人間の絆(下)
モーム/北川悌二訳
目 次
人間の絆(下)
六十一〜百二十二
解説
年譜
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六十二
フィリップは自分を焼きつくす情熱に屈服していたが、それを、好んでしているわけではなかった。すべて人間に関係のあるものは一時的で、はかなく、いずれはこの情熱が消滅する運命にあることを、知っていた。その日の来るのが待ち遠しかった。愛情は、心に巣食う寄生虫、そのいまわしい生命は、彼の生血《いきち》で育てられ、彼の存在をすべて吸収して、ほかの楽しみを味わわせようとはしなかった。以前は、セントジェイムズ公園の美しさに打たれ、よく坐りこんで、空を背景にしてシルエットのようにくっきりと浮んでいる木の枝ぶりをながめていたものだった。それは、日本の版画のようだった。はしけや波止場のある美しいテムズ川は、彼にとって、つきることのない魔力だった。ロンドンのうつりゆく空は、楽しい空想で魂を満たしてくれたものだった。
だが、いま、美は、もう問題ではなかった。ミルドレッドといっしょにいなければ、やるせなく、心落ち着かぬ状態だった。絵をみて心をなぐさめようとしたこともあったが、国立美術館を歩きまわっても、観光客同然、どんな絵をみても、ゾクリとする興奮は湧き起こって来なかった。自分がいままで愛好してきたものすべてにたいして、また愛情を寄せることがあるのかな? と考えていた。読書は彼の大好きなことだったが、いま、本は無意味な存在になってしまった。いまは、病院のクラブの喫煙室で暇をつぶし、無数の雑誌をひっくりかえしているだけだった。この恋愛は拷問ともいうべきもの、それに捕えられた隷属状態は、じつにいまいましいものだった。彼は囚人《しゅうじん》、自由をあこがれ求めていた。
ときどき、朝目日をさますと、心はさっぱりと晴れあがっていた。自由になったと思うと、心がおどりあがった。もう愛してはいないのだ。だが、しばらくして、目がはっきりしてくると、例の苦痛がまだ心にこびりついていて、心が癒やされていないのを知るのだった。くるったようにミルドレッドを求めながらも、この女を軽蔑していた。同時に愛し軽蔑することほどこの世でつらいものはない、と彼はしみじみと思った。
フィリップは、いつもの癖で、自分の感情の中にもぐりこみ、たえず自分の状態を検討していたが、その結果、この下劣な情熱の治療法として、ミルドレッドを自分の情婦にする以外に方法はない、という結論に達した。自分を苦しめているのは、性的欲望だ。これを満足させたら、いま自分をしばりつけている我慢ならぬ鎖から解放されるだろう。ミルドレッドが自分にたいして性的関心をもっていないのは、百も承知のことだった。こちらで熱をこめてキスをしても、女は、本能的な嫌悪感で、サッと身をひいていた。官能性のない女なのだ。パリでの女出入りの話をして、彼女の嫉妬心をかき立ててやろうとしたこともあったが、そんな話は、彼女に興味はなかった。一度か二度、店でべつのテーブルに坐り、ほかの給仕女とふざけるふりをしてみたが、彼女はケロリとしたもんだった。これは、どうみても、女のみせかけとは思えなかった。
「きょうの午後、きみのテーブルにぼくがいかなかったこと、気にはならないんだね?」駅に彼女を送っていきながら、一度、彼女にたずねたことがあった。「きみのテーブルはいっぱいだったんだからね」
これは事実とはちがっていたが、彼女の反撃はさっぱりだった。たとえ無視されて平気であろうと、気になるふりをしてくれたら、彼としてはうれしいことだったろう。文句をつけられれば、心の痛手を癒やす妙薬になったからだった。
「毎日同じテーブルに坐るなんて、バカのすることよ。ときには、ほかの女の人んとこに坐ったげるもんなのよ」
だが、考えれば考えるほど、女のほうを完全に屈服させることこそ、のこされた自由へのただひとつの道、と確信するにいたった。彼は、あのむかしの騎士、魔法の呪文《じゅもん》で姿を変えられ、もとの美しいきちんとした姿にもどしてくれる妙薬を求めている騎士に似ていた。フィリップにのこされた希望は、ただひとつあるだけだった。ミルドレッドは、とてもパリにゆきたがっていた。たいていのイギリス人と同じように、彼女にとって、パリは歓楽と流行の中心だった。ルーヴル百貨店のことを耳にしていたが、そこでは、最新流行のものがロンドンの半値くらいで手にはいった。彼女の友人は、新婚旅行をパりですごし、一日じゅうルーヴルですごし、そこにいるあいだじゅうズッと、ムーランルージュやあれこれで遊びまわって、床にはいるのは、ねえ、あんた、明方六時だったのよ、ムーランルージュやあれこれわからないとこを歩きまわってね、ということだった。女が自分の欲望を満たしてくれさえすれば、それが希望実現にたいし彼女が払う不承不承《ふしょうぶしょう》の代償であろうとも、フィリップには問題でなかった。自分の情念を満たすのにどんな条件であろうと、問題ではなかった。彼女に麻酔剤でも飲ませてやろうか、といった気ちがいじみたメロドラマ的な考えが浮かんだこともあった。興奮させてやろうと、彼女にせっせと酒をすすめたこともあったが、彼女は|ぶどう《ヽヽヽ》酒を好まなかった。体裁がいいというだけで、シャンペンを注文するのを好んではいたが、コップに半杯以上は絶対に飲まなかった。コップになみなみとついだ大きなグラスを手もふれずに目の前におくこと、これが彼女の趣味だった。
「こうすればわかるのよ、給仕たちにこちらの身分がね」
ふだんになく彼女がやさしい態度をみせた機会を、フィリップは利用した。三月末に、解剖学の試験があった。一週間後にせまった復活祭(三月二十一日、またはその後の満月のつぎの第一日曜日)に、ミルドレッドはまるまる三日の休暇をもらえることになっていた。
「じゃあ、パリにいくことにしよう」彼はすすめた。「すごく楽しいぜ」
「そんなこと、どうしてできるの? とってもお金がかかることよ」
そのことは、もう考えずみのことだった。たぶん、二十五ポンドは要《い》るだろう。フィリップにとって、これは大金だった。彼女に使うのだったら、それをとことんまで使ってしまっても、惜しくはなかった。
「ふん、それでどうだというんだい? いく、といってくれればいいんだ」
「あたしがききたいのは、そのあとにひかえてる問題よ。結婚もしてない男の人といっしょにいくなんて、考えられないことだわ。そんなさそいをかけるもんじゃないことよ」
「それでどうだというんだい?」
|平和通り《リュ・ド・ラ・ペェ》の豪華さ、フォリー・ベルジェール(パリの有名な演芸場)のギラギラと輝くすばらしさをくわしく述べ立て、ルーヴルとボン・マルシェの百貨店の話をした。キャバレ・デュ・ネアン、外国人がよくいく盛り場の話もした。彼が軽蔑しているパリの側面を華やかな色で飾り立てた。ぜひにもいっしょにいこう、と彼女にせまった。
「いいこと、あんた、あたしを愛してるといってることね。でも、ほんとに愛してんのなら、結婚してくれというはずよ。そんなことたのんだことなんて、一度もないじゃないの」
「いいかい、そんな余裕がないんだよ。なんてったって、まだ一年生、これから先六年間、びた一文だってかせげないんだからね」
「まあ、べつに責めてるわけじゃないのよ。たとえ七重の膝を八重に折ってたのまれようと、あんたとなんかは結婚しないんですからね」
彼は、このときまで、何回となく、結婚のことを考えていたが、それは、どうしても踏みきれない一歩だった。パりで、結婚は俗物どものつくった笑うべき制度、という意見を身につけていた。永遠の絆は身を滅ぼすことになることも知っていた。彼には中産階級的本能があり、女給|風情《ふぜい》と結婚するのはおそろしいことと考えた。くだらん女を女房にしたら、まともな医者になれないだろう。その上、医者の資格を得るまでのギリギリの金しか、彼にはなかった。子供を生まないようにしても、夫婦生活をするのはむりなことだった。野卑なおひきずりにしばりつけられたクロンショーのことを思い出して、ドギマギしながら、身をふるわせた。お上品ぶった考えといやしい性根《しょうね》をもったミルドレッドがどんな女になるか、みとおしがついた。こんな女と結婚するなんて、考えられないことだった。だが、この結論は理性で出したもの、どんなことになろうと、とにかく女をものにしたかった。結婚しなけりゃものにならぬというのだったら、結婚をも辞さぬ気持ちだった。そのときはそのときで、なんとかなる、というわけだった。不幸な結果に終るかもしれなかったが、そんなことはどうでもよかった。彼は、ある考えを頭にもつと、それにとりつかれてしまう男だった。ほかのことはなにも考えられず、異常ともいえる力量を発揮して、自分のしたいことがいかに妥当かを、自分の心に説得した。結婚に反対して頭に思い浮かんだすべての分別ある議論を、彼はどんどんとふっとばしてしまった。日がたつごとに、自分が女を熱愛しているのがわかってきた。満たされぬ恋情は、怒りくるったものになってきた。
「糞め、あの女と結婚したら、自分のいままで受けてきた苦しみのつぐないを、あの女にさせてやるぞ」彼は考えた。
とうとう、この苦悩は、もうどうにも我慢ならぬものになった。ある夜、その当時よくいっていたソホーの小さなレストランで食事をしたあとで、彼は彼女にいった、
「ねえ、こないだ、きみは、こちらでたのんでも結婚してくれないっていってたけど、あれ、本気かい?」
「そうよ。それでどうしていけないの?」
「きみがいなくっちゃ生きていけないからさ。いつも、ぼくといっしょにいてほしいんだ。その気持ちをおさえようとしたんだが、だめだった。将来も、だめだろう。きみに結婚してもらいたいんだ」
女は、いろいろとつまらぬ小説を読んでいたので、このへんの|こつ《ヽヽ》は心得たものだった。
「ほんと、あんたにとっても感謝してることよ、フィリップ。そういっていただいて、とってもうれしいわ」
「ああ、そんなつまらない口上は、やめにしてくれ。結婚してくれるね、どうだい?」
「ふたりが幸福になれると思うこと?」
「いいや。だが、そんなこと、どうでもいいんだ」
この言葉は、ついわれにもあらず、口から出てしまった。それを聞いて、彼女はびっくりした。
「まあ、あんたって、妙な人だこと。じゃ、どうしてあたしと結婚したがるの? ついこないだ、そんなお金はないっていってたじゃないの」
「ぼくの残金は干四百ポンドくらいあると思うんだ。ふたつの口でも、ひとつの口と同じくらいの金でやってけるんだよ。資格をとって病院勤務が終るまで、それでなんとかやってけるだろう。そうすりゃ、助手になれるからね」
「というのは、六年間、お金もうけはぜんぜんだめということね。そのときまで、週に四ポンドくらいの生活費は都合つくんでしょ、どう?」
「三ポンドとちょっとくらいのもんだね。払わなけりゃならない授業料があるんだからね」
「それで、助手のお給料って、どのくらい?」
「週に三ポンドだよ」
「というのは、そのあいだじゅうズッと勉強して、わずかな財産を使い果し、あげくの果てに、もうけるお金は週にたった三ポンドということなの? そうだとすると、いまのあたしの暮しとそう変らないわけだわ」
彼は、ちょっと、だまっていた。
「ぼくと結婚してくれないというつもりかい?」しゃがれ声で、彼はたずねた。「結局んとこ、ぼくの大きな愛情なんて問題じゃないんだね?」
「こうしたことでは、自分自身のことを考えなくちゃいけないのよ、どう? 結婚するのは構わないけど、いまより暮し向きがよくならなけりゃ、結婚なんて、したくはないわ。だって、意味がないんだもん」
「ぼくを愛してたら、そんなことなんて、問題にならんはずなんだがね」
「たぶんね」
彼は口をつぐんだ。そして、喉がつまってくるのをおさえるために、グラスの|ぶどう《ヽヽヽ》酒をグッと飲み乾した。
「いま出ていくあの女の人、ちょっとみてごらんなさいよ」ミルドレッドはいった。「あの毛皮の服、プリクストン(ロンドン、ランベス地区にあり、有名な市場がある)のボン・マルシェで買ったもんよ。この前、そこにいったとき、ショーウィンドーに出てたわ」
フィリップは苦笑いをもらした。
「なにを笑ってんの?」彼女はたずねた。「嘘じゃないことよ。そんとき、あたし、伯母さんにいったの、あんなふうにショーウィンドーにつるさがってたもんなんか、買いたくないわ、いくら払ったか、みんなにわかっちまうんだもん、とね」
「きみはつかめない女だね。ぼくをひどく不幸にしときながら、つぎの息でもう、いままで話してたこととはぜんぜん関係のないつまらんことを話してるんだからね」
「あんた、意地わるな人ね」ムカッとして、彼女は答えた。「あの毛皮服には気をひかれずにはいられないことよ。だって、あたし、伯母さんに……」
「伯母さんにきみがなんといおうと、こっちには糞食らえなんだよ」イライラして、彼は口をはさんだ。
「あたしと話すとき、わるい言葉は使わないでほしいもんね、フィリップ。それをきらってるの、知ってるでしょ」
フィリップはちょっとニヤリとしたが、その目はくるったような激しい興奮をあらわしていた。しばらくだまったままで、ムッと不機嫌に女をながめていた。女を憎み、軽蔑し、熱愛していたのだった。
「分別がちょっとでもあったら、きみとは二度と会わんことだろう」彼はとうとういった。「きみを愛してる自分をどんなにぼくが軽蔑してるか、きみにもわかってもらえたらと思うよ、まったく!」
「ずいぶん失礼なことをいう人ね」すねて彼女はいった。
「そのとおり」彼は笑いだした。「さあ、パヴィリオン(ホワイトチャペルにあった劇場)にいこう」
「そこが、あんたの変ったとこよ、思いもかけないときに笑いだしたりして……。あたしがあんたをそんなに不幸にしてんなら、どうしてパヴィリオンにあたしをつれてこうとしたりすんの? あたし、いつでも家に帰って平気だことよ」
「はなれてるより、いっしょにいたほうがまだしのぎやすいというだけのことさ」
「いったい、あたしのことをどう考えてるのか、知りたいもんだことね」
フィリップは無遠慮にワッと笑いだした。
「ねえ、それがわかったら、ぼくには絶対に口をきいてくれなくなるだろうよ」
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六十三
三月の末におこなわれた解剖学の試験でも、フィリップは落第だった。彼とダンスフォードはフィリップの標本でいっしょに勉強し、たがいに質問し合って、人骨のすべての連結部、すべての結節、みぞの意味をすっかり暗記したが、試験場ではすっかりあがってしまって、とっさの心配さのあまり、質問にたいしてまともな返事ができなくなった。落第とわかっていたので、翌日、自分の番号が出ているかどうか、試験場にみにいくことさえしなかった。この二度目の落第で、学年切っての劣等生でなまけ者とはっきり烙印《らくいん》がおされることになった。
だが、気にもならなかった。ほかに考えなければならないことがあったからだった。ほかの人間と同じように、ミルドレッドにだって分別があるにちがいない、要は、その分別心をめざめさせることだ、と考えた。彼は女、とくにやくざ女についてある理論をもっていて、どんな男でも、押せ押せ押せの一手でいけば、いつかは女を籠絡《ろうらく》することができる、と思いこんでいた。問題はいい機会《おり》を待つだけのこと、怒ったりはせず、あれこれと心づかいをしてやって相手を参らせ、心を折れさせる肉体的な疲労に乗じ、女の仕事のつまらぬいざこざからののがれ場所に自分をさせたらいいのだ。パリの友人たちと彼らが傾倒している美女との関係を、話してやった。彼が描きだした生活は魅惑的なもの、屈託のない陽気さがあり、下品なところはぜんぜんなかった。自分自身の思い出の中にミミ、やロドルフ、ミュゼット、その他の恋の冒険を織りこんで、歌と笑いで絵のように美しくなる貧乏物語、美と青春でロマンティックにぬり立てられた放縦な恋物語を、ミルドレッドの耳にどんどんとそそぎこんだ。彼女のもつ偏見を直接たたいたりはせず、それとなく遠まわしに、それが偏狭なものではないかとほのめかして、それをくずしにかかった。
相手が注意して聞いてくれなくとも、それを気にせず、相手の無関心にいら立つことも絶対になかった。相手がうんざりしていることはわかっていたが、努力して、愛想よく、おもしろくふるまおうとした。絶対に怒ったりはせず、要求も不平も口にせず、文句をつけたりはしなかった。女が約束を破っても、その翌日には、笑顔で彼女をむかえ、言訳《いいわけ》をされると、構いはしない、といっていた。女で苦痛を味わっている気配は、兎《う》の毛もみせなかった。自分の痛切な悲しみが女をうんざりさせているのを知っていたからで、少しでも相手にいやと思わせる感情をあらわしたりはすまいと、細心の注意を払っていた。まったく英雄的ともいえる努力だった。
この変化に意識して気づいていたわけではなかったので、彼女はそれを口にしなかったが、それにしても、効果は覿面《てきめん》だった。前よりもっと打ち解けた態度になり、つまらない愚痴《ぐち》をこぼすようになってきた。この女は、いつも、なにか不満を店の女将《おかみ》、仲間の給仕女、伯母にもっていた。いま、彼女はよくしゃべり、その話はつまらぬものと相場がきまっていたが、フィリップはよろこんでそれを聞いてやった。
「惚れた張ったといわないあんたは、あたし、好きよ」あるとき、彼女はいった。
「それは、うれしいことだね」彼は笑った。
彼女の言葉で彼の心がどんなに滅《め》入っているか、どんなに努力してさりげない返事をしているか、彼女には一向わかっていなかった。
「ねえ、ときどきキスをしてもいいことよ。こっちじゃ、べつにどうということはなし、あんたは、それで大よろこびなんですもんね」
ときおり、女のほうから食事につれていってくれということまであり、これが自発的な話だっただけに、彼は有頂天《うちょうてん》になった。
「こんなこと、ほかの男の人にはいわないことよ」言訳がましく、彼女はいった。「でも、あんたにならいいって思ってるの」
「なによりうれしいことだね」彼はニッコリした。
四月の終りごろのある夕方、彼女は、なにか食事をおごってくれ、と彼にいった。
「いいとも」彼は答えた。「そのあと、どこにいきたいんだい?」
「いいえ、どこにいかなくてもいいのよ。ただ、坐って話してればいいの。いいこと?」
「もちろん、構わんとも」
自分を好きになりだしてるな、と彼は考えた。三月《みつき》前だったら、ひと晩を話してすごすなんて、考えただけでも、彼女はうんざりしたことだろう。天気のいい日で、春の気候が彼をいっそう上機嫌にし、どんなつまらぬことにも満足していた。
「ねえ、夏になったら、すばらしいだろうなあ」乗合馬車の屋根席でソホーにゆきながら――辻馬車の贅沢《ぜいたく》はやめることにしようといいだしたのは、女のほうだった――彼はいった。「毎日曜日、テムズ川で遊べることになるよ。昼食は籠に入れてもってくことにしよう」
女はかすかにほほ笑み、彼は、勢いづいて、彼女の手をとった。女はそれをひっこめたりはしなかった。
「どうやら、少しはぼくを好きになってくれたらしいね」彼はニッコリした。
「|おバカさん《ヽヽヽヽヽ》ねえ、あんたを好きなくらい、わかってるでしょ。さもなけりゃ、こんなとこに来たりなんぞはしないことよ、どう?」
このころまでに、ふたりはもう、ソホーの例の小さなレストランでは常連になり、女将は、ふたりがはいっていくと、微笑を投げかけた。給仕もへいこらとお世辞をいった。
「今晩は、あたしに注文させてね」ミルドレッドはいった。
フィリップは、こうした彼女をいままでになく魅惑的と考え、彼女にメニューをわたし、彼女が好きな料理をえらぶことになった。種類はわずかで、この店で出る食事は、もう何回も食べていたからである。フィリップは陽気になって、女の目をのぞきこみ、青ざめた頬のすばらしさを、一々数えあげた。食事が終ると、きょうは特別よ、といって、ミルドレッドはタバコをすいはじめた。事実、めったにタバコをすわない女だった。
「女がタバコをすってる姿って、いやなもんね」彼女はいった。
彼女はちょっとモジモジし、それから話しだした。
「驚いたこと、今晩、あたしをつれだして食事をおごってちょうだいなんぞといいだして?」
「うれしかったよ」
「あたし、あんたに話したいことがあるのよ、フィリップ」
彼は彼女にサッと目を投げ、気が沈んでいった。だが、こうしたことには、もう訓練ずみだった。
「さ、いっておくれ」ニッコリして、彼はいった。
「ワイワイとバカのようにさわぎ立てたりはしないことね、どう? じっさいんとこ、あたし、結婚することになったの」
「きみが?」フィリップはいった。
ほかにいう言葉がなかった。この可能性はもう考えずみのこと、そうなったら、どうふるまい、どういうかは、一応頭の中で考えてあった。自分の味わう絶望を考えて、ひどい苦悶を噛みしめ、自殺、自分におそいかかってくる狂気じみた激怒を考えていた。自分が経験する感情を一から十まですっかり予想していたためなのだろうが、いまヒシヒシと身に感ずるのは、ただひどい疲労感だけだった。ここで感じたのは、重病人と同じ、生気がすっかりおとろえて、結果は問題でない、ただ放っておいてもらいたい、という気持ちだけだった。
「ねえ、あたしももう齢なの」彼女はいった。「もう二十四、そろそろ落ち着いてもいい時期になったのよ」
彼はだまっていた。勘定台のうしろに坐っている女将をちょっとみやり、女客のひとりが帽子につけている赤い羽根をジッとみつめた。ミルドレッドはイライラしてきた。
「お祝いの言葉ひとつくらい、いってくれたらどう?」彼女はいった。
「うん、そうだったね。それがほんとうとは思えないのさ。そのことは、よく夢にみてたよ。夕食につれてってくれといわれて、大よろこびしていたなんて、ちょっとおかしくなるね。結婚の相手はだれだい?」
「ミラーよ」ポーッと顔を染めて、彼女は答えた。
「ミラーだって?」度肝をぬかれて、フィリップは叫んだ。「だって、もう何ヵ月も会ってないんじゃないか」
「先週、昼ご飯を食べに来て、そのとき、いわれたのよ。だいぶお金になるらしいの。週に六ポンドのかせぎがあり、みとおしも明るいの」
フィリップは、また、だまってしまった。彼女がいつもミラーを好んでいたことが、思い出された。この男は彼女を楽しませ、外国人生れという点にも、彼女が無意識に感じている異国的な魅力があったのだった。
「それはどうにもしようのないことと思うな」とうとう彼はいった。「いちばんいい値をつけてくれる者に落ちなければならないんだからね。いつ結婚するの?」
「つぎの土曜日。もうお店には通知ずみよ」
急に、フィリップの胸はキュッとしめつけられた。
「そんなにすぐかい?」
「登記所結婚(宗教的儀式をはぶく)ですますつもりよ。イーミルがそれを希望なの」
フィリップは、すごい疲労感を感じた。彼女のところがら逃げだしたかった。すぐに床にはいってしまおう、と考えた。勘定書きを請求した。
「辻馬車でヴィクトリア駅まで送ることにしよう。駅でながく列車を待つことはないだろうからね」
「いっしょに来てくれないの?」
「よかったら、いかないことにしてほしいんだけどね」
「お好きなようにどうぞ」彼女は傲然《ごうぜん》と答えた。「あした、お茶のときに来てくれることね?」
「いいや、ここですっかり終りにしたほうがいいだろう。自分を不幸にしたって、つまんないことだからね。辻馬車の代金は払ってあるよ」
彼は女にうなずき、口につくり笑いを浮かべ、それから乗合馬車にとび乗り、家に帰った。床にはいる前に、パイプを一服くゆらしたが、目をほとんどあけてはいられなかった。なんの苦痛もなかった。寝床にとびこむとすぐ、深い眠りに落ちこんだ。
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六十四
だが、夜明けの三時ころ、フィリップは目をさまし、もう寝つかれなくなった。ミルドレッドのことが、頭に浮かんできた。考えまいとはしたものの、つい考えてしまうのだった。何回となく同じことを考え、頭がおかしくなってきた。女が結婚するのは仕方がないことだ。自分で暮しを立てなければならない娘にとって、人生はそうらくなものではない。気分のいい家庭をつくってくれるだれか男がいたら、その申し出を受けても、責められはしない。女の立場からいって、自分と結婚するなんて愚の骨頂、とフィリップは認めた。こうした貧乏生活を堪えられるようにしてくれるのは愛情だけ、ところが、女は自分を愛してはいないのだ。それは、女がわるいからではない。それは、ほかのことと同様に、甘《あま》んじて受けなければならないことなのだ。フィリップは、自分を説得させようと、これつとめた。心の奥底深くには、傷つけられたほこりがあり、自分の恋の激情のそもそもの発端《ほったん》はそこにある、いまこのみじめな気分の大部分の原因になっているのは、心の奥底にあるそれなのだ、と自分にいってきかせた。女を軽蔑すると同様、自分自身をも軽蔑した。ついで、将来の計画を立てたが、それは、女の青ざめたやわらかい頬へのキスとひきずる癖のある女の声の思い出にさえぎられて、何度となくくりかえしくりかえし考えていた計画だった。勉強に精を出さなければならなかった。夏には、失敗したふたつの試験以外に、化学の試験も受けなければならなかったからだった。このときまで、病院では友人とつき合わないでいたが、いま、仲間がほしくなった。ひとつ楽しいことがあった。ヘイウォードが、二週間前に、手紙を寄こし、ロンドンをとおるから、いっしょに食事でもしないか、といってきた。だが、フィリップは、わずらわしくて、それを断ったのだった。ヘイウォードは、シーズン(初夏のころのロンドンの社交期)のあいだ、国に帰るはずだったが、フィリップは、ひとつ彼に手紙を出そう、と思い立った。
八時の鐘が鳴り、起きだせる時刻になると、ホッとした。顔は青ざめ、疲労はのこっていた。だが、入浴し、服を着こみ、朝食をとると、またふたたび世間一般といっしょにいるような気分になり、苦痛はしのぎやすくなってきた。その朝、講義に出たくはなかったので、そのかわりに陸海軍百貨店(ヴィクトリア通りにある有名な百貨店)にゆき、結婚祝いの贈り物をミルドレッドに買うことにした。いろいろと迷ったあげく、化粧カバンを買うことにした。値段は二十ポンド、彼の身分をはるかにすぎたものだったが、それはケバケバしい俗悪な品物だった。女がちゃんと値ぶみをするのは、わかっていた。この贈り物をえらんで、彼はわびしい満足感にひたった。女がそれをよろこび、それと同時に、自分としては、彼女にたいする軽蔑をあらわしていたからだった。
フィリップは、心配まじりの気持ちで、ミルドレッドの結婚の日を心待ちにしていた。我慢ならぬ苦悶を味わわされるものと覚悟していたが、じつにホッとした。うれしいことに、土曜日の朝にヘイウォードから手紙が来て、その日早くロンドンに到着する、フィリップに同行してもらって、部屋さがしをするつもりだ、と伝えてきた。心をなんとかまぎらわしたいフィリップは、時間表を調べ、ヘイウォードが乗って来そうなただひとつの列車をみつけだした。
出むかえにでかけたときのふたりの再会のよろこびは、熱狂的なものだった。ふたりは、荷物を駅に預け、陽気な気分で出発した。ヘイウォードは、いかにも彼らしく、まず第一に、一時間ほど国立美術館をみることにしよう。といいだした。しばらく絵はみていない、世間と調子を合せられるように、ひとつ絵をみておかなければ、というわけだった。フィリップには、ここ何ヵ月間、芸術や読書について語り合う友はなかった。パリ時代以後、ヘイウォードは近代フランス詩人に没頭し、詩人が豊かにいるフランスのこと、彼は何人かの新しい天才を発見していて、それをフィリップに語ってくれた。ふたりはいっしょに美術館を歩き、それぞれの好きな絵を指摘し、ひとつの話題は他の話題を呼び、興奮して語り合った。太陽は輝き、大気は温かだった。
「公園(セントジェイムズ公園のこと)にいって坐ろう」ヘイウォードはいった。「部屋さがしは、昼食後にすることにしよう」
公園の春は楽しかった。ただ生きていることだけで幸福を感ずるような日だった。木々の若々しい緑は、空に映えて、すばらしく、薄青い空には、小さな白雲が散って浮かんでいた。飾りの鑑賞用の池ののびた先には、灰色のかたまりのような近衛騎兵隊の兵舎が立ち、この情景のきちんとした美しい優雅さには、十八世紀の絵の魅力があった。それが想起させるものは、その風景がとても牧歌的で、夢にみる森の谷間だけを人に思わせるあのヴァトーではなく、もっと散文的なジャン=パティスト・パテール(フランスの画家)だった。フィリップの心は、軽やかになった。これは本でだけ読んで知っていたことだったが、芸術が(というのも、彼が自然をながめる見方には、芸術がひそんでいた)魂を苦痛から解放してくれるのを、しみじみ味わっていた。
ふたりは、昼食をとろうと、イタリア人のレストランにゆき、キァンティ|ぶどう《ヽヽヽ》酒の小びんを注文した。食事をゆっくりととりながら、話ははずんだ。ハイデルベルクで知った人たちのことをたがいに思い出し、パリでのフィリップの友人たちのことを話し、本、絵、道徳、人生を語り合った。突然、三時の鐘の音が、フィリップの耳にひびいてきた。いまごろはもうミルドレッドが結婚しているのだなあ、とフッと思った。とたんに胸がチクリと痛み、一、二分間、ヘイウォードの話が聞えなくなった。だが、彼は自分のグラスにキァンティ|ぶどう《ヽヽヽ》酒をなみなみとついだ。このところ、酒には親しまず、酒がよくまわった。とにかく、さし当って、彼は苦しみから解放されていた。彼の回転の早い頭は、もう何ヵ月ものあいだ、動かないでいたので、いま、会話の美酒に酔い痴《し》れていた。自分が関心をもっていることに興味をもっているだれか人と話すのは、じつにうれしいことだった。
「ねえ、こんな美しい日を部屋さがしにつぶすなんて、意味ないことだよ。今夜は、ぼくのとこに泊りたまえ。明日なり月曜日なりに、部屋さがしをしたらいいだろう」
「いいよ。そうなると、なにをしよう?」ヘイウォードは答えた。
一銭蒸汽でグリニッジ(ロンドン郊外の美しいところ)までくだることにしよう」
これにはヘイウォードも賛成、ふたりは馬車にとび乗って、ウェストミンスター橋に急いだ。出発まぎわの蒸汽船に乗りこんだ。やがて、口許に微笑を浮かべながら、フィリップはいった、
「ぼくがはじめてパリにいったときだがね、たしかクラットンだったと思うが、物事に美をそそぎこむのは画家と詩人だという問題について滔々《とうとう》と述べ立ててたのを思い出すよ。美をつくりだすのは、彼らなんだ。それ自体では、ジョットー(イタリアの画家・建築家)の鐘楼と工場の煙突のあいだに、これといったちがいはない。美しいものは、それが相つぐ世代にひきおこす情緒によって、豊かさをましていくんだ。だからこそ、古い物が新しいものより美しいんだよ。『ギリシャの甕《かめ》に寄す』(イギリスの詩人ジョン・キーツの一八一九年の作)はそれが書かれた当時より、もっと美しくなっている。この百年間、恋人たちがそれを愛誦《あいしょう》し、心の病める者がその行間《ぎょうかん》になぐさみをみいだしてきたからなのだ」
うつり変る光景でなにがこうした言葉を彼に吐かせたのか、フィリップはこれをヘイウォードの推測にゆだねた。どう推定しようとも気にすることはないとわかっているのは、楽しいことだった。彼が、いま、こうして深い感動を受けていたのは、そのときまでながいこと送ってきた生活にたいするいきなりの反動だった。ロンドンの大気の発する繊細な虹《にじ》色の輝きは、建物の灰色の石にパステル画の物やわらかさを与え、波止場や倉庫には、日本の版画のきびしい美しさがあった。船はさらにくだっていった。大イギリス帝国の象徴となっているあのすばらしい川はひろがり、出船入り船でこみあってきた。フィリップは、こうしたものすべてをじつに美しいものに仕立ててきた画家や詩人に思いを馳《は》せ、心は感謝の念でいっぱいになった。ついで、ロンドンのプール(ロンドン橋の下流のテムズ川のこと)になったが、その堂々たる景観をだれが描きだすことができるだろう? 想像力が燃えあがり、そのひろい流れにどんな人がまだ住んでいるか、見当もつかなくなった。ボズウェル(『サミュエル・ジョンソン伝』を一七九一年に書いた)をわきに従えたジョンソン博士(一八世紀文壇の大御所)、戦艦に乗りこんだあのピープス(その『日記』で有名)、イギリスの歴史、ロマンス、大冒険の大絵巻きがくりひろげられてきた。フィリップは、目を輝かして、ヘイウォードのほうにふり向いた。
「親愛なるチャールズ・ディケンズ(イギリスの小説家、テムズ川のことをよく描いている)よ!」自分のこの興奮ぶりにちょっとニヤリとして、彼はつぶやいた。
「絵を放棄したのを残念に思わないかい?」ヘイウォードはたずねた。
「思わんよ」
「医者が好きなんだね?」
「いいや、大きらいだよ。だが、ほかにこれといってする仕事がないんだからね。最初の二年間の糞勉ときたら、ひどいもんだ。不幸なことに、ぼくには科学的素質がからっきしなくてね」
「うん、職業を変えつづけるわけにはいかんしね」
「そう、そう。ぼくはこの仕事でがんばるつもりだよ。病棟入りしたら、もっと楽しくなるだろう。自分は、ほかのどんなことより、人間に興味をもってると考えてるんだからね。ぼくのみるところ、自由を味わえるのは、この職業以外にはないんだ。知識は頭におさめてあるんだから、道具箱と少しばかりの薬があったら、どこででも暮していけるんだ」
「じゃ、開業医にはならないんだね?」
「とにかく、当分、それもながいこと、それにはならないね」フィリップは答えた。「病院勤務が終えたらすぐ、ぼくは船医になるよ。東洋――マレー群島、シャム、中国、そういったとこ――にいきたいんだ。それが終ったらね、どんな仕事でもやってくさ。いつでも、なにかが起きるもんさ――インドでのコレラ検疫等々といったことがね。場所から場所へとうつっていきたいんだ。世界をみたいんだ。貧乏人でそれができるただひとつの方法は、医者になることだけなんだよ」
このとき、グリニッジに着いた。イニゴー・ジョーンズ(イギリスの建築家・舞台装置家)の建てた気高い建物が、川に面して堂々とそびえ立っていた。
「そら、みてごらん、あそこがあのあわれなジャックが小銭をひろおうと泥の中にもぐりこんだ場所にちがいないな」フィリップはいった。
ふたりはグリニッジ公園にブラブラと歩いていった。ボロ服の子供たちがそこで遊んでいて、彼らの叫び声がさわがしかった。そこここで、老人の船員が陽だまりで休んでいた。そこには、百年前の雰囲気が横溢《おういつ》していた。
「そうなると、パリで二年つぶしたのは残念ということになるのかな?」
「つぶした? あの子供の動きをみてごらん。太陽が木の葉越しに輝いて地面につくりだす絵模様をみてごらん。あの空をみてごらん――いやあ、パリにいかなかったら、あの空をとらえることができなかっただろうよ」
フィリップがこみあげてくる鳴咽《おえつ》をおさえているように、ヘイウォードには思われ、彼はびっくりしてフィリップをながめた。
「どうしたんだい?」
「いや、なんでもないよ。こんなにひどく興奮して、わるかったね。だが、この六ヵ月間、ぼくは美に飢《かつ》えてたんだ」
「いつも散文的だったきみなのにねえ。きみがそんなことをいうのを聞くと、おもしろくなるね」
「ちえっ、おもしろさの対象になんか、なりたくないもんだね」フィリップは笑った。「さあ、こってりしたお茶でも飲むことにしようか」
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六十五
ヘイウォードの訪問は、フィリップに、大変ためになった。一日ごとに、ミルドレッドにたいする思いは薄れてゆき、過去を嫌悪の情でふりかえっていた。あんな面目まるつぶれの愛情にどうして屈服したのか、自分でもわからなかった。ミルドレッドのことを思うと、そこには、いつも、怒りまじりの憎悪がともなった。彼女のために、ひどい屈辱を味わわされたからだった。彼女のことを考えると、彼女のからだつきと態度の欠陥が大映しになってあらわれ、あんな女と係り合ったかと思うと、ゾッとした。
「これは、ぼくがどんなに弱虫かを示してるだけのことなんだ」彼は考えた。この恋の冒険は、社会で人が大失敗をしでかし、言訳の方法はもうまったくないと感ずる類《たぐ》いのもんだった。それにたいする対策は忘却だけ。味わった堕落への恐怖心が、ここで助けになった。ちょうど皮をぬぎとった蛇と同じで、古い皮を胸をむかつかせながらながめた。もう一度自分をとりもどしたのは、とてもうれしいことだった。恋と呼ばれているあの狂気にすっかりとりつかれたとき、どれだけ多くの世のよろこびを失ったかが、よくわかった。もうたくさんだった。恋がそうしたものなら、もう恋したくはなかった。フィリップは、自分の経験を一部、ヘイウォードに伝えた。
「ソフォクレスじゃなかったかな」彼はたずねた、「心のひもまで食いつくす野獣のようなあの情熱から解放される時を祈り求めたのは?」(ソフォクレスはギリシャ三大悲劇詩人のひとり。この話はプラトンの『国家論』、その他にあるといわれる)
フィリップは、ほんとうに、再生の思いを味わった。呼吸するあたりの空気は、かつて味わったことがないような感じ、この世のすべてのことに、子供のようなよろこびが感じられるのだった。この狂乱のひと時期を、彼は六ヵ月の難業(ギリシャ神話でのヘラクレスの十二の難業にたとえたもの)と呼んだ。
ヘイウォードのロンドン滞在はほんの数日間だけだったが、そのとき、フィリップは、ブラックステイブル経由で、ある絵の展覧会の内覧券を受けとった。ヘイウォードを呼んで、そのカタログを読んでみると、ローソンが出品していることがわかった。
「これを送ってくれたのは、きっと彼だよ」フィリップはいった。「彼と会いにいこう。たしかに自分の絵の前に立ってるよ」
ルース・チャリスの横顔を描いたローソンの絵は隅に飾られ、そこからそうはなれないところに、ローソンがいた。この内覧で集ってきた社交会の人びとの群れにとりかこまれて、大きなソフト帽をかぶり、薄青いゆるい服を着こんだローソンは、内覧に集ってきた社交界一流の人たちの群れの中で、とまどっているようだった。彼は大よろこびし、むきになってフィリップに挨拶し、いつもの多弁で、これからはロンドン暮しをすること、ルース・チャリスはあばずれ女にすぎないこと、アトリエを借りたこと、パリはもうだめ、肖像画の依頼を受けたこと、いっしょに食事をし、大いにむかし話を語ろう、などとしゃべり立てた。フィリップはローソンに、きみは前にヘイウォードと会ったことがあるのだよ、と伝えたが、ヘイウォードの優雅な服と堂々とした態度にローソンがいささか辟易《へきえき》しているのをながめるのは、おもしろいことだった。ところで、そうした服装と態度は、ローソンとフィリップが共有していたあのきたならしいアトリエでみたときより、ズッとヘイウォードに似合うものになっていた。
食事のときにも、ローソンのパリ情報は語りつづけられた。フラナガンはアメリカに帰り、クラットンは姿を消してしまった。クラットンは、芸術と芸術家に接触しているかぎり、なにかを達成できるみとおしはない、のこるただひとつの道は、それとはなれてしまうことだ、という結論に達したのだった。それをしやすくするために、パリの友人ぜんぶと喧嘩をしてしまい、胸にグサリとつきささる真実を友人に伝える才能を大いに発揮し、パリとはもう縁切り、ヘロウナ(スペインの北東、フランス国境に近い町)に住みつくつもりだ、と宣言したときに、友人たちは、弱気を出してそれをひきとめたりはしなかった。このヘロウナというのは、北部スペインの小さな町で、バルセロナに汽車でゆく道中ながめて、心ひかれていた町だった。彼は、いま、そこでひとり暮しをしていた。
「あの男がなにか役立つことをやるなんてことがあるのかな?」フィリップはいった。
なにかを表示しようとするあの闘争の人間的側面は、彼の興味をひいた。そのなにかあるものは、人間の、心の中でじつにつかめぬ存在、その結果、彼は病的になり、怒りっぽくもなったのだった。フィリップは、自分も同じ立場にあるのを漠然と感じたが、彼の場合、とまどっていたのは、全体としての自分の生活の歩み方についての問題だった。それが、自己表示の彼の方法、それをどうすべきかは、まだはっきりとつかめてはいなかった。だが、こうした一連の考えをつづける暇はなかった。ルース・チャリスとの情事を、ローソンがあからさまに勢いこんで語りだしたからである。彼女がローソンをすてたのは、イギリスから来たばかりの若い学生の出現のためで、その男はそうとう荒れた生活をしていた。だれかが口をきいて、この青年を救ってやらなければ、とローソンは真剣になって考えていた。この女のために、身をほろぼしてしまうからだった。フィリップのみるところ、ローソンのいまいましがっている点は、彼女の肖像画を描いている最中に女が逃げだしたことにあるらしかった。
「女の芸術愛好心なんて、所詮《しょせん》、本物じゃないんだな」彼はいった。「ただ、体裁だけのことさ」だが、結びの言葉は、いかにもさとりすましたものだった、「だけど、あの女の肖像画は四枚描いたよ。最後にとりかかってた絵がうまくできたかどうか、あやしいもんさ」
この画家が自分の恋愛を屈託もなく処理していくそのやり方が、フィリップにはうらやましかった。ローソンは、一年半楽しくすごし、すばらしいモデルをただで手に入れ、べつにそう心を苦しめたりはせずに、最後には女と縁を切っているのだ。
「ところで、クロンショーはどうしてる?」フィリップはたずねた。
「ああ、だめだね」若さのもつ明るい冷淡さで、こともなげにローソンは答えた。「半年したら、死ぬだろう。この冬に、肺炎にかかってね、七週間もイギリス病院にはいってて、退院のときに、酒をやめなけりゃ命がなくなるものと思え、と宣告されたんだ」
「かわいそうに!」酒にふけったりはしないフィリップはニヤリとしていった。
「しばらく、つつしんでたね。それにしても、リラには通いつづけてたよ、あそこからははなれられなかったんだな。だが、そこでの飲み物は、橙花油をたらしたホットミルクさ、すっかりつまらない男になっちまってね」
「どうやら、きみは、ありていのことを彼にぶっつけたんだね」
「いやあ、自分で知ってたよ。ちょっと前に、またウィスキーをはじめてね、この齢になって新しい生活も糞もあるもんか、ぐずぐず五年生きのびるより、半年楽しくやって死んじまったほうがまだましだ、っていってたよ。それに、懐《ふところ》がえらく窮屈らしいんだ。いいかい、病気ちゅうにはなんのかせぎもなく、あの同棲してるひきずり女には、えらく痛めつけられてるんだ」
「忘れもしないがね、はじめて会ったとき、ぼくはすごく彼に打たれたよ」フィリップはいった。「すばらしい人物と思ったんだ。低俗な中産階級的美徳が結局はひき合うものになるなんて、たまらなくいやなことだな」
「もちろん、彼はだめな男さ。おそかれ早かれ、のたれ死するのは必定《ひつじょう》の運命なんだ」ローソンはいった。
ローソンがそこに痛ましさをさとろうとしないのは、フィリップに快いことではなかった。もちろん、因果応報にはちがいないのだが因果が報いられる必然性に人生の悲劇があるように思えたからだった。
「ああ、忘れてた」ローソンはいった。「きみが帰ってからすぐ、彼、きみへの贈り物をとどけてきたんだ。きみはもどってくるもんと思ってたんで、どうということもなくそのままにし、それに、送るほどのもんとも思ってなかったんでね。だが、ぼくの品物といっしょに、それは、ロンドンに来るはずだよ。いつか、ぼくのアトりエに来て、よかったら、それをもってかないかい?」
「まだそれがなにか、きみはいってないんだよ」
「ああ、ボロボロのじゅうたんのきれっ端さ。値打ちのあるもんとは思えないね。ある日、いったいどうして、あんなきたならしいもんを送って寄こしたんだ? ときいてみたんだが、レン通りでそれをみつけ、十五フランで買ったもんだそうだよ。ペルシャの敷き物らしいな。人生の意味をきみがたずね、それが答えだったという話だね。だが、そんとき、彼はひどく酔っ払ってたんだ」
フィリップは笑った。
「ああ。そう、おぼえてるよ。いただくことにしよう。それは、彼のお気に入りのきめ言葉でね。自分でみつけださなければだめ、そうでなかったら、返事は無意味、といってたっけ」
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六十六
フィリップの勉強ははかどり、らくに進んだ。勉強しなければならぬことは、ずいぶんあった。七月には、第一総合試験の四分の三をとらねばならず、そのうちのふたつは、前に落第した課目だった。だが、人生は楽しかった。新しい友人もひとりできた。ローソンは、モデルさがしで、劇場で臨時代役をしている娘をみつけだし、モデルになるのをたのみこむために、ある日曜日、ささやかな昼食会を開くことになった。娘はつきそいの婦人をつれてくることになり、四人目の客として呼ばれたフィリップは、このつきそいの婦人のお相手役をおおせつかった。これは、むずかしいことではなかった。この女性は、おもしろい話をしゃべり立てる感じのいい婦人だったからである。
彼女はフィリップに遊びに来るようにとさそってくれた。ヴィンセント・スクウェアに部屋を借りていて、五時にはいつもお茶で家にいるということだった。彼は出かけてゆき、温かい歓迎で大よろこび、また出かけていった。ネズビット夫人は、二十五を出ず、とても小柄、感じのいい顔をしていた。目はとても明るく、頬骨は張り、口は大きかった。色の極端な対照は、最近のフランスの画家のひとりが描いている肖像画を連想させた。肌はとても白く、頬はとても赤く、濃い眉毛と髪は黒々としていた。そのあげる効果は奇妙、ちょっと不自然な感じだったが、不愉快なものでは決してなかった。夫と別れ、自分と子供の暮しを三文小説を書いて立てていた。そうしたものを専門にあつかっている一、二の出版人がいて、書いたものはすぐ買いとられた。報酬は薄く、三万語の物語で十五ポンドにしかならなかったが、彼女はそれで満足していた。
「結局のとこ、読者は二ペンス払いさえすればいいのよ」彼女はいった、「同じものを、何回も何回も、よろこんで読んでくれるの。登場人物の名前さえ変えればいいくらいのものよ。退屈すれば、洗濯、部屋代、赤ちゃんの服のことを考え、また書きはじめるの」
それ以外にも、求められれば、さまざまな劇場で端役《はやく》をひきうけ、これをやっていると、週に十六シリングから一ギニーくらいの収入《みいり》になった。一日が終ると、もうグッタリ、ぐっすり寝こんでしまうのだった。苦しい定めをなんとかしのぎ、鋭いユーモア感を働かして、いまいましい事情すべてから、なにか楽しみの種をしぼりだしていた。ときどきどうにも動きがとれなくなり、財布には無一文ということになることもあった。そうなると、つまらぬ持ち物がヴォックス橋通りの質屋ゆきになり、事情が好転するまで、バターつきパンでしのぐことになったが、陽気さは絶対に失わなかった。
フィリップはこの彼女の変化のない生活に興味をもち、彼女は、自分の悪戦苦闘の奇抜な話で彼を笑わせた。もっとまともな文学作品をどうして書こうとしないのか? とたずねてみたが、彼女は自分に才能のないのを知っていて、何干語を使って書きだすじつにつまらぬ作品が、まあまあの収入を産みだすばかりでなく、彼女としてできる最高のものだ、といっていた。いまつづけている生活以上に、前途に期待できるものはなにもなかった。親類はいないらしく、友人たちは、彼女と同じ貧乏人だった。
「未来のことは考えないの」彼女はいった。「三週間分の家賃と食事代の一ポンドか二ポンドあれば、もうそれでいいわ。現在ばっかりか将来のことまで心配してたら、自殺するしか道はないことよ。ドン底になっても、なにかが起きるものなのよ」
間もなく、フィリップは彼女のところに毎日お茶を飲みにいくようになり、この訪問で面倒をかけないようにと、ケーキや一ポンドのバターや紅茶をもっていった。もう、たがいに洗礼名で呼び合う親しい仲になっていた。女性の同情は、彼にとって、新しい経験、自分のなやみをよろこんで聞いてくれる人のいるのは、うれしいことだった。時間はアッという間にたっていった。彼女は打たれている気持ちをかくしたりしなかった。楽しい話し相手だった。この彼女をミルドレッドと比較せずにはいられなかった。一方は自分の知らないことすべてに興味をもとうとしないがんこな愚かさ、他方はすぐに理解し評価できる頭のよさ、この対比だった。ミルドレッドのような女に生涯結びつけられることになったかもしれないと考えると、心が暗くなった。ある晩、自分の恋愛のことをすべてあまさず、ノーラに打ち明けてしまった。それで自尊心がたかまるといった話ではなかったが、すごく魅惑的な同情を受けるのは、とてもうれしいことだった。
「でも、縁が切れて、よかったことねえ」話が終ると、彼女はいった。
彼女は、アバディーン・テリアのように、ときどき頭を一方にかしげる妙な癖の持ち主だった。いま、まっすぐ立った椅子で縫《ぬ》い物をしていた。じっさい、彼女にはブラブラしている暇はなかった。フィリップは、その足もとで、気分よくくつろいでいた。
「すっかりけりがついてどんなにうれしいか、とても言葉ではいいつくせないくらいですよ」彼はため息をもらした。
「かわいそうに、ずいぶんいやな思いをしたのでしょうね」彼女はつぶやき、同情を示そうと、手を彼の肩に乗せた。
彼はそれを手にとり、キスをしたが、彼女はサッとそれをひっこめた。
「どうして、そんなことするの?」顔を赤くして、彼女はたずねた。
「いけないんですか?」
目をキラリと輝かせて、彼女は、一瞬、彼をながめ、それから、ニッコリ笑った。
「いいえ」彼女は答えた。
彼は膝立ちになり、彼女と向き合った。彼女はしっかりと彼の目をのぞきこみ、大きな口は微笑でふるえた。
「それで?」彼女はかさねていった。
「ねえ、あなたはほんとにすばらしい人です。親切にしていただいて、とてもうれしいんです。とっても好きですよ」
「バカなこと、いっちゃいけないことよ」彼女はいった。
フィリップは、彼女の両肘をおさえ、自分のほうにひきよせた。女はなんの抵抗もせず、ちょっと前かがみになり、彼は赤い唇にキスをした。
「どうして、そんなことするの?」彼女は同じことをたずねた。
「気分がいいからですよ」
彼女はなにも答えなかったが、目もとにやさしさが浮かび、手を出して、ソッと彼の髪をなでつけた。
「いいこと、こんなことをするなんて、あなた、とてもおバカさんだことよ。わたしたちはとても仲よし、そのままでいたら、とても楽しいんじゃない?」
「ぼくの良心に訴えようとするんだったら」フィリップは答えた、「それをしながら、ぼくの頬をなでるなんて、変なことですね」
女は、ちょっとクスクスッと笑ったが、その手をとめなかった。
「わたし、とてもいけない女なのかしら?」彼女はいった。
フィリップは、びっくりもし、ちょっとおもしろいとも感じて、女の目をのぞきこみ、そうしているうちに、その目がやわらぎ、うるおいをおびたものになっていくのがわかった。それは、うっとりとするほど美しい表情だった。気持ちがグッとこみあげ、彼の目は涙でいっぱいになった。
「ノーラ、まさかぼくを好きなんじゃないんでしょう、どう?」信じられぬといったふうに、彼はたずねた。
「お利口な坊や、バカなことをきいちゃいけないことよ」
「ああ、そんなことがあるなんて、考えてもいなかった!」
彼は、両腕を彼女にまわしてキスをし、彼女は、笑い、顔を赤らめ、泣きながら、そのまま彼の抱擁《ほうよう》に身をゆだねた。
やがて、彼は彼女を放し、ペタリと坐りこんで、彼女をジロジロとながめた。
「うん、畜生!」彼はいった。
「どうしたの?」
「びっくりしたなあ!」
「そして、うれしいの?」
「楽しいですよ」彼は心の底から叫んだ、「それに、ほこり、幸福、感謝でいっぱいなんです」
彼は、彼女の両手をとり、それをキスでおおいつくした。これが、フィリップにとって、幸福のはじまりになったが、この幸福は、しっかりとし、永続するもののようだった。ふたりは恋人になったが、友人であることに変りはなかった。ノーラには母性本能があり、フィリップに寄せる愛情に満足を感じていた。だれかかわいがり、しかりつけ、さわぎ立てる対象がほしかった。彼女には家庭的な一面があって、彼の健康や肌着の世話を焼くのによろこびを感じていた。彼のびっこをあわれみ、その点彼はとても敏感だったので、そのあわれみの情は、本能的に、やさしさにつつまれて示された。彼女は、若く、たくましく、健康、自分の愛情をわかち与えるのは、きわめて当然のことに思えた。元気で、陽気だった。彼女がフィリップに好意を寄せたのは、彼女の心をとらえた人生のおもしろいことを、彼がいっしょになって笑ったからだった。なににもまして、フィリップがあのフィリップだったので、彼女は彼に好意をもったのだった。
彼女がこのことを話したとき、彼は陽気に答えた、
「バカな! きみがぼくを好きなのは、ぼくが無口で、だまって聞いてるからですよ」
彼女を愛する気持ち、それはフィリップにぜんぜんなかった。とても好きで、いっしょにいるのがうれしく、話はおもしろく、楽しかった。自信を回復させ、いわば傷だらけの彼の魂を膏薬で癒やしてくれた。女が自分を愛してくれるのは、とてもうれしいことだった。彼女の勇気、楽観的な考え方、運命なんか物の数にもしていない態度に打たれた。彼女は、彼女なりの、卒直で実際的な哲学の持ち主だった。
「いいこと、わたし、教会も牧師さんも、そんなことはみんな信じていないのよ」彼女はいった、「でも、神さまは信じているわ。人がくじけずにがんばり、できるときには、困っている人を助けてあげたら、どんなことをしたって、神さまがそう気にするとは思えないわ。人間は、だいたい、親切だと思うし、そうじゃない人を、かわいそうに思っているの」
「じゃ、来世についての考えは?」フィリップはたずねた。
「そう、あんまりはっきりとはわからないことよ」彼女はニッコリした、「でも、よかれとはねがっているの。とにかく、家賃を払ったり、小説を書いたりする必要はないでしょうからね」
彼女は人をうまくおだてる女性の才能をもっていた。偉大な画家になれないとわかって、パリを去ったのを、フィリップの勇敢な行為と考え、熱をこめて彼をほめ立ててくれたとき、彼はもううっとりしていた。この行為が勇気をあらわすものか、意志薄弱をあらわすものか、なんともきめかねていたからである。それを彼女に英雄的行為と考えられるのは、たしかにうれしいことだった。友人たちが本能的にさけている問題にも、彼女はぶつかっていった。
「あなたの|えび《ヽヽ》足のことで、そんなに神経を立てるなんて、ほんとにバカらしいことよ」彼女はいった。彼の顔が赤黒く染ってくるのをみても、彼女の話はつづけられた、「いいこと、世間の人は、あなた自身が気にしているほど、それを気にはしていないのよ。はじめて会ったときには、そうかと思うけど、つぎには、もうそんなこと、忘れているのよ」
彼は返事をしようとしなかった。
「わたしのこと、怒ってはいないわね、どう?」
「怒ってはいない」
彼女は片腕を彼の首にまわした。
「いいこと、この話をしたのは、あなたを愛しているからこそなの。それであなたを不幸になんかしたくはないわ」
「ぼくには、どんなことでも、好きなことをいっていいですよ」ほほ笑みながら、彼は答えた。
「きみにどんなに感謝してるか、なんとかみせたいと思ってるんですからね」
彼女は、ほかの面でも、彼をうまくあつかった。彼に粗暴な態度をとらせようとせず、不機嫌になると、それを冷やかした。要するに、彼を前より礼儀正しくしたのだった。
「あなたにかかると、ぼくも思う存分ですね」あるとき、彼はいった。
「いやだこと?」
「いいや、そちらのおおせどおり動きたいんですからね」
彼にも、自分の幸福を理解するくらいの分別はあった。妻としてできるだけのことを彼女がしてくれている感じだったが、それでいて、彼は自由だった。いままで会ったこともない感じのいい友人、男にはない同情心の持ち主だった。性的な関係は、ふたりの友情の最高の絆にすぎなかった。その関係で友情は完璧《かんぺき》なものになったが、さりとて、絶対必要というものではなかった。性欲は満たされたので、彼は、前よりもっとおだやかでつき合いやすい人間になった。すっかり落ち着きをとりもどしたようだった。ときどき、くるおしい情熱のとりこになっていた冬のことが頭に浮び、ミルドレッドにたいする嫌悪感と自分を忌まわしく思う気持ちで、胸をいっぱいにしていた。
試験が近づき、ノーラは、彼と同じくらい、その試験を気にしてくれた。そのひたむきさに、彼は打たれ、また、いい気分にもなった。彼女は、すぐに来て、その結果を知らせるように、彼に約束させた。こんどは、どうということもなく、三つとも無事に及第し、それを報告しにゆくと、彼女はワッと泣きくずれた。
「ああ、うれしい。とても心配していたのよ」
「おバカさん」彼は笑ったが、胸がこみあげてきた。
こう親身《しんみ》になられれば、だれだってうれしくならずにはいられなかった。
「これから、どうするつもり?」彼女はたずねた。
「心安らかに休みを楽しめるわけ。十月に冬学期がはじまるまで、べつにする仕事もなしでね……」
「ブラックステイブルの伯父さんのとこへいくんでしょ?」
「それは見当ちがい。ぼくはロンドンにいて、きみといっしょに遊ぶつもりですよ」
「ブラックステイブルにいったほうがいいと思うのだけど……」
「どうして? ぼくに倦きがきたのかな?」
彼女は笑いだし、両手を彼の肩にかけた。
「あなたが勉強に精を出し、すっかりやつれているからよ。新鮮な空気と休息が必要なの。どうかいってちょうだい」彼は、ちょっと、だまっていて、愛情のこもったまなざしを彼女に投げた。
「いい、きみ以外の人間にそんなことをいわれたって、ぼくは絶対に信じたりはしないですよ。
きみは、ぼくのためになることばかり考えてくれるんですからね。ぼくにどんないいとこでもあるんだろうかな?」
「一月《ひとつき》の予告でやめるといったら、りっぱな人物証明書を書いてくださること?」彼女は陽気に笑った。
「思いやりがあって親切、うるさいことはいわない、くよくよせず、うるさ型ではない、ちょっとしたことでもよろこんでくれる、とでも書こうかな」
「これはみんな、冗談よ」彼女はいった、「でも、ひとつのことだけ、いっておくことよ。わたし、経験で学ぶことができる人間なの、そんな人には、めったに会ったことはないけど……」
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六十七
フィリップは、ジリジリしながら、ロンドンにもどるのを楽しみにしていた。ブラックステイブルにいた二ヵ月間に、ノーラはときどき手紙を寄こしたが、それは、大胆な大きな文字で書いたながい手紙、そこには、明るい冗談気分で、日常生活のささやかな事件、笑いの豊かな材料になる女|家主《おおや》の家庭のゴタゴタ、自分の舞台|稽古《げいこ》の喜劇的ないざこざ――彼女はロンドンの劇場で人気のある出し物で端役《はやく》をやっていた――小説の出版人相手の奇妙な冒険話が書かれてあった。
フィリップは、大いに読書を楽しみ、海にはいり、テニスをし、舟を走らせた。十月のはじめには、ロンドンに落ち着き、第二回目の総合試験の勉強にとりかかった。なんとかこの試験を及第したかった。それで、苦しい学科の課程は終了したからである。それさえ片づければ、学生は外来患者の助手になり、教科書ばかりでなく、実社会の人間とも接触することができた。ノーラとは、毎日会っていた。
ローソンは、夏をプール(英仏海峡に臨むドーセットシャーの町)ですごし、そこの港と海岸のたくさんのスケッチをみせてくれた。肖像画の依頼をふたつ受けていて、光線の具合いでいられるかぎり、ロンドンにいるつもりだ、といっていた。ヘイウォードも、ロンドンにいて、冬は外国暮しをするつもりでいたが、決心することの億劫《おっくう》さで、ズルズルとそれを一週間|刻《きざ》みにのばしていた。この二、三年で、ヘイウォードは太りはじめ――ハイデルベルクでフィリップがはじめて会って以来、もう五年たっていた――頭は若|禿《は》げになっていた。これをひどく気にして、髪をながくし、頭の天辺《てっぺん》のぶざまな禿げをかくそうとつとめていた。彼のただひとつのなぐさみは、額がじつに崇高になってきたことだけだった。青い目はつやを失い、陰気に垂れ、口は、若さの充実感が消えて、弱々しく血の気のないものになっていた。それでもまだ、将来しようとしていることを、なにか漠然と語っていたが、自信喪失は明らか、友人たちがもう彼の言葉をまともに信じていないのを意識していた。二、三杯ウィスキーを傾けると、彼の話は哀調をおびたものになってきた。
「ぼくは失敗者だよ」彼はつぶやいた。「残忍な生存競争には適しない人間なんだ。できることといえば、ただ傍観し、俗物どもに利益を求めて右往左往させておくことだけさ」
彼の話を聞いていると、失敗は成功より優美で繊細といった感じだった。自分の傍観的態度は低俗なものすべてにたいする嫌悪の情からだ、とほのめかし、プラトンを美辞麗句で礼賛した。
「もうきみはプラトンを卒業したと思ってたんだがな」イライラしてフィリップはいった。
「そうかい?」眉をあげて、彼は反問した。
彼はこの問題をそれ以上追求しなかった。最近、沈黙の威厳のある効果を発見したからだった。
「だって、同じもんを何回も読みかえしたって意味はないんだからね」フィリップはいった。「ただ骨を折ってなまけてるというだけのことさ」
「だが、きみは、自分が偉大な叡知《えいち》の持ち主、どんな深遠な作家でも一読ただちに理解できる、とでも思ってるのかい?」
「理解なんかしたくないね、批評家じゃないんだから。ぼくのプラトンにたいする関心は、プラトンそのもののためじゃなく、ぼく自身のためなんだ」
「じゃ、どうして読書をするんだ?」
「ひとつは、楽しみのためなのさ。それが癖になってて、読書をしないと、タバコをやらないでるときと同じように、気分がわるくなってくるんだ。もうひとつは、自分を知るためだ。本を読むとき、ぼくはどうやら自分自身の目だけで読んでるらしいね。だが、ときどき、自分《ヽヽ》に意味のある一節、いや、たぶん一句にいき当ることがあり、それが、ぼくの血肉になるんだ。そうなると、自分に役に立つものすべて本から得たことになり、それを何回読みかえしたって、それ以上はなにも得られない。いいかい、人間は固い蕾《つぼみ》みたいなもんだね。読んだり、したりすることの大部分は、なんの効果もないもんさ。だが、人間にとって特別意味のあるもんがいくつかあり、それが花弁《はなびら》を開いてくれ、こうして、花弁がひとつひとつ開かれ最後に花が目の前で咲きだすことになるんだ」
フィリップは、自分の比喩が意をつくしたとは思っていなかったが、自分が感じてはいながらも、まだはっきりつかんではいないものを、ほかにどう説明していいか、その方法がわからなかった。
「きみはものをしたがってる。なにかものになりたがってる」肩をすくめて、ヘイウォードはいった。「それは、じつに低俗なことさ」
フィリップは、もう、ヘイウォードを知りつくしていた。意志薄弱で自惚《うぬぼ》れの強い男、とても自惚れ屋なので、その心を傷つけないように、たえずこちらでは気を配っていなければならない。怠惰と理想主義を混同して、それを区別できなくなっているのだ。ある日、ローソンのアトリエで、彼はあるジャーナリストに会ったが、この人物は彼の会話にすっかり魅了され、一週間後に、とある新聞の編集王幹から手紙が寄せられ、批評執筆を依頼してきた。ヘイウォードは、まるまる、二日間、とつおいつ思いなやんでいた。じつにながいこと、こうした職を得たい、得たいといっていただけに、いきなりむげに断るのは面目ないこと、さりとて、仕事となると、もうとまどってしまうのだった。とうとう、この話を断って、安堵《あんど》の胸をなでおろしていた。
「そんなことをしたら、自分の仕事の邪魔になるからね」彼はフィリップにいった。
「自分の仕事って?」情け容赦なく、フィリップはつっこんでいった。
「自分の魂の生活さ」彼は答えた。
つづいて、ジュネーヴの教授アミエル(フランス系スイスの文学者)の話を美しく謳《うた》いだした。このアミエルは、才気換発ぶりで将来の大きな仕事を期待されていたが、それは実現をみず、死んでから、のこした書き物のなかに精密ですばらしい日記が発見され、改めて彼の失敗の原因と申し開きの筋が明らかにされた人物だった。ヘイウォードは、謎《なぞ》めいた微笑を浮かべていた。
だが、それにしても、ヘイウォードの本についての話は、楽しいものだった。目はすぐれ、鑑識力は気品の高いもの、思想にたいする関心は燃えつづけていて、そのため、じつにおもしろい伴侶《はんりょ》になった。だが、じっさいは、思想は彼にとって意味なきものだった。その影響をぜんぜん受けていなかったからである。だが、思想にたいする彼の態度には、競売場での陶器のあつかいを思わせるものがあった。すなわち、形やつやを楽しんでそれをいじくりまわし、心の中で値踏みをし、それから箱にポンとかえして、もう一顧《いっこ》だにしないといった態度だった。
ここで、ひとつすばらしい発見をしたのは、このヘイウォードだった。ある晩、しかるべき予備知識を与えてから、フィリップとローソンをピーク通りのとある酒場につれていったが、そこは、酒場そのものとして、また、その暖簾《のれん》の点で――ロマンティックな想像力をかき立てる十八世紀の栄光のおもかげがそこにはあった――すばらしいばかりでなく、ロンドンで最高のそこにあるかぎタバコと、なににもまして、そこのポンス(ぶどう酒や火酒に牛乳・水などをまぜ、砂糖・レモン・香料で味をつけた飲料。ふつう熱くして、大きなはちの中で混合する)ですばらしかった。ヘイウォードはふたりを大きな、細ながい部屋に案内していったが、そこは、よごれでかえって堂々とみえる部屋、壁には裸婦の大きな絵がかかっていた。それは、ヘイドン(イギリスの画家)派の巨大な寓意画だったが、タバコの煙、ガス、ロンドンの雰囲気で豊かなうるおいを与えられ、まるでむかしの巨匠の作品のようにみえていた。黒っぽい羽目板、蛇腹《じゃばら》のいぶしのかかった重厚な黄金の色、マホガニーのテーブルは、この部屋に豪華な快適さの雰囲気をそえ、壁ぞいにおいてあるなめし皮ばりの座席は、やわらかく、ゆったりとしていた。戸口の向いに、テーブルに牡羊の頭の飾りがすえられ、そこに有名なかぎタバコが入れられてあった。三人は、ポンスを注文して、飲んでみた。熱くしたラム酒のポンスだった。そのすばらしさを描きだそうとしても、筆では不可能なこと。この小説の地味な語|彙《い》、わずかな形容詞で、その仕事に当ろうとしても、できぬ相談といえよう。堂々とした言葉、宝石をちりばめた異国調の章句が、湧き立つ空想の中に浮かびでてくる。血を温め、頭をすっきりとさせ、魂を幸福感でいっぱいにしてくれ、心を躍動させ、機知を語らせ、他人の機知を味わうようにしてくれる。そこには、とらえどころのない音楽と、正確な数学がひそんでいた。その質をたとえようとしても、そのひとつだけが他のものにたとえられるだけ、やさしい心の温かさをもっていたが、その味わい、かおり、感触は、筆舌につくしがたかった。チャールズ・ラム(イギリスの随筆家・批評家。『エリア随筆』がある)がこれを試みたら、あの限りのない細かな心配りで、その当時の生活の心を魅する絵図を描いてくれるだろう。バイロン卿だったら、『ドン・ジュアン』の節《スタンザ》で、不可能事をめざして、壮大さの味わいを出したことだろう。オスカー・ワイルドだったらビザンチンの錦《にしき》の上にイスパハーン(イラン中部の都市、十六〜八世紀ペルシャの首都)の宝石を積みかさねて、妖《あや》しい美をつくりだしたことだろう。だが、この美酒を考えると、ヘリオガバルス(ローマの皇帝。美食と歓楽のかぎりをつくした)の歓楽の幻想が心に浮かんできて、頭はグラグラとよろめき、ドビュッシーの精妙な調和音が、忘れられた時代の古い衣裳、襞襟《ひだえり》、長靴下、ダブレット(十五〜七世紀ごろに流行した腰部のくびれた男子用上衣)をおさめた箱のもつかびくさい、馥郁《ふくいく》としたかおり、谷間の百合の色さめた芳香、チェダー・チーズの風味に入りまじっていた。
ヘイウォードがこの無類の美酒を飲ませてくれる酒場を発見したきっかけは、ケンブリッジ時代の仲間だったマカリスターという男と街路で偶然出逢ったことにあった。この男は株の仲買人で、哲学者でもあり、週に一度はこの酒場に顔を出していた。
フィリップ、ローソン、ヘイウォードも、間もなく、毎火曜日の夜、ここで落ち合うことになった。好みの変化で、いま、そこに通う客は少なくなっていたが、これは、会話を楽しもうとする人間には、じつにありがたいことだった。マカリスターは骨太の男で、からだの幅のわりに背はグッと低く、肉づきのいい大きな顔をし、やわらかな声の持ち主だった。カントの研究家で、万事を純粋理性の立場から刈断し、自分の論説を好んで披露した。フィリップは、興奮しながら、興味深くそれに聞き入った。形而上学がなによりおもしろい、というのが以前からのフィリップの持論だったが、さて、じつさい生活への効果という点になると、そう自信をもってはいなかった。ブラックステイブルでの瞑想の結果として出した小ぎれいにまとめあげた体系も、ミルドレッドにおぼれていたとき、そう役には立たなかった。理性が、日々の生活のいとなみで、そう役に立つものとは思えなかった。人生は別個の道を進んでいるようだった。自分にとりついた激情、大地になわでしばりつけられたように、それにどうしてもさからえなかったことを、彼はじつにまざまざと憶えていた。本で多くの賢明なことを読みはしたものの、いざ判断をくだす段になると、出発点は自分の経験だけ(自分が他人とちがうのかどうかは、わからなかったが)だった。ある行為の得失を計算せず、それをしたら、わが身にふりかかってくるにちがいない利益、しなかったら、それから起きる危害なんかはぜんぜん考慮せず、彼の存在すべてが、抵抗できない力で、グイグイッとつき動かされていくのだった。自分の一部で行動するのではなく、ぜんたいとして行動し、自分にとりついている力は、理性とぜんぜん縁がないようだった。理性のすることといえば、ただ、魂すべてがあこがれ求めているものを獲得する方法を指示するだけだった。
マカリスターは、カントの定言的命令《カテゴリカル・インペラティヴ》を彼に想起させた。
「自身のすべての行動が、すべての人間の普遍的行動原則になるよう、行動せよ、なんだ」
「ぼくには、まったくバカげたことに思えるんだがな」フィリップはいった。
「イマヌエル・カントが述べたどんなことについても、そんなことをいうなんて、きみは大胆不敵な男だね」マカリスターはやりかえした。
「どうして? だれか人のいったことをあな尊《とうと》と敬意を表するなんて、人間のバカさ加減を示すもんですよ。だいたい、世間には、まったくあな尊が多すぎる。カントがものを考えたのは、それが真実であるためではなくって、彼がカントという人間だったからなんですからね」
「じゃ、定言的命令にたいするきみの反対論は?」(彼らの話しぶりときたら、帝国の命運がはかりにかかっているような気負いぶりだつた)
「それのいってることは、人の進路は意志の努力でどうにでもなる、ということでしょう。また、理性がいちばん確実な道案内、ということでしょう。どうしてその命令が情熱の命令よりすぐれたもんなんです? このふたつは、ちがったもんですよ。それだけのこと」
「きみは甘んじて自分の情熱の奴隷になってるらしいね」
「どうにもならんから、奴隷になってるまでのこと、べつに甘んじてというわけじゃありませんよ」フィリップは笑った。
こういいながら、彼は、自分をミルドレッド追求にかり立てたあの焼けつくような狂気を思い浮かべた。自分がそれにさからおうとどんなに焦ら立ったか、どんなにそのきたなさを痛感したかが、思い出された。
「ありがたい、ああしたことすべてからもう解放されたのだ!」彼は考えた。
だが、それをいっていながらも、自分が本気でそれを語っているのかどうか、そう自信があるわけではなかった。情熱につき動かされているとき、ふしぎなたくましさを感じ、心は、ふだんにない力強さで活動していた。ふだんよりもっと活気をおび、ただ生きていることに興奮を感じ、魂のひたむきな激しさがあったが、それを思うと、現在の生活がいささかつまらぬものに映るのだった。みじめさを味わわされながらも、あの突き進むグイグイとせまってくる生活感には、その穴埋めをしてくれるものがあった。
だが、ついうっかりもらしたこの言葉で、フィリップは意志の自由論にまきこまれ、マカリスターは、頭に貯えた学識で、滔々《とうとう》と論じ立てることになった。弁証法は彼の好みのもの、フィリップは、否応なく、自己矛盾に追いこまれることになった。フィリップは窮地に立ち、そこから脱出するには、致命的な大譲歩をしなければならなかった。彼は論理で足をすくわれ、権威でたたきつぶされてしまった。
最後にフィリップのいった言葉はこうだった、
「そう、ほかの人については、なにもいえない。ただ、自分のことをいえるだけさ。自由意志の幻想はぼくの心に強くしみこんでいて、それからのがれるわけにはいかない。だが、それは幻想にすぎないと信じてはいるんだ。とはいっても、この幻想は、ぼくの行動のいちばん強い動機のひとつになっている。なにかする前に、選択権があると感じ、それが自分の行動に影響を与えている。だが、あとになって、ことがおこなわれたときになると、それは永遠のむかしからさけ得ぬものになっていた、とぼくは信じてしまうのさ」
「で、それからひきだすものは?」ヘイウォードがたずねた。
「そう、ただ、後悔しても意味なしということだけだね。覆水《ふくすい》盆にかえらずでね。宇宙の力すべては、水をこぼそう、こぼそうとしてたんだから」
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六十八
ある朝、起きあがると、フィリップは目まいを感じ、床の中にもぐりこむと、突然、病気だな、と感じた。手足はズキズキと痛み、悪寒《おかん》でふるえがきた。下宿のおばさんが朝食を運んできたとき、開いたドア越しに、具合いがわるい、と伝え、紅茶一杯と焼いたパン一枚をもってきてくれ、とたのんだ。数分後、ノックの音がし、グリフィスがはいってきた。ふたりは一年以上、同じ家に住んでいたが、廊下で会えばただうなずいて挨拶をする程度の交際をしているにすぎなかった。
「ねえ、調子がおかしいんだって」グリフィスはいった。「ちょっと来て、どんな具合いか見てみようと思ったのさ」
フィリップは、なぜかわからず顔を赤らめ、たいしたことはない、一時間か二時間すれば元気になる、と軽くいなした。
「うん、とにかく、体温を計ることにしよう」グリフィスはいった。
「そんな必要はないよ」イライラして、フィリップは答えた。
「さあ」
フィリップは体温計を口にくわえ、グリフィスは寝台のわきに坐って、ちょっと陽気におしゃべりをはじめ、それから、体温計をとってながめた。
「ほら、ほら、きみ、寝てなけりゃいけないよ。診察をディコン先生にたのむことにしよう」
「バカな」フィリップはいった。「べつにどうということもないさ。どうかぼくのことは、騒がないでくれたまえ」
「いや、どうということもないさ。とにかく、熱があるんだから、寝てなきゃいけないな。いいね、どうだい?」
彼の態度には、重々しくしているかと思うとやさしいところがあり、それは独得の魅力となって、グイグイと人をひきつけていった。
「きみの看護ぶりはすばらしいもんだね」ニッコリして目を閉じながら、フィリップはいった。
グリフィスは、枕をなおし、うまく寝具をのばして、彼をつつみこんだ。それから、サイフォンをとりに、フィリップの居間にいったが、それがみつからず、自分の部屋からそれをもってきた。鎧戸《よろいど》はひきおろされた。
「さあ、眠りたまえ。病棟の回診がすんだら、すぐ、先生をつれてくるからね」
人があらわれるまでに、もう何時間もたった感じだった。頭は割れるよう、手足は苦痛でひきさかれそう、泣きだすことになるのではないかと心配になった。それから、ノックの音がひびき、健康で、たくましい、陽気なグリフィスがはいってきた。
「ディコン先生がおいでだよ」彼はいった。
先生がはいってきた。物やわらかな初老の紳士で、フィリップはただみかけたことがあるだけだった。わずかな質問、簡単な診察、それで診断がくだされた。
「なんだと思うかね?」ニッコリして、先生はグリフィスにたずねた。
「インフルエンザです」
「そのとおり」
ディコン先生はきたない下宿の部屋をながめまわした。
「入院したらどうだね? 個室はあるし、ここより世話をみてもらえるだろうからね」
「いまのまんまでいたいんですが……」フィリップは答えた。
ワーワーさわがれるのはいやだったし、彼は、いつも、新しい環境には尻ごみする質《たち》だった。自分の世話で看護婦たちがさわぎまわってくれるのも、病院の味気ない清潔さも、そうゾッとしたものではなかった。
「先生、ぼくが世話をみます」グリフィスはサッといった。
「うん、それなら結構」
先生は、処方箋《しょほうせん》を書き、指示を与え、部屋から出ていった。
「さあ、ぼくのいうとおりに、ちゃんとしなけりゃいけないよ」グリフィスはいった。「ぼくが昼夜兼行の看護人なんだからね」
「ほんとうにありがとう。でも、べつに用はないと思うよ」フィリップはいった。
グリフィスは、大きな、ヒンヤリとする、乾いた手をフィリップの額に当てたが、こうしてさわられて、とてもいい気持ちだった。
「ちょっと薬局にいって、これを調合してもらってくるよ。それから、すぐもどってくるからね」
ちょっとすると、彼は薬をもってきて、フィリップに一服飲ませ、それから、二階にあがって、本をもってきた。
「きようの午後、この部屋で勉強させてもらっていいかい、どう?」おりてくると、彼はいった。「ドアはあけとくよ。なにか用があったら、ひと声かけられるようにね」
その日、しばらくして、ウトウトとした眠りから目をさますと、居間の人声がフィリップの耳に聞えてきた。グリフィスに会いに、友人がひとりやってきたのだった。
「ねえ、今晩は来ないでくれよ」グリフィスの声が聞えてきた。
その後、一、二分して、ほかのだれかが部屋にはいってきて、グリフィスがそこにいるのをみると、びっくりしていた。こう彼が説明するのが、フィリップに聞えてきた、
「この部屋にいる二年生の世話をみてるんだ。かわいそうに、インフルエンザにやられてね。今晩ホイスト(四人でするトランプの遊び方)はだめだよ、きみ」
やがて、グリフィスはひとりになり、フィリップは彼を呼んだ。
「ねえ、今晩やる会をのばしてるんじゃないだろうね、どう?」彼はたずねた。
「いや、きみのためじゃないんだ。外科の勉強をしなけりゃならなくってね」
「のばしたりはしないでくれたまえ。ぼくは大丈夫。心配することないよ」
「わかった」
フィリップの容態は悪化し、夜になると、ちょっと譫言《うわごと》をいっていたが、朝方、寝苦しい眠りから目をさますと グリフィスが肘かけ椅子からぬけだし、膝をついて、指で石炭をひとつずつつまんで 炉にくべている姿が目にはいった。それは、パジャマを着こんだ化粧着姿だった。
「ここでなにをしてるんだい?」フィリップはたずねた。
「起こしちまったかい? 音を立てずに火を起こそうとしてたんだがね……」
「どうして寝ないの? いま何時かな?」
「五時ごろだよ。今晩ここできみといっしょに起きてたほうがいいと思ったのさ。肘かけ椅子をもちこんできたよ、敷き布団《ぶとん》なんかもってきたら、ぐっすり寝こんじまって、きみに呼ばれても、起きやしないだろうと思ったんでね」
「そんなに親切にしてくれなくってもいいのに」フィリップはうめいた。「きみにうつったらどうする?」
「そうしたら、きみに看護してもらうさ」カラカラッと笑って、グリフィスはいった。
朝になると、グリフィス鎧戸をひきあげた。ひと晩眠らなかったので、顔は青ざめ、つかれをみせてしたが、とても元気だった。
「さあ、洗面してあげよう」明るく彼はフィリップにいった。
「自分でできるよ」照れて、フィリップはいった。
「バカな! 個室にはいってたら、看護婦にそれをされるんだぜ。ぼくだって、看護婦くらいはうまくやれるさ」
フィリップは、すっかり衰弱していたので抵抗はできず、グリフィスに手、顔、足、胸、背中をふいてもらった。彼は、それをじつに気持ちのいいやさしさでしてくれ、そのあいだに、打ち解けたおしゃべりをしていた。それがすむと、病院でやるとおりに、敷き布を変え、枕をなおし、寝具をととのえた。
「アーサー看護婦長にこれをみてもらいたいもんだな。きっとびっくりするぜ。ディコン先生は早く来てくれるよ」
「どうしてこんなに親切にしてくれるんだい?」フィリップはたずねた。
「ぼくにはいい練習台なんだよ。患者をもつって、うれしいもんだね」
ダリフィスは彼に朝食をとらせ、部屋を出ていって、服を着換え、自分も食事をとった。十時ちょっと前に、|ぶどう《ヽヽヽ》のひと房とわずかな花をもちこんできた。
「ほんとうにありがとう」フィリップはいった。
こうした病床生活が五日間つづいた。
ノーラとグリフィスが、交互に看病をしてくれた。グリフィスはフィリップと同じ齢だったが、彼のフィリップにたいする態度は、冗談まじりの母親的なものだった。やさしく、元気をつけてくれる思慮深い男だったが、その最大の特質は活気で、それは、接するだれにでも健康を与える感じだった。たいていの人間が母親や姉妹から受けている愛撫は、フィリップには縁のないものだったので、このたくましい青年の女性的なやさしさに、フィリップは深く心打たれていた。フィリップは、快方に向っていった。こうなると、グリフィスは、することもなくフィリップの部屋に坐って、女出入りの陽気な話で彼を楽しませてくれた。なかなかの達者者《たっしゃもん》で、同時に三人、四人の女といい仲になり、苦しい破目に落ちこまないようにと、あれこれとたくらむ権謀術策は、聞いていても楽しくなるものだった。また、身に起きるすべてのことにロマンティックな輝きをそえる才能の持ち主でもあった。借金でにっちもさっちもいかなくなり、めぼしい持ち物は質屋にはいっていたが、いつもなんとか、陽気に、金使い荒く、気前よくふるまっていた。
彼は生れながらの冒険家だった。いかがわしい商売やごまかし渡世の人間を愛好し、ロンドンの酒場に出入りするやくざ者のあいだでの顔は、じつにすごいものだった。街の女は、彼を友だちあつかいにして、生活の浮き沈みや苦しみを訴え、トランプの詐欺《さぎ》師は、彼の素寒《すかん》ぴんぶりに敬意を表して、食事をおごったり、五ポンド紙幣を与えたりしていた。試験では何回も何回も落第の憂き目にあっていたが、陽気にそれをしのぎ、親の文句にじつにいさぎよく降参していたので、リーズ(ヨークシャーの都市)で開業している医者の父親も、彼には本気で怒れなくなっていた。
「ぼくは、本となると、まったくのポンツクでね」彼は陽気にいった。「勉強そのものがとても|だめ《ヽヽ》なんだなあ」
人生が楽しすぎるほど楽しかったのだ。だが、青春の盛りがすぎ、とうとう医師の資格をとれば、開業医としてすごい成功者になるのは明らかだった。あの態度の魅力だけで、人の病気をなおしてしまうことだろう。
フィリップはこの彼を敬慕していた。これは、キングズ・スクールで、スラリとして背が高く、元気いっぱいな生徒に寄せた気持ちと同じだった。全快するまでに、ふたりは大の仲よしになり、グリフィスがよろこんでフィリップの居間に坐りこみ、おもしろいおしゃべりで時間つぶしをし、パッパッと際限《さいげん》なくタバコをふかしているのを楽しんでいるようすをみて、フィリップは妙な満足感を味わっていた。フィリップは彼をときどきリージェント通りのはずれにある酒場につれてゆき、ヘイウォードは彼をバカ者とみていたが、ローソンはその魅力を認め、ぜひ肖像を描かせてくれ、といっていた。彼は、碧眼《へきがん》、白い肌、巻き毛で、絵に描いたような美男子だった。グリフィスがなにも知らない話題が、よく、議論の種になったが、彼は、美しい顔に上機嫌な微笑を浮かべ、これはたしかにそうだったのだが、自分の存在がみなの楽しみに十分寄与していると確信して、静かに坐っていた。マカリスターが株の仲買人と知ると、彼は株の情報を知りたがり、一方、マカリスターは、慎重な微笑を浮かべて、ある時機にある株を買ってたら、大財産家になるところだったんだが、と語っていた。これは、フィリップにしても、よだれの出そうな話だった。というのも、あれこれと予定以上の金を使ってしまい、マカリスターのいうように、そうしてらくらく小金をもうけられるのだったら、とても助かったからである。
「このつぎ、いい情報が耳にはいったら、知らせてあげるよ」株の仲買人はいった。「そうしたことは、よくあるんだからね。要は、好機をつかむということだけさ」
ここで五十ポンドもうけられたら、どんなにうれしいことだろう、とフィリップは思わずにいられなかった。そうなれば、冬にぜひ必要な毛皮外套をノーラに買ってやることもできた。彼はリージェント通りの店をながめ、その金で買える品をえらんでおいた。彼女のためなら、なにを買っても、惜しくはなかった。とにかく、自分の生活をこんなに幸福にしてくれる女なのだ。
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六十九
ある午後、病院から部屋にもどり、からだでも洗って身ぎれいにし、それから、いつものとおり、ノーラのところにお茶を飲みにいこうと思って、鍵をあけて中にはいろうとすると、下宿のおばさんがドアをあけた。
「女の方があなたを待ってますよ」彼女はいった。
「ぼくを?」フィリップは叫んでしまった。
これは、驚くべきことだった。そうした女性はノーラしかいないし、彼女がここに来るなんて、思いもよらぬことだった。
「入れちゃいけなかったんかもしれませんがね、三回も来て、留守と知って、途方に暮れてたふうでね、つい、はいって待ってなさい、といっちまったんですよ」
こうして言訳をしているおばさんのわきをとおりぬけて、彼は部屋にとびこんでいった。胸がドキンとした。ミルドレッドだった。彼女は坐っていたが、彼が部屋にはいると、あわてて立ちあがり、彼に近づこうとも、話をしようともしなかった。
「いったい、なんの用なんだ?」彼はたずねた。
彼女は、それに答えず、泣きはじめた。手を目に当てず、その手はダラリとさげっ放し、まるで職を求めている女中のようだった。態度は、ひどく卑屈だった。フィリップは、自分の気持ちがわからなくなった。クルリと向きを変えて、部屋から逃げだそうか、といきなり衝動的に考えた。
「二度と会うとは、考えてもいなかったね」彼はとうとういった。
「死んじまいたいわ」彼女はうめいた。
フィリップは、彼女をそのまま立たせておいた。その瞬間、頭で考えられることは、自分をしっかりさせることだけだった。膝はガタガタとふるえた。この彼女をながめて、絶望的にうめいた。
「どうしたんだ?」彼はいった。
「すてられたの――イーミルにね」
フィリップの心臓は、ギクりとおどりあがった。前と変らず情熱的にこの女を愛しているのが、はっきりとわかってきた。依然として愛しつづけているのだ。彼女は、さからわず、おとなしく彼の前に立っていた。腕に抱きかかえ、涙にぬれた顔一面にキスをしてやりたくなった。ああ、なんとながい別れだったことだろう。それをどう我慢してきたのか、見当もつかなかった。
「坐ったらいいよ。飲み物をつくってあげよう」
炉のそばに椅子をひきよせると、彼女はそこに坐った。ウィスキー入りのソーダをつくってやると、メソメソ泣きながら、それを飲んだ。悲しそうな大きな目をして、彼をながめた。目の下には、大きな黒いしわが走っていた。この前会ったときより、痩せて青ざめていた。
「あんたにいわれたとき、結婚しとききゃよかったんだわ」彼女はいった。
この言葉でどうして自分の胸がふくらんできたのか、フィリップにはわからなかった。むりして彼女からははなれていたのだったが、もうそうしてはいられなくなった。そこで、彼女の肩に一方の手を乗せた。
「苦しい目にあってるなんて、ほんとうにかわいそうだね」
彼女は頭を彼の胸に寄せかけ、くるったようにワッと泣きだした。帽子が邪魔になったが、彼女はそれをとってしまった。彼女がこんな泣き方をするなんて、考えられないことだった。彼は何回となく彼女にキスをしてやり、女は、それでちょっとホッとしたようだった。
「いつもあたしに親切にしてくれたことね、フィリップ」彼女はいった。「だから、あんたんとこに来てもいいと思ったの」
「いったい、どうしたんだい?」
「まあ、そんなこと、いえないわ、いえないわ」スッとはなれて、彼女は叫んだ。
彼は、彼女のわきにひざまずき、彼女の頬に自分の頬をすりよせた。
「いいかい、きみはぼくになんでもいえるはずなんだよ。どんなことがあったって、責めたりはしないんだからね」
彼女は、ポツリポツリと話をはじめたが、ときどきひどくむせび泣いたので、話がほとんど聞きとれなくなることもあった。
「先週の月曜日、あの男、バーミンガムにいき、木曜日には帰ってくる、と約束してたのに、帰って来ず、金曜日にもそうなの。だから、こちらで、どうしたんだ? と手紙を出したんだけど、梨《なし》のつぶてなのよ。そこで、また手紙を書き、折りかえし返事をくれなきゃ、バーミンガムにいく、っていってやったの。すると、今朝、弁護士からの手紙が来て、あたしにはそんな権利がない、うるさいことをいうんなら、裁判に出す、といってるの」
「だが、バカバカしい話だ」フィリップは叫んだ。「そんな妻のあつかい方なんて、あるもんか。喧嘩でもしたのかい?」
「ええ、日曜日にやり、お前には胸糞がわるくなるっていってたわ。でも、前にもそれをいったことがあり、ちゃんともどってきたの。それを本気とは思ってなかったわ。赤ちゃんが生れそうだ、といったんで、あの男、ふるえあがっちまったのよ。それは、できるだけいわずにおいたんだけど、いつまでもそのままにしとけることでもなしね。すると、お前がいけないんだ、もっと分別があってもいいはずだ、ってくるのよ。あの男のいう言葉ときたら、ほんとに、あんたに聞いてもらいたいくらいよ! でも、この男、紳士じゃないってすぐにわかったの。人を文なしで放りだしたのよ。家賃は払わず、こっちにそのお金があるわけじゃなし、家主の女は、とってもひどいことをいうの――そう、あの話しぶりだと、あたし、まあ泥棒といったとこね」
「りっぱなアパート暮しをするものと思ってたんだがね」
「あの男、そうはいってたけど、借りたのは、ハイベリの家具つきのアパートだけのこと。ひどく下劣なやつ。お前は金使いが荒い、っていうのよ。金使いを荒くしようにも、なんにもくれてないくせにね」
彼女は、つまらないことと重要なことをとてつもなくごっちゃまぜにしてしまう女で、フィリップは途方に暮れた。どうにも話ぜんたいがつかめないからだった。
「そんなひどい男って、あるもんか」
「あの男を知らないからよ。あたしんとこにやってきて、膝を折りまげてたのみこまれても、もう絶対、もどったりはしないことよ。あの男のことを考えるなんて、あたし、バカだったの。口でいってた金もかせいでない分際《ぶんざい》なのにね。あいつのいう嘘ときたら!」
フィリップは、一、二分間、考えこんでいた。彼女の苦難がかわいそうでならなかったので、とてもわが身のことなんぞ、考えてはいられなかった。
「バーミンガムにいってほしいのかい? あの男と会って、話をつけることもできるだろう」
「まあ、そんなみこみなんて、ないことね。もうもどっては来ないわ、わかってるの」
「だが、きみの生活費は出さなければならないわけだ。それをのがれるわけにはいかないよ。ぼくには、こうしたことがわからないから、弁護士のとこにいったらいいだろう」
「そんなこと、できない話よ。お金がないんですもの」
「その金は、ぼくが出そう。ぼく自身の弁護士に手紙を書いてあげよう。ぼくの父親の遺言執行人になってくれたスポーツマンのいい男だよ。いますぐ、ぼくにもいっしょにいってほしいのかい? まだ事務所にいると思うんだが……」
「いいえ、紹介状さえくれればいいわ。ひとりでいくから」
女は少し落ち着いてきた。彼は机に向って手紙を書いたが、女に金がないのを思い出した。ちょうど運よく、前の日に小切手を現金にしてあったので、彼女に五ポンド紙幣をわたすことができた。
「ほんとにうれしいわ、フィリップ」彼女はいった。
「なにかしてあげることができて、こちらでも大よろこびだよ」
「まだあたしを好きでいてくれてるの?」
「前どおり、少しも変りはないよ」
女は唇をさしだし、彼はそれにキスをした。その態度には、もうすっかり身をゆだねるといったとこがあり、これは、彼の一度もみたことのないものだった。この態度をみせられて、彼のいままで味わってきた苦悶はふっとんでしまった。
彼女は出ていったが、そのときになってはじめて、彼女がここに二時間いたことに気づいた。すごく幸福だった。
「かわいそうに、かわいそうに!」彼はひとりでつぶやき、心は、前にもないほどの大きな愛情でカッカと燃えあがっていた。
八時ごろ、電報が来るまで、ノーラのことはついぞ頭に浮かんで来なかった。電報を開く前から、彼女からのものとわかっていた。
どうかしたのか? ノーラ。
どうしたらいいか、どう答えたらいいか、とんとわからなかった。端役で出ている芝居が終ってから、彼女と会い、いつものとおり、いっしょにブラブラと彼女を家まで送っていくことはできた。だが、その晩、彼女に会うのは、たまらなくいやだった。手紙を出そうと思ったが、書き出しの「いとも親愛なるノーラ」は、どうにも書く気になれなかった。そこで、電報を打つことにした。
わるいが、出られなかった。フィリップ。
彼女の姿を頭に思い浮かべてみた。高い頬骨と毒々しい色をした醜悪な小さな顔を思うと、ちょっと怖毛《おぞけ》立った。あのガサガサと荒れた肌を考えると、鳥肌が立ってきた。電報を打ってから、自分のほうでなにかしなければならぬことはわかっていたが、これでとにかく、それをひきのばすことはできた。
つぎの日、彼はまた電報を打った。
残念だが、ゆけぬ。委細文《いさいふみ》。
ミルドレッドは、昼すぎ四時に来る、といっていたが、その時間は都合がわるい、とはいう気になれなかった。とにかく、彼女のほうが先なのだ。彼は、イライラしながら彼女を待ち、窓のところで外をながめ、彼女が来ると、自分で通りのドアをあけてやった。
「どうだった? ニクソンに会った?」
「ええ」彼女は答えた。「どうにもならないっていってたわ。もう処置なしなんですって。つらくとも、笑って我慢しなければならないのよ」
「でも、ひどいことだなあ」フィリップは叫んだ。
彼女はぐったりして坐りこんだ。
「理由を説明してくれたかね?」彼はたずねた。
彼女はもみくしゃにした手紙を彼にわたした。
「これ、あんたの紹介状よ、フィリップ。それをもってはいかなかったの。きのう、あんたにはいえなかったの、ほんとにいえなかったわ。イーミルとあたし、結婚はしてなかったの。それができなかったのよ。もう妻があり、三人の子供がいるんですもん」
フィリップの胸は、いきなり、嫉妬と苦悶の痛みをピリッと感じた。もう我慢ならぬ感じだった。
「だから、伯母さんのとこにも帰れないのよ。あんた以外に、いくとこないわ」
「どうしてあの男といっしょにとびだしたんだい?」フィリップは低い声でたずねたが、その声をふるえさせまいと、必死の思いだった。
「わかんないの。最初、結婚してるのは知らなかったんだけど、それを話されたとき、あたし、遠慮なくズバズバいってやったの。それから、何ヵ月も会わなかったわ。だけど、また店にあらわれて話されたとき、フラッとどんな気持ちになったのか、自分でもわかんないわ。どうにもならないような感じだったの。いっしょにいく以外に道がなかったんだわ」
「あの男を愛してたのかい?」
「わかんない。あの男にものをいわれると、あたし、笑わずにはいられなかったの。それに、あの男になんかいいとこがあったのね――絶対に後悔なんかしない、週に七ポンドわたすって約束してくれたわ――十五ポンドかせいでるといってたけど、大ちがい、そんなことは真っ赤な嘘よ。それに、毎朝お店に出るのにはうんざりだったし、伯母さんとの折り合いもよくなかったの。あの伯母さん、あたしを親類あつかいにはせず、下女にしようとしてたのよ。自分の部屋の掃除はしなけりゃいけない、それをしなけりゃ、そのまま放っとく、っていってたわ。ああ、あんなことしなけりゃよかったんだけど! でも、お店に来られてたのまれると、もうどうにもならなかったのよ」
フィリップは、女からスッとはなれ、テーブルに向って坐り、両手で顔をおおった。いかにも男をさげた感じだった。
「あたしのこと、怒ってはいないことね、フィリップ?」あわれっぽく彼女はたずねた。
「ああ、怒ってないよ」目をあげながらも、視線を彼女からそらせて、彼は答えた。「ただ、ひどく、心が傷つけられただけさ」
「どうして?」
「いいかい、ぼくはきみをすごく恋してたんだよ。好きになってもらおうと、必死になってたんだ。だれも愛することはできない女と、きみを考えてたんだ。あのさわがしい野卑な男のために、きみがよろこんですべてを投げだそうとしてたと考えると、たまらなくなってくるね。あの男にどんないいとこをみたんだろうかね?」
「ほんとにわるかったわ、フィリップ。あとでひどく悔いてはいたの、それはたしかよ」
ぼってりとして青ざめた不健康な顔と陰険な青い目をもち、野卑で瀟洒《しょうしゃ》な恰好をしたイーミル・ミラーの姿を、彼は思い浮かべた。いつも編んだ赤いチョッキを着こんでいた。フィリップはフッとため息をもらした。彼女は立ちあがり、彼に寄ってきて、片腕を彼の首にまきつけた。
「あんたが結婚の申しこみをしてくれたこと、絶対に忘れたりはしないことよ、フィリップ」
彼は彼女の手をとり、目をあげ、彼女はかがみこんで、彼にキスをした。
「フィリップ、もしまだあたしをお望みだったら、なんでも好きなことをしてあげることよ。あんたがれっきとした正真正銘の紳士なことは、ちゃんと知ってるんですからね」
心臓の動悸《どうき》がとまってしまった感じだった。この言葉を聞いて、胸がムカムカしてきたからである。
「そいつはとってもありがたいが、ぼくにはとてもだめだよ」
「あたしをもう好きじゃないの?」
「好きさ。心の底から愛してるよ」
「じゃ、どうして、楽しめるときに楽しんじゃいけないの? いいこと、もう問題じゃないのよ」
彼は彼女から身をひきはなした。
「きみには、わからないんだ。会って以来、夢中になってきみを愛してきたよ。だが、いま――問題はあの男さ。ぼくは、不幸なことに、想像力の強い男でね。そんなことを思うと、もう胸がムカムカしてくるんだ」
「変な人ねえ」彼女はいった。
彼は、また彼女の手をとり、ほほ笑みかけた。
「ありがたいと思ってないなんて、考えちゃいけないよ。お礼はいいつくせないくらいさ。だけど、いいかい、この気持ちは、どうにもならないんだ」
「あんたはいいお友だちよ、フィリップ」
ふたりは語りつづけ、間もなく、もとどおりの親しい気分にもどっていった。もう、おそくなっていた。フィリップは、いっしょに食事をし、演芸場にでもいこうか、とさそったが、彼女はなかなかいこうとはしなかった。彼女は、自分の境遇なりの行動をとるべきだと考え、娯楽場にいくなんて、みじめな立場にある自分にはふさわしくはない、と本能的に感じとっていたからだった。とうとう、フィリップは、ただぼくをよろこばすために、ぜひいっしょに来てくれ、とたのみこみ、それを自己犠牲の行為と考えられることになって、ようやく彼女は承知した。このはじめて経験する女の思いやりに、フィリップは感激した。彼女は、前からゆきつけの例のソホーの小さなレストランにつれていってくれ、とたのみ、彼はそれをとてもうれしく思った。この彼女の言葉は、幸福な思い出がまだ彼女にのこっているのを証すものだったからである。食事が進むと、彼女はズッと陽気になってきた。町角の酒場からとりよせたバーガンディ|ぶどう《ヽヽヽ》酒は、彼女の心を温め、悲しそうな顔をしていなければいけないことを忘れてしまった。将来の話をしたほうがいまのところ安全、とフィリップは考えた。
「きみは、もう、文なしなんだろうね、どうだい?」話がうまい調子になったとき、彼はたずねた。
「きのう、あんたからもらった分しかないわ。そのうち三ポンドは、下宿の女将さんに払わなけりゃならなかったけど……」
「じゃ、暮していくのに、十ポンドわたしといたほうがいいようだね。弁護士のとこにいって、ミラーに手紙を書いてもらうことにしよう。きっと、多少の金は払わせることができるからね。あの男から百ポンドとることができたら、赤ちゃんが生れるまで、それでなんとかやっていけるだろう」
「あんな男からは一文だってもらいたくはないの。それくらいなら、飢え死したほうがまだましよ」
「だが、あの男がこんなに困ってるきみをそのままみすてておくなんて、ひどいことだ」
「これでも、ほこりはもってるつもりなんですからね」
これは、フィリップにとって、ちょっとまずいことだった。医者の資格をとるまで、自分の金は極度にきりつめて使わねばならず、いまの病院なりどこかほかの病院なりで住みこみ内科医と外科医としてすごす一年間のために、多少の金はとっておかなければならなかった。だが、ミルドレッドは、イーミルの、下品な物惜しみぶりをあれこれと語り、けちな男といわれるのがつらさに、フィリップとしては、そう彼女に反対するわけにもいかなかった。
「あんな男からは、びた一文ももらわないことよ。そのくらいなら、乞食になるわ。とっくのむかしに仕事をみつけるとこだったんだけど、このからだじゃ、よくないでしょ。自分の健康のことも考えなけりゃいけないしね、そうじゃない?」
「さし当ってのことは、心配しなくていいよ」フィリップはいった。「また働けるようになるまで、必要なものは用立ててあげるからね」
「あんたはたよれる男って、ちゃんとわかってたわ。だれかたよれる人がないなんて考えてもらいたくはないって、イーミルにいってやったのよ。あんたはれっきとした正真正銘の紳士なんだって、もういってあるの」
だんだんと、喧嘩別れのいきさつがフィリップにわかってきた。定期的なロンドン出張のあいだに亭主のしでかしている情事を、男の女房がかぎつけ、彼がつとめている会社の社長のところに駆けこんだ、というようなことらしかった。女房は離婚をせまり、そういうことになったら、会社は首、と会社のほうでも通告した。彼は子供たちには目のない男、子供たちと別れると思っただけでも、つらいことだった。結局、妻か情婦かと二者択一をせまられて、妻をとったわけ。女出入りの悶着《もんちゃく》をもっと面倒なことにしないようにと、子供はつくるまい、といつも考え、お産が近づいたためにかくせなくなって、ミルドレッドがその事実を彼に伝えたとき、彼はふるえあがってしまった。そこで、喧嘩をしかけ、そのままさっさと女をすてたのだった。
「お産、いつなの?」フィリップはたずねた。
「三月はじめよ」
「三月《みつき》まだあるね」
計画を立てる必要があった。ミルドレッドは、ハイベリの下宿にいるつもりはない、といい、彼女がもっと近くにいるほうが便利、とフィリップのほうでも考えた。明日、どこかさがしてみよう、と彼は約束した。ヴォクスホール橋通りあたりがいい場所じゃないか、とミルドレッドはいっていた。
「それに、あとあとのためにも、近くていいわ」彼女はいった。
