園遊会まで
モーム/田中西二郎訳
目 次
奥地駐屯所
臆病者
園遊会まで
訳者あとがき
[#改ページ]
奥地駐屯所
新しい副司政官は午後に着いた。司政官のウォーバートン氏は、プラーウが見えたと知らせを受けたので、日除けのヘルメットをかぶって船着場へ降りて行った。八人の小柄なダイヤク族の守備兵が、彼の通るとき気をつけの姿勢をした。彼等の動作が活発で、軍服もきちんと清潔で、銃もピカピカ光っているのを見て、彼は満足した。これは彼の自慢の種だった。
船着場から、彼はボートがもうすぐ姿をあらわすはずの河の曲り鼻を眺めやった。汚点《しみ》一つないズックのズボンに白靴という彼の姿はなかなかスマートだった。腕の下には、ペラク族のサルタンから贈られた、金の握りのあるマラッカの杖《ケイン》を持っていた。
新来の下役を待つ彼の気持は複雑だった。この地区には一人の役人では処理しきれないほど仕事があるし、定期的に管轄の地域を巡視する際にも、駐屯所を原住民の書記の手にゆだねて置くのは工合がわるかった。けれども彼はこれまでずっと長いあいだ、たった一人の白人として暮らして来たので、もう一人の白人が来るのを、不安なしに迎える気持にはなれなかった。
孤独には慣れている。戦争中は、三年間、ただ一人のイギリス人の顔も見なかった。そして一度、一人の営林官を宿泊させるようにとの通牒を受けとったとき、彼はすっかり狼狽して、見知らぬ客の到着の日が来ると、何から何まで接待の用意をととのえ、自分は上流の地方へ行かなければならぬからという置き手紙を残し、逃げてしまったことがある。そしてお客がいなくなったという知らせを、使いの者から受けるまで、帰って来なかった。
いま、プラーウは広い河筋にすがたを現わした。漕いでいるのはいろいろの刑で服役中のダイヤク族の囚人で、こちらの船着場には二人の看守が、彼等を刑務所へ連れ帰るために待っている。囚人はみな頑丈な男ばかりで、河には慣れているから、ぐいぐいと力いっぱい漕いでいる。ボートが横づけになると、一人の男が棕櫚《しゅろ》の日|覆《おおい》の下から起きあがり、岸に降り立った。守備兵たちが捧げ銃をした。
「さあ、やっと着いた。やれやれ、ひでえ窮屈な目にあいましたぜ。あんたに手紙を預って来ました」
男はひどく浮々した陽気な調子である。ウォーバートン氏は慇懃《いんぎん》に手をさしだした。
「クーパー君、ですね?」
「その通りでさあ。誰かほかの人間が来ると思ったんですか?」
この質問はおどけたつもりだったが、司政官はにこりともしなかった。
「わたしがウォーバートンです。きみの宿所へ御案内しましょう。荷物はあとから運ばせます」
彼はクーパーの先に立って、狭い通路を通り、小さなバンガローの立っている一つの屋敷へ入った。
「できるだけ住み心地のいいように用意はさせましたが、何分もう何年も人が住まなかった家ですから」
建物は杭を打った上に建ててある。細長い居間、その前面に広いヴェランダがあり、奥には廊下を挾んで二つの寝室がある。
「これならわしには結構です」とクーパーは言った。
「まあ入浴をして、着替えをされたらいいでしょう。今晩はわたしのところで食事をして頂けると嬉しいが、八時ではどうですか?」
「やあもう何時だろうが結構です」
司政官は鄭重《ていちょう》な、しかし少しばかりまごついたような微笑をして、そこを出た。彼は自分の住居のある「砦《フォート》」へ帰った。アレン・クーパーが彼に与えた印象は、あまりよくなかった、けれども彼は公正な人物で、わずか一面識だけで意見をきめるのが不当なことはよく知っていた。クーパーは三十歳前後らしい。背丈《せい》の高い、痩せた男で、土気色した顔には、まったく血の気が見えない。それは単調な一色だけの顔だ。大きな鉤鼻《かぎばな》に、蒼い眼。バンガローへ入りしなに、彼はヘルメットを脱いで、それを給仕に投げつけたが、ウォーバートン氏は短い褐色の髪に覆われた大きな頭が、貧弱な小さい顎と奇妙な対照を形づくっていることを認めた。彼はカアキの短ズボンにカアキのシャツを着ていたが、それらはみすぼらしく薄汚れていた。型のくずれたトオピも、幾日も手入れをしていなかった。ウォーバートン氏は青年が沿岸航路の汽船で一週間も暮らし、その上この二昼夜というもの、プラーウの底に寝て過したのだということを考え直した。
「晩飯の席へ、どんな恰好をして来るか、それでわかるだろう」
彼は、まるでイギリス人の侍童でも雇っているかのようにきちんと整頓された自分の部屋へ入って、服を脱ぎ、浴室へ通じる階段を降りて、冷たい水を浴びた。白の夜会服《ディナー・ジャケット》を着ることだけが、彼のこの土地の風土に対する妥協で、ほかの点は、胸の堅いワイシャツに高いカラ、絹靴下に黒のエナメル靴、まるでペル・メルのクラブででも食事をするような儀式ばった礼装だった。慎重な主人役らしく、彼は食卓の支度に手落ちがないかを見るために食堂へ入って行った。蘭の花が華やかな彩りを添え、銀器はかがやいている。ナプキンも見事な形にたたんである。銀の燭台にシェードをつけた蝋燭《ろうそく》が、やわらかな光を投げている。ウォーバートン氏は満足の笑みを洩らして、客を待つべく居間へ引返した。やがて客が来た。クーパーはカアキ色の短ズボン、カアキ色のシャツ、それに上陸したときと同じボロボロの上衣を着ていた。ウォーバートン氏の挨拶の微笑は、そのまま凍りついてしまった。
「おーや、おや、あんたは正装ですね」とクーパーが言った。「そんなこととは知らなかったです。わしはまた、すんでのことに、サロン一枚で来るところでした」
「なに、ちっとも構いません。きっとボーイが忙しかったんでしょう」
「わたしのために何もわざわざ着替えをして頂くことはなかったんですよ」
「わざわざじゃありません。わたしはいつも晩餐には着替えをします」
「お一人でもですか?」
「一人のときはなおさらです」冷やかに相手をみつめながら、ウォーバートン氏は答えた。
彼はクーパーの眼のうちにチラリと好奇心のまたたきを見て、怒りにさっと顔をあからめた。ウォーバートン氏は怒りっぽい人物だった。その好戦的な顔だちの赭《あか》ら顔、白髪になりかかっている赤い頭髪をみても、それはすぐに察しがつく。彼の蒼い眼は、ふだんは冷たくて観察的だが、突然の憤怒ですぐに燃えあがる。しかし、彼は世間人でもあり、同時に公正な世間人でありたいと思っていた。彼は何とかしてこの男と仲好くやってゆくようにベストをつくさねばならなかった。
「ロンドンで暮らしていた頃は、わたしは毎晩の食事のために着替えしないのは、毎朝の風呂をつかわないのと同じくらい風変りなことと思われるような社会に出入りしていました。ボルネオへ来たときも、そういう良い習慣をやめる理由を認めなかったのです。戦争中の三年間、わたしは一人の白人にも逢わなかった。けれども晩餐に食堂へ出られる気分でさえあれば、ただの一度も着替えを省くことをしませんでした。きみはこの国へ来てからあまり長くはないのでしょう。しかし、憶えておきたまえ、われわれが自ら持つべき自尊心を失わずにいるためには、これより好い方法はないのです。もし白人が、ほんの少しでも環境の影響に屈伏するようなことがあれば、彼はたちまち自尊心を失うことになる、そしてもし自尊心を失うことがあれば、原住民もたちまちわれわれを尊敬することをやめてしまうのです」
「なるほどね、もしこの暑さに、硬いワイシャツと硬いカラをつけろと仰しゃるんだと、どうもご期待にそえそうもありませんなあ」
「きみがご自分のバンガローで食事をされるときには、もちろんきみが適当だと思う服装をされたらいいでしょう、しかしわたしのところへ食事に来て下さるときには、文明社会で普通とされている服装をして来て下さるのが礼儀にかなうというものだと、たぶんいずれはきみもそういう結論に到達されることでしょうな」
サロンにソンコック〔マレイの帽子〕、真鍮ボタンのついたスマートな白上衣を着けた二人のマレイ人のボーイが、一人はジン・パヒットを、一人はオリーヴの実とヒシコとを盆にのせて、入って来た。そこで二人は晩餐の席についた。ウォーバートン氏はボルネオで一番という中国人のコックを置いていることを自慢にしていた上に、不自由な環境のゆるす限りの御馳走を揃えることに、容易ならぬ苦心をしていた。つまり材料をできるだけ生かして使うことに、非常な工夫を凝らしたのである。
「メニュを一つ見て下さい」とクーパーに手渡しながら、彼は言った。
それはフランス語で書いてあって、料理にはすべて大層《たいそう》な名がついていた。二人のボーイがそれらの料理を給仕した。向うの隅にはもう二人のボーイが途方もなく大きな扇であおぎつづけ、暑苦しい空気を動かしていた。食べものは贅《ぜい》をつくしたもので、シャンパンもすばらしかった。
「毎日こんな風になすってるんですか?」とクーパーが訊いた。
ウォーバートン氏はメニュに気のない一瞥《いちべつ》を与えた。
「今夜の食事には、べつにいつもと変ったところはないようです」と彼は言った。「わたしはごく小食だが、毎晩はずかしからぬ晩餐を用意させる点には、意を用いていますよ。そうすれば料理人《コック》にはいつも練習になるし、ボーイどもの訓練にもよろしい」
会話は無理をしてつづけられた。ウォーバートン氏は五|分《ぶ》の隙もなく礼儀正しかったばかりでなく、そうすることによって客が恐縮してまごつくことに些《いささ》か意地のわるい楽しみも見出しているという風でもあったようだ。クーパーはセンブルウへ来てから、まだ三カ月しか経っていないので、クアラ・ソロオルにいるウォーバートン氏の友人についての質問も、すぐに種切れになった。
「それはそうと」とやがて彼は言った、「きみはヘナリーという若者に逢いましたか? やはり最近やって来たという話だが」
「ああ、逢いました、警察で働いてますよ。生意気な野郎でね」
「そんな男だとは思いがけなかった。あれの叔父はわたしの友達のバラクロー卿です。つい先日、バラクロー夫人から手紙が来て、甥のことをくれぐれも頼むと言って来たところだ」
「ええ、誰とかの親類になるって話は聞きました。たぶんそれだから職にもありつけたんでしょう。イートンとオクスフォードにいたんだそうで、それを忘れずに誰にでも吹聴するんですよ」
「いや、きみには驚いた」とウォーバートン氏は言った。「もう二百年来、あの一家はイートンとオクスフォードに学んでいますよ。だからその青年もそんなことは当然のことと思っている筈だ」
「わしには鼻持ならないキザな野郎に思えますな」
「きみはどこの学校へ行かれたのかね?」
「わしはバルバドスの生れです。あすこで教育を受けました」
「ああ、なるほど」
ウォーバートン氏がこの短い返事にせい一杯の侮蔑をこめて答えたので、クーパーは顔をあかくした。少しの間、彼は黙っていた。
「わたしはクアラ・ソロオルから二三通の手紙を受取りましたがね」とウォーバートン氏はつづけた。「わたしの印象では、ヘナリー青年は非常によくやっているようです。彼は一流のスポーツマンだそうですな」
「ああ、そうです、とても評判がいいですよ。ああいうのがクアラ・ソロオルでは好かれるんですね。わしとしては一流のスポーツマンなんかにあまり用がないですよ。ほかの連中よりもゴルフやテニスが巧いからって、結局それがどういうことになるんですか? また玉突で七十五点を突き切ったからって、誰が驚くもんですか! どうもイギリスではそういうことをえらく大仰《おおぎょう》に考えるようですね」
「きみはそう思いますか? わたしはあの一流のスポーツマンが、誰にも負けない戦功をあらわしたように聞いておるんだが」
「いや、戦争の話なら、わしもこれで話ができる方ですよ。わしはヘナリーと同じ連隊にいましたがね、兵隊たちがあんな男を相手にしていなかったことは確かでさあ」
「どうしてきみは知ってるんです?」
「わしがその兵隊たちの一人だったからですよ」
「ふむ、では将校には任官しなかったんですね?」
「任官しようと思ったって、てんで見込はなかったんです。わしは何しろ、例の『植民地生れ』ってやつですからね。私立学校《パブリック・スクール》へ行ったこともなきゃ、縁故があるんでもねえからね。初めっから終いまで一兵卒でしたよ」
クーパーは顔をしかめた。乱暴な毒舌が、口をついて出かかるのを抑えるのに困難を感じている様子だった。ウォーバートン氏は彼をみまもり、小さな青い眼が細くなり、みまもっているうちに彼の意見は定まった。話題をかえて、彼はクーパーに頼みたい仕事について話したが、やがて時計が十時を打つと、起ちあがった。
「さあ、もうお引留めはしないことにしよう。旅の疲れもおありだろうから」
二人は握手をした。
「ああ、そうそう、ちょっと」とクーパーが言った、「ボーイを一人みつけて貰えんでしょうか。前から雇っていたボーイは、|K・S《クアラ・ソロオル》を発つときに、どうしても姿を見せねえんです。荷物を船の中に置いたり、そういうことはやったんですが、それきり消えちまやがったんです。河から上るまで、わしはいなくなったことを知らなかったんです」
「わたしのボーイ頭にきいてみてあげましょう。きっと誰か一人みつけて来るでしょう」
「わかりました。ボーイをわしんとこへ寄越してくれるように言って下さい、気に入ったら使いますから」
月が出ていたから、提灯《ランタン》は要らなかった。クーパーは砦《フォート》から自分のバンガローへ帰って行った。
(いったい何であんな男をおれのところへ送ってよこしたんだろう)ウォーバートン氏は訝った。(近頃はああいう男ばかり出してよこすということだと、どうもあまり感心せん傾向だな)
彼はぶらぶらと庭をおりて行った。砦《フォート》は小高い丘の上に建てられていて、庭園はずっと河岸までなだれに続いていた。岸には四阿《あずまや》があり、晩餐のあとでここへ来て両切葉巻《シエルウト》を一本ふかすのが彼の習慣である。すると下を流れている河の方から一つの声が聞えてくることがよくある。それは昼のうちは呼びかける勇気のない臆病なマレイ人が、こっそりと彼にうったえる何かの苦情とか非難とかの声であって、それによってちょっとした情報が彼の耳に入ったり、こういうときでなければ役人の彼の知ることのできない種類の有益なヒントがささやかれたりするのである。彼は籐《とう》の長椅子にどかりと身を投げだした。あのクーパーのやつ! 何という嫉《そね》みぶかい、不作法な男だろう、高慢で、身勝手で、しかも自惚《うぬぼれ》がつよいときている。
だがウォーバートン氏の腹立ちも、閑寂な夜景の美しさを前にしては長くつづかなかった。空気は四阿の入口に生えている樹の花の甘い香りでかぐわしいし、ほのかに明滅する螢が、流れるように銀色にゆっくりと飛んでいる。月は、広い河筋にシヴァ神の花嫁の軽い足許を照らすように、光の小径をつくっていて、向う岸には棕櫚の木立が優美な影絵を空に描いている。いつか平和が、ウォーバートン氏の心のうちに忍び入っていた。
彼は変り者で、風変りな経歴の持主でもあった。二十一歳のときに、彼は十万ポンドという相当な財産を相続したので、オクスフォードを出ると派手な遊蕩生活に身をまかせた、そうした生活はその頃の(いまウォーバートン氏は五十四歳である)良家の子弟には向うから手をさしのべてくるのが普通だった。彼はマウント・ストリートにフラットをもち、自家用の二輪馬車をもち、ウォーウィックシャに狩猟小屋をもった。上流社会の集まる場所には、どこへでも顔を出した。彼は美貌で、遊び好きで、金ばなれがよかった。一八九〇年代初期のロンドン社交界の目立った存在の一人であり、当時の社交界はまだその排他性と絢爛たる華やかさとを失っていなかった。それを震撼させたブーア戦争はまだ予想もされていなかったし、それを破壊した欧州大戦にいたっては悲観論者だけが予言していたにすぎない。
その頃は金持の青年であるということは少しも不快な事柄ではなかったから、社交季節ともなればウォーバートン氏の炉棚には次から次と続く招待状が山と積まれた。ウォーバートン氏はそれらを人前にみせびらかして得意になっていた。ウォーバートン氏は俗物《スノブ》だったのである。そうはいっても、自分よりも身分のよい連中に気圧《けお》されることをちょっと恥ずかしく思うといった臆病なスノブでもなく、政界に名を知られたり、芸術方面で人気を博したりした人間と親しくしたがる種類のスノブでもない、もちろん富に眩惑されるスノブでもなかった。
彼はやたらに貴族を有難がる種類の、あからさまな、生一本の、ごく普通のスノブなのであった。怒りっぽくて、すぐにカッとなる性質ではあったが、平民からチヤホヤされるよりは貴族からやりこめられる方が、ずっと気持がいいと思っていた。彼の名はバークの貴族名鑑の片隅に小さく載っている程度だが、ある貴族が自分の本家で、その一門の端くれにあたるということを、何かの拍子に吹聴する技巧の堂に入っていることは、驚嘆に値するものがあった。しかし一方、もとの名がガビンズ嬢とかいった彼の母親の関係で、彼がその遺産を譲られることになった、リヴァプールのさる律儀な工場主のことは、ただの一度も口にしたことがない。
たとえばカウズ〔イギリスの海水浴場〕とか、あるいはアスコット〔競馬場のあるイングランドの村〕のような場所で、彼が侯爵夫人だとか、時には皇族などとでも同席しているときに、ひょっとこうした平民の姻戚の者から親類よばわりでもされるということは、彼の社交界での生活にとって大きな脅威だったからである。
彼の弱点は、誰の目にもあまりハッキリしていたから、すぐにパッと評判になった、けれどもそれがあまりにも法外だったために、かえって単に軽蔑されることからは免れた。彼がむやみに崇拝するお偉がたは彼を嘲笑したけれども、腹のなかではその崇拝が不自然なものとは思わなかった。ウォーバートンのやつはもちろん鼻持のならないスノブだが、やっぱりあれは好人物だよ。彼は金のない貴族のためなら、いつでも喜んで手形の裏書をしたし、よほどせっぱつまったときに百ポンドまでは彼をあてにして大丈夫だった。
彼はよく贅沢な宴会を開いた。ホイストは下手だったが、相手が上等でありさえすれば、いくら負けても苦にしなかった。博奕《ばくち》は好きで、よく負けるが、負けっぷりがよく、一回の勝負で五百ポンドすっても平然としているところは感心しないわけにはゆかなかった。カルタに対する執心は、肩書に対する執心に負けないくらい強かったが、これが彼の没落の原因になった。暮らしぶりが贅沢だった上に、賭事の損は莫大だった。
やがてもっと深みにはまりはじめて、まず競馬、次には株式に凝った。彼にはどこか性格の単純なところがあり、破廉恥な連中が彼を喰いものにするにはお誂えむきのお人好しだった。わたしは彼の抜目のない友達が蔭では彼を笑いものにしていることを、彼が一度でも気づいたかどうか知らないが、一種の漠然とした本能で、自分には金のことを苦にしない人間としてしか振舞うことができないことを感じていたのだと思う。彼はとうとう高利貸の餌食になった。三十四の年に、彼は破産した。
彼には自分の属する階級の気質が、骨の髄までしみついていたから、それからの身の振りかたにためらうことはなかった。彼のような身分の男が一文なしになったときには、植民地へ行くにきまっていた。誰もウォーバートン氏の愚痴をこぼすのを聞いた者はない。ある貴族の友達にすすめられてやった投機で失敗したのだから、一言の泣きごとも言わなかったし、金を貸してある連中に返してくれとも絶対に催促しない。自分の負債を払い(当人は知っていたかどうか、例の軽蔑していたリヴァプールの工場主の血が、ここでものを言ったのだ)、誰の助力をも求めず、生れてから何ひとつ仕事らしいことをしたことのない身が、生活のための働き口を探した。そうなっても彼は快活で、無頓着で、平気で冗談をとばしていた。誰に対しても、自分の不幸を並べたてて相手を不愉快にする気は少しも持たなかった。ウォーバートン氏は俗物《スノブ》であったが、同時にまた紳士でもあった。
長年のあいだ朝夕したしくしていた身分の高い友人連に、彼が求めた唯一の親切は、推薦状だった。その当時センブルウのサルタンだった有能な人物が、彼を部下として使ってくれることになった。出発の前夜、クラブで最後の晩餐をした。
「ウォーバートン、どこかへ出かけるそうじゃないか」ヘリフォード老公爵が彼に言った。
「はあ、ボルネオへ参ります」
「それはそれは、何で行くのかね?」
「いや、破産しましたので」
「きみが? そりゃ困ったね。ふむ、まあ帰って来たら知らせたまえ。愉快に暮らすように祈るよ」
「はあ、そう思っております。猟なども沢山できそうですから」
公爵はうなずいて、行ってしまった。数時間後には、ウォーバートン氏はイングランドの海岸が霧のなかへ遠退いてゆくのを見まもっていた。彼にとって人生を生きるに値するものとしていたすべてのものを後に残して、去って行ったのである。
それから二十年の歳月がすぎた。彼はその間ずっと多くの貴婦人たちと頻繁な文通をつづけ、彼の手紙は面白くて、話題が豊富だった。彼は高貴な人々への愛を決して失わず、彼等の動静をつたえる『タイムズ』(それは発行日から六週間後に彼の許へとどく)の消息欄にていねいに目を通していた。出生、死亡、結婚などを記録した欄を熟読して、すぐに祝いや悔みの手紙を出すようにした。絵入り新聞は人々の風俗を教えてくれたし、定期的の帰国で、交際のつながりは一度も切れたことがないかのように縒《よ》りを戻すことができた。社交界の表面に現われる新しい人物についても彼は何でも知っていた。上流社会に対する彼の関心は、彼自身がその一員であった当時と少しも変らず強かった。彼にとって、依然としてそれが唯一の関心事だった。
だが、気のつかぬ間に、もう一つの関心が彼の生活に入りこんで来た。与えられた地位は彼の虚栄心を満足させた。彼はもはや貴人の一顰《いっぴん》一笑を気にする追従者ではなく、その言葉がそのまま掟になる殿様だった。自分の通る道筋で捧げ銃をするダイヤク族の守備兵は彼を満足させた。彼は自分と同じ人間を裁く席に腰をおろすのを好んだ。相敵視する酋長間の紛争を仲裁する仕事も気に入った。よほど以前に、首狩りをする蛮族どもが反抗したとき、彼は自分の行動にぞくぞくするほどの誇りを感じながら、鎮定に向った。
おそろしく自惚れがつよかったから、怖れを知らぬ勇気のある人物にならざるを得なかった。またあるときは単身危険を冒して防寨《ぼうさい》をめぐらした村へ入ってゆき、血に渇した凶悪な海賊どもに降伏をうながした沈着ぶりは、今だに世間の語り草になっている。彼は老練な行政官になった。彼は厳格、公正、実直だった。
そして、だんだんに、彼はマレイ人に対して深い愛情を抱くようになった。彼は彼等の風習に興味をもった。彼等の話すことに耳をかたむけて倦《あ》きることがなかった。彼は彼等の美徳を讃美し、微笑と、ちょっと肩をすくめるだけで彼等の悪徳をゆるした。
「むかしは」と彼はよく言った、「わたしは英国の最上流の紳士たちと懇意にしていたものだが、素姓のいいマレイ人のなかにも、あれ以上の立派な紳士はないと思うようなのがいるよ、わたしはそういう連中を友人と呼ぶことを誇りとするよ」
彼は彼等の礼節、彼等の立派な行儀作法、彼等の温順さ、彼等の突如として示す激情を、好んだ。彼は本能的に彼等を遇する方法を誤りなく知っていた。心から彼等に温情をもって接した。しかし彼は自分がイギリスの紳士であることを決して忘れず、白人が原住民の習俗に屈することには我慢ができなかった。彼は断じて降参しなかった。また彼は多くの白人のように土地の女を妻とするような真似は決してせず、この種の情事が習俗として何と是認されようと、自分にとっては不快至極であるのみならず体面を傷つけること甚だしいと思っていた。皇太子アルバート・エドワード殿下からジョージと親しく名を呼んでいただいた人間が、かりそめにも土人と関係を結ぶなどは似てのほかのことである。
それにまた彼が英国の訪問からボルネオへ帰って来ると、いまでは何かほっと気が楽になるような気がする。彼の友人たちも彼と同様にもう若くはなかったし、若い者たちは彼を退屈な老人あつかいにした。彼からみると今日の英国は、彼の青年時代の英国で彼が愛した多くのものを、すでに失っているようだった。だがボルネオはもとのままである。いまではここが彼の故郷だ。いつまででも、いられる限りは現在の職にとどまっていたい、そしていよいよ退任を余儀なくされる前に死にたいというのが、彼の切なる希いになっていた。彼は遺言状にも、たといどこで死のうとも遺骸はセンブルウへ送りかえし、静かな河の流れの音の聞えるところ、自分の愛した民の住むところに葬られたいと、記しておいた。
だがこうした気持を、彼は人々に気づかれぬようにしていた。それゆえ誰ひとりとして、このキリッとした、強靭な、体格のよい人物、髭のない、きつい顔の、白髪まじりの人物が、こんな深い心情を大切に秘めていようとは夢にも思い及ばなかった。
彼はこの駐屯所の仕事をどのようにやるべきかをよく知っていたから、それから数日間は、副司政官のすることに猜疑《さいぎ》の眼を注いでいた。まもなく彼はクーパーが勤勉で有能な男であることを知った。彼が発見した唯一の欠点は、この男が土人に対して無愛想なことだった。
「マレイ人は弱気で、非常に敏感だよ」と彼はクーパーに言った。「わたしの思うには、なるべく注意して丁寧に、辛抱づよく、親切にあつかってやる方が、ずっとうまくゆく、きみにもいずれわかると思うが」
クーパーはクスリと、耳ざわりな笑いかたをした。
「わしはバルバドスの生れで、戦争中はアフリカにいました。黒んぼのことなら、大抵のことは知ってるつもりですよ」
「わたしは一つも知らん」ウォーバートン氏は不機嫌に言った。「しかし、いまは黒んぼの話をしているんじゃないよ。マレイ人の話をしているのだ」
「あいつらは黒んぼじゃねえんですか?」
「きみは何も知らんね」ウォーバートン氏は答えた。
それきり、もう何も言わなかった。
クーパーが来てからの最初の日曜日に、彼を晩餐に招いた。何事でも大袈裟にやるウォーバートン氏は、前日に役所で会い、また六時にはフォートのヴェランダで一緒にジン・ビタスを飲んだのに、鄭重な手紙をバンガローまでボーイに持たせてやった。クーパーも気は進まなかったに違いないが礼服を着てやって来た。ウォーバートン氏は自分の希望が尊重されたことには満足したものの、その礼服の仕立のわるいことや、シャツが身体に合っていないことなどを見てとって軽蔑を感じた。しかしウォーバートン氏はその晩は機嫌がよかった。
「ときに」と握手をしながら、彼は言った、「わたしのボーイ頭に、きみの召使をさがすように話しておいたところが、自分の甥ではどうだろうと言ってる。わたしは会ってみたが、利口そうな、ハキハキした子供だ。会ってみますか?」
「いいでしょう」
「ちょうど待っている」
ウォーバートン氏はボーイを呼んで、お前の甥を呼べといいつけた。まもなく、背丈の高い、すらりとした二十歳ぐらいの若者が現われた。大きな、黒っぽい眼をして、感じのいい横顔だ。サロンに小さい白の上衣、総《ふさ》のつかない、李《すもも》色のビロードの氈帽《せんぼう》をかぶって、なかなか身綺麗な姿だった。名前はアバスといった。ウォーバートン氏は気に入った様子で彼を眺め、そして流暢な本格のマレイ語で話しかけるときの彼の様子は、思わず知らず優しさを加えた。白人に対しては嘲弄的になる傾きがあるが、マレイ人に対すると温情と親愛とがうまく融合した楽しい調子になる。いわばサルタンの地位に自分を置くのである。つまり自分の威厳をすこしも損わずに、しかも土人を楽な気持にさせる術を、申し分なく心得ているのだ。
「どうです、いいかね?」クーパーの方を向いてウォーバートン氏が言った。
