目次
月と六ペンス
解説(中野好夫)
月と六ペンス
はじめてチャールズ・ストリックランドを知ったとき、僕《ぼく》は、正直に言って、彼が常人と異なった人間だなどという印象は、少しも受けなかった。だが、今日では彼の偉大さを否定する人間は、おそらくいまい。僕は、時を得た政治家や、成功した軍人の偉大さを言っているのではない。それらは結局のところ、彼らの人間そのものよりも、彼らが占める地位に伴う偉さであるにすぎない。ひとたび事情がちがえば、たちまち平々凡々たるものになってしまう。たとえば、あまりにもしばしば見られる実例だが、辞任した首相は、もはやもったいぶった一介の雄弁家にすぎなかったり、軍隊から離れた将軍は、単に商都の一好々《こうこう》爺《や》にすぎなかったりする。そこへいくと、チャールズ・ストリックランドの偉大さは本物だった。諸君は、あるいは彼の芸術を好まないかもしれないが、全然無関心であることは、ほとんど不可能であろう。諸君の魂を、彼はゆさぶり、そして掴《つか》んでしまうのだ。彼が嘲笑《ちょうしょう》の的であった時代は、もはや過ぎ去った。そして今では彼を弁護したり、賞賛したりすることは、奇矯《ききょう》でもなければ、つむじ曲りでもない。彼の幾多の欠点は、むしろ彼の長所を引き立てる必要条件として宥《ゆる》されている。芸術家としての彼の位置に異論をさしはさむことは、むろん今でも可能であるし、それに賛美者の阿諛《あゆ》というものが、これまた誹《ひ》謗者《ぼうしゃ》の攻撃に負けない気《き》紛《まぐ》れさ加減なのだ。だが、ただ一つ、疑うことのできないことは、彼が天才であったという事実だ。私見をいえば、芸術において最も興味深いものは、結局のところ芸術家その人の個性だと思う。そして人間さえ特異、独自なものであれば、その他の欠点は、すべて喜んで宥すつもりだ。おそらくベラスケスは、エル・グレコよりも傑《すぐ》れた画家であったろう。しかし彼に対する賞賛は、すでに陳腐な月並みに堕し去っている。それに引きかえ、この官能的で、そして悲劇的なクレタ島人は、あたかも立てる犠牲《いけにえ》のように、彼の魂の神秘を、そのままに示している。画家といわず、詩人といわず、音楽家といわず、すべて芸術家というものは、その崇高な、あるいは美しい装飾によって、審美感を満足させてくれる。が、それはまたあの性的本能とも相通じるものがあって、一種の原始性ともいうべきものを帯びている。いわば同時に、彼自身という、より大きな贈り物を、われわれの眼《め》の前に展《ひろ》げて見せてくれるのだ。芸術家の秘密を追求することは、なにか探偵《たんてい》小説に似た魅力をさえ感じさせる。宇宙の秘密と同じように、いわば解決の与えられない、それは一つの謎《なぞ》なのだ。ストリックランドの描いた、ほんのつまらない一枚の習作でさえが、彼の特異な、苦悩に充《み》ちた、複雑きわまる個性を髣髴《ほうふつ》させるのであり、そしてまたそれだからこそ、たとえ彼の絵を好まない人々であっても、彼の人間に対しては無関心でいられなくなり、彼の生活、性格に関して、ひどく好奇心に溢《あふ》れた興味をそそられてきたのである。
ストリックランドの死後四年目だったが、モーリス・ユレが、『メルキュール・ド・フランス』に一文を寄せた。そしてはからずもこの一文が、この無名画家を忘却から救ったばかりか、さらにその後幾人かの人たちによって、あるいは追従《ついしょう》的、あるいは批判的と、内容の差こそあれ、とにかくそのまま継承されることになった、あの激しいストリックランド熱の口火を切ったのであった。長い間フランスにおいて、ユレほど批評家として不動の権威を維持したものはあるまい。したがって彼の主張に対して無関心であることは不可能であった。なるほどそれは、多少奇抜に聞えたかもしれない。しかしその後の判断は、彼の評価を裏書きするものばかりであり、今日ではチャールズ・ストリックランドの名声は、全く彼によって礎石を置かれた方向に向って、確立されていると言ってよい。ストリックランドの名声の高まりは、美術史上においても最もロマンティックなエピソードの一つである。だが、多少とも人間ストリックランドに関係あるもの以外、僕は、ここで彼の作品について語るつもりはない。いったい僕は、素人《しろうと》などに絵がわかるものか、黙って小切手帳を出すこと、それだけが彼らの鑑賞能力を示す最上の方法なのだ、という一部画家の増上慢的見解に対しては、とうてい賛成することができないのである。それらは結局芸術の中に、たとえばただ技巧家だけが理解できるというような、そうした技巧の半面しか見ない、奇怪きわまる謬見《びゅうけん》にすぎない。芸術とは情緒の表現であり、情緒とは、すべての人間に通じる言葉を語るものである。もちろん僕だとて、技巧に関する実際的知識のない批評家に、作品の真の価値を云々《うんぬん》する資格などないことは認めるし、おまけに僕の絵を知らないことときたら、はなはだしい。だが、幸いに僕は、その危険だけは冒さないですむようだ。というのは、彼の作品そのものについては、すでにすぐれた画家であり、同時にりっぱな文筆家でもあるエドワード・レガット君が、その小著――それは不幸にしてわがイギリスが、フランスのそれに比して、遺憾ながら遜色を認めなければならないスタイルという点においてもまた、実に美しい好著であるが――その中で、もはや余すところなく論じ尽しているからである。
モーリス・ユレは、その有名なストリックランド論の中で、彼の生涯《しょうがい》を略述しているが、それは、読者の好奇心をそそるように、いかにも巧みに綴《つづ》られたものであった。むろん彼の真の目的は、全く純粋な芸術愛からして、この最大級に独創的な天才に対する世上識者の注意を喚起することにあった。だが、一面彼の鋭いジャーナリスト的感覚は、そこでなにか「人間的興味」に訴えるほうが、はるかに有効であることを、どうして見逃すはずがなかった。果してかつてストリックランドと個人的接触をもったことのある連中、たとえばロンドン時代の彼を知っている作家たち、モンマルトルのキャフェで彼と会ったことのある画家どもは、今までは単に珍しくもない、またしても敗残画家の一人だくらいに考えていた人間が、正真正銘の天才であり、しかも自分たちと一緒に肩を擦り合せていたのだとわかると、いまさらのように驚き呆《あき》れると同時に、フランスやアメリカの雑誌類には、たちまち彼に関する寄稿が――あるものは回想を、あるものは鑑賞論を、といった工《ぐ》合《あい》に、陸続として現われはじめ、いやがうえにもストリックランドの評判を高めるとともに、無性に世の好奇心というやつをかき立てた。とにかくうれしい話だった。あのワイブレヒト・ロトルツのごときは、その大著の中で、実に丹念にも、驚くべき量の典拠文献を列挙しているのだ。
人間には、いわば神話好きとでもいうような機能が、生れつきにあるらしい。たとえば、なにか常人ばなれのした人間でも現われると、たちまちこの機能は、彼の生涯の中の、あるいは異常な、あるいは神秘的な、出来事をとらえてきて、すばやく伝説をつくり上げ、今度はそのまた伝説に対して、すっかり狂信的な信仰を捧《ささ》げつくすのだ。それは実生活の平凡さに対する、ロマンスの抗議だともいえる。果てはその伝説のエピソードが、一つ一つ、あたかも主人公の名を不朽に伝える、もっとも確実な旅券のようなものになってしまう。皮肉な思想家は、微笑を浮べて言うであろう、あのサー・ウォルター・ローリーは、彼が未知の国々に英語の地名をのこしたことよりも、むしろただ処女女王エリザベスの玉歩の下に、その上《うわ》衣《ぎ》を敷いたという一事によって、はるかに確実に、人類の記憶の中にその名をとどめている、と。チャールズ・ストリックランドの一生は、完全に無名の一生だった。味方をつくるよりも、敵をつくった。してみると、彼についてなにか書いた連中が、さだめしその貧寒な回想と、奔放な空想によって水増ししたろうことは、少しも不思議でないし、また彼に関する知識が、乏しければ乏しいだけに、世のロマンティックな文士諸君にとっては、まさに絶好の機会を提供するに足るものであったことは言うまでもない。まこと彼の生涯には、実に奇怪な事実がおびただしいし、性格にはなにか異常なものがある。さらにその運命にいたっては、少なからず悲惨なものさえあった。そしていつのまにか、それは歴史家でさえも、もし賢明ならばむしろ攻撃の火《ひ》蓋《ぶた》をためらうような、整然たる一つの伝説ができ上ってしまったのである。
そしてロバート・ストリックランド師こそは、まさしくその賢明な歴史家でなかったのだ。彼は、彼の父親の晩年に関し、「世上流《る》布《ふ》されて、幾多現存者に多大の迷惑を及ぼしているある種の誤解を除くため」と称して、チャールズ・ストリックランドの伝記を書いた。なるほど彼の生涯に関して、世上一般に信じられている話の中には、いわゆる良家の人々の眉《まゆ》をひそめさせるようなものが、多いことは事実だ。僕自身は、かなりの興味をもって、この伝記を読んだが、果して結果は、まことに無味乾燥、読むに堪えないものであることを知って、大いに喜んだのである。なるほどストリックランド師は、父とし、夫として、やさしくて、勤勉で、そしてまことに道徳的な、あっぱれりっぱな父の像を描き上げている。そもそも近ごろの聖職者は、いわゆるあの原典解釈学というやつを修めるだけあって、なんでも物事を強引に解釈づけることだけは、まことにどうもお手のものらしい。現にこのストリックランド師なども、世の孝行息子として、父の思い出にとって不都合なような生前数々の事実は、のこらずなんとか「解釈」をつけている見事な手ぎわ、それは、将来必ずや彼のために、国教会内枢要《すうよう》の椅子《いす》を約束するものであろう。もうすでに僕は、聖職者用ゲートルも厳《いか》めしく、その逞《たくま》しい腓《ふくらはぎ》を固めている彼の姿が、眼に見えるような気がする。いったいこの書物、なるほどあっぱれりっぱな仕事ではあろうが、同時に一つの冒険でもある。というのは、そもそもストリックランド熱の高まりそのものが、おそらくは多分に、この世上流布版による伝説に負うているからである。すなわち、彼の絵に魅せられた連中の中には、彼という人間に対する嫌《けん》悪《お》、また彼の死に対する憐憫《れんびん》といったものによって、かえって惹《ひ》かれてきたものが少なくないからである。果して親思いの真情から出た息子の努力は、かえって父への傾倒者たちの熱に、冷水をかけるような奇妙な結果になった。すなわち彼の傑作の一つ『サマリアの女』が、あたかもこのストリックランド師の伝記出版に伴う批判論議のかしましかった後まもなく、画商クリスティの売立てに出たわけだが、そのときの落札値が、同じ作品がわずか九カ月前、ある有名な蒐集家《しゅうしゅうか》によって買い取られたときよりも――つまりこの蒐集家が突然死んで、それでふたたび売立てに出たわけだが――実に二百三十五ポンドも安値だったという事実も、決して偶然ではなかったのだ。幸いに人類のもつ驚くべき神話創造機能というやつが、とにかく平凡嫌《ぎら》いな人間の好奇心に対して、かりにも水をさすような話など、一も二もなく抹殺《まっさつ》してしまってくれたからよかったものの、そうでもなければ、おそらくチャールズ・ストリックランドの独《オリ》創性《ジナリティ》、創造力をもってしてさえも、ちょっとこの頽勢《たいせい》を盛り返すことはできなかったであろう。だが、幸いにまもなくワイブレヒト・ロトルツ博士の労作が、あらゆる芸術愛好者たちの心配に対して、最後的な安心を与えてくれたのであった。
ワイブレヒト・ロトルツ博士は、あの人間性とは考えうるかぎりの醜悪なもの、いや、さらにそれ以上に何層倍も邪悪なものと考える一派の歴史家の一人である。そして事実、これら歴史家の書くもののほうが、そうでない、たとえば小説なら、主要人物といえば、得々として、まるで家庭道徳の模範生みたいにしか描くことを知らない連中の作品よりも、まず間違いなくおもしろいのだ。僕だけで言っても、アントニーとクレオパトラとの間には、ただ経済的利害関係があっただけ、そのほかにはなにもないなどということは、あまり考えたくないし、またティベリウス皇帝が、まるでわがジョージ五世陛下のように、一点非の打ちどころない道徳的君主だったなどということは、現在あるよりもよほどたくさんの新証拠資料でも出ないかぎり(出なくて幸いだが)、容易に承服できないであろう。ワイブレヒト・ロトルツ博士は、実にこうした立場に立って、上述ストリックランド師の無邪気な伝記を、徹底的にやっつけているのであり、結果は、むしろかえってこの不幸な牧師に対して、ある種の同情をさえ禁じえないほどであった。世間体を憚《はばか》って口をつぐめば、偽善の極印を押してやっつけられるし、逆に饒舌《じょうぜつ》は、嘘《うそ》八百ということで簡単に一蹴《いっしゅう》される。黙れば黙るで、不信、裏切り呼ばわりをされる始末。文筆家としてこそ非難に値すれ、子としてはむしろ当然であるべきこれら微罪のおかげで、しまいには英国民全体までが、その偽君子ぶり、空世辞、気取り、欺《ぎ》瞞《まん》、狡《こう》猾《かつ》、さらには料理のまずさまで挙げて、槍玉《やりだま》に上げられているのだ。私見としては、ストリックランド師が、その両親間にあったと信じられる、ある種の「おもしろくない関係」、その話までを論駁《ろんばく》しようとしたのは、いささか性急にすぎたのではなかったかと思う。彼によると、チャールズ・ストリックランドは、パリから書いたある手紙の中で、妻のことを「りっぱな女《エキセレント・ウーマン》」と書いているという。しかし他方、ワイブレヒト・ロトルツ博士が、原物写真にして載せているのを見ると、問題の個《か》所《しょ》は、実はこうであるらしいのだ。「女房《にょうぼう》なんぞまっぴら、糞《くそ》食らえだ。いやはや、りっぱな女だよ。いっそ悪魔にでも食われちまえ」思うに、かつてあの全盛時代のローマ教会といえども、いくら自分に都合の悪い証拠資料だからといって、まさかこんな取扱い方はしなかったろうということだ。
ワイブレヒト・ロトルツ博士は、熱心なストリックランド賛美者であった。それだけに、彼のために下手な体裁をつくるなどというおそれは、全然ない。一見なんの下心もなく見える行為の裏に、しばしば唾棄《だき》すべき動機の潜みうる事実を、彼の鋭い眼は決して見逃さなかった。彼は美術研究家であるとともに、精神病理学者でもあった。意識下の世界すら、ほとんど彼から秘密を守ることはできなかった。どのような神秘家といえども、彼ほど日常茶飯事の中に、深い意味を読みとったものはいない。神秘家の見るものは、言葉を超えた神聖なものであるが、反対に精神病理学者の見るものは、言葉を超えた醜悪さである。この博学多識な著者が、その主人公の名声を傷つけるような事柄《ことがら》まで、あますところなく摘発する執拗《しつよう》さには、むしろ一種奇妙な魅力をさえ感じさせる。なにか新しい残忍さ、卑劣さの実例を見《み》出《いだ》すたびに、主人公に対する彼の興味は、いよいよ増すらしく、また、なにかすでに忘れられているエピソードを掘り出して、それでロバート・ストリックランド師の孝心を、一撃粉砕し去るときの彼などは、まるであの異端焚刑《ふんけい》を前に会心の笑みをもらす宗教審問官のような、法悦感に酔っているかのようであった。実際彼の丹念さには、驚くべきものがあった。どのような瑣《さ》末《まつ》事《じ》も、彼の眼を逃れることは不可能であり、たとえば、もしチャールズ・ストリックランドが、洗濯《せんたく》屋《や》の請求書一枚でも、未払いで残していたとすれば、必ずそれは詳細に記載されるであろうし、またたとえ半クラウンの借金にしても、もし彼が返済をしなかったとすれば、その交渉経緯は、おそらく細大もらさず報告されることであろう。
すでにこれだけ語られているチャールズ・ストリックランドのことを、いまさらまた僕《ぼく》が書くなど、無用の業に思えるかもしれない。画家の記念碑は、あくまでも作品だ。なるほど僕は、ほとんど誰《だれ》よりもよく彼を知っていた。はじめて彼を知ったのは、彼がまだ画家にならぬ前だったし、パリにおけるあのひどい貧乏時代にも、たびたび彼と会っている。だが、もし大戦という運命のさいころが、僕をタヒチ島へ送るなどということをしなかったならば、彼に関する回想を筆にすることもまたなかったろう。あまりにも有名な話だが、彼はこのタヒチで晩年を送った。そして僕もそこで、生前彼と親しかったという人々に、幾人か会った。つまり僕は、彼の悲劇的生涯《しょうがい》の中でも、もっとも知られていないこのタヒチ時代に関して、ある程度事実を明らかにすることのできる人間というわけ。もしストリックランドの偉大さを信ずることが誤りでないとすれば、生前親しく彼を知っていた人間の回想が、どうしてむだであるはずがない。たとえば、もし僕がストリックランドを知る程度に、あのエル・グレコを親しく知っていた人間がいるとすれば、その回想談を引き出すためには、たとえ千万金といえども、惜しいとは思わないだろうではないか。
だが、こんなことを言って、僕は言い逃れの口実を求めているのではない。誰だったか、名前は忘れたが、われわれ人間は、それぞれ自分の魂のために、毎日二つの苦行を勤めるがよい、と言った男がいる。賢明な男だ。僕も実は、年来小心翼々としてこの教訓を遵守《じゅんしゅ》してきている。つまり一つは、毎朝起きること、そして今一つは、夜、床に就くことである。だが、そもそも僕の性格の中には、一脈の禁欲的傾向とでもいうものがあるらしい。だからこそ僕は、毎週わざわざ、もっとひどい苦行を、われとわが肉体に対して課している。というのは、僕は、『タイムズ』紙の週刊文芸付録というやつを、必ず読むことにしているが、あの次々と書かれるおびただしい数の新刊書、しかもそれらが出るとき、著者たちのかける楽しい希望と、やがてそれらを待ち受けている運命とを併せ考えてみることは、まことためになる、よい訓練と言わねばならぬ。第一、一冊の本が出て、どれだけそれが大衆の中に入ってゆく成算がある? しかも、たまたまかりに当ったとしても、所詮《しょせん》それは一シーズンの当りにすぎない。たとえばふり《・・》の読者一人に、せいぜい数時間の息抜きか、でなければ退屈な旅行の時間つぶしを提供するために、どんなに作者は骨身を削り、苦い経験を嘗《な》め、どんなに頭痛を我慢したことか、ああ、それは神のみぞ知るだ。いわゆる新刊評なるものから判断すると、これら書物の大多数は、いずれも労作の良書であるらしく、できるまでにはずいぶんと苦心が重ねられている。あるものなどは、実に一生にわたる心血が注がれている、というのさえあるらしい。結局僕の知る教訓は、これだ、文筆家が与えられる酬《むく》いとは、ただものを書くという喜びと、そして胸にあるしこりを吐き出してしまう解放感と、ただそれだけだということであり、ほかはいっさい無関心、毀誉《きよ》褒《ほう》貶《へん》、当り不当りなどはいっさい気にするな、ということである。
ところであの大戦というやつが来て、いわゆる新しい態度なるものが生れた。青年たちは、われわれ旧時代人の知らなかった神々を見《み》出《いだ》した。そして次の世代が、どんな方向に動いてゆくだろうかは、もうすでにわかるような気がする。力に目ざめて、いきり立つ若い世代は、もはや一々扉《とびら》をノックすることなどしてはいない。いきなりとび込んで来ると、どっかとわれわれの席に坐《すわ》ってしまったのだ。あたりは、もう彼らの叫喚で鳴り響いている。なるほど先輩たちにも、中には彼ら青年たちの道化踊りを真似《まね》ながら、強《し》いて自分たちの時代はまだ終っていないぞと、われとわが心に言い聞かせようとしているものもいる。そして最も元気な連中たちと一緒になって叫んでいるのだが、その雄《お》叫《たけ》びのなんと空虚なことだ。あたかもそれは、脂粉の粧《よそお》いに強いて華やかさを装いながら、空《むな》しく消えた青春の幻影を、ふたたび形だけでも取り戻《もど》そうという、浮かれ女《め》のはかなさにも似ている。もっと利口なものは、静かにさりげなく己《おの》が道を進んでゆく。冷やかなその微笑の中には、すべてを宥《ゆる》す冷嘲《れいちょう》さえ浮んでいるのだ。考えてみれば、彼ら自身もまた、かつては同じ喧噪《けんそう》さと、同じ侮《ぶ》蔑《べつ》とをもって、やはり自己飽満の古い世代を踏みにじってきたのである。そして今のこの勇ましい炬火《たいまつ》持ちどももまた、やがてはその席を譲らなければならないにきまっている。これでおしまいというものはない。かのニネヴェが、空高くその栄光を築き上げたときには、すでに新しい福音は古くなっていた。それを口にするものにとってこそ、さも耳新しげに聞えるかもしれない女への甘口も、考えてみると、幾百度となく、ほとんどアクセントすらもそのままに、繰返されてきたのである。右に、左に、時の振子は動いてやまぬ。同じ円周を、たえず新しく旅しているにすぎないのだ。
人は、ときに思わぬ長生きをすることがある、そして彼がちゃんと自分の席をもっていた時代から、見知らぬ他人の時代にまで、生き残ることがあるのだが、そんなときにこそ、彼は、人間喜劇のうちでも最も奇妙な情景の一つを見出すことができるはずだ。たとえば今日、ジョージ・クラブのことを思い出すものがあるだろうか? 彼も生前は有名な詩人だった。そして世界は、彼の天才に対して、今日の複雑になった生活の中ではもはや考えられないことだが、それほどに異口同音の承認を与えたものであった。彼は、アレグザンダー・ポープ一派から、その詩法を学び、押《ライム》韻対連《ド・カブレット》の教訓的物語詩を書きつづけた。だが、まもなくフランス革命になり、ナポレオン戦争がきた。詩人たちは新しい歌を歌いはじめた。だが、クラブは、相変らず押韻対連の教訓的物語詩を書きつづけた。おそらく彼といえども、華やかな人気を騒がれている彼ら青年詩人たちの作品を、読んだことはあるにちがいない。だが、きっとくだらんと思ったのであろう。事実、それらの多くは、くだらん作品だった。だが、キーツ、ワーズワスの幾編かの頌詩《オード》、コールリッジの一、二編、シェリーの、これはもっと多くて数編だが、それらは、とにかく前人未到の広大な精神の新領域を発見したものといってよい。それに比べると、クラブのごときは、もはや死肉に近い老いぼれだった。しかも彼は、頑《がん》としてあくまで押韻対連の教訓的物語詩を書きつづけたのである。僕自身もまた、多少は若い世代の書くものを、漫然とながら、のぞいてみたことはある。なるほど彼らの中には、すでにキーツ以上の情熱の詩人、シェリー以上の霊妙な詩人が現われていて、後世長く愛唱にたえるような佳品すら、幾編か発表しているのかもしれぬ。そこまではわからない。たしかに僕は、彼らの洗練に驚嘆し――彼らは、今の若さをもって、すでにあまりにも完成しており、いまさら有望などというのがおかしいくらいである――その見事なスタイルにも瞠目《どうもく》する。だが、彼らの雄弁博識にもかかわらず(事実彼らの語彙《ごい》の豊富さは、なにか彼らは、揺籃《ゆりかご》の中からしてすでに、ロジェイの『語彙《シソ》宝鑑《ーラス》』をひねくりまわしていたのではないか、とさえ疑わせるほどだ)、僕には結局意味のない言葉にすぎぬ。僕に言わせれば、彼らは、あまりにも物を知りすぎ、あまりにも露骨に感じすぎる。いきなり背中をポンとたたいてくる心安立て、さては堪《こら》え性もなく僕の胸に身を投げかけてくるような感動、そうしたものが、僕はたまらないのだ。彼らの情熱も、僕にはなにか貧血症めいて見え、その夢もまたいささか退屈に思える。要するに、好きでないのだ。いわば僕は婚期過ぎの女。相変らず、押韻対連の教訓的物語詩を書きつづけるつもりだが、その目的は、一に僕自身の楽しみのために書くだけのこと、かりにもほかに色気など出そうものなら、それこそ馬鹿《ばか》の骨頂というものであろう。
だが、こんなことは、すべて余談である。
処女作を書いたころの僕《ぼく》は、まだずいぶんと若かった。幸い、この作が注目を惹《ひ》いたもので、いろんな人たちから交際を求められた。
はにかみ屋のくせに、妙に好奇心の強かった僕が、はじめて紹介されたロンドン文壇での数々の思い出、今それをとりとめもなく回想してみると、なにか一抹《いちまつ》の侘《わび》しさをさえ感じる。僕の文壇出入りも、今では遠い昔のことになってしまった。近ごろの文壇気質《かたぎ》を描いたといわれる幾つかの小説の、もしその叙述が正確だとするならば、ずいぶんと文壇も変った。中心からしてちがう。今ではチェルシーやブルームズベリが、往年のハムステッド、ノティング・ヒル・ゲイト、ハイストリート、ケンジントンなどに取って代っている。当時は四十以下というのが、たいへんな名誉になった。ところが、今では二十五以上といえば、もうおかしいくらい。考えてみると、あの頃《ころ》の僕たちは、感情を露《あら》わにするのに多少気後れがして、あまり露骨な、仰山ぶった物言いなどは笑われそうで、ちょっと口にできなかったように思う。なにも当時のお上品ぶった文人《ボヘミアン》たちに、特に貞操観念が発達していたとは思わないが、といって、今日見るような、こんなひどい露骨な乱脈関係は、記憶していない。われわれの浮《うわ》気《き》、気《き》紛《まぐ》れを、少なくともふしだらにならぬだけの沈黙というカーテンで隠すこと、それを別に偽善とは考えなかった。なんでもかでも、ことさら露悪的表現をするなどという趣味はなかった。女の地位も、まだ十分に認められるまでにはいたっていなかった。
僕は、ヴィクトリア駅の近くに住んでいたが、長い道をバスに揺られて、よく人待遇《もてなし》のよい文士たちの家庭を訪ねて行ったのを思い出す。気後れがして、何度も往来を行ったり来たりしたあとで、やっと勇気を奮い起してベルを押す。やがて不安で胸も塞《ふさ》がりそうな思いをしながら、いっぱいの人いきれで、むっとするような部屋へ通される。次々と、いわゆる知名の士に紹介されるのだが、僕の作に対して彼らの言ってくれる親切な言葉が、いよいよ僕をたまらない思いにする。彼らのほうでは、なにか僕が気の利《き》いた応答でもするのを期待しているらしいのだが、あいにくそんな言葉の浮んでくるのは、きっとパーティが終ってからに決っている。だから、つい照れ隠しに、よく僕は、紅茶や、無細工に切ったバター・トーストなどを、一座の人たちにまわして歩いたりしたものだった。実際、誰《だれ》にもかまってもらいたくなかった。むしろゆっくりと、これら知名士たちを観察し、彼らの口から出る気の利いた言葉に、じっと耳傾けていたかったのだ。
