってやってるんですよ」
ブル・テリアは絶えず体をよごしていたが、ケイパーは彼の毛を白く清潔にしておくのが自慢だった。アシェンデンは中へ入った。ソデをたくし上げ、白い大きいエプロンをかけた細君が、浴槽の片側に立ち、ケイパーはズボンにチョッキという恰好で、太ったソバカスだらけの腕をむき出しにして、すくみ上がった犬を洗っていた。
「夜おそくでないとやれないんですよ。フィッツジェラルドご夫妻もこの風呂を使うもんですからね。ここで犬を洗ったなんてことがわかったら大騒ぎです。だからあのご夫婦が寝入るまで待つんです。そらフリッツ、顔をごしごし洗うときでも、どんなにお行儀がよいか、この方にご覧いただくんだぞ」
哀れな畜生は、いくら手荒く扱われてもご主人様に歯向かったりしないということを示すように、しょんぼりと、かすかに尾を振りながら、二十センチばかり水を張った浴槽の中に立っていた。犬は体じゅう石鹸《せっけん》の泡に覆われ、ケイパーは、おしゃべりをしている間も、太い手でシャンプーを続けていた。
「こいつも処女雪のように白くなると、ばんとした犬になるんですよ。ご主人様も大威張りで連れて歩けるってわけです。街のメス犬どもはこいつを見てこう言うでしょう。あらまア、スイスはわがものといった様子で歩いてる、あのハンサムで貴族的な顔つきのブル・テリアはどなたのものかしら? さア、耳を洗ってやるからじっとしてるんだぞ。アカまみれの耳をして街中を歩くのは恥ずかしいだろう。きたならしいスイス人のがきどもみたいに、な? 貴族の義務ってもんだよ。さア、こんどは鼻だ。おや、石鹸の泡がピンク色のかわいいお目々に入ってるじゃないか。しみて痛いぞ」
細君は彼のこの冗談を、幅広い平凡な顔を機嫌よくほころばせて聞いていたが、やおらタオルを手に取った。
「さア、水にもぐるんだ。頭からな」
ケイパーは犬の頭をつかみ、一度、二度と水につけた。犬はもがき、あわて、あたりに水の飛沫を飛び散らせた。やっとケイパーは犬を浴槽から出した。
「そらママのところへ行って拭いてもらえ」
細君は床に坐り、両足で犬をはさみつけてタオルでごしごしやっていたが、最後には、額から汗をしたたらせていた。フリッツは動転して息も絶え絶えだったが、やっと苦行をおえてほっとしたのか、間抜けな顔を突き出し、白く輝く毛を見せて立っていた。
「やはり血統ですな」
ケイパーが鼻をうごめかして叫んだ。
「こいつの先祖は六十四代前までわかってるんですよ。それがみんな高貴な生まれでしてね」
アシェンデンはいささか度肝を抜かれた感じで階段を登りながら身震いした。
その後、ある日曜日のこと、ケイパーがやって来て、これから細君と遠足に行き、山の小さなレストランで昼食をとるつもりなのだが、費用は割り勘ということにして、一緒にこないか、とアシェンデンを誘った。リュセルンへ来てもう三週間、その程度の運動なら耐えられるということを示していいはずだった。一行は朝早く出発した。細君の方は、散歩グツにチロリアン・ハット、それにピッケルという、いとも素っ気ない服装だった。そしてケイパーの方は、半ズボンにストッキングという、いたって英国ふうないでたちである。アシェンデンは事の成行きに興味を覚え、その日は存分に楽しむ心づもりであった。しかし、両の目はしかと開けておくつもりだった。ケイパー夫妻が、彼の正体に気づいていないという保証はないし、あまり断崖などに近よらないようにしようと思っていた。ケイパー夫人はチャンスさえあれば躊躇なく彼を突き落とすだろうし、ケイパーにしても、陽気に振舞ってはいるが、何をやり出すかわからない男だ。
しかしうわべはあくまでも、この輝かしい朝の爽快《そうかい》な気分をそこなうようなものはなかった。空気はかぐわしく、ケイパーはとめどもなくしゃべりまくっている。次から次へ、こっけいな話をし、陽気で快活だった。大きい赤ら顔は汗でしとどに濡れ、肥満した体を自分で揶揄《やゆ》して笑い飛ばしていた。そして驚いたのは、高山植物に対して意外な博識を示したことである。径から少し離れたところで花を咲かしている草を見つけると、わざわざそこまで行って、細君のためにその花を手折ってきたこともある。そしてそれをさもいとおしそうに眺めていた。
「きれいでしょう?」
彼は声を上げたが、その落ち着きのない灰緑色の目は、一瞬、子供の目のように輝いていた。
「ウォルター・ランドーの詩みたいでしょう」
「主人は植物学が大好きなんです」
細君が解説した。
「ときどきあたし、笑うんですのよ。もう草花に首ったけなんですもの。肉屋に払うお金がなくても、なけなしの小銭をかき集めて、あたしにバラの花束を買ってくるという調子ですものね」
「花植える者の心に花の咲く」
ケイパーがフランス語でしゃれたつもりでつぶやいた。
アシェンデンは一、二度、散歩から帰ったケイパーが、大仰な身振りで高山植物の花束を、フィッツジェラルド夫人に捧げるのを見たが、これは見ていてたしかにほほえましいシーンであった。そしてきょうの彼の態度には、その行為を、なるほどと思わせるものがあった。草花に対する彼の情熱はまったく純粋なもので、アイルランドの老婆に与えた草花も、自分では心から価値あるものだと思っていたわけだ。掛け値のない親切心と言ってもよかろう。アシェンデンはいままで植物学を退屈な学問だと思い込んでいたが、ケイパーは道すがら盛んにぶちまくり、その言葉を聞いていると、にわかに植物学が生気に満ちた興味ある学問に思えてくるから不思議だった。事実、よく研究しているようである。
「本は書いたことがありませんがね」ケイパーが言った。「本はもうたくさん出てますし、何か書きたいっていう欲求も、安直に金になって、しかもすぐ脳裡から消え失せるような記事を新聞に書くことで、解消できますからね。しかし、もしこれからも長くここに滞在するようなら、スイスの野の花についてひとつ本を書いてもいいなという気がしてます。まったくあなたも、もっと早くここへいらしてればね。そりゃすばらしいもんですよ。誰でも自分が詩人だったらいいのにと思いますよ。ところがあいにくこの通り一介の新聞記者にすぎませんからな」
彼が真実の情熱とウソで固めた事実とを結びつけてしゃべるのを見ていると、奇妙な感慨を催した。
山と湖の見える宿屋に着き、彼が冷えたビールを喉に流し込んでいる様は、官能的な歓びさえ伴っていて、見ていて気持ちがよかった。かくも単純なものにかくも歓びを感じる人間には、同情を禁じえない。三人は|かき《ヽヽ》玉子とマスで昼食をとったが、文句なしにうまかった。そしてケイパー夫人でさえ、周囲の風景に感動したのか、柄にもなく優しくなっていた。宿屋のある辺は、うっとりするような美しい田園で、宿の建物は、十九世紀初期によく出た旅行記の挿絵にあるような、スイスの農家を連想させるものだった。アシェンデンに対する妻君の態度にも、いつもほどの敵意が感じられない。彼女は宿に着くと、いきなり声高なドイツ語で、辺りの風景の美しさをめでたものだ。飲んだり食ったりしたことでも心がほぐれたのか、前方に広がる壮麗な景色にただじっと見入っていたが、その目は涙に溢れていた。彼女は手を差し延べた。
「恐ろしい、不当な戦争がいまも続いてるというのに、いまここであたしの心にあるのは幸せと感謝だけ……恥ずかしくてぞっとするわ」
ケイパーは彼女の手を取ってじっと握っていた。そして、めずらしくドイツ語で、彼女の愛称を呼んだりしている。バカバカしいが感動的な姿だ。感情の交歓はふたりにまかせて、アシェンデンは庭をぶらつき、遊歩客のためにしつらえてあるベンチに腰を落ち着けた。辺りの風景はいかにも人工的で深味がなかったが、見る者の心をとらえた。音楽でいえば、体裁よくつくってはあるが、卑俗な曲で、しかもなお、一瞬、人の心を動かすもの、そんなところだ。
アシェンデンはぶらぶら歩きながら、ケイパーが祖国を裏切ったのはなぜだろうかと、いろいろ想像してみた。風変わりな人間は好きだが、彼の場合は、信じ難いほど変わっている。愛すべき男であることは間違いない。陽気な点もわざとそう装っているのではないし、優しいところも見せかけではなかった。しかも人の良いことはこの上もない。他人に親切を尽くすのも真実そう思ってからのことだ。ホテルに滞在しているのは彼ら三人以外に、アイルランドの老大佐夫妻だが、ケイパーはこの夫妻ともよくつき合っていた。老大佐が繰り返し繰り返し話す退屈きわまりないエジプト戦争の懐古談にも、いつも機嫌よく耳を傾ける。そして老夫人にもお愛想を忘れない。はからずもケイパーに接近して親交を結んでみると、アシェンデンは正直なところ、彼を売国奴として忌《い》み嫌う気持ちよりも、好奇心の方が先立ってしまう。金のためにスパイになったとは思えないのだ。ぜいたくな趣味を持った男ではないし、やりくり上手《じょうず》な細君がついているのだから、船会社でもらう給料でじゅうぶんやって行けたはずだ。それに開戦後は、徴兵年齢をすぎた者には、割のいい仕事がいくらでもあった。仲間をだまして秘《ひそ》やかな快感を得るために、わざと邪悪な方法を選ぶ、という者がいるが、彼もあるいはそういう類の人間のひとりかもしれない。だからスパイになったのも、自分を投獄して虐待した祖国を恨んでのことでもないし、ドイツ人妻への愛情のせいでもないだろう。
おそらくは、彼の存在さえしらない政府のお偉方を嘲笑してやりたいという欲望が主な原因だろう。あるいはまた、虚栄心にかられてのことかもしれない。自分の才能が正当な評価を受けていないという不満からだ。または、何かいたずらをして人を驚かしたいという単純なわがままがその原因かもしれない。いずれにせよ悪党には違いない。不法行為が発覚したのはただの二回だが、この逮捕歴二回ということは、発覚してない不正をたびたびやっていたということの証しではないのか? 細君はこれをどう思っているのだろう。この夫婦ほど密着していれば、当然知っているはずだ。あれほど正義感の強い女であれば、彼の行為を恥と感じたはずだ。それとも愛する亭主の避け難い気まぐれとして受け容れたのだろうか? 手を尽くしてやめさせようとしたことがあるのだろうか、それともどうしょうもないこととして目をつむっているのだろうか?
人間すべてが善悪いずれかに画然とわかたれていて、それに応じて行動すればいいとしたら、人生はいかに単純で気楽だろう。ケイパーは悪を好む善人なのか、はたまた、善を好む悪人なのか? とうてい相容れない善悪両方の要素が、同じひとりの人間の心の中で、調和よく保たれるなどということがありうるだろうか? ひとつだけ確かなのは、ケイパーが、良心の呵責《かしゃく》を感じていないということである、事実、彼は、卑劣な軽蔑すべき仕事を情熱的にやっているのだ。むしろ裏切り行為を楽しんでいる。アシェンデンはいままで、人間の性を意識的に研究してきたつもりだが、中年のいまになっても、子供のときの理解から、さして進歩してないように思われてならない。
R大佐が聞いたら即座にこうのたもうだろう。くだらない瞑想に時間を浪費するバカがいるかね。やつは危険なスパイだ。早く逮捕して刑務所へぶち込みたまえ。と。
まさしくそうなのだ。アシェンデンは、ケイパーと何か取り引きしようとしても、結局はムダになるだろうと思っていた。雇い主を裏切るようにしむけたら、躊躇なくそうするだろうが、それだけに信用がおけないということになる。細君の影響があまりにも強すぎるのだ。それに、彼がアシェンデンに折ふし語る言葉とはうらはらに、心の底では、枢軸側の勝利を信じている。そしてどうせなら勝つ方についていたいと思っているのだ。なるほど、彼は逮捕しなくてはなるまい。しかし、そのやり方いかんとなると見当もつかないのだ。突然、人声がした。
「こんなところにいらしたんですか。どこに隠れてるのかといぶかってたんですよ」
振り返るとケイパー夫婦が近づいてくるのが見えた。ふたりは仲よく手をつないでいる。
「なるほど、これに見とれてたわけですな」
ケイパーはそう言いながら風景を見やった。
「こりゃすばらしい」
細君は手を叩いて喜んだ。
「まア、なんてすてきなんでしょう! きれいだわ。あの青い湖、雪をかぶった山並みを見ると、ゲーテのファウストじゃないけど、すぎ去っていく時間に、止まれ、と叫びたくなるわ」
「警戒警報や空襲におびえながら英国に留まっているより、ずっといいですな」とケイパー。
「そりゃもう」
「ところで、英国を出るとき面倒はなかったですか?」
「いや、ぜんぜん」
「近ごろ、国境での検査がうるさいと聞いてますがね」
「私の場合は国境通過もスムーズにいきましたよ。英国人にはあまり厳しくないと思いますね。パスポートの検査もおざなりのもんでしたし」
ケイパー夫婦はさっと視線を交し合った。どういう意味だろう、とアシェンデンはいぶかった。ケイパーはいまのいま、空襲下の英国における生活のわずらわしさを語ったばかりなのに、その中へ帰ろうと考えているとしたら、奇妙ではないか。しばらくして、細君が宿へ引き返そうと言いだしたので、三人は木陰の山道を下って行った。
アシェンデンは油断なく目を開いていた。いまの彼には、チャンスが向こうから訪れてくるのを待つしか(自分から積極的な行動に移れないということにいや気がさしていたのだが)手がないのだ。それから数日後、ちょっとした事件があり、こいつは何か起こりそうだなという確信を深めた。会話のレッスンをしながら、ケイパー夫人がこう言ったのだ。
「主人はきょうジュネーブへ参りましたの。向こうに所用があって」
「ほう」とアシェンデン。「長く行ってられるんですか?」
「いえ、二日だけです」
人間には、性格的に、ウソをつける者とつけない者がいる。アシェンデンは、しかとした理由はわからなかったが、細君がウソをついているなと感じた。ご当人は、アシェンデンには興味のないことをしゃべっているつもりだろうが、その言い方が、なんとなく、ぎごちないのだ。ひょっとするとケイパーは、ベルンのドイツ軍情報部のあの凄腕《すごうで》のボスに呼ばれて行ったのではないのか、との考えがひらめいた。アシェンデンは女中をつかまえて、何気なく話しかけた。
「君も少しは仕事が楽になるよ。ケイパーさんがベルンへ行ったらしいからね」
「はい。でもあすお帰りになるようです」
これでは証拠にならない。しかし、手懸りにはなる。アシェンデンはリュセルンに住んでいるあるスイス人を知っていた。この男は緊急の場合は、|やばい《ヽヽヽ》仕事でも喜んでやってくれる。アシェンデンはその男を訪ねて、ベルンへ手紙を一通届けてくれと頼んだ。ケイパーを見つけて、行動を探ることができるかもしれないのだ。しかし、翌日、当のケイパーが、細君を伴って夕食の席へ現われた。しかしアシェンデンには肯《うなず》いて見せただけで、食事をすますと、ふたりともすぐ、部屋へ引き退った。明らかに困惑した様子だった。いつもなら陽気にはしゃぐケイパーが、肩を落とし、わきみもせずに食堂を出て行った。翌朝アシェンデンは、手紙に対する返書を受け取った。ケイパーはP少佐に会ったというのだ。少佐が彼に何を語ったかはおよその見当がつく。少佐の厳しさはアシェンデンもよく知っている。無情で、残酷で、頭が切れ、しかも無法な男で、何でもずばりと言ってのける性質なのだ。ケイパーに給料を払って、リュセルンで無為に徒食させることにしびれを切らしているはずだ。そろそろ英国へ行かせるべきときだ。単なる憶測だろうって? もちろん推測には違いないが、諜報の仕事とは推測で成り立っているようなものだ。顎《あご》の骨を見て、その動物を推測する想像力が必要なのだ。アシェンデンはグスタフから聞いて、ドイツ側が誰かを英国へ送り込みたいと望んでいるのを知っていた。彼は大きく溜息をもらした。ケイパーが英国へ行けば、当然彼も多忙になるだろう。
ケイパー夫人がレッスンにやって来たが、いかにも、くったくありげな、落ち着かない様子だった。疲れているらしく、頑固に口を結んでいる。おそらく昨夜はほとんど一睡もせずに話し合ったのだろう。その話の内容を、彼は知りたかった。彼女は行けとすすめたのだろうか、それとも思い留まるように説得したのだろうか……。アシェンデンは、昼食のときまたふたりを見かけた。何かあったに違いない。いつもは仲むつまじくおしゃべりをするふたりが、ほとんど無言のままなのだ。夫婦は早目に食事をおえると、そそくさと食堂を出て行ったが、アシェンデンがあとから出て行くと、ケイパーがひとりぽつねんと、広間に坐っていた。
「やあ!」
彼は陽気な声で叫んだが、それも精いっぱいうわべを取りつくろっている様子だった。
「いかがです? 私はジュネーブまで行って来たんですよ」
「そうですってね」とアシェンデン。
「まア、コーヒーでもつき合いませんか。家内は頭痛がするというもんですから、部屋へ退《さが》って横になれと言ったんですよ」
落ち着きなく動く灰緑色の目に、名状し難い表情が浮かんでいた。
「実は、家内のやつ、心配でたまらないらしいんですよ。私が英国へ行くなんて言い出したもんですからね」
これを聞いてアシェンデンは心臓が飛び出しそうになったが、表情はあくまでも平静に保っていた。
「ほう、長く行っておられるんですか? 寂しくなりますね」
「正直なところ、何もせずにぶらぶらしてるのがいやになりましてね。戦争はまだまだ続きそうだし、いつまでもここで遊んでちゃもったいない気がしましてね。それに経費の問題もあります。稼《かせ》がなくちゃ食ってゆけないでしょう。家内はドイツ人でも私は歴《れっき》とした英国人ですから、何かやって国のお役に立ちたいんです、戦争が終わるまでここで安易な生活をして、何ひとつ国のために尽くさなかったとなると、友人たちにも会わす顔がありませんからね。家内はもちろんドイツ側に立ってものを考えますが、少し逆上ぎみなんですよ、実を言うと。女ってやつは扱いにくいもんですな」
アシェンデンは、ケイパーの目の表情の意味がやっとわかった。恐怖なのだ。いやな感慨が胸につかえた。ケイパーは英国へ行きたくないのだ。スイスで安易に暮らしていたいのだ。ベルンでP少佐に何を言われたかもこれで読めた。英国へ行かなければ、給与を断ち切られるのだ。事の次第を細君に語ったとき、彼女は何と言ったのだろう? ケイパーとしては止めてもらいたかったであろうが、見るところ、そうはしなかったようだ。おそらく彼も、こわい、などとは口にしなかったはずである。彼女の目には、ケイパーは、陽気で大胆で冒険好きで、こわいものなしの男として映っているのだ。たとえそれが彼の創り上げた虚像であったにしろ、いまさら、本当の自分は卑劣な臆病者ですと、白状できるものではない。
「奥さんもお連れになるんですか?」
「いや、家内はここに留まりますよ」
すでに手配は整っているのだ。細君がここで彼の手紙を受け取り、その中に入っている情報をベルンへ転送するという仕組みだ。
「私はでも、長くイギリスを離れてますので、戦争に役立つようなことをしようにもどうしていいかわからないんです。あなたならどうします?」
「急にそうおっしゃられても……どんな仕事をなさりたいんです?」
「いや、それなんですが、できればあなたと同じような仕事をやりたいんですよ。検閲部の誰かに紹介状を書いていただけませんか?」
さすがのアシェンデンも度肝を抜かれ、思わずよろめいてうめき声を出しそうになったが、やっとのことでその動揺を抑えつけた。ケイパーの依頼に驚いたのではない。ある考えに襲われたのだ。なんたる愚か者だ! 彼はリュセルンでムダに時をすごしていることにうしろめたい感じを抱いていたのだ。まったく無為徒食で、結果としてはまア、イギリスへ行くことになったのだが、それも彼が切れ者だからというわけではない。自分で獲得した手柄でも名誉でもないのだ。この場になって考えてみると、ドイツが彼をリュセルンに配置したのは、彼に身分を偽る方法を教え、適当な情報を与え、今日の事態に即応できるように訓練するためだったのだ。
ドイツ軍情報部にとって、エイジェントを英国の検閲部へ潜入させることは、大いに益するところがある。たまたま、検閲部に籍を置く人間と知己のあるグラントリー・ケイパーというその任務にうってつけの男がいたというにすぎない。なんたる幸運か! P少佐は教養のある人物だから、手をこすり合わせながら、ラテン語あたりでこう咳《つぶや》いたに違いない。「運命の女神は滅びんとする者を愚鈍にする」ところがこれは、女神ならぬ悪魔のようなR大佐が仕かけたワナで、ベルンの狡猾《こうかつ》な少佐がみごとそれに陥ったのだ。アシェンデンは、ただじっとしているだけで、何もせずに、任務を達成したわけである。Rが彼を小バカにして軽く見ていると思うと、思わず笑いがこみ上げてきた。
「うちの部長とはごく親しいんですよ、何なら紹介状をお書きしましょう」
「そりゃ願ってもないことですな」
「しかし紹介状にウソは書けませんからね。あなたとはリュセルンで会って、まだ二週間しかたっていないということを書きますよ」
「結構です。しかし、他のことも、もちろん書いていただけますね?」
「ええ、もちろんです」
「実はまだビザがとれるかどうかわからないんです。だいぶうるさいって話ですからね」
「そんなことはないでしょう。私が帰るときビザを出さないなんて言ったら、かみついてやりますよ」
「じゃ私はちょっと家内の様子を見てきます」
ケイパーが突然立ち上がりながら言った。
「紹介状はいつ書いていただけます?」
「いつなりと。すぐお発ちですか?」
「できるだけ早くね」
ケイパーが姿を消した。アシェンデンは、あまりあわてているような印象を与えたくなかったので、十五分ほどそこですごし、やおら自室に取って返すと、通信文を作成した。一つはRに宛てたもので、ケイパーの英国行きを報告し、もう一つはベルンを通して、ケイパーがビザ取得の申請をしたらただちに交付するように手配するためのものだった。書きおえると彼はすぐそれを投函した。そして夕食のため食堂へ降りて行ったとき、いとも親切な紹介状をケイパーに手渡した。
それから二日後、ケイパーはリュセルンを発った。
アシェンデンは待った。会話のレッスンは従前通り続けていたが、ケイパー夫人の良心的な教え方のかいあってか、かなり自由にドイツ語をしゃべれるようになっていた。ふたりはゲーテやビンケルマンを論じ、芸術を、人生を「旅行を語り合った。フリッツは椅子のそばにひっそりと坐っている。
「主人がいないので寂しいんですわ」
彼女は犬の耳を引っ張りながら言った。
「主人にばかりなついて、わたしなんか主人の連れ合いだという意味でしか、接してくれないんですのよ」
毎朝レッスンが終わると、アシェンデンは、クック旅行案内所へ郵便物が来ていないかどうかを訊きに行った。彼宛ての郵便物はすべてここに届けるよう手配してあったのだ。指示があるまで行動を起こせないのだが、Rのことだ、長く彼を遊ばせておくようなことはしないはずである。とにかく、指示が届くまで辛抱強く待つしかない。まもなく、ジュネーブの領事館から書簡が着き、ケイパーがそこでビザを申請して受け取り、フランスへ向かって発ったことが判明した。この書簡を読んでから、アシェンデンは湖畔へ散歩に行った。そしてその帰途、ケイパー夫人がクック旅行案内所から出てくるのを目撃した。彼女も手紙類を案内所気付で受け取っているのだろう。彼はそばへ行って声をかけた。
「ご主人から便りがありましたか?」
「いいえ、まだ出発して間もないので……」
彼は細君と並んで歩いた。彼女は明らかに失望の色を現わしていたが、とりたてて心配しているふうはなかった。戦争ともなると郵便の遅配など当然だといった表情なのだ。しかし翌朝、レッスンの間、彼女がしきりに早く切り上げようとあせっているのがよくわかった。郵便の配達は正午なのだが、五分前になると時計を見て言った。彼女に手紙などくるはずはないと、アシェンデンは百も承知だったが、これ以上いらいらさせるのは情において忍びなかった。
「きょうはもうこれくらいでいいじゃありませんか? 案内所へおいでになりたいんでしょう」
「そうですの。ご親切にどうも」
しばらくして彼が行ってみると、彼女はオフィスのまん中に立っていた。いかにも取り乱した様子で、いら立たしそうに彼に話しかけた。
「主人はパリから手紙を出すと約束したんですのよ。当然もうその手紙が着いてるはずなのにここの人たちときたら、そんな手紙は来てないと言うんです。不注意もはなはだしいわ、恥知らずな」
アシェンデンは言うべき言葉がなかった。事務員が郵便物の束をほぐして彼宛ての手紙が来てないかどうか調べている間に、彼女が再びデスクのところへ来て言った。
「フランスからの郵便はこんどいつくるの?」
「ときどき五時ごろくることがありますよ」
「じゃそのころまた」
彼女はそう言うと足速やに出て行った。そのあとをフリッツが、尻尾を後足の間にたらしてついて行った。何か不吉な手違いがあったのだという恐怖が彼女の心をすでにとらえているのだ。間違いない。翌朝の彼女は乱れに乱れていた。ゆうべは一睡もできなかったのだろう。レッスンの途中で彼女は、はじかれたように立ち上がった。
「ごめんなさい、きょうはわたし、とてもレッスンはできません。気分が悪いんですの」
アシェンデンが何か言おうと思ったとき、彼女はいら立たしそうに部屋を飛び出していた。そしてその日の夜、彼女から、もうこれ以上レッスンは続けられないという手紙が届けられた。理由は書いてない。それからぷっつり彼女の姿が見えなくなった。食事時になっても食堂に現われず、午前と午後、案内所へ行くとき以外は、部屋にこもりきりのようだった。ただひとり、ぼうぜんと、心をさいなむ恐怖に耐えて坐っているのだろうか。気の毒だと言わざるをえまい。彼自身も、しだいに待つことが気重になってきていた。手当たりしだいに本を読んだり、物を書いたり、カヌーを借りて、湖にこぎ出してあせる心を抑えたりして、時間をつぶした。そしてついに、ある日の朝、案内所の事務員から一通の手紙を受け取った。Rからだ。ふつうの商業文の体裁をととのえていたが、行間には重大な意味がこめられていた。
「拝啓」で始まっていた。「先日貴殿がリュセルンより発送された物品、書簡と共に受領致しました。迅速なるご処置、感謝に耐えず……」
こういった調子で手紙は続いていた。Rは大喜びなのだ。いまごろもうケイパーは逮捕され、十分に罪の償《つぐな》いをさせられていることだろう。彼は身震いした。恐ろしい光景を思い出したのだ。夜明けだった。しとしとと雨の降る、寒い、曇った朝だった。目隠しされた男が壁に向かって立っている。青い顔の将校が号令を下す。一斉射撃。そして銃殺隊の若い兵士がひとり、くるりと後ろを向くと、銃で体を支えながら嘔吐する。将校はますます青くなり、彼、アシェンデンは恐怖に気を失いそうになる。ケイパーはさぞやこわかったであろう。殺される者が涙で頬を濡《ぬ》らしているのを見るくらい悲しいものはない。アシェンデンは思わず体が震えた。彼は案内所へ行き、命令通りジュネーブ行きのキップを買った。
釣り銭を待っているとケイパー夫人が入って来る。その姿を見て彼はどきっとした。衣服は乱れ、髪もとかさず、目の縁に|くま《ヽヽ》ができていた。そして顔は死人のように青かった。よろめきながらデスクに歩み寄ると、手紙が来てないかどうか尋ねたが、事務員は頭を振った。
「お気の毒ですが、まだ何も来てませんよ」
「でもよく見て、よく。ほんとに来てない? もう一度見てちょうだい」
その悲痛な声は聞く者の胸をうった。事務員は肩をすぼめると、整理棚から手紙を取り出して分け直した。
「いや、やっぱりありませんね」
彼女は絶望の声をあげ、顔は苦悩にゆがんでいた。そして苦しそうにうめいた。
「ああ、神様! ああ、神様!」
そしてくるりと向きを変えると、泣きはらした両目から涙をしたたらせながら、盲目の人間が行先がわからず手探りしているような恰好でそこに突っ立っていた。そのとき、おそろしいことが起こった。ブル・テリアのフリッツが床に坐り込んで頭を後ろに持ち上げ、長く、悲しそうに吠《ほ》えたのだ。ケイパー夫人はぎょっとして犬の方を見た。その両の目はいまにも飛び出さんばかりだった。恐怖の数日間、彼女をさいなんできた疑念が、もはや単なる疑念ではなくなったのだ。すべてを悟ったのだ。彼女は盲人のように街へよろめき出た。