「ええ、まあ、ほかのやつらと較べて、そう大した悪党でもないようですから」
ウォーバートン氏はボーイにきまったことを知らせてやり、その場を引取らせた。
「ああいうボーイが手に入ったのは、運がいいですよ」と彼はクーパーに言った。「あれは大変にいい家柄の者です。もう百年も前にマラッカから渡って来たそうだ」
「わしはボーイが靴を磨いたり飲物をもって来たり、わしの望む通りにやってくれさえすれば、どんな家柄の者だろうと構やしません。わしとしては、こっちの言うことをちゃんとやって、ぼやぼやしてさえいなけりゃあ、それでいいんですよ」
ウォーバートン氏は唇をすぼめたが、何とも返事をしなかった。
二人は食事をはじめた。料理はすばらしかったし、葡萄酒もうまかった。やがて酒のききめがあらわれて、二人は悪感情を抱かないばかりか、すっかり打ち解けて語りあうようになった。ウォーバートン氏は美食家であった上に、日曜日の夜は、平生よりも更にいくらか贅沢にする習慣だった。彼は自分がクーパーに対して悪く考えすぎていたと思いはじめた。もちろん、この男は紳士ではない、けれどもそれはこの男の罪ではないし、知り合いになってみればなかなか面白い男ともいえるかも知れないのだ。この男の欠点は、たぶん不作法なところだけだろう。それに仕事はたしかに良くやる、テキパキしているし、良心的でもあれば徹底的でもある。デザートに入る頃にはウォーバートン氏はあらゆる人間に対して好意を示したい気分になっていた。
「今日はきみの最初の日曜だしするから、一つ特別のポルト酒を一杯、御馳走しよう。もう二ダースしか残っておらんから、ごく特別な場合だけしか出さんようにしている」
彼がボーイに命令すると、やがて壜が運ばれて来た。ウォーバートン氏は、ボーイがそれを開けるのをみつめていた。
「この酒は旧友のチャールズ・ホリントンから貰ったものでね。彼のところに四十年、わたしも随分ながいこと置いている。この友達はイギリス一の蔵酒家として有名な男ですよ」
「葡萄酒の商売をやってるんですか?」
「ちょっと違うよ」とウォーバートン氏は微笑した。「わたしが話していたのはキャッスル・リイのホリントン卿のことさ。イングランドで指折りの金持貴族の一人ですよ。わたしとは非常に旧いつきあいでね。あの男の弟とわたしとはイートンで同窓だった」
これはウォーバートン氏としてはとても逃がせない絶好の機会だったので、ある小さな逸話を話しだしたが、どうしてもこの話の狙いは彼がある伯爵を知っていたという点だけにあるらしかった。ポルト酒はたしかに上等だった。彼は一杯のんで、それからまた二杯目を飲んだ。彼はすっかり用心をなくした。白人と話をするのは何カ月ぶりかだった。彼はいろいろの話をはじめた。大貴族連とつきあっていた頃の自分の吹聴をした。その話を聴いていると、ある時代には彼が一人の侯爵夫人の耳にささやいた思いつきや、宴会のテーブルごしに何気なく言ったことを、王様の政治顧問が喜んで取り上げ、それによって内閣が組織されたり政策が決定されたりしたように思われて来る。アスコットやグドウッドやカウズで過した古い昔が、まざまざとよみがえった。そこでまたポルトを一杯。ヨークシャやスコットランドの荘園でもよおされる盛大なパーティ、そこへ彼は毎年よばれて行った。
「その頃わたしはフォアマンという男を召使っていてね、これほど優秀な従僕は後にも先にも使ったことがないほどのやつだったが、それがわたしに暇をくれと言いだしたのは何故だか、きみわかりますか? 御承知の通り供侍《きょうじ》部屋では淑女の女中たちや紳士の従者たちが、めいめいの主人の身分の順で席をきめられる。フォアマンにいわせると、次から次へと行くパーティが、どれもみなわたし一人しか平民がいないので、すっかり厭になったというのだ。つまりいつでも食堂の一番末席に座らせられるので、料理が自分のところへ廻ってくるまでに、美味いところはみな取られてしまうわけなんだね。わたしがこの話をヘリフォード老公爵にしたところが、閣下は大笑いをされた。『いや、どうも、わしがもし国王だったら、きみの従僕をよろこばせてやるだけのためにでも、きみを子爵にするだろうな』と言われるので、わたしが『公爵、あの男をお譲りいたします。あれほどの従僕は、わたくし今まで使ったことがございません』と申しあげると、『そうか、ウォーバートン君、きみにとって優秀なら、わしにとっても優秀にちがいない。早速よこしてくれたまえ』というわけだったよ」
次はモンテ・カルロ、ここではウォーバートン氏とフョードル大公とが組になって、ある晩、胴元を破産させてしまった。それからまたマリエンバード。マリエンバードではウォーバートン氏はエドワード七世のバカラのお相手を申しあげた。
「もちろんその頃はまだ皇太子であられた。陛下がわたしにこう仰せられたのを、おぼえているよ、『ジョージ、五《ファイヴ》をもちながらドローをするようだと、まず身代限りだぞ』まったくその通りだった。陛下といえども、一生のあいだにあれほど肯綮《こうけい》に中《あた》ったお言葉はなかったろうと思うね。まったく素晴らしいお方だった。わたしはいつも言ったものだよ、陛下はヨーロッパ随一の大外交家でいらせられるとね。しかしわたしはその頃は若気のいたりで、陛下の注意して下すった通りにするだけの分別がなかった。もしそうしていたら、つまり五《ファイヴ》をもってドローしなかったら、おそらくわたしは今頃こんなところにはいなかったろうね」
クーパーはまじまじと彼の顔を見ていた。窪んだ奥の方からのぞいている茶色の眼は、強情で、高慢そうだったし、唇には冷笑がうかんでいた。彼はクアラ・ソロオルでウォーバートン氏の噂をいろいろ聞いていた、悪い男じゃないし、行政官としてはまるで時計みたいにカッチリとやる方だが――と誰しもが言った、何しろどうも、ひどいスノブでねえ! 人々は悪意なしに彼のことを笑っていたが、それは誰しもこういう気前のよい、親切な人物を嫌うということは不可能だったからで、クーパーは皇太子の話やバカラ賭博の話をもう聞いていた。しかしクーパーは退屈そうな顔もせずに傾聴していた。初対面から、彼は司政官の態度に不快を感じていた。もともと敏感な男だったから、ウォーバートンの慇懃無礼な皮肉には焦《じ》りじりさせられていた。ウォーバートン氏は気に入らぬことを言われると、むっつり黙りこんでしまう癖がある。
クーパーはイギリス本国にはほとんど住んだことがなく、イギリス人に対して、一種特別な嫌悪を抱いていた。特に大嫌いなのはパブリック・スクール出の男で、彼等はきっと笠にかかって上手《うわて》に出て来る、それがたまらなかった。誰によらず、高飛車に出られることが大嫌いなので、逆にこちらから先手をうつために、相手から我慢のならない高慢なやつだと思われるような態度をとってしまうのだ。
「とにかく、何にしても、戦争は一つだけわしらにいいことをしてくれましたよ」と最後に彼は言った。「貴族の権力ってものを、完全にたたきつぶしてくれましたからね。ブーア戦争でそれがはじまった、一九一四年がとどめをさしてくれたわけですよ」
「英国の名門というものも、もう末だな」とウォーバートン氏は、ルイ十五世の宮廷をなつかしむ亡命貴族《エミグレ》のような自己満足の憂愁にひたりながら言った。「もう昔のような宏壮《こうそう》な邸宅に住む力もなくなったし、豪奢な饗宴なんかも、もうじき思い出にすぎなくなるだろうね」
「またそれがわしから見ますと、願ってもない結構なことでさあ」
「おい、クーパー君、いったいきみなんぞに何がわかるかね。あの『古世《いにしえ》のギリシアの栄光《ほまれ》、往昔《そのかみ》のローマの隆盛《さかえ》』――」
ウォーバートン氏は芝居気たっぷりな仕草をしてみせた。彼の眼は、しばし、過去のまぼろしを夢みるような風情を帯びた。
「いや、ところがね、わしらはもうそういう下らないことにはうんざりしてるんです。わしらの欲しいものは実務的な人間による実務的政府ですよ。わしは英領植民地に生れて、大体ずっと植民地ばかりで暮らして来ました。貴族なんぞ何とも思っちゃいません。イギリスの悪いところは、俗物性ですよ。だから世の中で何が癪にさわるったって、俗物《スノブ》ぐらい厭なものはありませんね」
俗物《スノブ》! ウォーバートン氏の顔は紫色になり、その眼は激怒に燃えた。これこそ、一生涯彼につきまとって来た言葉だ。青年時代の彼がご交際を願う光栄に浴した貴婦人連は、自分たちに対する彼の崇拝ぶりを必ずしも無意味なものとばかりは思わなかったようだが、それらの貴婦人連ですら時には癇癪を起すことがあり、一度ならずウォーバートン氏はこの憎むべき言葉をあびせかけられたことがある。彼は知っていた、いや知らずにはすまされなかった、世の中には彼を俗物と呼ぶ怪しからぬ人間どもがいることを。何たる不当な話であろう! なぜといって、世の中に俗物性ぐらい軽蔑すべき悪徳はないと、おれ自身が思っているのだ。要するに、おれは自分と同じ階級の人々と交るのが好きなので、彼等と一緒にいるときだけが気持がいいのだ、それを一体どういうわけで俗物的などと罵るのだ?「類は友を呼ぶ」のにすぎないではないか。
「きみの説にはまったく賛成だよ」と彼は答えた。「俗物《スノブ》とは、自分よりも身分の高い人間を崇拝するか、あるいは軽蔑する男のことだ。これはわが英国の中産階級が有する最も下品な弱点だよ」
彼はクーパーの眼に譏笑《きしょう》の影がひらめくのを見た。クーパーは口許に思わずひろがって来る笑いを隠そうとして手で抑えたが、そのために一層それが目立った。ウォーバートン氏の両手がすこしふるえた。
おそらくクーパーには、彼がどれほど甚だしく自分の上司の機嫌を損じたか、とてもわからなかったろう。非常に敏感なくせに、奇妙に他人の感情には鈍感な男であった。
仕事の関係で、昼のうちはときどき二三分間ずつ顔を合わせないわけにゆかなかったし、六時にはウォーバートン氏のヴェランダで一杯やるために一緒になった。これはこの土地で昔から守られている習慣で、ウォーバートン氏は世界が逆さになってもそれを破りたくないと思っていた。しかし食事は別々で、クーパーは自分のバンガローで、ウォーバートン氏はフォートで、やることにしていた。役所の仕事が終ったあと、二人とも薄暗くなるまで散歩をしたが、その散歩も別々だった。ジャングルが村の農場のすぐそばまで迫っているこの土地では、歩くような路は少ししかなかったので、ウォーバートン氏は彼の下僚が持前のだらけた足どりで通りすぎるのをみると、彼を避けるために元来た道へ引返すのが常だった。あの不作法、あの自分の見解に対する自惚、他人に対する酷薄さなどで、クーパーはもう彼にはやりきれない存在になっていた。だが彼の嫌悪が烈しい憎悪に変ったのは、クーパーが着任してから二カ月ほどたった頃に、ある出来事が起ったためだった。
ウォーバートン氏は奥地へ視察旅行に出かける必要があったが、留守をクーパーにまかせることについては、初め頃よりも一そう安心していられた。今では彼は、クーパーが有能な男だという確信をもつようになっていたからである。一つだけ気に入らぬことは、彼が住民をあまやかさないことだった。正直で、厳正で、勤勉ではあるが、土人に対して少しも同情をもっていない。自分自身のことは誰に対しても平等だと考えているこの男が、非常に多くの人間を自分よりも劣等だと思っているという矛盾は、ウォーバートン氏に辛辣な滑稽を感じさせた。
彼は苛酷だった、土人の気持を思いやって堪忍することができず、乱暴に叱りとばした。ウォーバートン氏はマレイ人たちがクーパーを嫌い、怖れていることを、たちまちのうちに見てとった。これは決して悪い気持ではなかった。もし自分の部下が自分に匹敵するほどの人気を博しでもしたら、それは非常に不愉快なことだったにちがいない。ウォーバートン氏は持前の念入りな旅支度をととのえ、旅行に出かけて、三週間後に帰って来た。そのあいだに郵便が着いていた。自分の居間へ入った彼が最初に見つけたものは、封を開いた新聞紙の大きな山だった。クーパーは迎えに出たので、彼と一緒に居間に入った。ウォーバートン氏は留守をしていた召使の一人の方をふりかえり、厳しい調子で、いったいこの開封した新聞はどうしたことだと訊ねた。クーパーがあわてて言い訳をした。
「わしがウォルヴァハムプトンの殺人事件の記事をまとめて読みたかったもんですから、あなたの『タイムズ』をお借りしたんですよ。すっかりお返ししておきました。べつにご迷惑になることじゃないと思ったもんですから」
憤怒に蒼白になって、ウォーバートン氏は彼の方へ向き直った。
「いや、迷惑です。わたしは大いに迷惑しますよ」
「悪かったですな」落着きはらって、クーパーが言った。「実際のところ、わしはお帰りになるまで待ってられなかっただけなんです」
「まさか手紙まで開封したんじゃないでしょうね」
クーパーは平然として、激昂する上司の顔をみてニコニコ笑っていた。
「ああ、それだったら話はべつですよ。どう考えても、わたしがあなたの新聞を読んだって、ご迷惑になろうとは思いもよらなかったんです。新聞には何も個人的な秘密はないんだから」
「わたしはわたしより前に他人がわたしの新聞を読むことに絶対に同意できない」彼は新聞の山の方へ近づいた。そこには三十日ぶんに近い新聞があった。「実に失敬だと思うね、きみは。みんなごちゃまぜになってる」
「そんなもの、わけなく揃えられますよ」言いながらクーパーもテーブルのそばへ来た。
「触らんでくれたまえ」とウォーバートン氏がどなった。
「ふうむ、こんな小さなことで騒ぐのは子供みたいじゃないか」
「わたしに向って何ということを言うんだ、きみは?」
「チェッ、勝手にするがいいや」と言って、クーパーは部屋の外へとびだしてしまった。
あとにのこったウォーバートン氏は、激怒に身をわななかせながら、じっと新聞を見つめていた。人生における彼の最大の快楽が、心なき野鄙《やひ》低劣な男の手で、めちゃめちゃにされてしまった。遠い異境に住んでいる人々の多くは、郵便が来るとまず性急に新聞の封を切り、最近の号を手にとって、故国の一番新しいニュースにざっと目を通すのが普通である。ウォーバートン氏はそうでなかった。彼に新聞を発送している取次店は、かねて封の表に一枚一枚の日付を書いておくように注文を受けていた。それで大きな束になった新聞がとどくと、ウォーバートン氏はその書き出された日付を見て、青鉛筆で番号をつける。ボーイ頭は毎朝のヴェランダのテーブルに、朝の紅茶と一緒に一枚だけ置いておくように命ぜられている。ウォーバートン氏の格別な楽しみは、そのお茶をすすりながら封を破って、その朝の新聞を読むところにある。それによって彼はあたかも身が故国にあるような幻覚を味わうのである。
毎月曜の朝には彼は六週間前の月曜の『タイムズ』を読み、以下そのようにして一週間を送る。日曜日には『オブザーヴァー』紙を読む。晩餐に正装をする習慣と同様、それは文明世界とのつながりの糸の一つである。また、どれほどニュースが気になっても、定めの時よりも前に新聞を開いてみる誘惑に負けないということが、彼の誇りであった。
大戦中は、どうなることかと心配で、とても辛抱できないことが往々にしてあった。ある日のごときは、総攻撃がはじまったことを読んで、実に身も世もないほどの不安に苛まれた。しかもそれは、ただ簡単に棚の上にある新しい日付の新聞をあけて見る臨機の処置さえとれば、事なく救われる苦しみだった。あれほど苦しい試煉に、いまだかつて彼は臨んだことがない、だが彼は見事にこの試練をのりこえたものだ。それだのに、あの間抜けな阿呆めは、ただどこかの厭らしい女が自分の汚らわしい亭主を、殺したか、殺さないか、そんなことを知りたいばかりに、折角きちんと封をしてあるものをバラバラに開けてしまいおったのだ。
ウォーバートンはボーイを呼んで、包み紙を持って来させた。彼は新聞をできるだけ丁寧にたたみ、一枚ずつ包み紙で巻いて、それに番号をつけた。だがこれは情けない仕事であった。
「おれは絶対にあいつを赦さんぞ」と彼は言った。「絶対にだ」
もちろん彼のボーイは視察旅行に彼と同行した。彼はボーイなしで旅行することは決してなく、それはこのボーイが彼の好みをすっかりのみこんでいた上に、ウォーバートン氏は普通の密林旅行者のように、快適な日常生活を犠牲にして構わないという種類の人ではなかったからである。しかし帰って来てからボーイは暇をみて勝手元へ行き、留守中の世間話をした。それで彼はクーパーが召使たちとごたごたを起したことを知った。アバス青年だけを残して、みんな出て行ってしまったそうだ。アバスも一緒に逃げたかったが、司政官の命令で叔父から行けといわれたものだから、叔父の許しを得ないで出てゆくのは憚られるので、残っている、という話だった。
「それは感心だった、と手前はあれに言うてやりました、旦那様《トワン》」とボーイは言った。「けれどもあれも困っております。好いお屋敷ではなかったと申しましてな、ほかの連中のように、逃げてもいいだろうかと訊かれましたんですが」
「いや、残っていなければいかん。トワンには召使がなければ困るのだ。出て行った連中の代りの者はあったか?」
「いいえ、トワン、みんな厭だと申しますので」
ウォーバートン氏は眉をひそめた。クーパーは生意気な莫迦《ばか》者にちがいないが、役人としての地位を持っている以上、それにふさわしい召使をつけてやらねばならない。家の中がきちんとしていないというのは不体裁な話だ。
「逃げだしたボーイたちはどこにいる?」
「村《カンボン》におります、トワン」
「今晩お前が行って、わたしが、明日の暁方までにトワン・クーパーの屋敷へ帰って欲しいと思っていると、言ってくれ」
「もう帰らないと言っていますんで、トワン」
「わたしの命令でもか?」
ボーイはウォーバートン氏に仕えて十五年になるから、主人の声の調子は細かいところまで知っている。彼は主人を怖れてはいない、二人してあらゆる艱難をしのいで来たのだ。あるときはジャングルのなかで司政官が彼の生命を救ってやったし、またあるときは急流で舟がくつがえり、彼がいなかったら司政官は溺れ死んでいた。だがどういうときに司政官の命令にだまって服従しなければならぬかをも、彼は知っていた。
「村《カンボン》へ行って参りましょう」と彼は言った。
ウォーバートン氏は、彼の下役が、顔をみたらすぐに自分の無礼を詫びることだろうと思っていた。ところがクーパーはやはり育ちのわるい人間の常で、悪かったと言うことのできない性質《たち》だった。それで翌朝、役所で顔をあわせても、彼はこの事件について知らぬ顔をしていた。ウォーバートン氏が三週間も留守にしていたので、この日はさすがに二人の話もいくらか長びいた。済んだので、ウォーバートン氏は相手を引きとらせた。
「ほかには別に何もないだろう、ありがとう」クーパーが出てゆこうとするところを、ウォーバートン氏は引留めた。「きみはボーイたちと何かごたごたしたらしいね」
クーパーはとげとげしく笑った。
「あいつら、わしをゆすろうとしやがったですよ。生意気に、みんなでずらかりましてね、例の能なしのアバスだけ残ったんですが――やつはちゃんとその方が得だってことを知ってますからね――それでもわしは平気な顔をしていましたよ。いまはまたみんな帰って来ています」
「きみ、それはどういう意味だね?」
「今朝、あいつらみんな元どおり帰って来たんです、中国人のコックをはじめ、一人残らずです。どこを風が吹くかって顔で、すましてやがる。人が見たらあいつらの家だと思うでしょうよ。きっとやつらも、わしが見かけほど莫迦じゃねえことがわかったんですね」
「とんでもない。わたしがわざわざ命令したので帰って来たのだよ」
クーパーはちょっと顔をあからめた。
「私事に干渉しないようにしていただきたいものですな」
「私事ではないよ。きみの召使が逃げるのは、きみが笑いものにされることだ。きみが自分を笑いものにするのはご自由だが、わたしはきみが笑いものにされるのを黙って見ておるわけにはゆかん。きみの屋敷に当然おるべき召使がおらないのは不体裁だ。ボーイたちが出て行ったという話を聞いたから、早速わたしは夜明けまでに戻って来いと命じておいた。じゃ、これでいいだろう」
ウォーバートン氏は会談の終ったことを知らせる意味にうなずいた。クーパーはそれに目もくれなかった。
「わしがどうしたか、言いましょうか。わしはやつらを呼んで、莫迦野郎どもを一人残らず馘《くび》にしてやりました。十分以内にこの屋敷内から出てゆけと言ってやったんです」
ウォーバートン氏は肩をすくめた。
「ほかの召使がみつかると思ってるんだね?」
「わしの係りの書記に、世話をしろと言っておきました」
ウォーバートン氏はちょっと考えていた。
「きみは非常に愚かなやりかたをしたものだね。いずれ、良い主人には良い召使という諺を忘れないようになるだろう」
「ほかに何か、わしに教えたいと思うことがありますか?」
「行儀作法も教えてあげたいと思うんだが、これは忍耐の要る仕事だろうな、とてもそんな暇もわたしにはない。ボーイの方は、わたしが何とかしよう」
「どうぞわしのためにご心配にならんで下さい。ボーイを探すぐらい、自分でちゃんとやれますから」
ウォーバートン氏は苦笑した。彼は自分がクーパーを嫌うように、クーパーも自分を嫌っていることを薄々感づいていた。そしておのれの嫌悪する人間から無理に恩を着せられるくらい口惜しいことはないのを、彼は知っていた。
「ご注意までに言っておくが、いまとなってはきみがマレイ人なり中国人なりの召使を手に入れる見込みのないことは、イギリス人の執事《バトラー》やフランス人のコック長を雇入れる見込みのないのと同じことだよ。わたしが命令しない限り、きみのところへは誰も来ないよ。命令した方がいいかね?」
「要らんです」
「じゃ、好きにしたまえ。さよなら」
ウォーバートン氏は意地のわるい興味をもって事の成行をみまもっていた。クーパーの書記は、マレイ人、ダイヤク人、中国人と口説いたけれども、あんな主人の屋敷へ誰がゆくものかといって、一人として承知する者がなかった。たった一人その主人に忠実に仕えていたボーイのアバスは土地風の料理しか知らないので、粗食を意としないクーパーも、朝に晩に米飯ばかり出されて、見るのも厭になってしまった。水くみ男もいないのに、この土地の暑さでは一日に何度も水を浴びずにいられない。アバスをどなりつけるのだが、アバスはふくれ面をして消極的に反抗し、気のむいたことだけしかしない。この若者が出てゆかないのは専ら司政官が行くなと言ってるためだということがわかっているので、余計にいまいましかった。
そういう状態が二週間ほど続いて、ある朝のこと、クーパーが気がついてみると前に馘にした召使たちがまた帰って来ていた。怒り心頭に発したけれども、さすがに前のことでいくらか懲りたので、今度は何も言わずに、そのままにしておいた。屈辱はじっと胸におさめたものの、ウォーバートン氏の風変りな性癖に対して感じた苛立たしい軽侮の念は、ついに鬱屈した憎悪となった――司政官はこの底意地のわるい小細工で、とうとうおれを土人どものお笑い草にしてしまやがった。
二人のあいだには、もはや何の連絡も保たれていなかった。駐屯所にいる白人は、どんなに個人的に仲が悪くても六時に一緒に酒をのむという、昔からの習慣すら、二人はついに破ってしまった。どちらもまるで相手の存在を無視したようにして自分の屋敷で暮らしていた。いまではクーパーもすっかり仕事に慣れたので、役所にいても交渉をもつ必要は殆どない。ウォーバートン氏は何か自分の部下に知らせなければならぬことがあれば当番の給仕を使うし、指令はすべて公文書で送った。顔だけは絶えず見あわせているが、それは仕方がなかったが、一週間に半ダースと言葉を交わさなかった。お互いに相手の姿を見かけずにすますことができないという事実は、彼等の神経にさわった。二人はこの反目について絶えず頭を悩まし、ウォーバートン氏は散歩の途中でも、自分がどれほど副司政官を嫌ってるかということのほか何も考えられなかった。
さらにやりきれないことは、どう考えてもお互いはこの調子で、ウォーバートン氏が賜暇《しか》で出かけるまで、不倶戴天の敵として睨みあっているほかはなさそうだということだった。それまでには三年かかるだろう。政庁に陳情をしようにも、一つも理由がなかった。クーパーは仕事を非常によくやったし、当時は人手がなかなか得られなかった。漠然とした苦情は耳に入っており、土人がクーパーを苛酷だと思っているという二三の噂も聞いてはいる。土人たちのあいだに不満の気持があることは確かだ。しかし一々の場合についてウォーバートン氏が見たところでは、クーパーは、温情を示してやっても誤りでないような場合に厳格であったり、自分だったら同情するだろうと思う場合に思いやりがなかったりする、というだけの話であった。譴責に値するようなことは、何ひとつしていなかった。
しかしウォーバートン氏は彼から目を離さなかった。憎悪はしばしば人間の眼を鋭くする。のみならず彼は、クーパーは土人に対して思いやりなく彼等を駆使しているが、しかも法律の埓は決して超えない、それは実はそうすることによって彼の上司を怒らせることができると思っているのだ、と、そういう疑惑を持っていた。いつかはきっとあの男もやりすぎる時があるだろう。一年じゅう絶え間のない酷暑が人を腹立ちやすくし、睡れない夜をすごしたあとでは人は自制を保つのが困難なことを、ウォーバートン氏は誰よりもよく知っていた。彼はひそかにほくそ笑んだ。おそかれ早かれ、クーパーのやつも自分からおれの手にころがりこんで来るだろう。
そしてとうとうその機会が来たとき、ウォーバートン氏は声をあげて笑った。クーパーは囚人の監督を受持っていた。彼等は道路をつくったり、倉庫を建てたり、プラーウで往来する必要のあるときには舟を漕いだり、町の清掃をしたり、その他いろいろの有益な労務に服していた。もし行状がよければハウス・ボーイとして働く場合さえもある。ところがクーパーは彼等を酷使した。彼は囚人たちを働かせておくのが好きだった。彼等のする仕事を工夫することを楽しみとしていた。それで必要もない仕事をやらされていることを抜目なく見てとると、囚人たちはすぐに仕事を怠けた。彼はその罰として労働時間を延長した。これは規則違反である。そのことが耳に入るや否やウォーバートン氏は、下僚に一応の相談をすることなしに、従来の労働時間を守るようという指令を出した。夕方の散歩に出かけたクーパーは、囚人たちがぞろぞろと刑務所へ帰ってゆくのを見てびっくりした。彼は暗くなるまでは仕事をやめてはならぬと命じておいたのだ。どういうわけで仕事をやめたのかと、当番の看守に訊くと、司政官の命令だと答えた。
怒りに真蒼になって、彼は砦《フォート》へ押しかけた。ウォーバートン氏は例によって真白な麻服にさっぱりしたヘルメット、ステッキを手に、犬をしたがえて、ちょうど午後の散策に出かけようとするところだった。彼はクーパーの出かけるところを見ていたので、河ぞいの道を行ったことを知っていた。クーパーは踏み段を躍りあがると、いきなり司政官の前へ行った。
「囚人を六時まで働かせろというわしの命令を取消したのはいったい全体どういうわけだか、教えて貰いましょう」憤激に我を忘れて、彼はどなった。
ウォーバートン氏は、例の冷たい青い眼をまんまるくして、いかにもびっくり仰天したような表情をしてみせた。
「気でも狂ったのかい、きみ? 上司に向ってそういう口のききかたをするものでないことも知らないほど、きみは無知なのかねえ?」