僕の記憶の中には、まるで甲冑《かっちゅう》のように服を着込み、大きな鼻と貪婪《どんらん》そうな眼《め》付《つき》をした、こちこちの大柄《おおがら》女どもや、あるいはやさしい猫《ねこ》撫《な》で声で、そのくせ鋭い、意地悪そうな眼付をした、小作りで、二十《はつ》日鼠《かねずみ》のような老嬢たちの姿が浮んでくる。バター・トーストといえば、必ず手袋のままで取って食べる彼女らの慎重さには、いつも飽かず眺《なが》め入ったものだが、同時に、誰も見るものがいないと見ると、平然とその指を椅子《いす》に擦《こす》りつけて拭《ふ》いている光景には、ただただ感嘆のほかなかった。家具調度類こそ災難だったろうが、おそらくこの家の女主人も、次に友達を訪問した場合には、ちゃんとそこの調度類に同じ仕返しをしたことであろう。流行の衣裳《いしょう》に憂《う》き身をやつしている女もいた。しかも彼女らは、きっと言うのだ。なにも小説をお書きになったからといって、わざわざ野暮な身装《みなり》をなさらなければならないなんて法はないでしょう、訳がわからないわ、すらっとした、いい身体《からだ》つきをしていらっしゃるのなら、せいぜいそれを利用なさるのが、本当だと思うわ、可愛《かわい》い足にスマートな靴《くつ》をお履きになったからって、まさかそのために、編集者があなたの「お作」を断わるなんて、そんなこと、あるわけのもんじゃないわ、と。だが、また一方には、流行の衣裳などくだらないという女たちもいて、これはまたことさらに「変り織」や、妙に野性的な宝石類などを着けている。さすがに男には、そうしたとっぴな身装をするのは、まずいなかった。むしろできるだけ文士らしくなく見せようとしていた。普通の社会人に見てもらいたかったのだ。事実またどこへ出しても、どこか商事会社の高級社員というくらいには、ちゃんとりっぱに通用したにちがいない。いつも、なにかちょっと疲れたような顔をしているのだ。それまで僕は、ついぞ作家などという人種は知らなかったし、それだけに、ひどく変った連中には思えたが、そのくせ、たえず妙に空々しい存在、僕とはなんの関係もない人たちのような気がして仕方がなかった。
今考えてみても、なるほど彼らの会話は、すばらしいものに思えた。仲間の作家たちの一人が、ひとたびそこにいなくなるやいなや、たちまち完膚なきまでにこき下ろしにかかる、その毒舌に至っては、ただもう驚嘆の念をもって傾聴するばかりだった。芸術家というものには、他の社会の人間の持たぬ、たしかに有利な点が一つある。つまり、友人たちが、単にその風采《ふうさい》や性格ばかりでなく、さらにその作品というものまで、嘲罵《ちょうば》の材料に提供してくれるからだ。それに僕などは、いつになったら、あんなにうまく当意即妙に、またとめどもなくぺらぺらしゃべれるようになるものか、それを思うと絶望であった。そのころは、まだ会話というものが、一つの技術《アート》として教育されていた時代だった。鍋《なべ》の下の柴《しば》を燃やす腕前よりは、気の利いた即妙の応酬《やりとり》のほうが、はるかに高く評価され、警句《エピグラム》もまた、鈍物がいっぱし才人らしく見せかけるための、単に機械的な道具とまでは堕落していなかったわけで、いわゆる教養人の閑談などには、とにかく精彩を添えていた。絢爛《けんらん》をきわめたそれらの会話も、今は一つとして憶《おぼ》えていないのが残念だが、一度《ひとたび》話題が、われわれの商売(われわれのやっている芸術というやつも、裏を返せば、りっぱに商売なのだ)にふれてきたときほど、いい気持で話のはずんだことはなかったように思う。たとえばある最新刊書について、一応その出来栄《できばえ》えが論じられたあとでは、決ってそれは何千部売れたか、著者はいくら前金をもらったか、また著者の儲《もう》けはどれほどになるだろう、等々といった話になる。しかもその次には、あれこれと出版社の噂《うわさ》、甲の社は気前がいいが、乙の社はけちだとか、あるいは印税の高い社と、なんでもとにかく「売ってくれる」社と、どちらへ就くのが得策か、等々という議論になるのだ。やれ、あそこは広告上手だが、こちらは下手。どこそこは近代的だが、どこそこは旧式だ。さらにはまた代理人の噂、そして彼らが取ってくれた契約のことから、編集者の品評、彼らに喜ばれそうな原稿の話、稿料は千語でいくら出すか、それも即金でか、そうでないか、等々といった話なのである。だが、僕にとっては、これらすべてが非常にロマンティックで、なにか秘密結社にでも加わっているみたいな、ひどく親近感を感じさせてくれるのだった。
その頃《ころ》、いちばん僕《ぼく》に親切にしてくれていたのは、ローズ・ウォータフォドだった。彼女は、男のような理知と、女らしい気《き》儘《まま》さとを合わせた女で、よく奇抜な小説を書いては、世間を面食らわせていた。僕は、この女の家で、ある日はじめてチャールズ・ストリックランドの妻に会った。ちょうどその日は、ミス・ウォータフォドがお茶の会を催して、彼女の小さな客間は、いつもよりも人が集まっていた。みんななにか話し合っている様子で、僕だけ一人、黙って坐《すわ》っているのが、妙に手《て》持《もち》無沙汰《ぶさた》だった。といって、それぞれ自分たちの話に夢中になっているらしいグループの中に割り込んでゆくには、あまりにも僕ははにかみ屋だった。だが、ミス・ウォータフォドは、全く如才のない女主人で、僕の困惑している様子を見てとると、すぐ寄って来て言った。
「ミセス・ストリックランドとお話しになるといいわ。この人、あんたの小説に夢中よ」
「何をする方なんです」僕は訊《き》いた。
僕は、自分の世間知らずをよく知っていた。だから、もしミセス・ストリックランドが有名な作家ででもあるのなら、まず確かめておいてから話しかけたほうがよかろうと思ったからだ。
返事の効果を大きくするつもりでもあろうか、ローズ・ウォータフォドは、妙に取りすまして眼《め》を伏せた。
「この方、ときどき午《ご》餐《さん》の会をなさるのよ。あんたも、少しばかり吹いて《・・・》みるといいわ。そうすれば、きっと招待があると思うの」
ローズ・ウォータフォドは、いわゆる皮肉《シニ》屋《ック》というやつだった。人生は小説を書くためにあるもの、そして世の中とは、ただその素材を提供するためにだけ存在するもの、とそんなふうに考えている女だった。だから、時々その中から、彼女の才能を理解してくれる人間だけを招待して、そこは相当に金も使って歓待するのである。むろんそれらの連中の馬鹿《ばか》げた大家崇拝熱などは、軽く笑って軽蔑《けいべつ》していたが、さすがに眼の前では、いかにも神妙らしく、閨秀《けいしゅう》人気作家という役割を、見事に演じおおせていた。
僕は、ミセス・ストリックランドのところへ連れて行かれ、十分間ばかりも一緒に話したろうか。美しい声の持主という以外に、別に注意を惹《ひ》く女ではなかった。彼女は、ウェストミンスターの、まだその頃建築中であった大教会《カシードラル》を見下ろす、とあるフラットを借りて住んでいたが、それなら僕も、つい近所同士だということで、なにかお互い親しいものを感じ合った。テムズ河とセント・ジェイムズ公園に挟《はさ》まれた一画に住むものは、すべてあの 陸海軍百貨店《アーミー・エンド・ネイヴィ・ストアズ》 によって、いわば一つに結ばれているといってよい。ミセス・ストリックランドは、僕の所番地を聞いていたが、果して数日すると、午餐会への招待状がとどいた。
招待の約束など、ほとんどあるわけもなかったので、僕は、喜んで招待に応じた。その日は、あまり早すぎてもとの懸《け》念《ねん》から、大教会の周囲を三度もぐるぐるまわってから行ったので、着いたときは、少しばかり遅れて、もう客は揃《そろ》っていた。ミス・ウォータフォド、それからミセス・ジェイ、リチャード・トワイニング、ジョージ・ロードというのが、全部の顔触れだったが、みんな文士だった。早春の、美しく晴れた日で、誰《だれ》もみんな上機嫌《じょうきげん》だった。話題は次から次へと、止《とど》まるところを知らなかった。ミス・ウォータフォドという女は、いつもサルビア色の服に一輪の水仙《すいせん》の花をさしてはパーティへ出かけたという少女時代の耽《たん》美《び》趣味と、一方には、なにかといえばハイヒールとパリ仕立の服《フロック》という、成長《おお》きくなってからの軽薄趣味と、いわばその中間に、妙に宙ぶらりんになっている女だったが、その日は、新調の帽子を被《かぶ》って、ひどくはしゃいでいた。僕は、われわれ共通の友人たちを、彼女がこの日ほど辛辣《しんらつ》にこき下ろしたのを聞いたことがない。機知とはがさつであることとでも心得ているらしいミセス・ジェイに至っては、わざわざ私語のような低声《こごえ》で、それこそ雪白のテーブルクロスでさえが、思わず真赤に頬《ほお》を染めそうな話を、臆面《おくめん》もなく話すのだった。リチャード・トワイニングは、奇妙な馬鹿話をしてはしゃぐし、ジョージ・ロードに至っては、俺《おれ》の才気はすでにほとんど定評、いまさら披《ひ》露《ろう》でもあるまいといわぬばかり、食べ物を入れるとき以外は、頑《がん》として口を開かないのだ。ミセス・ストリックランドは、口数こそあまり多くなかったが、しかし一座の話を偏《かたよ》らせないだけの快い才気は持ち合せていた。話が途切れると、彼女はきっと一言、実にうまい言葉を挿《はさ》んでは、ふたたび会話を進行させる。齢《とし》は三十七とのことだったが、背は高いほうだし、肥満というのではなくて、肉づきのよい女だった。美人ではないが、多分やさしい茶色の眼のせいであろう、人好きのする顔だった。肌《はだ》は、むしろ血色の悪いほう。黒みがちの髪の毛を、ひどく手の込んだ結い方にしていた。三人の女の中で、全然顔を作っていないのは彼女だけで、他《ほか》の女たちに比べると、いかにも清《せい》楚《そ》な自然さに見えた。
食堂も、その頃の好みからいえば、よい趣味だった。ひどく簡素で、白木の高い羽目板をめぐらし、緑の壁紙をはった上には、黒い瀟洒《しょうしゃ》な額縁に入ったウィスラーのエッチングが、幾枚もかかっていた。孔雀《くじゃく》の意匠を散らした緑のカーテンが、まっすぐに垂れ、樹間に戯《たわむ》れる白い兎《うさぎ》の群れを模様にした緑の絨毯《じゅうたん》は、いわゆるウィリアム・モリス趣味の影響を思わせた。炉棚《マントルピース》には、青いデルフト陶器の置物がおいてある。その頃のロンドンには、これとそっくりの装飾をした食堂が、きっと五百はあったろう。清楚で、雅致があって、それでいてひどく退屈なのだ。
帰りは、ミス・ウォータフォドと一緒だったが、晴れた空と、彼女の新しい帽子のせいだったろう、僕たちの足は、いつのまにかセント・ジェイムズ公園へと向いていた。
「とてもいい集まりじゃありませんか?」と、僕は言った。
「お料理のほうはどう? 感心して? 私、いつもあの人に言ってやるのよ、文士連中に来てもらいたいんなら、うんとご馳《ち》走《そう》するに限るって」
「そいつはよかったな」僕は答えた。「だが、なぜまた文士なぞ招《よ》びたいんでしょう?」
ミス・ウォータフォドは、ぴくりと肩をすくめた。
「おもしろいんですってさ。つまり、時勢に取り残されたくないのね。単純で、いいところがあるんだわ、あれで。お気の毒にさ、私たちみんな、どんなにかすばらしい人間みたいに思ってるのよ。とにかく私たちを午餐《おひる》に招ぶのがうれしいらしいの。私たちだって、別に損になるわけじゃないしね。私、あの人のそこんところが大好きなのよ」
今から考えてみれば、雲の上に聳《そび》えるハムステッドの峻峰《しゅんぽう》から、チェイン・ウォークのどん底的アトリエに至るまで、獲物を追うてやまない、いわゆる芸術家取巻連《ライオン・ハンターズ》の中でも、彼女などは、最も罪のない一人であったように思う。少女時代は田舎で静かに送ったが、ミューディ巡回文庫から届く小説本は、書物自身のロマンスと一緒に、ロンドンのロマンスをも伝えてきた。彼女は、本当に読書好きだった(この種の少女には珍しいことで、彼女たちの大多数は、小説よりも、それを書いた作者に、また絵よりも、それを描いた画家のほうに、はるかに興味をもつものなのだ)。そして空想の世界を創《つく》り上げては、その中で、日常の実際生活ではとうてい得られない、自由な生活を楽しんでいたのである。やがて直接文士たちを知るようになったときには、今まで脚光の向う側からばかり眺《なが》めていた舞台の上へ、いよいよ彼女自身が乗り出したようなものだった。彼女は、まるで芝居の中の人物でも見ているような気持で、彼らを見た。彼らを招待したり、また彼らをその城砦《じょうさい》深く訪問することによって、事実まるで彼女自身が、より大きな、より豊かな生活でも味わっているかのような気持がしたのだ。彼らが演じる人生という芝居の法則を、彼女は、彼らにとってこそ正当なものとして認めていたが、だからといって、彼女自身の行動をまで、その法則によって律しようとは、夢にも思わなかった。奇妙な彼らの服装と、とっぴな理論、逆説などと同じように、彼らの道徳的無軌道さは、なるほど彼女を喜ばせるおもしろい観《み》物《もの》ではあったろうが、かりにも彼女の信念をぐらつかせる、そんな力は少しもなかった。
「あの人のご主人というのはいるんですか?」と、僕は訊いてみた。
「そりゃ、いるわよ、あんた。市内《シティ》のほうでなにかやってるらしいのよ。たしか株式仲買人だったと思うわ。でも、そりゃひどく退屈な男なの」
「いいんですか、仲は?」
「それがとても熱々《あつあつ》なのよ。晩餐《デイナー》に招ばれりゃ、会えるわ。だけどあの人、晩餐にはあまり招ばないのよ。ご亭主《ていしゅ》さんてのが、ひどくむっつり屋でしょう。それに文学だの、美術だのには、てんで興味がないらしいの」
「どういうもんでしょうねえ、とかく佳人瓦《が》礫《れき》を抱いて嘆きありというのは?」
「だって、あんた、利口な男なら、りっぱな女なんかと結婚するはずないじゃないの?」
これには、ちょっととっさに応酬が浮ばなかったので、それでは子供はないのかと訊いてみた。
「ええ、男と女と一人ずつ。どちらも学校へ上ってるわ」
だが、これでこの問題も、一応出つくした形だったので、自然話題は、他に移っていった。
夏の間、僕《ぼく》は、たびたびミセス・ストリックランドに会った。ときどき彼女のフラットへ、快い、ささやかな午餐《おひる》に招《よ》ばれて行ったこともあれば、もっと固苦しいお茶の会に招ばれたこともある。僕らは非常に気が合った。僕もまだ若かったし、彼女としては、文学という荒海に船出する僕の処女航海に、いわば水先案内の役割を務めようという、その考えが気にいっていたのかもしれない。一方僕としても、ちょっとした心配ごとのある場合など、きっと親身に耳を傾けて、適切な相談相手になってくれる人がいるというのは、悪くなかった。ミセス・ストリックランドは、同情心の深い女だった。同情心というものは、たしかに快い能力ではあるが、持主によっては、意識的に乱用されがちなことがよくある。まるでその手ぎわが見せたくてたまらないとでもいうように、友達の不幸といえば、すぐにも飛びついていく、その意地汚なさというか、そこにはなにか病的なものさえある。まるでそれは、油《ゆ》井《せい》のように奔騰《ほんとう》して、ときにはほとほと相手を当惑させるほど、とめどなく注がれるのだ。世間には、同情屋の安売り涙でさんざんに濡《ぬ》れそぼち、いまさら僕の涙など出る幕もないほど、気の毒な目に遭っている人間さえいる。ミセス・ストリックランドもまた、まことに如才なくこの才能を利用する女だった。じっと黙って彼女の同情を受けながら、僕はよく、恩恵を施しているのはむしろ僕のほうだ、という気のしたことすらある。一度若気の一本気から、その話をローズ・ウォータフォドにしたことがあるが、すると、彼女は言うのだ。
「そりゃ、ミルクはおいしいに決ってるわよ、ことにブランデーでも一滴落して飲むんじゃあね。でも、牛の身になってごらんなさいよ、しぼってもらいたくてたまんないのよ。お乳の張るのって、ずいぶん苦しいもんよ」
ローズ・ウォータフォドは恐るべき毒舌屋だった。彼女ほど辛辣《しんらつ》なことが言える女もあるまいが、しかしまた一方、彼女ほどたまらなくうまい言葉の思いつける女もいなかった。
ミセス・ストリックランドには、今一つ僕の好きな点があった。それは、身のまわりを実に美しく処理していることだった。彼女のフラットは、花など飾って、いつも明るく、きちんと整っていた。客間の更紗《チンツ》なども、ずいぶん地味な図《ず》柄《がら》であるくせに、華やかで美しかった。渋い、小さな食堂でする食事も、快いものの一つだった。テーブルもいい趣味だし、二人の女中も、小綺《こぎ》麗《れい》で、感じのいい女だった。料理も悪くない。ミセス・ストリックランドが申し分のない主婦であることは、すぐにわかった。母親としても、きっといいお母さんなのだろう。客間には、子供たちの写真があった。息子――ロバートといった――は、ラグビー校に在学している十六歳の少年だった。運動服を着、クリケット帽を被《かぶ》った写真や、燕《えん》尾《び》服《ふく》に、立襟《たちえり》をした写真などがあった。母親の素直そうな前額《ひたい》と、美しい内省的な眼《め》とを、受けついでいた。純真で、健康で、いかにも癖のない少年らしかった。
「あんまり秀才ってほうじゃないようですけれど」ある日、僕が写真を見ていると、彼女が言った。「悪い子じゃないと思いますわ。とても性質のいいところがあるんですのよ」
娘のほうは十四だった。母親似の豊かな黒い髪が、房々と美しく肩に垂れ下り、彼女もまた同じ物柔らかな表情と、落着いた曇りのない眼をしていた。
「まるでお母さんそっくりですね、お二人とも」と、僕は言った。
「ええ、父親よりは、なんだか私のほうに似たようで」
「ところで、そのご主人に、なぜ紹介してくださらないんです?」
「お会いになりたくって?」
彼女は軽く笑った。実に可《か》愛《わい》い微笑だった。そして心持ち顔を赤くした。彼女ほどの年輩の女が、こうなんでもないことに含羞《はにかみ》を示すというのは、意外だった。だが、そうした純《ナイ》情《ヴテ》こそ、彼女の最も美しい魅力だったのかもしれぬ。
「あのう、主人《たく》は文学のほうは全然だめなんですの」彼女は言った。「全くの俗人なんですのよ」
別に貶《けな》しているわけではない。むしろ夫の一番の弱点を、彼女のほうからまず認めておいて、それによって、友人たちの誹《ひ》謗《ぼう》から夫を庇《かば》おうとでもいうような、深い愛情さえこもっていた。
「株式取引所に出てるのよ。まあ典型的なブローカーね。あなたなんぞ、退屈で退屈で堪《たま》らなくなっておしまいになるわ」
「じゃ、奥様、あなたは?」
「だって、私には旦《だん》那《な》様《さま》じゃありませんの。ええ、私とても愛してますわ」
まるで極《きま》り悪さでも隠すように、彼女は微笑した。こんな告白をしてしまって、僕からなにか馬鹿《ばか》にされはしないかと、そうした不安があったのであろう。事実、相手がローズ・ウォータフォドなら、たいていまず免《まぬか》れぬところだったろうからだ。彼女は、ちょっとためらった。が、急にやさしい眼付になったと思うと、
「自分でも、天才だなんて思ってやしないの。取引所でだって、ろくなお金儲《かねもう》けもようしないんですもの。でも、そりゃとても親切な、いい人よ」
「僕は大好きになれそうですね」
「じゃあ、いつか、内証《ないしょ》でそっと晩御飯にお招びするわ。でも、いいこと、覚悟してらっしゃらなくちゃだめよ。一晩中、どうにも退屈で往生したなんておっしゃっても、私、知らないことよ」
さて、いよいよチャールズ・ストリックランドに会ったが、それは、ほんのただ知合いになるというだけの機会だった。ある朝、ミセス・ストリックランドから手紙が来た。それによると、今夜晩餐会《ばんさんかい》を催すはずだが、客の一人が、急に来られなくなったので、僕《ぼく》にその席を充《み》たしてほしいということだった。文面には、
ずいぶん退屈なさるだろうってことは、前もってお断わりしておかなければなりませんわ。はじめから、それはほんとうにつまらない集まりなんですのよ。でも、いらしてくだされば、幾重にも心からお礼申し上げますわ。それに私たち二人だけで、なにかおもしろいお話をすることもできましょうから。
まずとにかく応諾すべきが礼だった。
ミセス・ストリックランドが、僕を夫に紹介すると、彼は、むしろ無表情に、ぬっと手をさし出した。彼女は、朗らかに彼のほうを向いて、軽い冗談口を言った。
「私にだって、旦《だん》那《な》様《さま》くらいはあるってこと、お見せするためにお招《よ》びしたのよ。この方ったら、なんだか疑ってらっしゃるらしいんですもの」
なにがおもしろいのか、さっぱりわからないが、とにかくまあおかしいのだろう、笑っておけという、あの誰《だれ》でもやるお義理笑いを、彼もちょっとしてみせたが、別になにも言わなかった。そのまま次々に来る客の相手に忙殺され、おかげで、僕は一人になってしまった。やがて客も揃《そろ》い、食事の知らせを待つ間、僕は、いわゆる「お相手」の義務を負わされた女と喋《しゃべ》りながら、いろいろと考えた。それにしても文明人というやつは、凝っては思案にあまるともいうが、なんという馬鹿《ばか》な真似《まね》をして、長くもない一生を浪費するものだろう。その晩のパーティというのは、主人側もなぜまた招んだのだろう、来る客も客だ、なんでわざわざ出かけて来たのだろうと思わせる、よくある種類のそれだった。客の数は十人。なんの興味もなく落ち合って、別れてかえってほっとする、全くの儀礼的社交にすぎなかった。好きでもなんでもない人たちを、ただどうしても晩餐の「借り」がある、その返礼に招んだのだという、それだけにしかすぎないのだ。客のほうでも来るには来た。が、さてなぜだと開き直られると、曰《いわ》く、せめては一晩なりと、うんざりする差向いでの食事を助かりたい、召使どもにも休みをやりたい、等々というのから、さらには、たって断わる理由もないし、なにぶん晩餐の「貸し」もあることだから、等々というのに至るまで、そのへんがまず正直なところだった。
食堂は、窮屈なほどいっぱいだった。王室弁護士の夫妻、官吏の夫婦、ミセス・ストリックランドの姉と、その夫のマクアンドルー大佐、ある下院議員の夫人。そして最後のこの女の夫という議員氏が、あいにく議会を休むわけにもいかないというので、そこで急に僕が招ばれたのだった。一同のお上品ぶりときた日には大変だった。女たちに至っては、ただ月並みの盛装というのでは気がすまないという気難かしさ、かと思えば、たえず身分が重荷になって、うかつには冗談も言えぬという窮屈さ。男たちもひどく分別くさい。誰も彼もが、すっかり順境に満足しきっているというところが見える。
なんとかパーティを進行させようという本能的な気持から、誰もみんな、平生《ふだん》よりは多少声高に話していた。おかげで部屋の中は、ひどく騒がしかった。それでいて全部に共通な会話というのはない。めいめいがただ隣席のもの、つまり、スープと魚とアントレの間は右隣に、そしてローストとデザートと口直《セイ》し《ヴリ》の間は左隣に、といったふうに、両隣に話しかけるだけ。時局のこと、ゴルフの話、子供の話、新しい芝居、王立美術院《ロイヤル・アカデミー》の絵の話、天気のこと、休暇の計画、等々と、話題は間断なくつづき、話し声は高くなるばかりだった。ミセス・ストリックランドにしてみれば、たしかにパーティの成功を喜んでいいところだったかもしれぬ。夫も夫で、とにかくりっぱに主人役だけは務めおおせていた。ただあまり物は言わないほうで、終り頃《ごろ》には、両隣の女の顔に、心なしか倦怠《けんたい》の色が現われていた。彼に退屈していたのだ。一、二度、ミセス・ストリックランドの視線が、はらはらするように夫のほうに向けられた。
とうとう彼女は立って、女たちを連れ出した。出て行ったあと、ストリックランドは静かに扉《とびら》を閉めると、テーブルの向う側へ行って、王室弁護士と官吏との間に坐《すわ》った。彼は、もう一度ポルト酒をまわし、みんなに葉巻をすすめた。王室弁護士が、ポルト酒のよい味を褒《ほ》めると、彼は、入手のルートについて話してくれた。葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》や煙草《たばこ》の話になった。王室弁護士は、目下ちょうど関係している係争問題の話をするし、大佐は、ポロの話をした。僕は、別に話すこともないので、黙って坐っていたが、ただ礼儀上、彼らの話にできるだけ興味がありそうな顔だけはしていた。それに、誰も僕のことなど問題にしていなかったらしいので、僕のほうでは、安心してストリックランドを観察していた。思った以上に大男だった。なぜか僕は、痩《や》せこけて、貧相な風采《ふうさい》ばかり頭に描いていたが、事実は、肥《ふと》り肉《じし》のがっしりした、大きな手足の男で、そして夜会服《イーヴニング》を、ひどく不格好に着こんでいる。なにか馭者《ぎょしゃ》が晴着を着たというような感じさえした。齢《とし》は四十格好、美男ではないが、醜いというほどではなかった。造作は決して悪くないが、ただそれが、どれもこれも多少並外れた大きさで、結局ひどく不《ぶ》様《ざま》な感じを与えるのだ。鬚《ひげ》ははやしていないが、もともと大きな顔が、これはまた不快なほど剥《む》き出しに見える。赤みの勝った髪を短く刈りこみ、眼《め》は小さく、青色とも灰色ともつかない。ひどく平凡な感じだった。ミセス・ストリックランドが、彼のことである種の退《ひ》け目を感じているのも、無理はないと思った。芸術、文学の世界で、なにか認められたというような女から、まずあまり買われる男でないことはたしかだった。社交的才能のないことは、明《めい》瞭《りょう》だった。だが、そんなものは、なにもなくてもよい。彼には、そこら凡俗から区別する変り者といった点すら何一つなく、いわば全くの善良、平凡、正直な人間だった。たとえ彼のいいところに感心はしても、近づく気にはならない。全くいないも同然の存在なのである。よき夫であり、よき父であり、そして正直なブローカーであり、社会の一員としては、おそらくりっぱな人間なのだろう。だが、ただこうした人間を相手にして、むざむざ時間を浪費する手は全くない。
