人間の絆(上)
モーム/北川悌二訳
目 次
はしがき
人間の絆(上)
一〜六十一
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はしがき
これはとてもながい小説で、はしがきをつけてそれをさらにながくするのは、面《おも》はゆい思いがする。作家は、自分自身の作品について適切な言葉は絶対に書けない人物、とおそらくいえるだろう。これに関して、すぐれたフランスの小説家、マルタン・デュ・ガール(一八八一〜一九五八。フランスの作家。一九三七年ノーベル文学賞を受ける)がためになる話をしているが、それは、マルセル・プルースト(一八七一〜一九二二。フランスの小説家)についてのことである。プルーストは自分の偉大な小説に関してある重要な論文をあるフランスの定期刊行物に載せたいと思い、自分以上にそれを書ける人物はないと考え、机に向って、みずからそれを執筆した。それから、文筆家の若い友人を呼んで、彼がその執筆者になりすまして編集者のところにもっていってくれ、とたのんだ。この青年はたのまれたとおりにやったが、数日後、編集者に呼びつけられた。「きみの論文はお断りだ」彼は青年にいった。「彼の作品についてこうもお座なりで冷淡な批評をここで出したりしたら、マルセル・プルーストは絶対にぼくを許しはしないだろうからね」
著者は自分の作品について神経過敏で、不都合な批評を怒りがちなものだが、その反面、自己満足を感じていることもまずないものだ。多くの時間と苦労をかさねてつくりあげた作品が自分の意図とどんなにかけはなれているかを彼らは知り、それを考えると、いい気分になってそこここの文章の美しさに打たれてよろこぶというより、自分の意図を完璧に表示できなかったことに焦ら立ちを感ずるほうがズッとズッと強いのだ。めざすのは完璧さ、それを達成できなかったのを、彼らはみじめな気持ちで味わっている。
だから、わたしはこの本そのものについては語らず、小説としてはもうかなりながい生命を持続してきた小説が、どんなふうにして執筆されることになったか、を読者にお伝えすることで満足し、それで読者の興味を得られなければ、お許しを乞《こ》うだけである。
これをはじめて書いたのは二十三歳のとき、聖トマス病院の医学生としての五年を送って医師の資格をとってから、作家として立とうと決心してセヴィリア(スペインの南西部の港市)におもむいたときのことである。そのときに書いた原稿はまだあるが、タイプライターで打った原稿の校正をして以来、それをながめたことはなく、きっと、とても未熟なものだろう。わたしはそれを自分の処女作(まだ医学生のときに、『ラムベスのライザ』という小説を書き、多少の好評を博した)を出版してくれたフィッシャー・アンウィン社に送ったが、作品にたいして要求した百ポンドの支払いを断られ、その後、原稿を送ったどの出版者も、この作品にたいしてのどんな代償の支払いも拒否することになった。当時、わたしはそれを苦にしたが、いまにして思うと、幸運だったと考えている。どの出版者でもわたしの本(それは『スティーブン・ケアリーの芸術家気質』と題したもの)を出してくれたら、まだ齢が若すぎてきちんとあつかうことができない主題を失ってしまうところだったからである。そこで書かれている事件と自分とのあいだにそれをうまく利用できるほどの時間的距離がなく、わたしが最後に書きあげた本を豊かにすることになった多くの経験を、わたしはまだ味わってはいなかった。さらに、自分の知らないことを書くより知っていることを書くほうがらくなことを、わたしは学びとってはいなかった。たとえば、そこの主人公を、ドイツ語を勉強するためにわたし自身がいったことのあるハイデルベルクには送らずに、フランス語を勉強するために、ときおりの訪問者としてだけしか知らないルーアン(フランスの北部、セーヌ川に臨む都市)に送ったのだった。
こうした肘《ひじ》鉄砲をくらって、わたしはこの原稿をしまいこんでしまった。ほかのいくつかの小説を書き、それは出版され、さらに、劇の執筆をおこなった。やがて、劇作家として大きな成功をおさめ、余生を演劇にささげようと決心するにいたった。だが、わたしがこう考えたのは、自分の決心をだめにしてしまうある力をぬきにしてのことだった。わたしは幸福と繁栄を味わい、いそがしかった。頭には書きたいと思っている芝居がぎっしりつまっていた。成功が期待していたすべてをもたらしてくれなかったためか、成功にたいする自然の反動のためかどうかはわからないが、当時一流の劇作家としての地歩をしっかりと固めるやいなや、わたしは、ふたたび、自分の過去の生活のおびただしい追憶にとりつかれることになった。眠り、散歩、リハーサル、会合などで、追憶はわたしにうるさくつきまとい、それがすごい負担になってきたので、それからのがれる方法はただひとつしかない、紙にぜんぶそれを書きしるすことだ、と腹をきめることになった。ここ数年間、演劇の急場しのぎばかりに没入してきたので、小説のゆったりとした自由にたいするあこがれの情がつのっていた。自分が考えている本がながいものになるのはわかっていたし、心の負担をはずしたかったので、劇場支配人がむきになってすすめてくれる契約を拒否し、一時的だが演劇界から引退することになった。そのとき、わたしは三十七歳だった。
作家として立って以来ながいこと、いかにして書くかを学ぶのに多くの時間をついやし、自分の文体を向上させようと、退屈な訓練を堪え忍んでいたが、芝居の製作にとりかかると、わたしはこうした努力すべてを放棄し、ふたたび筆をとって書きはじめたときには、従前とはちがった目的をもっていた。徒労に終った以前の無益な試みをかさねて美辞|麗句《れいく》を求めたりはせず、それとは逆に、わたしが求めたのは平明と簡潔だった。しかるべき枠《わく》の中で、しかも自分のいいたいことは山ほどあったので、言葉をむだに使う余裕はなく、自分のいわんとするところを明らかにするのに必要な言葉だけを使おうと考えて、この仕事にとりかかった。装飾を受け入れる余地はなかったのだ。劇場でのわたしの経験は、簡潔の価値を教えてくれた。二年間、根気よく仕事に打ちこんだ。この本の題はまだきまらず、あれこれとさがしたあげく、『灰よりの美』に思い当ったが、これはイザヤ書(「灰にかえての美」はイザヤ書六一ノ三にある)からの引用で、適切なものに思われた。だが、この題が最近使用されたのを知って、万やむを得ず、べつの題をさがすことになった。最後にスピノザ(一六三二〜七七。オランダ生まれのユダヤ人哲学者)の倫理学の本のひとつの題をえらび、わたしの本を『人間の絆』と呼ぶことにした。自分の考えていた最初の題を使用できなくなった点でも、自分はまた幸運だったと考えている。
『人間の絆』は自伝ではなく、自伝的小説である。事実と虚構が解き得ぬふうにまじり合っている。感情はわたし自身のものだが、事件すべては、起ったとおりに語られているわけではなく、その一部は、わたし自身の生活からではなくて、親しい人たちの生活からうつしとったものである。この本はわたしに望みどおりの役目を果してくれ、それが世に出たとき(それはおそろしい戦争の苦悶の中にある世界で、自身の苦しみと恐怖に心をうばわれ、架空の人物の冒険などに注意する余裕なんかはない世界だった)、そのときまで自分に拷問の苦しみを与えていた苦痛と不幸な追憶からわたしは解放されることになった。
この小説はとても好意的な批評を受けた。シアドー・ドライサー(一八七一〜一九四五。アメリカの小説家で『アメリカの悲劇』の作者)は『新共和国《ニュー・リパブリック》』誌のためながい書評を書き、彼の書いたものすべての特徴になっている知性と共感でこの小説を論評してくれた。だが、この本が大方《おおかた》の小説の道をたどり、出版後数ヵ月して永遠に忘れ去られてしまう可能性は十分にあった。だが、どのような事情のためかわからないが、数年たってからも、それはアメリカの数多くのすぐれた作家の注意をひきつづけ、新聞に彼らがいつも載せていた言及は、しだいに大衆の注意をこの作品にひきつけることになった。こうしてこの本に与えられた新しい寿命は、こうした作家たちのお蔭によるもので、年がたつごとに増大していく本の成功にたいして、わたしは彼らに感謝しなければならない。
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灰色のにぶい夜明けだった。雲が重く垂れさがり、ひどい冷えこみは雪を思わせた。子供が眠っている部屋に乳母《うば》がはいってきて、カーテンをあけた。彼女はただ機械的に向う側の家をチラリとながめたが、それは柱廊玄関のついた化粧しっくいづくりの家、それから、子供の寝台のほうにいった。
「さあ、起きなさい、フィリップ」彼女はいった。
彼女はかけ布団《ぶとん》をとり、子供を両腕に抱きあげ、下につれていったが、子供はまだはっきりと目をさましてはいなかった。
「お母さまがお呼びですよ」彼女はいった。
彼女は階下の部屋のドアをあけ、女が寝ている寝台のところに子供を運んでいった。それは子供の母親で、両腕をのばし、子供はそのわきに抱きついた。子供は、どうして起こされたの? とはたずねず、女は子供の両目にキスをし、痩《や》せた小さな手で、白いフランネルの寝まき越しに、温かいからだの感触を味わった。彼女は子供をグッと抱きしめた。
「坊や、眠いの?」彼女はいった。
声はとても弱々しかったので、もう遠くから聞えてくる声のようだった。子供は答えず、うれしそうにニッコリした。あのやわらかな腕に抱かれて、大きな温かい寝台で、子供は大よろこびだった。母親にピタリとすがりつくと、からだをなお小さくしようとして、子供は眠そうに母親にキスをした。すぐに彼は目を閉じ、ぐっすり眠りこんでしまった。医者がやってきて、寝台のわきに立った。
「ああ、子供をひきはなさないで」彼女はうめいた。
医者はそれに答えず、深刻な顔をしてこの女をみていた。女は、その子をそうながくはそばにおけないのを知っていたので、子供にまたキスをし、子供のからだをなでて足のところまでおろし、右足をにぎって、五本の小さな指にさわり、それから、ゆっくりと手を左足のほうにうつしていった。ひと声すすり泣きがもれてきた。
「どうしたんです?」医者はたずねた。「つかれたんですよ」
彼女は口をきけずに、頭をふり、涙が頬にこぼれ落ちた。医者はかがみこんだ。
「子供はつれていきますよ」
彼女はすっかり弱っていたので、それに抵抗できず、子供をわたしてしまった。医者は子供を乳母にかえした。
「子供の寝台にもどしたほうがいいね」
「かしこまりました、先生」
小さな坊やは、まだ眠ったままで、つれ去られた。母親は、もうがっくりして、すすり泣きつづけた。
「かわいそうに、子供はどうなるのでしょう?」
月ぎめでやとった看護婦は、彼女の心を静めようとした。やがて、つかれ果てて、すすり泣きはとまった。医者は部屋の向う側のテーブルのところにいったが、そこに、タオルをかけられて、死産の子供がおかれてあり、タオルをめくって、それをみた。寝台からついたてで彼の姿はかくされていたが、女には彼のしていることがわかっていた。
「娘だったの? それとも坊や?」彼女は看護婦にささやいた。
「また坊ちゃんですよ」
女は答えず、子供をつれていった乳母がすぐにもどってきて、寝台に近づいていった。
「フィリップ坊ちゃんは、目をさまさず終いでしたよ」彼女はいった。
ちょっと言葉がとぎれ、ついで、医者がまた患者の脈をとった。
「さし当ってすることは、べつにないようですな」医者はいった。「朝食後、また来ますよ」
「ご案内しましょう、先生」乳母はいった。
ふたりは、なにもいわずに、階段をおりていった。玄関口の部屋のところで、医者は足をとめた。
「ケアリー夫人の義理の兄弟の方、お呼びしたんですね、どうです?」
「はい、お呼びしました」
「その方がいつここに来るか、わかってますか?」
「いいえ。電報が来ると思ってるんですが……」
「坊やはどうするんです? 邪魔にならんようにしたほうがいいと思うんですがね……」
「ミス・ウォトキンがおつれになるとおっしゃってました」
「ミス・ウォトキンって?」
「あの坊ちゃんの名づけの母親です。ケアリー奥さまなんですが、なんとかしのげるとお思いですか?」
医者は頭《かぶり》をふった。
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それから一週間たった。フィリップはオンズロウ・ガーデンズにあるミス・ウォトキンの家の客間の床に坐っていた。彼はひとりっ子だったので、ひとり遊びには馴れていた。部屋はどっしりとした家具で満たされ、ソファーのそれぞれに、三つの大きなクッションがあり、それぞれの肘かけ椅子にもクッションがひとつずつあった。こうしたクッションを彼はぜんぶ集め、軽くて運びやすい金ぬりの大夜会用の椅子を使って、手のこんだ穴蔵をつくり、カーテンのうしろにひそんでいるアメリカン・インディアンから身をかくせるようになっていた。床に耳をつけ、大草原を走っていく水牛の群れの足音を聞こうとした。やがて、ドアが開いたので、姿をみつけられないようにと、息をつめていた。だが、荒々しい手が椅子をひっぱり、クッションの山はくずれてしまった。
「いけない坊ちゃんだこと! ミス・ウォトキンに|しかられますよ《ヽヽヽヽヽヽヽ》」
「ウォッ、エマ!」子供はいった。
乳母はかがみこんで少年にキスをし、それから、クッションのほこりをはたいて、それをもとの場所にもどした。
「ぼく、お家に帰るの?」少年はたずねた。
「ええ、わたしが来たのは、坊ちゃんをつれてくためなのよ」
「新しい服を着てるんだね」
一八八五年だったので、彼女はバッスル(むかしスカートのすそをひろげるために、腰のうしろに着けたしょいあげのような婦人の腰当て)をつけ、ガウンはピタリとついた袖《そで》となで肩の黒のビロードづくり、スカートには大きなすそひだ飾りが三つつき、ビロードのひものついた黒いボンネット帽をかぶっていた。彼女はモジモジしていた。予期していた質問はかけられず、準備した返事ができなかったからである。
「ママがどうかって、おききにならないの?」とうとう乳母はいった。
「ああ、忘れてた。ママはどうなの?」
これにたいする準備はできていた。
「ママはとても元気でしあわせにお暮しですよ」
「ああ、うれしいな」
「ママはもういっておしまい、ママには会えませんよ」
フィリップには、相手のいっていることがわからなかった。
「どうしてなんだい?」
「ママは天国においでなんですからね」
乳母は泣きだし、フィリップも、わからないながら、いっしょに泣きはじめた。エマは背の高い、骨太《ほねぶと》の、金髪で、顔のつくりの大きな女、デヴォンシャー出身の女で、長年のあいだロンドンでつとめをしていたのに、お国なまりは一向にぬけていなかった。涙で彼女の感情はたかぶり、小さな少年を胸にギュッと抱きしめた。漠然とではありながらも、彼女は、この世で利己的な色の一切ないただひとつの愛情をうばわれてしまったこの子供をいとおしく思う心に打たれていた。見知らぬ赤の他人にこの子供がひきわたされるなんて、おそろしいことだった。だが、しばらくすると、彼女は心をふるい立たせた。
「ウィリアム伯父さまが坊ちゃまに会おうとお待ちですよ」彼女はいった。「さあ、向うにいって、ミス・ウォトキンにさようならをいうのですよ。そうしたら、お家に帰りましょう」
「いやだよ、さようならなんて」本能的に涙をかくそうとして、彼は答えた。
「いいですよ。じゃ二階に駆けてって、帽子をとっていらっしゃい」
少年が帽子をとって下におりていくと、エマが玄関の間で待っていた。食堂のうしろの書斎での人声が耳にはいり、彼は立ちどまった。ミス・ウォトキン姉妹が友人たちと話しているのが彼にわかり、どうやら――彼はもう九歳になっていた――いまそこにゆけば、同情してもらえそうな気がした。
「ミス・ウォトキンにさようならをいってこようかな」
「そうしたほうがいいですよ」エマはいった。
「じゃ、ぼくがいくといってきて」彼はいった。
ここでは、なんとかうまく立ちまわりたいものだった。エマは戸口でノックをし、部屋にはいっていった。彼女が話しているのが聞えてきた。
「フィリップ坊ちゃんがお別れの挨拶をしたいそうですが……」
いきなり話し声が静まり、フィリップはびっこをひきながら中にはいっていった。ヘンリエッタ・ウォトキンは、赤ら顔の、髪を染めた、太った女だった。その当時、髪を染めると、世間では口がうるさく、名づけ親が髪を染めたとき、家でもそのうわさをあれこれとしていたのを、フィリップは憶えていた。彼女は姉といっしょに暮し、その姉は、老年を苦にせずに、あきらめて暮している女だった。いま、フィリップの知らないふたりのご婦人の来訪ちゅうで、このふたりは、彼の姿をジロジロとみていた。
「かわいそうに」両の腕を開いて、ミス・ウォトキンはいった。
彼女は泣きだした。彼女がなぜ昼食に姿をあらわさなかったのか、なぜ黒い服を着ているのかが、いま、フィリップには納得《なっとく》いった。彼女は口もきけなかった。
「家に帰らなければなりません」とうとうフィリップはいった。
彼はミス・ウォトキンの腕から身をひきはなし、彼女は、もう一度、キスをした。彼は彼女の姉のところにゆき、そこでもさようならの挨拶をした。見知らぬ婦人のひとりが、自分もキスをしていいか? とたずね、彼は重々しい態度で許可を与えた。泣きながらも、彼は自分がひきおこしている感動を大いに楽しみ、こうしてちやほやされるのだったら、もう少しここにいてもいいな、とは思いつつも、自分が帰るものと思われていると感じ、そこで、エマがぼくを待っているから、といって、部屋を出ていった。エマは地下室の友人に話をしようと下にいっていたので、彼は踊り場で彼女の来るのを待っていた。ヘンリエッタ・ウォトキンの声が聞えてきた。
「あの坊やのお母さんは、わたしのいちばんの親友だったの。死んだと思うと、もうたまらなくなるわ」
「お葬式にはいかないほうがよかったのよ、ヘンリエッタ」姉がいった。「悲しがるのはわかっていたんですからね」
ついで、客のひとりがいった。
「坊やがかわいそうに。ただひとり世間にのこされたと思うと、たまらなくかわいそうになってくるの。びっこをひいてるのね」
「そう、|えび《ヽヽ》足なのよ。母親も、とても悲しんでたわ」
このとき、エマがもどってきた。辻馬車が呼ばれ、彼女は馭者《ぎょしゃ》にゆく先をいった。
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ケアリー夫人が死亡した家――それは、ケンジントンのノッティング・ヒルとハイ・ストリートにはさまれたわびしい堂々とした通りにあった――に着くと、エマはフィリップを応接間につれていった。伯父が贈られた花環の礼状を書いていたが、花環のひとつは、葬式におくれて着いて、ボール紙の箱にはいったまま、玄関の間のテーブルにおかれてあった。
「フィリップ坊ちゃんがおいでになりました」エマはいった。
ケアリー氏はゆっくりと立ちあがり、小さな坊やと握手をし、ついで、いま思いついたといったように、かがみこんで、フィリップの額にキスをした。太り気味の、並《なみ》より背の低い男で、ながい髪を頭になでつけ、禿《は》げたとこをかくそうとしていた。顔はきれいに剃《そ》りあげ、顔形はきちんとしていて、若いころには美男子だったろう、と想像もできた。懐中時計の鎖には、十字架がついていた。
「これからは、わしといっしょに暮すんだよ、フィリップ」ケアリー氏はいった。「うれしいかい?」
二年前に、水|ぼうそう《ヽヽヽヽ》にがかったあとで、フィリップはこの牧師館にいかされたことがあったが、思い出としてのこっているのは、伯父と伯母より、屋根裏部屋と大きな庭だった。
「ええ」
「わしとルイーザ伯母さんを、自分の父親、母親と考えなければいけないよ」
子供の口許《くちもと》はちょっとふるえ、顔が赤くなったが、返事はしなかった。
「母さんからきみをあずかることになったのだ」
ケアリー氏は、自分の心中をなかなかうまくいいあらわせなかった。義理の姉妹《きょうだい》が重態という知らせを受けると、彼はすぐロンドンに出発したが、その道中で考えていたのは、その死で息子をひきとらなければならなくなったとき、自分の生活にひきおこされる面倒のことばかりだった。彼は五十の坂をだいぶ越し、三十年間つれそってきた妻には、子供がなかった。さわぎ立てて乱暴をするかもしれない小さな少年の出現は、楽しいみとおしを与えてくれるものではなかった。その上、義理の姉妹に好意をもったことは、一度もないのだった。
「明日、ブラックステイブルにきみをつれていくんだよ」彼はいった。
「エマもいっしょ?」
子供はエマの手に自分の手を入れ、彼女はそれをにぎりしめた。
「エマは暇《ひま》をとらねばならんだろう」ケアリー氏はいった。
「でも、エマには来てほしいの」
フィリップは泣きだし、エマもつられて泣きはじめた。ケアリー氏は困りきったようにこのふたりをながめた。
「ちょっとのあいだ、フィリップ君とふたりだけにしてもらいたいんだがね……」
「かしこまりました」
フィリップがすがりついてきたが、エマはやさしく身をふりほどいた。ケアリー氏は少年を膝に乗せ、片腕で彼を抱いてやった。
「泣いてはいけない」彼はいった。「お前はもう大きくって、乳母は要《い》らないんだよ。きみを学校にやるのも考えなければならん年ごろなんだからね」
「エマには来てほしいの」子供はくりかえした。
「お金がかかりすぎるんだ、フィリップ。お父さんのお金はそうのこってないし、それをどうしたものかと、わしも困ってるんだ。お金使いには、細かな注意が必要なんだよ」
ケアリー氏は、前の日に、かかりつけの弁護士を訪問した。フィリップの父親はなかなか盛んにやっていた外科医で、病院の設備からみて、しっかりとした財産家のようだった。そこで、敗血症でいきなり死んで、妻にのこした財産といえば、生命保険金とブルートン通りの屋敷の家賃だけとわかったとき、それはまったく意外なことだった。これは六ヵ月前のこと、からだがそうとう弱っていたケアリー夫人は、子供がお腹にいると知って、すっかり度を失い、家賃の最初の申し出を、そっくりそのまま承知してしまった。家財は売らずにおき、牧師からみればとてつもない家賃で、一年間家具つきの家を借り、子供を生むまで、いろいろの不便からのがれようというわけだった。だが、彼女は金のあつかいには不馴れな身、環境が変ったからといって、出費を節約できる女ではなかった。手にしたわずかな金は、あれやこれやと、指のあいだから流れだし、その結果、いま、出費すべての支払いをすませると、少年が独立するまでの養育費として、二千ポンドくらいの金しかのこっていなかった。フィリップにこうしたことすべてを話すのはできない相談、それに、少年はまだシクシクと泣いていた。
「エマのとこにいったほうがいいよ」だれよりエマがいちばんうまく子供をなだめることができると思って、ケアリー氏はいった。
ひと言もいわずに、フィリップは伯父の膝からすべりおりたが、ケアリー氏は彼を呼びとめた。
「明日、いかねばならんのだよ。土曜日にはお説教の準備をしなければならんのだからね。きょうお前の持ち物を準備するように、エマにたのんでおきなさい。おもちゃは、ぜんぶ、もってっていいよ。お父さんとお母さんの思い出になるものをなにかほしいんだったら、それぞれのものを、ひとつだけとりなさい。ほかのものはみんな、売ってしまうのだからね」
少年は、部屋から音もなく出ていった。ケアリー氏は、事務の仕事には馴れず、プリプリしながら、礼状書きにとりかかった。机の片側には勘定書きの束《たば》がひとつあり、これで彼はすっかり焦ら立っていた。そのひとつは、とてつもないものに思えた。ケアリー夫人が死ぬとすぐ、死んだ女のいる部屋を飾るために、エマは花屋にすごくたくさんの白い花を注文したが、これは、もうまったくのむだ使いというものだった。エマはやりすぎる。たとえ金の都合からではなくとも、ケアリー氏はエマを解雇するところだった。
だが、フィリップはこの彼女のところにゆき、その胸に顔をうずめ、胸が張りさけそうになるくらい泣きくずれた。そしてエマは、フィリップを自分の息子のように感じて――彼の世話をみるようになったのは、生れて一ヵ月してからのことだった――物やさしい言葉で彼をなぐさめてやった。ときどき少年に会いにゆき、絶対に忘れたりはしないと約束し、少年がこれからいこうとしているいなか、デヴォンシャーの彼女自身の家についての話をした。彼女の父親はエクセターに通じる街路で道銭取り立て門の監理人をし、豚小屋には豚が幾頭かいるし、その上、牝牛が一頭いて、最近子牛を生んだばかりだった。こうして、とうとう、フィリップは涙を忘れ、近づく旅のことを思って、胸をワクワクさせはじめた。だが、彼女にはまだ仕事がたくさんあったので、やがて少年を下におろし、少年は、寝台の上に自分の服をならべる手助けをした。彼はおもちゃをとりに育児室にやられ、やがて、そこで幸福に遊んでいた。
だが、とうとう、ひとり遊びにはあき、寝室にもどっていったが、そこではいま、エマが彼の持ち物を大きなかんの箱の中につめていた。ここで彼は、父親と母親の記念品をなにかもっていってもいい、といった伯父の言葉を思い出し、それをエマに話し、なにをもっていったらいいだろう? とたずねた。
「応接間にいって、自分でお好きなものをみたほうがいいですよ」
「ウィリアム伯父さんがそこにいるんだよ」
「そんなこと、気にすることはありませんよ。みんな坊ちゃんのもんなんですからね」
フィリップはゆっくりと階段をおりてゆき、ドアがあいているのがわかった。ケアリー氏は部屋にいなかった。フィリップはゆっくりと部屋を歩きまわった。この家にいた期間はとても短かったので、特別興味をひくものはほとんどなかった。そこはよその人の部屋で、フィリップの気に入るものは、なにも目にはいらなかった。だが、どれが母親のものか、どれが家主のものかはわかり、やがて、母親が好きだといっているのをかつて聞いたことのある小さなおき時計をとることにした。これを手にし、うら悲しい気分になって、また階段をあがっていった。母親の寝室のドアのところで、足をとめ、聞き耳を澄ませた。中にはいってはいけないといわれたわけではなかったが、中にはいるのはなにかいけないことだろうという感じがあった。ちょっとこわく、胸がドキドキしてきたが、それと同時に、なにかにつき動かされて、ハンドルをまわした。部屋の中のだれにも聞かれまいとしているように、ソーッとそれをまわしてから、ゆっくりとドアをおし開いた。中にはいる勇気をふるい立てる前に、一瞬、敷居のところで立ちつくした。もうおそろしいわけではなかったが、なにかなじめなかった。中にはいって、戸を閉めた。陽よけのカーテンはあけられていて、一月の午後の冷たい光で、部屋は暗かった。化粧台にはケアリー夫人のブラシと手鏡が、小さな盆にはヘアピンがあった。炉棚《ろだな》には自分の写真と父親の写真が飾られていた。母親がいないとき、何回かこの部屋にはいったことはあったが、いま、それはちがったものになったようだった。いくつかの椅子のたたずまいには、なにか奇妙なものがあり、きちんと片づけられた寝台は、その夜、だれかがそこで眠ろうとしているみたい、枕の上の箱には、寝巻きが入れてあった。
フィリップは衣裳のいっぱいつまった大きな戸棚を開き、その中にはいって、両腕にかかえられるかぎりの衣裳を抱き、そこに顔をうずめた。母親の使っていた香水のにおいがした。それから母親の品物がぎっしりつまっているひきだしをあけ、それをながめた。下着のあいだには、ラベンダーの袋がいくつかあり、そのにおいは新鮮で快かった。部屋のなじみなさは消え去り、母親が、たったいま、散歩に出かけたみたいだった。母親はやがて部屋にもどり、自分といっしょに育児室でお茶にしようと、階段をあがってくるだろう。そして、自分の唇に母親のキスを感じたような気がした。
自分が母親と二度と会えないなんて、嘘なんだ。それがあり得ないことからだけでも、それは嘘なんだ。彼は寝台によじ登り、頭を枕に乗せ、ジーッとそこに横になっていた。
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フィリップはエマと涙ながらに別れたが、ブラックステイブルヘの旅ですっかり楽しくなり、そこに到着したときには、もうあきらめて陽気になっていた。ブラックステイブルはロンドンから六十マイルはなれていた。荷物を赤帽にわたして、ケアリー氏は、フィリップといっしょに、牧師館に向けて歩きだしたが、それは五分ほどしかかからなかった。そこに着くと、フィリップはいきなり、そこの門を思い出した。それは赤くて、五本の桟《さん》がつき、動きのいい蝶番《ちょうつがい》で内と外に動き、禁止はされているものの、それに乗って前ゆれもあとゆれもできた。ふたりは庭をとおって正面の戸口にいった。ここは、訪問者と日曜日、それに、牧師のロンドンヘの往き帰りといった特別の場合に使われている入り口だった。家の者の出入りはわきの戸口でおこなわれ、植木屋、乞食《こじき》、浮浪者用の裏口の戸口もあった。このかなり大きな家は、黄色の煉瓦建て、赤い屋根づくりで、二十五年ほど前に教会ふうにつくられたものだった。正面の戸口は教会の玄関を思わせ、応接間の窓はゴチックふうだった。
ケアリー夫人は、どの列車で到着するかを心得ていたので、応接間で待ち、門のカタリとする音に耳を澄ませていた。その音を耳にすると、彼女はドアのところに出ていった。
「ルイーザ伯母さんだよ」彼女の姿をみると、ケアリー氏はいった。「駆けていってキスをしてあげなさい」
フィリップは|えび《ヽヽ》足をひきずってぶざまに駆けだし、いきなり足をとめてしまった。ケアリー夫人は、夫と同じ年輩のしなびた小女、顔は深いしわだらけで、薄青い目をしていた。白髪《しらが》まじりの髪は、娘時代の流行のまま、小さな環に結《ゆ》いあげられ、黒い服を着こみ、ただひとつの飾りは金の鎖で、そこには十字架がさがっていた。態度ははにかみ屋で、やさしい声をしていた。
「歩いていらっしゃったの、ウィリアム?」夫にキスをしながら、責めるようにして彼女はいった。
「そのことは考えてなかったんでね」甥をチラリとみて、彼は答えた。
「歩いてもつらくはなかったことね、フィリップ、どう?」彼女は少年にたずねた。
「つらくはなかったよ。ぼく、いつも歩いてるんだもん」
彼はこの会話にちょっと驚いていた。ルイーザ伯母さんは、家にはいるように、と彼にいい、伯父とフィリップは玄関にはいっていった。そこには赤と黄のタイルが敷きつめられ、交互にギリシャ十字架(四本の腕が同じながさの十字架)と神の子羊(キリストのこと)の図が示されていた。堂々とした階段がこの玄関の間からのびていたが、それは、独得のにおいのする松の材でつくったもの、教会の座席を新しくつくったとき、運よく材木がたっぷりとあまったので、ここに使われることになったのだった。手すりは、四福音書の著者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのこと)の象徴図案で飾りをつけられていた。
「旅行のあとで寒かろうと思って、ストーブを焚《た》いときましたよ」ケアリー夫人はいった。
それは、玄関の間にある大きな黒いストーブのことで、天候がとても険悪か、牧師が風邪《かぜ》をひいたときしか、使われていないものだった。ケアリー夫人が風邪をひいても、それは焚かれなかった。石炭が高価だったからである。その上、女中のメアリー・アンは、家じゅうでストーブを焚くのを好ましく思っていなかった。家じゅうでストーブを焚きたかったら、もうひとり女中をやとってくれ、というのがそのいい分だった。冬には、ひとつのストーブで用が足りるようにと、ケアリー夫妻は食堂で暮し、夏になってもその習慣がぬけず、応接間が使われるのは、日曜日のケアリー氏の昼寝のときだけだった。だが、毎土曜日には、説教を書くために、書斎で火が焚かれていた。
ルイーザ伯母さんはフィリップを二階につれてゆき、車まわしをみわたせる小さな寝室に案内していった。窓のすぐ前に、大きな木があり、この木のことを、フィリップはいま思い出した。枝がとても低くさがり、木の高いとこまで登れたからだった。
「小さな坊やには小さなお部屋よ」ケアリー夫人はいった。「ひとりで寝ても、こわくはないことね?」
「ああ、ちっとも」
この牧師館にはじめてやってきたとき、少年は乳母といっしょだったので、ケアリー夫人は彼の世話はほとんどみていなかった。いま彼女は、ちょっと不安そうに、彼をながめた。
「自分の手は洗えること? さもなければ、わたしが洗ってあげましようか?」
「自分で洗えます」断固として彼は答えた。
「わかったわ。お茶におりてきたとき、手をみせてもらいますよ」ケアリー夫人はいった。
彼女は、子供のことはなにも知らなかった。フィリップのブラックステイブルゆきがきまったとき、少年をどうあつかったものかと、とつおいつ思案していた。自分の義務を遂行したいとは思っていたものの、いざ目の前に少年があらわれると、少年が自分にはにかんでいるように、彼女のほうでも彼にはにかみを感じていた。少年がさわがしい乱暴者にならないようにとねがっていたが、それは、夫がそうした少年をきらっていたからだった。ケアリー夫人は言訳《いいわけ》をいってフィリップをひとりのこしていったが、すぐにもどってきて、ドアをノックし、部屋にははいってこずに、水を自分で出せるか? とたずねた。ついで、下におりてゆき、お茶のベルを鳴らした。
大きくて釣り合いのとれた食堂は、その二面に窓をもち、そこにはずっしりとした赤の横うね織りのカーテンがかかっていた。中央には大きなテーブルがあり、一方の端には、姿見をはめこんだ堂々としたマホガニーの食器棚がすえられてあった。ひと隅には足踏みオルガンがおかれてあった。炉の両側には押し模様のついたなめし皮張りの椅子があり、それぞれに背おおいがつき、肘のついたのは旦那《だんな》さまと、それのないのは奥さまと呼ばれていた。ケアリー夫人は肘かけ椅子に坐ったことがなく、気持ちのそうよくない椅子のほうが好きだ、仕事はいつもたくさんあり、自分の椅子が肘つきだと、その椅子で腰が重くなってしまうだろう、といっていた。
フィリップがはいっていったとき、ケアリー氏は火を焚きつけていて、甥に、火かき棒が二本あることを教えた。一方は大きく、テラテラとみがき立てられ、使われていずに、牧師と呼ばれ、もっとズッと小さく、明らかに多くの火に焼かれてきたのこりの火かき棒は、副牧師と名をつけられていた。
「きょうはなにが出るのだい?」ケアリー氏はたずねた。
「メアリー・アンに卵をもってくるようにといいつけてありますよ。旅行のあとでお腹が空いていると思ったからなの」
ケアリー夫人は、ロンドンからブラックステイブルヘの旅がとてもつかれるものと思いこんでいて、自身はほとんど旅行をしていなかった。これは、ここでの生活が年にたった三百ポンドのもの、夫が休養をしたいと思うと、ふたり分の旅費は都合できなかったので、彼だけがひとりで出かけていったためだった。彼は教会大会(イギリス国教会で聖職・信者の半公式の年次会議)が大好きで、年に一度、なんとか都合をつけて、いつもロンドンに出かけていた。一度パリに展覧会をみに、二度か三度スイスにまで足をのばしていた。メアリー・アンが卵をもってきて、一同はテーブルに坐った。椅子はフィリップには低すぎ、どうしたらいいかと、一瞬夫妻はとまどっていた。
「本を何冊か下におきましょう」メアリー・アンはいった。
彼女は大きな聖書と牧師がいつもお祈りを読んでいる祈祷書をオルガンの上からとり、それをフィリップの椅子の上においた。
「まあ、ウィリアム、聖書の上に坐るなんて、いけないことね」びっくりした調子で、ケアリー夫人はいった。「書斎からなにか本をもってきていただけないかしら?」
ケアリー氏はこの問題をちょっと考えていた。
「祈祷書をいちばん上においたら、今回だけは、どうということもないだろう、メアリー・アン」彼はいった。「公祷(あらゆる公けの教会集会における礼拝式で用いるために制定された祈祷文)はわれわれと同じ人間がつくったもの、神さまがおつくりになったとはいえないのだからね」
「そこまで考えてはいませんでしたわ、ウィリアム」ルイーザ伯母はいった。
フィリップはかさねた本の上にとまるようにして坐り、牧師は、食前の祈りをささげてから、卵の上のところを切りとった。
「さあ」それをフィリップにわたしながら、彼はいった、「よかったら、上のとこはお前がお食べ」
フィリップは卵をすっかり自分にもらいたいとこだったが、そうはならなかったので、与えられた分を食べることになった。
「出かけたあとの卵の生み具合いはどうだね?」牧師はたずねた。
「まあ、とっても具合いがわるくてね、一日にひとつかふたつだけなんですよ」
「卵の上のとこはどうだったい、フィリップ?」伯父はたずねた。
「ありがとう、とてもおいしかった」
「日曜日の午後には、またあげるよ」
ケアリー氏は、いつも日曜日のお茶のときに、うで卵をひとつ食べていたが、これは、夕方のおつとめをする元気づけのためだった。
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フィリップは、いっしょに住むことになった人たちのことを、だんだんと知るようになり、一部は彼に聞かせるつもりのない会話の断片から、自分自身と死んだ両親についてのいろいろのことがわかってきた。フィリップの父親は、ブラックステイブルの牧師よりズーッと若く、聖ルカ病院ですばらしい成績をあげたあとで、そこの医局員になり、やがて、金をどんどんとかせぐことになったが、それをパッパッと浪費していた。牧師が教会の復旧にとりかかり、寄付金を弟にたのんだところ、二百ポンドの金を贈られて、びっくりしたことがあった。生れつきの節約家で、必要にせまられてつつましやかな生活をしなければならなかったケアリー氏がそれを受けとったときの気持ちは、複雑なものだった。こうした大金を出す余裕のある弟がうらやましかった。教会のためにはうれしくはあったものの、ほとんど見栄《みえ》とも思える気前のよさには、なにか漠然とした腹立たしさが感じられた。
その後、ヘンリー・ケアリーは患者と結婚したが、それは美しい娘ながらも文なし、よい家柄の出ながらも、近親のない孤児で、結婚式には、りっぱな友人たちがはなばなしく呼ばれた。ロンドンに出たときこの彼女を訪問した牧師の態度は、よそよそしかった。彼女の存在が照れくさく、腹の中では、そのすばらしい美しさにムカムカしていたからだった。衣裳は、せっせと働いている外科医の妻には不似合いなほど豪華なものだったし、うっとりするほどの家具、冬の季節でも彼女がつつまれて暮している花は、嘆かわしい贅沢《ぜいたく》ぶりをあらわし、出かけていく遊びのことを彼女が話しているのを耳にした。これは家にもどってから妻に話したことだったが、こうしたもてなしを受けた以上、なにかおかえしをしなければ、とこぼしていた。食堂で出された|ぶどう《ヽヽヽ》は、まちがいなし、一ポンドで八シリングもするもの、昼食でのアスパラガスは、牧師館の畠でできるのより二ヵ月も早いはしりのものだった。だが、こうなって考えてみると、予想していたすべてが起きたのだった。火と硫黄《いおう》(地獄で燃えている火のこと)の警告を発しても改めようとしなかった町が焼きつくされるのをながめて予言者が感ずる満足感、牧師はそうした感じを味わっていた。かわいそうに、フィリップは文なしも同然、母親のりっぱな友人たちは、なんの役に立つことだろう? フィリップの父親の贅沢ぶりはまったく罪とも呼べるものだったという話は、牧師の耳にはいっていたし、神さまがフィリップの母親をみ許《もと》に召したのは、慈悲ともいえることだった。彼女は、子供同然、金の観念をぜんぜんもっていない女だった。
フィリップがブラックステイブルに来て一週間たったとき、ある事件が起き、伯父をひどくイライラさせたようだった。ある朝、朝食で食卓についたとき、そこに小さなつつみがあり、それは、ロンドンの故ケアリー夫人の家から郵便で送られてきたものだった。宛て名は彼女で、牧師がそれを開くと、十二枚のケアリー夫人の写真が出てきた。頭と肩だけを写したもので、髪はふだんより簡素なふうに額に低くさげ、いつもとはちがったようすをあらわしていた。顔は痩せ、やつれていたが、病気で顔形がそこねられてはいなかった。大きな黒みがちのひとみには、フィリップの憶えていない悲しみがたたえられていた。死亡した女性の姿をはじめてながめたとき、ケアリー氏はちょっとギョッとしていたが、そのあとすぐ、とまどいの色が浮んできた。写真はつい最近のものらしかったが、だれがそれを注文したのか、見当もつかなかったからである。
「この写真のこと、なにか憶えてるかね、フィリップ?」彼はたずねた。
「ママが写真をとったっていってたのは、知ってるよ」彼は答えた。「ミス・ウォトキンがママをしかってたけど……ママは、子供が大きくなったとき、記念になるものがほしかったの、っていってたよ」
ケアリー氏は、ちょっと、フィリップをみつめた。子供は澄んだ高い声で話した。彼は母親の言葉を思い出しはしたものの、それは、彼にとってどうということもないものだった。
「写真のひとつを自分の部屋においたらいいだろう」ケアリー氏はいった。「のこりは、しまっとくことにしよう」
彼はそのひとつをミス・ウォトキンに送り、彼女の返事で、この写真の事情がわかった。
ある日、ケアリー夫人は寝台で横になっていたが、気分はふだんより少しよく、医者も、その朝は、安心しているようだった。エマは子供を外につれだし、女中たちは下の地下室にいた。このとき突然、ケアリー夫人は身の孤独をヒシヒシと感じた。二週間先のお産の床から回復できないかもしれないという大きな恐怖が、彼女をとらえた。息子はまだ九歳だ。息子が自分のことを憶えているなんて、どうして考えられよう? 大きくなって忘れてしまう、母親の自分をすっかり忘れてしまうなんて、とてもたまらないことだった。彼女は子供にひたむきの愛情をそそいでいた。少年が弱くてかたわ、そして、自分の子供であるためだった。結婚以来、写真をとったことがなく、結婚は十年前のことだった。自分が最後にはどんな女だったかを息子に知ってもらいたかった。そうなれば、自分を忘れる、すっかり忘れてしまうことはないだろう。女中を呼び、起きたいといえば、妨害を受け、おそらく医者が呼ばれるのはわかっていたし、いま争ったり議論する力は、彼女になかった。彼女は床から起きて、自分で服を着けはじめた。長期にわたる病床生活で、足はおぼつかなく、足の裏はピリピリと痛んで、しっかり立ってはいられないほどだった。だが、彼女は屈しなかった。髪を結うことには不馴れで、両腕をあげて髪にブラシをかけはじめると、気が遠くなりそうになった。女中がしてくれたようには、どうしてもできなかった。美しい髪で、とても細くてやわらかく、深い豊かな黄金《こがね》色をしていた。眉はまっすぐ、黒ずんでいた。スカートは黒にしたが、自分のいちばん好きな夜会服のボディスを着こんだ。それは、当時流行の白のダマスコ織りのものだった。鏡に映る自分の姿をながめた。顔はひどく青ざめていたが、肌は澄んでいた。元来彼女の肌には赤みがそうなく、これが美しい口の赤らみを対照的にひき立てていた。鳴咽《おえつ》がこみあげてくるのが、おさえられなくなった。だが、わが身を悲しんではいられなかった。もうひどい疲労感におそわれていたので、彼女はこの前のクリスマスに夫のヘンリーから贈られた毛皮の外套を着こみ――その当時自慢のもので、とても幸福感を味わっていたのだが――胸をドキドキさせながら、階段をスーッとおりていった。無事に家からぬけだし、車で写真屋にゆき、十二枚分の支払いをした。写してもらっている最中に、どうにもたまらなくなって、水を一杯もらい、写真屋の助手は、彼女の病気を知って、べつの日に出なおしたら、ともいってくれたが、彼女は、最後までがんばる、といいつづけた。とうとう撮影《さつえい》は終り、心の底からきらっていたケンジントンのきたならしい家に馬車でもどっていった。
そこは、死ぬのにはおそろしい家だった。前のドアは開かれたままで、馬車で到着すると、女中とエマが、彼女を助けようと、階段を駆けおりてきた。部屋が空《から》になっているのを知って、彼らはびっくり仰天《ぎょうてん》、最初は、ミス・ウォトキンのところにいったものと思い、料理女が使いに出された。ミス・ウォトキンはこの女といっしょにもどり、応接間でやきもきしながら待っていた。ミス・ウォトキンは心配と文句タラタラでおりてきたが、この外出はケアリー夫人にはむりなこと、気の張りがぬけると、彼女はがっくりきてしまった。エマの腕の中にくずれるように倒れかかり、二階に運びあげられた。しばらくのあいだ、失神状態がつづいたが、彼女を見守っている人にとって、それは信じられぬほどながいものに思えた。急いで呼びにやった医者は、とうとうやってこなかった。ミス・ウォトキンが彼女から多少の説明を聞いたのは、多少とも元気になった翌日のことだった。フィリップは母親の寝室の床の上で遊んでいたが、母親もミス・ウォトキンも、彼のことを気にはしていなかった。彼はふたりが話していたことをただ漠然と理解し、そのときの言葉をどうして記憶しているのか? とたずねられても、応答に窮したことであろう。
「子供が大きくなったとき、記念になるものがほしかったの」
「どうして十二枚も注文したのか、わからんな」ケアリー氏はいった。「二枚でも用が足りたのに」
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牧師館での毎日は、ほとんど変化のないものだった。
朝食がすむとすぐ、メアリー・アンが『タイムズ』を運んできた。ケアリー氏はこの新聞を近所のふたりといっしょにとっていた。彼はそれを十時から一時まで読み、それから植木屋がライムズのエリス氏のところにもってゆき、七時になると、さらにマナー・ハウスのミス・ブルックスのとこにとどけられ、おそくとどけられるので、そのかわりにそれを所有する利点を与えられていた、夏、ジャムをつくっているとき、ケアリー夫人はよくミス・ブルックスにたのんで新聞をもらい、壺《つぼ》のおおいにした。牧師が新聞を読みはじめると、妻はボンネット帽をかぶって買い物に出かけ、フィリップはそのお伴《とも》をしていた。ブラックステイブルは漁村で、大通りがあり、そこには商店、銀行、医院、二、三の石炭船の持ち主の家があった。小さな港をめぐって、薄ぎたない道が幾本か走り、漁師《りょうし》や貧乏人が暮していたが、この連中は礼拝堂《チャペル》(国教以外の会堂)にいっていたので、物の数ではなかった。通りで非国教派の牧師にすれちがうと、ケアリー夫人は、それをさけようと、道の反対側にわたり、これをする余裕がないときには、目をジッと伏せたまま歩いていった。ひどいことに大通りには礼拝堂が三つもあり、牧師は、これにたいして、あきらめて非難の口をゆるめたりは絶対にしていなかった。彼としては、法律が口を入れて、そうした建物の建造を禁止すべきだ、と感じずにはいられなかった。
ブラックステイブルでの買い物は、なかなかやっかいなことだった。教区の教会が町から二マイルもはなれていることもあり、非国教会派の連中が数多くいて、教会にゆく者の店で買い物をしなければならなかった。牧師館のお得意《とくい》になるかどうかが商人の信仰に支配的な影響力をもっている事実を、ケアリー夫人は百も承知だった。教会に来ている肉屋が二軒あったが、牧師が同時に二軒の店から買うことができないのを納得しようとはせず、半年交替でとりひきをする牧師の簡明な提案にも不満を表明していた。牧師館に肉をとどけていない肉屋は、教会にはいかないぞ、といつもおどしをかけ、牧師のほうでも、万やむを得ず、おどしの手段を使い、教会に来ないのはいけないこと、これ以上不正行為をつのらせ、礼拝堂にじっさいにいったりなどしたら、もちろん、そこの肉はいいものではあっても、ケアリー氏はそこと永遠に縁を切らなければならなくなる、といったことになった。
ケアリー夫人は、ときどき、銀行で足をとめ、ジョサイア・グレイヴズへ伝言を伝えていたが、この男は、聖歌隊指揮者、会計係り、教区委員をしている銀行の支配人だった。背が高くて痩せた男、顔色がわるく、ながい鼻をし、白髪で、フィリップの目にはとても老人に映っていた。教区の勘定を担当し、合唱隊と学校の会のとりきめをし、教区の教会にオルガンはなかったけれど、彼が指揮している合唱隊はケント州切ってのものと、(ブラックステイブルでは)ひろく考えられていた。堅信礼のための主教の来場とか、収穫感謝祭で説教するための地方執事の来訪といった儀式があるときには、必要な準備をするのは、いつも彼だった。だが、牧師とお座なりな相談をするだけで、遠慮なく万事をきりもりし、牧師は、面倒なことはいつも人まかせにしたがってはいるものの、この教区委員のやり口をひどく憤慨していた。彼は、じっさい、自分を教区でいちばん重要人物と考えているようだった。ジョサイア・グレイヴズがほどほどにしておかないと、いずれ一発おみまいしてやるぞ、というのが、ケアリー氏が妻にこぼしている口癖になっていたが、夫人のほうでは、ジョサイア・グレイヴズは我慢してやったらいい、わるいつもりがあるわけではなし、しっかりとした紳士らしくふるまわなくても、それは彼の罪ではない、と夫に注意していた。牧師は、キリスト教的美徳の実行に満悦して、忍耐の徳を発揮し、陰で教区委員のことをビスマルク(新ドイツ帝国初代の宰相。その強硬外交策で鉄拳宰相と呼ばれた)と呼んで溜飲《りゅういん》をさげていた。
かつてこのふたりのあいだに大喧嘩が起こり、わずらわしかったそのときのことを考えると、ケアリー夫人は、いまでも、とまどいをおぼえていた。保守派の候補者がブラックステイブルで会を開きたいという意向を表明し、ジョサイア・グレイヴズは伝道会館でそれを開くことにし、ケアリー氏のところにいって、一言そこで挨拶をしてくれ、とたのんだ。どうやら、候補者の依頼で、ジョサイア・グレイヴズが座長をつとめるらしかった。これは、ケアリー氏としては、我慢ならぬことだった。彼は聖職者にたいして払うべき尊敬の念について不動の意見をもっている人物で、牧師が臨席している会合で教区委員が座長をつとめるなんてバカげたことだった。彼はジョサイア・グレイヴズに、牧師《パーソン》は人間《パーソン》、すなわち、牧師は教区の重要人物なのだ、と注意を与えた。それにたいするジョサイア・グレイヴズの応答は、自分は教会の権威を認める点では人後《じんご》に落ちないが、これは政治の事柄だ、と主張し、救世主は自分たちに、カエサルの物はカエサルに納めよ(マタイ伝二二ノ二一にある言葉)、とお命じになっている、と逆襲した。これにたいして、ケアリー氏は、悪魔は自分の目的のために聖書でも引用することができる、伝道会館の支配権は自分だけがにぎっているもの、自分が座長になるのを求められなかったら、政治的会合にそれを使用するのは禁止する、と答えた。ジョサイア・グレイヴズは、それはご随意、自分としては、メソジストの礼拝堂でも結構役に立つ、といった。ついでケアリー氏は、もしジョサイア・グレイヴズ氏が異端の殿堂にもひとしいそうした場所に足を踏み入れたら、教区委員にはふさわしからざる人物だ、とやりかえした。ジョサイア・グレイヴズは、そこで、すべての役職を辞任し、その夜ただちに使いを教会に出して、自分のカソック(英国教会の牧師が日常着用する足まで達する法衣。一般の聖職者は黒色のものを用いる)とサープリス(カソックの上に着るそでのながい短い法衣)をとりもどした。彼の家事をきりもりしていた姉妹《きょうだい》のミス・グレイヴズは、母の会の書記を辞職したが、この会は、貧乏な妊産婦にフランネルの衣類、赤ん坊の産衣《うぶぎ》、石炭と五シリングを支給していた。
ケアリー氏は、とうとうこれで干渉なしでやっていける、とうそぶいたが、間もなく、自分にはなにもわからないさまざまなことの世話をみなければならぬことがわかってきた。ジョサイア・グレイヴズのほうでも、腹立ちまぎれにやったあとで、自分の生き甲斐《がい》を失ってしまったことに気づいた。ケアリー夫人とミス・グレイヴズはこの喧嘩で困り果て、慎重に手紙を交換したあとで出会い、事態|収拾《しゅうしゅう》に乗りだそうと決心し、一方は夫に、他は兄弟に、それぞれ朝から晩まで談じこんだ。このふたりが説得しようとしていることは、心の中で相手が望んでいるものだったので、三週間の努力のあとで、和解が成立した。それは双方の利益になることだったが、ふたりは、それを救い主キりストにたいする共通の愛のためと謳《うた》いあげた。例の政治集会は伝道会館でおこなわれ、医者が座長になるのを要請《ようせい》され、ケアリー氏とジョサイア・グレイヴズは、いずれも演説をした。
銀行の支配人との話がすむと、ケアリー夫人は、ふだん、二階にあがってミス・グレイヴズとちょっと雑談をすることにしていたが、ご婦人方が教区のこと、副牧師、ウィルソン夫人の新調の帽子――ウィルソン氏はブラックステイブル切っての富豪、年収は少なくとも五百ポンドとみこまれ、自分の家の料理女と結婚した男だった――等々といろいろのうわさ話をしているあいだ、フィリップは来客用にだけ使われている味気ない客間にちょこんと坐り、金魚鉢の金魚のセカセカした動きに見入っていた。そこの窓が開かれるのは、朝数分間外の空気を入れるときだけで、そこにはムッとするにおいがこもっていたが、そのにおいは、フィリップには、銀行の仕事となにか摩訶《まか》ふしぎな関係をもっているように思えた。
すると、ケアリー夫人は食料品店に用があるのを思い出し、ふたりは道を進んでいった。買い物がすむと、漁師が住んでいる、たいていは木造の小さな家の建てこんだ裏通りをとおって(そこここで漁師か戸口の階段に腰をおろして、網の修理をし、ドアにはそれがかけて乾してあった)、小さな海岸に出ていった。両側に倉庫が立っていたが、そこからは海をみることができた。ケアリー夫人は、数分間、立って海をながめていたが、その海はにごって黄色(彼女の心にどんな思いが去来していたのか、だれにもわからない)、フィリプは平らな石をさがして、水切りに興じていた。それから、彼らはゆっくりともどっていった。郵便局をのぞきこんで時間をなおし、窓辺に坐っていた医者の奥さんのウィグラム夫人にうなずいて挨拶を投げ、家に帰っていった。
月曜日、火曜日、水曜日には、一時に昼食で、出されるものは焼いたり細《こま》切れの牛肉、そして、木曜日、金曜日、土曜日は羊の肉だった。日曜日には、家で飼っている|にわとり《ヽヽヽヽ》が一羽つぶされた。午後は、フィリップの勉強の時間だった。ラテン語と数学は伯父から教わったが、伯父はそのどちらも知らず、フランス語とピアノは伯母仕込みのもので、伯母はフランス語を知っていなかったが、ピアノは達者で、三十年間歌いつづけてきたむかしの歌の伴奏をひくことができた。伯父のウィリアムがいつもフィリップにいっていたことだが、まだ副牧師のころ、夫人は十二の歌を暗記し、たのまれればいつでも、即座にそれを歌った。いまでもまだ、牧師館の会合で歌を歌っていた。ケアリー夫妻がそこに招待したがっていた人はほとんどなく、それに招ばれる連中は、副牧師、ジョサイア・グレイヴズとその妹、医者のウィグラム夫妻にきまっていた。お茶が終ると、ミス・グレイヴズがメンデルスゾーンの『無言歌』を一、二曲ひき、ケアリー夫人が『ひばりの家に帰るとき』か『走れよ、小馬』を歌った。
だが、ケアリー夫妻がお茶の会を開くのは珍しいことだった。その準備であたふたし、客が帰ると、ふたりはぐったりしていたからだった。お茶は自分たちだけですませ、そのあとで、バックギャモンをやるのを、彼らはむしろ好んでいた。夫が負けると機嫌がわるくなるので、ケアリー夫人は負けることにしていた。八時に冷えた肉の夕食になった。お茶のあとで食事の準備をするのをメアリー・アンがいやがっていたので、それはのこり物の食事だった。ケアリー夫人は片づけの手伝いをした。夫人が食べたものといえば、ただバターつきのパン、それにつづいてわずかなとろ火で煮《に》こんだ果物だけだったが、牧師はひときれの冷肉を食べていた。夕食がすむとすぐ、ケアリー夫人はお祈りの鐘を鳴らし、それが終ると、フィリップは床についた。彼はメアリー・アンに服をぬがせてもらうのをいやがり、しばらくすると、服の着換えを自分でする権利をみごと確立することになった。九時に、メアリー・アンが卵と皿を運びこみ、ケアリー夫人はそれぞれの卵に日づけを記入し、その番号を帳面につけ、片腕に食器籠をひっかけて、二階の寝室にひきあげた。ケアリー氏は自分の古い本のどれかを読みつづけていたが、時計が十時を報じると、立ちあがり、ランプを消し、妻のあとを追って二階にあがっていった。
フィリップが家族の一員になると、何曜日の夜に風呂《ふろ》にはいるかということで、ちょっと面倒が起きた。台所のボイラーがだめになっていたので、十分にお湯をつくるのは困難、そこで、二人の人間が同じ日に入浴することができなかった。ブラックステイブルで風呂場をもっていたのはウィルソン氏だけだったが、それは見栄《みえ》っ張りなことと考えられていた。メアリー・アンは、からだを清めて週の切りだしをやりたい、といっていたので、月曜日の夜に台所で風呂にはいった。伯父のウィリアムは、土曜日にそれができなかった。きつい一日を翌日にひかえていたからで、風呂のあとにちょっと疲労感がともなうということで、金曜日に風呂にはいることになっていた。同じ理由で、ケアリー夫人の入浴日は木曜日だった。そこで、当然、フィリップの入浴日は土曜日になるわけだったが、メアリー・アンは、土曜日の夜にそう火を焚いてはいられない、土曜日のお料理でパイの皮をつくったり、そのほかいちいちはいえないあれやこれやの仕事で、土曜日の夜に少年を風呂に入れてやることなんかとてもできそうもない、と異議をさしはさんだ。少年がひとりで風呂にはいれぬのは、明らかだった。ケアリー夫人は少年を風呂に入れるのに物おじし、牧師に説教の準備があるのは、いうまでもないことだった。だが、フィリップは主の日には、からだを清めていなければならない、と牧師はがんばった。これ以上仕事をおしつけられるのだったら、わたしはお暇をもらいます――十八年もつとめたあとで、仕事がますものとは思ってもいなかった、少しは考えてくれてもよさそうなのに、というのがメアリー・アンのいい分――フィリップは、だれにも風呂に入れてもらいたくはない、自分でちゃんとはいれるのだから、といいはった。これで話はきまった。ここでメアリー・アンが、坊ちゃんが自分できちんと風呂にはいれないのは、わかりきったこと、きたならしいふうをさせとくくらいなら――主のみ前に出るからというんじゃなくって、きちんと風呂にはいってない坊やはどうにも我慢ならないんだから――土曜日の晩に粉骨砕心、ひとつがんばってみましょう、といってくれた。
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日曜日は、あれこれとあわただしい一日だった。この教区で一週間に七日働くのは自分だけだ、というのが、ケアリー氏の口癖だった。
一家は、ふだんより三十分早く起きた。メアリー・アンがきちんと八時にドアをノックすると、安息日にあわれな牧師は寝てもいられない、とケアリー氏はこぼした。ケアリー夫人は服の着つけに時間がかかり、夫があらわれる直前に、息せき切って二階からおりてきた。ケアリー氏の編みあげ靴が炉の前においてあったが、これは、それを温めるためだった。お祈りはふだんよりながく、朝食はたくさん出た。食事がすむと、牧師は聖餐《せいさん》式用にパンを薄く切り、フィリップはパンの皮を切りとる特権を授与された。彼は大理石の文鎮《ぶんちん》を書斎にとりにやらされ、ケアリー氏はこれでパンを薄くべったりするまでおしつぶし、それを小さな四角のきれに切った。パンの分量は、天気しだいだった。天気がひどくわるい日には、教会に来る者は少なく、とても晴れあがった日には、来る者は多くても、聖餐式までがんばっている者はわずかだった。いちばん人の来るのは、空気が乾燥していて教会に来るのが楽しく、しかも、人びとがあわただしく教会を去っていこうとするほど晴れあがっていない日だった。
それから、ケアリー夫人は食器室にある金庫から聖餐式用の皿をもちだし、牧師がそれをアルプス|かもしか《ヽヽヽヽ》のなめし革で磨き立てた。十時になると軽装馬車がやってきて、ケアリー氏は靴をはいた。ケアリー夫人はボンネット帽をかぶるのに数分かかり、そのあいだ、牧師はゆったりとした外套を着けて玄関の間で立ち、いまにも闘技場につれていかれようとしているむかしのキリスト教徒の殉教者の顔もかくやと思われる深刻な表情をしていた。三十年間の結婚生活を送ったあとで、自分の妻が、日曜日の朝に、時間に間に合って用意ができないでいるなんて、まったく途方もないことというしだいだった。とうとう、サテンの黒服を着て、夫人がやってきた。牧師は、どんなときにも、牧師の妻が色のついた服を着るのをいやがっていたが、日曜日には、妻が黒服を着るべきものときめこんでいた。
ときおり、ミス・グレイヴズと共謀して、夫人はボンネット帽に白い羽根毛やピンクの薔薇《ばら》を思いきってつけたが、牧師は、それをはずせ、とがんばり、自分は緋《ひ》色の女(黙示録一七ノ一六に示されている。売笑婦のこと)といっしょに教会にゆきたくない、といった。ケアリー夫人は、女としてため息をもらし、妻としてその言葉にしたがった。馬車に乗りこもうとすると、まだ卵を飲んでいないのを、牧師は思い出した。声を出すために卵を飲まなければならんのは、みんな知っていること、家に女がふたりもいるのに、自分のことはだれも考えてくれない、が牧師のせりふだった。ケアリー夫人はメアリー・アンに小言《こごと》をいい、メアリー・アンはメアリー・アンで、八方気を配っていられるものではない、と答えた。彼女は大急ぎで卵をとりにゆき、夫人はシェリー酒用のコップで卵をかきまわし、牧師はそれをひと息で飲みこんだ。聖餐用の皿が馬車に入れられ、これでいよいよ出発ということになった。
この軽装馬車は『赤獅子屋』から来たもの、くさった藁《わら》独得のにおいがしていた。牧師が風邪をひかないようにと、窓は閉めっきりだった。墓掘り男が教会の玄関のところで待っていて聖餐用の皿を受けとり、牧師が祭服室にいっているあいだに、ケアリー夫人とフィリップは牧師館用の座席に腰をおろした。夫人は献金用の六ペンスの貨幣を自分の前におき、同じ目的の三ペンスをフィリップにわたした。教会はだんだんといっぱいになり、礼拝の式がはじまった。
フィリップは説教ちゅうに退屈したが、モジモジしたりすると、ケアリー夫人はやさしく彼の腕に手を乗せ、いけませんよ、といったふうに彼に目を投げた。最後の賛美歌になり、グレイヴズ氏が皿をもってまわりだすと、彼の退屈さは消えていった。
みんながいってしまうと、ケアリー夫人はミス・グレイヴズの座席のところにうつり、紳士方を待っているあいだ、ちょっと話をはじめ、フィリップは祭服室にいった。伯父、副牧師、グレイヴズ氏はまだサープリスを着たままだった。ケアリー氏は聖餐用の。パンののこりをフィリップに与え、それを食べてもよい、と伝えた。そのパンをすててしまうのは冒涜《ぼうとく》行為に思えたので、彼は、いままで、自分でそれを食べていたが、フィリップの旺盛な食欲で、そのつらいつとめを免じられることになった。それから、献金の勘定がはじまった。それは、六ペンスと三ペンスの貨幣の集りで、いつも一シリングの貨幣がふたつあったが、それは牧師とグレイヴズ氏の献金ときまっていて、ときに、フロリン銀貨(一八四九年以来イギリスで使われているもので、二シリング銀貨)がひとつまじっていることもあった。グレイヴズ氏は、それがだれの献金か、を伝えた。それは、いつも、ブラックステイブルのよそ者の献金で、ケアリー氏は、それがだれか? を考えていた。だが、ミス・グレイヴズはちゃんとその無分別な行動をみていて、そのよそ者はロンドンからやってきた妻子ある男、とケアリー夫人に報告することができた。馬車で家に帰る道中、夫人はこの情報を伝え、牧師は、ひとつこの男を訪問し、副牧師連合会への寄付を依頼しよう、と決心した。ケアリー氏は、フィリップのお行儀がよかったか? とたずね、ケアリー夫人は、ウィグラム夫人が新調の袖なしの外套を着ていた、コックス氏が出席しなかった、ミス・フィリップスの婚約がととのったとだれそれがいっていた、などと話した。牧師館に帰ると、みんなは、これでひと仕事がすんだ、たっぷり食事にあずかってもいいわけだ、と感じるのだった。
食事が終ると、ケアリー夫人は自分の部屋にひきこもって休み、ケアリー氏は客間のソファーで横になって、食後のひと眠りをした。
お茶は五時で、夕べの祈りの元気づけにと、牧師は卵をひとつ飲んだ。夫人はこれには出席しなかったが、これは、メアリー・アンをゆかせるため、それでもおつとめはきちんとやり、賛美歌を歌った。夕方には、ケアリー氏は歩いて教会にゆき、フィリップはびっこをひきながらそのお伴をした。いなか道ぞいに暗闇を切ってこうして歩くことは、奇妙にも彼に感動を与え、灯りをすべてつけた遠くの教会がだんだんと近づいてくるのは、なにかとても親しみを感じられるものだった。最初彼は伯父にそうなじんではいなかったが、少しずつ馴れてきて、よく伯父の手にスッと自分の手を入れ、保護されているように感じて、前よりもっとらくに足を進めていった。
家に帰ると、夕食だった。炉の前の足のせ台では、くつろぐようにと、ケアリー氏のスリッパーが主人を待ち構え、そのかたわらにフィリップのものがあったが、その一方は小さな少年の靴、他は不恰好《ぶかっこう》な奇妙なものだった。寝ようと二階にあがったとき、彼はもうクタクタにつかれ、メアリー・アンが服をぬがせてくれたとき、それにさからおうとはしなかった。夜具にくるみこんでくれてから、彼女は彼にキスをしてくれたが、彼はこの彼女をだんだん好きになってきた。
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フィリップは、いままでズッと、ひとりっ子の孤独な生活を送り、牧師館での孤独は、母親が生きていたときにくらべて、べつに大きくなったとはいえなかった。メアリー・アンと仲よしになった。この女は、三十五の小柄なポチャポチャした女で、漁師の娘、牧師館づとめをはじめたのは、十八のときだった。ここがつとめた最初の家で、ほかにうつる気はぜんぜんもっていなかった。だが、嫁にゆくかもしれないといって、ビクビクしている牧師夫妻をたえずおびやかしていた。彼女の両親は港通りの小さな家に住み、夕方に外に出たとき、彼女はよくそこにいった。彼女の海の話は、フィリップの想像力に刺激を与え、港ぞいの路地は、彼の若い空想が与えたロマンスで美しく染めあげられていた。ある夕方、彼は、メアリー・アンの家にいっしょにいっていいかどうか? といってみたが、伯母は、なにか病気にかかったら、と心配し、伯父は、わるい交際をすると行儀がくずれる、と反対した。伯父は漁師の連中をきらっていたが、それは、彼らが荒っぽくって下品、それに、礼拝堂にいっているからだった。だが、フィリップは、食堂にいるより台所にいたほうが気楽に感じ、できるときはいつでも、おもちゃをもちこんで、そこで遊んでいた。伯母はこれを悲しんではいなかった。彼女は乱雑が大きらいな女で、少年はどうしてもきたないものとあきらめてはいたものの、どうせよごすのなら台所のほうを、と考えていた。少年がソワソワと落ち着かないでいると、伯父はジリジリしがち、もう学校にやってもいいのだ、といっていた。夫人はフィリップをまだ学校にゆくには小さすぎると考え、母親を失った子供をかわいそうに思っていた。だが、彼女のやるご機嫌とりはぎごちなく、少年ははにかんでしまって、そうした愛情の表示をひどくブスッとして受けとり、彼女はこれを苦にしていた。ときどき、台所で立てる彼の甲《かん》高い笑い声が聞えてきたが、彼女がそこにはいっていくと、笑いはピタッととまり、その冗談をメアリー・アンが説明しているあいだ、彼は顔を浅黒くなるほど赤くしていた。ケアリー夫人は、自分の聞いた話のおもしろさがトンと腑《ふ》に落ちず、ただむりしてニッコリしていた。
「ねえ、ウィリアム、フィリップは、わたしたちといっしょにいるより、メアリー・アンといっしょのほうがうれしいらしいことね」針仕事にもどってきて、彼女はいった。
「それで育ちのわるさがわかるというものだ。きびしい仕込みが必要だな」
フィリップが来てから二度目の日曜日に、不幸な事件が起きた。ケアリー氏は、昼食後、例のとおり応接間にひきこもって午睡をすることになったが、ひどくイライラして、寝つけなかった。その朝、ジョサイア・グレイヴズが、彼が祭壇を飾ったろうそく立てに強く異議を申し立てたが、これは牧師自身がターカンベリーの古物屋で買い、とてもいいと考えていたものだった。だが、ジョサイア・グレイヴズのいい分は、それがカトリックの臭気プンプンということにあった。これは、牧師をいつも怒らせている侮辱だった。彼がオクスフォードにいたのは、エドワード・マニング(はじめ英国教会派に属していたが、一八六〇年カトリックに転じ、一八七五年には枢機卿になった)の国教会脱退でケリになったあの運動(一八三三〜四一年にオクスフォード大学で起きた運動で、国教内にカトリック的色彩を復活させようとしたもの)のときに当り、彼自身としても、ローマ教会にたいしてある種の共感をもっていて、ブラックステイブルの低教会派(英国国教会の中で、聖職の特権・教会の政治組織・聖餐式などを比較的軽視している一派)の教会で従前おこなっていたのより礼拝をもっと飾り立てたものにしてもいいのではないか、と考え、ひそかに心中では、宗教的な行列やら輝くろうそくをあこがれてはいたものの、香を焚く点でカトリックと一線を画《かく》していた。彼はプロテスタント(新教徒)という言葉が大きらい、自分のことをカトリック(万人におよぶ、普遍的な、の意がある)と呼び、いわゆるカトリック派の連中はその上にひとつ言葉をつけ、ローマ・カトリック派と呼ぶべきもの、だが、英国教は、カトリックという言葉のいちばんよい、充実した、崇高な意味で、カトリックなのだ、が彼の持論になっていた。自分の髭《ひげ》を剃った顔が僧侶的な感じを与えるというので、彼は満悦、若いころには、禁欲的な風采《ふうさい》で、その印象をなお強くしていた。経済的な理由で妻が同行できなかった休暇のある日、ブローニュ(フランス北部、イギリス海峡に臨む海港)の教会で坐っていたところ、主任司祭がツカツカとやってきて、説教をおねがいしたいといったのを、自慢話にしていた。副牧師が結婚すると、彼は解雇を申しわたした。聖職禄を受けていない聖職者の独身であるべきことに、確固たる信念をもっていたためだった。だが、選挙で自由党が庭のへいに青い大文字で「ローマヘの道はこちら」と書き立てたとき、すごくカンカンにいきり立ち、ブラックステイブルの自由党の指導者を起訴してやる、と息まいていた。ジョサイア・グレイヴズがなんといおうと、祭壇からろうそく台を撤去はしまい、といま腹をきめ、イライラしながら口の中で、ビスマルク、とつぶやいていた。
いきなり、ドシンという音がひびいてきた。彼は顔からハンカチをはずし、横になっていたソファーから立ちあがり、食堂にはいっていった。そこには、テーブルの上でまわりに煉瓦をぶちまけたフィリップの姿があった。巨大なすごいお城をつくり、土台になにか欠陥があったために、たったいま、それが大音響とともにくずれ去ってしまったのだった。
「この煉瓦でなにをしていたんだ、フィリップ? 日曜日に遊びをしてはいけないのは、わかってるじゃないか」
フィリップはおびえた目をして、一瞬、伯父をジッとみつめ、いつもの習慣どおり、真っ赤になった。
「家ではいつも遊んでたの」彼は答えた。
「こんなわるいことをするのは、きっとお母さんだって、許しはしなかったはずだ」
それがわるいこととはフィリップに思えなかったが、もしわるいことだとしたら、母親がそれを許したものと考えられたくはなかった。そこで頭を垂れ、だまっていた。
「日曜日に遊ぶなんて、とてもとてもわるいことだとは知らないのかね? 安息日と呼ばれてるのは、なんのためなんだい? 今晩は教会にゆくのに、午後に神さまの掟《おきて》を破ったりして、創り主にたいして、どう顔向けができるのだい?」
ケアリー氏は、すぐに煉瓦の片づけを命じ、フィリップがそれをしているあいだ、監視をつづけた。
「お前はすごいいたずら坊主《ぼうず》だな」彼はくりかえした。「天国にいる気の毒なお母さんがどんなに悲しんでるか、考えてみたらいい」
フィリップは泣きそうになっていたが、涙を人にみせるのはいや、と本能的に感じ、そこで、歯を食いしばってすすり泣きをもらすまいとした。ケアリー氏はいつもの安楽椅子に坐り、本のページをめくりはじめた。フィリップは窓辺に立っていた。牧師館はターカンベリーに通じる大通りからひっこんだところにあり、食堂から、半円形の芝生《しばふ》と、その先地平線のかなたまでひろがっている緑の原をみわたすことができた。羊がそこで草を食《は》み、空はわびしい灰色だった。フィリップは身の不幸をシミジミと感じた。
やがて、メアリー・アンがやってきて、お茶の準備にとりかかり、伯母のルイーザが二階からおりてきた。
「気持ちよく眠れたこと、ウィリアム?」伯母はたずねた。
「いいや」伯父は答えた。「フィリップがすごい音を立ててな、一睡もできなかったよ」
この言葉は正確とはいえなかった。物思いにふけって目をさましていたのが真相だったからである。フィリップは、ムッとしてそれを聞きながら、自分が音を立てたのは一度だけ、その前後に伯父さんは眠れたはずじゃないか、と考えていた。それはどういうこと? と夫人がたずねたとき、牧師はことの顛末《てんまつ》を話した。
「ごめんなさいともいわんのだ」この話の結びに、彼はこの言葉をつけ加えた。
「まあ、フィリップ、ごめんなさいという気持ちは、きっとあることね」必要以上に伯父の目に子供をわるくみせまいとして、ケアリー夫人はいった。
フィリップは返事をせず、バターつきパンをムシャムシャ食べつづけた。わるかったというのをおさえつけているどんな力が自分の中にあるのか、彼には見当もつかなかった。耳はガンガンと鳴りつづけ、ちょっと泣こうとはしたものの、どんな言葉も口からは出てこなかった。
「ふくれてもっとわるい子になる必要はないのだぞ」ケアリー氏はいった。
お茶は、みんなおしだまったままで、終りになった。ケアリー夫人は、ときどき、ソッとフィリップをながめていたが、牧師はわざと彼を無視しつづけた。教会にゆく準備のために伯父が二階にあがっていくのをみると、フィリップは玄関の間にゆき、自分の帽子と上衣をとった。だが、二階からおりてきて彼の姿をみると、牧師はいった、
「今晩のお前の教会ゆきは、お断りだよ、フィリップ。神さまの家にはいるのにふさわしくない気持ちでいるようだからな」
フィリップは、ひと言もいわなかった。これは自分に与えられたひどい屈辱と感じたので、頬がほてってきた。伯父が大きな帽子とゆったりとした外套をつけるのを、だまってながめていた。ケアリー夫人は、いつものとおり、戸口のところまで見送り、それから、彼のほうに向きなおった。
「気にすることはないことよ、フィリップ。つぎの日曜日にはわるい子にはならないでしょう、どう? そうしたら、伯父さんは晩に教会につれていってくださいますよ」
彼女は彼の帽子と外套をぬがせて、彼を食堂につれていった。
「いっしょにお祈りの本を読み、オルガンで賛美歌を歌いましよう、フィリップ。それでいいこと?」
フィリップは断固として首をふった。ケアリー夫人は呆然《ぼうぜん》としていた。子供が自分といっしょにお祈りの本を読もうとしないとしたら、どうしたらいいのか、わからなくなったからだった。
「じゃ、伯父さまのお帰りまで、なにをしたいというの?」がっくりして、伯母はいった。
フィリップはとうとう沈黙を破った。
「放っといてもらいたいの」彼はいった。
「フィリップ、どうしてそんなにひどいことをいうの? 伯父さんとわたしがお前の幸福だけをねがっているのを知らないの? わたしを、お前、愛してくれているの?」
「伯母さんは大きらい、死んじゃえばいいんだ!」
ケアリー夫人はハーッとあえいだ。彼がその言葉をすごい勢いでいったので、彼女はギクリとした。もうなにもいえなくなり、夫の椅子にガックリと坐りこんだ。この助け手のないびっこの少年を愛し、自分も少年に愛してもらいたいと心から望んでいたことを考えると――彼女は石女《うまずめ》、子供のないのはたしかに神さまのおぼしめしによるものだったが、ときどき、小さな子供をみるともうたまらなくなり、心がズキズキと痛んできた――涙がグッとこみあげ、大粒の涙がゆっくり頬をつたわってポトリポトリと落ちてきた。フィリップは、びっくりして、この彼女をながめていた。彼女はハンカチをとりだし、こんどはとめどなく泣きだした。フィリップは、ハッと、自分がいったことで伯母が泣いている、とわかり、気の毒になった。彼は、だまって、彼女のところにゆき、彼女にキスをした。これは、たのまれずに彼がしたはじめてのキスだった。黒いサテンの服を着こんでとても小柄、妙にひきねじったカールの髪をした、ちぢみあがって顔色のわるいあわれな夫人は、小さな坊やを膝に乗せ、両腕でヒシと彼を抱きしめ、胸がはりさけそうに泣きくずれた。だが、ふたりのあいだのよそよそしさがこれでとれたと感じたので、彼女の涙は、一部、幸福の涙だった。自分を苦しめたことで、彼女はいままでにない愛情を少年に感じはじめていた。
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つぎの日曜日、牧師が午睡をとろうと応接間で準備をしていて――彼の生活の行動すべては儀礼づきのものだった――ケアリー夫人は二階にあがろうとしていた。そのとき、フィリップはたずねた、
「遊んじゃいけないとしたら、どうしたらいいの?」
「こんどだけは静かに坐っていられないのかね?」
「お茶の時間まで静かに坐ってろといったって、できやしないよ」
ケアリー氏は窓の外をながめたが、気候はピリピリと寒く、庭に出て遊んだら? とはとてもいえなかった。
「いいことがある。きようの短いお祈りを暗記したらいいだろう」
彼はお祈りに使う祈祷書をオルガンのところからもってきて、ページをめくり、必要な場所をみつけだした。
「ながいもんではない。お茶のときまでにひとつもまちがえずにいえるようになってたら、わしの卵の上のとこを食べさせてやるよ」
ケアリー夫人はフィリップの椅子を食堂のテーブルにひきよせ――このときまでには、もう彼用の高い椅子が買ってあった――祈祷書を彼の前においた。
「なまけ者の手には、悪魔が仕事をみつけることになるからな(イギリスのことわざ)」ケアリー氏はいった。
彼は、お茶で部屋にはいってきたとき、気持ちよく火が燃えているようにと、ちょっと石炭を火に積み、応接間にはいっていった。カラーをゆるめ、クッションをならべ、ソファーの上にからだを気分よくのばした。だが、応接間はちょっと寒いと考えて、ケアリー夫人は玄関の間から膝掛けを運びこみ、それを彼の脚の上に乗せ、足をくるみこんだ。目を痛めないようにとカーテンをひき、彼がもう目を閉じていたので、ぬき足さし足ソーッと部屋を出ていった。牧師は、きょうは、安らかな気持ちになり、十分すると、眠りこみ、かすかないびきを立てていた。
その日は、|顕現の祝日《エビフアニ》(東方の三博士のおとずれによって象徴される救世主の顕現の日で、クリスマス後第十二日)の後の第六日曜日で、祈りの文は「悪魔の業《わざ》を毀《こぼ》ちて、われらを神の子、永久《とこしえ》の生命の世嗣《よつぎ》たらしめんがために、その独り子を世に顕《あら》わしたまえる、おお、神よ」という言葉ではじまっていた。フィリップはそれを読みとおしてみたが、チンプンカンプンだった。声を出しそれをとなえはじめたが、言葉の多くは未知のもの、構文もまた奇妙だった。頭にはいったのは、二行程度にすぎなかった。それに、注意はたえず散漫になった。牧師館の壁のところには刈《か》りこんだ果樹があり、ながい枝が、ときおり、窓ガラスをたたき、庭の向うの野原では、羊がのっそりと草を食んでいた。頭の中に固いかたまりができているような感じだった。ついで、お茶のときまでにおぼえられないだろうという恐怖におそわれ、その言葉をさっさとつづけた。もう、理解しようとはせず、|おうむ《ヽヽヽ》のように、ただそれを頭につめこもうとしたのである。
その午後、ケアリー夫人は眠れなかった。四時になっても目はさめっ放しだったので、下におりてきた。祈りの文を伯父に聞かせるとき失敗はしでかすまいと、フィリップがそれを読んでいるのを耳にするものと、彼女は期待していた。そうなれば、夫はよろこび、少年の心がまともであるのを認めるだろう。だが、夫人が食堂のところにやってきて、中にはいろうとしたとき、物音が聞え、彼女はピタリと足をとめてしまった。心臓がドキリとした。彼女はまわれ右をし、正面玄関からソッと忍びだし、家をグルリまわって食堂の窓のところにゆき、用心深く中をのぞきこんでみた。フィリップは彼女が坐らせた椅子にまだ座ったままでいたが、テーブルの上で頭を両腕に埋め、ただただもう泣きに泣いていた。肩の痙攣《けいれん》的なひきつりが目に映った。ケアリー夫人はおそろしくなった。この子供でいつも気づいていることといえば、とても落ち着き払っているということだけだった。泣くのは、ついぞみたことがなかった。いま彼女はさとったのだが、そうした冷静さは、自分の感情をみせまいとする衝動的な恥じらいの情にすぎなかった。彼はかくれて泣いているのだった。
いきなり起されるのを夫がきらっているのも忘れて、彼女は応接間にとびこんでいった。
「ウィリアム、ウィリアム!」彼女はいった。「あの坊やは胸がはりさけそうなくらい泣いているのよ」
ケアリー氏は起きあがり、脚のところの膝かけを払いのけた。
「泣くって、なにをだい?」
「わからないわ。……。ああ、ウィリアム、あの坊やにわびしい思いは味わわせたくないことね。わたしたちがいけないからじゃないこと? わたしたちに子供がいたら、どうしたらいいかがわかるんでしょうけどね」
ケアリー氏は、ドギマギして、彼女に目を投げた。彼としても、八方手づまりの感じだった。
「お祈りを暗記しろといったために泣いてるはずはないんだがな。たった十行くらいのもんなんだからね」
「あの子になんか絵の本をわたしてやっていいこと、ウィリアム? 聖地の本が何冊かあったことね。それをみせたって、いけないことはありませんものね」
「うん、うん、構わんよ」
夫人は書斎にはいっていった。ケアリー氏の道楽といえば、ただ本を集めることだけで、ターカンベリーにゆけば、かならず古本屋で一、二時間をつぶし、いつも四、五冊のかびくさい本を買いこんできた。ながいこと読書になじんでいなかったので、読むことは絶対になかったが、ページをめくり、絵があれば、それをながめ、本の装幀《そうてい》をなおすのが楽しみだった。彼は雨降りの日をよろこんでいたが、それは、心にやましいところなく家にのんびりとしていて、午後には卵の白味とにかわの壼で四つ折り版のロシア皮(製本用と袋物製造用の上質の革。ぶな皮油で処理するため特有のにおいがある)の修理をせっせとしていた。鋼版彫刻のあるむかしの旅行記がどっさりあり、ケアリー夫人は素早くパレスチナのことを書いた本を二冊みつけだした。フィリップが泣いた姿をみせないようにと、彼女はわざと咳《せき》払いをした。泣いている最中にとびこんでいったら、彼がいやな思いをするだろう、という配慮からだった。それから、ドアのハンドルをガチャガチャいわせた。中にはいっていくと、フィリップは祈祷書に目を凝《こ》らし、自分が泣いていたのをみられまいとして、両手で目をかくしていた。
「もうお祈りの文章は憶えたこと?」彼女はたずねた。
彼は、ちょっと、返事をしなかった。声を出す自信がないのが、彼女にはわかった。彼女は妙にあたふたした。
「どうしても憶えられないの」ひとあえぎして、彼はとうとういった。
「まあ、いいことよ」彼女はいった。「憶える必要はないことよ。お前のために絵本をみつけてあげたの。さあ、わたしの膝にお乗んなさい。いっしょにそれをみてみましょう」
フィリップは椅子からスルリとおり、びっこをひきながら、彼女のところにいった。目をみられないようにと、目は伏せたままだった。彼女は両腕を彼のからだにまわした。
「みてごらん」彼女はいった、「これが主イエス・キリストのお生れになったとこよ」
彼女は、平らな屋根、小さなまるい屋根、回教寺院の尖塔《せんとう》のある東洋の町をみせた。前景には一団のヤシの木があり、その下で、ふたりのアラブ人と何頭かのラクダが休んでいた。フィリップは絵を手でさわり、家と遊牧民とゆるい服にふれたがっているようだった。
「そこに書いてあるの、読んでちょうだい」彼はたのんだ。
ケアリー夫人は落ち着いた声で向いのページを読んでやった。それは、多少いかめしくはあっても、一八三〇年代のある東方旅行者のロマンティックな話で、バイロン(イギリスローマン派の詩人。ギリシャで死亡)やシャトーブリアン(フランスの作家・政治家)につづく世代をつつんでいた東洋の馥郁《ふくいく》たる香の強いものだった。やがてすぐ、フィリップは彼女をさえぎった。
「もうひとつ絵をみたいな」
メアリー・アンがはいってきて、ケアリー夫人が立ちあがり、お茶の準備の手助けをはじめると、フィリップはその本を両手にとり、急いで絵をめくっていた。お茶のために本を下におかせるのにも、伯母が骨を折ったほどだった。苦労してお祈りを憶えこもうとしていたのをもう忘れ、涙を流していたのも忘れていた。翌日は雨で、彼はまた、その本をくれ、といい、ケアリー夫人はよろこんでそれをわたしてやった。夫とフィリップの将来を語り合ったとき、夫妻とも彼が聖職につくのを希望していることがわかり、イエスの存在によって聖地になっているさまざまな場所を伝えているこの本にたいするこのひたむきな気持ちは、よい兆候のように思われた。少年の心は生れながら神聖なものに向いているようだった。だが、一日か二日すると、彼はもっと本を要求した。ケアリー氏は少年を自分の書斎につれてゆき、挿し絵入りの本を入れてある書棚《しょだな》を教え、ローマ関係の本をわたしてやった。フィリップはそれをガツガツして受けとったが、絵が新しい興味をかき立てたのだった。彫刻の絵のある個所の前後のページを読んで、それがどんなことについての絵かと調べはじめ、間もなく、おもちゃの興味をすっかり失ってしまった。
ついで、だれもそばにいないときに、彼は自分で本をえらび、たぶん、受けた最初の印象が東洋の町のためだったのだろうが、興味の中心はレヴァント(シリア・レヴァノン・パレスチナといった東部地中海沿岸諸国)の本に向けられることになった。回教寺院や豪華な宮殿の絵をみていると、胸がワクワクと高鳴ってきたが、コンスタンチノープルのことを書いた本に、彼の想像力を特別かき立てた絵が一枚あった。それは、千の円柱広場と呼ばれているビザンチンふうの水槽、世間の人は空想を走らせて、途方もなく大きなものと考えているもので、彼が読んだ伝説によれば、その入り口にいつも一|艘《そう》の舟がつながれ、不用心な男の心をさそい、勇気をふるいおこして暗渠《あんきょ》にはいっていった者は二度とは帰って来ない、ということだった。その舟が果てしなくつづく柱の小道をつぎからつぎへと流れていくのか、それとも、最後にはある摩訶《まか》ふしぎな館《やかた》にたどりつくのか、どうなんだろう? とフィリップは考えていた。
ある日、彼に幸運なことが起きた。たまたまレイン(エドワード・ウィリアム。一八〇一〜七六。すぐれたイギリスの東洋学者)の訳した『千一夜物語』に出逢うことになったからである。最初絵に魅せられ、ついで、まず魔法をあつかった物語を読みはじめ、それからほかの物語にうつり、好きな物語はくりかえしくりかえし読みふけった。彼の頭は、もうそれでいっぱいだった。自分のまわりの生活は一切忘れていた。昼食に呼ばれても、二度三度呼ばれてはじめて、それに気づくくらいの熱中ぶりだった。それと気づかず、少年はこの世でいちばん楽しい習慣、読書の習慣を身につけた。こうして自分が人生のすべての苦難からの逃避所をつくっているのを、少年は知らないでいた。自分のためにじっさいの世界ではない世界をつくりあげ、それが日常の真実の生活をにがにがしい失望の種にすることになるということを、少年は、まだ、知らないでいた。やがて、彼はほかのものにうつっていった。彼の頭は早熟だった。伯父と伯母は、彼が本に没入して面倒もかけず、さわぎもしないので、彼のことで気をもまなくなった。ケアリー氏はたくさん本をもっていたので、それを憶えてはいず、読むことはほとんどしていなかったので、ただ安いからというだけでいろいろなときに買いこんできた雑本類のことは、すっかり忘れていた。説教集、旅行記、聖者と教父の伝記、教会史のなかに、たまさか古い小説がはいっていて、そうしたものを、フィリップはとうとうみつけだした。本の題でそういった本をえらび、最初に読んだのは『ランカシャーの魔女たち』(トマス・シャドウェルの作品)で、つぎに読んだのは『あっぱれクライトン』(ジェイムズ・バリーの一九〇二年の作品)、それから数多くのものがつづいた。おそろしい峡谷《きょうこく》のへりぞいに馬で進む孤独なふたりの旅人で本がはじまれば、これで大丈夫、と彼は心得ていた。
もう夏になった。老人の水夫だった植木屋が彼のためにハンモックをつくり、しだれ柳《やなぎ》の枝のあいだにそれをつってくれた。ここで、ながい何時間ものあいだ、牧師館にやってくる人の目をのがれて、彼は横になり、本をむさぼり読んだ。時はうつり、七月になり、八月がやってきた。日曜日には、よそ者が教会につめかけ、献金はときどき二ポンドにもなった。牧師も夫人も、この時期には、庭から外にそう出なかった。ふたりとも知らぬ顔をきらい、ロンドンからの避暑客には嫌悪《けんお》の情をもっていたためだった。向いの家を、六週間、ふたりの小さな少年をつれた紳士が借りていて、フィリップに、家に来て子供たちと遊んでくれないか? といってきたが、ケアリー夫人は慇懃《いんぎん》にそれを断った。ロンドンから来た小さな少年のためにフィリップがわるい影響を受けるのを心配したからだった。フィリップは将来牧師になる身、悪に染っては困る、というわけだった。夫人は、フィリップの中に子供のサムエル(ヘブライの士師《はじ》(裁判官)で予言者。サムエルの前書一ノ三に示されている)の姿をみたい、と思っていたのである。
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ケアリー夫妻は、フィリップをターカンベリーのキングズ・スクールに出そうと決心した。近くの牧師は息子をこの学校に入れていた。そこは、ながい伝統で、大聖堂と結びつき、そこの校長は名誉大聖堂参事会員、かつての校長のうちには、大執事だった人もいた。少年はそこで聖職をめざすようにしこまれ、そこの教育は、神の奉仕に一生をささげる覚悟を正直な少年に植えつけるものだった。そこには付属の予備校があり、フィリップはここに入れられることになった。九月の終りのある木曜日の午後、ケアリー氏は少年をターカンベリーにつれていった。この日一日、フィリップは興奮し、ひどくおびえていた。学校生活についての彼の知識といえば『少年新聞』で読んだいくつかの物語、それに『エリック物語』(キャンタベリーの首席司祭だったフレデリック・ウィリアム・ファラーの学校生活を描いた教訓物語)だけだった。
ターカンベリーで汽車からおりると、フィリップは不安で胸がムカムカし、馬車で町にゆく途中、青くなっておしだまっていた。学校の正面の高い煉瓦の壁は、監獄の様相を与えていた。そこに小さな戸がついていて、鐘を鳴らすと、それは開かれ、むさくるしいきたない男が出てきて、フィリップのブリキのトランクと木箱(イギリスで寄宿生が自宅から菓子や本など入れてもっていくもの)を受けとった。ふたりは応接間に案内されたが、そこにはどっしりとした醜悪な家具がつめこまれ、壁ぞいにグルリとおかれたそろいの椅子は、無気味なきびしさをあらわしていた。ふたりは校長のあらわれるのを待っていた。
「ウォトソン先生って、どんな人なの?」しばらくしてから、フィリップはたずねた。
「みればわかるよ」
また、間《ま》が起きた。ケアリー氏は、どうして校長が来ないのだろう? と考えていた。やがて、フィリップは勇気をふるいおこしてしゃべりだした。
「ぼくが|えび《ヽヽ》足だって、校長先生にいってちょうだい」彼はいった。
ケアリー氏がその返事をまだしないうちに、ドアがいきなり開き、ウォトソン先生がサッとはいってきた。フィリップの目に、その人物は巨人のように映った。背は六フィート以上、肩幅はひろく、手はとてつもなく大きく、赤髯はすごいものだった。冗談まじりに陽気な話をする男だったが、その活動的な陽気さは、フィリップの心をふるえあがらせた。彼はケアリー氏と握手をし、ついで、フィリップの小さな手をにぎった。
「やあ、きみ、学校に来てうれしいかい?」彼は叫んだ。
フィリップは顔を赤らめ、答える言葉に窮した。
「齢はいくつだい?」
「九歳です」フィリップは答えた。
「先生《サー》といわなければいけないよ」伯父は注意した。
「学校にはいろいろと勉強することがあるぞ」校長先生は陽気に咆《ほ》え立てた。
子供に自信を与えようと、彼はごつい指で少年をくすぐりはじめた。フィリップは、照れるやら不愉快やらで、からだをねじっていた。
「さし当って、子供は小寄宿舎に入れることにしましたよ……。きみはそこを好きになるね、どうだい?」彼はフィリップにいいそえた。「そこには生徒が八人しかいないんだ。新入りの感じはしないだろう」
そのとき、ドアが開き、ウォトソン夫人がはいってきた。浅黒い女で、黒い髪を真ん中できちんとわけていた。唇は目につくほど厚く、小さな鼻をし、目は大きくて黒かった。そのようすには、妙な冷たさがただよい、口はほとんどきかず、微笑は、口数に上まわって、めったに示さなかった。夫はケアリー氏を彼女に紹介し、なれなれしくフィリップを彼女のほうにつきだした。
「新入生だよ、ヘレン。名前はケアリーだ」
ひと言もしゃべらずに、彼女はフィリップと握手し、そのままおしだまって腰をおろしたが、そのあいだに、校長は、フィリップの知識はどの程度か? どんな本を読んでるのか? とたずねていた。ブラックステイブルの牧師は、ウォトソン先生のさわがしい元気ぶりにいささか当惑気味、すぐにサッと立ちあがった。
「これで、フィリップはそちらにお預けしたほうがいいと思いますが……」
「いいですとも」ウォトソン先生はいった。「ご心配なく。とっととのびていきますよ。どうだい、きみ?」
フィリップの返事を待たずに、大男はワッと咆えるように高笑いをした。ケアリー氏は、フィリップの額にキスをしてから、部屋を出ていった。
「さあ、来い、きみ」ウォトソン先生は叫んだ。「教室をみせてやろう」
彼は巨人の大股《おおまた》で応接間からサーッととびだし、フィリップは、あわててびっこをひきながら、それにつづいた。彼がつれていかれたのは細ながい、ガランとした部屋で、ふたつのテーブルが縦にならべられ、テーブルのそれぞれの側に、木の長腰掛けがおかれてあった。
「だれも、まだ、ここには来んようだな。運動場だけみせてやるからな、あとは自分でなんとかやるんだ」
ウォトソン先生は先に立って歩いていった。フィリップの目にはいったのは大きな運動場、三方に高い煉瓦の壁がめぐらされていた。壁のない面には鉄の棚《さく》が張られ、その向うにひろびろとした芝生、さらにその向うにはキングズ・スクールの建物の一部がみえていた。小柄な少年がひとり、歩きながら小石を蹴っとばして、うら悲しげに歩いていた。
「おい、ヴェニング」ウォトソン先生はどなった。「いつもどってきたんだ?」
少年は前に出てきて、握手をした。
「これは新入生だ。お前より齢も大きく、からだもでかいんだ。だから、いじめたりしてはいかんぞ」
校長先生は愛想よくふたりをねめつけ、少年たちはその咆え声でふるえあがった。それから、ワッとひと笑いして、向うにいってしまった。
「きみの名前は?」
「ケアリーだよ」
「きみのお父さんはなにをしてるんだい?」
「死んじまったよ」
「ヘエッ! お母さんは洗ってくれるのかい?」
「お母さんも死んじまったよ」
この返事で相手は多少ヘドモドするもの、とフィリップは考えていたが、ヴェニングはそんなことでふざけ気分を消してしまう少年ではなかった。
「じゃ、前には洗ってくれたかい?」ヴェニングはしつこくつづけた。
「うん」プリプリしてフィリップは答えた。
「じゃ、お母さんは洗濯女だったんだね?」
「ううん、ちがうさ」
「じゃ、洗いはしなかったわけだ」
チビの少年は、この弁証法の成功で、キーキーいってよろこんだ。それから、フィリップの足に目をつけた。
「きみの足はどうしたんだい?」
フィリップは、本能的にその足をかくそうとし、しっかりとした足のうしろにそれをひっこめた。
「|えび《ヽヽ》足なんだよ」
「どうしてそうなったんだい?」
「いままでズーッとそうなんだ」
「みせてくれ」
「いやだよ」
「じゃ、いいとも」
チビの少年は、こういうと同時に、フィリップの向う脛《ずね》をしたたか蹴っとばしたが、これを予期していなかっただけに、身の守りようがなかった。痛みは痛烈、彼はあえいだが、その痛みより大きかったのは、驚きだった。ヴェニングがどうして自分を蹴っとばしたのか、見当もつかなかった。一発打ちかえす心のゆとりもなかった。その上、相手の少年は自分より小さく、自分より小さな者を打つのは卑劣だということを、『少年新聞』で読んでいた。フィリップが脛をさすっていると、べつの少年があらわれ、フィリップをひどい目にあわせた少年は、そこから去っていった。やがて気づいたことだが、このふたりは自分のことを話しているのだった。彼らが自分の足をみているのを感じた。彼はカッカとし、気分がわるくなった。
だが、ほかの連中がたくさんやってきて、その数は、さらにましていった。彼らは、休みのあいだにやったこと、どこにいったか、どんなにすばらしいクリケットをやったか、を話しはじめた。新入生が数人姿をあらわし、やがて、フィリップは、いつの間にか、この連中と話をしていた。彼は照れて、神経質になっていた。感じよくふるまおうとは思いながらも、なにかいうことを考えだせなかった。いろいろと質問を浴びせられ、それにさっさと答えていた。ある少年が、クリケットはできるかい? と彼にたずねた。
「いいや」フィリップは答えた。「|えび《ヽヽ》足なんでね」
相手の少年は、サッと目を伏せ、顔を赤くした。まずい質問をしてしまった、と思っているのが、フィリップにはわかった。相手は恥ずかしがり屋で、わびの言葉もいえず、気づまりなふうにフィリップをながめていた。
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十一
つぎの朝、鐘が鳴ると、フィリップは目をさまし、びっくりして小寝室(寄宿舎などの大寝室の中を区切って小さくした部屋)をみまわした。ついで、少年の声が歌いだして、自分がどこにいるかがわかってきた。
「起きたかい、シンガー?」
小寝室の区切りは磨きあげた松材づくりのもので、前には緑のカーテンがかかっていた。その当時、通風にはほとんど注意が払われず、朝寄宿舎に風を入れるとき以外、窓は閉じたままになっていた。
フィリップは起き、ひざまずいて、お祈りをした。寒い朝で、ちょっとブルブルしたが、きちんと服をつけるまでグズグズしているより、寝巻きのままでお祈りをしたほうが、神さまがおよろこびになる、と彼は伯父から教えこまれていた。この言葉で、彼はべつに驚いてはいなかった。自分は神さまの子、神さまは信者の忍ぶ不快さをりっぱなことと評価してくださるのを、理解しはじめていたからだった。それから洗面をした。五十人の寄宿生にはふたつの風呂場があり、それぞれの少年は、週に一回、入浴した。そのほかは、洗面台の小さな洗面器でやることになっていて、それぞれの小寝室の家具といえば、この洗面台、それに寝台と椅子ひとつだけだった。着がえのあいだ、少年たちは陽気にしゃべり立て、フィリップは聞き耳を立てていた。それから、また鐘が鳴り、彼らは下に駆けおりてゆき、教室のふたつのながいテーブルのそれぞれの側にある長椅子に坐り、妻と召使いたちをしたがえて、ウォトソン先生が姿をあらわし、腰をおろした。
ウォトソン先生は重々しく祈祷書を読みあげて、大声で雷のようにひびく彼の祈願は、それぞれの少年に名ざしの脅迫のようだった。フィリップは、不安そうにそれに聞き入っていた。ついで、ウォトソン先生は聖書からの一章を読み、召使いたちはゾロゾロとならんで出ていった。それと入れかわりに、きたならしい若い男が大きなお茶の容器を運びこみ、つぎには、バターつきパンの大皿をもってきた。
フィリップは食事に神経質で、粗末なバターをぬったパンには胸をムカムカさせていたが、ほかの少年たちがそれをかきさらっているのをみて、その例にならった。彼らはみんな、びんづめの肉とかそういったものをもっていて、それは、木箱に入れて持参したものだった。「特別食」をもらっている者があり、それは卵かベーコン、これはウォトソン先生の懐《ふところ》を温めていた。フィリップにこうしたものを出そうかどうか? とウォトソン先生がたずねたとき、ケアリー氏は、子供をあまやかしてはいけないと思う、と答えた。ウォトソン先生はこの意見に全面賛成で――成長する子供にはバターつきパンがいちばんよいと思う――だが、あますぎる両親のうちには、それを強くたのみこむ者もいるのだ、といっていた。
「特別食」の学生にたいしてある種の斟酌《しんしゃく》が払われているのに気づいたので、ルイーザ伯母さんに便りをするとき、そのことをたのんでみよう、とフィリップは考えた。