「ええ、うるさい。囚人のことはおれの役目だ、お前さんが干渉する権利はねえんだ。そっちはそっち、こっちはこっちで、やればいいんだ。どうしておれを笑いものにするのか、そのわけを聞かして欲しいね。この土地の者は一人のこらず、お前さんがおれの命令を取消したことを聞くじゃありませんか」
ウォーバートン氏はどこまでも冷静だった。
「きみにはきみの出した命令を出す権限がない。その命令が苛酷すぎるから、わたしは取消したのだ。よろしいか、きみが自分で勝手に笑いものになってる、その半分も、わたしはきみを笑いものにした覚えはない」
「あんたはおれがここへ来た一番はじめっから、おれを嫌ってたんだ。おれがあんたにおべっかを使わねえものだから、それでおれがこの土地にいられなくなるように、ありとあらゆる手を使った。おれが胡麻をすらねえからといって、おれをひどい目にあわせたんだ」
口から唾《つば》をとばしながら、怒り狂ったクーパーは、だんだん急所に近づいて来た、するとウォーバートン氏の眼光は、突如として、一層の冷たさと鋭さとを加えた。
「それは違うよ。わたしはきみを下司だとは思った、しかしきみの仕事ぶりには申し分なく満足していた」
「何をこの俗物《スノブ》。俗物野郎めが。貴様がおれを下司だと思ったのは、おれがイートンを出ていねえからだろう。ふん、こんなことになるだろうとは、おれはK・Sでひとから聞かされて来たんだ。やい、貴様はボルネオじゅうでお笑い草だということを知らねえのか? 貴様の十八番の皇太子殿下の話を聞かされたときには、おらあゲラゲラ笑いだしたくなってたまらなかったぜ。クラブであの話が出たときに、みんなが何と言って喜んだと思うんだ。べらぼうめ、貴様のような俗物になるくれえなら、おらあ下司の方がずっといいや」
とうとう彼はウォーバートン氏の痛いところに触れた。
「これ、いますぐこの屋敷から出てゆけ、ゆかなければ殴り倒すぞ」と氏は叫んだ。
相手は一歩、彼に身を近づけて、彼の真正面にその顔をつきつけた。
「おれに触ってみろ、触ってみろ」と彼は言った。「やい、何だと、殴ってみせて貰いてえものだ。それとももっと言ってやろうか? 俗物《スノブ》。俗物《スノブ》」
クーパーは、ウォーバートン氏よりも三インチがた背丈《せい》が高く、強壮な若い男だった。ウォーバートン氏は肥満した五十四の中老人である。拳をかためて、つきだした。その利腕をクーパーはとらえて、彼を押し戻した。
「莫迦な真似はよせ。おれが紳士でねえことを忘れるな。おれは喧嘩の仕方を知ってるぜ」
唇を鳴らして妙な音を立て、その蒼白い鋭い顔をほころばせてニヤリと笑いながら、ヴェランダの踏み段をとび降りた。ウォーバートン氏は憤怒のために心臓が肋骨を衝きあげるほど動悸して、ぐったりと椅子に腰を落した。まるで汗疹《あせも》でも出たように、身体じゅうが痒《かゆ》かった。情なさに、一瞬、彼は自分が泣きだすのかと思った。だが、とたんに、彼はボーイ頭がヴェランダにいることを意識すると、本能的に自制をとりもどした。ボーイが進み出て、一杯のウィスキー・ソーダを彼のために注いだ。無言のまま、ウォーバートン氏はそれを手にとって飲みほした。
「何かわしに言いたいのか?」ウォーバートン氏は、ひきつれた唇に無理に微笑をうかべようとしながら、訊いた。
「トワン、副司政官のトワンは悪いお方でございます。アバスは、またあそこを出たいと申しております」
「もう少し待てと言っておけ。わたしはクアラ・ソロオルへ手紙を出して、トワン・クーパーをどこか他所《よそ》の土地へやって貰うように頼むから」
「トワン・クーパーはマレイ人とうまくゆきません」
「わたしにまかせておけ」
ボーイは静かに退《さが》って行った。ウォーバートン氏は一人になって、物思いに沈んだ。彼はクアラ・ソロオルのクラブを眼にうかべた。日が暮れて、ゴルフやテニスもできなくなり、家のなかへ入った男たちが、運動服のまま窓際のテーブルをかこんで、ウィスキーやジン・パヒットを飲んでいる。誰かがマリエンバードでのプリンス・オヴ・ウェールスと彼との例の名高い話をするのを聞いて、みなが笑っている。恥と悲しみとで、彼は身内が熱くなった。俗物《スノブ》! みんな、彼のことをスノブだと思っている。しかも彼はいつでも彼等を実に好い連中だと思っていた、いつでも、彼等の身分が一段低いことで区別《けじめ》をつけようなどとはせぬほど、自分は紳士だったではないか。いま彼は彼等を憎んだ。だがその憎しみも、クーパーに対する憎しみとは、比較にもならなかった。しかも殴りあいとなれば、クーパーは彼を打ちのめしてしまうだろう。口惜し涙が、彼の赤い、肥えた顔を伝わり落ちた。彼はそうしておよそ二時間ばかり、何本となく巻煙草をふかしながら腰をおろしていた、いっそ死んでしまいたいと思った。
とうとう、ボーイが戻って来て、晩餐のための着替えをするかと訊いた。もちろんのことだ! 晩餐のときには、必ず着替えをするのだ。ものうげに腰をもちあげて、いつもの硬いシャツと高いカラとを身につけた。美しく飾られた食卓につき、いつものように、二人のボーイの給仕を受け、ほかの二人には大扇で風を送らせた。二百ヤードはなれたバンガローでは、クーパーがサロンとバジュだけの姿で、汚らしい晩飯を食っていた。足は跣足《はだし》で、食べながら探偵小説か何かを読んでいた。
晩餐後、ウォーバートン氏は手紙を書きだした。サルタンは不在だったが、その代理にあてて、極秘の親展として書いた。クーパーは仕事はたいへんよくやる、けれども実は自分が彼と一緒にやってゆけないのだ、と彼は書いた。お互いに堪えがたく不快をつのらせるばかりなので、もしクーパーをほかの地位へ移してもらえるならば、自分としてはまことに有難いのだが。
翌朝彼は手紙を特別の使いに持たせて出した。二週間後、毎月の郵便物と一緒に返事が来た。それは私信で、次のように述べてあった――
[#ここから1字下げ]
ウォーバートン兄
貴簡|拝誦《はいしょう》、御返事は公式のものにしたくないので、人手を煩わさず認《したた》めます。もちろん貴兄が飽くまで要求されるなら、サルタンに具申してもいいのですが、小生としてはこの問題を打切りにされる方が遙かに賢明ではないかと考えます。クーパーが荒削りな野人であることは小生も存じていますが、しかし彼は有能ですし、戦争中は随分苦労もしているので、できるだけ機会を与えられて然るべきだと思うのです。貴兄は些か人の社会的地位に重きを置く傾向が強すぎるのではないでしょうか。時代が移ったことを忘れないで頂きたく思います。もちろん紳士たることはまことに結構なことではありますが、むしろ有能で勤勉であることの方が更に結構なことです。小生は貴兄が今すこし寛容の徳を発揮されたら、クーパーとの間も非常にうまく行くのではないかと考えます。
頓首
リチャード・テンプル
[#ここで字下げ終わり]
手紙はウォーバートン氏の手から落ちた。行間の意味を読むことは困難でなかった。二十年来の友人たるディック・テンプル、地方名門の生れであるあのディック・テンプルまでがおれを俗物《スノブ》だと思い、それだけの理由からおれの要求をひとたまりもなくしりぞけるのだ。ウォーバートン氏は急に人生に張り合いがなくなったような気がした。自分の属していた世界はすでに過去のものになり、未来は下賎なやつらのものになるのだ。それを代表するのがクーパーであり、そのクーパーを彼は腹の底から憎んだ。グラスに酒をつぐために手をのばすと、それを見てボーイ頭が進み寄った。
「お前がいるのを知らなかった」
ボーイが政庁から来た手紙を拾いあげた。(ああ、この男、それで待っていたのだな)
「トワン・クーパーはおやめになりますか、トワン?」
「いや、やめない」
「凶《わる》いことが起きましょう」
ほんの束の間、気落ちのした彼にはその言葉から何の意味も感じられなかった。だがほんの束の間だった。彼は椅子の上で身を起し、ボーイをじっと見た。もう五分の隙もなかった。
「それは何のことだ?」
「アバスに対してトワン・クーパーのなさり方がよろしくございません」
ウォーバートン氏は肩をすくめた。あのクーパーのような男が、召使のあつかい方を何で知ろう? ウォーバートン氏はそういうタイプがあることを知っている――厭らしく召使と親しくするかと思えば、すぐに手の平をかえすように粗野に、思いやりなく扱うというタイプが。
「アバスを自家《うち》へ帰してやりなさい」
「トワン・クーパーが、逃がすまいとして、給料をおやりにならないのでございます。三月のあいだ一文も払いませんです。わたくしは辛抱しろと言って聞かせます。けれどもアバスは怒っております。道理を言ってきかせてもだめでございます。もしクーパーさまが、このままどこまでも彼《あれ》をお苛《いじ》めになれば、凶いことが起りましょう」
「よく知らせてくれた」
莫迦者め! マレイ人を苦しめて、無事でいられると思うほど、あの男はこの民族を知らんのか? 背中に短剣《クリーズ》をお見舞されるまでは、眼がさめんのだろう。クリーズを。ウォーバートン氏の心臓は、急に鼓動を失ったようであった。このまま成行にまかせておけば、やがていつか天気晴朗のある日、クーパーをこの世からおさらばさせることができる。「天衣無縫の無為」という言葉が、ふと心をかすめ、同時に彼はかすかに微笑んだ。と、また彼の心臓は少し動悸した。憎いあの男が、背中に短剣を刺されて、ジャングルの小径にうつぶせに倒れている姿を眼に浮かべたからである。弱い者いじめの下司男にはふさわしい最後だ。ウォーバートン氏は嘆息した。警告を与えてやるのがおれの義務だ、むろんそうしなければならん。で、彼は、いますぐ砦《フォート》へ来るようにという短い、型にはまった手紙をクーパーにあてて書いた。
十分たたぬうちに、クーパーは彼の前に立った。ウォーバートン氏がクーパーを殴りつけようとした、あの日以来、二人は全然口をきかなかった。いま彼は相手に腰をかけろとも言わなかった。
「わしに会いたいというお話でしたね?」
彼は義理にも綺麗とはいえない、むさくるしい姿をしていた。顔も手も蚊に喰われた痕《あと》だらけで、それを掻きむしったものとみえて、血がにじんでいた。痩せた長い顔が、ぶすっとした不機嫌な表情をしていた。
「きみはまた召使とごたごたを起したらしいね。わたしのボーイ頭の甥のアバスが、三月も給金を払って貰えないと苦情を言っている。それできみのところから出たいというのだが、わたしとしても無理とは思わん。きみが当然やるべき報酬をボーイに払うように、わたしとしては主張せざるを得ません」
「わしとしては、出てゆかれては困る。給料を渡さないのは、あいつをおとなしくさせるための、いわばカセにしてるんですよ」
「きみはマレイ人の性格を知らん。マレイ人は虐待や侮辱に対して、非常に敏感だ。感情に激しやすく、復讐心が強い。わたしは義務としてきみに警告するが、もしきみがあのボーイを苦しめる程度をわきまえないとすれば、それは非常な危険を冒すことになりますぞ」
クーパーはクスリと鼻で笑った。
「あいつが何をするっていうんです?」
「きみを殺すだろうと思う」
「それがあんたにどうだっていうんです?」
「わたしか、わたしはどうもないよ」軽い笑い声まじりに、ウォーバートン氏は答えた。「わたしはびくともしないよ。ただ適切な警告をきみに与えることが、自分の役目だと思うのだよ」
「わしが、黒んぼを怖がるとでも思うんですかい?」
「そんなことは、わたしは全然関心をもたないね」
「なるほど、じゃ、これだけ言っときましょう、わしは自分のことは自分で気をつけます。あのアバスってボーイは汚ねえ、泥棒猫みてえな野郎だ、あいつがもしこのわしにふざけた真似をしやがったら、野郎の首をねじ切ってやりまさあ」
「わたしがきみに言いたかったことはこれだけだ」とウォーバートン氏は言った。「失敬」
ウォーバートン氏は引取れという合図に軽くうなずいた。クーパーはサッと顔をあかくして、ちょっと何を言うべきか、または何をすべきかに迷った様子だったが、すぐに踵《きびす》をめぐらし、ドタドタと室を出て行った。ウォーバートン氏は唇に氷のような微笑をうかべて、出てゆく彼を見送った。彼は義務を果したのである。だが、そのときクーパーは無言でしょんぼりとバンガローへ帰り、あまりにも痛ましい我が身の孤独さに急に一切の自制を失ってベッドに身を投げだした、という事実を知ったら、彼は何と思っただろうか? いたましい咽び泣きがクーパーの胸を掻きむしり、大きな涙が彼の痩せた頬を伝わって落ちた。
その日以来、ウォーバートン氏はほとんどクーパーの姿を見ず、まったく口をきかなかった。毎朝『タイムズ』を読み、役所で事務をとり、運動をし、着替えをして晩餐をとり、河のほとりに腰をおろして愛用の両切葉巻《シエルウト》をくゆらした。たまたまクーパーと逢っても、素知らぬ顔で行きすぎた。二人とも、相手がすぐ身近にいることは一瞬も忘れてはいないのに、まるで相手がまったく存在していないかのように振舞った。
時がたっても、二人の憎しみは少しも薄らがなかった。互いに相手の一挙一動を見まもっていて、何をしているかを手にとるように知っていた。ウォーバートン氏は青年時代には射撃が得意であったが、年齢とともにジャングルで野獣を殺すことを厭わしく思うようになった。けれどもクーパーは日曜ごとに銃をもって出かけた。何かクーパーに獲物があると、それは彼のウォーバートン氏に対する凱歌だったし、なければ、ウォーバートン氏が肩をすくめて一人で忍び笑いを洩らすのだ。ふん、手代風情が、スポーツマン面《づら》をして!
クリスマスには、二人とも面白くない思いをした。二人はめいめいの住居で、一人ぼっちで食事をし、めいめいことさらに酔っぱらった。二人は二百ヤード以内に住む二人きりの白人であり、しかも互いに呼べば応える近くに住んでいたのだ。新年にクーパーは熱病で倒れ、ウォーバートン氏がふたたび彼の姿をみかけたときは、あまり痩せ衰えているのでびっくりした。よほど衰弱している様子であった。孤独は、その必要がないだけに一そう甚だしく不自然な孤独であり、それが彼の神経を参らせていた。ウォーバートン氏の神経も同じくそのために参って、夜ねむれないことがしばしばあった。
彼は眼を覚ましていては、いろいろのことを考えた。クーパーはひどく酒に淫《いん》しているらしいので、破局が間近に迫っていることは確かだ。しかし原住民の取扱いについては、上司の叱責を受けるようなことのないように、注意を払っていた。二人は深刻な無言の持久戦をやっていた。根気くらべである。幾月かたったが、どちらも弱みを見せなかった。二人は永遠に夜ばかり続く国の住人に似て、夜の明ける見込みが絶対にないことを知っているために魂は絶えず重圧に苦しんでいた。自分たちの生活が永久に、この暗澹《あんたん》とした単調な憎悪のなかで続くような気がした。
そして、とうとう避けられぬ事件がもちあがったとき、ウォーバートン氏はまったく思いもよらぬショックを受けた。クーパーはボーイのアバスが彼の衣類を何か盗んだと言って叱り、ボーイがその盗みを否定すると、彼はアバスの首根っ子をつかんで、バンガローの踏み段から下へ蹴落した。ボーイが賃銀を請求すると、クーパーはあらん限りの悪口雑言を頭ごなしに浴せかけた。一時間以内にこの屋敷内から姿を消さなかったら、警察へ引渡すと言った。翌朝、ボーイはクーパーの出勤する途中、砦《フォート》の外で待ち伏せしていて、また給金を請求した。クーパーは鉄拳でその顔を殴った。ボーイは地面に倒れ、鼻血を出しながら起き上った。
クーパーはそのまま立ち去って仕事にかかった。しかし仕事が手につかなかった。殴ったので癇癪はいくらか鎮まったが、やりすぎたとは気がついていた。心配になった。気持がわるく、みじめな、がっかりした気分になった。隣の事務室にはウォーバートン氏がいる、衝動的にそこへ行って、自分のしたことを語りたくなった。椅子から腰をもちあげかけたが、相手がどんなに冷酷な軽悔を味わいながらこの話を聞くか、想像に難くなかった。恩きせがましい薄ら笑いが、眼にみえる。一瞬、アバスが何をやりだすか、不安になった。ウォーバートンの警告は当っていた。彼は溜息をついた。おれは何という莫迦だったろう! だが彼は苛々《いらいら》と肩をそびやかした。構うものか。生きていたところで、何の好いことがある。みんなウォーバートンのやつが悪いんだ。あいつがおれを怒らせさえしなければ、こんなことにはならなかったんだ。ウォーバートンが、初《しょ》っ端《ぱな》からおれの生活を台なしにしやがった。俗物《スノブ》め。だがあいつらはみんなそうなんだ。おれが植民地生れだからというんだ。戦争で、とうとう将校になれなかったのも、何といういまいましい恥をかかせられたものだ。おれは誰にだって負けやしなかった。あいつら、みんな下劣な俗物《スノブ》ばかりだ。いまとなって、降参してたまるか。どうせウォーバートンは今朝の出来事をきくにきまっている。あの親爺め、何だって知ってやがるんだから。おれは平気だ。ボルネオのマレイ人なんか、一人だって怖くはねえ、ウォーバートンなんぞ、糞でもくらえだ。
ウォーバートン氏がその朝の出来事を知るだろうと思ったのは、当っていた。昼食に帰ったときに、ボーイ頭がそれを告げた。
「お前の甥はいまどこにいる?」
「存じませんです、トワン。いなくなってしまいました」
ウォーバートン氏は無言のままだった。昼食後には少し眠る習慣だったが、今日はまるで眠れなかった。我にもなく彼の眼は、いまクーパーが昼寝をしているバンガローの方へ向いがちだった。
愚か者め! しばし、ためらいの心がウォーバートン氏のうちに湧いた。あの男はどんな危険にさらされているか、知っているのだろうか? おれはクーパーを呼び寄せるべきだろう。だがいつでもおれが理をもってクーパーを説いたとき、クーパーはかならずおれを侮辱したではないか。憤怒が――烈しい憤怒が、むらむらとウォーバートン氏の胸にわき起り、思わずこめかみの血管を怒張させ、拳を握りしめた。あの下司男には、すでに警告を与えてある。今度こそは受くべき報いを受けるがいいのだ。それはおれの知ったことでないし、何事が起るにしてもそれはおれの罪ではない。だが恐らくクアラ・ソロオルの連中は、おれの建言を容れてクーパーをほかの駐屯地へ廻せばよかったと悔むだろう。
その夜、彼は不思議に心がさわいだ。晩餐のあとで、ヴェランダをいつまでも行きつ戻りつした。ボーイが引|退《さが》ろうとするとき、ウォーバートン氏はアバスの様子は何か知れたかと訊ねた。
「何にもございません、トワン、たぶん母親の弟のおります村へでも行ったのではありますまいか」
ウォーバートン氏は鋭くその顔を見やったが、ボーイは眼を伏せ、彼と視線を合わせなかった。ウォーバートン氏は河岸へおりて行き、四阿《あずまや》に腰をおろした。それでも落着きは得られなかった。河は音もなく、不吉な感じで流れていた。まるで巨大な蛇が、うねうねと海をめがけて這い進んでいるような気がした。河向うのジャングルの樹々も、何か謀《たくら》んでいるように息を凝らして、重苦しく静もっていた。鳥の声ひとつ聞えない。桂皮樹《カツシア》の葉をゆるがす、そよとの風もない。四囲《あたり》はじっと何ものかを待っているような気配であった。
庭園を突切って、道路へ出た。そこからはクーパーのバンガローがすっかり見える。居間に灯がともって、ラグタイムの曲が道路ごしに流れて来た。クーパーは蓄音機をかけているのだ。ウォーバートン氏はぞくりと悪寒をおぼえた。彼は蓄音機というものが本能的に嫌いで、どうしても好きになれないのだ。あんなものさえやっていなければ、あそこへ行ってクーパーに話しかけてやるのだが。彼は引返して、自分の家へ帰った。おそくまで本を読んで夜を更かし、やっと眠りに落ちた。けれども長くは眠らず、いくつも厭な夢をみた揚句、何か叫び声を聞いて眼がさめたような気がした。もちろんそれも夢だったのだろう、どこからも――たとえばクーパーのバンガローからも、部屋のなかでは叫び声などは聞える筈はなかったから。そのまま、暁方までベッドのなかで眼をさましていた。それから、急ぎ足の足音と話し声とが聞え、だしぬけにボーイ頭が、いつもの氈帽をかぶらずに寝室へとびこんで来た。ウォーバートン氏はギョッとした。
「トワン、トワン」
ウォーバートン氏はベッドから跳ね起きた。
「すぐ行く」
スリッパをつっかけ、サロンとピジャマ・ジャケット姿で、屋敷内を横切ってクーパーの住居へ入った。クーパーはベッドに口を開けて横たわり、心臓部に短剣《クリーズ》が突き刺さっていた。眠ったまま殺されたのだ。ウォーバートン氏はビクリと身体をふるわせた――が、それはこういう光景を見ることを予期していなかったからではなく、急に心のうちで気持が軽くなったのを感じたから、ビクリとしたのだ。大きな重荷が、彼の肩からおろされたのである。
クーパーはすっかり冷たくなっていた。ウォーバートン氏は傷口から短剣《クリーズ》を抜きとり――よほど力をこめて刺されたとみえ、抜くには相当の骨が折れた――それをしらべた。彼には見覚えがあった。それは数週間前にある商人が彼にすすめ、そしてクーパーが買ったことを知っている品だった。
「アバスはどこにいる?」いかめしい声で、彼は訊いた。
「あれの母親の弟の村に参っております」
土地の警察の警部が、ベッドの裾の方に立っていた。
「二人ほど部下を連れて、その村へ行ってアバスを捕えて来い」
ウォーバートン氏は即座に必要な処置をした。顔色ひとつ変えずに、彼は命令を与えた。言葉は短くて手厳しい。それが済むと砦《フォート》へ帰った。顔を剃り、入浴し、服装をととのえて食堂に入った。皿のわきには包装のままの『タイムズ』が彼を待っている。彼は果物をすこし食べた。ボーイ頭がお茶をつぐ暇に、二番ボーイが玉子の料理を手渡す。ウォーバートン氏は旺盛な食欲で食べる。ボーイ頭がそばで待っている。
「何だね?」とウォーバートン氏が訊いた。
「トワン、甥のアバスは昨夜はずっと母の弟の家におりました。証拠がございます。あれが村《カンボン》を一足も出なかったことは、あれの叔父が証言をいたしましょう」
ウォーバートン氏はちょっと不機嫌な顔をボーイに向けた。
「トワン・クーパーは、アバスに殺されたのだ。わしが知ってると同じように、お前もそれを知っている。法の裁きを免れることはできん」
「トワン、まさかアバスを死刑になさいますまいね」
ウォーバートン氏は一瞬ためらった、そして声は相変らずキッパリとしていかめしかったが、眼色には幾らかの変化があらわれた。チラリとかすめたその光を、このマレイ人は素早く認め、彼自身の眼にもそれに答えて了解のひらめきがかすめた。
「挑発があまりひどかったからな。アバスの刑は懲役になるだろう」ウォーバートン氏はマーマレイドを掬《すく》うあいだ、ちょっと間をおいて、「刑期の一部をつとめたら、わたしがこの家でボーイに使ってやってもいい。そうしたらお前によく仕込んでもらう。きっとトワン・クーパーの家にいるあいだに、いろいろ悪い癖がついとるだろうから」
「アバスに自首をさせましょうか、トワン?」
「その方が利口だろうな」
ボーイは引きさがった。ウォーバートン氏は『タイムズ』を手にとり、器用に包み紙を破った。厚い頁を、軽い音をたててめくるのが、快かった。爽涼な、甘美な朝である。にこやかな視線を、しばらく庭の方へさまよわせる。大きな重荷が、彼のこころから降りた。また視線を戻して、出生、死亡、結婚などの報知の出ている欄を眺める。いつも最初に目を通すのがこの欄である。知っている名が、彼の注意を捕える。オルムスカーク卿夫人が、とうとう男の子の母になった。ああ、御後室が、さぞおよろこびだろう! 次の便で早速お祝いの手紙を出そう。
アバスはきっといいボーイになるだろう。莫迦なやつだ、あのクーパーは。
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臆病者
二隻のプラーウが楽々と流れを降って行く。一隻は他の一隻よりも五六ヤードさきに出ていて、その前の方のに二人の白人が坐っていた。河の上で七週間すごしたあとで、その夜は文明の設備のある家に泊れると思うと、嬉しかった。戦争以来ボルネオに住んでいるイザアトにとって、ダイヤク人の家や彼等の招宴は、もちろん珍しくもない話だったが、この土地へ来て間のないキャンピオンは、はじめのうちこそ物めずらしさに興じていたけれども、いまではやはり椅子に腰をかけ、ベッドに寝る生活を恋しがるようになっていた。
ダイヤク人は客を好んで、よく款待《もてな》したが、誰にしても彼等の家ではあまり居心地のよさをおぼえる筈はなく、彼等の饗応の方法がまた、やや千篇一律のきらいがあるので、しばらくたつと少しうんざりして来るのである。夕方、二人の旅客が船着場に着くと、旗を持った酋長をはじめ、その一家の主だった人々が、河まで迎えに来ている。二人は「長屋《ながや》」へ――杭を打ってその上に建てた一軒の家だが、実際は一つの屋根の下に一つの村をなしている――つれてゆかれる。樹の幹に粗末な刻み目をつけて、段々にしてある、それをのぼって、この長屋へみちびかれるのだ。するとその長い建物の長さだけの長い行列をなしている太鼓や銅鑼《ドラ》が、一斉に鳴りわたって彼等を迎える。両側に密集した褐色の村人たちは地面に臀《しり》をつけて坐り、白人の通るのを無言でじろじろ見物している。清潔なマットが敷き並べられて、客たちはそこに坐る。酋長が生きた鶏を持って来て、脚を握ってそれを宙にぶらさげ、客たちの頭の上で三度それを振って、大声で精霊を呼びだし、歓迎の祝詞を述べる。そこへさまざまの人々が鶏卵を持参する。アラク酒〔椰子酒〕を飲む。一人の少女――花のような麗しさと同時に何か僧侶的なものをそのお面のように動かぬ顔にうかべている小柄な娘が、おずおずと進み出て、客の白人の唇に盃をさしつけ、盃が空《から》になると、どっと一座が歓声をあげるのだ。男たちが踊りだす、一人一人、楯と剣《バラング》とを持って太鼓と銅鑼の拍子にあわせ、小刻みな足拍子をとって。それがしばらく続いたあと、お客たちは一つの部屋へつれてゆかれる、そこはこの一族の共同生活に使われている長い板の間につづく一間で、彼等の夜食がそこに用意されている。娘たちが中国風の匙で食べさせてくれる。それから、誰もみな酔い心地で、夜明け方まで話がはずむのだった。
だがいまはその長旅も終って、彼等は海岸地方へ帰ろうとしている。二人は暁に出発した。そのときは河はごく浅くて、砂利の多い河底の上を澄明な水が走っていた。碧空《あおぞら》が少ししかみえないほど、樹木が河の上へ覆いかぶさっていた。だがその河もいまは広くなって、船頭たちも櫂で漕がずに竿だけを使っている。樹々、竹、駝鳥の羽根の巨大な束のような野生のサゴ椰子《やし》、おそろしく葉の大きい樹やアカシアのように羽毛に似た葉の茂っている樹、長い真直な白い幹のココ椰子の樹や檳榔樹《びんろうじゅ》など、両岸の樹木は鬱蒼として凄まじいまで放恣《ほうし》に繁茂していた。
そこここに、雷に打たれるか老衰して枯死するかした樹のむきだしの骸骨が、無気味な裸形をさらしていて、あたりの緑一色のなかにその白さが一際目立った。それからまた寄生木《やどりぎ》、二本の枝の叉《また》に大きな総《ふさ》になって、したたるような翠葉《みどりば》を垂らしているもの、生いひろがる繁枝《しげえだ》の上に花嫁のヴェールのように這っている花のある蔦蔓《つたかずら》。あるときは蔓草は豪奢な花環のように丈高い樹幹に捲《ま》きまつわって、枝から枝へ、花をよそおった長い腕をかけわたしている。このひたむきに生い伸びようとする自然の暴烈な野性には、なにか戦慄をもよおさせるものがあった。神の定めた序列を擾《みだ》そうとする遊牧民の不逞《ふてい》な放埓《ほうらつ》さが、そこにあった。