「それ、どういうことなんだい?」
「そう、下宿にうつるにしても、二ヵ月かそこらのもんよ。それから、お産のための家にはいらなければならないの。とてもお上品なとこがあってね、そこでは上流階級の人たちばかり、週四ギニーで入れてくれ、それ以外のお金はかからないの。お医者さまの分は、もちろん、べつよ。だけど、それだけなの。あたしのお友だちがそこにはいったんだけど、そこの女主人の人、れっきとした貴婦人よ。あたし、いうことにするわ、主人はインドに駐在《ちゅうざい》の陸軍将校、健康を考えて、赤ちゃんのためにロンドンにもどってきたとね」
彼女がこんなふうな話をするなんて、フィリップにはとてつもないことに思えた。繊細な目鼻立ちと青ざめた顔で、彼女は冷たい処女のようにみえた。ところが、思いもかけず、その胸の中で燃えあがった情火のことを思うと、彼の心は妙な波立ちをおぼえ、鼓動《こどう》が激しくなってきた。
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七十
下宿に帰れば、ノーラからの手紙が来ているものと、フィリップは思いこんでいたが、手紙はなく、つぎの日の朝も同じだった。こうして音|沙汰《さた》もないと、かえってイライラしてき、また心配にもなってきた。六月以来、ロンドンにいるときには、ふたりは毎日会いつづけていたのだから、彼女を訪問せずに二日やりすごし、しかも、その理由を伝えずにおいたら、変に思われるにちがいない。運わるく、ミルドレッドといっしょにいる姿をみられてしまったのかな、とも考えた。彼としては、ノーラが心を傷つけられ、不幸を味わっていると思うと、もうたまらなくなり、その日の午後、彼女をたずねてみよう、ということになった。彼女とこんな昵懇《じっこん》な仲になってしまったことにたいして、彼女を責めたいような気持ちにもなっていた。こうした仲をこれからもつづけるなんて、思っただけでも身の毛がよだつことだった。
ミルドレッドのために、ヴォクスホール橋通りにある家の三階に、ふた部屋をみつけてやった。そこはうるさい場所だったが、窓の下で車馬のゆきかう物音がするのが彼女の好みなことは、彼にわかっていた。
「一日じゅう人っ子ひとりとおらないシーンとした通りなんて、まっぴらよ」彼女はいった。「ちょっと活気のあるとこがいいことね」
これがすむと、彼は、重い心をかり立てて、ヴィンセント・スクウェアに出かけていった。ベルを鳴らすと、心配で胸がワクワクしてきた。自分がノーラにひどいあつかいをしているという不安感があり、責められるのがこわかった。短気な女と知っていたので、すごいさわぎが起きるのも、たまらないことだった。ミルドレッドがもどってきた、この女にたいする自分の愛情は、前と変らず燃え立っている、とてもすまないことだが、ノーラとはもう手を切りたい、と卒直に打ち明けてしまったほうが、いちばんいいだろう。だが、それで彼女が味わう苦悶が、頭に浮かんできた。彼女が自分を愛していることは、わかっていたからである。これは、以前にはとてもありがたいことと感謝していたのだったが、いまとなると、じつにたまらないことだった。この彼女に苦痛を与えるなんて、まったく筋ちがいのことなのだ。こうなって、どんな挨拶を受けるだろう? と考え、階段をのぼっていきながら、ありとあらゆる彼女の態度が頭にひらめいてきた。ノックをした。自分の顔が青くなっているのがわかり、こうしてハラハラしているのを、どうしてかくしたものか、と気をもんでいた。
彼女は、せっせと書き物をしていたが、彼が部屋にはいっていくと、パッととびあがって立った。
「足音がわかったことよ」彼女は叫んだ。「どこに姿をかくしてたの、この腕白坊主《わんぱくぼうず》さん?」
彼女は、うれしそうに彼に近づき、両腕を彼の首にまきつけた。彼が来たのを大よろこびしていた。彼は彼女にキスをし、心を静めるために、喉がカラカラ、お茶を飲みたい、といった。彼女は大さわぎをして火を起こし、湯をわかした。
「ぼく、とってもいそがしくってね」なんともまずい口上だった。
例の明るい調子で、彼女はしゃべりはじめ、新しい依頼を受けて、いままで縁のなかった出版社のために小説を書くことになった、それで十五ギニーの収入になる、と話した。
「これは天から授かった思いがけないお金よ。それをどう使うか、教えてあげましょうか? ふたりでちょっと旅行に出るの。オクスフォードで一日をすごしましょう、どう? あそこの学寮がみたくてみたくって……」
彼女の目に叱責の影でもあるかと、彼女をみたが、その目は、以前と変らず、卒直で陽気、彼に会えて、大よろこびしていた。まったく困ったことだった。あからさまなむごい事実を、とても口にはできなかった。彼女は、彼のためにトーストをつくり、それを細かに切り、子供あつかいにして、彼に食べさせた。
「腕白小僧さん、お腹はいっぱいになったこと?」彼女はたずねた。
彼がニッコリして、うなずくと、彼女は、タバコに火をつけて、わたしてくれた。それから、これは彼女の大好きなことだったが、近づいてきて、彼の膝にチョコンと坐った。とても軽かった。彼の膝の中でグッともたれかかって、よろこびのため息をもらした。
「なにかうれしいこと、いってちょうだい」彼女はつぶやいた。
「なんといったらいいのかな?」
「空想をなんとかめぐらして、とても好き、といってくれてもいいことよ」
「そんなこと、わかってるじゃないか」
こうなると、どうにも切りだしようがなくなった。とにかく、この日一日だけは安らかにしておこう、手紙で知らせることもできるだろう、それのほうがらくだ、泣きだされたらたまらないからな、ということになった。彼女は彼にキスをさせたが、それをしながら、彼はミルドレッドのこと、ミルドレッドの青白い薄い唇を考えていた。ミルドレッドの思い出は、このあいだじゅうズーツと消えず、肉体をおびていない形のように、しかも、影よりもっとしっかりとしてのこり、この姿は、たえず彼の注意力をかき乱していた。
「きょうはバカに静かなのね」ノーラはいった。
彼女のおしゃべりは、ふたりのあいだのいつもの冗談の種になっていたので、彼はとっさに答えた、
「ひと言も口を入れさせてくれないんでね、こちらのおしゃべりの癖は、もう根こそぎさ」
「でも、聞いてもいないことよ。それは無作法というものね」
彼は、ちょっと赤くなり、自分の秘密をかぎつけられたのかな、と思い、オドオドして目をそらせた。この日の午後、女のからだの重みがどうにも苦しくてたまらず、女にさわられるのがいやだった。
「足がすっかりしびれちゃった」彼はこぼした。
「まあ、わるかったことね」とびあがって、彼女は叫んだ。「男の人の膝に坐るこの癖がぬけないのだったら、わたし、節食をしなければいけないことね」
彼は、手をこませて、足踏みをしたり、歩きまわったりした。それから、炉の前に立ったが、これは、女を前の姿勢にかえらすまいとしてのことだった。彼女が話しているあいだ、この女にはミルドレッド十人分の値打ちがある、もっと自分を楽しませ、話す相手としてもおもしろい、頭はズッといい、はるかにやさしい性格の持ち主だ、と考えていた。彼女は親切、勇敢、正直な小女《こおんな》、それに反して、ミルドレッドは、薬にしたくともそうとはいえない女だ、とわびしく思った。自分が分別ある男だったら、ノーラを手放さないだろう、ノーラは、ミルドレッドより、自分をズッともっと幸福にしてくれるのだ。結局のところ、ノーラは自分を愛してくれている、ところが、ミルドレッドときたら、自分の援助に感謝しているだけなのだ。だが、なんといっても、重要な点は、愛されるより愛することにあり、彼は、心の底から、ミルドレッドをあこがれ求めていた。ノーラとひと午後ズーッと送るより、ミルドレッドと十分でもいっしょにいたかった。ノーラが与えるすべてより、ミルドレッドの冷たい唇への一度のキスのほうがありがたかった。
「どうにもならないんだ」彼は考えた。「あの女は自分の骨の髄《ずい》までしみこんでしまってるんだからな」
女が心なし、意地わる、野卑、頭脳低劣、貪欲であろうとも、構いはしなかった。とにかく、その女を愛しているのだ。ノーラといっしょに幸福になるより、ミルドレッドといっしょにみじめさを味わいたかった。
彼が立ちあがって帰ろうとすると、ノーラはケロッとしていった、
「じゃ、あした、来てくださることね、どう?」
「うん、来るよ」彼は答えてしまった。
来られないのは、わかっていた。ミルドレッドの引っ越しの手伝いがあるからだった。だが、そういう勇気は、どうしても出なかった。電報を打とう、と腹をきめた。ミルドレッドは、午前ちゅう、部屋の下見をして、満悦し、昼食後、フィリップは、彼女といっしょに、ハイベリに出かけていった。彼女の荷物は、服を入れたトランクひとつ、さまざまながらくたをつめたもうひとつのトランク、いくつかのクッション、ランプのおおい、写真の額縁などで、それを飾り立てて、なんとか家庭的な雰囲気をかもしだそうとしてきた道具立てだった。そのほか、二、三の大きなボール箱があったが、それは、そっくり、四輪辻馬車の屋根に乗せられるほどのものでしかなかった。
ヴィクトリア通りをとおっていったとき、フィリップは、ノーラがそこを歩いていたらと用心して、車の奥に身をひそめていた。電報を打とうにも打てず、ヴォクスホール橋通りの郵便局で、電報は打てなかった。その近所でなにをしていたのか? と思われるだろうし、そこまで来ていたら、彼女のいる近くのヴィンセント・スクウェアにまで足をのばさないなんて、どうにも言訳のつかぬことになるからだった。彼女の家にいって、三十分だけ会ってきたほうがいい、と彼は意を決した。だが、その必要が彼をイライラさせた。ノーラのことが腹立たしくなってきた。こうして低劣でいやらしい術策を弄《ろう》さなければならないのは、彼女のため、というわけだった。だが、ミルドレッドといっしょにいるのは、うれしいことだった。荷づくりを解くので手助けをするのは楽しく、自分がみつけて部屋代を払っている下宿に彼女をむかえてやるのは、なにか快い所有感を満足させてくれることだった。この引っ越しで、彼女を働かせようとはしなかった。彼女のために働いてやるのは楽しいこと、彼女は彼女で、自分のためにだれかほかの人間がよろこんでしてくれることを、自分でしようなんぞという気持ちは、サラサラもっていなかった。彼は、彼女の服の荷ほどきをし、それを片づけてやった。彼女は、もう外に出ない、といい、そこで彼は、スリッパーをもってきて、靴をぬがせてやった。召使いの仕事までしてやるのが、彼には楽しいのだった。
「あたしを甘やかしてくれるのね」ひざまずいて彼女の靴のボタンをはずしているとき、指で彼の髪をかきあげながら、やさしく彼女はいった。
彼は、彼女の両手をつかみ、それにキスをした。
「すばらしいことさ、きみがここにいるなんてね」
それから、クッションと写真の額縁をならべ立てた。彼女の持ち物として、いくつか青磁《せいじ》の壺《つぼ》があった。
「壺に花を入れてあげよう」彼はいった。
こうして自分のやった仕事を、彼はほこらしげにながめまわした。
「きょうは、もう外に出ないんだから、ゆったりした茶会服を着ることにするわ」彼女はいった。「うしろ、はずして、ねっ?」
彼女は、彼がまるで女であるように、ケロリとして背を向けた。彼が男であることなんて、彼女には問題ではなかったのだ。だが、こうしたたのみがみせてくれる親しみで、彼の心は感謝の念でいっぱいになった。そこで、ホックを不器用にはずしてやることになった。
「店にとびこんだあの最初の日、きみにこんなことをするようになるなんて、考えてもいなかったね」むりして笑いながら、彼はいった。
「だれかにしてもらわなくちゃならないのよ」彼女は答えた。
彼女は、寝室にゆき、安っぽいレースをたくさんつけて飾り立てた薄青い茶会服をスルリと着こみ、それが終ると、フィリップは、ソファに彼女を坐らせて、紅茶を入れてやった。
「わるいけど、ここにいて、きみといっしょにお茶を飲む暇はないんだ」残念そうに彼はいった。「いまいましい約束があってね。だけど、三十分したらもどってくるよ」
どんな約束とたずねられたら、どうしよう? と心配だったが、女はそんな好奇心をもってもいなかった。部屋を借りたとき、彼は二人前の食事を注文してあり、その晩は彼女といっしょに静かにすごそう、といってあった。早くもどろうと大あわてだったので、ヴォクスホール橋通りぞいの電車に乗りこんだ。自分は数分しかいられない、とノーラにすぐ打ち明けたほうがいい、と考えた。
「ねえ、ご機嫌うかがいの言葉しかいう暇はないんだよ」部屋にはいるとすぐ、彼はいった。
「すごくいそがしくってね」
彼女はがっくりした。
「まあ、どうしたの?」
嘘をつかなければならない破目に追いこまれるなんて、ムシャクシャ癪《しゃく》にさわることだった。どうしても出なければならない実物教授が病院である、と答えたとき、自分の顔が赤らんでくるのがわかった。相手はどうやら信じてないらしいな、と彼は思い、これがなお、彼をイライラさせた。
「ええ、構わないことよ」彼女はいった。「そのかわり、あした一日、来ていただくことよ」
ボーッとして、彼は彼女をながめた。明日は日曜日、その日をミルドレッドとすごそうと、楽しみにしていたのだった。ふつうの礼儀からいっても、それはしなければいけない、はじめてはいった家に、彼女をひとりで放りだしておくわけにはいかない、と考えていたからだった。
「とってもわるいんだけど、あしたは約束があってね」
これが、なんとしてもさけたいと思っている大喧嘩のきっかけになることは、彼にわかっていた。ノーラの頬は、サッと赤くなった。
「でも、ゴードンさん夫妻をお昼にお呼びしてあるのよ」――これは、地方を巡業し、日曜日にはロンドンにやってくる俳優とその奥さんだった――「一週間前に、その話はあなたにしてあるのよ」
「とってもわるいんだけど、それを忘れてしまったんだ」彼はモジモジした。「どうしても来れないと思うな。だれかかわりの人、どうしてもいない?」
「じゃ、あした、なにをするつもりなの?」
「たたみかけて調べられるなんて、いやだな」
「話したくないの?」
「いうことはなんでもないんだけど、自分の行動すべてにたいして説明を強要されるなんて、おもしろくないことだね」
ノーラの態度がサッと変った。怒るまい、怒るまいとしながら、前に出てきて、彼の両手をとった。
「あしただけは、がっかりさせないで、フィリップ。あなたといっしょに一日すごすのを、とっても楽しみにしていたのよ。ゴードンさん夫妻も、あなたと会いたがっているの。とても楽しい時が送れるのよ」
「できたらそうしたいとこなんだけど……」
「わたし、そうむりなことを注文しているわけじゃないでしよう、どう? なにかいやなことを、そうそうしてくれといってるわけじゃなし。そのいやな約束、なんとかならないもの―― こんどだけ?」
「とってもわるいんだけど、なんとかしようにも、方法がなくってね」ムッとして彼は答えた。
「じゃ、それがどんな約束か、いってくださらない?」機嫌をとるようにして、彼女はいった。
彼は、このときまでに、ある嘘をでっちあげていた。
「グリフィスのふたりの姉妹が、週末、ロンドンに来ててね、ぼくたちでこのふたりをつれだすことになってるんだ」
「それだけのこと?」うれしそうに彼女はいった。「グリフィスなら、かわりの人をすぐにみつけられることよ」
もっと切羽《せっぱ》つまった話をもちだすべきだった、と彼は後悔した。どうも不体裁《ぶていさい》な嘘だった。
「いいや、とってもわるいんだけど、だめなんだ――約束をしたし、それを守るつもりなんだからね」
「でも、わたしにも約束したのよ。わたしのほうが、きっと先よ」
「そんなにうるさくいわれたくないな」彼はいった。
彼女は、これでカッとなった。
「来たくないから、来ないのね。この何日間か、あなたはなにをしてたのかしら? すっかり人が変ってしまったことよ」
彼は懐中時計をみた。
「もういかなければならないな」彼はいった。
「あした、来てくださらないのね?」
「うん」
「そんなら、もう二度と来なくてよくってよ」すっかりプリプリになって、彼女は叫んだ。
「どうかお好きなように」彼は答えた。
「これ以上、わたしにひきとめさせないでちょうだい」彼女は皮肉につけ加えた。
彼は、肩をすくめて、外に出た。この程度ですんだのは、ホッとすることだった。泣きさわぎはなかったのだ。歩いてゆきながら、こんなにらくに手を切れたのを、彼はよろこんでいた。ヴィクトリア通りへいって、ミルドレッドに贈るわずかの花を買った。
ささやかな晩餐は、大成功だった。フィリップはキャヴィアの小壺を送ってあったが、これは、彼女の大好物だった。下宿のおばさんは、野菜つきのカツレツと甘い料理を運びあげてくれた。フィリップは、ミルドレッドお気に入りのバーガンディ|ぶどう《ヽヽヽ》酒を注文してあった。カーテンをおろし、炉の火はカッカと燃え、ランプにはミルドレッドのおおいをかけて、部屋はじつに快適だった。
「まるで家庭といった感じだね」フィリップはニツコリした。
「もっとひどい暮しをしたかもしれないのにね、どう?」彼女は答えた。
食事が終ると、フィリップは肘かけ椅子をふたつ炉の前にひきよせ、ふたりは腰をおろした。彼はゆったりとパイプをくゆらした。幸福で豊かな感じだった。
「あした、どうするつもり?」彼はたずねた。
「ああ、あしたはタルス・ヒルにいくつもりよ。お店の女将《おかみ》さんだった人、知ってることね。そう、あの人は、もう結婚してるの。あの人んとこに一日遊びに来ないかって呼ばれてるのよ。先方は、むろん、こちらも結婚してるもんと思ってるわ」
フィリップはがっかりした。
「だけど、日曜日をきみといっしょにすごそうと思って、ぼくは招待を断ったんだよ」
自分をもし愛していたら、そんなら家にいましょう、と彼女がいってくれるものと、彼は期待していた。ノーラだったら、迷わずそれをしてくれるのは、わかっていた。
「そう、断るなんて、バカなことをしたもんね。あたし、三週間以上も前に、この約束をしちまったのよ」
「でも、どうしてひとりでいけるんだい?」
「むろん、イーミルは商売で留守というわ。あの人のご主人は、手袋屋さんでね。とってもりっぱな方よ」
フィリップはおしだまり、にがにがしい思いが心をツッと走った。彼女は、そうした彼にチラリと横目を投げた。
「ちょっとした楽しみくらい、怒ったりはしないことね、フィリップ? だって、どのくらいつづくかわかんないけど、これを最後に当分、あたし、外に出られなくなるのよ。それに、約束しちゃったんですもん」
彼は、彼女の手をとり、ニッコリした。
「怒ったりはしないよ。できるだけ楽しくしたらいいんだ。きみの幸福だけを祈ってるんだからね」
ソファに、開いたまま面《おもて》を伏せて、青い紙の装幀《そうてい》の小さな本があり、なにげなく、フィリップはそれをとりあげた。それは二ペンスの例の小説で、作者はコートニー・バジェット、それはノーラの筆名だった。
「この作者の本、あたし、大好きよ」ミルドレッドはいった。「どれもみんな読んだわ。とってもお上品な洗練されたもんよ」
ノーラが自分自身のことをいっていた言葉を、彼は思い出した。
「わたし、台所の女中さんたちのあいだで、すごい人気者なのよ。わたしのことをとてもお上品と思っていてね」
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七十一
フィリップは、グリフィスから聞いたいろいろの打ち明け話のおかえしに、自分のこみ入った情事の委細《いさい》を話し、日曜日の朝、朝食後、ふたりが化粧着のままで炉辺に坐り、タバコをくゆらしているとき、彼は前日のいきさつを語り伝えた。苦境からこうしてやすやすと脱出できて、おめでとう、とグリフィスはいってくれた。
「女といい仲になるのは、じつに簡単なことさ」説教調になって、彼はいった、「ところが、縁を切る段になると、なかなかもって厄介《やっかい》なことになってくるんだ」
フィリップは、事の処理のみごとさに、われながら、自分の背中をポンとたたいてやりたい気分になった。とにかくえらくホッとした。タルス・ヒルで楽しんでいるミルドレッドに思いを馳せ、彼女の幸福を考えて、心から満足していた。自分自身の失望という代償を払ったにせよ、彼女の楽しみの邪魔をしなかったのは、彼のほうでの自己犠牲だったのだ。これを思うと、彼の胸はホノボノとした気分でいっぱいになった。
だが、月曜日の朝、テーブルの上に、ノーラからの手紙がおかれてあった。文面は以下のようなものだった。
[#ここから1字下げ]
拝啓
土曜日、怒ったりしてすみませんでした。許してちょうだい。いつものように、午後のお茶でお待ちしています。わたし、あなたを愛しています。
あなたのノーラより
[#ここで字下げ終わり]
彼はがっくりし、どうしたらいいのかわからなくなった。この手紙をグリフィスのところにもっていった。
「返事を出さずに放っといたほうがいいよ」グリフィスはいった。
「いやあ、そんなわけにはいかない」フィリップは叫んだ。「彼女が待ちに待ってるのを考えたら、こっちまで悲しくなつちまうからね。郵便配達のノックをジリジリとして待ってる気持ち、きみにはわからないんだよ。ぼくにはわかってて、あの拷問の苦しみを他人に味わわす気持ちにはなれないんだ」
「ねえ、きみ、だれかを苦しめなけりゃ、手を切るなんてことはできないもんなんだよ。それにたいしては、歯を食いしばってがんばらなけりゃいけないな。その苦しみはそうながつづきするもんじゃない、ということだけはいえるね」
ノーラを苦しめても当然といった仕打ちなんて、彼女はしたことがない、とフィリップは思った。彼女が味わう苦悩を、どの程度までグリフィスが知っているのだろう? 結婚しようと思うとミルドレッドに伝えられたとき、彼自身が味わった苦悶が思い出された。そのときの思いを、ほかのだれにも味わわせたくはなかった。
「女を苦しめたくなかったら、女んとこにもどったらいいだろう」グリフィスはいった。
「そんなこと、できるもんか」
彼は立ちあがり、イライラしながら、部屋を歩きまわった。そのまんま放っておいてくれないことで、ノーラが腹立たしくなってきた。もう彼女に与える愛情がないのを、彼女はさとるべきなのだ。女がこうしたことをみぬく目は早い、と世間ではいっているのだが……。
「ぼくを助けてくれてもいいはずだよ」彼はグリフィスにいった。
「ねえ、きみ、そうさわぎ立てることはないよ。世間の人だって、こうしたことはなんとかしのいでいくんだからね。もしかすると、女のほうでも、きみが思いこんでるほどそうぞっこんってわけじゃないかもしれんのだ。人というもんは、自分にたいしてもった他人の愛情というものを大げさにみたがるもんなんだからね」
彼は言葉を切り、おもしろそうにフィリップをながめた。
「いいかい、ひとつだけできることがある。彼女に手紙を書き、事終りぬ、つていってやるんだ。誤解がないように、はっきり書いたらいい。相手に傷は与えるよ。だが、いい加減なふうにやるより、ことをビシリとやっつけたほうが、相手に与える傷は浅くなるわけなんだ」
フィリップは腰をおろして、つぎの手紙を書いた。
[#ここから1字下げ]
親愛なるノーラヘ
きみを不幸にして申訳ないことだが、事態を土曜日のままにしておいたほうがいいと思う。こうしたことがおもしろくもないことになった以上、それをダラダラとひきずっていくのは、意味のないことなのだから。きみは、出てゆけ、といい、ぼくは出ていった。もう帰るつもりはない。さようなら。
フィリップ・ケアリー
[#ここで字下げ終わり]
この手紙をグリフィスにみせ、どう思うか、とたずねた。グリフィスはそれを読み、目をピカリと輝かして、フィリップをみたが、感想はなにもいわなかった。
「これで用は達するだろう」彼はいった。
フィリップは出ていって、それを投函《とうかん》した。気分のわるい朝だった。手紙を受けとったとき、ノーラがどんな胸中になるかと、事細かに想像していたからだった。彼女の流す涙を思うと、拷問の苦しみだった。だが、それと同時に、ホッとした気分にもなっていた。想像する悲しみは、現実に目にする悲嘆より堪えやすく、いまはもう、心すべてを傾けて、自由にミルドレッドを愛することができたからである。その日の病院で受ける授業が終れば、午後ズッと彼女に会いにいけると思うと、彼の心はおどりあがった。
いつものとおり、身仕度《みじたく》をととのえようと下宿に帰り、鍵をドアにさしこむやいなや、彼の背後で人声がした。
「はいってもいいこと? 三十分も待ってたのよ」
ノーラだった。髪の根元まで真っ青になる感じだった。彼女は陽気に話し、声に怒りのようすはぜんぜんなく、ふたりのあいだに破綻《はたん》が生じたことを思わせる気配は示していなかった。彼としては、窮地に追いこまれたような感じだった。どうなるかと胸がワクワクしたが、必死の思いで、ニッコリとした。
「ええ、どうぞ」彼はいった。
ドアをあけると、彼女は先に立って居間にはいっていった。彼は心配で緊張していたが、気を落ち着けようと、タバコを彼女にすすめ、自分も一本とって火をつけた。彼女は明るく彼をながめた。
「あんないやな手紙、どうしてくださったの、この腕白坊主さん? 本気に受けとったら、わたし、ほんとにみじめな女になってしまうとこだったのよ」
「でも、本気の話だったんですよ」彼は大まじめでいった。
「バカなこと、やめてちょうだい。こないだはついカッとなってしまったけど、手紙を書いて、おわびをしたのよ。それでも承知してくれなかったので、こうしてやってきて、またおわびをしているの。結局のとこ、あなたは自分の好きなようにできる身、わたしは、あれこれとあなたにうるさいことはいえないの。どんなことでも、いやなことをしてくれという気はないわ」
彼女は、坐っていた椅子から立ちあがり、両手を前に出して、衝動的に彼のほうに進んできた。
「仲なおりしましょうよ、フィリップ。あなたの気分をわるくしたら、わたし、おわびすることよ」
どうにもならず、手を彼女にとられてしまったが、彼は彼女から目をそらせてしまった。
「もう時すでにおそしなんですよ」彼はいった。
彼女は、彼のわきでストンとからだを落し、彼の膝にしがみついた。
「フィリップ、バカなことはしないでちょうだい。わたしも癇癪もち、あなたの心を傷つけたことはわかるわ。でも、そのことにムンムンしているなんて、つまらないことよ。ふたりともみじめになって、どんな得《とく》になるっていうの? とても楽しかったじゃないの、わたしたちの親しい仲は」彼女はゆっくりと指で彼の手をなでた。「わたし、あなたを愛しているのよ、フィリップ」
彼は、彼女から身をふりはらって立ちあがり、部屋の反対側にいってしまった。
「とてもわるいけど、ぼくたちどうにもならないんだ。もう、ことすべては終りなんだ」
「もうわたしを愛してないということ?」
「どうやら、そうなんだ」
「わたしをすてる機会をねらっていて、あの機会をつかんだというわけ?」
彼は答えなかった。彼女はしっかりと、しばらく、彼をみていたが、この時間は、彼にはもうたまらぬものだった。彼女は、もとのまま、がっくりと床に坐り、肘かけ椅子に寄りかかっていた。そして、顔をかくそうとはせず、声も立てずに静かに泣きはじめ、大粒の涙がポタリポタリと頬を流れ落ちた。すすりあげることもしなかった。この光景は、とても痛ましいものだった。
フィリップは面《おもて》をそむけた。
「きみの心を傷つけて、とてもすまないと思っている。だけど、きみを愛してないのは、ぼくがわるいからじゃないんだよ」
彼女の返事はなかった。おしつぶされたように、ただそこに坐り、涙が頬を流れ落ちていった。責められたほうが、まだらくなくらいだった。いずれ癇癪を起こすもの、と彼は考え、その覚悟はしていた。彼の心の裏には、いいたいことをいい合って相手の心を傷つけるほんとうの喧嘩になったら、ある程度、自分の態度も正当なものになるだろう、といった気持ちがひそんでいた。時が経過していった。とうとう、相手が静かに泣いているのがおそろしくなり、彼は寝室にゆき、コップに水を入れ、部屋にもどって、彼女の上にかがみこんだ。
「水をちょっと飲んだら? 気が静まるよ」
彼女はグッタリとしてコップに口をつけ、二、三口飲んだ。それから、つかれきったつぶやき声で、ハンカチをくれといい、目をぬぐった。
「もちろん、わたしほどあなたが愛してくれてないのは、わかってたわ」彼女はうめいた。
「だいたい、そういうもんじゃないのかな」彼はいった。「いつも、一方は愛し、一方は愛されるまんまでいるというのがね」
フッとミルドレッドのことが頭に浮かび、ビリッと苦しい痛みが彼の心をつきぬけて走った。ノーラは、ながいこと、返事をしなかった。
「わたし、みじめな不幸を味わっていたの。生きているのが、もういやになっていたのよ」彼女はとうとういった。
これは、彼にではなく、自分自身に彼女がいった言葉だった。夫と暮した生活や自分の貧乏のことで、彼女が愚痴をこぼすのを、彼は耳にしたことがなく、世間に示している彼女の雄々しい態度には、いつも心を打たれていたのだった。
「それから、あなたがあらわれ、とても親切にしてくださったことね。そして、利口なあなたを尊敬し、信頼できるだれか人がいるのは、とってもすばらしいことだったわ。あなたを愛していたの。それが終るなんて、夢にも考えていなかったわ。しかも、こちらにわるいことはなくってね」
涙が、また、流れだしたが、もうかなり落ち着きはとりもどし、彼女はフィリップのハンカチに顔をうずめた。一生けんめい心をおさえようとしているのだった。
「もう少し水をちょうだい」彼女はいった。目の涙をふきとった。
「こんなバカな真似をして、ごめんなさいね。あんまり思いがけないことだったので……」
「ほんとにわるいと思ってるよ、ノーラ。ぼくにしてくれた親切には、とっても感謝しているんだ」
彼女が自分にどんないいとこをみつけたのだろう? と彼は考えていた。
「ああ、いつも同じことなのね」彼女はため息をもらした。「男にきちんとふるまわせようと思ったら、ひどいあつかいをしなければいけないのよ。まともなあつかいをしたら、それで苦しむことになるのは、こちらなんですものね」
彼女は床から立ちあがり、もう帰る、といった。ジーッとしっかりフィリップをみつめていて、それからフーッとため息をもらした。
「どうしてもわからないの。これは、いったい、どういうことなの?」
フィリップの腹は、サッときまった。
「きみにいってしまったほうがいいだろう。そうひどくわるい者にも考えられたくはないからね。どうにもならなくなったことを、きみに知ってもらいたいんだ。ミルドレッドがもどってきたんだ」
彼女の顔は、サッと赤くなった。
「どうしてそれを、すぐいってくださらなかったの? それくらいはいってくださってもいいはずよ」
「こわくてね」
彼女は、鏡をのぞきこみ、帽子をしっかりとかぶった。
「馬車を呼んでくださること?」彼女はいった。「とても|歩いて《ヽヽヽ》いけそうもないわ」
彼は戸口に出てゆき、とおりすがりの二輪辻馬車をとめたが、彼のあとに彼女がついて出てきたとき、その顔色の青さに、彼はびっくりした。急に老けこんだように、彼女の動きにはけだるさがあらわれていた。とても気分がわるそうなので、そのまま彼女をひとりで帰す気にはどうしてもなれなかった。
「よかったら、送ってあげようか?」
彼女はなにも答えず、彼は馬車に乗りこんだ。ふたりはだまったまま、橋を越え、子供たちが甲《かん》高い声をあげて遊んでいるきたない道路をとおりぬけていった。彼女の家の戸口に着くと、彼女はすぐに車からはおりなかった。足を動かす力をふりしぼることができないようだった。
「どうか許してくれたまえ、ノーラ」彼はいった。
彼女は目を彼のほうに向け、それが、また、涙で輝いているのが、彼にわかった。だが、彼女はむりをして、口許《くちもと》に微笑を浮かべた。
「かわいそうに、わたしのことで、すっかり心配しているのね。心配することはないことよ。責めたりはしないわ。いまに、すっかり忘れることよ」
彼女は軽くサッと彼の顔をなで、悪感情をもっていないのを知らせようとしたが、その仕草は、それとなく知らせるといった程度のものにすぎなかった。それから、馬車からとびおり、家の中にはいってしまった。
フィリップは、馬車代を払い、ミルドレッドの下宿まで歩いていった。なにか妙に心が重かった。自分を責めたい気持ちだった。だが、どうして? ほかにどんな方法があったというのだろう? 果物屋の前をとおりながら、彼は、ミルドレッドが|ぶどう《ヽヽヽ》好きなのを思い出した。あの女の気まぐれをあれこれと思い起こすにつれ、いま彼女に愛情を示すことができるのは、じつにうれしいことだった。
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七十二
それからの三月《みつき》間、フィリップは、毎日、ミルドレッドに会いに出かけていった。本は持参で、お茶のあとは勉強し、ミルドレッドは、ソファで横になって、小説を読みふけっていた。ときどき、彼は目をあげ、しばらく、彼女をジッとながめ、幸福そうな微笑が口許に浮かんでいたが、彼女はその視線を意識していた。
「あたしをみたりして、時間つぶしなんかしちゃいけないことよ、おバカさん。身を入れてせっせと勉強しなさい」彼女はいった。
「暴君だなあ」彼は陽気に答えた。
夕食の準備に下宿のおばさんがはいってくると、彼は本をおしのけ、上機嫌でこの彼女と冗談口をかわした。このおばさんは、ロンドンっ子の小女《こおんな》、中年で、おもしろい、口のよくまわる女だった。ミルドレッドは、もう、大の仲よしになり、こうした破目になった手のこんだもっともらしい話をしてあり、人のいい小女は、すっかり同情して、骨身惜しまずせっせとミルドレッドの身のまわりの世話をしてくれた。ミルドレッドのお上品ぶりのお蔭で、フィリップは彼女の兄に仕立てられることになった。ふたりはいつしょに食事をし、なにかを注文して、たまたまミルドレッドの気まぐれな食欲をそそったりすると、フィリップは大よろこびだった。自分と向い合せに坐っている彼女をみているだけで、もううっとりし、ときどき、すっかりうれしくなって、彼女の手をとってにぎりしめた。夕食後、彼女は炉のそばの肘かけ椅子に坐り、彼は女のかたわらの床に坐りこみ、その膝に寄りかかって、タバコをすっていた。ときどき、ふたりは、だまったまま、こうした状態をつづけていたが、よく彼女はウトウトしていた。こうしたとき、目をさまさせてはと思って、フィリップは身じろぎもせずにジッと静かに坐りつづけ、することもなく火に見入り、自分の幸福をしみじみと味わった。
「気持ちよくひと眠りしたかい?」彼女が目をさますと、彼はニッコリしてたずねた。
「眠ったりしてないわ」彼女は答えた。「ただ目をつぶってただけよ」
自分が眠ったとは絶対に認めようとしない女だった。粘液質の鈍感さで、妊娠したのをそう気にはしていなかった。健康にはとても気を配って、注意してくれる人があれば、その注意をぜんぶそっくり受け入れた。天気がよければ、「健康のための散歩」に出かけ、一定時間、外の大気にふれ、寒くないときには、セントジェイムズ公園で坐りつづけていた。それ以外の時間は、もうのんびりとソファにねそべり、つぎからつぎへと小説に読みふけったり、下宿のおばさんとおしゃべりをしていた。うわさ話には異常なほどの関心の持ち主で、下宿のおばさん、応接間の階の下宿人たち、両どなりの家の人たちの来歴の細かな話を、あきもせずクドクドとフィリップに伝えた。
ときにふるえあがって恐慌《きょうこう》状態に落ちこむことがあり、お産の苦しみについての心配をフィリップにぶちまけ、死ぬんじゃないかとひどく心配し、下宿のおばさんと応接間の階の女の人のお産話をこまごまと述べ立て(そのくせ、彼女はこの下宿人の女とはつき合っていなかった。彼女の話によれば、「あたし、人とはそうおつき合いをしない質《たち》なの。だれとでも出歩いたりはしなくってね」だった)、妙なふうにおもしろがっているふうを恐怖の情とつきまぜて、それを話した。だが、だいたいのところ、彼女はお産の時期が来るのを冷静に受けとめていた。
「なんといったって、みんな女はお産をするもんなのよ。それに、心配はないって先生がいってるの。からだだって、ちゃんと一人前のできなんですもんねえ」
お産のときになったらうつることになっている家の主人のオウエン夫人は、ある医者を紹介し、ミルドレッドは、週に一回、その診察を受けた。この費用は十五ギニーだった。
「もちろん、もっと安くしてもらうこともできたのよ。だけど、オウエンさんがとてもその先生をすすめるし、ちょっとの物惜しみで大変なことになってもと思ったの」
「きみが幸福で楽しくやっていけたら、お金のことなんて、心配しなくていいよ」フィリップはいった。
フィリップがしてやることすべてを、女は、至極当然なことといったふうに受けとめ、彼にしても、女のために金を使うのを、とてもよろこんでいた。五ポンド紙幣をわたすたびに、彼はゾクリとする幸福感とほこりやかな気分を噛みしめていた。金使いの荒い女だったので、わたした金もバカにならない金額だった。
「どこにお金が消えちゃうのかしら?」彼女自身がいっていた、「指のあいだを、まるで水のように、流れていっちまうのよ」
「構わないさ」フィリップはいった。「きみのためになにかできれば、とってもうれしいんだからね」
彼女は、縫い物がそう得意でなく、生れてくる赤ん坊に必要なものはつくらず、結局買ったほうがズッと安あがりになる、とフィリップにいった。フィリップは、最近、金が投資されてあった譲渡《じょうと》抵当を売り払い、現金化のもっと早いなにかにそれを投資しようと、五百ポンドを銀行に預けてあったので、ふだんになくゆったりとした気分にひたっていた。ふたりはよく、将来のことを話した。フィリップは、子供をミルドレッドの手許《てもと》におくように、と考えたが、彼女は反対だった。自分の生活費はかせがなければならない、赤ん坊の世話をみずにすめば、もっとらくにそれができる、というわけだった。彼女は、もと働いていた商社の店にもどろう、子供はいなかのだれかきちんとした婦人に預けたらいい、と考えていた。
「週に七シリング六ペンスで、赤ん坊の世話をよくみてくれる人をだれかみつけることができるわよ。赤ん坊にも、あたしにも、それのほうがいいの」
それは、フィリップには、冷淡に思えたが、それを説得しようとすると、金惜しみのため、と思いこんでいるふりを女はした。
「そのことは、あんた、心配しなくっていいことよ」彼女はいった。「あんたにお金を払わしたりはしませんからね」
「どれだけ金を払おうと、こっちは気にしてないのを知ってるじゃないか」
彼女の腹の底には、死産であれば、という気があった。ただそれをほのめかすだけだったが、歴然とその気持ちがあるのは、フィリップにわかっていた。彼は、最初びっくりはしたものの、考えてみると、関係者全員にとって、それは望ましいことと認めずにはいられなかった。
「あれこれと口先だけでいうのはとても結構なことなんだけど」ミルドレッドは不平タラタラだった、「女がひとりで暮しを立てるだけでも、そうらくなことじゃないことよ。赤ん坊つきだったら、らくになりっこないわ」
「だが、運よく、たよれるぼくがいるじゃないか」彼女の手をとって、フィリップはニッコリした。
「とてもやさしくしてくれたことね、フィリップ」
「ちえっ、バカな!」
「そのお礼に、あたしがなんにもしなかったとはいわせないことよ」
「いやあ、おかえしなんか要るもんか。きみになにかしてあげたとすれば、愛情のためにそれをしたんだ。ぼくに借りなんかはぜんぜんない、きみに愛情がなかったら、なんにもしてほしくはないんだからね」
他人になにかしてもらった礼として、自分の肉体を平気で商品として売りわたしてしまおうとする女の気持ちに、彼はいささか度胆《どぎも》をぬかれた。
「でも、あたし、それをしたいと思ってるのよ、フィリップ。とっても親切にしてくれたんですもんね」
「うん、待っても、べつにどうってこともないからね。すっかり元気になったら、ささやかな新婚旅行に出かけることにしよう」
「わからず屋さんだことねえ」ニッコリして、彼女はいった。
ミルドレッドのお産は、三月のはじめの予定で、元気になりしだい、二週間、海辺に保養にいくはずだった。そうなれば、フィリップも、邪魔を受けずに、試験勉強ができるわけだった。それが終れば復活祭の休みになり、いっしょにパリにいこう、ということになっていた。フィリップは、ふたりでしようと思っていることを、とめどなくながながと話した。そのころのパりの季節はいいだろう。ラテン地区の知っているホテルでひと部屋を借り、ありとあらゆる感じのいい小さなレストランで食事をしよう。ふたりは芝居をみ、演芸場にもいくことにしよう。自分の友人たちに会えば、ミルドレッドも楽しいだろう。クロンショーの話をすると、彼女も彼に会いたがっていた。それに、ローソンもいた。彼は、もう、二ヵ月間、パリに滞在していた。バル・ビュリエにいって踊ることにしよう。遠出もしよう。ヴェルサイユ、シャルトル、フォンテンブローに小旅行もできる。
「ずいぶんお金がかかることよ」彼女はいった。
「うん、金なんてどうでもいいんだ。ぼくがそれをどんなに楽しみにしてるか、考えてもごらん。それがぼくにどんなに大切なことか、きみにはわからないのかい? きみ以外に愛した女はないんだ。今後もきっとないよ」
彼の熱のこもった話を、目に微笑を浮かべながら、女は聞き入っていた。その目にいままでにないやさしさがこもっているのをみて、彼は感謝の念でいっぱいになった。彼女は以前よりズッとやさしくなった。前に彼を焦ら立たせていた高慢ちきぶりは、もうなかった。もうすっかり彼に馴れ、彼の前で体面をつくろおうなどとはしなかった。以前のように念入りに髪を結《ゆ》おうともせず、ただひと束に結んでいるだけ、いつもしていた大きな切りさげ前髪もやめ、この無造作《むぞうさ》な型が彼女には似合った。顔はとても痩せていたので、目がとても大きく映り、その下には太いしわがあり、頬の青白さがそれをいっそう浮き彫りにした。彼女の物思わしげな風情は、得もいえず痛ましかった。フィリップの目には、こうした彼女になにかマドンナ的なものがあるように思え、こうした毎日がいつまでもつづけばとねがっていた。これは、いままでにない幸福の味だった。
彼は、毎晩、いつも十時に彼女と別れた。彼女が早寝をしたがっていたためで、下宿に帰ってから二時間勉強し、むだに使った時間の穴埋めをしなければならなかった。帰る前、いつも彼女の髪に櫛《くし》を入れてやり、おやすみの挨拶をいうとき、彼女にキスをするのを儀式にしていた。最初彼女の手のひらにキスをし(その指の細かったこと! 爪は、いつも時間をかけてマニキュアをしていたので、とても美しかった)、それから閉じた目、最初に右、つぎに左の目にキスをし、最後に唇というのがその順序だった。愛情で胸をふくらませて下宿に帰っていった。自分を焼きつくしている自己犠牲へのねがいを満たす機会をあこがれ求めているのだった。
やがて、産院入りする時がやってきた。そうなると、フィリップは、午後しか訪問できなくなった。ミルドレッドは自分の話を変え、自分は軍人の妻、夫はインドの連隊に出向いている、ということになり、フィリップは産院の女主人に、義理の兄弟として紹介された。
「自分の話に気をつかわなけりゃならないのよ」彼女は彼にいった、「だって、夫がインドの文官という女《ひと》がいるんですもんね」
「ぼくだったら、それで気なんかもんだりはしないね」フィリップはいった。「その女の主人ときみの主人は、同じ船で出ていったにちがいないんだからね」
「どんな船なの?」が、おめでたい彼女の質問だった。
「幽霊船さ(喜望峰付近に出没したと伝えられる船、船員たちはこれをみるのを不吉の兆しと考えていた)」
ミルドレッドは無事に女の子を産み、フィリップが面会を許されると、その子が彼女の横に寝かされていた。ミルドレッドはとても弱っていたものの、お産がすんで、ホッとしていた。彼女は赤ん坊をみせ、自分もジロジロとそれをながめた。
「妙ちくりんなちっぽけなもんね、どう? 自分の子とはとても思えないわ」
赤ん坊は、赤くて、しわくちゃ、奇妙なものだった。それをながめて、フィリップはニッコリした。なんといっていいのか、どうにもわからなかった。この家の主人の産婆がそばに立っているのは、気づまりだった。それに、自分をみているようすで、ミルドレッドの手のこんだ話なんかは信用したりせず、自分を赤ん坊の父親とみているらしいな、と感じとっていた。
「この赤ちゃんの名は、なんとつけるの?」フィリップはたずねた。
「マドレンにしようか、セシリヤにしようかと迷ってるの」
産婆は、数分間、出てゆき、フィリップはかがみこんで、ミルドレッドの口にキスをした。
「無事にすんでよかったね」
彼女は痩せた両腕を彼の首にまきつけた。
「親切にしてくれたことね、フィル」
「これでとうとう、きみがぼくのものになったような気がするよ。ながいこと、きみを待ちこがれていたんだからね」
戸口に産婆の物音を聞き、フィリップはあわてて立ちあがった。産婆がはいってきたが、その口許にはかすかな微笑が浮かんでいた。
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七十三
三週間後、フィリップは、ミルドレッドと赤ん坊がブライトン(英仏海峡に臨む海水浴場)にゆくのを見送った。彼女の回復は早く、いままでにないほど元気そうになった。イーミル・ミラーと二回週末をすごしたことがある下宿にゆく予定で、もう、夫は商用でドイツにゆかねばならず、赤ん坊をつれて自分だけでいくことになった、と手紙を出してあった。自分のでっちあげの話を彼女は楽しみ、細かな話をつくりだすのに、なかなかの才能ぶりを発揮した。ブライトンで赤ん坊の世話をよろこんでみてくれるだれか女をみつける、とミルドレッドはいっていた。こんなにすぐ赤ん坊を手放そうとする女の冷淡さに、フィリップはびっくりしたが、あわれな子供は、自分に馴れないうちに、どこかに預けたほうがズッといい、と常識ぶりをふりまわして彼女は主張した。二、三週間赤ん坊といっしょにいれば、母性本能が生まれ、これをたよりに、赤ん坊を手放さぬように説得できる、とフィリップは考えたが、そんな気配はぜんぜんなかった。
ミルドレッドは赤ん坊に冷たいわけではなく、必要なことはちゃんとやり、ときに赤ん坊を楽しみ、赤ん坊のことを大いに語っていた。だが、本心は冷淡だった。赤ん坊を自分のかけがえのない一部とみてはいなかった。もう父親に似ているところがある、などといい、子供が大きくなったら、どうしたものか、と案じ、愚かにもこんな子供を生んでしまったわが身のことで、むしゃくしゃ腹を立てていた。
「こんなことになると、あのとき知ってさえいたらねえ」彼女はいった。
彼女は、子供の幸福のことで気をもんでいる彼をあざ笑っていた。
「ほんとの父親になっても、そんなさわぎはできないことよ」彼女はいった。「イーミルが赤ん坊のことをそうしてさわぎ立てる姿、みたいもんだことね」
フィリップの心は、いままで耳にした託児所のおそろしい話、利己主義で無情な親が預けたみじめな子供たちを虐待する鬼のような婆さんのことでいっぱいになっていた。
「バカなこと、いうもんじゃなくってよ」ミルドレッドはいった。「それは、赤ん坊の世話をみてくれと、ドンと一度にお金を女に払ってやったときのことなの。でも、週にいくら払うということになりゃ、世話をよくみてくれたほうが向うの得《とく》になるんですからね」
フィリップは、赤ん坊を預ける相手は、自分たちの子供がなく、ほかの子供は預からないと約束してくれる人にすべきだ、と強くいい張った。
「値切ったりしてはいけないよ」彼はいった。「子供が飢えたりたたかれたりする心配があるんだったら、週に半ギニー払ったほうがいいんだからね」
「あんたって、変な人だことねえ、フィリップ」彼女は笑った。
彼からみれば、天涯《てんがい》孤独の子供には、なにかあわれをさそうものがあるのだった。小さく、醜悪な、ピーピー泣く赤ん坊だった。その誕生は恥辱と苦悶でむかえられ、それを望む者はなく、食事、家、裸のからだに着せる着物一切は、赤の他人のフィリップにたよりっきりのものだった。
列車が動きだしたとき、彼はミルドレッドにキスをした。赤ん坊にもキスをしたいところだったが、女に笑われるのがいやだった。
「手紙をおくれ、いいね? ああ、ジリジリしながらきみの帰りを待ってるよ」
「試験にとおるよう、しっかりやるのよ」
そのときまで、身を入れて試験勉強をやっていたが、試験までにのこるは十日間だけ、最後の努力を彼は傾けた。試験を及第したかった。第一の理由は、時間と出費の節約のためだった。過去四ヵ月のあいだ、金は信じられぬほどの早さで指のあいだがらこぼれ落ちていったからである。第二の理由は、この試験であくせくやる糞勉が終るからだった。それがすめば、学生の勉強対象は内科、産科、外科となり、それは、いままでやってきた解剖学や生理学よりズッと興味のもてるものだった。フィリップは、のこりの教科課程を楽しみにしていた。それに、試験に失敗したとミルドレッドに白状しなければならなくなるのは、いやなことだった。試験はむずかしく、大部分の受験者は、最初、落第の憂き目を味わわされていたが、この試験をうまくやらなかったら、ミルドレッドにうとんじられるのを、彼はちゃんと知っていた。この女は、自分の考えを述べながら、妙に相手に屈辱感を味わわせる方法を心得ていた。
ミルドレッドから葉書きがとどき、無事到着を知らせ、彼のほうでは、三十分をなんとか都合して、ながい手紙を彼女に書き送った。心中を口でしゃべるのは、いつも、なんだか気恥ずかしくてならなかったが、ペンを手にすると、口でいえば滑稽《こっけい》に思われるどんなことでも、彼女に伝えることができることがわかった。この発見を利用して、心すべてを彼女に吐露《とろ》してしまった。自分の愛情が自分の心のすみずみまでゆきわたり、その結果、行動と思考すべてがその色に染められている事実を、これまでは、彼女にどうしても伝えられないでいた。将来のこと、自分の前途に待ち構えている幸福、彼女に感じている感謝の念、これを手紙に託して伝えた。
彼女にどんなものがあって、自分の心をこうまで途方もないよろこびで満たしてくれるのだろう? と彼は自問した(これは、いままでもよくやっていたことだったが、どうしても言葉に表現できないものだった)。どうもわからなかった。わかっているのは、ただ、彼女がいっしょにいれば、自分が幸福になり、そばにいなくなると、世間が、突然、冷たく灰色になる、ということだけだった。彼女のことを思うと、心臓がからだの中で大きくふくらんでくるように感じ、その結果、(まるで肺がそれでおしつぶされるように)息まで苦しくなってくる、心臓がドキドキと脈打ち、そのために、彼女の存在のよろこびがほとんど苦痛とも感じられる、ということだけは、彼にわかっていた。膝はふるえ、妙に力がぬけていくような感じ、食事をとらないために、栄養不足でからだにふるえがきたようだった。女の返事がとても待ち遠しかった。
彼女がそうひんぴんと手紙をくれるものとは思っていなかった。手紙を書くのは苦手と知っていたからである。こちらの四通にたいして送られてくる短い芸のない手紙一通で満足だった。彼女の話は、部屋を借りた下宿、天気と赤ん坊のことで、下宿で出逢い、赤ん坊をすっかり好きになってくれた女友だちと海辺の遊歩道を散歩した、土曜日の晩には芝居をみにいくつもりだ、ブライトンもだんだんこんできた、といったことがその内容だった。手紙がじつに平凡きわまることが、かえってフィリップの心を打った。わけのわからない読みにくい文体、型どおりの内容は、笑いだしたくもあり、腕に抱きかかえてキスをしてやりたくもなる妙な感じを、彼に与えた。
自信満々、彼は試験を受けた。試験問題でむずかしい個所はなかった。試験は上首尾とはっきりわかり、試験の第二部は口頭試問で、そうとう神経を使うものだったが、なんとかうまく答えることができた。結果が発表されると、彼は、意気揚々、ミルドレッドに電報を打った。
下宿にもどると、彼女から手紙が来ていて、もう一週間ブライトンに滞在したほうがいいと思う、と伝えてきた。週七シリングで赤ん坊をよろこんで預ってくれる女をみつけたが、さらにその調査をやりたい、海辺の空気がからだにとてもよく、もう数日いたら、効果|覿面《てきめん》だろう。フィリップに金をくれというのはとてもいやなことだが、金を少し大至急送ってほしい、新しい帽子を買いたいのだ、まさか同じ帽子でいつも女友だちと歩きまわるわけにはいかないし、その女友だちがまた衣裳好みの女《ひと》なのだ、といったことだった。フィリップは、一瞬、ひどくがっかりした。試験突破のよろこびすべてが、すっかり消されてしまった感じだった。
「あの女がぼくの四分の一でも愛情をもっててくれたら、必要以上一日だってグズグズしてられるはずはないんだがな」
だが、そうした考えを、彼は素早く心から追い払ってしまった。それは、まったくの利己主義、彼女の健康がなにより第一のことは、いうまでもないことだった。だが、いま、彼にはなにもすることがなかった。ブライトンで彼女といっしょに一週間をすごし、一日じゅういっしょにいられるのだ。こう思うと、心はおどりあがった。そこの下宿に自分もひと部屋借りたといって、いきなりミルドレッドの前に姿をあらわしたら、おもしろいだろう。汽車をさがした。だが、やれ待て、と考えだした。自分と会ってよろこんでくれるかどうか、自信がなかったからだった。彼女はブライトンで友だちをつくっている。自分は静かな人間、彼女はさわがしい陽気さを好む女だ。自分よりほかの人たちといっしょにいて彼女が楽しんでいるのが、彼にはわかった。一刻でも自分が邪魔者あつかいされているのを感じたら、それは、拷問の苦しみになるだろう。その冒険をおかすのがこわかった。ロンドンでは用事がないので、毎日彼女と会えるブライトンで一週間すごしたい、と手紙でそれとなくほのめかすことも、おそろしくてできなかった。自分に用事のないのは先方でも承知のこと、来てほしいのだったら、そうしてくれといってくるはずだ。こちらでいくといい、女にうまい口実をつくって断られた場合、自分が味わう苦悶がおそろしくなった。
その翌日、手紙を書き、五ポンド紙幣を送り、手紙の最後のところに、そちらで週末に会いたい気分になってくれたら、こちらではとんでいく、だが、そのために計画を変える必要はいささかもない、と書きとめておいた。彼女の返事をジリジリしながら待っていたが、その返事で、前に知っていさえしたら、そのようにとりはからっただろうが、土曜日の夜は、演芸場にいく約束をしてしまった、その上、彼がそこに泊ったら、下宿の人たちのうわさ話の種になるだろう、と書いてあった。そして、日曜日に来て、一日すごしたらどうか? メトロポールで昼食をとろう、そのあとで、赤ん坊を預ってくれるとてもきちんとした貴婦人のような人物を紹介しよう、ということだった。
日曜日。すばらしい好天気で、彼は大よろこびだった。汽車がブライトンに近づくと、太陽が客車の窓にさしこんできた。プラットフォームで、ミルドレッドが待っていた。
「きみがむかえに来てくれるなんて!」彼女の両手をとって、彼は叫んだ。
「あたしが来ると思ってたんでしょう、どう?」
「来てくれれば、とは思ってたよ。いやあ、元気そうになったね!」
「とてもからだによかったの。でも、できるだけながくここにいたほうが利口と思ってるのよ。その上、下宿にはとてもお上品な人たちがいるわ。何ヵ月も人と会わないでいただけに、陽気にさわぎたかったのね。ときどき退屈だったんですもん」
新しい帽子、えらくたくさんの安物の造花で飾り立てた大きな黒の麦稈《むぎわら》帽子で、彼女はいかにもスマートないでたちだった。首のまわりには、まがいものの白鳥の羽根のながい襟飾りがユラユラと巻きつけてあった。まだとても痩せ、歩くとき少し前かがみになっていたが(これはいつもの彼女の姿だった)、目は前のようにギョロリと大きくはなく、顔に赤みはぜんぜんさしていなかったものの、肌には以前の土気色はなかった。ふたりは、海まで歩いていった。フィリップは、ここ何ヵ月も彼女といっしょに歩いたことがないのを思い出して、自分のびっこがいきなり気になりだし、それをかくそうと、ぎごちなく歩いていった。
「ぼくと会ってうれしいのかい?」心の中で愛情がくるおしいほど踊り立っている状態になって、彼はたずねた。
「もちろんよ。たずねるまでもないことでしょ」
「ところで、グリフィスがよろしくいってたよ」
「まあ、厚かましい!」
もう彼女には、グリフィスのことをいろいろ話してあった。彼がどんなに女遊びを盛んにやっているかを話し、グリフィスが他言無用といって話してくれたいくつかの女出入りの冒険話で、よく彼女を楽しませていた。ミルドレッドは、ときに嫌悪のみせかけをしながらも、いつも好奇心を燃え立たせて、その話にジッと聞き入っていた。フィリップは、自分でも心を打たれながら、自分の友人の美貌と魅力を事細かに述べ立てた。
「ぼくと同様、きみももっと彼を好きになるよ。とても陽気でおもしろく、それに、すごく人のいい男なんだ」
まだぜんぜんつき合ってもいないとき、グリフィスが病気ちゅうどんなに看病してくれたかを語り、グリフィスの自己犠牲ぶりの一切合財《いっさいがっさい》伝えた。
「彼を好きにならずにはいられないよ」フィリップはいった。
「美男子はきらいなの」ミルドレッドはいった。「自惚《うぬぼ》れが強すぎてね」
「彼はきみと会いたがってるんだよ。彼にはきみのことをいろいろ話してあるんだ」
「どんなことを話したの?」ミルドレッドはたずねた。
ミルドレッドにたいする愛情を語る相手といって、フィリップには、グリフィス以外の友人はいなかった。そして、少しずつではあったが、彼女との関係をそっくりそのまま話してしまっていた。彼女の姿形のことは、もう五十回も語った。彼女のようすを細大もらさず愛情をこめて伝え、グリフィスは、彼女の痩せた手がどんな恰好《かっこう》をしているか、顔がどんなに蒼白かを、それこそきちんと心得、彼女の血の気のない薄い唇のもつ魅力の話をするフィリップをからかっていた。
「まったく、ぼくはありがたいことに、ものごとをそんなひどくは考えない質《たち》でね」彼はいった。「そんなことになったら、人生生きる価値なしになっちまうからね」
フィリップはニヤリとした。恋にすっかり頸《くび》ったけになり、それが肉、酒、呼吸する空気、生存に必要なすべてほかのものに化しているよろこびを、グリフィスは知らないからなのだ。お産の前後フィリップが女の世話をし、いま女のとこにいこうとしてるのを、グリフィスは心得ていた。
「うん、きみの行為は賞金ものだ」彼はいった。「ずいぶんと金がかかっただろうね。金の都合がつくだけ、幸運というもんさ」
「都合はつかないんだ」フィリップはいった。「でも、構うもんか!」
昼食には早すぎたので、フィリップとミルドレッドは、遊歩場の小屋で休憩し、陽光を浴びながら、人がとおるのをジッとながめていた。ふたり、三人と組になって、ステッキをふりまわしながら歩いていくブライトンの店員、クスクス笑い合って軽い足どりで踊るようにして進んでいく女店員の群れが、目に映った。一日だけロンドンから出かけてきた連中は、すぐにわかった。ピリッとする空気がけだるさに快い刺激を与えた。多くのユダヤ人、ピタリ身についたサティンの服を着こんで、ダイヤモンドをいくつかピカピカさせている太った婦人、大げさな身ぶりの小柄な太った男たちがいた。大きなホテルで週末をすごしているキチンとした身なりの中年紳士がいたが、たっぷりすぎるほどの朝食のあとで、これもたっぷりすぎるほどの昼食にそなえての腹空かしにと、せっせと散歩をし、友人と挨拶をかわし、ブライトン先生や海辺のロンドン(いずれもサッカレーが『ニューカム一家』で使用した言葉)のことを語り合っていた。有名な俳優が歩きまわっていたが、人びとが寄せる関心をわざと気づかぬふりをし、エナメルの編みあげ靴をはき、アストラカン皮の襟のついた外套を着こみ、銀のつまみのステッキをもっている者あり、一日の狩猟から帰ってきたといったように、ニッカーボッカーをはき、|手織りのスコッチ《ハリス・ツイード》のアルスター外套を着て、ツイード帽をあみだにかぶっている者ありで、いろさまざまだった。太陽は青い海に輝き、青い海は、小ぎれいでひきしまった感じを与えた。
昼食後、、ふたりはホーヴ(ブライトンの郊外にある)にいって、赤ん坊の世話をみてくれる女と会った。この女性は裏通りの小さな家に住んでいたが、その家は、きちんときれいに片づけられてあった。その名はハーディング夫人、髪は白髪《しらが》まじり、赤い肉づきのいい顔をした、初老の太った婦人だった。帽子をかぶった風采は母親ふうで、親切そうだな、とフィリップは考えた。
「赤ん坊の世話をみるなんて、とても厄介なことと思いませんか?」彼はきいてみた。
この女性の説明で、彼女の夫は自分よりズッと年配の副牧師、牧師は助手として若い男をとろうとするので、しっかりとした職につくのはなかなかむずかしい、だれかが休暇をとったり、病気になったりしたとき、代理牧師をやって、ときどきわずかな収入にありつき、慈善施設から小額の年金はもらっているが、自分の日々の暮しはわびしく、子供の世話をみてやったら多少気も晴れ、その上、それで受ける何シリングかは家計のたしになるだろう、ということだった。赤ん坊には十分に食事をさせる、と約束した。
「とってもきちんとした女《ひと》でしょ、どう?」あとで、ミルドレッドはいった。
ふたりはもどって、メトロポールでお茶を飲んだ。ミルドレッドは、人ごみと音楽隊の好きな女だった。フィリップはしゃべりつかれ、店にはいってくる女の服装を彼女が目を輝かしながらながめているその横顔を、ジッとみていた。彼女は、値踏みをするのに特殊な才能を発揮する女、ときどき、彼のほうに身をのりだして、そうした計算の結果を耳打ちした。
「あそこの白鷺《しらさぎ》の羽根飾り、わかること? 七ギニーたっぷりの値のもんよ」
さもなければ、「あそこの貂《てん》の皮、みてごらんなさい、フィリップ。あれは兎《うさぎ》だわ、そう――貂なんかじゃあるもんですか」彼女は意気揚々と笑った。「どんな遠くからみたって、目にくるいはなしよ」
フィリップはうれしそうにほほ笑んだ。彼女のよろこんでいる姿をみると、自分までうれしくなり、あけすけいう彼女の会話は彼を楽しませ、心を打つのだった。音楽隊は感傷的な音楽をかなでていた。
夕食後、駅まで歩いてゆき、フィリップは彼女の腕をとった。フランス旅行のお膳《ぜん》立ての話をした。週末にロンドンにもどってくるはずだったが、ミルドレッドは、つぎの週の土曜日まで帰れない、と彼に伝えた。彼としては、もう、パりのホテルの一室をとってあった。切符を手に入れさえすればいいのだった。
「二等でいっても、気にはしないだろうね、どうだい? 金を荒くは使えないんだ。それに、向うに着いて楽しくやれたら、それだけなおうれしいわけだしね」
ラテン地区の話は、もう百回もしていた。そこの快い古い通りをブラブラととおり、リュクサンブールの美しい庭で、なにすることもなく、ぼんやりと坐っていよう。たぶん、天気はいいだろう。天気がよく、パリに倦きたら、フォンテンブローにいってもいい。木はちょうど芽の出ごろになっているはずだ。そこの森の春の緑は、なににもまして美しい。それは、歌のよう、幸福な恋の痛みのようだ。ミルドレッドは、だまって聞いていた。彼は、彼女のほうに向き、相手の目を深くのぞきこもうとした。
「いきたいだろう、どう?」彼はたずねた。
「むろん、いきたいわ」彼女はニッコリした。
「ぼくがどんなに楽しみにしてるか、きみにはとてもわからないくらいだよ。それまでの日々をどうすごしたもんか、とまどってるんだ。心配なのさ、なにか起きて、それがだめになってしまわないかとね。自分がきみをどんなに愛してるか、それを伝えられなくって、ときどき、頭がおかしくなってくるよ。それで、とうとう、とうとう……」
ここで、話が途切れた。駅には着いたが、道中グズグズしていたので、別れの挨拶をする暇もなかった。フィリップは、彼女にあわただしくキスをし、大急ぎで改札口のほうにとんでいった。彼女は、そのまま足をとめて、立ちつくしていた。かけだす彼の恰好は、じつに奇妙なものだった。
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七十四
つぎの土曜日、ミルドレッドが帰ってきて、その晩は、ふたりだけですごした。彼は芝居の座席をとり、夕食のときには、シャンペンを飲んだ。これは、彼女にとって、久しぶりの遊びだったので、どんなことにでも、彼女は大よろこびだった。彼がピムリコで借りておいた彼女の下宿に馬車で劇場からゆく道中、彼女はフィリップにピッタリからだを寄せつけてきた。
「ぼくと会って、ほんとうによろこんでくれてるようだね」彼はいった。
彼女はなにも答えず、やさしく彼の手をにぎりしめた。愛情の表示は、彼女にあって、じつに珍しいこと、フィリップは、もううっとりしていた。
「明日の晩、いっしょに晩餐するようにと、グリフィスを呼んであるんだよ」彼は伝えた。
「まあ、うれしい。あの人とは会いたいと思ってたの」
日曜日の晩、彼女をつれていく娯楽場はなく、一日じゅう自分といっしょにいたら、彼女が退屈するのじゃないかと、フィリップは心配だった。グリフィスはおもしろい男だった。彼なら、その晩をなんとかすごす助けになったし、フィリップはふたりとも大好きだったので、この彼らが知り合いになって仲よしになったら、と考えていた。彼は、別れぎわに、ミルドレッドにいった。
「もうのこるは六日だけだよ」
日曜日には、ロマーノ(ストランド街にあったレストラン)のベランダで晩餐をすることになっていた。そこの料理はおいしく、費用以上に豪華なものにみえたからだった。フィリップとミルドレッドが先に着き、ややしばらく、グリフィスの到着を待つことになった。
「時間を守らんやつだな」フィリップはいった。「たぶん、うんといるやつの色女のだれかといちゃついてるんだろう」
だが、やがて、彼はあらわれた。背が高くてほっそりとした美男子ぶりだった。頭は恰好よく据《す》えられ、いかにも魅力的な堂々たる風采《ふうさい》を彼に与え、巻き毛、大胆で親しみのこもった青い目、赤い口も、なかなか感じがよかった。ミルドレッドが打たれたようにこの彼に見入っている姿をながめて、フィリップは妙な満足感を味わっていた。グリフィスは、ニッコリして、ふたりに挨拶した。
「あなたのことは、ずいぶん聞いてますよ」握手をしながら、彼はミルドレッドにいった。
「でも、あなたのことをあたしが聞いてるほどじゃないでしょう」彼女は答えた。
「それに、悪口の点でもね」フィリップが口を入れた。
「ぼくの悪口を、こいつがいってたんですって?」
グリフィスは笑ったが、その歯がどんなに白くそろっているか、微笑がどんなに感じがいいかをミルドレッドが味わっているのに、フィリップは気づいていた。
「きみたちは親しい友だちのように感じてもいいはずなんだよ」フィリップはいった。「おたがいに相手のことを、ぼくが十分に伝えてあるんだからね」
グリフィスは、最高とびきりの上機嫌になっていた。最後の試験をとうとう突破して、医師の資格を与えられ、ロンドンの北のある病院で住みこみの外科医になることがきまったところだったからだった。この勤務は五月のはじめに開始の予定、それまでは当分、故郷《くに》に帰ることになっていた。これがロンドンでの最後の一週間、できるだけ楽しもう、と意気ごんでいた。真似られぬだけにフィリップがなお驚嘆している例の陽気なざれ口を、彼はやりだした。その話はべつにどうということもなかったのだったが、彼のもつ活気がそれに活気を与えた。彼から生命力があふれだし、それが、彼を知っているだれの心も動かしてしまうのだった。それは、体温のように、ヒシヒシと身に感ずるものだった。ミルドレッドは、フィリップがみたことがないほど、活気をおび、このささやかな会が成功をおさめたのを、彼はよろこんでいた。彼女自身も、すごくおもしろいことをいい、彼女の笑い声は、だんだん高くなっていった。第二の天性になっているお上品なおしとやかぶりを、彼女はすっかり忘れてしまった。
やがて、グリフィスはいった、
「ねえ、きみをミラー夫人なんて呼ぶのは、もう面倒くさくてたまらないな。それに、フィリップは、きみをミルドレッドとしか呼んでないんだからね」
「彼女をミルドレッドと呼んだって、目をひきぬかれることにはなるまいよ」フィリップは笑った。
「じゃ、向うにもぼくをハリーと呼んでもらうことにしよう」
ふたりがおしゃべりをしているあいだ、フィリップはだまって坐り、人の幸福をながめるのがどんなに楽しいことかを考えた。ときどき、グリフィスは彼をやさしくからかった。彼がいつもすごく深刻な顔をしていたからである。
「あの人、ほんとにあんたを好きなようだことね、フィリップ」ミルドレッドはニッコリした。
「彼はまんざらでもない男だよ」グリフィスは答え、フィリップの手をとって、それを陽気にふりまわした。
グリフィスがフィリップに好意をもっている事実が、グリフィスの魅力を増した感じだった。三人とも酒はそうやらず、飲んだ|ぶどう《ヽヽヽ》酒は、すっかりまわっていた。グリフィスの饒舌《じょうぜつ》はつのり、すごくさわがしくなったので、フィリップは、おもしろがりながらも、静かにしたら、といわずにいられなくなった。彼は話術の才能をもち、その語る女出入りの冒険話はロマンスと笑いをますますたかくした。彼は、そうした話すべてで、婦人に慇懃な、しかも滑稽《こっけい》な役割を演じていた。ミルドレッドは、興奮で目を輝かせて、この彼に話をうながした。彼は話につぐ話をどんどんと語りつづけた。灯りが消えはじめると、彼女はびっくりした。
「まあ、今晩は早くたっちまったことね。九時半くらいかと思ってたのに」
みなは席を立って外に出、おやすみの挨拶のとき、彼女はいいそえた、
「あした、フィリップの部屋でお茶を飲むことになってるの。よかったら、いらっしゃい」
「わかりましたよ」彼は微笑をかえした。
ピムリコに帰る道中、ミルドレッドはグリフィスの話ばかりしていた。彼の美貌、きちんとした服、声、陽気さに、彼女は心をうばわれたのだった。
「彼を好きになってくれて、このぼくもうれしいよ」フィリップはいった。「きみがだいぶお高くとまって、彼と会うのを鼻であしらってたこと、おぼえてるかい?」
「あの人がああもあんたを好きでいるの、とってもやさしいことと思うわ、フィリップ。いいお友だちだことね」
フィリップにキスをさせようと、彼女は彼のほうに顔をあげた。これは、彼女にしては珍しいことだった。
「今晩、楽しかったことよ、フィリップ。とてもうれしかったわ」
「バカなこと、いうなよ」こうしてよろこんでいる彼女に打たれて、彼は笑ったが、目に涙がグッとこみあげてきた。
彼女はドアを開いたが、中にはいる直前、またフィリップのほうにふり向いた。
「夢中になって恋してる、とハリーにいってちょうだい」彼女はいった。
「わかったよ」彼は笑った。「おやすみ」
つぎの日、ふたりでお茶を飲んでいると、グリフィスがはいってきて、グッタリと肘かけ椅子に坐りこんだが、大きな手足の緩慢な動きには、妙に官能的なものが感しられた。フィリップはだまったまま、ほかのふたりはベチャベチャしゃべっていたが、彼は楽しかった。ふたりをすばらしい存在と思っていただけに、このふたりがたがいにすばらしいと思い合っても、べつに、ふしぎはなかった。グリフィスがミルドレッドの注意を独占しても、気にならなかった。晩になれば、自分が彼女を独占できるのだ。彼の態度は、妻の愛情を信頼し、妻がほかの男と無邪気にたわむれているのをおもしろがってながめているやさしい夫の態度といったものだった。だが、七時半に、懐中時計をみて、彼はいった、
「もう夕食に出かけるときだよ。ミルドレッド」
ちょっと話がとぎれ、グリフィスは考えているようだった。
「そう、ぼくは失礼するよ」彼はとうとういった。「こんなにおそくなってるとは思わなかったね」
「今晩、なにか用事がおあり?」ミルドレッドはたずねた。
「いいや、べつに」
また沈黙がつづいた。フィリップは少しイライラしてきた。
「ぼくは、ちょっと、水浴にいってくるよ」彼はいい、ミルドレッドにさらにいいそえた、「きみも手を洗ったらどうだい?」彼女は答えなかった。
「いっしょに食事をなさらないこと?」彼女はグリフィスにいった。
グリフィスはフィリップをながめ、相手がムッとして自分をにらんでいるのを知った。
「きのうもいっしょに食事したんですからね」彼は笑った。「邪魔になるといけないな」
「まあ、そんなこと、なんでもないわ」ミルドレッドはがんばった。「お呼びしなさいよ、フィリップ。邪魔なんかにはならないことね、どう?」
「よかったら、来てもらったほうがいいね」
「よし、いくよ」すぐグリフィスは応じた。「すぐ二階にいって、身仕度をしてくる」
彼が部屋を出ていくとすぐ、フィリップは、プリプリして、ミルドレッドのほうに向きなおった。
「いったいどうして、彼をさそったりしたんだい?」
「どうにもならなかったのよ。相手が用もないといってるのに、こっちでなんにもいわないでるなんて、とっても変なことよ」
「チェッ、バカな! じゃ、いったいどうして、用があるかどうかなんてたずねたんだい?」
ミルドレッドは青い唇をグッとひきしめた。
「ときには楽しみたいの。いつもあんたといっしょにいるのは、もううんざりよ」
グリフィスがドシンドシンと音を立てて階段をおりてくるのが聞え、フィリップは、水浴をしに、寝室にはいっていった。食事は近くのイタリア人のレストランですませた。フィリップは仏頂面《ぶっちょうづら》をしておしだまっていたが、こうして自分が、グリフィスにくらべてどんな不利な立場に立っているかが、すぐにわかってきた。そこで、むりして不快の色をかくそうとし、胸をむしばんでいる苦痛を忘れるために、|ぶどう《ヽヽヽ》酒をそうとうあおり、つとめて話をするようにしていた。ミルドレッドは、自分のいった言葉をわるいと思っているらしく、彼に感じのいい態度をとろうとせっせとつとめ、やさしい愛情こもった仕草をしていた。やがて、フィリップは、嫉妬心に負けるなんてバカげたことをしたもんだ、と考えはじめた。夕食後、演芸場にいこうと馬車に乗りこんだとき、ミルドレッドは、ふたりの男のあいだに坐って、自分から手を彼のほうにさしのべてきた。彼の怒りは、たちまち消滅だった。どうしてだかわからないが、いきなり、グリフィスが彼女ののこりの手をにぎっているのがわかった。激しい苦痛がふたたび彼をおそい、これは、本物の肉体的な苦痛となった。もう前に考えていてもいいことだったのだが、ふるえあがる気持ちで、ミルドレッドとグリフィスがもう恋し合っているのではあるまいか? と自問した。目の前に立ちこめているといった感じの疑惑、怒り、狼狽《ろうばい》、悲痛さの霧につつまれて、出し物はぜんぜん目にはいらなかった。だが、心のとまどいは外に出すまいと必死になって、彼は語り、笑いつづけた。それから、自虐の奇妙な欲望が彼をとらえた。彼は立ちあがり、ちょっとなにかを飲んでくる、といった。いままで、ミルドレッドとグリフィスは、ふたりだけになったことがないのだ。彼は、ふたりだけにしておいてやろう、という気になった。
「ぼくもいくよ」グリフィスはいった。「すごく喉が乾いてるんだ」
「チェッ、バカな、ここにいて、ミルドレッドに話をしてやってくれたまえ」
どうしてそんなことをいったのか、フィリップ自身にもわからなかった。ふたりだけにして、いま、自分の味わっている苦痛を我慢ならぬものにしているのだった。彼は、酒場にはいかず、二階|桟敷《さじき》にいったが、そこからは、自分がみられずに、ふたりをみることができた。彼らは、もう、舞台から目を放し、微笑まじりでたがいに目をみかわしていた。グリフィスはいつもの得意の能弁で滔々《とうとう》とまくし立て、ミルドレッドはそれにジッと聞き入っているようだった。フィリップの頭はズキズキと痛みはじめ、そこに身じろぎもせずに立ちつくした。いまもどったら、ふたりの邪魔になるのは、わかりきったことだった。彼がいなくなって、ふたりは大いに楽しみ、自分は苦悩を噛みしめているのだった。時刻がたち、彼らのところにもどっていくのが、なにかすごく面《おも》はゆくなってきた。自分のことなんかもうすっかり忘れているのは、わかりきったこと、夕食も演芸場の座席も、代金はぜんぶ自分が支払っているのが、にがにがしく思い出された。なんというバカにした仕打ちだ!
恥ずかしさで、からだがカッカとほてってきた。自分がいなくなって、ふたりがどんなに幸福感に酔っているか、彼にはわかった。ふたりをそのまま放りだして帰ってしまおうか、と本能的に考えたが、帽子も外套もなく、その上、あとで、あれこれと際限なく説明しなければならなくなるだろう。席にもどっていったが、自分をながめて、ミルドレッドの目に迷惑そうな影が走ったのに気づいて、気が滅入ってきた。
「ずいぶんグズグズしてたんだね」うれしそうな微笑を浮かべて、グリフィスはいった。
「知人の連中に会ってね。話をしてたため、ぬけだせなかったんだ。ふたりがいっしょなら心配は要らないとも思ってたしね」
「ぼくは、もう、徹底的に楽しんだよ」グリフィスはいった。「ミルドレッドのほうは、わかんないけどね」
彼女は、幸福そうな満悦の笑い声をちょっとあげた。そのひびきには、フィリップをギョッとさせる野卑さがこもっていた。もう帰ろうか、と彼はうながした。
「さあ」グリフィスはいった、「ぼくたちは車できみを送ってあげるよ」
この段どりはミルドレッドがいいだし、自分とふたりだけになるまいとしてるのだな、とフィリップには察しがついた。馬車の中で、彼は彼女の手をとらず、彼女も手を出そうとはしなかったが、そのあいだじゅう、彼女がグリフィスの手をにぎっているのはわかっていた。彼が考えていたことといえば、なんて野卑なやり口だろう、ということだけだった。車で走っていきながら、ひそかに出逢おうと、ふたりはどんな計画をめぐらしているのだろう? と彼は考え、ふたりを放りだしにしたわれとわが身を責め立てた。まったく、わざわざこちらで骨を折って、ふたりが計画を立てられるようにしてやるなんて!
「このまま馬車に乗っていこう」ミルドレッドの下宿に着くと、フィリップはいった。「とてもつかれてて、歩いては帰れないんだ」
帰途、グリフィスは陽気にしゃべり、フィリップが言葉短かにしか答えていない事実を、一向気にしていないようだった。なにかまずいことになった、と相手が気づくものと、フィリップは感じていた。フィリップの沈黙は、とうとう、もうどうにもさからえないほど重苦しくなり、グリフィスは、いきなり気を使いだして、だまってしまった。フィリップは、なにかいいたかったが、どうにも体裁《ていさい》がわるくて、それをする気になれなかった。だが、時はどんどんとすぎてゆき、いいだす機会はなくなってしまうだろう。ズバリ核心にふれた話をしたほうがいいのだ。彼は、ようやくの思いで口を開いた。
「きみはミルドレッドを恋してるのかい?」いきなり彼はたずねた。
「ぼくがだって?」グリフィスは笑いだした。「きょうの晩、妙なそぶりをしてたが、問題はそんなことだったんかい? もちろん、そんなことはないさ、きみ」
彼はフィリップの腕に手をすべりこませようとしたが、フィリップは身をひいた。グリフィスの嘘はわかっていた。相手を追いこんで、ミルドレッドの手をにぎってはいなかった、とグリフィスにむりやりいわせる気にはなれなかった。いきなり、力がぬけ、がっくりした気分におそわれた。
「きみにとっては問題じゃないんだ、ハリー」彼はいった。「女がたくさんいるんだからね――だが、あの女をぼくからとるようなことはしないでくれたまえ。ぼくの全生命にかかわることなんだから。きょうは、すごくみじめな思いを味わってたよ」
声はとぎれ、こみあげてくる嗚咽《おえつ》をどうしてもおさえられなくなった。こうしたわが身がとても恥ずかしかった。
「ねえ、きみ、いいかい、きみの心を傷つけることなんて、するつもりはないよ。きみを好きなんだもん、そんなこと、できるもんか。ただバカな真似をしてただけのことさ。そんなふうにきみが受けとると知ったら、もっと注意したんだろうけどね」
「それ、ほんとうかい?」フィリップはたずねた。
「あんな女、好きじゃあるもんか。誓ってもいいよ」
フィリップは、フツと安堵《あんど》の吐息《といき》をもらした。馬車は下宿の戸口でとまった。
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七十五
つぎの日、フィリップは上機嫌だった。まといついてミルドレッドにうるさがられてはと気を使って、夕食の時刻まで彼女に会うまい、と決心した。彼女をつれにでかけていくと、彼女はちゃんと用意をしていたので、ふだんにないきちょうめんなことだね、とからかった。彼女は彼からもらった新しい服を着こんでいて、そのスマートな姿を、彼はほめてやった。
「でも、かえして、なおしてもらわなくっちゃならないの」彼女はいった。「スカートの着け方が、とってもだめでね」
「パリにもっていくつもりなら、ドレスメイカーに急がせなくっちゃいけないね」
「間に合うことよ」
「まるまる三日しかないんだぜ。十一時の列車でいくことにしようか、どうだい?」
「そちらがよかったらね」
パリにいったら、ほとんど一ヵ月間、この女を独占できるのだ。彼の目は、飢えたように、彼女をむさぼりながめた。こうした自分の強烈な愛情を、彼自身ちょっと笑ってやりたい気持ちだった。
「いったい、きみのどこに惚れたんだろうね?」彼はニッコリしていった。
「それはまた、ご挨拶ですことね」彼女は応じた。
彼女のからだはとても痩せていて、骨がみえるくらい、胸は、少年の胸のようにぺしゃんこだった。血の気のない薄い唇の口はみにくく、肌はかすかに青味をおびていた。
「旅行に出たら、ブローの錠剤(フランスの医師ア・ブローのつくった貧血症の錠剤)をたくさん飲んでもらうよ」笑いながら、フィリップはいった。「帰るときには、太って薔薇のような血色になってね」
「太りたくなんかないわ」彼女はいった。
彼女はグリフィスのことを口に出さなかったが、やがて、夕食の途中で、自信も湧き、彼女にたいする力の点で多少大丈夫と気をとりなおしかけていたフィリップは、意地わる気分もなかば手伝って、こういった、
「きのうの晩、ハリーとだいぶ楽しくやったらしいね?」
「いったでしょう、あたし、あの人を恋してるのよ」彼女は笑った。
「だが、お生憎《あいにく》さま、先方はきみに惚れてないよ」
「どうしてわかるの?」
「きいたんだからね」
フィリップをジッとみながら、彼女はちょっとモジモジし、奇妙な輝きが目の色に浮かんできた。
「今朝あの人からもらった手紙、読みたいこと?」
彼女は彼に封筒をわたし、グリフィスの力のこもった読みやすい字は、たしかに彼のものだった。八ぺージにわたる手紙で、卒直で感じがよく、うまく書かれてあり、いつも女にいいよっている手練れの男の手紙だった。情熱を燃え立たせてミルドレッドを愛している、ひと目みて、もうすっかり好きになってしまった、フィリップがどんなに愛しているかを知ってるので、なんとかこの愛情をおさえようとしたが、もうどうにもならない。フィリップはとてもいい男、自分は恥ずかしくてたまらないが、自分がわるいわけではない、もうただ夢中になってしまったのだから。そして、女のよろこびそうなお世辞をならべ立て、つぎの日、昼食をいっしょにするのを承知してくれたことを感謝し、もう会いたくて会いたくてたまらない、と述べていた。この手紙が前の晩の日づけになっているのにフィリップは気づき、自分と別れてからそれを書き、こちらでは彼が眠ったとばかり思っていたとき、わざわざ出かけていって、それを投函《とうかん》したにちがいない、と見当をつけた。
彼は、胸がわるくなるほどドキドキしながらそれを読んだが、驚きのようすは外にあらわさなかった。冷静にニヤリとして、それをミルドレッドにかえした。
「昼飯、楽しかったかい?」
「とてもね」力をこめて、彼女はいった。
手のふるえを感じたので、彼は手をテーブルの下にかくした。
「グリフィスのこと、そうまともにとっちゃいけないよ。あいつ、蝶々のように女から女にわたり歩く男なんだからね」
彼女は、手紙を手にとり、それをまたジッとながめていた。
「あたしも、どうにもならないの」彼女はいったが、それは、ケロリとしたふうをよそおおうとしている声だった。「あたし、いったい、どうしたんかしら?」
「こっちにとっては、ちょっとまずいことだね、どうだい?」フィリップはいった。
彼女はサッと彼をみた。
「それにしても、あんた、ずいぶん落ち着いてることね、たしかに」
「ぼくがどうすると思ってたんだい? 髪の毛でもかきむしれというのかい?」
「あんたに怒られるのは、わかってたわ」
「ところが、奇妙なことに、ぜんぜんそうじゃないんだ。こんなことになると、見当をつけるべきだったのさ。ふたりを会わせて、ぼくはバカだったよ。ぼくにくらべて、彼のほうがすべての点で有利なのは、よーくわかってることなんだ。ズッとおもしろく、はるかに美男子、もっと楽しく、きみがおもしろがることをしゃべることもできるんだからね」
「それがどういうことなのか、あたしにはわかんないわ。あたしが利口じゃないとしても、それはどうにもならないこと。でも、あんたが考えてるほどバカじゃないわ、えーえ、そんなバカじゃあるもんですか。あんたは、ちょっと、あたしをみくだしすぎてるのよ」
「ぼくと喧嘩をしようというのかい?」彼はおだやかにたずねた。
「ちがうわ。でも、あたしをどうしてバカあつかいするのか、それがわかんないの」
「わるかったね。べつに腹を立たせてやろうと思ってたわけじゃないんだ。話を静かにしたいと思ってただけさ。できることなら、厄介なことにもなりたくはないしね。きみが彼にひかれてるのがわかり、それは、至極当然のことに思えたんだ。ぼくに応えたただひとつのことは、彼がきみをけしかけてることさ。ぼくがきみをどんなに好きか、彼は知ってるんだよ。きみのことなんかなんとも思ってないと啖呵《たんか》を切ってから、ものの五分もたつかたたないうちに、もうきみに手紙を書いてるなんて、ずいぶんひどいことだと思うな」
「あの人の悪口をいって、あたしの気持ちを変えようとしたって、それはお見当《けんとう》ちがいというもんよ」
フィリップは、しばらく、口をつぐんでいた。自分のいおうとしているところを女に呑みこませるのに、どういったらいいか、どうにもわからなくなった。冷静に、慎重に話を進めたかったが、腹の中は煮《に》えくりかえるよう、どうにも考えがまとまろうとしなかった。
「ながつづきはしないとわかってる色恋|沙汰《ざた》ですべてを犠牲にしちまうなんて、つまらんことだ。結局んとこ、あの男の愛情は十日以上はつづかず、きみはそうとう冷たい女なんだ。そういったことは、きみにとって、そう重大なことじゃないんだよ」
「それは、あんたの考え方というもんね」
女が喧嘩腰になってきたので、ことはますますまずいことになった。
「恋してるというんなら、もうどうにもならないことさ。ぼくとしては、できるだけ我慢するよ。きみとぼくは、これでもうまく折り合い、ぼくだって、そうひどい態度をとってはいないんだよ、どうだい? きみがぼくを愛してないのは知ってるさ。だけど、結構好きにはなってくれてるんだ。パリにいったら、きっとグリフィスのことは忘れてしまうだろう。心からあの男を閉めだそうと腹をきめても、そうつらいことじゃないはずだ。それに、きみにしたら、少しくらいはぼくのためにつくしてくれても、いいはずなんだからね」
彼女は返事をせず、ふたりは、だまったまま、食事をつづけた。これがどうにもやりきれなくなったので、フィリップは、当りさわりのないことを話しだした。ミルドレッドが聞いていなくても、彼は知らぬふりをしていた。彼女の返事はお座なりのもの、自分から話しだそうとはしなかった。とうとう、彼女は、いきなり、彼の言葉を切ってしまった。
「フィリップ、あたし、土曜日にはいけないことよ。いけないって、先生にいわれたんだから」
これは嘘とわかっていたが、彼は答えた、
「じゃ、いついけるんだい?」
彼女はチラリと彼の顔をながめ、それが蒼白でこわばっているのを知って、ハッとして目をそむけた。その瞬間、彼がちょっとおそろしくなったからだった。
「はっきりいって、この話にけりをつけといたほうがいいようだわね。あたし、あんたといっしょにいく気にはなれないの、どうしてもね」
「だいたいそんなことだろうと思ってたよ。気が変るなんて、もうおそすぎるな。切符から一切|合財《がっさい》、準備してあるんだからね」
「気がないんなら、いかなくってもいい、っていってたじゃないの。あたし、その気がないの」
「ぼくも気が変ってね。もうこれ以上いい加減なことをいわれたくはないんだ。きみは来なければならないんだ」
「ねえ、フィリップ、お友だちとしてなら、あたし、あんたを大好きよ。でも、それ以上のことは、考えてもゾッとするの。そんなふうにあんたを好きじゃないのよ。そんなこと、だめよ、フィリップ」
「一週間前には、その気になってたじゃないか」
「あんときは、あんときのことよ」
「そのとき、グリフィスには、まだ、会ってなかったっけ?」
「あの人を恋してるというんなら、どうにもならないって、あんた自身がいってたじゃないの」
彼女はふくれっ面《つら》になり、皿に目をすえていた。フィリップは激怒で真っ青になった。にぎり拳《こぶし》で彼女の顔をぶんなぐってやりたくなり、目にあざでもつくってやったら、どんな姿になるだろう? と空想していた。近くのテーブルで食事をしていた十八くらいの青年がふたりいたが、ときどき、チラリチラリとミルドレッドのほうをみていた。美しい娘と食事をしている自分をうらやましがっているのだろう。たぶん、自分のかわりになってみたいものと思っているのだろう。沈黙を破ったのは、ミルドレッドだった。
「いっしょにいったって、どうなるというの? あたし、そのあいだじゅうズーッといつも、あの人のことを思ってるのよ。あんたにしたって、そんなこと、そうゾッとしたことでもないでしょ」
「そいつは、きみに関係のないことさ」彼は応じた。
彼の返事の意味をあれこれと考えて、彼女はサッと気色《けしき》ばんだ。
「でも、ひどい話よ、そんなこと」
「だから、どうだというんだい?」
「あんたのこと、れっきとした正真正銘の紳士と思ってたのよ」
「とんでもないお見当《けんと》ちがいというもんさ」
この返事は彼を愉快にし、それをいいながら、彼はカラカラッと笑った。
「おねがい、笑ったりしないでちょうだい」と彼女は叫んだ。「あんたといっしょにはいけないことよ、フィリップ。とてもわるいと思ってるわ。たしかに、こっちのやり方もいけなかったわ。でも、どうにもならないことよ」
「きみは忘れてるのかね、きみが困ってたとき、ぼくが援助のかぎりをつくしたことを? 赤ん坊が生れるまでの生活費をさっさと出し、医療代、そのほか一切を払い、ブライトンいきの費用もこっちもち、きみの赤ん坊の養育費もこっちでしょいこみ、きみの着てる服はのこらず、こっちが出してるんだよ」
「紳士だったら、そんなこと、人にたたきつけたりはしないことよ」
「ああ、たのむ、もうやめてくれ。紳士だろうとなかろうと、ぼくが気にするとでも思ってるのかい? 紳士だったら、きみのようなおひきずりの女相手に、むだな時間なんぞつぶしたりはするもんか。ぼくを好きだろうとなかろうと、こっちじゃ、どうでもいいことさ。ひどくバカにされてるなんて、もううんざりなんだ。土曜日、ぼくといっしょにパリに来たほうがいいんだ。さもなけりゃ、その結果どうなろうと、こっちの知ったこっちゃないんだからな」
彼女の頬は怒りで真っ赤になり、答える声には、ふだんのお上品ぶった話しぶりでかくされている冷酷な下品さが浮き彫りにされていた。
「あんたを好きになったことなんて、一度もないことよ、会った初っぱなのときからね。でも、おしかけてきたのは、あんたなのよ。キスなんかされて、いつもゾッとしてたわ。もうあんたに指一本ささせないことよ、こっちが飢え死しようともね」
フィリップは皿の食事を呑みこもうとしたが、喉の筋肉が動こうとしなかった。なにかをグッとひとあおりし、タバコに火をつけた。からだじゅう、ガタガタとふるえていた。なにもしゃべらないでいた。相手の動くのを待っていたが、彼女はだまって坐り、白いテーブルかけをジッとみつめていた。ふたりだけだったら、フィリップは両腕で彼女を抱き、激しくキスをするところだった。自分の唇を彼女の口におしつけたとき、彼女のながい白い喉がうしろにのけぞりかえる姿を、想像した。ふたりは、だまったまま、一時間も坐りつづけ、とうとうフィリップは、給仕が自分たちのほうをジロジロみているのに気づいた。そこで、声をかけて、勘定をたのんだ。
「さあ、いこうか?」冷静な声で、彼はいった。
彼女は返事をしなかったが、バッグと手袋を手にし、外套を着こんだ。
「いつグリフィスと会うんだい?」
「あしたよ」ケロリとして彼女は答えた。
「よく彼と相談することだな」
彼女は機械的にバッグをあけ、そこにある紙きれに気づき、それをとりだした。
「この服の勘定書きよ」モジモジしながら、彼女はいった。
「それがどうだっていうんだね?」
「代金は、あした払うって約束したの」
「へえ、そうかい?」
「買っていいっていっときながら、そんなら、代金は払ってくれない? ていうの?」
「まさにそうだね」
「じゃ、ハリーにたのむわ」サッと顔を赤くほてらせて、彼女はいった。
「よろこんで援助してくれるだろうよ。いまのとこ、ぼくから七ポンド借金し、文なしになって、先週、顕微鏡を質入れしてるんだがね」
「そんなこといって、あたしをおどかそうとしたって、むだよ。これでも、ちゃんと暮しは立てられるんですからね」
「うん、最高にりっぱなことだね。びた一文だって、これからはわたしたりしないよ」
彼女は、土曜日に払わなければならない下宿代や赤ん坊の養育費のことを考えたが、なにも口に出さなかった。レストランを出ると、街路でフィリップはたずねた、
「馬車を呼んであげようか? ぼくはちょっとブラブラしょうと思ってるんだが……」
「お金がぜんぜんないの。きょうの午後、払いをしなければならないことがあってね」
「歩いてどうということもないだろう。明日、ぼくに会いたくなったら、お茶の時刻に下宿に帰ってるよ」
彼は、帽子をぬいで挨拶し、ブラリブラリと歩きだした。一瞬ふりかえると、人馬の往来《ゆきき》をながめながら、しょんぼりともとの場所に立っている彼女の姿が目に映った。彼は、もどってゆき、笑いながら、彼女の手にむりやり金をわたしてやった。
「さっ、帰りの車代、二シリングだよ」
相手がまだなにもいわないうちに、彼はさっさといってしまった。
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七十六
翌日の午後、フィリップは部屋で坐りこみ、ミルドレッドが来るかどうか? 考えていた。前夜、よく眠れなかった。午前ちゅうは、医学校のクラブにゆき、新聞をつぎからつぎへと読みあさって、時間つぶしをした。いま休暇で、知人の学生でロンドンにいる者はほとんどなかったが、話し相手を一、二みつけ、チェスをして、怠屈な時間しのぎをした。昼食後、つかれがひどく、頭がガンガンと痛みだし、そのため、下宿にもどって横になり、小説を読もうとした。グリフィスとは会っていなかった。前の晩、フィリップがもどったときに、彼は留守、もどってきた足音は聞えてきたが、いつものとおり、フィリップが寝ているかどうかみようと、こちらの部屋をのぞいたりはしなかった。朝には、早く彼が出ていくのが聞えた。フィリップをさけようとしているのは、まちがいのないことだった。いきなり、ドアを軽く打つ音が聞えてきた。フィリップはパッと起きて、ドアをあけた。ミルドレッドが戸口に立ち、ジッと身しろぎもせずに、立ちつくしていた。
「はいりたまえ」フィリップはいった。
彼女がはいると、彼はドアを閉め、彼女は腰をおろした。なにか切りだしかねて、モジモジしているふうだった。
「きのうの晩、二シりングくだすって、ありがとう」彼女はいった。
「いやあ、構わないよ」
彼女はかすかな微笑を彼に投げた。それは、いたずらをしてたたかれ、主人のご機嫌とりをしょうとしている子犬の姿を、フィリップに思わせた。
「いままで、ハリーと昼ご飯を食べてたの」彼女はいった。
「ほう」
「土曜日、あたしといっしょにいきたい気があるんなら、フィリップ、あたし、いくことよ」
勝ちほこったゾクリとするよろこびがサッと心を走ったが、それは一瞬の感覚にすぎぬもの、疑惑の念がつづいて起きてきた。
「金ゆえというわけかね?」彼はたずねた。
「ええ、ひとつにはね」彼女はさらりといってのけた。「ハリーは、なんにもできないの。ここに五週間分の下宿代がたまり、あんたには七ポンドの借金、仕立屋にはうるさく代金をせがまれてるの。できるもんはぜんぶ質入れする気はあるもんの、もうのこってるもんはないのよ。新しい服の支払いをのばすのに、あたし、すっかり骨を折っちゃったわ。土曜日にはあたしの下宿代があるでしょ。それに、いきなり仕事といっても、むりな話よ。空《あ》きができるまでに、少しは待たなきゃならないんでね……」
彼女はこうした話すべてをケロリとした不平がましい調子で述べ立て、この世のならわしの一部として我慢しなければならない運命のひどい仕打ちを話しているようだった。フィリップはだまっていた。女が自分にいっていることは、よくわかっていたからである。
「きみは『ひとつには』といってたね」彼はとうとういった。
「ええ、ハリーはいってたわ、あんたはあたしたちふたりにとってもいい人だったとね。あんたは自分にとってもいい友だちだった、それに、ほかの男だったらしてもくれないことを、あたしにしてくれた、いい加減なことをすべきじゃない、って、あの人、いってたわ。それに、あの人についてあんたがいってたこと、自分は生れつき気まぐれ、あんたとはちがう、自分のためにあんたをすてちまうなんて、バカなことだ、自分はながつづきしないが、あんたはちがうんだ、とも自分でいってたことよ」
「ぼくといっしょに|いきたい《ヽヽヽヽ》のかい?」フィリップはたずねた。
「あたし、構わないことよ」
彼は彼女をながめ、口の端をゆがめたが、それは、みじめな心をあらわしていた。たしかに彼はいい気分になっていた。これで思うとおりになったからだった。自分の受けてきた屈辱にたいして、ちょっと軽蔑の笑いを投げかけた。彼女はサッと彼に目をやったが、なにもいわなかった。
「きみといっしょに出かけるのを、心の底から楽しみにし、ああしたすべてのみじめさを乗り越えて、ようやく幸福になれるんだ、と考え……」
彼の言葉がまだ終らないのに、突然、なんの予告もなく、ミルドレッドは激しくワッと泣きくずれた。彼女が坐っていた椅子は、ノーラが坐って泣いたあの椅子で、ノーラと同じように、椅子の背に顔をかくしていたが、その場所は、頭が乗せられるために、まんなかがたるんでできた端のちょっとふくらんだところだった。
「自分は女運のわるい男だな」フィリップは考えた。
すすり泣きで、彼女の痩せたからだはふるえていた。女がこうして手放しに泣くのを、フィリップはまだみたことがなかった。ひどく痛ましい情景で、胸をひきさかれる思いを味わった。自分のやっていることもわからなくなって、彼女に近づき、両腕を彼女のからだにまわした。女はなんの抵抗もせず、みじめさに打ちひしがれて、彼のなぐさめに身をゆだねた。彼はちょっとしたなぐさめの言葉をささやき、自分のいっていることもわからずに、彼女の上にかがみこみ、何回となくキスをかさねた。
「とても不幸なの?」とうとう彼はいった。
「死んでしまいたいわ」彼女はうめいた。「赤ん坊が生れたとき、死んじゃったらよかったのよ」
帽子が邪魔だったので、フィリップはそれをとってやった。彼女の頭をもっと気持ちがいいように椅子でうつしてやり、自分はテーブルに向って坐って、彼女をジッとみた。
「愛って、つらいもんだろう、どうだい?」彼はいった。「ところが、恋をしたいとねがってる者もいるんだからねえ」
やがて、激しいすすり泣きは消え、頭をのけぞらせ、両腕をわきにダラリと垂らし、ヘトヘトになって、彼女は坐っていた。その姿は、画家が衣裳をかけるのに使う飾り人形のように異様なものだった。
「あの男をそんなに愛してるとは思ってもいなかったね」フィリップはいった。
彼には、グリフィスの愛情はよーくわかった。自分をグリフィスの立場におき、彼の目でながめ、彼の手でふれていたからだった。グリフィスの身がわりになって考えるのはらくなこと、彼はグリフィスの唇でキスをし、グリフィスのほほ笑む目で、彼女にほほ笑みかけた。彼を驚かしたのは、彼女の激しい気持ちだった。情熱をもち得ない女と思っていたのだが、これこそまさに情熱、まぎれもないものだった。なにか心の中でくずれ去っていくような感じだった。じっさい、なにかがこなごなにくずれていく実感が彼をおそい、妙に力ぬけした感じだった。
「きみを不幸にしたくはないよ。いやなら、ぼくといっしょに来なくてもいいよ。だが、金はちゃんとあげるからね」
彼女は頭をふった。
「だめ、いくといったんですもの、あたし、いくことよ」
「いったって、意味がないじゃないか、あの男を夢中で恋してるんだったら?」
「ええ、ほんとにそうなのよ。夢中になって恋してるの。あの人と同じように、それがながつづきしないのは、わかってるわ。でも、さし当っては……」
彼女は話を切り、まるで気が遠くなりそうといったふうに、目を閉じた。妙な考えがフィリップの頭に浮び、考えようともせずに、そのままそれを話しだした。
「彼といっしょにいったらいいじゃないか」
「そんなこと、どうしてできるの? 知ってるでしょ、あたしたちにはお金がないのよ」
「その金はぼくが出してやろう」
「あんたが?」
彼女は坐りなおし、彼をジッとみた。彼女の目は輝きだし、頬には生気がよみがえってきた。
「たぶん、最上の策は、その気持ちを乗り越えることだろう。そうしたら、ぼくのとこにもどってきてくれるはずだからね」
こういいはしたものの、彼の胸は苦悶でうずいていた。だが、その拷問の苦しみが彼に奇妙な、なんともいえぬ気持ちをひきおこした。彼女は、目をパッと見開いて、彼をながめていた。
「まあ、そんなこと、できるもんですか、あんたのお金で! ハリーだって、とんでもない、と思うことよ」
「いや、大丈夫さ、きみが彼を説得してやればね」
彼女の反対で彼は意地になっていたのだが、彼女がそれを激しく断るのを、心の底からねがっていた。
「五ポンドあげるよ。そうすれば、土曜日から月曜日まで、いけるだろう。らくにできるさ。月曜日に、彼は故郷《くに》に帰り、ロンドンの北の病院で職につくまで、そこにいるはずなんだからね」
「まあ、フィリップ、ほんと?」両手をにぎりしめて、彼女は叫んだ。「あたしたちをいかしてくれさえしたら――そのあとでは、うんとあんたを愛してあげることよ。あんたのためなら、なにをしたっていいわ。そうしてさえくれれば、きっと、それを乗り越えられることよ。ほんとにお金をくれるの?」
「うん」彼はいった。
彼女の態度は、ガラリと変った。笑いはしめた。気がくるったように幸福感に酔い痴れているのが、彼にはわかった。彼女は、椅子から立ちあがって、フィリップのわきにひざまずき、彼の両手をとった。
「あんた、いい人だことねえ、フィリップ。いままで会っただれよりもいい人よ。あとで、あたしのこと、怒ったりはしないこと?」
微笑を浮かべて、彼は頭をふったが、その心中の苦悶ときたら!
