ロータス・イーター
サマセット・モーム/田中西二郎訳
目 次
三人の肥った女
良心的な男
掘りだしもの
ロータス・イーター
ジゴロとジゴレット
訳者あとがき
[#改ページ]
三人の肥った女
アンティーブに三人の仲のよい婦人が住んでいた。一人はリッチマン夫人という名で、未亡人であった。二人目はサトクリフ夫人というアメリカ人で、これはいままでに二人の夫と離婚をした。第三の女はヒクソン嬢と名乗る、婚期を失した老嬢であった。三人とも四十代の、気楽に生活をたのしめる年輩で、金には困らぬ身分でもあった。サトクリフ夫人は、その最初の名が少し変っていて、アロウ(「矢」の意味)という。若い頃はからだつきもすらりとしていたので、彼女はこの名が結構、気に入っていた。すがたに似合っている上に、変った名だからよくからかわれる、からかわれすぎるくらいだったのが余計に嬉しかったものである。のみならず、この名が自分の性格にもふさわしいという気持もなくはなかった。直截《ちょくさい》、俊捷《しゅんしょう》、果断といった印象のあるところがである。それが、優雅な顔だちも脂肪でふやけたようになり、腕にも肩にも贅肉がつき、腰まわりもどっしりと、押し出しのよくなった昨今では、さほど好きな名ではなくなった。自分の姿態を、自分の気に入るようにみせてくれる衣裳をみつけることが、だんだん困難の度を加えて来る。その名を種にしてのひやかし、冗談も、今では蔭口にしか言われなくなり、それを嬉しがるどころの騒ぎでないことは、当人が一番よく知っている。だが中年女としてのあきらめに安住するのは、彼女の断じてとるところではなかった。相変らず眼の色をひきたてるためにブルーの衣裳を着て、美容術のたすけをかりた金髪にも依然として光沢《つや》をたもたせていた。彼女がビアトリス・リッチマンとフランセス・ヒクソンとについて、大いに気に入っていたのは、二人とも彼女よりも遥かに肥満していたことで、それがため彼女ははなはだ楚々として見えたのである。二人はまた彼女より年上でもあって、彼女をかわいらしい小娘かなんぞのようにあしらう傾きがあった。これも悪い気持はしなかった。二人とも好人物で、アロウのあこがれの男性のことを言いだしてはなぶりものにするのを楽しみにした。当人たちはとうの昔にそうしたくだらないことは思いあきらめていて、ヒクソン嬢のごときは一瞬たりとも男出入りなどに頭を使ったことのないひとだったが、それでいて彼女の浮気にだけは同情的であったのだ。近いうちにアロウが三人目の男性を幸福にしてやるだろうということは、彼女たちのあいだで諒解ずみの事柄になっていた。
「だからあんた、これ以上ふとらないようにだけは、しなきゃだめよ」とリッチマン夫人は言った。
「それから、お願いだから、彼氏がブリッジをやることだけは確かめてね」とはヒクソン嬢の頼みであった。
二人は、彼女の旦那さまとして、年は五十がらみ、といってもまだ老いこんではいなくて、すばらしく恰幅のいい男、退役の海軍将官でゴルフの名人か、さもなくば係累のない|やもめ《ヽヽヽ》男か、むろんそのどれにしても充分の収入のある人物――といったところを心に描いていた。アロウは二人のそうした意見を黙ってにこにこと聴いてはいたけれど、自分の考えはそれとは全然ちがうと、腹のなかでは思っていた。三度目の結婚をしていいという気があることは事実だが、彼女の好みは、色の浅ぐろい、眼のキラッと光る、身分の高いイタリアの優男《やさおとこ》か、由緒ただしいスペイン紳士を夢みていた――しかもまだ三十にはならない男を。ときどき、鏡のなかの自分のすがたを眺めながら、あたしだって、まだそのくらいにしか見えやしないわと思うことが、よくあったのである。
ヒクソン嬢、リッチマン夫人、アロウ・サトクリフ、この三人はまことに仲がよかった。三人をひきよせるなかだちとなったのは彼女らの脂肪であって、三人の交情をかためる役をしたのはブリッジであった。三人が最初に顔をあわせたのはカールスバードの温泉で、彼女たちは同じホテルに泊り、同じ医者の治療を受け、その医者から同じようにこっぴどい目にあわされたのである。ビアトリス・リッチマンは途方もなく肥満していた。きりょうはいいほうで、眼がすずしく、頬紅をつけ、唇も紅く塗っていた。かなりの財産のある寡婦であることに、何の不満も感じていなかった。彼女はもっぱら食事を愛した。バタをつけたパン、クリーム、ポテト、あぶらっこいプッディングなどを好み、一年のうち十一カ月は心ゆくまで食べたいものを食べて、あとの一カ月でカールスバードへ目方を減らしに行くのである。けれども年々に彼女は肥っていった。彼女は医者に文句をつけたが、一向に同情してもらえなかった。医者は彼女のさまざまな簡単明瞭な事実を指摘した。
「だって、好きなものを食べられないのなら、生きていたって仕様がありませんわ」彼女は反論した。
そんな心がけだから困る、といわぬばかりに、医者は肩をすくめてみせた。そのあとで、彼女はヒクソン嬢に、あのお医者は、あたしが思ったほど腕がよくないんじゃないかしら、心配になって来たわ、と話した。ヒクソン嬢は大笑いした。この老嬢はそういうタイプの女性だったのである。男のような太いバスの声の持主で、血色のわるい顔は大きく、平たくて、小さな眼だけが明るく光りまたたいた。うつむきがちに、両手をポケットにつっこんで歩き、人目を気にしないですむ場合にはよく長い葉巻をたしなんだ。服装も、できるだけ男のようにしていた。
「褶《ひだ》飾りだの裾飾りだのって、どうしてあたしが苦労しなきゃならないの?」といつも彼女は言った。「あたしぐらい肥ったら、誰だって楽《らく》な身なりをしたくなるわよ」
彼女はツイードの服に重い長靴をはき、さしつかえない限りは無帽で外出した。しかし彼女は牛のように強壮で、つねづねボールを投げてもあたしより遠く投げる男は少いと自慢していた。言葉がぞんざいで、荷揚げ人足にも負けないほど乱暴な悪口雑言を数多く知っていた。名前はフランセスというのだが、フランクと呼ばれるほうが好きだと言っていた。頭から抑えつけながら、しかも擒縦《きんしょう》よろしきを得て、三人を一つに結びつけたものは、まさしく彼女の快活な性格の力づよさであった。三人はいっしょに温泉の湯を呑み、同じ時刻に入浴をし、いっしょにせっせと散歩をし、同じプロフェッショナルの選手をたのんでテニス・コートの土を踏みかためながら走りまわらせてもらい、同じ食卓で乏しい、やかましく制限された食事をとった。彼女たちの上機嫌をそこなうものといっては、ただひとつ重量計があるのみで、三人のうちの誰か一人が昨日と同じ目方だった日には、フランクの下品な冗談も、ビアトリスの「|お人好し《ボノミー》」も、はたまたアロウの愛すべき小娘ぶりも、その憂鬱をはらいのけるには足りなかった。そううなると徹底的な荒療治をするほかに手はなくて、科人《とがにん》はまる二十四時間ベッドに押しこまれ、キャベツの洗い汁を熱くしたような味のする、例の医師の名声|嘖々《さくさく》たる野菜スープのほかには何ひとつ喉を通すことは許されない。
この三人の女性ほど仲のよい友達というものは世の中にはなかった。もしブリッジの四人目を必要としなかったら、三人は絶対にほかの人間から独立していられたであろう。三人とも、ものすごいブリッジ狂であって、日課の療養が終るやいなや、ブリッジのテーブルをかこむ慣わしであった。アロウは女らしいやさしい気質なのに、ゲームは三人のうちで一番うまく、それも手きびしい、目から鼻へ抜けるような勝負をする。なさけ容赦もなく、自分は一点でも相手にゆずらず、相手のやりそこないは必ず見のがさずにつけこむというやりくちだ。ビアトリスは堅実で、まちがいが少い。フランクは猪突的である。たいへんな定石通で、口のうるさいことでは誰もかなわない。せり合いの方式について、三人はしばしば大論戦をやった。カルバーストンとかシムズとかの権威をふりかざして、おたがいに駁撃《ばくげき》につとめるのである。彼女たちの話を聞いていると、一つの札を出すのにも十五ぐらいの立派な理由があるらしいのだが、同時にそのあとの議論の様子では、その札を出してはいけない理由もまた十五ぐらいはあるらしい。自分たちと同程度の実力のある四人目の人物をみつけるという不断の困難さえないならば、たといかの医師の「下劣な」(ビアトリス)「へどの出る」(フランク)「いやらしい」(アロウ)重量計が二日間に一オンスと目方が減らないふりをしてみせたために、例のあさましいスープで二十四時間をすごすことになろうとも、人生には何の不足もなかったであろう。
そこで、この物語の本筋に入り、フランクがレナ・フィンチを招待して、アンティーブの彼女たちの許へ泊りがけで来るようにと勧めたのも、ほかならぬこの理由にもとづくものであった。フランクの主唱によって、三人はこの地で数週間をすごすことにしたのである。常識に富むフランクにいわせると、やっと湯治が終ったばかりなのに、それによっていつも二十ポンド減量するビアトリスが、すぐさま抑えることのできぬ旺盛な食欲のとりこになり、同じ目方をとりかえすのは、愚の骨頂である。ビアトリスは意志が弱い。よろしく意志のつよい他の人物をして、彼女の食事の献立を監視せしめるべきであるというのだ。そこでフランクはカールスバードを引揚げたら、アンティーブに家を一軒借りて住もうと提案した。あそこならば充分に運動ができるし――水泳ほど贅肉のとれるスポーツはないことは誰でも知っているではないか――またできるだけ減食療法をやめずにつづけることもできる。コックを一人やとえば、少くとも肥ることのわかっている食べものを避けることはできるだろう。現在よりも、もう数ポンド体重を減らしてわるいという理由は一つもない。なるほど、たいへんいい思いつきのように思われた。ビアトリスとても、どうすれば自分のためによいかは知っていたし、誘惑に抵抗するにも、誘惑が鼻のさきへつきつけられぬほうが抵抗しやすい道理である。のみならず彼女は賭博が好きであったので、週に二三回カジノで羽根をのばすのも、はなはだ愉快な暇つぶしの方法であると思った。アロウにいたってはアンティーブが大好きであって、カールスバードに一カ月を送ったあとの彼女の容姿が最上であるのは言うまでもない。若いイタリア人であろうが、情熱に燃えたスペイン人であろうが、枠で高尚なフランス人であろうが、手足のひょろ長いイギリス人であろうが、海水着に派手なガウンすがたで日がな一日ぞろぞろ歩いている男どものなかから、よりどりみどりで拾えるだろう。計画は上乗の首尾にはこんだ。すばらしい毎日であった。週に二日はかたい茹《ゆ》で玉子になまのトマトのほか何も食べず、毎朝あかるい心境で秤《はかり》にのっかることができた。アロウの体重は十一ストーン(約六九キロ)までさがり、まるで若い娘になったような気がした。ビアトリスとフランクも、まずまず十三ストーンをいくらか切れるところにとどまっていた。彼女たちの買ったこの秤はキログラムで目盛がついていたが、その目盛をポンドとオンスに換算するのに、またたき一つする間にやってのける、おどろくべき巧者さを彼女たちは体得した。
だが、ブリッジの四人目は、依然として難問題であった。ばかばかしくて相手にならない相手、あまりのろまなので癇癪のおこる相手、一人は喧嘩っぱやいかと思えば、二人目は負けっぷりがわるいし、三人目はイカサマに近い性《たち》のわるいことをするといった工合で、まったく不思議なほど、ちょうどお誂えむきのトランプ相手というものは得がたかったのである。
ある朝、三人ともパジャマすがたで、海を見晴らすテラスへ出て、お茶を(ミルクも砂糖もなしで)のみ、カールスバードのフーデバート先生御調製の、肥らないという保証つきのラスクを食べているときに、郵便に目を通していたフランクが顔をあげて言った。
「レナ・フィンチがリヴィエラヘやってくるんだって」
「どういう女《ひと》?」とアロウがきいた。
「あたしの従兄弟《いとこ》のお嫁さんなの。従兄弟がふた月ばかり前に死んで、その精神的衝撃から、やっと立ち直ったところなの。二週間ばかり、ここへ泊りに来なさいと言うのは、どうかしら?」
「ブリッジをなさるかしら?」今度はビアトリスがきいた。
「その点、太鼓判をおすわ」例の男のような張りのある声で、フランクが「おまけに、すごくうまいわよ。あのひとが来れば、もうよその人を頼りにしなくともすむわ」
「年齢《とし》は、いくつぐらいなの?」アロウがたずねた。
「あたしと同《おな》い年《どし》」
「じゃ、よさそうね」
話はきまった。フランクは、もちまえの通りテキパキと、朝飯をすませるとすぐに電報をうちに出かけ、三日後にレナ・フィンチはやって来た。フランクは駅へ迎えに出た。レナは先ごろの良人《おっと》の死について、心からの、だが押しつけがましくはない哀しみの情にひたっていた。フランクが彼女と会うのは二年ぶりである。彼女は従兄弟の妻に温情のこもった接吻をして、しみじみとその様子をながめた。
「ずいぶん瘠せたわね、あんた」
レナはけなげに微笑《ほほえ》んだ。
「このところ、ずっと、つらい思いをしつづけて来ましたもの。ずいぶん、目方、へったわ」
フランクは嘆息した――が、それが自分の従兄弟の死の哀しみに対する同情の嘆息だったか、それとも羨ましかったためか、そこのところは分明でなかった。
そうは言っても、レナは格別に気落ちしているわけではなく、一風呂あびると早速フランクといっしょにエデン・ロックへ来た。フランクは二人の友達に客を紹介し、一同は有名な「モンキー・ハウス」で対座した。これは海に臨んだ硝子《ガラス》ばりの家で、奥にバアがあり、海水着、ピジャマ、ドレッシング・ガウンなどをまとった大勢の客がテーブルに座を占めて飲みものを前におしゃべりしていた。心のやさしいビアトリスは頼りにする良人を喪った女の気持に同情を惜しまなかったし、アロウもまた、見た目もごく尋常な、四十八歳ぐらいの客人の蒼ざめた顔つきをみると、この女《ひと》なら好きになれそうだと思った。ウェイターがそばへ寄って来た。
「あんたは何にするの、レナ?」とフランクがきいた。
「さあ、わからないわ、何でも、みなさんの召しあがるもの――ドライ・マティニでも、ホワイト・レイディでも」
アロウとビアトリスとは、ちらと彼女のほうを見た。カクテイルが人を肥らせることは、誰でも知っていることだ。
「そうね、あんたは旅の疲れがあるから」とフランクは思いやりがあった。
彼女はレナのためにドライ・マティニを、自分と二人の友とのためにはレモンとオレンジをミックスしたジュースを注文した。
「この暑さでは、酒類はあたしたちにはあまりよくないらしいのよ」とフランクは言いわけを言った。
「あら、あたしにはちっとも障らないのよ」レナはほがらかに答えた。「あたしはカクテイルが好きなの」
アロウは紅《べに》でいろどった顔の内側で、ほんの少し蒼くなった(彼女もビアトリスも、海水浴をしても決して顔を濡らさなかったし、フランクが、大きな身体をしながら、潜《もぐ》るのが好きだと言うのを、二人ともばからしいと思っていた)が、何も言わなかった。会話は陽気に、心置きなく進行し、みなわかりきったことを本気で楽しくお喋りした。まもなく一同は昼食のために別荘にぶらぶら戻った。
各自のナプキンのなかに、二個ずつの肥満を避けるラスクがあった。レナはそれを自分の皿のわきへ置きながら、明るい微笑をみせて、
「パンをいただけるかしら?」と言った。
どんな下品な、あられもない言葉でも、それを聞いた三人の婦人に、かほど大きなショックを与えることはなかったであろう。彼女たちのうち、一人でも、この十年来、一切れのパンも口にしたことはないのだ。食いしんぼうのビアトリスでさえも、その点では一線を画していた。だが親切な主人役のフランクが、最初に立ち直った。
「ええ、ええ、いいわよ」と彼女は答え、給仕人をかえりみて、持って来るように命じた。
「ついでにバタも少し」とレナは、相変らずの明るい調子で、すらすらと言った。
一瞬、そこには気づまりな沈黙が生じた。
「さあ、この家にあるかどうか、わからないけど」フランクが言った。「きいてみるわ。調理場にはあるかも知れないから」
「あたしはバタをつけたパンが大好きですの、あなたはいかが?」レナはビアトリスに話しかけた。
ビアトリスはせつなそうな笑顔をみせて、いい加減な返事でとりつくろった。給仕人は焼きたての香《こう》ばしいフランスパンの長いロールを持って来た。レナはそれをナイフで横に二つに切り、奇蹟のようにそこへ出て来たバタをそれに塗りつけた。グリルしたシタビラメが出た。
「ここでは、食事はごく簡素にしているのよ」とフランクが言った。「あんたが気にかけないでくれると嬉しいんだけど」
「ええ、ええ、あたしも、ごく粗末な食事が好きですのよ」レナは、魚の上にバタをのせながら言った。「バタつきのパンに、ポテトに、クリームさえあれば、あたしはほんとに満足なの」
三人の友は眼と眼を見合わせた。フランクの血色のわるい大きな顔が、いささか毒気を抜かれたようになり、皿の上の、パサパサした味のうすいヒラメを、まずそうに眺めやった。ビアトリスが助け舟に出た。
「ほんとにつまりませんわ、この土地ではクリームが食べられないんですもの」と彼女は言った。「リヴィエラでは、がまんしなければならないものの一つですのよ」
「まあ、困りますわね」とレナが言った。
昼食の残りの献立は、ビアトリスを堕落させまいために、ていねいに脂肪分を抜きとった小羊のカツレツ、うでたホウレンソウ、そして最後が梨のスチュウであった。レナは梨の味をみて、物問いたげに給仕人のほうを一瞥した。相手は眼から鼻へ抜ける才人だから、たちまち彼女の意のあるところを察して、いまだかつてこの食卓に供せられたことのない粉砂糖の壺を、一瞬の躊躇もなく彼女に手渡した。レナはふんだんに砂糖を使った。ほかの三人は見て見ぬふりをしている。コーヒーが出ると、レナはこれにも角砂糖を三個いれた。
「あなた、ずいぶん甘いものがお好きね」アロウが、何とかして意地わるくならないようにと、必死につとめた口調で言った。
「あたしたちは、サッカリンのほうが、ずっと甘いと思ってるのよ」小さな錠剤のそれを自分のコーヒーに入れながら、フランクは言った。
「いやだわ、そんなもの」とレナが言った。
ビアトリスの両方の口許がゆがんで、眼はものほしそうに砂糖壺を眺めやった。
「ビアトリス」こわい声で、フランクが叱った。
苦しい溜息を押し殺して、ビアトリスはサッカリンに手をのばした。
ようやくブリッジのテーブルに四人が向いあうと、フランクはほっとした。彼女から見ると、ビアトリスとアロウとが落ち着きを失っていることは明瞭だった。彼女は二人の友がレナを好いてくれることを望んでいたし、レナのためには二週間の滞在を楽しく過させたいと心を砕いていた。最初の勝負のために、アロウが札を新来の客と二つにわけあった。
「あなたはヴァンダビルト式でおやりになるの、それともカルヴァーストン?」
「あたしは型にはまったやりかたはしませんの」レナはぜんぜん楽天的であった、「直覚でやるほうですの」
「あたしは厳密にカルヴァーストン式ですわ」アロウは不機嫌に言った。
三人の肥った女性は、猛然と闘志をかためた。型にはまったやりかたとは、仰しゃったわね!お手並を拝見するわ。ブリッジともなれば、フランクまでが親類としての心づかいを忘れて、ほかの二人とともに、急に舞いこんで来た四人目をこっぴどく負かしてやろうと、手ぐすねひいて腰をすえたのである。だが、「直覚」は大いにレナに幸いした。彼女は生まれつき勝負ごとの才に恵まれていた上に、経験もゆたかであった。ゆたかな想像力を駆使して、俊敏に、大胆に、自信にみちたプレイぶりをみせた。ほかの三人といえども、さすがにブリッジの玄人だけあって、たちまちレナの容易ならぬ実力を看破したばかりでなく、みな根っからの好人物でもあり、度量のひろい女性たちばかりであるから、だんだんと気持をやわらげた。これこそ、ほんとうのブリッジであった。みな大いに楽しんだ。アロウもビアトリスもレナに一層の好意を抱くようになったし、フランクはフランクで、この様子に大きな胸をいとどふくらませて安心の吐息をした。レナを招んだことは成功になりそうであった。
二時間ほどして、一同は別れた。フランクとビアトリスはゴルフのコースをひとまわりしに行き、アロウは近ごろ知り合いになったロッカマーレ公爵という青年と威勢よく散歩に出かけた。公爵は彼女に非常にやさしくて、若くて、好い男であった。レナはひと休みしたいと言った。
四人は晩餐まえに、また顔をあわせた。
「レナ、いかが、疲れはとれて?」とフランクが言った。「ずっとあんたをほったらかしといて、あたし気がとがめていたのよ」
「あら、そんな御挨拶には及ばなくてよ。あたし、好い気持でひと寝入りして、それから≪ファン≫へ行ってカクテイルを一杯いただいて来ました。それから、一つ、大発見をしましたわ。みなさん喜んでくださると思うの。かわいらしい小さな喫茶店があって、そこに上等な濃い新鮮なクリームを売っていましたの。それであたし、毎日、半パイントずつ届けるように頼んできましたわ。それでいくらかでも、みなさんのお役に立てたら嬉しいと思って」
彼女は眼をかがやかせていた。この話で、三人とも大喜びするだろうと期待していることは明らかであった。
「まあ親切に、どうもありがとう」と答えたフランクの顔には、二人の友の表情にありありとあらわれた立腹を、どうにかしてなだめようとする焦りがみえた。「だけどあたしたちはクリームは食べないの。この土地の気候では、あれは胆汁分泌過多を起していけないのよ」
「それじゃ、あたしがみんな一人で食べなきゃならないのね」レナはますます朗らかに言う。
「あなたはご自分の容姿《すがた》のことを、お考えになりませんの?」氷のごとき冷静沈着の態度で、アロウが言った。
「お医者は、あたしは食べなきゃいけないと言いましたわ」
「バタのついたパンや、ポテトやクリームを食べるようにって?」
「ええ。こちらでは簡素な食事をなさっているとうかがったとき、あたしはそういう意味だと思いましたのよ」
「そんなことしたら、肥るばかりですよ」とビアトリスが言った。
レナは明るい声で笑った。
「だいじょうぶ、あたしはそんなことありませんわ。何を食べても肥る気づかいはないんですもの。これまでだって、自分の食べたいものは何でも食べて来ましたけれど、それでどうってことは、全然ありませんでしたわ」
こうまくしたてられたあとにつづいた石のごとき沈黙は、給仕人が食堂へ入って来るまで破る術がなかった。
「お支度ができました」
その夜、レナが寝てしまってから、三人はフランクの部屋でこの問題を協議した。宵のうち、彼女たちはやたらに快活にふるまって、どんな鋭い観察者でも本気だと思うほど仲好しらしく、のべつおたがいにからかったりひやかしたりした。だがいまはみんな、お面を脱いだ。ビアトリスは渋面をつくり、アロウは怨み骨髄に徹し、フランクの男みたいなところは消え失せていた。
「あたしはああやって、自分の特別に好きなものばかり、他人《ひと》が食べるところを拝見してるのは、あんまり嬉しくないのよ」ビアトリスが哀訴した。
「あんたばかりじゃない、あたしたちみんな、あんまり嬉しかないわよ」フランクがはねかえした。
「ああいう女《ひと》を招待したあんたが、まちがってたんだわ」アロウが言った。
「こんなことになろうとは、あたしにわかるはずがないじゃないの」フランクは叫んだ。
「あの女《ひと》、ほんとうに旦那さまを愛していたら、ああ沢山は食べられないと思うわ、そう思わずにいられないわ」ビアトリスが言った。「だって、なくなって、まだ二月《ふたつき》でしょう。いえね、つまり、せめてなくなった夫に対して、ある程度の遠慮をしてもらいたいと思うのよ」
「なぜあたしたちと同じものを食べていただいちゃ、いけないの?」アロウが意地のわるい理屈をこねた。「むこうはお客さまじゃないの」
「そこは、あんたもレナの言ったことを、聞いたはずよ。お医者が、食べなきゃいけないと言ったからよ」
「そんなら、その辺のサナトリウムヘでも行ってもらえばいいわ」
「生身《なまみ》の人間が、これじゃとても辛抱はできないわよ、フランク」思いあまった苦しそうな声でビアトリスが言った。
「あたしに辛抱ができるなら、あんたにだってできるはずよ」
「レナさんはあんたの従姉妹で、あたしたちの従姉妹じゃないもの」とアロウが言った。「これから十四日間、食事のたんびに、あのひとが好き勝手にいろんなものを食べるのを、指をくわえて見てるのはあたしは御免だわ」
「いったい、食べもののことで、こんな大騒ぎをするなんて、ずいぶんお品のいいことだわね」フランクの声は、ふだんに輪をかけて低く太かった。「何といったって、人生で大切なものは精神だと思うわ」
「フランク、あんた、あたしを品のわるい女だと言うの?」キラッと、眼をいからせて、アロウが詰め寄ると、
「あんたが品がわるいなんて、とんでもないわよ」ビアトリスがあわててとりなした。
「そりゃ、あんただったら、あたしたちが寝静まってから、調理場へ降りていって、こっそり御馳走をたらふく食べるぐらいのこと、あたしはやりかねないと思ってるわ」
カッとなって、フランクは立ち上った。
「アロウ! よくまあ、そんなことが言えたわね! あたしは自分がやる気でいることでもないのに、他人《よそ》さまにそうしてくださいなんて、頼む人間じゃないことよ。これだけ長年《ながねん》つきあっていて、よくもまあ、そんな卑しいことが言えたものね!」
「じゃあ、いったい、どうしてあんたは目方が減らないのよ?」
フランクは言句につまって、みるみる眼に涙をいっぱい浮かべた。
「ひどいじゃないの、あんまりだわ! あたしこれでも、何ポンドとなく減らして来たつもりよ」
彼女は子供のように泣いた。大きな身体をふるわせて、山のような胸の上に、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい、フランク、あたしが悪かったわ」
叫びざま、アロウはフランクの足もとへひれふして、まるまるした自分の腕で抱えられるだけ、友の大きな膝をわが身に抱えこんだ。アロウが泣くそばから睫毛染《マスカラ》が流れて頬をよごした。
「あたしが、あたしが、ちっとも瘠せてみえないって言うの?」フランクはむせび泣きながら、「とにもかくにも、あたしはやるだけのことは、やって来たんだわ」
「そうよ、そうよ、やったわよ、誰だって、それは認めてるわよ」いっしょに泣きながら、アロウは叫んだ。
本来はものに動かされない性質のビアトリスも、静かに貰い泣きをした。まことに感動すべき光景であった。獅子のごとく雄々しい心をもつフランクが、さめざめと泣くさまを見て、心を動かされない女があるとしたら、よほどの情なしでなくてはならぬ。けれども、やがて、三人は涙を拭って、酒類のなかで肥る心配が一番すくないとあらゆる医者が保証しているブランデイ・ソーダを少量のむと、だいぶ気持がよくなった。それで結論はこういうことになった――レナには医師から命じられた通りの栄養食を充分にとらせる、そしてほかの三人は、それによって断じて精神の平静をみださぬことを、厳粛に決心する。レナはまさしくブリッジの一流プレイヤーであるのみならず、要するに問題はわずか二週間のことだ。その間、彼女を楽しく過させるためには、三人はあらゆる努力を惜しまぬことにしよう。かくてたがいに熱い接吻を交わしてから、異様な心の高まりをおぼえつつ、それぞれの寝室へひきとった。生涯を通じて、かくもゆたかな幸福をもたらした偉大な友情をば、何でこれしきのことで傷つけてなるものであろう!