日は闌《た》けてゆき、もう暑さもそれほど苦しくはなくなった。キャンピオンは自分のみすぼらしい銀の腕時計を見た。目的地へ着くのも、もうあまり先のことではなさそうだ。
「ハッチンスンて、どんな男だい?」と彼は訊いた。
「ぼくも知らないんだ。なかなか好いやつらしいぜ」
ハッチンスンは今夜の宿をしてくれる筈の司政官で、二人はあらかじめ一人のダイヤク人を丸木舟で先発させ、今夜着くことを知らせておいたのだ。
「とにかく、ウィスキーを持っていてくれるとありがたいな。あんまり長いこと、アラクばかり飲まされていたからな」
キャンピオンは鉱山技師で、ここのサルタンが英国へ行く途中シンガポールで彼に逢い、ちょうど暇でぶらぶらしているのを見て、何か利益のありそうな鉱脈がみつかるかどうか、調べるように彼に依頼したのである。サルタンはクアラ・ソロオルの司政官のウィリスに、キャンピオンのためあらゆる便宜をはかるよう指令を出した、そこでウィリスはマレイ語とダイヤク語とを原住民同様に話すイザアトをつけて、彼の世話をさせることにした。二人が奥地へ入ったのは今度が三度目で、これでキャンピオンは報告をもたらして故国へ帰ることになっている。
彼等は明後日の夜明けに河口を通過する筈の『サルタン・アーメッド』号に便乗する予定で、そうすると大抵ならば同じ日の午後にはクアラ・ソロオルに着ける筈である。その町へ帰れることを、二人とも喜んでいた。あそこにはテニスもゴルフもあり、玉突台のあるクラブもあり、この地方にしては上等な食事もでき、快適な文明の設備がある。イザアトにしてみればキャンピオン以外の友達と一緒になれることも嬉しいことの一つだ。
彼は横眼で鉱山技師を見やった。彼は大きな禿頭の小男で、五十にはなっているが身体は強健で引締っている。よく動く蒼い眼を光らせ、白髪のまじった剛《こわ》い短い口髭がある。欠けて汚ない色をした歯のあいだに、使い古したブライヤのパイプをほとんど放したことがない。服装は不精で薄汚なく、カアキ色の短ズボンはボロボロ、肌着シャツは破れている。いまは形のくずれた日除帽《ヘルメット》をかぶっている。十八の時から世界じゅうを胯にかけて歩き、南アフリカにも中国にもメキシコにも行ったことがある。道連れとしては面白い男で、話は面白いし、誰と逢っても、いくらでも酒の相手をする。
これまでずっと仲好く旅をつづけて来たが、イザアトはどうも彼とつきあって本当に気楽になれない。一緒に冗談口をたたいたり笑ったり酔っぱらったりしても、イザアトは二人のあいだに親しさが湧かないのを感じた。お互いに心から好意をもってつきあいながら、彼等はいまだに単なる知人関係以上にはならなかった。彼は他人に与える印象について非常に敏感な性質《たち》で、キャンピオンが愉快そうに振舞ってる背後に、いつもある程度の冷やかさが残っていることを感じていた。
あの光る蒼い眼は、おれをちゃんと見抜いてしまっている。キャンピオンが自分について一つの意見を作りあげていて、しかも彼にはそれがどんな意見だかわからない、そのことがイザアトを何となく苛々《いらいら》させるのだ。このつまらない小男が、自分のことを好くばかりは考えてはいないかも知れないと思うと、腹が立つのである。彼は他人から好かれ、賞められたかった。評判のいい人間になりたかった。自分に逢った人間が自分に途方もない好意を寄せて、友達になることをお断りしようと、いくらか妥協して友達になってやろうと、こっちの望み次第、という工合になりたかった。自分としては誰とでも親しくしたいのだが、相手から拒絶されるのが怖くて他人行儀になる。ときとすると、うっかり自分の心情を腹蔵なく相手にぶちまけて、その相手がびっくりしたのに気がつき、不安な気持になることもあった。
どういうわけか、偶然に彼はまだハッチンスンに逢ったことがなかった。もっとももちろん彼の方ではハッチンスンのことはよく知っていたし、ハッチンスンの方でも彼のことをよく知っていたので、それに話題になるような共通の友人も沢山あった。ハッチンスンはウィンチェスターの出身だったから、イザアトは自分がハロウ出であることも話題の一つになると思うと嬉しかった。〔ウィンチェスター、ハロウ、ともにイギリスの有名なパブリック・スクール〕
プラーウが河筋の曲りをまがると、急に小高い丘に立っているバンガローが見えた。数分後には桟橋が見え、その上に、一団の土人の群にまじって、一人の白人が彼等に向って手を振っているのが見えて来た。
ハッチンスンは赭ら顔の背丈の高い頑丈な男だった。風采から推して、彼は元気のよい、自信の強い男だろうと想像させるので、実は小心な、少しばかり羞《はにか》み屋であることがすぐにわかると、誰しも少なからず驚くのである。来客たちと握手をし――イザアトが自己紹介をし、次にキャンピオンを紹介した――彼等を案内してバンガローに通ずる小径をのぼってゆくとき、明らかに一生懸命で愛想よくするつもりでいるのに、何を話していいのか困っているらしいのを見てとるのは、少しもむずかしくなかった。
彼が二人を案内したヴェランダには、グラスとウィスキーとソーダとが用意してあった。二人は長椅子にくつろいだ。ハッチンスンが初対面の客に少し気づまりにしている様子を気にして、イザアトはつとめて愛想よくした。彼はクアラ・ソロオルにいる共通の知人たちの話をはじめ、まもなく自分がハロウ校の出身であることを何気なく相手に知らせる機会をつかんだ。
「あなたはウィンチェスターをでられたんですね?」と彼が訊いた。
「ええ」
「ジョージ・パーカーをご存じありませんか。あれはぼくと同じ連隊でしてね。やっぱりウィンチェスターにいたんです。もっともあなたよりは後輩でしょうが」
イザアトは、彼とハッチンスンとが、ともにこういう特殊な学校を出ているという事実を、二人を結びつけるものだと感じていた。したがってそれは、明らかにこうした優越性を享受しなかったキャンピオンを除外することになるのだ。彼等は二三杯のウィスキーを飲んだ。イザアトは三十分もすると、世話をしてくれる主人を「ハッチイ」と呼ぶようになっていた。彼は戦争中に自分が中隊長をしていた「おれの連隊」のことを盛んに喋り、仲間の将校たちがどんなに愉快なやつばかりであったかを喋った。ハッチンスンが知っていそうもない男の名を二つも三つも挙げた。それらの知人はキャンピオンが出会う折のなさそうな階級の人たちで、そういう人物と知りあいだと吹聴することによって彼を綺麗に一発やりこめてやることができるのを、すこしも気の毒だとは思わなかった。
「ビリー・メドウズ? もう随分昔になるが、わしはシナロアでビリー・メドウズという名の男に逢ったよ」
「いや、それは同じ人じゃないでしょう?」にっこり笑って、イザアトは言った。「ビリーは貴族ですよ、あれで。競馬をやるメドウズ卿ですよ。あんた憶えていないんですか、『春にんじん』という馬を持ってたのを?」
晩餐の時刻が近づいたので、汗を落して髪をととのえてから、二杯ばかりジン・パヒットを飲んだ。やがて席についた。ハッチンスンは好い季節にクアラ・ソロオルへ行かなかったので、もう三カ月も白人と顔を合わせずに暮らしているのである。彼はできる限り客たちをもてなそうと、やきもきしている。あいにく葡萄酒はなかったが、ウィスキーはふんだんにあったし、食後には大切にしているベネディクティンをもちだした。みなすっかり陽気になった。盛んに笑ったり喋ったりした。イザアトはますます話が調子よくなった。ハッチンスンより好きな男に逢ったことがないような気がして、ぜひなるべく早くクアラ・ソロオルへ出て来たまえと、しつこく勧めた。うんと二人で騒ぎましょうや。キャンピオンはすっかり話の埒外《らちがい》に置かれたが、それはイザアトにはそういう立場に彼を置こうと、すこし意地のわるい考えがあり、ハッチンスンは羞み屋であるためだった。それで、さんざん欠伸《あくび》をしてから、しばらくして、寝たいと言いだした。ハッチンスンが彼を寝室へ案内して帰って来ると、イザアトが言った――
「あんたはまだ寝なくてもいいんでしょう?」
「とんでもない。まあ、もう一杯のみましょう」
また腰を据えて話しだした。二人とも少し酔った。やがてハッチンスンは、自分はマレイ娘と同棲している、その娘とのあいだに子供が二人あると、イザアトに話した。キャンピオンがいるあいだは出て来てはいけないと、言っておいたのだ。
「もうきっと眠ってるでしょう」イザアトにも主人の寝室とわかる部屋のドアの方を見かえりながら、ハッチンスンは言った。「しかし明日の朝は、子供たちをきみに見せたいな」
ちょうどそのとき、かすかに泣き声が聞え、ハッチンスンは、「や、坊主、眼をさましたかな」と言いながら、ドアの方へ行って、それをあけた。間もなく、子供を抱いて寝室から出て来た。一人の女が、そのあとにつづいた。
「歯が生えかかってるところでね」とハッチンスンが言った。「それでむずかるんです」
女はサロンと薄い白上衣だけを着て、跣足《はだし》だった。美しい黒い眼をした若い娘で、イザアトが話しかけると、明るくにっこり笑った。彼女は腰をおろして、巻煙草に火をつけた。イザアトが親切にいろいろ問いかけるのに、きまりわるがらずに、だがあまり気乗りもせずに、返事をした。
ハッチンスンが、ウィスキー・ソーダでも飲むかと訊いたが、彼女はことわった。男たちがまた英語で話をはじめると、彼女はかすかに身体を揺すりながら静かに腰をおろしていて、誰にも何を考えているのかわからぬ黙想にふけっていた。
「とても良い娘でね」とハッチンスンが言った。「家のなかのことをよくやって、ちっとも困らせないんですよ。もっともこういうところでは、ほかに何も用事はありませんからね」
「ぼくはこれだけはやらんつもりですよ」とイザアトが言った。「結局、人間は結婚はしたがるけれど、してみると何かと煩わしいことばかりですからな」
「しかし誰が結婚したがるかですよ。白人の女には、とても我慢できる生活じゃない。ぼくはどんなことがあっても、白人の女にここで暮らしてくれとは頼めないな」
「もちろんそれは趣味の問題ですよ。もしぼくが子供をもつとしたら、その子には白人の母親をもたせてやりたいですよ」
ハッチンスンはうつむいて、自分の抱いている黒い皮膚の子供を眺めた。彼はかすかに微笑した。
「しかし妙ですね、子供が可愛くなるってのは」と彼は言った。「自分の子となってみると、それがタールを塗ったような色をしてたって、何とも思わないんだから」
女は子供の方をちょっとみて、起ちあがりながら、もう寝かせるからと言った。
「そろそろもうみんな寝ることにしましょうや」とハッチンスンが言った。「いったい何時だろう」
イザアトは寝室へ行くと、旅行につれて来ているボーイのハッサンが閉めた日除扉を開け放った。蚊が寄らないように灯を吹き消して、窓際に腰をおろし、おだやかな夜景を眺めた。宵に飲んだウィスキーのためにすっかり眼が冴えて、ベッドに入る気になれなかった。白麻服を脱ぎ、サロンをつけて、シェルウト煙草に火をつけた。好機嫌は消えてしまっていた。彼を落着かせなくしたのは、ハッチンスンが混血の子供をいとしそうに眺めているのを見たためだった。
「あんな子を生む権利はないんだ」彼は独語した。「絶対にああいう子供たちは浮かび上れないんだからな。絶対に」
考えこみながら、彼はむきだしの毛ぶかい脚を撫でた。彼はすこし寒気《さむけ》がした。いままで腓《ふくらはぎ》に肉をつけたいと思って、いろいろやってみたが、彼の脚はやはり箒《ほうき》みたいだった。彼はこの脚を憎んだ。彼は絶えずそれを意識して落着かなかった。それは土人の脚に似ていた。軍服を着ると、彼はなかなか立派だった。彼は六フィーゆたかの背丈の高い、逞しい体格で、綺麗な黒い口髭と綺麗な黒い頭髪をしていた。暗色の眼は美しくて、よく動いた。彼は好男子で、自分もそれを知っていて、服装の着こなしもうまかった。みすぼらしいのが可笑しくないときにはみすぼらしいなりに、時と場合によってはスマートに、身なりをととのえた。軍隊にほれこんでいたので、戦さが終って軍隊に残れなかったときには非常な打撃を受けた。彼の野心は単純なものだった。一年に二千ポンドの収入があり、気のきいた小宴会を催し、あちこちのパーティへ行き、軍服を着ることだった。彼はロンドンを恋しがった。
もちろん彼の母親がロンドンに住んでいて、そしてこの母親のために、彼は窮屈な思いをしているのだ。自分の妻にしたいと思って物色している良家の(小金《こがね》もある)娘と婚約でもしたときに、どうしてこれが母親ですといって紹介できるだろう。父親がはやく亡くなったので、また近年はずっと辺僻《へんぴ》なマレイ諸州ではたらいて来たので、イザアトはセンブルウでは誰ひとり自分の母親のことを知っている者はないと安心しているが、もし誰かがロンドンで偶然に母親に逢い、彼女が混血児であることを手紙でこちらへ知らせて来たらどうなるか、絶えずびくびくしながら暮らしているのだった。政庁の技師であったイザアトの父親が、この母親と結婚した頃は、彼女はすばらしい美人だったが、いまでは半白の髪をして終日することもなく巻煙草をふかしている肥満した老婆である。父親が死んだとき、イザアトは十二歳で、その頃は英語よりもずっと流暢にマレイ語を話していた。一人の伯母が彼の教育費を出そうと申し出てくれたので、イザアト未亡人は息子と一緒にイギリスへ渡った。彼女はいつも家具付きのアパートに住んでいたが、東洋風の垂帳とマレイの銀器とのある彼女の部屋は、むっとするほど温度を高くしていた。彼女はところ嫌わず巻煙草の吸殻をすてるので、絶えずアパートの主婦《おかみ》に文句をいわれていた。イザアトは母親の家主との交際の仕方を困ったものだと思う――しばらくのあいだは厭らしいほど仲好くして、それから喧嘩をする、大騒動をやったあとで、その家からとびだしてしまうのだ。彼女の唯一のたのしみは映画で、毎週いつでも構わず出かけた。家にいれば古びたけばけばしい部屋着《ドレッシング・ガウン》を着ているが、外出のときはおそろしく派手な色の装いをした――だが何とまあだらしのない恰好だろう!――そのために身嗜《みだしな》みのいい息子はいつも屈辱を感じさせられるのだ。彼はよく母親と口論をし、癇癪をおこし、彼女を恥じたが、それでいて深い愛情を感じていた。それは普通の母と子のあいだの感情よりも強い、二人のあいだの肉体の絆《きずな》にひとしいもので、彼を腹だたしくさせる幾多の欠点にもかかわらず、彼女は彼がこの世のなかで心から親しみをおぼえる唯一の人だった。
戦後に、何も仕事がなくて困っていた彼が、センブルウのサルタンの政府に入ることになったのは、父親の生前の地位と、いつも母親とマレイ語で話をしているためのその知識とのお蔭だった。彼の人気は上乗だった。カルタ遊びはうまいし、身体も丈夫で、優秀な運動家だった。クアラ・ソロオルの宿舎には、彼がハロウ校でランニングとジャンプで優勝したときのカップが幾つもあり、その後にゴルフやテニスで獲ったカップも追加されていた。世間話の話題が豊富なのでパーティでは調法がられ、明朗さは物事を進めるのに役立った。
彼は幸福であるべき筈で、しかもみじめだった。彼はいやが上にも人気者になりたいので、いまもこうしていると平常よりも一そう強く、人気が自分から去ったように思うのである。クアラ・ソロオルで隔てのないつきあいをしている連中が、何かの拍子に、彼が土人の血をひいていることを感づきはしないだろうか。もし露《ば》れたら、どんなことになるか、彼にはわかっていた。そうなったら彼等は自分を陽気で人づきあいのいい男だとは言わずに、あいつは厭に馴れ馴れしくするやつだと言うようになるだろう。また、やっぱり混血児だけに仕事の能率がわるくて軽率だと言うだろうし、白人の女と結婚したいなどといえば、ふふんとせせら笑うだろう。何という不公平な話だ! 土人の血が少しばかりおれの血管に流れているから、どういう違いがあるというのだ、ところが奴らはそのために、いざという場合におれが失敗するだろうと思って、絶えず目をつけるようになるのだ。欧亜混血児《ユーラシアン》には信用が置けない、おそかれ早かれ、きっとひどい目にあわされる、そう誰でも思っているし、彼もそう思っているのだが、いま彼は、混血児たちが失敗するのは失敗することを期待されているためではないのかと問い返したくなった。彼等は決して機会を与えられないのだ――可哀そうに。
鶏が声高くときをつくった。もうよほど晩《おそ》いのだろう、彼はすこし寒くなった。寝床に入った。翌朝ハッサンがお茶をもって来たとき、ひどく頭痛がして、朝食におりて行ったときは、前に並べられた粥《かゆ》やベーコン・エグズが、見るのも厭だった。ハッチンスンも一向に元気がなかった。
「いっそ飲み明かしてしまった方がよかったですな」あるじは、いささか気づまりなのを隠すために苦笑しながら言った。
「ひどくやられましたよ」とイザアトが言った。
「ぼくはウィスキー・ソーダを朝飯にしますよ」とハッチンスンがつけ加えた。
イザアトもそれに越したことはなかった。そしてキャンピオンが健康な食欲でたっぷり平らげるのをみていると、二人ともむかむかした。キャンピオンは二人をからかった。
「なんだ、イザアト、きみはひどく血色がわるいぞ」と彼は言った。「そんな汚ならしい顔色をみたことがないぜ」
イザアトは赤面した。色の黒いことが、いつも一番気にかかっているのだ。だが彼は強いて快活に笑いとばした。
「うん、ぼくにはスペイン人の祖母がいるんでね」と彼は答えた、「元気がなくなると、それが出て来るんですよ。いまでも憶えているが、ハロウで友達と喧嘩をして、殴りつけたやったことがある、ぼくのことを混血児《あいのこ》だと言いやがったんでね」
「ほんとに色が黒いな」とハッチンスンが言った。「土人の血がまじってるんじゃないかと、マレイ人に訊かれたことはありませんか?」
「ありますよ、実際、ずうずうしいやつらさ」
彼等の荷物を載せたボートが、その朝はやく一足さきに河口へ行くために出発した。『サルタン・アーメッド』号が予定より早く着いていた場合には、彼等が乗船する筈であることを船長に告げるためである。キャンピオンとイザアトとは、『ボーア』が来ないうちに、今夜の泊り場所に着くため、昼食が済んだらすぐに発つ予定だった。『ボーア』とは、特殊な地勢の関係で、大波になって河を押しあがって来る潮流のことで、ちょうど彼等が降って来た河にそれが起るのである。ハッチンスンが前夜そのことを二人に話して聞かせたとき、そういうものを見たことのないキャンピオンは非常に興味をもった。
「ここのはボルネオでも一番大きなやつです。見ておく値打がありますね」とハッチンスンは言った。
土人たちはその瞬間を待ち受けていてそれに乗り、息もつけぬほど凄い速度で波頭に乗ったまま上流へ運ばれてゆく、その有様をハッチンスンは語った。自分も一度それをやったことがあると言った。
「もう一度で懲り懲りです」と彼は言った。「どうしようかと思うほど怖かったです」
「一ぺんやってみたいもんだな」とイザアトが言った。
「そりゃ痛快なもんです、しかし何しろ、ちっぽけな丸木舟のことですから、土人がうまく間違わずに波に乗らないと、その湧きかえるような流れに投げこまれて、万に一つも助からないでしょうな……いや、あれはぼくにいわせるとスポーツのうちに入りませんな」
「若いときは、わしも早瀬乗りはよくやったものですよ」とキャンピオンが言った。
「早瀬乗りなんて、知れたもんでさ。まあ『ボーア』を見てごらんなさい。ぼくの知ってる限り、世の中で一番すごいものの一つですよ。何しろこの河だけでも、毎年すくなくとも一ダースぐらいの土人が溺れ死ぬんですからな」
朝のうちは大部分ヴェランダにごろごろしていて、それからハッチンスンの案内で役所を見た。やがてジン・パヒットが出た。みな二三杯のんだ。イザアトはすこし人心地がつきかけ、最後に昼食の支度ができた頃には、すばらしく食欲があった。ハッチンスンは自家のマレイ式カレーが大自慢で、なるほどその湯気の立つ汁気の多い料理が出されると、みんな盛んにやりだした。ハッチンスンはしきりに酒をすすめた。
「あとはもう、寝るよりほかにすることはないんですよ。酔っぱらったっていいじゃないですか?」
諸君があまり早く発たれるのは残念千万だ、何しろ長いあいだ白人と話をしなかったので実際愉快だった、そういって彼は食事を長びかせた。もっと食べてくれと言った。今晩は『長屋』のまずい食事しかないし、酒もアラクしか飲めないのだ。いまのうちにうんと楽しんでおいて下さいよ。キャンピオンが一二度、そろそろ出かけようと言ったが、ハッチンスンは、また今頃になってすっかり愉快になったイザアトも、時間はまだ十分あるから大丈夫だと言って、きかなかった。ハッチンスンは例の大切なベネディクティンの壜を持って来させた。どうせ昨夜、口をあけたんだから、いっそ発つ前にすっかり片づけてくれというのである。
ようやくハッチンスンに送られて二人が河の方へ降りて行ったときは、みな上機嫌で、足許のたしかな者は一人もなかった。舟の中央部にアタプの日|覆《おおい》がかけてあり、その下にはハッチンスンの心づかいで敷物がしいてあった。漕手は白人を輸送するために刑務所から連れだされて来た囚人で、刑務所のマークの入った汚れたサロンをつけていた。もう櫂を並べて待っていた。イザアトとキャンピオンとはハッチンスンと握手し、敷物の上にごろりと倒れた。
ボートが押し出された。広い河幅のおだやかな濁った水面は、炎熱の午後の日ざしを受けて、磨いた真鍮のようにギラギラ光っていた。前方の、ずっと遠くに、蓬々《ぼうぼう》と緑樹の茂った岸がみえる。睡気がさして来た。が少なくともイザアトだけは、全身に這いのぼって来るけだるさに少しの間、抵抗することに、一種奇妙な楽しさをおぼえ、シェルウトを一本すってしまうまでは睡らずにいようと決心した。とうとう吸いさしで指が熱くなったので、それを河へ投げた。
「さあ一つ好い気持でぐっすり睡るか」と彼は言った。
「『ボーア』はどうだ?」とキャンピオンが訊いた。
「なに、大丈夫でさ。そんなもの心配しなくたっていい」
長々と大きな欠伸をした。手足が鉛のような感じだ。ほんの少しの間、何ともいえぬ快い睡気を意識した後は、もう何も知らなかった。急に、眼をさますとキャンピオンが揺り起している。
「おい、あれは何だ?」
「何、何が何だ?」
まだ睡気に引込まれながら、怒りっぽく答えたが、眼はキャンピオンの指さす方を見た。何も音はきこえないが、ずっとさきの方に、二つか三つ、白い波頭が重なっていた。それほど警戒を要するものとは思えなかった。
「うむ、あれが『ボーア』かな」
「おれたちはどうすればいいんだ?」とキャンピオンが叫んだ。
イザアトはまだはっきり眼が覚めなかった。キャンピオンの声の心配そうなのに、彼は微笑した。
「心配いらんですよ。そいつらが、よく知ってまさあ。どうすればいいかだって、ちゃんと知ってます。飛沫《しぶき》ぐらい、少しはあびるでしょうがね」
だがこの僅かな会話のあいだに、『ボーア』は近づいていた。非常な速さで、まるで嵐の海の波音のような咆哮をあげて近づいていた、イザアトが思ったのよりは波はずっと高かった。これは面白くないぞと思うと、彼はボートが転覆したときに脱げないように、短ズボンのベルトを締めなおした。
たちまちのうちに、波は彼等の上に襲いかかった。まるで大きな水の壁が彼等の頭上に屹立《きつりつ》したようで、その高さは十フィートから十二フィートぐらいのものかも知れないが、それを目測するのは恐怖に駆られた眼だけなのだ、どんなボートでもそれを乗り切れないのは、わかりきっていた。第一の波がかぶさって来て、彼等をずぶ濡れにし、ボートを半分水びたしにしたかと思うとすぐあとから第二の波が襲いかかった。漕手たちが何か叫びだした。彼等は死物狂いでオールを引き、舵手が何か大声で命令した。だがこの怒濤のなかでは彼等は無力で、みるみるうちにボートを操る力を失ってしまうのをみるのは怖ろしいほどだった。
水の力はボートを横たおしにし、あっという間に『ボーア』の頂きにそれをのしあげてしまった。次の大波が衝きかかると、ボートは沈みはじめた。イザアトとキャンピオンとは横になっていた日覆の下から這いだしたが、急にボートが二人の足の下になくなって、気がついたときは二人とも水のなかでもがいていた。まわりでは大波が荒れ狂っていた。イザアトははじめ衝動的に岸にむかって泳ごうとしたが、ボーイのハッサンが大声でボートにつかまれとどなった。一二分はみなそうしていた。
「大丈夫か?」キャンピオンが彼に向って叫んだ。
「大丈夫、水浴びもわるくないね」
彼は『ボーア』がどんどん河をのぼって、通りすぎるものと想像していた。数分後には大波の外で、もう一度静かな水のなかにいられると思っていた。彼は自分たちがその波頭に運ばれていることを忘れていたのである。波は頭からかぶって来る。彼等は舟縁《ふなべり》やアタプの日覆を支えている台座にとりついていた。やがて一つの大波がボートを捕え、ボートが裏返しになって彼等の頭の上にかぶさって来たので、彼等は手を放してしまった。すがりつこうにもツルツルすべる舟底があるだけで、イザアトの手はそのヌラヌラする表面を頼りなく撫でまわすばかりだった。だがボートはそれからもまた裏返しになったから、彼は死物狂いで舟縁をつかんだが、それはただ次に裏返しになって手からすべり抜けるためにすぎず、今度は日覆の枠につかまったが、まだ舟はくるり、くるりと、ゆっくり廻りつづけ、またもや彼は舟底でつかまり場所を捜していた。
ボートは怖ろしいほど正確にくるり、くるりと裏返しになる。彼はみんなが片側にばかりしがみつくから、こうなるに違いないと思い、漕手たちを向う側へ廻らせようとした。だが彼等にそれをのみこませることができない。みんなが大声で喚いているし、波は相変らず鈍い怒号とともに彼等にぶつかって来る。ボートが彼等の上にかぶさって来るたびに、イザアトは水の下へ押しこまれ、やっと舟縁なり日覆の枠なりにつかまっては水面に浮かびあがる。ひどい苦しみだった。そのうちに彼はひどく息が切れはじめ、力が抜けそうになるのを感じた。もうあまり長くはつかまっていられそうもないとは思ったが、大して怖ろしくはなかった。それは疲労があまりひどいので、大して心配する力がなかったからである。ハッサンが隣にいたので、疲れて参ってしまいそうだと彼に言った。一番いいのは、岸まで六十ヤードとは離れていないから、思いきって一息に泳ぎ着くことだと思うと言ったが、ハッサンがそれはやめてくれと言った。
なおも彼等はわき返り衝きまくる波のただ中にあって押し流されていた。ボートはくるりくるりと廻転し、彼等は鳥籠のなかの栗鼠のようにその上を這いまわっていた。イザアトは沢山の水を呑んだ。もうだめだと思った。ハッサンがいても助けてもらうわけにゆかぬが、彼がそこにいるだけで気休めになった。このボーイが生れたときから水に馴れていて、泳ぎが非常に達者なことを知っていたからだ。やがて、イザアトには何故かわからなかったが、一二分のあいだボートは上向きのままでいたので、彼は舟縁につかまることができた。それで息が吐《つ》けたので、ありがたかった。その瞬間、マレイ人の乗った二隻の丸木舟が『ボーア』の波に乗って矢のように彼等のそばを通りすぎた。彼等は大声に助けを呼んだが、マレイ人たちは顔をそむけて行ってしまった。彼等は白人のすがたをみとめたので、何かあとで面倒なことが起きて関りあいになるのが厭だったのだ。おのれらは安全で、冷淡に素知らぬ顔で行ってしまうのをみるのは、たまらない気持だった。だがとたんにまたボートがくるりと裏返しになり、またゆっくりと廻転しつづけて、人々はみじめに、へとへとになって手さぐりを繰返した。精も根も尽きはてそうだった。だが、ちょっと休んだお蔭で、イザアトは気を取直し、さらに少しの間、悪戦苦闘をつづけることができたのだ。やがてまたもや彼は息が苦しくなり、いまにも胸が張裂けそうに思った。もうすっかり力つきて、岸まで泳いでゆけるという自信がもてなくなった。と、急に、叫び声が聞えた。
