幸福
サマセット・モーム/田中西二郎訳
目 次
獅子の皮
山鳩の声
人生の実相
マウントドレイゴ卿の死
幸福
訳者あとがき
[#改ページ]
獅子の皮
フォレスティヤ大尉が森火事で、偶然に家のなかへ閉じこめられた妻の愛犬を救おうとして焼死したという新聞記事を読んで、多くの人々はショックを受けた。彼がそんな人間だとは知らなかったと言う者もあったが、たしかにそういうことのありそうな男だと思っていたと言う者もあった。しかし後者に属する人々の言った意味も、かならずしも一様ではなかった。この惨事の後、フォレスティヤ夫人はハーディと名乗る人の別荘に身を寄せたが、この家族とフォレスティヤ夫妻とは知り合ってからまだ間もない間柄であった。フォレスティヤ大尉はハーディ家の人々を好まなかった――少なくとも主人のフレッド・ハーディを好んでいなかったことは確かであるが、夫人としては、もし夫があの怖ろしい一夜を生きのびていたら、きっとハーディに対する考えかたを変えていたにちがいないという気がした。つまり、評判のよくない男ではあるけれども、ハーディにも実にいいところがあることを夫が認めて、夫ほどの大紳士であれば従来の誤りを認めるにやぶさかでないだろうと、彼女は信じたのである。もしもハーディ夫妻の望外の好意がなかったならば、この世に生きる望みのすべてであった良人《おっと》を失った自分が、どうにか理性を失わずにいられるはずはなかったと、フォレスティヤ夫人には思われた。身も世もない嘆き、悲しみの最中、かれら夫妻のかわらぬ同情だけが、彼女の慰籍であった。夫妻はまた彼女の夫の偉大な犠牲的行為の目撃者ともいうべき立場にあったので、夫のすばらしい行動のいちぶしじゅうを誰よりもよく知っていた。その悲しいいきさつを彼女に告げたとき、親切なフレッド・ハーディの使った言葉を、彼女は生涯、忘れないだろう。この怖ろしい災厄に辛うじて彼女が耐えたのも、またあの勇敢な、騎士的な、高潔な紳士、彼女の熱愛する良人が、かならずや彼女に期待してやまないであろうように、今後のいたましくも淋しい生活に雄々しく立ちむかっていく勇気を彼女が持ちえたのも、ひとえにあのときのフレッドの言葉であったのだ。
フォレスティヤ夫人は、まことに人柄のよい婦人であった。たいがい、世間の思いやりのある人々は、ある婦人について、これといって褒める言葉がみつからないときに、よくそう言うのだ。したがって「人柄がいい」というのは、どちらかといえば熱のない褒め言葉とみられがちである。しかしわたしの言う意味はそうではないのだ。フォレスティヤ夫人は魅力的でもなく、美人でも、賢女でもない。むしろ反対に、頓馬《とんま》で、不美人で、おまけにすこし莫迦《ばか》である。それでいて、彼女を深く知れば知るほど、誰でも彼女が好きになり、なぜ好きになるかと考えてみれば、やっぱり彼女は実に人柄のいい女だと言わざるをえなくなるのだ。
彼女は普通の男子ぐらいの背丈があり、口も大きく、すごい鈎鼻《かぎばな》で、薄色の青い眼はひどい近視で、手も醜く大きかった。ひどく荒れた、皺だらけの肌をしているくせに、いつも厚化粧をし、長くのばした髪は金髪に染めて、ぴったりとマルセル式のウェーヴをかけ、念入りに結《ゆ》いたてていた。彼女はそうしたどぎつい男性的な外貌に必死にはむかって、なんとかそれを隠そうとあらゆる努力をしたけれども、その結果はヴォードヴィルの芸人が女の真似をしているような印象を与えたにとどまった。声だけは女の声であったのだが、彼女と対している者はいつも――いわばショウの番組が終ろうとするとたんに、それが太い低音にかわり、ひきぬいて金髪のかつらをむしりとると、つるつるな男の禿あたまが出て来そうな気がしてならないのだ。衣裳にも莫大な金をつかい、そっくりパリの流行の先端をいく服装店にあつらえるのだが、五十女のくせに、色気ざかりの若いかわいらしいマネキンなら似合うような、優雅であでやかな衣裳ばかりえらぶというのは、まことに悲しむべき趣味としか評する言葉がない。宝石類も、いつもふんだんに身につけていた。動作はぶざまで、身のこなしは甚だ不器用である。どこかの応接間に、高価な宝玉《ほうぎょく》でも飾ってあるところへ入ってくると、どうすればそんなことになるのかわからぬが、彼女はうまいことそれを床へ払い落してしまう。誰かがいっしょに並んで昼飯でも食おうものなら、その男は大切にしている眼鏡の片一方のレンズを、彼女に粉みじんに砕かれることを覚悟しなくてはいけない。
さて、この見ぐるしい外貌が、うちに蔵《ぞう》しているものは何か、といえば、それはやさしい、愛情のふかい、ロマンティックな、理想にあこがれる魂であった。ひとがこのことを知るのには、かなりの時間を要する。なぜならば、はじめて彼女を知った人間はまず滑稽な女だと思い、ついで、いくらか懇意になって彼女のへまや不器用に閉口した頃には、何という呆れた女だと腹を立てるにきまっているからである。しかしひとたびその魂の美しさに気がつくや否や、今度はこれまでそれを知らずに過した自分がひどく莫迦者だったと口惜しくなる――あの薄青い、近視の眼で、おどおどしたように相手をみまもる、その魂の誠実の深さをみすごすなど、とても莫迦でなくてはできないことだと思いこむのである。つややかなモスリン、うるわしいオーガンディ、春のあけぼののような処女性のにおうばかりな薄絹の衣裳も、男のようにごつごつした肉体をではなく、若やいだ、生娘めいたこころを装っているのであった。そうなると大切な磁器を彼女にこわされた恨みも、女装した男のようにみえる醜怪さも忘れて、彼女を彼女自身として、いわば「真実」というものが目《ま》のあたりに出現したかのごとく、黄金のこころを持った愛すべき女人としての彼女の真のすがたを、そこに見るのだ。
彼女という女性をよく知るようになると、彼女がまるで小児のように単純素朴であることがわかってくる。こちらがほんの僅かでも親切にしてやると、彼女はいじらしいほどそれに感謝する。彼女自身の親切なことは底なしで、どんな厄介至極なことでも彼女になら頼むことができるし、彼女はまた彼女で、そういう頼みごとをしてくれたことが、相手の自分に対する好意のあらわれででもあるかのように、喜んでそれをする。彼女はまた利害を超越した愛情をもつことができるという、稀なる資質の持主である。親切を欠いた、意地わるな考えが、一度でも彼女の脳裡をかすめたことがあったとは思われない。つまり、こうしたすべての事情をのみこんだ上で、彼女の友人は、もう一度、フォレスティヤ夫人はほんとに好い人だ、と言うわけである。
不幸なことに、彼女は途方もない愚かな女でもあった。ひとはこの事実を、彼女の夫に会ったときに、たちまち発見する。フォレスティヤ夫人はアメリカ人であり、フォレスティヤ大尉はイギリス人であった。フォレスティヤ夫人はオレゴン州ポートランド市に生まれ、一九一四年の戦争が起るまでは、一度もヨーロッパの土を踏んだことはなかったが、折から彼女は最初の夫に死別して間もなかったので、看護婦を志願してフランスへ来たのである。アメリカ的水準からいえば、べつに金持ではなかったが、われわれイギリス人の標準からすれば、まず羽ぶりのいい境遇にあった。フォレスティヤ夫妻の生活ぶりから察するに、まず年に三万ドルぐらいの収入はあったと思われる。彼女が傷病兵にまちがった薬をのませたり、繃帯の仕方がわるいために役に立たないどころか傷をよけい悪くさせたり、医療器具のこわせるものは一つ残らずこわしたりしていたことは、まず疑いのないところだが、その点を別にすれば、わたしは彼女がすばらしい看護婦だったに違いないと思っている。おそらく、さすがの彼女も、これほど胸のわるくなるような仕事を与えられては、ためらわずにそれをやってのけることの辛さをはじめて味わったにちがいないが、かならず骨身をおしまず働いて、けっして癇癪をおこしたりするようなことはなかったであろう。わたしの想像するところでは、さだめし多くの気の毒な病人が彼女のこころのやさしさを祝福せずにいられないような場合があったであろうし、また彼女の黄金の魂から流れ出る愛情にみちた親切の故に心をはげまされつつ、無明の闇へのいたましい最後の歩みを歩んだ者も少なくはなかったであろう。
フォレスティヤ大尉が彼女の看護を受けることになったのは戦争の最後の年で、休戦になると間もなくふたりは結婚した。夫婦はやがてカンヌ海岸の山手に住み心地のよいヴィラをもち、住みついていくらもたたぬうちにリヴィエラの社交界で知られるようになった。フォレスティヤ大尉はブリッジを上手にやり、かつ熱心なゴルファーであった。テニスもまずくはなかった。また一隻の帆船を持っていて、夏になると夫妻は島々のあいだでなかなか洒落れたパーティをやった。結婚後すでに十七年になるが、フォレスティヤ夫人は依然として彼女の美貌の夫を溺愛していたから、彼女とつきあった人々で、その持ち前の間のびのしたような西部ふうの口調で夫婦の馴れそめの物語を聞かされずにすむことは、まず稀であったと言ってよかろう。
「あれこそ、ほんとの一目ぼれというのでしょうねえ」と彼女は話すのである。「あのひとが入院してきたとき、ちょうどあたしは非番でしたので、病室へ帰って、あたしの担当のベッドの一つに、あのひとの寝ているすがたを見た瞬間に、まあ、何というんでしょう、心臓がズキンと痛くなりましてね、あたし、これは過労のために心臓をわるくしたんじゃないかしらと、ちょっと思ったくらいでしたの。生まれてから、あれほど立派な男に、あたしは逢ったことがありませんわ」
「負傷は、よほどひどかったのですか?」
「それがね、負傷とは、ちょっと違いますの。これはほんとうに、めずらしいことなんですけれど、ときどきあることですのね、あれだけ戦場をずっとくぐりぬけて来て、ときには何カ月もつづけて砲火にさらされて、それにむろん主人のことですから、一日に二十ぺんも生命がけの危険を冒して――まったく、あのひとは、怖いということを知らない男のひとりですからねえ――それなのに、とうとうかすり傷ひとつ受けなかったんですわ。腫物《おでき》が出来たので、入院しましたの」
情熱的な恋の発端としては、あまりロマンティックな病気とはいえない。フォレスティヤ夫人はいささかはにかんで、彼女は実はフォレスティヤ大尉の腫物には大きな関心を寄せたのだが、それの出来た場所をはっきり言うのは、すこし工合がわるい気のするのが、いつものことだった。
「それが背中のずっと下のほうで、いえ、実はもっとそれより下だもんですから、主人はあたしに手当をさせるのを厭がりましてね。イギリス人て、妙におとなしいところがありますわね、あたし、あのひとのそういうところを幾度も見ましたけれど、とてもたまらないほど、つらいらしいんですの。それでね、また、たいていおわかりだろうと思いますけれど、最初から、そういった間柄で知り合いになったんですから、あたしたち、よけいに遠慮のない、親しいつきあいができたろうとお思いになるでしょう? それが、案外そうじゃなかったんですの。あのひとは、あたしに、ひどくよそよそしくしました。当番で、あのひとのべッドへまわっていくときには、あたしはいつも呼吸がせつなくなって、いったいどうしたんだろうと思うくらい、心臓がどきどきしましたの。あたしはもともと不器用な女じゃありませんから、物を落したり壊したりなんか、しないほうなんですけれど、あのときばかりは、まさかとお思いになるでしょうけど、ロバートに薬をのませる段になると、きっとスプーンを落したり、グラスを割ったりしますの。ほんとに、あの頃、あのひとはあたしのことをどう考えてるだろうと思いましたわ」
フォレスティヤ夫人にこう言われたときに、相手はたいがい、ふきださずにはいられなかった。ところが彼女はいつも愛らしいくらいな微笑をみせて、語りつぐ。
「ずいぶん、突拍子もない話だとお思いになるでしょうねえ――でもあたしは、それまでそんな気持になったことは、いっぺんもなかったんですのよ。最初の結婚をしたときの夫は、先妻に死なれて、子供たちも大きくなっていました。それは立派な人物で、州でも指折りの名士の一人でしたけれども、やっぱり、そこは、ずいぶんな違いでしたわ」
「で、結局、どういうことから、フォレスティヤ大尉を愛していることに気がついたんですか?」
「まあ、こんなことを言っても、信じていただけるとは思いませんし、おかしな話にきこえるかも知れませんけれど、実は、同僚の看護婦があたしにそう言ってくれましたの――むろん、言われたあとでは、わたしもすぐそうだと自分で思いましたけど。はじめは、あたし、すっかりめんくらってしまいましたわ。だって、あのひとについて、あたしはまだ何も知らないんですものね、イギリス人はみんなそうですけれど、あのひともとてもうちとけない人で、きっと奥さんに、子供が六人もあるだろうぐらいに思っていましたの」
「そうでないことが、どうしてわかりました?」
「あたしから訊きましたの。独身だということをあのひとの口から聞いた瞬間に、あたし、これはもう、どんな策略を使ってでも、このひとと結婚をしよう、と決心しましたの。ロバートは、とてもつらい思いをしていましたのよ。あおむけに寝ることができませんから、朝から晩まで、うつぶせになって寝ていますでしょう? ベッドに腰かけることなんかは、考えることさえできませんでしたの。でも、その苦しみも、あたし以上だったとは思えませんわ。男って、薄い絹や、ふわふわした、やわらかいものにすがりつくのが好きなものなのに、看護婦の制服しか着ていないあたしが、とても不利な立場だということは、わかっていただけますわね? なにしろ婦長さんは、おさだまりのニューイングランドふうな固苦しい老嬢だったものですから、部下がお化粧するのが気に入りませんし、その時分のあたしは全然お化粧をしませんでした。最初の夫も、お化粧ぎらいでしたし、その頃のあたしの髪も、いまみたいに美しくはなかったんですの。ロバートが、あのすばらしい碧い眼であたしを見ますと、あたしはきっと、ずいぶんみっともない女だと思ってるに違いないというひけめを感じたものですわ。あのひとが元気がないものですから、あたしは何とかして少しでも気持を引き立たせてあげたいと思って、少しでも暇があると、そばへ行って話しかけましたの。あのひとはいつも、戦友がみんな塹壕のなかで苦労しているのに、自分のように強い丈夫な男が何週間もベッドにころがっていることを思うと、とても辛抱ができない、と言っていました。あのひとと話していると、いつでも、ああ、この人は、いつも弾丸がビュンビュン飛んで来る、一寸さきの運命もわからないような戦場にいなければ、生き甲斐を感じない男たちの一人なのだ、と思わずにはいられませんでした。あのひとにとっては、危険が一つの刺激剤でした。あたしは.あなただから申しまずけれど、毎日、体温表を記入するときに、あのひとの体温を一分か二分、わざと高くつけて、お医者が、病状を実際より少しわるく考えるようにしましたのよ。あのひととしては、一日も早く退院できるようにと、一生けんめいにお医者のごきげんをとっていました。それがわかっているだけに、あたしとしては、退院させられないように、工夫するのが正当だとしか思われませんでした。あたしが患者たちに話して廻るのを、あのひとはいつも何か考えこんでいるような眼でみていましたから、あたしとの僅かな時間のお喋りを楽しみにしていることが、あたしにはわかりました。あたしは自分が未亡人で、係累は一人もいないことや、戦争がすんだら、ヨーロッパに定住するつもりでいることを話しました。そのうちに、だんだん、あのひともうちとけてきました。自分の身の上については、あまり話しませんでしたが、あたしをからかうようになったんですの。あのとおり、とてもユーモアのあるひとですし、ときどき、あたしが好きなのかも知れないと、本気で思うようになりました。そこへ、とうとう、原隊へ復帰するようにと命令が出ました。出発の前の晩に一緒に食事をしてくれと言われましたの。あたし、びっくりしましたわ。やっとのことで、婦長から休みをもらって、二人でパリヘドライヴしました。軍服すがたのロバートの凛々しさ、立派さ、とても想像のほかでしたわ。あれほど堂々とした気品のある男を見たことがありません。頭から足のさきまで、貴族的でね、でも、どうしたことか、あたしの予想したほど、元気がありません。あれほど前線へ帰りたがっていたのに、妙だと思って、あたしはたずねました。
『なぜそんなに沈んでいらっしゃるの? やっと望みがかなったんでしょう?』
『そりゃわかってるんだが。それなのに、ぼくは少し気が重いんです。なぜだか、わかりませんか?』
何を言うつもりなのか、あたしには考える勇気が出ませんでしたわ。それで、ここは冗談にまぎらせたほうがいいと思って、笑いながら、
『あたし、あてものは、あまり上手じゃありませんわ。あたしにわからせたいとお思いになるなら、話してくださるほうが、てっとりばやいわ』
すると相手は眼をふせてしまいました。ひどく、おちつかない様子ですの。
『あなたは、ぼくにほんとに親切にしてくれましたね。あなたのご親切には、まったく、どう感謝していいかわからない。あなたは、ぼくがいままでに逢った一番すばらしい女性です』
あのひとにそんなことを言われて、あたしはすっかりあわててしまいました。イギリス人て、ほんとにおかしな民族ですわ。それまで、あのひとは、一言も、お世辞らしいことを言わなかったんですのよ。
『あたしは、役に立つ看護婦なら、だれでもすることをしただけですわ』
『いつか、もう一度、逢ってもらえますか?』
『それは、あなた次第ですわ』
あたしは声がふるえるのを、ロバートに気づかれなければいいがと思いましたわ。
『ぼくは、あなたと別れたくない』
そう言われて、あたしはもう何も言えなくなりました。
『でも、仕方がないんでしょう?』
『王様と国家とが、ぼくを必要とするかぎり、ぼくは任務をつくさなければなりません」
ロバートは、そう答えましたわ」
ここまで話して来て、フォレスティヤ夫人の薄青い眼は、涙でいっぱいになった。
「『でも、戦争が、永久につづきはしませんわ』と、あたしが言いますと、
『戦争が終って、そして一発の弾丸もぼくに当らなくて、死ねなかったら、ぼくは一文なしになるでしょう。どうやって食っていくか、その目当《めあて》さえ、ないんです。あなたはお金持だし、ぼくは貧乏人です』
『だってあなたはイギリスの紳士じゃありませんの』
『世の中が、民主主義を安泰に発達させるようになった時代に、そんなことが、何の役に立つと思うんです?』あのひとは皮肉な調子で言いました。
あたしはもう泣けて泣けて、仕様がありませんでした。あのひとの一言一句が、あんまり美しいことばかりなんですもの。もちろん、あのひとの言おうとしていることは、あたしにはよくわかりました。あたしに結婚を申しこむことは、自分の名誉を汚すと思っていたのですわ。あたしのお金に目をつけているなどということを、ちょっとでもあたしが考えるくらいなら、その前に死んでしまいたいくらいに、このひとは思っているのだわ――そうあたしは感じました。あのひとは好男子でした。あたしなんか、とても釣り合わないひとだとはわかっていましたけれど、自分がこのひとを欲しいと思うなら、あたしのほうから言いだして、手に入れなくてはならないと、あたしは覚りましたの。
『あたしが、あなたに夢中になっていないような顔をしたって、仕様がありませんわ。だって、あたし、ほんとにそうなんですもの』あたしは思い切って言いました。
『何も言わないでください、別れが一層つらくなるから』あのひとの声はかすれていました。
あたしはもう死ぬんじゃないかと思いましたわ――そう言われたとき、あのひとが、あんまり愛《いと》しかったので。あたしの知りたかったことは、その一言ですっかりわかりました。あたしは手をさしのべて、飾らずに、言いました。
『ロバート、あたしと結婚してくださる?』
『おお、エリーノア』
そのあとで、やっとあのひとは、はじめてあたしを見た日から、あたしを愛していたことを告白しましたの。でも、はじめは、自分でもそれを軽い気持で考えていて、相手はたかが看護婦だから、浮気の相手にしてもいいぐらいに思ったんですって。でも、やがてあたしがそういう種類の女じゃないことがわかり、相当のお金も持ってることがわかると、あのひとは恋をあきらめなくてはならないとかたく決心しました。つまり、結婚ということは、ぜんぜん問題にならないと思ったわけですの」
おそらく、フォレスティヤ夫人にとって、もっとも嬉しかったことは、フォレスティヤ大尉が、彼女にふざけかかってみようかという気を起したということであったにちがいない。無論ほかのどんな男も、そんな失礼なことを言いだした者は一人もなかったし、フォレスティヤもまた言いださなかったのだが、彼が心のなかでそう思ったのが事実だという確信こそは、彼女にとって尽きることのない喜悦の源であったのだ。いよいよ二人が結婚すると、エリーノアの親戚の人たちは、みな頑固一徹な西部人ばかりだから、自分の金で亭主を遊ばせておかずに、何か仕事をさせなくてはいけないと勧告したし、フォレスティヤ大尉自身も、心からそれを望んだ。ただ一つ、彼がもちだした条件は、次のようなものであった。
「世の中には、紳士として、できない仕事というものがあるよ、エリーノア。そういう仕事でさえなければ、ぼくは喜んでやるよ。むろん、ぼくはそんなことに、たいしてこだわる性質ではないがね、紳士である以上、どうもこればっかりは仕方がない。実際、めんどくさいことだが、今日のような時勢には、特別に自分の生まれた階級に対して責任を感ぜざるをえないからね」
エリーノアの考えでは、彼女の夫は、長年、砲煙弾雨の下をくぐって、国家のために生命を的に働いてきたのだから、今さら働くことなどはないと思ったが、一方、夫を誇りに思えば思うほど、自分の金をめあてに結婚した、ずるい女たらしだと蔭口を言われるのは我慢できない。それで彼女も夫が、これならと思うような仕事をみつけるなら、反対はしまいと決心をした。だが不幸にして、かかって来た仕事の口は、どれもみな、あまり立派なものでなかった。けれども彼は自分の責任で、それらの仕事をことわることをしなかった。
「きみ次第だよ、エリーノア」といつも彼は言った。「否とでも応とでも、きみが言ってくれれば、ぼくはその通りにするよ。かわいそうなぼくの親父《おやじ》が、ぼくがあの仕事をするのを見て、草葉のかげでどんなに嘆くとしても、仕方がないとあきらめるさ。ぼくは何をおいても、きみに対して義務を果たしたいからね」
エリーノアは彼の言葉を耳に入れなかったので、やがて彼が働くという話は出なくなった。フォレスティヤ夫妻は、一年の大半をリヴィエラの山荘で過した。イギリスヘはほとんど行かなかった。ロバートに言わせると、戦後のイギリスは紳士の住む国ではなくなった。彼が若い頃につきあった愉快な男たち、いや、白人のすべては、みな戦死してしまった。彼としては冬はイギリスで暮らして、週に三日はカマボコ小屋で寝泊りをしたい、それがほんとうの男の生活なのだが、いかんせん、エリーノア、きみをあの猟場へつれていくのは無理だ。そんな犠牲をきみに払わせることは、ぼくにはできない、というのであった。エリーノアのほうではどんな犠牲でも払ってもかまわないと言うのだが、フォレスティヤ大尉は頭を振った。ぼくももう昔のように若くはない、狩猟にふける時代は終った。ぼくはシーリハム・テリヤを飼ったり、バフ・オーピントンの種鶏を育てたりすることで、けっこう満足していると言っていた。夫妻の住居は広い敷地を占めていた。家は台地の丘の上にあり、三方は林にとりかこまれ、前面には庭園があった。エリーノアの話では、彼女の夫は、ふるびたツイードの背広を着て、犬と鶏の世話をさせている下男と一緒に、屋敷うちを歩きまわるのを、何よりの幸福としていた。先祖以来、何代にもわたる田舎地主としての彼の血統が、はっきり見えるのは、そうしたときであった。その下男と、バフ・オーピントンについて長ばなしに耽っている彼をみるのは、エリーノアにとって格別に心あたたまる、興のふかい景色であった。それはまるで、彼が自分の領地の猟場番人と雉の話をしているようであった。また彼がシーリハム・テリヤのことで夢中になるところは、故郷でさぞ同じように自分の飼っている猟犬たちのことで大騒ぎをしていたことだろうと思わせるに充分であった。フォレステイヤ大尉の曾祖父は「摂政時代」(ジョージ三世の治政、その皇太子、後のジョージ四世が摂政だった時代、一八一一〜二〇)の伊達男の一人であった。名門の一家を破産にみちびき、領地を売るようなことにしたのは、彼であった。一族はかつてはシュロプシャーのすばらしい荘園に何世紀も暮らしていたのだ。それはとうの昔に人手に渡ったものであったけれど、エリーノアはぜひ一度行って見たいと言った。が、フォレスティヤ大尉は、自分にとってはそれはあまりにつらいことだから、彼女をつれていく気にはなれないと言った。
フォレスティヤ夫妻はしばしば客をもてなした。フォレスティヤ大尉は酒についてはなかなかの通《つう》で、自分の酒蔵《さかぐら》を自慢していた。
「主人のお父さまはイングランドで一といって二とさがらない舌を持っているというので有名な方《かた》でしたから、主人もお酒には趣味がありますの」とエリーノアは言った。夫婦の友人の大多数は、アメリカ人、フランス人、ロシア人であった。ロバートはそれらの人々のほうが、大体においてイギリス人より面白いと言い、エリーノアは夫の気に入る人なら誰でも好きになった。ロバートの意見によると、イギリス人は全然、相手にならないのだそうであった。彼がむかし知っていた連中の大半は、狩猟や射撃や魚釣りに凝る人々ばかりで、彼等はいまでは、かわいそうに、みんな破産してしまった。そして、幸いにして自分はいわゆる俗物《スノプ》ではないけれども、自分の妻が、誰も名を聞いたこともないような「成金」連中の仲間入りをするのは、あまり感心できない、というのである。フォレスティヤ夫人は決してそんな特別な趣味の持主ではなかったが、しかし夫の紳士らしい偏見を尊重し、その排他的な態度を立派だと思っていた。
「もちろん、あのひとは気むずかし屋ですわ」と彼女は言っていた。「でも、その気むずかしさを大切にさせてやるのが、あたしとしての心づくしだと思いますの。ああいう氏素姓《うじすじょう》の男のひとを深く知るようになりますと、そういうことがどんなに無理もないことか、自然にわかってきますわ。あたしたちが結婚してからの長い年月で、一度だけあのひとが腹を立てるところを見たのは、カジノで、一人のジゴロがあたしに近づいて、一緒に踊ってくれと言ったときでした。ロバートは、もう少しで、その男を殴り倒すところでしたの。あたしが、ああいう若者は、ただ商売のためにやっているのだからって、なだめますと、主人は、あんな下等な豚みたいなやつには、おれの妻にダンスの申しこみをすることだって許せないって言いましたわ」
フォレスティヤ大尉は、ごく高尚な道徳上の主義を持っていた。自分は狭量な人間でないことを神に感謝するが、それでも人間はどこかで一線を画すべきものだと思う。偶然にリヴィエラに住んでいるからといって、酔漢や、やくざ者や、堕落者の類と交際しなくてはならぬ筋合はないはずだ。性的な放埓に対し、彼は毫《ごう》も容赦をしないで、妻のエリーノアが少しでも怪しい噂のある婦人と交際することを許さなかった。
「まったく、あのひとは、潔白なひとでしたわ」とエリーノアは言った。「汚点《しみ》ひとつないというのはあのひとのようなのを言うのでしょう。まあ、ときには少しばかりやかましすぎるようにみえるところがありますけれど、あのひとは、自分がそうする気のないことを他人に要求することは、けっしてないということを、忘れてはいけないと思いますのよ。何といっても、あれだけ高潔な主義を堅く持していて、どんな犠牲をはらってでもその主義をつらぬこうとする人は、尊敬しないではいられませんわ」
フォレスティヤ大尉が、どこででもみかけるような人間、それもどちらかといえば面白い男だと思えるような人間について、あれは本物の紳士じゃないとエリーノアに一言いえば、それ以上何と反対してもむだだということを彼女は知った。夫が一度判断をくだせばそれでおしまいだということがわかったので、それに従うことにきめていた。二十年に近い結婚生活の後に、ほかのことはともかくも、彼女が確信できたことが一つあった。そしてそれは、ロバート・フォレスティヤは完璧なイギリス紳士の典型だということであった。
「そして神様のお造りになったもので、イギリス紳士ぐらい立派なものはないと思いますわ」と彼女は言った。
厄介なのは、フォレスティヤ大尉が、イギリス紳士の典型として、どうもあまり完璧すぎはしないかということであった。四十五歳の彼は(エリーノアよりは二つか三つ年下であったが)相変らず非常な美男子で、縮れた豊かな半白の頭髪と、瀟洒たる口髭との持主であった。戸外で多くの時をすごす男に通有の、日やけした、健康そうな、渋皮色の肌をしていた。長身で、痩せて、肩幅は広かった。どこからみても軍人らしかった。遠慮のない、屈託のない口のききかたをし、磊落《らいらく》に大声で笑う。会話も、態度も、服装も、ほとんど信じられないほど型にはまっていた。つまり、あまりにも英国の田舎地主らしさがイタについているので、まるで俳優がその役どころをすばらしく上手に演じているような気持にさせられるのだ。パイプを口にくわえ、ゴルフ・ズボンに、イングランドの荒地《ムーア》地方でよく見かけるツイードの上衣といういでたちで「クロアゼット」あたりを漫歩している彼のすがたをみると、あまりにもイギリスの狩猟家紳士《スポーツマン》そっくりなのにギョッとさせられる。また彼の会話、強引な主張ぶり、言うことの陳腐さ、くだらなさ、ひとなつこくて育ちのよい人間にありがちの間抜けさなど、すべてが退役将校という人種の特徴をあまりにピッタリみせつけているので、どう考えても借りもの、見せかけとしか思われないのである。
夫婦の住んでいる丘の下の家にサー・フレデリック・ハーディ夫妻が住むことになったことを聞いたとき、エリーノアは大いに喜んだ。ロバートが、自分と同じ階級の人と近所づきあいをするのは、夫にとっていいことだと思ったのである。彼女はカンヌに住む友人たちから、ハーディ夫妻について、いろいろ聞きだした。サー・フレデリックは、さきごろ伯父さんが死んだので従男爵の位をつぎ、相続税の支払いがすむまでの二三年間、リヴィエラで暮らすつもりで、この地へ来たらしい。若い頃はずいぶん放蕩もしたという話で、カンヌへ来た頃にはもう五十の坂をかなり越していたが、いまではたいへん感じのいい小柄な婦人とちゃんとした結婚をして、二人の小さな男の子の父親になっている。ハーディ夫人の前身が女優であったというのは残念なことで――というのはロバートが女優というものにあまり好い感じを持っていないからだが、誰にきいても、夫人はごくたしなみのよい、貴婦人らしい女性で、とても舞台に立った女だとは思えないくらいだという。フォレスティヤ夫妻が彼女にはじめて会ったのは、あるお茶の会の席上で、そのときはサー・フレデリックは来ていなかった。そしてロバートは彼女を、なかなか品のいい、ごく真当《まっとう》な人柄らしいと認めたので、エリーノアは隣人らしく仲良くしたいと思って、ハーディ夫妻を午餐に招待した。日どりがきまり、フォレスティヤ夫妻は主賓に会わせるために沢山の客を招いた。ハーディ夫妻はやや遅れて来た。エリーノアはサー・フレデリックにたちまち好意を感じた。彼は彼女が予想したよりはずっと若々しく、短く刈った頭髪には一本の白髪もなかった。たしかに彼にはどこか魅力的な少年のようなところがあった。体格はきゃしゃで、背丈は彼女よりも低かった。そして明るい、親しみぶかい眼と、こだわりのない、にこやかな表情との持主であった。彼がつけているネクタイは、ロバートがときどきつけるのと同じ近衛連隊のそれであることに彼女は気がついた。いつもショウ・ウィンドウのなかから出て来たようなロバートほどに身だしなみはよくはなかったが、その古びた服を、何を着ようと大した変りはないと言いたげに、楽々と着こなしていた。エリーノアは、なるほどこの人は、若いときには少し放蕩もしたらしい感じがあると思った。それでも少しも非難したい気持にはならなかった。
「主人をご紹介申しあげますわ」と彼女は言った。
彼女は夫を呼んだ。ロバートはテラスでほかの客たちに話しかけていたので、ハーディ夫妻の来たことに気づかなかったのであろう。彼は持ち前の磊落な人なつこい態度で、しかもエリーノアがいつもうっとりさせられる上品な様子で、近寄ってハーディ夫人と握手した。その次に彼はサー・フレデリックのほうへ向き直った。サー・フレデリックは彼を見て、意外そうな顔になった。
「前にお逢いしたことがあるんじゃないでしょうか?」
ロバートは涼しい顔で相手をみた。
「そうは思われませんが」
「たしかに、あなたのお顔を見たおぼえがありますよ」
エリーノアは夫がムッとしたのを感じ、すぐに、これは何かまずいことになったと気がついた。ロバートは笑いだした。
「どうも、たいへん失礼のようですが、どう考えてみても、過去にまだ一度もあなたをお見かけしたことはないように思いますな。あるいは戦争中に、どこかでひょっとすれちがったのかも知れませんね。なにしろ、ずいぶん大勢の男と逢いましたからなあ! 奥さん、カクテルでもいかがですか?」
食事中、エリーノアは、ハーディがずっとロバートを見ているのに気がついていた。ロバートにどこで逢ったかを、つきとめようとしている様子であった。ロバートのほうは両となりの婦人客をもてなすのに忙しくて、ハーディとは視線を合わせない。隣人たちを饗応することに一生懸命なのである。彼の豪放な笑い声が、部屋じゅうに鳴りひびいた。主人役としての彼は、実にすばらしい。エリーノアはもとから彼の社交上の義務に忠実な態度に敬服をおしまなかった。隣席に坐っている女性がどんなにたいくつでも、せい一杯、お相手をつとめるのだ。しかし、客たちが帰り去ったあと、ロバートの陽気さは外套のように肩からスッポリ脱け落ちた。彼女は夫の気持がひどく掻きみだされていることを感じた。
「公爵夫人には、ずいぶん捲きあきさせられたでしょう?」彼女はやさしく言った。
「あの女は、意地わるな婆《ばば》あ猫だが、ほかにはべつにどうということはないよ」
「サー・フレデリックが、あなたを知ってるようなことを言ったのは、おかしなことね」
「ぼくは絶対にあの男を見たことはない。しかしあの男のことなら、何でも知っているよ。もしぼくがきみだったら、エリーノア、とてもきみのように我慢してあの男とつきあってはいられないね。あいつはとてもわれわれの相手にはならんと思うよ」
「でも、ハーディ家は、イギリスで一番古い従男爵の家柄でしょう。『フーズ・フー』に出ていたじゃありませんか」
「あいつはくだらないならず者さ。むかしぼくが噂に聞いて知っていたハーディ大尉が――いや、フレッド・ハーディが――」ロバートは言い直して、「現在のサー・フレデリックだとは、ぼくは夢にも思わなかった。あの男だと知っていたら、ぼくはこの家にあいつを招ぶことなんか、けっして承知しなかったろう」
「なぜですの、ロバート? あたしは、わるいけど、ずいぶん感じのいい人だと思いましたわ」
このときばかりは、エリーノアも、夫がすこし無理を言っているように思った。
「たくさんの女が、あの男をきみのように思って、それがためにたくさんの金を使わせられたものだよ」
「他人《ひと》の噂って、あてにならないものだわ。話に聞いたことを、何もかも信じるわけにはいきませんわよ」
夫は彼女の手をとって、思いつめたように彼女をみつめた。
「エリーノア、まさかきみだって、ぼくが他人の蔭口を言うような男でないことは、わかっていてくれるだろう。それどころか、ぼくはハーディについて知っていることを、きみに話したくないくらいなのだ。ぼくはただ、あの男がきみとつきあうには不適当な人間だということを、ぼくの言葉どおりに受けとってくれとたのむだけなんだ」
これは、エリーノアとしては、とても聞き流しにはできない訴えであった。ロバートが、これほどまでに自分を信じてくれると思うと、彼女はぞくぞくするほど嬉しかった。いざという場合、彼はいつも彼女の貞節にうったえずにいられない、そのうったえにそむく気には、彼女はなれなかった。