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第十一章 陰に隠れて
アシェンデンはXへ派遣されることになった。しかし現地へ到着してみると彼は、自分の立場がはなはだ曖昧模糊《あいまいもこ》としていることに気がついた。Xとは現在大戦に参戦中のある重要な国の首都である。しかしその国がいま真二つに分かれて内紛を続けていた、戦争に反対する一大勢力があり、革命の気運が昂《たか》まっているのである。現状でいかなる措置をとるのが最も望ましいかを探り、それに応じた対策をたて、彼を派遣した高官筋の承認を得られれば、それを実行に移す……それが彼に与えられた命令だった。
英米両国大使も、管轄下にある人員・設備を彼のために提供するようにとの訓令を受けていた。しかも彼は自分の任務その他に関する情報を両大使に漏らさないようにと言われている。両国の公式な外交代表が知っていてはまずいと思われる情報を、あえて両大使に漏らすと、外交活動に支障をきたす恐れがあるという配慮からだった。というのも、現在米英両国と友交関係を保っている現政権に対して公然と反旗をひるがえしている反対党に、隠密裡に支持を与える必要が生じるかもしれず、アシェンデンもうっかりしたことは口にできないのである。
高官筋は、身分も定かでないエイジェントが、公式の外交活動とはまったく相反する目的を持って派遣されたことを知って、両大使が屈辱感を抱くのではないかと気遣っていた。また一方では、万一、事態が急変して革命が成立した場合にそなえて、じゅうぶんな資金を持ちしかも革命勢力の指導者の信頼を受けうるような人物を、同勢力のなかに送り込むことも得策だと考えられていた。
しかし大使なる存在は、おのれの権威・体面に固執し、それを犯そうとする者を敏感に嗅ぎわける嗅覚を持っているものだ。アシェンデンはXに着いてすぐ、英国大使ハーバート・ウィザースプーン卿を公式訪問したが、そのときの大使の応待は一点の非もないほど慇懃《いんぎん》なものであったが、そのなかに極洋の白熊も背筋を震わせるような冷やかさが感じられた。ハーバート卿はいわゆる職業外交官で、見ている者が思わず感嘆するほど完璧なマナーを身につけていた。アシェンデンにも、彼の任務についてはひとことも質問を発しなかった。尋ねても曖昧な答えしか返ってこないことを知っているのだ。しかしその態度には、その任務がまったく愚かしいものであるとの考えが、明白に現われていた。彼はアシェンデンをXへ派遣した高官たちのことを、反感をにおわせながらも寛容な口振りで噂《うわさ》した。そして本国政府からアシェンデンにあらゆる便宜を与えるよう訓令されていると述べ、必要なときは連絡していただければいつでも面会に応じるからと語った。
「実はいささか異例な訓令を受けているのです。あなたのために特別に用意された暗号を使って、電報の受授を行なえというものですが……」
「そういう電報はなるべく少ない方がいいですね。暗号の作成や解読ほど退屈な仕事はありませんから」
アシェンデンが答えた。
ハーバート卿はこれを聞いて一瞬口をつぐんだ。こんな答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。卿は席を立ち、
「事務局へご案内して参事官や事務官にご紹介しましょう。電報の処理は彼がやってくれます」
アシェンデンを伴って事務局に入り、参事官に紹介すると、大使はおざなりの握手をして言った。
「そのうちにまたお目にかかりたいと思っています」
そしてそっけなく会釈して姿を消した。
アシェンデンは大使の応待を冷静にがまんした。彼はあくまでも陰の存在であり、あまり公式筋の注意をひくような行動は慎まねばならないのだ。しかし卿がなぜこんな冷たい態度をとったのか、その理由は、その日の午後アメリカ大使館を訪問したときにすぐわかった。アメリカ大使は、ウィルバー・シェーファーというカンザス生まれの南部男で、戦火が発することなどまだ誰も気づかないときに、政治上の功績の代償として、現在の地位を与えられたのだ。大柄の堂々とした押し出しで、白髪を戴いているところがら見ると相当の年配だろうが、いかにも健康で丈夫そうだった。角ばった赤ら顔をきれいに剃り上げ、上を向いた鼻がちんまりと坐り、意志力の強そうな顎を持っていた。その顔が実によく動く。口の開閉につれて絶えず奇妙にゆがむのだ。まるで水枕に使う赤いインドゴムでできているように見える。彼は愛想よくアシェンデンを迎えた。気のいい男なのだ。
「ハーバート卿にお会いになったろうが、あの人のことだ、さぞ憤ってたろう。しかしワシントンやロンドンの連中はどういうつもりなんだろうね。あんたの電報を内容もチェックせずに受授してやってくれと訓令して来おった。そんな勝手な訓令を出す権利があると思ってるのかな?」
「それは閣下、手間と時間をはぶくためだと思いますが」
「いったいあんたの任務はどういう内容のもんだね」
この質問にはもちろん答えられない。しかし正面切ってそう言うのはどうかと思われたので、大使がどう考えても真実を探りえないような漠然とした答えを返すことにした。シェーファー氏は、大統領選挙を左右する実力を有してはいるが、少なくとも生の姿を見る限り、現在の彼のポストに要求される鋭敏さに欠けているということも、アシェンデンはすでに見抜いていた。立身出世を好む派手な、ユーモアに満ちた好人物なのだ。ポーカーなどの賭けごとをやる場合なら用心してかからなければならないが、微妙な国際問題などを話題にしている限り安心していられる。
アシェンデンは国際情勢一般についてとりとめのない話を始めたが、話の途中から老獪《ろうかい》に大使自身の意見を述べさせるように仕向けた。それはさながら軍馬に進軍ラッパを聞かせるような効果があった。シェーファー氏は、二十五分も息をもつかずしゃべりまくり、ついには疲れ果てて口をつぐんだ。そこでアシェンデンはすかさずご高説を拝辞して、にこやかに退出することができた。
アシェンデンは巧みに両大使を避けて、自分の仕事にかかり、ほどなくしていちおうの工作プランを作り上げた。ところが偶然の巡り合わせから再びハーバート卿とかかわりを持つことになった。契機はシェーファー氏である。彼は外交官というよりやはり政治家で、彼の主張がもし謹聴されるとすれば、それは一個人としての性格からではなく、現在のポストの持つ重みのゆえだった。ようやく手中にしたX駐在大使のポストを利用してせいぜい人生を楽しみたいという考えなのだ。ただあまりにもそれに熱中しすぎるために、健康をそこねる危険さえあった。外交問題にはまったく無知で、いかなる場合でも彼の意見が容れられる可能性はほとんどなかったが、連合国の大使級会談などでしばしば失神状態に陥り、的確な判断を下しえない場合が多かった。
彼が美貌のスウェーデン婦人にうつつを抜かしていることはよく知られていたが、その女性は諜報筋では要注意人物と看なされていた。彼女はドイツ側とも接触があり、連合国のシンパとしての姿勢にも疑いが持たれていた。シェーファー氏は毎日のようにその女に会い、まるでデクのように彼女の言いなりになっていた。事実、極秘の情報がときたま漏洩《ろうえい》していることが判明し、シェーファー氏が夜ごとの睦言《むつごと》で不用意にそれを漏らし、敵に筒抜けになっているのではないかという疑問が関係者の間で湧き起こった。氏の忠誠度と愛国心を疑う者はいないが、情事の際に、無分別をさらけ出すこともなきにしもあらずだ。いささか厄介な問題である。
しかしこのことには、ロンドン・パリ同様ワシントンでも重大な関心を示し、さっそくアシェンデンに処理命令が発せられた。彼はXに派遣されるとき数名の部下を伴って来ていたが、なかでも屈強で意志力の強いのはガリシア生まれのポ―ランド人、ヘルバルタスである。彼とこれからの処置など話し合ってのちすぐに、幸運な事態が発生した。諜報畑にいるとこの種のことは容易に聞き込めるのだが、スウェーデン女が雇っている女中が病気で倒れ、伯爵夫人(事実そうだった)は、その代わりに運よく、クラコウ近在の上品な娘を雇ったというのだ。娘は開戦前、ある有名な科学者の秘書をしていたことがあり、女中としては申し分ない才覚をそなえていた。
この結果、アシェンデンは、数日おきに、伯爵夫人の個室での出来事を要領よく書きしるした手紙を受け取るようになった。夫人にまつわる漠然とした疑問を裏付けるような事実は何もなかったが、それに劣らぬ重要な他の事実が明るみに出た。ある夜夫人は、アメリカ大使を自宅に招いてふたりきりで水入らずの食事をしたらしいのだが、その席上大使が、英国大使に対するひどい不満をあらわに態度で現わしたというのだ。なんでも彼とハーバート卿との関係が故意かあらぬか純粋に公式的なレベルに限られていると言って不満をのべたらしい。独得の歯に衣を着せぬ言い方で、あの英国人が紳士面してすましているのを見ると吐き気さえすると言ったというのだ。彼は男の中の男を自認し、根っからのアメリカ人で、議定書だのエチケットだのは眼中にない。それにしてもどうしてふたりは、ふつうの人間のように、ときには顔を合わせて冗談のひとつも言い合わないのだろう。血は水よりも濃い、と言うではないか。ライ酒でも飲みながらシャツのそでをまくり上げて議論を尽くそうといった態度に出れば、外交政策がどうの白いスパッツがどうのと言っているより、ずっと戦争に貢献するのではないだろうか。とにかく両大使の間に円満な意志の疏通が欠けているということは憂慮すべきことだった。そこでアシェンデンはとりあえず、ハーバート卿に会見を申し込むことにした。
彼はハーバート卿の書斎に導かれた。
「どういうご用件でしょうか? 万事うまく運んでいるのでしょうね。大使館の電報受授回線がいつもふさがっているようですが」
アシェンデンは腰をおろしながら大使の方にちらっと視線を送った。仕立てのよい燕尾服《えんびふく》をいとも優雅に着こなし、それがまたスタイルのよい体にぴったり合っている。絹のブラック・タイには大粒の真珠が光り、グレイのズボンにはピンと線が通り、生地がまた渋いすっきりしたストライプである。そして先のとがった靴は、おろしたてのようにピカピカしていた。これではシャツ姿でハイボールをあおっている図など想像だにできない。細っそりした長身で、流行の服がピタリ似合っている。そして背をまっすぐにのばして正座した姿は、公式の写真でも撮るときのように端正である。冷たくとりすましてはいるが、ハンサムという形容詞はこういう人物に対して使うべきものかもしれない。グレーの髪をきちんと片側でわけてなでつけ、青白い顔にはきれいにカミソリが当たっていた。そして繊細な感じの鼻筋がピンと通り、グレーの眉の下にグレーの目。唇は、若いころはずいぶん官能的で恰好がよかったと思われるが、いまはいかにも皮肉な表情をたたえ、血の気の失せた感じである。数世紀にわたってつちかわれた貴族の顔だったが、これで感情を表現できるとは思われない。破顔|哄笑《こうしょう》することなどとうてい考えられない、まア皮肉な微笑を一瞬口もとに浮かべるくらいがせいぜいだろう。
アシェンデンは日ごろの彼らしくもなく神経質になっていた。
「これから申し上げることは私には関係のないことです。よけいなお節介をやくなとお叱りを受けるかもしれませんが、それを承知でやって来ました」
「なるほど、先を続けて下さい」
アシェンデンの話に、大使は注意深く聴き入っていた。冷たい灰色の目はアシェンデンの顔に釘づけになっている。あきらかに当惑しているのだ。
「どうしてそういうことをお知りになったのです」
「職務上、情報集めの手段には事欠きませんので」
「なるほど」
ハーバート卿は視線をそらさない。しかしその鋼鉄のような目にかすかに笑いの表情が浮かんでいるのを見て、アシェンデンは驚いた。素っ気ない撫然《ぶぜん》とした顔がその瞬間いとも魅力的に見えた。
「それではあなたにもう一つお教えいただきたいことがあります。ふつうの人間になるにはどうすればよろしいんです」
「こればかりは人の力ではどうにもならないでしょう」
アシェンデンが重々しく答えた。
「神のなせる技《わざ》ですからね」
ハーバート卿の目がまた暗くなった。しかしアシェンデンが通されたときよりいくらかその態度がくだけていた。彼は立ち上がると手を差しのべた。
「わざわざお話しに来ていただいて恐縮です、アシェンデンさん。私の過失でしたよ。あの人のいい老紳士を怒らせたのは私の不徳のいたすところです。しかし私は過失を償うのにやぶさかではありません。さっそくきょう午後にでもアメリカ大使を訪問いたしましょう」
「でもなるべく大げさなやり方ではなく、ごく控え目にやって下さいませんか」
この言葉に、大使の目が光った。この人にも人間らしいところがあるんだな、と、アシェンデンは思った。
「私は大げさにしかできないのでね、アシェンデンさん、持って生まれた性質で、私の欠点のひとつですよ」
辞去しようとするアシェンデンに大使が呼びかけた。
「ところで明日、夕食をご一緒したいんですが、ご来訪いただけますね、ブラック・タイで。午後八時十五分に」
彼はアシェンデンの返答も待たず、当然承諾したものと思い込んだように別れの会釈をすると、また大きな事務机の前に腰をおろした。
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第十二章 英国大使の過去
アシェンデンはハーバート卿との晩餐《ばんさん》を不安な気持ちで待っていた。ブラック・タイでというのだから小さなパーティだろう。おそらく大使と、まだ面識はないがその夫人アンと、若い書記官が一、二名招かれる程度だろう。どう考えても派手《はで》やかな夜は期待できなかった。食後はブリッジをということになるかもしれないが、外交官の腕などどうせ大したことはない。彼らにすれば、ただのカード遊びに優秀な頭を悩ますのを潔《いさぎよ》しとしないのだろう。
一方アシェンデンには、非公式の場所での大使の姿をもっとよく見たいという望みがあった。とにかくハーバート卿はただの人物ではないのだ。その風貌《ふうぼう》といいマナーといい、貴族の典型である。世上|噂《うわさ》されているタイプの人間の実物に出会うのもまた一興ではないか。大使はかくあるべきだという型そのものなのだ。彼の特徴がひとつでも誇張されたら、まるで漫画である。間一髪のところで戯画になるのを救われているのだ。息をのむような高所で危険な技を演じている綱渡りの芸人を見ているような危うさがあった。たしかに才能はある。外交官としての出世も驚くべき速さだったし、有力な門閥《もんばつ》とのつながりがその出世に役立ったことは間違いないが、やはり彼自身の功績に負うところが多い。決断が必要なときはきっぱりとした態度をとり、妥協が望ましいときは妥協する柔軟性をそなえていた。マナーは完璧で、数か国語を正確に操ることができる。いわんや頭脳は明晰《めいせき》で狂いがなかった。自分の考えをとことんまでつきつめてゆく勇気を持ち、しかも現実に応じて行動する賢明さをそなえているのだ。彼はX駐在大使のポストを五十三歳という若さで手中にし、大戦によって惹起《じゃっき》された国論の二分という困難の中に投げ込まれながらも、巧みに、自信を持って、ときには果断に事態を処理していた。
一度など革命派の暴徒が大使館に侵入してきたこともあったが、卿は階段の上からいささかも臆することなく彼らに立ち向かい、眼下にきらめく銃を平然と見降ろしながら、諄々《じゅんじゅん》と彼らを説得して、追い返したこともある。将来フランス駐在大使のポストは約束されているようなものだった。これは衆目の一致するところだ。とにかく賛嘆おくあたわざる人物なのだが、とうてい好感は持てそうにない。彼は典型的なビクトリア朝時代の外交官で、大事は安心してまかしておけるが、その自信たるや、結果によって是認されるとはいうものの、ときには傲慢《ごうまん》に色づけられて人をへきえきさせる。
アシェンデンが大使館の玄関に車を乗りつけると、さっとドアが開き、大柄の威厳に満ちた執事と三人の下僕に迎えられた。かつて劇的な事件があったという壮麗な階段を登り、ほのかに照明の輝く大きな部屋に案内された。一歩部屋に入ってさっと見渡すと、ゆったりした大型の家具が散見され、暖炉の上方には戴冠式の衣服をまとったジョージ四世陛下の巨大な肖像画が掲げてあった。炉の中では明るく火が燃え、かたわらのソファに深く身を沈めていた大使が、名前を告げられるとゆっくりと立ち上がった。ハーバート卿はいかにも優雅な身のこなしで近づいて来た。男性の衣服のなかでは最も着こなしがむずかしいといわれるディナー・ジャケットを、端正に身につけている。
「家内はコンサートに行っておりますが、後刻帰ってくるでしょう。あなたの面識をえたいと申しておりましたから。ほかには誰も招いておりません。今夜はしんみり語り合いたいと思ったものですからね」
アシェンデンは調子を合わせてつぶやいたが、心は暗く沈んだ。正直にいって面と向かうのが気恥ずかしいような人物と相対で、少なくとも数時間を過ごさねばならないのだ。
再びドアが開き、執事と下僕が重い銀の盆を持って現われた。
「夕食の前にはいつもシェリー酒を一杯飲むんですが」
と、大使が口を開いた。
「カクテルを飲むという軽薄な習慣がはやっているそうですが、もしもお好みなら、ドライ・マーティニとかいうものを差し上げてもよろしい」
アシェンデンがいくら恥ずかしがりやでも、こういう無礼を一言の応酬もなく認めるはずがない。彼は言った。
「私はあえて時代にさからおうとしない主義でしてね。ドライ・マーティニがあるのにあえてシェリーを飲むのは、オリエント急行があるのに駅馬車に乗るようなものですよ」
ふたりはこういうどっちつかずの気まずい会話をかわしていたが、そのうちにドアがさっと開き、食事の用意がととのったという声がした。ふたりは食堂に入った。そこは優に六十人ほどは食事ができるゆったりした部屋だが、いまは小さな丸テーブルがひとつだけ置かれ、ハーバート卿とアシェンデンが親しく相対して坐れるようにしつらえてあった。かたわらには大きなマホガニーのサイドボードがあり、金の皿が幾組も重ねられていた。そしてその上に、アシェンデンに向かって、カナレットの素晴らしい絵がかかっている。そして暖炉の上方には、小さい金冠をかわいい頭に載せた少女時代のビクトリア女王の肖像画があった。先ほどの大柄な執事と背の高い三人の下僕が給仕に当たった。
大使は自分をとりまく華やかな環境を無視して、いかにも自然にそれをたのしんでいるふうだった。イギリスのいなかでよく見かける壮大な館でメシを食っているような感じである。しかしこれは見栄や虚栄とは無縁のものであった。内容たっぷりの一種の儀式で、きっちり伝統に従っているのだ。ふつうならこっけいそのものの儀式も、その伝統ゆえに救われている。おかげでアシェンデンは一種の安堵感を覚えた。大使館の外には、騒乱にも似た空気がただよい、いつ血なまぐさい革命が勃発《ぼっぱつ》するかもしれない状態だし、三百キロと離れないところでは、待避壕に身を隠した兵士たちが厳しい寒気と仮借のない砲撃に首を縮めている。ところが大使と向き合って食事をしていると、不思議にそうした事柄が頭から遠ざかるのだ。
この場での会話が苦渋に満ちたものになるだろうという懸念はおかげで薄らいでしまった。そして、卿が彼を招いたのは、その極秘任務について問いただすためではない、ということがはっきりしてきた。紹介状を持って尋ねて来た同国人を、せいぜい愛想よくもてなそうといった軽い気持ちらしい。卿は、うっとうしい話をわざとよけて通るわけじゃない、と言ったが、まったく戦争のことなど忘れてしまうような雰囲気なのだ。大使は美術や文学のことを話題にのぼしたが、その解釈はいかにもカトリック的だった。しかしとにかく本をよく読んでいる。そして大使が作品を通してのみ知っている数名の作家について、アシェンデンが個人的なつき合いなどを織りまぜて話しだすと、お偉方が芸術家と対面したときによく見せる、あのいかにも親しげな、へりくだった様子で耳を傾けていた(ときにはお偉方も絵を描いたり、著作をものしたりするが、そういうときには芸術家たちも優越感を覚えるものだ)。大使はアシェンデンの作品の登場人物について、ちらっと言及したが、あとは彼が作家であるという事実にはまったく触れなかった。
心憎いばかりに洗練されたこの態度には、彼も素直に感心した。自分の作品を話題にされるほどいやなことはない。一度書いてしまえば自分ではほとんど興味を感じないのだ。まして、面と向かってほめられたりけなされたりすると自意識を突き上げられて気恥ずかしくなる。ハーバート卿は、アシェンデンの作品を読んでいるということをほのめかして彼の自尊心をくすぐり、しかも読んだ作品を批評するなどという野暮《やぼ》なことはやらない。
大使はまた、いままで駐在した国々のこと、ロンドンやその他の都市で、ふたりが共に知っている人々のことを話題にした。その話し振りも、ユーモアに近い皮肉を織りまぜたもので、しかも知性に溢れていた。おかげでアシェンデンは大使との夕食にまったく退屈を感じなかった。かといって、心が浮き浮きするほど楽しいものでもなかった。話題にのぼる事柄に大使は例外なく、正鵠《せいこく》をえた、賢明な、そつのない批評をするのだが、それがあまりぴたりときまりすぎるので、面白味が減少するのだ。こういう切れ者と話をすると、正直に言って骨が折れる。彼はどちらかと言えば、ワイシャツ姿で、足を机の上にのせて、というざっくばらんな方が性分にあうのだ。しかし大使との会話ではそうはいかない。食事がすめば早々にも辞去したいのだが、礼を失しないように出て行くにはどうすればいいのか、考えあぐねた。十一時にホテル・ド・パリでヘルバルタスと会う約束があるのだ。
食事が終わり、コーヒーが運ばれてきた。ハーバート卿は酒食ともたしなみがよく、これはアシェンデンも認めざるをえなかった。コーヒーと一緒にリキュールが運ばれてきた。アシェンデンはブランデー・グラスを手に取った。
「年代物のベネディクティンがあるのですが、お飲みになりませんか?」
「ありていに申し上げますと、私はリキュールのなかじゃブランデーがいちばんいいと思ってるんです」
「私とは趣味が違うようですな。しかしブランデーをお飲みになるんでしたら、もっといいやつを差し上げましょう」
大使が執事に耳打ちすると、ほどなくして、クモの巣のかかったビンと大きいグラスがふたつ、テーブルにすえられた。
「自慢するわけではありませんが」
執事が金色の液体をアシェンデンのグラスに注ぐのを眺めながら大使が言った。
「ブランデーがお好きなら、こいつは必ずお気に召すと思いますよ。パリ参事官をしているとき手に入れたものです」
「先ごろ閣下の後輩とよくつき合いましたよ」
「バイアリング?」
「そうです」
「ブランデーの味はいかがです」
「結構ですね」
「でバイアリングのことは?」
突然話が交錯したのでなんだかおかしくなった。
「バカな男だと思いますね」
ハーバート卿は深く椅子に体を沈め、香りを出すためにブランデー・グラスを両手で暖めながら、広く重々しい感じのする部屋をゆっくり見回した。テーブルの食器類はすべて片づけられ、アシェンデンと大使の間にあるのは、一鉢のバラだけだった。召使たちが最後に部屋を出るとき、電灯を消して行ったので、明かりといえば、テーブルの上のロウソクと暖炉の火だけである。こうすると、広々とした部屋なのに居心地のいい落ち着いた雰囲気になる。大使の目は、暖炉の上にかかっている見事な肖像画に注がれていた。
「それはどうですかね」
大使がやっと口を開いた。
「バイアリングは外交官を辞《や》めなければならないでしょう」
とアシェンデンが言うと、
「気の毒なことですがね」と大使が応えた。
この言葉を聞いてアシェンデンは、はっと探るような視線を相手に投げかけた。この大使がバイアリングに同情するような言葉を吐くとは思ってもみなかったのだ。大使は続けた。
「まアああなっては外務省を辞せざるをえんでしょうね。かわいそうに。有能な男なのに惜しいことです。将来の出世は間違いないと思ってたんですがね」
「私が聞いた噂でもそうでしたよ。本省でも彼の才腕は高く評価されていたそうですね」
「あの男は、この外交官という味気ない職業で役に立つ才能を数多く持っています」
大使は微笑とともに、彼独得のひややかな、人を裁くような態度で言った。
「ハンサムで、紳士だし、マナーもいいし、フランス語に堪能で頭も切れます。順調に行ってたら出世したでしょう」
「そういう恵まれた才能・コースをむだにするのは惜しいですね」
「戦争が終わったら酒の商売をやると聞いています。私がこのブランデーを手に入れた商事会社の代表になるらしいんですが、皮肉なめぐり合わせですよ」
ハーバート卿はグラスを鼻に近寄せて香りをかいだ。そしてアシェンデンの方に目を向けた。卿は、何かほかのことを考えているときは、相手をいやな虫ケラとでも思っているように奇妙な目付きでみつめる癖があった。
「女のほうを見たことがありますか?」
大使が訊いた。
「ラリュでバイアリングと食事をしたとき彼女も一緒でしたよ」
「それはどうも……どんな女でした?」
「チャーミングでしたね」
アシェンデンはその女のことを大使に描写してみせようとしたが、心の片隅ではレストランでバイアリングに彼女を紹介されたときの印象を思い出していた。数年来噂になっている問題の女性に会うのに少なからず好奇心を覚えたものだ。彼女は自分ではローズ・オーバーンと名乗っていたが、本名はほとんどだれも知らなかった。もともとグラッド・ガールズという舞踊団の一員として、ムーラン・ルージュで公演するためにパリへ来たのだが、その驚くべき美貌はたちまち人の目にとまり、大金持ちのフランス人実業家がすっかり彼女にほれ込んでしまった。そして彼女に家を買い与え、乞われるままに宝石類を贈り続けたが、ついには彼女の要求に応じ切れなくなって手を退《ひ》いた。それから彼女の男遍歴が始まった。そしてたちまちのうちにフランス一の高級娼婦として名前を知られるようになった。その浪費癖たるや恐るべきもので、手を出す男はことごとく破産の憂《う》き目にあった。しかも彼女はそれを皮肉に冷酷に眺めているのだ。どんな金持ちでも彼女の浪費には応じ切れない。戦争前にいちどモンテカルロで、彼女が十八万フフンという大金をすってしまうのを見たことがある。当時にすれば莫大な金額だ。物見高い連中が取り巻く中で悠然とテーブルに向かい、千フラン札の束を無造作に投げ出すのだが、あれが本当に自分の金なら大したものである。
アシェンデンが会ったころの彼女は、依然として荒れた生活を送っていた。夜は踊りとバクチ、午後は競馬という生活を十二、三年も続けており、年齢からいえばもう決して若くないはずだった。にもかかわらず美しい額にはシワひとつなく、濡れたようにきらめく瞳のまわりにもたるみがなかった。さらに驚くべきは、こうした放蕩無頼《ほうとうぶらい》の生活を病的なまでに繰り返しながら、さながら処女のごとき風情《ふぜい》をたたえていることだ。もちろん苦心の演技であるには違いないが、ほっそりとしなやかな体はあくまでも優雅で、無数に持っている衣裳はどれも簡潔なデザインでまとめてあった。茶色の髪もごく目立たないスタイルに結ってある。玉子型のチャーミングなかわいい鼻、そして大きい青い目……まさしくアンソニー・トロロープの小説に登場するヒロインのように楚々《そそ》とした風情である。いまではもうまれになったひと昔前のタイプであるが、思わず息をのむような美しさであった。桃色の素肌《すはだ》は化粧の必要などないほど美しく、その化粧もたまに気まぐれにするだけであった。彼女を見ていると、一点のけがれもない露のような、清純な無邪気さを感じ、それが予期せぬものだけによけい魅力を感じさせる。