朝食後、生徒はブラブラと運動場に出ていった。通学の生徒がだんだんとこの運動場に集ってきた。彼らは、この地区の聖職者、連隊本部留守部隊の将校、この古い町の商工業者の子弟だった。やがて鐘が鳴り、全員ゾロゾロと校舎にはいっていった。校舎は大きな、ながい部屋とそこにつづく小部屋に分けられていて、大部屋の両端で、ふたりの助教が一年生と二年生の授業をした。小部屋は校長のウォトソン先生用のもので、彼は三年生を担当した。予備校と本校の結びをつけるために、卒業式と通信簿では、この三つのクラスは正式には上、中、中の初等と呼ばれていた。フィリップの入れられたのは、中の初等だった。担任はライス先生で、感じのいい声をした赤ら顔の先生だった。彼は生徒に感じよくふるまい、時間はズンズンとすぎていった。十時四十五分になり、十分の遊び時間で外に出されたとき、フィリップはびっくりしていた。
全校生徒はワッと運動場にとびだしていった。新入生は真ん中に出るように指示され、ほかの者は向い合った壁ぞいにならべられ、「豚は真ん中」の遊びがはじまった。古い生徒が壁から壁まで走り、新入生はそれをつかまえようとし、だれかがつかまると、「一、二、三、ぼくの豚だぞ」とまじない文句がとなえられ、その生徒は捕虜になり、立場を変えて、まだつかまらない者を捕える手助けをした。フィリップは自分のわきを走っている少年をみつけて、それを捕えようとしたが、びっこでどうにもならず、逃げ手のほうは、それに乗じて、彼の守備陣地に突進してきた。ついで、生徒のひとりが、フィリップの不細工な走り方の真似をするすばらしい考えに思いつき、ほかの少年たちがそれをみて笑いだし、全員がそれにならった。こうして彼らはフィリップのまわりを走り、グロテスクなびっこをひき、甲《かん》高い笑い声を立てて、キーキーワーワーとわめいた。彼らは、この新しい遊びの楽しさに夢中になり、どうにもおさえようのない陽気さで息をむせかえらせていた。ひとりがフィリップをひっくりかえし、彼はいつものとおりドシンと倒れて、膝に傷をした。彼が起きあがると、笑いはいっそう高まった。だれかがうしろから彼をつき、べつの生徒が彼をつかまえなかったら、また倒れてしまうところだった。フィリップの不恰好さを楽しんで、遊びどころのさわぎではなくなった。ひとりが奇妙なヨタヨタ足のびっこのひき方を発明し、はかの者はそれをこの上なく滑稽《こっけい》なものと考え、笑いで地面に倒れてころげまわっている者もいた。
フィリップはおびえきっていた。どうして自分が笑われているのか、どうとも納得がいかなかった。心臓は早鐘をついたよう、息もほとんどできなかった。このおそろしさは、いままでに味わったことのないものだった。彼の身ぶりを真似して少年たちがまわりを走っているあいだ、彼はうつけたように立ちつくした。自分たちをつかまえてみろ、と彼らは彼に叫びかけたが、彼は動かなかった。これ以上自分の走っているさまをみられたくはなかったからだ。ただ渾身《こんしん》の力をふりしぼって、泣くまいとした。
突然、鐘が鳴りわたり、全員ゾロゾロと教室にもどっていった。フィリップの膝からは血が流れ、全身ほこりだらけ、髪はバラバラになっていた。数分間、ライス先生は自分のクラスを静めることができなかった。この奇妙な物珍しさで、生徒の興奮はまださめず、一、二の者がソッと自分の足をみおろしているのを、フィリップは知っていた。そこで、足をベンチの下にかくしてしまった。
午後、生徒はフットボールに出かけたが、昼食後、外に出ようとすると、ウォトソン先生はフィリップを呼びとめた。
「フットボールはむりだろう、ケアリー?」彼はたずねた。
フィリップは、照れて真っ赤になった。
「ええ、できません」
「よし、よし。フィールドにいったらいいな。それくらいなら歩けるね、どうだい?」
フィールドがどこにあるのかわからなかったが、彼は返事をしてしまった。
「ええ、大丈夫です」
少年たちはライス先生に引率されて出かけたが、ライス先生はチラリとフィリップをながめ、まだ着換えをしていないのをみて、どうしてフットボールをしないのか? とたずねた。
「それをしなくていいと、ウォトソン先生がおっしゃいました」フィリップは答えた。
「どうして?」
少年たちは先生をとりかこみ、ジロジロと彼をみていたので、突然|羞恥《しゅうち》感がフィリップをおそった。彼はなにも答えずに、目を伏せたままでいた。ほかの者がかわって返事をした。
「|えび《ヽヽ》足なんです、先生」
「ああ、わかった」
ライス先生はまだとても若く、一年前に学位をとったばかりだった。彼は、突然、うろたえ、本能的には少年に許しを求めようとしたが、妙に照れて、それがいいだせなかった。彼の声はつっけんどんな大声になった。
「さあ、お前たち、なにをグズグズしてるんだ? さあ、進め、進め」
一部はもう出発していたが、のこった連中も、いま、二、三人ずつ群れになってつづいて動きだした。
「わたしといっしょに来たらいい、ケアリー」先生はいった。「道を知らないんだろう、どうだい?」
フィリップには相手の親切がわかり、鳴咽《おえつ》がこみあげてきた。
「早くは歩けないんです、先生」
「じゃ、わたしもゆっくり歩くことにしよう」ニッコリして、先生はいった。
フィリップの心には、やさしい言葉をかけてくれた赤ら顔のありきたりの青年にたいする愛情が湧いてきて、急に、自分の不幸が軽くなったように感じた。
だが、夜、床にゆき、服をぬいでいるとき、シンガーという少年が自分の小寝室から出てきて、フィリップのところに頭をつっこんだ。
「ねえ、きみの足をみせてくれ」彼はいった。
「いやだよ」フィリップは答えた。
彼はサッと寝台にとびこんだ。
「いやとはいわせないぞ」シンガーはいった。「おい、メイソン」
つぎの小寝室の少年は、あたりを警戒していたが、声をかけられると、スルリとはいってきた。ふたりはフィリップにおそいかかり、布団《ふとん》をはぎとろうとしたが、彼はそれをしっかりとおさえつけていた。
「どうしてぼくを放っておいてくれないんだい?」彼は叫んだ。
シンガーはブラシをとり、その背でケットをつかんでいるフィリップの手をたたいた。フィリップは大声で泣きだした。
「どうして静かに足をみせられないんだ?」
「いやだよ」
しゃにむにフィリップは拳《こぶし》を固めて、自分を苦しめている少年を打ったが、不利な姿勢にあり、相手は彼の手をつかみ、ねじりはじめた。
「ああ、やめて、やめて!」フィリップはいった。「腕が折れちまうよ」
「じゃ静かにして足を出すんだ」
フィリップはすすりあげ、あえいだ。少年はもう一度腕をねじりあげたが、たまらない痛さだった。
「わかった。みせてあげるよ」フィリップはいった。
彼は自分の足を出した。シンガーはまだ片手でフィリップの手首をおさえて、不具の足をジロジロとながめた。
「ひどいもんだな」メイソンはいった。
もうひとりべつの少年がはいってきて、これもながめた。
「ウフッ!」胸をムカムカさせて、彼はいった。
「まったく、奇妙なもんだな」顔をしかめて、シンガーはいった。「固いのかな?」
まるで足がべつの生き物といったように、彼は人さし指の先で、用心深く、それにさわってみた。突然、ウォトソン先生のズシンズシンという足音が階段に聞えてきた。みなは布団をフィリップに投げつけ、脱兎《だっと》のように自分たちの部屋に逃げこんだ。ウォトソン先生が部屋にはいってきた。爪先立ちになれば、カーテンをかけてある横棒越しに小寝室をのぞきこむことができ、それを二、三の部屋でやった。少年たちはもう寝台にもぐりこみ、先生は灯りを消して、出ていった。
シンガーがフィリップに声をかけたが、彼は返事をしなかった。泣き声を出すまいとして、枕を噛んでいたのである。泣いていたのは、与えられた痛みのためではなく、足をみられたときの屈辱感のためでもなく、苦痛に堪えかねて自分から足をみせてしまっただらしない自分にたいする激しい怒りのためだった。
それにつづいて、自分の生活のみじめさがヒシヒシと身にしみて感じられた。この不幸が、永遠につづくものと、子供心に思われたからだった。どうという特別なわけはなかったのだが、エマに寝台からつれだされて母親のわきにおかれたあの寒い朝のことが、頭に浮んできた。そのとき以来、それを考えたことはなかったが、いま、からだを抱いてくれた母親の腕の温かみが思い出されてならなかった。突然、自分の生活、母親の死、牧師館での生活、学校でのみじめな二日間が夢のよう、翌朝目をさませば、家にもどっているだろう、という幻想におそわれた。そう考えると、涙は乾きあがった。この不幸はひどすぎる、夢にすぎないのだ、お母さんは生きている、もうすぐエマがやってきてやすむことだろう。彼は眠りこんだ。
だが、翌朝彼が目をさましたのは、鐘の音に合せてのこと、最初に目に映ったのは、自分の小寝室の緑のカーテンだった。
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十二
時の経過とともに、びっこにたいするフィリップの関心は消えていった。それは、赤毛やひどいでぶと同じように、承認されたものになったが、反面、彼はすごく敏感になった。走ればびっこが目立つというわけで、できるだけ走らないようにし、独得の歩き方をするようになった。できるだけジッと立ち、|えび《ヽヽ》足はもうひとつの足のうしろにひっこめて、注意をひかないようにつとめ、いつも、それにたいする言及に気を配っていた。ほかの少年の遊びに参加できなかったので、彼らの生活は自分の生活とは縁のないもの、彼らのすることには、ただ外から、興味を寄せているだけで、両者のあいだには柵《さく》があるような感じだった。彼がフットボールのできないのは、彼がわるいからだ、と少年たちは考えているらしかったが、彼はどうしても、彼らに実情を納得させることができなかった。放りだされている場合が多かった。従前よくしゃべる少年だったが、だんだん無口になった。自分とほかの者のちがいを考えはじめていたのだった。
寄宿舎でいちばん大きな少年はシンガーで、フィリップをきらい、齢のわりに小柄なフィリップは、虐待をそうとう受けることになった。学期のなかばころ、|ペン先《ニツプズ》という遊びが学校に流行しだした。これは、ふたりで、テーブルか長椅子の上で鉄のペン先を使って、おこなわれるものだった。こちらでは爪で自分のペンをおしてゆき、その先を敵のペン先の上に乗せなければならず、相手のほうでは、これを阻止しようと動き、自分のペン先をこちらのペンの上に乗せようとする。ペン先がうまく乗ると、親指のつけ根のふくらみに息をふきかけ、それを二本のペン先に強くおしつけ、どちらもうまくついたままでもちあげることができたら、ペン先はふたつともこちらのものになる勝負だった。間もなく、目にはいるものといえば、この遊びをしている少年たちの姿ばかりということになり、巧者《こうしゃ》な者はどっさりペン先をかかえこんだ。だが、やがて、ウォトソン先生はこれを一種の賭《か》けと断定、この遊びを禁じ、少年たちがもっているペン先をぜんぶ没収した。フィリップはとても上手《じょうず》で、悲しい気分を味わいながら獲物を提出することになったが、まだそれをしたくて、指がムズムズしていた。数日後、フットボールのフィールドにゆく道中、彼は店にとびこんで、Jぺンを一ペニー分買いこんだ。彼はそれをバラにしてポケットにいれ、感触を楽しんでいた。やがて、この事実はシンガーの発見するところとなり、シンガーもペン先を献納《けんのう》したのだったが、ひとつバカでかいジャンボーというペン先だけは手許《てもと》にのこし、これはまず不敗のペン先、そこで、フィリップのJペンをまきあげるこの機会逸すべからずということになった。小さなペン先の不利さは百も承知だったが、フィリップはいい度胸《どきょう》の持ち主、一か八《ばち》かひとつやってみようという気になった。その上、断っても通じないことは、わかっていた。一週間この遊びはせず、そのためにゾクゾクとした興奮をおぼえながら、坐りこんでこの勝負にとりかかった。早いとこ、小さなペン先ふたつはまきあげられ、シンガーは悦《えつ》に入っていたが、三回目の勝負のとき、どうしたはずみか、ジャンボーがスルリとまわってはずれ、フィリップは自分のJペンをそれに横向けに乗せることができ、彼は勝鬨《かちどき》をあげた。その瞬間、ウォトソン先生がはいってきた。
「なにをしてるんだ?」彼はたずねた。
彼はシンガーからフィリップヘと目をやったが、どちらも返事をしなかった。
「このバカげた遊びが禁止されてるのを知らんのか?」
フィリップは、ドキドキしていた。なにが起きるかがわかっていて、すごくこわかったからだったが、その恐怖の情のなかには、ある喜悦の情もまじっていた。まだ鞭《むち》打ちの罰を食ったことがなく、もちろん、痛いものではあろうが、そのあとでは自慢の種になることだったからである。
「校長室に来い」
校長先生はクルリとまわれ右をし、ふたりは、ならんでそのあとについていった。シンガーはフィリップに耳打ちした、
「あれを食らうぞ」
ウォトソン先生はシンガーを指さした。
「前にかがめ」彼は命じた。
フィリップは、真っ青になって、ひと打ちごとに少年が身をふるわしているのをながめ、三回打たれたあとでは、泣き声が聞えてきた。そのあと、三つ打擲《ちょうちゃく》がつづいた。
「よしっ、立てっ」
シンガーは立ちあがったが、涙が頬に流れていた。フィリップは前に出ていった。ウォトソン先生は、ちょっと彼をみた。
「お前を鞭では打たんぞ。新入生だからな。それに、びっこは打つことができん。ふたりとも帰れ。いたずらは二度とするな」
ふたりが教場にもどると、なにか神秘的なふうに事件をかぎつけていた一団の少年たちが、待ち構え、すぐ、むきになって質問をシンガーに浴びせはじめた。シンガーは、痛みで顔を赤くし、涙のあとをまだ頬にのこしたままで、それに対応した。彼は頭で、自分の少しうしろに立っているフィリップをさした。
「びっこだから、罰を受けなかったんだ」プリプリして彼はいった。
フィリップはおしだまって立ち、顔を真っ赤にしていた。少年たちの軽蔑のまなざしを感じとったからだった。
「何回やられた?」ある少年がシンガーにたずねた。
だが、その返事はなかった。痛い目にあって、彼はプリプリしていた。
「もうお前相手のペン先遊びはお断りだぞ」彼はフィリップにいった。「うまくできてらあ、お前にはなんの心配もないんだからな」
「しようと、こっちでいったんじゃないぞ」
「なにをっ!」
彼はサッと足をのばして、フィリップをひっくりかえした。フィリップの立ち方は、いつも、そうとう不安定、彼はもんどり打って倒れた。
「びっこめ!」シンガーはいった。
のこりの学期ちゅう、彼はフィリップをいじめぬいた。フィリップは彼と出逢わぬようにしてはいたものの、学校はとてもせまく、逢わずにとおすことは不可能だった。シンガーと仲よく愉快にやっていこうとつとめ、恥ずかしいとは思いながらも、ナイフまで買ってご機嫌とりをした。だが、ナイフはとっても、相手はおさまらなかった。一度か二度、もう我慢ならなくなって、自分より大きなシンガーをなぐり、蹴っとばしたが、相手はズッと強く、フィリップの力ではどうにもしようがなく、いつも、多少の拷問の苦しみを味わわされてから、屈服の憂《う》き目をみることになった。これは、フィリップの心をうずかせ、わびをいう屈辱は、もう我慢ならぬことだった。だが、それは、堪えがたい苦痛の手段で、彼からしぼりとられた。
ここでもっとつらいのは、このみじめさが果てしなくつづくように思われることだった。シンガーはまだ十一、十三になるまで進学できなかった。のがれようのない拷問者といっしょに二年間暮さねばならぬことを、フィリップは知っていた。彼が幸福になれたのは、勉強しているとき、それに、床にはいったときだけだった。ときどき、例の奇妙な感じが胸に湧き起り、このみじめな生活すべては夢にすぎない、朝目をさませば、ロンドンの自分の小部屋にもどっているだろう、と考えていた。
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十三
二年がすぎ、フィリップはもう十二になろうとしていた。三年生で、成績は二、三番以内、何人かの少年が進学するクリスマスのあとでは、首席になるはずだった。もうさまざまな賞、粗末な紙のつまらない本だが、学校の紋章で飾られた豪華な装幀《そうてい》の本をいくつか獲得していた。この地位のおかげで、彼はいじめから解放され、そう不幸を味わってはいなかった。仲間の者は、びっこだからというわけで、この成功を容認していた。
「結局んとこ、あいつが賞をとるのは、とってもらくなことなのさ」彼らはいっていた、「ガリ勉以外に、することはないんだからな」
はじめのころのウォトソン先生をこわがる気分は、もう消えていた。その大声に馴れ、校長の手がズシリと肩に乗せられると、そこに愛撫がこめられているのを、フィリップは漠然と感じとっていた。彼の記憶力はよく、それは、知的な能力より学校の成績に適するものだった。予備校を卒業するときに奨学資金を獲得するのを、ウォトソン先生から期待されていることが、彼にはわかった。
だが、彼の自意識は、とても強くなっていた。生れたての子供は、周囲の事物より自分のからだがもっと緊密に自己の一部であるのを理解せず、自分の足の指とじゃれていても、それが、わきにあるおもちゃのガラガラ以上に自分のものであるのを少しも感じていない。からだの事実を理解するようになるのは、痛みをとおして漸進的なものなのだ。個人が自分を意識するには、同じ種類の経験が必要だが、肉体と人格のちがいは、すべての人間が自分の肉体をひとつの別個で完全な有機体として同じように意識はするものの、自分を完全な別個な人格として意識する点で、すべての人間が平等ではない、という点にある。他人とはちがうという感情は、たいていの者には、思春期とともにおとずれるが、それは、かならずしも、自分と他人のちがいを当の本人に気づかせる程度にまで発達させるということではない。人生での幸福者は、蜜蜂の巣の中の蜜蜂のように、自己をほとんど意識していない者である。幸福の最高のチャンスをもっているからなのだ。その活動は万人に共通するもので、そのよろこびは、共通に楽しまれるというだけで、よろこびになる。聖霊降臨祭後の第一月曜日にハムステッド・ヒースで踊り、フットボールの試合で大声を張りあげ、ペル・メルのクラブの窓かち王家の行列に歓声をあげている連中に、そうした人びとをみつけだすことができる。人間が社交性のある動物と呼ばれてきたのは、こうした連中がいるためである。
フィリップが子供時代の無邪気さからにがにがしい自己の意識にめざめていったのは、自分の|えび《ヽヽ》足がひきおこした嘲笑のためだった。彼の場合の事情は特殊性がとても強くて、ふつうのことには十分に役立つ既製の規則をそれに当てはめるのはむりなこと、そこで、否応なく自分で考えなければならなくなった。彼が読んだ多くの本は、さまざまな観念を彼の頭につめこんだが、わずかしかそれを理解していなかったので、彼の想像力の範囲をいっそう拡大することになった。苦しみにあふれた羞恥《しゅうち》心の下で、なにかが成長しつづけ、おぼろげながらも、自分の人格を把握することになった。だが、それは、ときどき、彼に妙な驚きを与えた。彼は、理由がわからずに、物事をおこない、その後、それを思い起して、途方に暮れるのだった。
ルアードという少年がいて、フィリップと仲よくなったが、ある日、教室でいっしょに遊んでいるとき、彼は、フィリップの黒檀《こくたん》のペン軸《じく》でなにか手品をやりはじめた。
「バカな真似はするなよ」フィリップはいった。「こわすだけの話だからね」
「大丈夫さ」
だが、この言葉が少年の口をついて出るか出ないかに、ペン軸はポキンとふたつに折れた。ルアードは、オドオドしてフィリップのほうをみた。
「いやあ、ほんとうにわるかったね」
涙がフィリップの頬を流れ落ちたが、彼はなにもいわなかった。
「ねえ、どうしたんだい?」びっくりして、ルアードはたずねた。「これとそっくり同じもんを買ってくるよ」
「苦にしてるのは、べつにペン軸のことじゃないんだ」声をふるわせて、フィリップはいった。
「ただ、ママが死ぬすぐ前に、それをぼくにくれたからということだけなんだ」
「まったく、ほんとうにわるかったね、ケアリー」
「いいさ。きみがいけなかったからじゃないよ」
フィリップはふたつに折れたペン軸を手にして、それを打ちながめ、すすり泣きをおさえようとした。とてもみじめな気持ちだった。だが、その理由は、わからなかった。それというのも、このペン軸は、この前の休暇のとき、一シリング二ペンスでブラックステイブルで買ったのを、よく知っていたからだった。この悲痛な話をどうしてでっちあげたのか、見当もつかなかったが、その話がほんとうであるように、不幸感をかみしめていた。牧師館の信仰的な雰囲気と学校の宗教的色彩が、フィリップの良心をとても敏感にし、自分の不死の魂を手に入れようと、誘惑者の悪魔がいつも監視の目をゆるめていないという感情を、知らず知らずのうちに吸収していた。たしかに、たいていの少年以上にもっと誠実だったとは絶対にいえないにしても、嘘をつけば、かならず悔悛《かいしゅん》の情になやまされていた。
この事件のことを考えるにつけ、彼の心はひどく痛み、ルアードのところにいって、例の話はでっちあげのものだった、と告白しなければならない、と決心した。この世でいちばんおそれていたのは屈辱だったが、神の栄光のために身を屈辱にさらすという苦悶のよろこびを考えて、彼は、二、三日間、喜悦の情にひたった。だが、それ以上前進することはなかった。自分の悔悛の情を神にだけ表示するというもっと快適な方法で、自分の良心を満足させていた。だが、自分がつくりあげた話で自分がどうしてああも純粋に感動を受けたのかは、彼にはついぞわからぬことだった。よごれた頬を流れ落ちていった涙は、真実の涙だった。ついで、ある偶然の連想で、エマが自分の母親の死を伝え、泣いていたので口もきけなくなっていたのに、自分の悲しみをみせてあわれみの情をかけてもらおうと、ウォトキン姉妹に別れの挨拶をするんだといい張ったあの情景が、フーッと頭に浮んできた。
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十四
そのころ、熱狂的な信仰熱が学校じゅうにたかまっていた。わるい言葉はもう姿を消し、下級生のつまらぬ欠点は悪意をこめてながめられた。上級生は、中世期の諸侯のように、腕力をふるって下級生を迫害し、彼らに徳の道を歩ませようとしていた。
セカセカとした心で新しいものを貪欲に求めていたフィリップは、すごい敬神の情をいだくようになった。間もなく、聖書連盟に加入できると聞いて、ロンドンに手紙を出し、その詳細をたずねた。それは、申込み書に志願者の名前、年齢、学校を記入し、一年間毎晩所定の聖書の個所を読むという、署名づきの厳粛な宣誓書、半クラウンの請求ということだった。この半クラウンは、ひとつには、連盟の会員になりたがっている志願者の熱意の表示のため、またひとつには、事務費に当てるためだった。フィリップはきちんと書類と金を送り、折りかえし、暦《こよみ》と一枚の紙を受けとった。暦は一ペニーほどの安物、そこには毎日読むべき聖句が書かれ、紙の片面には神の羊飼いと一頭の羊の絵、裏には、赤線の装飾の枠に入れて、聖書を読む前にとなえなければならない短い祈りの言葉が印刷されてあった。
毎晩、フィリップは大急ぎで服をぬぎ、消灯前にこの仕事をする時間をつくりだそうと努力した。いつもやっていたように、残忍、いかさま、忘恩、不正直、低劣な狡猾《こうかつ》の物語を、せっせと批判をぬきにして読みふけった。自分の周辺の現実社会でだったら恐怖の情をひきおこした行動は、読書では、なんの文句もつけられずに心の中をとおりすぎていった。その理由は、神の直接の霊感のもとでそれがおこなわれたから、ということだけだった。連盟のやり方は、旧約聖書と新約聖書を交互に読むことで、ある夜、フィリップはつぎのようなイエス・キリストの言葉にゆき当った。
[#ここから1字下げ]
もし汝《なんじ》ら信仰ありと疑わずば、ただに此《こ》の無花果《いちじく》の樹にありし如きことを、為し得るのみならず、此の山に、『移りて海に入れ』ということも亦《また》成るべし。
かつ祈りのとき、何にても信じて求めば、ことごとく得るべし。(マタイ伝二一ノ二一、マルコ伝一一ノ二三)
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この言葉は特別な印象を彼に与えたわけではなかったが、その後二、三日して、日曜日に、町在住の聖堂参事会員が、たまたま、この言葉を説教の主題にした。この説教をフィリップが聞きたいと思っても、不可能だったろう。キングズ・スクールの生徒は聖歌隊のところに坐り、説教壇は翼堂(十字形教会堂の左右の翼の部)のすみにあって、説教者の背がおおむね彼らのほうに向けられていたからである。距離もそうとうはなれていて、合唱隊のところまで声をひびかすには、美声と演説法の両方をもった人でなければだめだった。その上、ながい習慣で、ターカンベリーの聖堂参事会員は、大聖堂教会で役立つどんなほかの資格より、学識でえらばれていた。だが、主題の言葉は、それをつい最近読んだためだったのだろうが、フィリップの耳にはっきりと聞え、いきなり、それが自分に適用できるように思われてきた。この説教ちゅう、ほとんどこの言葉ばかりを考え、その夜、床にはいると、福音書のその個所をめくり、もう一度、その言葉を読んでみた。そこに印刷されているすべてのことを無条件で信じこんではいたものの、聖書でじつにはっきりと語られているあることが、しばしば、神秘的なふうにべつのことを意味している場合があるのを、彼はもう知っていた。学校でたずねたいと思う人はいなかったので、クリスマスの休暇のときまで、それを胸にたたみこみ、家に帰ってから、その機会をみつけた。夕食後で、お祈りがたったいま終ったとこだった。いつものとおり、ケアリー夫人はメアリー・アンがもちこんできた卵を勘定し、それに日づけを書きこんでいた。フィリップはテーブルのところに立ち、なにげなく聖書のページをめくっているふりをした。
「ねえ、ウィリアム伯父さん、この聖句なんですが、これは、そのとおりのものなんでしょうか?」
彼は、たまたまその文をみつけたといったふうに、そこをさした。
ケアリー氏は眼鏡越しに目をあげた。彼は「ブラックステイブル・タイムズ」を炉の前にかざしていた。それは、印刷でまだベトベトして、その晩に配達され、読む前に、牧師は十分間それを乾かすことにしていた。
「どんな聖句なんだい?」牧師はたずねた。
「いや、もし汝ら信仰ありて疑わずば、山をも動かすべし、という言葉ですよ」
「聖書にそう書いてあれば、それはほんとうよ、フィリップ」皿籠をとりあげて、ケアリー夫人はやさしくいった。
フィリップは伯父のほうをみて、返事を求めた。
「それは信仰の事柄だな」
「山を動かせるとほんとうに信じたら、それができるということなんですか?」
「神さまのみ恵みによってな」牧師はいった。
「さあ、伯父さんにおやすみをいいなさい」伯母のルイーザはいった。「今晩、山を動かそうというのじゃないのでしょう、どう?」
フィリップは額に伯父のキスを受け、ケアリー夫人の先に立って二階にあがっていった。望む話は、これで手にはいった。小部屋は凍りついたように冷えていて、寝巻きを着こむとき、身がブルブルッとふるえた。だが、不快な状況のもとでお祈りをささげれば、それはもっと神さまのおぼしめしにかなうもの、と彼は感じていた。自分の手足の寒さは、全能の神さまへのささげ物だった。そして、この晩、彼はひざまずき、両手に顔を埋めて、自分の|えび《ヽヽ》足をなおしてください、と心の底から熱烈に神に祈った。それは、山を動かすのにくらべたら、じつにとるに足りないことなのだ。神さまは、その気になったら、それをしてくださるだろう、自分の信仰は完璧非の打ちどころなし、と彼は信じていた。翌朝、お祈りのしめくくりを同じたのみごとで結んで、この奇跡実現の日を決定した。
「おお、神さま、愛情深いご慈悲と善良さで、おぼしめしがおありでしたら、どうか、学校にもどる前の晩に、ぼくの足をおなおしください」
このくりかえし文句を定まった形にするのは、うれしい仕事だった。その後、いつもお祈りのあとで、牧師がひざまずいた姿勢から立ちあがる前にちょっと間をおく時間を利用して、彼はその文句をくりかえした。夕方にはそれをくりかえし、さらにまた、寝巻きのシャツ姿で身をガタガタふるわせながら、床にはいる前に、それをくりかえした。もう信じこんでいた。こんどだけは、あのいやな休暇の終りも待ち遠しかった。階段を三つ一気にとびおりていったときの伯父の驚愕《きょうがく》ぶりを思って、ひとりで笑っていた。朝食がすんだら、自分とルイーザ伯母さんは大急ぎでとびだし、新調の編みあげ靴を買わねばならぬことになるだろう。学校では、みんながびっくり仰天《ぎょうてん》するだろう。
「やあ、ケアリー、きみの足はどうしたんだい?」
「ああ、もうすっかりなおったよ」じつに当り前のことといったふうに、平然として自分は返事をすることになるだろう。
フットボールもできるだろう。だれよりも早くとっととっとと走っている自分の姿を想像すると、胸がドキドキしてきた。復活祭の学期(四月十五日以後約六週間の学期。春の学期)の終りに運動会があり、自分は競走に参加できるだろう。ハードルをとびこえている姿も想像できた。ほかの連中と同じようになり、自分のびっこを知らない新入生からジロジロとみられずにすみ、夏の海水浴で、服をぬぎながら、足をすっぽり水の中にかくすまで、あの信じられないほどの用心をする必要がなくなったら、どんなにすばらしいことだろう。
彼は魂の力すべてをふりしぼって祈った。疑念はいささかも起きなかった。神の言葉を信頼していたからである。学校にもどる前の晩、興奮に打ちふるえて寝室にあがっていった。大地には雪が積り、伯母のルイーザは、ふだんにない贅沢をして、自分の寝室に火を入れたが、フィリップの小部屋はとても寒く、指はかじかみ、カラーもなかなかはずせないほどだった。歯はガタガタと鳴った。神の注意をひくためにはふだん以上のことをしなければならない、という考えがフッと頭に浮んだ。そこでまず、寝台の前の敷き物をはぎ、板の上に直接ひざまずけるようにした。ついで頭に浮んできたのは、寝巻きのシャツはやわらかなもの、造り主のご機嫌をそこねるかもしれない、ということで、そこで、それをぬぎ、裸のままお祈りをささげた。床にはいると、からだはすごく冷えきり、しばらく眠れないほどだったが、一度寝こむともうぐっすり、翌朝、メアリー・アンがお湯をもってはいってきたとき、起すのにからだをゆすらなければならないほどだった。カーテンをあけながら、彼女は彼に話しかけたが、彼は返事をしなかった。今朝こそ奇跡の起る朝、とすぐに思い出したからだった。心はよろこびと感謝であふれていた。本能的に手でさぐり、もう健全になった足にさわってみようとしたが、これをするのは、神の善良さを疑っているように思われた。自分の足がなおったもの、と彼は考えていた。だが、とうとう腹を固め、右足の指でちょっと左足にさわってみた。ついで、手をのばして、それをなでてみた。
メアリー・アンがお祈りのために食堂にはいろうとしているとき、フィリップはびっこをひきながら下におりていった。そして、朝食の座についた。
「今朝はバカに静かにしているのね、フィリップ」伯母のルイーザがやがていった。
「明日学校で食べるおいしい朝ご飯のことを考えてるのだろう」牧師はいった。
フィリップが返事をしたとき、その答えは、いつも伯父をイライラさせていた、あのさし当っての話題とはまったく関係のないものだった。伯父はこれを放心のわるい癖と呼んでいた。
「神さまになにかをおねがいしたとして」フィリップはいった、「まあ、山を動かすといったように、それがほんとうに起ると信じ、信仰心をもち、しかも、それが起らなかったら、それは、どういうことなんでしょう?」
「まあ、変な坊やだこと!」伯母のルイーザはいった。「山を動かすといえば、二、三週間前にも、それをたずねていたことね」
「それは、信仰をもたなかったということだけのことさ」伯父のウィリアムは答えた。
フィリップはその説明を承認した。もし神さまが自分の足をなおしてくださらなかったら、それは、ほんとうに信じていなかったためなのだ。だが、あれ以上に強くどう信じたらいいのか、見当がつかなかった。それにしても、神さまに十分の時間を与えなかったためかもしれない。神さまにおねがいした期間は、たった十九日間だけだった。一日か二日すると、彼はまた祈りをはじめ、こんどは期日を復活祭の日に定めた。その日は、神さまの息子が輝かしくも復活された日、よろこびにつつまれた神さまは、慈悲の心をもってくださるかもしれない。だが、フィリップは、いま、目的を達成するほかの方法を考えだしていた。新月やまだら馬をながめると、ねがいをかけ、流れ星をさがしはじめた。学校の短期休暇のとき、牧師館でにわとりを一羽つぶしたが、彼はそのとき、伯母のルイーザといっしょになって幸運の骨を折り、それをするたびに、自分の足がよくなるようにと祈っていた。無意識ではあったが、彼が祈る神は、アングロ・サクソン族にとって、イスラエルの神さまよりもっと古い神々になっていた。フッと思いつくと、一日でのはんぱ時間のときに、同じ言葉で、彼は全能の神さまにお祈りの砲撃を加えていた。同じ言葉で神さまに祈ることが、重要と思えたからである。だが、やがて、こんども自分の信仰が十分に大きなものでないかもしれぬという不安が、心の中に湧き起ってきた。自分をおそってくるこの疑問は、抵抗できぬほど強力なものだった。この自分の経験をだれにも通じる規則、と彼は考えた。
「十分な信仰心をもってる者は、だれもいないだろう」彼はいった。
これは、乳母の話に出てきた塩と同じだった。それは、尻尾に塩を乗せれば、どんな鳥でもつかまえられるという話で、一度、彼は、塩の小さな袋をケンジントン・ガーデンズにもっていったことがあった。だが、塩を鳥の尻尾に乗せようにも、鳥に近づくのが絶対不可能だった。復活祭にならぬうちに、フィリップはこの悪戦苦闘を放棄してしまった。こうして自分をひっかけたことで、伯父に漠然とした怒りが湧いてきた。山を動かすことを語っていた説教の題目は、ひとつのことをいいながち、意味はべつのことにある例の常套手段のひとつにすぎなかったのだ。伯父は自分にひどいわるふざけをしたものだ、と彼は考えた。
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十五
十三歳になったときにフィリップがはいったターカンベリーのキングズ・スクールは、その古さをほこっていた。発祥《はっしょう》は、ノルマン征服以前の大修道院付属の学校にたどることができ、そこでは、初歩的な学問がオーガスティン派(オーガスティンは五九七年イギリスに上陸した伝道師団の長、キャンタベリー初代の大司教。キリスト教化につくした)の僧侶の手で教えられ、こうした多くの施設と同じように、修道院の破壊とともに、それはヘンリー八世(イギリスの王で、ローマ法王に反抗した)の役人によって再建され、こうしてキングズ・スクールの名を授けられることになった。その後、地味な歩みをつづけて、この学校は、その地方の紳士階級とケント州の知識階級の子弟に必要な教育を与えてきた。すばらしい天才ぶりではシェイクスピアだけに一|籌《ちゅう》を輸《ゆ》するといった詩人(劇詩人クリストファー・マーロウのこと)にはじまって、その人生観がフィリップの世代に大きな影響を与えていた散文作家(ウォルター・ペイターのこと)に終る一、二の文筆家は、この校門を出ていって、名声を高くしたのだった。一、二のすぐれた法律家もこの学校出身の者だったが、すぐれた法律家はべつに珍しくはなく、有名な一、二の軍人も出ていた。だが、僧団をはなれて以来三世紀にわたり、この学校は特に宗教関係者、主教、大聖堂主席司祭、聖堂参事会員、それになかんずく、地方の聖職者を育成してきた。学校の生徒のうちには、父親、祖父、大祖父がここで教育を受け、ターカンベリーの主教管区の中で教区の牧師をそろってつとめてきた者もあり、彼らは、聖職につくつもりで、この学校に来ていた。だが、それにしても、この学校にあってすら、変化が起きかけている兆候があらわれていた。そして、わずかな生徒は、家で聞いてきたことをくりかえして、英国教会はもはや従前の英国教会ではない、といっていた。問題は金ではなく、そこにはいってくる人間の階級がちがってきたことにあった。二、三の少年は、父親が商人だった牧師補を知っていて、紳士でない男の風下に立って牧師補になるくらいなら、植民地に出ていったほうがまだまし、と考えていた。キングズ・スクールでは、ブラックステイブルの牧師館でと同じように、商人といえば、運わるく土地もちになれなかった連中(ここで、紳士農民と地主の区別がはっきりとつけられていた)か、紳士がなれる四つの職業(神学・法律・医学・教育の職)に所属していない連中のことだった。地区の紳士階級と連隊本部留守部隊に駐屯している将校の息子たちがいた百五十人ほどの通学生の中で、父親が商業に従事している息子たちは、肩身のせまい思いをしていた。
先生たちは、『タイムズ』や『ガーディアン』(マンチェスターで発行されている自由主義的な日刊紙)にときどき載せられた教育の近代的観念には我慢ならず、キングズ・スクールがその古い伝統を維持するのを熱望していた。ギリシャ語、ラテン語といった死滅した言葉が徹底的にしこまれ、そこの卒業生が、後年、ホメロスやウェルギリウスを思い出せば、まずかならずといっていいくらい、胸糞《むなくそ》のわるい倦怠感をおぼえるといったほどだった。職員集会室での食事のときに、一、二の大胆な職員が数学の重要性の増大をそれとなく話したが、一般の風潮は、それを古典ほどの崇高性をもたない学問とみなしていた。ドイツ語も化学も教えられず、フランス語はクラス担任の教師によって教えられるだけだった。クラス担任の教師のほうが、外国人より、しっかり生徒をおさえることができたし、どのフランス人にもおとらず文法をよく知っていたので、そのだれもが、英語に多少心得のある給仕がいなくては、ブローニュのレストランでコーヒー一杯も飲めない始末であっても、それは、さして重要視されてはいなかった。地理は、主として地図を描くことで教えられ、これは生徒に人気のある学科、山国である場合には、特にそうだった。アンデス山脈やアペニン山脈を描いているだけで、大いに時間をつぶすことができたからだった。オクスフォードかケンブリッジの卒業生だった先生たちは、聖職を授けられ、独身をとおしていた。もし偶然結婚を希望するといったことになれば、それを達成する方法は、牧師団で管理しているわずかな聖職禄を受理する以外になかった。だが、多年にわたり、ターカンベリーの洗練された社交界をすてていなかの牧師館の単調な生活にはいろうとする者は、ついぞなかった。そこの社交界は、騎兵連隊本部の存在で、教会的なものばかりでなく、軍人的色彩をももっていたからだった。その結果、先生は、いま、中年ぞろいになっていた。
校長は、これに反して、妻帯者でなければならず、寄る年波に勝てなくなるまで、学校の管理に当っていた。退職すると、どの平教員でも望めないほどの高給の聖職禄を与えられ、名誉聖堂参事会員に任じられた。
だが、フィリップの入学一年前に、学校には大きな変化が起きた。四半世紀ものあいだここの校長だったフレミング博士の耳が遠くなり、神の栄光をたかめる仕事をつづけられなくなっているのは、このところ、明白な事実になっていた。この町の周辺の年六百ポンドの聖職禄のひとつが空席になったとき、牧師団は彼にこれを提供し、いまが引退の潮時、とほのめかした。これだけの収入があれば、安心して養生もできるというわけだった。昇進を希望していた二、三の牧師補は、若くて、たくましく、精力的な人物を必要としている教区に、教区の仕事をなにも知らず、金の貯えもちゃんとできている老人を当てがうのはひどいことだ、と女房にこぼしてはいたが、こうした聖職禄をもっていない牧師の不満のつぶやきは、大聖堂の牧師団の耳にはとどかなかった。教区民はといえば、そうしたことではなにもいうべきことはなく、したがって、彼らの意見は求められもしなかった。この村では、メソジスト派と浸礼派がそれぞれ礼拝堂をもっていた。
フレミング博士の処分がこうしてついたとき、後継者をみつけなければならなくなった。平教員からの選出は、伝統に違反することだった。職員集会室の一致した声は、予備校の校長のウォトソン先生の選出を支持した。この人物なら、キングズ・スクールの先生とはいえないにしても、もう二十年間も知っている人物、みなにきらわれる心配もない、というわけだった。ところが、牧師団は思いがけぬ手を打ってきた。パーキンズという人物をえらんだからである。最初、だれも、パーキンズが何者かも知らず、その名は好印象を与えるものではなかったが、まだそのショックが消えないうちに、このパーキンズは生地商人のパーキンズのせがれだ、ということがわかった。フレミング博士は食事直前にこれを先生たちに伝え、その態度は、彼のびっくり仰天ぶりをあらわしていた。食卓にならんだ先生たちは、ほとんどなにも語らずに食事をすませ、給仕が部屋を出ていくまで、この問題についての話は出なかった。それから、ことがいよいよはじまった。このときに出席していた者の名前はべつに重要というわけではないが、ながい時代にわたる生徒たちには、それが、ため息、コールタール、しょぼ目、水鉄砲、肩ポンの面々として伝わっていた。
彼らは、みな、トム・パーキンズを知っていた。彼についての第一のことは、彼が紳士ではないということだった。彼はよくおぼえられていた。きたならしい黒い髪、大きな目をした色の浅黒いチビの少年で、ジプシーのようだった。通学生として学校にかよい、学校の基金の最高の奨学資金を受けていたので、教育費はぜんぜんかからなかった。もちろん、才気|煥発《かんぱつ》の生徒で、終業式の日には、さまざまの賞を授けられ、学校の宣伝用の花形、どこか一流のパブリック・スクール(上中流子弟のための大学進学、公務員養成を目的とする寄宿制私立中高等学校。イートン、ハロウ、ラクビーなど特に有名)で奨学資金を受け、この学校を去ってしまうのではないかと心配していたのを、先生たちはにがにがしい思いを味わいながら思い出した。フレミング博士は、生地商人の父親のところにゆき――聖キャサリン通りにあったパーキンズ・クーパーの店をだれも憶えていた――オクスフオードにゆくまで、トムがこの学校にいてくれるように、と依頼した。学校はパーキンズ・クーパーの店の最高の顧客《おとくい》、パーキンズ氏は大よろこびでそれを確約した。トム・パーキンズの凱歌はつづき、フレミング博士が手がけた最優秀の古典の生徒、卒業のときには、この学校の最高の奨学資金を授与された。オクスフォードのモードリン学寮でもさらにべつの奨学資金を獲得、大学でも輝かしい歩みをつづけた。キングズ・スクールの校友雑誌は、毎年彼が得た名誉を報道し、オクスフォード大学の最終試験での科目最優等生になったとき、フレミング博士は短い賛辞でこの雑誌の巻頭を飾ったのだった。パーキンズ・クーパーの店が悲運に落ちこんでいたので、この成功はなおいっそうよろこびでむかえられた。クーパーは酒におぼれ、トム・パーキンズが学位をとる前に、この生地商店では破産申立書を提出していた。
やがて、トム・パーキンズは聖職につき、彼として最適の職をはじめることになった。ウェリントン校で、ついではラクビー校での助教になった。
だが、ほかの学校での彼の成功をよろこぶ気持ちと、自分の学校で彼の下僚として働くのとは、まったくちがう話だった。コールタールはときどき彼に罰課(罰として生徒にギリシャ語またはラテン語の詩を筆写させること)を食わし、水鉄砲は彼の横面《よこっつら》をピシャリと張ったことがあった。牧師団がどうしてこんなあやまちをしでかしたのか、先生たちには見当もつかなかった。彼が破産した生地商人のせがれであるのを忘れろといってもむりな話、クーパーが酒におぼれた事実は、この不名誉を大きくしたようだった。大聖堂首席司祭は熱心にパーキンズに肩入れしていたという話だったが、そうなれば、彼はパーキンズを学校の晩餐に呼ぶことになるだろう。だが、いつも楽しい学内の晩餐は、トム・パーキンズがそれに参加したとき、同じように楽しくやれるだろうか? それに、連隊本部のほうは、どうだろう? 将校や紳士に彼を仲間としてむかえろといっても、むりな話だ。学校は計り知れない危害を受けることになる。父兄は不満を表明するだろうし、子弟の一斉退学という事態が起きても、べつに驚くに当らぬこと。それに、彼を先生と呼ばねばならないばつのわるさときたら! 抗議の手段として、先生たちは全員辞職を考えたが、それが平然として受理されるかもしれないと考えると、それもできないことだった。「ここですべきことは、変化に即応することだけですな」とため息はいったが、これは、この二十五年間、無類の無能ぶりを発揮して、五年生を担当してきた男だった。
パーキンズがやってきたとき、先生たちは不安な気持ちからまだぬけないでいた。フレミング博士は、彼を紹介するために、昼食会を開いた。彼は、いま、背の高い痩せた三十二歳の男になっていたが、少年として憶えのあるあの荒々しい髪をぼうぼうとさせていた容貌に、変りはなかった。不細工なつくりの薄ぎたない服を不精《ぶしょう》くさく着こみ、髪の黒さとながさは少年時代とそっくり、髪にブラシをかけないでいるのは明らかだった。それは、からだを動かすたびに、額にバサりと落ちかかり、彼は手でサッとそれをかきあげていた。黒々とした口髭《くちひげ》と顎髯《あごひげ》は、ほとんど頬骨のところまで生えあがっていた。先生たちへの話しぶりは打ちとけたもの、一、二週間前に別れたといった調子だった。先生たちと会って彼がよろこんでいるのは、たしかだった。立場の不自然さを意識しているようすはなく、パーキンズ先生と呼ばれても、それをぎごちなく感じている気配もなかった。
彼が帰るといいだしたとき、ある先生が挨拶がわりにと、汽車にはまだ大分時間がありますがね、といった。
「ひとまわりして、店をみたいと思ってるんです」彼は陽気に答えた。
みなは、ここでたしかに、あたふたした。彼らはこの気のきかなさにびっくりし、さらにまずいことに、彼のいった言葉はフレミング博士の耳にぜんぜんはいっていなかった。そこで、彼の妻は、耳許《みみもと》で大声でいった、
「あの人はひとまわりして、父親のもとのお店をみたいんですって」
全員が感じていた屈辱感に気づかずにいたのは、トム・パーキンズだけだった。彼はフレミング夫人のほうに向いた。
「いまあそこがだれのものになってるか、ご存じですか?」
彼女は、ひどくプりプリしていたので、口もほとんどきけないくらいだった。
「まだ生地商をやってますよ」辛辣に彼女は答えた。「グローヴがその名前。そこからはもう、買いつけはしてませんけどね」
「家の中をみせてくれるでしょうかね?」
「名前をいえば、みせてくれるでしょう」
この問題はみなの胸にひっかかっていたが、この集会室での話が言葉になって出たのは、晩餐になってからのことだった。晩餐でこういいだしたのは、|ため息《ヽヽヽ》だった。
「さて、新しい校長を、みなさんはどうお思いですかな?」
先生たちは、昼食のときの会話を考えた。それは、まず会話とはいえず、ひとりぜりふだった。パーキンズがひっきりなしにしゃべりつづけていた。早口で、くだけた言葉がとっとと流れ、声は太くて、ひびきのあるものだった。笑いは短く、奇妙な小さな笑い、それで白い歯をみせていた。その話についていくのは、むずかしいことだった。彼の心はつぎからつぎへと話題を変え、そのつながりは、かならずしもつかめるものではなかったからだった。教授法のことを話していたが、これは、当然至極のことだった。それにしても、ドイツの近代的理論をいろいろいっていたが、これは、先生たちが聞いたこともないもの、疑念をもって受けとめているものだった。古典の話も出たが、彼はギリシャの現地にいったことがあり、考古学についても論じた。発掘でひと冬をついやしたという話だったが、それが少年の受験教育にどんな役に立つのか、彼らにはとんと合点《がてん》がいかなかった。政治談も出たが、ビーコンズフィールド卿(ベンジャミン・ディズレイリ。イギリスの宰相)をアルキビアデス(アテネの将軍・政治家)と比較しているのは彼らの耳には奇妙にひびいた。さらに、グラッドストーン(イギリスの政治家)とアイルランドの自治問題(一八七〇ころイギリス政界に起こった)についても話が出た。彼が自由党員であることがわかり、先生たちはがっくりしていた。ドイツの哲学とフランスの小説にまで話はのびていった。こうまで多方面の興味をもっている人間を、彼らはどうしても深遠な人物とは考えられなかった。
全員の印象の要約をおこない、それを決定的にたたきつけたとも思われる形で表現したのは、ショボ目だった。ショボ目は上級三年の先生で、まぶたがたるんでさがっていた、膝のガクガクになった人物だった。背が高すぎて体力それにまわりかねといった男で、動きは緩慢でけだるげだった。彼から受ける印象は倦怠感、そのあだ名もさこそと思われた。
「あれは、とてもむきな男ですな」ショボ目はいった。
むきになるのは、育ちのわるい証拠、それは非紳士的態度だった。ここで彼らの頭に浮んだのは、ラッパを吹き鳴らし太鼓をたたいている救世軍の姿だった。むきになるのは、変化の表示。いま危機に直面しているむかしの快い習慣すべてを思い起したとき、彼らはゾッと鳥肌《とりはだ》が立つ思いだった。将来が明るいものとは、とても思われなかった。
「前以上にジプシーふうになってきましたな」少し間をおいてから、ひとりがいった。
「彼をえらんだとき、首席司祭と牧師団は彼を急進派と知ってたんでしようかね?」手きびしくべつの先生がいった。
だが、話はここで切れてしまった。心が波立ち、口をきくどころではなかったからだった。
その後一週間して、卒業式の日に、コールタールとため息が参事会の会議室につれ立って歩いていったとき、口のなかなか辛辣なコールタールは、同僚にこう語りかけた、
「そう、ここで卒業式はずいぶんとみてきましたな、どうです? だが、来年はどうでしょうかな?」
ため息は、ふだん以上にがっくりしていた。
「聖職禄でまあまあといったものだけもらえたら、いつ引退しても構いませんな」
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十六
一年がすぎ、フィリップが入学したときには、古い先生に異動はなかった。だが、頑強な抵抗にもかかわらず、そうとう多くの変化がもう起きていた。この抵抗は、表面的に新校長の理念に合せて進もうとする態度の下にかくされてはいながらも、なかなか強力なものだった。クラス担任の先生は、依然として、フランス語を下級の生徒に教えていたが、ハイデルベルク大学を卒業して言語学で博士の学位をとり、フランスの官立中高等学校《リセー》での三年間の教歴をもつ先生が招かれて、上級の生徒にフランス語を、ギリシャ語のかわりにドイツ語を学びたいどの生徒にもドイツ語を、それぞれ教えることになった。さらにもうひとりの先生がやとわれ、いままで必要とされていたよりもっと体系的に数学を教えはじめた。このふたりの先生は、いずれも聖職者ではなかった。これはまったくの革命、ふたりが赴任《ふにん》したとき、以前からいる先生たちは、彼らを不信感をもってむかえた。実験室が設置され、軍人志願の学級が設立された。
学校の性格がだんだんと変っていく、と先生たちはいっていた。あの不精ったらしい頭の中でパーキンズ先生がこれ以上どんな計画をもくろんでいるのか、神のみぞ知るというわけだった。パブリック・スクールとしては、この学校は小さく、寄宿生は二百人を出ていなかった。大聖堂ぞいにゴタゴタと学校が建てられていたので、学校拡張は困難だった。構内は、何人かの先生が住んでいる一軒の家はべつにして、大会堂の聖職者たちに占拠され、建築の余地はもうなかった。だが、パーキンズ先生はあれこれと計画を練り、それで、学校の大きさを現在の倍にする案を作成した。彼はロンドンの子弟をここに呼ぼうとしていた。そうした子弟がケント州の少年と接触するのは彼ら自身にもよいこと、ケント州の少年にしても、それでいなかふうの頭の働きが敏捷《びんしょう》になる、というわけだった。
「それはわが校の伝統に反したことです」パーキンズ先生がこの計画をそれとなくもらしたとき、|ため息《ヽヽヽ》は反対した。「ロンドン出身の少年の害毒からここを守ろうと、いろいろと骨を折ってきたんですからな」
「いやあ、バカな話!」パーキンズ先生はいった。
バカな話なんぞという言葉をクラス担任の先生に浴びせるなんて、空前絶後のことだった。ため息はピリッときく応答を考えめぐらし、そこでそれとなく下着類への当てこすりをしてやろう、と思っていたが、そのとき、パーキンズ先生は高飛車な態度でグイグイとおしまくってきた。
「構内のあの家なんですがね――そちらに結婚していただけたら、牧師団にたのんで、あそこにもう二階、建増しをしてもらうつもりなんです。そうすれば、寄宿舎も勉強室もできるし、奥さんはそちらの手助けをできることになるでしょう」
初老の聖職者はハッとひとあえぎした。どうして自分は結婚しなければならないのだろう? もう五十七の身、そんな齢で結婚なんてできはしない。この齢で一家の世話なんかみられるものではない。この道か、いなかの聖職者か、どちらかの選択をせまられるのだったら、辞職したほうがズーッといい。自分が望んでるのは、ただ安らぎと静けさだけなのだ。
「結婚なんて、考えてもいませんよ」
パーキンズ先生は黒みがちのキラキラと輝く目で|ため息《ヽヽヽ》をジッとながめたが、それがピカリと一瞬光を放ったとしても、あわれなため息はそれに気づかなかった。
「いや、これは残念なこと! こちらからおねがいしても、結婚はだめですかな? あなたの家の改造案を牧師団と大司祭にもちだすとき、そちらに結婚していただけたら、大助かりなんですがね」
だが、パーキンズ先生の改革でいちばん評判のわるかったのは、よその先生のクラスの授業をときどきかわってやるというやり方だった。よろしかったらどうかといった形で下手《したで》には出ていたものの、それは、結局のところ、拒否できるものではなかった。コールタール、すなわち、ターナー先生がいっていたように、当事者全員にとって、面目まるつぶれのことだった。前もって知らせたりはせず、朝のお祈りがすむと、彼はだれか先生にいった、
「十一時に六年生のクラスをやっていただきたいのですが、どうでしょう? これから入れかわりをすることにしましょう、どうです?」
これがほかの学校ではよくあることかどうか、先生たちは知らなかったが、ターカンベリーでおこなわれたことがないのは、たしかだった。その結果は、奇妙なものだった。最初の犠牲者になったターナー先生は、その日、ラテン語の授業を校長先生が担当する、とクラスに伝え、あまりバカ面《づら》をさらすのも面目ないこと、一、二自分に質問してみたらどうだという口実で、歴史の時間の最後の十五分をさいて、その日の課題になっていたリヴィウス(ローマの歴史家)の文章を訳してやった。だが、その後クラスに出て、パーキンズ先生がつけた点をみて、びっくりすることになった。クラスのトップのふたりは大部ヘマをやったらしく、一方、以前にいいとこはぜんぜんみせていなかったほかの何人かは、満点を与えられているのだった。いちばん優秀な生徒のエルドリッジに、これはどうしたこと? とたずねてみると、仏頂面《ぶっちょうづら》の返事かかえってきた、
「パーキンズ先生は、訳せ、とはぜんぜんいわないんです。ぼくへの質問は、ゴードン将軍(イギリスの軍人。中国の太平の乱を鎮定)についてなにを知ってるか? ということでした」
ターナー先生は、胆をつぶして、この生徒をながめた。少年たちが受けた印象は、たしかに、ひどい仕打ちを受けたといったこと、先生としても、彼らの無言の不満に賛成せずにはいられなかった。先生にも、ゴードン将軍とリヴィウスがどんな関係をもっているのか、つかめなかったからである。
「ゴードン将軍についてなにを知っているか、とたずねられたといって、ひどくくさってましたよ」クスクス笑いをひとつしてやろうと考えて、彼は校長にいった。
パーキンズ先生はカラカラッと笑った。
「カイウス・グラックス(ローマ貧民のためにつくしたローマの政治家)の農民法のとこまでやってるのがわかったので、アイルランドの農地騒動についてなにか知ってるかな? と考えたわけなんですよ。だけど、彼らがアイルランドについて知ってることといえばただ、ダブリンがリフィ川にまたがってるということだけでしたな。そこで、ゴードン将軍のことを耳にしたことがあるかな? と考えたわけなんです」
ついで、新校長が一般教養の熱狂的な支持者だというおそるべき事実が暴露されることになった。そのときどきのご都合主義でつめこまれる学課の試験にどれだけの効能があるかという点で、疑念をいだき、彼が欲求していたのは常識だった。
月がかさなるごとに、|ため息《ヽヽヽ》のなやみは深刻になっていった。パーキンズ先生が結婚の日どりをきめよと要求するだろうという考えを頭からぬききれず、その上、古典文学にたいする校長の態度は、もうまったく我慢ならぬものだった。たしかに校長はすぐれた学者で、正しい伝統を踏まえた労作にも従事していた。ラテン文学にあらわれた本に関する論文も執筆ちゅうだった。だが、それについての校長の話しっぷりは軽薄なもの、それがまるで玉突きといったつまらぬ遊び、余暇にそれをやってはいるものの、真剣にとり組むべきものではないといった具合いだった。三年中の担任の水鉄砲は、日ごとに不機嫌の色を濃くしていった。
入学してフィリップが入れられたのは、この彼のクラスだった。B・B・ゴードン師は、生れながら、学校の教師には不適当な人物だった。ジリジリ屋で、激しやすかったからだった。文句をつける人はだれもなく、相手は子供の少年ばかりというわけで、もうとっくのむかしに、彼は自制心を失っていた。授業は激怒ではじまり、憤激で終った。中背の、太ったからだの男だった。髪は薄茶色で、とても短く刈り、それに白髪がまじりはじめ、口髭は小さく、ゴワゴワしていた。はっきりしない目鼻立ちをし、青い小さな目をもっていた顔は、生来赤いものだったが、ひんぴんと怒り立っているあいだに、紫色の黒ずんだ顔になっていた。爪は生爪のとこまで噛み切られていた。だれか少年が身をふるわせながら訳をつけているあいだ、彼は、身をすりつぶす激怒でふるえながら机に坐り、指を噛んでいたからである。たぶん誇張はされていたのだろうが、彼の暴力|沙汰《ざた》の話が語り伝えられ、二年前、ある父親が告発するとわめいているという話が伝えられたとき、学校はある興奮につつまれた。彼はウォルターズという少年を本でしたたか張りとばし、その結果、耳の具合いがわるくなり、退学させねばならなくなった。少年の父親はターカンベリーの住民、町の人たちも憤激し、地方新聞もこれを記事にした。だが、ウォルターズ氏は醸造業者、そのために、同情は分裂することになった。ほかの生徒は、生徒だけがいちばんよく心得ている理由で、この先生を嫌悪しながらも、この事件では先生の味方になり、学校のことが外部から干渉された憤慨の表示のために、まだ学校にいたウォルターズの弟にできるだけつらく当りはじめた。だが、ゴードン先生はいなかの聖職禄暮しを間一髪でのがれたわけで、その後、暴力をふるうことは絶対になかった。生徒の手を鞭で打つ先生の権利はうばわれ、水鉄砲は、鞭で自分の机をビシビシたたいて怒りを強調することがもうできなくなった。彼がいまやることといえば、生徒の肩をつかみ、グイグイとゆさぶり立てるだけになっていた。彼はまだ、きかん坊主や反抗する生徒に罰を加え、十分から三十分までの時間、片腕をのばして立たせ、その毒舌ぶりは、以前と少しも変らなかった。
フィリップのようなはにかみ屋の生徒にものを教えるのに不適な先生といって、これ以上の先生はいなかったろう。彼がこの学校にはいったとき、はじめてウォトソン先生のところにいったときほどの恐怖の情はもっていなかった。予備校でいっしょにいた連中がかなりいたからだった。自分はもうそうとう大きくなったと感じ、もっとたくさんの生徒の中で、自分のびっこは前ほど目立ちはしない、と本能的に理解していた。だが、最初の日から、ゴードン先生は彼の心に恐怖心を吹きこみ、自分にふるえあがっている生徒たちを素早くみわけたこの先生は、そのために、彼らを特別きらいになったようだった。フィリップは勉強が好きになっていたが、いま彼は、授業の時間を恐怖の情でながめるようになった。まちがって、あらしのような悪罵を先生から浴びせられる危険をおかすより、ボーッとしてだまって坐っているほうがまだましだった。立ちあがって訳をつける番になると、不安で胸がムカムカし、顔面蒼白になった。彼が幸福感を味わったときは、パーキンズ先生が授業をする時間だった。校長先生をつつんでいた一般的な知識にたいする情熱に、フィリップは十分に応えることができた。彼の読書範囲は、齢に似合わぬほどのさまざまな奇妙な本にまでおよび、ときどきパーキンズ先生は、質問が教室をひとめぐりすると、フィリップのところで足をとめてニッコリしたが、この微笑は、少年の心を有頂天のよろこびでいっぱいにした。それから、先生はたずねた、
「さあ、ケアリー、みんなに教えてやるんだ」
こうしたときに彼が獲得した好成績は、ゴードン先生の怒りに油をそそぐ結果になった。ある日、訳をつける番がフィリップにまわってきたが、先生はすごい勢いで親指を噛みながら坐って、彼をにらみつけていた。もう手のつけようのないプリプリ状態だった。フィリップは低い声で訳をつけはじめた。
「口の中でブツブツいうな!」先生はどなった。
なにかがフィリップの喉につきささったような感じだった。
「さあ、さあ、さあ!」
だんだんとそのわめき声は高くなっていった。そのあげた効果といえば、知っていることすべてがフィリップの頭から追い払われてしまったことだけだった。彼はポカーンとして本の開いた個所をみつめていた。ゴードン先生の鼻息が荒くなった。
「わからなけりゃ、どうしてわからんといわんのだ? わかってるのか、わかってないのか? これがこの前訳されたのを、聞いてたのか、さもなきゃ、聞いてなかったのか、どうだ? どうして返事をせん? 返事をせい、この唐変木《とうへんぼく》め、返事を!」
先生は自分の椅子の腕をつかみ、それをにぎりしめていたが、それは、まるでフィリップにおどりかかるのをおさえているためのようだった。過去、生徒が彼に喉っ首をひっつかまれて窒息しそうになったことがよくあつたのを、生徒たちは知っていた。先生の額の血管はふくれあがり、顔は黒ずんでおそろしいものになった。彼は狂人だった。
前日、フィリップはその文章をよく憶えていたのだったが、いまはなにも憶えていなかった。
「知りません」彼はあえいだ。
「どうして知らないんだ? 単語をひとつずつひろってみよう。お前がそれを知ってないかどうか、すぐにわかるんだからな」
フィリップは頭を本の上に垂れ、真っ青になってちょっとふるえながら、だまって立っていた。先生の息づかいは、ほとんど高いびきといったものになってきた。
「校長は、お前を利口だ、といってるな。どうしてそう思うのか、知りたいもんだ。一般的な知識だって!」ここで、彼は狂暴に笑った。「お前がどうしてこのクラスにはいれたのか、どうしてもわからんぞ。唐変木め!」
唐変木という言葉が彼のお気に召し、声をはりあげてそれをくりかえした。
「唐変木! 唐変木! |えび《ヽヽ》足の唐変木め!」
これで、ちょっと溜飲《りゅういん》がさがったようだった。フィリップの顔が急に赤らんできたのを、彼はみてとった。閻魔《えんま》帳をもって来い! と彼はフィリップにいいつけた。フィリップは教科書を下におき、だまって教室から出ていった。この閻魔帳というのは、生徒の名前とその非行を書きこむ黒ずんだ本で、名前が三回書きこまれると鞭打ちということになっていた。フィリップは校長の家にゆき、校長室のドアをノックした。パーキンズ先生は机に向っていた。
「閻魔帳をいただけるでしょうか、先生?」
「あそこにあるよ」顎をしゃくって場所を教えながら、パーキンズ先生は答えた。「どんないけないことをしたんだい?」
「知りません、先生」
パーキンズ先生はチラリと彼に目を投げたが、それになにも返事はせずに、仕事をつづけた。フィリップは閻魔帳を受けとってそこを出ていった。数分して授業が終ると、それをもどしにいった。
「それをみせてくれ」校長先生はいった。「ゴードン先生は『態度きわめて不遜《ふそん》』と書いてあるぞ。どうしたんだ?」
「わかりません、先生。ゴードン先生はぼくのことを|えび《ヽヽ》足の唐変木めといいました」
パーキンズ先生は、また、チラりと彼をながめた。この少年の返事の背後に皮肉がこめられているのかとも考えたが、それにしても、ひどく気が顛倒《てんとう》しているようだった。少年は真っ青、目はおびえた苦悶をあらわしていた。パーキンズ先生は立ちあがり、閻魔帳を下においた。そうしながら、何枚かの写真をとりあげた。
「今朝、友人が送ってくれたアテネの写真だ」なんということもなしに、彼はいった。「ここをごらん、これがアクロポリスだよ」
彼は、自分のみてきたことをフィリップに説明しはじめた。この廃墟は、彼の説明で、いきいきしたものになってきた。ディオニュソス(ギリシャ神話で酒の神。バッカスともいう)の劇場を示し、どんな順序で人びとがそこに坐ったか、その向うに青いエーゲ海がどんなに臨めるかを、さらに説明した。それから、突然、彼はいった、
「ぼくがゴードン先生のクラスにいたとき、ジプシーの店員小僧と呼ばれたのを憶えてるよ」
写真に心をうばわれていたフィリップがこの言葉の意味をまだつかみきらないうちに、パーキンズ先生はサラミス(ギリシャの南東にある島。この付近の海戦で、ギリシャ軍がクセルクセスのペルシャ軍を破った)の写真を彼に示し、その指――爪の先がちょっと黒くなっている指――で、ギリシャとペルシャの水軍がどう配置されていたかを指摘した。
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十七
フィリップはつぎの二年間を、単調ではあっても、快適にすごした。自分と同じ大きさのほかの少年以上に格別いじめられることもなかった。びっこのために遊技から除外されたが、このために問題の対象外ということになり、これはありがたいことだった。人気はなく、とても孤独だった。上級三年のとき、二学期間、担任の先生はショボ目だった。ぐったりし、まぶたをたるませていたショボ目は、倦怠感にひどくなやんでいるようだった。義務は果しつつも、放心状態でそれをやっていた。親切で、やさしく、愚かだった。生徒のもつ信義の念に大きな信頼を寄せ、彼らを誠実な人物につくりあげる第一の条件は、彼らが嘘をつくなんて絶対にあり得ぬと思うことと感じていた。「多くを求めよ」彼は引用していた、「さらば多くを与えられん」(マタイ伝七ノ七およびルカ伝一一の九参照)
上級三年生の生活はらくだった。自分の番で訳をつけるべき個所はちゃんとわかっているし、手から手へわたされる虎の巻で、自分に必要なものはすぐみつけることができた。つぎからつぎへと質問されるときでも、ラテン文法の本は膝の上で開きっ放しになっていた。とても考えられない同じあやまちがたくさんの試験紙にあらわれても、ショボ目は、それを奇妙な現象とは感じていなかった。彼は試験をそう信頼せず、これは、試験の場合より教場でやったほうが生徒のできるのを知っていたからだった。試験の成績のよくないのは、がっかりすることだったが、重大なことではなかった。やがて生徒たちは、陽気に厚かましく、真理を歪曲《わいきょく》する才能以外にはなにもほとんど身につけずに、上級に進むだろう。これは、後年、ラテン文をひと目みて読みとる能力より、彼らには役に立つはずだ。
ついで、彼らはコールタールの担任になった。彼の名はターナーだった。老先生のうちでのいちばんの元気者で、背は低く、腹が大きくつきだし、白髪《しらが》のまじりかけた黒髪で、肌は黒ずみ、その僧服姿には、たしかにコールタールの樽《たる》を思わせるものがあった。自分のあだ名を口にする生徒を現行犯でつかまえた場合、原則として、五百行の筆写を罰として課することにしていたが、学内の晩餐会では、よくこれを冗談の種にしていた。先生の中でいちばん俗臭プンプンたる男で、だれよりも多く外で食事をし、そのつき合っている仲間は、聖職者ばかりというわけではなかった。生徒は彼をやくざとみなしていた。休日ちゅうには僧服を放棄し、スイスでのはでなツイード(スコッチ織りの一種)姿もみかけられていた。|ぶどう《ヽヽヽ》酒とおいしい食事の愛好者、一度、カフェ・ロワイヤルで近親と思われるご婦人といっしょにいるところをみつかり、その後、代々の生徒は、彼が乱飲乱舞の酒宴にふけり、その委曲をつくした話は、人間の堕落の原罪に寄せる徹底的な信仰ぶりをあらわしている、と考えていた。
ターナー先生は、上級三年生になってから生徒にしこみをつけるのに、一学期はかかるものと考えた。そして、彼がときおりなに食わぬ顔してもらす言葉でも、仲間の先生のクラスでどんなことがおこなわれているかを、ちゃんとつかんでいるのがわかった。だが、それを意地わるくとっているわけではなかった。生徒を若い悪党、嘘はかならずばれるものと知れば、誠実な態度をとるようになる、生徒の信義観は生徒独得のもの、先生との関係には適用できない、手に負えない腕白《わんぱく》をしても損になるだけとさとれば、それは消えてゆく、と彼は考えていた。自分のクラスを自慢していて、五十五歳のいまでも、試験の成績を他のクラスよりよくするのに情熱を傾け、それは、新任当時そのままのものだった。彼は肥満した者のもつ癇癪《かんしゃく》を爆発させていたが、それはすぐカッとし、すぐにおさまるもので、生徒たちはすぐ気づいたのだが、自分たちにいつも浴びせる悪口|雑言《ぞうごん》の下に大きな親切心がひそんでいた。頭のわるい生徒をバリバリやっつけたが、気ままではあっても頭はしっかりしているとにらんだ生徒にたいしては、気持ちよく苦労して教えこもうと努力した。生徒をお茶に呼ぶのが大好きで、菓子とマフィンの食べくらべでは先生に勝つみこみはないといっていながらも、生徒は、彼から招待を受けると、大よろこびだった。じっさい、彼が太っているのはバリバリ食らいこむため、バリバリ食らいこむのは|さなだ《ヽヽヽ》虫のため、というのが、生徒のあいだでの定説になっていた。
フィリップは、いま、気分よく日々を送っていた。場所がひどく窮屈で、上級の生徒は自習室しか使っていなかった。そのときまでの暮しは大きなホールでおこなわれ、そこで、食事をし、下級の生徒はごったまぜになって予習をしていたが、これは、彼にはなにかいやなことだった。そして、ときおり、人にジリジリしてきて、ひとりになりたい欲求に強くつき動かされていた。田園にひとりで散歩に出かけたが、そこでは緑の野を切って小さな川が流れ、両岸には刈りこんだ木が立ちならんでいた。この岸辺ぞいに歩いていくと、なぜかわからなかったが、幸福感を味わえるのだった。つかれると、うつぶせに草の上で横になり、|はや《ヽヽ》や|おたまじゃくし《ヽヽヽヽヽヽヽ》がせっせと泳ぎまわっているのをジッとみつめていた。構内をブラリブラリと歩きまわるのも、それなりに楽しいことだった。中央の芝生で夏にはネット(ローン・テニスの一種)がおこなわれたが、その季節をはずせば、そこは静かだった。生徒たちは、ときどき、腕を組んでそこをさまよい、勉強好きな者は、暗記しなければならない個所をブツブツいいながら、放心したまなざしで、ゆっくりと歩いていた。楡《にれ》の巨木には|みやまがらす《ヽヽヽヽヽヽ》が群れをなして集り、わびしい鳴き声をあたりにひびかせていた。一方の側には、中央に大きな塔のある大会堂がそびえ、ものの美しさをまだ知らなかったフィリップは、それをながめると、なんともいえぬ快い胸さわぎをおぼえた。
自習室を与えられたとき(貧民窟をみおろしている四角の小部屋で、四人共用のものだった)、そこからながめた大会堂の写真を買いこみ、ピンでそれを自分の机にはりつけた。四年生の教室の窓からながめる景色に、いままでにない興味を寄せている自分に気づいた。そこからは、手入れのゆきとどいた古い芝生《しばふ》、豪華なこんもりとした葉をもった美しい樹々をみおろすことができた。それは心に奇妙な感じを湧き立たせ、それが苦痛なのか、よろこびなのか、彼にはわかっていなかった。これは、美的感情のめざめだった。それといっしょに、さまざまな変化が起きた。声変りがし、それは、もう自分の力ではどうにもならず、喉から奇妙な声がおどりだしてきた。
そのころ、お茶のすぐあとで校長先生の部屋で開かれるクラスに出はじめたが、これは、生徒に堅信礼を受ける準備をさせるためのものだった。フィリップの信仰心はながつづきせず、とっくのむかしに、毎夜聖書を読むのを放棄していた。だが、いま、パーキンズ先生の影響を受け、落ち着きをなくしたからだの変調のもとで、彼の以前の感情が復活し、自分の堕落をひどく責める気分になった。地獄の劫火《ごうか》は彼の心の目でおそろしく燃えあがっていった。異教徒同然の堕落状態にあったとき、自分が死亡したら、地獄堕ちの憂《う》き目を味わうことになったろう。彼は果てしなくつづく地獄の苦しみを絶対的に信じ、この信仰は、永遠の幸福に寄せる信仰よりも強かった。自分がおかしてきた危険を思うと、肌に粟《あわ》立つ思いだった。
パーキンズ先生があの親切な言葉をかけてくれたのは、我慢のならぬ特別な悪罵のもとで苦しんでいるときのことだったが、その日以来、フィリップは校長先生に犬のような献身的愛情をささげていた。先生をよろこばすなにか方法をと、彼はあれこれと頭をひねっていたが、だめだった。たまたま先生の口からもれるどんなちょっとしたほめ言葉でも、それを大切に頭にしまいこんでいた。先生の家でおこなわれるささやかな静かな会に出るときはもう、それにすっかり心を打ちこんでいた。目はパーキンズ先生の輝く目に釘づけになり、一語たりとも聞きのがすまいと頭を少し前につきだし、なかば口を開いたままで坐っていた。周囲の環境が変哲もないものだっただけになお、ここであつかっている事柄は、異常なほどの感動を与えた。
ときどき、先生は、自分の主題のすばらしさにみずから打たれて、前にある本をおしのけ、動悸《どうき》を静めようとしているように、胸の上で両手を固くにぎりしめて、自分たちの宗教の神秘について語った。フィリップにはわからないところもあったが、感じとるだけで十分といった気分を漠然ともっていた。黒いほつれ毛をもち、青い顔をした校長先生は、遠慮なく王さまたちをしかりつけたイスラエルのあの予言者のように、フィリップにはみえてきた。救い主を思うとき、その救い主は、校長先生と同じ黒みのかった、あの青ざめた頬をした人物だった。
パーキンズ先生は、この仕事にとても身を入れていた。ほかの先生たちに軽薄さを思わせたあのあざやかな諧謔《かいぎゃく》は、ここでは、影をひそめ、あわただしい一日のすべてのことに時間をなんとかやりくりしながらも、ちょっとした合い間をみつけて、先生は堅信礼の準備教育をしている生徒たちに、十五分か二十分間、別個に会っていた。これが生涯における意識した重大な第一歩という印象を生徒に与えようとして、彼らの魂の深みをさぐり、自分の熱烈な宗教心をそこにそそぎこもうと努力しているのだった。そのはにかみ性にもかかわらず、先生はフィリップに自分の情熱に匹敵する情熱の可能性を感知し、この少年の気質が本質的には宗教的なものと考えていた。ある日、彼は、いままでの話題から、いきなり話をそらせた。
「大きくなったらなにになろうと思ったことがあるかい?」彼はたずねた。
「伯父は、聖職につけ、といってます」フィリップは答えた。
「そして、きみ自身は?」
フィリップは目をそらせた。自分はとてもだめ、というのが恥ずかしかったからである。
「われわれの職業ほど幸福にあふれた生活はないと思ってるんだがね。それがどんなにすばらしい特権かを、きみにも感じさせたいんだ。どの道を歩いても、神さまにつかえることはできるが、われわれは、神さまにもっと近づいてるんだよ。きみの心を動かそうとは思ってないが、もし腹をきめたら――そう、すぐにね――もう二度と消えることのないよろこびと安堵《あんど》を感じずにはいられなくなるはずなのだ」
フィリップは返事をしなかったが、校長先生は、自分が教えようとしていることを、相手がもう多少は理解しているのを、フィリップの目の色で読みとった。
「いまのまんまつづけてったら、いずれ近く、きみは学校の首席になり、卒業するとき奨学資金を獲得するのは、まず確実といえるだろう。自分の財産はあるのかね?」
「二十一になったら年収百ポンドある、と伯父はいってます」
「きみは金持ちだな。わたしにはなにもなかったよ」
校長先生はちょっとモジモジし、それから、鉛筆ですいとり紙にどうということもない線をひきながら、話をつづけた。
「きみの職業選択の範囲は、そうとう限定されることだろう。肉体的な活動を必要とする仕事には、当然、つけないんだからね」
フィリップは髪のつけ根まで真っ赤になった。自分の|えび《ヽヽ》足にちょっとでもふれられると、彼はいつもこうなるのだった。パーキンズ先生は重々しく彼をながめた。
「きみは自分の不幸に敏感になりすぎてるんじゃないかな。それを神さまに感謝する気持ちになったこと、あるかね?」
フィリップはサッと目をあげ、唇を固くした。人の話を信じこんで、癩《らい》病を癒やし、めくらの目を開いたように(マタイ伝一一ノ五参照)自分の不具をなおしてくれと、何ヵ月にもわたって神さまに懇願したことが、彼の心に去来した。
「それを反抗的に受けとめてるかぎり、それはただ、きみに屈辱感を与えるだけだ。だが、その十字架がきみに与えられたのは、その重荷に堪えるしっかりとした肩をもってるためと考えれば、すなわち、それを神さまが授けてくださった恩寵《おんちょう》とみれば、みじめさどころではなく、それは、きみにとって、幸福の根源になるだろう」
少年がこの話をするのをいやがっているのを知って、先生は彼をひきとらせた。
だが、フィリップは校長先生が話してくれたことすべてをよく考え、やがて彼の心は、目の前にひかえた堅信礼のことにすっかりうばわれて、神秘的な恍惚《こうこつ》状態になっていた。彼の精神が肉体の絆《きずな》を脱し、新しい生活にはいったような感じだった。心中すべての情熱をこめて、完璧さをあこがれ求めた。すっかり神の奉仕に身をささげたくなったので、聖職につこうとする決心をしっかり固めた。重大な堅信礼の日になったとき、そのすべての準備、勉強した本、なににもまして校長先生の圧倒的に強い影響のもとで魂は深い感銘を受けて、恐怖と喜悦の情で彼はジッとしてはいられないくらいになった。ひとつの考えが、彼を苦しめていた。教会の内陣をひとりでズーッと進んでいかなければならなかったので、こうしてはっきりと自分の不具の姿を、この式に出席する全校生徒ばかりではなく、外来の者、町からやってきた人や息子の堅信礼をみようと来校した父兄に示すのは、たまらなくいやなことだった。だが、いよいよその時がやってくると、この屈辱をよろこんで受け入れられる、と急に感じ、大会堂の高い丸天井の下でとても小さく、とるに足りない姿になって、彼はびっこをひきながら内陣を進み、自分を愛してくださる神さまへのささげ物として、意識して自分の醜悪なびっこ姿をさしだした。
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十八
だが、煩悩《ぼんのう》を脱した山上の清浄な生活は、ながつづきはしなかった。彼が最初宗教的情熱にとらえられたときに起ったことが、ここでも彼の身に起きることになった。彼は信仰の美しさをヒシヒシと感じていた。自己犠牲の情熱は、宝石のような光を発して、彼の心の中で燃えあがった。このために、自分の力がそのねがいに対抗できぬように思われてきた。自分の荒々しい情熱でヘトヘトになってしまった。彼の魂は、突然、奇妙なふうに乾あがっていった。それまで身をすっかりとりかこんでいるように思えた神の存在が、頭から消えはじめた。まだきちんとはやっている宗教的な鍛錬《たんれん》は、ただ形式的なものになってしまった。最初、このおこたりでわが身を責め、地獄の火のおそろしさに、また心を激しく燃え立たせていった。だが、情熱は死滅、ほかの興味がだんだんと心をうばうことになった。
フィリップに友人はほとんどなかった。読書癖が彼を孤独にしたのだった。読書をせずには暮せないといったふうだったので、友人としばらくいっしょにいると、もううんざりし、心が落ち着かなくなった。多読でひろい知識を獲得していたが、それが彼の自慢の種になっていた。心がキビキビと動き、友人たちの愚かさを軽蔑しているのをかくす要領のよさは、もち合せてはいなかった。彼らは、彼のことを自惚《うぬぼ》れていると文句をつけ、彼らがとるに足りないと思っている事柄で彼の優秀さが発揮されていたので、自惚れるどんな筋があるのだ? と嫌味《いやみ》たっぷりにたずねたりした。彼のユーモア感はそのとき発展していて、辛辣なことをいうこつを心得ているのがわかってきたが、それは、相手の痛いとこを突くものだった。それを口にしたのは、それがおもしろかったからだけのこと、それが相手の心をどんなに傷つけたかには気づいていなかった。その上、犠牲者がどんなに自分を憎んでいるかを知ると、彼はひどくプリプリした。入学当初彼が受けた屈辱のために、彼は友人たちから尻ごみをする気分をもつようになり、これは克服はされずに、いつまでもつきまとっていた。そして、前と変らず、はにかみ屋で、無口だった。だが、ほかの少年たちの共感を遠ざけるすべてのことをやっていたにもかかわらず、一部の少年にはじつにらくらくと与えられている人気を、心の底から渇望していた。こうした連中を、ちゃんと距離はおきながらも、すごく憧憬《どうけい》し、他の少年にもましてそれに皮肉をとばし、それを踏み台にしてちょっと冗談をとばしたりしていたが、その彼らと立場を換えるということになったら、どんな犠牲も惜しまなかったことだろう。そう、五体そろっているどんなに頭のわるい少年とでも、よろこんで入れかわったことだろう。
彼は奇妙な癖にふけっていた。よく、大好きな少年に自分がなったものと想像していた。いわば、他の少年の中に自分の魂をうつし、その声で語り、その笑いで笑い、ほかの者がやっていることすべてを、自分がしている、と想像した。それはじつにマザマザとしたものになり、その結果、一瞬、ほんとうに自分をすっかりはなれきったように感じられるほどだった。こうして彼は、ときどき、奇妙な空想上の幸福を味わっていた。
堅信礼につづくクリスマスの冬学期がはじまると、フィリップはべつの自習室にうつされた。そこの仲間にローズという少年がいた。彼はフィリップと同じクラスで、フィリップは、この少年をいつも嫉妬まじりの驚嘆の情でながめていた。彼は美男子ではなかった。大きな手と大きな骨組みは彼が背の高い男になるのを思わせたが、その造作は不細工だった。だが、目は魅力的、笑うと(彼はひっきりなしに笑っていた)彼の顔は目を中心にしてクチャクチャになり、それはいかにも楽しそうなものだった。利口でもバカでもなかったが、勉強もかなりのもの、競技ではもっとすぐれた手腕を発揮していた。先生と生徒の人気者で、彼のほうでも、だれ彼ということなく、みなに好意をもっていた。
この自習室に入れられたとき、三学期のあいだいっしょにいたほかの連中から自分が冷やかにむかえ入れられているのを、フィリップは感じずにはいられなかった。自分が闖入《ちんにゅう》者と感じると、それは彼を神経質にした。だが、彼は自分の感情をかくす術《すべ》をもう心得ていたので、彼らは彼を静かな、ひかえ目な男と考えた。ローズにたいしては、彼とて、ほかの少年と同様に、その魅力に抵抗すべくもなかったので、フィリップは、ふだんにもまして、もっとはにかみ、ぶっきらぼうな態度をとった。ただ結果からみて自分の唯一の魅力と心得ていたこの魅力をむきになって無意識に行使したためか、また、ただもうまったくのやさしいローズの心根のためか、フィリップを仲間あつかいにしてくれたのは、このローズだった。ある日、藪《やぶ》から棒に、フットボールのフィールドに散歩にいかないか? と彼はフィリップにさそいかけてきた。フィリップは真っ赤になった。
「きみにくっついてそう早くは歩けないんだ」彼は答えた。
「バカな! 来いよ」
ふたりが出かけようとしたとき、ある少年が自習室に頭をつっこみ、いっしょに外に出よう、とローズにさそいかけた。
「だめなんだ」彼は答えた。「もうケアリーと約束したんだからね」
「ぼくには構わなくていいよ」サッとフィリップはいった。「気にはしないよ」
「バカな!」ローズは応じた。
彼はあの人のいい目でフィリップをながめ、カラカラッと笑った。フィリップは心中奇妙なふるえをおぼえた。
しばらくすると、少年らしい素早さで友情が結ばれ、ふたりの心は固く結びつけられた。ほかの連中は、こうしてふたりがいきなり仲よしになったのにびっくりし、フィリップにどんないいとこがあるんだ? とローズはたずねられた。
「やあ、わかるもんか」ローズは答えた。「彼はそんなにいやなやつじゃあないよ」
間もなく、ふたりが腕を組んで礼拝堂にゆき、構内をブラリブラリと歩いて話しこんでいる姿に、みんなは馴れっこになった。どこででもどちらかの姿をみかければ、影のようにもうひとりもそこにいた。そして、まるでフィリップの所有権を認めているように、ローズに用事のある少年たちは、伝言をフィリップに託すことになった。最初、フィリップはひかえ目にしていた。心をいっぱいにしたこのほこらしいよろこびに、すっかり没入する気にはなれなかったからだった。だが、やがて、運命にたいする不信感は、くるおしい幸福感の前で消え去ってしまった。ローズをいままでみたこともないすばらしい男と考えた。いままで読んでいた本は無意味なものになり、心をうばう、もっとかぎりなく重要ななにかあるものがあるとさとった場合、本になんか心を向けてはいられなくなった。ローズの友人たちは、いつも、お茶で彼の自習室にはいりこみ、ほかにするなにかましなことがないときには、ブラブラと集り――ローズは人が集り、ワイワイやるのを好んでいた――フィリップをとても感じのいいやつと思っていた。フィリップは幸福だった。
学期の終りの日になると、駅で出会い、学校にもどる前に町でお茶を飲むために、どの列車でもどってこようかを、彼とローズは打ち合せた。フィリップは心を重くして家にもどった。休暇のあいだズーッと、ローズのことを思いつづけ、つぎの学期にいっしょになってすることを、あれこれと空想を走らせて考えた。牧師館の生活は退屈なもの、休暇の最後の日に、伯父はいつものおどけた調子でいつもの質問を浴びせた、
「うーん、学校にもどるのがうれしいかね?」
フィリップはうれしそうに答えた、
「もちろん!」
駅でまちがいなくローズに会えるようにと、彼はいつもより早い列車に乗りこみ、一時間、プラットフォームのあたりで待った。ローズが乗りかえるファヴァシャムからの列車がはいってくると、彼は胸をワクワクさせて走りながら窓をつぎからつぎへとのぞきこんだが、ローズは見当らなかった。つぎの列車がいつ来るかと赤帽にきき、待ちつづけた。だが、その列車でもまた、失望を味わうことになった。寒くて腹が空き、そこで彼は、裏通りと貧民窟をとおる近道で、学校に歩いていった。ローズは自習室にいて、両足を炉棚に乗せ、坐れるものにはなんでもといったふうにして坐っている何人かの仲間を相手に、のべつ幕なしにしゃべりまくっていた。彼は大よろこびしてフィリップと握手をしたが、フィリップの顔色は冴えなかった。ローズが約束をすっかり忘れているのが、はっきりわかったからだった。
「ねえ、どうしてこんなにおそくなったんだい?」ローズはたずねた。「もう来ないもんと思ってたよ」
「四時半にきみは駅にいたね」べつの少年がいった。「そこできみをみかけたんだからね」
フィリップはちょっと顔を赤くした。自分が愚かしくもローズを待っていたなんて、ローズに気どられたくはなかったからだった。
「家の知り合いの世話をみなければならなくなってね」彼はとっさに方便をつけた。「その女の人を見送るようにたのまれたのさ」
だが、この失望で彼はちょっとすねていた。だまったままぶっ坐り、話しかけられても、言葉短かな返事しかせず、ふたりになったら、徹底的にローズをなじってやろうと腹をきめていた。だが、ほかの連中がいってしまうと、ローズはすぐ彼に近づき、フィリップが休んでいる椅子の肘に坐りこんだ。
「ねえ、今学期も同じ自習室にいれるなんて、とってもうれしいな。すばらしいじゃないか、どうだい?」
フィリップと会って心からよろこんでいるふうだった。そこで、くさっていたフィリップの心は晴れあがった。ふたりは、いままで五分間もわかれてはいなかったといったように、関心を寄せているさまざまなことを、むきになって語りはじめた。
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十九
最初、ローズの友情にたいして、フィリップはただ感謝感激あるのみ、要求をもちだしたりはしなかった。ただ事態をあるがまんまに受けとり、生活を楽しんでいた。だが、やがて、ローズの八方美人ぶりに腹が立ちはじめてきた。もっと独占的な愛情を求め、前には恩恵として受けとっていたものを、当然の権利として受けとるようになった。ローズがほかの者と仲よくしているのを、嫉妬心を燃え立たせてジッと見守っていた。そして、筋ちがいとは心得ながらも、ときに、辛辣な言葉を彼に浴びせずにはいられなくなった。ローズがよその自習室で一時間もバカさわぎをして帰ってくると、ムッとした顔をして彼をむかえた。一日もふくれっ面《つら》をしていることもあり、ローズが自分の不機嫌に気づかないか、わざとそれを無視しているというわけで、苦悩はますます深まっていった。バカなふるまいと百も承知でいながら、フィリップは喧嘩をふっかけ、ふたりは二日間も口をきかないでいた。だが、フィリップはローズにたいして、ながいこと、腹を立ててはいられず、自分が正しいと知っているときでも、ヘイコラしてわびを入れた。それにつづく一週間は、前と変らぬ親交ぶりが発揮された。だが、友情の最高の潮は去り、ローズが自分とときどき歩くのは、ただ、習慣か、フィリップの怒りにたいするおそろしさからだけでしていることが、わかってきた。もう、最初のときほど語り合う話題もなく、ローズは、ときどき、うんざりしていた。自分のびっこが相手をイライラさせている、とフィリップは感じた。
学期の終りごろに、二、三の少年が猩紅熱《しょうこうねつ》にかかり、彼らをみんな家に帰して、その伝染を阻止しようという話が出ていた。だが、患者は隔離《かくり》され、それ以上病気はひろがらなかったので、蔓延はおさえられたものと考えられた。フィリップも患者のひとりだった。復活祭の休暇ちゅうズッと、入院生活を送り、夏の学期のはじめに、ちょっと休養のために、牧師館に送りかえされた。伝染の心配はないという医者の保証にもかかわらず、彼にたいする牧師の恐怖心は消えず、自分の甥の病後の回復期を海辺ですごしたらとすすめるなんて、医者もひどく考えなしなことだ、と思いこみ、ほかにゆく場所がなかったので、ようやく家にむかえるのを承諾したのだった。
フィリップは、学期なかばに、学校にもどっていった。ローズとした喧嘩のことは忘れ、頭にのこっているのは、彼が最高の親友ということだけだった。自分がバカだったことは、よくわかっていた。これからはもっと道理にかなった態度をとるようにしよう、と決心していた。病気ちゅう、ローズからは短い手紙が二通来て、「大急ぎでもどってきたまえ」が結びの文句になっていた。ローズと会うのを自分が待ち望んでいるように、相手も自分の帰校を楽しみにして待っててくれるだろう、とフィリップは思いこんでいた。
六年生の少年のひとりが狸紅熱で死亡したために、自習室に多少の変更が起り、ローズが自分の自習室にはもういないのがわかった。これは、ひどくがっかりすることだった。だが、到着するとすぐ、彼はローズの自習室にとびこんでいった。ローズは机に向い、ハンターという少年といっしょに勉強していたが、フィリップがはいっていくと、不機嫌な顔をしてふり向いた。
「だれだ、いったい?」彼はどなった。それから、フィリップの顔をみて、「ああ、きみか」といった。
フィリップは、ドギマギして、足をとめた。
「きみがどうしてるかをみようと思ったんでね」
「ぼくたちは、いま、勉強してたんだ」
ハンターが口をつっこんだ。
「いつもどってきたんだい?」
「五分前さ」
彼らは坐って、さも勉強の邪魔と,いったふうに、彼をながめた。さっさと出てってくれ、と思っているのはたしかだった。フィリップの顔は赤くなった。
「ぼくは失礼するよ。勉強がすんだら、遊びに来ないか」彼はローズにいった。
「わかったよ」
彼はドアを閉め、びっこをひきながら、自分の自習室にもどっていった。心はひどく傷つけられていた。ローズは、よろこぶふうをみせるどころか、邪魔だといわんばかりの迷惑顔をした。ただ、ふつうの友人としてつき合っていたみたいだった。彼は自習室で待ちつづけ、そのときにローズが来たらと心配して、一刻もそこからはなれないでいたが、ローズはついにあらわれず、翌朝、お祈りに出かけていくと、ローズとハンターが腕を組んで威勢よくとっとと歩いている姿が目に映った。彼が自分ではわからないでいたことを、ほかの仲間が教えてくれた。学校生活で三ヵ月がながい期間であること、自分は孤独でその期間をすごしてきたのだが、ローズは自由に行動していたのを、彼は忘れていたのだった。ハンターがフィリップのいない空席にはいったのだった。ローズがそれとなく自分をさけているのが、フィリップにはわかった。だが、彼はだまってひっこむ少年ではなく、ローズが自習室でひとりでいる時期をうかがって、そこにはいりこんでいった。
「はいっていいかい?」彼はたずねた。
ローズは、うろたえて彼をながめ、その反動で、フィリップにプリプり当った。
「いいよ、はいりたかったらね」
「それはご親切さま」フィリップは皮肉をこめていった。
「なんの用だい?」
「ねえ、ぼくが帰ってきてから、どうしてきみはこんなにつまらん男になったんだい?」
「バカをいうな」
「ハンターにどんないいとこがあるのか、ぼくにはわからんね」
「きみの知ったこっちゃないよ」
フィリップは目を伏せた。心にあることを、とてもいう気にはなれなかった。自分の顔をつぶすのはいやだったからだった。ローズは立ちあがった。
「体操場にいかなければならないんだ」彼はいった。
彼が戸口のところにいったとき、フィリップは思いきっていった。
「ねえ、ローズ、あんまり冷たい態度はするなよ」
「ちえっ、糞《くそ》っくらえだ!」
ローズは出ていってドアをバタンと閉め、フィリップを放りだしにしておいた。フィリップは激しい怒りでからだをふるわし、自分の部屋にもどって、この会話の逐一《ちくいち》を思い起した。いまやローズは憎らしい存在、傷つけてやりたく、こうもいってやればよかったと思う痛烈な言葉を考えたりなどした。友情がこうして断ち切れたのをクヨクヨと思い、これがほかの仲間の話の種になっているものと想像した。だれも彼のことなんててんで考えてもいないのに、神経質な彼は、ほかの連中の態度に冷笑や驚きの影を読みとっていた。彼らの話が頭にマザマザと浮んできたりまでした。
「結局んとこ、ながつづきする可能性はなかったんだよ。どうしてケアリーなんかを我慢できたんだろうかな? いやなやつさ!」
自分の無関心ぶりを示すために、シャープという名の少年とすごく仲よしになったが、この少年は、彼が憎み、軽蔑している男だった。ロンドン出身で、態度は粗野、口髭がショボショボ生えかけている退屈な男で、モシャモシャした眉毛が鼻柱の上でひとつに結びついていた。やわらかな手をして、齢のわりに当りのいい態度をもち、ロンドンの下町なまりがちよっとあった。緩慢で競技には不向きといった少年のひとりで、必須《ひっす》の体育でドロンをきめこむ口実をみつけるのに、すごい頭の機敏さを発揮していた。生徒にも先生にもなんとなくきらわれていたが、この彼とフィリップが友情を深めていったのは、まったく傲慢さからだった。もう二学期やれば、シャープはドイツに一年間ゆくはずだった。彼は学校が大きらい、世間に出られる年輩になるまで堪え忍ばなければならない屈辱と、学校のことを考えていた。あこがれているのは、ただロンドンだけ、休暇ちゅうにそこで自分がやったことをいろいろと話した。その話から――彼はやわらかな太い声で話した――夜のロンドンの街路の漠然としたうわさ話が浮びあがってきた。フィリップはその話に聞き入って、一面魅せられながらも、同時に嫌悪感を感じていた。彼のピチピチとした空想力で、劇場の平土間口のまわりにみっしりとつめかけた群集、安レストランのギラギラした輝き、いい加減酔っ払った男どもが高い椅子にちょこんと坐って女とたわむれしゃべっている酒場、街路灯のもとでの悦楽を求める黒々とした人の群れの神秘的な往来が、彼の目の前に浮んでくるようだった。シャープはホリウェル街(粗悪でみだらな本を出す出版人が集まっていたので有名)の安小説を貸してくれたが、フィリップはそれを、驚きにあふれた恐怖といった気持ちで、自分の小寝室で読んだ。
一度、ローズは和解を求めてきた。彼は好人物、敵をもちたくはなかったのだった。
「ねえ、ケアリー、どうしてそんなバカな真似をしてるんだい? ぼくにそっぽを向いて知らん顔なんかしたって、なんの利益があるんだい?」
「きみのいってること、ぼくにはわからんね」フィリップは答えた。
「うん、われわれがどうして話をしちゃいけないのか、ぼくにはわからないんだよ」
「きみには、もううんざりなんだ」フィリップはいった。
「じゃ、勝手にするがいいさ」
ローズは肩をすくめ、向うにいってしまった。興奮するといつもそうなるのだが、フィリップは真っ青になり、心臓をドキドキさせていた。ローズがいってしまうと、みじめな気分で胸がムカムカしてきた。どうしてあんなふうに答えたのか、自分でもわからなかった。ローズと仲なおりするのだったら、なにをすてても惜しくはなかった。彼と喧嘩をしたのでとてもたまらぬ気持ちを味わい、いま相手に一発食わして、彼はひどくがっくりしていた。だが、あの瞬間、どうしてもおさえきれなかったのだった。なにか悪魔にとりつかれ、心にもなく、文句なしに辛辣な言葉を吐かされた感じだった、それと同時に、こちらから出向いてでもローズと握手をしたい気持ちは山々だったのだが……。傷つけてやりたいに気持ちがおさえきれぬほど強くなっていたのだ。自分が受けた苦痛と屈辱感の復讐をしたがったのだ。それはほこりの心でもあり、愚かなことでもあった。ローズのほうはケロリとし、ひどい苦痛を味わうのは自分だったからである。ローズのところに出かけていって、こういってみようかという気にもなった、
「ねえ、あんなひどい仕打ちをして、わるかったね。ああせずにはいられなかったんだ。仲なおりをしよう」
だが、自分にはそれができぬのを、彼は知っていた。ローズに冷笑を浴びせられるのがいまいましかった。自分自身が腹立たしくなり、ちょっとしてからシャープが部屋にはいってきたとき、腹立ちまぎれに、この彼とはじめての喧嘩をしてしまった。他人の痛いところをつく悪魔的ともいえる本能を、フィリップは備え、真実なだけになおズキズキと応える言葉をズバリといってのけることができた。だが、とどめの一言をもっていたのは、シャープだった。
「たったいま、ローズがきみのことをメラーにいってるのを聞いたよ」彼はいった。「メラーは、どうして蹴っとばしてやらないんだい? そうすりゃ礼儀を知るようになるだろう、っていい、ローズは、いやあなこった。あのいまいましいびっこめ! といってたぜ」
フィリップはいきなり真っ赤になった。返事が出てこなかった。息がつまりそうななにかかたまりが胸につかえていたからだった。
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二十
フィリップは六年生になったが、いま、心の底から学校を憎み、野心はもうなくなっていたので、自分の成績のよしあしには、一向無関心になっていた。心を滅《め》入らせて朝目をさましたが、それは、また一日、あくせくと勉強をしなければならないからだった。ものをするのにもうあきあきだったが、それは、命じられたためで、制約にはうんざりだったが、不当というためではなく、それが制約である事実のためだった。自由をあこがれていた。自分がもう知っていることをくりかえし、頭のわるい仲間のために、最初からわかっていることにせっせと精を出すなんて、もうまっぴらだった。
パーキンズ先生の場合、勉強しようとすまいと、生徒の自由だった。パーキンズ先生はむきでもあり、またボーッともしていた。六年生のクラスは修復された旧寺院の一部にあり、ゴチックふうの窓がついていた。気分のうっとうしさをまぎらわそうと、それを何回となく写生し、ときどき、大会堂の大きな塔と構内に通じる門を、空想を走らせながら描いたりした。絵のこつはもう心得ていた。ルイーザ伯母さんは、若いころ、水彩画を描き、教会、古い橋、絵のように美しい小屋のスケッチでいっぱいになったアルバムを何冊かもっていた。それは、牧師館で、お茶のときにみせられ、一度、クリスマスの贈り物として、伯母はフィリップに絵の具箱をくれたことがあった。彼はこの伯母の絵を写すことではじめ、そのでき映えは、だれも予想せぬほどすばらしく、やがて、自分の小さな絵を描くようになった。ケアリー夫人は、それをすすめた。それは、彼のいたずらをおさえるよい方法だったし、あとでは、彼のスケッチはバザーで役立つものになった。その二、三枚は、額縁《がくぶち》に入れて、彼の寝室にかけられてあった。