「ロバート、あなたが高潔そのものの方だということは、だれよりもあたしがよく知っていますわ」彼女は重々しく答えた、「あたしに話してもいいとお思いになれば、話してくださることはわかっていますけれど、もういまでは話したいとお思いになっても、あたしのほうで伺いたくありませんわ。だって、それではまるであなたが、あたしを信じてくださるほど、あたしがあなたを信じていないようになりますもの。あたしは喜んであなたのお考えに従いますわ。ハーディ夫妻を、二度とこの家の入口に寄せつけないと、あたし、お約束します」
しかし、エリーノアは、ロバートがゴルフに行っている留守に、よく外で昼食をしたから、ハーディ夫妻とはたびたび顔を合わせた。サー・フレデリックに対して、ロバートが彼を好まない以上、自分も嫌わなくてはならないと思っていたから、彼女はいつも素気ない態度をとった。だが相手はそれに気がつかないのか、それとも気にかけないのか、向うからわざわざ彼女に親切にしてくれるので、彼女には気楽につきあえた。女というものは、どうせたかが知れたものだが、それでもなかなか可愛いものだと、あっさり考えている男、そうして態度、動作のこんなに好もしい男を、嫌いになるのはむずかしいことであった。自分のつきあう相手として不適当な人間かも知れないけれど、彼の茶色の眼の感じは好きにならずにはいられなかった。それはどこか人をからかっているような眼つきで、油断がならないような気持を相手に起させるが、それでいて何ともいえないほどやさしくいたわりぶかいので、悪意があるとはどうしても思えないのだ。だがエリーノアは、彼についての人の噂を聞けば聞くほど、ロバートの正しかったことが、ますますはっきりわかって来た。彼は不品行な女たらしであると、ひとびとは言った。あの男のために入れあげて、しかも倦きられると同時にあっさりほうりだされた女の数はこれほどあると、ひとびとはその名を数えたてた。いまでは彼もすっかり家に落ちついて、妻子のほかに余念がないようにみえる。しかしあれほどの悪党が、本性を入れ替えることができるだろうか? レディ・ハーディが、われわれの想像以上につらい思いをしているとしても、少しも意外なことではないだろう。
フレッド・ハーディは悪党である。女ぐるい、バカラ博奕、競馬に敗けることが巧いという不運な癖などが積みかさなって、彼が破産宣告の法廷へひっぱりだされたのは二十五歳のときで、そのために将校を退官させられた.その後の彼は、自分の魅力に負けた年増女たちに金を貢《みつ》がせることを、少しも恥と思わなくなった。だが戦争になったので、もとの連隊へもどり、殊勲章《DSO》をもらった。それからケニヤへ行って、早速ここで、ある不名誉な離婚事件の共同被告として訴えられた。ケニヤを去ったのは、何か小切手に関する怪しげな嫌疑を受けたためである。あの男は正直ということを好い加減に考えている。あの男からうっかり自動車や馬を買ってはいけないし、あの男が熱心に買えとすすめるシャンペンなどは買わないに越したことはない。持ち前の愛想のいい調子で、二人で大金もうけをしようなどと持ちかけられて、思惑ばなしに乗りでもしたら、結果は、あの男がいくら儲けるかは別として、こちらは一文も儲からないことは確かだ。あの男は自動車のセールスマン、インチキ相場師、ブローカー、俳優などの職業を転々とした。世の中に正義というものがあるとしたら、あの男の行きつくさきは、たとい刑務所でないにしても貧民窟で野たれ死にでもするのが落ちだったろう。ところが、運命というものは憎らしいトリックをするもので、とうとう爵位はつぐ、相当の収入のある身の上になったばかりか、四十をよほど越した年齢で美人の賢い妻をめとり、その妻に二人のかわいい丈夫な子供まで生ませたいまでは、未来はあの男に、豊かな生活と、社会的地位と、世間の尊敬とを保証したも同様である。あの男は昔から女に対して不まじめだったように、人生に対しても不まじめだったが、人生は女に負けないほど彼に対して親切だった。もしあの男が過去を追想することがあるとすれば、きっと好《い》い気になってほくそ笑まずにはいられまい。おれはさんざん楽しいことはしたし、浮き沈みの多かった生活も結構おもしろかった。そしていまは、健康にも恵まれ、良心にもやましいことはなく、田舎貴族として、(畜生、くだらない身分だが)貴族の息子らしく二人の子供を育てることに専念するつもりでいるのだ。その上に、いまおれの選挙区にがんばっている老いぼれ議員が辞職した暁には、このおれ自身が議会入りすることにもなるだろう――まったく呆れた話だ。
「議会へ入れば、おれだって議員どもの知らないことを、一つや二つ教えてやれるぞ」と彼はひとりごちた。
なるほど、それはそうに違いないだろうが、彼はそこでもう少しよく考えて、その教えてやれることというのが、議員連のあまり教わりたくないことかも知れないとは反省しなかった。
ある日の午後、そろそろ日暮れ近くに、フレッド・ハーディは「クロアゼット」のとあるバアへ入って行った。彼は人なつこい性質で、ひとりで酒を飲むのは好かなかったから、だれか知っている人間はいないかとあたりを見まわした。ちょうどゴルフ帰りで、そこでエリーノアと待ち合わせているロバートの姿をみつけた。
「よう、ボブ、一杯やらんかね?」
ロバートはギョッとした様子だった。リヴィエラに住む人間で、彼をボブと呼ぶ者は一人もなかった。声をかけた男が誰であるかを知ると、彼はかたくるしく返事をした。
「もう飲みましたよ、ありがとう」
「もう一杯のめよ。うちの奥がたはおれが食事のあいだの時間に飲むのを許してくれんが、おれはうまく隙をみつけて逃げだしては、たいがい今じぶん、ここらへすべりこんで、一杯やるのさ。きみの意見はどうか知らんが、おれは神様が六時という時刻をおつくりになったのは、男に一杯のませるためだったような気がするね」
彼はロバートの隣りの大きな革椅子にどさりと腰を落して、給仕人を呼んだ。それから例の憎気《にくげ》のない、ひとを惹きつける笑顔をロバートに向けた。
「はじめておれたちが逢ったときから、ずいぶん沢山の水が橋の下を流れたもんだなあ、そう思わないか?」
すこし眉をひそめたロバートが、もしはたで見ている者があったら、「油断のない」とでも形容しそうな一瞥《いちべつ》を相手に送った。
「どうも、あんたの言う意味が、はっきりのみこめませんね。ぼくの信ずる限りでは、ぼくら二人がはじめてお逢いしたのは、三、四週間前、あなたとあなたの令夫人とが、御親切にも拙宅での昼食会へおいでくだすったときだと思いますがねえ」
「よせよ、ボブ。おれは前にきみに逢ったことを、たしかに知っとるんだ。はじめはちょっと迷ったが、すぐにピカッと思いだしたよ。きみは、おれがいつも車を預けていた、ブルートン・ストリートのガレージで、車体洗いをやっていたじゃないか」
フォレスティヤ大尉はあけっぱなしに、大笑いした。
「お気の毒ですが、そりゃ、あんた、間違いですよ。こんなバカバカしい話、ぼくは聞いたことがない」
「おれはあいにく、ばかに記憶がよくてね、一度みた顔は忘れないんだ。きみだって、おれを忘れていないさ、わかってるよ。おれが車を自分でギャレジへまわすのがめんどくさいときに、よくきみにおれのフラットから車をはこんでもらって、そのたびに半クラウンずつやったっけが、あれだって数知れないほどだ」
「てんで出たらめをしゃべっている。ぼくはきみがぼくの家へ来るまで、絶対にきみに逢ったことはないです」
ハーディは愉快そうにニヤニヤ笑って、
「おれは昔から写真きちがいだった。とった写真はアルバムに貼ってある。おれの買いたての二人乗りの車のそばに、きみが立ってる写真を、このあいだみつけたことを聞いたら、おどろくかね? あの頃のきみは、オーヴァオールすがたで、顔も汚れていたけれども、それでもすげえ美男だったぜ。むろん、いまでは肥ったし、ゴマ塩あたまに、口ひげも立ててはいるが、やっぱり同じ人間さ。まちがいっこはないね」
フォレスティヤ大尉は冷やかに相手の顔をみて、
「きみはきっと偶然に似ている人間をみたので間違ったんでしょう。きみがたびたび半クラウンのチップをやった男は、だれかほかの男だ」
「ふむ、では、一九一三年から一九一四年まで、ブルートン・ガレージで車体洗いをやっていた男が、きみでないと言うんなら、あの時分、きみはどこにいたんだ?」
「インドにいましたよ」
「軍隊に入ってか?」フレッド・ハーディは、またニヤリと笑って、たずねた。
「銃猟に行っていたんだ」
「嘘をつけ」
ロバートの日焼けした顔に、濃く血の色がさした。
「ここは殴りあいをするような場所じゃないが、きさまのような酔漢から侮辱されて、ぼくがじっとしていると思ったら、間違いだぞ」
「きみについて、おれはまだほかに知ってることがあるが、それを聞きたくはないのか? 人間はいろんなことを思いだすものだ。おれもびっくりするほど、いろいろ思いだしたよ」
「そんなこと、一つも興味がないね。はっきり言うが、きみは途方もない間違いをやっている。だれか、ぼく以外の人間と、ぼくとを混同しているのだ」
そう言いながら、彼は席を立とうとはしなかった。
「そう言えば、あのころからきみは少し怠けものだったな。一度、こういうことがあった。おれが朝はやく遠出をしようと思って、九時までに車を洗っておくように、きみにいいつけた、ところが洗ってないもんだから、おれが怒って一文句《ひともんく》つけると、トンプソン爺さんが言うには、爺さんはきみの親父《おやじ》とは仲間だったので、きみが行きどころもなくて困ってるものだから、お情けできみを引取ってやったのだそうだ。きみの親父は、ホワイトだったか、ブルックスだったか忘れたが、とにかくクラブのバアテンをしていて、きみも同じクラブのボーイだったのだな。おれの記憶が正確だとすれば、きみはコールドストリーム連隊に入隊したのだが、だれかに身柄を買われて、従者になった」
「ふん、夢みたいな話だ」
「まだ憶えてることがあるぜ、一度おれが賜暇《しか》で帰国したときに、例のガレージへ行ったら、トンプソン爺さんは、きみが輜重《しちょう》隊に入ったと言っていたよ。きみはなるたけ生命を粗末にしたくなかったのだろう、ちがうか? 塹壕戦の勇士だったとかいう、きみの手柄話は、少しばかりホラが大きすぎやしないかい? きみはたぶん将校に任官したんだろうが、それもごまかしかい?」
「むろん任官したとも」
「なるほど、ずいぶん変てこなやつらも、あの当時は任官したからな、べつに不思議はないが、しかし輜重隊の将校なら、おれがきみだったら、近衛連隊のネクタイはつけないぜ」
フォレスティヤ大尉は衝動的に手を自分のタイのところへ持っていった。例のからかうような眼つきでその様子を見ていたフレッド・ハーディは、渋皮色のために目立たなかったとはいえ、ロバートがたしかに顔面蒼白になったと思った。
「ぼくがどんなタイをつけようと、きみの知ったことじゃない」
「そうプリプリするなよ。なにもいきりたつことはないじゃないか。おれもきみの弱みをつかまえたが、それをすっぱぬこうなんて思ってやしないんだ、だからさっぱり白状しちまえばいいじゃないか」
「ぼくには何も白状することはない。全部が、突拍子もない間違いだ。だからここで言っておくが、きみがぼくについて、いままで喋っていたような嘘を言いふらすようなことがあったら、すぐに名誉毀損罪で訴えるぞ」
「じょうだん言うなよ、ボブ。おれが何を言いふらすものかい。おれがそんなことをしたがる人間だと思うのか? おれはむしろ、このことを一つの愉快な奇談だと思ってるんだ。きみに対して、何の悪感情も持ってやしないよ。おれ自身が、少しはでたらめもやって来た男だ。きみがこれだけ見事なブラフをやりつづけて来たことに、おれは感心するよ。はじめがクラブのボーイ、次が騎馬巡査、それから家従で、それから自動車屋の車台洗いだ。それがどうだい、いまじゃ立派な紳士として、大きな屋敷に住んで、リヴィエラの社交界の大もの連をパーティに招くわ、ゴルフのトーナメントには優勝するわ、ヨット・クラブの副会長にはなるわ――ほかにどんな役をしてるか、おれは知らんがね。とにかくカンヌでは、それがきみだ、それに違いないんだ。見事なものだよ。おれも若い頃にはいろいろ危ない橋を渡ったものだが、たしかにきみはたいした勇気の持主だ。ボブ、おれはきみに脱帽するよ」
「お褒めにあずかって恐縮だが、そんなに褒められる資格がないね。ぼくの親父はインドの騎兵隊にいた。ぼくは少なくとも紳士の家に生まれた。そうたいした履歴もないけれども、べつに恥しいと思うことは何もないよ」
「おいおい、もうよせよ、ボブ。おれは誰にもバラしゃしない、うちの奥さんにだって言わない。女どもには、向うが知ってることのほかは決して話さないことにしている。ほんとうだぜ、そういう規則をつくっておかなかったら、いままでだって、どんなごたごたができたか、わからんからね。おれに言わせれば、きみだって、だれか一人、あけすけにつきあえる人間がいたら、嬉しいだろうと思うんだが。年じゅう気をゆるせないんじゃ、つらくはないのか? どこまでもおれに隔《へだ》てを置こうとするのは、気のきかない話だ。まったくおれは、きみのことを何《なん》とも思っちゃいないよ。これでもいまは従男爵の大地主でおさまっちゃいるが、昔はずいぶん物騒な目にもあったものさ。監獄へいかなかったのを自分でも不思議だと思ってるんだ」
「それを不思議がってる人間は、ほかにも沢山いる」
フレッド・ハーディはとたんにげらげら笑いだした。
「こいつは一本、やられたな。それはそうと、気をわるくされては困るが、きみが細君に、おれとつきあうのは感心しないと言ったというのは、ちょいとばかりひどくはないかね」
「そんなことはぼくは言ったことはない」
「いいや、たしかに言ったよ。きみの奥さんは、すばらしいひとだが、ちょいとばかり口数が多いね、それともちがうかね?」
「ぼくはきみのような男と自分の妻について語ろうとは思わん」フォレスティヤ大尉はつっぱなした。
「おいおい、ボブ、おれの前で、そう紳士づらをするなよ。お前とおれとは似合いのやくざ者どうしなんだから、それでいいじゃないか。きみさえ少し話がわかってくれれば、ふたりでずいぶん楽しめることもあろうというもんだ。きみは嘘つきの、ほら吹きの、イカサマ師だが、細君にはなかなかよくしているらしくって、これだけは感心だよ。奥さんはよっぽどきみに惚れてるんだな。女って、おかしなもんだ。あのひとは、ボブ、いい人だぜ」
ロバートは真赤になって、拳を握りしめながら、半ぶん椅子から立ちあがりかけた。
「うるさい、家内のことを言うのをやめろ。二度と彼女《あれ》のことを口にだしたら、殴り倒すぞ」
「いけない、そりゃいけない。お前も立派な紳士じゃないか、自分よりからだの小さい者を殴るという法はないだろう」
ハーディはロバートの顔をみまもりながら、からかうような調子でこう言っておいて、その大きな鉄拳がとんで来たら、いつでも身をかわそうと身構えていたのだが、この彼の言葉が相手に与えた効果にはかえって吃驚《きっきょう》した。ロバートはぐったりもとの椅子に腰を落して、握りしめた拳をゆるめてしまったのだ。
「きさまの言うとおりだ。だが、そう言って逃げるやつは、よっぽど下素《げす》な卑怯者だけだ」
この言葉が、あまり芝居がかっていたので、フレッド・ハーディは思わずクスクス笑いかけたが、そのとたんに彼は相手が本気でそう思っていることに気がついた。この男はまったく真剣なのだ。フレッド・ハーディは莫迦ではなかった。二十五年間、狡智だけにたよって、楽をして暮らして来られたのも、その狡智のひらめきが非凡であったればこそである。いま彼は、この堂々とした体格の、どこから見ても典型的なイギリス人のスポーツマンらしい強そうな男が、力なく椅子に沈みこんだすがたを、驚愕の眼でみつめているうちに、急に稲妻がひらめくように、事態を理解した。この男は、贅沢をして、のらくら遊んでいたいために、愚かな女を手に入れた、ただのペテン師ではないのだ。女は、もっと大きな目的を達するための手段にすぎない。一つの理想にとりつかれ、その理想を追いつづけて、ほかの何ごとにも執着しなかった男だ。おそらく、その観念は彼が、どこかの洒落れたクラブでボーイをしていた時代に、彼にとりついたのだろう。そのクラブ員たちのゆったりとくつろいだすがた、こだわりのない言動などが、少年にはたいへんすばらしいものに思われたのだろう。その後も、騎馬警官として、従者として、自動車の車体洗いとして、彼が出会った男たちは、自分とは別の世界の住人であり、英雄崇拝の靄をとおして彼らを見ていたので、彼の心はおそらくあこがれと羨ましさとで一杯になったのだろう。彼はかれらのようになりたかった。かれらの仲間になりたかった。彼のあこがれた理想とはそれだったのだ。奇怪でもあるが、また哀れをもよおさせる野望ではないか――彼は紳士になりたかったのだ。戦争と、それによって恵まれた将校の地位とが、彼にチャンスを与えた。エリーノアの財産は手段を提供した。このみじめな男は、それがにせものでないということだけが取柄とされているものになりすますこと――つまりにせものになることで、あたら二十年の歳月を費して来たのだ。これはまた何と奇怪なことだ。何とまたあわれな、いたましいことだ。思わず知らず、フレッド・ハーディは、あたまのなかを通りすぎた思いを口にだした。
「気の毒な男だな」
フォレスティヤはハッとして彼をみた。言葉の意味も、それを言った語調も、ロバートにはわかるはずがなかった。彼はたちまち顔をあからめた。
「それはいったい、どういう意味だ?」
「いや、何でもない、何でもない」
「これ以上しゃべっていても仕方がないだろう。きみがひとをとりちがえていることを、ぼくが何と言ったってきみに納得させることはできそうもない。いままでのことには一つとして事実は含まれていないとくりかえすことしか、ぼくにはできない。きみがぼくだと思ってる男は、ぼくではないんだ」
「わかった、いいよ、きみの好きなようにしたまえ」
フォレスティヤは給仕人を呼んだ。
「勘定をぼくに払わせてくれるかね?」氷のように冷やかに彼は訊いた。
「ああ、そうしてくれ」
フォレスティヤはいくらかわざとらしく気取って給仕人に紙幣を渡し、釣銭はとっておけと言ってから、一言の挨拶もなく、フレッド・ハーディのほうを見返りもせずに、バアの外へ出てしまった。
それきり、ふたりは、ロバート・フォレスティヤが生命を失う日まで、一度も会わなかった。
冬をすぎて春になると、リヴィエラの花園ははなやかな色どりに燃え立った。丘の斜面もいたるところ野生の花々が咲き誇った。春もすぎて夏になった。沿岸の街々はかがやかしい暑熱で道ゆく人々の血をわきたたせた。女たちは大きな麦藁帽にパジャマすがたで街を歩いた。浜辺はにぎわった。パンツ一つの男たちと、ほとんど裸に近い女たちとが太陽の下に寝そべっていた。日が暮れると、クロアゼットの酒場には、春の花々に劣らず色とりどりの服装に妍をきそう人々の群が騒々しく出入した。雨は何週間も降らなかった。沿岸のあちこちでは数回の森火事があって、ロバート・フォレスティヤは、持ち前の開けっぱなしな、冗談めかした口調で、うちの林がもし火事になったら、わしらは助からんかも知れんぞと、幾度かひとに話した。ある人々は、家の裏手の樹をすこし伐り倒しておいたらいいでしょうと彼に忠告した。だが彼はその気になれなかった。フォレスティヤ夫妻がその地所を買った頃には、林はみじめな有様に荒れていたのに、年々に枯れた樹を伐り払っているうちに風通しもよくなり、害虫もいなくなって、いまではすばらしく繁茂していたのである。
「森の木を伐るのはまるで自分の脚を切るような気がする。ほとんどみな百歳近い木ばかりだからね」
七月十四日の祝日に、夫婦はモンテ・カルロのあるパーティへ出かけ、晩餐のあとで友人たちといっしょにカンヌへ行った。フランスの国家的祝日なので、カンヌでは戸外のスズカケの樹の下でダンスがあり、花火が打ち揚げられ、遠近の人々が集まって楽しんでいた。ハーディ夫妻も召使たちに暇をやったが、夫婦は家にいて、子供たちはもう寝ていた。フレッドはペイシェンスをやり、ハーディ夫人は椅子のカバーに使う|綴れ織り《タペストリ》を織っていた。急に、ベルが鳴って、あわただしく表の扉をたたく音がした。
「だれだ、いまごろ来たのは?」
ハーディが玄関へ出てみると、一人の少年がいて、フォレスティヤ家の森に火事が起きていると告げた。村からは幾人かの男が出て、消そうとして骨折っているが、人手はいくらでも欲しいところだから、来てくれまいかと言う。
「おお、すぐに行くとも」と答えて、いそいで居間へ戻って、妻に話した。「坊やたちを起して、つれて来て、見せてやれ。さあ、この日照りのあとだから、よく燃えるぞ」
彼は外へとびだした。少年の話では、警察へはもう電話をかけ、当局は軍隊を出動させようとしているという。また村人のひとりはモンテ・カルロへ馳せつけて、フォレスティヤ大尉に急を知らせに行っているとも言った。
「フォレスティヤが帰るまでには、一時間はかかるだろう」とハーディは言った。
ふたりは走りながら、空が真赤になっているのを見た。丘の上まで来ると、炎が空へ舞い上っていた。
水がないので、火をたたき消すよりほかに手段がない。すでに大ぜいの男がはたらいていた。ハーディも仲間に加わった。だが、一つの茂みでやっと炎をたたき消したかと思ってふりかえると、その間にほかの茂みがパチパチと音をたてて、みるみる松明のように燃えあがってしまう有様で、熱さは熱し、人々はささえきれずにじりじりと後退するほかはなかった。軽風が吹いているので、火の粉は樹から藪へと断え間なく飛ばされる。何週間もの日照りのあとなので、森じゅうが薪のように乾いているから、火の粉が樹なり藪なりに落ちればすぐに燃えだすのだ。六十フィートもあるモミの大樹が、まるでマッチの軸木《じくき》のようにいっぺんに燃え上っているのを見ては、すさまじいとはいわぬまでも、何やら薄気味わるい不吉さを感じさせた。猛火は熔鉱炉のなかの火のように咆えたけった。この火を消す最上の方法は、樹木や叢林を伐りたおすことだが、人数は少なかったし、斧を持って来た者は二三人しかいなかった。ただ一つの希望は森火事をあつかいつけている軍隊の来てくれることだが、かれらは来なかった。
「はやく軍隊が来てくれないと、家も助けられないぞ」
妻が二人の子供をつれて丘をのぼって来るのが見えたので、彼はそのほうへ手を振った。彼はもう煤でまっ黒になった顔から、汗をだらだら流していた。ハーディ夫人は駈けあがって来た。
「ああ、フレッド、犬や鶏をどうしましょう」
「そうだ、しまった」
犬小屋や鶏舎は、家の裏側の、伐木した空地にあって、かわいそうな動物たちはもう恐怖に夢中でさわぎたてていた。ハーディがかれらを出してやると、われ勝ちに奔《はし》って火から逃れて行った。めいめい勝手に逃げさせておくよりほかに仕方がなかった。あとで探して呼び集めなくてはならない。火事はもうずっと遠くからでも見えた。けれども軍隊が来ないので、地元の小人数では火の進みを手をつかねて見ているほかはなかった。
「兵隊がはやく来てくれなければ、あの家はもうだめだ」とハーディは言った。「運び出せるものは出したほうがいいだろう」
家屋は石造だが、ぐるりに木造のヴェランダがあるので、火《ほ》くちのように燃えつくことは明らかだ。その頃にはフォレスティヤ家の召使たちが帰って来ていた。ハーディはかれらを呼び集め、ハーディ夫人や二人の子供もてつだって、卓布類、食器、衣類、装飾品、絵の額、家具など、手あたり次第に運べる品物を表側の芝生の上へ運びだした。やっと二台のトラックに乗った軍隊が着いて、てきぱきと壕を掘ったり樹を倒したり、防火作業にとりかかった。指揮をとっている士官が一人いたので、ハーディは家が危険なことを話し、まず第一に家のまわりの樹木を伐り倒してくれと頼んだ。
「家のことはなりゆきまかせにするほかはないですな」士官は答えた。「わたしはこの丘からさきへ火の手がのびるのを防がなきゃなりませんから」
一台の自動車のライトが、まがりくねった路を疾走して来るのが見え、数分後にはフォレスティヤ夫妻が車からとびおりた。
「犬たちはどこにいます?」フォレスティヤ大尉が叫んだ。
「わしが逃がしたぞ」とハーディが答えた。
「おお、きみか」
顔が煤でまっ黒に汚れ、汗まみれなので、その汚ない男がフレッド・ハーディだとはすぐにはわからなかったのだ。ロバートは怒りっぽく眉をひそめた。
「家がやられそうだと思ったから、出せる物はみんな出したよ」
フォレスティヤは燃えさかる林のほうを見やった。
「ううむ、おれの大切にして来た樹が、あのざまだ」
「兵隊は丘の斜面ではたらいている。隣りの土地を救おうとしているんだ。おれたちもあすこへ行って、できるだけ働こうじゃないか」
「ぼくが行く。きみはいいよ」フォレスティヤが怒りっぽい声で言った。
と、そのとき、エリーノアが苦しそうな叫び声をあげた。
「ああ、あら。家が――」
かれらの立っている場所から、裏手のヴェランダの一つが急に燃えあがるのが見えた。
「大丈夫だよ、エリーノア。家は焼けないよ。焼けるのは木でできたところだけだ。ぼくの上衣をあずかってくれ。兵隊の手だすけに行くから」
彼は夜会服をぬいで、妻に渡した。
「おれも行こう」とハーディが言った。「奥さん、あなたはお宅の荷物の置いてある場所へいらっしゃい。大切な家財はみんなわしたちで運びだしたつもりですから」
「おかげさまで、あたしはたいていの宝石を身につけていましたから、助かりましたわ」
ハーディ夫人はなかなかよく気のつく婦人だった。
「奥さま、召使たちを呼び集めて、荷物をあたくしの家までおろさせるとよろしいわ」
夫たち二人は兵隊たちの働いているほうへ歩きだした。
「荷物をとりだしてくれて、御親切に、ありがとう」ロバートが、ぎこちない口調で言った。
「いや、どういたしましてだ」ハーディは答えた。
だが、いくらも歩かないうちに、二人はだれかの呼ぶ声を聞いた。ふりかえると、一人の女が追いかけてくるのが、ぼんやり見えた。
「だんな様、だんな様」
二人が立ち止まると、女は両腕を前にさしのべながら走り寄った。それはエリーノアの小間使であった。ひどくとりみだしていた。
「ジュディが、ジュディが、だんな様、あたしたちが出かけるときに、家のなかに入れたまま閉めて参りました。ジュディが焼けてしまいます。あたしどもの浴室のなかに入れておきました」
「しまった!」フォレスティヤは叫んだ。
「どうした?」
「エリーノアの犬だ。どんなことがあっても、あれを助けなきゃならん」
いきなり彼は家のほうへ走りもどろうとした。ハーディがその腕をつかんで引きとめた。
「バカなことをしてはいかん。あの家は燃えてるじゃないか。なかへなぞ入れやせんぞ、ボブ」
フォレスティヤは振りほどこうとして、もがいた。
「行かせろ、離せ、莫迦。おれが犬を焼け死なせておく人間だと思うのか?」
「おい、冗談を言うな、芝居をしている場合じゃないぞ!」
ファレスティヤはハーディを振りはなしたが、ハーディは跳びかかって相手の腰にとりついた。フォレスティヤは握り拳で力いっぱいハーディの顔を一撃した。ハーディはよろめいて、手をはなしたところを、フォレスティヤはまた殴りつけた。ハーディは地面へ倒れた。
「無礼者め。紳士とはどうするものか、見せてやるぞ」
フレッド・ハーディはのろのろと起き上って、顔をさわった。怪我をしていた。
「畜生、明日は眼のまわりが黒くなってるだろうな」ひどくやっつけられて、少し眼がくらくらした。急に、そばで見ていた女中がヒステリカルに泣きだした。「うるさい、泣くな、スベタめ」彼はきげんを悪くして、どなった。「このことを、きさまの奥さんに一言《ひとこと》もしゃべっちゃならんぞ」
フォレスティヤのすがたはどこにも見当らなかった。人々がようやく彼を発見したのは、それから一時間以上も後であった。彼は浴室の外の階段の上りはなに、両腕に死んだシーリハム犬を抱きしめたまま、倒れて、死んでいた。ハーディは長いあいだ、その死体を無言で眺めていた。しばらくして、
「ばかめ」腹だたしさに、吐きだすように、彼はつぶやいた。「大ばか野郎め!」
この男のペテンが、とうとう最後に、この男を罰した。悪徳を積み重ねた男が、最後にはその悪徳の奴隷となって身動きもできなくなるように、あまりに長く嘘をつきつづけて来たために、とうとう自分の嘘を信じるようになってしまった。何十年という長いあいだ紳士を装って来たボブ・フォレスティヤは、とうとうそれがまやかしであることさえ忘れてしまい、その愚かな、型にはまった考え方しかできない頭脳《あたま》で、紳士たるもののまさになすべきであると思った行為にみずからを駆りたててしまった。嘘と真実《まこと》との区別さえわからなくなって、嗤《わら》うべきヒロイズムのために大切な生命を犠牲に供してしまったのだ。しかしフレッド・ハーディとしては、この悲報をフォレスティヤ夫人に伝える役目が残っていた。夫人は彼の妻といっしょに、丘の下の彼の別荘にいて、夫はまだ兵隊といっしょに樹を伐ったり下生えを引抜いたりしているものと思っていた。ハーディはできるだけ優しく彼女に話しかけたが、やっぱり事実を告げないわけにはいかなかったので、すべての事実を告げなくてはならなかった。咄嗟のあいだには、彼女は彼の言ったことの意味がつかめないようだった。
「なくなって?」彼女は叫んだ。「死んだのですって? あたしのロバートが?」
そのときフレッド・ハーディが――やくざな、シニカルな、人を人とも思わぬ無法者のハーディが言った言葉だけで、彼女は辛うじて苦悩から立ち直ることができたのであった。
「奥さん、フォレスティヤ君は、実に男らしい、立派な紳士でした」
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山鳩の声
かなり長いあいだ、わたしはピーター・メルローズが好きか嫌いか、自分でも中途半端な気持でいた。彼は一冊の長篇小説を公けにしたことがあり、絶えず新人に注目を怠らない読者たち――いささか退屈ではあるが、みな偉い人たちである――のあいだで、かなりの波紋を起した。昼食のパーティにでも出かけるほかに用事のない老紳士たちが、若い女のような熱の入れかたで褒めそやしたので、自分の夫たちとうまくいっていない瘠せこけた御婦人連は、きっと将来のある作家だと思った。わたしは二三の書評を読んだ。それらはてんでに勝手に反対なことを書いていた。ある批評家は、この処女作によって、作者は一躍、イギリス文壇の最先端をゆく小説家の列に加わったと主張するかと思えば、他の批評家は酷評を加えるといった調子である。わたしはこの小説を読まなかった。わたしの経験によれば、ある小説が評判になったら、あと一年待ってから読んで間に合うのである。こうすると全然読む必要のない本がいかに多いか、おどろくばかりだ。
しかし、偶然に、ある日わたしはピーター・メルローズに逢った。何か思いちがいをして、わたしはあるシェリ・パーティヘの招待に応じてしまったのである。そのパーティはブルームズベリにある改造アパートの四階でもよおされたので、わたしは四つの階段をのぼりきったときには少し息を切らせた。主人公は二人の女性で、どちらも等身大をはるかに越えた超特大型で、中年の初期に属し、しかも自動車の内部構造に精通していて、紙袋のなかのものをよろこんでよく食べるところは、ちょっと雨の日の善良な浮浪人みたいだが、にもかかわらず非常に女性らしくもある、といった御婦人である。そこの応接間のことを彼女たちは「あたしたちの仕事場」と称していたが、どちらも食うには困らないから、仕事には生まれてから一挙手一投足の労もとったことはないのだ。その応接間は広くて無装飾で、持主たちの堂々たる体重を支えるのは容易でなさそうなステンレス製の椅子、ガラス板を張ったテーブルが数個、縞馬皮《ゼブラ・スキン》の蔽いをかけた厖大な長椅子《ディヴァン》が一脚、しつらえてあった。壁には二三の書棚、セザンヌ、ブラック、ピカソなどの、彼等より有名なイギリス画家による模写がある。書棚には十八世紀のいわゆる「珍本」が相当数ある(淫書というものは決して古くならないからだ)ほかは現存作家の著書ばかりで、その大半は初版本であるが、なるほどそう言えば、わたしがこのパーティに招かれたのは、わたしの著書の何冊かに署名をするためだったのだ。
パーティはほんの小人数だった。主人側を除けば女性はたった一人で、しかもこれは女あるじたちの妹であるらしかった。この婦人も肥ってはいるが比較的には肥っていないし、背も高いが比較的には高くなく、あけっぱなしで朗らかだが、比較的にはそれほどでもなかったから、そう想像したのである。わたしは彼女の名前を聞きもらしたが、主人公たちのブーフルという姓を呼ばれると彼女も返事をした。わたし以外の男客もまた一人きりで、それがピーター・メルローズであった。彼は思いのほか若く、二十二か三で、中背ではあるが、すがたがよくないので、ずんぐりした感じの青年であった。赤みがかった顔の皮膚が、ユダヤ人ではないのだがセミティック型の大きな鼻をはじめ、顔の骨にあまりにも密着している。毛ぶかい眉の下に、敏感そうな緑色の眼がある。鳶色の髪を、ひどく短く刈りこんでいるが、だいぶフケがたまっている。服装は、チェルシーのキングズ・ロードあたりを無帽で押しまわしている美術学生などが着るような、ノーフォーク・ジャケット(ベルトのついた片前の上衣)、グレイのフランネル・ズボンだった。世間なれない無愛想な若者。態度、挙動も、あまり感じがよくはなかった。自分の意見ばかり聞かせたがり、議論好きで、相手の立場をみとめたがらない。作家仲間に対しては腹いっぱいの軽蔑を抱いていて、またそれを熱心に口に出した。名ある作家たちに対する彼の元気いっぱいな攻撃は、わたしに満足を与えたが、その内容はわたしからみれば大げさすぎ、わたしは用心ぶかく黙って聴いていたものの、わたしがうしろを向くや否や、この男はわたしをも木っ葉微塵にやっつけることは間違いないと思うと、その満足も相当の割引をせざるをえなかった。
彼はよくしゃべった。言うことはなかなか面白かったし、ときには機才もみせた。彼の警句は、もし三人の淑女たちがあまりに法外に嬉しがり、身をよじらせて苦しがらなかったら、わたしにも気軽に笑えたと思われる。彼が何か言うたびに、それが滑稽なことであると莫迦げたことであるとを問わず、三人は爆笑し、哄笑した。何しろとめどなく一人でしゃべっているので、愚劣なこともたくさんしゃべったが、同時にかなり気のきいたことも言った。とにかく彼には一つの観点があった。まだ未熟で、自分で思っているほど独自的なものではなかったが、真摯《しんし》ではあった。しかし彼において最も印象的だったのは、熱烈な、がむしゃらなまでに旺盛な、彼の活力だった。こらえきれぬほどの狂熱で彼自身を燃え立たせている熱火のごときものがある。その熱火は近づく者にさえも、一道の熱気をほとばしらせた。彼には何かがあった。それだけでは大したことではないとしても、別れた後、わたしが、あの男、いまにどんなことになるかな、という軽い好奇心をおぼえたことは事実である。
彼に才能があるかどうか、わたしにはわからなかった。一篇の巧妙な小説を書く若者はいままでにも沢山あった――それだけでは何の意味もないのだ。しかしわたしには、人間として、普通の男たちとはどこか確かに違っているような気がした。彼は、三十になれば――それまでには、あの荒っぽさもやわらげられ、自分で思っていたほど聡明でもなかったことを経験によって知るようになり――なかなか味のある、つきあいやすい男になりそうな、そうしたタイプの性格であった。だが、わたしは彼とふたたび会う折があろうとは思わなかった。