「イザアト、イザアト。助けてくれ。助けて」
キャンピオンの声だ。それは苦闘の叫びだった。それがイザアトの全神経に衝撃を与えた。キャンピオン、キャンピオン、あの男のことなど構っていられるか? 恐怖が、盲目な動物的恐怖が彼をとらえ、それが彼に新しい力を与えた。彼は答えなかった。
「助けてくれ、早く、はやく」彼はハッサンに言った。
ハッサンはすぐに彼の言う意味を理解した。奇蹟と言おうか、一本のオールが彼等の間近に漂って来たので、それを彼はイザアトの手のとどくところへ押しやった。彼はイザアトの腕の下へ片手をさし入れ、二人は勢よくボートから離れた。イザアトの心臓は烈しく動悸をうち、呼吸が切迫した。たまらない無力感をおぼえた。波が顔にあたる。岸はおそろしく遠くみえた。とてもあそこまで行けそうには思えなかった。急にボーイが足が触ると叫んだので、イザアトは脚を立ててみた。だが何も感じなかった。岸を睨みながら、彼はさらに数回、疲れ切った腕を動かして泳いでから、もう一度さぐってみると、足が深い泥のなかへつかるのを感じた。ありがたかった。なおももがきつづけるうち、とうとう岸が手のとどくところに来て、彼は膝頭まで黒い泥に沈んでいた。無慈悲な水から逃れようと死物狂いで這いあがり、岸の上までたどりつくと、そこには丈たかい雑草がいちめんに生えている小さな空地があった。彼とハッサンとはその草の上に倒れこみ、しばらくは死人のように長々とそこに横たわっていた。あまりがっかりしたので、動くことができなかった。頭から足まで、黒い泥におおわれていた。
だがしばらくしてイザアトの頭がはたらきだし、痛烈な苦悩が突如として彼をわななかせた。キャンピオンは溺死した。大変だ。クアラ・ソロオルへ帰って、この災厄を何といって説明すればいいのだ。人々はそのためにおれを責めるだろう。おれはボーアのことを憶えていて、それが来るのを見たら舵手に命じて岸へボートをつけさせ、繋留させるべきだった。おれの罪じゃない、舵手の罪だ、あいつらは河をよく知ってるのだ。どうして一体あいつらは安全をはかろうとしなかったのだ? あの怖ろしい大波を乗り切れるなどと、どうして考えたのだ? 泡だつ水の壁が彼等の上へ落ちかかって来たときのことを思いだして、イザアトの四肢はすくんだ。おれは死体をみつけて、クアラ・ソロオルへ持ち帰らなければならない。漕手のなかにも溺れ死んだ者があるだろうか。彼は大儀《たいぎ》で、とても動けなかったが、ハッサンはいま起きあがって、サロンの水をしぼっていた。彼は彼の方を見わたして、すばやくイザアトの方を向いた。
「旦那《トワン》、ボートが来ます」
ララン草《ぐさ》が邪魔になって、イザアトには何もみえない。
「呼んでみろ」と彼は言った。
ハッサンの姿がすぐ見えなくなったかと思うと、水の上に突き出ている木の枝を伝《つた》って行くのがみえた。彼は呼びたて、手を振った。やがてイザアトは幾人かの人声を聞いた。ボーイとボートのなかとで早口なやりとりがあって、それからボーイが戻って来た。
「わたしらのやられたのを見て、ボーアが過ぎるとすぐ来たんです、旦那《トワン》」と彼は言った、「向う岸に『長屋《ロングハウス》』があります。河を渡って来てくれれば、サロンも食べ物もくれるし、泊ってもいいと言っています」
イザアトは一瞬、あの憎むべき水の上を、どうして自分が渡れるか、信じられないような気がした。
「もう一人の旦那《トワン》はどうした?」と彼は訊いた。
「知らないそうです」
「溺れたとすれば、死骸がみつかる筈だ」
「もう一隻のボートが、上流の方へゆきました」
イザアトはどうしていいか、途方にくれた。身体がしびれていた。ハッサンが肩から抱き起し、立たせてくれた。草の茂ったなかを、水際までたどりつくと、二人のダイヤク人の乗った丸木舟がそこにいた。河はふたたび静かに、ゆるやかに流れていた。大波はもう通り過ぎて、この静かな河面が少し前まで荒れ狂う嵐の海のようだったとは、誰も想像がつかないだろう。ダイヤク人たちはボーイに言ったことをもう一度彼に聞かせた。イザアトは口がきけなかった。彼は一言でも喋ったら泣きだしてしまいそうな気がした。ハッサンに助けられて舟に乗り移ると、ダイヤク人は漕ぎだした。何でもいいから煙草がふかしたくてたまらなかったが、臀のポケットの巻煙草もマッチも濡れてしまっている。いつまで経っても河を渡り切れないような気がした。日が暮れて、対岸に着いたときは一番星が光りだした。彼は岸にのぼり、ダイヤク人の一人に連れられて『長屋《ロングハウス》』へ行った。だがハッサンはその男がすてた櫂をひろって、もう一人の男と一緒にまた中流へ漕ぎ戻った。
二三人の男と数人の子供とがイザアトを迎えに出て、人々のがやがや喋っているなかを家のなかへ入った。梯子をのぼって、挨拶やら昂奮した見舞の言葉やらを聞きながら、若い男たちの寝ている場所へ案内された。籐の敷物が急いで敷きのべられ、彼はぐったりとその上に腰をおろした。一人がアラク酒の壺をもって来たので、それに口をつけてグーッと呷《あお》った。喉にやけつくほど強かったが、胸はあたたかになった。彼はシャツやズボンを脱ぎ、誰かの貸してくれた乾いたサロンをまとった。
ふと、空に、黄色い新月が、その美しい背中を下に横たわっているのが目に入り、それが彼に何か鋭い、ほとんど官能的といってもよい喜びを与えた。いまこの瞬間、おれは死骸になって激流に押し流されて河をただよいのぼってるかも知れないんだ、そう考えずにはいられなかった。月がこれほど美しくみえたことはなかった。彼は空腹を感じ、米飯をくれと頼んだ。一人の女がその用意をするために一室へ入って行った。彼はやっといくらか自分を取戻して、またもやクアラ・ソロオルで何と弁明しようかと考えはじめた。おれが眠ってしまったからといって、実は誰だっておれを責めることはできない筈だ。おれはたしかに酔っぱらってはいなかった、その点はハッチンスンが証明してくれるだろう、それに舵手があんな間抜野郎だと、どうしておれが気づくだろう? 実際、運がわるかったのだ。だが彼はキャンピオンのことを考えるとぞっとした。やっと一皿の米飯が出たので、ちょうどそれを食べようとしているところへ、一人の男が急ぎ足に入って来て、彼のそばへ来た。
「旦那《トワン》が来ます」と彼は叫んだ。
「どの旦那《トワン》だ?」
彼は跳びあがった。戸口のところで何か騒いでいるので、彼は急いで出た。ハッサンが闇のなかから彼の方へ急いでやって来て、すぐに一つの声を聞いた。
「イザアト。そこにいたのか?」
キャンピオンが進み寄った。
「やあ、やっとまた会えたな。何しろどうも、危なかったなあ! きみはさっぱりして、気持よさそうだな。畜生、おれも一杯やりたいな」
濡れそぼった衣服は彼のからだにへばりついて、泥まみれで、髪も乱れていた。だが彼はすごい元気だった。
「いったいどこへ連れてゆかれるのか、さっぱりわからなかったよ。こうなったら土手の上で一夜を明かすより仕方がないと覚悟をきめたんだ。おれはきみが溺れたと思ったぜ」
「アラクがありますよ」とイザアトは言った。
キャンピオンは壺に口をつけて一口のんでから吐きだし、それからまた飲んだ。
「ひどい酒だが、強いや」例の汚ない、並びのわるい歯をむきだして、イザアトに笑いかけた。「やれやれ、その恰好は何だい、身体を洗った方がよさそうだぜ」
「あとにしますよ」
「そうか、おれもだ。サロンを持って来るように言ってくれないか。きみはどうやって脱けだしたんだ?」その返事も待たずに、「おれはもうとてもいかんと思ったね。生命が助かったのは、ここにいる二人の勇士《スポーツマン》のお蔭だよ」二人のダイヤク人の囚人の方へ嬉しそうにうなずいてみせた。イザアトはこの二人が漕手のなかにいたことを、ぼんやり認めることができた。「この二人は、あの忌々《いまいま》しいボートにつかまってるときに、おれの両側にいてね、おれが参っちまったことがわかったらしいのだな。もうあと一分とは保《も》たなかったろう。おれに手真似で、岸まで泳ごうと合図をするんだが、おれはとてもそんな力はないと思ったよ。いやまったく、生れてから、あんなにへたばったことはなかった。この人たちがどんな風にしてやったのかわからんが、おれたちの寝ていた、あの敷物を引張りだして、それをまるく巻いたものだ。たしかにスポーツマンだよ、この二人は。何でおれのことなんか構わずに、自分たちの生命だけ助かろうとしなかったか、そのわけはおれにはわからん。その巻いた敷物をおれにくれたんだ。情ない救命帯だと思ったがね、溺るる者は藁をもつかむという諺のえらさが、はじめてわかったね。おれはその変てこなものにとりついて、この二人のあいだに挟まって、どうにかこうにか岸まで引張ってって貰ったわけさ」
自分の脱して来た危険がキャンピオンを昂奮させ、饒舌にしていた。だがイザアトは彼の喋るのをほとんど聞いていなかった。もう一度、まるでいまもそれが空中ではっきりと鳴りひびくかのように、彼は聞いた、あの救いを求めるキャンピオンの苦悶の叫びを。そして彼は怖ろしさに胸が苦しくなった。盲目的な恐怖が彼の神経をかけめぐった。キャンピオンはまだ喋っているが、それは自分の考えてることを隠すためではないのか? イザアトは彼の明るい蒼い眼の奥をのぞきこみ、言葉の氾濫の背後にある意味を読もうと焦った。どこかあの眼にはけわしい光が、それとも皮肉な嘲弄が、ありはしないか? おれがこの男の運命をこの男にまかせて、逃げだしたのを知ってるのか? 彼は顔が真赤にほてった。だが要するに、あのときおれに何ができたのだ? ああいうときは、みんなが自分のことを考えるんで、死ぬもの貧乏、勝たなきゃお終いなのだ。だが、もしキャンピオンがイザアトはおれを棄てて逃げたと話したら、クアラ・ソロオルの連中は何というだろう? おれは残るべきだった、心からおれは残ればよかったと思う、けれどもおれ自身より強い力がはたらいた、残れなかった。誰かおれを責められるやつがいるか? あのすさまじい激浪をみて、誰が――。おお、あの波、あの疲労困憊、おれだって助けを呼ぶところだった!
「あなたも腹がへってるでしょう、この飯をつつきませんか」と彼は言った。
キャンピオンは猛烈な勢いで食った、がイザアトは、一口二口食ってみて、食欲がないのに気がついた。キャンピオンはなおも喋りつづける。イザアトは疑いをもちながら聴いていた。よく気を引締めていなければと思うので、さらにアラクを飲んだ。彼は少し酔いを感じて来た。
「|K・S《クアラ・ソロオル》へ帰ったら、ぼくはこっぴどくやっつけられるな」彼は探りを入れた。
「そりゃなぜだい、わからんな」
「ぼくはあんたの世話をしろといわれて出て来たんです。あんたを危うく溺れ死なせるようなことをしたのは、ぼくがあんまり気がきいていなかったからだと思うでしょう」
「きみは何もわるいことはない。わるいのはあの舵手の莫迦野郎だよ。しかし結局、大切なことは、おれたちが助かったってことだよ。まったく、一時はおれももうお陀仏だと思ったからな。きみを大きな声で呼んだよ。聞えたかどうか知らんが」
「いや、何も聞きません。何しろあの騒ぎだったでしょう?」
「たぶんきみはその前にボートを離れていたんだろう。きみがいつ泳ぎだしたか、おれはよくわからん」
イザアトは彼を鋭く見た。キャンピオンの眼に何か妙な表情が浮かんだのは、おれの思いすごしだろうか?
「それっていうのも、ひどい混乱だったですからね」と彼は言った。「ぼくはもうちょっとで沈みかけていたんです。ぼくのボーイがオールを投げてよこしました。ボーイの話で、あなたの方は大丈夫だということがわかったんです。あんたはもう岸へあがったって言ったんです」
オール! おれはあのオールをキャンピオンにやって、泳ぎの達者なハッサンに、キャンピオンを助けろと言うべきだった。キャンピオンがおれを探るような目つきで見た、これもまた思いすごしか?
「ぼくはもっと何とか、あんたのお役に立ちたかったです」とイザアトは言った。
「なに、きみだって自分のことで一ぱいだったに違いないさ」とキャンピオンは答えた。
酋長がアラクの盃を持ってあらわれたので、二人はまたしたたかに飲んだ。イザアトは頭がくるくる廻るような気がしだしたので、寝ようと言った。二人のためにベッドがしつらえられ、蚊帳もつってあった。二人は暁方に出発して、河口まで最後の舟旅をつづけるのだ。キャンピオンのベッドは隣にあって、四五分の後には彼の鼾がきこえた。横になったと思ったら、もう眠っていた。『長屋』の青年たちや漕手の囚人たちは夜おそくまで話しこんでいた。
イザアトはひどい頭痛になり、何も考えられなくなった。明け方にハッサンに起されたとき、全然眠らなかったような気がした。衣類は洗って干してくれてあったが、プラーウの待っている河まで狭い道を歩いてゆく彼等のすがたは、薄ぎたない見ものだった。ボートはのんびりと河を下った。朝の景色は美しく、見渡す限り平らかな河面《かわも》のひろがりに、朝日がまばゆくかがやいた。
「いやまったく、生きてるってことは、素敵だなあ」とキャンピオンが言った。
彼は汚れた髭面をしていた。大きく息を吸うと、ゆがんだ口がなかば開いてニヤニヤ笑っている。空気というものが、不思議に吸いこむと美味いことに気がついたという顔である。青い空、日光、木々の緑、みな彼をよろこばせている。イザアトは彼を憎んだ。彼は今朝のキャンピオンの態度が、たしかにいつもと変っていると思った。彼はどうしたらいいのかわからぬ。キャンピオンに憐れみを乞いたいとも思う。自分は下司な真似をした、だがいまは後悔している、もしもう一度機会があれば、どんなことでもしたいと思う。しかし誰だって自分と同じことをしたかも知れないのだ、もしキャンピオンにすっぱ抜かれたら、おれは破滅だ。とてもセンブルウにはいられまい。ボルネオと海峡植民地では、おれの名は鼻つまみになるだろう。キャンピオンに告白しさえすれば、きっと黙っているという約束をさせることができるのだが。しかしこの男が約束を守ってくれるだろうか?
彼はその男を眺めた、ずんくりした小男――どうしてこの男が信頼できるのだ? イザアトは前夜自分の言ったことを思いだしてみた。もちろんあれは真実ではない、けれども誰がそれを知ってるか? いずれにしても、おれがキャンピオンは無事だと本気で思ったんじゃないということを、誰が証明できるのだ? キャンピオンが何と言おうと、それは彼の言葉がおれの言葉とちがうというだけのことではないか。おれは笑って、肩をすくめながら、キャンピオンは頭がどうかしてたから、何を喋ってるんだか、自分でもわからないんだと言えばいい。それに、キャンピオンがおれの話を信じなかったということだって、確かじゃない。生命がけのあの怖ろしい最中に、あの男だって何が何だかわかる筈がない、イザアトはまたこの話をもちだしたい誘惑に駆られたが、そんなことをすればキャンピオンの頭に疑惑を呼び起すことになるかも知れぬと思った。おれは黙っていなくちゃならん。それだけがひょっとしたら無事に済むかも知れない唯一のチャンスなのだ。そしてK・Sに着いたら、おれがさきに自分の話をもちだすのだ。
「これで煙草が吸えさえしたら、申し分なしだがなあ」とキャンピオンが言った。
「船に乗ったら、臭い安煙草ならあるでしょう」
キャンピオンは軽く笑った。
「人間て、実に勝手なものだね」と彼は言った。「はじめは生きていることがあまり嬉しくて、ほかのことは何も考えなかったが、いまはもう失くしたノートや写真や、髭剃り道具なんかを惜しくなってるんだからな」
イザアトは、自分の心の裏にひそんでいた考えにはっきりした形を与えたが、それだけは一晩じゅう自分の意識のうちに入れることを拒みつづけていた考えだった。
「この男が溺れ死んでくれればよかった。そうすればおれは安心だったのだ」
「おお、いるぞ」と急にキャンピオンが叫んだ。
イザアトは振向いた。ボートはもう河口に出ていて、そこに『サルタン・アーメッド』号が二人を待っていた。イザアトは気が沈んだ――この船の船長はイギリス人なので、彼等の冒険談を話さないわけにはゆかないのだ。キャンピオンは何と言うだろう? 船長はブレドンといって、イザアトはクアラ・ソロオルで何度も逢っていた。彼はぶっきらぼうな小男で、黒い口髭を生やし、動作がきびきびしている。
「早く来いよう」漕ぎ寄せるボートに、彼は呼びかけた、「明けがたから待ってたぞう」だが二人がのぼってゆくと、顔色が変った、「おや、どうしたんです?」
「まあ一杯のませなさいよ、すっかり話すから」とキャンピオンが例の歪んだニヤニヤ笑いをしながら言った。
「来たまえ」
彼等は日覆の下に腰をおろした。テーブルの上にはグラスとウィスキーとソーダ水とがあった。船長が命令を下すと、数分後には船はやかましい音を立てて動きだした。
「ボーアにつかまったんですよ」とイザアトが言った。
彼は何か言わなくてはならないと思った。酒を飲んだのに、口がひどくカラカラだった。
「そうですか、えらかったねえ! 溺れなくって、運がよかった。それで、どうでした?」
彼はイザアトを知ってるので、そちらへ話しかけたのだが、答えたのはキャンピオンだった。彼が一伍一什《いちぶしじゅう》を正確に物語る、それをイザアトは緊張して一語も洩らすまいと聴き入った。キャンピオンは話の中頃までは「われわれ」という形で語ったが、そのうち水のなかへ投げこまれたところまで来ると、「わし」に変った。はじめはみんなのやったことを話していたが、いまは彼、キャンピオンがどうなったかに変った。彼は話のなかからイザアトを除外した。イザアトはそれで安心していいのか、警戒すべきか、わからなかった。なぜこの男はおれのことを言わないのだ? それはあの危機一髪の瞬間、自分のことしか考えなかったから、それとも――あのことを知っているからか?
「それであんたはどうしたんです?」ブレドン船長が、イザアトの方へ向いて言った。
イザアトが答えようとしたとき、キャンピオンが言った。
「河の向う岸へ着くまで、わしは先生溺れ死んだことと思っていましたよ。どうやって助かったのか、わしは知りません。御当人もよくわからんのじゃないかな」
「危ないとこでしたよ」とイザアトは笑いながら言った。
なぜキャンピオンはあんなことを言ったのか? 彼はキャンピオンと視線を合わせた。いまこそ彼はそこに面白そうに光ってるものをたしかに見たと思った。安心ができないのはやりきれないことだ。彼は怖ろしかった。彼は恥じた。何とかして、キャンピオンがクアラ・ソロオルでも同じように話すつもりかどうかを訊けるように、いまでなくても、あとでもよい、うまく会話を引きずることはできないものだろうか。他人の疑惑をかきたてるようなところは、この話には一つもない。だが、ほかの誰も知らないとしても、キャンピオンは知ってるのだ。彼はこの技師を殺してやりたいと思った。
「とにかく、二人とも助かったのは、実に幸運だったと思いますなあ」と船長は言った。
クアラ・ソロオルまでは僅かだった。センブルウ河をさかのぼるとき、イザアトは陰鬱に両岸を眺めていた。どちらの岸にも水に洗われてマングローヴとニッパとがあり、そのうしろにジャングルの濃い緑があった。あちこちの果樹のあいだに、杭の上に建てたマレイ人の家が点々と見えた。
ドックに入ったときは、もう夜だった。警察官のゴアリングが乗りこんで来て、彼等と握手した。彼はいまちょうど休憩所に泊っているのだと言い、土人の船客の検査にかかりながら、宿舎にはもう一人ポーターという男もいると語った。夕食のときにみなで会えるだろう。ボーイたちが二人の荷物を引受けたので、キャンピオンとイザアトとはぶらぶら歩きだした。入浴と着替えをすまして、八時半には四人が広間に集まってジン・パヒットを飲んだ。
「やあ、ブレドンから聞いたが、あんたがた溺れかけたってのは、どうしたんです?」ゴアリングが、入って来るなり言った。
イザアトは顔の赤くなるのを感じたが、彼が答えないうちに、キャンピオンが割って入った。イザアトには、彼が自分の好きなように話をしたいために口を出すのだとしか思えなかった。彼は恥ずかしさで身体がほてった。彼を誹謗する言葉は一言も――いやはじめから終いまで彼に関することは一言も出て来なかった。聴いている二人の男、ゴアリングとポーターは、自分が除外されてることを変だと思わないだろうか。彼はキャンピオンの話を進める様子を気をつけて見ていた。彼は彼等の陥っていた危険をごまかしはしないが、それを冗談めかして話し、それで二人はキャンピオンやイザアトの窮境を笑いながら聴いていた。
「それからわしが可笑しかったのは」とキャンピオンが言った、「向う岸へ着いてみたら、頭から足まで泥んこで真っ黒けだったことですよ。いっそ河へとびこんで身体を洗いたいと思ったけれども、その河は自分がいままでもう沢山なくらい入っていた河ですからな、それで『えいくそ、泥だらけだって構わんわい』と思いましたよ。それで『長屋』へ行ってみたらイザアトもわしと同じに真っ黒だったんで、先生もわしと同じことを考えたんだなと思いましたよ」
みな笑ったのでイザアトも無理に笑おうとした。彼はキャンピオンが『サルタン・アーメッド』号の船長に話したときと全然同じ言葉で喋っていることに気がついた。その理由は一つしかない。この男は知っている、何もかも知っているのだ、そしてどういう風に話すかをはっきりと心に決めているのだ。事実を語りながらしかもイザアトの不名誉になるに違いないようなことは抜かして行く、そのキャンピオンの巧みさ、これはもう悪魔的だ。だがなぜこの男はそれを控えるんだろう? あの怖るべき危険の瀬戸際に無常にも自分を棄てて逃げた男に対して、侮蔑も憤慨もしないというのは、この男にあるまじきことだ。
急に、一つのインスピレーションが閃いて、イザアトは理解した――この男は真実を司政官のウィリスに告げるために、大切にとってあるのだ。イザアトは自分がウィリスの前に立たされてる図を想像して肌に粟《あわ》を生じた。否定はできる、だがその否定が役に立つか? ウィリスは阿呆ではないから、ハッサンをつかまえるだろう。ハッサンが黙っていることは当てにならない。ハッサンが喋るだろう。それでおれはお終いだ。ウィリスはおれに故国へ帰ったほうがよかろうと言うだろう。
彼はたまらなく頭痛がするので、晩餐のあと部屋へ引取った。一人になって、何とかうまい筋書を工夫しようと思ったのである。すると一つの考えが浮かんで、そのために彼は熱くなったり寒くなったりした。彼は、いままで一生懸命でまもってきた秘密が、実は秘密でも何でもないことを知った。突然、彼はそれを確信した。なぜあの男はあんな明るい眼と黒っぽい皮膚をしているのだ? なぜあの男はあんなに楽にマレイ語を話し、ダイヤク語をあんなに早くおぼえたのだ? もちろんみんな知ってるのだ。おれのスペイン人の祖母なんぞという出鱈目を皆が信じてると思うなんて、何というおれは阿呆だったろう! そのことを喋ってるときに、皆はきっと腹の中で大笑いに笑ってたに違いない、そして蔭ではおれを黒ん坊と呼んでいたに違いない。するとまたもう一つの考えが浮かんで彼を苦しめた。おれがあのキャンピオンの叫び声を聞いたときに、おれの勇気が沮喪したのは、おれの体内のみじめな土人の血ではなかったのか? いや、何といっても、誰にしたってああいう場合には気が転倒してしまうのだ。そしてまた、どこにいったいおれが自分のちっとも好きでない男のためにおれの生命を犠牲にしなければならぬわけがあるのだ? それは狂気じみてる。だがもちろんK・Sでは、やつらはやっぱりそれみたことかと言うだろう。やつらは決して情状酌量なんかしてくれないんだ。
とうとう彼はベッドへ入って、どのくらい輾転反側していたか、やがて眠ってしまい、怖ろしい夢をみて目をさました。もう一度、彼はあの怒濤のなかにまきこまれ、ボートがくるりくるりと廻転していた。するとまた舟縁に懸命にすがりつき、その手を放す苦しみ、吼えたけってなだれ落ちる滝。暁方前には、彼はすっかり目がさめていた。ただ一つ残されたチャンスは、ウィリスに会って、さきに自分から話すことだ。そして彼はどういう風に話すかを慎重に考えめぐらし、使うつもりの言葉まですっかり選んだ。
彼は早起きして、キャンピオンに逢わないために朝飯を食わずに外へ出た。司政官が役所へ出る時刻まで大通りをぶらついて、それから引返した。彼は名前を通じて、ウィリスの部屋へ通された。ウィリスは半白の髪の薄くなった中老の男で、顔は長くて黄色かった。
「無事に元気で帰って来られてよかったね」イザアトと握手しながら、彼は言った。「溺れかけたという話を聞いたが、どうだったね?」
清潔な白麻服に真白な日除帽《ヘルメット》のイザアトは、見事な男ぶりだった。黒い頭髪はきちんとくしけずられ、口髭は刈りこまれていた。彼は軍人風に真直ぐな姿勢をとっていた。
「キャンピオンの面倒をみるようにというご命令でもありましたので、早速に伺ってお話を申し上げた方がいいと思いまして」
「話したまえ」
イザアトは考えておいた話をした。危険のことは軽く話した。それほど大したことではなかったということをウィリスにわからせるようにした。あれほど遅く出発しなければ、何もあわてるようなことはなかった。
「早目にたつようにキャンピオンに勧めましたが、二三杯きこしめしたところで、実際のお話、あまり動きたがらなかったのでございます」
「酔っていたのか?」
「そこまではわかりかねますが」人の好さそうな微笑をみせて、イザアトは、「まあ、まったくの素面《しらふ》でもなかったと申しましょうか」
彼は話を進めた。キャンピオンが少しばかり取り乱していたことを、どうにかほのめかした。もちろん相当の水泳の心得がないと、かなりびっくりすることだったに違いない――自分は自分のことよりもキャンピオンのことを余計に心配した。あの場合、冷静にしているよりほか助かる見込みはなかったが、あの転覆の瞬間、キャンピオンは狼狽した。
「それだからって、あの男を責めるわけにもゆかんね」
「もちろんわたくしは彼のためにできるだけのことはしました。しかし実際には、あまりわたしのできることはありませんでした」
「とにかく、大事なことはきみたちが助かったということさ。キャンピオンが溺死してたら、われわれ一同、かなり困るところだったよ」
「キャンピオンにお会いになる前にお伺いして、お話しておいた方がいいと思いまして。どうも当人は少し大袈裟に話をする傾きがあるようです。事実を誇張しても何にもなりません」
「しかし全体としてきみたちの話はよく一致しているよ」軽くわらいながら、ウィリスが言った。
イザアトは呆気にとられて彼を見た。
「きみは今朝キャンピオンに会わなかったのかい? わたしはゴアリングから何かあったという話を聞いたものだから、昨晩《ゆうべ》フォートで晩餐をすませてから家へ帰る途中で寄ってみたんだ。きみはもう寝たあとだった」
イザアトは身体のふるえているのを感じたが、非常な努力で冷静を保とうとした。
「それはそうと、きみの方がさきに泳ぎだしたのだろう?」
「実はたしかなことはわかりませんのです。何しろ、非常に混乱しておりましたので」
「キャンピオンよりさきに向う岸へ渡ったとすると、きっとそうだったんだろう」
「ではそうだろうと思います」
「や、どうもわざわざ知らせて来てくれてありがとう」椅子から起ちあがりながら、ウィリスは言った。
起ちながら、彼は二三冊の書物を床へ落した。急にドサリと落ちた。その思いがけない音にイザアトはひどくビクッとして、息をつめた。司政官はその彼をチラと見た。