社交季節《シーズン》も、そろそろ末枯時《うらがれどき》に近づいていた。僕《ぼく》の知った連中も、みんな避暑の用意に忙しかった。ミセス・ストリックランドは、一家を挙げてノーフォークの海岸に移るはずだった。子供たちには水浴があり、夫にはゴルフがあった。われわれは、お互いに別れを告げて、秋にはまた再会を約した。だが、ちょうど僕がロンドンを離れるというその日だった、百貨店《ストア》を出ると、二人の子供を連れた彼女に遇《あ》った。僕と同じように、彼女もロンドンを発《た》つ最後の買物に来ていたのだった。僕たちは二人とも、暑さにぐったりとなっていた。そこで僕は、公園へ行ってアイスクリームでも食べませんか、と誘ってみた。
ミセス・ストリックランドは、僕に子供を見せるのが嬉《うれ》しかったのだろう、二つ返事で承知した。子供たちは、写真で見たよりもずっと可《か》愛《わい》くて、彼女が自慢にするのも無理はなかった。それに子供たちとしても、相手の僕が、まだ気がおけるほどの齢《とし》ではなし、いろんなことを朗らかに喋《しゃべ》っていた。二人とも、実に感じの良い、健康な子供だった。木陰はひどく快かった。
一時間ばかりして、彼らが貸馬車《キャブ》で帰って行くと、僕は、ぶらぶらとクラブまで歩いて行った。いくらか心淋《さび》しかったのだろう。おまけに、今垣《かい》間見《まみ》たばかりの楽しい家庭生活のことを考えると、多少羨望《せんぼう》に似た気持もしないではなかった。みんな心から愛し合っているらしい。他人にはわからない、ちょっとした彼らだけの冗談を言い合ったりして、ひどく楽しそうに笑っていた。華やかな言葉の機知をなによりも貴ぶ、そうした判断からすれば、さだめしチャールズ・ストリックランドというのは退屈な人物なのだろう。だが、彼のいる環境には、彼程度の頭で十分なのであり、それさえあれば、世間並みの成功はもとより、それ以上の幸福だって結構保証される。ミセス・ストリックランドは、とても感じのいい女、しかも彼を愛している。僕は、彼らの生活を心に描いてみた。なんの波《は》瀾《らん》もない、まっすぐな、恥ずかしくない生活、そしてこの素直で、快活な二人の子供、彼らこそは、意義あるこの民族と階級との正統を伝えるように、いわば運命づけられている家族だと言ってもよい。彼らのような夫婦こそ、何事もなく静かに老いを迎え、やがて二人の子供たちも成年に達し、それぞれ結婚していくのを見ることだろう――一人は美しい処女、そして未来の健康な子供たちの母親、そして今一人は男らしい美丈夫、そうだ、きっと軍人になって、最後には、充ち足りた楽隠居の境涯《きょうがい》を、子供や孫たちの愛にかこまれて、決してむだではなかった、幸福な一生だったという感慨とともに、めでたく天寿を全うして死んでいくのだ。
結局これが、数限りない世の夫婦たちの運命にちがいない。そしてここに見る生活の意匠には、素《そ》朴《ぼく》な美しさすらあるではないか。いわばそれは、緑の牧場をくねり流れ、楽しい木立を潜《くぐ》り抜け、やがては大海原に注ぐ静かな小川を思わせる。ただその海が、あまりにも静かで、あまりにも無表情なために、にわかに人は漠然《ばくぜん》とした不安に脅《おび》やかされる。今にして思えば、その頃《ころ》からしてすでに強かった僕の依怙地《いこじ》さが、大多数の人々が歩むそうした一生に対して、なにか強い不満を感じさせたのかもしれぬ。僕は、無事な一生がもつ社会的意義も認めていたし、静かな幸福も知っていた。だが、ただ僕の血の中の情熱が、なにかもっと波瀾のあるコースを求めさせていたのである。僕には、そうした安易な喜びの中に、なにか恐ろしいものすら感じられた。もっと危険な生活がしてみたいと、そんな欲望が僕の中に巣くっていたのだ。変化と――そして予期しないものから来る興奮と――それさえあれば、僕は、険しい暗礁《あんしょう》も、危険な浅瀬も、それほど怖いとは思わなかった。
以上、ストリックランド一家に関する叙述を読みかえしてみて、僕《ぼく》は、彼らの姿が、ほんの影のようにしか出ていないことを感じる。よく書中の人物が生々として動き出す、そうした特徴を、僕は彼らに与えることができなかった。おそらく僕の力が足りないのだろう。今もそれを考えて、なにか彼らを生かすような特徴はなかったかと、頭をひねっているわけだ。なにか物言うときの特徴だとか、変った癖といったものに注意することによって、もっと強く彼らの存在を引き立てることもできるのではないか。今のままでは、まるで古ぼけた綴錦《タペストリ》の中の人物である。少しも背景から浮び出ず、少し離れてでも見れば、もう形も何もなくなって、眼《め》に映るものは、ただ美しい色だけということになってしまう。ただ一つ、強《し》いて言い訳をいえば、彼らから受けた印象そのものが、まさにそうだったということである。彼らには、社会という有機体の一部に成りきってしまい、ただその中においてのみ、またそれによってのみ、生きているといった人々によく見られる、あの影のような感じが、たしかにあったのだ。こうした人々は、いわば人体細胞のようなもので、なくてならぬものにはちがいないが、そのかわり、それらが健康であるかぎり、それは、より大切な全体の中に吸い込まれてしまっている。ストリックランド一家は、いわゆる平均値の中流家庭だった。快活で、愛《あい》想好《そよ》しで、文壇の、それも二流文士を追いまわすという、別に毒にもならない趣味をもった女。慈悲《いつくしみ》深い神の手が与えてくれた生活に、ただ忠実に義務を果しているだけという、あまりおもしろくもない男。綺《き》麗《れい》な、そして健康な二人の子供。これほど平凡月並みなものはあるまい。好奇的《ものずき》な世人の注意など惹《ひ》くようなものは、なに一つなかった。
だから僕は、その後の成行いっさいを考えてみて、チャールズ・ストリックランドに、せめてなにか人とちがったところくらい見《み》出《いだ》せなかったものか、それを思うと、よほど鈍感だったにちがいないと、われながらおかしい。いや、たしかに鈍感だった。なるほど、あのときと今とでは、その間に僕にも人間を見る眼は相当にできたつもりだが、かりにあのはじめてストリックランド一家に会ったとき、今ほどの経験を持っていたとしても、果して僕の観察はちがったろうか、疑わしい。だが、ただ一つ言えることは、人間というものが、いかにわからないものであるか、それを知り抜いている今の僕なら、あの年の秋のはじめ、ロンドンへ帰って聞いたニュースにも、もうあんな驚き方はしなかったろうということだ。
帰って、まだまる一日とは経《た》たないときだった、僕は、ジャーミン街で、ばったりローズ・ウォータフォドに行き合った。
「ずいぶん景気が好さそうですね」と、僕は言った。「どうしたんです?」
彼女は微笑した。そしてその眼には、僕にはもうお馴《な》染《じみ》の、あの意地悪い光が輝いていた。つまり、誰《だれ》か友達の醜聞《スキャンダル》でも聞きつけて、そこは女流作家らしい本能が、ぴんと聞き耳を立てているといった格好だった。
「あんた、チャールズ・ストリックランドに会わない?」
顔だけではない、もう身体《からだ》全体が、きびきびした生気に溢《あふ》れている。僕は頷《うなず》いた。さては奴《やっこ》さん、かわいそうに取引所を除名にでもなったか、それとも、乗合馬車にでも轢《ひ》かれたのかな、と思った。
「魂《たま》消《げ》るじゃないの、あの人ったら、飛び出してしまったのよ、奥様を放《ほ》ったらかして」
おそらくジャーミン街の街頭では、いくらなんでも話しきれないと思ったものだろう、そこはいかにも芸術家らしく、ただ事実だけを投げつけて、詳しいことは自分も知らないのだ、と言った。もっとも、彼女ともあろうものが、たったそれだけの理由で話せないとは、とうてい僕には考えられないのだが、とにかく頑《がん》として、彼女は言い張った。
「本当に知らないのよ、私」驚いて訊《き》き返す僕の質問に、相変らずそう答えたが、やがてぴくりと肩をすくめたかと思うと、「でも、市内《シティ》のほうの喫茶店《ティーショップ》とかで、若い女が一人、お店をやめたのがいるんですってさ」
言いながら、彼女は、さっと僕に笑顔を見せたが、そのまま歯医者に約束があると言って、勢いよく行ってしまった。僕は、心配よりも、むしろ好奇心を感じた。その頃《ころ》の僕は、まだ自身直接《じか》に経験した人生といっては、ほとんどなんにもなかったし、それだけに書物の中で読んだような事件が、現実に知人の間で起ったのにぶつかるというのは、妙に興味をそそられた。正直にいうが、今では僕も、友人間のこうした事件に慣れている。だが、あのときの僕は、多少驚きもした。ストリックランドといえば、四十のはずだ。この齢《とし》になって、いまさら恋愛事件を起すなどというのは、むしろ不快な感じさえした。若気の思い上った気持から、僕は、せいぜい三十五歳をもって、男が恋愛をして物笑いにならないですむ最後の限界だと、決めこんでいた。おまけにこのニュースは、僕個人としても、ちょっと工《ぐ》合《あい》が悪かった。というのは、僕は、田舎からミセス・ストリックランドに手紙を出して、帰京を知らせ、終りに、もし彼女から断わりの手紙でもないかぎり、某月某日お茶をご馳《ち》走《そう》になりたくお訪ねしたいと、書き添えておいたからだ。しかもそれが今日なのだ。ミセス・ストリックランドからは、なんの返事も来ていない。いったい僕に会いたいのだろうか、会いたくないのだろうか? おそらく今度の事件で興奮して、僕の手紙のことなど忘れてしまっているのだろう。行かないほうが賢明かな? それとも彼女としては、事件を秘密にしておきたいのかもしれない。だとすれば、僕のほうから、すでにニュースが耳に入っているということなど、たとえ素振りにもせよ、見せるのはまずい。善良な女性の気持を傷つけてはいけないという懸《け》念《ねん》と、とんだ邪魔に飛び込むのではないかという心配と、僕は、二つの間に板挟《いたばさ》みになった。彼女は苦しんでいるのにちがいない。僕の力ではどうにもならない苦痛、そんなものを、僕は見たくなかった。だが、それでいて心の底には、多少悪いとは思いながら、なお彼女は、どんなふうに堪えているだろうか、ちょっと見てみたいような気持も、たしかにあった。僕は、どうしてよいか、わからなかった。
結局、浮んだ考えは、これはひとつ、なんにもなかったような顔をして、訪ねて行ってみる。そして女中に、奥様のご都合はいかがでしょうかと、来意を通じさせることだ。そうすれば、彼女としては、会わないで断わることもできる。だが、さて女中が出てきて、用意していた口上を伝えたときには、さすがに僕も、たまらなく間の悪い思いをした。暗い廊下に立って、返事を待っている間も、逃げ出したくなる気持を、やっとのことで抑えていた。女中が帰って来た。はらはらするような空想に耽《ふけ》っていた僕は、彼女の様子を見ただけで、さてはこの女、この家の悲劇については、もうすっかり知っているなと見て取った。
「どうぞ、お通りくださいませ」と、彼女は言った。
彼女について客間に通った。半ばブラインドを下ろして暗くなった部屋に、ミセス・ストリックランドは、灯《あか》りを背にして坐《すわ》っていた。暖炉《ファイアプレース》の前には、義兄のマクアンドルー大佐が、火のない炉に背中でも暖めるような姿勢で、立っていた。入ってみて、われながらひどく間の悪い思いがした。おそらくみんなには、僕の訪問があまりにも不意打ちであるうえに、夫人にしてみれば、断わるのを忘れていたばっかりに、仕方なしに招じ入れたのではあるまいか? どうも大佐からは、とんだ邪魔者だというふうに思われているらしい。
「お邪魔させていただいて、よろしかったのでしょうか?」と、僕は、できるだけさりげない顔で言った。
「もちろんお待ちしてましたわ。いますぐアンに、お茶を持たせますから」
部屋は暗くしてあったが、涙ですっかり腫《は》れ上っている夫人の顔を、僕は、見ないわけにいかなかった。平生《ふだん》からあまりよくない顔色は、ほとんど土気色だった。
「そう、ご存じでしたわね、義兄《あに》でございます。お休みのすぐ前、晩餐《デイナー》でご一緒でございましたわねえ」
僕らは握手した。僕は、すっかり気後れしてしまって、なにを言ってよいか、わからなかったが、幸いミセス・ストリックランドが、助け舟を出してくれた。夏中は何をしていらっしゃいましたの、と彼女が訊いた。おかげで僕も、お茶が来るまで、なんとか話をつなぐことができた。大佐は、ウィスキー・ソーダが欲しいと言った。
「エイミー、お前も一つどうだ?」彼は言った。
「いいえ、私、お茶のほうがいいの」
なにか、ただならぬ事件があったことを暗示する、これが最初の言葉であった。僕は、知らん顔をして、できるだけミセス・ストリックランドを、話に引き入れようとした。大佐は、依然として暖炉の前に立ったまま、一言も口を利《き》かないのだ。いったいこれは、何分ほどいれば、失礼に当らないで切り上げることができるか、それにしても、なぜまた夫人は断わらなかったのだろう? とつおいつ、僕は、そんなことを考えていた。部屋には、花一つないし、夏の間しまってあった、いろんな置物なども、まだ元に戻《もど》されていない。いつもは、あんなにも温かい感じのしたこの部屋が、どこか寒々と、硬《こわ》張《ば》って、まるで壁の向うに、死《し》骸《がい》でも寝ているような気配が流れている。僕は、お茶を飲み終った。
「お煙草《たばこ》は?」と、ミセス・ストリックランド。
そして、あたりを見まわして箱を探したが、どこにも見えなかった。
「どうもないようですね」
突然、彼女は、わっと泣き出したかと思うと、そのまま急いで部屋を出て行ってしまった。
僕ははっとした。今考えてみると、多分、煙草のなかったことが、いつもは決って持って出る役であった夫のことを、にわかに思い出させたためだろうか。今まですっかり慣れっこになっていた、ちょっとした生活のよろこび、それが失われたと思うと、あらためて悲しさが、急にこみ上げてきたのにちがいない。もう今までの生活は、なんにもない、おしまいだ、彼女に、それが今はっきりわかったのだ。それでいて、なお社交的見栄《みえ》を張りつづけるなどということは、もはや人間業でない。
「お暇《いとま》をしたほうがいいんじゃありませんか?」僕は、立ち上って、大佐に言った。と、突然彼は、爆発するように、
「もう多分ご存じでしょう、あの馬鹿《ばか》者《もの》めが、義妹《あれ》を捨てて行ってしまったんです」
と、大声で言った。
僕は、ちょっとためらったが、
「世間というやつは、いろんなことを言うもんですからね。そりゃ、なにかおありになったということは、多少人から聞きましたがね」
「逃げちまったんですよ、どこかの女とパリへね。かわいそうに、エイミーは一文無しなんですよ」
「それはいけませんねえ」と、僕は言ったが、実際、ほかにこれといって言いようもなかった。
大佐は、ぐいと一つウィスキーを飲んだ。痩《や》せた、背の高い、五十がらみの男で、鼻の下に雨垂髭《あまだれひげ》をはやし、頭髪は胡麻《ごま》塩《しお》だった。薄青色の眼と、弱々しそうな口もとをしている。この前会ったときも、僕は、彼が間延びした顔をして、退役する十年も前から、毎週三日はポロをやってきたというような自慢話をしたのを憶《おぼ》えている。
「私がいては、奥様もご迷惑じゃないんでしょうか。なんとも申し上げる言葉もありませんと、あなたからよくお伝え願いたいんですが。なお私でお役に立つようなことがありましたら、喜んでさせていただきますから」
だが、彼は僕の言葉など聞いてもいなかった。
「義妹《あれ》はどうなると思います? それにあの子供ですよ。まさか空気を食って生きられるわけじゃなし。ねえ、十七年ですからね」
「十七年、それがどうしました?」
「結婚以来ですよ」と、彼は吐き出すように言った。「私は、最初からあの男が大嫌《だいきら》いだった。そりゃ、私にとっちゃ義弟ですよ、だからまあ、できるだけの我慢はしてきたんですが。いったいあなたは、あの男を紳士だという気がしましたか? あんなやつと結婚すべきじゃなかったんですよ」
「それで、もう絶対行くところまで行ってしまったというんですか?」
「義妹《あれ》としては、道はたった一つ、つまり離婚ですよ。先刻《さっき》あなたが入って見えたときも、実はそれを話してたんですがね。今すぐにも、離婚訴訟をするようにと、私は言うんですよ。それがお前自身に対する義務であり、また子供たちに対する義務でもあるんだから、とね。あいつめ、俺《おれ》の前へだけは、顔出ししないがいいぞ。来てみろ、ひっぱたいて、半殺しにしてやるから」
だが、これは実行するとなると、相手のストリックランドは、なかなかの大男だったようだし、マクアンドルー大佐にも、こいつはちょっと無理だろうと思えたが、むろん口に出してはなにも言わなかった。よくある例だが、いったい正義派の憤慨というやつに、かんじんの当の悪人を、直接懲《こ》らすだけの腕力が伴っていない場合ほど、事実見ていてみじめなものはないからである。もう一度、なにか暇乞《いとまご》いの口実でもと考えているところへ、ミセス・ストリックランドが戻って来た。涙を拭《ふ》いて、鼻のあたりには、白粉《おしろい》さえ薄く塗っていた。
「泣き出したりなんぞして、ごめんあそばせ」と、彼女は言った。「まだいらしてくだすって、本当によかったわ」
彼女は腰を下ろした。僕はなんと言ってよいかわからなかった。自分に関係もない事柄《ことがら》に、進んで口出しをするのは、なにか妙に憚《はばか》られた。その頃の僕は、まだ女の恐るべき通弊、つまり聞き手さえあれば、自分の私生活についてしゃべりたくてたまらないという、あの気持について知らなかったのだ。ミセス・ストリックランドは、強いて自分を抑えているらしかった。
「みんなもう噂《うわさ》してまして?」彼女は訊いた。
彼女の家庭の不幸について、まるで僕がなにもかも知っているものと、勝手に決めているような言い方には、さすがに僕も面食らった。
「僕は、まだ帰ったばかりなんです。会った人といえば、ローズ・ウォータフォドひとり」
ミセス・ストリックランドは、両手を握り合せた。
「あの人、なんて言ってました? そのままを話してちょうだい」そして僕が、ためらっているのを見ると、「私、ぜひそれが聞きたいのよ」と、なおも言い張った。
「世間の噂なんて、当てになるもんですか。それに、あの人の言うことは、あまり信用できないんじゃありません? なんでも、ご主人が家出なすったとか、そんなことは言ってましたがね」
「それだけ?」
僕は、ローズが別れぎわに言った喫茶店《ティーショップ》の女のことを、ここで繰返す気はしなかった。だから、嘘《うそ》をついてしまったのだ。
「あの人、主人《たく》が誰か人と一緒に行ったというようなこと、言いませんでした?」
「いいえ」
「お伺いしたかったのは、そのことだけなんですの」
僕は、ちょっと困ったなとは思ったが、とにかくもうこれで帰ってもいいだろうと考えた。別れの握手をしながら、僕は、もしなにかお役に立つようなことがあれば、喜んでいたしましょう、と言った。彼女は、淋《さび》しそうに微笑した。
「ありがとうございます。でも、どなたにも、なにもしていただくようなことはありませんわ」
僕は、いまさら同情の言葉をかける勇気もなく、そのまま大佐のほうを向いて、暇を告げた。だが、彼は僕の出した手を握りもしないで、
「私も帰りますよ。ヴィクトリア街のほうへおいででしょう。でしたら、ご一緒に参りましょう」
「そうですか。では、お伴《とも》しましょう」と、僕も言った。
「全く大変なことになりましてね」と、外へ出るやいなや、彼は言った。
なるほど、さっきからもう何時間も、義妹《いもうと》と論じ合っていた問題を、もう一度僕《ぼく》を相手に蒸し返したい、そのために一緒に出たのだな、と僕は思った。
「その女が誰《だれ》だかは、まだわかってないんですよ」と、彼は言った。「わかっていることは、やつがパリへ行ったという、それだけなんです」
「お二人の間は、非常に巧《うま》くいってるものとばかり思ってましたがねえ」
「そりゃ巧くいってましたとも。現にたった今、あなたの見えるすぐ前もね、エイミーは言うんですよ、夫婦になって、まだ口喧《くちげん》嘩《か》一度したこともないってね。あなたも、エイミーのことはよくご存じでしょう。あんないい女というものは、どこを探してもいるものじゃありませんよ」
こう押し付けがましく打ち明けられたうえは、こちらからも、少しは訊《き》いてみても差支えあるまいと思った。
「でも、奥様は、ちっとも気がつかなかったとおっしゃるんですか?」
「そうなんです、ちっともなんですよ。八月中は、義妹《あれ》や子供たちとノーフォークで暮した。そのときは、平生《ふだん》と少しも変りなかったんです。私も家内と一緒に、二、三日遊びに行って、ゴルフも一緒にしました。九月になって、一緒に店をやっている男が、交代に休暇をとるというので、やつは一足先にロンドンへ帰るし、エイミーのほうは、田舎に残ったわけなんです。家のほうは、六週間の契約になってたもんですからね。ところで、いよいよ期限が来て、義妹《あれ》が、いつ何日にロンドンへ帰るからと、そう手紙を出したんだそうですよ。すると、どうです、パリから返事が来た。しかも、これっきり夫婦生活は打ち切るつもりだから、という手紙がね」
「で、理由としては?」
「それが、あなた、理由は一言も言わないんですよ。私もその手紙は見ましたがね、なんと、たった十行きりなんですからな」
「しかし、それはおかしいですねえ」
僕たちは、ちょうど横断路へかかったので、話は交通のために、ちょっととぎれた。大佐の今の話は、どうにもありえないことのように思える。ミセス・ストリックランドに、なにか理由があって、大佐にも多少は事実を隠しているのではないか、という気もした。十七年も結婚生活をしてきた男が、その妻を捨てるというからには、なにかきっと二人の結婚生活の間に、これはいけないと、妻のほうでも感づくような出来事が、いくらなんでもあったにちがいない。大佐は、後から追いついて来た。
「むろん強《し》いて理由はといえば、女と逃げるからという以外には、ちょっとないでしょうなあ。あいつのことだから、そんなことは、義妹《あれ》が自分でわかってるはずだくらいに思ってるんでしょう。そういった人間ですよ、あの男は」
「で、奥様は、どうなさるおつもりなんです?」
「とにかくまず証拠を手に入れることでしょうな。私はパリへ行ってくるつもりです」
「で、いったい商売のほうは?」
「いや、そこがやつのずるいところなんですよ。この一年間ばかりの間に、すっかり始末をつけてたらしいんですね」
「では、共同出資者《パートナー》には、やめるということを話してたんですか?」
「いや、ちっとも」
マクアンドルー大佐も、商売方面のことには、ごく大ざっぱな知識しかなかったようだし、僕に至ってはさらに皆無だった。したがってストリックランドが、商売のほうをどんなふうにしてやめて行ったか、それはよくわからなかった。ただ置いてきぼりにされた共同出資者は、猛烈に腹を立て、訴訟にすると、いきまいているということだった。すっかり整理をつけるとしても、彼のほうでは四、五百ポンドの損になる、というようなことらしかった。
「それにしても、フラットの家財が、エイミー名義になっていたのが、まだしもですよ。これだけは、とにかく義妹《あれ》のものになりますからね」
「奥様が一文なしになると言われたが、あれは本当のことなんですか?」
「本当ですとも。あるのは、せいぜい、二、三百ポンドの金と、あの家財きりなんですからね」
「じゃ、どうしてやっておいでになるつもりです?」
「そんなことがわかるもんですか」
問題は、ますます複雑な様相を呈してくるように思われた。それに大佐は、ただもう悪《あく》罵《ば》と憤激で、事情を明らかにしてくれるどころか、いっそうわからなくしてしまうばかりだった。彼がふと陸海軍百貨店《アーミー・エンド・ネイヴイ・ストアズ》の時計を見て、クラブでのトランプの約束を思い出し、ひとりセント・ジェイムズ公園を突っ切って行ってくれたときには、僕はむしろほっとした。
10
一日二日すると、ミセス・ストリックランドから手紙が来て、今晩夕飯をすませたら、ちょっと訪ねて来てほしいということだった。行ってみると、彼女はひとりだった。厳粛とでも言いたいほど質素な、黒ずくめの服装が、彼女の今の不幸を暗示しているようだった。単純な僕《ぼく》は、彼女が、胸に溢《あふ》れる本当の感情を抑えて、こうした服装の点にまで、あくまで彼女らしい上品さをもって振舞っているのを見ると、むしろ驚嘆の念すら禁じえなかった。
「ねえ、もしお願いしたいことがあれば、あなた、なんでもしてくださるとおっしゃいましたわね?」と、彼女は言った。
「ええ、そのとおりです」
「じゃ、パリへ行って、チャーリーに会ってきてくださらない?」
「僕がですか?」
僕は面食らった。考えてみれば、僕は彼にたった一度しか会っていないのだ。僕には、彼女の意向が呑《の》みこめなかった。
「フレッドが、どうしても行ってくると言うんですの」フレッドとは、マクアンドルー大佐のことだった。「でも、あの人の出る幕じゃないと思うんですの。あの人が行けば、ますます悪くするばかりですわ。かといって、ほかにお願いする方も存じませんし」
彼女の声はふるえていた。僕は、もうこれ以上逡巡《しゅんじゅん》することすら、なにか悪いような気がした。
「でも、僕はご主人とは、ものの十言もお話ししたことがありませんし、ご主人も、僕をご存じありますまい。行ったところで、とっとと帰れと言われるくらいが、落ちじゃありませんか?」
「でも、そのくらいのことなら、いいじゃありません?」と、夫人は微笑しながら言った。
「じゃ、どうしろとおっしゃるんです?」
だが、それには直接答えなかった。