だが、ある日、午前の授業が終ったとき、教室からブラリと出ていこうとしている彼を、パーキンズ先生は呼びとめた。
「きみと話をしたいんだ、ケアリー」
フィリップは先生の言葉を待っていた。パーキンズ先生は、細い指で顎髯をしごき、フィリップをながめた。自分のいおうとしていることを、いろいろと考えているようだった。
「どうしたんだい、ケアリー?」彼は藪《やぶ》から棒にいった。
フィリップはサッと顔を赤らめ、チラリと先生をみた。だが、このときまでにもうよく先生の癖を心得ていたので、なにも答えず、相手が語りつづけるのを待った。
「最近のきみには残念なことだらけだ。いい加減で不注意だ。勉強に興味がないらしいな。それは、怠慢で、よくないことだぞ」
「ほんとうにすみません、先生」フィリップは答えた。
「自分でいうことは、それだけなのかね?」
フィリップはムッとして目を伏せた。もうとてもたまらぬほどうんざりしてるとは、まさかいえなかった。
「いいかね、今学期は、きみはあがるどころか、さがることになるぞ。いい成績表はとてもわたせんからな」
その成績表がどんなあつかいを受けているか知ったら、先生はなんというかな? とフィリップは考えた。それは朝到着する。ケアリー氏はそれを無関心にチラリとながめ、それをフィリップにわたす。
「ほら、お前の成績表だ。内容はお前が読んだほうがいいだろう」古本のカタログをつつんだ紙を破ろうと指を走らせながら、彼はいう。
フィリップはそれを読む。
「いい成績なの?」ルイーザ伯母さんはたずねる。
「思ったほどよくはありませんよ」それを彼女にわたしながら、ニヤリとしてフィリップは答える。
「あとで眼鏡をかけたとき、みることにするわ」伯母はいう。
だが、朝食後、メアリー・アンがはいってきて、肉屋が来た、と彼女に伝え、それで彼女は、たいてい忘れてしまう。
パーキンズ先生は語りつづけた。
「きみにはがっかりしたぞ。だが、合点《がてん》がいかんのだ。その気になれば、|することができる《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》のはわかってるが、もうなにもしたがってないようだな。来学期には、きみを生徒長(教師を助けて校内の秩序を保ち、出欠調査などを担当する上級生)にするつもりだったが、それはしばらく待ったほうがいいと考えてるんだ」
フィリップはサッと顔を赤くした。無視されるのは、いまいましいことだった。彼は口をキュッと固くした。
「それに、まだほかのこともある。いまはもう、奨学資金のことも考えねばならんのだぞ。しっかり身を入れて勉強をはじめないと、なんにももらえなくなるんだからね」
このお説教で、フィリップはイライラしていた。校長先生が腹立たしく、自分自身が腹立たしかった。
「オクスフォードにゆくつもりはないんです」彼はいった。
「どうしていかないんだ? 聖職につくつもり、とこちらでは考えてたんだがね」
「気持ちが変りました」
「どうして?」
フィリップは答えなかった。パーキンズ先生は、いつものとおり、ペルジーノ(イタリアの画家)の絵に出てくる人物のような奇妙な恰好をして、考えこんで、髯をしごいた。まるでなんとか理解しようとしているように、彼はフィリップをながめ、それからいきなり、もういってよい、と伝えた。
パーキンズ先生が納得していないのは、明らかだった。ある夕方、フィリップが書類をもって校長室にはいっていったとき、前の話を続行したからである。だが、このときに、彼は前とはちがった方法をとり、フィリップに話しかける態度は、先生対生徒としてではなく、一対一の人間としてだった。フィリップの勉強ぶりがかんばしくないこと、オクスフォード大学にゆくのに必要な奨学資金をもらうみとおしが、熱心な競争相手にたいして、フィリップに不利になったこと、彼は、いま、そうしたことをたいして気にしていないようだった。重要なのは、今後の生涯に関してフィリップが考えを変えたということだった。パーキンズ先生は、聖職につこうとする彼の以前のひたむきさを復活させようとした。じつにたくみに、フィリップの感情を燃え立たそうとしたが、これはそう困難なことではなかった。彼自身が心の底から感動していたからである。きみの心変りで自分はとても心を痛めている、なにかわからぬもののために人生の幸福のチャンスを放棄しようとしているものと、自分はほんとうに考えている、といった言葉だった。先生の声は、とても説得力の強いものだった。
フィリップは、ケロリとした平静な外面をしていたにもかかわらず――彼の顔は、ひとつには生れつきの性格で、またひとつにはながい学校生活の習慣で、サッと顔を赤らめる以外に感情をあらわさなかった――自身がとても感情的なので、他人の感情にもすぐ動かされて、先生のいった言葉で深い感銘を与えられた。自分に示してくれる関心にたいして彼に感謝し、自分の態度が校長先生にひきおこしたと思った悲しみで、良心の呵責《かしゃく》に責め立てられた。考えてやらなければならない全校の生徒がいるのに、パーキンズ先生が自分のことでこうも心配してくれるかと思うと、心の中では、ちょっとうれしくもあった。だが、それと同時に、自分の中のなにかほかのものが、わきに立っているべつの人物のように、しゃにむに、つぎの言葉を叫びつづけていた。
「いやだ、いやだ、いやだ!」
彼は自分がだめになっていくのを感じた。自分の中で湧き起ってくるように思える弱さにたいして、無力だった。それは、水をいっぱいに張った水盤《すいばん》の上に乗せた空きびんの中にそそぎこまれる水のようなものだった。彼は歯を食いしばって、自分に何回となく語りかけた、
「いやだ、いやだ、いやだ!」
とうとう、パーキンズ先生はフィリップの肩に手をかけた。
「きみの心を動かそうとは思っていないよ」彼はいった。「自分で最後の断はくだすべきなんだからね。全能の神さまに救いの手とおみちびきを祈ったらいい」
フィリップが校長先生の家から出ると、雨がサラサラッと降っていた。構内に通じるアーチの道を歩いていったが、そこには人っ子ひとりいず、|みやまがらす《ヽヽヽヽヽヽ》は楡《にれ》の木の中で静まりかえっていた。彼はゆっくりとまわって進んでいった。からだがカッカとし、雨は快かった。熱をおびたその人柄からはなれて、彼は、いま、冷静にパーキンズ先生の言葉すべてを考え、気持ちを変えずにがんばってよかった、と思った。
暗闇の中で、大会堂の巨大なかたまりは、ぼんやりとしか目に映らなかった。否応なく出席を強要されるながい礼拝の気づまりで、いま、それが憎くてたまらない存在になっていた。聖歌はダラダラといつまでもつづき、それが歌われているあいだ、うらぶれた気分で立っていなければならない。単調でブツブツいっている説教は聞えず、動きまわりたくてたまらないのに静かに坐っていなければならないので、からだはムズムズしてくる。このとき、フィリップは、ブラックステイブルで毎日曜日におこなわれている二回の礼拝のことを思いめぐらした。教会はガランとして寒く、ポマードと糊《のり》づけの服のにおいが一面にただよっている。副牧師が一度、伯父が一度、説教をする。大きくなると、フィリップには伯父のことがわかってきた。フィリップは卒直で、情け容赦《ようしゃ》なかった。人間として実行していないことを牧師として誠実にいうこともあるのだという事実は、彼には納得いかぬことだった。このいかさまで、彼はカンカンに怒り立った。彼の伯父は弱くて利己主義的な男、その第一のねがいは、面倒からは免じられたいということにあった。
パーキンズ先生は、神への奉仕にささげられた生活の美しさについて、彼に語った。自分の故郷のイースト・アングリアの片隅で牧師がいとなんでいる生活がどんなものか、フィリップは知っていた。ブラックステイブルからほど遠からぬホワイトストーンという教区の牧師がいた。独身だったが、なにか仕事をというわけで、最近農耕をはじめていた。あれやこれやの人物を相手にして地区裁判所で彼が争っている訴訟の記事が、地方新聞にはたえず掲載されていた。その相手は、彼が賃銀を払おうとしない労務者、彼がいかさまを働かれたと非難している商人などだった。評判によると、彼は自分の牝牛に飼料をやろうとせず、この牧師反対の連合運動について、いろいろととりざたされていた。ファーンの牧師は顎髯をつけた恰好のいい男だったが、妻は、彼の残忍さのために、逃げださずにいられなくなり、近所の人たちにその醜行ぶりをぶちまけていた。海辺の小さな村のサールの牧師の姿は、牧師館のほんのすぐそばにある居酒屋で毎晩見受けられ、そこの教区委員がケアリー氏のところにやってきて、意見を求めたこともあった。こうした牧師たちが話しかける人間といえば、小さな農夫か漁師以外にだれもなく、ながい冬の宵《よい》があり、そのとき、風が葉の散った木のあいだをヒューッとわびしい音を立てて吹きとおり、あたり一面目にはいるものといえば、ただむきだしで単調な畠ばかりだった。そこには貧困があり、これといった仕事はなく、牧師たちの性格のえこじさがあますところなく発揮され、それを抑制するものはなかった 彼らは狭量、偏執になっていた。フィリップはこうしたことすべてを承知していたが、若さのもつきびしさで、それを許すべき口実とは考えていなかった。そんな生活をすると考えるだけでも、おぞけをふるっていた。彼は世に出ていきたかった。
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二十一
パーキンズ先生は、すぐに、自分の言葉がフィリップになんの効果もおよぼさなかったことをさとり、学期ののこりのあいだ、彼を無視していた。彼の書いた成績表は、痛烈だった。それが家に到着し、それがどうか? と伯母のルイーザにきかれたとき、彼は明るく答えた、
「ひどいもんです」
「えっ、ひどいのか?」牧師はたずねた。「もう一度読みかえさなければならんな」
「ターカンベリーにこのままいて、なんか役に立つと思いますか? しばらくドイツにいってたほうがいい、とぼくは思うんですがね」
「そんなこと、どうして考えたの?」伯母のルイーザはたずねた。
「それはとてもいい考えと思いませんか?」
シャープはもうキングズ・スクールをやめ、ハノヴァー(西ドイツ北部の低サクソニー州の首都)からの便りをよこしていた。彼は、じっさい、もう人生に乗りだし、それを考えると、フィリップはなおジリジリしてきた。抑制の生活をもう一年もつづけるなんて、たまらないことだった。
「だけど、そうしたら、奨学資金はもらえなくなることよ」
「どの道、それをもらえるみこみはないんです。その上、特別オクスフォードにいきたいわけでもなし……」
「でも、聖職につこうとしているのだったら、どう、フィリップ?」伯母のルイーザはうろたえて叫んだ。
「その考えは、とっくのむかしに、すてちまったんです」
ケアリー夫人は目をまるくして彼をながめ、自分の感情をおさえることに馴れていたので、伯父にお茶をもう一杯ついだ。みんな、だまりこくっていた。すぐに、涙がゆっくりと伯母の頬に流れ落ちているのに、フィリップは気づいた。彼女を苦しめたと思うと、いきなり、心がキりキリと痛んできた。通りぞいのドレスメイカーでつくったピタリとからだについた黒の服、しわくちゃな顔と薄青いつかれた目、若いころの安っぽい感じの巻き毛をまだつづけている灰色の髪で、この彼女の姿は、滑稽《こっけい》ではありながらも、奇妙なふうに心を打つものになっていた。これに気づいたのは、フィリップにとって、はじめてのことだった。
そのあと、牧師が副牧師といっしょに書斎に閉じこもってから、伯母の腰に片腕をまわして、彼はいった、
「ねえ、伯母さん、びっくりさせてすみませんでした。でも、ほんとうの天職でなかったら、聖職についても意味のないことなんですよ、そうでしょう?」
「とてもがっかりしたことよ、フィリップ」彼女はうめいた。「それに望みをかけていたんですからね。お前が伯父さんの副牧師になり、いずれ時がきたら――結局、わたしたちはいつまでも元気ではいられないんですからね――伯父さんにとってかわって牧肺になるものと、思っていたのよ」
フィリップは身をふるわせた。狼狽《ろうばい》したからだった。心臓は、罠《わな》につかまって翼をバタバタさせている鳩のように、ドキドキと動悸を打った。伯母は、頭を彼の肩に乗せて、静かに泣いていた。
「ウィリアム伯父さんに説いて、ターカンベリーを出られるようにしてくれませんか? あそこには、もう胸がムカムカしてるんです」
だが、ブラックステイブルの牧師は、一度きめたことを容易に変更する人物ではなく、フィリップが十八になるまでターカンベリーにとどまり、それからオクスフォードにゆくことは、もうズッと決定ずみのことになっているのだった。とにかく、フィリップがいま学校をやめるのは許せない、学校にそれを伝えてないし、いずれにせよ、学期の授業料は支払わなければならないのだから、ということだった。
「じゃ、クリスマスにやめる、と学校に伝えてくれますか?」ながい、ときに辛辣な言葉がかわされたやりとりのあとで、フィリップはいった。
「パーキンズ先生に手紙を書き、どういわれるかきいてみることにしよう」
「ああ、二十一になってたらいいんだがなあ! 人のいうなりにしなければならないなんて、たまらないことだ」
「フィリップ、伯父さんにそんなことをいってはいけませんよ」ケアリー夫人はやさしくたしなめた。
「でも、パーキンズがやめるなということは、わかりきったことでしょう? 学校じゃ、ひとり当りいくらと金をとってるんですからね」
「どうしてオクスフォードにいきたくないの?」
「教会入りするつもりがなかったら、なんの役に立つというんです?」
「教会入りはできんことだぞ、もう教会にはいっている身なんだからな」牧師はいった。
「じゃ、聖職につくです」イライラして、フィリップは答えた。
「なにになるつもりなの、フィリップ?」ケアリー夫人はたずねた。
「わかりません。まだ、きめてないんです。でも、なにになるにせよ、外国語を知ってれば、役に立つことでしょう。ドイツに一年いったら、あんないやなとこにいるより、ズッとためになりますよ」
オクスフォードにいったって、いまの学校生活の継続にすぎない、とまでいうつもりはなかった。人のさしずを受けずに暮したい、と強く望んでいた。その上、オクスフォードでは、自分は、ある程度、旧友のあいだで知られることになるだろう、とにかく、そうした連中からすっかり解放されたかった。学校生活は失敗、と感じていた。新しい出発をしたかった。
ドイツにゆきたいという彼の希望は、たまたま、ブラックステイブルで最近論議を呼んでいた考えと一致することになった。ときどき医者の家に友人たちが泊りがけにやってきて、外部の世界の情報を流し、八月を海辺ですごす避暑客たちは、自分なりのものの見方をもっていた。旧式な教育が、現在、むかしほど役に立つものではない、近代語は、自分の若いころにはもっていなかった重要性を与えられつつある、ということが牧師の耳にはいっていた。彼自身の気持ちは、どっちつかずの状態にあった。彼自身の弟が、ある試験に失敗して、ドイツにやられたことがあり、先例がないわけではなかったのだが、その弟はドイツでチフスのために死亡、そこでそこにゆくのは、どうしても危険視されることになった。何回となく談合をかさねたあとで、フィリップはもう一学期間学校にもどり、それから退学することになった。この結果は、フィリップにそう不満なものではなかった。だが、帰校後数日して、校長先生は彼にこう話しかけてきた、
「きみの伯父さんから手紙をもらったよ。きみはドイツにいきたいらしいんだね。それをどう思うか? ってたずねられたんだ」
フィリップは、びっくり仰天だった。約束を破ったことで、自分の保護者にカンカンになった。
「もう話はきまったものと思ってました」彼は答えた。
「とんでもない。学校をやめさせるのはじつに大きなあやまちと思う、と返事を出しといたよ」
フィリップはすぐに筆をとり、激越な手紙を伯父に出した。言葉のなりふりなんか、構ってはいられなかった。すごく腹が立ったので、その晩夜ふけまで眠れず、朝早く目をさまして、自分の受けてきたあつかいを陰気な気分を味わいながら考えこんでいた。返事をジリジリしながら待っていたが、それは二、三日して到着した。それは、伯母のルイーザからのおだやかで心痛めた手紙、伯父にああした手紙を書いてはいけない、伯父はそれをとても苦にしている、と述べてあった。お前は不親切で、キリスト教徒らしからぬふるまいをしている。自分たちは、お前のために、できるだけのことをしているのを、さとらなければいけない。自分たちはお前よりズッと年輩者、お前のためになにがいいかをもっとよく知っている、といった趣旨だった。フィリップは拳をにぎりしめた。そうした言葉はもう何回も聞いていたのだったが、どうしてそれが真実なのか、どうにも合点がいかなかった。ふたりは自分より世情にうといのに、年輩者だから知識が豊富ということを、どうして自明の理と受けとってるのだろう? この手紙の結びのところで、提出した退学願いをケアリー氏が撤回した、という言葉が書かれてあった。
つぎの半休日まで、フィリップは怒りを胸に燃え立たせていた。半休日は火曜日と木曜日だった。土曜日の午後には、大会堂の礼拝に出なければならなかったからである。六年生がみな教室を出ていくまで、彼は待っていた。
「きょうの午後、ブラックステイブルに帰りたいのですが、いいでしょうか、先生?」彼はたずねた。
「だめだ」言葉短かに校長先生は答えた。
「とても重要なことで伯父と話をしたいのです」
「だめだといったのが聞えなかったんかね?」
フィリップは返事をせずに教室から出ていった。屈辱感、たのまなければならない屈辱感、ぶっきらぼうな拒否にあっての屈辱感で、もう胸がムカムカしてきた。こうなると、校長先生がたまらなく憎らしくなってきた。じつに横暴な拒否にたいして理由ひとつ示してくれようとしない専横ぶりのもとで、フィリップは身をのたうっていた。憤懣《ふんまん》やる方なく、どうにでもなれという気分になり、夕食後、よく知っている裏道をとおって駅にゆき、ちょうど間に合ったブラックステイブルゆきの列車に乗りこんでしまった。牧師館にはいっていくと、伯父と伯母は食堂に坐っていた。
「やあ、どこからあらわれたんだ?」牧師はいった。
彼と会って伯父がご機嫌ななめなことは、はっきりとわかった。ちょっと不安そうなようすもみせていた。
「退学のことで伯父さんと話をしたいと思って来たんです。ぼくがここにいるとき、ちゃんと約束をしたのに、一週間後にはそれとちがったことをするなんて、どういうことかということを、ぼくは知りたいんです」
こうしてズケズケいってのけて、彼自身もちょっとおそろしくなったが、どういう言葉を使おうかはもうはっきりきめてあったこと、そこで激しく動悸を打ちながらも、がんばっていってしまったのだった。
「きょうの午後、ここに来る許可は得てきたのかね?」
「いいえ。パーキンズにたのんだんですが、断られました。手紙を出して、ぼくがもどってきたと知らせたら、ぼくはグイグイしぼられることでしょうよ」
ケアリー夫人は編み物をしていたが、手はふるえていた。こうした口論には馴れず、それでひどくワクワクしていたからだった。
「校長先生に伝えたからといって、それはお前の身から出た錆《さび》というもんさ」ケアリー氏は応じた。
「いいつけ口だったら、十分にできるわけですね。ああしてパーキンズに手紙をだしたんですから、その資格は十分にありというとこなんですからね」
これをいったのは、まずいことだった。牧師にとっては、好機ござんなれ、ということになったからである。
「そうした生意気なことばかりいうんなら、わしはお前の相手なんかせんぞ」威厳をこめて彼はいった。
彼は立ちあがり、さっさと部屋を出て、書斎にひきこもってしまった。戸を閉め錠をかける音が、フィリップの耳に聞えてきた。
「ああ、二十一だったらいいんだがな! こうしてしばりつけられてるなんて、たまらないことだ」
伯母のルイーザは静かに泣きはじめた。
「ああ、フィリップ、あんなことを伯父さんにいうなんて、いけないことですよ。どうかいって、伯父さんにあやまってきてちょうだい」
「あやまる筋は少しもありませんよ。卑劣にもぼくの虚に乗じたのは、伯父さんなんですからね。もちろん、ぼくを学校におくなんて、金のむだ使いというもんです。だけど、それが伯父さんにどうだというんです? それは、伯父さんのお金じゃないんですからね。もののわからない人を保護者にするなんて、まったくひどいことだったんです」
「フィリップ!」
フィリップは怒りにまかせてまくし立てていたが、伯母の声を聞いて、ピタリ口をつぐんだ。それは、がっくりとした傷心の声だった。自分がどんなにひどいことをいっているか、そのときまで、彼にはわかっていなかった。
「フィリップ、どうしてそんなひどいことがいえるの? 知っているでしょう、わたしたちは、お前のために、できるだけのことをしようとし、経験がないのも承知しているんですよ。子供があるようには、とてもできないの。だからこそ、パーキンズ先生と相談をしたんです」彼女の声は、とぎれとぎれになっていた。「わたしは、お前のお母さんになろうとつとめてきました。自分の息子のように、お前を愛してきたんですよ」
彼女は小さくてくずれてしまいそうな感じ、その老嬢じみたようすにはひどくあわれをさそうものがあり、フィリップは心を打たれてしまった。大きなかたまりが、いきなり、胸につかえ、目に涙がこみあげてきた。
「ごめんなさい」彼はいった。「ひどい態度をとるつもりじゃなかったんです」
彼は伯母のわきにひざまずき、伯母を両腕で抱き、ぬれた、しわだらけの頬にキスをした。彼女は激しくすすり泣き、彼は急に、むだに使い果した生涯にたいするあわれみの情が心に湧き起ってきたように思った。こうまで感情をあらわに示すなんて、いままでの伯母には絶対にないことだった。
「わかっているわ、わたし、心で思っているほどお前には十分にしてあげられなかったのよ、
フィリップ。でも、方法がわからなかったの。お前にお母さんがないのと同じに、わたしに子供がいないのは、とてもつらいことだったわ」
フィリップは、自分の怒りと自分の問題を忘れ、とぎれとぎれの言葉とちょっとした不細工な愛撫で、伯母をなぐさめようとむきになっていた。そのとき、時計が鳴り、点呼に間に合ってターカンベリーにもどれるのこったただひとつの列車に乗りこもうと、すぐにとびだしていかねばならなくなった。自身の弱さに腹が立ってならなかった。牧師のふんぞりかえった態度と伯母の涙に屈して、自分の意図を果さず終いにしてしまったのは、いまいましいことだった。だが、牧師夫妻のあいだでどんな話があったのかわからなかったが、校長先生にもう一通の手紙が出されることになった。パーキンズ先生は、それをイライラして読み、肩をすくめた。彼はそれをフィリップにみせた。内容は以下のようなものだった。
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親愛なるパーキンズ校長先生
わたしの後見している者のことで、ふたたびご面倒をおかけいたします点、お許しください。しかし、彼の伯母もわたしも、ともども、心を痛めています。彼は退学を熱望しているらしく、伯母は、彼が不幸、と申しております。なにせ、親子とはことちがい、いかに対処すべきか困却しているしだいです。学業もかんばしからず、このまま在学をつづけるのは浪費と考えているようすです。彼を引見しご談合いただけたら幸い、その気持ちの変らぬ場合、小生のもともとの意図どおり、クリスマス期に退学いたさすのがよろしいか、と愚考しているしだいです。
敬具
ウィリアム・ケアリー
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フィリップは、その手紙を校長先生にかえしたが、自分の勝利にたいするほこらかさをゾクリと感じた。これで自分の意図がとおり、満足していた。自分の意志が、他人の意志にたいして勝利を獲得したからだった。
「きみが追っかけて出した手紙で考えが変るようだったら、こちらで三十分つぶしてきみの伯父さんに返事を出しても、たいして役に立たんことだろう」ジリジリして、校長先生はいった。
フィリップはなにもいわず、落ち着いてすました顔をしていたが、目をキラリと輝かさずにはいられなかった。パーキンズ先生はそれをみてとり、ちょっと笑いだした。
「きみが勝ったというわけだね、どうだい?」彼はいった。
フィリップも、すぐ、ニコリとした。よろこびの情はかくせなかったからだった。
「退学を熱望しているのは、ほんとうのことかね?」
「そうです、先生」
「ここでは不幸なのかい?」
フィリップの顔は、サッと赤くなった。自分の感情の深みをさぐろうとするなんて、本能的にたまらなくいやなことだった。
「いやあ、わかりません、先生」
パーキンズ先生は、ゆっくりと顎髯をしごきながら、考えこんでフィリップをながめた。彼のようすは、ひとりごとをいっているようだった。
「もちろん、学校はなみの人間のためにつくられたもんだ。穴はみんなまるく、どんな形をした木釘でも、なんとか、それにはまらなければならない。なみの人間以外の者の面倒をみる暇はない」ついで、いきなり、フィリップに語りかけてきた、「いいかね、きみにひとつ、いいたいことがあるんだ。いま、学期は終りに近づいてる。もう一学期いたって、死ぬというわけでもあるまい。ドイツにゆきたいんだったら、クリスマスのあとにいくより、復活祭のあとのほうがいいだろう。真冬より、春のほうがズッと楽しいのだからね。来学期の終りになってもきみの心が変らないんだったら、ぼくとしても反対はせんよ。この案はどうだね?」
「ありがとうございます」
フィリップとしては、最後の三ヵ月が助かっただけでも大よろこび、もう一学期やっても、べつにどうということもなかった。復活祭前に永遠に解放されるかと思うと、学校の監獄色は薄れていった。心は踊った。その日の夕方、礼拝堂で、クラスごとにちゃんと自分の場所に立っている少年たちをグルリとみわたし、間もなくその姿は二度とみなくなると思うと、満足感でクスクスと笑いがこみあげてきた。その結果、この連中にたいする好意といったものまで湧いてきた。目はローズの上にそそがれた。ローズは生徒長になったのをひどく真剣に考え、自分を学校の模範生とすっかり思いこんでいた。その夕方、日課(朝夕の祈祷のときに読む聖書の一部で、祈祷書の中に示されている)を読むのが彼の番になり、じつにみごとにそれを読んだ。この彼からも永久に離れられるかと思うと、フィリップはニヤリとした。六ヵ月したら、ローズが背の高いスラリとした男であろうとなかろうと、こっちの知ったことじゃない。生徒長になろうと、フットボールのキャプテンになろうと、どうだというんだろう? ガウンを着こんだ先生たちの姿がみえた。ゴードンは二年前、卒中で死んだが、それ以外の者はそこにいた。彼らがどんなにあわれな連中かが、いま、フィリップにはわかっていた。例外は、たぶん、ターナーだけ、彼には人間らしいとこがあるからだ。この彼らにどんなにしぼられたかと思うと、身がウズウズしてきた。六ヵ月すれば、この連中も問題ではなくなる。賞賛を受けて、どうということもなし、文句をいわれても、肩をすくめるだけのことだろう。
フィリップは、自分の感情を外に出さない業《わざ》を、もう身につけてきた。はにかみでまだ苦しんではいたものの、ときどき、意気|軒昂《けんこう》の気分にひたり、そうなると、だまって打ち解けず、ツンとしてびっこをひきながら歩いてはいても、心の中では大声で叫びをあげているようだった。足どりも軽くなったようだった。ありとあらゆる考えが頭の中を踊りぬけ、空想がつぎからつぎへとすごい勢いで走りぬけていったので、それがつかめないくらいだった。だが、その去来は、ウキウキした気分で心をいっぱいにした。こうして幸福感にひたっていると、勉強に精が出るようになり、学期ののこりの週のあいだ、いままでのさぼりの穴埋めにとりかかった。頭はらくに回転しはじめ、その活動はじつに楽しいものだった。学期末の試験では、じつにみごとな成果をあげることができた。パーキンズ先生は、ただひと言いっただけだった。フィリップが書いた論文について話し、おきまりの批評のあとで、こういった、
「こうしてみると、バカな真似をするのはしばらくお休みというわけなんだね」
パーキンズ先生は、歯を輝かして、彼にニッコリと笑いかけ、フィリップは、目を伏せて、とまどいまじりの微笑を浮べた。
夏の学期の終りに授与されるさまざまな賞を自分たちのものと思いこんでいた数人の生徒は、フィリップを重大な競争相手とは考えていなかったが、こうなると、多少の不安な気持ちで彼をながめるようになった。彼は復活祭に学校をやめるつもり、だから、どんな意味でも競争相手ではなかったのだが、それは、だれにもだまっていた。休暇をフランスですごしたからといって、ローズが自分のフランス語でだいぶいい気持ちになっているのを、彼は知っていた。ローズは英語の論文で大聖堂の首席司祭の賞を獲得しようとねらっていた。こうした課目でフィリップがどんなに彼を上まわっているかを知って、その狼狽ぶりをながめるのは、フィリップにとって溜飲のさがる思いだった。もうひとり、ノートンという生徒は、この学校で与える奨学資金を手に入れられなかったら、オクスフォードにはいけなかった。奨学資金を志願するつもりか? と彼はフィリップにたずねた。
「それがいけないというのかね?」フィリップは反問した。
だれかほかの人間の将来を自分の手中ににぎっていると思うのは、楽しいことだった。こうしたさまざまな賞をじっさい掌中ににぎり、それから、そんなものは問題じゃないというわけで、それを他人にゆずりわたしてやることには、なにかロマンティックなものがあった。いよいよ学期の終りの日がやってきて、彼は、別れの挨拶をしようと、パーキンズ先生のところにいった。
「まさか、学校をやめるつもりというんじゃないんだろうね?」
校長先生がはっきりと示した驚きをみて、フィリップの顔色は沈んでいった。
「でも、どんな反対もしない、と先生はおっしゃいました」彼は答えた。
「どうせ気まぐれだけのこと、調子を合せておいたほうがいい、と思ってたんだがね。きみが頑固《がんこ》で強情なことが、いまわかったよ。いったいぜんたい、いまどうして学校をやめたいんだい? いずれにせよ、もう一学期しかないんじゃないか。モードリン校の奨学資金なら、らくにとれるよ。きみは学校の賞を半分はさらうだろう」
フィリップはムッとして相手をながめた。ひっかけられた、と感じたからだった。だが、約束はしたのだ、パーキンズはそれを破るわけにはいかないのだ。
「オクスフォードでは、とても楽しい時をすごせるよ。卒業後どうするかは、すぐきめる必要はない。頭のある人間にとって、そこの生活がどんなに愉快なものか、きみにも見当がつかんだろう」
「ドイツにいく準備を、もうしてしまったんです、先生」フィリップはいった。
「準備といっても、変更できないもんなのかね?」例の冷笑を浮べて、パーキンズ先生はたずねた。「きみがいなくなったら、とても残念だね。学校では、せっせと勉強するそうとう頭のわるい生徒が、なまけ者の利口な生徒に、いつも勝ちを制している。だが、利口な生徒が勉強するとなると――そう、きみが今学期やったようなことになるんだ」
フィリップの顔は、赤黒くなるまで染っていった。ほめ言葉には不馴れ、自分が利口者といってくれた人は、いままでになかったからだった。校長先生は手をフィリップの肩に乗せた。
「いいかい、頭のにぶい生徒にものをつめこむのは、つまらない仕事だ。だが、ときどき、向うから受けとめようと出向いてくるような生徒に出逢う機会にめぐり合うと、授業はまったく、この世でいちばん心をワクワクさせる楽しいものになるんだ。なにしろ、相手は、まだほとんど言葉を口から出さんうちに、ちゃんとこちらの意味を呑みこんでくれるんだからね」
フィリップは、この親切な言葉で、すっかり感動していた。自分の退学するか在校するかが、パーキンズ先生の重大問題になっているなどとは、夢々思ってもいなかったからだった。心を打たれ、とてもうれしかった。栄光につつまれてここの学校生活を終え、オクスフォードに進むのは、楽しいことだろう。交歓試合をしに学校にもどってきたO・Bたちが語っているのを聞いたそこでの生活、自習室で読みあげられたオクスフォードからの手紙の中の話が、サッと一|閃《せん》のひらめきのように、目の前に浮んできた。だが、羞恥《しゅうち》心は、どうにもならなかった。いまここで折れたら、自分自身の目に自分がどんなバカに映ることだろう。校長先生の策略の成功に、伯父はニンマリするだろう。手中にはいったすべてのこうした賞を、受けとるのをいさぎよしとしないで、つきかえすのは劇的に華やかなことだが、そうなると、それは、つまらない、ありきたりの賞を受けることに堕してしまうだろう。もう少しの説得、彼の面目を立ててやるだけのもう少しの説得が必要だった。そうすれば、フィリップは、パーキンズ先生が希望するどんなことでも、するところだった。だが、フィリップの顔には、そうした矛盾した感情のようすはいささかも示されず、それは平静で不機嫌な顔だった。
「やっぱり、やめたいと思います」彼はいった。
自分の個人的な影響力で物事を片づけていく多くの人たちと同じように、パーキンズ校長先生は、自分の力が即効を示さぬとさとると、多少ジリジリしてきた。仕事はたくさんあったので、気がくるったように頑固にしている一生徒のことに、そう時間をかけてはいられなかった。
「よくわかった。ほんとうに望むんだったら退学を許すと、ぼくは約束した。その約束は守ることにしよう。いつドイツにいくんだい?」
フィリップの心臓はドキドキと脈打った。勝利は獲得したものの、勝つのを自分が望んでいたのかどうか、だいぶ、あやしいものになってきた。
「五月のはじめです、先生」彼は答えた。
「うん、もどってきたら、ここに来なきゃいかんぞ」
パーキンズ先生は手をさしだした。もう一度チャンスを与えられたら、フィリップは心を変えるところだった。だが、パーキンズ先生は、話はきまったものとみているようだった。フィリップは校長の家から出ていった。学校時代は終り、もう自由の身になったのだ。だが、その瞬間に待ち望んでいた荒々しい喜悦の情は、湧き起っては来なかった。彼は構内をゆっくりと歩きまわり、深い憂愁《ゆうしゅう》につつまれていた。バカな仕打ちをしなかったらと、いま、悔悛《かいしゅん》の念にさいなまれていた。退学はしたくなかったが、いまさら、校長先生のところにいって、学校にいます、とはどうしてもいう気になれなかった。それは、わが身に絶対に加えることのできぬ屈辱だった。自分が正しい行動をとったのかな? とも考えてみた。自分自身と自分の環境すべてに、なにか満ち足りぬものがあった。自分の意志をおしとおしたときはいつでも、あとで、後悔の念にかられるものなのかな? と彼はボンヤリと考えた。
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二十二
フィリップの伯父は、ベルリンに住むミス・ウィルキンソンという旧友をもっていた。この女性は牧師の娘で、ケアリー氏が最後の牧師補時代を送ったのは、リンカンシャー(イングランド東部の州)のある村の牧師だった彼女の父親のところだった。父親の死亡で、自分で生活を立てなければならなくなり、彼女は、フランスやドイツで家庭教師として、さまざまな暮しをしていた。ケアリー夫人とはズッと文通をつづけ、二、三度、その休暇をブラックステイブルの牧師館で送ったことがあったが、めったにないケアリー家のお客さまの通例どおり、食費としてわずかの金を払っていた。フィリップの希望にさからうより屈服したほうが面倒がないとわかったとき、ケアリー夫人はこの彼女に手紙を書いて、意見を求めた。ミス・ウィルキンソンは、ハイデルベルクがドイツ語を勉強するのに適したところ、エルリン先生の夫人の家が快適な家、と推薦《すいせん》してきた。下宿代は週に三十マルクで、その地区の高校の先生である先生自身がドイツ語の授業をしてくれるだろう、ということだった。
五月のある朝、フィリップはハイデルベルクに到着した。持ち物は手押し車に載せられ、赤帽のあとについて、彼は駅から出ていった。空は輝く青、とおっていった並木道の木々は、葉でこんもりとしていた。大気には、フィリップに新鮮と感じられたなにかがあり、異国人の中で新しい生活をはじめるときに感ずるオズオズした気分に入りまじって、とてもウキウキしたよろこびの情があった。だれもむかえに来なかったので、ちょっとわびしく、大きな白い家の正面戸口のところに彼を放りだしにして赤帽がいってしまったとき、強い羞恥心におそわれた。
むさくるしい若い男が彼を家の中につれこみ、応接間に案内してくれた。そこには、緑のビロードでおおわれたひとそろいの大きな家具があり、中央には、まるいテーブルがおかれてあった。その上には、紙のひだ飾りでキュッとひとまとめにした花束が水にさされていたが、まるで羊の厚い肉きれづきの骨のような恰好、そのまわりにはきちんと配置されて、なめし革の本がならんでおかれてあった。かびくさいにおいが、部屋にただよっていた。
やがて、料理のにおいとともに、先生の夫人がはいってきたが、背の低い、とても太った女性で、髪をキリッと固く結び、赤い顔をしていた。小さな目は数珠《じゅず》のようにキラキラと光り、愛想のいい態度だった。彼女はフィリップの両手をとり、ミス・ウィルキンソンのことをたずねたが、彼女は、ここで二度、数週間すごしたことがあるそうだった。彼女の使った言葉は、ドイツ語とあやしげな英語だった。ミス・ウィルキンソンを知らないということを、フィリップはどうしても彼女に伝えることができなかった。ついで、彼女のふたりの娘があらわれた。フィリップの目には若いとは思えなかったが、ふたりは二十五を越してはいなかったのだろう。長女のテクラは、母親と同じく背が低く、ちょっとフワフワした同じ物腰をしていたが、顔はきれいで、浅黒い髪はフサフサしていた。次女のアンナは、背が高く、醜女《ぶおんな》だったが、感じのいい微笑をもらしていたので、フィリップは、すぐに、この娘のほうが好きになった。慇懃な会話が数分つづいたあとで、先生夫人は、フィリップをその部屋に案内し、出ていった。部屋は小さな塔にあり、遊園地《アンラーゲ》の木の天辺《てっぺん》をみおろしていた。寝台は壁の入り込みの中にあり、その結果、机に向って坐っていると、寝室の感じはぜんぜんなかった。フィリップは荷をほどき、本をならべた。これで、とうとう、自由にふるまえる身になったのだ。
一時にベルが鳴り、食事にゆくと、応接間には夫人のお客さまの下宿人が集っていた。夫人の夫に紹介されたが、彼は、背の高い中年の男で、灰色になりかけた金髪の大きな頭をし、目はおだやかで青かった。きちんとした、そうとう古色|蒼然《そうぜん》とした英語で、フィリップに話しかけてきたが、この英語は、会話からではなく、イギリスの古典研究から習得したもので、フィリップがシェイクスピアの劇でしかお目にかかったことのない単語を日常会話で使っているのを聞くのは、なにか妙な感じだった。エルリン夫人は自分の家を家庭と呼び、下宿屋ではないといっていたが、その相違がどこにあるのかしっかりとみつけだすのには、形而上《けいじじょう》学者の精巧ぶりを発揮しなければならなかったことだろう。
応接間につづくながい、暗い部屋で食卓に向ったとき、とてもはにかんでいたフィリップに、みんなで十六人の人がいるのがわかった。夫人が一方の端に坐り、食事の肉を切りわけていた。食事の世話は、皿をガチャガチャとうるさく鳴らして、彼のためにドアを開いてくれた例の不細工なやぼったい男の手でおこなわれた。この男は素早い動きを示してはいるものの、最初に給仕される者は、最後の者が分け前の食事を与えられるまでに、もうペロリと自分の分を平らげるという始末になっていた。夫人の命令で、ドイツ語以外にはしゃべれなかったので、恥ずかしさをおし殺してベラベラしゃべれるものとしても、フィリップは否応なく口をつぐんでいなければならなくなった。自分がこれからいっしょに暮すことになる人たちを、彼はながめまわした。夫人のそばに、何人かの老婦人が坐っていたが、これは問題ではなかった。若い娘がふたりいたが、ふたりとも金髪、ひとりはとても美しく、ヘドウィヒ嬢とツェツィーリエ嬢と呼ばれているのが、フィリップの耳にはいってきた。ツェツィーリエ嬢は、髪をながいおさげにしていた。ふたりはならんで坐り、笑いをおし殺して、おしゃべりをしていた。ときどき、彼らはチラリとフィリップをながめ、どちらかが、声をひそめて、なにかをいい、ふたりしてクスクスッと笑っていた。フィリップは、きまりがわるくなって、顔を赤くし、自分のことを笑っているのだな、と思った。彼らのそばに、ひとりの中国人が坐り、黄色な顔をして、のんびりした笑いを浮べていたが、この男は、大学で、西欧事情を研究していた。とても早口で、妙ななまりがあるために、娘たちは彼のいうことがかならずしものみこめず、そこで、ワッと笑いだした。彼も、それにつられて、上機嫌に笑い、そうすると、彼の扁桃《へんとう》のような目はほとんどふさがってしまった。黒い上着を着こんだ二、三のアメリカ人がいたが、肌は黄色っぽく、カサカサだった。この連中は神学生で、そのへたなドイツ語には、ニュー・イングランドなまりの鼻にかかった声がひびいていた。フィリップは、うろんな気分で、この彼らをながめた。アメリカ人を荒々しい狂暴な野蛮人とみるように教わってきたからだった。
その後、応接間のゴツゴツした緑のビロードの椅子にしばらく坐っていてから、アンナ嬢がフィリップに、自分たちといっしょに散歩しないか? とさそってくれた。
フィリップはその招きに応じた。これは、ちょっとした人数の一団だった。夫人のふたりの娘、さらにほかの娘ふたり、アメリカ人の学生一名、それにフィリップの一行だった。フィリップはアンナとヘドウィヒ嬢のわきを歩き、ちょっとドギマギしていた。どんな娘ともつき合ったことがなかったからだった。ブラックステイブルでは、農夫の娘と商人の娘しかいなかった。その名前も顔も知っていたが、彼は小心、自分のびっこを笑っているものと思いこんでいた。牧師とケアリー夫人は、自分たちの高い地位と農夫の地位のあいだにはっきりと区別をつけていたが、フィリップはそれを鵜《う》のみにしていた。医者にはふたりの娘がいたが、彼らはフィリップよりズーッと大きく、フィリップがまだ小さな子供のころに、そこにつとめていた助手と相ついで結婚した。キングズ・スクールで、何人かの少年がつき合っていた二、三の娘がいたが、つつましいというより厚かましい女どもで、おそらくは男のほうの想像によるものだろうが、彼らとの情事のきわどい話が語り伝えられていた。だが、フィリップは、ツンとした軽蔑の下に、いつも、心をいっぱいにしていた女性にたいする恐怖の情をかくしていた。想像と読んだ本のために、彼はバイロン的な態度(悲壮でローマン的な態度をいう)をあこがれ、病的な照れくささと、婦人に慇懃にしなければという信念とのあいだにはさまれて、どっちつかずの気持ちになっていた。いま、明るく、おもしろくふるまわねば、と感じてはいたが、頭が空《から》っぽになったような感じ、どんなにがんばっても、いう言葉ひとつ思い浮ばなかった。
夫人の娘のアンナ嬢は、義務心から、ときどき彼に話しかけてきたが、もうひとりの娘はほとんど口をきかなかった。彼女は、キラキラと輝く目で、ときどき彼をながめ、ときに露骨にワッと笑いだし、彼をドギマギさせた。彼女が自分のことをまったく滑稽《こっけい》な存在と考えているものと、フィリップは感じた。みなは岡の側面の松林を歩いていたが、松の快いにおいは、フィリップを強くよろこばせた。その日は温かく、晴れあがっていた。最後に小高いところに到着したが、そこからは、目の前に、陽光を浴びたライン川の渓谷《けいこく》がひろがっていた。それは、黄金の光に輝くひろびろとした大きな景観、遠くにはいくつか町がみえ、そこを切って銀のひものような川がウネウネとのびていた。フィリップが知っていたケントの片隅には、ひろい場所は少なく、海だけがひろい水平線を示しているのだった。いまはるかに望む遠大な景色は、彼に特別な、得もいえぬゾクりとしたよろこびを与えた。突然、心の昂揚《こうよう》を感じた。それと気づいてはいなかったが、これが、ほかの縁のない感情をまじえずに、真の美感を経験した嚆矢《こうし》となった。ほかの者はいってしまったので、三人はベンチに腰をおろした。ふたりの娘が早口のドイツ語でしゃべっているあいだに、フィリップは、娘たちがそばにいるのにはお構いなしで、目を凝らしてこの目の楽しみを満喫した。
「まったく、ぼくは幸福だ!」それと気づかず、彼は考えていた。
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二十三
フィリップは、ときおり、ターカンベリーのキングズ・スクールのことを考え、一日のある特定の時間にそこでおこなわれていることを思い出して、ひとりで笑っていた。ときに、自分がまだそこにいる夢をみて、目をさまし、塔の小部屋にいるのを知って、すごい満悦感をおぼえた。寝台からは、青空にかかる大きな積雲がみえ、自分の自由に陶然《とうぜん》と酔っていた。好きなときに寝起きができ、顎《あご》でこき使われることもなかった。もう嘘をつく必要がないことが、フッと心に思い浮かんだ。
エルリン先生がラテン語とドイツ語を教えてくれることになっていた。フランス人が毎日やってきて、フランス語の授業をした。夫人は、数学のために、イギリス人を推薦したが、これは、大学で、語学の学位をとろうとしているウォートンという男だった。フィリップは、毎朝、そこに出かけていった。ウォートンは、きたない家のいちばん天辺《てっぺん》にひと部屋暮しをしていた。部屋はきたなく、むさくるしく、ツンと鼻をつくにおいがこもっていたが、それは、さまざまのにおいの合成のものだった。フィリップが朝十時にゆくと、彼はたいてい床の中にいて、ガバとはねおき、きたならしい化粧着を着こみ、フェルトのスリッパーをつっかけ、教えながら、粗末な朝食を食べた。
背の低い男で、ビールの飲みすぎで太り、濃い口髭をたくわえ、髪はながくて、モシャモシャだった。ドイツ滞在は五年にわたり、すっかりドイツふうになっていた。自分が学位をとったケンブリッジを軽蔑の念をこめて語り、ハイデルベルクで博士号をとって故国に帰り、教師生活をはじめなければならなくなったとき、自分を待ち受けている生活を考えて、もうたまらんといったふうに話をしていた。彼は、幸福な自由と楽しい友人を与えられているドイツの大学生活の礼賛者だった。学生協会《ブルシェンシャフト》(制帽・リボンをつけたコルプスに対抗して愛国的目的で一八一五年につくられた学生の組合)の会員で、|学生クラブ《クナイペ》にフィリップを一度案内する、といっていた。ひどい貧乏生活を送り、フィリップの授業料のおかげで、夕食がパンとチーズから肉の料理に格あげされる、とあけすけに打ち明けた。ときどき、前夜に飲んだ大酒のたたりで、頭痛がひどく、コーヒーも飲めない始末、ガックリして授業をやっていた。こうしたさいに備えて、彼は数本のビールを寝台の下におき、これを飲み、パイプを一服ふかして、人生の重荷を堪えぬこうとした。
「むかえ酒というやつさ」泡《あわ》を立てて飲みにくくならないようにと、ソッとビールをつぎながら、彼はいった。
ついで、彼の話は、大学、相対抗する学生組合《コルプス》のもめごと、決闘、あれこれの教授の下馬評にうつっていった。フィリップがこの彼から学んだのは、数学より人生だった。ウォートンは、ときどき、カラカラッと笑って椅子にそっくりかえって、いった、
「うん、きょうはなんにもしなかったね。礼金はいらんよ」
「いやあ、いいんですよ」フィリップは応じた。
これは、新しくて、じつに興味深いこと、チンプンカンプンの三角法よりズッと重要なものだ、とフィリップは感じた。それは、たまたまのぞいてみることができる人生の窓といったもの、彼は、心をワクワクさせて、その機会をとらえた。
「いや、そんな不当な金は受けとらんよ」ウォートンはいった。
「でも、夕食はどうするんです?」ニヤリとして、フィリップはたずねた。先生の、懐《ふところ》具合はみとおしだったからである。
週二シリングになる礼金を、月に一度の払いより、毎週払いにしてくれ、とウォートンはたのみこむことまでした。それのほうがことは簡単というわけだった。
「うん、夕食の、心配なんて構いはしない。ビール一本で夕食というのも、これがはじめてっていうわけじゃなしね。それをすると、頭がすごく冴えてくるんだ」
彼は寝台の下にもぐりこみ(敷布は洗濯をしないので灰色)、もう一本ビールびんをひっぱりだした。若いので人生の楽しみを知らないフィリップは、それをいっしょに飲むのを断り、そこでウォートンは、それをひとりで飲むことになった。
「どのくらいここにいるつもりだい?」ウォートンはたずねた。
彼もフィリップも、ヤレヤレといった気分になって、口実になっていた数学を放りだしてしまった。
「いやあ、わかりません。まあ、一年といったとこでしょう。それから、家の者は、オクスフォードにいけっていってるんです」
ウォートンは、フフンといったように肩をすくめた。畏怖の念をもってあの学問の王座をながめない人間がいるなんて、フィリップにとっては新しい経験だった。
「なんのために、あんなとこにいきたいんだい? 喝采《かっさい》を浴びる優等生っていうことだけだぜ。どうしてここの大学にはいらないんだい? 一年じゃだめだ。ここに五年はいるんだな。いいかい、人生には、ありがたいもんがふたつあるんだ。思想の自由と行動の自由だ。フランスでは、行動の自由が得られる。好きなことができ、だれからも文句はいわれない。だが、ほかの連中と同じ考え方をせにゃならんのだ。ドイツでは、ほかの連中と同じ行動をせにゃならんが、好きなとおりに考えられる。どっちも、とてもありがたいもんさ。ぼくとしては、思想の自由のほうをとりたいがね。ところが、イギリスとなると、そのどっちもだめ、因襲ですりへらされちゃうんでね。好きなとおりに考えられんし、好きなとおりに行動もできない。民主主義国家だからこそ、そうなるのさ。アメリカはもっとだめと思うな」
彼は、用心しいしい、椅子でふんぞりかえった。坐っている椅子がつぶれそうになっていたからで、華やかな演説調が、いきなりドシンと床に倒れて中絶されるのは、とんだお粗末というとこだった。
「ぼくは、今年、イギリスに帰らなければならんのだ。だが、なんとか都合して細々でも食いつないでいけたら、もう一年ここにがんばってるよ。だが、それが終ったら、いよいよ帰らにゃならん。そして、こうしたものすべてとお別れになるんだ」――彼は腕をふって屋根裏部屋をグルリとさしたが、そこには、起きたまんまの放りだしの寝台、床に投げだされた衣類、壁ぞいにならべられた一列のビールの空きびん、隅という隅にある積みかさなった製本のくずれたボロボロの本があった――「就職先はどこかのいなか大学、そこで言語学の講座でも手に入れようとするわけさ。そして、テニスをやり、お茶の会に出席するというお粗末さ」彼は話を切り、とてもきちんと服装をととのえ、きれいなカラーをつけ、髪の手入れのゆきとどいたフィリップを、ひやかしまじりにながめた。「いや、これはしたり! 顔を洗うのを忘れてたぞ」
自分自身が小ぎれいにしているのを、相手にたいする我慢ならぬ叱責と感じて、フィリップは顔を赤くした。最近、自分の身だしなみに多少の注意を払うようになり、ネクタイもかなり厳選して、イギリスからやってきたからだった。
夏のおとずれには、征服者のおもむきがあった。毎日毎日が美しかった。空は傲然として青く澄みわたり、その青さは、拍車のように、神経を刺激した。遊園地の緑は強烈で、毒々しいほどだった。太陽に照りつけられた家々は、白く輝き、ヒリヒリと肌を刺す感じだった。ときどき、ウォートンの家からの帰り道、フィリップは遊園地の木蔭のベンチに腰をおろし、涼を楽しみ、葉影をとおしてさしこむ太陽が大地につくりだす光の絵模様をジッとながめた。彼の魂は、陽ざしと同じように、よろこびで陽気に踊りくるっていた。こうして、勉強の合い間に盗みとった無為の瞬間を酔い痴《し》れて楽しんでいた。ときどき、この古い町の街路をプラプラと散歩することもあった。赤い頬に切り傷のあとのある学生組合《コルプス》所属の学生を、畏怖の念をこめてながめたが、そうした学生は、色のついた制帽をかぶり、肩で風を切って歩きまわっていた。午後には、夫人の家の娘たちと岡をそぞろ歩きし、ときに、川をさかのぼってのぼり、木蔭のビア・ガーデンでお茶を飲むこともあった。夕方に、彼らは町の庭園をあちらこちらと歩きまわり、楽団の演奏に耳を傾けた。
フィリップは、間もなく、この家のさまざまなことを知るようになった。この家の長女のテクラ嬢は、ドイツ語を勉強するためにこの家に一年間いたイギリス人と婚約、年末には結婚することになっていた。だが、スロウ(ロンドンの西二十マイルにあるバッキンガムシャーの郊外地)に住む青年の父親のゴム商人がこの縁組に不賛成だという手紙が来ていて、テクラ嬢は、ときどき、涙に暮れていた。ときおり、気乗りしなくなった恋人の手紙をながめながら、きびしい目とキリッとした口つきをした彼女と母親の姿が見受けられた。テクラは水彩画を描き、間々、彼女とフィリップは、仲間にべつの娘をさそって、外に出かけ、小さな絵を描いていた。美しいヘドウィヒ嬢にも、恋愛のいざこざがあった。彼女は、ベルリンの商人の娘で颯爽《さっそう》とした軽騎兵が彼女と恋に落ちたが、その男はフォンづきともいえる名家の出だった。だが、男の両親は、こうした身分の娘との結婚には反対、ハイデルベルクに来たのも、男のことを忘れるためだった。だが、男を思う気持ちはどうしても断ちきれず、たえず男と文通し、プリプリしている父親の気持ちを変えようと、男は、いま、必死に奔走しているのだった。彼女はこうした一部始終をフィリップに話し、陽気な中尉の写真をみせたが、それは、かわいいため息まじり、娘らしく頬を染めながらのものだった。家にいる娘たちのうちで、フィリップはこのヘドウィヒがいちばん好きで、散歩のときには、いつも、彼女のそばを歩こうとした。こうしてはっきりと彼女に好意をもっていることでからかわれると、真っ赤になった。彼は、生れてこの方はじめて、ヘドウィヒ嬢に愛を打ち明けた。だが、残念なことに、それはまったくの偶然のこと、そのいきさつは、以下のようなことだった。
夕方、散歩に出ないときに、娘たちは緑のビロードの応接間で小歌を歌うことにしていたが、いつも世話役になっていたアンナ嬢が、一生けんめいその伴奏をしていた。ヘドウィヒ嬢のお気に入りの歌は『|われきみを愛す《イッヒ・リーベ・ディヒ》』で、ある夕方、彼女がこれを歌い終り、彼女といっしょに、星をながめながら、バルコニーに立っていたとき、フィリップは、ふと、この歌についてひと言いうことになった。彼は
「|われきみを愛す《イッヒ・リーベ・ディヒ》」と切りだした。
彼のドイツ語はたどたどしく、いおうとする言葉をさがしていた。その合い間はほんのわずかのものだったが、彼が語りつづけるまでに、ヘドウィヒ嬢は口を入れた、
「ああ、ケアリーさん、|きみ《デュ》なんてなれなれしい言葉はいけませんよ」(ドイツ語)
フィリップは、からだじゅうがほてってくるのを感じた。自分としては、そうしてなれなれしくデュなんて呼びかけるつもりはいささかもなく、そこでとっさにいうべき言葉に窮していたからだった。そうした言葉をいうつもりがなく、ただ歌の題を口にしたまでと説明するのは、いかにも無粋《ぶすい》なことだった。
「失礼しました」(ドイツ語)彼はいった。
「いいえ、構いませんわ」彼女はささやきかえした。
彼女は感じのいい微笑をもらし、静かに彼の手をとってにぎりしめ、それから、応接間にもどっていった。
つぎの日、彼はひどくドギマギしてしまって、彼女に話しかけることができず、恥ずかしさのあまり、なんとか彼女をさけようとした。いつものとおり、散歩にいかないか? とさそわれても、勉強があるから、とそれを断った。だが、ヘドウィヒ嬢は、ふたりだけで話せる機会をとらえて、やさしくこういった、
「どうしてこんな態度をおとりになるの? いいこと、きのうの晩の言葉で、わたし、べつに怒ってはいないことよ。もしわたしを愛してくださっていたら、どうにもならないことですものね。わたし、うれしく思っているの。でも、ヘルマンと正式に婚約したわけではないけど、ほかの男の人をどうしても愛する気にはならないわ。自分をあの人の花嫁と思っているんですものね」
フィリップは、また、顔を赤くしたが、そこはうまく肘鉄をくった恋人らしくふるまった。
「ご幸福を祈りますよ」彼はいった。
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二十四
エルリン先生は、毎日、フィリップに授業をしてくれた。そして、最後の仕上げの『ファウスト』にとりかかるまでに読むべき本の表をつくってくれ、さし当って、じつに適切なことだったが、フィリップがキングズ・スクールで習ったシェイクスピアの劇のひとつの独訳を命じた。その当時、ドイツで、ゲーテは名声の絶頂にあった。愛国心にたいするそうとう頭《ず》の高い態度にもかかわらず、ゲーテは国家的詩人としてむかえられ、七〇年の戦争(一八七〇〜七一年の普仏戦争のこと)以来、国家統一のいちばん重要な栄光のひとつに考えられていた。
熱狂者たちは、「ヴァルプルギスの夜祭」(ドイツの各地に寺院を建てたイギリスの婦人修道院長聖ヴァルプルギスの祝日。。ドイツ民間伝承では五月一日の前夜。この夜は魔女たちがハルツ山脈の最高峰ブロッケンに集り、魔王と酒宴を張ると伝えられている。『ファウスト』に出ている)の狂宴の中にグラーヴロット(一八七〇年の普仏戦争でプロシャ軍がフランス軍を破ったフランス、モーゼルの村)の殷々《いんいん》たる砲声を聞きとっているようだった。だが、作家の偉大さのひとつの特徴は、ちがった心をもった人びとがその作家にちがった霊感を感知するということなのだ。プロシャ人を憎悪していたエルリン先生がゲーテを熱烈に礼賛したのは、オリンポスの山をしのばせる冷徹なゲーテの作品が、現代の襲撃にたいして、正気な人間が逃げこめる唯一の避難所を提供しているためだった。
ある劇作家がいて、その名は、最近、ハイデルベルクで喧伝《けんでん》され、前の冬には、その劇が劇場で上演されたが、それは、支持者の熱狂的な喝采《かっさい》と心ある人の冷笑につつまれておこなわれた。夫人のながいテーブルでその議論がかわされるのを、フィリップは聞いていたが、そのとき、エルりン先生はふだんの冷静ぶりをふっとばして、拳でテーブルをたたき、太い美声を張りあげて、反対論すべてを圧倒した。あんなものはバカげたもの、みだりがましいバカげたもの。なんとか我慢してみとおしはしたものの、うんざりしたのか、胸をムカムカさせてたのか、にわかには判定できないほど。劇場がこんな状態になってるのだったら、警察が踏みこんで、劇場閉鎖を命じてもいいはずだ。自分はべつにおすまし屋じゃない、パレ・ロワイヤル(パリにある劇場)の道化《どうけ》芝居の気のきいたおとした話なら、だれにもおとらず、腹をかかえて笑うことはできる。だが、この劇で示されてるのは卑猥《ひわい》さだけ。こういって力みかえって、彼は鼻をつまみ、ヒューッと口を鳴らした。これは家族の破壊、道徳の覆滅《ふくめつ》、ドイツの崩壊、というわけだった。
「だけど、アドルフ」(ドイツ語)テーブルの反対の端から夫人が声をかけた。「そう興奮したらいけないことよ」
彼女に向けて、彼は拳をふった。だが、彼はじつにおとなしい男、どんなことをするにも、かならず妻と相談していた。
「だめ、だめ、ヘレーネ、これだけはいっとくよ」彼は叫んだ。「娘にあの破廉恥《はれんち》漢のへどの出そうな言葉を聞かせるくらいだったら、自分の足もとで死んでくれたほうがまだましなくらいだね」
この劇は『人形の家』、作者はヘンリック・イプセン(ノルウェーの劇作家・詩人。近代劇の父といわれる)だった。
エルリン先生は、このイプセンをリヒャルト・ヴァーグナー(ドイツの作曲家で近代楽劇の創始者)と同列にあつかったが、ヴァーグナーのことは怒気をまじえて語ったりはせず、上機嫌な笑いで話していただけだった。ヴァーグナーは山師にしても、功成り名とげた山師、その点には、いつも、楽しむことができる喜劇精神がなにかこもってる、ということだった。
「いかれたやつ!(ドイツ語)狂人だ!」彼はいった。
彼は『ローエングリン』(ヴァーグナーの楽劇)をみていたが、それは、まあ、まあのものだった。つまらぬものだが、それだけのこと。だが、あの『ジークフリード』(ヴァーグナーの楽劇)ときたら! この話になると、エルリン先生は片手に頭を載せ、ワッと大声で笑いだした。しょっぱなから終りまで、メロディなんてあったもんじゃない! リヒャルト・ヴァーグナーがボックスに坐りこみ、大まじめになってそれを聞いてる全聴衆をながめながら、抱腹絶倒してる姿が想像できる。これこそ、十九世紀きっての最大のいかさま。彼はビールのコップを口のところまでもってゆき、頭をそらし、それを飲み乾した。それから、手の甲で口をぬぐって、いった、
「あんたたち、若い人にいっときますぞ、十九世紀が終えるまでに、あのヴァーグナーは、もうからっきし音|沙汰《さた》なしということになるでしょうよ。ヴァーグナーだって! あんなやつの全作品なら、ドニゼッティ(ドイツ生まれのイタリアの歌劇作曲家)のオペラひとつと交換しても、惜しくはないね」
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二十五
フィリップの先生のうちで、いちばんふるっていたのは、フランス語の先生だった。デュクロウ先生はジュネーヴの市民で、背の高い老人、肌は病的な黄白色、頬はこけ、ながい灰色の髪は薄かった。薄よごれた服を着こみ、上着の肘はぬけ、ズボンはすりきれ、シャツはひどくよごれていた。きれいなカラーを着けている姿は、ついぞみたことがなかった。口数の少ない男で、きちんと授業はするものの、熱はなく、時計が鳴るときちんとやってきて、ピタリ時間にひきあげていった。授業料は、とても安いものだった。すごく無口で、この人物についてフィリップが知ったことは、みな他人の口をとおしてのものだった。彼は、どうやら、ガリバルディ(イタリアの愛国者)と徒党を組み、法王相手に一戦まじえたらしいのだが、共和国確立をめざした自由獲得の努力すべてが、結局は、軛《くびき》の交換にすぎないことがはっきりしてくると、憤然としてイタリアを去ってしまった。ジュネーヴからも追放されたが、これは、なにかそれとわからぬ政治犯罪のためだった。
フィリップは、とまどった驚きで、この人物をながめていた。革命家の観念とは、およそかけはなれていたからである。低い声で話し、驚くほど慇懃だった。どうぞといわなければ、絶対に坐ろうとせず、めったにないことだが、街路で出逢うと、きちんと丁寧に帽子をぬいで挨拶した。大声で笑うことは絶対になく、微笑さえもらさなかった。フィリップは、どんなに想像力を走らせて考えてみても、すばらしい希望を胸にいだいた青年の像を描きだすことができなかった。この人物は一八四八年にはもう青年期にさしかかっていたはずで、諸国の王たちが、フランスの仲間の王(一八四八年の二月革命で王位を追われたルイ・フィリップのこと)の最後を思い浮べながら、背筋をゾクゾクさせて、放浪していた時代だった。一七八九年の革命(フランス革命)にたいする反動として絶対主義と暴政が頭をもたげていたもの一切を薙《な》ぎ倒して、ヨーロッパにみなぎっていた自由にたいする情熱が、おそらく前代|未聞《みもん》ともいえるほど、人びとの胸に激しく烈々と燃えあがっていたのだ。人間の平等と人権の理論で情熱の火をかき立てて、パリのバリケードの背後で議論をかわしながら戦い、ミラノではオーストリアの騎兵に追い払われ、そこここで投獄と追放の憂き目にあい、しかも、じつに魔力的な言葉、自由という言葉にささえられて希望をつないできた人物の姿を、人は想像できた。しかも、最後には、病気と飢餓《きが》で打ちのめされ、老いさらばえ、貧乏学生相手のわずかな授業料で露命をつなぐしか生活の方法はなく、彼は、この小さな小ぎれいな町で、ヨーロッパのどんな暴政よりもっと手きびしい生活苦に打ちひしがれている自分の姿を発見したのだった。彼の沈黙は、たぶん、自分の青春時代の大きな夢を放棄し、いま怠惰の安逸を満喫している人類にたいする軽侮の念を、その下に秘めていたのかもしれない。また、おそらくは、革命のこの三十年が、人間は自由にふさわしからざるもの、という教訓を教え、みつけても意味のないものの追求で自分は一生を棒にふってしまった、と考えていたのかもしれない。また、彼がもうつかれ果て、死のもたらす解放を平然として待っている、とも考えられた。
ある日、フィリップは、若さの特権の厚かましさで、彼がガリバルディといっしょにいたことがあるのはほんとうのことか? とたずねてみた。老人は、この質問を問題にしていないふうだった。いつものとおりの低い声で、彼は答えた、
「そうですよ」(フランス語)
「世間ではパリ・コミューン(一八七一年三月十八日にパリに暴動を起し、五月二十八日まで市政を支配した革命政府)においでになった、といっていますが?」
「そうですが? さあ、勉強をはじめましょう」
彼は本を開き、フィリップは、おそれ入って、予習してあった個所の翻訳にとりかかった。
ある日、デュクロウ先生は、とても苦しそうだった。フィリップの部屋へのながい階段をあがるのがやっとのところ、たどりつくと、ドシンと腰をおろし、黄白色の顔をひきゆがめ、額に玉の冷汗を流して、元気をとりもどそうとがんばっていた。
「具合いがおわるいんじゃないですか?」フィリップはたずねた。
「いいや、たいしたことはない」
だが、相手が苦しんでいるのがフィリップにはわかり、時間が終ると、元気になるまでお休みにしたほうが? とたずねてみた。
「いいや」いつもの乱れのない低い声で、老人は答えた、「できるだけがんばりたいのです」
金のことになると病的なくらい気を使ってしまうフィリップは、サッと顔を赤くした。
「でも、そちらには、どうというちがいはないのですよ」彼はいった。「授業料は、前と同じように、お払いします。失礼でなければ、来週の分をいまお払いしてもいいのですが……」
デュクロウ先生の授業料は、一時間十八ペニッヒだった。フィリップはポケットから十マルクの金を出し、モジモジしながら、それをテーブルの上においた。老人を乞食あつかいにして、その金をやる、とはどうしてもいえなかった。
「それなら、元気になったとき、また来ることにしましょう」彼はその金を受けとり、いつもやっているように、ただ丁重なお辞儀をしただけでひきあげていった。
「先生、さようなら」(フランス語)
フィリップは、漠然と失望感を噛みしめていた。自分が気前のいいとこをみせただけに、デュクロウ先生がこちらがとまどうほど感謝の言葉を述べるもの、と期待していたからだった。老先生がこの贈り物をさも当然といったふうに受けとるのをみて、彼は虚をつかれた。まだ若く、恩恵を受ける人間が、恩恵を与える人間ほど、感謝の念には打たれるものではないのを、まだ理解していなかったからだった。デュクロウ先生は、五、六日して、またやってきた。前より足のよろめきがちょっとひどくなり、すごく弱っていたが、発作《ほっさ》の峠《とうげ》は越したようだった。前と同じように、無口で、神秘的、人をつきはなし、きたならしい存在だった。授業が終るまで、自分の病気のことは口にせず、それから、ひきあげようとしてドアを開いたとき、そこで立ちどまり、話すのが困難といったように、モジモジしていた。
「いただいたあのお金がなかったら、餓死したことでしょう。あれがわたしの全財産だったのです」
彼は重々しく、へいこらしたお辞儀をして出ていった。フィリップは、喉にグッとくるものを感じた。老人の悪戦苦闘の絶望的な苦しみ、人生が自分にはとても楽しいのに、この老人にとって、それがどんなに苛酷《かこく》なものかを、ちょっと垣間《かいま》みたように思ったからだった。
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二十六
フィリップがハイデルベルクに来て三ヵ月したとき、ヘイウォードというイギリス人がこの家に来る、と夫人が知らせ、その日の夕方、夕食時に、新顔があらわれた。ここ何日か、この一家は興奮状態につつまれていた。謙虚にたのみこんだのか、暗におどしをかけたのか、とにかく、それと正体のつかめぬ策動の結果、テクラ嬢が婚約していたイギリス青年の両親は、イギリスの彼らのところに来るようにと彼女を招待し、彼女はもう出発していた。その携帯品は、水彩画のアルバム一冊、これは自分に教養のあるところを知らせるため、それに、この青年がどんなに深い関係にはいっているかを証明するひと束の手紙だった。その後一週間して、ヘドウィヒ嬢は、微笑で面《おもて》を輝かせながら、愛人の中尉が両親をともなってハイデルベルクに来ることになった、と報告した。息子にはうるさくせがまれて根も精もつき果て、ヘドウィヒ嬢の父親の提供した持参金にも心を動かされて、中尉の両親は道すがらハイデルベルクに立ち寄って、ヘドウィヒ嬢に会おう、ということになったのだった。この面会はめでたしめでたしで終り、ヘドウィヒ嬢は、うれしくも、遊園地で恋人の中尉をエルリン夫人の一家全員に紹介することになった。テーブルの上座で夫人の近くに坐っていた無口の老婦人たちはソワソワし、ヘドウィヒ嬢が、正式の婚約をとり結ぶためにすぐに帰国する、と知らせたとき、夫人は、出費などにはお構いなしに、マイボウル(くるばま草で風味をつけたぶどう酒)をふるまおう、と申し出た。この強くない酒の調製は、エルリン先生の|おはこ《ヽヽヽ》で、夕食後、香ばしい草と野いちごを浮べたライン産の白|ぶどう《ヽヽヽ》酒とソーダをまぜた大きな深鉢《ふかばち》が、応接間のまるいテーブルの上に重々しく運びだされてきた。アンナ嬢は恋人との別れというわけでフィリップをからかい、彼のほうでは、不愉快でもあり、ちょっとものさびしくもなっていた。ヘドウィヒ嬢は歌をいくつか歌った。アンナ嬢は結婚行進曲を演奏し、先生は『ラインの守り』を歌った。
この陽気なさわぎの中で、フィリップは新来の客にほとんど注意を払っていなかった。夕食で向い合せには坐っていたが、フィリップはヘドウィヒ嬢とせっせと話しこみ、この見知らぬ男は、ドイツ語を知らなかったので、黙々と食事をしていた。フィリップは、この男が薄青いネクタイをしているのをみて、ただそれだけで、この彼をきらいになった。彼は二十六、すごく色白で、髪はながくて波打ち、ときどき、それを無造作《むぞうさ》にかきあげていた。目は大きくて青く、その青はとても薄い色、この若さなのに、それは疲労感を強くあらわしていた。きれいに剃《そ》りあげ、唇が薄いにもかかわらず、口は恰好がよかった。アンナ嬢は人相学に興味をもち、この男の頭の恰好がどんなに美しいか、顔の下半分がどんなに弱々しいかを、あとで、フィリップに指摘した。彼女の話では、頭は思想家の頭、だが、顎にはしっかりしたとこがない、ということだった。高い頬骨とぶざまな大きな鼻で、生涯ひとり暮しをする運命にあったアンナ嬢は、しっかりしたとこをバカに強調する女だった。
ふたりがこの男のことを話しているとき、問題の彼は、みなから少しはなれて立ち、上機嫌ながらちょっと横柄な表情を浮べて、このさわがしい連中を打ちながめていた。背が高くて、ほっそりとした男、わざとらしくツンと澄ましたところがあった。アメリカ人の学生のひとり、ウィークスは、彼がひとりでいるのをみて、近づき、話をはじめた。このふたりは、奇妙な対照だった。アメリカ人のほうは、黒い上着と霜降りのズボン姿でとても小ぎれい、痩せて乾あがった感じ、態度にはもう多少宗教家くさいとりすましたところがあらわれ、ダブダブのツイード服を着こんだイギリス人は、手足が大きく、動きが緩慢だった。
フィリップがはじめてこの新来の客と話したのは、翌日になってからのことだった。夕食前、ふたりは、偶然、ほかに人をまじえずに応接間のバルコニーに立っていた。ヘイウォードがフィリップに話しかけた。
「きみはイギリス人でしょう、えっ?」
「そうです」
「ここの食事は、いつも、きのうの晩のようにひどいもんなんですか?」
「いつも、だいたいあんなもんですよ」
「ひどいもんだな、どう?」
「ひどいですな」
フィリップとしては、食事にべつに文句をつける筋はなく、事実、大いに楽しんでモリモリと食べていたのだったが、ほかの人間が難癖をつけている食事をおいしいと思っているほど味覚のない人物とは考えられたくなかった。
テクラ嬢のイギリス訪問のために、妹の家事担当の分がまし、彼女は、ときに、ながい散歩に出る時間をさくことができなくなった。金髪のながいおさげをし、小さな獅子鼻をしたツェツィーリエ嬢は、最近、人との交際をそう好まなくなっていた。ヘドウィヒ嬢はもういなく、散歩にいつもついてきたアメリカ人のウィークスは、南ドイツの旅に出発していなかった。フィリップがひとりですごす時間が多くなっていたが、ここでヘイウォードが交際を求めてきた。だが、フィリップは不幸な特質の持ち主だった。恥ずかしがり屋のためか、古代の穴居人のもつ隔世遺伝のためか、彼ははじめて会った人に嫌悪感をもち、そうした人たちに馴れてきてはじめて、初印象を克服できるのだった。そのため、彼は親しみにくい人間になっていた。彼はヘイウォードの申し出をひどく照れながら受けとめ、ある日、散歩にいこうとさそわれたとき、フィリップがそれを承知したのは、うまい口実がみつからないためだった。彼はいつもの言訳《いいわけ》をいったが、頬が赤くなるのをおさえることができない自分にプリプリし、カラカラッと笑ってなんとかそれをしのごうと努めていた。
「早くは歩けないんでね」
「いやあ、ぼくは、賭けを目当てに歩いてるんじゃないんだよ。そぞろ歩きが好きなのさ。『マリウス』のある章で、ペイター(イギリスの批評家・人文主義者)が、散歩のゆったりとした運動のことを、会話をさそいだしてくれる最高のものといってるのを憶えてないのかい?」
フィリップは聞き上手で、ときどきうまい言葉には思いつくものの、それをいうべき機会をたいていやりすごしてしまっていた。だが、ヘイウォードは話し好きで、フィリップより経験豊かな者だったらだれでも、彼が自分の話に聞き惚れているのを見破ったことだったろう。彼の横柄な態度は、フィリップにとって、印象的だった。フィリップがほとんど神聖なものと考えてきた多くのものをなんとなく軽蔑の目でみている男にたいして、彼は驚嘆しながらも、畏怖の念をいだかずにはいられなかった。この男は、運動崇拝の熱をたたきつぶし、さまざまな運動に熱をあげている連中を賞金目当ての参加者という侮蔑的な言葉でやっつけていたが、彼がそのかわりに教養崇拝熱をふりまわしているにすぎないことは、フィリップにはみぬけなかった。
ふたりはゆっくりと古城のほとりにのぼってゆき、町をみおろす台地に腰をおろした。この台地は、快いネッカー川(ライン川の支流)ぞいの谷にからだをすりよせるようにして快く横たわり、煙突からの煙は、薄青い靄《もや》になって、たなびき、高い屋根と教会の尖塔は、そこに感じのいい中世的な雰囲気を与えていた。そこには素朴《そぼく》さがあり、それは、心を温めてくれるものだった。ヘイウォードは、『リチャード・フェヴェレル』(G・メレディスの小説)、『ボヴァリ夫人』(フランスの作家フローベルの一八五六年の小説)、ヴェルレーヌ(フランスの詩人)、ダンテ、マシウ・アーノルド(イギリスの詩人・批評家・教育家)について語った。その当時、フィッツジェラルド翻訳のオマル・ハイヤーム(ペルシャの天文学者で詩人。その『ルーバイヤート』は一八五九年に英訳された)はエリートだけにしか知られていない作品、ヘイウォードは、それをフィリップにくりかえし語った。彼は詩の朗読を好み、自身の詩も他人の詩もひっぱりだしたが、これを抑揚のない単調な、読経《どきょう》調子でやっていた。家に帰るまでに、ヘイウォードにたいするフィリップの不信感は、情熱的な礼賛の情に変っていた。
ふたりは、いつも午後には、散歩に出かけ、やがて、フィリップはヘイウォードの環境を多少知ることになった。彼はいなかの裁判官の息子で、父親がちょっと前に亡くなり、年三百ポンドの収入を相続した。チャーターハウス(有名なパブリック・スクールの名)での彼の成績は光彩を放ち、ケンブリッジに進んだとき、トリニティ・ホール(ケンブリッジの学寮のひとつ)の寮長は、彼がこの学寮にはいるのをよろこんでいる、とわざわざいったほどだった。将来華やかな出世街道を歩むものと自負し、一流の知識人たちと交際し、ブラウニング(ヴィクトリア朝の代表的詩人のひとり)を耽読《たんどく》し、テニソン(イギリスの詩人。一八五〇年桂冠詩人になった)にたいしては、恰好のいい鼻をツンとそらせていた。シェリー(イギリスの叙情詩人)のハリエット(シェリーがオクスフォードを追放された一八一一年に十六歳で結婚、彼がメアリー・ウォルストーンクラフトと情事をもつと、悲しんで水死した)にたいするあつかいの精細を心得、芸術史もちょっとかじっていた(彼の部屋の壁にはG・F・ウォッツ、バーン・ジョーンズ、ボッティチェリの複写の絵がはりつけられてあった)。その上、厭世的な詩も、まあかなりといった程度にこなしていた。友人たちは彼のことをすぐれた才能の持ち主として語り、将来の高い地位を彼らが予言するのに、よろこんで聞き入っていた。やがて、芸術と文学の権威者になり、ニューマン(イギリスの宗教家で、国教会から一八四五年にカトリックに改宗した)の『アポロジア』の洗礼を受け、ローマン・カトリックの絵のような華やかさが彼の美的感受性に強く訴え、「転向」しないでいたのは、ただ父親の怒りをおそれていたためだけだった(父親は歴史家マコーレイの愛読者で、せまい人生観をもった飾り気のない、ぶっきらぼうな男だった)。彼が学位の試験をやっとのことでとおったとき、友人たちはびっくりしたが、彼は肩をすくめ、自分は試験官にうまうまとひっかけられたりはしない、と遠まわしにうまくほのめかしていた。彼の言葉を聞いていると、一級品の人物は多少なりとも野卑、という感じが伝えられてきた。彼は、かなりの諧謔《かいぎゃく》をまじえて、口頭試験のことを話した。とてつもないカラーをつけただれか男(国教会牧師のこと)が自分に論理の質問をしたが、それはかぎりなく退屈なもの、そこでいきなり、その男が深ゴム靴をはいているのに気がついた。これは、異様で滑稽なことだった。そこで、気分転換をおこない、キングズ学寮の礼拝堂のゴチック建築の美に思いを馳せた、というものだった。だが、彼はケンブリッジで楽しい思いも味わい、だれよりも豪華な晩餐をふるまい、彼の部屋での話は、ときに、記憶にとどめる価値のあるものだった。彼はフィリップにあのすばらしい寸鉄言、「話あり、ヘラクライトスよ、話あり、汝すでに亡しと」(イギリスの叙情詩人W・J・コウリーの訳詩『ヘラクライトス』にある言葉)を引用した。
そして、いま、試験官に関するあのみごとなささやかな逸話を話したとき、彼はカラカラッと打ち笑った。
「もちろん、それはバカげたことさ」彼はいった、「だが、バカげたものにせよ、ちょいとすばらしいもんが、そこにはひそんでるんだ」
フィリップは、ちょっとゾクリとして、それをすばらしいものと考えた。
ついで、弁護士試験を受けるために、ヘイウォードはロンドンに出た。鏡板張りのすばらしいクレメンツ・イン(かつては四法学院に所属した建物)の部屋を借り、それをトリニティ・ホールのなつかしい自分の部屋のように仕立てようとした。漠然たるものではあったが、政治的野心もないわけではなく、自称自由党員、自由党的ではあるが紳士臭の強いあるクラブヘの推薦を受けた。彼の考えは、弁護士になり(人間味が多少はあるというわけで、大法官庁のほうにゆくことにした)、彼に与えられていたさまざまな約束が実行されるとすぐ、どこか感じのいい選挙区から打って出るつもりだった。そういう一方、大いにオペラ通いし、同じ好みをもったわずかの魅力的な人びとと知り合いになった。標語が「全、善、美」という晩餐クラブの会員にもなった。自分より何歳か齢上の淑女とプラトニックな友情を結んだが、その婦人はケンジントン・スクウェアに住み、ほとんど毎午後、おおいをつけた灯りのそばで、この婦人といっしょにお茶を飲み、ジョージ・メレディスとウォルター・ペイターのことを語らっていた。法曹協議会の試験はバカでもパスするというのは有名なとおり言葉、そこで、彼は散漫な勉強しかしなかった。最後の試験で落第したとき、彼はそれを個人的な侮辱と感じた。これと同時に、ケンジントン・スクウェアの淑女は、自分の夫が休暇でインドから帰ってくる、夫はすべての面で有能な男だが、ありきたりの人物、若い男が足しげく訪問するのを快くは思わないだろう、と伝えた。ヘイウォードは、人生は醜悪に満ちあふれたもの、と感じ、ふたたび皮肉な試験官に立ち向うかと思うと、たまらなくいやになり、足もとにあるボールを思いきり蹴っとばしてしまうと、さぞ溜飲がさがるだろう、と考えた。その上、かなりの負債もしょいこんでいた。ロンドンで紳士らしい生活を年収三百ポンドでするのは困難だったし、彼の心は、ジョン・ラスキン(イギリスの著述家・批評家・社会改良家)がじつに魅惑的に描写したヴェネチアとフィレンツェをあこがれ、弁護士界の野卑なドタバタさわぎは自分の性には合わぬものと感じた。訴訟事件をひきうけるには、戸口に名前をはりだすだけでは不十分ということもわかったし、近代政治には、気品に欠けるものがあるように思えた。彼は、自分は詩人、と感じた。そこで、クレメンツ・インの自分の部屋を処分し、イタリアにおもむいた。フィレンツェでひと冬、ローマでひと冬をすごし、二度目の夏を、いま、海外のドイツですごし、ゲーテに原文でとりかかろうとしていた。
ヘイウォードにはひとつの才能があり、これは貴重なものだった。彼は嘘いつわりなく文学にたいする感覚をもち、すばらしく流暢《りゅうちょう》に自分の情熱を伝えることができた。身を投じて作家と同じ気持ちになり、その最高の美点を把握《はあく》し、しっかりとした理解の上に立って、その作家を論ずることができた。フィリップの読書量は多かったが、出逢ったものすべてを乱読しただけだったので、彼の審美眼に指導を与えてくれる人物に会ったのは、とても有益なことだった。彼は町にあるささやかな貸し出し図書館から本を借り受け、ヘイウォードが話していたすべての本を読みはじめた。いつもおもしろく読んだわけではなかったが、がんばって読んだのはたしかだった。自己啓発にひたむきだった。自分を無知と感じ、謙虚な気持ちになっていた。八月が終って、ウィークスが南ドイツからもどってきたとき、フィリップは完全にヘイウォードの影響下にあった。ヘイウォードは、ウィークスにたいして、好感をもっていなかった。このアメリカ人の黒い上着と霜降りのズボンをひどくきらい、そのもつニュー・イングランド的良心にたいして、肩をすくめていた。フィリップは、自分に特別親切にしてくれたこのアメリカ人の悪口をいい気分になって聞き入っていたが、こんどウィークスがヘイウォードについて感じのよくない言葉をしゃべりだすと、プリプリと怒り立った。
「きみの新しい友だちは詩人のようだね」やつれた辛辣な口許《くちもと》に薄笑いを浮べながら、ウィークスはいった。
「詩人だよ」
「彼がそういったのかい? アメリカだったら、ごりっぱな、まことしやかながらくた男というとこかな」
「フーン、ここはアメりカじゃないよ」フィリップは冷やかにいいきった。
「齢はいくつだい? 二十五かね? 下宿住まいして、詩を書いてるだけなんだな」
「きみには彼がわからないんだ」フィリップは激しくいった。
「いやあ、わかってるよ。あんな連中とは、もう百四十七人も会ったことがあるんだからね」
ウィークスは目をピカリとさせたが、アメリカ的な諧謔《かいぎゃく》を理解してないフィリップは口をすぼめ、きびしい顔つきをしていた。フィリップの目に、ウィークスは中年男と映っていたが、事実のところ、まだ三十そこそこの男だった。胴はながくて、ほっそりとし、学者ふうに前かがみになっていた。頭はでかくて醜悪、薄い髪は青みがかり、肌は土気色だった。薄い口、薄いながい鼻、前頭骨がグッとつきでていて、ぶざまなようすだった。態度は冷たく、きちんとし、情熱をもたぬ血の気のない男といった感じ。だが、彼には妙なふまじめなところがあって、本能的に当然彼がつきあっているような生《き》まじめな連中をとまどわせていた。ハイデルベルクで神学を研究していたが、同じ国籍の他の神学生たちは、彼をうろんな目でながめていた。ひどく異端的で、それが彼らを驚かし、気まぐれな諧謔が不信感をひきおこしたのだった。
「どうして百四十七人も、そうした連中と知り合いになったりしたんです?」大まじめで、フィリップはたずねた。
「パリのラテン地区(パリのセーヌ川の南岸の地区。古来学生・芸術家が多く住む)で彼と会いましたよ。ベルリンとミュンヘンの下宿でもね。ペルージャ(イタリア中央部、ウンブリアの都市)、アシジ(ペルージャの南東にあり、修道院で有名)の小さなホテルにもいますよ。フィレンツェのボッティチェリの絵の前では群れをなして立ち、ローマのシスティーナ礼拝堂のベンチというベンチに坐ってますよ。イタリアではちょっと|ぶどう《ヽヽヽ》酒を飲みすぎ、ドイツではビールをバカ飲みしてます。まともなもんがどんなもんにせよ、いつもまともなものに驚嘆し、いずれ近い将来、傑作をものしようとしてるんです。考えてもごらんなさい、百四十七人の偉大な人物の胸の中に横たわってる百四十七もの傑作があるんですよ。ここで悲劇的なことは、この百四十七の傑作のどれひとつとて絶対に書かれることはないという事実、しかも世界は、前と変らず、どんどん進行していくんです」
ウィークスはまじめに話していたが、このながい話の終りのところで、目をキラリと輝かした。このアメリカ人に自分がからかわれていると知ると、フィリップの顔はサッと赤くなった。
「まったくバカげた話だ」仏頂面《ぶっちょうづら》をして彼はいった。
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二十七
ウィークスはエルリン夫人の家の裏のふた部屋を借り、そのひとつは客間ふうにつくられてあったので、十分に快適、そこに人を呼ぶことができた。夕食後、マサチューセッツのケンブリッジの学友たちの失望の種になっているいたずら気分につき動かされてのことだろうが、彼はよくフィリップとヘイウォードをここに呼んで、雑談をしていた。彼は、入念な慇懃さで、ふたりをむかえ、部屋に、ふたつしかない坐り心地のいい椅子に坐れ、と強くいい張った。自分は酒をやらなかったが、フィリップにはその皮肉がわかる丁重な態度で、ヘイウォードのわきに二本のビールびんをおき、議論に熱がこもってきて、ヘイウォードのパイプの火が消えると、いつもマッチで、それをつけてやる、と申し出ていた。この交際のはじめのころ、有名な大学の一員として、ヘイウォードはウィークスにたいしてもったいぶった横柄な顔をしていた。ウィークスはハーヴァードの卒業生だった。そして、話がたまたまギリシャの悲劇作家に転じたとき、ヘイウォードは自分が権威をもって語れると感じ、彼の態度は、意見を交換するというより、知識を授けてやるといったようすになってきた。ヘイウォードの話が終るまで、ウィークスは、つつましく微笑を浮べて、丁重な物腰でそれに聞き入った。それから、一、二油断のならぬ質問を浴びせたが、それは、一見したところ、じつに無邪気なもの、そこで、どんな窮地に追いこめられるかを露さとらずに、ヘイウォードはいとものんびりとその返事をしてしまった。ウィークスは丁重に異議をとなえ、事実の訂正をおこない、その後、あるほとんど知られていないラテン語の注釈者から引用をおこない、ついでは、ドイツの権威者に言及した。ここで、彼が学者であるという事実が、はっきり示されることになった。ニコニコしながら、力んだりはせずに、言訳でもいっているように、ウィークスは、ヘイウォードがいったことすべてを、さんざんにやっつけ、手のこんだ慇懃さで、ヘイウォードの研究の上っすべりなことを暴露し、おだやかな皮肉でヘイウォードをからかった。ヘイウォードがいかにもバカにみえてきたのを、フィリップでさえ感じずにはいられなくなったが、ここで口をつぐむ分別は、ヘイウォードになかった。自信がたたきつぶされたのにイライラして、彼は議論をつづけようとして、乱暴な主張をし、ウィークスはおだやかにそれを訂正した。彼はまちがった推論を立て、それはバカげたこと、とウィークスは証明した。最後に、ウィークスは、自分がハーヴァードでギリシャ文学を教えていた、と白状したが、それにたいして、ヘイウォードは嘲笑的に笑っただけだった。
「それに気づいてもよかったとこでしたな。もちろん、きみのギリシャ語の読み方は、学校の教師的」彼はいった。「ぼくは、詩人として、それを読んでるんです」
「その意味がぜんぜんわからないと、それがもっと詩的になるということなんですかね? 誤訳が意味を向上させるのは啓示宗教の場合だけ、と考えてたんですがね」
とうとう、ビールを飲み終え、ヘイウォードは、カンカンになり、髪をふり乱して、ウィークスの部屋を出ていった。プリプリした身ぶりで、彼はフィリップにいった、
「もちろん、あいつは学者ぶったやつさ。美にたいしては、ほんとうの感情をもってないんだ。正確さは教会書記の美徳。われわれがめざしてるのは、ギリシャ人の精神なんだ。ウィークスは、ルービンスタイン(ロシアのピアニスト・作曲家)を聞きにいって、その調子はずれの音にブーブー文句をつける類いの人物さ。調子はずれだって! 彼がすばらしい演奏をしたら、それでどうだというんだ?」
こうした調子はずれの音にどれだけ多くの人間が慰安をみつけてきたかを知らなかったので、フィリップは深い感銘に打たれた。
この前の場合の失地を回復する機会をウィークスが提供したとき、ヘイウォードはムズムズとたまらなくなり、ウィークスは、いともらくらくと、相手を議論にひきずりこんでいった。このアメリカ人の研究にたいして自分の研究がどんなにとるに足りぬものかをさとらずにはいられなかったが、彼のもつイギリス人の強情さ、傷つけられた彼の自負心(たぶん、これは同じものだろうが)が、彼に闘争の放棄を許そうとはしなかった。ヘイウォードは、自分の無知、自己満足、まちがった考えを誇示しているようだった。ヘイウォードが筋ちがいのことをいうと、いつでも、ウィークスは、わずかな言葉で、その推論のあやまちを証明し、一瞬話を切って自分の勝利を味わい、キリスト教徒の慈悲心で打ちのめされた敵を許さずにはいられないといった態度で、話題をサッとほかのものにうつしていった。友人を助けようと、フィリップは、ときどき、口をさしはさもうとしたが、ウィークスはそれをやさしくおしつぶした。これは、ヘイウォードに応答するやり方とはぜんぜんちがって、とてもやさしさのこもったものだったので、すごく敏感なフィリップでさえ、心が傷つけられたのを感じないほどだった。ときどき、自分の馬脚があらわれてくるのを感じて、ヘイウォードは冷静さを失い、ののしりの言葉を口にするようになり、アメリカ人のほうが微笑を浮べて慇懃な態度をくずさなかったことだけで、議論の喧嘩になるのがおさえられていた。こうしたさい、ヘイウォードがウィークスの部屋を出ていくときのすてぜりふのつぶやきは、「いまいましいヤンキーめ!」ということになっていた。
これで話は終りになった。それは、返答できぬと思われる議論にたいする完全な返答になったからである。
ウィークスの小部屋でのふたりの議論の皮切りは、さまざまな問題ではじまったが、最後に、この話はいつも宗教に向っていった。神学生はそれに専門的な興味をもっていたし、ヘイウォードにすれば、しっかりとした事実が自分を狼狽させる心配のない話題こそござんなれ、というわけだった。感情が基準になっているところでは、論理にたいして糞くらえと指をパチンとやることができるし、自分の論理が弱い場合には、それはとても愉快なものになってくる。ヘイウォードは自分の信仰をフィリップに説くとき、滔々《とうとう》々とした言葉の流れを使わずにはいられなくなっていたが、彼が法律で定められた教会(イギリス国教会のこと)で育てられてきたのは、明らかなことだった(これは、フィリップの自然体系に関する観念と一致するものだった)。彼は、いま、ローマ・カトリック教徒になる考えをすてていたが、いまでもまだ、あの聖体拝受に共感を寄せ、その賛辞をながながと述べ立て、その豪華な儀式をイギリス国教会の簡単な儀式と比較して、前者を賛えていた。ニューマンの『アポロジア』をフィリップに読めとわたし、フィリップは、とてもつまらぬものとは思いながらも、それを最後まで読みとおした。
「それを読むのは、文体のため、内容のためではないよ」ヘイウォードはいった。
彼は熱をこめてオラトリオ会(通俗的な説教や祈祷を目的として十六世紀に設立されたカトリックの一修道会)の音楽を語り、香のかおりと宗教的精神の関係について、魅力的なことを話した。ウィークスは、冷淡な微笑を浮べて、それを聞いていた。
「ジョン・ヘンリー・ニューマンがりっぱな英語を書き、マニング枢機卿(イギリスの宗教家、ウェストミンスター寺院の大司教)が絵のように美しい姿をしていたからというわけで、それがローマ・カトリック教の真理を証明している、とそちらはお考えなんですな?」
ヘイウォードは、自分の魂が多くのなやみを味わってきた、とそれとなくほのめかしていった。それによると、一年間、暗黒の海を漂流した、ということだった。金髪の波打つ髪をかきあげ、たとえ五百ポンドの大金をもらおうとも、あの心の苦悶は二度と経験したくはない、とうとう静かな海にたどりついたのは幸運だった、と断言した。
「|いま《ヽヽ》きみは、なにを信じてるんです?」漠然とした言葉では絶対に納得できないフィリップはたずねた。
「ぼくの信じてるのは、全、善、それに美だよ」
これをいったとき、大きな四肢がからだにゆるくついた感じと頭の優雅な動きで、ヘイウォードはとても美しくみえ、気どった態度でその言葉をいった。
「それが、国勢調査の用紙の宗教欄で、きみがどう書くかというとこですかね?」おだやかな調子で、ウィークスはたずねた。
「小うるさい定義は大きらいなんだ。それは醜悪で露骨なものさ。なんだったら、ウェリントン公爵とグラッドストン(イギリスの政治家。一八六八―九四年に四回首相になった自由党党首)の教会を信じてる、といってもいいよ」
「それはイギリスの国教というもんさ」フィリップはいった。
「おや、これはおみごと!」フィリップの顔を赤くさせた微笑を浮べて、ヘイウォードはやりかえした。相手が意訳的にいったことを直訳的にズバリいってしまったことで、自分ははしたないとこをみせてしまった、とフィリップは感じたからだった。「ぼくはイギリス国教会に所属の者だよ。だが、ローマの僧侶を飾り立ててる黄金と絹、その独身生活、告白聴聞席、煉獄(カトリック教で、小罪を犯した者が霊魂を清められたり、一時的に罰に服するところ)は大好きなんだ。香がたきこめられて神秘的なイタリアの大聖堂の暗いとこにいると、心の底からミサの奇跡を信じられるね。ヴェネチアで、女の漁師がはだしで教会にやってきて、魚の籠をわきに投げだし、ひざまずいて聖母《マドンナ》に祈りをささげてるのをみたことがあるが、これこそ真の信仰、と感じ、彼女といっしょになって、ぼくも祈り信じたんだ。だが、ぼくは、アフロディテ、アポロ、偉大なパンの神の信奉者でもあるよ」
彼は魅力的な声の持ち主、話しながら、言葉の選択をちゃんとおこない、音楽的といってもいいふうに、それを語った。彼の話はもっとつづくところだったが、ウィークスは二本目のビールをぬいた。
「さあ、ついであげましょう」
ヘイウォードは、ちょっと恩着せがましい横柄な身ぶりで、フィリップのほうに向いたが、この仕草が青年フィリップに深い感銘を与えた。
「さあ、納得したかね?」彼はたずねた。
フィリップは、ちょっとドギマギして、納得したことを認めた。
「ちょっと仏教をそえてくれなかったのは、こちらとしては落胆もんですな」ウィークスはいった。「白状するけど、ぼくはマホメットに一種の共感を感じてますよ。それをきみが放りだしにしておくなんて、残念でなりませんね」
ヘイウォードはカラカラッと笑った。その晩、彼は上機嫌、自分の言葉のひびきが、まだ、彼の耳に快く木魂《こだま》していた。彼はビールを飲み乾した。
「きみに理解してもらえるとは、思ってもいなかったね」彼は答えた。「冷たいアメリカの知性でとれるものといえば、批判的態度だけしかないんだからね。エマソン(アメリカの評論家・詩人・哲学者)とかそういったものさ。だが、批判とはなんだろう? 批判には、ただただ破壊あるのみ。破壊は、だれにだってできることさ。だが、建設となると、そうはいかない。ねえ、きみ、きみは学者ぶった男なんだよ。重要なのは建設さ。ぼくは建設的、ぼくは詩人なんだ」
ウィークスは彼をながめていたが、その目は、ほんとうに真剣になっていると同時に、明るくほほ笑んでいるといったものだった。
「こういっちゃなんですが、そちらは、ちょっと酔いがまわってきたようですね」
「問題じゃない」陽気にヘイウォードは答えた。「議論できみを圧倒できなくなるほど、酔っちゃいないよ。だが、さあ、こっちではもう、自分の魂を明らさまに知らせたんだ。こんどは、きみの宗教のことを話してくれたまえ」
ウィークスは頭をかしげ、木にとまっている雀《すずめ》みたいな恰好をした。
「いままでもう何年間も、それをみつけようとしてきたんですがね。自分はユニテリアン派(三位一体を排し、唯一の神格を主張してキリストを神としない新教の一派)だと思ってますよ」
「だが、それは非国教会派ということだ」フィリップは口を入れた。
ここで、ヘイウォードはワッと、ウィークスは妙にクスクスッと、笑いだしたが、それがどうしてなのか、フィリップには見当もつかなかった。
「イギリスでは、非国教会派は紳士にあらず、というわけなんですね?」ウィークスはたずねた。
「うん、そうズバりたずねられると、そのとおり、と答えるしかありませんな」そうとうむくれて、フィリップは答えた。
笑われるのはとてもいやなのに、彼らは、また、笑いだした。
「じゃ、教えてください、紳士ってどんなもんなんです?」ウィークスはたずねた。
「さあ、わからないな。みんな、それを知ってはいるんだけどね」
「きみは、紳士ですか?」
この問題について、フィリップは疑念をさしはさんだことがなかったが、それは自分についていうべき言葉ではないのを、フィリップは知っていた。
「自分が紳士だという男は、もうまちがいなし、食わせもんですよ」彼はやりかえした。
「すると、ぼくは紳士ですかね?」
正直者のフィリップはここで切羽《せっぱ》つまることになったが、彼はズケズケものをいえる男ではなかった。
「いやあ、きみの場合はちがいますよ」彼はいった。「きみはアメリカ人でしょう、どうです?」
「そういわれると、どうやら、イギリス人だけが紳士ということになりそうですな」キッとしてウィークスはいった。
フィリップは、それを否定はしなかった。
「もう少し細かな話をしてくれませんか?」ウィークスはせまってきた。
フィリップは顔を赤くしたが、ムカムカしてきたので、自分が笑い者になっても構うもんか、という気になった。
「少しどこじゃない、うんといえますよ」紳士になるには三代かかる、という伯父の言葉がここで彼の頭に浮んできた。これは、瓜のつるには|なすび《ヽヽヽ》がならぬ、と同じことわざだった。「まず第一に、紳士は紳士の息子。それに、パブリック・スクール、それから、オクスフォードかケンブリッジの卒業生ということですよ」
「エディンバラの大学はだめなんでしょうな?」ウィークスはたずねた。
「それに、紳士らしい英語を話し、きちんとしたまともな服装をし、紳士だったら、ほかの男が紳士かどうか、ちゃんとみわけがつくんです」
こう話しているうちに、これはまずいことになったな、とフィリップは感じたが、こうなればもう、乗りかかった舟だった。それは彼がいおうとしているズバリのこと、それに、自分の知っている連中もみな、そう思ってるのだ。
「ぼくが紳士でないことは、それではっきりしたわけです」ウィークスはいった。「そうなれば、ぼくが非国教会派であることにそうびっくりする筋はないわけなんですがね」
「ユニテリアン派がどんなものか、ぼくはよく知らないんです」フィリップは答えた。
ウィークスは、例の奇妙な癖で、頭をかしげ、いまにもクスクス笑いだしそうになっていた。
「ユニテリアンは、腹の底から、ほかのだれでも信じてることをほとんど信じず、なにか自分でもわからんことを、心を傾けて信じつづけている連中ですよ」
「わかんないなあ、どうしてぼくをそうしてからかうんだろう?」フィリップはいった。「ほんとに知りたいと思ってるんですかね」
「ねえ、きみ、からかったりはしてませんよ。長年にわたる辛苦をかさねた研鑽《けんさん》の結果出した定義なんですからね」
フィリップとヘイウォードが立ちあがって部屋を出ようとしたとき、ウィークスはペーパーバックの小さな本をフィリップにわたした。
「もうフランス語はかなり読めるようになったんでしょう。この本はおもしろいかもしれませんよ」
フィリップは礼を述べ、本を受けとって、その書名をみた。それはルナン(フランスの歴史家・批評家)の『イエス伝』だった。
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二十八