「きみ、だいぶ神経過敏になっているね」
イザアトは身体のふるえるのを抑えることができなかった。
「たいへん失礼いたしました」彼はつぶやいた。
「ショックを受けたんだね。四五日、気楽に休むといい。医者へ行って、何かもらった方がいいんじゃないか?」
「昨夜あまりよく眠れませんでした」
司政官はいかにももっともだという風にうなずいた。イザアトはその部屋を出て、廊下を通ると、知人が足をとめて彼の無事を祝した。みんなあのことを知ってるのだ。彼は宿舎への帰り途を歩いた。歩きながら、自分が司政官にした話をひとりでくりかえしてみた。それは本当にキャンピオンの話と同じだったろうか? 司政官がさきにキャンピオンから話を聞いていようとは、おれは夢にも思わなかった。寝てしまうなんて、いったいなんという阿呆だろう、おれは! 一瞬もキャンピオンから眼を放してはいけなかったのだ。なぜまた司政官は知っていることを言わずにおれの話を聞いたのだろう? キャンピオンが酒に酔って取り乱したとほのめかしたことを、いまになってイザアトは悔んだ。彼の言うことは信用がおけないと思わせるためにそう言ったのだが、いまとなれば莫迦なことをしたものだ。それにまた、なぜウィリスはおれが最初に泳ぎだしたことを言ったのだろう? やっぱり奴はいま手控えているのかも知れない。調査をするつもりでいるのかも知れない。ウィリスは実に鋭いやつだ。だが、キャンピオンは実際に何を喋ったんだろう? おれはそれを知らなくてはならん、どんな犠牲を払っても知らなくてはならん。
イザアトの頭のなかは沸騰して、自分の考えをまとめることができないのを感じた。だがおれは落着きを失ってはならん。まるで逐《お》われている獣のような気持だった。彼は自分がウィリスの気に入っているとは思えなかった。一二度、役所で、彼を軽率だといって攻撃したことがある。きっとあいつは事実がすっかり揃うまで待ってるだけなんだろう。イザアトはもうヒステリーに近かった。
宿舎へ入ると、そこに、長椅子に脚をのばして、キャンピオンがいた。彼は二人でジャングルのなかを旅していた留守中に着いた新聞を読んでいた。イザアトは自分というものをいわば掌中に握っているこのみすぼらしい小男をみた途端に、盲目的な憎しみが心のうちに湧きおこるのを感じた。
「おお」と顔をあげてキャンピオンが言った。「どこへ行って来たね?」
イザアトには、その彼の眼のなかに嘲弄的な皮肉が宿っているように見えた。彼は両手を握りしめ、呼吸が速くなった。
「あんたはウィリスにぼくのことを何と言ったんです?」彼はいきなり訊いた。
この思いがけない質問をあまり烈しい調子であびせられたので、キャンピオンは軽い驚きの眼で彼を見た。
「きみのことをべつに大して何も言わなかったと思うがね。なぜだね?」
「ゆうべウィリスはここへ来たでしょう」
イザアトはじっと彼をみつめた。キャンピオンの腹のなかを読もうとして、怒った眉根を寄せていた。
「きみは頭痛がするといって寝たと話したよ。ウィリスはわれわれの災難について聞きに来たんだ」
「ぼくはいま会って来たんです」
イザアトは日覆をした大きな室《へや》のなかを歩きまわった。まだ時刻は早いけれど、日ざしは暑くて、眩《めくる》めくばかりだった。彼は網にかかって身動きできなくなったのを感じた。憤怒に眼がくらんでいた。キャンピオンの咽喉をつかんで、締め殺してやりたかったが、それでいて、いったい何に対して闘わなくてはならないのかがわからないために、自分の無力を感じるのだ。彼は疲労で気分がわるく、神経がすっかり参っていた。急に、いままで彼に一種の力のようなものを与えていた怒りが、抜けて行って、げっそりと気抜けしたようになった。血管のなかに、血でなくて水が流れているような気持である。心臓が沈んで、膝が崩折れそうだった。気をつけないと、おれは泣きだしてしまうぞ。たまらなく自分が哀れになった。
「畜生、おれは一刻もあんたから眼を放さずにいればよかったんだ」あわれな声で、彼は叫んだ。
「いったい全体、どうしたんだ?」驚いてキャンピオンが訊いた。
「いや、ごまかさないで下さい。もう二日のあいだ、お互いにごまかしてばっかりいたんだ、ぼくはもう沢山だ」彼の声が甲高く悲鳴じみて、この頑強な逞しい男には不似合いな調子だった。「ぼくはもう沢山だ。ぼくは逃げたんだ。ぼくはあんたが溺れ死ぬところを見棄てたんだ。卑劣漢みたいな真似をぼくはしたんだ。ほかに、仕方がなかったんだ」
キャンピオンはゆっくり椅子から起ちあがった。
「いったい何のことを、きみは言ってるんだね?」
彼の調子が、あまりにも本当に驚いているらしいので、イザアトはビクリと身をふるわせた。冷たい戦慄が、彼の背筋を走り下った。
「あなたが助けを呼んだときに、ぼくは恐怖で取り乱していました。流れて来たオールにつかまって、ハッサンに助けられて泳ぎだしたんです」
「それはあの場合、きみとしてやれる一番分別のある行動じゃないか」
「ぼくはほかに仕方がなかったんです。何ひとつ、ぼくにできることはなかったんです」
「もちろんさ。悲鳴をあげるなんて、おれが愚劣だったんだよ。それだけ呼吸をむだにするんだが、そのとき一番おれの欲しかったものは呼吸なんだからね」
「あなたは知らなかったと言うつもりですか?」
「あの二人の男がおれに敷物を取ってくれたときに、おれはきみがまだボートにしがみついてるんだと思ったよ。きみよりもさきに、おれが逃げたんだと思っていたよ」
イザアトは両手で頭をかかえ、絶望のしわがれた叫び声をあげた。
「おお、おれは何という阿呆だったろう」
二人の男は、しばし、たがいに顔を見合わせて立っていた。その沈黙が終るときがないように思われた。
「それで、これからどうするつもりですか?」とうとうイザアトが訊いた。
「おい、きみ、気に病むなよ。おれだって始終、臆病風にとっつかれるから、自分の弱気をさらけだしてみせる男を責める気にはなれんよ。おれは誰にも言やしないよ」
「ええ、けれどもあんたは|知ってる《ヽヽヽヽ》んです」
「約束するよ、おれを信用してくれていいよ。それに、この土地での仕事も済んだから、おれは故国《くに》へ帰る。次の便船で、シンガポールへ行くよ」口をつぐんで、キャンピオンは少しの間、何か考えながらイザアトをみつめていた。「一つだけ、きみに訊きたいことがある――おれはこの土地で沢山の友達ができた、それで一つ二つ、少しばかり気になることがあるんだ。われわれの転覆の話をひとにするときに、おれが醜態を演じたことを口外しないでくれると、ありがたいんだがね。この土地のやつらに、おれが弱音を吐いたと思われたくないんだよ」
イザアトは真紅になった。彼が司政官に言ったことを思いだした。まるでキャンピオンが自分の肩ごしにそれを聴いていたようではないか。彼は咳ばらいをした。
「なぜぼくがそんなことをすると思うのか、ぼくにはわかりませんね」
キャンピオンはいかにも人なつこく含み笑いをして、その青い眼がいかにも面白そうに晴れやかだった。
「おれの臆病のせいさ」と答え、それから、例の並びのわるい、汚ない歯をみせてニヤリと笑いながら、「まあ、葉巻を一つ、喫《や》れよ」
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園遊会まで
スキナー夫人は、時間をきちんとするのが好きだった。年配に相応した黒絹の喪服、これは娘婿《むすめむこ》のために着ることにしたのだが、その喪服もちゃんと着てしまったので、今度はトック〔縁のない婦人帽子〕を頭にのせた。これについては、彼女は少し自信がなかった。というのは、飾りについている白サギの羽根のために、今日のパーティできっと会うはずの二三の人たちから苦《にが》い忠告を受けそうな気がしたからである。それは勿論、あの美しい白い鳥を、それもちょうど交尾期に当るのに、羽根を取るために殺すというのは気持のわるいことにちがいない。けれども羽根はここにあって、こんなに綺麗で粋《いき》なのだもの、それを拒むというのは気がきかないし、娘婿だって好い気持はしないだろう。
これは彼がわざわざボルネオから持って来てくれたもので、あたしがきっと気に入ると思ってくれたのだ。キャスリンはどっちかといえばこの羽根を厭がっていたけれど、こんなことになってみれば、あの子もきっと今では厭がったりしなければよかったと思っているに違いない。だけど、もともとキャスリンは心からハロルドが好きではなかったのだ。スキナー夫人は、衣装|卓《づくえ》のわきに立って、トックを頭にのせ、――何といっても、これが彼女の持っているたった一つの上等な帽子だった――そして大きな黒玉の握りのついたピンでとめた。この羽根飾りについて、もし誰かが何か言ったら、彼女にも返事のしようがある。こう言ってやるのだ。
「それは厭なことだとは、あたしも知っていますわ、また自分で買う気にはとてもなりませんわ、でもせっかく可哀そうな婿が、最後に賜暇《しか》で帰国したときの土産に持って来てくれた品ですのよ」
これで自分がこの品を持っている理由も説明できるし、それを身につける言い訳にもなる。誰でもみんな、あたしには親切にしてくれるのだから。スキナー夫人は引出しから清潔なハンカチーフを出し、オー・デ・コロオンをその上にすこしふりかけた。彼女は香水を使ったことは一度もなく、香水というものは何となく放蕩じみているといつも思っているが、オー・デ・コロオンだけはとても気持がさっぱりする。
もうこれで支度はほとんど済んだので、姿見のうしろの窓の外の景色へ眼を遊ばせた。僧会議員《キャノン》ヘイウッドはほんとに好い日に園遊会を催した。あたたかで、空は青かった。樹々もまだ春の緑のさわやかさを失っていない。彼女の小さい孫娘が、家の裏側の狭い庭で、自分の花壇を一心に熊手でかきならしているのを見て、スキナー夫人は微笑んだ。ジョーンの顔色のわるいことを、彼女は残念に思う。あんなに長いことあの子を熱帯地方に置いたのはまちがいだった。それにあの子は年齢《とし》のわりにとてもおとなしくて、その辺を駈けまわっているのなぞ見たことはない。何か自分で工夫した静かな遊びごとをしているか、花壇に水をやるかしている。スキナー夫人はドレスの前をかるく叩いて、手套をとり、階下へおりて行った。
キャスリンは窓際の書きもの机で、忙しそうに組合わせ表を作っていた。彼女はレディーズ・ゴルフ・クラブの幹事をしているので、競技会のある頃には沢山の仕事があるのだ。だが彼女もパーティの支度はもう出来ていた。
「あんた、やっぱり短上衣《ジャンパア》を着たのね」とスキナー夫人が言った。
昼食のときに、キャスリンがジャンパアを着るか黒のシフォンを着るかでみなが議論をしたのである。ジャンパアは黒と白の柄で、キャスリンはなかなかスマートだとは思うけれど、喪服にはどう考えてもならないと言った。しかしミリセントはジャンパアの方に味方した。
「あたしたちみんなが、いまお葬いから帰りましたという様子を見せなければならないというわけはありませんわ」と彼女は言った。「ハロルドが死んでから、もう八カ月になるのよ」
スキナー夫人にすれば、そんな言いかたをするのは何だか冷たすぎるような気がした。ボルネオから帰って以来、どうもミリセントは少し変だった。
「ミリセントや、あんたはまだ喪服を脱ぐつもりではないんでしょう?」と母親は訊いた。
寡婦になった娘は、まともには答えなかった。
「近頃はむかしのような調子で喪服を着るひとはなくなりましたわ」と彼女は言った。それからちょっと黙っていて、また言葉をつづけたとき、ミリセントの声には、スキナー夫人がまったく異様に感じるような調子があった。そのときキャスリンが怪訝そうな顔で姉を見たのから察して、彼女もそれに気がついたことは確かだった。「ハロルドだって、あたしが際限もなくいつまでも喪服を着ることをきっと望まないだろうと思うわ」
「あたし、ミリセントにちょっと言いたいことがあるので、早目に着替えをしましたの」キャスリンは、母親の言葉に答えて、言った。
「あらそう?」
キャスリンは説明しなかった。彼女はリストをわきへよせて、眉をしかめながら、委員会が自分のハンディキャップを二十四から十八に落したのは不公平きわまるという苦情を述べて来たある淑女からの手紙を二度目に読んだ。婦人ゴルフ・クラブの幹事をするためには容易でない如才のなさが必要なのだ。スキナー婦人は新調の手袋をはめはじめた。日除けのブラインドがおろしてあるので、室内は涼しくて暗い。彼女は今ではハロルドの遺品になった派手な彩色の大きな木彫の犀鳥《さいちょう》を見た。彼女にはそれは少しばかり珍妙で野蛮のような感じがしたけれども、ハロルドはずいぶんこれを大切にしていたのだ。これには何か宗教的な意味があって、ヘイウッド評議員さんは大へんに感動されたものだ。ソファの向うの壁には、何という名か彼女は忘れたがマレイの武器が懸っていて、客用テーブルの上にはハロルドが折にふれて送って来た銀や真鍮の装飾品が置いてある。彼女はハロルドが好きだったので、思わず知らず彼女の眼は、ピアノの上に彼女の二人の娘や、孫や、妹や妹の息子などの写真と一緒に立っている娘婿の写真を捜していた。
「おや、キャスリン、ハロルドの写真はどこへいったの?」と彼女は訊いた。
キャスリンは見まわした。写真はいつものところにはなかった。
「誰か持って行ったのね」とキャスリンが言った。
おどろき、かつ戸惑って、彼女は立ちあがり、ピアノの方へ歩み寄った。幾枚もの写真は、隙間が見えないように並べ直してあった。
「もしかするとミリセントが寝室へ持ってゆきたくなったのかも知れないね」とスキナー夫人が言った。
「もっと早く気がつかなくてはいけなかったわ。まだほかにも、ミリセントはハロルドの写真を何枚も持ってるのよ。みんなしまいこんでいるのだわ」
娘がハロルドの写真を一枚も自分の部屋に置こうとしないことを、スキナー夫人はずいぶん変っていると思っていた。だから一度はそのことを言いだしたほどだったが、ミリセントは何とも答えなかった。ミリセントはボルネオから帰って来て以来、奇妙に無口になって、スキナー夫人が心から示そうと思っている同情を示す機会を少しも与えなかった。彼女は自分の蒙《こうむ》った大きな損失を口にすることを好まないように見えた。悲しみが人間にとりつく形は一様ではない。良人《おっと》のスキナー氏はそっとしておいてやるのが一番いいのだと言っていた。良人のことを思いだすと、スキナー夫人はこれから出かけてゆくパーティのことに頭が向いた。
「お父さまはトップハットをかぶった方がいいのかしらと、あたしにお訊ねになったのでね」と夫人は言った。「やっぱり大事をおとりになる方がいいと思いますって、あたしは言っておいたわ」
まったく今日はなかなかの大きな催しになりそうだった。菓子屋のボッディに注文したストロベリーとヴァニラのアイスクリームが出る筈だったが、ヘイウッド家ではまだその上に自家でアイス・コーヒーをこしらえていた。誰も彼も、みんな今日は来るだろう。評議員《キャノン》の大学時代の同窓で、いまその邸に滞在している香港の宗務監督《ビショップ》に席上で紹介される筈で、この人は中国での伝道事業について話をすることになっている。スキナー夫人は、娘がアジアに八年も暮らし、娘の婿はボルネオで、ある地方の司政官だったから、胸がわくわくするほど心をひかれている。植民地とか、そういったことに何ひとつ関係をもったことのない人たちよりも、今日の会が彼女にとって大きな意味があるのは、自然なことだった。
「イギリスのことだけしか知らん者が、イギリスについて何を知っとるものか?」スキナー氏が口癖に言う通りだ。
ちょうどそのときスキナー氏が入って来た。彼は父の代から引きつづいて弁護士で、リンカンズ・イン・フィールズに法律事務所を持っている。毎朝ロンドンへ行って、夕方にかならず戻って来るのである。評議員《キャノン》が賢明にも園遊会の日取りに土曜日をえらんでくれたから、やっと今日だけは妻や二人の娘といっしょに出席ができるのだ。燕尾服に霜降ズボンのスキナー氏は、なかなか立派である。かならずしも衣装の好みが渋いとはいえないが、きちんとしている。いかにも人品のよい大家《たいけ》の顧問弁護士といった風采で、また事実彼はそうだった。彼の事務所は申し分なく公明正大な仕事でなければ、決して手を出さない。依頼人があまり感心しない厄介ごとで彼のところへやって来ると、スキナー氏は気むずかしい顔をする。
「これはわしのところではあまり手がけたくないケースのように思いますな」と彼は言った。「どこかよそへおいでになった方がよろしいようですな」
彼は用箋の方へ手をのばして、人の名と住所をそれに書く。一枚の紙をめくりとって、依頼人に手渡す。
「もしわたしがあなたでしたら、わたしはこういう連中のところへ行きます。わたしの名を仰しゃれば、きっと彼等はできるだけのお役に立つだろうと思いますよ」
スキナー氏は綺麗に顔を剃っていて、頭はひどく禿げていた。血の気のうすい唇はかたく結ばれて薄かったが、蒼い眼は内気だった。頬にはまったく血の色がなく、顔は皺が多かった。
「新しいズボンをおはきになりましたのね」とスキナー夫人が言った。
「いい折だと思ったのでね」と良人《おっと》は答えた。「釦《ボタン》孔に飾り花をつけたものかどうかと考えたのだが」
「あたしはおつけにならない方がいいと思いますわ、お父さま」とキャスリンが言った。「あまり結構な風だと思いませんわ」
「つけて来るかたも沢山あるだろうけど」とスキナー夫人が言った。
「事務員とか、そういう人たちだけですわ」とキャスリンが言った。「ヘイウッドさんでは、町じゅうの人を招ばなければならなかったんですものね。それに、うちはまだ喪中ですわ」
「監督《ビショップ》の演説のあとで、献金をするのかな、どうじゃね」とスキナー氏が言った。
「そういうことはないんじゃないでしょうか」とスキナー夫人が言った。
「そういうのは感心しませんわね」とキャスリンも賛成した。
「大事をとっておいた方がよさそうだな」とスキナー氏は言った。「わしがみんなに代って金を出す。十シリングで足りると思うが、それとも一ポンドだしたものか、どうかと思ってな」
「もし献金をなさるのでしたら、一ポンドお出しになる方がいいわ、お父さま」とキャスリンが言った。
「そのときになったらわかるじゃろう。わしはほかの誰よりも少なく出したくはないが、さればといって必要以上のものを出すいわれはないからな」
キャスリンは書類を書きもの机の引出しに入れて、立ちあがった。彼女は自分の腕時計を見た。
「ミリセントの支度はいいのかしら?」とスキナー夫人が訊いた。
「時間は十分あります。四時にという案内を受けてるんですから、四時半よりあまり早く着くことはないと思いますの。あたくし、デーヴィスに、車を四時十五分に廻すように言って置きましたわ」
ふだんはキャスリンが車を運転するのだが、今日のような大きな行事の折には、庭師のデーヴィスが仕着《しきせ》を着て、運転手の役をつとめる。その方が車を乗りつけたときに体裁がいいし、またキャスリンにしても、新調の短上衣《ジャンパア》を着ているのに自分で運転はしたくないのが当り前である。新しい手袋に指を一本一本押しこんでいる母親の様子をみて、彼女も手袋をしなければならないことに気がついた。彼女は手袋を洗濯したときの何かの臭いがまだ残っているかどうかを知るために、それを嗅いでみた。臭いはごく薄かった。これなら誰も気がつくまいと彼女は思った。
やっとドアが開いて、ミリセントが入って来た。彼女は寡婦の喪服を着用していた。スキナー夫人はそれを見てどうしても軽い気持になれなかったが、ミリセントが一年間はそれを着なければならないことを彼女も知っていた。可哀そうに、喪服は彼女に似合わない、似合う人もあるのだけれど。彼女は一度ミリセントのボネットをためしにかぶってみたことがある。白い帯と長いヴェールのついたそのボネットをつけて、彼女はなかなかよく見えると思った。もちろん彼女は愛するアルフレッドが自分より長生きしてくれることを望んではいるが、もし彼に先立たれるようなことがあったら、死ぬまで喪服を脱ぐまいと思っていた。ヴィクトリア女王もお脱ぎにならなかった。だがミリセントの場合はちがう。ミリセントはまだまだ若い女で、やっと三十六にしかなっていない。三十六で寡婦になるのはほんとに可哀そうなことだ。それにもう再婚のチャンスも多くはない。キャスリンの方はもう結婚しそうもない、三十五になっている。一番おしまいにミリセントとハロルドとが一緒に帰国したとき、あたしは夫婦でキャスリンを預ってくれるといいのだけれどと言ってみたことがある。ハロルドは乗り気になっていたようだけれど、ミリセントがそれは無理だと言った。どうして無理だったのか、あたしにはわからない。そうしておけばキャスリンに機会が恵まれただろうのに。もちろん良人もあたしも、娘を追いだしたいわけじゃないけれど、若い女は結婚するのが当り前だし、あたしたちの知りあいの男のひとは、どういうものか既婚者ばかりなのだもの。ミリセントは気候がとても辛《つら》いと言う。なるほどこの娘《こ》の顔色はわるい。二人のうちでミリセントの方が綺麗だったとは、いまでは誰だって思わないだろう。キャスリンはだんだん年齢《とし》をとるにつれてよくなって、あまり痩せすぎてるという人もそれはあるけれど、断髪にしてしまってから、一年じゅうゴルフをやるので頬に赤味が出たし、ほんとに綺麗になった、とスキナー夫人は思うのだ。可哀そうなミリセントについてはとてもそうは言えない。いまではすっかり姿態《すがた》の美しさがなくなってしまった。もともと背丈は高くなかったところへ、肥ったので、ひどくずんぐりした恰好になった。まったく何とまあ肥りすぎたものだろう。これは熱帯地方の暑さのために運動不足になったためかしらんと、スキナー夫人は思った。肌は土気色に濁っているし、ミリセントの一番の自慢だった蒼い眼も、すっかり色が薄れてしまった。
「あの頸筋《くびすじ》のところを何とかしなければ困るわ」とスキナー夫人は考えた。「何てひどく肉がだぶついてるんでしょう」
夫人は一二度、このことについて良人に話したことがある。良人は、ミリセントにはもう以前の若さはないからと言った、それはその通りかも知れなかったが、だからといって、そう何もかもあきらめてしまうにも及ばない筈だ。スキナー夫人は娘と一度とっくり話をしようと決心したが、といって勿論、夫に死にわかれた娘の悲しみを尊重しなければならないから、来年まで待つことにした。そのことを考えるだけで神経にこたえるような相談を、さきへ延ばす理由のあることが彼女には嬉しかった。それというのも、ミリセントはたしかに変ったからである。何かしら不機嫌な顔つきをしていて、彼女の母親ですら勝手がちがうような気がするのだ。スキナー夫人は頭のなかを通りすぎる考えを何でも口に出して言うのが好きだったが、ミリセントは、こちらが何か言っても(何ということはなく、話しかけた場合でも)へんに素っ気なく、返事をしない癖があって、こちらは聞えなかったのではないかと思うのである。ときにはスキナー夫人もあまりいらいらさせられるので、ミリセントに角だったことを言うまいとすれば、かわいそうなハロルドが死んでからまだ八カ月にしかならないのだと、自分に言いきかせるほかないことがある。
窓から入る光線が、無言で進んで来る寡婦のぼってりした顔の上に落ちた、がキャスリンは窓に背をむけて立っていた。彼女はちょっとの間、姉の顔をみまもっていた。
「ミリセント、あたし、あなたに言いたいことがあるの」と彼女は言った。「今朝は、グラディス・ヘイウッドと一緒にゴルフをしていたの」
「あんた、あのひとを負かしてやったの?」とミリセントが訊いた。
グラディス・ヘイウッドは評議員《キャノン》のたった一人の未婚の娘であった。
「あのひとから、あなたに話しておく必要があると思うことを、聞かされたのよ」
ミリセントの瞳は、妹のすがたを通りこして、庭で花に水をやっている小さい女の子の方へ動いた。
「お母さま、ジョーンにお台所でお茶をやってくれるように、アニイに言って下さって?」と彼女が言った。
「ええ、言っといたわ、召使たちのお茶のときに、一緒にやるようにって」
キャスリンは冷やかに姉の顔をみやった。
「監督《ビショップ》がこちらへ帰る途中で、二三日、シンガポールに滞在したんですって」と彼女は言葉をつづけた。「あのかたはとても旅行好きなんですって。ボルネオへも行ったことがあるから、あなたの知人を沢山知っているらしいのね」
「きっとあんたにお逢いになったらお喜びになるだろうね」とスキナー夫人が言った。「ハロルドとはお知り合いだったの?」
「そうですの、クアラ・ソロオルでお会いしたんですって。ハロルドのことはよくおぼえていらっしゃるんです。あのひとが死んだことを聞いて、ずいぶんびっくりしたと言ってらっしゃるそうよ」
ミリセントは腰をおろし、黒手袋をはめはじめた。さっきからずっと一言も言わずに、こういう受け答えに対しているのが、スキナー夫人には不思議な気がした。
「ねえ、ミリセントや」と彼女は言った、「ハロルドの写真が見えないわね。あんたが持って行ったの?」
「ええ、あたしがどけましたの」
「あんたは出して置きたいだろうと思うんだがねえ」
またもやミリセントは返事をしなかった。これはまったく、やりきれないほどの腹の立つ癖だ。
キャスリンは少しく姉の正面へ顔をむけた。
「ミリセント、どうしてあなたはハロルドが熱病で亡くなったって、あたしたちに言ったの?」
寡婦は身動きもしない、じっと眼を動かさずにキャスリンを見ていたが、黄色っぽい顔色が、血の気ですこし黒ずんだ。彼女は答えなかった。
「キャスリン、どういうことだ、それは?」おどろいて、スキナー氏が訊いた。
「監督さんは、ハロルドは自殺したんだって言ってらっしゃるのよ」
スキナー夫人は驚愕の叫び声をあげたが、彼女の良人が手を出してそれを制止した。
「それは本当なの、ミリセント?」
「本当です」
「でもどうしてあたしたちに話さなかったの?」
ミリセントは一瞬、だまっていた。彼女はのろのろと、横向きに腰かけているテーブルの上に立っていたブルネイの真鍮の置き物に手を触れた。それもハロルドからの贈物だった。
「ジョーンのために、父親が熱病で死んだと思われてる方がいいと思いました。そのことについて、あの子に何も知らせたくなかったんです」
「あなたのために、あたしたちはとてもまずい立場になってしまったのよ」キャスリンはちょっと顔をしかめながら言った。「グラディス・ヘイウッドは、あたしが本当のことを話さないのは意地がわるいと思うって言うのよ。それについて、あたしは絶対に何にも知らないことを、あのひとに信じさせるのは、ずいぶん骨が折れたわ。あのひとのお父さまも、気をわるくしていらっしゃるんですって。これほど永年のつきあいで、あなたとハロルドの結婚式も司《つかさど》ったことだし、その後もずっと懇意にして来たことや、何やかや考えあわせてみると、わしにだけはうちあけてくれてもよさそうなものだと、仰しゃってるそうよ。またそういうことはとにかく、かりに本当のことを話さないとしても、嘘をいう必要はなかったと思うわ」
「そこのところは、あたしも本当にあの方と同じ気持だと言わなくてはなりませんよ」スキナー夫人が苦々しげに言った。
「もちろんあたしはグラディスに、何も非難されるいわれはないことを言いましたよ。あたしたちはあなたから聞いた通りを話しただけなんですもの」
「そのためにあんたのゲームが中止になったんでなければいいけど」とミリセントが言った。
「いやまったく、娘や、それはお前、どうも甚だしく感心せん言いかただね」と父親が叫んだ。