「主人《たく》があなたを知らないのが、かえっていいと思いますわ。主人《たく》という人はね、前からフレッドが大嫌《だいきら》いなんですの。いつも馬鹿《ばか》だと言ってましたし、あの人にはまた、軍人てものがわからないんですの。それにフレッドのほうでも、癇癪《かんしゃく》を起してしまって、揚句の果ては喧《けん》嘩《か》に決ってますわよ。事態はよくなるどころか、いっそう悪くしてしまうだけですわ。私からの使いだと言ってくだすったら、まさか聞く耳もたぬとも言えませんでしょうからね」
「僕は、奥様とさえ、お近づきになって、まだたいして日がないのですからね」と、僕は言った。「それに、こうした問題に当るとすれば、まず事の仔《し》細《さい》を知ってからでなければ、おそらく誰《だれ》だって無理なんじゃありませんかねえ。僕は、自分に関係もないことに、あまり首を突っ込みたくないんです。それよりも、なぜ奥様自身いらっしゃらないんです?」
「あなた、お忘れになったのね、あの人が一人じゃないってこと」
僕は口を緘《つぐ》んだ。チャールズ・ストリックランドを訪ねて行って、名刺を通じている僕自身の姿を想像してみたのだ。彼は、僕の名刺をひょいと二本の指でつまんだまま、部屋へ入って来る。
「で、ご用件は?」
「ちょっと奥様のことでお伺いいたしました」
「ああ、なるほど。まあ、あなたも、もう少し齢《とし》をとられたらですよ、余計なおせっかいなど、なさらないほうがいいってこと、きっとおわかりになるでしょうがね。どうか、その左のほうをごらんください、あそこが出口《ドア》ですから。では、失礼」
とにかく馬鹿を見ないで退却することは、困難らしく思えた。こんなことなら、ミセス・ストリックランドが、なんとか事件の始末をつけてしまうまで、僕はロンドンへなど帰って来なければよかったな、と思った。僕は、ちらと夫人のほうを見た。なにか思いに沈んでいる様子だったが、やがて眼《め》を上げると、大きな溜息《ためいき》を一つついて、微笑した。
「全く思いもかけないことでしたわ」と、彼女は言った。「私たち結婚して、もう十七年なんですものね。あのチャーリーが、ほかの女の人に夢中になるなんて、夢にも思いませんでしたわ。私たち、ずっとうまくいってたつもりなんですのよ。そりゃむろん、私には、あの人にわからないようなところも、ずいぶんありましたろうけれど」
「すると、奥様は、そのう――」ちょっとなんと言っていいかわからなかったので、「相手と言いますか、つまりご主人と一緒に逃げた人ですがね、それが誰だか、おわかりなんですか?」
「いいえ、誰にも見当がつかないらしいんですのよ。ずいぶんおかしな話なんですけれど。これが普通ならですよ、男の人が誰か女の人を好きになると、まあ、その女《ひと》とご飯を食べるとか、なんとか、とにかく一緒にいるところを人に見られるってもんでしょう。そこで奥様のほうの友達が来て、すっかり話していきますわね。ところが、私の場合は、なんにもないんですのよ。ええ、なに一つ。だから、あの人の手紙は、まるで青天の霹靂《へきれき》ってもんでしたわ。主人《たく》は、何不足なく、幸福でいるものとばかり、私、思ってましたの」
かわいそうに、彼女は泣き出してしまった。僕は非常に気の毒な気がした。だが、まもなく彼女は、だいぶ落着いてきた。
「いまさら愚痴をこぼしたところで、しようがありませんわ」と、彼女は涙を拭《ふ》きながら言った。「結局、どうすればいちばんいいか、ただそれを決めるだけですわ」
彼女は、なおも喋《しゃべ》りつづけた。どちらかといえば、多少取りとめもなく、つい近ごろの話をするかと思えば、急に話題は飛んで、二人がはじめて会ったときのことや、結婚の話になっているのだ。だが、そのうちに、僕は、彼ら二人の生活の跡を、朧《おぼろ》げながら、とにかく辿《たど》ることができるようになった。そして事実僕の推測が、たいして間違っていなかったことがわかった。ミセス・ストリックランドは、インド駐在官吏の娘で、父が隠退してから、一家は田舎の奥深く落着いた。ただ八月になると、一家を挙げて、イーストボーンに転地するのが例だった。そしてそこで、彼女は二十歳のとき、はじめてチャールズ・ストリックランドに会ったのである。彼は二十三だった。二人は一緒にテニスをしたり、海沿いの遊歩道を歩いたり、黒人旅芸人の歌を聞いたりした。そして彼女は、彼から結婚を申し込まれる一週間前に、すでに承諾の心を決めていたのだ。二人は、ロンドンで家を持った。最初はハムステッドに、そして、彼が裕福になるにつれて、中心部に移り住んだ。二人の子供が生れた。
「いつも、子供たちはずいぶん可《か》愛《わい》がっていたようですのよ。たとえ私がいやになったからって、よくあの子供たちをおいて行けたもんだと思いますわ。なにもかも信じられない。今の今だって、まだ本当だとは思えませんわ」
とうとう彼女は、例の彼の手紙というのを見せてくれた。僕も見たかったのだが、さすがにそうとは切り出せなかったのだ。
愛するエイミー
フラットのほうは、いっさいちゃんとなっているはずだ。お前の言伝《ことづて》は、アンによく言いつけておいたから、帰っても、お前や子供たちの食事は、ちゃんとできているはず。ただし私はいないと思う。今後お前とは別居する決心をした。明朝パリへ発《た》つつもり。この手紙は向うへ着いてから出す。帰ることはないだろう。この決心は、絶対に不動だ。
お前の、チャールズ・ストリックランド
「言い訳や詫《わ》びらしいものは、一言もないんですからね。あんまりじゃありません?」
「なるほど、こうした場合の手紙としては、ずいぶん変ってますねえ」と、僕は答えた。
「強《し》いて説明をつければ、たった一つだけ、つまり、あの人の頭がどうかしてるってことですわ。主人《たく》の心を捉《とら》えた女が、どんな女だか、それは知りませんけど、とにかくその女のために、あの人、すっかり人間が変ってしまったんだと思いますの。きっともう長い関係にちがいありませんわ」
「それはまた、どうしてそんなふうにお考えになります?」
「フレッドが探ってきましたのよ。主人《たく》は、ブリッジをすると申しまして、一週に三、四度は、夜、クラブへまいりました。ところで、フレッドが、そのクラブの会員の方を一人存じ上げておりましたもんで、チャールズが大のブリッジ好きだとか、そんなようなことを、その方にお話ししたんだそうですのよ。すると、あなた、その方がすっかりびっくりなさいましてね、チャールズの姿なんか、ついぞ一度だってカード室で見かけたことはないと、そうおっしゃるんでしょう。もう明瞭《めいりょう》ですわ、クラブにいるものとばかり思っていた間に、主人《たく》は、やっぱりその女と一緒にいたんですわ」
僕はちょっと黙った。だが、そのとき、ふと子供たちのことが頭に浮んだ。
「ロバート君にお話しになるのは、ずいぶんお困りになったでしょうね」と、僕は言った。
「いいえ、まだどちらにも一言も話してませんの。私たちが帰って来ましたのが、ちょうど子供たちの学校へ帰って行くその前日だったわけでしょう。私、そこまでは狼狽《あわ》てませんでしたわ。お父さんは、商売のご用でお留守なんだと、そう申してございますの」
こんな突然の秘密を胸に隠しながら、さりげなく快活にしていなければならないばかりか、子供たちを快く送り出してやる、いろんな支度万端にまで、気を配らなければならないというのは、決して生易しいことでなかったろう。ミセス・ストリックランドの声は、またしてもすすり泣きに震えた。
「かわいそうに、あの子供たちはどうなることでしょう? 私たち、どうして暮せばいいんです?」
取り乱すまいと、懸命に闘っていた。彼女の両手が、ひきつるように、幾度か握られたり、解けたりした。実際、見るにたえない痛々しさだった。
「僕でお役に立つとお思いになりますなら、そりゃむろんパリへでも行きますよ。だが、僕にどうしろとおっしゃるのか、はっきり言っていただきたいもんですねえ」
「私は、主人《たく》に帰ってもらいたいんですの」
「でも、マクアンドルー大佐のお話じゃ、離婚の決心をなすったように伺いましたが」
「いいえ、決して離婚なんぞしませんわ」と、彼女は、急に激しい剣幕になって言った。「そのとおり主人《たく》にお伝えくださいまし。いま一緒にいる女と結婚するなんて、そんなこと決してできやしませんから。強情なら、私だって決して主人《たく》に負けないつもりですわ。離婚なんぞするもんですか。子供たちのことを考えなくちゃなりませんもの」
今にして思えば、この最後の言葉は、彼女の態度を説明するために、つけ足したものであろう。だが、そのときは、母性愛というよりも、やはり女としてきわめて自然な嫉《しっ》妬《と》から出たものだ、と僕は思った。
「で、まだご主人を愛していらっしゃるんですね?」
「さあ、わかりませんわ。私としては、ただ帰ってきてもらいたいんですの。帰ってさえくれれば、すんだことはすんだことですわ。なんと言っても、十七年の結婚生活なんですものね。これでも私、心は広い女のつもりなんですのよ。あの人がなにをしようと、私の耳にさえ入らなければかまいませんわ。そんなにいつまでも、夢中になっていられるもんじゃないことくらい、あの人だって、わかってるはずですわ。いま帰ってきてさえくれれば、なにもかも穏やかにすんで、誰一人知らないですむんですもの」
ミセス・ストリックランドが、そんなにまで世間の口を気にしているのを見ると、僕はいささか興ざめだった。とにかくまだその頃《ころ》の僕は、他人の評判というものが、女の生活の中で、どんなに大きな役割を演ずるものであるか、知らなかったのだ。女の場合、それがどんなに深い心からの感情であっても、つねに一抹《いちまつ》、虚偽の影が射《さ》しているというのは、やはりこの他人の評判への気がねからなのだ。
ストリックランドの居所はわかっていた。例の共同出資者《パートナー》が、彼の銀行へ宛《あ》てて、激越な手紙を送り、居所を知らさない不都合を詰《なじ》ってやったのである。それに対して、ストリックランドは、皮肉な、しかも、ユーモラスな返事で、ちゃんと居所を知らせてきた。それによると、どうやらホテルに住んでいるらしい。
「私、まだそんなホテル、聞いたこともありませんわ」ミセス・ストリックランドは言った。「でも、フレッドがよく知ってますそうで、とても高いとこなんですってよ」
忌々《いまいま》しげに、彼女は、頬《ほお》を紅潮させた。豪勢な幾間つづきかの部屋におさまった夫、気の利《き》いたレストランからレストランへと食事をして歩いている夫、昼は競馬に、夜は芝居に、その日その日を送っている夫、そうした姿を、彼女は、次々と眼の前に描いていたのだろう。
「でも、もうあの齢じゃ、つづきっこありませんわ」と、彼女は言った。「なんといったところで、もう四十ですものねえ。若いものなら、そりゃわかりますけど、あんないい齢をして、それにもう成人《おとな》になりかけている子供までありながら、やれやれ、思っただけでもぞっとするわ。第一、身体《からだ》が持ちませんものね」
怒りと悲しみとが、彼女の胸の中で激しく闘っていた。
「だから、あの人に言ってくださいまし、家中が待ちこがれてますからって。なに一つ変らないように見えて、そのくせ、なにもかも変ってしまったんです。私、あの人なしには生きてられませんの。こんなことなら、いっそ死んだほうがましですわ。昔の日のこと、私たち二人が一緒に暮した、昔の思い出を話してやってくださいまし。もし子供たちに訊《き》かれたら、私、なんと言ったらいいんでしょう? あの人の部屋は、今でも家出のときそのままなんですのよ。あの人の帰りを待ってますの。私たち、みんな待ってますわ」
それから彼女は、僕の言うべき口上を、詳しく教えてくれた。また彼が持ち出すであろうあらゆる口実のためにも、一々実に周到な返答を用意してくれた。
「できるだけのことはしてくださいますわね」彼女は哀願するように言った。「どんなに私が苦しんでいるか、ようくおっしゃってくださいな」
ストリックランドの心を動かすように、僕の力でできるだけのことをしてもらいたい、というのが、彼女の意向らしかった。しまいには、手放しで泣いていた。これには、僕もひどく心を打たれた。ストリックランドの冷酷さを痛憤するとともに、とにかくできるだけの手を尽して、連れ戻《もど》すようにしてみよう、と約束した。明後日《あさって》には出発しよう、そしてなんとかなるまで、パリで頑《がん》張《ば》ってみるから、とも言った。ちょうど夜もだいぶ更《ふ》けたうえに、二人とも激しい感動に疲労しきっていたので、僕は、暇《いとま》を告げて帰った。
11
パリへの道々、改めて僕《ぼく》の使命を考えてみると、心もとなくなるばかりだった。取り乱した夫人の姿も、もうこれで見なくてすむと思うと、僕は、問題をより冷静に考えてみることができた。それにしても、彼女の行動に見られたいろんな矛盾が、次から次へと不審の種になった。なるほど、ひどい悲しみだったにはちがいない。だが同時に、僕の同情を惹《ひ》くために、ことさら不幸を誇示することもできたはず。彼女の涙が、いわば用意された涙であったことは、前もってハンカチの用意をしていたことでもわかる。用意周到ぶりには、感服した。が、考えてみると、それは涙の効果を、いくらか減殺《げんさい》するものであったとも言える。夫の帰りを願っているという彼女の言葉が、果して彼を愛しているためなのか、それとも、ただ世間の口がこわいためなのか、僕には見当がつかなかった。彼女の悲しみの中には、踏み躙《にじ》られた愛情の苦悩と一緒に、傷ついた虚栄心のうずき(それがまた若かった僕には、ひどく醜いものに思えたのだ)が混じっているような気がして、すっかりわからなくなってしまうのだった。人間の心というものが、いかに矛盾に充《み》ちたものであるかということ、誠実な人間の中にさえ、いかに多くの気取り《ポーズ》があり、高潔な精神の中にも、いかに多くの不純があり、かと思えば、背徳者の中にさえ、いかに多くの善意があるかということなど、まだそのころの僕には、わからなかったのである。
だが、僕の旅行には、なにか冒険に似たようなものがあった。そしてパリに近づくのにつれて、元気もよほど回復した。僕は、一種劇的な興味からも、自分の姿を想像してみた。迷える夫を寛容な妻のもとへ連れ戻《もど》す親友といった僕の役柄《やくがら》は、まんざら悪くない気もする。次の晩、ストリックランドを訪ねることに決めた。まず時間ということからして、細心の注意を払わなければならないと、本能的に感じたからである。人の感情に訴えるのに、昼飯前などを選んだのでは、効果のないことは、ほとんどはじめからわかっている。その頃《ころ》は、僕自身も、ある恋愛問題で絶えず頭の中はいっぱいだったのであるが、それでも、まさかお茶《テイー》もすまない前から夫婦愛を考えることなどは、とうていできなかった。
僕は、僕のホテルで、ストリックランドの泊っているホテルのことを訊《き》いてみた。オテル・デ・ベルジュといったが、ちょっと意外だったのは、管理人《コンシェルジュ》に訊くと、そんな名は聞いたこともないという。ミセス・ストリックランドの話では、なんでもリヴォリ街の裏通りにあたる、大きな豪勢なホテルだということだった。僕たちは、念のためにホテル案内を調べてみた。そういう名前のホテルは、ただ一つ、モアン街にあるきりだった。だが、それは決して一流の区域ではない。それどころか、多少いかがわしい界隈《かいわい》でさえあった。
「まさかこれじゃないと思うが」と、僕は首をひねって言った。
管理人は、ぴくりと肩をすくめた。パリ中に、この名のホテルは、これ一つしかないのだ。とっさに僕は思った、ストリックランドのやつめ、さては居所をくらましたな、と。つまり、いま僕の持っている所書きを、例の共同出資者《パートナー》あてに知らせてよこしたとき、すでに一杯食わせるつもりだったのにちがいない。かんかんに怒った仲買人氏が、はるばるパリまでやって来て、さてやっと場末のいかがわしい家を訪ねあててみると、なんとそれがとんだむだ足だとわかるという、そうした悪戯《いたずら》が、あのストリックランドという男には、おもしろくてたまらないのだと、なぜか知らぬが、僕にはそんな気がした。だが、とにかく一応は行ってみよう。翌晩の六時頃だった。モアン街までは貸馬車《キャブ》に乗って行ったが、あとはホテルまで歩いて、入る前にまず様子をたしかめたかったので、車は通りの角でかえした。道の両側は、貧しい人々の日用品を売る小店が並んでいて、歩いて行くと、ちょうど中ほどの左側に、果してオテル・デ・ベルジュがあった。僕自身のホテルも結構安宿だったが、これに比べると、豪勢なものだった。ひょろ高い、みすぼらしい建物、ペンキなどは、もう何十年と塗られたことはないのだろう。なんとも薄汚ない感じで、おかげで両隣の家々は、すっかり小綺《こぎ》麗《れい》に引き立っていた。汚れた窓は、一つ残らず閉っている。義務も名誉もかなぐり捨てて、例の謎《なぞ》の女と罪の快楽をつくしているはずのチャールズ・ストリックランドが、まさかこんなところにいるはずはない。僕は、なにか馬鹿《ばか》にされたような気がして、腹が立った。すんでのことでそのまま引き返すところだったが、ただ一つ、僕はミセス・ストリックランドに、できるだけのことはした、ということを言いたかったばかりに、入って行ったのである。
入口は、店の横を入ったところにあった。開け放しになっていて、入ったすぐのところに、「事務所は二階《ビュロー・オー・プルミエ》」と書かれている。狭い階段を上ると、踊り場に、ガラス仕切りのボックスのようなものがあって、中には机が一つと、椅子《いす》が二脚置いてある。さらに外側には、ベンチが一脚置かれていたが、いずれここで夜番が、寝苦しい窮屈な夜を明かすことになるのだろう。誰《だれ》もいなかったが、ベルがあって、その下に「ボーイ《ギャルソン》」と書いてある。鳴らすと、しばらくしてボーイが一人出て来た。いやな眼《め》付《つき》をした、ひどく仏頂面《ぶっちょうづら》の若者で、上《うわ》衣《ぎ》を脱いで、スリッパ一つだった。
なぜか知らないが、僕は、できるだけ何気ないふうをして、訊いてみた。
「もしかすると、こちらにストリックランドさんという人が、泊ってませんでしょうか」
「三十二番。七階でございます」
僕はあまりの驚きに、一瞬物も言えなかった。
「部屋にいますか?」
ボーイは、事務所《ビュロー》の中のボードを見た。
「鍵《かぎ》が預けてありませんから、行ってごらんになれば、おわかりになります」
僕は、どうせのことなら、もう一つ訊いてやれと思った。
「奥様はいらっしゃいます?《マダム・エ・ラ》」
「あの方はお一人ですが《ムシュー・エ・スール》」
ボーイは、僕が階段を上って行くのを、うさん臭そうに見送っていた。暗くて風通しが悪く、不潔で、ひどい黴《かび》の臭《にお》いだった。三階ほど上ったところで、部屋着を羽織った、ぼうぼう髪の女が、扉《とびら》を開けて、僕の通って行くのをじっと見ていた。とうとう七階に辿《たど》りついて、三十二番と書いた部屋の扉をノックした。中で音がして、扉が少しばかり開いた。チャールズ・ストリックランドが、僕の前に立っていた。彼は一言も言わない。明らかに、僕を憶《おぼ》えてはいないのだ。
まず僕のほうから名を名乗った。できるだけ気軽なふうを装って、
「ご記憶はございますまいね。この七月でしたか、ご一緒に晩餐《デイナー》を頂戴《ちょうだい》しましたが」
「やあ、入りたまえ」と、彼は元気よく言った。「よく来てくれましたね、まあ掛けたまえ」
僕は中へ入った。おそろしく小さな部屋で、それにフランス人が、いわゆるルイ・フィリップ風と呼んでいる様式の家具類が、足の踏み場もないほどごたごた入っている。大きな木《き》枠《わく》のベッド、浪《なみ》のように膨れ上った真赤な羽根布《ぶ》団《とん》、大きな洋服箪《だん》笥《す》、円テーブル、おそろしく小さな洗面台、そして赤いレップ張りの椅子が二脚。なにもかもが、埃《ほこり》っぽくて、侘《わび》しいのだ。あのマクアンドルー大佐が、さも自信たっぷりに述べ立てた贅沢三昧《ぜいたくざんまい》など、薬にしたくも見られない。片方の椅子に載っていた洋服を、ストリックランドがぽいと床の上に投げ出してくれた。やっと僕は坐《すわ》れた。
「ところで、なんですかね、ご用は?」と、彼は訊いた。
この小さな部屋の中で、彼は、この前に見たときよりもいっそう大きく見えた。古ぼけたノーフォーク・ジャケットを着て、もう幾日も、鬚《ひげ》さえ剃《そ》らないらしかった。この前に会ったときは、きちんとはしていたが、妙にぎごちなさそうだった。ところが今日は、頭髪にも櫛《くし》一つ入れていない、ひどく薄汚ない格好こそしているものの、まるで魚が水に返ったような心安さだ。僕の用意している言葉を、果して彼がどうとるか、僕には見当がつかなかった。
「奥様のお使いでお訪ねしたのですが」
「僕はね、今ちょうど晩飯前で、一杯やりに出ようかと思ってたところなんだ。君もひとつどうです? アブサンは好きですか?」
「飲むには飲めますが」
「じゃ、行こう、君」
彼は、埃だらけの山高帽をかぶった。
「一緒に食事をしてもいいだろう? とにかく僕は、一回分、君に晩飯の貸しがあるわけだからね」
「なるほど、確かにそうですね。お一人ですか?」
かんじんの問題に、こう自然に入れたとすると、こいつはしめたかな、と思った。
「もちろん一人だとも。この三日間というものは、誰とも全く口を利《き》かずじまいだからねえ。それに僕のフランス語というのが、あまり自慢にならないんでね」
彼について階段を下りながら、いったい喫《ティ》茶店《ーショップ》の少女というのは、どうなったのだろう、と僕は思った。喧《けん》嘩《か》別れでもしてしまったのだろうか? それとも、彼のほうで、熱が醒《さ》めてしまったのだろうか? だが、もし彼が、一年もかかって、このとっぴな行動の準備をしていたという噂《うわさ》が真実なら、それはどうもおかしい。僕たちは、クリシ街まで歩いて、とある大きなキャフェの舗道のテーブルに席をとった。
12
この時刻のクリシ街は、おびただしい人出だった。空想をほしいままにすれば、道行く人々の中に、いくらでも侘《わび》しいロマンスの主人公たちを、見ることができたろう。会社員や女店員、オノレ・ド・バルザックの小説の中からでも出てきたような老人、人間の弱味につけこむ金儲《かねもう》けを商売にしている男や女、パリの貧民街には、人の血を沸き立たせ、そして、なにか思わぬすばらしいものを予期させるような、生々とした群衆が、流れていた。
「パリはよくご存じですか?」と、僕《ぼく》は訊《き》いた。
「いや、新婚旅行に来ただけだね。その後は全く知らない」
「じゃ、どうしてあのホテルをお見つけになりました?」
「なに、人から教えてもらったのさ。どこか安いとこが欲しかったんでね」
アブサンが来た。僕たちは、さももったいぶった手付きで、角砂糖の上に水を滴《したた》らせた。
「実は、なぜお訪ねしたか、すぐお話ししなければ悪いとは思ったんですが」と、僕は、間の悪さを感じながら、切り出した。
彼の眼《め》が、きらりと光った。
「なに、遅かれ早かれ、誰《だれ》か来るとは思ってたがね。エイミーからだって、ずいぶん手紙は来ているし」
「じゃ、私の用件もたいていご存じでしょうね?」
「ところが、読んでないんだ」
僕は、ちょっと間を置くために、煙草《たばこ》に火を点《つ》けた。さて、どう用件を切り出したものか、わからなかった。用意してきたつもりの雄弁は、悲痛な哀訴であるにせよ、激越な義憤であるにせよ、どうもこのクリシ街の街頭では、妙に勝手ちがいの感じで仕方がなかった。突然、彼はくすりと笑った。
「大変な用件だろうぜ、そりゃ、君」
「さあ、どうですかねえ」と、僕は答えた。
「じゃ、君、早く片づけたまえよ、そして後は、愉快に飲もうじゃないか」
僕は、ちょっとためらったが、
「奥様は、非常に悲しんでおいでになる、そのことはお考えになりませんか?」
「なに、すぐなおるよ、君」
そう答えたときの、驚くべき彼の冷酷さを、僕は、とうてい伝えることができない。僕は、ちょっと度を失った。だが、できるだけ色には出さないようにした。そして、牧師をしている僕の叔父のヘンリーが、親戚《しんせき》の誰彼をつかまえては、特別牧師補会のために寄付金をねだる、あの声の調子を借用してみたのだ。
「じゃ、ざっくばらんに申しますが、かまいませんか?」
彼は、にこにこしながらうなずいた。
「奥様は、あなたからこんな目に遭わされても仕方がないような、なにかそんなことでもなさいましたか?」
「しないねえ」
「じゃ、奥様に対して、なにか不満でもおありになるんですか?」
「ないねえ」
「それじゃですね、十七年も結婚生活をなすって、しかも、なに一つ非難すべき点もないというのに、こんなふうに捨てておしまいになるというのは、ひどいじゃありませんか?」
「そりゃ、ひどいさ」
驚いて、僕は彼の顔を見た。こう一々僕の言うことに同意を表されては、僕としては立つ瀬がなくなるのだ。馬鹿《ばか》馬鹿しいばかりではない。僕の立場としては、まことに面倒なことになってくるのである。僕は、説得する用意も、哀訴する用意も、ないしは説諭、勧告、切諫《せつかん》の心構えまでしてきていた。いや、必要とあれば、罵詈《ばり》、痛撃、冷嘲《れいちょう》に及ぶ覚悟すらないではなかった。だが、今のように、平気で罪人がどんどん自分の罪を認めていくとしたら、諫言者たるものは、どうすればよいのだ。なんでも一応否定するのが常であった僕としては、そうした場合の経験は皆無だった。
「で、その次は?」と、ストリックランドは訊いた。
僕は、わざと軽蔑《けいべつ》するように、唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
「いや、ご自身でそれだけおわかりになっていれば、僕としては、もうたいして言うことはありません」
「そりゃ、そうだろうねえ」
僕は、使者ぶりのまずさ加減を、はっきり感じていた。明らかにいらいらしてきた。
「だがね、あなた、いったい女をですよ、一文なしにして捨ててしまうなんて、よくもそんなひどいことができたもんですねえ」
「ほほう、いけないかねえ?」
「だって、どうして暮していきます?」
「僕は、十七年間あれを養ってやったんだ。今度はひとつ自分の力で食ってみるのも、目先が変っていいじゃないか」
「そんなことはできませんよ」
「まあ、やらしてみるさ」