それから二三日後、ひどくお世辞たっぷりな献詞をつけた彼の小説を受けとったときは、わたしは驚いた。わたしはそれを読んだ。それは明らかに自伝的小説であった。舞台はサセックスの小都会で、人物は体面をつくろうのに汲々としているが収入がこれにともなわない、中流社会の上の部に属する人々である。作品のもつユーモアはどちらかといえば下品で、粗野に近い。それがわたしの神経にさわった、なぜなら小説の主たる内容は、登場人物が老いて貧しいということの故にかれらをからかったりひやかしたりする皮肉味にあったからである。ピーター・メルローズは、そうした不幸に耐えて生きることがどんなにつらいかということや、何とかしてそれを彌縫《びほう》してゆこうとする努力が、むしろ嘲罵よりも同情に値いすることを、理解していなかった。けれども作中には随所に情景の描写があり、ある室のささやかな描写とか、田舎の風景の印象とかは、まことによくできていた。それらは心のやさしさ、物質的な事物に精神的な美を感受する力を示していた。いったいに気どりがなく、すらすらと書かれており、言葉の音調に対する快い感覚が認められた。しかしこの作品がほんとうに人目をひいたところ、なるほどこれが読者に受けたのだなとわたしにも合点のいったところは、物語の本筋をなしている恋物語のなかに息づいている情熱にほかならなかった。この恋愛は現代風に、いささかならず淫らがましくて、これまた現代風に、これといった結末なしに朦朧と尻切れとんぼに終って、最後には万事が冒頭と同じような有様で残される、といったものである。しかし読者は、確かに若々しい恋愛、理想主義的でしかも猛烈に性的な恋愛の印象を強く受ける。それが実に生き生きと、また実に感銘ふかく、息づまるような気持がする。いわば生命の鼓動が、紙面にどきどきと脈うつかのようだ。それは無茶で、露骨で、かつ美しかった。それは一つの自然力に似ていた。つまり情熱と呼んでさしつかえない。ほかのどこを探したって、人生にはこれほど感動的で、畏怖の情をもよおさせるものは何もないのだ。
わたしはピーター・メルローズに手紙を書き、彼の小説についてわたしの感想を記し、ついでに一度昼食をともにしないかと言ってやった。翌日彼は電話をかけて来て、わたしたちは日を約束した。
あるレストランの食卓に、わたしと向い合って腰をおろしたとき、彼は案外にはにかんでいた。わたしは彼のために一杯のカクテイルを取った。彼はかなり淀みなく話していたが、わたしは彼が落ちついていないことを認めずにいられなかった。彼の自信の強さというものは、彼を苦しめ苛《さいな》んでいる自信のなさを――おそらく自分自身に対してだろう――隠すためのポーズなのだ、という印象をわたしは受けた。彼の挙動は無愛想でぎごちなかった。たびたび無作法なことを口に出しては、そのための自分の気づまりをごまかすために神経質に笑ってみせる。いかにも自信ありげにふるまうけれども、絶えず相手の反応によってその自信の裏づけをしてもらいたがっていた。相手をいらだたせたり、相手をムッとさせるようなことを言ったりして、たとい暗黙のうちにでもいいから、自分が自分で思っているのと同程度にすばらしい男であることを相手に認めさせたがっていた。彼は自分の仲間である文壇人の意見を軽蔑したがっていて、またこのことが彼にとっての何よりも重大な関心事であった。わたしは彼をあまり好ましくない青年だとは思ったが、べつにそれを気にかけたわけではない。ひとかどの賢い青年が厭味に見えるのは、むしろ自然なことだ。かれらは自分の天分を意識しながら、それをどう用いるべきかを知らずにいる。自分の佳所《かしょ》を認識しようとしない世の中に、やるかたない憤りを抱いている。かれらは与えるべきものを持っているのに、誰もそれを受け取ろうとして手をさしのべる者がない。だからかれらは当然おのれにふさわしいと思っている名声が得られないので焦るのである。要するに、わたしは厭味な、好ましからぬ青年を、気にかけない。わたしが同情の財布の紐をしっかり締めるのは、好ましい青年に会ったときである。
ピーター・メルローズは、自作については極度に謙遜であった。わたしがそのなかの気に入ったところを褒めると、その赤ら顔をほてらせて赤面し、またわたしの加えた酷評に対しては、こっちがきまりがわるくなるほど卑下してそれを受けた。あの本によって彼の得た金はごく僅かなもので、彼は次の作の印税の前払いとして、出版社から月々少額の金をもらっていた。この第二作はまだ書きはじめたばかりだが、執筆に没頭するためにどこかへ移りたがっていて、わたしがリヴィエラで暮らしているのを知っているところがら、どこか静かな場所で、海水浴をしながら安く暮らせるところがあったら、教えてくれまいかと言った。わたしは彼に、なんなら自分で来て、どこか気に入ったところがみつかるまで、わたしの家にしばらく泊っていたらよかろうと言った。わたしがこの申し出をすると彼の緑色の眼が光って、顔が赤くなった。
「お邪魔じゃないでしょうか?」
「大丈夫。わたしは仕事をしているはずです。わたしがきみに提供するものは、一日三度の食事と、眠るための部屋だけです。きっとひどく退屈されるでしょうが、何でも好きなようにして暮らしたらいいでしょう」
「そううかがうと、すばらしいお話のような気がします。ぼくがおうかがいするときめたら、お知らせしてもいいですか?」
「ああどうぞ」
わたしたちは別れ、それから一二週後に、わたしはリヴィエラへ帰った。以上は五月中の話である。六月のはじめ、わたしはピーター・メルローズから、いつぞや食事に招いていただいたとき、ぼくをお宅へ泊めてやってもいいと仰しゃったのがもしご冗談でなかったとすれば、これこれの日時にお邪魔してもいいでしょうか、という問い合わせの手紙を受け取った。なるほど、あのときわたしは本当にそのつもりで言ったのだが、一カ月後のいまになってみると、わたしは彼が傲慢な行儀のわるい若者だったことを思いだし、しかも今までにたった二度しか会ったことがなく、いわば何の関係もない男であることを思うと、いまでは全然そんな気はなくなっていた。客としては、やりきれない退屈な若造なのではないか。わたしはごく静かな生活をしていて、ほとんど人に会わない。また、もし彼がわたしの認めている通り無礼なやつであったとして、こちらは主人の身として癇癪を抑えていなくてはならぬと感じたとしたら、これは大変な苦痛であろう。わたしはとうとう我慢ができなくなって、ベルを鳴らして召使を呼び、彼の衣類を荷づくりして、三十分以内に車を呼んでつれてゆけと命じている自分を想像した。しかしもうどうすることもできなかった。わたしの家に短期間滞在することは彼の間代と賄費《まかないひ》との節約になることだし、彼が手紙で述べているように疲れてみじめな状態にあるなら、それが彼に好結果をもたらすことも想像できるかも知れぬではないか。わたしは彼に電報を打ち、やがて間もなく彼はやって来た。
駅で逢った彼は、例のグレイのフランネル・ズボンにブラウンのツイードの上着で、ひどく暑苦しく、垢《あか》じみてみえたが、プールで一泳ぎしたあと、白のショートパンツとコシェーのシャツとに着がえた。すると彼はまるでばかばかしいほど若くなった。イギリスから外へ出たのは、今度がはじめてなので、彼は興奮していた。彼が無邪気に喜んでいるのを見るとわたしは思わず、心を動かされた。はじめての見馴れない環境に置かれて、彼は平常の自意識を失ったらしく、淳朴に、子供っぽく、謙虚になった。わたしにとっては好ましい驚きであった。夜、夕食の後、庭に腰をおろし、小さい青蛙の鳴き声のほかに沈黙をやぶるもののない静けさのなかで、彼は今度の長篇について語りはじめた。それはある若い作家と有名な歌劇女優《プリマ・ドンナ》とのロマンスである。テーマはウイーダ(イギリス女流作家、一八三九〜一九〇八)あたりを思わせる、このハード・ボイルドな青年が書こうとは思いもよらぬものだったので、わたしはくすぐったい気がした。流行というものが完全に一廻転して、幾世代かの後にもとの同じテーマへ逆もどりするものなのか、実に妙である。ピーター・メルローズがそのテーマを極めて現代式にとりあつかうであろうことは疑いないが、にもかかわらず、ストーリーは一八八○年代の三巻もの小説のセンチメンタルな読者たちを魅了したものとそっくり同じ古めかしいものだ。彼は背景をエドワード七世朝(一九〇一〜一〇)の初期にとりたいと言った。これは若い人々には、すでに物語的な、遠い過去という気分を感じさせる時代なのである。彼はよく語った。話しぶりは聴いていて不愉快ではなかった。自分ではまったく気づかずに、小説のなかに彼自身の白日夢を――彼自身がかがやくばかりの名声に包まれた絶世の美人に愛され、その恋が全世界のあこがれの的となるという、いかにも魅力の少ない無名の若者が抱きそうな、滑稽でもあり哀れをもよおさせもする種類の白日夢を、描きこもうとしていたのだ。わたしはウイーダの小説をかねがね愛読しているほうだから、ピーターの構想も決してわたしに不満を与えるものではなかった。彼の愛すべき描写の天分、彼の建物、個々の家具、壁、樹木、花などの具体物に対する生彩に富んだ見方、また生の情熱、恋愛の情熱――彼のずんぐりした全身がうちふるえるばかりの情熱を表現する彼の表現力などから、わたしは、何か豊烈な、不条理な、詩的なものを彼が書きそうな気がした。しかしわたしは彼にたずねた。
「きみは誰かプリマ・ドンナを知っていますか?」
「いえ、しかしぼくは手に入る限りの自伝や回想記をみんな読みました。それについては徹底的にやったつもりです。誰でも知ってることばかりでなく、ハッとさせるような表現とか、暗示的な逸話とか、そういったものをつかむために、あの社会のこまかい内幕まで、すっかり猟《あさ》りつくしました」
「それで、きみの求めてるものはつかめましたか?」
「ええ、そう思います」
彼は女主人公《ヘロイン》についてわたしに語りだした。彼女は若く、美しく、わがままで癇癪もちではあるけれども、寛容な心の持主である。スケールが大きいのだ。音楽は彼女の情熱で、声だけでなく、彼女の身ぶり、所作《しぐさ》にも、彼女の心の深い思いにも、音楽がある。彼女はひとを羨むことを知らず、芸術を理解する深さは、他の歌手が彼女を傷つける行いをしたにもかかわらず、その歌手がある役をみごとに歌いこなすのを聞いて、その罪をゆるしたほどである。彼女は呆れるほど気前のいい女で、ひとが不幸に遭った話を聞いて、そのやさしい心を動かされると、持ち物を何でもひとにやってしまう。愛する男のためなら、何ものをも犠牲にして悔いない、すばらしい情熱的な恋人でもある。また彼女は聡明で、教養にも富んでいる。心がやさしく、利己心がなく、無欲である。まったく、確かに彼女は立派すぎて、現実には居そうもない女である。
「やっぱり、一度、プリマ・ドンナに逢ってみたほうがいいように思いますね」聴き終って、わたしは言った。
「しかしどうしたら逢えるでしょう?」
「ラ・ファルテローナの名を聞いたことがありますか?」
「もちろんあります。彼女の回想録《メモアール》も読みました」
「あの女も、この浜に住んでるんですよ。わたしが電話をかけて、晩飯に招《よ》びましょう」
「ほんとうですか? そいつは、すばらしいなあ」
「きみが想像したような女とは違うことがわかっても、わたしに文句を言ってはいけませんよ」
「ぼくは真実を知りたいだけです」
ラ・ファルテローナの名は、誰でも知っている。メルバすらも彼女にまさる名声は得られなかった。彼女はいまではオペラで歌うのはやめているが、声は依然として美しく、世界じゅう、どこの音楽ホールでも満員にするだけの魅力を失っていない。毎年、冬には長途の演奏旅行をし、夏は海辺の別荘で休養している。リヴィエラ海岸では、おたがいに三十マイル以内のところに住んでいる者は近所づきあいだから、ここ数年間に、わたしはラ・ファルテローナとはたびたび会っていた。彼女は熱しやすい気質の女で、歌手として名声が高いばかりでなく、色ごとのほうでも有名であった。しかも自分の情事について話すことを何とも思っていなかったから、わたしはしばしば幾時間も、わたしからみると彼女の最もおどろくべき特色だと思われる独特のユーモアをまじえて、王族とか大金持とかから惚れられたときの絢爛たるいきさつを話して、わたしを堪能《たんのう》させてくれるのを聴き、時の移るのを忘れたものである。わたしはそれらの話に、少なくとも若干の真実が含まれていることに満足した。彼女はこれまでに、どれもみな短い期間だが、三四回は結婚したことがあり、そうした関係を結んだ一人に、ナポリの公爵があった。ラ・ファルテローナとして知られているほうが、どんな肩書よりも立派だと考えたので、彼女はこの夫の称号を自分では使わなかった(もっとも実際はこの公爵と離婚後にまたほかの男と結婚したのだから、使う権利もなかったのだ)。けれども彼女の食卓の銀器、刃物類、その他|正餐《ディナー》用の食器一切は公爵の紋章や宝冠でれいれいしく装飾されており、召使たちにも必ず「奥方さま」madame la princesse と呼ばせていた。自分ではハンガリア人だと言っていたが、彼女の英語は完璧であった。英語を使うときは(思いだしたときだけ)軽い外国訛りをまぜたけれども、その口調にはカンザスシティあたりを想わせるものがある、とこれはわたしがほかから聞いた話である。彼女の説明によると、これは彼女の父が政治上の亡命者で、彼女がまだいたいけな幼児だったときにアメリカへ逃れたためだそうだ。しかしその父親が卓抜な科学者で、その進歩的な意見のために災いをこうむったのか、それともマジャールの貴族であって、さる太公夫人との情事のために皇帝の怒りにふれたというのが真相か、彼女自身、どうもはっきりとは知らないようである。それは彼女が単に芸術家中の芸術家であるか、それとも高貴の生まれの人々のなかでの比類なき貴婦人であるか、それぞれの場合に応じてきまることであった。
わたしとのつきあいで、彼女は生地のままではなかったが――といったところで彼女はなろうと思ってもそうなれる女ではないので――ほかの誰に対してよりもあけすけに口をきいた。彼女は芸術に対して、ごく自然な、健康な軽侮の念を抱いていた。そうした種類のもの全体が一個の巨大なこけおどかしだと本心から見ていたし、心のずっと奥のほうでは、そういうものを公衆に向って押しつけることのできる人間すべてに対して、一種ユーモラスな同情といったものを持っていた。白状すればわたしはピーター・メルローズとラ・ファルテローナとの出会いを、多分に皮肉な興味をもって期待していたのである。
彼女がわたしの家へ食事によばれるのを好んだのは、料理が美味いことを知っているからであった。容姿に非常な注意をはらっている彼女にとっては、それが一日のうちただ一回の食事であり、ただしその一回だけは滋養の多い、たっぷりしたものであることのほうが好ましかった。わたしは九時に来てくれるように言っておいたが、それは彼女がものを食べる気になる最も早い時刻だからで、そして晩餐は九時半に出すように命じておいた。彼女は十時十五分前にあらわれた。アプル・グリーンのサテンのドレスは、胸もとをうんと低くし、背は全然むきだしにした仕立てで、大きな真珠の首飾り、たくさんの高価《たか》そうな指環をつけ、左の腕には手頸から肱まであるダイヤモンドとエメラルドの腕環数個をつけていた。そのうちの二つか三つは、たしかに本物であった。漆黒の髪には細いダイヤの飾り輪が一つあった。今宵の彼女は、よしんば往年のスタフォード・ハウスでの舞踏会へ出席したときの彼女もかほどではなかったろうと思われるほど豪奢を極めていた。ピーターとわたしたちは白麻服だった。
「めっぽう豪勢ですねえ」とわたしは言った。「パーティじゃないって、お話しておいたのに」
彼女はその貫禄のある黒い眼でピーターをちらりと見た。
「どういたしまして、立派なパーティですわ。お友達は優秀な作家でいらっしゃると、おっしゃったじゃありませんか。あたくしなんぞ、ただの演奏者にすぎませんわ」言いながら、燦々と光る腕環に一本の指をすべらせ、「これは創造的な芸術家の方に対して、あたくしが払う敬意の印しでございますのよ」
わたしはとたんに自分の唇にうかんで来た野卑な短い言葉を口には出さず、わたしの知っている彼女のお気に入りのカクテイルの名を言って、すすめた。わたしは彼女をマリアと呼ぶ特権をゆるされていたし、彼女はいつもわたしを「先生《マスター》」と呼んだ。これは一つには、こう呼ぶことによってわたしに自分がすっかり莫迦にされていると感じさせることができるのを知っていたからであり、二つには、事実上はわたしよりも二つか三つしか若くないにもかかわらず、それによって彼女とわたしとが別の世代に属することをハッキリ感じさせるからであった。もっとも、ときとしては、彼女はわたしを「厭らしい豚」と呼ぶこともあった。今宵の彼女は、たしかに三十五歳といっても通りそうであった。目鼻だちが大ぶりなために、ふしぎと年齢ほどに老けてみえないのである。舞台の彼女は艶麗であるが、私生活でも、大きな鼻、大きな口、肉の厚い顔であるにもかかわらず、なかなかの美人であった。顔は砥粉《とのこ》で化粧して、黒ずんだ頬紅をつけ、唇は鮮紅色である。彼女は一見、非常にスペイン風の感じを与えるが、わたしの察するところでは自分もその気でいるらしかった。なぜなら食事のはじまり頃のアクセントはそっくりセビリア人ふうだったからである。わたしはピーターにせっかく金を使って来ただけのことがあるようにと、なるべく彼女に話させるようにしたがったが、彼女に話のできる話題というものは世の中に一つしかないことも、わたしは知っていた。実のところ、彼女は一通りいろいろのことをべらべら喋れる愚劣な女で、そのお喋りは、はじめて聞いた人には見かけ通りの才女だわいと思わせるようなものであった。けれどもそれは単なる演技にすぎなくて、聞くほうは間もなく彼女が自分のしゃべっていることの意味もろくにわかっていないのみならず、全然その話に何の関心も抱いていないことを発見する。彼女は生まれてから一冊の書物をも読んだことがあろうとはわたしには思えない。世の中の出来事に関する彼女の知識は、絵入り新聞の写真でみてわかる程度のものに限られている。彼女の音楽に対する情熱は、純然たる場当りである。一度、わたしが彼女と一緒に行ったある音楽会で、彼女は「第五交響曲」の初めから終りまで眠っていて、休憩時間に彼女が人々に、ベートーヴェンを聴くとあんまりひどく感動するから、実は聴きに来ることをためらった、なぜならばあのうるわしいテーマが頭のなかに鳴りひびいて、そのために一晩じゅうまんじりともできないから――と語るのを聞いて、わたしはすっかり感心してしまった。彼女が眠れない夜をすごすであろうことは、わたしには容易に信じることができた、なぜなら「交響曲」の演奏中、あれだけぐっすり眠ったのだから、彼女の安眠がさまたげられざるを得ないのは当然のことだった。
しかし、ここに一つ、彼女が決して興味を失わない話題がある。この話題を追うかぎり、彼女の精力は疲れることを知らない。いかなる邪魔物も、彼女がその話題に戻って来るのをさえぎりとめる術はない。どんな縁遠い片言隻語でもとらえて、彼女はそれを手がかりにこの話題へ帰って来る。その場合の彼女の頭のよさというものは、とても彼女にそんな芸当ができようとは誰も思いつかぬほどである。ひとたびこの話題となれば、彼女は機智縦横、談論風発、ときに哲人のごとく、ときに悲劇の女主人公のごとく、しかも涌くがごとき創作の才までがことごとく発揮される。微に入り細をうがって窮まるところを知らず、千変万化して尽きることがない。この話題とはほかでもなく、彼女自身である。はじめに糸口をつけてやりさえすれば、それからさきはときどき上手に合いの手を入れるだけで事が足りる。彼女ははなはだ好調であった。わたしたちはテラスで食事をしていたが、満月がおあつらえむきに眼の前の海の上に出ていた。自然は、まるでこの場にどんな風情を添えればいいかを心得てでもいるかのように、格好な舞台装置をととのえていた。眼界は二本の亭々《ていてい》たる黒い糸杉で縁どられ、わたしたちのいるテラスのまわりには満開の花をつけたオレンジの木立が悩ましい香りを放っていた。風はなく、卓上に置かれた燭台の灯は静かになごやかに燃えていた。これはラ・ファルテローナにはまさに打ってつけの照明であった。彼女はわたしたちのあいだに座を占め、存分に食べ、存分にシャンペンを賞美し、大いに満悦のていであった。彼女は月を眺めやった。海面には、一条の幅広な銀色の道が出来ていた。
「なんて自然は美しいんでしょう」彼女は言った。「ああ、こういう景色なら、誰だって歌わずにはいられませんわ。いったいどうして世間では、ひとが歌をうたうものときめこんでいられるのでしょうね? ほんとに、コヴェント・ガーデンの装置《セット》なんて、イギリスの恥ですわ。この前ジュリエットを歌ったときなんぞも、もう少しお月さまを何とかしてくれなければ、とてもつづけられないって、幕内に言いましたのよ」
ピーターはおとなしく傾聴していた。彼は彼女の言葉を噛みしめ、のみほしていた。彼女にはわたしの希望した以上の値打ちがあったわけだ。彼女はシャンペンのためばかりでなく、自分のおしゃべりによっても、ほろ酔い機嫌になった。彼女の話をきいていると、これはごく内気なおとなしい女性で、全世界が徒党を組んでそういう彼女を苦しめているように思われて来る。彼女の生涯は、こうした絶体絶命の勝ち目のない敵に対する長い苦闘の連続であった。劇場のマネジャたちからはむごく扱われ、指揮者には卑劣な悪戯をされ、歌手たちはぐるになって彼女を破滅に陥れようとし、批評家は彼女の敵から買収されて彼女について中傷的な記事をかき、彼女がすべてを犠牲にしてつくした恋人たちは賎しむべき忘恩の態度で彼女に報いた。しかもなお、彼女の天才と彼女の才智との奇蹟によって、彼女はこれら一切の陰謀にうちかつことができた。眼をかがやかせ、いかにも嬉しそうに、彼女は敵どもの策謀をやっつけたことや、彼女の行く途を妨害した悪党どもの上に落ちかかった天罰について、わたしたちに語った。あんなみっともない話を、よくも自分の口から話せる太い神経があったものだ、とわたしは感心した。自分では爪のさきほども気がつかずに、彼女は自分が執念ぶかく妬みぶかく、釘のように情がこわく、信じられぬほど虚栄心がつよく、残忍で、我利我利で、陰謀を好み、金銭欲の強い女であることを白状していた。わたしはときどきピーターのほうを盗み見た。ピーターが、彼の理想のプリマ・ドンナ像と、この無慈悲な現実とを比較して、どんな困惑を味わっているかを想像し、わたしはひとりでほくそ笑んでいた。彼女は人間なみの心を持たぬ女であったのだ。さて彼女が帰ってから、わたしは笑顔でピーターに向って言った。
「どうです、とにかく、いい材料が得られたでしょう」
「ええ、まったく、すべてが、実に見事にピッタリはまっています」彼は意気ごんで答えた。
「はまっていますか?」めんくらって、わたしは叫んだ。
「ぼくの頭にある女性とそっくりです。彼女に逢う前に、ぼくが性格の主な特徴をあらまし描きあげていたとは、彼女はおそらく信じないでしょう」
わたしはびっくりして彼をみつめた。
「芸術への情熱。無欲恬淡。彼女はぼくの心眼に映じている人物と同じけだかい魂の持主です。心の狭い者や、物見高い連中や、下等なやつらが、彼女の行手を次々に阻むけれども、彼女は目的の偉大さ、純粋さによってすべてを払いのけて進むんです」彼は楽しそうに軽く笑って、「実際、自然が芸術を模倣するとは、おどろくべきことですね! ぼくはあなたに誓いますよ、きっと彼女を生かしてお見せしますよ」
わたしは言おうとしたことを言うのを思いとまった。心ひそかに肩をすくめはしたものの、わたしは心をうたれた。ピーターは自分が見ようと思いきめていたものを彼女のうちに見たのだ。彼の幻覚には、極めて美と相似た何ものかがある。彼は彼なりに、やはり詩人なのだ。わたしたちはやがて床につき、二三日後、彼は気に入った下宿屋をみつけて、わたしの家を去った。
やがて時が来て、彼の小説は市に出たが、多くの若い作家の第二作の例にもれず、ごく通りいっぺんの成功をもたらすにとどまった。批評家は彼の第一作を褒めすぎたが、今度は不当に難くせをつけたがった。自分や自分が子供のときからよく知っている人たちについて小説を書くのと、自分の創意、工夫による人物について小説を書くのとは、もちろん非常にちがうものだ。ピーターの小説は長すぎた。彼は言葉で絵を描く才能を野ばなしにしすぎたし、ユーモアは依然として粗野であった。しかし彼は時代をかなり巧みに再現したし、最初の作でわたしを感動させたのと同じ本ものの情熱のわななきは、このロマンティックな物語のなかにも見いだされた。
いつかのわたしの家での晩餐の後、一年以上も、わたしはラ・ファルテローナに逢わなかった。彼女は南米へ長期の演奏旅行に出かけたので、リヴィエラへは夏の末近くまで姿をみせなかった。ある夜、彼女はわたしを晩餐に誘った。当夜はわたしたち二人のほかに、彼女の同居人兼秘書である、ミス・グレーザーというイギリス婦人だけが同席した。ラ・ファルテローナはこの婦人をぶったりどなったり、虐待ばかりしていたが、彼女なしではどうすることもできなかった。ミス・グレーザーは五十歳の瘠せこけた婦人で、半白の髪と、きいろい皺だらけの顔とをしていた。彼女は変りものであった。ラ・ファルテローナについては、知る必要のあることは全部知っていた。ラ・ファルテローナを愛し、かつ悩んでいた。彼女のいないところでは、グレーザー嬢は自分を笑いものにすることによって、まれに見る面白い人物になることができた。この大歌手の崇拝者たちを前にして、彼女が秘密にやってみせる物真似は堂に入ったもので、わたしの聞いた最も滑稽味ゆたかな芸であった。しかし彼女はまるで母親のようにこの歌手の世話をした。ときには泣きながら、ときには腹蔵のない忠言により、ラ・ファルテローナをして、どうにか人間らしい振舞をさせえた人は彼女であった。この歌手の極端に不正確な回想録を書いたのもまた彼女であった。
ラ・ファルテローナは薄いブルーのサテンのピジャマを着て(彼女はサテンが好きだった)、たぶん髪を休ませるつもりであろう、緑色の絹のかつらをかぶっていた。幾つかの指輪と、真珠の頸飾りと、一対の腕環と、脇腹につけたダイヤのブローチとのほか、宝石類は身につけていなかった。彼女は南米での自分の大当りについて、わたしに聞かせたい話を山ほど持っていた。彼女はのべつ幕なしにしゃべりつづけた。この度の演奏ほどすばらしい声が出たことはなかったし、今度ほど熱狂的な歓迎を受けたこともなかった。音楽堂の座席は毎回売り切れで、彼女は大儲けをした。
「どう、その通りでしょう、グレーザー?」とマリアは強い南米なまりで叫んだ。
「ええ、たいていはね」とミス・グレーザーは言った。
ラ・ファルテローナには親友を苗字で呼ぶという失礼な習慣があった。しかし相手の気の毒な女性は、それを気にかけるのをやめてから、もうずいぶんたっているので、その点はべつに大した問題ではなかった。
「あれは、あのブエノス・アイレスで逢った男は、誰だったっけ?」
「男って、どの男でしょう?」
「あんた、莫迦ね、グレーザー。よくおぼえてるくせに。あたしが一度結婚したことのある男じゃないの」
「ぺぺ・サパタ」グレーザーはにこりともしないで答えた。
「その男が、おちぶれていましたのよ。だけど、失礼じゃありませんか、おれがやったダイヤの頸飾リを返せなんて言うのよ。あれはおれの母親の遺産だと言うの」
「あれは返してあげても、べつに困らなかったはずですわ」グレーザー嬢が言った。「あなたはあれをつけたことがないんですもの」
「返してあげるんだって?」と叫んだラ・ファルテローナは、あまり驚いたので、思わず純粋な英語をしゃべった。「返すとは、いったい何よ? あんたは気ちがいだわ」
彼女はミス・グレーザーがいま、この場で、急性錯乱症《アキュート・マニア》の発作を起しかけていると思ってでもいるかのように、その顔を見た。彼女はすっとテーブルを離れた。食事はちょうど終ったところだったからである。
「外へ出ましょう」彼女は言った。「もしあたしが天使のように辛抱づよくなかったら、あの女なんか、とうの昔にお払い箱にしていますわ」
ラ・ファルテローナとわたしは外へ出たが、ミス・グレーザーはついて来なかった。わたしたちはヴェランダに腰をおろした。庭にはすばらしい杉の大木があって、その繁った枝々が星空に黒い影絵を描いていた。ヴェランダのすぐ下まで来ている海は、おどろくばかり静かであった。急にラ・ファルテローナがとび上るように身を起した。
「あたし、すっかり忘れるとこだったわ。グレーザー、あんた莫迦ね」彼女は叫んだ。「なぜあたしに言ってくれなかったのさ?」それから今度はわたしに向って、「あたし、あなたに憤慨してるんですよ」
「食事がすむまで思いださないでくれたので助かったね」とわたしは答えた。
「あの、あなたのお友達と、あの人の本のことよ」
わたしは彼女が何のことを言っているのか、すぐにはわからなかった。
「どの友達のどの本のことです?」
「ぼんやりしてらっしゃること。あのてらてら光る顔の、ずんぐりした醜い小男ですよ。あの男、あたしのことを小説に書いたじゃありませんか」
「ああ、 ピーター・メルローズか。しかし、あれはあなたのことじゃありませんよ」
「いいえ、そうにきまっています。あたしを莫迦だと思っていらっしゃるの? あの男、無躾《ぶしつ》けにも、本をあたしに送って来ましたわよ」
「受けとった返事をだすぐらいの礼儀は、あんたにもあったんでしょうね?」
「あたしが、三文文士たちの送ってよこす小説に、みんな返事をだす暇があると思っていらっしゃるの? たぶんグレーザーが手紙を出したと思いますわ。あなたは、あの男にあたしを会わせるために、あたしを食事にお招《よ》びになる権利なんてありません。あなたがあたしをあたしとして好いていらっしゃると思ったから、あなたを喜ばせてあげたいと思って、行ったんですよ、そんな、材料なんかに使われるとは知らなかったから。いちばん古くからのお友達でさえ、紳士らしい振舞をしてくれることが信じられないなんて、情ない話ですわ。あたしはこれからさき一生、あなたとは一緒に食事をいただきません。もう絶対に、絶対に」
彼女がまたいつもの癇癪を自分からつのらせようとしているなと思ったので、わたしはいまのうちにそれを喰いとめようとした。
「まあまあ、気にしちゃいけない」わたしは言った。「第一にだね、あの本に出て来る歌姫の性格だが、たぶんあんたはあの人物のことを言ってると思うけれども……」
「まさかあたしが日雇い女中のことをもちだすはずはないじゃありませんか」
「とにかく、その歌姫の性格は、あんたに会う前にあらまし出来ていたのです、それだけじゃなくて、あれは全然あなたに似ていやしない」
「というと、どういうこと? あたしに似ていないというのは? あたしのお友達は、みんなあたしだと気がついてるんですよ。つまりあれは、誰がみてもわかるくらい、はっきりした肖像画ですわ」
「メリイ」わたしはたしなめた。
「わたしの名はマリアです、あなたは誰よりもよく知ってらっしゃるじゃありませんか。あたしをマリアと呼べないなら、マダム・ファルテローナとか、公爵夫人とか呼んでください」
わたしはそんな言いがかりを相手にしなかった。
「あんたはあの本を読んだの?」
「もちろん読みましたわ。みんなが、あれはわたしを書いたんだって言うから」
「しかし、あの女主人公のプリマ・ドンナは二十五歳ですよ」
「あたしのような女性には、年齢はありません」
「あの女主人公は、指の爪さきまで音楽的で、鳩みたいに優しくて、無欲の権化だ。率直で、誠実で、公平無私だ。あんたは自分についてそういう意見を持っているのかね?」
「じゃ、あなたのあたしについての御意見はどうだとおっしゃるの?」
「釘みたいに情が強《こわ》くて、絶対的に無慈悲で、生まれつきの陰謀家で、誰もかなわないほど自分勝手な女さ」
そこで彼女はわたしを何と呼んだか、それは淑女たるものが、たといどんな過ちを犯したにもせよ、そのような名で呼ばるべき因縁《いわれ》のない紳士に対して適用することをしない名であった。しかし彼女の眼はキラキラ光っていたけれども、わたしには彼女が少しも腹を立てていないことがよくわかった。彼女はわたしの性格描写を自分に対する讃辞として受けいれたのだ。
「じゃ、あのエメラルドの指輪のことはどうですの? あたしがあの人にあれを話したことまで否定なさるおつもり?」
エメラルドの指輪の話というのは、こうである――かつてラ・ファルテローナは、某強国の皇太子と熱烈な恋愛をした当時、その皇太子が彼女に莫大な値打ちのエメラルドを贈った。ある夜かれらは喧嘩をして、たがいにいがみあった末、その指輪のことに話が行くと、彼女はそれを指からもぎとって暖炉のなかへ投げこんだ。ところが皇太子は倹約な性分の人であったので、狼狽の叫び声をあげながら暖炉の前に膝をつき、石炭を掻きのけ、やっと指輪を拾いだした。ファルテローナは、床に這いつくばっている男を侮蔑の眼でみまもっていた。彼女自身はあまり気前のいいほうではなかったが、他人のけちけちしているのには我慢ができなかった。そして次のような名文句で、この話を結んだ。
「それ以来、あたくしは彼を愛せなくなりましたの」
この逸話はなかなか派手で面白かったので、ピーターの気に入った。彼は小説のなかで、非常に器用にこの話を使っていた。
「あの話はあなたがた二人を誰よりも信用したからお話したので、それまで誰ひとりにも聞かせたことはないんですよ。それを小説のなかへ持ちこむなんて、一番はずかしい裏切りですわ。あの人も、あなたも、それについては一言の弁解もできません」
「しかしわたしは、あの話なら何十ぺんもあんたの口から聞かされているよ。それからフロレンス・モンゴメリからも、彼女とルドルフ皇太子とのあいだの出来事として聞かされた。彼女もあれがお気に入りの話の一つなんだ。ローラ・モンテスも、自分とバヴァリア国王との話として、あれをよく話したものだ。たぶんネル・グウィンも、自分とチャールズ二世との話として、あれを語ったに違いないよ。まあ、世界で一番古い話の一つなんだから」
彼女はさすがにひるんだが、それもほんの一瞬間のことで、
「ああいうことが幾度もあったって、ちっとも不思議だとは思わないわ。女が情熱的で、男が馬肉屋みたいに吝《けち》んぼうだということは、誰だって知っています。何ならそのエメラルドをあなたに見せてあげましょうか。もちろん、あたしはあとで嵌め直しましたけどね」
「ローラ・モンテスの話だと、それが真珠だよ」わたしは皮肉を言った。「きっとかなりひどく傷《いた》んだことだろう」
「真珠ですって?」彼女は例のあざやかな微笑に顔をかがやかせて、「ベンジー・リーゼンバウムと真珠の話を、あなたにお聞かせしたかしら? あれは短篇の材料になりますわ」
ベンジー・リーゼンバウムは大富豪で、長いあいだ彼がファルテローナの情人だったことは周知の事実である。げんに今わたしたちが話している贅沢な別荘を彼女に買ってやったのもリーゼンバウムなのだ。
「あの人はニューヨークで、とても綺麗な頸飾りをくれました。あたしがちょうどメトロポリタンで歌っていたときで、そのシーズンが終って、一緒にヨーロッパへ帰りました。あの人にはお会いになったことがないでしょう?」
「ないね」
「そう、まあいろんな点で、そう悪い人じゃなかったけれど、嫉妬《やきもち》だけは気違いじみていましたわ。若いイタリア人の高級船員が、あたしをちやほやするといって、船の上で喧嘩しましたの。そりゃもう、あたしは世の中で一番つきあいやすい女ですけれど、どんな男にだって、文句なんか言われるのは嫌いなんです。何といっても、あたしも自尊心がありますからね。どこへでも行って頂戴って、あたしが言いましたら――縁切りの文句ですわ、わかるでしょ?――あの人、あたしの顔をぶちましたの。甲板での話にしてもいいわ。あなたの前ですけど、あたしもさすがにカッとしましたわ。いきなり頸から真珠をはずして、海へ投げちゃったの。『あれは五万ドルするんだぞ』そう言って、あの男、まつ蒼になりましたわ。あたしはツンとして伸びあがるように身体をまっすぐにして、言ってやりました、『あたしはあなたを愛していたから、あれを大切にしていただけですわ』そうして、うしろを向いてしまいましたの」
「莫迦なことをしたものだね」とわたしが言った。
「それから二十四時間、あの人とは口もききませんでした。そうしたら、あの人、とうとうあたしに降参しましたわ。パリへ着くと、さっそくカルティエの店へ行って、そっくり同じのをもう一つ買ってくれましたわ」
彼女はたまらなくなったように笑いだした。
「莫迦なことをしたっておっしゃるの? あたしは次のシーズンもニューヨークヘ来ることを知っていたから、本物の真珠はニューヨークの銀行へ預けておいたんですよ。あたしが海へほうりこんだのは、模造品《イミテーション》ですわ」
彼女は大声で笑いだした。笑い声はゆたかで、嬉しそうで、まるで子供の笑うようだった。こういう悪戯が彼女には愉快でたまらないのだ。彼女ははしゃいで、キャッキャと笑いくずれた。
「男って、莫迦なものねえ」苦しそうに息をしながら、「あなたまでが、本ものの真珠を海へ投げると思うなんて」
彼女は笑って、笑い抜いた。やっと笑いやめたとき、彼女は興奮していた。