退屈な宵《よい》の暇つぶしにヘイウォードとウィークスがしゃべっていることを、あとでフィリップが思い出していろいろと考えているなんて、ヘイウォードもウィークスもまったく考えていないことだった。そのときまで、宗教が議論の対象になるなんて、フィリップにしたら、思いもつかぬことだった。彼のみるところ、宗教|即《そく》イギリス国教会、その教義を信じないのは片意地の表示、この世か来世でかならず罰を受けることだった。不信の者が受ける叱責について、心には多少の疑念があった。慈悲深い裁き主が、異端の徒――回教徒、仏教徒、その他――に使うために地獄の劫火《ごうか》をとっておき、非国教会派やローマ・カトリック教徒が(自分たちのあやまりがわかったとき、その代償にどんな屈辱を受けることだろう!)それを免じられるのは、考えられないことではなかった。さらに、裁き主が真理を知る機会を与えられなかった者に慈悲を授けることも、十分に考えられることだった――宣教団の活動が活発なので、そうした人間がそう多くいるとは考えられなかったが、それは当然のこと――だが、機会を与えられているのにそれを無視したら(これは明白にローマ・カトリック教徒と非国教会派に当てはまることだった)、その受ける罰はもうまちがいがなく、当然のことだった。不信の徒が危険な状態におかれているのは、明白な事実だった。フィリップは、たぶん、それとはっきり教えられたわけではなかったのだろうが、イギりス国教会に所属する者だけが永遠の幸福を期待できる、という印象を受けていたのはたしかだった。
フィリップがはっきりと聞いたひとつのことは、不信の徒は腹黒く邪悪、ということだった。だが、フィリップが信じていることをほとんど信じていないウィークスは、キリスト教徒の純潔な生活を送っていた。生れてこの方、親切の味をほとんど知らないでいたフィリップは、自分を助けようとしてくれるこのアメリカ人の親切には打たれていた。一度、風邪《かぜ》をひいて三日間寝こんでしまったとき、ウィークスは、まるで母親のように、フィリップを看護してくれた。彼にあるのは、悪徳や腹黒さではなく、ただ誠実さと愛情こもった親切だけだった。不信の気持ちをいだきながらも徳をもつのは、明らかに可能なことだった。
さらにまた、フィリップは、人がほかの信仰に執着するのは頑冥《がんめい》か私欲によるもの、心の中では自分がいつわっているのを知りながら、故意に他人をあざむこうとしている、と教えられてきた。いま、ドイツ語の勉強のために、日曜日の朝、彼はいつもルーテル派の礼拝に出ていたが、ヘイウォードの到着以来、そのかわりに、彼とつれ立って、ミサに参加していた。新教徒の教会はほとんど空《から》っぽ、会衆が浮かぬ顔をしているのに、イエズス修道会の教会は、これに反して、人がみっしりとつめかけ、信徒は心の底から祈りをあげているようだった。それは、偽善者の態度ではなかった。この対照に、彼はびっくりした。ルーテル派の者は、その信仰がイギリス国教会に近いだけに、ローマ・カトリックの者よりもっと真理に近づいていることを、もちろん、フィリップは知っていた。そこに集った大部分の人たち――そこには男が多く来ていた――は、南ドイツの人だった。自分がドイツに生れたら、ローマ・カトリックを信奉していたろう、と考えずにはいられなかった。イギリスに生れたのと同じように、自分はローマ・カトリックのどこかの国に生れたかもしれない。同じイギリスでも、法律で定められた教会に幸運にも属している家と同じように、ウェズレイ派、浸礼派、メソジスト派の家に生れたかもしれないのだ。こうした危険を考えると、彼は思わずハッと息をのんだ。フィリップは小柄な中国人と仲よしになったが、これは、毎日二回、彼といっしょの食卓に向っている人物だった。その名は孫《スン》といい、いつもニコニコし、愛想がよく、慇懃だった。中国人だからということだけで、彼が地獄でジリジリと火にあぶられるなんて、奇妙なことだった。信仰がどうであれ救済が可能だとしたら、イギリス国教会の特権なんて、とても考えられるものではなかった。
いままでにないほど当惑したフィリップは、ウィークスの意見をさぐってみた。フィリップは嘲笑に敏感で、このアメリカ人がイギリス国教会をあつかうときの辛辣なからかい気分にはとまどいを感じていたので、これは慎重におこなわれた。ウィークスの話を聞いて、彼のとまどいは増大しただけだった。イエズス修道会の教会でみている南ドイツの人たちは、彼がイギリス国教会の真理を確信しているのと同じように、ローマ・カトリックの真理を確信していることを、彼はフィリップに認めさせ、そこからさらに、回教徒と仏教徒もまた、それぞれの宗教の真理を確信しているということを、彼に承認させた。自分が正しいと知っていることは、なんの意味もないみたいだった。彼らはみんな、自分の正しいことを知っているのだ。少年フィリップの信仰を打ちくだこうとウィークスがしていたわけではなかったが、ただ宗教に強い関心をもち、それが心をうばう話題だと考えていた。ウィークスが自分の見解を正確に伝えたのは、ほかの人間が信じているほとんどすべてのことを自分は心の底からは信じていない、といったときのことだった。牧師館で話がたまたま新聞紙上をにぎわしていた温健な合理主義の本に向ったとき、伯父がいうのを聞いた言葉があったが、フィリップは、一度、この問題をウィークスにたずねてみた。
「だけど、どうしてきみだけが正しく、アンセルムス(一〇三三〜一一〇九。イタリア生まれの神学者・スコラ哲学者。キャンタベリ大司教)やアウグスチヌス(三五四から四三〇。初期キリスト教会の指導者)といった人たちがまちがってるんですか」
「そうした聖人は賢明で学識ある人物、それにたいして、ぼくがそのどっちでもないのじゃないか、と強く疑いをもっている、というわけなんですな?」ウィークスはたずねた。
「そう」モジモジしながらフィリップは答えた。そうしたいい方をすると、自分の質問はおこがましくひびいたからだった。
「地球は平らで、太陽は地球のまわりを回転している、とアウグスチヌスは信じてたんですよ」
「だからといって、どういうことになるんです?」
「いやあ、人は時代といっしょになって信ずる、ということですよ。こうした聖人は信仰の時代に生き、われわれには絶対信じられないものに不信感を表示するのが、事実上不可能だったんです」
「じゃ、自分たちがいま真理を把握してるのが、どうしてわかるんです?」
「わからないな」
フィリップはこれをちょっと考え、それからいった、
「われわれがいま絶対に信じこんでるものが、過去彼らが信じてたもののように、まちがってはいない、とどうして考えられるのか、ぼくにはわからないな」
「ぼくだって同じ、わからない」
「じゃ、どうしてわれわれはものを信じられるんだろう?」
「わからない」
ヘイウォードの宗教についてどう考えているかを、フィリップはウィークスにたずねてみた。
「人間は、いつも、自分自身の像にかたどって神々をつくってきたもんですよ」ウィークスはいった。「ヘイウォードは絵のように美しいもんを信じてるわけ」
フィリップは、ちょっとだまっていてから、いった、
「いったい人間が神を信じるなんて、わからんことですね」
この言葉が口から出るやいなや、彼は、自分がもう神を信じなくなっているのをはっきりとさとった。冷水にとびこんだように、それは彼をハッとさせた。おびえた目をして、彼はウィークスをながめた。急におそろしくなってきた。大急ぎで彼はウィークスと別れた。ひとりになりたいからだった。いままでに味わったことのない驚くべき経験だった。この問題を考えぬこうと努めた。とても心をおどらせることだった。自分の全生涯がこの問題にかかっている(これにたいする自分の決定は、生涯の進路に大きく影響する、と彼は考えていた)、ここであやまちを犯せば、永遠の地獄堕ちをひきおこす、と思われたためだった。
だが、考えれば考えるほど、彼の確信は強くなった。ひたむきな興味で本、懐疑思想への手引きになる本を、その後の数週間、耽読したが、それはただ、自分が本能的に感じとったことを強める結果になるだけだった。事実は、あれこれの理由で信じなくなったというのではなく、彼に宗教的気質がないため、ということだった。信仰が外部から彼におしつけられていたのだ。環境とお手本の問題だった。新しい環境と新しいお手本が、彼に自己を発見する機会を与えた。必要のなくなった外套をぬぐように、子供時代の信仰をさらりとぬぎすててしまったまでのことだった。自分には絶対にわかってはいなかったものの、いつも自分のささえになっていた信仰をとりはずされて、最初、人生は奇妙な、わびしいものに映った。いままで杖にたよってきたのに、いきなり助けなしで歩かなければならなくなった人、彼の感じは、そうした人と同じだった。昼は前より冷たく、夜はもっと孤独になったように、じっさい、感じられた。
だが、彼は興奮でささえられていた。そのために、人生はもっとゾクリとする快感を与えてくれる冒険になったようだった。しばらくすると、投げすてた杖、肩から落ちていった外套が我慢ならぬ重荷に思われ、それからの解放感を感じるようになった。ながい年月のあいだ、彼におしつけられてきた宗教的訓練は、彼にとって、宗教のすべてだったのだ。暗記を強いられてきた短い祈りの文と使徒の書簡、手足が動きたくってムズムズしているのにズーッと坐っていた大聖堂でのながい礼拝、ブラックステイブルで泥んこの夜道を教区の教会まで歩いていったこと、あのものわびしい建物の寒さが、いまさらのように思い出された。足を氷のように冷たくして坐り、指はしびれて動きがとれず、あたりには、ポマードのムカムカするにおいがこもっていた。まったく、あれにはうんざりだつた! こうしたものすべてからもう解放されたと思うと、心は踊るのだった。
こうしてさらりと信仰をすててしまって、彼はわれながら驚き、心の奥底にひそむ自分の性格の微妙な動きでそうなったとは気づかなかったので、自分が到達した確信は自身の利口さによるものと考えた。身のほど知らずのよろこびに、彼はひたっていた。自分自身の態度以外には共感をもとうとしないあの若さのために、彼は少なからずウィークスとヘイウォードを軽蔑した。彼らのいう神という漠然とした観念に満足し、自分の目にはじつに明白に思えるそれ以上の一歩を彼らは踏みだそうとしていないからだった。ある日、彼は景色をみようとある岡にひとりでのぼっていったが、この景色は、どうしてとはつかめずに、いつも彼の心を荒々しい歓喜で満たしてくれるものだった。もう秋になっていたが、まだ雲ひとつなく晴れあがる日々があり、そのときに、空は前よりもっとすばらしい光で輝いているように思えた。美しい天気ののこりの日々に、自然が意識してさらに激しさをこめようとしているような感じだった。目の前にひろびろとひろがる陽光に打ちふるえる平原をみおろした。遠くにはマンハイムの屋根がみえ、さらに遠くにはヴォルムスの町がぼんやり浮んでいた。そこここで、もっと鋭いつらぬくような光を発しているのは、ラインの川だった。そのものすごいひろびろとしたひろがりは、豪華な黄金の色でキラキラと輝いていた。そこに立って、フィリップは、もうまったくのよろこびで胸をドキドキさせながら、誘惑者の悪魔がキリストといっしょに高い山の上に立ち、キリストに地上の王国を示したさまに思いをはせた。その景色の美しさに慌惚となっていたフィリップには、目の前にひろがっているのは全世界、自分は、情熱を燃え立たせて、いまそこにおりてゆき、楽しみを味わおうとしているように思えた。自分は低俗な恐怖心から解放され、偏見からも解放されたのだ。地獄の劫火《ごうか》をひどくおそれたりはせずに、もう自分の道を進めるのだ。自分の生活のすべての行動をとても重大なことにしていたあの責任感の重圧、彼は、突然、それからも解放されたのを理解した。
軽々とした空気の中でもっと自由に呼吸ができた。自分の行動に責任をもつのは、自分だけだった。自由! とうとう自由に行動できる人間になったのだ! むかしからの習慣で、自分がもう神を信じていないことを、彼は無意識に神に感謝した。
自分の知性と自分のおそれ知らずにたいするほこらかな気分に酔い痴れて、フィリップは、新しい生活に慎重にとりかかった。だが、信仰心をなくしたからといって、生活態度が彼の思っていたほど変るわけではなかった。キリスト教の教義をわきにおしのけてはしまったものの、キリスト教の倫理を批判する気持ちは、ぜんぜんなかった。キリスト教の徳をそのまま承認し、じっさい、徳そのもののためにそれを実行し、報酬や罰を考えないでいるのをりっぱなことと考えた。夫人の家で英雄的精神を発揮する機会は無に近かったが、前よりちょっと誠実になり、ときどき彼を話相手にしているつまらぬ初老のご婦人方にたいして、なみ以上の注意を払うように心がけた。英語の特徴であり、男らしさのあらわれとして前には身につけようとしていたおだやかなののしり言葉や荒っぽい形容詞を、注意してさけるようにした。
満足いくようにすべてに決着をつけて、それを心から忘れようとしたが、それは口ではらくにいえても、実行は困難なことだった。そして、ときどき心をなやます悔恨の情をおさえ、疑惑の念をおしつぶしてしまうのは、不可能なことだった。まだとても若く、友人もわずかだったので、霊魂の不滅はそう特別魅力のあるものではなく、それにたいする信仰を放棄するのは、苦労なく達成できた。だが、彼にみじめさを味わわせたひとつのことがあった。自分は訳わからずと、心にいい聞かせ、笑いでその悲痛さを忘れようとしたが、あの美しい母にはもう二度と会えないかと思うと、ほんとうに涙がこみあげてきた。死後の年月がたつにつれ、母親の自分にたいする愛情は、ますます貴重なものになっていたからだった。それに、ときどき、神をおそれていた敬虔な無数の先祖の影響が彼の中で知らず知らずのうちに働いているかのように、信仰はすべて真実なのだろう、高い青空の背後には自分にたいする信仰を一途《いちず》に要求しているただひと筋の信仰を求める神がいて、永遠の劫火で無神論者に罰を加えるだろう、というすごい恐怖が彼をとらえた。こうしたときに、理性は救いの手をさしのべられなくなり、果てしなくつづく肉体の拷問の苦痛に、想像を走らせた。胸が恐怖でムカムカし、冷汗がびっしょり吹きだしてきた。最後に、彼はやけになって心にこう説いて聞かせた、
「結局んとこ、ぼくがわるいからじゃない。むりに信じようとしたっても、できないことだ。結局神さまが存在し、神さまを心から信じないからといって、神さまから罰を受けることになっても、ぼくとしては万やむを得ないことなんだ」
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二十九
冬になった。パウルゼン(ドイツの哲学者)の講義に出席するために、ウィークスはベルリンにゆき、ヘイウォードは南にいこうと考えはじめていた。市の劇場が開かれた。ドイツ語にみがきをかけるという賞賛すべき考えで、フィリップとヘイウォードは、週に二、三回、そこに出かけていった。これは、フィリップにとって、説教を聞くよりもっと語学を向上させる楽しい方法になった。そのときに、演劇再興の潮が絶頂に達していた。いくつかのイプセンの劇が、冬の期間のレパトリーになり、ズーデルマン(ドイツの劇作家・小説家)の『名誉』がその当時新しい作品、静かな大学町でのその上演は、大きな興奮をまきおこした。それは途方もない賞賛、辛辣な悪罵をともども浴びていた。ほかの劇作家たちが近代的な影響のもとで執筆した劇をひっさげてそのあとにつづき、フィリップは一連の劇をみることになったが、そこでは、人間の悪が暴露されていた。そのときまで、彼は芝居をみにいったことは一度もなく(お粗末な旅興行の一座がブラックステイブルの会議室にときどきやってきたが、ひとつは職業柄の顧慮もあり、またひとつにはそれが俗悪なものと考えて、牧師はそこには絶対にいかなかった)、演劇熱が彼の心をとらえてしまった。小さな、きたならしい、採光のわるい小屋に足を踏み入れた瞬間、ゾクリとする快感をおぼえた。間もなく、小さな一座の特徴をのみこみ、配役をみただけですぐ、劇の人物の特質がどんなものか、見当がつくようになった。だが、だからといって、それは、彼にどうという変化もひきおこさなかった。彼にとって、それは現実の生活だった。それは暗い、苦悶の奇妙な生活、そこでは男女が、情け容赦のない観客の目の前に、心の中の悪をさらけだしていた。美しい顔は堕落した心をかくし、徳ある者は、心中に秘めた悪徳をかくす仮面として徳を利用し、強そうにみえる者が、心の中では、弱さのために気が遠くなりそうになっていた。正直者は腐敗し、純潔な女は好色だった。前の晩にどんちゃんさわぎが演じられた部屋にいるような感じだった。朝になっても窓は開かれず、空気はビールののこり、いやなタバコの煙、ユラユラと燃えるガスでよどんでいた。笑いはなかった。せいぜいのところ、偽善者や愚か者をクスクスと笑うくらいのもので、登場人物は、屈辱と苦悶で心からしぼりだされたとも思える冷酷な言葉を吐いて、自分の性格の表示をおこなっていた。
そのきたならしい強烈さに、フィリップは心をうばわれた。世界をべつの角度からながめているように思われ、この世界も知りたくなった。芝居が終ると、酒場にゆき、ヘイウォードといっしょに、炉のカッカと燃えている温かなところに坐り、サンドウィッチを食べ、ビールを一杯飲んだ。まわりには、小さな組になった学生が坐り、しゃべり、笑っていた。そこここに一家、父親と母親、ふたりの息子とひとりの娘が坐り、ときどき、娘が気のきいたことをいうと、父親は椅子でのけぞりかえって陽気に笑っていた。それは、とても親しみのこもった無邪気な雰囲気だった。この光景には快いつつましやかさがあったが、フィリップはそれに目もくれてはいなかった。心は、いまみたばかりの芝居に走っていた。
「きみは、あれを人生と感じてるんだろうね、どうだい?」彼は興奮していった。「いいかい、ぼくはここにそうながくはいられないんだ。ロンドンにもどって、じっさいに第一歩を踏みだしたいんだ。経験を積みたいんだ。生活のための準備工作には、もううんざりさ。ほんとうの人生を味わいたいんだ」
ときどき、ヘイウォードは、フィリップを放りだしにし、彼をひとりで家に帰すことがあった。フィリップがむきになって問いただしても、ピタリとした返事は絶対にせず、陽気で、うつけたともいえるひと笑いをして、なにかロマンティックな情事をほのめかした。ロセッティ(イギリスの詩人・画家)の数行を引用し、一度は十四行詩《ソネット》をフィリップにみせたが、そこでは、情熱と華露な美文、厭世思想と哀愁《あいしゅう》が、トルードという若い女性を中心にして、いっしょに結びつけられていた。ヘイウォードは自分の薄ぎたない下卑たささやかな情事を詩文の輝きでとりかこみ、英語で与えられるもっとズバリとした適切な単語を使ったりはせずに、自分の求愛の相手の描写に|浮かれ女《ヘタイラ》(ギリシャ語)という言葉を使ったからというわけで、ペリクレス(アテネの全盛時代のギリシャの政治家)やフェイディアス(アテネの全盛期のギリシャの彫刻家)と握手をしたような気になっていた。フィリップは、好奇心にかられて、昼間、小ざっぱりとした家と緑のよろい戸がある古い橋のたもとの小さな街路をとおりぬけたことがあったが、そこには、ヘイウォードによれば、トルード嬢が住んでいるということだった。が、野獣のような顔をし、頬をぬり立てた女どもが戸口から出てきて、大声で彼を呼びとめたので、彼はふるえあがり、自分をひきとめようとする荒々しい手から、脱兎《だっと》のように逃げだしてしまった。彼がなににもましてあこがれ求めていたのは経験、小説の説くところでは人生でいちばん重要なものを、その齢になっても、まだ味わわずにいるので、自分を滑稽な存在と感じていた。だが、不幸なことに、彼はものをあるがままにみてしまう人物、彼に提供された現実は、彼の夢の織りなす理想とは、およそかけはなれたものだった。
人生を旅する者が、現実をそのまま受けとめられるようになるまでに、不毛できびしい原野をどんなにひろく歩きまわらなければならないかを、彼はまださとっていなかった。青春時代を幸福だというのは幻想、青春を失った人びとの幻想なのだ。青年たちは、自分がどんなにみじめかを知っている。自分たちに吹きこまれた真実ではない理想にあふれ、真実と接触するごとに、打たれ傷つけられているからだ。自分たちは謀略の犠牲者のようにさえ思われてくる。選択の必要から自然に理想的なものに走ってしまう彼らの読む本、忘却という薔薇《ばら》色の靄《もや》をとおして過去をふりかえる年長者の話は、若い者の心組みを真実ではない生活に向かわせることになる。自分たちが読んできたすべて、自分たちが聞いてきたすべてが嘘、嘘、嘘とわかるのは、自分自身の発見によらなければならない。そして、それぞれの発見は、人生の十字架にかけられたからだに打ちこまれる一本一本の釘になるのだ。
ここで奇妙なことは、このにがにがしい幻滅を経験するそれぞれの人間が、自分自身より強力な自己の中にある力に無意識につき動かされて、自分の番になると、その幻滅感をなお強めてゆくことだ。ヘイウォードを友人にしたのは、フィリップにとって、この上なくまずいことだった。ヘイウォードはどんなものも自分の目ではみず、ただ文学的雰囲気をとおしてみるだけ、わが心をあざむいて自分を誠実と思いこんでいるだけに、危険だった。彼は、自分の官能性をロマンティックな情緒と、自分の気迷いを芸術的な気質と、自分の怠惰を哲学的冷静さと、心の底から勘ちがいしていた。洗練さを求める努力の点で野卑な彼の心は、すべてのものを実物よりちょっと大きくしてながめ、その輪廓《りんかく》はぼやけ、それは感傷性のもつ黄金の霧《きり》につつまれていた。嘘をつきながらも、嘘をついたとは絶対にさとらず、それを指摘されても、嘘は美しいものとうそぶくのだった。要するに、彼は夢想家だった。
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三十
フィリップは落ち着かず、心満ち足りずの思いを味わっていた。ヘイウォードの詩的なほのめかしが彼の想像を波立たせ、彼の魂はロマンスをあこがれ求めた。少なくとも、わが心に語りかけるのに彼が使った表現は、そうしたものだった。
そこで、たまたま、夫人の家である事件が進行ちゅう、それが性にたいするフィリップの関心をさらにたかめることになった。岡を散歩しているとき、二、三回、彼はツェツィーリエ嬢がひとりでブラブラと歩いているのに出逢ったことがあった。お辞儀をして彼女のわきをとおりぬけると、数ヤード先に、例の中国人の姿がみかけられた。彼はそのことをどうとも思っていなかったが、ある晩、もう夜の幕がおりているとき、家に帰ろうとする途中で、ふたりの人物がピクリ寄りそって歩いていくわきをとおっていった。彼の足音を聞くと、ふたりはサッとはなれ、暗闇の中でそれとはっきり見定めたわけではなかったが、それがツェツィーリエと孫であるのは、まずまちがいのないことだった。ふたりがあわてて身をはなしたのは、腕を組んで歩いていたことを思わせた。フィリップはとまどい、驚いた。ツェツィーリエ嬢にはそう注意を払ってはいなかった。なにしろ、顔は四角ばり、素っ気ない顔の醜女《しこめ》だったからである。ながい金髪をおさげにしている以上、十六を越えているはずはなかった。その晩、夕食のとき、彼はジロジロと彼女をみつめ、最近、食事どきに口数が少なくなっていた彼女が、彼に語りかけてきた。
「きょう、散歩でどこにおいでになったの、ケアリーさん?」彼女はたずねた。
「ああ、ケーニヒストウルのほうにのぼっていったんです」
「わたし、出なかったの」彼女は自分からいいだした。「頭が痛くってね」
彼女のとなりに坐っていた中国人が向きなおった。
「それはいけませんでしたね」彼はいった。「もうよくなったのでしょうね」
ツェツィーリエ嬢が不安にかられているのは、たしかだった。またフィリップに話しかけてきたからである。
「途中でいろんな人に会ったこと?」
真っ赤な嘘をついたとき、フィリップは赤くならずにはいられなかった。
「いや、だれにも会わなかったようですよ」
ホットした安堵《あんど》のようすが彼女の目にサッと浮んだようだった。
しかし、このふたりのあいだになにかがあることは、すぐ疑念の余地のない事実になった。この家のほかの連中も、ふたりが暗い場所にひそんでいるのをみてとった。テーブルの上座に坐っている初老のご婦人方も、いまはもう醜聞になっている話をとりあげた。夫人は腹が立つやら困るやらで、なんとかみぬふりをしようと躍起《やっき》になっていた。冬は間近、家を客でいっぱいにしておくのは、夏場ほどらくにできることではなかった。孫氏はよい客だった。一階でふた部屋借り、食事ごとにモーゼルぶどう酒を一本空けていた。夫人は、一本で三マルクとり、結構利益をあげていた。客でぶどう酒を飲む者はほかになく、ビールも飲まない者も、何人かはいた。ツェツィーリエ嬢も、のがしたくはない客だった。その両親は南米で商売をやり、夫人の母親的なあつかいにたいして、手厚い礼をし、ベルリンに住むこの娘の伯父に便りを出せば、すぐに彼女はひきとられるはずだった。食卓でこのふたりにきびしい顔を向けるだけで、夫人は十分と考え、中国人にたいして荒っぽい態度はとらなかったものの、ツェツィーリエにビシビシ当ることで満足していた。だが、三人の初老のご婦人方は、それで納得はしなかった。そのうち、ふたりは未亡人、のこるオランダの女性は、男のようなようすをした老嬢で、下宿代は最大限にきりつめ、面倒だけは結構かけていたが、この三人は常住の下宿人、なんとか大目にみて我慢しなければならなかった。この三人は夫人のところにおしかけ、なんとか処置を講ずべきだ、と進言した。それはいい恥さらし、きちんとした家の評判をおとす、ということだった。夫人は執拗《しつよう》にがんばり、プリプリし、涙を流しまでしたが、結局は三人のご婦人にやっつけられ、いきなり義憤にかられたといった態度に豹変《ひょうへん》、このことはきっぱりやめさせる、といいきった。
昼食後、彼女はツェツィーリエを自分の寝室につれてゆき、とても真剣になって話しはじめた。だが、びっくりしたことに、娘はいなおり、自分は好き勝手に歩きまわるつもり、中国人といっしょに歩きたかったら、人の指し図を受ける必要はないはず、とやりかえしてきた。夫人は、彼女の伯父に手紙を出す、とおどしをかけた。
「そうしたら、冬のあいだ、ハインリヒ伯父さんはベルリンの家に呼んでくれることよ。それのほうが、わたしにはズッといいの。それに、孫さんもベルリンに来てくれるでしょうからね」
夫人は泣きだし、涙がきめの荒い、赤い、太った頬にポロポロと流れ落ちた。ツェツィーリエはこの彼女をあざけり笑った。
「そうなったら、冬のあいだズーッと、三部屋空くわけになることね」
そこで、夫人は策略を転じ、ツェツィーリエ嬢の性格のよい面に訴えることになった。あなたは親切で、分別があり、寛大な方というわけ、夫人はもうツェツィーリエを子供としてではなく、一人前の女としてあつかった。それはべつにどうということもないが、相手は、黄色な肌と平べったい鼻、それにあの豚のような小さい目をした中国人! それが、これをおそろしいことにしている点。考えただけでも、ゾッとする。
「ちょっと、ちょっと」(ドイツ語)あわただしく息をすいこんで、ツェツィーリエはいった、「あの人の悪口は聞きたくないことよ!」
「でも、本気じゃないんでしょ?」エルリン夫人はあえいだ。
「わたし、あの人を愛してるの、愛してるの、愛してるのよ」
「まあ、驚いた!」(ドイツ語)
夫人は、おびえ、驚いて、相手をにらみつけた。それは、この娘のほうでのわけわからずのいたずら、無邪気な他愛もないこと、としか考えていなかったが、彼女の声にこもる情熱は、すべてをあからさまに暴露していた。燃えるようなまなざしで、ツェツィーリエは一瞬夫人をにらみつけ、それから、肩をすくめて、部屋を出ていった。
エルリン夫人はこの話し合いの委細《いさい》を胸にたたみこみ、一日か二日して、テーブルの配置を変えた。彼女は孫氏に、自分の側の端に坐ってくれないか? とたのみ、彼は、いつもと変らぬ慇懃さで、すぐにそれを承諾した。ツェツィーリエは、平然として、この変更を受けとめた。だが、ふたりの関係が一家の者にもう知られているとわかったことで、かえって鉄面皮にふるまえるといったように、ふたりは、もう、いっしょに散歩するのを人にかくそうとはせず、毎午後、公然と岡の散歩に出かけていった。自分たちについてのうわさを一向気にしていないのは、明らかだった。とうとう、エルリン先生の平静ささえ乱れをみせはじめ、自分の妻は中国人に話すべきだ、といいだした。彼女は、こんど、孫をわきに呼び、注意を与えた。あなたは娘の評判を台なしにしている、それでこの家も損害を受けることになる、自分の行為がどんなにあやまった、いけないことか、さとるべきだ、といった趣旨のことだった。だが、相手は、ニコニコしながら、否定しつづけるだけだった。あなたがなにをお話しになっておいでなのか、わたしにはわからない、ツェツィーリエ嬢をべつにどう思ってるわけではない、彼女といっしょに歩いたことは一度もない、それは、一から十まで、まるっきりの真っ赤な嘘、というわけだった。
「ああ(ドイツ語)、孫さん、どうしてそんなことをいえるの? 何回となく、その姿はみられているんですよ」
「いいえ、それは勘ちがいです。ほんとうのことではありません」
彼は、いつも微笑を浮べながら、彼女をながめていたが、その微笑は、彼のそろった小さな白い歯をみせていた。落ち着き払ったものだった。すべてを否定し、ものやわらかな鉄面皮で、否定しつづけた。とうとう夫人は癇癪《かんしゃく》を起し、娘のほうで彼を愛していると白状した、と伝えた。
「バカな! バカな! それはみんな、真っ赤な嘘です」
彼女は、彼からなにもひきだせなかった。天気はひどく険悪になり、雪と霜がおり、それから雪解けといった具合いに、ながいわびしい日がつづき、散歩をしても、そう楽しいものにはならなかった。ある夕方、先生のドイツ語の授業が終り、フィリップが、ちょっと応接間に立って、エルリン夫人に話をしているとき、アンナがあわただしく部屋にとびこんできた。
「ママ、ツェツィーリエはどこにいるの?」彼女はたずねた。
「部屋にいるんでしょ」
「灯りがついてないの」
夫人は叫びをあげ、うろたえて自分の娘をながめた。アンナの頭にあった考えが、夫人の頭にもサッとひらめいた。
「ベルを鳴らして、エイミールを呼びなさい」しわがれた声で彼女は命じた。
エイミールというのは、テーブルの給仕をし、家事の大部分をやっているあの薄のろの男のことだった。彼は部屋にやってきた。
「エイミール、孫さんの部屋におりてって、ノックをせずにそこにはいってみてちょうだい。だれかがいたら、ストーブをみにきた、といえばいいことよ」
エイミールの鈍感な顔には、驚いたふうは一向にあらわれなかった。
彼はゆっくりと階段をおりていった。夫人とアンナは、ドアをあけたままにして、聞き耳を立てていた。やがて、エイミールがまた階段をのぼってくるのが聞え、ふたりは彼に声をかけた。
「だれかそこにいたこと?」夫人はたずねた。
「ええ、孫さんがいました」
「あの人だけ?」
狡猾《こうかつ》な薄笑いの前兆といったふうに、彼は口をすぼめた。
「いいえ、ツェツィーリエさんもそこにいましたよ」
「まあ、ひどいことだこと!」夫人は叫んだ。
いま、エイミールの笑いは、露骨にはっきりとしたものになった。
「ツェツィーリエさんは、毎晩、そこにおいでですよ。ぶっつづけに何時間もね」夫人はもみ手をしはじめた。
「まあ、たまらないこと! でも、どうしてそれをわたしに知らせなかったの?」
「こっちの知ったこっちゃありませんからね」ゆっくりと肩をすぼめて、彼は答えた。
「お金をたんまりもらってるんでしょう。いって、向うにいってちょうだい」
彼は、よろめくような不細工な歩きっぷりで、ドアのほうにひきさがっていった。
「ママ、出てってもらったらいいわ、あのふたりには」アンナはいった。
「部屋代を払うのはだれなの? それに、税金の時期が来てるのよ。出てってもらうと口先だけでいうのは、結構なことだけど、出ていかれたら、勘定のつけも払えなくなるのよ」彼女はフィリップのほうに向き、涙をポロポロと流した。「ああ(ドイツ語)、ケアリーさん、このことは、なにもいわないでおいてちょうだいね。もしフェステルさんに――」これはオランダ人の老嬢だった――「フェステルさんに知られたら、すぐに出てってしまうでしょうからね。あの人の仲間にぜんぶ出てかれたら、ここは閉鎖よ。とってもやってはいけませんからね」
「もちろん、なにもいいませんよ」
「あのツェツィーリエがここにいつづけるんだったら、わたし、あの人には口をきかないことよ」
その晩、夕食のときに、ツェツィーリエは、ふだんより赤い顔をし、屈服したりはするものかといったようすで、時間どおりに姿をあらわしたが、孫氏の姿はみえなかった。フィリップは、しばらく、彼がこの気づまりを逃げようとしているな、と考えていたが、とうとう彼がやってきた。大ニコニコで、おそくなった言訳で、小さな目をキョトキョトさせていた。いつものとおり、自分のモーゼル|ぶどう《ヽヽヽ》酒を夫人につごうとし、フェステルさんにも、一杯いかが? とついでやった。部屋は熱さでムンムンしていた。一日じゅうストーブが焚かれ、窓はめったにあけられなかったからだった。エイミールはマゴマゴしていたが、手早にきちんとみなに食事を配る点で、とにかく、手落ちはなかった。三人の老婦人は、はっきりと文句ありげに、だまって坐り、夫人は涙を流したさわぎのなごりをまだみせ、彼女の夫の先生は、むっつりしていた。話ははずみようがなかった。いつも出ていたこの夕食の集りに、なにかただならぬ気配があるように、フィリップには感じられた。つりさげられたふたつのランプの光のもとで、人びとはいままでとちがった人のようになった。彼は漠然とした不安にかられた。一度、ツェツィーリエの目をとらえたが、その目は、憎しみと軽蔑で自分をみているようだった。部屋はムッとして息がつまりそうだつた。このふたりの男女の野獣的な情熱が、みなの心を波立たせている感じ、東洋的な堕落の雰囲気がみなぎっていた。かすかな線香の香り、神秘的なかくされた悪徳が、みんなの息をつまらせているみたいだった。フィリップの額の血管がズクズクとうずきはじめた。どんな奇妙な感情が自分の心をさわがせているのか、フィリップにはつかめなかった。この上なく魅力的ななにかあるものを感じながらも、それと同時に、嫌悪感と恐怖感を味わっていた。
何日間か、事態はそのままだった。不自然な情熱で、雰囲気はムカムカしたものになり、それをみなはヒシヒシと身に感じ、この小さな一家の者の神経は、ひどくジリジリしているようだった。ケロリとしているのは孫氏だけ、前と変らずニコニコし、愛想がよく、慇懃だった。彼の態度が文明の勝利をあらわしているのか、征服された西欧にたいする東洋人の軽蔑の表示か、いずれともきめかねた。ツェツィーリエはこれみよがしの皮肉な態度をとっていた。とうとう、夫人さえ、もう我慢ならなくなった。突然、恐怖が彼女をとらえた。エルリン先生は、歯に衣着せずの卒直さで、もうすべての者にはっきりとわかっている情事の結果について、彼の推測を伝え、ハイデルベルクでの自分の名声と自分の家の評判が、かくしおわせるものではない醜聞によってすっかりたたきつぶされてしまうのを、夫人がさとったからだった。なにかある理由で、たぶん利益に目をくらまされていたのだろうが、こうしたみとおしは、彼女の心に思い浮んではいなかった。そしていま、すごい恐怖の情ですっかり頭がおかしくなって、彼女はツェツィーリエをすぐに家から追いださずにはいられなくなった。ツェツィーリエをひきとってもらいたい、という慎重な手紙をベルリンの伯父に書いたのは、アンナの分別によってしたことだった。
だが、ふたりの下宿人を手放そうと腹をきめると、夫人は、自分がながいことおさえにおさえていた腹立ちのたづなをゆるめて、満悦を味わおうとする誘惑に勝てなくなった。いまは、もう、好きなことをツェツィーリエにいえる立場にあったからだった。
「ツェツィーリェ、あなたの伯父さんに手紙を書き、あなたをひきとってもらうことになりましたよ。これ以上、あなたをここにはおけないんですからね」
この娘の顔がいきなり蒼白になったとき、彼女のまるい小さな目はキラリと輝いた。
「あんたは恥知らずよ。恥知らずよ」彼女はつづけた。
彼女は相手をさんざんにやっつけた。
「ハインリヒ伯父さんになんていったの?」人の世話は受けないといったこれみよがしの態度をかなぐりすてて、娘はたずねた。
「ああ、それは伯父さま自身が話してくださいますよ。あしたお便りがあるはずですからね」
つぎの日、この屈辱をもっとあからさまにしようと、夕食時に、夫人はテーブルぞいにツェツィーリエに声をかけた。
「伯父さまからお便りをいただきましたよ、ツェツィーリエ。今夜、荷づくりをしなさい。あしたの朝、列車にあなたを乗せてあげますからね。伯父さまはベルリンの中央停車場に来てくださるはずですよ」
「わかりました」
孫氏は、夫人のみているところでニコニコし、彼女がいらないといっても、彼女に|ぶどう《ヽヽヽ》酒を一杯つごうといい張った。夫人はモリモリと夕食を食べたが、この彼女の勝利は、見当はずれなものだった。就寝直前に、彼女は召使いを呼んだ。
「エイミール、ツェツィーリエさんの荷物ができていたら、今夜、それを下に運んどいたほうがいいことよ。赤帽が、朝ご飯前に、それを運びに来るんですからね」
召使いはひきさがって、すぐにもどってきた。
「ツェツィーリエさんは部屋にいず、ハンドバッグもありませんよ」
あっと叫びをあげて、夫人はとんでいった。荷物は、ひもと錠をかけたまま、床におかれてあったが、ハンドバッグも、帽子も、外套もなかった。化粧台は空だった。フーフーいって、夫人は中国人の部屋にかけおりていった。ここ二十年間みせたこともない素早さだった。エイミールは、階段から落ちないように、うしろから夫人に呼びかけ、彼女は、ノックをぬきにして、部屋におどりこんだ。ふた部屋とも空だった。荷物は運び去られ、まだあいたままの庭に通じるドアが、運びだしの方法を物語っていた。テーブルの上には封筒があり、そこには、その月の下宿代、超過の分の概算に当る紙幣が入れられてあった。激しい動きの疲労でいきなりぐったりし、うめきながら、夫人は太ったからだをソファーに沈めた。もう、まちがいのないことだった。ふたりは手に手をとって逃げだしたのだ。エイミールは、のっそりケロリとして、立っていた。
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三十一
ヘイウォードは、このひと月のあいだ、あした南にいく、いくといっていながら、荷づくりと旅の退屈さがいやさに、それを一週間、また一週間とひきのばしていたが、クリスマスの直前、その祭りの準備のわずらわしさで、とうとう出発した。ドイツふうの浮かれさわぎを考えただけでもたまらなく、この季節のおしつけがましい陽気さは鳥肌が立ってくるもの、こうして露骨に示されるものがいやさに、彼は、クリスマス前夜に、いよいよ旅をしようと決心することになった。
フィリップは、ヘイウォードを見送っても、どうということはなかった。彼はざっくばらんな男、だれか自分の心を知らないでいる男があらわれると、イライラしてくるのだった。ヘイウォードの影響は強く受けながらも、魅力的な敏感さをあらわすものとされているあの優柔不断ぶりは、我慢ならなかった。彼がズバリとやるやり方をヘイウォードがながめている、あのチラリとみせる冷笑ぶりを、彼は憤慨していた。ふたりのあいだで、文通がおこなわれた。ヘイウォードはすばらしい手紙の書き手で、その才能を知っているだけに、苦労してそれを書いていた。彼の気質は接触する美をすぐに受け入れ、ローマからの手紙の中にイタリアの繊細《せんさい》な芳香を焚きこむことができた。古代ローマ人の都をいささか野卑と考え、ローマ帝国の衰頽《すいたい》の中にだけ、美点を発見していた。だが、歴代法王のいるローマは彼の共感をひきおこし、えらびぬいた言葉で、じつに美しく、ロココふうの美が伝えられてきた。教会の古い音楽やアルバンのつらなる岡(ローマの南東十三マイルのところにある火山脈)、けだるげににおってくる線香の香り、舗道が輝き、街路灯の灯りが神秘的にみえてくる雨の中での街路の夜景の魅力について、彼は書いてきた。たぶん、このすばらしい手紙を、さまざまな友人たちに、くりかえしくりかえし出していたのだろうが、それがフィリップにどんなに心をさわがせる影響を与えたか、彼はとんと気づかなかった。この手紙で、フィリップの生活は、とても月並《つきなみ》なものに映ってきた。春とともに、ヘイウォードは熱狂的になった。フィリップもイタリアに来るべきだ、とさそってきた。ハイデルベルクで時間を空費している、ドイツ人はがさつで、生活は陳腐《ちんぷ》、あのとり澄ました景色の中で、魂がどうしてひろがることができよう? トスカナでは、春が花をあたり一面にまき散らしている。きみはもう十九になったのだ。ここに来たらいい。ふたりでアンプリア(古代イタリアの中部および北部地方。原名ウンブリア)の山の町々をへめぐることにしよう。
その名前は、フィリップの心に深く沈んでいった。それに、ツェツィーリエも、恋人といっしょに、イタリアにいったのだ。このふたりのことを思うと、フィリップは、自分でも説明できないイライラした気分にとりつかれた。旅をする金がなかったので、自分の運命がのろわしくなってきた。協定した月に十五ポンド以上の金を伯父が送ってはくれないのは、わかりきったことだった。仕送りの金の使い方も、へただった。下宿代と授業料でのこりは少なく、ヘイウォードとのつき合いには、なかなか金がかかった。フィリップの月々の金が底をついたとき、ヘイウォードは、よく、遠出、観劇をさそい、一本|ぶどう《ヽヽヽ》酒を飲もうかともちかけてきた。若さのもつ愚かさで、そんな贅沢《ぜいたく》をする余裕はない、と打ち明けるのもいまいましいことだった。
幸いなことに、ヘイウォードの手紙は間遠に来るもの、その合い間に、フィリップはふたたびせっせと勉強にとりかかった。もうそこの大学には入学し、一、二の講義に出席していた。クーノウ・フッシャー(ドイツの哲学史家)は、その当時、名声の絶頂にあり、その冬には、シヨーペンハウエル(ドイツの哲学者)についてのすばらしい講義をしていた。これが、フィリップの哲学入門のきっかけになった。彼はじっさい的な心の持ち主、抽象世界の中で動きまわるのに、いつも、不安をいだいていた。が、この形而上《けいじじょう》学的論究の話は、思いもかけず、魅惑的なもので、彼は思わず息を呑んでしまった。深淵《しんえん》に張った綱わたりの放れ業とちょっと似ているが、とても心をワクワクさせるものだった。主題の厭世思想は、若い彼の心をひきつけ、自分がいま踏みだそうとしている世界は冷酷な悲しみと暗黒の場所、と信じこんでいた。だが、そこに踏みこんでいこうとする彼のひたむきな気持ちは、依然として強いものだった。やがて、保護者の意見の伝え役になっていたケアリー夫人が、もうそろそろイギリスに帰るべきだと伝えてきたとき、彼は大よろこびでそれを承知した。将来なにをするのかを、いまはっきりときめなければならなかった。七月末にハイデルベルクを出たら、八月ちゅうにいろいろと相談もできる、話し合いをつけるのにちようどいい時機になるだろう。
出発の日どりがきまり、ケアリー夫人の手紙がまた来た。彼女は、その親切でフィリップがハイデルベルクのエルリン夫人の家に下宿するようになったミス・ウィルキンソンの話を出し、彼女が、数週間、ブラックステイブルの家に滞在することになった、と伝えてきた。しかじかの日にフラッシング(オランダ南西の島の海港)から渡航するはずだから、旅程をその日に合せたら、彼女の世話をみて、いっしょにブラックステイブルに来れるわけ、といったものだった。フィリップは照れ屋だったので、すぐに手紙を書き、その日どりの一日か二日あとまで、どうしても出発はできない、と伝えた。ミス・ウィルキンソンをさがしまわり、彼女に近づいていって、彼女かどうかとたずねる当惑(まちがった人に話しかけ、ツンとはねつけられる可能性は十分にあった)、汽車の中で話しかけるべきか、それとも、本を読んで彼女を無視してもいいのか、それを知る困難さ、といった面倒くささがあったからだった。
とうとう、彼はハイデルベルクを出発した。この三カ月のあいだ、ただただ自分の将来のことに思いふけっていたので、そこを去るのになごり惜しさはなかった。そこで幸福だったとは考えていなかった。アンナ嬢は『ゼッキンゲンのラッパ手』(ヨセフ・ウィクトル・フォン・シェッフェルのローマン的な叙事詩)を記念として彼にくれ、おかえしに、彼は彼女にウィリアム・モリス(イギリスの詩人・工芸美術家)の本を贈った。いずれも相手の贈り物の本を絶対に読まなかったのは、じつに賢明なことだった。
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三十二
伯父と伯母をみて、フィリップはびっくりした。ふたりがすっかり老人になっているとは、ぜんぜん気づいていないことだった。牧師は、いつものそう冷淡とはいえない無関心ぶりで、彼をむかえた。少し太り、少し禿《は》げあがり、少し白髪をましていた。彼がどんなにつまらない男かが、フィリップにわかった。顔は弱々しく、いい気なものだった。伯母のルイーザは彼を両腕にかかえ、キスをし、よろこびの涙が頬に流れ落ちた。フィリップは心を打たれ、ドギマギした。どんなに飢えた愛情で彼女が自分を愛してくれているか、ぜんぜん気にもとめていなかったからだった。
「ああ、お前がいってしまってから、ずいぶん待ち遠しかったことよ、フィリップ」彼女は叫んだ。
彼女は彼の手をなで、よろこびで目を輝かせて、顔をのぞきこんだ。
「大きくなったことね。もう一人前の男だわ」
上唇にはわずかだが、もう口髭が生え、剃刀《かみそり》を買いこんできて、彼は、ときどき、至極《しごく》念入りになめらかな顔の薄毛を剃り落していた。
「お前がいなくって、ここはとてもさびしくなってしまったのよ」それから、恥ずかしそうに、ちょっと声をとぎらせて、伯母はたずねた、「家に帰ってうれしいこと、どう?」
「ええ、もちろん」
彼女はとても痩せ、すきとおしのようになっていた。彼の首にまきつけた腕の骨はとてもかぼそく、ひな鳥の骨を思わせ、色あせた顔は、まったくひどいしわだらけのものだった。若いころの流行でまだしている灰色の巻き毛は、彼女に奇妙な、心を打つ物悲しげなようすを与え、しぼんだ小さなからだは、秋の葉のように、鋭い風がひと吹きすれば、吹きとばされそうだった。このふたりの静かな小さな人物はもう人生に終止符を打ったというのが、フィリップの実感だった。彼らは過去の時代に属し、そこで死を辛抱強く、そう、うつけたようにして待っているだけ。たくましさと若さにあふれ、興奮と冒険を求めているフィリップは、その浪費ぶりに驚いた。ふたりはなにもせずにすごし、姿を消してしまっても、ないも同然のことになってしまうだろう。伯母のルイーザがとてもあわれになり、自分を愛してくれているだけに、急に彼女にたいする愛情がグッと湧いてきた。
ケアリー夫妻が甥をむかえているあいだ、遠慮して邪魔をしないように心がけていたミス・ウィルキンソンが、そのとき、部屋にはいってきた。
「こちらは、ミス・ウィルキンソンよ、フィリップ」ケアリー夫人はいった。
「放蕩息子のご帰還ね(ルカ伝一五にある放蕩息子を家によろこびむかえる両親の話)」手をさしだして、彼女はいった。「放蕩息子のボタンの穴にさすようにと、薔薇を一本もってきたことよ」
陽気にニッコリとして、彼女は庭で摘んできたばかりの花をフィリップの上着につけてくれた。彼は顔を真っ赤にし、間のぬけた思いを味わっていた。ミス・ウィルキンソンが伯父のウィリアムのつかえた最後の教区牧師の娘であるのを、彼は知っていた。じっさい、牧師の娘たちとは、いろいろと知り合いになっていた。そうした連中は、裁断のわるい服を着こみ、がっちりとした編みあげ靴をはき、たいていは黒服姿だった。フィリップの子供のころには、ブラックステイブルで、ホームスパンは、イースト・アンダリアにはいってきていず、牧師の家のご婦人方は、色物を好んではいなかったからだった。彼らの髪は不精《ぶしょう》ったらしく結ばれ、糊づけの下着のにおいがプンプンしていた。彼らは、女性の愛嬌をよくないことと心得、老いも若きも、同じ恰好をしていた。信心ぶりも傲慢なものだった。自分たちが教会に接触の深い者というわけで、ほかの人間にたいしていささか横暴な独裁者じみた態度をとっていた。
ミス・ウィルキンソンは、とてもちがっていて、明るい小さな花束模様の白いモスリンのガウンを着こみ、靴下はすかし模様、先のとがったハイヒールの靴をはいていた。経験のないフィリップの目に、彼女はすばらしい服装をしているようにみえた。そのフロックが安物でペカペカなことは、わからなかった。髪は手をこませて結いあげ、額の真ん中にサッと巻き毛がひとつつけられていた。それはとても黒い髪で、テラテラして固まり、髪のほつれなんぞ絶対にみせないといった感じだった。黒いひとみは大きく、ちょっと鷲《わし》鼻だった。横顔には猛禽《もうきん》をしのばせる面影が多少あったが、正面からみた顔は、なかなか魅力的だった。彼女はとてもニコニコしていたが、口は大きく、笑うときには、歯をかくそうとした。それが大きく、そうとう黄味がかったものだったからである。だが、なににもましてフィリップをとまどわせたのは、厚化粧だった。彼は女性の態度にはとてもきびしい見方をもっていて、きちんとした女は化粧せぬものときめこんでいた。だが、ミス・ウィルキンソンは牧師の娘、牧師は紳士なのだから、彼女は、当然、きちんとした女だった。
この彼女を徹底的にきらってやろう、とフィリップは腹をきめた。彼女は、ちょっとフランス語なまりを入れて、しゃべっていた。イギリスのまっただなかで生れ育った以上、どうしてそんなことをするのだろう? と彼は考えた。彼女の微笑は気どったふうにみえ、恥じらいまじりの快活な態度は、彼をジリジリさせた。二、三日間、彼は沈黙を守り、敵意をもちつづけたが、ミス・ウィルキンソンは、それに気づかぬようだった。とても愛想がよく、ほとんどいつも話を彼だけに向け、たえず彼のまともな意見を求めてくる点、彼にしてもまんざらでもなかった。彼女は、さらに、彼を笑わせたが、フィリップは、自分を楽しませてくれる人たちには、絶対に抵抗できない男だった。彼には、ときどき、あざやかなことをいってのける才能があり、それを楽しんで聞いてくれる人がいるのは、うれしいことだった。牧師もケアリー夫人もユーモア感をもった人間ではなく、彼がいうどんなことにでも、声を立てて笑うことなんて絶対になかった。
ミス・ウィルキンソンに馴れ、恥じらいが薄れてくると、彼女がだんだんと好きになり、フランス語のなまりはとても美しくひびくようになってきた。医者が開いてくれた園遊会で、彼女の衣裳はずばぬけて他を圧倒していた。大きな白玉模様の青いフラール(やわらかく、光沢のある薄絹、または薄地の絹綿交織布)の服を着ていたが、それがひきおこしたセンセイションで、彼はいい気持ちになっていた。
「きっと、みんなは、そちらのことをみたとこどおりの女としか思ってませんよ」笑いながら、彼は彼女にいった。
「放埒《ほうらつ》なあばずれ女にみられるのが、わたしの生涯の夢だったのよ」彼女は答えた。
ある日、ミス・ウィルキンソンが自室にこもっていたとき、彼女は何歳なのか? と伯母のルイーザにきいてみた。
「まあ、女の人の齢なんて、きくものじゃありませんよ。でも、お前がいっしょになるには、あの人、齢をとりすぎてることね」
牧師は、ゆっくりと、テブデブした笑いをもらした。
「もう娘っ子じゃないよ、ルイーザ」彼はいった。「われわれがリンカンシャーにいたとき、もうほとんど大人になってて、あれから二十年たってるんだからね。その当時、おさげをたらしていたっけ」
「でも、十以上じゃなかったかもしれませんね」
「いいえ、それ以上だったことよ」伯母のルイーザはいった。
「もう二十歳近かったろうな」牧師はいった。
「まあ、ちがうわ、ウィリアム。せいぜい十六か十七だったわ」
「そうすると、三十は優に越えてるわけですね」フィリップはいった。
ちょうどそのとき、ミス・ウィルキンソンが、ベンジャマン・ゴダール(フランスの作曲家)の歌を歌いながら、階段をトントンとおりてきた。フィリップといっしょに散歩にいこうとしていたので、帽子をかぶっていた。彼女は手をつきだし、彼に手袋のボタンをはめさせ、彼はそれをぶきっちょにやっていた。とまどいながらも、婦人にやさしくふるまっているといった感じだった。もうふたりは遠慮なく話し合える間柄になり、ブラリブラリと歩きながら、さまざまなことを話した。彼女はフィリップにベルリンのことを、彼は彼女にハイデルベルクの一年のことを、それぞれ話した。こうして話していると、つまらぬことと思っていたさまざまのものが、新しい興味をひきおこすようになった。エルリン夫人の家の人たちのことを語り、その当時はとても意味のあるものに思われたヘイウォードとウィークスのあいだの会話は、そこにひとひねりを加えたので、とてつもないものになった。ミス・ウィルキンソンが笑うと、彼はいい気分になっていた。
「まあ、あんたっておっそろしい人ね」彼女はいった。「とても皮肉なんですもの」
ついで、彼女は、ハイデルベルクで情事をもったかどうか? とふざけまじりにたずねた。即座に彼は、そんなことはない、と卒直に答えたが、彼女はそれを信じようとはしなかった。
「なんて秘密主義の人だこと!」彼女はいった。「その歳で、そんなことなんてあるもんかしら?」
彼は真っ赤になって笑った。
「あんまりほじくりすぎますよ」彼はいった。
「ええ、そうと思ってたの」どうだといわんばかりに彼女は笑った。「ほーら、顔を真っ赤にして!」
遊び人ととられるのは、まんざらでもないこと、そこで話題を変えて、まだ話してないロマンティックなことがいろいろあったといった思わせぶりを彼はした。そうした経験がないことで、自分が腹立たしくなってきた。そんな機会はなかったのだが……。
ミス・ウィルキンソンは、自分の運命に満足していなかった。自分が生活費をかせがなければならない境遇を憤慨し、母方のある伯父のながい話をフィリップに話して聞かせた。伯父は、彼女にひと財産のこしてくれるはずだったが、そこの料理女と結婚し、遺言状を変えてしまったのだった。彼女は、自分の家の贅沢ぶりをそれとなくほのめかし、何頭かの乗馬と馬車をもったリンカンシャーの生活と、他人の世話になっている現在の情けない状態を比較した。あとで伯母のルイーザにこのことを話したとき、フィリップはちょっと頭をひねってしまった。伯母の話によると、ウィルキンソン夫妻とつき合っていたころ、この夫妻がもっていたのは小馬と二輪馬車だけ、金持ちの伯父さんのことは聞いていたが、その人は結婚し、エミリーが生れる前に子供ができていたのだから、その財産を相続するみこみはまずなかったはずだった。ミス・ウィルキンソンは、いま職についているベルリンのことを、そうよくはいわず、ドイツ人の生活の野卑さをこぼし、それを、何年かながいことすごしたことのあるパリの華やかさと辛辣に比較していたが、パリ滞在の年数をはっきりとはいわなかった。パリで一流の肖像画家の一家で家庭教師をしたのだが、その妻はユダヤ人の財産家、その家で数多くの有名人と出逢うことになった。その名前で、フィリップは度肝《どぎも》をぬかれてしまった。コメディ・フランセーズの俳優たちがしばしばおとずれ、コクラン(コメディ・フランセーズでの名優)が晩餐で彼女のとなりに坐り、こんなに完璧なフランス語をしゃべる外国人にはいままで会ったことがない、といったそうだった。アルフォンス・ドーデ(フランスの小説家)もここにやってきて、『サフォー』(一八八四年の作)を一冊彼女にくれ、彼女の名を書いてくれると約束してくれ、あとでそれをいいだすのを忘れてしまったのだが、それにしても、彼女はそれを宝物にし、いずれそれをフィリップに貸してくれる、ということだった。ついで、モーパッサンがあらわれた。ミス・ウィルキンソンは、さざ波のような笑い声を立て、さとり顔をしてフィリップをながめた。なんといういやな男、それにしても、なんというすばらしい作家だろう! ヘイウォードがもうモーパッサンのことを話していたので、その名声をフィリップは知らないわけではなかった。
「そちらにいい寄ってきたんですか?」彼はたずねた。
この言葉は妙に喉にひっかかった感じだったが、それをおして、彼は問いかけた。いま、ミス・ウィルキンソンにたいする好意はとてもたかまり、その話でゾクリとするよろこびをおぼえてはいたものの、この女に求愛する男なんて、とても考えられないことだった。
「まあ、なんていうこと、きくの!」彼女は叫んだ。「あの男ときたら、会った女には相手構わずなのよ。習い性というもんでしょうね」
彼女は、ちょっとため息をもらし、なつかしく過去をふりかえっているようだった。
「魅力的な男だったことよ」彼女はつぶやいた。
フィリップ以上の経験者なら、以上の言葉から、この出逢いのようすをほぼ見当つけることができただろう。有名な作家が家族水入らずのの午餐会に招かれる、女家庭教師が教えている背の高い娘ふたりととりすまして登場、紹介、
「英語の先生ですの」(フランス語)
「いや、これは」(フランス語)
これで午餐会がはじまり、そのあいだ、英語の先生(フランス語)はだまって坐り、有名な作家は招待主の夫妻に話しかける、といった図式である。
だが、フィリップにとって、彼女の言葉はもっとずっとロマンティックな空想をかき立てることになった。
「モーパッサンの話をすっかりしてください」ワクワクして、彼はいった。
「べつにいうことはないことよ」この点、事実そのままだったが、その態度たるや、三冊の本に書いてもまだ足りないといった思わせぶりのものだった。「そうさぐりを入れるもんじゃなくってよ」
パリの話がはじまった。あの大きな並木道《ブルヴァール》とブーローニュの森は大好き、通りという通りには気品があり、シャンゼリゼの木には、ほかのとこの木には見受けられないいいところがある。ふたりは、いま、本街道ぞいの踏み段(垣やへいを乗り越えられるように設けた牧場などの階段。家畜をとおさないため)に腰をおろしていたが、ミス・ウィルキンソンは、目の前の堂々とした楡の木を軽蔑したようにみやっていた。それに、パリの劇場ときたら! 上演の劇は才気|煥発《かんぱつ》、演技はたとえようもないほどすばらしい。彼女はよく、教えている娘たちの母親のフォアイヨ夫人が新調の服の着ぞめのとき、それにお伴をしていった。
「ほんとうに、貧乏のみじめさときたら!」彼女は叫んだ。「ああした美しいもの! 衣裳の消息がわかるのは、パリだけ。それなのに、それを買う算段がつかないなんて! かわいそうに、フォアイオ夫人は恰好のわるい女《ひと》でね。ときどきドレスメイカーがわたしにこう耳打ちしてたわ、『ああ、お嬢さん、奥さまがそちらのような恰好をした方でしたらねえ』とね」
ミス・ウィルキンソンがたくましいからだつきをし、それを鼻にかけているのが、そのときはじめて、フィリップにわかった。
「イギリスの男って、おバカさんぞろいよ。女の顔ばかし考えてるんですものね。恋人の国のフランスでは、姿形がもっとどんなに大切かが、ちゃんとわかってるの」
フィリップは、そのときまで、こうしたことを考えたことは一度もなく、いま改めて、ミス・ウィルキンソンの足首が太くてどんなに不恰好かに気がついた。だが、彼は急いで目をそらした。
「フランスにいくべきよ。どうして、一年間、パリにいかないの? フランス語も勉強できるし、それに――あなたをデニエゼ(世馴れると、童貞を失わせるの両意のあるフランス語)してくれることよ」
「それは、どういうことです?」フィリップはたずねた。
彼女はいたずらっぽく笑った。
「それは、辞書をひいてみることね。イギリスの男は、女のあつかい方を知らないの。照れ屋でね。男が照れるなんて、滑稽なことよ。求愛の仕方ひとつ知らないんですもんね。女に、あなたは魅力的、なんていったりすると、もうバカ面《づら》にみえてくるわ」
フィリップは、自分が間抜けなことをやっている、と感じた。ミス・ウィルキンソンが彼にちがった態度を期待しているのは、明らかだった。ここでやさ男らしい気のきいたことをいいたいとこだったが、それはどうしても出てこなかった。たとえそれに思いついたとしても、笑われるような気がして、どうにもそれが口に出ようとはしなかった。
「ああ、わたしはパリが大好き」ミス・ウィルキンソンはため息をもらした。「だけど、ベルリンにいかなければならなくなったの。フォアイヨ家には、お嬢さんたちがお嫁にいくまで、いたんだけど、それからは用なしの身、そのときに、いまのベルリンの職の話が出てきたの。先方はフォアイヨ奥さまの親類の方、だかちそれをお受けしたのよ。わたしが住んでたのは、ブレダ通りの五階(フランス語)の小さなアパート。そこは、あんまりお体裁《ていさい》のいいとこじゃなかったわ。ブレダ通りのことは知ってることね――例の女たち(フランス語)よ」
フィリップは、それがなんのことかぜんぜんわからなかったが、ぼんやりながらも見当をつけ、彼女に余り坊やと考えられてはと思って、うなずいてみせた。
「でも、わたし、平気だったわ。自由の身なんですものね?(フランス語)」フランス語を彼女はよく口にしたが、じっさい、それは達者なものだった。「そこで、一度、おもしろい冒険をしたのよ」
彼女は話をここでちょっと切り、フィリップは、それをつづけてくれ、とせがんだ。
「ハイデルベルクでのあなたの冒険談、してくれないんですもんね」彼女はいった。
「それは冒険談ともいえないもんなんですからね」彼は応じた。
「わたしたちがいっしょになって話してること、ケアリー夫人に知られたら、なんといわれるかしら?」
「まさか、ぼくが話すなんて思ってはいないんでしょうね?」
「約束すること?」
その約束をすると、上の部屋にいた絵の学生が――と彼女は話しだしたが、そこで話の腰を折ってしまった。
「あんたはどうして絵の勉強をしないの? 絵がとても上手じゃないの」
「それほどの腕はありませんよ」
「それは、他人が判断することよ。わたしにはちゃんとわかるの(フランス語)、あんたには大芸術家の素質十分と思うわ」
「絵の勉強をしにパリにいきたい、といきなりいいだしたら、伯父さんがどんな顔をするもんか、わからないんですか?」
「もう自由に行動できる大人でしょ、どう?」
「ぼくをごまかそうとしてるんですね。さあ、さっきの話をつづけてください」
ミス・ウィルキンソンは、ちょっと笑って、話を進めた。その絵の学生は階段でよくすれちがったが、彼女のほうでは、べつにどうというわけではなかった。美しい目をしてるな、くらいに思っただけで、相手はとても丁寧に帽子をぬいで挨拶していた。だが、ある日、ドアの下に手紙がさし入れられていた。彼からの手紙だった。そこには、もう何ヵ月も、彼女を恋いしたっている、階段で彼女がとおるのを待ち受けていた、といった内容のものだった。ああ、ほんとうにうっとりするような手紙! もちろん、返事は出さなかったが、女の身、やはりワクワクせずにはいられなかった。つぎの日も、また手紙がはいっていた! すばらしい、情熱的な、心を打つ手紙だった。階段で彼と出逢ったとき、ほんとうに目のやり場に困った。毎日手紙は送られ、どうか自分に会ってくれ、と申しこんできた。夕方、九時ごろ(フランス語)やってくる、と彼はいい、彼女としては、どうしたらいいのかわからなくなった。もちろん、そんなことはだめなこと、どんなにベルを鳴らしても、絶対にドアをあけないことにしよう。それから、すっかり神経をとがらせて、ベルが鳴りだすのを待ち構えていると、いきなり、彼は目の前に立っていた。部屋にはいったとき、彼女はドアを閉めるのを忘れていたのだった。
「これは、起るべくして起ったことなのよ」(フランス語)
「それから、どんなことが起きたんです?」フィリップはたずねた。
「それで、話は終り」さざ波のように笑って、彼女は答えた。
フィリップは、ちょっと、だまっていた。心臓は早鐘を打ち、妙な感情が心の中でもみ合っているようだった。彼の、心に浮んだのは、暗い階段と偶然の出逢い、その手紙の大胆不敵さに、彼は驚嘆していた――ああ、自分にはとってもできないことだ――手紙についで、だまったままスーッと部屋にはいってきたのだ。これこそまさにロマンスの精髄《せいずい》、と彼の目には映った。
「その人、どんな人でした?」
「ああ、美男子だったことよ。魅力的な男性(フランス語)」
「まだ交際してるんですか?」
これをたずねながら、フィリップはちょっとイライラした。
「でも、そのあつかいのひどさときたら! 男って、みんな同じもんね。いずれもそろって心なしばかりだわ」
「さあ、それはなんともいえませんね」ちょっとうろたえて、フィリップはいった。
「帰りましょう」ミス・ウィルキンソンはさそった。
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三十三
ミス・ウィルキンソンの話は、フィリップの頭にこびりついてはなれなかった。終りまで話さなかったにせよ、そのいっていることは明らか、彼はちょっとショックを受けた。結婚した女の場合だったら、それは驚くに当らないこと。もうフランスの小説はよく読んでいたので、フランスではそれが当り前のこと、と彼は知っていた。だが、ミス・ウィルキンソンはイギリス人、未婚で、父親は牧師なのだ。この絵の学生が、おそらく、彼女の恋人の最初の男でも最後の男でもなかったのだろうと思うと、彼はハッとあえいだ。ミス・ウィルキンソンをそんなふうに考えたことは、それまで一度もなかった。だれか男で彼女に愛を求めるなんて、考えられぬことだった。その純真さで、本で読んだことを信じこんでいたのと同じように、彼女の話をいささかも疑わず、わが身にそうしたすばらしいことが起きぬのを、プリプリしていた。ハイデルベルクでの冒険を話せと、ミス・ウィルキンソンにせまられ、話すことがなにもないとしたら、それこそ恥さらしなことだった。たしかに話をでっちあげることはできたが、自分が悪にひたっていたと納得させる自信は、とてももてなかった。女は直感力の強いもの、こちらでごまかしをいっているのを、すぐにみぬくだろう。彼女がこっそりと笑っている姿を思うと、彼の顔は真っ赤にほてってきた。
ミス・ウィルキンソンはピアノをひき、とてもけだるい声で歌った。だが、マスネ(フランスの歌劇作曲家)、ベンジャマン・ゴダール、オーギュスタ・オールメス(フランスの女流作曲家)といった彼女の歌は、フィリップには耳新しいもの、ふたりはいっしょになって、何時間も、ピアノのそばですごした。ある日、あなたも歌えるのじゃないかしら、ひとつどうかやってみよう、と彼女はいいだした。あなたの声は感じのいいバリトンだ、レッスンしてあげよう、というわけだった。最初、いつものはにかみ性で、断ったが、相手は有無《うむ》をいわさず、そこで、毎朝、朝食後のしかるべき時刻に、一時間のレッスンを受けることになった。授業にたいする生れつきの才能が彼女にはあり、すぐれた女家庭教師であるのは、たしかだった。方法をもっていて、しっかりしたところもあった。フランス語なまりはもう肌にすっかりしみこんでいたので、それがぬけてはいなかったものの、いざ授業となると、あまったるい彼女の態度は消え、バカげたことは容赦しなかった。声は多少高飛車になり、本能的に不注意をしかりつけ、なまけたりすると、ビシビシやっつけた。自分の任務をちゃんと心得て、音階やそのほかの練習をフィリップにやらせた。
レッスンが終ると、彼女はさらりともとの魅惑的な微笑にもどり、声はやさしく心をとらえるものになっていった。だが、彼女が教師の身分から転身したように、そうたやすくフィリップは生徒の身分をぬけだせず、この印象は、彼女の話が彼にひきおこした感じとは、およそかけはなれたものだった。彼は彼女をもっと細かに観察した。朝より、夕方の彼女のほうが好きだった。朝に、彼女はだいぶしわっぽく、首の肌はちょっと荒れていた。それをかくしてくれたら、と思いはしたものの、気候はとても温か、彼女は深くえぐったブラウスを着ていた。白をとても好んでいたが、朝には、それが似合わなかった。夜の彼女は、ときどき、とても魅力的、夜会服ともいえるガウンを着こみ、首にはざくろ石の鎖をさげ、胸と肘のあたりのレースは、快いものやわらかさを彼女に与え、使っていた香水(ブラックステイブルで使っていたのはオーデコロンだけ、それも、日曜日か頭痛のときにかぎられていた)は、なにか心を波立たせ、エキゾティックだった。そのとき、彼女はほんとうに若々しかった。
彼女の齢について、彼は臆測をたくましくしていた。二十と十七を加えてはみたものの、どうも納得がいかなかった。何回となく、どうしてミス・ウィルキンソンを三十七と考えるのだ? と伯母のルイーザにたずねてみた。三十以上にはとてもみえない、外国人はイギリスの女性より早くふけこむ、ミス・ウィルキンソンの外国生活はとてもながく、外国人といってもいいくらいだ、が彼のいい分だった。彼のみるところ、彼女が二十六以上とはどうしても思えなかった。
「あの女《ひと》はそれ以上よ」伯母のルイーザはいった。
フィリップは、ケアリー夫妻の正確さをそれほど信用していなかった。ふたりがはっきり憶えていることといえば、リンカンシャーで最後に会ったとき、彼女が髪を結いあげてはいなかった、ということだけだった。そうなると、その当時、十二だったかもしれない。それはずっと前のこと、牧師の話はいつも当てにはならない。それが二十年前といっているが、世間の人は大まかな数字を使うもの、十八年か、ひょいとしたら十七年かもしれない。十七に十二を加えたら、二十九にすぎない。そうなったら、まったく、齢をとってるなんぞとはいえないのだ。そうじゃないだろうか? アントニーがクレオパトラのために世界をすてたとき、クレオパトラは四十八にもなっていたのだ。
気分のいい夏だった。毎日暑く、雲ひとつなかった。だが、海辺近くだけに、暑気はやわらげられ、大気には快いうきうきした気分がみなぎり、八月の陽光で、人は興奮はしたにせよ、ムッと圧しつけられる気分を味わっていなかった。庭に池があり、噴水がきらめいていた。睡蓮がそこにあり、金魚が水面《みずも》近くで陽の光を浴びていた。フィリップとミス・ウィルキンソンは、昼食後、そこに敷き物とクッションをもちだし、薔薇の高い生垣の蔭の芝生に横になり、午後じゅうずっと語り合い、本を読んだ。タバコをすっていたが、これは、牧師が家の中では禁止のものだった。牧師は喫煙をいまわしい習慣と考え、習慣の奴隷になるのは恥ずべきこと、とよくいっていたが、自分が午後のお茶の奴隷になっているのは忘れていた。
ある日、ミス・ウィルキンソンはフィリップに『ボヘミアンの生活』(フランスの作家アンリ・ミュルジェイの小説)を手わたした。これは、牧師の書斎で本をかきまわしているとき、彼女が偶然みつけたものだった。これは、ケアリー氏がほしがっていた本といっしょに束にして買いとられたもので、十年間埋れたままになっていた。
フィリップは、ミュルジェイの魅力的で、つたない、とてつもない傑作を読みだし、すぐにそれに魅了されてしまった。じつに上機嫌な飢餓状態、絵のように美しいむさくるしさ、すごくロマンティックなよごれた恋、とても感動的な漸降法(しだいに高まった崇高・荘厳な調子から急に滑稽に転落する表現法)のあの絵図に接して、魂はよろこびでおどりあがった。ロードールフとミニ、ミュゼットとショナール! 彼らはラテン地区の灰色の街路をさまよい歩き、あちらこちらの屋根裏部屋に避難所をみつけ、服装はルイ・フィリップ朝ふうの奇妙なもの、涙を流し、ほほ笑み、出たとこ勝負で気楽にやっている。だれがその魅力に抵抗できよう? 彼らの快楽がどんなにみだら、彼らの心がどんなに野卑かがわかるのは、もっとしっかりした判断力をもってこの本にもどっていったときのこと、そのときになってはじめて、あの陽気な行列が、芸術家、また人間として、どんなに価値がないものかがわかるのだ。フィリップは、もううっとりしてしまった。
「ロンドンじゃなくて、パリにいけたらと思わないこと?」彼の熱っぽさにほほ笑みかけて、ミス・ウィルキンソンはたずねた。
「いきたくっても、もうおそいですよ」彼は答えた。
ドイツから帰ってこの二週間のあいだ、彼の将来に関して、彼自身と伯父のあいだでいろいろと論議がかわされた。彼はオクスフォードにいくのを断固として拒否、奨学資金を得るみこみはもうなかったので、ケアリー氏でさえも、そうする余裕がないのを認めずにはいられなくなった。フィリップの全財産は二千ポンドにすぎず、五分の利まわりで抵当には入れてあるものの、その利息で暮しを立てるわけにはいかなかった。いま、その元金さえ、多少減っていた。オクスフォードの三年間の生活のために、年二百ポンドという最小限の学資を出すのは、バカげたことだった。大学を出たからといって、生活の資をかせぐのには直結しなかったからである。彼としては、すぐにロンドンにいきたかった。ケアリー夫人は、紳士には四つの職業、陸軍、海軍、法律、聖職があると考え、義理の兄弟が医者だったので、医業をそれに加えていたが、自分の若いころに、医者は紳士と考えられていなかったことを忘れてはいなかった。最初のふたつは論外、聖職はフィリップが断固として拒否した。こうなると、のこるのは法律だけ。町の医者は、多くの紳士がいまは技術屋になるのだが、といっていたが、それは、ケアリー夫人の即座の反対を受けた。
「フィリップが商人になるなんて、いやですわ」彼女はいった。
「そう、知的職業につかねばならん」牧師は答えた。
「父親と同じように、医者にしたらどうなの?」
「それはたまらないなあ」フィリップはいった。
ケアリー夫人は、まだあきらめてはいなかった。フィリップがオクスフォードにいかないので、法曹界は問題にならなかった。この職業で成功するには学位が必要、とケアリー夫妻がまだ思いこんでいたためだった。最後に、事務弁護士(法廷弁護士と訴訟依頼人の仲に立って、訴訟事務をとりあつかう下級の弁護士)の年季契約の見習いになったら、ということになった。そこで、家の顧問弁護士のアルバート・ニクソンのところに手紙が出されたが、この男は、故ヘンリー・ケアリーの財産処理に当って、ブラックステイブルの牧師といっしょに、遺言共同執行者になった人物だった。この手紙は、フィリップを引き受けてはくれまいか? というものだった。一日か二日して返事がきたが、そこには、空席はない、その計画すべてに反対する。この職業はもう人間|過剰《かじょう》、資本かコネがなければ、事務書記以上になれるみとおしはまずない、それより公認会計士になったらどうか、と書いてあった。牧師も妻も、この商売がどんなものか、ぜんぜん見当もつかず、フィリップも、公認会計士になった人間など聞いたこともなかった。だが、その弁護士からべつの手紙が来て、近代商業の成長と会社の数の増大のために、多くの会計士商社が設立されるようになった、これは、帳簿を検査し、依頼人の経済状態を旧式の方法にはなかったふうにきちんと整頓するものだ、と説明してあった。数年前、設立許可が与えられるようになり、毎年、この職業は気品、利益、重要性を増大している。アルバート・ニクソンが、ここ三十年間、やとってきた公認会計士のところで、たまたま、年季見習いの空席ができ、三百ポンド払えばフィリップをとってくれる。だが、年季契約の五年間のうちに、俸給の形で、その半分は返済される、ということだった。みとおしはそうパッとしたものでもなかったが、なにかをきめなければ、とフィリップは感じ、ロンドンに住めると思えば、ちょっとしたひるみも物の数ではなかった。ブラックステイブルの牧師はニクソン氏に手紙を出し、その職業が紳士にふさわしいものかどうかをたずねた。ニクソン氏の返事には、設立許可がおりて以来、パブリック・スクールと大学を出た連中がこの職業に参加しはじめている、その上、もしそれがフィリップの気に入らず、一年後にやめたくなったら、会計士のハーバート・カーターは年季契約金の半額をかえしてくれる、と書いてあった。これで話はきまり、フィリップは九月十五日に仕事にとりかかることになった。
「まだたっぷりひと月はありますよ」フィリップはいった。
「そのとき、そちらは自由の身、わたしは奴隷の身になるのよ」ミス・ウィルキンソンは応じた。
彼女の休日は六週間、ブラックステイブルを去るのは、フィリップよりほんの一日か二日前のことだった。
「わたしたち、また会うことがあるかしら?」彼女はいった。
「会えないわけは、ないじゃないですか」
「まあ、そんな現実的な話はいけないことよ。あんたのようにズバズバものをいう人って、会ったことがないわ」
フィリップは赤くなった。ミス・ウィルキンソンに弱虫と思われるのは、いやだった。なんといっても、彼女はときにとても美しくみえる若い女性、自分はもう二十歳になろうとしてるのだ。芸術と文学の話だけしてるなんて、バカげたこと。自分のほうから求愛しなければならない。ふたりは、恋愛談を大いに戦わしてきた。ブレダ通りの絵の学生がいた。それから、パリでその一家とながいこと同居していた画家がいた。この男は、彼女にモデルになってくれ、とたのみ、すごい勢いでいい寄ってきたので、口実をつくってモデルを断らなければならなくなったのだ。ミス・ウィルキンソンがそうした求愛に海千山千なのは、たしかなことだった。大きな麦藁帽《むぎわらぼう》をかぶって、彼女は、いま、とてもきれいだった。その日の午後は暑気が強く、この夏いちばんのもの、彼女の上唇には一列の玉の汗が浮んでいた。ツェツィーリエと孫《スン》のことが思い出された。情事面でのツェツィーリエを考えたこともなかった。ひどい醜女《しこめ》だったからである。だが、思い出になると、あの情事はロマンティックなものに映ってきた。自分にもロマンスのチャンスがないわけではない。ミス・ウィルキンソンはフランス人ともいっていい女、そうしてみると、ひょいとしたらの情事に、興趣がそそられてくるわけ。夜床の中でそれを考え、また、庭で本を読みながら坐っているとき、そうした思いで彼はゾクリとしていた。だが、現実のミス・ウィルキンソンを目のあたりにすると、絵のような美しさは、だいぶ、しぼんでいった。
とにかく、ああした情事を自分で話していたのだ、自分が求愛しても、びっくりなんてしないだろう。自分がなんの兆候も示さなかったら、彼女に変に思われるだろう、と彼は感じた。これはただ空想にすぎないのかもしれないのだが、この一、二日のうちに一度か二度、彼女の目にちょっと軽蔑の色をみたような気がしてならなかった。
「なにをぼんやりと考えてるの?」ニッコリして彼をながめながら、彼女はいった。
「それを話すつもりはありませんよ」彼は答えた。
いま即座に彼女にキスをしなければ、と彼は考えていたのだった。相手がそれを待ってるんじゃないかな、と思われた。だが、お膳《ぜん》立てが必要だった。自分を気ちがいと思うか、顔を一発張られるかもしれない。そして、たぶん、伯父にいいつけるだろう。孫はツェツィーリエにどう切りだしたのだろう? と考えた。伯父にいいつけられたら、まったくまずいことになる。彼には伯父の人柄がわかっていた。医者とジョサイア・グレイヴズに話が伝わり、自分はとんとバカ者に映ることだろう。伯母のルイーザは、ミス・ウィルキンソンが絶対に三十七、といいつづけていた。こうして自分がさらし者になる嘲笑を思うと、身がふるえてきた。相手は母親くらいの女、と世間ではいうことだろう。
「なにをぼんやりと考えてるの?」ミス・ウィルキンソンはニッコリした。
「きみのことを考えてたんです」大胆に彼は答えた。
こういったって、とにかく、言質をとられる心配はなかった。
「どう考えてたの?」
「ああ、あんたはうるさい人ですね」
「わからずやの坊やだこと!」ミス・ウィルキンソンはいった。
ほら、またはじまった! なんとかうまく気分をふるい立たせていくと、彼女はきまって女家庭教師を思い出させることをいうのだ。レッスンの歌でこちらが思ったとおりにやらないと、彼女は彼のことをわからずやの坊やといっていた。このとき、彼はムッとした。
「子供あつかいは、ごめんですよ」
「怒ったの?」
「大いにね」
「そんなつもりはなかったのよ」
彼女は手を出し、彼はそれを受けた。最近、一、二度、おやすみの握手をしたとき、彼女は彼の手をちょっと強くにぎりしめているように思われたが、こんどは、もうまちがいなかった。
つぎにどういったらいいか、彼にはよくわからなかった。ここで、とうとう、冒険のチャンス到来というわけ、それをつかまなかったら、バカというもの。だが、これはいささか陳腐《ちんぷ》、期待していたのは、もっと魅力的なことだった。恋愛の描写は何回も読んだことがあったが、小説家が伝えているあの感情のたかまりは、自分にぜんぜん感じられなかった。ヒタヒタとおしよせる情熱の波で足をさらわれることもなく、ミス・ウィルキンソンは理想の女性でもなかった。彼は、よく、美しい娘の|すみれ《ヽヽヽ》色の大きな目、雪花石膏のように真っ白でなめらかな肌をわが恋人として想像し、自分が顔を金褐色の波立つ豊かな髪の中に埋める姿を考えていた。自分がミス・ウィルキンソンの髪の中に顔を埋めるなんて、考えることもできなかった。それはちょっとベタベタしたもののように、思われたからだった。それにしても、情事をもつのはとてもうれしいこと、その征服で味わえる当然のほこらかな気分を思って、彼はゾクゾクした。彼女を誘惑するのは、自分の力なのだ。ミス・ウィルキンソンにキスをしよう、と思い定めたが、それは、いまではなく、夕方にしよう。暗闇でのほうがらくにできるし、それがすめば、のこりはスラスラといくだろう。今晩こそ、彼女にキスをしよう。彼は、それをしようと誓いを立てた。
そこで、計画を練った。夕食後、庭を散歩しよう、とさそいかけた。ミス・ウィルキンソンは承知し、ふたりはならんでブラリブラリと歩いた。フィリップはひどく神経質になっていた。なぜかわからないが、会話はまともなほうに向いていかなかった。まず第一にやるべきことは彼女の腰に腕をまわすこと、ときめはしたものの、彼女が来週おこなわれるボートレースのことを話しているとき、いきなり腰に腕をまわすわけにはいかなかった。うまく彼女を庭でいちばん暗いところにつれこんだが、そこに着くと、勇気がくじけてしまった。ふたりはベンチに坐り、いまこそチャンス到来とほんとうに腹をきめたのだが、ミス・ウィルキンソンが、たしかに|はさみ《ヽヽヽ》虫がいる、そこをはなれましょう、といいだした。ふたりはまた庭を歩き、あのベンチのところにもどっていくまでに、こんどこそはひと思いに、と固い誓いを立てたが、家の前をとおったとき、戸口のとこに立っている伯母のルイーザの姿がみえた。
「あなたたち、家の中にはいったほうがいいのじゃないこと? 夜気に当るとよくないことよ」
「家にもどったほうがいいでしょう」フィリップはいった。「風邪をひかれると困りますからね」
ホッと安堵《あんど》の吐息《といき》をもらしながら、彼はこれをいった。その夜、これ以上のことはやってみる気がしなかった。だが、そのあとで、自分の部屋でひとりになったとき、自分が腹立たしくてたまらなくなった。まったくバカだ。ミス・ウィルキンソンがキスを期待しているのはまちがいないことだ、そうでなかったら、庭に出てきたりはしなかったろう。女のあつかいを知ってるのはフランス男だけ、とつねづね彼女はいってるのだ。フィリップは、フランスの小説を読んでいた。自分がフランス人だったら、彼女を腕に抱きしめて、彼女を熱愛してる、と情熱的にいい寄り、唇を彼女の襟首(フランス語)におしつけたことだったろう。どうしてフランス人が女の襟首にキスをするのか、彼にはよくわからなかった。襟首にさして魅力的なものがあるとは思えなかったからだった。フランス人がこうしたことをもっとらくにできるのは、たしかだった。フランス語がそれに大いに役立つからだ。英語で情熱的なことを語ろうなんて、ちょっとバカげたこと、とフィリップは思わずにいられなかった。彼はいま、ミス・ウィルキンソンの征服なんか考えなければよかった、と後悔していた。最初の二週間はとても楽しく、いまは、ひどくみじめな状態にあったためだった。だが、ここでくじけてなるものか、と思いつめていた。くじけたら、自尊心は一挙につぶれてしまうだろう。そこで、つぎの晩にはきっと、と臍《ほぞ》の緒《お》を固めた。
翌日、起きると、雨が降っていた。なにより先に頭に浮んだのは、その晩庭には出られないということだった。朝食のとき、彼は上機嫌だった。ミス・ウィルキンソンは、メアリーを通じて、頭が痛いので寝ていたい、と伝えてきて、お茶のときまで下におりてこず、そのときになってはじめて、よく似合う部屋着姿で、青い顔をして、姿をあらわした。だが、夕食までにすっかり元気になり、食事はとてもにぎやかだった。お祈りのあとで、彼女はすぐにやすむといい、ケアリー夫人にキスをした。それから、彼女は彼のほうに向いた。
「まあ、驚いた!」彼女は叫んだ。「あんたにもキスをしようとしてたのよ」
「それをして、どうしていけないんです?」彼はいった。
彼女は笑い、手をさしだした。彼の手を強くにぎりしめたのは、たしかなことだった。
つぎの日、空には雲ひとつなく、雨のあとで、庭は美しく、みずみずしかった。フィリップは海岸で海水浴をし、家にもどると、すばらしい昼食をとった。午後には牧師館でテニスの会があり、ミス・ウィルキンソンは晴れ着姿で出てきた。彼女はたしかに服の着方を心得、副牧師の奥さんと嫁にいった医者の娘とみくらべたとき、彼女がどんなにあでやかにみえるか、フィリップは気づかずにはいられなかった。腰のバンドのところには二本の薔薇がつけられていた。芝生のわきの庭椅子に坐り、赤いパラソルをさしていたが、それをとおしてくる光は、彼女の顔にとてもピタリのものだった。フィリップはテニスが好きだった。サーヴがうまく、走るのは不得意だったので、ネット近くでそれをしていた。|えび《ヽヽ》足にもかかわらず、動きは敏速、ボールをパスさせることは、まずなかった。自分のセットはぜんぶ勝ちぬいたので、彼はご機嫌だった。お茶のとき、カッカとなり、あえぎながら、彼はミス・ウィルキンソンの足もとのところに横になった。
「スポーツ服がよく似合うことね」彼女はいった。「きょうの午後は、とてもすばらしいわ」
彼はよろこびで顔を赤くした。
「おほめいただきましたがね、正直なとこ、そのおかえしはできますよ。そちらの姿はまったく魅惑的なんですからね」
彼女はニッコリし、黒いひとみで、彼をジッとながいことみつめていた。
夕食後、彼女が散歩に出るように、と彼は強くいい張った。
「きょうは、もう十分運動をしたでしょう?」
「夜庭に出ると、気分がいいですよ。星はみんな出てますからね」
彼は上機嫌だった。
「いいこと、あんたのことでケアリー夫人におこごとを頂戴《ちょうだい》したのよ」野菜畠のところをブラブラしながら、ミス・ウィルキンソンはいった。「あんたとじゃれついちゃいけないんですって」
「ぼくとじゃれついてたですって? そんなこと、気がつきませんでしたね」
「伯母さまは、ただ冗談でいってただけのことよ」
「きのうの晩、ぼくにキスしてくれないなんて、とてもひどいことだ」
「ああいったときの伯父さまの顔ったら、あんたにみせたかったことよ!」
「それだけで、ぼくにキスをしなかったんですか?」
「キスでみてる人がいるなんて、あまりゾッとしないことだわ」
「いまは、みてる人はいませんよ」
フィリップは彼女の腰に腕をまわし、唇にキスをした。彼女はちょっと笑っただけ、抵抗しようとはしなかった。ことのなりゆきは、まったく自然だった。フィリップは、自分がするといってそれを実行したというわけで、鬼の首でもとったように得意になっていた。じつにらくなこと、こんなことなら前にもう片づけてしまえばよかったのだ、と考えていた。彼は、もう一度キスをした。
「まあ、だめよ」彼女はいった。
「どうして?」
「それが好きだから」彼女はカラカラッと笑った。
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三十四
翌日、昼食後、ふたりは敷き物、クッション、それに本を泉水のところにもちだしたが、本は読まなかった。ミス・ウィルキンソンはからだをらくにのばし、赤い陽よけをさした。フィリップの差恥心はもうとれていたが、最初、彼女はキスを許そうとしなかった。
「きのうの晩、わたし、とてもいけないことをしたことね」彼女はいった。「眠れなかったわ、とてもいけないことをしたと思ったので……」
「バカな!」彼は叫んだ。「まちがいなし、ぐっすり眠りこんだんでしょう」
「伯父さまに知られたら、なんといわれると思うこと?」
「知られる筋は、あるもんですか」
彼女の上にかがみこんだが、心臓はドキドキしていた。
「どうしてわたしにキスしたがるの?」
「きみを愛してるから」とここでいわねばならぬことは、わかってはいたものの、どうしてもそれをいう気にはなれなかった。
「どうしてだと思います?」返事がわりに、彼は反問した。
ニッコリと目をほころばせて、彼女は彼をながめ、指先で彼の顔にさわった。
「顔にはほんとに髯がないことね」彼女はつぶやいた。
「すごく髯剃りをしてるんですよ」彼は応した。
びっくりしたことに、ロマンティックなせりふを口にするのは、じつに困難なことだった。だまっているほうが、口をきくより、ズッと効果的なことがわかった。表現できないもののふうをすることができたからだった。ミス・ウィルキンソンはため息をもらした。
「わたしを好きなの?」
「ええ、とてもね」
またキスをしょうとすると、こんど彼女はさからわなかった。彼としては、じっさいよりはるかに情熱的になったふりをし、彼自身のみるところ、その役割をみごとに果した。
「あんたってとてもこわい人、と思いはじめてるの」ミス・ウィルキンソンはいった。
「夕食後、外に出てきてくれますね、どうです?」彼はたのみこんだ。
「お行儀をよくすると約束しなけりゃ、だめよ」
「約束なら、どんなことでもしますよ」
一部ただのみせかけにすぎなかった炎から、ほんとうに火がつきだし、お茶のときに、彼は陽気になってさわぎ立てた。ミス・ウィルキンソンは、そうした彼をハラハラしてながめていた。
「あんなに目を輝かしたりしてはいけないわ」あとで彼女は彼に注意した。「ルイーザ伯母さまにどう思われることかしら?」
「伯母さんがどう考えようと、構うもんですか」
ミス・ウィルキンソンはうれしそうにちょっと笑った。夕食を終えるとすぐ、彼は彼女にいった、
「タバコをすってるあいだ、話し相手になってくれますか?」
「どうして休ませてあげないの?」ケアリー夫人はいった。「お前ほど若くはないのを、忘れてはいけませんよ」
「ああ、わたしも外に出たいのですよ、ケアリーの奥さん」そうとう激しい調子で彼女はいった。
「昼食後には一マイルの散歩、夕食後にはしばらくの休息といいますからな」牧師はいった。
「あんたの伯母さま、とても親切なんだけど、ときどき神経にさわることね」わきの出入り口を閉めて外に出ると、ミス・ウィルキンソンはいった。
フィリップはたったいまつけたばかりのタバコを投げすて、両腕で彼女を抱きしめた。彼女は彼をおしのけようとした。
「お行儀はよくする、と約束したじゃないの、フィリップ」
「そんな約束なんて守りはしない、と思ってたんでしょう?」
「家のこんなに近くじゃだめよ、フィリップ」彼女はいった。「だれかがいきなり出てきたら、どうするの?」
彼は彼女を野菜畑につれだしたが、そこにだれかがやってくる心配はなく、このときは、はさみ虫のことを彼女はいいださなかった。彼は情熱的に彼女にキスをした。朝には彼女にぜんぜん好感がもてず、午後にはまあまあといったとこ、だが、夜になると、彼女の手のひとふれでゾクリとした快感が湧いてくるのは、なんともふしぎなことだった。自分にはとてもいえないと思っていたことが、スラスラと彼の口から出てきた。そうしたことは、真っ昼間には絶対にいえないこと、驚嘆と満悦感をおぼえながら、彼はわれとわが言葉にジッと聞き入っていた。
「あんたの求愛の言葉、ほんとに美しいことね」彼女はいった。
たしかに、彼もそう感じていた。
「ああ、心を焼きただらせてるすべてのことを口にあらわせたらいいんですがね!」彼は情熱的につぶやいた。
すばらしいことだった。いままで味わったこともないスリル満点のことだった。ここですごい点は、彼がしゃべっていることすべてが実感ともいえることだった。それは、ただちょっと大げさにいったまでのことだった。はっきりとわかる彼女への効果、これはすごく興味をひき、彼の興奮をかき立てた。最後に彼女は、家にもどりましょう、といったが、むりをしてそれをいっているのは明らかだった。
「ああ、まだ、まだ!」彼は叫んだ。
「もどらなければいけないわ」彼女はつぶやいた。「もうこわくなってきたの」
いきなり直観的に、彼はそうしなければと感じた。
「ぼくは、まだもどれませんよ。ここにいて、考えたいんです。頬がカッカとして、夜気に当らなければならないんです。おやすみ」
彼は大まじめに手をさしだし、彼女はだまってその手をにぎった。どうやら、すすり泣きをおさえているようだった。ああ、すばらしいことだ! 暗い庭にひとりのこされて、彼はだいぶうんざりしてきたが、しかるべき間をおいて家にはいっていくと、ミス・ウィルキンソンはもう床にはいってしまっていた。
その後、ふたりの間柄は、ちがったものになってきた。つぎの日とそのつぎの日、フィリップの姿勢は、熱烈な恋人のそれだった。ミス・ウィルキンソンが自分を恋しているとわかって、彼はすごく悦に入っていた。彼女はそれを英語、フランス語の両方で伝えた。彼女はいろいろとお世辞をいった。彼の目が魅惑的、口つきが官能的といわれたのも、はじめてのことだった。このときまで、自分の外見のことにそう気を使ってはいなかったが、いま、なにかきっかけがあるごとに、彼は鏡に映る自分の姿をながめて、いい気分になっていた。彼女にキスすると、彼女の魂をゾクリとさせているらしい情熱の感触は、なんともいえなかった。何回となく、彼女にキスをした。彼女が自分に期待していると直観的に感じとったことを口にするより、キスをしたほうがらくだったからだった。彼女を崇拝してるというなんて、バカバカしいこと、と彼はまだ感じていた。ちょっと自慢話のできるだれか相手がほしかった。そうすれば、自分の行動の微に入り細をうがった点まで大よろこびで話せるのだが……。ときどき彼女はなにか謎《なぞ》めいたことをいい、彼はとまどった。ヘイウォードがここにいれば、彼女のいっていることの説明を求め、つぎにどうしたらいいかをたずねることもできるのだが、と考えていた。ことをグイグイとおし進めるべきか、さもなければ、ゆっくりとやっていくべきか、自分の一存だけではどうにもきめられなかった。先には三週間しかないのだ。
「それを思うと、たまらなくなるの」彼女はいった。「心が張りさけそうよ。お別れしたら、もう二度と会うことはないでしょうからね」
「少しでもぼくを愛してたら、そんな冷たい態度はとらないでしょうがね」彼はささやいた。
「まあ、いまのまんまでいて、どうして満足できないの? 男って、いつも同じもんなのね。満足は絶対にしないんですもん」
そして、強くせまられると、彼女はいった、
「でも、わからないの、それはできないことよ。ここで、そんなこと、できるもんですか」
ありとあらゆる計画を、彼のほうでいいだしてみたが、彼女はとり合おうとはしなかった。
「そんな危険なこと、できやしないわ。伯母さまにみつかったら、大変なことになることよ」
一、二日してから、すばらしいと思われる計画が彼の頭に思い浮んだ。
「いいですか、そちらが、日曜日の夕方に、頭が痛くなり、家にひきこもって留守番をするといいだしたら、ルイーザ伯母さんは教会に出かけることになるでしょう」
ケアリー夫人は、ふだん、日曜日の夕方には、家にのこっていたが、これは、メアリー・アンを教会にゆかせるためだった。だが、晩祷《ばんとう》式に出られることになれば、伯母は大よろこびで出席するだろう。
ドイツで起ったキリスト教についての見解の変化を伯父夫妻に伝える必要はないものと、フィリップは考えていた。それに理解を示すはずはなし、静かに教会にいっているほうが、面倒でなかった。だが、彼が教会にいったのは、朝だけだった。彼は、これを社会の偏見にたいするゆかしい譲歩、日に二度も教会にゆくのを拒否するのを自由思想の適切な主張、と考えていた。
この案を申しでると、ミス・ウィルキンソンは、一瞬、おしだまり、それから頭をふった。
「いいえ、だめよ」彼女はいった。
だが、日曜日のお茶のときに、彼女はフィリップをびっくりさせた。
「夕方、教会にゆけそうもないわ」彼女はいきなりいいだした。「ひどく頭が痛いんですもの」
ケアリー夫人はひどく心配し、自分が常用している点滴薬を服用するようにすすめた。ミス・ウィルキンソンは礼を述べ、お茶がすむとすぐ、自分の部屋でやすむことにする、といった。
「大丈夫、なにか用はないこと?」気づかわしそうに、ケアリー夫人はたずねた。
「いいえ、べつに。ありがとうございます」
「というのも、用がなかったら、わたし、教会にゆこうと思っているの。夕方にいけるなんて、めったにないことですものね」
「ええ、どうぞ、おいでになったらいいわ」
「ぼくは家にいます」フィリップはいった。「ミス・ウィルキンソンになにか用事が起きたら、いつでもぼくを呼べばいいでしょう」
「応接間のドアはあけておいたほうがいいことよ、フィリップ。ミス・ウィルキンソンがベルを鳴らしたら、すぐ聞えますからね」
「ええ、もちろん」フィリップは答えた。
こうして、六時以後、フィリップは、ミス・ウィルキンソンとふたりだけで、家にいることになった。不安で胸がムカムカしてきた。こんな計画なんかいいださなければよかった、と心の底からくやんだものの、もう時すでにおそしだった。自分でつくりだした機会を利用して、それを実行にうつさなければならなかった。それをしなかったら、ミス・ウィルキンソンにどう思われるだろう! 玄関の間にはいって、耳を澄ませた。コトリとも音がしなかった。ミス・ウィルキンソンが、じっさい、頭痛に苦しんでいるのかな? と考えた。たぶん、自分のいいだしたことは忘れてしまったのだろう。心臓がドキドキと打ち、胸苦しくなった。できるだけソーッと階段をあがり、階段がキーッと鳴ると、ギクリとして足をとめた。ミス・ウィルキンソンの部屋の外に立ち、耳を澄ませ、ドアのハンドルをつかんだ。ジッと待っていたが、少なくとも五分は待った感じがし、そのあいだに、彼は腹をきめようと努力していた。手はふるえだした。とんで逃げていきたいところだったが、かならず起るとわかっている後悔の情がこわかった。プールのとびこみ台の最高段に立っているみたいだった。下からみればなんでもないようにみえながら、いざそこにあがっていって水をみおろすと、すくんでしまうのと同じ、思い切ってとびこむのは、ただ、のぼっていった階段をふがいなくもまたおりていくという屈辱感のためだけだった。フィリップは勇気をふるいおこし、ソッとハンドルをまわし、部屋にはいっていった。からだが、木の葉のそよぎのように、ふるえているようだった。
ミス・ウィルキンソンは、ドアに背を向けて、化粧台に向って立ち、ドアがあくのを耳にすると、サッとふりかえった。
「まあ、あんたなの? なんの用事?」
スカートとブラウスをもうぬぎ、下スカート姿で立っていたが、それは短く、編みあげ靴の上のところにしかとどかず、その上半分は、なにか黒いテラテラしたきれづくりのもので、赤いすそひだ飾りがついていた。袖《そで》の短い白いキャラコの化粧着をつけて、いかにもグロテスクな姿だった。この姿をジッとながめたとき、フィリップはがっくりしてしまった。こうまで魅力のない彼女の姿はみたこともなかったが、もう時すでにおそしだった。彼はドアを閉め、錠をおろした。
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三十五
翌朝、フィリップは早く目をさました。よく眠れない一夜だったが、脚をのばし、板すだれ越しに陽の光がさしこみ、それが床に模様を描きだしているのをながめると、満足感のため息がこみあげてきた。わが身がうれしく、ついで、ミス・ウィルキンソンのことを思い浮べた。彼女は、自分をエミリーと呼んでくれ、といっていたが、どうしたわけか、それを口にはできなかった。彼女のことを、いつも、ミス・ウィルキンソンとしてしか考えていなかったからだった。そう呼ぶと文句をいわれたので、彼女の名前を一切使わないことにした。子供時代、海軍将校の未亡人となっていたルイーザ伯母さんの姉妹がエミリー伯母さんと呼ばれているのを、彼はよく耳にしていた。このために、ミス・ウィルキンソンをその名で呼ぶのはなにか不愉快、さりとて、もっといい名を考えることもできなかった。ミス・ウィルキンソンで彼女ははじまり、それは彼女の印象と不可分のものになっていた。彼はちょっと渋面をつくった。とにかく、いま、彼女の最悪の姿を思い浮べたからである。彼女が向きなおり、化粧着と短い下スカートをつけた姿をながめたときのとまどいは、どうしても頭からぬけようとせず、彼女のちょっと荒れた肌、首すじにくっきり彫りこまれたながいしわの線が思い出されてならなかった。勝ちほこった気分は、ながつづきしなかった。また彼女の齢を勘定してみたが、四十以下とはどうしても思えなかった。それだけでも、この情事は滑稽なものになった。彼女は醜女《しこめ》、いい齢の女なのだ。彼はサッと空想をめぐらし、しわだらけで、やつれ、化粧をベタベタぬり立て、家庭教師には不向きなくらいはで、齢に似合わぬ若づくりにすぎるあのドレス姿の彼女を思い浮べると、ブルッとした。もう二度と彼女には会いたくない、といきなり思った。あんな女とキスするなんて、もうたまらないことだった。われとわが身が空おそろしくなってきた。あれは恋愛だったのだろうか?