むろん僕としては、いろんな応酬の仕方もあったろう。女の経済的地位のことや、男が結婚という事実によって、公然、ないしは暗黙のうちに承認しているはずの契約のことや、その他そういった論拠は、いくらでもあったろう。だが、結局かんじんな点は、一点に尽きるような気がした。
「じゃ、もう奥様を愛しておいでにはならないんですね?」
「ああ、ちっとも」と、彼は答えた。
なるほど当事者たちにとっては、きわめて重大な問題であったろうが、彼の返答ぶりには、あまりにも人を食った朗らかさがあって、僕は、むしろ笑いを我慢するのに、唇を噛《か》んでいなければならなかった。許しがたい行為だ、と僕は、あらためて自分自身に言い聞かせた。無理に義憤を煽《あお》り立てた形だった。
「そりゃむちゃだ、子供のことだって、考えなければなりますまい。子供たちには罪はない。なにも生んでくれといって頼んだわけじゃなし、こんなふうにあなたが、なにもかも放《ほ》っぽり出してしまうんじゃ、子供さんたちは、街の真中へ放《ほう》り出されたも同然ですよ」
「あいつらは、長い間楽をしてきたんだ。それは世間の子供が、十人の者なら九人までは知らない大きな幸福だ。それに、君、誰か面倒くらい見てくれるさ。いざとなれば、マクアンドルーの家だって、学費くらいは出してくれようじゃないか」
「でも、可《か》愛《わい》くはないんですか? 本当にいいお子さんじゃありませんか。もうあの子供さんたちとも、いっさい手を切ろうとおっしゃるんですか?」
「そりゃ小さいときは可愛かったね。だが、今じゃ大きくなっちまって、そうだ、特にどうとも思わないね」
「そりゃもう人間じゃない」
「そうかもしれん」
「恥ずかしいとはお思いにならないんですね?」
「思わないねえ」
僕は、攻め口を変えてみた。
「でも、世間じゃ、あなたのことを犬畜生だと言いましょうよ」
「言わしておくさ」
「みんなから嫌《きら》われ、軽蔑されても、なんともないんですか?」
「ああ、ないさ」
この簡単明瞭《めいりょう》な答えは、あまりにも侮蔑に充《み》ちたものだったので、かえって僕の自然な質問のほうが、妙に間が抜けて聞えた。僕は、一、二分間じっと考えてみた。
「だが、人間というものはですね、世間の非難をはっきり意識しながら、それでもなお気持よく暮していけるもんでしょうかねえ? だんだんこたえてくるということはありませんか? 誰だって、良心らしいものはありますからね、いつかは、そいつが物を言ってきますよ。たとえばですね、奥様が死なれても、あなたは少しも後悔なさいませんか?」
彼は答えなかった。僕は、しばらく黙って返事を待っていたが、とうとう、僕のほうから切り出すよりほかなかった。
「今の問題はどうです?」
「ただ一つ、君がとんでもない大馬鹿野郎だということだけだ」
「だが、とにかくですね、あなたは、いやでも応でも、奥様とお子さんを扶養する義務は負わされるんだ」と、僕も多少むっとして、言い返した。「多分法律が、それ相当の保護をしましょうからね」
「いくら法律だからって、石塊《いしころ》から血が絞れるかね? 僕はね、金なんか持ってやしない。あっても、まあ百ポンドくらいのものかな」
僕は、ますますわからなくなった。なるほど彼のホテルから見ても、それはおそろしい窮乏を物語っている。
「じゃ、それを使ってしまったら、どうなさるんです?」
「稼《かせ》ぐさ」
まったく泰然としている。そして彼の眼には、たえずあの嘲《あざけ》るような微笑が浮んでいて、それがまたよけいに僕の質問を、一々妙に馬鹿げて見せるのだった。僕はちょっと黙って、さて次は何と言ったものか、考えてみた。だが今度は、彼のほうから口を切った。
「なぜエイミーは再婚しないんだね? まだまだ若いほうだし、まんざら見られなくもない。女房《にょうぼう》として申し分ないことは、この僕が請け合うよ。もし離婚したいんなら、必要な理由くらいは、いつでもこしらえてやる」
今度は僕の笑う番だった。どうして食えない男ではあるが、まさしくやつの本音はここにある。女と逃げたということだけは、なにか理由があって、ぜひ隠しておかなければならないのだろう。だからこそ、あらゆる手段を弄《ろう》して、女の居所をくらまそうとしているのだ。僕は、はっきり答えてやった。
「奥様はね、あなたがどんなことをなさろうと、決して離婚なんぞしないとおっしゃってますよ。すっかり決心しておられるのです。まあそんな望みは、この際きっぱりとお捨てになることですねえ」
今度こそは、真実らしい驚きの色を浮べて、彼は僕の顔を見た。唇からは微笑が消えて、ひどく真剣な調子で言った。
「だが、ねえ、君、僕はどうだってかまわない。どちらに転ぼうと、ちっともかまやしない」
僕は笑い出した。
「ねえ、あなた、僕らをそう見くびるもんじゃありませんよ。あなたがね、女の人と一緒に来ているくらいのことは、ちゃんと知ってますからね」
彼は、ちょっとはっとなったようだが、突然、はじけるように笑い出した。あまり頓狂な声だったので、周囲の人たちは、みんな僕らのほうを振り返って見るやら、中には一緒になって笑い出すものさえあった。
「なにがそんなにおかしいんです?」
「馬鹿なやつだ、エイミーってやつも」彼はにやりと笑った。
だが、次の瞬間には、恐ろしい冷笑に変っていた。
「なんてけちな了簡《りょうけん》なんだろうねえ、女ってやつは! 愛だ。朝から晩まで愛だ。男が行ってしまえば、それはほかの女が欲しいからだと、そうとしか考えられないんだからねえ。いったい今度のようなことをだよ、たかが女のためにやるなんて、僕をそんな馬鹿な人間だと、君、考えてるのかね?」
「じゃ、奥様を捨てておいでになったというのは、女のためじゃないとおっしゃるんですか?」
「当り前さ」
「名誉にかけてですね?」
なぜこんなことを訊いたものか、僕自身にもわからないのだが、考えてみると、ずいぶん無邪気なことを言ったものだ。
「むろん、名誉にかけてもいい」
「じゃ、いったいなんのために家出なんぞなすったんです?」
「絵が描きたいんだよ、僕は」
僕は、ずいぶん長い間、じっと彼の顔を見つめていた。わからなかった。気が狂ったのではないかとも思った。念のために言っておくが、僕などまだまだ若造で、僕の眼からは、彼などりっぱな中年男に見えていたのだ。僕の頭の中は、驚きでいっぱいになった。
「でも、もう四十でしょう、あなたは?」
「だからこそ、いよいよやらなくちゃだめだと決心したんだよ」
「絵など、おやりになったことあるんですか?」
「子供のときは、むしろ画家になりたかった。だが、親《おや》父《じ》に商売人にさせられてしまった。画家じゃ金にならないからというわけでね。ところで、この一年くらい前から、少しずつはじめてみたのだ。ずっとその間、ある夜学にまで通ってね」
「じゃ、それですね? 奥様のほうじゃ、クラブでブリッジをしておられるものとばかり、思っておられたのは?」
「そうだ」
「なぜそれをお話しにならないんです?」
「黙ってるほうがいいと思ったからさ」
「で、あなた、お描けになるんですか?」
「まだだめだね。だが、今に描ける。だからこそ、ここへ来たのだ。ロンドンじゃ、僕の望むものが得られなかった。だが、多分ここならできると思うのだ」
「でも、あなたのような齢《とし》でおはじめになって、いったい物になるもんでしょうか? たいていは十八くらいからはじめるんじゃありませんか」
「だが、僕は十八のときよりも、今のほうが覚えが早いんだ」
「自分に才能があると、どうしておわかりになります?」
彼は、ちょっと答えをためらった。彼の眼は、じっと舗道の人の流れに向けられていたが、それらが、彼の瞳《ひとみ》に映っているらしい様子はなかったし、答えも答えになっていなかった。
「僕はね、描かないじゃいられないんだ」
「でも、ずいぶん冒険じゃありません?」
彼は、じっと僕の顔を見た。その眼は、僕さえ多少不安を感じたほど、なにか異様な光を帯びていた。
「君はいくつだね? 二十三?」
僕には、やや見当ちがいの質問という気がした。僕自身が危険を冒すというなら、少しもそれは不思議でない。だが、彼はすでに青春を失った人間であり、世間的にもちゃんとした地位と、妻と、それに二人の子供まで持った株式仲買人なのだ。僕にとっては当り前の人生コースも、彼にとってはお話にならないという場合もあろう。あくまでここは、公平でありたかった。
「もちろん奇《き》蹟《せき》ってこともありますからね、あなたが大画家にならんともかぎらんでしょう。だが、正直に言って、まずそれは、万が一だろうということだけは、あなただってお認めにならなくちゃなりますまい。それで結局、自分でもだめだとあきらめるようなことにでもなれば、ずいぶんつまらないじゃありませんか?」
「僕は、もう描かないじゃいられないのだ」と、彼は、もう一度繰返した。
「じゃ、かりにですね、あなたが終始三流画家の域を出なかったとして、それでもなおすべてを抛《なげう》っただけの甲斐《かい》はあった、とお思いになるでしょうか? これがほかの仕事ならですよ、なにも特に人に傑《すぐ》れなければならないということはない。人並み相当の力さえあれば、結構やっていけますよ。ところが、芸術家の場合は別ですからねえ」
「実に馬鹿だね、君は」と、彼は言った。
「なぜです? 当り前のことを言うのが、馬鹿だというなら別ですが」
「僕は言ってるじゃないか、描かないじゃいられないんだと。自分でもどうにもならないのだ。水に落ちた人間は、泳ぎが巧《うま》かろうと拙《まず》かろうと、そんなこと言っておられるか。なんとかして助からなければ、溺《おぼ》れ死ぬばかりだ」
彼の声には、真実の情熱がこもっていた、そして僕ですら、われにもあらず心を打たれるものがあった。彼の胸のうちで闘っている、ある激しい力を感じるような気がした。おそろしく強い、圧倒するような力が、彼自身の意志すらどうすることもできない激しさで、彼を掴《つか》んでいるように思えた。僕にはわからなかった。字義どおり悪魔に憑《つ》かれているというか、実際今にも彼の身が引き裂かれてしまうのではないか、という気さえした。ところが、彼のほうは平然として少しも変らない。一心に見つめている僕の視線に対しても、まるでどこ吹く風といったあんばいだった。僕は、ふと思った、この男を、もし知らない人間が見たら、なんと見るだろう? 古いノーフォーク・ジャケットに、埃《ほこり》だらけの山高帽をかぶった男、ズボンはだぶだぶだし、手は垢《あか》だらけだ。剃刀《かみそり》を当てない顎《あご》のあたりは、赤毛がぼそぼそと伸びているし、それに小さな眼、大きな憎らしい鼻、顔全体が無骨で、がさつな感じだった。口は大きく、唇は厚ぼったくて、ひどく肉感的に見える。そうだ、僕にしても、とうてい見当はつくまいと思った。
「じゃ、奥様のところへは、帰らないとおっしゃるんですね?」と、僕は最後に言った。
「そう、絶対に」
「奥様のほうじゃ、今までのことはみんな無かったことにして、新しく出直してもいいと、そうおっしゃるんですが。むろん恨みがましいことなんか、一言だっておっしゃらないと思いますね」
「ふん、勝手にするがいいさ」
「じゃ、世間であなたのことを、人非人《ひとでなし》だの、鬼だのと言っても、それでかまわないとおっしゃるんですか? 奥様やお子さんが、乞《こ》食《じき》をなすってもかまわないとおっしゃるんですね?」
「ああ、ちっとも」
そこで僕は、次の言葉に重みをつけるために、ちょっと言葉を切った。そしてできるだけゆっくり言ってやったのだ。
「あなたという人間は、箸《はし》にも棒にもかからない下劣な人間だ」
「さあ、それで君も胸が晴れたろう。食事に行こう」
13
多分これは、断わったほうが適当であったかもしれない。事実感じていた憤激を、そのままぶちまけてしまうべきだったようにも思う。君のような人間と、食卓をともにするなどまっぴらだと言って、断固拒絶したとでも報告すれば、少なくともマクアンドルー大佐は、もっと僕《ぼく》を買ってくれたろうと思うのだ。だが、かんじんの最後のところへくると、どうもうまく断わりきれないのではないかという僕の弱気が、ついついそうした正義派的態度をためらわせるのだった。そしてこの場合にも、しょせん僕の意見など、ストリックランド相手では糠《ぬか》に釘《くぎ》だろうと思うと、妙にばつが悪くて言い出せなかった。百合《ゆり》の花の咲き出すのを楽しみに、せっせとアスファルト舗道に水を撒《ま》くなどという芸当は、詩人か、聖者ででもなければ、できることではないのだ。
僕は、酒場の勘定を払い、そのあとは、ひどく立てこんだ、賑《にぎ》やかな安レストランへ行って、愉快に食事をすませた。僕には青年の食欲があり、彼には冷酷な人間のもつ食欲があった。それからまた、もう一度酒場へ行って、コーヒーとリキュールを飲んだ。
僕のパリへ来た用件は、すべてもう言いつくしてしまった。このまま旗を巻いてしまうのは、ミセス・ストリックランドを裏切るようで悪かったが、彼の冷淡さには僕も兜《かぶと》を脱いだ。同じことを三度まで、少しも変らない熱心さで繰返すのは、女の根性にでもならなければ、できる仕事ではない。それよりか彼の奇怪な心境を、できるだけ探ってみるほうが、まだしも有益だろうと考えて、ひそかに自ら慰めた。おまけに、それにはもっと大きな興味もあった。といってこれも、むろん容易なことではなかった。第一、相手は、決してぺらぺらしゃべる男でない。彼にとっては、言葉というものが、最初からもう思想の媒体ではないらしく、話すことはひどく苦しそうだった。陳腐な言いまわし、俗語《スラング》、曖昧《あいまい》な、しかも中途半《はん》端《ぱ》な身振り、そういったものから、彼の魂の志向するところを推量しなければならないのだ。たいしたことは言わないのだが、といって、簡単に退屈だとも言いきれないものが、彼の性格の中にあった。誠実さというやつかもしれない。今はじめて見ているパリ(新婚旅行は問題外だ)、それにも別に興味はないらしかった。物珍しかったにちがいない風景にも、いっこう驚いた様子はなく、静かに眺《なが》め過していた。僕などは、何十度となくパリへ来ているが、それでいて今なお胸のときめきを感じないことはない。あの街々を歩くたびに、僕は、なにか言い知れぬ冒険の一歩前に立っているような気がする。ところが、ストリックランドは、けろりとしているのだ。今にして思えば、彼は、ただその心を揺り動かしている一つの幻、それ以外には、もういっさいなにも見えなかったのだろう。
その晩、ちょっと滑稽《こっけい》な出来事があった。酒場には数人の売笑婦がいた。男と一緒にいるのもいれば、一人きりで坐《すわ》っているのもいた。そのうちに僕は、女の一人が僕たちを見ているのに気がついた。ストリックランドの視線とかち合うと、女は、ちょっと微笑した。だが、彼のほうでは気がつかないらしい。まもなく女は出て行った。だが、すぐ引き返して来たかと思うと、僕らのテーブルの前へ来て、なにか飲物をとってくれと、おそろしく慇懃《いんぎん》に頼んだ。女はそのまま坐り込んでしまうし、僕は女相手に話しはじめた。だが、女の興味が、ストリックランドにあることは明《めい》瞭《りょう》なのだ。仕方がない、僕は、この人はフランス語がほとんどできないのだと説明してやった。それでも女は、半分は身振り、半分は、なんとかそのほうが通じるとでも思ったらしく、東洋風《ピジン》フランス語を使って、彼に話しかける。それに英語も、五つ六つくらいは片言を知っているらしかった。そしてフランス語でしか言えないところは、僕に通訳させて、しきりに彼の返事の意味を聞きたがるのだ。彼は、ひどく上機嫌《じょうきげん》で、多少は興がってさえいるようだった。だが、ただ無関心なことだけは、明らかだった。
「とうとう物にしたらしいな」と、僕は、笑いながら言った。
「別にうれしくないさ」
これがもし僕だったら、さぞかしもっとまごついてもいたろうし、またこう平静ではいられなかったろうと思うのだ。女は、明るく笑う眼《め》、それに実に魅力のある口もとをしていた。若くもあった。この女が、ストリックランドのどこにそんなに惚《ほ》れこんだのだろうと、僕はむしろ不思議だった。女はその要求を、少しも隠そうとはしなかった。それどころか、僕に通訳してくれとさえ言うのである。
「あなたと一緒に行きたいんだそうですよ」
「俺《おれ》は要らん」と、彼は笑った。
僕は、この返事を、それでもできるだけ色をつけて通訳してやった。こうした種類の招待を斥《しりぞ》けるのは、僕にはなにか多少侮辱のような気さえして、断わるのは金がないからだ、と言ってやった。
「だって、私、あの人が好きなのよ」と、女は言った。「だから言ってちょうだいよ、ね、商売ずくじゃないんだって」
通訳すると、彼は、たまらないように、肩をぴくりとすくめた。
「畜生、悪魔にでも食われろ、そう言ってくれたまえ」
彼の態度で、返事の意味は明瞭だった。女は急に昂然《こうぜん》と頭を反らした。化粧の下では、多分真赤になっていたのだろう。立ち上った。そして言った。
「野暮な旦那さ《ムシュー・ネ・パ・ポリ》」
女は酒場を出て行った。僕も多少腹が立った。
「なにも侮辱することはないじゃありませんか? むしろあなたに敬意を払ってたくらいなんですからね」
「ああいうことは大嫌《だいきら》いなんだ」と、彼は、噛《か》んで吐き出すように言った。
僕は、つくづくと彼の顔を眺めた。本当に不快そうな感情が、顔色にまではっきり現われていた。そのくせそれは、なにか荒《すさ》んだ、肉感的な男の顔なのだ。そしておそらくこの動物的なものが、あの女を魅惑したのであろう。
「なにも女が欲しけりゃ、ロンドンにだっていくらでもいる。そんなことで、ここへ来たんじゃない」
14
ロンドンへ帰る道々、僕《ぼく》は、いろいろとストリックランドのことを考えてみた。とにかく夫人に報告する事項を、整理してみようと思った。むろん、ひどく不満足なものであり、彼女の得心がえられようなどとは思わなかった。第一、僕自身が不満だった。とにかくわからない男だ。動機も不可解だった。最初どうして画家などになる気を起したのか、と訊《き》いてみたが、言えないのか、言いたくないのか、返事をしなかった。僕としては、なに一つ掴《つか》むことができなかった。彼の鈍い心にも、かすかながら、やはり反逆性が、徐々として頭をもたげていたのだろうか? そんなふうにも、一応は解釈してみた。だが、それにしては、彼が一度として生活の単調さを呪《のろ》ったことがないという、この疑うことのできない事実が承知しない。もしただ退屈さに堪えかねて、いっさいの煩《わずら》わしい係累《けいるい》を絶つために画家になる決心をしたというのなら、それはわかるし、それならば月並みだ。だが、月並みだとだけは、どうしても僕には考えられなかった。結局まだロマンティックだったその頃《ころ》の僕は、無理だとは知りながら、とにかくなんとか、自分だけでも満足のいく唯一《ゆいいつ》の説明を作り上げてみた。それはこうだ。彼の魂の中に、なにかおそろしく根強い創造本能とでもいうようなものがあり、それがいろんな生活事情から隠れていたが、その間に、ちょうどあの癌《がん》が、組織の中で根を張ってくるように、容赦なく成長し、ついには彼の全生命を支配するようになり、否応《いやおう》なしに行動に走らせてしまったのではないか? カッコウ鳥は、その卵をほかの鳥の巣に生みつけて、しかもその雛《ひな》が孵《かえ》ると、乳兄弟たちを押し出してしまい、ついには自分を守ってくれた巣をさえ壊してしまうという。
だが、それにしても創造本能が、この鈍感な一仲買人を捉《とら》えたというのは、(しかもそれは、おそらく彼自身の破滅であるばかりでなく、彼によって生きるいっさいの人々の不幸なのだ!)なんという奇妙な因縁《いんねん》であろう。だが、考えてみると、権勢と富を誇る男たちの心を捉えて、執拗《しつよう》に追い求め、やがては力尽きた彼らを、地上の喜びも女の愛も打ち捨てて、ひたすら僧院の苦行生活へと追い立ててゆく、あの神の愛などというものも、結局はこれと同じなのではないか。回心は、人さまざまの形をとり、人さまざまの仕方でもたらされる。激流に微《み》塵《じん》と砕ける小石のように、大変動《キャタクリズム》を必要とするものもあれば、絶えまない点滴に、いつとはなしに削られていく石のように、徐々として来るものもある。ストリックランドには、狂信家の直截《ちょくせつ》さと、使徒の激情とがあった。
だが、実際的な僕の頭には、果して彼を捉えている情熱が、その作品によって正当化されるものかどうか、という宿題が、まだ残っていた。ロンドンで通ったという夜学で仲間の画学生たちが彼の絵をなんと言ったか、彼に訊いてみたが、まるで彼は、嘲《あざけ》るように笑いながら、言った。
「本気にはしてなかったねえ」
「こちらでも、どこかアトリエへ通ってるんですか?」
「通ってるよ。今朝も奴《やっこ》さんが――いいね、先生のことだぜ――まわって来やがってね、僕の絵を見るとどうだ、ひょいと肩をすくめたきりで、行っちまいやがった」
彼はくすりと笑った。むろん悄《しょ》気《げ》ている様子などなかった。てんで人の言葉など問題にしないのだ。
そしてこのことが、僕の談判中にもいちばん厄介《やっかい》な点だった。通常、他人の思惑など構うものかと言うときにも、たいていの人は自己を偽っている。大方は、自分の気《き》紛《まぐ》れが、決して人には知れないだろうという安心のもとに、したい放題をするだけのことなのだ。せいぜい極端な場合でも、彼らが大多数の見解に反して行動するのは、結局のところ隣人たちの同意に支持されているからである。いわゆる因襲打破ということも、そのことが仲間内での一つの因襲になっているかぎり、別に困難なことではない。まず第一に、それは滑《こっ》稽《けい》なほど自《うぬ》惚《ぼ》れを与えてくれる。ほとんどなに一つ危険を冒すことなしに、勇気の自己満足が得られるのだ。だが、人の同意を求める心は、おそらく最も抜きがたい文明人の本能なのではあるまいか? 踏みにじられていきり立つ社会通念の矢玉から、なんと真先に世間体という物陰に逃げこむのは、あのいわゆる新しい女たちである。世間の評判などなんだと高言する人間を、僕は信じない。要するに無知の空威張りにすぎないのだ。誰《だれ》も知るまいと確信している罪過に関して、俺《おれ》は世間の非難など怖くないという、ただそれだけのことにすぎないのだ。
ところが、ここに、真実世間の思惑を問題にしない男がいるのだ。因襲も彼に対しては無力である。まるで全身油を塗った闘技士《レスラー》のように、掴みどころがないのであり、まことに人を馬鹿《ばか》にした自由の振舞だった。僕は、こんなことを言ったのを憶《おぼ》えている。
「だが、いいですか、もしみんなが、あなたのような真似《まね》をするとしたら、この世の中はどうなります?」
「これはまた馬鹿な話だねえ。みんなが僕の真似をしたがるなんて、そんなことがあるもんか。まず百人がとこ、九十九人は、平凡なことで満足しているんだ」
また一度は、ひとつ皮肉に出てみたこともある。
「あなたは、こういう金言を信じないらしいですね――汝《なんじ》のすべての行為が、普遍的法則でありうるごとく行為せよ、という」
「聞いたこともないね。だが、愚の骨頂だよ」
「だが、これを言ったのはカントですよ」
「そんなことは知らん。とにかく愚の骨頂だよ」
こういう男を相手では、良心に訴えてみたところで、効《きき》目《め》のないのは知れていた。鏡のないところで、影の映るのを待つようなものだった。良心とは、各個人の中にあって、社会が自己保存のために創《つく》り出した法則を見張っている、いわば監視人であるというのが、僕の考えだ。われわれの心の中にあって、われわれがその法を犯さないように見張っている警官でもあれば、また自我の本丸に巣くっている間諜《スパイ》ででもある。われわれが世間の是認を求め、また反対に非難を恐れる気持が、あまりにも強いために、結局われわれ自身の手で、敵を城門内に招じ入れてしまった形なのだ。彼は、たえずわれわれに監視の眼《め》を注ぎ、そして社会というその主人のために、かりにもわれわれが集団から離れ去ろうという気配を見せたりすると、それがまだ形に出ない以前に、いち早く叩《たた》き潰《つぶ》してしまおうと、眼を光らしているのだ。それは自己の利益の前に、まず社会の利益を考えさせるという、いわば個人を全体に結びつける強力な鎖である。そして人は、彼自身の利益よりも大であると信ずる、社会の利益に服従し、あたかも親方に対する奴《ど》隷《れい》の関係になってしまう。親方を主賓席に坐《すわ》らせ、自分は、肩口に打ち下ろされる王杖《おうじょう》に尻《しっ》尾《ぽ》を振る廷臣のように、いたずらに良心の鋭敏さを誇って快としているのだ。そして一方、かかる権威を認めない人間に対しては、悪《あく》罵《ば》に日もこれ足りないといった有様。というのは、今や社会の一員になりすました彼にとっては、こうした人間が全く始末に困ることを、はっきり知っているからである。ストリックランドが、その行為から当然予想される非難に対して、これはまた全く無関心であることに気がついたとき、僕としては、ほとんど人間ばなれしたこの怪物の前から、慄然《りつぜん》として引き退《さが》るよりほかなかった。
その晩、別れたときに、最後に彼の言った言葉はこうであった。
「いくら追っかけて来てもむだだと、そうエイミーに言ってくれたまえ。だが、とにかく僕のほうでも、ホテルを変えることにしよう、見つからないようにね」
「でも、お話を聞いてますと、あなたのような人に出て行ってもらって、奥様は、むしろ幸福なんじゃないかという気もしますねえ」
「君、それなんだよ。それをよく言ってやってもらいたいね。ところが、女というやつが馬鹿でね」
15
ロンドンに着いてみると、夕飯をすませたらすぐにも来てほしいという、夫人からの至急の催促が待っていた。行ってみると、すでにマクアンドルー夫妻が来ていた。ミセス・ストリックランドのこの姉は、妹に似たところもあるが、さらにいっそう老《ふ》けていた。そしてよく上流の細君連がそうであるように、自分たちが上流階級に属しているという優越感から来る、まるで大英帝国をポケットにでも入れてまわっているような、ひどくしゃきしゃきした態度だった。挙動《ものごし》一つからきびきびしていて、生れのよさがさせる業か、人と生れて軍人にならないくらいなら、むしろ手代にでもなったほうがましだ、とでも言わんばかりの自負心を、ほとんど隠そうともしないのだった。近《この》衛《え》士官は自《うぬ》惚《ぼ》れだから大嫌《だいきら》いだ、とも彼女は言った。そして、容易にご機《き》嫌伺《げんうかが》いにやって来ないその細君連のことは、噂話《うわさばなし》の題目にするさえ不快だといった様子だった。金がかかっただけで、ひどく野暮な服装をしていた。