「歌がうたいたくなったわ。グレーザー、伴奏して頂戴」
客間から、それに答える声がした。
「あんなにたくさん食べたあとで、歌えるものですか」
「おだまり、お婆さん牝牛。何か奏《ひ》いてと言うのに」
返事はなくて、やがてミス・グレーザーはシューマンの歌曲《リード》のはじめの小節を奏《かな》ではじめた。これなら声に無理をしなくてもすむので、わたしはミス・グレーザーがこれを選んだのはやっぱり心得たものだなと思った。ラ・ファルテローナは低音で歌いはじめたが、それが唇から澄んだ清らかな歌声となって自分の耳に聞えてくると、彼女は存分に声を出して歌った。歌は終った。静寂である。ミス・グレーザーはラ・ファルテローナがすばらしい声の調子であることがわかったので、彼女がつづけてまた歌いたがっていることを察した。偉大なプリマ・ドンナは明るい部屋の灯火を背に受けて、窓辺に立ち、黒ぐろと光る海を眺めていた。杉の大樹が空にうるわしい模様をつくっていた。なごやかな、甘美な夜であった。ミス・グレーザーが二小節ほど奏いた。冷たい戦懐がわたしの背筋を走った。ラ・ファルテローナはそれが何の曲かを知ると、ちょっと身じろぎをした。わたしは彼女が身がまえするのを感じた。
Mild und leise wie er laecheltt
Wie das Auge er oeffnet
やさしく、低く、笑みたまい
み瞳を、みひらきたまい
イゾルデの死の歌である。彼女は声に無理がかかるのを怖れて、ワグナーのオペラには出たことがなかったが、たぶんこの歌は演奏会でたびたび歌ったことがあるのだろう。いまはオーケストラの伴奏でなくて、弱いピアノの音だけだから、その点は問題でなかった。絶妙なメロディが彼女の声に乗って静かな夜気をつたわり、水の上へひろがっていった。このあまりにもロマンティックな風景、このうるわしい星月夜を背景として、その効果は聴く者の胸をかきむしった。ラ・ファルテローナの声は、いまもなお繊艶であり、豊醇であり、水晶のように澄み透っていた。しかも彼女はおどろくべき情感をこめて歌った。悩ましく、やさしく――わたしの胸底までしみとおる、いたましくもうるわしい悲痛の情をこめて歌った。彼女が歌い終ったとき、わたしの喉もとに大きな塊りがこみあげるのをどうすることもできなかった。そのときわたしは彼女の顔を涙が流れているのを見た。わたしは何も言いたくなかった。彼女は窓の外の太古から老ゆることなき海を眺めて、いつまでも動かずに立っていた。
何という不思議な女! そのときわたしは、たとい数々の莫迦げた欠点があるにせよ、彼女をあらゆる美徳を兼ね備えた典型として見る上で、ピーター・メルローズに先を越されたのを口惜しく思った。しかしそうなると人々はわたしを、少しばかり常識をはずれた人間を好む傾向があるといって非難するのだ。彼女はもちろん憎むべき女である。しかし彼女の魅力には敵しがたい。
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人生の実相
午後、下町から帰りがけ、クラブへ寄って、ブリッジを一勝負やってから、家へ帰って夕食をとるのが、ヘンリ・ガーネットの習慣である。カルタ相手として、彼は気持のいい男だった。ゲームはうまいから、へまなことは絶対にやらないことは信用が置ける。負けたときの負けっぷりもいいし、勝てば勝ったで、技倆よりも運のせいだと言うのがつねだ。他人には寛容で、味方《パートナー》が間違いをやっても、何とかうまい口実をみつけてかばってくれる。したがって、その日に限って、彼が自分のパートナーに、こんな下手な手をやるのを見たことがないと、不必要なとげとげしさで言うのを聞いて、誰しも意外に思った。さらに一そう意外なことに、彼自身が、やろうと思ってもできるはずがないと思われるほどのひどい失策をやったばかりでなく、彼のパートナーが、いくらかはさっきの返報の気味もあって、それを指摘すると、理屈もなく自分のやった手は正しいのだと、案外なほどいきりたって抗弁したのである。だが一緒にブリッジをやっていた連中は、みな彼の旧い友人で、彼の不機嫌にムキになって相手になる者は一人もなかった。ヘンリ・ガーネットの商売はブローカーで、名ある会社の協同経営者《パートナー》の一人であったから、同席の一人は彼のあつかっている株にでもまずいことがあったのではないかと、ふと思って、
「今日はどうだね、市場は?」
「上景気さ。素人でさえ有卦《うけ》に入っているよ」
株や公債がヘンリ・ガーネットの不機嫌と関係のないことが、これでわかった。しかし、何かあるらしい。何かあるに違いないことも、誰にでも察しがついた。がんらい、精力旺盛で、無類の健康に恵まれ、金はあり、妻や子供は可愛がっている。ふだんの彼は元気がよくて、カルタをしながら仲間がとばす駄じゃれや軽口にもすぐ笑うほうだった。それが今日はむっつり黙りこんでいる。眉間に皺を寄せて、口許も見るからに機嫌がわるそうだ。やがて、気分をほぐすために、他の一人が、ヘンリ・ガーネットの最も好む話題であることをみなが知っているほうへ話を持っていった。
「きみの息子はどうだね、ヘンリ? トーナメントでは、なかなか好くやったようじゃないか」
ところがヘンリ・ガーネットは、いっそう渋い顔になった。
「わしの期待ほど好くはやってくれんかった」
「モンテからは、いつ帰るんだね?」
「昨夜《ゆうべ》、帰った」
「愉しかったと言っていたかい?」
「まあ、愉しんでは来たようだが、とにかく、やつめ、ひどい莫迦《ばか》をして来たことだけしか、わしは知らん」
「ほう。どうしたんだ?」
「ま、その話は、なるべくなら、したくないんだ」
三人の友人はものめずらしげに、彼をみつめた。ヘンリ・ガーネットは眼をふせて、カルタ卓の緑色の布を睨みすえていた。
「いや、失敬。きみのコールだ」
重苦しい沈黙のなかでゲームは進んだ。ガーネットが点数をせり落したが、札の出しかたがあまりまずかったので「スリー・ダウン」をやってしまっても、誰も何とも言わなかった。次の勝負《ラバー》がはじまり、その二度目のゲームで、ガーネットは味方《パートナー》の出した題札《スーツ》を出さなかった。
「一枚もないのか?」パートナーはきいた。
よほどむしゃくしゃしているとみえて、ガーネットは返事もしない。ところがゲームが終ってみると、彼が題札があったのに反則《リヴォーク》をやっていたことがわかり、これで勝負《ラバー》は彼の側が負けときまった。こんな不注意を、味方《パートナー》が黙って見すごすことはありえなかった。
「いったい全体、どうしたんだい、ヘンリ?」パートナーは言った。「まるで成ってないじゃないか」
ガーネットは困ってしまった。大きな勝負に自分が負けることは、たいして意に介しないが、自分のぼんやりから、パートナーにも損をかけることになるのが、痛かった。彼は気をひきしめて、居ずまいを直した。
「今日はもうやめたほうがよさそうだ。二三|番《ラバー》やったら、気が晴れるかと思ったが、どうにもゲームに頭が向けられんのだ。ほんとうを言うと、ひどく腹が立っているんでね」
みんな、一緒に笑いだした。
「言われなくても、見ればわかるさ」
ガーネットも、情けなさそうに微笑して、仲間の顔をみまわし、
「そりゃ、わしのような目にあったら、誰だって腹も立つだろうさ。実際、その、ひどく困った立場になってるんでね。きみたちのなかで、どうすればいいか、いい知恵を授けてくれる人があれば、大いに感謝するがね」
「じゃ、一杯のみながら、その話を聞かせるさ。勅選弁護士《ケー・シー》に、内務省の高官に、外科の名医と、これだけ揃って、どうすればいいか、知恵が出ないようじゃ、誰にも出ないよ」
勅選弁護士が立って、ウェイターを呼ぶベルを鳴らした。
「話というのは、わしの伜のやつのことだがな」ヘンリ・ガーネットは話しだした。
飲みものが命じられて、運ばれた。さてヘンリ・ガーネットの語ったのは、次のような物語である。
問題の少年というのは、彼の一人息子である。名はニコラスだから、むろんニッキーと呼ばれている。十八歳である。ガーネット夫婦には、ほかに二人の娘がいて、一人は十六、一人は十二だった。しかし、一般に父親というものは女の子をかわいがるものだから、はなはだ常識はずれのように感ぜられるかも知れぬが――同時にヘンリ・ガーネットは依枯贔屓をするように見られるのをできるだけ避けてもいたが――彼の愛情の分け前の大きな部分が息子に注がれていることは明らかであった。娘たちに対しては気軽に、おどけたりからかったり、優しい父親で、誕生日にもクリスマスにも上等なプレゼントを与えた。しかしニッキーに対しては、彼は目に入れても痛くなかった。ニッキーのためなら、どんなことでも、これでは好すぎるということがない。明けても暮れても、息子のことばかり思っている。ほとんど眼を離していられないほどである。このニッキーが、またどんな親でも自慢せずにはいられないような息子だから、誰もヘンリ・ガーネットの子煩悩を責めるわけにはいかぬ。ニッキーは身の丈六フィート二インチ、肩幅ひろく、腰はほそく、体躯柔軟でしかも逞《たくま》しく、いかにも男らしく姿勢が好い。肩の上にのっている頭の形もチャーミングで、かるく縮れた薄色の栗色の髪、くっきりした眉の下の睫毛の濃く長い蒼い眼、ととのった紅い口、日やけした清潔な肌を持っている。笑うと、並びのいい真白な歯が見える。はにかみやではないが、謙譲な物ごしが人々に好意を感じさせる。社交的には、気が置けなくて、礼儀があって、ほどほどに朗らかである。上品で健康で真面目な両親の血をうけて、善良な家庭で養育され、優秀な学校へ入れられた――その結果として、容易にみつからないような、魅力のある好青年の標本が出来あがったのである。
彼の外貌から感じられる通り、彼は正直で、くらい陰影《かげ》がなく、品行の正しい青年であると、誰からも認められていた。両親にも、一瞬間でも不安を与えたことがない。幼年の頃には、ほとんど病気をせず、やんちゃもしなかった。少年になってからも、することなすこと、一つも期待を裏切らなかった。学校の成績は優等であった。友達にはものすごく人気があり、卒業のときには、クラスの首席、サッカーチームの主将として、数々の立派な賞をもらった。しかもそれだけではない。十四歳のとき、ニッキーはローン・テニスに意外の才能を示しだした。テニスは彼の父親が、単に好むばかりでなく、みずからも得意とするところのゲームでもあったので、息子がプレイヤーとして見込みのあることを認めると、大いに乗気になった。休暇中はずっと一流のプロフェッショナルに教えを受けさせたので、十六歳ごろにはその年頃の少年の出場する各種のトーナメントで幾度も優勝した。父親と勝負すれば、さんざんな目にあわせるので、年上のプレイヤーが人前でみっともない敗けかたをする恥辱を忍びえたのも、ひとえに親ばかのおかげであった。十八歳で、ニッキーはケンブリジへ入学し、ヘンリー・ガーネットは息子が卒業するまでには大学の選手として活躍させたいという野心を抱いた。ニッキーにはテニスの大選手となるだけの、あらゆる条件が具わっていた。長身だし、リーチが大きいし、足は速いし、タイミングにも申しぶんなかった。彼は本能的にボールの来るところを察知して、見た眼にはすこしも急がずに、受ける場所へ行っている。サーヴは強力で、辛辣なブレーキがかかっているので容易に打ち返せない。またフォアハンド・ドライヴは低く、遠く、正確に入って、圧倒的だ。バックハンドはあまり得意でなく、ヴォレーも乱れることがあるが、ケンブリジへ入学する前の夏休み中、ヘンリ・ガーネットは英国の最高の教師のもとでこれらの弱点について練習をさせた。心ひそかに、ニッキーに向っては口にも出さなかったけれども、彼はもっと大きな野心をふくらませていた――息子のウィンブルドンヘの出場、さらに(神のみぞ知る)デヴィス・カップへ、祖国を代表して選ばれる日を。わが子が、自分の打ち負かしたアメリカ選手と握手を交わすためにネットを跳び越え、耳を聾するばかりの大観衆の賞讃の嵐に応えつつコートから退場する光景を夢に描くと、ヘンリ・ガーネットの喉のなかに大きな塊りがこみあげるのである。
熱心なウィンブルドンの定連の一人として、ヘンリ・ガーネットはテニス界にたくさんの友人を持っていた。ある晩、さる実業家仲間の晩餐会で、偶然にその一人のブラバゾン大佐という人物と隣りあわせたので、工合よくニッキーのことを話しだすキッカケをつかみ、次のシーズンに大学選手にえらばれる可能性があるかどうかを打診した。
「いかがです、息子さんをモンテ・カルロヘやって、あすこの春季トーナメントに出場させる気はありませんか?」突然に、大佐が言いだした。
「いやあ、まだそれほどの力はないと思いますよ。まだ十九にならんのですし、去年の十月にケンブリッジへ入ったばかりですからね。一流の連中には、とても歯が立たんでしょう」
「むろん、オースティンだの、フォン・クラムだのといった連中には、ぽかぽかやられるでしょうが、一つや二つのゲームは取れるかも知れませんよ。もし弱い相手と顔が合うことにでもなれば、二三回は勝てないという理由はありません。いままで一流プレイヤーとぶつかったことがないのだから、これは非常にいい修業になりますよ。あんたがお入れになる海水浴場の大会なんぞでは、とても得られんような貴重な経験が得られるでしょうな」
「どうも、それは考えられませんな。学期中にケンブリッジを離れさせることは、わたしは好みません。伜にはいつも、テニスは単なるゲームにすぎない、勉学のさまたげになってはならんと、言い聞かせておるんです」
学期はいつ終るのかと、ブラバゾン大佐はガーネットにきいた。
「そんなら、いいでしょう。せいぜい三日ぐらいの欠席ですみます。そのくらいのことは、何とかなるでしょう。実は、あてにしていた選手が二人、ことわって来たので、困っているところなのです。なるべく優秀なチームを送りたいところなのですよ。ドイツからは一流の選手が出ますし、アメリカもそうなのです」
「どうにもなりませんなあ。第一、ニッキーはそれほどの者じゃない。第二には、ああいう子供を、監督する者なしにモンテ・カルロヘやるというのは、気が進みませんよ。わたしが自分でつれて行ってやれるなら、考えてもいいですがね、これは問題になりませんからな」
「わたしが行きます。英国チームの不出場主将として、行くことになってるんです。息子さんには、気をつけてあげますよ」
「あなたは忙がしいでしょうし、そこまで責任を持っていただいてはすまんことです。伜はまだ一度も外国へ行ったことがないし、実を言いますと、そのあいだ、わたしは一刻も安心しておられんだろうと思うのです」
これで、ほかの話に移って、やがてヘンリ・ガーネットは帰宅した。ブラバゾン大佐の示唆にすっかり好《い》い気持になったので、彼はこの話を妻にしゃべらずにいられなかった。
「大佐が、あれほどニッキーを認めていてくれるとは、夢にも思わなかったよ。あの子のプレイぶりを見て、良いスタイルだと思ったと言っていたよ。これから経験を積みさえすれば、きっと大物になれるというんだ。まあ大体、ウィンブルドンの準決勝ぐらいには出られそうな話だったよ、お前」
意外にも、ガーネット夫人は、彼が予期したほどにはモンテ・カルロ行きに反対ではなかった。
「あの子も、もう十八ですわ。いままで何ひとつ無茶をやったことのない子ですもの、今度だって、べつにそう、心配することもないと思いますわ」
「学校のことを考えてやらなくちゃならんよ。それを忘れちゃいかんね。学期末に欠席させたりするのは、将来のために悪例を残すことになる」
「でも三日ぐらい、かまわないじゃありません? そういう大きなチャンスを、ニッキーから取り上げるのは、ひどい仕うちのような気がしますわ。あなたが言っておやりになれば、あの子はきっと喜んで跳びついて来ますわ」
「とにかく、わしは彼《あれ》には話さんつもりだ。ケンブリッジへ入れたのは、テニスをさせるためじゃない。あいつがしっかり者だということはわかっているが、強いて眼の前へ誘惑をつきつけるのは愚かなことだよ。モンテ・カルロへ一人でやるには、まだ若すぎる」
「あなたは一流の選手たちと太刀うちするのはまだ無理だとおっしゃるけれど、やって見ないことには、わかりゃしませんわよ」
ヘンリ・ガーネットはかるい吐息を洩らした。家へ帰る車のなかで、彼も、オースティンの健康があまり確かでないことや、フォン・クラムには調子の出ない日がときどきあることなどを頭に浮かべたのである。もしも仮に――むろん、単なる仮定の問題として論ずるだけだが――ニッキーがそうした幸運をつかんだとすれば、ケンブリツジの選手にえらばれることは間違いないだろう。しかしそんなことは、むろんみんな夢みたいな話だ。
「どうも仕方がないよ、お前。わたしの腹はきまった。もう変える気はないよ」
ガーネット夫人は強いて争わなかった。が、翌日、彼女はニッキーに手紙を書き、昨夜の話の模様を告げ、もしお前が行きたいと思って、お父様のお許しを得たいと思うなら、あたしがお前の立場だったらこうするだろうという意見を書き送った。一両日の後、ヘンリ・ガーネットのもとへ、息子から一通の手紙が来た。ニッキーは興奮してワクワクしていた。彼は担任の指導教師《テューター》に話した。この教師は自分もテニスをやる人である。次に彼は学寮《カレッジ》の学長に会った。学長は偶然、ブラバゾン大佐をよく知っていた。二人ともニッキーが学期の終る前に出発することに異議がないのみならず、とり逃がすのは惜しい機会だという意見だった。それによって何の害もあろうとは、ぼくには思われませんし、もしお父さまが、一度だけ例外的に許してくださるのでしたら、来学期こそは必死になって勉強することを、真心から誓います、云々。実にかわいらしい手紙であった。ガーネット夫人は、良人《おっと》が朝食のテーブルでそれを読むところをみまもっていた。良人がむずかしい顔になっても、彼女は泰然としていた。良人は彼女のほうへ手紙を投げてよこした。
「わたしがお前にだけうちあけた話を、ニッキーに知らせる必要があると思ったのはどういうわけかね、わたしにはわからん。だめじゃないか、そういうことをしては。お前のおかげで、やつはすっかり落ち着けなくなってしまったぞ」
「すみません。ブラバゾン大佐が、それほど高く買ってくださってることを、あの子に知らせてやったら喜ぶだろうと思ったまでですわ。むろん、行くなんてことは問題にならないって、はっきり書いてやったつもりでしたけれど」
「お前のために、わたしは困った立場に置かれてしまった。わたしが横暴な父親で、息子の楽しみを邪魔したがるようにニッキーに思わせるというのは、何よりわたしの嫌っていることなのだ」
「あら、そんなこと、あの子は決して考えやしませんわ。それは、頑固なわからずやのお父様だとは思うかも知れませんけれど、そういう意地わるをなさるのも、つまりは息子の身のためを思ってくださるからのことだと、あの子もわかってくれると思いますわ」
「怪《け》しからん」ヘンリ・ガーネットは口走った。
妻は、笑いたくなるのを、こらえていた。いくさは勝ちだわ、と彼女は見てとった。ああ、やれやれ、男なんて、ほんとに、こっちの思い通りにさせるのは苦もないことだわ。体面上ヘンリ・ガーネットは四十八時間だけ頑張ったが、とうとう降参して、そこで二週間後にニッキーはロンドンへ来た。モンテ・カルロヘの出発は明朝である。晩餐後、ガーネット夫人とニッキーのすぐ下の妹とが座をはずすと、ヘンリはこの機会に息子に対して二三、有益な注意を与えようと試みた。
「わたしはお前の年頃の若い者を、いわば一人きりで、モンテ・カルロのような場所へやるというのは、どうもあまり好い気持ではないよ」結びに、彼は言った。「けれどもだ、こうなったからには、お前がよく分別して、まちがったことをしないようにしてくれることを希望するよりほかはない。頑固親父みたいなことは言いたくないがね、三つだけ、特にお前に気をつけてもらいたいことがある。第一は博奕《ばくち》だ、賭けごとをやらんこと。第二は金だ、絶対に他人《ひと》に金を貸さんこと。それから第三に女だ、絶対に女とかかりあってはいかん。この三つのことだけ、やらんように気をつけさえすれば、そう悪いことは起きないはずだから、この三つを忘れないようにしなさい」
「はい、わかりました、お父さま」ニッキーは微笑した。
「これがお前に与える注意の結論だ。わしは世間というものをよく知っているから、間違ったことは言わん、わたしを信じるだろうな」
「御注意は忘れません。約束します」
「それでいい。さ、それでは御婦人連と一緒になろう」
ニッキーはモンテ・カルロ大会でオースティンやフォン・クラムを負かすようなことにはならなかったが、そうみっともない成績でもなかった。あるスペイン選手からは予想外の勝利を奪ったし、オーストリア選手の一人とは誰しもよくやったと思うほど接戦を演じた。混合ダブルスでは準決勝まで進出した。その愛すべき若武者ぶりには誰しも好感を抱かせられ、彼自身、大いに愉快な日を送ることができた。彼の将来が刮目《かつもく》に値いすることは一般の認めたところで、ブラバゾン大佐からは、もう少し年功を積んで、一流選手との試合経験を積んだならば、きみのお父さんも、きみを自慢の種にされるようになれるだろう、と言われた。
トーナメントは終って、明日は飛行機でロンドンへ帰るという晩になった。それまで、テニスにベストをつくしたい一心で、彼は非常に気をつけて暮らした。煙草もごくたまにしか吸わず、酒は全然のまず、夜も早く寝るようにして来た。が、最後の晩だけは、話にいろいろ聞かされているモンテ・カルロの生活というものを、少しばかり見たいと思った。選手たちを主賓とする公式晩餐会が開かれ、それがすむと、彼は他の選手と一緒にスポーティング・クラブへ行った。ここへ来たのは、彼には初めてである。モンテ・カルロは旅客でいっぱいであったから、クラブの部屋部屋はこみあっていた。ニッキーは写真や映画でのほか、ルーレットをやっているところを見るのも、これが初めてであった。最初にぶつかったテーブルのところで、彼はめんくらいながら立ち止った。さまざまの大きさの賭札《チップ》が、まったく見当もつかぬ混乱状態としか思えぬ有様で、緑色の布の上に投げ散らされる。元締《クルーピエ》が円盤をするどく廻したかと思うと、その上へ小さな白球をサッと投げた。いつ止まるか、はてしもなく思われる時間がすぎて、球が止まると、もう一人の元締《クルーピエ》が、悠々とした無関心な動作で、敗けた連中の賭札をかきあつめた。
やがてニッキーは「|三十と四十《トランテ・カラント》」(「赤と黒」ともいう、トランプ・ゲームの名)をやっているほうへ行ってみたが、何をやっているのか全然わからず、つまらないと思った。次の部屋にも人が大ぜいいるのを見て、彼はぶらりと入っていった。ここではバカラの大勝負の真最中で、人々の殺気だっているのが彼にもすぐにわかった。勝負している人々は、真鍮の手摺のなかにいて、こみあう見物人に邪魔されぬようになっている。大きなテーブルをかこんで、両側に九人ずつ居並び、中央に胴元《ディーラー》が座を占め、元締《クルーピエ》がこれの反対側にいる。大金がやりとりされている。胴元は「ギリシア人組合」の組合員である。ニッキーは彼の無表情な顔を眺めた。その眼には少しの油断もなかったが、勝っても負けても、彼の表情は少しも変化しない。何ともいえぬ怖ろしい、妙に威圧的な光景であった。倹約にしつけられて来たニッキーには、たった一枚のカルタをめくるだけに千ポンドの金を賭ける人間があり、その男が負けると軽い冗談を言って笑っているのを見るのは、実にどきどきする激烈な印象であった。一人、知っている男が、そばへ来た。
「何か面白いことがあった?」
「まだ何もやりません」
「そのほうが利口だよ。あっちで、何か飲もうや」
「ええ」
飲みながら、ニッキーは友達に、この遊び場へ来たのはこれが初めてだと話した。
「そうか、しかし帰る前に、一度だけはちょっと何かやらなきゃ嘘だな。一度も自分の運をためさないで、モンテを引揚げるってのは、ばかげてるよ。百フランかそこら、損したって、べつに何ということはないだろう」
「そりゃ、そうだけど、親父は、ぼくがここへ来ることにも、あまり賛成しなかったし、特別にやるなと言われたことが三つあって、その一つが賭博なんです」
しかし、この友達と別れると、ニッキーはルーレットの部屋の一つへ戻って来た。しばらくは、敗者の金がクルーピエによって掃き集められ、勝者には勝っただけの金が支払われるのを眺めていた。そのゾクゾクするような面白さを否定することはできなかった。友達の言った通りだ、たった一度だけ、このテーブルに若干《なにがし》かを置くことなしにモンテを去るというのは、愚かしいことに思われる。これも一つの経験だし、自分の年頃では、すべて得られる限りの経験をもつべきものなんだ。考えてみると、彼は賭博をしないと父親に約束したのではなく、父の忠言を忘れないと約束したのだ。どっちでも同じことだなんて法はないだろう。忘れなきゃいいんだ。彼はポケットから百フラン紙幣を出し、少しきまりわるそうに、それを「十八」の数の上に置いた。それが自分の年齢の数だから、それをえらんだのである。心臓をものすごくどきどきさせながら、彼は円盤の廻るのを見まもった。小さな白球は、気まぐれな小悪魔のように跳ねかえった。廻転がだんだん遅くなり、小さな白球の動きはためらいがちになり、止まるかと見るとまた動いた。とうとうそれが「十八」の数のなかへ落ちこんだとき、ニッキーは容易におのれの眼を信じることができなかった。沢山の賭札が彼にさしだされ、それを受け取る彼の両手はふるえた。よほど莫大な金に違いない。あまりめんくらったので、彼は次の回に賭けることなど全く頭に浮かばなかった。事実、もう一回やろうという意思は全然なく、一回でもう充分な気がしていたのだ。だから彼は今度も「十八」が当ったときにはびっくりしてしまった。そこには一枚の賭札だけしか置いてなかった。
「すごいな、きみ、また勝ったぜ」近くに立っていた男が、彼に言った。
「ぼくが? ぼくは何も賭けなかったですよ」
「いいや、賭けたさ。元金だけ残っていたんだ。こっちから返してくれと言わなければ、それだけ残すことになってるんですよ。知らなかったの?」
また山のような賭札が、彼の手に渡された。ニツキーは眼がまわりそうだった。儲けた金を勘定すると、七千フランあった。奇妙な自信が湧き上った。自分がすばらしい悧口者のような気がした。こんなに造作もなく金の儲かる方法は、いままで話に聞いたことがない。喜びを隠すことを知らない、正直な愛らしい顔には、こぼれそうな笑いがひろがった。嬉しさにかがやいた眼が、ふと傍に立っている一人の女の眼と出会った。女はニッコリ笑った。
「あなた、ついていらっしゃるわ」
それは英語だったが、外国の訛りがあった。
「まったく、嘘みたいです。ぼくは初めてなんです」
「あらそう、だからですわ。あたしに千フラン貸してくださいません? すっかり取られてしまいましたの。半時間以内に、お返ししますわ」
「いいですとも」
女は、彼の賭札の山の上から、大きな赤いのを一枚とって、ありがとうと言って姿を消した。さっき彼に話しかけた男が、いまいましそうに言った。
「あいつ、二度と顔をみせやしませんよ」
ニッキーはしまったと思った。父は他人に金を貸してはいけないと、特に注意したではないか。何てバカなことをしたんだ! しかも見たこともない他人に、だが実のところは、あの瞬間、彼はあまりにも人類ぜんたいを愛していたので、ことわることなどは思いもよらなかったのだ。またあの大きな赤い賭札一枚が、どれほどかの価値あるものだなどということも、想像すらもつかなかった。いいじゃないか、大したことはない、まだここに六千フラン残っているから、あと一度か二度、運だめしをして、もし勝てなかったら帰ってしまおう。彼は上の妹の年齢の「十六」にチップを一枚置いたが、これは当らなかった。次には下の妹の年齢の「十二」に賭けたが、これまた出なかった。あとはでたらめに、いろいろな数に賭けてみたが、うまくいかなかった。変だな、調子がわるくなったらしい。ではもう一ぺんだけやって、やめよう。今度は勝った。いままで負けた分をすっかり取り返して、その上にいくらか儲けた。それから幾度も勝ったり負けたりして、生まれてはじめて味わうスリルを満喫した揚句に、一時間後には、気がつくとポケットに入りきらないほどの賭札がたまっていた。彼は帰ることにきめた。引換所へ行って、二十枚の千フラン紙幣が眼の前に並べられたとき、彼は思わず息がつまった。こんな大枚の金を持ったことは生まれてから一度もなかったのだ。それをポケットに入れて、行きがけるところへ、彼に千フラン借りた女が寄って来た。
「ずいぶん、あっちこっち、探しましたのよ」と女は言った。「もうお帰りになったのかと思いましたわ。あたしのことをどう思っていらっしゃるかと思って、心配で夢中になっちゃいましたの。これ、さきほどの千フラン、ほんとにありがとうございました」
真赤になって、ニッキーは女の顔を孔のあくほどみつめた。驚いたのだ。何という失礼な誤解をしたものだろう! 父は賭博するなと言った。ところが自分は賭博をして、二万フラン儲けたではないか。父はまた絶対に他人に金を貸すなと言った。ところが自分は金を、しかも見ず知らずの人間に相当多額の金を貸したが、その女はちゃんと金を返したではないか。事実は、自分は父が思ったほどの阿呆でもなかったということになる――つまり自分には、この女の人に貸しても大丈夫だという一種のカンがあって、この通り、そのカンは当ったのである。だが、表面にあらわれたところでは、彼がすっかり閉口してしまったように見えたので、相手の女性は思わず笑いだした。
「どうなすったの、あなた?」
「ほんと言うと、ぼくはあの金が返していただけるとは思わなかったんです」
「あたくしを何だとお思いになったの? じゃ――ココット(淑女風した売笑婦)だとでも?」
ニッキーは髪の根もとまで真赤になった。
「いえ、とんでもない」
「あたくし、そんなふうに見えまして?」
「全然、そんなことはありません」
女の服装は非常につつましやかで、黒い服に、金のこまかい粒の頸飾りをしていた。簡素なフロックは、すらりとした形のよいからだつきを見せていた。顔も小さくて愛らしく、髪かたちも整っていた。化粧はしているが、あまりけばけばしくはない。ニッキーは、自分よりもせいぜい三四歳の年長だろうと思った。女は親しげな微笑をみせて、
「あたしの主人はモロッコで、官吏のお勤めをしていますの。主人が少し気晴らしをして来ないかと勧めますので、二三週間、モンテ・カルロへ参ることにしましたの」
「ぼくはもう帰るとこなんです」ほかに言うことがないので、ニッキーは言った。
「あら、もうお帰りですの?」
「明日は早起きしなきゃなりません。飛行機でロンドンへ帰るもんですから」
「そうでしたわね。トーナメントは今日でおしまいになったんでしょう? あなたのテニス、拝見しましたわ。二度か三度」
「そうですが? なぜぼくだってことがおわかりになったんでしょう」
「とてもお上手でございましたわ。それに、あなたのショーツのお姿、とても感じがよかったんですもの」
ニッキーは決して生意気な青年ではない。けれどその瞬間、彼女が千フラン借りたのは、自分とつきあうキッカケが欲しかったからかも知れぬという考えが、彼の心をかすめたことは事実である。
「≪ニッカボッカ≫へはおいでになりまして?」
「いえ。一度も」
「まあ、でも、あそこへいらっしゃらないで、モンテ・カルロをお引揚げになるという法はありませんわ。ちょっとあそこへ寄ってダンスをなさいません? 実はあたし、お腹がぺこぺこだものですから、ベイコン・エッグズをいただきたいんですの」
ニッキーは女とかかりあうなという父親の注意を思いだしたが、これは別問題だった。この愛らしい小さな婦人を一目みれば、申し分のない淑女だということはすぐわかるではないか。彼女の夫は、英国の公務員に相当する地位の人らしい。父母には公務員の友人が幾人もあって、彼らは夫人と同伴でよく自家《うち》へ食事に来る。むろんその夫人たちは、この女のひとのように若くも美しくもないのは事実だが、このひとは彼女たちに負けないほど上品な淑女らしさを持っているではないか。それに二万フランの大金を儲けたあとなのだから、少しぐらい遊ぶのも、わるい思いつきではないだろう。
「よろこんで、おともします」と彼は言った。「しかし、あまり長くは居なくてもいいでしょうね。ぼくは七時に起してくれと、ホテルにいいつけてあるんです」
「ええ、あなたのお好きなだけいて、なるべく早く帰りましょう」
「ニッカボッカ」は、ニッキーにははなはだ愉快だった。ベイコン・エッグズもうまかった。女と一本のシャンペンを飲んだ。ダンスをした。婦人は彼のダンスがたいへん綺麗だとほめた。自分でも非常にうまく踊れたと思ったし、またもちろん彼女は踊りいい相手だった。羽根みたいに軽かった。彼女は頬を彼にすりよせて踊り、眼と眼が合ったとき、彼女の眼にうかぶ微笑は彼の胸をワクワクさせた。一人の黒人女が、豊かな、官能的な声で歌った。フロアはこみあっていた。
「あなた、いままでに、とてもハンサムだって言われたことがおありになる?」と女がたずねた。
「なかったと思うな」彼は笑った。「畜生」彼は思った、「このひと、おれに惚れてるぞ、たしかに」
ニッキーは、女たちから自分が好かれることがしばしばあるのに気がつかないほどの間抜けではなかったから、彼女がそう言ったとき彼は彼女をいくらか強く自分のほうへ引き寄せた。彼女は眼をつぶって、唇のあいだから、かすかな溜息が洩れた。
「こんな大ぜいの人の見てる前で、あなたにキスなんかするのは、いけないことなんでしょうね」と彼は言った。
「見た人が、あたしを何者だと思うか、おわかりになる?」
夜が更けて来たので、ニッキーは、もうほんとに帰ったほうがいいと思うと言った。
「じゃ、あたしも」と女は言った。「ちょっと、あたしのホテルヘお寄りにならない?」
ニッキーが勘定を払った。高いのに、ちょっと驚いたが、ポケットにある金のおかげで、気にかけずにいられた。二人はタクシーに乗った。女が彼にもたれかかったので、彼はその顔にキスした。女はそれを喜んだようにみえた。
「しまった」彼は思った、「だけど仕様がないじゃないか」
なるほど、彼女は既婚者には違いないが、彼女の夫は遠いモロッコにいるのだし、どうみても彼女は彼にぞっこん参ったとしか見えない。だからこれはいいことで、むしろ時宜に適した行為である。またもちろん父親は、女にかかりあうなと言ったことも事実だが、しかし――と、ここでまた彼は考えた――はっきりと、女にかかりあいませんと約束したのではなくて、御注意は忘れませんと約束しただけなのだ。彼は忘れていなかった、あの瞬間にだって、ちゃんとおぼえていた。しかし、状況に応じて、個々の場合はちがって来るものだ。彼女は実に愛らしくて、美しかった。こんなふうに、お盆にのせてひょいと出されたような、すばらしい|経 験《アドヴェンチュア》をとりにがすのは阿呆のすることだと、彼には思われた。ホテルへ着くと、彼はタクシー代を払った。
「ぼくは歩いて帰ります」彼は言った。「あすこの濁った空気を吸ったあとですから、外気にふれたら気持がいいだろうと思いますから」
「ちょっと、お上りになって」と女は言った。「あたしの小さい坊やの写真を、お目にかけたいんですの」
「ほお、坊やちゃんがおありなんですか?」ちょっといなされた感じで、彼は叫んだ。
「ええ、かわいい坊やですのよ」
彼は女のあとについて階段をのぼった。彼女の坊やの写真など、ちっとも見たいわけではなかったが、見たいふりをしなくては失礼だと思ったのである。ぼくはとんでもない恥をかくんじゃないだろうか。写真を見に来いと言って部屋へつれていくのは、ぼくが思い違いをしていることを、上手に、遠まわしに教えるためなのかも知れない、とも彼は思った。さっき彼はまだ十八歳だと、彼女に告げたのだ。
「このひとは、きっとぼくをまだほんの子供だと思ってるんだろう」
彼はナイト・クラブでシャンペンなんか飲んで、あんな大金を使わなければよかったという気がして来た。
だが、彼女は結局、彼女の坊やの写真など見せもしなかった。部屋へ入るや否や、彼女は彼の正面から頸にすがりつき、心ゆくまで唇にキスした。こんな情熱に燃えたキスをしたのも、彼には生まれてはじめてであった。
「ダーリング」と女は言った.