だが弱いものは人間性である。何ぴとも人間性に過大な要求をしてはならない。三人はレナがチーズとバタで音たてて煮えているマカロニを食べるあいだに焼き魚を食べ、レナがパテ・ド・フォア・グラを食べているときには、グリル・カツレツにホウレンソウのおひたしを添えて食べていた。週に二度、固ゆでの玉子と生トマトだけで三人がすませるときにも、レナはクリームのなかに泳がせた青豆や、ありとあらゆる美味しい調理法で調理したポテトを食べた。料理人《シェフ》は腕っこきだったので、次から次へと、贅沢で美味で滋養豊富な料理を調進する機会を与えられ、待ってましたとばかり張り切って働いた。
「ジムはかわいそうなことをしたわ」レナは良人を追憶して嘆息した。「フランス料理が大好きだったのに」
給仕頭《バトラー》が、カクテイルなら六種類ぐらい作れますと、言わでものことを披露したのに対して、レナは早速、医者が昼食にはバーガンディを、晩餐にはシャンペーンを飲むといいと言ったと話した。三人の肥った女性たちは、じっと辛抱していた。陽気に、口数多くしゃべり、いささか浮《うわ》っ調子にさえなった(欺瞞にかけての女性の天賦の才能とはこうしたものである)が、やがてビアトリスはどこか気抜けしたように、しょんぼりしてしまったし、アロウの優しい青い眼には、とぎすまされたような冷たい光が加わった。フランクの太い声もふだんより嗄《しわが》れて聞えた。この抑圧された感情が表面化したのは、一同がブリッジをやりだしたときであった。勝負のやりかたについて言いたいことを言うのは、もともと彼女たちの好むところであったが、いつもはその言うことに毒がなかった。それがいまははっきりと意地のわるいものになって、しばしば、誰かの失策をとがめる場合に不必要な無遠慮さをもってするのだ。話し合いが議論になり、議論が喧嘩になった。ときには腹をたてて口をきかなくなったままでテーブルを離れることもある。一度はフランクが、わざとあたしの不利になるような札の打ちかたをしたと、アロウを攻撃した。三人のうちで最も気の弱いビアトリスが泣かされたことも二度三度とあった。またあるときはアロウがカルタを投げすてて、プリプリしながら部屋を出てしまったこともある。三人とも、むしゃくしゃすることばかりである。仲裁をするのは、レナの役であった。
「ブリッジしながら喧嘩するなんて、つまらないじゃありませんか」彼女は言った。「要するに、これは遊びですもの」
レナにとっては、万事が都合のよいことばかりであった。彼女はたっぷりした食事をとり、半壜ずつのシャンペーンを飲んでいた。のみならず、めずらしく運もついていた。勝負の上で、彼女は三人からしこたま金を捲き上げていたのだ。得点は、一回の集まりの終り際ごとに帳面に書きこまれたが、彼女の方は一日もかかさず上昇に上昇を重ねた。いったい世の中には正義はないのだろうか? 三人はたがいに憎みあうようになった。そして三人はレナをも憎んだけれど、三人ともレナに心のうちをうちあけずにはいられなかった。めいめい別々に彼女のところへ行き、いかにほかの二人が憎らしいかを語るのであった。アロウに言わせると、自分よりもあんな年上の女の人たちとこんなに大ぜいつきあうのは、自分にとってまったくいけないことだと思う。あたしはいっそ、自分の負担した分の家賃なんぞ犠牲にしても、ヴェニスヘでも行ってこの夏の残りを過そうかと思っている、というのである。またフランクがレナに語るには、自分のような男性的な気質の女にとって、アロウのように浮わついた女や、ビアトリスみたいに愚劣さまるだしの女に不満を抱くなといわれても、それは無理というものである。
「あたしには知性のある話相手が必要だわ」例の太い声で彼女は言った。「あたしみたいに人なみの頭脳があれば、誰だって自分と同じ程度の賢い相手とつきあわなきゃ、やっていけるもんじゃないわ」
さてビアトリスが望むものは、平穏と無事だけであった。
「ほんとに、あたし、女って嫌いよ」彼女は言った。「女ほど頼りにならないものはないわ。意地のわるいひとばかりよ」
レナの二週間が終りに近づいた頃、三人の肥った女たちは、おたがいに口をきくのも厭になっていた。レナの前だけはとりつくろっていたものの、彼女がいなくなると本心をさらけだすのだ。もう喧嘩口論の時節はすぎていた。三人はたがいに無視しあった。無視することのできぬ場合は、たがいに冷酷な他人行儀で遇しあった。
レナはイタリア領リヴィエラに住む知人の家へ招かれて行くことになったので、フランクは彼女がこの地に着いたときと同じ汽車で立つのを見送った。レナは三人から捲き上げた大枚な金を持ち去るわけである。
「ほんとうに何とお礼を言っていいか、わからないわ」汽車に乗りこんだとき、彼女は言った。「毎日、ほんとに楽しく過させていただいたわ」
もしフランク・ヒクソンが、どんな男子にでも太刀討ちできる以上のものを持っていると自慢できることがあるとすれば、それは彼女が「|女 紳 士《ジェントル・ウーマン》」であるという一事である。彼女の答えは、男性的威厳と女性的優雅との渾然たる融合であった。
「あたしたち、みんな、あんたが来てくれたので楽しかったわ、レナ。心から歓待したのよ」
だが、すべり出る汽車に背を向けたときの彼女は、足もとのプラットフォームが揺らぐばかりの大きな安堵の吐息をした。その堂々たる肩をそびやかして、彼女は別荘へ歩いて帰った。
「ウーフ!」幾度か、間を置いて、彼女は吼えた。「ウーフ!」
彼女はワンピースの水着に着かえ、運動靴《エスパドリーユ》をはき、男子用のドレシング・ガウン(これには何のふざけた意味もない)を羽織って、エデン・ロックへ出かけた。昼食どき前に、ひと浴《あ》びする暇があったからである。モンキー・ハウスのなかを通り抜けながら、あたりを見廻して、知人を見かけては今日はと挨拶の言葉をかけた。それほど、全人類と和解したような気分に急になっていたのだが、そのうち、ギョッとして、その場に立ちすくんだ。わが眼が信じられないようなものを見てしまったのだ。ビアトリスが、一人で、食卓についている。一両日前にモリノオの店で買ったばかりのピジャマを着て、真珠の頸飾りをかけ、そして髪は、たったいまウェーヴをかけて来たばかりなことも、フランクのすばやい視線はみのがさなかった。頬紅、アイシャドウ、唇のルージュ――念入りな化粧である。肥満して――というよりも膨れかえって、というべき彼女ではあったが、何ぴとも彼女がすばらしい美人であることは否定できまい。だが、いま彼女は何をしているか? フランクは獲物を狙うネアンデルタール人のこそこそ歩きのような特徴のある前かがみの歩きぶりで、ビアトリスのそばへ行った。水浴着すがたのフランクは、日本人がトレス海峡(オーストラリアとニューギニア南部との間の海峡)で捕獲する、俗に「海の牝牛」と呼ばれている巨大な鯨を髣髴させた。
「ビアトリス、あんた、何をしています?」
山のほうから聞えて来る遠雷のとどろきのような声であった。ビアトリスは平然と彼女を見かえして、答えた。
「食べてるの」
「何いってるの、食べてるのはわかっています」
ビアトリスの前には、一皿のクロワサン、一皿のバタ、イチゴ・ジャムの壺にコーヒー・ポット、そしてクリームの壺があった。ビアトリスは美味《おいし》そうな焼き立てのパンにバタを厚く塗り、その上からジャムを塗り、またその上にどろどろの濃いクリームを注ぎかけていた。
「あんた、自殺するつもりね」フランクが言った。
「ええ構わないわ」パンを頬ばったまま、ビアトリスがもぐもぐつぶやいた。
「いったい何ポンド目方がふえると思ってるの?」
「大きにお世話よ!」
正面からフランクに笑いをあびせた。おお! 何とそのクロワサンのかおりのうまそうなこと!
「あんたには、がっかりしたわ、ビアトリス。まさか、もう少し性根があると思っていたのに」
「あんたの罪だわ。あの憎らしい女。殴りたおしてやりたいわ。二週間のあいだ、あの女が豚みたいに詰めこむところを見て暮らしたんだもの。生身の人間が、我慢できるもんですか。あたしは、たといお腹《なか》が破裂したって、一ぺんだけは食べたいだけ食べるわよ」
フランクの眼に涙がわいた。急に、ひどく力が抜けて、女々しい気持になってしまった。誰か強い男の膝に抱かれて、やさしい愛撫を受け、赤ちゃんとでも呼んでもらいたくなった。無言で、ビアトリスの隣りの席に腰をおろした。ウェイターが来た。彼女はテーブルのコーヒーやクロワサンのほうへ手を振ってみせた、涙ぐましい手つきであった。
「同じものを頂戴」太い息とともに彼女は言った。
矢も楯もたまらず、パンをとろうと手をのばしたが、ビアトリスはその皿をひったくった。
「だめよ。自分のが来るまで待ちなさいよ」
フランクは、親愛な淑女どうしのあいだではほとんど使われない呼び名で、ビアトリスを罵《ののし》った。たちまちそこへ、ウェイターが彼女のクロワサンとバタとジャムとコーヒーとを運んで来た。
「クリームはどうしたの、お前さん、ばかね!」フランクは追いつめられた雌のライオンのように咆哮した。
彼女は食べはじめた。雌の野獣のようにむさぼり食った。モンキー・ハウスは、太陽と海とによるその日の務めを果たしたあとの一二杯のカクテイルを楽しむために集まって来る海水浴客でこみはじめた。やがて、アロウが、ロッカマーレ公爵とつれだって入って来た。うつくしい絹の纏衣《ラップ》を、できるだけ姿をよく見せるために片手でしっかり身にまとい寄せ、二重あごを目立たせまいと頭をそらせて、歩いて来た。彼女ははなやかに笑っていた。小娘のようにはしゃいでいた。いましがた、男は、(イタリア語で)あなたの眼の色を見ると、地中海の紺青も、荳《まめ》スウプのようなものですと語ったのだ。彼はそのつやつやしい濡れ羽色の髪をくしけずるために男子化粧室へ行くからと、五分後にここで一緒に飲みものをとろうと彼女と約して別れた。アロウは頬紅を、少し、また口紅をそれより多少濃く塗り足そうと、婦人化粧室のほうへ歩きつづけた。その途中で、フランクとビアトリスをみつけた。彼女は立ちどまった。われとわが眼が信じられなかった。
「あら! まあ!」彼女は叫んだ。「ひどい女《ひと》たち。まるで豚だわ!」彼女は椅子をひきよせて、「ちょいと!」とウェイターを呼んだ。
約束のことは、きれいに頭のなかから消えていた。いたずらっぽい眼つきでウェイターがそばへ来た。
「この方《かた》たちと同じものを持って来て頂戴」と彼女は命じた。
フランクが、自分の皿の上に伏せていた大きな重い頭をもちあげて、男のような声で、
「パテ・ド・フォア・グラを持って来て」
「フランク!」ビアトリスが叫んだ。
「うるさいわよ」
「え、いいわ。あたしだって貰うから」
コーヒーが来て、あったかいパンとクリームとパテ・ド・フォア・グラが来て、めいめい食べはじめた。めいめいパテにクリームをつけて、それを食べた。スプーンで何杯も、ジャムをしゃくって、なめつくした。食欲のおもむくままに、こんがり焼けた美味しいパンを詰めこんだ。このときアロウにとって恋とは何であったか? 公爵なんぞ、勝手にローマの宮殿にでもアペニンのお城にでも、いばっているがいいのだ。三人は口をきかなかった。目下の彼女たちにとって、事はそんな余裕のないほど重大であった。彼女たちは真剣に、無我の境に入って、食べることに専心した。
「あたしはポテトを食べるのをやめてから二十五年になるわ」思い屈した、遠い夢を追う口調で、フランクが言った。
「ウェイター」とビアトリスが呼んだ、「ポテト・フライを三人前、頂戴」
「|畏まりました《トレ・ビアン》、マダーム」
ポテトが三人前来た。どんなアラビアの香料も、このふくよかな香りには如《し》くべくもなかった。三人は指でつかんでそれを食べた。
「ドライ・マティニを一杯」とアロウが言った。
「食事の途中でドライ・マティニを飲むって法がありますか、アロウ」フランクが言った。
「いけないの? だまって見ていらっしゃい」
「そう、そんならいいわ。あたしにはダブルのドライ・マティニを一杯、持って来て」
「ダブルのドライ・マティニを三つよ」とビアトリスが言った。
それが来ると、三人は一息で呑みほした。それから、顔を見あわせて、ほっと息をついた。過ぐる二週間の感情の行き違いはことごとく消えて、めいめいがほかの二人の友に対して抱きつづけて来た愛情は、泉のようにふたたび胸をみたした。あの盤石のような喜びを、たがいの胸にもたらした友情が、断ち切られる惧れがあろうなどと、一度でも思ったことは、思いもよらぬことであった。三人はポテトを食べ終った。
「ここには、チョコレートのエクレアがあったかしら」とビアトリスが言った。
「もちろん、あるわよ」
もちろん、それはあった。フランクはその一つをまるごと、彼女の巨きな口へ押しこんで、のみこむが早いか、次の一つを手にとった。が、それを食べる前に、二人の友を見やって、あの憎いレナの心臓へ、ずぶりと復讐の刃を突き刺した。
「誰が何と言ったって、あたしは本当のことを言うわよ、レナのブリッジは、何てきたなかったんでしょう」
「ええ、厭らしいわ、ほんとに」アロウは賛意を表した。
だがビアトリスはとたんに、メラング(砂糖と卵白でつくった菓子)が一つ食べたくなった。
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良心的な男
サン・ローラン・ド・マローニは愛すべき小さな町である。こじんまりとして、清潔な町である。ここには、フランスの多くの町が自慢にするだろうと思われる町役場と裁判所とがある。街路はみな広くて、両側の並木はしっとりとした蔭をつくっている。家々はどれもみなペンキを新しく塗りなおしたようにみえる。大概の家は愛らしい小庭園のなかに工合よくおさまっていて、その庭園には一本のシュロの木と、炎の燃えたつような林とがある。派手な色どりを誇らかにみせているカンナ、めずらしい品種の多いのを誇るクロートン。紫や赤のブーゲンヴィリャの花は惜しげもなく奔放に咲きみだれ、妖艶な木槿《むくげ》はその豪奢な花をわざとらしいまでのしどけなさで見せびらかしている。サン・ローラン・ド・マローニは仏領ギアナ(南米北東部、大西洋沿岸にある)の犯罪者植民地の中心であって、旅人が上陸する埠頭から百ヤードのところに刑務所の大きな門が立ちはだかっている。これらの熱帯の花園にかこまれた美しい小住宅は刑務所の役人たちの住居で、街路がこざっぱりと清潔だと言っても、それは掃除をさせる懲役人に事を欠かないからである。ある日、ふとした知り人と一緒に街を散歩していたわたしは、縁のまるい麦藁帽をかぶり、ピンクと白の縞の囚人服を着た、一人の若い男に逢った。その男はツルハシを持って道端にぼんやり立っていた。
「なぜ怠けているんだ?」わたしの連れが彼にたずねた。
男はひとを莫迦《ばか》にしたように肩をすくめてみせた。
「そこの草をみてやってくださいよ」彼は答えた、「わっしゃ二十年、あれをむしって暮らして来たんですぜ」
サン・ローラン・ド・マローニは、この町を中心として一群をなしている数個の刑務所のために存在している。商売はそれらの刑務所に依存しているものばかりだ。中国人のいとなんでいる商店は、看守とか医者とか、この犯罪人植民地に関係のあるその他大ぜいの役人たちの必要をみたすために存在している。街は森閑として、人通りがない。たまに書類挟みを抱えこんだ囚人とすれちがうことがある。それは役所で何かの勤めをしているのだ。籠《かご》を持った囚人に逢うこともある。これはどこかの家の召使である。ときには看守に率いられた囚人たちの一団とぶつかることもある。彼等が誰にも見とがめられずに刑務所を出たり入ったりしている姿も、よくみかける。刑務所の門は終日あけっぱなしで、囚人たちは自由にその内外をぶらついているのである。囚人服を着ていない男をみかけるとすれば、それはたぶん釈放されてから何年間もこの土地から離れられず、しかも仕事にはありつけずに、食うや食わずでやっと命をつなぎながら、タフィアという名の安い強いラム酒を飲んで、いずれはその酒に命をとられようとしている男だと思えばいい。
サン・ローラン・ド・マローニには一軒のホテルがあって、わたしはここで食事をしていた。ここの常連たちの顔を見おぼえるのには日数はかからなかった。彼等は入って来ると、めいめい自分の小テーブルについて、だまって食事をして、そして出て行く。このホテルの主人は黒人の女であった。彼女と同棲している男は免囚で、これが唯一の給仕人であった。しかしこの植民地の総督が――首都のカイエンヌに住んでいるので――自分のバンガロウをわたしに使わせてくれたから、わたしはそこに泊っていた。一人の年老いたアラビア人が、この家の世話をしていた。信仰の厚い回教徒で、一日のうち幾度か、お祈りをあげるのが聞えた。わたしのベッドをしつらえたり、部屋を掃除したり、使い走りの用を足したりさせるために、刑務所長がもう一人別の囚人をよこしてくれた。二人とも殺人罪で、終身刑に服していた。所長はこの二人には絶対の信用を置いてよろしいとわたしに言った。二人とも真昼のように正直だから、どんなことをまかせても少しも危険なことはないというのだ。だがそれでも、わたしは夜になって床につくとき、ドアに鍵をかけ、鎧戸《よろいど》にも掛け金をかけるだけの用心をしたことを、読者に隠そうとは思わない。たしかに莫迦げたことだったが、それでわたしはいくらか気持よく眠ったのである。
わたしは紹介状を持って来たので、サン・ローランの司政官と刑務所長とは、わたしの滞在を居心地よく、しかも有益にするために、あらゆる便宜をはかってくれた。もっともいまここでわたしは自分の見聞のすべてを物語るつもりはない。わたしはリポーターではない。フランスがその国の犯罪人たちに関して適当と信じて採用している制度を攻撃したり弁護したりすることは、わたしの任ではない。のみならず、この制度はすでに廃止されることになっている。囚人たちが仏領ギアナに送られ、この地方の風土と、マラリアの猖獗《しょうけつ》するジャングルでの労働――実に多くの囚人がこれを課される――とにありがちの病気に冒され、言語に絶した屈辱と堕落を耐え忍び、希望を失い、腐りはてて、やがて死ぬ、ということは間もなくやめになるであろう。わたしはただ肉体的な残虐の行われるのは見なかったことだけを言っておこう。同時に、犯罪者が刑を終った場合に彼等を社会に有用な市民にしようとする努力がなされている例も、わたしは見なかった。受刑者の心霊上の福祉のための何らの施設も見なかった。彼等の教養を高めるために教室が開かれているという話も聞かなかったし、彼等の気ばらしになるような遊戯施設の話も聞かなかった。一日の役務が終ったあとで読む書物を彼等に提供する図書室も見なかった。わたしの見たのは、超凡の強い性格の持主でなくては到底凌ぎ越えられそうもない、一つの生活条件であった。それはごく少数の者を除いて、すべての人間を無気力と絶望とに陥れるほかはない醜劣さであった。
だがこんなことはみなわたしにはどうでもよいことだ。自分の力では軽減することのできぬ悲惨について、ひとりで苦しんだところで何になるか。ここでのわたしの目的は話をすることだ。これはわたしがつねづね思っていることだが、人間性について、ひとは決してすべてを知りつくせるものではない。わたしが確実に言えることは一つしかない、それは、世の中には、いつになっても、これはと驚くようなことが決してなくならないだろうということだ。はじめて刑務所を訪れたとき、わたしの心には途惑い、驚き、不快といった印象がわき起ったが、やがてそうした印象から立ち直って、わたしは、たしかにここには調べてみたら面白そうなことがあるぞと思った。ここで読者にことわっておくが、サン・ローラン・ド・マローニの囚人たちの四分の三は、殺人罪でここへ来ているのである。これは正式に得た情報ではないので、わたしはあるいは誇張しているかも知れない。各囚人はみな小さな手帳を持っていて、それに彼の犯罪、刑期、いままでに受けた処罰その他、当局が記録に残す必要をみとめた事項が書きこんである。わたしが右のような推定をしたのは、この手帳を相当数しらべた結果なのである。それで、こういう男たちが、店ではたらいたり、獄舎のヴェランダでのんびり暇をつぶしたり、街をぶらついたりしているのだが、これがイギリスだったら、わたしの見たこれらの男たちのうちの非常に多くの者が極刑に処せられているはずだということに思いいたったとき、わたしはかなりのショックを感じた。話してみると、彼等は自分の処刑の原因になった犯罪について語ることを、さほど厭がってもいないことがわかったので、ある日わたしは自分の目的を達するため、一日の大部分を費して痴情による犯罪について調べてみた。男が自分の妻や情婦を殺すのは、どんな動機にもとづくものか、はっきり知りたいと思ったのである。わたしは嫉妬とか、面子を傷つけられたとかいうのだけが、おそらく全部ではないらしい、ということに気がついた。いくつかの風変りな答えがあったなかで、一つ、ばかにできないユーモアがあると思ったものがある。これは大工仕事をやっている囚人で、罪は女房殺しであった。わたしがなぜ女房を殺したかと説くと、彼は肩をすくめてみせて、答えた――Manque d'entente. そのいかにもあっさりした口調から、これは次のように訳したらピッタリするだろう――ウマが合わなかったんでね。もし世間一般の男が、これを自分の妻を殺すもっともな理由だと認めるとしたら、女性の生命というものは物騒千万ではないか、とわたしは思わざるをえなかった。しかし沢山の男たちに沢山の質問をあびせたあとでは、わたしは、これらの犯罪のほとんど全部は、その底に経済的な動機をもっている、という結論に達した。彼等はおのれの妾や情婦を、単なる嫉妬だけで、つまり女が不貞であっただけで殺したのではなく、それが幾ぶんとも男の懐に影響したから、殺したのである。女の不貞というものは、しばしば経済的破綻の直接の原因になる。男が最後にやけくそな行為に追いこまれるのは、これがためなのだ。また一方、男のほうでほかに満足させたい欲情の虜になって、そのために金が必要になり、その金を自分だけで使うのに邪魔になるために女を殺す場合もある。わたしは男が、かなわぬ恋のためや、顔に泥を塗られたためだけで、自分の女を殺すことはないと断言するのではなく、右のような特定の場合についての調査の結果を述べて、人間性についての興味ある側面観としたいだけである。そこから帰納して一般法則を立てるのは危険であろう。
別の一日を、わたしは良心の問題について調査することに費した。モラリストたちは、良心を、人間行動における最も強力な作因《さいん》の一つだということを、わたしたちに納得させようと骨を折って来た。現在では理性と憐憫とが、地獄の火というものが憎むべき神話にすぎないことを認めることに賛成しているので、多くの善良な人々は、良心こそは人類を正道にみちびく安全弁の主たるものと考えるようになっている。シェイクスピアは、良心はわれわれ人間全部を卑怯者にすると言った。小説家や劇作家は、悪人を襲う苦しみをわれわれに描いてみせた。良心の苛責に夜も眠れぬ有様を、実になまなましく描写し、そのためにあらゆる楽しみが毒されて、最後には罪が発覚して罰せられることが救いになるほど、人生がたえがたいものになることを示した。わたしは以前から、こうしたことがどの程度まで真実なのかと不審に思うことがよくあった。モラリストたちには思わくがある。なんとかして教訓《モラル》を引き出さなくてはならない。彼等は一つのことを幾度もくりかえして言っていれば、ひとびとはそれを信じるようになると思っている。彼等はあることが彼等にとってそうあることが望ましいと思われるが故にそうあるべきだと言うことがよくある。彼等は罪の報いは死であるとわれわれに教えるが、われわれは必ずしもそうではないことをよく知っているのだ。また作家たち――小説家や劇作家に関する限りでは、彼等はひとたび効果的なテーマをつかまえると、それが人生の事実に適合するかどうかはあまりお構いなしに、すぐにそれを使う気になるものである。人間性についてのある種の陳述は、いわば共有財産のようなもので、したがって自明のこととして受けいれられているのだ。それと同じように、昔から画家たちは影を黒く描いて来たが、印象派が偏見をもたない眼で影を見て、見たとおりにそれを描いたのではじめて、われわれは影にも色があることを発見した。以前からわたしはときどき考えることがあった――良心というのはよほど高度に発達した道徳意識の発現であって、おのれの行動のために真剣におのれを責めることのできる輝かしい徳の持主は、そうした行動を容易にするものではないので、良心の力というものもそういう人々にだけ強くはたらくのではあるまいかと。殺人がおそろしい犯罪だということは誰でも認めているので、あらゆる犯罪人のなかで最も後悔に苛《さいな》まれるのも殺人者だと考えられている。犠牲者は怖ろしい夢魔となって殺人者の夢にあらわれ、おのれの犯した罪の記憶はめざめているあいだも彼を苛んでやまない――と、わたしたちは信じさせられている。このことが真実であるか否かを、わたしは問いただすまたとない機会だと思った。口をつぐんで返事をしない者や、苦しみ悩んでいる者に会っても、むりに問い訊そうという気持は少しも持たなかったが、わたしが話した連中のなかには、そうした者は一人もいなかった。ある男たちは、同じ場合だったら、自分は前にやった通りのことをまたやるだろうと思うと言った。意識しない決定論者である彼等は、自分たちの行為を、どうすることもできない運命によって定められたものだと思っているらしかった。またある男たちは、まるで彼等の犯罪は、彼等と何の関係もない人間のやったこととでも考えているようにもみえた。
「若いうちは、みんな莫迦だからね」こう言って、無頓着に手を振る者もあれば、困ったものだと言いたげな笑顔をみせる者もあった。
またほかの男たちは、こんなにひどい刑罰を受けると知っていたら、むろん手だしはしなかったろうとわたしに言った。わたしの見たところでは、彼等が暴力で生命を奪った人間に対して、すまないと思っている者は一人もなかった。彼等はみな渡世のために首を斬った豚に対する以上の気持を自分の殺した者に対して抱いていないように、わたしにはみえた。自分の殺した人間に少しでも憐れみを感じるどころか、こんな遠国で苦役をつとめる因《もと》になったという理由で、被害者を憎らしく思うほうに傾いていた。ただ一人だけ、良心と呼んでも差し支えなさそうな気持をわたしが認め得た男がいて、その男の話は実にめずらしいものなので、わたしはここで物語る値打ちがあると思う。というのは、この男の場合、犯罪の動機となったものは、わたしの理解しえた限りでは、悔恨であったからだ。わたしはこの男のピンクと白との囚人服の胸につけてあった番号を記憶したが、いまは忘れてしまった。忘れてもべつにどうということはない。彼の名も、とうとう知らず仕舞になった。彼は自分から名を言おうとしなかったし、わたしも訊きたくなかったのである。ここではジャン・シャルヴァンという名にしておこう。
わたしは刑務所長と一緒にはじめて獄舎を訪れたときに、この男に逢った。わたしたちは監房にぐるりをとりかこまれている中庭を歩いていた。それは普通の監房ではなく、成績のいい囚人のうち、希望する者に与えられる独房であった。雑居房の混乱を好ましくないと思う者たちが、これらの独房に入りたがるのである。独房の囚人たちはさまざまの仕事に雇われて働きに出ているので、大部分は留守であった。ジャン・シャルヴァンは房のなかで働いていた。ドアが開いていて、小さなテーブルで書きものをしているのが見えた。所長が呼ぶと、彼は出て来た。わたしは独房のなかをのぞきこんだ。汚ない蚊帳をかぶせた、固定したハンモックがあった。その隣りには彼のこまごました所持品、髭剃り用の刷毛《モップ》と剃刀、ヘアブラシに二三冊の本などをのせた小テーブルがあった。壁には立派な風采をした人たちの写真や、絵入り新聞からとった写真が貼ってあった。彼はベッドに腰をかけて書きものをしていたのだが、その書きものをしていたテーブルの上には書類がいっぱいひろげてあった。それは計算書らしかった。彼は長身の、姿勢のよい、瘠せた、美貌の男で、黒っぽい眼の光がするどく、男らしくキッパリした目鼻だちをしていた。彼を見てまず気がついたことは、長い、自然なウェーヴのある濃い鳶色《とびいろ》の髪の、形のいい頭部の持主であることだった。それだけで彼はほかの囚人たちとはすっかり違った印象を与えた――ほかの連中は髪を短く、それもトラ刈りに刈りこまれていて、そのために薄気味わるい感じを与えるからである。所長は彼とちょっとした役目上の話をしてから、わたしと一緒に立ち去ろうとして、親しみのある口調で言った。