ミセス・ストリックランドは、眼《め》に見えてそわそわしていた。
「どうでしたの? どうぞおっしゃってくださいな」と彼女は言った。
「お目にはかかりましたがね。どうやら、絶対にお帰りにはならないつもりのようですねえ」そして僕《ぼく》は、ちょっと間をおいて、また言った。「絵をお描きになりたいんだそうですよ、ご主人は」
「なんですって?」ミセス・ストリックランドは、飛び上らんばかりの驚き方だった。
「そんなふうなことにご熱心だということは、全然ご存じなかったんですか?」
「頭がおかしくなったに相違ない」と、大佐が叫んだ。
ミセス・ストリックランドは、ちょっと眉《まゆ》をよせた。記憶の中を探し求めていたのである。
「そういえば、まだ結婚しない前、絵具箱などを提げて、ぶらぶらしてたことはありましたっけ。でも、そのまずさ加減たらありませんでしたわ。私たち、いつもからかったもんですわ。そんなふうな才能ときたら、それこそてんでなかったんですもの」
「むろん、ただの言い訳ですわよ」とミセス・マクアンドルーが横から口を出した。
ミセス・ストリックランドは、しばらくじっと考えこんでいた。僕の言葉が腑《ふ》に落ちないことは、明らかだった。客間も今ではだいぶ整っていた。それは、彼女の主婦としての本能が、狼狽《ろうばい》に打ち勝ったためであろう。事件後はじめて僕が訪ねて行ったあのときの、まるで長い間、貸家にでもなっていたかのような侘《わび》しさは、もうなかった。だが、パリで彼に会ってきた今では、もはや彼をこういう環境の中に置いて考えることは困難だった。彼の中に、なにか不調和なものがあることくらい、彼らとしても気がつかないはずはなかったろうに、と思うのだ。
「でも、もし絵描きになりたいのなら、なぜそう言わなかったのでしょう?」と、ついに夫人が口を切った。「そういう気持なら、私くらいわかる女はいないつもりですのに」
ミセス・マクアンドルーは、不機嫌に口を緘《つぐ》んだ。彼女は、妹の芸術家贔《びい》屓《き》を、以前から苦々しく思っていたのだろう。教養《カルチュア》(カル《・・》チョー《・・・》と発音した)という言葉を口にするたびに、いかにも嘲笑《ちょうしょう》にみちた口吻《くちぶり》だった。
ミセス・ストリックランドは言葉をつづけて言った。
「もしあの人に才能でもあるというなら、私が一番に力をつけてやりましたわ、きっと。そのために払う犠牲なんて、私なんとも思いませんわ。仲買人などと結婚するよりは、画家と結婚してたほうが、よっぽどましなんですもの。子供さえなければ、私などどうなろうと、なんともありませんわよ。チェルシーの汚ないアトリエだって、私、結構ここと変らないくらい幸福に暮せますわ」
「まあ、あなたったら、愛《あい》想《そ》も何もつきた人ね」と、ミセス・マクアンドルーが叫んだ。「こんな馬鹿《ばか》馬鹿しい話、あなた、まさか本気にしてるんじゃありますまいねえ」
「でも、僕は本当だと思うんですが」と、僕は、静かに口を出した。
彼女は、蔑《さげす》むように僕を見た。
「ようござんすか、四十男がですよ、商売も妻子も放《ほ》ったらかして、絵描きになるなんて、女出入りでもなければ、誰《だれ》がするもんですか。きっとあなたのいう、ほら、なんでしたっけね、芸術家のお友達――いずれそんな女にでもひっかかって、頭もなんにもどうかしてしまったのよ」
ミセス・ストリックランドの蒼白《そうはく》な頬《ほお》に、一瞬血の色が浮いた。
「そう、その女ってのは、どんな女ですの?」
僕は、ちょっとためらった。僕の言葉が爆弾であることを、よく承知していたからだ。
「女なんていやしませんよ」
マクアンドルー夫妻は、まさかと言わんばかりの声を立てた。ミセス・ストリックランドは、すっくと立ち上って言った。
「お会いにならなかったっておっしゃるんですか?」
「会う人なんかいませんよ。ご主人は全くおひとりなんです」
「とんでもない」と、ミセス・マクアンドルーが叫んだ。
「言わないことじゃない、だから儂《わし》が行けばよかったんだ」と、大佐が言った。「儂が行けば、そんな女なんぞ、すぐにも引きずり出してやったんだが」
「そうです、あなたが行ってくださればよかったんです」僕も多少むっとなって言った。「そうすれば、あなたの途方もない見込みちがいも、いっぺんにはっきりしてよかったのですがね。第一あの人は、洒落《しゃれ》たホテルなどにいやしませんよ。小さな部屋がたった一つきり、実にむさくるしい生活をしておられるんです。家を出たからといって、なにも派手な暮しがしたくて出られたんじゃありません。お金なども、ほとんど持ってやしませんよ」
「それじゃ、なにか、われわれの知らないことでもしでかしてだね、警察の眼を逃れるために、そんなふうに身をかくしているんじゃないかな」
この思いつきは、みんなの胸に、ふたたび希望の光を射《さ》しこんだようだったが、僕だけは、そんな臆測《おくそく》の仲間入りはまっぴらごめんだった。
「だが、もしそうだとすればですね、まさか共同出資者《パートナー》に居所を知らせるなんて、そんなへまをやるはずないじゃありませんか?」と、僕は、つっけんどんに言ってやった。「とにかく、この一事だけは、たしかだと思いますね、あの人は、人と一緒に逃げたんじゃない。恋愛などしてやしませんよ。そんなことは、およそあの人の頭にはないことですよ」
ちょっと沈黙があった。三人は、それぞれしきりに、僕の言葉を反芻《はんすう》しているらしかった。
「そう、あなたのおっしゃることが、もし本当ならばですね」と、やがてミセス・マクアンドルーが言った。「ことは、私の考えていたほど、悪くはないわけですけどもね」
ミセス・ストリックランドは、ちらっと姉の顔を見たが、なにも言わなかった。彼女はすっかり蒼《あお》ざめて、秀《ひい》でた前額《ひたい》は、曇って険悪だった。僕には、彼女の表情がどうもよく読みとれなかった。だが、ミセス・マクアンドルーは、言葉をつづけて言った。
「ただの気《き》紛《まぐ》れなら、今に眼がさめますわよ」
「エイミー、なぜお前が行ってやらないのだ?」と、やっと大佐は、思い切ったように言い出した。「一年くらい、パリで一緒に暮せないことはない。子供たちのことは、儂たちが面倒を見てやる。多分あいつも腐ってたんだろう。遅かれ早かれ、きっとロンドンへ帰ってくる。結局、たいしたことにはならずにすむと思う」
「私ならそんなことしないわ」と、ミセス・マクアンドルーが言った。「したいだけのことをさせておくのよ。そのうちには、しょんぼり帰って来て、結局、元どおりおとなしく落着くにきまってるわよ」そう言って、彼女は、冷やかに妹を顧みた。「多分あなたも、あんまり利口じゃなかったのね。男っておかしなものよ。だから、扱い方ってものを知らなくちゃあ」
男というやつは、ひどいやつで、女のほうで離れたがらないと、男のほうから逃げ出していく、だから、そんな目にあうのは、女のほうが悪いのだという、いわば女特有の見解を、ミセス・マクアンドルーも認めている一人だった。心というやつは、理性の知らない、《ル・クーラ・セ・レゾン・ク・ラ・》。
特別な理屈をもっている《レゾン・ヌ・コネ・パ》。
ミセス・ストリックランドは、静かに僕ら三人を顧みて、言った。
「いいえ、あの人決して帰って来やしませんわ」
「あら、あなた、今聞いたばかりのことを考えてごらんなさいよ。あの人はね、すっかりくつろぐこと、そして身のまわりの世話は、誰かに焼いてもらうことに慣れっこになってる人よ。汚ないホテルの汚ない部屋、いつまでそんなものに我慢ができるもんですか? それに第一、お金がないじゃないの。帰って来るわよ、きっと」
「私ね、もしあの人が誰か女とでも行ってるのなら、まだ望みもあると思ってたの。そんなことが、長つづきするはずないじゃないの。三月もすれば、あきあきしてたまらなくなるにきまってるわよ。でも、恋愛じゃないとしたら、なにもかももうおしまいだわ」
「やれやれ、こいつはおそろしく難かしい話だ」と、大佐は、職業柄《しょくぎょうがら》とはおよそ縁のないこの考え方に、ありったけの侮《ぶ》蔑《べつ》をこめて言った。「そんな馬鹿なことがあるもんか。きっと帰って来るよ。そして今ドロシーも言ったように、ちょっとくらいしたい三昧《ざんまい》をして来たからといって、別にどうということもあるまいじゃないか」
「でも、私、もうあの人に帰って来て欲しくないの」
「おい、これ」
憤《いきどり》りが彼女を捉《とら》えたのだ。蒼白な顔、冷たい、そして激しい怒りの蒼白さだった。せきこんで、小刻みに喘《あえ》ぎながら、彼女は言った。
「誰か女にでも夢中になって、一緒に逃げたというのなら、私、かえって宥《ゆる》せると思うわ。そんなのなら、当り前のことなんですもの。私、決して悪くなど言わないわ。誘惑に負けたんだと、ただそう思うだけだわ。男って本当に弱いものだし、女のほうは、それは厚顔《あつかま》しいんですもの。でも、今度のはちがうわ。本当に憎むわ。宥したりなんぞするもんですか」
マクアンドルー大佐は、細君と一緒になって夫人を説得にかかった。二人とも呆《あっ》気《け》にとられてしまったのだ。お前は頭がどうかしている、とも言った。彼らには不可解だったのである。とうとうミセス・ストリックランドは、たまらないように、僕のほうを向いて言った。
「ね、あなた《・・・》、おわかりにならない?」
「さあ、よくはわかりませんが。こういうことなんですか? 女のために奥様を捨てたというのなら宥せるが、なにかある観念のために、そうしたというのは宥せない、と。つまり、前の場合ならば、奥様のほうにも打つ手はあるが、もし後の場合ならば、なんとも手の打ちようがないという」
ミセス・ストリックランドは、ちらと僕の顔を見た――およそ好意を示す眼《まな》差《ざ》しではなかった――が、これには一言も答えなかった。おそらく僕の言葉が急所をついたのだろう。低い、ふるえるような声で、彼女はつづけた。
「私、こんなに人を憎むことができるとは知りませんでしたわ。私ね、今までは、心の中で慰めてましたの、たとえどんなに長くなろうと、きっとしまいには、私なしにはいられなくなるとね。死にそうになったら、きっと私を迎えによこす、そしたら、私は飛んで行くつもりだったわ。お母さんのように看護してやって、そしていよいよいけないというときになったら、言ってやるつもりだったの、なにもかもいいのよ、私はいつでもあなたを愛してました、なにもかも宥してますって」
いったい僕は、愛するものの臨終の床で、女がおそろしく綺《き》麗事《れいごと》に振舞いたがるあの気持に、いつもいささか辟易《へきえき》しているのだ。時にはまるで、そうした感傷の見せ場を与えない男の長命を、呪《のろ》ってでもいるかのようにさえ見える。
「でも、今となっては――ええ、もうすんだことだわ。あの人のことなど、なんとも思ってやしない、赤の他人も一緒だわ。友達もなにもいなくなって、みじめに、貧乏して、飢え死にでもすればいいわ。汚《けが》らわしい病気にでもなって、死んじまえばいい。あんな男のこと、誰が知るもんですか」
僕は、今こそあのストリックランドの言った話を、切り出すべきだと考えた。
「それで、もし離婚がお望みだというんでしたらね、必要な条件はいつでも作っていいと、そういうお話なんですが」
「誰がそんな自由をやるもんですか」
「いや、別に望んでいらっしゃるわけじゃありますまい。そのほうが、奥様にとっても、ご都合がよかないかと、そう思われただけでしょう」
ミセス・ストリックランドは、忌々《いまいま》しげに、肩をぴくりとすくめた。僕は、ちょっと彼女に失望したように思う。まだその頃《ころ》の僕は、人間の心というものは、もっと単純なものだとばかり思っていた。それだけに、この愛すべき女性の中に、こうした執念深さが潜んでいたかと思うと、なんと言っていいかわからない気持がした。一人の人間を作り上げている諸要素が、いかに雑多をきわめているか、僕にはまだよくわかっていなかった。今の僕なら、卑小さと崇高さと、敵意と慈悲と、憎《ぞう》悪《お》と愛と、そうしたものが、結構一つ心の中に併存しうることくらい、ちゃんと心得ているのだが。
僕は、ミセス・ストリックランドを苦しめている苦い屈辱感に対して、なんとか慰めになるような言葉はないものか、と考えた。とにかくやってみることだ。
「ね、奥様、どうもご主人は、自分の行為に対して、責任を負うことのできないような状態にいられるんじゃないでしょうか。常態とは思えませんね。なにかある力の虜《とりこ》になって、それに自由に操られている。ちょうど蜘蛛《くも》の巣にかかった蝿《はえ》のように、ご主人の力ではなんともできないといったような……まあ、なにかの魔法にでもかかったような格好なんですねえ。ときどきそんな奇妙な話がありますね、別の人格が入りこんで、本来の人格を追い出してしまうといったような、それを僕は思い出すんです。人間の魂というものは、肉体の中に必ずしも安定しているものではない。したがって不可解な変貌《へんぼう》というようなことも、結構ありうると思うんです。さしずめ昔の人なら、悪鬼に憑《つ》かれたとでもいうところでしょうね」
ミセス・マクアンドルーは、長上衣《ガウン》の前を撫《な》で下ろした。金の腕輪が、手《て》頸《くび》までずり落ちた。
「とんでもないこじつけですよ」と、彼女はぷりぷりしながら言った。「とにかくエイミーが、夫というものに、安心しすぎていたってことだけは、たしかですわ。自分のことばかりにかまけきっていなければ、どこかおかしいってことくらいは、感づいたはずだと思うの。私なら、一年も二年も、アレックがなにか考えこんでるとしますわねえ、大方の見当くらい、きっとつけてみせるわ」
大佐は、じっと空《くう》を見つめている。それにしても、よくもこれだけ単純な、あどけない人間ができたものだ、というような顔付だった。
「いずれにしてもチャールズが、血も涙もない人非人だってことには変りないわ」と、彼女は、険しい眼を僕に向けて言った。「なぜあの男がこの人を捨てて行ったか、理由を言ってあげましょうか?――つまり全くの利己心、それだけなんですのよ」
「たしかに一等簡単な説明でしょうね」と、僕は答えた。が、実はそれでは、なんの説明にもなっていなかったのだ。僕が、疲れているからと言って立ち上ったとき、ミセス・ストリックランドは引きとめようともしなかった。
16
その後の経過は、ミセス・ストリックランドが、いかにしっかり者であるかを、証明していた。どんなに苦痛を感じていたにしても、決して色に出すようなことはなかった。世間というものは、不幸な話ほどすぐに倦《あ》きてしまって、人の苦痛などは、努めて見ないようにするものだということを、彼女は、明敏にも見てとっていたのだ。どこへ出ても――つまり不幸に対する同情から、友人たちは、しきりに彼女を招待したがった――彼女は、一点非の打ちどころのない態度をもって終始した。勝気だったのだ。といって、決して目に余るような態度は見せなかった。快活ではあったが、厚顔《あつかま》しいということはない。そして、自分の不幸を語るよりは、むしろ他人の憂《うれ》いに、進んで耳を傾けてやるといったふうだった。夫のことを話すときも、むしろ憐《あわれ》むかのような話しぶりだった。この態度は、はじめ僕《ぼく》には解《げ》せなかった。ある日、彼女はこんなことを言った。
「ねえ、チャールズは一人きりだとおっしゃいましたわねえ。でも、私、確かにあなたの間違いだと思うわ。今ちょっとお話しするわけにはまいりませんけれど、私、ある方面から聞いたことがありますのよ。それによると、あの人、ひとりでイギリスを発《た》ったはずはないんですもの」
「だとすると、ご主人は、よほど跡をくらます天才だということになりますね」
彼女は、視線をそらせて、ちょっと赤くなった。
「いいえ、私の言う意味はですよ、もし誰《だれ》かがあなたにこの話をして、主人《たく》が女と駆落をしたんだと言う人がいましたら、いいえ、そうじゃない、などと言わないでいただきたいんですの」
「もちろん、言いませんとも」
彼女は、まるでなんでもないことのように、すぐ話題を変えた。が、そのうちに、僕はある奇妙な話が、彼女の友人間に広まっていることを知った。それによると、チャールズ・ストリックランドは、エンパイア劇場のバレエで見染めたフランス人の踊り子に夢中になって、女と一緒にパリへ行ったというのであった。僕には、どうしてそんなふうな話が生れたか、ついにわからなかったが、奇妙なことに、これがミセス・ストリックランドに、ひどく同情を集めたばかりか、同時に少なからぬ声望のようなものをさえもたらした。しかもそれは、彼女が選んだ新しい職業に、まんざらむだでなかった。前にマクアンドルー大佐が、彼女は一文なしだと言ったとき、決してそれは誇張でなかった。彼女は、一日も早く生計を立てる必要があったのである。で、とにかく大勢の作家たちと知合いなのを利用することに決めて、時を移さず速記とタイプライターとを習いはじめた。身についた教育のせいもあり、普通一般のタイピストよりは、よほど間に合いそうに思えたし、それに彼女の身の上話に、ひどく人に訴えるものがあった。友人たちも、きっと仕事は出してあげると言ってくれ、さらにわざわざほかの友人たちにまで紹介してくれるものもいた。
子供たちの世話は、自分たちに子供がなく、裕福に暮していたマクアンドルー夫妻が、引き受けてくれることになったので、ミセス・ストリックランドとしては、自分一人の心配さえすればよかった。フラットを貸し、家財は売り払った。自分は、ウェストミンスターに小さな部屋を二間借り受けて、新しい生活に乗り出した。やり手ではあるし、やり抜くだろうことは、誰も疑わなかった。
17
この事件があって、五年ばかりしてからだった、僕《ぼく》は、しばらくパリに住む決心をした。ロンドンでひどく腐りかけていた。毎日、同じような繰返しばかりしている生活、それに倦《あ》き倦きしていたのだ。友人たちはみんな、ひたすら無事平穏な道を追い求めている。彼らは、もはやなんの新しい驚きも与えてくれなかった。会えばどんな話が出るか、たいてい見当がついた。彼らの恋愛事件すら、妙に退屈な陳腐さを帯びていた。僕たちは、いわば終点と終点との間を行ったり来たりする電車のようなものだった。小さなその限界内では、どれほどの客が運べるか、それすらたいてい勘定ができた。生活自体が、あまりにも容易にととのいすぎていた。僕は、激しい不安に襲われた。小さなアパートを明け渡し、わずかな持ち物も売り払い、新しく出直しをする決心をしたのだった。
出発前に、僕は、ミセス・ストリックランドを訪ねてみた。しばらく会っていなかったが、彼女はすっかり変っていた。前よりもいっそう老《ふ》けて、痩《や》せて、皺《しわ》がふえたばかりでない、性格までが変ってしまったようだった。商売のほうが当って、今ではチャンセリ通りに事務所をもっていた。自分ではもうタイプを打つこともなく、使っている四人の女の仕事を訂正してやるのが仕事だった。仕事に一種の美しさを与えたいという考えから、しきりに青や赤のインキを使ったり、一見ちょっと綾絹《あやぎぬ》のように見える、いろんな淡色の厚紙などを使って、美しい製本をしたりしていた。仕事が手綺《てぎ》麗《れい》で正確だというのが、評判だった。だいぶ儲《もう》けもあるらしい。そのくせ彼女には、自活ということが恥ずかしいといった考えが、なにかまだ捨てきれないらしく、どうかすると生れのよさを持ち出してくる。そして自分の社会的地位が決して落ちてはいないということを納得させたいかのように、いろいろと知人の名前を必ず一度は話の中に持ち込まずにいられない。自分の勇気と事務的才幹とを、彼女は、むしろ恥じているらしくさえ見えた。翌晩、サウス・ケンジントンに住むある王室弁護士と晩餐《デイナー》の約束があるというのを、いかにも嬉《うれ》しそうに話していた。そして息子がケンブリッジへ行っているということ、それがよほど得意らしく、また社交界へ出たばかりの娘のところへは、ダンスの招待が殺到していると、笑いながら話すのだった。それにしても、僕は、ずいぶんまずいことを言ってしまったように思う。
「で、お嬢さんは、やはりお店のほうをお継ぎになるんですか?」
「とんでもない、そんなことさせるもんですか」と、ミセス・ストリックランドは言った。「とても綺麗な娘《こ》なんですもの。きっといい結婚ができると思いますわ」
「でも、そのほうが、奥様の手助けにもなって、よかないかと思ったんですが」
「女優になすったら、とおっしゃってくださる方もございますのよ。でも、私、むろんそんなことはいけないと思いますわ。それは、私、主だった劇作家連中ならみんな知ってますし、明日からでも役はつくと思いますのよ。でも、あの娘《こ》を、そんな誰《だれ》とでも見境なしに交際させるなんて、私、したくないんですの」
おそろしくお高くとまっているのには、僕もいささか興ざめがした。
「なにかご主人の噂《うわさ》、お聞きになったことございます?」
「いいえ、ちっとも。それこそ死んじまってるかもしれませんわ」
「ひょっとしてパリでお目にかかるかもしれませんがね、そしたら様子をお知らせしましょうか?」
彼女は、ちょっとためらったが、
「もしあの人が本当に困ってるのでしたら、私、少しくらいは助けてやってもようございますわ。あなたのところまでお金をお送りしますから、必要に応じて、少しずつ渡してやっていただけますわねえ」
「ご好意はよくわかりますが」と、僕は言った。
この申し出が、好意から出たものでないことはわかっていた。不幸が人間を美しくするというのは、嘘《うそ》である。幸福がそうすることは、時にある。だが、不幸は、多くの場合、人をけちな、執念深い人間にするばかりだ。
18
事実、僕《ぼく》はパリに着くと、二週間もしないうちに、ストリックランドに会った。
着くと早速、ダーム街のとある家の六階に、ちっぽけな部屋を見つけ、古道具屋から、さし当り必要なだけの家具類を、二百フランばかりで買いこんだ。そして管理人《コンシェルジュ》と談判して、朝のコーヒーの支度と、掃除だけはしてもらうことにした。それから友人のダーク・ストルーヴを訪ねに出かけた。
ダーク・ストルーヴという男は、思い出しただけでも、嘲《あざけ》りの笑いを浮べたくなるか、でなければ、やれやれとばかり思わず肩をぴくりとすくめるか、人によってちがいはあろうが、とにかくそういった種類の人間、いわば生れついての道化者だった。画家、それもおそろしくまずい画家だった。僕は、前にローマで会ったことがあるが、彼の絵は決して忘れない。いわば陳腐きわまるものに対して、心からの情熱を捧《ささ》げている男なのだ。芸術愛に胸をときめかせながら、スペイン広場《ピアツア・デイ・スパーニャ》のベルニーニ設計の階段あたりをうろついているモデルたちを、その常套《じょうとう》きわまる美しさにもひるまず、一心不乱に描きつづけているのだった。彼のアトリエは、尖《とが》った帽子を被《かぶ》り、鬚《ひげ》をはやした、眼《め》の大きな百姓や、いかにも腕白小僧らしい、ぼろを着た少年や、派手なペティコートをつけた女などの絵で、いっぱいだった。これらの人物が、時には教会の石段に憩《いこ》っている絵だとか、時には雲一つない空の下で、糸杉《サイプラス》の木陰に戯《たわむ》れている絵だとか、時にはルネッサンス風の泉の畔《ほとり》で愛を語り合っている絵だとか、また時には牛車についてカンパーニャの野をさまよっている絵だとか、といった工《ぐ》合《あい》。それらは、実に丹念に描かれ、実に丹念に彩《いろど》られている。写真も及ばぬ正確さだった。ヴィルラ・メディチにいた画家の一人は、彼を「チョコレート箱の画人《ル・メートル・ド・ラ・ボアト・ア・ショコラ》」と呼んでいた。彼の絵を見ていると、モネだの、マネだの、その他印象派の画家たちのいたことなど、まるで夢の世界の出来事のようにさえ思えてくるのどかさだった。
「僕は、なにも自分を偉い画家だなどとは思ってやしない」と、彼は言った。「むろん僕は、ミケランジェロじゃない。だが、僕にもなにか才能はある。僕の絵は売れる。そしてあらゆる人々の家庭に、ロマンスをおくってやるのだ。僕の絵の売れるのは、オランダばかりじゃない、デンマークや、ノルウェー、スウェーデンまで売れていく。買うのは、たいがい商人、それも金持の商人なんだ。ああいった国の冬ときたら、実に長くて、暗くて、寒い。君などとても想像できるようなもんじゃない。だから、イタリアといえば、僕の絵のようなところだと、そう彼らは思っていたいのだ。それが彼らの期待なんだ。僕だって、ここへ来るまでは、やはりそう思っていた」
思うに、たえず彼にまつわりついて、彼の眼を眩《くら》まし、真実を見る眼を蔽《おお》っていたものは、この幻影だったのだ。そして現実の醜さにもかかわらず、彼の心の眼は、相変らずロマンティックな義賊のいる絵のような廃墟《はいきょ》のイタリアを、見つづけていたのである。いわば彼は、一つの理想を描いていた。平凡で、陳腐で、くだらない理想ではあったが、とにかく理想であることには変りなかった。そしてそれは、彼の性格に、一種独特の美しさをさえ与えていた。