ほんの一瞬間、父親の注意はもう一度ニッキーの心を走り過ぎたが、次の瞬間、彼はそれを忘れた。
ニッキーは眠りの浅い性《たち》で、ほんのちょっとした音にも眼がさめやすい。二三時間後、彼は眼をさまして、しばしはどこに寝ているのか、思い浮かばなかった。浴室のドアが少し開いていて、そちらの電灯がつけはなしになっているので、室内は真暗ではなかった。急に、部屋のなかで誰かが動きまわっているのに、彼は気づいた。とたんに、記憶がよみがえった。それが彼のかわいらしい女友達だと知ると、声をかけようとしたが、とたんに彼女の様子がおかしいので、それをやめた。女は、彼が眼をさますのを怖れるように、ひどく用心しながら歩いているのだ。一二度、足をとめて、ベッドのほうを見ていた。何するつもりなんだろう。その不審は、すぐに晴れた。彼女は彼の衣類のぬぎすててある椅子のところまで歩いて、さてもう一度ベッドの彼のほうを見た。そのまま、彼には無限とも思われるほど長いあいだ、彼女はじっとしていた。緊張した沈黙、ニッキーには自分の心臓の鼓動まで聞えるような気がした。やがて、ごくゆっくりと、ごく静かに、女は彼の上衣をとりあげ、内ポケットへ手をすべりこませ、あの、あれほどニッキーを勝ち誇らせたところの、大枚の千フラン紙幣を、ごっそりとりだした。彼女は上衣をもとへ戻し、誰も手をつけなかったように見せかけるために二三のほかの衣類を、その上に置いて、さて、例の紙幣束を手に握ったまま、もう一度、かなり気になるほど長いあいだ、身動きもせずにそこに立っていた。それまでに、すでにニッキーは、いきなり跳びかかって女をとっつかまえたいという本能的衝動を抑えつけていた。彼がじっと静かにしていたのは、一つにはびっくりしたためもあったが、一つには、自分がいま外国の、えたいの知れぬホテルにいるのだから、ここで喧嘩をおっぱじめたら、どんなことになるかわからぬと気がついたためもあった。女は彼を見た。彼は半分眼をつぶって、これなら向うは自分の眠っていることを疑わないだろうと思った。この深夜の静寂のなかで、彼の平静な寝息は彼女に聞きとれないはずはない。自分の行動が彼の眠りをさまたげなかったことに安心すると、女は極端な慎重ぶりで、室内を横切って歩きだした。窓際の小テーブルの上に、鉢植えのシネラリアがあった。ニッキーはいま両眼を大きく見ひらいて、女の行動をみまもった。この植木は、鉢のなかにごくゆるやかに置かれてあるらしい、というのは、女はその茎を握って、すっぽりとそれを持ちあげてしまったからである。彼女は鉢の底へ例の紙幣を入れると、またもとどおりに植木を置いた。実に巧妙な隠し場所だ。あの沢山の花の咲いている植物の下に、物が隠してあるとは、誰だって気がつくまい。女は指で鉢植の土を下へ押しつけてから、ごくゆっくりと、ほんの微かな音もたてないように気をつけながら、床を横切って戻って来ると、そっとベッドにすべりこんだ。
「好い子ちゃん」あまったるい声で、女は言った。
ニッキーは、深い眠りに落ちこんだ男のように、規則ただしく呼吸した。小柄な淑女は寝返って横向きになり、自分も一寝入りするつもりと見えた。だが身動きもせず横になっていたとはいうものの、ニッキーの頭脳はさかんに活動していた。いましがた目撃した光景に、彼は極度に腹を立てていて、頭のなかではものすごく精力的に自分の考えをまとめていたのだ。「なんだ、この女はただの下劣な淫売じゃないか。淑女で、かわいい坊やがあって、モロッコに夫がいるなんて。ばかにするな! 汚ならしい泥棒なんだ、この女は! ぼくをよっぽどうぶなカモだと思ったんだろう。あんなことをして、人のものが取れると思ったら、大まちがいだぞ」
彼は、ああして自分が器用に儲けた金をどう使うか、すでに考えがきまっていた。もとから彼は自分の自動車が一台ほしくて、それを買ってくれない父はすこし吝《けち》ん坊だと思っていたのである。男の子だもの、いつまでも家族用の車にばかり乗っていられやしないじゃないか。よし、ひとつ親父に教訓を与えるためにも、自分で車を買ってやろう。二万フランといえば、ざっと二百ポンドだから、これだけあれば相当の中古車が手に入る。彼は金をとりかえす気でいたがどうすればいいのかはまだわからなかった。ここで一騒動おこすのは感心しない。こっちは客でもないし、ぜんぜん知らないホテルなのだ。この憎らしい女には、幾人か味方がいるという可能性は大いにある。対等の喧嘩なら誰とだってやったっていいが、もしもピストルでもぶっぱなされたら、こっちはバカを見るばかりだ。のみならず、あの金が自分のものだという証拠がないということも考えたのは、まことに上分別と言うべきだろう。事がおおっぴらになって、女がこの金は自分のものだと言いだしたら、たちまち彼は警察へたたきこまれるだろう。したがって、どうしたらいいのか、実のところ彼には皆目わからなかったのだ。
しばらくすると、女がすやすやと寝息を立てはじめたので、やっと彼は愛すべき女性が眠っていることを知った。少しの手違いもなく商売をやりおおせた安心から、気持よく眠りに入れたものに違いない。こっちが眼をさまして、身も世もなく苦労しているのに、よくもこうすやすやと眠れるものだと、ニッキーはますます腹が立った。と、急に一つの考えが浮かんだ。それが実に名案だったので、すぐにベッドから跳びだしてそれを実行に移さないためには、彼の自制力の全部を使い果たすほど骨が折れた。彼女のゲームは彼女ひとりの専売ではない。二人でもやれるのだ。女は彼の金を盗んだ。そこでこっちがそれを盗み返せば、はじめて勘定が合う理屈だ。この人をだますことのうまい女が、ほんとにぐっすり寝込むまで、じっと静かに待つことにしよう、と彼は心をきめた。よほど長い時間、待ったように思われた。女は動かない。呼吸は子供のように平静であった。
「ダーリング」とうとう、彼は言ってみた。
返事はない。動きもしない。死んだように眠っているのだ。ごくゆっくりと、一々の動作のたびに一休みしながら、ごそりとも音を立てず、ベッドから抜け出た。自分の動作が女の眠りをさまたげたかどうかを知るために、しばらく立ったまま、寝すがたを見ていた。呼吸は相変らず平静である。その待っているあいだに、彼は慎重に家具の配置を頭に入れた。部屋を歩くときに椅子やテーブルにぶつかって音を立てないためである。二歩ばかり歩いて立ち止まり、様子をみてからまた二歩あるいた。歩きかたがごく軽快なので、音は全然しなかった。窓際に達するまでに、たっぷり五分はかけたであろう、ここでまた彼は静止して様子をみた。と、ベッドが軽くきしんだので、彼はギョッとした、が、それは女が眠ったまま寝返りを打ったためにすぎなかった。彼は百、数を数えるまで、辛抱して待つことにした。女は丸太のように眠っている。極度の用心をしながら、彼はシネラリアの茎を握り、静かにそれを鉢から引き抜いた。残ったほうの手を鉢の底へ入れ、指が紙幣にふれたときは、心臓は早鐘をついていた。紙幣をわしづかみにして、ゆっくり外へ出した。植木をもとへ戻し、さっき見た通り土を指で押しさげた。これだけのことをするあいだ、彼はベッドの上の寝すがたから眼をはなさなかった。寝すがたは動かなかった。また一息、休んでから、彼はそろそろと自分の衣類の置いてある椅子へ歩み寄った。まず紙幣束を上衣のポケットに入れてから、服を着はじめた。音を立てるわけにいかないので、十五分はたっぷりそれにかかったであろう。前の晩、彼はタキシードと一緒にやわらかいワイシャツを着ていたので、運がよかったと思った。硬いシャツよりはずっと音を立てずに着られたからである。鏡を見ずにタイを結ぶのは少しむずかしかったが、何もタイを形よく結ばなくたって大したことじゃないと頭をはたらかせたのは、これまた上分別だった。だんだん、元気がわいて来た。この事件ぜんぶが、一場のお笑い草のような気もして来た。さて靴を除いて全部の着つけを終って、その靴を手に持った。廊下へ出てから、はこうと思ったのである。いよいよ今度は、ドアのところまで歩いてゆかなくてはならぬ。どんな眼ざとい人間でも眼をさましそうもないほど、静かに歩いて、ついにドアに達した。だがドアには鍵がかかっていた。彼はごくゆっくりと、鍵をまわした。カチリと音がした。
「だれ?」
小柄な女は、急にベッドの上に起き直った。ニッキーは泡を喰った。非常な努力で、辛うじて冷静をたもった。
「ぼくですよ。もう六時だから、行かなくちゃならないんです。あなたが眼をさまさないように、気をつけて支度したんです」
「ああ、あたし、忘れていたわ」
彼女はまたごろりと横になった。
「眼がさめちゃったから、ぼくは靴をはきますよ」
彼はベッドの縁に腰をかけて、靴をはいた。
「出るときは、音を立てないようにしてね。ホテルの人たちが厭がるから。ああ、あたし、すごく眠いわ」
「すぐまた眠れますよ」
「行く前に、キスして頂戴」彼は腰をかがめて、キスした。「あんた、かわいい坊やで、すてきな恋人だったわ。ボン・ヴォアヤージ」
ニッキーはホテルの外へ出てしまうまでは、すっかり安心できなかった。夜が明けかけていた。空は晴れて、港にはヨットや漁船が何隻か、静かな海にじっと横たわっている。波止場では漁夫たちが、もうその日の仕事に出かけようとしている。往来には人影がなかった。ニッキーは爽かな朝の空気を深く吸いこんだ。頭がはっきりして、鋭くはたらく。同時に、嬉しさで、躍りあがりたいほどだ。ぐんぐん大股に、肩をそびやかして、丘をのぼり、カジノの前の庭園にそって歩いて――澄んだ朝の光のなかで露を含んでキラキラする草花の何といううるわしさ――自分のホテルまでたどりついた。ここではもう起きていた。ホールには、頸のまわりにマフラを捲き、頭にベレーをかぶったポーターたちが掃除に余念がない。ニッキーは自室へ上って、入浴した。湯につかりながら、おれは決して一部の人々が思うほど間抜けではないようだと満足をおぼえながら考えた。風呂《バス》から出ると、体操をし、着がえをし、荷造りをすませて、朝食に降りて行った。食欲は旺盛だった。大陸の朝食では、ぼくはだめだ! 彼はグレープ・フルート、オートミール、ベイコン・エッグズ、焼き立ての捲きパン――パリパリ歯ざわりがよくて、口のなかで溶けてしまいそうなほど美味いやつ――にマーマレードをつけて食べ、コーヒーを三杯のんだ。食事前から申し分ない元気だったが、食後はますます元気になった。近頃おぼえたパイプに火をつけ、勘定を払って、カンヌの向う側にある飛行場へ行くために待っていた車に乗りこんだ。ニースまでの道路は丘を越えていくので、彼の眼下には真蒼な地中海と海岸線とが展開した。実に美しい景色だと思わずにはいられなかった。早朝の賑やかで親しみにあふれたニースの街を過ぎ、今度は海にそって一直線にのびている道路へ出た。ニッキーがホテルの勘定を払った金は、昨夜もうけた金ではなくて、父親から貰って来た金である。「ニッカボッカ」の夜食の勘定を払うためには、千フラン札を一枚くずしたが、あのインチキ女が彼に借りた千フランを返したから、いまだに彼のふところには二万フラン入っているわけだ。彼はその紙幣たばを見たくなった。それは一度は危なく取られてしまうところだったから、彼にとっては二倍の値打ちがある。彼は旅行用に背広に着かえたときに、用心のために尻のポケットに入れておいたその金を取りだして、一枚一枚かぞえてみた。すると、はなはだ奇怪なことが生じていた。紙幣は二十枚であるはずなのに、二十六枚あったのである。どういうことか、わけがわからない。もう一度、さらに二度まで数えてみた。まちがいない。どうしたことか、彼は二万フランしか持っていないはずのところを、二万六千フラン持っているのだ。彼にはどうしても、事情がのみこめなかった。「スポーティング・クラブ」で、自分が思った以上に儲けたとでもいうのであろうかと考えてみた。いや、たしかにそんなはずはない。デスクの男が、紙幣を五枚ずつ四列に並べたのを彼はハッキリおぼえているし、自分でもそれを数えたのだ。と、突如として、謎が解けた。植木鉢からシネラリアを引き抜いて、手をつっこんだときに、彼は手にふれたものをそっくり鷲づかみにした。植木鉢はあのアバズレ女の金庫なのだから、彼は自分の金だけでなく、彼女の貯金も一緒に持ちだしてしまったのだ。ニッキーは車のなかでのけぞって、げらげら笑いだした。こんな滑稽な話を、聞いたことがない。今日、これからしばらくすると、あの女が眼をさまして、植木鉢のところへいく、ああして上手に自分から捲き上げた金がそこにあると思いのほか、それがなくなっているばかりでなく、彼女自身の金まで消え失せているのに気がつくのだ――そう思うとますます彼は笑いがとまらなかった。しかも、彼の立場としては、いまさらどうすることもできない。彼女の名を知らないし、彼女が彼をつれこんだホテルの名さえ知らない。よしんば返したくても、返すことができないのだ。
「いい気味《きび》だ、これで彼女《あいつ》、こりるだろう」と彼は言った。
さて以上が、ブリッジ・テーブルでヘンリ・ガーネットが友人たちに語った話である。昨夜、夕食後、妻と娘とが座をはずして、赤葡萄《ポート》酒のグラスを前に、息子と二人きりになったとき、ニッキーは詳しくこの話を彼に物語ったのである。
「つまりだ、わしが腹が立ってたまらんのは、伜のやつが、すっかり好いご機嫌になっていることなのだ。ヒョウタンから駒みたいな話だ。すっかり話したあとで、やつが何と言ったと、諸君思うかね? いつもの無邪気な眼でわしを見て、曰くさ。『ねえ、お父さん、あのときのお父さんの御注意には、どこか間違ったところがあるとしか、ぼくには思えません。博奕をするな、でしょう? ところがぼくは博奕をして、大儲けしました。金を貸すな、でしょう? ところがぼくは金を貸したら、金は返って来ました。それから、女と絶対にかかりあうな、でしょう? ところがぼくはかかりあって、その取引で六千フラン儲けたじゃありませんか』と、こうだよ」
ここで三人の友人が一斉に爆笑したのは、ヘンリ・ガーネットにはますます面白くなかった。「諸君が笑うのは勝手だが、わしにしてみれば、これは実に迷惑な立場だということを察してもらいたいね。伜はわしを見上げて、尊敬しておった、わしの言葉を金科玉条として、受け取っておった。それがいまはどうだ、やつの眼を見ると、わしを、たわけた耄碌《もうろく》親父としか見ておらんのだ。燕が一羽とんで来ただけで、夏にはならんと言って聞かせても、何のききめもない。やつにはこれがまぐれ当りにすぎんということがわからなくて、一切万事、自分の要領がよかったからだと思っとるんだよ。こんなことじゃ、やつは堕落するよ」
「たしかに、きみは少しばかり、もうろく親父に見えるよ」一人の友が言った。「その点は否定できんだろう、どうだ?」
「それがわかってるから、面白くないのだ。まったく当らざるも甚だしいよ。運命の神は、ああいう怪しからん悪戯をする権利はないはずだよ。何といったって、わしの教えたことは正しかったことを、きみらも認めざるをえまいが?」
「大いに正しいよ」
「だから伜の不届き者は、当然、痛い目にあうべきなのだ。ところが、やつはケロリとしている。諸君のような世間通の人から、いまのわしのような場合を、どう処理したらいいのか、教えてもらいたいものだね」
だが、誰ひとり、これには答えられなかった。
「うむ、まあ、ヘンリ、ぼくがきみだったら、あまり心配せんだろうね」と弁護士が言った。「ぼくの信ずるところでは、きみの息子は生まれつき幸運に恵まれている、そうして、長い目で見ると、これは、生まれつき賢いとか、生まれつき金持だというのよりも、いいことなんだよ」
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マウントドレイゴ卿の死
オードリン博士はデスクの上の置時計を見た。六時二十分前。彼は患者の来るのが遅いことに驚いた――マウントドレイゴ卿は時間を厳守するのを自慢にしている人なのに。卿は何か言うときに宣告でもするような調子で言うので、ごく平凡な言葉が格言でも聞かされたような印象を相手に与えるのだが、その彼がいつも口癖に言う文句は、時間厳守ということは、賢者に対しては褒め言葉であり、愚者に対しては叱責となる、というのだった。マウントドレイゴ卿の約束は五時半だった。
オードリン博士の風貌には、どこといって注目を惹くところは一つもない。背丈が高く、痩せていて、肩幅は狭く、すこし猫背である。髪は半白で、薄くなっている。血色のわるい、長い顔には、深い皺が刻まれている。まだやっと五十歳だが、年齢よりもずっと老けてみえる。色の薄い、やや大き目な蒼い眼は疲れている。彼としばらく対坐していると、その眼がほとんど動かないことに気がつく。それは相手の顔にぴたりと視線を据えているのだが、まったく無表情なために不愉快ではなかった。その眼が光を帯びることはごく稀である。そこから彼の心のうちを読みとる手がかりは一つも得られないし、彼の述べる言葉と一緒に表情が変化することもない。観察力のある人なら、その眼がわれわれの大多数に比して瞬きをすることが甚だしく少ないのに気がつくだろう。手は大きいほうで、長い、先細《さきぼそ》の指をしている。やわらかではあるがしっかりして、冷やかではあるが湿っぽくはない手だ。オードリン博士が何を着ているか、わざわざ観察した人でなければ言うことができないだろう。服は黒っぽい色で、ネクタイは黒である。彼の服装は血色のわるい顔を一段と蒼白くみせ、色の薄い眼を一段と薄くみせる。全体として、いかにも病弱な人らしい印象を与える。
オードリン博士は精神分析家である。彼がこの職業に従事したのは偶然からで、自信のない、あやふやな気持で診療をやっている。戦争(第一次大戦)が起ったとき、彼はまだ医師の資格をとってから間もなかったから、あちこちの病院で修業中であった。彼は従軍を志願し、やがてフランスヘやられた。彼が自分の特異な天分を発見したのはそのときだった。彼は自分の冷やかな、しっかりした手を触れると、ある種の疼痛を鎮めることができたし、不眠で苦しんでいる患者と話をすることによって彼等を眠らせることがしばしばできた。彼はゆっくりと話す。声に特徴がなく、口にする言葉につれて調子に変化がないけれども、その声は音楽的で、静かで、眠りを誘った。彼が患者たちに、休まなくてはいけない、心配するな、眠らなくてはだめだと言って聞かせると、憩いが患者たちの硬い骨のなかへ忍びこみ、人ごみのなかでベンチの座席をみつけた人のように、安静が彼等のさまざまな不安を押しのけて、まるで春のしとしと雨が草の芽ぐんだ大地に降りそそぐように、まどろみが彼等の疲れた眼蓋の上へ落ちかかるのだ。オードリン博士は、そうした低い単調な声で話しかけたり、色の薄い、静かな瞳でみつめたり、長い力づよい手で疲れた額を撫でたりすることによって、患者たちの心の擾乱《じょうらん》をしずめ、惑いや悩みを解きほぐし、彼等の生活を地獄にしている病的な恐怖を消し去ることができた。
ときには奇蹟的とも思われるほどの治療効果をあげることがあった。炸裂した砲弾に地中に埋められ、衝撃のために唖になった患者をふたたび口がきけるようにしたり、飛行機の墜落で全身の麻痺した男の手足を動かせるようにしたこともある。彼は自分がなぜそんな力を持っているのか、合点がいかなかった。元来が懐疑的な性質なので、こういう場合には何よりもまず自分自身を信じる必要があると人は言うけれども、それが彼にはうまくできないのである、ただ彼の施術の結果が、どんなに疑いぶかい観察者にも明々白々であったので、彼としても自分にはどこから来るのかわからないが一種の能力があり、曖昧で不確実ではあるけれども、自分では説明のつかない効果をあげることができるのだと、認めざるをえなかった。戦争が終ると、彼はウィーンへ行って研究をし、さらにチューリッヒへ遊学し、その上でロンドンに医院を開いて、このようにして不思議にも習い覚えた療法を行うことになった。開業してから今年で十五年、この方面での専門家として、ゆるぎのない名声を博するにいたっている。
彼の診療の驚くべき結果は世人の噂にのぼるようになり、報酬は高かったけれども、休む暇もなく患者は押しかけた。オードリン博士は自分が極めて特筆に値する幾つかの業績を挙げたことを知っている。多くの人々は彼の力で自殺をまぬがれたし、また精神病院行きをまぬがれた。世の中の有用な人々の陥った悲しみをやわらげ、不幸な夫婦を幸福にしてやり、異常衝動を除去することによって少なからぬ人々を厭わしい精神的圧迫から解放し、病める精神に健康を与えた。彼はこれらのことを成しとげながら、しかも心の奥では自分はイカサマ医者といくらも違わないのではないかという疑いを持ちつづけていた。
おのれの理解できない力を行使することは彼のいさぎよしとしないところであったし、自分自身が信じてもいないのに自分の治療する人々からは信じられて商売をしているのも正直な彼の心を苦しめた。いまでは働かなくても暮らしてゆけるだけの富も積んだし、仕事は彼を疲労困憊させている。いっそ診療をやめてしまおうとしたことも五度や六度ではなかった。フロイトやユングやその他の学者の著述も彼はみな知っている。彼は満足しない。それらの学説がみなインチキだと腹の底では確信しているが、しかも結果は歴然と存在する。理解はできないが明々白々である。またこの十五年間、ウィンポール・ストリートの奥まった陰気な診察室へ通って来る患者たちによって、彼が人間性について知り得なかったことは何があったろうか? 彼の耳に注ぎこまれた秘密の告白、あるときはひたむきに進んでうちあけられ、あるときは恥かしそうに、遠慮しながら、腹を立てながら聞かされる諸事実は、とうの昔に彼をおどろかさなくなっている。どんなことでも、もはや彼にショックを与えることはできない。彼はいまでは人々が嘘つきであること、彼等の虚栄心がどれほど途方もないものであるかを知っている。いや遥かそれ以上に人間というものが悪いものであることを知っているが、同時にそれを審いたり非難したりするのは自分の任でないことも知っている。
しかし年を追って、こうした怖ろしいうちあけ話を聞かされつづけるうち、彼の顔色はいくらか余計に生色を失い、皺も深さを加え、眼も疲れの色を深くしていった。彼はほとんど笑い声をたてないが、ときたま気分をやわらげるために小説を読むときには微笑を洩らすこともある。こういう小説の作者たちは、彼等の書く男や女がほんとうにこの通りだと思っているのか? 人間がどれほど複雑で、どれほど意外で、彼等の魂の内部にどんな矛盾撞着した要素が共存しており、どんな暗い邪悪な争闘、相剋に彼等が悩まされているか、作者たちがもし知ったら!