「お前の髪はよく伸びるとみえるな」
ジャン・シャルヴァンは赤くなって、微笑した。彼の微笑は少年のようで、魅力的だった。
「もと通りになるまでには、まだちょっと暇がかかります」
所長は彼にもういいと言って、わたしたちは歩きだした。
「あれはごく品のいい男でしてね」所長は言った。「いま会計部の仕事をさせているので、髪をのばすのを許してやりました。喜んでいますよ」
「何の罪でここに来たのです?」とわたしが訊いた。
「細君を殺したのです。しかし判決はたった六年でした。悧口なやつで、よく働きます。これからもよくやるでしょう。かなりちゃんとした家の生まれでしてね、立派な教育も受けています」
それきりわたしはジャン・シャルヴァンのことは考えなかったが、翌日、偶然、また往来で彼に会った。彼は向うから歩いて来た。黒い書類鞄を抱えていて、ピンクに白の囚人服と、彼の形の美しい頭の髪を隠している醜い麦藁帽とを除けば、これから法廷へ行こうとしている若い弁護士と間違えそうな姿であった。大股にのしのしとゆっくり歩いて来る彼のすがたは「イナセ」とでも評したくなるほど、寛濶《かんかつ》だった。わたしに気づくと、彼は帽子をとって、今日はと挨拶した。わたしは立ち止まり、ほかに言うこともないからどこへ行くのかとたずねた。彼は司政官の役所から銀行へ、書類を届けにいくのだと答えた。彼の顔には好ましい隔てのなさがあり、その眼――それはほんとうに美しい眼であったが、その眼には善意が輝いていた。わたしは彼の若さの活力が、囚人としての身分やその環境にもかかわらず、人生を我慢のできるもの以上の、むしろ愉しいものにさえしているのだろう、と思った。世の中に何ひとつ苦労のない若者がここにいる、とさえ言いたいほどである。
「明日、サン・ジャンヘおいでになるそうですね」と彼が言った。
「うん。なんでも、夜明けに出発しなきゃならないらしいね」
サン・ジャンは、サン・ローランから十七キロ離れた刑務所で、懲役の刑期を何度も勤めた揚句に移送の宣告を受けた常習犯罪者を拘禁するのが、ここの監獄である。これは窃盗犯とか、取り込み詐欺、文書偽造、ペテン師といった手合で、重罪犯ばかりのサン・ローランの囚人たちは彼等を軽蔑していた。
「きっと面白い経験をなさるでしょう」シャルヴァンは、例の隔てのない、魅力的な笑顔で言った。「しかし紙入のポケットはよくボタンをかけてお置きにならないと、やつらはちょっとでも隙があれば、生き馬の眼を抜くようなやつばかりですから。まったく下等な悪党どもですよ!」
その午後、日中の暑気のおとろえるのを待つあいだ、わたしは寝室の外のヴェランダで読書していた。板すだれを引いておいたので、どうにか凌げる程度に涼しかった。アラビア人の老人が裸足で階段をのぼって来て、たどたどしいフランス語で、刑務所長から使いの男が来て、わたしに会いたいと言っていると告げた。
「通してくれ」とわたしは言った。
まもなく上って来たのを見ると、ジャン・シャルヴァンであった。所長から、明日のサン・ジャン行きのことについて伝言を持って来たのだという。伝言を聞き終ると、わたしは若者に、腰をおろして煙草を一服していけと言った。彼は安ものの腕時計をつけていて、それを見て言った。
「少し暇があります。よろこんで頂戴します」彼は腰をおろして、わたしのすすめる巻き煙草に火をつけた。そして、おだやかな眼に微笑をうかべて、「実はわたくし、刑を言い渡されてから、腰をかけろと人さまから言っていただいたのは、これがはじめてです」ゆっくりと煙を吸いこんで、彼はまた言った。「エジプトでございますね。エジプト煙草を喫うのは、三年ぶりです」
囚人たちは、四角い青い包みに入れた粗悪な強い煙草を自分で巻いて喫っている。彼等に何かして貰った礼に金をやることは許されていないので、わたしはこの煙草包みをずいぶん沢山買ったものである。
「あれはどんな味がするね?」
「人間は何にでも馴れるものでしてね、それに、本当のことを言いますと、舌がひどく荒れていますから、土地の煙草のほうがいいんです」
「じゃ、二包みばかり上げよう」
わたしは部屋へ入って、煙草包みを持って来た。ヴェランダへ帰ると、彼はテーブルの上に置かれた数冊の書物を見ていた。
「本は好きかね?」わたしが訊いた。
「大好きです。本がないということは、これからさきのわたしには一番つらいことです。手に入る二三冊の本を、幾度も幾度も読むより仕方がありません」
わたしのような書物好きにとって、書物がないことほどつらいことはないような気がする。
「わたしの荷物のなかにはフランス語の本がいくらかある。出しておくから、もしもう一度ここへ来られるなら、きみに上げてもいい」
このわたしの申し出は、実は親切のためばかりではなかった。わたしは彼と話をする機会をもう一度持ちたかったのだ。
「本は、所長にみせなくてはなりません。それがわたしに有害な影響がないと認められた場合でないと、持たせて貰えないでしょう。けれども所長はいい人ですから、そうむずかしいことは言わないだろうと思います」
こう言ったときの彼の微笑には、ほんの少し狡《ずる》さが感じられ、わたしは彼が親切で良心的な所長の手のうちをみすかして、うまくそれにとりいる術を心得ているらしいと見てとった。といって、彼が自分の境涯をなるべく辛くないものにするために、いくらかの術策を弄したり、少しは狡猾なことをやったからといって、彼を責めるのは不当なことにちがいないのだ。
「所長は非常にきみを褒めているよ」
「所長はいい人です。わたしはとても感謝しています。わたしには、いろいろ親切にしてくださいました。わたしは会計士なので、所長は会計部に入れてくださったのです。わたくしは数字が大好きで、数字をあつかってさえいれば心から満足を感じます。数字はわたくしにとっては生きもの同然で、一日じゅう数字をあつかっていられるようになりましてから、やっと自分がとりもどせたような気がするんです」
「それと、自分だけの部屋が貰えたのも嬉しいだろうね」
「ええ、もう、大へんな違いです。実際、塵あくたのような男ばかり五十人もと一緒にされて、一分間も一人にはなれないんですから――ひどいものでした。あんな辛いことはありません。娑婆《しゃば》では――わたしの故郷はル・アーヴルですが――アパートを借りて暮らしていました、もちろん粗末な部屋でしたが、自分の部屋で、夫婦で、昼間は通いの女中が来ておりました。まあ、ちゃんとした暮らしをしておりましたから、ほかのやつらのように、むさくるしい、不潔な、騒々しい場所しか知らなかった連中よりは、十倍もつらい思いをしました」
わたしが監房のことを訊いたのは、あの大きな獄舎での生活、男たちを夕方の五時から翌朝の五時まで閉じこめておく生活について、彼に話させたいと思ったからだ。この十二時間、彼等は誰の指揮も監督も受けない。看守が入ろうと思えば入れるが、生命を的にしなければ入れないのだ――そう彼等は語った。八時以後は灯もつかなくなるが、囚人たちは鮭の罐詰からのわずかの油とボロ布とでランプをともし、その光でカルタ遊びをする。彼等は夢中で博奕《ばくち》に耽る。博奕が好きだからではなく、こっそり身につける金が欲しさにである。向う見ずなあらくれ男ばかりだから、ひどい喧嘩口論は絶え間がない。みな短刀で身をかためている。朝になって、獄舎が開かれたとき、囚人たちの一人が死んでいるのを発見することはめずらしくないが、どんなに嚇《おど》しても慊《すか》しても、ひとりとして犯人を教える者はない。ほかにもジャン・シャルヴァンが話して聞かせたことはあるが、わたしはここに語ることを憚る。彼と一緒の船でフランスから来た一人の若者があって、彼と仲好しになった。この若者は美少年であった。ある日、彼は所長のもとへ行って、独房に入れてもらいたいと願った。所長はなぜかと訊いた。彼はその理由を話した。所長はリストを調べて、いまのところ全部ふさがっているが、空き間が出来次第に入れてやると約束した。翌朝、獄舎を開いてみると、彼はハンモックに寝たまま、腹を肋骨まで切り裂かれて死んでいた。
「やつらは野獣です。ここへ来る前にけだものでなかったやつがいるとしても、ほかのやつと同じけだものにならないですむとすれば、それは奇蹟です」
ジャン・シャルヴァンは腕時計をみて、立ち上った。彼はわたしから離れたところまで歩いてから、例の持ち前のチャーミングな笑顔で、向き直った。
「もう帰らなきゃなりません。もし所長の許可がもらえましたら、さっき御親切に仰しゃって下すった本をいただきにまた参ります」
ギアナでは、囚人と握手をしないことになっている。そして要領のいい囚人ならば、帰り際に、手をのばしてもむりな位置まで自分から引きさがるのだ――またそれによって、何かの拍子で囚人のほうでうっかりして、つい本能的に手をだしても、何気なくそれを拒絶できるわけである。気の毒に、わたしにとって、ジャン・シャルヴァンと握手をしたところで何のこともなかったのだが、わたしの困惑を救おうとする彼の心づかいを見て、わたしは胸のうずきを感じた。
わたしはサン・ローランに滞在中、その後二度、彼に会った。彼は自分の身の上話をしたが、いまわたしはそれを彼の言葉によらず、わたしの言葉で物語ろうと思う。というのは、わたしは彼が前に話したことと次のときに話したこととを一つにまとめなくてはならなかった上に、彼が語り残した部分はわたし自身の想像で補わなくてはならなかったからである。この想像が真相から遠ざかったとはわたしは思わない。それはちょうど幾つかの五文字の単語のうちの三字だけを彼から与えられたようなもので、それらの単語の大部分をわたしが正しく解読したと見ても、だいたい間違っていないつもりである。
ジャン・シャルヴァンはル・アーヴルの大きな港町に生まれ、育った。父親は税関のいい地位に就いていた。学校を卒業し、兵役をつとめ終ってから、彼は職をさがした。多くのフランスの青年と同様、彼も体裁のよい安定した生活を求めて、富を得るための危険な運だめしを避ける心がまえを持っていた。生まれつき数字に明るかったので、大きな輸出商会の会計部にやすやすと勤めることができた。彼の将来は保証された。自分の属する階級にふさわしい倹素ながら安楽な生活を送るのに充分な収入を得られる見込みがついた。彼は勤勉で、おとなしかった。同時代の多数のフランス青年と同様に、スポーツを好んだ。夏は水泳とテニス、冬は自転車乗りをした。一週に二日は、夕方の二時間をかならず体育館で過した。幼年から少年、そして青年時代へかけて、彼にはずっと仲よくしていた友達があった。その青年の名を、話の便宜上、アンリ・ルナールとしておこう。彼の父親も税関の役人だった。ジャンとリリとは一緒に学校へゆき、一緒に遊び、一緒に試験勉強をし、家族どうし親しかったので休日も一緒に過し、はじめて女の子と遊ぶことも一緒におぼえ、地方のテニス会にもパートナー同士になり、そして兵役も一緒につとめた。二人は絶対に喧嘩しなかった。二人でつきあうことがお互いに何より楽しみであった。二人は離れられない仲であった。さて二人とも職につくときが来て、二人は同じ会社に勤めようと決心した。が、これはちょっとむずかしかった。ジャンは自分を雇ってくれることを約束した輸出商会に、リリも就職させようとしたが、うまくゆかず、リリがやっと仕事をみつけたのは一年後のことであった。しかしそのときは、ル・アーヴルも、こ多分にもれず不景気になっていたので、僅か数ヵ月で彼はまた失業した。
リリは呑気者で、閑《ひま》にあかして遊ぶのを楽しみにした。ダンスや海水浴やテニスで日を暮らした。そうしているうちに、近ごろル・アーヴルへ引越して来た一人の娘と知り合いになった。娘の父親は植民地軍の大尉で、その死によって彼女の母親は生まれ故郷のル・アーヴルへ帰って来たのだ。マリ・ルイーズは当時十八歳であった。彼女は生まれてから大部分をトンキンで過して来た。そのことがフランスから一足も出たことのない若い男たちにエキゾーチックな魅力を感じさせたので、最初にまずリリが、次にジャンが、彼女に恋するようになった。おそらく、そうなることは避けられぬ運命であったろうが、もちろん不幸なことだった。彼女はしつけのいい娘で、一人娘で、彼女の母親は、恩給のほかに、そこばくの自分の財産を持っていた。この娘に目をつけるとすれば、結婚を目標にするほかはないことは明らかだった。もちろん当分のあいだ父親の脛をかじるだけのリリには、ムーリス夫人――すなわちマリ・ルイーズの母親が承知してくれそうな見込みのある条件で申しこむことは不可能である。しかし一日じゅう暇のある彼は、ジャンよりはずっと多くの時間、マリ・ルイーズと会うことができた。ムーリス夫人は病身だったので、マリ・ルイーズはたいがいの同じ年頃、同じ身分のフランス娘よりは自由がきいた。彼女はリリとジャンとが二人とも自分を愛していることを知っていたし、自分もまた二人とも好きで、二人からちやほやされるのを喜んでいたのだが、しかし彼女はどちらの若者を愛しているかは決してそぶりに見せなかった。彼女がどちらを余計に好ましく思っているか、わからなかった。しかし彼女はリリが自分と結婚できる身分ではないことをよく心得ていた。「どんな娘さんだったの?」わたしはジャン・シャルヴァンに訊いた。
「小柄な、かわいらしい身体つきで、大きな灰色の眼に、やわらかい、ねずみ色の髪で、青白い肌をしていました。ちょっと小さい廿日鼠のようでした。美人ではないけれども、内気そうな、どこかひどく頼りなげにみえるところが、可愛らしい、可憐な感じのする娘でした。ごくつきあいやすくて、単純で、ちっとも|すれ《ヽヽ》ていませんでした。どうしても、この娘なら安心だ、いい人妻になるだろうという気持にさせられるところがありました」
ジャンとリリとは、お互いのあいだで少しも秘密をつくらなかったから、ジャンは自分がマリ・ルイーズを恋していることを隠さなかったが、最初に彼女に逢ったのはリリだから、ジャンが決してその邪魔をしないということについては二人のあいだの黙契が出来ていた。とうとう、娘は心をきめた。ある日、リリは会社から帰るジャンを待って、マリ・ルイーズが自分との結婚を承知したと告げた。リリの就職がきまり次第、リリの父親がマリ・ルイーズの母親のところへ出かけて、正式の申込みをすることに話がきまった、というのだ。ジャンははげしい打撃を受けた。興奮して、気もそぞろなリリが、将来について立てたいろいろのプランを、熱心な同情をもって聴いてやるのは、容易ではなかった。しかしリリに対して恨みを含むには、ジャンは彼に好意をもちすぎていた。リリがいかに愛すべき青年であるかを知っている彼は、マリ・ルイーズを責める気持にもなれなかった。彼は全力をつくして、真心から友情の祭壇に犠牲を捧げようと思った。
「どういうわけで、娘さんはきみよりもリリのほうをえらんだのかね?」
「リリはすばらしく活溌な男でした。あんなに朗らかな、愉快な若者は、ほかにはいないでしょう。あの男の元気さは、はたの者にまで感染《うつ》るほどでした。あいつと一緒にいると、朗らかにならずにいられないのです」
「胡淑をふりまくんだね」わたしは微笑した。
「おまけに、なんともいえないほど、感じのいいやつでした」
「好男子だったの?」
「いえ、そう好い男じゃありませんでした。わたしよりも背が低くて、細くて、筋張っていました。しかし感じのいい、人なつこい顔だちでした」ジャン・シャルヴァンは、いっそ愉しそうに微笑んだ。「虚栄心からでなく、わたしのほうがリリより好い男だったと言えると思います」
しかしリリの職はきまらなかった。彼の父親も、彼を遊ばせておくのにうんざりして、フランスじゅうに散らばっている親戚や友人に手あたり次第に手紙をだして、どんなつまらない仕事でもいいから、リリの勤め口があったら知らせてくれと頼みこんだ。しまいに、リヨンで絹織物業をやっている従兄弟から手紙が来て、自分の会社の支店のあるカンボジャのプノムペンヘ、土地の生糸のバイヤーとして行ってくれる若い男を探しているから、リリにやる気があるなら、世話をしようと言って来た。
フランスの親たちはみな息子を出かせぎにやるのを嫌うから、リリの両親も同じであったが、そう言っていられる場合ではないので、給料も安かったが、やっぱり行くより仕方がないだろうということになった。本人はそう厭がりもしなかった。カンボジャはトンキンとそう離れてもいないから、マリ・ルイーズは土地の生活に親しみをもつに違いない。あれほどいつも東洋の話をしていたのだから、彼地へ戻ることを喜んでくれるだろう、と彼は判断したのだ。ところが生憎、彼女はどんなことがあっても二度と東洋へは行かないと答えたので、彼は落胆した。第一に、現在ひどく健康のおとろえている母親をみすてることは彼女にはできない。第二に、やっとフランスに落ち着くことができた以上、二度とこの国を離れまいと、彼女はかたく決心していた。リリには同情していたが、この決心はかたかった。さしあたり、ほかに目当がないので、リリの父親は彼がこの話をことわるのに耳をかしてくれるとは思えなかった。どうすることもできないので、行くよりほかに仕方がなかった。ジャンは友人を失うのは厭だった、けれども、この不運な事情をリリから聞かされたその瞬間から、運命が自分の手のなかで微笑んでいることに気がつき、心のときめきを抑えることができなかった。リリが少くとも五年間はこの土地からいなくなり、しかも彼が無能でない限りは東洋に永住することになる可能性が強いとすれば、しばらくの後にはマリ・ルイーズが自分と結婚する気になることは疑いない、とジャンには思えたのだ。いまの自分の身の上、ル・アーヴルでの安定した、立派な地位、そのル・アーヴルに住めば母親の近くにいられること、それらを併せて考えれば、彼女はきっとこの結婚を筋の通った話だと思うだろう。またいずれは彼女もリリの魅力の虜にばかりはなっていないだろうから、そのときはあれほど自分を好もしく思っている彼女の気持が愛情に変らないという理屈はない。人生は彼のために姿を変えた。みじめだった数ヵ月の後、彼はふたたび幸福になり、表には一言も出さなかったけれど、彼もまた将来の設計を着々と立てるようになった。こうなれば、もうマリ・ルイーズを恋すまいと苦しむ必要はないのだ。
突然、彼の希望が砕かれた。ル・アーヴルの船会社の一つに空席が出来、リリがすばやくそれを志願したのが、有望らしいというのだ。その会社にいる一友人は、もうきまったようなものだと言った。そうなれば、万事、問題はなくなる。それは古い保守的な会社で、誰でも一度そこへ入れば一生やめないことが、誰にも知られていた。ジャン・シャルヴァンは絶望に陥った。何よりも辛いのは、心の苦しみを自分ひとりの胸におさめていなくてはならぬことだった。ある日、彼の会社の重役が、彼を呼んだ。
ここまで来ると、ジャンは話をやめた。悩ましそうな表情が、その眼に浮かんだ。
「これからお話しすることは、いままで誰にも話さなかったことなんです。わたしは正直な人間です、道義をたっとぶ男です。これからお話しするのは、わたしが一生に一度だけ、不面目なことをした、そのことについてなのです」
ここでわたしは読者に、ジャン・シャルヴァンが胸に番号数字を染めつけた、ピンクと白のだんだら縞の囚人服を着ていたこと、妻を殺した罪で服役中の男であることを、思いだしていただきたいと思う。
「重役がわたしに何の用があるのか、見当がつきませんでした。入っていくと、重役は机に向っていて、探るような眼つきでわたしを見ました。
『非常に大切なことで、きみに訊きたいことがある』と重役は言いました。『このことは、内密にしておいて貰いたい。むろん、きみの答えも、同じように極秘にあつかうつもりだがね』
わたしはだまって、次の言葉を待ちました。重役はつづけて言いました。
『きみが会社へ入ってから、かなりになる。きみの仕事ぶりには、わたしは大いに満足しているんでね、いずれずっと高い地位にのぼっても不思議はないと思っているよ。わたしはきみに絶対の信頼を置くよ』
『ありがとうございます』わたしは答えました。『ご期待にそうように、これからも努力します』
『いま起っている問題というのは、こういうのだ。アンテルさんが、アンリ・ルナールを採用しようとしている。あの人は自分の会社の社員の人柄について、特別にやかましい人だが、今度の場合はまたどうしても間違っては困るらしい。アンリ・ルナールの仕事の一部は、会社の船の乗組員たちに給料を支払うので、何十万フランという金が、その手を通ることになるのだ。きみがアンリ・ルナールとは親友の間柄で、家族的にもごく親しいことをわたしは知っている。それで責任をもって、あの青年を雇い入れるというアンテルさんの考えが正しいかどうか、答えてもらいたいのだよ』
この質問の意味は、わたしにはすぐわかりました。もしリリがこの仕事を手に入れれば、あの男はこの土地にいてマリ・ルイーズと結婚するし、失敗すればカンボジャへ出かけて、わたしが彼女と結婚することになります。誓って申しますが、そのとき答えたのはわたしではありませんでした。わたしの靴のなかに誰かが隠れていて、わたしの声色を使って喋ったのです、わたしの口から出た言葉はわたしとは縁もゆかりもないものでした。
『専務さん』わたしは言いました、『アンリとわたくしとは生まれたときからの友達同士でした。わたくしたち二人は一週間と別々にいたことはありません。学校も一緒でしたし、小遣も一緒にわけあいましたし、年頃になってからは女友達まで共有しました。軍隊も一緒につとめました』
『知っているよ。世界じゅうで、きみほどあの青年をよく知っている人間はいない。だからこそわたしはこんなことを訊くのだ』
『専務さん、これはフェアじゃありません。あなたはぼくに親友を裏切れと仰しゃってるのです。裏切ることはできませんから、ぼくは御質問にお答えしません』
重役はすばしこい笑顔をわたしに見せました。重役は実際より自分が賢いつもりでいたんです。
『きみの答えは立派なものだが、わたしの知りたかったことは、もうきみから聞かせて貰ったよ』それから重役は優しい笑顔になりました。きっとわたしは真蒼だったでしょう、いや、少しは慄えていただろうと思います。『しっかりしたまえ、シャルヴァン。きみがとりみだすのはもっともだ、わたしにはよくわかるよ。人生には、ときとして、自分に対する正直と、友人に対する忠実とが両立しない場合にぶつかることがあるものだ。むろんその場合にためらってはならないが、どちらをえらぶにしても辛いことだ。今度の場合についてのきみの態度の立派さを、わたしはよく憶えておくよ、それからアンテルさんに代って、わたしからお礼を言うよ』
わたしは退出しました。翌朝、リリは船会社から不採用の通知を受けて、一カ月後には極東へ旅だちました」
それから六カ月後に、ジャン・シャルヴァンとマリ・ルイーズとは結婚した。結婚が急がれたのは、ムーリス夫人の病気が重ったためであった。あまりさきが長くないことを知っていたので、母親は自分の死ぬ前に娘の身のかたまるのを見たがったのである。ジャンはリリに事情を知らせる手紙を書き、リリからはねんごろな祝いの返事がとどいた。自分に対して何の気兼もしないでくれと書いてあった。フランスを去って、自分はもう決してマリ・ルイーズとは結婚できないことがわかったから、ジャンが結婚してくれることをむしろ喜んでいる。自分はプノムペンで慰めを見出しているから心配しないでくれ。文面はごく朗らかであった。最初から、ジャンは、あの物事にこだわらない陽気な気質のリリのことだから、じきにマリ・ルイーズのことも忘れるだろうと自分に言いきかせていたのだが、この手紙をみるとリリはもうすでに忘れてくれたようであった。おれは何もとりかえしのつかない痛手をリリに負わせたわけではないのだ。というのは実は言い訳にすぎなかった。なぜなら、もしジャン自身がマリ・ルイーズを失っていたら、彼は生きてはいられなかったはずだから。彼にとって、これは生死にかかわる問題だったのだから。
一年のあいだ、ジャンとマリ・ルイーズとはこの上もなく幸福であった。ムーリス夫人はなくなって、マリ・ルイーズはおよそ二十万フランほどの遺産をついだ。しかし不景気と、貨幣価値の不安定とを考えて、夫婦は経済界がもう少し安定するまで子供をつくらないことにきめた。マリ・ルイーズは主婦として、倹約で、きりまわしがうまかった。妻としては愛情がこまやかで、やさしく温順で、まず不足はなかった。彼女は平静な婦人だった。これは、結婚前には、ジャンには好もしい気質のように思われたのだが、時がたつにつれて、彼女の平静さは、どこか熱情が不足していることから来ているような気がして来た。そこには少しも深みが感じられない。もとから彼は彼女が小さい廿日鼠に似ていると思っていた。彼女のこそっと黙りこんでいるところが、どこか鼠に似た感じを与える。つまらないことに妙に本気になって、何の意味もないことをいつまでもやっている。彼女には小さな一揃いの興味をもっている事柄があって、その愛らしい、つややかな髪に包まれた頭のなかには、それ以外のことに使う余地が残っていない。ときどき小説を読みかけるが、終りまで読む気になることはほとんどない。ジャンは妻があまり才気のあるほうではないことを、心のうちで認めざるを得なかった。この女のために汚ない裏切をやるだけの値打はなかったのじゃないか、という不安な思いが彼を襲った。それが彼の悩みの種になった。リリを失ったことが悔まれた。すんだことはすんだことで、あのときのおれは自由意志を失っていたのだ、という風に自分を説きふせてはみたが、良心の痛みは、すこしも静まらなかった。いまでは会社の重役から相談を受けたときに、別の答えをすればよかったと思うようになった。
そこへ、怖ろしい事件が起った。リリが腸チブスにかかって、死んだのである。ジャンにとって、これはすさまじいショックであった。むろんマリ・ルイーズにとってもショックだった。彼女は早速リリの両親を訪ねて、その場合にふさわしい悔みを述べたが、それでも食事はふだんの通りに進んだし、夜もふだんの通りによく眠った。ジャンは彼女が少しもとりみださないことに腹をたてた。
「かわいそうなリリ、いつもあんなに朗らかだったのに」と彼女は言った。「さぞ死にたくなかったでしょうねえ。でもどうして、あんな土地へ出かけたんでしょう。風土のわるいことはあたしがよく言ってあげたのに。お父さんもあすこで死んだから、あたしにはよくわかっていたのよ」
ジャンは、リリを殺したのは自分だ、という気がした。もし自分がリリについて知っている――世界じゅうで誰よりもよく知っている美点をすっかり話したら、リリは就職ができたし、いまも元気に生きているはずなのだ。
「おれはどうしても自分を赦すことができないだろう」彼は思った。「二度と幸福にはなれないだろう。ああ、おれは何という莫迦だったろう、そして何という卑怯者!」
彼はリリのために泣いた。マリ・ルイーズは彼をなぐさめようとした。彼女は心の優しい、かわいい小鳥で、そして彼を愛していた。
「ねえ、そんなに辛く思ってはいけないわ。とにかく、もうあなたはリリと五年も会っていないんですもの、もし会ったら、リリはすっかり変った人になっていて、昔のような気持はきっと持てないわよ。見ず知らずの他人のような気がするかも知れなくってよ。そういうことがよくあるのを、あたしは知ってるわ。久しぶりに会えて嬉しいと思うけれど、半時間もたたないうちに、お互いに何にも話がないことに気がつくのよ」
「うん、そうかも知れないな」彼は嘆息した。
「あの人は頭が散漫で、そう大した人じゃなかったわ。あなたのような性格の強さも、澄んだ、堅実な頭脳《あたま》も、あの人にはなかったわ」
彼女の考えていることは、彼にはよくわかった。もしリリについてインドシナへ行っていたら、あたしはどんなことになっていたか? そして二十一で寡婦になって、自分の二十万フランの財産だけにたよって生きてゆかなくてはならないとしたら? ほんとに危ないところだった――そう思って、彼女は自分の頭のよさを祝福した。ジャンは良人《おっと》として、あたしが自慢してもいい人だ。収入も沢山あるし。ジャンは悔恨に苛まれていた。かつての苦しみなどは、いまの苦悩にくらべれば物の数でもなかった。友を裏切った思い出のための心の苦しみは、内臓を噛まれる肉体的苦痛よりも激しかった。苦痛は会社で仕事をしている最中にもいきなり襲って、激烈な痛みに彼の胸をかきむしった。あまりの苦しさに胸のうちをぶちまけたくなり、何もかもマリ.ルイーズに告白してしまいたい衝動を抑えるためには絶大な意志の力を必要とした。しかしその告白を彼女がどう受け取るか、彼は知っていた。彼女は何のショックも受けず、かえって気のきいた手品ぐらいに思い、自分を手に入れるために夫が下劣な行いまでしたということに、ひそかな得意をさえ感じるだろう。彼女には彼を救う力はないのだ。彼は次第に妻を嫌うようになった。あの恥ずべき行いをしたのも、もとはといえば彼女のためであったのに、その彼女はいったいどういう女だというのか? 平凡な、ありきたりの、打算的な、つまらぬ女にすぎないではないか。