「ハリーにそのことを話しにいっていい? あんたは気にしてないっていっていいの? どうでもないとあんたが約束してくれなきゃ、あの人、とっても承知してくれないわ。ああ、あたしがあの人をどんなに愛してるか、あんたにわかりっこはないわ。でも、あとでは、どんなことでも、好きなことをしてあげることよ。月曜日には、パリなりとどこなりと、あんたといっしょにいってあげることよ」
彼女は立ちあがり、帽子をかぶった。
「どこへいくんだい?」
「あの人がつれてってくれるかどうか、きいてみたいの」
「もうかい?」
「あたしがここにいたほうがいいの? お望みなら、ここにいることよ」
彼女は坐りこんだが、彼はちょっと笑った。
「いや、構わないよ。すぐにいったほうがいいだろう。ただひとつ条件があるんだ。さし当ってグリフィスに会うのはたまらないことなんだ。ひどく心を傷つけられることになるからね。悪感情とかそういったものはもってないんだが、ほくの目先にはあらわれないようにって伝えてくれるかい?」
「わかったわ」彼女はサッととびあがり、手袋をはめた。「あの人のいうこと、あたしがあんたに話すことよ」
「今晩は、ぼくといっしょに夕食をしてもらいたいもんだね」
「ええ、いいことよ」
彼女は顔をあげて彼にキスをさせ、彼が唇を彼女の唇におしつけると、彼の首に両腕をまきつけた。
「ほんとにいい人ね、フィリップ」
それから二時間して彼女からの手紙が送られてきて、頭が痛くてとてもいっしょに夕食はできない、といってきた。フィリップは、それをほとんど予想していた。彼女がグリフィスといっしょに食事をしているのは、わかっていたことだった。ひどい嫉妬で苦しみもだえたが、ふたりをいきなりとらえたこの情熱は、外部から起きてきたなにかあるもの、神がそれを彼らにもたらしたように思われ、彼は力なくぐったりしてしまった。ふたりが愛し合うのは、いかにも自然なことに思われた。グリフィスが自分にたいしてもつ利点すべてをさとり、ミルドレッドの立場に立ったら、自分だってミルドレッドと同じ行動をとるだろう、と彼は認めた。彼の心をいちばん傷つけたのは、グリフィスの卑劣なやり口だった。ふたりとも自分とは親しい友人、自分がどんなに献身的な愛情をミルドレッドにささげているかは、グリフィスだって知っているのだ。これだけは遠慮してもいいはずだった。
金曜日まで、ミルドレッドとは会わなかった。そのときには、もう彼女をひと目みたくてたまらなくなっていたが、彼女がやってき、グリフィスに夢中になっている彼女のこと、自分のことをすっかり忘れていたことがわかったとき、フィリップは急にミルドレッドが憎らしくなった。彼女とグリフィスがなぜ愛し合っているかが、いま、わかってきた。グリフィスはうつけ、まったくすごいうつけ者なのだ! それはズーッとわかっていたことだったが、そのうつけ、頭の空《から》っぽさに、彼は目をつぶっていたのだ。彼のあの魅力は、まったくの利己心をかくすおおい、自分の欲情のためなら、だれを犠牲にしようと平気なのだ。酒場をうろつきまわり、演芸場で酒を飲み、女から女へと浮かれ歩いて、なんと空虚な生活をしていることだろう! 本は一冊も読んでいない。軽薄でも野卑でもない一切のことには、盲目なのだ。りっぱな考えを頭にもったことがなく、ふだんいちばん口にしている言葉は、「スマート」ということだけ、それが、男や女にたいする彼の最高の賛辞になっているのだ。スマート! 彼がミルドレッドの歓心を買ったのも、べつに驚くには当らない。似合いの一対といったところだ。
フィリップがミルドレッドに語った話は、ふたりにこれといってさしさわりのないことばかりだった。女がグリフィスのことを話したがっているのはわかっていたが、絶対にそのきっかけを与えなかった。ふた晩前に、みえすいた口実で自分といっしょに夕食をしようとしなかった事実にも、絶対ふれなかった。女にさりげない態度をとりつづけ、自分の愛情がいきなり冷えきってしまったと彼女に思わせようと努力し、彼女の心を傷つけながらも、なにかつかめず、じつに得もいえぬ微妙なふうに残酷、その結果、彼女としては文句をつけようにも文句のつけようのないつまらぬことをしゃべってやろうと、彼は特別な手腕を発揮することになった。とうとう彼女は立ちあがった。
「もう帰らなければならないわ」彼女はいった。
「たぶん、いろいろと仕事はあるんだろうからね」彼は答えた。
彼女は手をさしだし、彼はそれをとり、さよならをいい、彼女のためにドアをあけてやった。彼女がなにをいいたがっているか、を彼は心得、自分の冷たい皮肉な態度が彼女をどんなにふるえあがらせているか、をちゃんとみぬいていた。ときどき彼の恥じらい癖がひどく冷たいものに彼をみせ、そのつもりはないのに、人びとをおそれさせ、このことはもう知っていたので、必要となると、彼はそうした態度をとることができるようになっていた。
「約束してくれたこと、忘れてるんじゃないことね?」彼がドアをあけておさえていると、彼女はとうとういいだした。
「なんのこと?」
「お金のことよ」
「いくら要るのかな?」
自分の言葉を特別感じのわるいものにする氷のように冷たい慎重さで、彼は語り、ミルドレッドはサッと顔を赤くした。その瞬間、彼女が自分を憎んでいるのを、彼は知っていて、よくぞ自分にとびかからないもの、と彼女の自制心にびっくりしていた。彼が望んでいたのは、彼女を苦しめてやることだった。
「あした、服代と下宿の勘定があるの。それだけよ。ハリーは旅行にいこうとしないの。だから、その代金は要らないわ」
フィリップの心臓はドキリとし、そのため、ドアのハンドルから手が放れてしまった。ドアはバタンと閉まった。
「どうしていこうとしないんだい?」
「とてもいけない、あんたのお金ではっていってるの」
悪魔がフィリップにとりついたが、これは、彼の心にいつもひそんでいる自虐の悪魔だった。グリフィスとミルドレッドがいっしょにいかないようにと心の底からねがっているのに、どうにもならず、ミルドレッドをとおしてグリフィスの説得に、彼はとりかかった。
「ぼくがいいというんなら、いっていけないはずはないんだがな」彼はいった。
「あたしもそういったの」
「本気でいきたいんなら、迷うことはないだろうが……」
「まあ、そうじやないのよ。いきたいのは、たしかなこと。自分でお金をもってたら、すぐいってしまうとこよ」
「そのことで彼がうるさくいうんなら、その金をぼくは|きみに《ヽヽヽ》あげるよ」
「あの人が望むんだったら、あんたからそのお金を借り、できるだけ早いとこ、ふたりでかえしましょうとも、あたし、いったの」
「週末に男につれてってもらおうと、ひざまずいてまでたのみこむなんて、きみも変れば変ったもんだね」
「まったくそうよ、ねえ」恥知らずにちょっと笑って、彼女はいった。
これを聞いて、フィリップの背筋にゾクリと悪感が走った。
「じゃ、きみはどうするつもりなんだい?」彼はたずねた。
「なんにもしないわ。だって、あの人、あしたは帰るのよ。帰らなくっちゃならないの」
そうなれば、フィリップは救われるわけだった。グリフィスを追っ払ってしまえば、ミルドレッドをとりもどせたからだった。ロンドンに彼女の知人はなく、否応なく彼をたよることになり、ふたりだけになれば、この狂乱をすぐに忘れさせることができるはずだった。これ以上なにもいわないでいれば、それでもう安全なのだ。だが、彼らのとまどいを打ち破ってやろうという悪魔じみた欲望が彼の中にひそみ、自分にたいしてふたりがどの程度まで卑劣な態度をとれるものか、知りたくなった。もう少し誘惑をかければ、ふたりは屈服するだろう。世間に顔向けならないそのひどい行為を考えると、激しいよろこびが胸にこみあげてきた。話す一語一語で拷問の苦悩を味わいながらも、その苦悩の中に、おそろしいよろこびをみいだしていたのだった。
「この機会を逸したら、もう金輪際《こんりんざい》だめなんだよ」
「あたしも、そういったの」彼女はいった。
女の声には、フィリップの心を強く打った情熱的なひびきがこもっていた。彼は、イライラして、爪を噛んだ。
「どこにいこうとしてたんだい?」
「ああ、オクスフォードよ。あの人、そこの大学にいたことがあるの。学寮を案内してやるっていってたわ」
前に、一日オクスフォードにいってみようか、と彼がさそったとき、観光なんて、思っただけでもうんざりする、と彼女がはっきり断ったのを、フィリップは思い出した。
「それに、天気もどうやらいいようだよ。いま、あそこはとても楽しいとこだ」
「説きつけようと、あたしとしては、もうできるだけのことはしたの」
「もう一度やってみたらどうだい?」
「あんたもそれを希望してるっていっていいこと?」
「そこまでいわなくっても、いいんじゃないかな」フィリップはいった。
彼女は、彼をジッとみつめながら、ちょっとだまっていた。フィリップは、むりをして、親しげに彼女をみていた。彼は彼女を憎悪し、軽蔑し、心の底から愛し切っていたのだった。
「あたしのすること、あんたにも知らせてあげるわ。なんとかそう都合がつかないかどうか、とにかく、あの人に当ってみることよ。それで、うんといったら、あした、そのお金をもらいにくるわ。あんた、いつここにいるの?」
「昼飯のあと、ここにもどって、待ってるよ」
「わかったわ」
「きみの服代と部屋代は、いま、わたしてあげよう」
彼は机のところにゆき、あり金ぜんぶをひっぱりだした。服代は六ギニー、そのほか、部屋代と食費、それに、赤ん坊の週の養育費があった。彼は彼女に八ポンド十シリングわたしてやった。
「どうもありがとう」彼女はいった。
彼女は出ていった。
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七十七
医学校の地下室で昼食をすませてから、フィリップは下宿にもどった。土曜日の午後で、下宿のおばさんは階段を掃除していた。
「グリフィス君はいますか?」彼はたずねた。
「いいえ、今朝、お出かけでしたよ、そちらがおいでになってからすぐね」
「帰らないでしょうかね?」
「帰らないでしょうよ。荷物をもってったんですからね」
これはどういうことだろう? とフィリップは考えた。本を手にして、読みはじめた。それは、ウェストミンスター公共図書館から借りだしてきたばかりのバートン(探検家・著述家・言語学者で『千夜一夜物語』の翻訳者として有名)の『メッカ旅行記』だった。最初のページにとりかかったが、意味がとんとつかめなかった。心はほかにとび、そのあいだじゅうズーッと、耳を澄ませて、ベルが鳴るのを待っていたからである。ミルドレッドをつれずに、グリフィスがもう故郷のカンバーランド(イングランド北西部の州)に帰ったとは、どうしても思えなかった。金をとりに、やがて、ミルドレッドがやってくるだろう。歯を食いしばって、本を読みつづけた。しゃにむに注意力を集中しようと努め、その努力で、文章は頭に刻みつけられはしたものの、彼が味わっている苦悶で、それはひきゆがめられてしまった。ふたりに金をやるというあの途方もない約束をしなかったら、とかえすがえすも悔やまれたが、約束をした以上、ミルドレッドのためにではなく、自分自身のために、それをとり消すなんて、とてもできないことだった。
彼には病的な頑固さがあり、一度きめたとなると、否応なくそれを実行していた。読んだ三ぺージがなんの印象もとどめていないのを知って、またもとにもどって、読みなおしたが、同じ文を何回となく読みかえしているのがわかった。いま、それが自分の考えとすごいふうに織りまざって、悪夢の中の数学の公式のようになってきた。彼のできるただひとつのことは、外に出てゆき、真夜中まで帰って来ないことだけだった。そうなれば、ふたりはゆけなくなるだろう。彼がもどったかどうかと、一時間ごとにこの下宿にやってくるふたりの姿が目に浮かんだ。彼らの失望を思うと、痛快だった。彼は、例の本からの文章を、機械的にくりかえして読んだ。だが、それは不可能なことだった。彼らがやってきて、金を受けとればいいんだ。そうすれば、人間が破廉恥《はれんち》のどんな深淵にまでくだることができるか、よくわかるだろう。もう本が読めなくなった。単語をただながめているのはいやだった。椅子でのけぞり、目を閉じ、みじめさでからだをしびれさせながら、ミルドレッドの出現を待っていた。
下宿のおばさんがはいってきた。
「ミラーの奥さんがおいでですが?」
「とおしてください」
フィリップは、心の乱れは気どられまいとして、気持ちをしっかりとりなおした。衝動的に、身を投げてひざまずき、彼女の両手をにぎり、どうかいかないでくれ、とたのみたくなった。だが、彼女の心を動かそうにも、方法が皆無《かいむ》なことはわかっていた。自分がしゃべったこと、自分の行動すべてを、彼女はグリフィスにしゃべってしまうだろう。それは、恥ずかしいことだった。
「さて、小旅行のほうはどうなったのかな?」彼は陽気にたずねた。
「いくことになったの。ハリーは外にいることよ。あんたがあの人と会いたがっていないこと、もういってあるわ。だから、姿をかくしてるの。でも、別れの挨拶をしに、ちょっとこの部屋に来ていいかどうかって、いってるんだけど……」
「いや、会いたくはないね」フィリップは答えた。
自分がグリフィスに会おうが会うまいが、彼女には問題でないことが、彼にはわかっていた。女が目の前にあらわれてくると、早く姿を消してもらいたくなった。
「さあ、五《ヽ》ポンドあげるよ。もう帰ってくれたまえ」
彼女は金を受けとり、礼をいい、部屋を出ていこうとした。
「いつ帰ってくるの?」彼はたずねた。
「ああ、月曜日よ。その日、ハリーが故郷《くに》に帰らなければならないんでね」
自分が口にするのは屈辱的なこととはわかっていたが、彼は嫉妬と欲望でおしひしがれていた。
「そうしたら、ぼくと会ってくれるね、どうだい?」
声にたのみこむ調子が出てくるのを、どうにもおさえようがなかった。
「もちろん。帰ってきたら、すぐ知らしてあげることよ」
彼女と握手をした。戸口に待っていた四輪馬車にとびのる彼女の姿を、カーテン越しにながめた。馬車はゴロゴロと走り去っていった。それから、彼は寝台に身を投げ、顔を両手に埋めた。涙がこみあげてくるのを感じて、自分が腹立たしくなった。両手をにぎりしめ、からだをねじって、涙を流すまいとしたが、だめだった。大きな鳴咽《おえつ》が否応なくグイッグイッとこみあげてきた。
ヘトヘトになり、恥ずかしくなって、彼はとうとう立ちあがり、顔を洗った。強いウィスキー入りのソーダをつくって飲むと、少し気分が落ち着いてきた。そのとき、炉棚にあるパリゆきの切符が目にはいったが、それをつかむと、怒りの衝動で、火に投げこんでしまった。それをかえせば金がもどってくるのはわかっていたが、焼いてしまうと、心がなにかホッとした。それから、だれかに会おうと、外にとびだしていった。クラブはガランとしていた。だれか話し相手をみつけなかったら、おれは気がくるってしまうぞ、と思った。だが、ローソンは外国にいっていた。ヘイウォードの下宿にいってみた。ドアを開いてくれた女中は、彼がブライトンに週末旅行で出かけた、と知らせた。ついで、美術館にいったが、閉館まぎわだった。どうしていいかわからず、頭は乱れに乱れた。客車で幸福そうに向い合せに坐っているグリフィスとミルドレッドの姿が頭に浮かんできた。
下宿にもどったが、そこの部屋をみると、おそろしさで胸がいっぱいになった。そこでじつにみじめな思いを味わったからだった。もう一度バートンの本を読もうとしたが、それを読みながら、自分はなんてバカだったんだろう、と何回となく心の中で語っていた。いったらどうだ? とすすめたのは、この自分、自分が金を提供し、むりやりふたりにそれをおしつけたのだ。グリフィスをミルドレッドに紹介したら、どんなことになるか、見当がついてもよいはずだった。自分の激しい愛情だけでも、グリフィスの欲情をひきおこすに十分なものだった。いまごろはもう、ふたりはオクスフォードに着いてるだろう。ジョン通りの宿屋におさまってるだろう。フィリップはオクスフォードにいったことがなかったが、グリフィスがそこのことをいろいろと話していたので、ふたりがどこにいくか、はっきりとわかっていた。きっとクラレンドンで夕食をするにちがいない。オクスフォードに遊びにゆけば、グリフィスはいつもそこで食事をしているからだ。
フィリップは、チァリング・クロスの近くのレストランで食事をすませ、芝居でもみようと腹をきめ、オスカー・ワイルドの劇が上演されている劇場の土間席にもぐりこんだ。この晩、ミルドレッドとグリフィスが芝居見物にいくかな? と考えた。なんとかその夜の時間つぶしはするだろう。ふたりともそろっての痴《し》れ者、話し合うだけでは満足できないはずだ。いかにも似合いのふたりの心の愚劣さを思うと、彼はすごくうれしくなった。ボーッとして芝居に見入り、幕合いごとにウィスキーをひっかけて、心を晴らそうとしていた。酒にそうなじんでいないので、酔いはすぐ出てきたが、荒々しく、しかも滅入ってくる酔いだった。芝居が終ると、もう一杯飲んだ。寝る気にはならなかった。眠れぬことはわかっていたし、自分のマザマザとした想像力で心に思い浮かべる絵図がおそろしかった。ふたりのことは考えまいとした。自分が飲みすぎたのは、わかっていた。なにかおそろしい、きたないことをしたいという欲望が、いま、おそってきた。どぶの中にころがりこみたくなった。心の底から、なにかけだもののような忌まわしいことが、してみたくってたまらなかった。ベタベタとあちらこちら、はいまわりたくなった。
彼は、|えび《ヽヽ》足をひきずり、酔っ払って陰気になり、激怒とみじめさに心をかきむしられながら、ピカディリーを歩きまわった。厚化粧の街の女に呼びとめられ、その女が彼の腕に手をかけたが、彼は、罵声を浴びせて、それをおしはらってしまったが、数歩歩いてから、足をとめた。あの女だって用はたせるはずだ。荒い言葉をかけてまずかったな、と思ったが、この女に近づいていった。
「ねえ」彼は切りだした。
「チェッ、バカらしい!」女はいった。
フィリップは笑った。
「いや、ただ、いっしょに晩餐の光栄をたまわれるかどうか、おたずねしようとしてたまでのことでね」
女は、ひどくびっくりして彼をながめ、しばらく、モジモジしていたが、彼が酔っているのをみてとった。
「構わないことよ」
ミルドレッドが口にするのを何回となく聞いていたこの言葉を、この女も使っているのを知って、おもしろかった。ミルドレッドといっしょにゆきつけになっているレストランに、この女をつれていった。歩きながら、女が自分の足をみおろしているのに気づいた。
「|えび《ヽヽ》足だよ」彼はいった。「それでまずいのかね?」
「変な人だこと」彼女は笑った。
下宿にもどると、骨がズキズキうずき、頭は、悲鳴をあげたくなるくらいガンガンしていた。気分を静めようとウィスキー入りのソーダをもう一杯ひっかけ、翌日の正午ごろまで、夢ひとつみずにぐっすりと眠りこんだ。
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七十八
とうとう月曜日になり、フィリップは、これで自分のながい拷問の苦しみが終った、と考えた。時間表をくってみると、グリフィスがその夜家に帰れる最終の列車は、一時直後にオクスフォードを出発し、ミルドレッドはその後数分して出るロンドンゆきの列車に乗りこむだろう、ということがわかった。欲をいえば、出かけていってその列車でもどる彼女をむかえたかったが、ミルドレッドにすれば、一旦放りだしにしておいてもらいたいだろう、と考えなおした。たぶん、夕方には簡単な便りを寄こして、帰ってきたのを知らせてくるだろう。便りがなかったら、その翌朝、彼女の下宿をたずねてみることにしよう。
彼はおびえて、ヘタヘタになっていた。グリフィスにたいしては辛辣な憎悪を感じていたが、ミルドレッドとなると、いままでのひどい仕打ちにもかかわらず、ただ心をひきさかんばかりの欲望しかもっていなかった。すっかりとり乱して、なにか心のなぐさめをと、知人をさがし歩いたあの土曜日の午後に、ヘイウォードがロンドンにいなくってよかった、と彼はよろこんでいた。どうしたって、万事を洗いざらい彼に打ち明けてしまったことだろう。ヘイウォードは、自分の弱さにあきれかえったろう。自分を軽蔑し、からだをほかの男にゆだねたあとで、ミルドレッドを情婦にしようと自分がもくろんでいるのに驚き、嫌悪を感じたことだろう。それが驚くべきこと、忌まわしいことであろうと、どうだというのだ? 欲望さえ満たすことができたら、彼は、どんな妥協でもし、もっとひどい屈辱でも甘受する気になっていた。
夕方近くになると、彼の歩みは、心にもなく、ついつい彼女が住んでいる家のほうに向いてしまい、彼女のいる窓をみあげた。灯りはついていなかった。もどったかどうかをたずねる気にはなれなかった。彼女の約束を信用していた。だが、翌朝になっても、彼女から手紙は来なかった。正午ごろたずねてみると、まだ帰っていない、という女中の返事だった。これは、どうも合点《がてん》のいかぬこと。グリフィスは、ある結婚式で、花聟付添人になるはずだったので、どうしても前の日には帰らねばならず、ミルドレッドは文なしだった。考えられるかぎりのいろいろなことを、思いめぐらしてみた。午後また出かけてゆき、手紙をおいてきて、過去二週間のことはなにもなかったような冷静な言葉で、その晩、自分といっしょに食事をしてくれ、と伝えた。ふたりが出逢う場所と時刻を教え、望むべくもないのになお望んで、この約束どおりに出かけ、一時間も待っていたが、彼女の姿はついにあらわれなかった。水曜日の朝、さすがにその家にいくのが体裁わるくなり、メッセンジャー・ボーイに手紙をもってゆかせ、返事をもってくるようにと命じた。だが、一時間すると、その男は開封してないフィリップの手紙をもちかえり、相手の婦人がまだいなかから帰っていない、という情報を伝えた。フィリップは、もう狂乱状態だった。この嘘は、もうどうにも我慢ならないものだった。心の中で、自分がどんなにミルドレッドを忌《い》み嫌っているかをくりかえし、この新しい失望はグリフィスゆえと考え、彼を腹の底から憎みぬき、人殺しのよろこびがわかるような気になった。暗い夜にあの男と出逢い、喉元、頸動脈《けいどうみゃく》のあたりにナイフをグサリとつきさし、犬を殺すように街路で殺してやったら、どんなに楽しいだろう、と考えながら、歩きまわった。フィリップは、悲しみと激しい怒りで、正気を失っていた。ウィスキーは好物でなかったが、それを飲んで、苦痛を忘れようとした。火曜日の夜も、水曜日の夜も、酔い痴れて眠りについた。
木曜日の朝とてもおそく、彼は起きだし、目をトロンとさせ、青ざめた顔をして、手紙が来ているかどうかと、身をひきずるようにして居間にはいっていった。グリフィスの筆跡をそこにみつけたとき、妙な感じが心を刺しつらぬいて走った。
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拝啓
どう書いていいかわからないが、書かねばならぬとは感じている。ぼくのことを、どうかひどく怒らんでくれたまえ。ミリーといっしょにいくべきでなかったことは、百も承知だったんだが、まったくどうにもならなかった。あの女にもう夢中といったところ、彼女を手に入れるためだったら、どんなことだってしたことだろう。彼女の話で、きみが金を出してくれると知ると、もうどうにもその誘惑に抵抗できなくなった。ことがすんだいまになると、自分がひどく恥ずかしく、あんなバカをしなかったら、と悔やまれる。手紙をくれて、怒ってない、と伝えてもらったら、ありがたいんだが……。そして、ぼくがきみのとこにいくのを許してもらいたい。ぼくに会いたくはない、ときみがミリーにいったことで、ぼくの心は、ひどく傷つけられてるんだ。たのむ、一行でもいい、手紙をくれて、許す、といってくれたまえ。それで、ぼくの心は安まるだろう。きみは気にしない、と思ったんだ。とにかく、あの金をくれたんだからね。でも、それをもらうべきでなかったことは、わかっている。ぼくは月曜日に家にもどり、ミリーは、ひとりで、二日ほどオクスフォードにいたい、といってた。水曜日にはロンドンに帰るはずだ。だから、この手紙を受けとるまでには、もうきみは彼女に会ってるだろう。万事うまくおさまるように、と期待してる。ぜひ手紙をくれたまえ。そして、許す、といってくれたまえ。すぐにその手紙を書いてくれたまえ、たのむ。
ハリーより
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フィリップは、憤然として、この手紙をひきさいた。返事なんか書くつもりはなかった。言訳したことでグリフィスを軽蔑し、この男の良心の苛責《かしゃく》なんて、どうにも我慢ならぬことだった。好きなら忌まわしいことをやってもいいが、あとで後悔するなんて、愚劣きわまることだった。この手紙は卑怯《ひきょう》で偽善的、と彼は考えた。その感傷ぶりは、胸糞のわるいものだった。
「人でなしなことをやり」彼はつぶやいた、「あとですまなかったといい、それで始末がつくんだったら、じつに簡単なことさ」
いつかグリフィスにいやな思いを味わわせることができたら、と彼は心の底からねがっていた。
だが、とにかく、ミルドレッドがロンドンにいるのは、これでわかった。彼は、髯も剃《そ》らずに、あわただしく服を着こみ、紅茶を一杯飲んで、馬車で彼女の下宿にかけつけた。馬車はノロノロとはっているような感じだった。苦しくなるほど彼女に会いたく、無意識に、どうか彼女がやさしく自分をむかえてくれるように、と信じてもいない神さまにまで祈りをささげた。ただ、すべてを忘れたかった。胸をドキドキさせて、ベルを鳴らした。もう一度腕に女を抱きかかえたいという激しい欲望で、自分の受けた苦痛はけしとんでしまった。
「ミラー夫人はおいでですか?」彼はうれしそうにたずねた。
「お引っ越しですよ」女中は答えた。
茫然《ぼうぜん》として、彼は女中をながめた。
「一時間くらい前、ここにいらっしゃって、荷物をお運びでした」
一瞬、なんといっていいのか、わからなくなった。
「手紙をわたしてくださいましたか? どこにいくのか、いってませんでしたか?」
ついで、こんどもまた、ミルドレッドにひっかけられたことがわかってきた。女は自分のとこにもどるつもりはないのだ。彼は心の乱れをみせまいと努力した。
「ええ、きっと手紙をくれるでしょう。宛て名をまちがえて手紙を出したのかもしれませんからね」
彼は、まわれ右をして、絶望的な気分を味わいながら、下宿にもどっていった。こんなことになるのを、みとおしていてもよかったはずなのだ。女は、絶対に自分を愛してくれたことがなく、最初から自分を翻弄《ほんろう》しつづけ、情けも、容赦《ようしゃ》も、慈悲もなかったのだ。のこされたただひとつの道は、事実をそのまま承認することだけだった。受けた苦痛は、たまらなくひどいものだった。これに堪えるくらいなら、死んでしまいたかった。ことすべてにけりをつけてしまったほうがいい、という考えが浮かんできた。川に身を投げ、線路に身を横たえることだってできるのだ。だが、この考えを言葉にするとすぐ、それにたいする反逆心が湧き起こってきた。いずれこの不幸を乗り越えるだろう、と理性が教えた。精いっぱいの努力を傾けたら、女のことは忘れられるだろう。くだらぬおひきずり女のために命を棒にふるなんて、とてつもないことだ。命はひとつしかない、それを放りだすなんて、まさに狂気の沙汰だ。気持ちとしては、この情熱を忘れられるものとは|感じなかった《ヽヽヽヽヽヽ》が、結局のとこ、これは時の問題にすぎぬのを、彼はちゃんと|心得て《ヽヽヽ》いた。
こうなると、ロンドンなんかにはいられなかった。そこでは、すべてが不幸につながっていた。ブラックステイブルに帰る、と伯父に電報を打ち、荷づくりもそこそこ、そこゆきの最初の汽車にとびのった。こうした多くのつらい思いを堪え忍んできたあのきたならしい部屋から、一刻も早くのがれたかった。きれいな空気をすいたかった。自分がたまらなくいやになった。頭が少しおかしくなっているんじゃないか、と彼は思った。
大きくなってからズッと、牧師館で最高の空き部屋がフィリップに与えられていた。そこは角《かど》の部屋で、ひとつの窓の前には老木があり、視界をさえぎっていたが、べつの窓からは、庭と牧師館の畠越しに、ひろびろとした牧場がみわたせた。赤ん坊の時代から、壁紙のことは頭にしみついていた。壁には、ヴィクトリア時代初期の奇妙な水彩画が何枚かかかっていたが、これは、牧師の青年時代の友人が描いたものだった。そこには、色は褪《あ》せながらも、なにか美しさがあった。化粧テーブルは、ゴワゴワしたモスリンでとりかこまれていた。服をかける古い高脚づきの洋|箪笥《だんす》があった。フィリップはホッとよろこびのため息をもらした。こうしたものすべてが自分に多少なりともかかわりがあるものとは、夢々思ってもいなかったのだった。牧師館の生活は、いつものとおり、変ったところなく進行していた。家具で場所を変えたものはなく、牧師は、同じものを食べ、同じことを語り、毎日、同じ散歩に出かけていた。変ったことといえば、少し太り、少し口数が少なくなり、少し偏窟《へんくつ》になったくらいのものだった。妻のいない生活にはもう馴れ、妻のいないさびしさをそう感じてはいなかった。ジョサイア・グレイヴズとは相変らず喧嘩をしていた。この教区委員に会いにフィリップは出かけたが、少し痩せ、少し白髪がふえ、少しきびしさをました程度の変化で、独裁的な点は従前と変らず、依然として祭壇のろうそくには文句をつけていた。通りの店には、前と変ちず、快い奇妙な雰囲気がただよっていた。船員が使う品物、船員靴、防水外套、滑車装置を売っている店の前に、フィリップは立ち、子供時代に味わった海にたいするゾクリとする憧憬《どうけい》や未知のもののもつ冒険まじりの魔力を思い出した。
郵便配達夫がドアをトントンとたたくと、心臓がドキドキするのをおさえられなかった。ロンドンの下宿のおばさんから、ミルドレッドの手紙が回送されてきたのかもしれない、と思ったからだった。だが、それが来ないのは、わかっていた。いま、前よりもっと冷静に考えられるようになって、ミルドレッドに自分をむりやり愛するようにさせようとした点で、自分が不可能なことを試みていたのがよくわかってきた。男から女へ、女から男へと伝わっていって、そのどちらかを奴隷にせずにはおかないものがなになのか、彼には見当がつかなかった。それを性的本能と片づけてしまえば、ことは簡単だった。だが、それだけのものとしたら、なぜそれがある特定の人間にたいしてこうまで強烈な魅力をひきおこすのだろう? これは、どうにも理解がつかないことだった。それは抵抗しがたい力をもち、理性で対抗はできなかった。それにくらべたら、友情、感謝、利害なんて、問題ではなかった。ミルドレッドにたいして性的な魅力をもっていないので、自分がどんなにつとめようとも、彼女になんの効果もあがらなかったのだ。こう考えると、ムカムカしてきた。そうしてみると、人間性とは獣的なものとなるからで、いきなり、人間の心はつかめぬ暗いところだらけ、と思われてきた。ミルドレッドが自分に冷淡な態度をとっていたので、彼は、彼女を性的感覚のない人間と考えていた。貧血症的な外見と薄い唇、細い腰とぺしゃんこな胸をした肉体、けだるげな態度は、そうした考えの裏づけになっていた。だが、その彼女が突然情熱を燃え立たせ、それを満たすために、よろこんですべてをなげうつ気にまでなったのだ。イーミル・ミラー相手の彼女の色恋沙汰は、どうとも彼には納得できぬものだった。それはいかにも彼女らしからぬこと、彼女自身、それをはっきり説明できないでいた。だが、いま、グリフィスを相手にしての彼女を思うと、ミラーのときにも、これと同じことが起きていたのがわかってきた。おさえきれぬ欲望で、彼女はすっかり夢中になったのだ。こうまでふしぎなふうに彼女をひきつけるどんなものをあのふたりの男がもっていたのだろう? 彼はそれを考えてみようとした。ふたりは、女の単純なユーモア感をくすぐり立てる低俗なおどけぶりをもち、ある粗野な性格の持ち主だった。だが、女心をつかまえたのは、たぶん、ふたりのいちばんの特徴になっているみえすいたあくどい性的魅力だったのだろう。彼女はお上品な洗練ぶりの持ち主で、基本的な生殖の生理作用なんぞという話になると、怖気《おぞけ》をふるい、肉体的な作用はお上品ならざるものとみて、低俗なものにたいして、ありとあらゆる婉曲《えんきょく》な言葉を使い、いつも、ズバリいってのけるのより、遠まわしな手のこんだ言葉を好んでいた。こうした男たちの獣性は、女の痩せた白い肩をなぐりつける鞭《むち》の働きをし、女は官能的な苦痛で身をわななかせていたのだ。
ひとつのことだけ、フィリップははっきり腹をきめていた。苦しい思いを味わったあの下宿にだけは、もどりたくなかった。下宿のおばさんに手紙を書き、そこから出るのを通告した。自分自身の道具を身のまわりにおきたかった。そこで、家具のついていない部屋を借りることにした。それは快適で、安あがりでもあり、この安あがりな点は、さし当って考えなければならないことだった。過去一年半の支出は、ほぼ七百ポンドにもなっていたからである。この穴埋めには、うんと切りつめなければならなかった。ときどき、将来のことを思って、彼はゾッとしていた。ミルドレッドにこんな大金を使い果すなんて、まったくバカげたことだった。だが、また同じことが起きたら、まったく同じ行動をとるのが、彼にはわかっていた。自分の顔がそうマザマザと心の中をあらわさず、からだの動きもにぶかったので、友人たちが彼のことを意志が強く、慎重、冷静とみている事実を考えると、ときどきおかしくなった。彼らは自分を理性的と考え、自分の常識をほめそやしているが、自分のとりすました表情は、無意識につけた仮面にすぎず、それが蝶の保護色の役を果しているのを、彼は知っていて、自分の意志の弱さには、われながらびっくりしていた。自分はどんな軽い感情にも支配される、まるで風に吹きとばされる木の葉のようだ、と彼には思えた。そして、ひとたび情熱にとらえられると、もうまったく無力だった。自制心がなく、それをもっているようにみえるのは、ほかの者をつき動かす多くのものにたいして、彼が無関心でいるためにすぎなかった。
彼は自分でつくりだした哲学を、多少の皮肉をまじえた気持ちで、考えた。それが、経験した体験で、そうたいして役には立たなかったからだった。人生のいざというどんな危機に臨んでも、思想がほんとうに人間の助けになるものだろうか? と考えた。自分の内にはありながらも自分とまったく縁のないある力に自分はゆり動かされ、その力は、パオロとフランチェスカ(ラヴェンナ伯爵は戦功の賞として娘のフランチェスカをジョヴァンニ・マラテスタに与えたが、フランチェスカは醜男でびっこのジョヴァンニにをきらって、夫の弟で美男のパオロと恋に落ち、それが露見して、ふたりは一二八九年に処刑された。ダンテの『神曲』地獄篇五にもフランチェスカの告白が示されている)をグイグイとつき動かしていった地獄の大風のように、自分を強く動かしているようだった。なにをしようかとは考えていたものの、いざ行動を起すべきときになると、本能、感情、その他なにかわからないものにしっかりとつかまれて、もう身動きがとれなくなる。彼の行動は、環境と自分の人柄というふたつの力で動かされている機械のようだった。理性は傍観的な第三者、事実を観察していながらも、干渉する力はもっていず、エピクロス(ギリシャの哲学者。神々は超然として人事に関係しないと主張)の神々のようだった。そうした神々は、最高の天の高みから人間の行為をながめてはいながらも、起きる事件をいささかでも変える力をもっていなかったからである。
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七十九
学期がはじまる二日前に、フィリップはロンドンにもどったが、これは、部屋をさがすためだった。ウェストミンスター橋通りからわかれる街路をさがしまわったが、そこのきたなさはいやなものだった。とうとうケニントンで部屋をみつけたが、そこには静かな古い世界のたたずまいがあった。サッカレーがテムズ川のそのあたりで知っていたロンドンの気配を人に思わせ、彼の書いたニューカム一家のバルーシュ型の馬車がその一族を乗せてロンドン西部にとおりすぎていったにちがいないケニントン通りでは、プラタナスが新緑の葉を吹きだしていた。フィリップが住もうと思った通りの家は、ぜんぶ二階建て、たいていの家に、貸し間ありの札《ふだ》がさがっていた。
貸し間が家具つきではないと書いてある家をノックすると、きびしい顔つきの無口な女が出てきて、四つのとても小さな部屋をみせ、その部屋のひとつに、料理用のストーブと流しがつけられてあった。部屋代は週に九シリングだった。こうまで多くの部屋は必要でなかったが、部屋代は安く、その上、早くどこかに落ち着きたい気持ちが強かった。部屋の掃除と朝食の用意をしてもらえないか? とこの下宿のおばさんにたずねてみたが、それをしなくても、仕事が手にあまるほどあるというのが返事だった。このおばさんが部屋代を受けとる以外になんの係り合いももちたくないといっていたのは、フィリップにとって不愉快どころか、むしろうれしいことだった。角の向うの食料雑貨店――これは郵便局でもあった――できいてみたら、「そうした世話をしてくれる」女の人がみつかるかもしれない、とこのおばさんは話してくれた。
フィリップは、いままでに集めてきた家具を多少もっていた。パリで買った肘かけ椅子とテーブルそれぞれひとつ、わずかな絵、クロンショーがくれたペルシャじゅうたんの小さなきれがそれだった。伯父が折りたたみ式の寝台をくれたが、いまはもう八月に家を貸していなかったので、それは伯父には用のないものだった。さらに、十ポンド奮発して、フィリップはほかの必要な品々を買いととのえ、十シリングは客間用の部屋に小麦色の紙をはるのに使い、ローソンからもらったグラン・ゾギュスタン河岸のスケッチ、パリで髯を剃りながらいつもながめていたアングルの『オダリスク』とマネの『オランピア』を壁にかけた。自分も絵の勉強をしたことがあるという思い出の種に、あのスペインの青年ミゲル・アフーリアの木炭描きの絵も飾ることにした。これは彼の最高傑作、両手を固くにぎりしめ、両足は独得の力強さで床を踏みつけ、顔にはあのじつに印象的だった決然たるようすを浮かべた裸体画だった。ながい期間をおいてながめてみれば、自分の絵の欠点がよくわかりはしたものの、それがひきおこす連想の点で、そういちがいにけなし去るべきものではなかった。ミゲルはどうしただろう? と彼はふと思った。才能がなくて芸術の道を歩むほどおそろしいことはない。おそらく、雨露にさらされ、食べるものもなく、病気になって、どこかの病院で最後の息をひきとったのではあるまいか? あるいは、絶望の発作で、あのにごったセーヌ川に身を投げたかもしれない。だがまた、ひょいとすると、あの南方人独得の気まぐれで、悪戦苦闘をみずから放棄し、いま、マドリッドのどこかの役所で書記になって、あの熱烈な口調《くちょう》を政治と闘牛に向けているかもしれない。
フィリップは、ローソンとヘイウォードを招待して、新しい部屋をみてもらった。ふたりは、ウィスキー一本とフォア・グラのパイをそれぞれ持参しておとずれ、部屋の好みのよさをほめられて、彼はよろこんでいた。スコットランド人の株式仲買人も呼びたいとこだったが、椅子が三つしかなく、客の数も自然限定されることになった。ローソンは、自分をとおしてフィリップがノーラ・ネズビットと親しくなったのを知っていたので、数日前に彼女に偶然出逢ったことを話した。
「きみがどうしてるか、ときいてたよ」
彼女の名前が出ると、フィリップはパッと顔を赤くした(とまどうと顔を赤らめるまずい癖は、まだぬけていなかった)。ローソンは、冷やかすように、こうした彼をながめた。一年の大部分をいまはロンドンで送っているローソンは、すっかり環境に屈服し、髪は短く刈り、小ぎれいなサージの服を着こみ、山高帽をかぶっていた。
「もうすっかり縁切れになったらしいね」彼はいった。
「もう何ヵ月も会ってないよ」
「なかなかきれいな姿だったぜ。白い駝鳥《だちょう》の羽根をたくさんつけたすごくスマートな帽子をかぶっててね。懐《ふところ》具合いはかなりいいらしいな」
フィリップは話をそらしたが、彼女のことが頭にこびりつき、少し間をおいてから、三人がまったくべつの話をしているとき、いきなりいいだした、
「ノーラがぼくのことを怒ってるようだったかい?」
「いいや、ぜんぜん。きみのこと、とてもよくいってたぜ」
「会いにいってみたい気もしてるんだがね」
「まさか、きみをとって食おうというわけじゃあるまいしね」
ノーラのことは、よく、フィリップの頭に浮かんでいた。ミルドレッドにすてられたとき、まず考えたのはノーラのことで、彼女だったら、こんなあつかいを自分にはしなかったろう、とわびしく考えていた。衝動的に、彼女のところにとんでいきたかった。きっと同情してくれるだろう。だが、恥ずかしかった。いつも親切にしてくれた彼女だったのに、彼女にたいする自分のあのあつかいは、じつにひどいものだったのだ。
「ぼくに分別があって、彼女とはなれずにいたのだったらなあ!」ローソンとヘイウォードが帰り、床につく前のパイプをくゆらしながら、彼は考えた。
ヴィンセント・スクウェアのあの気持ちのいい居間でふたりでいっしょにすごした快適な時間、美術展覧会や芝居につれ立っていったこと、心おきなく語り合ったあのうっとりするほどの夜のことが思い出された。自分の幸福を考え、自分に関係あるすべてのことにどんなに彼女が関心を寄せてくれたかが、頭に浮かんできた。親切なながつづきする愛情で自分を愛してくれたのだ。そこには、単なる官能以上のものがあった。母性的ともいえるものだった。それが貴いもので、それにたいして、心すべてをこめて、神々に感謝しなければならぬことを、いつもよく知っていた。
彼女の慈悲に身をゆだねよう、と決心した。彼女がひどく苦しんだのは、まちがいのないことだが、自分を許してくれるくらいの心のひろさはもっている、悪意はもてない女なのだ、と感じた。手紙を出すことにしようか? いいや、いきなり彼女のところにとんでゆき、彼女の足もとに身を投げることにしよう――いざとなれば、そんな芝居がかった仕草など、恥ずかしくってとてもできはしないだろう、と感じながらも、彼としては、そうしたふうに考えてみたかった――そして、もし自分を受け入れてくれるのだったら、こんどこそもう永遠に自分を信頼してくれてもいい、と告白することにしよう。自分はあの憎むべき病気からは回復した、彼女の価値がわかった、もう信用してくれてもいいのだ。彼の想像は将来にとんでいった。日曜日に彼女といっしょにテムズ川でボートを漕いでいる姿が浮かんできた。彼女をグリニッジにつれていこう。ヘイウォードといっしょに出かけたあの楽しい遠出は、頭に刻みつけられてのこり、ロンドンの港の美しさは、追想の中でのいつまでも消えない宝物になっていた。温かい夏の午後には、ハイドパークのベンチに腰をおろし、いっしょに語り合うことにしよう。彼女の陽気なおしゃべりを思い出すと、思わず笑いがこみあげてきた。あの饒舌《じょうぜつ》は、小石の上に湧きだす小川のように流れ、おもしろく、ちょっと小生意気、いかにも個性のあるものだった。自分がなめてきた苦悩のあとは、悪夢のように、心からぬぐい去られるだろう。
だが、その翌日、ノーラが家にいることまちがいなしとだいたいみこんだお茶の時刻に、彼女のドアをノックしたとき、とたんに勇気がくじけてしまった。彼女が自分を許してくれるなんて、考えられることだろうか? 彼女の前におしかけていくなんて、卑劣なことだ。彼が毎日ゆきつけていたころにはいなかった女中がドアをあけ、ネズビット夫人が家においでか? と彼はたずねた。
「ケアリーとお会いいただけるかどうか、たずねてみてくださいませんか?」彼はいった。「ぼくはここで待ってます」
女中は階段をかけあがり、すぐバタバタとおりてきた。
「どうかおあがりください。三階の道路側の部屋です」
「わかってます」ちょっと微笑をもらして、フィリップはいった。
胸をドキドキさせて階段をあがり、ドアをノックした。
「どうぞ」よく知っている明るい声が答えた。
安らかで幸福な新生活へどうぞ、といわれているような感じだった。中にはいると、ノーラが近づいて彼をむかえた。彼女は彼と握手をしてくれたが、まるで前の日に別れたといったふうだった。男がひとり立ちあがった。
「ケアリーさん――こちらはキングズフォードさんです」
フィリップは、彼女がひとりじゃないのを知ってひどくがっかりして腰をおろし、この男の品定めをはじめた。彼女がこの人物の名を口にしたのを聞いたことがなかったが、その坐りぶりからみて、すっかりくつろいでいるように、フィリップには思えた。四十くらいの男で、きれいに髯を剃り、ながい金髪をポマードできれいになでつけ、青春期すぎた美男がよくなる赤みをおびた肌と薄青いつかれた目をしていた。鼻と口は大きく、顔の骨はつきだし、ずっしりとしたからだつきだった。背はなみより高く、ひろい肩をしていた。
「あなたはどうしたのかと思っていたのよ」キビキビした例の調子で、ノーラはいった。「こないだ、ローソンさんとお会いしてね――その話、もうお聞き? ――また会いにおいでになってもいいのに、とお話ししていたの」
彼女の顔にはとまどいの影が少しもなく、自分がこうまで気まずさを感じているこの再会を彼女がこうしてうまくやっているのびのびとした態度に、フィリップは驚嘆した、お茶を出してくれ、砂糖を入れようとしたが、彼はそれをおしとどめた。
「まあ、わたし、おバカさんだこと!」彼女は叫んだ。「忘れていたわ」
彼はこれをほんとうとは思っていなかった。紅茶に砂糖を絶対に入れないのは、彼女だってよく知っているはずだった。彼はこの一件を、彼女のさりげない態度がみせかけだけのものという証拠と考えた。
フィリップの出現でとぎれた会話は、ふたたびつづけられ、やがて、自分は邪魔をしているのかな? と彼は感じはじめた。キングズフォードは、特別彼に注意を払っているわけではなかった。その話しぶりは、流暢《りゅうちょう》でたくみ、ユーモアがないわけではなかったが、多少独断的なところがあった。ジャーナリストらしく、出てくる話題すべてで、なにかおもしろいことをいっていた。だが、会話でのけ者あつかいを受けるなんて、じつにいまいましいことだった。それなら、この客より長居をしてやれ、という気になった。この男はノーラの礼賛者かな? とフィリップは考えた。以前に、ふたりはよく、彼女に手を出そうとする男たちの話をし、それをいっしょに笑っていたものだった。フィリップは、話を自分とノーラだけが知っている話題にひきもどそうとしたが、そのたびに、このジャーナリストは割りこんできて、フィリップが否応なく口をつぐんでしまう話題に話をさらっていった。ノーラがなにかぼんやりと腹立たしくなってきた。自分が滑稽《こっけい》な存在になっているのは、彼女にもわかっているはずだったからである。だが、たぶん、彼女はこれを罰として自分に加えているのだろう。こう考えると、彼はまた上機嫌になった。だが、とうとう、時計が六時を打ち、キングズフォードは立ちあがった。
「もう失礼します」彼はいった。
ノーラは握手し、踊り場まで送っていった。彼女は出がけにドアを閉め、ものの二分間ほど、外で立っていた。ふたりはなにを話しているのだろう? とフィリップは考えた。
「キングズフォードさんて、どんな人なんです?」彼女がもどると、彼は陽気にたずねた。
「ええ、あの人はハームズワース(イギリスの出版業者)の編集者なの。最近、わたしの仕事をずいぶん出版してくれているのよ」
「いつまでいるのかと思ってましたよ」
「がんばっていてくださって、うれしかったわ。あなたとお話をしたかったの」彼女はからだをひねって、足ももろとも、小さなからだでできるだけ小さくなって、大きな肘かけ椅子に坐りこんで、タバコに火をつけた。いつもおもしろいと思っていた姿勢を彼女がとったのをみて、彼はニッコリした。
「まるで猫だな」
彼女は、黒みのかった美しい目をキラリとさせて、彼をながめた。
「この癖はやめなければ、とほんとに思っているの。この齢になって子供のような仕草をするなんて、バカげたことですものね。でも、両脚をからだの下に折りたたむと、とてもらくなのよ」
「こうしてまた、この部屋に坐ってみると、とても楽しいですねえ」幸福そうにフィリップはいった。「この雰囲気をどんなになつかしく思ってたか、きみにはとてもわからないでしょうね」
「どうしてもっと前に来なかったの?」彼女は明るくたずねた。
「なんだかこわくってね」顔を赤らめながら、彼は答えた。
彼女はやさしさにあふれた一瞥を彼に投げ、口許には美しい微笑の影が浮かんでいた。
「そんな気づかい、することなかったのに」
彼は、一瞬、モジモジし、心臓はドキドキと高鳴った。
「最後に会ったときのこと、憶えてますか? きみにたいするぼくの態度、ひどいもんだった――とても恥ずかしく思ってますよ」
彼女は彼をしっかりとみつめたが、なんの返事もしなかった。彼の頭はだんだんおかしくなってきた。ある任務でここにやってきたが、いまになって、その途方もなさがしだいにわかってきたといった感じだった。彼女は援助の手をさしのべてくれず、彼としてはただ、いきなりぶっきらぼうにいいだすよりほかになかった。
「許してもらえるかしら?」
それから、衝動的に、ミルドレッドにすてられ、ひどくみじめになって、自殺しようかとも考えたことを話しだした。ふたりのあいだで起きたことすべて、子供の出産、グリフィスとの出逢い、自分の愚かさ、自分の信頼とそれがひどく裏切られたこと一切を話した。ノーラの親切と愛情、それを放棄したのをどんなにつらい思いをして悔いているか、彼女といっしょにいたときだけが幸福だった、いまになって彼女がどんなに大切な存在かがわかった、と話した。声は、たかまる感情でしわがれてしまった。ときどき、自分の話していることでとても気恥ずかしくなり、目を伏せたままにして、しゃべりつづけた。彼の顔は苦痛でゆがんでいたが、こうして話すことは妙に心の安らぎを与えてくれると感じていた。とうとう、話は終った。ヘトヘトになって、椅子でからだをのけぞらせ、彼は相手の言葉を待った。つつみかくさずにすべてを語り、自分をいやしいものにする点で、じっさいよりもっと自分をいやしむべきものに仕立てようとしたほどだった。彼女がなにもいわないでいるのに、彼はびっくりし、とうとう目をあげた。彼女は彼をみてはいず、顔は真っ青、なにか物思いにふけっているようだった。
「きみとして、なにもいうことはないんですか?」
彼女はギクリとし、サッと赤くなった。
「ずいぶんいやな思いを味わってきたのでしょうね?」彼女はいった。「ほんとにお気の毒だわ」
話をつづけようとしているようだったが、彼女の口はとまり、ふたたび彼は待つことになった。とうとう、むりやりといったふうに、ポツリと彼女はもらした、
「わたし、キングズフォードさんと婚約したの」
「どうしてそれをすぐにいってくれなかったんです?」彼は叫んでしまった。「きみの前で恥さらしをぼくにいわせることはなかったはずですよ」
「わるかったわ。どうにもとめられなかったの……。あの人に会ったのは、あなたが」――彼の心を傷つけない言葉を、彼女はさがしているようだった――「あなたの女友だちの方がもどってきた、とおっしゃったすぐあとでね。しばらく、わたし、とてもみじめになってたわ。あの人はとても親切にしてくれたの。だれかのことでわたしがなやんでいるのを、あの人、知ってたわ。もちろん、その相手があなたとは知ってないことよ。あの人があらわれなかったら、このわたし、なにをしたかわからないの。それに、いきなり、こう仕事、仕事、仕事とやっていくわけにはいかない、と思いはじめたの。もうヘトヘト、調子もひどくわるかったわ。夫の話も、あの人にしたの。できるだけ早く自分と結婚してくれたら、離婚訴訟の費用は出す、といってくれたのよ。とてもいい職についていて、いやなら、わたし、なにもしなくてすむの。あの人、わたしをとても好きになってくれて、わたしの世話をとてもみたがっているの。わたし、ひどく心を打たれたわ。そして、いま、わたしもあの人を、とてもとても好きになっているの」
「じゃ、もう離婚できたんですね?」フィリップはたずねた。
「離婚の仮判決まではね。七月には確定し、そうなればすぐ、結婚しようと思っているの」
しばらくのあいだ、フィリップはおしだまったままでいた。
「ぼくはこんなバカな真似をしなけりゃよかったんだ」彼はとうとうつぶやいた。
彼はながい、屈辱的な自分の告白を考え、彼女はこの彼を、なにかふしぎそうに、ながめていた。
「あなたは、わたしをほんとうに愛してはいなかったのよ」彼女はいった。
「愛するというのは、そう楽しいことじゃないもんですよ」
だが、彼は、すぐに気をとりなおせる男で、もう立ちあがり、手をさしだして、いった、
「とても幸福になるようにね。結局のとこ、それがきみにいちばん幸福なことなんです」
彼の手をしっかりとにぎったとき、ちょっと物思わしげに、彼女は彼をみやった。
「また会いに来てくださることね、どう?」彼女はたずねた。
「いいや」頭をふって、彼は答えた。「きみの幸福な姿をながめたら、とってもうらやましくなってしまうから」
彼はゆっくりと彼女の家を出ていった。結局のとこ、自分が彼女を絶対に愛していなかったという点で、彼女の言葉は正しかった。彼はがっかりし、イライラまでしていたが、傷つけられたのは、心というより、彼の虚栄心だった。自分でも、それがわかっていた。やがて、神々は自分にずいぶんひどいわるふざけをしたもんだ、と彼はさとり、味気ない自嘲をわが身に浴びせた。自分自身の愚かさをおもしろがる才能をもつなんて、まったく糞おもしろくもないことだった。
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八十
つぎの三ヵ月間、フィリップの勉強の対象は、まったく新しい学課だった。約二年前この医学校にはいってきたどうにも始末のつかないほどの多くの学生は、もうすっかり減っていた。試験が思ったよりむずかしいと知って退学した者あり、ロンドンの生活費の高さを予想していなかった両親にひきとられた者あり、ほかの職業にうつっていった者ありといった具合いだった。フィリップが知り合ったある学生は、金もうけのすごい妙案を案出した。彼は蔵払いの売り出しで物を買いこみ、それを質に入れていたが、やがて、掛け売りで買いこんだ物を質入れするほうがもっと得になるのをさとった。だれかがこの学生の名を軽犯罪即決裁判所の訴訟記録の中にみつけたとき、病院ではちょっとしたセンセイションがまきおこった。再拘留がおこなわれ、気をもんだ父親が保釈金を提供し、この学生はいわゆる「白人の義務」(植民地の有色人種を世話するのが白人の義務という美名で植民地支配を正当化した当時の言葉、キプリングの詩の題より)を果すために海外に出ることになった。町に出たことが一度もなかったべつの学生は、演芸場と酒場の魅力にすっかり心をうばわれ、競馬狂、予想屋、調馬師とすっかり仲よしになり、いまは競馬の賭け元の事務員になっていた。この男が腰のところをグッとしぼった上衣を着こみ、ひろい、たいらなへりのついた褐色の帽子をかぶっている姿を、フィリップはピカディリー・サーカスの近くで一度みかけたことがあった。第三の男は、歌と物真似の天才、有名な喜劇役者たちの物真似で医学校の喫煙自由の音楽会で拍手喝采を浴び、医学をすてて、音楽喜劇のコーラス団入りしてしまった。さらにもうひとりは、やぼったい態度と間投詞ばかり入れている言葉使いで深い感情はとてももてまいと思われた点で、フィリップの関心をひいた男だったのだが、ロンドンの家並みの中で息がつまりそうになっていた。彼は閉じこめられたせまい場所で痩せおとろえ、自分がもっていると思ってもいなかった彼の魂は、手につかまれた雀《すずめ》ようにもがき、おびえてハアハアとあえぎ、心臓の動悸《どうき》を早鐘のように打たせていた。子供時代をすごしたひろびろとした空と開けたわびしい場所に心あこがれ、ある日、だれにもひと言もいわずに、講義のあいだの時間にさっさと姿をかくし、友人たちがつぎに耳にした便りは、彼が医学をすて、農場で働いているということだった。
フィリップがいまとっている講義は、内科と外科だった。週のある定まった午前には、外来患者相手に包帯巻きの練習をやり、小金をかせげるのはうれしいこと、さらに、聴診と聴診器の使用法の授業を受けた。調剤も習っていた。七月には薬物学の試験を受けることになっていて、水薬を調合し、丸薬をねり、軟膏《なんこう》をつくったりして、さまざまな薬品をいじくりまわすのは、楽しいことだった。人間的興味を多少なりともひきだせるものにはなんでも、むさぼるようにしてとびついていった。
一度遠くにグリフィスの姿をみかけたことがあったが、顔を合せていながら知らん顔をするのがいやさに、彼をさけてしまった。フィリップは、グリフィスの友人たちにたいしてなにか面映《おもは》ゆさを感じたが、そのうち幾人かは、彼の友人でもあった。彼らは彼がグリフィスと喧嘩したのを知っていて、どうやら、その理由も知っているらしかったからである。その内のひとりに、とても背が高く、小さな頭をし、くたびれたような風采をしたラムズデンという男がいたが、彼はグリフィスのいちばん忠実な礼賛者のひとりで、グリフィスのネクタイ、編みあげ靴、話しっぷり、身ぶりの真似までしていた。フィリップがグリフィスの手紙に返事を出さないので、グリフィスがひどくくさっているのをフィリップに話したのは、この男だった。グリフィスはフィリップとの和解を望んでいるという話だった。「なにか伝言でもしてくれ、とたのまれたのかい?」フィリップはたずねた。
「いいや、とんでもない。まったくぼく自身の責任でいってるんだ」ラムズデンはいった。「彼は自分のやったことをとてもわるいと思い、きみの態度はじつにりっぱだった、といってるよ。仲なおりできたら、きっとよろこぶだろう。学校に来ないのは、きみに会うのを心配してるからさ。みてみぬふりをされると思っててね」
「それはするだろうな」
「だからね、とてもみじめな気持ちになってるんだ」
「あの男が感じるちょっとした不便なんか、ぼくとしては平気の平左だよ」フィリップはいった。
「仲なおりのためなら、なんでもする気でいるんだ」
「子供っぽい、ヒステリーじみた話さ! あの男、なんで気になんかするんだろう? ぼくはとるに足りないつまらぬ男、ぼくとつき合わなくったって、結構やっていけるじゃないか。やつのことは、もうどうでもいいんだ」
ラムズデンはフィリップを冷酷で無情と思った。彼は、ちょっと、口をつぐみ、とまどったふうに、あたりをみまわした。
「ハリーは、あんな女と関係をもたなけりゃよかった、と心から後悔してるんだよ」
「そうかね?」フィリップはたずねた。
彼は冷淡にいい放ったが、これは小気味のいいことだった。彼の胸がどんなに激しく動悸を打っているか、だれにもわからなかったことだろう。彼は、ジリジリしながら、ラムズデンが話しつづけるのを待っていた。
「もう例のことはきれいさっぱり卒業なんだろうね、どうだい?」
「ぼくが?」フィリップは応じた。「ああ、きれいさっぱりね」
少しずつ、ミルドレッドとグリフィスの関係が、わかってきた。彼は口許に微笑を浮かべて聞き入り、冷静をよそおってはいたが、彼に話しかけていた頭のにぶい学生は、それをぜんぜん見破れないでいた。女がグリフィスと送ったオクスフォードでの週末は、彼女の突如燃えあがった情熱を消すどころか、それに油をかける結果になり、グリフィスが帰ったとき、思いもかけぬ気分の変転で、彼女は、そこにひとりでもう二日いることになった。そこで、とても幸福感を味わったからだった。どうしてもフィリップのとこにもどる気にはなれなかった。彼はもう胸のムカムカする存在だった。グリフィスは、自分が火つけ役を演じたこの情火に愕然《がくぜん》とした。いなかでの彼女との、二日の滞在は、彼には、そうとう退屈なものだったからである。このおもしろい火遊びをうんざりする情事に変える意図は、彼に毛頭なかった。彼女に手紙を出す約束をとられ、生れながらの慇懃さと八方美人になろうとする気持ちをもった正直者のきちょう面なこの男のこと、家に着くとすぐ、彼女にながい、気をうっとりさせる手紙を書いたのだった。女のほうでは情熱を大いに盛りこんだ返事を出したが、表現力はからっきしない女のこと、じつに不細工、拙劣、きたない字のもので、彼はうんざりしてしまった。そのあとで、こうした手紙が、翌日、またその翌日と、立てつづけに到来、さすがの彼も、女の情がうれしいどころか、おそろしくさえなってきた。そこで、返事を出さずにいたが、こんど女は電報で彼に砲撃を加えはじめ、病気か? 自分の手紙を受けとったのか? と矢継早《やつぎばや》の催促《さいそく》、返事がないのですごく、心配してるといってきた。ここで、彼は手紙を書かずにはいられなくなったが、相手の気分をそこねずに、できるだけさらりとした返事を出し、母親は旧式の女、電報をふるえあがる大事件と考えているのだから、電報を説明するのはむずかしいことなのだといって、電報はやめにしてくれと彼女にたのみこんだ。折り返しの手紙で、どうしても彼に会いたい、持ち物を質に入れても出かけてゆき(結婚の贈り物としてフィリップが与えた化粧道具入れをもっていて、それで八ポンドは都合できた)、彼の父親が開業している村から四マイルはなれた市場町に滞在するつもりだ、と伝えてきた。これで、グリフィスは大恐慌、こんどは彼のほうから電報を打って、そんなことはしてくれるな、とたのみこみ、ロンドンに着いたらすぐ知らせる、と約束した。だが、ロンドンに来てみると、女がもう彼が勤務することになっている病院におしかけているのがわかった。これはあまりありがたくない話で、彼女に会ったとき、絶対そこには寄りつかないでくれ、と彼はミルドレッドにいいつけた。さて、三週間ぶりに会ってみると、女が自分をもうまったくうんざりさせるだけのことが、彼にわかった。どうしてこんな女と面倒なことになったんだろう? とふしぎになってき、できるだけ早いとこ、女と縁を切ってしまおう、ということになった。彼は喧嘩をするのはどうしてもいやな性分《しょうぶん》、人につらい思いもさせたくはなかった。だが、それと同時に、彼にはほかにしなければならない仕事があり、ミルドレッドにこれ以上やいのやいのとわずらわされるのはご免こうむろう、と腹をきめた。彼女に会ったとき、彼は感じよく、陽気に、おもしろく、やさしくふるまい、この前会って以来のことは、しかるべき納得のいく口実をでっちあげてとりつくろいはしたものの、なんとか手をつくして彼女に会わないようにしていた。否応なく彼女と会う約束をさせられても、最後の土壇場になると電報を打って、なんとかのがれ、下宿のおばさんには(就職してから最初の三カ月間、彼は下宿住まいをしていた)、ミルドレッドがやってきたときには、不在だといってくれ、とたのんであった。彼女は、よく、街路で彼を待ち伏せし、彼が病院から出てくるのを二時間ほど彼女が待っていたのを知っていながら、彼は調子のいいうまいことを二、三言話しただけで、仕事の約束があるという口実で、ドロンをきめこんでいた。姿をみせずに病院から退散する点で、彼はすごい手練ぶりを発揮するようになった。
一度は、真夜中に下宿にもどっていくと、地下勝手口の手すりのところに女が立っている姿をみかけ、それがだれかわかっていたので、そこを退散、ラムズデンの下宿で泊めてもらった。翌日、下宿のおばさんの話では、ミルドレッドが、何時間も、戸口に坐りこんで泣きつづけ、とうとう、そこを出ていかなかったら、警官を呼ぶとまでいわなければならなくなったということだった。
「ねえ、きみ」ラムズデンはいった、「うまく縁を切って、ほんとによかったね。あの女があんな厄介《やっかい》者になるとちょっとでも思ったら、絶対に係り合いなんかもたなかったんだが、とハーリーはこぼしてたよ」
夜何時間も戸口に坐りつづけている彼女の姿を、フィリップは考えていた。自分を追い払う下宿のおばさんをトロンとしてみあげる彼女の顔が、目にみえるようだった。
「いま女はなにをしてるんだい?」
「いや、ありがたいことに、どこかに就職したらしいよ。それで、一日じゅういそがしくしてるわけなんだ」
夏の学期が終る直前に彼が耳にした最後の話は、さすがのおとなしいグリフィスも、打ちつづく迫害の苦労で堪忍《かんにん》袋の緒《お》を切り、もううるさくつきまとわれるのはまっぴら、とっとと消えて、二度と面倒なことはいわないでくれ、と面と向ってミルドレッドにいったそうだった。
「それしかほかに方法はなかったのさ」ラムズデンはいった。「もうたまらなくなったんだね」
「じゃ、もうすっかり終ったというわけだね?」フィリップはたずねた。
「うん、もう十日女とは会ってないよ。いいかい、あのハリーは、女をすてることにかけちゃ、もう名人肌なんだがね、こんどの女には、ほとほと手を焼いたらしいな。だが、料理はちゃんとしたんだよ」
それ以上、彼女の消息は、フィリップの耳にぜんぜんはいってこなかった。彼女の姿は、ロンドンの大衆という巨大な無名の渦《うず》の中に消滅してしまった。
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八十一
冬の学期のはじめに、フィリップは外来患者係りの助手になった。外来患者を受けもつ副主任の医者が三人いて、それぞれ週に二日を担当し、フィリップは、ティレル博士の助手を志願した。
彼は学生に人気のある人物で、その助手になるには、多少の競争があった。ティレル博士は三十五くらいの背の高い痩せた男で、頭はとても小さく、赤い髪は短く刈り、青い目はとびだし、顔は赤く輝いていた。感じのいい声でうまい話をし、ちょっとした冗談好き、世間を軽くあしらっているといった態度だった。成功者で顧問医師として盛んに活躍し 将来|勲爵士《ナイト》の位は授けられるものと考えられていた。学生と貧乏人を相手にしているのが多かったので、もったいぶった態度を身につけ、病人をいつも相手にしていたので、顧問医師が専門家の態度として示す、健康人のもつ陽気な恩着せがましい態度をもっていた。このために、患者は、陽気な小学校の先生にたいする少年のような感じを、この先生にもっていた。病気はバカげたいたずらにすぎず、イライラするより、おもしろがるべきものといったとこだった。
学生は、毎日、外来患者診療室に出てゆき、患者を診察し、できるかぎりの知識を身につけることになっていた。だが、助手になる日の学生の任務は、そんなに漠然としたものではなかった。その当時、聖ルカ病院の外来患者部は、それぞれつながっている三つの部屋と、石づくりの大きな柱とながいベンチのあるひろい暗い待合室で構成され、正午に「無料診察券」をわたされた患者は、この待合室で待っていた。薬びんと茶|壺《つぼ》を手にし、ぼろ服を着てきたない者あり、きちんとした者ありといったあらゆる年齢の男女、子供がながい列をなしてこの暗い場所に坐っている光景は、気味のわるい、おそろしいものだった。それは、ドーミエ(フランスの画家)のゾッとする絵を思わせた。どの部屋も鮭肉《サーモン》色にぬられ、えび茶色の高い腰羽目板がついていた。そこには、消毒薬のにおいが立ちこめ、午後の時間がゆっくりとすぎてゆくと、人間のむきだしの体臭がそこにまじりこんでいった。最初の部屋はいちばん大きく、そのまんなかには、テーブルひとつと医師用の椅子があり、その両側に、もう少し小さな低いテーブルがふたつあり、そのひとつに病院住みこみの医者が坐り、のこりのテーブルには、その日の「診察簿」を受けもつ助手が坐っていた。これは大きな帳簿で、そこには患者の姓名、年齢、性別、職業、病気の診断の結果が記入された。
一時半に住みこみの医師がやってきて、ベルを鳴らし、再診患者を入れるように、守衛に命じた。いつも再診患者はたくさんいて、ティレル博士が二時にあらわれるまでに、できるだけこうした患者を処理しなければならなかった。フィリップがいっしょになった住みこみの医師は、小柄でキビキビとした男で、自分の職務の重要性を強く意識し、助手にはもったいぶった鷹揚《おうよう》さで応対し、上級の学生のなれなれしい態度には、公然と敵意を示していた。そうした学生にすれば、彼は以前の学生仲間なので、現在の地位にたいして当然と彼が考えている敬意を、彼に払ってはいなかったからである。彼は患者の診察にとりかかり、助手が手伝いをした。患者は男が先だった。慢性の気管支炎、患者のいう「しきりに出る激しい空咳《からせき》」が、中心的な病気だった。診察券をわたして、ひとりが住みこみの医師に、べつのひとりが助手のところにゆき、快方に向っていれば、「再投与十四日間」が診察券に記入され、患者は、薬びんなり薬壼をもって薬局にゆき、さらに十四日分の薬をもらうことになった。患者のベテランは、ティレル博士自身の診断を受けようと、ぐずぐすしていたが、これはほとんど成功せず、先生の診断が必要と思われる病状の三、四名の患者だけがのこされた。
ティレル博士は、キビキビと、快活に姿をあらわしたが、そこには「また参上!」と叫んでサーカスの轟台におどりでてくる道化役者をちょっと思わせるものがあった。彼の態度は、「病気にこんなバカさわぎをするなんて! すぐに治してあげるよ」といっているようだった。席につくと、自分が診察しなければならない再診患者がいるかどうかをたずね、その病状に診断をくだしながら、ぬけ目のない目つきで患者をながめ、住みこみの医師と冗談をとばして(助手はみんな、これに大笑いした)、そうした再診患者を処理したが、この彼の冗談に、住みこみの医師も笑ってはいたが、助手が笑うなんて厚かましいといった態度をあらわに示し、きょうはいい天気だ、暑い日だとかいって、ベルを鳴らし、門衛に新患をつれてくるように命じていた。
新患はつぎからつぎへとあらわれ、ティレル博士が坐っているテーブルのところにいった。この連中は、老人、青年、中年男、大部分は労働者階級の者で、ドック労働者、荷馬車屋、職工、酒場の給仕といった者だったが、小ざっぱりした服装の何人かは、明らかに上の階級の者で、店員や書記といった人たち、こうした連中を、ティレル博士はうろんな目でながめていた。ときどき、貧乏をよそおおうと、きなない服装をしてやってきたりする者がいたからである。だが、博士はいかさま者を見破る鋭い目の持ち主、治療費を払う能力ありと判断した人物の診察を断っていた。いちばん始末におえないのは女どもで、それでいながら、じつにへたな芝居をやるのだった。ぼろともいっていい外套とスカートを着こんでいながら、指環をはずすのを忘れているといった態たらくだったからである。
「宝石をつける余裕があるんだったら、治療費は払えるはずだよ。病院は施療施設なんだからね」ティレル博士はいった。
こういって彼は診察券を患者にかえし、つぎの患者を呼んだ。
「でも、無料診察券をもってるんですよ」
「きみの診察券なんて、問題にしてないよ。さあ、どきたまえ。きみは、こんなとこにやってきて、ほんとうに貧乏な人に必要な時間を盗んだりしてはいけないんだ」
患者は、渋面をつくり、ムッとしてひきあげていった。
「あの女、ロンドンの病院の不当なあつかいのことで、新聞に投書することだろうよ」つぎのカルテを手にし、新しい患者に例の鋭いまなざしを投げながら、ニヤリとして、ティレル博士はいった。
患者の大部分は、病院は国家の施設、自分たちはそれにたいして地方税から支払いをし、受ける診察を当然の権利と考え、自分たちに時間をかけて診察している医者は十分な支払いを受けているものと想像していた。
ティレル博士は、それぞれの助手に、診察すべき患者を割り当て、助手は、その患者を奥の部屋につれていったが、その部屋はもっと小さく、そこには、黒いバス織りでおおわれた寝椅子がおいてあった。助手は患者にさまざまな質問をし、肺臓、心臓、肝臓を調べ、病院のカルテに調査事実を記入し、自分なりにある診断をくだし、ティレル博士がやってくるのを待った。博士は男の患者の診察が終えると、何人かの学生をひきつれてやってき、助手は調査結果を報告した。博士は彼に一、二の質問をし、自分で患者を直接診察した。なにかおもしろい病症があると、学生も聴診器でその音をたしかめた。こうなると、ひとりの男の胸に二、三人、背中には、たぶん、ふたり学生がとりつくことになり、ほかの学生たちは、早く聴診器でその音を聞こうと、ジリジリしているといった情景が出現した。患者は、学生につつまれて、多少はうろたえながらも、こうした注目の焦点になって、まんざらでもない気分にひたり、その病状について、ティレル博士がベラベラと説明しているあいだ、とまどいながら聞き耳を立てていた。博士が指摘した雑音や捻髪《ねんぱつ》音をたしかめようと、二、三の学生がまた聴診器を当てがった。これが終ると、男の患者は服を着こむのを許された。
さまざまな患者の診察が終ると、ティレル博士は大部屋にもどり、ふたたび自分の机に向って坐った。たまたま自分の近くに立っている学生に、彼は、たったいま診察した患者に、きみならどう処方する? とたずね、学生は、一、二の薬品の名をあげた。
「へえっ、そうかね?」ティレル博士はいった。「うん、それは、たしかに、独創的な処方だが、あんまり早まってはいけないね」
これは、いつも、学生たちを笑わせ、自分の才気縦横のユーモアにおもしろそうに目をキラリと輝かせて、博士は学生の処方とはまったくちがう薬品の処方を命じた。そっくり同じ類いの患者がいて、博士が最初の患者に命じた治療法を学生がくりかえして口にすると、ティレル博士は、そうとう頭をひねって、なにかほかの治療法を考案していた。薬局の係りのほうは働かされてもうヘトヘトになり、いつも用意してある薬、それも、長年の経験で十分に役に立つことがわかっている病院のりっぱな調合薬を使いたがっているのを承知の上で、ティレル博士は手のこんだ処方を書いておもしろがっていた。
「薬剤師には仕事をつくってやらんとね。いつもきまりきった薬ばかり処方してたら、薬剤師の腕がなまってしまうだろうからね」
学生たちは笑いだし、博士は、自分の冗談に悦に入って、みなをグルリとみまわし、それからベルを鳴らして、門衛が顔を出すと、こういいつけた、
「女の再診をまわしてくれ」
彼は椅子でのけぞり、門衛が再診をゾロゾロとつれこんでくるあいだ、住みこみの医師と雑談していた。そこにはいってきたのは、大きな前髪をつけ、青ざめた唇をし、十分とはいえない、しかも粗食を消化できない貧血症の娘たち、いわゆる冬咳《ふぬぜき》(慢性気管支炎のこと)にかかり、度かさなるお産で早く老《ふ》けこんでしまった、太った者あり痩せた者ありの老女たち、あれこれと具合いのわるさを訴える女たちだった。ティレル博士と住みこみの医師は、こうした患者を手早く処理していった。時は経過し、小部屋の空気はだんだんにごってきた。博士は時計をみた。
「きょう、新患は多いかね?」彼はたずねた。
「かなりいるようですよ」住みこみの医師は答えた。
「それを呼びこんでおいたほうがいいな。再診のほうは、きみがやってくれたまえ」
新患がはいってきた。男の場合、いちばんふつうの症状は、酒の飲みすぎから起きたものだったが、女の場合は、栄養不良によるものだった。六時ごろ、診察は終った。そのあいだじゅう立ちっぱなしで、わるい空気やら注意力の集中やらでヘトヘトになって、フィリップは、仲間の助手といっしょに、医学校のほうにブラブラと歩いてゆき、お茶を飲んだ。
この仕事は、もうじつにおもしろかった。素材のままの人間性、芸術家が手を加える材料がそこにあり、自分が芸術家の立場に立って、患者は手の中の粘土のようなものだと考えたとき、フィリップはゾクリとするよろこびをおぼえた。色彩、色調、明暗、その他なんのかんのに心をうばわれ、美しいものを産みだそうと夢中になっていたパリ時代を思い出すと、おもしろくなって肩をすくめた。こうして直接男女に接触すると、ゾクリとして力が湧いてきたが、これはまだ一度も経験したことがないものだった。患者の顔をながめ、その話を聞くと、果てしなく興奮はたかまっていった。それぞれが、その特質をはっきり示して、あらわれてきた。不器用に足をひきずる者あり、チョコチョコ小走りで来る者あり、ゆっくりドシリドシリと、また、恥ずかしげに来る者あり、さまざまだった。そのふうで商売の見当がつく者も、よくいた。こちらの意図を理解させるために、どんなふうに質問したらいいかがだんだんとわかり、どのような点でたいていの者が嘘をつくか、それにしても、真実をひきだすのには、どうたずねたらいいか、を発見するようになり、人びとが同じものをどんなにちがったふうにながめているかが、理解つくようになった。危険な病気と診断されると、笑って冗談をとばしながらそれを受けとる者もあり、無言の絶望で受けとる人もいた。
こうした患者たちに、いままでほかの人相手では味わったことのない気楽さで、羞恥《しゅうち》心を感じずに接触できるのが、フィリップにわかってきた。同情は優越感を意識しての親切といったもの、そんな同情を患者に感じたわけではないが、そうした人たちを相手にすると、くつろぐことができた。自分が患者の気分をほぐすことがわかり、できるかぎりの診断をするようにと患者を割り当てられると、患者が特別の信頼感を寄せてすっかり身をゆだねてくるように思われた。
「たぶん」ニヤリとして、彼は考えた、「たぶん、自分は医者になるようにできてるんだろう。自分に適したただひとつのことにぶつかるなんて、まったく楽しいことだぞ」
こうした午後の劇的なおもしろさを味わっているのは、多くの助手の中でただフィリップだけ、といった感じがした。ほかの連中にとって、男女はただ患者だけのこと、複雑な病症をもった患者ならありがたい、はっきりした患者ならつまらない、ということだった。彼らは雑音に耳を澄まし、異常な肝臓にびっくりし、肺臓に思いがけぬ音を聞くと、話題の種にしていた。だが、フィリップには、それ以上のものがあった。患者をただながめること、頭と手の形、目つきと鼻のながさだけでも、十分に興味の対象になった。その部屋で目に映るのは、不意をつかれた人間性、ときどき、習慣の版面が荒々しくはぎとられ、生《なま》の魂がむきだしになった。
ときに、生れながらに身につけた克己心《ストイシズム》の姿に接し、深く心を打たれることがあった。フィリップは、一度、粗野で無学文盲の男の診察をし、病症が絶望的と宣告をしたことがあったが、この男が他人の前でたじろぎの色をみせようとしないすばらしい本能の力には、自分で心を落ち着かせようとしていた彼自身のほうがびっくりして舌を巻いてしまった。だが、ひとりになり、自分の魂に直面したとき、そうした勇敢な態度が維持できるものだろうか? さもなければ、絶望に屈服してしまうのだろうか? ときに、悲劇が起きることもあった。かつて、若い女が、診察を受けに妹をつれてきたことがあった。その妹は、十八の娘、華奢《きゃしゃ》な顔立ちをし、青い目はつぶら、秋の陽ざしがちょっとでもふれると、金髪は黄金色に輝き、肌は息をのむほど真っ白だった。学生たちの目は、ちょっと微笑を浮かべて、彼女にそそがれた。このきたない診察室で美女の姿をみかけるのは、そうめったにあることではなかったからだった。姉は家族の病歴を話したが、両親、男女のきょうだいそれぞれひとりが、肺結核で死亡、このふたりだけが生きのこった、ということだった。この娘は、最近、咳《せき》をしはじめ、体重も減ってきた。ブラウスをぬいだが、首の肌はまるで牛乳のようだった。ティレル博士は、いつものように手早に、静かに娘の診察にとりかかり、二、三の助手に、指で示した個所に聴診器を当てがうように命じ、それから、服を着るのを許した。姉は少しはなれたところに立ち、妹には聞えないようにと、声を低くして博士に話しかけたが、その声は心配でふるえていた。
「あの病気ではないのでしょうね、先生?」
「どうやら、それにまちがいないようですな」
「あの娘《こ》だけになってしまったんです。あの娘にいかれたら、わたしはひとりぽっちになってしまうんです」
彼女は泣きはじめた。博士はそれをジッとみつめた。この女もその型だ、と彼は考えていた。そう長生きはしないだろう。娘はグルリと向きなおり、姉の涙をみてしまった。それがなにを意味するか、彼女にはわかっていた。美しい顔から血の気がひき、涙が頬をつたわって流れ落ちた。ふたりは、サメザメと泣きながら、ものの一、二分間、立ちつくし、それから姉が、自分たちをジッとみつめている冷淡な人たちの群れを打ち忘れて、ツッと妹に近づき、両腕に彼女をかかえて、まるで赤ん坊のように、やさしくゆすぶりはじめた。
ふたりが立ち去ると、ある学生がたずねた、
「どのくらいもつと思いますか、先生?」
ティレル博士は肩をすくめた。
「あの娘の男女のきょうだいは、最初の兆候があらわれてから、三月《みつき》のうちに死んでいる。彼女もそうなるだろう。金持ちだったら、手を打つこともできるんだがね。まさかあの連中に、モリッツ(スイス南東の療養地)にいったら、とすすめるわけにもいかないしね。もう処置なしだね」
たくましくてまだ男盛りの真っ最中といった男が、来たことがあった。たえず痛みになやまされ、クラブの医者に診てもらっても、どうにも効果がないためだった。彼に与えられた診断も死だったが、それは、おそろしいが、医学上処置なしでまあ我慢しなければならないといった絶対の死ではなく、その男が複雑な文明という大きな機械の小さな歯車にすぎず、自動機械のように、環境を変える力をもっていないために、絶対の死になっているのだった。完全な休養が、唯一の治療法だった。博士は不可能なことを要求しなかった。
「ズーッとらくな仕事に変えてもらうんだね」
「職場にらくな仕事なんてありはしませんよ」
「うん、この調子でやってったら、死んじまうよ。病気はとても重いんだからね」
「すぐ死ぬというんですか?」
「そういいたくはないんだが、きみは、きつい仕事には不向きなんだ」
「こちらが働かなかったら、女房子供を養うのは、だれがしてくれるんです?」
ティレル博士は肩をすくめた。この板ばさみは、もう百回も経験ずみのことだった。時間はせまり、まだ診察していない患者がたくさんのこっていた。
「うん、なにか薬をあげるよ。一週間したら、また来て、容態を教えてくれたまえ」
この男は、役に立たない処方を書きこんだ診察券を受けとり、去っていった。医者は勝手なことをいうだろうが、もう働けないほど調子がわるいわけではない、いまの仕事はいい仕事、それをやめるわけにはいかない、というわけだった。
「まあ、あと一年というとこか」ティレル博士はいった。
ときに、喜劇が起きることがあった。下町ふうのユーモア気分がサッと湧き、チャールズ・ディケンズ張りの老女が、そのふう変りなおしゃべりで、みんなを楽しませることがあった。有名な演芸場のバレーの踊り子がやってき、五十くらいにみえたが、二十八といっていた。すごい厚化粧をし、大きな黒い目で厚かましい色目を学生たちに送り、その微笑は下卑たふうに魅惑的なものだった。もう自信たっぷり、いかにもおもしろそうに、自分に参っている酔っ払いをあつかうといった気楽ななれなれしさで、ティレル博士をあしらうのだった。慢性の気管支炎もちで、それが仕事の邪魔になる、と博士はこぼした。
「どうしてこんなもんをかかえこんだか、わからないの。ほんとに、そうよ。生れてこの方、一日だって病気なんてしたことないんですもん。それは、あたしをちょっとみてくれれば、わかることよ」
ぬり立てたまつ毛を大きくギョロリとさせて、女は学生たちをみわたし、黄色の歯をニッとみせて、笑いかけた。下町なまりまる出しだったが、気どってお上品ぶりを発揮していたので、それが、彼女の語るすべての言葉をたまらなくおもしろいものに仕立てていた。
「これは俗にいう冬咳《ふゆぜき》というやつですな」重々しくティレル博士は答えた。「中年の婦人が多くかかる病気なんです」
「まあ、驚いた! 淑女にたいしてお上品なお言葉だこと! いままで、こちら、中年女なんぞといわれたことなんて、一度もないんですからね」
彼女は、目をパッと見開き、頭を片側にツンとかしげ、得もいえぬ茶目っ気たっぷりのようすで、博士をにらんだ。
「そこが、われわれ職業の困ったとこというやつでしてな」博士はいった。「ときどきご婦人に失礼なことを申しあげねばならなくなるんです」
彼女は、処方箋を受けとり、甘ったるい最後の一瞥を彼に投げた。
「あたしの踊り、先生《せんせ》、みにきてくださることね、どう?」
「はい、はい、参りますよ」
彼は、ベルを鳴らして、つぎの患者を呼びこんだ。
「うれしいことよ、あなた方紳士の方があたしを守ってくださるんですもんね」
だが、概して、診察室で受ける印象は、悲劇でも喜劇でもなかった。それは、なんともいえぬもの。さまざまで、変化があり、涙と笑い、幸福と悲しみがあり、退屈で、おもしろく、どうということもなく、あるがままのものだった。さわがしくて情熱的、深刻、悲しくて喜劇的、つまらぬもの、単純で複雑、よろこびと失望、子供たちを思う母親の愛情、女を思う男の愛情があり、欲情が鉛の足でノロノロと診察室を歩きまわり、罪のある者とない者、あわれな妻とみじめな子供たちに罰を加え、酒が男女をしっかりととらえ、動きのとれぬその代償を要求し、死が部屋でため息をつき、命のはじまりが、貧乏な娘の胸を恐怖と恥じらいでいっぱいにして、ここで診断をくだされた。そこには善も悪もなく、あるのは、ただ事実だけ、それが人生だった。
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八十二
その年の終りのころ、外来患者の部局での助手としての三ヵ月間の仕事をフィリップが終えようとしているとき、パリにいっていたローソンからの手紙が来た。
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拝啓
クロンショーがロンドンにいる。きみと会えたら、よろこぶことだろう。ソホーのハイド通り、四十三番に住んでいる。そこがどこにあるか知らないが、たぶん、みつけることはできるだろう。ひとついいとこをみせて、彼の世話をちょっとみてやってくれたまえ。ひどく零落《れいらく》してる。なにをやってるかは、彼から聞いてくれたまえ。パリは、例によって例のごとくで、ほとんど変っていない。きみが帰ってから、なにも変ったことはないようだ。クラットンはもどってきたが、もう処置なしだ。だれとでも喧嘩をするんだからね。ぼくの知ってるかぎりでは、彼は文なし、ジャルダン・デ・プラントをちょっといった小さなアトリエに住んでるようだが、自分の作品は、だれにもみせない。どこにも姿をあらわさないので、なにをしてるのか、ぜんぜんわからない。彼は天才かもしれないが、逆に、頭がおかしいのかもしれないよ。ところで、こないだ、偶然フラナガンに会った。奥さんにラテン地区を案内してみせてるところだった。絵はもうやめ、いま鉄砲屋さんになっている。懐《ふところ》はだいぶ裕福らしい。フラナガンの奥さんはとても美人、その肖像を描こうかと思っている。きみだったら、どのくらいの代金を請求するかね? この夫妻をふるえあがらせたくもなし、さりとて、相手が三百ポンドを払う気でいるのに、百五十ポンドを要求するバカにもなりたくはなくてね。
敬具
フレデリック・ローソン
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フィリップはクロンショーに手紙を書き、つぎの手紙を受けとった。それはありきたりの便箋半分に書いたもので、薄っぺらな封筒は、配達のよごれとはとても思えないほどひどくよごれていた。
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拝啓
もちろん、きみのことはよく憶えている。ぼくがもうどうにもならぬほどはまりこんでいる「失望の泥沼」(ジョン・バニヤンの小説『天路歴程』に出る場所の名)からきみを救出するのに、多少ともお役には立ったものと思っている。お会いできたら、うれしいね。ぼくは見知らぬ町の見知らぬ者、俗物たちにやっつけられている。パリの思い出話に花を咲かせたら、楽しいことだろう。ぼくの下宿に来てくれとはいわないよ。ピュルゴーン先生(モリエールの劇『気鬱病』に出てくるいかさま医師)の仲間の大先生にお出かけいただくほどの豪壮な下宿住まいをしてるわけじゃないんだから。だが、ディーン通りのオー・ボンープレジールと称するレストランで、毎晩七時から八時まで、粗末な夕食を食べてる姿を、きみはながめることだろう。
敬具
J・クロンショー
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この手紙を受けとった日、フィリップは出かけていった。このレストランは、小さなひと部屋づくりの最低の食堂、そこの常客はクロンシヨーだけらしかった。隙間風に当らないようにと、ズーッと奥の隅に坐り、いつも着こんでいたあの例のきたない外套を着こみ、山高帽をかぶっていた。
「ここで食べてるのは、ひとりになれるからだよ」彼はいった。「店の具合いはよくないらしいな。来る客といえば、わずかな淫売と職にあぶれた一、二の給仕だけなんだからね。商売をもうすててかかってるんで、食事のひどいことときたら! だが、先方さまの非運が、こっちにはもっけの幸いというやつでね」
クロンショーは、自分の前に、アブサンのコップをおいていた。ふたりが会ってから、ほぼ三年がたち、相手の変貌ぶりに、フィリップはびっくりした。以前そうとう太っていたが、いま、乾あがって黄色っぽくなり、首のまわりの皮膚はたるんでしわだらけ、服は、まるでほかの人用に買いこんだように、からだに垂れさがり、三、四サイズ大きすぎるカラーが、外見のだらしなさをいっそうくっきりとさせていた。手はたえずふるえ、フィリップは、ひどくくずれたいい加減な文字で書きつぶした手紙の筆跡を思い出した。クロンショーの病気の重いのは、はっきりとわかることだった。
「このごろ、食が細くなってね」彼はいった。「朝、気分がひどくわるいんだ。この食事でも、スープだけ飲んでる始末さ。チーズはひときれ食べるつもりだがね」
フィリップの視線は、知らず知らずのうちに、アブサンのほうにうつり、これをみたクロンショーは、常識的な忠告はお断りだというひやかし顔を彼に投げた。
「きみはぼくの病気を診断し、アブサンを飲むなんていかん、と考えてるのだね?」
「たしかに、肝硬変《かんこうへん》ですよ」フィリップはいった。
「たしかにね」
彼はフィリップをジロリとみたが、これは、以前には、彼を信じられないほどちぢみあがらせたあの一|瞥《べつ》だった。フィリップが頭の中で考えていることは、いまいましいほどはっきりわかっている、といっているようだった。明白な事実をそうだと認める以上、もうなにをいうことがあろう? フィリップは話題を変えた。
「いつパリに帰るんです?」
「パリには帰らんよ。ぼくは死のうとしてるんだ」
これをクロンショーがいかにもサラリといってのけたので、フィリップはギョッとしてしまった。いろいろなことをここでいおうとしたが、無益なことのように思えた。クロンショーが死にかけている人間であるのが、フィリップにもわかっていたからである。
「じゃ、ロンドンにズッといるつもりなんですか?」つじつまが合わずに、彼はたずねた。
「ぼくにとって、ロンドンがどうだというんだい? ぼくは陸《おか》にあがった魚さ。ゴタゴタと人のとおる街路を歩くと、人におしまくられ、死んだ町を歩いてるような気がするんだ。パリでは死ねないと感じたよ。自分と同じ国民の中で死にたかったんだ。最後にぼくを呼びもどしたのが、どんな本能なのか、自分にもわからんね」
クロンショーが同棲《どうせい》していた女とだらしのない服装をしたふたりの子供のことを、フィリップは知っていたが、クロンショーはそのことをぜんぜん口にせず、その話をしたがらなかった。彼らはどうしたのだろう? とフィリップは考えた。
「どうして死ぬことなんか口にするのか、ぼくにはわかりませんね」彼はいった。
「ふた冬前に肺炎にかかり、それをなんとかしのいだとき、みんなは奇跡だといってたよ。どうもそれにひどくかかりやすいふうにできてるらしいな。もう一度かかったら、それまでさ」
「ああ、バカなことを! そんなにわるくはなってませんよ。用心さえすればいいんです。どうして酒をやめないんです?」
「やめたくないからさ。最後を覚悟してたら、人がなにをしようと、構わんはずだよ。うん、ぼくは最後を覚悟してるんだ。酒をやめろとかペラペラきみはいうがね、酒こそぼくにのこされたただひとつのもんなんだ。酒ぬきの人生なんて、ぼくにどんな意味があるというんだい? アブサンでぼくが味わってる幸福、わかるかい? ぼくはそれをあこがれ求め、それをやるときには、一滴《ひとしずく》一滴十分に味わいつくし、そのあとで、魂は得もいえぬ幸福の海を泳いでるんだ。きみには、たまらなくいやなことだろう。きみは清教徒《ピューリタン》、心の中では、官能的な楽しみを軽蔑してるんだからな。官能的な楽しみこそ、いちばん強烈、いちばんすばらしいもんなんだよ。ぼくは、いきいきとした感覚にめぐまれた男でね、心の底からそれを満足させてきたんだ。その罰金は払わなくちゃならんし、いさぎよく払うつもりさ」
フィリップは、しばらくのあいだ、ジッと相手をみつめていた。
「こわくはないんですか?」
一瞬、クロンショーは返事をしなかった。自分の返事を考えているようだった。
「ひとりになると、ときにはね」彼はフィリップをながめた。「それが地獄|墜《お》ちの罰だと考えてるんだね? それは、まちがいさ。ぼくは自分の恐怖をこわがったりはしてないんだからな。自分の死をいつも頭において生活しなけりゃならん、というキリスト教の教えなんて、バカくさいもんさ。唯一の生活法は、自分が死のうとしてるのを忘れることなんだ。死なんて、問題じゃない。死の恐怖でただひとつの行動でも変えるなんて、賢人なら、絶対にしないことだ。自分があえぎながら死ぬのは、わかってるし、それをひどくこわがるのも、わかってはいるよ。こんな窮地に自分を追いこんだ生活をえらく後悔せずにはいられないだろうということも、わかってるよ。だが、後悔なんて、ぼくは認めんね。弱り、老いさらばえ、病気で貧乏、死にかけてるぼくだが、まだ魂はぼくの手の中にあり、なにも後悔なんかはしてないよ」
「あなたがくださったペルシャじゅうたんのこと、憶えてますか?」フィリップはたずねた。
クロンショーは、あのむかしの、ゆったりとした微笑を浮かべた。
「人生の意味はなにか? ときみにたずねられて、それがその質問にたいする返事を与えてくれるだろう、といったっけね。うん、その返事、もう発見したかね?」
「いいや」フィリップはニッコリした。「それ、ぼくに教えてくれませんか?」
「だめ、だめ、それはできないよ。自分でそれを発見しなけりゃ、返事は意味のないもんになっちまうんだからな」
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八十三
クロンショーは詩集を出すことになっていた。多年にわたって、友人たちはそれをするようにと強くすすめていたのだが、怠惰のために、彼は必要な準備をすることができずにいた。彼らの説得にたいする彼の応答は、いつも、イギリスでは詩にたいする愛情が死滅しているということだった。何年間もかかった思索と努力の結晶の本を出すと、同じような本をひと束《たば》あつかいで、ほんの二、三行の軽蔑的な批評を与えられ、二、三十冊が売れ、そののこりはパルプに変えられてしまう、というわけだった。
彼は、とっくのむかしに、名声欲を失っていた。それは、ほかのすべてと同じように、幻想にすぎないのだ。だが、友人のひとりがそれを引き受けることになった。これは、レナド・アップジョンという文筆家で、ラテン地区の別のキャフェでクロンショーといっしょに、フィリップも会ったことのある人物だった。彼は、イギリスで、批評家としてかなりの名声を博し、イギリスにおけるフランス近代文学の紹介者として認められた存在になっていた。フランスにながく滞在し、『メルキュール・ド・フランス』を当時最高の活気ある批評誌に仕立てた連中とつき合い、そうした人たちの見解を英語で表示するというきわめて簡単な方法によって、イギリスで、独創性の名を高くしていた。この人物のいくつかの論文を、フィリップは読んだことがあった。サー・トマス・ブラウン(独得の文体をもつ医者・文人)の忠実な模倣で自分の文体をつくりだし、均衡《きんこう》を失わぬように注意を払った手のこんだ文体と燦然《さんぜん》と輝く古風な言葉を使い、それは彼の文章に個性的な外見を与えることになった。
レナド・アップジョンはクロンショーに説いて、詩をぜんぶ自分にわたすようにさせ、そうとうの分量の本がつくれることを知り、出版社に圧力をかけてみることを約束した。クロンショーは金欠だった。病気以来、着実に仕事をするのがなお困難になり、酒にも事欠くありさまになっていた。そして、詩には打たれながらも、あれこれの出版社がその出版に尻ごみしている状態をアップジョンが手紙で彼に報告すると、クロンシヨーの関心が強く動きだした。彼は手紙で自分の窮状を強く訴え、もっと尽力してくれ、と彼に要請することになった。いま死を目の前にして、彼は出版した本を後世にのこしたいと思い、心の背後には、自分は偉大な詩の製作者だ、という感情がひそんでいた。新星のように、世に輝き出るのを期待していたのだった。こうした美の宝物を生涯自分の手許に秘めておき、自分とこの世が袂《たもと》を別って、そうした詩にもう用のなくなったとき、それを傲然と公開することには、なにか溜飲《りゅういん》のさがるものがあったわけだった。
彼が帰国を決心したのも、直接には、ある出版社が詩の出版を承諾したというレナド・アップジョンからの通知によるものだった。奇跡的な説得力のおかげで、アップジョンは印税として十ポンドの前わたしを出版社に承知させた。
「いいかね。印税の前わたしなんだよ」クロンショーはフィリップにいった。「ミルトンだって、たった十ポンドしかもらわなかったんだ」
この詩集について署名入りの批評を書くことをアップジョンはもう約束し、批評家の友人たちに手をまわして、できるだけのことはしてくれ、と依頼してあった。クロンショーは、そうしたことになにげないふりをしていたが、自分がつくりだすセンセイションを思って、そうとういい気分になっているのは、すぐにわかることだった。
ある日、そこでの食事をクロンショーが強くいい張っている例のうらぶれたレストランヘ、フィリップは出かけていった。これは、約束で、そこで食事をすることになっていたためだった。だが、クロンショーはあらわれなかった。彼がそこに三日間あらわれていないことがわかった。フィリップは食事をすませ、クロンショーが最初に彼に書いてきた宛て名のところに出かけていった。ハイド通りをみつけるだけでもひと骨折る仕事、そこはきたない家がゴミゴミと集った通りで、窓の多くはこわれ、フランスの新聞紙で不細工に補修され、ドアのペンキも、もう何年間か、ぬられぬままになっていた。一階にはむさ苦しい小さな店、洗濯屋、靴屋、文房具屋がならんでいた。ぼろ着姿の子供たちが道で遊び、古い小型の手まわし風琴《ふうきん》(大道音楽師がハンドルをまわして鳴らす)が野卑な曲をかき鳴らしていた。フィリップはクロンショーの家のドアをノックし(一階は安菓子屋の店だった)、きたないエプロン姿の初老のフランス女がドアをあけた。フィリップは、クロンショーが在宅か? とたずねた。
「ええ、いますよ。裏のいちばん上の部屋のイギリス人のことね? 家にいるかどうかは知りませんよ。用があるんだったら、あがってみたらいいでしょう」
階段の照明として、ガス灯がひとつついているだけだった。家にはムッとする悪臭がただよっていた。フィリップがとおっていくと、二階の部屋から女がひとり出てきて、うろんげな目をして彼をながめていたが、べつになにもいわなかった。いちばん上の踊り場には、ドアが三つあり、フィリップはそのひとつをノックし、それをまたくりかえした。返事はなく、ハンドルをまわしてみたが、ドアには錠がかかっていた。べつのドアをノックし、返事がないので、またドアをあけようとした。それは開き、部屋の中は真っ暗だった。
「だれだ?」
それは、クロンショーの声だった。
「ケアリーですが、はいっていいですか?」
返事はなく、彼は中にはいっていった。窓は閉じられ、そこの悪臭はすごいものだった。街路のアーク灯からそうとう光がさしこみ、ベッドがふたつ部屋いっぱいにならべられている小部屋なことがわかったが、洗面台とひとつの椅子で、人がはいる余地はほとんどなくなっていた。クロンショーは、窓の近くのベッドに寝こみ、なんの動きも示さなかったが、クスクスッと笑っていた。
「どうしてろうそくをつけないんだね?」笑いが終ると、彼はいった。
フィリップはマッチをすり、寝台のわきの床にろうそく立てがあるのを知った。それに火をつけ、洗面台の上にそれを乗せた。クロンショーはあおむけになってジッと横になり、寝巻き姿の彼はとても異様、その禿げは、人をどぎまぎさせるものだった。顔は土気色、死人のようだった。
「ねえ、あの、ひどく具合いがわるそうじゃありませんか? 世話をみてくれる人が、ここにはだれかいるんですか?」
「朝、仕事に出る前に、ジョージが牛乳を一本もってきてくれるよ」
「ジョージって、だれです?」
「その名がアドルフなんで、ぼくはジョージと呼んでるんだ(アドルフはイギリス名ではないので、イギリスのありきたりの名で代用しているわけ)。この宮殿のようなアパートの同居人だよ」
フィリップは、空いた寝台がまだきちんと整頓されていないのに、そのときはじめて気がついた。頭が乗る枕の個所は真っ黒だった。
「まさか、この部屋で、ほかのだれかといっしょに住んでるというんじゃないんでしょうね?」彼は叫んだ。
「それで、どうしていけないんだい? ソホーでは、下宿代もバカにならないんだ。ジョージは給仕でね。朝八時に出かけてって、閉店まで帰ってこないのさ。だから、一向邪魔にはならんのだよ。ふたりとも、よく眠れなくてね。自分の生活の話をしてくれて、夜のながい時間をつぶすのに大助かりしてるよ。彼はスイス人、だいたいぼくは、給仕が好きなんだ。彼らは、おもしろい角度から人生をみてるんだからな」
「寝こんでから、どのくらいたったんです?」
「三日だよ」
「この三日間は牛乳一本ですませてきたというんですか? いったいどうして、ぼくにちょっと手紙を出してくれなかったんです? 世話する人間がひとりもなしで、あなたが、ここで一日じゅう、ただ横になってたと思うだけでも、たまらなくなってきますよ」
クロンショーはちょっと笑った。
「きみの顔をみてごらん。いやあ、きみ、きみはそれをほんとに苦にしてるんだね。きみはいい男さ」
フィリップは顔を赤くした。このとてもたまらない部屋と貧乏詩人の窮状をながめての狼狽ぶりが顔にあらわれていようとは、思ってもいなかったからである。クロンショーは、こうしたフィリップをながめて、やさしくほほ笑んだ。
「ぼくは、もうまったく幸福なんだよ。ほら、これがぼくの校正刷りだ。ほかの人間なら苦にするようないやなことなんて、ぼくは問題にしてないことを忘れちゃいかんよ。夢で時間と空間を超越した君主になれたら、生活環境なんてどうということでもないんだからね」
校正刷りは寝床の上にあり、暗いところで横になっていたので、ちゃんと手をのばしてそれをとることができた。それをフィリップに示しながら、彼の目は輝いてきた。ページをめくり、きれいな活字をよろこび、一節を読んで聞かせた。
「これ、まんざらでもないだろう、どうだい?」
フィリップはあることを考えていた。どうしても少し出費がかさみ、びた一文でも出費を、ふやさないようにしなければならない立場にあったが、その反面、この事柄は、節約を考えるなんて虫酸《むしず》が走るといったことだった。
「ねえ、あなたがここにいるなんて、考えただけでもたまらなくなりますよ。ぼくには余分の部屋があり、さし当って、空いてるんです。寝台なら、だれかからすぐに借りられますよ。しばらく、ぼくのとこで暮しませんか? ここの家賃も、それで浮くでしょうからね」
「ああ、きみ、だが、窓をあけろとしきりにいうんじゃないかな?」
「もしお望みなら、そこの窓ぜんぶを封印してもいいですよ」
「明日は、もうすっかり元気になるさ。きょうだって起きられるとこだったんだが不精っ気が出ちまったんだ」
「じゃ、らくらくと引っ越しができるわけですよ。そうすれば、気分がわるいときには、床にはいりさえずればよく、あとは、ぼくが世話をみてあげられますからね」
「そういうことなら、いくとするかな」のっそりとはしていながらも、感じがわるいわけではない例の微笑を浮かべて、クロンショーはいった。
「そうなったら、すばらしいこと」
翌日、フィリップがクロンショーをつれていくことに、話はきまった。フィリップは、あわただしい午後の一時間をさいて、引っ越しをやることになった。クロンショーは服を着込み、帽子をかぶり、外套を着けて、寝台に座り、服と本を入れた旅行カバンの荷づくりはもうすんでいた。そのカバンは彼の足もとの床の上にあり、その風情《ふぜい》は、駅の待合室に坐っているといったふうだった。フィリップは、こうした彼をみて、笑いだした。ふたりは四輪馬車でケニントンにいったが、馬車の窓はきちんと閉めてあった。フィリップは客のクロンショーを自分の部屋に入れることにした。もう朝早く外出して、自分用にとセコハンの寝台、安物の箪笥《たんす》、姿見を買ってあった。クロンショーはすぐに校正にとりかかったが、とても具合いがいいらしかった。
病気の兆候であるジリジリと怒りだす点はべつにして、クロンショーはあつかいやすい客人だった。フィリップには朝九時に講義があり、その結果、夜になってはしめてクロンショーと会うことになった。一度か二度、自分の手づくりのつまらぬ夕食をすすめてみたが、クロンショーは、ソワソワ落ち着かずに外に出たがり、ふだんは、ソホーでいちばん安いあれこれのレストランでなにか食べるのを好んでいた。フィリップは、ティレル博士の診察を受けたら? とすすめてみたが、それはきっぱりと断られた。医者が酒をやめろというのをちゃんとみとおし、酒はやめまいと腹をきめていたからだった。朝はひどく気分がわるかったが、正午に飲むアブサンで立ちあがれるようになり、真夜中家に帰ってくるころまでには、最初会ったときにフィリップをびっくりさせたあの才気煥発ぶりで話すことができるようになっていた。もう校正刷りのなおしは終り、大衆がクリスマス本の洪水《こうずい》から立ちなおる早春の新刊本として、この本は出版されることになった。
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八十四
新年になると、フィリップは外科外来患者部局の外科手術助手になった。仕事は、いままでやってきたのと同じ性格のものだったが、内科より外科にある直接性がはっきりと打ちだされていた。患者の大部分はふたつの病気にかかっていたが、これは、無気力な大衆が、お上品ぶって、ひろがるがままにしている病気だった。
フィリップが助手をしていた外科医は、ジェイコブズという男で、背が低く、太り、すごく冗談をとばし、禿げ頭、大声の持ち主だった。言葉に下町なまりがあり、学生には、ふつう、「ひどい成りあがり者」といわれていたが、外科医と教官としての頭のよさで、この点はそう目に角を立ててみられてはいなかった。また、そうとうな剽軽《ひょうきん》者で、それを彼は、患者と学生のわけへだてなしに、ふりまいていた。助手の学生をバカ者あつかいするのが彼の趣味、学生は無知で、あがり、対等の応答ができなかったので、これはそうむずかしいことではなかった。彼は、ありていの事実をズケズケしゃべって、学生たちよりズッと午後の時間を楽しんでいたが、学生は、そうした言葉をただニヤリとして我慢するよりほかに方法がなかった。ある日、|えび《ヽヽ》足の少年が患者としてやってきた。その両親は、なにか処置できないものか? と知りたがっていた。ジェイコブズ先生はフィリップのほうにふり向いた。
「この患者は、きみが受けもってくれたほうがいいな、ケアリー。きみが多少は知ってる問題なんだからね」
フィリップはサッと顔を赤くした。ふざけ半分でこの外科医が話していたので、これはなおさらのことだった。いつもビシビシやられている助手たちは、追従《ついしょう》笑いをしていた。事実、これは、この学校に来て以来、フィリップがせっせと研究を積んでいる問題だった。さまざまな種類の|えび《ヽヽ》足をあつかっている図書館の本は、もうぜんぶ読んでいた。彼は少年に靴と靴下をぬがせた。十四歳の、そっくりかえった低くて太い鼻をし、目の青い、そばかすだらけの顔をした少年だった。できたらなにか手を打ってもらいたい、職につくのにも大きな障害になるだろうから、と父親はいっていた。フィリップは少年をジロジロとながめた。まったく恥じらいを知らぬ陽気な少年だったが、よくしゃべり、父親がたしなめていたが、ちょっと生意気なところがあった。彼は自分の足に強い興味をもっていた。
「ただ体裁だけのことなんですよ」少年はフィリップにいった。「べつにどうという不便なんかないんですからね」
「静かにおし、アーニー」父親はいった。「むだ話をしすぎるよ」
フィリップは、その足を調べ、形のくずれた個所をゆっくりなでまわした。自分の心をいつもおしつぶしている屈辱感を、この少年はどうして感じていないのだろう? と彼は驚いていた。このさとりすました無関心さで、自分がどうしてびっこを考えることができないのだろう? とどうともふしぎでならなかった。やがて、ジェイコブズ先生がやってきた。少年は長椅子の端に坐り、外科医とフィリップはその両側に立ち、そのまわりに半円状になって、学生が立った。いつもの才気煥発ぶりを発揮して、ジェイコブズは|えび《ヽヽ》足についていきいきとした説明をし、ちがった解剖学的条件によって起きる種類と形について話した。
「きみのは、たしか、尖足《せんそく》だったね?」いきなりフィリップのほうに向いて、彼はいった。
「そうです」
フィリップは、仲間の学生の目が自分に向けられたのを感じ、赤くならずにはいられなかったので、われとわが身がのろわしくなった。手のひらに汗がにじんでくるのがわかった。外科医はながい経験による流暢《りゅうちょう》さと彼の特質となっている明敏さで語っていた。自分の職業におそろしく興味をもっている人物だった。だが、フィリップは聞いてはいなかった。彼が望んでいたのは、ただこれが終ってくれればということだけだった。いきなり、ジェイコブズが自分に話しかけているのがわかった。
「きみ、ちょっと靴下をぬいでみせてくれないかね、ケアリー?」
フィリップは、身ぶるいがからだを走るのを感じた。衝動的に、糞っ食らえ! とこの外科医にどなりつけてやりたくなったが、わめき散らす勇気はとても出なかった。自分の受けるおそろしい嘲笑がこわかった。そこで、気分をおさえて、冷静な態度をよそおった。
「ええ、構いませんよ」彼はいった。
彼は坐りこみ、靴のひもをはずした。手はふるえ、結び目が解けなくなるのではないかと心配だった。キングズ・スクールでむりやり足をみせさせられたいきさつ、心に食い入ってきたみじめな気持ちが思い出された。
「うん、足をなかなかきれいにしてるね、どうだい?」きしるような下町ふうの声で、ジェイコブズはいった。
助手の学生たちは、クスクスッと笑った。検査を受けていた少年が食い入るような好奇心で自分の足をみおろしているのに、フィリップは気づいた。ジェイコブズは、両手で彼の足をつかんで、いった、
「うん、ぼくの思ってたとおりだ。きみは手術を受けたんだな。きっと子供のときだろう、どうだい?」
彼は流暢な説明をなおもつづけた。学生たちは、身をのりだして、その足をながめた。ジェイコブズが手を放しても、二、三人の者は、なお、仔細《しさい》にそれを検討していた。
「もう用はすっかりすんでるんだよ」ニヤリとして、フィリップは皮肉にいった。
どれもこれも、みんな殺してやりたかった。鑿《のみ》を彼らの首根っ子にズブリとつきさせたら、どんなに愉快だろう(どうしてこの道具が頭に浮かんできたかは、とんとわからなかった)と考えた。人間って、まったくいやらしいもんだ! 地獄を信ずることができたら、彼らの受けるすごい拷問の責め苦を考えて、どんなに楽しいことだろう、という思いも浮かんできた。ジェイコブズ先生の注意は、いま、治療に向けられていた。その話は、少年の父親と学生たちに、こもごも語りかけているものだった。フィリップは、靴下をはき、編みあげ靴のひもを結んだ。とうとう、外科医の治療は終った。だが、まだ考えていることがあるらしく、彼はフィリップのほうに向いた。
「いいかね、手術を受けてもむだじゃないと思うんだがね。もちろん、、ふつうの足にはならんよ。だが、多少は役に立つと思うんだ。それを一応考えてみてもいいだろう。休暇がほしかったら、ちょっと病院に来ればいいんだからね」
これまでも、フィリップは、なにか手を打てるものか? とよく考えていたが、|えび《ヽヽ》足を口にするのがいやさに、この病院のどの外科医とも相談したことがなかった。本で読んだところでは、まだ幼いころだったら、どんなことができたにせよ――その当時、|えび《ヽヽ》足の手術はいまほど発達していなかった――いま大きな効果をあげるのはまず不可能、ということだった。それにしても、手術を受けて、ふつうの靴をはけるようになり、びっこが多少なりとも目立たなくなったら、まんざらむだというわけでもなかった。万能の神には可能、と伯父が保証したあの奇跡を自分がどんなに情熱をこめて祈り求めたかが、思い出された。彼は物悲しげな微笑を浮かべた。
「あの当時は、バカだったんだな」彼は考えた。
二月の末ごろになると、クロンショーの容態がわるくなったのが、はっきりしてきた。もう立ちあがれなくなった。寝たままで、窓をいつもしっかり閉めてくれ、といいつづけ、医者の診断の拒否は、依然として同じだった。栄養はほとんどとろうとせず、ウィスキーとタバコを求めた。フィリップには、それがいけないことはよくわかっていたが、クロンショーの主張は、どうにもならなかった。
「たぶん、酒やタバコがぼくの死の原因になってるんだろう。構うもんか。きみはぼくに注意を与え、必要なことはぜんぶしてくれたんだよ。だが、そんな注意なんか、ぼくは無視するんだ。なにか酒をくれ、きみなんか、くたばっちまえばいいんだ」
レナド・アップジョンは、週に二、三度、ひょっこりやってきたが、そのようすには、なにか枯れ葉といった感じがあり、この枯れ葉という言葉こそ、彼の風貌を伝えるまさにピタりのものだった。ヒョロヒョロッとした三十五歳の男で、髪は薄い色をしてながく、顔は蒼白だった。大気のもとに出たことがないような人物、帽子のかぶり方は、非国教会派の牧師のようだった。恩着せがましい態度がフィリップにはいまいましく、その流暢な話には、もううんざりだった。レナド・アップジョンは、自分の話に酔っていた。うまい語り手の第一条件となるべき相手の興味にたいする関心は、一切もっていなかった。人がよく知っていることをしゃべっても、一向に平気だった。調子をととのえた詩のような言葉で、ロダン、アルベール・サマン(フランスの詩人)、セザール・フランク(フランスの作曲家)をどう解釈すべきかをフィリップに教えてくれた。フィリップがたのんでいた雑役婦は、午前ちゅうに一時間来てくれるだけ、フィリップは一日じゅう病院に出ていなければならなかったので、クロンショーはほとんど放りだしのままだった。だれか付添人が必要だ、とアップジョンはフィリップにいったが、そうはいっても、それを実現する方法は、べつになにもいいだすわけではなかった。
「偉大な詩人をひとり放りだしにしておくなんて、考えただけでもゾッとするな。まったく、人っ子ひとりみとる者もなく、死んじまうかもしれないんだぜ」
「そういうことになるかもしれませんな」フィリップはいった。
「きみは、どうしてそう冷淡になれるんだろう!」
「じゃ、どうして毎日来て、ここで仕事をしないんです? そうすりゃ、なにか用が起きても、きみがすぐそばにいることになるでしょう」フィリップは冷やかにいった。
「ぼくがだって? ねえ、きみ、ぼくは馴れた環境でしか仕事ができないんだよ。その上、外に出ることがとても多くってね」
フィリップがクロンショーを自分の下宿につれてきたことで、アップジョンはいささかお冠《かんむり》でもあったのだった。
「ソホーにそのまんまにしておけばよかったんだ」ながい痩せた両手をひとふりして、彼はいった。「あのきたない屋根裏部屋には、ロマンティックなものがちょっとあったんだからね。ウォッピングかショーディッチ(いずれも下層階級の住居地区だった)だったら、まだ我慢もできたんだがね。だが、とりすましてお上品なケニントンときたら! 詩人が死をとげる場所とは、とてもいえたもんじゃないんだからな!」
クロンショーは、ときどき、ひどく不機嫌になり、この焦ら立ちは病気の症状と心にいって聞かせて、フィリップはなんとかこらえていた。アップジョンは、よく、フィリップがもどる前にやってきたが、そうなると、クロンショーはフィリップのことをブーブーとこぼし、アップジョンは、いい気分になって、それに聞き入っていた。
「ケアリーには美感がないというのが、ありていのとこさ」彼はニヤリとした。「中産階級的心情というやつでね」
アップジョンはフィリップにひどい当てこすりをいったが、フィリップは自制心を強く働かして、この彼に対応していた。だが、ある晩、どうにもこうにも我慢ならなくなった。その日の病院勤務はつらく、彼はもうヘトヘトになっていた。台所で紅茶を入れているところにアップジョンがやってきて、医者に診てもらえとフィリップにいわれて、クロンショーが閉口している、と伝えた。
「めったにない、とてもすばらしい特権を、きみがいま享受しているのがわからないのかね? この偉大なる信頼をどんなによろこんでいるかを示すためにも、きみは、たしかに、精魂つくしてできるだけのことをすべきなのだ」
「そのめったにない、すばらしい特権というやつが、こちらではどうにも都合のつかない代物《しろもの》でね」フィリップはやりかえした。
金の話が出ると、いつも、レナド・アップジョンはちょっとフンといった態度をみせた。そうしたつまらぬ話で、彼の敏感な神経が傷つけられたからだった。
「クロンショーの態度には、ちょっとすばらしいとこがあるのに、きみはうるさくいって、それをかき乱しているんだ。自分では感じることのできない微妙な心の動きというやつを、きみは斟酌《しんしゃく》すべきなんだ」
フィリップの顔は怒りでサッとくもった。
「クロンショーのとこにいっしょにいきましょう」彼は冷やかにいった。
詩人は、あお向けに横になり、口にパイプをくわえて、本を読んでいた。空気はかびくさく、部屋は、フィリップが掃除をしているのに、薄ぎたなくよごれた感じになっていたが、これは、どこにゆこうとも、クロンショーについてまわっているもののようだった。ふたりがはいっていくと、彼は眼鏡をはずした。フィリップは、もうカンカンになっていた。
「医者に診てもらえとぼくが強くいうんで、あんたがこぼしてる、とアップジョンがいってますよ」彼はいった。「医者に診てもらったらとぼくがいうのは、あなたがいつ死ぬかわからない、だれか医者に診てもらわなかったら、死亡証明書をもらえなくなるためなんですよ。そうなれば、検死がおこなわれることになり、医者を呼ばなかったことで、ぼくが文句をいわれることになるんです」
「いや、そのことは考えてもいなかった。医者に診てもらえってきみがいってるのは、ぼくのためを思ってのことと考え、きみの都合のためとは思っていなかったんだ。わかった、医者にいつでも診てもらうよ」
フィリップは返事をせず、ただそれとわからぬほどちょっと肩をすくめただけだった。クロンショーは、こうした彼をジッと見守り、クスクスッと笑っていた。
「そんなにプリプリした顔なんかするなよ、きみ。ぼくのために、きみができるだけのことをしようとしてることは、わかってるんだ。きみのお医者さんに診てもらうことにしよう。なにか役に立つことをしてもらえるかもしれないんだからね。それに、とにかく、きみの気分が安まるんだ」彼は目をアップジョンのほうに向けた。「きみは大バカだぞ、レナド。どうしてきみはあの坊やを怒らせたりするんだ? 彼にしたら、ぼくの気ままを我慢するだけで、もういっぱいなんだ。きみがぼくにしてくれることといったら、せいぜい、死んだあと、小ぎれいな論文でもひとつ書くくらいのもんさ。きみがどんな人間かは、わかってるとも」
つぎの日、フィリップはティレル博士のところにいった。博士がこうした話に興味をもつ人物じゃないか、と彼は感じていたが、一日の仕事が終るとすぐ、ティレルは彼といっしょにケニントンにやってきた。結果は、フィリップがもう彼に伝えてあったことを裏づけするだけのことだった。病状は絶望的だった。
「希望なら、病院にはいれるよ」彼はいった。「小部屋を都合してあげよう」
「どんなにいっても、だめなんです」
「いいかい、いつ死ぬかわからんのだよ。さもなけりゃ、また肺炎にやられるだろう」
フィリップはうなずいた。ティレル博士は一、二指示を与え、いつでも来る、と約束してくれ、自分の住所を教えてくれた。フィリップがクロンショーのところへもどっていくと、彼は静かに本を読んでいて、医者がなんといっていた、とはたずねようともしなかった。
「さあ、これで満足したかね、坊や?」彼はたずねた。
「どんなに説いても、先生がいってくれたことはしてくれないでしょうね?」
「だめだよ」クロンショーはニヤリとした。
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八十五
それから二週間ほどしたある夕方、病院での仕事を終えて家に帰り、フィリップはクロンショーの部屋のドアをノックしたが、返事はなく、中にはいっていった。クロンショーは横向きになり、まるくちぢこまって寝ていたので、フィリップは寝台に近づいていった。クロンショーが眠っているのか、いつものおさえがたい癇癪《かんしゃく》の発作《ほっさ》を起こしてそこに倒れているのか、判定がつかなかった。だが、口が開いたままになっているのをみて、びっくりした。肩にさわってみて、フィリップは驚きの叫びをあげた。クロンショーのシャツの下に手を入れ、心臓を調べた。どうしていいかわからなくなった。ぐったりしていたが、そうした話を聞いたことがあるので、鏡を口のところにかざしてみた。クロンショーとふたりっきりでいることが、彼をドキリとさせた。帽子も外套も帰ってきて着けたままだったので、階段をかけおり、街路にとびだし、馬車を呼びとめ、ハーリー通りにとんでいった。ティレル博士は家にいた。
「おねがいします、すぐに来ていただけませんか? クロンショーが死んだらしいんです」
「そうだとしたら、ぼくがいったって、処置なしじゃないかな?」
「来ていただけたら、とてもありがたいんですが……、戸口に馬車はとめてあります。三十分しかかからない道なんです」
ティレルは帽子をかぶり、馬車に乗りこむと、一、二質問をした。
「今朝、別れたときには、ふだんとそう変ってはいなかったんです」フィリップはいった。「ついさっき、部屋にはいっていって、すごくびっくりしてしまったんです。彼がみとる者もなく死んでしまったと思うと……。自分の死を知ってたんでしょうか?」
フィリップは、クロンショーがいっていたことを思い出した。最後の瞬間に死の恐怖におそわれたかどうか、考えてみた。死はさけられぬものと知り、この恐怖が自分におそってきたとき、元気づけてくれる者がだれひとりいない場合、自分だったらどうなるだろう? とフィリップは想像してみた。
「すっかり動転《どうてん》してるね、きみは」ティレル博士はいった。
明るい青い目で彼はフィリップをみやった。その目は冷たいものともいいきれなかった。クロンショーを診察してから、彼はいった、
「死後何時間かはたってるね。眠りながら死んだらしいな。よくあることだがね」
死体はちぢみあがり、見栄えのしないものになっていた。人間の姿はぜんぜんなかった。ティレル博士は冷静な態度でそれをながめ、機械的な仕草で、懐中時計をとりだした。
「うん、これでぼくは帰るよ。死亡証明書は、いずれこちらに送ることにしよう。親類に通知を出すんだろうね?」
「親類はないでしょう」フィリップは答えた。
「じゃ、葬式は?」
「ああ、ぼくがなんとかします」
ティレル博士はフィリップにチラリと一瞥を投げた。ここでその足しにとソヴリン金貨(一ポンド金貨)を二枚出すべきかどうか? と思案した。フィリップがどんな暮しをしているか、ぜんぜんわかっていなかった。たぶん、出費はなんとか都合がつくのだろう。そうした金のことなんかいいだしたら、差し出口と思われるかもしれない。
「じゃ、なにかぼくにできることがあったら、知らせてくれたまえ」彼はいった。
フィリップと博士はつれ立って外に出てゆき、戸口のところで別れ、フィリップは電報局にいって、レナド・アップジョンに電報を打った。それをすますと、葬儀屋にいったが、これは、病院にゆくとき、毎日とおっている店だった。以前から、黒布に銀で書きぬかれた三つの文字で、フィリップがそれと気づいていた店だったが、見本の棺をふたつならべ、安価、敏速、そつなしの文字で窓辺を飾っていた。これは、いつも彼を楽しませていた文字だった。
葬儀屋の主人は、でっぷりした小男のユダヤ人で、ながい、油ぎった黒い巻き毛をし、黒服を着こみ、ずんぐりした指には大きなダイヤの指環をはめていた。彼がフィリップをむかえた態度は、生来の下品なさわがしさと職業にふさわしい静かな物腰を織りまぜた奇妙なものだった。フィリップが途方に暮れているのを素早くみてとって、必要な処置をするためにすぐに女をひとりさしだそう、と約束した。葬式に関する彼の話はとてつもなく巨額なもので、フィリップが経費節約の異議を申し立てると、さも下品なといったようすを示しているようだったので、彼は体裁わるさにオドオドしてしまった。こうしたことで値切ったりするのはひどいこと、そこで、最後に、フィリップはどうにも都合のわるいほどの高額の出費を承知することになった。
「よーくわかってますよ、旦那《だんな》さん」葬儀屋はいった、「旦那さんのほうじゃそうはでなことはやりたくない――いいですか、当方だって見栄《みえ》ばったことはきらいなんですからな――だが、紳士なみのことはしたい、とおっしゃるんでしょう? まかせといてください。きちんとしたまともなことは心得てるんですから、できるだけ安くあげるようにしてみますよ。当方としては、これ以上のことは申せませんよ、いかがです?」
フィリップは、夕食のために家にもどり、まだ食事ちゅうに、話の女がやってきて、遺骸《いがい》の処理にとりかかった。やがて、レナド・アップジョンからの電報がとどいた。
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驚愕、かぎりなく哀悼。遺憾ながら、今夜ゆけぬ。晩餐の約束あり。明朝早く参上。心よりの同情。 アップジョン
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しばらくすると、例の小女《こおんな》が居間のドアをノックした。
「もう準備はできましたよ。こちらに来て、きちんと片づいたのをみてもらえますか?」
フィリップは、女のあとについて、部屋にはいった。クロンショーはあお向けに横になり、目は閉じられ、手は敬虔なふうに胸の上で組まれていた。
「飾りの花が多少は要りますね」
「明日、買ってきます」
女は、死体を満足げにながめた。すっかり仕事が終ったので、まくりあげた袖《そで》をおろし、エプロンをはずして、ボンネット帽をかぶった。フィリップは、どれだけ払ったらいいのか? とたずねた。
「ええ、旦那さま、二シリング六ペンスくださる方もあるし、五シリングくださる方もあるんですよ」
こうなると、五シリング以下にするのは体裁のわるいことだった。女は、彼が感じているかもしれない悲しみをおもんぱかって、それなりの愛想よさをふりまいて礼をいい、帰っていった。フィリップは居間にもどり、夕食ののこりを片づけ、腰をおろして、ウォルシャム(イギリスの外科医)の『外科学』を読もうとした。だが、それは困難なことだった。妙に神経が立っていた。階段で音がすると、ギクリとし、心臓がドキドキとおどった。いままで人間であり、いまはもう無に帰してしまったとなりの部屋の死体が、彼をふるえあがらせているのだった。
静寂は、生気をおびているよう、なにか神秘的な動きがそこで起きているようだった。死の存在が重苦しく部屋にのしかかり、この世のものならぬおそろしさがあった。フィリップは、かつては自分の友人であったものにたいして、いきなり、すごい恐怖を感じた。むりやり読もうとしたが、やがて、どうしてもだめとあきらめて、本を向うにおしやった。彼の心をなやましていたのは、たったいま終りを告げた生命の空しさだった。クロンショーが生きていようが死んでいようが、問題ではなかった。クロンショーが生れ出なくとも、どうということはないのだ。フィリップは若かりしころのクロンショーの姿を想像してみたが、ほっそりとし、ピチピチとはねるような足どりを示し、頭に髪をたくわえ、軽快で希望にあふれた青年の姿を考えるのは、なかなか困難だった。町角の向うに巡査がいるのをちゃんと心得た上で本能のままに動こうというフィリップの人生の原則は、そこでうまく働いていなかった。クロンショーがこうして人生の痛ましい失敗をしたのは、その原則にしたがって行動したからだった。本能はどうも信用できないといった感じだった。フィリップはとまどい、もしその原則がだめなら、ほかにどんな人生の原則があるのだろう? なぜ世間の人びとが特にひとつの原則を好んで、べつの原則をすててしまうのだろう? と考えてみた。
人は自分の感情で動いている。だが、そうした感情は、いい場合もあるし、わるい場合もある。それが勝利につながるか、不幸につながるかは、まったくの偶然にすぎぬように思えた。人生はわけのわからぬ混乱、と映ってきた。人は、自分にはわからぬ力につき動かされて、あわただしく右往左往しているが、その目的はぜんぜんつかんでいないのだ。ただ右往左往するのが目的で右往左往しているようだった。
つぎの朝、レナド・アップジョンは、小さな月桂冠をもってあらわれ、これを死んだ詩人の頭にかぶせてやろうと考えて、悦に入っていた。フィリップがそれに反対してムッとしておしだまっているのにはお構いなしで、禿げ頭にそれをかぶせようとしたが、その恰好はじつに異様、演芸館で低俗な喜劇役者のかぶった帽子のへりみたいだった。
「じゃ、胸の上に乗せるとしよう」アップジョンはいった。
「それじゃ、腹の上だよ」フィリップはいった。
アップジョンは薄笑いを浮かべた。
「詩人の胸の場所を知っているのは詩人のみ」が彼の応答だった。
ふたりは居間にもどり、フィリップは、葬式の段どりをどんなふうにしたかを説明した。
「金惜しみをせずに、ひとつやってもらいたいもんだな。霊柩車《れいきゅうしゃ》のあとにはながい空《あき》馬車の列がつづき、馬にはユラユラと風にゆれる羽根毛をつけたらいいな。帽子にながいふきながしをつけた供人《ともびと》もうんとこさ必要だね。ズーッとならんだ空馬車の列、あれは、なんともいえなくいいもんだ」
「葬儀の費用がぼくにかぶさってくるのはたしかなこと、いまさし当って手許不如意《てもとふにょい》ときてるんで、できるだけ地味にやりたいんだよ」
「だが、きみ、そんなら、どうして貧民葬式というやつでいかなかったんだい? そうすれば、多少詩的なとこも出たはずなんだがな、凡庸《ぼんよう》にたいするくるいのない本能の持ち主だね、きみは」
フィリップは、ちょっと顔を赤くしたが、なんの返事もせず、翌日、彼とアップジョンは、フィリップがたのんでおいた馬車に乗って、霊枢車のあとにつづいた。ローソンは、来ることができず、花環を送り、棺がそう粗末にあつかわれているようにみえてはと顧慮して、フィリップは花環をふたつ購入した。帰途、馭者は馬をすごくとばしていた。フィリップはクタクタにつかれ、やがて、眠りこんでしまい、アップジョンの声で起こされることになった。
「詩集がまだ出なくって、幸運といったことになったね。出版はちょっとおさえといたほうがいいだろう。前書きはぼくが書くからね。車で墓地にいく道中、それが頭に浮かんできたんだ。多少は手助けになると思うよ。とにかく、まず『土曜日《サタデー》』に載せる評論ではじめることにしよう」
フィリップは返事をせず、ふたりのあいだに沈黙がつづき、とうとうアップジョンがいった、
「ぼくの原稿をけずりとっちまうのは、おそらく、賢明とはいえないだろう。評論誌のどれかにまず論文を書くことにしよう。それからあとで、前書きとしてそれを印刷すればいいんだ」
フィリップは、その後、月刊誌に注意していたが、それから数週聞して、それがあらわれた。この論文は多少のセンセイションをまきおこし、その抜粋《ばっすい》は多くの新聞に載せられることになった。繊細で、やさしさがこもり、絵画的な美文でつづったとてもすぐれた論文で、どことなく伝記的な色合いのあるものだった。クロンショーの初期の時代をそう知っている者はいなかったからである。レナド・アップジョンは、複雑に入り組んだ文体で、ラテン地区で語り詩を書いていたクロンショーの優雅でささやかな絵図をつくりあげた。クロンショーは絵画的な人物、イギリスのヴェルレーヌ(フランスの象徴派の詩人)となり、むさくるしい末路、ソホーでのきたならしい小部屋の描写となると、レナド・アップジョンの色彩ある語句はわななく威厳といやます悲痛な大げさな表現をおびてきた。さらに、花の咲き乱れる果樹園の中の|すいかずら《ヽヽヽヽヽ》にこんもりとおおわれた小屋に詩人をうつそうとする彼の努力は、じつに魅力的で、はばかって語ろうとせぬ、ひろくて大きな心を思わせる、ひかえ目な調子で語られていた。詩人をそうした場所ではなく、俗悪な世間体ばかり気にしているケニントンにつれていった、好意的な同情とはいえ、心づかいの足りぬ仕打ち! レナド・アップジョンのケニントン描写は、サー・トマス・ブラウンの語彙《ごい》を忠実に守ればどうしてもそうなる抑制されたユーモア感をともなっておこなわれた。微妙な皮肉をこめて、最後の何週間かの期間、みずから看護役を買って出た若い医学生の、善意にもとづくとはいえ、心づかいに欠けたはしたない仕打ちをクロンショーがどんなに堪えたか、こうしたどうにもやりきれない中産階級的雰囲気につつまれてのあの神のような浮浪者がいかにあわれをもよおす存在であったか、が描きだされてあった。「灰より出ずる美しきもの」がイザヤ書から引用されていた。世間から打ちすてられた詩人が俗悪なお上品ぶりの美しいうわべの飾りにつつまれて死ぬとは、なんたる皮肉の勝利! それは、パリサイ人の中にあるキリストをレナド・アップジョンに連想させ、この類似が美辞麗句をならべ立てる機会を彼に与えた。それから、彼は、ある友人――こうした気品のある友人がだれかは、彼のたしなみある感覚が漠然とほのめかすだけにとどめてあった――が月桂樹を死んだ詩人の胸に飾ったいきさつを伝えた。詩人の美しい死滅した手は、奔放な情熱をたたえてアポロの神の葉(月桂樹のこと)の上にいこっているようにみえ、その葉は、芸術の芳香で馥郁《ふくいく》とかおり、あの変幻きわまりなき謎のシナの国から肌浅黒き船人《ふなびと》の手で運ばれてくる翡翠《ひすい》よりもっと緑したたるものとなった。そして、すばらしい対照として、この論文の結びは、王侯かさなくば貧者のように埋葬さるべきこの詩人の中産階級的な、月並の、散文的な葬儀の記述になっていた。それは、芸術、美、物質を超越したものにたいする俗物根性のとどめの一撃、最後の勝利だった。
これは、レナド・アップジョンの最高傑作となった。それは、魅力、気品、憐欄の奇跡ともいうべきものだった。この論文の中で、彼はクロンショーの最高の詩ぜんぶを引用し、その結果、詩集が出たとき、それはきわめて興趣の薄いものになってしまった。だが、彼はこれで自分の地位を大いにたかめることになった。その後、彼は一目《いちもく》をおかれる批評家にのしあがった。そのときまで多少近づきがたい冷たさをもっているように思われていた彼は、かぎりなく魅惑的なこの論文で、血のかよった人間味の持ち主であることを証したのだった。
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八十六
春になり、フィリップは、外来患者部局の助手の勤務が終り、入院患者の助手になったが、この勤務は六ヵ月つづいた。助手は、住みこみの医師といっしょに、最初は男子の病棟で、つぎには女子の病棟で、毎日午前ちゅう病棟暮しをした。その仕事は、カルテの作成、検査、それが終ると、のこりの一日を看護婦たちといっしょにすごすことだった。週二日の午後に、主任の医師が何人かの学生をひきつれて回診をおこない、患者を診察し、なにかと知識を与えた。この仕事は、外来患者部局のもつ刺激、変化、真実との身近な接触はなかったにせよ、フィリップは結構知識を習得できた。
患者ととてもうまが合い、自分が世話をすると患者がよろこぶのをみて、ちょっといい気分だった。患者の苦しみをそう深く意識して同情しているわけではなかったが、患者には好意がもて、お高くとまったりはしなかったので、ほかの助手より患者に人気があった。彼は明るく、元気づけをしてやり、感じよくふるまった。病院の関係者はみな知っていることだが、彼も、女の患者より男の患者のほうが相手にしやすいと感じた。女は、ときどき、うるさく文句をつけ、ご機嫌ななめになった。過労の看護婦のことをひどくなじったが、これは、自分たちの権利と心得ている世話をみてくれないというためだった。厄介で、ありがたいとはついぞ思わず、礼儀知らずなのは、女どもだった。
やがて、幸運にも、フィリップには友人ができることになった。ある朝、住みこみの医師から患者を割り当てられたが、それは男で、フィリップはその寝台のわきに坐り、診察券に病状の所要事項を記入しはじめた。診察券をみると、患者の職業がジャーナリスト、名前はソープ・アセルニー、患者としては珍しい名前、年齢は四十七歳だった。急性|黄疸《おうだん》の患者で、監視の要ありと思われるよくわからぬ症状のために、入院させられたのだった。フィリップがたずねなければならないさまざまの質問にたいして、彼は感じのいい、教育のあることを思わせる声で答えた。寝台に寝ているので、長身か短身かの識別はむずかしかったが、小さな頭と小さな手からみて、どうやらふつうの背丈以下の男らしかった。
人の手をみるのがフィリップの癖だったが、アセルニーの手をみて、びっくりした。とても小さな手で、指はながくて先細りで美しく、爪は薔薇色だった。とてもなめらかで、黄疸にかかっていなければ、驚くほど白いものと思われた。患者は両手を寝具の外に出し、人さし指と中指をそろえて、一方の手をちょっとひろげ、フィリップに話しかけながら、至極満悦してそれにみとれていた。目をキラリとさせて、フィリップは男の顔をながめた。黄色になっているのはさることながら、りっぱな顔立ちだった。目は青く、鼻は鈎鼻《かぎばな》で、強烈さをあらわし、堂々たる不敵ぶりを示していたが、さりとて不細工な感じはなく、小さな顎髯《あごひげ》はとがって、白髪《しらが》まじりだった。頭はそうとう禿げてはいたものの、髪がかつては巻き毛でとても美しかったのは、それと見当のつくことだった。髪は、まだ、ながくしていた。
「あなたはジャーナリストなんですね」フィリップはいった。「どの新聞にお書きなんです?」
「新聞ぜんぶに書いてますよ。どんな新聞でも、開けばそれが目につくはずでしてね」
寝台のわきに新聞がひとつあり、それを手にとって、広告欄をさした。そこには、大きな活字でフィリップがよく知っている商社の名前、ロンドン、リージェント通り、リン・アンド・セドリーが出ていて、その下に、多少小さくはあっても堂々とした活字で、あの独断的なことわざ、「遅延は時間の盗賊」(エドワード・ヤングの『夜想』にある言葉)が書き立てられてあった。そのつぎには、あたり前すぎてかえってびっくりする「さあ、きょうご注文を!」とあった。さらに、大きな活字で、人殺しの胸に打ちこむ良心の呵責《かしゃく》といったふうに、「さあ、さあ!」がくりかえされ、ついでは、そのものズバリで、「世界一流の市場よりとりよせたる手袋数千組、破格の安値。世界一流の信用度あつき製造業者よりとりよせたる靴下数千組、驚嘆すべき値びきにて提供」。最後に、例のうながし文句が、まるで決闘場で投げつける籠手《こて》のように、くりかえしたたきつけられていた、「さあ、さあ、きょうご注文を!」
「というのは、リン・アンド・セドリーの新聞係りということでしてね」彼は美しい手をちょっとふった。「まったくつまらん仕事で……」
フィリップは、規定どおりの質問をつづけた。そうした質問には、まったく型にはまったものもあり、患者がかくしそうな問題をうまく誘導してひきだすといったものもあった。
「外国にいったことはおありですか?」フィリップはたずねた。
「十一年間スペインにいましたよ」
「そこで、なにをやっておいででした?」
「トレドのイギリス水道会社の秘書をしてました」
クラットンがトレドで数ヵ月すごしたことが思い出され、ジャーナリストのこの返事で、フィリップは、いっそう関心を強めて、相手をみつめることになった。だが、こうした気配をみせるのはいけない、と彼は感じた。患者と病院側のあいだにはある距離をおくのが必要だったからだった。検査が終ると、彼はべつの患者のほうへうつっていった。
ソープ・アセルニーの病気は重くはなく、黄色はまだ強くのこっていたが、すぐ、容態はズッと好転した。寝台で横になっているのは、ただ、ある反応が通常にもどるまで観察の要あり、と医者が考えたためだけだった。ある日、病室にはいると、アセルニーが鉛筆を手にして本を読んでいた。フィリップが寝台に近づくと、それを下においた。
「なにを読んでおいでなんですか?」本となると、かならずそれをみることにしているフィリップはたずねた。
フィリップはその本をとりあげ、それがスペイン語の詩集、サン・フアン・デ・ラ・クルース(スペインの神秘詩人)の詩集で、それを開くと、一枚の紙きれが落ちた。フィリップはそれをひろいあげたが、そこには詩が書きつけられてあった。
「まさか、暇な時間に詩なんか書いているんじゃないのでしょうね? 入院患者として、それはしちゃいけないことなんですからね」
「いや、ちょっと翻訳をしてただけのこと。きみはスペイン語がやれるんですか?」
「いいや」
「そう。サン・フアン・デ・ラ・クルースのことはよく知ってますね、どう?」
「いいや、知らないんです」
「スペインの神秘思想家でね。スペイン最高の詩人です。英語に訳してもむだではないと考えたのでね」
「その翻訳、拝見してもいいですか?」
「まだまだ荒けずりのもんなんですがね」アセルニーはいい、それをフィリップにわたしたが、その素早さからみて、フィリップに読んでもらいたがっているようだった。
それは、きれいだが、独得の筆跡で書かれた鉛筆書きで、なかなか読みにくく、ゴチック文字そっくりだった。
「こんなふうに書くには、ずいぶん時間がかかるでしょう? すばらしい字ですね」
「手で書いて美しくないわけはないでしょう」
フィリップは、最初の詩を読んだ。
暗き夜に、
恋の愁《うれ》いに燃え立ちて、
おお、幸《さち》もたらす定め!