六時十五分前になった。オードリン博士の記憶に残っている奇怪な症例は数多くあるが、マウントドレイゴ卿のそれほど奇怪なものはなかった。一つにはこの患者の人柄そのものが異常なためでもある。マウントドレイゴ卿は衆人にぬきんでた練達堪能の名士である。まだ四十歳に満たぬときに外務大臣になり、在任すでに三年の現在は彼の政策が国策を支配している。彼が保守党の最も有能な政治家であり、父親が上院議員であるため、その死後は下院にとどまることができないので、そのためにのみ首相の地位をあきらめなくてはならぬ立場にあることは一般に認められている事実である。しかしこの民主主義の時代に、英国の首相はかならず下院議員であるべきだという鉄則は動かせないにしても、マウントドレイゴ卿が相次ぐ保守党内閣に外相としてとどまり、長期にわたってこの国の外交政策を指揮することを妨げるものは何もなかった。
マウントドレイゴ卿には多くの優れた素質があった。彼は聡明であり、勤勉であった。多くの国々を遊歴して、数カ国語を流暢にあやつった。青年時代から外交に専心し、諸外国の政治経済事情に精通すべく、良心的に努力してきた。彼には勇気と、洞察と、決断力とがあった。公開の演壇でも、国会の議場でも、彼の演説は明晰、的確で、しかもしばしば当意即妙の機智をひらめかせた。論争にも秀でていて、応酬の巧みさはしばしば議場をうならせた。風采も抜群であった。長身で、美貌で、やや額が禿げあがって、肉がつきすぎているが、それも彼に堅実味と成熟した感じとを与える役に立っている。青年時代の彼は相当のスポーツマンで、オクスフォードのボート選手であったし、イギリス一流の銃猟家として知られている。二十四歳で某公爵の十八歳になる令嬢と結婚したが、花嫁の母はアメリカの大富豪の相続人であったので、彼女は地位と富とを両手に持って彼に嫁いだわけである。この妻によって彼は二人の男の児をもうけた。ここ数年来、夫婦は私的には離れて生活を送っているが、世間|体《てい》をたもつために公けには夫婦らしくしており、双方とも誰かほかに親しい人間がいるような噂は一度もささやかれたことはない。マウントドレィゴ卿はたしかに野心的すぎ、猛烈に働きすぎるばかりでなく、あまりに愛国者すぎるとも付け加える必要があろうが、それ故に自分の公的生涯の妨げとなるような快楽に誘惑されることは絶対になかった。一言にして言えば、彼はおのれの名声と成功とに必要な資質を実に多分にそなえていた。だが不幸にして彼にも大きな弱点があった。
彼は怖るべきスノブであった。彼の父親が貴族としては初代であったとでもいうなら、これは怪しむに足らぬことかも知れない。貴族に成り上った弁護士や工場主や醸造業者の息子が、自分の爵位を法外にえらいもののように思うとすれば、話はわかるのである。マウントドレイゴ卿の父親が持っている伯爵の位は、チャールズ二世から与えられたもので、その初代伯爵が持っていた男爵の位は薔薇戦争時代から続いていた。三百年来の世襲の貴族として、そのあいだにはイギリスの最高の名門と縁を結んだことも数えきれないほどだ。だがマウントドレイゴ卿はいわゆる成金が自分の富を鼻にかけるように自分の家柄を鼻にかけていた。彼はそのことを他人に印象づける機会を決して逃がさない。上品な貴族的振舞をしようと思えばできる人でありながら、それを自分と同輩階級と認める相手にだけしか見せないのだ。自分よりも身分の低い者と見れば必ず冷たい横柄な態度をとる。彼は召使に対しては傲慢であり、部下に対しては侮辱的であった。次から次へと接触する役所の下僚たちは彼を怖れ、また嫌った。彼の尊大さは身ぶるいが出るほどであった。自分のつきあう人間の大多数よりも自分のほうが遙かに頭がいいことを知っていて、この事実を相手に知らせることを少しもためらわない。人間性の弱さというものに少しも辛抱ができない。自分は人の上に立つように生まれて来たと思っているから、他人が議論を彼に聞かせようとしたり、彼の決定したことの理由を聞こうとしたりすると腹を立てる。彼は底が知れないほど利己的である。彼は他人が自分に何かしてくれるのを、自分の爵位と賢明さに付随する当然の権利と心得ているから、したがって何らの感謝に値しないと思っている。自分が他人のために何ごとかをするように求められるということは、かつて彼の頭に浮かんだことがない。
彼には敵が多かった。敵たちを彼は軽蔑した。彼は自分の援助、共感、同情を受けるだけの価値のある人間を一人として知らない。彼には友人はない。彼の上司たちは彼を信じない。彼等は彼の誠実を疑うからである。彼は党内で人気がない、傲慢で無礼だからである。しかもなお、彼の功績は偉大であり、彼の愛国の赤誠は疑う余地がなく、彼の知性は逞しく、問題を処理する彼の手腕は見事であったから、人々は彼を辛抱しなくてはならなかった。そしてこのことを可能にしているのは、ときとして彼にも魅力的になることができるからである。つまり彼が相手を自分と同等の人物とみなした場合、または外国の高位高官や名流の婦人などと同席して、相手を自分の味方にひきこもうとするときなど、彼は陽気に、機智的に、人なつこくなれるのである。そういうときの彼の言動は、この男の血管にはチェスタフィールド卿(十八世紀イギリスの政治家、外交官)の血管に流れていたのと同じ血が流れているのではあるまいかと思うほどだ。彼は簡にして要を得た話しぶりができ、自然で、気がきいていて、しばしば深遠ですらあった。人々は彼の博識と趣味のこまかさとに驚かされる。世の中にこれほど面白い話し相手があるだろうかと思われる。そういう彼をみていると、昨日彼から侮辱されたことも、明日はどんな苦境に陥れられるかわからぬことも、忘れてしまうのである。
マウントドレイゴ卿は、あやうくオードリン博士の患者になりそこなうところであった。秘書が博士に電話をかけて、閣下が御診察を受けたいと望んでおられるので、明日の午前十時に御往診くださるまいかと言った。医師は、マウントドレイゴ卿のお邸へ伺うことはできないが、明後日の午後五時に診察室でお目にかかることができれば好都合だと答えた。秘書はこのことを卿に伝えてからまた電話をかけて来て、マウントドレイゴ卿はやはり自邸で御診察を受けたいから、診察料は先生のほうでおきめ下すって結構だと言う。オードリン博士は答えて、自分は自分の診察室でなければ患者をみないことにしているので、はなはだ残念ながら、マウントドレイゴ卿がおいで下さるわけにいかないなら、診察はおことわりするより仕方がないと言った。十五分後に、閣下は明後日でなく、明日の午後五時にお訪ねしますという短い口上が伝えられた。
マウントドレイゴ卿が診察室に招じ入れられたとき、彼は扉口に立ったまま前へ進み出ないで、横柄な態度で博士を見あげ見おろした。オードリン博士は彼が激怒しているなと思った。彼は無言で、静かな眼つきで相手をみつめた。大柄な、でっぷり肥った男、白髪まじりの髪が、抜けあがっているので、前額に貴族的な感じがあり、きっぱりした目鼻だちの不敵な面がまえに、傲慢不遜な表情が浮かんでいる。ちょっと十八世紀のフランスの王様の一人を思わせる風貌である。
「オードリン博士、あなたにお目にかかるのは、首相に面会するようにむずかしいようですな。わたしは非常に多忙な人間です」
「おかけになりませんか」と医師が言った。
医師の表情には、マウントドレイゴ卿の言葉から何の感じも受けた様子がみえなかった。オードリン博士はデスクの前の自分の椅子に腰をおろした。マウントドレイゴ卿はまだ立ったままで、ますます苦い顔になった。
「わたしが皇帝陛下の外務大臣であることをお話しする必要があるようですな」彼は辛辣な声で言った。
「おかけになりませんか」医師はくりかえした。
外務大臣はいまにも踵《くびす》をめぐらせてこの部屋を出ていこうとするつもりのような仕草をした。が、それが彼のつもりであったとしても、そこを考え直したものとみえる。彼は席についた。オードリン博士は大きな帳簿を開いて、ペンをとりあげた。彼は患者のほうを見ずに書きこんだ。
「お年齢《とし》は?」
「四十二」
「結婚しておいでですか?」
「おります」
「結婚されて何年になりますか?」
「十八年」
「お子さんは?」
「息子が二人あります」
オードリン博士は、マウントドレイゴ卿が彼の質問にぶっきらぼうに答えるのにつれて、事実を書き記していった。それが一段落すると、彼は椅子の背にもたれて、患者を見た。何も言わない。ただ、おもおもしく、動かない薄色の蒼い眼で見ているだけだ。
「なぜわたしのところへみえたのですか?」
「あなたのお噂は聞いています。カヌート夫人もあなたにかかったことがあるそうですな。夫人から、あなたの治療が、相当の効果をあげたように聞かされました」
オードリン博士は答えなかった。視線を相手の顔に据えたまま、少しも動かさない、が、その眼はまったく表情がなく、空虚なので、相手は彼が自分を見てさえいないのではないかと思いがちだ。
「わたしは奇蹟を行うことはできません」ポツリと博士は言った。にこりともせずに――だが、ほんの微笑の影らしいものが彼の瞳をチラとかすめた。「かりに行ったとしても、王立医学会が認めてくれないでしょう」
マウントドレイゴ卿はクスリと笑った。それが彼の敵意を弱めたらしい。いくらか和やかな口調になって、
「あなたの御名声はたいしたものです。世間はあなたを信じきっているようです」
「なぜわたしのところへみえたのですか?」オードリン博士はくりかえした。
今度はマウントドレイゴ卿が沈黙する番であった。この問いに答えるのが困難なことに気づいたような顔をしている。オードリン博士は無言で待った。ようやく、卿は強いて口を開く決心をしたらしい。彼は語りだした。
「わたしは申しぶんなく健康です。ほんの手続き上の要件として、先日かかりつけの医師の診察を受けました。むろんご承知と思うが、サー・オーガスタス・フィツハーバートに診てもらったのですが、そのときもわたしの身体は三十歳の男のようだと言われたものです。猛烈にはたらきますが、疲れたことがない。はたらくのが楽しいのです。煙草はほとんどやらんし、酒もごく適度にしかたしなみません。運動も充分にするし、生活は規則的です。わたしは完全に健全、正常、健康な男です。そういう男があんたの診察を受けに来るなどは、はなはだ愚劣な、子供っぽい所業だとお思いになるでしょうな」
オードリン博士は患者に話をしやすくしてやる必要があると思った。
「わたしが何かお役に立てることがあるかどうかわかりませんが、ま、やってみましょう。何か悩んでおいでですか?」
マウントドレイゴ卿は眉をひそめた。
「わたしの引き受けている仕事は重要です。わたしが決断を要求される事柄は一国の安危にかかわるどころか、世界の平和にさえもかかわるのです。わたしの判断が中正を失せず、わたしの頭脳が明晰であることは絶対必要事です。わたしの国家に対する役立ちを妨害するような悩みの原因をとりのぞくことは、わたしの義務とさえ見ておるのです」
オードリン博士は彼から眼を離さなかった。たくさんの事実を彼はみぬいた。患者の尊大な態度、傲岸な衿持の背後に、自分でははらいのけることのできぬ不安がわだかまっていることをみぬいた。
「わたしがご迷惑でもここへ来ていただくようにお願いしたのは、経験上、うすぎたない医院の診療室のほうが、患者の馴れ親しんだ環境よりも、話がしやすいことを知っているからです」
「たしかに、うすぎたないですな」マウントドレイゴ卿は無遠慮に言ったが、そのまま口をつぐんだ。この自信の強い、頭が鋭くて決断のはやい人物は、いまだかつて狼狽したことがないのに、このときばかりは明らかにどぎまぎしていた。自分がおちついていることを医師にみせるために彼は微笑したが、彼の眼はおちつきを失っていることを物語っていた。次に喋りだしたとき、彼の語調は不自然な熱を帯びていた。
「いや、まったくつまらんことで、あなたのお時間をさまたげるのも恥しいくらいなのです。莫迦なことを言って、おれの貴重な時間を空費せんでくれと、叱られはせんかと心配なのですがな」
「非常につまらないようにみえることでも、重要な場合があります。それが底のほうにひそんでいる錯乱の症候であることもありうるのです。そしてわたしの時間は、全部あなたがお使いになってかまいません」
オードリン博士の声は低くて、荘重であった。彼のもの言うときの単調さは、異様に相手の気持をしずめる。マウントドレイゴ卿は、とうとう率直に話そうと心をきめた。
「実は、近ごろ、ひどく面白くない夢を、ちょいちょい見るのです。そんなことを気にかけるのは愚かなことだとは知っておりながら――いや、正直に言いますと、それが神経にさわっとるらしいのです」
「そのどれか一つを、話してごらんになれますか?」
マウントドレイゴ卿は微笑した、がその微笑は、淡泊になろうとしながら、悲しそうにしかみえなかった。
「あまりばかばかしいので、お話しするのも気がひけるんですがね」
「かまいません、どうぞ」
「ええと、最初に見たのは、一カ月ばかり前でした。コネマラ侯爵邸で催された宴会に出席している夢なのです。公式の宴会で、国王や王妃もご臨席になるはずなので、むろん勲章を佩用《はいよう》する必要がありました。わたしも勲章や綬《じゅ》を身につけていました。クロークルームらしい室へ入って、ボーイたちの手をかりて外套を脱ごうとしているところへ、ウェールズから出ている下院議員で、オーウェン・グリフィスという名の小男の顔がみえました。実をいうと、わたしはこの男をみて、びっくりしたのです。それほど下等な平民なので、わたしはひとりごとを言いました――『まったく、リディア・コネマラにも困ったものだ。この次は誰を招ぶつもりだろう?』グリフィスがわたしを、めずらしそうな眼つきでみたようでしたが、わたしのほうではふりむきもしませんでした。いや、むしろその小男の無作法をわざと無視して、二階へ上っていきました。あの邸へは行かれたことはないでしょうな?」
「ありません」
「そうでしょう、あなたがおいでになりそうな場所ではありませんからな。どっちかといえば趣味のわるい家ですが、見事な大理石の階段があって、コネマラ夫妻がその上で客を迎えるのです。コネマラ夫人はわたしと握手をしたときに、ちょっと意外そうな顔をして、何がおかしいのか、忍び笑いをしはじめました。わたしはたいして気にとめませんでした。侯爵夫人はごく躾《たしな》みのわるい愚かな女で、チャールズ二世王が侯爵夫人の位を授けた彼女の先祖たちと大差のない挙動をするひとです。コネマラ邸の客間が壮麗なことは言っておかなくてはなりますまい。わたしは広間を通り抜けながら、大ぜいの人々と会釈したり握手したりしました。すると、ドイツ大使が、オーストリアのある大公と話をしているのが見えました。わたしは大使とちょっと話したいことがあったので、そばへ行って、手をさしのべました。その瞬間、大公がわたしを見たと思うと、急にげらげらと笑いだしました。わたしは大いに侮辱を感じました。きびしい表情で相手を睨んだのですが、大公はますます大声で笑うばかりです。わたしは声を荒らげて何か言おうとしたのですが、ちょうどその瞬間に、急に警蹕《けいひつ》の声が聞えたので、わたしは両陛下がご来臨になったことを知りました。大公に背を向けて、わたしは前へ進み出ましたが、その瞬間、突然に、ズボンをはいていないことに気がついたのです。短い絹のドロワーズに、真紅な沓下どめをつけているのです。レディ・コネマラが忍び笑いしたのも無理はありません。大公が爆笑したのも無理はありません! その瞬間、どんな気持がしたか、はっきり言えます。恥辱による死ぬほどの苦しみです。わたしは冷たい汗をかいて眼をさましました。ああ、あれが夢だったことを知ったときの救われた気持、あなたにはとてもおわかりにならんでしょう」
「それは、そうめずらしい種類の夢ではありません」オードリン博士は言った。
「そう、たしかにそうでしょう。しかし次の日、妙なことが起ったのです、わたしは下院のロビイにいました。そこへ例のグリフィスという男が、ゆっくりわたしのそばを通り抜けてゆきました。彼は、わざとわたしの足のほうを見て、それから、まじまじとわたしの顔をみて、たしかにやつは片眼をつぶってみせたような気がしました。ばかげたことがわたしの頭に浮かびました。昨夜、あの男はあすこにいて、あの見ぐるしいわたしの姿を見て、それを笑いものにしているのだ、と。しかしむろん、あれは夢にすぎないのだから、そんなことがありえないことはわかっていました。わたしが彼に氷のような一瞥を与えると、彼はそのまま行ってしまいました。しかし彼は向うをむいてニヤニヤ笑っていました」
マウントドレイゴ卿はポケットからハンカチーフをだして、掌《てのひら》の汗を拭った。彼はもう心の混乱を隠そうとしていなかった。オードリン博士は依然として彼の顔から眼を離さない。
「次の夢を話してください」
「次の夜でした。これは最初の夢よりも、もっと突飛でした。この夢で、わたしは議会にいました。ちょうど、国内ばかりでなく、全世界が重大関心を寄せてみまもっている、外交問題に関する論争が行われていました。政府は、大英帝国の将来の安危にかかわる政策の変更を決定していました。歴史的な場合でした。もちろん議場は満員でした。各国の大使も傍聴していました。傍聴席はぎっしり詰まっています。夕刻、重大演説をする役目が、わたしに与えられていました。草稿は慎重に練っておきました。わたしのような男には敵があります。わたしが、よほど優秀な男でも、まだあまり人目につかない地位で満足している年齢で、いまの地位に上っているというので、嫉《ねた》んでいる者は沢山あります。だからわたしは、この演説が、この時局にふさわしい価値のあるものであるばかりでなく、わたしを誹謗する輩《やから》を沈黙させるものでなくてはならぬと決意していました。全世界がおれの唇の動き一つにかかっているのだと思うと、わたしは興奮しました。わたしは立ち上りました。あなたが議会へおいでになったことがあるならご存じでしょうが、討論の最中に議員たちは絶えずお互いに私語したり、書類の音をさせたり報告書をめくったりしているものです。しかしわたしが演説をはじめたとき、静けさは墓場の静けさでした。急にわたしは反対党席の一つに、例の憎らしい小男――ウェールズから来た議員のグリフィスの姿をみつけました。彼はわたしに向って舌をだしました。あなたは「自転車は二人のもの」という野卑なミュージック・ホールの唄をご存じかどうか知りませんが、あれはずっと前にひどく流行った唄です。グリフィスのやつに、わたしがどれほど彼を軽蔑しているかをみせるために、わたしはあれを歌いだしました。その唄の一番を、わたしは全部歌いました。一瞬、みな驚いて静かになっていましたが、わたしが歌い終ると、反対党席で『ヒア、ヒア』とどなりました。わたしは手をあげて静まれと合図をしてから、二番を歌いました。議場は石のような沈黙のうちに耳をすましている、わたしは自分の歌があまり受けていないと思いました。わたしの声は美しいバリトーンですから、それが気に入らなくて、聴衆にわたしの歌を正当にわからせてやろうと決心しました。三番を歌いはじめたとき、議員たちは笑いだしました。またたく問に笑い声はひろがりました。大使連も、貴賓席の外人たちも、婦人席の淑女たちも、新聞記者たちも、身体をふるわせ、大口あいて笑っています。文字どおり抱腹絶倒しているのです。一人のこらずが笑いころげているなかで、わたしのすぐうしろの席に控えた前列の大臣席の閣僚たちだけが、この思いもよらない前代未聞の騒動のなかで、石のように動かずにいます。彼等のほうを一瞥すると同時に、急にわたしが大失錯を犯してしまったことに気がつきました。わたしは自分を世界じゅうの笑いものにしてしまったのだ。みじめな気持で、おれは辞職しなければならないと思いました。とたんに眼がさめて、それが夢にすぎなかったことを知りました」
マウントドレイゴ卿の尊大な態度は、この話をしているあいだに消えてゆき、話し終ったいまは色蒼ざめて、ふるえていた。しかし強いて気をひきしめて、ふるえる唇でむりに笑おうとした。
「どうも、あまり荒唐無稽な夢なので、滑稽を感じないではいられなかったのです。それきり思いだすこともなく、翌日の午後、議場へ入ったときには、非常に元気になっていました。討論は退屈でしたが、わたしは席にいなくてはならないので、二三の注目をひいた文書を読んでいました。ふと何げなしに顔をあげると、ちょうどグリフィスが演説をしていました。あの男は不愉快なウェールズ訛りがある上に、風采もはなはだパッとしません。わたしが傾聴できるような気のきいたことが、あの男にしゃべれるとは思えなかったので、もう一度書類のほうへ眼を向けようとした時です。あの男が、『自転車は二人のもの』の唄の文句を、二行ばかり口にしたではありませんか.思わずわたしは彼の顔を見たのですが、その彼の眼が、にくにくしい冷笑をうかべて、わたしをじっとみつめているのです。わたしは軽く肩をすくめました。みすぼらしい小男のウェールズ出身の議員ふぜいが、このわたしをそんな眼つきでみるというのは、滑稽な話です。しかもその男が、昨夜の夢のなかで、わたしがさんざん歌ってのけた流行歌の文句を引用するというのも、奇妙な暗合です。わたしはまた書類を読みだしましたが、あなたの前ですが、書類に注意を集中することができません。わたしは少し妙だなと思いました。オーウェン・グリフィスは、わたしの最初の夢、コネマラ侯爵邸の場面にも顔をだした上に、そのあとで、たしかにわたしがみっともない目にあったことを彼が知っているという印象を非常に強く与えました。その男がまた、あの唄の文句を口にするというのは、これが果してただの暗合だろうか? ことによったら、この男はおれと同じ夢をみているのではないか? わたしはこんなふうに自問しましたが、もちろんこんな考えは莫迦げていて話にならんと思ったので、それきり考えないことにしました」
ここで話がとぎれた。オードリン博士がマウントドレイゴ卿の顔をみると、マウントドレイゴ卿もオードリン博士の顔をみた。
「他人のみた夢の話は、たいくつなものです。家内がときどき夢をみては、翌日その夢を詳しくわたしに話したがりましたが、あれは実にやりきれんものでしたよ」
オードリン博士はかすかに微笑した。
「あなたのお話は退屈ではありません」
「もう一つだけ、それから数日後にみた夢を話しましょう。わたしは自分がライムハウス(ロンドンの場末の盛り場)の居酒屋へ入っていく夢をみました。わたしは生まれてから、まだ一度もライムハウスへ足ぶみしたことがありませんし、居酒屋へ入ったことも、オクスフォード時代以来、一度もありませんが、わたしは街や店を見ると、まるで自分の行きつけの場所へ行くように、まっすぐそこへ入って行ったのです。わたしの入っていった部屋は、あれはサルーン・バアというのか、プライヴェイト・バアというのか知りませんが、片側に暖炉と、大きな革のアームチェアとがあって、反対側には小さいソファがありました。部屋の幅いっぱいに、立ち呑み台が仕切ってあって、そこから外側の入れこみのバアが見えます。ドアに近いところに、大理石の円いテーブルと二脚のアームチェアとがあります。ちょうど土曜日の晩で、店は客がたてこんでいました。電灯があかあかとともって、煙草の煙が濛々として、眼にしみました。わたしはゴロツキのように、庇帽《ひさしぼう》をかぶって、頸のまわりにハンカチーフを巻いていました。そして客たちの大部分は酔っぱらっているようでした。わたしは何となく面白くて、浮き浮きしていました。蓄音器かラジオかわかりませんが、音楽が鳴っていて、暖炉の前では二人の女がグロテスクな踊りを踊っています。そのまわりにかたまった男たちが、笑ったり、はやしたり、歌ったりしています。わたしがその踊りを見物しようと思ってそばへいくと、一人の男が、『飲むかい、ビール?』と、わたしに声をかけました。テーブルの上には黒ビールらしい液体をみたしたコップが幾つか、のっていました。男はわたしにその一つをとって渡したので、人目に立ちたくないと思って、わたしはそれを飲みました。すると、踊っていた女たちの一人が急に相手から離れて来て、そのコップをとりあげてしまいました。『何よ、いったいどうしたのよ?』女は言いました。『ひとのビールなんか呑みかけてさ』それでわたしはあやまりました。『やあ、失敬した。ここにいる紳士がぼくにくれたので、この人のだと思ったんだよ』『いいのよ、気にしなくっても。それよりあたしと踊らない?』ことわる暇もなく、女は、わたしをつかまえて二人は踊りだしました。やがて気がつくと、わたしは女を膝にのせてアームチェアにかけ、一つのコップから一緒にビールを飲んでいました。ここで申しあげておきますが、セックスは、わたしの生活では大きな役割を持ったことは、一度もありません。わたしが若くて結婚したのは、結婚することがわたしの地位では望ましかったからでもありますが、それによってセックスの問題をハッキリかたづけてしまうためでもありました。それから自分で持とうときめていた通り二人の息子が生まれると、それきりそういうことはわきへのけてしまいました。そうした事柄に頭をつかうには忙しすぎましたし、わたしのようにたえず公衆の眼にみられながら暮らしていますと、そんなことで人の口の端にのぼるようなことをするのは気ちがい沙汰です。政治家の最大の資産は、こと女性に関する限り、何らの汚点をも残さないということです。女性のために大切な経歴を台なしにするような男には、わたしは我慢がならない。軽蔑するだけです。わたしの膝の上の女は酔っていました。美しくもなければ若くもない女でした。実際、下品な年増の売笑婦でした。むかむかするほど厭な女でしたが、それでいて、女がわたしの口ヘ口を押しつけてキスしたとき、その口はビールの醴《す》えた臭いがし、歯は汚なく欠けているのに――われながら浅ましいと思いながら、わたしはその女がほしくなりました――心の底から、ほしくなりました。と、だしぬけに、わたしに声をかける者があります。『結構、結構、大いに愉快にやることだな、おい』顔をあげて見ると、オーウェン・グリフィスでした。わたしは椅子から跳ね起きようとしましたが、女が放しません。『うっちゃっときなさいよ、あんなやつ。ああいうお節介野郎が、よくいるのよ』『遠慮はいらんぜ』グリフィスがまた言いました。『モルはおれも知っている。この女なら、金を使っても、損はせんぜ』おわかりでしょうな、わたしはそういうみっともないところを見られたことよりも、グリフィスが『おい』などと無礼な口をきいたことに、腹を立てたのです。わたしは女を押しのけて、立ち上り、彼と向き合いました。『おれはきさまを知らんし、また知りたいとも思わん』こうわたしが言うと、相手はすぐに『なあにわしはよくきみを知っとるさ』と答えて、今度は女に向って言いました、『おい、モリイ、気をつけろよ、この男からちゃんと金を貰わんと、喰い逃げされるかもわからんぞ』近くのテーブルにビール壜が一本ありました。やにわに、その壜の頸をつかんで、わたしは力いっぱい、あいつを殴りつけました。その猛烈な所作のために、眼がさめてしまいました」
「そういう種類の夢も、理解できないことはありません」オードリン博士が言った。「それは自然が、非のうちどころのない人格の持主に対して行う復讐なのです」
「莫迦げた話です。この話をしようと思って話したわけではないのです。翌日の出来事があるので、話したのです。わたしは急に調べたいことがあって、議会の図書館へゆきました。その書物を探して、読みはじめました。腰をおろしたときには、近くの席にグリフィスがいることに気がつきませんでした。ほかの労働党議員が一人、入って来て、グリフィスのそばへ来て、声をかけました。『どうした、オーウェン、今日はばかにしょげてるじゃないか』するとグリフィスの答えるには『ひどく頭痛がするんだ。まるで壜か何かで頭をガンと殴られたような気がする』」
マウントドレイゴ卿の顔は苦痛に血の気を失っていた。
「それでわたしは、一度は莫迦げていて、話にならんと追い払った考えが、本当だったことを知ったのです。グリフィスはわたしと同じ夢をみている、わたしと同じようにその夢をよく憶えているということを――」
「それもやっぱり暗合かも知れませんね」
「あの男は、いま言った言葉を、仲間の議員にでなく、わざと、わたしに聞かせたのです。不機嫌な、うらめしそうな眼で、わたしを見ていました」
「なぜその同じ男が、あなたの夢につづけざまに出て来るのか、その理由として、何か心あたりはありませんか?」
「一つもありません」
オードリン博士の眼は、相変らず患者の顔に注がれていた。博士は患者が嘘をついていることを看破した。博士は手にしていた鉛筆で、デスクの吸取紙の上に一二本のでたらめな曲線を描いた。患者たちに真実を語らせるために、長い時間がかかることはめずらしくないが、そのくせ彼等は、それを語らなければ医師が彼等のためにどうすることもできないのをよく知っているのだ。
「いまあなたが話された夢は、もう三週間以上も前にみられたものですね。その後も、何かありましたか?」
「毎晩です」
「そしてどの夢にも、そのグリフィスという人が出て来ますか?」
「ええ」
医師はまた何本か、吸取紙に線をひいた。そのあいだの沈黙、つまらなさ、この小部屋のうすぐらさなどが、マウントドレイゴ卿の感覚に効果を及ぼすようにしたかったのだ。マウントドレイゴ卿は椅子の背にもたれかかり、顔をそむけて、相手の重苦しい視線から逃がれようとした。
「オードリン先生、わたしのため何とかしていただきたい。もう、わたしは追いつめられています。このままいけば、わたしは気が狂うでしょう。眠るのが怖ろしいのです、わたしは、もう二晩か三晩、一睡もしていません。書物を読んで起きていて、睡気がさすと外套を着て、疲れきるまで外を歩きまわるのです。しかしわたしには眠りが必要です。自分の務めを果たすために、頑張りつづけなくてはならない。自分の能力のすべてを、完全に駆使できなくては困るのです。そのために休息しなくてはならん、だが眠りは何の役にも立たんのです。眠りに落ちるが早いか、もう夢をみている、そこにはあの野卑ながさつ者がかならずいて、わたしを冷笑し、嘲弄し、軽蔑しているのです。何たる呪うべき迫害だろう。先生、はっきり申し上げる、わたしはああした夢のなかのような男ではありません。あの夢によってわたしを判断されては、迷惑です。誰にでも訊いて下さい。わたしは正直な、まっすぐな、まじめな男です。公私にかかわらず、わたしの人格について何人《なんぴと》も非難を加えることはできんはずです。わたしの野心は、国家に奉仕し、その偉大さを保持することのほかにありません。わたしには資産もある、位階もある、わたしより劣った人間が陥る誘惑の多くに、わたしはさらされていません。したがってわたしが道徳堅固であるからといって自慢にはなりまぜん。しかしこれだけは主張できます――いかなる名誉も、いかなる個人的利益も、いかなる利己的な考えも、わたしをして、一分一厘たりとも自分の義務からはずれたことをさせることはできないと。わたしは今日のわたしになるために一切を犠牲にして来ました。偉大さ、これがわたしの目標です。その偉大さに手がとどくばかりになって、わたしは気力を失いかけているのです。わたしはあの憎むべき小人が考えておるような、卑劣な、下等な、臆病な、淫猥な男ではありません。わたしは三つの夢をお話しましたが、あんなものは物の数でありません。あの男は、わたしが実に汚らわしい、獣のような、恥辱にまみれた行いをするのを見たのです。よしんばわたしの生命にかかわるとしても、それらの夢についてわたしはお話ししたくありません。しかもあの男は、それをみな憶えているのです。あの男の眼に浮かんでいる嘲弄と軽侮とを、わたしはもう受けとめる元気もなくなっています。わたしの言葉も、あの男からみればまったくの駄法螺《だぼら》にすぎないと思うと、ものを言うことさえためらわれるのです。あの男は、わたしが自尊心ある人間にはできないようなこと、この社会から追放され、長期の懲役に処せられそうなことをするのを、見ているのです。わたしがけがらわしい言葉を口にするのを聞いているのです。単にみっともないばかりか、嫌悪に堪えないわたしの姿を、あの男は見てしまったのです。あの男はわたしを軽蔑し、いまではそれを隠すふりさえしなくなりました。もし先生が何とかしてわたしを助ける方法をおもちにならないなら、わたしに残されたことは、自殺するか、きゃつを殺すかの二つしかないでしょう」
「わたしがあなただったら、その男を殺そうとは思いませんね」オードリン博士はいつもの相手の心を静める声で、淡々と言った。「この国では、人を殺すと、あとが厄介です」
「いや、刑罰のことを仰しゃるのなら、わたしは死刑にはならずにすみますよ。わたしがあの男を殺したことが、誰にわかるでしょう。わたしの見た、あの夢が、方法を教えてくれたではありませんか。わたしがビール壜であいつの頭を殴った翌日、あいつは頭痛のために顔もあげられないほどだったとお話しましたね。あの男が自分でそう言ったのです。それによって、あの男の眠っている身体に起った出来事を、あの男は目ざめている身体で感じることがわかります。今度あいつを殴りつけるときは、ビール壜ではやりません。ある晩、夢のなかで、わたしは手に短刀を握っているか、ポケットにピストルを忍ばせているかするでしょう――これほど強く思いつめているのですから、きっとそうするに違いありません。その上で――わたしは機会をとらえます。どこまでもあいつにつきまとって、犬のようにあいつを射ち殺すのです。心臓のまんなかを。そうすれば、わたしはこの地獄のような迫害から解放されるのです」
これを聞く人のなかには、マウントドレイゴ卿は気が狂っていると思う人もあろう。多年、人間の病める魂の治療にしたがって来たオードリン博士には、正気と呼ばれる人間と狂人と呼ばれる人間とを区別する一線が、いかに細いものであるかがわかっていた。どこからみても健康で正常な、一見したところ想像力を欠いていそうに思われる人々、そして日常生活の義務を果たす上で、ひとからも信用され、社会のためにも役立っている人々が、ひとたび内心をうちあけてもいいと思って、世間に対してかぶっている仮面を脱ぎすてたとき、そこに見られるものは単に怖るべき異常性ばかりでなく、いかに途方もない妄想、怪奇を極めた放恣な出鱈目であって、その意味で狂人と呼ぶよりほかはない場合が極めて多いのだ。もし彼等をことごとく癲狂院《てんきょういん》へおしこむとすれば、世界じゅうのどこの癲狂院も大きすぎることはあるまい。いずれにせよ、ある人間が変な夢をみたり、神経を挫かれたりしたという理由だけで何とも決めることはできないのだ。これは実に奇妙な症例《ケース》ではあるが、これまでオードリン博士の診察して来たほかのケースの度の強いものにすぎない。だが、博士は、これまで効果のあった治療方法が、この患者にはうまくいくかどうかは疑問だと思った。
「いままでに、どなたか、ほかの医師に相談されましたか?」博士は訊いた。
「サー・オーガスタスだけです。それも、ただ悪夢に悩まされていると話しただけです。サー・オーガスタスは、過労のせいだから、船にでも乗って旅行したらよかろうと言いました。これは無理です。いまのように国際情勢が目をはなせない時機に、わたしは外務省を離れることはできません。わたしはかけがえのない人間です。それがわたしにはわかっているのです。いま、この現在のわたしの行動に、わたしの全将来が懸っているのです。サー・オーガスタスは鎮静剤をくれましたが、ききめはありませんでした。また強壮剤もくれましたが、これはきかないばかりか、よけいにわるくしてしまいました。あの男はだめですな」
「その特定の人物が、なぜしつこくあなたの夢に出てくるのか、何かその理由をあげることはおできになりませんか?」
「前にも同じ質問をされましたね。そのときお答えしましたよ」
それはその通りだった。だがオードリン博士はその答えに満足しなかったのだ。
「いましがた、あなたは迫害と仰しゃいましたね。オーウェン・グリフィスは、なぜあなたを迫害したがるのですか?」
「わかりません」
マウントドレイゴ卿は、ちょっと視線をそらせた。オードリン博士は、卿が真実を語っていないという確信をえた。
「あなたは何か彼に害を加えたことがおありですか?」
「断じてありません」
マウントドレイゴ卿はびくとも動かなかったが、オードリン博士は、彼が何となく縮んで小さくなったような感じを受けた。眼の前にいる大きな、誇りの高い男は、いま受けた質問は無礼だ、と思っているような印象を与えているが、しかもそれにもかかわらず、そうした表面の裏側で、何か様子が変り、罠にかかっておびえている獣を思わせるようなギョッとしたものが感じられるのだ。オードリン博士は前へ乗りだして、例の視線の力をはたらかせてマウントドレイゴ卿の逃げようとする視線をとらえた。
「たしかにそうお思いですか?」
「たしかですとも。あの男とわたしとが、まるで行く途を異にしていることを、あなたはわかってくださらんようですな。くどいようですが、わたしは国務大臣であり、グリフィスは労働党の名もない一代議士です。二人のあいだに社交上の結びつきが全然ないのは当然のことです。あの男はごく賤しい生まれの者で、わたしが訪問する家で顔をあわせる機会のあるような人物ではありません。政治的にもおたがいの立場がかけはなれていますから、おたがいに何の共通点ももたないのです」