「おれは何という莫迦だったろう?」またもや彼は同じ嘆きをくりかえした。
いまでは妻を愛らしいとも思えなくなった。おそろしく愚かな女であることをはっきり知った。だがもちろん、そのために彼女を責めるのは当らない。彼が友をいつわったことの故に、妻を責めるのは当らない。だから彼はいままでの通り、強いて彼女には優しくふるまった。彼女の望みは何でも叶えてやった。彼にできることならば、彼女がこうしたいと言いさえすればその通りになった。彼は妻をあわれもうとした、寛大になろうとした、妻自身のけち臭い立場からすれば、彼女は几帳面で、つましくて、良い女房だし、行儀作法や服装や顔かたちから言っても紳士の妻として恥しくない女だ――そう彼は自分に言いきかせた。それはみんなその通りだったが――やっぱりリリが死んだのは彼女のためだったと思うと、彼は彼女が恨めしかった。彼女のそばにいることが、気の狂うほど厭になった。一言も口には出さなかったが、また相変らず優しく、おだやかに、小言《こごと》ひとつ言わなかったが、心のなかでは彼女を幾度殺したくなったかわからない。もっとも実際に殺したときは、ほとんど殺すつもりでもなく、そうしたのだ。それはリリが死んでから十カ月後のことで、リリの両親のルナール氏夫妻が、娘の婚約を披露するパーティを催したときであった。ジャンはリリが死んでから、ほとんどルナール家の人々に逢っていなかったし、宴会にも行きたくなかった。けれどもマリ・ルイーズは行かなくてはいけないと言った。あなたはリリの一番の親友だったから、あの家の大切なお祝いごとに出席しないのは大へんな失礼にあたるというのである。彼女は社交上の義理について、なかなか敏感であった。
「それに、あなたには気晴らしにもなるわ。この頃ずっと元気がなさすぎたんですもの、少しは楽しむのもいいと思うわ。きっとシャンペーンが出るでしょう。ルナール夫人はお金を使うのが嫌いだけれど、こんなときには辛くっても、使わなきゃならないわ」
マダム・ルナールが財布の紐をゆるめるときに、どんなに痛い思いをすることか、それを想像して、マリ・ルイーズは小賢《こざか》しげにクスクス笑った。
パーティは大へん賑やかであった。むかしリリが使っていた部屋を女客の襟巻や男客の外套の置き場に便っているのを見て、ジャンはむかむかさせられた。シャンペーンはふんだんに出た。ジャンは胸を噛む苦《にが》い悔恨を忘れようと、さかんに呑んだ。耳に鳴りひびくリリの笑い声、きらきら光る上機嫌なリリの視線を、酒の力でなくしてしまいたかった。彼等夫婦が家へ帰ったのは三時だった。翌日は日曜で、ジャンは何も用事がなかった。夫婦はおそくまで寝ていて、――このあとはジャン・シャルヴァン自身に語らせよう。
「眼をさましたら、ひどく頭痛がしました。マリ・ルイーズはベッドにいなくて、鏡台の前で髪を梳《す》いていました。わたしは健康には非常に気をつけているので、毎朝体操をする習慣でした。その朝はあまりやりたくなかったのですが、シャンペーンを飲みすぎたあとだから、やったほうがいいと思いました。ベッドから起きて、体操用棍棒《インディアン・クラブ》を手にとりました。寝室はかなり広くて、ベッドと、マリ・ルイーズの腰をかけている鏡台とのあいだには、棒を振りまわせるだけの場所がありました。わたしはいつもの通りに体操をしました。マリ・ルイーズは少し前から髪の形を変えて、ごく短く切っていましたが、わたしにはそれが面白くありませんでした。うしろから見ると、まるで男の子のように、襟足の短く刈りこんであるのが、胸がわるくなるような気がしました。マリ・ルイーズはブラシを下に置いて、顔に白粉をつけはじめました。そのとき、妻がとても厭らしい小さい笑い声を洩らしたのです。
『何を笑ってるんだ?』わたしが訊きました。
『マダム・ルナールのことよ。昨夜《ゆうべ》のドレスは、あたしたちの結婚式に着て来たのと同じものよ。染め直して、仕立て直したんだけど、あたしの眼はだまされないわ。どこかに見おぼえがあるんですもの』
あんまりくだらないことを言うので、わたしはカッとなりました。猛烈に腹が立って、力いっぱい、持っていたインディアン・クラブで、妻の脳天をなぐってしまいました。一撃で頭蓋骨を割ってしまったらしくて、彼女は二日後病院で、意識を恢復しないまま、死にました」
ここで彼は一息いれた。わたしは巻き煙草を一本、彼に渡してやり、自分も一本つけた。
「妻《あれ》が死んだときは、嬉しかったです。もう一緒に暮らすことはできなかったでしょうし、それに自分の行動を何と説明したらいいのか、よほど困ったに違いありませんから」
「そうだろうね」
「わたしは逮捕されて、殺人罪で起訴されました。むろんわたしは事故だと言い張りました。棍棒《クラブ》が手から抜けて飛んだのだと言ったんですが、医学的の証拠はわたしに不利でした。検察側は、マリ・ルイーズの受けたような負傷は、激烈な、故意の殴打によってでなくては生じえないことを立証したのです。わたしにとって幸運だったのは、動機がみつからないことでした。公判廷で検事は、パーティである男が妻に好意を示したのを、わたしが嫉妬して、それがもとで夫婦喧嘩になったという理屈をつけようとしましたが、検事の言ったその男は、絶対にわたしの疑惑を招くようなことをした憶えがないと断言しましたし、パーティに来ていたほかの証人たちが、わたしとその男はごく仲好く別れたと証言しました。その次には検事は鏡台の上に裁縫店の未払いの請求書があったのをもとにして、それが喧嘩の種になったとほのめかしました。しかしこれも、マリ・ルイーズは自分の衣裳には自分の金で支払いをしていたから、それが争いの種になることはありえないことを証明できました。幾人もの証人が出て、わたしはいつもマリ・ルイーズに優しかったと言ってくれました。わたしたちは誰からも仲のいい夫婦だと思われていたのです。わたしを立派な人格の持主だと言って、会社の社長も最高級の言葉でわたしを褒めてくれました。いまだかつて正気を失うような惧《おそ》れは絶対にないと言ってくれたので、一時はわたしも、うまくいけば助かるかも知れないと思ったほどです。で、結局、六年の刑を言いわたされました。
わたしは自分のやったことを後悔していません。あの日以来、監獄で裁判を待っているあいだも、それからこの土地へ来てからも、ずっと今日まで、リリのことで悩まなくなりました。もしわたしが幽霊があると信じていたら、わたしはむしろマリ・ルイーズの死が、リリの幽霊を寝かしつけてくれたと考えたくなったでしょう。とにかく、わたしの良心はいま安らかです。結局、あれだけ苦しんだあとで考えてみれば、その後のわたしのくぐりぬけて来た試錬はむだではなかった――これはハッキリ言えると思います。いまではわたしはもう一度、世の中に顔むけができるという気がしているのです」
わたしはこの話が非常識な、ありそうもない話であることをよく知っている。元来、わたしはリアリストであって、短篇小説を書くときも、真実らしさを求める。気まぐれを避けると同様に、奇怪なこともなるべく用心ぶかく避けることにしている。もしこれがわたしの思いつきで拵えた物語であるならば、わたしは無論もっと本当らしく作ったであろう。したがって、この話をじかに自分の耳で聞いたのでなかったら、わたしとしてもそれを信じたかどうか、怪しいものだ。ジャン・シャルヴァンが果して真実をわたしに語ったかどうかも、わたしにはわからないのだが、それにしては最後にわたしを訪ねたとき、結びとして彼がわたしに語った言葉は、信ずるに足る響きを持っていた。わたしが、将来どうするつもりかと訊ねたのに対して、彼は次のように答えた。
「フランスでは、わたしの友人たちが、奔走してくれています。あの当時、非常に多くのひとびとが、わたしを重大な裁判の誤りの犠牲者だと考えてくれました。わたしの会社の社長も、わたしを有罪にしたのは不当だと信じている一人です。それでわたしは、ことによると減刑されるかも知れません。よしんば減刑されなくても、六年の刑期を終えたら、フランスへ帰れる見込みはあると思っています。御承知の通り、わたしはここでは非常に重宝がられています。はじめ帳簿を受け取ったとき、ここの会計は実にひどい有様でしたが、わたしはそれもすっかりキチンと直しました。いままではだいぶ使いこみがあったのですが、もしわたしに腕を揮わせてくれれば、それをなくせる自信があります。所長はわたしが気に入っているので、わたしのためになることなら、どんなことでもしてくれると思います。最悪の場合でも、帰国したときはまだ三十をいくらも出ていないでしょう」
「しかし仕事をみつけるのは、ちょっとむずかしいとは思わない?」
「わたしのような有能な会計士で、人間としても正直で勤勉ならば、いつでも仕事はあります。もちろん、ル・アーヴルでは暮らせないでしょうが、社長はリールやリヨンやマルセイユにも、関係事業を持っています。きっと何とかしてやるからと、約束してくれているのです。いや、それどころか、わたしは将来のことについて、とても自信を持っています。どこかの町に腰を落ちつけて、生活が安定したら、すぐに結婚するようになるでしょう。これだけ苦労したあとですから、わたしは家庭が欲しいのです」
わたしたちは、少しでも風があればと思って、この家のまわりにめぐらしてあるヴェランダの一隅に腰をおろしていた。そして北側には、板すだれをおろしたままにしてあった。一本立ちの椰子の樹を片端にして、わずかばかり蒼空がのぞける。椰子の濃い繁みが、空の蒼さにクッキリと縁どられ、熱帯の航海旅行を誘う広告絵のようだ。ジャン・シャルヴァンの眼は、まるで未来を望み見るように、遠い空をさぐり求めた。
「しかし、今度結婚するなら――」彼は物思いに耽りながら言った。「ぼくは恋のためには結婚しません、金のために結婚するでしょう」
[#改ページ]
掘りだしもの
リチャード・ハレンジャーは幸福人だった。『伝道の書』(旧約聖書の内、ソロモンの筆といわれる)の昔から、あらゆる悲観論者《ペシミスト》の言ったこととは違って、この不幸な浮世で幸福人をみつけるのはさほどめずらしいことではないが、リチャード・ハレンジャーは自分が幸福人であることを知っていた――ということは、これは確かに甚だめずらしいことであるのだ。昔の人があれほど尊んだ中庸の徳なるものはいまは流行らなくて、この徳を墨守している人々は、自制の功徳も常識の効用も認めぬ連中から体《てい》よくばかにされてあしらわれるのを我慢しなくてはならない。リチャード・ハレンジャーは逆にそうした風潮を体《てい》よく面白がって眺めていた。物騒な世渡りをしたいやつにはさせておけ、ただ一筋に思いつめた情熱の炎に身を亡ぼす連中、一枚のカルタをめくるだけに身代を投げだす手合、一かバチか、栄光か墓場かをめざして張りつめた一本の綱の上を渡る豪傑、理想か、激情か、冒険かは知らぬが、それだけに一つしかない生命を賭ける勇士たち――みなさん御勝手におやりになるがよろしい。おれはみなさんの功名手柄をうらやみもせぬかわり、せっかくの奮闘が水の泡になったところでお気の毒とも思わないよ。
だがこうした態度から、リチャード・ハレンジャーが自分勝手な、つめたい人物だと臆断してはいけない。その反対である。彼は思いやりの深い、寛容な性情の持主であった。いつも友人のためには喜んで一肌ぬいだし、他人を助けることの愉しさを存分に味える程度に気前がよかった。彼にはそこばくの資産もあり、内務省に勤めて、相当の俸給をとっていた。役人の仕事は彼にはうってつけであった。規則正しくて、確実で、気持がよかった。毎日、役所がひけると、クラブへ行って二時間ばかりブリッジをやり、土曜日曜にはゴルフに行った。休暇には外国旅行をして、上等のホテルに泊り、教会や画廊や博物館を見物した。芝居はかならず初日に見物した。さかんに外で食事をした。友人はみな彼を好いた。当りがよくて、話をしても気が置けなかった。よく本を読んでいて、物識りで、趣味が広かった。その上に彼は押しだしもなかなかよくて、たいして美男というのではないが、長身の瘠せぎすで姿勢がよく、贅肉のない聡明そうな顔をしていた。そろそろ五十に近い年配だから、髪は少し薄くなりかけていたが、鳶色の眼にはまだにこやかな微笑が消えていなかったし、歯もまだみんな自分の歯であった。生まれつき丈夫な体質であったが、自分でも健康にはいつも気をつけていた。こう数えあげてくると、リチャード・ハレンジャーが幸福人であってはならないという理由は、どこを探しても見当らないし、よしんばほんの少しばかり自惚《うぬぼれ》の気味があったとしても、うぬぼれるだけの資格があると認めてもいいだろう。
結婚という、多くの賢くて善良な男子たちさえも、しばしば破船の憂き目にあう、浪風の多い危険な水道をも、この人物は幸運にも無事に漕ぎぬけて来た。二十代のはじめに恋愛結婚をした彼と彼の妻とは、数年間、ほとんど水も洩らさぬ幸福にひたった後、やがて徐々に疎隔《そかく》した。どちらもほかの結婚相手をほしがらなかったから、離婚は問題にならなかったので(リチャード・ハレンジャーの官吏としての立場上、離婚は甚だ望ましからぬことだった)、ただ便宜上、頼みつけの弁護士の助けを借りて別居の手続きをとり、それによってお互いに相手から干渉を受けることなしに、自由に望み通りの生活をすることができるようになった。夫婦は互いに尊敬と善意とを表明しながら袂《たもと》を分かったのである。
リチャード・ハレンジャーはセント・ジョンズ・ウッドにあった家を売り払って、ホワイトホール(ロンドンの官庁街)へ徒歩で通える便利な所にフラットを持った。そこには彼の蔵書を並べた居間と、彼のチペンデール式の家具がピッタリ似合う食堂と、彼ひとりで使うのに程よい大きさの寝室とのほかに、調理場をへだてて二室ほどの女中部屋も備わっていた。セント・ジョンズ・ウッド時代から永年使っていた料理人はつれて来たが、いままでのように大勢の奉公人は必要がなくなったので、残りの召使たちには暇をだし、職業紹介所に小間使をかねた女中を一人、周旋をたのんだ。彼は自分の希望をハッキリ知っていたので、紹介所の管理者にむかって明瞭に自分の要求を説明した。あまり年の若い女中では困る。その理由は第一に、若い女は気が変りやすくて尻が落ち着かないし、第二に、自分は分別のある年輩で身を持することも厳正ではあるけれども、ひとの噂に戸はたてられぬし、出入り商人や荷物はこびの人夫などという手合はそういうものだから、自分の品位のためにも雇われる若い婦人のためにも、応募者は相当の慎しみを心得た年頃のひとがいいと思う。もう一つの注文は、銀の食器をよく磨ける女中が欲しい。自分は昔から古い銀器に趣味があるからだが、アン女王の御代(十八世紀の初年代)の由緒ある貴婦人が使っていたフォークやスプーンが、大切に心をこめて扱われることを要求するのは当然である。自分は客をよろこぶ性質《たち》だから、少くとも週に四人以上、八人以下の客を招いて晩餐の小集をするのを好んでいる。料理は客たちの満足をえられるものを饗する上でコックを信用しているから心配はないが、給仕をする女中にもすっきりと手廻しよくやって貰いたいのだ。次に自分には欠点のない侍者《ヴァレット》が必要だ。自分は自分の年齢、格式にふさわしく身装《みなり》には贅沢をするから、衣類のめんどうをちゃんとみて貰わないと困る。自分の求める小間使はズボンをプレスし襟飾《ネクタイ》にアイロンをかけることができなくてはならぬし、靴がよく磨いてあることを必要とする点では特に自分はやかましい。自分は足が小さいので、仕立てのよい靴を履くために非常な苦労をしている。そのために沢山の靴を用意して、しかも靴を脱いだとたんに靴型にはめないと気に入らないのだ。最後に、フラットはいつも塵ひとつないように掃除がゆきとどいていなくては困る。希望者が性格的に欠点のない、真面目で、正直で、信用の置ける、そして見た目も感じのいい女《ひと》でなくてはならないのは、むろん承知しておいて貰いたい。そのかわりには、自分のほうではいい給料と、相当の自由と、充分な休みとを与えるつもりだ、云々。紹介所の女管理人はまたたき一つしないで聴き終ると、きっと御注文にそうように致しますと言って、次から次へと候補者を繰り出してよこしたが、やって来た女たちを見れば彼女が全然彼の言葉に耳をかしていなかったことは明らかであった。リチャード・ハレンジャーは候補者を全部、自分で引見した。ある候補者は見ただけで無能なのがわかったし、その次のはそわそわしてあてにならなかったし、年をとりすぎた女の次に若すぎるのがあり、ある者は何より肝心な態度がよくなかった。結局、ためしに使ってみようかという気を起させる者は一人もなかった。彼は温和で愛想がよかったから、笑顔で、相手に厭な感じを与えないように残念そうにことわった。彼はこうなると辛抱づよかった。自分がこれならと思うのがみつかるまで、幾人でも女中たちと面会するつもりだった。
さて、これは人生の一つの奇妙な事実であるが、最上のものでなければ受けつけないようにしていると、甚だしばしばその最上のものが手に入るものである。つまり自分の手に入るもので辛抱することを飽くまで拒否していれば、かえって自分の欲しいものが手に入る場合が甚だ多いということだ。それはまるで「運命」が、こんなふうに咳《つぶや》いたかのようだ――この男は何という莫迦《ばか》だろう、完全なものを求めるなんて、完全な阿呆だわ――そして、女神らしい気まぐれから、その完全なものを彼の膝の上へ投げ与えてしまうのだ。ある日、アパートの小使が、だしぬけにリチャード・ハレンジャーに言いだした。
「旦那、女中さんをお探しになってらっしゃるそうで、手前が一人、そういう口《くち》を探している女《ひと》を知っておりますが」
「きみが推薦者になってくれるのかね?」
リチャード・ハレンジャーは、奉公人がほかの奉公人の推薦をするのは、雇い主が推薦するよりも遥かに値打ちがあるという、甚だ当を得た意見の持主だった。
「人柄の立派なことは、手前が保証いたします。いままでも大変いいところでばかり勤めたひとでして」
「わたしは七時に帰って着替えをする。差し支えなかったら、そのときに会ってみてもいいよ」
「かしこまりました。そのように知らせて置きましょう」
帰って五分と経たないうちに、表のドアのベルが鳴って、コックが彼のところへ、小使の話した婦人が訪ねて来たと告げに来た。
「通しなさい」と彼は言った。
志望者の様子がよく見えるように電灯を余分につけてから、立ち上って、暖炉に背を向けて立った。一人の女が部屋に入り、つつましやかな態度でドアのすぐ内側に足をとめた。
「やあ今晩は」彼は言った。「あんたの名前は?」
「プリチャードと申します」
「幾歳《いくつ》?」
「三十五でございます」
「ふむ、そりゃ、格好な年頃だ」
彼は巻き煙草を一服して、しみじみと女の様子を眺めた。かなり背の高いほうで、彼とあまり違わないくらいだが、ハイ・ヒールの靴をはいているのだなと彼は察した。黒のドレスは身分柄によく似合っている。身だしなみもわるくない。目鼻だちもととのっていて、どちらかといえば血色のいい肌をしている。
「帽子をとってくれませんか?」
言われた通りにしたところを見ると、彼女は淡《うす》い鳶色の髪をしていた。調髪も形よく、よく似合っている。身体つきもしっかりして、健康そうだ。肥りすぎても瘠せすぎてもいない。適当な女中らしい服を着せたら、なかなか見ばえがするだろう。といって厄介なほどの美貌でもなく、しかし確かに綺麗なほうで、この女の階級でいえば、美人といっても差し支えない女ぶりだ。それからいろいろと彼は質問をあびせかけた。女の答えは満足すべきものだった。前の勤めさきをやめた理由も筋が通っていた。彼女は執事《バトラー》の下で訓練されて来たので役目についてはよく知っていた。前の勤めさきで三人の小間使のうちの頭になっていたが、このフラットの仕事を一人でやることに異存はない。前にある紳士の用をつとめたとき、仕立屋へやられて服のプレスの仕方を見習ったことがある。彼女は少し内気だが、べつに物怖じもせず、固苦しくもなかった。リチャードが持ち前のおだやかな気がねのない調子で問いかけるのに、彼女は謙遜な、おちついた態度で答えていった。彼はこの態度に大いに感心した。何か身許証明の書類があったら見せてくれと言うと、彼女のさしだした書類はまことに申し分のないものだった。
「ええと、そこでだね」彼は言った、「わたしは大いにあんたに来てもらいたくなった。しかしわたしは変るのが嫌いでね、いまのコックなども十二年前から使っている。あんたがわたしの気に入って、あんたもここが気に入ったら、長く居て貰いたいんだ。つまり、せっかく来てくれても、たった三四カ月で、結婚するから暇をもらいたいというのでは困るんですよ」
「その点は心配ございません。あたくしは寡婦でございます。あたくしのような立場の者には、結婚はあまり感心したものじゃございません。なくなった亭主《あるじ》は、わたくしと一緒になりました日からなくなります日まで横のものを縦にもいたしませんでした、仕様がないのであたくしが、ずっとやしなったんでございますよ。いまのあたくしの欲しいものは、おちついて暮らさせていただける住居でございますわ」
「わたしもお前さんに賛成したいね」彼は微笑して、「結婚はいいものだが、癖になっては困りものだと思うよ」
これには何の応答もしないところは心得たもので、彼女は相手が決定を下すのを待っていた。早く決めてもらいたがっている様子もみえない。彼のほうでは、なるほどこの女がみかけ通りに有能な女中なら、勤めさきをみつけるのに苦労しないことは、自分でもよく知っているはずだと考えた。彼が給料の額を言いだすと、女はそれに満足した様子をみせた。この家について知っておくべきことを話しかけると、女の口ぶりでそれについてはもう知っていることがわかったので、彼はまたなるほどと、めんくらうよりはむしろ面白いことに思った――つまり就職を申しこむ前に、女のほうで彼のことを一通り調べて来たことがわかったのである。これは彼女の立場として、慎重でもあれば分別もある仕方だ。
「来てもらうとして、いつから来られるかね? いまのところ誰もいないんだ。コックが、洗濯女をひとり使って精いっぱいやってくれているが、わたしとしてはなるべく早くきめて、おちつきたいのだが」
「はあ、旦那さま、実は一週間ばかり休みたいと存じておりましたんですが、紳士のお方のお役に立ちますことでしたら、むりに休みたいとは思いません。よろしければ明日にでも参ることにいたしますわ」
リチャード・ハレンジャーは例の人づきのいい笑顔をみせた。
「きっと楽しみにしていたことだろうから、せっかくの休みをやめて貰うのは気の毒だね。こっちはあと一週間ぐらい、やっていけないことはないよ。じゃ一つ休暇をとって、そのあとで来て下さい」
「どうもありがとうございます。では来週から参りましてよろしゅうございますか?」
「ああ結構だ」
女が帰ったあと、リチャード・ハレンジャーは重荷をおろしたような気がした。まるで自分が求めていた通りのものがみつかったように思われる。彼はベルを鳴らしてコックを呼び、やっと女中が雇えたことを告げた。
「彼女《あれ》ならきっとお気に召しましょうよ、旦那様。あの女《ひと》、今日のお昼すぎに来まして、わたくしと話していきましたんです。一目みたら、これは自分の務めをよく知ってるひとだとわかりましたですよ。それに、そこいらのお尻のおちつかない娘たちとも違っておりますよ」
「まあ、やらせてみようよ、ジェディさん。お前さん、わたしのことを、よく話しておいてくれただろうね」
「はい、旦那さまはやかましいお方だと申しましたよ。物事がちゃんときまりのついてることがお好きな旦那だと申しましたです」
「うん、それはそうに違いない」
「彼女《あのひと》、それはちっとも構わないと申しておりましたよ。物事のけじめのよくわかる旦那様のほうが好きだって、はい。せっかく物事をきちんとやっても、それを認めて貰えなければ働き甲斐がないと申します。なかなか、自分の仕事に、誇りをもってる、めずらしい女でございましょうよ、あれは」
「それはまったく、そうあって欲しいものだがね。まあ石橋はたたいて渡るに越したことはない」
「そこでございますよ、旦那さま、ほんとにその通りで。甘いか塩っぱいか、プッディングばかりは食べてみなくちゃわかりませんですから。でも、もしわたくしの考えを言えと仰しゃるなら、あれは旦那さま、掘り出しものでございますよ」
そうしてプリチャードはまさにコックの婆さんの言った通りの代物だった。あれ以上の女中にかしずかれた男があるだろうか。彼女の磨いた靴の光沢は見事なもので、役所へ出勤するために晴れた朝の街へ出ていくときの彼の足どりもひときわ軽快だった――なにしろ、はいている靴に自分の顔が映ってみえるくらいだったから。服装についても至れり尽せりの気をつけてくれるので、役所の同僚たちが、内務省で一番のお洒落はきみだぞとひやかす始末だった。ある日、ふと帰宅して意外に思ったのは、浴室に沓下やハンカチーフがずらりと吊るして干してあったことで、さっそく彼はプリチャードを呼んだ。
「プリチャード、きみは沓下やハンカチーフを自分で洗うのかね? そんなことまでしなくっても、きみの仕事は沢山あると思うが」
「はい、洗濯屋にやりますと早くいたみますので。ご迷惑でございませんでしたら、うちでやらせていただきとうございますが」
彼女は主人がどういう場合に何を着るか、まちがいなく心得ていて、夕食どきにタキシードと黒ネクタイにするか、燕尾服と白ネクタイにするか、訊かなくてもちゃんと知っていた。勲章をつけていく必要のある席へ出かけるときには、上衣の襟の折り返しに機械仕掛けのようにきちんとメダルが列んでいた。彼女が来てから間もなく彼は毎朝自分の好みのネクタイを衣裳箪笥からえらびだすのをやめてしまった。彼自身がえらんだとしてもそれよりほかにないと思われるネクタイを、まちがいなく彼女が出してくれることがわかったからである。彼女の趣味のよさは一点の非のうちどころもなかった。彼女は彼の手紙類に眼を通しているとしか思えないほど、彼のあらゆる動静を知りぬいていたので、たとえばある約束が何時だったか忘れても、彼は手帳をみる必要がなくなった。プリチャードに訊けばわかるのである。電話の取次ぎに出れば、どんな相手にどんな調子で応対すればいいか、正確に知っていた。出入りの商人に対してだけは権高《けんだか》な口をきくこともあったが、ふだんはいつもしとやかに応対しながら、しかもハレンジャー氏の文学好きの友達に話す言葉と、大臣の奥様への挨拶とのあいだには、はっきりした区別がついていた。ハレンジャーが誰となら話をし、誰となら電話に出たくないか、彼女には本能的にわかるらしい。彼が居間にいると、彼女がおちつきはらった誠意のある口調で、旦那さまはただいまお出かけでございますとやっているのが聞え、まもなく入って来て、何某さまからお電話でございましたが、旦那さまはお忙しいと存じましたのでと告げるのである。
「ああ結構、結構、プリチャード」彼は笑顔で答える。
「あの奥さまのことですから、また音楽会のことで旦那さまにうるさく仰しゃるだけだろうと存じまして」とプリチャードは言う。
友人たちはみな彼との約束を彼女を通してするようになって、彼が夕方帰って来ると、こう致しておきましたと報告すればすむことになった。
「ソームズさまの奥様からお電話でございまして、八日の木曜日にお昼飯《ひる》をご一緒したいけれども如何でしょうと仰しゃいましたんですが、あいにくその日はヴァーシンダ卿の奥方さまとお昼飯のお約束がございますと申しあげておきました。オークリーさまからもお電話で、来週の火曜日の六時からサヴォイヘカクテル・パーティにおいで願えまいかと仰しゃいますから、たぶんご都合はおよろしいと存じますが、ことによると歯医者さんへおいでになるかも知れませんとご返事いたしました」
「ああ結構、結構」
「そのときになっておきめになれるようにと存じましたので」
彼女はフラットをまるで買いたてのピンのようにしていた。一度、彼女が勤めはじめて間もない頃、リチャードが週末旅行から帰って、書棚から一冊の本を抜きだすと、一目でそれが塵をはらってあることがわかった。彼はベルを鳴らした。