彼は椅子から起ちあがり、火のない暖炉のところへ歩いてゆき、習慣の力で、二つに割れた上衣の尾を見せてその前に立った。
「そのことはあたしだけに関係のあることですから」ミリセントが言った、「あたしがそれを自分だけの秘密にしておく気持になったとすれば、そうしてわるいわけはないと思いましたの」
「もしお前が母親にさえ言わなかったとすれば、まるでこれっぽっちの愛情もあたしに持っているとは思えませんよ」とスキナー夫人が言った。
ミリセントは肩をすくめてみせた。
「いずれはわかることだというのは、あなたもわかってたことでしょうのに」とキャスリンが言った。
「どうして? あたしは二人のお年寄り牧師さんが、世間話をしていて、あたしのことよりほかに何も話すことがないだろうなんて、想像していなかったわ」
「監督さんがボルネオに行ったことがあると言えば、ヘイウッド家の人たちがあなたやハロルドのことを知ってるかって訊くのは、ごく自然なことじゃありませんか」
「そんなことはみんなどうでもいいことだ」とスキナー氏が言った。「明らかに、お前は真実をわしらに話すべきだった、そうすれば、どうするのが一番よいか、わしらできめることができたわけだ。弁護士として、わしは言うが、結局のところ、そういうことを隠そうとすれば物事はますます厄介になるものじゃ」
「かわいそうなハロルド」とスキナー夫人が言い、涙が白粉を塗りたてた彼女の顔からポロポロこぼれだした。「おそろしいことだねえ。あの人はあたしにはいつも良い婿さんだったのに。何がまた一体そんなおそろしいことを、あの人にさせたんだろうねえ?」
「気候ですわ」
「ミリセント、わしはお前が、事実をすっかり話してくれた方がいいと思うが」と父親が言った。
「キャスリンがお話するでしょう」
キャスリンはためらった。彼女の本当に話そうとしたことは、まことに不快な話だった。彼等一家のような家に、こんな事件が起るというのは、怖るべきことだった。
「監督《ビショップ》は、ハロルドが自分の喉を切ったと言われるんです」
スキナー夫人はゲッと息を詰らせ、衝動的に良人を奪われた彼女の娘のそばへかけ寄った。彼女は娘を抱きかかえようとした。
「かわいそうに、お前」彼女はすすり泣いた。
だがミリセントはからだを引いた。
「どうぞ、騒々しくなさらないでね、お母さま。ほんとにあたし、しつっこくされるのは我慢ができませんわ」
「いやまったく、ミリセントや」顔をしかめながら、スキナー氏が言った。
娘の態度が、どうも感心できないように、父親には思えた。
スキナー夫人はハンカチーフで顔を汚さないように気をつけて両眼を軽くたたき、溜息を一つつき、ちょっと頭を振って、自分の席に戻った。キャスリンは頸のまわりに着けている長い鎖をおもちゃにしていた。
「自分の義兄の死について、詳しい話をお友達から聞かされるっていうのは、ずいぶん訝《おか》しい話ですわね。まるであたしたちみんなが阿呆みたいですわ。監督さんはとてもあなたに会いたがっていらっしゃるんですって、ミリセント。あなたにどんなに同情してるか、話したがっていらっしゃるの」彼女はそこで一休みしたが、ミリセントは何も言わなかった。「監督《ビショップ》さんのお話では、ミリセントがジョーンと一緒によそへ行っていて、帰って来てみたらハロルドがベッドの上で死んでたんですって」
「ふうむ、さぞ驚いたことだろうなあ」とスキナー氏が言った。
スキナー夫人はまた泣きだしたが、キャスリンはやさしく母親の肩に手をかけた。
「お泣きになってはだめよ、お母さま」と彼女は言った。
「眼が赤くなって、みなさん変にお思いになるわ」
スキナー夫人が眼をふき、どうにか落着きをとりもどすあいだ、四人とも無言でいた。こういう際に、かわいそうなハロルドがくれた羽根飾りつきのトックをかぶったままでいるのが、老人にはひどく奇妙なことに思われた。
「もう一つほかに、あなたに話さなければならないことがあるのよ」とキャスリンが言った。
ミリセントはふたたび、べつに急ぎもせずに、妹の顔をみた、その眼はしっかりしていたが、何事かと警戒するようだった。彼女は何かの音の聞えるのを待って、それを聞きもらすまいと用心する人のようにみえた。
「あなたを傷つけるようなことは、あたし、何も言いたくはないのよ、ミリセント」キャスリンは言葉をつづけた、「でももう一つ、ほかのことで、ぜひあなたに知ってもらいたいことがあるの。監督《ビショップ》は、ハロルドがお酒のみだったって仰しゃるの」
「まあ、お前、何ておそろしい!」スキナー夫人は叫んだ。
「ほんとに、口に出すのも厭らしい。グラディス・ヘイウッドが、あんたにそう言ったのかえ? あんたは何て言ったの?」
「そんなこと、全然ほんとうじゃないって言いましたわ」
「物事を秘密にしておくから、そういうことになるのじゃ」スキナー氏は苛だたしそうに言った。「かならずこういう風になる。一つのことを内密にして置こうとすれば、実際よりも十倍もわるい噂がばらまかれるのじゃ」
「シンガポールで、監督が聞いたのは、ハロルドが精神錯乱に陥ってるあいだに、自殺したという話なんです。ねえミリセント、あたしたちみんなのために、あなたそのことを否定してくれなければ困ると思うのよ」
「死んだ者について、いろいろ言われるぐらい、厭なことはないわねえ」とスキナー夫人は言った。「それにジョーンが大きくなったときに、どんなにいけないことか知れませんよ」
「だが、そういう噂の根拠は何だね、ミリセント?」と父親が訊いた。「ハロルドはいつもよく節制しておったが」
「こっちではね」と寡婦が答えた。
「飲んでおったのか?」
「魚みたいでしたわ」
この返事が、あまり思いがけなかった上に、その調子もあまり皮肉だったので、ほかの三人は三人とも愕然とした。
「ミリセントや、どうしてお前は亡くなった良人のことを、そんな調子で言えるの?」きちんと手袋をはめた両手を握りしめながら、彼女の母親は叫んだ。「お前の気持が、あたしにはわかりませんよ。帰って来てからこっち、お前はほんとに妙でしたよ。あたしにはね、自分の娘が良人の死をそんな風に受け取ることができるっていうのが、どうしても腑に落ちませんでしたよ」
「そのことは気にせんでもいい、お母さんや」とスキナー氏は言った。「そういう話はあとからできるじゃろう」
彼は窓の方へ歩み寄り、日のあたっている小庭を眺め、それから部屋のなかへ戻った。ポケットから鼻眼鏡をとりだし、それをかけるつもりでもないのに、ハンカチーフでそれを拭った。ミリセントはその様子を眺めていたが、その眼には間違いようもなく、実に冷酷な皮肉がこもっていた。
スキナー氏は腹を立てていた。彼は一週間の仕事を終えて、月曜の朝までは暇な人だった。今日のこの園遊会は彼にとって迷惑至極で、なるべく早目にわが家の庭でしずかにお茶をたのしみたいところだと、妻にも言うには言ったが、それでも園遊会に期待をもたなかったわけではない。中国の伝道事業に大して関心をもっているわけではないが、監督《ビショップ》に会うのは興味のあることだろう。それがいまこの話だ! これは彼が捲きこまれてもいいと思う種類の話ではなかった。自分の娘婿が酒のみで自殺者だという話をだしぬけに聞かされるくらい不愉快なことがあろうか。ミリセントは何か考えこみながら、自分の白いカフスを撫でていた。彼女の冷静さが彼をいら立たせた。だが彼女に話しかけるかわりに、彼は妹娘に向って言った。
「なぜおまえは腰をかけんのかい、キャスリン? この部屋には椅子は十分にあるではないか」
キャスリンは椅子の一つを引き寄せて、無言で腰をおろした。スキナー氏はミリセントの正面に立ちどまり、彼女に真向きになった。
「もちろん、お前がハロルドは熱病で死んだと、わしらに話したわけは、わしにもわかるよ。それが誤りじゃったと、わしは思う、そういう事件はおそかれ早かれ知れてしまうものだからな。監督《ビショップ》がヘイウッドのところで話したことが、どの程度まで事実と適合しとるか、わしにもわからんが、しかしもしお前がわしの忠告を受け入れてくれるものなら、できるだけ詳細に、何も彼もわしらに話してくれることじゃ、そうすれば何とかまた方法もある。キャノン・ヘイウッドとグラディスとにわかってしまった以上は、もっと広くこの話が伝わらんということはもう望めんのじゃ。ここのような土地では、世間というものは話をするにきまったものじゃ。何にしても、もしわしらが正確な事実を知っておれば、みんなが少しでも処理しやすいことになるじゃろう」
スキナー夫人とキャスリンとは、父親が実にうまく事情を説明してくれたと思った。二人はミリセントの返事を待った。彼女は冷然とした表情で、じっと父親の話を聴いていた。急に顔にさした赤味が消えて、ふたたび、常のように、青ざめた土気色になっていた。
「あたし、本当のことをお話しても、あまり皆さんのお気に入るとは思えませんわ」と彼女は言った。
「みんなの同情と理解を期待しても大丈夫だということ、わかってくれなければいけないわ」キャスリンが、重々しく言った。
ミリセントはチラリと彼女の方を見たが、そのときは彼女の引き結んだ口許に微笑の影が掠めた。彼女はゆっくりと三人の顔を見まわした。スキナー夫人は、彼女の見まわす目つきが、まるで三人を服装店のマネキン人形とでも思っているかのような、不安な印象を受けた。彼女はほかの家族とは別世界に住む無関係な人間のようであった。
「ご存じの通り、あたしはハロルドと結婚するとき、あのひとを愛してはいませんでした」彼女は考え考え話した。
スキナー夫人は危うく叫び声を立てるところだったが、良人がすばやく、ほとんど無意味のようではあるが長年の結婚生活によって完全に意味のわかる仕草をしたので、声を抑えることができた。ミリセントは語りつづけた。平静な声で、ゆっくりと、語った。その調子にはいささかの表情の変化もなかった。
「あたしは二十七になって、ほかには誰ひとり結婚したいと言ってくれる人はなさそうでした。あの人は四十四でしたから、かなり老けてるようでしたけれど、たいへんに好い地位を持ってはいましたわね? あたしにはこれ以上の好い機会が得られそうもなかったのですわ」
スキナー夫人はまた泣きたくなって来たが、パーティのことを思いだして辛抱した。
「それはもう今となっては、あんたがなぜ写真をよそへどけたか、あたしにもわかりますよ」悲しみをこめて、彼女は言った。
「おやめになって、お母さま」とキャスリンが叫んだ。
その写真は彼がミリセントと婚約したときにとったもので、ハロルドの写真としてはよく撮れていた。スキナー夫人はいつも彼をほんとに素敵な男だと思っていた。体格はがっしりしていて、背も高く、すこし肥りすぎてはいたようだが、身のこなしが上手だったので、風采は堂々たるものだった。彼はその頃からもう髪が薄くなりかかっていたが、近頃の男はみな早くから禿げるようだし、彼の話では日除けヘルメットは頭髪には非常によくないのだということだった。彼は黒っぽいチョビ髭を生やし、顔は濃く日に焼けていた。もちろん彼の一番の特徴は眼で、ジョーンと同じ鳶《とび》色の大きな眼だった。会話はなかなか面白かった。キャスリンは大袈裟だと言ったけれど、スキナー夫人はそうは思わなかったし、もし男がそうしたいと思うのなら、気にかけるには及ばないと思っていた。そして彼がミリセントに心をひかれていることに気がつくと、また実際たいへんに早く気がついたのだが、彼女は彼が大好きになって来た。彼はいつもスキナー夫人によく気をつけてくれて、彼が自分の引き受けている地方のことを話したり、自分の猟で殺した大きな獲物の話をしたりするときには、まるで本気で面白がってるかのように聴いてやったものだ。キャスリンにいわせると、彼は自分をよっぽど偉いと思っているというのだけれど、スキナー夫人は男たちが自分を偉いものに思っているときには疑わずにそれを承認する世代に生れた女性だった。ミリセントも大変はやく風向きを察したので、母親には何ひとつ言わなかったけれど、母親の方ではもしハロルドが彼女を求めたら彼女も承諾するつもりであることがわかった。
ハロルドはボルネオに三十年もいた友人の家に滞在していて、その家族はみなあの土地を好く言っていた。女だって気持よく暮らせないという理由は一つもない、子供たちは七歳になったら帰国させなくてはならないが、スキナー夫人は今からそのことで苦労する必要はないと思った。彼女はハロルドを食事に招き、いつでもお茶のときにはいらっしゃいと彼に言った。彼は行きどころが無くて困っているようだったので、彼が旧友たちを訪ねるのも一段落すると、彼女はうちへいらしって二週間お泊りになって下さるととても嬉しいのですがと彼に告げた。その二週間の終りに近づいた頃に、ハロルドとミリセントは婚約した。二人はとても好い式を挙げ、ハネムーンにはヴェネチアへ行き、それから東洋へ旅立った。ミリセントは船の寄る港々から手紙をよこした。彼女は幸福そうだった。
「クアラ・ソロオルでは、みんなあたしに親切にしてくれました」と彼女は言った。クアラ・ソロオルはセンブルウ州の首都であった。「あたしたちは司政官の家に泊めてもらって、あちこちから食事に招ばれました。一二度、男たちがハロルドにお酒を飲めというのを聞きましたけれど、ハロルドはことわりました。もう独身者ではないのだから、すっかり新生活をはじめたのだ、そう言っていました。それをみんなが笑うのが、なぜだかあたしにはわかりませんでした。司政官の奥さんのグレイ夫人が、ハロルドが結婚したので、みんながああして喜んでいるのですとあたしに言いましたの。こういう奥地では、独身者にはとてもたまらないほど淋しいからって奥さんは言いましたわ。クアラ・ソロオルを発つときのグレイ夫人のお別れを言う言いかたが、あんまりおかしいので、あたし、とてもびっくりしました。まるで、真面目にハロルドの監督をあたしに頼むような調子だったのですもの」
三人は無言で彼女の話に耳をかたむけていた。キャスリンは姉の無感動な顔から一瞬も眼を離さなかった。しかしスキナー氏は正面の、彼の妻が腰かけているソファの上の壁にかかっているクリーズやパラングなどのマレイの武器を、まっすぐにみつめていた。
「それから一年半たって、もう一度クアラ・ソロオルへ戻ったとき、やっとあたしは、なぜみんなの態度があんなにおかしかったのか、気がつきました」ミリセントは、ちょっと冷笑の反響のような妙な小さな声を出した。「そのときあたしは、前にはちっとも知らなかった色々なことを知ったのですわ。ハロルドはあのとき、結婚するためにイギリスへ来たんです。相手が誰であろうと、大した問題ではなかったんです。あたしたちがどんなに両手をひろげて、あのひとをつかまえようとしたか、お母さまはおぼえていらっしゃる? 何もああまで骨を折ることは要らなかったんですわ」
「あんたが何を言ってるのか、あたしにはわかりませんよ、ミリセント」とスキナー夫人は言った。計画的にやったことをほのめかされるのは彼女の好まぬところだったから、その声には辛辣な調子が含まれていないとはいえなかった。「あたしには、あの人があんたに惹《ひ》かれてるのがわかりましたよ」
ミリセントはずんぐりした肩をすくめてみせた。
「あの人は常習の大酒飲みでした。毎晩ウィスキーを一壜もってベッドに入って、朝までにそれを空《から》にしてしまうんです。州知事から、お酒をやめなければ辞職しなければならないと言われました。もう一度だけ、機会を与えてやると言われました。休暇をとって、イギリスへ行ってよろしい。結婚をして、そばについている人間を連れて帰って来るようにと、知事から忠告されました。ハロルドは番人が欲しかったから、あたしと結婚したんですわ。クアラ・ソロオルの人たちは、ハロルドがどのくらいのあいだお酒をやめていられるかで、賭をしていましたのよ」
「でも、ハロルドはお前を愛していましたよ」とスキナー夫人が口を入れた。「お前はあのひとがあたしにどんな風にお前のことを話していたか、知らないのよ、そうして、いまお前が話している、ジョーンのお産でお前がクアラ・ソロオルへ行ったときだった、ハロルドはお前について、とても気持のいい手紙をあたしにくれたんですよ」
ミリセントはもう一度母親の方をみやったが、その黄色っぽい顔は濃い血の色に染まった。膝の上にのせていた彼女の両手が、すこし慄えだした。彼女はあの頃の、結婚生活の最初の数カ月のことを思いだしたのである。官用のランチが、新夫婦を河口まで運び、その夜とまったバンガローのことを、ハロルドはわれわれの海岸の別荘だと、冗談めかして言った。翌日、二人は一隻のプラーウに乗って流れをさかのぼった。読んでいた小説の知識で、彼女はボルネオの河はみな濁った薄気味のわるい色をしていることを想像していたけれど、空は青く晴れ、小さな白い雲が点々とうかび、流れる水に洗われるマングローヴやニッパの緑は太陽の光にきらめいていた。両岸には径《みち》もないジャングルがはてしなくひろがり、遠くには一つの山が峻しい輪郭をみせて影絵のように空にそびえていた。早朝の空気は爽やかで晴ればれと浮立っていた。彼女は親しみのもてる豊沃な土地へ入ってゆくのだと思い、広濶《こうかつ》な自由を感じた。繁った樹の枝に腰をおろしている猿をみようとして、二人は岸をみまもった。一度ハロルドは丸太のようにみえるものを指さして、あれがクロコダイルだと言った。ズックのズボンをはき、日除帽《ヘルメット》をかぶった副司政官が、船着場へ出迎えに出ていて、一ダースほどのきちんとした装《なり》の小柄な兵隊が、彼等に敬意を表するために整列していた。副司政官に彼女は紹介された。彼の名はシンプソンといった。
「やあ、どうも」と彼はハロルドに言った、「お帰りになって、ほんとに嬉しいです。お留守のあいだ、まったく淋しかったですよ」
司政官のバンガローは、華やかなさまざまの姿態をした花が咲きみだれている花園にとりまかれて、低い丘の頂きにあった。それは少しばかりみすぼらしくて、家具も乏しかったけれど、部屋部屋は涼しくて、ゆったりした広さだった。
「カンポン〔村〕はあっちだよ」指さしながら、ハロルドが言った。
その指について彼女の眼が動いたさきで、椰子の木立のなかから銅鑼の音がひびいて来た。その音は彼女の胸に一種奇妙な軽いときめきを与えた。
彼女は大してすることはなかったけれど、気楽に日が過ぎて行った。明け方に一人のボーイが夫婦のお茶を運んで来ると二人は朝食のために着替えをする時刻まで朝の芳しい香りをたのしみながらヴェランダのまわりを散歩する(ハロルドは肌着にサロン、彼女はドレッシングガウンすがたで)。それからハロルドはオフィスへゆき、彼女は一二時間マレイ語を習う。昼食《テイフン》のあと、彼はオフィスへ帰り、そのあいだ彼女は午睡をする。一杯のお茶で、二人とも元気をとりもどし、一緒に散歩したり、ハロルドがバンガローの下のジャングルを伐りひらいて作った平地の九ホールのリンクスでゴルフをしたりする。六時には日が暮れて、シンプソン氏が一杯のみにやって来る。おそい晩餐の時刻まで三人で雑談をし、時にはハロルドとシンプソン氏とはチェスをする。香りのたかい宵々は魅惑にあふれていた。螢がヴェランダの下の叢林を冷たい火花の明滅する信号所に変えてしまい、花咲く樹々があたりいちめんに甘いとろけるような芳香をただよわせる。晩餐のあとで、ロンドンを六週間前に出た新聞を読み、やがて寝につく。ミリセントは自分の家をもつ家庭の女としての生活をたのしみ、派手な色のサロン姿で、跣足でこっそりと、だが人なつこい様子でヴェランダのまわりを歩きまわる原住民の召使たちも気に入っていた。
司政官の妻としての格の高い地位も、彼女には快かった。ハロルドは、その流暢な言葉の駆使や、自信のある態度や、威厳などで、彼女を感心させた。彼女はときどき裁判所へ行って、彼が事件の審理をするのを傍聴した。彼の勤めの多方面なこと、それらの義務をてきぱきとさばいてゆく手腕は、彼女に彼を尊敬させた。シンプソン氏は、ハロルドはこの地方の誰にも劣らないほど原住民をよく理解していると彼女に言った。彼は厳格さと、機転と、朗らかさとを兼ね備えていて、それでなくては、臆病で、復讐心がつよく、疑りぶかい民族を操縦することはとてもできないというのだ。ミリセントは自分の良人にかなりの崇拝の念を抱きはじめた。
結婚してそろそろ一年近くたった頃に、二人のイギリスの博物学者が、奥地への旅行の途中、数日間、彼等夫婦の家に泊ったことがある。二人は総督からの力づよい添え書も持って来たので、ハロルドは彼等を満足させてやりたいと言った。彼等の訪問は一つの好もしい気晴らしだった。ミリセントはシンプソン氏を晩餐によび(彼は砦《フォート》に宿泊していて、日曜の晩だけ夫婦のところで食事をする習慣だった)晩餐のあとで男たちはゆっくり腰をおちつけてブリッジをした。ミリセントはしばらくしてその場をはずし、床についたが、連中の騒ぎがやかましいので、かなりのあいだ寝つかれなかった。何時かわからないが、ハロルドが寝室へよろめきこんで来た物音で、彼女は眼をさました。彼女は無言のままでいた。彼はベッドへ入る前に入浴する気になった。浴室は夫婦の寝室の真下にあるので、彼はそこへ通じる階段を降りた。足を踏みすべらせたらしく、大きな物音がして、彼は何か大声で悪態をついた。それから彼はひどく嘔《は》いた。彼女は彼がざあざあとバケツの水を何杯もかぶる音を聞いたが、しばらくすると今度は非常に用心ぶかく階段をのぼる足音がして、やがて彼はベッドへすべりこんだ。ミリセントは眠っているふりをしていた。彼女はむかむかした。ハロルドは泥酔したのだ。明日の朝はそのことについて話そうと、彼女は決心した。博物学者たちは彼のことを何と思うだろう? しかし翌朝になると、ハロルドがあまりどっしりと落着きはらっているので、彼女はその話にふれる決心がどうしてもつかなかった。八時に、ハロルドと彼女と、二人のお客とは朝食の卓についた。ハロルドは食卓をみわたした。
「粥《ポリッジ》か」と彼は言った。「ミリセント、お客さまたちは朝食にちょっぴりウスター・ソースを召上ると仰しゃるかも知れないぞ、ぼくの考えではそのほかは大してお気が向かんだろうと思う。ところでぼくはというと、ウィスキーとソーダだけあれば沢山だよ」
博物学者たちは笑ったが、恥ずかしそうな顔をしていた。
「あなた方が見えられた最初の晩に、素面《しらふ》のままでお寝かせしたとあっては、わたしがおもてなしの義務を果したとはいえないと思いますよ」円滑な、ものものしい彼独特の言いぶりで、ハロルドは述べた。
ミリセントは苦笑いしながらも、お客たちも良人と同じ飲んだくれだったのだと思うと、ほっとした。その晩は彼女が一緒に起きていたので、あまり桁はずれでない時分にお開きになった。しかし彼女はお客たちが旅行をつづけるために立ち去ったときは嬉しかった。夫婦の生活はふたたびもとの平静な調子をとりもどした。数カ月後、ハロルドは受持の地区内の視察旅行に出かけて、ひどいマラリアにかかって帰って来た。これまでいろいろ話に聞いていたこの病気を見たのは、彼女にはこれが初めてで、ハロルドが回復したとき彼がひどく弱々しくなったのも、べつに不審には思わなかった。彼の様子が妙なことに彼女は気がついた。彼はオフィスから帰って来ては、どんよりした目つきで彼女をじっとみつめる。ヴェランダに立って、すこしふらふらしながら、しかしやはり尊大な様子で、イギリスの政治情勢などについて長々と演説をぶつのだ。演説の筋道を見失って、彼の本来の荘重さとは一向にそぐわない小狡い目つきで彼女を見ながら言う――「まったく怖ろしく元気が衰えるもんだよ、このいまいましいマラリアというやつは。ああ、きみたち女には、植民地の建設に重任を荷ってる男たちが、どんな苦しみに耐えてるか、とてもわかりゃしないんだ」
彼女はシンプソン氏が何か心配そうな顔つきをするようになったと思った。一二度、彼女と二人きりのとき、もう少しで何か言いだしそうになりながら、内気さのためにとうとう言えなくなってしまうらしいことがあった。そういう感じがあまり強くなったので彼女は神経がたかぶり、ある晩、どういうわけかハロルドがいつもより晩くまでオフィスから帰って来なかったとき、彼女は思い切ってシンプソン氏をつかまえた。
「あのね、シンプソンさん、あなたがあたしに言いたいと思ってるのは、どんなことなの?」と、彼女はだしぬけに言った。
彼は顔をあからめて、口ごもった。
「何もないです。どうして特別にぼくが奥様にお話することがあるなんて、お考えになったんです?」
シンプソン氏は、ひょろひょろに痩せた、二十四歳の青年で、美しい形をした頭の、髪のウェーヴを苦労してぺったりと撫でつけていた。手首には蚊に喰われた腫れや痕があった。ミリセントはじっと彼をみつめた。
「もしそれがハロルドに関係のあることでしたら、隠さずにあたしに話して下さる方が親切だとはお思いにならない?」
彼はもう真赤になっていた。籐椅子の上で、落着かぬさまでもじもじした。彼女はさらに迫った。
「奥様はよっぽど厚かましいやつだとお思いになるんじゃないでしょうか」とうとう彼は言った。「上役のことを、蔭で何か言うとしたら、ぼくは下劣な人間です。マラリアってのは、ひどいやつで、あれにとりつかれたあとでは、誰でもひどく元気がなくなるんです」
彼はまたためらった。口許がいまにも泣きだしそうにゆがんだ。ミリセントには、彼がまるで子供のように思えた。
「あたし、お墓みたいにだまっていますわ」微笑して、自分の不安は押し隠そうと努めながら、彼女は言った。「ね、話して下さいな」
「実際こまったことだと思うんですが、御主人はウィスキーを役所に置いておられるんです。ああしておられては、そういう風にしなかった時分よりも、どうしても余計に飲まれることになります」
シンプソン氏の声は昂奮で上ずっていた。ミリセントは急に全身に悪寒《おかん》が走るのを感じた。彼女は自制した。話すべきことがあるなら全部ききだしてしまわねばならないとすれば、この青年をおびえさせてはならないことを、彼女は知っていたからだ。彼はなかなか話したがらなかった。彼女は彼に強いた、なだめすかしたり、義務の観念にうったえたり、そして最後には彼女は泣きだした。それから彼は口を開いて、ハロルドがこの二週間以来、多い少ないは別としてずっと飲みつづけていること、原住民たちがその噂をしていて、まもなく彼は結婚前の悪習慣にもどるだろうと言っていること、などを彼女に語った。その当時の彼は甚だしく過度な飲酒癖に陥っていた――けれどもその頃の詳しい点については、いくら彼女が骨を折っても、シンプソン氏は絶対に彼女に話してくれなかった。
「いまもお酒を飲んでるとお思いになって?」と彼女は訊いた。
「さあ、わかりません」
ミリセントは恥辱と怒りとで、急にカッとからだが熱くなった。砦《とりで》――これは小銃や弾薬が貯蔵してあったから、そう呼ばれているのだが、そこは同時に裁判所でもあった。それは司政官のバンガローの真正面に、それ自身の庭のなかに立っている。ちょうど太陽が沈みかかっていたので、彼女は帽子をかぶるには及ばなかった。立上ると、まっすぐ庭園を突切って歩いた。ハロルドが、いつも審判を行うホールのうしろにあるオフィスにいるのを、彼女は見出した。彼の前にはウィスキーの壜があった。彼は巻煙草をすいながら、前に立っている三四人のマレイ人を相手に、何か喋っていた。男たちは阿諛《へつらい》と軽蔑とを同時にうかべた微笑をしながら傾聴していた。彼の顔は赤かった。
原住民たちは姿を消した。
「あなたが何をしていらっしゃるのか、見に来ましたのよ」と彼女は言った。
彼は席を立って――彼はいつでもとりつくろった慇懃さを失わずに彼女に対していたからだが――ふらふらとよろめいた。しっかりと立っていられないのを感じながらも、彼は上手にとりつくろった荘重な態度をとろうとした。