家、いま、静まりて、
われ、人知れず忍び出《い》ず……
フィリップは、ジロジロとソープ・アセルニーをみてしまった。この男をちょっと面映《おもはゆ》く思ったのか、それに心ひかれたのか、どちらだかわからなかった。自分の態度が医者としてやや恩着せがましかったのを意識し、アセルニーがそうした自分を滑稽に思っていたのではないかと考えると、彼の顔は赤くなった。
「そちらの名は、じつに変ったもんですね」話のつぎ穂にと、彼はいった。
「とても古いヨークシャーの名でしてね。かつては祖先が領地をグルリまわるのに、馬でせっせとまる一日かかったそうですよ。だが、嗚呼《ああ》、勇士《ますらお》は仆《たお》れたるかな(サムエル前書一ノ一九の言葉)でね。不身持ち女とノロノロの馬式で、することなすこと万事うまくいかなくなったんですよ」
彼は近眼で、人と話しながら、独得な強烈なまなざしで人をながめた。詩の本をとりあげた。
「スペイン語は読めなくっちゃね」彼はいった。「崇高なる言葉ですよ。イタリア語の甘ったるさはなく――イタリア語はテノール歌手か大道の手まわし風琴演奏家の言葉――壮大さをもってますよ。庭を流れる小川のサラサラいう音はもたず、洪水《こうずい》で滔々《とうとう》と流れる大河のようにゴーゴーとして逆《さか》巻くんですからね」
この大げさな言葉はフィリップにはおもしろかったが、彼は修辞に敏感な男、アセルニーが、絵画的表現と嘘いつわりのない情熱を燃え立たせて、『ドン・キホーテ』を原文で読む豪華なよろこび、心を魅するカールデローンのロマンティックで明快、そして情熱的な音楽を述べ立てたとき、楽しそうにそれに聞き惚れていた。
「さあ、また仕事です」やがてフィリップはいった。
「いや、これは失礼、忘れてましたよ。家内にいって、トレドの写真をもってこさせましょう。そしたら、おみせしますよ。お暇があったら、話しに来てください。それがどんなにうれしいか、おわかりにはならないでしょうな」
それからの何日間か、機会あるごとにちょこちょこいっているうちに、フィリップとジャーナリストの交際は深まっていった。ソープ・アセルニーはなかなかの語り手だった。才気煥発というわけではないが、想像力を燃え立たすマザマザとした熱気で語られると、聞く者の心はおどりあがるのだった。フィリップは、もっともらしいいつわりの世界に住んでいたので、自分の空想力が新しい絵図であふれてくるように感じた。アセルニーは、礼儀正しく、世間のことも本のことも、フィリップよりズッとよく知っていた。ズッと年輩者で、どんな話でもすぐはじめられる点で、あるりっぱさを備えていたが、なにせ、病院では慈善を受けている身分、きびしい規律を守らなければならなかった。だが、こうしたふたつの立場のあいだに立って、彼は悠々《ゆうゆう》とおもしろおかしく暮していた。一度、どうしてここの病院に来て慈善を受けたりするのだ? とフィリップはたずねてみた。
「いや、ぼくの原則は、社会の与えてくれる利益はぜんぶ利用しろ、ということでね。自分の生きてる時代を利用してるわけ。病気になれば、病院で手当てをしてもらうし、いい加減な羞恥心なんて、もってはいませんよ。子供たちだって、公立学校に出してるんですからね」
「へえ、そうなんですか?」フィリップはいった。
「それに、子供たちはすばらしい教育を受けてますよ、ウィンチェスター(イングランド南部ハンプシャーの首都、有名なパブリック・スクールがある)で受けたぼくの教育よりズーッといいもんです。それ以外の方法で、大勢の子供たちの教育は、とてもできるもんじゃありませんからな。子供は九人いるんです。ぼくが退院したら、ぜひ来て、子供たちぜんぶに会ってやってください。どうです?」
「ぜひ、おねがいします」フィリップは答えた。
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八十七
十日後、ソープ・アセルニーはすっかり元気になって退院した。彼は住所をフィリップに教え、フィリップは、つぎの日曜日の一時に、彼のところでご馳走《ちそう》になることになった。アセルニーがフィリップに話していたが、彼の住んでいる家はイニゴー・ジョウンズの建てたものということだった。すべてのことでやっているように、古い樫《かし》の木づくりの手すりのことを、うなされたような熱気をこめて語り、その日、階段をおりてきて、フィリップを中に入れようとドアを開くや、すぐに、|まぐさ《ヽヽヽ》(入り口・窓などの上にある横木)にほどこされたすばらしい彫刻をみせて、その礼賛をはじめた。きたない家で、ペンキのぬりかえが絶対必要になっていたが、チャンサリー小路とホウバンのあいだのささやかな街路で、その時代なりの威厳をあらわしていた。
その付近は、そのむかし、上流社会の住宅地だったが、いまは貧民窟同然になっていた。美しい事務所を建てるために、とりこわしの計画があり、そのため、とりあえずは家賃がとても安く、アセルニーは、収入相応の家賃で、上のふたつの階を借りられたのだった。フィリップは、アセルニーの立った姿をみたことがなく、その小柄なのにびっくりした。五フィート五インチは出ない背の高さだった。服装は異様で、ズボンはフランスの労働者が着ている青のリンネルづくり、とても古い褐色のビロードの上衣を着こみ、腰には明るい赤の飾り帯を巻き、カラーは低く、ネクタイとしては、雑誌のパンチによく出てくる喜劇的なフランス人が使っている吹き流しの蝶ネクタイといういでたちだった。彼は、情熱的にフィリップに挨拶し、すぐに家の話をはじめ、愛情をこめて、手すりをなでまわした。
「ねえ、みてごらんなさい。さわってみるんですよ。絹のようなんですからね。まったく、奇跡のようなこの気品! それが、五年すると、こわし屋が燃料にして売っちまうんですからな」
彼は、ぜひにも二階の部屋にフィリップを案内する、とがんばったが、そこでは、シャツ姿の男と赤ら顔の女と三人の子供が、日曜日の昼食をとっていた。
「きみんとこの天井をみせてあげるために、この紳士の方をご案内したんだよ。こんなにすばらしいもん、みたことがありますか? やあ、ホジソンの奥さん、いかがです? こちらはケアリー先生、入院のときお世話になった先生ですよ」
「さあ、どうぞ」男はいった。「アセルニーさんのお友だちなら、だれでも大歓迎ですよ。ここの天井は、アセルニーさんがお友だちぜんぶにみせてるもんなんです。それに、わたしたちが床にはいっていようと、からだを洗っていようと、一向お構いなしに、この人はズーンとはいってくるんですよ」
ここの一家がアセルニーをちょっと変り者とみているのが、フィリップにわかったが、そうはいっても、彼らの好意に変りはなかった。例の性急な流暢ぶりで彼が十七世紀の天井の美しさを論じ立てているとき、彼らは、ポカンと口をあけて、それに聞き入っていた。
「この家をぶちこわすなんて、まったくひどい犯罪行為だ、どうだい、ホジソン? きみは有力な市民、どうして新聞に投書して、反対しないんだい?」
シャツ姿の男はカラカラッと笑って、フィリップにいった、
「アセルニーさんは冗談をとばしてるんですよ。ここいらの家は衛生上ひどくわるくて、住むのは危険って、いわれてるんですからね」
「衛生なんて糞食らえだ。ぼくには芸術が第一さ」アセルニーは叫んだ。「自分んとこには子供が九人もいるが、わるい排水でピンピン元気に暮してるんだ。いや、いや、あぶない橋なんてわたるもんか。新式のペラペラした考えなんて、まっぴらさ! ここから引っ越すとき、なによりもまず、排水がしっかりとだめになってるかどうか、たしかめることにするよ」
ノックの音がし、金髪の小さな娘がドアをあけた。
「父さん、母さんがいってることよ、おしゃべりはやめて、食事においでなさいって」
「これが三番目の娘でね」芝居気たっぷりの仕草でこの娘をさしながら、アセルニーはいった。
「名前はマリア・デル・ピラル(スペイン語でピラルの聖母の意。十月十二日のこと)というんですがね。ジェインと呼ぶと、もっとよろこんで返事をしますよ。ジェイン、鼻をふかなきゃいかんね」
「ハンケチがないの、父さん」
「ちぇっ、ちぇっ、ねえ」大きな大型しぼり染めのハンカチをひっぱりだしながら、彼は答えた、「全能の神さまが指をくださったのは、なんのためだと思ってるんだい?」
三人はさらに上の階にあがり、フィリップは浅黒い樫《かし》の羽目板のついた壁のある部屋に案内された。中央には、|うま《ヽヽ》に乗せ、二本の鉄の棒のささえをもったチーク材の細ながいテーブルがあり、スペインではメサ・デ・ヒエラーヘと呼ばれているものだった。ここで食事をするものらしかった。ふたりの席が設けられ、幅のひろい平らな樫の腕、なめし皮張りのよりかかりの背、同じくなめし皮張りの座席のあるふたつの大きな肘かけ椅子があったからである。椅子はきびしさがあり、優雅だったが、坐り心地はそうよくなかった。ほかのただひとつの家具は、スペインの象眼細工の金メッキづくりの机だけで、金メッキの鉄細工で凝った飾りがつけられ、荒いがとてもみごとな彫刻のほどこされた教会ふうの台の上に乗せられてあった。この上には二、三枚の光沢のある皿が飾られ、ひどくいたんではいたが、色彩豊かだった。壁には、ガタピシはしているが美しい額縁におさめられたスペイン派のむかしの画家の絵がかかり、画題は気味がわるく、ながい歳月と保存のわるさでひどくいたみ、着想は月並だったが、情熱の輝きをおびていた。部屋に金目のものはなにもなかったが、それがあげている効果はすばらしかった。堂々たる雰囲気、しかも、きびしさがこもっていた。それは古代スペインの真髄《しんずい》のあらわれ、とフィリップは感じた。美しい装飾と秘密のひきだしのついた例のスペインの机をアセルニーが彼にみせているとき、輝くような褐色のおさげ髪を背に二本垂らした背の高い娘が部屋にはいってきた。
「食事の用意ができてお待ちしてます、と母さんがいってることよ。席についてくださったら、わたしがお料理を運びこむことになってるの」
「さあ、ケアリー先生と握手するんだ、サリー」彼はフィリップのほうにふり向いた。「すごく大きいでしょう。長女なんです。いくつだい、サリー?」
「この六月で十五よ、父さん」
「ぼくは彼女の名をマリア・デル・ソル(太陽のマリアの意のスペイン語)にしたんです。最初の子供で、カスティリヤ(かつて王国だったスペインの中部地方)の輝く太陽に彼女をささげたんですからね。でも、母親は彼女をサリーと呼び、弟は|かぼちゃ面《ヽヽヽヽづら》と呼んでますよ」
娘は恥ずかしそうに微笑をもらした。歯はそろって白く、顔が赤くなった。齢のわりに背が高く、目は灰色、ひろい額をした、恰好のいい娘で、頬は赤かった。
「ケアリー先生が席にお着きになるまでに、ここに来て、先生と握手をしなさい、と母さんにいっておいで」
「食事が終ったらいくっていってたわ。まだ、からだを洗ってないのよ」
「じゃ、こちらでいって、会うとしよう。つくった本人と握手せずに、ヨークシャー・プディングを食べる法なんてないんだからね」
フィリップは、主人のあとについて、台所にはいっていった。そこは、小さくて、ゴタゴタしていた。ワイワイとさわいでいたが、見知らぬ彼がはいっていくと、ピタリとそれは静まった。まんなかに大きなテーブルがあり、そのまわりに、食事をしようとむきになって、アセルニーの子供たちが坐っていた。かまどのところに女が立ち、焼いた|じゃがいも《ヽヽヽヽヽ》をひとつひとつとりだしていた。
「こちらがケアリー先生だよ、ベティ」アセルニーがいった。
「まあ、こんなとこにおつれするなんて! ほんとうに、先生はびっくりなさることよ」
彼女はよごれたエプロンを着け、木綿の服の袖は肘の上までたくしあげられ、髪にはカールピンがつけられていた。アセルニー夫人は大女で、夫よりゆうに三インチは高く、金髪で碧眼《へきがん》、表情はやさしく、美しい女ではあったのだろうが、寄る年波と多産のために、太って赤ら顔になっていた。青い目はつやを失い、肌は荒れて赤く、髪の輝きも消えていた。彼女はからだをのばし、エプロンで手をぬぐって、それを前にさしだした。
「ようこそ、先生」ゆっくりした声で彼女はいったが、そのなまりは、なにか妙にフィリップの耳になつかしいひびきのこもっているものだった。「病院では先生に親切にしていただいた、と主人はよろこんでいますよ」
「さて、これで、わが家の家畜どもへの紹介になるわけですな」アセルニーはいった。「あれがソープ」こういって、彼は巻き毛のポチャポチャッとした少年を指さした。「あの坊主が長男、わが家の称号、家屋敷、全責任の後継者です。アセルスタン、ハロルド、エドワードがいます」彼は三人のもっと小さな少年をさしたが、いずれも薔薇色の顔をし、健康そうで、ニコニコしていた。だが、フィリップの微笑を浮かべた目が自分たちにそそがれているのを感ずると、彼らは、みんな、恥ずかしそうに目を伏せ、皿をみつめていた。「さて、娘どもですが、順でいうと、マリア・デル・ソル……」
「|かぼちゃ《ヽヽヽヽ》面《づら》」小さな少年のうちのひとりが叫んだ。
「お前のユーモア感覚はまだ青くさいぞ。マリア・デ・メアセイゼイス(メアセイゼイスは慈悲の意のスペイン語)、マリア・デル・ピラル、マリア・デ・ラ・コンセプスヨーン(コンセプスヨーンは聖母マリアのキリスト懐妊をあらわすスペイン語)です」
「わたしは娘たちをサリー、モリー、コニー、ロージー、ジェインと呼んでます」アセルニー夫人はいった。「さあ、あなた、自分の部屋にいってください。お料理はそちらに出しますからね。みんなのからだを洗ったら、あとでちょっとのあいだ、子供たちに顔を出させるようにしますよ」
「きみ、ぼくがきみの命名をおこなうことになったら、さしずめシャボンのあわのマリアということになるかな。いつも、このあわれなチビどもに石鹸攻めの拷問の苦しみを味わわせてるんだからね」
「ケアリー先生、先においでになってくださいません? さもないと、この人を坐らせ、食べさせることはどうしてもできなくなるんですから」
アセルニーとフィリップは大きな修道院ふうの椅子に坐りこみ、サリーが、牛肉、ヨークシャー・プディング、焼いた|じゃがいも《ヽヽヽヽヽ》、キャベツの盛り合せの皿をふたつ、運びこんできた。アセルニーは、ポケットから六ペンス銅貨をひっぱりだして、ビールのジョッキを買いにゆかせた。
「ぼくのためにこんなご馳走の心配をしていただかなくってもよかったんですがね」フィリップはいった。「子供さんたちといっしょにいただいても、とてもうれしいです」
「いやあ、だめ、食事はいつも自分ひとりですることにしてるんです。こうした古風な習慣って、いいもんですよ。女は男といっしょに食卓につくべきではありませんな。第一、話ができなくなっちまうし、たしかに、女どもにとっても、えらくいけないことなんです。そんなことをすると、頭に考えをもつようになり、考えをもつと、女は絶対にジッとはしていられなくなるんですからな」
主人も客も、大いに食べた。
「こんなヨークシャー・プディングって、食べたことがありますかね? 家内ほどの名人はいませんよ。淑女と結婚しない利点は、そこにあるんです。あの女が淑女でないこと、お気づきでしょう、どうです?」
これは、どうも返答に窮する質問で、どう答えたものか、フィリップはとまどってしまった。
「そんなこと、考えてもいませんでしたよ」これはどうもまずい返事だった。
アセルニーは笑ったが、その笑いは、楽しそうな独得の笑いだった。
「そうなんですよ。淑女なんて、とんでもない話。おやじは百姓で、生れてこの方、h音なんか気にもしたことはないんです(h音を発音しないのは、ロンドンの下町の特徴、無教育をあらわす)。子供は十二人生れ、九人が生きのこったんです。もうやめたらどうだ、といってるんですが、強情な女でしてね、もう習い性というやつになっちまったんですね。二十人生むまでは、きっと、満足しないこってしょうよ」
このとき、サリーがビールをもちこみ、フィリップに一杯ついでから、テーブルの向う側にゆき、父親にもそれをしてやった。彼は手を彼女の腰にまわした。
「こんなにきれいで、すばらしい娘、みたことありますかね。まだ十五なんですが、二十歳《はたち》といってもいいくらい。あの頬をごらんなさい。生れてこの方、一日だって病気したことはないんです。この女を嫁にもらった男は、幸福|者《もん》ですよ、どうだい、サリー?」
サリーは、そうドギマギせず、ゆっくりとしたかすかな微笑を浮かべて、この話ぜんぶをジッと聞いていた。父親がこうしていきなりほめ言葉を浴びせるのに、もう馴れっこになっていたからである。だが、屈託なく謙虚さを失わないでいる態度は、好ましかった。
「お料理を冷しちゃいけないことよ、父さん」父親の腕からツッと身をひいて、彼女はいった。
「プディングをはじめるときには、声をかけてちょうだいね、いいこと?」
ふたりだけになり、アセルニーは白鑞《しろめ》の大コップをとりあげて口に当て、グーッと深く飲みこんだ。
「まったく、イギリスのビールにまさるものはありませんな」彼はいった。「素朴《そぼく》なよろこびにたいして、神さまに感謝することにしましょうや、焼いた牛肉、米づくりのプディング、旺盛なる食欲、それにビールといった具合いでね。一度、淑女と結婚したことはあるんですがね。いやはや! 淑女は絶対にだめですぞ、きみ」
フィリップは笑った。こうした情景、妙な服を着こんだ奇妙な小男、羽目板を張った家、スペインふうの家具、イギリスふうの食事で、アセルニーはウキウキと陽気になっていた。こうしたとりそろえは、なんともいえぬ快い矛盾だらけのごったまぜだった。
「笑ってるんですね、きみ? 自分の身分以下の女といっしょになった気分、そいつは、あんたにゃわかりゃしませんよ。知的にも対等な女房を、なんて考えてるんでしょう。とにかく、女房はお友だちだなんていう考えで、頭がいっぱいになってるんですからな。バカな他愛もない話ですぞ、きみ! 男は、政治談を女房と語ろうなんぞとは思わないもん。ベティが微分をどう考えようと、こっちの知ったことじゃあるもんですか。男がほしいと思う女房は、料理ができて、子供の世話をみられる女なんですよ。こちらじゃ、両方とも実験ずみなんです。さあ、プディングにかかるとしましょうや」
彼は手をたたき、サリーがすぐに姿をあらわした。皿が運び去られるとき、フィリップは席を立って、その手助けをしようとしたが、アセルニーが彼をひきとめた。
「放っとくんですよ、きみ。娘は手伝いなんでしてもらいたくはないんですからね、どうだい、サリー? 給仕をしてくれるとき、あんたが動かずそのまま坐りつづけてたって、それを失礼となんか思いはしませんよ。女に丁寧《ていねい》な騎士道精神、そんなことなんて糞食らえですよ、どうだい、サリー?」
「そうよ、父さん」落ち着き払って、サリーは応じた。
「父さんがなにを話してるか、わかってるんかい、サリー?」
「いいえ、父さん。でも、荒い口をきく父さんを、母さんはきらいなのよ」
アセルニーはワッと笑いだした。サリーはふたりに、こってりとした、クリームを多く入れた、おいしい米づくりのプディングを運びこみ、アセルニーはそれにとびついた。
「わが家のひとつの原則は、日曜日の昼食に絶対に変更なしということ。それは儀式なんです。一年の五十回の日曜日には、焼いた牛肉と米づくりのプディングとね。ただ、復活祭の日曜日には、羊の肉と青|豌豆《えんどう》、ミカエル祭(九月二十九日、その日は鵞鳥を食べる)には焼いた鵞鳥《がちょう》にアップルソースですがね。こうして、イギリス国民の伝統は保持されてるわけ。サリーが結婚したら、ぼくが教えた多くの賢明なことは忘れちまうこってしょうがね、善良で幸福になりたいと思ったら、日曜日には焼いた牛肉と米づくりのプディングを食べなきゃいけないということだけは、絶対に忘れはしませんよ」
「チーズを食べるようになったら、声をかけてちょうだい」じつに平然とした態度で、サリーはいった。
「翡翠《かわせみ》の伝説を知ってますかね?」アセルニーはいったが、こうした話題の急転には、フィリップはもう馴れっこになっていた。「海の上をとんでいる翡翠がつかれてヘトヘトになると、雌がその下にくぐっていってそれをおんぶし、グングンととんでくんです。それこそ、男が女房に求めるもんなんですよ。この翡翠式のことなんですがね。最初の女房といっしょに暮したのは三年、この女は淑女、年に千五百ポンドの収入があって、ケンジントンの小さな赤煉瓦づくりの家で、いつもささやかで上品な晩餐会をやってましてね。魅力的な女でしたな。客の弁護士連、その女房たち、文学趣味の株の仲買人、かけだしの政治家たちも、そういってましたよ。たしかに、魅力的な女でしたよ。わたしにはシルクハットをかぶらせ、フロックコートを着させて教会にいかせ、古典的な音楽会につれていき、日曜日の午後の講演には目がなくてね。毎朝、八時半に朝食、こちらでおくれると、朝食は冷たくなってましたよ。読む本ときたら、まともな本ばかり、まともな絵に舌を巻き、まともな音楽の礼賛者でしてね。いや、もうまったく、あの女にはうんざりでしたよ! いまでも、まだ魅力的、壁には、モリスの壁紙(ウィリアム・モリスの考案した図柄の紙)をはり、ホウィスラー(アメリカの画家で腐食銅版製作者)のエッチングをかけ、ガンター(ロンドンの有名な料理・喫茶・菓子店)からとりよせた子牛の肉のクリーム入りの料理やアイスクリームで、二十年前やってたのとそっくり同じな、ささやかで上品な晩餐会を開いてましたよ」
この釣り合いのとれない夫婦がどんなことで別れることになったのか、フィリップはべつにたずねなかったが、アセルニーのほうからその話をやりだした。
「いいですかね、ベティはぼくの女房じゃないんです。女房のやつ、離縁しようとしないんですからね。子供たちは、どれもこれも、そろって私生児、でも、それでどうだっていうんです? ベティは、ケンジントンの例の小さな赤煉瓦づくりの家の女中だったんです。四、五年前に、こっちはすっかり尾羽打ち枯らしちまい、その上、子供を七人もかかえて、とうとう、女房んとこに出かけてって、援助をたのんだんです。ところが、ベティをすてて外国にいったら、仕送りをしましょう、と来たんです。ベティをすてるなんて、できるこってすかね? その代償に、しばらく食うや食わずの日々がつづきましたよ。ぼくは貧民窟住まいが好きなんだって、女房はいってましたがね。たしかに、こっちは堕落し、落ちぶれましたよ。生地商人の新聞係りとして週に三ポンドしかかせいでませんが、ケンジントンの小さな赤煉瓦づくりの家に住んでないのを、ぼくは毎日神さまに感謝してますよ」
サリーがチェダー・チーズを運びこみ、アセルニーの流暢な話はつづけられた。
「子供を育てあげるのに金が必要なんて考えるのは、とてつもない勘ちがいというもん。なるほど、子供たちを紳士淑女に仕上げるには、金がかかりますよ。でも、こちらじゃ、紳士淑女なんかにはなってもらいたくなくってね。もう一年したら、サリーはかせぎに出ますよ。ドレスメイカーんとこに奉公にいくんです、どうだい、そうだろう、サリー? 坊主どもはお国に奉公、海軍にはいってもらいたいと思ってますよ。その生活は楽しくって、健康的、食べ物も給料もよく、老後のためには年金まで出るんですからな」
フィリップはパイプに火をつけ、アセルニーは、自分で巻いたハバナ・タバコを、ふかした。片づけはサリーがした。フィリップはそう自分のことを話さず、こうまでいろいろと打ち明け話を聞かされて、とまどっていた。アセルニーは、小さなからだにこもる力強い声、大言壮語、外国人的な風貌、その強調癖で、たしかに驚嘆すべき人物だった。この男をみていると、クロンショーのことがしきりに思い出された。たしかに、同じ不羈《ふき》な思想、同じ放浪癖の持ち主だったが、アセルニーの気質は、はるかにもっと活気のあるものだった。彼の頭はもっと粗雑で、クロンショーの会話をじつに心ひくものにしていた抽象的なものにたいする興味はもっていなかった。アセルニーは自分の出身のいなかの旧家を強いほこりの種にし、フィリップにエリザベス時代の館《やかた》の写真をみせて、こういった、
「アセルニー家はそこに七百年も住んでるんですぞ。ああ、そこの炉づくりと天井をきみにひと目みせたいもんですな!」
羽目板にとりつけられた戸棚があり、そこから彼は系図をとりだし、子供のように嬉々《きき》として、それをフィリップに示した。たしかに堂々たるものだった。
「家族の名前がくりかえしてあらわれてるのが、ほら、わかるでしょう、ソープ、アセルスタン、ハロルド、エドワードといった具合いにね。こうした家族の名を、ぼくは息子たちに使いましたよ。娘たちには、ねえ、スペインふうの名をもう与えてあるんです」
ひょいとしたら、こうした話すべては、いやしい動機のためではないにせよ、ただ感銘を与え、人をびっくり仰天《ぎょうてん》させるために、手をこませてつくりあげたいかさまじゃないかといった、なにか不安がフィリップの心をおそった。ウィンチェスターにいった、とアセルニーはいっているが、態度のちがいを敏感に感じとるフィリップには、有名なそうしたパブリック・スクールの特質がこの家の主人にあるものとは思われなかった。祖先たちがつくりあげたすばらしい姻戚関係についてアセルニーが述べ立てているとき、アセルニーがウィンチェスターの商人、競売人、石炭商のせがれではないか、姓名が同じな点だけが、いま示している系図のある旧家にたいして彼がもっている唯一の結びつきではないか、と空想を走らせて、フィリップは楽しんでいた。
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八十八
ノックの音がひびき、一団の子供たちがゾロゾロとはいってきた。もう、きれいさっぱりとした恰好になり、顔は石鹸で洗われてテラテラ、髪はなでつけられ、サリーの引率で、日曜学校にいくところだった。アセルニーは、いつもの芝居気たっぷりの華やかさで子供たちと冗談をとばし、子|煩悩《ぼんのう》ぶりを大いに発揮し、子供たちの健康と美しさを自慢の種にしているさまは、人の心を打たずにはいなかった。自分の前で子供たちがちょっと照れているな、とフィリップは感じ、父親が、いっておいで、といったとき、たしかにホッとして、部屋から逃げだしていった。
数分すると、アセルニー夫人が姿をあらわした。カールピンはもうはずされ、手のこんだ前髪をさげ、飾りのない黒服を着こみ、安物の花をつけた帽子をかぶり、仕事のために荒れて赤くなった手には、むりやり手袋がはめられていた。
「教会にいってきますよ、アセルニー」彼女はいった。「なにか用はないことね、どう?」
「お祈りだけ、たのむよ、ベティ」
「お祈りしたって、役に立たないことよ。あんたは、お祈りで救われる人じゃないんですからね」彼女はニッコリした。それから、フィリップのほうに向いて、ノロノロした調子でいった、
「どうしても教会にいこうとしないんですよ。まあ、無神論者といったとこね」
「あの姿、ルーべンス(フランドル派の画家。一六三〇年に再婚し、この妻の肖像画を多くのこしている)の後妻にそっくりでしょう?」アセルニーは叫んだ。「十七世紀ふうの衣裳を着けたら、彼女の姿はすてきになるんですがね。ああした女こそ結婚すべき女なんですぞ。まあ、あの姿、みてごらんなさい」
「きっとのべつ幕なしにしゃべり立てようとしてるんでしょう、アセルニー?」落ち着き払って彼女は答えた。
ようやくのことで手袋のボタンをかけ、彼女は、部屋を出る前にフィリップのほうに向き、ちょっととまどったような、やさしい微笑を投げた。
「お茶の時刻までいてくださることね? アセルニーは話し相手をほしがり、頭のあるお友だちとなると、そうはないんですからね」
「もちろん、お茶までいてくださるさ」アセルニーはいった。妻が出ていくと、彼の話はつづいた。「子供たちは、かならず日曜学校にいかせることにしてるんです、ベティが教会にいくのは、当方も賛成。とにかく、女には宗教心をもたせなけりゃいけませんな。ぼく自身は信仰心をもってないけど、女や子供たちがそれをもつのは、いいもんですよ」
真理ということになると几帳面《きちょうめん》に考えたがるフィリップは、この軽薄な態度には、いささかびっくりした。
「真理とは思ってないことを子供さん方が教わってるとき、どうしてそれを傍観してられるんでしょうね?」
「美しくさえあったら、それが真理であろうとなかろうと、そう気にはなりませんさ。審美感ばかりじゃなく、理性にも訴えるものをとねがうなんて、欲が深すぎますよ。ベティにはローマン・カトリックになってもらいたかったんです。紙の花の冠をつけてあの女が改宗する姿、じっさいみたかったもんですよ。だが、どうにも手のつけられないコチコチの新教徒でしてね。それに、宗教ってえやつは、気質の問題でね。宗教的な心の向きをもってりゃ、どんなこっても信じてしまい、それがないとなると、どんな信仰をつぎこまれようと、問題じゃなく、それからぬけだしちまうんです。宗教ってえやつは、たぶん、道徳を教えるのにはいちばんいい学校でしょうよ。それは、先生方がお使いの薬のようなもんです、解かすとべつの薬をふくんでる薬ね。それ自身効果はなくとも、それでほかの薬が吸収されることになるんです。人が道徳を身につけるのは、それが宗教と結びつけられてるからなんですよ。宗数心がなくなっても、道徳はあとにのこるわけ。ハーバート・スペンサー(イギリスの哲学者)をよく読むのより、神を愛することで善良さを学んだほうが、人間はもっと善良な人間になるようですな」
これは、フィリップの考えとは逆だった。彼は、まだ、キリスト教を不面目な奴隷の絆とみなし、どんな代償を払おうと、それをふりすてるべきだ、と考えていた。それは、無意識に、ターカンベリーにおける大会堂の礼拝、それに、ブラックステイブルの寒々とした教会でのながい退屈な時間に結びつくものだった。そして、アセルニーが口にしている道徳は、彼からみれば、宗教の一部にすぎず、それは、信仰を放棄したとき、足踏みをしている知性がもちつづけているだけのもの、信仰心があってこそ、筋の立つものになるのだった。だが、フィリップがこうして応答を考えているあいだに、議論より自分の話を聞くのに酔ってしまったアセルニーは、ローマン・カトリックの思想についての長広舌をおっぱじめた。彼にとって、それはスペインに不可欠なもの、その上、スペインは彼にとって重大なものだった。最初の結婚生活ちゅう、じつにあきあきしていた因襲からの避難場所になっていたからである。彼の言葉をすごく印象的にする大きな身ぶりと強い語調で、アセルニーはフィリップに、暗い大きな空間をもった大会堂、金色に輝く祭壇の背後と上部の装飾、色|褪《あ》せた金メッキの壮麗な鉄細工、香のかおりのこもった雰囲気、そこを支配している静けさを伝えた。短いローン(きわめて上等な薄地の上等綿)の白衣をつけた修道会僧、赤い服を着けた侍僧が聖具室から聖歌隊席にうつっていく姿がフィリップの目にありありと浮び、夕《ゆうべ》の祈りの単調な声が耳に聞えてくるようだった。アセルニーが語った言葉――アヴィラ(マドリッドの西北にある都市)、タルラゴーナ(バルセロナに近い海港)、サラゴサ(スペイン東部の都市)、セゴヴィヤ、コルドバは、彼の心の中で、ラッパのように鳴りひびいた。黄褐色の、荒涼とした、風の吹きすさぶ風景の中で、スペインの古い町にそびえ立つ花崗岩《かこうがん》を高く積みあげた灰色の寺院を目のあたりにしているようだった。
「セヴィリアにはぜひいってみたいと思ってたんです」彼はフッといったが、そのとき、アセルニーは、片手を芝居がかったふうに高々とあげ、話を一瞬たちきった。
「セヴィリアだって!」アセルニーは叫んだ。「だめ、だめ、そこにはいかんほうがいいですぞ。セヴィリアと……。それは、カスタネットを手にして踊り、グワダルキビル川のそばの庭園で歌う娘、闘牛、オレンジの花、マンテラ(スペイン・メキシコ・イタリアなどで婦人が頭にかぶって肩をおおう絹またはレースのベールかスカーフ)、かぶりぎぬを心に浮かばせるもんですな。それは、喜劇オペラやモンマルトルのスペインですよ。その安易な魅力がいつまでもつづく楽しみを与えるのは、浅薄な知性にたいしてだけ。テオフィール・ゴーティエ(フランスの詩人・小説家・批評家)が、セヴィリアのもってるものはぜんぶ、ひきだしちまった。そのあとでそこをおとずれるわれわれは、彼の味わった感じをただくりかえすだけ。ゴーティエはわかりきったものを太った大きな手でつかみはしたものの、そこにあるのは、わかりきったものだけ。それに、よごれた指跡だらけで、すりきれたもんになってるんです。ムリーリョウ(スペインの画家)がその土地の画家ですよ」
アセルニーは椅子から立ちあがり、スペインふうの箪笥のところにゆき、金メッキした大きな蝶番《ちょうつがい》と豪華な錠のついた前扉をはずして、ズラリとならんだ小ひきだしをみせ、そこから写真の束をとりだした。
「エル・グレコをご存しですかね?」彼はたずねた。
「ああ、思い出しますが、パリの友人のひとりがすごく心酔してました」
「エル・グレコはトレドの画家です。おみせしたいと思ってた写真があるんですがね、ベティがみつけだすことができなくて、残念ですよ。それは、エル・グレコが愛してた町を描いた絵で、どんな写真より真にせまってるもんですよ。さあ、テーブルに坐ってください」
フィリップは椅子を前にひっぱりだし、アセルニーは写真を前にならべ立てた。彼は、ながいこと、だまったままジッと好奇の目を凝らして、それをながめた。ほかの写真をみようと手をのばすと、アセルニーはそれを彼にわたしてくれた。そのときまで、この謎めいた巨匠の作品を一度もみたことがなかったが、ひと目みて、その奔放な画風にとまどってしまった。人物は途方もなくながくひきのばされ、頭はとても小さく、態度はとてつもないものだった。写実的ではないが、それにしても、それにしても、写真でみてさえ、人は襖悩《おうのう》する真実の印象を受けた。アセルニーは、マザマザとした言葉を駆使して、むきになって説明をしていたが、フィリップはただぼんやりとそれを聞き流しているだけだった。とまどいを感じながらも、奇妙な感動に打たれたのだった。こうした絵は、なにか意味を表示しているようだったが、その意味はつかめなかった。憂愁《ゆうしゅう》をたたえた大きな目の男たちの肖像があり、その目は、なにかわからぬものを語りかけているようだった。フランシスコ派の、またドミニコ派の僧衣をつけたひょろながい僧侶たちは、顔を狂気のようにひきゆがめ、意味のつかめぬ身ぶりを示していた。処女マリアの被昇天の絵があり、磔刑《たっけい》の絵があった。ここで、画家は、なにか感情の魔術で、キリストの死体の肉が、人間の肉であるばかりか、神の肉でもあることを人に思わせる力をあらわしていた。キリスト昇天の絵があったが、そこで、救世主は最高天にサッとのぼっていきながらも、がっちりとした大地を踏みしめているように、虚空にしっかりと立っている感じだった。高くかかげた使徒たちの腕、服のゆるやかな曲線、恍惚《こうこつ》とした身ぶりは、法悦と聖なるよろこびの表示だった。ほとんどすべての絵の背景は夜空、魂の黒々とした夜で、荒々しい雲は地獄のふしぎな風で吹き流され、無気味に不安そうな月に照らしだされていた。
「あの空は、トレドで何回となくみたことがありますよ」アセルニーはいった。「ぼくは考えてるんですが、エル・グレコがはじめてこの町にやってきたのは、こんな夜のことだったんでしょう。それが強烈な印象を頭に焼きつけ、それからはなれられなくなっちまったんですよ」
きょうはじめてその作品に接したこの奇妙な巨匠に、クラットンがどんなに打たれていたかを、フィリップは思い出した。パリの知人のうちで、クラットンこそいちばんおもしろい人物だったのだな、と考えた。彼の皮肉な態度と敵意のこもった超然としたようすで、真の彼を知るのはむずかしいことだった。だが、いまふりかえってみて、彼の中に、絵で自分を表示しようと無益にあがいている悲劇的な力強さがあったように、フィリップには思えてきた。クラットンは異常な性格の男、神秘思想への傾向のない時代なりに神秘的で、心のつかめぬ衝動が暗示するものを口に出せないために、人生にたいしてイライラしていた男だったのだ。彼の知性は、精神に役立つようにはつくられていなかった。魂のあこがれを表示する新しい手法を考案したこのギリシャ人に、彼が深い共感を感じたのは、べつに異とすべきことではなかった。
襞襟《ひだえり》をつけ、とがった顎髯のスペインの紳士たちの肖像画を、フィリップはくりかえしながめたが、その顔は、地味な黒の服と暗い背景と対照をなして、青ざめた顔だった。エル・グレコは魂の画家、こうした紳士たちは、疲労というより抑制で、責めさいなまれる心のために、青ざめやつれ果てて、この世の美を知らずに歩いているようだった。彼らの目は、ただ心にだけ向けられ、目にはみえないものの輝きに打たれて驚嘆していたからである。現世が前世から来世へのかけ橋にすぎないことを、彼ほど容赦なく示した画家はなかった。彼が描いた人物の魂は、その奇妙なあこがれを、目で語っていた。彼らの感覚は驚くほど鋭敏だが、その対象は、音、かおり、色彩ではなく、まさに魂の微妙な感動だった。貴人は内に僧侶の心を宿して歩き、その目は、聖者が庵室《あんしつ》でながめるものをながめ、しかも、なんの驚きをもあらわしていなかった。その唇は、微笑する唇ではなかった。
フィリップは、まだだまりつづけ、自分の心をいちばんひきつけたように思えたトレドの写真にもどっていった。目はそれにひきつけられてしまった。人生におけるなにかある発見の戸口に立っている感じだった。これから冒険に出ようとするように、ふるえが来た。自分を焼きつくした恋のことが、一瞬、頭に浮かんだ。いま心でおどっている興奮にくらべたら、愛なんて物の数にはいらぬといった感じだった。いま目の前にしている絵はながい絵で、岡の上に家がゴタゴタと建ち、一方の隅で、少年が町の大きな地図をもち、他の隅では、古典に出てくる人物がティガス川(スペイン中部を西に流れ、トレドをすぎて、リスボン近くで大西洋にそそぐ)をあらわし、空には天使にとりかこまれた聖母マリアの像が描かれてあった。それは、フィリップの観念にはおよそ縁のない風景だった。正確な写実主義を礼賛する流派の人たちのあいだで暮してきたからである。だが、ここにもまた、自分自身にもふしぎなことに、彼がいままで謙虚にその跡を追求しようとしていた巨匠たちでも到達し得なかった真実を感知することができた。この絵はじつに正確で、その結果、それをみに来たトレドの市民たちに自分の家がそれとわかったほどだった、とアセルニーがいっているのが聞えてきた。してみると、この画家は自分のみたままを正確に描きだしたのだが、魂の目でみていたのだ。薄い灰色のその町には、なにかこの世のものならぬものがあった。夜でも昼のものでもない青白い光によってながめられた魂の町ともいえるだろう。町は緑の岡の上に立っていたが、その緑は、この世の緑ではなかった。それは巨大な城壁と稜堡《りょうほ》にとりかこまれていたが、その城壁と稜堡は、人間の発明した機械や兵器ではなく、祈祷と断食《だんじき》、悔恨のため息と肉体の苦行で攻略できるものだった。神の砦《とりで》だった。あの灰色の家は石工の知らない石でつくられ、その姿にはなにか恐ろしいものがあり、そこにどんな人が住んでいるのか、皆目《かいもく》見当がつかなかった。街路を歩き、家々に人っ子ひとりいなくても、べつに驚きを感じないだろう。しかも、そこは虚《うつ》ろではなかった。目に映らずとも、心の感覚すべてにはっきりとわかる存在が感知できたからである。神秘的な町で、光から闇へ踏みこんだ人のように、そこで想像力はたじろぐが、魂は、不可知のものを知り、絶対なるものの経験、よく心得てはいながらも表現できぬ経験を意識して、裸の姿であちらこちらと歩きまわる。そして、驚きをともなわずに、あの青い空、目ではなく魂が認める真実性の点で真実な空、永遠に地獄に堕ちた霊魂の叫びとため息にも似た奇妙な微風に流されるちぎれ雲のとぶ空に、翼のついた天使につつまれた、赤のガウンをまとい、青の外套を着けた聖母マリアの像をながめるのだった。この町の市民は、そうした幻を、驚いたりはせず、敬虔と感謝の気持ちであおぎ、それぞれの道を歩んでいたのだろう、とフィリップは感じた。
アセルニーは、スペインの神秘思想家の作家、テレサ・デ・アヴィラ(尼僧で神秘思想家)、サン・フアン・ド・クルース、フライ・ドイェイゴ・ド・レオン(修道士、古典学者、スペイン最高の神秘詩人)のことを話したが、そうした作家すべてには、エル・グレコの絵でフィリップが感じとった目にみえぬものにたいするあの情熱があった。彼らは、霊的なものにふれ、目にみえぬものをながめる力を備えているようだった。みなその時代のスペイン人で、そこには、偉大な国家のたくましい勲功《いさおし》すべてが脈々と鼓動《こどう》していた。その空想力は、アメリカとカリブ海の緑の島々の栄光で豪華にいろどられ、その血管には、長期にわたるムーア人との闘争から由来する力が流れていた。ほこりが高いのは、世界に君臨していたからだった。自分のからだの中に、カスティリャのはるかにひろがる広野、黄褐色の荒地、雪をいただく山々、アンダルシアの陽光、青い空、花咲き乱れる平原を感じていたのだ。人生は情熱的で多彩、人生の提供するものはじつに多く、彼らは、なにかそれ以上のものを求めるあこがれの情でジッとしてはいられず、人間であるために、満たされぬ気持ちを味わっていた。そして、このひたむきな生気を、表示できぬものへの激しい追求に傾倒したのだった。
アセルニーは、ここしばらく余暇の楽しみにしていた翻訳を読んで聞かせることのできる相手をみつけて、まんざらでもない気分になっていた。そして、ひびきのある美声で、魂とその恋人のキリストの詠唱《えいしょう》、「暗き夜に」ではじまる美しい詩、それに、フライ・ドイェイゴ・ド・レオンの『晴れた夜』を朗読した。彼はそうした詩をじつにさらりと、しかも、結構たくみに訳し、彼の使う単語は、とにかく、原文の荒けずりな壮大さを思わせるものだった。エル・グレコの絵はそうした詩の説明になり、詩はエル・グレコの絵を説明していた。
フィリップは、このときまでにもう、理想主義にたいするある軽蔑の念をいだいていた。人生にたいする情熱は、いつも、もっていたのだが、たまたま出逢った理想主義は、大部分、卑怯にも人生からしりごみをしているように、彼の目には映った。理想主義者が人生から身をひいてしまうのは、おし合いへし合いしている人の群れに堪えられないからであり、戦う力をもたず、その結果、戦闘を低俗視しているのだった。そうした人間は虚栄心が強く、仲間が自分の評価どおりに自分を評価してくれないので、仲間に浴びせる軽蔑で心を晴らしている。フィリップにしては、そうした型の人物はヘイウォード、美貌で、活気がなく、いまは太りすぎて、そうとう禿げあがり、まだ美貌のなごりをとどめ、まだ、いつとわからぬ将来に、なにかすばらしいことをやってみせる、とそこはかとなくほのめかしているヘイウォードだった。しかも、その背後には、ウィスキーがあり、町のくだらぬ情事があるだけなのだ。フィリップが大声であるがままの人生を叫び求めたのは、ヘイウォードによって代表されているものにたいする反動だった。むさ苦しさ、悪徳、醜悪は、気にならなかった。素裸《すはだか》の人間をほしいのだ、と彼は思い定め、野卑、残忍、利己王義、あるいは情欲の実例が目の前にあらわれると、彼は手をすり合せて悦に入っていた。これこそ真実のものなのだ。パリで彼が学んだのは、醜悪も美もない、あるのは真実だけ、ということだった。美の探求は感傷的なもの。小ぎれいさの専横ぶりからのがれるために、自分は風景の中にムニエイのチョコレートの広告を描いたのではなかったろうか?
だが、ここで、なにか新しいものにおぼろげに近づいたような気がした。それまでしばらくのあいだ、ためらいながらも、その方向に進んではいたのだったが、いまになってはじめて、その事実を意識し、自分が発見の一歩手前に立っているのを感じた。ここに自分が打ちこんできた写実主義より一段と高いなにかがある、と漠然と感じた。だが、それは、弱さのために人生から退避している血のかよわぬ理想主義でないのは、たしかだった。それは、理想主義には強すぎ、男性的、活気にあふれた人生、醜悪と美、卑劣さと崇高さを受け入れていた。写実主義ではありながらも、一段と高められた写実主義で、人生の諸事実は、より活気ある光で、姿を変えていた。こうしたカスティリャの死んだ貴族たちの深刻な目をとおして、もっと深く事物をながめはじめたような気がし、最初は荒々しく、ゆがんだように思えた聖者たちの身ぶりは、神秘的な意味をもっているようにみえてきた。だが、その意味がいかなるものかはつかめなかった。それは、自分にとってとても重要な知らせではありながらも、知らぬ言葉で書かれていて、意味がつかめぬといったものだった。
人生の意味をいつも求めていた彼だったが、ここにある意味が示されているように思えた。だが、それは、あいまいで漠然としたものだった。彼の心は深くゆり動かされた。暗いあらしの夜に、稲妻の閃光でつらなる山並みをチラリ一瞥するといったように、真理とおぼしきものをながめたのだった。人は自分の人生を偶然にゆだねる必要はない、自分の意志は強力なものなのだ、ということをさとったような気がした。情熱に身を投ずるのと同じように、自制心も情熱的で積極的になれるのを、さとったような気がした。国々を征服し、未知の領域を踏破《とうは》した人の生活と同様に、人間の精神生活も、その経験によって、多彩で、変化あり、豊かなものになれるのを、さとったような気がした。
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八十九
フィリップとアセルニーの会話は、階段をガタガタッとかけあがってくる物音で破られた。日曜学校からもどってきた子供たちを中に入れようと、アセルニーはドアを開き、彼らは、笑い叫びながら、ドッとはいってきた。彼は陽気に、彼らがなにを勉強してきたかをたずねた。サリーがちょっと姿をあらわし、お茶の準備をしているあいだ、父さんが子供たちの相手をしていてくれ、という母親の言葉を伝え、アセルニーはハンス・アンデルセンの童話を話しはじめた。子供たちははにかみ屋ではなく、フィリップがこわい男ではないという結論をすぐに出した。ジェインは彼のわきに来て立ち、やがて膝に坐りこんだ。これは、孤独な生活をしているフィリップが家族の団欒《だんらん》にとけこんだ最初の経験だった。童話に聞きとれている美しい子供たちをながめると、彼の目には微笑が浮かんできた。この新しい友人の生活は、はじめてみたときには風変りなものに映ったが、いまはもう、非の打ちどころのない自然な美しさを備えているようにみえた。サリーが、また、はいってきた。
「さあ、みんな、お茶ですよ」彼女はいった。
ジェインはスルリとフィリップの膝からぬけだし、子供たちはみんな、台所にもどっていった。サリーは、ながいスペインふうのテーブルで、お茶の準備をはじめた。
「お茶はこっちに来ていっしょにするんですかって、母さんがいってることよ」彼女はいった。「子供たちのお茶の世話は、わたしがするわ」
「ご同席ねがえたら光栄|至極《しごく》って、母さんにいっておくれ」アセルニーはいった。
この男、華やかな演説口調でなければ物がいえないようだな、とフィリップには思えた。
「じゃ、母さんのお茶の支度《したく》をするわ」サリーはいった。
彼女は、すぐ、かさねパン、バターの厚い切れ、|いちご《ヽヽヽ》ジャムの壺を乗せた盆をもってもどってきた。こうした物をテーブルにならべているあいだ、父親はこの娘をからかい、もう男ができてもいいときなんだが、といっていた。とてもほこりの高い女で、日曜学校の外でふたりずつ戸口に立ちならんで、彼女を家に送りとどける栄誉を獲得しようと虎視眈々《こしたんたん》の男どもに情《つれ》ない態度ばかり示している、とフィリップに伝えた。
「よくおしゃべりすることね、父さん」人のいい微笑をゆっくりと浮かべて、サリーはいった。
「この娘をみて、こんな話があるのを信じられますかね? ある仕立屋の職人は、この女から挨拶されないからといって、軍隊にはいっちまい、ある電気技師は、いいですかね、電気技師ですよ、教会で彼女が賛美歌の本をいっしょに使ってくれないというわけで、酒にふけりはじめたんです。一人前の女になって髪をあげたら、どんなことになるかと、ぼくはいまから怖気《おぞけ》立ってるんです」
「お茶は、母さんが自分でもってくることよ」サリーはいった。
「こっちのいうことなんて、サリーはぜんぜん問題にしてないんですよ」やさしい、ほこりやかな目を彼女に投げて、アセルニーは笑った。「戦争や革命、大変動が起きようと、そんなことはへいちゃら、あの娘は自分の仕事をせっせとやる女なんです。まともな男といっしょになったら、まったくいい女房になるこってしょうな!」
アセルニー夫人が茶を運びこみ、腰をおろすと、パンとバターを切りはじめた。彼女が夫のことを子供あつかいにしているのをみて、フィリップはおかしくなった。彼のためにジャムをぬり、食べるに便利な大きさにパンとバターを切ってやっていた。彼女は、もう、帽子をぬいでいたが、ちょっと窮屈そうな日曜日の晴れ着姿で、そのむかし小さな少年だったころ、フィリップが伯父といっしょによくおとずれていた農夫の妻によく似ていた。ここで、彼女の声のひびきがどうして自分になじみ深く思われるのか、彼にハハンとわかってきた。ブラックステイブルの周辺の人たちの話しぶりとそっくりだったからである。
「いなかといって、どちらなんですか?」彼は彼女にたずねた。
「わたし、ケント出身の女ですよ。ファーン(架空の地名)なんです」
「たぶんそうだろうと思ってましたよ。ぼくの伯父は、ブラックステイブルの牧師なんです」
「まあ、おかしなことですことねえ」彼女はいった。「そちらがあのケアリーさんのご親類じゃないかと、たったいま、教会で考えてたとこでした。あの方、何回もおみかけしたことがありますよ。わたしの従妹《いとこ》がブラックステイブル教会の近くのロクスリー農場のバーカーさんとこにお嫁入りし、わたしも、娘のころ、よくそこにいって泊ってきたもんですわ。ほんとにまあ、おかしなことですことねえ!」
彼女は、いままでにない関心をこめて、彼をながめ、色褪せた目に活気がよみがえってきた。ファーンを知っているか? と彼女はたずねた。そこは、ブラックステイブルから十マイルほどはなれた美しい村、収穫感謝祭のときには、そこの牧師がよくブラックステイブルに来ていた。彼女は、近くのいろいろな農夫の名をあげた。自分の娘時代をすごしたいなかのことをしゃべるのを、彼女はうれしく思い、農民階級独得の強靱《きょうじん》さで彼女の記憶にのこっている景色や人びとのことを思い起すのは、彼女にとって楽しいことだった。
それは、フィリップにも奇妙な感じを与えた。ひと吹きのいなかの風がロンドンのどまんなかにあるこの羽目板張りの部屋に流れこんできたようだった。堂々とした楡《にれ》が立ちならぶ豊沃《ほうよく》なケントの畠が目に映ってきた。彼の鼻孔は、その風のかおりをかいでふくらんだ。これは北海の塩のこもった風で、そのため、それはピリッと鋭いものになっていた。
フィリップは、夜十時まで、アセルニーの家にいた。八時に、子供たちは、おやすみの挨拶をしにやってき、ごく自然な態度で、フィリップがキスするようにと顔を向けた。彼の心は彼らにとけこんでいった。サリーだけが、ただ手をさしだした。
「サリーは、二度会うまで、紳士とは絶対にキスをしないんですよ」父親はいった。
「じゃ、また呼んでください」フィリップはいった。
「父さんのいうことなんか、本気にしちゃいけないことよ」ニッコリして、サリーはいった。
「あいつは、若いくせに、じつに泰然自若《たいぜんじじゃく》とした女でね」父親はいいそえた。
アセルニー夫人が子供たちを寝かしつけているあいだ、ふたりは、パンとチーズとビールの夕食をとった。彼女にさようならの挨拶をしようと、フィリップが台所にはいっていくと(彼女はそこで坐って休息をとり、『|週 間 報《ウイクリー・ディスパッチ》』を読んでいた)、またいらっしゃい、と心をこめていってくれた。
「主人が失業しないかぎり、日曜日にはおいしいお料理をつくりますよ」彼女はいった、「来て話していただけたら、ほんとにうれしいことなんです」
つぎの土曜日に、フィリップはアセルニーから手紙を受けとり、彼が昼食に来るのを待っている、と伝えてきたが、アセルニー氏が彼に考えさせようとしているほどそう豊かとも思えなかったので、フィリップは、お茶だけをご馳走になりにゆく、とすぐ返事を出した。自分が世話になって迷惑をかけてはと考えて、彼はプラム菓子を買いこんでいった。一家全員が彼をむかえてよろこんでいるのが、彼にはわかり、菓子で子供たちの心をすっかりにぎってしまった。みんないっしょに台所でお茶にしよう、と彼はがんばり、そこで、お茶はすごくさわがしい陽気なものになった。
間もなく、フィリップは、欠かさず毎日曜日に、アセルニーの家をおとずれることになり、子供たちの大の人気者になった。彼が純真で気どらず、子供にたいする好意をはっきりみせていたからだった。彼がドアでベルを鳴らすとすぐ、だれかひとりが窓からピョイと頭を出し、それが彼かとたしかめ、それとわかると、彼を中に入れようと、全員が、ワッワとわめきながら、階段をとんでおり、そして、彼の腕の中に身を投げてきた。お茶では、彼のわきに坐る特権を獲得しようと争い、間もなく、彼をフィリップおじさんと呼ぶようになった。
アセルニーは、自分のことをじつによくしゃべり、少しずつ、彼の生涯のさまざまな変化が、フィリップにわかってきた。彼は多くの職業についたが、やることなすことぜんぶ、失敗してきたようだった。セイロン島の茶の栽培《さいばい》園にいたことがあり、イタリア|ぶどう《ヽヽヽ》酒のセールスマンをアメリカでやり、トレドの水道会社の秘書の勤務は、他のどんな職業よりながつづきした。ジャーナリストにもなり、ある夕刊新聞の軽犯罪即決裁判所記者、ミッドランズの新聞の副主幹、リヴィエラのべつの新聞の主幹をやってきた。こうしてやってきたすべての職業から、彼は、おもしろい逸話を蒐集《しゅうしゅう》し、人を楽します自分の力を大いに堪能《たんのう》しながら、それを語って聞かせた。多読の男で、楽しんで読むのは、主として風変りな本だった。そして、深遠な知識の貯えを、聞き手のびっくり仰天を子供のように楽しみながら、とっととそそぎだした。三、四年前、貧困に追いつめられて、大きな服地屋の商社の新聞係りをする仕儀になり、この仕事を高く自負している自分の能力にふさわしい職業と考えているわけではなかったが、妻の強腰と家庭の必要で、万やむを得ずそれをつづけているのだった。
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九十
アセルニーの家を出ると、フィリップは、議会通りの奥でバスをひろおうと、チャンサリー小路とストランド通りぞいに歩いていった。アセルニー一家と知り合いになってから六週間ほどしたある日曜日、いつものとおり、こうして歩いていったが、ケニントンゆきのバスは満員だった。六月だったが、昼間は雨が降り、夜はきびしい寒さになった。空席をとろうと、彼はピカディリー・サーカスまで歩いていった。バスは噴水のところでとまり、乗客が二、三人以上のことはめったになかった。このバスは十五分ごとに走り、まだ少し待つ時間があった。彼は、どうということもなくぼんやりと、群集をながめていた。酒場は閉まりはじめ、あたりには往き来する人がたくさんいた。彼の心は、アセルニーのあの魅力的な才能で暗示を受けたいろいろなことを思いめぐらせていた。
いきなり、心臓がドキッとしてとまった。ミルドレッドの姿がみえたからである。もう何週間も、ミルドレッドのことは考えていなかった。シャフツベリ大通りの角からこちらにわたろうとしていて、ひとつづきの馬車がとおりすぎるまで、安全地帯で足をとめていた。彼女は道を渡る機会をうかがい、ほかのものをみていなかった。たくさんの羽根をつけた黒の大きな麦稈《むぎわら》帽をかぶり、絹の黒服を着こんでいた。その当時、ながい裾《すそ》をつけるのが女の流行だった。車馬のとおりがちょっとやみ、ミルドレッドは、スカートを路面にひきずりながら、道を切り、ピカディリー通りぞいに歩いていった。フィリップは、興奮して胸をおどらせながら、彼女のあとを追った。べつに彼女に話しかけたいわけではなかったが、この時間にどこにゆくのだろうと考え、彼女の顔をひと目みたかったのだった。
彼女はゆっくりと歩いてゆき、エア通りぞいに向きを変え、リージェント通りにはいっていったが、また、サーカスのほうに歩きだした。これは、どうにも合点《がてん》のいかぬ話だった。彼女の意図が、フィリップにはわからなかったからである。たぶん、だれかを待っているのだろう。相手はだれだろう? とフィリップの好奇心は燃え立っていった。彼女と同じ方向をとてもゆっくりブラリブラリと歩いてゆく山高帽をかぶった背の低い男がいたが、彼女はその男に追いつき、とおりすがりに、チラリと横目を流した。それから、スウォン・アンド・エドガー(リージェント通りにある百貨店)に来るまで数歩歩き、足をとめて、道のほうを向きながら待っていた。例の男が近づくと、彼女はニッコリし、男は、一瞬、彼女をにらみつけ、ツッと頭をそらし、またブラブラと歩いていった。これで、すっかり呑みこめることになった。
彼の心は、おそろしさでおしつぶされた。一瞬、すごく膝がガクガクし、立っていられないほどだった。ついで、足早に彼女のあとを追い、相手の腕に手を乗せた。
「ミルドレッド!」
彼女は、ギクリとして向きなおった。顔を赤くしたようだったが、暗さのために、よくはわからなかった。しばらく、ふたりは立ちつくし、なにもいわずに見合ったままでいた。とうとう、彼女はいった、
「あんたと会うなんて!」
どう答えていいのか、彼にはわからなかった。ひどく心が動揺していた。つぎからつぎへと頭をかけめぐる言葉は、どれもこれも、いかにもメロドラマ的なものに思えるからだった。
「ひどいことだ!」ひとり言のように、彼はあえいでいった。
彼女は、それ以上なにもいわず、彼から面《おもて》をそむけ、舗道に目を伏せていた。みじめさで自分の顔がゆがんでいるのが、彼にはわかった。
「話せる場所がどこかにないかな?」
「話なんかしたくないわ」ブスッとして、彼女はいった。「おねがい、放っといてちょうだい!」
ひどく金に困っていて、この時刻に帰れなくなったのじゃないかという考えが、サッと頭に浮かんできた。
「もし困ってるのだったら、ソヴリン金貨二枚はあるよ」彼はふといってしまった。
「というのは、どういうことなの? 下宿に帰ろうと思って、あたし、ここを歩いてるだけなのよ。仕事場での女の子と会えるもんと思ってたの」
「たのむ、いい加減な嘘は、もうやめにしてくれ」彼はいった。
そのとき、彼女が泣いているのがわかり、彼は、また、前の質問をくりかえした。
「どっかで話せないもんかな? きみの部屋にいってはいけないのかね?」
「だめよ。そんなこと、いけないわ」彼女はすすりあげた。「そこに男の人をつれてっちゃいけないの。よかったら、あした会うことにしない?」
その約束を破るのは、フィリップにはみとおしのことだった。とにかく、彼女をこのまま放したくはなかった。
「いや、こうなったら、ぼくをどこかにつれてってくれたまえ」
「そう、知ってる部屋はひとつあるけど、六シリング払わなくちゃいけないのよ」
「そんなこと、構いはしないさ。それはどこにあるの?」
彼女はその場所を教え、彼は辻馬車を呼んだ。グレイズ・イン通りの近くで、大英博物館の向うのきたならしい通りをとおっていたが、彼女は町角で車をとめた。
「戸口に車をとめるのをいやがってるの」彼女はいった。
これが、馬車に乗りこんで以来、ふたりでかわした最初の言葉だった。数ヤード歩くと、ミルドレッドはドアを三回鋭くノックした。欄間《らんま》窓に貸し部屋と書きつけたボール紙があるのに、フィリップは気づいた。ドアは静かにあけられ、初老の背の高い女がふたりを中に入れた。この女はきつい目でフィリップをながめ、ついで、ボソボソとミルドレッドと話をした。ミルドレッドが先に立って廊下ぞいに彼を案内し、裏の部屋につれていった。そこは真っ暗、彼女は彼からマッチをもらい、ガス灯をつけた。|ほや《ヽヽ》はなく、ガスはシューシューと高い音を立てて燃えあがった。フィリップは、自分がきたない小部屋にいるのを知ったが、そこには、部屋にはバカでかいともいえる、松にみせかけようとぬり立てたひとそろいの家具があり、レースのカーテンはひどくよごれ、鉄|格子《ごうし》は大きな|うちわ《ヽヽヽ》でかくされてあった。ミルドレッドは炉棚のわきの椅子にぐったりと坐りこみ、フィリップは寝台の端に腰をおろした。彼は恥ずかしかった。いま、ミルドレッドの頬がべったりと赤くぬられ、眉は黒く染められているのがわかった。だが、彼女は痩せて病気|病《や》みのよう、頬にぬられた赤い色は、彼女の青みがかった蒼白の肌の色をなお強く浮き彫りにしていた。彼女は大儀そうにジッと|うちわ《ヽヽヽ》をみつめていた。
フィリップは、いうべき言葉が思い浮かばず、いまにも泣きだしそうに、喉がつまってくるのを感じ、両手で目をおおった。
「まったく、ひどいことだ!」彼はうめいた。
「なにをさわぎ立ててんのか、あたしにはわかんないわ。意気揚々と大よろこびするかと思ってたんだけど……」
フィリップは返事をせず、やがてすぐ、彼女はすすり泣きはじめた。
「好きだからこんなことをしてるとは、まさか思ってないんでしょ、どう?」
「ああ、きみ」彼は叫んだ。「ぼくは気の毒に思ってるよ、すごく気の毒にね」
「そう思われて、ありがたや、ありがたやってとこね」
また、フィリップは語る言葉に窮した。叱責か冷笑にとられるかもしれない言葉を絶対に口にしたくはなかったからだった。
「赤ん坊はどこにいるの?」彼はとうとうたずねた。
「ロンドンにつれてきたわ。ブライトンにおくお金はなし、そこでひきとったのよ。いま、ハイベリにひと部屋借りてんの。女優とふれこんであるわ。毎日ウェスト・エンドまでやってくるのは大変なことだけど、女に部屋貸しするとこなんかみつけるのは、ひと筋なわではいかないことなのよ」
「例の店ではやとってくれないのかい?」
「どこにも仕事なんてみつからないの。足を棒にしてさがしまわったわ。一度仕事をみつけたんだけど、からだの調子がわるくて一週間休み、もどってくと、もうポイよ。だけど、相手を責めるわけにもいかないわね、どう? ああいったとこじゃ、丈夫でない女なんてやとっちゃいられないんですもの」
「だいぶ具合いがわるそうだね」フィリップはいった。
「今夜は、出てくるほど調子がよくなかったの。でも、どうにもならないわ、お金が要るんですものね。イーミルに手紙を書き、困ってるのを知らせてやったわ。でも、返事の手紙一本もくれないの」
「ぼくに手紙を寄こせばよかったのに」
「いままでのこともあるし、手紙を出したくはなかったの。それに、困ってるのをあんたに知られたくもなかったわ。身から出た錆《さび》といわれたって、仕方のないことなんですもんね」
「きみには、ぼくのことがわかってないんだね、いまでも?」
一瞬、この女のために味わわされたすべての苦悩が脳裡《のうり》にまざまざと浮かび、その苦痛を思い出すだけでも、胸が苦しくなった。だが、それは追憶にすぎないものだった。いまこうして彼女をながめて、もはや愛していないことが、はっきりとわかった。気の毒には思いながらも、解放されたのはうれしいことだった。ジッと彼女をみつめながら、どうしてこんな女にうつつをぬかしたのかと、ふしぎになってきた。
「あんたはれっきとした正真正銘の紳士よ」彼女はいった。「あとにも先にも、あんたのような人に会ったことないわ」彼女はちょっと間を入れ、サッと顔を赤くした。「こんなこと、口にしたくはないんだけど、フィリップ、ちょっと都合してもらえないこと?」
「都合よく、いくらかはもってるよ。ただ二ポンドしかないんだけどね」
彼はソヴリン金貨をわたしてやった。
「きっとかえすことよ、フィリップ」
「いやあ、いいんだよ」彼はニヤリとした。「心配することはないさ」
彼は、いいたいことをぜんぜんいっていなかった。ふたりの話は、ことすべてきわめて自然なことといった話しっぷり、いま彼女は出ていって、おそろしい生活にまいもどり、彼としてはなにも手を打てない、といったふうだった。金を受けとろうと、彼女は立ちあがり、ふたりとも、もう立っていた。
「あんたのじゃまをしてるんじゃないかしら?」彼女はたずねた。「家に帰りたいんでしょうからね」
「いや、べつに急いじゃいないよ」彼は答えた。
「じゃ、うれしい、ちょっと坐れるわ」
こうした言葉は、それが暗に物語っているすべてをこめて、彼の心をひきちぎり、彼女が椅子にまた沈みこんだ大儀そうなようすをながめるのは、すごくつらいことだった。沈黙はながいことつづき、ドギマギしているフィリップは、タバコに火をつけた。
「感じのわるいことはなにもいわずにいてくれて、ほんとにありがたく思ってることよ、フィリップ。ひどいことをどんどんといわれるもんと、あたし、覚悟してたんだけど……」
彼女が、また、泣きだしているのがわかった。イーミル・ミラーにすてられたとき、彼女が自分のとこにやってきたこと、どんなに泣いていたかが、思い出された。彼女の味わっている苦しみと自分自身の受けた屈辱の思い出が、いま彼女に感じている同情の念をさらにいっそう強めたようだった。
「こんな境遇からぬけだせたらねえ!」彼女はうめいた。「ほんと、いやでいやでたまんないの。こんな暮しには不向きなのよ。そんな女じゃないんだわ。これからのがれられるんだったら、どんなことだってするわ。できるもんなら、女中になったって構わないことよ。ああ、ほんとに死んじまいたい!」
こういって、わが身をあわれんで、彼女はがっくりした。ヒステリーを起こしたように泣きじゃくり、痩せたからだは、ワナワナとふるえていた。
「ああ、この生活がどんなもんか、あんたにはわかんないのよ。自分で味わうまで、だれにもわかんないもんなの」
フィリップは、彼女の泣く姿をみてはいられなかった。彼女の立場のおそろしさに、身を切られる思いだった。
「かわいそうに」彼はささやいた。「かわいそうに」
彼は深い感動を受けた。突然、ある考えがサツと霊感のように頭に浮かんだ。それは、完璧な有頂天《うちょうてん》の幸福感で彼の心を満たした。
「いいかい、いまの境遇からぬけだしたいのだったら、ぼくにある考えがあるんだ。懐《ふところ》具合いはとてもわるく、できるだけ節約しなければならないんだが、ケニントンにまあ小さなアパートといったものを借りててね、空き部屋がひとつあるんだ。もしよかったら、きみと赤ちゃんがそこに来たらいいだろう。そこを掃除し、料理をちょっとしてもらうために、週三シリング六ペンス出して女の人をやとってるんだ。きみはそうした仕事ができるだろうし、きみの食べ分だって、この女で節約できる分をそう上まわりはしないだろう。食い扶持《ぶち》は、ふたりだってひとりだって、そう変らないだろうし、赤ちゃんはそう食べはしないだろうからね」
彼女は泣きやみ、彼の顔をながめた。
「いままでのことがあっても、ひきとってくれるというの?」
これから自分のいうことにとまどって、フィリップはちょっと顔を赤らめた。
「勘ちがいしてもらっては困るよ。ぼくにはどうということもない部屋があり、きみの食い扶持をあげるということだけなんだよ。やとってる女の人がしてることを、きみがきちんとやってくれる以上のことは、なんにもべつに望んではいないんだからね。それ以外のことは、なにもしなくっていいよ。たぶん、そのくらいの料理、きみにだってできるだろう」
彼女はパッと立ちあがり、彼のほうに寄ってこようとした。
「親切な人ねえ、フィリップ」
「いや、動いちゃいけない」彼女をおしのけるといったふうに、片手をつきだして、あわただしく彼はいった。
それがどうしてかはわからなかったが、女にさわられると思っただけでも、もうたまらないことだった。
「きみの友だち以上のものには、なりたくないんだよ」
「親切な人だわ」彼女はくりかえした。「ほんとに親切な人だわ」
「じゃ、来るというのかい?」
「ええ、ええ、これからのがれられるんだったら、どんなことだってするわ。これをしてくれたこと、あんたに後悔させることなんて、絶対にないことよ、フィリップ、絶対にね。いついったらいいの?」
「明日来たらいいだろう」
いきなり、彼女はまたワッと泣きくずれた。
「話がきまったのに、いったいどうして泣いたりするんだい?」彼はニッコリした。
「とってもありがたいと思ってるの。どうしたらお礼できるのか、わかんないわ」
「ああ、そんなことはいいさ。さあ、家に帰ったらいいだろう」
彼は住所を書き、五時半に来たら、準備している、と伝えた。もう夜もふけ、家まで歩いて帰らなければならなかったが、道中はながいとは思われなかった。よろこびで、彼は有頂天になっていた。空をとんでいるような思いだった。
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九十一
つぎの日、彼は早く起き、ミルドレッドをむかえる部屋の準備にとりかかった。いままで世話をみてくれた女には、暇を出した。ミルドレッドは六時ごろ到着し、窓から見張っていたフィリップは、下におりていって彼女を中に入れ、荷物運びを手伝ってやった。荷物は褐色の紙の大きなつつみ三つしかなかった。絶対必要な品以外のものはぜんぶ売り払わねばならない窮地に落ちていたからだった。服装は、前の夜着ていたのと同じ絹の黒服だった。頬に紅をつけていなかったが、目のあたりには黒い色がまだのこっていた。朝そそくさとした洗面ですませた結果で、そのため、ひどく病みこんだようにみえた。腕に赤ん坊を抱いて馬車からおりてきた彼女の姿は、あわれをもよおすものだった。少し恥じ入っているふうで、ふたりの話といっても、ありきたりのことしか出てこなかった。
「これで無事ここに着いたわけだね」
「ロンドンのこの辺には、まだ住んだことないわ」
フィリップは彼女に部屋をみせてやった。それは、クロンショーの死んだ部屋だった。バカげたこととは思いながらも、フィリップはそこにもどる気にはなれず、クロンショーの死以来、小部屋にいつづけ、クロンショーを気分よくすごさせるために最初うつっていった折りたたみ式の寝台で眠りつづけていたのだった。赤ん坊は安らかに眠っていた。
「赤ちゃん、きっとわからないでしょうね?」ミルドレッドはいった。
「ブライトンにつれていって以来、会ってはいないんだからね」
「どこに赤ちゃんをおいたらいいかしら? とても重くてね、ながいこと抱いてはいられないの」
「ゆり籠はないんだがねえ」気を使いながら笑って、フィリップはいった。
「ああ、あたしといっしょに寝ることにするわ。いつもそうしてるんだから」
ミルドレッドは、赤ん坊を肘かけ椅子におき、部屋をみまわした。彼の以前の下宿でみたものを、彼女は大部分憶えていた。ひとつだけ新しいものがあったが、これは、この夏の終りにローソンが描いてくれたフィリップの肩から上の肖像画だった。それは、炉棚の上にかけてあった。ミルドレッドは文句つけたげにそれをながめた。
「好きなとこもあるけど、いやなとこもある絵ね。絵より実物のほうが美男子よ」
「万事値あがりというとこだね」フィリップは笑った。「きみに美男子なんぞといわれたこと、ついぞ一度もないんだからね」
「あたし、男の顔なんて気にする女じゃないことよ。美男子は自惚《うぬぼ》れが強すぎて、どうも好かないの」
彼女の目は、本能的に鏡をさがして、部屋をみまわしていたが、鏡はなく、片手をあげて、大きな前髪を軽くたたいた。
「あたしがここにいて、この家のほかの人たち、どう思うかしら?」いきなり彼女はたずねた。
「ああ、ここには夫婦ひと組が住んでるだけでね。亭主は、一日じゅう、外に出てるし、女房は、日曜日に部屋代を払うとき以外に、姿をみかけないよ。まるっきりこもりっきりの夫婦で、ここに来て以来、まだどちらにも話をしたことがないといえるくらいさ」
ミルドレッドは、荷物ほどきと片づけのために、寝室にはいっていった。フィリップは本を読もうとしたが、気分がうきうきして、だめだった。椅子で背をそらし、タバコをくゆらし、目に笑いを浮かべて、眠っている子供をながめた。とても幸福だった。自分がミルドレッドを愛してはいないことを確信し、以前の感情がこうして跡形《あとかた》もなく消えてしまったのにびっくりしていた。自分がかすかに彼女に肉体的嫌悪感をもっているのがわかり、そのからだにふれたりしたら鳥肌が立つ思いを味わうことだろう、と考えた。こうした自分自身がわからなくなった。やがて、ドアをノックして 彼女が、また、はいってきた。
「ねえ、ノックなんてしなくていいよ」彼はいった。「この館《やかた》のご巡幸はすんだのかね?」
「みたことないほどちっぽけな台所なのね」
「ここの贅沢《ぜいたく》なお料理をつくるには、十分大きいことがわかるだろうよ」彼は気軽にやりかえした。
「なんにもないことね。出かけてって、なにか買ってくるわ」
「うん、だが、ひとこと思いきって申しあげておくけどね、万事節約でおねがいしますよ」
「じゃ、夜のご飯、なんにしたらいいかしら?」
「料理できると思うものを買ってきたらいいだろう」フィリップは笑った。
こういって、金をいくらか与え、彼女は出ていった。三十分すると、もどってきて、買い物をテーブルの上においた。階段を登ってきたことで、息をハアハアさせていた。
「ねえ、それは貧血症だよ」フィリップはいった。「ブローの錠剤が必要だね」
「お店さがしに時間がかかったの。レバーを買ってきたけど、おいしいことよ、どう? あんたがそう食べるわけはなし、お肉屋で肉を買うのより、経済的なの」
台所にはガスストーブがあり、レバーを火に乗せると、ミルドレッドは居間にもどってきて、食事を出す準備にとりかかった。
「どうしてひとりだけの支度をするんだい?」フィリップはたずねた。「きみはなにも食べないんかい?」
ミルドレッドはサッと顔を赤らめた。
「いっしょに食事をするのはいやだろうと思ったの」
「いったい、どうして?」
「そう、あたし、女中|風情《ふぜい》にすぎないんですものね、そうじゃない?」
「バカなことをいうなよ。きみはどうしてそんなにバカなんだろうね?」
彼はニッコリしたが、女の卑下《ひげ》した態度に接して、胸がチクリと痛んだ。かわいそうに! はじめて会ったときの女の態度を、ここで思い出したためだった。彼は、一瞬、ためらった。
「ぼくから恩恵を受けてるなんぞと思ってはいけないよ」彼はいった。「それは、ただ、事務的なとりきめだけのことさ。きみに働いてもらって、きみの食費と住まいの世話をしてるだけなんだ。ぼくのことを恩に着る必要はないんだよ。そこには卑下することなんて、なんにもないんだからね」
彼女はなにも答えなかったが、大粒の涙がすごく流れ落ちてきた。病院での経験で、彼女の階級の女たちが人にやとわれるのを格落ちと考えている事実を、フィリップは知っていた。こうした彼女に、ちょっとイライラせずにはいられなかった。だが、彼はそうした自分を責めた。女がつかれて病気なことが、はっきりわかっていたからである。彼は立ちあがり、もうひとりの席をつくる手助けをした。赤ん坊は目をさましていて、ミルドレッドはメリンの幼児食をつくってあった。レバーとベイコンの食事ができ、ふたりは腰をおろした。節約のために、フィリップは水以外のものは飲まなかったが、家にはウィスキーが半びんだけあり、少しやったら、ミルドレッドの気分がよくなるだろうと考えた。夕食を陽気にやろうと、彼は一生けんめいになったが、ミルドレッドは沈んで、つかれきっていた。食事がすむと、彼女は立ちあがり、赤ん坊を寝台にうつした。
「きみ自身も早く寝たほうがいいよ」フィリップはいった。「すっかりつかれてるようだからね」
「食後の洗いをすませたら、寝ることにするわ」
フィリップは、パイプに火をつけ、本を読みはじめた。となりの部屋でだれか人が動きまわっているのを耳にするのは、楽しいことだった。このときまで、彼は、ときどき、孤独の重圧をヒシヒシと感じていた。ミルドレッドがはいってきて、テーブルを片づけ、食器を洗う音が聞えてきた。そうしたことを絹の黒服でやっているのは、いかにも彼女らしいと考えると、フィリップの顔に微笑が浮かんできた。だが、彼には勉強があり、本をテーブルのところに運んできた。彼が読んでいたのはオスラー(オクスフォード大学の教授)の『内科学』で、これは、ながいこと教科書としていちばんよく使われ、学生に人気のあったテイラーの本に最近とってかわったものだった。やがて、ミルドレッドが、めくりあげた袖をおろしながら、はいってきた。フィリップは、さりげなくチラリと彼女をながめはしたものの、動かなかった。どうも妙な具合いで、彼はちょっと神経を立てていた。こちらでうるさいことをいいだそうとしていると、ミルドレッドが想像しているのではないか? と思われたし、心配しないようにと遠まわしにどううまくいったものか、見当もつかなかったからである。
「ところで、明日九時に講義があってね、八時十五分に朝食にしたいんだ。やってもらえる?」
「ええ、いいことよ。だって、議会通りにつとめてたころ、毎朝、ハーン・ヒルから八時十二分の汽車にいつも乗ってたんですもの」
「部屋で気分よく休めたらいいんだが……。ぐっすりよく眠ったら、生まれかわったような気分になるよ」
「おそくまで勉強なのね?」
「ふだん、十一時半ごろまで勉強してるんだ」
「じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
ふたりは、テーブルでへだてられていた。彼は、握手しようとはしなかった。彼女は、ドアを静かに閉めた。寝室で彼女が動きまわっているのが聞え、しばらくすると、床にはいる寝台のきしみの音が聞えてきた。
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九十二
つぎの日は火曜日だった。フィリップは、いつものとおり、朝食を早々とすませ、九時の講義に間に合うようにと、とびだしていった。ミルドレッドとはほんのわずかしか言葉をかわせなかった。夕方家にもどると、彼女は窓辺に坐り、彼の靴下のつくろいをしていた。
「いやあ、なかなか勤勉なんだね」彼はニッコリした。「一日、なにをしてたの?」
「ええ、部屋をきれいに掃除し、それから、赤ちゃんといっしょに、ちょっと外に出てきたわ」
彼女は、古い黒の服を着ていたが、喫茶店づとめをしていたころ、制服として着ていたあの服だった。着古したものだったが、前の日の絹の服よりまだましだった。赤ん坊は床で坐っていた。大きな謎めいた目で、彼をみあげ、彼がわきに坐って裸の足の指をいじりだすと、大声で笑いはじめた。午後の陽ざしが部屋にさしこみ、やわらかい光を投げていた。
「家にもどってだれかがいるのは、とてもうれしいことだね。女と赤ちゃんは、部屋のすばらしい飾りになるな」
彼は、病院の薬局にいって、ブローの丸薬をひとびんもらってきた。それをミルドレッドにわたし、毎食後それを飲むように伝えた。これは、彼女がいつも飲んでいる薬で、十六歳のときから 断続的に服用していたものだった。
「きみの肌、きっとローソンなら大よろこびするな」フィリップはいった。「りっぱな絵になるっていうだろうよ。だけど、このごろのぼくは、至極平々凡々、きみが乳しぼり女のような健康色をみせるようなときになるまで、よろこんだりはしないよ」
「もう、とても気分がよくなってることよ」
ささやかな夕食がすんでから、フィリップはタバコ袋にタバコをつめ、帽子をかぶった。その日は、ふだん彼がピーク通りの居酒屋にいくことにしていた火曜日で、ミルドレッドが来てから、この日がこんなに早くやってきたのを、彼はよろこんでいた。彼女と自分の関係を、ここですっきりと明らかにしておきたかったからだった。
「お出かけ?」彼女はたずねた。
「うん、火曜日には、ひと晩遊ぶことにしててね。明日会うことになるよ。じゃ、おやすみ」
フィリップは、いつも、うきうきしてこの酒場にでかけていった。哲人肌の株の仲買人のマカリスターがそこの常客で、どんな問題でござれ、よろこんで議論し、ヘイウォードも、ロンドンにいるときは、きまってここに来ていた。彼とマカリスターは、たがいに相手をきらっていたが、習慣で、週のその晩には会いつづけることにしていた。マカリスクーは、ヘイウォードをつまらぬやつと考え、その繊細な情緒に冷笑を浴びせ、ヘイウォードの文学作品といってどんなものがあるんだい? と皮肉まじりにたずね、将来の傑作のことをヘイウォードが漠然とほのめかしたりすると、軽蔑の微笑を浮かべて、それを聞き、ふたりの議論は、ときどき、白熱していった。だが、店のポンス酒は絶品、ふたりともその酒が好きで、夜ふけになるころには、意見の相違はなんとか形《かた》がつき、たがいに相手をすばらしい男と思っていた。
この晩も、フィリップがいったとき、ふたりはもう来ていて、その上、ローソンの顔まであらわれていた。ローソンは、ロンドンで知人が多くなりはじめ、晩餐会によく出ていたので、ここへはだいぶ足遠になっていたのだった。三人は、すっかりいい気分になっていた。マカリスターが株式取引所のよい情報を流し、ヘイウォードとローソンは、いずれも、五十ポンドもうけていたからだった。これは、ローソンにとっては、大金だった。浪費癖があり、金のもうけは無といった状態だったからである。批評家からはそうとう注目を浴び、多くの貴婦人たちはよろこんで無料の肖像画を彼に描かせる(それは、双方の宣伝になり、貴婦人にすれば、芸術の庇護者《ひごしゃ》然とした態度をとれることになった)といった肖像画家としての段階に、彼は到達していた。だが、妻の肖像画にたいして大金を払ってくれる金持ちの俗物に出逢うのは、めったにないことだった。ローソンは、もうすっかり満悦だった。
「こいつは、いままでぶつかったこともないすばらしい金もうけの方法だ」彼は叫んだ。「一文だってポケットから出す必要はないんだからね」
「この前の火曜日、ここに来なくって、きみは損したな」マカリスターはフィリップにいった。
「いやあ、どうして手紙をくれなかったんだい?」フィリップはいった。「ぼくにとって百ポンドがどんなにありがたいもんか、きみが知っててくれたら、と思うよ」
「いや、そんな時間はなかったんだ。その場にいなけりゃいけないんでね。この前の火曜日、いい情報を耳にして、この連中に、一丁やってみるか? とさそったわけさ。水曜日の朝、ふたりに千株買いこみ、その日の午後に値が出たんで、すぐに売りとばしたというしだい。おかげで、ふたりはそれぞれ五十ポンド、ぼく自身は二百ポンドもうけたよ」
フィリップは、うらやましさで胸がいっぱいになった。つい最近、わずかな財産を投資していた抵当証書を売り払ったばかり、手許にのこった金といえば、六百ポンドしかなかった。将来を考えると、ときどき、おそろしくなった。医師の資格をとるまでに、まだ二年はあり、それが終ってからも、病院勤務をめざしてみようと考えていた。だから、少なくともこれからの三年間、収入のみこみは皆無だった。どんなにギリギリ節約しようとも、そのときになってのこる金は、百ポンド以上にはならなかった。病気になって金がかせげなかったり、いつか失職した場合の予備金としては、じつにとるに足りない金だった。賭けで芽が出れば、大ちがいということだった。
「いや、わかった、たいしたことはないさ」マカリスターはいった。「なにかすぐ起きるにちがいない。いずれ近く、南アフリカのブームが起きるだろう。そのときには、できるだけなんとか考えてみるよ」
マカリスターは、南アフリカ鉱山株の市場に出ていて、一、二年前の大ブームで出現した成金話をよくしていた。
「うん、このつぎは忘れないようにたのむぜ」
三人は真夜中近くまで話しこみ、いちばん家が遠いフィリップは、最初にそこをひきあげた。最後の電車に間に合わないと、歩かなければならず、帰宅はとてもおくれるからだった。だが、電車に間に合いはしたものの、家に着いた時刻は十二時半近くになっていた。階段をあがっていったとき、ミルドレッドがまだ彼の肘かけ椅子に坐っているのを知って、彼はびっくりした。
「いったい、どうして寝なかったんだい?」彼は叫んだ。
「眠くなかったの」
「それにしても、床にはいらなくちゃいけないんだよ。からだが休まるんだからね」
彼女は坐ったままでいた。夕食後、彼女が絹の黒服に着換えていることに、彼は気づいた。
「用があるかもしれない。そんなら、起きて待ってよう、と思ったの」
彼女は彼をジッとながめ、ほのかな微笑といったものが血の気のない薄い唇にチラリと浮かんでいた。フィリップにしては、呑みこめたような、呑みこめないような、変な気分だった。ちょっととまどったが、明るいどうといったこともない態度を、彼はとりつづけた。
「それは、とてもありがとう。でも、とても困ったことでもあるね。さあ、さっさと寝ることにしたまえ。そうしないと、明日の朝、起きられなくなるよ」
「床にはいりたくないのよ」
「バカな!」彼は冷たくいいきった。
彼女はちょっとムッとして立ちあがり、部屋にはいっていき、ドアに錠をおろす音が聞えてきたとき、彼はニヤリとした。
つづく数日は、こともなくすぎた。ミルドレッドは、新しい環境に落ち着いていった。朝食後あわただしくフィリップが出ていくと、彼女は、午前中をすっかりつぶして、家事をやった。食べ物は簡単だったが、必要なわずかなものを買うのに、彼女は好んでながい時間をかけていた。自分の昼食には、料理をするのが億劫《おっくう》になり、ココアをつくり、パンにバターをぬってすませ、それがすむと、小さな乳母《うば》車に赤ん坊を乗せて外出し、のこりの午後はブラブラとなにもせずにすごした。つかれきっていたので、働かずにいるのは、からだによいことだった。フィリップにはなにかなじめない下宿のおばさんと、部屋代のことで彼女はなじみになった。これは、彼女に預けて支払いをたのんだからだった。そして、一週間もしないうちに、彼が一年かかっても知らないでいた近所のうわさ話を、彼に話すことができるようになっていた。
「下宿のおばさん、とってもいい人よ」ミルドレッドはいった。「まったく淑女だわ。わたしたちは夫婦だっていっておいたことよ」
「そんなこと、必要なのかい?」
「ええ、なにか話さなければならなくなったんでね。あたしがここにいながら、あんたと夫婦じゃないなんて、とっても妙なことよ。あたしがどんな女に考えられるか、わかったもんじゃないんですもん」
「きみのいうことなんて、相手は絶対に信じたりはしてないよ」
「いいえ、たしかに信じてることよ。結婚してからもう二年になるっていったの――赤ちゃんがいるし、そういわなきゃ、筋が立たないわ――ただ、あんたが学生の身分なんで、あんたの両親が承知しようとしなかった――学生という言葉を、彼女は妙なふうに発音していた――だから、このことはかくしておかなければならなかったけど、いまは親の気持ちも折れ、夏には親のとこにいくことになってる、とおばさんにいったのよ」
「きみはまゆつば物の話の名人だなあ」フィリップはいった。
前と変らず、こうしてミルドレッドが他愛もない嘘をつくのを楽しんでいるのをみて、彼はなにかしらジリジリしてきた。過去二年間に、少しも経験で学んだところがないからだった。だが、彼はただ肩をすくめただけだった。
「結局のとこ」彼は考えた、「学ぼうにもそうした機会がないにひとしいんだからな」
温かくて雲がない美しい宵《よい》だった。南ロンドンの人びとが、ドッと街路に流れだしたような感じだった。ロンドンの下町っ子の心をときおりとらえるあのジッと落ち着いてはいられないあわただしさが大気にこもり、気候の変り目が人を外に呼びだす時候だった。夕食の片づけが終ると、ミルドレッドは窓辺に立っていた。街路のさわがしさ、人がたがいに呼び合い、車馬がゆきかい、遠くで手まわしの風琴《ふうきん》の鳴る物音が聞えてきた。
「今晩勉強しなけりゃならないんでしょ、フィリップ?」物思わしげな表情をして、彼女はたずねた。
「勉強はすべきなんだが、ぜひにとは思わないね。あれっ、勉強はやめてなにかをって、きみは望んでるのかい?」
「ちょっと外に出たいの。電車でひと乗りしないこと?」
「うん、望むのならね」
「ちょっといって帽子をかぶってくるわ」彼女はうれしそうにいった。
こうした夜は、とても家にいられるものではなかった。赤ん坊は眠りこみ、家にのこしておいても心配はなかった。外に出るとき、いつも夜は赤ん坊をひとりにしておいた、絶対に目はさまさない、とミルドレッドはいった。帽子をかぶってもどってきたとき、彼女はうきうきしていた。出かけるというので、紅《べに》までつけていた。青白い頬がうっすら赤くなっているのは興奮のため、とフィリップは考えた。この子供のようなよろこびぶりに、彼は心を打たれ、彼女をあつかった自分のきびしさを後悔した。外に出ると、彼女はカラカラッと陽気に笑った。最初にゆき当ったのは、ウェストミンスター橋ゆきの電車で、ふたりはそれに乗りこんだ。フィリップはパイプをくゆらし、ふたりは雑踏する街路をながめた。明るい彩光をした店は開かれ、人びとは翌日の買い物をしていた。キャンタベリーという演芸場の前を電車がとおっていくと、ミルドレッドは叫んだ、
「まあ、フィリップ、あそこにいきましょうよ。もう何ヵ月も演芸場にはいったことがないのよ」
「一等席はだめだよ」
「ええ、構わないわ、いちばん安い席でもいいことよ」
ふたりは電車からおり、劇場の入り口まで数百ヤードもどっていった。場所は高いところだっがいちばんの安席でもないすばらしい場所が、それぞれ六ペンスで手にはいった。天気のいい夜だったので、場内はガラガラだったからである。ミルドレッドの目は、ギラリと輝いた。すごく楽しんでいた。ミルドレッドには、フィリップの心を打つひたむきなところがあった。彼にとって、この女はどうにもつかめぬものだった。彼女にあるあるものは、いまでも、彼の心をよろこばせて、この女にはいいところがたくさんあるんだ、と彼は考えた。育ちがわるく、苦しい人生を送ってきたんだ。彼女にはどうにもならない多くの点で、自分は彼女を責めてきた。彼女が与えることのできない美徳を彼女に求めたとすれば、こちらがいけないのだ。ちがった環境で育ったら、彼女だって魅力のある女になったろう。生存競争には驚くほど不適な女だ。いま、口をちょっと開き、頬をうっすらと赤く染めている彼女の横顔をジッとみていると、なにか妙に娘っぼい感じがしてきた。グッとせまる同情心が彼女にたいして湧き、彼女がいままで自分に味わわせた苦痛を、心から許してやりたい気分になった。クバコの煙のこもった場内の空気で、フィリップの目は痛くなったが、外に出ようというと、彼女は懇願するような顔を彼のほうに向け、終りまでいてくれ、とたのみこんだ。彼はニッコリし、それを承知した。彼女は、彼の手をとり、帰るまでその手をにぎりつづけていた。観客にもまれながら雑踏する通りにおしだされると、彼女は家に帰ろうとせず、ふたりは、通行人をながめながら、ウェストミンスター橋通りをブラブラと歩いていった。
「ここ何ヵ月も、こんなに楽しい思いをしたこと、ないことよ」彼女はいった。
フィリップの胸は、いっぱいになった。いきなり衝動的にミルドレッドと赤ん坊を自分のアパートにつれてきたことで、運命の神さまに感謝したい気持ちだった。彼女がよろこんで感謝している姿をながめるのは、とても楽しいことだった。とうとう彼女はつかれはじめ、彼らは電車にとびのって、家に帰った。もう時刻はおそく、電車をおりて、下宿の通りにはいっていくと、通行人の姿はもうなかった。ミルドレッドはスルリと腕を彼の腕にとおした。
「以前とそっくり同じだことね、フィル」彼女はいった。
彼女が彼をフィルと呼ぶなんて、まだ一度もないことだった。これは、グリフィスが使っていた彼の呼び名で、いまでさえ、それを耳にすると、妙に胸が痛んだ。あの当時、自分がどんなに死にたいと思っていたかが思い出された。とても苦しく、ほんとうに真剣になって自殺を考えていたこともあった。だが、それは遠い遠いむかしのことのよう、過去の自分にたいして、ただ微笑が浮かんでくるだけだった。いまミルドレッドにたいしてもっている感情は、かぎりない憐憫の情だけだった。ふたりは家に着き、居間にはいると、フィリップはガス灯に火をつけた。
「赤ちゃんは大丈夫だったかな?」彼はたずねた。
「ちょっといってみてくるわ」 彼女はもどってきて、赤ん坊はおいたままの姿で身動きひとつしていない、と知らせた。じつにすばらしい子供だ。フィリップは手をさしだした。
「じゃ、おやすみ」
「もう寝るの?」
「一時近いのだよ。このごろは、夜ふかしには馴れてなくてね」フィリップはいった。
彼女は彼の手をとり、それをにぎったまま、かすかな微笑を浮かべて、彼の目をのぞきこんだ。
「フィル、こないだ、あの部屋で、ここに引っ越して来いといってくれたとき、あたしのつもりは、あんたのみこみとはちがつたもんだったのよ。ただ料理するとかそんなこと以外のことをあたしに望んでない、とあんたはいってたことね」
「ちがってた?」手をひっこめて、フィリップは答えた。「ぼくは、そのつもりだったよ」
「そんなバカなこと、いうもんじゃなくってよ」彼女は笑った。
彼は頭をふった。
「ぼくは本気でいったんだ。ほかのどんな条件でも、ここに来いなんぞとはいわなかったことだろうよ」
「どうして、それでいけないの?」
「そんなこと、とんでもないと感じてるからさ。うまく説明はできないけどね、そんなことしたら、みんな台なしになっちまうよ」
彼女は肩をすくめた。
「ええ、結構ですとも、お好きなように。あたし、へっつくばってそんなことをたのみこみ、あとは出たとこ勝負なんてことをする女じゃありませんからね」
彼女は出てゆき、ドアをバターンと閉めた。
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九十三
つぎの朝、ミルドレッドはムッとむくれ、ほとんど口をきかなかった。昼食の準備にかかるまで、部屋に閉じこもりっきりだつた。料理はへたで、できることといえば、厚い肉切れの料理か焼き肉くらいのもの。のこりものの利用法を知らず、予期以上の出費をフィリップにかけることになった。支度がすむと、彼女はフィリップと向い合って坐ったが、なにも食べようとせず、それを注意しても、頭が痛くて食べたくない、といっていた。のこりの一日をつぶすほかの場所があるのは、彼にはうれしいことだった。アセルニーの一家は、明るく、彼にやさしくしてくれた。この家の全員が自分の訪問を楽しみにして待っていてくれるのは、うれしくもあり、予期していないことでもあった。家にもどると、ミルドレッドはもう寝こんでいたが、つぎの日も、まだむっつりしていた。夕食時、彼女は高慢な顔をし、眉を寄せて坐りこんだ。フィリップはイライラしてきたが、女に思いやりをもち、手加減をしてやらなければ、と思いなおしていた。
「バカにだまりこんでるんだね?」明るくニッコリとして、彼はいった。
「お料理とお掃除でやとわれてる身なのよ。その上、話までしなければならないの?」
ひどい返事と思いはしたものの、いっしょに暮す以上、彼としては、できるだけ気楽にやっていくようにしなければならなかった。
「こないだの晩のこと、まだ怒ってるようだね?」彼はいった。
これはいやな話だったが、たしかに、一応しっかり話しておかなければならないことだった。
「それ、なんのお話?」彼女はやりかえした。
「どうかぼくのことを怒らないでくれたまえ。ぼくたちの関係を友だち以上のものにするつもりだったら、ここに来たら? なんぞとは絶対にいわなかったはずなんだよ。それをいったのは、きみには家が必要、なにか仕事をみつけるきっかけにもなると思ったからなんだ」
「まあ、あたし、そんなことなんぞ気にもしてないわ」
「ぼくだって、そうだよ」彼は急いでいった。「ぼくが感謝してない、と思っちゃいけないよ。きみがああいってくれたのは、ぼくを思ってだけのことというのは、わかってるんだ。問題は、ぼくの感情だけさ。それはどうにもならない。そんなことになったら、ことすべては醜悪でたまらないもんになっちまうんだからね」
「変な人ねえ」彼をジロジロとみながら、彼女はいった。「まったくつかめない人だわ」
彼女は、もう、彼のことを怒ってはいず、ただ狐《きつね》につままれたような気になっていだ。彼のいっていることが、とんと腑《ふ》に落ちなかったからである。この状況はつかめ、じっさい、彼の態度はとてもりっぱ、それに打たれなければと漠然と感じながらも、さらにまた、彼のことを笑い、その上たぶん、ちょっと軽蔑してやりたい気持ちにまでなっていた。
「変な男だこと」彼女は考えていた。
ふたりの生活は、事もなくすぎていった。フィリップは、一日じゅう病院暮しをし、アセルニーの家にゆくか、ピーク通りの居酒屋にゆく以外には、夜家で勉強していた。一度彼が助手をしている医者がものものしい晩餐に彼を招待し、二、三度仲間の学生の会に出かけていったことがあった。ミルドレッドは、単調な生活をもうあきらめているようだった。フィリップが、夜、自分をよくひとりぼっちに放りだしておくと考えたにせよ、絶対にそれを口にはしなかった。ときどき、彼女を演芸場につれていってやることがあった。ふたりの結びつきは、食費と下宿代として彼女がしてくれる家事だけという彼の意図は、実行された。その夏に仕事をみつけようとしてもだめ、と彼女は腹をきめ、秋までいまの状態をつづけるつもりになっていたが、フィリップもそれに賛成した。秋になったら、らくになにか仕事がみつかるだろう、というのが彼女のみこみだった。
「ぼくのことだったら、仕事がみつかり、もし都合がいいのなら、きみがここにいつづけてもいいんだよ。部屋は空いてるんだし、前にぼくの世話をみてくれた女の人は、赤ちゃんの世話をみることもできるんだからね」
ミルドレッドの子供にたいして、彼は強い愛着を感ずるようになっていた。生れながらやさしい性格だったが、それをあらわす機会が彼になかったのだった。ミルドレッドは、赤ん坊にたいして不親切というわけではなかった。とてもよく世話をみて、一度悪性の風邪《かぜ》にかかったときなどは、骨身惜しまず看護をしてやった。だが、赤ん坊は面倒らしく、イライラしているときには、赤ん坊につらく当った。赤ん坊は好きなのだが、わが身を忘れるといった母親の情熱をもってはいなかった。ミルドレッドは気持ちを外にあらわせない女で、愛情を露骨にあらわすのをバカげたことと考えていた。赤ん坊を膝に乗せて、キスをしながら遊んで坐っていると、彼女はそうした彼を笑うのだった。
「ほんとの父親になっても、そんなさわぎはできないことよ」彼女はいった。「子供を相手にすると、ほんとにバカになっちまうのね」
フィリップは顔をサッと赤らめた。人に笑われるのは大きらいだったからである。ほかの男の赤ん坊をこんなに夢中になって可愛がるなんて、バカげたことだったし、こうして愛情を発散させるのは、ちょっと照れくさいことでもあった。だが、子供は、フィリップの愛情をちゃんと感じとって、彼の顔に自分の顔をおしつけたり、彼の腕の中で気持ちよく抱かれたりしていた。
「あんたの役目は楽しいもんよ」ミルドレッドはいった。「子供の面倒なとこは知らないでるんですもんね。お姫さまがおやすみくださらないというので、真夜中一時間も起こされてるってことになったら、どうなるかしら?」
フィリップは、ながいこと忘れていたと思っていた自分の子供時代のことを、いろいろと思い起こした。彼は、赤ん坊の足の指をつまんでいった、
「小豚ちゃんは市場へいきました。小豚ちゃんはお家にのこりました」(ひろく知られている童話で、最後に小豚が行方不明になり、それと同時に赤ちゃんの足の裏をくすぐる)
夕方、家にもどって居間にはいると、彼の目は、真っ先に、床に寝そべっている赤ん坊に向けられ、彼をみて赤ん坊があげるよろこびの叫びを耳にすると、彼はちょっとゾクリとするうれしさを感した。ミルドレッドは赤ん坊に彼をお父ちゃんと呼ぶように教えこみ、子供がはじめて自分でそういったとき、笑いころげていた。
「赤ちゃんがあたしの子だから、あんたがそんなに惚れてるのかしら?」ミルドレッドはたずねた、「それとも、だれの赤ちゃんでも同じなんかしらん?」
「ほかの人の赤ん坊のことは知らないんだからね、なんともいえないよ」フィリップは答えた。
入院患者の助手としての第二学期の終りのころ、ある幸運がフィリップにころげこんできた。七月のなかばのころだった。ある火曜日の晩、ピーク通りの例の居酒屋にいったとき、そこにいるのはマカリスターだけだった。ふたりはいっしょに坐り、来ない友人のことを語り合い、しばらくすると、マカリスターはいった、
「うん、ところで、きょう、そうとういい情報がはいったんだ、クラインフォンテインの新株の話さ。これはローデシアの金鉱なんだ。一丁やる気なら、ちょっともうかるかもしれないよ」
こうした機会を、フィリップは待ち構えていたのだったが、いざとなると、とまどいを感じ、損をするのがとてもこわくなった。一か八《ばち》かの賭博根性《とばくこんじょう》の持ち主ではなかったのだ。
「ぜひしたいんだが、賭けとなるとねえ。みこみちがいの場合、どのくらいの損になるんだい?」
「ああして熱を出してるようじゃなかったら、こんな話はしなかったんだがね」マカリスターは冷たく答えた。
マカリスターの目に自分はバカと映っている、とフィリップは感じた。
「ぜひにもちょっと金をもうけたいんだがね」彼は笑った。
「賭ける気がなかったら、金もうけはできんよ」
マカリスターは話をほかのことにそらし、フィリップは、それに答えながらも、この賭けがうまくいったら、この株式仲買人は、つぎに会ったとき、自分のけちったことをひどくあざ笑うことだろう、と考えつづけていた。マカリスターは辛辣な男だったからだった。
「よかったら、一丁やってみようと思ってるんだがね」心配そうにフィリップはいった。
「わかった。きみに二百五十株買い、半クラウン値があがったら、すぐ売ることにしよう」
それがどのくらいの金額になるか、フィリップはすぐに計算し、よだれが流れでそうになった。いま三十ポンドといえば、まったくの天からの授かりもの、いままで運のなかった自分のこと、ここで少しくらい芽が出てもいいはずだ、と考えた。つぎの朝、朝食のとき、このことをミルドレッドに話した。彼女は、それをバカらしいことと考えた。
「株式取引所でお金をもうけた人の話なんか、聞いたこともないことよ」彼女はいった。「それは、イーミルがいつもいってたことなの。株式取引所で金をもうけるなんてとんでもないことっていってたのよ」
フィリップは、家に帰る途中で、夕刊を買い、早速株式欄をあけてみた。こうしたことはなにも知らず、マカリスターがいっていた株をみつけるのも、えらく骨の折れることだった。だが、その株が四分の一ポンドあがっているのがわかった。彼の心はおどりあがり、つぎには、マカリスターが忘れてしまったのではあるまいか、また、なにかのわけがあって買わなかったのではあるまいかと心配になって、胸がムカムカしてきた。電報を打つとマカリスターは約束していた。フィリップは電車を待っているのももどかしく、辻馬車にとびのった。これは、ふだんにない贅沢《ぜいたく》だった。
「電報、来ている?」部屋にとびこむなり、彼はたずねた。
「いいえ」ミルドレッドは答えた。
彼の顔色は沈み、ひどくがっかりして、椅子にがっくりと沈みこんだ。