バイアリングがもう一年越しに彼女に打ち込んでいるということは、アシェンデンも聞いて知っていた。彼女の悪名は衆知のことで彼女とかかわりを持った男は必ず世間の注視を浴びた。ましてバイアリングの場合はこれといった財産があるわけではないし、彼女の方もいままで金のない男とは絶対かかわりを持たないという定評があったので、ふたりに関するゴシップはいつもより激しかった。彼女がバイアリングを愛するなんてことがありうるだろうか? なるほど彼は女性を魅きつけるものを持っている。年齢は三十を少し出たところ、長身のハンサムで、その物腰にはいうにいわれぬ魅力があり、道行く人が思わず振り返るほど優美な風貌をしている。しかし彼は自分のかもし出す魅力にはまったく無頓着《むとんちゃく》だった。バイアリングがこの有名な娼婦のアマン・ド・クール(真実の恋人――英語の情夫より美しい呼称だが)であることが知れ渡ると、彼は多くの女性のあこがれのまととなり、同時に男たちからは羨望の目でもって見られた。彼がこの女と結婚するという噂が母国に伝わると、友人たちは驚きあきれ、他の者はみだらな笑いを浮かべたものだ。彼の上司がその真否を尋ね、彼がその事実を認めたということまで伝わっていた。
破局は目に見えている、一日も早くこの関係を解消するようにと、当然のように圧力が加えられた、外交官の妻に課せられる社会的な義務がローズ・オーバーンにはとうてい果たしえないということまで指摘された。これに対して彼は、退官しても不都合を招かない時期がくればいつでも身を退く用意があると答えたという。彼は周囲のあらゆる忠告や議論をよせつけず、結婚の意志を固めていた。
最初あったとき、アシェンデンはあまり彼に好感を覚えなかった。どちらかというと、高慢な態度が見えたからだ。しかし仕事の関係でしばしば彼と接触するようになると、彼が他人に一歩距離をおいた態度をとるのは、単なる羞恥心によるものだということがわかった。さらに深くつき合ってみると、人並みはずれた優しい性格の持ち主であることがわかり、それに魅きつけられた。しかしふたりの関係はまったく仕事上のものだったので、ある日バイアリングから、彼女と三人で食事をしょうと誘われたとぎは、いささか面くらった。
周囲の者はすでに彼に冷たい背を向け始めていたので、そのせいではないかと意地悪くかんぐってみた。しかし実はこの会食は彼女の好奇心によって企《くわだ》てられたものだった。しかもその席で、彼女がアシェンデンの作品を読んで傾倒しているということを知らされて、さすがの彼も驚いた。しかしその夜の驚きはそれだけにとどまらなかった。それまで比較的静かな学究的な生活を送ってきた彼は、高級娼婦の世界などうかがう機会もなかったし、有名な娼婦もただその名前を知っているだけだった。だからローズ・オーバーンと会ってみて、彼女の態度・物腰が、作品の取材の関係で多少とも知っているメイフェア街の上流婦人たちと、いささかも異なっていないことを発見して驚いたものだ。
相手の歓心を買おうとする態度がちらりとのぞいたが、これも話し相手には必ず熱心な態度で接するという彼女の美点にほかならないし、今様の型にはまった化粧をするのでもなく、その会話も知性に溢れたものだった。彼女に欠けているものといえば、最近の社交界を毒しているわざとらしい粗野な言動だけだった。その愛らしい唇から下卑な言葉を吐いては、美しさがそこなわれるということを本能的に知っているのだろう。ただ、心の奥底にはまだ過去の澱《おり》が残っているようだった。とにかく、彼女とバイアリングが狂おしいばかりに愛し合っていることはたしかだった。ふたりの愛歓は見る者の心を動かした。別れを告げるべくアシェンデンが彼女と握手したとき、軽く彼の手を握り返し、青い、星のような目で、じっと彼の目をのぞきこみながら、こう言った。
「ロンドンへ落ち着いたら尋ねて来ていただけます? あたしたち近く結婚いたしますの」
「そりゃどうも、心からお祝い申し上げます」
「あら彼には……?」
そういうと彼女はにっこり微笑んだ。まさに天女の笑顔だった。それは夜明けのような新鮮さと南国の春のようなほのかな歓びに溢れていた。
「ご自分で鏡をごらんになれば、彼がいまどんなに幸せかおわかりになるでしょう」
アシェンデンがこうして、多少ユーモアをまじえながらその会食の模様を説明している間、ハーバート卿は身じろぎもせずに彼を見つめていた。しかし卿の冷やかな瞳には笑いの影さえ浮かばなかった。卿は尋ねた。
「その結婚は成功すると思いますか?」
「いえ」
「どうして?」
この質問にはアシェンデンもたじろいだ。
「男が結婚するということは、相手の女性だけでなく、その友人とも結ばれるということです。バイアリングがどういう連中と交わることになるか、おわかりですか? 悪名高い厚化粧の女や、社会の底辺にうごめくヒモや山師たちともつき合わなくちゃならんですよ。もちろん、あのふたりは金には不自由しないでしょう。彼女の真珠だけでも何万ポンドもの値打ちがありますからね。まア、ロンドンのボヘミアンたちの間で気楽な生活を送れるでしょう。しかしこの世の中には上下をへだてる黄金の縁飾りというものがあります。下層の女が結婚すると、その女は同輩からは賛美されます。うまく男をだまして堅気《かたぎ》の社会に入りこんだわけですからね。しかし男の方は、これはもうバカにされるだけですよ。相手の女の仲間たち、ヒモと同棲《どうせい》しているだらしない大年増や、いかがわしい女を旅商人などに紹介してその手数料で生活している卑しいポン引きでさえ、軽蔑しますよ。とんまなやつだというわけです。こういう立場に立ってもなお品位をそこなわないようにふるまうには、よほど毅然《きぜん》とした性格か、人並みはずれた傲慢さが必要です。それに、その結婚生活が長続きする見込みがあると思いますか? 卑しい自堕落《じだらく》な生活をしてきた女が、家庭に落ち着いておられるでしょうか? すぐ退屈して、そわそわし始めますよ。ふたりの愛情がいつまで燃えつづけるでしょう? バイアリングにしても、女に対する愛情がさめると、ほんとうなら自分はこんな生活をしているはずがないのにと、後悔するに決まってますよ」
ハーバート卿は自分のグラスにもう一杯ブランデーを注いで、奇妙な表情でアシェンデンを見あげた。
「やりたいことをやって、あとは成り行きにまかせるという生き方もいいじゃありませんか」
「まっとうに大使になるのも愉快だと思いますがね」
ハーバート卿はうすく笑った。
「バイアリングのことを考えると、私がまだ外務省の書記生だったころに知り合ったある男のことを思い出しますよ。いまはもうかなり有名で、尊敬もされている男ですから、あえて名は言わないことにしますがね。とにかく出世しているほうでしょう。しかしこの出世というものには、何かこうバカげた要素があるものですね」
アシェンデンはこの言葉にいささか面くらって眉を上げた。ハーバート・ウィザースプーン卿ともあろう人がこんな言葉を吐くとは不思議ではないか。しかし彼はあえて何も言わなかった。
「その男は私の同僚でした。頭の切れることは誰もが認めるところで、入省当初から将来の栄達を見込まれていました。外交官に必要な資質をすべてそなえていたと言っても過言ではないでしょう。さして名門ではないが、陸海軍人を数多く出しているかなりの家系の出身で、横柄《おうへい》でもなく臆病でもなく、適当に世の中を渡って行くすべを心得ていました。本もよく読んでいましたね。ことに美術には興味があったようです。この面では少しバカバカしいと思うようなところがありましたがね。つまり時流に乗ろうというんですか、妙に先走りましてね。ゴーギャンやセザンヌがまだほとんど無名のときに、あえて彼らを取り上げて夢中になり、ほめそやすといったような調子でしたよ。彼の態度には、保守的な人を驚かしてやろうという俗物的な気取りがありましたが、美術を賛美する心は純粋で真摯《しんし》なものでした。パリに心酔し、機会があると飛んで行ってラテン区の安ホテルに宿をとり、画家や作家たちとつき合っていました。連中の癖で、彼が外交官だからというのでかばうような態度をとったり、いわゆる紳士だからというのでちょっと笑い物にしたりという具合でしたが、一様に彼を好んでいました。というのも彼が連中のぶつ芸術論をいつも喜んで聞くからです。そして彼が連中の作品をほめたりすると、あいつは俗物だが、本物を見わける目を持っている、と認めるといった調子です」
アシェンデンは卿の言葉にこめられている皮肉に気づき、自分の職業に対する嘲《あざけ》りに苦笑した。いったい大使は何を語ろうとしているのだろう、と彼はいぶかった。こういうおしゃべりが好きなのかもしれないし、何か訳があってずばり結論を言わないのかもしれない。
「しかし私の友人は謙虚《けんきょ》でしてね。若い画家や無名の作家が、既成の大家をこきおろしたり、ダウニング街の謙虚で教養のあるお偉方が聞いたこともないような無名の作家をほめそやしたりするのも、いつも熱心に聞いて楽しんだものです。もっとも、心の底では、そうした連中が俗な二流どころだと思っていたんですがね。だからロンドンへ帰って仕事についても、パリでの遊興を後悔することもなかったし、なにか奇妙な気晴らしになる芝居を見たという感じしかなかったのです。幕が降りれば帰ればいいのです。彼は野心家でしたからね。友人たちが、彼の前途を予想しているのを知ってましたし、その予想に背くつもりもなかったんです。彼は自分の才能を熟知してました。出世も当然のことだと思っていたのです。これといった財産もなく、年収もたかだか数百ポンドでしたが、両親はすでに亡く、兄弟姉妹もなかった彼にとって、ひとり身ということがひとつの財産でした。自分の立身出世に役立つと思う相手と自由に接触できたのです。こういう若者をいやらしいと思われますか?」
「いいえ」
アシェンデンは突然突きつけられた質問にとうとつに答えた。
「賢明な青年ならたいてい自分の賢明さを知ってるもんです。将来についての計算にもシニックなところがありますよ。青年なら野心を持つのが当然でしょう」
「友人はそうやってたびたびパリへ遊びに行ってたんですが、あるとき、オマリーという若い才能のあるアイルランド人の画家と知り合いになりました。まアその男もいまやロイアル・アカデミーの会員で、大法官や大臣たちの肖像画を、とてつもない画料で描いてますよ。家内の肖像も描いてもらったんですが、ご覧になったことはありませんか? 数年前、展覧会に出品されたんですが」
「残念ながらどうも……でもその画家の名前は知ってますよ」
「家内はたいへん喜びましてね。私も彼の絵は洗練されたいい絵だと思っています。モデルの特徴をみごとにカンバスに移してみせるんです。育ちのいい女性を描けば、いかにもそれらしい雰囲気の絵に仕上げます。下品な作品にはならないんですね。ひと目でわかりますよ」
「器用なんですね。下卑た女を下卑《げび》に描くこともできるんでしょうね」
「できますよ。まア描けといっても相手にしないと思いますがね。その当時彼は、シェルシェ・ミディ街の狭いきたないアトリエに、あなたのおっしゃる、いわゆる、下卑た小柄なフランス女と同棲してました。その女をモデルにして、ずばり下卑た絵を何枚も描いてきましたよ」
ハーバート卿の話はあまりにも微に入り細をうがっている。いままでだらだらと話してきた物語の主人公の友人というのは、ひょっとすると大使自身のことではないだろうか? アシェンデンはここで初めて気を入れて聞き始めた。
「友人はオマリーが好きでした。人をそらさない饒舌家《じょうぜつか》で、話し相手にはもってこいなんです。いかにもアイルランド人らしいおしゃべりの才能があるんですな。のべつ幕なしにしゃべるんですが、それが友人の意見じゃ機知に溢れた会話なんです。彼のアトリエに坐り込んで、オマリーが絵筆をふるいながら、絵の技術論などをやるのが、楽しみだったようです。オマリーは口癖のように、いつか君の肖像を描いてやると言ってましたが、それがまた彼の虚栄心をくすぐるんですね。まア、オマリーには彼がただの人物じゃないということがわかっていたんでしょう。本物の紳士の肖像を描いて展覧会に出品したと言ってきましたからね」
「ところで、その話はいつごろのことなんです」
「あア、三十年も昔のことですよ。ふたりはいつも将来のことを語り合い、オマリーは将来いつか友人の肖像を描いて美術館に飾りたい、さぞかし映えるだろうと、冗談めかして言ってたもんです。でも友人の方は、オマリーはわざと謙虚に言ってるけど、いつか必ずその言葉が現実のものになるだろうと、心の底では考えてました。ある日の夕方友人が――ブラウンと呼んでおきましょう――例によってアトリエに坐り込み、オマリーは日暮れの残照をたよりに、サロンに間に合うように、いまはテート画廊にある情婦の肖像画を必死に仕上げていました。そのときオマリーが友人に、今夜一緒にメシを食おうじゃないかと声をかけたんです。情婦の友達もくるからってね。そうそう情婦はイボンヌという名前でしたが、ブラウンが一枚加わるとちょうど四人になって都合がいいというわけです。その友達というのはアクロバットの芸人で、かねがねオマリーは、その女をモデルにして裸体画を描きたがっていました。イボンヌから、素晴らしい体をしていると聞いていたからです。彼女もオマリーの作品を見て、彼のためならモデルになってもいいということで、その夜の食事も、その話をまとめるためだったのです。彼女はゲーテ・モンパルナス座での興行に参加する予定で、初日も間近に迫っていましたが、それまでの空いた時間を利用してオマリーの希望をかなえ、自分も小遣いを稼《かせ》ごうというわけです。アクロバットの芸人というものに出会ったことのなかったブラウンは、好奇心にかられてオマリーの招待に応じました。イボンヌによると彼女は友人の趣味に合うかもしれない。気に入ったら、口説いてみなさい、案外簡単に落ちるかもしれない。彼は風采もいいし、英国ふうのきちんとした身なりをしているので、貴族だと思い込むかもしれない、と、意味ありげな口ぶりなんですね。ブラウンは苦笑して、イボンヌの言葉をいなしました。
『そいつはどうかな』
イボンヌはいたずらっぽい目つきで友人を見ました。彼は腰を降ろしました。ちょうどイースターの季節で、パリはまだ寒かったんですが、アトリエの中は暖かでいい気持ちでした。狭い部屋にはガラクタが乱雑に散らばり、窓枠にはほこりがたまっているという状態でしたが、居心地のいいことは一番でした。ブラウンはロンドンのウェイバートン街に小さなアパートを借りて住んでいました。壁に銅版彫刻の名品をかけ、古い中国のツボをそこかしこに置いてあるという、まア、まことに趣味のいい部屋なんですが、オマリーの乱雑な部屋で感じる家庭的な暖かい雰囲気やロマンチックな香りとかいったものが欠けているんですね。これは彼自身、不思議に思ったものです。
ほどなくして、ベルが鳴り、イボンヌが友達を招じ入れました。その女はたしかアリックスという名前でした。ブラウンと握手して、タバコ屋の太った女将などがよくやるようにバカ丁寧な調子で、きまりきったあいさつの言葉を口にしました。そしてその恰好《かっこう》はというと、安手のイミテーションのミンクをひきずるように長くはおり、大きい真紅《しんく》の帽子をかぶってるんです。とても美人といえるしろものではありません。平たく横に張った顔に大きい口、鼻は天井を向いていました。ふさふさとした髪は、金髪なんですが、もちろん染めたもので、大きな両の目は青磁色でした。こういう顔に厚化粧をしているのですからこれはもうグロです」
ここまで聞いてアシェンデンは、ハーバート卿は自分の経験を語っているのだと確信した。自分の経験でなければ、三十年も経た現在、女のコートや帽子のことまで覚えているはずがない。こんな浅薄な虚言で事実をごまかせると考えている大使の単純さが、彼には興味深く感じられた。はたしてこの物語の結びはどうなるのだろうと憶測をたくましくした。それにしても、この冷やかで傲慢にとり澄ました人物が、こうした冒険をしたのかと思うと愉快だった。
「女はイボンヌに話しかけました。それを聞いていて、友人は、その女にも、ただひとつ魅力的なところがあることに気がつきました。彼がこれを魅力だと感じたのは自分でも不思議な気がしたくらいですが、女は、ちょうど悪性のカゼを引いてなおりかけたときのように、低音のハスキー・ボイスをしているのです。どういうわけか、彼はその声を聞いていて快感を覚えたんですね。もとからあんな声なのかとオマリーに訊《き》きますと、とにかく最初知り合ったときからそうだったという答えです。オマリーはそれをウィスキー声と呼んでいました。そして彼女に友人の言葉を紹介すると、女は大きな口を開けて笑いとばし、これは酒のせいではない、いつも逆立ちをしているせいだと言ってました。商売柄、こういう声になるのもしかたがないというわけです。それから四人でサン・ミッシェル街のはずれにある、狭い汚ないレストランへ出かけました。そこで二フラン半でワインつきの食事をとったのですが、ブラウンは、サボイやクラリッジの料理も味にかけてはこの店の定食にかなわないと思ったほどです。アリックスはよくしゃべりました例のしわがれ声でその日の出来事を次から次へとしゃべりまくるのですが、ブラウンはそれを楽しく、いや、一種の愕《おどろ》きをもって聞き入ったものです。盛んにスラングを振り回すので、話の内容は半分もわからなかったのですが、その踊るようなぴちぴちとした下町的な俗っぽさには感動さえ覚えました。熱したアスファルト、安酒場のトタン張りのカウンター、人でごったがえしているパリの貧民街の広場の、あの生気を感じたのです。機知に富み、ぴちぴちとはねるような暗喩《あんゆ》のエネルギーは、さながらシャンペンのように、反応の鈍い彼の頭に刺激を与えました。もちろん彼女はドブ臭いスラムに生まれた下品な女です。でも、燃え上がる炎のようなバイタリティがありました。イボンヌが彼女に、ブラウンのことを、独身で金持ちのイギリス人だと話しているのが彼の耳に入りました。するとアリックスが値踏みするような目つきで彼の方に視線を投げてよこしました。彼は気がつかないふりをして、聞き耳を立てていると、彼女が言いました。『この人、わるかないじゃない』彼はいささか得意でした。自分でも『わるくない』とうぬぼれていたからです。ふたりの女は、それから、そばで聞いていて赤面するようなことまで話し合っていました。どうせ彼にはわからないのだと、アリックスはほとんど彼の方に注意を向けようとしません。ですから彼もせいぜい面白そうだなという表情をしてとりつくろっていました。それでもときどき彼女は、話の合の手のように、じっと流し目をくれて、舌でペロッと唇のまわりをなめるんですが、そのしぐさは、そっちにその気があるのならいつでも応じるということを暗にほのめかしているようでした。彼は心の中で肩をすくめました。若くて健康で、陽気な女ですがしわがれ声をのぞいたら、べつにこれといった魅力はありません。しかしパリでこういう女とちょっとした情事を楽しむのも面白いではないかと考えました。これも人生さ、という思いでしたね。それに相手が芸人だというのも変わっていていい。アクロバット・ダンサーとの情事……中年になれば必ず楽しい思い出になるだろうというわけですよ。『あやまちは若いときに犯しておけ。老年になって悔《くや》んでもおそい』といったのは、ラ・ロシュフコーでしたかね? オスカー・ワイルドでしたか? コーヒーとブランデーでおそくまでねばり、やっと食事をおえた四人は、街へ出ました。するとイボンヌが彼に、アリックスを送って行ったらと、言いだしました。もちろん彼は喜んで応じましたよ。遠くないというので、ふたりは歩いて行くことにしました。彼女は小さなアパートを借りてました。ほとんど旅回りで留守のときの方が多いんですが、自分の館がほしいというんです。やはり女ですね。家具に囲まれてないと落ち着かないし、またそういう根城がないとまともな扱いを受けないというわけです。やがて、ふたりは、うらさびた街にひっそり立っている粗末な家に着きました。彼女は監理人にドアを開けてもらうためにベルを鳴らしました。しかし一緒に中へとは言いません。当然入ってくると思っているかどうか、彼には見当もつきません。どぎまぎしました。こういう場合、どんなセリフを吐けばいいのかどう考えてもわからないんですね。ふたりとも黙ったままです。バカバカしい限りですよ。やっとカチッという音がしてドアが開きました。女は明らかに何かを期待しているような目つきで彼を見ました。当惑しているんです。彼は羞恥に襲われました。やおら女は手を差し延べ、送ってくれたことに礼を言い、おやすみなさいと別れを告げました。彼はいらいらし、胸の高鳴りを覚えました。もし女が入ってくれと声をかけたら、あわてて逃げ出したでしょう。しかし一方では、そぶりでも入ってくれということを示してくれたらいいのにと、内心切に祈ったものです。しかしいっこうにその様子もないので、やむなく、女の手を取り、おやすみと一言いうと、帽子を軽くあげて、その場を立ち去りました。なんてバカなやつだ、と、自分で自分を嘲《あざけ》ったもんです。その夜は眠れませんでした。女が自分のことを間抜けな男だと考えただろうと、悶々《もんもん》としながら寝返りをうち続けました、彼には耐えがたいような屈辱的な印象を女は抱いたでしょうが、それを拭い去る機会がくる日を待ってはいられませんでした。いたく自尊心を傷つけられたんです。夜が明けるともうじっとしておれなくなり、女を昼食に誘い出すべく十一時にはもう家をたずねて行きましたが、相手は外出してました。やむをえず彼は花を届けさせ、午後、もう一度行ってみました。ところが女は一度は部屋へ帰ったが、また出て行ったというんです。もしやオマリーのところではないかと思って行ってみましたが、そこにもおりません。そしてオマリーに、ゆうべの首尾はどうだったかなどと、ひやかされる始末です。面子《めんつ》を保つために、あの女はどうも性に合わないので紳士らしく何もしないで帰ったのだと、まことしやかに話しましたが、オマリーに見すかされているのではないかといやな気分でした。そして彼は、翌日一緒に食事をしないかという誘いの手紙を速達で送りました。しかし女からは何の応えもありません。彼は判断に苦しみました。そんなはずはないと、ホテルのボーイに何回となく、彼宛てに手紙が届いてないかどうか尋ねましたが、最後にはいささか逆上気味になって、夕食時の前にアパートへ尋ねて行きました。監理人に訊くと、女が部屋にいるというので上がって行きました。彼は自分の申し出をすげなく無視されたために、いらだち、怒りがこみ上げてきましたが、なるべく平然とした態度をとって内心怒りを表に現わすまいとしていました。暗い陰気な臭いのこもった階段を駆け上がり、教えられた部屋の前に立ってベルを鳴らしました。寸時の静寂の後、中で音がしたので、またベルを鳴らしました。ほどなくして女がドアを開きました。しかし彼女の表情には、彼が何者かわからないといった、いぶかしげな気配がはっきり浮かんでいました。彼はたじろぎましたね。虚栄心を傷つけられたんです。でもうわべは微笑で装おっていました。
『今夜食事をつき合ってくれるかどうか訊きに来たんだけどね。速達を受け取らなかった?』
この言葉でやっと彼女は友人を思い出したようです。しかし女はドアのところに突っ立ったまま、中へ入れとも言いません。
『あら、だめよ。今夜はとてもつき合えないわ。ひどく頭痛がして、これから寝ようと思ってるのよ。速達に返事を出せなかったのは、あたしあれをどっかへ置き忘れたからなの。それにあんたの名前も忘れちゃったしね。わざわざ花を送ってくれてありがとう』
『じゃあしたの夜はどうなの、君?』
『ちょっと待って。あしたの晩はほかに約束があるのよ。ごめんなさいね』
もう返す言葉もありません。これ以上押して行く勇気もなく、別れを告げて立ち去りました。彼が受けた感じでは、女は彼をきらってはいないが、まったく彼のことを忘れているような様子でした。こんな屈辱はありませんよ。彼はそのまま女と会わずにロンドンへ帰ったんですが、なんとも満たされない奇妙な感じでした。もちろん女に愛情などを感じるはずがありまぜん。むしろ憎らしいほどですが、それでいて彼女のことが心を離れないんですね。この苦しみは、虚栄心を傷つけられたせいだけではなく、何かほかにも原因がある、と、純粋《うぶ》な彼は素直に認めました。
『ミッシェル街のはずれにある例の小さいレストランで会食をしたとき』、彼女は、春になると一度はロンドンへ興行に行くと言っていたが、もしも本当にこちらへくるようだったら、君から知らしてほしい。会いに行ってもいいから、といった文句を、オマリー宛ての手紙に何気なくはさんでおきました。オマリー描くところの彼女のヌードを彼女がどう評価しているのか、その器用な口から聞きたいというわけです。しばらくしてオマリーから手紙があり、女が一週間後はエッジウェア・ロードのメトロポリタン座に出演するということがわかったとき、友人は頭にカッと血が登るほど興奮しました。もちろん劇場へ見に行きましたよ。念のためにその日早く出かけて行ってプログラムを見ていたからよかったようなものの、そうでなかったら、彼女の舞台を見逃がしていたでしょう。なにしろ彼女の出番はいちばん最初だったんです。黒い大きいヒゲをつけたふたりの男、ひとりは太った大男、もうひとりはやせた小男でしたが、このふたりにアリックスをとり合わせた三人の舞台でした。三人ともピンクのだぶだぶのタイツにグリーンのサテンのショーツという恰好です。ふたりの男が一対のブランコを使っていろんな曲芸をやっている間、アリックスは舞台をはね回り、男たちに手を拭くハンカチを渡したり、ときどきトンボ返りをして見せたりしていました。太った男がやせた男を肩に乗せると、彼女はそのまた上によじ登り、観客に投げキスをして見せました。それから三人は自転車の曲乗りをやりました。巧みな曲芸師の芸には、しばしば優雅さがあり、ときには美しささえ感じるものですが、この三人の芸は粗雑の限りで、野卑そのものでした。友人はまったく当惑しました。大のおとなが公衆の面前でこれほど自分を辱しめている……彼は顔を覆《おお》いたくなるような感じに襲われました。アリックスは、ピンクのタイツにグリーンのサテンのショーツという衣裳で、ひきつったような作り笑いを口辺《くちもと》に浮かべていましたが、その姿たるや醜悪そのもので、アパートへ尋ねて行ったとき彼のことを覚えていてくれなかったと憤慨したことが、われながら不思議に思えたもんです。ですから楽屋番に一シリング握らせて彼女に名刺を渡してもらったときも、肩をすくめたくなるような自嘲を覚えました。すぐ彼女が出て来ました。彼の姿を見て嬉しくてならないといった表情をたたえていました。
『こんな哀しい街で知ってる人に会えるなんて嬉しいわ。ねえ、パリで食事をご馳走してくれるといってたでしょう? いまなら喜んでつき合うわ。おナカすいて死にそうなの。だって舞台の前には食べられないんだもん。それにしても、あたしたちにあんな舞台の割り振りするなんてひどいわ。侮辱もいいとこよ。あした興業師に会うことになってるから言ってやるわ。お安く見ちゃ間違いだってさ。いい加減にしろってのよ。それに客も客だわ。ちっとも湧きゃしないし、拍手ひとつしないんだから』