「あんたに言うのを忘れていたが、わたしの留守中にはどんなことがあっても書物に手を触れないでもらいたいね。書物を引っ張りだして埃《ほこり》をはらうと、それがちゃんと元の場所へ戻ったためしがない。わたしは本が汚なくなるのは構わんが、探したときにみつからんのは甚だ困るんだ」
「どうも相済みませんでございます」とプリチャードは言った。「旦那さまがたのなかには、ごく几帳面な方がおいでになることは存じておりますので、どの御本も、みんなそっくり元の場所へ戻すように気をつけましたんですが」
リチャード・ハレンジャーは書棚をざっとみまわした。見たところでは、どの一冊も、いつもの場所にないものはなかった。彼はニッコリ笑って、「いや、悪いことを言った、あやまるよ、プリチャード」
「御本は、ひどく汚れておりましてすよ、旦那さま。あれでは、どの一冊でも、開けてごらんになる前に、お手が埃で真黒になりますわ」
銀器については、もちろん彼女は、これまでにないほど見事に手入れをした。これについてハレンジャーは特別な褒め言葉を与えるべきだと感じた。
「なにしろあれは、大部分がアン女王やジョージ一世時代のものだからねえ」
「はい、存じております。ああいう立派なお品を扱わせていただくと、それだけ手入れをするのも張り合いがございますわ」
「たしかにきみはコツを知ってるね。きみのように上手に銀器をよく扱うバトラーをわたしは見たことがない」
「男の人は、女ほど根気がよくございませんから」彼女は謙遜に答えた。
プリチャードがうまく居ついてくれたなと思うと、彼は待ちかねたように週に一回の小晩餐会を復活した。彼女が食卓での給仕のほうもよく心得ていることはすでに知っていたが、いざ開いてみて、彼女が宴席をとりもつ手際が実にテキパキしているのを知ったときは、彼は何ともいえぬ満足感を味わった。彼女は敏活で、口数が少く、しかもよく気がついた。お客が何か欲しいものに気がつくより早く、プリチャードはそばへ来てその品物を差しだしている。彼の特に親しい友人たちの好みをすぐに呑みこんで、だれはウィスキーにはソーダより水を割るのが好きだとか、かれは小羊《ラム》の脚肉の膝のところが大好物だとか、おぼえてしまった。ホック(ドイツ産白ぶどう酒)ならどのくらい冷やしておけば味がわるくならないとか、クラレットは食堂に出してどのくらい時間がたつと香りがよくなるとか、みんな彼女は知っていた。バーガンディを壜から注《つ》ぐときに、少しも底の滓《おり》をみださない手際などは、見ていて嬉しくなるほどだった。あるとき彼女はリチャードが命じておいた葡萄酒を席に出さなかったことがある。彼はそのことを少し気色ばんで文句を言った。
「壜をあけてみましたら、すこしコルクの臭いがいたしました。それでシャンベルタンのほうが無事だと思いまして、あれをお出しいたしました」
「そうか、結構、結構」
そのうちに彼はそのほうのことはすっかりまかせきりにした。彼女がお客たちの酒の好みをすっかりのみこんでいることがわかったからである。命令しなくても彼の所蔵の酒の最上のものを出して来たし、出ている酒のよしあしがよくわかるお客だと思ったときは、この家の一番古いブランディを出した。彼女は女の味覚をぜんぜん信用せず、婦人客中心のパーティのときには、気の抜けないうちに飲む必要のあるシャンペーンを出すことが多かった。彼女はイギリスの奉公人らしく階級的差別というものを本能的に知っていて、紳士でない男に対しては位階も富も決して彼女の眼をくらますことはなかったが、彼の友人のなかにも彼女の気に入りが幾人かいて、そういうひいきの客が食事をするときには彼女がカナリヤを呑んだ猫みたいに、よほど特別の折でなければ使わずに取ってある葡萄酒をせっせと酌をして、壜をからにしてしまうので、ハレンジャーは面白がった。
「おい、きみはプリチャードの風下《かざしも》にいていいなあ」彼は叫んだ。「この酒を注いでもらえる男は、そう沢山ないんだぜ」
プリチャードは一つの名物になった。彼女は僅かの間に天下一品の小間使として有名になった。ひとびとはハレンジャーの持ちものでほかに羨ましいものは一つもないかのように、彼が彼女を持っていることを羨んだ。彼女は彼女の目方だけの黄金の値打ちがあるとか、彼女の値段はルビー以上だとか言われた。リチャード・ハレンジャーはみなが彼女をもてはやすと得意満面といった上機嫌で答えた。
「良い主人には良い家来というからな」
ある晩、客たちがポルトを前にくつろいでいるとき、彼女がちょうど部屋にいなかったので、みなは彼女の噂をしていた。
「彼女に出ていかれたら、きみには大打撃だろうな」
「どうして出ていくんだい? 彼女を横どりしようとしたやつも一人二人いるが、彼女はことわってしまった。どこにいれば仕合せか、あの女はよく知ってるからな」
「そのうちに結婚するかも知れん」
「ぼくはそういう女ではないと思うね」
「だって縹緻《きりょう》はいいじゃないか」
「うん、人品はなかなかいいね」
「何を言ってるんだ、きみは? 彼女はたいした美人だぜ。身分さえよかったら、新聞雑誌に写真が出るような社交界の花形になれるひとだ」
その瞬間に彼女がコーヒーを持って入って来た。リチャード・ハレンジャーは彼女を見た。毎日、たえず彼女を見ながら、もう四年になるのに――いや、月日のたつのは早いものだ――彼はそういえば彼女がどんな様子をしているか、すっかり忘れてしまっていたのだ。彼女は彼がはじめて見たときと大して変っていないような気がする。あの頃ほど肉づきはよくないが、相変らず血色のいい肌をして、そのととのった顔の熱心さと空虚さとを一つにしたような表情にも変りはない。黒の仕着せはよく似合っている。彼女は出ていった。
「彼女は至宝だね、その点はまちがいないね」
「ぼくもそれは知っている」ハレンジャーは答えた。「彼女は完璧だ。彼女なしでは、ぼくは参ってしまうだろう。ところが不思議なことに、ぼくはそう大して彼女が好きではないんだ」
「なぜ?」
「どうも少し退屈な気がするのだ。だってきみ、あの女は話がないよ。ぼくはよく彼女と話そうとしてみるがね、ぼくが何か言えば返事はするけれども、それきりなんだよ。四年のあいだ、一度だって自分から話しかけて来たことがない。ぼくはあの女について、全然、何も知らない。ぼくが好きなのか、それとも完全にぼくに無関心なのか、それさえわからない。彼女は一個のオートメイションだ。ぼくは彼女を尊敬してるし、高くも買ってるし、信用もしている。とにかく、ありとあらゆる美点を兼ねそなえているのに、ぼくはよく不思議だと思うほど、それにもかかわらず彼女に対して無関心でいられるんだ。きっと魅力というものを彼女は全然もたないからに違いないね」
話はそこまでになった。
それから二三日後、その晩はプリチャードが外出する日に当っていて、べつに約束もなかったので、リチャード・ハレンジャーはクラブで一人で食事をした。ボーイが彼のところへ来て、いまお宅から電話で、旦那様が鍵を持たずにお出かけになりましたから、タクシーですぐにおとどけいたしましょうかと訊いて来たという。彼はポケットへ手をやった。その通りであった。めずらしいことに、彼は夕食に出て来るときに紺サージの背広に着替えて、鍵を移すのを忘れたのだ。食後にブリッジをやるつもりでいたが、クラブも閑散で、たいして面白いゲームができそうもなかった。ふと、いま評判になっている或る映画を見るのに好い機会だと思ったので、三十分以内に自分で鍵をとりに帰るからとボーイに返事をさせた。
フラットでベルを鳴らすと、出て来たのはプリチャードだった。彼女は鍵を手に持っていた。
「どうしたの、プリチャード?」彼はきいた。「今夜はきみの外出日だろう?」
「はい、さようでございます。でもあまり出かけたくありませんでしたので、ジェディ夫人に、かわりにいらっしゃるように申しましたの」
「出かけられるときに出かけたほうがいいのに」いつもの思いやりの深い調子で彼は言った。「年じゅうここにくすぶっているのは、気が変らなくていけないよ」
「あたくしはお使いでちょいちょい出歩きますから――でも夜はもう一月も外へ出たことはございませんの」
「そりゃまた、なぜだね?」
「はあ、一人で出かけましても、たいして楽しいこともございませんし、そうかといって、一緒に行きたいと思うような人も別に知りませんので」
「まあ、あんたもときどきは楽しんだほうがいいね、気晴らしになる」
「どういうわけか、あたくしは、そういう習慣が身につきませんで」
「そうだ、ときにね、わたしはこれから映画へ行く。あんたも一緒に来ないかね?」
これはその場の勢いで、親切から出た言葉だったが、言ってしまった瞬間、ちょっとしまったと思った。
「はい、よろこんでお供しますわ」
「じゃ、はやく帽子をかぶって来たまえ」
「すぐに参ります」
彼女が姿を消すと、彼は居間へ入って、煙草に火をつけた。彼は自分のしていることを、ちょっと面白いことになったなと思い、同時に愉快でもあった。ほんの僅かの迷惑を忍ぶだけで、他人を楽しくしてやれるというのは、わるくない。あのときプリチャードが驚きもためらいもしなかったのは、いかにも彼女らしい。彼女は彼を五分ほど待たせてから、戻って来たのを見ると、彼女は着替えていた。人絹らしい紺のフロックに、青いブローチのついた黒の小さい帽子、それに銀狐の襟巻をしていた。その身なりがあまりみすぼらしくもケバケバしくもないのを見て、彼はいくらかホッとした。誰がみても、これなら内務省の高官が女中と一緒に映画見物へ行く図だとは思わないだろう。
「お待たせして、すみませんでした」
「いやいや、どう致しまして」彼は優しく言った。
彼が表扉を彼女のために開けると、彼女はさきに外へ出た。彼はルイ十四世と廷臣の有名な逸話を思いだし、彼女がためらわずに自分より先に立ったことを天晴だと思った。二人が行く映画館は、ハレンジャー氏のフラットから遠くなかったので、二人は歩いて行った。彼は天気の話や道路の状態の話やアドルフ・ヒトラーの話をした。プリチャードはどの話にも適切な受け答えをした。映画館ではちょうどミッキー・マウスが始まったところで、二人ともそれを見て愉快になった。プリチャードを雇ってからのこの四年間、リチャード・ハレンジャーは彼女が笑顔にさえなるのをほとんど見たことがなかったので、いま彼女の心から楽しそうな、絶え間なくわき起るような笑い声を聞くのは、彼にはすばらしく楽しかった。彼女の愉しみを彼は愉しんだのである。やがて目あてのフィルムがスクリーンに映りだした。優秀な映画で、二人は息もつかずに興奮してスクリーンを見まもった。煙草をすおうと思って、シガレット・ケースをとりだした彼は、うっかりそれをプリチャードにすすめた。
「ありがとうございます」一本とりながら、彼女は言った。
彼は火をつけてやった。彼女の眼はスクリーンに吸いつけられて、彼のすることにまるで気がつかない様子だった。映画が終ると、二人は観客たちと一緒に街へ押し出された。フラットのほうへ歩きだした。星の多い、晴れた夜であった。
「おもしろかった?」彼が言った。
「何から何までですわ。ほんとにお蔭さまで楽しい思いをいたしました」
ふと彼は思いついたことがあった。
「それはそうと、あんたは今夜、夕飯はたべたの?」
「いえ、その暇がございませんでしたので」
「じゃあ、お腹がすいたろう」
「帰りましたら、パンとチーズに、ココアでもこしらえていただきますから」
「それじゃ少し、淋しすぎるね」街には浮き浮きした陽気な気分が感じられ、往来の男女もみな楽しく朗らかそうにみえた。乗りかかった船だ、かまわんじゃないか、と彼は自分に言いきかせた。「ねえ、どこかへ行って、簡単な食事をしようか?」
「旦那さまさえ、およろしければ」
「来たまえ」
彼はタクシーを呼んだ。彼はすっかり博愛的気分になっていて、またそれは決して彼の嫌いな気分ではなかった。彼はオクスフォード・ストリートの陽気なレストランへ行くように運転手に命じたが、そこならば知人に会う気づかいはないという自信があった。あそこにはオーケストラがあって、客はダンスをする。プリチャードはあれを見たらよろこぶだろう。席につくと、ウェイターが来た。
「ここではみな定食をたべる」それが彼女には気に入るだろうと思って、彼は言った。「われわれもそうしようと思うが、いいね。飲みものは何にする? 白葡萄酒でも少しどう?」
「正直に好きなものを申しますと、ジンジャ・ビールを一杯ほしゅうございますわ」
リチャード.ハレンジャーは自分ではウィスキー・ソーダを命じた。彼女は美味そうに夜食をよく食べ、ハレンジャーも空腹ではなかったが彼女を気楽にさせるために食べた。いま見て来た映画のおかげで話題には困らなかった。友人たちが先夜言ったことはたしかに当って、プリチャードは決してみっともない女ではなかったので、たといこうしているところを誰かにみられても少しも構わないと彼は思った。自分が比類なき名女中のプリチャードを映画につれてゆき、そのあとで夜食をふるまったことを話したら、友人たちはなかなか好《い》い話だと言うだろう。プリチャードは口許にかすかな微笑をうかべて、踊っている人々を眺めていた。
「あんたはダンスは好き?」彼が言った。
「娘の頃はとても好きでございましたの。結婚しましてからは一度もいたしません。良人《やど》があたくしより少し背が低かったものですから、ダンスはどうしても殿方のほうが高くないと見ばえがしないように思いますので。もうそろそろ、ダンスも似合わない年齢になりそうですわ」
リチャードはむろん彼の小間使よりも背が高かった。その点は心配はないだろう。彼はダンスが好きで、うまくもあった。しかし彼はためらった。自分が申しこんだために、プリチャードを当惑させるのは感心しない。やはり物事はほどほどにしたほうがいいのだ。といって、しかし、どこがいけないのだ? この女は、楽しみの少い生活をして来たのだ。頭のいい女だから、もしおれが間違えたと思ったら、きっと何か上手な口実をつくってことわるだろう。
「どうだね、一曲やってみない?」バンドが新しい曲をやりだしたとき、彼は言った。
「なにしろ、あんまり長いこと、やりませんから」
「かまわないじゃないか、そんなこと」
「では、よろしかったら」あっさり答えて、席から腰をあげた。
彼女は少しもはにかまなかった。彼のステップについていけないのを心配するだけだった。二人はフロアへ出ていった。彼女は非常にうまく踊った。
「なんだ、あんたは申し分なく踊れるじゃないか、プリチャード」
「自然と思いだしましたわ」
大女ではあったが足の運びは軽く、生まれつきのリズムの感覚があった。一緒に踊っていて非常に気持がよかった。壁を縁どっている鏡のなかを見て、彼は自分たちの踊り姿が非常によく見えると思わないわけにいかなかった。鏡のなかで二人の視線が合って、彼女も同じことを考えているのかなと思った。それからもう二回踊って、リチャード・ハレンジャーは帰ろうかと言った。勘定を払って外へ出た。人ごみのなかを縫っていく彼女に、いささかの気おくれも見出せないことに彼は気がついた。二人はタクシーに乗りこんで、十分後には家へ帰った。
「あたくしは裏口から入りますから」とプリチャードが言った。
「そんな遠慮はいらない。一緒にエレヴェーターで上りたまえ」
彼は夜勤の小使に、こんなに遅い時刻に小間使と一緒に帰って来たことで妙に思わせないように、冷やかな一瞥をくれながら、一緒に階上へ上り、ラッチ鍵を使って彼女をなかへ入れた。
「では、おやすみなさいませ」彼女は言った。「どうもありがとうございました。ほんとに、おかげさまで、楽しゅうございましたわ」
「ぼくこそお礼を言うよ、プリチャード。一人だったら、ぼくはずいぶん退屈するはずだった。きみが今夜の外出を楽しんでくれたならぼくも嬉しいよ」
「ほんとにもう、口に言えないくらいですわ、旦那様」
まったく大成功だった。リチャード・ハレンジャーも満足だった。彼のしたことは彼自身にとって親切なことだった。他人にこれほど確かな喜びを与えるということは、実に好ましい気分のものだ。自分の善意に心をあたためられて、一瞬、彼は心の底から全人類への大きな愛を感じた。
「おやすみ、プリチャード」と言って、自分が幸福な善人であると感じたために思わず彼女の腰に腕を置いて、彼女の唇に接吻した。
彼女の唇は実にやわらかであった。彼の唇の上でたゆたっていたその唇が、彼に接吻を返した。年増《としま》ざかりの健康な女の、熱い、思いのこもった抱擁であった。それが実に快かったので、彼は女を少し自分のほうへ引き寄せた。女は両腕を彼の頸にまきつけた。
ふだんは、彼はプリチャードが郵便物を持って入って来るまで眼をさまさないのだが、翌朝、彼は七時半にめざめた。自分ではわからないが、いつもと変った気分だった。いつもは頭の下に二個の枕を置いて眠る習慣だったので、急に今朝は一つしか枕をしていないことに気がついた。とたんに記憶をとりもどし、ギョッとして、あたりを見まわした。もう一つの枕は彼の枕の隣りにあった。ありがたいことに、そこにはもう一つの頭が載ってはいなかったが、載って|いた《ヽヽ》ことは明らかだった。アッと叫ぶと、急に冷たい汗が出て来た。
「ああ、おれは何という莫迦だ!」彼は声をあげて叫んだ。
こんな愚かなことが、どうしておれにやれたのだろう? いったい何がおれにとりついたのだ? 女中なんぞとふざけるとは、何よりもおれらしくないことだ。何というみっともないことだ! おれの年齢《とし》で、おれの身分で! おれはプリチャードが脱け出ていくのを知らなかった。きっと眠っていたのだろう。おれは彼女を大して好きでもなかったようではないか。あの女はおれの好みではない。それに、先夜も友達に言った通り、おれはむしろ彼女に退屈してるのだ。いまでさえ彼女をプリチャードという姓でしか知らない。何という名前だか、ぜんぜん考えたこともない。何という気違い沙汰! それで、これからいったい、どうなるのだ? このままではいられない。彼女をこのまま雇っておけないことは明らかだが、さればといって、彼女に劣らず自分にも落度のあることで彼女を追いだすというのは不公平きわまる。たまらないことだ。世界一の小間使を、わずか一時間の気まぐれのために失うとは、何たる愚かなことだ!
「いけないのは、あのおれの親切心なのだ、莫迦め」彼は呻《うめ》いた。
もうおれの衣服をあんなにきちんと始末したり、おれの銀器をあんなに美しく磨いてくれる女はみつかることはあるまい。彼女はおれの友達の電話番号を全部知っていたし、葡萄酒のこともよくわかっている。だがもちろん、彼女は出さなくてはならない。ああいうことがあった以上、いままで通りで済ませられないのは、彼女だってわかっているだろう。おれはたっぷり手当をやって、すばらしい推薦状を書いてやろう。もういまにも彼女はここへ来るだろう。小憎らしい顔つきで入って来るだろうか、馴れなれしくするだろうか? それともすまして、気取るかな? ことによると、郵便物を持って来ることさえ、自分のすることでないと思ってるかも知れない。ベルを鳴らして、ジェディ夫人が入って来て――プリチャードはまだ起きません、旦那さま、昨夜のことがあったので、朝寝をしてるんでございますよ……とでも言われたらどうしよう。
「ああ、おれは何という莫迦だったろう! 何という見下げはてた下司《げす》男だろう!」
ドアにノックがあった。彼は不安で胸が苦しくなった。
「おはいり」
リチャード・ハレンジャーは甚だ不幸な人だった。
時計の鳴る音と一緒に、プリチャードが入って来た。彼女は朝のうちにいつも着ることにしているプリントの服を着ていた。
「おはようございます」と彼女が言った。
「おはよう」
彼女はカーテンを引いて、彼に手紙と新聞を手渡した。その顔に何の感情も動いていない。いつもの通りの彼女であった。動作も、いつもの通りテキパキと、しかも慎重だった。彼女はリチャードの視線を避けもしなければ追いもしなかった。
「グレイをお召しになりますか、旦那さま? 昨日、仕立屋から戻って参りましたが」
「そうしよう」
彼は手紙を読むふりをしながら、睫毛の下から彼女をみまもった。彼女は彼に背を向けている。彼のシャツとズボン下とを出して、椅子の背にかけた。昨日彼が着たワイシャツから飾りボタンをとって、清潔なシャツに付けかえた。洗濯した沓下をだして、椅子の座席に置き、ズボン吊りを二つ揃えて置いた。それからグレイの背広を出して来て、ズボンの後ろボタンにズボン吊りをつけた。洋服箪笥をあけて、ちょっと考えてから、その背広に似合うネクタイをえらびだした。昨日の背広を腕にまとめあげて、靴を手にとった。「すぐに御飯になさいますか、それともさきにお風呂をお召しになりますか?」
「すぐに飯にしよう」と彼は答えた。
「かしこまりました」
ゆっくりした、静かな、おちついた、いつも通りの挙止《こなし》で、彼女は出て行った。その顔にはいつもの真面目な、へりくだった、真空のような表情があった。ゆうべの出来事は夢だったのか。プリチャードの態度からは、昨夜のことを少しでも憶えている様子はみえない。彼はホッと安心の溜息をした。万事、困ることはなさそうである。彼女は出さなくてもいい、出さなくてもいいのだ、プリチャードはやっぱり完全な小間使だ。言葉にしろ、そぶりにしろ、しばしのあいだ二人の関係が主人と雇人とのそれとは別のものになっていた事実をほのめかす心配は絶対にないことを彼は知った。リチャード・ハレンジャーは、まことに幸福人であった。
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ロータス・イーター
たいていの人間は、というより人類の全部に近い大多数は、境遇が彼らにおしつけた生活をいとなんでいる。不平家は「四角い孔の丸い杭」の譬《たとえ》の通り、わが身の不遇を喞《かこ》って、もし事情さえいまのようでなかったら、ずっとましなことをやってみせるのだがと思っているけれども、やはり大部分の人は大悟《たいご》徹底とまではいかなくとも、ともかくもあきらめに住《じゅう》して、めいめいの運命を甘受している。いわば年じゅう同じ軌道の上を走っている電車のようなものだ。判で捺《お》したように行っては帰り、帰っては行き、もう動けなくなるまで走りつづけた揚句には、屑鉄にして売り払われる。むろん勇猛に自分の人生行路をおのが掌中におさめた人間も必ずしも稀ではない。もし諸君もそういう人物にめぐりあったときには、その人をよくよく観察するのもむだではないだろう。
わたしがトマス・ウィルソンに会って面白く思ったのも、この理由によるのである。彼のやったことは興味のある、かつ大胆不敵な行いであった。むろん結果はまだわかっていなかったから、実験が終るまではそれが成功したとは言えなかった。しかしわたしの聞いたところでは、彼はよほど奇妙な変り者であるらしく思われたので、わたしは会ってみたくなった。なかなか人に気をゆるさない男だという話だったが、わたしには辛抱づよく上手にやりさえすれば何でもわたしにうちあけるようになるという気持があった。わたしは事実を彼自身の口から聞きたかった。他人は大げさに、話を面白くしたがるもので、彼の身の上にしても、わたしが世間から信じさせられて来たほど風変りでもないことがわかることも、充分ありうるだろうと思っていた。
そして、やっと目的を達して彼とちかづきになったとき、この見方は正しかったことがわかった。それはわたしが一夏をカプリの友人の別荘で過すつもりで滞在していたときのことであった。日暮れ前のひととき、街のピアッザ(広場)には、土地の者も外国人も、住民の大部分が夕涼《ゆうすずみ》をたのしんで、親しい者どうしで語らっている。ナポリ湾を見晴らすテラスがあり、夕日が海に沈もうとする束の間、イスキアの島が燃える空の壮麗なかがやきを背に、影絵になって浮き出ている。それは世界の最もうるわしい眺めの一つである。わたしは別荘の持主である友人と並んで、そこに立っていた。すると友人が急に言った。
「おお、ウィルソンがいる」
「どこに?」
「あすこの欄干に、こっちへ背中を向けて腰かけてる、青いシャツを着た、あの男だよ」
わたしはあまり恰幅のよくない背中と、白髪まじりの、短い、かなり薄くなった髪の、小さな頭とを見た。
「こっちを向かないかな」
「もう少ししたら向くだろう」
「一緒に≪モルガーノ≫で一杯やろうと言ってくれないか」
「ああ、そうしよう」
威圧されるほどの絶美の瞬間はすぎて、太陽はオレンジの頭だけのようになり、葡萄酒の色に紅く染まった海へ沈みかかっていた。わたしたちはふりかえって、欄干にもたれ、そぞろ歩きの男女の往き交うすがたを眺めた。ひとびとはみな夢中で喋りながら歩いていた。その心地よく賑やかなさざめきが広場をみたしていた。そこへ、教会堂の鐘が、ややひびわれた、しかし快いゆたかな響きで、鳴りはじめた。カプリのピアッザこそは、港からのぼって来る歩道の上にそびえる時計台といい、正面の石段の上の会堂といい、ドニゼッティのオペラの舞台そのままで、群衆の騒々しいお喋りも、いまにもとどろくばかりの合唱になりはせぬかと思われる。まことに魅せられるような現実ばなれのした光景であった。
その風景の面白さに心を奪われていたので、わたしはウィルソンが欄干を離れてこちらへ歩いて来るのを知らずにいた。通りすぎようとする彼を、友人が呼びとめた。
「やあ、ウィルソン、この四五日、浜で逢わなかったね」
「ちょっと気を変えて、向うの浜で泳いでいました」
友人はそれからわたしを紹介した。ウィルソンは慇懃《いんぎん》に握手はしたが、べつにわたしに何の関心も示さなかった。大ぜいの遊覧客が、幾日か、幾週か、カプリを訪れるのだから、この男は来たかと思うと去ってゆく行きずりの男女と絶えず逢っているにちがいないのだ。それから友人が一緒に飲みにいこうと言った。
「ちょうど帰って晩飯を食べようと思っていたんです」
「少しのばせませんか?」わたしが訊いた。
「ええ構いません」彼は微笑して答えた。
歯ならびはあまりよくなかったが、彼の微笑は魅力があった。おだやかで、やさしい微笑であった。彼はブルーの木綿シャツと、よれよれの、いっこうに綺麗でない、薄いキャンヴァス地のグレイのズボンを着て、足にはひどく古びた運動靴《エスパドリーユ》をはいていた。このいでたちはいかにも絵になっていて、この場所と時候とにぴったりしていたが、あいにく彼の顔とはちっとも似合わなかった。皺の多い、濃く日にやけた、唇の薄い、そして小さな灰色の眼がすこし真中に寄っている、チンマリと詰まった眼鼻だちの顔である。白髪まじりの髪はていねいに撫でつけてある。醜い顔ではなく、きっと若い頃のウィルソンはかなりの好男子だったかも知れないのだが、窮屈な顔だちだ。彼はその襟の開いたブルーのシャツやグレイのキャンヴァス・ズボンを、それらが自分のものらしくなく、ピジャマ姿のままで難船して、気の毒に思った異国人から、ありあわせの古着を着せてもらった、といったような格好に着こなしているのだ。こんな無造作な服装をしているくせに、彼はどこかの保険会社の支店長みたいに見える。つまり本当なら黒の上衣に霜降りズボン、白いカラーにごく地味なネクタイといった装《なり》をしていそうな人物に見えるのだ。わたしは自分が時計を紛失したといって、彼のところへ保険金を請求に行ったときの様子が、目に見えるような気がした。この男は言葉だけは慇懃でも、そんな要求をする人間は莫迦か悪党にきまっているといった感じを露骨にみせて、わたしにいろいろな質問をあびせかけ、わたしはうまく返事ができなくてまごつくに違いないのだ。
わたしたち三人は連れだってピアッザを横切り、通りを「モルガーノ」の酒場まで歩いて行って、庭に席をとった。まわりの客たちはロシア語、フランス語、イタリア語、英語と、とりどりの国語で話をしている。わたしたちは酒をいいつけた。店の女房のドンナ・ルチアが、よたよたと近寄って来て、低い美しい声でわたしたちと月並な挨拶の言葉を交わした。中年で、肥満しているが、三十年前には大ぜいの画家たちを感激させ、沢山の下手な彼女の肖像画を描かせただけあって、そのすばらしかった容色の名残《なごり》をとどめている。大きな潤《うる》んだ眼はヘラ(ギリシャ神話、ゼウスの妹で妻なる嫉妬ぶかい女神)の眼であり、微笑は親しさと優しさにあふれている。わたしたち三人は暫くのあいだ、とりとめのない世間の噂話をした――カプリではいつでも話題になるような誰かの醜聞に事を欠かなかったからだが、さりとて特別に面白い話もなく、やがてウィルソンは席を立って出て行った。まもなくわたしたちも友人の別荘へ食事に帰ることにした。途中で、友人はウィルソンのことをどう思うかとわたしに質問した。
「べつにどうも思わないね」わたしは答えた。「きみから聞いた話には、一つも本当のところはないと思うよ」
「なぜ?」
「あれは、そんなことをしそうな男じゃないよ」
「ひとにどんなことがやれるか、どうしてわかるんだい?」