朝の服の着つけをできるだけながくのばしていたが、これは、彼女と会う時間を先にのばすためで、ひどく沈んだ気分になって、とうとう食堂にはいっていった。お祈りはもうすみ、朝食がはじまっていた。
「寝坊助《ねぼすけ》だこと」ミス・ウィルキンソンは陽気に叫んだ。
彼は、彼女をながめて、ホッと安堵《あんど》の吐息《といき》をもらした。彼女は、窓に背を向けて坐っていたが、とてもきれいだった。この彼女のことをどうしてあんなふうに考えてたのだろう? とふしぎでならなかった。自己満足がまたもどってきた。
彼女の変貌ぶりは、ハッと息をのむほどだった。朝食が終るとすぐ、たかぶった声で、彼女はあなたを愛している、といった。そして、その後間もなく、歌のレッスンでふたりが応接間にゆき、彼女がピアノ用の椅子に腰をおろすと、音階の練習の途中で彼女は顔をあげていった、
「わたしにキスして」(フランス語)
彼がかがみこむと、彼女は首に両腕をまきつけたが、これは、ちょっと不愉快なことだった。彼女におさえつけられて、息がだいぶ苦しくなったからである。
「ああ、大好き、大好き、大好きよ」(フランス語)ひどく強いフランス語調で、彼女は叫んだ。
フィリップは、彼女に英語で話してもらいたかった。
「ねえ、植木屋がいつ窓のとこをとおるかわからないのを、ひとつ忘れずにいてもらいたいもんですな」
「ああ、植木屋なんて構わないことよ、構いはしないわ、ぜんぜん構わないことよ」(フランス語)
これはいかにもフランスの小説ふう、とフィリップは考え、どうしてそれでちょっとイライラしてくるのか、見当がつかなかった。
とうとう、彼はいった、
「うん、海岸にいって、ひと浴びしようかと思ってるんです」
「まあ、今朝――とりわけ今朝、わたしを放りだしになんぞしないんでしょうね」
どうして放りだしにしていけないのか、フィリップにはよくわからなかったが、そんなことは問題じゃなかった。
「ぼくがそこにいたほうが、いいんですか?」彼はニヤリとした。
「ああ、かわいい人! でも、いいわ、いってらっしゃい。からだをすっぽり大海にひたして、塩の波をものともしないでいる姿を、わたし、想像してみたいの」
帽子を手にして、彼はブラブラと出かけていった。
「女って、なんてつまらんことをいうもんだろう?」彼は考えていた。
だが、彼はうれしく、幸福、いい気分になっていた。自分にぞっこんなのは、たしかなことだった。ブラックステイブルの大通りをびっこをひきながら歩いていったとき、とおりすがりの人たちを、彼はちょっと横柄な気分になってながめた。うなずきの挨拶をしなければならないたくさんの人がいたが、こうして挨拶がわりにニッコリと微笑を投げたとき、もし彼らがあのことを知ってたら! という考えが頭を走った。とにかく、だれかにとっても知ってもらいたかった。ヘイウォードに手紙を出そうと考え、心の中でその手紙を書いてみた。庭と薔薇、その中に香ばしく咲きでた異国ふうの片意地な花にも似た小柄なフランス人の女家庭教師のことを語ることにしよう。彼女をフランス人に仕立ててしまおう。というのも――そう、フランス滞在はながく、フランス人といってもいいくらいなんだ。その上、ありていのことすべてをあるがまんまにさらけだすなんて、身も蓋《ふた》もないことになるだろう。最初の出逢いで美しいモスリンの服を彼女が着ていたこと、彼女が花をくれたことを書くことにしよう。彼はそれを繊細《せんさい》な牧歌につくりかえ、陽光と海はそれに情熱と魔力を、星は詩をそえ、古い牧師館の庭は、すばらしくふさわしい道具立てを与えることになった。そこにはなにかメレディス的なものがあり、相手の女性が、ルーシー・フェヴェレル(メレディスの小説『リチャード・フェヴェレルの試練』の女主人公)や、クレアラ・ミドルトン(同『エゴイスト』に出る才色兼備の女性)にそっくりとまではいえないにしても、得もいえぬほど魅力的になるのはたしかだった。フィリップの心臓は早鐘のように打っていた。この空想ですっかり楽しくなり、水をしたたらし、からだがすっかり冷たくなって、海水浴更衣車にはいもどるとすぐ、またそのことを思いめぐらした。まず、愛情の対象になった女性を考えた。鼻はじつにすばらしい小さな鼻、大きな目は褐色――彼女の描写をヘイウォードに伝えることにしよう――フサフサとしたやわらかい褐色の髪は、顔を埋めるのにじつに快く、肌は象牙と陽光のよう、頬は赤い赤い薔薇のようにしよう。齢はどうしたもんだろう? まあ、十八くらいにし、名はミュゼットにすることにしよう。その笑いはさざめく小川、その声は、とてもやわらかくて低く、いままで聞いたこともない甘美な音楽に仕立てよう。
「あんたは|なに《ヽヽ》を考えてるの?」
フィリップは、いきなり、足をとめた。ゆっくりと家のほうに歩きだしていたのだった。
「いままで、四分の一マイルほどのあいだ、ズッと手をふりつづけてたのよ。なんだか|ポーッ《ヽヽヽ》としてるのね」
ミス・ウィルキンソンは、彼の前に立って、彼のギョッとした姿を笑っていた。
「おむかえにいこうと思ったのよ」
「それはどうも」彼はいった。
「びっくりしたこと?」
「ええ、ちょっとね」彼は認めた。
それにしても、ヘイウォードには手紙を出した。八ぺージにわたる長文の手紙だった。
のこりの二週間は、ズンズンとすぎ、夕食後庭に出ると。毎晩、ミス・ウィルキンソンはもう一日たってしまったと嘆いていたが、フィリップは、とても陽気になっていたので、そう考えても、べつに気落ちを感じてはいなかった。ある夜、仕事をベルリンからロンドンに変えることができたら、うれしいのだが、とミス・ウィルキンソンはいった。そうなれば、ふたりはいつも会うことができるわけ。フィリップは、そうなったらとっても楽しいだろう、とはいいはしたものの、そうしたみとおしは、これといった情熱をかき立てるものではなかった。彼はロンドンのすばらしい生活を待ち望み、邪魔をされたくないという気持ちのほうが強かった。自分のしたいと思っていることを、ちょっと野放図にしゃべりすぎ、彼がもうここをはなれたがっているのを、ミス・ウィルキンソンにさとられてしまった。
「わたしを愛してたら、そんな話はしないはずよ」彼女は叫んだ。
彼はギョッとし、口をつぐんだ。
「わたし、ほんとにバカだったわ」彼女はつぶやいた。
驚いたことに、彼女は泣いているのだった。彼はやさしい心の持ち主、だれでもみじめになっているのをみるのは、つらいことだった。
「ああ、ほんとうにすみませんでした。ぼくがなにをしたというんです? どうか泣かないでください」
「ああ、フィリップ、わたしをすてないでちょうだい。あんたがわたしにとってどんなに大切か、あんたにはわかってないのよ。わたしはとてもみじめな日暮しをし、あなたのお蔭でとっても幸福になったんですもの」
彼は、だまったまま、彼女にキスをした。その口調にはほんとうの苦悶がひそみ、彼はおそろしくなった。彼女の言葉がほんとうに真剣になって語られているとは、思いもつかぬことだった。
「ほんとうにすみません。ぼくがきみをどんなに好きか、そちらではわかっているはず。ロンドンに来てもらえたら、と思ってますよ」
「わたしがロンドンにいけないのは、そちらも承知のはずよ。家庭教師の口をみつけるのは、まずみこみのないこと、その上、イギリスの生活って、わたし、大きらいなの」
自分が芝居をやっているとはほとんど気づかず、彼女の苦悶に心を動かされて、彼は彼女をグイッグイッと強く抱きしめた。彼女の涙で、なにか漠然とうれしくなり、腹の底から情熱をこめて、彼女にキスをした。
だが、それから一日か二日して、彼女は大さわぎをひきおこした。牧師館でテニスの会があり、ふたりの少女がやってきたが、これは、最近ブラックステイブルに住みつくことになったインドの連隊の退役少佐の娘たちだった。ふたりともとてもきれいで、一方はフィリップと同じ船、もうひとりは一、二歳若かった。若い男との交際にはすっかり馴れていたので、ふたりは陽気にフィリップをからかいはじめ、彼のほうでも、この物珍しさによろこんで――ブラックステイブルの若いご婦人方は、ある程度大まじめになって、牧師の甥と応対していた――陽気にふざけていた。心にひそむある魔性につき動かされて、彼はふたり相手にワイワイとじゃれはじめ、若い男といえば彼だけだったので、娘たちのほうでも積極的な態度を強くあらわしていた。たまたま、彼らのテニスの腕はすばらしく、フィリップは、ミス・ウィルキンソン相手のへたなテニスには、もううんざりしていた(ブラックステイブルに来て、彼女ははじめてテニスをはじめたのだった)。そこで、お茶のあとで組み合せをきめたとき、ミス・ウイルキンソンは牧師補と組になって牧師補の夫人を相手にし、自分は、その後、新来のお客さまを相手にしてやったらどうだろう? といいだした。彼は、姉のオコナー嬢のそばに坐り、声をひそめて、彼女にいった、
「へた糞な連中は最初に片づけ、そのあとで、ぼくたちが楽しくやりましょう」
これがミス・ウィルキンソンの耳にはいったのは、たしかだった。彼女はラケットを放りだし、頭が痛い、といって、プイッといってしまったからである。彼女が腹を立てているのは、だれにもわかることだった。彼女がそれをおおっぴらにやるなんて、フィリップには不愉快至極なことだった。彼女をぬきにして組み合せがきまったが、やがて、ケアリー夫人が彼を呼びつけた。
「フィリップ、エミリーの気持ちを傷つけたのはお前ですよ。自分の部屋にとじこもって泣いているのよ」
「なにを泣いてるんです?」
「ああ、へた糞の組み合せのことかなにかよ。さあ、あの人のとこにいって、わるい気はなかった、とあやまっていらっしゃい、いい子だからね」
「わかりましたよ」
ミス・ウィルキンソンの部屋のドアをノックしたが、返事はなく、そこで部屋にはいっていった。彼女は寝台でうつ伏せになって横になり、泣いていた。彼は彼女の肩に手を乗せた。
「ねえ、いったい、どうしたんです?」
「放っといてちょうだい。あんたなんかに、二度と話したくはないの」
「ぼくがなにをしたんです? 気をわるくしたんなら、ほんとにすみません。そんなつもりはなかったんですよ。さあ、起きて、ねえ」
「ああ、悲しいわ。わたしにどうしてむごい仕打ちができるの? 知ってるでしよ、わたし、バカらしいテニスなんて大きらいよ。わたしがテニスをしてるのは、ただあんたといっしょにしたいからなのよ」
彼女は起きあがり、化粧台のほうにいったが、鏡をサッとのぞきこむと、椅子にぐったりと沈みこみ、ハンカチをまるくして、それで目をたたいた。
「女が男に与えることができるいちばん大切なものを、わたし、あんたにあげたのよ――ああ、なんてバカだったんだろう! ――それなのに、あんたはありがたいとも思ってないのね。ひどい心なしな男にちがいないわ。あんな下卑た娘っ子とじゃれついてわたしをいじめるなんて、どうしてそんな残酷なことができるの? あれからまだ一週間しかたってないのよ。そのくらいのことも、わたしにはしてくれないの?」
フィリップは、ひどくムッとして、坐った彼女のわきに立っていた。彼女のやり口は子供っぽいもの、と彼の目には映った。よその人たちの前で不機嫌ぶりを露骨に出すなんて、まったくムカムカすることだった。
「でも、いいですかね、オコナーの娘なんて、どっちも問題にはしてないんですよ。いったい、どうしてそんなふうに考えてるんです?」
ミス・ウイルキンソンは、ハンカチを目からはなした。化粧した顔に涙のあとがのこり、髪はちょっと乱れていた。ちょうどそのとき、白い服は彼女にそう似合ったものではなかった。情熱的な飢えたようなまなざしで、彼女は彼をみあげた。
「あんたが二十歳、あの女もそうだからよ」しわがれ声で彼女はいった。「それに、わたしは年寄りなんですからね」
フィリップは、赤くなって、目をそらせた。彼女の口調にこもる苦悶が、妙に彼を不安にした。心の底から、ミス・ウイルキンソンと関係をもったことがくやまれた。
「きみを不幸にしようとは思ってませんよ」ぎごちなく、彼はいった。「おりてって、みんなと仲よくしたほうがいいでしょう。みんなから変に思われますからね」
「わかったわ」
彼女とはなれられるのが、彼にはうれしかった。
この喧嘩のすぐあと、和解となったが、のこりの数日間は、ときに、フィリップにとってわずらわしいものだった。彼が話したいのは将来のことだけ、ところが、将来の話となると、ミス・ウイルキンソンはかならず泣きだすのだった。最初、泣かれると、彼は感動し、自分を犬畜生と感じて、不滅の愛情をせっせと述べ立てていたが、それは、いま、彼の心をイライラさせた。娘っ子だったら、そうするのも結構なことだろうが、一人前の女がそうメソメソするなんて、バカげたことというわけだった。あんたは感謝の負債を負い、その支払いは絶対にできはしない、と彼女はいつもクドクドといっていた。そう彼女が主張している以上、彼としては一応それを認める気になったが、彼女が自分にたいして感謝すべき以上に、自分がどうして彼女に感謝しなければならないのか、彼にはどうも納得がいかなかった。この感謝の気持ちをいろいろなふうにあらわせと要求されたが、その表示法が、また、厄介だった。このときすでに、彼は孤独の生活に馴れ、ときにそれは必要なものにさえなっていたが、彼がそばにいて顎《あご》の先で使えるようになっていないと、ミス・ウィルキンソンはそれをひどい仕打ちと考えた。オコナー家のふたりの娘は彼らをお茶に招き、フィリップはそこにゆきたかったが、ミス・ウィルキンソンのいい分は、自分はもう五日しかここにいられない、だから、水入らずのふたりだけでいたい、ということだった。これは、うれしいことではあるにせよ、退屈なことだった。彼とミス・ウィルキンソンの関係と同じ立場に立ったとき、フランスの男が女性にどんな細かな至れりつくせりの心づかいを示すかを、ミス・ウィルキンソンは何回となくクドクドと述べ立て、そうした男性の慇懃さ、自己犠牲の情熱、非の打ちどころのない気づかいぶりをほめ賛えた。ミス・ウイルキンソンの要求は、そうとうのものらしかった。
男性の完璧な恋人のもつべき必要条件を彼女が数えあげるのを、フィリップはジッと聞いていたが、そうなると、彼女がベルリンにいるのはじつにありがたいこと、と感じずにはいられなくなった。
「手紙をくださることね、どう? 毎日ちょうだい。あんたのしてることは、ぜんぶ知りたいの。どんなことでも、かくしちゃいやよ」
「ぼくはすごくいそがしくなるでしょう」彼は答えた。「できるだけ手紙を出すことにしますよ」
彼女は情熱的に両腕を彼の首にまきつけたが、こうした愛情の表示に、彼はときどき当惑を感じた。もっと受動的な態度をとってくれるほうが望ましかった。女のほうでこうしてはっきりと音頭をとるなんて、彼にはちょっと驚きだった。女性のもつひかえ目な気質について彼がもっていた好意的な先入観とは、これは、どうも一致しないものだった。
ミス・ウィルキンソンが帰る日が、とうとうやってきた。黒と白の市松《いちまつ》模様の旅行には便利な服を着て、青ざめ沈みこんで、彼女は朝食におりてきた。彼女のふうは、いかにもしっかりとした家庭教師ぶりを発揮していた。フィリップのほうでも、だまっていた。こうした事情にふさわしいどんなことをいったらいいのか、見当もつかなかったからだった。それに、なにか軽はずみなことをいって、ミス・ウィルキンソンが伯父の前でワッと泣きだして大さわぎになるのも、ひどく心配なことだった。前の晩に、庭で、ふたりはもう最後の別れの言葉はかわしていたし、これでふたりだけになる機会はないものと、フィリップはホッとした。ミス・ウィルキンソンに階段でキスをしようといわれたりしたら大変とばかり、朝食後、食堂からはなれなかった。メアリー・アンは、いま、口のなかなか辛辣な中年女になりかけていたが、この彼女にあまりみっともよくない姿をみられたくなかった。メアリー・アンは、ミス・ウィルキンソンをきらっていて、彼女のことを婆猫《ばばあねこ》と呼んでいた。伯母のルイーザは気分がよくなく、駅まで見送りができなかったが、牧師とフィリップがそれをすることになった。汽車が動きだすまぎわになって、彼女は、窓からからだを乗りだして、ケアリー氏にキスをした。
「あんたにもキスしなければいけないことね、フィリップ」彼女はいった。
「いいですよ」顔を赤くして、彼は答えた。
彼は列車の昇降口に立ち、彼女はサッと彼にキスをした。列車は動きだし、ミス・ウイルキンソンは客車の隅にぐったり沈みこみ、泣きくずれた。牧師館にもどる途中、フィリップはそれとはっきりホッとした気分を味わっていた。
「無事に見送りがすんだこと?」家にはいると、伯母のルイーザはたずねた。
「うん、そうとう涙ぐんでたよ。わしにもフィリップにもキスをする、といってね」
「まあ、そう。あの齢だったら、心配することはないことね」ケアリー夫人は食器棚を指さした。「お前に手紙が来ていることよ、フィリップ。二度目の配達で来たの」
それは、ヘイウォードからの手紙で、以下のような文面だった。
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拝復
お便り拝誦、折りかえしすぐ、筆をとりました。あの手紙を、思い切って、ぼくの親友に読んでやりました。この人物は、その援助と共感でぼくにはじつに貴重な存在になっている魅力的な女性、その上、文芸にたいしてしっかりとした眼識を備えた女性です。きみの手紙が魅力的という点で、ふたりの意見が一致しました。きみは心に思い浮ぶままに書き、文面ぜんぶにあふれている感じのいい素朴な純真さには、きみ自身が気づいていないのでしょう。きみが詩人のように書いているのは、恋をしているため。ああ、きみ、これこそ真実のものなんです。きみの若い情熱の輝きがヒシヒシと感じられ、きみの散文は、感情の真実さのために、音楽的になっています。幸福を味わってるのでしょうね! ダフニスとクロエ(ギリシャのロマンスに出てくる純真な恋人たち)のように、きみたちが手に手をとって花の中をさまよっているとき、その魅せられた花園に、ぼくも気づかれずにひそんでいたいもの! ダフニスよ、目には若き愛情の光をたたえ、やさしく、うっとりとし、恋の熱に燃えあがっているきみの姿が、目に浮んできます。きみの腕に抱きしめられているクロエは、とても若く、ものやわらか、みずみずしく、いけない、いけないといいながらも――とうとう、きみを受け入れてしまった。薔薇と|すみれ《ヽヽヽ》と|すいかずら《ヽヽヽヽヽ》! ああ、友よ、きみがうらやましい。きみの初恋が清らかな詩になるなんて、とてもうれしいこと。この瞬間を大切にいつくしみなさい。不滅の神々がきみに最高の贈り物を授け、それは、死ぬときまで、甘美で物悲しい思い出の種になるのです。こうした無心の恍惚《こうこつ》とした気分は、二度と味わえないでしょう。初恋こそ最高のもの。相手の女性は美しく、きみは若く、この世すべては、きみのものなのです。彼女のながい髪の中に顔を埋めた、ときみがあのすばらしい純真さでぼくに伝えたとき、ぼくは脈が早鐘のように打つのを感じました。その髪は黄金《こがね》色のちょっとまじったあのすばらしい栗の色と、ぼくは確信しています。ふたりが葉の茂った木陰に坐り、いっしょに『ロメオとジュリエット』を読んでほしいもの。ついでは、きみがひざまずき、彼女の足が踏みしめて跡をのこした大地を、ぼくのために、キスし、これが終わってから、それが彼女の光輝く若さと永遠に変ることなきみの愛情に寄せる詩人の賛歌、と彼女に伝えてほしいものです。
変ることなききみの友、
G・エサリッジ・ヘイウォード
[#ここで字下げ終わり]
「なんてひどいバカげた話だ!」手紙を読み終えると、フィリップはいった。
じつに奇妙なことに、ミス・ウイルキンソンはかつて、いっしょに『ロメオとジュリエット』を読まないか、といったことがあり、フィリップは断固としてそれを拒否したのだった。ついで、この手紙をポケットに入れながら、現実が理想とはひどくかけちがっているように思われたので、胸にチクリとした妙な痛みをちょっと味わっていた。
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三十六
数日後、フィリップはロンドンにいった。牧師補にバーンズ(テムズ川の南岸の、ロンドン郊外に西南方の地区)の貸し部屋をすすめられていたので、フィリップは手紙でそこを契約してあったが、部屋代は週に十四シリングだった。そこに着いたのは夕方、下宿の女主人は、彼のために、肉料理つきのお茶を準備していてくれたが、この女主人は、しなびたからだの、深いしわだらけの顔をした、小柄な、奇妙なお婆さんだった。居間の大部屋は食器棚と大きなテーブルでしめられ、一方の壁には、バス織り(馬のたてがみと尻尾の毛で織ったつやのある強い織り物)のおおいのついたソファーがあり、炉のところには、それに釣り合う肘かけ椅子がひとつあって、よりかかりの背には白いおおいがかけられ、座席には、バネが折れているために、かたいクッションがおかれてあった。
お茶が終ってから、彼は荷をほどき、本をならべ立て、それから腰をおろして、本を読もうとしたが、妙にがっくりしていた。街路の静けさは、なにかちょっと不愉快、身の孤独さがしみじみと感じられた。
翌日、彼は早く起きた。燕尾《えんび》服を着こみ、学校時代のシルクハットをかぶったが、この帽子はひどくみすぼらしかったので、事務所にゆく道中の百貨店に立ち寄って、新しい帽子を買いこもうと決心した。買い物をすませても時間はまだたっぷりあり、そこで、ストランド通りを歩きまわった。ハーバート・カーター会社の事務所はチャンサリー小路からはいった小道にあり、そこにゆくのに、二、三度道をたずねなければならなかった。人が自分をひどくジロジロとみているような気がし、ひょいとしたら正札づきのまんま帽子をかぶってしまったのではないかと、一度は帽子をぬいで調べたほどだった。目的地に着いて、ドアをノックしたが、返事をしてくれる者はなく、懐中時計をみると、まだ九時半になったかならずの時刻だった。これでは、まだ早すぎるようだった。そこからはなれて十分後にもどってきたとき、ドアを開いたのは給仕だったが、ながい鼻、にきびだらけの顔をし、スコットランドなまりの少年だった。フィリップは、ハーバート・カーターさんはおいでか? とたずねたが、まだ来てはいなかった。
「いつここにおいでです?」
「十時から十時半ごろでしょう」
「じゃ、お待ちすることにしましょう」
「ご用件は?」給仕はたずねた。
フィリップは神経質になっていたが、ふざけた態度でその事実をかくそうとした。
「そう、ここで働かせてもらおうと思ってるんですよ、そちらにご異議がなかったらね」
「ああ 年季契約の新しい書記さんなんですね? じゃ、中にはいってください。しばらくしたら、グッドワージーさんがおみえになりますからね」
フィリップは中にはいったが、そうしながら、この給仕が――フィリップとだいたい同じ年ごろで 書記見習いと自称していた――自分の足をながめているのに気づいた。部屋をながめわたしたがぞこは、暗くてひどくきたなく、採光は天窓だよりのものだった。そこに三列の机がならび、それに背なしの高い椅子がおかれてあり、炉棚の上には、拳闘のよごれた彫刻板があった。やがて、つぎからつぎへと書記が姿をあらわし、チラリとフィリップに目をやり、小声で給仕(彼の名はマクドゥーガルとわかった)に、あれはだれだ? とたずねていた。口笛がひと声鳴りひびき、マクドゥーガルは立ちあがった。
「グッドワージーさんがおいでです。あの方が支配人です。そちらがここでお待ち、とお伝えしましょうか?」
「どうぞおねがいします」フィリップは答えた。
給仕は出てゆき、すぐにもどってきた。
「こちらにどうぞ」
フィリップは、廊下を横切ってこの給仕に案内され、家具づけをほとんどしていない小部屋につれこまれたが、そこでは、炉に背を向けて、痩せた小柄な男が立っていた。中背よりズッと背が低かったが、からだにゆるくかかったような感じの大きな頭は、この男に妙な醜悪さを与えていた。顔形はだだっぴろくて平べったく、薄青い目はつきだし、薄い髪は薄茶色、頬髯は顔に不均衡に生え、髪が濃く生えているべき場所は、つるっ禿《ぱ》げになっていた。肌はたるんで、黄ばんでいた。彼がフィリップに手をさしだし、ニッコリしたとき、ひどく虫歯だらけの歯がみえた。話しぶりは、恩着せがましくもあり、同時にオドオドしたもので、もったいぶった態度をわざととりつくろっている感じがした。仕事がフィリップの気に入ればいいのだが、といい、そうとうの骨折り仕事だが、馴れればおもしろくなってくる、それに金になる仕事、それが重要な点じゃないのかね? といいそえた。彼の笑いは、優越感と恥じらいを妙に織りまぜたものだった。
「カーターさんはすぐにここにみえるよ」彼はいった。「月曜日の朝には、ときどき、ちょっとおくれて来るんだ。みえたら、きみを呼ぶことにしょう。そのあいだ、なにかきみに仕事をしてもらわにゃならんが……。簿記、収支計算はできるかね?」
「いや、だめです」フィリップは答えた。
「だめとは思ってたよ。学校じゃ、商売に大いに役立つことは教えてくれんらしいね」彼はちょっと考えていた。「なにか仕事はあるだろう」
彼は、となりの部屋にはいり、しばらくすると、大きなボール紙の箱をもちこんできた。そこには、ごったごたに入れたおびただしい数の手紙があり、それをえらんで、差出人の名をアルファベット順にならべてくれ、とフィリップに命じた。
「じゃ、年季契約の書記の部屋につれてってやろう。そこには、とってもいい男がひとりいるよ。その名はウォトソン、醸造業のあのウォトソン・クラグ・アンド・トムソンのせがれなんだ。一年ここで商売の見習いをすることになっててね……」
グツドワージー氏は、もう六人か八人の書記が仕事をしているきたならしい事務所をとおりぬけて、そのうしろのせまい部屋にフィリップをつれていった。そこはガラス板で別個の部屋になっていて、ここで、ウォトソンが椅子にふんぞりかえって『スポーツマン』誌を読んでいる姿が目にはいった。大柄な、太った青年で、きちんと身だしなみのいい服装をしていたが、グッドワージー氏がはいっていくと、目をあげた。彼は、支配人をグッドワージーと呼びすてにして、自分の身分を主張し、支配人のほうでは、そのなれなれしさを快く思わず、辛辣な皮肉をこめて わざと彼のことをウォトソンさんと丁寧に呼んでいたが、ウォトソンは、それを叱責と受けとるどころか、自分の紳士らしさにたいする尊敬のしるしと考えていた。
「ねえ、リゴレツトが競馬の出場名簿から消されちまったんだぜ」ふたりだけになるとすぐ、彼はフィリップに話しかけた。
「そうですか?」競馬のことはなにも知らないフィリップは応じた。彼は、ウォトソンの美しい服を、畏敬の念をこめてながめた。燕尾服はからだにピタリとしたもの、大きなネクタイのまんなかには、金目のピンが凝ったふうにつけられていた。炉棚には、彼のシルクハットがあったが、それは意気で、鐘の形をし、テラテラと光っていた。フィリップは、自分のみすぼらしさを感じた。ウォトソンは狩猟の話をはじめ――こんないまいましい事務所で時間をむだ使いにするなんて、まったくうんざりする、自分のいまできることは、土曜日の狩猟――それに射撃だけだ。全国からすごい招待を受けてるんだが、もちろん、それを断らなければならない。まったく因果な運命というやつだが、これをそうながく我慢したりなんかはしてられない、このいまいましいむさ苦しい小屋には一年いるだけ、そうすれば商売をはじめ、週に四日は狩猟をし、射撃はぜんぶやってのけるんだ、と述べ立てた。
「きみには五年の年季があるんだね、どうだい?」腕を小さな部屋でグルリとふりまわして、彼はたずねた。
「そうなるでしょうね」フィリップは答えた。
「ときどきは、きみに会うことになるだろう。家の勘定は、ここのカーターが担当してるんだからね」
若いこの紳士のもったいぶった態度に、フィリップはそうとう圧倒された。ブラックステイブルでは、醸造業は、表面はともかく、軽蔑されていて、牧師は、よく、それをちょっとした冗談の種にしていたので、ウォトソンがそんなに堂々とした重要な人物だなんていうことは、フィリップには驚くべき発見だった。ウォトソンは、ウィンチェスター(イギリスでもっとも古いパブリック・スクール)とオクスフォードの出身、会話の中でその事実をよく人におしつけてきた。フィリップの受けた教育の話を聞くと、彼の態度はますます横柄になった。
「パブリック・スクールにいかないとなったら、もちろん、そういったとこが、まあ、最高といったとこだね、そうだろうが?」
フィリップは、事務所のほかの連中のことをたずねてみた。
「うん、そんな面倒なことは、あんまり調べてないよ」ウォトソンは答えた。「カーターはまあまあといったとこ。あの男は、ときどき、晩餐に呼んでるよ。ほかの連中は、いずれもそろって、ひどい無作法者ぞろいさ」
やがて、ウォトソンはなにか自分の仕事にとりかかって、フィリップは手紙の選《え》りぬきをはじめた。ついで、グッドワージー氏が姿をあらわして、カーター氏の到着を知らせ、フィリップを自分の部屋のとなりの大部屋につれていった。そこには大机が一台、それに大きな肘かけ椅子がふたつあり、トルコじゅうたんが床に敷かれ、狩猟の版画が壁を飾っていた。カーター氏は机に向って坐っていたが、立ちあがって、フィリップと握手をした。彼はながいフロックコートを着こみ、いかにも軍人ふう、口髭は蝋《ろう》で固め、灰色の髪は短く刈って小ざっぱりとし、姿勢はまっすぐ、話しぶりは元気がよく、エンフィールドの住人だった。狩猟と田園生活の礼賛者で、ハートフォードシャーの義勇農騎兵の将校、それに、保守党協会の議長だった。地方のある要人が、彼のことをだれも実業家とは考えないだろう、といっていたと知らされたとき、彼は、いままでの生涯もむだではなかった、と感じていた。フィリップヘの話しぶりは、気持ちよく、卒直なものだった。グッドワージー氏がきみの世話はみてくれるだろう。ウォトソンはいい男、完璧な紳士、りっぱなスポーツマンだ――ところで、きみは狩猟はするのかね? 残念なこと、紳士には|打ってつけの《ヽヽヽヽヽヽ》スポーツなんだが……。最近、狩猟はあまりやっていず、それは息子にまかせるしか仕方がない。息子はケンブリッジにいるが、ラクビー校の出身者で、ラクビー校はいい学校、そこでは上流の子弟ぞろい、二年すれば、せがれも年季契約をすることになるが、そうなれば、きみにも好都合になるだろう、徹底的なスポーツマンのせがれは、きみの気に入るだろう。しっかりとやり、仕事に身を入れ、講義を欠席してはいけない、それでこの職業の品位も高まるわけ、そこには紳士の存在が必要なんだ。うん、うん、グッドワージー氏がひかえてる。なにか知りたいことがあったら、グッドワージー氏が教えてくれるだろう。筆跡のほうはどうだね? ああ、結構、グッドワージー氏がその世話をしてくれるよ、といった塩梅《あんばい》だった。
こうしたすごい紳士ぶりに、フィリップはすっかり圧倒されてしまった。イースト・アングリアでは、だれが紳士か、紳士でないかはわかっていたものの、当の紳士は、そうしたことを口にしてはいなかったからだった。
[#改ページ]
三十七
最初、仕事の物珍しさで、フィリップの興味はかき立てられた。カーター氏は彼に手紙の口述をおこない、財務表の浄書をするのが彼の仕事だった。
事務所の運営を紳士ふうにやるのが、カーター氏の好みだった。タイプライターは使おうとせず、速記も好意的な目でみられてはいなかった。給仕は速記術を知っていたが、この技術を利用しているのは、グッドワージー氏だけだった。フィリップは、ときどき、経験を積んだ書記といっしょに、商社の収支決算の検査に出かけ、顧客のうちのどれを丁重にあつかうべきか、どれが赤字を出しているかがわかるようになった。ながい一連の数字の加え算を命じられることも、間々あった。第一回の試験を受けるために、講義に出た。グッドワージー氏は、仕事は最初つまらないが、すぐ馴れてくる、とくりかえしいっていた。退社時刻は六時で、フィリップは、テムズ川を越えて、ウォータールー駅まで歩いて帰っていった。下宿にもどると、夕食はもうできていて、夕方は読書でついやされた。土曜日の午後には、国立美術館に出かけた。ヘイウォードは彼にラスキンの著作から編纂した案内書をすすめていたが、これを手にして、フィリップは部屋から部屋へとせっせと歩きまわった。批評家ラスキンがある絵について述べているところを熟読し、ついで、断固とした態度で、そこに同じものをみつけようとした。
日曜日は、手にあまるものだった。ロンドンに知人はなく、その日をまったくひとりですごしていたためだった。事務弁護士のニクソン氏が、ある日曜日、ハムステッド(ロンドン北西の住宅地区)に招いてくれ、フィリップは楽しい一日を元気なひと組の見知らぬ人たちとすごし、大いに食べ飲んで、ヒースの生えた野原を散歩し、いつでも気が向いたらいらっしゃい、とみなからいわれて、別れを告げたが、自分が邪魔にはならないかと病的なほど心配していたので、正式の招待を受けるまで、ジッと待っていた。当然のことながら、その招待はついぞ来なかった。ニクソンの家の人たちにはいろいろと友人があり、招待を受ける権利はないともいってよい孤独な、おしだまっている少年のことを考えるわけにはいかなかったからである。そこで、日曜日にはおそく起き、テムズ川のひき舟道ぞいに散歩することになっていた。
バーンズでは、テムズ川はどろによごれ、きたなく、潮の満干《みちひ》の差が激しく、水門の上流の優雅な魅力も、ロンドン橋の下流の数多くの船があふれている流れのもつロマンスも、とても期待できなかった。午後には、共有地の近くを散歩していたが、そこも灰色に染められた、きたならしい場所だった。そこは、いなかとも都会ともいえぬ場所、|はりえにしだ《ヽヽヽヽヽヽ》はいじけ、あたり一面に、文明の汚物《おぶつ》がまき散らされていた。毎土曜日の午後には、芝居をみにいって、いちばん安い最上階の桟敷《さじき》の戸口で、一時間かそれ以上ものあいだ、明るい気持ちで立っていた。大英博物館の閉館とA・B・C食堂(ロンドンのいろいろなところにある簡易食堂)での食事のあいだにバーンズにもどっても、意味のないこと、そこで、この時間はひどく手もちぶさたなものになった。
そのために、ボンド街やバーリントン・アーケードをブラブラととおり、つかれると、セントジェイムズ公園までいって腰をおろし、雨の日には、セントマーチィン小路の公立図書館にはいっていったりしていた。道を往き来している人たちをみていると、うらやましくなった。みながちゃんと友人をもっていたからである。ときどき、その嫉妬は憎悪の情に変っていったが、これは、彼らが幸福で、自分だけがみじめさを味わっているためだった。大都会の中でこんな孤独を味わうなんて、まったく考えてもいないことだった。ときどき、桟敷席の戸口で立っていると、となりの男が彼に話しかけようとしたが、フィリップには見ず知らずの人にたいしていなか出の少年のもつ猜疑《さいぎ》心が強くあり、気のない返事をしていたので、それ以上に懇意になることは絶対になかった。芝居が終ると、その感想をもらす友人ひとりなかったので、彼は、さっさと橋をわたって、ウォータールー駅にいってしまった。節約のために火の気ひとつない下宿にもどると、もうがっくりだった。いかにも味気ないたたずまいだった。自分の下宿と、そこですごすながい、わびしい宵《よい》が、すごくいやなものに感じられた。ときどき、この孤独感はすごく深刻になり、本も読めず、わびしいみじめさにつつまれて、坐ったまま、何時間もぶっつづけに、火をジーッとにらんでいた。
ロンドン生活ももう三ヵ月になったが、あのハムステッドでの一回の日曜日以外に、彼が話しかけた人間といえば、仲間の書記だけだった。ある晩、ウォトソンは、彼をあるレストランでの晩餐にさそい、それから、ふたりで、演芸場(歌と踊りがある)にいったが、フィリップはなにか気恥ずかしく、そこになじめなかった。そのあいだじゅうズーッと、ウォトソンはこちらでは問題にしていないことをしゃべりつづけていて、フィリップは、ウォトソンを俗物とは思いながらも、この彼に打たれずにはいられなくなった。ウォトソンが自分の教養を物の数にもしていないのは腹立たしかったが、他人が自分にくだす評価で自己を評価してしまう例の癖で、そのときまで結構重要と思われていた自分の学識がバカくさいものにみえはじめてきた。貧困のみじめさが、はじめて、身にしみじみと感じられた。伯父が彼に送ってくれた金は月に十四ポンドだったが、いろいろな服を購入しなければならなかった。夜会服を買うだけでも、五ギニーかかった。それを一流のストランド街で買ってきたなんて、ウォトソンにはとてもいえないことだった。ウォトソンによれば、仕立屋は、ロンドンひろしといえども、一軒しかない、ということだった。
「ダンスはだめなんだろうね?」ある日、フィリップの|えび《ヽヽ》足にチラリと目をやりながら、ウォトソンはいった。
「だめだよ」フィリップは答えた。
「残念だな。ある舞踏会にダンスのできる男を何人かつれてきてくれ、とたのまれてるんだがね。そうなれば、すてきな何人かの女性にきみを紹介できることにもなるんだが……」
一度か二度、バーンズに帰らなければならぬと思うとたまらなくなって、フィリップは市内にいつづけ、夜おそく、ウェスト・エンド(ロンドンの富裕階級の住宅地で、劇場街・大商店街・公園などがある)をブラブラと歩いていたが、たまたまそこで夜会が開かれている家があった。従僕たちの背後に立っていたみすぼらしいわずかな人にまじって、彼は、客が到着するのを見守り、窓越しに流れでてくる音楽を聞いていた。ときどき、そのときの寒さにもかかわらず、ひと組の男女がバルコニーに姿をあらわし、新鮮な空気をすおうと、しばらくそこに立っていた。フィリップは、それが恋人同士と想像して、それから面《おもて》をそらし、心を重くして、びっこをひきながら、そこから立ち去っていった。自分があの男のようになることは絶対にないだろう。自分のびっこを不快感なしにながめてくれる女なんて絶対にありはしない、と彼は思った。
それにつけても思い出されるのは、ミス・ウィルキンソンだった。彼女のことを考えても、そううれしくはなかった。別れる前に、宛て先を知らせるまで、チァリング・クロス郵便局宛てに彼女から手紙を出すということになっていて、そこにいってみると、彼女からの手紙が三通来ていた。青い紙にすみれ色のインクで書き、使っている言葉はフランス語だった。分別ある女らしく、どうして英語で書けないのだろう? とフィリップは考え、その情熱的な表現は、フランスの小説を思わせたので、なにか興ざめだった。彼女は手紙をくれぬと彼をなじっていたので、彼は、返事で、自分の多忙を言訳の種にした。この手紙の書きだしに、彼はホトホト閉口した。
「いとも親愛なる」や「いとも愛《いと》しき」なんぞは使う気にもなれず、彼女をエミリーと呼ぶのもたまらないことだったので、最後に、「親愛な」だけで切りだすことになった。この言葉は、それだけでポツンと立って、なにか変なもの、バカらしくさえ思えたが、それでおしとおしてしまった。これが彼の書いた最初の恋文、その陳腐《ちんぷ》さは彼自身百も承知のことだった。熱烈なことをあれこれと述べ立て、一日でどの一刻たりともあなたを思わぬときはない、どんなにあなたの美しい手にキスをしたく思っているか、あなたの赤い唇を思うとからだがふるえてくる、なんぞといわなければいけないとは感じながらも、なにかわけのわからぬ気づかいで、それはおさえられてしまい、そのかわりに、自分の新しい部屋と事務所のことを伝えた。返事は折りかえし来たが、それは、腹立ち、失意、叱責の手紙だった。どうしてそんなに冷淡になれるのだ? あなたの手紙をどんなに心待ちにしているか、わからないのか? 女のもつすべてをささげたのに、報いといえば、ただこれだけ、もう自分には倦《あ》きたのか? といった具合いだった。返事を数日間出さないでいたので、彼女のつるべ撃ちの手紙がおそいかかってきた。あなたの不親切には我慢ならない、郵便を待っていたが、あなたの手紙は一通も来ない。来る夜も来る夜も、泣き寝入りした。ひどくやつれたので、それがだれにでも気づかれてしまう。自分を愛していないのなら、どうしてはっきり、そういってくれないのだ? あなたなしでは生きていけない、自分にのこされた道は自殺だけ、と彼女はつけ加えた。あなたは冷淡、利己主義、恩知らず、と彼女はいった。これは、みんなフランス語で書かれてあり、これをするのはみせびらかしのため、とフィリップにはわかっていたが、それにしても、やはり心配なことだった。彼女を不幸にしたくはなかった。しばらくすると、彼女の手紙が来て、これ以上別れて暮すわけにはいかない、クリスマスにはロンドンゆきを計画するつもりだ、と伝えてきた。フィリップは、これほどうれしいことはない、だが、いなかで友人たちとクリスマスをすごすのをもう約束してしまったので、その約束をどうしたものかと困り果てている、と返事を送った。これにたいする応答で、自分をおしつけるようなことはしたくない、そちらが会いたがっていないのはたしかなこと、ひどく心を傷つけられた、自分の親切すべてにたいしてこんなむごい仕打ちを受けるものとは思ってもいなかった、と彼女は伝えてきた。手紙はいじらしいもので、涙の跡が紙面にのこっているようだった。彼は衝動的に返事を書き、とても申訳《もうしわけ》ない、どうか来てくれ、と伝えたが、彼女の返事で、ベルリンをはなれるのは不可能、といってきたとき、たしかにホッとした。やがて、彼女の手紙が来ると、気の滅入りを感ずるようになり、開封はついのびのびになってしまうのだったが、これは、その内容、腹立ちまぎれの叱責と悲痛な訴えがもうわかっていたからだった。それを読めば、自分が犬畜生になるだろう。だが、彼としては、自分をどう責めたものか、見当もつかないでいた。一日一日と返事をのばしていたが、そうするとまた手紙が来て、自分は病気、わびしい、みじめな気持ちを味わっている、といってくるのだった。「まったく、あんな女と関係しなければよかった」と彼は後悔していた。
こうしたことを事もなげに処理してゆくウォトソンに、彼は舌を巻いていた。この青年は旅まわりの劇団の女優と情事をかさねていたが、その話を聞いて、フィリップは嫉妬まじりの驚嘆で胸をつまらせた。だが、しばらくすると、若いウォトソンは心変りし、ある日、その離別のいきさつをフィリップに打ち明けた。
「モジモジしてたって意味はないと思ったんで、彼女にはもううんざり、未練はない、といってしまったよ」彼はいった。
「すごい愁嘆場《しゅうたんば》というとこだね?」フィリップはたずねた。
「お定まりのことさ。だけど、いってやったよ、そんなことをぼくにしたって意味のないことだってね」
「泣いたかい?」
「シクシクやりだしたけど、泣きだされると、こちらじゃ、もう、たまんなくなってね。そこで、とっとといっちまったらどうだ、っていってやったのさ」
フィリップのユーモア感は、齢とともに強くなっていた。
「ほほう、それで、彼女はいっちまったかね?」ニヤリとして、彼はたずねた。
「うーん、ほかにしようはないわけだったんでね、そうだろう?」
そのあいだに、クリスマスの休日が近づいてきた。ケアリー夫人は、十一月ちゅうズーッと病気で、元気になるようにと、クリスマスをはさんで二週間、牧師夫妻はコーンウォール(イングランドの南西端の州)にいったらどうだ、と医者にすすめられていた。このため、フィリップはゆく場所がなくなり、クリスマスの祭日を下宿ですごすことになった。ヘイウォードの影響を受けて、この季節の祝祭を野卑で野蛮なものときめこみ、その日には関心を払うまいと決心していたが、いざその日になると、あたりの陽気さで、奇妙な心の動きを感ずることになった。下宿の主人夫妻はその日を嫁にいった娘といっしょにすごすことになっていたので、面倒をかけまいと、外で食事をする、とフィリップは伝えた。正午少し前、彼はロンドンに出かけ、ギャッティ(ストランド街にある食堂)で七面鳥とクリスマスのプディングを食べ、その後どうという用事もなかったので、ウェストミンスター寺院の午後の礼拝に出てみた。通りの人影はまばら、目に映る人たちは、なにかむきになっているようにさっさと歩き、それは、そぞろ歩きといったものではなく、なにかしっかりとした意図をもっている感じ、ひとり歩きしている者はまずいなかった。彼らはみな幸福そうだったので、フィリップは、いままでにない孤独感を身にしみて感じた。彼の計画では、街路でなんとか時間つぶしをし、それからレストランで夕食をとるつもりだったが、語り、笑い、陽気にふざけている人たちの光景には堪えられなくなり、その結果、ウォータールー駅にもどり、ウェストミンスター橋通りでハムとミンスパイをふたつ買いこみ、バーンズに帰っていった。わびしい自分の小部屋でこうした食事をとり、晩は読書ですごした。気の滅入りは我慢ならぬほど強いものだった。
事務所に出ていっても、ウォトソンの語る休日の話で、ますますくさることになった。ウォトソンの家にはすばらしい何人かの娘が泊りがけでやってきて、夕食が終ると、応接間を片づけてダンスをやったということだった。
「眠ったのは三時すぎ、そのとき、どう寝台にたどりついたのか、いま考えてみても、わかんないんだ。まったく、ちょっといかれてたんだな」
とうとう、フィリップは、やけのやんぱち気分になって、たずねた、
「ロンドンで人と知り合いになるには、どうしたらいいんだい?」
ウォトソンは、びっくりした顔をし、ちょっと軽蔑しながらもおもしろいといったふうに、彼をながめた。
「わかんないね。ただ知り合いになっちまうのさ。ダンスにいったら、すぐ、好きなだけだれとでも友だちになれるよ」
フィリップはウォトソンを大きらいだったが、どんな代償を払っても、ウォトソンになりたかった。学校時代にもっていたあの感情がまたまいもどってきて、他人の立場になって、自分がウォトソンだったら、どんな人生を味わうことになるだろう? と空想をめぐらした。
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三十八
年末はいそがしかった。フィリップは、トムソンという書記に同行して、さまざまな商社にゆき、相手が照合する支出項目を読みあげて、単調な毎日をおくり、ときに、何ページにもわたるながい数字の加え算を命じられた。彼は数字が苦手《にがて》、計算はゆっくりとしかできなかった。トムソンは、彼のミスにプリプリしていた。この男は背の高い、痩せた四十男で、肌は黄ばみ、髪は黒く、口髭はモシャモシャだった。頬はこけ、鼻の両側には深いしわの筋がついていた。年季契約の書記というわけで、フィリップを憎んでいた。金を三百ポンド払い、五年間暮していくだけで、フィリップには将来の出世のみこみがあるわけ、一方、自分は、経験と能力にもかかわらず、週三十五シリングの書記以上になれるみこみはぜんぜんないためだった。彼はつむじまがりな男で、たくさんの子供をかかえてにっちもさっちもいかず、フィリップが示していると思いこんでいた横柄な態度を憤慨していた。自分よりりっぱな教育を受けているからといってフィリップに冷笑を浴びせ、フィリップの発音にどうのこうのと文句をつけていた。フィリップの我慢ならない点は、彼が下町なまりでしゃべらないため、フィリップに話しかけるとき、わざと皮肉にH音を強く発音していた(ロンドンの下町言葉ではH音ではじまる言葉のHを発音しないのがふつう)。彼の最初の態度は、つっけんどんで、いやらしいだけだったが、フィリップに計算能力がないとわかると、この男は好んで彼に屈辱感を味わわそうとした。その攻撃ぶりは、下品でバカげたものだったが、フィリップの心を傷つけ、自衛の立場から、彼のほうでも、身におぼえのない優越感をふりまわすことになった。
「今朝、お風呂におはいりですかな?」事務所におそくフィリップが出ていくと、トムソンはいった。このときに、朝早く事務所に出る習慣は、もう消えていたからである。
「はいりましたよ。あなたは?」
「いいや、こちらは紳士じゃないんでね。風呂は、土曜日の夜、はいることにしてるのさ」
「月曜日にふだん以上にご機嫌ななめなのは、そのためなんですな」
「きょうはただの足し算なんだが、やっていただけますかな? ラテン語やギリシャ語をお心得の紳士の方にそんなことをおねがいするなんて、虫がよすぎる要求とは思いますけどね」
「その皮肉のきかし方、そううまいもんとはいえませんな」
だが、給料のよくない、やぼったいほかの書記たちのほうが自分よりズッと役に立つ事実を、フィリップは認めずにはいられなかった。一、二度、グッドワージー氏はこの彼にイライラしていた。
「もうもっと腕があがっててもいいはずなんだがな」彼はいった。「給仕のほうがまだましなくらいだぞ」
フィリップはムッとして聞いていた。文句をいわれるのはいやだったし、決算書の浄書を命じられて、グッドワージー氏がそれに満足せず、それをべつの書記にやらせたとき、屈辱感を味わわされた。最初、物珍しさで仕事はまあまあといったものだったが、いま、それはうんざりするものになった。それにたいする能力がないとわかると、もう大きらいになってきた。ときどき、命じられたことをやっていなければならないとき、事務所の便箋《びんせん》で小さな絵を描いて、時間をつぶした。あらゆる角度からウォトソンのスケッチを描き、ウォトソンはその才能に打たれ、あるとき、その絵を家にもって帰りたいといいだし、翌日、家の者がほめていた、と伝えた。
「どうして画家にならないんだい?」彼はいった。「もちろん、それで金もうけはできんけどね」
二、三日後、たまたま、カーター氏がウォトソン家の人たちと晩餐をともにすることになり、そのスケッチが彼に披露された。その翌朝、フィリップは彼に呼びつけられた。フィリップはこの彼と会うことはめったになく、カーターは多少おそろしい存在だった。
「ねえ、きみ、勤務時間以外のときに、なにをしたって構わんよ。だが、わしのみたあのスケッチは、事務所の便筆に描いたものだ。グッドワージー君の話によると、きみは、熱を入れて仕事をやってないようだな。てきぱきやらんと、公認会計士として立てはせんぞ。これはりっぱな職業、とてもりっぱな階級の人間がだんだんその仲間にはいってきてるんだ。だが、その職業では……」彼は自分の言葉にうまいけりをつけようとしていたが、思ったとおりの言葉が浮ばず、そこで、とてもありきたりな「てきぱきやらにゃならんのだ」で、そのしめくくりをつけることになった。
仕事が気に入らなかったら、一年後にはやめて、契約金の半額がもどるという約束がなかったら、たぶん、フィリップはこの職業に落ち着いたことだったろう。収支決算をすること以外のなにかもっとましなことが自分にできるはずだと思うと、バカバカしく思っていることでヘマばかりしつづけているのは、屈辱的なことになってきた。トムソンとのつまらぬ口喧嘩も、神経にさわることだった。三月に、ウォトソンは事務所勤務の一年を終ったが、彼をきらっていたとはいえ、彼と別れるのは心残りなことだった。他の書記たちに同じように憎まれ、その理由が、ふたりとも彼らより少し上の階級に属しているから、という事実は、ふたりを結びつける絆になっていた。あのわびしい連中とこれから先四年以上もいっしょにいなければならないかと思うと、フィリップは憂鬱《ゆううつ》になった。ロンドンに期待したのはすばらしいことだったが、彼にはなにも与えられなかった。いま、ロンドンが大きらいになっていた。だれひとり知人はなし、だれかと知り合いになろうにも、どうしていいのかわからなかった。ひとりでどこへでもいくのは、もううんざりだった。こうした生活はもう我慢ならぬものと、彼は感じはじめた。寝床で横になり、あのきたならしい事務所にもうゆかず、そこの連中に会うこともなく、このくすんだ下宿から解放されたら、どんなにうれしいことだろう、と思いめぐらした。
春には、大きな失望にみまわれることになった。ヘイウォードは、春にロンドンに来る意図を伝え、フィリップは、彼との再会を心待ちにしていた。最近多くの本を読み、いろいろと思考をかさねていたので、頭にはさまざまな観念がいっぱいつまり、その議論がしたく、しかも、抽象的なものに興味をもっている知人は、だれもいなかった。だれかと思う存分語り合えるかと思うと、心がすっかりワクワクしていたのだが、イタリアの春はいままで味わったことがないほど美しい、そこからはなれる気にどうしてもなれない、とヘイウォードが書いて寄こしたとき、フィリップはがっくりしてしまった。ヘイウォードはさらに、どうしてイタリアに来ないのか? 世界がこうも美しいのに、青春時代を事務所で浪費してしまうなんて、どんな意味があるのだろう? といっていた。手紙にはこうあった。
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それを我慢できるなんて、ふしぎなこと。フリート街やリンカンズ・インのことを考えると、身の毛がよだつね。人生を暮すに値するものにしてくれるのは、ただふたつのものだけ、恋愛と芸術だけだ。きみが事務所で元帳いじりをしている図なんて、想像に絶することだ。きみはシルクハットをかぶり、傘と小さな黒いカバンをもっているのかね? ぼくの気持ちとしては、人生には冒険として立ち向い、硬《かた》い、宝石のような炎で燃え立ち、一か八《ばち》かの賭けをやり、身を危険にさらさなければ、と思っている。どうしてきみはパリにゆき、芸術の勉強をしないのだ? きみには才能あり、とぼくはいつも考えていたのだ。
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このすすめは、フィリップが最近心の中で漠然と考えていた将来の可能性と、ピタリ一致した。最初、そうした考えに驚きはしたものの、それを考えずにはいられなくなり、たえずそれを考えていることが、現在のみじめな状態からの唯一の逃避の方法になってきた。自分に才能ありと、みなは考えている。ハイデルベルクで、自分の水彩画は賞賛を受けた。それが魅力的だ、とミス・ウィルキンソンも再三再四いっていた。ウォトソンのような赤の他人でさえ、自分のスケッチには打たれている。『ボヘミアンの生活』は、彼に深い感銘を与えた本で、この本はロンドンに持参し、ひどく憂鬱になったとき、それをほんの少し読めば、ロドルフやほかの連中が踊り、恋し、歌っているあの魅力的な屋根裏部屋にとびこむことができた。前にロンドンのことを思っていたように、彼はパリの生活に思いを馳《は》せはじめ、また幻滅の悲哀を味わうことなんて、考えてもいなかった。あこがれていたのはロマンスと美と恋愛、パリはそれをすべて与えてくれるようだった。自分は絵に情熱をもっている、だれにもおとらず、りっぱに絵を描けるはずなのだ。ミス・ウィルキンソンに手紙を出し、パリ生活でどのくらいかかると思うか、とたずねてみた。彼女は、年八十ポンドでらくに生活できる、と伝え、この計画には大賛成、あなたが事務所でくすぶり果てるなんて、もったいないこと、偉大な芸術家になれるみこみがあるのに、書記になる者なんかいるだろうか、と芝居がかったふうな質問を浴びせ、自信をもつべきだ、それはすばらしいことなのだ、といってきた。だが、フィリップは用心深い男だった。ヘイウォードが一か八かの挙に出るのは結構なこと、一流極めつきの証券で年収三百ポンドあり、自分の全財産は千八百ポンドしかないのだ、というわけだった。フィリップはまだ踏みきれなかった。
そのとき、たまたまある日、グッドワージー氏が、パリにいきたくはないか? という話をもちかけてきた。この事務所では、イギリスの会社のもっているフォブール・サントノレ(高級商店の多いパリの通り)のホテルの経理事務を担当し、年に二回、グッドワージー氏と書記一名がそこに出張することになっていた。いつもそこにいっていた書記は、そのとき、たまたま病気、仕事のいそがしさで、ほかのだれもそちらにさくわけにはいかなかった。グッドワージー氏がフィリップに白羽の矢を立てたのは、彼がいちばんさいても惜しくはない人間、それに、年季契約の点からも、慰労出張といった仕事を彼に与えなければならなかったからだった。
「昼間は、まるまる仕事だ」グッドワージー氏はいった、「だが、夜は自分のもの。とにかく、パリはやっぱりパリなんだからな」彼はしたり顔してニヤリとした。「ホテルではゆきとどいた接待をし、食事はみんな出してくれるんだから、金がかかることはない。他人さまにおんぶしてパリにいけるんだから、これにかぎるよ」
カレイ(ドーヴァー海峡のフランス海岸の都市)に着き、大きな身ぶり手ぶりをしている赤帽の姿が目にはいると、フィリップの心はおどりあがった。
「これこそ本物だ」彼は考えていた。
汽車がフランスの田園地方をつっきって進んでいったとき、彼は目を皿のようにしていた。砂丘はすばらしく、その色は、いままでにみたこともないほど美しいものに思われ、運河とながいポプラの列のたたずまいは、うっとりするほどすばらしかった。北停車場(カレイからパリにはいる終着駅)で汽車をおり、すごい音を立てるガタガタ馬車で玉石舗装の街路をゴロゴロと進んでいったとき、恍惚とする新しい空気をすいこんだような感じ、大声で叫ばずにはいられないような気分だった。ホテルでは支配人が彼らをむかえ入れ、この支配人は太った感じのいい男、まあまあといった程度の英語を話すことができた。グッドワージー氏とはながらくのなじみで、愛想たっぷりの挨拶をふたりにした。夕食は、支配人の私室で、その夫人のお相伴づき、そのとき出された|じゃがいも《ヽヽヽヽヽ》づきのビフテキほどうまいものはなく、そのときのふつうの|ぶどう《ヽヽヽ》酒ほどの美酒は飲んだことがないように思われた。
きちんとした生活信条をもったりっぱな一家の長であるグッドワージー氏にとっても、フランスの首都パリは、楽しいみだらさの天国で、翌朝、支配人に、「たまらんもの」はどこにいったらみられるか? とたずねていた。彼はこうしたパリ訪問をたっぷりと堪能《たんのう》し、それが錆《さび》落しにいい、といっていた。夕方、仕事をすまし夕食が終えると、彼はフィリップをムーラン・ルージュやフォリー・ベルジェール(いずれもパリの有名な演芸場)につれていった。ポルノをみつける段になると、彼の小さな目はキラリと輝き、顔には狡猾《こうかつ》で官能的な微笑が浮んでいた。特別外国人向けにつくった場所は、ぜんぶあまさずみてまわり、そのあとで、こんなひどいことを許してる国なんて、その行く末は知れたもんだ、といっていた。レヴューで一糸まとわぬといっていいほどの女があらわれると、彼はフィリップを肘でつっつき、ホールを歩きまわっているいちばん大柄な売笑婦を指でさして教えたりした。彼がフィリップに示したのは、低俗なパリだったが、フィリップはそれを、幻想でめくらになった目でみていた。朝早く、彼はホテルからとびだし、シャンゼリゼーにゆき、コンコルド広場に立ちつくしていた。時は六月、パリは繊細な大気の気配で銀色に輝き、フィリップは、心がそこの人びとにひきよせられるのを感じた。ここにこそロマンスがある、と彼は考えた。
ふたりのパリ滞在は一週間未満のもの、日曜日にはそこを出発、夜おそくバーンズのきたない下宿にもどってきたとき、フィリップの腹はきまった。年季契約は放棄し、芸術の勉強にパリにゆこう。だが、人にむちゃをしたとは思われたくなかったので、自分の一年が終るまで事務所にいることにしよう、と決心した。八月の最後の二週間は休暇になる予定で、その休暇をもらうとき、ハーバート・カーターに、もうここにもどるつもりはない、と伝えることにした。こうしてむりをして、毎日、事務所がよいをしてはいたものの、そこの仕事に興味をもっているみせかけだけの体裁もつくることができなかった。心は将来のことでいっぱいだった。七月中ごろから仕事はそういそがしくはなく、最初の試験のための講義を受けにいくという口実で、大いに時間をさぼることができた。こうして得た時間は、国立美術館でついやされた。パリに関する本、絵画に関する本を読み、ラスキンに没入した。ヴァザーリ(イタリアの画家・伝記作家)の書いた画家の伝記を多く読み、コレッジョ(イタリアの画家)の話を好み、自分が偉大な傑作の前に立ち、「自分だって画家だぞ(イタリア語)」と叫んでいる自分の姿を想像した。もう気迷いはなく、偉大な画家の素質はあるものと、自信満々だった。
「結局、やってみるだけのことだ」彼は考えた。「人生で重大なことは、一か八かをやることなんだ」
とうとう、八月の中旬になった。カーター氏はその月をスコットランドですごし、支配人が事務所を管理していた。パリ旅行以来、グッドワージー氏はフィリップに好感をもったらしく、自分は間もなく自由の身になると知っていたので、フィリップは、この風変りな小男をゆったりとした気持ちでながめられるようになっていた。
「明日からきみの休暇がはじまるね、ケアリー?」休暇の前の晩に、彼はいった。
このいまいましい事務所にいるのはこれが最後、とフィリップは、一日じゅう、心にいって聞かせていた。
「そう、きょうが一年目の終りの日です」
「成績はあんまりあがらんようだったね。カーターさんは、だいぶご不満のようだったぞ」
「こっちがカーターさんにたいして考えてるほど、ご不満じゃないでしよう」陽気にフィリップは応じた。
「そんな物のいい方をするもんじゃないぞ、ケアリー」
「ぼくは、ここに帰っては来ませんよ。経理事務がいやだったら、年季契約に払った金の半額をカーターさんがもどしてくれる、一年たったら、この仕事をやめていい、って話がついてるんですからね」
「そんな結論は、あわてて出すもんじゃないよ」
「この十カ月のあいだ、もういやでいやでたまりませんでした。仕事も、事務所も、ロンドンも、いやでいやでたまらないんです。ここで日暮しするより、横断歩道の掃除人になったほうがまだましなくらいです」
「うん、たしかに、経理事務所には不適なようだね」
「さようなら」手をさしだして、フィリップはいった。「そちらのご親切にたいしては、お礼を申しあげます。ご面倒をおかけしたとしたら、おわびします。最初といってもいい早いときから、自分はだめ、とわかっていたんです」
「うーん、ほんとうに決心したというんなら、これでお別れになるね。きみがなにをしょうとしているのかは知らんが、この近くに来たら、いつでもここに寄ってくれたまえ」
フィリップは、ちょっと、カラカラッと笑った。
「こういうと失礼な言葉になりますが、ここのだれにも二度と会いたくない、と心の底から思ってるんです」
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三十九
フィリップが示した計画を、牧師はぜんぜんとり合おうとしなかった。彼は、はじめたことはなんでもがんばりぬく、というりっぱな考えを強くもち、すべての弱い男のように、心変りせぬことの重要さを、大げさに強調した。
「自分の自由意志で会計士になろうとしたんじゃないか」彼はいった。
「それをする気になったのは、それしかほかにロンドンにいく方法がなかったからですよ。ロンドンも、あの仕事も、ぼくは大きらい、絶対にあそこにはもどりませんよ」
画家になろうとするフィリップの考えにたいして、ケアリー夫妻は卒直な驚きをあらわし、父親も母親も紳士階級に属していたことを忘れてはいけない、画家の職業なんてまともなものではない、それはボヘミアン的、いかがわしく、不道徳なものだ、とともどもいっていた。それに、パリときたら!
「このことで発言権があるかぎり、わしはお前のパリ滞在は許さんぞ」牧師は断固としていった。
そこは、邪悪の巣、緋色の女とバビロンの女(いずれも売笑婦のこと)がその邪悪をほこりやかにみせびらかす場所、平原の町々(創世記一三にある邪悪な町ソドムとゴモラのこと)とて、邪悪さの点で、パリには顔負けなのだ。
「お前は、紳士らしく、キリスト教徒らしく、育てられてきた。こうした誘惑に身をさらすのを許したりしたら、お前の死んだ両親の信義を裏切ることになるだろう」
「ええ、ぼくは、キりスト教徒ではないと知り、自分が紳士かどうかもあやしいもんだと思いはじめてるんですよ」フィリップは答えた。
議論はますます激しくなった。フィリップがわずかな財産を相続するまでには、まだ一年あり、事務所にいるという以外の条件では、この期間、金の仕送りはしない、とケアリー氏はいった。会計士になるつもりがなかったら、年季契約金の半額をとりもどせるうちにそれをやめなければならぬことは、フィリップにはっきりとわかっていた。牧師は承知しようとしなかった。フィリップは、カッとなってしまって、相手の心を傷つけイライラさせることを口に出した。
「ぼくの金を浪費しちまう権利は、伯父さんにもないんですよ」彼はとうとう切りだした。「なんといったって、それはぼくのお金でしょ、どうです? ぼくは子供じゃないんです。そうと腹をきめたら、ぼくのパリゆきを阻止なんかできるもんですか。むりやりにロンドンにひきもどすわけにはいかんのですからね」
「わしがいいと思うふうにやらなかったら、こちらでは金をわたすのを拒否するだけのことだ」
「ええ、いいですとも。ぼくはパリにいこうと決心したんです。自分の服、本、父親の宝石を売りとばしてでも、出かけますよ」
ルイーザ伯母さんは、心配しながらわびしそうに、だまってわきに坐っていた。フィリップがカッとしてわれを忘れ、彼女がなにかいっても、その怒りに油をそそぐだけ、とわかっていた。最後に、この話はもうこれ以上聞きたくない、と牧師はいって、威厳をつけて部屋から出ていった。その後三日間、フィリップも牧師も、話をしようとはしなかった。フィリップは手紙をヘイウォードに出し、パリについてたずね、返事が来しだい、すぐ出発しようと決心していた。ケアリー夫人は、この問題を心の中でたえずとつおいつ考えつづけ、夫にたいするフィリップの憎しみの情の中に自分もふくまれている、と感じとり、それをひどく苦にしていた。彼女は、心の底から、彼を愛していた。とうとう、彼女は彼に話しかけ、彼がロンドンで味わった幻滅、将来にかける大きな野心を滔々《とうとう》と述べ立てているあいだ、それにジッと聞き入っていた。
「ぼくはだめな人間かもしれませんよ。でも、やってみることだけは、許してほしいんです。あのいまいましい事務所での失敗以上の大きな失敗は、するはずがないんですからね。絵は大丈夫と思ってるんです。その才能があるのは、わかってるんです」
こうした強い好みをおさえてもまちがいがないという確信の点で、彼女の気持ちは夫ほど強くはなかった。画家になる希望に両親が強く反対しながらも、結果からみて、それがいかに愚かだったかを示す偉大な画家のことを、彼女は読んだことがあり、結局のところ、画家になったって、公認会計士と同じように、きちんとした生活をいとなんで、神の栄光を輝かす道は開けているのだった。
「お前がパリにいくのが、おそろしくてならないの」彼女は悲しそうにいった。「ロンドンで勉強できたら、そう心配にはならないのだけどね」
「絵の勉強をするとなったら、それを徹底的にやらなければいけないんです。本物を身につけられるとこは、パリ以外にはありませんよ」
フィリップにうながされて、ケアリー夫人はあの事務弁護士に手紙を出し、フィリップはロンドンの仕事に不満、職業変えをどう思うか、とたずねることになった。ニクソン氏の返事はつぎのようなものだった。
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拝復
早速ハーバート・カーター氏と面談いたしましたが、フィリップは期待どおりの成果をあげていないと、残念ながら、報告いたさねばなりません。この仕事に反対の気持ちが強いのでしたら、年季契約を破棄するいまの機会を利用すべきでしょう。当然のことながら、当方もいたく失望しましたが、ご存じのごとく、水のところに馬をつれてはいけるにしても、馬に水を飲ますのは不可能なことです。
敬具
アルバート・ニクソン
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この手紙は牧師にもみせたが、それはただ、彼の頑固《がんこ》さを強める結果になっただけだった。フィリップがなにかほかの職業に従事することには、彼として異議はなく、父親の職業の医者になってはどうか? とはいったものの、フィリップがパリにゆくのなら、仕送りは絶対にしない、と強くいい張った。
「それは、気儘気随《きままきずい》にやろう、女遊びをやろうという口実にすぎんのだ」彼はいった。
「他人の気儘気随を責めてるそちらの言葉を耳にすると、おかしくなってきますよ」辛辣にフィリップはやりかえした。
だが、このときまでにヘイウォードの返事が来ていて、月三十フランでひと部屋借りられるホテルの名が知らされ、そこには学校の世話係りへの紹介状が同封されてあった。フィリップは、その手紙をケアリー夫人に読んで聞かせ、九月一日に出発するつもりだ、と伝えた。
「でも、お金がないでしょう?」彼女はたずねた。
「きょうの午後、ターカンベリーにいって、宝石類を売ってくるつもりです」
彼は父親の遺品として、金鎖づきの金の懐中時計、二、三の指環、いくつかのカフスボタン、それに二本の飾り針をもっていた。飾り針のうちの一本は真珠つきのもので、そうとうの金目のものかもしれなかった。
「物の値打ちと売り値とは大ちがいでね」ルイーザ伯母さんはいった。
「わかってますよ。でも、どう低くみつもっても、ぜんぶで百ポンドにはなるでしょうし、それで二十一になるまではしのげますからね」
ケアリー夫人は、なにも答えず、二階にあがり、黒い小さなボンネット帽をかぶって、銀行に出かけてゆき、一時間するともどってきた。フィリップは応接間で本を読んでいたが、彼女はそこにゆき、封筒をわたした。
「なんです、これは?」彼はたずねた。
「お前へのわずかな贈り物よ」照れくさそうにニッコリして、彼女は答えた。
それを開くと、五ポンド紙幣が十一枚、ソヴリン金貨がいっぱいつまった小さな紙袋が出てきた。
「お前のお父さんの宝石を売らせるなんて、とてもできなかったの。これは、わたしが銀行にあずけておいたお金なの。それは、百ポンド近くになるでしょう」
フィリップは、サッと顔を赤くし、なぜかわからなかったが、いきなり、涙がグッとこみあげてきた。
「ああ、伯母さん、これは受けとれません」彼はいった。「ほんとうにうれしいんですが、受けとる気にはとてもなれません」
結婚したとき、ケアリー夫人には持ち金が三百ポンドあり、これは、大切に預金して、思いがけぬ出費、さしせまった慈善の金、夫やフィリップのためにクリスマスや誕生日の贈り物を買うのに、彼女が使っていたものだった。ながい年月のうちに、それはひどく減ってはいたが、いまでも、牧師の冗談の種になっていた。彼は、妻のことを金持ちといい、いつもその「とっとき金」のことを口にしていた。
「ああ、どうかそれを受けとってちょうだい、フィリップ。わるかったわね、お金使いが荒くって、それだけしかのこっていないのよ。でも、受けとってもらえたら、わたし、とてもうれしいの」
「でも、お金が要《い》るときがありますよ」フィリップはいった。
「いいえ、そんなこと、ないと思うわ。それをしまっておいたのは、お前の伯父さんに先立たれたときのことを考えてのこと。用があったらすぐ手にはいる多少のお金があったらいいと思っていたんですけどね、もう長生きできるとは思えないのでね……」
「ああ、そんなことはいわないで。もちろん、いつまでもいつまでも、伯母さんは長生きしますよ。伯母さんがいなくなったら、ぼくはもうだめなんだもの」
「ああ、悲しくなんかはないことよ」彼女の声はとぎれ、手を目に当てたが、すぐ、涙をぬぐって、彼女は雄々しく微笑した。「はじめのころはいつも、お前の伯父さんがひとりとりのこされるのが気の毒で、わたしを最初にお召しにならないように、と神さまにお祈りしていたの。あの人に苦しみをかけては気の毒と思ったからなの。でも、それがわたしほど伯父さんにはこたえないのが、近ごろわかってきたわ。長生きしたい気持ちは、あの人のほうがわたしより強く、その上、わたしはあの人の希望どおりの妻ではなかったし、わたしの身になにか起きたらたぶん、再婚するでしょうからね。だから、わたしのほうが先にいきたいのよ。わたしの勝手|気儘《きまま》とは思わないでしょうね、どう? でも、あの人に先立たれたら、わたし、もうどうにもならなくなるの」
フィリップは、彼女のしわだらけの痩せた頼にキスをした。このおしつぶすような強い愛情を目のあたりにして、自分がどうして奇妙にも恥じらいの情を感じているのか、彼にはわからなかった。こうまで無関心、利己的、ひどく気儘な人間にたいして、どうして彼女がこうした強い愛情をそそいでくれるのか、理解つかぬことだったが、彼女は自分の無関心と利己主義を心の中ではちゃんと心得、それを知りながらも、謙虚な愛情で自分を愛してくれているのではないか? と漠然とした推測をめぐらしていた。
「お金を受けとってくれることね、フィリップ?」やさしく彼の手をなでながら、彼女はいった。「そのお金がなくっても、お前がやっていけることは、わたしにわかっていますよ。でも、わたし、それでとってもうれしいのよ。いつもお前になにかしてあげたいと思っていたの。だって、お腹を痛めた子ってひとりもなく、自分の息子のように、お前に愛情をそそいできたんですものね。お前がまだ小さな子供のころ、わるいこととは知りながらも、お前が病気になればといつもねがっていたわ。そうなれば、日夜の看護ができるんですものね。でも、病気になったのはたった一度だけ、それも学校でね。お前の手助けをしてあげたいのよ。これがただひとつの機会になるわけ。そして、たぶん、いつかお前がりっぱな画家になったとき、お前はわたしのことを忘れず、わたしが皮切りをつけてあげたのを思い出してくれるでしょう」
「ほんとうにありがたいことです」フィリップはいった。「とても感謝してますよ」
彼女のつかれた目に微笑が浮んできたが、それは、まじり気のない幸福な微笑だった。
「ああ、うれしいことよ、とても」
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四十
数日して、フィリップの見送りのために、ケアリー夫人は駅まで出かけていった。彼女は、客車の入り口に立って、こみあげてくる涙をおさえようとし、フィリップは落ち着きがなく、むきになっていた。早くここを去りたかったのだった。
「さあ、もう一度キスをして」彼女はいった。
彼は、窓からからだを乗りだして、彼女にキスをした。汽車は動きだし、彼女は、小さな駅の木造のプラットフォームに立って、汽車の姿が消えるまで、ハンカチをふりつづけていた。彼女の心はとても重く、牧師館までのわずか数百ヤードの道のりが、とても、とてもながいものに思われた。あの子がああしてむきになってゆきたがっているのは、当然のこと、まだ少年の身、将来が手招きしているのだから、と彼女は考えた、ところが、わたしは――ここで、泣きだすまいと、彼女は歯を噛みしめた。神さまがあの少年をお守りになり、誘惑を受けず、幸福と幸運をお授けくださいますように、とささやかな祈りを心の中でささげていた。
だが、フィリップは、客車で落ち着くとすぐ、伯母のことを忘れてしまった。考えていたのは、ただ将来のことだけだった。もう、ヘイウォードが紹介してくれたあの世話係りのオッター夫人に手紙を出し、つぎの日のお茶への招待状をポケットにもっていた。パリに着くと、荷物を馬車に乗せ、灰色の街路、橋、ラテン地区のせまい道をとおって、ゴロゴロとゆっくり馬車で進んでいった。もうオテル・デ・ドゥー・エコルでひと部屋をとってあり、そのホテルは、モンパルナス大通りから折れてはいった薄ぎたない道にあった。そこは、彼が勉強にゆくアミトラーノの学校にかようのには便利なとこだった。給仕が荷物の箱を六階までもっていってくれ、フィリップは小さな部屋に案内された。
そこは、窓が閉っていたので、ムッとし、場所の大部分は、赤い横うね織りの天蓋《てんがい》のかかった大きな木製の寝台でしめられ、窓には、同じ織り物のずっしりとしたきたないカーテンがかかっていた。箪笥《たんす》は、同時に、洗面台にもなり、あの善良な王さまだったルイ・フィリップふうのどっしりとした衣裳箪笥があった。壁紙は時代で色変りし、浅黒い灰色、褐色の葉の花環模様がぼんやりと浮んでみえた。フィリップには、この部屋は、風変りでおもしろく思えた。
時刻はもうおそかったが、興奮で寝つかれず、彼は、外に出て、大通りにゆき、そこから光のほうに向けて歩きだした。こうして、停車場のあるとこに出たが、アーク灯で活気をおび、そこを縦横に切っているように思えた黄色の電車でさわがしい駅前広場をみると、よろこびの高笑いがこみあげてきた。まわり一面にカフェがあり、喉が乾き、群集をもっと間近にながめたい強い欲求にかられて、フィリップは、ゆき当りばったり、カフェ・ド・ヴェルサイユの外の小さなテーブルに坐りこんでしまった。ほかのテーブルには、ぜんぶ、人が腰かけていた。気持ちのいい夜だからだった。フィリップはジロジロと人びとをながめ、ここには小さな家族づれ、あそこには妙な恰好の帽子をかぶり、奇妙な髯をつけ、大声で語り、大げさな身ぶりをしている一団の男たちと、あたりをみまわしていた。彼のとなりに、画家ふうの男ふたりが、フィリップの見るところでは、どうしてもれっきとした妻とは思われない女といっしょに坐っていた。彼の背後では、アメリカ人が大声で芸術論を戦わせていた。ゾクリとする歓喜の情が、心を走った。つかれてはいながらも、幸福感で動けなくなって、おそくまでそこに坐りこみ、とうとう寝台に横になったときでも、目は冴え、パリの立てるさまざまな物音に耳を澄ませていた。
つぎの日、お茶の時刻のころに、彼はリヨン・ド・ベルフォールにゆき、ラスパイユ大通りからはいった新しい街路に、オッター夫人の住まいをみつけた。この女は、齢は三十くらい、いなかふうの、故意に貴婦人ぶった、つまらない女性、彼を自分の母親に紹介した。すぐに彼にわかったことだったが、彼女は、パリで三年間、絵の勉強をつづけ、さらにその後、夫と離別したことを知った。彼女の小さな応接間には、彼女が描いた一、二枚の肖像画がかけられ、未熟なフィリップの目には、それがすばらしいものに映った。
「あんなにみごとに描けるようになるもんでしょうかね?」彼は彼女にいった。
「まあ、きっとできるようになりますよ」すっかりいい気持ちになって、彼女は答えた。「もちろん、ぜんぶを一度にやろうとしたって、できないことですけれどね」
とても親切な女だった。紙ばさみ、画用紙、木炭を買える店の場所を教えてくれた。
「明日九時ごろに、アミトラーノにいくつもりよ。そのとき、そこにいらっしゃったら、いい場所をとるとか、そういったことの要領を教えてあげるわ」
どんなことをしたいのだ? と彼女にたずねられ、フィリップとしては、漠然とした考えしかもっていないのを相手にさとられたくはなかった。
「そう、まず第一に、画法を勉強したいんです」彼は答えた。
「そのお話、とてもいいことよ。人はみんな、一気に片づけようとしているんですものね。わたしが油絵の具に手をつけたのは、学校にはいってから二年してからのことなのよ。その結果をみてごらんなさい」
彼女は自分の母親の肖像画をチラリとながめたが、それは、ピアノの上にかけられたベトベトした感じの絵だった。
「それに、もしわたしがあなただったら、おつき合いするお友だちにもとても用心することよ。わたし、外国人とは交際しないでしょう。わたし自身も、とても用心しているのです」
この注意に感謝はしたものの、なにか奇妙な感じだった。フィリップとしては、特別警戒しようという気はなかったからである。
「わたしたち、イギリスにいるのとそっくり同じふうに暮しているのです」このときまでほとんど口をきかないでいたオッター夫人の母親はいった。「ここに来たとき、家財ぜんぶを運んできたんですからね」
フィリップは部屋をみまわした。そこにはひとそろいの大きな家具がみっしりとつまり、窓には、ルイーザ伯母さんが牧師館で夏に使うのと同じレースの白カーテンがかけられてあった。ピアノにはリバーティ絹(ロンドンのリバーティ商社が売っている絹)がかけられ、炉棚も同様だった。オッタクー夫人は、彼の動く視線を追っていた。
「夜、シャッターをおろすと、まるでイギリスにいるような感じよ」
「食事も、国にいるのとそっくり同じふうにしています」母親がいいそえた。「朝には肉の朝食、お午《ひる》には正餐にしてね」
オッター夫人と別れてから、フィリップは絵の道具を買いにゆき、翌朝、時計が九時を報じると、自信満々といったそぶりをみせつけようとしながら、学校に出かけていった。オッター夫人は、もう来ていて、やさしくほほ笑みながら、近づいてきた。彼は、新米(フランス語)としてどんなあつかいを受けるか、と心配していた。いろいろなアトリエで新参者が受ける手荒な冗談話をたくさん読んでいたからだった。だが、オッター夫人は、この彼を安心させてくれた。
「まあ、そんなこと、ここにはないことよ」彼女はいった。「ほら、生徒の半分くらいはご婦人でしょ。それが、ここの雰囲気の基調になっているの」
アトリエは大きく、ガランとし、壁は灰色、そこには賞を受けた習作がいくつかピンではりつけてあった。モデルの女がひとり、ゆるいおおいをからだにかけて、椅子に坐り、十人ほどの男女がその近くに立ち、話をしたり、スケッチをつづけたりしていた。いま、モデルの最初の休憩時間だった。
「最初、あんまりむずかしいことはやらないほうがいいことよ」オッター夫人はいった。「画架は、ここにおいたらいいでしょう。ここがいちばんらくなポーズですからね」
フィリップは、指示された場所に画架をすえ、オッター夫人は、彼のとなりに坐っていた若い女に彼を紹介した。
「こちらはケアリーさん――こちらはプライスさん。ケアリーさんは未経験の方なの。最初の手ほどき、してくださることね、どう?」それから彼女はモデルのほうに向き、「ポーズ」(フランス語)と声をかけた。
モデルは読んでいた新聞の『小共和国』(一八七五年に創刊された左翼系の日刊紙)をポイと投げ、不機嫌にガウンをぬぎすてて、台の上に立った。彼女はしっかりと両脚を踏みしめ、両手を頭のうしろで組んで、ポーズをとった。
「バカげたポーズだこと」プライス嬢はいった。「どうしてあんなポーズをとらせるのかしら?」
フィリップがはいっていったとき、アトリエにいた人たちは彼をジロジロとながめモデルは冷淡な一|瞥《べつ》を投げたが、いまはもう、彼のことを気にしなくなっていた。フィリップは、きれいな紙を前にひろげて、ぎごちなくモテルをジッとみつめた。どうはじめたものか、見当もつかなかった。それに、いままで、裸の女をみたことがなかった。モデルは若くはなく、乳房はしなびていた。生気のぬけた金髪がきたならしく額にかかり、顔は大きなそばかすだらけ。チラリとプライス嬢の絵に目を投げてみた。それは、描きだしてからわずか二日のもの、だいぶ苦労しているようだった。たえず消しているために、紙はもうめちゃめちゃ、フィリップの目にも人物が妙にゆがんでみえた。
「あのくらいなら自分にもできると思っただろうな」彼は考えていた。
頭からはじめて、だんだんと下のほうにうつっていこうと考えていたが、なぜかはわからないが、想像で描くのより、モテルの頭を写すほうがズッとズッとむずかしかった。もう、にっちもさっちもいかなくなった。プライス嬢をチラリとみると、ひたむきな深刻さで、一生けんめいやっていた。むきになって眉を寄せ、目には不安げなようすがあらわれていた。アトリエの中はムンムンと暑く、彼女の額には汗の滴《しずく》が浮かんでいた。この女は二十六、豊かな髪は、にぶい黄金《こがね》色だった。それは美しい髪だったが、無造作にたばねられ、あわただしくうしろで巻かれていた。大きな顔で、造作はだだっぴろく、ぺしゃんこな感じ、目は小さく、肌はたるんで、妙な不健康さを思わせ、頬には赤味がぜんぜんさしていなかった。なにか不潔な感じがあり、着換えをせずに服のまんま寝こんでいるのではないか、と思わずにいられなかった。彼女は真剣で、おしだまっていた。つぎの休憩時間になると、うしろにさがって、自分の作品をながめていた。
「どうしてこう苦労するのかしら?」彼女はひとりごとをいった。「でも、なんとかちゃんとやることよ」それから、彼女はフィリップのほうに向いた。「そちらの具合はどう?」
「ぜんぜんだめですよ」わびしげにニヤリとして、彼は答えた。
彼女は彼の描いたものをながめた。
「そんなやり方じゃだめ。まず、寸法をとらなきゃね。それには紙に碁盤《ごばん》目をひかなければいけないの」
それをどうするかを、彼女はさっさと教えてくれた。フィリップはそのひたむきさには打たれたものの、魅力のなさには辟易《へきえき》だった。彼女が教えてくれた指示に感謝して、ふたたび仕事にとりかかった。そのあいだに、ほかの人たちがはいってきたが、大部分は男だった。それというのも、早く来るのは、いつも女たちにきまっていたからである。アトリエは、この季節(まだ早い季節だった)にしては、かなりいっぱいだった。やがて、ひとりの青年があらわれたが、髪は薄くて黒く、鼻はとてつもなく大きく、馬を思わせるほどながい顔をした男だった。彼はフィリップのとなりに坐り、フィリップ越しに、プライス嬢にコクリとうなずいた。
「とてもおそいのね」彼女はいった。「いま起きたばかりなの?」
「とてもすばらしい日だもの、床で横になったままで、外がどんなに美しいかと想像をめぐらしたほうがいいかな? と思ったくらいさ」
フィリップはニヤリとしたが、プライス嬢はそれをまともに受けとった。
「それは、変なことよ。起きて楽しんだほうがズッと図星だ、とわたしなら考えるとこなんだけど……」
「ユーモアの道というやつは、苦難の道でね」青年は大まじめでいった。
仕事をする気はないらしく、自分のキャンバスに目をやった。もう色をぬりはじめていて、いまポーズをとっている女性のスケッチは、前の日にできあがっていた。彼はフィリップのほうにふり向いた。
「最近、イギリスから来たんですかね?」
「ええ」
「アミトラーノには、どうして来るようになったんです?」
「学校といえば、それしか知らなかったのでね」
「将来自分に少しでも役立つものを学ぼうなんぞという料見で、まさか来たんじゃないんでしょうな?」
「ここはパリ随一の学校よ」プライス嬢はいった。「芸術を真剣に考えてるただひとつの学校なんですものね」
「芸術は真剣に考えるべきものかな?」青年はたずねたが、プライス嬢のそれにたいする応答は、軽蔑したようにただ肩をすくめただけだったので、さらにいいそえた、「だが、問題は、どんな学校もみんなだめ、ということ。明らかに、アカデミー的なんだもんね。たいていの学校よりこの学校のほうか害が少ないわけは、ほかのとこよりここの授業法が無能なためさ。なにも学ばない以上……」
「じゃ、きみはどうしてここに来たんです?」相手の言葉を切って、フィリップはたずねた。
「よりよき道はあれど、それにしたがわず(オウィディウスの『転身物語』七ノ二〇の言葉)というやつさ。教養のあるプライス嬢なら、そのラテン文を知ってるはずなんだが……」
「そちらの話からわたしを除外してもらいたいもんね、クラットンさん」ぶっきらぼうにプライス嬢はいった。
「絵を勉強するただひとつの方法は」いささかも動揺せずに、彼はつづけた、「アトリエを借り、モデルをやとい、自分でがんばるだけだね」
「ほう、それはじつに簡単なことですな」フィリップはいった。
「問題は金だけさ」クラットンは答えた。
彼は描きはじめ、フィリップは横目でその彼をながめた。背が高く、ひどく痩せ、大きな骨はからだからつきだしているようだった。肘はすごくとんがり、きたならしい上衣の袖《そで》からとびだしているようにみえた。ズボンの下はほぐれ、靴のどちらにも不細工なつぎはぎの皮が当ててあった。プライス嬢は立ちあがり、フィリップの画架のほうにやってきた。
「クラットンさんがちょっとだまっていてくれたら、少しお手伝いしてあげるんですけどね」彼女はいった。
「プライス嬢がぼくを憎んでるのは、ぼくにユーモアがあるため」自分のキャンバスを考えこんでみつめながら、クラットンはいった、「だけど、ぼくを忌《い》みきらってるのは、ぼくが天才だからさ」
彼は厳粛な調子で話し、巨大で不恰好な鼻は、彼の話をじつに奇妙なものにしていた。フィリップは笑わずにはいられなかったが、プライス嬢の顔は、怒りで赤黒くなった。
「天才のために自分は困ってるといってる人は、当人のあなただけなのよ」
「それに、ぼくは、その意味が自分にじつにとるに足りないものになってる唯一の人物でもあってね」
プライス嬢は、フィリップの描いたものを批判しはじめた。解剖と構成、面と線、フィリップにはわけのわからないほかのいろいろのことを、じつに流暢《りゅうちょう》にしゃべり立てた。このアトリエにながいこと籍をおき、先生たちが強調する要点は心得ていたが、フィリップの作品のいけない点の指摘はできても、それをどうなおしたらいいか、その点になると、彼女はなにもいえなかった。
「こんなに骨を折っていただいて、ほんとうにありがとう」フィリップはいった。
「まあ、なんでもないことよ」ばつがわるそうに顔を赤らめて、彼女は答えた。「ここにはじめてやってきたとき、わたしも同じことをしてもらったの。わたしも、だれにでも、それをしてあげるつもりよ」
「自分の知識の利点をきみに授けているのは、きみのからだになにか魅力があるためというより、義務心からなんだ、とプライス嬢はいおうとしてるんだよ」クラットンはいった。
プライス嬢は激怒の面《おもて》を彼に投げ、自分の絵にもどっていった。時計は十二時を打ち、モデルは、ホッとした叫びをあげて、台からおりた。
プライス嬢は自分の道具をしまいこんだ。
「昼ご飯をグラヴィエで食べてる人もあることよ」クラットンにチラリと目をやって、彼女はフィリップにいった。「わたしは、いつも、家にいってるんだけど……」
「よかったら、グラヴィエにご案内するよ」クラットンはいった。
フィリップは礼をいい、すぐにもゆこうとした。外に出ようとすると、どんなふうだった、とオッター夫人が彼に問いかけてきた。
「ファニー・プライスに助けてもらったこと?」彼女はたずねた。「あなたをあそこにおいたのは、その気になれば、それをしてくれると思ったからなの。感じのよくない、ひねくれ娘で、絵はぜんぜんだめなんだけれど、|こつ《ヽヽ》は心得ていてね、新しい人には役に立つ存在なのよ、それをする気になればの話ですけどね」
道を歩いていきながら、クラットンは彼にいった、
「きみはファニー・プライスに好印象を与えたんだよ。用心したほうがいいぜ」
フィリップは笑いだした。これほど好印象を与えたくない人物は、ほかにいなかったからである。ふたりは小さな安レストランにいったが、そこで何人かの生徒が食事をしていた。クラットンは、三、四人の男がもう坐りこんでいるテーブルに腰をおろした。一フランで、卵ひとつ、ひと皿の肉、チーズ、|ぶどう《ヽヽヽ》酒の小びんが出て、コーヒーは別勘定だった。みんな舗道の席をとり、黄色の電車が、絶え間なくチンチンと鐘を鳴らして、大通りをいったりきたりしていた。
「ところで、きみの名前は?」腰をおろすと、クラットンはたずねた。
「ケアリーです」
「ひとつ、むかしからの親友を紹介するけどね、名はケアリー」大まじめで、クラットンはいった。「こちらは、フラナガン君に、ローソン君」彼らは笑って、話をつづけた。その話は種々さまざま、みんな同時にしゃべり立て、ほかの者がいっていることは、耳にも入れていなかった。話題は、夏にいった場所、アトリエ、いろいろの学校で、そこにはフィリップになじみのない名前、モネ、マネ、ルノアール、ピサロ、がとびだしてきた。ちょっと仲間はずれになった気分にはなりながらも、フィリップはそれにジッと聞き入り、うきうきとしたよろこびで心をおどらせていた。時間は、羽根が生えたように、どんどんとすぎていった。クラットンは立ちあがっていった、
「もしよかったら、ぼくは、今晩、ここに来るはずだよ。ラテン地区でいちばん安く消化不良にかかりたかったら、ここはまず一流ともいえる場所なんだからね」
[#改ページ]
四十一
フィリップは、モンパルナス大通りを歩いていった。オテル・サン・ジョルジュの決算のために春にやってきたときのパリとは、似てもつかぬものだった――彼は、もう、その当時のことを、身ぶるいをしながらきらっていた――が、目に映るパリは、いなかの町がこうかと思っていたものを、思い起させた。そこには屈託のない雰囲気が流れ、陽ざしにあふれたひろびろとした場所は、人の心を白日夢にさそいこんだ。小ぎれいに刈りこんだ木、くっきりとした白い家、ひろびろした感じは、快適で、彼はもうすっかりくつろいでいた。人びとをジッとみながら、ブラリブラリ歩いていった。じつにありきたりなもの、幅広の赤い飾り帯とダブダブのズボンをはいた労働者、きたならしいが魅力的な制服の軍人、こういったものにも、優雅さがただよっているようだった。やがて、オブセルヴァトアール通りに出たが、そこの堂々とはしながらも、じつに優雅なみとおしのきく景色をながめて、歓喜のため息がもれてきた。リュクサンプールの庭園にいくと、そこでは、子供たちがたわむれ、ながいリボンをつけた乳母が、ふたりずつ組になって、そぞろ歩きをし、せわしい男たちは、カバンをかかえて、さっさととおり、青年たちの服装は奇妙だった。この景色は、形のととのった、優美なもの、自然はきちんと整理統合されていたが、その方法はじつにすばらしく、そうした整理の手を加えていない自然は、いかにも野蛮に思われた。
フィリップは、もううっとりしていた。何回となく本で読んだ場所に立っていることだけで、興奮した。彼にとって、そこは古典的な場所だった。畏怖と歓喜の情に満たされていたが、これは、スパルタのほほ笑みかけてくるあの平原をはじめてながめたときの老学者の気持ちと同じものだったのかもしれない。
ブラブラ歩いてゆくと、ベンチにひとりで坐っているプライス嬢の姿が目にはいった。彼は、ちょっとモジモジした。このとき、だれとも話をしたくはなかったし、彼女のやぼったい物腰が、自分をつつんでいるように思えた幸福感の最中《さなか》にあって、そぐわぬものと映ったからだった。だが、侮辱にたいする彼女の敏感さはそれとなくわかること、それに、先方がこちらに気づいている以上、彼女に話しかけたほうがいいだろう、と彼は考えた。
「ここでなにをしているの?」彼が近づいていくと、彼女はたずねた。
「楽しんでるんですよ。きみもそうじゃないんですか?」
「ああ、四時から五時まで、毎日、ここに来ることにしてるの。ぶっつづけに勉強をしたってだめとわかってるんですもんね」
「しばらくそこに坐ってもいいですか?」彼はたずねた。
「坐りたかったらね」
「これはご挨拶ですね」彼は笑った。
「わたし、きれいごとをペチャクチャいえる女じゃないの」
フィリップは、ちょっととまどって、だまったまま、タバコに火をつけた。
「クラットンがわたしの絵のことで、なにかいってたこと?」いきなり、彼女はたずねた。
「いいや、なにも話してはいなかったようですよ」フィリップは答えた。
「あの男は、いいこと、だめなのよ。自分じゃ天才と思ってるけど、そうじゃないわ。ひとつには、なまけ者すぎてね。天才とは、努力をする無限の能力なのよ。ただひとつ重要な点は、せっせとはげむことだけ。なにかことをなしとげようと決心したら、それをやらずにはいられないもんなんですからね」
彼女は情熱的なひたむきさをこめて語っていたが、これは、彼をギクリとさせた。黒の水兵用の麦稈《むぎわら》帽をかぶり、あまりきれいとはいえないブラウス、それに、褐色のスカートを着けていた。手袋をはめず、手は洗わずに不潔だった。じつに魅力のない女、話しかけなければよかった、とフィリップが思ったくらいだった。自分がここに坐りつづけていいのかどうか、彼にはわからなくなった。
「あなたのためなら、できるだけのことをしてあげることよ」いままでの話とはおよそ関係なく、彼女はいきなりいいだした。「どんなに苦しいもんか、わかってるんですからね」
「ほんとにありがとう」フィリップはいい、ちょっと間をおいて、語りつづけた、「どこかでお茶でも飲みませんか?」
彼女はサッと彼をながめ、みるみる顔が赤くなった。赤くなると、彼女のたるんだ肌は奇妙なまだら模様になり、まるでくさった|いちご《ヽヽヽ》とクリームといったものになった。
「いいえ、やめとくわ。だって、わたしにお茶がどうだというの? たったいましがた、昼のご飯を食べたばっかしですもん」
「時間つぶしになると思ったからですよ」フィリップはいった。
「退屈だったら、わたしに構うことはないことよ。ひとりになったからといって、べつにどうということじゃないんですからね」
そのとき、ふたりの男がとおりすぎたが、褐色のビロードの上衣、とてつもなく大きなズボン、バスク(スペインのピレーネ山脈地方に住む種族)ふうの帽子をつけ、ふたりとも若かったが、頬髯をつけていた。
「ねえ、あれは美術学生なんですか?」フィリップはたずねた。「まるで『ボヘミアンの生活』からぬけだしてきたようですね」
「アメリカ人よ」バカらしいといったふうにプライス嬢はいった。「フランス人は、ここ三十年間、あんなものは着てなくってよ。でも、極西部地方(ロッキー山脈以西、太平洋岸一帯の地方)から来るアメリカ人は、あんな服を買いこみ、パリについたその翌日に、あの服装で写真をとってもらうの。それが、あの連中の芸術に近づける極限といったとこよ。でも、そんなこと、問題じゃないの。なにしろ、みんな金持ちぞろいなんですもんね」
そうしたアメリカ人の思いきったはでな服装を気に入っていたフィリップは、それがロマンティックな精神の表示と考えていた。プライス嬢は彼に時間をたずねた。
「アトリエにいかなければならないわ」彼女はいった。「スケッチのクラスに出ること?」
フィリップは、そのことをぜんぜん知らず、毎夕五時から六時までモデルが来て、五十サンティーム出せば、だれでもスケッチができることを、彼女から知らされた。毎日ちがったモデルがきて、とても勉強になる、ということだった。
「まだ、あなたにはむりだことね。もう少し待ったらいいわ」
「でも、やってみてもむだじゃないでしょうよ。ほかにする仕事って、べつにないわけなんですからね」
ふたりは立ちあがって、アトリエにいった。その態度からいって、プライス嬢が自分の同行を望んでいるのか、ひとり歩きを望んでいるのか、フィリップには見当がっかず、彼がついていったのは、ただまったくのとまどいのため、どう彼女と別れたものかわからなかったからだった。だが、彼女は話をせず、彼の質問にそっけない返事をしていた。
男がアトリエの戸口に立ち、そのもっている大きな皿に、入場者は半フランを入れていた。アトリエには、午前よりもっと人がつめかけ、イギリス人とアメリカ人が圧倒的というわけではなく、女もそうたくさんはいなかった。そこに集った連中こそ自分の期待どおりのもの、とフィリップは感じた。とても温かく、すぐにそこには悪臭が立ちこめてきた。このときのモデルは、大きな頬髯の老人で、フィリップは午前ちゅうに習ったわずかな技術を実行にうつしてみようとした。だが、どうにもうまくいかなかった。思ったとおりはなかなか描けぬものということが、しみじみとわかってきた。自分の近くに坐っている男たちの一、二のスケッチを、彼はうらやましそうにチラリとながめ、自分はああしてうまく木炭を使えるようになるものだろうか? と考えた。一時間はまたたく間にすぎていった。プライス嬢の邪魔になってはと考えて、彼は彼女からちょっとはなれて坐り、時間が終って、外に出てゆきながら彼女のわきをとおりぬけようとしたとき、彼女は、どんな調子だった? と木で鼻をくくったようにたずねかけてきた。
「たいしたことはありませんよ」彼はニヤリとした。
「お高くとまらずに、わたしのそばに坐ってたら、多少のヒントは与えてあげられたのにね。ちょっといい気になりすぎてるんじゃないこと?」
「いいや、そうじゃなかったんですよ。こちらでは、そちらの荷になってはと、心配してたんですからね」
「そうだったら、わたし、ピシャリとはっきりいうことよ」
彼女が、無骨な彼女なりに、彼を助けようとしているのが、フィリップにわかった。
「ええ、そんなら明日は、遠慮なくそばに坐りますよ」
「構わないことよ」彼女は答えた。
フィリップは外に出ていったが、さし当って、夕食までの身のふり方が問題だった。なにかこれぞと思うことをしたかった。そう、アブサンだ! もちろん、それはメニューに出ている。そこで、駅のほうにブラブラと歩いていって、あるカフェの舗道席に坐って、それを注文した。それを飲んだときの感じは、胸のむかつぎと満足感の入りまじったものだった。味はたまらなくいやだったが、精神的効果はすばらしかった。寸分|隙《すき》ない美術学生になった感じだった。空《す》きっ腹に飲んだので、すぐに気分はすごく昂揚《こうよう》してきた。群集をジッとみているうちに、すべての人間が兄弟のように思えた。幸福だった。グラヴィエに着いたとき、クラットンが坐っているテーブルはいっぱいだったが、フィリップがびっこをひいてはいってくる姿をみかけるとすぐ、クラットンは声をかけ、彼のために席が空けられた。そこの食事は粗末で、スープ、ひと皿の肉、果物、チーズ、|ぶどう《ヽヽヽ》酒半びんだけだったが、フィリップは、食べ物には一向お構いなしだった。
注意を向けていたのは、テーブルに坐っていた連中だった。フラナガンがまた来ていた。彼はアメリカ人で、明るい顔と笑いのこぼれる口許をした、獅子鼻の、背の低い青年だった。大胆な型のノーフォーク・ジャケットを着こみ、首には青の幅広の襟《えり》飾りをまきつけ、妙な恰好のツイード織りの帽子をかぶっていた。その当時、ラテン地区を支配していたのは印象主義だったが、古い諸派にたいするその勝利はつい最近のもの、カローリュス・デュラーン、ブーグロウとその亜流が、マネ、モネ、ドガと対立していた。後者を高く評価するのは、まだ、洗練ぶりの誇示の気配が強いものだった。ホウィスラー(イギリス在住のアメリカ人の画家)は、イギリス人とアメリカ人のあいだで人気が高く、目の高い人びとは、日本の版画の蒐集《しゅうしゅう》をやっていた。古大家(一五〜一七世紀の大画家をいう)は新しい標準で評価を受け、何世紀にもわたってラファエロが受けてきた尊敬は、聡明な青年の嘲笑の種になっていた。国立美術館にあるベラスケスの描いたフィリップ四世の頭をもらえたら、ラファエロの作品ぜんぶをすてても惜しくはない、といった調子だった。芸術論が激しく戦わされているのが、フィリップにわかった。昼食のときに会ったローソンが、彼の真向いに坐っていた。彼は、そばかすだらけの顔と赤い髪の痩せた青年だった。青い目はキラキラと輝いていた。フィリップが腰をおろすと、ローソンは目を彼の上にすえて、いきなりいいだした、
「ラファエロは、他人の像を描いてたときには、まあまあといったとこだったんだがね。ペルジーノとかピントゥリッキオを描いてたころは、魅力的だったよ。だが、自分の像を描いたときには」ここで、軽蔑的に肩をすくめた、「ラファエロになりさがっちまったんだ」
ローソンのすごい勢いにおされて、フィリップは唖然《あぜん》としていたが、フラナガンがイライラして口をつっこんできたので、返事をしなくてもすむことになった。
「ああ、芸術なんて糞《くそ》っくらえだ!」彼は叫んだ。「ジンで酔っ払ったほうがズッとましさ」
「きのうの晩、酔っ払ってたじゃないか、フラナガン」ローソンは応じた。
「あんなもんなんて、今晩飲む酒にくらべたら、問題じゃないぞ」彼は答えた。「せっかくパリに来てるのに、のべつ幕なしに芸術論議をやらかすなんて、とんでもないことさ」彼の言葉は、西部なまりむきだしだった。「まったく、生きてるのは、すばらしいことなんだぞ」からだの姿勢をしっかりさせて、彼は拳でテーブルをドンとたたいた。「芸術なんて、まったく、糞っくらえだ」
「それをいうばっかしじゃなく、何回もくりかえされるのには、もううんざりだね」クラットンは、きびしくいった。
テーブルに、もうひとりのアメりカ人がいた。彼は、フィリップが、その日の午後、リュクサンブールでみてすばらしいと思った男たちと同じ服装をしていた。きれいな顔をし、痩せて、禁欲的、目は浅黒く、奇妙な服を海賊のように颯爽と着こみ、そのフサフサとした豊かな髪の毛は、いつも目にかぶさり、芝居がかったふうに頭をサッとうしろにふって髪を払いのけるのが、特徴的な身ぶりになっていた。この男は、マネの『オランピア』のことを話しだしたが、それは、その当時、リュクサンブールに出品されていたものだった。
「きょう、一時間、あの絵の前に立ってたんだが、あれは、たいしたもんじゃないね」
ローソンは、ナイフとフォークを下においたが、緑色の目は光を発したよう、激怒であえいだ。だが、けんめいになって冷静になろうとつとめているのがわかった。
「教養のない野蛮人の話って、とてもおもしろいもんだな」彼はいった。「どうしてたいしたもんじゃないのか、ひとつ教えてもらえないかね?」
相手のアメリカ人が返事をまだしないうちに、だれかほかの者がむきになって口をつっこんできた。
「あの絵に描かれている肉体をみて、それがたいしたもんじゃない、というつもりなんかね?」
「そうはいわんよ。右の乳房はすばらしいできだと思ってるよ」
「右の乳房なんて、糞っくらえだ!」ローソンは叫んだ。「ぜんたいが奇跡的な絵なんだぞ」
彼はその絵の美しさを微に入り細《さい》をうがって説明しだしたが、グラヴィエのこのテーブルでながながとしゃべり立てる連中は、自分の勉強のために、それをしているのだった。だれも彼の話なんて聞いてはいなかった。例のアメリカ人は、プリプリして、相手の話を切った。
「あの頭がりっぱと、まさかいうんじゃないんだろうな?」
ローソンは、いま怒りで顔面を蒼白にして、その顔の弁護をはじめた。だが、上機嫌ながらも顔に軽蔑の色を浮かべてジッと坐っていたクラットンが、ここで口を入れた。
「あんな頭なんか、ローソンにくれちまえ。頭なんかに用はないんだ。絵とは関係のないもんなんだからな」
「よーし、あの頭はきみにやろう」ローソンは叫んだ。「頭を受けとって、糞っくらえというとこだ」
「黒い線はどうなんだね?」スープにふれんばかりになっている髪を勝ちほこったようにかきあげて、アメリカ人が叫んだ。「自然界で、物のまわりに黒い線なんてあるのかね?」
「ああ、神さま、天から火を投げおろして、この冒涜《ぼうとく》者を焼き殺してください」ローソンはいった。「自然がそれとどんな関係があるというんだ? 自然界になにがあるのか、ないのかなんて、だれにもわからないことだ! この世が自然をみるのは、芸術家の目をとおしてのこと。まったく、何世紀ものあいだ、馬が垣根をとびこえるとき、世間は、脚ぜんぶがのびてるもんとみてたんだ。そして、たしかに、のびてたんだよ。世間は陰を黒と見立て、モネが出てはじめて、色のあることがわかったんだ。まったく、黒だったんだぜ。黒い線で物をつつみたいと思ったら、世間は黒い線をみるだろうし、黒い線が出てくるだろう。われわれが草を赤に、牝牛を青に染めたら、世間はそれを赤と青にながめ、まったく、それは赤と青になるのさ」
「芸術なんて地獄堕ちしろだ」フラナガンはつぶやいた。「おれは、酔っ払いたいんだ」
ローソンは、こんな邪魔なんか、気にもとめなかった。
「いいかね、『オランピア』がサロン(毎年パリでもよおされる現代美術展覧会)に出品されたとき、ゾラ(フランスの自然主義文学の全盛をもたらした小説家)は――俗物どもの冷笑と、型にはまった連中、芸術院会員と大衆の嘲笑の最中《さなか》にあって――ゾラはいったんだよ、マネの絵が、いつの日か、アングル(フランス古典派の画家)の『オダリスク』と向い合せに、ルーヴルで飾られることになり、その比較で勝利を得るのは、『オダリスク』ではなくなるだろう、とね。きっと、そこにおさまることになるぞ。一日一日とその時はせまってるんだ。十年したら、『オランピア』はルーヴルを飾ることになるぞ」
「絶対にあるもんか」垂れかかる髪をここを先途とばかりかきあげようとして、両手でそれをやりながら、アメリカ人は叫んだ。「十年したら、あの絵は死滅さ。一時の流行だけのことだ。絵がながく生命をつづけるには、あの絵が絶対にもってないあるもんが必要なんだ」
「そのあるもんって、なんだい?」
「道徳的本質なくして、偉大なる芸術は存在し得ずさ」
「いやあ、驚いたぞ!」ローソンはカンカンになって叫んだ。「そんなこったろうと思ってたよ。道徳が必要なんだってさ」彼は、両手を組み、祈るように、それを高くかかげた。「おお、クリストファー・コロンブス、クリストファー・コロンブスよ、きみがアメリカを発見したとき、なんということをしてくれたんだ!」
「ラスキンによると……」
だが、まだそれ以上いわぬうちに、クラットンがナイフの柄でテーブルを激しくガンとたたいた。
「諸君」きびしい声で彼はいい、大きな鼻は激怒でしわくちゃになっていた、「まともな人間のあいだで二度と聞くことは絶対にないと信じていた名前が語られたんですぞ。言論の自由は結構。だか、ふつうの礼儀作法には限界があるんですぞ。話したかったら、ブーグロウも結構。その音には、笑いをさそう陽気な醜悪さがあるんですからな。だが、J・ラスキン、G・F・ウォッツ、E・B・ジョウンズといった者の名で、われわれの純潔な唇をけがすのは、やめにしなければいかんな」
「とにかく、ラスキンって、何者だい?」フラナガンはたずねた。
「偉大なヴィクトリア時代の人物のひとりさ。英語の文体の大家だ」
「ラスキンの文体――ふん、ボロボロの華麗《かれい》な字句だけのことさ」ローソンはいった。「その上、偉大なヴィクトリア時代の人物なんて、糞っくらえだ。新聞を開き、偉大なヴィクトリア時代の人物の死を知るたびに、またひとりくたばってくれた、と神に感謝してるよ。やつらの能力ときたら、ただ長生きするだけのこと。芸術家たる者は、四十以上生きてはならんのだ。そのときまでに、最高の作品はもう出し、その後することといったら、ただもうくりかえしだけ。キーツ、シェリー、ボニントン(イギリスの風景画家)、バイロンが若死したのは、彼らにとって最高の幸運だったと思わんのかい? 『詩とバラッド』の第一集の出版の日に死んでたら、スウィンバーン(イギリスの詩人)はすごい天才と思われたことだろう!」