これには友人も面喰らいました。彼女は自分の芸を本物だと思っているのだろうか……? 彼は思わず吹き出しそうになりましたが、女のかすれ声を聞いていると、不思議に神経が落ち着き、魅きつけられてしまいました。女はまっ赤なドレスを身にまとい、最初会ったときに見たあの赤い帽子をかぶっていました。そんなけばけばしい恰好《かっこう》では、知人に出会う恐れのあるなじみの店へは連れて行けません。そこでソーホー地区へ出かけることにしました。その時分はまだ一頭立ての二輪馬車が辻待ちしていました。恋をささやくには、現在のタクシーより辻馬車の方が気分が出るもんですよ。友人はアリックスの腰に手を回し、接吻しようとしました。これで女の方は気持ちが落ち着いたようですが、彼の方は中途半端な気分でべつに興奮も感じません。レストランで遅い夕食をとっている間、彼はでぎるだけ優しく振舞い、女の方は媚《こ》びるようにそれに応じていました。しかし、いざその店を出るというときになって彼が女をウェイバートン街のアパートへ誘いますと、パリから一緒に来た友達と十一時に会う約束なのでと断わるんですね。ブラウンと夕食をつき合ったのは、約束の時間までその友達が仕事で手が放せなかったからだというわけですよ。ブラウンはむっとしましたが顔には出しませんでした。女がカフェ・モナコへ行ぎたいというので、ウォードア街を歩いていると、彼女はある質屋のウィンドウの前につと立ちどまり、中に飾ってある宝石をしばらくのぞいていましたが、サファイアとダイアを散りばめた腕輪が気に入ったらしくうっとり眺めていました。何とも品のないけばけばしいだけの代物《しろもの》でしたが、ブラウンは、欲しいのかね、と彼女に訊きますと、
『でも十五ボンドの正札がついてるわ』
彼は店に入ってそれを買い与えました。もちろん相手は大喜びです。ちょうどピカデリー・サーカスにさしかかったところで、彼女はこう言って別れを告げたもんです。
『ねえ、聞いて、|かわいい人《モン・プチ》、ロンドンではもうあんたに会えないわ。だってあたしの友達ってのは、狼《おおかみ》みたいに妬《や》きもちやきなんだから。だからこんどはこれで別れた方が利口だと思うの。でも来週になるとブーローニュへ行って興行するから、あっちへ来たらいいじゃない。あそこじゃあたしひとりなの。友達はオランダへ帰っちゃうからさ、その人はオランダに住んでんのよ』
『いいだろう。それじゃ行こう』
二日の休暇をとってブーローニュへ行ったのは、ひとつには傷つけられた自尊心をいやそうという考えもあったからです。彼がそれほどまでに拘泥《こうでい》するのはおかしいことです。まア説明しがたいことですよ。しかし彼にすればアリックスに間抜けな男だと思われたのかと考え、それに耐えられなかったんですね。とにかくそういう印象をいっさい拭い去ったら、あとはもう彼女のことで苦しむこともないだろうと考えたんですね。オマリーやイボンヌのことも考えました。ふたりは彼女から話を聞いているはずですし、内心では軽蔑している連中に陰で笑い物にされていると思うと我慢ならなかったんですよ。彼のことを軽蔑すべき男だと思いますか?」
「とんでもない」
アシェンデンが否定した。
「人間の魂を苦しめる情熱のなかで、この虚栄心というやつほど破壊的普遍的で、かつ消し去り難いものはありません。このことは、少なくとも物を考える人間なら誰でも知ってますよ。虚栄心の持つ力を否定するのもまた虚栄心でしてね。色恋よりも消耗するものです。色恋の恐ろしさや呪縛《じゅばく》というものは、ありがたいことに、年をとるにつれて、軽くいなすことができるようになりますが、いくら年をとっても虚栄心の束縛から逃れることは不可能です。恋の苦悶は時がいやしてくれますが、虚栄心を傷つけられた苦悩からは、死によってしか解脱できないんです。恋は単純でごまかしがありません。しかし虚栄心は千変万化して人の魂にくい込んでいます。人が徳性として賛美しているものの中にも入り込んでいますからね。虚栄心は勇気の源泉であり、野心の母胎です。恋する者には貞節を与え、禁欲主義者には忍耐力を付与します。それはまた芸術家の名声欲という火に油をそそぎ、ある場合にはいわゆる正直者の誠実さの支えとなり、償いともなるものです。皮肉なことですが、聖者のもつあの謙虚な雰囲気のなかにも顔をのぞかせていますよ。人間ならとうてい逃げられっこないんです。たとえ苦痛を忍んで虚栄心から身を守ろうとしても、虚栄心はその苦痛に乗じてあなたを虜《とりこ》にするでしょう。防ぎようがないというのが真実です。いつどこから不意をつかれるかもわかりませんからね。誠実さも虚栄心の嘲りにあってはひとたまりもありません。ユーモアも逆に皮肉られるのがおちです」
アシェンデンはここで言葉を切った。言うべきことを言い尽くしたからではなくて、息が切れたのである。人の話を聞くよりも自分で話すことの方が好きな大使も、精いっぱいの慇懃《いんぎん》さで耳を傾けていた。しかしアシェンデンがこんな演説をぶったのは、何も大使に教訓をたれるためではなくて、自分の興味のためだった。
「結局、人間がそのいまわしい運命に耐えて生きて行けるのも、この虚栄心なるものがあるがゆえだ、と言っていいでしょうね」
大使はしばらく沈黙していた。遠い記憶の水平線を苦悩しながら振り返っているように、じっと前を凝視していた。
「ブーローニュから帰った友人は、狂おしいほどアリックスを恋している自分に気がつきました。そして二週間以内に次の巡業地ダンケルクで彼女に会う手筈を決めておいたんですが、その間ほかのことは何も考えられない状態でした。こんどはわずか三十六時間しか休みがとれなかったんですが、出発の前夜は、身も心も焼き尽くすような恋情にさいなまれ、一睡もできないありさまでした。その次のときは、一晩だけでパリで逢う瀬を楽しみました。そしていちど契約切れで一週間ほど彼女の体があいたとき、むりやりに口説き落としてロンドンへ呼んだこともあります。女が彼を愛してないということはわかってました。女にとって彼はその他大勢のなかのひとりで、唯一の恋人ではないということをいつも平気で口にしてましたよ。むろん彼は嫉妬《しっと》に苦しみましたが、それをあらわに出すと相手の嘲笑を買うか怒りを誘うのがおちでした。彼を恋するどころか気まぐれな愛情さえ寄せてくれないんですね。彼が気に入ってつき合っているのは、彼が紳士で身なりがいいというただそれだけの理由でした。彼が厄介な要求を持ち出さない限り喜んで情婦としてふるまってやろうというんです。でもただそれだけのことですよ。それに収入の少ない彼は、真剣な申し込みをしようにもできない状態でした。まアそれができたとしても、奔放な生活の好きな彼女は、拒否したでしょうがね」
「で、例のオランダ人はどうだったんです」
アシェンデンが尋ねた。
「オランダ人? あア、あれは仮空の人物ですよ。何かの理由でブラウンとその夜を共にしたくなかったので、とっさに思いついてでっち上げたんです。ウソをつくことなんか何とも思わない女ですからね。ブラウンもそんな女への恋情を断ち切ろうと苦しみ抜きましたよ。狂気の沙汰だということがわかっていたんです。彼女と終生の契《ちぎ》りを結べば彼は破滅するだけです。彼は相手に対していささかの幻想も抱いておりませんでした。平凡で粗雑で野卑な女なんです。彼に興味を起こさせるようなことは何ひとつしゃべれず、またしゃべろうともしません。彼に興味があるのは自分の身の上話だとひとり合点して、一座の仲間とのいさかいとか、マネージャーとの口論とか、ホテルの支配人とのけんかとか、そうした類の話をとめどもなくしゃべるんですね。これは、彼にとって死ぬほど退屈なことでしたが、ただそのしわがれ声を聞いていると、不思議に心が踊り、息が詰まりそうになることもあるんです」
アシェンデンは椅子に坐っているのが苦しくなった。シェラトンふうの椅子で見た目にはいいのだが、固くて融通のきかないデザインなのだ。ハーバート卿が、坐り心地のいいソファの置いてある別室へ席を移そうと言い出してくれないものかと彼は祈った。卿が自分の過去を話しているということはもはや明日だったが、他人の前で自分の魂をかくもあからさまにむき出して見せるのは、デリカシーに欠けている。このような話をむりに聞かされるのは迷惑千万である。ハーバート卿と彼とはおよそ無縁の間柄なのだ。ロウソクのこぼれ火に浮き出した卿の顔は死人のそれのように蒼白《そうはく》で、その両の目には、冷やかで克己心の強いこの人物にふさわしくない野性的などぎつい光が宿っていた。卿はグラスに水をついだ。喉が乾いてしゃべりづらいのだ。しかし彼はそんなことにはお構いなく、再びしゃべり始めた。
「それでも私の友人は、やっとどうにか自分を取り戻しました。この情事の醜さにわれながらいや気がしたんですな。およそ美的なものとはかけ離れた、恥さらしな情事ですからね 何の結実も期待できません。彼の恋情も女のそれと同様、下卑た、腐り切ったものだったんです。そうするうちにアリックスは、一座と共に半年ばかり北アフリカを巡業して回ることになり、少なくともその間だけは彼女に会わなくてもすむことになりました。この機会にきっぱり女と手を切ろう、彼はそう決心しました。くやしいけれど、それが彼女に何の打撃も与えないということはわかっていました。三週間もすれば彼のことなどけろりと忘れてしまうでしょう。
その直後、彼はまた別の出来事にぶつかりました。政界や社交界に重要なコネを持つある名門の夫妻と知り合ったんです。その夫妻には一人娘があって、どういうわけか、その娘が彼を恋するようになったんです。アリックスとは何もかも正反対の、イギリスふうの美人で、青い目に薄桃色の頬、すらりと背の伸びたブロンドでした。『パンチ』に載るデュ・モリアの絵からそのまま抜け出してきたような可憐《かれん》な娘です。利口で本もよく読み、生まれたときから政治的な雰囲気のなかで育ってきたために、ブラウンに興味のある話題を要領よく話す術も心得ていました。プロポーズすれば受け容れるだろう、と彼は踏んでいました。すでにお話ししたように彼は野心家です。自分に秀れた才能がそなわっていることを承知していましたし、それを発揮するチャンスを狙ってました。娘はイギリスの門閥《もんばつ》のひとつと血縁関係にありましたので、彼女との結婚が今後の出世を容易にするだろうということは自明の理でした。まさに黄金のチャンスです。それにしても、あの醜い情事から足を洗えるとはなんたる救いでしょう。アリックスのあの陽気な無関心さと、悪意からではないにしろ情事を日常茶飯事として扱うあの態度……彼女への恋情に駆られてこの冷たい壁になんど頭をぶつけて苦悩したことか……彼はいまにしてやっと自分を心から愛してくれる女性を発見して幸せでした。彼が部屋に入って行くと彼女の顔がぱっと明るくなるのを見て、どんなに自尊心をくすぐられ、感動したことか!
娘に対しては愛情こそ湧きませんでしたが、それでも彼はその娘を愛らしいなと感じてました。ともあれ彼は一日も早くアリックスとその卑猥《ひわい》な生活の歴史を忘れてしまいたかったんです。とうとう彼は決意しました。そして娘に求婚して承諾を得ました。彼女の父親が政府の要請で南米へ派遣されることになり、夫人と娘とを同伴することになってましたので、結婚式は一家が帰国する秋ということに決定しました。夏の間、イギリスを留守にするわけです。ブラウンも本省から外地勤務に配転され、ただちにリスボンへ赴任することになっていました。
彼は婚約者の出発を見送りました。ところがそのあと、リスボンにいる彼の前任者が何かの事情でなお三か月ほど現地に留まることになり、彼はそれまで宙ぶらりんの恰好になってしまいました。その間どうしょうかと思い惑っているとき、なんとアリックスから手紙が届いたのです。巡業しながらフランスへ帰るということで、巡業先をひとつひとつ細かく書き並べてあり、例の何気ない親しげな調子で、一日か二日、暇があったら会いに来て、また楽しく遊ぼうじゃないの、と、つけくわえてありました。これを読んで彼は、悪魔的な思いにとりつかれました。どうしても、会いに来てくれといった情熱的な手紙なら、かえって拒否できたかもわかりません。あくまでもさりげない、むしろ当然だといわんばかりの軽い調子にひっかかったんです。突如として恋情に襲われました。こうなると、相手がいくら野卑で猥雑な女だろうと構ってはいられません。とにかく体で知っているんです。それにこれが最後のチャンスでした。しばらくすれば彼は結婚するんですからね。いま会わないと二度と会えないんです。彼はマルセーユへ飛んで行って、チュニスから来た船を降りる彼女に会いました。彼女はブラウンの顔を見て歓びもあらわでしたが、彼はその様子に心を高鳴らしたもんです。やはりおれはこの女を恋してるのだ、彼は改めてそう思いました。そして三か月後に結婚するのだと打ち明けて、自由にやれるのもそれまでだから、残り少ない最後のこの時間を共にすごしたいと女に乞いました。しかし彼女は巡業を放棄するのを拒みました。一座の連中を捨てることはできないというわけです。金銭的なことなら弁償すると言ったんですが、女は聞き入れまぜん。いますぐ彼女の代役を捜すといっても無理だし、ここで契約を反故《ほご》にすると一座の興行にも差し障《さわ》りができるというんです。一座の連中はみんな正直者だし、約束事は必ず守る。支配人や客に対する義理もあるし、という調子です。彼はむっとしました。自分の幸せを、こんなくだらない犠牲にするなんてばかげている。しかし三か月後にはどうなるだろう? 彼女はどうなるのか……? やはり彼の要求は無理なんですね。これも彼女を愛しているからだと弁解しました。事実、これほどまでに狂おしく彼女を恋していることを、いまのいままで気がつかなかったんです。『それじゃ』と彼女が言いました。『あたしたち一座について一緒に旅回りをしたらどう?』一緒に暮らせたら楽しいし、三か月すぎたら彼はさっさと女相続人と結婚すればいい。ふたりともそれでどうってことはないはずだ、というんですね。さすがの彼も躊躇しましたが、やっと会えてすぐまた別れるのはたまらない気持ちでした。そして結局女の申し出を受け容れました。女がそこで言いました。
『でも言っとくけどさ、利口に立ち回らなきゃだめよ。あんまりいちゃつくと、あたしが小屋の支配人たちにいい顔されないからね。あたしにも将来ってもんがあるし、小屋のお得意さんの誘いを断わってばかりいたら、舞台に立てなくなるかもしれないのよ。そうたびたびじゃないけど、お客さんの気まぐれな遊びに体を貸しても、妬きもちをやいて騒ぎ立てるなんてことはしないで。こっちはそれも仕事のうちだと割り切ってんだから。本当の恋人はあんただけよ』
ブラウンは苦悩で胸がうずきました。そしてみるみる血の気が失せて顔面蒼白となり、女は彼が失神するのではないかと気遣ったほどです。アリックスは、わからない、といった表情で彼を見ていました。
『これが条件よ。イヤならこのまま帰ンのね』
彼はこの条件を受け容れましたよ」
ハーバート・ウィザースプーン卿は体を前に傾けたが、その顔はまっ青で、アシェンデンは卿が気を失うのではないかと思ったほどであった。薄い皮膚が頭骨の上にぴんと張り、さながら死人の顔に見えた。もつれたコードのように額に浮き上がって脈打っている青い静脈だけが生の徴《しるし》である。卿はまったく抑制を失っていた。アシェンデンは、もういい加減にやめてほしいと祈った。他人の魂をこうまでむき出しにして見せつけられると、気恥ずかしくていらいらする。他人に裸の自分を見せるのもいいが、かくも哀れな状態を露呈する権利は誰にもないはずだ。アシェンデンは叫びたくなった。
「やめて下さい。これ以上話しちゃいけません。恥をかくだけですよ」
しかし相手はもう羞恥心を失っているのだ。
「それから三か月の間、ふたりは一座と一緒に田舎町を渡り歩き、安宿の汚ない部屋で寝食を共にしました。もっといいホテルへ行こうと彼が誘っても、アリックスは、そんなホテルへ着て行く衣裳もないし、慣れた安ホテルの方が居心地がいいと言って応じようとしません。一座の連中に、あいつ気取っていやがる、と陰口を叩かれるのがいやなんですね。彼はしけた安酒場で持て余した時間を費やしました。一座の連中は彼を仲間として扱い、名前を呼ぶときも呼び捨てで、卑猥《ひわい》な冗談を言ってひやかしたり、背をどやしつけたりしたもんです。仕事が忙しいときは、使い走りもやりました。行く先々の小屋の支配人は、そうした彼を笑って見ながらも軽蔑の色を隠さなかったし、あるときは裏方の連中に気安く何かを頼まれてもいやとは言えないありさまでした。旅はいつも三等車で、荷物の積み降ろしも手伝いました。あれほど読書が好きだったのに、本を開くこともしませんでした。というのもアリックスが読書がきらいで、あんなものはお体裁だと考えていたからです。舞台があるときは毎晩出かけて行って、彼女の醜悪でぶざまな芸を最後まで見たもんです。女は自分の芸を芸術だと考えていましたが、この哀れむべき幻想にも調子を合わせざるをえないのでした。うまくいったときはほめてやり、ちょっとした軽業が失敗したときには慰めてやるという調子です。舞台が終わると、彼は先に酒場へ行って、彼女が着替えをすませて現われるのを待つのが常ですが、ときには彼女があわただしく飛び込んで来て気ぜわしそうにこう言うんです。
『今夜は先に寝てて、あたし忙しいから』そのたびに彼は嫉妬にさいなまれるんです。男がこんなに苦悶することがあるのかと思われるほどの苦しみでした。そういうとき、女はいつも明け方の三時か四時に宿へ帰って来ます。そして、なぜ眠らなかったの、と、不思議がるんですね。なぜ眠らない! みじめな思いに胸を痛めている男に眠れという方が無理ですよ。彼女のすることには干渉しないという約束でしたが、こういうときはその約束も忘れて、思わず怒鳴《どな》り散らしたもんです。ときには女をなぐりつけました。すると女の方もかっとなり、あんたなんかもう見るのはいやだと言って、荷物をまとめて出て行こうとします。すると彼は女の前にひざまずき、どんなことでも約束する、どんな命令にも従う、どんな辱《はずかし》めを受けても我慢するからおれを捨てないでくれと嘆願するんです。恥も外聞もない恐ろしい姿ですよ。みじめです。いや、彼にすれはみじめどころか、こんな幸せなことはなかったんですよ。いわば彼はどっぷり汚水につかっていたんですが、むしろそれに歓びを感じていたんですね。それまでの生活が退屈そのものだったので、これこそすばらしいロマンチックな人生だと思ったんでしょう。これがその人生なんだと。そしてしわがれ声をした野卑で醜い女の圧倒的なバイタリティと人生への情熱を、じかに肌《はだ》で感じていると、なんだか自分の生命力まで激しく躍動するように思えたようです。ペイターではありませんが、純粋な宝石のような炎を噴いて燃えさかる気がしたんですね。最近の人はまだペイターを読んでますか?」
「知りません」アシェンデンが答えた。「私は読みませんが……」
「しかしその生活もわずか三か月で終わりでした。どんなに時間が短く感じられたことか、月日の流れの速いこと! ときにはすべてを投げ捨てて、曲芸師として自分の将来を試してみようかなどと野放図な夢を見たこともあります。一座の者はみんな彼に好意を寄せ、訓練すればすぐ端役ぐらいやれるようになると言ってくれました。からかい半分だとはわかってましたが、なんとなくその気になりかけたこともあります。しかししょせんは夢でした。夢が実を結ぶことのないことはよくわかってました。三か月すぎたあと、いろんな制約のある人生ではあるが、その人生に帰っていくことを拒否するなどということはありえないことだと考えてました。冷静で論理的な精神の持ち主である彼は、アリックスのような女のためにすべてを犠牲にすることほど愚かなことはない、と悟っていたんです。彼は野心家で権力を握りたいと願っていました。それに、彼を愛し信頼しているあのかわいい娘の心を引き裂くようなまねはできません。彼女からは一週間に一度便りがあり、早くイギリスへ帰りたい、時間が無限のように思えるなどと訴えてきましたが、彼の方は、何かで彼女の帰国が遅れないものかとひそかに祈っていたんです。もう少し時間が欲しい! せめて六か月あれば邪恋の夢からさめたでしょう。すでにアリックスが憎くなることがときどきありましたからね。
最後の日が来ました。ふたりとも話し合うべきことはもうほとんどありませんでした。ただ悲しかったのです。でもアリックスが悲しんでいるのは、彼との間の楽しい習慣がなくなるからであるとわかってました。一日もたてば、彼との交接などなかったように、流れ歩く仲間たちと陽気にはしゃぎだすに違いないんです。一方彼の心にあるのは、翌日パリへ行って婚約者とその家族に会うという考えだけでした。ふたりは抱き合って泣きながら最後の夜をすごしました。もしも女が別れないでくれと言えば、彼はそうしたかもわかりません。でも彼女は言いませんでした。その気も起きなかったんでしょう。彼が去ることを既定の事実と受け取っていたんです。女が泣いたのは彼を愛しているからではなくて、彼の悲嘆に同情してもらい泣きしただけです。
あくる朝、女があまり気持ちよさそうに眠っているので、わざわざ起こして別れを告げるのもかわいそうな気がして、カバンを手にするとそっと部屋を抜け出ました。そして彼はパリ行きの汽車に乗ったのです」
アシェンデンは、大粒の涙がふたつ、卿の瞳から溢れ出て頬を伝わるのを目にし、思わず顔をそむけた。卿は涙を隠そうともしなかった。アシェンデンは葉巻を取って火を点じた。
「パリで再会した婚約者とその家族は、蹌踉《そうろう》とした彼の姿を見て、まるで幽霊のようだと言って声を上げました。実は病気だったのだが、心配するといけないので何もしらせなかったのだとその場をとりつくろいました。一家の者はとても親切でした。一か月後に彼は結婚しましたが、その後はもうとんとん拍子で、実力を発揮する機会を次々に与えられ、それを巧みに利用して名をあげました。彼の出世は瞠目《どうもく》すべきものでした。年来の望みであった地位と名声をほしいままにし、あれほどあこがれていた権力も手中にしました。まさに名誉の渦中にあったといえましょう。人生での栄達を極め、周囲の者は彼を羨望しました。しかし彼にとってすべては空虚でした。彼は退屈でした。心の空洞を埋めるすべのない物憂い日々にやりきれない思いでした。名門の出の美しい夫人もこの空洞を埋めることはできませんでした。周囲に集まってくる連中にも退屈しました。こうした彼の生活は喜劇そのものでした。仮面をかぶって生きていくことの苦しさが耐え難く思われることもありました。忍耐の紐《ひも》が断ち切れそうになったこともあります。彼は人生に倦《う》んでいました。ときにはアリックス恋しさに心をこがし、このような苦悩を味わうくらいなら、いっそ自殺した方がいいのではないかと思うことさえありました。彼女とはあれから一度も会っておりません。一度もね。オマリーからの便りでは、結婚して一座をやめたとのことでした。いまごろは太った老婆になってるでしょうが、それももうかかわりのないことです。しかし彼にとっては、なんという無益な人生だったでしょう。いたいけな妻を幸せにすることもできなかったのです。燐《あわれ》み以外なにものをも与えられないということを、いつまで隠し覆せるものでしょう? 苦しさに耐えかねた彼は、アリックスのことを妻に告白しましたが、そのときからこんどは妻の嫉妬に苦しめられることになりました。そもそも彼女と結婚したのがあやまちだったのです。愛のない契りには耐えられないと言って破談にしていたら、その当座はとにかく、半年もすれば彼女も悲嘆を乗り越え、結局他の誰かと結婚して幸せになったはずです。彼女に関する限り、彼の犠牲的な努力もムダでした。人生は一度しかないということを身にしみて感じ、その貴重な人生をムダに費やしたかと思うと嘆きはいっそう深まりました。侮いてもやまぬ慚愧《ざんき》の念をついに克服することができませんでした。人に強い男だと言われると、失笑しました。なぜなら彼の本性はさながら流水のごとく、弱く不安定だったからです。私がバイアリングの生き方を是とするのはこれゆえです。たとえ彼の結婚が五年しか続かなかったとしても、外交官生活を棒に振ったとしても、はたまたその結婚が結果において破滅に通じるものであったにしても、それだけの価値があると思います。彼は人生に満足し、その炎を燃焼し尽くして満ち足りるでしょう」
そのときドアが開いて、ひとりの婦人が入って来た。大使はちらっと彼女を見やったが、その瞬間、冷たい憎悪の翳《かげ》りが顔面をよぎった。しかしそれも一瞬の間だった。テーブルから立ち上がると、無慙《むざん》な表情を柔和なものに変えて、やつれた微笑を投げかけた。
「ご紹介しましょう、家内です。こちらはアシェンデンさんだ」
「こんなところでどうなさいましたの? 書斎の方へお移りになればいいのに。お客さまに居心地の悪い思いをおさせして失礼じゃありませんの。ねえ、アシェンデンさん?」
彼女は背の高い、やせた、五十がらみの女性で、やつれて小ジワが目についたが、若いころの美貌を思わせる顔立ちだった。その容姿は育ちのよさを表わしていた。温室で大事に育てられた異国の植物が花の盛りをすぎんとしているといった風情である。黒いドレスが印象的だった。
「コンサートはどうだったね?」
とハーバート卿が尋ねた。
「悪くはございませんでしたわ。ブラームスのコンチェルトと、『ワレキューレ』のなかの『火の音楽』、それにドボルザークのハンガリー舞曲をいくつか……少し派手な感じがいたしましたけど」こう言って彼女はアシェンデンの方を向くと、
「主人とふたりきりで退屈じゃございませんでした? 何を話していらしたの? 美術や文学のお話?」
「いえ、その素材になる話です」
ぽつりそう言って、アシェンデンはその場を辞した。
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第十三章 コインで賭けを
そろそろ約束の時間だった。朝は雪模様だったが、いまはもうすっかり晴れていた。アシェンデンは凍りつくような星空を見上げ、足速やに歩き出した。ヘルバルタスが待ちくたびれてもう帰ったのではないかと不安でたまらなかった。アシェンデンは今夜彼に会って、ある決定を下さなければならないのだ。しかしアシェンデンはまだ決断を迷っていた。宵のうちから心の片隅でそれに悩み、不快な気持ちだった。いっそはっきりした苦痛ならいいのだが、ぼんやりとした不快感というのはいちばん始末に因る。
ヘルバルタスは、いかなる事変にも動じない決断力の強い男だが、彼は仲間と語らって、オーストリアのある軍需工場を爆破させる計画を立てていた。ここでその計画の内容を述べることは差し控えるが、巧妙かつ効果的な方法だった。ただ工場を爆破すれば、そこで働いている彼の同胞、ガルシア系ポーランド人を多数殺傷するという難点があった。しかしとにかく準備が完了したことは朝のうちに彼から伝えられており、アシェンデンはただその実施の断を下せばよいことになっていた。
「でも爆破が絶対必要だと思われる場合をのぞいてはイエスという返事をしないで下さいよ」
と、彼は正確な、ややハスキーな英語で言った。
「もちろん必要となりゃ、ためらったりしません。ただおれたちはなんでもないのに同じ国の人間を殺したくありませんからね」
「返事はいつすればいい?」
「今夜です。あしたの朝プラハへ出発する人間がいるんですよ」
アシェンデンが急いでいるのはそのときの約束を守るためなのだ。
「おくれないで下さいよ」
そのときヘルバルタスが念を押した。
「真夜中すぎると、使いの者がつかまりませんからね」
アシェンデンはいらだっていた。ホテルへ着くと彼はもう帰ったあとだった、なんてことになるとどんなにほっとするだろう。彼と会えなければ決定をおくらせる理由となる。ドイツ側はいままで連合国各地の工場を爆破しているのだから、同じやり方で報復してもなんら差し支えない。戦時中なら許される行為なのだ。武器弾薬の生産に支障をきたすばかりか、非戦闘員の士気を低下させる効果もある。もちろんこうした行為には、政府のお偉方は関心を示さない。名前も知らない下っ端のスパイたちの行為によって生じた利益は喜んで利用するが、実際の行為そのものには目をつむり、自分たちはきれいな手でいたいのだ。そして、わしらは名誉ある人間としてそんな汚い仕事にはかかわりを持ったことがない、と祝福し合うというわけだ。アシェンデンはここである事件のことを皮肉な気持ちで思い出した。Rにまつわる話である。彼は一度ある筋から提案を受け、いちおう上司のご意見を伺ってみようと、Rに取り次いだのだ。