それを感じていたればこそ、余人は知らず、僕は、決して彼を単なる嘲笑《ちょうしょう》の的とはしていなかった。画家仲間に至っては、露骨に軽蔑《けいべつ》して、隠さなかった。そのくせ金のこととなると、彼のほうがたんまり入るので、いつも財布は無遠慮にねらわれていた。ところが、その彼がまた、おそろしく物惜しみをしない男で、金に困った連中などは、自分たちの泣きごとを、すっかり真に受けてくれる彼の素《そ》朴《ぼく》さを嘲《あざわら》いながら、金だけは、実に鉄面皮に借り出していた。彼はまた大変な感激家だったが、いとも無造作に動かされるその感情には、なにか馬鹿《ばか》げたものさえ感じられて、親切は受けながらも、感謝の気持は湧《わ》いてこない。彼から金を取ることは、まるで子供の金でも取るようで、そのおめでたさ加減に、まず軽蔑が先に立つのだった。指先の手練を誇るすり《・・》などは、辻《つじ》馬《ば》車《しゃ》の中に、ありったけの宝石を入れた化粧箱を置き忘れてゆくような迂《う》闊《かつ》な女に対して、むしろ一種の憤《いきどお》りを感じるのではあるまいか。自然というやつは、ストルーヴを物笑いの対象にしておきながら、しかも鈍感な男にはしていなかった。だから、たえず彼を物笑いの種にしようとする悪ふざけや冗談に対して、彼自身はひどく苦しんでいた。それでいてまた、ほとんど故意《わざ》とかと思えるほど、始終それら嘲笑の前に身を曝《さら》しているのだった。つぎつぎと傷つきながら、しかもなお底知れぬ善良さは、彼らに対して悪意を持つことができない。たとえ毒蛇《どくじゃ》に咬《か》まれても、彼は懲《こ》りるということを知らないのだった。苦痛が癒《い》えると、すぐまたそれを、優しく胸に抱いてやる。彼の一生は、いわばどたばた喜劇の道化風に綴《つづ》られた悲劇だった。たまたま僕だけは、嘲笑することをしなかったので、それをありがたいと思ってか、いつも黙って聞いてやる僕の耳に、尽きない愚痴話を聞かせてくれた。だが、悲しいことに、それらはいつも滑稽《こっけい》至極な話ばかりで、悲《ひ》愴《そう》であればあるほど、聞き手のほうでは噴き出したくなるのだった。
彼自身は、ずいぶんとまずい画家だったが、不思議に絵に対する感覚だけは、すばらしく繊細なものを持っていた。彼と美術館に同行することは、実際得がたい楽しみであった。その情熱は、心からのもので、批評眼は、どうして鋭かった。偏《かたよ》った趣味もなく、老大家に対する確かな鑑賞眼もあれば、新しい連中の絵にも同情があった。才能を見《み》出《いだ》すのに妙を得ており、決して賞賛を惜しむ男ではなかった。僕は、彼くらい確かな判断の持主を知らない。それに、たいていの画家などよりも高い教育を受けていた。たいがいの画家のように、他の芸術のことは知らないというようなことはなく、音楽や文学に対する彼の趣味は、たしかに彼の絵の理解に深さと変化とを与えていた。僕のような若い者にとって、彼の助言や指導は、このうえもない有益なものだった。
ローマを去ってからも、僕は、彼と文通をつづけ、二月に一度くらいは、珍妙な英語で書いた長い手紙をもらい、そのたびに、あの手真似《てまね》たくさんで、夢中になって急《せ》き込む彼の話しぶりを、思い浮べたものだった。彼は、僕がパリへ来るしばらく前に、ある英国婦人と結婚して、モンマルトルにアトリエを構えているということだった。僕は四年ばかりも会っていなかったし、細君というのにも、むろん会ったことはなかった。
19
パリへ来たことを、ストルーヴに知らせていなかったので、彼のアトリエのベルを鳴らしたときも、彼自身扉《とびら》を開けて出て来ながら、一瞬僕《ぼく》だとはわからなかったらしい。だが、すぐ驚きに充《み》ちた歓声をあげて、招じ入れてくれた。これほどまでに歓迎されるというのは、たしかに愉快だった。細君は、針仕事をしながら、ストーヴの傍《そば》に坐《すわ》っていたが、僕が入って行くと、立ち上った。彼が引き合わしてくれた。
「憶《おぼ》えてない?」と、彼は細君に言った。「よく僕が話してたろう」そう言って、今度は僕に、「なぜ知らせてくれないんだ、来るってことをさ? いつ来たんだね? いつまでいるつもり? もう一時間早く来てくれればよかったのに、そしたら一緒に食事するんだったなあ」
彼は、矢継早に僕を質問攻めにした。まるでクッションでも叩《たた》くように、僕の背中をぱたぱた叩きながら、椅子《いす》に掛けさせるやら、葉巻、菓子、葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》と、つぎつぎにすすめてくれるやら。僕をそっとしておくことができないのだ。ウィスキーがないといっては悄《しょ》気《げ》返《かえ》ったり、僕のためにコーヒーをいれてやると言ったり、そのほかなんとか待遇《もてなし》の方法はないものかといったふうに、脳《のう》味噌《みそ》を絞ってみたり、終始にこにこ笑いながら、溢《あふ》れるような喜びで、身体《からだ》中汗びっしょりの有様だった。
「変らないね、君は」と、僕は、彼を見ながら、微笑して言った。
相変らず、前と同じ滑稽《こっけい》な様子をしていた。脚の短い、肥《ふと》った小男で、まだ若いくせに――齢は三十前だったろう――若禿《わかはげ》に禿げ上っている。盆のように円い顔、すばらしくよい血色、皮膚は白く、真赤な頬《ほお》と唇《くちびる》とをしていた。同じように円い、青い眼《め》、それに大きな金縁の眼鏡をかけている。眉《まゆ》毛《げ》はひどく薄い金髪で、ほとんど見えないくらい。彼を見ていると、あのルーベンスの描いた、陽気な、肥った商人たちを思い出すのだった。
しばらくパリにいるつもりで、アパートを借りたと言うと、なぜ知らせてくれなかったと、さんざん僕を責めた。知らせてさえくれれば、アパートも僕が探してやり、家具も貸そうし――君は、ほんとにそんなものを買ったのかね、とも言った――引越しの手伝いだってしてやったのに、と言うのだった。せっかくの親切をつくす機会を与えなかったというのは、友達甲斐《がい》のないやり方だと、彼は、本気でそう考えているらしかった。その間、ミセス・ストルーヴは、静かに、黙々と靴下《くつした》の繕いをつづけながら、柔らかな微笑を浮べて、僕らの話を聞いていた。
「ところで、このとおり、僕は結婚したんだが」と、彼は急に言い出した。「どう思う、僕のワイフ?」
彼は、細君のほうを嬉《うれ》しそうに眺《なが》めながら、眼鏡をかけ直した。たえず汗のためにずり落ちてくるのだった。
僕は、笑いながら、「さあ、どう言えばいいのかねえ?」と言った。
「まあ、あなたったら」と、細君が微笑しながら、口を出した。
「だが、どうだね、すばらしいと思わないか? ねえ、君、ぐずぐずしないで、君も早く結婚するんだね。僕は、世界中で、いちばん幸福な人間だと思ってる。ほら、あの坐ってるところを見てくれたまえ。絵になるじゃないか? シャルダンってところかな? 僕も、美人という美人は、たいてい見てきたつもりだが、ダーク・ストルーヴ夫人以上の美人に出会ったことはない」
「まあ、あなたったら、およしなさいよ。私、行っちまいますわよ」
「可愛いやつだ《モン・プテイ・シュ》」と彼は言った。
この語気の情熱に当惑したものか、彼女は、ちょっと赤くなった。僕は、手紙で、細君に対する彼の激しい愛情は知っていたが、事実一刻も細君から眼を離せないらしかった。果して彼女のほうでも、彼を愛しているのか、それはわからなかった。哀れな道化、とにかく彼は、女から愛されるような男ではなかった。だが、彼女の眼に浮んでいる微笑は、優しみに充ちたもので、控え目がちな態度こそ、かえって深い愛情を隠しているのかもしれない。夢中になっている夫の眼に映るほどの、そんなすばらしい美人ではなかったが、淑《しと》やかな好もしさをもっていた。背はかなり高い。そして簡素な、仕立のいい鼠色《ねずみいろ》の服が、美しい身体の線を、少しも隠していなかった。衣《い》裳屋《しょうや》よりも、むしろ彫刻家を喜ばせそうな姿態だった。豊かな茶色の髪を簡単に束ねただけで、顔は、ほとんど血色というものがなかった。顔立ちは、別に眼に立つほどのものではないが、整っている。静かな灰色の眼。いわば美人になるところを、成り損って、単に綺《き》麗《れい》というまでにもなれなかったといった形。だが、ストルーヴが、シャルダンだと言ったのは、必ずしも当らなくはない。実際彼女は、奇妙にあの偉大な画家が不滅のものにした、頭巾帽子《モッブ・キャップ》を被《かぶ》ったエプロン姿の明るい主婦の姿を思わせる。鍋《なべ》や釜《かま》の間で静かに立ち働きながら、家事の雑用を、まるで祭式ででもあるかのように果している。おかげで、雑用そのものまでが、なにか一種の精神的意義をもってくるとでもいったような彼女の姿を、僕は、容易に想像することができた。いわゆる才女だとも、またおもしろそうな女とも思わなかったが、一《いち》途《ず》らしい生真面目《きまじめ》さには、妙に僕の興味を惹《ひ》くものがあった。ただその控え目がちな様子には、なにか不可解なものが感じられぬでもない。どうしてこの女が、ダーク・ストルーヴと結婚したのだろうか、不思議に思えた。イギリス人だとはいうが、はっきりどこの人間だか、僕にはわからなかったし、どんな階級の出だか、また、どんな育ちで、結婚前にはなにをしていたのかも、はっきりしなかった。ひどく無口だったが、物言うときの声は、快活で、起《たち》居《い》にも、わざとらしいところはなかった。
僕は、今も仕事をしているのかと、ストルーヴに訊《き》いてみた。
「仕事だって? もちろん、ますますもって快調というところさ」
われわれはアトリエにいたが、彼は、画架にかかっている描きかけの絵を指さした。これには、僕もちょっと驚いた。カンパーニャ風の風俗をした一団の百姓たちが、ローマ教会の石段に憩《いこ》っているところを描いている。
「これ、いま描いてるんだね?」と、僕は訊いた。
「そうさ、モデルは、ローマにだって、ここにだって、いくらでもいるよ」
「綺麗だとお思いになりません?」と、ミセス・ストルーヴが言った。
「馬鹿《ばか》なんだね、こいつは、僕を偉い画家だと思ってるんだよ」
申し訳のような笑い声も、心の喜びを隠してはいなかった。眼は、依然として自分の絵の上に注がれている。他人の作品に対しては、あれほど確かで、自由な彼の批評眼が、一度《ひとたび》自分のことになると、真実とは思えないほど、陳腐通俗をきわめたもので満足しているのは、不思議であった。
「もっとお目にかけたら、いかが?」と、彼女は言った。
「そうかな」
あれほど友人たちの嘲笑《ちょうしょう》に悩まされながら、やはり褒《ほ》められたくはあるし、また、子供のように素《そ》朴《ぼく》な自己満足に陥っている彼は、機会さえあれば、作品を見せないではいられないのだった。巻毛をしたイタリア人の子供が二人、おはじき遊びをしている絵を持ち出してきた。
「いい絵じゃございません?」と、ミセス・ストルーヴが言った。
それからもまだ、幾枚か出して見せた。パリに来てからも、依然として、多年ローマで描きつづけていたと同じ、陳腐な、およそ常《じょう》套《とう》的な美しい絵ばかり、描きなぐっていることがわかった。すべてが虚偽で、空虚で、くだらないのだ。そのくせダーク・ストルーヴほど、正直で、真《しん》摯《し》で、率直な人間はいない。おそらく誰《だれ》も解答を与えることのできない、これは矛盾であった。
どうしたはずみでこんなことを訊いたものか、僕にもわからないのだが、
「ところで、君、チャールズ・ストリックランドという画家に、会ったことないかね」
「まさかあの男を、知ってるというんじゃなかろうね?」と、ストルーヴが叫んだ。
「あのいやな人を?」と、つづいて細君も言った。
ストルーヴは笑い出した。
「僕の可愛いやつ!《マ・ポーヴル・シェリ》」と、彼は、細君の前へ立って行って、両手に接吻《せっぷん》しながら、言った。「彼女《これ》はストリックランドが大嫌《だいきら》いでね。だが、君があの男を知っているとは、不思議だねえ」
「私、不作法な人は大嫌いですわ」と、ミセス・ストルーヴが言った。
ダークは、相変らず笑いながら、僕のほうを向いて説明をはじめた。
「実はね、あるとき、僕の絵を見せてやろうと思って、あの男を招《よ》んだことがあるんだ。先生やって来たねえ。そこで僕は、ありったけの絵を見せてやった」と、言いかけて、ストルーヴは、ちょっと困ったように、ためらった。僕は、なぜ彼がこんな、彼にとってまずい話をしだしたものか、今もってわからないのだが、実際終りまで話すのは、ずいぶんつらいらしかった。「やつは見てくれたよ、僕の絵をね。だが、一言も言わないんだ。見終るまで批評を控えているのかとも思ったので、最後に、さあ、これで全部だ、と言ってやった。するとやつの言い草がどうだ、君、僕は二十フラン貸してもらいたくて来たんだがと、そうくるんだよ」
「しかもこの人ったら、それをはいはいといって、貸してやるじゃありませんの」と、細君は、いかにも口惜《くや》しそうに言った。
「僕も呆《あっ》気《け》にとられたがね。なにか断わりたくない気がしたんだ。ところが、あの野郎、ひょいとそれをポケットに入れたかと思うと、軽く会釈《えしゃく》して、ありがとうと一言、ただそれだけなんだ。そしてぷいと帰って行ってしまった」
この話をするダーク・ストルーヴの円い、間の抜けた顔には、気抜けしたような驚きの色が溢れている。見ていて、笑わずにはいられないのである。
「僕はね、絵がまずいと言われたって、そんなことは平気だったんだ。ところが、やつは、なんにも――そうさ、一言も言わないんだからね」
「それにまたあなたったら、その話を何度で《・・・》も《・》なさるんですからねえ」と、細君が言った。
悲しいことに、ストリックランドのひどい仕打ちに憤慨するよりは、このオランダ人の間抜けさ加減のほうが、はるかにおもしろくなってくるのだった。
「私、二度とふたたび、あんな人の顔見たくはございませんわ」と、ミセス・ストルーヴは言った。
ストルーヴは微笑しながら、肩をぴくりとさせた。もう機《き》嫌《げん》を取り戻《もど》していたのである。
「だが、あの男が偉い画家、すばらしい画家だってことには変りないよ」
「ストリックランドがかね?」と、僕は叫んだ。「それじゃ、きっと人ちがいだ」
「赤い顎鬚《あごひげ》をはやした大男だぜ。チャールズ・ストリックランド。イギリス人だよ」
「僕の知ってた頃《ころ》は、鬚などはやしてはいなかったがね、まあ、はやしたとすれば、むろん赤毛だろうな。しかし僕の言ってる男というのは、まだ絵をやり出して五年ばかりにしかならないんだぜ」
「ああ、それだよ。どえらい画家さ」
「そんなはずがあるもんか」
「僕がまちがった例《ためし》があるかい、君?」と、ダークは言った。「ねえ、いいかい、あの男は天才だ、僕は確信している。百年もしてみたまえ、もし君や僕の名前が多少でも残ってるとすれば、それはチャールズ・ストリックランドを知ってたからという、ただそれだけのことになりそうだぜ」
僕は、呆気にとられた。と同時に、ひどく興奮を感じてきた。突然、あのストリックランドとの最後の会見を思い出したのだ。
「ところで、彼の絵は、どこへ行けば見られるんだ?」と、僕は訊いた。「つまり、成功したんだね? どこに住んでる?」
「成功? とんでもない、成功なんぞちっともしてやしない。一枚だって売れたことはあるまい。誰かに彼の話をしてみたまえ、きっとみんな噴き出してしまうから。だが、僕には、あいつがどえらい画家だってことがわか《・・》って《・・》るんだ。要するに、マネだってやつらには笑われたんだし、コローだって一枚も売れやしなかった。さあ、どこに住んでるか、そいつは僕も知らないが、会いになら連れてってやるよ。あの男は、毎晩七時には、きっとクリシ街のキャフェに来てるんだ。よければ、明日の晩にでも行ってみようか?」
「ただ、向うで僕に会いたがるかどうか、そいつがわからないがね。つまり、僕の顔を見ると、あの男が忘れたい忘れたいと思っている頃のことを、また思い出すことになるかもしれないからね。だが、行くだけは行ってみよう。ところで、あの男の絵を見ることはできないのかね?」
「あいつに言ってもだめだ。決して見せやしないから。だが、僕の知合いのちょっとした画商で、あいつの絵を二、三枚持ってるやつがいるんだ。だが、いいか、一人で行っちゃだめだぜ。とても君にわかる代物《しろもの》じゃない。僕が行って、僕が見せなくちゃだめだ」
「ダーク、あなたったら、ずいぶん焦《じ》れったいわねえ」と、ミセス・ストルーヴが言った。「あんな男の絵を、よくまあそんなふうに言えたもんね、あんなひどい目に遭ってながらさ」そう言うと、今度は僕に向って、「よござんすか、この人ったらねえ、オランダ人がこの人の絵が欲しいって買いに来てるんでしょう。だのに、ストリックランドのを買えって、一生懸命すすめてるんですのよ。そして、とうとう自分で持って来て、実物を見せたんですのよ」
「じゃ、奥様は《・・・》、どうお思いになるんです、あの男の絵を?」と、僕は笑いながら訊いた。
「とてもひどい絵なんですもの」
「ああ、お前などにはわからないんだよ」
「だって、あのオランダ人、とうとう腹を立ててしまったじゃありませんの。向うじゃ、あなたが冗談を言ってると思ったんだわ」
ダーク・ストルーヴは、眼鏡を外して、曇りを拭《ふ》いた。赤くなった顔が、興奮で光っていた。
「いいかい、美という、およそ世にも貴いものがだよ、まるで砂浜の石塊《いしころ》みたいに、ほんの通りすがりの誰彼にでも無造作に拾えるように、ころころ転がっているとでも思うのかい? 美というものは、すばらしい、不思議なものなんだ。芸術家が、己れの魂の苦しみを通して、世界の混沌《こんとん》の中から創《つく》り出すものなんだ。だが、それで美が創り出されたからといって、それを知るということは、人間、誰にでもできるもんじゃない。美を認識するためには、芸術家の経験を、めいめい自分で繰返さなければならない。いわば芸術家が、一つのメロディーを歌って聞かせてくれる。それをもう一度僕らの心で聞こうというには、僕らに知識と感受性と想像力とが必要なんだ」
「でもね、ダーク、それじゃ、なぜ私には、あなたの絵が、いつでも美しく思えるのかしら? 私、はじめて見たときから、すっかり感心しちゃったのよ」
ストルーヴの唇が、かすかにふるえた。
「さあ、お前はもうお休み。僕は、この人とちょっと歩いてくる。すぐ帰ってくるからね」
20
ダーク・ストルーヴは、では、明日の晩、僕《ぼく》を誘って、いつもストリックランドが行きつけのキャフェへ同行しようと言った。おもしろいと思ったのは、そのキャフェというのが、あのいつかパリへわざわざ会いに来たとき、一緒にアブサンを飲んだその同じ店なのだ。キャフェ一つにも、決して習慣を変えないというのが、ほとんど彼の性癖とも思える物臭さを、よく表わしていた。
「ほら、あそこだ」当の店へ来ると、ストルーヴが言った。
もう十月だったが、夜はまだ暖かく、舗道のテーブルは、人でいっぱいだった。僕は、ひとわたり見渡してみたが、ストリックランドの姿は見えなかった。
「ほらね、あの隅《すみ》っこのところさ、先生、チェスをやってるよ」
なるほどチェス盤に蔽《おお》い被《かぶ》さるように屈《かが》みこんでいる男の姿は見えたが、見えるのは、ただ大きなフェルト帽と赤い鬚《ひげ》だけだった。僕らは、人の間を分けて、近づいて行った。
「おい、ストリックランド」
彼は顔を上げた。
「いよう、でぶちゃん、なんの用だ?」
「君の旧《ふる》い友人を連れてきてやった」
ストリックランドは、ちらと僕の顔を見たが、明らかに見覚えはないらしかった。ふたたび、じっとチェス盤を睨《にら》みはじめた。
「坐《すわ》れよ。だが、静かにしていてくれ」と、彼は言った。
一つ駒《こま》を動かしたが、そのまま考えこんでしまった。ストルーヴは、僕のためにひどく気の毒そうな顔をしたが、僕のほうは、これしきのことでは驚かなかった。僕も飲物を注文して、静かに勝負の終るのを待っていた。僕としては、心おきなく観察する機会の与えられたのを、むしろ喜んでいたのだ。どこかで会っても、僕にはわからなかったろう。まずなによりも、顔の大部分を隠している、手入れもなにもしていない、赤いぼうぼう鬚だ。頭髪も長々と伸びていたが、もっとも驚いたのは、すっかり痩《や》せ衰えていることだった。そのせいか、例の大きな鼻は、いっそう傲岸《ごうがん》そうに飛び出しているし、頬骨《ほおぼね》は角立ち、眼《め》は一段と大きく見えた。こめかみには、深い凹《くぼ》みが彫りこまれて、身体《からだ》は、まるで屍《しかばね》のような蒼白《あおじろ》さだった。服は、五年前に会ったときのままだ。糸目も露《あら》わに破れ、汚れ、しかもまるで借着みたいに、だぶついている。ふと手先を見たが、これも爪《つめ》は伸び放題に汚れている。大きな頑丈《がんじょう》そうな手は、骨と皮だ。ところが、僕も忘れていたが、以前は実に形のよい手をしていたものだ。勝負に一心に打ち込んで、腰を据《す》えている彼の姿は、一種異様な印象――なにか凄《すさ》まじい力とでもいったような印象を、僕に感じさせた。それになぜかわからないが、枯骨のように衰えた彼の姿が、いっそう凄愴感《せいそうかん》を濃くしていた。
やがて、一つ駒を動かすと、ぐっと反り身になって、異様に放心したような視線を、じっと相手の上に注いでいる。相手は、肥《ふと》った、鬚をはやしたフランス人だった。彼は、じっと盤上の形勢を見ていたが、突然愉快そうに、なにか噛《か》んで吐き出すように言いながら、口《く》惜《や》しそうな身振りをしたかと思うと、駒をかきよせて、箱の中へ放《ほう》り込んでしまった。さかんになにかストリックランドに毒づいていたが、やがてウェイターを呼んで、飲物の勘定をすませると、立って行ってしまった。ストルーヴは、改めて椅子《いす》をテーブル近く引き寄せた。
「さあ、もう話してもいいんだろう?」と、彼は言った。
ストリックランドは、じっと彼を見ていたが、その視線の中には、明らかに意地悪い表情が浮んでいる。なにか一つ愚《ぐ》弄《ろう》してやりたいが、とっさにいい考えも浮ばないで、仕方なしに黙っている、とでもいったところらしかった。
「君の旧い友人だという人を、連れて来たんだがね」と、ストルーヴは、朗らかに微笑しながら、もう一度繰返した。
ストリックランドは、ほとんど一分近くも、しげしげと僕の顔を見つめていた。僕は黙っていた。
「会った覚えはないねえ」
なぜ彼がこんな言い方をしたか、今もって僕にはわからない。というのは、僕は、彼の眼の中に、一瞬はっとなった表情を、たしかに見たと思うのだ。だが、そこは僕も、あの数年前のように、これしきのことでやすやす引き退《さが》る僕ではなかった。
「先日、奥様にお目にかかりましたがね」と、僕は切り出した。「やはり近況については、お聞きになりたいんでしょう?」
彼は、ちょっと声を出して笑った。眼が光った。
「そう、いつだったか、一晩愉快だったねえ」と、彼は言った。「どれほどになるかな、あれから?」
「五年ですよ」
彼は、もう一杯アブサンを注文した。ストルーヴは、例によってべらべらと、われわれ二人がどうして会ったか、またどうしたはずみで、ストリックランドの共通の知人であることがわかったか、などということを説明しだした。ストリックランドが聞いていたかどうか、それは疑問だ。一、二度、反射的に僕の顔をちらと見たが、たいていは、勝手な考えに耽《ふけ》っているらしかった。実際おしゃべりのストルーヴでもいなければ、とても話にはならなかったろう。三十分ばかりすると、ストルーヴは、時計を見て、帰ると言い出した。僕にも帰るかと訊《き》いたが、僕は、せめて二人きりになれば、なにかストリックランドから聞けようかと思ったので、もう少しいると答えた。
肥えた彼が行ってしまうと、僕は言った。
「ストルーヴは、あなたを偉い画家だと思ってるんですよ」
「それが、いったいどうしたというんだね?」
「ひとつあなたの絵を見せていただけませんか?」
「それはまた、どうしてだ?」
「さあ、一枚くらい戴《いただ》きたくなるかもしれませんからね」
「だが、あいにくこっちじゃ売りたくないかもしれんからな」
「で、生活のほうは大丈夫なんですか?」と、僕は微笑しながら、訊いた。
彼はくすりと笑った。
「そう見えるかねえ?」
「まるで餓死でもしかかってるようじゃありませんか?」
「そうさ、餓死しかかっている」
「じゃ、いかがです、一緒にちょっと食事でもしませんか?」
「それはまた、どういうつもりでだ?」
「別に施与《ほどこし》を差し上げるわけじゃありませんから、どうぞ」と、僕は、冷やかに答えてやった。「本当のことを言えば、あなたが餓死なさろうとなさるまいと、僕の知ったことじゃありませんからね」
彼の眼は、ふたたび輝いた。
「よし、それじゃ行こう」と、彼は言って立ち上った。「俺《おれ》だって、やっぱり人間並みの食事はしたいからな」
21
僕《ぼく》は、彼の案内してくれるままに、とある料理店に入ったが、その前に途中で新聞を買った。そして食事の注文を終えると、その新聞をサン・ガルミエの壜《びん》にもたせかけて、読み出した。僕らは、黙々と食事をした。ときどき彼が、僕のほうを見ていることはわかったが、わざと知らない顔をしていた。向うから口を切らせてやろう、と思ったからである。
食事が終りかけた頃《ころ》だった、彼は、「なにか出てるかね?」と、訊いた。
その調子には、どこかじりじりするようなものが感じられた。
「僕は、毎日必ず演芸欄を読むことにしてるもんですからね」と、答えた。
そして新聞を畳むと、そのまま傍《わき》へ置いた。
「飯はうまかったよ」と、彼は言った。
「じゃ、コーヒーもここでもらいましょうか?」
「そうだねえ」
僕らは、葉巻に火を点《つ》けた。僕は、ただ黙って煙を吹いていた。ときどき彼の眼《め》が、かすかに興ありげな微笑を浮べて、僕のほうにじっと注がれるのに、はっきり気がついていた。だが、それでも我慢強く、僕は待った。
「この前会ったあれから、君はどうしてたんだね?」とうとう彼のほうから、口を切った。
僕のほうは、これといって話すこともなかった。ただ苦しい仕事とささやかな冒険の五年間だった。あれこれ、いろんな試みに、手を出してみた。次第に書物と人間とに関する知識も深くなっていた。ところで、彼は何をしているのか、僕は、わざと訊かなかった。てんで彼のことなど興味もないといった顔をしていると、果して図に当った。彼は、とうとう自分のことを話しだした。ただし、生れついての話し下手をもってしては、経験したことの、ほんの暗示程度を伝えることができるだけで、その隙《すき》は、僕自身の想像で補うよりほかなかった。これほど興味を感じている人間に関して、わずかにこの程度しかわからないということは、じれったいかぎりだった。まるで不完全な稿本を判読していくようなものである。あらゆる困難と闘っている生活、なにかそういった印象を受けた。ただほかのたいていの人間なら、とうていたまるまいと思えることにも、彼は、いっこう平気なのだ。いわゆる生活の楽しみというものに完全に無関心だったという点で、ストリックランドは、たいていのイギリス人とちがっていた。朝から晩まで汚ならしい一室にいても、いっこう平気だった。身のまわりを、美しいもので飾る必要もなかった。思うに彼は、いつか僕がはじめて訪ねたあの部屋の壁紙の汚ならしさなど、一度として考えたことはなかったろう。安楽《あんらく》椅子《いす》が欲しいという気もない。台所椅子で結構満足していた。うまそうに食べるが、なにを食べているかは無関心だった。ただ飢えという苦痛を鎮《しず》めるために、がつがつ食べるという、それだけのことだった。しかもその食べ物さえないときは、それでも我慢できるのだ。六カ月間、毎日たった一塊のパンと、一壜の牛乳とだけで、生命《いのち》をつないだこともあると言った。もともとは情欲的な人間なのだが、そうした事柄《ことがら》にもいっさい無関心だった。窮乏を少しも苦しいとは思っていない。まるで精神だけの人間になって生きている彼の姿には、とにかくなにか人を打つものがあった。