この言葉は、みなをうれしがらせた。テーブルの連中は、だれも二十四を出ず、大よろこびでそれに酔い痴れた。このたびだけは、満場一致の決議で、このために、みんな頭をあれこれとひねった。四十人の芸術院会員の作品を焼いて大かがり火をつくり、偉大なヴィクトリア時代の人物は、四十歳の誕生日に、その火の中に放りこんでしまえ、という案が出た。この提案は、拍手喝采でむかえられた。カーライルとラスキン、テニソン、ブラウニング、G・F・ウォッツ、デイケンズ、サッカレーは、さっさと火になげこまれた。グラッドストーン氏、ジョン・ブライトとコブテン(いずれもイギリスの政治家)も、同断だった。ジョージ・メレディスについては、ちょっと議論が戦わされたが、マシュー・アーノルドとエマソンは、陽気に放りだされた。最後に、ウォルター・ペイターの番になった。
「ウォルター・ペイターの焚刑《ふんけい》には反対」フィリップがつぶやいた。
ローソンは、例の緑の目で、一瞬彼をにらみつけ、ついで、うなずいた。
「きみのいうとおりだ。ウォルター・ペイターは、『モナ・リザ』の唯一の味方だからな。クロンショーを知ってるかい? ペイターと交際してたそうなんだ」
「クロンショーって、だれです?」フィリップはたずねた。
「詩人さ。ここに住んでるよ。リラにいこうじゃないか」
クロズリ・ド・リラは、夕食後、彼らがよく出かけていくカフェで、クロンショーは、夜九時から明け方の二時まで、ここの定住者になっていた。だが、フラナガンは、今夜の知的会話でもううんざりというわけで、ローソンがいこうといいだすと、フィリップのほうにふり向いた。
「いやあ、まったく、女の子のいるとこにいこうじゃないか」彼はいった。「ゲイテ・モンパルナス(モンパルナスにある演芸場)がいい、それから、酒だ」
「しらふでクロンショーに会いにいきますよ」フィリップは笑いながら応じた。
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四十二
ワイワイというさわぎが起きた。フラナガンと二、三の者は演芸場にゆき、フィリップは、クラットンとローソンとつれ立って、クロズリ・ド・リラにブラリブラリと歩いていった。
「きみは、ゲイテ・モンパルナスにいくべきだったね」ローソンは彼にいった。「そこは、パリ切ってのすばらしいとこなんだからな。いずれ近く、そこを描いてみようと思ってるんだ」
フィリップは、ヘイウォードの影響で、演芸場を軽蔑の目でみていたが、彼がパリに着いた当時、演芸場の芸術的可能性が発見されたばかりのときだった。独得な照明、きたならしい赤とよごれた黄金色のかたまり、陰と装飾の線のもつ重苦しさが新しいテーマを提供し、ラテン地区のアトリエには、こうした演芸場のどこかで描いたスケッチを見受けるのは、珍しいことではなかった。文人たちは、画家にみならって、こうした出し物や芸人に芸術的価値をいきなり発見し、赤っ鼻の喜劇役者は、その性格感覚で、すごくもちあげられ、ながいこと名も知られずにわめき立ててきた太った女の歌手は、まねのできないおどけの持ち主とわかり、曲芸の犬に美的よろこびを発見する者あり、奇術使いや軽業自転車乗りをほめたたえようと賛辞のかぎりをつくす者あり、といった状態だった。
大衆もまた、べつの影響のもとで、好意的関心の対象になっていた。ヘイウォードといっしょになって、フィリップは集団としての人間を軽蔑していた。自分を孤独の中につつみこみ、俗衆のおどけた挙動を嫌悪感でジッと見守る人の態度を彼はとっていたが、クラットンとローソンは、大衆のことを熱っぽく語っていた。パリのさまざまな市《いち》に満ちあふれているわきかえる群集、アセチリン灯のギラギラした光の中になかば浮び、暗闇の中になかばかくれている大海のようにひろがった顔、顔、顔、ラッパの音、口笛のやじり、人声のどよめきを、彼らは口にしていた。彼らの言葉は、フィリップには、耳新しく、奇妙なものだった。彼らはクロンショーのことを話した。
「彼の作品、読んだことあるかい?」
「いいえ」フィリップは答えた。
「『イェロウ・ブック』(世紀末の頽廃的唯美主義の機関誌)に載せられたもんだがね」
彼らは、画家がよく作家をみるように、クロンショーをみていた。すなわち、俗人である点で軽蔑、芸術をたのしんでいる点で寛容、自分たちが不安を感ずる手段を用いる点で畏怖の念をもって、彼をみていた。
「あいつは、とてつもないやつでね。最初はちょっとがっかりするかもしれんが、酔っ払うと、いちばんいいとこが出てくるんだ」
「そして、困ったことに」クラットンはいいそえた、「酔っ払うまでにすごく時間がかかるのさ」
カフェに着くと、ズッと奥まったとこにいくんだ、とローソンはフィリップに知らせた。秋の気配とはいっても、べつにピリッとしたところはなかったが、風に当るのをクロンショーは病的にこわがり、どんな温かな季節でも、店の奥に坐るのだった。
「知るべき人物はみんな知ってるんだ」ローソンは説明した。「ペイターとオスカー・ワイルドを知ってるし、マラルメ(フランス象徴派の代表的詩人)とその一党も知ってるよ」
目当ての対象は、カフェのいちばん遮蔽《しゃへい》された隅で、上着を着こみ、襟《えり》を立てて坐っていた。帽子を額に深々とかぶっていたが、これは冷たい風に当るまいという考えからだった。大柄な男で、太ってはいたものの、肥満とまではいかず、まるい顔をし、小さな口髭を立て、小さな目はまぬけじみていた。顔は、からだに似合わず、小さく、卵の上に不安定にのせられた豆のようだった。フランス人相手にドミノをやっていて、静かな微笑を浮かべて新しくはいってきた連中に挨拶をした。口こそきかなかったが、みなに場所を空けようといったふうに、テーブルの上に積みあげた受け皿の小さな山を向うにおしやったが、これだけでも、彼がもうどんなに飲んでいるかがわかった。
フィリップの紹介を受けると、クロンショーは彼にうなずき、ドミノをつづけた。フィリップのフランス語の知識は貧弱だったが、この彼にも、もう何年かパリ滞在をつづけているクロンショーのフランス語がどんなにひどいものかがわかった。
とうとう、勝ちほこった微笑を浮べて、彼は背をそらせた。
「勝ったぞ」(フランス語)まったくひどい調子で、彼はいった。「給仕!」(クロンショー独特のなまりを入れたフランス語)
彼は給仕を呼び、フィリップのほうに向いた。
「つい最近イギリスから来たんだね? クリケットの試合はみたかね?」
思いもかけぬ質問を浴びせられて、フィリップはドギマギした。
「過去二十年間の一流クリケットの選手ぜんぶの平均得点を、クロンショーは知ってるんだよ」ローソンは、ニッコリして、説明した。相手のフランス人はべつのテーブルの自分の友人たちのほうにいってしまい、クロンショーは、彼の特徴になっているノロノロとしたものぐさな発音ぶりで、ケントのチームとランカシャーのチームの比較上の特質を語りはじめた。最近みたクリケットの優勝決定戦の模様を語り、柱門《ウイケット》から柱門への進行ぶりを細かに述べ立てた。
「パリにいて残念に思うのは、クリケットの試合だけだな」給仕がもってきたビールの杯を飲み乾して、彼はいった。「きみはクリケットがわからないんだな」
フィリップはがっかりし、ラテン地区の名物男を、当然のことながら、大いにみせびらかしたがっていたローソンは、イライラしていた。わきにある受け皿からみても、少なくとも酔っ払おうと努力しているのはたしかだったが、その夜は飲み明かそうと、クロンショーはゆっくり時間をかけていた。この情景をクラットンはおもしろそうにジッと見守っていたが、このクロンショーのクリケットに関する微に入り細《さい》をうがった知識には、なにか気どりといったものがある、と考えていた。相手がはっきりとうんざりしている話をもちかけて、その連中をジリジリさせるのは、クロンショーの好んでやることだった。クラットンは質問を投げこんだ。
「最近マラルメに会ったかい?」
その質問を心の中で考えこんでいるように、クロンショーはゆっくりと相手をながめ、答える前に、受け皿のひとつで大理石のテーブルをポンとたたいた。
「おれのウィスキーのびんをもってこい」彼は叫び、またフィリップのほうに向いた。「ここには専用のびんをおいてあるんだ。わずかな量の酒に五十サンティームをいちいち払うなんて、とてもできんことだからね」
給仕はびんを運び、クロンショーは灯りにそれをかざした。
「やつら、飲みやがつたな。給仕、勝手に飲んだのはだれだ?」
「とんでもない、だれももやりませんよ、クロンショーさん」
「きのうの晩、しるしをつけといたんだ。みてみろ」
「しるしをつけても、それからあと、飲みつづけておいででしたよ。あんな調子だったら、しるしをつけても、時間のむだ使いでしかありませんよ」
給仕は快活でおもしろい男、クロンショーと懇意だった。クロンショーは彼をジッとみつめた。
「酒を飲んだのは余人ならずこの自分なんだ、ときみが貴族、紳士としての名誉にかけた誓いの言葉を述べるなら、それを信用することにしよう」
この言葉は、じつに生硬なフランス語に翻訳されたので、とてもおかしな感じ、帳場の女将《おかみ》はプッと吹きだしてしまった。
「おもしろい方だことね」彼女はつぶやいた。
クロンショーは、この女の言葉を耳にして、彼女にひどく照れくさそうな視線を投げ――女はでっぷりとした、女将ふうの中年女だった――重々しくこの女に投げキスをした。彼女は肩をすくめた。
「心配することはないよ、マダム」ものうげに彼はいった。「四十五の女にただありがたやありがたやでひきずりこまれちまう歳は、これでも、もうすぎてるんだからね」
彼は、自分の杯にウィスキーと水をついで、ゆっくりと飲み、手の甲で口をぬぐった。
「とてもよくしゃべってたよ」
ローソンもクラットンも、クロンショーのこの言葉がマラルメについての質問にたいする応答とわかっていた。マラルメは、火曜日の晩に、文人や画家を招き、そこで出されるどんな問題についても、たくみな雄弁で語っていたが、クロンショーはこの集合によく出席した。最近彼がそこにいったのは、明らかだった。
「とてもよくしゃべってたよ。だが、内容はつまらんもんだったな。芸術について語ったが、芸術こそこの世でいちばん大切といった調子でね」
「そうでなかったら、どうしてぼくたちは、いま、ここにいるんです?」フィリップはたずねた。
「どうしてきみたちが、いま、ここにいるのか、ぼくは知らんよ。こっちの知ったこっちゃないんだからな。だが、芸術は贅沢《ぜいたく》品さ。人間が重要と思ってるのは、自己保存、それに人間の繁殖だけなんだ。作家や画家や詩人が提供する楽しみに心を向けようとする気になるのは、こうした本能が満たされたときだけのことなんだよ」
クロンショーはちょっと話を切り、酒を飲んだ。酒を愛するのは、それが自分をしゃべらせるためか、会話を愛するのは、それが彼に喉の渇《かわ》きをおぼえさせるためかは、彼がここ二十年間考えこんできた問題だった。
それから、彼はいった、「きのう、詩をひとつつくったよ」
たのまれもしないのに、彼はその朗読をはじめ、それは、とてもゆっくりとしたもので、人さし指をのばして、そのリズムをとっていた。それは、たぶん、じつにりっぱな詩だったのだろうが、ちょうどそのとき、若い女がひとりはいってきた。その唇は真っ赤、頬のいきいきとした色合いが性格の野卑さによるものでないのは、明らかだった。まつ毛と眉毛を真っ黒に染め、まぶたの両方は大胆に青くぬりあげ、それは、目尻の三角のところまでひかれていた。それは、奇妙で、おもしろいものだった。黒味がかった髪は、耳の上で、マドモアゼル・クレオ・ド・メロード(美容師、または女優の名であろう)で人気のあるものになった型で結《ゆ》いあげられていた。フィリップの目は、この女のほうに流れていったが、自分の詩の朗読を終えたクロンショーは、この彼にやさしい微笑を投げかけた。
「きみは聞いていなかったね」彼はいった。
「いいえ、聞いてましたよ」
「きみを責めてるんじゃないよ。ぼくがいってたことのじつに適切なる例に、きみはなってたんだからね。愛情にくらべたら、芸術なんてなんだ? というわけさ。この若いご婦人のケバケバしい魅力にうっとりできるんなら、美しい詩に無関心でいても、ぼくはそれに敬意を払い、拍手喝采するよ」
この女は彼らが坐っていたテーブルのわきをとおっていったが、彼はその腕をとらえた。
「さあ、ひとつおれのわきに坐っておくれ。そして、愛の神曲でもかなでることにしようや」
「うるさいことよ」女はいい、彼をわきにおしのけて、そのブラブラ歩きをつづけた。
「芸術とは」片手をひとふりして、彼はつづけた、「才のある連中が、食と女を与えられたとき、生活の退屈さをしのごうと発明した逃避所にすぎんのだ」
クロンショーは、ふたたび、杯をいっぱいにし、ながながとしゃべりだした。朗々とした話しぶりで、言葉も注意深く選択されていた。知識とバカげたことが、じつに驚くべきふうに、まぜこまれ、一瞬大まじめになって聞き手をからかうかと思うと、つぎの瞬間には、ふざけてしっかりとした忠告を与えていた。彼は、芸術、文学、人生を語った。彼は順ぐりに敬虔になったかと思うとみだらに、陽気になったかと思うと涙を流していた。すごく酔っ払って、詩を、自分自身のものと、ミルトンの詩、自分自身のものとシェリーの詩、自分自身のものとクリストファー・マーロウ(シェイクスピアの先輩に当たる劇作家)の詩を朗読した。
とうとう、ローソンはヘトヘトになり、立ちあがって家に帰ろうとした。
「ぼくも帰りますよ」フィリップはいった。
みなの中でいちばんだまっていたクラットンは、あとにのこり、皮肉な微笑を口許に浮かべて、クロンショーのダラダラとつづく話に聞き入っていた。ローソンはフィリップのホテルまでいっしょに来て、それからおやすみの挨拶をいって帰った。だが、床にはいると、フィリップは眠れなかった。無造作に自分の前に投げだされたあの新しいさまざまな観念が、彼の頭の中でわきかえった。ひどい興奮だった。自分の中に大きな力が湧いてくるのが感じられた。こうまで自信満々になったのは、ついぞないことだった。
「きっと偉大な画家になれるぞ」彼は考えた。「それが感じとれるからだ」
べつの考えが浮んでくると、彼はゾクリとしたが、それは、自分自身にも言葉に出していえないものだった。
「たしかに、自分は天才にちがいない」
彼は、たしかに、ひどく酔ってはいたが、ビール一杯以上は飲んでいなかったので、アルコール以上に心を酔わすもっと危険なものによってそれがひきおこされているとしか思えなかった。
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四十三
火曜日と金曜日には、午前中、先生たちがアミトラーノにやってきて、作品の批評をしてくれた。フランスで、肖像画を描き、金持ちのアメリカ人の贔屓《ひいき》を受けなければ、画家はほとんどもうけにならず、有名な画家も、たくさんある絵のアトリエのどこかで週に二、三時間つぶし、収入をふやそうとしていた。ミシェル・ロランがアミトラーノにやってくる日は、火曜日だった。白い顎髯をつけ、血色のいい肌をした初老の男で、多くの装飾画を描いて政府に納めた人物だったが、このために、教えている学生たちの嘲笑を買っていた。アングルの弟子で、芸術の進歩を受けつけず、マネ、ドガ、モネ、シスレーといった道化《どうけ》の一団にはプリプリと怒っていたが、慇懃《いんぎん》で、ためになり、元気をふるい立たせてくれる優秀な先生だった。金曜日にこのアトリエにやってくるフォアネは、それとは逆に、なかなかの気むずかし屋だった。小さな、しわだらけの男で、虫歯だらけ、気むずかしい態度をし、灰色の顎髯は不精ったらしく、目つきは狂暴なほど荒々しく、声は高く、皮肉な調子がこもっていた。絵はリュクサンブールに買いあげられ、二十五歳で大きな将来を期待された。だが、彼の才能は、個性によるというより、若さによったもの、ここ二十年間、若くして名声を獲得することになった風景画をくりかえし描いているだけだった。変化のなさをなじられても、彼は答えていた、
「コローは同じものばかり描きつづけていた。それを自分がして、どうしていけないんだ?」
彼は、成功者といえばだれでも嫉妬し、印象派の画家にたいしては、個人的な独得の嫌悪感をいだいていた。きたならしい犬ともいえる大衆をその作品にひきよせてしまったあの気ちがいじみた流行こそ自分の失敗の根源、と思いこんでいたからだった。印象派の画家をいかさま師と呼ぶ程度のミシェル・ロランのおだやかな侮蔑《ぶべつ》にたいして、彼のは悪口|雑言《ぞうごん》で、淫蕩《いんとう》とか下賤はまだ序の口、彼らの私生活までののしり立てて溜飲《りゅういん》をさげ、皮肉な諧謔と冒涜的でみだらな細かな話まで入りまぜて、出生のうしろめたさや夫婦生活の不純に攻撃をかけた。口ぎたない軽蔑を強調するために、東洋的な比喩と東洋的な強勢法まで使っていた。自分が担当する学生の作品にたいしても、軽蔑の念をかくそうとはせず、学生の憎悪と恐怖を買い、痛烈な皮肉で、ときどき、女の学生に涙を流させ、それがまた、彼の嘲笑をかき立てることになった。彼の攻撃でひどい目にあった学生たちの抗議にもかかわらず、彼はこのアトリエから追われずにいたが、これは、疑いもなく、パリで一流の画家であるためだった。いまはこの学校の経営者になっているもとのモデルが、勇気をふるいおこして、ときに抗議をしたが、この画家のものすごい傲慢《ごうまん》の前ではすぐにヘコヘコになり、面目まるつぶれになってわびを入れる始末だった。
フィリップがはじめてぶつかったのは、このフォアネだった。フィリップが学校に着いたとき、彼はもうアトリエにいた。画架から画架へと歩きまわり、世話係りのオッター夫人につきそわれていたが、彼女の役目は、フランス語がわからない学生のためにフォアネの言葉を通訳することだった。フィリップのわきに坐っていたファニー・プライスは、せっせと熱心にやっていた。神経を立てて顔を青白くさせ、ときどき、描く手を休めて、不安で熱をおびた手をブラウスでぬぐっていた。いきなり、不安そうな顔をして、彼女はフィリップのほうに、ふり向いたが、その不安を、不機嫌な渋面をつくって、かくそうとしていた。
「これでいいと思うこと?」自分の絵にコクリとやって、彼女はたずねた。
フィリップは背をのばして、それをみたが、びっくりしてしまった。まったく、目もないも同然、描かれたものは絵はおろかといった代物《しろもの》だった。
「こちらじゃ、その半分もうまく描けたらと思いますよ」
「最近はじめたばっかしですもの、それはむりよ。わたしくらいに描こうなんて、ちょっと虫がよすぎるわ。わたし、ここにもう二年もいるのよ」
フィリップは、ファニー・プライスにとまどいを感じていた。そのうぬぼれは、とてつもないものだった。アトリエの全員が腹の底から彼女をきらっているのを、フィリップはもう知っていたが、それは、もっともなことだった。わざわざ人の心を傷つけることをやっていたからである。
「フォアネのことだけど、わたし、オッターさんに文句をいったの」彼女はここで切りだした。
「この二週間というもの、わたしの絵をみてもくれないのよ。世話係りだというので、オッターさんには三十分くらいもかけてるのにね。結局んとこ、わたしの月謝だってみんなと同じ、わたしのお金だって同じ値打ちがあるもんでしょ? ほかの人と同じくらいの注意を向けてもらってもいいはずよ」
彼女は、また木炭をとりあげたが、すぐに、うめきながら、それを下においてしまった。
「もうこれ以上、どうにもならないわ。ひどく神経が立ってね……」彼女はフォアネに目をやったが、彼は、オッター夫人をともなって、こちらのほうに来ようとしていた。おとなしく、平凡で、いい気分になっているオッター夫人は、いかにももったいぶった態度を示していた。フォアネは、ルース・チャリスという薄ぎたないイギリスの小女の画架のところに腰をおろしたが、この女の目は黒くて美しく、けだるげな態度をしながらも情熱的、痩せた顔は禁欲的でありながらも官能的、肌は古い象牙のようだったが、こうした肌は、バーン=ジョウンズの影響のもとで、チェルシー(ロンドンの南西部で、文人・画家が住んでいた)に住む若い女たちが、当時、愛好していたものだった。フォアネは、どうやら、ご機嫌がいいらしく、この彼女にそう言葉はかけなかったが、彼女の木炭で素早くサッと線を描いて、そのあやまちを指摘した。彼が立ちあがると、チャリス嬢の顔はよろこびで輝いた。つぎはクラットンの番になり、なんとか、うまくとりはからってやるとオッター夫人はいっていたものの、このときまでにもう、フィリップもワクワクになっていた。フォアネは、しばらく、クラットンの絵の前に立ち、だまったまま親指を噛んでいたが、まるで心ここにあらずといったふうに、噛みとった皮膚の切れをキャンバスにパッとはきかけた。
「これはいい線だ」気に入った個所を親指でさして、彼はとうとう口を開いた。「どうやら絵の|こつ《ヽヽ》がわかりはじめたようだね」
クラットンは、なにも答えず、世間の意見にたいするいつもの皮肉のこもった無関心ぶりで、この先生をみつめた。
「少なくとも才能は多少ある、と考えてもいいようだ」
クラットンをきらいなオッター夫人は、口をすぼめた。彼女のみるところ、彼の絵にべつにどうということもなかった。フォアネは腰をおろし、専門的な細部の話をしだした。オッター夫人は、立っているのにもううんざり、クラットンはなにもいわなかったが、ときどきうなずき、フォアネは、自分がいっていることとその理由を相手がつかんだものと、ご機嫌だった。大部分の学生は彼の話に聞き耳を立てていたが、ぜんぜんわかっていないのはたしかだった。それから、フォアネは立ちあがり、フィリップのところに来た。
「おととい来たばかりなんです」オッター夫人はあわてて説明した。「まだはじめたばかりで、絵の経験はぜんぜんありません」
「わかってる」先生はいった。
彼は歩みを進め、オッター夫人は小声で彼にいった、
「こちらがさっきお話しした若いご婦人です」
彼は、まるで忌まわしい動物でもながめるように、彼女をながめ、その声はいっそう耳ざわりなものになった。
「きみに十分注意を払ってないと不平なようだね。きみは世話係りにこぼしていたんだ。よろしい、注意を払ってもらいたい絵をみせたまえ」
ファニー・プライスの顔は、サッと赤らんだ。不健康な肌の下の血は、妙な紫色になったようだった。なにも答えずに、彼女は週のはじめからとりかかっている絵を指さした。フォアネは坐りこんだ。
「うん、わしにどういってほしいんだね? いいといってほしいんかね? よくはないぞ。よく描かれてるといってほしいのかね? よく描かれてはいないぞ。いいとこがあるといってほしいのかね? それもないぞ。どこがいけないのか教えてほしいのかね? みんないけないぞ。それをどうしたらいいのか教えてほしいのかね? 破ってすてることだ。さあ、これで満足したかね?」
プライス嬢は蒼白になった。オッター夫人の前でこれをいわれただけに、ブルブルと怒り立っていた。ながくフランスに滞在し、フランス語は十分にわかっていたが、彼女はほとんど口もきけなくなっていた。
「わたしにこんなあつかいをする権利は、この人にありませんよ。わたしのお金だって、みんなと同じもんですよ。この人にお金を払ってるのは、教えてもらうため。これは、教えるなんていうもんじゃないことよ」
「この女、なんといってるんです? なんといってるんです?」フォアネはたずねた。
オッター夫人は通訳にたじろいでいたが、プライス嬢はひどいフランス語で同じことをくりかえした、
「教えてもらうために、お金を払ってるんです」
彼の目は激怒で燃えあがり、声を荒くして、拳をふった。
「畜生、教えたりはできるもんか。|らくだ《ヽヽヽ》に教えたほうが、まだまだらくなくらいだ」彼はオッター夫人のほうにふり向いた。「これを遊びでしてるのか、それとも、それで金をかせごうとしてるのか? ひとつきいてみてください」
「画家として暮しを立てようとしてるんです」プライス嬢は答えた。
「じゃ、きみは時間の浪費をしてると伝えるのが、わしの義務になってくる。きみに才能がなくっても、それは問題じゃない。当今、才能はそうざらにあるものじゃないんだからね。だが、きみときたら、適性の芽すらないんだ。ここにどのくらいいたんだね? レッスンを二度受けたら、五歳の子供だって、もっとましな絵を描くだろう。ひとつのことだけ、きみにいっておこう、こんな絶望的なこころみは放棄しろとね。画家としてより雑役婦として立ったほうが、まだかせぎになるだろう」
彼は木炭をつかみ、それで紙に描こうとしたが、それは折れてしまった。ののしり声をあげ、のこった木炭で、がっしりとした大きな線を幾本か素早く描き、それと同時にしゃべって、毒をこめてその言葉を吐きだした。
「いいかね、この腕は同じながさじゃない。この膝ときたら、グロテスクなもんだ。いいかい、五歳の子だって……。ほれ、これで二本の脚で立ってるといえるんかい? この足ときたら!」
ひと言ごとに、怒り立つ木炭はしるしをつけ、あっという間に、ファニー・プライスが多くの時間をかけてひたむきに描いてきた労作は、それとみわけがつかぬもの、ごったごたの線としみだらけのものになってしまった。とうとう彼は木炭をすてて、立ちあがった。
「お嬢さん、わしの忠告にしたがって、洋裁をやりなさい」彼は時計をみた。「十二時だ。諸君、ではまた来週」
プライス嬢はゆっくりと道具をしまった。フィリップは、ほかの連中よりあとにのこって、なにかなぐさめの言葉をかけてやろうとしたが、つぎの言葉以外には、なにも考えられなかった。
「いやあ、まったくお気の毒なこと。あの男、なんてひどいやつだろう!」
彼女は、ものすごい剣幕で、彼におそいかかってきた。
「ここで待ってたのは、そのためだったの? 同情は、こっちでおねがいしたときだけにしてちょうだい。どうか、向うにいってちょうだい」
彼女は、彼のわきをとおりぬけて、アトリエから出ていった。フィリップは肩をすくめ、昼食をしようと、びっこをひきながら、グラヴィエに歩いていった。
「ざまあみろっていうとこさ」フィリップが起きたことを話すと、ローソンはいった。「性根《しょうね》のわるいおひきずりめ」
ローソンは批判にたいしてとても敏感、批判を受けたくないので、フォアネが来るときには、絶対にアトリエに来なかった。
「自分の作品に他人の意見を加えられるなんて、いやなことさ」彼はいった。「いいかわるいかくらいは、自分でもわかってるんだ」
「というのは、自分の作品を他人にたたかれたくはない、ということさ」クラットンは冷淡にいった。
午後、フィリップは、リュクサンブールにいって絵をみよう、と思い立ち、庭園をとおりぬけようとすると、いつもの場所に立っているファニー・プライスの姿が目にとまった。自分が好意的になにかなぐさめの言葉をかけようとしたことにたいするあの無作法さに、彼の心は傷つけられていたので、さも気がつかないといったふうに、そこをとおりぬけていこうとした。だが、彼女はすぐに立ちあがり、彼のほうにやってきた。
「知らんぷりしていくつもりなの?」彼女は声をかけた。
「いや、もちろん、ちがいますよ。話しかけられるのはいやだろう、と思っただけなんですからね」
「あんた、どこにいくの?」
「マネをみたいと思ったんです。いろいろと話を聞いてるんですから」
「わたしがいっしょにいってはいけない? リュクサンブールは、とてもよく知ってるの。いいものをひとつかふたつなら、ご案内できることよ」
直接言訳をする気にはなれなくて、彼女がこうしてあの穴埋めをしているのが、彼にはわかった。
「それは、ほんとうにありがとう。とてもうれしいですね」
「ひとりでいきたかったら、むりすることはないことよ」どうかなといったふうに、彼女はいった。
「むりなんか、してませんよ」
ふたりは美術館に向って歩いていった。カイユボット(フランスの画家、印象派の画の蒐集家)の蒐集品が最近展示され、美術学生は、はじめて、印象派の作品を思うがままに鑑賞できるようになった。そのときまで、そうした作品をみるのは、ラフィット通りのデュラン=ルエルの店か(この画商は、画家にたいしてふんぞりかえっているイギリスの同業者たちとちがって、どんなみすぼらしい美術学生にたいしても、いつでもよろこんで、望みの作品をみせていた)、彼の自宅にゆかなければならなかった。火曜日のそこへの入場券を手に入れるのは、そう困難なことではなく、そこでは、世界的に有名な絵をみることができた。プライス嬢は、まっすぐ、マネの『オランピア』のところに彼を案内し、彼は、驚きに打たれてだまったまま、それをながめていた。
「好き?」プライス嬢はたずねた。
「なんともいえませんね」困って、彼は答えた。
「これはたしかなことだけど、あれは、ホウィスラーの母親の肖像はべつにして、ここで最高の傑作よ」
彼女は、ここで、彼にある時間を与え、この傑作を十分に鑑賞させ、それから、停車場を描いた絵のところに彼をつれていった。
「ほらっ、これがモネ」彼女はいった。「サン・ラザール停車場よ」
「でも、線路が並行じゃないな」フィリップはいった。
「そんなこと、どうだというの?」傲然とした態度で、彼女はたずねた。
フィリップは、恥ずかしくなった。ファニー・プライスは、アトリエでのおしゃべりの耳学問のために、なんの苦もなく自分の博学ぶりでフィリップに感銘を与えた。彼女はさらに、いろいろの絵の説明をし、態度は尊大だったが、洞察力がないわけではなく、画家の描こうとした点、どの点を観察しなければならないかを教えた。親指の大げさな身ぶりづきで、彼女は語り、彼女の言葉すべてが耳新しくひびいてきたフィリップは、とまどいを感じながらも、深い関心を寄せて、それに聞き入った。そのときまで、彼はウォッツとバーン=ジョウンズの礼賛者で、前者の美しい色彩、後者の気どった筆使いは、彼の美的感受性をすっかり満足させていた。このふたりの漠然とした理想主義、画題の下に秘められたちょっとした哲学的なにおいが、ラスキンの熟読から彼が得ていた芸術の任務とピタリ一致していた。だが、ここで示されたのは、まったくちがうものだった。ここでは道徳的に訴えるものはなにもなく、こうした作品をいくらながめても、人はより清く、より高い生活にみちびかれるわけではなかった。彼はとまどった。
とうとう彼はいった、「ねえ、もう参ってしまいましたよ。もうこれ以上、ためになるものは吸収できませんね。出ていって、どこかベンチに坐りましよう」
「絵は、一度にみすぎないほうがいいのよ」プライス嬢は答えた。
外に出ると、彼女の骨折りにたいして、彼は心から礼を述べた。
「まあ、いいのよ」ちょっとすげなく、彼女は答えた。「楽しいからしただけのことなの。よかったら、明日、ルーヴルにいってみましょう。それから、ジュラン=ルエルの店にも案内してあげるわ」
「ほんとうにありがとう」
「みんなが考えてるように、あんたはわたしのこと、ひどい女とは考えないでちょうだいね」
「ええ、考えませんよ」彼はニッコリした。
「あの人たち、わたしをアトリエから追い払おうとしてるのよ。でも、だめ。わたしは、好きなだけ、あそこにいるんですからね。今朝のあのこと一切、あれはルーシー・オッターのたくらみよ、わかってるの。あの女、いつも、わたしを憎んでるの。ああまでされれば、わたしが追ん出ると思ってるの。わたしに出ていってもらいたいんでしょうよ。自分のことを知られすぎてると、心配してるんだわ」
プライス嬢は彼にながい、複雑怪奇な話をしたが、それによると、月並で体裁《ていさい》ぶった小女のオッター夫人は、きたならしい情事にふけっているということだった。それから、その朝フォアネにほめられた娘のルース・チャリスについての話になった。
「あの女、アトリエの男という男と関係してんのよ。パンパンと同じことね。それに、きたならしいときたら! これは事実として知ってることなんだけど、月に一度もお風呂にはいらないのよ」
フィリップは、聞いていて、不愉快になってきた。チャリス嬢について、さまざまなうわさが流れているのは、もう耳にしていたが、母親といっしょに暮しているオッター夫人がみだらな生活を送っている女だなんて、笑止なことだった。悪意のこもった嘘を自分のわきにいる女がしゃべっているかと思うと、彼はゾッとした。
「みんながなんといおうと、構いはしないわ。わたしは、前と変らない生活をつづけるだけ。自分にそれがちゃんとあるのを知ってるの。自分は画家と感じとってるのよ。その気持ちをすてるくらいだったら、わたし、死んじまうわ。学校でみんなにあざけり笑われ、それから仲間のうちでのただひとりの天才であったことがわかる図、なにもわたしが最初というわけじゃないわ。芸術こそ、わたしが大切に思ってるただひとつのもの、全生涯をそれにささげても惜しくはないことよ。問題はただ、それにあくまで執着して、がんばりぬくことだけ」
自分の評価どおりに自分を受けとってくれようとしないすべての人間にたいして、彼女はとても信じられない動機をみつけだした。クラットンを忌みきらっていた。フィリップの友人のクラットンは能なし、その才能は、ただみせかけだけで、浅薄なもの、絶対に人間の姿ひとつ描けるもんではない、とフィリップに断言し、ローソンについては、こういっていた、
「赤毛で、そばかすだらけの、小さなけだものよ。フォアネにすっかりふるえあがってて、自分の絵をみせようとはしないの。結局んとこ、わたし、逃げたりかくれたりはしないことよ、どう? フォアネにどういわれようと、構いはしないわ。自分がほんとうの画家と知ってるんですもんね」
ふたりは彼女が住んでいる通りに着き、フィリップは、ホッと安堵《あんど》の吐息《といき》をもらして、彼女と別れた。
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四十四
だが、それにしても、つぎの日曜日に、プライス嬢がルーヴルにつれていってやろうといってくれたとき、フィリップはそれを受け入れてしまった。彼女は彼に『モナ・リザ』を示した。それをみたとき、ちょっと失望感を味わったが、ウォルター・ペイターがこの世界でいちばん有名な名画に美をそえたあの珠玉《しゅぎょく》の文字を、暗記するまで読みぬいていて、いまその言葉を、プライス嬢にくりかえして聞かせた。
「そんなこと、みんな文学の話よ」ちょっと軽蔑したように、彼女はいった。「そんなものからはなれなけりゃいけないわ」
彼女はレンブラントの絵を何枚か彼にみせ、それについての適切な多くの説明をした。彼女は、「エマオにおける使徒たち」の前に立った。
「この絵の美しさが味わえるようになったら」彼女はいった、「絵について多少わかったことになるのよ」
彼女は彼にアングルの『オダリスク』と『泉』をみせた。ファニー・プライスは、なかなか強引な案内人で、彼の望むものはみせようとせず、自分の賛美している作品に彼の賛美を強要した。自分の絵の研究にひたむきに没入し、なが画廊(新ルーヴルのセーヌ川に面する南翼のながい建物)のところで、ラファエリー(イタリア系のフランス人画家)が描いた絵のように、陽気で、明るく、優雅なテュイルリの大庭園をみわた窓辺をとおりすぎて、フィリップが思わず、「やあ、なんてすてきだろう! ちょっとここで足をとめましょう」と叫ぶと、彼女は冷たく、「ええ、いいことよ。だけど、ここに来たのは、絵をみるのが目的なのよ」と答えた。
陽気で活気にあふれた秋の空気は、フィリップをすっかりうきうきさせ、真昼近くなって、ルーヴルの大きな内庭に立ったとき、彼は、フラナガンのように、「芸術なんて糞っくらえ!」と叫びたくなった。
「ねえ、ブル・ミシュ(サン・ミシェル大通りの略称)のどこかレストランにいき、いっしょに軽い食事をしましょう」彼はいいだした。
プライス嬢は、うさんくさいといった顔をして、彼をながめた。
「家には昼ご飯がちゃんとあるのよ」彼女は答えた。
「そんなこと、構いはしないでしょう。それは明日にまわしたらいいんですからね。ぼくに昼食をおごらせてください、ぜひ」
「どうしてそんな気になるのか、わかんないことね」
「それで楽しいんですからね」ニッコリして、彼は答えた。
ふたりはセーヌ川をわたり、サン・ミシェル大通りの角のところに、レストランがあった。
「ここにはいりましょう」
「いいえ、ここはだめよ。お金が高くとられそうだもん」
彼女はグングンと歩きだしたので、フィリップは、仕方なく、そのあとにつづくことになった。ちょっと数歩進むと、もっと小さなレストランがあり、そこでは、陽よけの下の舗道で、もう十人余りの人が昼食をし、窓には、大きな白文字で、|ぶどう《ヽヽヽ》酒つき、昼食一・二五フラン、と書いてあった。
「ここより安いとこはないでしょう。それに、とてもきちんとしてますよ」
ふたりは空いたテーブルに腰をおろし、献立表でいちばん先に出てくるはずのオムレツを待っていた。フィリップは、うれしそうに、通行人に目をやり、彼の心はそこにすいよせられた。とてもつかれてはいたが、胸は幸福感でいっぱいだった。
「ねえ、あの労働服を着た男をみてごらんなさい。すばらしいじゃないですか!」
彼はチラリとプライス嬢をながめたが、ひどくびっくりしたことに、彼女は、うつりゆくあたりの景色には一向お構いなしに、目を伏せて自分の皿をみつめ、大きな涙がホロホロと頬に流れ落ちるのをみてしまった。
「いったい、どうしたんです?」彼は叫んだ。
「なにかわたしに言葉をかけたら、わたし、立ってすぐにいっちまうことよ」
彼はすっかりドギマギしてしまったが、運よく、そのとき、オムレツが運ばれてきた。彼はそれを半分にわけ、食事がはじまった。フィリップは、一生けんめい、なにかさしさわりのない話をしようとし、プライス嬢のほうでも、感じよくふるまおうと努力しているようだった。
だが、この昼食はうまく終ったとはいえなかった。フィリップは神経質な男、プライス嬢の食事の仕方で、食べる気が消されてしまった。彼女は、音を立て、ガツガツと、見せ物の動物園の野獣をちょっと思わせるようにして食べ、コースが終るごとに、パンの切れで皿が白く光るまでさらいあげ、まるで肉汁一滴でものがすまいといったふうだった。カマンベール・チーズが出たが、彼女が自分の分の皮までそっくり食べてしまうのをみて、フィリップはムカムカしてきた。飢えていてもこんな食べ方はすまいと思われるほど、ガツガツとした食べ方だった。
プライス嬢は、どうにもつかめぬ女だった。きょう仲よく別れたからといって、明日不機嫌で失礼な態度をとらぬものとは断言できなかった。だが、彼女から学ぶところは、大いにあった。自分では絵が描けないにしても、教えられるものはすべて心得、彼女がいつも与えてくれた言葉は、フィリップの上達の助けになった。オッター夫人も、彼にとってはためになる存在、そして、ときどき、チャりス嬢も、彼の作品の批評をしてくれた。ローソンの多弁、クラットンの手本からも、学ぶところがあった。だが、ファニー・プライスは、自分以外の者からフィリップが指導を受けるのをひどくきらい、だれかほかの者が彼に話しかけていたあとで、彼女の援助を依頼しても、ひどく無愛想に、それを断った。ローソン、クラットン、フラナガンといった連中は、彼女のことで、彼をからかった。
「用心しろよ、きみ」彼らはいった、「彼女はきみに惚れてるんだよ」
「ああ、バカバカしい!」彼は笑っていた。
プライス嬢がだれか男に惚れこむなんて、考えるだけでも、とてつもないことだった。彼女の醜悪、薄ぎたない髪、よごれた手、しみがついて、すそがボロボロになったいつも着ているあの褐色の服を思っただけでも、身の毛がよだった。金に困っているのだろうと思いはしたものの、金には困っている点ではみんなも同じ、少なくとも、彼女は身ぎれいにできたはずだった。針と糸であのスカートを小ぎれいにしようと思えば、たしかにできることだった。
フィリップは、接触することになった人たちの印象の分類をはじめた。いまはズーッとむかしのことに思われるハイデルベルクの当時ほど、もう純真ではなく、前よりもっと人間にたいする関心が強くなっていたので、検討と批判の精神も強くなっていた。クラットンはつかみにくい人物で、三ヵ月間毎日会っていても、はじめて知り合った日の印象とそう変らなかった。アトリエでのみなの受けた印象は、彼が有能、ということで、いずれすばらしいことをするだろうと考えられ、彼自身も同じ気持ちでいたが、彼がなにをしようと心で思い定めているのかという段になると、彼自身も、ほかのだれも、とんとわからなくなった。アミトラーノに来る前に、さまざまなアトリエ、ジュリアン、美術会《ボーザール》、マクファーソンで勉強し、ほかのどこよりアミトラーノにながく腰をすえていたのは、ほかより放りだしにしておいてくれる度合いが強いからだった。自分の作品をみせたがらず、たいていの若い絵の学生とはちがって、忠告を求めも与えもしたがらなかった。カンパーニュ・プルミエール(ここには多くのアトリエがある)の小さなアトリエは、彼の作業場と寝室になっていたが、そこにはすばらしい絵があり、そうした絵を世間にみせる気になりさえすれば、彼の名声は一挙にあがるだろう、とうわさされていた。モデルをやとおうにも金がなく、静物ばかりを描き、ローソンはいつも皿に盛った|りんご《ヽヽヽ》の絵の話をし、それは傑作、と賛美していた。クラットンは気むずかしく、自分がはっきりと把握《はあく》していないものをねらって、自分の作品には、全体として、いつも不満感をもっていた。部分的には彼をよろこばせるものがあるらしく、人物の前腕や脚ぜんたい、静物のコップや茶碗がそれで、彼はそれだけを切りとって保存し、キャンバスのほかの個所はすててしまった。そこで、人がおしかけて彼の絵をみようとしても、じっさい、みせる絵は一枚もない、としかいえなかった。ブルターニュで、だれも知らない画家と彼は出逢ったが、それは奇妙な男で、株の仲買人、中年で絵をはじめた人物、彼はこの男の作品から大きな影響を受けていた。印象派の画家にだんだんと背を向け、苦労して独自の道を開拓しようと努め、それは、画法ばかりでなく、物の見方にまでひろがっていた。フィリップは、この彼に、なにか独創的なものを感じとった。
食事をするグラヴィエで、夜はヴェルサイユやクロズリ・ド・リラで、クラットンは無口になりがちだった。痩せ細った顔に皮肉の色を浮べて、静かに坐り、警句をとばす機会があるときだけ、しゃべるのだった。嘲笑を浴びせるのを好み、皮肉の対象になる相手がいるとき、いちばん陽気になった。絵以外のことはほとんど口にせず、そうした話をするときでも、それなりの価値ありと考えた一、二の人物と話すだけだった。この彼に、ほんとうに、なにかひそんでいるものがあるのだろうか? とフィリップは考えていた。彼の寡黙《かもく》、やつれた顔、辛辣なユーモアは、個性の存在を思わせはしたものの、内容のなさをかくすのに効果的な仮面にすぎぬものかもしれなかった。
一方、ローソンとは、フィリップはすぐに親しくなった。多方面の興味の持ち主で、それは、彼を感じのいい話し相手に仕立てた。たいていの学生より読書家、収入はわずかでも、本を買うのが大好きで、気持ちよく人に本を貸し、そのお蔭で、フィリップはフローベル、バルザック、ヴェルレーヌ、エレディア(キューバ生まれのフランスの詩人)、ヴィリエ・ド・リラダン(フランスの小説家・劇作家・詩人)を知ることになった。ふたりはつれ立って芝居をみに出かけ、ときに、オペラ・コミックの最上階の桟敷《さじき》席にいった。すぐそばには、オデオン座があり、フィリップは、間もなく、ローソンの影響で、ルイ十四世時代の悲劇作家(コルネイユやラシーヌのこと)や音色朗々たるアレクサンドル格の詩行(ラシーヌの劇の書かれている詩行)に熱をあげることになった。テイブー通りにはコンセール・ルージュ(演芸場)があり、そこでは、七十五サンティーム出せば、すぐれた音楽が聞けるばかりか、おまけに、酒の類いまでふるまわれた。座席は坐り心地がよくなく、人がこみ、空気はきざみの安タバコで息がつけないほどムンムンしていたが、ふたりの情熱の若さにとって、そんなものは物の数ではなかった。ときどき、バール・ビュリエ《ダンスホール》に出かけ、このときには、フラナガンも同行だった。フラナガンがすぐ興奮してワイワイとさわぎだすのが、ふたりの笑いをさそった。彼はダンスの名人で、部屋にはいって十分もしないうちに、たったいま知り合ったばかりの小さな女店員と踊りまわっていた。
みなが例外なく望んでいたのは、情人をつくることだった。それは、パリの美術学生の必要欠くべからざる調度品で、それで仲間には一目おかれ、自慢の種にもなるわけだった。だが、ここで難点は、彼らがひとりで食ってもいけないほどの貧乏状態にあること、フランス女は利口者、ひとり分の金でふたりの口を食わせてくれる、と議論だけはしていたものの、自分たちと同じ見解をもってくれる若い女は、なかなかみつからなかった。彼らができることといえば、自分たちよりもっと安定した社会的地位をもった画家の贔屓《ひいき》を受けている女たちをうらやんだり悪口をいったりして、憂《う》さを晴らすことだけだった。じつに驚くべきことだが、こうしたことをするのは、パリではとても困難なことだった。ローソンは若い娘と知り合いになり、会う約束をとりつけ、まるまる一日、ワクワクしどおしで、だれ彼構わず、ながながとこの美人のことをしゃべり立てていたが、約束の時間に、この美女は姿をみせず終いになってしまった。夜おそくなって、彼はグラヴィエにプリプリしながらやってきて、叫んだ、
「ええ、糞いまいましい、こんどもまた意気地なしの女だ! どうしておれは女に惚れられないんだろう? フランス語がへたなせいかな? それとも、赤毛のせいかな? パリに一年以上もいるのに、女ひとり手に入れられないなんて、まったく頭にくるな」
「女のあつかいを知らないからさ」フラナガンはいった。
彼は、ながい、うらやむべき勝利の記録保持者だった。彼のいうことすべてをそっくり信じていたわけではなかったが、証拠をみせつけられれば、まんざら嘘をいっているわけではないと認めずにはいられなかった。だが、永続的な情事は、彼の求めているところではなかった。彼のパリ滞在は、二年間だけのものだった。大学にゆくかわりに、パリで絵の勉強をさせてくれ、と両親に説得したのだが、二年が終ると、シアトルにもどり、父親の商売をやることになっていた。その期間にできるだけの楽しみを味わおうと決心し、情事では、その持続期間より、多種多様の変化を求めていた。
「きみは、いったい、どうして女を手に入れるんだ?」ローソンはカンカンになっていった。
「べつにむずかしいことはないんだよ」フラナガンは答えた。「ただガンとやるまでのことさ。むずかしいのは、手を切ること。腕の冴えをみせるのは、その点だな」
フィリップは、絵の勉強、読書、芝居、聞き入っていた会話ですっかり心をうばわれ、女と交際したいといった心を起すどころでなかった。フランス語がもっとじょうずにしゃべれるようになったら、そうしたことをする時間はたっぷりあるものと考えていた。
ミス・ウィルキンソンと別れて以来、もう一年以上たっていた。パリに来た最初の何週間かは、とてもいそがしく、ブラックステイブル出発直前彼女が寄こした手紙に返事を書く暇はなかった。ついでもう一通来たとき、どうせ文句タラタラなものだろうと見当がつき、読む気にもならなかったので、彼はそれを放りだしておき、いずれ読むことにしようと考えていた。だが、それは頭からぬけてしまい、一ヵ月ほどして、穴のあいてない靴下をみつけようとひきだしをあけたとき、それに気がついた。封を切ってない手紙をみると、ドギマギせずにはいられなかった。ミス・ウィルキンソンはさぞ苦しんだろう、自分は人でなしだ、と思ったからである。だが、もういまごろは、彼女もなんとかしのぎをつけたろう、とにかく、いちばん苦しいところは乗り越えただろう。女というものは強い表現を使いたがるということも、心に浮んできた。男がそうした強い表現を使う場合とは、ちがうのだ、そうたいして意味があるものではない。どんなことがあっても、二度と彼女には会うまい、と決心した。手紙を書かぬままながい時間がすぎてしまったので、いまさら書くのは、意味のないことだった。手紙は読むまい、と腹をきめた。
「向うでも、手紙をくれることはないだろう」彼は考えた。「事が終ったのは、否応なくわかってるはず。結局のとこ、あの女は、自分の母親くらいの年輩の女、あんなバカなことはすべきでなかったんだ」
一時間か二時間、なにか心晴れぬ思いを、彼は味わっていた。彼の態度は、たしかに、正しくはあったが、それにしても、そのことすべてがすっきりしたわけではなかった。だが、ミス・ウィルキンソンは二度と手紙を寄こさず、彼が愚かにも心配していたように、いきなりパリに姿をあらわして、友人たちの前で彼を笑いの種にすることもなかった。しばらくすると、すっかり彼女のことは頭からぬけてしまった。
一方、彼は、以前の神々を完全に放棄した。印象派の絵を最初みて感じた驚きは、驚嘆の情に変り、やがて、ほかの連中におとらず、彼もむきになってマネ、モネ、ドガの偉大さをしゃべり立てた。アングルの『オダリスク』と、『オランピア』の絵の写真を買いこんだ。髯を剃っているときも、その美に接するようにと、洗面台にそれをならべてピンではりつけた。モネ以前に真の風景画はなかったもの、といまは確信し、レンブラントの『エマオにおける使徒たち』やベラスケスの『蚤《のみ》に鼻を咬《か》まれた女』の前に立つと、ゾクリとくる感動をおぼえた。それは、この絵のほんとうの画題ではなかったが、グラヴィエでは、画に描かれた女にちょっと感じのよくない特徴があるにせよ、その絵の美しさを強調するために、そうした名前が特別そこの女につけられていた。ラスキン、バーン=ジョウンズ、ウォッツといっしょに、パリにやってきたとき着けていたシルクハットと、白い斑点のある小ぎれいな青いネクタイをかなぐりすててしまい、いまは、やわらかいつば広の帽子、なびく黒のネクタイ、ロマンティックな型の肩マントを得意然と着こんでいた。モンパルナス大通りを闊歩《かっぽ》するさまは、生れてこの方ここで育ってきたといったようす、せっせと根《こん》をつめて、アブサンをおいしく飲めるように腕をあげた。髪はのび放題《ほうだい》にし、髯を立てなかったのは、ただ、造化の神が思いやりの情をもたず、青年の不滅のあこがれにケロリとした冷淡な態度しかとってくれなかったためだった。
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四十五
自分の友人たちを活気づけている精神は、ほかならずクロンショーの精神だということが、すぐにフィリップにわかってきた。ローソンの逆説も、クロンショーから由来するものだった。個性の追求につとめているクラットンでさえ、知らず知らずのうちにこの年長者から身につけた言葉で、自分の意見を語っていた。テーブルで議論をかわしているのは彼の思想で、彼の権威にもとづいて、彼らは自分の判断をくだした。無意識に彼にささげている敬意の代償にと、彼らは彼の弱点に嘲笑を浴びせ、彼の堕落を嘆いているのだった。
「もちろん、かわいそうに、あの老クロンショーはなにもせず終いになるだろうよ」彼らはいった。「まったく、どうにもならん男だ」
クロンショーの天才を買ってるのは自分たちだけ、というのが、彼らの自慢の種だった。中年者の愚行にたいする青年の軽蔑で、仲間のあいだでこそ、彼の頭をなでてやるといった態度をとっていたが、いざクロンショーだけが断然頭角をあらわす段になると、彼らはそれをいつもほこりの種にしていた。クロンショーがグラヴィエに来たことは、一度もなかった。過去四年間、クロンショーは、グラン・ゾギュスタン河岸のひどいあばら屋の七階の小部屋で、ローソンだけがただ一回しか会ったことのない女と、ひどくむさくるしい同棲生活をしていた。ローソンは、そこの物ぎたなさ、不潔さ、乱雑さを、いかにも楽しそうに話していた。
「その上、あの悪臭ときたら、鼻毛も枯れちまうくらいだよ」
「おい、食事のときには勘弁してくれ」仲間のひとりが文句をつけた。
だが、鼻をおそってきた悪臭をこと細かになまなましく伝えるのを、彼はやめようとはしなかった。自分のリアリズムぶりにすっかり酔って、ドアをあけてくれた女の描写をこまごまとした。まだ若い、肌の浅黒い、小柄な、太った女で、黒い髪は、いつでも、いまにもくずれ落ちそうになっていた。不精ったらしいブラウスを着こみ、コルセットはつけていなかった。赤い頬、官能的な大きな口、輝く好色な目で、ルーヴルにあるフランツ・ハルス(オランダの肖像画家)の『ジプシー女』を思わせた。そのこれみよがしの野卑さは、おもしろくもあり、人の心をゾッとさせるものでもあった。みすぼらしい、よごれきった赤ん坊が、床の上で遊んでいた。ラテン地区のつまらない浮浪者とぐるになって、この自堕落女がクロンショーをだましているのは、周知の事実で、鋭い知性と美にたいする情熱をもったクロンショーがこんな女と結びつくなんて、カフェのテーブルで彼の知識を吸収している無邪気な青年たちにとって、まったく謎めいたことだった。だが、彼は、女の粗野な言葉を大いに楽しんでいるらしく、どん底社会のにおいがプンプンとする言葉をよく紹介し、彼女のことを、わが門衛の娘、と皮肉まじりにいっていた。すっかり尾羽打ち枯らして、一、二の英字新聞に絵の展覧会の記事を書いたりして、なんとか生活の資をかせぎ、翻訳も多少はやっていた。パリの英字新聞のスタッフだったが、酒のために首になり、それでもまだ、オテル・ドルオ(美術品の即売所)の売り立てや演芸場のレヴューの記事といった半端仕事を、その新聞社のためにやっていた。パリ生活が骨の髄《ずい》までしみこみ、そこのきたなさ、骨折り仕事、苦労にもめげず、それをほかのどんな生活にも変えようとしなかった。一年じゅうパリ暮しをし、ほかの連中がパリをはなれる夏にも、パリにいのこり、サン・ミシェル大通りから一マイル以内のところにいると、心のくつろぎを味わっていた。だが、奇妙なことに、彼の話すフランス語は絶対にまともではなく、ラ・ベル・ジャルディニエール(百貨店の名)で買いこんだ薄ぎたない服を着こんで、あくまでイギリスふうを失わなかった。
会話術が上流社会に通じるパスポートになり、飲酒癖が邪魔にはならなかった百五十年前の世界だったら、クロンショーは成功者になったことだろう。
「ぼくは十八世紀に生れるべきだったんだ」彼自身がいっていた。「ぼくに必要なのは、庇護者《パトロン》なんだ。予約で自分の詩を出版し、それをだれか貴族に献納するわけ。伯爵夫人のプードル犬のことを押韻二行連句で歌ってみたいもんだな。ぼくの心があこがれ求めてるのは、侍女たちの愛情と、主教たちの会話だよ」
そういって、ロマンティックなロラ(フランスの詩人ミュッセの一八三三年の詩『ロラ』の主人公)の言葉を引用した。
「われ来りぬ、あまりに老い果てしこの世に、あまりにもおそく」
彼は新顔ごのみで、フィリップがすっかりお眼鏡《めがね》にかなった。会話を思わせるだけの応答はし、ひとりぜりふの邪魔になるほどは口をきかないというむずかしい仕事を、フィリップがやっているようにみえたからだった。フィリップは、すっかりいい気分になっていた。クロンショーの言葉には新しいものがほとんどないのが、まだ、フィリップにわかっていなかった。会話で示される彼の個性は、奇妙な力をもっていた。美しい朗々とした声の持ち主で、その表現法には、青年を魅了するものがあった。語ることすべては、人の思考を刺激するように思われ、ときどき、家に帰る道すがら、ローソンとフィリップは、それぞれのホテルのあいだを歩きまわり、クロンショーのたまたまの言葉が暗示したある問題点の論議を戦わせた。若者らしく成果をむきになって求めるフィリップにとって、クロンショーの詩が期待どおりのものでないのは、とてもがっかりすることだった。それは、一冊の本になって出版されたことは一度もなく、大部分、定期刊行雑誌に載せたもので、いろいろと説得したあげく、クロンショーは、彼の詩が載っている『イェロウ・ブック』、『土曜日評論《サタデー・レヴュー》』(一八五六年創刊の週刊誌。一九三八年廃刊)、その他の雑誌からひきちぎったページの束をもちこんできた。だが、その大部分がヘンリー(イギリスの詩人・評論家)やスウィンバーンを思わせるものばかりなのを知って、フィリップはびっくりした。そうした詩を個性的なものに仕立てているのは、クロンショーのすばらしい朗読だった。この失望感をローソンに語ったが、ローソンは、軽率にも、その言葉をそっくりそのままクロンショーに伝えてしまった。そこで、フィリップがクロズリ・ド・リラにまた出かけていったとき、詩人は、ご機嫌とりのニヤニヤ笑いを浮べて、彼のほうにふり向いた、
「ぼくの話はたいしたものじゃないようだね」
フィリップはドギマギしてしまった。
「なんともわかりません」彼は答えた。「読んで、とても楽しかったですよ」
「ぼくのことを気にするにはおよばんよ」太った手をひとふりして、クロンショーは答えた。
「ぼく自身、自分の詩をそう高く買ってるわけじゃないんだからね。目の前の人生は、暮すためにあるもんで、書くためのもんじゃないんだからね。ぼくの目的は、それが提供する多種多様の経験を探り、それぞれの瞬間からその情緒をしぼりとることなんだ。ぼくの書く物は、まあ優雅な素人《しろうと》芸といったもん、人生のよろこびを吸収するというより、よろこびをそえるもんなのさ。それに、後の世のことなんて――それこそ糞っくらえさ」
フィリップはニヤリとした。人生の芸術家が生みだしたものといって、みじめなぬたくり絵にすぎぬことが、マザマザと思い知らされたからだった。クロンショーは、思いにふけるといったふうに、彼をながめ、自分の杯に酒をついだ。それから、給仕にタバコを買いにやらせた。
「きみがおもしろがってるのは、ぼくがこんなふうに話し、貧乏暮しをし、美容師やらカフェの給仕やらとぐるになってぼくをあざむいている野卑な自堕落女と屋根裏住まいをしてるのを知ってるからなんだね。ぼくは、イギリスの大衆のために、くだらん本を翻訳し、悪口をいうだけの値打ちもないつまらん絵の批評を書いてはいるよ。だが、人生の意味はなにか? ひとつ教えてもらえないかね?」
「やあ、それはとてもむずかしい問題。そちらで、その答えをしてくださいませんか?」
「いいや、だめ。自分自身でそれを発見しなけりゃ、意味がないからさ。だが、自分がこの世にあるのは、なんのためだと思ってるのかね?」
フィリップは、そんなことを考えたことがなく、ちょっと考えこんでから、その答えをした。
「ああ、わかりません。自分の義務を遂行し、自分の能力を存分に発揮し、他人を傷つけないようにすることでしょうね」
「簡単にいって、他人にしてもらいたいと思ってるように、他人にする(マタイ伝七ノ一二にある言葉)ということかい?」
「そういったとこですね」
「キリスト教思想だ」
「いいや、ちがいます」憤然として、フィリップはいった。「キリスト教思想とは、ぜんぜん関係のないこと、ただ抽象的な道徳なんです」
「だけど、抽象的道徳なんていうもんはないんだよ」
「そうだったら、酒で酔って、あなたがここを出るとき、財布をおき忘れ、ぼくがそれをひろったとしましょう。ぼくがそれをあなたにかえさなければならないのはなんのため、と思います? それは、警察こわさじゃないんですよ」
「罪を犯せば地獄に堕ちる、徳を積めば天国に登れる、ということさ」
「だけど、そのどちらも信じてはいませんよ」
「そうかもしれん。カントが定言的命令《カテゴリカル・インペラテイヴ》を考えたときも、そうだったんだ。信条はすてても、それを基盤にした倫理を、きみはもちつづけてるんだ。事実上、きみはキリスト教徒、もし天に神がいるとしたら、きみは、きっと、報いられることになるだろう。全能の神は、教会がいってるような愚か者とは思われんのだからね。神の掟《おきて》を守ってたら、きみが神を信じてるかどうかは、神にとって、おそらく、問題にはならんだろう」
「でも、ぼくが財布を忘れてったら、そちらだって、たしかに、それをぼくにかえしてくれるでしょう」フィリップはいった。
「抽象的な道徳のためではなく、ただ、警察こわさのためにね」
「警察がみつけだすなんて、万が一にもないことですよ」
「ぼくの祖先は文明社会にながいこと住んでてね、警察恐怖症が骨の髄までしみこんでるんだ。ぼくの門衛の娘は、とまどったりはぜんぜんせんだろうよ。それにたいするきみの応答は、彼女が犯罪人階級の出だ、ということだろう。ところが、とんでもない、あの娘には下劣な大衆の偏見がないということだけなのさ」
「となると、信義、道徳、善良さ、礼儀正しさなんて、どうにでもなれ、ということになりますね」フィリップはいった。
「罪を犯したことがあるかね?」
「わかりません。たぶん、犯してるでしょう」フィリップは答えた。
「きみの語り口は、非国教会派の牧師のそれだね。ぼくは、罪を犯したことなんて、一度もないよ」
きたならしい外套を着こみ、カラーを立て、深々と帽子をかぶり、太った赤ら顔をし、小さな目をギラギラさせているクロンショーの姿は、とてつもなく喜劇じみたものだったが、フィリップはもうむきになっていたので、笑うどころではなかった。
「後悔することをしたことは、一度もないんですか?」
「自分のしたことに不可避性を認めてるのに、どうして後悔することがあるんかね?」クロンショーは反問した。
「だけど、そうなると、運命論になりますよ」
「人間には、自分の意志は自由だという幻想がじつに深く根を張っててね、だから、ぼくもそれはすぐに認めるよ。ぼくは、自由人のように、行動してる。だが、ある行為がおこなわれるとき、太古から存在する宇宙の力すべてが力を合せてそれをひきおこし、自分のできるどんなことも、それを阻止なんてできないことが、はっきりしてくる。それは、さけようとしてもさけられないことなんだ。それがいいことだとしても、自分の功績だとはいえんし、わるくっても、非難を受けるわけにはいかないんだ」
「頭がクラクラしてきましたよ」フィリップはいった。
「ウィスキーを飲みたまえ」びんをわたして、クロンショーは応じた。「頭をはっきりさせるには、それが打ってつけのもん。ビールを飲むんだなんぞとがんばってたら、頭がわるくなること必定《ひつじょう》なんだからね」
フィリップは頭をふり、クロンショーは話しつづけた。
「きみはいやなやつじゃないが、酒を飲もうとしないんだな。素面《しらふ》というのは、会話の邪魔になるもんでね。だが、ぼくが善悪を論ずるとき……」彼が会話の糸をたぐっているのが、フィリップにはわかった、「それは、因習にとらわれた話というやつさ。そんな言葉が意味あるものとは、思ってもおらんね。人間の行動に階級立てをし、あれはりっぱ、こいつはだめ、なんぞというのは、もうまっぴら。悪徳とか美徳といった言葉は、ぼくには意味のないもんなんだ。賞賛も非難もしないよ。ただ受け入れるだけさ。ぼくは、すべてのものの尺度、世界の中心なんだ」
「それにしても、世界には、ほかに人間がひとりかふたりいるんですからね」フィリップは反撃した。
「これは、ぼくを中心にしての話さ。そうした人たちを認めるのは、自分の行動を抑制するものとしてだけなのだ。それぞれの人間のまわりにも、世界が回転し、それぞれが、自分のために、世界の中心になってるわけ。そうした人たちにたいするぼくの権利は、こちらの力関係だけのこと。自分ができることは、自分のしていいことの限界にすぎない。群居本能をもってるために、われわれは社会の中に暮し、社会は、力、武器の力(これは警察官)と輿論の力で結束してる。人間には、一方に社会、他方に個人あり、というわけだ。それぞれが、自己保存に努力してる有機体なわけ、それは、力対力の関係さ。ぼくは、ただひとりで立って、社会を、それもいやいやではなく、受け入れなければならない。というのも、払う税金のおかえしに、社会は、弱虫のぼくを、ぼくより強力なほかの個人の乱暴から守ってくれるんだからね。だが、社会の掟に屈服するのは、そうしなければならないためで、そうした掟の正当性を認めてるわけじゃないんだよ。正当性なんて、知るもんか。知ってるのは、力だけなんだ。自分を保護してくれる警官にたいして金を払い、徴兵制がしかれてる国にいるとしたら、侵入者から家と国を守ってくれる軍隊勤務をしさえすれば、ぼくは社会と五分五分の関係に立つわけだ。そのほかのことでは、社会の力にたいして、自分の悪知恵で対抗するだけさ。社会は、自己保存のために、法律をつくり、それを破ると、ぼくは投獄されるか、殺されることになる。社会はそれをする力をもち、したがって、権利をもってるわけなんだ。法律を破れば、ぼくは、国家の復讐を承認はするものの、それを罰として受けとったり、わるいことをして有罪判決をくだされたなんぞとは、絶対に思わんよ。社会は、ほれ、名誉だ、富だ、仲間のいい評判だなんぞといって、ぼくをそれに役立たせようとしてるが、よい評判なんて、屁《へ》の河童《かっぱ》さ。名誉なんて唾棄《だき》すべきもの、富がなくたって、結構やってけるんだからね」
「でも、みんながあなたのように考えたら、すべてが、すぐ、バラバラになっちゃいますよ」
「ぼくは、他人とは関係がなくてね。関心をもってるのは、自分だけなんだ。ぼくはある事実をうまく利用してるんだが、それは、人類の大部分が報酬にひきずられて、直接、間接にぼくに好都合になることをしてる事実だよ」
「それはひどく利己的な考え、とぼくには思えますがね」フィリップはいった。
「だが、利己的な理由以外で人間がなにかことをするとでも思ってるのかね?」
「ええ、思ってますよ」
「そんなこと、あり得んことだ。この世をどうにか住めるものにするのに第一に必要なことは、人類のどうにもしようのない利己主義を認めることだ、というのが、いまにだんだんとわかってくるだろう。きみは他人に利己主義にならぬのを要求してるが、それは、彼らの欲求を犠牲にしてきみの欲求をとおすべしという、とてつもない要求なんだ。他人がどうして、それをしなければならんのだ? それぞれがこの世にいるのは自分自身のため、という事実を認めるようになったら、仲間にたいするきみの要求はグッと減るだろう。仲間にたいして失望も感じなくなるし、もっとやさしい目で仲間をみることにもなるだろう。人生で人間が求めてるのは、ただひとつ――快楽だけさ」
「ちがう、ちがう、ちがう!」フィリップは叫んだ。
クロンショーはクスクスッと笑った。
「きみのキリスト教的思想からみて非難の意味をこめてる言葉をぼくが使ってるというので、きみは、おびえた子馬のように、とびあがるんだね。きみは階級的な価値観をもち、快楽はその梯子《はしご》のいちばん下の段にあり、義務、慈悲、誠実といった自己満足のちょっぴりしたゾクリとするよろこびを味わいながら、語ってるんだ。快楽は感覚だけのもの、と思ってるんだな。きみの道徳をでっちあげたみじめな奴隷どもは、それを味わえるみとおしのまずない満足感を軽蔑することにしたのさ。快楽といわずに、幸福といいかえたら、きみはそうびっくりはせんだろう。幸福という言葉のほうかショックが少なく、きみの心は、エピクロス(ギリシャの哲学者)の豚小屋からぬけだして、その花園をさまようことになるだろう。だが、ぼくは、敢えて快楽というよ。人間がそれを目標にしてるのは、わかってるけど、幸福を目標にしてるかどうかは、わからんからだ。すべての美徳の実行の下にひそんでるのは、快楽さ。人が行動するのは、それが自分のためになるため。他人のためにもなることをしてやるとき、その人は徳ある人と考えられる。慈悲をほどこすのに快楽をみいだす人は、慈悲深い人になる。他人を助けるのに快楽をみいだす人は、博愛心の強い人になる。社会のために働くのに快楽をみいだす人は、公共心の厚い人になる。だが、乞食に二ペンスのはした金をやるのが、個人の快楽のためなのは、個人の快楽のために、ぼくがもう一杯ソーダ入りのウィスキーを飲むのと同じことなんだ。きみよりぺてん師の度合いの薄いぼくは、自分の快楽のために、自賛もせず、きみの敬意を求めたりもしないよ」
「でも、自分の望むものではなく、望まぬことをしている人たちのいるのを、知らないんですか?」
「知らんね。その質問の仕方は拙劣《せつれつ》だな。きみのいわんとしてるのは、人びとが、直接の快楽より、直接の苦痛のほうを甘受するということなんだ。その反対論は、きみの表現法と同様、バカげたものさ。直接の快楽より直接の苦痛を甘受する人のあるのは、たしかに事実。だが、それはただ、将来により大きな快楽を期待してるためだけさ。この快楽は、ときどき、幻想的なものにすぎない。が、だからといって、そうした人たちの計算上のあやまりは、この規則をだめにしてしまうものにはならんのだ。快楽はただ感覚だけのものという観念を払拭《ふっしょく》できないから、きみはとまどい参ってるんだ。だが、坊や、人が好んで祖国のために死ぬのは、人が好んでキャベツの漬け物を食うのと同じなんだよ。これは創造の法則というやつ。快楽よりほんとうに苦痛を好んだりしたら、人類はとっくのむかしに死滅してることだろう」
「でも、そうしたことすべてが事実としたら」フィリップは叫んだ、「どんなものでも、なんのためにあることになるんです? 義務も善も美もとってしまったら、この世に生れでる理由は、どういうことになるんでしょう?」
「その返事をしてくれるすばらしい東方の人がやってきたぞ」ニヤリとして、クロンショーはいった。
彼はふたりの人物を指さしたが、それは、ちょうどそのとき、カフェのドアを開け、一陣の寒風につつまれて、中にはいってきた男たちだった。それはレヴァント人(東部地中海沿岸諸国の人)で、安い敷き物の行商人、それぞれ片腕に包みをもっていた。日曜日の晩で、カフェには人がみっしりつめかけていた。彼らはテーブルのあいだをとおりぬけ、タバコの煙でムッとしてたれこめ、人いきれでいやなにおいのする雰囲気の中で、彼らは神秘の気配を運びこんだ感じだった。ヨーロッパふうのボロ服をまとい、薄い外套はすりきれていたが、ふたりともトルコ帽をかぶっていた。顔は寒気で灰色になり、ひとりは中年で、黒い顎髯をつけ、もうひとりは十八くらい、天然痘《てんねんとう》の跡でひどい顔をし、片目の若者だった。
「アラーは偉大なる神、マホメットはその予言者なり」重々しくクロンショーは叫んだ。
中年男のほうが、いつもなぐられている雑犬のように、卑屈な笑いを浮かべて近づき、横目でチラリとドアのほうをみて、コソコソした素早い動作で、ポルノをみせた。
「きみはアレクサンドリアの商人のマルス=エド=ディーンかね? それとも、ああ、おじさん、その品物をもってきたのは、バグダッドからなのかね? それに、向うの片目の若者、彼は、シェヘラザード(『千一夜物語』の語り手になっている妃)がその夫の王に語ったという三人の王さまのうちのひとりなのかね?」
行商人の微笑は、クロンショーのいったことがぜんぜんわからないのに、ますますヘイコラしたものになり、魔術使いのように、白檀《びゃくだん》の箱をとりだした。
「いや、東方の機《はた》の織りなす無類の豪華な織り物をみせてくれ」クロンショーはいった。「ひとつ教訓を指摘して、話の飾りにしたいのだからな」
レヴァント人は赤と黄のテーブル掛けをひろげてみせたが、それは、ムカムカする低俗でグロテスクなものだった。
「三十五フラン」レヴァント人はいった。
「やあ、おじさん、この布はサマルカンドの織り手を知らず、この色はボカーラ(ウズベクの町)の染色の桶《おけ》で染められたもんじゃ絶対にないぞ」
「二十五フラン」とペコペコして、行商人はニヤリとした。
「最果《さいはて》の地こそ、この製造の土地。いや、おれの生れたバーミンガムかもしれんな」
「十五フラン」髯の男はペコペコした。
「失せやがれ、こいつめ」クロンショーはいった。「お前の母方の婆さんの墓が野生の|ろば《ヽヽ》に踏みつぶされたらいいぞ」
ケロリとし、もう追従《ついしょう》笑いは消して、レヴァント人は、品物をもって、べつのテーブルに進んでいった。クロンショーはフィリップのほうに向きなおった。
「クリュニーの博物館にいったことがあるかい? そこにいくと、ペルシャじゅうたんがあるが、じつにすばらしい色をし、模様の型の複雑な美しさは、目を驚かせ、楽しませてくれるよ。そこに、東洋の神秘と官能的な美、ハフィズ(ペルシャの叙情詩人・神秘主義者。薔薇と夜鶯で人生の無情を歌った)の薔薇とオマール(ペルシャの詩人『ルバイヤット』で有名)の酒杯をうかがうことができる。だが、やがて、きみはそれ以上のものを読みとるようになるだろう。ついいま、きみは人生の意味をたずねてたね。そこで、ペルシャじゅうたんをみてみたまえ。そうすれば、近い将来、その答えが浮んでくるはずだ」
「あなたは、謎めいたことをいう人ですね」フィリップはいった。
「ああ、酔った」クロンショーは答えた。
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四十六
パリの生活費が思ったほど安くあがらないことが、フィリップにわかってきた。二月までに、もってきた金は、ほとんど使い果してしまった。伯父にたのむのは、ほこりが許さず、自分の窮状を伯母のルイーザに伝えるのは、いやだった。自分のふところで都合してなんとか金を送ろうとするのは、目にみえたこと、彼女にその余裕がないのは、わかっていたからだった。三月《みつき》すれば、一人前の男になり、わずかな自分の財産が手にはいるはずだった。この期間は、父親からもらったわずかの飾りの小物を売って、なんとかしのいだ。
このころ、ラスパイユ大通りからはいった通りに小さなアトリエが空き、それをいっしょに借りないか、というローソンの話があった。とても安いアトリエだった。ひと部屋がついていて、寝室に使うことができた。フィリップは、毎日午前ちゅう、学校にかよっていたので、ローソンは、その時間に、だれからも邪魔を受けずに、アトリエを使うことができた。学校を転々としたあとで、ローソンは、ひとりで仕事をするのがいちばん、という結論に達し、週に三、四日モデルをやとうことにしよう、といっていた。出費の点で、フィリップは最初踏みきれなかったが、細かに計算してみた結果(自分のアトリエをもちたい気持ちはとても強かったので、ふたりはじっさい的にギリギリの線で考えた)、その費用は、ホテル暮しをそう大きく上まわらないように思えた。家賃と管理人にたのむ洗濯掃除代がそれに多少上積みされるにせよ、自分でつくる簡単な朝食で、節約ができた。一、二年前だったら、同居するなんて、フィリップにはとんでもないことだった。これは、自分のびっこの足にひどく敏感だったからで、この病的な敏感さは、だんだん薄れかけていた。パリで、びっこはそう問題にならず、それはいつも頭にこびりついてはいたものの、ほかの者がいつもそれに気づいているとは感じなくなった。
ふたりは引っ越し、寝台二台、洗面台、わずかの椅子を買いこみ、生れてはじめて、ものをもつゾクリとするよろこびを味わった。ひどく興奮し、自分の家と呼べる場所で床にはいった最初の夜は、朝の三時まで、横になりながらしゃべりつづけた。翌日、寝巻き姿で火をつけ、コーヒーづくりをするのは、とてもうれしいこと、その結果、フィリップがアミトラーノに出かけたのは、十一時近くになってしまった。彼は、うきうきし、ファニー・プライスにたいしてうなずいて挨拶した。
「調子はどうですか?」彼は陽気にたずねた。
「それが、あんたにどうだというの?」が、彼女の応答だった。
フィリップは、笑わずにいられなかった。
「たのみますよ、こちらを閉口させんでください。丁寧に挨拶をしようとしただけなんですからね」
「用のないことよ、丁寧なんてことは」
「ぼくとも喧嘩して、いいと思ってるんですか?」おだやかにフィリップはいった。「いまのまんまでも、話し合う人はとても少ないのに……」
「そんなこと、そっちの知ったことじゃないでしょう、どう?」
「まったく、そのとおり」
ファニー・プライスがどうしてこんなに感じのわるい態度に出るのかとぼんやり考えながら、フィリップは仕事にとりかかった。彼が出した結論は、この女は大きらい、ということだった。だれもみんな彼女をきらっていて、彼女に慇懃な態度をとっているのは、辛辣な彼女の舌におそれをなしてのことだった。人の面前であろうとなかろうと、彼女は、いやなことをズケズケという女だったからである。だが、フィリップは、とてもうきうきしていたので、このプライス嬢にも悪感情をもたれたくはなかった。そこで、彼女の不機嫌追放に効果のある方法を使うことになった。
「ねえ、ひとつぼくの絵をみてもらいたいんですがねえ。ひどいスランプなんです」
「お礼はすることよ。でも、同じ時間を使うんなら、もっともっとましなことがあるんですからね」
フィリップはびっくりして、彼女をにらみつけた。彼女がきっとすぐにしてくれると当てにできたただひとつのことは、忠告を与えることだからだった。すごい怒りでカッカとして、低い声で早口に、彼女は語りつづけた。
「ローソンがいっちまったんで、わたしでまあ我慢しとこう、っていうんでしょう? 厚くお礼申しますよ。助けてほしいんだったら、だれかほかの人をさがすことね。ほかの人間ののこしもんなんて、わたし、まっぴらよ」
ローソンは、教師本能の持ち主で、なにかを発見すると、いつでも、それを人に教えたがり、よろこんで教えるだけあって、ためになるものだった。フィリップは、べつに深く考えもせずに、いつもローソンのそばに坐ることになっていた。ファニー・プライスが嫉妬で心を燃やし、彼がほかの人間から教えを受けているのをジッとみながら、怒りの炎を燃え立たせているなんて、考えてもいないことだった。
「ここでだれもまだ知らないときには、大よろこびして、わたしで我慢してたのね」彼女は手きびしくいった、「そして、友だちができるとすぐ、さっさとわたしをポイにしたのよ、古い手袋のようにね」――このありきたりの比喩を、いい気持ちになって、彼女はくりかえした――「古い手袋のようにね。でも、結構よ、こちらは平気なんだから。だけど、もう一度バカにされるなんて、ねがいさげだわ」
彼女のいったことには一分《いちぶ》の理があり、痛いところをつかれたフィリップは腹が立ってきて、頭にフッと浮んだことを、そのままいってしまった。
「糞っ! きみの忠告を求めたのは、そうすればきみがよろこぶのが、わかってたからなんですよ」
彼女は、ハッとひとあえぎし、いきなり、苦悶の表情を彼に投げ、ついでふた滴《しずく》の涙が頬を流れ落ちてきた。彼女のようすは、むさ苦しく、グロテスクなものだった。この打って変った態度が、いったい、どういうことなのかつかめないまま、フィリップは自分の仕事にもどっていった。不安で、わるかったとは思いながらも、彼女のところにいって、感じのわるい言葉をいってしまったのを、わびる気にはなれなかった。それを笠《かさ》に着て、鼻先であしらわれるのがいまいましかったからである。二、三週間、彼女は彼に話しかけようとせず、そうして無視される不愉快さに馴れてくると、こうしたむずかしい友人から解放されて、彼は、むしろ、ホッとしていた。彼女が彼にたいして大きな面《つら》をしているのが、彼には前から、ちょっとおもしろくはなかった。
彼女は、まったく風変りな女だった。毎日八時にアトリエにやってきて、モデルが場所につくと、すぐ仕事をはじめ、せっせとがんばり、だれにも口をきかず、克服できない困難といつまでも苦闘をつづけ、時計が十二時を報じるまで、きちんとアトリエにいた。彼女の作品は、もう手のつけられないものだった。数ヵ月もすればたいていの若い者が到達するありきたりの線にさえ、少しでも近づいているとはいえぬ代物だった。彼女は、毎日、一張羅《いっちょうら》のきたならしい褐色の服を着こみ、前の日の雨の泥がそのへりにこびりつき、はじめて会ったときにフィリップが気づいていた切れたところは、まだかがらないままになっていた。
だが、ある日、彼女は彼のほうにやってきて、顔を真っ赤にしながら、あとで話をしたいのだが、といった。
「もちろん、いくらでも話をしましょう」ニッコリして、フィリップは答えた。「十二時に、のこって待ってますよ」
その日の課業か終ると、彼は彼女に近づいていった。
「少し散歩してくださること?」うろたえたように彼から目をそらせて、彼女はたずねた。
「いいですとも」
ふたりは、二、三分間、だまったまま歩いていった。
「こないだ、あなたがわたしにいったこと、おぼえている?」いきなり、彼女はたずねかけた。
「ああ、喧嘩するのは、やめましょう」フィリップはいった。「つまらんことですからね」
彼女は、苦しそうに、フッと息をすいこんだ。
「喧嘩なんか、したくはないわ。パリでもった友だちといえば、あなたしかないんですものね。あなたがわたしを好きになってる、と思いこみ、ふたりのあいだには、なにか通じるものがある、と感じてたの。あなたにひきつけられてたの――わたしのいってること、わかることね、あなたの|えび《ヽヽ》足のことだわ」
フィリップは、サッと赤くなり、本能的にびっこをひかずに歩こうとした。だれにでも、びっこのことをいわれるのは、いやだった。ファニー・プライスがいっていることは、彼にわかった。彼女は醜女《しこめ》、彼はびっこだから、ふたりのあいだには、ある共通点がある、ということだった。この彼女にひどく腹が立ってきたが、彼は、なんとかだまったままでいようと努力した。
「わたしに忠告を求めるのは、わたしをよろこばすためだけ、といってたことね。わたしの作品でもまあどうにかなる、と思わないこと?」
「ぼくは、アミトラーノでのきみの絵しかみてないんですよ。それからだけで判断しろといったって、むりなことです」
「あなたに来ていただいて、わたしのほかの作品をみていただけるかしら? と思ってたの。ほかの人にそんなことをたのんだことなんて、一度もないわ。それをあなたにはみてもらいたいの」
「いや、恐縮です。みせていただきたいもんですね」
「わたし、ほんの近くに住んでるの」言訳がましく、彼女はいった。「たった十分ほどのとこよ」
「ああ、結構ですよ」彼はいった。
ふたりは大通りを歩いていった。彼女は横町にはいり、ついで、さらにもうひとつの横町にはいっていったが、そこはさらに貧乏くさい、安っぽい店の立ちならぶ通りで、そこでとうとう、彼女の足はとまった。いくつもいくつも、階段をのぼっていった。彼女は、あるドアのところで、鍵をあけ、傾斜した屋根と小さな窓のあるちっぽけな屋根裏部屋にふたりははいっていった。閉められてあったので、部屋はかびくさかった。ひどい寒さなのに、火の気はなく、火の燃えていた気配もなかった。寝台は、寝起きのままだった。椅子がひとつ、洗面台兼用の箪笥《たんす》、安物の画架、家具はそれだけだった。この場所は、どう整頓したところで、とてもきたないものだったろうが、そこの乱雑さ、だらしのなさが、そこの印象を胸をむかつかせるものにしていた。絵の具や刷毛がまき散らされた炉棚の上に、茶碗、きたない皿、急須《きゅうす》が、それぞれひとつあった。
「そちらに立っててくださったら、わたし、椅子に絵をおくわ。そうすれば、よくみえるでしょう」
二十枚ほどの小さなキャンバスで、縦横十八インチと十二インチほどのものだった。それを、つぎからつぎへと椅子に乗せ、彼の顔をジッとみた。それぞれをみるたびに、彼はうなずいた。
「気に入ったこと、どう?」しばらくして、心配そうに彼女はいった。
「まず、ぜんぶをみなければね」彼は答えた。「それから、お話ししましょう」
心を落ち着けようとはしたものの、彼はあわててしまい、どういったらいいのか、見当もつかなかった。描きぶりがへた、色のつけ方が目のない素人《しろうと》くさいやり方でぬられているといったさわぎではなく、色の明暗を考えず、遠近法もじつに奇々怪々なものだったからである。五歳の子供の描いたものともいえたが、子供にはある純真さがあり、自分の目に映ったままを、少なくとも描きだそうとするだろう。だが、いまみせられた作品は、低俗な絵の記憶がみっしりとつまった低俗な心のつくりだしたものだった。フィリップは、彼女が熱っぽくモネのことを語っていたのを思い出したが、ここに示されているのは、王立美術院の伝統の最悪の面が露呈されたものだった。
「さあ」とうとう彼女はいった、「これでぜんぶよ」
フィリップは、ほかの人間と同様、特別誠実な人間というわけではなかったが、途方もない真っ赤な嘘をしゃあしゃあいうのはとても心苦しく、つぎのように答えたとき、すごく顔を赤くした、
「じつにすばらしいものと思いますね」
不健康そうな彼女の頬にポーッと赤みがさし、ちょっと微笑が浮んだ。
「心にもないことをいう必要はないのよ。事実を知ればいいんですから」
「でも、そう考えてますよ」
「なにか批評をしていただけない? ほかの人たちと同じように、気に入らないとこもあるでしょうからね」
フィリップは、途方に暮れて、目をあちらこちらにやった。ふと風景画に目がとまったが、それは、古い橋、蔓草《つるくさ》におおわれた小屋、こんもりとした木立ちのある土堤《どて》といった、典型的に素人くさい、きれいな絵だった。
「もちろん、こういうことが多少なりともわかってるとはいいませんがね」彼はいった、「この絵の明暗法が、どうも納得いかないんです」
彼女は顔を赤黒く染め、その絵を裏がえしにしてしまった。
「選《え》りにも選って、どうしてこの絵に悪口を浴びせかけたりするのかしら? わたしとしては、最高のもんなのよ。わたしの明暗法にまちがいはないわ。それは、人に教えられるもんでなし、人は、それをつかむか、つかまないか、どちらかなんですもんね」
「みんな、じつにすばらしいものと思いますよ」フィリップはくりかえした。
彼女は、絵をいい気分になってながめていた。
「こうした絵は、べつに恥ずかしいもんとは思ってないことよ」
フィリップは時計をみた。
「ああ、だいぶ時間がたちましたね。いっしょに昼ご飯、食べませんか?」
「ここでご飯はできてるの」
昼食の用意のようすはべつになかったが、自分が帰ったら、管理人がそれを運びあげてくるものと、フィリップは考えた。とにかく、早くここをひきあげたかった。部屋のかびくささで、頭がズキズキしてきたからだった。
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四十七
三月には、サロンヘの出品で、みながワクワクしていた。クラットンは、いかにも彼らしく、出品すべきものがなく、ローソンが搬入した二枚の頭の絵を、ひどい軽蔑の目でながめていた。それはたしかに、画学生の描いたもので、モデルをそのまま写しだしていたが、ある力がこもったものだった。クラットンは、完璧をめざしていて、ためらいの色をみせている努力作には我慢ならず、肩をすくめて、アトリエの外には絶対にもちだすべきでない作品を展覧会に出すなんて、厚かましいことだ、とローソンにいった。
この二枚の頭の絵が入選しても、クラットンの軽蔑に変りはなかった。フラナガンも運だめしをしたが、落選だった。オッター夫人は、完成はしているが二流品としかいえない『わが母の肖像』を出品し、とてもいい場所に出されることになった。
ハイデルベルク以来会ったことのないヘイウォードが、パリにやってきて、数日間を送ることになり、ローソンの絵の入選を祝ってローソンとフィリップがふたりのアトリエで開いた会に、出席することになった。フィリップは、ヘイウォードととても会いたがっていたが、いざ会ったときには、夢去りぬの感を深くした。ヘイウォードの外見は、少し変化を示していた。細くてやわらかい髪は薄くなり、美男によくある悲しさで、しわが出て、肌の美しさの急速なおとろえをみせていた。青い目の色は以前より薄くなり、顔形にくずれの気配が濃厚だった。その反面、心のほうは少しも変らず、十八歳のフィリップに感銘を与えたあの教養ぶりは、二十一歳になったフィリップの軽蔑を多少ひきおこすことになった。フィリップ自身の変貌ぶりは大きく、芸術、人生、文芸についての自分の以前の考えすべてを蔑視していたので、そうした考えを依然としてもちつづけている人間には、我慢ならなかった。ヘイウォードにみせびらかしたい心情があるのを、ほとんど気づいてはいなかったものの、画廊を案内しているとき、つい最近自分が受け入れたばかりの革命的意見を、滔々《とうとう》とまくし立てた。ヘイウォードをマネの『オランピア』のところに案内したとき、彼は、芝居気たっぷり、こういった、
「この絵一枚もらえたら、ベラスケス、レンブラント、フェルメール以外のむかしの大家はぜんぶ放りだしてもいいくらいだな」
「フェルメールって、だれだい?」ヘイウォードはたずねた。
「あれっ、きみ、フェルメールを知らないんかい? きみは、だいぶおくれてるね。彼を知らずして、一瞬の生命なし、というくらいなんだよ。近代的な絵を描いたむかしの巨匠のひとりさ」
彼は、ヘイウォードをリュクサンブールからつれだし、その足でルーヴルにかけつけた。
「でも、ここにもっと絵があるんじゃないのかね?」徹底的にやりたがる旅行者の情熱で、ヘイウォードはいった。
「少しでも重要なものは、なにもないよ。きみのベデカー(ドイツ人のベデガーがはじめた世界的な旅行案内書)で、また来てみたらいいんだ」
ルーヴルに着くと、フィリップはすぐヘイウォードをなが画廊のほうにつれていった。
「ぼくは『ラ・ジョコンダ』(『モナリザ』のこと)をみたいんだ」ヘイウォードはいった。
「ああ、きみ、あれは所詮《しょせん》文学にすぎんよ」フィリップは答えた。
とうとう、ある小部屋で、フィリップはフェルメール・ファン・デルフトの『レース織り工』の前に立った。
「ほれ、あれがルーヴルで最高の名画だよ。マネそっくりだね」
親指を表現力豊かに雄弁に使って、フィリップはこの魅力的な作品のながながとした説明をおこない、効果満点で、アトリエの専用語を使いまくった。
「そこにそういったすばらしいものは、なにもないようなんだがね」ヘイウォードはいった。
「もちろん、あれは画家向きの絵なんだ」フィリップはいった。「門外漢がそこにたいしたものをみてとれないのは、たしかなことさ」
「だれがだって?」ヘイウォードはいった。
「門外漢さ」
芸術に関心を寄せているたいていの人と同じく、ヘイウォードは、正しい評価をくだすことにすごく熱を入れていた。自己を主張しようと敢えてしない人たちにたいして、彼は独断的な態度をとったが、自己主張の強い人間にたいしては、とても謙虚だった。フィリップの確信で、彼は感銘を受け、画家こそ絵画の唯一の判定者という画家の傲慢な主張には思いあがりといったものが絶対にない、というフィリップのそれとなくいう言葉に、唯々諾々《いいだくだく》としてしたがった。
その後一日か二日して、フィリップとローソンは会を開いた。クロンショーは、彼らのために、今回だけは特別ということで、参加を承諾し、チャリス嬢は、料理を担当しよう、と申し出た。彼女は、女性に関心はなく、話し相手としてほかの女性を呼ぼうとするのを断った。クラットン、フラナガン、ポッター、その他ふたりが参加者だった。家具はほとんどなく、その結果、モデル台がテーブルになり、呼ばれた客は、坐りたかったら旅行カバンに坐り、さもなければ、床に腰をすえることになった。料理は、チャリス嬢がつくってくれたポトフ(肉と野菜を煮込んだシチュー)と、近くで焼き、ポッポと熱くてよい味のところを運びこまれた羊の脚だった(チャリス嬢は|じゃがいも《ヽヽヽヽヽ》を料理し、彼女が揚《あ》げた人参《にんじん》で、アトリエはプンプンといいにおいをただよわせていた。彼女のおはこの料理だった)。そのあとにつづいたのが|焼き梨《ポアール・フランベ》、これは、燃えるブランデーで料理した梨で、これをつくろうとクロンシヨーが買って出た。最後の仕上げの料理は、すごく大きなブリチーズ、これは、窓の近くにすえてあって、アトリエにならび立てられたほかの料理すべてに、馥郁《ふくいく》たる香りをただよわせていた。
クロンショーは、旅行カバンに坐って最上席につき、トルコのお偉方のようにあぐらをかいて、自分をとりかこむ若い連中を、上機嫌でニコニコしながら、ながめていた。この小さなアトリエはストーブでムンムンしていたが、習慣で、彼は外套を着こみ、カラーを立て、山高帽をかぶり、至極ご満悦で、自分の前にならんで立っているキャーンティ酒の四本の大びんをながめていたが、これは、ウィスキーのびんの両側に、二本ずつ、立っていた。彼は、これをみていると、太った四人の宦官《かんがん》に護衛されたほっそりとしたサーカシア(コーカサス山脈の北西地方、美人で有名)の美人を思い起す、といった。ヘイウォードは、ほかの連中の肩をはらせまいと、ツイードの服とトリニティ・ホール(ヘイウォードの出身のケンブリッジの学寮)のネクタイというくつろいだ服装をしていたが、いかにもグロテスクなイギリスぶりといったものだった。ほかの連中は、気をつかって 彼には特別慇懃な態度を示し、スープのあいだ、天候や政治の話をしていた。羊の脚を待っているとき、一瞬話がとぎれ、チャリス嬢はタバコに火をつけた
「ラプンツェル(グリム童話で、魔法使いの女によって同名の美しい少女が高い塔に閉じこめられ、下からこのように呼びかけられると、少女は髪をほぐして窓のかぎにまきつけ、ながいこの髪で塔にのぼれるようになる)、ラプンツェル、お前の髪をおろしておくれ」彼女は、突然、いった。
いとも優雅な身ぶりで、彼女はリボンを解き、髪がサッと肩に流れ、そして、頭をふった。
「流し髪にしたほうが、気分がらくになるの」
大きな褐色の目、痩せた禁欲的な顔、青白い肌、ひろい額で、彼女はバーン=ジョウンズの絵からぬけでてきたようだった。彼女の手は、ながくて美しく、指はニコチンでひどくよごれていた。サラリと着流した服は、藤色と緑、ケンジントンのハイ・ストリート(この近くにバーン=ジョウンズが住んでいたという)のロマンティックな雰囲気が、彼女の身辺にただよっていた。彼女は、多情な耽美《たんび》主義者だったが、親切で人のいいりっぱな女で、気どった態度は、うわべだけのものだった。ドアでノックの音がし、一同は歓声をあげた。チャリス嬢が立ちあがって、ドアを開き、羊の脚を受けとり、頭上高くそれをかかげたが、それは、大皿に載せたバプテスマのヨハネといった感じで、タバコを口にくわえたまま、僧侶のように粛々と、歩を進めた。
「やあ、ヘロディアスの娘(ヘロド・アンティパスの後妻ヘロディアスの娘のサロメのこと。踊りのほうびとして、母親のさしずでヨハネの首を求めた)」クロンショーは叫んだ。
羊の肉は大満悦で平らげられ、青白い顔をしたチャリス嬢がどんなに食欲旺盛かをみて、みなは楽しんだ。クラットンとポッターが彼女の両側に坐ったが、彼女がひどいはにかみ屋でないのは、みなの承知のことだった。彼女は、六週間すると、たいていの男に倦《あ》きたが、若き心を彼女の足もとにささげた男子を、その後どうとりあつかうかを、彼女はちゃんと心得ていた。一度愛すれば、もう愛情をもつことはなかったが、そうした男たちにたいして悪意はもたず、なれなれしい態度はとらないにせよ、彼らと仲よくやっていった。ときどき、彼女は、憂鬱そうなまなざしで、ローソンをみやっていた。焼き梨は大成功だったが、それは、ひとつにはブランデーのため、またひとつには、チャリス嬢が、それをチーズといっしょに食べろ、とすすめたからだった。
「文句なくおいしいのか、それとも、自分がもどしそうになってるのか、すっかりわからなくなってきたわ」このまぜたものの徹底的な味見をしたあとで、彼女はいった。
こうしたおもしろくない結果が起きぬようにと、コーヒーとコニャックが手早く出され、みなは、気分よく、タバコをのみだした。することはすべて、手のこんだふうに芸術的にやらなければおさまらないルース・チャリスは、優雅な恰好をして、クロンショーのそばに坐りこみ、美しい頭を彼の肩に乗せていた。ジッと考えこんだまなざしで、彼女は時の黒々とした深淵《しんえん》に見入り、ときどき、物思いに沈むまなざしをローソンに投げて、深いため息をもらした。
ついで夏となり、こうした若い連中は、気分が落ち着かなくなってきた。青空は彼らを海にさそい、大通りのプラタナスの葉のあいだをフッと吹きぬける快いそよ風は、彼らの心をいなかにひきよせた。だれもが、パリを出る計画を立てた。もっていくのにキャンバスをどのくらいの大きさにしたらいちばん便利か、を議論し、スケッチ用の画板をたくさん買いこみ、ブルターニュのさまざまな場所の功罪を語り合った。フラナガンとポッターは、コンカルノー(ブルターニュの西南端の漁港)にいった。オッター夫人と母親は、明白さを好む生れつきの本能で、ポンタヴァン(コンカルノーの東にある漁港)にゆき、フィリップとローソンは、フォンテンブロー(パリの南東六十キロのところにある)の森にゆくことになり、チャリス嬢は、描く材料がたくさんあるモレのとてもいいホテルを知っていた。そこはパリに近く、フィリップもローソンも、汽車賃のことを頭に入れていたのだった。ルース・チャリスがそこに来るはずで、ローソンは、戸外での彼女の肖像画をひとつ描こうと考えていた。陽のさす庭園で、目をパチパチさせ、太陽の照りつけている木の葉の緑が顔に映っているといった肖像画は、その当時、サロンにいっぱい出されているものだった。ふたりはクラットンにも同行をさそったが、彼は夏をひとりですごそうとしていた。彼はセザンヌの美を発見したばかりで、プロヴァンス(セザンヌはこの地方のエクス・アン・プロヴァンスで生まれた)にゆきたいのだった。熱しきった空の青が汗の玉のように滴《したた》り落ちてきそうな重苦しい空、白いほこりだらけのひろい道、太陽に色を焼きとられた薄青い屋根、熱気で灰色になったオリーヴの木、こうしたものが彼のあこがれだった。
出発の前日、朝の課業が終ってから、フィリップは、道具を片づけながら、ファニー・プライスに話しかけた。
「明日、出かけますよ」彼は陽気にいった。
「いくって、どこへ?」サッと彼女はたずねた。「どこにもいくんじゃないんでしょう?」がっかりしたような顔つきだった。
「夏のあいだ、出かけてきますよ。そちらは?」
「いいえ、パリにいるつもりよ。あなたもいるもんと思ってたの。わたし、楽しみにして……」
彼女は、話を切り、肩をすくめた。
「でも、ここではすごく暑いでしょう? からだによくありませんよ」
「そんなことをいってくれるなんて、えらいご親切さまね。どこにいくの?」
「モレです」
「チャリスがそこにいくわ。まさか、いっしょにいくんじゃないんでしょ?」
「ローソンとぼくがいくんです。それに、彼女もそこにいきますよ。いっしょにいくかどうか、わかりませんけどね」
彼女は、ククッと低い喉声《のどごえ》を出し、大きな顔は赤黒く染められた。
「まあ、きたならしい! あなたはきちんとした男だと思ってたのに。ここでは、そうした男は、あなただけだったのよ。あの女は、チャットン、ポッター、フラナガンといっしょになり、あの老人のフォアネとまであったのよ――だからこそ、あの男があれにああして世話を焼いてるの――それに、あんたたちふたり、あんたとローソンがその仲間になるのね。胸がわるくなるわ」
「いやあ、バカな話だ! 彼女はまともな女ですよ。みんなは、まるで男仲間のように、彼女をあつかってるだけなんです」
「ああ、話しかけないで、話しかけないでちょうだい」
「だけど、それがあなたにどうだというんです?」フィリップはたずねた。「ぼくが夏をどこですごそうと、それはまったく、あなたには関係のないことなんですよ」
「わたし、とても楽しみにしてたの」まるでひとり言をいっているように、彼女はあえいだ。「出かけるお金があなたにはないと思い、そうすれば、ここにほかにだれもいなくなり、ふたりだけでいっしょに仕事をし、ものをいっしょにみにいける、と考えてたの」ここで、彼女の思いはルース・チャリスのところにサッともどり、彼女は叫んだ、「あのきたならしいけだものめ。口をきくのもいやだわ」
フィリップは、彼女をながめて、気分が重くなってきた。彼は、女が自分を恋しているなんぞと考える男ではなかった。自分の不具を知りすぎるくらい知っていて、女を相手にすると、気がつまり、間のぬけたことばかりやっていた。それにしても、この感情の爆発はそれ以外のものとは考えられなかった。ファニー・プライスは、よごれた褐色の服を着こみ、髪を顔に垂らし、メソメソし、薄ぎたない恰好をして、彼の前に立ち、怒りの涙をポロポロと流していた。まったく、ゾッとする存在だった。フィリップはドアをチラリとながめたが、ここでだれかがはいってきて、このさわぎにけりをつけてはくれないものか、と本能的に考えた。
「ほんとうにすみませんね」彼はいった。
「あんたは、ほかの連中とそっくり同じなのね。もらえるものはぜんぶもらって、お礼ひと言、いいもしないのね。あんたの知ってることはぜんぶ、わたしが教えてあげたのよ。ほかのだれも、あんたの世話なんか、みようともしなかったのよ。フォアネが面倒をみてくれたこと、あること? わたし、これもいってあげるわ――千年ここで勉強しても、あんたはだめなのよ。才能なしなの。独創性もないわ。そういってるのは、わたしばかりじゃないのよ――みんな、いってるわ。一生絵描きにはなれないことよ」
「それも、そちらには関係のないことですな、どうです?」サッと顔を赤くして、フィリップはいった。
「まあ、わたしが癇癪《かんしゃく》だけでそれをいってると思ってるのね。クラットン、ローソン、チャリス、みんなにきいてごらんなさい。だめ、だめ、だめよ。才能がないのよ」
フィリップは、肩をすくめ、そこを去っていった。彼女は彼の背に浴びせかけた、「だめ、だめ、だめよ」
モレは、その当時、フォンテンブローの森の端にあった、通りの一本しかない、古ぼけた町で、エキュ・ドールは、王朝時代のガタガタの面影をとどめたホテルだつた。それはまがって流れるロアン川に面し、チャリス嬢の借りた部屋には、そこをみおろすテラスがつき 古い橋と城砦《じょうさい》づくりのそこの門の美しい景色をながめることができた。彼らは、夕食後、ここに坐り、コーヒーを飲み、タバコをふかし、芸術論を戦わせた。少しはなれたところで、ポプラにふちどられた細い運河が川に流れこみ、一日の仕事が終ると、そこの土堤をブラブラと散歩した。一日じゅう絵を描き、その世代の大部分の人びとと同じく、彼らも、絵のような美しさにたいする恐怖心にとりつかれていて、町のはっきりとわかる美しさには背を向け、軽蔑している美しさのない題材をさがした。シスレーもモネも、ポプラ並木の運河を描き、彼らはフランスの典型的なものを描いてみたいとは思っていたものの、型どおりの美しいものをおそれ、わざとそれをさけようと努めた。ローソンは女の業《わざ》を軽蔑していたが、チャリス嬢は、そのローソンさえ心打たれた気のきいたたくみさをもっている女で、梢《こずえ》をぬきにした木で陳腐《ちんぷ》さからぬけでようとする絵を描きはじめた。ローソンは、前景にムニエ(チョコレート製造業者の名)のチョコレートの大きな青い広告を描いて、チョコレート箱にたいする嫌悪の情を強調しようとする奇抜な考えをもっていた。
フィリップは、このときに、油絵の具を使いはじめた。このありがたい材料をはじめて使ったとき、ゾクリとしたよろこびがからだを走った。朝、小さな絵の具箱をもって、ローソンといっしょに出かけ、彼のそばに坐って、画板に向った。これで至極満足し、自分のやっているのが模写にすぎぬことがわからないでいた。彼は友人の影響を強く受け、その友人の目だけでものをみていたのだった。ローソンの絵は調子をグッと落したもので、ふたりとも、草のエメラルドを黒味がかったビロードにながめ、一方、空の輝きは、彼らの手にかかると、立ちこめた群青《ぐんじょう》になった。七月じゅう、晴れあがった天気がつづき、とても暑く、この暑気はフィリップの、心をぐったりさせ、倦怠感で、どうにもならなくなった。
だが、頭の中では、さまざまな思いが駆けめぐっていた。ときどき、運河のかたわらのポプラの木蔭で、朝をすごし、本のわずか数行を読んだだけで、そのあとはもう、夢見心地になっていた。ときに、ガタピシする自転車を借り受けて、森に通じるほこりっぽい道を乗ってゆき、森の空き地で横になった。頭はロマンティックな空想でいっぱいだった。ヴァトー(十八世紀を代表するロココ様式絵画を創りだしたフランスの画家)に描かれている華やかでのんびりとした貴婦人たちが、巨木のあいだを、意気な男たちとさまよい、他愛もない楽しみごとをヒソヒソと語り合い、しかも、なにかそれとわからぬ恐怖で心を重くしているような感じだった。
このホテルにいるのは、彼ら三人以外には、中年の太ったフランス女ひとりだけで、あけすけなみだりがましい笑いをする、ラブレー(フランスの諷刺作家。『パンタグリュエル』『ガルガンチュア』を書いた)的な人物だった。彼女は、一日じゅう、川のほとりですごし、絶対に釣れない魚に、じつに辛抱強く、釣り糸を垂れ、フィリップは、ときどき、出かけていって、この彼女と話をしたが、その職業はウォレン夫人(バーナード・ショーの劇『ウォレン夫人の職業』から。売春ホテルの女主人)が現代の代表者になっているもので、そうとうの金をためこみ、いまはブルジョア的な静かな日暮しをしていることがわかった。彼女はいろいろときわどい話をしてくれた。
「とにかく、セヴィリアにいらっしゃい」彼女はいった――この女はちょっとくずれた英語ができる女だった。「世界でいちばんきれいな女が、そこにはいるんですからね」
彼女は色目を送ってうなずき、その三角の顎と大きな腹は、心の中の笑いでゆれていた。
暑さはひどく、夜も眠れないほどになった。暑気は、まるで物体になって、木の下にのこりつづけているようだった。星の輝く夜空のもとから部屋にはいる気にはなれず、三人は、ルース・チャリスの部屋のテラスに坐り、つかれて話す気にもなれず、何時間もおしだまったままでいたが、夜の静けさを官能的に味わい、川のつぶやきに耳を澄ませた。教会の時計が一時、二時、ときに三時を報じてから、ようやく寝所にひきあげていった。突然、ルース・チャリスとローソンが愛人関係にあるのが、フィリップにわかった。女がこの若い画家をみている目つきと、あれはおれのものといった男の態度からそれがわかったのだが、このふたりといっしょに坐っていると、空気がなにか奇妙なもので垂れこめてくるように、フィリップは、彼らのまわりに、モヤモヤと発散されているものがあるのを感じた。これを知ったのは、衝撃だった。チャリス嬢をとてもいい人間と感じ、彼女と話すのが好きだったが、それ以上親しくなるのは絶対に不可能、と思いこんでいたからだった。
ある日曜日、三人はそろって、お茶用の寵をもって、森に出かけ、いかにも森の感じがする空き地に来ると、チャリス嬢は、そこが牧歌的だというわけで、靴と靴下をぬいでしまうといいだした。彼女はそうとうの大足、三番目の足の指に、両足そろって、大きな|たこ《ヽヽ》ができていなかったら、とても魅力的になるところだった。フィリップはこれをちょっと滑稽なことに思った。だが、ここで、彼女にたいする彼の見方が、ガラリと変ることになった。彼女の大きな目とオリーヴ色の肌に、ものやわらかな女性的なものがあり、彼女が魅力的な女であるのを気づかないでいた自分を、バカだったな、と感じた。彼女が目の前そこにいるのをさとる感覚をもち合せていなかったために、彼女がチラリチラリと軽蔑の目を彼に投げ、ローソンにはちょっと優越感があらわれているように思えた。
ローソンがねたましかったが、それは、特にローソンだからというわけではなく、ローソンの恋愛をうらやましく思う気持ちだった。ローソンのかわりになり、ローソンの感情で愛を味わってみたかった。心が鬱々《うつうつ》とし、恋愛が自分のところを素通りしてしまうのではないか、と心配になってきた。情熱にとりつかれ、足をさらわれ、激情の波にどことも知れずおし流されてみたかった。チャリス嬢とローソンは、彼の目に、いままでとはなにかちがったものに映ってきて、ふたりといつもいっしょにいると、イライラしてきた。現在の自分が、なんともやりきれなくなってきた。人生は望むものを自分に与えてくれず、時間を浪費しているのではないか、と不安になってきた。
例の太ったフランス女は、すぐに、ふたりの関係に気づき、じつに卒直な態度で、そのことをフィリップに話した。
「それで、あんたは」同性の女たちの情事《いろごと》で身を太らせてきた女のもつあのうるさいことをいわぬ微笑を浮べて、彼女はいった、「いい女《ひと》がいるの?」
「いいや」顔をサッと赤くして、フィリップは答えた。
「じゃ、どうしてつくらない? もう齢になってるんでしょ?」
彼は肩をすくめた。ヴェルレーヌの本をもって、ブラリと外に出てゆき、それを読もうとしたが、心の中では情熱が燃えさかって、読書どころではなかった。フラナガンに紹介されてのたまたまの情事、袋小路の家をこっそりおとずれて、そこで示されるルトレヒト・ビロードを張った応接間とぬり立てた商売女の媚態《びたい》を思い出して、身をふるわせた。草の上に身を投げ、眠りからさめたばかりの若いけもののように、手足をグッとのばした。さざなみ立つ川面《かわも》、微風にそよぐポプラ並木、青い空は、もうどうにも我慢ならぬものになった。恋を恋していたのだった。自分の唇につけられる温かい唇、首のまわりに巻きつけられるやわらかな手の感触を、空想で感じた。自分がルース・チャリスの両腕に抱かれているのを想像し、彼女の黒みのかった目、彼女のすばらしい繊細な肌を思い、こんなすばらしい恋の冒険をムザムザと指のあいだがら逃がしてしまった自分が、無性《むしょう》に腹立たしくなった。
ローソンにできることなら、自分にもできるはずなのだ。だが、これは、彼女を目の前にみていないときのこと、夜目をさまして横になり、運河のかたわらでとりとめなく夢を追っているときだけのことだった。彼女の姿をみると、彼の気持ちは、いきなり、すっかりちがったものになった。彼女を腕に抱こうとする気持ちは消え、彼女とキスをする自分の姿なんて、想像もできなかった。これは、奇妙なことだった。彼女からはなれると、彼女を美しいと思い、あのすばらしい目、あのクリーム色の青白い顔だけが思い出されるのだったが、いっしょになると、平べったい胸、ちょっと虫歯になりかけている歯並みだけが目にとまり、あの|たこ《ヽヽ》が、頭にこびりついてはなれなかった。自分自身がわからなくなってきた。自分は、女がいないときだけ、恋し、いざチャンスがめぐってくると、いやな点をひどく誇張するように思われるあの醜悪な幻想のために、なにもぜんぜん楽しめなくなるのだろうか?