「それはそうと……」
彼はなるべく何気ないふりで口を開いた。
「五千ポンドやれば喜んで皇帝Bを暗殺するという人間がいるんですがね」
皇帝Bというのはバルカン半島のとある国の国王で、連合国側に宣戦を布告しようかどうか迷っていた。彼を抹殺すれば連合国にとって都合のよいことは言うまでもない。皇太子の側近はむしろ反戦気分で、王位を襲った彼に中立を守るように説得しうる可能性は大いにある。アシェンデンは、Rの素速いはっとしたような表情から、彼がすでに事情を知悉《ちしつ》していることを悟った。しかしRはにがりきって眉をしかめた。
「それで、それがどうしたね?」
「いちおうあなたに通してやるとその男に言ったんです。動機は純粋ですし、考慮に価すると思いますよ。彼は連合国側に同情的で、自分の国がドイツ側に組するようなことがあると、もう破滅だと考えてるんです」
「じゃなんで五千ポンドもの報酬を要求するんだね」
「危険を伴う仕事ですし、とにかく連合国側の利益になることをやるんですから、報酬を要求しても不当じゃないでしょう」
Rは激しく頭を横に振った。
「われわれはそういうことにかかわりを持ちたくないね。いくら戦時中でも汚ない手は使いたくないんだ。そういうことはドイツ人にまかせておきたまえ。われわれは紳士なんだぞ」
アシェンデンは返事もせず、あっけにとられてRを見つめていた。Rの目は怪しげに赤っぽく光り、いかにも狡猾《こうかつ》な印象だった。いつもわずかに横目を使うくせがあるのだが、いまのRの目はまったく|やぶにらみ《ヽヽヽヽヽ》だった。
「そういう申し出を私に取り次ぐとは君もどうかしているね。なぜその場でその男をなぐり倒してやらなかったんだ」
「そりゃ無理ですよ」
アシェンデンが答えた。
「私より柄の大きいごつい男です。それになぐり倒そうなんて気は起きなかったですよ。とても愛想のいい男で、物腰も柔らかでしてね」
「B皇帝が消えてなくなれば、もちろん連合国側は得をするよ。それは認める。しかしそれと、彼の暗殺を謀《はか》るのとは、黒と白ぐらいの相違がある。その男が真の愛国者なら、金だ何だのと言わずに、思ったことをそのまま実行すべきだろう」
「残される女房のことでも考えてるんでしょう」
「とにかく、私はそういうことを口にするのは控えたいね。まア人それぞれに考え方も違うし、もし誰かが自分の責任において連合国側の手助けになるようなことをしたいというんなら、そりゃそいつの自由だよ」
アシェンデンはRの言葉の意味をしばらく考えていたが、にやりと笑って言った。
「私がその男に自分の財布から五千ポンド出して渡すとでも考えてるんですか? とんでもない」
「そんなことを考える人間かねこの私が? へたな冗談はよしてもらいたいな」
アシェンデンは肩をすくめた。そしていま、そのときの|やりとり《ヽヽヽヽ》を思い出して、また肩をすくめた。お偉方ってやつはみんなこうしたものだ。結果は喜んで受け容れるが、その手段となると二の足を踏む。成し遂げられた成果は大いに利用するが、その実行責任はほかの者に背負わせたいのだ。
ホテル・ド・パリのカフェに入ると、正面に向いたテーブルにヘルバルタスが坐っていた。水に飛び込むと、思っていたより冷たいので面くらって溜息をつくように、アシェンデンは思わず吐息をもらした。もう逃がれようはない。決断を下さなくてはならないのだ。相手はお茶を飲んでいた。いかつい、きれいにヒゲを剃った顔が、アシェンデンの姿を見てパッと明るくなった。そして大きい毛むくじゃらの手を差し出した。彼は色の浅黒い頑強そのものの大男で、人を射るような鋭い黒い目をしていた。とにかく、あたりをはらう雰囲気なのだ。野放図で遠慮がなく、私欲で動いているのではないだけに情け容赦のないところがあった。
「大使との晩メシはどうでした」
腰をおろすアシェンデンに彼が口を開いた。「おれたちの計画のことを大使にお話しましたか?」
「いや」
「そりゃ利口ですな。こういう重大なことは連中に知らせない方がいいんですよ」
アシェンデンはしばらく瞑黙するように相手を見つめていた。ヘルバルタスの顔はいかにも特異な表情をたたえ、いままさに飛び出さんとする虎のように身構えて坐っていた。
「バルザックの『ゴリオ爺さん』を読んだことがあるかね」
アシェンデンが不意に尋ねた。
「二十年ほど前、学生のときにね」
「あのなかに、ラスティニャックとヴォートランが議論をするところがあるんだけど、覚えてるかな? ちょっと肯《うなず》くだけで、中国のある大官が殺され、莫大な財産が自分のものになるんだが、そういう場合、はたして君が肯くだろうかという議論なんだけどね。これはルソーの考えなんだが」
ヘルバルタスの顔がしだいにゆがみ、大きく笑いだした。
「その話とこれとは全然関係がないでしょう。あんたは断を下すのをためらってんですね? 大勢の人を殺すことになるんですからね。しかしこれはあんたの私利私欲のためにやることじゃない。将軍が命令を下すときだって同じですよ。大勢の人間が死ぬことを承知で命令するんですから。それが戦争ってもんですよ」
「愚かしいことだね、戦争ってやつは!」
「でもおれの国はこの戦争で自由になるんですよ」
「自由を得てそれをどうしようというんだね」
ヘルバルタスは答えず、ただ肩をすくめただけだった。
「言っときますが、この機会を逃がしたら、そうすぐには次のチャンスはめぐって来ませんぜ。使いの者を毎日国境の向こうへ送るってのは不可能ですからね」
「工場の爆破で爆死する人のことを考えても、なんとも感じないのかね君は? 一瞬で死亡する人はまだいい、不具になって一生苦しむ人も出るんだよ」
「そりゃイヤですよ。同胞が犠牲になるんですからね。だから絶対必要だという場合でなきゃやらないって念を押したでしょうが。連中を殺すのはイヤだが、だからってそのために夜眠られなかったり食欲がなくなるってことはないと思いますね。あんたはどうです?」
「そりゃ君と同じだよ」
「で、どうします?」
アシェンデンは突然、夜の寒気のなかを歩きながら眺めたギザギザとした感じの星屑を思い出した。大使館の広い食堂でハーバート卿の出世話とその裏のむなしい物語を聞いたのが、遠い昔のことのように思われた。シェーファー氏の不機嫌、それに対する彼のささいな細工、バイアリングとローズ・オーバーンの恋……くだらないことばかりだ。人間ってやつは、揺りカゴから墓場までのつかの間の人生を、なんとくだらないことに費やしてしまうのだろう。なんて狭量でくだらない動物だ! 明るい星が雲ひとつない夜空に輝いていた。
「疲れてるんだ。物事をはっきり考えられん」
「もう時間がありませんぜ」
「じゃコインを投げて決めよう」
「コインを?」
「そうだ」
アシェンデンはポケットからコインを出した。
「表が出たらイエスで、裏が出たらノウだ」
「いいでしょう」
アシェンデンは親指の爪にコインをのせると、虚空へはじいた。コインはくるくるっと回りながらテーブルの上に落ち、同時にアシェンデンがそれを手で覆った。手をゆっくり引きながらアシェンデンは、相手と同じようにコインの上にかがみこんだ。ヘルバルタスが大きく息を吸った。
「そら、こういうことだ」
アシェンデンがつぶやいた。
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第十四章 ロシアヘの旅
汽船のデッキから、前方に低く横たわる海岸線と白ちゃけた町を見て、アシェンデンは心地よい昂《たか》ぶりを覚えた。まだ早朝で太陽が顔をのぞかせたばかりだったが、海は鏡のように凪《な》ぎ、空はぬけるように碧《あお》かった。気温はすでに高く上昇して、その日の猛暑を予想させた。ウラディオストックである。まさに地の果てに来たという感慨を催した。
長い旅であった。ニューヨークからサンフランシスコ、そこから日本の客船で太平洋を横断して横浜に到り、さらに敦賀《つるが》からロシアの船で、ただひとりのイギリス人船客として、日本海を北上して来たのだ。彼はウラディオストックから、シベリア横断鉄道でペトログラードへ行くことになっていた。これまでにない重要任務を帯びてのロシア入りだったが、彼はその責任感に酔っていた。小うるさく命令を下す上司はいないし、資金も豊富だった(腹に巻きつけたベルトの中に、考えただけでもどきっとするほどの額面の為替を持っていた)。彼は人間の能力の限界を越えた難事の遂行を下命されていたのだが、それをしもあえて軽視し、むしろ自信を持ってその任務に当たろうとしていた。彼は自分の機敏な狡猾《こうかつ》さを信じていた。人間の持つ感受性は尊敬し賛嘆さえしていたが、こと知性に関する限りまったく信をおいてない。人間にとっては、九々の表を覚えるより生命を犠牲にする方がやさしいのだ。
シベリア鉄道の十日の旅はあまり愉快なものになりそうになかった。横浜に滞在中、沿線の数か所で鉄橋が破壊され、鉄道が不通になっているという噂《うわさ》も耳にしていた。野盗と化した兵士たちが、乗客の所持品を略奪し、あとは勝手にしろと乗客を荒野に放り出して姿をくらますという話も聞いていた。いずれにせよ、あまりかんばしい話ではない。しかし汽車が出発することは確かだし、途中で何が起ころうと(彼はいつの場合でも事態が予想ほど悪くはならないという信念を持っていた)、汽車に乗ろうと決心していた。
上陸したらすぐイギリス領事館へ行って旅の手筈がととのえられているかどうかを確かめなくてはならない。しかし船が岸壁に近づくにつれて、汚ないごたごたした街並みが目に入り、いささかわびしい思いにとりつかれた。彼はロシア語をほとんど知らない。船で英語が話せるのは事務長だけで、お役に立つことがあれば何でもやりますと約束してくれたが、あまり当てにできない気がしていた。だから船が接岸したとき、小柄で毛むくじゃらの頭をした、明らかにユダヤ人とわかる青年が、彼のところへ面会に来て、アシェンデンさんですね、と尋ねられたときは、まったく救われた気持ちになった。
「ぼくはベネディクトと申しまして、イギリス領事館の通訳です。あなたのお世話をするよう命令されています。今夜の列車に席をとってございますから」
アシェンデンは急に元気が出てきた。ふたりは船を降りた。手荷物の通関、パスポートの検査など、すべてそのユダヤ青年がてきぱきとやってくれ、待たせてあった車で領事館へ向かった。
「あらゆる便宜をおはかりするようにとの訓令を受けています」領事が言った。「必要なことは何でもおっしゃって下さい。列車の席は手配しておきましたが、無事ペトログラードへ着けますかどうか……。ああ、それはそうと、旅のお連れがひとりいます。ハリントンというアメリカ人で、フィラデルフィアのある商社の方ですが、商用でペトログラードへ行くんだそうです。なんでも臨時政府と大口の商談をまとめに行くんだとか申しておりました」
「どんな人です?」アシェンデンが訊いた。
「いや、信用できる男ですよ。実はアメリカ領事とその人を昼食に招待しようと思ったんですが、郊外の方へ遠乗りに出かけておりましてね。駅へは発車時刻より数時間前に行っていなくちゃなりませんよ。なにしろいつもひどい混雑ですから、かなり前から行ってないと、席をとられてしまうんです」
汽車の出発は真夜中だったので、アシェンデンは駅の食堂でベネディクトと一緒に食事をとった。このうらさびた町でまともな食事ができるのはその食堂だけのようだったが、中は満員で、給仕のサービスもがまんならないほどスローテンポだった。食事をすませたふたりはプラットフォームへ上って行ったが、発車までまだ二時間もあるというのに、そこはすでに人で渦巻いていた。手荷物を山のように積んでその上に坐り込んでいる家族がいる。まるでそこでキャンプをしているような恰好である。右往左往する人々、あちこちに寄り集まって口ぎたなくののしり合っている連中、泣きわめく女たち、忍び泣きする者、猛烈な口ゲンカをしているふたりの男、と、なんとも名状しがたい混乱と喧騒の渦である。暗い照明に冷たく浮かび上がっている人々の白い顔は、辛抱強く、またはおどおどと、悩んだり罪を悔いたりしながら、最後の審判を待っている死者の顔のように生気がなかった。
汽車の発車準備はもうできていて、どの車輌も溢れんばかりの人でいっぱいだった。ベネディクトがやっとのことでアシェンデンのためにとってあったコンパートメントを捜し当てたとき、中からひとりの男が興奮して飛び出して来た。
「さア早く入って坐って下さい」男は言った。
「この車室を確保するのに大騒ぎしてたんです。ロシア人の男が女房と子供ふたりをつれてここに乗りたいと言いだしましてね。その男はいま、うちの領事と一緒に駅長のところへ行ってるんです」
「こちらはハリントンさんです」
とベネディクトが紹介した。
アシェンデンは車内に入った。車室には寝台がふたつ備わっている。手荷物は赤帽が片づけてくれた。アシェンデンは相客と握手を交した。
ジョン・クインシー・ハリントン氏はやせ型のやや小柄な体で、黄色い骨ばった顔に大きい青い目をした男だった。興奮のために額にうっすら汗をかいていたが、それを拭うために帽子をぬぐと、大きい禿《は》げ上がった頭が現われた。ごつごつと骨ばったさいづち頭である。服装はと見れば、ダービー・ハットに黒い上衣にチョッキ、それに縞のズボンと純白の高いカラー、地味だがきちんとしたネクタイという恰好《かっこう》である。シベリア横断の十日の汽車旅にどういう服装をすればよいのか、アシェンデンには見当もつかなかったが、ハリントン氏のこの恰好はいくらなんでも奇態《きたい》にすぎると思った。彼は声高で正確な英語をしゃべったが、アシェンデンの感じでは明らかにニューイングランド訛《なま》りがあった。
間もなく駅長が、ひどく興奮しているヒゲ面《づら》のロシア人とふたりの子供の手を引いたその細君とを伴って、やって来た。ロシア人は涙を流しながら、唇をわななかせて駅長に話しかけ、細君の方もすすり泣きしながら身の上話でもするように何ごとかを訴えていた。車輌の前までくると口論はいっそう激しくなり、ベネディクトが流暢《りゅうちょう》なロシア語でこれに加わった。
ハリントン氏はロシア語は全然駄目だったが、興奮しやすい性質とみえて、やみくもに議論に割って入り、この車室はイギリス領事とアメリカ領事が予約したものであると、英語でまくしたてた。そしてイギリス国王はいざ知らず、アメリカ合衆国大統領はアメリカ市民が正当な料金を支払って獲得した座席から放り出されるような暴挙を絶対黙認しないと断言した。暴力でもって放り出そうというのなら致し方ないが、正当な理由なくしてはここを動かない、指一本でも触れたらただちに領事を通じて抗議を申し込む。ここまで言うとこんどは駅長に向かってまた長々と弁じ立てた。駅長には、彼が何をしゃべっているのかもちろんわかるはずもないが、とにかく相手があまり声高にジェスチャーたっぷりに詰め寄るものだから、これもまたとうとうとぶち始めた。ハリントン氏は駅長の態度に激昂し、怒りに顔を青ざめて、駅長の面前でこぶしを振り振り、大声で叫んだ。
「駅長に言ってくれたまえ。彼の言ってることはひとこともわからん、またわかりたくもないとね。ロシア人がわれわれに文明人だと思われたくば、なぜ文明国の言葉を使わないんだ? 私はジョン・クインシー・ハリントンという者で、フィラデルフィアのクュー・アンド・アダムス商事の代表としてロシアに来たんだ。ケレンスキー臨時政府首相への紹介状を持ってる。もしも私がこの車室から放り出されるようなことがあったら、うちのクリュー社長はワシントン政府にそのことを訴えて外交問題にするだろう。そう言ってくれたまえ」
ハリントン氏の態度があまりにも猛々《たけだけ》しく、つかみかからんばかりのジェスチャーだったので、駅長もついにサジを投げ、ひとことも言わずに踵《きびす》をかえし、不機嫌な面持ちでその場を去って行った。そのあとを、いままで彼と憤然としてやり合っていたヒゲ面のロシア人とその細君、そして呆《あ》っ気《け》にとられてその様子を見ていたふたりの子供が、ついて行った。ハリントン氏は車室に飛んで帰った。
「子供連れのご婦人に席を譲ってあげられなかったのはどうも気の毒なことですな。ご婦人や母親というものにはじゅうぶん礼を尽くすべきです。それは誰よりも私、知っておるつもりですよ。しかしこの汽車でペトログラードへ行かないと、大事な商談が駄目になってしまいますんでね。それにいくら子供連れの母親のためとは言え、十日間も廊下に立ち通しで汽車に揺られるのは真っ平ですからな」
「そりゃそうですよ」とアシェンデン。
「私にも家内があり、子供もふたりいます。家族を連れての旅行となるとそりゃ厄介なもんですよ。しかし、家族旅行なんてやめようと思えばやめられるもんですからね」
十日間も同じ人間と同じ車室に閉じ込められていると、相手についてたいていのことがわかってしまう。しかもアシェンデンは十日の間(正確には十一日だが)一日二十四時間、ハリントン氏と顔をつき合わせているのだ。なるほど一日に三回、食堂車へ行く機会があるが、いつも同じテーブルに向かい合って坐ることになる。また汽車は午前と午後、一時間ずつ途中駅に停車して、乗客はその間プラットフォームを散歩する機会があるのだが、そのときも必ずハリントン氏がかたわらについていた。アシェンデンが車内で知り合った乗客が、ときどき車室へおしゃべりをしにくることがあるが、客人がフランス語かドイツ語しか話せない場合、ハリントン氏は不機嫌な表情で眺めている。しかし英語を話すことがわかると、相手にまったく口を開く機会を与えず自分ひとりでしゃべりまくる。
ハリントン氏は無類のおしゃべりなのだ。その話しっぷりを見ていると、まるでそれが、息をしたり食物を消化したりするような人間の本能的な機能であるかと錯覚するほどである。話したいことがあるから話すのではなくて、どうしようもなく口が動き、かんだかい鼻声で抑揚のない一本調子なおしゃべりが始まるのだ。
彼は豊富なボキャブラリーを使い、慎重に文章を組み立てながら正確に話す。長い単語がふさわしいところでは、絶対短い単語を使わない。とにかく、間をおかずにとめどもなくしゃべるのである。もっとも、その調子には性急なところがないので、奔流のような、という形容詞はふさわしくない。むしろそれは火山の斜面を抗し難い勢いでどくどくと下って行く溶岩の流れに似ている。静かだが、行手にあるものをすべて圧倒し去る巨大な力を持っているのだ。
おかげでアシェンデンは、ハリントン氏の公私にわたる事どもを、他の誰についてよりもよく知ることができたと思っている。彼自身のこと、あらゆる事象に関する彼の考え方、習慣、環境についてのみならず、奥さんのこと、奥さんの実家のこと、子供たちとその学友のこと、会社の社長たちのこと、そしてハリントン家が過去数世代にわたってフィラデルフィアの旧家・名門との間に結んできた血縁関係まで知ってしまった。
ハリントン家は十八世紀の初期にイギリスのデボンシャからアメリカに渡ったもので、彼は、遠い先祖の墓が現存するという教会のあるデボンシャの田舎の村を訪れたことがあるということだった。彼は自分が純粋なイギリス系であるということを誇りにしていたが、同時にアメリカ生まれであることをも誇りにしていた。もっとも、彼にとってアメリカとは、大西洋に面した細長い陸地の部分だけであり、アメリカ人とは純粋のイギリス系またはオランダ系で、他人種の血で穢《けが》されたことのない少数の人たちのことであった。過去百年間に、合衆国へ流れ込んで来たドイツ人、スウェーデン人、アイルランド人、そして中部や東部ヨーロッパの人たちを異端者だと看なしていた。人里離れた荘園にひっそりと隠棲している年老いた未婚の貴婦人が、その静謐《せいひつ》を破るがごとく突如として現われた工場の煙突から目をそむけるように、彼はその連中を避けていた。
アシェンデンが、いまアメリカで見られる最も素晴らしい絵を所有しているある富豪の名を口にすると、ハリントン氏はこう言って応えたものだ。
「その男に会ったことはありませんが、その男の祖母が私の大叔母マリア・ベン・ウォーミントンの料理女をしていたことがありまして、大叔母はいつもあの女は料理がうまかったと申しておりましたよ。その女が結婚するために女中勤めをやめたとき、大叔母はとても残念がってました。リンゴのパンケーキを作らしたらあの女にかなう者はいない、と申しましてね」
ハリントン氏はまた、たいへんな愛妻家で、細君がいかに教養があるか、母親としていかに完璧な女性であるかを、とめどもなく語って聞かせた。細君は病身で、何度も手術を受けたらしく、その手術のさまを詳細に説明してくれた。彼自身、二回手術を受けており、一度は扁桃腺《へんとうせん》、一度は盲腸の摘出手術だが、アシェンデンは日ごと夜ごとそのときの経験を聞かされた。おまけに彼の友人もすべてこれ手術の経験者らしく、彼の外科知識たるやまさに百科事典的だった。ふたりの息子は学校に通っているのだが、このふたりにも手術を受けさせるべきかどうか、大真面目に考え込んでいた。そのうちのひとりが扁桃腺肥大だというのも皮肉であり、もうひとりは盲腸炎ではないかと、彼はやきもきしていた。彼によれば、これほど熱烈な兄弟愛に結ばれた兄弟はこの世には存在せず、彼の親友であるフィラデルフィアいちばんの外科医が、手術のとき離れ離れにならないように一緒に手術を受けさせたらどうかと申し出てくれたそうである。アシェンデンは、ふたりの息子とその母親の写真を見せられた。家族と別れたのは、家庭を持って以来このロシアヘの旅が初めての経験とかで、毎朝、細君宛てに、旅行中の出来事やその日自分がしゃべったことどもを長々と用箋にしたためて送っていた。アシェンデンは、彼が、きちんとした、わかりやすい、正確な文字で、便箋を幾枚も幾枚も埋めてゆくのを眺めてあきれたものだ。
ハリントン氏は、会話に関する書物はすべて読破しており、そのテクニックについては蘊奥《うんおう》を極めていた。彼はいろんなエピソードを書き込んだ小さいノートを持っていたが、夕食会へなど行くときは、前もってこれを五つ六つ読んでおいて、まごつかないようにするのだと言っていた。ごくありきたりの席で話すにふさわしいものにはGというマークをつけてあり、男だけの集まりのお色気話にはMというマークがしるしてあった。生真面目《きまじめ》な話を細部にわたって長々としゃべり、最後にコミックなおちをつけるという、例の話術にたけていた。しかもその話では一言一句をも省略しない。途中でおちのわかった場合など、アシェンデンは、手を握りしめ、眉をしかめ、あらゆる努力を払って忍耐力の限りを尽くすのが例だった。そしてやっと話が終わると、苦痛にゆがんだ口を開き虚ろに笑顔を作ってみせるのだ。話の途中で、誰かが車室に入ってくると、ハリントン氏は愛想よくその人を迎え入れた。
「さあどうぞお坐り下さい。ちょうどいまこちらに、ある話をしていたところなんです。あなたもお聞きになって下さい。そりゃもう面白い話なんですから」
こういうと彼はまた最初からその話を、一言一句、形容詞ひとつ間違えずに繰り返すのだった。一度アシェンデンが、退屈しのぎにブリッジでもやりたいから、カード遊びのできる人が車内にふたりばかりいるかどうか、捜してみたらどうでしょうかと、持ちかけたことがある。ところがハリントン氏はカードなどには手も触れたことがないと、にべもない返事をよこし、アシェンデンはしかたなく、いささかやけになってひとりで「神経衰弱」をやり始めた。すると彼氏は顔色を改めてこうのたもうたものだ。
「いやしくも知識人たる者が、カード遊びで時間を浪費するとはなんたることです。それも、こともあろうにひとりでやるなんて、最も知性を冒涜《ぼうとく》するものだと思いますね。対話にも何もなりはしません。人間というのは社会的な動物で、対話においてこそ、その本性を最も高く発揮できるんです」
「時間を無駄に費やすのもまた優雅じゃありませんか」とアシェンデン。「金ならどんなバカでも浪費できますが、時間となるとこれは金に換算できないものを浪費するんですからね。それに……」と彼は皮肉につけ加えた。「カード遊びをしながらでも話はできるでしょう」
「赤のエイトに黒のセブンを重ねようかどうか懸命に考えておられる人と、どうして会話ができますか? 会話ってやつは最高の知力を必要とするもんでしてね。ご研究になれば納得のいくことですが、こっちが話しているときは、相手に対して、可能な限り、神経を集中して聴き入ってもらうことを要求する権利があるんです」
こう書くと辛辣《しんらつ》に思えるが、彼の口調はそれとはうらはらだった。何度もこういう苦い経験をしているのだろう。むしろユーモアのある忍耐力を象徴していた。彼氏の述べていることはまさしく真実なのだ。アシェンデンがそれを容れようが容れまいが、芸術家が自分の作品を真剣に評価してもらいたいと思うのは当然の理である。
ハリントン氏は熱心な読書家だった。エンピツを片手に、注意をひいた個所にはアンダーラインを引き、ページの余白にはきちょうめんな字で批評などを記入していた。彼氏はこの批評についてアシェンデンと意見を戦わせるのを好んだ。だからアシェンデンが自分も本を読んでいるときなど、不意に彼氏が本とエンピツを手に持ち、大きい灰色の目で、自分をみつめていることに気づいたりすると、とたんにどぎまぎして、胸が波打ったものである。目も上げられず、ページをめくることもできず、鶏がチョークの線をクチバシでついばむように、ただ虚ろに字句に視線を落としているだけである。いささかでも動揺して反応を示したら、ハリントン氏がそれをいい口実に話しかけてくることがわかっているからだ。そして相手があきらめたとわかったときに、初めて息をついて、読書を続けるという調子であった。
彼氏はそのとき、二冊だてのアメリカ憲法史に取り組んでいた。そしてその間、気晴らしに、莫大なページ数の世界演説集なるものを熱心に読みふけっていた。ハリントン氏は、食後のスピーチの名手を自認していて、そうした類の優れた本をすべて読破していた。聴き手とうまく交流するにはどうしたらよいか、彼らを感動させるような重々しい文句をどこに挿入したらよいのか、気のきいた小話を使って聴き耳をたてさせるにはどういう方法をとるべきか、はたまた最後には、どの程度の流麗さでその場の雰囲気に合致した結論をつけるべきか、などの幾多の高等な技術を身につけていた。
ハリントン氏はまた朗読を非常に好んでいた。アシェンデンにすれば、時間過ごしとしてはうんざりするようなこの趣味を、なぜかアメリカ人一般が好んでいるようだった。事実、そういう場面をこれまでしばしば目撃していた。ホテルの居間で夕食後など、一家の主人が隅の椅子に陣取り、細君と二男一女に囲まれて、朗読している姿を見たこともある。また大西洋航路の客船で、長躯痩身《ちょうくそうしん》の威厳ある紳士が、適齢期を過ぎた十五、六人の娘たちのまん中に坐り、よく響く声で美術史の本を読んでいるのを、畏敬の念で見かけたこともときどきある。プロムナード・デッキをぶらついていて、新婚旅行中の若夫婦がデッキ・チェアに身を寄せ合い、花嫁がまだ汚れのない声で、新夫に大衆小説を読んでやっているのを見たこともある。アシェンデンには、愛情の表現としてはなんとも奇態なものに思えてしかたなかった。アメリカ人の友人に朗読してやろうと言われたこともあり、朗読してくれと暗にせがむ女性もいたが、彼はいつもそれを丁重に断わり、また無視することにしていた。朗読することもされることも嫌いだった。そして心中ひそかに、アメリカ人一般が持つこうした形での楽しみ方を、彼らの欠陥の一つだと考えていた。しかし、神様は人間の不幸を見てお歓びになるところがある。今もアシェンデンを救いのない状態で放り出し、高僧の刃の前にさらしているのではないか。