「そうすると、株は買ってくれなかったんだ。畜生め!」彼は激しく最後の言葉をつけ加えた。「なんて運がわるいんだろう! その金であれをしよう、これをしようと、一日じゅう、考えてたんだ」
「まあ、なにをしようと思ってたの?」彼女はたずねた。
「いまそれを考えたって、どうなるというんだい? ああ、あの金はとってもほしかったんだ」
彼女はワッと笑い、電報をわたした。
「あんたをからかっただけのことよ。もう開いてみたわ」
彼は、それを彼女の手からうばいとった。マカリスターは二百五十株彼に買いこみ、いっていたとおり半クラウンの利でもう売っていた。手数料の通知は、翌日来ることになっていた。こんなひどい冗談をされて、フィリップは、一時、ミルドレッドにカンカンになっていたが、そのあとでは、自分のよろこびしか考えられなくなった。
「これで大ちがいになるんだ」彼は叫んだ。「ほしかったら、新しい服をおごってやるよ」
「とってもほしいわ」彼女は答えた。
「ぼくの計画を話してあげよう。七月の末には手術を受けるよ」
「まあ、どこか具合いのわるいとこがあるの?」彼女は口をはさんだ。
この自分の知らない病気のことさえはっきりしたら、自分をひどくとまどわせている彼のわからぬとこの謎が解けるのではないか、と彼女はフッと考えた。彼は顔を赤くした。自分のかたわの足のことをいうのが、たまらなくいやだったからだった。
「いや、でも、ぼくの足になにか処置ができるんじゃないかって病院でいわれててね、前にはそんな暇がなかったんだけど、いまならそう問題じゃないんだ。包帯係りの仕事は、来月じゃなくって、十月までのばしてもらうよ。入院してるのは、数週間だけ。それがすめば、夏ののこりのあいだ、どこか海辺にいけるわけさ。そうすれば、きみにも、赤ちゃんにも、ぼくにも、みんなの健康のためにいいだろう」
「まあ、ブライトンにいきましょうよ、フィリップ。あたし、ブライトンが好きなの。あそこには、とってもきちんとした人たちがそろってるんですもん」
「海にいけるんなら、こちらではどこでもいいんだよ」
フィリップは、コーンウォールのどこか小さな漁村を漠然と考えていたが、そういわれてみると、ミルドレッドがそこでひどく退屈するのではないかという考えが、頭に浮かんできた。
どうしてだかわからないが、突然、海にゆきたくってたまらなくなった。海水浴はしたかったし、塩水の中でパチャパチャやるのを、楽しく思いめぐらした。泳ぎは達者で、荒海ほど彼の心をうきうきさせるものはなかった。
「いやあ、まったく楽しいぞ」
「新婚旅行みたいね、どう?」彼女はいった。「新しい服で、あたし、どのくらいもらえるの、フィル?」
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九十四
フィリップは、彼が包帯助手をしている外科の副主任のジェイコブズ先生に手術を依頼した。ジェイコブズは、よろこんでひきうけてくれた。学界で無視されている奇形の足に、ちょうどそのとき、関心をもち、論文の資料を集めていたからだった。足が完全によくはならぬ、と彼はフィリップに前もっていったが、そうとう効果はあるものと確信し、びっこはつづくものの、いつもはいているほど不恰好《ぶかっこう》な靴ははかなくてもすむだろう、といってくれた。山をも動かすことができる神さまが信仰をもっている自分のために動いてくれるのを、自分がどんなに祈ったかを思い出し、苦笑いがもれてきた。
「奇跡はべつに期待してはいません」
「ぼくにできるだけのことをさせてみようとは、きみもなかなか賢明だね。医者の商売をしても、|えび《ヽヽ》足というのは損なことがわかってくるよ。一般の人間はなかなか気まぐれでね、自分がかかる医者に具合いのわるいとこがあると、気にするもんなんだからね」
フィリップは、病院でいっている「小部屋」にはいったが、これは、それぞれの病棟の外側の踊り場にあり、特別の患者の用に当てるものだった。入院生活は一ヵ月つづいた。それというのも、ジェイコブズ先生は、歩けるようになるまで、退院を許そうとはしなかったからだった。
手術を経過良好にすませて、彼は楽しい日々を送った。ローソンとアセルニーは面会にやってき、ある日、アセルニー夫人はふたりの子供をつれてきた。知り合いの学生たちも、おしゃべりをしに、ときどき顔を出し、ミルドレッドは、週に二回、みまいにきた。みんながとても親切にしてくれた。フィリップは、だれかに親切をしてもらうと、いつもびっくりしていたのだったが、いま、心を打たれ、感謝していた。心配せずにいられるのは、ホッとすることだった。
病室では、将来のことで気をもんだり、自分の金がつづくかどうか、最後の試験がパスするかどうか、と思いわずらっても仕方がないことだった。それに、思う存分、読書にふけることができた。最近は、ミルドレッドの邪魔がはいって、読書も思うがままにならなかった。注意を集中しようとしているとき、彼女はつまらないことをしゃべりだし、こちらで返事をしないと承知しなかった。気持ちよく本に読みふけっているときにはいつも、なにかしてくれ、といいだし、びんにつまったコルクをもってきて、どうしてもぬけない、金槌《かなづち》をもってきては、釘を打ってくれ、などといっていた。
八月にブライトンにゆくことになった。フィリップは下宿にしたいところだったが、ミルドレッドは、そうなったら、家事は自分がしなければならない、食事つきの家にいってこそ、自分のからだは休まるのだ、といい張った。
「家で、毎日、食事のことばっかし考えなければならないのよ。それにはもううんざり、事情がすっかり変ったほうがありがたいわ」
フィリップは承知し、たまたまミルドレッドがケンプ・タウン(ブライトンの東方沿岸にある)の下宿を知っていて、そこだったら、それぞれ週に二十五シリング以内ですむはずだった。部屋のことを手紙できいてみる、と彼女はフィリップに約束したが、退院してケニントンにもどると、彼女がなにもしていないことがわかった。彼はイライラしてきた。
「手紙が書けないほどいそがしいはずはないんだがな」彼はいった。
「だって、なんでもかんでも考えるわけにはいかなくってよ。忘れたって、あたしがわるいわけじゃないでしょ、どう?」
フィリップは海にゆきたくてたまらず、下宿のおばさんと連絡をとるのを待ってはいられなかった。
「駅に荷物を預け、そこにいって、部屋があるかどうかをきいてみよう。部屋があったら、駅の外の赤帽にたのんで荷物をもってきてもらったらいいだろう」
「どうぞお好きなように」ツンとしてミルドレッドはいった。
彼女は、文句をいわれるのがきらいで、ムッとして横柄な沈黙を守り、フィリップが出発の準備をしているあいだ、大儀そうに坐りつづけていた。この小さなアパートは、八月の太陽に照りつけられて、ムンムンと蒸し暑く、道路からは、悪臭のこもった熱気を照りかえしていた。赤い水性塗料をぬりつけた壁のある病棟で横になっていたとき、彼は、新鮮な空気を胸に打ちつけてくる波の飛沫《ひまつ》が恋しくてならなかった。ロンドンでもう一夜すごさなければならなくなったら、自分の頭はくるってしまうだろう、と感じた。休日をとった人の群れでいっぱいになっている街路を目にすると、ミルドレッドのご機嫌はなおり、ふたりは、いい気分になって、車をケンプ・タウンに向けて走らせた。フィリップは、赤ん坊の頬をなぜた。
「ここに三、四日いたら、頬の色はすっかりちがってくるよ」彼はニッコリしていった。
下宿に着くと、馬車を帰した。きたならしい女中がドアを開き、部屋があるか? とフィリップがたずねると、きいてくる、と奥にひっこみ、女主人をつれてきた。中年の、太った、てきぱきした事務的な女が二階からおりてきて、ジロジロと調べるような職業柄のまなざしをふたりに投げ、どんな部屋がほしいのか? とたずねた。
「ひとり部屋をふたつ、そして、もしあったら、子供用の寝台がほしいんですがね」
「おあいにくさま、そんなものはないんですがね。ふたり用の大きなひと部屋ならあり、そこだったら、子供用の寝台もなんとか都合つけましょう」
「それだとまずいな」フィリップはいった。
「来週だったら、もうひと部屋空くんですけどね。ブライトンはいまとってもこんでてね、当てがい扶持《ぶち》っていった状態なんですよ」
「そうながいというわけでもないんだったら、フィリップ、なんとかやっていけることよ」ミルドレッドはいった。
「ふた部屋あったほうが便利と思うんだがな。下宿人をひきうけるほかの家を、どこか知ってませんか?」
「それは、知ってますがね、事情はここと同じだと思いますよ」
「でも、そこの名を教えてもらえるでしょうか?」
太った女が教えてくれた家は、となりの街路にあり、ふたりはそこに歩いていった。ステッキだよりにせよ、そして、からだは弱っていたものの、フィリップはとてもうまく歩けるようになっていた。ミルドレッドが赤ん坊を抱き、ふたりは、しばらく、だまったまま歩いていったが、ふと気づくと、彼女は泣いていた。これには参ったが、彼としては、べつにどうということをしないでいた。だが、彼女は、否応なく彼の注意をひこうとした。
「ハンケチ貸してくれない? 赤ちゃんがいるんで、自分のハンケチ、出せないの」そっぽを向き、鳴咽《おえつ》でつまった声で、彼女はいった。
彼は、ハンカチを彼女にわたしたが、なにもいわないでいた。彼女は、涙をぬぐい、彼がだまったままでいたので、しゃべりつづけた、
「あたし、ゾッとするような女なのかしら?」
「道でさわぎは起こさんでくれたまえ」彼はいった。
「あんなふうに部屋はべつ、部屋はべつっていうなんて、ずいぶん変にみえることでしょうよ。あたしたち、どんなふうにみえるもんなんかしら?」
「事情を知ってたら、じつにりっぱなことと思ってくれるだろうよ」フィリップはいった。
彼女は彼にチラリ流し目を投げた。
「まさか、あたしたち、結婚した身じゃないって吹聴《ふいちょう》するつもりじゃないんでしょ?」彼女はすかさずたずねた。
「ああ、いわないよ」
「じゃ、夫婦のようになって、どうしてあたしといっしょに暮さないの?」
「ねえ、きみ、その説明はできないんだ。きみに屈辱感を味わわせたくはないんだが、まったくだめなんだよ。たぶん、とてもバカなこと、わけわからずのことなんだろうが、それは、ぼくより強いもんなんだ。ぼくはきみをとても愛してたんで、いま……」彼の話はとぎれてしまった。
「結局のとこ、そうしたことは、どうにも説明できないもんなんだよ」
「ずいぶんと愛してくださってたことでしょうとも」彼女はキーキー叫んだ。
教えられた下宿の主人は、ぬけ目のない目をし、ペラペラとしゃべり立てる騒々《そうぞう》しい未婚の女で、それぞれ週二十五シリング、赤ん坊代として五シリングで二人用の部屋を借りられるが、ひとり部屋ふたつとなると、それにさらに一ポンド払わねばならぬ、ということだった。
「それだけいただかなければならないんですよ」言訳がましく女はいった、「さあとなったら、ひとり部屋にだって寝台をふたつ入れられるんですからね」
「その条件で借りても、こちらの身代はつぶれたりはしないだろう。どうだい、ミルドレッド?」
「ええ、構わないことよ。あたし、なんだっていいのよ」
フィリップは、カラカラッと笑って、彼女のすねた返事をやりすごし、下宿の主人が荷物のうけとりのことを配慮してくれたので、ふたりは腰をおろして休んでいた。フィリップの足はちょっと痛み、椅子にそれを乗せるとらくになった。
「あんたといっしょに同じ部屋で坐っても、構わないんでしょうね?」嫌味《いやみ》たっぷりに、ミルドレッドはいった。
「喧嘩はやめにしようよ、ミルドレッド」彼はやさしくいった。
「週に一ポンドポンと投げだせるほど懐《ふところ》具合いがいいもんとは、夢にも思ってなかったことよ」
「怒ったりはするなよ。ほんと、ふたりの暮し方って、それしかないんだからね」
「あたしを軽蔑してんのよ、きっとそうよ」
「もちろん、そんなことはないさ。そんな必要、どこにあるんだい?」
「とっても不自然なことよ」
「そうかな? だって、ぼくを愛してなんかいないんだろう、どうだい?」
「あたしが? あたしをどんな女と思ってんの?」
「どうやら、きみはそう情熱的な女とはいえないようだね。そうじゃないさ」
「ひどく赤恥をかかすっていうことよ」プリプリして彼女はいった。
「ああ、もしきみの立場に立ったら、ぼくなら、そんなこと、さわぎ立てたりはしないんだがな」
下宿には、十人余りの人がいた。食事は暗くて細ながい部屋のながいテーブルでとり、その上座に女主人が坐り、料理をわけてくれた。食事はまずかった。女主人はそれをフランス料理と呼んでいたが、どうやら、それは、ひどい材料をまずいソースでごまかすという意味のようだった。|かれい《ヽヽヽ》は|したがれい《ヽヽヽヽヽ》に化け、ニュージーランド産の羊の肉は子羊の肉に変身していた。台所は小さくて不便、そのため、出されるものはみんな、生《なま》ぬるくなっていた。そこの人びとは、鈍感で体裁屋だった。初老のオールドミスをつれたお婆さんたち、もったいぶった態度の妙な老独身男たち、嫁にいった娘や植民地ですばらしい地位についている息子のことを話す顔色のよくない中年の勤め人夫婦たち、といったところだった。
テーブルでは、彼らはミス・コレリ(イギリスの大衆作家)の最近の小説のことを語り、アルマ・タディマよりレイトン卿を好む者あり、その逆をいく者あり、さまざまだった。ミルドレッドは、すぐに フィリップと自分のロマンティックな結婚話を女たちにしゃべり、自分が関心の的になっているのを、彼は知った。その理由は、まだ学生|風情《ふぜい》の身分なのに結婚したというので いなかの名門である実家からはした金で彼が勘当されたということにあった。また、ミルドレッドの父親は、デヴォンシャーのほうでの大地主なのに、フィリップと結婚したというので、なんにもしてくれない、ということになった。こういうわけで、ふたりはこうした下宿屋住まいをし、赤ちゃんに乳母もつけないでいるのだが、ふたりとも大きな家住まいに馴れ、窮屈な思いをしたくないので、どうしてもふた間は借りなければならない、というふれこみだった。
ほかの客たちも、ここに来た説明の筋をそれぞれもっていた。ひとりの独身男は、ふだん、休日にはメトロポール(ブライトンの西にある高級ホテル)にいくことにしているのだが、自分は陽気な仲間が好き、ああした金のかかる高級ホテルではそうした連中には出逢えないというわけ。中年の娘をつれた老夫人は、ロンドンの豪華な邸《やしき》は修繕ちゅう「グウェニー、今年の休暇は安くあげることにしましょう」と娘にいって、ふだんしつけていることでは絶対にないのだが、ここにやってきたというしだいだった。ミルドレッドは、こうした連中をとてもお上品と考え、野卑でがさつな大衆を嫌悪《けんお》していた。紳士はれっきとした正真正銘の紳士であるのが、彼女の好みだった。
「紳士淑女だったら」彼女はいった、「紳士淑女らしくふるまってもらいたいもんだわ」
この言葉は、フィリップには謎めいたものに思えたが、彼女が、二度か三度、それをちがった人たちに語るのを耳にし、それが心からの賛同をひきおこしているのを知ったとき、それがわからぬのは自分の頭だけ、という結論に達した。これは、フィリップとミルドレッドがすっかりふたりだけで暮すはじめての経験だった。ロンドンでは、一日じゅう彼女と会わず、家にもどると、家事、赤ん坊、近所のうわさがふたりに話題を与え、やがて、彼は勉強にとりかかった。いま、彼は、一日じゅうまるまる、彼女といっしょに暮していた。
午前は、海水浴やら海岸の遊歩道の散歩やらで、なんとからくにしのげた。赤ん坊を寝台に寝かせて突堤《とってい》ですごした夕方は、まあまあといったとこだった。音楽に耳を傾け、流れる人の波があったからである(そうした人がどんな人間だろうと想像し、そうした人たちの身辺にささやかな物語をつくりだすのは楽しいこと、ミルドレッドの言葉には口先だけで答える習慣を身につけていたので、彼の物思いはそれにわずらわされたりはしなかった)。だが、午後の時間はながくて、わびしいものとなった。ふたりは海岸に坐り、ミルドレッドは、ブライトン先生(ブライトンのこと、前出)からできるだけのご利益《りやく》をあげなければといい、ありきたりのことをいろいろとしゃべり立て、彼は本を読むこともできなかった。注意を払わないでいると、彼女はブーブーと不平を鳴らした。
「そんなバカげた本、読んだりしないで。いつも本ばかし読んでて、いいはずはないんですもんね。頭がむちゃくちゃになっちまうことよ、ええ、そうよ、フィリップ」
「ああ、バカな!」彼は答えた。
「その上、つき合いということもあるのよ」
彼女がなかなか話しにくい女であるのが、彼にわかってきた。自分が話していることにさえ注意を集中できず、その結果、前を走っている犬や、はでなブレザーを着こんだ男などでひとこと言葉を発するかと思うと、もう、そのときまで話していたことを忘れてしまっていた。名前をよく忘れ、それを思い出せないのが彼女を焦らつかせ、そのため、話の途中で口をつぐみ、頭をしぼって苦しんでいた。ときどき話を放棄しなければならなくなったが、よくそれをあとで思い出し、フィリップがなにかをしゃべっている最中に、話の腰を折るのだった。
「コリンズ、そうだったんだわ。いつか頭に浮かんでくると思ってたのよ。コリンズ、そう、それが思い出せなかった名よ」
これは、彼にはムカムカすることだった。自分のいうことを彼女が聞いてはいない証拠となったからである。だが、彼のほうでだまっていれば、むくれているといって、責め立てられた。彼女の心は、五分間も抽象的なことはあつかっていられないといったもので、フィリップが例の概括的一般論好みの癖を出すと、すぐにもううんざりといったふうをみせた。ミルドレッドは夢の多い女で、その夢をじつにしっかりと記憶し、それを、毎日、クドクドとしゃべり立てた。
ある朝、ソープ・アセルニーからながい手紙を受けとった。彼は休日をいかにも芝居気たっぷりに送っていたが、そこには、彼の特徴になっている健全な分別が多分に示されていた。ここ十年間、彼は同じことをくりかえしているのだった。アセルニー夫人の実家からほど遠からぬケントのホップ畠に家族全員をつれてゆき、ホップの実をとって、三週間をすごしていた。それで、青空の下に身をさらし、これはアセルニー夫人をとてもよろこばしたことだったが、金もうけにもなり、母なる大地との接触を新たにすることにもなった。アセルニーが重点をおいたのは、この最後の点だった。こうした畠暮しは新しい力を与え、それは、青春、手足の力、心のさわやかさを新たにしてくれる魔法の儀式といったものだった。この問題について、アセルニーが多くの奇妙な、美辞鹿句を駆使した、絵のように美しい話を述べ立てるのを、フィリップは耳にしたことがあった。いま、アセルニーはフィリップに、ここに一日来ないか、とさそい、シェイクスピアと音楽コップ(ひと組のコップに異なる量の水を入れて調音したもの。指先をぬらして、そのへりをこすって奏楽する)について、いくつか考えたことがある、それを伝授したい、それに、子供たちはワイワイいって、フィリップおじさんに会いたがってる、と伝えてきた。
午後、ミルドレッドといっしょに浜に坐っているとき、フィリップはその手紙を読みかえした。多くの子供たちの母親であり、やさしく客をもてなしてくれる陽気な上機嫌なアセルニー夫人のこと、齢のわりに重々しく、ちょっとした妙な母親ふうときりっとした物腰をもち、金髪をながく編んだおさげ髪にし、ひろい額をしたサリーのこと、ついでは、ひとかたまりにして、陽気で、さわがしく、健康で、美しいほかの子供たちのことが、心に浮かんできた。彼の心は、彼らのところにとんでいった。ほかの人たちには気づいたことがなく、しかも、彼らがもっているひとつの性格があり、それは、善良さだった。いままで胸に思い浮かびもしなかったことだったが、彼の心をひきつけていたのは、彼らのもつ善良さの美しさだった。理論的に、彼がそれを信じていたわけではなかった。道徳性が便宜上の事柄にすぎぬとしたら、善も悪も意味のないことだったからである。論理はずれになるのはいやだったが、ここには、自然で努力をぬきにした素朴《そぼく》な善良さがあり、それは美しいものに思われた。考えこみながら、彼はそれをゆっくりと細かにひきちぎった。ミルドレッドをぬきにして、そこにゆく方法はなく、ミルドレッドをつれてそこにゆきたくはなかった。
とても暑く、空には雲ひとつなく、彼らは物蔭に身をひそめていた。赤ん坊は、深刻な顔をして、浜の石とたわむれ、フィリップのところにはいよって、石を彼にわたし、それから、それをとりもどし、慎重に下におき、赤ん坊にだけわかる神秘的で複雑な遊びをやっていた。ミルドレッドは眠っていた。頭を投げだし、口をかすかに開いて横になり、両脚はのばし、スカートのところがらぶざまに編みあげ靴がつきだされていた。彼の目はぼんやりと彼女の上にとどまっていたが、いま、特別な注意を払って、その彼女をながめた。どんなに情熱をこめてこの女を愛していたかを思い起こし、いまどうしてこうもすっかり熱がさめてしまったのだろうとふしぎになってきた。
自分のそうした変化が、鈍い痛みで彼の心を満たした。自分の味わった苦しみすべてがまったくのむだのように思われた。彼女の手にふれれば、有頂天《うちょうてん》になったものだった。すべての考え、すべての感情をともにわかとうと、彼女の魂の中にまではいろうとしたのだ。沈黙がふたりのあいだに起きたとき、それにつづく彼女の言葉が、ふたりの思いがどんなに遠くかけへだたってしまったかを物語ったので、ひどく苦しんだものだった。すべての人間を他のすべての人間とはちがったものにしているように思える越えがたい壁、彼は反抗的にこの壁を乗り越えようとしたのだった。ああまで狂気のように彼女を愛した身でありながら、いまはぜんぜん同じその女を愛してはいない事実を、じつにふしぎな悲劇的なことと考えた。ときどき、女が憎くなることさえあった。なにも学べず、人生の経験に教えられることのない女なのだ。不作法は、従前どおり、変らぬものだった。下宿でせっせと働いている召使いにたいする彼女の横柄な態度は、フィリップをムカムカさせた。
やがて、彼の思いは将来の計画に走っていった。四年目の終りには、産科の試験を受けられ、それから一年すれば、医師の資格をとることができる。そうなれば、なんとかしてスペイン旅行に出られるだろう。写真だけで知っている絵の実物をみたかった。エル・グレコが自分にとって特別重大な秘密をもっている、と彼は強く感じ、トレドでそれがたしかに発見できるものと空想した。贅沢にやるつもりはなかったので、百ポンドあれば、スペインで半年はすごせるだろう。マカリスターがまたいい情報を流してくれたら、それはらくにできるはずだった。こうした古い美しい町々、それに、カスティリャの黄褐色の平原に思いを馳せると、心がグッと熱くなってきた。人生から得られるものは、いまよりもっと多くなると確信し、スペインでは、もっと強烈に人生を味わえる、と考えた。こうした古都のどこかで開業できるかもしれない。旅行ちゅうの、そして、在住の外国人はたくさんいるのだから、そこでなんとか生活することもできるだろう。だが、それはズッと先のこと、まず、ひとつかふたつ病院勤務をしなければならない。それで経験を積めば、あとで職につくのにも便利になるからだ。大きな不定期貨物船の船医になりたかった。そうした船はゆったりとし、寄港した場所を多少は見物できるだろう。東洋にゆきたく、彼の想像は、バンコクや上海《シャンハイ》の絵図、日本の港で豊かにいろどられ、椰子《やし》の木と青くて白熱した空、浅黒い肌の人たち、塔《パゴダ》に空想を走らせた。東洋のかおりは彼の鼻をうっとりさせ 世界の美とふしぎを情熱的に求める気持ちで、彼の心は高鳴った。
ミルドレッドが目をさました。
「眠ったらしいわね」彼女はいった。「さあ、この腕白《わんぱく》なお嬢ちゃん、いままで、いったい、なにをしてたの? ねえ、このおべべ、きのうはきれいだったのに、まあ、みてごらんなさいよ、フィリップ」
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九十五
ロンドンにもどると、フィリップは、外科病棟の包帯助手の勤務をはじめた。外科は内科ほどおもしろくなかった。内科は、経験的学問であるだけに、想像力を駆使する領域がひろかったからである。この仕事は、内科の助手の仕事より、ちょっときつかった。九時から十時まで講義があり、それから病棟入りし、そこでは傷の包帯、糸のぬきとり、包帯のまきかえをしなければならなかった。フィリップは包帯作業がちょっとうまいのにいささか得意になっていて、看護婦に驚嘆の叫びをあげさせるのは、楽しいことだった。
週のある定まった午後には、手術があり、彼は、白衣を着こんで、階段教室のいちばん底のところに立ち、手術医に求められる道具をさっさと手わたしたり、手術個所がよくみえるようにと、血を海綿でぬぐったりしていた。珍しい手術があるときには、階段教室はいっぱいになったが、ふだんの学生の数は五、六人にすぎず、そうしたときに、フィリップには楽しい気分のよさで手術は進行した。その当時、世間一般は盲腸炎熱にうかされている状態、この病気を訴えて手術室に運ばれてくる患者がたくさんいた。フィリップが助手をしていた外科医は、仲間のある外科医と、どっちが早く、傷を最小限にとどめて盲腸をとるかを、仲よく競《きそ》い合っていた。
やがて、フィリップは、事故係りの勤務につくことになった。助手は交替でこの勤務につき、それは三日間つづき、その期間ちゅうは病院で寝起きし、食事は共同部屋でとり、緊急事故患者病棟の近くの一階の部屋を与えられたが、そこには、昼間戸棚にしまいこまれる寝台がひとつあった。勤務の助手は、すぐ手近にいて、とびこんでくるどんな事故患者でも、診察しなければならなかった。少しもジッとしてはおれず、夜間一時間か二時間ウトウトッとすると、頭上のベルが鳴りひびき、本能的に寝台からパッととびおきることになった。
土曜日の夜は、いうまでもなく、いちばんいそがしいときで、酒場の閉店といちばんいそがしい時刻が一致していた。男どもは、酔いつぶれて、警察の手で運びこまれ、胃の洗滌《せんじょう》をすぐしなければならなかった。女どもは、酔ってなお質《たち》がわるくなり、亭主から受けた傷や鼻血で血を流しながらやってきた。亭主を訴えてやると息まく者あり、恥ずかしがって、傷は事故のため、と申し立てる者ありだった。助手で都合のつくことだったら、その処置をとり、重大なことであれば、住みこみの外科医を呼びにやった。これは、慎重にやらなければならないことだった。住みこみの外科医にすれば、用もないのに五階の階段からひきおろされれば、そうご機嫌がいいはずはなかったからである。患者は、指の傷からグサリとやった喉《のど》の傷まで、さまざまだった。なにか機械に手をやられた少年、馬車に打ち倒された男、遊びながら手足を折った子供などが運びこまれてきた。ときには、自殺未遂の人間が警察の手で送りこまれた。耳から耳までがっぶりと喉をかき切ったおそろしい、目を血走らせた男をみたことがあったが、彼は、その後、何週間も巡査の監視のもとで病棟暮しをし、巡査は、男が生きのこってプリプリしているというわけで、だまっていながらも腹を立てていた。この男は、自分が釈放されたらすぐ、また自殺をやってみる気持ちでいるのを、べつにかくそうともせずに公言していた。
病棟では人がゴタゴタし、患者が警察の手でもちこまれると、病院住みこみの外科医は、板ばさみの窮状に直面することになった。患者が警察署に送られて死亡すると、新聞におもしろくないことが書き立てられ、男が死にかけているのか、酔っ払っているのか、識別するのが、ときどき、じつに困難だったからである。
フィリップは、ヘトヘトになるまで、床につかなかった。一時間してまた起きるのは厄介だったからで、事故病棟で坐りこみ、仕事の合い間には、夜勤の看護婦と雑談していた。この女は、男のような外見の、白髪まじりの女で、二十年間、事故病棟の夜勤看護婦をしていた。この仕事が好きなのは、自分で勝手にふるまえるし、うるさいことをいう婦長がいないからだった。彼女の動きは緩慢だったが、じつに有能、緊急事故でヘマをしたことがなかった。経験が浅く、また、神経を立てている助手たちの場合、彼女が力の塔(シェイクスピア『リチャード三世』にある言葉で、よく使われる)であるのを知っていた。こうした助手を何千人と知っていたが、彼女はこうした彼らからべつにどうという印象も受けてはいなかった。いつも助手たちを「ブラウン先生」と呼び、助手が文句をつけて本名を教えても、彼女はただうなずくだけ、依然として「ブラウン先生」と呼びつづけていた。バス織りの長椅子とギラギラ燃えあがるガス灯しかないガランとした部屋で、この女といっしょに坐り、その話を聞くのは、フィリップの楽しみだった。彼女は、とっくのむかしに、ここにやってくる連中を人間視するのをやめ、彼女にとって、それは酔っ払い、折った腕、かき切った喉にすぎなかった。この世の悪徳、みじめさ、残忍さを当然のことに考え、人間の行動に賞賛すべき、あるいは、非難すべき筋をみつけず、ただそのままに受けとめていた。彼女は、ある気味のわるいユーモア感の持ち主だった。
「ある自殺した人を知ってますがね」彼女はフィリップにいった、「テムズ川に身を投げたんですよ。救いあげられ、ここに運びこまれたんだけど、十日後に、テムズ川の水を呑んだためにチブスになっちまってね」
「死んだんですか?」
「ええ、ちゃんと死んだことよ。それが自殺かどうかは、どうしてもわかんなかったんですけどね……。おもしろい人たちよ、自殺するってえ人は。仕事がどうしてもみつからず、奥さんに死なれちまったんで、服を質に入れてピストルを買いこんだ男がいたんだけど、それに失敗して、片目だけ撃ちぬき、ピンピンになっちまったの。すると、どうでしょう、片目がだめになり、顔も吹っとばされたとこがあるのに、この世は、結局、そうまんざらすてたもんじゃない、ということになってね、その後はズーッと幸福に暮してたわ。いつも気がついてることなんだけど、人が考えてるように、人間は愛情でなんか自殺はしないもんなのよ、それは、小説家の空想だけのこと。自殺をするのは、お金がないからなの。それがどうしてなんかは、わからないけどね」
「金のほうが愛情より大切だからなんでしょうよ」フィリップはいった。
その当時、どんな場合にも、金のことがフィリップの頭にそうとう強くこびりついていた。ふたり暮しはひとり暮しと同じくらい安くあがる、といういい加減なことわざがあり、彼自身もよく口にしていた言葉だったが、それは嘘だらけなことを、彼は知り、出費で彼の心配は大きくなりはじめていた。ミルドレッドは家事べたな女で、彼女にかかると、生活費は、ふたりがレストランで食事をしているのと同じだった。子供には衣服、ミルドレッドには編みあげ靴、傘、ほかの品々があれこれと要り、どうしても必要というわけだった。ブライトンからもどれば就職するといっていたが、彼女はべつにはっきりとした処置はとらず、そのうちに、悪性の風邪にかかって、二週間寝こんでしまった。元気になると、一、二の広告に応募はしたものの、どうということにもならず、おそすぎてもう決まってしまったり、仕事が自分にはきつすぎる、ということになった。一度話があったが、賃銀は週に十四シリング、自分はそれ以上もらっていいはず、と彼女はうぬぼれていた。
「相手につけこまれるなんて、つまんないことよ」彼女はいった。「こちらから値さげなんぞしたら、バカにされちまうわ」
「週に十四シリングなら、わるくないと思うんだがな」フィリップは冷淡にいった。
それだけの金が家の出費にどんなに役立つかを、彼としてはつい考えてしまい、ミルドレッドは、もう、きちんとした面会服もなしではとても職にはつけない、とほのめかしはじめていた。服を彼女に買ってやり、彼女は職さがしを一、二度やってみたが、それが真剣なものではない、とフィリップは考えた。働く気持ちがないのだ。彼が知っている金づくりのただひとつの方法として、株式取引所で、夏の幸運をいま一度、と強く望んでいたが、トランスヴァール共和国との戦争が勃発《ぼっぱつ》し、南アフリカ株は皆目だめだった。マカリスターは、レドヴァーズ・ブラー(ボア戦争でのイギリスの司令官)が一ヵ月もすればプレトリア(トランスヴァールの首都)に侵入するだろう、そうなればブームは必至、と話していた。ただ、辛抱してジッと待っていればいいのだった。ここで望ましいのは、景気を少し冷やすために、イギリス軍の敗北が必要、そうすれば、買いに出ても損はない、ということだった。
フィリップは、とっていた新聞の「財界情報」をせっせと読みはじめ、イライラジリジリしていた。一、二度、彼はついミルドレッドにきつく当ったが、彼女は気転がきかず、我慢強い女でもなかったので、喧嘩になってしまった。フィリップは、いつも、自分の言葉がわるかったとわびを入れたが、ミルドレッドはすぐに人を許す女ではなく、二日間は、ブーッとふくれているのだった。食べ方、居間に衣類を放りだしにしておく不精《ぶしょう》くささなど、あらゆる点で神経にさわる女だった。フィリップは、戦争で興奮し、朝も晩も、新聞をむさほり読んでいたが、彼女は、どんなことが起こっても、なんの関心も示さなかった。同じ通りに住む二、三の者と知り合いになり、そのひとりが、副牧師さんに来ていただいたら、とすすめていた。
彼女は、結婚指環をはめ、ケアリー夫人と名乗った。フィリップの部屋の壁には二、三枚の絵がかかり、これはパリでの彼の作品、みな裸体画で、女の絵二枚と、足をしっかりと踏んばって立ち、拳をにぎりしめているミゲル・アフーリアの絵だった。フィリップがそれをとっておいたのは、それが自分の最高傑作、幸福な時代の思い出の種になっているためだった。ミルドレッドは、ながいこと、気に入らぬといったふうに、それをながめていた。
「こんな絵なんて、おろしちゃったらいいのにね、フィリップ」とうとう、彼女は切りだした。
「十三番地のフォアマンの奥さんが、きのうの午後、おいでになってね、あたし、目のやりどこに困ったことよ。だってあの女《ひと》、絵をジッとみてるんですもん」
「絵がどうだというんだい?」
「みだらな絵よ。裸の人間の絵をグルッとまわりにかけとくなんて、ゾッとするほどいやなことって、あたしはいいたいことね。赤ちゃんにも、いけないことだわ。もう、なんでもわかるようになってるんですからね」
「きみは、どうしてそう低俗なことをいえるんだろうな?」
「低俗ですって? あたしは、つつしみの心っていいたいわ。いままでなんにもいわなかったけど、一日《いちんち》じゅうあんな裸の人たちをながめて暮らすのを、あたしが好んでるとでも思ってるの?」
「ユーモア感はもってないのかね、ミルドレッド?」彼は冷然としてたずねた。
「ユーモア感がそれにどんな関係をもってるのか、あたしにはわかんないわ。あたし自身としては、あんなもん、ひきおろしたくってたまらないの。それをどう思ってるか、あたしの考えを知りたかったら、ゾッとするほどいやっていうとこね」
「あいにく、きみのご意見なんか、うけたまわりたくはなくってね。だが、あれにさわるのは厳禁だよ」
ミルドレッドが彼にプリプリしていると、彼女は、しかえしの方法として、赤ん坊に当っていた。この小さな娘は、フィリップがかわいがっているように、彼を好み、毎朝、彼の部屋にはいこんできて(もう二歳近くになっていて、かなりうまく歩けた)、寝台の中に抱きあげられると、大よろこびしていた。ミルドレッドがこれをとめると、赤ん坊は、かわいそうに、ワーワーと泣いていた。フィリップが文句をつけると、彼女は応ずるのだった、
「習慣になるのがいやなのよ」
彼のほうでそれ以上なにかいうと、彼女はやりかえした、
「自分の子供をどうしようと、あんたには関係のないことよ。あんたの話を聞いてると、まるで父親みたい。あたしが母親なのよ、赤ちゃんにどんなことがいいか知ってるのは、このあたし、そうじゃないこと?」
フィリップはミルドレッドの愚かさにはむしゃくしゃしたが、いまは、もう、すっかり冷淡な気持ちになっていたので、腹が立ってくるのは、ただときおりのことだけになっていた。彼女がそばにいるのに馴れた、といったところだった。クリスマスになり、それとともに、ふつ日の休日がフィリップにあった。少しばかりひいらぎの木を買いこみ、部屋を飾り、クリスマスの日には、ミルドレッドと赤ん坊にささやかな贈り物をした。たったふたりきりなので、七面鳥は買いこめなかったが、ミルドレッドは、ひな肉を焼き、近くの食料品店で買いこんできたクリスマス・プディングをむした。|ぶどう《ヽヽヽ》酒一本も買いこんだ。食事が終ると、フィリップは炉辺の肘かけ椅子に坐りこみ、パイプをくゆらしたが、馴れぬ|ぶどう《ヽヽヽ》酒を飲んだために、いつも心につきまとってはなれなかった金の心配を、しばらく、忘れていた。幸福で快適だった。やがて、ミルドレッドがはいってきて、赤ん坊がおやすみのキスを彼にしたがってる、と知らせたので、彼はニッコリしながら、ミルドレッドの部屋にはいっていった。それから、子供にはおやすみをいい、ガス灯を暗くし、泣きだしたときのことを考えて、ドアをあけたままにして、居間にもどっていった。
「きみはどこに坐るんだい?」彼はミルドレッドにたずねた。
「あんたは、自分の椅子にお坐りなさい。あたしは、床に坐ることよ」
彼が坐ると、彼女は炉の前に坐り、彼の膝に寄りかかってきた。ヴォクスホール橋通りの彼女の下宿で坐ったときも、こんなふうだったな、と彼は思い出さずにいられなかったが、立場は逆だった。床に坐って、頭を膝に寄りかけたのは、彼だった。あの当時、どんなに情熱を傾けて、彼女を愛していたことだったろう! いま、ながいこと感じたことのないやさしい気分を彼女に感じているのだった。自分の首にまきつけられた赤ん坊のやわらかい小さな腕の感触が、まだのこっているようだった。
「気分がいいかい?」彼はたずねた。
彼女は彼をみあげ、かすかにほほ笑み、コクリとうなずいた。ふたりは、語り合ったりはせずに、夢見心地でジッと火をみつめた。とうとう、彼女は向きなおって、ふしぎそうに彼をジロジロとながめた。
「ここに来て以来、一度もまだあたしにキスをしてくれないこと、知ってる?」だしぬけに彼女はたずねた。
「それをしてほしいのかい?」彼はニッコリした。
「もうあんなふうにあたしを愛してはいない、と思ってるんだけど?」
「きみをとても好きだよ」
「赤ちゃんのほうが、ズーッともっと好きなのよ」
彼は答えず、彼女は頬を彼の手に乗せた。
「あたしのこと、もう怒ってはいないことね?」目を伏せて、やがて彼女はたずねた。
「いったい、どうして怒ることがあるんだい?」
「いまほどあんたを好きになったこと、まだ一度もないわ。あんたを愛するようになったのは、あのつらい、劫火《ごうか》をくぐる思いをしてからのことですものね」
彼女が読みふけっている三文小説で習い憶えた言葉を彼女がしゃべっているのを聞くと、フィリップはゾッとした。ついで、彼女の言葉が当人の彼女にとってなにか意味があるのかな、と考えた。自分の純粋な感情をあらわす方法として、たぶん、彼女には『ファミリー・ヘラルド』(大衆的な週刊新聞)の大げさな言葉しかないのだろう。
「あたしたちがこうしていっしょに暮してるなんて、それにしてもふしぎなことね」
彼は、ひどくながいこと、返事をせず、ふたたび沈黙状態がつづいた。とうとう彼は話しだしたが、そうした合い間を意識していないような話しぶりだった。
「ぼくのことを怒ってはいけないよ。こうしたことは、どうにもならないものなんだからね。これをした、あれをしたというので、きみのことを腹黒い、残忍な女だと思ってたことは、憶えてるよ。だが、それは、ぼくがバカだったからなのさ。きみはぼくを愛してはいず、そのことできみを責めるなんて、バカげたことだったんだ。ぼくを愛するように仕向けることができると思ってたんだが、それが不可能事だったのを、いまはわかってるよ。だれか男にきみを愛するようにさせるもの、それがなにかはわからないけど、それがどんなものにせよ、それこそただひとつの重要なことなんだ。それがなかったら、親切、寛容、そういったどんなものでも、それをつくりだすわけにはいかないんだからね」
「ほんとにあたしを愛してたのだったら、いまでもまだその気持ちがつづいてると思いたいとこなんだけどね」
「ぼくだって、そう思ったことだろう。その愛情が永遠につづくといつも思いこんでたのを、ぼくは憶えてるよ。きみがいなくて暮すくらいなら、いっそ死んじまいたいと感じ、きみが色褪せ、しわくちゃだらけになって、きみを愛する男がなくなり、きみをすっかり独占できる時期の到来するのを、ぜんなに待ち望んでたことだろう!」
彼女は答えず、しばらくすると、立ちあがって、寝ようと思う、といった。そして、オズオズとした微笑をちょっと浮かべた。
「きょうはクリスマスの日よ、フィリップ。おやすみのキス、してくださらないこと?」
彼は笑いだし、ちょっと顔を赤らめ、彼女にキスをした。彼女は自分の寝室にひきあげ、彼は本を読みはじめた。
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九十六
二、三週間後に、量高潮がやってきた。ミルドレッドは、フィリップの態度のために、ある焦ら立ちの状態に追いこまれていった。彼女の心には、さまざまの異なった感情があり、スルリスルリとひとつの気分から他の気分にうつっていった。彼女は、ひとりで何時間もすごし、自分の立場を思いめぐらした。感情を言葉にあらわしたりはしなかった。いや、それがどんなものかさえわからず、しかも、あるいくつかのことが心の中でしっかりと立ち、それを何回となく思いめぐらしていた。フィリップのことは、どうにもつかめず、彼をそう好きにもなれなかった。だが、身のまわりに彼がいるのは、うれしいことだった。彼を紳士と考えていたからである。彼の父親が医者、伯父が牧師というので、彼女は深い感銘を受けていた。だが、一方で、思うがままに彼をあしらってきたので、少し彼を軽蔑し、それでいながら、彼のいるところでは、すっかりくつろいだ気分になれないでいた。気ままにやりたい放題《ほうだい》のことができず、彼が自分のやり方を批判している、と感じたからだった。
ケニントンの小部屋にはじめてやってきたとき、彼女は、ヘトヘトにつかれ、恥じ入っていた。放りだされておかれるのが、うれしかった。支払わなければならない下宿代なしですませるのは、考えただけでもホッとすることだったし、雨が降ろうと風が吹こうと外に出なければならないという必要はなく、気分がよくなければ、静かに床で横になっていられた。そのときまでの生活が、もういやでいやでたまらなかった。愛嬌《あいきょう》をふりまき、ヘコヘコしなければならないなんて、まったくゾッとすることだった。いまでも、当時のことが心をよぎると、男たちの荒っぽさやひどい口のきき方を思うにつけ、自分があわれになって、彼女は泣いていた。だが、そうしたことを思い出すのは、めったにないことだった。救いの手をさしのべてくれたことで、フィリップには感謝し、どんなに裏表なく彼が自分を愛し、その彼を自分がどんなにひどくあつかってきたかを思うと、チクリと良心の苛責を感じた。そのつぐないをするのは、らくなことだった。それは、彼女にさして重大なことではなかった。彼女の話を彼が断ったのには、彼女自身びっくりしたが、ただ肩をすくめるだけだった。お高くとまっていたいのなら、そうするがいい、こっちの知ったことじゃない。しばらくすれば、ジリジりしてくるのはそっち、そうなれば、断るのはこっちの番になるのだ。こっちが苦しい目にあってると思ってるとしたら、それこそとんだお見当ちがいというもの。彼にたいする自分の支配力を、彼女はいささかも疑ってはいなかった。変った男にはちがいないが、とことんまで、この男のことはつかんでいる。自分とよく喧嘩をし、二度と会わないと誓っておきながら、ちょっとすると、ノコノコヘっつくばってやってきて、許してくれといってきた。彼がどんなに卑屈な態度を示したか、考えただけでも、ゾクリとするほど痛快だった。地面に倒れて横になり、自分がそこを踏みつけて歩いていっても、大よろこびしたことだろう。彼が泣くのをみたことがあった。彼のあつかい方は、もう心得たものだった。彼には注意を払わず、彼の癇癪《かんしゃく》に気づいてないふりをするだけ、きびしく放りだしにしとけばいい、間もなくへっつくばるのは必定《ひつじょう》なのだ。彼がやってきて、どんな屈辱を味わわせてやったかを思って、彼女は、上機嫌に、クックッと笑っていた。自分は、もうやりたいことはやってきた。男がどんなもんかがわかり、男出入りはもうたくさん。よろこんでフィリップといっしょに落ち着くつもりになっていた。なんといったって、フィリップはれっきとした正真正銘の紳士、それはバカにはできない重要な点、そうではないだろうか? とにかく、こちらではそう急いでるわけではなく、こちらから切りだすつもりはなかった。彼が赤ん坊をどんなに好きになってるかをみて、そうとうくすぐったい気持ちにはなりながらも、彼女はよろこんでいた。ほかの男の落胤《おとしだね》をこうまで可愛がってるなんて、喜劇的なことだった。|まったく《ヽヽヽヽ》彼は変り者、それはもう、まちがいのないことだった。
だが、ひとつ、ふたつのことが、彼女をびっくりさせた。彼のヘコヘコする態度には、もう馴れっこだった。以前には、自分のためになにかするとなると、彼はただもう大よろこび、こっちのすねた言葉で打ちしおれ、やさしい言葉で有頂天になる姿をみるのは、もう当り前のことになっていた。だが、いまはちがってきて、この一年間に彼は少しもよくなってはいない、と考えた。彼の感情に変化が起きるなんて、彼女には思いもつかぬこと、自分が機嫌をわるくしても、相手が平気でいるのは、お芝居にすぎない、と彼女は断定していた。ときどき、本が読みたくなることがあり、そうしたときに、おしゃべりはやめてくれ、と彼はいった。ここでカッと怒り立ったらいいのか、すねたらいいのか、どちらともわからず、結局は、とまどってどちらもしないでいた。ふたりの関係は精神的《プラトニック》だけのものにしようと彼がいいだした会話が起きたのは、そのときのことだった。だが、ふたりが知ってる過去に起きた事件を思い浮かべて、男がおそれているのは自分の妊娠ではないか、ということがフッと頭に思い浮かんだ。骨を折って、そんな心配はない、と彼に納得させようとしたが、それでどうという変化は起きなかった。自分が性のことばかり考えているために、男がそうした興味をもっていないかもしれないなんぞということは、思いもつかぬことだった。いままでの男との関係は、もうまったく、そうした類いのものだったので、男がほかの関心をもつなんて、およそ考えられないことだった。フィリップがだれかほかの女と恋愛しているかもしれない、とも考えた。彼をジッと監視しつづけ、病院の看護婦や彼が出逢う女たちにねらいをつけてみた。だが、手を変え品を変えして質問してみた結果は、アセルニー一家は白ということになった。さらに、フィリップは、ほかのたいていの医学生と同じように、仕事で接触する看護婦を女性とは考えていないという事実は、否応なく認めなければならなかった。看護婦は、彼の心で、ヨードホルムのかすかなにおいと結びつけられているだけだった。フィリップに手紙は来ず、所持品に女の写真はなかった。もしだれか女を恋しているのだったら、利口に立ちまわって、ちゃんとそれをかくすだろう。だが、彼は、ミルドレッドの質問にたいして卒直に答え、たしかに、そうした質問に動機がひそんでいるとは、疑ってもいないようだった。
「ほかのだれか女と恋愛なんかしてないらしいわ」とうとう彼女は考えた。
これは、ホッとすることだった。そうだとすれば、まだたしかに、自分を愛していることになるからだった。だが、それにしても、彼の態度はますますつかめぬことになった。もしそんなふうに自分をあつかうつもりだったら、どうして自分をこのアパートに呼んだりしたのだろう? それは不自然なこと。ミルドレッドは、同情、寛容、親切といったものがあるとは信ずることができない女だった。彼女が出したただひとつの結論は、妙な男、ということだけだった。彼の行動の動機は騎士道的と思いこみ、三文小説の途方もない話で頭をいっぱいにして、彼の心細かな心づかいにたいするありとあらゆるロマンティックな説明に空想を走らせた。心をひきさく誤解、苦難の劫火《ごうか》による浄化、雪のように白い魂、クリスマスの夜の身にしみるむごい寒さの中での死といったものだった。ブライトンにいったら、こうしたバカげたことに万事けりをつけよう、と彼女は決心した。そこでは、ふたりだけの暮しになり、みんなには夫婦と受けとられるだろう。それに、突堤があり、音楽隊がある。フィリップがどうしても同室をいやがり、前には耳にしたこともない調子のこもった声で、そのことについて彼が話したとき、自分が求められていない事実を、彼女は突然つかんだ。まったく驚いたことだった。過去に自分にいった彼の言葉、どんなにひたむきに自分に愛を傾けていたか、を彼女は想起した。バカにされたようで、腹が立ってきた。だが、彼女は、いわば性来横柄な女、それでなんとか切りぬけていく女だった。自分が愛してるなんて、あの男、考える必要はない、じっさい、自分は愛してなんかいないんだから。
ときどき、彼が無性《むしょう》に憎らしくなり、面子《メンツ》まるつぶれにしてやりたくなった。だが、いざとなると、妙にヘナヘナになってしまうのだった。どう彼をあつかってやったものか、つかみようがないからだった。彼に少し神経を使うようになってきた。そして、一度か二度、泣き、一度か二度、特別彼にやさしくしてやったが、夜、海岸の遊歩道で彼の腕をとったりすると、すぐ、なにか口実をつけて身をひきはなし、彼女にふれられるのは不愉快といった態度をあらわすのだった。彼女にすれば、これがどうとも解らなかった。彼女がにぎっている彼のただひとつの急所は、赤ん坊で、赤ん坊にたいする彼の愛情はだんだんつのっているようだった。子供をピシャリとたたいたりこづいたりすると、彼は怒りで真っ青になった。以前のやさしい微笑が彼の目にもどってくるのは、彼女が赤ん坊を抱いて立っているときだけだった。海岸で、そんなふうにしている写真をよその男にとってもらったとき、そのことに気づき、その後、フィリップの視線を自分にひきよせようとして、彼女はよくこうした姿態をしてみせていた。
ロンドンにもどると、いつもらくにさがせるといい張っていた仕事さがしに、ミルドレッドはとりかかった。いま、フィリップの世話にはなりたくなく、自分はべつの下宿に赤ん坊といっしょにうつろうと思う、といってやったら、どんなに痛快だろう、と考えた。だが、いざ就職問題にとりくむとなると、がっくりだった。ながい勤務時間には不馴れ、女将《おかみ》に顎で使われるのはいまいましいし、それに、また制服を着るようになるかと思うと、体面からいってもいやだった。知り合いになった近所の人たちには、自分たちはらくな暮しをしている、と吹聴《ふいちょう》してあった。仕事に出なければならないといったことがそうした人たちの耳にはいったら、それこそ面目まるつぶれなこと。生まれながらのなまけ根性が、ここで頭を出してきた。フィリップと別れたくはなく、よろこんで世話をしてくれてるのに、どうして別れることがあるのだろう? たしかにパッパと使う金はないにしても、下宿代と食費は浮くのだし、フィリップの暮し向きがよくなることも、考えられないわけではない。彼の伯父は老人、いつ死ぬかもしれず、そうすれば、多少の金は流れこんでくるだろう。それに、いまのままでも、週に何シリングかのはした金のために、朝から晩まで身を粉にして働くより、まだましだ。
毎日新聞の広告欄を読みつづけていたが、これは、なにかしかるべき仕事があれば、仕事につきたいという姿勢をただ示すためだけのものだった。だが、フッと恐怖の情にとらわれることもあった。自分の世話をみるのにフィリップがうんざりしてくるのではあるまいか? という心配があったからだった。こうなると、彼にたいする急所どころのさわぎでなかった。自分がここにいるのを許されているのは、赤ん坊にたいする彼の愛情のためだけ、とも思われてきた。こうしたことを思いふけって、いずれこのしかえしすべてはしてやる、とプリプリしながら考えた。彼が自分をもう愛してはいない事実は、どうにも彼女には甘んじて受けられないことだった。愛するようにしてやる。じつに自尊心を傷つけられることだったが、ときどき、じつに奇妙なふうに、彼女はフィリップにたいして欲情を燃え立たせていた。男の態度は、もうじつに冷たくなり、それでもうカンカンになっていた。彼にたいする彼女の考えは、たえず、こうしたもので、相手からとてもひどい仕打ちを受けている、自分がどんなことをしたのでこんな仕打ちを受けることになったのだろう? といった式のものだった。こうした生活をつづけるのは不自然、といつも心にいい聞かせつづけた。ついで、事情がすっかり変って、子供が生まれることになったら、たしかに彼は結婚してくれるだろう、と考えるようになっていった。奇妙な男であるにはせよ、れっきとした正真正銘の紳士であるのはたしか、それは、だれでも認めることだった。とうとう、彼女の心はこの考えにとりつかれ、ふたりの関係を是が非でも変えてやろう、と決心することになった。彼は、いま、キスさえしてくれず、彼女としては、それを望んでいた。かつてはいつも、どんなに熱烈に唇を自分におしつけてきたかが、マザマザと思い出された。それを考えると、狐につままれたような妙な感じだった。彼女は、よく、彼の口許をジッとみつめていた。
二月のはじめのある夕方、自分はローソンといっしょに夕食をする、と彼は彼女に伝えた。ローソンは、アトリエで誕生日の会を開き、帰りはおそくなるだろう、といいそえた。ビーク通りの例の酒場から、みなが好きなポンス酒を二本、ローソンは仕入れてあり、ひと晩楽しくやることになっていた。そこに女は来るの? とミルドレッドはたずねてみたが、フィリップは、女は来ないはずだ、男だけが呼ばれたのだから、そして、みんな、坐り、語り、タバコをふかすだけだ、と答えた。そうしてみると、そう楽しい会ではないらしい、自分が画家だったら、五、六人のモデルをまわりに呼び寄せるだろう、とミルドレッドは考えた。床にはいったが、眠られず、やがて、ある考えがフッと頭に浮かんだ。彼女は立ちあがり、踊り場のくぐり戸の留め金をおろし、フィリップが中にはいれぬようにした。彼は一時ごろに帰り、くぐり戸が閉まっているのを知って、プリプリしているのが聞えてきた。彼女は、寝台から出て、あけてやった。
「いったい、どうして閉めたりなんぞしたんだい? 寝てるのを起こして、わるかったね」
「ちゃーんとあけといたんだけど、どうして閉まっちゃったのかしら?」
「さあ、急いで寝なさい。さもないと、風邪をひくよ」
彼は、居間にはいり、ガス灯をつけた。彼女はつづいて部屋にはいり、炉のところにいった。
「足をちょいと温めたいの。氷のように冷えきっちゃったわ」
彼は坐り、編みあげ靴をぬぎだした。目は輝き、頬は紅潮していた。飲んできたな、と彼女は考えた。
「楽しかったこと?」ニッコリして、彼女はたずねた。
「ああ、すばらしかったね」
フィリップはまったくの素面《しらふ》だったが、語り笑って、興奮はまださめやらずといった状態だった。こうした宵は、パリのなつかしい時代を思い起こさせ、彼はすごく上機嫌になって、ポケットからパイプをひっぱりだし、それにタバコをつめた。
「まだ寝ないの?」彼女はたずねた。
「まだ寝ないよ、ちっとも眠くないんだ。ローソンのやつ、すごいご機嫌でね、ぼくがいったときから帰るまで、のべつ幕なしにまくし立ててたよ」
「なにを話してたの?」
「いやあ、わかるもんか! 陽《ひ》のもとのありとあらゆることといったらいいかな。みんな声をかぎりに叫び合い、聞いてる者はだれもなしといったあのようす、きみにもみせたいもんだね」
フィリップは、その情景を思い出して、楽しそうに笑い、ミルドレッドも声を合せて、笑った。彼が酒をすごしたものと、彼女は見当つけたが、これこそ、彼女にしては、ござんなれというとこだった。こちらだって、男心はわかってるのだ。
「坐っていい?」彼女はいった。
返事もないうちに、彼女は彼の膝の上に坐りこんでしまった。
「寝ないんだったら、化粧着に着換えたほうがいいよ」
「いいえ、このまんまでいいの」そういうと、彼女は、両腕を彼の首にまきつけ、顔を彼の顔にまともにすえて、こういった、「どうしてそんなに冷たい仕打ちをするの、フィル?」
彼は立ちあがろうとしたが、彼女はそれを許さなかった。
「あんたを愛してるのよ、フィリップ」彼女はいった。
「バカバカしいことはやめにしてくれ」
「バカバカしいなんてこと、ないわ。ほんとなんだもん。あんたがいなくちゃ、生きてけないのよ。あたし、あんたがほしいの」
彼は彼女の腕から身を解き放した。
「どうか立っておくれ。きみはバカな仕草をして、こっちまで、おかげで、バカみたいな気分になってくるよ」
「あんたを愛してるのよ、フィリップ。いままでしてきたひどい仕打ちのつぐないをしたいの。こんなふうな暮しはつづけられないことよ。そんなこと、人間にはできないことなんだもん」
彼は椅子からスルリとぬけ、彼女をそこに坐らせておいた。
「とてもわるいけど、時すでにおそしなんだ」
彼女はよよとばかりに泣きくずれた。
「でも、どうしてなの? どうしてそんなに冷たい仕打ちができるの?」
「それは、きみを愛しすぎたためだと思うんだ。もう情熱をすりへらしてしまったのさ。そういったことは、いま、ふるえがくるほどいやなんだ。きみをみると、イーミルとグリフィスのことを思い出してしまうのさ。こうしたことは、どうにもならないもんでね。それは、ただ神経だけのこととは思ってるんだがね」
彼女は、彼の手をつかみ、それをキスでおおった。
「やめてくれ!」彼は叫んだ。
彼女はグッタリと沈むように椅子に坐りこんだ。
「こんな暮し、つづけてるわけにはいかないことよ。愛しててくれないんなら、あたし、どっかにいっちまったほうがいいわ」
「バカなことをいうもんじゃない。いくとこもないんじゃないか。好きなだけ、ここにいてもいいんだからね。だけど、それは、はっきりとした条件づきだ。ぼくたちは、あくまで友だち、それ以上のもんではないんだ」
すると、彼女はいきなり激しい情熱ぶりをさらりとすて、物やわらかに、ご機嫌をとるように笑った。フィリップのわきにすりより、彼のからだに両腕をまわし、低く甘い声でささやいた、
「そんなバカなこと、やめてちょうだい。きっと、あんた、神経を立ててるのよ。あたしがどんなに情のある女になれるか、あんたは知らないのよ」
彼女は顔を彼の顔にまともにおしつけ、頬ずりをした。フィリップからみれば、彼女の微笑はたまらなくいやな媚態《びたい》、曰《いわ》くありげな目の輝きは、彼を嫌悪感でゾッとさせた。彼は本能的にサッと身をひいた。
「いやだ!」彼はいった。
だが、彼女は放そうとせず、唇で彼の口を求めた。彼は彼女の両手をとり、荒々しくそれをふり払い、相手をおしのけた。
「きみにはムカムカするんだ!」彼はいった。
「あたしに?」
彼女は、炉棚に片手をかけて、身をささえ、一瞬彼をジッとみつめ、いきなり、両頬がサッと赤く染り、怒りの甲《かん》高い笑い声がひびいてきた。
「あたしがあんたみたいな男をムカムカさせるですって!」
こういって、ちょっと間をおき、激しい勢いで息をすいこみ、いきなり奔流《ほんりゅう》ような悪罵がふきだしはじめた。声を張りあげ、思いつくありとあらゆる嘲罵を浴びせた。ひどくきたない言葉を使ったので、フィリップは肝をつぶしてしまった。いつもいともお上品なとこをみせようとし、きたない言葉にはふるえあがっていたので、いま使っている言葉を彼女が知っているなんて、思いもつかぬことだった。彼女は彼に近づき、顔を目の前にグイッと寄せてきた。それは激怒でゆがんだ顔、ベラベラしゃべり立てながら、唾《つば》が口許からダラダラと流れだした。
「あんたなんて、好きでなんかあるもんか、一度こっきりだってね。あんたを、いつも、手玉にとってたのさ。もううんざり、身の毛がよだつほどうんざり、大きらいだよ。金ずくでさえなかったら、あたしのからだに指一本だってささせたりはしなかったはずだよ。キスをさせることになったときにゃ、もう胸がわるくてわるくて! グリフィスとあたしは、あんたのことには大笑いさ、あんまり間ぬけすぎるあんただもんね。間ぬけ! 間ぬけ者!」
さらにここで、悪罵の奔流がふたたびはじまった。すべての下品な欠点をののしり立て、けちんぼ、鈍感、見栄っばりで利己主義な点を非難し、フィリップにいちばん応える点で嘲笑を浴びせかけた。最後に自分の部屋にひきあげるときにも、狂乱的な激しさで、口ぎたない侮辱の毒舌を吐きかけた。ドアの取っ手をつかむと、パッと開き、向きなおって、彼の心をつきさすただひとつのきめ手と心得ていた悪罵を、彼にたたきつけた。その言葉には、彼女としては根かぎりの悪意と毒気がこめられ、まるで一撃でも加えるように、それを彼に投げつけた。
「ちんば!」
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九十七
翌朝、フィリップは、おそくなったのではないかと思って、ハッとして目をさまし、時計をみると、もう九時になっていた。パッと床からとびだし、顔剃り用の湯をとりに、台所にいった。ミルドレッドがいたようすはなく、前夜の夕食で彼女が使った物は、まだ洗わずに、流しに放りだしのままになっていた。そこで、彼女の部屋のドアをノックした。
「起きてくれ、ミルドレッド。とてもおくれてしまったんだ」
二度目にもっと大きくノックをしても、彼女は返事をせず、ふてくさっているものと、彼は判断した。ひどく急いでいたので、そんなことに構ってはいられなかった。そこで湯わかしの準備をし、それから水浴をはじめたが、この水は、冷たさをゆるめるために、いつも前の晩に張っておいていたものだった。服を着こんでいるあいだに、ミルドレッドが朝食の準備をして、それを居間に運んでくれるものと、思いこんでいた。過去二、三回、ご機嫌ななめなときに、そうしたことをやっていたからだった。だが、どんな物音も彼女が動いてるのも聞えず、なにか食べ物をと思ったら、自分でそれを用意しなければならないのがわかってきた。寝すごした朝に、彼女がこんな仕打ちをするなんて、まったくいまいましいことだった。準備ができても、まだ、彼女の動きだす兆候はなかったが、自分の部屋で動きまわっている音は聞えてきた。たしかに、起きようとはしているのだ。彼は、紅茶をつくり、パンをふたきれ切り、バターをつけ、編みあげ靴をはきながら、それを食べ、階段をかけおり、大通りで電車に乗ろうと、道をふっとんでいった。ビラに書いてある戦争のニュースでもみようと、新聞の売り場をさがしているうちに、彼の思いは前夜の大騒動に走っていった。その結末がつき、ひと晩眠って落ち着いて考えてみると、それがいかにも異様と思わずにはいられなかった。自分自身も滑稽だったとは考えたものの、自分の感情はどうにも抑制できず、その上、あのとき、感情がひどくたかぶっていたのだ。だが、バカげたあんな立場に自分を追いこんだミルドレッドには、腹が立ってきた。そして、ふたたびいまさらのように、彼女が使ったあの奔流のようなきたならしい言葉を思い出して、びっくりした。最後に投げつけてきたあの悪罵を考えたとき、顔がカッとほてってくるのはどうにもならなかったが、ただ軽蔑的に肩をすくめただけだった。仲間が自分のことを怒ると、かならず不具とののしるのは、ながい経験ずみのことだった。病院の人たちが自分の歩きぶりの真似をしているのをみたことがあるが、それは、学校時代のように、彼の面前でではなく、彼がみていないと思いこんでいるときのことだった。それをするのは、故意の意地わるさからではなく、人間が生れつき物真似をするけだもので、人を笑わすのに、それがらくな方法のためだということを、彼はもうさとっていた。だが、それをあきらめて達観する心境には、どうしてもなれなかった。
仕事に没頭できるのは、うれしいことだった。病棟にはいっていくと、そこは楽しい、なごやかな場所に思えた。サッと事務的な微笑を浮かべて、看護婦長は彼に挨拶した。
「とてもおそいことね、ケアリー先生」
「きのうの晩、どんちゃんさわぎをやってしまったんでね」
「ちゃーんと顔に書いてありますよ」
「いやあ、これはどうも恐縮」 笑いながら、彼は最初の患者にとりかかったが、それは結核性|潰瘍《かいよう》のある少年で、包帯をとりのぞいてやった。この少年は、彼に会うと、大よろこびし、フィリップは、傷口に新しい包帯をまきながら、この少年をからかった。フィリップは、患者の人気者で、上機嫌に患者をあつかい、やさしい敏感な彼の手は、患者に痛い思いをさせなかった。包帯をする助手の中には、ちょっと荒っぽい、いい加減なやり方をする者もいたのだった。学校のクラブで、友人たちといっしょに昼食をしたが、それは、ココアづきのバターつき丸パンといった粗末なもの、戦争がそのときの話題になった。何人かの医者は出征したが、当局はなかなかやかましく、病院勤務の経験のない者は、ぜんぶ拒否されていた。戦争がこのまま進行したら、いずれ当局は、医師の資格のある者ならよろこんで採るようになるのではないか、という話も出た。だが、意見の大勢は、戦争は一ヵ月もすれば終るだろう、ロバーツ(イギリスの元帥)が現地に出ていった以上、すぐ事態の解決はつく、ということにあった。これはマカリスターの意見でもあり、うまい機会をよく注意してとらえ、平和宣言の出る直前に買いに出なければならない、ついで、ブームが起き、少しくらいはもうけられるだろう、とフィリップにいっていた。フィリップは、機会が到来したらいつでも、株を買いこむように、マカリスターに依頼してあった。彼は、夏にもうけた三十ポンドで味をしめ、いま、二百ポンドはもうけたいもの、と期待していた。
一日の仕事を終え、ケニントンにもどろうと、電車に乗った。今晩、ミルドレッドはどんな態度に出るだろう? と考えていた。おそらく、不機嫌になって、こっちがたずねても返事をしないだろう。まったくいやなことだ。その晩は、季節にしては温かく、南ロンドンの灰色がかった街路にさえ、二月のけだるさがただよっていた。ながい冬の幾月かのあとで、自然は躍動をはじめ、植物は眠りからさめ、大地には、永遠の活動がはじまるときの、春のさきがけともいうべきさざめきがあった。フィリップは、そのまま電車に乗っていたかった。自分の部屋にもどるのはいやなこと、大気にふれたかった。だが、子供の顔をみたいという気持ちが、いきなり、胸をひきしめ、よろこびの叫びをあげながら、自分のほうにヨタヨタと歩いてくる赤ん坊の姿を思うと、ひとりでニッコリした。
家に着いて、なんとはなく窓をみあげ、灯りがついていないのを知って、びっくりした。二階にあがり、ノックをしたが、返事はなかった。外出するとき、ミルドレッドは鍵をマットの下におくことにしていて、鍵はたしかにそこにあった。中にはいり、居間にはいって、マッチをすった。なにかが起こっていたが、すぐには、それがつかめなかった。ガスの栓《せん》をいっぱいにひねって灯りをつけ、部屋は、いきなり、強い光に照しだされた。彼はあたりをみまわし、ハッとあえいだ。部屋はめちゃめちゃになっていた。すべてのものは、破壊されていた。カッと怒りがこみあげ、ミルドレッドの部屋にとびこんでいった。そこは暗く、ガランとしていた。灯りをつけると、彼女と赤ん坊のものがひとつのこらずもちだされているのがわかった(家にはいったとき、乳母車が踊り場のいつもの場所にないのは気づいていたが、ミルドレッドが赤ん坊を外につれだしたのだろう、と思っていた)。洗面台の上のものは、ぜんぶこわされ、ふたつの椅子の坐るところは、ナイフで十文字に切りさかれ、枕も切られて口をあけ、敷き布と掛け布団には大きな切り傷があり、姿見は金槌《かなづち》で打ちくだいたようだった。フィリップは茫然《ぼうぜん》とした。自分の部屋にはいってみたが、ここでも、すべてのものがゴッタゴッタになっていた。洗面器も水さしも打ちくだかれ、鏡はこっぱみじん、敷き布はボロボロだった。枕に手をつっこめるほどの大穴があき、中の羽根毛を部屋じゅうにまき散らしてあった。毛布も、ナイフがつきさされていた。化粧台の上にフィリップの写真がおいてあったが、枠《わく》はバラバラ、ガラスは粉々になっていた。フィリップは、小さい台所にはいってみた。こわされるものは、コップ、プディング用の鉢、皿類といい、ぜんぶのこらずこわされてあった。
フィリップは、息を呑んだ。ミルドレッドは手紙をのこさず、のこしたのは、怒りのしるしのこの廃墟《はいきょ》だけ、これをやっていたときの彼女のきびしい顔を、はっきり想像することができた。居間にもどり、あたりをみまわした。すっかり胆をつぶしてしまって、怒る気にもなれなかった。台所用のナイフと石炭くだきの金槌をジロジロとみたが、これは、放りだされたまま、テーブルの上にあった。ついで、炉にあるこわれた切り盛り用の大型肉切りナイフが目についたが、こうまでやるには、ながい時間がかかったはずだった。ローソンが描いてくれた彼の肖像画は十文字に切りさかれ、大きな口をあけていた。彼自身の絵はズタズタに切りさいなまれ、マネの『オランピア』、アングルの『オダリスク』、フィリップ四世の肖像画(ベラスケスの描いたもの)の写真は 石炭くだきの金槌でガンガンたたいて、めちゃめちゃになっていた。テーブル掛け、カーテン、ふたつの肘かけ椅子にも切り傷があり、すっかり破壊されていた。フィリップが机がわりに使っていたテーブルの向うの壁には、クロンショーからもらったペルシャじゅうたんの小さなきれがあった。これは、いつも、ミルドレッドの憎悪の対象になっていたものだった。
「それがじゅうたんなら、床に敷いたらいいのよ」彼女はいった、「それは、いやなにおいのするきたならしいきれっ端、それだけのことよ」
フィリップが、大きな謎にたいする答えがそこに秘められているのだ、と伝えたことで、彼女はカンカンになっていた。彼が自分をからかっている、と思いこんだためだった。ナイフですっぱりと三筋傷をつけていたが、それをするには、ずいぶんと力が要ったことだったろう。とにかく、それはズタズタになっていた。フィリップは二、三枚の白と青の皿をもっていたが、つまらぬものにせよ、わずかな金を払って一枚一枚買い入れた品物で、そのもっている思い出で愛好していたものだった。それは、バラバラになって床に散らばっていた。本の背にはながい切り傷のあとがあり、仮綴《かりとじ》のフランスの本は、わざわざページをひきちぎってあった。炉棚の上の小さな飾り物は、粉々になって、炉に投げすてられてあった。ナイフか金槌でこわせるかぎりのものはすべて、こわされていた。
彼の所持品すべては、売っても三十ポンドそこそこのものだったが、その大部分はなじみの友だった。彼は家庭的な男で、半端物《はんぱもの》でも、ただ自分のものというだけで、愛好し、自分のささやかな家をほこりの種にし、じつにわずかな金で、家を美しく特徴あるものに仕立てていた。もうがっくりして、坐りこんでしまった。あの女がどうしてこうまで残忍なふるまいができるのだろう? と考えてみた。急に恐怖が彼をとらえ、立ちあがって、廊下に出た。そこには、服をしまってある箪笥があったのだ。そこを開いて、ホッと安堵の吐息《といき》をもらした。たしかに彼女はそれを忘れたのだ。それは、ぜんぶ手つかずのままだった。
居間にもどり、あたりをみまわして、どうしたものか? と考えた。片づける気力はなかった。その上、食料はなく、腹が空いていた。外に出てゆき、食事をすませて帰ってきたが、そのときには、ある程度、冷静さをとりもどしていた。赤ん坊のことを思うと、胸がちょっと痛み、自分を恋しがるのではないかな? と考えた。たぶん、最初はそうだろうが、一週間もすれば、忘れてしまうだろう。とにかく、ミルドレッドと手の切れたのは、ありがたいことだった。彼女のことを考える彼の気持ちは、怒りではなく、圧倒的に強いうんざりとあきあきした気分だった。
「あの女には二度と会いたくないもんだ」彼は大声でいった。
のこされたただひとつのことは、この下宿を出ることだけ、翌日に、それを知らせよう、と決心した。受けた損害の穴埋めをするだけの財政的余力はなく、のこった金はわずかしかなかったので、もっと安い下宿をみつけなければならなかった。ここから出るのはうれしいことだった。下宿の出費は、前々から心配の種であったし、いまとなれば、ここにミルドレッドの思い出がいつまでもつきまとうことになるだろう。フィリップはジリジリし、心の中の計画を実行するまで、心が休まらなかった。そこで、つぎの日の午後、古物の家具商を呼んできたが、こわれたものとのこったものをひっくるめて、三ポンドでひきとられることになり、二日後、はじめて医学生になったとき借りた病院の向う側の家にうつっていった。下宿のおばさんはとてもきちんとした女で、彼はいちばん上の寝室を借りることになったが、そこは、週六シリングの部屋代ですんだ。小さくて、きたなく、裏の家の庭をみおろしていたが、持ち物といって、服と本をつめた箱ひとつしかなく、こうした安い下宿代はうれしいことだった。
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九十八
いま、自分以外の者にはこれといって重要ではないフィリップ・ケアリーの運命は、祖国のたどっている命運に支配されることになった。歴史はつくられつつあり、その変転は非常に重大なもの、それが名もない一介《いっかい》の医学生の生活に影響を与えるなんて、いかにもバカらしいことに思えた。相つぐ戦争、すなわち、マーガズフォンテイン、コレンゾー、スパイアン・コップ(いずれもボア戦争での戦闘地)の戦闘でイギリスは苦杯《くはい》をなめ、貴族と紳士階級の威信に必殺の打撃を与えたが、こうした人たちは、そのときまで、自分たちは生まれながらの統治力の保持者と主張し、それに強く反対する人はあらわれていなかったのだった。旧体制はくずれつつあり、歴史は、たしかに、つくられつつあった。ついで、巨人は力をふりしぼり、また大失敗をかさねながらも、勝利とおぼしきものにころがりこんでいった。タロウンイ(ボア戦争でボア人を指揮した将軍)はパーデバーグで降参し、レイディスミスは救援され、三月のはじめには、ロバーツ公がブルームフォンテインに入城した。
この知らせがロンドンに到着してから二、三日してのことだったが、マカリスターはビーク通りの酒場にやってきて、株式取引場でみとおしが明るくなってきた、とうれしそうに話した。平和は目の先にみえてきている、数週間すれば、ロバーツはプレトーリアに入城するだろう、株はもう高くなりはじめている、ということだった。ブームは必至だった。「いまこそ買いだよ」彼はフィリップにいった。「大衆が食いつくまで待ってたって、どうにもならない。いま以外に、もう買い時はないな」
彼は裏情報をつかんでいた。南アフリカのある鉱山の支配人は、マカリスターの会社の上役に電報を打って、施設は損傷を受けていない、できるだけ早く作業を開始する、と知らせてきた。そうなると、投機ではなく、投資だった。会社の上役がそれをどんなに確実とみこんでいるかの証拠として、この上役が、自分のふたりの姉妹のために、五百株を買いこんだ、この男はイギリス銀行といった安全なものでなければ、肉親には絶対に投資させない人物なのだ、という事実を、マカリスターはフィリップに話した。
「ぼくも一切|合財《がっさい》、それに投資しようと思ってるよ」彼はいった。
株は二ポンド八分の一から四分の一を浮動していて、あんまりむさぼらずに、十シリングの利鞘《ざや》で我慢すべきだ、と彼はフィリップに教えた。自分も三百株買うつもり、フィリップも同じようにしたらどうだ、といった話で、株は自分がもっていて、しかるべきときには売る、ということだった。フィリップはマカリスターをすっかり信用していたが、これは、ひとつには、彼がスコットランド人で、生来用心深く、またひとつには、前に彼の予想が正しく当っていたためだった。そこで、この話にとびついた。
「決算前に売れるかもしれないな」マカリスターはいった、「でも、そういかなかったら、清算の期日をのばす手続きをとるようにしよう」
これはすばらしいやり方、とフィリップには思えた。利益があがるまでがんばり、こちらは、手をこまねいていればいいからだった。これで、また新しい関心を寄せて、新聞の株式欄をながめることになった。つぎの日には少し全面高になり、マカリスターは手紙を寄こして、株にたいして二ポンド四分の一払ってくれ、市場はしっかりしている、と伝えてきた。だが、一日か二日すると、値が落ちた。南アフリカからの情報はおもしろくなく、フィリップは、不安をつのらせながら、自分の株が二ポンドに落ちたのを知った。だが、マカリスターは楽観的で、ボア人はそうがんばれるはずはない、四月中旬までに、ロバーツはヨハネスブルグに入城することまちがいなし、と断言した。差額支払いで、フィリップは四十ポンド近く払わなければならなくなった。ひどく、心配になってきたが、ここで自分のとるべきコースは、がんばりつづけることだけ、と感じた。彼の場合、四十ポンドの損失は大きすぎたからである。二、三週間、どうという変動はなかった。ボア人は自分たちの敗北と降参以外に道はないことをさとろうとはせず、事実、一、二のわずかな勝利までおさめ、フィリップの株は、さらに半クラウン値さがりした。戦争が終結しないのは、はっきりしてきた。ドッと売りが出はじめ、フィリップに会ったとき、マカリスターは非観的なみとおしに変っていた。
「ここでの最善策は、損害を小さくすることらしいな。差額支払いで、もうギリギリの線まで払ってきたんだからね」
フィリップは、不安で胸がムカムカしてきた。夜も眠れず、学校のクラブの閲覧室で新聞をみるために、いまは紅茶とバターつきパンに切りつめた朝食を鵜《う》呑みにして、とびだしていった。ときにわるい情報が流れるかと思うと、情報がぜんぜんないときもあったが、株が動けば、さがりだけだった。どうしたらいいのか、見当もつかなかった。いま売りに出たら、三百五十ポンド近くの損失になり、金は八十ポンドしかのこらないことになる。株なんかいじくるバカな真似をしなかったら、と心から悔やまれたが、のこされた道は、がんばるしかなかった。いつなにか決定的なことが起きるかもしれない、そうすれば、株はあがるだろう。もう利益をあげようなんていう気はさらさらなく、トントンになれば、とねがっていた。そうなれば、病院での課程をなんとか終らすことができるはずだった。夏の学期が五月にはじまり、それが終ると、産科の試験を受けるつもりだった。そこまでゆけば、のこりは一年だけだった。細かに計算して、授業料その他を入れて、百五十ポンドあれば、なんとかやっていけるみとおしがついた。だが、それが最低ギリギリのやっていける線だった。
四月のはじめに、マカリスターに会おうと、ビーク通りの酒場に出かけていった。彼を相手に情勢を語り合うのが、せめてもの心安めになり、自分以外にも多くの人が損害に苦しんでいるのを知るのは、自分自身の苦痛をいくぶんなりともやわらげてくれたからだった。だが、フィリップがそこにいくと、ヘイウォード以外にはだれもいず、フィリップが腰をおろすとすぐ、ヘイウォードはいいだした、
「ぼくは喜望峰に向けて、日曜日に、出帆するよ」
「きみが!」フィリップは大声で叫んでしまった。
ヘイウォードがこんなことをするなんて、まったく思いもかけぬことだった。病院では、医者がいまどんどんとくりだし、政府は、医師の資格がある者ならよろこんで採用し、騎兵として出征したほかの者は、出先で、医学生とわかるとすぐ、病院勤務にまわされた、と知らせてきた。愛国の情熱が全国に澎湃《ほうはい》としてたかまり、社会のすべての階級からの志願兵が集ってきた。「なにになっていくんだい?」フィリップはたずねた。「ああドーセットの義勇農騎兵《ヨーマンリー》(ボア戦争ではインペリアル・ヨーマンリーと呼ばれた)としてさ。騎兵になっていくよ」
フィリップがヘイウォードと知り合ってから、もう八年になっていた。芸術と文学について教えてくれる人物としてのフィリップの情熱的な傾倒から生じていた若いころの親しみは、もうとっくのむかしに消滅していたが、習慣がそれにとってかわり、ヘイウォードがロンドンにいるときには、ふたりは、いつも、週に一度か二度出会っていた。彼は、まだ、繊細な理解力を発揮して本のことを語ったが、フィリップは、寛大な態度をとろうとせず、ときどき、ヘイウォードの話でイライラしていた。彼は、もはや、この世で芸術以外に重要なものはない、と盲目的に信じたりはせず、行動と成功に浴びせるヘイウォードの軽蔑には、我慢ならなくなっていた。フィリップは、ポンス酒をかきまわしながら、そのむかしの交友ヘイウォードがなにかすばらしいことをやるだろうと自分が熱烈に期待していた事実を思い起こした。こうした幻想は、とっくのむかしに、すっかり消滅し、いまヘイウォードにできるのはただ語るだけ、とわかっていた。もう三十五になって、年に三百ポンドでは、以前の若いときほどの暮しをするのは困難と感じ、服は、まだ一流の仕立屋じこみのものではあったものの、以前に限度と考えていたよりズーッとながく着つづけていた。だいたい、太りすぎ、どんなにうまく髪をなでつけても、禿げの事実はかくすべくもなかった。青い目は、どんよりとして冴えず、飲みすぎているのは明らかだった。
「喜望峰まで出ていこうなんて、いったいどうして考えたんだい?」フィリップはたずねた。
「いや、わからない。そうしなければならんと考えただけさ」
フィリップは、おしだまっていた。なにかバカらしくなってきた。ヘイウォードをつき動かしているのは、当人には説明のつかぬ魂の不安なんだな、と理解した。彼の中のある力が、出征して祖国のために戦うのを必要と思わせているのだ。これは奇妙なことだった。愛国心を偏見としか考えず、自分の世界主義《コスモポリタニズム》で陶然《とうぜん》といい気分になって、イギリスを流刑の地とみなしていたからだった。国民としてのイギリス人は、彼の敏感な感受性を傷つけた。世間の人にその生活信条とはまったく逆なことをさせているのは、なんなのだろう? とフィリップはふしぎに思った。野蛮人どもがたがいに殺し合っているとき、ただ傍観し、微笑を浮かべながら見守っている態度こそ、ヘイウォードには似合いのものだった。人間が見知らぬ力の手の中でおどらされるあやつり人形、それに動かされて、人は右往左往しているみたいだった。ときに理性を働かせて、自分の行動の正当化をしたりはするが、これが不可能になると、理性にはお構いなしに、行動にうつっていくのだ。
「人間って、じつにおかしなもんだね」フィリップはいった。「きみが騎兵になって出征するなんて、考えてもいなかったことなんだからね」
ヘイウォードは、ちょっととまどい、ニヤリとし、なにも語らなかった。
「きのう、身体検査を受けてね」とうとう彼はいった。「拷問(フランス語)の苦しみを受けても、自分が文句なしの元気とわかれば、受け甲斐《がい》はあるというとこさ」
英語でも十分なのに、彼が、まだ、フランス語を気どって使う癖を脱却していないのに、フィリップは気づいた。だが、ちょうどそのとき、マカリスターがはいってきた。
「きみと会いたかったんだ、ケアリー」彼はいった。「会社の連中には、あの株をこれ以上もちつづける気がなくなってきてね。市場は、ともかく、ひどい状態、きみに株をひきとってもらいたいというわけなんだ」
フィリップはがっくりした。それがもうどうにもならなくなっているのは、わかっていた。それは、損害をそっくりそのまま認めることだった。ここであわてたりしてはというほこりの気分もあって、彼は冷静に答えた、
「それはつまんないことだと思うな。むしろ、売ってくれないかな?」
「いうだけなら簡単なんだが、売れるかどうかわからんよ。市場は沈滞しきってて、買い手がないんだからね」
「だけど、一ポンド八分の一の値はついてるじゃないか」
「うん、たしかにそうだ。だが、それは意味のないこと、あの株でその金は手にはいらんのだからね」
フィリップは、一瞬、なにもいわないでいた。心を落ち着けようとしていたためだった。
「一文にもならないというのかね?」
「うん、そうだとまではいわんけどね。もちろん、多少の値にはなるさ。だがね、いいかい、買いがつかないんだ」
「それじゃ、すて値で売るだけのことだね」
マカリスターは、穴のあくほどフィリップをジッとみつめた。ひどい打撃を受けたかどうか、見定めようとしているためだった。
「とても気の毒とは思ってるんだけどね、きみ、ぼくたちもみんな、同じ憂き目にあったんだ。戦争がこうまでながびくとは、だれも思ってもいなかったんでね。株を買わせたのは、たしかにぼくだけど、ぼくも買ってるんだからね」
「構いはしないさ」フィリップはいった。「一か八かは、いずれにしても、やらなきゃならんのだからね」
立ちあがってマカリスターと話していた場所から、彼はもとのテーブルにもどっていった。物もいえぬほどびっくりし、突然、頭がガンガンと痛んできた。だが、意気地《いくじ》なしとは思われたくなかった。一時間坐りつづけ、ふたりのいうすべてのことに、熱っぽく高笑いをしていた。とうとう、彼は立ちあがって、帰ることになった。
「かなり冷静に受けとめてくれたね」握手をしながら、マカリスターはいった。「三、四百ポンドも損をするなんて、だれでもいやなことなんだからな」
きたない小部屋にもどったとき、フィリップは寝台に身を投げ、悲嘆に打ち沈んだ。自分の愚かさを身にしみて後悔し、起こってしまった以上はどうにもならず、悔いてもバカらしいと、心に説きつけながらも、そうした気持ちはどうにもならなかった。まったくひどいみじめさだった。ぜんぜん眠られず、過去二、三年間に浪費したあれやこれやのことが、すっかり頭に浮かんできた。頭痛はおそろしいほどひどかった。
つぎの晩、最終便で、清算書が送られてきた。銀行通帳を調べてみると、支払いをすっかりすますと、七ポンド手もとにのこることがわかった。七ポンド! 支払いができるのが、せめてもありがたい点だった。金がない、とマカリスターに白状しなければならなくなったりしたら、どんなつらい思いをしたことだろう。夏の学期には、眼科の助手をしていたので、売りたがっているある学生から、検眼鏡を買うことになっていた。まだこの支払いをすませていなかったが、その話をご破算にしたいと申しでる勇気は、とても出なかった。それに、何冊か本を買わなければならなかった。そうなると、生活費としてのこるのは五ポンドになった。それで生活できるのは、たった六週間だけ。ついで、自分にもいかにも事務的で味も素《そ》っ気《け》もないと思われる手紙を、伯父に一本書き送った。その中で、こんどの戦争で重大な損害を受け、伯父からの援助がなかったら勉強をつづけられなくなったことを述べ、これから一年半、月々の仕送りで計百五十ポンド貸与ねがいたい、それにたいしては利息を払い、収入が得られるようになったら、逐次《ちくじ》元金をかえすと約束した。おそくとも一年半後には医師の資格を獲得し、週に三ポンドで病院の助手資格をとれるのはまず確実、とつけ加えた。伯父はすぐに返事を寄こし、自分としてはなにもできない、市況がドン底にあるとき、ものを売れと要求するなんて、けしからんこと、自分にのこっているわずかなものは、自身にたいする義務からいっても、病気に備えて、とっておかなければならない、といってきた。手紙の最後は説教で、自分は何回も何回も注意を与えてきたが、フィリップはそれを意に介《かい》さず、正直のところ、手紙を受けて驚いたとはいえない、フィリップの浪費と思慮の欠如の結果はいずれこうしたことになるだろう、とながいこと考えていた、となっていた。
この手紙を読みながら、フィリップはカッカとしたり、不安になったりだった。伯父が断ってくるとは夢々思わず、激昂《げきこう》はしたものの、つづいておそってきたのは、まったくの虚脱感だった。伯父の援助がなかったら、医学校はやめなければならず、恐慌《きょうこう》が彼の心をとらえ、ほこりもなにもかなぐりすてて、ブラックステイブルの牧師にふたたび手紙を書き、前より熱をこめて、事情を縷々《るる》訴えた。だが、説明の仕方が適切さを欠いたためだろうが、伯父はどんな窮状に彼が立っているかを理解しなかった。自分の心は変らない、という返事が来たからである。フィリップは二十五歳、もう暮しを立てているべきなのだ。自分が死んだら、多少の金はフィリップにゆくだろうが、そのときまで、びた一文だってお断り、ということだった。フィリップは、手紙を読みながら、ながい年月のあいだ、自分のやり方には不賛成、いま自分の意見の正しさがわかったと感じている男の満足感がそれとわかるように思えた。
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九十九
フィリップは、服の質入れをはじめた。朝食以外の食を一食にきりつめて、出費の節約をはかった。この一回の食事、それにバターつきパンとココアを四時にとって、翌朝までもたせようとした。だが、九時になるとひどくひもじくなり、床にはいらなければならなくなった。ローソンからの借金を考えたが、断られるのがこわさに、それをいいだせなかった。とうとう彼から五ポンド借りることになり、ローソンは気持ちよく貸してくれたが、こういった、
「一週間かそこいらしたら、かえしてくれないか、どうだい? 額縁《がくぶち》屋に払わねばならず、いま懐《ふところ》がえらくさみしいんだ」
かえせないとわかっていたので、その上、かえさなかったら、ローソンがどう思うだろうと考えると、フィリップはすごく恥ずかしくなり、二日すると、手をふれないでその金をかえしてしまった。ローソンは、ちょうど昼食に出かけるところで、フィリップに、来ないか? とさそってくれた。だが、フィリップはほとんど食べられなかった。しっかりとした食事にありついたのが、あまりうれしすぎたからだった。日曜日には、確実にアセルニーのおいしい料理にありつけた。だが、身に起きた不幸をアセルニーに話すのは、はばかられた。この一家は彼のことを比較的ゆったりやっていると考え、自分が文なしとわかったら、以前ほど好意的にむかえられなくなるのではないか、と心配だった。
いつも貧乏はしていたものの、食べるに事欠くといったことは、ついぞ起きたことがなかった。彼がつき合っている連中にも、そうしたことは起きていなかった。なにか顔向けならぬ病気でもしょいこんだように、恥ずかしかった。いま落ちこんだ環境は、完全に彼の経験の領域外のことだった。すっかり度肝をぬかれて、病院にゆきつづける以外に、どうすべきか、見当もつかなかった。なにかが起きるだろう、と漠然と希望をつなぎ、いま起きていることが真実とはどうしても思われず、キングズ・スクールにいった最初の学期のあいだ、自分の生活は夢、いまにそれから目をさまし、もう一度家にもどったのに気がつくだろう、とよく思いこんでいたのが頭に浮かんできた。
だが、すぐ、もう一週間もすれば、すっかり文なしの身になることがわかった。ただちに、なにか金をかせぐことにとりかからなければならなかった。医師の資格をとっていれば、|えび《ヽヽ》足であろうとも、喜望峰に出征できるところだった。医師にたいする要求が、いま、とてもたかまっていたからである。ちんばでさえなかったら、たえず派遣されている義勇農騎兵連隊に入隊もできた。医学校の事務官のところにゆき、だれか劣等生の指導の職を世話してもらえないか、とたずねてみたが、そうした職を世話できるみこみはない、という返事だった。フィリップは、医学関係の新聞の広告を読みあさり、フラム通りで薬局をもっている男の出した無資格助手の募集に応じてみた。面会に出かけていくと、彼にはわかったのだが、医者は彼の|えび《ヽヽ》足をチラリとながめ、フィリップが医学校でまだ四年生だと聞くと、それでは経験不十分、とすぐにいってのけた。だが、フィリップには、これが口実にすぎぬとすぐにわかった。自分が望んでいるほどかけずりまわれないかもしれない助手を、この男はやといたくなかったのだ。
フィリップは、金もうけのほかの手段を考えてみた。フランス語とドイツ語ができたので、会社の通信係りの仕事がみつかるかもしれなかった。こんな仕事は、彼をがっくりさせるものだったが、歯を食いしばった。ほかにする仕事がなかったからである。面接を要求する広告に応募するのは、気おくれがして、できなかったが、書類だけを求める広告には、手紙を出してみた。だが、彼には特記すべき経験もなく、推薦状もなかった。自分のドイツ語もフランス語も商業用のものでないのはわかっていたし、商業用語は知らなかった。速記もタイプライターもだめだった。自分の立場は絶望的と認めずにはいられなくなった。父親の遺言執行人だった事務弁護士に手紙を書こうとも考えたが、書く気にはなれなかった。彼の金が投資されていた抵当証書を、この男のはっきりとした忠告にさからって、売りとばしてしまったからだった。ニクソン氏が自分を目の仇にしているのは、伯父の話でわかっていた。経理士事務所にフィリップが一年つとめただけということから、彼がなまけ者で無能、とニクソン氏はきめこんでいた。
「飢えて死んしまうほうがまだましだ」フィリップはつぶやいた。
一度か二度、自殺してしまおうかと思ったことがあった。病院の薬局からなにか薬をもちだすのはらくだったし、最悪事態に立ちいたったら、安楽死できる手段が手近にあると考えるのは、ホッとすることだった。だが、それは、真剣に彼が考えているコースではなかった。ミルドレッドが自分を放りだしにしてグリフィスと出かけていったとき、彼が味わった苦痛はとても大きく、その苦痛からのがれるために、死にたいと思った。いまの気持ちは、そうではなかった。事故病棟の看護婦長が、人は失恋より金欠で多く死ぬものだ、と話してくれたのを思い出し、自分は例外だなと思うと、おかしくなった。自分の心配をだれかにぶちまけたい気持ちだけはあったが、それを白状する気にはどうしてもなれなかった。恥ずかしかったからである。
仕事さがしは、つづけてやっていた。下宿代は三週間払わず、下宿のおばさんには、月末には金がはいる、と話してあった。彼女はなにもいわず、ただキュッと口を結び、むずかしい顔をしていた。月末になり、多少払ってはもらえまいか、とおばさんにいわれたとき、どうにも都合がつかないと返事するのは、胸がひどくムカムカするほどつらいことで、伯父に手紙を出してみる、きっとつぎの土曜日までには、勘定をぜんぶ決済できるはずだ、と伝えた。
「じゃ、そうしてちょうだい、ケアリーさん。こちらでも家賃を払わなければならず、勘定をそう積もらせておくわけにはいかないんですからね」彼女はこれを怒っていっているわけではなかったが、キリッとしたその態度には、なにかおそろしいものがあった。ちょっと間をおいてから、彼女はつづけた、「つぎの土曜日に払っていただけなかったら、病院の事務官さんにこのことを申しあげることになりますよ」
「ああ、わかりました。大丈夫ですよ」
彼女は、しばらく、ジッと彼をながめ、ついで、ガランとした部屋をみまわした。その話しぶりには力んだところはなく、当り前のことをしゃべっているようだった。
「下に大きな輪切りの肉があってね、台所に来てくだされば、ご馳走しますよ」
フィリップは、足の裏まで赤くなったように感じ、鳴咽《おえつ》が喉をとらえた。
「ありがとう、ビギンズのおばさん。でも、いま、お腹が空いてないんです」
「わかりましたよ」
おばさんが部屋から出ていくと、フィリップは寝台に身を投げ、泣くまいとして、両の拳をにぎりしめた。
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百
土曜日。下宿のおばさんへの支払いを約束した日だった。この一週間じゅうズーッと、なにか起きるものと期待していた。仕事はみつからなかった。いままで、ドン底まで追いつめられたことはなく、ひどくとまどって、どうしたらいいのか、見当もつかなくなった。心の奥底には、こうしたことすべてはとてつもない冗談、といった感情がひそんでいた。四、五枚の銅貨しかのこり金はなく、用のない服は、ぜんぶ売ってしまった。本は何冊かあり、一、二のつまらぬ物はあったが、売ってもせいぜい一、二シリングくらいの代物《しろもの》だった。だが、下宿のおばさんは、彼の出入りに監視の目を光らせ、これ以上部屋からなにかもちだそうとすると、それをさしとめられるかもしれなかった。のこったただひとつの道は、勘定できない、とぶちまけてしまうことだったが、その勇気は出なかった。
六月中旬だった。夜空は晴れて、温かだった。家にもどるまいと決心し、テムズ川がゆったりと静かに流れていたので、つかれるまで、チェルシーの川岸をブラリブラリと歩き、ついで、つかれたので、ベンチに腰をおろして、ウツラウツラとまどろんだ。どのくらい眠ったのか、わからなかったが、いきなりギクリとして目をさました。巡査にからだをゆすって起こされ、そこを立ち去るようにいいつけられた夢をみたためだった。だが、目をあけると、あたりに人はいなかった。どうということもなく歩きつづけ、とうとうチジックまでやってきて、そこでまた、眠り、やがてベンチの固さで目をさました。
夜はとてもながく感じられ、身ぶるいした。自分のみじめさが骨身に応え、いったいどうしたらいいのか、皆目見当がつかなかった。川岸で眠るなんて、恥ずかしいことだった。特別屈辱的なことのように思われ、暗闇の中で頬がポッポとほてってきた。こうして眠っている連中について聞いたことのある話が、頭に浮かんできた。そうした人間の中には将校、聖職者、大学の卒業者もいるということだった。自分もその仲間になり、一列にならんで慈善団体のスープをもらうことになるのか、とも考えた。そのくらいなら、自殺したほうがズッとましだ。こんな暮しをつづけるわけにはいかない。自分がどんなに困っているかを知ったら、ローソンなら助けてくれるだろう。面子にこだわって援助を求めないなんて、バカげたことだ。自分はどうしてこんなに尾羽《おばね》打ち枯らすことになったのだろう? いつも最善と考えることをやろうとしてきたのだが、どれもこれも、そろってうまくいかない。できるときにはいつも、他人を助けてきた。ほかの人より利己主義だったとは思えない。こうした窮境に立たされるなんて、ひどく不当に思えた。
だが、そう考えても、無益なことだった。歩きつづけた。もう明るくなっていた。静けさにつつまれたテムズ川は美しく、早朝の中には、なにか神秘めいたものが感じられた。天気はすばらしく晴れあがりそうで、夜明けの薄青い空には雲ひとつなかった。疲労感が強く、飢えで臓腑《ぞうふ》が噛みきられるようだったが、ジッと坐ってはいられなかった。巡査に声をかけられるのではないかと、たえずビクビクだった。訊問を受けて味わう苦痛がおそろしかったのだ。からだがよごれきったように思われ、水浴がしたかった。ふと気がつくと、ハムプトン・コートまで来ていた。ここでなにか食べないと、泣きだしそうな気分だった。安い食堂をえらんで中にはいっていったが、なにか煮物《にもの》のにおいがして、それをかぐと、ちょっと胸がわるくなってきた。のこりの一日を元気ですごせる栄養分たっぷりのものを食べるつもりだったが、食物をみただけでムカムカした。結局、紅茶一杯とバターつきパンを食べただけだった。
その日は日曜日で、アセルニーの家にゆけることを思い出した。彼らが食べる焼き肉とヨークシャー・プディングを考えたが、おそろしくつかれていて、幸福でさわがしいあの一家を、まともにながめる勇気が出なかった。不機嫌な、みじめな気分だった。ひとりでいたかった。宮殿(一五一五年ウルジー枢機卿が建てて、ヘンリー八世に献じた)の公園にいって、そこで横になろう、と決心した。からだじゅうの骨がズキズキと痛んだ。たぶんポンプはあるだろう。そうすれば、手と顔を洗い、水を飲めるわけだ。ひどく喉が乾いていた。もう飢餓《きが》感は消えていたので、花や芝生や葉のこんもりとした巨木を楽しく思いめぐらした。そこでなら、自分のすべきことをもっとしっかりと考えられそうな気がした。木蔭で草の上にねころび、パイプに火をつけた。節約のために、だいぶながいこと、一日パイプを二服に制限していたが、タバコ入れにタバコがいっぱいつまっているのは、いま、ありがたいことだった。金がなくなったとき、世間の人がなにをしているのか、彼にはわからなかった。やがて、眠りこんでしまった。
目をさますと、もう正午に近く、朝早くロンドンにいって、ものになりそうな広告の返事を出すためには、もうすぐロンドンに向けて出発しなければならないと考えた。死んだら多少の遺産はのこすといっていた伯父のことに思いをめぐらした。この遺産がどのくらいのものか、フィリップにはぜんぜん見当がつかなかった。数百ポンド以上になるはずはない。この相続権をもとにして、どのくらいの金を手に入れられるだろう? だが、老人の賛成が必要で、老人がそれを許したりはしないだろう。
「ぼくのできるただひとつのことは、伯父が死ぬまで、なんとかがんばるだけだ」
フィリップは、伯父の齢を勘定してみた。プラックステイブルの牧師は、優に七十を越えていた。慢性気管支炎をもってはいたが、その病気をかかえながら、いつまでも長生きしている老人は、ざらにいた。それにしても、なにか仕事にありつかねばならなかった。自分の立場が異常なものという感じから、フィリップは脱しきれないでいた。自分と同じ環境にある人たちだって、餓死はしていないのだ。彼がすっかり絶望的な気分にならずにいたのは、自分の経験が事実だということを、どうしても信じる気になれなかったからだった。ローソンから半ソヴリン借りよう、と腹をきめた。公園に一日じゅういて、ひどく空腹になると、パイプをくゆらした。ロンドンに向けて出発するまで、なにも食べまい、と考えた。ながい道中で、体力をたくわえておかなければならなかった。あたりが涼しくなりはじめてから、出発し、つかれると、ベンチで眠った。だれにも心を乱されることはなかった。顔を洗い、髪に櫛《くし》を入れ、ヴィクトリア駅で髯を剃り、紅茶とバターつきパンの食事をとり、パンをかじりながら、朝刊の広告欄に目をとおした。それを読んでいるうち、ふとある有名な百貨店の「備えつけ家具の織り物」部で販売人を求めている広告に目がとまった。だが、妙に気が沈んできた。彼のもっている中産階級の偏見からみれば、店員になるなんて、たまらないことに思えたからだった。だが、肩をすくめた――結局、店員になっても、どうだというのだ? ――そして、それをひとつやってみよう、と決心した。すべての屈辱を受け入れ、わざわざそれにぶつかっていって、運命の神の手をこちらでむりやり動かしているのだという奇妙な感じを、彼は味わっていた。
九時に、ひどく照れながら、百貨店のその部にいってみると、もうたくさんの人が彼より先にそこに集っているのがわかった。十六の少年から四十くらいの男まで、いろいろな年齢の人たちの集りだった。一部の者はボソボソと話し合っていたが、たいていの者はおしだまっていた。彼が列にならぶと、まわりの連中が敵意のこもった目を彼に投げつけた。ひとりの男がこういっているのが聞えてきた、
「こっちで望むただひとつのことは、断られるんだったら、早くそれをいってもらって、ほかんとこにまわれるようにしてくれることだけさ」
彼のとなりに立っていた男は、チラリとフィリップをながめて、こうたずねた、