「あなたが事実をすっかり話してくださらん限り、わたしは何もお役に立てませんな」
マウントドレイゴ卿は眉をあげた。彼の声は気色ばんでいた。
「オードリン博士、わたしは自分の言葉が疑われることに馴れていません。そういうおつもりであれば、これ以上あなたの時間のお邪魔をするのは、わたし自身の時間の空費だと思う。お手数でも秘書に診察料をお知らせくだされば、小切手をお送りするようにとりはからうでしょう」
オードリン博士の顔にそのとき浮かんだ表情のどこをみても、彼がマウントドレイゴ卿のこの言葉をまるで聞かなかったとしか思われまい。依然として患者の眼をじっとみつめたまま、重々しい低い声で言った。
「あなたは、その人物が、害を加えられたと考えそうなことを、何かしたことがおありですか?」
マウントドレイゴ卿はためらった。彼は顔をそむけたが、すぐにまた――オードリン博士の視線には、彼が抵抗することのできない強制力があるのだろうか、彼の眼は吸い寄せられるようにもとへ戻った。彼はしぶしぶ答えた――
「それは、あの男が下等な、つまらん卑劣漢であるとすれば、あったでしょう」
「しかしあなたはまさにそういう人物として、その男のことを話してこられましたね」
マウントドレイゴ卿は嘆息した。彼はうちのめされた。オードリン博士は、その嘆息が、とうとう、いままで言うまいとしてきたことを言う気になったことを意味しているのがわかった。もうこれで、これ以上追いつめなくてもいいのだ.博士は眼を伏せて、また吸取紙に、あいまいな幾何学的な模様を描きはじめた。沈黙は二三分のあいだ続いた。
「わたしは、あなたの御参考になりそうなことは、何もかもお話ししたいと思っているのです。いままでこのことを言わなかったのは、それがこの病気とはどう考えても関係があるとは思えんほど、つまらんことだからです。グリフィスは前回の選挙で議席を得たのですが、それとほとんど同時に、はた迷惑な存在になりました。あれの父親は坑夫で、当人も子供の頃は炭坑ではたらいていました。その後、公立小学校の教員をしたり、新聞記者をしたりしました。つまり、義務教育が労働者階級から生みだした、不完全な知識と、誤った思想と、実行不可能な計画しか持たない、半煮えの、うぬぼれの強いインテリの一人なのです。痩せこけた、青黒い顔色の、いつも腹をすかせているような男で、ひどく不精たらしい格好をしています。近頃では議員もあまり服装を気にかけなくなりましたが、あの男の身装《みなり》ばかりは議会の品位を傷つけるものです。まったく人目につくほどみすぼらしい服装で、カラはいつでも汚れているし、ネクタイも一度もきちんと結んでいたことがない。一ヵ月も風呂に入らないような姿で、手なども垢だらけです。労働党にも、最前列にいる二三人はかなり有能ですが、あとはみな団栗《どんぐり》のせいくらべです。盲人の国では片眼の人間が王様になります。グリフィスは口が達者で、いろいろの問題について浅薄な知識を持っているので、党の幹部達が、折さえあれば彼に演説させるようになりました。あの男は外交問題が好きらしくて、始終わたしに向って、愚劣なつまらない質問ばかりするのです。はっきり言いますが、わたしはその都度、あの男に相応した程度にやりこめてやりました。はじめから、わたしはあの男のものの言い方、哀れっぽい犬の泣き声のような声、野卑な訛りなどが嫌いでした。癇にさわる紋切型の口調が、たまらないほどわたしを苛立たせるのです。ちょっとはにかんだような、ためらいがちな口調で、いかにも演説をするのはつらいけれども、内部の情熱にうながされて、やむをえず喋るのだといった調子なのですが、それでときどき非常に厄介なことを言いだすのです。もっとも、ときどき、卓をたたいて熱弁をふるうこともあることは認めてやってもよろしい。それがあの男の党の議員たちの訓練の足りない頭脳に、ある程度の影響力があって、あの男の熱心さに感激し、あの男の感傷性にもわたしのように吐き気をもよおさないのです。ある種の感傷性は、政治上の討論では、通貨のようなものです。各国はみな自己の利益によって政治を行っていますが、どの国もその目標は愛他的だと信じたがるもので、政治家は、美辞麗句を使って、彼が自国の利益のために追求している困難な取引が、人類全体の利益に帰着するのだということを選挙民に納得させることができれば、許されるのです。ところがグリフィスのような連中のよくやる間違いは、そういう美辞麗句を額面どおりに受けとることです。あの男は変り者です、しかも有害な変り者です。自分では理想主義者と称しています。あの男は長いことわれわれを退屈させて来たインテリの与太話を二言目には持ちだします。やれ無抵抗だとか、人類愛だとか、御承知の、やりきれない世迷言です。何よりも悪いことは、それがあの男の党を感激させたばかりでなく、わが党の愚劣なセンチメンタルな議員たちにも動揺を与えたことです。わたしは労働党が天下をとったら、グリフィスは入閣するだろうという噂を聞きました。しかも外相になるだろうという噂まで出ました。これは怖ろしい考えですが、かならずしも不可能ではありません。ある日、わたしはグリフィスがもちだした或る外交上の討論に答弁をすることになりました。グリフィスは一時間ほどしゃべりました。わたしはあの男をとっちめてやる絶好の機会だと思って――そうして、見事に、とっちめてやったのです。やつの演説を、わたしは粉々に粉砕しました。やつの論理の誤りを指摘し、やつの知識の不足を強調しました。議会では、何よりも手痛い武器は嘲弄です。わたしはあいつをからかい、あざけり、ひやかしました。その日のわたしの演説は上乗の出来で、議場は笑い声で割れ返りました。その笑い声に調子づいてわたしは羽目をはずしました。反対党席は気むずかしく黙りこんでいましたが、それでもなかには一度か二度、思わず笑ってしまう者もいました。同じ党の仲間だとはいっても、競争者もいるわけで、グリフィスのように愚弄されるのを見るのは、かならずしも我慢のならないものではないのですね。またおよそ世の中に愚弄される人間というものがあるとすれば、わたしに愚弄されたグリフィスこそ、その標本でした。席にいたたまらないほど閉口して小さくなって、顔が蒼白になるのがわたしにわかりました。しまいには両手で顔を蔽ってしまいました。最後にわたしが腰をおろしたときは、わたしはもう彼を殺したも同然でした。あの男の威信も名望も、わたしは永久にぶちこわしてしまったのです。労働党内閣が出来ても、役所の玄関に立つ警官にくらべても、大臣になれる見込みは少ないでしょう。あとで聞いたことですが、その日、あの男が大成功を博するのを見るために、父親の老坑夫や母親も、選挙区の有志たちと一緒に、はるばるウェールズから来ていたのだそうです。それが完膚なく恥をかかされるところだけを見て帰ったわけです。あの男はほんの僅かの差で選挙に勝ったのですから、ああいうことがあっては、次の選挙では手もなく議席を失うでしょう。しかしそれはわたしの知ったことではありません」
「すると、あなたはその男の生涯を破滅させたと言ったら、言葉が強すぎましょうか?」オードリン博士が訊いた。
「強すぎるとは思いません」
「ではあなたは重大な被害をその人に加えたことになりますね」
「それはあの男が自ら招いたことです」
「そのことで、気がとがめたことは一度もありませんか?」
「両親が傍聴に来ていることを知っていたら、いくらか手加減をしてやったかも知れんと思いますね」
オードリン博士はこれ以上、言うべきことはなかったので、患者に効果のありそうに思われる治療にとりかかった。彼は暗示によって、眠りから覚めたら夢のことは忘れるように仕向けようとした。また眠りを深くして、夢をみないような方法をとった。だがマウントドレイゴ卿の抵抗が強くて、とてもうまく扱えないことがわかった。一時間後、博士は卿を帰らせた。それ以来、マウントドレイゴ卿は六回ほど、診療を受けに来たが、まだ少しも治療の効果はあがっていない。例の怖ろしい夢は相変らずこの不幸な人を悩ませ、彼の健康状態は目にみえて悪化していった。彼はひどくやつれた。怒りっぽさはまったく手におえなくなった。マウントドレイゴ卿は治療の効験がえられないことに腹をたてながらも続けて通って来たのは、それが彼のただ一つの希望であったためもあるが、うちあけて話をする相手があるということが彼にとって一つの救いだったからであった。とうとう、オードリン博士は、マウントドレイゴ卿をこの苦しみから救いだす方法は一つしかないという結論に達したが、卿が自分の自由意志でそれを承知することは絶対にないことも、卿の人柄のわかって来た博士には間違いないことに思われた。もしマウントドレイゴ卿が、いまや目前に迫っている精神的破滅から救われようとすれば、彼のとるべき行動は彼の家柄自慢と大政治家きどりの自惚とを傷つけること必定であるが、それよりほかに仕方はないのだ。オードリン博士はこれ以上遅らせることはできぬと確信した。博士はこの患者に暗示療法をほどこして来たが、数回の診療をやった後、いくらか暗示にかかりやすくなったことを認めた。ついに彼は卿を催眠状態にひきこむことができた。いつもの低い、おだやかな、単調な声で、彼は患者の悩み深い神経をしずめた。同じ言葉を幾度も幾度もくりかえした。マウントドレイゴ卿は眼を閉じて、身うごきもせずに仰臥《ぎょうが》していた。呼吸は平静で、手足もゆったりしていた。やがて、オードリン博士は、同じ静かな調子で、あらかじめ準備してあった言葉を言った。
「あなたはオーウェン・グリフィスのところへ行って、あの大きな損害を与えたことをお詫びなさい。グリフィスが蒙った迷惑のとりかえしをつけるために、できる限りのことをすると言っておやりなさい」
この言葉は、あたかも頬を鞭で一撃されたような作用を、マウントドレイゴ卿に与えた。彼は催眠状態をはらいのけて、床に突っ立った。眼は激情に燃え立ち、オードリン博士にむかって、さすがの博士も聞いたことのなかったほどの罵詈讒謗《ばりざんぽう》を怒りにまかせてあびせかけた。罵り、呪い、わめき、どなり散らす、その言葉が、あまりにも汚なく、ひどいので、仕事柄あらゆる卑しい言葉を聞かされている――それも貞淑な名流の婦人の口からさえも聞いたことのあるオードリン博士も、卿がこんな言葉まで知っているのかと驚いたほどである。
「あの汚ならしいウェールズ男にあやまれというのですか? そのくらいならわたしは自殺したほうがましだ」
「あなたが精神の平衡をとりもどすには、そうするほかにないと、わたしは信じます」
オードリン博士は、一応は正気と認められている男が、これほど抑えきれない激昂を示すのを、あまり見なかった。卿は満面に朱をそそぎ、両眼は顔からとび出ていた。文字どおり口に泡をふいていた。オードリン博士はおちついて相手をみまもりながら、この嵐がおのずと静まるのを待っていると、やがてマウントドレイゴ卿は、この幾十日間、無理に無理を重ねて来たために弱っているので、へとへとに疲れてしまった。
「おかけなさい」博士はそれをみとどけて、するどく言った。
マウントドレイゴ卿はぐったり椅子に腰をおろした。
「うーむ、ああ、疲れた。ちょっと休ませて貰ってから、帰ろう」
およそ五分間ぐらい、そうして、二人とも無言のまま対座していたであろうか。マウントドレイゴ卿は傲慢無礼な無作法者であったが、また紳士でもあった。次に沈黙をやぶったときは、彼は自制をとりもどしていた。
「どうも、たいへんに失礼したようです。あなたにあんな暴言を吐いて、恥しく思います。もうこれぎり、つきあわないと仰しゃっても、ご無理とは思いません。ただあなたがそう仰しゃらないで下されば、わたしは助かります。こちらへお訪ねすることが、わたしには非常に有益だという気がしています。あなた以外に、わたしは助かる目当てがないのです」
「さっき言われたことなど、気にかけてはいけません。あれは何でもありません」
「しかし一つだけ、あなたがわたしに要求しても無理なことがあります。それはグリフィスに謝罪するということです」
「あなたの御病気について、わたしはさんざん考えました。その病因がわたしにはよくわかったと言うつもりはありませんが、解放される唯一のチャンスは、わたしの提案したとおりになさることだと思うのです。わたしの考えでは、わたしたちは誰もみな、一つの自我だけでなく、幾つもの自我から成り立っているのです。そのあなたの多くの自我の一つが、あなたがグリフィスに害を加えたことに対して、反撥して、あなたの心のなかでグリフィスの姿かたちをとり、あなたの残忍な行いについてあなたを罰しているのです。もしわたしが坊さんだったら、グリフィスの顔やすがたに形を変えて、あなたに後悔させようとして罰を加え、罪の償いをするように説得しているのは、あなたの良心にほかならないと言うでしょう」
「わたしの良心には一点の曇りもありません。わたしがあの男の出世の望みを打ち砕いたのは、わたしの罪ではありません。わたしは自分の庭のナメクジを踏み殺すように、彼をたたきつぶしたのです。わたしは後悔していません」
この言葉を最後に残して、マウントドレイゴ卿はこの部屋を去った。オードリン博士は、患者の来るのを待つあいだ、記録を読みかえしながら、どうすればこの患者を――普通の治療方法はすべて失敗に帰した以上、博士の考える唯一の希望のもてる心境に到達させるには、どうすればいいのかを考え耽っていた。彼は時計をみた。六時である。マウントドレイゴ卿が来ないのは不思議だ。その朝、卿の秘書から電話があって、いつもの時刻に会いたいと伝えて来たところをみれば、卿が来るつもりであったことは明らかだ。激務のために、抜けられないのに違いない。そう考えたとき、オードリン博士は他の一つのことに思い到った――マウントドレイゴ卿はまったく働ける身体ではない。重要な国務を処理するに適した状態にない。自分の立場として、首相とか、外務事務次官とか、誰か責任者に連絡をとって、マウントドレイゴ卿の精神の平衡が失われているから、重大な政務を彼の手にゆだねるのは危険だと信じると、告げるべきではなかろうか。そういうことをするのは、くすぐったいことだ。そのために不必要なめんどうが起って、余計なお節介をしたためにこっちがひどい目にあうかも知れない。彼は肩をすくめた。
「要するに」と彼は考えた、「政治家どもは、過去二十五年間、これだけ世界をごたごたさせて来た連中なのだから、彼等が気違いだろうと正気だろうと、たいした違いはないようなものだ」
彼はベルを鳴らした。
「マウントドレイゴ卿がみえたら、わたしは六時十五分にほかの約束があって、お目にかかれないと言ってくれ」
「かしこまりました」
「夕刊はまだ来ないか?」
「みて参りましょう」
まもなく、女中が夕刊を持って来た。一面の横いっぱいに、大見出しがあった――≪マウントドレイゴ外相惨死す≫
「なんだ!」オードリン博士は叫んだ。
このときばかりは、博士も平常のおちつきを失った。おそろしいショックだった――が、彼は少しも意外とは思わなかった。マウントドレイゴ卿が自殺するおそれのあることは、一度ならず博士の頭に浮かんだことだ――博士はそれが自殺であることを疑えなかったのである。新聞の記事によると、マウントドレイゴ卿は地下鉄の駅で、フォームの端に立って電車を待っていたが、電車が入って来たときに線路の上へ落ちるのを人々は目撃した。おそらく突然に失神したものと見られるというのだ。つづいて新聞は、卿はこの数週問、過労のために健康を害していたが、外交情勢が一日も気をゆるせない緊迫をつづけているため、仕事を離れることはできないと感じていたようだ、と報じていた。マウントドレイゴ卿は、現代政治に重要な役割をつとめる人々が課せられる精神的重圧の新たな犠牲者である。別の欄には、この逝ける政治家の手腕力量、その精励ぶり、愛国の至誠と識見の高邁さなどについて器用にまとめた短い文章があり、そのあとに首相が後任に誰をえらぶかについて、各方面の予測の記事があった。オードリン博士はそれらをみな読んだ。博士はマウントドレイゴ卿が好きではなかった。彼の死によって博士の心に主として浮かんだ感情は、自分が患者のために何もしてやれなかったことから来る自分自身への不満であった。
マウントドレイゴ卿の主治医と連絡をとらなかったのは、自分の誤りであったかも知れない。良心的な努力が失敗に帰したときには、いつもそうなのだが、今度も彼は落胆して、自分がそれによって生計を立てている経験にもとづく治療法の理論と実際に対する反感にとらえられた。自分は人間の心では理解しえない暗い神秘な力を駆使しているのではないだろうか。自分は眼かくしをされて、どこへ行くとも知れぬ路を手さぐりで進んでいる人間に似ている。彼はおちつきなく新聞のページをめくった。と、急に彼はギクッとして、もう一度、おどろきの叫びが彼の唇をもれた。彼の眼は、ある欄の終りに近い小さなパラグラフに落ちた。≪下院議員急死≫とある。某々地選出の代議士オーウェン・グリフィス氏は本日午後フリート・ストリートで急病にかかり、チェアリング・クロス病院へ運ばれたときは既に絶命していた。死因は自然死であろうと推定されているが、一応、検屍審問が行われることになろう――というのだ。オードリン博士はおのれの眼を疑わずにいられなかった。マウントドレイゴ卿が、とうとう昨夜夢のなかで、短刀かピストルかの武器を握り、望みどおりその脅迫者を殺し、それがちょうどビール壜による殴打が数時間後に眼覚めている人間に効果を及ぼし、翌日までひどい頭痛に悩ませたように、この怖ろしい殺人となったなどということがありうるであろうか? それとも、もっと神秘的で、もっと怖るべき想定ではあるが、マウントドレイゴ卿が死に救いを求めたので、彼からあのように残忍苛酷に苦しめられた敵は、あくまでも彼を苛み、悩ますために、みずからのこの世の生をもすてて、あの世までも彼を追いかけていったというのだろうか。とにかく奇怪なことだ。やはり常識のある考え方は、単に奇妙な暗合にすぎぬとみることだろう。オードリン博士はベルを鳴らした。
「ミルトン夫人に、失礼ですが今晩はお目にかかれませんと言ってくれ。わたしは気分がわるいから」
これは嘘ではなかった。博士は瘧《おこり》にかかったように身をふるわせていた。一種の霊的な感覚で、彼はある荒涼とした、すさまじい空虚の目前に開けるのを感じていた。霊魂の暗い夜が彼をのみこんだ。何とも知れぬ異様な、原始的な恐怖を、彼は感じた。
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幸福
彼は中背の、がっしりした、肩幅の広い男であった。五十歳という年齢にふさわしく、肉づきはたっぷりしていたが、肥満してはいなかった。赤らんだ皮膚の色は、熱帯的な暑熱や、気候の不順さから影響を受けたわけではない。彼の血管を流れているのは、ゆたかな力づよい血液であった。髪は茶色で、毛が厚く、こめかみのところに少しばかり白髪がまじっているだけだった。立派な金色の口髭が彼の自慢で、いつも念入りにブラシをあてていた。彼の蒼い眼には、いつも快活な光がさしていた。この男は人生から大切にあつかわれて来た人間だと誰しも思うだろう。
彼の姿をみると、いかにも好人物らしく、その体力の強壮さから、何となく信用のおけそうな感じがする。オランダの古い画にあるような、栄養のいい、赤ら顔のブルジョア――桃色の頬をしたその妻と一緒に、せっせと稼いだお蔭で金がたまり、面白おかしく暮らしている、そういうブルジョアを彼は連想させる。もっとも彼はやもめである。彼の名はルイ・ルミール、彼の番号は六八七六三号である。彼は妻を殺した罪によって十二年の有期刑を課され、フランス領ギアナの犯罪人植民地サン・ローラン・ド・マローニで服役しているのだが、一つには彼がもと生まれ故郷のリヨンの警察につとめていたためと、一つには彼の人柄がいいためとで、一つの役人としての地位を与えられている。つまり彼は二百人近い志望者のなかから選ばれて、公式死刑執行人になっているのだ。
彼が非常に大切にしている、例の立派な口髭をのばすことを許されているのも、そのためである。口髭を生やしている囚人は彼のほかにいない。ある意味で、それは彼の職掌の徽章《バッジ》のようなものだと言ってもいい。同時に彼が自分の衣服を着ることを許されているのも、この理由による。囚人たちはピンクと白の縞のピジャマを着て、つばの丸い麦藁帽をかぶり、上は革で底は木の不格好な靴をはいている。ルイ・ルミールは沓下なしで運動靴をはき、青い木綿ズボンに、毛ぶかい男性的な胸のみえる開襟のカーキ色シャツを着ている。彼が公園などで、黒人や白黒混血の子供の遊んでいるのを、やさしい眼で見やりながら、悠然とあるいているのを見ると、どこかのちゃんとした商店の主人が、ひとときの閑をたのしんでいるのかと思われる。
彼は自分の家に住んでいる。これは彼の役得の一つであるばかりでなく、そうせざるをえない必要があったのだ――もし彼が刑務所のなかに寝起きしていたら、囚人たちからあっさり生命をちぢめられるにきまっていたから。朝起きてみたら、腹をまっ二つに裂かれているというわけだ。もっとも家といっても小さなもので、一部屋だけの木造小屋に、台所がわりの掛け屋根の土間がくっついているだけだ。しかしこの家は棚をめぐらした小さな庭にとりかこまれていて、その庭にはバナナやパパイヤの樹があり、この土地で彼の栽培できる野菜の畑がある。庭の前面は海で、ぐるりは椰子林である。なかなかの愛すべきたたずまいであった。刑務所からは僅か四分の一マイルしか離れていないので、食事にも都合がいい。一人の助手が彼と同居していて、この男が彼の食事を運んでくれるのだ。助手というのは背丈の高い、間抜けそうな、ぶざまな格好の男で、くぼんだ眼をギョロつかせ、口のまわりが洞穴のようにへこんでいる。強姦殺人の終身刑囚である。あまり利口ではないが、娑婆ではコックをしていたので、この男が、自家の菜園でとれる野菜と、ルイ・ルミールが中国人の食料品屋から自前で買った調味料との助けをかりて、こしらえてくれるスープとかポテト・キャベジとか牛肉とかは、どうして素晴らしいものであった――牛肉といえば、刑務所の炊事場は一年三百六十五日、雨の日も風の日も牛肉ばかり供給するのである。ルイ・ルミールが新しい助手を必要としたときに、刑務所長に対して頑強にこの男を要求したのも、そのためであったのだ。前の助手は神経がすっかり参ってしまって、実に莫迦げた心配をしたものだが――と、それを思いだすとルイ・ルミールは好人物らしく笑ったものだ――死刑が恐くてやれなくなってしまった。いま、その男は、神経病者として、狂人を禁錮する刑務所のあるサン・ジョゼフ島にいる。
ルイ・ルミールの現在の助手が、病気になった。高熱をだして、とても助かりそうもなくみえた。どうしても病院へ送る必要があった。ルイ・ルミールは残念がった。あんないいコックを二度とみつけることはむずかしいだろう。しかもちょうどいま、そうなったというのも運のわるい話である。明日は一仕事やる日に当っているからだ。六人の男を処刑するのだ。二人がアルジェリア人、一人がポーランド人、一人がスペイン本土生まれのスペイン人で、残る二人だけがフランス人である。彼等は集団脱獄をやって、河の上流へ逃げた。十二カ月近いあいだ、強盗、強姦、殺人などで、植民地じゅうに恐怖をまき散らした。住民はうっかり垣根の外へも出られない有様だった。とうとう捕えられて、六人とも死刑の宣告を受けたが、この宣告は本国の植民地大臣の承認が必要で、その認証がやっと届いたのである。ルイ・ルミールは助手なしではとてもやれないし、前もって準備しておくべきことも多い。ほかの場合と違い、よりによってこんなときに無経験者の助けを借りなくてはならないのは何という不運だろう。刑務所長は看守の一人を彼のところへさしむけて来た。看守たちもやはり罪人であるが、みな模範囚というわけでこの役目を貰い、別棟に住んでいるのだ。彼等は役人側の人間だから、ほかの囚人たちからは嫌われている。ルイ・ルミールは良心的な男だから、明日の処刑を一分一厘の狂いもなく行いたいと気をもんでいた。それで臨時の助手を今日の午後、ギロチンの置いてある場所へ来させて、その使い方を詳しく説明し、助手としてどうすればいいかを教えることにきめた。
ギロチンは、使われていないときは、刑務所の建物内の小さい一室に置いてあるが、そこへ入るには別の入口からするようになっている。約束の時刻に彼が行くと、助手の男はもう来て待っていた。手足の大きな、みっともない顔つきの男である。ピンクと白の縞の囚人服を着ているが、看守だから普通の囚人のかぶる麦藁帽でなく、フェルト帽をかぶっていた。
「何をやらかして、ここへ来たんだ?」
男は肩をすくめてみせた。
「夫婦者の百姓を殺してね」
「ふむ。刑期は?」
「終身さ」
一見、ひどいけだもののようだが、人間というものは決してみかけだけではわからない。現に、ある看守は、大男の力の強いやつだったが、処刑のときに気絶してしまったのを、ルイ・ルミールは実際に見ているのだ。自分の助手に、大事な場合に神経発作を起されては、まったく困る。彼は相手に親しげな笑顔をみせて、栂指で、ギロチンの置いてある部屋の閉まったドアを指さした。
「この仕事ばかりは別だからな」と彼は言った。「六人だぜ。ふてえやつらばかりだ。早《はえ》えとこ、やっつけちまうに越したことはねえ」
「そのことなら、大丈夫さ。おれもこの土地へ来て、いろんなことを見たから、もう何ひとつ怖ろしいことはないよ。なあに、おいら、鶏の首をぶったぎるのと同じこったと思ってるぜ」
ルイ・ルミールは鍵を使ってドアをあけ、なかへ入った。助手はついて来た。独房と大差のない小部屋では、ギロチンはひどく大きな場所をとっているようにみえた。何とも陰惨で無気味なすがただ。ルイ・ルミールの耳に、ゲッと息を呑む音が聞えたので、ふりかえると、看守はおびえた眼で処刑台をみつめていた。その顔はここの囚人が、一人のこらず間歇的にかかる熱病や十二指腸虫病のために、色つやがもともと悪かったが、いまの蒼黒さはまるで死人であった。死刑執行人は人のいい笑顔をみせて言った。
「ちょっと驚いたろ、ええ? お前《めえ》、まだ一度もお目にかからなかったのか?」
「うん、はじめてだ」
ルイ・ルミールは喉の奥を鳴らして軽く笑った。
「こいつを見たら、生きのびて、見た話なんぞできるわけがねえさ。どうしてお前は助かったんだ?」
「罪をおかしたとき、おいらは餓え死にしかけていた。何か食わせてくれろとたのむのに、百姓の夫婦が犬をけしかけたんだ。判決は死刑だった。弁護士がパリまで行って、大統領の特別減刑令をもらってくれたんだ」
「死ぬよりゃ生きてるほうがいい、それだけは確かだな」ルイ・ルミールは、持ち前の人なつこい眼をまたたかせて言った。
このギロチンを、彼はいつも完全な状態にととのえていた。木はちょっとマホガニーに似た黒っぽい硬い土産の木材で、よく磨きがかかっていた。しかしこの道具にはかなりの量の真鍮が使ってあり、それをヨットの真鍮板や手摺のようにピカピカに汚れ一つなく光らせておくことが、ルイ・ルミールの自慢なのだ。刀の刃は、鍛冶場からいま持って来たように光っている。どこにも故障のないことを確かめることも必要だが、助手にどこをどう使うかを教えることも必要だった。刀が落下したあとで、綱をつけ直すのも助手の役目で、そのためには短い梯子をのぼらなくてはならない。
ルミールが必要な説明にとりかかったとき、彼は自分の仕事のピンからキリまで心得ている腕達者な職人の味わう満足を味わった。この仕掛がいかに巧妙に出来ているかを教え示すことから、彼は一種の心静かな喜びを味わった。死刑囚は「跳ね構え」と称する一種の棚に、身体を縛りつけられ、この板が簡単な仕掛けでストンと落ちて前へ出ると、頸がうまい工合に刀の下へ来る。良心的な執行人が長さ五フィートばかりのバナナの果柄《かへい》を持って来たので、看守は何のためだろうと怪訝に思っていたのだが、いまそれがわかった。この果柄は太さといい、丈夫さといい、ほぼ人間の頸のそれに匹敵するから、新米の助手に仕掛をのみこませるのにも、機械に故障がないかどうかを確かめるのにも、甚だ幸便な材料であったのだ。ルイ・ルミールはバナナの柄を適当の位置に置くと、断頭刀の綱をといた。刀は思いも寄らぬほどの速さで、ものすごい音を立てて落下した。「跳ね構え」に囚徒が縛りつけられた瞬間から、彼の頭が斬り落される瞬間まで、わずかに三十秒しか、かからない。頭は籠のなかに落ちる。刑吏がその耳をつまんで持ちあげ、処刑の執行を検分する役目を持った人々にそれを見せる。そのとき、おごそかに彼は次のように呼ばわるのである――
「Au nom du peuple francais justice est faite. フランス人民の名において、正義は行わる」
それから彼は首をもとの籠に落す。明日は、六人を処刑するのだから、跳ね構えから胴体を離して、首といっしょに担架にのせ、それから次の男が連れて来られることになる。彼等は各自の罪の重さの順に処刑される。罪の最も軽い者が最初に処刑され、仲間の死ぬところを見る恐怖からまぬがれるのである。
「頭と胴体とが間違わねえように気をつけるんだぜ」ルイ・ルミールはいつも朗らかな調子で言った。「さもねえと、≪復活≫したときにごたごたの種が尽きねえだろうからな」
彼は助手が刀をもとの位置へ戻す仕方をしっかり呑みこむまで二三度、刀を落してみせてから、棚に用意してある磨き粉その他を持って来て、真鍮磨きにとりかかった。どこにも汚れはなかったが、それでも念には念を入れて磨くのは少しも差し支えないと思ったのだ。彼は壁にもたれて、のんびりと煙草を一服した。
ようやく万端の準備が終ったので、ルイ・ルミールは助手に真夜中まで用はないと言って帰った。真夜中にまた二人でここへ来て、ギロチンをこの部屋から出し、刑務所の庭に据えつけるのだ。この据えつけはいつもかなりの骨折り仕事だが、夜明けの一時間前にはすませなくてはならぬ。処刑は暁を期して行われるのである。ルイ・ルミールはゆっくりと自分の小屋へ向って歩きだした。もうそろそろ夕方に近く、帰る途中で彼は一団の囚人が仕事を終えて刑務所へ帰るのと行き会った。囚人たちが小声でささやきあっているので、彼は自分のことを話しているなと思った。ある者は眼を伏せ、二三人の男は憎しみの眼で彼を眺め、一人は地面へ唾を吐いた。ルイ・ルミールは吸いさしの煙草を唇にくわえたまま、皮肉な眼で彼等をみた。彼は囚人たちが自分を見るときの嫌悪と恐怖との入りまじった表情を気にかけていなかった。彼等のうち一人として彼と口をきく者がないとしても、それが何だ? また彼の臓腑へ短刀を突き刺してやりたいと思っていない囚人も、まず一人もいないだろうということも、彼には面白いこととしか思われない。彼等のすべてに対して、彼は心の底からの軽蔑を感じている。おれは自分で自分の身をまもれるのだ。ナイフをあつかうことにかけても、やつらの誰にだって負けるものか――腕力についても、彼は自信があった。囚人たちは明日の処刑のことを知っていて、いつも処刑の前にはそうなのだが、重苦しい、いらいらした気分になっていた。今日はみなむっつり黙りこんではたらいていた。看守たちはいつもよりも緊張して警戒しなくてはならなかった。
「すんでしまえば、またみんな、おちつくだろう」ルイ・ルミールは彼の小さな屋敷うちへ入りながら、ひとりごとを言った。
彼が近づくと犬どもが吠えた。勇敢な男ではあるが、その声を聞くと心強さをおぼえた。助手が病気になったので、今夜はこの家に一人になる。二匹の猛犬が自分の身を護ってくれると思うと、わるい気持はしなかった。彼等は彼の庭つづきの椰子林を一晩じゅう、うろついて、何者かが立ち廻れば充分な警告を彼に与えてくれるはずだ。怪しい者が近づこうとすれば、きっとその喉笛にくらいついてくれるだろう。彼の前任者は、これらの犬をさえ飼っていたら、非業の最後をとげなくてもすんだのだ。
ルイ・ルミールの前に死刑執行をつとめていた男は、わずか二年ほどつとめて、ある日突然に姿を消した。刑務所当局は彼が逃亡したものと思った。彼が小金をためていることはわかっていたから、たぶんスクーナーの船長とでもしめしあわせて、ブラジルあたりへ連れていって貰ったのだろうと言われた。彼は当時すでにすっかり元気がなくなっていた。二三度、刑務所長のところへ行って、殺されそうだとうったえた。囚人たちが自分を殺す気でいると思いこんでいたのだ。所長はそんな心配はとりこし苦労にすぎないと安心していたので、とりあわなかったが、彼がどこを探してもみつからなかったので、とうとう恐怖に負けたために危険を冒して逃亡する気になったのだという結論を下した――つまり囚人どもの短刀の復讐を受ける危険を冒すよりも、再逮捕されて牢屋へ戻される危険を冒すほうをえらんだというのだ。三週間ほどしてから、ジャングルのなかで囚人たちを働かせていた看守が、一本の樹のまわりに禿鷹の大群が集まっているのに気づいた。ウルーブスと呼ばれるこの禿鷹は、みるからに怖ろしい大きな黒い鳥で、いつもサン・ローランの市場のあたりを飛びまわり、食うや食わずの釈放された囚人たちがあさり残した臓物などをついばんでは、整然と掃除のゆきとどいた市街に姿をあらわし、翼も重たげに木から木へ飛び移る。彼等が刑務所の庭を飛んでいるのを見ると、囚人たちは、もしジャングルのなかへ逃亡をくわだてたら、十中八九、自分たちの骨はあの厭らしい動物にきれいにつつき散らされるのが落ちだということを思い出させられる。その禿鷹どもが大群をなして啼き叫びながら争っているさまをみて、看守はその樹のまわりに何か変事があると思った。帰って報告したので、所長は一隊を派して調べさせた。彼等は大木の一本の枝に一人の男が頸を吊るされているのを発見し、綱を切って下へおろしてみると、それが死刑執行人であった。自殺と公表されたが、実は彼の背に短刀で刺された痕跡があり、囚人たちは彼が背中を刺されたあとで、まだ生きているうちにジャングルへ運ばれて、木に吊るされたものであることを知っていた。
そういったことが、わが身にもふりかかるのではないかという恐怖を、ルイ・ルミールは少しも抱いていない。彼は自分の前任者がどうしてそんな目にあったかを知っている。犯人は囚人たちではないのだ。フランスの法律では、ある罪人が一定年間の懲役の刑に処せられると、この刑期が満了した後も、その刑期と同じ年数だけ、この植民地に残っていなくてはならない。彼は自由を許されているが、居住地として指定された場所から一歩も動くことは許されない。一定の情状があれば、この条件はいくらか緩和してもらえるし、必死にはたらけばどうにか食うには困らないが、長期の服役中に、囚徒はあらゆる自発性を失ってしまうし、熱病、十二指腸虫病、等、等によって衰弱もしているので、持続的に重い労働をするには適しなくなっているから、釈放された大部分の者は、乞食、盗み、囚人たちへの煙草の密売、それから月に二三度入港する汽船の荷揚げや積みこみなどで露命をつないでいる。ルイ・ルミールの前任者を破滅させる因《もと》になったのは、こういう免囚の妻であった。女は黒人であるが、若くて器量がよく、小柄な気のきいた容姿と、色っぽい眼つきとの持主であった。筋書はうまく仕組まれていた。死刑執行人は元気な、身体の逞しい男で、情欲も激しかった。女は積極的に男の気をひいて、ひっかかって来た男の視線をとらえると、大胆な秋波を送った。二三日後、男は公園で女と会った。男は女に話しかけることは遠慮したが(男も女も、子供ですら、死刑執行人と口をきくところを他人に見られることを好まなかった)、女にウィンクすると、女はニッコリ笑った。ある晩、男は彼の小屋の庭をとりまいている椰子林のなかを歩いている女に逢った。あたりに人はいなかった。彼は女に話しかけた。女が彼と一緒にいるところを見られるのを怖れていることは、その様子からはっきりわかったので、二人はほんの二言三言しか言葉を交わさなかった。が、女はまた椰子林へやって来た。女は上手に男をあやつって、男の疑惑が消えるのを待った。彼女は男の欲情を挑発した。幾度か小さい贈物をさせた。そしてとうとう、男にとっても女にとっても相当の大金を出させる約束が出来て、女はある暗い夜、男の小屋へ来ることを承知した。ちょうど汽船が港に入っていたので、女の亭主は夜明けまで働くはずだった。男が女のためにドアをあけ、女はいよいよという場になって心をきめかねたように入るのをためらったので、男は彼女をひきこもうとして、一歩外へ踏みだした――そのとき、残忍な短刀の一撃を背に受けて、男は倒れた。
「莫迦野郎め」ルイ・ルミールはつぶやく。「身から出た錆とはあいつのことだ。何か曰くがありそうなことは、わかりそうなものじゃねえか。男なんて、どこまで自惚が強《つえ》えもんだろうな」