ハリントン氏は、自分が朗読の名手であることを誇りにしており、アシェンデンに、その芸術の理論と実際を説明してくれた。それによって、これにも二派があることがわかった。いわば演技派と自然派である。前者では、話す人のセリフ(小説を朗読している場合だが)をそっくりそのまま真似《まね》て読むのだ。ヒロインが泣けば読む人も泣き声を出し、感情が昂ぶってものが言えないときは、そのように読む。しかし後者の場合、シカゴの通信販売店の商品リストでも読むように、できるだけ素っ気なく読むのだ。ハリントン氏はこの派に属していた。結婚して十七年間、彼は細君と、子供が大きくなって理解できるようになってからは彼らにも、いろんな本を朗読し続けてきた。サー・ウォルター・スコット、ジェーン・オースティン、ディケンズ、ブロンテ姉妹、サッカレー、ジョージ・エリオット、ナサニエル・ホーソン、W・D・ホウェルズの小説などである。ハリントン氏にとって朗読は第二の天性であると思わざるをえなかった。彼氏にそれをやめさせるのは、喫煙常習者にタバコを断たせようとするようなもので、ただいらいらさせるだけの結果に終わるだろう。そして不意をついてこちらを引き込むこともある。
「まあお聞きなさい」彼はよくこう言った。「ぜひお聞き下さい」と、まるで優れた警句や文章の簡潔さに胸を打たれたように突然しゃべりだすのである。「これなんか実によくできてると思うんですが、意見を聞かせて下さい。ただの三行なんです」
彼氏がそれを読み、アシェンデンもちょっと聞き耳を立てようとするのだが、相手はそれを読み終わると息をもつかず次に移っている。かくて果てもなく朗読が続くことになるのである。彼氏特有の声高な調子で、あくまでも単調に、感情の抑揚もなく、ページからぺージヘと続いて行く。アシェンデンは落ち着きを失い、足を組んだりはずしたり、タバコに火をつけてむやみにふかしたり、椅子の上で点々と坐を移したりする。それでもハリントン氏は読み続ける。汽車はシベリアの無限の草原の中を、ひた走りに走る。村落をすぎ、橋を渡る。ハリントン氏はなおも読み続けている。そしてエドマンド・バークの名演説を読み終わると、勝ち誇ったように本を置くのである。
「私の考えじゃ、これは英語では最高の演説のひとつですよ。われわれ英語国民が誇りうる共通の遺産のひとつだと思いますね」
「エドマンド・バークのその演説を聞いた連中が、今ではみんな死んでいるってのは、ちょっといやな感じがしませんかね?」アシェンデンが物憂げに訊いた。
その演説が十八世紀のものだったので、ハリントン氏は、さようなことは当然だと答えようとしたが、その時さすがの彼氏も(偏見のない人なら誰でも認めるだろうが、心中の苦悩を立派に克服しながら)、それがアシェンデンのジョークだということに気がついた。
「いや、そいつはいいですね」と彼氏は言った。「さっそくノートに書いておきましょう。昼食会のときにでもこいつを使ったら効き目がありますよ」
ハリントン氏は知識人《ハイブラウ》であった。これは一般の人々が知識人を、いわばののしる意味で創った軽蔑《けいべつ》の言葉だが、彼氏はこの蔑称を、聖者の殉教の手段のように、たとえば聖ローレンスを火あぶりにした焼き綱や、聖キャサリンを引き裂いた車のように、名誉ある名称として受け容れていた。栄光さえ感じていたと言えよう。
「エマソンはハイブラウでしたね」と彼氏が言った。「ロングフェローも、オリバー・ウェンデル・ホームズも、ジェイムズ・ラッセル・ロウエルもハイブラウでしたよ」
ハリントン氏のアメリカ文学研究は、これらの秀れた、しかしあまり面白くもない作家たちの文名が栄えた時期までで留まっていた。
まったくハリントン氏は退屈な人物である。アシェンデンはへきえきし、いらだった。いちいちカンに触り、逆上させられるのである。しかしそれでもなお、アシェンデンは相手を憎めなかった。彼氏の自己満足たるやはなはだしいものであるが、あまりにもそれが純粋であるため、非難するに忍びないのだ。子供じみたうぬぼれに接すれば苦笑するしかないではないか。その善意、思いやり、節度、礼儀正しさに出会うと、いっそ殺してやりたいと思う反面、それまでの短時間の汽車旅の間に愛情らしきものさえ抱いてしまってるのだった。彼のマナーは寸分の隙もないほど整い、少しく精緻《せいち》すぎるきらいはあったが(もっとも、これには異議を差し挟む余地はない。マナーのよいということは、社交界の人間として当然のことであり、香粉をかけたカツラやレースの飾りならこちらの気に触ることもない)やはり育ちのよさのせいか、むしろ善良さに根ざす心地よさとして受け取られた。人に善意を施すことを躊躇《ちゅうちょ》せず、仲間の世話を焼いて迷惑しても意に介さなかった。とにもかくにも実にセルビアブル(世話好き)なのだ。
英語にはこの単語に該当する言葉は見当たらない。というのも、この言葉の意味する微妙な味わいは、英語を話す合理主義的な連中の性格に存在しないからである。アシェンデンが数日間、病気になったときなど、ハリントン氏は献身的な看病をしてくれた。そのあまりの真剣さにアシェンデンは、いささか当惑したが、彼氏が体温を計る際の大仰な態度、きちんと詰めた旅行カバンの中から薬剤の包みを取り出して、断固としてそれを飲ませるしぐさなどを見ていると、苦痛にあえぎながらも、苦笑せずにはおられなかった。そして、わざわざ食堂車へ行って彼に食べられると思われる食べ物を持って来てくれたときには、感動さえ覚えたものである。とにかく、おしゃべりをやめること以外あらゆる親切を施してくれたのである。
ハリントン氏がおしゃべりをやめるのは、着替えをするときだけである。さながら処女のごとき純真な彼氏の心情は、アシェンデンの面前でデリカシーを欠かさないように衣服を着替えるにはどうすればよいかという問題で、ただもうふたがれてしまうのである。彼氏は非常な清潔好きで、毎日下着を取り替えるのだが、新しい下着をきちんとスーツケースから取り出し、汚れ物をまたきちんと収めるのだ。しかもその間、ちらっとも素肌《すはだ》を見せないという奇跡的な巧妙さを披露した。汚ない列車の中で清潔さを保つという苦業を、アシェンデンは数日のうちに放棄してしまい、すぐ他の乗客と同じように薄汚れてしまった。しかしハリントン氏はこの苦業にも屈しなかった。毎朝洗面所に入ると、気短な他の乗客がドアのノブをガタガタ鳴らして催促してもいっこうに意に介さず、心ゆくまで念入りに作業を行ない、車室へ戻って来ると、何から何までピカピカに磨き上げ、さわやかな石鹸《せっけん》の匂いをまき散らしてくれる。そして黒い上衣に縞のズボン、よく磨いた靴という姿に着すました恰好は、フィラデルフィアの赤レンガ造りの小さな住宅を出て、オフィスへ出勤するために下町行きの電車に乗ろうとしているときのように、すがすがしく、こぎれいだった。
そのうちに、沿線の鉄道を焼破しようとする陰謀のあったこと、河向こうの次の駅ではそのために混乱が生じているというニュースが車内に伝えられた。列車は停車を命じられ、乗客は放り出されるか捕虜にされるかの可能性もあった。アシェンデンは、荷物を奪われるかも知れないと考え、シベリアの寒気からできるだけ身を守るためにと、厚手の衣服に着替えるという慎重さを示した。ハリントン氏はてんで肯《がえん》じようとしない。彼氏はそのような可能性には一顧だに与えず、ロシアの牢獄に三か月幽閉されても、このアメリカ人は、今のままの清潔な姿を保っているだろうと、アシェンデンはほとほと感心して信じてしまった。コサック兵の一隊が列車に乗り込み、弾丸を装填《そうてん》した銃を持って各車輌のタラップに立った。列車は破壊されかかった鉄橋を慎重に渡り、やがて、危険を予知されていた駅に近づくと、全速でその駅を駆け抜けた。アシェンデンが軽い夏服に着替えるのを見て、ハリントン氏は穏やかに揶揄《やゆ》した。
ハリントン氏は有能なビジネスマンである。彼を出し抜くにはよほどの辣腕家《らつわんか》でなくてはなるまい。経営者が彼を選んでこの出張を命じたのは賢明な措置であったと言えよう。彼氏ならば全力を尽くして会社の利益を守ろうとするだろうし、ロシア人との商談に成功するとすれば、彼なくしてはできない苛烈《かれつ》な努力のおかげであろう。会社への忠誠心ゆえにそれをしもいとわない男である。彼は会社の経営者たちのことを親しげな尊敬あふれる口調で語った。彼は彼らを愛し誇りにしていたが、連中が大金持ちであることを嫉妬《しっと》するようなことはなかった。給料をもらって働くことに満足していたし、その給料もほどほどだと考えていた。息子ふたりに教育を受けさせ、細君に食ってゆけるだけの遺産を残してやればいいので、金などいったい何だというのだ……彼は金持ちになることをいささか卑俗だとさえ考えていた。金よりも文化、教養の方が大切なのだ。しかし金銭の出費には気をつけていて、食事をするたびに、その経費の明細を書きしるしていた。自分が使った経費を一ペニーだってよけいに会社へ請求するなどということは考えられない。しかし、列車が駅に停車するたびに、貧しい人たちが物乞いに寄ってくるのを発見し、彼らが戦火のために今日の窮状に陥ったことを知ってからは、停車駅に近づく前にあらかじめたくさんの小銭を用意することにした。そして、顔面に恥じらいの色を見せて内心こんなニセ者どもにたかり取られる自分を嘲笑《ちょうしょう》しながら、用意した小銭を全部分け与えるのだった。
ハリントン氏はこのようにまことにバカげたところのある人物だが、それでいて愛さずにいられないところがある。彼氏に無礼を働くのは、いたいけな子供をなぐるのに等しい暴挙である。かくてアシェンデンも、内心ではいらいらしながらも、うわべはあくまでも愛嬌よく、真のクリスチャン精神を発揮して、この物腰の優しい無慈悲な男とのつき合いの苦しみに、弱々しく耐えていた。当時ウラディォストックからペトログラードまでの汽車旅は十一日かかったが、これが一日でもよけいにかかっていたら、アシェンデンはとうてい耐えられなかったであろう。十二日かかれば、ハリントン氏を殺してしまったかもしれない。
列車はようやくペトログラードの郊外に到り(アシェンデンは疲労の極に達し汚れ切っていたが、ハリントン氏はあくまでも清潔できちんとした服装をし、快活で威厳を保っていた)ふたりは窓際に立ってゴタゴタと建て混んだ街並みを見ていたが、ハリントン氏がアシェンデンの方を向いて言った。
「いやまったく、十一日間の汽車旅がこんなに速く終わろうとは思いませんでしたよ。実に楽しかったですね。あなたとご一緒できて愉快でしたよ。あなたもそうでしょう。まあ私が会話の名手であることは、あえて否定しようとは思いません。でもせっかくこうしてお互いに面識を得たんですから、今後も交際を続けなくちゃなりません。ペトログラードに滞在中も、できるだけ会うことにいたしましょう」
「私は仕事がいっぱい待ってるもんですから」とアシェンデンが答えた。「とても自分の時間というものを持てそうにありませんよ」
「わかってますよ」
ハリントン氏が穏やかに言った。
「私も多忙になるはずですが、せめて朝食だけでもご一緒し、夜は夜でその日の情報を交換し、たいと思います。このまま離れ離れになるのはなんとも残念ですからね」
「まったく残念ですな」
アシェンデンは溜息まじりにつぶやいた。
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第十五章 恋とロシア文学
ようやくの思いでアシェンデンは、ホテルの寝室に落ち着いた。今度のロシア入りほど時間の長さを痛感したことはない。ひとりになった彼は腰をおろして周囲を見まわした。今の彼にはすぐ荷物をほどく気力はとてもなかった。戦争勃発以来、かの土地この土地の豪華なホテルや安宿の寝室にいくら泊まってきたことであろう。さながら漂客のごとく諸所を転々として手荷物にうずもれて生きてきたようなものだった。彼は物憂かった。彼は下命された仕事にいかように着手するかを自問自答した。広大なロシアで迷い子になったようで、とても孤独だった。
最初この任務に選ばれたとき、彼は拒否した。それがあまりにも重大な仕事だったからである。しかし結局彼の抗議は無視された。彼がこの任務に選ばれたのは、当局者が、彼がこの任務に特に適していると考えたからではなくて、他に適当な人物がいなかっただけのことである。そのときドアにノックの音が聞こえ、アシェンデンは聞きかじりのロシア語を使えると思ってうれしくなった。ドアが開くと、彼はすっくと立ち上がった。
「さあどうぞどうぞ」彼は叫んだ。「あなた方とお会いできて本当にうれしいですよ」
三人の男が入って来た。彼は男たちの顔だけはよく知っていた。というのも、サンフランシスコから横浜まで同じ船に乗って旅して来たのだが、彼らとの接触は、命令によって堅く禁じられていたからである。三人はチェコ人で、革命運動のために祖国を逃れ、長くアメリカに定住していたのだが、このたびアシェンデンの任務に助力を与えるべくロシアへ派遣され、ロシアに在住するチェコ人の間に絶大な影響力を持っているZ教授にアシェンデンを引き合わすことになっていた。三人のうちの親分格は、エゴン・オルツ博士とかいう人物で、痩せて背が高く、小さな白髪の頭をしていた。彼はもともとアメリカの中西部の牧師であり、神学博士の肩書を持っていたが、祖国解放運動のために、あえて聖職を投げうったということであった。アシェンデンの印象では,良心とか信仰とかの問題についてあまりきびしい態度をとらない知的な人間だった。固定観念を持った牧師という者は、ほとんど何をやっても神に赦《ゆる》されうるという考え方があるために、一般の人たちよりも安易な立場にあるといえよう。オルツ博士は楽しそうにきらめく目を持ち、素気ない口調でユーモアを飛ばした。
アシェンデンはすでに横浜で二回ほど博士と秘密裡に会談したことがあり、そのときの話から、Z教授は、祖国をオーストリアの支配から解放することを熱望してはいるが、これは結局、枢軸側の敗北による以外実現不可能と見ており、本心は連合国側にあるのだが、まだいくばくかの躊躇《ためらい》を持っているということを知っていた。彼は自分の良心に反することは断じてやらず、すべては真正直で公正でなければ我慢できなかった。それゆえ教授に知らさずに物事を運ばなくてはならないこともあった。教授の影響力たるや絶大なもので、彼の希望を無視することは許されなかった。しかしときには、何が行なわれているかを知らせない方が好都合なこともあったのだ。
オルツ博士はアシェンデンより一週間早くペトログラードに着いており、これまでの情勢をアシェンデンに説明した。事態は急迫を告げており、なんらかの手を打つなら、早急に行動を起こす必要があるように思われた。軍隊は不満をつのらせ反乱の危険さえあったが、優柔不断のケレンスキーに率いられた政府は崩壊寸前で、それでもなお権力を握っているのは、誰もそれを奪取する勇気のある者がいなかっただけのことである。すでに飢饉《ききん》は全土に及び始め、ドイツ軍がペトログラードへ進攻して来る可能性もじゅうぶん予測できた。英米両国大使はアシェンデンの到着を喜んでいたが、彼の任務は両大使にも秘密のものであり、彼らに援助を要請できない特殊な理由があった。アシェンデンはオルツ博士と共に、Z教授に会う手筈を整えた。
彼は教授の見解を聞き、同時に、連合国側が予測しているロシアの単独講和という破局を防ぎうる計画になら、いかなる経済的な援助をも与える方策があるということを説明するつもりだった。しかしアシェンデンはZ教授のみでなく、あらゆる階層の実力者と接触する必要があった。一方ハリントン氏は商談をたずさえ、各大臣への紹介状を持っていたので、いずれは政府要員と接触しなければならず、そのために通訳を必要としていた。オルツ博士は母国語と変わらない巧みさでロシア語をあやつる。アシェンデンはハリントン氏の通訳としてこれ以上の適役はあるまいと思い当たった。そこで彼は博士に事情を説明し、アシェンデンとハリントン氏が昼食をとっている所へ博士が何気なく現われ、初めてアシェンデンに出会ったような挨拶をして、アシェンデンが彼をハリントン氏に紹介するという手筈を整えた。その昼食の席では、アシェンデンが会話の主役を勤め、オルツ博士こそ彼の通訳に理想的な人物であるということを、ハリントン氏にほのめかすという寸法である。
しかし、アシェンデンはもうひとり任務遂行に役立つと思われる人間を知っていた。そこで彼は訊いた。
「アナスターシャ・アレクサンドロブナ・レオニドフという女性の噂《うわさ》を聞いたことはありませんか? アレクサンダー・デニシエフの娘なんですが」
「父親の方ならよく知ってますがね」
「彼女がいまペトログラードにいるということを信じるにたる理由があるんです。今どこに住み、何をしているのか調べてくれませんか?」
「承知しました」
オルツ博士が、一緒に来ていたふたりの男のひとりの方に、チェコ語で何か耳打ちした。ふたりとも鋭い容貌の男で、ひとりは背が高く白い肌をしていたが、もうひとりはずんぐりした体つきで色が黒かった。もちろんふたりとも博士よりはずっと年少である。どうやら博士の有能な部下のようであった。男はうなずき、立ち上がってアシェンデンと握手を交わし、部屋の外へ消えた。
「集められるだけの情報を本日午後お渡ししましょう」
「どうも今のところこれ以上することはないようですな」アシェンデンが言った。「実を言うと十一日間も風呂を使ってないので、どうしてもいま入りたいんですよ」
アシェンデンは物思いに耽《ふけ》るには、汽車の中がいいか、はたまた風呂の中がいいか、どちらとも決しかねていた。創意をこらすという作業に関する限り、坦々としたリズムでゆっくりと走る汽車の中の方がいい。今まで彼が考え出した独創的なアイデアの多くは、事実、フランスの平原を汽車で旅行しているときに生まれたものである。しかし思い出に耽るときとか、すでに頭の中にあるテーマに粉飾を施すときには、熱い風呂に優るものはありえない。彼は泥沼につかっている水牛のように、石鹸《せっけん》を泡立てた湯にひたりながら、アナスターシャとの奇怪な、それでいて愉快な関係を思い出していた。
今までの物語の中で、アシェンデンに、愛情とかと皮肉に言われている情熱に身を焼く性格があるなどということは、暗示にしろ出てきたことがない。哲学者が気晴らしと呼んでいるこの道のチャーミングな専門家たちは、およそ芸術に関係のある連中、作家や画家や音楽家たちは、こと恋愛に関する限りあまり目立った成功を収めえないと主張している。派手に騒ぎ立てるが実りは少ないというのだ。わめいたり溜息《ためいき》をついたり、美辞麗句を並べ立てロマンチックなしぐさで人の目を奪うが、結局最後には、その感情の対象より芸術や自分自身の方をより愛するので(このふたつは芸術家たちにとって、しょせん一体の物である)、だから相手が性の一般的な常識に従って実質を要求しても、その陰しか与えられないのだ、と主張するのだ。あるいはこれは真理かも知れない。これゆえに女性は、心の底では、芸術を激しく憎悪するのかも知れない(こんな意見は今までになかったが)。それはともかく、アシェンデンは過去二十年間、数多くの女性に遭遇して、胸をときめかしてきた。その時々には彼も大いに恋を楽しんだが、いつもみじめな思いをして引き退ったものだ。しかし報いられない恋の痛みにひどい苦しみを味わっているときでも、苦悩に顔をゆがめながら、彼は自分にこう言って聞かせた。結局これも文学の糧《かて》になるのだと。
アナスターシャは、終身懲役の判決を受けてシベリアへ送られ、そこから脱出して英国に定住した革命家の娘だった。父親は有能な人間で三十年間も絶え間のない執筆活動で生計を支え、英国の文士たちの間でもきわ立った存在になっていた。アナスターシャは適齢期に達すると、同じく故国からの亡命者であるウラジミール・セミョノビッチ・レオニドフと結婚した。アシェンデンが彼女と近づきになったのは、結婚後数年してからのことであった。ちょうどヨーロッパがロシアを認識し始めたころであった。誰もかれもがロシアの小説を読み、ロシア・ダンスが文化人の心を捕え、ロシアの作曲家たちが、ワーグナーからの変化を求め始めていた連中の心を刺激していた。ロシアの芸術は猛威をふるうインフルエンザのようにヨーロッパを捕えていた。新しい文体が流行となり、新しい色彩、新しい感情が迎え入れられた。ハイブラウたちは、何の躊躇《ちゅうちょ》もなくみずからをインテリゲンチャの一員であると公言した。この単語は綴《つづ》りこそむずかしいが、口にする分にはやさしい。アシェンデンも他の連中のようにその風潮に巻き込まれた。居間のクッションを変え、ギリシャ正教の聖像《エイコン》を壁にかけ、チェーホフを読み、ロシアバレエを見に行った。
アナスターシャは、その生まれと言い環境と言い受けた教育と言い、まさにインテリゲンチャの一員だった。彼女はリージェントパークの近くにある小さな家に主人と住んでいた。ここでは、一日の暇を取った女像柱のように、壁にもたれかかっている青白い顔をしたヒゲ面の大男たちを、ロンドンの文士連中が畏敬のまなざしで眺めていた。その男たちはすべて革命主義者で、シベリアの鉱山にいないのが不思議なくらいであった。女流作家たちはしびれたようにウォッカのグラスに唇をつけていた。運がよければかの有名なディアギレフと握手を交わすこともできた。また時には、微風に漂う桃の花のように、パブロワが出入りすることもあった。当時アシェンデンはハイブラウたちの反感を買うほどの成功を収めていなかったが、若い時代には彼自身、ハイブラウたちの中できわ立った存在だった。ある者はすでに彼を白眼視していたが、またある者は(人間の性善説を信奉するおめでたい連中だったが)、まだ彼に希望を抱いていた。彼はアナスターシャに面と向かって、あなたはインテリゲンチャですよ。と言われたことがある。アシェンデンは早速その言葉を信じてしまった。当時の彼の心情は、あらゆるものを信じる状態にあった。彼は身をうち震わせて興奮した。長い間求め続けてきたロマンスの夢のような熱気をついに手中にできそうだと考えたのだ。
アナスターシャは美しい目を持ち、当時にしては豊満すぎるほどの素晴らしい肉体を所有していた。頬骨が張り、シシ鼻で(これはタタール人の特徴だが)、四角い大きな歯が口中に並び、青白い肌をしていた。その服装はいささか派手やかであった。彼女の憂鬱《ゆううつ》そうな黒い瞳の中に、アシェンデンはロシアの広大無辺の草原、鳴り渡る鐘楼の林立するクレムリン、聖アイザック寺院の荘厳なイースターの式典、銀色に輝くブナの木の森、そしてプロスペクト街の様子、などを見る思いがした。とにかく彼女の瞳の中にあらゆるものを見たのだった。彼女の目はまるく、きらりと輝き、北京人《ペキンじん》のそれのようにいくらか飛び出していた。ふたりは、『カラマーゾフ兄弟』のアリョーシャのこと、『戦争と平和』のナターシャのこと、アンナ・カレーニナのこと、そして『父と子』のことなどを話し合った。
アシェンデンは間もなくアナスターシャの夫が彼女に値しない男であることを発見したが、ほどなくして彼女も同じ考えであることがわかった。ウラジミール・セミョノビッチは小男で、地面から引き抜いたリコリス(甘草)の切れ端のような大きい長い頭で、いかにもロシア人らしいもじゃもじゃの髪をしていた。彼は穏やかで謙虚な人物で、帝政ロシアの政府が彼の革命運動を本当に恐れたとは信じ難かった。彼はロンドンでロシア語を教え、モスクワの新聞に寄稿していた。彼はいかにも愛想よく、親切だったが、アナスターシャが個性の強い女性だっただけに、こうした性質が必要だったのだ。彼女が歯痛を起こすと、ウラジミールは地獄の苦しみを味わい、彼女が非運の故国の苦しみに胸を痛めれば、死んでしまいたいとさえ思うほどだった。たわいない人物であることは認めざるをえなかったが、あまりにも無害な存在なので、アシェンデンは彼に好感さえ持っていた。そうするうちにアシェンデンは、アナスターシャに愛をうち明け、それが報いられて喜んではみたものの、ウラジミールをどうするかではたと当惑した。アナスターシャもアシェンデンも、もはや一時も離れていることに耐えられなくなっていたが、アシェンデンは彼女の革命的な考え方からして結婚に同意してくれないのではないかと恐れていた。ところが驚いたことに、彼女はいとも簡単に彼の申し出を受け入れてくれた。彼がほっとしたのはもちろんである。
「ウラジミールは離婚に応じると思うかい、君は?」
アシェンデンは腐った生肉を思わせる色合いのクッションに背を当ててソファに坐り女の手を握りしめた。
「あの人はあたしを崇拝してますもの」彼女が答えた。「きっと嘆き悲しむわ」
「いい人物なんだし、不幸せになってもらいたくないな。忘れて立ち直ってくれるといいんだが」
「決して悲しみを克服できないわ。それがロシア魂なのよ。あたしがあの人のもとを去ったら、自分の人生を価値づけているものすべてを失ったような気になってしまうでしょう。男が女を献身的に愛する、という例はよくあるけど、あの人の場合ほど熱烈なものはないもの。だけど、あの人はもちろん、あたしの幸せを邪魔するような真似《まね》はしません。そんな卑小な男性じゃありません。自己開発という問題になれば、あたしが絶対躊躇しないということを理解してくれるでしょう。何も言わずにあたしを自由にしてくれると思うわ」
当時の英国の離婚法は今日から考えると、いかにも複雑で不合理なものだった。その特異性を、あるいは彼女が知らないかもしれないと思い、離婚のいかに困難かをアナスターシャに説明して聞かせた。彼女はその手を優しく彼の手に重ねて言った。
「ウラジミールは、離婚法廷の醜悪な耳目に、あたしをさらすようなことは決してしないわ。あなたと結婚することにしたとうち明けたら、自殺するでしょう」
「自殺なんてとんでもない」アシェンデンが叫んだ。彼はぎくりとしたが、スリルも感じた。まるでロシアの小説と同じではないか。彼はドストエフスキー流の描写に従って、感動的で恐怖に満ちたページの数々を目前に描いた。裂傷にうめく人物、砕かれたシャンパンのビン、ジプシーとの交歓、ウォッカ、気絶、死の硬直、現われる人物がことごとくやらかす長い長い演説など……すべては恐怖に満ち、しかも素晴らしく、心を打ちのめすものであった。
「あたしたちはきっと不幸になるわ」アナスターシャが言った。
「でもあの人にはその方法しか考えられないもの。あたしなしで生きて行ってくれとは言えないわ。あの人は舵《かじ》を失った船か、キャブレーターのない自動車のようになってしまうでしょう。あたしはウラジミールがどんな人間かよく知ってるの。あの人はきっと自殺するわ」
「どうやって……?」物事の細部に対する興味を持つリアリストのアシェンデンが訊いた。
「銃で頭をぶち抜くわ」
アシェンデンはイプセンの『ロスメルスホルム』を思い出した。昔彼は熱烈なイプセン・ファンで、彼の著作を原書で読んで、彼の思想の本質を探ろうと、ノルウェー語を習おうと考えたこともあるくらいであった。イプセンその人が、ミュンヘン・ビールを飲んでいるところを一度見たこともある。
「しかし、本当に彼が死んで、そのことがぼくたちの良心にひっかかっていたら、一刻も苦しまずにすすむときがないんじゃないかな」彼は尋ねた。「いつも彼がぼくたちの間にいるような気がすると思うね」
「そりゃ苦しむわ、ひどく苦しむでしょう。でもしかたないじゃないの? 人生とはそうしたものですもん。ウラジミールのことを考えてやらなくちゃいけないわ。彼の幸福のこともね。あの人が自殺した方が幸せだと思うのなら、それもしかたのないことよ」
そう言って彼女は顔をそむけた。その頬を大粒の涙が伝わり落ちるのがアシェンデンの目に入った。彼は感動していた。優しい心根の彼は、頭に弾丸をぶち込んで横たわっているウラジミールの姿は、想像するだけで身の毛のよだつ思いがした。
ロシア人とは、なんと血気盛んな人種なのだろう!