「経験はあるんですかね?」
「いいや」フィリップは答えた。
相手は、ちょっとだまり、それからいった、「もっと小さな店でさえ、昼食後となると、約束がないと面会謝絶なんですからね」
フィリップは、店員たちをながめた。更紗《さらさ》やクレトン更紗(椅子おおい、窓掛けなどに使う)をきれいにならべている者あり、これはとなりに立っている男が教えてくれたのだが、郵便で来たいなかからの注文を整理している者ありだった。九時十五分ごろに仕入れ係りの主任がやってきたが、外にならんでいるひとりがべつの男にしていた話では、ギボンズ氏がその名らしかった。中年で、背が低く、太り、顎髯は黒々として髪は浅黒く、すべすべし、キビキビと動き、利口そうな顔をしていた。シルクハットをかぶり、フロックコートを着ていたが、襟は葉につつまれた白い天竺葵《てんじくあおい》で飾られていた。彼は、ドアをあけたままにして、自分の事務所にはいっていったが、そこはとてもせまく、隅にアメリカ式の回転机、本棚、戸棚がそれぞれひとつあるだけだった。外に立っている連中は、彼が天竺葵を上衣からぬきとり、水を入れたインク壼にそれをさすのを、ジッと見守っていた。執務ちゅうに花をつけるのは、規則違反だったからである。
この一日じゅう、この親分にとり入りたがっているこの部の店員たちは、この花に舌を巻きつづけていた。
「こんなに美しい花って、みたこともありませんよ」彼らはいった。「まさかご自身で育てたもんじゃないんでしょう?」
「いやあ、わしが育てたんだよ」彼はニッコリし、得意満面になって知的な目を輝かした。
彼は、帽子をぬぎ、上衣を着かえ、手紙類にサッと目をとおし、面会のために待っている連中をながめ、指でちょっと合図を送り、行列でいちばん先の者が事務所にはいっていった。みな、ひとりずつ、彼のところにゆき、質問に答えた。質問はとても手短か、彼の目は応募者の顔の上に釘づけになっていた。
「齢は? 経験は? 前の仕事をやめた理由は?」
彼はそれにたいする応答をジッと聞き、表情はぜんぜん変らなかった。フィリップの番になると、ギボンズ氏がジロジロ自分をながめているようだった。フィリップの服がきれいで、仕立てもかなりきちんとしていて、ほかの連中とはようすがちょっとちがっていたためだったのだろう。
「経験は?」
「なにもないんですが」フィリップは答えた。
「じゃ、だめだ」
フィリップは事務所から出た。この試練は予想したほど苦しくはなかったので、べつに特別失望することもなかった。最初の職さがしで成功するなんて、思ってもいないことだった。新聞はまだもっていたので、また、広告欄を調べてみた。ホウバンにある店もセールスマンを求めていたので、そこにいってみたが、着いたときには、もう話がついていた。その日食事をなにかとるとすれば、昼食に出かける前にローソンのアトリエにゆきつかなければならなかった。そこで、ブロムトン通りをとおってヨーマンズ・ロウに出ていった。
「ねえ、今月末までもうすってんてんなんだ」機会をとらえるとすぐ、彼は切りだした。「半ソヴリン借りたいんだがね、どうだろう?」
借金を申しこむのは、信じられないほどいやなことだった。ケロリとして、まるで恩恵でもほどこしているみたいに、病院の連中がかえす意志のない小金を自分からまきあげていったようすが、頭に浮かんできた。
「ああ、いいいとも」ローソンはいった。
だが、ポケットに手を入れて調べてみると、手もとにはたった八シリングしかないことがわかった。フィリップはがっくりした。
「いや、いいよ、じゃ、五シリング貸してくれないか?」彼はさらりといった。
「じゃ、ほら」
フィリップは、ウェストミンスターの公衆浴場にゆき、入浴料として六ペンスを払い、ついで、食事をした。午後、どうしたらよいのか、どうともわからなかった。病院にもどって、だれかに質問を浴びせられるのはいやだったし、その上、いまそこで、べつに用事はなかった。いままで働いていた二、三の部局では、どうして自分がやって来ないのだろう、といぶかしく思うかもしれないが、好きなとおり考えさせておけばいい、どうということはないのだ。知らせもせずにいきなりやめた学生といえば、なにも自分がはじめてというわけじゃない。彼は、無料図書館にゆき、あきあきするまで新聞を読みあさり、それから、スティーヴンスン(スコットランド生まれの小説家・随筆家・詩人)の『新アラビア夜話』(一八八二年発行の短編集)を手にしたが、どうしても読めないのがわかった。単語がなんの意味ももたず、自分のみじめさを考えつづけていたからである。いつまでも同じことを考えつづけ、こうして思いつめて、頭が痛くなってきた。
とうとう、新鮮な空気を求めて、グリーン公園にゆき、草の上に横になった。不具のわびしさが身にしみた。それがなければ、出征もできたからだった。眠りこみ、足が突然すっかりよくなって、義勇農騎兵連隊に参加して喜望峰に出征した夢をみた。絵入り新聞でみた絵が、この夢の資料になっていて、軍服を着こみ、南アフリカの草原で、ほかの男たちといっしょに、夜、焚《た》き火をかこんでいる姿だった。目をさますと、あたりはまだ明るく、やがて、ビッグ・ベンが七時を報ずるのが聞えてきた。これから先、なにもすることなしにすごさなければならない十二時間がひかえていた。いつまでもつづくように思われる夜がおそろしかった。空には雲が垂れこめ、雨になるのではないかと心配だった。そうなると、どこか宿をとらなければならなくなるだろう。そうした宿の広告が、ランベスの街路灯にはられているのをみたことがあった、快適な寝台、六ペンス。そうしたとこにいったことはなく、そこの悪臭と南京《なんきん》虫やしらみがおそろしかった。できることなら、戸外ですごしたかった。門が閉じられるまで公園にいて、それからブラブラ歩きだした。
つかれはひどかった。交通事故にでも逢えばもっけの幸い、そうなれば、病院に運びこまれ、きれいな寝台に何週間も休めるだろう、という考えが頭に浮かんできた。真夜中にひどく空腹になり、食事をとらなくてはもう一歩も歩けなくなった。そこで、ハイドパーク・コーナーのコーヒー店にゆき、|じゃがいも《ヽヽヽヽヽ》ふたつを食べ、コーヒーを一杯飲み、また歩きだした。気分が落ち着かないので、眠られず、巡査から追い立てを食うのがとてもおそろしかった。巡査を従前とはちがった角度からながめだしている自分に気づいた。今夜は野宿の第三夜だった。ピカディリーでときどきベンチに坐り、朝方近くなって、川岸のほうにブラブラと歩いていった。ビッグ・ベンの鐘の音に耳を傾け、十五分ごとの鐘に気づき、シティ(ロンドンの旧市部)がふたたび目をさますまでの時間を勘定していた。朝になると、わずかの銅貨を使って身づくろいをし、新聞を買って広告欄を読み、もう一度職さがしに出かけた。
こうした生活は、何日間かつづいた。食事はほとんどとらず、体力がひどくおとろえて気分がわるく、その結果、まったく絶望状態とも思える職さがしに出る気力さえほとんどなくなってしまった。ひょいとしたらと考えて商店の裏でながく待たされることにもう馴れ、ぞんざいに追っ払われても平気になった。広告に応じて、ロンドンをのこる隈《くま》なく歩きまわり、自分と同じように、応募してもいつも不採用になっている連中と顔見知りになってきた。一、二の者は話しかけてきたが、彼はつかれ打ちひしがれていたので、それに応ずる気にはなれなかった。ローソンのところにはもういかなかった。五シリングの借金があったからである。頭がぼんやりして、はっきりと考えをまとめられず、身になにが起きようと、そうたいして気にならなくなった。よく泣いた。最初、こうして泣く自身にひどく腹を立て、恥じ入っていたが、そのうち、それが彼の気分を晴らし、とにかく空腹感をへらしてくれる事実がわかってきた。
早朝には、寒さにひどくなやまされた。ある夜、下着を換えようと、自分の部屋にはいっていった。まちがいなくみなが寝こんでいる明け方の三時に、部屋に忍びこみ、五時にそこをぬけだした。床に寝てみたが、うっとりするほどのやわらかさだった。骨という骨がズキズキと痛み、そこに横になって、その楽しみを存分に味わった。まったく陶然《とうぜん》とした気分で、もったいなくって眠れないほどだった。食事不足にはもう馴れ、空腹をそう強く感じてはいなかったが、ただ体力がぬけていた。心の奥底には、たえず自殺の思いがひそんでいたが、渾身《こんしん》の力をふりしぼって、それを考えまいとつとめた。その誘惑のとりこになって、身の動きがとれなくなるのがおそろしいからだった。間もなくなにかが起きるにちがいないのだから、自殺するなんてバカげたことだぞ、とわれとわが心にいって聞かせた。
自分のいまの立場はじつに途方もないもの、真剣に受けとめるわけにはいかない、という印象は、まだ根強くのこっていた。それは、我慢しなければならないが、かならず回復する病気みたいなものだった。毎晩、もうこれ以上ひと晩でもこうした状態には我慢できない、と誓いを立て、翌朝、伯父なり、事務弁護士のニクソンなり、ローソンなりに手紙を書こうと決心したが、いざそのときになると、自分の完全な失敗を認めることになる屈辱感がたまらなくなった。ローソンがそれをどう受けとめるか、見当もつかなかった。ふたりの交際では、ローソンは散漫で軽率、フィリップは自分の常識を自慢の種にしていた。こんどは、自分の愚行の一切合財をぶちまけなければならないだろう。自分を助けてくれたあとで、ローソンの態度がよそよそしくなるのではないか、となにか不安だった。伯父と事務弁護士は、もちろん、なにか手を打ってはくれるだろう。だが、彼らの文句がたまらなかった。だれにも文句をつけられるのは、いやだった。彼は歯を食いしばって、起こったことは、起こってしまったのだから、どうにもならぬ、後悔なんてバカらしいこと、とくりかえし心の中でいっていた。
毎日が果てしなくながく感じられ、ローソンから借りた五シリングは、そうながつづきするはずのものではなかった。アセルニーの家にゆける日曜日が待ち遠しかった。どうしてもっと早くあそこにいかなかったのだろう? と考えても、自力でなんとかしのぎたいと強く望んでいたという以外の理由はみつからなかった。同じような窮乏を味わったことのあるアセルニーは、なにかしてくれると期待をつなげるただひとりの人物だった。たぶん、夕食がすんでから、アセルニーになら、自分が苦境にあるのを話す気になるだろう。アセルニーにどういったらいいか、フィリップは何回となく、心の中でくりかえした。あのうきうきした言葉でアセルニーにうまく逃げを打たれるのではないか、とひどく心配になってきた。それはとてもおそろしいこと、そのために、彼をそうした試練にかけるのは、できるだけ先にのばしたかった。仲間にたいする信頼感を、フィリップはすっかり失っていた。
土曜日の夜は、寒くてビリビリと応えた。フィリップの苦痛はすごいものだった。土曜日の正午から、身をひきずってアセルニーの家につかれ果ててたどりつくまで、食物をぜんぜんとらなかった。最後の二ペンスを、日曜日の朝、チャリング・クロスの便所での洗面と髪の櫛《くし》入れに使い果してしまった。
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百一
フィリップがベルを鳴らすと、窓から頭がひとつピョイとつきだされ、それからすぐに、自分を中に入れようとして子供たちが階段をガタピシ走りおりてくる物音が聞えてきた。彼が身をかがめて子供たちにキスをさせた顔は、青ざめた、心配にやつれた、痩せ細った顔だった。子供たちの元気あふれたこの愛情にすっかり打たれ、気をとりなおすために、口実をつけて階段のとこで立ちどまらなければならなくなった。ヒステリックな興奮状態にあり、どんなことでも、すぐに泣きだしそうになっていた。前の日曜日にどうして来なかったのか? と彼らはたずね、病気だったから、と説明した。彼らは、さらに、どんな病気だったのか知りたがり、子供たちを楽しまそうと、フィリップは神秘めいた病名を口にしたが、その名は、ギりシャ語とラテン語を入りまぜた、あいまいで妙ちくりんなもの(医学の名前にはそういうものがじつに多い)、彼らはよろこんでキーキーいった。彼らはフィリップを客間につれこみ、父親にそれを教えてやろうと、もう一度その名を彼にくりかえさせた。アセルニーは立ちあがって、握手をした。フィリップをにらむようにしてみつめたが、彼の目はまるくてとびだしていたので、いつもにらみつけるような目つきだった。この際にかぎり、自分がどうして気恥ずかしく感ずるのか、フィリップにはわからなかった。
「この前の日曜日には、おいでにならなくて残念でしたよ」彼はいった。
フィリップは、ケロッとして嘘をいえる男ではなく、来なかった理由の説明を終えると、真っ赤になった。そのとき、アセルニー夫人が部屋にはいってきて、彼と握手をした。
「もうお元気になったんでしょうね、ケアリーさん?」彼女はいった。
自分の具合いがわるかったのを、どうして彼女が見当つけたのか、フィリップにはふしぎでならなかった。子供たちと二階にあがってきたとき、台所のドアは閉まっていて、子供たちは二階にいたきりだったからである。
「もう十分しないと、食事はできないんです」ゆっくりとした例の調子で、彼女はいった。「待ってるあいだに、かき立てた卵をミルクにいれたの、いかがでしょう?」
彼女の顔には心配そうなようすがあらわれていて、なにかフィリップを不安にした。彼は、むりしてひと笑いし、お腹はぜんぜん空いていません、と答えた。サリーがはいってきて、食卓の準備をはじめ、フィリップは彼女をからかいはじめた。サリーが、ゆくゆくは、アセルニー夫人の伯母さんくらいの太った女になるだろう、というのがこの一家の冗談の種だったが、このエリザベス伯母さんという人物を、子供たちは一度も会ったことがないのに、ゾッとするほど肥満した女と考えているのだった。
「ねえ、この前会ったとき以来、|いったい《ヽヽヽヽ》どんなことが起きたの、サリー?」フィリップは切りだした。
「べつに」
「たしかに太ったようだね」
「そちらが太らなかったのは、たしかなことね」彼女はやりかえした。「まったく骨と皮ばかり」
フィリップの顔は真っ赤になった。
「サリー、それはしっぺいがえしというもんだよ」父親が叫んだ。「その罰は金髪一本。さあ、ジェイン、鋏《はさみ》をもっといで」
「だって、痩せてることはたしかよ、父さん」サリーは抗議した。「ほんとうに骨と皮ばかりなんだもん」
「そんなことは問題じゃないんだ。痩せたいのなら、まったく自由なんだからね。だが、きみの太っちょは、礼儀はずれのことなんだぞ」
こういいながら、彼は片腕を彼女の腰にまわし、うっとりした目で彼女をみやった。
「食卓の準備をさせてちょうだい。わたしがそれで気持ちがいいんなら、それをべつに気にしてない男の人も何人かいるんですからね」
「このおはね娘め!」片手を芝居気たっぷりにふって、アセルニーは叫んだ。「こうしてわたしに食ってかかる筋は、ホウバンの宝石商のリーヴァイのせがれジョージフが結婚のまぎれもない申し込みをしたことなんですよ」
「それを承知したのかい、サリー?」フィリップはたずねた。
「父さんのこと、まだそれくらいしか知ってないの? ほんとうのことなんて、ひとっことだっていってないのよ」
「よし、あの男、まだきみに結婚の申し込みをしてないんだったら」アセルニーは息まいた、「イギリスの守護神の聖ジョージさまと陽気なイギリスにかけても誓うぞ、あの男の鼻をひっつかんで、どんな考えなのか、すぐにきいてやることにしよう」
「坐ってちょうだい、父さん、食事の用意ができたのよ。さあ、みんな、向うへいって手を洗ってきなさい。ずるしちゃいけないことよ。ご飯のときには検査しますからね。さあ、さあ」
食べだすまで、フィリップは腹が飢えていたが、いざ食事になると、胃が食事を受けつけようとしないのがわかり、結局、食事はほとんどとらぬことになった。頭がつかれてぼんやりとし、アセルニーが、ふだんの習慣とはことちがって、ほとんどしゃべっていないのにも気づかないでいた。気持ちのいい家の中に坐って、フィリップはホッとしたが、ときおり、窓の外にチラりと目をやらずにはいられなかった。その日はあらし模様で、よい天気はくずれ、寒くて、ピリピリする風が吹きすさみ、ときどき、雨まじりの突風が窓にたたきつけるように吹きよせていた。
フィリップは、今晩、どうしよう? と考えた。アセルニーの一家は早寝なので、十時以後までここにグズグズはしていられなかった。こうしたわびしい闇夜の中に出ていくことを思うと、気が滅入った。外でひとりになっているときより、いまこうして友人たちといっしょにいるときのほうが、それは、なおおそろしく思えた。戸外で夜をすごさなければならない人はたくさんいるんだ、と心に説きつづけた。話で心をまぎらわそうともしたが、話の途中で、窓にたたきつける雨のひと打ちが彼をギョッとさせた。
「三月の天気のようですな」アセルニーはいった。「海峡をわたるのがいやになる日ですよ」
やがて食事が終り、サリーがはいってきて、食器を片づけた。
「安タバコはいかがです?」葉巻きを一本わたして、アセルニーはいった。
フィリップは、それを受けとり、煙をスーッとすいこんだが、じつにうまく、驚くほど心を静めてくれた。サリーの片づけが終ると、アセルニーは、出ていったあと、ドアを閉めるようにいいつけた。
「さあ、これで邪魔ははいりませんよ」フィリップのほうに向きなおって、彼はいった。「ベティとは話がついてて、呼ぶまで子供たちがここにはいってはこないんですからね」
フィリップはギョッとしてアセルニーをながめたが、まだその言葉の意味がはっきりつかめぬうちに、いつもの癖の身ぶりで眼鏡を鼻に固定させて、アセルニーは語りつづけた。
「なにか具合いがわるいことでも起きたのかどうかと、この前の日曜日にお便りし、返事がなかったんで、水曜日、そちらの下宿をおたずねしたんです」
フィリップは頭をそらし、返事をしなかった。胸がドキドキしてきた。アセルニーはそれ以上話さず、やがて、沈黙はフィリップにどうにも我慢ならなくなってきた。しゃべる言葉はひとことも、頭に浮かんでこなかった。
「下宿のおばさんは、土曜日の晩から帰ってこない、ひと月分の下宿代がとどこおってる、と話してましたよ。この一週間、どこで寝てたんです?」
答えようとすると、胸がムカムカしてきた。フィリップは窓の外をジッとみつめていた。
「どこで寝たということじゃないんです」
「ずいぶんさがしましたよ」
「どうしてです?」フィリップはたずねた。
「ベティとわたしは、同じように尾羽打ち枯らしたこともあったんです。ちがうとこは、ただ、世話をみなけりゃならない赤ん坊どもがいたということだけ。どうしてここに来てくれなかったんです」
「そんなこと、とてもできませんよ」
ここで泣きだしたりしては、とフィリップは考えていた。すっかりからだの力がぬけ、目を閉じ、眉を寄せて、心をしっかり落ち着けようとした。急にアセルニーのことが腹立たしくなった。放りだしにしておいてくれないからだった。だが、彼はもうがっくりしていた。やがて、まだ目を閉じたままで、声の乱れをみせまいとしてゆっくり、彼は、過去数週間の危険な出来事の一切を話した。こうして話をしているうちに、自分のやったことがいかにも間のぬけたことのように思われて、話をするのがますます苦しくなった。アセルニーは自分のことをまったくの阿呆《あほう》と考えるだろう。
「そうなると、仕事がみつかるまで、そちらはわれわれといっしょに暮すということになりますな」話が終ると、アセルニーはいった。
フィリップは、なぜかもわからず、顔を赤くした。
「ああ、それはほんとにうれしいんですが、そんなことはできません」
「どうして?」
フィリップは返事をしなかった。相手の荷になると思って、本能的に断り、人から恩恵を受けるのを遠慮しようとする生まれつきの性格があったからだった。その上、アセルニー一家が貧乏なその日暮しをしていて、大家族をかかえて、赤の他人の世話をする場所もゆとりもないのは、よくわかっていた。
「もちろん、ここに来なけりゃいけませんぞ」アセルニーはいった。「ソープが兄弟のだれかといっしょに寝て、その寝台にあなたが寝たらいいんです。そちらの食い扶持《ぶち》でこちらがどうということはないんですからね」
フィリップはおそろしくて口がきけず、アセルニーは、ドアのところへいって、妻を呼んだ。
「ベティ」彼女が部屋にはいってくると、彼はいった。「ケアリーさんはここにおいでになるよ」
「まあ、うれしいこと」彼女はいった。「寝台の準備をしてくるわ」
彼女の話しぶりは、とても温かでやさしく、すべてを当然のことに思っているふうだったので、フィリップは深い感動を受けた。人が自分に親切をしてくれるなどとは夢々思わず、そうした態度に接すると、彼はびっくりし、感動したのだった。こうなると、大粒《おおつぶ》の涙がふたつ、ホロリと頬を流れるのを、どうにもおさえようがなかった。アセルニー夫妻は段どりを相談し合い、気の弱さで彼がどんな興奮状態に落ちているか、気づかぬふりをしていた。夫人が部屋を出ていくと、フィリップは椅子の背にもたれかかり、窓の外をながめて、ちょっと笑った。
「野宿するのに、これじゃそういい晩ともいえませんね、えっ?」
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百二
アセルニーは、彼自身が働いている生地商人の大きな商社ですぐ仕事がみつかる、とフィリップにいった。何人か店員が出征し、リン・アンド・セドレー商社は、愛国心に燃え立って、そうした人たちの地位を空けたままとっておくことを約束し、出征兵士の仕事はのこった者に転嫁され、それでのこった者の俸給が増額されるわけではなかったので、会社としては、愛国心を発揮し、同時に節約をおこなうことができるわけだった。だが、戦争は継続し、市況は少し立ちなおりをみせていた。休暇は近づき、そうなると、社員は二週間ぶっつづけに休むことになり、会社としては、店員をもっとふやさなければならなかった。フィリップは、自分のにがい経験に照らして、そうなっても自分がやとってもらえると自信があるわけではなかったが、アセルニーは、自分は商社での重要人物である以上、支配人は断れるはずはない、とがんばった。フィリップは、パリで絵の修業をしたのだから、それがとても役に立つはず、ただ少し待つだけのこと、そうすれば、衣裳のデザインやポスターの絵でみいりのある職につけるはず、ということだった。
フィリップは夏の売りだしのポスターを描き、アセルニーはそれをもっていった。二日後、彼はそれをもち帰り、支配人は、ひどく感心したが、その部に空席がないのを大いに残念がっていた、ということだった。ほかになにか仕事はないだろうか? とフィリップはたずねてみた。
「ないようですな」
「ほんとにそうなのでしょうか?」
「そう、じつはあした、売り場の案内人の募集をするんですがね」眼鏡越しにどうかといったふうに彼をみながら、アセルニーはいった。
「ぼくがその職につけるみとおしはあるでしょうか?」
アセルニーは、ここで、少しドギマギしていた。はるかにもっとすばらしい職につける、とフィリップにいっていたからで、さればといって、貧乏なので、いつまでもフィリップの世話をみてやる余裕はとてもなかったからだった。
「もっとましなものを待ってるあいだ、それをやったらいいでしょうな。会社にもうやとわれてたら、もっといいチャンスがいつでもあるわけなんですからな」
「もうほこりなんかは、もってませんからね」フィリップはニヤリとした。
「その気なら、あした朝八時四十五分にそこにいかなければならないんですよ」
戦争が進行ちゅうにもかかわらず、就職はなかなか困難だった。フィリップが店に出かけていったとき、たくさんの人がもう待っていたからである。自分の職さがしでもうみたことのある顔がいくつかあり、午後公園で寝そべっているのをながめた男もいた。いまのフィリップには、それで、この男が自分と同様の宿なしで、野宿しているのがわかった。集った男たちは種々さまざま、老いも若きもあり、背の高い者、低い者がいた。どれもこれも支配人との面会で、りゅうとしたとこをみせようとし、気をつかって髪に櫛を入れ、細心の注意を払って手をきれいにしていた。こうした連中は廊下で待っていたが、あとでフィリップにわかったことだったが、そこは食堂と作業室に通じる通路だった。そこには、数ヤードいくごとに、五、六段の階段がついていた。店には電灯がついていたが、ここはガス灯だけ、それをこわさないようにと、針金のおおいづきのもので、うるさい音を立てて燃え立っていた。
フィリップは時間どおりにきちんと来たのだったが、事務室に呼び入れられたときには、十時近くになっていた。この事務所は三角形で、チーズのきれを横だおしにしたよう、壁には、コルセットを着けた女の絵が何枚か、それに、二枚のポスターの校正刷りがはってあり、そのひとつは緑と白の大きな縞《しま》模様のパジャマを着た男の絵、のこりは紺碧《こんぺき》の海原を突っ走る満帆の船の絵だった。そして、帆の上には「夏期大売り出し」と大きな字で印刷されてあった。事務所のいちばんひろい側は陳列窓の裏に当り、そのときは窓の飾りつけの最中、店員が、面会のときにも、チョコチョコと出入りしていた。
支配人は手紙を読んでいたが、血色のいい男で、髪と大きな口髭は薄茶色、懐中時計の鎖のまんなかから、束になったフットボールのメダルがいくつかぶらさがっていた。わきに電話のついた大きな机にシャツ一枚で坐り、彼の前には、アセルニーの仕事であるその日の広告と、ボール紙にはりつけた新聞からの切りぬきがあった。彼はチラリとフィリップに一瞥を投げたが、話しかけようとはせず、隅の小さなテーブルに坐っていたタイピストに手紙の口述をし、それからおもむろに、フィリップの各別、年齢、経験をたずねた。高いキンキンする声で下町なまりをまぜて話したが、その声は、ふだん、どうにもおさえのきかぬものらしかった。フィリップが気づいたことだが、この男の上歯は大きいそっ歯、しかも、グラグラしているらしく、人がグイッとそれを強くひっぱったら、ぬけそうな感じだった。
「わたしについては、アセルニーさんからもうお話があったと思いますが……」フィリップはいった。
「ああ、きみが例のポスターを描いた若い男かい?」
「そうです」
「あれじゃ、だめさ、ぜんぜんだめだ」
こういって、フィリップをジロジロみていたが、いままで面会してきた男たちとフィリップが多少ちがっているのを、どうやら気づいているようだった。
「いいかね、フロックコートを買わにゃいかんね。そいつをもっちゃいないんだろう。どうやらきちんとした若い者《もん》のようだな。絵を描いたってもうけにゃならんことは、わかってんだろうな?」
自分がやとわれるのか、やとわれないのか、フィリップには見当がつかなかった。相手は、敵意満々といったふうに、言葉をたたきつけてきた。
「家はどこにある?」
「父も母も、子供のときに、死んじまいました」
「わしは、若い連中にチャンスを与えてやるのが好きでね。多くの者《もん》にそうしたチャンスを与えてやり、いまは部長になり、わしには感謝してるよ。そいつは認めてやらなければなるまい。わしがしてやったことを、よーく知ってるわけさ。仕事のドン底からやりだせ、こいつが商売を身につけるただひとつの秘訣なんだ。それでがんばってけば、トントントンと出世街道とどまるところを知らずといったとこさ。商売に性《しょう》が合ってたら、いずれ近い将来には、きっとわしくらいの地位にはのぼれるよ。若い衆、そいつは忘れんようにな」
「最善はつくすようにします、|ハイ《サー》」フィリップはいった。
できるだく多く「|ハイ《サー》」を入れなければならぬことは、わかっていたが、どうもそういうと妙な感じにひびき、そのやりすぎが心配だった。支配人は、おしゃべりが好きな男だった。それをやれば、自分がどんなに重要人物かといううれしい感じを与えたからで、そのおしゃべりが終るまで、採用決定はフィリップに伝えられなかった。
「よし、きみなら使えるだろう」とうとう最後に、おさまりかえって彼はいった。「とにかく、ためしにやとってみることにしよう」
「ありがとうございます、|ハイ《サー》」
「仕事はすぐにはじめてくれたまえ。週給六シリング、それに生活費はこちらで負担だ。食住一切支給だよ。六シリングは小遣《こづか》いといったとこ、月払いで、自由に使っていいわけだ。月曜日からはじめてくれたまえ。それで文句はないだろうな?」
「ありません、|ハイ《サー》」
「ハリントン通り――どこにあるか知ってるかね?――シャフツベリ大通りにあるんだ。そこがきみの宿り場所、十番だよ。日曜日の夜、希望なら、そこに泊ってもいい。それは好きなようにしていいが、さもなければ、荷物は月曜日にそこに送りこんでもいいよ」支配人はうなずいた。
「じゃ、これで終り」
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百三
アセルニー夫人が金をフィリップに貸してくれ、下宿のおばさんに支払いをすませ、自分のものをそこから運びだすことができるようにとりはからってくれた。五シリングと、それにある服の質札をそえて、かなりからだにピタリと合うフロックコートを質屋から買うことができた。のこりの服はぜんぶとりもどした。荷物は運送屋のパターソンにたのんでハリントン通りに送り、月曜日の朝、アセルニーといっしょに店に出かけた。アセルニーは、彼を衣裳部の仕入れ係りに紹介し、向うにいってしまった。この仕入れ係りは、サムソンという感じのいい、コセコセした三十がらみの小男で、フィリップと握手をし、少なからず鼻にかけている教養ぶりを発揮しようとばかり、フランス語を話せるか? とたずねかけてきた。フィリップが知っていると答えると、彼はびっくりした。
「ほかの外国語は?」
「ドイツ語なら話せます」
「いやあ! ぼく自身もときどきパリに出かけてね。フランス語、話せますか?(フランス語)といった式さ。マクシム(パリの高級レストラン)にいったこと、ありますかな?」
フィリップの居場所は、「衣裳部」の階段をのぼりきったとこにあった。仕事は、客をさまざまな部門に案内することだったが、サムソン氏がペラペラしゃべり立てたところによると、そうした部門の数はすごく多いらしかった。いきなり、彼はフィリップがびっこをひいているのに気づいた。
「あれっ、脚をどうしたんです?」彼はたずねた。
「|えび《ヽヽ》足でしてね」フィリップは答えた。「でも、歩いたり、そのほかのどんなことにも、べつに支障はありませんよ」
仕入れ係りは、そうかな? といったふうに、フィリップの足をちょっとみつめ、支配人がどうしてこんな男をやとったんだろう? といぶかしがっているのが、フィリップにはわかった。自分のからだに具合いがわるいところがあるのに支配人は気づいていなかったのを、フィリップはちゃんと知っていたのだった。
「初日にきみがそれをぜんぶ憶えこむものとは、べつに思っちゃいませんよ。なにかわかんないとこがあったら、若い女のだれかにききさえすればいいんですからな」
サムソン氏は、そういって、向うに向いてしまい、フィリップは、あれこれの部門がどこにあるかを憶えこもうとしながら、案内を求めている客がいないかと、心配そうにあたりをみまわした。一時になると、食堂にあがっていった。大きな建物の最上階にある食堂は、大きく、ながく、採光は十分だったが、ほこりを入れないようにと、窓という窓は閉められ、料理のいやなにおいがムンムンこもっていた。テーブル掛けを敷いたながいテーブルがいくつかあり、間隔をおいて水を入れたガラスびんがおかれ、中央には塩入れの壺と酢《す》のびんがあった。店員たちはワイワイいいながらここにはいってきて、十二時半にここで食事をした人たちの体のぬくもりがまだのこっているベンチに腰をおろした。
「漬け物がないぞ」フィリップのとなりの男がいった。
この男は、背の高い痩せた青年で、鈎《かぎ》っ鼻、ぼってりと青ざめた顔をし、頭はながくて、デコボコ、頭の骨がそこここで妙なふうにおしつぶされた感じ、額と首のあたりには、赤くふくれあがった大きな|にきび《ヽヽヽ》が吹きだしていた。ハリスがこの男の名だった。日によってまぜた漬け物を大盛りにした大きなスープ皿が出されることが、フィリップにわかってきた。漬け物は店員の大好物だった。ナイフもフォークもなかったが、すぐ、白服姿の太った大きなボーイが両手にそれをいっぱいかかえてはいってきて、それをガチャガチャッとテーブルのまんなかに投げだした。それぞれは必要な道具を手にしたが、きたない水で洗ったばかりなので、生ぬるく、脂でヌルヌルしていた。肉汁の中に肉が泳いでいるような料理を盛った皿が、白服姿のボーイたちによって手わたされたが、手品使いのような早業でそれぞれの皿を投げだすとき、肉汁はこぼれてテーブル掛けをよごした。ついで、ボーイはキャベツと|じゃがいも《ヽヽヽヽヽ》の盛り合せの大皿を運びこんできたが、それをみると、フィリップの胸はムカムカした。みんながそれに酢をたっぷりかけているのがわかった。ものすごい物音だった。店員たちは話し、笑い、どなり、ナイフとフォークのガチャガチャと鳴る音、それに、むさぼり食べる奇妙な物音がまじっていた。持ち場にもどったとき、フィリップはホッとした。それぞれの部門がどこにあるかが頭にはいりはじめ、だれかに道をたずねられても、前ほど店員にたずねなくともすむようになった。
「まず右へ、つぎに左へ、おいでくださいませ、奥さま」
一、二の女店員が、ほんのひとことだが、店が暇になったとき、彼に話しかけてきた。どうやら、品定めをやっているらしかった。五時に、お茶でふたたび食堂にあがっていくことになった。坐れるのがうれしかった。バターをたっぷりぬった大きなパンのきれがあり、多くの者はジャムの壺をもっていて、それをある場所にしまいこみ、壼にはそれぞれの名が書きつけられてあった。
六時半に仕事が終ったとき、フィリップはもうヘトヘトだった。食事のときにとなりに坐ったハリスは、睡眠の場所になっている家に案内するために、ハリントン通りにつれていってやろう、といってくれた。彼の話によると、彼の部屋に空いた寝台がひとつあり、ほかの部屋は満員なので、フィリップはそこに入れられるだろう、ということだった。ハリントン通りの家は、以前には靴屋の店で、そこが寝室となっているのだった。窓の四分の三が板ばりになっていたので、とても暗く、しかも、この窓が開かないときているので、通風は、高い天井にある小さな天窓からのものだけだった。かびくさいにおいがただよい、自分の寝室がそこでないのを、フィリップはありがたく思った。ハリスは、二階にある居間に彼を案内した。そこには古ピアノがあったが、その鍵盤たるや、一列にならんだ虫食いの歯のよう、テーブルの上には、蓋《ふた》のとれた葉巻きタバコの箱に、ドミノのこまがひと組入れてあり、古い『ストランド・マガジン』(絵入りの総合雑誌)と『グラフィック』(一八六九年創刊の絵入り週刊新聞)が放りだされてあった。そのほかの部屋は、寝室として使われていた。フィリップが寝るはずの部屋は、この家のいちばん上の階にあり、そこには、六つの寝台が入れられ、そのそれぞれのわきに、トランクか箱といったものがおかれてあった。ただひとつの家具はひとつきりの箪笥で、大きなひきだしが四つ、小さなひきだしがふたつついていたが、新米《しんまい》というわけで、フィリップは小さなひきだしを当てがわれた。それに鍵がついてはいたものの、みんな同じ鍵なので役には立たず、貴重品はトランクに入れたほうがいい、というハリスの話だった。炉棚の上には鏡がひとつおかれてあった。ハリスに洗面所をみせてもらったが、そこは、一列に洗面器が八つならべてあってかなりひろく、ここでみなが洗濯をすることになっていた。その奥にもうひと部屋あり、そこには変色した水槽がふたつあって、木の部分は石鹸でよごれ、さまざまな高さの浅黒い筋の環がついていたが、これは、そこにはいった人の湯の入れ方の量をあらわしているものだった。
ハリスとフィリップが部屋にもどると、背の高い男が服を着換え、十六くらいの少年が、髪を櫛でとかしながら、精いっぱいに口笛を吹きまくっていた。間もなく、ひと言もいわずに背の高い男は出てゆき、ハリスは少年にウィンクし、少年は、まだ口笛をつづけながら、ウィンクをかえした。ハリスの話によると、男はプライアーという名前、以前には陸軍にいて、絹製品のほうにつとめ、あまり人とはつき合わず、恋人と会うために、あんなふうに挨拶もせず、毎晩出ていくそうだった。そのハリスも出ていき、のこるは少年ばかりになって、フィリップが荷ほどきをしていると、少年はジロジロとフィリップをながめていた。名はベルといい、小間物部でただの年期奉公をしているのだった。フィリップの夜会服に強く興味を湧かし、この部屋のほかの連中の話をして聞かせ、フィリップ自身のことをあれこれと細かにたずねた。陽気な少年で、話の合い間には、声変りしたしわがれ声で演芸場の歌の一節を歌っていた。荷ほどきが終ると、フィリップは街路に散歩に出かけ、群集をながめ、ときどきレストランの戸口の外に足をとめて、そこにはいっていく人たちをジッと見守っていた。
空腹になり、そこで、バースの菓子パン(サマセット州バース特産の一種の味付けパン)を買い、ブラブラと歩きながら、それを食べた。監督、つまり、十一時十五分にガスを消しまわる男に掛け金の鍵をわたされていたが、閉めだされるのが心配だったので、早目に帰った。もう罰金制度のことは耳にしていたが、十一時をまわってから帰ると一シリング、十一時十五分をすぎると半クラウン払わなければならず、後者の場合は、その上、それが報告までされることになっていた。これを三回かさねると、解雇になるわけだった。
フィリップが帰ったとき、あの軍人だった男以外の者はもどってきていて、ふたりはもう床にはいっていた。フィリップはワッというさわぎでむかえられた。
「おお、クラレンス! ひどいやつだ!」
みると、ベルが長枕にフィリップの夜会服を着せているのだった。少年はこの冗談に大満悦だった。
「懇親会の晩に、クラレンス、そいつを着なけりゃだめだぞ」
「注意しないと、リン商店(フィリップがつとめている店の名)の美女のお目にとまることになるぞ」
この懇親会の晩のことは、もうフィリップの耳にはいっていた。それに当てる金が賃銀からとられているのが、店員たちの不平の種になっていたからである。それは一月《ひとつき》二シリングの金で、医療費と古小説類の図書費にも当てられていた。だが、それ以外に四シリングが洗濯代としてさしひかれるので、週給六シリングのうちの四分の一が、結局、天引きされることが、フィリップにわかってきた。
大部分の男たちは、ふたつに切った巻きパンのあいだに脂肪分の多い部厚なベイコンをはさんで、食べていた。店員のふつうの夕食になっているこうしたサンドウィッチは、数軒はなれた小さな店から、それぞれ二ペンスで仕込まれた。軍人だった男が帰ってきて、だまったまま、さっさと服をぬぎすて、床にとびこんでしまった。十一時十五分にガスがグラッと大きく燃えあがり、五分後に消えた。軍人だった男は眠りこんだが、ほかの連中は、パジャマと寝巻きのシャツ姿で、大きな窓辺に群らがり、下の街路をとおる女たちにパンののこりを投げつけ、おどけ文句をどなり散らした。六階の向い側の家は、ユダヤ人の仕立屋の作業場で、十一時に仕事が終った。部屋の採光は明るく、窓にはブラインドがかかっていなかった。この因業《いんごう》な仕立屋の娘――この一家は、父親と母親、ふたりの幼い少年、それに二十歳の娘で構成されていた――は、仕事が終ると、灯りを消しにまわったが、ときどき、職人からの恋の打ち明け話をジッと聞いていた。フィリップの部屋の店員たちは、向うの家の男たちがなんとかあとにのころうと策略をめぐらしている光景を、興味をかき立てながら見入り、だれが成功するかに、わずかな金を賭けたりしていた。真夜中になると、この街路の端の「ハリントン・アームズ」(酒場の名であろう)から客が閉めだされ、その後間もなく、この部屋でも、みなが寝てしまった。戸口のいちばん近くで寝ていたベルは、寝台から寝台へと部屋をとびまわり、自分の寝台にいっても、話をやめようとはしなかった。とうとう、軍人だった男のいびきのほかは、すっかり静かになり、フィリップも眠りこんだ。
翌朝七時になると、ベルが大きな音を立てて鳴り、それで目をさました。八時十五分前までに、全員服の着つけを終り、靴下をはいてあわただしく階下にかけおり、自分の靴をさがした。朝食のために、オクスフォード通りの店に駆けていきながら、靴紐を結ぶといったあわてぶりだった。八時より一分でもおくれれば、食事は召しあげ、その上、一度中にはいったら、食事に外に出るのは禁止だった。ときどき、間に合わないとわかると、近くの例の小さな店に寄り、菓子パンをふたつほど買いこむこともあった。だが、これは出費になるわけで、たいていの者は、そのまま昼食まで空き腹で我慢することになった。フィリップは、バターつきパンを食べ、紅茶を一杯飲み、八時半には、ふたたび一日の仕事をはじめた。
「まず右へ、つぎに左へおいでくださいませ、奥さま」
間もなく、質問にたいしてまったく機械的に答えられるようになった。仕事は単調、とてもつかれた。数日たつと、足がひどく痛み、立っていられないくらいだった。厚いやわらかいじゅうたんで、足がポッポとほてり、夜靴下をぬぐのがつらいほどになった。これは、みなのこぼしている苦痛で、仲間の「案内人」の連中は、汗でむれて靴下も靴もくさってしまう、といっていた。
彼の部屋の全員も同じ苦痛になやみ、足を布団の外に出して眠って、痛みを多少やわらげていた。最初、フィリップはぜんぜん歩けず、水を張った桶《おけ》に両脚を入れたまま、ハリントンの例の居間で幾晩かすごさなければならなくなった。こうしたさいの彼の仲間は、小間物部のベルで、彼はよくこの宿舎にのこって、集めた切手の整理をやり、小さなはりつけ用紙で切手をはりながら、変哲もない調子で口笛を吹いていた。
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百四
懇親会は、隔週の月曜日の夜におこなわれ、フィリップがリン商店に奉職した第二週のはじめに、それが開かれた。自分の部の女のひとりと、彼はいっしょにいく約束をした。
「適当につき合ったらいいのよ」彼女はいった、「あたしと同じようにね」
これは、四十五になる小女《こおんな》のホッジズ夫人だったが、ひどく髪を染め、顔は黄ばみ、一面に細い血管を網の目のようにはりめぐらし、薄青い目の白目は、すっかり黄色になっていた。この女は、フィリップにおぼしめしがあるらしく、まだ店に来てから一週間にもならないのに、彼を洗礼名で呼んで、親しみぶりを発揮していた。
「身の零落《れいらく》がどんなもんか、ふたりとも知ってるんですもんね」彼女はいった。
フィリップヘの話では、彼女の本名はホッジズではないということだったが、彼女は、いつも、「あたしの亭主のオッジズ」(ロンドンの下町なまりではh音がぬけ、オッジズになる)といっていた。この亭主は法廷弁護士で、彼女をひどく虐待し、その結果、まあ、ひとり暮しのほうがまだましというわけで、別れてしまったのだったが、ねえ、あんた――彼女はだれにでも、ねえ、あんた、と呼びかけた――ひとり暮しがどんなに大変なもんか、身にしみてわかったわ、といっていた。ふたりは、いつも、宿舎でおそい夕食をとった。この女の癖は、とてつもなく大きな銀のブローチのピンで歯をほじくることだった。このブローチは、ふつうの鞭《むち》と狩猟用の鞭を交錯《こうさく》させた形をしていて、まんなかにふたつの拍車がついたものだった。フィリップは、新しい環境で、どうも居心地がよくなく、店の若い女たちは、彼のことを「気どり屋」と呼んでいた。ある女は彼のことを「フィル」と呼びかけ、彼としては、自分に話しかけられたものとは夢々思わず、なんの返事もしなかったが、女はツンと頭をそらせ、「思いあがった男」といい、つぎのときには、特別に皮肉な調子で「ケアリーさん」と改まって呼んだ。この女はミス・ジューエルといい、医者と結婚するということだった。ほかの女たちは、この男とは一度も会ったことがなかったが、あんなにりっぱな贈り物をする以上、紳士にちがいない、と噂《うわさ》していた。
「みんなのいうことなんて、気にすることはないわ」ホッジズ夫人はいった。「あたしだって、あんたと同じ経験をしてきたのよ。かわいそうに、あの人たち、あの程度のもんでしかないの。ほんと、あたしと同じようにがんばったら、いずれは好かれるようになることよ」
この懇親会は、地下のレストランで開かれ、踊り場の場所をつくるようにと、テーブルは一方の側に寄せられ、ゲームごとに相手を変えてホイストができるようにと、もっと小さなテーブルがいくつかおかれてあった。
「お偉方《えらがた》には早くできあがってもらわなくちゃいけないのよ」ホッジズ夫人はいった。
彼女は彼をベネット嬢に紹介したが、この女は、このリン商店の最高の美女、「スカート類」の仕入れ係りで、フィリップがはいっていったとき、「男子用洋品類」の仕入れ係りと話をしていた。ベネット嬢は大柄の女で、厚化粧をしたとても大きな赤ら顔をし、胸は威風堂々とした大きさで、亜麻色の髪は、えらく手教をかけて結《ゆ》いあげられていた。人目をひくほどケバケバしく着飾ってはいたが、カラーを高く立てた黒衣裳はまんざら捨てたものでもなく、なめらかで光沢のある黒手袋をはめ、そのままの姿でホイストをやっていた。首にはずっしりとした金の鎖をいくつか巻き、手首には腕環をつけ、写真入りの円形のペンダントをさげていたが、そのひとつにはアレクサンドラ女王(エドワード七世の妃)の写真がおさめられてあった。黒い繻子《しゅす》の手さげをもち、センセン(チューインガムのようなものだろう)を噛んでいた。
「お会いできて、うれしいわ、ケアリーさん」彼女はいった。「この懇親会には、はじめてでしょ? ちょっと照れくさいでしょうが、ほんと、そんなこと、ちっともないのよ」
みんなをゆっくりくつろがせようと、彼女は一生けんめい努力し、人の肩をポンとたたき、大いに笑っていた。
「あたし、いたずらっ子でしょ?」フィリップのほうに向いて、彼女は叫んだ。「あんた、あたしのことをどう思ってんのかしら? でも、どうしても、そうなっちまうのよ」
この夜の懇親会に参加する連中がゾクゾクとやってきたが、大部分は若い連中、恋人のいない少年たち、いっしょに散歩してくれる男をまだみつけていない娘たちといったものだった。何人かの若い男たちは背広を着こみ、夜会用の白ネクタイを着け、赤い絹のハンカチをもっていた。この連中はなにか芸をやろうとしていて、セカセカしながらも放心したようなようすを示し、自信満々の者あり、神経を立てている者ありで、心配そうに観客をみやっていた。やがて、豊かな髪をした少女がピアノに向って坐り、さわがしく鍵盤に手を走らせた。観客が落ち着くと、あたりをみまわし、自分がひく曲の名を知らせた。
「『ロシアの旅』」
一斉に拍手が湧き起り、そのあいだに、彼女はたくみに手首に鈴をつけた。ちょっとほほ笑んで、すぐにたくましい曲を演奏しはじめた。終ると、前にもます拍手が起き、拍手が静まると、アンコールとして、海の音を真似た曲を演奏した。打ち寄せる波をあらわすために、ちょっと顫音《せんおん》があり、嵐を示すものとして、大きな音を出すペダルを踏みしめて、轟音をひびかせた。このあとで、男が『別離の言葉』を歌い、アンコールとして『歌で眠らせて』をそえた。観客は観賞に節度をきちんとあらわし、演ずる者は拍手を受けて一度アンコールをやり、嫉妬心を起こさぬようにと、みんな同じ拍手を受けていた。ベネット嬢はスーッとフィリップのところに寄ってきた。
「きっとピアノか歌がおできなんでしょう、ケアリーさん?」彼女はいたずらっぽくいった。「ちゃんと顔に書いてありますよ」
「いや、だめなんです」
「朗読もなさらないの?」
「客間用の芸は、ぜんぜんだめなんです」
「男子用洋品類」の仕入れ係りは、有名な朗読家で、彼の部の全員から大声でそれを求められ、ふたつ返事で、ながい悲劇的な詩の朗読をはじめた。その最中、彼は目をギョロつかせ、胸に片手を当て、大苦悶の演技までそえた。夕食に|きゅうり《ヽヽヽヽ》を食べたという|おち《ヽヽ》(英語に「きゅうりのように冷静」という言葉があり、朗読は熱演ながらも、上演者は冷静という意か)まで最後の行に加えられ、それは笑いでむかえられはしたものの、みんながその詩を知っていたので、多少ぎごちない笑いともいえたが、大きくながくつづく笑いだったことは、たしかだった。ベネット嬢は、歌も、ピアノも、朗読もしなかった。
「まあ、とんでもない、あの娘《ひと》には独得のちょっとした芸があるのよ」ホッジズ夫人はいった。
「まあ、からかったりしないでよ。じっさいんとこは、手相術と千里眼ならそうとうのもんなんだけど……」
「ああ、あたしの手相をみてちょうだい」ご機嫌をとり結ぼうと、彼女の部の娘たちがキャーキャーいった。
「手相のほうは、したくないの、ほんとなのよ。いろいろとおそろしい予言をやり、みんな当っちまったんですもん。それで、ちょっと迷信気分にもなっちまうというとこなの」
「まあ、おねがい、こんどだけはね」
小さな人の群れが彼女のまわりに集り、とまどい、クスクス笑い、赤面、狼狽と驚嘆の叫びといったキーキーしたさわぎにつつまれて、彼女は謎《なぞ》めいたふうに、金髪と浅黒髪の男たち、手紙の中におさめられた金、旅といったことをしゃべり立て、とうとう、そのぬり立てた顔に大粒の汗がにじんできた。
「このあたしをみてちょうだい」彼女はいった。「もう汗ダクダクなのよ」
夜食は九時にはじまり、菓子、菓子パン、サンドウィッチ、紅茶、コーヒーはみんな無料だったが、清涼飲料を飲むのには、金を出さなければならなかった。若い男たちは、いいとこをみせようとばかり、ときどき、ご婦人方にジンジャエールをすすめたが、体裁の手前もあって、ご婦人方はそれを断っていた。ベネット嬢はジンジャエールが大好物、夜のあいだに、二本か、ときに三本まで空けたが、おごられるのは固く断った。そのために、男たちのあいだで、彼女は好かれていた。
「あいつは変った女だ」彼らはいった、「だが、いいかね、まんざらでもない女さ。だれかさんたちとは、ちっとばかしちがっててね」
夕食後、ゲームごとに相手を変えてやるホイストがはじまった。すごいさわぎで、テーブルからテーブルにうつっていくとき、大きな笑いと叫びが湧き起こった。ベネット嬢の熱気は、だんだんとたかまっていった。
「このあたしをみてちょうだい」彼女はまたいった。「もう汗びっしょりよ」
そうこうしているうちに、若い連中のうちの威勢のいい者が、ダンスをやるのなら、早くはじめたほうがいい、といいだした。前に伴奏をやった娘がピアノに向って坐り、大きな音を出すペダルをしっかりと踏みしめた。夢見心地のワルツの曲で、低音で調子をとり、右手を使って交互のオクターブでゆっくり演奏した。ときに変化をつけるために、手を交錯させ、低音で曲をかなでることもやっていた。
「あの娘《こ》、うまいじゃないの、どう?」ホッジズ夫人はフィリップにいった。「その上、あの娘、レッスンは一度も受けたことがないのよ。みんな耳でやってるの」
ベネット嬢のなにより好きなものは、ダンスと詩だった。ダンスはうまかったが、とてもとてもゆっくりとしたダンス、遠い遠いものに思いを馳せているといった表情が目に浮かび、息もつかずに、ここの床、熱気、夕食のことを語りつづけた。彼女の話によれば、ポートマン・ルームズ(ダンス・ホールの名)の床はロンドン切っての最高の床、そこで踊るのは大好き、そこの人たちは上流階級の人びと、わけのわからない種々雑多な男たちと踊るなんてたまらないこと、まあ、どこの馬の骨ともわからない男にからだをさらしてるようなもんよ、というわけだった。ほとんど全員がじつにうまく踊り、大いに楽しんでいた。汗が顔から流れ落ち、青年たちの高いカラーは、グニャグニャになった。
フィリップは、こうした情景をながめ、たえて久しく味わわなかった深いわびしさにとらわれた。堪えきれぬ孤独感がおそってきた。そこから出ていかなかったのは、お高いと思われたくはなかったからで、女たちと語り、笑ってはいたものの、心はわびしさにあふれていた。ベネット嬢は、恋人がいるのか? と彼にたずねた。
「いませんよ」彼はニッコリした。
「ええ、大丈夫、えらぼうと思ったら、ここにいくらでもいることよ。とてもきちんとした、りっぱな娘もいるんですからね、ここにいたら、もうじきすぐに、そうした娘さんができることよ」
とてもいたずらっぼく、彼女は彼をみやった。
「適当につき合ったらいいのよ」ホッジズ夫人はいった。「それが、あの人にあたしがいう言葉よ」
もう十一時近くになり、会は解散になった。フィリップは眠られなかった。ほかの連中と同じように、痛む足を寝具の外に出していた。自分のいまの生活を考えまいと必死だった。軍人だった男は、軽いいびきを立てて眠りこんでいた。
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百五
賃銀は、月に一回、秘書から手わたされた。俸給日には、それぞれ組になった店員が、お茶からおりてきて、廊下にゆき、劇場の天井|桟敷《さじき》の戸口のそとに一列になってならぶ観客のように、きちんとならんで待っているながい人の列に加わり、ひとりひとり事務所にはいっていった。秘書は、前に金を入れた木製の盆をもって、机に坐り、やとい人の名前をたずね、うさんくさげなまなざしを店員に投げてから、そそくさと帳簿を調べ、支払い金額を大声で知らせ、盆から金をとって勘定をしながら、金を店員の手にわたした。
「ご苦労」彼はいった。「つぎ」
「ありがとうございます」が店員の答えだった。
店員は二等秘書のところにゆき、部屋を出る前に、洗濯代四シリング、クラブ会費二シリング、それに罰金があれば、しかるべき罰金を払い、のこりの金をもって自分の部にもどり、また 一日の仕事にとりかかった。フィリップの宿舎のたいていの男は、いつも夕食に食べているサンドウィッチを売っている女の人に借金していた。この女は、変った老人で、とても太り、大きな赤い顔をし、黒い髪を、ヴィクトリア女王の初期の絵に描かれているように、額の左右にきちんとなでつけていた。いつも小さな黒いボンネット帽をかぶり、白いエプロンを着け、袖は肘までたくしあげ、大きな、よごれた、ヌルヌルした手でサンドウィッチを切った。ボディスも、エプロンも、スカートも脂だらけだった。名はフレッチャー夫人だったが、みんな彼女のことを「おばさん」と呼んでいた。
心から店員をかわいがっていて、店員のことを坊やと呼んだ。月末近くになると、平気で金を貸してくれ、手許不如意《てもとふにょい》になった者には、ときどき、五、六シリングも貸していた。善良な女だった。店をやめたり、休暇から帰ってきたときに、坊やたちは彼女の太った赤い頬にキスをし、何回となく、首になって職がみつからないとき、なんとか命つなぎにと、彼女からただで食べ物をもらった。彼らは、彼女の大らかな心はよく知っていて、心からの愛情で彼女にむくいたのだった。彼らが好んで話すひとつの話があったが、それは、ブラッドフォード(ヨークシャーの都市)でなかなか繁盛し、店を五軒ももっている男が十五年ぶりにここにもどってきて、フレッチャーおばさんを訪問し、金の懐中時計を贈った話だった。
フィリップの月の賃銀で、十八シリングがのこった。生涯ではじめてかせいだ金だった。だが、当然予期もできるほこりやかな気持ちにはならず、ただ狼狽だけが湧き起こってきた。このわずかな金額は、絶望的な彼の立場をはっきりと物語っていたからだった。彼は十五シリングをアセルニー夫人のところにもつてゆき、借金の一部を払おうとしたが、彼女は半ソヴリン(一ソヴリンは一ポンド、すなわち二十シリングのこと)しか受けとろうとしなかった。
「いいですか、そんな調子だったら、支払いをすますのに八ヵ月もかかってしまうんですよ」
「主人が働いてるかぎり、待っても平気よ。それに、ひょいとしたら、あんたのお給料もあがるかもしれないしね」
アセルニーは、フィリップのことを支配人に話すつもりだ、フィリップの才能を利用しないなんて、まったくバカげたこと、といいつづけていたが、彼は動かず、新聞係りなんぞは、当人が思っているほど、支配人の目には重要人物と映っていないことが、フィリップにはすぐわかってきた。ときどき、アセルニーの姿を店でみかけた。その華やかさはすっかり影をひそめ、小ぎれいな、ありきたりの、ぼろ服を着こみ、沈み切った気どらぬ小男になりきって、人目につくのをおそれているように、店内をそそくさと歩きまわっていた。
「あんなとこで身をすり減らしてるかと思うと」彼は家でいっていた、「辞職ねがいをよっぽど出してしまおうかと思うこともあるよ。わしのような人間が力量を発揮できる場所がないんだ。いじけ、飢える以外にはないね」
アセルニー夫人は、静かに縫い物をしながら、夫の不平には耳もかさず、ただ口をちょっとこわばらせるだけだった。
「このごろは、職をみつけるのがとてもむずかしくなったんですよ。いまの職なら、お給料はきちんとしてるし、安全なんですよ。お店のほうで文句が出ないあいだは、そこでがんばってくださいな」
アセルニーがやめないことは、はっきりとわかっていた。教育のない、法的に結婚の絆で結びつけられていないこの女性が、才気煥発ながらも不安定な男にたいして獲得している支配権をながめるのは、おもしろいことだった。フィリップの事情がちがってくると、アセルニー夫人は彼を母親のような親切であつかい、うまい食事をと心がけてくれる彼女の配慮には心を打たれた。毎日曜日におとずれるあの親しい家があるのは(もっとも、それにすっかり馴れてくると、その単調さにびっくりもしていたのだが)、彼の生活のなぐさめになった。堂々としたスペインふうの椅子に坐り、アセルニーを相手にありとあらゆる問題を論じ合うのは、楽しいことだった。環境は絶望的とみえながらも、彼と別れてハリントン通りにもどっていくとき、フィリップは心の昂揚《こうよう》をかならず味わっていた。最初、フィリップは、自分の学んだことを忘れまいと、医学書を読みつづけようと努力したが、その無益さがわかってきた。一日の仕事でクタクタになって帰ってきたあとで、医学書に注意を集中させるのはむずかしいこと、それに、どのくらいしたら病院にもどれるかがわかってもいないのに、勉強をつづけるなんて、まったく絶望的なことに思えてきた。
たえず病棟にいる夢をみつづけていた。目をさますのは、苦しいことだった。同じ部屋に他人が眠っている感じは、彼にとってはたまらぬほどいやだった。孤独に馴れた身だったので、一刻もひとりになれずに、たえずほかの連中といっしょにいるのは、そのときには、ゾッとするほどいやなことだった。絶望と戦うのがいちばん身にしみて苦しくなったのは、そうしたときのことだった。いつまでも「まず右へ、つぎに左へおいでくださいませ、奥さま」の生活をつづけ、首にならぬのを感謝しなければならない生活を送っている自分の姿が思い浮かんできた。出征した男たちは、いずれ帰国するだろう。ここの商店はその再雇用を約束しているので、これは、だれかほかの者が首になることだった。このみじめな職場でも確保するには、大いにがんばらなければならないのだ。
自由の身になれるただひとつの方法があり、それは伯父の死だった。伯父が死ねば、数百ポンドは手にはいり、それで病院の課程を終えることができた。フィリップは、心の底から老人の死をねがいはじめた。もうどのくらい生きるだろうかと計算したが、伯父は七十をもう十分に越えていた。フィリップは伯父の年齢を正確には知らなかったが、少なくとも七十五にはなっているはずだった。慢性の気管支炎もちで、毎冬、ひどい咳をしていた。暗記はしていながらも、フィリップは医学教科書での慢性気管支炎の細目をくりかえしくりかえし読んだ。きびしい冬を老人はしのげないかもしれない。フィリップは、満腔《まんこう》のねがいをこめて、寒さと雨を祈り求めた。それをたえず思いつづけて、偏執狂にまで昂《こう》じていった。伯父ウィリアムは酷暑にも抵抗力がなく、八月には、うだるような天気が三週間もつづいた。フィリップは、いつか、たぶん、いきなり牧師の死を報じる電報が来るものと想像し、得もいえぬほどの安堵《あんど》感を心に思い描いた。
階段の上に立って、客を希望の個所に案内しながら、心の中では、たえず、その金をどう使おうかと考えていた。それがどのくらいの金か、見当もつかなかった。たぶん、五百ポンドくらいのもんだろう。でも、それで十分だった。店をすぐやめ、面倒な辞職ねがいは出したりしないだろう。荷づくりをさっさとやり、だれにもひと言もいわずに、病院にもどっていくのだ。それがまず第一のことだった。たくさん忘れているだろうか? 六ヵ月すれば、ぜんぶとりもどし、それから、できるだけ早く、三つの試験にとりかかるわけだ。最初に産科、ついでは、内科に外科だ。伯父が、約束をほごにして、財産すべてを教区か教会に寄付してしまうかもしれないという大きな恐怖が、心をとらえた。それを考えると、フィリップは心配で胸がずきずきしてきた。伯父は、そんなに残酷な男であるはずはない。だが、そうしたことが起きても、どうするかは、はっきりきまっていた。こんな生活をいつまでもつづける気はなかった。もっとましなものへの期待があればこそ、いまの生活を堪えているのだ。希望がなくなれば、恐怖もなくなるだろう。そこですべきのこされたただひとつの勇敢な行為は、自殺することだった。この点もよく考えて、フィリップは、無痛のどんな薬を服用するか、それをどう手に入れるかについて、精密な段どりをきめていた。事態が我慢できぬものになっても、まだ突破口はあるのだと考えると、勇気が湧いてきた。
「つぎにはどうぞ右へ、奥さま、それから階段をおおりくださいませ。まず左へ、それからまっすぐどうぞ。フィリップスさま、そのまままっすぐどうぞ」
月に一度、一週間、フィリップは「当番」についた。朝七時に職場にいって、掃除人の監督をしなければならなかった。掃除がすむと、ケースやモデルから掛け布をはずす仕事があった。それから、夕方店員が帰ってから、掛け布をモデルとケースにかけ、また掃除人の「組わけ」をしなければならなかった。これは、ほこりだらけの、いやな仕事だった。読み、書き、喫煙は禁じられ、ただ歩きまわるだけ、この時間はじつに退屈でながかった。九時半に店を出ると、夕食にありついたが、これが唯一のなぐさめだった。お茶は五時なので、空腹ははげしく、会社もちのパンとチーズ、たっぷり出るココアは、ありがたかった。
フィリップがリン商店につとめはじめてから三ヵ月したある日、仕入れ人のサムソン氏が、プリピリ怒り立って、部にはいってきた。支配人が店にはいってくるとき、たまたま衣裳部の飾り窓に気がつき、仕入れ人を呼んで、色の配合の点で皮肉まじりに注意を与えたのだった。上役の皮肉はだまって受けねばならず、その腹いせをサムソン氏は店員相手にやり、窓飾りを担当している男が、かわいそうに、さんざん当り散らされることになった。
「ものをきちんとやりたかったら、自分でしなけりゃだめなんだぞ」サムソン氏は息まいた。「いつもいってることだし、これから先も同じだ。まったく、お前たちには、どんなこともまかせておくわけにはいかんな。頭がいいなんて、自分のことをいってるんだろう、どうだ? 頭がいいなんて!」
それがこの上ない痛烈な叱責の言葉といったふうに、彼はその言葉を店員たちにたたきつけた。
「窓に鋼青色(電光のような青色)をつけたら、ほかの青がみんな殺されちまうのを知らんのかね?」
彼はすごい勢いであたりをみまわし、フィリップに目をとめた。
「つぎの金曜日には、きみが窓の飾りをやってくれ、ケアリー。きみの腕のほどを、ひとつ拝見させてもらうことにしよう」
プリプリつぶやきながら、彼は事務所にはいっていった。フィリップはがっくりだった。金曜日の朝になると、胸のわるくなる屈辱感をおぼえながら、彼は飾り窓の中にはいっていった。頬がカッカとほてってきた。通行人に自分の姿をみせるなんて、とてもたまらないこと。そんな感情に負けるのはバカらしいと、心にいって聞かせはしたものの、彼は街路に背を向けてしまった。病院の学生がこんな時刻にオクスフォード通りをとおるはずはなく、ロンドンにほかの知人がいるわけではなかった。だが、胸をつまらせて仕事をしているとき、グルッと向きなおると、だれか知人の目にぶつかるのじゃないか、とフィリップは心配していた。大急ぎで仕事をやってのけた。赤の色はすべてうまく調和するという単純な考えと、衣裳の間隔をふつうより大きくすることで、フィリップは大きな効果をあげることに成功し、結果をみようと街路に出ていった仕入れ人は、たしかに満悦していた。
「きみを窓係りにしてそうまちがいはないと、ちゃんとわかってたんだ。きみとぼくとは紳士だということが、事実んとこさ。いいかね、店ん中でこんなことをいうつもりはないが、きみとぼくは紳士、そいつがいつだって物をいうんさ。ちがうといっても、だめだよ。そいつは、ちゃんとわかってるんだからな」
それから、これが彼のきまった仕事になったが、身を外にさらすことに、彼はどうもなじめず、窓の飾りつけをする金曜日の朝がこわくなり、そのため、五時に目をさましてしまい、胸をドキドキさせながら、そのまま眠れなくなっていた。店の女の子たちは、彼の恥ずかしがっているふうに気づき、街路に背を向けて立っている彼のやり方を、すぐみつけてしまった。彼らは彼のことを笑い、「気どり屋」といった。
「おばさんにやって来られて、遺言状からはずされるのを、あんた、心配してるらしいことね」
女の子たちとは、概して、ことがうまく運んだ。ちょっと変っていると思われてはいたものの、|えび《ヽヽ》足であるのがほかの人間とちがう口実になり、やがて、彼の人のよさがみなにわかってきた。彼はだれでもどんどん助けてやるし、慇懃で、お天気屋ではなかったからだった。
「あの人が紳士なこと、ちゃんとあらわれてることね」彼らはいっていた。
「とっても遠慮っぽい人ね、どう?」ある若い女がいったが、これは、その芝居熱に浮かされている話を、彼がジッと聞いてやった女だった。
たいていの娘には「いい人」があり、そんな男のない女たちも、男に好かれないと思われるよりはと、男があるような話をしていた。一、二の女は、フィリップと遊んでもよいといったそぶりをたっぷり示し、彼のほうでは、そうした女たちのやり口を落ち着き払った興味で見守っていた。ここ当分、女出入りはもうまっぴらで、ほとんどいつも、彼には疲労感と、ときに空腹感がつきまとっていた。
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百六
もっと幸福なときに往き来していた場所に、フィリップはいかないことにしていた。ビーク通りの居酒屋でのささやかな会合は、解散状態だった。マカリスターは、友人たちにまずいことをしたというわけで、もうそこには来ず、ヘイウォードは喜望峰にいっていた。のこるはローソンだけだったが、フィリップは、画家のローソンと自分のあいだにはもはや共通のものはないと感じて、彼と会いたくはなかった。だが、ある土曜日の午後、服を着換えて、リージェント通りをとおり、聖マーチィン小路の無料図書館で午後を送ろうとしていたとき、いきなり、ばったりローソンにぶつかってしまった。なにもいわずにとおりすぎてしまおうというのが、彼の本能的な第一の動きだったが、ローソンはその機会を与えなかった。
「このあいだじゅうズーッと、きみはいったい、どこにいってたんだい?」彼は叫んだ。
「ぼくが?」フィリップはいった。
「きみに手紙を出し、ひとつどんちゃんさわぎでアトリエに来てくれ、とさそったんだが、返事もくれなかったじゃないか」
「そんな手紙は受けとってないよ」
「うん、わかってるさ。そこで、きみを呼ぼうと、病院まで出かけてったんだが、ぼくの手紙は手紙の棚にあったよ。医者のほうはやめちまったのかい?」
フィリップは、ちょっともじもじした。事実ありのままをいうのは恥ずかしかったが、そうして恥じ入る気持ちに彼はムカムカし、思いきってズバリいってしまった。だが、顔が赤くなってくるのは、どうしようもなかった。
「そう、わずかな持ち金をなくしちまってね、やっていけなくなったんだ」
「いやあ、そいつは困ったことだな。ところで、いま、なにをしてるんだい?」
「売り場の案内人さ」
この言葉で胸がつまってきたが、事実はすっかりぶちまけてしまおう、と彼は決心していた。ローソンにジッと視線をそそいでいたが、相手のとまどいがわかった。フィリップは痛烈な皮肉をこめてニヤリとした。
「リン・アンド・セドレーの店にいってね、『既製婦人服』部にいったら、フロックコートを着こんだぼくが、軽快な(フランス語)ふうに歩きまわり、下着類や靴下を買うご婦人方の案内をしている姿がみられるよ。『まず右へ、つぎに左へおいでくださいませ、奥さま』といってね」
ローソンは、冗談をとばしているフィリップをみて、困ったように笑った。なんといったらいいのか、わからないのだった。フィリップが描きだした絵図で、すっかりびっくりしていたが、ここで同情するのも、気まずいことだった。
「ちょいとした変化だね」彼はいった。
彼の言葉は、彼自身の目にも、バカげたもの、すぐ、いわなければよかった、と後悔した。フィリップの顔は赤黒くなるほど紅潮した。
「ちょいとしたね」彼はいった。「ところで、きみには五シリング借金があるんだ」
彼は、こういって、ポケットに手をつっこみ、銀貨を何個かひっぱりだした。
「いや、構いはしないよ。もうすっかり忘れてたんだからね」
「バカな! とっといてくれたまえ」
ローソンは、だまって、金を受けとった。ふたりは舗道のまんなかに立ち、とおっていく通行人につきとばされた。フィリップの目には皮肉な輝きがあり、画家ローソンは、それをみて、ひどくソワソワしてきたが、フィリップの心が絶望で打ちのめされているとは、気づいていなかった。ローソンは、なにかしてやりたいと強く思ってはいたものの、どうしたらいいのか、見当もつかなかった。
「ねえ、ぼくのアトリエに来て、ひとつ話でもしないかね?」
「いや、よしとこう」フィリップは答えた。
「どうして?」
「べつに話すことはないもんね」
苦痛のようすがローソンの目に浮かんでくるのがわかった。わるいとは思いながらも、どうにもならなかった。まず自分のことを考えなければならなかったからである。自分の立場を論議するなんて、考えただけでもゾッとすることだった。それに堪えていられるのも、ただ、そのことを考えまいと固く決心しているからだった。一度でも心を開いたりしたら、自分の弱さがどうなるかがおそろしかった その上、自分がみじめな気持ちを味わった場所は、たまらなくいやだった。飢えでガツガツし、ローソンが食事をおごってくれるのを期待して、あのアトリエで待っていたときに味わった屈辱感、彼から五シリングの金を借りたあのときのことを、彼は思い出した。ローソンの姿をみるのをきらったのは、あのどうしようもない屈辱の日が思い出されるからだった。
「じゃ、いいかい、いつか夜に、ぼくんとこに食事に来ないか? いつでも、きみに都合のいい晩でいいよ」
フィリップはローソンの親切に心打たれた。だれでもみんな、自分に妙に親切にしてくれるんだな、と思った。
「きみ、ほんとうにありがとう。でも、いかないことにしよう」彼は手をさしだした。「さようなら」
ローソンは、なにか解《げ》せぬ相手の態度にとまどって、握手をし、フィリップはびっこをひきながら、さっさとそこを去っていった。心は重く、例によって、自分の行動を責めはじめた。せっかく親切にいってくれた友情を拒絶するなんて、ほこりのせいとはいいながら、なんて狂気の沙汰だ、と自分でもわけがわからなくなってきた。だが、だれかが追ってくる足音が聞え、すぐ自分を呼んでいるローソンの声がひびいてきた。彼は足をとめたが、いきなり、怒りでカッとなった。彼はローソンに冷やかな、無表情で動かぬ顔を向けた。
「なんだい?」
「ヘイウォードについての話、聞いたろうね、どうだい?」
「喜望峰にいったのは、知ってるよ」
「ね、上陸後すぐ、死んだんだよ」
一瞬、フィリップはだまったままでいた。耳を信じられなかった。
「どうして?」
「うん、腸チフスさ。ひどいことだね、どうだい? きみは知らんかもしれんと思ったんでね。それを聞いたとき、ぼくもいささかギョッとしたよ」
ローソンはサッとうなずき、いってしまった。フィリップは、悪寒《おかん》が身に走るのを感じた。自分と同年輩の友人を失ったことは、一度もなかった。自分よりズッと年上のクロンショーの死は、当然のなりゆきの死のように思えたのだった。この知らせを受けて、彼はいままでにないショックを受けた。それで、自分自身の死を考えたからである。ほかのだれとも同じように、すべての人間の死はさけられぬものとは知りながらも、フィリップは、同じことが自分にも起きるのを、そう身近な事実として深くは感じていなかったが、とっくのむかしに傾倒する心はなくなっていたにせよ、ヘイウォードの死は彼の心を強くゆり動かした。いきなり、ふたりでかわした楽しい語らいが思い出され、二度と語り合うことがないかと思うと、心が痛んだ。はじめての出逢い、ハイデルベルクでいっしょに送った楽しい何ヵ月かが、頭に浮かんできた。失った歳月を思うと、、心が暗くなった。
機械的に足を運び、どこにゆくかも考えず、ついで、いきなり、イライラッとして、ヘイマーケットぞいにまがらずに、シャフツベリ並木道をブラブラ歩いているのに気がついた。もどるのは面倒だったし、その上、ヘイウォードの死の知らせを受けて、本を読む気はなくなり、ひとりで坐って考えたくなった。そこで、大英博物館にいこう、と腹をきめた。孤独だけが、いまの彼の贅沢品になっていた。リン商店につとめるようになってから、ときどきそこにゆき、パルテノン群像(第七代エルギン伯爵が買い取ったアテネのアクロポリスの群像)の前に坐り、べつになにを考えるでもなく、その群像で焦ら立つ心を静めていたのだった。だが、この午後には、群像は彼になにも語りかけず、数分坐っていてから、イライラしながら、その部屋からぬけだした。バカ面《づら》をしたいなか者、案内書をせっせと読んでいる外国人など、だいたい人間が多すぎた。そうした連中の忌《い》まわしさが、永遠の傑作を台なしにし、落ち着きのなさが、神の不滅のいこいを乱していた。べつの部屋にうつっていったが、ここにはほとんど人がいなかった。フィリップはぐったりして腰をおろした。神経が焦ら立っていた。
いまみた群集が頭にこびりついてはなれなかった。ときどき、リン商店でもこうした焦ら立ちを感じたのだったが、こうした群集が列をなしてわきをとおりすぎてゆくのを、彼はたまらない嫌悪の情でながめた。いかにも醜悪、顔にはひどいいやしさが浮き彫りにされていた。まったくたまらないことだった。顔はつまらぬ欲情でゆがみ、美の観念とはおよそ無縁のように思われた。目はコソコソし、顎は力のないものだった。そこに兇悪さといったものはないにしても、あるのは、ただどうということもない低俗ぶりだけ。そのユーモア感といっても、低級なおどけにすぎなかった。こうした連中を目の前にして、それがどんなけだものに似ているか(この考えにすぐとりつかれてしまうので、考えまいとはしていたのだったが)、ときどき、つい考えてしまい、そこに羊、馬、狐、山羊をながめていた。人間嫌悪の情が胸にいっぱいになってきた。
だが、やがて、この場所のかもしだす雰囲気が彼をつつみ、気分が静まってきた。ボーッとした気持ちで部屋にはめこまれた墓石をながめだしたが、それは、紀元前四、五世紀のアテネの石工のつくったもの、素朴で、偉大な才能の持ち主の作ではないにせよ、アテネ人のすばらしい精神をあらわし、時代が大理石を豊かで美しい蜜の色に変え、無意識のうちに人の心をハイメタス(アテネ南東の山。蜜蜂と大理石と夕陽で有名)の蜜蜂に運び、墓石の輪郭《りんかく》もやわらげられていた。ベンチに坐った裸体の姿あり、死者が自分を愛してくれた者との訣別《けつべつ》をあらわすものあり、さらに、死者があとにのこる者と握手をしている図もあった。そうしたものすべてに、別離という悲劇的な言葉だけが刻まれてあった。この簡潔さは、かぎりなく、心を打つものだった。友は友から、息子は母親から、それぞれ別離の味を噛みしめ、それを抑制しようとするだけになお、生きのこる者の悲しみは胸をえぐる苦しいものになるのだ。それは遠い、遠いむかしのこと、その上を幾世紀にもわたるながい年月がとおりすぎていったのだ。二千年のあいだに、嘆き悲しんだ者も、嘆き悲しまれた者と同様に、塵芥《ちりあくた》に化してしまった。だが、悲しみは依然としてのこり、それがフィリップの心を満たし、そのために、心に同情心が湧き起こってくるのを感じて、彼はつぶやいた、
「かわいそうに、かわいそうに!」
ついで、口をポカンとあけてみとれている観光客、案内書を手にした太った外国人、つまらぬ欲望と低俗な心配を胸にいだきながら店に群れ集っているあの野卑でつまらない群集が、いずれも死をさけられないのだ、ということが、フッとフィリップの頭に浮かんできた。こうした人たちも、愛し、愛されている者と別れなければならないのだ、息子は母親と、妻は夫といった具合いに……。そして、彼らの生活が醜悪できたならしいだけに、おそらく、それはなおいっそう悲劇的になるし、彼らは、世界に美を与えてくれるものを、なにも知らないでいる。とても美しい石がひとつあり、それは、ふたりの青年が手をにぎり合っている浅浮き彫りで、線が多くを語らず、素朴であることが、みる者に、この彫刻家が心打たれたのは純粋な感情だったということを思わせた。それは、それ以上貴重なものといえばこの世にただひとつしかないもの、友情にささげたすばらしい記念碑で、それをみていると、フィリップの目に涙がこみあげてきた。ヘイウォードのことを思い、はじめて会ったときのヘイウォードに寄せたひたむきな傾倒、ついで起こった幻滅、無関心を考えた。そしてついには、ふたりを結びつけるものといえば、ただ習慣と古い思い出だけになってしまったのだ。
何ヵ月間も毎日、ある人と会いつづけ、とても親しくなって、その人をぬきにしては生活が考えられなくなり、ついで別離が起き、万事が前と変らず進行し、必要欠くべからずと思っていた友が、結局は、不必要だったのがわかってくるというのは、人生のふしぎのひとつだった。自分の生活はつづいておこなわれ、友がいなくなったのをさびしいとも思わないでいるのだ。ヘイウォードが、大きな万能性を秘めて、将来にたいする情熱にあふれていたハイデルベルクでのあのむかしの当時、なにも達成せずに、少しずつ失敗に身をゆだねていった状況に、フィリップは思いを馳せた。いま、その彼は死んでしまったのだ。その死は、その生と同じように、むなしいものだった。最後にあってすら、なにもせぬ失敗をくりかえして、つまらぬ病気でなんの輝きもなく死んでいった。まるで彼の生命がなかったように、ぜんぜん変りはないのだ。
人生の意味はなんなのだろう? とフィリップはむきになってわが心に問いかけた。すべて空虚に思えた。クロンショーの場合も同じだった。彼が生きていたことも、まったく無意味だった。死に、忘れられ、彼の詩の本は古本屋の手でゾッキ本で売りたたかれ、彼の生涯は押しの強いジャーナリストに批評の論文を書くきっかけを与えただけで終ってしまった。フィリップは、心の中で叫んだ、
「人生の意味って、なんなんだろう?」
努力ばかりかさねて、結果はじつにとるに足りないものなのだ。青春時代の輝かしい希望の代償は、にがにがしい幻滅なのだ。苦痛と病疫と不幸が、はかりを重くおしつけている。こうしたことすべては、なにを意味しているのだろう? 自分自身の生活、人生をはじめたときの高い希望、肉体におしつけられた制約、友人に恵まれなかったこと、青年時代をつつんでいた愛情の欠如を考えた。最高と思ったことばかりしてきたつもりだったのに、なんという失敗をしでかしたことだろう! ほかの人間は、彼以上の利点はべつにないのに、成功し、さらに、利点をずっと多くもっているほかの人間は、失敗している。まったくの偶然なのだ。雨は、正しい者にも不正な者にも、平等に降りかかり(マタイ伝五ノ四五参照)、どんなことにも、なぜ、なんのためといったことはないのだ。
クロンショーを考えて、フィリップは、たずねた人生の意味にたいする答えを示すものとして、彼がくれたペルシャじゅうたんを思い出した。いきなり、その答えが彼の心に浮かんできた。クスクスッと笑いがこみあげてきた。答えがわかったいまとなっては、それは、答えがわかるまではあれこれと心をくだき、わかれば、どうしてそれに気づかなかったのだろうとふしぎになってくる謎々《なぞなぞ》のようなものだった。答えは明白だった。人生には意味はないのだ。空間をつき進んでゆく星の衛星である地球の上で、その遊星の歴史の一部として生じた状態の影響のもとで、生物が発生し、地上で生命の開始があったのと同じように、ちがった状態の影響のもとで、生命の終末があるだろう。人間、ほかの生物と同じく意味のない人間は、創造の頂点としてではなく、環境にたいする物質的反応として発生したにすぎない。フィリップは、東洋の王さまの話を思い出した。この王さまは、人間の歴史を知りたいと思ったのだが、賢人に五百巻の本をもちこまれた。政務に多忙な彼は、その圧縮を命じた。二十年して、この賢人はもどり、その歴史は、いま、五十巻にすぎぬものとなっていた。だが、老齢になり、そうした部厚なたくさんの本を読めなくなっていた王さまは、もう一度、圧縮を命じた。ふたたび二十年が流れ、老人になって白髪をまじえた賢人は、王さまの求めている知識をおさめたただ一巻の本を持参した。だが、王さまは死の床にあり、それをも読む時間がなかった。そこで、賢人は一行の言葉、人間は生れ、苦しみ、死亡する、という言葉で、人間の歴史を王さまに伝えた。要するに、人生に意味はなく、人間は、生きていたって、なんの役にも立たないのだ。人が生れようが生れまいが、生きていようが死のうが、どうということはない。人生は無意味、死も重大なことではない。
神への信仰の重みが肩からはずされたとき、少年時代にうきうきしてよろこび勇んだように、フィリップはうきうきとしてよろこび勇んだ。責任の最後の重荷がはずされた感じ、そして、生れてはじめて、完全な解放感を味わった。自分の無意味さが、逆に力になり、自分に迫害を加えてきたように思われた冷酷な運命にたいして、突然、対等に戦う力がからだに湧いてきたように感じた。というのも、もし人生が無意味になったら、この世の冷酷さは消えてしまうからだ。自分がおこない、あるいは、おこなわずに放っておいたことなんて、問題ではないのだ。失敗は重大なことではなく、成功も意味はない。自分は、地球の表面をほんのわずかのあいだ占拠しているあのうじゃうじゃ寄り集っている人間大衆の中での、じつにとるに足りない一個の生物にすぎない。混沌《こんとん》の中からその無意味さの秘密をうばいとったのだから、自分はもう全能者なのだ。フィリップのひたむきな空想の中で、さまざまな考えがつぎからつぎへと目白押しに湧き、よろこびにあふれた満足の吐息《といき》がもれてきた。とびあがり、歌いたくなった。この何ヵ月間、これほどのよろこびを味わったことはなかった。
「ああ、人生よ」彼は心の中で叫んだ、「ああ、人生よ、なんじの刺《はり》は何処《いずこ》にかある?(なんじ以下はコリント前書一五ノ五五の言葉。その前は、死よ、となっている)」
数学の証明ともいえるたくましい力強さで、人生の無意味を彼に示した想像力のこのほとばしりは、もうひとつの観念をもたらしてくれた。それこそ、彼は想像したのだが、なぜクロンショーが自分にペルシャじゅうたんを与えたかの理由だった。その織り手が模様づくりに意匠《いしょう》を凝らせたのは、ただ自分の美的感覚をよろこばすためだけのこと。そのように、人間は自分の生活をいとなみ、自分の行動が意のままにならぬと信じなければならなくなっても、人生が絵模様をつくりあげるものと自分の人生をながめるのは可能なはずだ。ある行為は仕甲斐《しがい》があるものではなく、それと同様、する必要もない。それは、自分の楽しみでするにすぎない。自分の人生の多種多様な事件、自分の行為、感情、思想から、きちんとした、手の込んだ、複雑な、あるいは美しい意匠をつくりだしさえすればいいのだ。選択力をもつことが幻影にすぎぬにせよ、外見が月の光とともに織りなす根も葉もない異様な手品にすぎぬにせよ、それは問題ではない。そうと思えれば、彼にとって、それは事実なのだ。
人生になんの意味もなく、なにも重要なものはないと想像し、それを背景にして、人生という巨大なたて糸(どこの泉から流れてくるわけでもなく、果てしなく流れてどこの海に流れこむわけでもない川なのだが)の中で、人は、模様を織りなすさまざまな織り糸をえらぶことに、個人的な満足を味わえるはずだ。ひとつの絵模様があり、それは、もっとも明白、完全、美しい絵模様だが、そこで、人間は生れ、大人になり、結婚し、子供を生み、暮しのためにせっせと働き、死亡する。だが、ほかに手の込んだ、すばらしい絵模様がいくつかあり、そこでは、幸福が姿をあらわさず、成功もこころみられないが、もっと心を波立たす美しさが発見できる。一部の生活は――そこにヘイウォードの生活もはいるわけだが――意匠がまだ完成しないうちに、偶然の盲目的な冷淡さで切りとられ、そうした場合に、どうでもいいのだという慰安は快いものになる。クロンショーの生活といった他の生活は、たどりにくい絵模様を織りなしている。こうした生活に正当性があると理解するためには、視点を変え、むかしからの標準に変更の手を加えなければならない。幸福へのあこがれを放棄することで、自分は最後の幻影をなげだしているのだ、とフィリップは考えた。
幸福の尺度で計ると、自分の生活はたまらなくいやなものに思えたが、いま、それをなにかほかの尺度で計れると考えると、新しい力が湧いてきた。幸福は、苦痛と同様、問題ではない。幸福も苦痛も、ほかの人生のさまざまなことと同じように、はいりこんできて、絵模様の複雑さを増してくれるわけ。一瞬、自分の生涯のいろいろな事件から超然として立っているような感じがし、いままでのように、そうしたものの影響は二度と受けることはないぞ、と思った。自分の身にどんなことが起きようとも、それは、いま、絵模様の複雑さを増大させるきっかけになるだけのこと、死期が近づいたら、その完成をよろこぶだろう。それは芸術作品、その存在を知っているのは自分だけだからといって、美が減ずるわけではいささかもなく、死とともに、その存在は消滅してしまうのだ。
フィリップは幸福だった。
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百七
仕入れ係りのサムソン氏は、フィリップにすっかり惚れこんでいた。彼はさっそうとしたいでたちをし、彼の部の女の子たちは、彼が金持ちのお客さんのだれかと結婚しても、べつにふしぎはない、と噂していた。郊外に住み、ときどき、事務所で夜会服を着こんだりして、店員たちをびっくりさせた。その翌朝、そうした衣裳のままの姿を掃除人にみられることも間々あり、彼が事務所にとびこんでフロックコートに着換えているあいだ、掃除人たちは意味ありげに目くばせをかわしていた。こうしたさい、あわただしい朝食をとりに店からとびだしていって、その帰りに階段をのぼってくると、彼もフィリップに目くばせを送り、悦に入ってもみ手をしていた。「すばらしい夜だったよ! すばらしい夜だったよ!」彼はいった。「まったくね!」
彼はフィリップに、この店ひろしといえども、ただひとりの紳士は自分だけ、人生がいかなるものかを、心得ているのは、自分とフィリップだけ、といった。これをいい終ると、彼の態度はいきなり改まり、フィリップを「おい、きみ」と呼んだりはせず、重々しく「ケアリー君」といい、仕入れ係りの地位にふさわしい威厳あるふうをして、フィリップを店内案内係りの地位にひきもどした。
リン・アンド・セドリー商会では、週に一度、パリから流行に関する新聞をとりよせ、そこに示されている衣裳を顧客の好みに合せていた。この店の顧客は、ちょっと変っていた。いちばん大切な客層は、比較的小さな工業都市の女性で、目が肥えているのでいなかで服をつくらせるわけにはいかず、さりとて、懐《ふところ》具合いに応じたドレスメイカーをみつけだすほどロンドンになじみはないといった連中だった。こうした客以外に、ちょっと奇妙なことだったが、たくさんの演芸場の女芸能人たちがいた。これは、サムソン氏が自分で開拓した客筋で、これは大得意だった。芸能人たちは、最初、舞台衣裳を注文していただけだったが、彼の努力で、それ以外の服もここでつくるようになっていた。
「パカン(二十世紀はじめのパリで有名なデザイナー)と同じで、値は半分なんだからね」が彼の口上だった。
説得力の強い、やあ、やあといった調子のいい男で、それがこうした種類の客に受け、そうした客たちはたがいに語り合っていた、
「リンの店で上衣とスカートを買い、それがパリ製でないとわかりはしないのに、大金を投げだすなんて意味のないことよ」
サムソン氏は、自分が服をつくった人気女優と昵懇《じっこん》にしているのを、鼻にかけていた。日曜日の午後二時、そうした女優のヴィクトリア・ヴァーゴーのタルス・ヒルにある美しい家でおこなわれる晩餐会に出かけていったとき――「あの女《ひと》は、この店でつくったあの粉末花|紺青《こんじょう》の服を着てたよ。それがこの店仕立てだなんて、きっと、|おくび《ヽヽヽ》にも出したりはしてないんだろうな。このぼく自身がそのデザインをしたのでなかったら、パカン製のものだとぼく自身もいったことでしょう、といってやったよ」――翌日には、そのときの細々《こまごま》とした話を部の者に大ぶるまいした。
フィリップは、女の衣裳なんかたいして意にとめてはいなかったが、時がたつにつれて、多少興味を湧かして、それに専門的な関心を寄せるようになった。色彩にたいする目があり、これは、部切っての高度に洗練された目で、その上、パリでの画学生時代から、線に関する知識も多少はもっていた。サムソン氏は、自分の無能をちゃんと心得ている無知な男ではありながらも、他人の意見を吸収するぬけ目のなさはちゃんと備えていて、新しいデザイン作製のときには、いつも、自分の部の店員の意見を求めた。彼は、いち早く、フィリップの批判が貴重なことをみてとった。だが、とても嫉妬深く、だれかの意見を採用したなんぞとは、絶対に認めようとはしなかった。フィリップの意見にしたがって図柄を変えると、最後には、きまってこうしめくくりをつけるのだった、
「うん、いよいよ最後の段階になると、ぼく自身の意見にまいもどりというわけだね」
フィリップがこの店につとめてから五ヵ月ほどたったある日、有名な半|道化《どうけ》女優のアリス・アントーニア嬢がやってきて、サムソン氏に面会を求めた。大柄な女で、亜麻色の髪をし、顔はグッとぬり立て、声は金属的、いなかの演芸場の大向うの連中といつも親しくしている喜劇女優に見受けられる活発な態度の持ち主だった。新しい歌を演《だ》すことになり、その衣裳のデザインをサムソン氏にたのむつもりだった。
「なにかすごいの、ほしいのよ」彼女はいった。「いいこと、以前からのもんなんか、ぜんぜんだめよ。だれの衣裳ともちがった服がほしいの」
人ざわりがよく、なれなれしいサムソン氏は、きっとお求めの品ズバリのものをご用立ていたしましょう、と答え、スケッチを示した。
「ご用に立つものがここにございませんのは存じてますが、これはいかがといった品がどんなものかを、ちょっとおみせしたいと思ってるのでございますが……」
「ちがう、ちがう、こんなもんじゃ絶対にないことよ」そのスケッチを一瞥して、ジリジリしながら、彼女はいった。「あたしが望んでるのは、お客さんに一発ガンとパンチを食わし、フラフラッとさせるようなもんなのよ」
「はい、かしこまりました」愛想のいい微笑を浮かべて、仕入れ係りはいったが、その目はうつろ、うつけたものになった。
「結局はパリにとんでかなければならないようね」
「いいえ、いいえ、ここでご満足いただけると思いますよ。パリでお買いの品は、ここでご用立てできるはずでございますからね」
彼女が店から出ていくと、サムソン氏は、ちょっと心配になって、ホッジズ夫人に話をもちかけてきた。
「変った女《ひと》だことね、たしかに」ホッジズ夫人はいった。
「アリスよ、汝いずくにぞ?(アルフレッド・バンの歌謡の題)」イライラして仕入れ係りはいい、相手から一本とった気になっていた。
演芸場の衣裳についてのこの男の観念からいえば、それは、短いスカート、ユラユラとゆれるレース、キラキラと輝く金属片の飾りといったものだったが、アントーニア嬢のその点に関する意見は、至極《しごく》はっきりしていた。
「まあ、まあ!」彼女はいった。
金属片の飾りなんぞ胸糞がわるくなるとまではいわないにしても、そうしたありきたりのものには根っから反対といった調子で、この「まあ、まあ!」は語られた。サムソン氏は一、二の着想を「口にした」が、ホッジズ夫人は卒直に「それはだめ」と伝えた。フィリップにどうだろうと話をもってきたのは、ホッジズ夫人だった。
「絵が描けるの、フィル? ひとつやってみて、腕だめししたらいいじゃないの」
フィリップは、安絵の具箱を買い、さわがしい十六の少年のベルが口笛で三曲吹き鳴らしながらせっせと切手はりをやっているとき、一、二枚のスケッチを描いてみた。パリでみた衣裳のいくつかを思い出し、そのひとつに合せ、強烈な、ふつうにはない色彩を使って効果をあげようとしたものだった。その結果は、自分でもおもしろく思い、翌朝、それをホッジズ夫人にみせた。彼女は、ちょっと度肝をぬかれはしたものの、それをすぐ仕入れ係りのとこにもっていった。
「風変りなもんだ」彼はいった、「そいつは、まちがいないこったね」
どうかととまどいはしたものの、それと同時に、専門家としての彼の目は、これはすばらしいものになるかもしれない、と感じとった。自分の面子をつぶすまいとして、彼は一応変更意見を述べ立てはしたものの、ホッジズ夫人は、それを上まわる分別の持ち主、そのまんまそれをアントーニア嬢にみせるように、とすすめた。
「あの女《ひと》相手に、のるかそるかの勝負よ。それに、惚れてくれるかもしれないわ」
「まずまず、そるというとこかな」襟刳《えりぐり》をながめながら、サムソン氏はいった。「あの男、絵はなかなかのもんだね。こんな才能をいままでかくしてるなんてねえ!」
アントーニア嬢の来店が報じられると、仕入れ係りは、事務所にはいってくるとすぐ彼女の目につくようにと、そのスケッチをテーブルの上においたのだが、彼女はそれにとびついてきた。
「あれ、なに?」彼女はいった。「あれ、あたしのにすることよ」
「あれは、そちらさまのために考案したものでございます」さりげなくサムソン氏はいった。
「お気に召したでしょうか?」
「お気に召したですって!」彼女はいった。「さあ、ジンをひとたらし入れて、ちょっと乾杯しましょう」
「はい、おわかりでございましょう。パリにお越しになる必要はございません。お望みのものをおっしゃっていただきさえすれば、サッと当方でおつくりするのでございますからね」
すぐ仕立てがはじまり、衣裳の仕あがりを目にしたとき、フィリップはゾクリとくる満足感を味わった。この手柄は仕入れ係りとホッジズ夫人の独占するところとなったが、そんなことは問題でなかった。ふたりとつれ立って、アントーニア嬢の初衣裳姿をみにティヴォリ座に出かけていったとき、彼はもうすっかりうきうきしていた。根掘り葉掘りたずねられて、絵の勉強をしたいきさつを、彼はとうとうホッジズ夫人に話したが――いっしょに住んでいる仲間にお高くとまっているなんぞと考えられるのがいやさに、彼は、いつも、自分が過去にやったことをひたがくしにしていた――彼女はこの話をサムソン氏にそのまま伝えた。
仕入れ係りは、これについてフィリップにはなにもいわなかったが、前よりちょっと敬意をこめて彼をあつかうようになり、やがて、いなかのふたりの客のデザインを彼にまかせることになった。これも、大成功だった。ついで、サムソン氏は客たちに自分の助手をしている「頭のいい若い者《もん》、パリ仕込みの画学生」を吹聴《ふいちょう》しはじめ、その後間もなく、フィリップは、シャツ一枚の姿で仕切りのうしろにおさまり、朝から晩まで絵を描くことになった。ときどき、とてもいそがしく、「食いはぐれ」といっしょに三時になって昼食ということもあったが、これは、彼にしてはもっけの幸いだった。
人数が少ない上に、みんなクタクタにつかれていて、話もしなかったからである。その上、その食事は上等でもあった。仕入れ係りの食卓からの余り物だったからだった。店の案内人から衣裳のデザイナーにフィリップが昇進したことは、部全員をひどくびっくりさせた。嫉妬の的になっているのがわかった。妙な頭の恰好をした店員のハリスは、この店で知り合った最初の人間で、フィリップに好意を寄せていたが、そのいまいましさをかくしておけなくなった。
「幸運を総ざらいといった人もいるもんだね」彼はいった。「いずれ近く、きみは仕入れ係りになり、ぼくたちは『|ハイ《サー》』づけできみを呼ぶことになるだろうよ」
賃銀をあげてくれと要求すべきだ、と彼はフィリップにいった。いまやっているむずかしい仕事にもかかわらず、はじめの六シリングの週給しか受けとっていないからだった。だが、賃あげ要求は、危っかしいものだった。そうした要求者を皮肉にあつかう|こつ《ヽヽ》を、支配人はちゃんと心得ていた。
「もっと賃銀をもらってもいい、と考えてるんだね、えっ? どのくらいもらえばいいというのかね?」
店員は、ギョッとして、週給をもう二シリングあげてもらえたら、と応じた。
「いや、とても結構なことだ、自分がそれだけの値打ちがあるもんと思ってるのならね。そいつはかせげるよ」ここで彼は話をちょっと切り、鋼《はがね》のように冷たい目つきをして、「それに、それといっしょに、解雇通知もわたしてな」とよくつけ加えた。
こうなって、要求を撤回しても、もうだめ、店をやめなければならなかった。不満をもっている店員は身を入れて働かない、賃銀をあげてやる資格のない者だったら、すぐに首にしてしまったほうがいい、というのが、支配人の考えだった。この結果、やめる覚悟がなかったら、賃あげ要求は絶対にしない、ということになっていた。フィリップはまよった。自分がいなかったら、仕入れ係りが動きがとれなくなる、といってくれる同室者たちも、ちょっとくさい存在だった。みんな親切者ではあったが、そのユーモア感は原始的、フィリップに賃あげ要求をさせた結果、彼が首になったら、それを愉快に思うことだろう。仕事さがしで味わった苦しみは、どうしても忘れられなかった。そうした目に二度と身をさらしたくはなかった。ほかの店でデザイナーとしての職場がまずないのは、はっきりしたことだった。自分程度に絵を描ける者は、いくらでもいるのだ。だが、金はとてもほしかった。服はすりきれ、厚いじゅうたんで、靴下と編みあげ靴はボロボロになっていた。危険な賃あげ要求を思い切ってやってみようかと考えて、ある朝、地下室の朝食からあがり、支配人の事務所に通じる廊下を歩いていったが、そのとき目にはいったのは、広告に応じて集った一列の人の群れだった。百人もいただろうか。だれがやとわれるにせよ、その人は、いまのフィリップの受けている生活費と週に六シリングの俸給をもらうことになるだろう。仕事をもっている自分を、一部の者がうらやましそうにチラリチラリとながめているのがわかった。これで彼はゾッと身をふるわせ、賃あげ要求の計画を放棄してしまった。
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百八
冬がすぎていった。ときどきフィリップは病院にいったが、それは、時刻がおそくなり、知っている者に出逢う心配がまずないとき、ソッと忍びこんで、自分宛ての手紙がないかと調べるためだった。復活祭のときに、伯父からの手紙が来ていた。この知らせを受けて、彼はびっくりした。ブラックステイブルの牧師が手紙を寄こしたのは、生れてこの方、五、六度しかなく、しかも、事務的な事柄のものばかりだったからである。
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拝啓
間もなく休暇をとり、こちらへ来られる所存であれば、当方でもお会いしたく思っている。冬のあいだ、気管支炎で重態におちいり、ウィグラム先生はしのぎがきかぬものと考えられていたようだ。当方のからだはじつにすばらしいもの、ありがたいことに、奇跡的に回復した。
敬具
ウィリアム・ケアリー
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この手紙を読んで、フィリップは腹が立ってきた。自分がどんな暮しをしていると、伯父は思っているのだろう? それをたずねてくれさえしていない。自分は、ひょいとしたら、飢え死までしたかもしれないのだ。だが、家に帰る道すがら、フッとあることが思い浮かんだ。街路灯の下で足をとめ、もう一度手紙を読みかえした。筆跡は、いつもの特徴になっている事務的ながっしりしたところがなく、もっと大きく、ふるえをおびていた。たぶん、病気のために、自分でも認めようとは思っていないほど、弱っていて、この型ばかりの手紙で、この世でただひとりの血縁者に会いたい気持ちを伝えようとしているのだろう。
フィリップは、七月には二週間ブラックステイブルに帰れる、と返事を出した。この招待は好都合だった。この短い休暇をどうすごしたものかと、考えていたからである。アセルニー一家は、九月に、ホップ摘みに出かけるはずだったが、その月は秋のモデルの準備があるので、彼はそれにゆく暇はなかった。リン商会の規則によれば、希望の有無にかかわらず、全員が二週間の休暇をとらなければならなかった。その二週間のあいだ、ゆく場所がなかったら、店員は自分の部屋で寝ることはできたが、食事は支給されなかった。ロンドンからしかるべき距離以内に友人をもっていない者が多く、この連中にとって、休暇は厄介な期間になり、わずかな給料から食事代を都合しなければならず、まるまる一日の時間をどう使ったものかと、途方に暮れていた。フィリップは、ミルドレッドといっしょにブライトンにいって以来、ロンドンをはなれたことがなく、新鮮な空気と海の静けさが恋しかった。五月と六月をとおして、すごくあこがれの情をつのらせながらそれを思いめぐらしていたので、とうとう出発の時がやってきたとき、なにかがっくりきてしまった。
出発の前の晩、ひきつぎをしなければならない一、二の仕事の話をしていたとき、サムソン氏は、いきなり、彼にたずねた、
「ところで、きみの給料はいくらなんだね?」
「六シリングです」
「それはいかんな。もどってくるときには倍額になるよう、なんとかするよ」
「ありがとうございます」ニッコリして、フィリップはいった。「じつのところ、新しい服がぜひ必要になってましてね」
「きみががっちりと仕事をやり、一部の者がやってるように、女どもと浮かれ遊んだりしなかったら、きみの世話はぼくがみてあげるよ、ケアリー。いいかな、きみにはまだまだ勉強せにゃならんことがたくさんあるんだ。だが、きみは有望だ。たしかに、きみは有望だよ。それだけの値打ちありとみたらすぐ、週給一ポンドになるように、ぼくがとりはからってあげるよ」
そうなるまでに、どのくらい待たなければならないのかな? とフィリップは考えた。二年かかるだろうか?