「ぼくはあの男を、ぜんぜん真当《まっとう》な実業家で、商売をやめて、公債証書かなんかの収入で裕福に暮らしているという風に見たいね。きみの話は、いかにもカプリにありそうな月並なゴシップにすぎないよ」
「そんなら勝手にそう思っているがいい」わたしの友人は言った。
わたしたちは「ティベリウスの浜」という名の浜で海水浴をする習わしだった。道路をいい加減のところまで走り降りてから、蝉の鳴きしきるレモン林や葡萄園の、真夏の太陽の熱気の息苦しいまでな香りのなかを抜けていくと、やがて崖の頂きへ出て、そこからまがりくねった小道を降《くだ》れば海である。一日か二日後、浜へ降っていくと、わたしの友人が言った。
「や、ウィルソンが帰って来た」
この海水浴場のたった一つの欠点は、そこが砂地でなくて小石だということだが、その浜辺の小石を踏んで近寄っていくと、ウィルソンはわたしたちに気づいて手を振った。パイプをくわえたままで立ちあがるところをみると、パンツのほか何も着ていなかった。彼の身体は暗褐色で、瘠せてはいるがやつれてはいない。皺だらけの顔や半白の髪から考えると、若々しいといってもいい。歩いて来たので暑かったから、わたしたちはいそいで裸になって、すぐに水に跳びこんだ。岸から六フィート離れたところは三十フィートの水深だが、水があまり澄んでいるので海底まで見える。水は温《ぬる》かったが、爽快であった。
わたしが水から出ると、ウィルソンはタオルを敷いた上へ腹ばいになって、本を読んでいた。わたしは巻き煙草に火をつけて、彼のそばへ行き、腰をおろした。
「気持よく泳げましたか?」彼がきいた。
彼はパイプを本の読みさしの個所に挾んで本を閉じ、かたわらの小石の上に置いた。わたしを話相手にするつもりらしい。
「実に好い気持でした」わたしは言った。「ここは世界一の海水浴場ですね」
「世間の人はあれを≪ティベリウスの浴場≫だと頭から信じていますがね」言いながら彼は半ぶん水のなかへ隠れて半ぶんだけ姿をみせている形のくずれた石造の建造物のほうを手で示した。
「しかしそんなことはでたらめですよ。あれはあの皇帝の離宮の一つだっただけです」
それはわたしも知っていた。しかし世間の人々がそう言いたいなら言わしておいてもかまわないことがある。だまって聞いていてやれば、相手は親切にしてくれるものだ。ウィルソンは思いだし笑いをした。
「おかしなやつですよ、ティベリウスは。いま彼について伝わっている話には、本当のことが一つもないのだから可哀そうですがね」
彼はティベリウスについてわたしに語りだした。ところで、わたしもスエトニウスは読んでいたし、初期ローマ帝国の歴史は何冊か読んでいたから、彼の語ることには大してめずらしい話は一つもなかった。しかしわたしは彼がなかなかの読書人であることを認めた。わたしはそのことを言った。
「ええ、まあ、この土地に住むようになったときには、自然、興味をもちましたからね、それに本を読む時間には不自由しませんから。こういう土地に住んでいると、いろんな連想があるから、歴史がひどく身近なものになるのですね。まるで自分が歴史のなかの時代に生きてるような気がしますよ」
ここで、これは一九一三年の話だということを言っておく必要がある。あの頃、世界は住みやすく、住み心地のよい場所であって、生活の静けさを甚だしくみだすような出来事がいずれ起ろうとは、誰も想像もできなかったのだ。
「ここへ来られて、何年ぐらいになりますか?」とわたしはたずねた。
「十五年です」紺青の静かな海へ眼をやって答える彼の薄い唇に、ふしぎに優しい微笑が浮かんだ。「わたしはこの土地に一目で惚れこんだのです。あなたもお聞きになったでしょう――ナポリからの船で、ちょっと昼飯を食うついでに≪グロッタ・アズーラ≫(カプリ島の北西岸、光線が海水を透して洞内を青い光線で満たすので≪青の洞窟≫と呼ばれる)を見物しようと思って、ここへ来た或るドイツ人が、そのまま四十年も居ついてしまったという伝説めいた話を。わたしもまあ、それとそっくり同じことをしたとは言えませんが、結局は同じことになるようです。もっともわたしの場合は四十年にはならないでしょう。二十五年です。しかしそれでも、生き馬の眼を抜くような手合にやりこめられてるよりはましですよ」
わたしは彼にまだそのさきを話させようと思って待った。というのは、いま彼が言ったことは、わたしが前に聞いた奇妙な話にも、やっぱりいくらかの根拠がありそうに思わせたからである。しかし、ちょうどそのとき、わたしの友人が、水から滴《しずく》を垂らしながら上って、一マイル泳いだというので大得意でそばへ来たので、会話はほかのことへ外《そ》れてしまった。
その後、わたしはピアッザや浜でウィルソンに数回逢った。いつも彼はにこやかで、愛想がよかった。彼はいつも愉快そうに話し、それでわたしは彼がこの島のことを隅から隅まで知っているばかりでなく、隣接した本土のこともよく知っていることを発見した。彼はあらゆる種類の題目について沢山の本を読んでいたが、最も得意とするのはローマ史で、この方面では実によく知っていた。想像力はあまりないほうで、普通以上の頭脳の持主ではなさそうだった。彼はよく笑うが、節度は心得ていて、ごくちょっとした冗談にもくすぐられるユーモアのセンスがあった。平凡な男である。わたしははじめて二人きりで話したときの妙な言葉を忘れずにいたが、彼はそれきり二度とその話題にあれ以上近づかなかった。ある日、海岸からの帰り、ピアッザで車を乗りすてた友人とわたしは、五時にアナカプリまで行くから、そのつもりでいるようにと運転手に命じた。わたしたちはモンテ・ソラロにのぼり、ひいきにしている旗亭《きてい》で食事をしてから、月光を踏んで山を降るつもりだった。ちょうど満月で、夜景はすばらしく美しかったからである。わたしたちが運転手に指図を与えているあいだ、ウィルソンもそばに立っていた。暑い埃っぽい道を歩くのは大変だから、わたしたちは彼を一緒に乗せてそこまで来たのである。わたしは別に理由もなく、お愛想のつもりで今晩一緒に行かないかと彼を誘った。
「今夜はぼくが奢るんです」とわたしが言った。
「よろこんでお伴しましょう」と彼は答えた。
ところが、いざ出かけるときになって、友人は気分がわるいと言いだした。あまり長く水のなかにいたので、長い道のりを歩きたくないというのだ。それでわたしはウィルソンと二人で出かけた。山へのぼって、絶景を賞美して、ちょうど日の暮れに宿屋へ引き揚げたときは汗になり、腹をすかせ、喉もかわいていた。夕食は前もって注文してあった。ここのあるじのアントニオは技量《うで》がよかったので、料理はうまかったし、葡萄酒も彼が自分の葡萄園で造ったものだった。味が実に軽くて、まるで水を呑むように呑めるような気がする。わたしたちはマカロニを食べながら一壜あけてしまった。二本目を飲み終った頃には、人生もたいして悪いものではないような気になった。わたしたちは庭園の、葡萄の房の垂れた大きな葡萄棚の下に腰をおろしていた。大気はえもいわれず温柔で、夜は静かで、わたしたちのほかには誰もいなかった。女中がチーズとイチジクの皿とを持って来た。わたしはコーヒーとストレニヤとを命じた。イタリアで出来るリキュールの最上のものはストレニヤである。ウィルソンは葉巻をことわり、自分のパイプに火をつけた。
「出かけるまでには、まだたっぷり時間がありますよ」と彼は言った。「あと一時間しないと、月は丘の上までのぼりませんから」
「月が出ても出なくても、とにかく時間はたっぷりありますよ」わたしは元気よく答えた。「カプリで嬉しいことの一つは、何事につけても急ぐことがないことですね」
「閑暇《かんか》です」彼は言った。「世間のやつにそれがわかればねえ! 人間の持ちうる最も貴重なものがそれなんだが、それが人間の目的とすべきものだということさえ知らない莫迦が世の中には多いんでね。仕事が何です? かれらは仕事のために仕事をしている。仕事の唯一の目的は閑暇を得ることにあるということを認識するだけの頭脳《あたま》がないのですよ」
酒は、ある人々を抽象的な思考にふけらせる効果がある。右のような言葉は正しいことは正しいのだが、それが独創的な考えだとは誰にも主張する資格はない。わたしは何も言わずに、葉巻に火をつけるためにマッチを擦った。
「はじめてカプリへ来たのは満月の夜でした」感慨深そうに彼は言葉をつづけた。「あれが今夜と同じ月なのかなあ」
「そうですよ」わたしは笑顔で言った。
彼は苦笑した。庭園には、わたしたちの頭上に吊るしてある石油ランプのほかには灯火はない。食事をするのには貧しい灯《あかり》だったが、いまはしんみりと打ち明け話をするには工合がよかった。
「いや、そういう意味ではないんです。あれが昨日のことじゃないかしらという意味なのですよ。十五年たったんですがね、思い返すと一月《ひとつき》のような気がします。わたしはそれまでイタリアヘは来たことがなかった。夏休みにやって来たのです。マルセイユから船でナポリへ行って、お定まりのポンペイとか、ペストゥムとか、そのほか一二の場所を見てまわりました。それから一週間の予定で、ここへ来ました。海からここの景色をみただけで、すぐに気に入りました――つまり、だんだんこの島に近づきながら、眺めているあいだにです。それから、汽船から小舟に乗り移って、船着場へ上って、例の、荷物を持たせろとうるさく付きまとう連中や、ホテルの客引きや、浜のつぶれかかった家々や、ホテルまで歩く途中の景色や、それからテラスでの食事や――もうそれで参ってしまったんです。ほんとの話ですよ。わたしはもう、あとさきもわからないほど夢中になりました。それまでカプリの葡萄酒を飲んだことはなかったが、話には聞いていました。きっと少し酔っぱらっていたに違いありません。みんな寝てしまったあとで、わたしはあのテラスに腰をおろして、月が海の上へのぼって来るのを見ていました。ヴェスヴィアスの山と、立ちのぼる大きな真紅の煙がみえました。もちろんいまでは、あのとき飲んだ酒は下等なカプリ葡萄酒だったことは知っていますが、あのときはそれで結構、気に入ったものです。しかしわたしを酔わせたのは酒じゃなくて、島の地形や、やかましく喋る群衆や、月や海や、ホテルの庭の來竹桃《きょうちくとう》だったのです。わたしは來竹桃を見たことがなかったんですよ」
長く喋ったので、喉がかわいたとみえる。彼はグラスをとりあげたが、酒は残っていなかった。わたしはストレニヤをもう一杯とろうかときいた。
「あれはしつこいですね。いっそ葡萄酒を一本とりましょう。あれは健全ですよ、葡萄の純粋なジュースだから、誰にも害はありません」
わたしは葡萄酒をもう一本とって、二つのグラスをみたした。彼はたっぷり一息に呑んで、いかにも快《こころよ》げに吐息を洩らしてから、語りついだ。
「あくる日、わたしはいまわたしたちの行く海水浴場へ行ってみました。わるくない海水浴場だと思いました。それから島のなかを歩きまわりました。ちょうど運よく、ティムベリオ岬でお祭りがあって、わたしはいきなりそのなかへ捲きこまれました。マリア像や司祭たち、振り香炉を持った侍僧たち、それに陽気に騒いで笑っている島の人々、なかには仮装しているのも大勢いました。わたしはそこで一人のイギリス人と出会ったので、この騒ぎはいったい何だとききました。
『ああ、これは聖母被昇天のお祭りです、とにかくカトリック教ではそう称していますがね、そんなことはこじつけですよ』とその男が言いました。『これはヴィナスの祭典です。つまり異教的なものですね。アフロディテが海から出てくるとか、そういった神話があるでしょう』その話を聞いて、わたしは実に妙な気持になりました。ずっと遠い昔へ引き戻されるような気持です、わかりますか? そのあとで、わたしはある晩、月夜の≪ファラグリオーニ≫を見物に行きました。もし運命がわたしに銀行の支店長をつづけさせる気だったら、あの晩の散歩をさせなければよかったんです」
「じゃ、あなたは銀行の支店長だったんですね?」わたしは訊いた。
わたしの想像はあまり間違ってはいなかったわけだ。
「そうです。わたしはヨーク・アンド・シティ銀行のクロフォード・ストリート支店長だったのです。ヘンドン街道のほうに住んでいたので、あの店はわたしには都合がよかったですよ。三十七分で通えましたからね」
彼はパイプをプッと吹いて、もう一度それに火をつけた。
「あれが最後の夜だったのです、あれがね。月曜日の朝には、銀行へ帰っていなければならなかった。あの海から突き出ている二つの大きな岩が、真上から月に照らされて、イカ釣り舟の漁火《いさりび》が小さくチラチラしている――何ともいえぬ美しい、平和な景色でした――それを見ながら、わたしはひとりごとを言いました、要するに、なぜ銀行へ帰らなきゃならないんだ? 誰もわたしに頼っている者があるではなし――妻が四年前に気管支炎で死んで、子供は妻の母親のところへ預けました。この婆さんが莫迦で、子供のめんどうをよく見なかったので、子供は敗血症にかかって、片脚を切断したんですが、やっぱり助からなくて、死にました。かわいそうな女の児でした」
「ひどいことでしたね」わたしは言った。
「ええ、わたしもそのときは参りました、もっとも、子供と一緒に暮らしていたら、もっと参ったでしょうがね。しかし、正直にいえば、ありがたかったですよ。片脚しかない女の児には、どうせ仕合せは望めませんからね。家内に対しても、かわいそうだと思っています。夫婦なかはごくよくてね――長つづきしたかどうかはわかりませんが。しょっちゅう他人の思惑ばかり気にかけている女でした。旅行が嫌いで、休暇にはイーストボーン(南イングランドの海水浴場)へ行くのが関の山でした。家内が死ぬまで、わたしは英仏海峡を渡ったこともなかったのですよ」
「しかし、ほかにも身内の人はあったんでしょう」
「一人もありません。わたしは一人っ児でした。父には兄弟が一人ありましたが、わたしの生まれる前にオーストラリアへ行ってしまいました。まあわたしぐらい、あっさり一人ぼっちになれた男は、世の中にいないような気がしますね。自分のしたい通りにしてわるいという理由は、わたしにはみつかりませんでした。そのときわたしは三十四でした」
この島へ来て十五年になると言ったから、いまは四十九歳になるわけだ。ちょうどわたしが察した通りの年齢である。
「わたしは十七の年から世の中へ出て働いて来ました。わたしの将来に期待できることといえば、来る日も来る日も同じことをやった揚句に、年金をもらって隠居することだけです。それが何になる? わたしは自分に問いかけました。何もかも投げだして、これからさきの生涯を、この島で過すのが、なぜいけないのだ? ここはおれの見た一番うつくしい土地なのだ。しかしわたしはビジネスマンとして訓練を受けていましたし、もともと用心ぶかい性質でした。『いや、いけない』わたしは言いました。『そう夢中になってはいかん。帰ると言った以上は明日は帰ろう、そうしてよく考えよう。たぶんロンドンへ帰ったら、考えも変るだろう』何という莫迦だったんでしょう、わたしは! そんな風にして、まる一年、むだにしてしまったのです」
「で、一年たっても、考えが変らなかったんですか?」
「その通り。働いているあいだ、ずっとここの浜辺や葡萄園や、丘の上の散歩道や、月や海や、島の人たちが一日の仕事を終って、お喋りをしながら散歩に来る夕方のピアッザのことばかり考えていました。一つだけ、気にかかることがありました――ほかの人間がみんな働いているのに、自分だけ働かなくても許されるものかどうか、自信がもてなかったのです。すると、ある歴史の本を――マリオン・クロフォードという人の書いた本ですが――読んだところが、それにシバリスとクロトナの話が出ていました。二つの市があって、シバリスの市民はただ生活をたのしんで、面白おかしく暮らしていたが、クロトナの市民はせっせと骨身をおしまず働いていました。するとある日のことクロトナの人たちがシバリスを襲って亡ぼしてしまったが、また暫くすると、どこかほかの市のやつがやって来て、クロトナを亡ぼしてしまった。シバリスには石ひとつ残らず、クロトナも、残ったものは一本の石の柱だけだったというのです。それでわたしの問題にはきまりがついたのですよ」
「ほう?」
「結局、同じことになるでしょう? そしていまからふりかえってみると、どっちが莫迦だったでしょうね?」
わたしは答えなかったので、彼は言葉をつづけた。
「金のことも、ちょっと厄介でした。銀行は三十年勤続者でなければ年金をくれません、その前に退職すると、退職一時金をくれるのです。その金と、家を売った金と、それまでに貯めた僅かな金とをあわせても、終身年金を買うのには少し足りません。愉快な生活をするためにすべてを犠牲にして、生活を愉快にするのに充分な収入を持たないというのは愚劣な話です。わたしは小さな住居と、世話をしてくれる召使を一人と、煙草や相当な食事や、ときどきの本を買うのに不自由しない金と、それに不慮の出費のときの用意と、それだけは欲しかったのです。それにはいくら必要か、わたしにはよくわかっていました。ちょうど二十五年間の年金が買えるだけの金しかなかったのです」
「そのとき三十五だったのですね?」
「そうです。六十までは、やっていけるわけです。要するに、誰しもそれ以上の長生きは望めないし、五十代で死ぬ者も沢山あります。それに六十になれば、一生のうちの一番いいところはもう生きてしまった時分です」
「ところが、誰でもかならず六十で死ぬとは、きまっていませんね」とわたしが言った。
「さあ、どうでしょうか。それは当人次第じゃありませんかね?」
「ぼくがあなただったら、年金の資格がとれるまでは銀行に勤めたでしょう」
「そのときには四十七になっているわけです。ここでの生活を楽しめないほど年齢《とし》をとりすぎてはだめなのです。いまのわたしは四十七より上になっても、前と同じに生活を楽しんではいますが、若い男だけが味わえる享楽を味わうにはもう老けすぎています。そうでしょう、三十のときと五十のときとでは、同じ程度に楽しい時をすごすことはできるけれども、その楽しさの性質は同じではないわけです。わたしは自分がまだ生活をゆたかに楽しむだけの精力や元気を失わないあいだに、完全な生活をしたかった。二十五年といえば、わたしには相当長い年数に思えました。二十五年間の幸福のためならば、よほど大きな犠牲を払うだけの値打ちがあると思いました。で、一年待とうと決心して、一年待ちました。それから辞表をだして、退職金を受けとると、さっさと年金を買って、この土地へ来ました」
「二十五年分の年金ですか?」
「そうです」
「それから一度も後悔しませんか?」
「ええ、一度も。わたしはもう払っただけの金に相当するものを手に入れました。そしてまだ十年、残っています。どうです。完全に幸福な二十五年間をすごしたあとなら、ああいい夢をみたと言って満足すべきじゃないでしょうかね?」
「たぶんね」
そのあとはどうするつもりか、彼は多くを語らなかったが、彼の意向は明らかだった。わたしの友人が話してくれたときはずいぶん変っていると思ったが、彼自身の口から聞いたときの印象はまた違っていた。わたしは彼をちらと盗み見た。人なみをはずれたところは、どこにも見えない。この小じんまりと整った顔つきの男をみて、誰でもそんな思いきった、世の中の習慣とちがった行動をとりそうだとは思わないだろう。わたしは彼を非難する気はなかった。こんな風変りなやりかたで設計した生活は彼自身の生活であって、彼が自分の好むところに従って行動してはならぬという理由はわたしにはみつからない。とはいえ、わたしは脊筋を走るかすかな戦慄を禁じえなかった。
「寒くなりましたか?」彼は微笑した。「そろそろ降りてもいい時分です。月はもうのぼっているでしょう」
別れる前に、ウィルソンは一度彼の家を見に来ないかとわたしを誘った。で、二三日後、場所をきいてから、わたしは彼に会いに出かけた。それは町からかなり離れた、海のみえる葡萄園のなかの百姓家であった。入口のわきに一本《ひともと》の夾竹桃があって、満開の花を咲かせていた。家はわずか二室と、小さな台所と、薪を積んだ差しかけ屋根の物置とがあるばかりである。寝室は修道僧の庵室のような質素なおもむきだが、煙草の香の心地よくただよう居間は、イギリスからとりよせた二つの大きなアームチェア、大きな畳み込み式のデスク、立型の小ピアノ、それに書物の充満した書棚など、いかにも住み心地がよさそうである。壁にはG・F・ウォッツやロード・レイトンの版画が額にしてかけてある。ウィルソンの話では、この家は丘の上のほうの百姓家に住んでいる葡萄園の持主から借りていて、その農夫の女房が毎日来て、掃除や料理をやってくれるという。彼ははじめてカプリへ来たときにこの場所をみつけ、次に来たときにそのまま借り受けて、ずっと住んでいるのである。ピアノの上に楽譜が開いてあるのをみて、わたしは彼がよく弾《ひ》くのかとたずねた。
「むろん下手ですがね、音楽はもとから好きで、ただ鳴らしているだけでとても楽しいのですよ」
彼はピアノの前に腰をおろして、ベートーヴェンのソナタの一節を弾いた。あまりうまくはなかった。楽譜をみると、シューマンにシューベルト、ベートーヴェン、バッハ、ショパンなどがあった。彼が食事をすませたテーブルに、脂でよごれたカルタが一組あった。わたしはペイシェンスをするのかと訊いた。
「始終やっています」
そのときに見た彼の生活と、ほかの人々から聞いた話とを綜合して、わたしは彼の過去十五年間の生活について、ほぼ正確と信じられる概略をつくりあげてみた。それは明らかに極めて無害な生活であった。彼は水浴をした。またたくさん散歩をし、そしてこの間、彼はこの島の知りぬいている風景の美を愛でる感覚を決して失うことがなかったようである。彼はピアノを弾き、ペイシェンスに時を過した。読書をした。パーティに招かれれば出席し、客として少し退屈ではあったが、誰にも嫌われなかった。相手にされなくても腹を立てなかった。人づきあいはよかったが、どこか超然としているので、特に親しくはなる者がなかった。つましく暮らしていたが、充分に慰楽を味わっていた。決して金を借りなかった。察するに彼はセックスにはあまり悩まされない男であったようで、初期のまだ若かった頃には、時折りこの島の雰囲気にのぼせた遊覧客とのあいだに、ゆきずりの情事はあったにしても、彼の情熱は、それがつづいているあいだも、つねに抑制の手綱をひきしめられていたに違いない。けだし彼はおのれの精神の独立を何ものにもさまたげられまいと、かたく決心していたのである。彼の情熱はもっぱら自然の美にのみ向けられ、人生が万人に与える単純で自然なもののうちに幸福を追求した。それは悪《にく》むべき利己的な生活だという人もあるかも知れない。その通りである。彼は誰の役にも立たぬ人間であったが、その反面、彼は誰の迷惑にもならぬ人間であった。彼の唯一の目的は彼みずからの幸福であり、しかも彼はその目的を達しえたかのごとくである。世に幸福をいずこに求むべきかを知る人は少ない。いわんやそれをみいだした人はさらに少ない。彼が愚人であったか、賢者であったか、わたしは知らぬ。ただ明らかなことは彼がおのれ自らの心を知っている人であったことだ。わたしにとって、彼について奇妙に思えるのは、彼が途方もなく下らない人間だったことである。もしもある一事について知らなかったら、わたしはあれきり彼に一顧《いっこ》も払おうとはしなかったであろう――その一事とは、当時から数えて十年後の或る日、もしもその前に何かふとした病気にでも罹って生命の綱が切られでもしない限りは、彼はかならず冷然とおのれの意志によって、あれほど愛していたこの世を去るであろうということであった。この考えがつねに念頭を去らないためにこそ、彼は毎日のあらゆる瞬間をエンジョイしようとする異様な熱意に燃えていたのではなかろうか。
彼には自己を語る習癖がまったくなかったことを、ここで述べておかないとすれば、彼に対して公平を欠くことになるであろう。おそらくわたしを泊めてくれていた友人は、彼が内心をうちあけた唯一の相手であったろう。わたしに向ってこの話をしたのは、単にわたしがすでに知っていることと察したためにすぎず、あの宵、それをわたしに話したときには、彼は例になく酒を飲んだあとであった。
わたしの滞在はやがて終り、わたしは島を去った。翌年、戦争が勃発した。わたしの身の上にもさまざまの事が起り、わたしの生活の進路も大いに変化したので、わたしがふたたびカプリ島をおとずれるまでには十三年の歳月が流れた。例の友人はしばらく前に島に戻っていたが、以前ほどには羽振りもよくなかったので、彼が移った家にはわたしを泊める余裕はなかった。それでわたしはホテルに泊るつもりであった。彼が汽船まで迎えに来てくれて、わたしたちは食事をともにした。食事のあいだに、わたしは彼の家がどこにあるのかとたずねた。
「きみの知っている家だよ」彼は答えた。「ウィルソンの住んでいた、あの小家さ。ぼくは建て増しをして、なかなか綺麗に改造したよ」
ほかの沢山のことがわたしの頭にあったので、わたしはもう何年もウィルソンのことを思いださなかった。しかしいま、いささかギョッとした気持で、わたしは思いだした。わたしが知りあった当時、余生として彼が将来に持っていた十年間は、とうの昔に過ぎ去ったはずだ。
「やっぱり、自分で言っていたように、自殺をしたのか?」
「それがね、どうも、ちょっと陰惨な話でね」
ウィルソンの計画はうまく出来ていた。それにはたった一つ、隙《すき》があったのだが、それを、彼はたぶん、予見することができなかったのである。二十五年間の完全な幸福の後に、この浮世ばなれした静かな土地で、この世に何ひとつおのれの閑寂をみだすものもなく暮らしているうち、彼の性格は徐々にその力を失ってゆくだろうとは、彼にはまったく思いも寄らないことであった。意志はその力をふるうために障碍《しょうがい》を必要とする。意志が少しも妨害されなければ、すなわち自己の欲求を達するのに何の努力をも要しないならば――手をのばしさえすればとどくものだけに自己の欲求を限定してしまえばそうなるわけで――そのとき意志は無力化する。もし絶えず平地だけを歩いていれば、山に登るのに必要な筋肉は萎縮するだろう。こんな議論は陳腐だけれども、やはり事実に即しているのだ。ウィルソンの年金の期限が切れたとき、彼はもはやあの長期にわたる幸福な閑暇に対して支払うことを承諾していたはずの代償たる結着をつける決意を失っていた。友人の物語や、後に他の人々から聞いた話によって、わたしの解しえた限りでは、彼は勇気を欠いていたとは思えない。彼は単に決心することができなかったのである。一日のばしに、実行をのばしていたのである。
あれだけ長いあいだこの島で暮らし、しかも勘定はいつもきちんと払っていたので、彼は楽に借金をすることができた。これまで一文の金も借りたことのない彼は、そのときになって些かの金を借りようとすると多くの人々が喜んで貸してくれることを知った。長いあいだ家賃もちゃんと払っていたので、家主も数カ月の滞納に何の文句も言わなかったし、家主の女房のアスンタは相変らず彼の身の廻りの世話をしてくれた。親戚が一人死んだために、法律上の手続きに手間どって、自分のところへ来るべき金がしばらく来ないので困っているという話をしても、誰も彼を信じない者はなかった。こんな調子で、彼はどうにか一年以上もごまかし通した。やがて土地の商人からも借りがきかなくなり、金を貸してくれる人もなくなった。家主は、いついつまでに家賃の未払い分を払ってくれないなら立ち退いてくれと言って来た。
その期限の日の前日、彼は小さな寝室へ入り、ドアと窓を締め切り、カーテンを引き、火鉢に炭火をおこした。翌朝、アスンタが朝飯の支度に来て、意識を失いながらまだ生きている彼を発見した。寝室には隙間風があって、空気を入れないように一通りの工夫はしたものの、彼は徹底的にはそうしなかったのである。最後の瞬間に、もはや動きのとれぬどたん場に追いこまれていたにもかかわらず、彼は意志薄弱に陥って目的を遂行することができなかったとさえ思われる節があった。ウィルソンは病院へかつぎこまれ、しばらく非常な重態であったが、結局、助かった。しかし、炭素ガスの中毒のためか、精神的ショックのためか、彼はもはや精神能力の完全な把持《はじ》を失っていた。狂人というほどではなく――とにかく精神病院に収容されるほどの狂人ではなかったが、もはや正気ではないことは歴然としていた。
「ぼくは見舞に行った」とわたしの友人は言った。「話を聞きだそうとしてみたが、まるでぼくにどこで逢ったことがあるのか思いだせないような変な顔つきで、ぼくの顔を見てばかりいた。一週間ぐらいの顎鬚を伸ばして寝ている姿は、何だか汚ならしかったが、いま言った変な眼つきのほかは、べつに異常がないようだったよ」