しばらくして激情を抑えたアナスターシャが、重々しい表情で向き直った。彼女は潤《うる》んだ、丸い突き出た目で彼の顔を見ながら言った。
「あたしたち、ふたりが正しいことをしてるんだってことに自信が持てないとだめよ。ウラジミールが自殺したあとで、自分たちの行為が過失だったなんてことがわかったら、あたし絶対、自分で自分が許せないと思うの。この際、お互いが本当に愛し合ってるかどうか、確かめるべきだわ」
「じゃいまの君にはその自信がないっていうのかい?」アシェンデンは、低い張りつめた声で叫んだ。「ぼくにはあるがね」
「一週間だけパリへ行って、どうなるか試してみましょう。そうしたらわかるわ」
アシェンデンは、やや保守的な人間だったので、この提案にはどぎまぎした。でもそれも一瞬だった。なんといってもアナスターシャの魅力には抗し難い。彼女は鋭敏な女で、彼の躊躇をすばやく読みとった。彼はまたもや動揺した。そこで彼女が口を開いた。
「あなたにはブルジョア的な偏見などないんでしょうね?」
「もちろんないとも」彼はあわてて保証した。ブルジョアと言われるくらいなら、悪党だと呼ばれた方がまだしもだった。「そいつはいいアイデアだと思うよ」
「女ってなぜサイコロの一振りでその生涯を決めなくちゃならないのかしら? 相手がどんな男かは、一緒に生活してみなければわからないもの。ああ遅かったとわかる前に思い直すチャンスを与えなくちゃ不公平よ」
「まったくそうだよ」アシェンデンが応じた。
アナスターシャは何事もぐずぐずするのが嫌いな女で、早速旅の準備を整え、次の土曜日に、ふたりはパリへ発った。
「あなたと一緒に行くってことは、ウラジミールに言ってないの。彼を苦しませるだけですもん」
「そりゃ当然だ。そんな酷なことはできないよ」
「一週間して過《あやま》ちだということがわかっても、彼はその間のことを知らなくても済むものね」
「そりゃそうだ」アシェンデンが言った。
ふたりはビクトリア駅で出会った。
「汽車は何等を買ったの?」彼女が訊いた。
「一等だよ」
「それはよかったわ。父やウラジミールは主義として三等にしか乗らないの。でもあたしは汽車に乗るといつも酔ってしまって、誰かの肩を借りて頭をもたせないと苦しくてたまらないの。その点一等車だとずっと楽だわ」
汽車が駅を離れるとすぐ、アナスターシャは目まいがすると言って帽子をぬぎ、アシェンデンの肩に頭をもたせかけた。彼は片腕で腰を抱いてやった。
「じっとしていてね、お願いだから」彼女が訴えるように言った。
船に乗り込むと彼女はそそくさと婦人用の船室へ降りて行った。おかげでカレーに着いた時は楽しく食事をとることができたが、パリ行きの汽車に乗ると、またもや彼女は帽子をぬぎ、アシェンデンの肩に頭をもたせかけた。彼は本を読みたいと思って手に取った。
「本を読むのはよしてちょうだい」彼女は言った。「あたし、体を支えていてほしいの。それにあなたがページを繰るごとによけい気分が悪くなるのよ」
やっとパリへ着いたふたりは、アナスターシャが知っているセーヌ左岸の小さなホテルへ行った。彼女によればそのホテルには雰囲気があると言うのだ。右岸にある壮大なホテルには耐えられない。救い難いほど卑俗でブルジョア的だ、というわけである。
「君の好きなところへならどこへでも行くよ」とアシェンデンが言った。「風呂さえついてればね」
彼女はニタリと笑って彼の頬をつねった。
「イギリス人って愛すべき人種ね。一週間くらいお風呂なしに過ごせないの? まったく、あなたって、勉強しなくちゃならないことがいっぱいあるわね」
ふたりは深更まで、ゴーリキーやカール・マルクスのこと、はたまた人間の運命や恋愛や同胞愛のことを語り合い、その間何杯もロシア茶を飲んだ。おかげで翌朝アシェンデンは、朝食はベッドの中で摂《と》り、起きるのは昼食時にしたいと思ったが、アナスターシャは早起きだった。人生は短く、なすべきことがたくさんあるのに、朝食を八時半から一分でも遅らせるのは罪悪に等しいことだと考えていた。ふたりは一月も窓を開けたことがないと思われる小さい薄汚れた食堂に腰を降ろした。なるほど、雰囲気に満ちているが、とんだ雰囲気もあったものだ。アシェンデンは何を食べようかとアナスターシャに尋ねた。
「スクランブル・エッグよ」と彼女が答えた。
彼女は楽しそうに食べた。アシェンデンは彼女が健啖家《けんたんか》であることにとっくに気づいていた。これはロシア一般の特性らしい。たとえば、アンナ・カレーニナが昼食をロールパン一個とコーヒー一杯で済ましている図はとても想像できない。
朝食後ふたりはルーブルへ行き、午後からはリュクサンブール公園へ行った。そして夕食を早目に済ませてコメディ・フランセーズの公演を見に行った。そのあとロシア風のキャバレーへ行ってダンスを楽しんだ。翌朝八時半きっかりに例の食堂に入り、アシェンデンが今朝は何がほしいかと彼女に尋ねると、「スクランブル・エッグよ」という答えが返ってきた。
「だって昨日もスクランブルだったじゃないか」と彼は抗らうように言った。
「今日もまた食べましょうよ」と彼女は笑っている。
「いいだろう」
ふたりは前日と同じように諸所を歩いて時を過ごした。ただその日はルーブルの代わりにカルナバレエ、リュクサンブール公園の代わりにギメー博物館へ行った。しかしその次の朝アシェンデンの問いに答えて、彼女がスクランブルを、と言ったとき彼は気が重くなった。
「しかし君、昨日も一昨日もスクランブルを食べたじゃないか?」
「だから今日もまた食べたらいいじゃないの」
「ぼくはいやだね」
「あなたは今朝は少しご機嫌が悪いんじゃないの?」彼女が訊いた。「あたしは毎日スクランブルを食べるのよ。卵はスクランブルでしか食べないの」
「まあいいだろう。そういうことならスクランブルにしよう」
しかしその次の朝になると、彼はスクランブル・エッグを見る気がしなかった。彼は尋ねた。
「例によってスクランブルを食べるのかね?」
「もちろんよ」彼女は大きく四角い歯の並んだ口を開けて、やさしく笑いながら言った。
「いいよ、君にはそれを注文しよう。ぼくはフラィド・エッグを食べるからね」
彼女の口辺から微笑が消えた。
「えっ?」彼女は一瞬言い淀んだ。「それは少し思いやりに欠けているんじゃない? コックによけいな仕事させるのはよくないと思わない? あなたたちイギリス人ってみんな同じなのね、使用人を機械と同じように考えてるんだから。あの人たちにもあなたと同じような心があり、同じような感覚、同じような感情があるってことが思い浮かばないの? あなたのようなブルジョアがこんなにひどく利己的なんだもん、プロレタリアートが不満を感じて騒ぎ立てるのも当然じゃない?」
「ぼくがパリで、スクランブルでなくてフライド・エッグを食べたからって、イギリスに革命が起きるとでも思ってるのかね」
彼女は憤然としてその美しい頭を振った。
「何もわかってないのね、あなたは。あたしは物事の原理を言ってるのよ。そりゃあなたは冗談のつもりでしょう。あたしにもあなたが冗談を言ってるんだってことぐらいわかってるわ。これでも冗談には人並みに笑うこともできるのよ。チェーホフはロシアでは有名なユーモリストだったわ。でもあなたの今の冗談にどういう意味が含まれているかわかってないんでしょう? そもそもあなたの態度そのものが誤まってるわ。感覚が欠けているのよ。一九〇五年のペテルスブルグ(ペトログラード)のあの事件を見ていたら、そんな話し方はしないはずだわ。冬宮殿の白雪の前庭にうずくまっていた人々の群れへ、コサックの騎兵が襲いかかったのよ。女や子供たちのまん中へ! いやだ、ぞっとするわ」
彼女の両眼は涙に溢れ、その顔は苦痛に歪んでいた。彼女はアシェンデンの手を取って言った。
「あなたはやさしい人だもの、わかってるわ。いまのはちょっと軽率だっただけよ。もうこの話をするのはよしましょう。あなたには想像力もあるし、感受性も強いわ。あたしわかってるのよ。あたしと同じようにスクランブルを食べるでしょう?」
「もちろんだよ」
それから彼は毎朝、スクランブル・エッグを食べ続けた。給仕が「スクランブル・エッグがお好きなんですね」と言ったものだ。一週間が過ぎてふたりはロンドンへ帰った。パリからカレー、そしてドーバーからロンドンまでの車中、彼は前と同じようにアナスターシャを抱きしめ、肩に頭を当てがってやった。ニューヨークからサンフランシスコまでは五日かかったなと思い出していた。ビクトリア駅についてプラットフォームに降り立ち、タクシーを待っている間、彼女はその丸いきらきらと輝く少し出張った目で彼を見つめていた。
「楽しい一週間だったわね」
「すてきだったよ」
「あたしもう心を決めたの。実験はやはり正しかったわ。あなたのお好きな時にいつでも結婚するつもりよ」
しかしアシェンデンはこれから死ぬまでの間、毎朝スクランブル・エッグを食べ続ける自分の姿を脳裡に描いていた。タクシーに彼女を乗せると、自分ももう一台呼んでそれに乗り、キューナード汽船の事務所へ行って、アメリカ行きの一番の船に船室を予約した。明るい陽光の朝、汽船はニューヨーク港に入って行った。かつて自由と新しい生活を夢みてアメリカへ渡った移住者といえども、このときのアシェンデンほど、心からの感動をもって、自由の女神像を見上げた者はいなかったであろう。
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第十六章 ロシア革命と洗濯物
それから数か年、アシェンデンとアナスターシャの接触は完全に断たれていた。二月革命の勃発《ぼっぱつ》と同時に、彼女とウラジミールがロシア入りしたことはアシェンデンも噂《うわさ》で聞いていた。ことによるとふたりの助力を得られるかもしれない。逆説的な意味では、アシェンデンは彼の命の恩人とも言えるのだ。そこでアシェンデンは、彼女に再会を求める手紙を書く決心をした。このこともあって、昼に食堂へ降りて行ったアシェンデンは、いささか安堵《あんど》の心境にあった。そしてすでに来て待っていたハリントン氏とともにテーブルに着いた。前に置かれた昼食をふたりは摂り始めた。
「給仕にパンを持って来てくれるように言ってくれませんか?」ハリントン氏が言った。
「パンですって?」アシェンデンがおどろいて答えた。「パンなどありはしません」
「でもパンがなくちゃ食べられませんよ」
「我慢なさることですな。パンはおろか、バターも砂糖もポテトもないんですから。魚と肉と野菜、あるのはそれだけですよ」
ハリントン氏は、がくりと頭をたれた。
「これじゃ戦時下と同じことじゃないですか」
「まア戦争だと考えた方がいいでしょうな」
さすがのハリントン氏も暫時言葉がなかった。ややあってやっと口を開いた。「何か知りませんが、私はやるだけのことをやるつもりです。できるだけ早く仕事を片付けて、この国を出ますよ。私が砂糖もバターもなしですごすなんて、だいいち、家内が承知いたしません。もともと私の胃はデリケートにできてますからね。会社だって、私がこんな粗食を強いられると知ってたら、ここへ派遣するような無慈悲なことはやらなかったはずです」
しばらくして、エゴン・オルツ博士が姿を現わして、アシェンデンに封筒を手渡した。その表にはアナスターシャ・アレクサンドロブナの住所がしるしてあった。彼は博士をハリントン氏に紹介した。
しばらくするうちに彼氏がオルツ博士を気に入ったらしく見えたので、アシェンデンはとやかく策を弄することもなく、博士が通訳としてうってつけの人物だということを率直に語って聞かせた。
「博士はロシア語がうまいんです。しゃべっているのを聞いているとロシア人かと錯覚するくらいですよ。しかしアメリカ人ですから、あなたに不利なようなことはいたしませんよ。博士とはもうかなり以前からつき合っていますが、絶対信用のおける人物であることは保証いたしますよ」
ハリントン氏は彼のこの提案に大喜びで、アシェンデンは食事がおわると、後のことはふたりに任せることにしてその場を去った。彼はアナスターシャに手紙を書き送った。そしてほどなくしてこれから会議に出るので今すぐというわけにはゆかないが、午後七時ころホテルへ彼を訪れるという返事を受け取った。今の彼にはアナスターシャヘのかつての恋が擬態であったことがわかっていた。彼が愛したのはトルストイであり、ドストエフスキーであり、リムスキーコルサコフであり、ストラビンスキーであり、バクストであった。もっともそうした心情が相手の方にもあったかどうかについては自信がなかった。
八時を少し過ぎたころに現われた彼女にアシェンデンは、ハリントン氏を交えて食事をしないかと提案した。久々の再会によって起こるかもしれないバツの悪さを防ぐには、第三者が傍にいることがいちばんいいと思ったからだ。しかしそんな杞憂《きゆう》はたちまち吹き飛んでしまった。スープ皿を前にして坐ってから五分とたたないうちに、アナスターシャの彼に対する感情が、彼のそれと同様に冷ややかなものであることを印象づけられたからだ。これには彼も一瞬たじろいだ。男というものは、いかに謙虚な人物でも、かつて自分を愛してくれた女性がもはや一片の愛情すら持っていないということが、なかなかにして認め難いものなのだ。もちろん彼には、アナスターシャがその五年間も、彼に対する望みのない恋情に身を焼いたことなど知る由もなかったが、少しは顔を赤らめるとか、睫《まつげ》をふるわせるとか、唇をわななかせるとかして、彼女が今もなお心の奥底に愛情らしきものを抱いていることを示してくれるのではないかと考えていたのだ。彼のその期待は見事に裏切られた。彼女はまるで、二、三日会わなかった友達に会って嬉しいといった口調で彼に話しかけた。しかもそのなれなれしさも、まったく社交的なものだった。彼はその後のウラジミールのことを尋ねた。
「あの人にはまったくがっかりしたわ。賢明な男だとは思ってなかったけど、少なくとも正直者だと信じていたのよ。今度あの人に子ができるの」
魚の切れ端を口にほうり込もうとしていたハリントン氏は、フォークを宙に浮かせたまま一瞬動作を停止し、驚愕の眼差しでアナスターシヤを見つめた。ロシアの小説を一度も読んだことのない彼氏にとって、これもまたやむをえないことかもしれない。アシェンデンもいささか当惑して問いかけるような視線を彼女に投げかけた。
「子供の母親はあたしじゃないの」彼女は笑いながら言った。「あたしそういうことには興味はないんです。その母親になる女性というのはあたしの友人で、政治経済学の著作をして有名人なのよ。あたしに言わせると、彼女の思想は健全とは言えないけれど、その著作が考慮の対象になりうるということは否定しないつもりよ。頭のいい人なの。すごく頭のきれる人よ」彼女はハリントンの方へ向かって言った。「政治経済に興味がおありになって?」
このときばかりは、おそらく今まで初めての経験だろうが、ハリントン氏は口をつぐんでしまった。アナスターシャはその問題について自分の見解をとうとうとまくしたて、最後に三人は、ロシアの政情について意見をたたかわせ始めた。彼女がいろいろな政党の指導者たちと近密な関係にあるように見うけられたので、アシェンデンは彼と一緒に働く気がないかどうか打診してみることにした。一度は夢中にさせられた女だが、彼女が非常に知的な女性であることは忘れていなかった。
食事が終わったあと、彼はハリントン氏に、アナスターシャと仕事の話があるのでと断わって、ラウンジの片隅へ彼女を連れて行った。そこで彼は必要と思われることをすべて彼女に話した。案の定、相手は興味を示し協力したいという態度を見せた。アナスターシャは陰謀というものに対して情熱を持っており、また権力への欲望も強かった。彼が多額の金を自由にできるということを仄《ほの》めかすと、彼女はアシェンデンを通してロシアの政界で、かなりの影響力を持ちうると、すぐさま看《み》てとったらしい。それが彼女の虚栄心をくすぐったのだ。彼女の愛国心たるや強烈なものであるが、愛国者の例に多く見られるように、自分の持つ力が祖国のためになるというのだという誇大な信念を抱いていた。ふたりが別れたとき、すでに一緒に働くという合意ができ上がっていた。
「あの人はすばらしい女性ですね」ハリントン氏が翌日、朝食のテーブルに坐ったときにまず口を切った。
「あの女に恋をしちゃいけませんよ」アシェンデンが笑いながら言った。
しかしハリントン氏の心の中には、情事などという不貞な考えは毫《ごう》もなかった。
「私は結婚してからというもの、家内以外の女には目もくれたことがありませんよ」彼氏は強調した。「あの人のご亭主というのは相当な悪人に違いないですね」
ミルクの代わりにお茶、砂糖の代わりに少量のジャム、という貧しい朝食を前にしたアシェンデンがいささか見当違いの言葉をはさんだ。「今ならスクランブル・エッグでもいいんだが……」
アナスターシャの協力と、背後にオルツ博士を得た彼は、早速仕事に取りかかった。ロシアの情勢は悪化の一路をたどっていた。臨時政府の首班ケレンスキーは、虚栄心にむしばまれ、自分の地位を脅《おびや》かす能力のあることを示した閣僚を次々と更迭《こうてつ》した。彼は演説が好きだった。果てもなく演説を繰り返していた。一時はドイツ軍がペトログラードへ進攻してくる可能性さえあった。それでもケレンスキーは演説ばかりしていた。食糧事情が悪化し、冬が目前に迫り、燃料もなかった。それでもケレンスキーはひたすら演説をした。ボルシェヴィキの地下活動が激化し、レーニンはペトログラードに潜伏していたが、ケレンスキーはその所在を知りながらも、あえて彼を逮捕する勇気を持っていないという噂が流れていた。彼はただもうひたすらに演説をしていた。
ハリントン氏はこうした事態にはいっこうに無関心で、この混乱の中を駆けずり回っていたが、それがアシェンデンには面白かった。現に今ひとつの歴史が創られようとしているのに、ハリントン氏の頭の中にあるのは自分の仕事のことだけである。彼氏も悪戦苦闘していた。お偉方の耳に取り次ぐという口実のもとに、秘書や下級役人どもにワイロを払わせられていた。控え室で何時間も待たされたあげく、会見を許されずに放り出されるのが常であった。どうにかそのお偉方とかいう人物たちに会っても、彼が得たものは無駄なおしゃべり以外の何物もなかった。いろいろ約束をしてくれるのだが、数日たつと、それが空約束であったなんてことになるのである。アシェンデンは仕事を放棄してアメリカへ帰るように忠告したが、ハリントン氏はそれに耳もかさなかった。彼氏は特殊な仕事のためにわざわざ会社から派遣されたのであり、断じてそれをやり抜くつもりであり、しからずんば死あるのみだとさえ言った。
ここでアナスターシャが彼氏に手を貸すことになった。彼女とハリントン氏の間に奇妙な友情が生まれた。彼氏はアナスターシャを、非常に素晴らしい女性だが、誤った道を進んでいると信じていた。彼氏は細君のこと、ふたりの子供のこと、アメリカ合衆国の憲法のこと、などをアナスターシャに語って聞かせた。一方彼女はウラジミールのことをすべて彼氏に話した。それから彼女は、トルストイのこと、ツルゲーネフのことドストエフスキーのことを語った。ふたりは頻繁に出会って一緒に時を過ごした。彼氏はアナスターシャ・アレクサンドロブナという彼女の名前が難しく、自分にはとても発音できないと言って、彼女をデリラと呼んでいた。彼女は持ちまえの衰えを知らぬ精力でもって彼を手助けし、ふたりは彼の仕事に役に立つと思われる連中の所へしばしば出かけて行った。しかし情勢はもう頂点に達しようとしていた。暴動が起こり、街には危険が増大していた。時おり、不満を持った在郷軍人たちを満載した装甲車が、ネフスキー・プロスペクトを乱暴に走り回り、その不満を示すために、通行人に銃を発射することもあった。あるときなど、ハリントン氏とアナスターシャが市電に乗っているとき、弾丸が窓から飛び込み、乗客一同とともに安全のために床に身を沈めたこともある。ハリントン氏はひどく憤慨していた。
「太ったお婆さんが私の上にのっかってるので起き上がろうとしたら、デリラが私の髪の毛を引っぱってこう言ったんですよ。『じっとしてなさい、おばかさんね』あれがロシア流なのかね。私は嫌いだよ、デリラ」
「だってともかく、あなたはあたしの言葉に従って身じろぎもしなくなったじゃないの?」彼女はくすくすと笑いながら言った。
「この国に欠けてるのは文化的な生活様式だよ。芸術的には豊かかも知れないが、まったくなってない」
「あなたはブルジョアなのよ、ハリントンさん。インテリゲンチャではないわ」
「この私に向かってそんなことを言ったのは君が始めてだよ、デリラ。私がインテリゲンチャでないとすれば誰がそうだというんだね?」ハリントン氏が威厳をこめてやり返した。
そしてある日、アシェンデンが自室で仕事をしていると、ドアにノックの音がして、おどおどと消え去りたいような様子のハリントン氏を連れてアナスターシャがそっと入って来た。彼女は興奮しているようであった。
「どうしたんだね?」アシェンデンが訊いた。
「この人はいますぐアメリカへ帰らなきゃ殺されてしまうわ。あなたからよく話して上げてちょうだい。もしもあたしが現場に居合わせなかったら、たいへんなことになっていたところなのよ」
「冗談をいっちゃ困るね、デリラ」ハリントン氏が辛辣《しんらつ》にやり返した。「私には自分のことを自分でやれる能力があるし、全然危険なんてものはなかったよ」
「いったい何のことなんだね?」アシェンデンが訊いた。
「ハリントンさんにドストエフスキーのお墓を見せて上げようと思って、アレクサンダー・ネフスキーのラブラヘお連れしたのよ」アナスターシャが言った。「ところが帰りに、ひとりの兵隊がお婆さんに少し乱暴なことをしようとしているところへぶつかったの」
「少し乱暴だって?」ハリントン氏が叫んだ。
「ひとりの老婆が食糧の入ったカゴを片手に持って歩道を歩いてたんですよ。そこへ兵隊がふたり後からやって来て、そのうちのひとりがカゴを引ったくって歩いて行くじゃありませんか。お婆さんは金切り声を上げて泣きわめいていました。何を叫んでいるかはもちろんわかりませんが、大体の想像はつきました。するともうひとりの兵隊が小銃の銃把でそのお婆さんの頭をなぐりつけたんです。そうじゃなかったかね、デリラ?」
「そうよ」アナスターシャは笑いもできずに答えた。「そしたらハリントンさんがあたしがとめる暇もなくタクシーから飛び出して、カゴを持っている兵隊のところへ駆け寄って行って奪い返したのよ。そしてふたりの兵隊をスリかなんかのように罵《ののし》り始めたの。初めは彼らもあっけにとられて、どうしてよいかわからなかったらしいけど、とうとう最後には怒りだしちゃったのよ。ハリントンさんの後を駆けて行ったあたしがそのふたりに、この人は外人で酔っ払っているんだと説明してやったの」
「酔っ払ってる?」ハリントン氏が呼んだ。
「ええ、酔ってたのよ。そのころになるともう野次馬がまわりにたかりだして、どうなることかと冷や冷やしたわ、あたし」
ハリントン氏が例の大きい灰色がかった青い目をして笑った。
「私には君が連中を叱りつけているように聞こえたよ、デリラ。まるで芝居を見ているように楽しかったね」
「あなたもよほどばかね」アナスターシャが突然足を踏み鳴らし憤然として言った。「あなたもあたしもあの兵隊たちに造作もなく殺されたかも知れないのよ。もちろんそうなってもあの野次馬連中は誰ひとりとしてあたしたちを助けてはくれなかったでしょうよ」
「私を殺す? 私は歴《れっき》としたアメリカ人だよ、デリラ。髪の毛一本にだって触りやしないよ」
「髪の毛にさわろうにも一本もないじゃないの」怒るとマナーも何もないアナスターシャが皮肉った。「ロシアの兵隊があなたがアメリカ人だからというので殺すのを躊躇《ためら》うと思ってらっしゃるんなら、いまにきっとたいへんな目に遭うわよ」
「それで、その老婆はどうなったんだね?」アシェンデンが訊いた。
「しばらくして兵隊たちがどこかへ行ってしまったので、あたしたちそのお婆さんのところへ戻ったの」
「カゴを持ってかね?」
「ええそうよ。ハリントンさんったら死神のようにカゴにしがみついていたんですもの。お婆さんは頭から血を吹き出して地面に倒れていたわ。あたしたちはお婆さんをタクシーにかつぎ込み、どうにかこうにか住所を聞き出してそこまで送って行ったの。それはひどい出血で、止血にたいへんだったのよ」
ここでアナスターシャが奇妙な表情でハリントン氏の方を見た。ところが驚いたことに、彼が顔を赤らめているではないか。
「これはどういうことなんだね?」
「とにかく包帯をしようにも何もないのよ。ハリントンさんのハンカチはびしょびしょだし、あたしが身につけている物で間に合う物といえばただの一つ。そこであたしはそれを……」
アナスターシャが終わりまで言う前に、ハリントン氏が彼女を制した。
「何を脱いだかなんてアシェンデンさんに言う必要はないだろう。私は結婚してるし、ご婦人があれを身につけていることは知ってる。でもこういう席であれのことを言う必要ないと思うね」
アナスターシャがくすりと笑った。
「じゃあたしにキスしてくれなきゃ、あたしバラしちゃうわよ」
ハリントン氏は、二者択一を迫る彼女のこの言葉を反芻しながら一瞬|躊躇《ためら》っていたが、アナスターシャのきっぱりした態度を看て取ったらしく、言葉を続けた。
「じゃいいから私にキスしなさい、デリラ。もっとも私には、それが君にどんな喜びを与えるのかは知らないけどもね」
彼女はハリントン氏の首に両手を巻きつけ、両頬に接吻して、これまたまったくとうとつに涙を流し始めた。
「あなたは勇敢な人よ、ハリントンさん。ばかばかしいと思うようなところもあるけどすばらしい人だわ」彼女はすすり泣きながらそう言った。
ハリントン氏はアシェンデンの期待していたほどには驚いた表情を見せなかった。彼はアナスターシャに、薄い謎めいた微笑を投げかけてやさしく彼女の肩をたたいた。
「泣くことはないじゃないか、デリラ。さあしっかりしなさい。ひどい思いをしたんだろう?逆上するのも無理はないよ。私の肩に顔を当てて泣くのもいいけど、もうよしてくれないかね。あとでリュウマチになると困るから」
ばかばかしいが胸をゆさぶる光景だった。アシェンデンは笑ったが、何やら喉《のど》にこみ上げてくるものがあった。
アナスターシャが去った後、ハリントン氏は腰を下して物思いに耽《ふけ》っていた。
「ロシア人というのは実に奇怪な人種ですな。デリラが何をしたと思いますか?」彼は突然口を開いた。「人が往きかう街頭のまん中で、車の中に立ち上がってパンティを脱いだんですよ。彼女はそれを二つに引き裂いて一方を私に持たせ、片一方で包帯を作ったんです。あんなに当惑したことってのはありませんね」