「おかけ、ミリセント、おかけなさい。ぼくは仕事がたまってるので晩《おそ》くなった」
腹を立てた眼で、彼女は彼を睨んだ。
「酔ってらっしゃるわ」と彼女が言った。
彼は彼女をみつめた、その眼は少し腫れぼったかったが、傲慢な表情が、次第に彼の大きな肉の厚い顔にひろがって行った。
「それはいったい、どういう意味か、ぼくにはてんでわからんね」と彼は言った。
彼女は怒りにまかせて非難の言葉をまくしたてるつもりでいたが、いざとなると急に泣きだしてしまった。椅子に腰をおろして顔を蔽った。ハロルドはちょっと彼女を眺めていたが、すると涙が彼の頬からもしたたりはじめた。彼は両腕を前へ出して彼女の方へ進み寄り、どたりと跪いた。咽び泣きながら、彼は彼女を自分の方へ抱き寄せた。
「赦して、赦してね」と彼は言った。「二度ともうこんなことにならないと約束するよ。これもあのマラリアのやつのためだ」
「あんまり情ないわ」と彼女はもだえた。
彼は子供のように泣いた。あの大きな、尊大な男のみずからを貶《おと》しめる有様には何かまことに強く心をうごかすものがあった。やがて、ミリセントは顔をあげた。彼の眼は、訴えと後悔とをこめて、彼女の眼を求めた。
「もう二度とお酒に手を触れないことを、あたしにきっと約束して下さる?」
「する、するよ。ぼくはもう見るのも厭だ」
彼女に子供ができていることを彼に告げたのはそのときだった。彼は有頂天になった。
「それがぼくの望んでたことなんだ。お蔭できっとぼくはまともでいられるよ」
二人はバンガローへ帰った。ハロルドは一人で入浴し、一睡りした。晩餐のあと、夫婦は長いあいだ、静かに話しあった。彼は結婚前に、ときどき適度以上に飲みすぎたことを白状した。外地では悪習に陥ちこむのはわけのないことである。彼はミリセントの要求することには何でもみな同意した。そして彼女が出産のためにクアラ・ソロオルへ行かなければならなくなるまでの数カ月間、ハロルドはすばらしい良人《おっと》だった。優しくて、考えぶかくて、誇りにみち、情愛も深かった。何ひとつ非難すべきところはなかった。彼女を連れ去るランチが来て、彼女は六週間、彼と別れることになった。彼は真心から、彼女の不在中は決して飲まないことを約束した。彼は彼女の肩に手をかけた。
「約束は絶対に破らないよ」彼らしい勿体ぶった言いかたで、彼は言った。「しかし約束がなくたって、きみがこれから受ける試練のことを思えば、きみの心配を増すようなことをぼくがするなんて想像ができるかね?」
ジョーンが生れた。ミリセントは司政官官舎に泊り、司政官の細君のグレイ夫人は、気持の優しい中年女で、彼女にはごく親切にしてくれた。二人きりで長い時間をすごしているあいだ、話をするよりほかにはほとんどすることがないので、ミリセントは暫くするうちに良人の過去の酒癖について知るべきことは何もかも知ってしまった。どう考えても我慢がならなく思われたことは、ハロルドが、彼の地位をたもつことを許される唯一の条件は妻をたずさえて帰ることだったという事実である。それが彼女のこころに、ぼんやりとした遺恨の気持を植えつけた。また良人がいかに頑固な、癒しがたい酒癖の持主であるかを知ったとき、彼女は漠然とした不安を感じた。自分の留守中に、彼はきっとその欲求に抗しえないだろうと思うと、たまらない恐怖を感じた。彼女は赤児と看護婦とを連れて帰った。河口で一夜を明かし、使いの者が丸木舟《カヌー》で到着を知らせた。ランチが船着場へ近づくのを、彼女は不安な気持でみまもった。ハロルドとシンプソン氏とがそこに立っていた。身奇麗な小柄の兵隊たちが整列した。彼女はがっかりした――揺れる船の上で平均をとろうとしている男のように、かるく身体がゆれているので、彼女は彼が酔っていることを知ったのである。
それは愉しい帰宅ではなかった。それまで黙々と彼女の話に耳をかたむけている父や母や妹を彼女はほとんど忘れていたが、いま彼女は気持をひきたてて、ふたたび彼等の存在に気がついた。いままで話して来たことが、遠い遠いことのような気がした。
「そのとき、あたしはあの人を憎いと思いましたわ」と彼女は言った。「殺そうと思えば殺せましたわ」
「ま、ミリセント、そんなことを言うものじゃないわ」と母親が叫んだ、「もう死んだひとだということを忘れてはいけないわ」
ミリセントは母親の顔をみたが、一瞬、険悪な表情が彼女の無感動な顔を暗くした。スキナー氏がそわそわと身体を動かした。
「それから?」とキャスリンが言った。
「自分のことをあたしにすっかり知られたことがわかると、あのひと、もうあまり悪あがきはしなくなったわ。三カ月たたないうちに、また精神錯乱の発作が起きたの」
「なぜ別れてしまわなかったの?」とキャスリンが言った。
「別れて何のいいことがあるっていうの? 半月たたないうちに、免職になるにきまっていたわ。あたしとジョーンを、誰が養ってくれたでしょう? あたしはそのままいるよりほかはありませんでした。そして素面《しらふ》でいるときには、あたしはあのひとに何の不平の種もなかったんです。あのひとはあたしをちっとも愛してはいませんでしたけど、あたしを好いてはいました。あたしは彼を愛したから結婚したのではなくて、結婚したかったから結婚したんですわ。お酒を彼から遠ざけるためには、あたしはどんなことでもしました。クアラ・ソロオルからウィスキーを送るのを、やっとグレイさんに頼んで抑えてもらうようにしましたけれど、彼は中国人から手に入れました。まるで猫が鼠の見張りをするように、あたしは彼を見張りました。でも彼は狡《ずる》くって、とてもあたしの手にはおえません。しばらくすると、またはじまりました。勤めもかまわなくなりました。苦情が出やしないかと、あたしは心配しました。クアラ・ソロオルまでは二日かかるので、それが安全弁だったのですけれど、きっと何かわかったんでしょう、グレイさんがあたしにあてて、内証の手紙で注意してくれました。あたしはそれをハロルドにみせました。ハロルドは怒ってどなり散らしましたけれど、あたしは彼が怖がってるのがわかりました。それから二三カ月は、すっかりお酒をやめていました。それからまた始まりました。そんなことをくりかえしてるうちに、定期の休暇が来ました。
こちらへ帰る前に、あたしはどうか気をつけてくれるようにと、彼に哀願しました。あたしは自家《うち》の誰にも、自分がどんな男と結婚したかを知られたくなかったんです。イギリスにいるあいだは、ずっと何事もなくて、船に乗る前にも、あたしは厳しく言いました。ハロルドはジョーンをとても可愛がるようになって、ジョーンのことをとても自慢していましたし、ジョーンも父親が大好きでした。あの子はいつもあたし以上にハロルドが好きでした。あたしは子供が大きくなって、お父さんは酔っぱらいだということを知ってもいいんですかとハロルドに訊いたんですが、やっとそれであのひとの手綱をとる方法がわかったんです。そのことでハロルドはちぢみあがりました。あたしは、そんなことは|あたしが《ヽヽヽヽ》許しません、あなたがジョーンにお酒に酔ってるところを見せるようだったら、すぐにジョーンをよそへ連れて行ってしまいますと言いましたの。そう言ったらあのひと、真っ蒼になりましたのよ。やっとこれで良人を救う途がわかった、と思って、その晩あたしは跪《ひざまず》いて神様にお礼を申しましたわ。
『きみが助けてくれるなら、ぼくはもう一度やってみるつもりだ』そうハロルドは言いました。二人で力をあわせて戦おうと、あたしたちは決心しました。ハロルドも一生懸命に戦いました。どうしても飲むより|仕様がない《ヽヽヽヽヽ》ようになると、きっとあたしのところへ来るんです。あのひとが、どっちかというと傲慢になる性質《たち》だということは、ご存じでしょう、でもあたしに対しては、とても素直でした。まるで子供みたいでした。結婚した当時はたぶんあたしを愛していなかったんでしょうけれど、あの頃はたしかにあたしを――あたしとジョーンを愛していました。でもあたしは、あの屈辱のために、お酒に酔って威張って、押しつけがましくするときの彼がほんとうに厭らしかったために、あのひとを憎んでいました。でもいまは不思議な気持が、心のなかに湧いて来ました。愛情ではないんです、けれどそれは奇妙な、はにかむような優しみでした。ただ良人だという以上に、あの長い月日、苦しい年月のあいだ、自分が心の羽掻《はがい》の下に抱きかかえて来た子供のようなものでした。あのひとはあたしのことを自慢していましたし、あたしもあのひとを自慢にしていました。長い演説を聞いていても、もう苛々しなくなって、あの勿体ぶった様子も、ただ何となく滑稽で可愛気があるように思うだけでした。とうとう、あたしたちは戦いに勝ちました。二年間、あのひとは一滴も飲みませんでした。もうすっかり飲みたがらなくなりました。お酒のことを、冗談に言えるようにさえなりました。
その頃シンプソン氏はよそへ行って、そのあとへフランシスという若い男が来ていました。
『ぼくは転向した大酒飲みなんだぜ、フランシス』と、あるときハロルドが言いました。『家内がいなかったら、ぼくはとうの昔に馘《くび》になってただろう。ぼくは世界一の女房を持った男だよ。フランシス』
そういうことを言うのを聞いて、あたしがどんな気持がしたか、あなたがたにはとてもわかって頂けませんわ。あたしはあの長《なが》の年月の苦労の仕甲斐があったと思いました。あたしはとても幸福《しあわせ》でしたわ」
彼女は口をつぐんだ。その長の年月をそのほとりで過した幅の広い、黄色く濁った河を、彼女は思いうかべた。日没のたゆとう光のなかに白い翼をかがやかせて、白サギが群をなして、低く速く、流れにそって飛び、そして散らばった。白雪のさざ波の調べのように、うるわしく、浄らかに、春のように、それらはまるで目に見えぬ手にかき鳴らされる目にみえぬ堅琴から、鳴り出でる天国の速急和絃《アルペジオ》かと思われた。宵闇に包まれた緑の河岸のあいだを、それらはあたかも満ち足りた心の幸福な物思いのように羽搏きすぎるのだった。
「そこへジョーンが病気になりました。三週間、あたしたちはひどい心配をさせられました。クアラ・ソロオルまで行かなければお医者はなかったので、原住民の薬剤師の治療で我慢しなければなりませんでした。いくらか快《よ》くなったところで、あたしは海岸の空気を吸わせるために、あの子を河口まで連れてゆきました。一週間ばかり、そこにいました。ジョーンのお産で別れたとき以来、ハロルドと別れるのはそのときが初めてでした。あまり遠くないところに漁村が一つありましたけれど、実際にはまったく二人っきりでした。あたしはとても優しい気持でいろいろとハロルドのことを考え、急に自分がハロルドを愛してることを知りました。そのことを話したいと思いましたから、あたしたちを連れ帰るプラーウ舟が来たときはあたしはとても嬉しかったのです。これは彼にとってきっと大きな意味のあることだとあたしは思いました。そのときあたしがどんなに幸福な気持だったか、とても口に言えないくらいです。上流へ漕ぎのぼってゆく途中で、船頭が、フランシスさんは良人を殺した女を捕えるために奥地へ出かけたと、あたしに話しました。留守になってから二日ばかりになるというのです。
ハロルドが船着場に迎えに出ていないので、あたしは驚きました。そういうことについては、あのひとはこれまでとても几帳面でした。良人と妻とは、知人と交際するようにお互いに礼儀を守るべきものだと、いつも言っていたのですから、どんな用事で迎えに出られなくなったのか、あたしには想像がつきませんでした。あたしはバンガローの立っている丘をのぼってゆきました。乳母《アーヤ》がうしろからジョーンを抱いてついて来ました。バンガローは妙にしんとしています。召使たちもいないらしいので、あたしは腑に落ちませんでした。ハロルドはあたしがこんなに早く帰るとは思わないので、外へ出かけたのかしら。そう思いながら、あたしは踏み段をあがりました。ジョーンが喉がかわいたと言うので、アーヤは飲みものをやるために召使たちのいる方へ子供をつれてゆきました。ハロルドは居間におりません。呼びましたが、返事がありません。寝室へ入ってゆきました。やっぱりハロルドは出かけてはいなかったのです。ベッドの上で眠っていました。あたしは面白いこともあるものだと思いました、あのひとは午後は決して寝ないといつも言っていたからです。午睡《ひるね》は、あたしたち白人の陥る、必要でない習慣だと言っていたのです。あたしはそっとベッドに近づきました。きっと冗談に寝たふりをしてるのだろうと思ったんです。蚊帳をあげました。サロン一つ着けたなりで、仰向けに寝ていて、傍《そば》にからのウィスキー壜がありました。酒を飲んだんです。
また始まっていたんです。長年のあたしの苦しみ、骨折りは、水の泡になったんです。夢は粉々にくだけました。絶望です。あたしは忿《いか》りで夢中になりました」
ミリセントの顔がまたもや暗赤色になり、彼女は腰かけていた椅子の肱《ひじ》を握りしめた。
「あたしはあのひとの肩をつかんで、力いっぱい揺ぶりました。『けだもの』あたしは叫びました、『このけだもの』あまり腹が立って、何をしてるのか、何を言ってるのか、わかりませんでした。あたしは彼をゆすぶりつづけました。あの男がどんなに厭らしく見えたか、とてもあなたがたには想像もつきませんわ――あの大きな男が、半裸体で、幾日も髭もそらず、紫色にふくれかえってるんです。荒い息をしていました。いくらあたしが呼んでも、まるで知らぬ顔です。丸太みたいに倒れています。『眼をあけなさい』とあたしは叫びました。また揺ぶりました。あたしは憎くなりました。一週間のあいだ、心の底から彼を愛していただけに、一そう憎くてたまりませんでした。この男があたしをめちゃめちゃにした。あたしをめちゃめちゃにした。何という穢らわしいけだものだかということを、あたしは言ってやりたいと思いました。何を言っても、相手は知らん顔をしています。『何とかして眼をあけさせてやるわ』とあたしは叫びました。どうしてもあたしの顔を見せずに置かないと、あたしは決心しました」
寡婦はかわいた唇を舐めた。呼吸が迫っているらしい。彼女はしばし黙っていた。
「そんな状態だったら、あたしならそのまま寝かしておく方がいいと思うわ」とキャスリンが言った。
「ベッドの横の壁にパラングが一つ懸っていました。ハロルドが骨董好きだったことはご存じでしょう」
「パラングって、何だえ?」とスキナー夫人が訊いた。
「何を言ってるのだ、母さん」彼女の良人が腹立たしそうに答えた。「あんたのすぐうしろの壁に懸ってるじゃないか」
どういうわけか、さっきから、そこから眼を離さずにいた、そのマレイの剣を、彼は指さした。スキナー夫人はギョッとして、まるですぐそばに蛇がトグロを巻いていると告げられたように怖ろしそうな身振りをしながら、ソファの片隅へ身を引込めた。
「急に、血が、ハロルドの喉からふきだしました。真紅《まっか》な赤いものが、どっとそこから溢れ出て来ました」
「ミリセント」キャスリンが跳ねあがって、まるで姉の方へとびかかりそうな剣幕で、叫んだ。「いったいあんた、それどういうこと?」
スキナー夫人は立って、愕きの眼を大きく見ひらき、口をあけて、彼女を凝視した。
「パラングはもう壁にかかってはいません。ベッドの上にあります。そのときハロルドが眼を開きました。それがジョーンの眼とそっくりでした」
「わからんな、わしには」とスキナー氏が言った。「お前の話したような状態におって、どうして自殺ができたのかね?」
キャスリンは姉の腕をつかんで、腹立たしげに揺ぶった。
「ミリセント、お願いだから、説明して頂戴」
ミリセントはその手を離した。
「パラングが壁にかかっていたと、話したでしょう。何が起ったのか、あたしにはわからないの。そこら一面、血だらけで、ハロルドは眼をあけたの。ほとんどそれと同時に、あの人は死んだわ。一言も言わなかったけど、ゲッというような音は立てたわ」
やっと、スキナー氏が口をきいた。
「しかし、あさましい、そりゃ殺人じゃないか」
ミリセントが、ところ斑らに紅くなった顔で、父親に与えた軽蔑的な憎悪の表情は、彼を怯《すく》ませるに十分だった。スキナー夫人が叫んだ。
「ミリセント、まさか、お前がやったんじゃ、あるまいねえ?」
そのときにミリセントのしたことは、座にいた三人に、全身の血管が凍りつくような思いをさせた。彼女はクックッと笑いだしたのである。
「ほかの誰がしたのか、あたしにはわかりませんわ」と彼女は言った。
キャスリンはさっきから棒立ちになって、まるで自分の心臓の鼓動に堪えられないかのように、両手で胸を抑えていた。
「それで、それからどうなったの?」と彼女が訊いた。
「あたしはキャァッと叫んだの。窓へ行って、戸をあけたの。アーヤを呼んだの。アーヤはジョーンを抱いて、裏から来たから、『ジョーンはだめ、連れて来ちゃだめ』って、あたしは叫んだの。乳母は料理人《コック》を呼んで、子供を預かってくれと言ってたわ。はやく来るようにとあたしは呼んだの。乳母が来たので、あたしはハロルドを見せました。『トワンが自殺したわ!』とあたしは叫びました。女は悲鳴をあげて、家の外へ走り出てゆきました。
誰も近寄ろうとはしませんでした。みんな、ちぢみあがって、どうしていいかわからないんです。あたしはフランシスさんに手紙を書いて、出来事を知らせ、すぐ帰ってくれるように頼みました」
「出来事を知らせたというのは、どういうことをさすのかね?」
「河口から帰って来てみたら、ハロルドが喉を切って死んでいたって、そう書いたんです。熱帯ではお葬いを急がなければならないでしょう。あたしは中国風のお棺を買って、兵隊たちが砦《フォート》の裏にお墓を掘りました。フランシスさんが来たのは、ハロルドが埋葬されてから二日近くたったあとでした。まだほんの子供でしたから、あたしはフランシスさんをどうにでも自分の思う通りに扱うことができました。あたしはハロルドが手にパラングを握ってるのを見たから、精神錯乱の発作で自殺したことには疑いないと、フランシスさんに言いました。からの酒壜を見せました。召使たちは、あたしたちが海岸へ行ってしまってから、ハロルドがずっと酒びたりになっていたと言いました。同じことを、あたしはクアラ・ソロオルでも話しました。みんなとても親切にしてくれて、政府は年金の支払を認めてくれました」
しばらくは、みな無言だった。やっとスキナー氏がいずまいを直した。
「わしは法曹家の末席につらなっとる者だ。弁護士じゃ。わしには一定の義務がある。これまで、誰からも指一本さされずに事業をやって来た。お前はわしを言語道断な立場に陥《おとしい》れたことになるぞ」
すっかり度を失って、鬼ごっこのように言葉を逐いかけながら、彼はまごついた。ミリセントは軽蔑の面持で彼を見た。
「お父さまはどうなさるおつもり?」
「これは殺人じゃ、まさにそうじゃ。お前はわしがそれを見のがせるとでも思うとるのか?」
「つまらないことを仰しゃっちゃだめよ、お父さま」キャスリンが鋭く言った。「自分の娘を見殺しにできるものですか」
「お前はわしを言語道断な立場に陥れたんじゃ」と彼はくりかえした。
ミリセントはもう一度、肩をすくめてみせた。
「みなさんがあたしに話させたんですわ。いままでは、あたし一人で秘密を背負って来ました。これからは家《うち》じゅうで背負う番ですわ」
そのとき、ドアがあいて、女中が顔を出した。
「デーヴィスがお車をもって参りました」と女中が言った。
キャスリンがどうにか気をひきしめて何か答えたので、女中はひきさがった。
「さあもう出かけた方がいいでしょう」とミリセントが言った。
「あたしはいまからパーティなんぞへはゆけませんよ」スキナー夫人が怖ろしそうに叫んだ。「もう気が転倒して。どの顔さげて、ヘイウッド家の人たちに逢えるでしょう? それに監督さんも、お前に紹介されるのをお望みになるだろうし」
ミリセントは身振りで無関心を示した。彼女の眼つきはまださっきからの皮肉な表情を残していた。
「行かなくちゃなりませんわ、お母さま」とキャスリンが言った。「もし行かずにいたら、とても変な風に見られますわ」彼女は烈しくミリセントの方へ向き直った。「まったく、何もかも、何てみっともないことになっちゃったんでしょう」
スキナー夫人は弱々しく良人の方を見た。彼は妻のそばへ寄って、手をもちそえて彼女を椅子から起たせた。
「やっぱり行かんではなるまい、な、お母さん」と彼は言った。
「そしてあたしはハロルドが自分からあたしに手渡してくれた羽根飾りつきのトックをかぶって」と彼女は慟哭《どうこく》した。
スキナー氏が彼女を部屋から連れ出し、キャスリンがすぐあとから続くと、一二歩おくれてミリセントもついて来た。
「そのうちに馴れるわよ」と、彼女はおだやかに言った。「はじめはあたしも、ちっとも頭からそのことが離れなかったけれど、いまでは二三日も忘れていることがあるわ。まるで何の心配もないような気がしているの」
三人は答えなかった。彼等はホールを通って、玄関の外へ出た。三人の婦人たちはうしろの座席に、スキナー氏は運転手の隣に席を占めた。自動発動装置《セルフ・スターター》のない旧式の車だったので、デーヴィスが帽蓋《ボネット》のところへ行って、クランクをまわした。スキナー氏は振返って、怒った顔つきでミリセントを見た。
「わしにあんな話を聞かせるという法はなかった」と彼は言った。「お前ぐらい自分勝手な女はないぞ」
デーヴィスが座席に坐り、そしてキャノンの園遊会へ向けて出発した。(完)
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訳者あとがき
モームはマレイ半島やボルネオの旧英領植民地に住む英国人たちの生態に取材した短篇集に『キャジュアライナ樹』と題した理由を、次のように説明している。
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広い入江などにマングローヴが生い茂って、長い年月のあいだには海を埋立てて沼地になる、するとそこにキャジュアライナの樹がおのずと生えて、今度はこれがその土地をしっかりと固め、肥やす役に立ち、ついにはそこに種々さまざまの植物が勝手気ままに繁茂するまでに土地を成熟させる。さてそれから、この役目を果してしまうと、この樹はジャングルの無数の動物どもの貪婪な劫掠に遭って枯れ死んでしまう、という話である。わたしはマレイ半島やボルネオに住むイギリス人についての短篇集の表題として『キャジュアライナ樹』というのはそうわるくもあるまいと思った――つまりかれらは、西欧文明に対してこれらの国々を開いた先駆者たちのあとからやって来た連中であって、もはやその仕事も一段落し、国土には平和と秩序とができ、住民が昔のままの無邪気でもなくなった現在では、もっとさまざまな、だが冒険的なところは少い諸民族に席をゆずるほかはないという、ちょうど似たような宿命を負わされていると、わたしには思われたのである。
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二十年後、これらの国々には戦乱の嵐が襲い、日本軍の去ったあと、マレイはシンガポールを除いて連邦として独立し、直轄領北ボルネオと保護領のサラワクその他はもとに戻ったが、陸つづきの旧オランダ領はインドネシア共和国の一州となり、百年の歴史をもつイギリス植民地もやがては別の諸民族に席をゆずるほかない時が迫っている。マレイやボルネオの土着民族は、ここに収められた物語では背景以上の意味をもたされていない。旅行者としての作者の関心の方向や程度もそうであったろうが、作品の動機からも、これは当然の成行きであった。だがモチーフとはべつに、そこには支配者としての英国人の土着民族に対する態度が典型的にあらわれていることには注意して置いていいだろう。イギリス人としての狭苦しい誇りをすてずに、領主然としてボルネオの土になることを夢想している『奥地駐屯所』のウォーバートン氏、ユーラシアンであることをひた隠しにしている『臆病者』のイザアトなどを、作者は興味と同情の眼でみつめている。
英国人は、かれら独特の実際的な態度で植民地経営を行い、異民族の統治とその地の経済開発とに成功して来たと信ぜられている。イギリスの植民政策の成功と、それによる数世紀間の帝国主義的繁栄は、主としてこの環境処理の能力のおかげであったことは疑いを容れない。だがこの成功の裏面に、直接その環境と格闘した人々の幾多の悲劇があったことは、それとは別の問題であり、繁栄の恩恵に浴した本国の大多数の英国人の意識からは蔽われていた問題だった。『園遊会まで』の一篇は、この矛盾をするどく描いている。政治的観察はモームの文学とはまったく無関係であるけれども、現実との照応は、これらの短篇をイギリス帝国主義の批判の書として読むことを可能にしている。
[#ここから1字下げ]
……キャジュアライナ樹は、吹きさらしの海辺に痩せこけた幹を並べて立ち、荒い海風から陸地を護っているが、ここに描かれた農園主や行政官たちも、かれらの欠点や力の不足はどうあろうとも、ともかくもかれらの住んだ土地の住民に平安と正義と福祉とをもたらした人々である。これはことによるとなかなか適切な連想ではないだろうか――同時にかれらもまた、あの灰色の、武骨な、もの悲しげなキャジュアライナ樹の、放埓なまでに豊穣な熱帯にしてはいささか場ちがいな姿を眺めるとき、ふとかれらの生れ故郷を思いだすのも、ごく自然なことではあるまいか、そして暫しのあいだ、ヨークシャ荒野《ムーア》のヒースの樹や、サセックス公有地《コモン》のエニシダの樹などを懐かしみながら、あのつらい環境のなかでベストをつくしている辛抱づよい樹に、かれら自身の遠い異境での生活の象徴を見ることもあるのではないか、と、そんな風にわたしは考えてみたのである。……
[#ここで字下げ終わり]
またモームは、こうした植民地に住む人々の狭隘な主観から、これらの物語が実際に彼の会った実在人物をそのまま写したものと誤解される危険を恐れて、『キャジュアライナ樹』にわざわざことわり書きを書いているが、「シンガポールは繁忙な大都会だから、つまらぬことを気に病んでいる暇などはないが、支那海の波の打ち寄せる島々に散在する小社会はなかなか敏感で、そこに住む人々の生活事情が、かならずしもかれらの従姉妹たちや伯母さんたちの得々として安住している偏狭な本国の社会から是認してもらえそうもないことを、小説のなかなどでほのめかされるようなことがあれば、大問題になるだろう」と書いている。「広い東洋でかれらの人生の最良の時期を過しているイギリス人が、故郷の村の小さな政治問題などをさも重大そうに考えている事実を発見するのは、旅行者にとって、まったく驚愕に値することだ。ときには、これらの人々はベドフォード・パークあたりで余生を楽しみたいばっかりに、遠い異境のセレベスまで出稼ぎに出ることを何とも思っていないのだろうかと、怪訝の念に打たれることさえある」とも書いている。
いうまでもなく、作者はこうした植民地の生活者を素材にして、「作者自身の個性から生じた特有の表現で処理し」て、これらの物語を書いた。『臆病者』に出てくる「ボーア」の遭難も作者の実際の経験にもとづいて描かれているので、「物語はあの時わたしと一緒に遭難した人々の誰ひとりとも何の関係もない」ことを特にことわっている。
一九六〇年十二月
〔訳者紹介〕
田中西二郎(たなか・せいじろう)
英文学者。一九〇七(明治四十)年東京生まれ。東京商科大学(現一橋大学)卒。主な訳書、グレアム・グリーン「おとなしいアメリカ人」、メルヴィル「白鯨」、コンラッド「青春・台風」、スティーヴンスン「宝島」他。