「どんな眼つきだった?」
「うまく説明できないんだがね。困惑というかな。突飛な例だが、空へ向って石を投げたとするね、その石が落ちてこないで、そのまま空中にとまっていたら……」
「めんくらうだろうね」わたしは微笑した。
「うん、そういった眼つきをしていたんだよ」
彼をどうしたらいいかは、むずかしい問題であった。彼には金もないし、金を取る手段もない。動産は売却されたが、負債をつぐなうにはとても足りなかった。イギリス人なので、イタリアの当局は彼のために責任をとるのを厭がった。ナポリのイギリス領事はこの事件を処理するだけの予算を持たなかった。むろんウィルソンをイギリスへ送還することはできるが、帰国してからの彼をどうしてやれるものか、誰にもわからない。すると、女中をしていたアスンタが、もとは親切な旦那で、払いのいい借主だったし、お金のあるあいだはよくしてくれたのだから、自分たち夫婦の住んでいる家の物置に寝かして、食べさせてあげてもいいと言いだした。この話が彼に伝えられた。彼がそれを理解したかどうか、よくわからなかった。アスンタが病院へ彼を引取りに来たとき、彼はだまって彼女について行った。もう自分の意志をまるで持たない人のようだった。こうして彼女は二年間、彼をやしなって来た。
「あまり気分のいい暮らしではないよ」とわたしの友は言った。「夫婦は名ばかりのベッドをこしらえて、一二枚の毛布をくれたが、窓はないし、冬は凍えるほど寒くて、夏は窯《かまど》のように暑い。食べものもひどいものだ。きみもここの百姓たちがどんなものを食べてるか知ってるだろう。マカロニは日曜日だけ、肉はごくたまにしか食わないのだ」
「何をして日を暮らしているのかね?」
「丘を歩きまわっている。ぼくは二三度、会おうとしたんだが、だめだった。人が近寄って来るのをみると、兎みたいに走って逃げてしまう。アスンタが時たま、ぼくのところへ話をしに来るから、ウィルソンに煙草を買ってやってくれといって、少しばかりの金を渡してやるんだが、それがあの男の手に渡るかどうか、わかりゃしない」
「夫婦はよくめんどうをみてくれるのかい?」
「アスンタは親切にやってくれてると思うね。まるで子供のようにあつかってるんだ。亭主のほうは、あまり好意的でないだろうな。金がかかるといって、文句を言うのだ。虐待するとか、そういったことはしないと思うが、少しばかり邪慳《じゃけん》にはするようだ。水くみ、牛小屋の掃除、そういった用をさせている」
「悲惨な話だ」わたしは言った。
「身から出た錆《さび》だよ。要するに、あの男に相応した、当然の報いを受けたわけだよ」
「うむ、結局は、ぼくらはみんな自分に相当した報いを受けるんだがね。しかし、それにしたって、やっぱり厭な話だな」
二三日後、友人とわたしとは散歩をした。オリーヴの林のなかの細道にさしかかったとき、急に友人が言った。
「ウィルソンがいる。見ちゃいけないよ、あの男をおびえさせるだけだから。まっすぐ歩こう」
わたしは小道から眼をそらさずに歩いていったが、眼の隅で、一人の男がオリーヴの木蔭に隠れるのを見た。われわれが近づいても動かなかったが、わたしは彼がわたしたちをみまもっているのを感じた。通りすぎると、たちまち走り去る音が聞えた。追われる獣のように、ウィルソンは逃げ去ったのだ。これがわたしの彼をみた最後であった。
彼は昨年死んだ。ああした生活を、彼は六年間、忍びつづけたのだ。彼はある朝、山の斜面に、まるで眠ったまま死んだように、やすらかに横たわっているのをみつけられた。彼の横たわっていた場所から、彼はあの「フラグリオーニ」と呼ばれている、海中から突き出た二つの大岩を眺めることができたはずである。ちょうど満月の夜であったから、彼はきっと月かげを踏んであの岩を見に行ったのに違いない。おそらく彼はその風景のうるわしさの故に死んだのであろう。
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ジゴロとジゴレット
酒場《バア》はこんでいた。サンディ・ウェストコットはカクテイルを二杯のみ終ると、だいぶ空腹を感じはじめた。彼は時計をみた。九時半に晩餐によばれていたのだが、いまはもう十時に近い。イーヴァ・バレットが約束に遅れるのはいつものことで、十時半までに何か食べられるようになれば運のいいほうだ。彼はもう一杯カクテイルを注文しようとバアテンダーのほうへ向き直ったとき、ちょうどバアへ入って来た男のすがたが目に入った。
「やあ、コットマン」と彼は言った。「一杯のもうか?」
「ええ、けっこうですな」
コットマンは様子のいい男で、年は三十ぐらいだろうか、背は低いが、姿がいいので、とてもそんな年には見えない。ダブルの夜会服《ディナ・ジャケット》は少しばかり生地を使いすぎている感じで、蝶ネクタイは目立って大きすぎるが、着こなしは実にスマートである。黒い、ウェーヴの多い髪が厚く、つやつやしく光っていて、それを額からまっすぐ後ろへ撫であげている。大きなよく光る眼だ。非常に洗練された話しぶりだが、コックニイ(ロンドンの下町ふう)弁である。
「ステラは?」とサンディが訊いた。
「ええ、変りありません。相変らずショウの前には、ちょっと横になるのが好きでしてね。神経をしっかりさせるんだって言ってます」
「ぼくなら、千ポンドもらったって、あんな離れ技はごめんこうむるね」
「そうでしょうとも。誰だって、あの高さからじゃ、あの女以外にはできる者はありません、しかも水の深さは五フィートしかないのですからね」
「あんなゾッとする見ものは、ぼくは見たことがなかった」
コットマンは軽く笑った。彼はこの言葉を褒め言葉として受け取ったのである。ステラは彼の妻であった。むろんこの曲芸をやって危険を冒すのは彼女のほうであるが、炎のことを思いついたのは彼で、そして世間の興味をひきよせて、この番組を今度のような大成功にみちびいたのは、この炎のためなのである。ステラは高さ六十フィートの梯子のてっぺんから下の水槽《タンク》のなかへ跳びこむのだが、いま彼が言った通り水槽には深さ五フィートの水しか入っていない。彼女がダイヴする寸前に、水面をすっかり蔽うだけのガソリンを流しこみ、コットマンがそれに点火する。炎は燃え立って、その真只中へ彼女は突っこむのだ。
「パコ・エスピネルも、このカジノはじまって以来の呼びものだと言っていたよ」とサンディが言った。
「ええ。パコは、まだ六月だのに、いつも八月に出ると同じ数の晩餐《ディナ》を出してると、わたしに言いましたよ。きみたちのおかげだ、とわたしに言うんです」
「ふむ、きみらも一身代《ひとしんだい》、できるだろう」
「さあ、そこのところは、はっきり言えないんです。だってそうでしょう、わたしたち夫婦が契約したときには、こんな大当りになるとは知らなかったんですから。しかしエスピネルさんは、来月もわたしたちを使うと言ってくれていますから、あなたには話したってかまいませんが、まさか今月と同じ条件とか、そんなことじゃ、雇うとは言うまいと思ってますよ。何しろ、今朝も、あるエージェントから手紙が来て、この次ドーヴィルへ出てもらえないかなんて言って来ましたからね」
「や、連れの連中が来た」とサンディが言った。
彼はコットマンに軽くうなずいて、そばを離れた。イーヴァ・バレットが、ほかの客たちと一緒に繰りこんで来た。彼女は階下でこの連中が集まるまで待っていたのだ。パーティは八人であった。
「あなたはきっとここだと思ったのよ、サンディ」と彼女は言った。「あたし、遅れなかったでしょ?」
「たった半時間ですよ」
「みなさんに何のカクテイルがいいか訊いて頂戴、そのあとでお食事にしましよう」
もうほとんど全部の客が食事のためにテラスへ降りてしまったので、酒場には彼らの一団が立っているきりだった。そこへパコ・エスピネルが通りかかって、イーヴァ・バレットと握手するために足をとめた。パコ・エスピネルは財産を蕩尽してしまった若い男で、いまはこのカジノのアトラクション番組を組む仕事で生計を立てている。富豪や勢力家に愛嬌をふりまくことは彼の義務なのである。チャロナー・バレット夫人はアメリカから来た未亡人で、大金持である。客を集めて大盤振舞《おおばんぶるまい》をするばかりでなく、賭博をも好んでいる。そして要するに、ここの晩餐や夜食の料理も、それに付随する二回のキャバレエ・ショウも、食卓で人々に金を使わせるためにのみ用意されたものなのだ。
「パコ、いいテーブルをとっておいてくだすった?」とイーヴァ・バレットが言った。
「最上のをとっておきました」パコの眼――美しい、黒眼がちのアルゼンチン人らしい眼は、バレット夫人のお大尽らしい姥《うば》ざくらの魅力への渇仰の情を表現した。これまた商売の一部である。「ステラはもうごらんになりましたね?」
「見ましたとも。もう三度。あたしが見た一番すごい見世物ですわ」
「サンディは毎晩、来てくれます」
「ぼくは死ぬときに居あわせたいんだよ。彼女は毎晩やってるうちに、いずれ死ぬにきまってるんだから、できるものならそれを見のがしたくないのさ」
パコは笑った。
「これだけ当りをとりましたからね、来月もつづけてやらせるつもりです。わたしとしては、ステラが八月の末まで死なずにいてさえくれれば、文句はないんです。そのあとはご勝手次第ですよ」
「おい、助けてくれ、おれは八月の末まで、毎晩マスとロースト・チキンを食いつづけなければならんのかい?」とサンディが叫んだ。
「ひどい悪党ね、あんたは」とイーヴァ・バレットが言った。「さ、ではお食事に行きましょう。あたし、おなかがすいて死にそうよ」
パコ・エスピネルはバアテンダーに、コットマンを見なかったかと訊ねた。バアテンダーは、さっきウェストコットさまと御一緒にお酒をいただいてましたと答えた。
「そうか、よし、もしまたここへ来たら、わたしがちょっと話があると言ってくれ」
バレット夫人はテラスへ降りる階段の上に立ち止って、ぼさぼさ髪の、小柄な瘠せた女新聞記者が、ノート片手に上って来るのを待った。サンディが小声で今夜の客たちの名を教えた。これはリヴィエラの代表的名士のパーティなのである。まずイギリスの上院議員夫妻がいる。二人とものっぽで瘠せていて、御馳走をしてくれる人があればいつでも招きに応じる人たちで、二人とも十二時前には一対の太鼓のように腹を張らせること受け合いである。次は幽霊のようにやつれたスコットランド女、十世紀も風雨にさらされたペルーのお面のような顔だ。その良人はイギリス人で、職業はブローカーだが、淡白で軍人ふうで、精力的な人物。実に剛毅、誠実という印象を与える人物で、彼から特別の好意で何かいいことをしてもらった人があるとして、それが思惑はずれに終った場合、相手は自分よりも彼に対して気の毒に感じるほどである。そのほか、イタリア人の伯爵夫人がいたが、この女性は実はイタリア人でも伯爵夫人でもなく、ただすばらしくブリッジが上手なのである。またロシア人の公爵も一人いたが、これはバレット夫人を公爵夫人にする野心充分で、そうして交際《つきあ》っているあいだにシャンペーン、自動車、古名画などを彼女に売って、コミッションを稼いでいた。テラスではダンスがはじまっていて、それの終るのを待つバレット夫人は、短い上唇に侮蔑の表情を浮かべながら、ダンス・フロアに密集して動いている男女の群を眺めやっていた。テラスの向うは凪《な》いだ海で、波音は一つも聞えない。音楽がやむと、愛矯たっぷりの給仕頭が、夫人をテーブルへ案内するために歩み寄った。夫人は王后のような堂々たる足どりで、階段をおりた。
「ここなら跳びこみは、よく見えましょう」腰をおろしながら彼女は言った。
「ぼくは水槽の隣りに坐るのが好きです」とサンディが言った。「顔がよく見えるから」
「綺麗な顔しています?」伯爵夫人がきいた。
「そういうわけじゃありません。眼の表情が素敵なんです。いつも、やるたびに、死にそうにおびえているんです」
「いやあ、わしにはそう思えませんな」と言ったのは株屋の紳士で、グッドハート大佐という名だが、実は誰もどうして彼が大佐の肩書を手に入れたか、知っている者はない。「というのはですな、あの曲芸全体が、一つのごまかしにすぎんというのですよ。つまり、全然、危険はないのです」
「あんたの言うことは意味をなしませんよ。あの高さから、あれっぽっちの水のなかへ跳びこむんですから、水に触れた瞬間、稲妻のように向きを変えなきゃならないんです。もしうまくそうしなければ、底に頭をぶっつけて、背骨を折ってしまうほかないでしょう」
「そこのところを言うとるんですよ、わしは」大佐は言った。「そこがトリックです。要するに、論ずるまでもないことです」
「もし危険がないとすれば、何の見どころもないわけですわ」とイーヴァ・バレットが言った。「ほんの一分間で終ってしまうんですもの。あの女が生命を賭けているんでないとすれば、これは現代最大の詐欺ですわ。この離れ技を何べんも見に来ているのに、それがインチキだなんて、おっしゃらないでよ」
「いや、全部が立派なインチキですよ。わたしの言葉通り、信じられていいですよ」
「まあ、やがておわかりになるでしょう」とサンディが言った。
この言葉をしつこいあてこすりと大佐が思ったかどうか、思ったにしても彼は実に立派にその気持を隠しおおせた。彼は笑った。
「わしも、少しは物がわかっとるつもりですよ。つまり、眼を皿のようにして見なきゃならんと思っとることは事実です。あまりわしをやっつけないでくださいよ」
水槽はテラスのずっと左手にあって、そのうしろに、張り綱で支えられた、ものすごく高い梯子が立てられ、その頂上には小さな踏み切り板があった。さらに二三回のダンスが終り、イーヴァ・バレットの一座がアスパラガスを食べているときに音楽がやんで、照明が暗くなった。水槽に向けてスポット・ライトがあてられた。コットマンのすがたが、その強い光のなかに見られた。彼は五六段、梯子をのぼり、水槽の表面と同じ高さに立った。
「淑女ならびに紳士のみなさま」大きな、はっきりした声で、彼は口上を言った。「これより今世紀の最も驚異的な曲芸をごらんに入れます。世界一のダイヴァ、マダム・ステラが、六十フィートの高みより、深さ五フィートの炎の海へ跳びこみます。これこそ未だかつて試みられたことなき離れ技でございまして、マダム・ステラは何人《なんぴと》であれ、これを試みる方《かた》に百ポンドを進呈する用意がございます。では、淑女ならびに紳士のみなさま、マダム・ステラを御紹介することを光栄といたします」
テラスへ通じる階段の上に、小柄な一人物があらわれて、水槽のところへ走り寄り、観衆の喝采にこたえて一礼した。彼女は男子用の絹のドレッシング・ガウンをまとい、頭には水泳帽をかぶっていた。細おもての顔には、舞台へ出る芸人と同様のメーキャップをしている。イタリアの伯爵夫人は、手眼鏡《フアサマン》で、彼女を見た。
「美人じゃありませんわね」と彼女は言った。
「いい身体ですわ」どイーヴァ・バレットは言った。「いまおわかりになるわ」
ステラはドレッシング・ガウンを脱いで、コットマンに渡した。コットマンは梯子を降りた。彼女はしばし下に立って、見物を眺めていた。見物は暗いところにいるので、彼女にはぼんやりと白い顔や白いシャツの胸が見えるだけである。小づくりな、美しい姿態で、胴のわりに脚が長く、腰はすらりとしている。水泳着に隠した部分はごく少かった。
「イーヴァ、あなたの言われた通り、いい身体ですな」と大佐は言った。「むろん、いささか発達が足らんが、ご婦人達にはああいうのがお気に召すでしょうな」
ステラは梯子をのぼりはじめ、スポット・ライトは彼女の姿を追った。信じられないほどの高さに見えた。助手が水の表面に石油を流しこんだ。コットマンの手に、燃える松明《たいまつ》が渡された。彼は梯子の頂上にステラが達して、跳びこみ板の上に姿勢をととのえるのをみまもっていた。
「レディ?」彼は叫んだ。
「イエス」
「ゴー」彼は叫んだ。
叫ぶと同時に、彼は燃える松明を水のなかへ投げこんだと見えた。炎が燃えたち、高く跳ねた。すさまじい景色である。と同時に、ステラはダイヴした。彼女は一閃の稲妻のように落下して、炎のなかへ突入し、その炎は彼女が水に達した一瞬後には燃えしずまっていた。一秒の後には彼女は水面にうかび上り、怒濤のような歓呼の嵐のなかで水槽から躍り出た。コットマンがドレッシング・ガウンで彼女の身体を包んだ。彼女は幾度も頭をさげ、喝采はなおも続いた。音楽がはじまった。ステラは最後に手を一振りして、階段を駈けおり、客席のテーブルのあいだを通ってドアに消えた。灯火がついて、給仕人たちはいままで控えていたサーヴィスにせわしくはたらきだした。
サンディ・ウェストコットは溜息をついた。失望したのか、それともホッと安心したのか、自分でもわからなかった。
「世界一じゃ」イギリス貴族が言った。
「子供だましですよ」大佐がイギリス人らしい頑迷《いこじ》さで言った。「わしは何でも賭けますぞ」
「ずいぶん呆気《あっけ》なく済んでしまいますのね」と上院議員の奥方が言った。「高いお金を払った割には――」
どのみち、その金は彼女が払うのではなかった。絶対にそんな気づかいはないのだ。イタリアの伯爵夫人が、前へ乗りだした。彼女の英語は流暢だったが、訛《なま》りは強かった。
「イーヴァ、あのバルコニーの下のドアに近い席にいるのは、ずいぶん変った人たちね、誰でしょう?」
「ふむ、実に面白いですな」とサンディが言った。「ぼくもさっきから、眼が離せないんですよ」
イーヴァ・バレットは、伯爵夫人の指さすテーブルのほうを見た。ロシアの公爵も、彼は問題の席にうしろを向けてかけていたので、そっちを見るためにぐるりと振り向いた。
「まあ不思議、ほんととは思えないわ」とイーヴァは叫んだ。「アンジェロを呼んで、あの二人が誰だか訊きましょう」
バレット夫人は、ヨーロッパじゅうの主だった料理店の給仕頭を、みんなファースト・ネームで知っている女性の一人であった。彼女はちょうどそのとき彼女のグラスに酒を注いでいた給仕に、アンジェロをここへよこすようにと命じた。
たしかに、それは奇妙な男女の一対であった。二人は小テーブルに二人だけで座を占めていた。二人ともたいへんな年寄りである。男のほうはがっしりした大男で、ゆたかな白髪、太いもじゃもじゃの白い眉毛、さらにひどく大きな白い口髭をたくわえている。イタリアの故ウムベルト国王に似ているが、この老人のほうがずっと王様らしかった。腰をまっすぐに、威儀を正して椅子にかけていた。着ているのは正式な夜会服で、白ネクタイとカラとは三十年近く流行におくれた代物である。同席しているのは黒のサテンの舞踏会服を着た老婦人で、その服は襟もとが非常にゆるく、胴《ウエスト》はぴったりひきしまった仕立てである。頸のまわりには派手な色の小珠《ビーズ》を連ねた頸飾りを何本もかけている。すぐに鬘《かつら》をかぶっていることがわかるのは、ひどく頭に合わないかつらと言える。巻き毛やら髷《まげ》やら、ひどく念入りに造ったもので、色は烏《からす》の濡れ羽色だ。顔は、こちらが気恥しくなるような厚化粧で、眼の下や眼蓋《まぶた》には濃い青、眉毛はしたたかな黒、両頬にべっとりピンクの紅、そして唇はどす黒いほどの真紅に塗られていた。肌は皺が深くできるほど、だぶだぶに顔じゅうに垂れさがっている。大きな、不敵な両眼が、射るようにあちこちのテーブルに注がれている。彼女は何ひとつ見のがさず、しかも何かみつけるたびごとに次々と老いた男の注意をうながすのである。この老爺《ろうや》と老媼《ろうおう》の一対は、一分の隙もない瀟洒たる男女の客たち――男はディナ・ジャケット、女は薄ものの色も薄いフロックで――のなかでは、あまりにも現実ばなれした異様なものに見えたので、多くの男女の眼がこの二人に向けられていた。その見られていることが、老婦人には一向、苦にならないらしい。自分を見ている人の眼に気がつくと、彼女はその眉を弓なりに高く挙げ、にっこり笑って、眼をくるくると廻してみせる。いまにも見物の喝采に応じるつもりのようだ。
アンジェロが、大切なお客イーヴァ・バレットのそばへ急いで近づいた。
「ご用でございますか、奥方さま?」
「ああ、アンジェロかい、いまね、あのドアに一番近いテーブルにいらっしゃる、すばらしくお立派なお二人は、いったいどなたなのか、それが知りたくて、夢中になってるところなのよ」
アンジェロはそちらを見て、それから、感心しない、という態度をとった。顔の表情、両肩の動かしかた、背骨のひねりかた、両の手つき、おそらくは爪さきの向け加減までが、すべて、なかばユーモラスな弁解の気持をあらわしていた。
「奥方さま、あの二人はどうぞお見のがしくださいまし」アンジェロはむろんバレット夫人が、「|奥方さま《ミ・レイディ》」などと呼ばれる身分でないことを知っていた――それはイタリアの伯爵夫人がイタリア人でも伯爵でもないことや、イギリスの上院議員が他人が払ってくれる場合のほか一杯の酒も金を払って飲んだことがないということを知っていたのと同じくらいよく知っていた――が、同時に彼は、このように呼びかけられることが、ミセス・バレットにとって悪い気持でないことも、よく知っていたのである。「マダム・ステラのダイヴィングをぜひ見たいから、一テーブルとってくれろと、わたくしはあの二人に、たのまれました。以前、同じような商売をしていた者なんでございます。このお店で食事をしてもおかしくないような身分の人たちでないことは、手前もよく存じておりますが、ああ言ってたのまれますと、気の毒でことわれなくなりまして――」
「でも、二人とも立派な人たちじゃないの。あたしはすてきだと思うわ」
「手前はもう昔からの知り合いでございましてな。男のほうは、実は同国人でもございます」給仕頭は卑下するような苦笑を洩らした。「ダンスをしないと約束してくれるなら、テーブルを一つ、工面しようと、手前は申したんでございます。用心はしないとなりませんので、奥方さま」
「そう、でもあたしは、あの二人のダンスを見たいような気がするわ」
「物事は、どこかに区切りをつけませんと、いけませんです、奥方さま」アンジェロは真面目な顔で言った。
そして彼は微笑し、もう一度お辞儀をしてから、引き下った。
「おお」サンディは叫んだ。「帰っていきますよ、あの二人は」
おかしな老夫婦は勘定を払っていた。老爺のほうは立ち上って、妻の頸に大きな、白い、だがあまり真白ではない羽毛の首巻《ボア》を捲かせてやった。老婆は立ち上った。夫は反りかえるほど真直ぐな姿勢で妻に手を貸した。夫にくらべて余計に小さく見える妻は、夫の腕にすがりながら、歩みだした。黒いサテンのドレスは裾を長くひきずっていたので、イーヴァ・バレットは(もう五十の坂をだいぶ過ぎているくせに)嬉しがって嬌声《きょうせい》を発した。
「まあ、ごらんなさいよ、あたしがまだ小学生だった頃に、母がああいうドレスを着てたんですよ、あたしおぼえていますわ」
滑稽な一対は、腕を組んだままで、カジノの広い部屋部屋を通り抜け、やがて出口まで来た。
老爺は守衛の一人に話しかけた。
「すまんが、楽屋へ行く道を教えてくださらんか。わたしたちはマダム・ステラに、敬意を表したいと思いますのでな」
守衛は二人を見て、値踏みした。それによると、この老夫婦はていねいにあしらう必要のある人種ではなかった。
「行ったって会えませんよ」
「まだ帰られたわけではなかろうが? たしか、二時に、二度目の出番がおありじゃと思うたが?」
「その通りでさあ。バアにいるでしょうよ」
「バアなら、ちょっと行って、お目にかかってもいいわね、カルロ」と老婦人が言った。
「よかろうとも」彼女の夫はやさしい声で(Rの発音はものすごい捲き舌で)答えた。
夫婦はゆっくりと大階段をのぼって、酒場《バア》へ入った。そこはすいていたが、二番バアテンが一人と、隅のアームチェアに男女の一組がいるきりだった。老婦人は夫の腕から離れて、両手をさしのべながら、隅の男女のほうへ歩み寄った。
「まあ、今晩は! あたしはどうしてもあなたに会って、お祝いを言いたかったんですよ――同じイギリス人として、また同業の者としてね。ほんとに大したお仕事ですもの、大当りするのはもっともですよ、ステラさん」そこでコットマンのほうへ顔をむけて、「ご主人?」
ステラはアームチェアから起き上って、老婦人のまくしたてるのを、ちょっとめんくらいながら聞いていた。内気な微笑が彼女の唇にこぼれた。
「ええ、シドですわ」
「よくいらっしゃいました」とシドは言った。
「これがあたしの主人ですのよ」老婦人は白髪の長身の男のほうへ、ちょっと肱をまげてみせ、「ミスタ・ペネッツィ。ほんとは伯爵ですから、あたしもペネッツィ伯爵夫人と名乗っていい身分なのですけれど、引退してからは、称号を使わないことにしました」
「飲みものを一つ、いかがです?」コットマンが言った。
「いえ、いけません、あたしたちとご一緒に飲んでくださらなくては」とペネッツィ夫人は答えて、アームチェアに腰をおろした。「カルロ、あなた注文してくださいな」
バアテンダーが来て、ちょっと話し合いがあった末に、ビールを三本、命じられた。
「ステラは二回目のショウが終るまでは、何もいただきません」とコットマンが言いわけした。
ステラは、ごく小柄で、年は二十六ぐらいか、明るい鳶色の髪を短く切り、ウェーヴをかけている。眼は灰色で、口紅はつけているが、顔にはほとんどルージュをつけていない。肌は蒼白かった。非常な美人ではないが、小じんまりと整った顔だちである。ごく簡素な白絹のイヴニング・フロックを着ている。ビールが来ると、しゃべるのはあまり達者でなさそうなペネッツィ氏は早速ぐーっとコップをかたむけた。
「どういう方面のお仕事を?」と、遠慮がちにシド・コットマンがたずねた。
ペネッツィ夫人はギラギラする厚化粧の眼でじろっとコットマンを一瞥してから、夫のほうへ向いて言った。
「あたしが何者だか、お話してくださいな、カルロ」
「人間弾丸です」カルロが告げた。
ペネッツィ夫人は得意然とほほえんで、小鳥のようなめまぐるしい視線をひらめかせ、若い夫婦の顔をみまわした。二人は度胆を抜かれて、彼女をみつめた。
「フローラですの」彼女は言った。「あの人間弾丸の」
その態度は、相手がそれを聞いて大いに感動するにちがいないと、きめこんでいるのがはっきりわかるだけに、聞いたほうではますます挨拶に窮した。ステラが困った顔で、夫のシドを見た。シドが矢面に立った。
「きっと、わたしどもの知らない頃のことでしょう」
「それはもう、あなたがたとは、時代がちがいます。だって、あたしたちが仕事をスッパリやめてしまったのは、ヴィクトリア女王さまがおかくれになった年ですもの。たいへんなことでしたけれど、あたしたちのことも、あのとき、ずいぶん世間では騒いだものですよ。でも、むろん、あなたがたも、話にはあたしのことを聞いたことがおありでしょう」彼女はシドとステラのポカンとした顔つきに気がついた。で、いくらか言葉の調子をかえて、「あの頃のあたしは、ロンドン一の評判をとっていました。あの≪水族館《アクアリウム》≫に出ていましたのよ。おえらがたが、ひとり残らず、あたしを見に来ました。|皇太子さま《プリンス・オヴ・ウエールズ》はじめ、とにかく誰もかれもでしたわ。ロンドンじゅうが、あたしを話の種にしました。そうだったわね、カルロ?」
「水族館は、彼女《これ》のために、一年間、大入りをとりました」
「あそこの出しものとして、あれほどめざましいものはありませんでした。だって、つい四、五年前に、あたしはド・バアトの奥方さまにお目にかかって、自己紹介をしたことがありますの。あの有名な、リリイ・ラングトリイ(イギリスの女優、一八五二〜一九二九)です。あの方《かた》はよくロンドンで暮らしていらっしゃいました。あたしのことを、ちっとも忘れずにおぼえておいででしたよ。十ぺんも、あたしをごらんになったって、仰しゃっていましたの」
「どういうことを、なさいましたの?」ステラが訊いた。