「彼女をデリラと呼ぶなんて、いったいどういう思いつきなんです?」アシェンデンが笑いながら尋ねた。
ハリントン氏が少し顔を赤らめた。
「いや、彼女は実に魅力のある女性ですよ。ご主人にひどく毒されているようですが、私としては彼女に同情を禁じえないんです。女性というのは非常に感情的な動物ですから、その同情を誤解されたくなかったので、私は家内にとても愛着を感じていると釘を刺してあります」
「デリラがポディファーの妻だったとはお考えになって、ないんでしょうね?」アシェンデンが尋ねた。
「その言葉がどういう意味を持っているのか、わかりかねますな、アシェンデンさん」ハリントン氏が答えた。
「私が女性にもてることは家内にもかねがね言われてますのでね。あの女性をデリラ、すなわち裏切り女、と呼ぶことで私の立場がはっきりするだろうと考えたわけですよ」
「どうも今のロシアはあなたにはふさわしくない国ですよ、ハリントンさん」アシェンデンが笑いながら言った。「私ならできる限り早くロシアを出ますね」
「今帰ることはできません。やっと連中をこちらの条件に同意させて、来週にも契約書に調印することになってるんです。それが済めば荷物をまとめて退散いたしますよ」
「あなたのサインなんか、それをしるした紙一枚の値うちもないと思いますよ」アシェンデンが皮肉に言った。
彼はやっと活動プランを完成していた。そのプランを、彼をペトログラードに派遣した上司に報告するための暗号電報の作製に、二十四時間の重労働を強いられた。しかし結局それは上司の受け入れるところとなり、必要な資金ならいくらでも支給するという約束を取りつけた。しかしアシェンデンはいかなる手を打つにしても、ケレンスキーの臨時政府があと少なくとも三か月間、権力の座にいなければそれも不可能であるということを知っていた。しかし冬は目前に迫り、食糧は日を追って乏しくなっていった。軍隊は各地で反乱を起こし、人々は平和を求めて叫んでいた。
毎晩アシェンデンは「ヨーロッパ」という喫茶店で、Z教授とチョコレートを飲みながら、教授の掌握下にある献身的なチェコ人たちをいかに利用すれば最も得策であるかを話し合った。アナスターシャは裏街にアパートを借りていたが、アシェンデンはそこでもあらゆる種類の人たちと会合を持った。計画を練り、実際にこの方策をとった。アシェンデンは議論し、説得し、また約束した。臆病な者もおり、運命論者もいたが、アシェンデンはこれらすべての者と議論し説得しなければならなかった、決断力のある者、自信のある者、正直者、目的意識の不安定な者、などをいちいち判別しなければならなかった。彼はまた、ロシア人特有の饒舌《じょうぜつ》にも忍耐をもって立ち向かわねばならなかった。目前に迫っている事態には一顧だに与えず、その他の事柄については際限もなくしゃべりまくる連中にも、愛想よく応じなくてはならなかった。暴言を吐く者や大言壮語する者もいたが、彼らの言うことにも同情をもって耳を傾けなければならない。当然彼はまた、裏切りにも注意しなければならなかった。愚か者の虚栄心を軽くいなし、野心家の欲望をうまく避けるという芸当も必要だった。とにかく事態は接近しているのだ。流言蜚語《りゅうげんひご》が飛びかい、ボルシェヴィキの暗躍が目立った。ケレンスキーは怯えた雌鶏のようにあちらこちらへと駆けずり回っていた。
そしてついに爆発が起こった。一九一七年十一月七日の夜、ボルシェヴィキがいっせいに蜂起し、ケレンスキーの閣僚が逮捕され、冬宮は群衆に略奪された。そしてロシアの権力はレーニンとトロツキーの手中に帰した。
翌日の朝早く、アナスターシャが、ホテルにアシェンデンを尋ねて来た。アシェンデンは暗号電報を作製中だった。彼は夕べ一睡もしていなかった。初めはスモルニーにおり、次に冬宮殿に移った。彼は疲労の極にあった。アナスターシャは白ちゃけた顔色をし、輝く茶色の瞳は悲惨な色を湛えていた。
「お聞きになった?」彼女が尋ねた。
アシェンデンがうなずいた。
「もうみんな終わったのよ。ケレンスキーは逃亡したという噂だわ。みんな闘おうとする気配さえ見せなかったのよ」彼女は怒りに打ち震えていた。「あの道化者《どうけもの》!」彼女が叫んだ。
そのときドアにノックの音がした。アナスターシャは突然怯えたような表情でそちらに視線を向けた。
「ボルシェヴィキは処刑する人間のリストを作っているのよ。あたしの名前も載ってるわ。あなたの名前も出てるかも知れないわよ」
「ドアの向こうにいる連中がボルシェヴィキで、部屋に入って来たいというんなら、ノブを回せばすむことだよ」アシェンデンは微笑みながらそう言ったが、みぞおちのあたりにかすかな不快な感覚をおぼえていた。「お入りなさい」
ドアが開いてハリントン氏が部屋に入って来た。いつものようにこざっぱりと、黒い上着に縞のズボンをはき、靴もしみひとつないまでに磨き上げて、禿げ頭にはダービー・ハットをかぶっていた。そしてアナスターシャの姿を認めてそれを脱いだ。
「いやア、こんなに早くからおいでとは知りませんでしたよ、でもちょうどよかった。外へ出るついでにちょっとのぞいてみたんです。実はあなたに伝えたいことがありましてね。夕べお捜ししたんですがどうしても見つからなくて困っていたんです。夕食においでにならなかったでしょう?」
「ええ、会議があったもんですからね」アシェンデンが答えた。
「おふたりともおめでとうを言ってください。実はきのうやっと契約書にサインしまして、私の仕事が終わったんです」
ハリントン氏は目を輝かせて語りかけたが、それはまさしく自己満足の絵図だった。彼はライバルをすべて追い散らした闘鶏のようにふんぞり返っていた。そのときアナスターシャが突然ヒステリカルに笑い声を発した。ハリントン氏は当惑した面持ちで彼女を見つめた。
「どうしたんだね。デリラ、どうかしたのかね?」
アナスターシャは哄笑《こうしょう》のあまり涙を流していたが、やがてすすり泣きを始めた。アシェンデンが事情を説明した。
「ボルシェヴィキが政府を転覆したんですよ。ケレンスキーの閣僚は幽閉されています。ボルシェヴィキは今|生贄《いけにえ》を求めて街中に網を張っています。デリラの話では彼女の名前もリストに載っているというんです。きのうあなたにサインを与えた大臣は、それがどうなるかわからないからあえてサインしたんでしょう。つまり契約は無効だということです。ボルシェヴィキはできるだけ早くドイツと和平を結ぶでしょうね」
アナスターシャは自制心を失うのも早かったが、回復するのも早かった。
「ねえ、できるだけ早くロシアを出た方がいいわよ、ハリントンさん。いまの状態じゃ、ロシアは外国人がいるべき国じゃないし、あと二、三日たてば出国も不可能になるかも知れないもの」
ハリントン氏はアナスターシャからアシェンデンヘと視線を移行させた。
「なんてことだ!」ハリントン氏が叫んだ。「なんてことだ、まったく!」彼はその場にふさわしくない興奮状態に陥っていた。「ロシアの大臣が私を愚か者扱いにしようとしているというんですか?」
アシェンデンは肩をすぼめた。
「大臣が何を考えていたかわかるもんですか。おそらく彼にはユーモアのセンスがあるんでしょうね。今日壁に向かって立たされて射殺される可能性をじゅうぶん知りながら、きのう五十万ドルの契約書にサインするのも一興だと考えたのかも知れないですよ。アナスターシャの言葉はまだまだ甘いですよ、ハリントンさん。今すぐにでもスウェーデン行きの列車に乗った方がいいですな」
「あなたはどうするんです?」
「私もここにいても、もうすることが何もありません。今上司の指示を仰いでいますが、許可があり次第ここを離れるつもりです。ボルシェヴィキはわれわれより一歩先んじていますし、私と一緒に働いていた連中も、自分の命を助けるために仕事を打ち切るでしょう」
「ボリス・ペトロービッチは今朝射殺されたわ」アナスターシャが眉をひそめて言った。
ハリントン氏はと見ると、彼はじっと床を見つめていた。会社から与えられた仕事を成就したという誇りが粉々に粉粋され、彼はさながら破れた風船のようにしおたれていた。しかしすぐにまた彼は視線を上げた。そしてアナスターシャにかすかな微笑を投げかけたが、彼のこの微笑がいかに魅惑的で邪心がないかということが初めてアシェンデンにわかった。とにかく人の警戒心を解かせるような何物かがその中にあるのだ。
「ボルシェヴィキが君の後を追っているんなら、私と一緒にこの国を出た方がいいんじゃないかね。デリラ? 君のことはじゅうぶん責任を持つし、アメリカへ来たいというんなら、うちの家内ができるだけのことをしてくれると思うよ」
「ロシアの難民と一緒にフィラデルフィアに着いたあなたを見たら、奥さんはどんな顔をなさるでしょう?」アナスターシャは笑って言った。「通り一辺の説明ではとても納得してくれないと思うわ。あたしはここに留まります」
「でも、もし危険に遭ったら?」
「あたしはロシア人よ。あたしのいるところはここしかないわ。この国がいちばんあたしを必要としているときに離れることなんてできないわよ」
「バカもいい加減に言いたまえ、デリラ」アシェンデンが穏やかな口調で言った。
アナスターシャのそれまでの口調には深い感情がこめられていたが、この言葉にいささかぎくりとした様子で、突然、訝《いぶか》るような視線を彼に向けた。
「それはよくわかってるわ、サムソン。あたしの本心を言えば、ロシアはいま最悪の事態を迎えようとしているのよ。何が起こるか誰にもわからないわ。でもそれを見たいのよ。どんな些細な事件でも逃さずに終始それを目撃したいのよ、あたしは」
ハリントン氏は悲しそうに頭を振った。
「いたずらな好奇心というのは女性の持つ最大の欠陥だよ、デリラ」彼は言った。
「早く荷物をまとめなさい、ハリントンさん」アシェンデンが笑いながら言った。「そうしたらふたりであなたを駅までお送りしますよ。列車もいつ捕獲されるかも知れませんからね」
「いいでしょう、帰りますよ。まあ後悔もしませんがね。ここへ来てからというもの、満足な食事を摂ったこともないし、生まれて初めての苦い経験を味わわされましたからね。砂糖を入れずにコーヒーを飲み、運よく黒パンを手に入れてもバターをつけずに食べなくちゃならないという有様でしたでしょう。ここでの経験を家内に話しても絶対信用してくれないと思いますね。この国に必要なのは組織ですよ」
彼が部屋を出て行ったあと、アシェンデンとアナスターシャは、状勢一般について話し合った。アシェンデンは、細心の注意を払って組みたてた計画が無に期したので意気消沈していたが、アナスターシャはむしろ興奮し、この新しい革命の結果についていろんな推測を試みていた。一見いかにも真剣そうなそぶりだったが、内心ではこの革命騒ぎを、ひとつのスリリングな芝居として眺めている風であった。彼女はもっともっと事件が勃発するのを期待していた。そのとき再びドアにノックの音がして、アシェンデンが応ずる暇もなく、ハリントン氏が飛び込んで来た。
「このホテルのサービスときちゃまったくなってませんな」彼は激して怒鳴った。「ボーイを呼ぶためにも十五分もベルを鳴らし続けているのに、誰ひとり応じようとしないんですからね」
「サービスですって?」アナスターシャが叫んだ。「このホテルにはもうボーイなんてひとりも残っていませんよ」
「でも私は洗濯物を出してあるんだ。昨夜までには必ず仕上げて届けると約束しておったくせに」
「お気の毒ですがそれを取り返すチャンスはもうないでしょうね」とアシェンデンが言った。
「洗濯物を置いてここを去ることはできません。シャツが四枚、上下つなぎの下着が二枚、パジャマが一枚、そしてカラーが四枚です。ハンカチとソックスは部屋で私が洗いましたがね。とにかく洗濯に出した物を返してもらわなければ、このホテルを出るわけには参りません」
「ばかも休み休みに言いなさい」アシェンデンが叫んだ。「とにかく今あなたがやるべきことは、足の便がある間にここを離れることです。洗濯物を届けてくれるボーイがいないんなら、そんな物は置き放しにしてここを出て行くんですね」
「お言葉ですが、私にはそんなことはできませんよ。自分で行って取って来ます。この国へ来て、さんざん迷惑をかけられた上に、上等なシャツを置き去りにして薄汚ないボルシェヴィキに着られるなんて真っ平らですよ。そうですとも、洗濯物を取り返すまでは絶対ロシアを離れませんからね」
アナスターシャはしばらくだまって床を見つめていたが、やおら薄笑いを浮かべて顔を上げた。アシェンデンには、彼女の内部に、ハリントン氏の子供じみた執拗《しつよう》さに応える何かがあるように思われた。ハリントン氏が洗濯物を取り返さずにペトログラードを離れる意志がないということをロシア流に理解したものらしい。これほどまでに洗濯物に執着を示すということは、それに象徴的な価値さえ与えていると考えたのだろう。
「下へ行って洗濯屋がどこにあるか知ってる人がいるかどうか見て来ます。もしそういう人がいたらあなたと一緒に行ってそれを取り返して上げるわ。それを持ってここを離れればいいんでしょう?」
ハリントン氏はこの言葉に安堵を覚えたようだった。そして例の甘い、人の心を解きほごすような微笑でもってそれに応えた。
「そりゃありがたいことだ、デリラ。洗濯物が仕上がっていてもいなくても、私はあれを持って出発するよ」
アナスターシャが部屋を出て行った。
「いかがです、ロシアやロシア人のことをどうお思いになります?」アシェンデンがハリントン氏に尋ねた。
「私はもうあきあきしましたよ。トルストイにもあきたし、ツルゲーネフやドストエフスキーにも嫌気がさしたし、チェーホフにもげっぷが出そうですな。インテリゲンチャにはもうこりごりしましたよ。一刻一刻の自分の心の動きを知り、自分が言った事柄をあくまでも守り、その言葉に信頼のおける人間が恋しくなりましたね。美辞麗句や演説、気取った態度にはもう嫌気がさしました」
アシェンデンがそれに対して、突然熱病にかかったように演説をぶとうとしたが、太鼓の上で豆がはじるような音に妨げられた。静寂の支配する街で、それはとうとつで奇妙な音に聞こえた。
「あれは何でしょう?」ハリントン氏が尋ねた。
「ライフルの発射音ですよ。たぶん川向こうだと思いますね」
ハリントン氏はかすかに表情をゆがめた。顔は笑っていたが、いつもと違ってやや青白かった。彼氏にすれば心ならずといった動揺だったが、アシェンデンはとがめる気にもなれなかった。
「脱出するなら今が潮時らしいな。私はどうなってもいいんですが、女房子供のことを考えなくちゃなりませんからね。家内からずっと手紙を受け取ってないのでいささか心配してるんですよ」彼はそこで一瞬口をつぐんだが、またあとを続けた。「是非一度家内をご紹介したいですね。そりゃとても素晴らしい女なんですよ。女房としては最高だと思っております。結婚して以来ここへ来るまで、三日と離れて暮らしたことがないんですよ」
アナスターシャが戻って来て洗濯屋の所番地がわかったと告げた。
「ここから歩いて四十分ばかりだけど、あなたがいらっしゃるならあたしもお供するわ」
「行きましょう」
「でも注意しなさい」アシェンデンが言った。「今日はどうも街の様子が不穏なようですからね」
アナスターシャは、ハリントン氏の方に視線を向けた。
「私はどうしてもあの洗濯物が要るんだよ、デリラ」彼が言った。「残していったらどうせあとまでいらいらするだろうし、そのたびに家内に愚痴を聞かされるのがオチだからね」
「それじゃ行きましょう」
ふたりがホテルを出て行き、アシェンデンは本部へ送るべきニュースを複雑な暗号に翻訳するという気の遠くなるほどうんざりする仕事を続けた。それは長い暗号文だった。そして最後に今後の行動に対する指示を仰ぐ暗号も付加しなければならなかった。まったく機械的な仕事だが、いささかの気のゆるみもなく注意力を集中させる必要があった。簡単な数字一つの誤りでも全体の文章を理解不可能にしてしまうのだ。
突然ドアが開いてアナスターシャが部屋へ飛び込んで来た。かぶっていた帽子がなく、髪を振り乱している。胸を波打たせ、目は顔から飛び出さんばかりであった。一見して非常に興奮状態に陥っていることがわかった。
「ハリントンさんはどこ?」彼女は叫んだ。「ここにいないの?」
「いないよ」
「じゃあの人の部屋かしら?」
「知らないね。いったいどうしたというんだ。なんなら行って見て来ようか? なぜ君はあの男を一緒に連れて帰らなかったんだね?」
ふたりは廊下伝いにハリントン氏の部屋の前へ行き、ドアをノックした。なんの反応もない。取手を動かしてみたがドアには鍵がかかっていた。
「ここにはいないね」
ふたりはアシェンデンの部屋へ引き返した。アナスターシャは椅子に沈み込むように身を投げ出した。
「水を一杯ちょうだいな。あたしもう息が切れて……走りづめだったのよ」
アシェンデンがコップについでやった水を飲むと、彼女は突然すすり泣きを始めた。
「無事だといいんだけど。もしあの人が怪我《けが》でもしてたら、あたし自分を許せないわ。あたしより先にここへ帰ってればいいのにと祈り続けていたのよ。洗濯物はちゃんと取り返したのよ。場所はすぐわかったの。お婆さんがたったひとりいて、どうしても渡そうとしなかったんだけど、無理に返してもらったの。全然手を触れた様子がないので、ハリントンさんは怒ってらしたわ。洗濯に出したままの状態だったものね。昨夜仕上げて届けると約束したのに、ハリントンさんが自分の手でくるんだままで放り出してあるんだもん。あたし、それがロシアだと言ったんだけど、ハリントンさんはこれなら有色人種の方がずっとましだという調子なのよ。脇道の方が安全だと思って裏通りに入って、引き返し始めたの。ちょうど通りの端を通りかかると、ずっと向こうの端に人だかりがしていて、ひとりの男がみんなに演説をぶっているのが目に入ったの。『ちょっと行って何を言ってるのか聞いてみましょうよ』あたしはそう言ってあの人を誘ったの。みんな口々にまくしたてて、ひどく興奮しているようだったので、何が起こっているのか見たかったのよ。『さあ行こう、デリラ。他人のことに気を遣《つか》う必要はないじゃないか』あの人はそう言ったわ。あたしはそれに対してこう言っちゃったのよ。『あなたはホテルへ帰って荷物をまとめなさいよ。あたしは何が起こっているか見て行くわ』あたしが道を走って行くと、あの人がついて来たの。そこには二、三百人の人たちが集まって、ひとりの学生がその連中に演説してるのよ。なかには労働者もいて、盛んに学生をやじってたわ。あたしは騒ぎが好きだから群集をかき分けて中へもぐり込んだの。そのとき突然、銃声がして、何が何やら気がつかないうちに、二台の装甲車が気違いのように疾走して来るじゃない。装甲車には兵隊が乗っていて、道を駆け抜けながら小銃を乱射していったの。理由はわからないわ。面白半分にやったのか、それと酔っていたんでしょうね。みんな野ウサギのように思い思いの方向に散っちゃったわ。ただもう、助かりたいばかりに突っ走ったのよ。そのときハリントンさんを見失ってしまったの。どうしてここに帰っていないのか不思議だわ。何かあったのかしら?」
アシェンデンはしばらく無言だった。
「捜しに行った方がいいと思うね」彼が言った。「あの人もしょうがない男だ、洗濯物がそんなに惜しいのだろうかね」
「あたしわかるわ。あの人の気持ちがとてもよくわかるの」
「気楽なことだ」アシェンデンがいら立たしそうに言った。「さあ行こう」
彼は帽子をかぶりコートをはおり、ふたりして下へ降りて行った。ホテルはガランとして奇妙な静寂が支配していた。ふたりは街頭へ出て行った。ほとんど人影の見当たらない街路を、ふたりは歩いて行った。市電も走っておらず、この巨大な街を覆う静けさが不気味なものに思えた。商店はみな閉まっていた。時おり自動車が猛烈なスピードで走り抜けて驚かされた。すれ違う人びとは、一様に怯《おび》えきり、虚《うつ》ろに目を伏せていた。大通りを通るとき、ふたりは思わず足を早めた。大勢の人が、これから何をしたらいいのかわからないといった様子で、無気力に立っていた。粗末な灰色の服を着た在郷軍人たちが数人ずつ群れをなして、道路のまん中を歩いていた。彼らはひと言も口をきかず、さながら羊飼いを求める羊のように見えた。
ふたりはアナスターシャが事件に遭遇したという通りまで来たが、彼女の場合とは反対の側から、そこに入って行った。今はまったく空虚だった。人々が逃げ惑った跡が歴然としていた。慌《あわ》てて投げ出した品物、書物、男物の帽子、ハンドバッグ、カゴ、等があたりに散乱していた。アナスターシャがアシェンデンの腕に触って彼の注意を促した。女がひとり、頭を膝にうけるようにして、舗道にうずくまっている姿が見えた。彼女は死んでいた。その少し向こうにふたりの男が一緒に倒れていた。彼らもやはり死んでいた。おそらく、どちらかが重傷を負い、もうひとりがそこまで引っ張って行ったのであろう。それとも仲間の者がふたりをそこまで運んだのかもしれない。やっとハリントン氏が見つかった。ダービー・ハットは下水溝に転がり落ちていた。彼は血の海の中に、うつぶせに倒れていたが、その骨張った禿頭が奇妙に白ちゃけて見えた。端正な黒いコートにはしみがつき、泥濘が付着していた。しかし彼の手は、シャツ四枚、つなぎの下着二枚、パジャマ一枚、カラー四枚を収めた包みを固く握りしめていた。ハリントン氏は死んでも洗濯物を放さなかったのである。(完)
[#改ページ]
訳者あとがき
ウィリアム・サマセット・モームは、一八七四年一月二十五日、フランスのパリで、駐仏英国大使館付法律顧問の六男として生をうけ、十歳にして母親を失い、英国の叔父(牧師)の許に預けられて教育を受けた。しかし、英語よりフランス語を先に覚えたというモームは、英国での生活になじめず、しだいに孤独の翳《かげ》りを帯びていった。これは生涯彼の内面からはなれなかった。叔父に強いられて学んだ医学も、わずか一年のインターン生活で終止符をうち、更に病に災いされて、南仏に隠棲し、その後の十年を、パリのカルチェ・ラタンの安下宿に居をかまえての苛酷な文学修業に費やした。そして、新進作家として世に出たのは、『ランベスのリザ』を契機としてであった。彼の文名が世の注視をあび始めたのは、第一次世界大戦の戦火がヨーロッパを覆いつつあった時代である。本書で繰り返し述べられているごとく、モームは、ただ、|書くこと《ヽヽヽヽ》のみに興味を覚え、寸暇をさいて、読書、執筆に専念した。
彼は『人間の絆』(一九一五年)『月と六ペンス』(一九一九年)で、作家としての地位を得、そのシニカルな人間観察で世評を味方にした。俗に、彼をエンターテイナーと看なして軽視する向きもあるが、およそ文学に、純文学や中間小説、大衆小説の別があろうはずがない。作家にとって最大の資質は、人間に対する興味である。この点、彼は、近世まれにみる才能であった。しかし彼は、人間への興味を持つがゆえに、かえって不可知論に陥り、冷酷な観察者となった。人間への尽きない興味が、かえって人間不信を招き、シニカルな傍観者としての立場に足を踏み入れたのである。彼は常に非社交的な人間であると自認していた。なるほど彼は寡黙《かもく》の人として知られているが、それはシャイネス(照れ)の裏返しであって、内心では周囲の者に限りない好奇心を持ち、嘲りの気持ちさえあったと思われる。しかしときによっては、よき聴き手でもあった。老境に到った彼は、その文名によって得られるものを存分に享受し、みずからもそれを認めているが、彼の言によれば、自分の余後の人生は、「失われた世界のもので、日々の生活は、死に到るまでの道」でしかなかった。ここまで悟れば、あらゆる事象は、現《うつ》し世の幻でしかなかろう。
しかし彼は、ビクトリア王朝の栄光をになう大英帝国への郷愁を棄て去ることはできなかった。自身認めているごとく、その生涯を通じて、いわゆる、右寄りで、世に出たころからすでに大英帝国の体制に密着し、英国政府の要員として公務にたずさわった。彼の実兄モーム卿は司法長官の地位にまで昇進したが、英国情報部に入ったのも、こうした家庭環境のゆえと思われる。最初彼は医学を生かすため赤十字に入り、すぐ情報部に転属している。
この作品は、そのときの情報活動を基に小説化したもので、事件のほとんどが事実である。またそれだけに、地味ではあるが迫真力があり、読む者の心を打つ。ついでに言えば、彼はその後、第二次大戦のときも、英国情報省の仕事でパリに滞在中、ナチス・ドイツのパリ占領に遭《あ》い、命からがら英国へ帰国している。また一九四〇年には、一旅行者として訪米しているが、うわべはともかく、実は英国政府の密命を帯びてなんらかの工作にたずさわったことは公然たる事実である。
以上のようなことを述べたのは、モームの作品系列の中で、本書のみが、はみ出した存在であり、これを位置づけるには、モームの思想や現実の行動をさぐる必要があったからである。こうして私の得た結論は、本書が決して突発的な作品ではなくて、実は、ここに彼の本質があるということであった。
戦争が人類の業であるとするなら、そこにはあらゆる人間模様が展開される。人一倍、人間に興味を持っていたモームが、そうしたさまざまの人間の姿を直体験すべく情報部に飛び込んだのも、肯首できる。しかし情報活動なるものが、いかに冷厳で、慎重な調査を伴う退屈な作業であるかは、彼自身、骨身にしみて感じたようである。しかも彼は単なるエイジェントとして、一連の活動の、「初めか終わり、または中間の一事にかかわりを持つだけで、自分の任務が全体の中でどのような役目を果たしているのか、ほとんどわからなかった」
映画やテレビで描かれるスパイ・アクションは、その最も華やかな部分を誇大にフィクション化したもので、実際は地味で陰湿なものである。登場人物も、時代を反映して種々雑多、上は貴族や外交官から、下は売笑婦や芸人、ゴロツキのようなスパイと、第一次大戦当時のいわゆる難民に似た連中である。エイジェントとは、いわば、日本の忍者の上忍で、スパイはその手足となって働く下忍である。しかし忍者にしろスパイにしろ、しょせんは権力に奉仕する者たちで、そこには陰気な影の行動しかしない。モームはいささか自虐の念を抱きながらも、こうした連中に接し、暇を見ては街の風景を楽しみ、自然の美しさに感嘆した。この辺りの描写は、忠実で精細な観察をモーム一流の乾いた文体で描いている。もちろん彼は自然より人間を、ゆえに人間を扱うドラマに興味があったが、本書ではそのドラマ作りの真骨頂である人間の描写に、ウィットとユーモアを織りまぜ、しかもかなり辛辣な皮肉を忘れていない。(訳者)