伯父の変りようには、びっくりだった。この前会ったときには、からだはシャンとし、顔をきちんと剃り、官能的なまるまるとした顔の、太った男だったのに、いまは妙なふうに衰えが目立ち、肌は黄ばみ、目の下は大きくたるみ、からだはまがって、老いをあらわしていた。この前の病気のあいだに、頬髯を生やし、ノロノロと歩いていた。
「きょうは、そう調子がよくないんだ」到着した直後、フィリップがいっしょに食堂に坐ったとき、彼はいった。「暑気がこたえてな」
フィリップは、教区のことをたずねながら、伯父を見守り、あとどのくらいもつものかな、と考えた。暑気のきびしい夏だったら、やられてしまうだろう。手がひどく痩せているのに、フィリップは気づいた。それは、ふるえていた。これは、フィリップには重大なことだった。この夏に伯父が死んだら、冬学期のはじめに病院にもどれるだろう。リン商会にもうもどらずにすむかと思うと、心はおどった。昼食のとき、牧師は背をまるめて坐っていたが、妻が死んで以来ここに来ている家政婦がいった、
「肉の切りわけはフィリップさんにおねがいしたら、いかがです?」
自分の虚弱さを認めるのがいやさに、それをしようとしていた老人は、それをしないですむこの話をよろこんでいるようだった。
「食欲はずいぶんあるようですね」フィリップはいった。
「うん、いつもよく食べるんだ。だが、お前がこの前ここに来たときより、痩せてるよ。痩せてありがたいと思ってるんだ。あんまり太るのはいやでね。以前より痩せたんで、かえっていい、とウィグラム先生は考えてるんだ」
食事が終ると、家政婦が彼に薬をもってきた。
「フィリップ君に処方箋をみせておあげ」彼はいった。「あれも医者なんだよ。この薬がきくとあれも考えてくれたらいいんだがね。ウィグラム先生にはいったんだよ、お前がいま医者になろうとしてるんだから、値びきをしてもらわにゃならんとね。払わにゃならん勘定は、おっそろしいもんだ。ここ二月《ふたつき》、毎日来てくれてるが、往診一回が五シリングもするんだ。大金だよ、どうだい? いまでも、週に二回、来てくれてる。もう来なくてもいい、とあの先生にいうつもりだ。用があったら、お呼びするといってね」
彼は、処方箋を読んでいるフィリップを、穴のあくほどジッとみていた。薬は麻酔剤で、二種類あり、ひとつは神経炎の痛みが我慢できなくなったときだけ服用している、と牧師は説明した。
「とても用心はしてるよ」彼はいった。「阿片吸飲者式にはなりたくないかちな」
彼は、フィリップの話には、一切ふれようとしなかった。伯父が自分の出費のことばかりクドクドと語りつづけているのは、金でもせがまれては大変という用心からだな、とフィリップは推測した。医者にはこれだけ、薬屋にはこれだけかかった、病気ちゅうは、毎日、自分の寝室で火を絶やせなかった、そして、いま日曜日には、朝ばかりでなく夕方にも、教会にゆくのに馬車をたのまなければならない、といった具合いだった。腹が立ってきて、フィリップは、心配することはない、金を借りようとは思っていないのだから、といってやりたかったが、ジッと我慢した。いま老人にのこっているのは、ただふたつのもの、食い気と金銭欲だけのようだった。まったくの老醜《ろうしゅう》だった。
午後にウィグラム先生がやってきたが、診察のあと、フィリップは庭の門のところまで送っていった。
「伯父の容態をどうお考えでしょうか?」フィリップはたずねた。
ウィグラム先生は、正しい処置をするより、まちがったことはすまいと心がけている人物で、できることなら、はっきりしたことはいいたがらなかった。ブラックステイブルで開業してからもう三十五年になり、安心できる医者という評判を獲得、多くの患者にとって、利口な医者より安心できる医者のほうがズッと受けがよかった。ブラックステイブルには、新しいべつの医者がいたがここに来てからもう十年になっているのに、まだ侵人者あつかいを受けていた――とても利口という評判だった。だが、この男についてはなにもわからないというわけで、この町の上層部で彼の患者になる者は、そうはいなかった。
「いやあ、とっても元気だね」フィリップの質問に答えて、ウィグラム先生はいった。
「どこかひどくわるいとこがあるんでしょうか?」
「そう、フィリップ、きみの伯父さんは、もう、青年というわけじゃないんだからね」用心深くちょっと微笑を浮かべて、医者はいったが、それは、結局、ブラックステイブルの牧師は老人でもない、ともとれる言葉だった。
「心臓があまりよくないと当人は考えてるようですが……」
「そう、心臓はそういいとはいえないね」医者は思い切っていった、「用心しなけりゃ、とても用心しなけりゃいけないな」
どのくらい伯父はもつのだろうか? という質問が、危く口から出そうになった。だが、ひどい話だ、と思われたくはなかった。こうしたことでは、遠まわしにきくのが世間のならわしというものなのだ。そのかわりにべつの質問をしているとき、病人の親類がジリジリして病人の死を待っている状態に、医者はもう馴れっこになっているにちがいないということが、サッと頭にひらめいた。そうした親類の同情的な言葉を、先方ではズバリみとおしなのだ。自分の偽善をあざけるかすかな微笑を浮かべながら、フィリップは目を伏せた。
「すぐに危険というわけじゃないんでしょうね?」
これは、医者がとてもいやがる質問だった。患者がもう一月《ひとつき》はもつまいといえば、一族の者は死亡の心構えをし、患者が生きつづければ、必要でもないのに苦しい思いを味わったというわけで、怒りを医者にぶつけてくるからだった。その反面、患者が一年はもつだろうといっておいて、一週間で死んでしまったら、医者としては能なしだ、最後がそう間近《まじか》と知っていたら、愛情のかぎりを死者にそそいでやるところだったのに、と彼らはいうだろう。ウィグラム先生は、手でも洗うような恰好をしてみせた。
「そう――いまのままでいたら、そう重大な危険はないだろうね」とうとう思いきって、彼はいった。「だが、その反面、もう青年じゃないということも、忘れちゃいけないよ――そう、機械はすりきれかけてるんだ。この暑さをなんとかしのいだら、冬までは調子よくいくとは思うんだがね。そして、冬でそう応えなかったら、そう、まあ、どうということも起きんだろうな」
フィリップは、伯父が坐っている食堂にもどっていった。ずきんの縁なし帽をかぶり、クローセ編みの肩かけをつけて、彼は異様な姿だった。目はドアに釘づけ、フィリップがはいってくると、それは彼の顔の上にうつされた。伯父がハラハラしながら自分のもどりを待っていたのが、フィリップにわかった。
「うん、あの男、なんといってたかね?」
老人が死の恐怖におびえているのが、突然フィリップにわかった。フィリップはなにか気恥ずかしさをおぼえ、なんとはなく、目をそらせてしまった。人間性の弱さに接するととまどうのが、彼の癖だった。
「ズッとよくなった、といってましたよ」フィリップは答えた。
伯父の目はよろこびで輝いた。
「わしのからだはじつにすばらしいもんなんだ」彼はいった。「ほかになにかいったかい?」彼はうろんげにいいそえた。
フィリップはニッコリした。
「養生すれば、百まで生きてもふしぎはない、っていってましたよ」
「そんなことができるとは、思ってもいないがね。それにしても、八十までもってもいいはずだな。わしの母親は、八十四まで生きたんだからね」
ケアリー氏の椅子のわきに小さなテーブルがあり、その上には、ながい年月にわたって、彼がいつも家族の者に読んで聞かせていた聖書と大きな祈祷書があった。彼はふるえる手をのばし、聖書をとった。
「聖書の家長(アブラハムは百七十五歳、その子イサクは百八十歳の長寿をまっとうした)はずいぶんと長生きしたもんだな、どうだい?」
妙なふうに小声で笑って、彼はいったが、フィリップは、その笑いの中に、小心な懇願といったものを読みとった。
老人は生にしがみつきながらも、自分の宗教が教えてくれるものすべてを絶対的に信じこんでいた。霊魂の不滅を疑わず、自分の能力なりにきちんとふるまってきた、だから、きっと天国にのぼれるだろう、と思っているのだった。ながい生涯で、どれだけ多くの人たちに宗教のなぐさめをほどこしてきたことだろう! たぶん、彼自身は、処方箋で身のためになるものはなにも得られない医者のようなもんだろう。このひたむきな生への執着を目のあたりにして、フィリップはドギマギし、衝撃を受けた。この老人の心の奥底に、どんな得もいわれぬ恐怖がひそんでいることだろう? と考えた。老人の魂の中にさぐりを入れ、どうやらあるらしい未知のものにたいするおそろしいまどいを、その裸の姿でみてみたかった。
二週間はあっという間にすぎ、フィリップはロンドンにもどった。うだるような八月を衣裳部の仕切りの背後ですごし、シャツ一枚の姿で絵を描いた。店員たちは、つぎつぎと、休暇をとって出かけていった。夕方になると、フィリップは、たいていの場合、ハイドパークに出かけ、バンドに耳を傾けた。前より仕事に馴れたので、つかれはそう感じなくなり、ながい沈滞から脱して、彼の心は新しい活動を求めていた。彼のねがいすべては、いま、伯父の死に向けられた。同じ夢をみつづけた。ある朝早く電報が手わたされ、それは牧師の死を報ずるもの、こうして自由を手中ににぎる、といったものだった。目をさまし、それが夢だけのことと知ったとき、陰気な怒りで胸がいっぱいになった。これはいつ起きるかわからないことに思えたので、将来の計画であれこれと、彼は想を練った。
こうした計画で、医師の資格を得る前に必要な一年はどんどんとすぎてゆき、ぜひにもと念願していたスペイン旅行のことばかりを考えていた。無料図書館から借り受けたスペインについての本を読み、写真から、それぞれの都市がどんな姿をしているかを、しっかりと憶えこんだ。コルドヴァでグワダルキビル川にかかった橋の上にたたずむ自分の姿を想像し、トレドのまがりくねった街路をさまよい、教会に坐り、そこで、神秘的な画家のエル・グレコが自分のためにとってあると感じていた秘密をしぼりとろうとしている自分の姿もあった。アセルニーが彼と同じ気持ちになってくれ、日曜日の午後には、フィリップが重大なものはなにも見落すことがないようにと、ふたりでせっせと手の込んだ旅行日程をつくりあげた。ジリジリと湧き立つ気分をしずめるために、フィリップはスペイン語の独習をはじめ、ハリントン通りの人気のないガランとした居間で、毎夕一時間を使って、スペイン語の練習やら、翻訳を横においての『ドン・キホーテ』の堂々たる言葉の判じ読みやらをやった。週に一度、アセルニーがスペイン語のレッスンまでしてくれ、フィリップは、旅の助けにと、いくつかわずかの文章を暗記した。アセルニー夫人は、こうした彼らを笑っていた。
「ふたりともそろってスペイン語をやるなんて!」彼女はいった。「なにか役に立つほかのことを、どうしてやらないんかしら?」
だが、だんだんおとなになり、クリスマスには一人前の女らしく髪を結いあげることになっていたサリーは、父親とフィリップが自分にはわからない言葉で話をしているとき、ときどきわきに立って、彼女なりの深刻なふうに、それをジッと聞いていた。彼女は、父親をこの世でいちばんすばらしい人間と考え、彼女のフィリップ観は、ただ父親の賞賛をとおしてのものだった。
「お父さんはフィリップおじさんのことをとてもすばらしい人と思ってるのよ」彼女は兄弟姉妹にいった。
長男のソープはもう大きくなり、練習艦アレシューザ号に乗りこむことになっていて、制服姿で休日にもどってくるときのこの若者のようすをものものしい言葉で語って、アセルニーは家じゅうの者をよろこばせた。サリーは、十七になるとすぐ、ドレスメイカーのところに奉公するはずになっていた。アセルニーは、例の華やかな調子で、もうたくましく育って大空をとべるようになり、親の巣を去ろうとしている若鳥のことを語り、目に涙を浮かべて、もし巣にもどりたくなったら、巣はいつもここにある、と子供たちにいった。仮の寝床と食事はいつでも用意してある、父親の心は、子供たちのなやみにたいして、閉じられることは絶対にない、といったことだった。
「よくしゃべり立てることね、アセルニー」妻はいった。「子供たちさえしっかりしてれば、どんな苦労にも逢うことはない、とわたしは考えてますよ。正直さを守り仕事をこわがらなかったら、職にあぶれることは絶対にないんですからね。それがわたしの考え、たしかに、最後の子供の暮しが立つようになったら、ずいぶんとうれしいことでしょうね」
出産、苦しい仕事、たえぬ気苦労は、アセルニー夫人に応えはじめていて、ときどき夕方には、背中の痛みを訴え、椅子に坐りこんでひと息入れねばならなかった。彼女の幸福の理想といえば、女をひとりやとってきつい仕事をやってもらい、朝七時前に起きずにすめば、ということだけだった。アセルニーは美しい手をふりまわした。
「ああ、ベティ、われわれ、きみとぼくは、国家から優遇を受けてもいいほどの働きをしてきたんだ。九人の元気な子供たちを育て、坊やたちは国王さまにご奉公し、娘たちは料理と裁縫に精を出して、こんどは彼らが元気な子供たちを育てることになるんだからね」彼はサリーのほうに向き、話がどうやら竜頭蛇尾《りゅうとうだび》になったおぎないにと、大げさなふうにいいそえた、「『ただ立ちて待つも、神につかうるなり』(ミルトンの十四行詩『盲目について』の最後の一行)」
アセルニーは、最近、熱烈に信奉している矛盾した理論に、さらにひとつ、社会主義をつけ加えて、こういった、
「社会主義国家だったら、われわれは豊かな年金をもらえるはずなんだがね、きみとぼくがだよ、ベティ」
「まあ、社会主義者の話は、わたしにしないでちょうだい。あんな連中には我慢ならないんですからね」彼女は叫んだ。「それは、労働者階級を種にして、べつのなまけ者どもがたくさん、いい汁《しる》をすうってだけのことなんですもんね。わたしの標語は、放っといてちょうだい、ということだけですよ。だれにも口を入れられたくはないの。つらいことだってなんとかしのぎ、おくれた者は鬼に食われろよ」
「人生をいやなことというんかね?」アセルニーはいった。「絶対にそんなこと、あるもんか! 浮き沈みがあり、苦しみを味わい、いつも貧乏ではあったよ。だが、骨折り甲斐はあったんだ。そう、子供たちの姿をみれば、骨折り甲斐はあったと百回でもいうぞ」
「よくしゃべり立てることね、アセルニー」怒りではなく、軽蔑をまじえた冷静さでこういう彼をながめながら、彼女はいった、「あんたは子供たちの楽しいとこを味わい、わたしは子供を生み、つらいことを我慢してきたんですよ。ああして元気でいる子供たちをきらいだなんぞとはいいませんけどね、もう一度生れ変ることがあったら、独身ですごすことね。まったく、独身をとおしたら、いまごろは小さなお店をもち、銀行には四、五百ポンド貯《た》め、つらい仕事をやってくれる女ひとりは、やとってることでしょうからね。ああ、こんな生涯なんて、二度とはまっぴらよ、ほんとうに」
人生は美しくも醜悪なものでもなく、ただ果てしない苦役、季節の変化を受け入れるのと同じ精神で受け入れなければならない、といった数かぎりなくいる人びとのことを、フィリップは考えた。そうした苦労がすべてむだと思うと、激しい怒りが心をとらえた。人生は意味なしという信念を甘んじて受け入れる気にはなれなかったものの、みるものすべて、思うことすべてが、この信念の力をたかめていった。だが、激怒にとらわれながらも、それは楽しい激怒ともいえるものだった。人生が無意味なら、そうたまらなくいやなものではなくなり、力が妙に湧き起こってくるのを感じながら、彼は人生に直面することになった。
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百九
秋はすぎて、冬になった。フィリップは伯父の家政婦のフォスター夫人に自分の宛て名を知らせて、自分と連絡がとれるようにしてあったが、それでも、万が一にも手紙が来ていないかと、週に一回、病院にいっていた。ある晩、封筒の上に自分の名前をながめたが、その筆跡は、二度とみたくはないと思っていたものだった。それをみると、妙な気分におそわれた。しばらく、それを手にする気になれなかった。いまいましい思い出がドッと心にこみあげてきたからである。だが、とうとう、自分にイライラしてきて、封筒をひきさいた。
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フィッツロイ・スクウェア、ウィリアム通り、七番地
フィル――
一、二分でいいから、すぐ会ってもらえないこと? とても困ってて、どうしていいのかわかんないの。お金のことじゃないことよ。
かしこ
あなたのミルドレッドより
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彼はその手紙を粉々にひきさき、通りに出てから、闇の中にそれをまき散らした。
「どうなろうと、構うもんか!」彼はつぶやいた。
あの女とまた会うかと思うと、嫌悪の情がグッとこみあげてきた。苦しんでいようと、こちらは平気の平左、ざまあみろ、だった。憎しみをこめて彼女のことを思い、あんな女を愛したかと思うとムカムカしてきた。その追憶は悪寒《おかん》で彼の胸をいっぱいにし、テムズ川をわたってゆきながら 本能的にその思い出から身をさけようとした。床にはいったが、眠れなかった。女がどうしたのだろう? と思い、病気で飢えてるのではないかという心配が、頭にこびりついてはなれなかった。絶望的な立場に立っているのでなかったら、自分に手紙を寄こしたりはしないだろう。自分の弱さがいまいましかったが、女に会わなければ心が安まらぬのが、わかっていた。そこで、つぎの朝、封緘《ふうかん》葉書を書き、店にゆく途中で投函《とうかん》した。文面はできるだけ改まって書き、困っているのはお気の毒、今晩七時に、手紙の宛て名のところにいく、とだけ書いた。
宛て名の場所は、きたならしい通りの薄ぎたない下宿屋で、女に会うかと思って胸をむかつかせながら、彼女がいるかどうか? とたずねたとき、もう引っ越してしまったという期待が強く彼におそってきた。そこは下宿人の出入りが激しい場所といった感じがしたからである。彼女からの手紙の消し印はみず、どのくらい手紙の棚にあったのかも、見当がつかなかった。ベルに応じて出てきた女は、彼の質問には答えず、だまったまま先に立って廊下を進んでゆき、裏の戸口をノックした。
「ミラーさん、お客さんですよ」彼女は声をかけた。
ドアがわずかあけられて、ミルドレッドがうさんくさそうに外をのぞいた。
「まあ、あんたなの」彼女はいった。「はいってちょうだい」
彼は中にはいり、女はドアを閉めた。とてもせまい寝室で、彼女の住まいの例にもれず、ひどくきたなく、床には一足の靴が手入れもせずにバラバラにはきすてられ、箪笥の上には帽子を乗せ、そのわきには巻き毛の入れ毛があり、テーブルにはブラウスがあるといった始末だった。自分の帽子をおく場所を、フィリップはさがした。ドアのうしろの鈎《かぎ》にはスカートがいくつかひっかけられてあったが、どれもへりのところが泥だらけだった。
「坐らない?」彼女はいい、それから、気まずそうにひと笑いした。「あたしからの便りでびっくりしたでしょう?」
「ずいぶんしゃがれ声になってるね」彼は答えた。「喉をやられたのかね?」
「ええ、ここしばらく、そうなの」
彼は話しださず、どうして会いたがっているのかを相手が説明するのを待っていた。部屋のようすは、彼に救いだされたもとの生活にまいもどったことを、はっきりと物語っていた。赤ん坊はどうなったのだろう? と考えた。炉棚の上に、その写真はあったが、子供がいる気配はぜんぜんなかった。ミルドレッドはハンカチを手にし、まるめて小さな球にして、それを手から手へと投げていた。とても神経質になっているようだった。火をジッとみつめていたので、目をかわす心配がなく女をながめることができた。別れたときよりズッと痩せていた。黄色でカサカサになった肌は、前よりもっとピンと張って頬骨をおおっていた。染め毛で、いま、亜麻色になっていた。それで彼女の感じはだいぶ変り、前よりもっと野卑にみえた。
「ほんと、手紙をもらってホッとしたわ」とうとう彼女はいった。「たぶん病院にはもういないんだろうと思ってたんでね」
フィリップはおしだまったままだった。
「もうお医者の資格はもらったんでしょう?」
「いいや」
「どうして?」
「もう病院にはいないんだ。一年半前にやめなければならなくなってね」
「うつり気な人ね。どんなことにもがんばれないようね」
フィリップは、しばらく、だまっていたが、ついで語りだした口調《くちょう》は冷やかだった。
「間のわるい投機でもってた小金をすってんてんにしてしまってね、医者の勉強がつづけられなくなったのさ。しゃにむに生活費をかせぎださなきゃならなくなったんだ」
「じゃ、いま、なにしてんの?」
「商店で働いてるよ」
「まあ!」
彼女はサッと彼をながめ、すぐ目をそらせた。どうやら、顔を赤くしているようで、イライラしながら、ハンカチで手のひらをポンポンやっていた。
「でも、お医者さんになるために習ったこと、忘れちゃいないんでしょ、どう?」まったく奇妙な、投げだすようなもののいい方だった。
「すっかり忘れてるわけじゃないね」
「会いたいと思ったのは、そのためなのよ」彼女の声は沈んで、しゃがれ声のささやきになった。「自分のどこがわるいのか、わかんないんでね」
「どうして病院にいかないんだ?」
「それをするのがいやなの、学生さんたちみんなに穴のあくほどみすえられるんでしょ。それに、入院しろなんていわれるのがこわくってね」
「どこが具合いわるいんだい?」外来患者の診察室で使っているおきまりの文句を使って、冷やかにフィリップはたずねた。
「そう、吹き出物が出てね、どうしても消えないの」
恐怖のズキーンとした痛みがフィリップのからだを走った。額に汗がにじみでてきた。
「喉をみせてごらん」
彼女を窓辺につれてゆき、できるだけ調べてみた。いきなり、ふたりの目が出逢った。女の目には、すごい恐怖の色が浮かんでいた。みるもおそろしい目だった。彼女はおびえ、大丈夫といってもらいたがり、訴えるようにして彼をながめ、なぐさめの言葉を思いきっては求められないながらも、神経をとがらさせて、そうした言葉を待ち望んでいるのだった。そんな言葉は、彼にはいえなかった。
「たしかに、病気はだいぶ重いようだな」彼はいった。
「なんだと思う?」
その返事をすると、彼女は真っ青になり、唇まで血の気を失って黄ばんできた。最初は絶望的に、静かに泣いていたが、ついで、むせるように激しく泣いた。
「とても気の毒とは思うがね」彼はとうとういった。「だが、いわなければならんことなのだ」
「自殺して、すっかりけりをつけちまいたいわ」
彼は、そんなおどかしなんか問題にしなかった。
「金はあるかね?」
「六ポンドか七ポンドくらいならあるわ」
「いいかね、いまの生活はやめなくちゃだめだ。なにか仕事でもみつかると思うかね? きみの助けには、ぼくはたいしてなれないよ。なにしろ、週に十二シリングのかせぎなんだからね」
「いまになって、どうしたらいいんかしら?」ジリジリして、彼女は叫んだ。
「ううん、ともかくね、なにかしようとしなくちゃ|だめ《ヽヽ》なんだ」
彼はとても深刻な顔をして、彼女自身の危険、よその男におよぼす危険を彼女に話してやり、彼女はすねたふうにそれをジッと聞いていた。彼女をなぐさめようともした。とうとう、しぶしぶながら女に納得させ、彼の注意をすべて実行することを、女は約束した。処方箋を書き、それをもよりの薬屋においておくと伝え、几帳面にきちんきちんとそれを飲まなければいけない、と念をおした。帰ろうと立ちあがりながら、手をさしだした。
「がっかりしちゃだめだ。喉はすぐなおるんだからね」
だが、出ていこうとすると、女の顔は突然ゆがみ、女は彼の上衣をつかんだ。
「ああ、いかないでちょうだい」しゃがれ声で女は叫んだ。「あたし、とってもこわいの。あたしをひとり放りだしになんかしないでちょうだい。フィル、おねがいよ。たよりにする人ってどこにもなく、あんたがあたしのたったひとりの友だちなんだから」
彼は女の魂の恐怖を感じとったが、これは、死をおそれている伯父の目にみた恐怖と奇妙にも似ていた。フィリップは目を伏せた。二度この女は自分の生活の中にはいりこんできて、自分にみじめさを味わわせたのだ。女にはなにもいいだす権利はない。だが、それにしても、なぜかわからなかったが、彼の心の奥深くに奇妙なうずきがあった。彼女の手紙を受けとったとき、呼ばれたとおりにここにやってくるまで、彼に安らぎを与えなかったのは、これだった。
「どうやら、これは、自分ではどうにもならない業《ごう》らしいな」彼は心の中で考えた。
彼をドギマギさせたのは、奇妙な嫌悪感を感じたことで、このために、女のそばにいるのが不愉快だった。
「なにをしろというんだね?」彼はたずねた。
「とにかく、いっしょに食事に出かけましょうよ。それは、あたしがもつことよ」
彼はモジモジした。永遠に消えたものと思っていたのに、女が自分の生活の中にまたはいこんでこようとしている、と感じたからだった。胸がわるくなりそうな不安にかられた気持ちで、女は彼を見守っていた。
「ええ、わかってることよ、あたし、あんたにひどい仕打ちをしたわ。でも、いま、あたしを放りだしにしないでちょうだい。もうしかえしはしたじゃないの。いま放りだされたら、あたし、なにをしでかすかわかんないのよ」
「わかった、構わないよ」彼はいった、「だが、安くあげることにしよう。ちかごろは、そうパッパと金は使えないんだ」
彼女は腰をおろし、靴をはき、スカートを変え、帽子をかぶり、トッテナム・コート路のレストランにゆくまで、つれ立って歩いていった。こんな時間に食事をする習慣は、フィリップからはもうぬけ、ミルドレッドの喉はひどく痛んでいたので、彼女は食事を呑みこめなかった。ふたりは冷たいハムをとり、フィリップはビールを一杯飲んだ。前どおりのさし向いの坐り方だった。当時のことを思い出しているのかな、と彼は考えた。たがいにいうことはなにもなく、フィリップがむりをしてなにかいいださなかったら、だまったまま坐りつづけるところだった。反射の映像をつなげて映しだす野卑な姿見のあるレストランの明るい光の中で、彼女は老《ふ》けこんで、やつれてみえた。フィリップは子供のことを知りたかったが、それをいいだす勇気が出なかった。とうとう彼女はいった、
「いいこと、赤ちゃんは、この夏、死んじまったのよ」
「えっ!」彼は叫んだ。
「かわいそうにってくらい、いってくれてもいいはずね」
「いや、ちがう」彼は答えた、「とてもよろこんでるよ」
彼女はチラリと彼に目をやり、彼の意味をさとって、目をそらせた。
「一時は、赤ちゃんをとってもかわいがってたんじゃないこと、どう? ほかの男の生んだ子にどうしてああまでひかれてるのか、いつも、ちょっとおかしなことと思ってたわ」
食事が終ると、フィリップが注文した薬をとりに、ふたりは薬屋に立ち寄り、きたならしい部屋にもどると、彼は彼女に薬を飲ませた。それから、フィリップがハリントン通りにもどらなければなちない時刻になるまで、ふたりは坐っていたが、彼はひどくうんざりした。
フィリップは、毎日、彼女に会いにいった。彼女は処方した薬をのみ、彼の指示にしたがい、間もなくメキメキと回復し、女はフィリップの腕に全幅《ぜんぷく》の信頼を寄せることになった。よくなるにつれ、女の気落ちは消えてゆき、前よりもっと気楽にしゃべるようになった。
「これで、職にさえつけたら、もう万事文句なしよ」彼女はいった。「これにこりて、二度とまちがいをくりかえしたりはしないことよ。ほんとに、あんたのためにも、浮かれ遊びはやめることにするわ」
女と会うごとに、フィリップは、仕事がみつかったか、とたずねていた。彼女は、心配しないでくれ、望めばすぐ、なにか仕事がみつかる、いろいろと手段《てだて》はある、一、二週間はなにもしないでいたほうがいい、といっていた。たしかに、そのとおりだった。だが、その時期がすぎると、彼はもっとうるさくいった。女は、彼のことを笑い――前よりズッと陽気になっていた――うるさい男だなんぞとまでいった。そして、どこか食堂につとめようとしていたので、面会したあれこれの女将《おかみ》についての長話をし、そうした女将がいったことと、自分の答えを伝えた。しっかりした話はまだついてないが、つぎの週のはじめごろには、なにかまとまるはずだ、といった。急いだって意味はない、自分に合わない職についたりしたってつまんない、といったことだった。
「そんな話、バカげたことだ」イライラして彼はいった。「つける職につくべきなんだ。ぼくの援助はだめ、きみの金はいつまでもつづくわけじゃないんだからね」
「ええ、わかったわ。まだお金がつきたわけじゃなし、なんとか、一か八、いい職をねらってみるわ」
彼の監視の目はきびしくなった。彼がここにはじめて来て以来、もう三週間になり、そのときの持ち金は、七ポンドたらずだった。彼の胸に疑惑が湧いてきた。女のいっていたことをいくつか思い出し、あれこれと考え合せ、仕事をみつけようとしているのだろうか? と考えた。このあいだじゅうズーッと、嘘をついていたにちがいない。金がこんなにながつづきするなんて、じつに奇妙なことだ。
「部屋代はいくらなんだい?」
「ええ、おばさんはとっても親切で、よくあるおばさんとはちがってるのよ。こっちの都合がつくまで、気持ちよく待ってくれるの」
彼は口をつぐんでいた。疑いはじつにおそろしいもの、彼はたじろいでしまった。たずねたって意味のないこと、すべて否定で終るにきまっている。もし知りたいのだったら、自分でみつけなければならないわけだ。毎晩八時に、彼女のところがらひきあげることにしていたので、時計が鳴ると、彼は立ちあがったが、いつものとおりにハリントン通りにまっすぐは帰らず、ウィリアム通りをやってくるだれでも目につくようにと、フィッツロイ・スクウェアの角に立ちつくしていた。いつまでもいつまでを待ちつづけている感じだった。自分の推測があやまっていたと考えて、そこを立ち去ろうとした瞬間、七番のドアが開き、ミルドレッドが外に出てきた。彼は暗闇に身をかくし、自分のほうに歩いてくる彼女の姿をジッと見守っていた。彼女は部屋でみたあのたくさんの羽根毛をつけた帽子をかぶり、それとわかる服を着こんでいた。その服は、通りを歩くにははですぎ、季節に不似合いのものだった。彼女がトッテナム・コート路にはいるまで、彼はゆっくりとあとをつけ、そこで彼女の歩調はゆるみ、オクスフォード通りの角で、彼女は足をとめ、あたりをみまわし、演芸場のほうに道を切っていった。彼は女に近づき、腕に手をやった。そこで女が頬に紅をつけ、唇を真っ赤にぬり立てているのがわかった。
「どこにいくんだね、ミルドレッド?」
彼の声を耳にすると、彼女はギクリとし、嘘がみつかった場合いつもやっていたように、サッと顔を赤らめ、本能的に悪口雑言で身を守ろうとするときに示す、彼がよく知っているあのカッとした怒りのようすが、彼女の目に浮かんできた。だが、口の先まで出かかった言葉を、女はグッとおさえた。
「ああ、ちょっと見せ物でもみようと思ったの。毎晩ひとりでいるなんて、むしゃくしゃしてくるんですもんね」
彼のほうでは、それを信じるふうなんかみせなかった。
「いかんよ。まったく、どんなに危険か、もう何回となくいってるじゃないか。こんなことは、すぐにやめなければだめだ」
「ええ、おだまり!」彼女は荒々しく叫んだ。「じゃ、どうして暮してけると思うのさ?」
彼は彼女の片腕をとらえ、自分のしていることも考えずに、彼女をひきずっていこうとした。
「たのむ、きてくれ。ぼくが家につれてってやろう。きみは自分のしてることがわかってないんだ。犯罪なんだよ、そいつは」
「それでどうだというんだい? 男たちだって、一か八をやればいいのさ。男のことを考えてやらなければならないほど、親切にしてもらったおぼえはないんだからね」
彼女は彼をつきとばし、切符売り場にいって金を払った。フィリップのポケットには三ペンスしかなく、そのあとについてはいけなかった。彼はきびすをめぐらし、ゆっくりとオクスフォード通りを歩いていった。
「もうこれ以上どうにもならない」彼は考えた。
これが最後で、もう二度と彼女に会うことがなかった。
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百十
その年のクリスマスは木曜日だったので、店は四日間閉店になった。フィリップは伯父に手紙を書き、牧師館で休日をすごしていいかどうかをたずねた。返事はフォスター夫人から来て、ケアリー氏の健康がおとろえて、自分で手紙は書けないが、甥とは会いたがっている、来てくれたらよろこぶだろう、と書いてあった。フォスター夫人はフィリップを戸口でむかえ、握手をしながら、こういった、
「この前ここにおいでになったときとは、ずいぶんちがってるのがおわかりになりますよ。でも、なんにも気づかないふりをしててください、おねがいしますよ。からだのことで、とても神経をお立てなんですからね」
フィリップはうなずき、彼女は彼を食堂につれていった。
「フィリップさんがおいでですよ、旦那さま」
ブラックステイブルの牧師は、もう死にかけていた。くぼんだ頬とちぢみあがったからだをみれば、それは歴然たるものだった。彼は肘かけ椅子にからだをまるめて坐り、頭を妙なふうにうしろに投げ、肩かけをまきつけていた。ステッキの助けを借りなければ、もう歩けず、手がひどくふるえたので、食事もようやくのことでなんとかやっている状態だった。
「もうながくはないな」老人の姿をみて、フィリップは考えた。
「わしのようすをどう思うね?」牧師はたずねた。「この前ここに来たときと変ったと思うかね?」
「前の夏より元気そうにみえますよ」
「暑気のせいさ。あれは、いつも、からだに応えてな」
過去数ヵ月のケアリー氏の状態はといえば、寝室で送った週の数と階下で送った週の数の話だけだった。わきにふり鈴があり、話をしながら、自分が部屋を出たのは何月の何日だったかをたずねようと、となりの部屋にひかえているフォスター夫人をその鈴で呼んだ。
「十一月の七日ですよ、旦那さま」
ケアリー氏はフィリップをジッとみていたが、これは、フィリップがこの知らせをどう受けとるかをみてとろうとするためのものだった。
「だが、食事はよくとるよ、どうだね、フォスターさん?」
「そうですとも、旦那さま、たいした食欲ですよ」
「だが、太ったようには思えんな」
関心はもっぱら健康のみという状態だった。彼はただひとつのことに不屈の執念《しゅうねん》を燃え立たせていた。それは、生きること、生活の単調さと、モルヒネをのんだときしか眠れない不断の痛みにもかかわらず、ただ生きることだけだった。
「医者の勘定に払わにゃならん金額は、まったくおそろしいくらいのもんだよ」彼はまた鈴を鳴らした。「フォスターさん、フィリップ君に薬屋の勘定書きをみせてやってくださらんかね」
ジッと辛抱強く、彼女はそれを炉棚からとり、フィリップにわたした。
「たった一月《ひとつき》の払いでそうなんだ。お前は医者をしてるんだから、薬をもっと安く手に入れてはくれないかな? って考えてたもんさ。百貨店からそれをとるのも考えたよ。だが、そうなると、郵便料がかかるんだ」
フィリップのことには、たしかに、関心がなく、なにをしているのか? とたずねようとさえしなかったが、彼が来たことを、よろこんでいるようだった。どのくらい滞在できるのか、とたずね、火曜日の朝出発しなければならない、とフィリップが答えると、もっとながくいてもらえたらな、といっていた。自分の兆候を細かに話し、医者がどういったかをくりかえして述べた。話を切って鈴を鳴らし、フォスター夫人が部屋にはいってくると、こういった、
「いや、きみがそこにいるかどうかなと思ったんでね。それを調べようと鳴らしただけのことだったのさ」
フォスター夫人がいってしまうと、彼女が聞えるとこにいるかどうかをたしかめないと、不安になってくるのだ、とフィリップに説明した。なにかが起こったら、どうしたらいいかを、あの女なら心得ているからだ、とさらにつけ加えた。フィリップは、彼女がつかれ、睡眠不足で目がむくんでいるのに気づき、伯父は彼女を過労に追いこんでいるのではないか? といった。
「いや、バカな」牧師はいった、「あれは馬のように頑丈な女さ」つぎのとき、彼女が薬をもってはいってくると、彼は彼女にいった、
「フィリップ君は、きみに仕事が多すぎるといってるよ、フォスターさん。わしの看護を、きみはいやじゃないんだね、どうだい?」
「ええ、なんでもありませんとも。できることはなんでもしてあげたいと思ってますよ」
やがて薬の効果があらわれ、ケアリー氏は眠りこんだ。フィリップは台所にゆき、この仕事に堪えられるかどうかを、フォスター夫人にたずねてみた。ここ何ヵ月かのあいだ、彼女がほとんど休みをとっていないのを知っていたからだった。
「でも、わたしになにができましょう?」彼女は答えた。「お気の毒に、老旦那さまはすっかりわたしをたよりになさり、ときにはうるさいこともあるんですが、あの方を好きにならずにはいられませんわ、ほんと。もうながいことここにいるんで、お亡くなりになったら、わたし、どうしていいのか見当もつかないんです」
彼女が老人に心からの好意を寄せているのが、フィリップにはわかった。からだを洗ってやり、着物の世話をみ、食事を与え、夜には何回となく起こされているのだった。彼女はとなりの部屋でやすみ、老人は、目をさませばいつも、彼女がやってくるまで、例の小さな鈴を鳴らしつづけた。いつ死ぬかもしれず、さりとて、これから先何ヵ月も生きつづける可能性もあった。こうまで辛抱強いやさしさで赤の他人の世話をみるなんて、まったく驚くべきことだったし、愛してくれる者といって、この世にこの女ひとりしかいないのは、なんとも悲劇的であわれなことでもあった。
伯父が生涯にわたって説教しつづけてきた宗教は、いま、彼にとって形式的な重要性しかもっていないように、フィリップには思われた。毎日曜日に、副牧師がやってきて聖餐《せいさん》式を彼のためにおこない、彼自身もときどき聖書を読んでいた。だが、恐怖の情で死をながめているのは、明らかだった。死が永遠の生命への門口《かどぐち》とは信じていたものの、その生命にはいるのはまっぴらごめんというわけだった。たえず苦痛になやまされ、椅子に鎖づけになり、二度と大気のもとに出る希望を失っても、やとい女の手に抱かれている赤子のように、自分の知っている世界への執着をもちつづけているのだった。
フィリップの頭には、従前からのきまりきった返事しか伯父がくれないのを知っていただけに、どうにもたずねられずにいた質問がひとつあった。機械がすっかりすりきれてしまったいま、この最後の瞬間に、この牧師が魂の不滅を信じているのかどうか? ということだった。たぶん、魂の奥底では、切羽《せっぱ》つまった場合を考慮して言葉にあらわすのは許されないにせよ、神などはない、地上での生涯のあとには無《む》しかない、という確信がひそんでいるのではあるまいか?
クリスマス贈物日(クリスマスの翌日、郵便配達夫や使用人などに祝儀を与える習慣がある)の夕方、フィリップは伯父といっしょに食堂にいた。九時までに店にもどるために、翌朝とても早く、出発しなければならず、このときにケアリー氏に別れを告げておこうと思っていた。ブラックステイブルの牧師はウトウトと眠り、フィリップは、窓辺のソファーで横になって、読んでいた本を膝に乗せ、どうということもなく部屋をみまわした。家具を売ったらどのくらいになるだろう? と彼は考えた。もう家の中は歩きまわり、子供時代からなじみのものはみていた。わずかの陶器があり、そうとうの値になるかもしれず、ロンドンにもっていくだけのことはあるかな? と考えた。だが、家具はマホガニー製、がっしりとした醜悪なヴィクトリア朝ふうのもの、競売に出しても値はつかないだろう。三、四千冊の本があったが、それがどんなにたたかれるかは、だれでも知っていること、どうみても百ポンド以上になりそうもなかった。伯父がどのくらいのこしてくれるか、フィリップには見当がつかず、これでもう百回も、病院での課程を終え、資格をとり、病院勤務で送りたいと思っている期間をなんとか食っていくのに必要な最低の金額を計算していたが、この晩にもまた、それをくりかえした。
落ち着きなく眠っている老人をながめたが、そのちぢみあがった顔には人間らしさがなく、なにか奇妙なけだものの顔といったものだった。この無用な生命にけりをつけるのはどんなに容易なことだろう、とフィリップは思った。フォスター夫人が夜をらくにする薬を伯父のためにつくっているとき、彼は、毎晩、それを考えた。びんは二つあり、ひとつは規則的にのんでいる薬、他は苦痛が堪えられなくなったときの阿片《あへん》剤だった。これは、彼のためにコップについで、寝台のわきにおいてあり、明け方の三時か四時に、ふつう、呑まれていた。その分量を倍にしておくくらいは簡単なこと、夜のあいだに死亡して、だれも疑いはしないだろう。それが、ウィグラム先生の予期していた老人の死に方だったからである。それに、この最後は痛みをともなわないだろう。ほしくてほしくてたまらない金のことを思うと、フィリップは拳《こぶし》をにぎりしめた。あのみじめな生活をこれから先わずか何ヵ月かつづけたって、老人にどうということはないのだが、そのわずかな何ヵ月かは、彼にとってはこの上なく重大なのだ。もう忍耐の緒《お》が切れそうだった。翌朝仕事にまたもどっていくのを考えると、いやでいやで、身がふるえてきた。心にとりついている考えを思うと、心底がドキドキしはじめ、それを心から追い払おうとしたが、だめだった。それは、容易なこと、赤子の手をねじるようなものだ。老人にたいして、どうという気持ちはもっていなかった。好きになったことは一度もなく、生涯利己主義な男で、自分に傾倒していた妻には利己的、預けられた少年には冷淡だった。残忍な男とはいえぬにしても、バカで、頑固、つまらぬ官能におぼれている男だった。
それは容易なこと、赤子の手をねじるようなものだ。だが、フィリップにはできなかった。悔恨の情がおそろしかった。自分のしたことを生涯悔いることになったら、金を手にしたってどうだというのだろう? 悔恨なんてつまらぬものと何回となく、心でいってみても、ときに心にまいもどってきて、苦しみを与えるなにものかがあった。それが良心にのしかかってくるのが、いやだった。
伯父は目を開き、フィリップはよろこびを感じた。目を開くと、ちょっと人間らしくなったからだった。自分の心に浮かんだ考えが、心の底からおそろしくなった。考えていたのは、殺人なのだ。こんな考えを他人がもつものなのだろうか? それとも、自分が異常で邪悪な心の持ち主なのか? と考えてみた。いざとなったら、そんなことはできなかったろう、と思いはしたものの、その考えはたしかにあり、いつも心にまいもどってきた。手を出さなかったにしても、それは、恐怖のためなのだ。伯父はいった、
「まさかわしの死を待ち望んでるんじゃあるまいな、フィリップ?」
フィリップは胸がドキンとするのを感じた。
「とんでもない、そんなことはありませんよ」
「それならいい。そんなことは、されたくないからな。わしが死んだら、お前に少しは金をやれるだろう。だが、それを待ち望んだりしてはいけない。そんなことをしても、お前の得《とく》にはならんのだからな」
老人は低い声で話し、その調子には、奇妙な不安感がひそんでいた。フィリップはチクリと胸に痛みをおぼえ、どんなふしぎな洞察力で、この老人が自分の心に奇妙な欲望のあるのを推察したのだろう? と驚いていた。
「もう二十年も生きてくださいよ」彼はいった。
「ううん、まさかそうまでは考えておらんがね。だが、からだに注意したら、もう三年や四年はもつはずだ」
老人は、しばらく、だまり、フィリップにも話の種がなかった。ついで、十分に考えぬいたといったふうに、老人はまた語りだした、
「だれにだって、できるだけながく生きる権利はあるんだからな」
フィリップは老人の気をそらそうとした。
「ところで、このごろ、ミス・ウィルキンソンからは便りがないんでしょう?」
「いや、今年いつか手紙が来たよ。結婚したよ」
「ほんとですか?」
「うん、後妻になったんだ。愉快にやってるようだな」
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百十一
翌日、フィリップの仕事ははじまったが、数週間したらと思っていた伯父の死は、やってこなかった。週はすぎて月になり、冬はゆっくりと終り、公園では木が芽を吹きだし、若葉となった。
おそろしい倦怠感にフィリップはとらわれた。重い足をひきずりながらも、時はすぎてゆき、自分の青春時代はすぎ去ろうとしている、間もなくそれを失い、結局は青春を無為に送ったということになるだろう、と考えた。確実に仕事をやめるということになると、仕事はなおさら意味のないものに思えてきた。衣裳のデザインはうまくなり、発明の能力はないにしても、素早くフランスの流行をうまくイギリスの市場にとりいれることができるようになった。ときどき、絵でまんざらのものではなくとも、いざ衣裳に仕立てる段になると、その絵がひどい目に逢うこともあった。自分の考えが適切に実行にうつされないと、ひどく焦ら立っているのに気づいて、おかしくなった。
やり方は慎重にしなければならなかった。なにか独創的なものをいいだそうものなら、サムソン氏の手でいつもつぶされてしまった。客は奇妙な(フランス語)ものを望まず、とてもきちんとした商人階級なので、そうした層と商売で結びついている以上、その意向をないがしろにするのはつまらぬこと、というわけだった。一度か二度、サムソン氏は手きびしくフィリップに当ってきた。この若い男は少し思いあがってる、と彼は考えていたが、その理由は、フィリップの考えがかならずしも彼自身の考えと一致していないからだった。
「きみはまったくりっぱな男さ。だが、十分気をつけたほうがいいぞ。さもないと、いずれ首になる破目になるからな」
フィリップは、この男の鼻に一発食わせてやりたかったが、ジッと我慢した。なんといったって、この仕事がながくつづくわけではなし、やめるときになったら、こんな連中とはすべて、永遠におさらばなのだ、ときどき、おどけながらもやけになって、伯父は鉄製の人間にちがいない、と彼は叫んだ。なんと頑強なからだだろう! 伯父がかかっている病気なら、まともな人間の場合、一年前に死んでいるだろう。
牧師危篤の知らせがとうとうやってきたとき、ほかのことを考えていたフィリップは、びっくりした。もう七月になっていて、あと二週間したら、休暇で帰る予定だった。フォスター夫人からの手紙で、先生のみこみでは、ケアリーさんがながくはもたない、会いたいのだったら、すぐ来るように、と伝えてきた。フィリップは仕入れ係りのところにゆき、自分はやめたい、と通告した。サムソン氏はわけのわかった男で、事情がわかると、うるさいことはいわなかった。フィリップは自分の部の仲間の店員たちに別れの挨拶を述べたが、辞職の理由は、もう、大げさな形になって彼らのあいだにひろがり、ひと身代を手に入れたものと考えられた。彼と握手をしながら、ホッジズ夫人は涙ぐんだ。
「これからはもう、めったにお目にかかれないわね」彼女はいった。
「リン商店からぬけだせて、うれしいんです」彼は答えた。
奇妙なことだったが、自分がたまらなくいやと思いこんでいたこうした連中と別れるのが、心の底から悲しく、ハリントン通りの宿舎から車で去っていくときにも、心おどるといったよろこびはなかった。このさいに味わうと思っていた感情の期待が強すぎたので、いざとなると、ポカンとしてなにも感情が湧き起こって来ないのだった。まるで数日の休暇に出かけていくような、どうということもない気分だった。
「自分はじつにいやな性格の持ち主だな」彼は考えた。「すごく期待して楽しみにしてるのに、さあとなると、いつもがっくりしてしまうんだ」
午後早く、ブラックステイブルに着いた。フォスター夫人は戸口で彼をむかえたが、伯父がまだ死んでいないことが、その顔をみてわかった。
「きょうは、ちょっといいようです」彼女はいった。「すばらしいおからだですことね」
彼女は彼をケアリー氏が上向きに横になっている寝室に案内した。フィリップに投げた伯父の微笑には、もう一度敵をしてやった自分のぬけめのなさに満悦しているようすがあらわれていた。
「きのうは、もうだめ、と思ったよ」つかれきった声で、彼はいった。「みんなもそう思ってたんじゃないかい、えっ、フォスターさん?」
「たしかに、すばらしいおからだをおもちですことよ」
「老いぼれ犬にもまだ生命ありっていったとこかな」
牧師さんはおしゃべりをしてはいけない、からだをつかれさせてしまうのだから、とフォスター夫人はいった。彼女は、ビシビシときめこんでゆく親切味のこもった態度で、彼を子供のようにあつかい、みなの死の期待の裏をかいたことにたいする老人の満悦ぶりには、なにか子供っぽさがあった。フィリップが呼ばれたことにはすぐ気づき、むだ骨を折らせたのをおもしろがっていた。もう一度心臓の発作をなんとかしのげさえしたら、一、二週間もすればよくなるだろう。いままでも何回か発作は起き、いつも、もうだめ、と思いながら、生きつづけてきたんだ。みんなは自分のからだのことを口にしてるが、それがどんなに丈夫なもんかは、だれも知っていないんだ。
「一日か二日、ここにいるのかい?」休暇でやってきたと思いこんでいるふりをしながら、彼はフィリップにたずねた。
「ええ、そんなふうに考えてました」陽気にフィリップは答えた。
「海風にちょっと当れば、元気になるよ」
ほどなく、ウィグラム先生がやってきて、牧師の診察を終えてから、フィリップと話をした。その態度は、いかにも医者らしい適切なものだった。
「こんどこそ最後と思ったね、フィリップ」彼はいった。「われわれ全員にとって、それは大きな損害だ。これで、知り合ってから三十五年になるんだからね」
「いまは、とても元気そうですね」フィリップはいった。
「薬で生きてるだけなんだ。だが、いつまでもつづくもんじゃない。この二日間はひどかったよ。五、六回は、もうだめと思ったんだからね」
医者は、一、二分間、だまっていたが、門のところで、いきなりフィリップにいった、
「フォスターさんがなんかきみにいったかね?」
「というのは?」
「ここらの連中は、とても迷信が強くてね。牧師さんの心にかかってるなにかことがあり、それを払ってしまうまでは、死ぬに死ねない、しかも、それを話す気にはなれないでる、と彼女は考えてるんだ」
フィリップは返事をせず、医者は語りつづけた。
「もちろん、バカげた話さ。とてもりっぱな生涯を送り、義務は果し、教区のありがたい牧飾だったんだから、あの人がいなくなったら、きっと、われわれはさびしく思うだろうよ。心にやましいもんなんて、あるはずがないんだ。つぎの牧師さんがあの人の半分もいい人かどうか、とてもわからんのだからね」
数日間、ケアリー氏にはなんの変化も起きなかった。すばらしい食欲はなくなり、ほとんど食べられなくなった。ウィグラム先生は、こうなると、病人を苦しめている神経炎をためらわずに阿片剤でどんどんしずめ、それが、痲痺《まひ》した手足のひっきりなしのふるえといっしょになって、だんだん彼の体力を消耗《しょうもう》していった。だが、意識ははっきりしたものだった。フィリップとフォスター夫人は、協力して病人の看護に当った。この何ヵ月かつづいたいたれりつくせりの世話で、彼女はもうヘトヘトになっていたので、夜はゆっくり眠れるようにと、フィリップは、自分が患者といっしょにいる、と強くいった。そこで、ぐっすり眠りこまないようにと、ながい夜の時間を肘かけ椅子ですごし、かさをかけた暗いろうそくの光で『千一夜物語』を読んだ。幼い少年時代以来、それを読んだことがなかったので、子供時代のことが胸に浮かんできた。ときどき、坐ったまま、夜の静けさに耳を澄ませた。阿片剤の効果が薄れてくると、ケアリー氏は落ち着かなくなり、その応対がせわしくなった。
とうとう、ある朝早く、木のあいだで鳥がうるさくさえずっているとき、自分の名が呼ばれているのを聞いて、彼は寝台に近づいていった。ケアリー氏はあお向けに寝て、目は天井をにらみ、フィリップのほうにふり向かなかった。額に汗が出ているのがわかったので、フィリップはタオルでそれをぬぐいとってやった。
「お前かね、フィリップ?」老人はたずねた。
声が急に変っているのに、フィリップはびっくりした。しゃがれた低い声、恐怖におののく男の声だった。
「ええ、なにか用ですか?」
間があったが、視力の消えた目は、まだ、天井をにらんでいた。ついで、顔に痙攣《けいれん》が走った。
「どうやらだめらしいな」老人はいった。
「いやあ、バカな!」フィリップは叫んだ。「まだ何年も大丈夫ですよ」
ふた粒の涙が老人の目からポタリと流れでた。それをみて、フィリップの心は激しくゆり立てられた。伯父は世間のことで特別な感情をあらわしたことがなく、いまそれを目にするのは、おそろしいことだった。それは得もいえぬ恐怖にほかならなかったからである。
「シモンズさんを呼んでくれ」彼はいった。「聖餐式を受けたいんだ」
シモンズ氏は副牧師だった。
「いまですか?」フィリップはたずねた。
「すぐだ。さもないと、間に合わない」
フィリップはフォスター夫人を起こしにいったが、思っていたより手間暇がかかり、彼女はもう起きていた。伝言をもって植木屋を使いに出すように、と夫人に伝え、伯父の部屋にもどっていった。
「シモンズさんを呼びにやったかね?」
「ええ」
このあとに、沈黙がつづいた。フィリップは寝台のわきに坐り、ときどき、汗をかいた額をぬぐっていた。
「お前の手をにぎらせてくれ、フィリップ」老人はとうとういった。
フィリップは手をさしだし、老人は、まるで生命にすがりつくように、それをしっかりとにぎったが、これは臨終での心だのみといったものだった。たぶん、生涯にわたって、だれも本気で愛したことは一度もなかったのだろうが、いま彼は、本能的に、人間に面《おもて》を向けたのだ。手はぬれ、冷たかった。弱い絶望的な力でフィリップの手をにぎりしめた。老人は、死の恐怖と戦っているのだった。そしてフィリップは、すべての者がそこをとおりぬけねばならない、と感じた。ああ、なんとひどいことだ? 人間は神を信じているのに、神は、そのつくった人間がこんなむごい拷問の苦しみを味わっているのに、そのまんま放りだしにしているのだ。彼は伯父を愛する気持ちをもったことがなく、ここ二年間、毎日伯父の死をねがっていた。だが、いま、胸いっぱいに湧き起こってきた同情の念をおさえることができなかった。けだものでない人間になるために払う代償は、なんと大きなことだろう!
ふたりはだまったままでいたが、その沈黙は、ただ一度だけ、ケアリー氏の低いたずねる声で破られただけだった、
「まだ来んのかね?」
とうとう家政婦がソッとはいってきて、シモンズ氏が来たのを伝えた。彼はカバンをもってきたが、そこには聖職者の白衣と頭巾《ずきん》がおさめられてあった。フォスター夫人が聖餐式用の皿をもってきた。シモンズ氏は、だまったまま、フィリップと握手をし、ついで、牧師的な重々しい態度で、病人のわきに進んでいった。フィリップと家政婦は、部屋から出ていった。
朝露でスガスガしい庭を、フィリップは歩きまわった。鳥は陽気にさえずっていた。空は青く澄んでいたが、塩気をおびた大気は、快くひんやりしていた。薔薇は満開だった。木々の緑と芝生の緑は、精気にあふれ、輝くばかりだった。フィリップは歩きまわり、そうしながら、あの寝室で進行ちゅうの神秘を考えた。それは、特別の感情をひきおこした。やがて、フォスター夫人がやってきて、伯父が会いたがっている、と伝えた。副牧師は道具を黒カバンに入れていた。病人は頭を少し動かし、微笑で彼をむかえた。フィリップは、すっかり驚いてしまった。老人に変化、とてつもない変化が起きていたからである。目には恐怖に打ちのめされたようすはなく、顔のひきつりは消え、彼は幸福で、心の平静を獲得したようだった。
「もう準備はすっかりできたよ」彼はいい、声には前にはなかったひびきがこもっていた。「主がお召しになろうとお考えのとき、わしはいつでも自分の魂を主のみ手にささげることができるのだ」
フィリップはだまっていた。伯父がいつわりをいっていないことは、よくわかった。これは奇跡ともいっていいことだった。彼は救い主の肉体と血を受け(イエスが最後の晩餐でパンとぶどう酒をとり、「これ、わが身体なり、わが血なり」といったことにもとづき、聖餐式がおこなわれる)、それが彼に力を与え、常闇《とこやみ》にどうしてもはいっていかなければならぬのを、もうおそれてはいなかった。自分がいま死のうとしているのをさとり、あきらめきっていた。彼がそれ以上いったことは、ただひと言だけだった、
「あの家内と会えるな」
これは、フィリップには、驚きだった。どんなに冷淡な利己主義でその彼女をあつかい、彼女の謙虚で献身的な愛情にたいして、どんなに鈍感だったかを、憶えていたからだった。副牧師は深い感動を受けて去り、フォスター夫人は、泣きながら、彼を戸口のところまで送っていった。ケアリー氏は緊張ですっかりつかれ、ウトウトと眠り、フィリップは寝台のそばに坐って、臨終を待った。朝はゆっくりとたってゆき、老人の息づかいはいびきまじりのものになった。医者がやってきて、臨終を告げた。もう昏睡《こんすい》状態で、敷布を弱々しくつつくようにして噛み、落ち着かずに、声をあげていた。ウィグラム先生は皮下注射をした。
「もうこれ以上打つ手はないな。いつ死ぬかわからん」
医者は懐中時計に目をやり、ついで、患者をながめた。時刻が一時になっているのが、フィリップにわかった。ウィグラム先生は昼食を考えているのだった。
「お待ちいただいても、どうにもならないでしょう」彼はいった。
「これ以上なにもできんのだからね」医者はいった。
医者が帰ると、フォスター夫人は、葬儀屋でもある大工のところにいき、入棺《にゅうかん》の準備のための女を寄こしてくれるように、彼にたのんでもらえないだろうか? といった。
「新鮮な空気にちょっと当ったほうがいいですよ」彼女はいった、「気分がよくなりますからね」
葬儀屋は半マイルほどはなれたところに住んでいて、用件を伝えると、こういった、
「かわいそうに、あの方はいつお亡くなりになったんです?」
フィリップはちょっとうろたえた。まだ伯父が死んでいないのに、死体を洗う女をたのむなんで、人非人《ひとでなし》なことに映るだろう、という考えが頭に浮かび、どうしてフォスター夫人がこんなことを自分にたのんだのだろう? と考えた。自分があわてふためいて老人に早くけりをつけようとしている、と世間の人は思うだろう。そういえば、葬儀屋の目つきもなにか妙だった。葬儀屋はかさねて、もう一度たずねた。フィリップはこれにイライラしてきた。おせっかいな、うるさいやつだ。
「牧師さんはいつお亡くなりになったんです?」
フィリップは衝動的に、たったいま死んだ、といってやろうかと思ったが、そうすると、病人がもう何時間か生きつづけていたら、どうにもわけのわからぬことになるだろう。彼は顔を赤くし、まずい返事をしてしまった、
「ああ、じつはまだ、息が切れたわけじゃないんだがね」
葬儀屋はうろたえまなこで彼をながめ、彼は大急ぎで説明をすることになった、
「フォスターさんひとりしかいないんでね、女の人に来てもらいたがってるんだ。わかったね、どうだい? もう死んだかもしれないよ」
葬儀屋はうなずいた。
「ああ、わかりましたよ。だれかをすぐにやることにしましょう」
牧師館にもどると、フィリップは寝室にあがっていった。フォスター夫人は寝台のわきの椅子から立ちあがった。
「お出かけになったときと、ちっとも変ってませんよ」
食事をしに彼女は下におり、フィリップは死の進行状態を好奇の目でジッとながめていた。弱々しくもがく昏睡状態をつづけている老人には、もう人間らしさがなにもなかった。ときどき、ゆるんだ口許から、つぶやきの叫びがもれてきた。雲のない空から太陽がカンカンと照りつけていたが、庭の木々は快く、ひんやりとした感じだった。美しい日で、|あおばえ《ヽヽヽヽ》が一匹、うなりながら、からだを窓ガラスに打ちつけていた。突然、ゴロゴロという大きな喉の音がひびき、フィリップをギクリとさせた。すごくおそろしいものだった。痙攣がサッと手足に走りぬけ、老人はもう死んでいた。機械の巻きが切れたのだった。|あおばえ《ヽヽヽヽ》がブンブン、ブンブンとうるさく窓ガラスに身を打ちつけていた。
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百十二
ジョサイア・グレイヴズが、あの独断的なやり方で、葬式の準備をしてくれたが、それは、外見をそこなわず、しかも、金はそうかからなかった。葬式が終ると、彼は、フィリップといっしょに、牧師館にもどってきた。伯父の遺言状は彼が預かっていて、しかるべく威儀をくずさずに、早目のお茶を飲みながら、それをフィリップに読んで聞かせた。それは紙半分に書かれ、ケアリー氏の所有物すべてを甥にわたす、とあった。家具調度、銀行に預けた八十ポンド、A・B・Cパン会社の株が二十株、オールソップ醸造《じょうぞう》会社、オクスフォードの演芸場、ロンドンのレストランの若干の株があった。こうした株はグレイヴズ氏の話で買ったもので、いかにも満足げに彼はフィリップにいった、
「いいかね、人間は食べねばならず、酒を飲みたがり、娯楽を求めてるんだ。大衆が必要物と考えてるものに投資しといたら、絶対にまちがいはないんだよ」
彼の言葉は、彼が嘆きながらも認めている大衆の俗悪さと、えらばれた優秀な人間のもつもっとすぐれた目のちがいをちゃんとあらわしていた。投資のほうは、ぜんぶ合せると、約五百ポンドになり、それに、銀行預金と家具調度を売った金が加えられるわけだった。これは、フィリップにとっては大金だった。べつに幸福感を味わっていたわけではなかったが、たしかに、口にはとてもいいあらわせないほどホッとすることだった。
できるだけ早くやらねばならない競売の打ち合せをしてから、グレイヴズ氏はひきあげ、フィリップは腰をおろして、死んだ伯父の書類整理にとりかかった。牧師のウィリアム・ケアリーは、どんなものも破りすてぬのを自慢にしていた男で、五十年もさかのぼる手紙の包みと付箋をきちんとつけた書類の束が、わんさとあった。自分宛ての手紙ばかりでなく、自分が書いた手紙まであった。一八四〇年代に、オクスフォードの学生として、夏の休暇でドイツにいったとき、彼が父親に出した手紙の黄色くなった包みがあった。フィリップはそれをとりとめなく読んでいった。それは、彼が知っているウィリアム・ケアリーとはちがったウィリアム・ケアリーだったが、そこには、鋭い目をもった人になら、成人した男の人柄を思わせる少年の特徴があらわれていた。そうした手紙は、紋切り型で、ちょっと大げさなものだった。手紙のようすでは、みるべきものはぜんぶみてやろう、と必死にがんばっているらしく、ラインの川ぞいの城のことを、美しい情熱を傾けて描写していた。シャフハウゼン(スイスの最北の州にある都市で、近くに有名な滝がある)の滝は彼に「そのつくりたもうたものがかくもすばらしく美しい全能の創造主にたいし敬虔なる感謝をささげ」させ、「このありがたき創り主のみ業《わざ》」をながめて暮す人たちは、「その光景に打たれて心動かされ、かならずや清純で敬虔な生活を送ることになろう」と考えずにはいられなくなった。書きつけの中に、牧師になって間もなく描かれたウィリアム・ケアリーの小さな肖像画があったが、それは、ながい髪が生れながらの巻き毛のままさがり、浅黒い目は大きくて夢見心地、青白い禁欲的な顔をした、痩せた青年の副牧師の姿だった。彼を敬愛する婦人たちによって彼のためにつくられた何十足ものスリッパーの話をするときの伯父のうれしそうなふくみ笑いを、フィリップは思い出した。
のこりの午後とその晩ズーッと、フィリップは無数の手紙をせっせと読んでいった。宛て名と署名をチラリとながめ、その手紙をふたつに破り、わきにある洗濯物入れの寵に投げこんだ。いきなり、ヘレンと署名した手紙が目にはいった。筆跡におぼえはなかった。それは、細い、角ばった、旧式な書体だった。親愛なるウィリアムへではじまり、仲よしの妹よりで終っていた。そうしてみると、これは彼自身の母親からの手紙なのだ! いままで母親の手紙はみたことがなく、その筆跡は知らなかった。その手紙は、彼自身についてのものだった。
[#ここから1字下げ]
親愛なるウィリアムヘ
わたしたちの坊やにお寄せいただいたお祝いのお言葉とわたし自身についてのご親切なご配慮にたいするお礼は、もう主人のスティーヴンが申しあげました。神さまのおかげで、わたしたち母子《おやこ》は壮健、わたしにお示しあった神さまのご慈悲にたいして、深く感謝しています。もう筆をもてるようになったのですから、いま、そして結婚後ズーッとお示しいただいた兄上さまとルイーザのご親切にたいして、わたしがどんなに心から感謝しているかを、おふたりにお伝えしたいのです。それから、ひとつおねがいしたいことがございます。スティーヴンもわたしも、兄上さまに坊やの名づけ親になっていただきたいものと念願し、ご承諾いただければと希望しています。わたしのおねがいが軽々しいことではないことは、よく存じています。きっと立場の重大さをとても真剣にお考えになるのを知っているからです。でも、兄上さまが坊やの伯父上に当るばかりでなく、聖職におありの方でもあるので、わたしは、特別、それをおひきうけねがいたいのです。わたしは坊やの幸福を切望し、坊やが善良、正直なキリスト教徒に成長するのを、日夜神さまにお祈りしています。坊やのみちびき手として兄上さまがいてくだされば、坊やはキリストさまの信仰の戦士になり、生涯にわたって、神さまをおそれうやまい、謙虚で敬虔な人間になるでございましょう。
仲よしの妹、
ヘレンより
[#ここで字下げ終わり]
フィリップは、その手紙を向うにおしやり、前かがみになって、頬杖《ほおづえ》をついた。それで深く心打たれると同時に、びっくりもしていた。その宗教的な調子に驚きはしたが、それは、彼にとって、胸糞のわるくなるほど涙もろいものとも、感傷的なものとも思われなかった。死んでからもう二十年近くにもなり、美人だったということ以外に、母親のことはなにも知らず、その母親が単純で敬神の心の厚い女と知ったのは、なにか奇妙な感じだった。母親のそうした側面を考えたことは、一度もなかった。自分について母親がいっていること、自分に期待し、自分について考えていることを読みかえしてみたが、自分がその期待とはおよそちがった人間になっているのがわかった。一瞬、わが身のことをよく考えてみた。母親が死んでしまったほうが、たぶん、よかったのだろう。ついで、いきなりの衝動にかられて、その手紙をひきさいてしまった。その心やさしさと素朴さで、その手紙が特別個人的な秘密のもののように思われた。自分の母親のやさしい魂を暴露している手紙を読んでしまって、なにか道ならぬことを犯したような奇妙な気がしてならなかった。それにひきつづいて、牧師の味気ない手紙の整理にとりかかった。
数日後、フィリップはロンドンにゆき、ここ二年間ではじめて、聖ルカ病院の正面の入り口を、昼間、堂々とはいっていった。医学校の事務官に会ったが、事務官は彼の顔をみてびっくりし、いままでなにをしていたのだ? と根掘り葉掘りたずねた。フィリップの経験は彼に、ある種の自信と、いろいろのものにたいする従前とはちがった見解を与えていた。前だったら、こうした質問を浴びるととまどうところだったが、いまは冷静に、それ以上の質問を封じる慎重なつかみどころのない言葉で、私事上のことがあって課程を途中でやめなければならなくなった、いま、できるだけ早く医師の資格をとりたいと思っている、と答えた。彼が受けることができる最初の試験は産科と婦人科で、婦人科の病棟の医局員になる登録をすませた。ちょうど休暇だったので、産科の医局員の地位はすぐに獲得でき、八月の最後の週と九月のはじめの二週間、その勤務をすることになった。この面会のあとで、フィリップは多少物さびれた感じのする医学校をあちらこちら歩きまわった。そういった感じは、夏の終りの試験がすっかり終了していたためだった。テムズの川べりの段丘のところも、そぞろ歩きをした。胸がいっぱいになった。いま新しい生活をはじめるのだと考え、過去のあやまち、愚行、みじめさをすべて放棄するつもりになっていた。流れゆく川は、すべては流れ去り、いつも流れつづけ、どんなことも問題ではないことを教えていた。可能性を豊かに秘めた将来が前途に横たわっているのだった。
彼はブラックステイブルにもどり、伯父の財産整理にせっせととりかかった。競売は八月なかばにおこなわれることになったが、これは、夏期休暇ちゅうの避暑客がいて、高い値で売ることができるためだった。カタログが作製され、ターカンベリー、メイドストン、アッシュフォードのさまざまな古本屋に送られた。
ある日の午後、ターカンベリーにいって母校をおとずれてみようかな、という気になった。もうこれで人の支配は受けなくてすむとばかり、ホッとした気分になって学校を去って以来、そこにいったことはなかった。ながい年月にわたってよく知っていたターカンベリーのせまい街路をブラブラ歩いてゆくのは、なにか奇妙な感じだった。場所も変らず、まだ同じ物を売っているむかしながらの店、一方の窓には教科書、宗教書、最近の小説、べつの窓には大会堂と町の写真を飾った本屋、クリケットのバット、釣り道具、テニス用のラケット、蹴球用の球を売っている運動具屋、少年期をとおして注文していた洋服店、ターカンベリーにやってくれば伯父がかならず買っていた魚屋などが目にはいった。きたならしい街路を歩いていったが、そこの高い壁の向うには、予備校の校舎になっている赤煉瓦の建物があった。そこをさらに進むと、キングズ・スクールの門があり、まわりにいろいろの建物がある中庭で、彼はたたずんだ。ちょうど四時で、生徒たちが学校からとびだしてきた。ガウンを着こみ角帽をかぶった先生の姿がみえたが、なんとも奇妙な感じだった。この学校を出てから、もう十年以上の歳月が流れ、多くの変化が起きていた。校長の姿もみえた。学校からゆっくり家にもどっていくところだったが、六年生とフィリップの目には映った大柄な生徒に話しかけていた。校長はむかしのまんまの姿で、背が高く、死人のように青ざめ、ロマンティックで、同じ荒々しい目つきをしていたが、黒い髯には、いま、白いものがまじり、浅黒い血色のわるい顔には前より深いしわが刻みこまれていた。フィリップはフッとそばに寄っていって話しかけてみようかと考えたが、校長は自分のことを忘れているかもしれない、自分がだれかを説明するなんて、いまいましいことだ、と思いなおした。
少年たちは、たがいに話し合いながら、学校にのこり、やがて、急いで着換えをしてきた何人かは、ファイヴズ(手にグラヴをはめ、またはバットで全面の壁に球を打ち当てる遊戯)をやりはじめた。ほかの者は、ふたり、三人と組になって、ブラブラと校門から出ていったが、彼らがクリケット競技場にいこうとしているのが、フィリップにはわかった。さらにほかの連中は、構内にはいっていって、網のところでクリケットの練習をしようとしていた。こうした少年たちの中で、フィリップはよそ者、一、二の者は関心のない一瞥を投げはしたものの、ノルマンふうの美しい階段にひかれてやってくる来訪者は珍しくはなく、べつに特別の注意をひきおこしたりはしなかった。逆に、フィリップのほうは生徒たちをジロジロとながめていた。自分を彼らからひきはなしている距離を考えると、物悲しく、自分がどんなに多くのことをしたいと欲求し、じっさいにやったことはどんなにわずかかをかえりみて、ほろにがい思いを味わっていた。もう呼びもどしのきかぬこの歳月は浪費に終ったように思われた。元気でうきうきしている少年たちは、自分のやったのと同じことをやっていた。学校を出てからまだ一日もたってはいないといった感じだったが、少なくとも名は全員知っていたこの場所で、知っている者は、いま、ひとりもいなかった。数年経過すれば、この少年たちも、ほかの少年にとってかわられて、いまの自分のように、よそ者になることだろう。だが、そう考えたからといって、心が晴れるわけではなく、人間の空しさの印象を強くするばかりだった。それぞれの世代がつまらぬ回転をくりかえすだけなのだ。自分の仲間だった少年たちはどうなったのだろう? もう三十近くになっているはずだ。死んだ者もいるだろうが、ほかの者は結婚して子持ちになっているにちがいない。軍人、牧師、医者、弁護士だろうが、青春と離別しかけているしっかりした人物たちだ。自分のように人生をめちゃくちゃにしてしまった者がいるだろうか? 自分が献身的な愛情をささげていた例の少年のことが、頭によみがえってきた。妙なことながら、その少年の名が思い出せなかったが、風貌《ふうぼう》ははっきりと憶えていた。自分の無二の親友だった。だが、どうにも名前が思い浮かんでこなかった。この男のために自分が味わった嫉妬の情は、おもしろい思い出の種だった。その名が頭に浮かんでこないのは、いまいましいことだった。中庭でブラブラしている少年たちのように、少年時代にふたたびもどり、自分の犯したあやまちを二度とくりかえさずに、人生から多少のものを獲得したくなった。
たまらぬ孤独感がおそってきた。過去二年間苦しんできた貧困を悔やむ気さえ湧いてきた。ただ露命をつなごうとするばかりの必死の闘争が、生活の苦痛感をにぶらせてしまったからだった。「額に汗して、日々のパンを購《あがな》うべし」(創世記三ノ一九から)という言葉は、人類の受けたのろいではなく、生活をあきらめて受け入れるようにしてくれる香油なのだ。
だが、フィリップは自分にイライラしてきた。自分がいつも考えている人生の型を思い起こした。味わってきた不幸は、手の込んだ美しい飾りの一部でしかないのだ。わびしさとワクワク湧き立つ気持ち、快楽と苦痛、すべてを陽気に受けとめることにしよう、と必死になってわが心の説得にとりかかった。それは、デザインの豊かさを増すのに役立つからだった。意識して美を追求し、少年のころ、構内からゴチックふうの大会堂をながめて味わったよろこびを思い起こした。そこにゆき、くもり空のもとで灰色になっている巨大な建造物、神にささげた人間の礼賛《らいさん》のように高くそびえ立つ中央の塔をながめた。だが、少年たちは、網のところで球を打ち、しなやかで、たくましく、活動的だった。彼らの叫びと笑い声は、否応なく彼の耳にひびいてきた。若者たちの叫びは執拗《しつよう》にせまり、目の前の美しいものは、心ここにあらずといったふうに、ただながめているばかりだった。
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百十三
八月の最後の週のはじめから、フィリップは「受け持ち地区」の勤務をやりだした。一日三回の出産に立ち会わなければならなかったので、なかなかきつい仕事だった。患者は、しばらく前に、「診察券」を病院から受けとり、産気づくと、使いの者、たいていは小娘の手でそれが門衛にとどけられ、ついで、その使いの者は、門衛の指示で、道の向うのフィリップの下宿にやってきた。夜には、掛け金の鍵をもっている門衛が自分でやってきて、フィリップを起こした。暗闇の中で起き、河南地区《サウス・サイド》(河南のランベス地区は、当時、スラム街だった)の人気《ひとけ》のない通りを歩いていくのは、なにか神秘めいたことだった。こうした時間に診察券を持参するのは、ふつう、夫で、前にたくさんの子がもう生まれていれば、たいてい、出産を仏頂面《ぶっちょうづら》の無関心で受けとめていたが、新婚の場合には、神経質になり、ときに不安を酒で静めようとしていた。
ときどき一マイルかそれ以上も歩かなければならず、歩きながら、フィリップと使いの者は労働条件や生活費のことを話し合った。テムズ川のこちらの側でのさまざまな職業を、フィリップは知ることになった。彼はたまたま担当した家の人たちに信頼感を植えつけ、部屋の半分も占めている大きな寝台に妊婦が横になり、ムッとこもった部屋で待ちつづけるながい時間のあいだ、妊婦の母親と産婆たちは、仲間同士で話し合うように、気楽にフィリップにも話しかけてきた。過去二年間暮してきた環境は、ひどい貧乏人の生活についてさまざまのことを彼に教え、それを知っているのがわかると、彼らはおもしろがっていた。彼らのつまらぬごまかしに乗らないのも、彼らにしては驚きだった。彼は親切で、やさしくいたわり、癇癪《かんしゃく》を起こすことがなかった。気さくにいっしょになってお茶を飲んでいる態度が彼らをよろこばし、夜明けになってもまだ待ちつづけるといった場合、垂れ汁をぬったひときれのパンを出されることもあったが、彼は、小うるさいことをいわずに、たいていのものは遠慮なくパクパクとたいらげた。
きたならしい通りのはずれのよごれた路地にある彼のいった幾軒かの家は、光もささず通風もわるく、寄りそってゴタゴタと立ちならんでいたが、これはまったく不潔そのものだった。だが、ほかの家は、破損し、床は虫に食い荒され、屋根は雨もりがしながらも、予想に反して、堂々たるふうをもっていた。そこには、すばらしい彫刻をほどこした樫《かし》の手すりがあり、壁には羽目板がはったままのこされてあった。こうした家には、人がみっしりと住みこみ、それぞれの部屋が一世帯となり、昼間には、路地で遊ぶ子供たちの声がたえずひびいていた。古壁は南京虫や|しらみ《ヽヽヽ》の飼育場ともいえるもので、空気はひどくにごり、ときどき、胸がわるくなって、フィリップはパイプに火をつけた。ここの住人はその日暮しをし、赤ん坊はありがたくない存在、夫はムッとした怒りで、母親はやけまじりの気分で、それをむかえた。食わさなければならない口がひとつふえたことになり、もう生まれてしまった子供たちを食べさせるのにも事欠くといった状態だった。フィリップはときどき気づいていたが、死産かすぐに死ぬのをねがっている場合もあった。双生児《ふたご》の出産に立ち会ったことがあったが、それを伝えられると、女は、ながい、甲高い嘆きの声をあげて、ワッと泣き伏した。この女の母親は露骨にいった、
「この子供たちをどうして食わしてくのかねえ?」
「きっと神さまは、お召しになったほうがいいと考えてくださることよ」産婆はいった。
ならんで寝ている小さな赤ん坊をながめている夫の顔を、フィリップはみたが、そこには残忍さを秘めた不機嫌があり、彼のほうでびっくりしてしまった。そこに集ったこの一家に、望まれずにこの世にあらわれてきたあわれなちびにたいするおそろしい怒りがこもっているのを、彼は感じ、ここでしっかりといっておかないと、「事故」が起きるのではないかと思った。事故はよく起き、母親が赤ん坊の上に「寝こけて窒息させ」、食事の失敗も、かならずしも不注意の結果とはいえないようだった。
「ぼくは毎日来るよ」彼はいった。「注意しとくがね、赤ん坊の身になにか起きたら、検死がおこなわれるんだよ」
父親はブスッとしてなにも答えず、渋面をフィリップに投げつけた。この男の魂には殺人の意志がひそんでいた。
「いやはや、とんでもないこと」お婆さんはいった、「あの赤ん坊たちの身になにか起きるとでもいうんですかね?」
医者の立場からすれば、母親は少なくとも十日間寝ていなければならなかったが、これが大変なことだった。一家の世話をみるのは厄介なこと、だれも、金をもらわなければ、子供の面倒をみてくれなかった。仕事でつかれ腹を空かせて家にもどり、お茶の準備ができていないと、亭主はブーブーと不平を鳴らした。貧乏人はたがいに助け合うものとフィリップは聞いていたが、つぎからつぎへと女たちは、金をやらなければ、だれも掃除をしてくれず、子供たちの食事の心配もしてくれない、それに、そんなお金を払う余裕なんかとてもあるもんじゃない、と彼にこぼしていた。女たちの話をよく聞き、たまたまもらした言葉から言外の多くのことを推察して、貧民階級とその上の階級のあいだに共通点がどんなにないかを、フィリップはさとった。
生活があまりちがいすぎるので、貧乏人は自分たちよりいい暮しをしている連中をうらやんだりはせず、彼らなりの理想とする安楽感があって、それからみれば、中産階級の生活は紋切り型で堅固しく思われるのだった。その上、柔弱で腕でかせぎをしていない中産階級にたいして、ある軽蔑感をいだいていた。ほこりの高い連中はただ、構わないで放っといてくれ、というだけだったが、大部分の者は、富裕者を利用すべき人間と考えていた。慈善家が与えてくれる利点を手に入れるために、どういったらいいかをちゃんと心得、受ける利益は、お偉方《えらがた》の愚行と自分たちのぬけめなさのために自分たちに与えられる権利と考えていた。副牧師は軽蔑まじりの無関心で我慢してはいたものの、教区世話人(教区の一地区を受けもち、教区牧師の仕事を助ける婦人)となると、辛辣な憎しみの情をひきおこしていた。そうした女は、家にはいってきて、「ごめんなさい」とも「すみませんが」ともいわずに、窓をあけ、「あたしゃ気管支炎をわずらってるんで、風邪で死んじまうとこだったよ」となるわけだった。この女は、部屋の隅にまで鼻をつっこみ、部屋がきたないと口にいわなくとも、頭の中で考えているのは、彼らにはみとおしだった。「召使いをやとってるあの連中には、とっても結構なことさ。でも、子供を四人かかえ、料理をし、子供たちの服のつくろいをし、その洗濯までやるとなったら、あの女《ひと》の部屋がどんなになるもんか、ひとつみたいもんだね」だった。
こうした人たちにとって、人生の最大の悲劇は、別離でも死でもなく、失業であるのが、フィリップにわかってきた。別離と死は自然なもので、その悲しみは、涙で癒やすことができたからである。ある日の午後、妻のお産の三日後に夫が家に帰り、首になったことを妻に告げる場面をみたことがあった。彼は建築屋で、その当時は不景気風が吹きまくっていた。夫はその事実を語り、坐ってお茶にとりかかった。
「ああ、ジム」妻はいった。
彼が帰ってくるのを待ってシチューなべで煮こんでいたなにか食べ物を、彼はぼんやりと食べ、皿をジッとにらんでいた。妻はおびえたまなざしで、二、三度夫をチラリとながめ、それから静かに泣きだした。建築屋はやぼったい小男、荒っぽい陽焼けした顔をし、額にはながい白い傷痕《きずあと》があり、大きな毛むくじゃらな手をしていた。やがて、彼は皿をわきにおしのけたが、むりやり食べようとするのはもうまっぴらといったふう、目をそらして、窓の外をジッと見入っていた。部屋は家のいちばん上にあり、しかも裏側だったので、目にはいるものといえば、ただ陰鬱な雲だけだった。この沈黙は、絶望の重みでおしつぶされているようだった。フィリップはなにもいうことがないと感じ、ただ出ていくしかなかった。ほとんど毎晩起こされていたので、ぐったりとして歩いていったが、彼の心は、この世の残忍さにたいする激しい怒りでいっぱいになった。仕事をさがしてもだめなこと、飢えより堪えがたいわびしさの味を、彼はよく知っていた。神にたいする信仰のないのがありがたかった。信仰をもっていれば、こうした事態は我慢ならぬものになったことだろう。あきらめてこの世を我慢できるようになるのは、ただ人生を無意味とみるからなのだ。
貧乏人を救済することで生涯をついやしている人びとがいるが、彼らは重大なあやまりを犯しているようだ、とフィリップは考えた。彼らは、自分自身が我慢しなければならなくなったら、さぞ応えるだろうと思うことの救済にとりかかるのだが、それに馴れっこになっている連中には、そうしたことは一向気になっていないのだ。貧乏人は、大きな風とおしのいい部屋を望んでいない。彼らは寒さに苦しんでいる。食事は栄養分がなく、血の循環がわるく、ひろい場所は寒々とし、石炭はできるだけ節約したいからだ。ひと部屋に何人も雑魚寝《ざこね》するなんて問題ではなく、むしろ好ましいものなのだ。生れて以来死ぬときまで、ひとりでいることは絶対にないし、孤独は苦痛になる。雑居状態は楽しく、環境の絶え間なしの雑音は耳にはいっていないのだ。いつも入浴するのを必要と感じてはいない。病院にはいると、それをしなければならなくなって、プリプリ怒っているのを、フィリップは何回となく聞いていた。入浴は、人をバカにした話というばかりでなく、気分がわるくなることでもあった。貧乏人の望む主なものは、放りだしにしておいてもらうこと、きちんと職についていれば、生活はらく、それなりの楽しみはある、というわけだった。世間話をするのに、たっぷり時間はある、一日の仕事を終えたあとでのビールの味はまた格別、通りはいつも楽しみの根源、ものが読みたくなったら、『レノルズ』か『世界ニュース』がある。「でも、ここにいると、あっという間に時がたっちまってね。まったく、ほんとうの話、娘のときにゃあ本はよく読むもんですがね、あれやこれやのことで、いまじゃ暇がなくなって、新聞さえ読めないんですよ」
出産後、ふつう、三回往診することになっていた。ある日曜日、ちょうど昼食時にフィリップは患者のところにいったが、患者は、その日はじめて、起きだしていた。
「もう寝てなんかいられないわ、ほんとにそうなの。ブラブラしてられないようにできてるのね。あそこに寝て、一日じゅうなんにもしないでると、ソワソワしてくるの。だから、アーブ(ハーバートの省略ハーブのこと)にいったの、起きて料理をつくってあげますよってね」
アーブは、もうナイフとフォークを手にして、テーブルに向っていた。彼は若い男で、目は青く、素直な顔をしていた。かなり収入《みいり》はあるらしく、いまのとこ、生活はらくにやっているようだった。数ヵ月前に結婚したばかりで、寝台の端の揺り籠に寝ている薔薇のように赤らんだ赤ん坊を、夫婦ともどもよろこんでいた。部屋にはビフテキのおいしそうなにおいがただよい、フィリップの目は自然にかまどの天火《てんぴ》のほうに向いていった。
「料理を、いま、皿に盛ろうとしてたとこなのよ」女はいった。
「さっさとやってくださいよ」フィリップはいった。「ご子息と後継《あとつぎ》にひと目お会いしたら、すぐに失礼しますからね」
フィリップの言葉がおもしろいといって、夫妻は笑いだし、アーブは立ちあがって、フィリップといっしょに、揺り寵のところにいった。彼は、得意満面、赤ん坊をジッとながめた。
「まずいことは、べつにどうってないようですな、えっ?」フィリップはいった。
彼は帽子を手にしたが、このときまでに、アーブの細君はビフテキを天火からとりだし、グリーンピースの皿をテーブルにおいてあった。
「すごいご馳走ですね」ニッコリして、フィリップはいった。
「家にいるのは日曜だけでしょう。仕事に出て家のことを忘れられたら大変と、特別料理を出すことにしてるのよ」
「おれたちといっしょに食事なんて、とてもしてはいただけんでしょうね?」アーブはいった。
「まあ、アーブ」なれなれしすぎると心配して、細君は叫んだ。
「呼ばれれば、よろこんでいただきますよ」感じのいい微笑を浮かべて、フィリップは答えた。
「うん、そう来なくっちゃあね。怒ったりはしないとわかってたのさ、ポリー。さあ、もう一枚、皿をたのむぜ」
ポリーは、すっかりあわて、アーブはまったくひょうきんな人、なにをいいだすかわかったもんじゃない、と考えたが、皿を出し、エプロンでそれをふき、晴れ着といっしょに客用の刃物類がしまってある箪笥から新しいナイフとフォークをひっぱりだした。テーブルには黒ビールを入れたジョッキまで出ていて、アーブはそれを一杯フィリップについでくれた。ビフテキのいちばん大きな切り身をくれようとしたが、フィリップは、みんな等分にわけることにしよう、と強くがんばった。
床までさがっている窓がふたつついた陽ざしのいい部屋で、かつては上流とまではいかずとも、少なくともきちんとした家の客間で、五十年前には富裕な商人か退役軍人が住んでいたのだろう。アーブは結婚前蹴球の選手だったらしく、壁には、堅苦しい姿勢をしたさまざまの写真がかけられ、そこの全員は油できちんと髪をなでつけ、まんなかにキャプテンがカップをもってふんぞりかえって坐っていた。そのほかにも、景気のよさを思わせるものがあった。アーブと細君のそれぞれの親類の晴れ着姿の写真がそれで、炉棚の上には、小さな岩に念入りにはめこんだ貝殻の飾りがあり、その両側には取っ手つきの茶碗があって、そこには波止場と遊歩道の絵が描かれ、ゴチック文字で「サウスエンド(テムズ川河口の有名な海水浴場)よりの贈り物」と書かれてあった。アーブは多少変り者らしく、労働組合に加入せず、組合が強引に加入をすすめる態度を、プリプリしながら話した。組合なんて、自分には役立たずのもん、頭があり、どんな仕事でもブーブー文句をいわずにやってたら、だれでもいい賃銀はかせげるんだ、といったわけ。ポリーは小心翼々《しょうしんよくよく》、自分だったら労働組合にはいる、この前ストライキが起こったとき、亭主が出かけるといつも、救急車で運びこまれてくるんじゃないかなと心配ばかりしてた、といっていた。彼女は、フィリップのほうに向いていった、
「とっても頑固者《がんこもの》なのよ。この人を相手にしたら、なんにもできやしないわ」
「うん、おれのいい分は、ここは自由の国、人に指し図されるなんて、まっぴらということさ」
「自由の国だなんていったって、だめよ」ポリーはいった、「そうだからといったって、機《おり》がありさえすりゃ、あの連中はあんたの頭をポカリとやるのに変りはないんですからね」
食事が終ると、フィリップはタバコ入れをアーブにわたし、ふたりはパイプをくゆらせた。それがすむと彼は立ちあがって握手をしたが、これは、自分の下宿で「往診」の用件が待っているかもしれないからだった。いっしょに食事をして、この夫婦がよろこんでいるのが、彼にはわかり、夫婦のほうでも、彼が食事を十分に楽しんだのを知っていた。
「じゃ、先生、さようなら」アーブはいった、「かみさんがつぎに恥かきをやらかす(お産のこと)とき、こんなにいい先生にぶつかったらいいんですがね」
「なにいってんのよ、この人」ポリーはやりかえした、「またこのつぎ、どんなことになるか、あんた、わかってるの?」
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百十四
病院勤務の三週間が、ようやく終りに近づいた。フィリップの接した患者は六十二人、もうヘトヘトだった。最後の夜の十時ごろ、家に帰ったとき、また呼びだされたりはしないように、と心の底からねがった。たったいまもどったばかりの患者は、まったくひどいものだった。大柄なたくましい男で、酔っているだけに始末がわるく、この男につれられて悪臭が鼻をつく路地奥の部屋にいったが、その部屋たるや、みたこともないほどきたならしいものだった。小さな屋根裏部屋で、空間はほとんど木製の寝台で占められ、上にはよごれた赤い垂れ幕の天蓋《てんがい》がかかり、天井はとても低く、指の先でさわれるくらいだった。その部屋のただひとつの光源になっているろうそくを手にして、彼は天井を調べ、そこにはっている南京虫を焼き殺していった。患者はだらしない恰好をした中年女、何回となく死産の経験のある女だった。これは、フィリップが知らないわけではない話だった。主人はインド駐留《ちゅうりゅう》の兵隊、イギリス人のお上品ぶりがインドにおしつけた法律で、病気の中でもいちばん厄介な病気(梅毒のこと)の大|蔓延《まんえん》がひきおこされることになり、被害者は女と子供だった。あくびをしながら、フィリップは服をぬぎ、風呂《ふろ》にはいり、水の上で服をふると、身をくねらせながら、南京虫が何匹かそこに落ちてきた。さあ床にと思っていた矢先、ドアにノックの音がひびき、病院の門衛が診察券をもってきた。
「糞っ!」フィリップはいった。「きみは、今晩、絶対に会いたくはない男だったんだがね。だれがこれをもってきたんだい?」
「亭主でしょうな。待つようにいいましょうか?」
フィリップは、宛て名をながめ、よく知っている通りであるのをさとり、案内人はいらない、と門衛に伝えた。服を着換え、五分すると、黒カバンを手にして、その通りにはいっていった。暗闇でこちらからは姿がみえなかった男が近づいてきて、自分が亭主だ、といった。
「待ってたほうがいい、と思いましてね、先生」男はいった。「この近所はちょいと柄のわるい場所なんです。先生がだれかを知らん者《もん》もいましてね……」
フィリップは笑った。
「いやはや、とんでもない、医者はみんな知っているよ。ウェイヴァー通り(架空の名前)よりズッと危険な場所にもいったことがあるんだからね」
まったく、そのとおりだった。黒カバンは、巡査が単身ではいきなりはいっていけないうらぶれた小路や悪臭を放つ路地をとおりぬけてゆく通行券になっていた。一度か二度、わずか数人の男たちがとおっていくフィリップの姿をジロジロながめていたが、なにかブツブツいうつぶやきが聞え、ついでひとりがいった、
「病院の先生だよ」
わきをとおっていくと、彼らのうちの一、二の者が、「今晩は、先生」と声をかけてきた。
「できたら、急ぎたいんですがね、先生」同行の男がいった。「グズグズしてはいられないって、みんながいってたんです」
「じゃ、どうしてこんなにおそくまで放りだしといたんだい?」足を早めながら、フィリップはたずねた。
街灯の下をとおるとき、彼は男をチラリとながめた。
「すごく若いようだね」彼はいった。
「十八になったばかしです、先生」
男は色白で、顔には毛が一本も生えていず、少年としかみえなく、背は低かったが、ずんぐりしていた。
「ずいぶんと若く結婚したんだね」フィリップはいった。
「結婚しなくちゃならなくなったんです」
「かせぎはどのくらいあるんだい?」
「十六シリングですよ、先生」
週に十六シリングといえば、妻と子供を養っていくのに十分な金ではなかった。夫婦が住んでいる部屋は、極貧を物語っていた。かなり大きな部屋だったが、家具がほとんどないだけに、なおガランと大きくみえた。床にじゅうたんは敷いてなく、壁には絵がかかっていなかった。たいていの部屋にはなにか、たとえば、写真とか、絵入り新聞のクリスマス号からとった付録とかが安い額縁に入れて飾ってあるのだった。患者は、いちばん安い鉄製の小さな寝台に寝ていた。この女がいかにも若々しかったので、フィリップはびっくりした。
「まったく、十六以上とは思えないな」ここに「とりあげ」の世話にきた産婆に、彼はいった。
産婆は診察券に書いてある十八歳という女の齢を示したが、患者が若すぎる場合、齢を水増しするのはよくあることだった。女は美しくもあったが、これは、栄養不良、わるい空気、不健康な仕事でからだが痛めつけられているこのあたりの住民には、めったにないことだった。女は華奢《きゃしゃ》な顔立ちをし、青いつぶらな大きな目をもち、フサフサとした黒みのかった髪は、呼び売りの行商人ふうに、手教をかけて結いあげられていた。患者も主人も、ひどく神経を立てていた。
「きみは外で待ってたほうがいいね。用があるときは、すぐ呼べるようにね」フィリップは男にいいつけた。
いま改めてみて、フィリップは男の子供っぽいようすにまたびっくりした。気をもみながら子供の誕生を待っているなんてとんでもないこと、ほかの少年たちと街路でとびまわっていてもいいような感じだった。何時間かがたち、赤ん坊が生れたのは、二時になってからだった。万事うまくいっているようだった。主人が呼びこまれ、妻にオズオズと恥ずかしそうにキスをしているようすをながめて、フィリップは心を打たれた。フィリップは道具をカバンにしまいこんだ。帰る前に、もう一度、患者の脈をはかってみた。
「これは大変!」彼は叫んだ。
患者をサッとながめた。なにかが起きたのだ。緊急の場合には先任産科医局員《S・O・C》を呼ばなければならなかったが、これは医師の資格をもち、その「地区」を受けもっている男だった。フィリップは大急ぎで手紙を書き、それをわたしながら、それを病院に走ってもっていくようにいいつけた。こうして急行を命じたのは、彼の妻が危険な状態にあったからだった。男は出発し、フィリップは気をもみながら待っていた。妊婦が出血で死にそうになっているのが、彼にはわかっていた。先任医師が来るまでに、死んでしまうのではないかと心配だった。できるだけの手段はとった。先任産科医局員がほかに呼びだされてはいないように、と心から祈った。すぎてゆく一分一分は、果てしなくつづくようにながかった。医局員がとうとうやってきたが、患者を診察しながら、低い声で、フィリップにいくつか質問をした。その顔つきで、患者が重態なことが、フィリップにわかった。医局員はチャンドラーといい、口数の少ない背の高い男で、鼻はながく、痩せた、齢に似合わぬしわの多い顔をしていた。彼は頭をふった。
「最初っから、もうどうにもならなかったんだ。主人はどこにいるのかね?」
「階段で待ってるように、といってあります」フィリップは答えた。
「呼んだほうがいいね」
フィリップはドアを開き、主人を呼んだ。彼は、暗闇の中で、つぎの階に通じる階段の最初の段に坐っていたが、寝台に近づいていった。
「どうかしたんですか?」男はたずねた。
「いやあ、内出血でね。それはとめられないんだ」医局員はちょっと口ごもり、痛ましいことをいわなければならないので、声をわざと無愛想にした。「臨終だよ」
男はひと言もいわずに、ジッと立ちつくして妻をながめたが、彼女は、青白く昏睡状態で、横たわっていた。ここで語りだしたのは産婆だった。
「先生方はできるだけのことをしてくださったんですよ、アリー(ハリーのこと)」彼女はいった。
「どんなことになるか、あたしには最初っからわかってたんだけどね」
「つまらんことはいうな」チャンドラーはいった。
窓にはカーテンがなく、だんだんと夜が白んでいく感じだった。まだ夜明けではなかったが、夜明けはもう間近だった。チャンドラーは必死になって女の死をくいとめようとしたが、生気はどんどんぬけてゆき、生命の紐《お》はいきなり切れてしまった。夫である少年は、手すりに両手を乗せて、鉄の安寝台の端のところに立ち、だまりこくっていたが、顔はひどく青ざめ、一度か二度、失神するのではないかと心配して、チャンドラーは不安そうにこの彼をながめた。唇は灰色だった。産婆はさわがしくすすり泣いていたが、彼はそれに気づかなかった。目は妻の上に釘づけになり、そこにはもうまったくの狼狽があるだけだった。身におぼえのないことでたたかれた犬のようだった。チャンドラーとフィリップが道具をしまいこむと、チャンドラーは夫に向っていった、
「しばらくやすんだほうがいいよ。すっかりつかれてるんだろうからね」
「横になるとこがないんです、先生」彼は答えたが、その声には、じつに悲惨なわびしいみすぼらしさがあらわれていた。
「この家でだれか間に合せの寝床を貸してくれる者がいないのかね?」
「ないんです、先生」
「ついこの前の週、引っ越してきたばっかしなんです」産婆はいった。「だから、知ってる人はだれもないんですよ」
チャンドラーは、困ったといったように、一瞬とまどい、ついで男のほうに進んでいって、いった、
「こんなことになって、とてもお気の毒に思ってますよ」
彼は手をさしだし、男は、自分の手がきたなくはないかと本能的に手にチラりと目を投げてから、握手をした。
「ありがとうございました、先生」
フィリップも握手をした。チャンドラーは産婆に、翌朝死亡証明書をとりにくるように、といいつけた。ふたりは家を出ていき、だまって歩きつづけた。
「最初、ちょっとびっくりするだろう、どうだい?」とうとうチャンドラーが口を切った。
「ええ、ちょっとね」フィリップは応じた。
「希望なら、今晩はこれ以上もうきみのとこに往診をたのみにいかんように、門衛にいっとくけどね」
「いずれにせよ、朝の八時でこの勤務は終るんです」
「患者はどのくらいあつかったんだい?」
「六十三です」
「いいな。それで医師免許証は確実だよ」
ふたりは病院に着き、医局員は、だれか自分を呼びに来た者はいないかと、中にはいっていった。フィリップは、そのまま歩きつづけた。前の日一日じゅう、とても暑く、早朝のいまは、大気にさわやかさがこもり、通りはひっそりしていた。床にはいる気にはならなかった。仕事はこれでもう終り、急ぐことはなかった。新鮮な空気と静けさを楽しみながら、ブラリブラリと歩いていった。橋まで歩き、川の夜明けをみてみようという気になった。町角に立っていた巡査が、お早う、と声をかけてきた。カバンでフィリップがだれかを察したのだった。
「今晩はおそくまでお出かけですな、先生」巡査はいった。
フィリップはうなずき、とおりすぎた。橋の手すりに寄りかかって、朝空をみあげた。この時刻に、この大都市は死者の町だった。空には雲ひとつなかったが、夜明けとともに、星影は薄くなっていった。川面《かわも》にはうっすらと霧がかかり、川の北側の大きな建物は、魔法の島の宮殿のようだった。一団の川舟が流れの中ほどに繋留されていた。あたりは一面、この世のものならぬ紫色に染めつくされ、それは、なにか心を波立たせ、畏怖の念をひきおこしたが、すべてのものは、ドンドンと、青ざめ、冷たく、灰色に変っていった。ついで日の出になり、黄味をおびた黄金の一|閃《せん》が空を走り、空は紅色に輝きわたった。フィリップの目には、蒼白になって寝台に横たわっているあの少女の人妻、傷ついたけだもののように寝台の端に立ちつくしている少年の姿が、まだマザマザとのこっていた。
きたない部屋がガランとしていただけに、そこの苦痛はさらに悲痛さをましていた。生命の戸口に立っている彼女の命の紐を愚かしい運命が断ち切ってしまうなんて、無惨なことだった。だが、こう考えながらも、それと同時に、彼女のこれから先の生涯を、フィリップは頭に思い浮かべた。子供たちの出産、貧困との味気ない戦い、苦役と困窮に青春が打ちひしがれて、だらしのない中年女になっていくのが、その生涯だった。あの美しい顔が痩せて青ざめ、髪が薄くなり、仕事でひどくいためつけられて、あの美しい手が老いたけだものの爪のようになっていく姿が、目に映ってきた。ついでは、あの少年も男盛りがすぎ、仕事がなかなかみつからなくなり、わずかの賃銀で我慢し、否応のない最後のみじめな貧困がせまってくる姿があった。あの女は、たくましく、節約家、勤勉家かもしれない。そうではあっても、非運はさけられないのだ。最後は、養老院か、子供たちの仕送りで細々暮すのが落ちだろう。人生に楽しみがこうまでないとき、彼女が死んだからといって、あわれに思うことがあるのだろうか?
だが、憐憫《れんびん》はうつろなもの。こうした人たちが求めているのは憐憫ではない、とフィリップは感じた。彼らは自己をあわれんではいないのだ。自分たちの運命をそのまま受け入れている。それは自然界の理法というものなのだ。そうでなかったら、大変なことになるだろう! そうでなかったら、彼らは群れをなしてテムズ川をおしわたり、あのしっかりと立っている堂々たる大建築物のある川向うにおそいかかり、掠奪と放火と狼藉《ろうぜき》をおこなうだろう。だが、もう青白くやさしい夜明けになり、霧はほのか、すべてのものをやわらかな光の中につつんでいた。テムズ川は、灰色、薔薇色、緑色、真珠のような灰色、黄色な薔薇の芯《しん》のような緑色になっていた。サリー側の波止場と倉庫は、ひとかたまりになって、雑然とした美しさをあらわした。この景色はじつにすばらしく、フィリップの心は高鳴った。世界の美に圧倒されたのである。こうした美にくらべたら、どんなものも問題ではないように思われた。
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百十五
冬の学期がはじまるまでの数週間を、フィリップは外来患者部ですごし、十月になって、正規の授業を受けることになった。ながいこと病院をはなれていたので、大部分は新しい学生ばかり、ちがった学年のあいだでは、ほとんど交渉がなく、同級生の多くは、いまはもう、資格をとっていた。卒業していなかの病院や療養所の助手やその他についている者があり、聖ルカ病院で医局員になっている者もいた。学業からはなれていた二年間は、彼の心を新たにふるい立てた感じ、これでしっかりと勉強に身を入れられる気分になった。
アセルニーの一家は、彼の運命のこの転換をよろこんでいた。伯父の家財の競売のとき、彼はわずかなものをべつにしておき、それをぜんぶ、アセルニーの家族に贈った。サリーへの贈り物は、伯母の金鎖だった。彼女は、もう成人していた。ドレスメイカーの見習いになり、毎朝八時に家を出て、リージェント通りの店で終日働いていた。サリーの目は卒直で青く、ひろい額をし、豊かな髪は輝き、はちきれそうな健康ぶり、ヒップは大きく、胸はむっちりとふくらんでいた。彼女の容姿を好んで話の種にしていた父親は、いつも、太ってはいけない、と注意した。健康、野性的、女性的なのが彼女の魅力、この彼女に心ひかれている多くの男がいたが、彼女のほうではケロリだった。恋愛なんかバカらしいと思っているというのが、彼女から受ける印象で、若い男たちが彼女を近づきがたい女とみているのも、容易に理解できた。齢のわりにはおませだった。家事と子供の世話でいつも母親の手助けをして、いつの間にか切り盛りをしていくふうが身につき、そのために、少し勝手にやりすぎる、と母親にこぼされていた。口数は少なかったが、大きくなるにつれ、おだやかなユーモア感が育っているらしく、ときどき語る言葉は、無感動な外面をしていながらも、心の中は仲間に感ずるおもしろさで湧き立っているのではないか、と人に思わせた。アセルニーの大家族のほかの連中とは親しくなってるが、彼女とはどうにもそうした親しい間柄にはなれないな、とフィリップは感じていた。ときおり、彼女の無関心ぶりにイライラすることもあった。なにか謎めいたところのある女だった。
ネックレスを彼女に贈ったとき、アセルニーは、例のとおりワイワイいって、彼女がフィリップにキスをしなければいけない、と主張したが、サリーは、顔を赤らめ、スッと身をひいた。
「いや、そんなことはいやよ」彼女はいった。
「恩知らずのあばずれ女め!」アセルニーは叫んだ。「どうしていけないんだ?」
「男の人にキスされるの、いやなんですもの」彼女は答えた。
フィリップは彼女のとまどいをみてとり、おもしろく思って、話題をほかにそらした。これはそうむずかしいことではなかった。だが、たしかに、母親がこのことをあとで話題にとりあげたようだった。フィリップがつぎにいったとき、ほんのちょっとのあいだ、ふたりだけになったとき、その機会をとらえて、彼女はこういったからである、
「先週キスをいやだといったとき、感じのわるい女とは思わなかったことね?」
「思わなかったとも」笑いながら、彼は答えた。
「ありがたく思ってなかったわけじゃないのよ」用意していた型どおりの言葉を口にしながら、彼女はパッと顔を染めた。「あのネックレス、大切にするわ。ほんとにうれしいの」
彼女に話しかけるのに、フィリップはいつも多少の気づまりを感じた。することは非の打ちどころなくきちんとやっていたが、会話なんて用のないこと、と考えているようだった。そうはいっても、つき合いがわるいわけでもなかった。ある日曜日の午後、アセルニー夫妻が外出し、家人あつかいを受けていたフィリップが客間で本を読んでいると、サリーがはいってきて、窓辺に坐って縫い物をはじめた。娘たちの服はすべて家でつくっていたので、サリーにしては、日曜日をブラブラすごすわけにはいかないのだった。彼女が話したがっているなと感じたので、フィリップは本を下においた。
「どうか読んでてちょうだい」彼女はいった。「あなたがひとりと思ったんで、ここに来ただけなんですからね」
「きみは、まったく、すごく無口な女なんだね」フィリップはいった。
「ここでは、父さん以外に、おしゃべりな人はもうたくさんなのよ」彼女は応じた。
この調子にはなんの皮肉もなく、ただ事実をありのままに語っているだけだった。だが、フィリップはこの言葉で、父親の品定めはもうちゃんとしている、気の毒に、父親は彼女の子供時代の非の打ちどころのない人物ではもうなく、心の中で、おもしろい話と、一家の生活によくピンチを招いている浪費癖とを父親にみていることがわかった。彼女は、父親の大げさで華やかな修辞と、母親のじっさい的な常識を比較し、活気ある父親をおもしろがってはいたものの、ときには、ちょっとそれにイライラもしているのだった。かがんで仕事に没頭している彼女の姿を、フィリップはジッとながめた。彼女は、健康で、たくましく、変哲のない女だった。胸がぺしゃんこで貧血症的な顔をしているあのリン商会の娘たちといっしょにしたら、彼女は奇妙な存在になるだろう。ミルドレッドも、そういえば、貧血症にかかっていた。
しばらくすると、どうやらサリーに求愛者があらわれたようだった。彼女は店でできた友人たちと、ときおり、外出していたが、商売がトントン拍子《びょうし》の若い電気技師と出逢い、結婚相手としては申し分のない男だった。この男に結婚の申し込みをされた、と、ある日、彼女は母親に話した。
「どう返事したの?」母親はたずねた。
「もうしばらく、だれとも結婚する気はそうないっていったわ」彼女の会話の癖で、ここで彼女はひと息入れた。「とても気にしてたんで、日曜日お茶に来たら? っていってあげたんだけど……」
これは、アセルニーが大よろこびするきっかけになった。この青年を教育するために、重厚な父親としての役割をいかに演ずべきかを、彼は午後じゅうズーッとしゃべりまくり、子供たちは、もうたまらなくなって、クスクスと笑いだす始末だった。青年がやってくる直前に、アセルニーはどこからかトルコ帽をひっぱりだし、それをかぶるとがんばりだした。
「バカはやめてちょうだい、アセルニー」妻はいったが、彼女自身のいでたちは黒いビロードの晴れ着姿、毎年だんだんと太ってきていたので、それはぴったりつまったものになっていた。
「せっかくのサリーのいい話も、それで台なしになることよ」
こういって、その帽子をはぎとろうとしたが、小男は素早く身をかわした。
「おい、手なんか出しちゃいかんぞ。絶対にこれはぬがんのだからな。縁結びをしようとしてる相手の家がなみなみの家ではないことを、ズバリとその青年に知らせてやらなければならんのだ」
「母さん、そのままにしといて」冷静なケロリとしたいつもの態度で、サリーはいった。「ドナルドさんがそれをこちらとはちがうふうにとったら、帰ってもらったらいいの。こちらでも、それのほうがありがたいんですしね」
これは、この青年、なかなかきびしい試練にあうことになるぞ、とフィリップは考えた。褐色のビロードのジャケット、ユラユラと動く大きな黒ネクタイ、赤いトルコ帽姿のアセルニーは、無邪気な電気技師にとってギョッとする光景だったからである。いよいよやってきたとき、彼に挨拶をしたのは、スペインの貴族然としたほこり高い慇懃さを示している主人、それに、まったく地味なつくろわぬ態度の夫人だった。一同はアイロン用の古テーブルに向って寄りかかりの高い僧院ふうの椅子に坐り、アセルニー夫人がお茶をついだ道具は、この祝いの席にイギリスの田園調をそえる光沢のある急須《きゅうす》だった。小さなケーキは彼女の手づくり、テーブルにはこれも自家製のジャムが出ていた。茶は農家ふうのもので、ここのジェイムズ一世ふうの家では、じつに奇異、そしておもしろいものだった。
アセルニーは、なにか奇妙な理由はあったのだろうが、ビザンチンの歴史を一席ぶとうと考えた。ちょうど『ローマ帝国衰亡史』(エドワード・ギボンの名著)の後半を読んでいて、芝居気たっぷりに人さし指をのばし、びっくりしている求愛者の耳にテオドラ(東ローマ皇帝ユスティニアヌスの妃、美人として有名)やイレーネ(東ローマ皇帝レオ四世の妃、美人で夫の死後摂政となり、女帝ともなる)の醜聞のくだりを滔々《とうとう》と流しこんだ。客を相手に怒濤のような大風呂敷を披露し、青年は辟易《へきえき》して照れくさそうにおしだまり、頭をコクリコクリとさせて、興趣深い話として聞いているといったふりを示していた。アセルニー夫人は、ソープの話なんぞは一向に気にもせず、ときどき話の腰を折り、青年に茶をついだり、菓子とジャムをすすめたりした。フィリップはサリーをジッと見守っていた。彼女は目を伏せ、静かにだまったまま、話を聞いていて、ながいまつ毛が頬に美しい影を投げていた。この情景をおもしろがっているのか、青年を好きなのか、とんとわからなかった。まったく謎めいてつかめぬ女だった。だが、ひとつのことだけはたしかだった。電気技師は美男で、色白、髯をきれいに剃り、感じのいいととのった、正直そうな顔立ちをし、背が高く、恰好もよかった。彼女のすばらしい夫になるのはまちがいのないこと、このふたりの前途の幸福を想像して、フィリップは嫉妬の痛みをチクリと感じた。
やがて、求愛者は、もう失礼しなければ、といい、サリーはなにもいわずに立ちあがり、彼を戸口まで送っていった。彼女がもどってきたとき、父親はワッといいだした、
「うん、サリー、あの青年、とてもいい男だ。よろこんでわが一族にむかえることにしよう。結婚予告を教会で出してもらうがいいな。わしは、ひとつ、祝婚歌を創作することにしよう」
サリーは茶道具の片づけにとりかかり、返事はなにもしなかった。いきなり、彼女は素早くサッとフィリップをみた。
「あの人、どう思うこと、フィリップ?」
彼女は、いつも、ほかの子供たちのように彼をフィリップおじさんとは呼ぼうとせず、なれなれしくフィリップとも呼んでいなかった。
「すごく美しいひと組の夫婦になるだろうね」
彼女は、もう一度、彼をサッとみやり、それから、ちょっと顔を赤らめて、仕事をつづけた。
「やさしい口のきき方をする、とてもいい若い人だことね」アセルニー夫人はいった、「それに、どんな女でも幸福にしてくれる打ってつけの人だと思うよ」
サリーは、しばらく、返事をせず、フィリップは彼女をジロジロとみていた。母親のいったことを考えていたのかもしれないし、その反面、架空の男のことに思いを馳せているのかもしれなかった。
「話しかけられて、どうして返事をしないんだい?」ちょっとイライラして、母親はいった。
「あの人、おバカさんだと思うの」
「じゃ、亭主にはいやというのかい?」
「そう、いやよ」
「どんな高望みをしてるのか知らないけどね」アセルニー夫人はいった。ここで、彼女がとまどっているのが、はっきりとわかった。「あの男はとてもきちんとした若い人、りっぱな家庭を十分につくれる人なんだよ。お前がいなくったって、食べさせなければならない者はたくさんいるんだし、せっかくいい運にめぐり合せたのに、それを承知しないなんて、ほんとにいけないこったよ。それに、たぶん、力仕事をしてくれる女くらいはやとえるだろうしね……」
アセルニー夫人がこうまでズバリと自分の生活の苦しさを訴えたのを、フィリップはそのときまで一度も耳にしたことがなかった。それぞれの子供が自給の道を立てるのがどんなに重大なことかを、彼はさとった。
「母さん、そんなにプリプリしたってだめよ」あの静かな調子で、サリーはいった。「わたしは、あの人とは結婚しないんですからね」
「ほんとに不人情で、冷たい、勝手|者《もん》だよ」
「自分で暮しを立てろというんなら、母さん、わたし、いつだって奉公に出ることよ」
「バカをいっちゃいけないよ。父さんが絶対にそんなことをさせないのは、わかってるでしょ」
フィリップは、ふとサリーの視線をとらえ、おもしろがっている目の輝きがそこにあるように思えた。こうした話のやりとりで彼女のユーモア感をゆり立てるどんなものがあったのだろう? と考えた。まったく奇妙な娘だった。
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百十六
聖ルカ病院の最後の一年は、だいぶ勉強しなければならなかった。フィリップは生活に満足していた。なんの心配もなく、必要な金をもっているのは、とても快適なことだった。金のことをいかにも軽蔑したふうに話す人のことは知っていたが、そうした人は金のない生活を味わったことがあるのかな? と考えた。金の欠乏は人をつまらぬ、いやしい、貪欲なものにするのを、彼は知っていた。それは、自分の性格をゆがめ、いやしい角度から人生をながめるようにさせるのだ。使う金ひとつひとつを慎重に考えるとなると、金はとてつもなく重要になってくる。金をそれなりの価値で評価できるようになるためには、そうとうの資産が必要だ。彼の生活は、アセルニー一家以外の者とはだれにもつき合わずに、孤独だったが、べつにさびしいとは思わず、将来の計画にせっせと心を走らせ、ときどき過去の追想にふけったりしていた。ときに追憶は以前の友人たちの上にまいもどっていったが、会おうと努力はしなかった。ノーラ・ネズビットがその後どうしているか、知りたい気持ちもないではなかった。いまノーラなんとかに名は変っているはずだったが、彼女の結婚相手の男の名前がどうにも思い出せなかった。ノーラと知り合いになったのはうれしいこと、彼女は親切で勇敢な女だった。
ある夜、十一時半ごろ、ローソンがピカディリーの通りを歩いている姿をみかけた。夜会服を着ていたが、たぶん、劇場から帰るところだったのだろう。フィリップはいきなりの衝動にかられて、素早く横町にとびこんでしまった。もう二年間は会わず、ここで旧交を温める気にはなれなかった。自分とローソンは、たがいに語り合うものはないのだ。フィリップの絵にたいする関心は、もう消滅していた。少年のころよりもっと強烈に美を楽しめるように思われはしたものの、絵は、もはや、重要ではないように思われた。人生のさまざまな混沌からある模様をつくりだそうとはしていたが、いまあつかっている素材は、絵の具と言葉に重点をおくことをじつにつまらぬものにしているみたいだった。ローソンはたしかに役に立つ存在だった。彼にたいするフィリップの友情は、自分のつくっている図案の題材になったからだった。だが、この画家がもう興味のないものになっている事実を無視するのは、ただ感傷的としかいえなかった。
フィリップは、ときどき、ミルドレッドのことを考えた。彼女と出逢いそうな街路は、つとめてとおらないようにした。だが、ときにある感情、好奇心ともいえるもの、彼が認めようとはしなかったもっと深いあるものにつき動かされて、彼女があらわれそうな時刻に、ピカディリーやリージェント通りをブラブラと歩くこともあった。彼女と会いたいのか、それとも、それをおそれているのか、そのときの彼にはわからなかった。一度、彼女らしいうしろ姿をみかけたことがあり、一瞬、そうだと思いこんだ。妙な気分が心に湧き起こってきた。ふしぎなビリッとくる痛みを心に感じたが、そこには、恐怖と胸のムカムカしてくるとまどいがあった。スタスタと足を急がせ、自分の勘ちがいとわかったとき、自分が味わっている気持ちがホッとした気分か、がっかりした気分か、どうともわからなかった。
八月のはじめに、フィリップは最後の試験の外科学をとおり、卒業証書を受けとった。聖ルカ病院の医学校にはいって以来、七年の歳月が流れていて、彼はもう三十近くになっていた。開業免許状を手にしてイギリス外科医師会の階段をおりてゆきながら、満足感で胸をドキドキさせていた。
「さあ、これで人生の出発だ」彼は考えた。
つぎの日、病院勤務志願の申し込みをするため、病院の事務官室に出かけていった。事務官は黒髯を生やした感じのいい小男で、いつも愛想のいい男、とフィリップは考えていた。事務官は彼の成功を祝い、ついでいった、
「ねえ、南海岸で一ヵ月間、代診をやる気はないだろうね? 食住つきで、週に三ギニーになるんだが……」
「いいですよ」フィリップは答えた。
「ドーセットシャーのフアーンリー(架空の地名)にあるんだ。相手はサウス先生。すぐにいってもらわにゃならんのだ。助手が耳下腺炎《じかせんえん》にかかっちまってね。とても楽しい場所だと思うよ」
事務官の態度になにか腑に落ちないところがあって、どうも変だった。
「なにかまずいことでもあるんですか?」彼はたずねた。
事務官はちょっとモジモジし、機嫌でもとるようにひと笑いした。
「うん、事実は、どうやら、相手の先生が癇癪もちの風変りな老人らしいのさ。周旋するほうでも、もう匙《さじ》を投げちまっててね。腹の中をズケズケいっちまうんだが、これはあんまりありがたいことじゃないんだからね」
「でも、医者になりたてのホヤホヤで、相手が我慢すると思うんですか? なんてったって、ぼくには経験がありませんしね」
「きみに来てもらったら、よろこんでもいいはずだよ」外交辞令でうまいことをいって、事務官は応じた。
フィリップは、しばらく、考えこんだ。これから先何週間かは、べつにする仕事はなく、金をかせぐ機会にめぐまれたのは、うれしいことだった。聖ルカ病院での勤務、それがだめだったら、どこかほかの病院での勤務が終りしだい出かけようと思っていたスペインヘの休暇旅行のたしに、それをすることができるわけだった。
「いいです。いきましょう」
「のこるひとつのことは、きょうの午後出発ということだけさ。それでいいかね? 承知なら、すぐに電報を打つよ」
フィリップとしては、もう何日か自由行動をとりたいとこだったが、前の晩にアセルニー一家とは会い(すぐに卒業の吉報を伝えたのだった)、すぐに出発しても、べつに不都合はなかった。荷づくりといっても、ないも同然だった。そこで、その夜七時すぎに、彼はファーンリーの駅を出て、馬車をやとってサウス先生の病院にいった。そこは、アメリカ|づた《ヽヽ》が一面におおいかぶさって生えている、ひろい、低い、化粧|漆喰《しっくい》づくりの家で、診察室にとおされた。老人が机でものを書いていたが、女中がフィリップを案内してはいってきたとき、目をあげた。立ちあがろうともせず、話そうともせず、ただ目をむいてフィリップをにらみつけるだけだった。フィリップはびっくりした。
「わたしが来るのをお待ちだったと思います」彼はいった。「聖ルカ病院の事務官が、今朝、そちらに電報を打ったのですから」
「だから、夕食を三十分のばしてたのさ。顔や手を洗うかね?」
「ええ」
奇妙な態度のサウス先生は、おもしろい存在だった。もう立ちあがっていたが、中背の男、痩せて、白髪はとても短く刈りこみ、大きな口は固く結んで、唇があるとは思えないくらい、小さな白い頬髯以外はきれいに剃りあげ、がっしりした顎《あご》が与えている顔の四角な感じを、頬髯がなおいっそう強めていた。ツイードの褐色の服を着こみ、白い幅ひろの襟飾りを着け、服はゆるくからだに垂れさがって、まるでもっとズーッと大きな男のために仕立てた服みたい、十九世紀中葉のきちんとした農夫といった感じだった。彼はドアをあけた。
「あそこは食堂」向うのドアをさして、彼は説明した。「踊り場をあがっていってつき当りの最初のドアが、きみの寝室だ。用意ができたら、下におりてきたまえ」
夕食ちゅう、サウス先生が自分の品定めをやっているのを、フィリップは知っていたが、相手はほとんど口をきかず、フィリップにしては、助手の話なんて聞きたがってはいないんだな、と感じた。
「いつ資格をとったんだい?」
「きのうです」
「大学にいたのかい?」
「いいえ」
「去年、助手が休暇をとったとき、大学卒業の男を世話されてね。もう二度とあんな連中は世話してくれるな、といってやったよ。紳士然として、わしには向かんな」
また、話がとぎれた。夕食はとても簡単なものだったが、じつにうまかった。フィリップは落ち着き払った態度をくずさなかったが、心は興奮で湧き立っていた。代診としてやとわれたのは、心が浮き立つほどうれしく、すごくおとなになった気分がした。特別どうということもないのに、気がくるったように笑いだしたくなり、医者としての威厳を考えれば考えるほど、クスクス笑いが出そうになった。
だが、サウス先生がこうした考えの中に、いきなりとびこんできた。
「齢はいくつだね?」
「近く三十になります」
「それで資格を得たばかりというのは、どういうことだね?」
「二十三近くになるまで、医学は勉強せず、途中で二年、勉強をやめなければならなくなったんです」
「どうして?」
「金がなかったからです」
サウス先生は妙な顔をして彼をながめ、まただまりこんだ。食事が終ると、テーブルから立ちあがって、彼はいった、
「ここの仕事がどんなものか、知ってるかね?」
「いいえ」フィリップは答えた。
「大部分は漁師とその家族さ。わしの病院は、海員組合の病院なんだ。以前、ここには医者はわしひとりきりしかいなかったが、ここを一流の海水浴場にしようとしたために、崖《がけ》の上でひとり開業をしてね、金持ち連はその世話になってるんだ。わしのあつかってる患者は、医者に金も払えない連中だけなんだよ」
この競争相手がこの老人の痛いとこなんだな、とフィリップにわかった。
「わたしが未経験というのはご存じなんですね?」フィリップはいった。
「きみたちは、だれだって、なんにも知ってはおらんよ」
それ以上なにもいわずに、彼は部屋を出てゆき、フィリップはひとりになった。片づけに女中がはいってきたとき、サウス先生の診察時間は六時から七時までです、と教えてくれた。そうなると、その日の仕事は終ったわけだった。フィリップは自分の部屋から本をもってき、パイプに火をつけ、読みだした。過去数ヵ月間医学書以外になにも読んでいなかったので、これはとても楽しかった。十時になると、サウス先生がはいってきて、彼の姿をジッとみた。フィリップは足をあげて坐るのが好きで、足を乗せるために、椅子をひとつひきよせてあった。
「なかなか気分よくやってけるらしいね」こうまで気分がうきうきしていなかったら、フィリップの気分をわるくしたようなきびしい顔つきをして、サウス先生はいった。
フィリップは、目をキラリと輝かせて、答えた、
「なにかご異議がおありですか?」
サウス先生は彼をジロリとながめたが、すぐにはなにもいわなかった。
「なにを読んでるんだね?」
「『ペレグリン・ピクル』(トビアス・スモレットの悪党小説)。スモレット作です」
「スモレットが『ペレグリン・ピクル』を書いたのは、たまたま知ってるんだがね」
「これは失礼。医者は文学にそう興味はもってないもんなんです、どうでしょう?」
フィリップはテーブルに本をおいたが、サウス先生はそれをとりあげた。これはブラックステイブルの牧師の本で、口絵として銅版画のついた、色あせたモロッコ皮づくりの薄い本、中身の紙はながい歳月でかびくさく、かびでしみだらけになっていた。サウス先生がこの本をとりあげたとき、フィリップは、どうということもなく、前にちょっととびだし、かすかな微笑の色が彼の目に浮かんだ。この老医師は、どんなことでもみすごしたりはせぬ男だった。
「わしがおかしいのかね?」彼は冷然とたずねた。
「本が大好きのようですね。本のあつかい方で、それはわかるんです」
サウス先生はすぐにこの小説本を下においた。
「朝食は八時半だよ」彼はこういって、部屋を出ていった。
「なんておかしな老人なんだろう!」フィリップは考えた。
なぜサウス先生のとこの助手たちが彼と親しくならないかが、間もなく、フィリップにわかってきた。まず第一に、過去三十年の発見にたいして、彼は断固反対の立場をくずさずにいた。流行薬になって、すばらしい効験《こうげん》を発揮したかと思うと、数年して放棄されてしまう薬剤にたいして、彼は我慢ならぬのだった。彼が学んだルカ医学校からのもちこみの古くさい調薬がいくつかあり、いままでズーッとそれを使っていた。彼のみるところ、それは、その後の流行のどんな薬にもおとらぬ効験あらたかなものだった。無菌《むきん》法を彼が疑いの目でながめているのには、フィリップもびっくりだった。通説に敬意をあらわして、それを一応承認はしながらも、フィリップが病院でじつにうるさくいわれたのを憶えている注意なんぞ、子供たちと兵隊ごっこをやっているおとなの、寛容ながらも問題にせずといった態度であつかっていた。
「防腐剤があらわれて、むかしからのものを一掃したことがあったけどね、こんどは無菌法がそれにとってかわるという始末さ。まったくバカくさいことだ!」
彼のところに送られてくる青年たちの知っていることといえば、病院でやっていることだけ、そして、病院ですいこんできた一般開業医にたいする軽蔑を、臆面もなくあらわしていた。だが、そうした彼らのみてきたものといえば、ただ病棟にあらわれた複雑な患者だけで、副腎のむずかしい病気の療法は心得ていても、鼻風邪の相談を受けると、もうお手あげだった。彼らの知識は理論的、自惚《うぬぼ》れぶりはたいしたものだった。サウス先生は口をキッと結んでこうした連中をジッと見守り、彼らの無知がどんなにひどいものか、自惚れがどんなにいわれのないものかを、遠慮|会釈《えしゃく》なく暴露して、溜飲《りゅういん》をさげていた。それは漁師相手のとるにたりない診療、先生は独自の処方をやっているのだった。胃痛を訴えている漁師に六つの高価な薬の合剤を与えたりしたら、その漁師の家の家計はどうなる? とサウス先生は助手にたずねた。
若い医者の教養不足も先生の不満の種になっていた。彼らの読書といえば、『スポーティング・タイムズ』と『イギリス医学雑誌』だけ、字はなっていない、つづりもでたらめというわけだった。二、三日のあいだ、サウス先生は事細かにフィリップを観察し、機会があれば、痛烈な皮肉を浴びせてやろうと待ち構えていた。フィリップは、もうそれをみとおしで、これはおもしろいぞと、心中考えながら、自分の仕事をやっていた。仕事の変化は楽しく、独立した立場に立ち、責任をもつのは、うれしいことだった。診療室には、ありとあらゆる種類の人がやってきた。患者に信頼感を吹きこめるように思えたのは、満足感を与えてくれることだった。大病院ではどうしても間遠《まどお》にしか観察できない治療過程をながめられるのも、楽しかった。往診では屋根の低い小屋に出かけていったが、そこには船道具や帆があり、そこここには、遠洋航海の記念品、日本の漆器の箱、メラネシアの槍や櫂《かい》、スタンブール(イスタンブル市の最古の地区で、トルコ人の住宅地域)の市場の短剣などがあった。ムッとする小部屋にはロマンスの雰囲気がただよい、海の塩はそこにピリッとした新鮮さを与えていた。フィリップは船乗りと話すのを好み、彼がお高くとまっていないのを知ると、彼らは若かりしころの遠洋航海のながいながい話をしてくれた。
一度か二度、診断で失敗をした(麻疹《はしか》の患者はみたことがなく、その発疹《ほっしん》にぶつかると、皮膚のなにかわからぬ病気と勘ちがいしてしまった)。さらに、一度か二度、治療法がサウス先生の考えとはくいちがったことがあった。これが起きた最初のとき、サウス先生は痛烈な皮肉を浴びせたが、フィリップはそれを上機嫌で受けとめ、当意即妙の応答の才能をもっていたので、それを一、二発撃ちだし、これでサウス先生はだまってしまって、ジロジロと彼をながめるということになった。フィリップの顔は糞まじめなものだったが、目はキラリキラリと輝いていた。フィリップが自分をからかっているなという印象は、もう歴然たるもの、助手にきらわれ、おそれられるのがいつものことだったので、これは、老紳士にとって新しい経験だった。ここで癇癪をカッと起こし、つぎの列車でフィリップを追い帰してやろうかとも考えた。いままで助手に、何回かこうしたことをやってきたのだった。だが、そうしたらすぐ、フィリップにそれこそ笑われるのではないか、という不安な気分が湧き、いきなり、これはおもしろい、と感じた。彼の口許には、心ならずも、ニヤリとした微苦笑が浮かび、それから、そっぽを向いてしまった。しばらくすると、フィリップが自分のことを計画的にからかいの種にしていることがわかってきた。最初、先生はギョッとし、ついで、こいつ、おもしろいやつ、ということになった。
「畜生、厚かましいやつだ」クスクス笑いながら、彼はいった。「畜生、厚かましいやつだ」
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百十七
フィリップは、もうアセルニーに手紙を出して、いまドーセットシャーで代診をやっている、と伝えたが、やがて、アセルニーからの返事が来た。彼の好みの格式張った調子で書かれ、ペルシャの王冠が宝石でちりばめられているように、堂々とした形容詞で飾り立て、しかも自慢のゴチック文字のような美しい筆跡でしたためられてあったが、それは、ゴチック文字と同様に、なかなか読みづらいものだった。毎年いっているケントのホップ畑に自分たちといっしょにフィリップも来ないかとさそい、なんとかそうさせようと、フィリップの魂やホップの巻き髯について、さまざまな美しい、複雑なことを述べ立てていた。こちらの仕事が終ったその日にそちらにいく、とフィリップはすぐに返事を出した。そこで生れたわけではなかったが、彼はサネット島(ケント州の東北隅、有名な海水浴場がある)にはある特別な愛情を寄せていて、大地に密着し、アルカディア(古代ギリシャの地だが、牧歌的な理想郷とされている)の橄欖《かんらん》の森のように牧歌的になるのにただ青空だけあればといった環境につつまれて二週間すごすことになるかと思うと、心は激しいあこがれの情で燃えあがっていった。
ファーンリーでの契約の四週間は、ドンドンすぎ去っていった。崖の上では新しい町が開けようとし、ゴルフ場のまわりには赤煉瓦の別荘が建ち、避暑客の意をむかえようと、最近はホテルまで建てられていた。だが、フィリップは、そこにはほとんどいかなかった。崖の下の港の近くでは、前世紀の小さな石づくりの家がゴタゴタと感じよく群らがって集り、けわしい坂になっているせまい通りは、想像力をかき立てずにはいない古めかしさをもっていた。浜辺には小ぎれいで小さな前庭をもった小ざっぱりした小屋が立ちならび、そこには退職した商船の船長、海で暮しを立ててきた男たちの母親や未亡人が住み、奇妙ながらも安らかなたたずまいをみせていた。
小さな港には、スペインやレヴァント(東部地中海沿岸諸国)からの小型の不定期船がはいり、ときおり、帆船がロマンスの風で運びこまれてきた。これはフィリップに石炭船のあるブラックステイブルのきたない小さな港を思い起こさせ、東洋の国々や熱帯の海で陽光に照りつけられている島々にたいする、いまは心にとりついてはなれないあこがれの気持ちを胸にいだくようになったのは、あそこの港だったのだ、と考えていた。だが、ここでは、あのいつもとりかこまれているようにみえる北海の岸辺以上に、人は大海原を身近に感じとり、まったいらな茫洋《ぼうよう》とした水のひろがりをながめると、胸底まで大きく息がつけるのだった。イギリスのものやわらかな親しみのある潮風、あの西風は、心を昂揚《こうよう》させると同時に、心を安らかにし、やさしい心をいだかせてくれた。フィリップがサウス先生といっしょにいる最後の週になったある晩のこと、老先生とフィリップが薬剤の処方をやっていると、子供がひとり、外科の戸口のところにやってきた。ぼろ着をきた小さな女の子で、顔はよごれ、はだしだった。フィリップがドアをあけた。
「どうか、先生、すぐにアイヴィ小路のフレッチャーおばさんのとこに来てくれません?」
「フレッチャーさんがどうしたんだい?」耳ざわりな声でサウス先生は呼びかけた。
子供は老先生にはお構いなく、またフィリップに話しかけた。
「どうか、先生、あそこの坊やが怪我《けが》をしたんです。すぐに来てくれますか?」
「わしがすぐいくって、フレッチャーさんにおいい」サウス先生はまた呼びかけた。
小さな女の子は、一瞬、モジモジし、きたない口にきたない指をつっこんで、ジッと立ち、フィリップをながめていた。
「どうしたんだい?」ニッコリして、フィリップはたずねた。
「どうか、先生、新しい先生が来てくれませんかって、フレッチャーのおばさんがいってるの」
薬局でガタガタッと音がし、サウス先生が廊下に出てきた。
「フレッチャーさんは、わしでは満足せんのかね?」彼はどなった。「あの女は、生れてこの方、ズーッと診《み》てやってるんだぞ。あそこの小さな餓鬼《がき》を診るのに、どうしてわしじゃいかんというんだ?」
小さな女の子は、一瞬、泣きだしそうになったが、気をとりなおし、サウス先生に向けて舌をペロリと出し、びっくり仰天の先生がわれにかえるまでに、一目散に逃げだした。老紳士がこれを苦にしているのが、フィリップにはわかった。
「だいぶおつかれのようですね。それに、アイヴィ小路までは、そうとうの道のりです」老先生がいかずにすむ口実を与えようと、フィリップはいった。
サウス先生は、低くひとうなりした。
「脚が一本半しかない男より、二本ちゃんとそろえてもってる男には、ズーッと近い道のりさ」
フィリップはサッと顔を赤くし、しばらく、だまって立っていた。
「ぼくにゆけとおっしゃるんですか? それとも、そちらがおいでになるんですか?」彼は、とうとう、冷たく切りだした。
「わしがいってなんの役に立つんだ? 先方はきみを望んでるんだからな」
フィリップは帽子をとり、診察に出かけた。もどってきたときには、もう八時近くになっていた。サウス先生は、炉に背を向けて、食堂に立っていた。
「ずいぶん時間がかかったね」彼はいった。
「すみません。どうして食事をおはじめにならなかったんです?」
「待ってたかったからさ。このあいだじゅうズーッと、フレッチャーさんのとこにいたんかね?」
「いいえ、そうじゃありません。帰る途中で足をとめ、落日をながめて、時のたつのを忘れてたんです」
サウス先生はなにも返事をせず、召使いが焼いた|いわし《ヽヽヽ》を運びこんだ。フィリップはおいしそうにそれにぱくついた。いきなり、サウス先生が質問を彼に投げつけた。
「どうして落日なんかをながめたんだね?」
フィリップは、食べ物をほおばったまま、答えた、
「幸福だったからです」
サウス先生は妙な顔をして彼をながめ、なにか微笑とも思われるものが、つかれきった老いた顔にチラリと浮かんだ。ふたりは、食事が終るまで、だまったままでいた。だが、女中がふたりにポートワインをついで部屋から出ていくと、老人は椅子の背に寄りかかり、鋭い目でジッとフィリップをみつめていた。
「ちんばの足のことをいったとき、きみはちょっとむくれたようだな」
「なにか腹を立てると、人はいつも、直接、間接のいずれにせよ、そのことを口にしてますよ」
「そこがきみの弱点と知ってるんだろうからな」
フィリップは老人と顔をまともに合せ、しっかりと相手をにらみつけた。
「それがわかって、大よろこびというわけなんですか?」
先生は答えず、むごい楽しみをあらわすふくみ笑いをした。ふたりは、しばらくのあいだ、にらみ合ったまま坐っていた。ついで、サウス先生は、フィリップをひどくびっくりさせた言葉を切りだしてきた。
「きみはここにいないかね? あの耳下腺炎にかかった大バカ者《もん》は首にしてしまうよ」
「とってもありがたいことなんですが、秋には病院勤務をしたいと思ってるんです。あとでほかに就職するにしても、それが好都合になりますからね」
「共同でやろうってきみにいってるんだ」ブスッとしてサウス先生はいった。
「どうしてなんです?」驚いてフィリップはたずねた。
「ここではきみの評判がいいようだからね」
「それがそちらのお気に召したこととは思ってもいませんでしたがね」フィリップは無愛想にいった。
「四十年も医者をしてきて、世間の人間が自分より助手のほうを好きかどうかなんて気にするとでも、きみは思ってるのかね? とんでもないことだ。患者とわしのあいだには、心のかよいなんて、ぜんぜんないのさ。患者からありがたがられようなんぞとは、夢々期待したりはしてない。期待してるのは、きちんと払いをしてくれることだけさ。さあ、この話にたいするきみの意見はどうだね?」
フィリップは返事をしなかったが、それは、この話を考えていたためではなく、びっくり仰天していたからだった。資格をとったばかりの男に共同経営の話を申し込むなんて、たしかにとても異常なこと、絶対に口にはしなかったものの、サウス先生、どうやらおれに惚れたらしいな、と驚きながらも見当をつけていた。この話を聞いたら、聖ルカ病院の事務官がどんなにおもしろがるかを、彼は想像した。
「ここの仕事は、年に七百ポンドくらいにはなるよ。きみの出資分をどのくらいにするかは、計算してみりゃわかるだろうし、それは少しずつわしに払ってくれたらいい。そして、わしが死んだら、そのまま仕事をつづければいいんだ。二年か三年、あっちこっちと病院をうろつきまわり、あげくの果ては、開業できる金ができるまで助手勤務をしてるより、それのほうがいいと思うんだがね」
この職業をやっているたいていの者なら、これがとびつく話であることは、フィリップにわかっていた。だいたい医者が多すぎ、フィリップの友人のうち半分は、わずかにせよこうしたたしかな収入源を確保できるのを大よろこびすることだろう。
「とても申訳ないことですが、おひきうけはできません」彼はいった。「そうなれば、長年のぼくの希望すべてを放棄しなければならなくなります。あれこれとぼくはいままで多少は苦労してきましたが、資格をとったらひとつ旅に出てやろう、というひとつの望みだけは、いつももってました。いまでも、朝日をさますと、とびだしたくって、骨がムズムズしてるんです。特別どこへというわけじゃありませんが、いままでいったことがないところに、もういきたくっていきたくってたまらないんです」
いま、ゴールは目の前にあった。来年のなかばごろまでには、聖ルカ病院の勤務は終り、そうしたら、スペインにいくつもりだった。そこで、彼にとってはロマンスの国になっているスペインを、あちらこちらとさまよって数ヵ月をすごす余裕はあった。そのあとは、船医になって東洋にいくつもりだった。人生は前途にひろがり、時間なんて問題じゃなかった。人のあまりいかぬ場所で、見知らぬ異国の人びとのあいだで、その気になったら、何年間でも放浪できるのだ。そこには、異様な生活のいとなみがある。自分がなにを求めているのか、旅が自分になにをもたらしてくれるのか、わかってはいなかったものの、人生についてなにか新しいことを学び、解決はしてもなお神秘性がましていくだけの神秘を解くなにか鍵を得られるだろう、と感じていた。たとえなにもみつからなくっても、自分の心をさいなんでいる不安感はしずめられるだろう。だが、サウス先生はとても親切な話をしてくれている、しっかりした理由がなくてこの話を断ったら、恩知らずというもんだろう。そこで、彼独得の恥ずかしそうなふうに、できるだけ感情を外にあらわさないようにして、自分があこがれていた計画の実行が自分にとってどんなに重要かを、なんとか説明しようとした。
サウス先生は静かに聞き入り、そのぬけめのない老いた目に、あるやさしさが浮かんできた。自分の話を強要しようとしないのは、フィリップにとって、さらに親切なことに思われた。好意は、ときに、高飛車になりがちなものなのだ。フィリップの理由を申し分なしと考えているようだった。この問題はそのままにして、先生は自分の若いころの話をはじめた。海軍に勤務し、退役してファーンリーに住みつくことになったのも、ながい海との結びつきのためだった。太平洋でのそのむかしのこと、シナでの途方もない冒険話を、フィリップに語って聞かせた。ボルネオの首狩り族の討伐に参加し、まだ独立国だったサモアのことも知っていた。珊瑚礁《さんごしょう》の島々におとずれたこともあった。フィリップは、うっとりして聞いていた。少しずつ、先生は自分の身の上話をした。サウス先生は男やもめ、奥さんに先立たれてからもう三十年にもなり、ひとり娘はローデシアの農夫といっしょになったが、先生は義理の息子と喧嘩をしてしまい、ここ十年、娘はイギリスの土を踏んではいなかった。妻も子もない生活同然だった。とてもさびしく、つっけんどんな態度は、夢去りぬの気分をかくす仮面にすぎなかった。ジリジリとあせったりはせず、むしろ嫌悪感をもちながら、死をジッと待ち、老いた身をいといながらも、その制約にあきらめて身を託しきれず、しかも、死こそ苦しい自分の生活の唯一の解決策と感じているのは、フィリップの目には悲劇的に映った。フィリップがたまたま彼の道をよぎり、娘とのながい別離がもうとどめを刺していた親愛の情が――娘は、喧嘩で、夫の肩をもち、孫たちの姿は一度もみたことがなかった――フィリップにうつされることになったのだった。最初、こうした気持ちの動きは彼をプリプリさせ、これは耄碌《もうろく》のしるしと心にいってきかせた。だが、フィリップにはなにか彼の心をひくものがあり、彼をみると、ついわれ知らず、ほほ笑んでしまうのだった。フィリップに接すると、倦怠感を味わわなかった。一度か二度、フィリップの肩に手をかけたことがあったが、何年かズッと前、娘がイギリスを去って以来、それは、老人がはじめて味わった愛撫といったものだった。いよいよフィリップが帰るときになると、サウス先生は駅までいっしょにやってきたが、なにかわけがわからないながらも、自分がひどくがっくりしているのがわかった。
「ここではとっても楽しかったんです」フィリップはいった。「ほんとうに親切にしていただいたんですからね」
「帰るのがとてもうれしいんだろうね?」
「ここではとても楽しかったですよ」
「だが、世間にはとびだしたいんだろう? ああ、きみには若さがあるんだからな」彼はちょっとモジモジした。「忘れないでてほしいんだがね、気が変ったら、この前の話はそのまま、まだ生きてるんだよ」
「ほんとうにありがとうございます」
フィリップは、客車の窓から、老人と握手をし、列車は駅から走りだした。フィリップは、ホップの畠ですごすこれからの二週間のことを考え、友人たちに会えるのを思って、幸福感にひたり、その上、その日の好天気もよろこびの種になっていた。だが、サウス先生はだれもいない自分の家にゆっくりともどっていった。ひどい老けこみと孤独感がヒシヒシと彼の心をおそってくるのだった。
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百十八
フィリップがファーンに到着したのは、夕方もだいぶおそくなってからのことだった。そこはアセルニー夫人の生れ故郷の村で、ホップ摘みは子供のころからいつもやっていたことで、夫と子供たちをひきつれて、彼女は、毎年、まだそれをしにここにやってきていた。多くのケントの人のように、彼女の一家は、ささやかな収入をよろこんで、毎年きちんと出かけてゆき、特に毎年の遊山旅行という点で、最高の休日として、何ヵ月ものあいだ、楽しみにそれを待っていた。
仕事はつらくなく、青空のもとでの共同作業、子供たちにとっては、ながい楽しいピクニックだった。ここで青年は娘たちと出逢い、仕事が終ってからのながい宵のあいだ、彼らは小道をさまよい歩いて愛を語らい、ホップ摘みのシーズンが終ると、そのあとは、たいてい、婚礼ということになった。彼らは寝具、壺となべ、椅子とテーブルを乗せた荷車で出かけ、ホップ摘みのシーズンのあいだ、ファーンの村では人気《ひとけ》がとだえてしまった。彼らはとても排他性の強い人たちで、ロンドンからやってくる連中をそう呼んでいたのだが、よそ者の侵入を憤慨していた。ロンドンの人間をみくだし、同時におそれてもいた。ロンドンの人間は荒っぽい連中、きちんとしたいなか者の自分たちは、そんな連中とつき合いたくは思ってない、ということだった。そのむかし、ホップ摘みの人たちは納屋《なや》で寝ていたが、十年前に、牧場のわきに、一列の小屋が建てられ、アセルニーの一家は、ほかの多くの人たちと同じように、毎年同じ小屋で寝起きしていた。
アセルニーは居酒屋から借りた荷車に乗って駅にフィリップをむかえにやってきたが、フィリップのために、その居酒屋のひと部屋をもう借りてあった。そこはホップ畠から四分の一マイルはなれていた。ふたりはフィリップのカバンをそこにおき、小屋の立っている牧場まで歩いていった。それは、ながい、低い物置小屋を仕切って、十二フィート平方の小部屋にしたものにすぎず、それぞれの小部屋の前では焚き火が燃え立ち、そのまわりに一家の者が集って、夕食の料理をジッとながめていた。浜風と太陽は、もう、アセルニーの子供たちの顔を褐色に焼きあげていた。陽除けのボンネット姿で、アセルニー夫人は別人のよう、ながい歳月にわたる都会生活をしても、いささかも変ってはいないといった感じだった。彼女は生まれながらの生粋《きっすい》のいなか女、いなかに来て、どんなにホッとくつろいでいるかがわかった。彼女はベイコンを焼きながら、それと同時に、下の子供たちに目を光らせていたが、フィリップが来ると、心から握手をし、うれしそうにニッコリした。アセルニーは、情熱を傾けて、田園生活のよろこびをまくし立てた。
「われわれは、都会生活で、太陽と光に飢えてるんだ。都会生活は生活じゃない、長期にわたる監獄住まいだ。ベティ、家財はぜんぶ売り払い、いなかで農場を買うことにしよう」
「いなかであんたがどんな姿になるか、見当がつきますよ」上機嫌ながらも軽蔑をこめて、彼女は答えた。「まあ、冬になって、一日でも雨が降ってごらんなさい。もうワイワイ大さわぎをしてロンドンに帰りたがるこってしょうよ」ここで、彼女はフィリップのほうに向いた。「ここに来ると、いつもこうなのよ。いなか、おれはいなかが大好きだ! ってね。そのくせ、|かぶ《ヽヽ》と大根の区別もつかないのにね」
「父ちゃんは、きょう、遊んでばかしいたのよ」その特徴になっている卒直さで、ジェインはいった。「ズック袋ひとつ分も摘まなかったんだもん」
「コラ、コラッ、わしはいま練習をしてるんだ。あしたは、みんなの分ぜんぶを合せたよりもっと、摘んでみせてやるぞ」
「さあ、子供たち、ご飯ですよ」アセルニー夫人はいった。「サリーはどこかしら?」
「ここにいることよ、母さん」
彼女は小部屋から出てきたが、そのとき、焚き火の焔《ほのお》がパッと燃えあがって、彼女の顔に鋭い色を投げつけた。最近、ドレスメイカーのところにかよいだして以来、いつも着ているフロック姿の彼女しかフィリップはみていなかったが、ゆったりとした更紗《さらさ》の仕事着姿の彼女には、なにかとても魅力的なものがあった。袖はたくしあげられ、たくましい、まるまるとした腕が出ていた。彼女も陽除けのボンネットをかぶっていた。
「おとぎ話に出てくる乳しぼりの女そっくりだね」彼女と握手しながら、フィリップはいった。
「ホップ畠の美女というとこだな」アセルニーはいった。「まったく、地主さんの息子がお前をみたら、あっという間に結婚の申し込みをすることになるぞ」
「おあいにくさま、地主さんのとこには息子さんなんていませんよ、父さん」サリーはいった。
彼女は、坐り場所をみつけようと、あたりをみまわし、フィリップは自分のわきに場所を空《あ》けてやった。焚き火に照らしだされる夜の中での彼女の姿はすばらしく、田園の女神のよう、老ヘリック(イギリスの叙情詩人)が美しい歌で賛《たた》えたあのみずみずしく、たくましい美女もかくやと思うばかりだった。夕食は簡素――バターつきパン、カリカリするベイコン、子供たちにはお茶、アセルニー夫妻とフィリップにはビールだけだった。アセルニーは、ガツガツと食べながら、食べ物すべてを大声でほめ賛え、ルクルス(ローマの将軍で、食道楽で有名)に軽蔑の言葉を投げつけ、ブリア=サヴァラン(フランスの有名な美食家)に誹謗《ひぼう》の言葉を積みあげた。
「アセルニー、あんたには、ひとついいことがあることよ」彼の妻はいった。「それは、もうまちがいなし、食べるものはなんでも楽しむことだわ!」
「きみの手で料理してくれたもんなんだからね、ベティ」雄弁に語る人さし指をつきだして、彼はいった。
フィリップは、とても気分がよかった。人がまわりをとりかこんでいる一列の焚き火、焔が闇に映える色を、幸福感につつまれてながめた。牧場のはずれには、一列にならんだ楡《にれ》の大木があり、その上には、星の輝く空があった。子供たちはしゃべり、笑い、その仲間になった子供のアセルニーは、いたずらや気まぐれで、彼らをワッワと湧き立たせた。
「ここではアセルニーが大もてなんですよ」彼の妻はいった。「まあ、ブリッジズ奥さんたら、アセルニーさんがいなかったら、どうしたらいいのかしら? なんていっててね。いつもなにかをやってるの。一家の父親というより、学校の生徒といった感じね」
サリーは、だまって坐っていたが、じつに彼にはうれしかった思いやりのある態度で、フィリップのほしいものに気を配っていた。彼女がわきにいるのは楽しいこと、そして、ときおり、彼は彼女の陽焼けした健康そうな顔をチラリチラリとながめていた。一度彼女の視線をとらえたことがあったが、彼女は静かにほほ笑んだ。夕食が終ると、ジェインともうひとりの小さな兄弟が牧場のふもとの小川までいかされたが、これは、食器洗いの水をバケツに一杯もってくるためだった。
「子供たち、フィリップおじさんに寝るとこをみせておあげ。それがすんだら、そろそろ寝なけりゃいかんよ」
小さな手、手、手がフィリップをとらえ、彼は小屋のほうにひっぱっていかれた。中にはいってマッチをすった。家具はなにもなく、服を入れるブリキ箱以外には寝台があるだけだった。寝台は三つあり、それぞれの壁ぞいにおかれてあった。アセルニーはフィリップのあとを追ってはいってきて、それをいかにもほこらしげに示した。
「これが眠るとこですよ」彼は叫んだ。「スプリング入りの敷き布団《ぶとん》や白鳥の羽根毛じゃありませんよ。ここほどぐっすりと眠れる場所はないんです。|きみは《ヽヽヽ》ちゃんと布団にはさまれて眠るんでしょ。いや、まったく、心の底からお気の毒なことと思ってますよ」
寝台は、厚く敷いたホップの蔓《つる》、その上に藁をさらに乗せ、それを毛布でくるんだものだった。外で一日働いたあとで、ホップのいいにおいにすっぽりつつまれて、ホップ摘みの人たちはぐっすりと幸福に眠りこむのだった。九時までに、牧場はすっかり静かになり、居酒屋にグズグズしていて、十時の閉店になるまで帰ろうとしない一、二の男はべつにして、みんな床にはいっていた。アセルニーは、そこまで、フィリップについてきた。だが、出かける前に、アセルニー夫人は彼にいった、
「わたしたち、六時十五分前ごろに朝食にするんですが、そんなに早く起きたくはないでしょうね。六時には仕事にとりかからなければならないんですからね」
「彼だって、もちろん、早起きしなけりゃならんよ」アセルニーは叫んだ、「そして、ほかの連中と同じように、働かなくっちゃいけないんだ。食費はかせぎださなきゃならんのだからな。働かざる者、食うべからずでね」
「朝ご飯前に、子供たちは水浴びにいくんですから、帰りに声をかけることにしましょうか?