そのルイ・ルミールは、女にかけてはもう卒業していた。彼がいまのような身の上になったのも、要するに女のためである――少なくとも、一人の女のためである。のみならず、男ざかりの頃に、彼の情熱は鎮静の途をえていた。人生には女のほかにもいろいろのものがあって、男はある年齢が過ぎると、分別のある男ならそのほうへ心を向けるものだ。彼は昔から大の釣り師であった。むかし、フランスで、まだあの不幸に見舞われる前の彼は、非番にさえなればいつでも釣竿と糸とを持ってローヌ河へ出かけたものだ。いまでも彼はよく釣りをやる。毎朝、日が昇って暑くなるまで、気に入りの岩に腰をおろして、たいがいは刑務所長の食卓をにぎわすのに充分な魚をとって来るのだ。所長の細君は物の値打ちをよく知っている女だから、彼の言い値をよく値切るけれども、彼はそのことで彼女を恨んではいない。彼が細君の払ってくれるだけで満足しなくてはならないことを彼女はよく知っているのだから、それより一ペニィでも多くやるのは莫迦だと思っているのだ。とにかくそのお蔭でタバコやラム酒や、ほかの細かい出費にあてる小使銭がとれるのだ。しかし今日の夕方は、彼は自分の食べる魚を釣りにいくつもりだった。土間から餌をとりだし、釣竿をかついで出かけると、やがていつもの岩に腰をおちつけた。自分で釣り上げた魚ほどうまい魚はないし、いまでは彼はどんな魚がうまく食べられ、どんな魚が肉が少なくて味がわるく、すぐに海へ投げ戻すよりほかはないか、よく知っているのだ。ここにはほんもののオリーブ油で揚げるとボラに負けないほど美味い魚が一種類ある。坐って五分とたたないうちに、浮きが急に動いたので糸を引き上げると、まるでお祈りがすぐに聴きとどけられたように、おあつらえむきのやつが針にひっかかってもがいていた。それを針からはずし、岩に頭をたたきつけ、地面に置いて、餌をつけ直した。こんなのが四|尾《ひき》かかれば、上乗の晩飯、まあそれ以上を望むのは贅沢なくらいだ。今晩は骨の折れる仕事が待ってるのだから、飯だけはたっぷり食っておかなきゃ。明日の朝は、釣りにいく暇はないのだ。まず第一に首斬り台の足場をはずして、バラバラにしていつもの部屋へはこびこまなきゃならない、それからあとの掃除が大変だ。何しろひどい血まみれ仕事だ。この前のときなど、ズボンがあまり血だらけになったので、どうすることもできないので棄ててしまったほどだ。真鍮をピカピカに磨いて、刀も研がなければならぬ。彼は仕事を中途半端にしておけない性分だし、すっかりすませる頃には腹がペコペコだろう。うまい朝飯を食えるように、もう二三尾とって、涼しい場所にとっておくのも無駄じゃあるまい。コーヒーに、鶏卵《たまご》を二つに、新鮮な魚を少し――わるくないな。そのあと、ぐっすり一眠りする。責任のある今夜の仕事、無経験な助手を使う心配、そうしてこの騒ぎをすっかりかたづけた後なら、そのくらいのことは当り前だ。
彼の前には、美しい曲線を描いて 湾の海がひろがり、遠方には緑樹にあおあおとした小さな島がある。たとえようもなく静かな午後だ。釣りをする男の心にも、平安がおとずれた。彼はのんびりと浮きをみまもっていた。こうした暢気な身の上のことを考えるとおれはもっとずっとひどい目にあうところだったわけだ――彼はふと、そんなことを思い耽った。おれたちのなかには――おれたちとは囚人のことをさすのだが――ここから僅か四五百ヤード離れた監獄に押しこめられている囚人たちのなかには、フランスへ帰りたくて、憂鬱病で気が変になったやつもいる。ところが、このおれはちょっとした哲学者で、釣りさえしていれば不足は言わないのだ。それに、こうして浮きを眺めている気持は、南大西洋とローヌ河とで、どこが違うというのだ? 黙想は、いつか過去へさまよい帰った。女房は我慢のならない阿魔だったから、あいつを殺したことを、ちっとも後悔はしていない。もともと、あいつと夫婦になる気はなかったのだ。彼女は裁縫師で、いつも小ざっぱりした、洒落れた身装《みなり》をしていたので、彼は心をひかれた。なかなか立派な、淑女らしい女にみえた。彼女が自分をただの巡査などにはもったいないと思ったとしても、彼はべつに驚かなかったろう。だが彼には彼のやりかたがあった。まもなく彼女は決してお高くとまっていないことを彼にわからせるような態度をとり、彼が気前よく前金で仕立代を払うと、女は決して堅気の融通のきかない女ではないことがわかり――彼は男に骨を折らせるような女でないと征服しても張り合いがないと考える性質の男ではなかったので――彼はホッとした。外へ食事にでかけるときなど、彼女と一緒に歩くのは鼻が高かった。彼女は言うことも気がきいていたし、第一、金がかからなかった。どこで食事をすれば一番やすくついて、楽しめるかを知っていた。彼はひとから羨まれる身分になった。そのうえ、健康な体質には自然な性的欲望を、ごく僅少な費用で満足させることができることにも、彼は満足だった。彼女が彼のところへやって来て、子供ができたと言ったとき、結婚するのはごく当り前なことに思われた。彼は相当の俸給をとっていたし、身をかためる潮どきだと思った。料理店で賄《まかな》いの食事をするのも億劫になっていたから、自分の家庭をもち、家庭料理が食べたくなっていた。さて、赤ん坊のことは間違いだったとわかったのだが、ルイ・ルミールは好人物だったから、そのことをアデールに対して根にもたなかった。しかし彼は、これまで何千万の男が気がついたように、女房と色女とはまったく別人だということに気がついた。彼女は嫉妬ぶかくて所有欲が強かった。夫というものは、日曜日の午後には釣りになんぞ行かないで、自分をつれて散歩にいくべきものだと思っているらしく、また非番のときに彼がキャフェへ行きたがることに不平を言った。釣り師仲間がよく来るので、話の合う男によく逢えるキャフェが一軒あって、彼はそこの常連だった。非番の夜、女房と家で鼻をつきあわせているよりも、そのキャフェで一二杯のビールを飲み、カルタ遊びで時間をつぶすほうが、彼にはずっと愉しかった。女房はうるさく文句を言いはじめた。生まれつき快活でつきあいのいい性質ではあったが、彼は気短かであった。リヨンの人間は気が荒いから、ときには相当にしっかりしたところをみせなければ、うまく事件のさばきがつかない。女房からしつこくからまれるようになったとき、彼には自分が用いた方法よりほかに、さばきをつける方法があるとはどうしても思えなかった。つまり彼は彼の手の力が強いことを彼女に思い知らせたのである。分別のある女だったら、一ぺんで懲りるはずだが、彼女は分別のある女ではなかった。必要やむをえない懲らしめを与えなくてはならぬ場合がますます多くなった。女房は女房であたりかまわず大きな悲鳴をあげ、彼がどんなけだものであるかを近所隣にしゃべり歩くことで仇を討った――夫婦は大きなアパートの五階に二部屋借りて住んでいた。いずれそのうちに、あたしはあの男に殺されますと、彼女は言いふらした。それなのに、ルイ・ルミールのような好人物が、いったいどこにあるだろうか――女房は彼がキャフェで使う金のことで文句を言い、その金をほかの女のために使っていると言いがかりをつけたのだ。もちろん、彼の身分柄では、ときにはいろんな機会があって、彼も男だからその機会を逃がしはしないし、もともと金のことを苦にせぬ性質だから、友達と呑んだ酒代を一人で払うこともあれば、自分によくしてくれた女から新しい帽子か絹靴下が欲しいといわれれば、いやということの言える男ではなかった。彼の女房は、彼が彼女のために使わなかった金を、自分から盗まれた金だとみなしていた。彼女は亭主の使う金を一銭一厘まで勘定させたがり、彼が持ち前の暢気な口調でみんな窓からほうり投げちゃったよと言うと、彼女は火のようになって怒ったものだ。彼女の舌鋒《ぜっぽう》はますます辛辣になり、彼女の声は塩辛声になっていった。朝から晩まで、ブリブリして彼に当った。何かしら不愉快な言葉を交えずにはものが言えなくなってしまった。家庭は犬と猿のいがみあいの場所になった。ルイ・ルミールは友人たちに彼女がいかに意地のわるい鬼婆であるかを話し、あんなやつと夫婦になるのではなかったと日に十ぺんは思うと話し、ときにはさらに付け加えて、ひどい流感にでも罹って死んでくれないと、しまいにはほんとにおれが殺すことになるかも知れんとも話した。それが口癖のようになった。
彼が十二年の懲役刑でサン・ローラン・ド・マローニへ送られる仕儀《しぎ》になったのも、ほんの話のはずみで言ったこれらの言葉と、女房のほうでもいつかは夫に殺されるだろうと隣人たちに始終しゃべっていたこととのためであった。さもなければ、フランスの監獄で三四年つとめればすんだはずなのだ。とうとうある暑い夏の日、来るべきときが来た。彼にしてはめずらしく、その日は機嫌がわるかった。ちょうどストライキがあって、争議団は過激になっていた。警察は大ぜいの人間を逮捕しなくてはならなかったが、相手はおとなしくしてはいなかった。ルイ・ルミールは顎を強く殴られたので、こっちも警棒を派手に振りまわした。逮捕した男たちを警察署へ連行するのは、暑くて骨の折れる仕事だった。やっと非番になり、制服を脱ぐために家へ帰った。キャフェへ行って、ビールを呑みながら、カルタ遊びにでも興じるつもりだった。顎がずきずき痛んだ。折もあろうに、そのとき女房が金をくれと言いだし、やる金は一銭もないと答えると、怒りだした。キャフェへいく金はいくらでも持っているくせに、あたしが僅かの食べるものを買うお金は一銭もないというなら、餓死したらあんたのせいですよ。彼がだまれと言うと、そこで喧嘩がはじまった。彼女はドアの前に立ちはだかって、お金をくれなきゃ、外へだしてやるもんかとわめいた。彼はどけ、どかないかと言いながら、一歩前へ出た。女は彼が制服をぬいだときにはずしてその場に置いた職務用のピストルをつかみとると、一足でも歩いたら射つぞと夫をおどかした。日頃、物騒な犯罪人をあつかいつけているからたまらない、女がそう言ったか言わないか、いきなり躍りかかって手からピストルをもぎとった。女房は金切声をあげて彼の顔をひっぱたいた。ちょうど顎の、一番痛むところをひっぱたいたのである。怒りに眼がくらみ、痛さに正気を失って、彼は発砲した――二度射って、女房は床へ倒れた。一瞬、彼は立ちすくんで、その姿をみつめた。くらくらと目まいがした。女房は死んだらしい。最初に感じたのは、これで助かった、という何ともいえないホッとした感じだった。彼はあたりに耳をすませた。誰もピストルの音を聞きつけた様子はない。近処の人たちはきっと留守なのだろう。これはちょっとした幸運だった――彼は彼らしい方法で、すべきことをする暇がえられたからだ。もとの制服に着かえ、外へ出て、外からドアに鍵をかけ、鍵をポケットに入れた。行きつけのキャフェに五分ばかり立ち寄って、ビールを一杯のんでから、さっきまでいた警察署へ行った。その日の騒擾《そうじょう》のために、主任警部はまだ署にいた。ルイ・ルミールはその部屋へ行って、ありのままに出来事を話した。彼は数時間前に自分が逮捕した争議団員たちと隣り合った監房で一夜を明かした。この悲しむべき瞬間にも、彼はこうした境遇の皮肉さを感じる余裕があった。
ルイ・ルミールは刑事事件の法廷に警察側証人として出頭したことがよくあったので、ある人が苦境に立った場合、その人の同席者がどれほど当人の迷惑になるようなことでも熱心にしゃべりたがるものであることを知っていた。有罪の判決が、犯人の最も親しい友人の証言によってえられる場合が極めて多いことを知って、一種の苦《にが》い興味を感じたこともあった。だがそれだけ経験を積んでいたにもかかわらず、彼自身が被告になって裁判にかけられてみると、彼があれほどよく行ったキャフェの主人や、長年のあいだ釣り友達としてつきあい、一緒にビールを呑み、一緒にカルタを弄んだ連中の証言を聴いて、彼はおどろかざるをえなかった。彼等は彼がしゃべったどんな不用意な言葉でも、大切な宝もののように腹にためておいたとみえた。女房について彼のこぼした言葉、いまにあいつに思い知らせてやると、折にふれて冗談に言っていた脅し文句、みんな彼等はおぼえていた。それを聞いたときの彼等が、しゃべった彼と同じように、一つも本気にはしていなかったことを彼は知っていた。彼等にちょっとした便宜をはからってやれる機会があれば――警察官というものはそういう機会がちょいちょいあるものだから――彼はいつもためらわずにそうしたものだ。金のことで気前のわるかったことも、一度もなかった、それが、証言台に立った彼等の言葉を聞いていると、彼に迷惑のかかるどんな些細な事実でも暴露するのが、彼等にとってはこの上ない満足であるとしか思えないではないか。
公判で出て来た事実から推定すると、彼は悪人であり、道楽者であり、乱暴者であり、金づかいの荒い、堕落した怠け者であるということになりそうであった。彼は自分がそんな人間ではないことをよく知っていた。おれは人なみの、人のいい、つきあいやすい男で、相手がおれのしたいようにさせてさえくれれば、こっちも相手のしたいことに苦情を言わない人間だ。そりゃカルタ遊びもするし、ビールも飲む、綺麗な女の子も嫌いじゃないが、それがいったい何だというのだ? 陪審団の顔ぶれを眺めながら、あの連中のうち、おれのように自分の欠点、どこかでしゃべった乱暴な言葉、莫迦な真似を一つ残らず数え立てられたら、おれよりましな人間と思われるやつが何人いるだろう。彼は長期の懲役の判決を受けたことを恨みには思わなかった。おれは法律につかえる公務員だ。犯罪を犯した以上は罰せられるのは当然だ。だがおれは犯罪人じゃない。おれは不幸な偶然事の犠牲者なのだ。
サン・ローラン・ド・マローニの刑務所で、ピンクと白のだんだら縞の獄衣を着せられ、みにくい麦藁帽をかぶらされても、彼はまだ自分が警官だったことをおぼえていた。いまでこそ自分もその仲間だが、これらの罪人たちがいつもおれの不倶戴天の敵だったことをどうして忘れられよう。彼は彼等を侮蔑し、嫌悪した。できるだけ彼等とはつきあうまいとした。かといって彼等を怖れもしなかった。怖れるにしては、彼等をよく知りすぎていた。ほかの連中と同様に、彼も短刀を持っていて、いつでもそれを使う気構えを見せていた。おれは誰の邪魔をする気もないが、誰にもおれの邪魔をするのを許してはやらないぞ。
リヨンの警察署長は彼が気に入っていた。警官時代の彼の勤務ぶりは模範的であった。それで囚人についてまわる報告書にも彼のことを褒めてあった。役人というものは世話の焼けない囚人、快活に自分の立場を受けいれて、進んで働く囚人を好むものだということを心得ていた。彼は楽な仕事を与えられた。たちまち独房がもらえて、雑居房のおそろしい混乱から逃がれることができた。看守たちとは仲好くつきあった。大多数の看守はおとなしいし、彼がもと警察にいたことを知っているので、囚人としてよりも仲間として彼をあつかってくれた。刑務所長は彼を信任した。やがて彼は刑務所のある役人の下男の仕事をもらった。彼は獄内に寝泊りはしたが、それ以外は完全な自由をたのしむことができた。毎日主人の子供を学校へ送り迎えした。子供たちのために玩具を作ってやった。細君のお供をして市場へ行き、買物を籠に入れて持ち帰った。女主人と世間話をして長い時間をすごした。家族はみな彼が好きになった。彼の気さくな挙動と、人のいい笑顔とが好かれたのだ。彼は骨惜しみをせず、信用がおけた。人生はもう一度、息のつけるものになった。
しかし三年後、主人はカイエンヌへ転勤になった。これは打撃だった。けれどもちょうど死刑執行人の役があいたので、彼がそれを手に入れた。とうとう、ふたたび彼は国家の公務員になったのだ。みすぼらしくても自分の住居がもてた。もう獄衣を着なくてもすんだ。髪や口髭をのばすこともできた。囚人たちが自分を不快と侮蔑の眼でみようと、それが何だろう。おれこそやつらをそうみているのだ。人間の屑。処刑された男の血のしたたる頭を籠からとりあげ、耳をつかんで持って、「フランス人民の名において正義は行わる」というおごそかな宣言を口にするとき、おれは自分が現に共和国を代表しているという気がする。おれは法と秩序の側に立っている。おれはあの非道な罪人どもの大群に対して、社会の安寧を護っているのだ。
彼は一人を処刑するごとに百フラン貰った。その金と、所長の細君が払ってくれる魚代とが、さまざまの愉しみと、かなりの贅沢とを彼に供給する。そしていま、薄暮の静かな岩に腰をおろして彼の思うことは、明日もらう金をどう使おうかということであった。折々に魚が食いついて、何尾か釣りあげた。魚を釣針からはずし、新しい餌をつける。しかしそれは機械的な動作で、彼の思考の流れをかきみだすことはない。六百フラン。たいした金だ。どう使っていいか、わからぬほどの金だ。小さな家には欲しいものは何でもある。食料品もたっぷり貯めてあるし、彼のようなあまり酒を飲まぬ者には充分なラム酒もある。魚釣り用の滑車も欲しくない。着物にも不自由しない。考えられるのは貯めておくことだけだ。彼はいまでももう、ちょっとした小金をパパイヤの根方に隠してあるのだ。もしおれが現に貯金を持ってるとアデールが知ったら、あの女、どんなに目をまるくするだろう。あいつの欲張りな魂には、たいした慰めになるだろう。彼は釈放されたときの用意に、ぼつぼつ貯金をして来た。囚人にとっては、釈放されたときが一番厄介なのだ。刑務所にいる限り、寝るには屋根があり、食うにも事を欠かないが、いざ釈放されて、しかも今後さらに長年月をこの植民地にとどまる義務があるとすれば、自力で身じまいをつけなくてはならない。彼等の言うことはきまっていた――彼等のほんとうの刑罰がはじまるのは、刑期が満了したときだと。仕事はみつからない。雇い主は信用してくれないし、土建業者も契約を結ぶのを好まない――刑務所に申しこめば、囚人労働を、競争にならぬ賃金で供給するからだ。彼等は市場のある広場の青天井の下に寝て、食うためには救世軍へも喜んで行く。だが救世軍は彼等の賃金に応じて激しい労働をさせた上に、強制的にお説教を聞かせる。だからときには刑務所へ再入獄して生活不安から逃がれるだけの目的で兇暴な犯罪を犯すやつさえあるのだ。ルイ・ルミールはそんな危険を冒すのはまっぴらである。彼は商売をはじめられるだけの資本を貯蓄するつもりでいるのだ。自分ならカイエンヌに居住することの許可をとれるはずだから、あそこでバアを開業したいと思っている。おれが死刑執行人だったというので、はじめは客は二の足を踏むかも知れないが、おれの人なつこい物腰、店の秩序をたもつ上でのおれの経験から言っても、商売はうまくいくのが当り前だ。カイエンヌにはときたま旅行者も来る。彼等は好奇心からやって来るだろう。故郷へ帰ってから、カイエンヌで死刑執行人のやってるバアへ行ったよ、なんて友達に話すのも面白いだろう。だが彼にはまだ長い刑期が残っていることだから、ほんとうに欲しい物があるなら、それを買ってわるいということはない。彼はしきりに頭を悩ました。ない、いまこの世の中に、おれには欲しい物は一つもない。彼はびっくりした。浮きから眼をはなして、眼を遊ばせた。海はすばらしく凪《な》いでいて、いま夕陽を受けて無限に複雑な色にかがやいている。空にはもう一つ星がまたたいている。ふと一つのことに思い当って、彼は異常な感動に襲われた。
「だが、この世の中に欲しいものが一つもないとすれば、それこそ幸福というものじゃないか」彼は美しく手入れをした口髭を撫でて、蒼い眼をやさしくかがやかせた。「そうとしか考えようがない、おれは幸福な人間で、いまのいままでそれを知らずにいたんだ」
あまり思いがけないことなので、どうしていいかわからなかった。たしかに奇妙奇天烈な考えだ。だがどうだ、筋道のわかる頭になら、ユークリッドの定理みたいに、誰にでも明白なことじゃないか。
「幸福、というのはおれみたいなのをいうのだ。おれと同じことを幾人の人間が言える? 場所もあろうにサン・ローラン・ド・マローニで、しかもおれの生涯にいまはじめて」
陽は沈みかけていた。彼は晩飯の分も朝飯の分も、充分な魚を釣ってしまった。糸をたぐりこみ、魚をひろい集めて、家へ帰った。家は海から僅か数ヤードのところだ。火をおこすのにも手間ひまはかからず、まもなく彼は四尾の魚を愉快にフライパンでいためていた。揚げものに使う油については、彼はいつもやかましい。最上のオリーヴ油は高価だが、それだけの値打ちはあった。刑務所のパンは品がいいので、魚を揚げてしまったあとで、残りの油で二切ればかりパンを揚げた。その風味のいい香りを満足そうに彼は嗅いだ。ランプをともし、わが家の菜園からとって来たレタスを洗って、一人でサラダを作った。彼はサラダをつくる腕では世界じゅう自分に及ぶ者はないと思っていた。ラムを一杯のんでから、舌つづみを打って夕食をたいらげた。足もとに寝そべっている二匹の雑種犬に屑ものを投げてやってから、食器を洗って――生まれつき綺麗好きで、翌朝の朝食の支度をするときに汚れものが残っているのは厭だから――犬どもを棚の外の椰子林へ見張りのために放した。それからランプを持って家のなかへ入り、デッキ・チェアにゆっくり腰をおろして、隣りのオランダ植民地から密輸入された葉巻をくゆらしながら、最近の便で着いたフランスの新聞を読みはじめた。満腹して、心に何の不安もなく、いろいろ気にいらぬことがあるにしても、人生はいいものだと思わずにいられなかった。おれは幸福だ、と急に気がついたときの圧倒的な驚きから、彼はまだ覚めていない。多くの人々が幸福を求めながら一生をすごしてしまうことを考えると、おれが幸福をみつけたなどとはほとんど信じられぬことのようだ。にもかかわらず、事実ははっきりと目の前にある。自分の欲するすべてのものをもつ人間は幸福だ。おれはおれの欲しいものはすべて持っている。だからおれは幸福なんだ。彼はまた一つ新しい考えが浮かんで、クスクス笑いだした。
「これがアデールのおかげだということは否定できない」
アデール。あの悪婆が!
やがて、彼は一寝入りしておこうと思った。十二時十五分前に目覚まし時計をかけ、ベッドに横になると二三分でぐっすり眠ってしまった。よく眠れて、夢もみなかった。目覚ましが鳴ったので、びくりとして眼をさましたが、すぐに自分がそれをかけたわけを思いだした。あくびをして、ぐったりと伸びをした。
「やれやれ、仕事に出かけるとするか。仕事と名のつくものに、厄介でないものはないさ」
彼は蚊帳から這いだして、ランプに二度目の火をつけた。睡気をはらうために手と顔を洗い、それから、夜気で風邪をひかぬ用心にラムを一杯のんだ。例の経験のない助手のことをちょっと考えて、ラムを少し小瓶に入れて持っていくほうが利口だろうかと考えた。
「あいつの神経が変になったら、えらい仕事になるぞ」
六人も一度に処刑することになったのは、運が悪い。一人だけだったら、助手が新米だからって、たいしたことはない。だがあとにまだ五人ひかえていると思うと、何か間違いができたら、さぞ困ることだろうな。彼は肩をすくめた。とにかく、二人で、できるだけのことをするより仕様があるまい。彼はみだれた髪に櫛を入れ、口髭にていねいにブラシをかけた。巻き煙草に火をつけた。庭を横切って、丈夫な棚の扉を鍵であけ、外へ出て、もう一度鍵をかけた。月はなかった。彼は口笛を吹いて犬を呼んだ。犬たちが来ないので、びっくりした。もう一度口笛を吹いた。畜生ども、鼠でもつかまえて、とりあいをしているんだろう。よし、仕置きをしてやるから、おぼえていろ。口笛を吹いたのに来ないとどうなるか、教えてやるから。彼は刑務所の方角へ向って歩きだした。椰子の木立の下は真暗で、やっぱり犬に一緒にいてもらいたかった。だがあと五十ヤード行けば、林の外へ出られる。刑務所長の家には灯がともっていて、それを見て彼は自信が出た。彼は微笑した。この晩い時刻に、灯がついているのはどういうわけか、およそ推察がついたからだ。所長は、明朝の処刑をひかえて、まだ眠れずにいるのだ。処刑の前夜、囚人たちや免囚たちをもとらえた不安、不快な気分が、所長の頭にも来ているのだ。こうしたときに暴動の起きやすいことは事実で、だから看守たちは目を皿にして巡視を厳重にし、少しでも怪しい動きがあれば、すぐに銃を構えられるように手に唾しているのだ。
ルイ・ルミールはもう一度口笛を吹いて犬を呼んだが、やはり犬は来なかった。どういうわけだろう。合点がいかない。すこし気持がわるい。ふだんは彼は足が遅い、身体をゆするようにしてゆっくり歩くのだが、このときは歩みを早めた。彼は巻き煙草を口から唾といっしょに吐きすてた。煙草の火で、自分の居どころを教えるのは不用心だ、とふと思ったのだ。急に彼は何かにつまずいた。ギョッとして足をとめた。彼は鋼のような神経をもつ豪胆な男であるが、このとき急に恐怖に胸がつぶれそうになった。つまずいたのは、やわらかい、かなり大きいものだった――それが何か、彼には考えるまでもなかった。運動靴をはいた片方の足で、彼の前の地面にある物体をそっと探った。思った通りだった。彼の二匹の飼犬の一匹なのだ。犬は死んでいた。彼は一歩あとへさがって、短刀を抜いた。大声で呼んでもだめなことはわかっている。近くの家といえば所長の家だけで、それは椰子林のさきの空地に面して立っている。呼んでも聞えないだろうし、聞えたとしても誰も出て来ないだろう。サン・ローラン・ド・マローニは、救いを求める人声が聞えたからといって、誰でも闇の夜に外へとびだすような土地ではない。よしんば翌朝、免囚が一人死んでいるのをみつけたとしても、たいした損失でもない。ルイ・ルミールは一瞬のうちに何事が起ったかを知った。
彼はめまぐるしく頭をはたらかした。やつらはおれが眠ってるあいだに犬を殺した。晩飯のあとで棚の外へ放してやったときに、やつらは犬たちをつかまえたに違いない。毒の入った肉でも投げてやったので、畜生どもはそれにとびついたのだろう。おれのつまずいた犬が家の近くで死んでいたとしても、それは死にかけたままで家へ這い帰ろうとしたためだ。ルイ・ルミールはじっと眸《ひとみ》を凝らした。何もみえない。漆《うるし》のような闇だ。一ヤード離れて立っている椰子の幹が、かろうじて見える。最初に考えたことは小屋へ走り帰ることだった。無事に小屋まで戻れたら、刑務所の人々が彼の来ないのを怪しんで、呼びに来るまで待てばいい。しかし彼は引返すことは不可能なことを知っていた。闇のなかに彼等が――犬たちを殺したやつらが、いることを知っていた。鍵をだして、錠前を手探りしなくてはならない、探りあてる前に、短刀が背中に飛んで来るだろう。彼は必死に耳をすませた。何の音もしない。けれども彼は樹の蔭に彼等がひそんでいるのを感じた――彼を殺そうとする者どもが。やつらは犬たちを殺したようにおれを殺すだろう。おれは犬のように死ぬのか。もちろん一人じゃない。少なくとも三人か四人、それとももっとか、晩い時刻まで獄舎へ帰らなくてもいい、個人の家庭で下男として働いている囚人たち、または何も怖れるもののなくなった自暴自棄の免囚か、とにかくおれは知っているのだ。しばし、彼はどうしようかと迷った。走って逃げるのは危ない、彼の家から空地へ通じている小屋に、縄を張るのは造作もないことで、つまずいて倒れたら、それっきりだ。椰子の木と木のあいだは離れていて、木立のなかでは敵からもこちらの姿がみえないのは、こっちから敵の姿がみえないのと同じだ。彼は死んだ犬の上をまたいで、木立のなかへとびこんだ。一本の木を背にして立ち、どうして前へ進もうかと思案した。怖ろしい静寂。急にささやき声が聞え、凍りつくような恐怖を感じた。また死のような静寂。彼は動かなくてはいけないと思ったが、足は大地に根を張ったようだった。敵が闇のなかから自分をのぞいていることを感じ、まるで真昼の明るい光のなかに立っているように彼等からまる見えになっているような気がした。と、今度はべつの方角で、小さい咳の音がした。その衝撃があまりひどかったので、ルイ・ルミールはもう少しで悲鳴をあげるところだった。敵は自分のぐるりをすっかりとりまいているのだ。強盗や人殺しが、慈悲も情けもかけてくれる気づかいはない。彼は前任者、もう一人の死刑執行人のことを思いだした。生きながらジャングルへ運ばれ、眼を抉りとられ、木の枝に吊るされ、禿鷹の啖《くら》うにまかせられた男のことを。彼の膝がふるえだした。こんな仕事を引受けたおれは、何という莫迦だろう! こんな危ない綱を渡らないでもすむ、おとなしい仕事がいくらもみつかったものを。そんなことを考えるのはもう遅い。彼は身をひきしめた。生きてこの椰子林から出られる見込みはない、それはわかっている。おれは死ぬのだ。そうはっきり覚悟をきめてしまえばいい。短刀を強く握りしめた。恐ろしいのは、音もきこえず、姿もみえないのに、彼等がどこかにひそんで、襲いかかる時を待っているということだった。一瞬、彼は気違いじみたことを考えた、短刀を投げすてて、大声で、おれは武器をすてたから、はやく出て来て殺すがいいと敵に向って叫びたくなったのだ。だが彼等がどんなやつらか、彼は知っていた。ただ彼を殺すだけで満足するやつらではなかった。カッと憤怒が彼をとらえた。罪人どもにとりまかれて、おとなしく降参するおれと思うのか。おれは正直な人間だ、れっきとした役人だ。身をまもるのはおれの義務じゃないか。一晩じゅうこうしてはいられない。早くかたをつけてしまうほうがいい。だが、彼が背にしている樹はあまり安全とは思えないのに、彼は身を動かすことができなかった、彼は前方にみえる木の幹をじっと見た。とたんにそれが動きだしたので、彼はぞっとして、それが人間だったことを知った。それで度胸がきまったので、必死の努力で前へ足を踏みだした。ゆっくりと、慎重に、彼は進んだ。何も見えず、何も聞えない。だが彼が進むにつれて、敵どもも進んでいることはわかった。まるで目にみえぬ護衛隊をしたがえているようだ。彼等の裸足の足音がきこえる。もう恐怖は消えていた。できるだけ立木に身体を寄せながら、そうすることによって後から襲われるチャンスをなるべく少なくしながら、彼は歩きつづけた。ふと、やつらは短刀を投げるのを怖れているのではないかという希望が、むらむらと胸のなかに湧き起った。やつらはおれを知っている。みんなおれを知っているやつらだ。最初におれに打ちかかるやつは、もし自分の臓腑に短刀を突き刺されないとしたら、そいつは運がいいんだ。あと僅か三十ヤード、それだけ歩けば、空地へ出られて、見ることができる。そうなったら果たし合いができるのだ。あと五六ヤード、そうしたら走って逃げよう。とたんに、何がどうしたのか、思わずギョッとして跳びあがりそうになり、その場に立ちすくんだ。パッと一道の光がひらめいて、濃い闇のなかにいきなりギラリと光ったのが魂をすくませた。懐中電灯であった。衝動的に、彼は一本の立木のところへとびついて、それを背にして立った。電灯を持っている人間を見ることはできなかった。まぶしさで眼がみえなかった。口もきけなかった。短刀を低く構えた。敵が打ちこんで来るときは腹を狙うことを知っていたから、何かがこっちへ飛んで来たら、そいつを打ち返そうと身構えた。ただでは生命はくれてやらないぞ、できるだけ高く売りつけてやるのだ。おそらく半分間ほどであったろうか、光は彼の顔を照らしたが、彼には永遠のように思えた。ようやく相手の男たちの顔が、ぼんやりわかったと思った。そのとき、一つの言葉が、怖ろしい沈黙を破った。
「投げろ」
同時に、一挺の短刀が空を斬って、彼の肋骨に当った。彼が両手を空へあげてのけぞった瞬間、一人が彼に躍りかかって、大きく一振り、彼の腹を横裂きにした。電灯は消された。ルイ・ルミールは呻き声とともにどっと大地へ倒れ伏した。怖るべき苦痛の呻き、五人、六人の男が闇のなかから寄り集まって、彼を見おろして立った。彼が倒れたとき、肋骨を刺した短刀は抜け落ちた。それが地上に落ちていた。一閃、懐中電灯の光で、そのありかがわかった。一人がそれを拾って、すばやく、一刀のもとにルミールの喉首を耳から耳まで掻き切った。
「|フランス人民の名において、正義は行わる《オー・ノム・デュ・プープル・フランセエ・ジュスティース・エ・フェート》」とその男が言った。
彼等か闇のなかに消えたあと、椰子林のなかにはすさまじい死の沈黙が残った。
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訳者あとがき
このモーム短篇集には、一九四〇年初版の短篇集 The Mixture as Before 中に収められた作品を収めている。原題の由来と、その含蓄する意味については『ロータス・イーター』のなかで書いたから、ここでは略させていただく。
『ロータス・イーター』のあとがきの終りのほうで、「変りばえせぬ話」という標題にもかかわらずこれら晩期に属するモームの短篇は、初期の『雨』や『手紙』と比較すれば、ずいぶん変っていると書いておいた。人物や事件そのものの直接的な描写よりも、作者が主題に与えているモラルが巧みに提出されているという印象である。作者の人生的知恵の円熟という印象が、こうした物語のまとめ方から味われるのだが、このことは、これらの作品にアイロニイとかユーモアとかの風味をゆたかに添えていることを付け加えておきたい。この特徴は一九四七年に出た次の――そして最後の――短篇集『環境の動物』にも流れていて、老年期のモームの作風の目立った特質をなしている。
初期の短篇では、モームはあるモチイフに見いだした旺盛な興味を、首尾一貫して、しかも迫力のあるプロットで描くことに異常な熱意と興味を持っていた。まるで「写真の原板の感光性のような感受性」で実在の人物の性格的特異性やその行動を観察する。観察は、いうまでもなく作家の個性的精神活動である。「彼らの中に見出していた特質を、彼らに与えていたのは、このわたしにほかならなかった」(『要約すると』中村能三氏訳)その観察から「わたしがつくりあげた写真が、真実であるかどうかは、わたしにとって問題ではなかった。問題なのは、空想力の助けをかり、出会った一人一人から、もっともらしい調和をつくりあげられるか否かであった。それは実に面白い遊びで、わたしはよく夢中になってやったものだった」(同上)
この「面白い遊び」は戯曲や長篇小説で鍛えたタレントに助けられて、上述の初期の諸名作を生んだわけだが、同時に短篇という新ジャンルでのモームの強烈な関心と野心とを、これらの作品はまざまざと感得させる。それが、十数年の積み上げられた努力を経て、後期の短篇へ来ると、手法は同じでありながら、まことに楽々と、一篇一篇の物語が流れるようにまとまっているという印象に変っている。そこに余裕が感じられる。楽々と書いた感じを与えるためにもおそらくべつの努力が必要であったろうが、「調和」を生みだすための新しい領域での努力の跡は見られない。「調和」とは『雨』や『赤毛』の場合、限られたスペース内での集中的な渾然としたまとまりを意味した。それは人生の一断面であるが、断面そのものがお話としてまとまっているということが、モームのいわゆるモーパッサン流短篇の要請であった。そこには大いなる「現実」からの一種の断絶があった。
本書に収められた諸短篇は、手法上、モーパッサン流であることにおいて初期の短篇と変らない。しかし読者に与える感銘は異質である。ここに与えられる人生の諸断面は、どこかそれだけで割り切れない、広大な人生のゆたかさ、複雑さをうしろに背負っている。この感銘はモーパッサン的であるよりもむしろチェーホフ的である。『獅子の皮』の主人公は愚人であり、善良な妻を欺しとおした悪人でもあるが、そういう人物のなかに否みえない人間性の非凡なものを、作者はワキ役のすれっからし貴族に発見させている。『山鳩の声』の女主人公は我執と物欲と虚栄のかたまりであるが、これまた「抗しがたい魅力」の持主である。『幸福』にいたっては、最も危険で醜悪な仕事にたずさわっている中年男のうらやむべき幸福の自覚という主題をアイロニカルにとりあつかう。『人生の実相』にしても、何が人生の実相なのか、ごく笑話めいたストーリイのなかで、不可知論者モームの面目をあらわしている。少しも割り切れていないのがこれらの人生である。これらはみな人間性の決して消えることのない驚異の産物であるが、それらの驚異をつかみだしてくる作者の知恵が、初期短篇の時代よりもゆたかで複雑さを加えていることを読者は認められるだろう。
『獅子の皮』The Lion's Skin これは成句で、COD辞書には false assumption of courage とある。勇気というものをはきちがえて気負うことで、この話の主人公は果してそれに当るかどうか、フレッド・ハーディの解釈は正しいかどうか、それがテーマになっている。
『山鳩の声』The Voice of the Turtle 旧約雅歌第二章第十一〜十二節に、「視よ、冬すでに過ぎ、雨もやみてはやさりぬ。もろもろの花は地にあらはれ、鳥のさへづる時すでに至り、斑鳩《やまばと》の声われらの地にきこゆ」とあるのが出典で、山鳩は旧約ではしばしば犠牲として神に捧げられることが記されている鳥だが、雅歌は国土のうるわしさと愛人への思慕をこめて「わが鴿《はと》よ、われに汝の面《かほ》を見させよ、なんぢの声をきかしめよ、なんぢの声は愛らしく、なんぢの面《かほ》はうるはし」(二章十四節)と歌っている。この物語はこの標題によって、まさにモームの真骨頂を示している。
『人生の実相』The Facts of Life 俗語で「生殖の事実」をさして「 |生の実態《ザ・ファクツ・オブ・ライフ》」という言いまわしがある。だがこの題名にはもう少し幅と含みがある。
『マウントドレイゴ卿の死』Lord Mountdrago
『幸福』An Official Position 原題は「あるお役人」とても訳したらいいのか、position(地位、立場、格式)という言葉の複雑なニュアンスが出せないので変えたのである。 (訳者)
〔訳者紹介〕田中西二郎(たなかせいじろう) 英文学者。一九〇七年東京生まれ。東京商科大学(現一橋大学)卒。主な訳書、グレアム・グリーン「おとなしいアメリカ人」、メルヴィル「白鯨」、コンラッド「青春・台風」、スティーヴンスン「宝島」他。