季節が変って、ながい夏の終りを知らせ、みんながハリにもどることになったとき、彼はそれをべつに残念とは思っていなかった。
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四十八
フィリップがアミトラーノにもどったとき、ファニー・プライスがもうそこにはいないのがわかった。ロッカーの鍵は、かえしてあった。彼女はどうしたのか? とオッター夫人にきいてみたが、オッター夫人は、肩をすくめて、たぶん、イギリスに帰ったのだろう、と答えただけだった。フィリップはホッとした。彼女の不機嫌には、ホトホト手を焼いていたからだった。その上、彼の仕事についての注意を与えようといい張り、それにしたがわなければ、それをあなどりと考え、彼が最初ほど自分をバカとは思っていないのを、どうしても納得しようとしなかった。間もなく、彼女のことは、彼の頭からすっかり消えていった。いま、油絵の具を使っていて、絵の熱がたかまっていた。つぎのサロンに出せるくらいのなにか逸品をつくってやろうと、張りきっていた。ローソンは、チャリス嬢の肖像画を製作ちゅうだった。この女はとても描きよく、彼女の魅力のとりこになったすべての青年は、みんな彼女の肖像画を描いていた。絵のように美しいポーズをとりたがる情熱に結びつけて、生れながらの不精癖が、彼女をすばらしいモデルに仕立て、絵の技術的な知識ももっていたので、ためになる批評をすることもできた。絵にたいする彼女の情熱は、画家の生活をしたいという情熱ともいえたものだったので、彼女は、自分の仕事を放りだしにしても、平気でいた。彼女の好きなのは、アトリエの熱気、それに、タバコをすい放題すえるときで、芸術《アート》にたいする愛情《ラブ》と愛《ラブ》の技巧《アート》を、低い感じのいい声で語っていた。彼女は、このふたつのものを、はっきりと区別してはいなかった。
ローソンは、何日間もほとんど立てなくなるまで根《こん》をつめて、製作にとりかかっていたが、それから、描いたものぜんぶをけずりとってしまった。これは、ルース・チャリス以外の者だったら、勘忍袋の緒《お》を切らせてしまったことだろう。最後に、彼はどうしようもないスランプに落ちてしまった。
「のこされたことは、新しいキャンバスで新しくやりなおすことだけだ」彼はいった。「いまは、自分がなにを望んでるかが、はっきりとわかった。もう、そう時間はかからないぞ」
このとき、フィリップが居合せ、チャリス嬢は彼にいった、
「あなたもわたしを描いてみたらどう? ローソンさんのをみて、勉強になる点も、たくさんあることよ」
恋人を姓で呼ぶのが、チャリス嬢の細かな心づかいのひとつだった。
「ローソンがいやじゃなかったら、こちらでは大よろこびですよ」
「こちらじゃ、ぜんぜん気にせんよ」ローソンはいった。
肖像画にとりかかるのは、フィリップとしては、はじめてのこと、気おくれはしながらも、ほこりやかな気分になって、それをはじめ、ローソンのそばに坐って、ローソンの描くのをみながら、筆を進めていった。こうして手本があることも、ローソンとチャリス嬢が遠慮なく与えてくれる注意も、大助かりだった。とうとう、ローソンは完成し、クラットンを招いて、批判を受けることになった。クラットンは、パリに帰ってきたばかり、プロヴァンスから、マドリッドにあるベラスケスの絵みたさに、流れ流れてスペインまでゆき、そこからトレドにうつり、そこに三ヵ月滞在、若い連中には耳新しい名前をたずさえて、もどってきた。エル・グレコ(エル・グレコはギリシャ人の意。ギリシャのクレタ島生まれで、トレドに定住した画家)という画家について、彼はいろいろとすばらしいことを語ったが、この画家は、トレドでだけしか研究できないものらしかった。
「ああ、わかった、その人物のことは知ってるよ」ローソンはいった、「むかしの大家で、近代人のようにまずい画法がその特徴になってる人物だ」
クラットンは、ふだんにないほど無口になって、なにも答えず、皮肉をこめて、ローソンをながめていた。
「スペインからもち帰った作品をみせてもらえますかね?」フィリップはたずねた。
「スペインじゃ、描かなかったよ。とてもいそがしかったんでね」
「じゃ、なにをしたんです?」
「いろいろと、考えぬいたよ。もう印象派は卒業したと思うな。数年たつと、それはとても薄っぺらな、深みのないものになると思うね。いままで身につけたものはすっかり清算して、新しい出発をしたいんだ。帰ってきたとき、自分の絵は、ぜんぶ、破りすててしまった。ぼくのアトリエにあるものといえば、画架、絵の具、それに、何枚かのなにも描いてないキャンバスだけさ」
「これから、なにをやるんです?」
「まだわからないな。自分の望んでることが、ぼんやりとしかつかめてないんだからね」
その話しぶりは、ゆっくりとした奇妙なもの、まるで、ほんのわずか耳にはいってくるあるものを、聞きとろうとしているようだった。自分にもわからないなにか力が、彼の中にあり、それが、目にみえず、出口をみつけようともがいているみたいだった。彼の力強さが、人に感銘を与えた。ローソンは、自分が求めた批評にビクビク、クラットンのどんな意見でも軽蔑しているふりをして、受けるかもしれない非難の力を減少させようとした。だが、クラットンの賞賛ほどローソンにとってうれしいものはないのを、フィリップは知っていた。クラットンは、しばらくだまって、問題の肖像画をながめ、それから、画架にかかったフィリップの絵をチラリとながめた。
「あれは、なんだい?」彼はたずねた。
「ああ、ぼくも肖像画をちょっとやってみたんです」
「せっせとやる猿真似というやつか」彼はつぶやいた。
彼はローソンのキャンバスのほうをみた。フィリップは、顔を赤らめたが、だまっていた。
「うん、きみの意見はどうだね?」とうとうローソンはたずねた。
「実体感表現法はじつにいいな」クラットンはいった。「それに、とてもうまく描けてると思うよ」
「明暗法もしっかりしてると思うかね?」
「しっかりしたもんだ」
ローソンは、よろこびでニヤリとし、まるで水にぬれた犬のように、からだをブルブルッとふるわせた。
「まったく、きみの気に入ってもらって、とてもうれしいよ」
「気に入ってはおらんよ。まったくつまらんもんと思ってるんだからね」
ローソンはがっくりし、びっくりして、クラットンをにらみつけた。彼には、相手のいっていることが、どうにもわからなかったからである。クラットンには言葉の表現力がなく、その話しぶりは、努力して語っているといった感じだった。彼の言葉は、混乱し、つかえ、ダラダラしていたが、彼のそうした長談義のもとになっている言葉は、フィリップにはわかっていた。本を読むことは絶対にしないクラットンは、最初にそれをクロンショーから聞きとり、それでそう深い印象を受けたわけではなかったけれど、記憶にのこり、あとで、それがいきなりとびだしてきて、啓示の性格をおびるにいたったのだった。すぐれた画家には、絵を描く中心的な目的がふたつある。人間とその魂の意図するところだ。印象派の画家は、ほかの問題に心をうばわれ、人間をすばらしく描きはしたものの、自分の魂の意図するところを無視していたのは、十八世紀のイギリスの肖像画家と同じこと、というのが、その主旨だった。
「だけど、それを獲得しようとすると、文学になってしまうよ。相手をさえぎって、ローソンはいった。マネのように描けたら、もう十分。魂の意図するとこなんて、糞っくらえさ」
「マネの分野でマネをやっつけられたら、とても結構なことになるとこなんだがね。だが、きみは、近づくも愚かといったとこだよ。おとといのことを食って、生きてはいけんのだ。そこは、掃除されて乾あがっちまった土地だからな。足をもどさにゃならんのだ。肖像画から従前のもの以上にもっと獲得できるものがあると感じたのは、グレコの絵をみたときなんだ」
「じゃ、ラスキンにもどるだけのことさ」ローソンは叫んだ。
「いいや――いいかね、ラスキンの求めたのは道徳だ。道徳なんて、こっちの知ったこっちゃない。教えだ、倫理だ、なんだかんだなんて、どうでもいいんだ。問題は情熱と感情さ。最高の肖像画家は、ふたつのもの、人間と魂の意図するところを描き、レンブラントとエル・グレコがそれだ。人間だけを描いたのは、二流画家だけさ。谷の百合花《ゆり》(『雅歌』二ノ一にある言葉)は、においがなくったって、美しいものだろうが、香りをもつと、もっと美しくなるんだ。あの絵は」――彼はローソンの肖像画をさした――「うん、画法は結構、実体感表現法もしっかりしてるが、まったく因襲的だ。それは、女がきたならしいおひきずりとわかるように、描き、型どらなければならんのだ。正確さは、とても結構。だが、エル・グレコは、ほかの方法では得られないなにかを表現しようとして、描いた人間を八フィートのものにまでしたんだ」
「エル・グレコなんて糞っくらえだ」ローソンはいった、「その作品をみられる当てなしじゃ、その男のことを話したって意味なんかないんだからな」
クラットンは、肩をすくめ、だまってタバコをすい、外に出ていった。フィリップとローソンは、顔を見合せた。
「彼のいうことには、一理あるよ」フィリップはいった。
ローソンは、ご機嫌ななめで、自分の絵をにらんでいた。
「魂の意図するところを獲得しようったって、目に映るもんを正確に描きだす以外に、いったい、どうしたらいいというんだ?」
このころ、フィリップに親しい友だちができた。月曜日の朝には、その週のモデルえらびをするために、モデルが学校に集った。ある日、ひとりの青年がモデルになったが、モデルを商売にしていないのは、すぐにわかったが、この男の態度で、フィリップの注意はひきつけられた。モデル台に乗ると、しっかりと足をふんばり、がっちりと構え、両手をにぎりしめ、挑戦的に頭をつきだし、この姿勢は、美しい恰好をなおいっそう浮き彫りにした。贅肉《ぜいにく》はぜんぜんなく、筋肉は、まるで鉄づくりのように、盛りあがっていた。髪を短くした頭の恰好はよく、短い顎髯をつけていた。目は大きく、黒みがち、眉毛は濃かった。つかれの色はぜんぜんみせずに、何時間も、ポーズをとりつづけ、そのようすには、恥じらいと腹をきめたといったふうがまじり合っていた。この情熱的なたくましさの態度が、フィリップのロマンティックな想像力を刺激し、仕事が終って、服を着こんだ彼の姿をみると、まるでぼろをまとった王さま然とした感じだった。彼は口をきかず、一日か二日すると、このモデルがスペイン人で、モデルの経験がぜんぜんないことが、オッター夫人の話でフィリップにわかった。
「飢えかけてたんでしょうね」フィリップはいった。
「あの服、気がついたこと? とてもきちんとして、きれいなものよ、そうじゃなくって?」
アミトラーノで勉強しているアメリカ人のうちのひとりのポッターが、ふた月のあいだ、イタリアにゆき、アトリエをフィリップに貸してやろうか? という話が、たまたま出た。フィリップは大よろこびだった。ローソンの高飛車な忠告にはいささかイライラし、ひとり暮しをしたいと思っていたからである。週の終りに、彼は例のモデルのところにゆき、自分の絵がまだ完成していないという口実で、一日自分のところに来て、モデルになってもらえるだろうか? とたずねてみた。
「ぼくはモデルじゃないんですよ」スペイン人は答えた。「来週には、ほかの仕事があるんです」
「これから、ぼくといっしょに、昼飯を食べ、その話をしませんか?」フィリップはこうさそい、相手がモジモジしているのをみて、ニッコリしながらつけ加えた、「ぼくといっしょに食事をしても、べつにどうということもないでしょう」
肩をすくめて、モデルは承知し、ふたりは簡易食堂に出かけていった。このスペイン人のフランス語は、ひどいもので、流暢《りゅうちょう》だがとてもついてゆけずなんとか話すのがやっとのことだった。この男が作家であるのがわかった。小説を書きにパリにやってきたのだが、文なしの人間に万能なかぎりの便法で、なんとか食いつないでいるのだった。スペイン語を教え、手当りしだいに翻訳をしていたが、それはたいてい事務書類、あげくの果てに、自分の美しい姿で金をかせぐ始末になった。モデルは金になり、この一週間で、これから先二週間食いつないでいく金をもうけた。彼はびっくりしているフィリップに、一日二フランあれば、ゆったりやっていける、と話したが、金ずくでからだをみせなければならなくなったのをひどく恥じ、モデルになるのを、飢えしのぎのためだけで許される堕落と考えていた。フィリップは、からだぜんぶが必要なのではなく、頭だけを描きたい、なんとか彼の肖像を描いて、つぎのサロンに出したいのだ、と説明した。
「でも、どうしてこのぼくを描きたいんです?」スペイン人はたずねた。
フィリップは、頭がおもしろい、きっといい肖像画が描けるだろう、と答えた。
「時間のやりくりがつきません。書かずにいる一分一秒でも惜しいんですからね」
「でも、午後だけなんですよ。午前ちゅうは学校にいってるんですからね。結局のとこ、法律書類の翻訳をやるより、ぼくのためにモデルになったほうがいいでしょう」
ラテン地区には、ちがった国から来た学生たちが仲よくいっしょに暮していたという伝説がのこっているが、これはズーッと以前のこと、いまは、さまざまの国民が、東洋の都市のように、ほとん孤立して暮していた。ジュリアンでも美術会《ボーザール》(いずれも絵の学校の名前)でも、フランス人の学生が外国人と交際すると、その男は同国人からはにらまれ、イギリス人が自分の住んでる町のフランス人と形ばかりのつき合い以上の交際を結ぶのは困難なことだった。じっさい、五年間もパリ暮しをしている学生でも、店で使うフランス語しか知らず、南ケンジントンで勉強しているのと同じイギリス的な生活をしていた。
ロマンティックなものにたいする情熱をもっていたフィリップは、スペイン人と接触することになるこの機会を大歓迎、この男のすすまぬ気持ちを説得しようと、大童《おおわらわ》の努力をかさねた。
「じゃ、ぼくの腹を申しましょう」とうとうスペイン人はいった。「モデルにはなりますが、金ずくじゃなく、ぼぐ自身の気持ちということにしましょう」
フィリップは、それは困る、といったが、相手の気持ちは固く、とうとう、つぎの月曜日の午後一時に、彼が来ることになった。彼はフィリップに名刺をわたしたが、そこには、ミゲル・アフーリア、と彼の名前が印刷されてあった。
ミゲルはきちんきちんとやってきて、金をもらうのは断ったが、ときどき、五十フランをフィリップから借りた。モデルに払うふつうの料金より、これは少し金のかかることだったが、スペイン人にすれば、堕落したやり方で日暮しを立てているのではないという満足感を与えていた。スペイン人であるだけに、フィリップはこの男をロマンスの代表的人物と考え、セヴィリアとグラナダ、ベラスケスとカールデローン(スペインの劇作家)のことをたずねた。だが、ミゲルにとって、祖国のすばらしさはもう我慢ならぬものだった。多くのスペイン人の場合と同じく、彼にとって、フランスこそ知識人にふさわしい唯一の国、パリは世界の中心になっていた。
「スペインは死滅したんですよ」彼は叫んだ。「そこに、作家はいない、芸術はない、なんにもないんです」
少しずつ、スペイン人独得のあの華麗な言葉づかいで、彼は自分の野心を知らせた。彼は、いま、小説を書いていたが、それで自分の名を世に出そうとしていた。ゾラの影響を受け、舞台はパリにおかれた。フィリップにその話をながながと伝えたが、フィリップの目からみれば、それは生硬でバカらしいもの、稚拙《ちせつ》な卑猥《ひわい》さ――それこそ人生、きみ、それこそ人生なんだ、と彼は叫んだ――稚拙な卑猥さは、話の因襲的なことを強調しているだけのことだった。ここ二年間、信じられぬほどの困苦の中で、彼は筆を進めて、自分をパリにひきつけた快楽すべてをまったく無視し、芸術のために飢餓と戦い、どんなことがあっても、自分の大業を成就させよう、と意気ごんでいるのだった。この努力は、英雄的なものだった。
「それにしても、どうしてスペインのことを書かないんです?」フィリップは叫んだ。「そうしたら、ズッともっとおもしろくなるでしょうがね。そこの生活は知ってるんですからね」
「でも、書くに値する場所は、パリしかありませんよ。パリこそ、生活なんだ」
ある日、彼は、原稿の一部をもちこみ、へたなフランス語でいくつかの章句を読み、翻訳して読み進むにつれて興奮し、それは、フィリップには、ほとんど理解つかぬものになってしまった。まったく、痛ましいことだった。フィリップは、途方に暮れて、自分の描いている絵に目をやった。あのひろい額の背後にひそむ心は、つまらぬものなのだ。そして、きらめく情熱的なあの目は、人生に、はっきりとわかるものしかみていないのだ。自分の絵が意に満たぬものになり、モデルの時間が終ると、ほとんどいつも、その日に描いたものをけずりとってしまった。魂の意図するものをねらうのは、いかにも結構なこと、だが、人間が矛盾のかたまりとも思えるとき、魂の意図するものがなにかは、だれにわかることなのだろう? 彼はミゲルが好きで、ミゲルのすごい悪戦苦闘が無益に終るのかと思うと、心が痛んだ。ミゲルは、りっぱな作家になるのに、すべての道具立てをそろえていたが、大切な才能を欠いているのだった。フィリップは自分の絵をながめた。そこになにかこれといったものがあるかどうか、また、時間の浪費にすぎないかどうか、どうして知ることができよう? 達成しようとする意志だけではどうにもならず、自信だけでは意味のないのは、明らかだった。ファニー・プライスのことが、ふと頭に浮かんだ。彼女は自分の才能にたいして強烈な自信の持ち主、意志の力はすごいものだった。
「ほんとうにすぐれたものになれないとわかったら、ぼくは、絵をむしろ放棄してしまうだろうな」フィリップはいった。「二流の画家になるなんて、まったくつまらんことだ」
その後、ある朝、外出しようとすると、管理人が彼に声をかけ、手紙が来ている、と伝えた。手紙を寄こす者は伯母のルイーザしかなく、ときにヘイウォードからも手紙が来たが、その手紙は、彼の知らぬ手書きのものだった。その内容は、
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これを手にしたら、どうかすぐ来てください。もう我慢できません。どうかあなた自身が来てください。ほかのだれかがわたしにさわるなんて、考えただけでもたまりません。わたしの持ち物は、ぜんぶ受けとってください。
F・プライス
これで三日間、なにも食べていません。
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フィリップは、恐怖で、いきなり胸がムカムカしてきた。大急ぎで彼女の家に駆けつけたが、彼女がパリにいたことは、大きな驚きだった。もう何ヵ月も、彼女の姿はみかけず、とっくのむかしにイギリスに帰ったものとばかり考えていたのだった。彼女の家に着くと、彼女がいるかどうか、管理人にたずねてみた。
「いますよ。この二日間、出かけた姿はみかけてませんがね」
フィリップは、階段を駆けあがり、ノックをしたが、返事はなかった。名も呼んでみた。ドアは鍵をかけられ、かがんでみると、鍵が錠にはめられたままになっていた。
「さあ、大変、なにかおそろしいことをしでかしたのかな」彼は大声で叫んだ。
そこで、駆けおり、彼女はたしかに部屋にいる、彼女から手紙を受けとり、なにかおそろしいことが起きたのじゃないかと心配だ、と門衛に伝え、ドアを破ってはいったら、とうながした。そのときまで仏頂面《ぶっちょうづら》をして、話を聞くのもいやといった態度をしていた門衛はびっくりし、家宅侵入の責任はとれない、ひとつ警視のところにいこう、といいだした。そこで、ふたりはつれ立って警察署にゆき、それから、錠前屋を呼んできた。プライス嬢がこの四半期の部屋代を払わず、正月には、むかしからの習慣で管理人の権利ともなっている贈り物をしていないことがわかった。四人はあがっていき、またノックをしてみたが、返事はなかった。錠前屋は仕事にとりかかり、とうとう、みなが部屋にはいっていった。
フィリップは、つい声をあげてしまい、本能的に両手で目をおおった、みじめな女は、首になわを巻きつけて、ダラリとさがっていた。なわは、寝台にカーテンをつるために、前に住んでいた者が天井につけた鈎《かぎ》に結びつけてあった。邪魔にならぬようにと小さな寝台をどけ、椅子の上に立ち、それからそれを蹴っとばしたのだった。椅子は床で横倒しにころがっていた。なわを切って、彼女はおろされたが、からだは、もうすっかり冷たくなっていた。
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四十九
フィリップがあれこれと聞きだした話は、おそろしいものだった。女の学生たちの不満のひとつは、ファニー・プライスがレストランでみなといっしょに楽しく食事を絶対にしようとしないことだった。理由は明白だった。おそろしい貧困にさいなまれていたからである。はじめてパリにやってきたとき、ふたりでいっしょに食べた昼食と、彼の胸をムカムカさせたあのすさまじいばかりのガツガツした態度が思い出されたが、ひどい飢餓でああなったものと、いまになってわかってきた。管理人は彼女の食事のことを話してくれたが、毎日牛乳が一本配達され、ひとかたまりのパンが外からもちこまれ、学校から帰ると、彼女は、正午に、パンと牛乳を半分とり、のこりは夕食にしていたのだった。それは、毎日毎日くりかえされていた。
彼女が堪えた苦しみを思うと、フィリップの胸は痛んだ。彼女としては、ほかの者より貧乏だ、なぞとはおくびにもこぼしたりはしなかったが、金を使い果して、とうとう、アトリエに来る都合がつかなくなったのは、明らかだった。小部屋に家具はほとんどなく、服といえば、いつも着ていたあのきたない褐色の一張羅《いっちょうら》だけだった。フィリップは、連絡をつけるだれか友人の宛て名をみつけようと、持ち物をさぐってみたが、みつかったのは一枚の紙だけ、そこには、彼自身の名前がくりかえしくりかえし書きこまれてあった。これは、奇妙な衝撃だった。彼女が自分を愛していたのは事実と考え、天井の鈎からダラリとさがった褐色の服姿の痩せ細った死体を思い浮べると、ゾッとした。だが、自分に気があるのだったら、どうして自分の援助を受けようとしなかったのだろう? できるだけのことは、よろこんでしただろうに。彼女のほうでは特別な気持ちを自分にもっていたのに、自分がそれを知らぬふりしつづけてきたかと思うと、悔恨《かいこん》の情が湧いてきた。いまにして思えば、彼女の手紙に書いてあった「ほかのだれかがわたしにさわるなんて、考えただけでもたまりません」という言葉は、かぎりなく悲痛なものになってきた。彼女は餓死したのだった。
フィリップは、とうとう、「兄アルバートより」と署名のある手紙を一通みつけだした。二、三週間前のもので、サービトン(ロンドンの南西十一マイルにあるロンドンの郊外住宅地)のある通りから出したもので、五ポンドの借金の断り状、差出人は、妻も子もある立場にあり、金を貸す余裕はとてもない、ロンドンにもどって、職をみつけたらどうだ、といったものだった。フィリップはこのアルバート・プライスに電報を打ち、やがて、返事がきた。
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深く哀悼。仕事の都合にて都合わるし。ゆくこと、必要なりや? プライス
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フィリップは簡単な、必要、という電報を打ちかえし、翌朝、見知らぬ男がアトリエに姿をあらわした。
フィリップがドアをあけると、「わたしはプライスですが」とこの男はいった。
黒服を着こみ、山高帽に喪章をつけたありきたりの男で、ファニーのみっともなさに多少似かようところがあり、不精ったらしい口髭をつけ、ロンドンの下町なまりがあった。フィリップは、どうぞ、と中に入れたが、ことのいきさつを細かに話し、自分のしたことを伝えているあいだ、この男はアトリエをチラリチラリと横目でみまわしていた。
「ファニーをみる必要はないでしょう、どうです?」アルバート・プライスはたずねた。「神経が弱くて、ちょっとしたことでもだめになっちまうんですからね」
彼は遠慮なくベラベラとしゃべりだした。彼はゴム商人で、妻と三人の子供をかかえていた。ファニーは、家庭教師をしていたが、この仕事をすてて、どうしてパリにやってきたのか、この兄には合点《がてん》のいかぬことだった。
「パリは女に向かんとこと、わたしも家内もいってたんですがね。その上、絵なんて、金にはならないし――そんなことって、一度もないんですからね」
妹との折り合いがわるかったのは、たしかなこと、妹の自殺を自分に加えられた最後のひどい仕打ち、と彼は憤慨していた。貧乏で自殺に追いこまれたと考えたがらなかったが、これは、自分たちの不名誉になる、と思っていたからで、ひょいとしたら、妹の行動にもっと外聞のいいわけでもあるのではないか? とも考えていた。
「男出入りはなかったんでしょうな、どうです? どういうことか、おわかりでしょうね、パリとかそういったとこのことですからな。なんとか体裁よく、ことをすますこともできたでしょうにね」
フィリップは、顔がほてってくるのを感じ、自分の弱さがいまいましくなった。プライスの鋭い小さな目は、お前こそ情事の相手、と勘ぐっているようだった。
「妹さんは清潔な暮しをしていたと思いますよ」プリプリして、彼はいった。「自殺したのは、飢えのためです」
「うん、一族にとっては、じつにつらいことですよ、ケアリーさん。ちょっと手紙を寄こしさえすりゃ、よかったんです。妹につらい思いはさせなかったはずなんですからね」
フィリップがこの兄の宛て名を知ったのは、その借金の断り状を読んだからだった。だが、フィリップはただ肩をすくめただけだった。いまさら責めても意味のないことだったからである。この小男がたまらなく忌まわしくなり、できるだけ早いとこ、手を切りたかった。アルバート・プライスにしても、必要なことは早く切りあげ、ロンドンにもどりたがっていた。ふたりは、あわれなファニーが暮していたちっぽけな部屋に出かけていった。アルバート・プライスは、絵と家具に目をやった。
「絵のことに心得があるとは、いったりしませんよ」彼はいった。「こうした絵は、多少は金になるもんなんでしょうな、どうです?」
「びた一文にもなりませんよ」フィリップはいった。
「家具は十シリングにもなりませんな」
アルバート・プライスはフランス語がぜんぜんだめ、そこで、万事、フィリップがやってやらなければならなかった。あわれな彼女の死体を埋葬してやるのに、果てしのない手続きが必要といった感じだった。ある場所で書類を手に入れ、べつの場所で署名してもらわねばならず、役人ともいろいろ会わなければならなかった。三日間というもの、フィリップは、朝から晩まで、それにかかりっきりだつた。とうとう、彼とアルバート・プライスは、霊枢《れいきゅう》車について、モンパルナスの墓地にゆくことになった。
「こうしたことは、ちゃんとしたいんですがね」アルバート・プライスはいった、「金をかけてもつまりませんからな」
灰色の寒い朝におこなわれた短い葬儀は、なんともいえぬほどわびしいものだった。アトリエでファニー・プライスといっしょに勉強していた数名の者が、この葬式にやってきた。世話係りなのでこれが義務と心得てやってきたオッター夫人、やさしい心根のために参列したルース・チャリス、ローソン、クラットン、フラナガンが、参会者だったが、生前彼女をきらっていた連中ばかりだった。フィリップは、墓地一面に立ちつくしている墓をみまわしたが、貧素で簡単なものあり、野卑で見栄ばり醜悪なものありで、身がふるえてきた。じつにきたならしいものだった。外に出ると、アルバート・プライスは、フィリップを昼食にさそった。彼は、いま、フィリップにとって、たまらなくいやな存在、フィリップはつかれていた。夜はよく眠れなかった。あのすりきれた褐色の服を着たファニー・プライスが天井の鈎から垂れさがっている姿が、いつも、夢にあらわれてきたためだった。だが、このさそいを断る口実が、うまくみつからなかった。
「どこかきちんとした、まともな昼飯が食べられるとこに、ご案内ねがいたいもんですな。こうしたことすべては、えらく神経に応えることなんですからね」
「この辺だったら、ラヴェニュがまあいちばんというとこでしょうね」フィリップは答えた。
アルバート・プライスは、ホッと安堵《あんど》の吐息《といき》をもらして、ビロードの座席に腰をおろし、たっぷり内容のある昼食と|ぶどう《ヽヽヽ》酒一本を注文した。
「いやあ、終って助かりましたよ」彼はいった。
ここで、ぬけめのないわずかの質問をしたが、パリでの画家の生活について聞きたがっているのが、フィリップにわかった。自分では、それを嘆かわしいものとみていたが、空想で思いをはせているその底ぬけさわぎの細かな話を、すごく知りたがっていた。狡猾《こうかつ》にまばたきし、慎重にクスクスッと笑って、フィリップが認めた以上にもっともっといろいろのあとがあるのを知っているぞ、とほのめかした。自分は世間のことは心得た男、ちょっとしたことは知っている、というわけだった。テンプル・バー(一八七九年にとりこわされたロンドンのシティ西端の門)から王立取引所にまで有名になっているモンマルトルの場所にいったことがあるか? とフィリップにたずねた。ムーラン・ルージュにいったことがある、と吹聴したがっていた。ここでの昼食はとてもうまく、|ぶどう《ヽヽヽ》酒はすばらしかった。食事で腹が快くふくらんでくると、アルバート・プライスの心もふくらんでいった。
「少しブランデーをやりましょう」コーヒーが運ばれてきたとき、彼はいった、「そして、金もパッパと使ってね」
彼は、手をこすり合せた。
「いいですかね、今晩はここに泊り、明日帰ろうかなとも思ってるんですよ。ひとつ今晩、いっしょにやりませんかね」
「ぼくに今晩、、モンマルトルを案内してくれというのでしたら、とんでもないことですよ」
「うん、このさい、まずいことでしょうな」
この返事はえらく大まじめなものだったので、フィリップはおかしくなった。
「その上、そちらの神経にもえらく応えますからな」大まじめな顔で、彼はいった。
アルバート・プライスは、四時の列車でロンドンに帰ったほうがいい、ということになり、やがて、フィリップに別れを告げた。
「じゃ、さようなら、きみ」彼はいった。「いいですかね、いずれ近いうち、なんとか都合して、またパリにやってきて、おたずねしますよ。そんときには、ひとつ、どんちゃんさわぎをやらかすことにしましょうや」
フィリップは、その午後、気持ちが落ち着かないので仕事が手につかず、そこで、バスにとびのり、セーヌ川をわたり、絵が展示されていたらと思って、デュラン・ルエルにゆき、その後、大通りをブラリブラリと歩きまわった。通りは、寒くて風に吹きさらされていた。人びとは、外套にすっぽりとつつまれ、寒さをさけようとからだをすぼめ、顔はちぢみあがり、やつれ果てていた。あそこの墓地は、白い墓石につつまれたモンパルナスの墓地の凍りつくような地下だった。すごくわびしくなり、妙に故郷が恋しくなった。話し相手がほしかった。この時刻に、クロンショーは仕事をしているだろうし、クラットンは来客を好まぬ男だった。ローソンは、ルース・チャリスの肖像画をまた新しく描きはじめ、邪魔されるのをいやがるだろう。そこで、フラナガンをたずねてみることにした。彼も絵を描いていたが、よろこんで仕事をやめ、話をはじめた。アトリエは温かく快適だった。このアメリカ人は、仲間のあいだでは金持ちだったからで、フラナガンはお茶の準備にとりかかった。彼がサロンに出そうとしている二枚の頭の像の絵を、フィリップはながめた。
「ぼくが出すなんて、厚かましいことさ」フラナガンはいった、「だが、構うもんか、ぼくは出すよ。どうだい、ひどいもんかね?」
「いや、思ったほどひどいもんじゃないね」フィリップはいった。
絵は、事実、驚くべきぬかりのなさを示していた。むずかしいところは巧妙にさけ、絵の具のぬり方にはある勢いがこもり、それは、驚くべき、いや、魅力的なものとさえいえた。知識も技巧も身につけていないフラナガンは、ながいこと絵筆に親しんできた奔放《ほんぽう》な筆の力をもっていた。
「三十秒以上絵をみるのはお断りということになったら、きみは巨匠になることだろうよ、フラナガン」ニヤリとして、フィリップはいった。
こうした若い連中は、ひどいお世辞で人をいい気分にさせるなんていうことは、していなかった。
「どんな絵でも、アメリカじゃ、三十秒以上ながめる暇はなくてね」相手は笑った。
フラナガンは、じつに頭の散漫な男だったが、やさしい心の持ち主で、これは、この男には意外な感に打たれる美点だった。だれかが病気になると、いつでも、看護婦がわりになり、その陽気さは、薬より効験《こうげん》あらたかだった。たいていのアメリカ人と同じように、感情を外に出したりしてはと感傷性をおそれて、それをおさえつけようとするイギリス的なところはもたず、感情を露骨にあらわすのをバカバカしいこととは考えずに、大げさに同情の気持ちを出していたが、これは、ときどき、苦しんでいる友人たちには、ありがたいことだった。
フィリップがこの何日間かのことでがっくりきているのを知って、体裁かまわぬ親切ぶりで、ワイワイと彼の機嫌なおしにとりかかった。いつもイギリス人の笑いの種になっているのがわかっているアメリカ人|気質《かたぎ》を大げさにまるだしにし、気まぐれで元気、陽気な話を息もつかず滔々《とうとう》と語りだした。やがて、ふたりは夕食に出かけ、その後、ゲイテ・モンパルナスにいったが、ここはフラナガンのかよいつけの演芸場だった。宵《よい》の終りに、彼は途方もなく上機嫌になり、酒はそうとう飲んではいたものの、その酩酊ぶりは、アルコールより自分の陽気さによるものだった。彼は、ダンスホールのバール・ビュリエにいこう、といいだし、つかれきっていて逆に眠れなくなっていたフィリップは、大よろこびでそれに応じた。床よりちょっと高いわきの壇のテーブルにふたりは坐り、踊りをみながら、ドイツ黒ビールを飲んだ。
ちょっとすると、フラナガンは、友人の姿をみかけ、大声をあげて手すりをとびこえ、踊り場にはいっていった。フィリップは、人びとをジッとながめていた。ビュリエは一流のダンスホールではなく、その日は木曜日の夜、人がみっしりつめかけていた。多くのさまざまな学生が集っていたが、男の大部分は書記か店員だった。彼らはふだんの服、既製のツイード服か奇妙な燕尾服を着こみ、帽子をかぶっていたが、これは、帽子をかぶってここにやってき、踊りをはじめると、頭以外の場所にそれをおくところがなかったからだった。女の一部は女中、そのほか、ぬり立てたあばずれ女もいたが、大部分は女店員だった。その服装は粗末で、川向うの流行を安っぽく真似したものだった。あばずれ女どもは、その当時名を売っていた演芸場の女役者や踊り子まがいの化粧をし、目は黒くぬり立ててものものしく、頬は毒々しい真紅《しんく》でぬられていた。
ホールは、低くつりさげられた白熱灯で照らしだされ、それが顔の陰影をなおくっきりと浮き彫りにしていた。この光のもとで、すべての線は硬直したものになり、色はじつに毒々しかった。まったくきたならしい情景だった。フィリップは、手すりに寄りかかって身をのりだし、下の踊り場に目をすえていたが、音楽はもう耳にはいって来なかった。みなは、すごい勢いで踊っていた。ゆっくり、ほとんど口もきかず、注意力すべてを踊りに傾けて、踊っていた。部屋は熱っぽく、顔は汗でテラテラと光っていた。フィリップの目には、こうした人たちが、ふだん表情につけている警戒心、因襲をおそれる気持ちをすっかりかなぐりすてたように思え、ありのままの彼らの姿をとらえた。そうした奔放さの瞬間に、彼らは奇妙なけだもののようだった。狐《きつね》のよう、狼《おおかみ》のような者あり、羊のながい間のぬけた顔をしている者もいた。肌は、そのいとなむ不健康な生活と粗末な食事で、血色がわるく、顔形は下品な興味で繊細さを失い、小さな目は、ごまかしじょうずな狡猾ぶりをあらわしていた。彼らの態度には、高貴さといったものは微塵《みじん》もなく、彼ら全員にとって、人生はつまらぬ関心ときたならしい思いの連続にすぎぬように思えた。
空気は、人間のいやなにおいで、ムンムンしていたが、彼らは狂気のように踊りつづけ、からだの中の奇妙な力につき動かされているみたいだった。享楽への飽《あ》くことのない欲望でグイグイとつき動かされているように、フィリップの目には映った。恐怖の世界からしゃにむにのがれようとしているのだ。人間の行動の唯一の動機とクロンショーがいっていたあの快楽を求める欲望は、彼らを闇雲《やみくも》につき動かし、欲望の激しさ自体で、それから快楽がうばい去られているのだ。彼らは、抵抗する力もなく、強風にグイグイと前におしだされ、どうして、どこへといったことは、皆目《かいもく》見当がつかない。運命が彼らの上に高くそびえ、永遠の暗闇を踏みしめているかのように、彼らは踊っている。その沈黙は、漠然と、おそろしいものだった。まるで、人生が彼らをふるえあからせ、口がきけなくなって、こみあげてきた悲鳴が喉元でおさえつけられている、といった感じだった。目は気味わるくやつれてくぼみ、彼らを醜悪にしている野獣的な欲望、下品な顔つき、残忍さ、最悪の間抜けさにもかかわらず、ジッとみすえた目があらわす苦悶は、こうした群集すべてをおそろしく悲痛なものに仕立てていた。フィリップはこの群集を嫌悪していたが、心を満たしたかぎりない憐憫の情で、心はズキズキとうずいた。
彼は、携帯品預り所から外套を受けとり、凍りつく夜空のもとにとびだしていった。
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五十
あの不幸な事件は、フィリップの頭にこびりついてはなれなかった。いちばん心が痛んだのは、ファニーの努力の無益さだった。彼女以上もっと勤勉、誠実に勉強するのは、とても不可能なことだった。彼女は、心の底から、自身を信じきっていたが、自信だけではどうにもならぬのは、明らかだった。フィリップの友人はすべて、なかんずく、ミゲル・アフーリアは自信の持ち主だったが、このスペイン人の英雄的ともいうべき努力とそのやっているもののつまらなさのおそろしいちがいは、フィリップの心に衝撃を与えた。
学校時代に不幸を味わわされたフィリップは、自己分析の力を生みだし、この悪習が、麻酔剤常習のように、いつとはなく彼をとらえ、その結果、彼は自分の感情を特別鋭く分析していた。絵画が与える自分への影響が他人とはちがっているのを、彼はさとらずにはいられなかった。美しい絵をみれば、ローソンはすぐにゾクリとするよろこびを感じた。この鑑賞力は本能的なものだった。フラナガンでさえ、フィリップが考えぬかなければならぬことを、ピタリと感じとっていた。彼自身の評価は知的で、自分に芸術的気質(この言葉は大きらいだったが、ほかにうまい言葉がなかった)があるとしたら、自分の美の感じとり方は、彼らと同じく、感情的な理屈ぬきのものになるはずだ、と考えずにはいられなかった。物を正確に写しとる浅薄な手の器用さ以上のものを、自分は果してもっているのだろうか? と思いなやみはじめた。そんな才能は、くだらないものだ。技術的な器用さを、彼は軽蔑するようになっていた。重要なのは、絵の具と結びついた感受性をもつこと、ローソンは、それが性格なので、あるふうにちゃんと描き、すべての影響に敏感な絵の学生の模倣性をもっていながらも、個性が一本とおっていた。フィリップは、自分の描いたルース・チャリスの肖像画をながめてみたが、もう三ヵ月たっていたので、それが卑屈なローソンの物真似にすぎぬことがよくわかった。自分の無能が身にしみる思いだった。自分は頭で描いているだけ、価値ある絵は、ただただ、心情で描かれたものだけなのだ、と彼はさとらずにはいられなかった。
金はもうほとんどなく、干六百ポンドにすぎず、ギリギリの節約をしなければならなかった。この先十年間、金をかせげるみこみはなかった。絵の歴史は、ぜんぜんかせぎをしなかった画家であふれている。貧困は覚悟しなければならぬこと、もし不滅の作品を生みだすことができたら、悔いのないことだった。だが、自分は所詮《しょせん》二流以上にはなれぬ、という恐怖が彼をとらえた。そのために自分の青春、陽気な生活、人生のさまざまなチャンスを逸していいものだろうか? もうパリ在住の外国人画家の生活をよく知り、その生活がせまくかぎられているのが、彼にはわかっていた。いつも手からのがれ去っていく名声を追い求めて二十年間ダラダラと暮し、あげくの果てには、むさくるしい住まいと酒にくずれ去っていった何人かの人もいた。ファニーの自殺は、さまざまの記憶を呼びさました。あれこれの人たちが絶望からのがれようとしてとった道のおそろしい話を、フィリップは耳にしていた。あわれなファニーに先生が与えたあの軽蔑まじりの忠告が、いまさらのように思い出された。あの忠告を彼女が受け入れ、絶望的な試みを放棄したら、彼女にとって幸福だったのだ。
フィリップは、ミゲル・アフーリアの肖像画を仕上げ、サロンに出品しようと決心した。フラナガンは絵をふたつ出したが、自分の腕はフラナガンにおとりはしない、と彼は考えた。この肖像画にはなみなみならぬ努力を傾け、それなりに価値あるもの、と思わずにはいられなかった。それをながめてみると、わけはわからないながらも、なにか欠陥あり、と感じたのはたしかに事実だったが、作品からはなれると、元気が出てきて、そうまんざらでもない気になり、とうとうサロンに出したが、結果は落選だった。これは、そう気になることではなかった。入選するみとおしはまずないものと、必死になって自分を説得しようとしていたからだった。だが、数日後、フラナガンがふっとんできて、自分の絵が一枚入選した、とローソンとフィリップに知らせた。じつに無表情な顔をして、フィリップは祝いの言葉を述べたが、その言葉につい出てくる皮肉の調子はどうにもならなかった。だが、フラナガンはよろこびでもう胸がワクワク、フィリップの話し具合いには気づかなかった。頭の回転の早いローソンは、それをみてとり、ジロジロとフィリップをながめた。彼自身の絵は成功し、もう一日か二日前にそれを知っていたが、彼の目に、フィリップの態度はいまいましいものだった。それにしても、フラナガンが帰るとすぐ、フィリップが彼に浴びせたいきなりの質問で、彼はびっくりした。
「きみがぼくの立場に立ったら、ことすべてをすっかり放棄するかね?」
「それは、|いったい《ヽヽヽヽ》、どういうことだね?」
「二流画家になんかなるべきものかどうか、ということさ。いいかい、ほかのことだったら、たとえば、医者になるにせよ、商人になるにせよ、いい加減なものになったって、べつにどうということもないさ。暮しは立つし、なんとかやっていけるんだからね。ところが、二級品の絵をつくったって、どんな意味があるんだろう?」
ローソンは、フィリップに好意をもち、落選でひどくくさっているとわかるとすぐ、彼をなぐさめはじめた。のちに有名になった絵をサロンが拒否したことがあるのは、知れわたった事実、フィリップが出品したのは、これがはじめて、肘鉄《ひじてつ》を食うのは覚悟しなければいけない、フラナガンの入選は説明できる、彼の絵ははでで浅薄、うんざりして無気力になった審査員が受けとりそうなもんなんだ、といったことだった。フィリップはジリジリしてきた。こんなつまらぬ不幸で自分が深刻にくさっているとローソンが考え、自分の落胆が深く根ざしている自分の能力にたいする不信にあることを理解しないでいるなんて、まったくひどいことだった。
クラットンは、最近、グラヴィエで食事をしていた連中とそうつき合わなくなり、たいてい、ひとりでいた。フラナガンの話によると、ある女を恋しているそうだったが、クラットンのきびしい顔には、情熱の面影はうかがえなかった。頭の中に浮んだ新しい考えをはっきりさせるために、友人たちから身をひいている、とフィリップはむしろ考えたかった。だが、その晩、ほかの者がグラヴィエをひき払って、芝居をみに出かけ、フィリップがひとりで坐っているとき、クラットンがフラリとやってきて、食事を注文した。ふたりは話をはしめ、クラットンがふだんよりよくしゃべり、皮肉をそうとばさないのをみて、フィリップは、相手の上機嫌に乗じて、ひとつたづねてみよう、と決心した。
「ねえ、ちょっとぼくの絵をみにきてくれないかい?」彼はいった。「その絵についてのきみの意見をききたいんだ」
「いや、やめとこう」
「どうして?」顔を赤くして、フィリップはたずねた。
こうした依頼は、仲間同士がみなやっていることで、断るなんて、考えてもいないことだった。クラットンは肩をすくめた。
「批判を求めても、ほしがってるのはただ賞賛だけなんだからね。その上、批評を受けて、どんな役に立つというんだい? 絵がよかろうとわるかろうと、どうだというんだね?」
「ぼくには大変な問題なんだ」
「いいや、ちがう。人が物を描くただひとつの理由は、描かずにいられないから描くだけのことさ。それは、肉体のほかの機能のどれともちがわない機能なんだ。ただ、それをもち合せている人間が比較的少ないだけのことでね。絵を描くのは、自分のためだ。そうでなかったら、自殺しちまうよ。ちょっと考えてもみたまえ。どれだけかわからんほどのながい歳月をかけ、心血をそそいでキャンバスになにかを描きだそうとし、それで得る結果は、どういうもんなんだろう? 十ちゅう八九は、サロンからのお断りさ。たとえ入選しても、人は、とおりすがりに、ただチラリとみるだけ。運が向いたとしても、だれか無知なバカ者がそれを買い、壁にかけ、食堂のテーブルと同じように、かえりみられなくなるだけのことだ。批評なんて、画家とは関係のないことなんだ。なるほど、客観的な判断はくだすだろうが、客観性は、画家には用のないことでね」
クラットンは、両手で目をおおい、自分のいおうとすることに注意を集中しようとした。
「画家は、自分のながめるものからある特別な情感をくみとり、否応なくそれを表現しなければならなくなり、どうしてだかわからないにしても、自分の感情の表現法は、線と色彩だけになってしまう。作曲家と同じだな。一行か二行を読むと、ある調べを結び合せたものが心に浮ぶ。どうしてこうこういった言葉がこうこういった調べを心に生みだすのかは、わからんのだ。ただ、そうなるだけのことなのさ。どうして批評が無意味なのか、もうひとつ理由をあげておこう。偉大な画家は、自分がみるように、有無《うむ》いわさず、世間にもみさせてしまう。だが、つぎの世代に、べつの画家が、それとはちがつたふうに、世界をながめ、そのとき、大衆は、彼その人によってではなく、その先輩によって、彼を判断することになる。こうして、バルビゾン派の連中(フォンテンブローの村の名。一八三〇―七〇年に古典派に反対して、ここに本部をおいて自然観察の直截さを主張した)はわれわれの祖先に木をある見方でながめるのを教え、モネが出現して、ちがったふうに描くと、人びとは、だが、木はそうしたものではない、といったんだ。木が画家のみるがままのものということは、どうしてもわからないんだな。われわれは、内から外に向けて、描くんだ――自分たちの目を世間におしつけると、世間はわれわれを偉大な画家と呼ぶ。それをしないと、無視されちまうのだ。だが、|われわれには《ヽヽヽヽヽヽ》変りはない。偉大だろうと偉大でなかろうと、われわれには問題でない。自分たちの作品が後世どうなるなんて、意味のないことさ。それを製作している最中、そこから得られるかぎりのものはぜんぶ、もうとっちまってるんだからね」
話がしばらくとぎれ、そのあいだに、クラットンは運ばれてきた食事をすごい勢いでガツガツと食べた。フィリップは、安タバコをくゆらして、彼を細かに観察した。彫刻家の鑿《のみ》にさからって石から彫りだされたようなぼうぼうとした頭、荒々しいたてがみを思わせる浅黒い髪、大きな鼻、大きな顎骨は、力強さを連想させたが、その仮面の下に奇妙な弱さが潜在しているのではないか? とフィリップは考えた。自分の作品をみせようとせぬクラットンの態度は、まったくの虚栄心にすぎないのかもしれない。だれかから批判を受けるかと思うと、たまらなくなるのだ。サロンで落選の憂き目をみたくはないのだ。彼は一流の先生としてあおがれようとし、他人の作品と比較されて、否応なく自信喪失の破目に追いこまれるのをおそれているのだ。フィリップが知り合うようになったこの一年半のあいだに、クラットンの無愛想と辛辣さはだんだんつのっていった。堂々と出るところに出て、仲間と技をきそおうとはしないのに、それをやっている連中の安易な成功に、彼はプリプリしていた。ローソンには我慢ならず、フィリップがはじめて知り合いになった当時のふたりの新しい間柄にもかかわらず、このふたりの仲はすっかりちがったものになっていた。
「ローソンは結構なことさ」いかにも軽蔑したふうに、彼はいった、「いずれイギリスに帰り、流行の肖像画家になり、年に一万ポンドはかせぎ、四十にならないうちに、王立美術準会員になることだろう。貴族、紳士の方々のための手描きの肖像画というやつか!」
フィリップのほうでも、将来のことを考え、辛辣、孤独、野蛮、無名の二十年先のクラットンの姿を思い浮べた。そのときになっても、パリ生活が骨の髄にまでしみこんでしまったために、まだパリに在住し、荒々しい言葉でわずかな同人を支配して、自分自身と世間を相手に戦い、到達し得ぬ完璧さへの情熱がたかまるにつれて、作品の数は無に近く、ついには泥酔状態におちこんでいく姿だった。最近、フィリップは、人生はただ一度しかないのだから、それをなんとか成功させるのが重要、と考えていたが、成功、すなわち、金をもうけること、名声をあげることとは考えていなかった。じゃ、どういうことを考えているのかという段になると、はっきりしてはいなかったが、たぶん、さまざまな経験と自分の才能の十分な発揮といったところだったのだろう。
とにかく、クラットンが運命づけられているようにみえた生涯が失敗に終るのは、明らかだった。それに正当性を与えるものは、不滅の傑作を描くことしかなかった。ペルシャじゅうたんに関するクロンショーの奇妙な比喩が、それにつけても思い出された。ときどき、それを考えていたが、クロンショーは、ファウヌス(ローマ神話で、牧夫や農夫のあがめる半人半獣の林野の神、耳がとがり、山羊の角と尾と足をもち、性質は淫乱。ギリシャ神話のサテュロスに当たる)的な気分で、その意味をはっきり説明しようとせず、それを自分でみつけなければ意味はない、といっていた。画家の生涯をつづけるのにフィリップが感じた不安の根底に横たわっているのは、人生を成功させたいというこうしたねがいだった。だが、また、クラットンが話をはじめた。
「ブルターニュで会った男についてぼくが話した話、憶えてるかね? ついこないだ、ここで彼と会ったんだ。タヒチにいっちまったよ。もうすってんてんの一文なしになってね。手びろくやってる実業家、イギリスでいえば、さし当り、株の仲買人といったとこかな。妻も子もあり、大きな収入もあったんだが、絵描きになろうと、そうしたもんすべてをすてちまったんだ。家をとびだし、ブルターニュに住みつき、絵をはじめたのさ。金はぜんぜんかせがず、餓死寸前の生活ぶりだったよ」
「奥さんや子供は、どうしたんです?」フィリップはたずねた。
「ああ、すてちまったさ。自分勝手に飢えちまえというわけだな」
「そいつは、そうとうひどい話」
「いやあ、きみ、紳士になりたかったら、画家になるのは放棄することだね。それには、なんの関係もないんだからね。老いた母親を養うために、がらくた絵を描いてた連中のことは知ってるね――そう、それで、りっぱな息子だったことにはなるが、ひどい作品の申し開きにはならんのだ。商人にすぎんのだからね。画家だったら、母親を養育院にたたきこんじまうだろう。自分の女房がお産で死んだある作家と、ここでぼくは知り合ったがね、女房を愛し、悲しみでくるったようになってたが、床のわきに坐って、女房が死んでくのをジッと見守りながら、彼女がどんなふうか、なにをいうか、自分の心の状態はどうか、をちゃんと検討してる自分の姿を発見したんだ。これは、りっぱな紳士らしいやり口、そうじゃないかね?」
「だけど、きみの友だちはすぐれた画家なんですか?」フィリップはたずねた。
「いいや、まだ、ピサロふうに描いてるだけだよ。まだ自分をみつけだしてないんだが、色彩感覚と装飾感覚は、りっぱなもんさ。だが、そんなことなんて、問題じゃない。問題は感情、あの男はそれをもってるんだ、妻や子供たちにたいして、まったくの人でなしな態度をとったし、いつもまったく人でなしの態度をとってるよ。自分を助けてくれた人間をあつかう態度ときたら――ときどき、友人たちのまったくの親切で、餓死から救われてるのにね――まったくけだもの同然。ただ、たまたま偉大な画家、というだけのことさ」
この世が与えてくれる感情をキャンバスに描きだすために、すべてのこと、快適さ、家庭、愛情、名誉、義務をよろこんで放棄しようとしている男のことで、フィリップはあれこれと思いをはせた。それはすばらしいことだったが、彼にはその勇気は湧いて来なかった。
クロンショーのことを思うにつけ、もう一週間も会っていないことに気がついた。そこで、クラットンが出ていくと、フィリップは、作家クロンショーがまちがいなくいるカフェにブラリブラリと歩いていった。パリに来た最初の数ヵ月間、クロンショーのいうことすべてを福音書のように受けとっていたが、フィリップはじっさい的なものの見方をする人間、結果が行動となってあらわれない理論にはイライラしてきた。クロンショーのわずかな詩の束は、うすぎたない生涯の代償としてあがなった十分な結果とは、とても思えなかった。フィリップは、自分の性格から、自分の出身のもつ中産階級的本能をぬぐい去れなかった。あの困窮と、露命をつなぐためにクロンショーがやっている下働きの仕事、不精ったらしい屋根裏部屋とカフェのテーブルを往復している単調な生活は、彼のお体裁のよさを尊ぶ気分には、どうしてもいやなものだった。クロンショーの鋭い目は、この青年が自分に失望しているのを見破り、ときどきは冗談まじりの、だが、ときにはとても辛辣な皮肉をとばして、フィリップの俗物根性をやっつけた。
「きみは商人だよ」彼はフィリップにいった、「人生をコンソル公債(一七五一年にはじめられた国債)に投資し、金庫に三分の利子をおさめこもうというやつさ。ぼくは、すってんてんに浪費しちまうほうでね、自分の資本まで使っちまうんだ。心臓の最後の動悸《どうき》といっしょに、最後の一文を使い果すことだろう」
この比喩は、フィリップをムカムカさせた。これは、語り手の態度をロマンティックなものに仕立て、さし当っては頭に思い浮んでこないが、いい分は十分にあるものとフィリップが本能的に感じとっていた立場に泥をぬることになったからである。
だが、この晩、フィリップは、どうとも踏みきりがつかずに、自分のことを話したかった。運よく、時刻はもうおそく、テーブルにおかれたクロンショーの受け皿の山は、それぞれの皿を一杯の酒と勘定すれば、彼がもう、事物一般について独自の見解を吐露《とろ》する段階にあるのを物語っていた。
「どんなものか、意見をひとつお聞きしたいんですがね」いきなり、フィリップは切りだした。
「聞くだけなんだろ、どうだい?」
フィリップは、イライラして、肩をすくめた。
「画家として、自分にはそうみこみがないと思い、それをやめちまおうか、と思ってるんです」
「やめたらいいじゃないか」
フィリップは、ちょっとモジモジした。
「でも、この生活は好きなんです」
クロンショーの静かに落ち着いたまるい顔に、サッと変化が起きた。口の隅がいきなりへこみ、目がくぼみこみ、奇妙なふうに背がかがんで老人くさくなったようだった。
「この生活かね?」自分たちが坐っているカフェをみまわしながら、彼は叫んだ。彼の声は、たしかに、ちょっとふるえていた。
「ぬけだせるものなら、早いとこ、それをしたがいいよ」
フィリップは、唖然《あぜん》として、クロンショーを凝視したが、激情を目にすると、なにか照れくさくなるのが彼の持ち前の性格、そこで、目を伏せてしまった。いま失敗の悲劇を目のあたりにしているのが、彼にはわかっていた。ふたりとも、おしだまったままだった。クロンショーは自分の生涯をふりかえっているのだ、とフィリップは考えた。明るい希望にあふれた自分の青春、その輝きをすりへらしてしまった失意、みじめで単調な快楽、黒々とした将来に、思いを馳《は》せているのだろう。フィリップの目は受け皿の小さな山に向けられていたが、クロンショーの目もそれをみているものと考えた。
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五十一
二ヵ月がたった。
こうした問題をあれこれと考えているうちに、真の画家、作家、作曲家にはある力があり、それが彼らを追いやって、すっかり仕事に没入させ、芸術を第一のものと考え、人生を二のつぎのものに考えずにはいられなくしてしまうのではないか、とフィリップには思われてきた。自分にはつかめない力に屈服して、彼らは自己にとりついた本能の犠牲にすぎず、人生は、味わわぬままに、指のあいだがらすりぬけていってしまうのだ。
だが、彼としては、人生は味わうべきもの、写しとるべきものではない、と感じた。人生のさまざまな経験を探り、それぞれの瞬間から、しぼりとれるかぎりの情感をしぼりとりたかった。そして、とうとう、とにかく一歩踏みだし、その結果は甘受しよう、という気分になり、こう決心すると、すぐにその第一歩を踏みだした。とても好都合なことに、その翌日は、フォアネの授業のある日で、絵の勉強をつづけるだけのことがあるかどうか、ズバリとこの先生にたずねてみよう、と決心した。ファニー・プライスに与えたこの先生の冷酷な忠告は、彼の頭にこびりついていた。だが、その忠告は正しいものだった。フィリップにしては、ファニーのことをすっかり忘れるわけにはいかなかった。彼女のいないアトリエは、いま、奇妙なものに映り、ときどき、そこで勉強しているだれか女の身ぶりや語調が、彼をいきなりギクリとさせ、彼女のことを思い出させた。生前より死んだいまになって、彼女の存在がなおいっそう痛切に感じられた。ときどき、夜、彼女のことを夢にみ、悲鳴をあげて目をさました。彼女が堪え忍んだにちがいない苦痛すべてを思いめぐらすのは、すごくおそろしいことだった。
アトリエに来る日に、フォアネがオデッサ通りの小さなレストランで昼食をとるのを、フィリップは知っていたので、この画家が食事をすませて出てくるのを待とうと、自分の昼食をそこそこにして、出かけていった。フィリップは、人のこみ合っている街路を往きつもどりつし、とうとう、先生がうつ向き加減になって自分のほうに歩いてくるのをみた。ひどく神経をたかぶらせていたが、彼はがんばって、この先生に近づいた。
「失礼ですが、先生、ちょっとお話ししたいことがあるんです」
フォアネは、サッとフィリップをながめ、それと認めたが、挨拶の微笑は示さなかった。
「じゃ、いいなさい」彼は答えた。
「先生についてここで勉強をはしめてから、もうかれこれ二年になるんです。このままつづけるだけのことがあるかどうか、ありのままズバリ、先生にいっていただきたいんです」
フィリップの声は、少しふるえをおびていた。フォアネは、目をあげずに、ズンズンと歩きつづけ、相手の顔をジッとみつづけていたフィリップの目に、そこになにか表情らしきものが浮んだとは思われなかった。
「なんだかつかめん話だね」
「とても貧乏で、才能がないとしたら、ぼくはなにかほかのことをやろうと思ってます」
「自分の才能があるとは思わんのかね?」
「ぼくの友だちはみんな、才能があると思ってますが、その中には、まちがっている者もあるのを、ぼくは知っています」
フォアネのきびしい口のあたりに、かすかな微笑が浮び、ついで、彼はたずねた、
「この近くに住んでるのかね?」
自分のアトリエがどこにあるかを、フィリップが知らせると、フォアネはグルリと向きなおった。
「そこにいこう。きみの作品をみせたまえ」
「いまですか?」フィリップは叫んだ。
「いけないことはないだろう」
フィリップとしては、なにもいえず、だまったまま、先生のわきを歩いていった。胸がひどくワクワクして、たまらなくなった。その場でフォアネが作品をみてやろうといってくれるなんて、考えてもいないことだった。いつか将来みにきていただけるか? さもなければ、フォアネのアトリエに自分の作品をもっていっていいかどうか? をまずたずねて、自分の心構えもしておくつもりだったからである。彼は心配でからだをふるわせていた。気持ちとしては、フォアネが自分の絵をみ、めったに見受けられぬ微笑が彼の顔に浮び、フィリップに握手を求めて、「わるくははないぞ。やりつづけたまえ、きみ。きみに才能、真の才能がある」といってほしく、それを思うと、フィリップの胸はふくらんできた。そうなれば、すごく安心でき、すごくうれしいことだった。もう勇気|凛々《りんりん》進んでゆくことかできるし、最後に地位を確立できるとすれば、苦痛、貧困、失意なんて、もう問題ではない。自分は一生けんめいやってきたのだ。その努力が一切空に帰したら、あまりにもむごい、ということだろう。
こう考えたとき、ギクリとして、ファニー・プライスがそれとそっくり同じことをいっていたのを、フッと思い出した。ふたりは家に着き、フィリップは恐怖感におそわれた。できるものなら、フォアネに、帰ってくれ、といいたくなった。真実を明らかにされたくはなかった。ふたりは家にはいり、管理人は、とおりすがりの彼に、手紙をわたした。封筒にチラリと目をやると、それは伯父の筆跡だった。フォアネは、彼につづいて、階段をあがり、フィリップは、なにもいえなかった。フォアネはおしだまり、この沈黙は神経に応えた。教授は腰をおろし、フィリップは、なにもいわずに、サロンで落選した絵を教授の前においた。フォアネは、うなずきはしたものの、ひと言もいわず、そこで、フィリップは、ルース・チャリスの二枚の肖像画、モレで描いた二、三枚の風景画、それに、たくさんのスケッチをみせた。
「これでぜんぶです」神経質に笑って、やがて彼はいった。
フォアネ先生はタバコを巻き、火をつけた。
「自分個人の財産はないのかね?」先生はとうとういった。
「ほとんどありません」心が突然スーッと冷えてゆくのを感じながら、フィリップは答えた。
「それではとても暮しが立ちません」
「暮しを立てるのにどうしょうかと年がら年じゅう心を痛めるほど、心をだめにするものはないよ。わたしとしては、金を軽んじてる者には、軽蔑の念しかもってないね。偽善者かバカにすぎんのだ。金は第六感のようなもの、それがなくては、ほかの五感も十分に働いてはくれんのだからね。しかるべき収入がなかったら、人生の万能性の半分は、もうつぶれたも同然。用心しなければならないただひとつのことは、自分のかせいだ一シリングにたいして、一シリング以上の支出をしないことだ。貧乏は芸術家に与えられるなによりの刺激だ、という話を耳にするだろう。そうした連中は、貧困の刃《やいば》を身に味わったことのない人なのさ。それで人間がどんなにいやしくなるか、彼らは知らないのだ。それは、人を果てしない屈辱にさらし、翼を切りとり、癌《がん》のように魂の中に食いこんでくる。要求するのは、富ではなく、自分の威厳をそこねずにゆったりと働き、寛大、卒直、独立を維持できる金だけなのだ。作家だろうと画家だろうと、すべて自分の術《わざ》で暮しを立てなければならん芸術家を、わたしは心の底からあわれに思ってるよ」
フィリップは、なにもいわずに、先生にみせたさまざまな絵を片づけた。
「お話をお聞きしたところ、ぼくにはたいしたみこみがないようですね」
フォアネ先生はちょっと肩をすくめた。
「きみには、ある手先の器用さがある。せっせと勉強してがんばったら、きっと、いい加減なことはしない、結構りっぱな画家にはなるだろう。きみよりへたな画家はたくさん、同じ程度の画家もたくさんいるといった程度にはなるだろう。みせてもらったどの画にも、才能は認められない。勤勉ぶりと知性は認められるがね……。まあ、凡庸《ぼんよう》な画家以上には絶対なれないね」
フィリップとしては、しっかりとつぎのように答えるしか方法はなかった。
「こうまでご面倒をおかけして、心から感謝します。お礼の言葉は、いいつくせないくらいです」
フォアネ先生は立ちあがり、出ていこうとしたか、フッと気を変え、足をとめて、フィリップの肩に手をかけた。
「だが、わたしの意見を求められたとしたら、こう答えるだろうね、しっかり勇気をふるい立て、なにかほかのことで運だめしをしてみたまえ、とね。これはとても冷酷な言葉にひびくだろうが、わたしがきみの年ごろで、だれかからそうした忠告を与えられ、その忠告を受けるといったことになるとしたら、自分の持ち金すべてをすっかりすてても惜しくはないことだろうよ」
フィリップは、びっくりして、相手の顔をみあげた。先生は口許《くちもと》にこわばった微笑を浮べたが、目は、もとのまま、深刻で物悲しげだった。
「自分の凡庸を発見してむごさを感ずるのは、ただ時すでにおそしという立場に立ってからのこと。それで気分がよくなるわけのものではないしね」
最後の言葉をいいながら、彼はちょっと笑い、さっさと部屋から出ていった。
フィリップは、ただ機械的に、伯父からの手紙を手にとった。伯父の筆跡をみただけで心配になったが、これは、ふだん手紙を寄こすのは、伯母にかぎっていたからだった。伯母は、ここ三ヵ月間、病気で、彼は、伯母に会いにイギリスに帰ろう、と伝えたが、それで勉強の邪魔になってはと心配して、彼女はそれを断ってきた。迷惑はかけたくない、八月まで待つ、そのときには、牧師館に二、三週間来てくれ、なにかの偶然で病状がわるくなったら、すぐ知らせる、お前の姿をみずに死にたくはないのだから、と彼女はいっていた。伯父が手紙を書いてきたとすれば、伯母の病気が重くて、筆をとれなくなったためにちがいない。フィリップは手紙を開いたが、内容は以下のようなものだった、
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拝啓
残念なことながら、伯母は、今朝早く、死去したことをお知らせする。突然の死ではあったが、まったく安らかな死だった。容態が急変したため、きみを呼び寄せることができなかった。最後は十分に覚悟し、ありがたい復活を確信し、主イエス・キリストの聖なるご意志にすべてをゆだねて、安息の境地にはいった。伯母はきみの葬儀参加を望んでいることだろうから、できるだけ早く帰ってきてほしい。当然のことながら、いろいろの仕事がわたしの肩に負わされ、困却している。わたしにかわって、そうしたすべてのことをきみが処理してくれるのを期待している。
敬具
ウィリアム・ケアリー
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五十二
つぎの日、フィリップはブラックステイブルに到着した。母親の死以来、近親の死ははじめてのことだった。伯母の死は彼に衝撃を与え、同時に、彼の胸は奇妙な不安でいっぱいになった。自分が死すべき身であることを、はじめて痛感したからである。四十年間、愛情をささげて世話をしてくれた女性の伴侶《はんりょ》を失って、伯父がどんな日暮しをしているか、フィリップには見当もつかず、絶望的な悲しみで伯父が打ちひしがれているものと考えていた。そうした伯父との最初の出逢いが、おそろしかった。役に立つことがなにもいえないのは、よくわかっていた。彼は、いろいろと適当な言葉を、心の中でくりかえした。
彼は裏の戸口から牧師館にはいり、食堂にいった。伯父のウイリアムは新聞を読んでいた。
「列車はおそかったね」目をあげて、伯父はいった。
フィリップは悲しみにおしつぶされてしまうものと覚悟していたが、こうしてありきたりの挨拶をされて、ギクリとした。伯父は、沈んだようすを示しながらも冷静に、彼に新聞をわたした。
「ブラックステイブル・タイムズが、とても親切なちょっとした弔文《ちょうぶん》を載せてくれたよ」
フィリップはただ機械的にそれを読んだだけだった。
「二階で彼女と対面するかね?」
フィリップはうなずき、ふたりは二階にあがっていった。伯母のルイーザは、花で一面に飾られて、大きな寝台のまんなかに横たわっていた。
「短いお祈りをあげてくれるかい?」牧師はいった。
彼はひざまずき、それが当然期待されているものと思って、伯父にならい、それからしわだらけの小さな顔をみた。フィリップの心を打ったのは、ただひとつの思いだけだった。なんとむだに使いつぶしてしまった人生だろう! すぐケアリー氏は、咳払いをして立ちあがり、寝台のすそのところにある花環を指さした。
「あれは、例の地主さんのとこからのものだ」彼はいった。その低い話し声は、まるで教会にいるようだったが、聖職者として、こうした人の死にはもうすっかり平気になっているといったふうだった。「もうお茶ができてるだろう」
ふたりは、また、食堂におりていった。閉めきったよろい戸は、物悲しげな雰囲気をふりまいていた。牧師は、妻がいつも坐っていたテーブルの端に坐り、格式ばったふうに、茶をついだ。フィリップは、伯父も自分も悲しみで食べ物が喉をとおらないだろう、と感じていたが、伯父の食欲が依然として旺盛なのをみて、彼も、いつものとおり、パクパクとやりだした。ふたりは、しばらく、だまったままでいた。フィリップは、ここでしかるべしと思った悲しみの情をみせながら、おいしい菓子を食べはじめた。
「わしが副牧師をやってたころからみると、世間もずいぶん変ったもんだな」やがて、牧師はいった。「若いころには、会葬者はかならず、黒手袋と帽子の喪章の黒絹を贈られたもんだった。ルイーザは、その絹で服を仕立てることにしていてね、十二回葬式に出ると服が一着できる、と口癖のようにいってたよ」
それから、話は、花環の贈り主のことにうつっていった。もう、二十四の花環が贈りとどけられている。ファーンの牧師の奥さんだったローリンソン夫人が亡くなったとき、花環は三十二だった。だが、あしたになれば、もっともっと来るだろう。葬式は十一時に牧師館ではじまるのだから、らくらくローリンソン夫人をしのぐことになるだろう。ルイーザは、あのローリンソン夫人をどうも虫が好かなくってね、といった話だった。
「わしは、葬式をぜんぶ、自分でやるよ。埋葬はほかのだれにもやらせない、とルイーザに約束したんだからな」
伯父はふたつ目の菓子を食べはじめたが、フィリップは、これはひどいことといった気持ちで、それをながめていた。こうした事情のもとで、それはガツガツした、みっともないことと思わずにはいられなかったからだった。
「メアリー・アンは、たしかに菓子づくりの名人だね。こんなにおいしい菓子をつくれる者なんて、ほかにはいないだろうよ」
「まさか、暇をやるんじゃないんでしょうね?」びっくりして、フィリップは叫んだ。
メアリー・アンは、彼が物心ついてからズーッと、この牧師館の住人だった。彼の誕生日は忘れたことがなく、バカげてはいながらも、なにか心を打つちょっとしたものを、いつもかならず贈ってくれていた。この女は、ほんとうに好きだった。
「いいや、暇を出すよ」ケアリー氏は答えた。「独り者の女を家におくのは、まずいことだからな」
「でも、まったく、四十を越えた女なんですよ」
「うん、そうだろうな。だが、あの女、最近だいぶうるさくなってきたんだ。なんでも自分でしようとしたがり、これを潮《しお》に暇を出そうか、と思ってるよ」
「たしかに、二度とない潮時でしょうがね」フィリップはいった。
彼はタバコをとりだしたが、伯父はそれに火をつけさせなかった。
「葬式がすむまで、それはいかん」
「わかりました」フィリップは答えた。
「お前の伯母さんのルイーザの遺骸《いがい》が二階にあるのに、家の中でタバコをすうなんて、きちんとしたふるまいとはいえないからな」
葬式が終ると、教区委員で銀行の支配人をしているジョサイア・グレイヴズがもどってきて、牧師館で食事をした。よろい戸はひきあげられ、フィリップは、いけないこととは思いながらも、ホッとした妙な感じを味わっていた。家に遺骸があると、なにか心が落ち着かなかったからだった。生前、あのあわれな女性は、親切とやさしさそのものの人物だったが、その遺骸が固く冷えきった二階にあるとなると、なにか毒気でも生存者にふりまいているような感じだった。そう考えると、フィリップはゾッとした。
ふと気がつくと、一、二分間だけだったが、彼は教区委員とふたりだけで食堂にいた。
「しばらく、伯父さんといっしょに、ここにいるんでしょうな」彼はいった。「まだひとりだけにしておいてはいけない、と思うんですがな」
「べつに計画は立ててませんがね」フィリップは答えた。「伯父の希望だったら、ぼくは大よろこびでここにいますよ」
妻に先立たれた夫を元気づけようと、教区委員は、メソジスト派の礼拝堂を一部焼いたブラックステイブルで起きた最近の火事の話をもちだした。
「保険はかかってなかったようですよ」ちょっとニヤリとして、彼はいった。
「そうだとしても、どうということはないでしょうな」牧師はいった。「再建に必要な金は、すぐに集るでしょうからね。礼拝堂の連中は、金放れがいいんだから……」
「ホールデンが花環を贈ったようですな」
ホールデンは非国教会派の牧師で、自分たちのために命をささげてくださったキリストのことを考えて、ケアリー氏はこの牧師に街路でうなずきの挨拶だけはしていたが、話しかけたりはしなかった。
「なかなかりっぱなもんでしたよ」彼はいった。「花環は四十一あった。きみのはきれいで、フィリップもわしも、ほれぼれしたくらいでしたからな」
「いいや、どういたしまして」銀行の支配人は答えた。
自分の花環がほかのだれのより大きいのを知って、彼はまんざらでもなかった。とてもみごとなものだった。葬式に参列してくれた人びとの話になった。この葬儀のために、店は閉じられ、教区委員は印刷したビラをポケットからひっぱりだしたが、そこには、「ケアリー夫人の葬儀のため、一時まで当行閉鎖」とあった。
「これは、わたしの考えでしてね」彼はいった。
「そうまでしていただいて、心から感謝してますよ」牧師はいった。「ルイーザも、きっとよろこんだことでしょう」
フィリップは食事をした。メアリー・アンはこの日を日曜日としてあつかい、焼いたひな鳥と|すぐり《ヽヽヽ》の実入りのパイが出た。
「墓石のことは、まだ考えてないんでしょうな」教区委員はたずねた。
「いいや、考えたよ。飾りのない石の十字架がいいだろうと思っている。ルイーザは、見栄《みえ》ばりのきらいな女だったからね」
「十字架にかぎりますな。そこに刻む聖句として、『キリストとともにあらんこと、これ遙《はる》かに勝《まさ》るなり』(新約ピリピ書一ノ二三)はどうでしょうかね?」
牧師は口をキュッとすぼめた。万事自分でとりきめようとするなんて、いかにもビスマルク的だった。その聖句は、自分に汚名を着せられているように思えて、彼としてはいやだった。
「それは、やめたほうがいいようだね。むしろ、『主与え、主取りたまうなり』(旧約ヨブ記一ノ二一)のほうがズーッといいな」
「いや、そうですかね? それは、なんだか、冷たい感じがいつもするんですがね」
牧師の答えは、そうとうに辛辣、それにたいするグレイヴズの応じ方も、妻を失ったばかりの牧師には、いささか権柄《けんぺい》ずくすぎると思われる調子のものだった。自分の妻の墓石に刻む聖句を早く決定しておかないと、とんでもないことになるぞ、と牧師は考えていた。ちょっと話がとぎれ、ついで、話題は教区のことになった。フィリップは、タバコをすおうと、庭に出てベンチに坐り、いきなり、狂ったように笑いだした。
数日後、伯父は、これから何週間か、ブラックステイブルにいてくれたらいいのだが、と希望をもらした。
「ええ、ぼくとしても、とても結構ですよ」フィリップは答えた。
「九月にパリに戻っても、べつにどうということもないんだろう?」
フィリップは答えなかった。フォアネのいってくれたことをあれこれと考えぬいてはいたが、どうともはっきり腹がきまらず、将来のことは口にしたくなかった。すぐれた者にはなれないとみとおしがついた以上、芸術を放棄するのに、むしろすっきりした気持ちを味わえたわけだったが、そう思うのは自分だけ、他人の目には、敗北を認めることになるだろう、という難点があり、彼として、敗北を認めるのは、いやだった。彼は強情っぱりで、自分の才能がある方面ではだめじゃないかと思うと、かえって、しゃにむにそちらに突っ走りたくなるのだった。友人たちの嘲笑を買うのは、たまらぬことだった。これだけでも、絵の勉強を思い切って放棄するのをおさえてしまうところだったが、環境が変ったために、突然、ものごとをちがった角度からながめるようになった。
多くのほかの人と同じように、英仏海峡をわたると、重要なものと思っていたことがつまらぬものに思えてくるのが、彼にわかってきた。とてもすばらしくてすてる気にはなれなかった生活は、いま、バカバカしいものに思えてきた。カフェ、まずい料理を出すレストラン、みなが暮している薄ぎたない生活は、ゾッとするほどいまわしいものになった。友人たちにどう思われようと、もう構いはしなかった。言葉の魔力をもったクロンショー、お体裁ぶり屋のオッター夫人、気どり屋のルース・チャリス、口論ばかりしているローソンとクラットン、こうした彼らすべてにたいして、反動的に強い嫌悪の情が湧いてきた。
手紙をローソンに出して、自分の所持品一切を送ってもらい、それは一週間して到着した。荷をほどいてキャンバスを出したときは、自分の作品に冷静な検討を加えることができるようになっていた。この事実はおもしろいこと、と彼は思った。伯父は彼の絵をみたがった。フィリップがパリにゆこうとするのにああまで強く反対していたのだが、彼は、いま、その事実を平然として認めていた。美術学生の生活に興味をもち、そのことで、たえずフィリップに質問を浴びせた。事実、フィリップが画家であるのを、多少ほこらしくさえ思い、人が来ると、彼を話し仲間に入れようとした。フィリップがみせた肖像画のスケッチをむきになって見入っていた。フィリップは、自分の描いたミゲル・アフーリアの肖像画を、彼の前においた。「どうしてこの男を描いたんだい?」ケアリー氏はたずねた。
「そう、モデルがほしく、頭がおもしろかったからですよ」
「ここでべつに用はないんだから、ひとつわしの絵を描いてくれんかね?」
「モデルになるのは、大変なことですよ」
「いやあ、それをしてみたいんだ」
「まあ、考えてみましょう」
伯父の虚栄心が、フィリップにはおもしろかった。肖像画を描いてもらいたくってムズムズしているのは、たしかだった。ただでなにかを手にいれられるとなれば、機逸すべからず、というわけだった。二、三日間、彼は、それとなくフィリップの気をひいていた。ブラブラ遊んでいるのはけしからん、と責め、いつ絵の勉強をはじめるんだ? とたずね、最後には、フィリップが自分を描いてくれる、と会う人ごとに吹聴《ふいちょう》していた。とうとう、ある雨の日、朝食後に、ケアリー氏はフィリップにいった。
「さあ、わしの肖像画だが、今朝はじめたらどうだね?」フィリップは、読んでいた本を下におき、椅子で身をそらせた。
「絵はやめることにしたんです」
「どうして?」びっくりして、伯父はたずねた。
「二流の画家になっても、べつにどうということもありませんからね。その上、二流の画家以外の者に自分がなれないのが、よくわかったからです」
「これは驚いたこと。パリにいく前には、自分は天才、と自信満々だったじゃないか」
「見当ちがいしてたんです」
「ひとつの職業をきめた以上、ほこりの気持ちからいっても、がんばりとおすだろう、と思ってたんだがね。どうやら、お前に足りんのは意地のようだな」
自分のこの決心がどんなに勇気をふるったあげくのことか、伯父がわかろうともしないでいるのは、フィリップには、ちょっといまいましいことだった。
「『ころがる石には苔《こけ》がつかぬ』というやつだぞ」牧師は語りつづけた。フィリップは、このことわざが大きらいだった。彼の目には、まったく意味のないものに思えたからである。この前、ロンドンの仕事をやめるとき、伯父はこのことわざを何回となくくりかえしていた。たしかに、伯父はそのときのことを思い出した。
「いいか、もう子供じゃないんだぞ。しっかりと落ち着くことを考えねばならんのだ。最初、公認会計士になるといいだし、それにあきて、画家になりたがった。そして、いま驚いたことに、また考えが変ってきたんだ。要するに、それは……」
伯父は、ちょっとまごまごして、それがどんな性格上の欠点をあらわすかを考えていたが、その言葉のけりをつけたのは、フィリップだった。
「不決断、無能、みとおしの甘さ、意志薄弱というわけですな?」
牧師は、自分が笑われているのかどうかと、サッと甥の顔をみあげた。フィリップの顔は真剣だったが、目がキラリと輝き、これが牧師にはいまいましかった。フィリップはもっと真剣にならなければいけない。ひとつお灸《きゅう》をすえてやろう、と彼は考えた。
「お前の金のことは、わしにはもう関係のないことだ。一人前の男なんだからな。だが、その金がいつまでもつづくもんじゃないことを、忘れちゃいかんぞ。それに、不幸なお前のからだの欠陥は、暮しを立てる大きなさまたげになってるのだ」
腹を立てると、人がなにより先に考えるのは、自分の|えび《ヽヽ》足にふれてくることだ、というのを、フィリップはもう心得ていた。どんな人間もこの誘惑には抵抗できない事実で、一般の人間にたいする彼の評価はもうできていた。だが、そうした言葉でうろたえを示さぬ心構えはできていた。少年時代には拷問《ごうもん》の苦痛にもなっていた赤面さえ、おさえることができるようになっていた。
「伯父さんのおっしゃるとおりなんですがね」彼は答えた、「ぼくの金のことは、そちらには関係がなく、ぼくは一人前の男なんですよ」
「とにかく、お前が美術学生になろうと決心したとき、わしが反対したのが正しかったという点は、ひとつ認めてもらいたいもんだな」
「さあ、それは、なんともいえませんね。自分自身でしでかしたあやまちで身につける利益のほうが、ほかの人間の意見であやまりなくやるより、大きいんじゃないでしょうかね? とにかく、思いきりやりたいことはやってきたんです。もうこの辺で落ち着いてもいいとこでしょう」
「落ち着くって、なににだ?」
フィリップは、まだこのことを考えてはいなかったので、即答はできなかった。事実、いろいろの職業が、頭に浮かんではいたのだったが……。
「お前にいちばんふさわしい仕事は、父親と同じ道を歩み、医者になることだろう」
「奇妙なことですが、ぼくも、ちょうどそれと同じことを考えてたんです」
彼は、たしかに、あれこれの職業のなかで、医者になることを考えていたが、その主な理由は、それがそうとうの個人的自由を与えてくれるように思えたからだった。事務所生活の経験から、そうしたことは二度とすまい、と腹をきめていた。牧師にたいするこの返事は、いわばツーカーといった応答のように、思わず口をついて出てしまったものだった。こんな気まぐれな偶然で職をきめたことが彼の心をくすぐり、即刻その場で、秋には、父親のいた病院にはいることにしよう、と決心した。
「じゃ、とにかく、お前がパリで送った二年間は、それだけの損と考えてもいいわけだな?」
「さあ、なんともいえませんよ。とても楽しい二年間だったし、ためになることも、ちょっとはあったんですからね」
「どんなことだ?」
フィリップはちょっと考えこんだが、その答えは、おだやかながらも、多少|嫌味《いやみ》まじりのものだった。
「いままでとはぜんぜんちがった手の見方、これを身につけましたよ。それに、家と木だけをながめたりはせずに、空を背景にして家と木をながめる術《わざ》もね。それからまた、影は黒いものじゃなくって、色があるということもね」
「それで才気|煥発《かんぱつ》とでも思ってるんだろう。そんな軽薄さなんて、まったくバカげたことだ」
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五十三
新聞を手にして、ケアリー氏は書斎にひきこもってしまった。フィリップは、自分の椅子からうつって伯父の椅子に坐りこみ(それは、この部屋でただひとつの坐り心地のいい椅子だった)、窓越しに降りしきる雨をながめた。この物わびしい天気でも、地平線のかなたまでひろびろとのびている青々とした畠には、なにかゆったりとしたものがあった。この景色にはなじめる魅力があり、これは、そのときまでに気づかないでいた魅力だった。二年のフランス滞在が、祖国の田園の美しさにたいする彼の目を開いたのだった。
彼は、ニヤリとして、伯父の言葉を考えた。自分の心の傾向が軽薄さに傾いていったのは、幸運なことだった。両親の死で自分がどんなに大きな損失をこうむったかが、しみじみわかってきた。それこそ、ものをほかの人とはちがったふうにみるようにさせた人生の相違のひとつだった。まったく無私といえるただひとつの感情は、子供にたいする親の愛情だ。他人に入りまじって、彼は、できるだけしっかりと育ってきたが、忍耐や寛容であつかわれたことは、まずなかった。自制心は彼のほこりにしているものだったが、それは、仲間のあざけりで彼にたたきこまれた美徳だった。そうなると、こんどは、皮肉で冷淡と人にいわれた。冷静な態度はもう獲得し、どんなことがあっても、たいてい落ち着いた外面は維持でき、感情を外に出さなくなった。感情で動かされない、と人びとにいわれていたが、自分が感情の思うがままにつき動かされているのを、彼自身は知っていた。たまたまの親切で強く心を打たれて、ふるえ声を出すまいと話ができなくなることも間々あった。学校生活のみじめさ、受けた屈辱、自分が笑い者になるのを病的なほどおそれることになったあざけりが思い出され、さらに、世間に直接ぶつかって、その後味わった孤独感、幻滅、キビキビと動く想像力でつくりあげられたものと現実の差によってひきおこされた失望感が思い出された。だが、それにしても、彼は、第三者的立場から自己をながめ、おもしろがって微笑をもらす余裕をもっていた。
「まったく、軽薄にならなかったら、首をくくるところだったぞ」彼は楽しく考えた。
彼の心は、パリで学んだものはなんだったのか? と伯父にたずねられたとき自分がした返事にもどっていった。事実のところ、伯父に伝えたよりズーッと多くのことを、学んだのだった。クロンショーとかわした話は、頭にこびりつき、クロンショーのいった平凡至極なひと言を、彼はいろいろと考えていた。
「ねえ、きみ」クロンショーはいった、「抽象的な道徳なんていうもんはないんだよ」
キリスト教を信じなくなったとき、フィリップは、大きな荷が肩からおりたように思った。すべての行動が不滅な魂の幸福のために無限の重要性をもっているとき、すべての行動に重くのしかかってきた責任感をかなぐりすてて、生気にあふれた自由感を味わった。だが、いま、それは幻想とわかった。自分がそれにつつまれて育ってきた宗教を放棄したとき、宗教の眼目になっている道徳は、そのままの姿で彼にのこっていた。そこで、ものは自分で考えることにしよう、と決心した。偏見に支配はされまい、と心にきめたのだった。美徳と悪徳、善と悪が確立している掟《おきて》を払いのけたが、これは、自分で生活の掟をみつけだそうとする意図あってのことだった。掟がいったい必要なのかどうか、見当もつかず、それが、なんとか発見したいと念願していることのひとつだった。
たしかに、有益と思われるものの多くが有益に思われるのは、ただ、まだ幼い子供のころからそう教えこまれてきたためだった。本はすいぶん読んできたが、たいして助けにはならなかった。それがキリスト教の道徳を基盤にしていたからである。キリスト教の道徳を信じていない事実を標榜《ひょうぼう》している作家でさえ、「山上の垂訓」(マタイ伝五、六、七、ルカ伝六の二〇―四九)によって組みあげられた倫理体系をつくりだしてはじめて満足する状態だった。大きな本を一冊骨を折って読んで、ほかの人間とそっくり同じふうに行動すべしと教わるのでは、まったく意味ないことに思えた。フィリップは、どうふるまうべきか、をみつけだそうとし、それで、自分をとりかこんでいる意見からの影響をなんとかのがれられる、と考えた。だが、さし当って生きていかねばならず、行動の理論をつくりあげるまで、一時的な掟を設定した。
「町角の向うに巡査がいることをちゃんと心得た上で、自分の好きなことをしろ」
パリで得た最高の収穫は精神の完璧な自由、と考え、とうとう自分は自由になった、と感じた。散漫ではあったにせよ、哲学書は多く読みあさり、これからの何カ月かの余暇が楽しみだった。そこで、手当りしだいに読みはじめた。それぞれの体系の本を読みだすときには、ゾクリとする興奮がともない、それぞれの本に、自分の行動の規定に役立つ手引きを発見できるものと期待していた。未知の国々を踏破していく旅人のようで、進むにつれて、読書で心は魅了されていった。彼の読み方は、ほかの人が純文学を読むのと同じで、まったく感情的、漠然と自分が従前感じていたことが崇高な言葉であらわされているのを発見すると、心は踊りあがった。彼の心は具体的にものを考える質のもので、抽象世界ではらくに動けなかったが、推理についてはゆけなくとも、理解できぬものの領域に足を踏み入れようとするところで、すみやかに足を進めてゆくまがりくねった思考のあとについてゆくのは、ふしぎなよろこびを与えてくれた。偉大な哲学者のうちには、与えるものをなにももっていないように思える者もいたが、べつの哲学者には、すっかりなじめる心を発見することができた。彼は、中央アフリカの探険家、いきなりひろびろとした高地にぶつかり、そこには大木が育ち、ひろい牧場がひろがっていて、自分がイギリスの公園にいるのじゃないかと思ったりする探険家のようだった。トマス・ホッブス(イギリスの哲学者)のたくましい常識は楽しいもの、スピノザ(オランダの哲学者)は彼の心を畏敬の念で満たし、こうまで崇高、こうまで近よりがたい、きびしい心に接したことは皆無、それは、彼が情熱を傾けて礼賛していたロダン(フランスの彫刻家)の『青銅時代』を想起させた。さらに、ヒューム(イギリスの哲学者)があり、この魅力的な哲学者の懐疑思想は、フィリップの心の中で、同じ琴線の調べをかなでることになり、複雑な思想を音楽的で韻律《いんりつ》のととのった簡単な言葉で表示できるように思えたあの明澄な文体を大いに楽しみ、口許によろこびの微笑を浮かべながら、まるで小説でも読んでいるように、それを読み進んでいった。
だが、求めていたそのものズバリのものは、だれにも発見できなかった。どこかで、すべての人間は、生れたときから、プラトン派、アリストテレス派、克己主義者、享楽主義者のいずれかだ、という言葉を読んだことがあり、ジョージ・ヘンリー・ルイス(イギリスの哲学者・文明批評家。一八五四年女流小説家ジョージ・エリオットと同棲)の経歴は、(哲学はつまらぬみせかけだけのものと教える以外に)、歴然と、それぞれの哲学者の思想が人間そのものと相即不離《そうそくふり》の関係にあることをあらわしていた。人間を知れば、その人物の書く哲学がどんなものか、だいたい見当がつくのだった。人があるふうに行動するのは、あるふうに考えるためではなく、むしろ、あるふうに考えるのは、あるふうにその人間がつくられているため、といったふうに思えた。真理は、それにぜんぜん関係ないもの。真理といったものはないのだ。各人がそれ自身の哲学者、過去の偉人がつくりだした手のこんだ体系は、その作家にだけ役立つものなのだ。
ここで問題は、自分がなにものかを発見することであり、それを発見したら、自分の哲学体系は自然にできあがるだろう、ということだった。そうなると、みつけなければならないものが三つあるように、フィリップには思えてきた。人間が住む世界にたいするその人間の関係、いっしょに住んでいる人たちにたいするその人間の関係、最後に、自己にたいするその人間の関係がそれだった。彼は、入念に、この研究の設計を立てた。
外国に住む利点は、人がその中に住むことになる人びとの風俗習慣に接して、外部からそれをながめ、それをやっている人びとが感ずる必要性を、そこの風俗習慣がもっていない事実をさとることである。自分には自明と思われる信念が、外国人にはたわけたものになるのを、否応なく発見することになるのだ。ドイツでの一年、パリでのながい滞在は、いまじつにホッとした気分で受け入れられるようになった懐疑思想を受けとる準備を、フィリップにしてくれたのだった。よいものも、わるいものもない、ものはただ、ある目的に順応するだけなのだ、ということをさとった。『種の起原』を読んだ。それは、彼が苦にしていた多くの問題を説明してくれるようだった。彼は探険家と同じ気分になった。ある自然の特徴があらわれるにちがいないと推測し、大河をさかのぼっていって、ここに予想どおりの支流を、あそこに人の住む豊沃な平原を、さらに向うには山並を発見するといった式のことだった。ある偉大な発見がおこなわれると、それがすぐ受け入れられなかったことを、世間はあとで驚き、その真理を認める人間にたいしても、その影響はとるに足りない些細《ささい》なものになってしまう。『種の起原』の最初の読者たちは、理性がそれを認めたが、行動の土台になっている彼らの感情は、微動だにしなかったのだ。フィリップは、この偉大な本が出版されてから一世代後に生れ、当時の人をふるえあがらせた多くのものは、フィリップの時代の感情に流れこみ、その結果、うれしい心がそれを受け入れることができた。生存競争の理論の壮大さは、強烈な印象を与え、それが暗示する倫理法則は、彼の性向とピタリ一致するようだった。力は正義なり、と彼は心中考えた。社会が一方に立ち、それは、成長と自己保存のそれなりの法則をもった有機体、一方、個人はそれに対抗する立場にある。社会のためになる行動を美徳、そうではない行動を悪徳、と社会は呼んでいる。善悪は、それ以上の意味をもったものではないのだ。罪は偏見、自由人はそれから脱脚しなければならない。
社会が個人と争うのに使う武器が三つある、法律、輿論、良心がそれだ。最初のふたつは、策略で対抗できる。策略は、弱き者が強き者に使う唯一の武器なのだ。罪とは発見されることにある、と世間でよくいっているが、じつにうまくズバリといった言葉だ。だが、良心は、城門の中にひそむ裏切り者、それぞれの心の中で社会の戦争を展開し、個人を敵の繁栄に寄与させ、無慈悲にもその|生け贄《いけにえ》にしてしまう。というのも、この両者、国家と自己を意識している個人が和解できぬのは、至極明瞭だからだ。国家は、それ自身の目的のために、個人を利用し、邪魔になれば、それを踏みつけ、忠実に奉仕する者には、勲章、年金、名誉を与える。一方、自分の独立した立場においてだけ強固な|個人は《ヽヽヽ》、便宜上、国家の目をうまくくぐりぬけ、ある利益にはあずかろうと、税金を払い兵役にはつくが、義務感は一切もたず、報酬には目もくれずに、放りだしにされることだけを要求する。彼は、だれにもたよろうとしない旅行者、面倒がないためにクック(トマス・クックがはじめた、二代にわたる世界的な旅行会社)の周遊券を買いはするものの、ガイドのついた団体を、軽蔑まじりの上機嫌でながめている。自由人は、まちがったことはせず――できることなら――好むことはなんでもする。自分の道徳の唯一のはかりは、自分の力だけ。国家の法律を認め、罪の意識をもたずに、その法律を破ってしまう。罰せられれば、べつにうらむ気持ちはなく、その罰を受ける。力をもっているのは社会だからだ。
だが、個人にとって正邪がないとなると、良心は力を失ってしまうように、フィリップには思えた。彼は、勝ちどきをあげながら、良心という悪党をひっつかまえ、胸の中から放りだしてしまった。それにしても、人生の意味という問題になると、前と変らず、なにもつかめぬままだった。なんのために世界が目の前にあり、なんのために人間が存在するようになったのかは、依然として不可解な謎《なぞ》だった。たしかに、理由はあるはずだ。クロンショーのペルシャじゅうたんの比喩が頭に浮かんできた。クロンショーは、この謎の解決として、それを示し、それを自分でみつけださなかったら、なんの答えも出てこない、と神秘めいた言葉を述べていた。
「いったい、あれはどういう意味なんだろうかな?」ニッコリして、フィリップは考えた。
こうして、九月の最後の日に、こうしたすべての人生の新しい理論を実行にうつそうとひたむきな気持ちになって、千六百ポンドの財産をもった|えび《ヽヽ》足のフィリップは、人生の第三の出発をするために、再度ロンドンに向けて出発した。
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五十四
公認会計士の契約をする前にフィリップが受けてとおった試験がそのまま、医学校にはいる十分な資格になった。聖ルカ医学校にはいったのは、彼の父親もかつてそこの医学生だったからだった。そこで、夏の学期が終る前に、彼は一日ロンドンにゆき、そこの事務官に会った。この男から下宿の一覧表をもらい、きたない家に下宿することになったが、そこは、通学二分以内という利点のある場所だった。
「解剖の場所をきめなければいけませんよ」事務官は彼に教えてくれた。「脚からはじめたほうがいいでしょう。これは、ふつうよくやってることで、そこが楽らしいからなんです」
自分の受ける最初の講義が、十一時にはじまる解剖であることがわかった。そこで、十時半ごろ、びっこをひいて道路を横切り、ちょっと緊張しながら、医学校に歩いていった。入り口のすぐ奥に、講義の表や蹴球の試合予定表など、さまざまの掲示がはりだされてあり、こうしたものをさりげなくながめて、ゆったりとしたところをみせようとしていた。
青年やもっと年少の者が少しずつやってきて、郵便棚で手紙をさがし、たがいにしゃべり合って地下室におりていったが、そこには学生の読書室があった。どうという用もなさそうでオドオドしたふうの何人かの男がそのあたりをブラブラしているのが目にはいったが、フィリップは、こうした連中が、自分と同じように、新入生だなと見当をつけた。掲示をすっかり読んでしまったとき、ガラスのドアが目についたが、これは、たしかに、標本室に通じる戸口で、十一時までにまだ二十分あったので、そこにはいっていった。そこには病理学の標本が集めてあったが、やがて、十八くらいの少年が彼に近づいてきた。
「一年生ですか?」彼はいった。
「そうですよ」フィリップは答えた。
「講義室がどこにあるか、知ってますか? もう十一時になろうとしてるんです」
「じゃ、部屋をみつけたほうがいいですね」
ふたりは、標本室を出て、ながい暗い廊下を歩いていったが、そこの壁は二色の赤でぬられ、そこを歩いてゆくほかの青年たちがいて、進むべき道がふたりにわかってきた。やがて、「解剖学階段教室」と書いてある戸口があり、そこにはもうそうとうの人数の者がつめかけているのがわかった。座席は階段になり、フィリップがはいっていったちょうどそのとき、助手がやってきて、この教室のいちばん下にあるテーブルに水のはいったコップをひとつおき、つづいて、骨盤ひとつ、右と左の大腿骨《だいたいこつ》二本を運びこんだ。さらに人がはいって座席につき、十一時までに、そこはほぼいっぱいになった。
学生は、だいたい六十人いた。大部分はフィリップよりズッと若く、ツルツルした顔の十八くらいの少年だったが、彼より年輩の者も、わずか何人かいた。背の高いひとりの男に気づいたが、赤毛のすごい口髭を立てた男で、三十くらいだった。もうひとり黒い髪の小男がいたが、それより一、二歳若そうで、さらにもうひとりの眼鏡をかけた男は、もうすっかり灰色になった顎髯をたくわえていた。
講師のキャメロン先生がはいってきたが、白髪の、目鼻立ちのくっきりとした美男子だった。ながい名簿を読みあげ、前おきのちょっとした話をした。きちんとした言葉を美しい声で語り、注意深い言葉の配列を、心ひそかに楽しんでいるようだった。彼は一、二の買うべき本を教え、骸骨をひとつ購入するようにと伝え、熱をこめて解剖学のことを話した。解剖学の勉強は、外科をやるためにはぜひとも必要、その知識は、芸術の鑑賞にも役立つ、といったことだった。フィリップは、ピリッと耳を立てた。これはあとで聞いた話だが、キャメロン先生は王立美術院の学生にも講義をしていた。この先生は、ながく日本に滞在し、東京大学で講義を担当し、美しきものの鑑賞には、自信満々だった。
「いろいろと退屈なことを学ばなければならなくなり」彼はやさしくほほ笑んで、結びをつけた、「最後の試験がパスした瞬間に、諸君はそれをみんな忘れてしまうでしょう。だが、解剖学では、ぜんぜん学んだことがないのより、学んだことがあって、失ってしまったほうがいいのです」
彼は、テーブルの上の骨盤をとりあげ、その説明をはじめた。話しぶりは、明快だった。
講義が終ると、病理学標本室でフィリップに話しかけ、階段教室ではとなりに坐っていた例の少年は、解剖室にいったほうがいいのではないか、といった。フィリップとこの少年は、ふたたび廊下を歩き、助手がその部屋のあるところを教えてくれた。そこにはいるとすぐ、廊下でもう気づいていたツンとくるあのにおいがなにかが、フィリップにわかった。彼はパイプに火をつけた。助手はちょっと笑い声を立てた。
「このにおいには、すぐ馴れるよ。ぼく自身は、もう感じなくなってるんだ」
彼はフィリップに名前をたずね、掲示板の表をみた。
「きみは脚だ――四番だよ」
フィリップは、べつの名前が自分の名前といっしょに括弧《かっこ》に入れられているのに気づいた。
「これは、どういうことなんです?」彼はたずねた。
「いまのとこ、えらく死体不足でね。それぞれの部分にふたり割り当てになってるんだ」