『陽気な水兵』(居酒屋の名前)の前をとおるんですからね」
「起こしてもらえたら、ぼくもいっしょに水浴びにいきますよ」フィリップはいった。
その話を聞くと、ジェインとハロルドとエドワードは歓声をあげ、翌朝、彼らがワッと部屋にとびこんできて、フィリップはぐっすりとした眠りからたたき起こされることになった。少年たちは彼の寝台の上にとびあがり、スリッパーで追い払わなければならなくなった。それから、服を着こんで出かけていった。夜はいま明けたばかり、空気はピリッと肌寒かったが、空には雲ひとつなく、太陽は黄色に輝いていた。サリーは、コニーの手をひいて、道のまんなかに立ち、片腕にタオルと水着をかけていた。このときになってはじめてわかったことだったが、彼女の陽除けのボンネット帽は藤色、それと対照して、彼女の赤味をおびた陽焼けした顔は、|りんご《ヽヽヽ》のようだった。例のゆっくり浮かんでくるやさしい微笑で、彼女は挨拶し、その歯が小さくて、きちんとならび、とても白いのに、彼は、突然、気づいた。どうしてこれに気づかなかったのだろう? とふしぎでならなかった。
「あなたを寝かせておいたほうがいいといったんだけど」彼女はいった、「みんな、起こす、起こすってきかないの。あなたがほんとうは来たくはないんだっていったんですけどね」
「いやあ、とんでもない、ほんとにいきたいのさ」
みなは道路を進み、ついで、沼を切っていった。この道をゆけば、海まで一マイルもなかった。海は冷たく灰色にみえ、それをながめて、フィリップはゾクリとからだをふるわせた。だが、ほかの連中は、服をぬぎすて、喚声をあげながらとびこんでいった。サリーは一事が万事ちょっとノロノロとやる女で、ほかの子供たちがフィリップのまわりで水をパチャパチャはねかしているときになってはじめて、水にはいってきた。水泳はフィリップのただひとつの芸で、水にはいるとゆったりとした気分になり、間もなく、彼が海豚《いるか》、おぼれかけている男、髪をぬらすまいとしている太った女の恰好をすると、一同はみなその真似をやりだした。この水浴はワーワーとさわがしく、水から彼らをひきだすのに、サリーはとてもきびしい態度をとらなければならなくなった。
「あなたは、だれにもおとらず、手におえない人ね」例のまじめくさった母親らしい態度で、彼女はフィリップにいったが、これは、喜劇的でもあり、いじらしくもあるものだった。「あなたがいないと、あの子たち、こうまでわけわからずにはならないんですよ」
みなは帰途についたが、サリーは輝く髪を一方の肩越しになびかせながら、陽除けのボンネット帽を手にしていた。だが、小屋に着くと、アセルニー夫人はもうホップ畠に出かけていた。アセルニーは、じつにひどい古ぼけたズボンをはき、シャツを着ていないのをみせようとばかり、ジャケットのボタンをすっかりはめこみ、ふちびろのソフト帽をかぶって、焚き火のとこで鮭《さけ》を揚げていた。ひとりで悦に入っていたが、これは、どうみても彼の姿が山賊そっくりだったからだった。帰ってきた連中の姿をみるとすぐ、いいにおいのする鮭を食べながら、『マクベス』の魔女のコーラスを叫びはじめた。
「食事でグズグズしちゃいけないぞ。さもないと、母さんにプリプリ怒られるからな」みなが近づいてくると、彼はいった。
それから数分すると、ハロルドとジェインはバターつきパンを手にしながら、みんなブラブラと牧場をとおってホップ畠に歩いていった。彼らがここを出た最後の一団だった。ホップ畠は、フィリップの少年時代に結びついた親しみのある光景のひとつで、ホップ乾燥場は、彼にとって、ケントの景色のもっとも典型的な特徴といえるものだった。ながながとつづくホップの畠をとおってサリーのあとについてゆきながら、フィリップの味わった気分は、奇異の感というより、すっかりとけこんでくつろいだ感じだった。
太陽はもうキラキラと輝き、鋭い影を投げていた。豊かな緑の葉は、フィリップには目の饗宴ともいうべきものになった。ホップは黄ばみはじめ、それは、彼には、古代のシチリアの詩人たちが紫色の|ぶどう《ヽヽヽ》にみいだした美と情熱をもっていた。歩いてゆきながら、フィリップはこの緑の豊かな華麗《かれい》さに圧倒された。肥沃なケントの大地から快い香気が立ちのぼり、ときどきフッと吹きつけてくる九月のそよ風には、ホップの芳香がこめられていた。アセルスタンはこの浮き立つ気分を本能的に感知した。大声をあげて歌いだしたからである。それは、十五になった少年の声変りしたかすれ声、サリーはサッとふり向いていった、
「静かにしてちょうだい、アセルスタン。お天気が変って、夕立にでもなったら大変なんですからね」
すぐに低い人声がし、つづいてホップ摘みの人たちの姿があらわれた。彼らはせっせと仕事をしながら、語り笑っていた。籠《かご》を横におき、椅子、背なしの椅子、箱に坐り、ズック袋のわきに立って、そこに直接摘んだホップを投げ入れている者もいた。まわりにはたくさんの子供と赤ん坊がいて、間に合せの揺り籠に入れた赤ん坊、ボロにつつんで乾いた褐色の大地に寝かされている赤ん坊など、さまざまだった。子供たちは、ホップ摘みはほとんどせず、遊びに精を出していた。女たちはせっせと働いていたが、子供時代からのホップ摘み、ロンドンからのよそ者より倍も手早だった。一日に何ブッシェル摘みとるかが自慢の種だった。だが、むかしほどはかせぎにならないのが不満の種になっていた。当時は五ブッシェルで一シリングもらえたのに、いまは率が、一シリングかせぐのに八ブッシェルから九ブッシェルにまでなっている、そのむかし、達者なホップ摘みだったら、季節ちゅうのかせぎで、のこりの一年はゆっくり遊んでいられたのに、いまは、もうつまらない、罰金なしで休暇がとれるのが関の山、といったことだった。ヒルのおかみさんはホップ摘みの金でピアノを買ったといってるが、あの人はとてもしわん坊、あんなしわん坊になりたくはない、それはただ口先だけのことと、たいていの人は考えてる、じっさいんとこは、たぶん、貯蓄銀行からの金を少しそっちにまわしたんだろう。
ホップ摘みは、子供は勘定せずに十人の組にわけられ、アセルニーは、将来自分の一家だけでこの組を構成できる日のことを、大声で吹きまくっていた。それぞれの組には、ひとり袋係りがついていて、その任務は、組の者のズック袋のところにひとつながりのホップの実を補給することだった(この袋というのは、木枠《きわく》にズックをはった大きな袋で、七フィートくらいの高さがあり、立ちならぶホップの木のあいだに、そのながい列がおかれてあった)。一家の者でひと組ができるようになったら、この袋係りになりたいものと、アセルニーは念願していた。ところで、さし当っての彼の仕事は、自分で直接働くというより、ほかの者を叱吃《しった》激励することにあった。彼はブラリブラリと妻のところにゆき、くわえタバコで仕事にとりかかったが、彼女のほうは、もう三十分も仕事に精を出し、籠ひとつ分をズック袋に空けていた。母さんはべつだが、きょうはだれにも負けないくらいホップ摘みをやるぞ、母さんほどホップ摘みのうまい者はだれもいないのだからな、というのが、彼の意気ごみだった。
だが、このことで彼は、アフロディテが好奇心の強いプシュケに課した試練の話を思い出し、まだ姿をみてない花聟にたいするプシュケの愛の物語を、子供たちにしはじめた。みごとな話しぶりだった。フィリップは、口許に微笑を浮かべながら、これに聞き入っていたが、このむかし話はここの情景にピタりのものに思われた。いま空は青く澄みわたり、ギリシャでも空はこうまで美しくはないだろう、と考えられた。たくましく、健康的、活気にあふれた、金髪で薔薇色の頬の子供たち、ホップの優美な姿、鳴りわたるラッパのひびきのように思える葉の挑発的なエメラルド色、陽除け帽をかぶった摘み手のいる、先が点にまでせばまったみとおしのいい緑の小道のもつ魔力――ここには、たぶん、教授たちの著書や博物館よりもっと、ギリシャの精神があらわされているといえるだろう。イギリスの美がありがたくなった。まがりくねった白い道、生垣、楡の木のある緑の牧場、岡のたおやかな線とその頂上を飾っている雑木《ぞうき》林、まったいらな沼地、北海のものわびしさを思い、その美を感知できて、とてもうれしかった。だが、やがて、アセルニーがソワソワしはじめ、ロバート・ケンプの母親の具合いがどうかたずねてくる、といいだした。彼は畠の全員と知り合いで、彼らを洗礼名でなれなれしく呼び、そうした人たちの一族の来歴、生まれて以来の彼らの身に起きたことはぜんぶ、ちゃんと心得ていた。他愛もない虚栄心を発揮して、そうした人たちのあいだで、彼はりゅうとした紳士ぶりを示し、そのなれなれしい態度には、ちょっともったいぶったところがあった。彼との同行を、フィリップは断った。
「自分の食事代くらいはかせぐつもりなんですからね」
「それは結構なこと、きみ」ブラリブラリと歩いてゆきながら、手をひとふりして、アセルニーは応じた。「働かざる者、食うべからずなんですからな」
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百十九
フィリップは自分専用の籠をもたずに、サリーのそばに坐って仕事をした。自分を除け者にして姉の手助けをするなんて、とてもひどい、とジェインは不満、そこで、サリーの籠がいっぱいになったら、こんどはジェインの手伝いをする、と約束しなければならなくなった。サリーは、母親と負けずおとらずの手早だった。
「手を痛くして、裁縫ができなくなるんじゃないかな?」フィリップは、心配してたずねた。
「いいえ、この仕事はやわらかい手でしなければいけないの。だから、男の人より女がうまいわけなのよ。荒仕事で手が固く、指がすっかりゴツゴツになってると、どうしてもうまく摘めないの」
彼女の器用な手さばきをみるのは楽しく、彼女のほうでも、例の母親精神を発揮して、ときどき彼のほうにジッと目をそそいでいたが、これがまた、とてもおもしろく、じつに感じのいいものだった。最初、彼は不器用な手つきをし、彼女はそうした彼を笑っていた。彼女が前かがみになり、どうしたらいちばんうまく一列の実を処理できるかを彼に教えたとき、ふとふたりの手がふれ合った。彼女が顔を赤くしたのをみて、彼はびっくりした。彼女が一人前の女とは、どうしても思えなかった。小娘としての彼女を知っていたので、どうしても彼女を子供とみてしまうのだった。だが、彼女を恋しているたくさんの男がいる事実は、彼女がもう子供ではないことを物語っていた。そして、ここに来てからまだ何日もたっていないのに、サリーのいとこのうちのひとりがえらくご執心《しゅうしん》、おかげで、彼女はみんなにひどくからかわれることになった。この男の名はピーター・ギャン、ファーンの近くの農夫のところにかたづいたアセルニー夫人の姉妹の息子だった。この彼が、毎日、ホップ畠をなぜうろつきまわらなければならないのか、みんなはちゃんと心得ていた。
八時に角笛が鳴りひびいて、朝食の休憩《きゅうけい》になり、食べるだけの働きはしていない、とアセルニー夫人はこぼしていたが、彼らは腹いっぱい食べた。それから、また仕事にかかり、十二時にもう一度角笛が鳴り、こんどは昼食だった。間をおいて、計量係りが、記録係りをともなって、袋から袋へと巡回してきたが、これは、まず最初に自分の帳簿に、ついで摘み手の帳簿に、摘んだ量が何ブッシェルかを記入した。それぞれのズック袋がいっぱいになると、それはブッシェル籠で計られてポークと呼ばれるとても大きな袋につめこまれ、計量係りと車ひきがそれを運んで、荷車に乗せた。
アセルニーはときどきもどってきて、ヒースのおかみさんやジョウンズのおかみさんがどのくらい摘んだかを報告し、そうした彼らに負けないように、と激励した。彼はいつも記録破りをめざし、ときには、その熱にかられて、一時間ほどせっせと働いた。だが、この仕事の中心的な興味は、上品な自分の手をみせびらかすことにあり、この手はえらく彼の自慢の種になっているものだった。時間をかけてマニキュアまでやり、先細りの指をスーッとのばして、スペインの貴族はいつも油をぬった手袋をはめて眠り、指の白さを失うまいとしている、とフィリップに語った。ヨーロッパの喉首をしめあげた手は、女の手のように恰好のよい、この上なくきれいな手だったのだ、と芝居気たっぷりに話すこともあった。いともお上品にホップを摘みながら、彼は自分の手を打ちながめ、すっかりいい気分になって、ため息をついた。これにあきると、タバコを一本巻き、フィリップ相手に芸術や文学論に花を咲かせた。午後には暑気が強くなり、仕事はノロノロとしか進まず、話もとだえがちになった。朝のひっきりなしのおしゃべりは、いま、勢いを失って、ポツリポツリと話すだけになった。サリーの上唇には汗の小さな粒が浮かび、仕事をしながら、唇をうっすらとあけていた。彼女は、いま、花を開こうとしている薔薇の蕾《つぼみ》に似ていた。
仕事|終《じま》いは、乾燥場の状態しだいだった。ときに早くそこがいっぱいになってしまうことがあり、三時か四時までに、夜のあいだに乾燥できる分のホップが摘まれてしまった。そうなると、作業は終りだった。だが、ふだん、その日の最後の計量は五時にはじまり、それぞれの組のズック袋の計量がすむと、その組の人は道具を集め、仕事が終ったので、またおしゃべりをやりだして、ブラリブラリと畠から出ていった。女の連中は小屋にもどって、片づけや夕食の準備にとりかかり、一方、そうとう数の男たちは、道をゆっくりと歩いて、居酒屋にいった。一杯のビールは、一日の仕事のあとで、とても楽しいものだった。
アセルニー家のズック袋は、計量の最後の組だった。計量係りがやってくると、ホッとひと息ついて、アセルニー夫人は立ちあがり、両腕をグッとのばした。同じ姿勢で何時間も坐りつづけていたので、からだがこわばってしまったのだった。
「さあ、『陽気な水夫』にいくとしよう」アセルニーはいった。「一日の定めの儀式はきちんととりおこなわなければいかん。それに、これ以上神聖な儀式はないんだからな」
「ジョッキをいっしょにもってってくださいよ、アセルニー」妻はいった。「夕食に一パイント半だけ買ってきてちょうだい」
彼女は、銅貨をひとつずつ数えて、彼にわたした。もうかなりの人が酒場につめかけていた。そこは砂をふりまいた場所で、まわりにベンチがおかれ、ヴィクトリア朝時代の拳闘家の黄ばんだ写真が壁にかけてあった。主人は客の名をぜんぶ憶えていて、そこに立っている棒に環を投げているふたりの青年を、酒売り台から身を乗りだし、やさしくほほ笑みながら、ながめていた。彼らの失敗は、みている人たちから陽気なからかいを受けていた。アセルニーとフィリップがはいっていくと、席が空けられ、ふと気がつくと、フィリップは、コール天のズボンをはき、膝の下をひもで結んだ老人の労務者と、赤らんだ額に愛嬌毛《あいきょうげ》(額や頬につくった巻き毛)をペタリとなでつけ、テラテラとした顔をしている十七の少年のあいだに坐っていた。アセルニーは、ひとつ環投げをやってみる、といいだし、ビール半パイントを賭け、それを獲得した。敗者のための乾杯をしながら、彼はいった、
「いや、まったく、ダービーの競馬で勝つより、この味のほうが格別だね」
へりびろの帽子をかぶり、とがった顎髯をした彼は、ここのいなかの連中のなかでは、異国ふうの人物、みなから風変りな男とみなされているのは、容易にわかることだった。だが、彼はすごい上機嫌、その熱狂ぶりはすぐにうつっていくものだったので、だれでも彼に好意をもたずにはいられなくなった。話の花が咲き、サネット島のゆったりとした方言まるだしで、いくつか冗談がとびかい、この土地のひょうきん者のうまい洒落には、一同ドッと大笑いだった。まったく愉快な集りだった! こうした人たちにつつまれて満足感で心が温まらないとしたら、よほど人情知らずの人間というとこだろう。まだ明るい陽ざしがのこっている窓の外に、フィリップのひとみはさまよっていった。そこには、農家の窓のように、赤いリボンで結ばれた小さな白いカーテンがかかり、敷居には天竺葵《てんじくあおい》の鉢がいくつか乗せられてあった。しばらくすると、つぎからつぎへと客は座を立ち、夕食の準備が進んでいる牧場のほうにゆっくりと帰っていった。
「もうすぐにも寝たいんでしょう」アセルニー夫人はフィリップにいった。「朝五時に起き、一日じゅう外に出てることには、馴れてないんでしょうからね」
「いっしょに泳ぎにきてくれるね、フィルおじさん、どう?」少年たちは叫んだ。
「もちろん、いくさ」
つかれてはいながらも、気分がとてもよかった。夕食がすんでから、背なしの椅子に坐ってからだを小屋の壁に寄せかけながら、パイプをくゆらし、夜空に目をやった。サリーはせっせと仕事をやり、小屋に出入りしていたが、彼は、なにすることもなく、彼女の手際のいい身のこなしをジッとながめていた。彼女の歩きぶりが、フッと彼の注意をひいた。特別上品な歩きぶりというわけではなかったが、じつにゆったり、しっかりしたものだった。腰のところから脚をふり、足が大地をしっかりと踏みしめているといった感じだった。アセルニーは近所の人のところに話しにゆき、やがて、アセルニー夫人がだれにということもなく声をかけているのが聞えてきた。
「まあ、お茶がきれてしまったわ。あの人にブラックのおかみさんのとこにいって、お茶を買ってもらおうと思ってたんだけど……」すこし間をおいて、また彼女の声が聞えてきた、「サリー、大急ぎでブラックのおかみさんのとこにいって、お茶を半ポンド買ってきてちょうだい、どう? すっかりきらしちまったんでね」
「いいことよ、母さん」
ブラック夫人は、道路ぞい半マイルほどはなれたところに小屋をもち、郵便局と雑貨商をやっていた。サリーは、袖をおろしながら、小屋から姿をあらわした。
「ぼくもいっしょにいってあげようか、サリー?」フィリップはたずねた。
「心配しないで。ひとりでいったって、平気よ」
「いや、そうじゃないんだ。もうすぐ寝るわけだし、足をちょっとのばしたいと思ってたとこなんだからね」
サリーはなんの返事もせず、ふたりはいっしょに出かけた。道は白々とし、静か、夏の夜はシーンとして静寂そのものだった。ふたりの口数は少なかった。
「いまになっても暑さがのこってるね、どう?」フィリップはいった。
「一年のこの季節にしちゃ、珍しいことね」
だが、だまっていても、気づまりはなかった。ならんで歩いているのが楽しく、これは、口をきく必要はないと思っているからだった。突然、生垣の踏み段(垣やへいなどを乗り越えられるようにつくった階段、家畜をとおさないため)のところで、低いつぶやき声が聞え、闇の中でふたりの人影がみえた。ふたりはピタリからだを寄せ合って坐り、フィリップとサリーがとおっていっても、身動きもしなかった。
「あれ、だれかしら?」サリーはいった。
「とても幸福そうだね、どう?」
「こちらも恋人と思われたでしょうね」
前にめざす小屋の灯りがみえ、まもなく、ふたりはその小さな店にはいっていった。一瞬、そこのギラギラする灯りがまぶしかった。
「おそいのね」ブラック夫人はいった。「もうお店を閉めようと思ってたとこよ」彼女は時計をながめた。「九時近くだもんね」
サリーは茶を半ポンド(アセルニー夫人は、一度に半ポンド以上を買う気には、どうしてもなれない女だった)買い求め、ふたりは、また、道を歩きだした。ときおり、夜行性のなにか動物が短く鋭い音を立てていたが、それで夜の静けさがなお浮き彫りになるような感じだった。
「足をとめると、きっと海の音が聞えることよ」サリーはいった。
ジーッと耳を澄ますと、浜辺に打ち寄せてくるさざ波のかすかな音が聞えるようだった。踏み段の前をとおると、恋人たちはまだそこにいたが、いま、もう語らってはいなかった。ふたりは抱き合い、男の唇が娘の唇におしつけられた。
「なかなかいそがしいようね」サリーはいった。
角をまがると、生温かい風が、フッと一瞬、ふたりの顔に吹きつけた。大地は生気にあふれていた。ふるえている夜気にはなにかふしぎなものがひそみ、得体《えたい》の知れぬなにかものが待っているようだった。静寂は、突然、意味をはらんだものになった。フィリップの心には妙な感情が起き、いっぱいにあふれて、とけてゆく感じ(このありきたりな言葉がいま味わっている気持ちをピタリあらわしていた)、幸福、不安、期待が同時に湧き起こってきた。彼の記憶に、ジェシーカとロレンゾがたがいにつぶやきながら、かさねて語り合うあの旋律の美しい言葉(『ヴェニスの商人』にある)がよみがえってきた。だが、このふたりの心を楽しませた奇抜な着想の背後には、キラリと光る情熱がはっきりと輝いているのだ。自分の感覚をこうして奇妙にも緊張させるどんなものが大気にひそんでいるのか、彼にはつかめなかった。自分が肉体をぬけでた魂になり、大地のかおりと音とゆかしさを楽しみ味わっているようだった。美を感知するこうしたすばらしい能力を感知したことは、いままで一度もなかった。ここでサリーが話をはじめて、この魔力を破ってしまわないかと心配になったが、彼女はひと言も語らず、彼のほうで彼女の声が聞きたくなってきた。豊かな低い声は、田園の夜そのものの声だった。
小屋にもどるのにとおらなければならない畠のところに、ふたりは着いた。フィリップはそこにはいっていって、彼女がとおれるようにと、門をあけた。
「さあ、ここでさよならするよ」
「わざわざ来てくださって、ありがとう」
彼女は手をさしだし、それをにぎりながら、彼はいった、「ここでいい娘《こ》になって、家のほかの連中と同じように、ぼくにキスをしてくれるかな」
「構わないことよ」彼女は答えた。
フィリップにすれば、冗談でいったことだった。自分が幸福、彼女に好意をもち、とても美しい夜だったので、彼女にキスをしたいと思っただけだった。
「じゃ、さよなら」ちょっと笑い、彼女をグッとひきよせて、彼はいった。
彼女は唇を与えたが、それは温かく、豊満、やわらかだった。彼はちょっと唇をつけたままでいたが、彼女の唇は花のようだった。ついで、なぜともわからず、意志はべつになく、彼は両腕で彼女を抱きかかえてしまった。声ひとつ立てずに、彼女は身をゆだねた。そのからだは、ピシッとひきしまり、たくましかった。彼女の胸の鼓動《こどう》が彼に伝わってきた。彼はカッとして、わけがわからなくなった。官能の怒濤《どとう》が彼を圧倒し、彼は生垣の暗い蔭に彼女をひっぱっていった。
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百二十
フィリップは、ぐっすりと眠りこみ、ハロルドに顔を羽根でくすぐられて、ハッと目をさました。目をあけると、よろこびの叫びがあがった。酔い痴《し》れたように眠っていたのだった。
「さあ、さあ、なまけ者《もん》さん」ジェインはいった。「急がなけりゃ待ってはいない、ってサリーがいってることよ」
こういわれて、昨夜のことが頭に浮かんできた。もうがっくり、からだ半分は寝台からぬけだしながらも、そのままでいた。どう彼女に顔向けできよう? 急に湧き起こってきた自責の念で動きがとれず、自分のしたことを、ひどく、ひどく後悔した。今朝、彼女はなんというだろう? 彼女に会うのがおそろしく、どうしてあんなバカな真似をしたんだろう? と考えた。だが、子供たちは有無《うむ》をいわせなかった。エドワードは彼の水泳パンツとタオルを手にし、アセルスタンは掛け布団をはいでしまい、もう三分もすると、みなは階段をおりて道路に出ていた。サリーは、彼にニッコリとほほ笑みかけた。いつもと変らぬやさしい無邪気な笑いだった。
「着換えをするのに時間がかかることね」彼女はいった。「来ないのかと思ったわ」
彼女の態度には、ぜんぜん変りがなかった。微妙な、あるいは唐突な、なにか変化があるはずと考え、自分への対応の仕方に恥じらいか、怒りか、ひょいとしたら、なれなれしさが多少ますといった気配があるものと想像していた。だが、そうしたことは皆無《かいむ》、前とすっかり同じだった。みんなそろって、語り笑いながら、海のほうへ歩いていった。サリーは静かだったが、これはいつものこと、ひかえ目なのもふだんのまま、そして、やさしかった。彼との会話を求めず、さりとて、それをさけているわけでもなかった。フィリップにとって、これは大きな驚きだった。前夜のことで彼女がすっかり変るものと覚悟していたが、まるでなにごともなかったといった気配だった。夢だったのかもしれない。女の子が片手をにぎり、のこる手をちびの坊やがとって歩いてゆき、できるだけなにげないふうにしゃべりながら、これはどう解釈すべきだろう? と考えた。サリーは昨夜のことを忘れるつもりなのだろうか? たぶん、自分と同じように、官能に心をうばわれ、起きたことは異常な環境によるものと考えて、忘れてしまおうときめているのかもしれない。こうなると、彼女は思考力とおとなびた才覚があることになるが、これは、彼女の齢、彼女の性格に不似合いなものだった。だが、自分が彼女のことをぜんぜん知らないでいる事実がわかってきた。彼女には、いつも、なにか謎めいたものがあるのだった。
水の中で馬とびをやり、前の日と変らず、ワイワイとしたさわぎだった。サリーはみなに母親らしくふるまい、監督の目を光らせ、遠くに出すぎると、呼びかえしていた。ほかの子供たちが浜にあがってふざけているあいだ、落ち着き払っで泳ぎまわり、ときどきあお向けになってからだを浮かしていた。やがて、水から出て、からだをふきはじめ、多少高飛車な態度でほかの子供たちを呼びもどし、とうとう、水にいるのはフィリップだけになった。この機会をとらえて、彼はグングンと泳ぎまわった。二日目のこの朝は、冷たい水にもう馴れ、塩気のこもった生気を満喫した。手足を自由に動かすのは愉快なこと、抜き手を切って楽しんだ。だが、タオルでからだをつつんだサリーが水ぎわまでおりてきた。
「すぐあがってきなさい、フィリップ」彼女は声をかけたが、このあつかいは、まるで監督している子供といった具合いだった。
この権柄《けんぺい》ずくな態度をおもしろがって、ニヤニヤしながら近づくと、彼女はしかりつけた。
「こんなにながく水の中にいるなんて、いけませんよ。ほれ、唇は真っ青よ。それに歯ときたら、ガタガタしてるじゃないの」
「ハイ、ハイ、出ますよ」
こんなふうに話しかけるなんて、いままでにないことだった。あの一件が彼にたいする権利といったものを与えたような感じ、世話をみてやらなければならない子供として彼をあつかっていた。数分すると、みなは服を着こみ、帰途についた。サリーは彼の手に目をとめた。
「ほれ、ごらんなさい、手が真っ青になってるじゃないの」
「いやあ、心配はない、ただ血の循環だけのことさ。すぐ血の気はもどってくるよ」
「さあ、その手を貸して」
彼女は彼の手をとり、血色がもどってくるまで、かわるがわるそれをこすった。フィリップは、心打たれながらもとまどって、彼女をジッとみつめていた。子供がいるのでなにもいえず、彼女と目をかわすこともなかった。だが、故意に彼の視線をさけているのでないのはたしか、たまたま目が合わないでいるだけのことだった。この日一日じゅう、ふたりのあいだになにか起きたと意識しているようすは、彼女にはなにも見受けられなかった。たぶん、ふだんよりちょっと口がはずんでいたくらいのものだったろう。みながホップ畠でまた坐りこんでいるとき、からだが青くなるまでフィリップが水から出ようとせず、ほんとうにきかん坊主なのよ、と彼女は母親に話していた。まったく信じられぬことだったが、前夜の一件の影響といえば、彼を保護してやろうという気持ちが彼女に起きてきたことくらいのものだった。弟や妹たちにたいするのと同じ、母親のように彼を保護してやろうという本能的なねがいを、彼女はもっているのだった。
サリーとふたりだけになれたのは、夕方になってからのことだった。彼女は夕食をつくり、フィリップは焚き火のそばの草の上に坐っていた。アセルニー夫人は村になにか買い物に出かけ、子供たちはテンデンバラバラ、好きなことをやっていた。フィリップは、ソワソワして口がきけず、ひどく神経過敏になっていた。サリーは、落ち着き払って、仕事をテキパキとやり、彼にはどうにもやりきれなくなった沈黙を、一向気にしていなかった。どうきりだしたらいいのか、わからなかった。話しかけられるか、話す用件がある場合以外に、サリーはまず話したりはしない女だった。とうとう、彼はもうたまらなくなった。
「ぼくのこと、怒ってないね、サリー?」だしぬけに彼は切りだした。
彼女は静かに目をあげ、なんの感情もあらわさずに彼をジッとみつめた。
「わたしが? いいえ。どうして怒ることがあるの?」
彼はあっけにとられ、返事もしなかった。彼女はなべの蓋《ふた》をはずし、かきまわし、また蓋をかぶせた。いいにおいがプーンとあたりにひろがった。彼女は、もう一度、ほとんど口を開かない静かな微笑を浮かべて、彼をみやった。それは、目許の微笑ともいうべきものだった。
「いつもあなたを好きだったんですもん」彼女はいった。
彼の心臓は激しくドキンと打ち、頬に血がこみあげてくるのがわかった。むりして、彼は弱々しく笑った。
「それは知らなかったね」
「だから、あなたはおバカさんなのよ」
「どうしてぼくを好きなのか、見当もつかないな」
「わたしだって同じよ」彼女は小さな薪《まき》を焚き火にくべた。「あなたが野宿し、食べるものもなくなってやってきたあの日、好きだっていうことがわかったの。憶えてること? そして、わたしと母さんがソープの寝台をあなたの寝台にしたのよ」
彼は、また、赤くなった。あのいきさつを彼女が知っているものとは思ってもいなかったからだった。彼自身、それを思い出して、たまらぬ嫌悪感と屈辱感を味わっていた。
「だからこそ、ほかの男の人たちともつき合わなかったの。母さんがいっしょになれといってたあの若い人のこと、憶えてるでしょう? あの人をお茶に呼んだのは、とってもうるさくいってたからなの。はじめっから断るつもりだったのよ」
フィリップはすっかり度肝をぬかれ、なにもいえなかった。心に妙な感情が湧き起こっていたが、それが幸福感でないとしたら、なんとも得体の知れぬものだった。サリーは、また、なべをかきまわした。
「子供たちが急いでもどってきてくればいいのにねえ。どこへいったのかしら? ご飯の用意はもうできてるのに……」
「みつけにいってみようか?」フィリップはいった。
日常のことを話すのは、ホッとすることだった。
「ええ、そうしてもらえたら、ありがたいことね……。母さんが帰ってきたわ」
そこで、彼が立ちあがると、彼女は、とまどいもみせずに、彼をみつめた。
「子供たちを寝かしつけたら、今晩、いっしょに散歩しましょうか?」
「うん」
「じゃ、踏み段のとこで待っててちょうだい。用がすんだら、そこにいくわ」
彼は踏み段に坐り、星空の下で待ち、実りかけた木|いちご《ヽヽヽ》をつけた生垣が両側に高くそびえていた。大地からは豊かなかおりの夜気が立ちのぼり、大気は快く、静まりかえっていた。心臓は早鐘のようだった。自分の身に起きたことは、なにもわからなかった。情熱は、彼のみるところ、叫び、涙、激しさに結びついていたのだが、こうしたものは、サリーにぜんぜん見受けられなかった。だが、サリーが身を与えるようになった原因といえば、情熱以外に考えられるものがなかった。だが、自分にたいする情熱だろうか? 彼女がいとこのピーター・ギャンに参ったとしても、彼はべつに驚きはしなかったろう。彼は背が高く、ほっそり、すらりとし、顔は陽焼けし、ゆったりと大股に歩く男だった。自分にどんないいとこをみてくれたのだろう、とフィリップはふしぎでならなかった。彼が考えている愛情で彼女が自分を愛しているのかどうか、どうにも見当がつかなかった。だが、それにしても? 彼女の純潔は、まちがいのないことだった。多くのもの、無意識ながらも、彼女が感じとっていたものが結びついていたのではないか? と彼は漠然と感じていた。大気とホップと夜の生みだす陶然《とうぜん》とした気分、女の生来もっている健全な本能、あふれでる心のやさしさ、なにか母親らしさと姉らしさを内蔵する親愛の情がそれだった。彼女の心が慈愛であふれていたので、与えられるかぎりのすべてのものを与えてくれたのだろう。
道に足音が聞え、人の姿が闇の中からあらわれた。
「サリー」つぶやくような低い声で、彼は呼びかけた。
彼女は足をとめ、踏み段に歩み寄り、彼女といっしょに、田園の甘い、清潔なかおりがただよってきた。彼女は新しく刈りとられた乾し草のにおい、熟《う》れたホップの芳香、若草のみずみずしさを運んでくるようだった。彼の唇にふれる彼女の唇は、やわらかく、ぼってりとし、彼の腕の中で、愛らしくたくましい彼女のからだは、かたくひきしまっていた。
「乳と蜜だ」彼はいった。「きみは乳と蜜のような女だよ」
彼は彼女に目を閉じさせ、そのまぶたに、左右つぎつぎとキスをした。たくましい筋肉質の彼女の腕は、肘まで出ていた。彼はそれをなで、その美しさに驚嘆した。それは、闇の中でほのかに輝いていた。彼女の肌は、ルーベンスの描いた肌、びっくりするほど色白ですきとおったもので、片側には、うっすらと金髪の生毛が生えていた。それはサクソン人の女神だったが、あのじつに美しい、地味な自然さは、神のものではなかった。フィリップの思いは、すべての男の心の中に咲くやさしい花の乱れ咲く小屋の庭、立葵《たちあおい》、ヨークとランカスター(薔薇戦争を起こしたヨークとランカスター両王家の紋章がそれぞれ白と紅の薔薇であったことから)と呼ばれている紅白咲きわけの薔薇、|くろたねそう《ヽヽヽヽヽヽ》、アメリカ|なでしこ《ヽヽヽヽ》、|すいかずら《ヽヽヽヽヽ》、|ひえんそう《ヽヽヽヽヽ》、|ひかげゆきのした《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》にとんでいった。
「どうしてぼくを好きになれたりするんだろう?」彼はいった。「ぼくはとるに足りない、びっこの、ありきたりの、みにくい男なんだからね」
彼女は彼の顔を両手でおさえ、彼の唇にキスをした。
「あなたはおバカさん。それがあなたの本性よ」彼女はいった。
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百二十一
ホップが摘みとられると、フィリップは、聖ルカ病院の住みこみ内科医師助手として採用の通知を受け、アセルニー一家とともにロンドンにもどっていった。ウェストミンスターでつつましい部屋を借り、十月はじめに勤務についた。仕事はおもしろく、変化に富み、毎日、なにか新しいことを学んだ。彼は自分がそうとうな重要人物になったように感じ、サリーとはよく会っていた。生活が途方もなく楽しかった。外来患者を担当した日以外には、六時ごろに仕事から解放され、それからサリーが働いている店に出かけていって、彼女が出てくるのを待った。「商売専用入り口」の向い側や、少しはなれた最初のまがり角にたむろしている何人かの若い男たちがいて、三々五々出てくる娘たちは、そうした連中の姿をみると、つっつき合ったり、クスクス笑いをしたりしていた。
飾りのないさっぱりとした黒い服を着こんだサリーは、自分とならんでホップを摘んでいたいなか娘とは大ちがいだった。店からスタスタと足早に出てきたが、彼と出逢うと、歩調をゆるめ、静かな微笑で彼に挨拶を投げた。ふたりはあわただしい街路をつれ立って歩いていった。彼は病院での自分の仕事について語り、彼女はその日に店でしたことを話した。店で彼女がいっしょに働いている娘たちの名前まで、彼にはだんだんとわかってきた。サリーがおさえてはいるが、なかなか鋭いふざけ気分の持ち主であることがわかってきた。娘たちや監督の男たちについて彼女は話したが、そこにひそんでいる思いがけないおどけぶりはおもしろいものだった。とても風変りなことを話しながら、まるでおかしなことはなにもないといったふうに、いかにも深刻な顔をしてものを話す癖が彼女にあったが、それはすごく痛烈、フィリップはおかしくなってワッと笑いだしてしまうのだった。すると、彼女はチラリと一瞥を彼に投げたが、そこで微笑する彼女の目は、自分のユーモアにちゃんと気づいていることを物語っていた。ふたりは、会うときも別れるときも、きちんと礼儀正しく紋切り型の握手をした。一度、フィリップは彼女に、自分の部屋に来ていっしょにお茶を飲まないか? とさそってみたが、彼女はそれを断った。
「いいえ、やめとくわ。変に思われるでしょうからね」
ふたりのあいだで、愛の言葉ひとつかわされなかった。こうした散歩でいっしょにいること以外に、彼女はなにも望んでいないようだった。だが、自分といっしょにいるのを彼女がよろこんでいるのはまちがいないこと、と彼は確信していた。このことのはじまりのときと同じように、彼女はどうともつかめない女だった。彼女の行為そのものが、どうにも腑に落ちなかったが、知れば知るほど、好きになった。しっかりしているし、自制心もあった。彼女の誠実さも魅力的だった。どんな事情のもとでもたよりになる女だった。
「ほんとにいい女《ひと》だね、きみは」いきなりだしぬけに、彼はいった。
「ほかのどんな女とも同じと思うんだけど……」彼女は答えた。
自分が彼女を恋していないことは、わかっていた。彼女に感ずるのは、大きな親愛の情、いっしょにいるのが楽しかった。なにか妙に心が安らぐのだった。彼女にたいする感情は、十九歳の一女店員にもつものとしては、なにかおかしな感情、と彼には思われた。彼女を尊敬していたからである。そのすばらしい健康ぶりには、心を打たれた。彼女は非の打ちどころのないすてきな動物、その肉体的完璧さに打たれて、彼はいつも畏怖の念まで感じているのだった。彼女にひきくらべると、自分のつまらなさがよくわかった。
ロンドンにもどってから三週間ばかりたったある日、いっしょに歩いていると、彼女がふだんになく無口になっているのに、ふと気づいた。彼女の静かな表情が眉に寄せたかすかな縦じわでくもっていた。むずかしい顔になりそうな顔つきともいえるくらいだった。
「どうしたんだい、サリー?」彼はたずねた。
彼女は彼のほうに目をうつさず、まっすぐ正面をみつめ、顔色に冴えがなかった。
「わからないの」
彼女のいっていることは、すぐに呑みこめた。急に心臓の鼓動が激しくなり、顔が青ざめていくのがわかった。
「というのは、どういうこと? まさか……?」
彼の足はとまった。歩きつづけられなかったのである。こうしたことが起こるかもしれないとは、思ってもいないことだった。ついで、彼女の唇がふるえているのがわかったが、彼女は泣くまいと必死になっていた。
「まだはっきりはしてないの。だぶん、心配することないわ」
ふたりはだまって歩きつづけ、とうとう、いつも別れる場所になっているチャンサリー小路に来た。彼女は手をさしだして、ニッコリした。
「まだ心配しなくていいことよ。大丈夫と考えることにしましょう」
彼はそこから歩いていったが、心は乱れに乱れた。自分はなんてバカなんだろう! それが心に浮かんだ最初のことだった。下劣でみじめなバカ者、グッとすごい勢いで湧き起こってくる怒りの中で、彼は、それを何回となく心の中でくりかえした。自分を軽蔑した。どうしてこんな|どじ《ヽヽ》を踏んだんだろう? いろいろな思いが走馬灯のようにかけめぐり、しかも、悪夢の中のはめ絵(絵の描いてある厚紙を不規則な形の小片に切断したものを寄せ集めてもとの絵を再現するおもちゃ)のきれっ端のように、手のつけられない混乱状態で放りだしになっていた。それと同時に、どうしたらいいのだろう? とも考えていた。すべてのものは、目の前にじつにはっきりと姿をあらわし、ながい時期にわたる念願のすべてがとうとう手のとどくところにあるのに、考えられぬ自分の愚かさで、いま、この新しい障害物をでっちあげてしまったのだ。
きちんとした秩序のある生活を強く望みながらも、自分自身が欠陥と認めているものを、フィリップはどうしても克服できないでいたが、それは、将来に生きようとする情熱だった。そして、病院での仕事にしっかりと落ち着くやいなや、旅行の計画をあれこれとあわただしく思いめぐらしていた。以前には、将来の計画をあまりこまごまと考えまいとしていた。ただ、気落ちするだけだったからである。だが、ゴールが間近にせまっているため、どうしても湧き起こってくるあこがれの情に屈しても、べつにどうということはあるまい、と考えたのだった。まずなにをさしおいても、スペインにいこう。それは、あこがれの国だった。そこの精神、ロマンス、色彩、歴史、壮大さが、もう、彼の心にしみわたっていた。ほかの国では与えられぬ特別な彼への言葉が、そこで待っているような気がした。子供時代からまがりくねった街路を踏んできたように、そこの美しい古い町々、コルドヴァ、セヴィリア、トレド、レオン、クラゴナ、ブルゴスを知っていた。スペインの絵の巨匠は彼の魂の画家、自分のなやみ苦しむ心にとってほかのものよりもっと重大な意味のあるそうした巨匠の作品の前にたたずんで味わう恍惚とした気持ちを心に思い描くと、胸が高鳴った。ほかの国の詩人よりスペイン人の特質をもっとはっきりあらわしている偉大な詩人たちにも接していた。彼らの霊感は、世界の文学の一般の流れからではなく、彼らの祖国の灼熱《しゃくねつ》した香気ただよう平原と風の吹きすさぶ山々から得られたようだった。もうわずか数ヵ月したら、すばらしい魂と情熱にいちばんピタリとしているように思われるあの言葉を、あたり一面に、自分自身の耳で聞きとることになるだろう。鋭い美的感覚で、アンダルシアはやさしすぎて官能的、多少野卑さまであって、とうてい自分の熱情を満たしてくれないのではないか、と彼は感じとっていた。彼の想像力は、むしろ、カスティリャの風の吹きすさぶひろびろとした荒野と、アラゴンとレオンの峨々《がが》たる壮大さに走っていった。こうした未知の接触がなにをもたらしてくれるかをはっきりつかんでいるわけではなかったが、そこから力と目的を獲得し、もっと遠い、もっとふしぎな場所のさまざまなすばらしいものに直面したとき、それを理解するのに役立つことになるだろう、と感じていた。
これは序の口にすぎぬことだった。船医を採用するさまざまな船会社と連絡をとり、その航路の具合は心得ていたし、経験者からそれぞれの航路の得失を聞いてあった。東洋汽船会社とマレイ東洋汽船会社の航路は、べつだった。それに乗り組むのが困難であったばかりでなく、船客の面倒以外に、船医にはほとんど自由が与えられぬという難点があった。だが、このほかにも、ゆったりとした東洋航路で不定期船を出している会社があり、これだったら、一、二日から二週間にわたるさまざまな碇泊期間であらゆる港に立ち寄り、時間がたっぷりあって、ときには奥地旅行まですることもできた。給料はわずか、食事もまあなみといった程度だったので、そうした船医になりたがる者はそうなく、ロンドンで資格をとった医者だったら、志願さえすれば、まずまず確実に船医になれた。僻地の港から港へと商売で乗りこんでくるたまさかの一、二の船客以外にはだれもいないので、船の生活は親しみのこもった快適なものだった。こうした船が寄港する港の名前を、フィリップは暗記し、それぞれの港が、彼の心に、熱帯の陽光、魔法のような色彩、豊かで、神秘的な、強烈な人生の幻想を呼びさました。人生! それこそ彼が求めているものだった。とうとう人生ととりくむことになったのだ。たぶん、東京か上海から、船を変えて他の航路に乗りこみ、南洋の島々にくだることもできるだろう。医者はどこででも役に立つ存在なのだ。ひょいとしたら、ビルマの奥地にいく機会に恵まれるかもしれないし、スマトラやボルネオの豪華なジャングルをおとずれることもできるだろう。まだ若い身空、時間などは問題じゃなかった。イギリスに係累《けいるい》や友人はなかった。何年間でも世界をさまよい歩き、人生の美、驚異、多彩さを味わえるのだ。
ところが、こんなことになってしまった。サリーの勘ちがいの可能性は、問題にしていなかった。なにか妙なふうに、彼女の勘は当るものと確信していた。結局のとこ、十分に考えられることだったのだ。母親になるようにと彼女が造化の神の手でつくられているのは、だれにでもわかることだった。ここで自分がどうすべきかは、よくわかっていた。このことがあるからといって、予定の道をいささかでも変更すべきではなかった。グリフィスのことが頭に浮かんできた。あの青年がこうした知らせをどんなに平然とした態度で受けとめるか、容易に想像できた。あの男だったら、えらく厄介なことと考え、利口な男ぶりを発揮して、尻に帆をかけということになり、処置一切は女まかせにするだろう。これが起きたとすれば、起きるべくして起きただけのこと、とフィリップは自分にいって聞かせた。サリーと同様、自分にも責任はないのだ。彼女は世間を知っている娘、生殖の生理作用はちゃんと心得、なにもかも知っての上でこの冒険をやったんだ。こんな事件のために自分の人生の絵模様すべてをくずしてしまうなんて、狂気の沙汰だろう。彼は、人生のはかなさを知り、それを最高に利用するのがどんなに必要かをちゃんと心得ている数少ない人たちの仲間だった。サリーには十分のことをしてやるつもりだった。いまは、十分な金を贈ることができた。強い男だったら、目標からはずれるといったことは絶対にしないはずなのだ。
こうしたことすべてを、フィリップは考えたが、それが自分にはできぬのを知っていた。ぜんぜんできないことだった。自分の性格を知っていたからである。
「自分はいまいましいほど弱い人間だな」彼は絶望的なうめきを発した。
彼女は自分を信頼し、親切にしてくれた。どんな理由があろうとも、自分でひどいと承知していることをするなんて、とんでもないことだった。彼女がみじめな目にあっているという思いが心にまといついていたら、旅をしても心の安らぎが得られぬのは、わかりきったことだった。その上、彼女の父親と母親がいた。いつも親切にあつかってくれたふたりなのだ。忘恩でそれに報いるなんて、絶対にできぬこと。のこされたただひとつの道は、できるだけ早くサリーと結婚することだった。サウス先生に手紙を出し、自分のせまった結婚を打ち明け、話が前どおりだったら、よろこんで話を受けると知らせよう。貧乏人を相手にしてああいった医者のかせぎをするのが、フィリップに可能なただひとつの方法だった。あそこでだったら、自分のびっこは問題にならず、妻の飾り気ない態度も冷笑の種にはならないだろう。サリーを自分の妻として考えるのは、なにか妙なことだった。それを考えると、奇妙な心やわらぐ思いをおぼえるのだった。自分の子供のことを思うと、ある感情の波が心にひろがってきた。サウス先生がよろこんで自分を呼んでくれるのは、もうまちがいなしのことだったし、漁村でサリーとともに送る生活が心に浮かんできた。海のみえるところに小さな家をもち、大きな船が自分の絶対に知ることのない場所にかよう姿をジッと打ちながめるようになるだろう。たぶん、それがいちばん賢明なのだろう。空想の力で時間と空間のふたつの領域を確保できる人間にとって、人生の現実なんてとるに足りぬこと、とクロンショーはいっていた。まったくそのとおりだ。『永遠《とわ》に、なんじの愛はつづき、彼女は美しかるべし』(ジョン・キーツの『ギリシャの壺に寄す』より)なのだ!
妻にささげる結婚の贈り物は、自分の高い希望すべてになるだろう。自己犠牲! その美しさでフィリップの心は昂揚し、夜じゅうズーッと、それを考えた。ひどく興奮して、本が読めなかった。部屋から街路に出たのも、追いだされたといってもいいような感じ、心をよろこびで脈打たせながら、バードケイジ・ウォークを歩きまわった。焦ら立つ気分が、どうにも我慢ならなかった。結婚の申し込みをしたときの彼女のよろこびをみたくてたまらず、時刻がこうもおそくなかったら、すぐにでも彼女のところへとんでいきたかった。海がみえるようにと陽除けをおし開いた気持ちのいい居間で、サリーといっしょにすごすながい夜を、思い描いた。自分は本を読み、彼女は裁縫をしてかがみこんでいる。おおいをつけたランプは、彼女の美しい顔をいっそうひき立てている。ふたりは成長する子供のことを語り、自分のほうにうつす彼女の目には、やさしい愛の輝きがある。そして、患者となる漁師やその細君たちは、自分たちに親しみをもつようになり、こちらでも、その人たちの素朴な生活のよろこびと苦痛をともにわかつことになるだろう。だが、彼の思いは、自分のものでもあり彼女のものでもある息子のところにもどっていった。その子にたいする献身的な愛情がもうヒシヒシと感じられた。その完全な手足をなでている自分の姿を思い浮かべた。美しい子にちがいない。豊かで変化のある生活について自分がいだいていた夢すべてを、その子に託することにしよう。自分の過去のながい遍歴を思うと、彼はよろこんでそれを認める気になった。人生をとてもつらいものにしてきた不具をも認めた。それが自分の性格をゆがめたのを知っていたが、自分にじつに多くのよろこびを与えてくれた内省力を獲得できたのは不具ゆえという事実をも、いまさとった。それがなかったら、美の鋭い鑑賞力、芸術と文学にたいする情熱、人生の多彩な様相にたいする興味を絶対に身につけられなかったろう。自分にじつにしばしば積みかさねられた嘲笑と軽蔑は、自分の心を内側に向け、その芳香は絶対に消えぬと思われるあの花を呼びだしたのだ。ついで、正常な人間こそはこの世でじつにまれだという事実に気づいた。肉体にせよ、心にせよ、すべての人間は欠陥をもっているのだ。いままで知り合うようになったすべての人のことを考えてみた(全世界は病室のよう、しかも、なんの理由もないのだ)。肉体をそこね、心をひきゆがめた者、肉体の病気、心臓や肺の弱い者、精神の病気、無気力や酒癖になやむ者、まさにながい行列だ。この瞬間、そうした人たちすべてにたいして、清純な同情を寄せることができた。そうしたものは、盲目の偶然がもてあそぶ無力な道具にすぎないからだ。自分に不信行為を働いたグリフィス、自分に苦しみをなめさせたミルドレッドをも許すことができた。彼らとて、自分ではどうにもならないのだ。ここでのこされた理性的な行為といえば、人の善を受け入れ、その欠陥を我慢するだけのこと。死に臨んでの神の言葉がフッと頭をよぎった、
「彼らを赦《ゆる》したまえ。そのなすことを知らざればなり」(ルカ伝二三ノ三四の言葉)
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百二十二
土曜日、国立美術館でサリーに会うことになっていた。店が終ったらすぐそこに来るはずで、彼といっしょに昼食をすることも承知だった。この前彼女に会ってから、もう二日たっていたが、うきうきした彼の気分はズッとつづいていた。彼女と会おうとしなかったのは、この気分を楽しんでいたからだった。彼女にどんなことをいおうか、どんなふうにそれを話しだそうかを、心の中でくりかえしていたが、もう矢も楯《たて》もたまらなくなってきた。サウス先生には手紙を出し、その朝先生から受けとった「耳下腺炎のバカは首。いつ来るか?」という電報はポケットにあった。フィリップは議会通りを歩いていた。晴れあがった日で、キラキラと輝く凍りついた太陽は、街路で光を踊らせていた。すごい人出だった。遠くでうっすらとした霧がかかり、建物の雄大な線を美しくやわらげていた。トラファルガー広場を切って進んでいったが、突然、心臓がキュッとねじられるような感じがした。前方にミルドレッドと思われる人影をみたからである。前と変らぬ姿をし、彼女の強い特徴になっているちょっと足をひきずるようにして歩いていた。前後を考えず、心臓をドキドキさせながら、足を急がせてとうとう女に追いついたが、そのとき女はふりむき、それが赤の他人の女とわかった。それは、もっと老けこんだ女の顔、黄色な肌にはしわが寄っていた。彼は足をゆるめた。じつにホッとはしたものの、彼が感じたのは、ホッとした気分ばかりではなかった。失望でもあったからだった。自分自身のいやらしさにゾッとする思いだった。あの情熱からの解放は絶対にないのだろうか? どんなことがあろうと、心の奥底には、あの下劣な女にたいするふしぎな、強烈な渇望がいつもひそんでいるのだな、と彼は感じた。あの痴情はじつに多くの苦痛を自分に与えたので、それからの解放が絶対に、絶対にないことがわかっていた。この欲望を最後にしずめてくれるのは、ただ死だけだった。
だが、彼はその痛みを心からひきちぎってしまった。やさしい青い目をしたサリーを心に思い浮かべたが、唇は無意識にほころびて微笑になった。国立美術館の階段をあがり、入り口の部屋で腰をおろした。こうすれば、サリーがはいってきた瞬間に目にとまるはずだった。絵にとりかこまれるのは、いつも楽しいことだった。どれを特別にみているわけではなく、すばらしい色彩と美しい線になんということもなく心を動かされていた。サリーのことで、想像力はさまざまにせわしく動いていった。ロンドンの外に彼女をつれだしたら、楽しいだろう。ロンドンで彼女はなにか板につかぬ感じ、花屋で蘭《らん》や|つつじ《ヽヽヽ》にかこまれた矢車菊のようだった。ケントのホップ畠で、彼女が町の者でないことはわかっていたし、ドーセットのやわらかな空のもとで、彼女が花を咲かせてすばらしい美を発揮するのを確信していた。彼女は姿をあらわし、彼は立ちあがって彼女をむかえた。彼女は黒い服を着こみ、腕首に白いカフス、首のまわりにローンのカラーをつけていた。ふたりは握手をした。
「ながいこと待った?」
「いいや、十分くらい。お腹は空いてる?」
「いいえ、べつに」
「しばらくここに坐っていない?」
「よかったら」
ふたりはならんで静かに坐り、だまったままでいた。彼女がそばにいるのは、フィリップに楽しいことだった。彼女の光り輝く健康に温められ、生命の輝きが、後光のように、彼女のまわりに輝いているようだった。
「ところで、具合いはどう?」ちょっと微笑を浮かべて、とうとう彼は切りだした。
「ええ、あれ、どうということもなかったの。見当ちがいだったわ」
「そうなのかい?」
「うれしくないこと?」
とてつもない感情が彼の胸をいっぱいにした。サリーの心配が根拠あるものと確信し、あやまちの可能性があるものとは、夢々思ってもいなかった。計画すべてが、いきなりおしつぶされ、あれこれと心を凝らして描きあげた生活は、絶対に実現されない夢でしかなかったのだ。またふたたび自由の身になった。自由なのだ! 計画を一切すてる必要はなく、人生はまだ手中にあり、それを好きなように処理できるのだ。彼が感じたのは、うきうきした気分ではなく、狼狽だった。がっくりと気が沈んでいった。将来が前途にひろがってはいたが、それはわびしく、空虚なものだった。危険にさらされ欠乏にさいなまれて、何年間も荒波の立つ大海原を航海し、とうとう美しい港にたどりつきながらも、そこにはいろうとした瞬間、逆風が起き、ふたたび外洋におし流されたといった感じだった。陸地のやわらかな牧場や快い森に思いを馳せていただけに、巨大な砂漠のような大海原は、彼の心を苦悶で満たすことになった。ふたたびわびしさとあらしに面《おもて》を向ける気にはなれなかった。サリーは、澄んだ美しい目で、彼をみつめた。
「うれしくないこと?」くりかえして彼女はたずねた。「おどりあがって大よろこびすると思ってたんだけど……」
がっくりした表情を顔に浮かべて、彼は彼女の視線を受けた。
「なんともいえないな」彼はつぶやいた。
「変な人だこと。たいていの男の人なら、大よろこびするはずなのにね」
自分の心をあざむいていたことが、彼にわかった。彼に結婚を考えさせたのは、自己犠牲ではなく、妻、家庭、愛情を求める気持ち、いまそうしたものすべてが指のあいだからこぼれていってしまったように思われたので、絶望感にとらわれたのだった。この世のどんなものより、それがほしかった。スペインとそこの町々、コルドヴァ、トレド、レオンがどうだというのだ? ビルマの寺院の塔《パゴダ》と南海の礁湖《しょうこ》なんて、問題ではない。理想の国のアメリカは、ここにいまあるのだ。いままでの生涯、他人がその言葉なり書き物なりで自分にそそぎこんできた理想ばかりを追求し、自分自身の心のあこがれの追求はぜんぜんしていなかったように思えてきた。いつも自分の進路を決定していたのは、しなければならないと考えていたこと、心すべてを傾けてしたいと思っているものではなかったのだ。いまイライラしたそぶりで、彼はそうしたものすべてをおし払った。いつも将来にばかり生き、現在はいつも、いつも、指のあいだからこぼれ落ちてしまったのだ。自分の理想? 無数の意味のない生活のさまざまな事実から複雑で美しい絵模様をつくりだそうとしていた自分のねがいを考えてみた。人間が生まれ、働き、結婚し、子供を生み、死亡するというこの上なく単純な絵模様も最高に完璧なものであるのを、自分は理解しなかったのだろうか? 幸福に屈服するのは、敗北を認めることかもしれない。だが、それは、多くの勝利にまさる敗北なのだ。
彼はチラッとサリーに目を投げ、彼女はなにを考えているのだろう? と考え、ついで目をまたそらしてしまった。
「きみに結婚を申し込むつもりでいたんだよ」彼はいった。
「たぶんそうだと思ってたの。でも、あなたの邪魔をしたくはないの」
「邪魔になんか、なるもんか!」
「あなたの旅行、スペインとかそういったこと、どうするの?」
「ぼくが旅行したがってるのを、どうして知ったんだい?」
「当然わかってもいいはずよ。あなたと父さんがそのことを話してヘトヘトになってるのをみたことがあるんですからね」
「そんなことはもう、どうでもいいんだ」彼は、ちょっと間をおき、低いしわがれ声でささやいた。「きみと別れたくはないんだ! それができないんだ」
彼女は答えなかった。彼女がなにを考えているのか、見当もつかなかった。
「結婚してくれるのかい、サリー?」
彼女は身じろぎもせず、顔にはチラリとした感情の動きもあらわれていなかったが、彼の顔をみずに、こう答えた、
「好かったらね」
「きみは望んでいないのかな?」
「まあ、むろん、自分の家はもちたいわ。それに、もうそろそろ落ち着いてもいい時期だし……」
彼は軽くほほ笑んだ。もう彼女のことはかなりよくわかっていたので、こうした態度に接しても、べつに驚きはしなかった。
「だけど、|ぼくとの《ヽヽヽヽ》結婚を望んでないのかい?」
「ほかに結婚したい人といって、べつにないことよ」
「じゃ、話はきまった」
「父さんも母さんも、きっとびっくりするでしょうね?」
「ああ、うれしい!」
「お昼を食べたいわ」彼女はいった。
「おや、おや!」
彼はニッコリし、彼女の手をとり、にぎりしめた。ふたりは立ちあがり、美術館から出ていったが、手すりのところでちょっと足をとめ、トラファルガー広場をながめた。馬車と乗合馬車があわただしくゆきかい、人の群れが足を急がせて四方八方に流れ、太陽はキラキラと輝いていた。(完)
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解説
モームの生涯
モーム(William Somerset Maugham)の祖先は、モームの名でわかるとおりケルト系の家柄で、アイルランドからイングランドの北西部ウェストモーランドにうつり、代々の豪農、祖父ロバート・アーマンドの代から法律家(弁護士)が多く出た。この祖父の長男ロバートは一八二三年に生まれ、作家モームの父である。母方の祖父スネル少佐が一八五七年インドの暴動で殺されると、ふたりの娘はイギリスに送り帰されたが、未亡人はイギリスよりパリ生活を好み、母子はパリに在住し、未亡人はフランス語で数多くの煽情的な小説を書いた。
父親のロバートは芸術、文学、社交に興味をもち、パリで法律事務所を開き、シャンゼリゼーのほど近くでそうとう豪華な生活をいとなんだ。一八五〇年に在パリイギリス大使館の顧問弁護士に任じられ、これは一八八四年の死亡のときまでつづいた。結核にかかっていた母親はパリの社交界の花形で、「美女と野獣」と呼ばれていた夫妻の交際範囲はひろく、プロスペル・メリメやギュスターヴ・ドレは彼女の親友だった。モームの作家としての血は、母親の系統から受けつがれたものだろう。夫妻のあいだには六人の男子が生まれ、ふたりは幼死し、作家となった末っ子のウィリアム・サマセットは一八七四年一月二十五日にパリで生まれた。兄弟はたがいにフランス語で語り合い、英語の家庭教師につくといった変則的なパリ生活を送り、ウィリーのこうした生活は生後十年間つづいた。一八八二年モームの母親は結核で死亡、年齢のちがう三人の兄はもうイギリスに送られていたが、モームのパリ生活は この二年後 父親のロバートが癌《がん》で死亡するまでつづいた。
長男のチャールズは、このときにもう一流の弁護士になっていて、弟たちの世話をよくみたらしい。二男のフレデリックも法律家、大法官の地位までのぼり、モーム子爵になった。フレデリックの息子のロビンは小説家で、サマセット・モームの死後『サマセットとモーム家の代々』を書いた。三人目の兄ヘンリーは弁護士になったが、職業にたいする興味を失い、早く職を放棄、道楽で劇や小説を書いていたが、三十二歳で自殺してしまった。
父親の死亡のときに十歳になっていたウィリーは、父親の弟、牧師のヘンリー・マクドナルド・モームが住んでいるケントのホイットステイブルにひきとられることになった。子供のない中年の夫婦の住む牧師館の生活は、パリの明るい自由な生活とは大ちがいのものだった。きびしい叔父と貴族出のドイツ女の叔母は、不親切ではないにしても、幼い子供の養育には不適切な人物で、その上、生来のどもり癖がモームの苦痛を増大させることになった。叔父はモームが聖トマス病院付属医学校を卒業した一八九七年に死亡、叔母はその数年前に他界し、叔父は再婚していた。
カンタベリーにあるパブリック・スクールのキングズ・スクールでのモームの生活は、内気とどもりのため、孤独になやむわびしいものだった。どもり癖は、弁護士や牧師になる支障にはなったものの、作家になる大きな動機を与えたと考えてよい。キングズ・スクール在学ちゅう肺をおかされ、南仏のイレールに転地療養、これは数ヵ月つづき、モーパッサンの作品になじみ、自由な楽しい時を送る。その後、十八歳の一年間をハイデルベルクで送り、大学の正式な学生にはならなかったが、講義には出て、そこでの楽しい生活は『人間の絆』に描かれているままと考えてよい。旅行癖がこの地で生じ、作家になろうと決心してイギリスに帰る。叔父のすすめで特許会計士になろうとロンドンの事務所にはいるが、二ヵ月でやめてしまう。一八九二年自分の発意で聖トマス病院医学校に入学、一八九七年卒業、そう身を入れて医学生としての勉強をしたわけではなかったが、貧民区のラムベスで実社会を知ったのは大きな収穫で、処女作『ラムベスのライザ』はその所産である。在学中スウィフト、ドライデン、ヴォルテールの作品に接し、文体の簡潔、明瞭、口調のよさを心がける。
卒業後スペインやイタリアを歩きまわり(一八九七〜八年)、一九〇四年にはパリにゆき、画家や作家とまじわり、実りの多い生活を送る。そうした友人たちの中にはアーノルド・ベネット、ジョージ・ムア、『人間の絆』でのクロンショーの原型になるぶきみな山師アレスター・クロウリーなどがいる。絵にたいする興味もこのときに湧いてきた。
一九〇七年劇『フレデリック夫人』で大当りをとり、ロンドンで同時に彼の劇が四つ上演される盛況ぶり、この人気はアメリカにまでおよび、以後順風満帆の作家生活にはいる。一九〇四年に『お菓子とビール』のロウジーのモデルになる同名の女優と八年間にわたる恋愛関係にはいる。一九一二年『人間の絆』の執筆をはじめ、一九一四年に第一次世界大戦でフランスのイープルの近くで砲声を耳にしながらその校正に当る。『人間の絆』以前の小説としてすぐれたものは、『ラムベスのライザ』と『クラドック夫人』(一九〇二)だけといってよい。
第一次世界大戦勃発の一九一四年、モームは四十歳、志願して赤十字野戦隊に従軍、その後情報部に転じ、スパイとしてジュネーヴに滞在、このときの経験が後の小説『アシェンデン』の資料になる。後に妻となるシリーとの恋愛はこの年にはじまる。その後、情報勤務としてアメリカに派遣され、南海めぐりまでする。一九一七年、ロシア政府にドイツとの戦争を継続させ、過激派政府の設立を阻止するといったモームには荷の重すぎる任務をおびて、スパイとして日本経由ロシアに潜入、失敗し健康をそこねて帰国、結核のためにスコットランドのノーダック=オン=ディの療養所にはいり、『月と六ペンス』の執筆にとりかかる。
これより先一九一六年、有名な愛国主義者トマス・バーナードウの娘で、科学者サー・ヘンリー・ウェルカムの離縁した妻のシリーと正式に結婚、ふたりのあいだにライザが生まれ、このライザは、一九三六年駐英スイス公使の息子ヴィンセント・パラヴィシニーと結婚、後にジョン・ホープ卿と再婚し、後の結婚で四人の子供を生んでいる。シリーは室内装飾家としてイギリスのみならずアメリカでも有名な女性、一九二七年モームとの結婚は破局をむかえ、一九五五年に死亡した。
一九二八年リヴィエラのカプ・フェラの先端にあるベルギーのレオポルド一世がかつて所有していた別荘を購入、ここはモーレスク別荘と名づけられ、絵画の傑作が各部屋を飾り立てていたといわれている。
一九三八年にインドに旅行、ヒンズー教の神秘思想を調べ、その年再度インドをおとずれ、その結果は『剃刀の刃』と『ポインツ・オヴ・ヴュー』になってあらわれた。
一九六二年アメリカの雑誌『ショー』の六、七、八月号に『回想』と題して従前固く口を閉ざしていた自分の女性関係を発表した。すなわち、離別した妻シリーと八年間の情人関係をつづけたロウジーとのいきさつを伝えたもので、大きな注目を浴び、大きな反響を呼んだが、ここでは省略する。モームは一九六五年十二月十六日南仏ニースのアングロ・アメリカン病院で九十二歳に近い高齢で人生の幕を閉じたが、その翌年、その死を待ちかねていたといったふうに、彼の甥のロビン・モームが前にちょっとふれた『サマセットとモーム家の代々』(これは朱牟田夏雄・竹内正夫両氏の訳で『モームと私生活――甥の見たその生涯と家系――』〈英宝社、一九六八〉として日本に紹介された)を出版した。親族間の感情とものの見方は、好悪いずれにせよ、ゆがめられがちなもの、作品から得られるモームの意見や態度をロビンの見方でまげるべきではなく、晩年の狂乱にも似たモームの姿は、本来のモームではなく、一種の老醜ともみなすべきもの、ロビンの解釈をそう重要視すべきではないと思う。
モームの個々の作品と旅行については、年譜を参照していただきたい。
『人間の絆』について
この小説は、前にもふれたように、一九一二年に執筆をはじめ、翌々一四年に脱稿、翌一五年に出版された。本書におさめたモーム自身の「はしがき」を要約すれば、以下のようになる。一九〇七年劇『フレデリック夫人』の成功以来好調の波に乗って劇作家としての歩みをつづけたモームは、自分の過去の追憶につきまとわれはじめ、それから脱却する方法としては、それをぜんぶ書いて本にする以外にないと考え、人気劇作家としてはそうとう思いきった処置ともいえる演劇界からの一時的引退を決意し、一九一二〜四年を『人間の絆』の執筆に投入、その目的を達成したと述べている(この点、この作品はカタルシス文学といえる)。この小説は自伝ではなく、半自伝的なものであり、親しい友人にみた題材をとり入れ、事実と虚構が渾然《こんぜん》としてまじり合っていると述べているのは、注目すべき点である。この点については、いずれ後に述べることにする。聖トマス病院付属医学校を卒業した二十三歳のとき、すぐにスペインのセヴィリアにおもむき、この小説の前身ともいうべき『スティーヴン・ケアリーの芸術家気質』を書いたが、処女作『ラムベスのライザ』の出版をひきうけてくれたフィッシャー・アンウィンその他の出版者がモームの要求する一〇〇ポンドを支払っての出版を承諾せず、結果的にみて、成熟をみないこの作品が未発表に終った事実は、『人間の絆』への道を開くことになり、モーム自身もその不成功をよろこんでいる。世に出なかったこの小説では、話は当然二十四歳で終り、『人間の絆』でハイデルベルクにゆき、絵を学びにパリにおもむく筋は、フランスのルーアンへ音楽修業に出ることになっている。
「はしがき」と多少重複するが、『サミング・アップ』でこの小説の成立が語られている。「劇作家として成功し、のこりの生涯を劇作にささげようと決心したとき、わたしは重大な見落しをしていた。わたしは幸福で、金まわりがよく、いそがしく、頭の中は書きたい劇でいっぱいだった。成功が予期したものぜんぶを与えてくれなかったためか、成功にたいする当然の反動かどうかはわからないが、人気劇作家としての地位が固まると間もなく、すごい勢いで湧いてくる自分の過去の生活にたいする追憶にとりつかれはじめた。母親との死別、それにつぐ一家の離散、フランスで送った子供時代にわざわいされ、どもりで苦しいものになった学校での低学年時代、知的生活をはじめたハイデルベルクでのあののびのびした、単調な、しかも刺激的だった当時の楽しさ、病院の付属医学校で送った退屈な数年、ロンドンでのスリル、そうしたものすべてが、睡眠ちゅう、散歩ちゅう、舞台稽古をしているとき、会に出席ちゅう、わたしにおそいかかってきた。それはわたしの心のひどい重荷になり、ついに、それをすべて小説の形で書きとめて、心の平静をとりもどそうと決心するにいたった。それがながいものになるのはわかっていたし、邪魔をされたくはなかったので、劇場の支配人のせまってくる契約を断って、一時的だが劇場から引退することにした」
半伝記的『人間の絆』と事実との相違を簡単に述べておこう。フィリップの両親の場合、医者の父親の、ついで母親のロンドンでの死になっているが、事実はその逆、母親がパリで結核で死亡してから二年して弁護士の父親が同じくパリで癌で他界した。フィリップがひきとられたのは父親の兄である伯父となっているが、じっさいは父親の弟の叔父であり、小説で伯母の死後伯父は独身をとおすが、事実は、叔母はモームの医学校在学ちゅうに死亡、叔父は再婚し、その後三年して一八九七年に死亡している。モームは四人兄弟の末っ子だが、兄たちにそう親しみを感じなかったためと思われるが、小説のフィリップはひとりっ子になっている。モームのどもり癖が小説の|えび《ヽヽ》足に変えられたのは、劇的効果をねらってのことである。パリでのフィリップの絵の学生としての生活はまったくの虚構、じつに生彩にあふれた描写になっているが、これは主として一九〇四年のパリでの文人画家との楽しい交際から取材したものであろう。ハイデルベルクの生活と特別会計士の見習いは事実、ただし後者の修業は二ヵ月で放棄してしまった。この後ただちにモームは医学校にはいった。医学校での生活は、文学修業のかたわら必要な医学の勉強をするといったたいして熱のはいらぬものだったらしいが、フィリップのように、金を使い果してリン商社入りするといった道草はなく、一応順調に進学し、一八九七年医師の免許証を獲得した。
ミルドレッドとの泥沼のような生活――先方では愛情をもたずにただ利用するだけ、こちらでは軽蔑し唾棄すべき女と理性では百も承知でいながら、なにかわけのわからぬ魅力にズルズルとひきこまれ、最後までその愛情からは完全に解放されない生活――は、読者にはがゆさを感じさせながらも、この作品ちゅうの圧巻、小説家としてモームの手腕が十分に発揮されているところといえよう。こうまでなまなましい描写は、現実の裏づけがなくてはとても描けぬものと思われるが、一九六二年の『回想』からミルドレッドの姿は想像できない。自虐の衝動にかられて恋仇に五ポンドやったのは、モームの経験した事実らしい。実在の女優でモームが八年間愛人関係を結んだロウジーは、『お菓子とビール』にあらわれる同名の女性で、みだらな女ではありながらも奔放な清純さがあり、モームが愛していた女、ミルドレッドの分身とはどうしても考えられない。離婚したシリーは、社会的身分からいっても、ミルドレッドとは遠くかけはなれた女である。結局、ミルドレッドは親しい知人にながめた痴情関係か、モームが口を固く閉ざして秘密を守りぬいた恋愛経験の所産であろう。わたし個人としては前者にかたむきたい。事実であれば、世界的に有名な作家であるモームのこと、生前ばかりでなく死後でも、なにか噂が出るべきはずのものと思われるからである。
ミス・ウィルキンソンは、フランス人の家庭教師をモデルにしたもの、一回か二回の休暇をホイットステイブルの牧師館ですごしたが、フィリップとの関係は虚構とみてよいだろう。フィリップのパリ生活にあらわれるファニー・プライスは、一九〇四年モームがパリに滞在ちゅうに知りあった才能のない女性がそのモデルになっている。
聖ルカ病院に入院ちゅうフィリップと親しくなる無邪気で愉快なソープ・アセルニーの出現からケント州のホップ摘みまでのくだり、それにドーセットシャー州のサウス医師の話は、虚構とみてよい。ホイットステイブルの牧師館にいたときの少年モームの見聞がホップ摘みの情景に開花したとみるべきだろう。サリーも虚構、家庭の女としてのモームの理想の女性像を描いたもので、彼の小説にあらわれるこうした型の女性の嚆矢《こうし》、『月と六ペンス』でストリックランドの妻となる土人の女アータに通じる型で、モームはよくこうした女性の描写をおこなっている。サリー、その同型のサリーの母親、それと似かよいロンドンで短い愛人関係を結ぶノーラだけが、この小説で温かいあつかいを受けている女性である。
一九一五年に『人間の絆』が出版されたのは前記のとおりだが、なにせ大部のこの小説、その上、欧州は第一次世界大戦の苦悶の最中にあり、この作品はほとんどかえりみられなかった。アメリカではドライサーがいち早くこの小説の価値に注目し、アメリカの他の批評家がそれにならったことは「はしがき」に書かれてあるとおりだが、この小説がひろく世の注意をひき、一種の古典とみなされるようになったのは、その後四年して一九一九年に発表された『月と六ペンス』の大成功の結果、この小説までが読みかえされることになったためである。
モームは自分の人生哲学なりその他を、機会あるごとに、くりかえして口にする作家である。『ラムベスのライザ』その他一、二はべつにして、彼のもっとも初期の小説といっていいこの作品で、これから後の作品の特質、あるいは芽といったものがじつに多く示されている。
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年譜
一八七四年 明治七年
一月二十五日、パリで生れる。父ロバート・オーモンド・モームは在仏英国大使館づきの顧問弁護士、母のエディスは東インド商会に属する陸軍少佐の娘。
一八八二年 明治十五年 八歳
一月三十一日、母エディス肺結核で死亡、四十一歳であったという。少年モームはこの母の死のことを記憶していて、『人間の絆』の冒頭で、感動的な美しい文章でそれを記録している。
一八八四年 明治十七年 十歳
父ロバート・モーム癌《がん》で死亡。一家は離散し、少年モームは、ケント州ウィットステイブルの牧師だった父方の叔父ヘンリー・マクドナルド・モームにひきとられる。
一八八七年 明治二十年 十三歳
カンタベリーのキングズ・スクールに入学。フランスなまりの英語とどもり癖のために、この学校の生活は、そう楽しいものではなかった。しかし、後に、モームの遺骸は、遺言により、ここに埋葬された。
一八八九年 明治二十二年 十五歳
肺結核と診断され、一学期休学して南フランスで転地療養、拘束なく楽しい時を送ったらしい。
一八九一年 明治二十四年 十七歳
学校生活がいやになり、ドイツのハイデルベルクに遊学。この大学に遊学していた英国人エリンガム・ブルックスに耽美主義の文学やペルシャの詩人オマル・ハイヤームについて教えられ、このブルックスは『人間の絆』でヘイウォードとしてあらわれてくる。
一八九二年 明治二十五年 十八歳
帰英。作家を志す。二ヵ月ほど特許会計士の見習いとしてロンドンの事務所に勤務。十月、ロンドンの聖トマス病院附属医学校に入学するが、これは叔父のすすめによるもの。在学中医学は余り身を入れて勉強せず、文学書に熱中する。外来患者の実習生になり、実人生に接するようになると、医学がおもしろくなり、貧民窟に医学生として出入りした。『ラムベスのライザ』の資料はこの当時集めたもの。
一八九七年 明治三十年 二十三歳
『ラムベスのライザ』出版。聖トマス病院附属医学校を卒業、内科医の資格をとる。処女作の一応の成功で自信を深め、作家として立つことを決心、卒業後ただちにスペインを訪問、セビリアに滞在、アンダルシア地方を旅行。『スティーブン・ケアリの芸術家気質』を執筆。
一八九八年 明治三十一年 二十四歳
『聖者造り』出版。セビリアからローマまで旅をつづける。戯曲『信義の人』執筆。
一八九九年 明治三十二年 二十五歳
短篇集『定位』出版。
一九〇一年 明治三十四年 二十七歳
長篇『英雄』出版。
一九〇二年 明治三十五年 二十八歳
長篇「クラドック夫人」を出版。最初の一幕物の戯曲『難船』ベルリンで上演。
一九〇三年 明治三十六年 二十九歳
『信義の人』 演劇協会《ステイジ・ソサイエティ》で上演、同出版。戯曲『現世の利益』と『フレデリック夫人』を執筆するが、上演の機会はない。
一九〇四年 明治三十七年 三十歳
長篇『回転木馬』出版。笑劇『ドット夫人』執筆。パリのモンパルナスのアパートに住み、芸術家志願の青年たちと交際するが、その生活の一部は『月と六ペンス』で語られている。『お菓子とビール』のロウジーのモデルになった同名の女優と恋愛関係にはいる。
一九〇五年 明治三十八年 三十一歳
スペイン紀行文『聖女の国』出版。これは後に『ドン・フェルナンド』となる。
一九〇六年 明治三十九年 三十二歳
長篇『主教の前垂れ』出版。
一九〇七年 明治四十年 三十三歳
十月二十六日、戯曲『フレデリック夫人』がロイアル・コート劇場で上演、大成功をおさめ、これが成功的な文筆活動の出発点になる。戯曲『ジャック・ストロー』、戯曲『探検家』執筆。シチリアに旅行。
一九〇八年 明治四十一年 三十四歳
三月『ジャック・ストロー』、四月『ドット夫人』、六月『探検家』『フレデリック夫人』の上演と合せて、四つの戯曲がロンドンの劇場で同時に上演される盛況。長篇『魔術師』『探検家』(戯曲からの改作)出版。
一九〇九年 町治四十二年 三十五歳
一月九日、戯曲『ペネロピ』上演。十一月三十日、戯曲『スミス』上演。
一九一〇年 明治四十三年 三十六歳
二月二十四日、戯曲『十人目』上演、戯曲『地主階級』上演。
一九一一年 明治四十四年 三十七歳
二月、戯曲『現世の利益』上演。アメリカにわたり、恋人である女優のロウジーとシカゴで絶縁。
一九一二年 明治四十五年 三十八歳
『人間の絆』の執筆をはじめる。
一九一三年 大正二年 三十九歳
年末近いころ、後にモーム夫人になったウェルカム夫人、シリー・バーナードと会う。十二月二十六日、戯曲『約束の土地』上演。
一九一四年 大正三年 四十歳
二月二十六日『約束の土地』ロンドンで上演。七月、第一次世界大戦勃発、赤十字野戦病院隊を志願し、ベルギーの前線で『人間の絆』の校正をおこなう。間もなく情報部勤務に転ずる。シリーと恋愛関係を結ぶ。後のモームの秘書ジェラルド・ハクストンと知り合う。
一九一五年 大正四年 四十一歳
長篇『人間の件』出版、戦争中のことで余り評判にはならず、ただアメリカの作家シオドー・ドライサーの激賞を受ける。戯曲『おえら方』と戯曲『キャロライン』〔後に『手の届かぬもの』と改題〕脱稿。ジュネーヴで諜報活動に従事。諜報勤務を辞し、ローマに滞在。
一九一六年 大正五年 四十二歳
戯曲『おえら方』リハーサルのためにアメリカにおもむく。ゴーギャンの資料を求めて南洋のタヒチ島にゆき、『月と六ペンス』の構想の土台をつくりあげる。ハワイやサモアなどの島々にも足をのばす。アメリカにもどってから、シリーと正式に結婚。
一九一七年 大正六年 四十三歳
ロシア過激派政権成立を阻止するため、サンフランシスコ、横浜、敦賀を経てペトログラードに潜入、この任務は不成功に終る。
一九一八年 大正七年 四十四歳
健康を害して帰国し、スコットランドのサナトリウムにはいる。長篇『月と六ペンス』執筆。『おえら方』をニューヨークで上演。戯曲『烈婦』脱稿。
一九一九年 大正八年 四十五歳
『月と六ペンス』出版、大反響を呼び、このために『人間の絆』まで注目を浴びることになる。戯曲『ひとめぐり』『故螂と美女』、それぞれ執筆。三月『烈婦』、八月『故郷と美女』上演。サナトリウムを出て、東方旅行に出発、ハワイ、サモア、マレー、中国、ジャワをまわる。
一九二〇年 大正九年 四十六歳
八月『知られざるもの』上演。中国旅行。
一九二一年 大正十年 四十七歳
短篇集『木の葉のそよぎ』出版。『雨』『赤毛』『エドワード・バーナードの転落』など八篇をふくむ。三月『ひとめぐり』上演。マレー、インドシナ旅行。
一九二二年 大正十一年 四十八歳
旅行記『チャイニーズ・スクリーン』出版。戯曲『スエズの東』上演。翌年にかけてボルネオ、マレー旅行。
一九二三年 大正十二年 四十九歳
戯曲『おえら方』ロンドンで上演。戯曲『故郷と美女』『手の届かぬもの』出版。
一九二四年 大正十三年 五十歳
戯曲『現世の利益』出版。
一九二五年 大正十四年 五十一歳
長篇『五彩のヴェール』出版。
一九二六年 大正十五年 五十二歳
短篇集『カジュアリナの木』出版。『園遊会にて』『東洋航路』などをふくむ。十一月『貞女』を上演。
一九二七年 昭和二年 五十三歳
戯曲『手紙』上演。フランスのリヴィエラのカプ・フェラに別荘モレスク邸を買いとる。妻シリーと誰婚、娘のエリザベスは妻がひきとる。
一九二八年 昭和三年 五十四歳
短篇集『アシェンデン』出版。『聖なる炎』ニューヨークで上演。以下『シェピー』にいたる四作は、観客におもねらず、劇界隠退を覚悟して、自己を主張した問題作。
一九二九年 昭和四年 五十五歳
ボルネオ、マレー旅行。
一九三〇年 昭和五年 五十六歳
旅行記『一等船室の紳士』、長篇『お菓子とビール』出版。九月戯曲『家の柱』を上演。キプロス、ニューヨークに旅行。
一九三一年 昭和六年 五十七歳
短篇集『第一人称単数』出版。『人間の本質』『創作の衝動』『変り種』等六篇をふくみ、作者「わたし」が登場して語るモーム得意の物語形式。
一九三二年 昭和七年 五十八歳
長篇『片隅の人生』出版。戯曲『報いられたもの』執筆、上演。
一九三三年 昭和八年 五十九歳
短篇集『阿慶《アーキン》』出版。最後の戯曲『シェピー』上演。スペイン旅行。
一九三四年 昭和九年 六十歳
西インド諸島へ旅行。
一九三五年 昭和十年 六十一歳
旅行記『ドン・フェルナンド』出版。スペインの文化、文化人について語ったもの。
一九三六年 昭和十一年 六十二歳
短篇集『コスモポリタンズ』出版。
南アメリカ、西インド諸島に旅行。
一九三七年 昭和十二年 六十三歳
長篇『劇場』出版。
一九三八年 昭和十三年 六十四歳
随想録『サミング・アップ』出版。一種の自伝ともいうべきもので、モームを知るための必読の書。インド旅行。
一九三九年 昭和十四年 六十五歳
長篇『クリスマスの休暇』出版。九月一日第二次世界大戦勃発、英国情報省よりフランスの戦争努力に関する情報蒐集の依頼を受け、『戦うフランス』という報道文を発表、翌四〇年出版、二日間で四万部売れたという。
一九四O年 昭和十五年 六十六歳
短篇集『前と同じまじりもの』、『読書案内』出版。六月パリ陥落。カンヌから石炭給で帰国。十月情報省から宣伝と親善の使命を受けて、ニューヨークに飛び、一九四六年までアメリカに滞在。
一九四一年 昭和十六年 六十七歳
中篇『丘の上の別荘で』、自伝『極めて個人的な話』出版。
一九四二年 昭和十七年 六十八歳
長篇『夜明け前』出版。『剃刀の刃』の執筆にとりかかる。
一九四三年 昭和十八年 六十九歳
編著『近代英米名作選』を出版。
一九四四年 昭和十九年 七十歳
長篇『剃刀の刃』出版、アメリカで好評を博する。秘書ジェラルド・ハクストン肺結核で死亡。
一九四五年 昭和二十年 七十一歳
随想録『作家の任務』出版。
一九四六年 昭和二十一年 七十二歳
長篇『昔も今も』出版。
一九四七年 昭和二十二年 七十三歳
短篇集『環境の動物』を出版、『大佐の奥方』ほか十五篇をふくむ。
一九四八年 昭和二十三年 七十四歳
最後の長篇『カタリーナ』、『大作家とその小説』、シナリオ『四重奏』出版。第二の作は、一九五四年、改訂を加えて『世界の十大小説』となる。
一九四九年 昭和二十四年 七十五歳
若いころからの憶え書きをまとめた『作家の手帖』出版。『サミング・アップ』とともにモーム研究には必要なもの。
一九五〇年 昭和二十五年 七十六歳
『人間の絆』の削除版をポケット・ブックス版で出版。シナリオ『三重奏』、『ドン・フェルナンド』の改稿新版を出版。
一九五一年 昭和二十六年 七十七歳
短篇小説全集三巻、『作家の立場』、シナリオ『アンコール』出版。スペイン、ポルトガル、イタリアを旅行。
一九五二年 昭和二十七年 七十八歳
戯曲全集三巻、評論集『人生と文学』を出版。戯曲全集は十八篇だけが収められている。
一九五四年 昭和二十九年 八十歳
論文集『私見集』出版。八十歳の誕生日を祝って『お菓子とビール』の千部限定の豪華版がハイネマン社から出版される。BBCから『八十年をかえりみて』を放送する。イクリア、スペインを旅行し、帰国後エリザベス女王に謁見、名誉勲位を授けられる。
一九五五年 昭和三十年 八十一歳
『クラドック夫人』の新版出版。
一九五六年 昭和三十一年 八十二歳
『魔術師』の新版出版。
一九五七年 昭和三十二年 八十三歳
楽しい思い出のあるハイデルベルクを訪問。
一九五八年 昭和三十三年 八十四歳
評論集『作家の立場から』を出版。この作で六十年におよぶ作家活動を終えると宣言。
一九五九年 昭和三十四年 八十五歳
極東方面に六ヵ月の旅行をし、十一月来日し、日本に約一月滞在する。
一九六一年 昭和三十六年 八十七歳
文学勲位を授けられる。
一九六二年 昭和三十七年 八十八歳
『回想』と題して自伝の一部をアメリカの雑誌〈ショー〉の六月号から八月号まで発表し、評判を呼んだ。
一九六五年 昭和四十年 九十一歳
年頭に一時危篤を伝えられ、回復したが、十二月十六日未明南仏ニースのアングロ・アメリカン病院で死亡。遺体は母校キングズ・スクールに埋葬。(訳者編)