「大砲から、射ち出されたのです。ほんとに、嘘だとお思いになるかも知れないけれど、たいへんな評判になりましてね。ロンドンの興行のあと、それでもって世界じゅうを廻りましたわ。ええ、それは、いまはもうこんなお婆さんで、それに違いはありませんよ。主人は七十八ですし、あたしも七十の坂を越しましたよ――でもあの頃は、ロンドンじゅうの板塀に、あたしの顔が貼ってありましたよ。ド・バアトの奥方さまも、あたしに仰しゃったの――フローラ、あなたは、あたしに負けないほどの人気ものでしたよって。でも、世間というものはねえ――いいものを見せてやれば、気ちがいみたいにとびついて来るけれども、移り気なものでね。どんなにいいものでも、厭気がさすと、てんで見向きもしなくなるんですわ。あたしの身の上にあったことは、あなたの身の上にもきっと起るのよ、ステラ。あたしたちみんな、いつかそうなるんですもの。でも主人は、いつ、どんなときでも、しっかりした頭を持っていてくれました。あんなに羽振りのよかったときから、地道な考えを忘れない人でした。サーカスにいたんですよ。サーカスの座頭でした。それで、あたしははじめて、この人と知りあうようになりましたの。あたしは軽業師の一座にいました。空中ぶらんこでしたわ。いまでもこの通り、立派な男ぶりですけれど、あの時分のこの人をごらんになったらねえ――ロシアふうの長靴に、乗馬ズボンでね、胸からずっと肋骨《フロッグ》のついた、ぴったりした上衣を着て――長い鞭をピシーリ、ピシーリ、鳴らしながら、リングにたくさんの馬を走らせていた頃は、あたしの一生でこの人ぐらい立派だった男を見たことがありませんよ」
ペネッツィ氏は何も言わなかったが、いかにも感慨にたえないように白い口髭をしきりにひねっていた。
「で、いまお話した通り、この人は決してパッパとお金を使いすてる人じゃありませんでしたから、どこの興行師もあたしたちをやとわなくなると、隠居をしよう、と言いだしました。それがまた一番よかったんですよ、ロンドン一のスターになってしまった以上、あたしたちはもうサーカス商売へは戻るわけにはいかなかったからですわ――いえ、つまりね、この人はほんとうの伯爵なんですから、品位というものを考えなきゃなりませんでした――それでこの土地へ来て、家を一軒買って、下宿屋をはじめました。何かそういった商売をしたいというのが、主人の昔からの望みでしたから。この土地に住みついて、三十五年になります。商売のほうは、ずっと、そう悪くはなかったんですけどね、この二、三年は、すっかり不景気になりました。お客さんも、はじめの頃とはすっかり種がちがってしまいましたけれど、やれ電灯だとか、やれ寝室にお湯を出してくれとか、いちいち数えきれませんけどね、何しろ贅沢になったものですわ。あの、名刺をおあげなさいな、カルロ。お料理は主人が自分でしますしね、ま、わが家《や》同様の気の置けない場所が欲しいとお思いでしたら、一度おいでになってみればおわかりになりますわ。あたしは芸能のほうの方が好きですし、さぞお話がはずむでしょうねえ、あなたとあたしだったら。一度この道へ入った者は、いつまでも気質《かたぎ》は抜けませんからねえ」
そこへ、主任のバアテンダーが、夜食をすませて帰って来た。彼はシドをみつけると、
「おお、コットマンさん、エスピネルさんが探していましたぜ。特別にあんたに会いたいそうです」
「ほ、そうか、どこにいるんだね?」
「その辺を探せばいるでしょう」
「では、お暇《いとま》しましょう」ペネッツィ夫人が、立ち上りながら言った。「一度、うちへいらしって、お昼食《ひる》でもめしあがって下さいませんか。あたしの古い写真や、新聞の切抜きを、お目にかけたいわ。人間弾丸のことを、あなたがたが聞いたこともないなんて、おかしいわねえ。だってあたしというものは、ロンドン塔ぐらい有名だったのですよ」
ペネッツィ夫人は、若い二人が自分のことを聞いたこともないのを知っても、立腹はしなかった。面白がっているだけだった。
めいめい挨拶をして、客が去ったあと、ステラはまた椅子へぐったり腰を落した。
「おれはこのビールを飲んだら、パコに会って、話というのを聞こう」とシドは言った。「お前はここにいるかい、それとも楽屋へ行ってるかい?」
ステラは両手をかたく握りしめていた。シドの言葉に答えもしない。男は妻の顔をちらと見て、すぐに眼をそむけた。
「ひでえ騒ぎだったな、あの婆さん」彼はいつもの元気な調子でしゃべった。「まったく、面白え見ものだった。あの話は、どうも本当らしいね。ちょっと信じられないがね。あれがロンドン一の人気者だったとはね、四十年前によ! それにおかしいのは、当人が、誰でもおぼえてると思ってることだよ。おれたちが話に聞いたこともないってことが、てんで腑《ふ》に落ちねえような顔をしてたなあ」
シドはもう一度、自分が見ていることを女に気づかせないように眼の隅から、ステラを見た。ステラは泣いていた。シドはたじろいだ。涙が女の蒼白い顔を、ポロポロしたたり落ちている。声は立てなかった。
「どうしたの、お前?」
「シド、あたし今夜はもうやれないわ」泣きながら言った。
「どうして?」
「こわいの」
男は女の手をとった。
「いや、おれにはわかっている、それはちがうぜ」彼は言った。「お前は世界じゅうで、いちばん勇敢な女なんだ。ブランディでも飲みなよ、元気が出るから」
「いや、お酒なんか、よけいいけないわ」
「そんなことをして、世間をがっかりさせるわけにゃ、いかねえぜ」
「世間が何よ。むやみに食べて、飲んで、まるで豚じゃないの。金がありすぎて、その使い途を知らないで、おしゃべりに日を暮らしてる阿呆ばかりじゃないの。あんな連中に義理なんか立てちゃいられないわ。あたしが自分の命を危なくしたって、世間が何と思ってくれるというの?」
「むろん、ひとが見に来るのは、スリルのためだ、そうじゃないとは言わないよ」男はあやふやな調子で答えた。「だがお前もおれも、わかってることだ、危《あぶ》ないことはないんだよ、お前が気を確かにさえ持っていれば」
「だけど、それが確かでなくなったのよ、シド。あたしは死んじゃうわ」
女の声が少し高かったので、男は急いでバアテンダーのほうをふりかえった。バアテンダーは「エクレルール・ド・ニース」(ニース報知新聞)に読みふけっていて、なんの気もつかぬ様子だった。「あの梯子のてっぺんから、下の水槽《タンク》を見おろすと、どんなふうに見えるか、あなたは知らないわ。ほんとうのことを言うわ、今夜、あたしは、気絶しそうだと思ったのよ。もう今夜はやれないわ、シド、あたしがやめられるようにして頂戴ね、どうしても」
「今晩、しりごみしたら、明日は、もっといけなくなるぜ」
「いえ、そうじゃないわ。あれを二度やるから、死んじゃうんだわ。こうして長い時間、待ったり、そういうことがよ。エスピネルさんのとこへ行って、一晩に二回のショウはやれませんと話して頂戴。これじゃ、あたしの神経はとてもたまらないわ」
「パコも、それじゃたまるめえ。夜食の商売は、みんなお前ひとりを頼りにしてるんだ。あの時間に客が来るのは、お前をみるためなんだからな」
「仕方がないのよ、ほんとに、あたしはやってけないんだから」
男は黙ってしまった。女の蒼白い小さな顔からは、まだ涙が流れつづけていて、いまにもとりみだしそうなことが、男にはわかった。実は数日前から、何かありそうな気がして、気にかかっていたのである。それで、自分に話しかける機会を与えないようにつとめて来た。自分の気持を口に出さないほうが、妻のためにはいいのだ、と男は漠然とながら感づいていた。妻を愛していたからである。
「とにかく、エスピネルがおれに会いたいそうだ」と彼は言った。
「何の用でしょう?」
「わからない。おれは、ショウは一晩に一回以上つとめられないと話して、あの男が何というか聞いてみよう。ここで待っててくれるか?」
「いえ、楽屋へ行きます」
十分の後、二人は楽屋で会った。男はすばらしい上機嫌で、足音もはずんでいた。いきなりドアをあけて、
「おい、ステラ、すげえ話だ。来月いっぱい、二倍の給金で、おれたちを雇うとよ」
男はとびついて、女を抱えこんで、キスしようとしたが、女は相手を押しもどした。
「今夜も、またやらなきゃならないの?」
「どうも、そいつは仕方がねえ。一晩一回にしてくれろと話しちゃみたが、向うはてんで受けつけねえ。それに、給金が倍になるとすれば、それだけの値打ちはあるからなあ」
彼女は床《ゆか》にどっと倒れて、今度こそ大泣きに泣きだした。
「できないわ、シド、できないわ。死んでしまうわ」
男は床に坐りこんで、女の頭をもちあげ、からだを抱きあげて、やさしく愛撫した。
「しっかりしてくれ、ステラ。あれだけの給金が、ことわれるものじゃねえ。なあ、あれだけあれば、冬じゅう何もしねえで暮らせるんだぜ。何といったって、七月はあと四日しかねえから、あとは八月、ひと月だけだ」
「いいえ、だめ、だめ、だめだわ。あたしはこわくなっちゃったんだもの。あたしは死にたくないわ、シド。あなたが好きなんだもの」
「わかってるよ、おれもお前が好きだ。夫婦《いっしょ》になってから、一度だってほかの女に見むきもしたことはねえじゃねえか。いままでこんな大金を取ったことはねえが、これからだって二度と取れやしねえんだ。改めて言わなくてもわかってることだが、いまこそおれたちは大当りだが、これが永久につづくと思ったら間違いだ。鉄の熱いうちに打てってのは、ここのことだ」
「あんたは、あたしを死なせたいの、シド?」
「そんな莫迦なことを言うもんじゃねえ。ええ? お前がいなかったら、おれはどうするっていうんだ? そんな弱気をだしちゃいけねえ。自尊心を持ってくれ。お前は世界じゅうに名を知られた女なんだぜ」
「あの人間弾丸も、一度はそうだったのね」女は急に高笑いして叫んだ。
「畜生、あの糞婆あめ」男は思った。
あれで、すっかりだめになったのだ。運がわるかった、ステラがこんなふうに、あれを考えたのは。
「おかげで、あたしは眼が開《あ》いたわ」ステラは言った。「世間のひとは、何のために、何べんでもあたしを見にくるの? あたしが自分で身を滅ぼすのを見る機会をねらってなのよ。そうして、あたしが死んで、一週間たてば、みんな、あたしの名前まで忘れてしまうでしょう。世間とは、そういうものなの。あの厚化粧のお化けみたいなお婆さんを見たとたんに、あたしにはそれがすっかりわかったのよ。ああ、シド、あたしほんとに、こんなみじめな気持」女は男の頸にすがりついて、顔と顔を押しつけた。「シド、やっぱりだめよ、あたしには二度とやれない」
「今晩は、やれねえというのかい? ほんとにそんな気がするんなら、おれから、お前が発作を起して失神したと、エスピネルに話そうよ、一ぺんぐらいなら、大丈夫だ」
「今晩のことを言ってるんじゃないわ、もう永久によ」
女は男が少し身体をこわばらせたのを感じた。
「シド、あたしがわからずやだと思わないで頂戴ね。今日だけじゃないの、前からだんだんこの気持が強くなってきたのよ。あたしはこのことを思うと夜も睡れないし、ちょっとうとうとすると、梯子のてっぺんに立って下をみおろしている自分を夢にみるのよ。今晩なんか、梯子をのぼるのも、やっとだったわ――あんまり身体がふるえて。そうして、あんたが火を燃やして≪ゴー≫と言ったとき、何かに後ろから引き戻されるような気がしたわ。自分が跳びこんだのさえ、わからなかったわ。板の上に自分が立って、拍手がわくのを聞くまで、まるで無我夢中だった。シド、あたしを愛しているなら、こんなひどい苦しみをあたしに辛抱させつづけようとは思わないでしょう」
男は嘆息した。彼の眼も涙で濡れていた。真心こめて女を愛していたからである。
「やめれば、どうなるか、お前も知ってるはずだ」彼は言った。「むかしに帰るんだ。マラソンや、そういうことだ」
「どんなことでも、これよりましだわ」
むかしへ帰る。二人とも、むかしを忘れていない。シドは十八の年からダンス場のジゴロになった。色の浅黒いスペインふうの、生きのいい男ぶりのために、老婆や中年の女はみな喜んで彼と踊るために金を使ったから、仕事にあぶれることがなかった。やがてイギリスから大陸へ流れてゆき、それからずっと大陸にとどまって、ホテルからホテルヘ、冬はリヴィエラヘ、夏はフランスの海水浴場を渡り歩いて暮らした。そうした男たちの生活はさほど悪くはなかった。いつも二三人の男が組みになって、やすい貸間の一部屋に一緒に住んだ。朝は遅くまで起きる必要はなく、十二時に、体重をへらしたがっている肥った女と踊るためにホテルへ行くのに間に合うように着がえをすればよかった。そのあとはまた暇になって、五時になるとまたホテルへ行って、三人いっしょにテーブルを占領し、客になりそうな女はいないかと、眼を光らせる。それぞれ常顧客《じょうとくい》もある。夜は料理店へ行けば、店のほうで、相当の食事をあてがってくれる。コースのあいまにダンスをする。いい金になる。一緒に踊る女から、たいてい五十フランから百フランは貰う。ときには金持の女で、彼らの一人と二三夜つづけてさんざん踊った揚句に、一千フランもポンとくれるのもいた。また中年の女には、一晩いっしょに過すことを求めるのもあって、その場合は二百五十フランが相場である。年がいもなく愚かな逆上《のぼせ》かたをする女にはいつも事を欠かないから、そんなのにぶつかれば、サファイヤをはめたプラチナの指輪とか、巻き煙草ケースとか、服とか腕時計とかが手に入る。シドの仲間の一人は、母親ぐらいの年のそうした愚かな女の一人と結婚し、自動車を買ってもらい、賭博の金まで出させて、ビアリッツのすばらしい別荘に同棲した。その頃は誰でも焼きすてるほどの紙幣を持てた好い時代であった。不景気が来て、ジゴロたちはひどい打撃を受けた。どこのホテルもがら空き、様子のいい若い男とダンスをする楽しみのために金を払う物好きな客はなくなったようだった。シドは一日かかっても酒一杯の代も稼げない日が数知れずあったし、一トンもありそうな肥ったお婆ちゃんから、図々しくも十フランの銭をつきだされたことも一度や二度ではなかった。費用《かかり》のほうは少しも減らない――というのは、いつもスマートな装《なり》をしていなくてはならないし、さもなければホテルのマネジャに文句を言われるからで、洗濯代はかさむし、下着類にいたってはびっくりするほど金がかかった。靴もたいへんで、ダンス・フロアはひどく靴をいためるし、いつも新しい靴らしく見せていなくてはならなかった。その上にまだ部屋代と昼食代とがかかった。
彼がステラに逢ったのは、その頃であった。ところはエヴィアンで、ここの夏のシーズンはさんざんであった。ステラは水泳教師であった。生まれはオーストラリアで、ダイヴィングはみごとだった。彼女は毎日、午前と午後に|模範跳び《エクジビション》こみをやった。夜はホテルに雇われてダンスをした。シドとステラとは、食堂で、お客たちとは離れたテーブルで一緒に食事をし、バンドがはじまると、踊ろうとするお客がフロアへ出やすいように、まず二人で踊った。けれども誰も出て来てくれないから、二人はいつも二人で踊った。二人とも、ダンス相手としての収入はいくらもなかった。二人はやがて恋に落ち、シーズンの終りに結婚した。
どちらもこの結婚を悔いたことは一度もない。あれから幾度か、つらい貧乏を二人して切り抜けて来た。商売上の理由から言っても(年配の御婦人達は、同じ場所に妻のいる既婚の男と踊るのは、あまり喜ばない)二人は結婚を隠していたし、夫婦して同じホテルに雇われるのは容易ではなかったので、どんな安下宿に住んだとしても、シドが稼ぐ金でステラを養うことは思いもよらなかった。ステラもはたらかなくてはならない。ジゴロ商売はもうあがったりである。二人はパリへ行って見せるダンスの稽古をしたが、競技会はものすごい競争だったし、キャバレエの契約をするのは非常にむずかしかった。ステラは舞踏室のダンサーとしては優秀だったが、人気があるのはアクロバットで、二人はずいぶん練習したけれども、彼女はどうしても目に立つほどの芸には達しなかった。大衆はアパッシュ踊りにすっかり倦きた。何週間もつづけて仕事にあぶれる有様になり、シドの腕時計も、金のシガレット・ケースも、プラチナ指輪も、みんな質屋の庫に入ってしまった。最後にニースへ流れて来たときは、シドの夜会服まで手ばなす羽目に陥っていた。もうどん詰まりだった。とうとう二人は、ある人気とりに熱心なマネジャの企てたマラソン・ダンスに入るほかはなくなった。一日二十四時間、ぶっつづけに、毎時間十五分ずつ休むだけで、二人は踊った。おそろしい仕事であった。脚は痛み、足のさきは無感覚になった。長時間、二人とも何をしているのか意識を失っていた。ただ音楽に合わせて、できるだけ身体を動かさずにリズムに乗っているだけがせいぜいだった。二人をはげますために、客たちがそれぞれ百フランとか、時には二百フランとかの金をくれたので、ちょっとした金にはなった。またときには人気とりに二人で奮発して、見せるダンスを踊ってもみせた。見物が機嫌のよい時節ならば、これでかなりの金が取れるはずであった。二人はひどく疲れてきた。十一日目に、ステラは気が遠くなって倒れ、やめてしまった。シドは一人で踊りつづけた。パートナーなしで、休みなく、怪しげな格好で身体を動かしつづけた。これが夫婦の一番つらかったときである。おちぶれたどん底である。怖ろしい、みじめな思い出が、いまもなお二人の心に焼きついている。
だが、シドが奇想天外の思いつきを得たのはこのときであった。ホールのなかを、一人でゆっくりと廻っているあいだに、この天来の奇想が訪れた。ステラはいつも、受皿《ソーサー》のなかにでもダイヴすることができると言っていた。たしかにこれは一つの芸だ。
「思いつきって、妙なものだね」彼は後に言った。「まるで稲びかりがパッと光るようだった」
急に彼は、街で、子供が、舗道にこぼれたガソリンに火をつけたら、すぐに燃え上ったのを見たことを思いだした。むろん世間の大衆の好奇心をわかしたのは、この水上の火焔と、そのなかへ跳びこむ離れ技であった。その場で、即座に彼はダンスをやめた。興奮で、踊りつづけていられなくなったのだ。彼はステラにすっかり話した。彼女はたちまち夢中になった。シドは友達の興行師に手紙を書いた。シドは誰にでも好かれる、気持のよい男であったので、興行師はこの道具だてのために金をだした。彼はパリのあるサーカスに夫婦と契約させ、この番組は好評を博した。とうとう運が向いた。次々と各地で契約ができ、シドはすっかり衣裳も新調したところへ、この海岸の夏のカジノに契約ができて、二人の運のクライマックスが来た。ステラは天井知らずの人気だとシドが言ったのは、決して誇張ではなかった。
「もうこれで、お前、おれたちの苦労はなくなったぜ」彼はいとしげに妻に言った。「いまじゃ暇なときの用意もすこしはできるから、世間がこのショウに倦きたら、また何かおれが考えるよ」
そしていま、だしぬけに、このブームの頂上へ来たところで、ステラがやめたいと言いだしたのだ。シドは彼女に何と言ったらいいのか、わからなかった。こんなみじめな彼女を見るのは、彼には胸のつぶれる思いである。結婚した当時以上にさえ、いま彼は彼女をいとしく思っている。一緒に貧乏をきり抜けてきたからそれだけに妻が可愛いのだ。何といっても、五日間にたった一度、パン一きれずつとミルク一杯にしかありつけなかったことさえあったのに、そうした境遇から彼を救いだしてくれたのは、彼女だと思えば、いとしくてならないのだ。こうして、いまはまた立派な服も着られるようになったし、三度の食事も食べられるのだ。彼は妻の顔を見るに忍びなかった。灰色の眼にこもる苦悩を見ることは、彼に堪えうるところではなかった。おずおずと、ステラは手をさしのべて、彼の手に触れた、彼は深いため息をついた。
「なあ、どういうことになるか、目にみえているだろう。おれたちはもうホテルとの縁もきれちまってるし、さもなくっても、あの商売はもうお終《しめ》えだ。仕事があったところでおれたちより若いやつらが、さらっちまうんだ。ああいうホテルの婆さんたちのことは、お前もよく知ってるはずだ。連中は子供みてえな若い男しか欲しがらねえし、それに、一つにはおれは背丈《せい》が足りねえ。まだ子供だった頃には、それも大した疵《きず》じゃなかったが。いまさら年齢《とし》にくらべて若《わけ》えと言ってみてもはじまらねえや――年齢《とし》相応に、老けてるんだからな」
「映画にでも入れるかもわからないわ」
彼は肩をすくめた。前にも、仕事にあぶれていた頃、映画をねらったことがあった。
「あたしは、どんな仕事だって構わないわ。女給仕人になってもいいわ」
「仕事というものは、求めさえすればあるものと思ってるのか?」
彼女はまた泣きだした。
「泣かねえでくれ、よう。おらあ、胸がつぶれらあ」
「少しは、お金も残ってるわ」
「うむ、それはそうだ。半年は、暮らせるな。だがそのあとは餓え死にってことだ。はじめに、こまごました物を質屋へまげこんで、その次は着るものを売って、みんな前にやった通りのことよ。それから場末の酒場で踊って、晩飯と五十フランを一晩に稼ぐのよ。二人とも何週間も仕事にあぶれて、話がありゃマラソンにでも出ることになる。それで世間さまは、幾日あきずに見に来てくれるんだ?」
「あたしがわからずやだと思うでしょうねえ、シド」
彼はやっと向き直って、彼女を見た。女の眼に涙があった。彼は微笑した、その笑顔は、ほれぼれするような優しさがあった。
「いいや、そんなことは思わねえよ。おれはお前をしあわせにしてやりてえ。つまるところ、おれの手に残ったものは、お前だけなんだ。おれはお前に惚れているんだ」
男は女を抱きあげた。女の心臓の鼓動がわかった。そうだ、ステラがそういう気持だというなら、なるたけ思いどおりにさせてやるのが、おれのつとめだ。いくら無理を言ったって、この女が死んだらどうなるんだ? いけねえ、そうだ、やめさせてやらなきゃいけねえ、金なんぞ、何だというんだ。女が、ちょっと身体を動かした。
「何だい、ステラ?」
女は身体を離して、立ち上った。化粧前へ歩み寄った。
「もうそろそろ、出の支度をする時分でしょう」と彼女は言った。
男はいそいで立った。
「今夜はもうショウはやらねえつもりなんだろう?」
「今夜も、明日の晩も、死ぬまで、毎晩やるわ。ほかに仕様があって? あたしはあんたの言うとおりだと思うのよ、シド。あたしはもう昔へは帰れないわ、かび臭い五流のホテルの部屋に寝て、食べるものに不自由するなんて。ああ、それに、あのマラソン。なぜあんなものを持ちだしたの? 一度に幾日もつづけて、汗まみれで、疲れ切って、そうして身体がどうにも持たなくなって、やめなきゃならないんだわ。たぶん、あたしも、あと一カ月、つづけられるでしょうから、そのときはあんたも、一思案する暇がみつかると思うわ」
「いけねえ、おらあ、とても我慢できねえ。やめてくれ。何とか、工夫しようじゃねえか。貧乏は前にもしている、もう一度貧乏できねえことはあるめえ」
女は着物をぬぎすてて、しばし、ストッキングだけの裸体で、鏡にうつる自分のすがたを見た。鏡のなかの自分に、硬《こわ》ばった微笑を送った。
「あたしは、世間さまを、がっかりさせちゃいけないのよ」クスリと笑って、マダム・ステラは言った。
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訳者あとがき
この短篇集は、作者の一九四〇年に発表した The Mixture as Before に収録されている十篇の短篇のうちの五篇である。他の五篇は別の短篇集「幸福」としてまとめた。
一九四〇年にはモームは六十六歳である。一九三六年発表短篇集の『コスモポリタン』は特別の事情のもとに書かれたごく短い話ばかり集めた本であったから、普通の長さの短篇集としては、一九三三年の『アー・キン』以来、七年ぶりのものである。この七年間にモームは『劇場』と『クリスマスの休暇』の二長篇のほか、回想記『要約すると』を完成している。
右の『アー・キン』が出版されたとき、ロンドンの「タイムズ」紙に書評が出た。その書評の標題が The Mixture as Before というのであった。標題の示そうとした意味は、一向に新味がない、旧態依然たるモームの短篇だ、というネガティヴな評価であることは疑いない。ところが、おそらく書評の筆者にとっては意外なことだったろうが、作者はこの「相も変らぬ処方」という文句が気に入った。その次の、七年ぶりの短篇集の標題にこれを利用するほど気に入ったのである。旧態依然、むかし通りの手法による彼の新作が、依然として読書界から歓迎されている事実に、作者は誇りをもつ理由があると考えたわけである。
「発端と中間と結び」との形よくととのったストーリーの作者としては、モームはおそらく二十世紀に生きのびたこの芸術形式の最後の巨匠とも呼ぶべき作家であろう。イギリスの文壇にはこの種のいわゆるモーパッサン的短篇を好まない傾向が支配的なところへ、批評家はつねに新しい実験的な作品を求めるものだから、「相も変らぬ処方」であること自体が不満なのであるが、一般の読者はかならずしもそうではない。処方が同じであることは、かつて同じ著者の処方をよろこんだ読者にとっては、ふたたび同じよろこびが味えるという保証を与えられたようなものである。モームはこのようなパターンの短篇小説が文壇からは嫌われており、若い作家たちの破壊したがっている当の目標ですらもあることを意識しながら、「相も変らぬ」自信を持ってこれらの物語を書きつづけたものと思われる。
そうした自信の根源の一つは、すでに幾度も紹介されているように、右に述べた「首尾一貫した、よく出来たストーリー」が、アラビアン・ナイトの昔から人類の好みつづけて来たものであり、この好みは将来もかわることはないという信念にほかならぬだろう。
その信念の裏うちとして、本書の『良心的な男』のなかで作者が洩らしている感想に注意しておいてもいいと思う。「これはわたしがつねづね思っていることだが、人聞性について、ひとは決してすべてを知りつくせるものではない。わたしが確実に言えることは一つしかない、それは、世の中には、いつになっても、これはと驚くようなことが決してなくならないだろうということだ」つまり人間性について意外な発見が可能である限り、その発見を語るための新しい手法はかならずしも必要ではなく、発見そのものの意外さだけで読者をひきつけることができるというのが作者の信念であるだろう。「日のもとに新しきものなし」というソロモンの不滅の箴言を作者は無視しているわけではない。むしろこういう信念をまじめに述べるのが、無視していない証拠であろう。
『掘りだしもの』の冒頭で、彼はそれに触れている。「幸福人は世の中に案外たくさんいるが、自分の幸福であることを知っている人間は稀だ」――もう一つの短篇集のほうに収めた『幸福』のなかでも、その稀な例を作者は描いている。問題は、それがどんな種類の幸福であるかにかかっている。蛇足的にいえば、作者はこれらの短篇で、やっぱり「幸福」は求めがたいものだとソロモンに敬意を表していると言っても差し支えないので、その意味でも「相も変らぬ処方」である。
そうはいっても、ここに収められた諸短篇は、同じ作者の比較的はやい頃の短篇『雨』や『手紙』とはよほど違っていることに読者は気づかれると思う。四十代と六十代という年齢の相違は容易に否定できない。短い紙数で、事件なり人物なりを強烈に浮かびあがらせることに精力的な努力をかたむけた、これら前期の諸短篇にくらべると、作者の姿勢は端正で、人間に注がれる眼にはあたたかみが加わっている。事件や人物をめぐっての作者の解釈の面白さが、本書の諸短篇の魅力なのである。スタイルも枯淡味が加わり、いぶしがかかっている。良心、幸福、快楽、愛と自己犠牲――といった抽象的主題に、話がキッカリと集約されている印象を与える。いわば作者の人生経験と、そこからにじみ出た知恵が、これらの「お話」の支えになり、それを包んでいる。『三人の肥った女』は食欲という小説になりにくい欲望をとりあつかう作者の手つきが見ものである。また『ロータス・イーター』は自然の美にうちこんでしまった平凡な男の悲劇で、作者が書きたかったのはむしろカプリ島の恵まれた自然美そのものではなかろうかと訳者は臆測したくなる。
以下に個々の作品の原題を、なかにはそのまま訳してないものも含まれているから、掲げておく。
『三人の肥った女』 The Three Fat Women of Antibes アンチーブはフランス、リヴィエラ海岸のカンヌに近い海水浴場である。
『良心的な男』 A Man with a Conscience
『掘りだしもの』 The Treasure 正しくは『至宝』とでも訳すべきだろう。
『ロータス・イーター』 The Lotus Eater ロータスはギリシャ神話の、想像上のくだものの名、その果実を食えば夢ごこちになり、一切の浮世の苦労を忘れるという説話から、無為安逸の人という成語になっている。
『ジゴロとジゴレット』 Gigolo and Gigolette ジゴロは男、ジゴレットは女で、ホテルやキャバレエで異性のダンス相手をつとめる職業である。
〔訳者紹介〕
田中西二郎(たなか・せいじろう)
英文学者。一九〇七(明治四十)年東京生まれ。東京商科大学(現一橋大学)卒。主な訳書、グレアム・グリーン「おとなしいアメリカ人」、メルヴィル「白鯨」、コンラッド「青春・台風」、スティーヴンスン「宝島」他。