解剖室は、廊下と同じようにぬられた大部屋で、上部は鮮かなサモン色、腰羽目は黒味がかった赤褐色にぬられていた。部屋の縦の両側ぞいに、一定の間をおき、壁と直角に肉皿のようにくぼみをつけた鉄板が出ていて、それぞれの上に死体が横たわっていた。大部分は男で、ひたしてあった防腐剤のために、とても黒っぽく、皮膚はなめし皮のよう、ひどくやつれた死体だった。助手はフィリップをある鉄板のところにつれていったが、そこにひとりの青年が立っていた。
「きみはケアリー?」
「ええ」
「ああ、そんなら、ぼくたちは同じ脚をやるんだよ。男でよかったね、どう?」
「どうして?」フィリップはたずねた。
「ふつう、男のほうが好まれてるのさ」助手はいった。「女は、脂肪がえらくのってるのが多くってね」
フィリップは死体をみた。腕と脚はひどく痩せ、それと思えぬほど、肋骨はグッとつきだし、そこの皮膚はピンと張っていた。四十五くらいの男で、薄い灰色の顎髯があり、頭にはつやのない毛がわずかショボショボとつき、目は閉じられ、下顎は落ちこんでいた。これが人間だったとは、どうしても思えなかったが、ズッとならんだ死体には、おそろしくゾッとする妖気がただよっていた。
「二時からはじめようかと思ってるんだがね」フィリップといっしょに解剖をやる青年がいった。
「よし、ぼくも、そのとき、ここに来ることにしよう」
前の日に、必要な解剖道具は買ってあり、ロッカーが与えられた。自分といっしょに解剖室にやってきた少年をみると、真《ま》っ青《さお》になっていた。
「気分がわるくなった?」フィリップはたずねた。
「いままで死人をみたことがないんでね」
ふたりは廊下を進み、学校の入り口のところまできた。ファニー・プライスのことが頭に浮んだ。彼女は彼がみた最初の死人、そのとき受けた奇妙な感動が思い出された。生と死のあいだには、計り知れぬほどの大きな距離があり、同じ人間とは、どうしても思えない。ほんのちょっと前に、ふたりが語り、歩き、食べ、笑っていたと思うと、じつに奇妙な感じがしたのだった。死人には、なにかおそろしいものがあり、生きている者に不幸をもたらすような感じがした。
「なにか、いっしょに食べませんか?」フィリップの新しい友人はいった。
ふたりは地下室におりていったが、そこにはレストラン用の暗い部屋があり、ここでは、町のパン屋で買うのと同じ炭酸パン(酵母がわりに炭酸ガスを加えて焼いたパン)が学生に売られていた。こうしていっしょに食べているうちに(フィリップはバターつき菓子パンとチョコレートの飲み物を注文した)、相手の名がダンスフォードというのがわかった。感じのいい青い目をし、髪は巻き毛で黒みをおび、手足が大柄、口のきき方も動きも緩慢な、いきいきとした肌色の若者で、クリフトン(イングランド、グロスターシャーにあるブリストルの郊外住宅地)から来たばかりだった。
「総合《コンジョイント》のほうをやるつもり?」彼はフィリップにたずねた。
「そう、できるだけ早く資格をとりたいんでね」
「ぼくもやるんだけど、そのあとで、F・R・C・S(王立外科医学校の給費生)になりたいと思ってるんだ。外科をやりたいんでね」
大部分の学生は、外科医師会と内科医師会の総合《コンジョイント》役員会の課程をとったが、もっと野心があり勤勉な者は、その上、ロンドン大学の学位がとれることになるさらに長期にわたる研究をやっていた。フィリップが聖ルカ病院付属医学校にはいる少し前に、この規則に変更があり、一八九二年秋以前に登録された者はべつにして、この四年のコースが五年になった。ダンスフォードの計画はちゃんとできていて、ふつうの踏むべき課程をフィリップに教えてくれた。「初級総合」試験の課目は、生物学、解剖学、化学で、べつべつにとることができ、たいていの者は、入学後|三月《みつき》して生物学の試験を受けるのだった。この生物学の課目は、最近加えられたもので、学生はそれを一応わきまえなければならないが、たいした知識は要求されてはいなかった。
フィリップが解剖室にもどっていくと、数分の遅刻、これは、シャツをよごさないようにはめるゆるい袖口《そでぐち》を買い忘れたためだった。もうとりかかっている者が、たくさんいた。フィリップと組んだ学生は、時間どおりにやりだし、せっせと皮膚の神経の解剖にとりかかっていた。べつのふたりがのこりの脚をやり、両腕にとりかかっている者がほかにいた。
「先にやりだしたけど、まずかったかな?」
「構わないよ。どんどんやってくれたまえ」フィリップは答えた。
彼は、本を手にとり、解剖している個所の図表を開き、調べなければならない点に目をやった。
「きみはなかなか器用にやるね」フィリップはいった。
「ああ、前に解剖はだいぶやっててね、もちろん、動物なんだけど……。予備試験のためさ」
解剖台で、ある程度の話のやりとりがあり、その話題は、とりかかっている解剖のこと、蹴球シーズンのみとおし、実地授業の助手、講義など、さまざまだった。フィリップは、自分が仲間のなかでひどく年長者になったように感じた。そこにいるのは、若々しい学校の生徒たちだった。だが、年齢は、じっさいの年月より、知識の問題だった。彼と組んで解剖をやっている元気な若者のニューソンは、もう堂に入ったもの、多少のみせびらかしまじりだっただろうが、自分のやっていることを、フィリップに事細かに説明した。フィリップは、知識をかくしもちながらも、神妙に聞いていた。それがすむと、フィリップは、メスとピンセットを手にして、仕事にとりかかったが、相手はそれをみていた。
「こんな痩せた男に当って、すてきだったね」手をふきながら、ニューソンはいった。「この男、一ヵ月は食ってないにちがいないな」
「なんの病気で死んだんだろう?」フィリップはつぶやいた。
「いや、わからんが、例のもの、餓死なんじゃないかな……。ほれ、用心、用心、そこの動脈、切っちゃいかんよ」
「『そこの動脈、切っちゃいかん』はらくにいえるけどね」反対の脚をやっていたひとりがいった。「このバカじいさんの動脈ときたら、ちがった場所にあるんだ」
「動脈の位置がくるってるのは、いつもあることさ」ニューソンはいった。「いざとりかかると、通常のものなんて、絶対にお目にかかれないよ。通常というのも、そのためなのさ」
「そんなことは、いわないでくれたまえ」フィリップはいった、「自分の手を切りそうになってしまうよ」
「切ったら」心得顔にニューソンはいった、「すぐに消毒剤でそこを洗うんだ。それは、注意しなけりゃいけない点だよ。去年ここにいたやつだったがね、ほんのチクリとやり、気にもしてなかったんだが、敗血症になっちまったんだよ」
「よくなったのかい?」
「いやあ、とんでもない。一週間で死んじまったよ。彼の顔を拝みに、死体安置所にぼくはいったがね」
お茶の時刻が来るまでに、フィリップの背中はズキズキと痛み、軽い昼食しかとっていなかったので、お茶は大歓迎だった。手は、その朝、廊下ではじめて気づいたあの独得のにおいで、プンプンしていた。食べたマフィンにまで、それがしみこんでいる感じだった。
「ああ、そんなこと、すぐ馴れるさ」ニューソンはいった。「あのなつかしい解剖室のにおいが消えると、すっかりさびしくなるくらいだよ」
「このにおいで食い気をなくしたりはしないよ」マフィンのあとで菓子を食べながら、フィリップはいった。
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五十五
医学生の生活についてフィリップがいだいていた観念は、大方の大衆と変らず、チャールズ・ディケンズが十九世紀のなかばに描きだした絵図にもとづいたものだった。ボブ・ソーヤー(ディケンズの『ピクウィック・クラブ』に出てくる医学生)がもしいたとしても、そうしたものは現代の医学生とはおよそかけはなれたものだということを、フィリップはすぐにさとった。
医学を職業とする者の中にはさまざまな人間がいて、当然のことながら、なまけ者で、向うみずな者もいる。そうした連中は、医学生の生活はらくなものと思いこみ、二年間ブラブラと暮し、それから、資金が欠乏するか、怒った両親が金を出そうとしなくなって、病院からフラリと姿を消してしまう。試験が荷に勝ちすぎると感ずる者もあり、つぎからつぎへと試験の失敗をくりかえして、意気|沮喪《そそう》し、恐怖症にとりつかれて、総合役員会のおそろしい建物に足を踏みこむやいなや、せっせと蓄積してきた知識がすっかり頭からぬけてしまう。こうした連中は、毎年毎年残留し、若い連中の悪意のこもらぬ軽蔑の的になり、一部の者は、はうようにしてノロノロと薬剤師の試験をとおりぬける。さらに、無資格の助手になる者もいるが、これでは、やとい主の思うがままになってしまう不安定な地位しか得られず、彼らの運命は、貧困、泥酔、どんな成れの果てになるのか、わかったものではない。
だが、大部分の医学生は、中産階級出の勤勉な青年、従前どおりのきちんとした暮しをつづけられる仕送りを受けている。多くは医者の息子で、もう多少医者的な風采《ふうさい》をもち、その進路は、ちゃんときめられている。資格をとるとすぐ、病院勤務を志願し、その勤務をすますと(それに、たぶん、船医として極東旅行をやってから)、父親といっしょになり、いなかの医者として、余生を送ることになる。一、二の学生は、特にすぐれた者として注目され、毎年優秀な者には開かれているいろいろな賞や奨学資金を授与され、つぎからつぎへと病院勤務をつづけ、幹部になり、ハーリー通り(ロンドンの有名な医者街)で診療所をもち、なにかの専門家になって、繁栄し、地位がたかまり、爵位までもらうことになる。
年齢がどうあろうと、とにかくやりだして暮しの立つみこみが多少ともある職業といえば、医業をおいてほかにはない。フィリップと同学年の学生の中には、第一の青春時代はもうすぎた者が三、四人いた。ひとりは海軍にいたことがある男で、うわさでは、飲酒で首になったそうだった。齢は三十、赤ら顔をし、態度はぶっきらぼう、大声の男だった。もうひとりは結婚した男で、ふたりの子供をかかえ、いかさま弁護士に金をまきあげられ、世わたりは荷が勝ちすぎるといったふうに、かがみこんだ風采の持ち主だった。彼は口をつぐんで仕事にかかり、この齢でものを頭につめこむのはむずかしいと感じているのはたしかで、頭の動きは緩慢だった。せっせとやろうと努力しているさまは、みる目にもいたいたしかった。
フィリップは、自分の小部屋でくつろいでいた。本をならべ、もっている絵やスケッチを壁にかけた。応接間のある彼の上の二階には、グリフィスという五年生の医学生が下宿していたが、フィリップがその姿をみかけることは、ほとんどなかった。ひとつには、グリフィスがたいてい病棟づめで暮し、またひとつには、彼がオクスフォード出身のためだった。大学にいっていた学生は、たいてい、いっしょになっていて、若い者にはありがちなさまざまの手段を使って、大学にゆく幸運に恵まれなかった者にしかるべき劣等感を植えつけようとし、それ以外の学生は、この彼らのオリンポスの神々にも似た悠々と落ち着き払った態度を、とてもいまいましく思っていた。グリフィスは、背が高く、豊かな巻き毛の赤髪をもち、青い目をし、肌が白く、真っ赤な口の男だった。だれにも好かれる幸運者だったが、それは、彼が元気で、いつも陽気なためだった。ピアノをちょっとやり、なかなかおもしろく喜劇歌謡をこなし、毎晩毎晩、フィリップがわびしい部屋で読書にふけっているとき、グリフィスの友人たちの叫び声やワッと笑う笑い声が頭上からひびいてきた。ローソンと自分、フラナガンとクラットンがアトリエに坐りこみ、芸術、道徳、いま進行ちゅうの恋愛、将来の名声について語り合ったあの楽しいパリの晩のことが、頭に浮んできた。
胸がムカムカしてきた。英雄的な身ぶりをするのは楽なことだが、そのみじめな結果を甘受《かんじゅ》するのはつらいことだという事実が、彼にはよくわかっていたからだった。なかでもたまらないのは、勉強がとても退屈になってきたことだった。実地授業の助手から質問攻めにあうことは、もうなかった。講義ちゅう、注意力はあらぬところにさまよっていってしまった。解剖学はじつに味気ない学問、とてつもなくおびただしい事実をただ暗記するだけのこと。解剖には、もううんざりだった。骨を折らずに本の図表や病理標本室の標本でちゃんとどこにあるかがわかるのに、せっせと苦労して神経や動脈の場所を解剖してさがしだすなんて、なんの役に立つのか、わけがわからなかった。
偶然にできた友人はあったが、それは親友ではなかった。自分の仲間に特別語るべきことはなにもないように思えたからだった。仲間のことに関心をもとうとすると、その仲間は、彼のことをもったいぶったやつととっているようだった。心打たれたことを、聞き手がうんざりするかしないかは一向お構いなしに、平気でしゃべり立てることができる人間がいるが、彼はそうした人物ではなかった。ひとりの男が、彼がパリで絵の勉強をしていたことを耳にして、同好の士とばかり、絵画論をふっかけてきた。だが、自分とはちがう意見を、フィリップは我慢ならず、相手の考え方が因襲的と素早く見破って、生《なま》返事しかしなくなった。人気にたいして、フィリップはまんざらな気持ちでもなかったが、自分のほうから他人に近づいていく気にはなれなかった。肘鉄をくう心配で、愛想のいい態度はとれず、まだ強くのこっていた羞恥心を、冷淡な寡言《かごん》の衣《ころも》の下にかくしていた。結局、キングズ・スクールと同じ経験を味わっていたわけだが、ここでは、医学生の生活のもつ自由さで、大部分はひとりで暮してゆくことができた。
ダンスフォードと親しくなったのは、べつに彼が特別努力したためではなかった。これは、学期のはじめに知り合った、いきいきとした顔色の、のっそりとした青年だった。ダンスフォードがフィリップに好意をもつようになったのは、ただ、フィリップが聖ルカ病院で知り合った最初の者というだけのことだった。ロンドンで友人はなく、土曜日の夜には、彼とフィリップは、つれ立っていつも、演芸場の平土間や劇場の最上席の桟敷《さじき》に出かけていくことにしていた。ダンスフォードは、頭のわるい男だったが、いつも機嫌がよく、腹を立てることは絶対になかった。いつでもわかりきったことをいっていたが、フィリップがそれをあざけっても、ただニコニコしているだけだった。その微笑は、とても魅力的で、この彼をからかいの種にはしていながらも、フィリップは彼が好きだった。その卒直さがおもしろく、感じのいい性格に好意がもてたからである。ダンスフォードがもっている魅力は、フィリップが自分にはないとはっきりわかっているものだった。
ふたりは、よく、議会通りの店でお茶を飲んだ。ダンスフォードがそこの若い給仕女にすっかり惚れこんでいたかちである。フィリップの目に、この女はべつに魅力的とは思われなかった。背が高くて痩せ、細腰、少年のようなぺしゃんこな胸をした女だった。
「あんな女、パリだったら、目もくれないね」軽蔑したように、フィリップはいった。
「すばらしい顔をしてるじゃないか」ダンスフォードは反論した。
「|顔なんて《ヽヽヽヽ》、問題じゃないよ」
彼女はととのった目鼻立ちをし、目は青く、ひろい低くさがった額は、ヴィクトリア時代の画家のレイトン卿(イギリスの画家、ギリシャ神話の絵を好んで描いた)、アルマ・タディマ(オランダ生まれのイギリスの画家、ギリシャ・ローマ時代を好んで取材していた)、その他たくさんの画家たちが、当時の人びとに、ギリシャ型の美として認めさせていたものだった。髪の毛が豊からしく、特別手のこんだふうに結《ゆ》われ、彼女のいうアレクサンドラふうの切りさげ前髪が前額にさがっていた。ひどい貧血症で、薄い唇には血の気がなく、肌のきめは細か、薄い青色をおび、頬にさえ赤らみはぜんぜんなかった。とても美しい歯をしていた。すごく骨を折って仕事で手を荒すまいとしていたが、その手は小さく、ほっそりとし、白かった。仕事のしぶりは、いかにも気のないふうだった。
ダンスフォードは、女にたいしてすごくはにかみ屋で、どうにも彼女と話ができなく、しきりにフィリップに援助をたのんでいた。
「ちょっときっかけさえつけてくれたらいいんだ」彼はいった、「そうすりゃ、あとは自分でなんとかやれるよ」
フィリップは、この彼をよろこばそうと、一度か二度言葉をかけたが、返事は短い無愛想《ぶあいそう》なものだった。相手にすれば、こちらの寸法はもうとっていたのである。坊やだけのこと、きっと学生だろう、と図星をつけていた。そんな連中には用はない、というわけだった。ダンスフォードは気づいていたが、ドイツ人かと思われる薄茶色の髪をしたゴワゴワした口髭を立てた男がいて、この男が店にはいってくると、彼女はいつも愛想をふりまいていた。そうなると、二度か三度呼んで、ようやく彼女に注文をとってもらうという始末になった。自分の知らない客は冷やかで傲慢な態度であつかい、友だちに話しかけているあいだは、急ぎの客がいくら呼んでも、まったくケロリとしているのが、彼女のやり口だった。菓子を食べようとする女客のあつかいは心得たもので、その客をイライラさせる生意気な態度はとりながらも、主人に直接文句をいわせないようにしかるべくやっていた。ある日、この女の名はミルドレッドだ、とダンスフォードはフィリップに教えた。店のほかの給仕のひとりが彼女にそう呼びかけたのを、聞いたからだった。
「まったくいやらしい名だね」フィリップはいった。
「どうして?」ダンスフォードはいった。「ぼくは好きだね」
「えらくきどった名だからだよ」
この日は、たまたま、例のドイツ人が来ていなく、彼女が茶を運んできたとき、フィリップはニコニコしていった、
「きみの友だち、きょうはここに来てないんだね」
「それ、どういうこと?」冷然と彼女はいった。
「薄茶色の口髭を立てた貴族の方さ。どこかに鞍《くら》がえというわけかな?」
「だれかさん、人のおせっかいはしないほうがいいことよ」彼女はやりかえした。
彼女は、ツーッと向うにゆき、一、二分間、応対する客がべつになかったので、腰をおろして、だれか客がおいていった夕刊の新聞を読みはじめた。
「彼女を怒らすなんて、バカだな」ダンスフォードはいった。
「あの女の脊椎《せきつい》がどんな恰好になろうと、ぼくは平気だよ」フィリップは答えた。
だが、いまいましいのは、たしかだった。こちらで愛想よくしようとして、腹を立てられるなんて、まったく不愉快なこと。伝票を要求するときに、さらに話のきっかけをつかもうと、彼は思いきって言葉をかけてみた。
「もう話はしてくれないのかな?」彼はニッコリした。
「あたしがここにいるのは、注文をとり、お客さまのご用を聞くためよ。お客さまにべつに話をすることはなし、話をしてもらいたくもないわ」
ふたりが払うべき金額を伝票に書き終えると、それをおいて、彼女はいままで坐っていたテーブルのところにもどっていってしまった。フィリップの顔は、怒りでカッと赤くなった。
「一発ガンとやられたね、ケアリー」外に出ると、ダンスフォードはいった。
「礼儀を知らんあばずれ女め」フィリップはいった。「もうあそこには二度といかんぞ」
ダンスフォードにたいする彼の力は強く、ふたりはお茶をべつのところで飲むことになったが、ダンスフォードは、やがて、べつに若い女をみつけ、それと楽しく遊ぶことになった。だが、例の給仕女からくった肘鉄は、ズキズキとうずきつづけていた。もし慇懃なあつかいを受けたら、彼女のことをケロリと忘れるところだったが、彼女が自分をきらっているのは歴然としたこと、彼のほこりは傷つけられ、ひとつ仕返しをしてやりたいという気持ちがおさえられなくなった。こんなつまらぬことにこだわるなんて、自分がいまいましかったが、例の店にいくまいとした三、四日間のがんばりは、それを忘れる助けにはならず、あの女に会ったからといって、べつにどうということもなかろうという結論に達した。会ってみれば、あんな女はきっと忘れてしまうだろう。ある午後、ちょっと約束があると口実をつけて――というのも、彼はこの弱さを少なからず恥じ入っていた――彼はダンスフォードと別れ、まっすぐ、もう二度と足踏みはしないと誓った例の店に出かけていった。はいるとすぐ、例の給仕女が目につき、彼女のかかりのテーブルに腰をおろした。一週間来なかったことについて、彼女がなにかいうものと考えていたが、注文をとりにきたとき、なにもいわなかった。彼女がほかの客にこういっていたのを、彼は聞いたことがあった、
「まあ、おみかぎりだったことね!」
多少なりともなじみといった気配を、彼女はおくびにも出さなかった。ほんとうに彼女が自分のことをすっかり忘れてしまったのかどうかと、彼女が紅茶を運んできたとき、彼はきいてみた、
「今晩、ぼくの友人がここにきたかね?」
「いいえ、もう何日間か、ここにはみえませんよ」
これを会話のきっかけにしたかったが、妙に神経が立って、なにもいえなかった。女はジッとしているどころか、さっさといってしまった。伝票を請求するまで、話すきっかけはついにつかめなかった。
「いやな天気だね、どうだい?」彼はいった。
こんなことをいいださなければならなくなるなんて、まったくいまいましいことだった。どうしてこの女のために自分がこうもうろたえているのか、どうしてもわからなかった。
「天気がどうこういうことは、こっちにはそう関係のないことよ、一日じゅうここにいなけれはならないんですからね」
彼女の語調にはなにか横柄《おうへい》なところがあり、それが特別、頭にくるのだった。ここで皮肉を一発と考えたが、心をおさえて、だまっていた。
「あの女、ほんとに生意気なことをなにかいったらいいんだ」カッカして、彼は考えた、「そうすりゃ、主人に文句をいって、あの女を首にしてやれるんだがな。それで、ざまあみろということにもなるんだ」
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五十六
あの女のことが、どうしても心からぬきとれなかった。腹を立てながら、彼は自分のバカさ加減をあざけり笑った。貧血症の小女の給仕が自分にいったことを気にするなんて、バカげたことだった。だが、彼は妙なふうに屈辱感を味わっていた。この屈辱を知っているのは、ダンスフォード以外にはいなかったし、彼はもうたしかにこのことを忘れているのだが、この屈辱をぬぐい去るまで、心の安らぎはとりもどせない、とフィリップは感じていた。どうしたらいいか、あれこれと思いめぐらした。そこで、毎日あの店にいってやろう、と決心した。感じのわるい印象を彼女に与えたのは、たしかだったが、その印象を根こそぎとってしまうくらいの才覚は自分にあるもの、と考えた。どんな敏感な人でも腹を立てそうなことは、一切口にしないように注意しよう。これを実行したが、なんの効果もなかった。店にはいって、今晩は、というと、今晩は、と答えたが、相手が先にそれをいうかどうかと、それを一回いわないでいたが、そのときには、彼女はなにもいわなかった。彼は、心の中で、ある言葉をつぶやいたが、それは、女性によく浴びせられる言葉ではあったものの、お上品な人びとのあいだでは、そうは使われていないものだった。こうした心の中はともあれ、彼は、ケロリとした顔をして、紅茶を注文した。一語も話すまいと決心し、店を出るときにも、いつものおやすみの挨拶もしなかった。もうこれ以上しゃべったりはすまい、と心に誓いを立てたが、翌日、お茶の時刻になると、ソワソワしてきた。ほかのことを考えようとしたが、心の動きはどうにもならなかった。とうとう、彼はやけになっていった、
「結局んとこ、あそこにいきたいんなら、いっていけないわけはないんだ」
この心の迷いにすっかり時間を使ってしまって、店にはいったときには、もう七時近くになっていた。「もう来ないものと思ってたわ」彼が腰をおろすと、女はいった。彼の心はおどりあがり、顔が赤くなるのがわかった。
「用があってね。早くは来れなかったのさ」
「人のからだを刻んでたんでしょう?」
「いや、それほどのことじゃないよ」
「学生さんでしょ、どう?」
「そうだよ」
だが、これで、彼女の好奇心は満足したようだった。彼女はひきさがり、こうしたおそい時間にかかりのテーブルにはほかに客がいなかったので、三文小説を夢中になって読みだした。六ペニー本が出る前だった。大衆の時間つぶしのために、貧乏人の三文文士が注文に応じて書いた安本の小説が、いつもひっきりなしに出版されていた。フィリップの気分は、もううきうきしていた。女は、自分のほうから、話しかけてきた。こちらの順番がめぐってきて、自分が女をどう考えているかをズバリいってやるときが、刻々と近づいているのだ。自分がどんなに女を軽蔑しているかを伝えてやったら、溜飲《りゅういん》がさがるだろう。女をながめてみたが、横顔は、たしかに美しかった。この階級のイギリスの娘がハッと息を呑ませる文句のつけようのない輪郭の美をもっているのは、じつに驚くべきことだった。が、それは、大理石のように冷たく、きめ細かな薄緑色の肌は、不健康の印象を与えた。女給仕の服装はみな一様《いちよう》で、黒い飾りのない服を着こみ、白エプロンと飾りの袖口をつけ、小さな帽子をかぶっていた。ポケットにあった小さな紙きれに、フィリップは本の上にかがみこんで坐っている彼女のスケッチを描き(彼女は、読みながら、口を動かしていた)、店を出るとき、それをテーブルにおいてきた。これは、すごい霊感となった。翌日、店にはいっていくと、彼女は彼にほほ笑みかけてきたからである。
「絵が描けるなんて、知らなかったわ」彼女はいった。
「ぼくは、二年間、パリで絵の学生をしてたんだよ」
「きのうの晩、あなたがおいてった絵を女将《おかみ》さんにみせたんだけど、びっくりしてたわ。あれ、あたしの絵なの?」
「そうだよ」フィリップは答えた。
彼女が彼の紅茶を受けとりにいったとき、べつの女が彼に近づいてきた。
「ロジャーズさんを描いたあんたの絵、みたことよ。そっくりだわ」この女はいった。
彼女の姓を聞いたのは、これがはじめてで、伝票をたのむとき、彼はその名で彼女を呼んでみた。
「あたしの名前を知ってるのね」彼のところに来ながら、彼女はいった。
「あの絵のことでなにかいったとき、きみの仲間がそれをいってたよ」
「あの女《ひと》、絵を描いてほしいのよ。でも、描いちゃいけないことよ。一度描いたら、きりがなく、みんな、描いてもらいたがってるんですからね」それから、なんの間もおかず、妙に辻棲《つじつま》合わぬふうに、彼女はたずねた、「いつもいっしょに来てたあの若い人、どこにいるの? どこかにいっちまったのかしら?」
「彼のことをおぼえてるなんて、意外だね」フィリップはいった。
「なかなかの美男子だったわ」
フィリップの心中は、妙なものだったが、それがなにかは、はっきりとつかめなかった。ダンスフォードは、感じのいい巻き毛、いきいきとした顔色、それに、美しい微笑の持ち主だった。こうした美しさは、フィリップにはうらやましいものだった。
「ああ、彼は恋愛ちゅうでね」ちょっと笑って、彼はいった。
びっこをひいて家にもどったとき、フィリップは、この会話の逐一《ちくいち》を思い出した。女は、もう、すっかり自分となじみになった。機会があったら、もっとしっかりしたスケッチを描いてやる、といってやろう。きっとよろこぶにちがいない。彼女の顔はおもしろい。横顔は美しく、萎黄《いおう》病的なあの色には、妙なふうに魅惑的なものがある。それがどんなものかを、彼は考えてみた。最初、頭に浮んだのは|えんどう《ヽヽヽヽ》のスープだったが、腹を立てながらその考えをおしのけ、花が開く前にバラバラにしてしまった黄色の薔薇の蕾《つぼみ》の花びらを考えた。もう彼は、女にたいして、悪感情をもってはいなかった。
「あの女、まんざらでもないな」彼はつぶやいた。
彼女のいったことに腹を立てるなんて、自分はバカだった。これは、たしかに、自分がいけないのだ。彼女にしてみれば、感じのわるい態度に出るつもりはなかったのだろう。はじめて人に会うとき、自分がいつも悪印象を与えている事実を、もう心得ているべきなのだ。絵の成功で、彼はいい気分になっていた。このささやかな才能を知って、彼女は前以上の関心を自分に寄せている、というわけだった。つぎの日、彼はソワソワしていた。昼食をしにそこにいこうかとも考えたが、そのとき、客がつめかけているのは確実、ミルドレッドは自分に話しかけられないだろう。このときまでに、ダンスフォードといっしょにお茶を飲む習慣はもうなんとかけりをつけてあったので、きっかり四時半に(何回時計をみたことだろう!)、彼は店にはいっていった。
ミルドレッドは、彼に背を向けていた。彼女は坐りこんで、例のドイツ人に話しかけていたが、このドイツ人の姿は、二週間前まで、毎日フィリップがみかけ、その後、プッツリと消えていたのだった。彼女は男のいったことに声を立てて笑っていたが、フィリップは、その笑いを下品な笑いと思い、ゾクッと身ぶるいをした。彼女を呼んでも、彼女はそんなことにはお構いなし、そこで、また呼んでみた。ジリジリしていた彼は、これでカッとなり、ステッキでテーブルを荒っぽくたたいた。彼女は、ふくれっ面《つら》をして、近づいてきた。
「やあ、今日《こんにち》は」彼は声をかけた。
「ずいぶん急いでるらしいことね」
もうよく心得ている例の横柄さで、彼女は彼をみくだしていた。
「いや、どうしたんだ? ときいたまでさ」彼はいった。
「失礼ですが、ご注文をいただければ、お望みのものはもってまいりますことよ。こうやっておしゃべりしながら、夜じゅうズッと立っているわけにはいきませんからね」
「紅茶にバン(菓子パンで、ふつう甘味をそえ、薬味・乾しぶどうをまぜることもある)のトースト」言葉短かに、フィリップは答えた。
彼は、もうカンカンだった。『スター』紙をもっていたので、彼女が紅茶を運んできたとき、それをせっせと読んでいた。
「いま伝票をもらっといたら、また面倒をかけずにすむね」氷のような冷淡さで、彼はいった。
彼女は、伝票に書きこみ、それをテーブルにおき、ドイツ人のとこにもどっていってしまい、間もなく、はずんだ調子で、ドイツ人に話しかけていた。この男は、中背、ドイツ人特有のまるい頭と血色のわるい顔をして、口髭は大きく、バリバリし、燕尾服と灰色のズボンを着こみ、堂々とした時計の金鎖をつけていた。ほかの給仕女たちが自分のところからテーブルのふたりに目をうつし、意味ありげなまなざしをかわしているようだった。彼らが自分を笑っているのはたしかなこと、こう思うと、血がたぎってきた。もう心の底から、ミルドレッドが憎らしくなった。ここでいちばんいいのは、この喫茶店がよいをピタリとやめることだったが、してやられたと思うと、無性《むしょう》に腹立たしく、なんとか自分の軽蔑ぶりを彼女にたたきつけてやろう、と考えた。
つぎの日、べつのテーブルに坐り、紅茶はべつの給仕女に注文した。ミルドレッドの友人のドイツ人がまた来ていて、彼女はこの男に話しかけていた。フィリップには一向にお構いなしの態度だったので、店を出るとき、彼女が自分のとおり道を歩かねばならぬ瞬間をとらえ、とおりすがりに、彼女をみてもいなかったぞといったふうに、彼女の姿をみやり、このそぶりを、三、四日間、くりかえしてやってみた。彼女のほうで、なんとかきっかけをつかんで、なにか話しかけてくるものと期待し、どうして自分の係りのテーブルに来ないのだ? とたずねるものと思い、そのとき用にと、彼女にたいする嫌悪の情すべてをこめた返事を準備していた。心をわずらわすのはバカげたこととわかってながらも、どうにもならなかった。またしても、してやられたのだ。ドイツ人は、いきなり、姿をあらわさなくなったが、フィリップは、依然として、ほかのテーブルに坐りつづけた。女のほうでも、彼に注意を払ってはいなかった。自分のしていることが、相手にとって、まったくどうでもいいことになっているのが、突然、彼にわかった。この世の最後の日までそれをつづけようと、なんの効果もないのだ。
「まだあきらめはしないぞ」彼は考えていた。
その翌日、彼は以前の席に坐り、彼女が近づいてきたとき、今晩は、と声をかけ、一週間彼女を無視しつづけたことは、おくびにも出さなかった。彼の顔は冷静だったが、心臓が早鐘のように動悸《どうき》を打つのは、どうにもならなかった。その当時、音楽喜劇が大衆の人気を得たばかりのころ、それにいくのをミルドレッドは大よろこびするものと、彼は思いこんでいた。
「ねえ」いきなり彼はいった、「いつか晩に、いっしょに食事をし、『ニューヨークの美女』をみにいかないか? 座席はふたつ、とっとくよ」最後の言葉をつけ加えたのは、彼女の気をひくためだった。こうした女が芝居にいくとすれば、土間席か、男におごられたとしても、二階の桟敷《さじき》以上ふんばることはまずないものと、彼は踏んでいた。ミルドレッドの青白い顔は、ちっとも表情を変えなかった。
「いってもいいことよ」彼女はいった。
「いつ来る?」
「木曜日には早退けよ」
話はきまった。ミルドレッドは、伯母といっしょに、ハーン・ヒルに住み、芝居のはじまるのは八時、そうなると、七時に食事をしなければならなかった。彼女の話で、ヴィクトリア駅の二等待合室で出逢うことになった。女は、うれしそうなようすは少しもみせず、まるで恩恵でも授けるといったように、この招待を受けていた。フィリップは、なにかイライラしてきた。
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五十七
フィリップは、ミルドレッドがきめた時間よりほぼ三十分も前に、ヴィクトリア駅に着き、二等待合室で坐っていた。こうして待っていたが、彼女の姿はあらわれず、心配になりはじめ、プラットフォームにいって、はいってくる郊外列車をジッと見守っていた。約束の時間はすぎたが、彼女があらわれそうな兆候はぜんぜんなかった。フィリップはジリジリしてきた。ほかの待合室にはいり、そこに坐っている人たちを調べてみた。いきなり、彼の心臓はドキリとした。
「いやあ、みつかったぞ。もう来ないのかと思ってたよ」
「失礼しちゃうわ、あたしをこんなに待たすなんて! もう帰っちゃおうかと思ってたとこよ」
「だが、二等待合室に来るといってたじゃないか」
「そんなこと、いいはしないわ。一等待合室にいられるのに、二等待合室にいるはずなんてないでしょう、どう?」
自分がまちがっていたとは、フィリップはさらさら思っていなかったが、なにもいわず、ふたりは辻馬車に乗りこんだ。
「どこで食事するの?」彼女はたずねた。
「アデルファイ・レストランを考えてるんだがね。それでいい?」
「どこで食べたっていいことよ」無愛想に彼女は答えた。待たされたことで、彼女はプリプリし、フィリップが話をしようとしても、気のない短い返事しかしなかった。ザラザラした黒っぽい生地のながい外套を着こみ、クローセ編みのショールをかぶっていた。レストランに着き、テーブルに腰をおろすと、彼女は満足げにあたりをみまわしていた。テーブルのろうそくにかけた赤い笠、黄金の飾り、姿見が、部屋に豪華ないろどりをそえていた。
「ここに来たこと、一度もないわ」
彼女はフィリップにニッコリと笑いかけた。もう外套はぬいでいたが、彼女は、首のところを四角に切りこんだ薄青い服を着こみ、髪は、いままでみたこともないほど念入りに結いあげてあった。彼はシャンペンを注文し、それが運ばれてくると、彼女の目は輝きをおびてきた。
「豪勢にやることね」
「シャンペンを注文したからかい?」ほかの酒は飲んだことがないといったふうに、ケロリと無造作に彼はたずねた。
「芝居をみにいっしょにいこうとさそわれて、あたし、|ほんとに《ヽヽヽヽ》びっくりしちゃったわ」
会話はしぶりがちだった。彼女のほうでは、語ることがそうなく、フィリップのほうでは、相手がおもしろがっていないのがはっきりとわかって、神経を立てていたからだった。彼女は、彼のいうことを、気を入れずにただ聞き流し、ほかの客の上に目を走らせ、彼の話におもしろがっているみせかけなりとしようとはしなかった。ちょっと冗談を一、二度とばしたが、彼女はそれを大まじめに受けとった。いきいきしたようすをみせたのは、ただ一度だけ、彼が店のほかの女の子のことを話したときだけだった。女将《おかみ》には我慢ならないらしく、その不行跡《ふぎょうせき》を、彼女はこと細かにながながと述べ立てた。
「あの女には、どうにも我慢ならないわ。それに、あの乙《おつ》にとり澄ましたようすときたらね。こっちが夢々知ってはいないと思ってることをズバリいってやろうかという気にも、ときどき、なることよ」
「どういうことなんだい、それは?」フィリップはたずねた。
「あの女が、ときどき、週末に、男とへいちゃらでイースボーン(サセックス州の海水浴場)にしけこんだりしてるのを、ちょいと耳にしてるのよ。店の女の子で、お嫁にいった姉さんのいる人がいて、その姉さんが旦那さんとそこにいき、あの女の姿をみちまったの。そのとき、あの女、同じ下宿に泊ったんだけど、結婚指環なんかつけてんのよ。こっちじゃ、結婚なんかしてないことは、おみとおしなのにね」
フィリップは彼女のコップにシャンペンをついでやり、それで、女がもっと愛想よくなってくれたら、と考えていた。この出逢いをなんとかうまくやりたい、と思っていたからだった。彼女がナイフをまるでペン軸でももつようにしてもち、シャンペンを飲むとき、きざっぽく小指をピンと立てているのがわかった。いろいろと話題を出してみたが、相手はなかなかそれに乗ってこなかった。ここでいまいましいことに、例のドイツ人を相手にして、彼女がのべつ幕なしにしゃべり立てて笑っている姿をみたことが、頭に浮んできた。食事が終り、ふたりは芝居にいった。フィリップは、しっかりとした教養のある青年、音楽喜劇なんか問題にしていなかった。その冗談は野卑なもの、音楽はみえすいた浅薄なもの、と考えていた。こうしたことは、フランス人のほうがズッとうまくやるように、彼には思えた。だが、ミルドレッドは、すごいご満悦ぶりだった。脇腹が痛くなるまで笑いこけ、なにかおもしろいことがあると、ときどきフィリップのほうに目を投げ、楽しみのまなざしをかわそうとし、恍惚として拍手喝采を送っていた。
「芝居に来たの、これで七回目よ」第一募が終ると、彼女はいった、「もう七回来ても、わるくはないことね」
彼女は、一等席で自分たちをとりかこんでいる女性に強い関心を寄せ、ぬり立てた女や入れ毛をした女を、フィリップに教えた。
「いやらしいことね、ウェスト・エンド(ロンドンで最上流の住宅地)の人って」彼女はいった。「どうしてあんなこと、できるのかしら?」そして、髪に手をやった。「この髪、あたしのもんよ、一本のこらずね」
彼女がすばらしいと思う女は、ひとりもいなかった。だれかのことを話せば、かならず悪口にきまっていた。フィリップは不安になった。つぎの日、彼女が店の仲間に話をし、彼にさそわれたが、もううんざりだった、ときっということだろう。この女は大きらいだったが、なぜかわからないながらも、いっしょにいたくてたまらなくなるのだった。帰る途中で、彼はたずねた、
「楽しかった?」
「もちろん」
「いつか夜、また来てくれる?」
「いってもいいことよ」
こうした冷たい言葉しか、どうしてもひきだせなかった。この冷淡ぶりで、彼はカッカとしてきた。
「その話じゃ、いこうがいくまいがどっちでもいい、といった感じだね」
「まあ、あんたにつれてってもらわなくったって、だれか男がいるわ。お芝居につれてってくれる人、べつにないわけじゃないんだもん」
フィリップは、もうなにもいわなかった。ふたりは駅に着き、彼は切符発売所にいった。
「定期券、あることよ」彼女はいった。
「よかったら、もうおそくはあるし、家まで送ってってあげよう、と考えてたんだけどね」
「そうしたいんだったら、あたし、構わないことよ」
彼女のために一等の片道と、自分のために往復を、彼は買いこんだ。
「そう、あんたはたしかに気前のいい人ね。それだけは、認めることよ」客車のドアをあけてやると、彼女はいった。
ほかの乗客が乗りこんできたが、自分がよろこんでいるのか、悲しんでいるのか、フィリップ自身どうにもつかめず、話は愚かといった気分になっていた。ハーン・ヒルで下車し、彼女が住んでいる道路の角のところまで、彼女を送っていった。
「ここでお別れにするわ」手をさしだして、彼女はいった。「戸口のとこまで来ないほうがいいの。世間の口って、うるさいもんでね、うわさの種にはなりたくないの」
彼女は、おやすみ、といい、さっさといってしまった。暗闇の中で、白いショールがくっきりと浮かんでみえた。彼女がふりかえるものと思っていたが、ふりかえりもしなかった。どの家にはいったかがわかっていたので、フィリップは、すぐ歩きだし、そこにいってみた。黄煉瓦づくりの、小ぎれいだが、ありきたりの小さな家、その通りのほかの小さな家とそっくりのものだった。数分間、外に立ちつくしていたが、やがて、いちばん上の部屋の窓が暗くなり、フィリップは、ゆっくりと駅にもどっていった。どうにもおもしろくない晩だった。イライラして落ち着かず、彼はみじめな気分を味わっていた。寝台で横になっても、白いクローセ編みのショールをかぶって、客車の隅に坐っている彼女の姿が、まぶたに浮かんできた。あの姿をまたみるまで、時間をどうすごしたものか、見当もつかなかった。ウトウトしながら、繊細な目鼻立ちをした彼女の痩せた顔や、緑がかった青白い彼女の肌を、考えていた。彼女といっしょにいて幸福になるわけではなかったが、はなれると、ものわびしかった。彼女のわきに坐り、彼女をみていたかった。彼女にふれてみたかった。そして……。その考えが湧いてきて、まだまとまらないうちに、突然、目がすっかり冴えてしまった……。あの細い唇をした、薄い血の気のない口にキスをしたかった。事実が、とうとう、彼にわかってきた。彼女を恋しているのだ。これは、信じられないことだった。
これまで、彼は、よく、恋におちいる情景を想像していた。いつも何回となく心に思い描いていた場面があった。自分が舞踏会場にはいっていく。語り合っている小さな一団の男女の姿が目にとまる。そこの女性のひとりがふりかえる。彼女の目が自分にそそがれ、自分の喉にこみあげてきたあえぎを、その彼女も味わっていることが、ピンとわかってくる。彼は、みじろぎもせず、立ちつくす。彼女は背が高く、黒髪の美女、ひとみは夜を思わせ、白い服を着て、黒い髪にはダイヤがいくつか輝いている。ふたりは、ジッとみつめ合ったまま、まわりに人がいるのも忘れてしまう。自分はまっすぐ彼女のほうに歩いてゆき、彼女のほうも、ちょっとこちらに進んでくる。型どおりの紹介の挨拶なんておよそ場ちがいなこと、とふたりとも感ずる。彼がまず口を切る。
「ぼくは、生涯ズーッと、きみをさがし求めていたんです」彼はいう。
「とうとう来てくださったことね」彼女はつぶやく。
「いっしょに踊ってくださいますか?」
女は彼のさしだす両手に身をゆだね、ふたりは踊る(フィリップは、いつも、びっこでないことになっていた)。彼女の踊りはすばらしい。
「あなたのようにすばらしく踊る方とごいっしょしたこと、はじめてですわ」彼女はいった。彼女は、予定をすっかり破って、夜じゅうズーッと、彼といっしょに踊りぬく。
「お相手できて、とても感謝しています」彼は彼女にいう。「いつかはきみに会えるものと思っていました」
舞踏会場の人たちは、びっくりして、ふたりをジッとみている。そんなことは問題ではない。ふたりは、燃えさかる情熱をかくそうともしない。最後に、庭に出る。彼は軽い外套を彼女の肩にかけてやり、待っている馬車に彼女を乗せる。パリゆきの真夜中の列車に間に合い、ふたりは、静かな、星の輝く夜を切って、未知の国にズンズンと突き進んでいく。
以前からもちつづけていたこの自分の空想を思うと、ミルドレッド・ロジャーズを恋するなんて、まったく考えられないことだった。その名前からして、異様だった。あの女を美しいとは思っていなかったし、あの痩せぎすぶりは、もうたまらなかった。今夜はじめて気がついたことだったが、服の下から胸の骨が突き出ているあの恰好ときたら! 目鼻立ちを、ひとつひとつ点検してみた。口つきは、どうも気に食わず、不健康な肌の色には、なにかムカムカしてきた。低俗な女だ。いつもくりかえしているわずかな気品のない言葉は、心の空虚さを証明しているものだ。音楽喜劇の冗談を聞いて、ちょっと笑うあの品のわるさを、彼は思い出し、コップを口にもっていくとき、意識してツンと立てるあの小指のことも、頭に浮かんできた。あの女の態度は、その話と同じように、いやらしいふうにお上品ぶったものだった。あの横柄ぶりも思い出された。横面《よこっつら》に一発くわせてやろうと思ったことも、一再ならずあった。だが、いきなり、なぜかはわからなかったが、たぶん、彼女をひっぱたくと考え、さもなければ、あの小さな美しい耳を思い出したためなのだろう、愛情がグッとこみあげてきて、心がそれにすっかりうばわれてしまった。彼は、彼女をあこがれ、あの痩せてほっそりとしたからだを腕に抱きしめ、あの青ざめた口にキスをしたくなった。指であの青みをおびた頬をなでたくなった。彼女を求めていたのである。
恋とは恍惚の境にあること、世界は春のようになるものと、このときまで考え、有頂天《うちょうてん》の幸福がそこにあるものと期待していた。だが、これは幸福ではなかった。それは、魂の飢餓、苦痛に満ちたあこがれ、骨身に応える苦悶、いままで一度も味わったことのない経験だった。はじめてこうした気持ちになったのは、いつだったのだろう? わからなかった。思い出されるのは、ただ、最初の二、三回はべつにして、あの店にゆくたびに、心に小さなうずきを感じたということだけだった。彼女に話しかけられると、自分が妙に固唾《かたず》を呑むといった状態になっていたことも、思い出された。彼女がいってしまうと、みじめさを味わい、もどってくれば、絶望感となるのだった。
彼は、犬のように、寝台でからだをのばした。この魂のたえまなしのうずきを、自分はどうして堪えたものか、と考えていた。
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五十八
フィリップは、翌朝、早く目をさましたが、最初に、心に浮かんだのは、ミルドレッドのことだった。ヴィクトリア駅で彼女をつかまえ、店までいっしょに歩いていこう、と思った。そこで、急いで髭を剃《そ》り、せっせと服を着こみ、バスで駅に出向いた。駅に到着したのは八時二十分前、はいってくる列車をジッと見守っていた。列車からは人の群れ――朝のこうした早い時刻には、事務員や店員だった――がドッと吐きだされ、プラットフォームに満ちあふれた。そうした人たちの動きはあわただしく、ふたりづれの者、そこここには娘の一団がときに見受けられたが、大部分はひとりだった。たいていの者は青ざめた顔色をし、この早朝に醜悪な感じ、放心したようなようすだった。若い者の足どりは軽く、プラットフォームのコンクリートは歩いて楽しいといったふうだったが、それ以外の連中の動きは、機械に動かされているよう、不安な渋面《じゅうめん》で顔をこわばらせていた。
とうとうミルドレッドの姿をみつけて、フィリップはせっせと彼女に近づいていった。
「お早う」彼は声をかけた。「きのうの晩、あれからどうしたろうと思って、来てみたのさ」
彼女は、アルスターの長外套(ふつう帯があり、ときにはずきんがついている。アルスター産の粗ラシャでつくったもの)を着こみ、麦わら帽をかぶっていて、たしかに、彼と会って、ご機嫌ななめになっていた。
「ええ、元気よ。あたし、いま急いでるの」
「いっしょにヴィクトリア通りを歩いていっていい?」
「時間がもうギリギリ。早く歩くことよ」フィリップの|えび《ヽヽ》足に目をやって、彼女は答えた。
彼はサッと真っ赤になった。
「これは失礼。べつにひきとめたりはしないよ」
「じゃ、さようなら」
彼女はズンズンといってしまい、彼は、がっくりして、朝食をとりに家にもどった。女が憎らしくてならなかった。あんな女のことで気をもむなんて、自分はバカだ、自分をちっとでも愛してくれるような女ではない、自分のびっこをいやな目でみているにちがいない、と考えた。その日の午後には、あの店に絶対にいくまいと心にきめながらも、いまいましいことに、つい店にいってしまった。はいっていくと、彼女はうなずいて挨拶し、ニッコリした。
「今朝、あんたにつっけんどんにしてしまったことね」彼女はいった。「あんなこと、考えてもいなかったんで、すっかりびっくりしちまったの」
「いや、いいんだよ」
胸のしこりが、いきなり、とれたような感じだった。この親切なひと言は、身にしみてうれしかった。
「ここに坐らないか?」彼はいった。「だれも客はいないようだしね」
「いいことよ」
彼女をながめたが、語りかける言葉が浮かんで来なかった。彼女をそばにひきとめておこうと、頭をしぼって、うまい言葉を考えだそうとした。彼女が自分にとってどんなに大切な存在かを伝えようとしたが、むきになって恋しているだけに、かえってそれができなくなった。
「あのきれいな口髭を立てたきみの友だち、いまどこにいるの? 最近みかけないようだが……」
「ああ、バーミンガムに帰っちゃったの。そこで商売してるのよ。ときどき、ロンドンにやってくるだけでね」
「きみを好きなのかい?」
「ご当人にきいてみたらいいわ」カラカラッと笑って、彼女はいった。「そうだとしても、そのこと、あんたにどんな関係があることなのかしら?」
辛辣な返事が喉元まで出てきたが、いま彼は、自制心を身につけようと努力した。
「どうしてそんなことをいうんだろうね?」が、彼のいえたせいぜいのとこだった。
彼女は、例の冷淡な目で、彼をみた。
「ぼくのこと、べつに問題にしてくれてはいないようだね」彼はいいそえた。
「あたしに、どうしてその必要があるの?」
「いや、べつに、どうというわけじゃないんだがね」
彼は、伝票をとろうと、手をのばした。
「あんた、癇癪《かんしゃく》もちなのね」彼のこの仕草をみて、彼女はいった。「すぐにプリプリするんだもん」
彼は、ニヤリとして、訴えるように彼女のほうをみた。
「ちょっとたのみたいことがあるんだけどね、どうだい?」
「話によりけりだわ」
「今夜、駅までぼくといっしょにいってくれるかい?」
「構わないことよ」
茶をすますと、彼は自分の部屋にもどったが、閉店になる八時には、店の外で待っていた。
「変った人ね」出てくると、彼女はいった。「まったく、つかめないわ」
「べつにむずかしいこととは思わないんだがな」彼は、ピリッと答えた。
「あんたがあたしを待ってるとこ、ここの女の子のだれかにみられたこと?」
「わかんないね。それに、気にもしてないよ」
「いいこと、みんな笑ってるわ。ぞっこんだって、いってることよ」
「おせっかいさまなことだ」
「ほら、また怒りだした」
駅で、彼は切符を買い、家まで送っていこう、といった。
「だいぶ暇らしいことね」彼女は応じた。
「自分の好きなように暇つぶしをしたって、文句はどこからも出ないはずだからね」
ふたりは、いつも、喧嘩寸前の状態にあるようだった。こんな女を愛している自分を憎んでいる、というのが実状だった。彼女はいつも彼に屈辱感を味わわせているみたい、その受けるあなどりひとつひとつにたいして、彼のうらみはどんどんとつのっていった。だが、その晩、彼女はやさしく、よくしゃべり、自分の両親が死んでしまったことを、彼に知らせ、べつにかせぐ必要はないのだが、道楽半分に仕事をしている、といった。
「伯母さんは、あたしが働きに出るのに反対してるの。家にいたって、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》やってけるんですもんね。お金がほしくて仕事に出てるなんぞと思われたくはないの」
これは嘘、とフィリップは知っていた。この女の属している階級のもつお上品ぶりで、こんないい加減なことをいい、生活の資のためにかせぐという恥辱をのがれようとしているのだ。
「親類には、なかなかりっぱな人もいるのよ」
フィリップは薄笑いを浮かべたが、彼女はすぐにそれをみてとった。
「なにを笑ってんの?」サッと彼女はたずねた。「嘘をいってるとでも思ってんの?」
「いや、そんなことはないよ」彼は答えた。
彼女はうろんげに彼のほうに目を投げたが、自分の子供時代の贅沢ぶりで彼を驚かしてやろうという気持ちをおさえられなくなった。
「父さんは、いつも、二輪馬車をもってて、使用人は三人もいたのよ、料理人と、下女と、臨時やといとでね。いつも、美しい薔薇が咲いてて、みんな、門の前で足をとめ、このお屋敷のご主人はだれだろう? 薔薇がとてもみごとだ、っていってたわ。むろん、お店のあんな子たちとこみになるなんて、いやなことよ。あんな階級の人って、あたし、知らないんでね。それだけ考えても、よく、あの仕事、やめちまおうかな、っとも考えてるの。いいこと、あたしの気にしてるのは、あの仕事じゃなくって、いっしょにならなくちゃならない人たちのことなのよ」
列車で、ふたりは向い合せに坐り、彼女のいうことをさもさもといったふうに聞いていながら、フィリップはすっかり幸福感にひたっていた。彼女の純真さが、彼にはおもしろく、心を打たれてもいた。彼女の頬は、かすかに赤らんでいた。あの顎の先にキスできたら、さぞうれしいことだろう、と彼は考えていた。
「お店にはいってきた姿をみてすぐ、これこそれっきとした正真正銘の紳士、とわかってたのよ。あんたの父さん、頭を使う職業の人だったの?」
「医者だったよ」
「頭を使う職業の人って、ひと目みれば、すぐにわかることよ。なにかあるのね。それがなんだかわからないんだけど、ともかく、ピンとくるわ」
駅から、ふたりはいっしょに歩いていった。
「ねえ、もう一度芝居見物に出かけないかね?」
「構わないことよ」
「いきたい、っていってもらいたいとこなんだがね」
「どうして?」
「まあ、いいや。日をきめることにしよう。土曜日でいいかい?」
「いいことよ」
なお細かな打ち合せをしているうちに、彼女が住んでいる街路の角にもう来てしまった。彼女は彼に手をさしだし、彼はその手をにぎった。
「ねえ、きみをミルドレッドととても呼びたいんだけどね」
「そう呼びたいんなら、呼んでもいいことよ。構いはしないわ」
「そして、ぼくをフィリップと呼んでくれないか?」
「そう呼ぶことにするわ、うっかりしなかったらね。あんたをケアリーさんと呼ぶほうが自然な感じはするんだけど……」
彼は彼女をちょっとひきよせようとしたが、彼女は身をそらせた。
「なにをするのよ?」
「おやすみのキスをしてくれないかい?」彼はささやいた。
「まあ、厚かましい!」彼女は応じた。
彼女は、手をサッとふりほどき、とっとと家のほうにいってしまった。
フィリップは土曜日の夜の切符を買った。その日は、彼女の早びけの日でなく、そのために、家に帰って身じたくをととのえることができなかった。だが、その朝、ドレスをもってきて、店で大急ぎでそれを着こむことになっていた。女将の機嫌がよかったら、七時には出してもらえるだろう、ということだった。フィリップは七時十五分すぎから外で待っていることになっていた。胸がキりキリするひたむきな気持ちで、フィリップはその日を待った。劇場から駅までの馬車の中で、彼女がキスを許してくれるものと思っていたからだった。馬車だと、男はたやすく女の腰に腕をまわすことができた(これが、現代のタクシーに上まわる二人乗りの辻馬車のもつ利点だった)。そのよろこびを味わうことができたら、その晩に使う遊びの金なんて、問題ではなかった。
だが、土曜日の午後、この約束をなお固めようと、店にいったが、美しい口髭を立てた例の男が店から出てくる姿をみかけた。このときまでに、この男がミラーと呼ばれているのを、彼はもう知っていた。ミラーは帰化したイギリス人で、名をイギリスふうに変え、もうながいこと、イギリスに住んでいた。フィリップはその話しぶりを聞いたことがあったが、とても流暢《りゅうちょう》で自然な言葉ではありながらも、その英語は抑揚がちょっとちがっていた。彼がミルドレッドといちゃついているのを知っているだけに、フィリップはひどく彼を妬《や》いていたが、彼女の冷たい気質が安らぎの種になっていた。そうでなかったら、彼はひどく思いなやむところだった。そして、女が情熱をもち得ぬものと考えて、恋仇が自分と同じ立場にあるものと、たかをくくっていた。だが、気の滅入ることではあった。ミラーがこうして突然姿をあらわしたことが、楽しみにしていた今夜の遊びの邪魔になるのじゃないか、ということが、まず頭にひらめいたからである。不安で胸をムカムカさせながら、店にはいっていった。ミルドレッドは彼のところにやってきて、注文を受け、すぐに茶を運んできた。
「ほんとにわるいんだけど」裏表ない苦痛の表情を浮かべて、彼女はいった。「どうしても今晩はいけなくなったの」
「どうして?」フィリップはたずねた。
「そんなこわい顔、しないでよ」彼女は笑いだした。「あたしがわるいからじゃないのよ。きのうの晩、伯母さんが病気になって、ちょうど女中の外出の日、そこで、伯母さんの世話は、あたしがしなければならなくなったの。まさか放りだしにしてもおけないでしょう、どう?」
「構わないよ。そのかわり、家に送ってってあげよう」
「でも、切符があるでしょ。むだになんかしたら、もったいないわ」
彼は、切符をポケットからとりだし、ゆっくりとそれをひきちぎった。
「まあ、どうして、そんなことするの?」
「ぼくがひとりで出かけてって、あんなつまらん音楽喜劇なんぞみるとは、まさか思ってはいないだろうね、どうだい? ぼくが座席をとったのは、ただきみのためだったんだからね」
「家に送るのがあんたの目的なら、それはだめよ」
「話がほかにできてるためさ」
「なにをいってんのかわかんないけど、とにかくあんたは、勝手な人ね、ほかの男と同じことよ。自分のことしか考えてないんだもん。伯母さんの調子がわるくなったって、あたしのせいじゃなくってよ」
彼女はさっさと伝票に書きこみ、向うにいってしまった。フィリップは、女のことは知らぬも同然だった。知っていたら、女のどんなみえすいた嘘でも、そのまま黙認するはずだった。店を監視し、ミルドレッドが例のドイツ人と出かけるかどうか、ちゃんとみとどけてやろう、と腹をきめた。気の毒に、彼は、ちゃんとたしかめなければ気のすまない男だった。七時に、店の向い側の舗道に立ち、ミラーの姿をさがしたか、その姿はみえなかった。十分すぎると、女があらわれ、シャフツベリー劇場に彼がつれていったときと同じ外套とショールを着用におよんでいた。家に帰ろうとしていないのは、明白だった。こちちでかくれる間もあらばこそ、彼女は彼の姿をみつけてしまい、ちょっとギクリとし、それからまっすぐ、彼のほうに歩いてきた。
「ここでなにしてんの?」彼女はたずねた。
「散歩してるよ」彼は答えた。
「みはってるのね、このいやらしいやつったら! あんたを紳士と思ってたのに!」
「紳士だったら、きみなんかに関心をもつとでも思ってるのかね?」彼はつぶやいた。
彼の中には悪魔がひそんでいて、否応なく事態をなお悪化させてしまった。彼は、自分が傷つけられたのと同じように、相手を傷つけてやりたかった。
「その気になったら、考えを変えたっていいはずよ。べつにあんたといっしょにいく義理なんて、ないんですからね。いいこと、あたし、家に帰るの。あとをつけられたり、監視されたりは、まっぴらごめんよ」
「きょう、ミラーに会ったかい?」
「そんなこと、そっちの知ったことじゃないでしょ。じっさいんとこ、会ったりはしなかったけど……。そこでも、またお見当《けんと》ちがいね」
「きょうの午後、あの男の姿をみかけてね。ほくが店にはいったとき、ちょうど出てきたのさ」
「そう、でも、そうだからといって、どうだというの? その気になったら、あの人といっしょに出かけたっていいはずでしょ? それに文句をつける筋は、そちらにはないはずよ」
「あの男、きみを待たせてるんだ、どうだい?」
「あんたに待ってもらうより、あの人を待ってたほうがまだましね。はっきり、その点、つかんどいてちょうだい。こういえば、あんた、家に帰って、これからは人のおせっかいはしないことになるでしょうからね」
彼の気分は、いきなり、怒りから絶望に急転した。語りながら、彼の声は、ふるえていた。
「ねえ、ぼくにむごいあつかいはしないでくれ、ミルドレッド。きみをとっても好きなこと、きみだって知ってるんだ。心の底から愛してるんだよ。気持ちを変えてくれないか? 今晩をすごく楽しみにしてたんだ。わかるだろう、あの男はまだ来てないし、きみのことなんか、ぜんぜん問題にしてないんだよ。夕食をいっしょにしてくれないか? 切符は改めて買って、きみの好きなどこにでも、いっしょにいくことにしよう」
「いいこと、あたし、いきたくないの。ベラベラしゃべったって、むだなことよ。もう決心してんの。一度決心したら、てこでも動かなくってよ」
チラリと、彼は彼女をながめてみた。彼の心は、苦悶でひきさがれた。舗道であわただしく人はふたりのわきをとおりぬけ、辻馬車や乗合馬車がゴロゴロとさわがしく走っていった。ミルドレッドの目がキョロキョロとあたりをみまわしているのが、彼にわかった。人の群れにまぎれて、ミラーの姿を見失うのを、心配しているのだった。
「こんなふうじゃ、たまらないんだ」フィリップはうめいた。「あまりにもみじめだ。いま別れたら、永遠の別れになるよ。今晩、ぼくといっしょに来てくれなかったら、もう二度と会えなくなっちまうんだよ」
「それがあたしにとって大変なこととでも思ってるらしいわね。こちらのいい分は、厄《やく》払いしてヤレヤレ、というだけのことよ」
「じゃ、さようなら」
彼はうなずき、びっこをひきながら、ゆっくりゆっくりそこから去っていった。心すべてをこめて、呼びもどしてくれたち、とねがっていたからだった。つぎのランプ灯のところで、足をとめて、肩越しにふりかえってみた。手招きしてくれるかもしれない、と当てにしていた――よろこんですべてを忘れ、どんな屈辱でも甘受する気持ちだった――だが、女はもうそっぽを向き、たしかに、彼のことは考えていないようだった。自分とわかれてよろこんでいるのが、彼にはっきりとわかった。
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五十九
フィリップは、その晩、みじめさをしみじみ味わった。食事はしない、と下宿のおばさんにいってあったので、食べ物がなく、夕食にギャッティにいかなければならなかった。食事をすませて、部屋にもどったが、二階のグリフィスが会をやっていて、その陽気なさわがしさは、彼のみじめさをなおいっそう堪えがたいものにした。演芸場にいってみたが、土曜日の夜のこと、立ち席しかなく、うんざりしながら三十分ほど立っていると、脚の疲労がひどく、家に帰ってしまった。本を読もうとしても、注意集中が不可能だった。だが、せっせと勉強しなければならなかった。生物学の試験が、二週間ちょっと先にせまり、らくな試験ではあるにせよ、最近講義はさぼり放題、自分がなにも知らないことは、はっきりとわかっていた。だが、口頭試問だけのこと、二週間したら、なんとかしのげるくらいの学科の知識は頭につめこめるものと、確信していた。自分の頭に自信があった。本を放りだし、いつも自分の頭をいっぱいにしていることを、ひとつ慎重に考えぬいてやろう、ということになった。
今夜の自分の行動で、ひどく自分を責めた。自分といっしょに食事をするか、さもなければ、永遠に別れよう、なんてバカげた二者|択一《たくいつ》を、自分はどうして女にせまったんだろう? もちろん、断られた。女のほこりも、考慮すべきだったのだ。のるかそるか、背水の陣をしいたわけだった。相手も苦しんでいると考えることができたら、こうまで我慢できぬほどつらくはなかっただろうが、女のことは、わかりすぎるほどわかっていた。まるっきり、ケロリとしたものなのだ。バカでなかったら、女の話を信じているふりをしたことだろう。自分の失望をかくすたくましさと、癇癪《かんしゃく》をおさえる自制心をもつべきだった。どうしてあんな女を愛しているのか、自分でもわからなかった。愛にとってかわる理想化についての話を読んだことがあったが、彼はありのままの彼女を知っていた。おもしろくも、利口でもない女、心は下劣、胸がムカムカする野卑なぬけめのなさの持ち主、やさしさも温和さもなかった。自分でもそういうことだろうが、『なんとかいい身分におさまろう』としてるのだ。彼女が舌を巻くのは、人のいい人間をひっかけるあざやかないかさま、人をひっかけて、いつもいい気になってるのだ。彼女のお上品ぶりと、食事の食べ方の洗練ぶりを考えて、彼は怒りをこめて荒々しく笑った。下品な言葉となると、あの女はもう我慢ならず、わずかしかない言葉を駆使して、なんとか美しくとりつくろおうとする。どこにでも下品さの種をみつけ、ズボンとは絶対にいわずに、それを下の服といい、鼻をかむのをいささか品のないことと思いこんでいて、いかにもわるいことでもしているように、それをやっている。ひどい貧血症で、この病気につきまとう消化不良で苦しんでいる。あのぺしゃんこな胸と細い腰は、フィリップにとって、たまらなくいやなものだった。あの下品な髪の結い方、これももううんざりだった。そんな女を愛している自分自身まで、いまわしく、軽蔑すべきものになってきた。
だが、彼が身動きならぬ立場にあるのは、依然として事実だった。学校で図体《ずうたい》の大きな少年にとっつかまったときの感じ、いまの気持ちは、まさにあれだった。力がつきるまで、かなわぬながらもがんばるのだが、精も根もつき果てて無力状態になり――まるで麻痺《まひ》にかかったように、手足に感じたあの独得の倦怠感が思い出された――その結果、どうにも動きがとれなくなってしまった。死んだも同然だった。それと同じ虚脱状態を、いま味わっていた。彼にはわかっていたが、いままでに味わったこともない激しさで、いまあの女を愛しているのだった。肉体と性格の欠点は、もう問題でなかった。そうした欠点まで愛すべきものになっているようだった。とにかく、欠点など、問題ではなかった。自分自身に係り合いのあることには思えなかった。なにか奇妙な力に自分がとりつかれ、その力が、自分の意志にさからい、自分の利益に反して、自分をつき動かしているようだった。自由を欲する情熱はあったので、自分を拘束するこの鎖がいまいましくてならなかった。心をおしつぶす強い情熱を経験したいものと、自分がよく渇望していたことを思い出して、彼は自分自身をあざけり笑った。その情熱に屈服した自身がのろわしくなった。ことのはじまりを考えてみた。ダンスフォードといっしょにあの店にいかなかったら、こうしたことは、起こりもしなかったろう。ことすべては身から出た錆《さび》。笑うべき自分の虚栄心がなかったら、あんな失礼なおひきずりになやまされたりは絶対にしなかったろう。
とにかく、その夜に起きたことで、もうすっかりけりになったのだ。見栄も外聞もないのならいざ知らず、糸の縒《よ》りはもうもどせない。自分にとりついた愛の激情から、なんとか身を解き放したくてならなかった。屈辱的でもあり、いまわしいことでもあった。女のことを考えないようにしなければならない。しばらくすれば、いま味わっている苦悶は薄らぐにちがいない。彼の心は、過去にもどっていった。自分のために、エミリー・ウィルキンソンとファニー・プライスが彼のいま味わっている拷問の苦しみを堪えたのだろうか? そう考えると、悔恨の情で胸が痛くなってきた。
「あの当時、それがどんなものかを知らなかったんだ」彼は考えた。
その晩は、よく眠れなかった。つぎの日は日曜日で、生物学の勉強にとりかかった。本を前におき、注意が散漫にならないようにと、口を動かして単語を読んでみたが、なにも頭にはいってこなかった。毎分のように、思いはミルドレッドのところにもどっていき、ふたりのあいだの喧嘩の一語一語が、そっくりそのまま思い出された。むりやり心を本にもどさなければならなかった。散歩に出てみた。テムズ川の南側の道路は、ふだんの日でもきたなかったが、そこには、薄よごれた生気を与える活気、人馬の往復があった。だが、日曜日となると、店は開かれず、馬車は走らず、静まりかえり意気消沈して、道路は得もいえぬふうにわびしいものになっていた。一日が果てしなくつづくように、フィリップには思われた。
だが、ひどくつかれていたので、ぐっすりと眠りこみ、月曜日になると、意を決して新しい生活に踏みだしていった。クリスマスが近づき、大部分の学生は、冬学期がまたがっているこの短い休日のあいだ、故郷に帰っていた。だが、ブラックステイブルにもどらないかという伯父の招きを、フィリップは断ってしまった。近づく試験をその口実とはしながらも、事実のところは、ロンドンとミルドレッドのもとを去りかねていたのだった。勉強をすっかりおろそかにしたので、履修課程では三ヵ月かかるものを、たった二週間でなんとかしなければならなくなっていた。そこで、真剣に勉強にとりかかった。ミルドレッドのことを考えずにいるのも、日一日とらくになってきた。自分の性格の強さを、彼は祝福した。味わっていた苦しみは、もう苦悶といったものではなく、いわば痛みといった程度のもの、落馬して、骨折はしないながらも、全身打撲傷を受け、がっくりして感ずる気分といったものになっていた。過去数週間落ちこんでいた状態を、自分はもう好奇心を燃え立たせてながめられるようになった、とフィリップは感じていた。興味深く自分の感情の分析をしてみた。自分自身がちょっとおもしろくなってきた。気がついたひとつのことは、こうした事情のもとで、人間の考えることがどんなに無力か、ということだった。いろいろと考えて大きな満足を与えてくれた自分自身の哲学体系なんて、なんの役にも立たなかった。この事実は、彼をとまどわせた。
だが、街路で、ときどき、ミルドレッドそっくりの女をみかけることがあり、心臓の鼓動がとまりそうになった。そうなると、もうどうにもならず、ひたむきにハラハラしながら足を急がせてその女に追いついていったが、結局は、まったくの別人とわかる始末だった。学生はいなかからもどり、彼は、ダンスフォードといっしょに、あるA・B・Cの店に出かけていった。あのなじみの制服をみて、彼はみじめな気分に落ちこみ、口もきけなくなった。彼女は、ひょいとしたら、会社のべつの店にまわされたのかもしれない、という考えが湧き、そうなると、彼女と、いきなり、顔をばったり合せることになるかもしれない。そう考えると、すっかり度を失い、自分になにか具合いがわるいとこでもあるのか、とダンスフォードに気どられるのではないかと心配になってきた。いうべき言葉が頭に浮かばず、ダンスフォードがしゃべっているのを、ジーッと聞き入っているふりをした。この話は彼をカッカとさせ、おねがいだ、そんな話はやめてくれ、とダンスフォードにどなりつけるのをおさえつけておくのが、精いっぱいのとこだった。
試験の日がやってきた。自分の順になったとき、フィリップは、自信満々、試験官のところに進んでいった。三、四の質問に答えた。ついで、さまざまな標本をみせられた。講義にはほとんど出ていなかったので、本で学べないものについて質問されると、もう動きがとれなくなった。知らぬのをなんとかごまかそうと、必死に努力し、試験官のほうでも深追いはせず、割り当ての十分間は、すぐに終ってしまった。及第はまちがいなしと思いこんでいたが、つぎの日、試験場の建物にゆき、ドアにはりだされた試験の結果をみると、驚いたことに、試験官が及第を許可した者の中に、彼の番号はみつからなかった。びっくり仰天《ぎょうてん》して、及第者の表を三回丹念に調べてみた。ダンスフォードが彼といっしょにいた。
「気の毒に、ふられたね」彼はいった。
彼は、たったいま、フィリップの番号を知らされたのだった。フィリップは、ふり向き、相手の輝く顔で、ダンスフォードが無事及第したのをさとった。
「いやあ、どうということもないさ」フィリップはいった。「きみがうまくいったのは、よかったね。ぼくは、七月になったら、また受けるよ」
彼としては、なんとか気にしていないふりをよそおおうとし、帰りに川岸遊歩道《エンバンクメント》(ロンドン、テムズ川の北岸ぞいにある)ぞいに歩いていったとき、どうということもないことをしゃべりつづけた。ダンスフォードは、お人好しにも、フィリップの失敗の原因を話し合おうとしていたが、フィリップは頑強にさりげないふうをとりつづけた。だが、内心はひどく傷つけられ、感じはいいがまったくの間抜けと考えていたダンスフォードが無事及第した事実は、自分の受けたこの肘鉄をなおいっそう堪えがたいものにした。いつも、自分の頭のよさをほこりの種にしていたが、こうなると、自分の評価にあやまりでもあったか? ときびしく自問せずにはいられなくなった。冬学期の三ヵ月のあいだに、十月に入学した学生は、もうふるいわけられて、いくつかの組になり、優秀、利口、勤勉、「かす」の区分がはっきりとしてきた。
自分の失敗で驚いている者は自分以外にだれもいないことは、フィリップによくわかっていた。ちょうどお茶の時刻で、多くの学生が医学校の地下室でお茶を飲んでいるのがわかっていた。及第した連中は大よろこびしているだろうし、自分をきらっている連中は、自分のことをいい気味と思い、失敗したあわれなやつらは、自分に同情し、おかえしに同情を受けようとしているだろう。本能的には、学校に一週間近寄らず、試験のほとぼりをさまそうという気になったが、そのとき学校にゆくのがひどくいやに感じていたので、そのためかえって、学校に出かけていった。こうして自分をさいなみたかったのだった。町角の向うに巡査がいるのをちゃんと心得て、自分の好きなことをやるという彼の人生の格言を、さし当り、忘れてしまった。さもなければ、その格言にもとづいて行動していたとしても、彼の性格に病的に変ったなにかあるものがあり、それが自虐におそろしい快感をおぼえさせていたのだろう。
だが、しばらくして、みずからに課した試練に堪えぬき、喫煙室でのさわがしい話を終って夜空のもとに出ていくと、まったくの孤独感がひしひしと彼をおそってきた。自分自身の目に、自分は愚かで役立たずの者、と思えてきた。なぐさめを求める気持ちが切々とつのり、ミルドレッドに会おうとする誘惑が、抵抗できないほど強くなってきた。あの女からなぐさめを得られるみとおしはまずない、とつらい思いを味わいながら考えてはいても、たとえ話さないにせよ、ひと目女の姿をみたくなった。結局のとこ、あの女は給仕女、客の応対はしなければならないのだ。この世で愛しているのは、ただあの女だけだった。この事実をわが心からかくそうとしても、意味のないことだった。なにもなかったようにケロリとしてあの店にまいもどっていくのは、もちろん、屈辱的なことだったが、彼には、もう自尊心などのこってはいなかった。自分でそう認めるのはいやだったが、毎日、彼女が手紙を寄こしてくれるのを、彼は心待ちしていた。病院宛てに手紙を出せば彼にとどくのを、女は知っていた。だが、彼女の手紙は来なかった。彼とまた会おうと会うまいと、女のほうでは平気の平左なことは、はっきりしていた。そして、彼は、心の中で、くりかえしくりかえしいっていた、
「会わにゃならん。会わにゃならん」
この欲望でいても立ってもいられなくなり、歩いていくのはもどかしく、とうとう辻馬車にとび乗ってしまった。彼はとても節約家で、よんどころない場合以外に、辻馬車は利用していなかった。一、二分間、店の外に立ちつくしていた。ひょいとしたら店をやめてしまったかもしれない、という考えが浮かぶと、その心配で、サッと店にはいっていった。彼女の姿は、すぐ目にとまった。彼が腰をおろすと、彼女は近づいてきた。
「紅茶とマフィン」彼は注文した。
もう口もきけず、いきなり泣きだすのではないか、とちょっと心配になるくらいだつた。
「あんた、死んだもんと思ってたことよ」彼女はいった。
彼女はニコニコしていた。ニコニコしていたのだ! フィリップが何回となく思い描いていたあの最後の情景を、もうすっかり忘れているようだった。
「ぼくと会いたけりゃ、手紙を寄こすと思ってたんだがね」彼は答えた。
「いろいろと用事があってね、手紙を書くなんて、思ってもいなかったわ」
やさしい言葉をいうのは、この女には不可能なことらしかった。こんな女に結びつけられた運命を、フィリップはのろった。茶をとりに、彼女ははなれていった。
「ちょっとのあいだ、ここに坐ってていいこと?」茶を運んできて、彼女はいった。
「ああ、いいよ」
「このあいだじゅう、どこにいってたの?」
「ロンドンにいたよ」
「休暇で帰ったもんと思ってたわ。じゃ、どうしてお店に来なかったの?」
フィリップは、情熱的なやつれた目で、彼女をながめた。
「もう絶対に会わないってぼくがいったのを忘れたのかい?」
「じゃ、いまあんたがしてること、どういうことになるの?」
屈辱の杯を飲ませようと、女はせっせとやっているようだったが、彼には彼女のことがよくわかり、口から出まかせにいっているのを知っていた。この女は、ひどく彼の心を傷つけてはいたが、そのつもりは一切なかったのだった。彼はだまっていた。
「あんなふうにあたしを見張ってるなんて、とても卑劣なやり口よ。あんたのことは、れっきとした正真正銘の紳士と思ってたのにね」
「そんなひどいことは、いわんでくれ、ミルドレッド。たまらんのだからね」
「あんたって、妙な人ねえ。どうしてもわかんないわ」
「とても簡単なことさ。ぼくは、きみを心の底から愛してるすごい大バカ者、しかも、きみにはこれっぽっちも気のないことを、ちゃんと承知してるんだ」
「あんたが紳士だったら、あのつぎの日に、ちゃんとやってきて、許してくれ、といったはずよ」
情け容赦のない態度だった。彼は、彼女の首に目をやり、手にもったマフィン用のナイフで、そこをズブリと刺してやりたくなった。解剖学には多少の心得があったので、頸《けい》動脈くらいはらくに刺せた。それと同時に、彼女の痩せた青白い顔をキスでおおってしまいたくなった。
「どんなにすごくぼくがきみを愛してるか、わかってくれたらなあ」
「まだ、許してくれ、とはいってないことよ」
彼は真っ青になった。あのとき、自分のほうにわるいことはなにもない、と彼女は思っているのだ。だから、いま、彼の鼻を折ろうとしているわけ。彼は、ほこりの高い男だった。一瞬、糞っくらえ! と一喝を彼女に浴びせたかったが、それはできなかった。愛情が彼を卑屈にした。彼女と会わぬくらいなら、どんな屈辱も甘んじて受けようという気になった。
「わるかったね、ミルドレッド。許しておくれ」
これは、むりやり口からおしだした言葉、すごい努力の結果だった。
「そういってもらえば、もう遠慮なくいうことよ、あの晩、あんたといっしょにいったらよかったと、あたし、思ってるの。ミラーを紳士と思ってたんだけど、それがまちがいだったことが、いま、はっきりわかったの。だから、仕事にとっとと追いやってやったわ」
フィリップはちょっとあえいだ。
「ミルドレッド、今晩、ぼくといっしょにいかないか? どこかで晩の食事をしよう」
「まあ、だめよ。あたしが帰るもんと、伯母さんが思ってるんだから」
「ぼくが電報を打つよ。店に用があったといえばいいじゃないか。それ以上、なにもわかりはしないよ。ああ、おねがいだ、来ておくれ。ながいこと会わなかったし、きみと話をしたいんだ」
彼女は自分の服をチラリとながめた。
「服なんて、どうでもいいさ。服が問題にならないとこにいくことにしよう。そのあとで、演芸場にいくんだ。さあ、うんといっておくれ。それで、ぼくはとってもうれしくなるんだからね」
彼女は、ちょっとモジモジしていた。彼は、あわれっぽく訴えるように、彼女をながめた。
「そう、いっても構いはしないことよ。どのくらいかわからないほどながいこと、どこにもいってないんですもんね」
すぐその場で、彼女の手をつかみ、それにキスしたいところだったが、ようやくそれをおさえつけた。
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六十
ふたりはソホー(ロンドンで、フランス人やイタリア人のレストランのあるところ)で食事した。フィリップはよろこびでふるえていた。体裁ぶってはいながらも懐具合いのわるい連中が、解放的であり、安くあがると信じこんで、食事をするあのゴタゴタとした安レストラン――ふたりが食べた店は、そんなところではなかった。そこは、ルーアン(フランス北部のセーヌ川に臨む都市)からやってきた夫婦者が経営し、フィリップが偶然みつけたつつましい店だった。フランスふうの窓が彼をここに呼んだきっかけになったのだが、その窓には、ふだん、皿に盛った厚い切り身の生肉《なまにく》、その両側に、生野菜の皿がふたつおいてあった。みすぼらしいなりをしたフランス人の給仕がひとりいたが、この男は、一日じゅうフランス語しか耳にしないこの店で、英語の勉強をしようとしていた。客は、わずかな夜の女、専用のナプキンをもっているひと組かふた組の夫婦者、それに、わずかな食事をあわただしく食べにくるわずかばかりの妙な男たちだった。
ここで、ミルドレッドとフィリップは、テーブルひとつを占領することができた。フィリップは、給仕にたのんで、近くの居酒屋からバーガンディ|ぶどう《ヽヽヽ》酒をとりよせ、野菜入りポタージュ、|じゃがいも《ヽヽヽヽヽ》つきの窓に出ているビフテキ、それに桜桃入りオムレツを注文した。食事といい店といい、じっさいたしかに、ロマンスの雰囲気がただよっていた。ミルドレッドは、最初、もったいぶってここをそうはよろこばず、「外国人の店なんて、信用ならないことよ。ゴタゴタとまぜこんだ料理になにがはいってるか、知れたもんじゃないんですもんね」といっていたが、そのうち知らぬ間に、すっかり満悦していた。
「このお店、好きよ、フィリップ」彼女はいった。「テーブルで肘をついてもいいような感じね、どう?」
背の高い男がひとりはいってきたが、たてがみのような灰色な髪をし、モシャモシャしたうすい顎髯をつけた男だった。着古した外套を着こみ、ひろぶちの中折帽をかぶっていた。前にここで会ったことがあるフィリップに、この男はうなずいて挨拶した。
「無政府主義者のようね」ミルドレッドはいった。
「そうだよ、ヨーロッパ切っての危険人物さ。大陸の監獄という監獄にぶちこまれ、暗殺の数ときたら、絞首刑にならずにすんでる男のなかではいちばんの人物だよ。いつもポケットに爆弾を入れてて、このため、もちろん、話はちょっとしにくくなるんだがね。だって、そうだそうだと相槌《あいづち》を打たなかったら、やおら、そいつをテーブルの上にもちだすことになるんだからね」
彼女は、びっくりして、おそろしそうにその男をながめ、それから、どうもくさいぞといった一|瞥《べつ》をフィリップに投げ、眉をしかめた。
「からかってんのね」
彼は、ちょっと、よろこびの叫びをあげた。とても幸福だったからだった。だが、笑われたことで、ミルドレッドはお冠《かんむり》だった。
「嘘いって、どこがおもしろいの?」
「怒ってはいけないよ」
彼は、テーブルに乗せた彼女の手をとり、やさしくそれをにぎりしめた。
「きみは美しいな。きみが踏みしめた土地だったら、それにキスをしてもいいくらいだ」
彼女の青味をおびた白い肌は、彼を恍惚とさせ、赤みのない薄い唇は、すごい魅力をたたえていた。貧血症で、彼女は息が切れやすく、ちょっと口をあいていた。それがまた、顔の魅力をグッとたかめているようだった。
「ぼくをちょっと好きかい、どう?」彼はたずねた。
「そうね、好きじゃなかったら、ここに来るはずはないことね、どう? あんたは、れっきとした正真正銘の紳士、それだけは、あんたにいったげることよ」
もう食事は終り、コーヒーを飲んでいた。フィリップは、節約なんぞ糞っくらえとばかり、三ペンスの葉巻きをふかしていた。
「向い合せに坐って、きみの姿をながめられるなんて、それがぼくにどんなにうれしいことか、きみには見当もつかないだろうね。きみをあこがれ求めてたんだ。きみをひと目みたさに、胸をうずかせてたんだよ」
ミルドレッドは、ちょっとほほ笑み、顔にほんのわずか赤みがさしてきた。食事がすむとすぐ、ふだん苦しんでいる消化不良が、きょうは、あらわれてこなかった。いままでにないほどフィリップに親切になり、彼女のひとみに浮ぶ珍しいやさしさが、フィリップの心を歓喜で満たした。彼女の手に身をすっかりゆだねることが狂気の沙汰《さた》であるのを、彼は本能的に心得ていた。のこされたただひとつの機会は、彼女をさりげなくあしらい、自分の胸に燃えさかっているどうにもならぬ情火を、相手に絶対うかがわせないことだった。相手は、ただ、こちらの弱みに乗ずるだけだった。だが、慎重になんかしてはいられなかった。彼女と別れているあいだに味わった苦悶すべてを打ち明けた。自己との戦いを打ち明け、自分の情熱をなんとか克服しようとつとめ、一時成功したように思ったものの、その火が依然として強く燃えあがっているのを発見したいきさつを語った。情熱の克服を自分がほんとうは望んでいなかったのを、彼はちゃんと知っていた。彼女にそそぐ愛のあまり、自分の味わう苦痛なんか、問題でなかった。彼女に胸の中すべてをさらけだした。ほこりやかに自分の弱みすべてを、示してしまった。
この感じのいい、そうきれいともいえないレストランになおながくいつづけるのが、彼にとってはなによりうれしいことだったが、ミルドレッドが遊びたがっているのを、彼は知っていた。彼女はジッとしていられない女、どこにいようとも、しばらくすると、ほかの場所にうつっていきたがるのだった。彼女を退屈させる気にはなれなかった。
「ねえ、演芸場はどう?」彼はいった。
自分に愛情が少しでもあれば、女はここにいたいというだろう、とフィリップはサッと考えた。
「どこかにいくんだったら、もういかなけりゃ、と思ってたとこなのよ」彼女は答えた。
「じゃ、いこう」
上演が終るのを、フィリップはジリジリして待っていた。なにをするかは、もうちゃんと腹をきめてあった。辻馬車に乗りこむと、まるで偶然といったふうに、彼女の腰に腕をまわした。だが、小声の悲鳴をあげて、手をサッとひっこめた。なにかに刺されたからだった。彼女はカラカラッと笑った。
「ほーら、いけないとこに腕をつっこんだから、罰を受けたのよ」彼女はいった。「いつ男が腰に腕をまわそうとするか、ちゃんと知ってんのよ。あのピンがいつも待ち構えててね」
「もっと注意することにしよう」
彼は、また、腕をまわしたが、こんど、彼女は文句をつけなかった。
「ああ、楽しいな」彼はうっとりしていった。
「自分さえ幸福ならばね」彼女はやりかえした。
馬車はセントジェイムズ通りからハイド・パークにさしかかり、フィリップは素早く彼女にキスをした。彼女が妙にこわく、これをするのに、勇気すべてをふるい立てねばならなかった。なにもいわずに、彼女は唇を彼のほうに向けた。それを気にするふうはなく、さりとて、好んでしているといったようすもなかった。
「どんなに前からこれをしたかったか、わかってもらえたらなあ」彼はつぶやいた。
またキスをしようとすると、彼女はそっぽを向いてしまった。
「一度でもう十分でしょ」彼女はいった。
せめてもう一度とねらいこんで、彼女といっしょに、馬車でハーン・ヒルまでゆき、彼女の住んでいる街路の端のところで、彼女にたずねた、
「もう一度キスしてくれない?」
彼女は彼をケロリとしてながめ、それから街路に目をやって、人がいないのをたしかめた。
「構わないことよ」
彼は彼女を両腕に抱きこみ、情熱的に彼女にキスしたが、彼女は彼をおしのけた。
「おバカさん、あたしの帽子に気をつけてちょうだい。不細工な人だこと」彼女はいった。
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六十一
それからは、毎日、彼女と会うことになった。昼食も彼女の店でとりはじめたが、ミルドレッドは、それをやめさせた。店の女たちがうるさくいうから、がその理由だった。そこで、お茶だけで我慢することになったが、いつも店の外で待ち、彼女といっしょに駅までいくことにし、週に一度か二度、夕食をともにした。彼女にささやかな贈り物、金の腕環、手袋、ハンカチ、その他を贈った。これは、分相応以上の荒い金使いだったが、それをせずにいられなかった。彼女が多少なりとも愛情をみせてくれるのは、贈り物をもらったときだけだった。どんなものでも、値段をちゃんと心得ていて、彼女の感謝は、贈り物の値段にピタリ比例していた。彼は平気だった。彼女からキスを求められたりすると、もうすっかり有頂天、どんな手段でその表示をあがなおうと、気にとめてはいなかった。日曜日に家にいるのを退屈がっているのを知ると、午前中に、ハーン・ヒルまで出かけてゆき、例の街路の端で彼女と会い、いっしょに教会にいった。
「あたし、週に一度は、いつも、教会にいきたいと思ってるのよ」彼女はいった。「それに、体裁もいいでしょ、どう?」
それから、彼女は、昼食をしに、家にもどっていき、彼はホテルでいい加減な食事をすませ、午後に、ふたりはブロックウェル公園を散歩した。もう話すことはたいしてなく、フィリップは、彼女が退屈するのをひどく気に病んで(彼女はすぐに退屈してしまう女だった)、頭をしぼって話の種をみつけようと努力していた。こうした散歩が、ふたりのどちらにも、おもしろくないのを、彼は知っていたが、彼女と別れるのがたまらなく、それをなんとかながびかそうとし、彼女のほうでは、つかれて、癇癪《かんしゃく》を起していた。女が自分を愛していないのは、彼にわかっていた。理性では彼女の冷たい性格ではできないと心得ている愛を、彼はおしつけようとした。彼女に要求する権利は彼にはなかったのだが、しゃにむに要求せずにはいられなかった。もう親しくなっていたので、癇癪をおさえるのがますます困難になり、ときどき、イライラして、辛辣な言葉を吐かずにはいられなくなった。ときには喧嘩をし、彼女は、しばらくのあいだ、口をきこうとしなかった。だが、これで、いつも屈服するのはフィリップ、結局、彼女の前ではいつくばってしまうのだった。こうしただらしのない態度を示して、彼は自分のことをプリプリ怒っていた。店で彼女がほかの男に話しかけているのをみると、嫉妬でカンカンになり、妬きだすとなると、もうくるったようになっていた。彼はわざと彼女を侮辱し、店をプイッと出てゆき、その後、床で寝がえりを打ってころげまわり、眠られぬ夜をすごし、腹を立てたり、後悔したりし、その翌日には、店にいき、いつも彼女に許しを乞うていた。
「ぼくのことを怒らないでくれ」彼はいった。「とてもきみを好きなんで、どうしても自分がおさえきれなくなってしまうんだ」
「いずれ、悔いてもおよばぬことになることよ」
彼は彼女の家にゆきたがっていたが、それは、こうしてもっと親しくなって、彼女が仕事ちゅうにつくりだすゆきずりの男の友だちにたいして、優利な点に立とうとする魂胆《こんたん》からのものだった。だが、彼女は、それを許そうとはしなかった。
「伯母さんはとても変に思うことよ」彼女はいった。
彼女のこの拒否は、伯母をみせたくない彼女の気持ちによるだけじゃないか、と彼は見当をつけていた。ミルドレッドは、この伯母のことを知的職業をしていた人物の未亡人と申し立て(この知的職業というのが彼女の優秀性の信条になっていた)、ただいい女というだけでは、そうりっぱとはいえないのじゃないかと考えていた。じっさいには、小さな商人の後家さんかな、とフィリップは推測を立てていた。ミルドレッドが俗物根性の持ち主というのは、わかっていることだった。伯母がどんなに俗悪な女だろうと、自分にはどうということでもない事実を彼女に伝えようとしても、それをどう伝えたものか、と彼は頭をひねっていた。
いちばんひどい喧嘩が、ある晩、食事をしている最中に起きたが、それは、ある男が自分を芝居にさそった、と彼女が知らせたためだった。フィリップは真っ青になり、顔がこわばり、けわしくなった。
「まさかいきはしないね?」彼はいった。
「いったっていいでしょ? 紳士的なとてもいい人よ」
「どこでも好きなとこに、ぼくはきみをつれていく気なんだよ」
「だって、ちがうじゃないの。あんたにいつもついてくなんて、あたし、できないことよ。その上、日はこっちできめろといってくれたんだから、あんたといっしょに出かけない晩にいくつもりなのよ。そうすりゃ、あんたにどうってこともないじゃないの」
「きみに多少なりともまともな考えがあったら、そう、感謝の念が少しでもあったら、出かけようなんぞとは、夢々思わないはずなんだがね」
「感謝の念って、どういうこと? あたしにくれたもんのことをいってるんだったら、そっくりおかえしすることよ。べつにほしくなんぞないことよ」
この彼女の声は、例のガミガミ調子になっていた。
「あんたといつも歩きまわってるなんて、たいしておもしろいことじゃないの。いつもきまって、ぼくを愛してるかい? ぼくを愛してるかい? っていうことになって、こっちまで胸糞がわるくなるだけなんだもん」(彼女にそんなことをたずねるなんて、狂気の沙汰とは知りながらも、そういわずにはいられなかったのだった)
「ああ、あんたをとっても好きよ」が、彼女のいつもの答えだった。
「それだけかい? こっちじゃ、心の底から愛してるんだよ」
「あたし、そんな女じゃないの。ベラベラしゃべり立てたりはしないのよ」
「たったひと言でぼくがどんなに幸福になれるか、わかってくれたらなあ!」
「そう、あたしのいつでもいってることは、おみかけどおりのあたしと思ってちょうだい、それがおいやなら、我慢するのはそっちなのよ、っていうことなの」
だが、腹の中をもっとはっきりさせることがよくあり、例の質問を浴びせられると、彼女はこう答えた、
「ああ、またそんな話、もうまっぴらよ」
そういわれると、彼はムッとし、口をつぐんでしまった。彼女が憎らしくなったからである。
このさい、彼はこう切りかえした、
「そのことでそんな気持ちになってるんだったら、どうやら、ぼくといっしょにわざわざ来ていただく、ということらしいね」
「こっちでたのんでるんじゃないことよ。そんなことくらい、わかってるでしょ。むりやりひっぱりだされてんのよ」
彼のほこりはひどく傷つけられ、カッカとして彼は答えた、
「ほかにつれてってくれる男がないと、まあ、あの男なら食事も芝居もおごってくれるだろう、だれかほかの男があらわれたら、もうポイだ、って考えてるんだな。お礼を申しあげるよ、いい穴埋めにしてもらって、こっちも胸っ糞がわるくなってるんだ」
「そんな話、だれからもしてもらいたくはないことね。あんたのあんなつまらない食事なんて、こっちでどれだけ望んでるか、ちゃんとみせたげるわ」
彼女はサッと立ちあがり、ジャケットをひっかけ、レストランからプイッと出ていってしまった。フィリップは、そのまま坐りつづけていた。もう動くまい、と腹をきめていたのだったが、十分すると、辻馬車にとび乗り、彼女のあとを追った。彼女は、ヴィクトリア駅にゆくのに、乗合馬車に乗るはず、そうなら、同じ時刻にそこに着くことになるだろう、と推測したからだった。プラットフォームに彼女の姿をみかけたが、気づかれぬようにし、同じ列車でハーン・ヒルまでいった。女が家に帰ろうとし、自分からはもうのがれられなくなるときまで、言葉をかけたくはなかった。
灯りが煌々《こうこう》とつき、人馬でさわがしい大通りから彼女がまがるとすぐ、彼は追いついていって、呼びかけた、
「ミルドレッド」
彼女はズンズンと歩いてゆき、ふりかえろうとも、返事をしようとも、しなかった。彼は彼女の名をくりかえして呼び、それから、彼女は足をとめて、サッと向きなおった。
「なんの用事? ヴィクトリア駅でウロチョロしてたのは、知ってることよ。どうして放っといてくれないの?」
「わるかった、わるかったよ。仲なおりしてくれない?」
「いやよ。あんたの癇癪と嫉妬《やきもち》には、もううんざりなの。あんたなんて好きじゃないわ、いまも、いままでも、これから先もね。これ以上、あんたとのおつき合い、まっぴらごめんよ」
彼女はさっさと歩いてゆき、それと歩調を合せるのに、彼は大あわてだった。
「ぼくのことは、ちっとも考えてくれないんだね」彼はいった。「だれにたいしても、べつにどうと気のないときなら、陽気に仲よくやるのは、とっても結構なことだよ。だけど、ぼくのように恋をしてる場合になると、それは、とってもつらいことになるんだ。どうか、ぼくをあわれに思っておくれ。愛してくれなくても、構わないよ。それは、結局、どうにもならないもんなんだからね。きみを愛させておいてくれたら、ぼくはそれで満足だよ」
彼女はズンズンと歩いてゆき、返事をしようとはせず、彼女の家に着くまでにもう数百ヤードしかないのを知って、フィリップはやきもきしていた。もう体面もなにもあったものではなかった。自分の愛情と悔いのとりとめない話をしどろもどろ語るのが、精いっぱいのとこだった。
「こんどだけ許してくれたら、これからは、きみに文句をいわせない行動をとるようにするよ。だれとでも好きな男と出かけてっていいよ。ほかにましな楽しみがないときだけ、いっしょにに来てくれたら、ぼくはそれで大よろこびだよ」
彼女は、また、足をとめた。いつも別れることになっている通りの角に来たからだった。
「さあ、帰ってちょうだい。家までついて来られたりしたら、たまらないわ」
「許してくれるというまで、はなれないよ」
「もうこんなこと、胸がムカムカして、うんざりなのよ」
彼は、ちょっと、モジモジしていた。ここで彼女の心を動かすことをなにかいえると、本能的に感じとったからだった。そうした言葉を吐くのは、まったく、たまらなくいやなことだった。
「ひどいことだよ、ぼくには、我慢しなければならないことが、たくさんあるんだ。びっこがどんなもんか、きみにはわかってないんだ。もちろん、きみはぼくを好いてはいないよ。そんなこと、望んでもむりな話なんだからね」
「フィリップ、あたし、そんなつもりでいったんじゃなくってよ」いきなり声にあわれみの情をあらわして、彼女はサッと答えた。「それが嘘なこと、わかってることね」
こうなると、彼のほうはもう芝居がかってきて、声はかすれ、低くなった。
「ああ、それは、もう、感じてたよ」
彼女は、彼の手をとり、彼をジッとながめ、目が涙でいっぱいになった。
「約束してもいいわ、そんなことでどうということは、絶対になかったことよ。最初の一日か二日したら、もうそんなこと、考えてもいなかったわ」
彼のほうでは、悲劇的に、むっつり陰気にだまりつづけていた。自分が悲痛な悲しみに打たれている、と相手に思わせたかったからだった。
「いいこと、あたし、あんたをとっても好きよ、フィリップ。ただ、ときどき、あんた、とてもたまらなくうるさくなってくるだけなの。さあ、仲なおりをしましょう」
彼女は唇を彼の唇におしあて、彼のほうでは、ホッと安堵《あんど》の吐息《といき》をもらして、彼女にキスをした。
「さあ、これでもとどおり幸福になったこと?」彼女はたずねた。
「ああ、とってもね」
彼女は、おやすみ、をいって、さっさと急いでいってしまった。つぎの日、服につける襟《えり》どめのついた小さな時計を、彼はもっていってやったが、これは、彼女がとてもほしがっているものだった。
だが、それから三、四日して、茶を運んできたとき、ミルドレッドはいった、
「こないだの晩約束してくれたこと、忘れてないことね、どう? それを守ってくれることね、どう?」
「ああ、守るよ」
彼女のいっていることは、彼にはっきりとわかり、彼女のいうつぎの言葉には覚悟ができていた。
「こないだ話したあの紳士と、今晩、遊びにいくつもりよ」
「わかったよ。大いに楽しんだらいいね」
「いいでしょ、どう?」
いま、彼はしっかりと自分をおさえていた。
「べつにうれしくはないよ」彼はニッコリした、「だが、できるだけ感じのわるい態度はみせまいとしてるのさ」
彼女はこの外出にもうワクワク、自分からそのことをしゃべりだした。彼女がこんな態度をとるのは、自分を苦しめるためなのか、それとも、ただ冷淡なためなのか、とフィリップは考えていた。彼女からむごいあつかいを受けても、無知を考えて、それを大目にみることにしていた。自分を傷つけても、それに気がつく頭がないのだ。
「想像力もユーモア感もない女を相手に恋をするなんて、あまりゾッとしたことではないな」女の話を聞きながら、彼は考えた。
だが、こうした点で欠けているところがあればこそ、彼女を許せるわけだった。この点をつかんでいなかったら、彼女から受ける苦痛を絶対に許せなくなるだろう。
「ティヴォリ(ストランド街にあった演芸場)に席をとってくれたのよ」彼女はいった。「好きなとこを選んでいいっていわれたんで、そこにしたの。お食事は、カフェ・ロイアルでするのよ。その人の話じゃ、ロンドン切っての高いお店なんですって」
「ふん、れっきとした正真正銘の紳士ってわけか」フィリップは考えたが、歯を食いしばって、ひと言もいうまいとがんばった。
フィリップは、ティヴォリにゆき、つれの男といっしょにいるミルドレッドの姿をながめたが、その男は、のっぺりとした顔の青年、髪をテカテカさせ、いかにもセールスマンらしいキリッとした風采の男、ふたりは一等席の二列目に坐りこんでいた。ミルドレッドは鵞鳥《がちょう》の羽根のついたつばひろの帽子をかぶり、それがまた、とてもよく似合っていた。男の話をジッと聞いていたが、フィリップの知っている例の静かな微笑を浮べていた。表情の活気はおよそない女で、ワッと笑わせるのには露骨な道化《どうけ》が必要だったが、おもしろがり、楽しんでいるのは、たしかだった。ケバケバした陽気な相手の男が彼女にはピタリと似合いのもの、とにがにがしい思いを味わいながら、彼は考えた。頭の動きのない女だけに、ワイワイとさわがしい男が好きになるのだろう。フィリップは議論を大いに好んでいたが、世間話ときたら、もうからっきしだめだった。一部の友人たち、たとえばローソンなどが達者にやっている気楽なおどけ話には、ただ舌を巻くばかり、この劣等感で、彼は人前ではにかみ、ぎごちなくふるまっていた。彼が興味をもっているものは、ミルドレッドにはうんざりするものだった。男が蹴球や競馬の話をすると、彼女はよろこぶのだったが、彼には、そのどちらも縁のないものだった。笑いをひきおこすきっかけになる言葉が、彼にはわからなかった。
つまり、フィリップの盲目的崇拝物は、いつも、印刷物だったが、いま、もっとおもしろい人物になろうとばかり、彼はせっせと「スポーティング・タイムズ」(一八六五年に創刊されたスポーツと演劇の週刊誌)を読んでいた。
(下巻につづく)