ロンドンから持って来た、わずかな金がなくなっても、彼は、いっこうに驚かなかった。絵は売れない、いや、おそらく売ろうともしなかったろう。金は、なにか他の方法で儲《もう》けることにした。苦笑しながら語ってくれた話だが、あるときなどは、夜のパリを見たいというロンドン児《こ》たちのガイドをして食っていた時代もあったという。ただそれは、冷嘲《れいちょう》的な彼にとって、大いに興味のある仕事だったし、おかげで彼は、この大都市のいかがわしい方面についても、広い知識を蓄えていた。表向きは法で禁じられている種類の物を見たがる――それも酔っ払いだと、いっそうお誂《あつら》え向きなのだが――イギリス人の鴨《かも》を張り込みに、よくマドレーヌ大路を、何時間もうろつきまわった話などもした。運のいいときは、相当纏《まと》まった金になったこともあるが、それも、しまいには彼の服装の不潔さに、観光客のほうで気味悪がるようになり、彼に案内を任せるほど冒険好きな人間は、見当らなくなってしまった。それからは、イギリスの医者たちへ宣伝に送るのだという特許薬の広告文を翻訳する仕事にありついたこともある。ストライキのあった間は、ペンキ屋にも雇われていった。
だが、その間も、彼は決して絵の精進を忘れてはいなかった。もっともアトリエ通いは、まもなくいやになり、まったく独力でやっていた。幸いキャンヴァスも絵具も買えないほど困ることはなかったし、それに、ほかにはいっさい欲しいものがないのだ。だが、僕の知りえたかぎりでは、絵の修業にはよほど困難を感じていたらしい。なにしろ他人の助言は、いっさい受けるのがいやというのだから、せっかく先人たちが一つ一つ解決してくれている技法上の諸問題も、彼は、また自分一人で解決しなければならない、それに非常な時間がかかるのだ。彼は、なにかある目的を見つめていた。ただそれは、僕にもわからなかったし、おそらく彼自身にも、ほとんどわかっていなかったのであろう。ふたたび僕は、あの憑《つ》かれた男という印象を、いっそう強くした。正気だとは思えなかった。絵を見せたがらないのは、実際もう自分でも、それらに興味がないからだったらしい。夢に生きているのだ。だから、現実は、彼にとってなんの意味もない。ただただキャンヴァスの上に、その激しい個性を力いっぱいにたたきつけているといった感じだった。心眼にうつるものを、そのままとらえようという努力に、他のことはいっさい忘れてしまっていたのだ。しかも彼の中に燃える情熱――そうだ、それは単なる絵ではない。その証拠に、彼には、ほとんど一枚として完成作はなかった――を吐き出してしまうと、もうそのことは、全く忘れてしまっている。でき上った仕事に満足することは決してない。心を掴《つか》んでいる幻に比べては、そんなものは、なんの価値もないのである。
「なぜ展覧会にお出しにならないんです?」と、僕は訊いた。「やはり他人がなんと言うか、お聞きになりたいでしょうに」
「そうかねえ」
この一言に籠《こ》められた底知れぬ侮《ぶ》蔑《べつ》を、僕は、とうてい言い表わすことができない。
「名声なんて要らないとおっしゃるんですか? 芸術家だからといって、たいていの場合、無関心ではいられなかったはずだと思いますがね」
「子供だよ、それは。ねえ、君、一人一人の意見をさえ、てんで問題にしないものが、なんで群衆の意見なんてものを気にするわけがある?」
「人間てものは、そう理屈ばかりでいくもんじゃありませんからね」と、僕は笑った。
「じゃ、誰《だれ》が名声を作るんだ? 批評家だ、文士だ、株式仲買人だ、そして女どもだ」
「でも、あなたの知らない人、会ったこともない人、そうした人々が、あなたの作品から、微妙な、しかも激しい感動を受ける、そういう場合を考えると、やはりまんざらでない気持がするんじゃありませんか? 人間というものは、力を好む動物ですよ。人間の魂を動かして、あるいは憐憫《れんびん》に、あるいは恐怖におののかせる、これくらいすばらしい力の働きというものは、ちょっと想像できないと思いますがねえ」
「やれやれ、メロドラマだ」
「じゃ、なぜ巧《うま》く描けたとか、拙《まず》かったとか、気になさるんです?」
「気になんかしてやしない。ただ僕のこの眼に見えるもの、それが描きたい、それだけだ」
「たとえば僕が、無人島かなにかにいてですよ、せっかく書いても、僕のほかには誰一人見てくれるものはないとわかっていてですね、それで果して書けるもんでしょうか?」
ストリックランドは、長い間黙って、答えなかった。だが、その眼は、なにか彼の心をかきたてて、うっとりさせる幻でも見ているかのように、異様な輝きを帯びていた。
「僕は、ときどき思うことがある、涯《はて》しない大洋にかこまれた島、どこかそこの人知れぬ谷間に、見慣れない木立に囲まれて、静かに暮す。そうすれば、あるいは僕の望んでいるものが、みつかるかもしれない」
別にこの言葉どおり言ったわけではない。形容詞がわりに身振りを使うし、おまけにたびたびつっかえる。これは、ただ彼の言いたいらしかったことを、僕の言葉にして言ってみたにすぎないのだ。
「でも、この五年間を振り返って見て、甲斐《かい》があったとお思いになりますか?」
彼は、じっと僕の顔を見た。僕の言う意味がわからないらしかった。僕は説明した。
「あなたは、楽しい家庭と、世間並みにはなに不足ない幸福な生活とを、自分から捨てておしまいになった。結構世間的には成功しておられた。それがパリでの、このみじめな生活はどうです。もしもう一度生れ変ってくるようなことがあれば、それでもあなたは、また同じことをなさいますか?」
「もちろんさ」
「あなたは、奥様のことも、お子さんのことも、お訊きになりませんね。思い出すようなことはないんですか?」
「ない」
「そんな、木で鼻をくくったような物言いをなさるもんじゃありませんよ。あなたのおかげで不幸になった人たちのことを、お考えになることはありませんか?」
彼の唇《くちびる》が微笑に綻《ほころ》びた。そして首を横に振った。
「いくらあなただって、ときには、昔のことを思わないわけにはいくまいと思いますがねえ。七、八年前のことを言ってるんじゃありませんよ。もっと前です。あなたがはじめて奥様にお会いになったとき、奥様を愛して、結婚なすった頃のことです。はじめてその両腕に奥様をお抱きになった、そのときの喜びをお思いになりませんか?」
「僕は、昔のことは考えない。問題は、ただ永遠の現在なんだ」
僕は、ちょっとこの答えを考えてみた。よくわからない点もあるが、漠然《ばくぜん》と彼の言う意味は、わかるような気がした。
「それで、幸福なんですか?」
「幸福だとも」
僕は黙った。そして改めて彼の顔を見直した。彼は、じっと僕の視線に堪えていたが、やがて冷嘲するような光が、彼の眼に閃《ひらめ》いた。
「怪《け》しからんとでも言うらしいね、君は?」
「とんでもない」と、僕は言下に答えてやった。「相手がうわばみ《・・・・》みたいな人間じゃ、よいも悪いもありませんからね。それどころか、僕は、そういった人間の心理状態に興味を感じますねえ」
「そりゃ君の職業的興味ってやつだろう?」
「そうですとも」
「とにかく僕のやり口をいけないと言わないのだけは、いいことだ。君という人間は、実に下等なやつだよ」
「そうでしょうよ、だからこそ、僕には、あなたも気が置けなくていいとおっしゃるんでしょう?」僕も負けてはいなかった。
彼は、乾いたような薄笑いを洩《も》らしただけで、一言も答えなかった。僕は、彼のこの微笑を、諸君に伝える筆があったならと思う。むろん快い微笑などというものではない。だが、とにかくそれは、いつもは陰鬱《いんうつ》な彼の表情を、ぱっと一瞬明るくさせて、案外罪のない意地悪さを思わせる。ゆっくりと眼の中に浮び、そのまま眼で消える微笑だった。残忍というのでもない、といってむろん親しみを感じさせるものでもない。ただひどく肉感的な微笑であり、人間ならぬ、むしろ半獣神《サテュロス》の歓喜を思わせるような微笑だった。彼のこの微笑を見て、僕はふと訊いてみた。
「パリへ来られてから、恋愛なすったことはないんですか?」
「そんな馬鹿《ばか》な真似《まね》をしている暇がないよ。恋も、そして芸術もという、それほど人生は長くできてないからね」
「でも、あなたの様子からは、いくらなんでも世捨人とは思えませんがねえ」
「もうそういった方面は、考えるのもいやだ」
「だが、人間の本能ってやつは、そう簡単にはいきますまい?」と、僕は言った。
「君は、なぜまたそんないやな笑い方をするんだ?」
「だって、本当だとは思えませんもの」
「じゃ、君は途方もない大馬鹿野郎だよ」
僕は、すぐには答えないで、探るように彼の顔を見た。
「この僕をごまかそうたって、それがなんになるんです?」
「君の言う意味が、僕にはよくわからん」
僕は、軽く笑いながら、
「いいですか。なるほど五カ月や六カ月ならば、そんな妄想《もうそう》は、全然浮ばないということもあるでしょう。そして自分は、もうそんな方面は縁切りだと、ついそうお考えになることもできましょう。俺《おれ》は自由だ、とうとう俺の魂は俺の自由になったとお考えになる。そして、まるで頭をあの大空の星の間に突っ込んででも歩いているような気持になる。ところが、いいですか、突然これはもう堪《たま》らないと思いだすときが来る。そして、自分の両足は、やっぱりずっと泥沼《どろぬま》の中を歩いていたことに気がつく。と今度は、かえってその泥の中に転がってみたいような気持になる。そして卑《いや》しい、下劣な、まるであらゆる性の醜さの塊みたいな女を見つけだして、野獣のように、それに身を投げかけていくのです。狂人のようになって、いっさいを忘れるまで、酔い痴《し》れるのです」
彼は、身動《みじろ》ぎ一つしないで、僕の顔を凝然と見詰めていた。僕も、彼の視線に堪えながら、ゆっくり言葉をつづけた。
「しかも、おもしろいことはですね、一度この嵐《あらし》が通りすぎてしまうと、あとは不思議なほど清々《すがすが》しい気持になるのです。まるで肉体というものを解《げ》脱《だつ》してしまった、魂だけの存在のようになって、美というものに、まるでなにか直接触れ合っているような気持がしてくる。あの微風だとか、青葉に萌《も》える木立だとか、五彩に光る川の流れだとかと、親しく心が通い合うような思いがしてくるのです。神の思いとでもいうのでしょうか? あなたには、この気持が説明できますか?」
彼は、食い入るように僕の眼を見つめていたが、僕の言葉が切れたかと思うと、ぷいと横を向いてしまった。彼の顔には一種異様な表情――たとえば、拷問《ごうもん》に絶命した人間の顔にでも見られそうな表情が浮んでいた。彼は、一言も口を開かなかった。対談もこれっきりだな、と僕は思った。
22
僕《ぼく》は、パリに落着いて、芝居を書きはじめた。朝は仕事をし、午後はリュクサンブールの庭園を散歩したり、街々を歩きまわったりして、規則正しい生活を送っていた。ルーヴルには、よく何時間も入っていた。美術館でも、あそこは最も親しみが感ぜられ、瞑想《めいそう》には打ってつけの場所だった。またときには、あの河岸通り《ケエ》を、別に買う気もない古本など漁《あさ》りながら、歩きまわった。ページのあちこちを開いてみて、ただそうした漫然たる知識だけで十分な、ずいぶん多くの作家たちを知ったものである。夜は友達を訪ねた。ストルーヴの家にもよく行ったもので、時にはそのつましい食事を一緒にしたこともある。ダークは、イタリア料理をつくるのが大自慢で、正直に言ってしまえば、彼のスパゲッティ料理は、彼の絵よりもはるかに上等だった。彼が、トマトをふんだんに盛合せた大きな皿《さら》を持ちこんでくると、それは王侯も及ばぬ豪勢さだった。われわれは、おいしい家庭用のパンと赤《あか》葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》とを添えて、よく一緒にご馳《ち》走《そう》になったものだ。僕は、ブランシュ・ストルーヴとも親しくなった。多分、僕がイギリス人であり、彼女には、ほとんどイギリス人の知人がいないものだから、僕に会うのが楽しみだったらしい。快活で、素直な女だったが、いつもどちらかといえば言葉少なで、なぜか妙に、秘密でも持っているのではないかというような気がして仕方がなかった。だが、僕は多分それも、ダークの開けっ放しな饒舌《じょうぜつ》さに比べて目立つというだけで、実は単に自然な遠慮深さにすぎないのだろう、と考えていた。ダークといえば、これはいっさい隠しごとのない男で、実際ずいぶん立ち入った事柄《ことがら》でも、全く平気でしゃべってしまう。時には細君のほうで閉口することもあるくらいで、現に僕が見たのはたった一度だが、彼が、彼女の止めるのもきかないで、下剤を飲んだときの話をして、微に入り細を穿《うが》ち、多少写実的にさえ詳細を話しだしたからたまらない、とうとう彼女は、顔色を変えてしまった。困った場面を、いかにも大《おお》真面目《まじめ》に話すので、僕のほうは腹をかかえて笑ったが、ミセス・ストルーヴにしてみると、いよいよ神経に障るらしかった。
「まあ、あなたって人は、自分を馬鹿《ばか》にするのが大好きなのね」と、彼女は言った。
彼は、円い眼《め》をいっそう円くした。そして彼女が腹を立てているのを見ると、さも驚いたように、顔をしかめて見せた。
「ねえ、怒ったの? もう決して飲みやしないからね。なに、ただ便秘してたからだよ。なにしろ坐《すわ》ってばかりだろう、運動不足になるんだ。なにしろ三日間ってものは、一度も……」
「よしてくださいったら、後生ですから」と、彼女は、堪《たま》らないように、涙さえ浮べていた。
彼は、うなだれて、叱《しか》られた子供のように口を尖《とが》らかし、なんとかしてくれといわぬばかりの顔をした。だが、僕はおかしさに堪えられなくて、ただもう笑い崩れていた。
ある日二人で、ストリックランドの絵が多分二、三枚は見られようという、例の画商を訪ねたことがある。だが、行ってみると、それはストリックランド自身が持って帰ってしまったということで、理由は、画商にもわからないという。
「だからといって、別に気を悪くしているわけではございませんので。もともとストルーヴさんのお顔を立てるというだけで、お引き受けしましたようなもんで。まあ売れれば売って差し上げましょうと、申し上げはしましたものの、実を申せば、その……」と、彼は、両肩をぴくりとすくめた。「私も、若いお方にはずいぶん気をつけておりますつもりですが、ねえ《ヴオワヨン》、先生、これだけは、まさかあなたも物になる人間とは思っておいでになるんじゃございますまい」
「冗談じゃない、男の面目にかけて言ってるんだ。今、絵を描いてる人間で、これくらい才能のある人間が一人でもいたらお目にかかる。嘘《うそ》だと思や見てるがいい。とんだいい金《かね》儲《もう》けを逃してるんだぜ。今に見ろよ、あの絵がね、この店中ありったけの絵なんぞよりも、よっぽど値打ちが出てくるんだからね。モネはどうだった? たった百フランで、誰一人買い手がなかったんだぞ。それが、今はどうだ?」
「そりゃまあそうでございますがね。でも、あなた、その時分だって、モネと同じように売れない画家は、いくらでもいましたっけ。ところが、そいつらの絵ときた日には、今だに三文の値打ちもないんですからねえ。わかるもんじゃございませんよ。いい絵だからって、それだけで売れるとはきまってませんからね。そんなわけのもんじゃござんせんよ。それに《デユ・レスト》、あなた、あの先生ときたら、いいも悪いも、これからのもんじゃございませんか? いい絵だなんておっしゃるのは、ストルーヴさん、あなたお一人なんでございますからねえ」
「じゃ、訊《き》くが、親《おや》爺《じ》さん、どうしていい悪いがわかるというんだ?」と、ダークは、もう真赤になって腹を立てて訊いた。
「そりゃもう、たった一つ――売れるってことでございますよ」
「ちっ、俗物が!」と、ダークは叫んだ。
「考えてもごらんなさいましよ、昔の偉い画家はどうです?――ラファエルにしたところで、ミケランジェロにしたところで、アングル、ドラクロア――みんなりっぱに売れましたからな」
「さあ、行こう」と、ストルーヴは僕に言った。「さもないと、こいつを叩《たた》き殺したくなるから」
23
僕《ぼく》は、よくストリックランドに会った。ときどきはチェスをしたこともある。ひどく気《き》紛《まぐ》れで、時にはなにか考えこんで、他人のことなど構わないように、黙りこんでいるかと思うと、今度はひどく上機嫌《じょうきげん》で、彼の癖だが、例のごとくつっかえながらしゃべり出すのである。別に気の利《き》いたことを言うわけではないが、一種野性的な皮肉があって、こいつは相当に辛辣《しんらつ》だった。それに思ったことは、いつもずばずばと歯に衣《きぬ》着せずに言ってしまう。他人の気持などにはいっさい無関心で、相手が傷つけば、かえっておもしろがっているくらい。とりわけダーク・ストルーヴに対する毒舌は、顔見るたびに最も辛辣で、さすがの彼さえ、貴様のようなやつとは二度と口を利くもんかと、席を蹴《け》って行くのだが、ストリックランドには、どこかこの肥満したオランダ人を、われにもあらず惹《ひ》きつける魅力でもあるものか、またしても尾を振る犬のように帰ってくるのだった。いずれ会えば、頭からして挨拶《あいさつ》が、彼の最も恐れる例の毒舌であることくらいは、ちゃんとわかっているはずだのに、そうなのだった。
そのストリックランドが、なぜ僕にだけは寛容だったのか、それはわからない。僕ら二人の関係は、一種特別なものだった。ある日、彼は、僕に五十フラン貸してくれと言った。
「まっぴらだ。考えてもいやだね」と、僕は答えた。
「なぜだ?」
「馬鹿《ばか》馬鹿しいからだよ」
「ねえ、僕はすっからかんになってるんだぜ」
「そんなことは知らん」
「じゃ、飢え死にしても知らんと言うのか?」
「当り前じゃないか?」僕は逆襲してやった。
彼は、汚ない鬚《ひげ》を撫《な》でながら、一瞬僕の顔をじっと見た。僕は、にやりと笑ってやった。
「なにがおかしいんだ?」と、彼は怒りに眼《め》を輝かして言った。
「君も馬鹿だね。君は、義理なんてものはいっさい認めないんだろう? じゃ、こっちだって、誰《だれ》が君に義理なんか感じると思う?」
「じゃ、君はなんともないというんだな、この僕が、部屋代が払えないで追い出されて、首縊《くく》って死んだなどということになってもだよ」
「ああ、ちっとも」
彼は、くすりと笑った。
「から威張りってもんだよ、それは。ほんとに僕がそうなってみろ、後悔で、いても立ってもいられなくなるにきまってるから」
「じゃ、ひとつやってみたらどうだね?」僕も負けてはいなかった。
彼は、眼の縁にちょっと微笑を浮べたようだったが、また黙々とアブサンを撹《か》きまぜていた。
「チェスをやろうか?」と、僕は訊《き》いた。
「よかろう」
僕らは駒《こま》を並べた。並べ終ると、彼は、楽しそうな眼をして、盤面を眺《なが》め渡した。戦闘準備全く成り、いまや開戦をおそしと待つ部下の兵でも閲兵するような、満足感が浮んでいた。
「僕が金を貸すとでも、本当に思ってたのかい?」と、僕は訊いた。
「まさか貸してもらえないとは思わなかったねえ」
「だが、僕も驚いたよ」
「なにをだ?」
「つまりね、君という人間が、腹の底はセンティメンタリストだということがわかって、がっかりしたんだよ。あんなふうに、手放しで憐《あわれ》みを求めるなんて、君にだけはしてもらいたくなかったね」
「僕だって、もしあれで君が心を動かしたりなんぞしてたら、たしかに軽蔑《けいべつ》したねえ」と、彼は答えた。
「じゃ、なおさらよかった」と、僕は大声に笑った。
僕らはチェスをはじめた。しばらくは、二人とも夢中になっていたが、勝負がつくと、僕は言った。
「ねえ、君、そんなに困ってるのなら、ひとつ君の絵を見せないか? 好きなのがあれば、買ってもいいよ」
「ちぇっ、馬鹿にしてやがる」と、彼は答えた。
そして、立ち上って、出て行こうとするのを、僕は引き留めた。そして、
「君は、まだ君の分のアブサン代を払ってないじゃないか?」
と、軽く笑いながら、言ってやった。
彼は、なにか罵《ば》言《げん》を投げつけたかと思うと、代金を放《ほう》り出して、行ってしまった。
それから五、六日、彼に会わなかった。が、ある晩、キャフェに坐って、新聞を読んでいると、いきなりやって来て、僕の隣に腰を下ろした。
「結局、首は縊らなかったと見えるね」と、すかさず言ってやった。
「うん。ちょっと仕事ができたもんでね。実はね、二百フランの約束で、商売を廃《よ》したある鉛管屋の肖像を描いてるんだ」
「どうしてそんな口がめっかったんだ?」
「買いつけのパン屋の主婦《おかみ》が推薦してくれてね。誰か肖像画を描いてくれるやつはないかと、主婦《おかみ》に話したらしいんだな。で、僕は、主婦《おかみ》に二十フラン払わなくてはならないんだよ」
「どんな男なんだね?」
「そいつがすばらしいんだ。まるで羊の腿肉《ももにく》みたいな、大きな赤面《あかづら》をしやがってね。しかも右頬《みぎほお》には、途方もなく大きな黒痣《くろあざ》があって、そいつから長い毛が、もじゃもじゃ生えてるときてるんだ」
ストリックランドは、ひどく上機嫌だった。ダーク・ストルーヴがやって来て、一緒になると、またしてもこっぴどくやっつけはじめた。かわいそうに、このオランダ人にとって最も痛い急所を、どうしてこう見事に探り当てるのか、ちょっと信じられないくらいの手ぎわだった。ストリックランドの毒舌は、剃《かみ》刀《そり》のような皮肉というよりも、むしろ丸太ん棒に似た罵《ば》倒《とう》だった。しかも実に突如として振り下ろされるので、これにはストルーヴも、たいてい不意を衝《つ》かれて、まるきり手も足も出ない。まるで右に左に当てもなくおびえて逃げ惑う羊の群れそっくりだった。ただもうおびえきって、しまいには涙さえ浮べている。しかも最も悪いことは、たしかにわれわれ、心からストリックランドを憎んでいるし、また実に不愉快きわまる光景であるにもかかわらず、なにか笑い出さずにいられないものがあることだ。考えてみると、ダーク・ストルーヴこそ、あの不幸な人間の一人、つまり、真剣になればなるほど、馬鹿げてみえるという人間の一人だったのだ。
だが、今になって、あのパリの冬を思い出してみると、やはり最も楽しい思い出は、ダーク・ストルーヴである。ささやかな彼の家庭には、なにか妙に忘れがたいものがあった。彼と彼の妻との生活は、思い出してみるだけでも、快いものがあり、妻に対する彼の純情さには、やさしい心遣いがこもっていた。相変らず彼は、へまな真似《まね》ばかりしていた。ただ彼の愛の真《しん》摯《し》さだけが、人の同情を集めていたのである。夫に対して、彼女がどんな気持でいるか、僕にもわかっていた。それだけに彼女の優しい愛情は、僕にも嬉《うれ》しいものだった。もし彼女が、多少でもユーモアを解する女だったならば、まるで台座の上に据《す》えて、偶像でも拝むように崇《あが》められるのは、むしろ彼女のほうでおかしくなったにちがいないのだが、ただ彼女の場合は、笑いながらも、嬉しさに胸をときめかせているらしかった。いわば彼は永遠の恋人だった。たとえ女が齢《とし》をとって、ふくよかな線や、美しい容貌《ようぼう》を失ってしまっても、彼だけには、依然として昔ながらの女に見えたはずだ。彼にとっては、永遠に世界で一番の美人なのだ。小ぢんまりした彼らの生活には、快い美しさがあった。部屋といっては、アトリエと寝室と小さな台所と、ただそれだけだ。家事いっさいは、ミセス・ストルーヴが、一人で切りまわしていた。ダークがくだらない絵を描いている間に、彼女は買出しに行き、昼食を調え、針仕事をし、一日中まるで蟻《あり》のように、小まめに動きまわっていた。夜になると、アトリエに坐って、また針仕事をする。一方ダークは、おそらく彼女にはわかるはずもない音楽をやっている。彼の音楽は、決して悪い趣味のものではなかったが、やはりきまって感情が出すぎる。いわば音楽の中に、正直で、感傷的で、溢《あふ》れるばかりの彼の心を、一切合財ぶちまけているのである。
彼らの生活は、これはこれで一つの牧歌と言ってもいい、とにかく、一種不思議な美しさを醸《かも》し出していた。することなすことが馬鹿げている、ダーク・ストルーヴの持前が、この場合、ちょうどあの解決されない不協和音のように、一種奇妙な趣を与えていたが、一方からいえばまた、いっそう近代的な、いっそう人間的な生活情景でもあった。厳粛な場面の真中に、突如として投じられた心ない冗談のように、かえってそれは、いっさい美しい物のもつ鋭さを、さらにいっそう引き立てるものだった。
24
クリスマスの少し前だった、ダーク・ストルーヴが来て、当日はぜひ自分たちの家に来て、一緒に祝ってくれるようにとのことだった。この男は、クリスマスというものについても、いかにも彼らしい感傷癖を持っていて、すべき行事はちゃんと型どおりにして、友人たちにも集まってもらって過そうというのである。ところが、僕《ぼく》らは、その二、三週間というもの、たえてストリックランドの姿を見掛けなかった。僕は、ちょうどパリへ来ていた友人たちの歓迎で忙しかったし、ストルーヴは、彼と例になく猛烈な喧《けん》嘩《か》をやってしまった後で、あんな人間とは断然絶交だと意気込んでいた。あんなやつったらありゃしない、もう二度と口など利《き》くもんか、とも言っていた。だが、クリスマスという季節が、やさしい感情を動かしたのであろう、一人侘《わび》しくクリスマスを過すストリックランドのことを思うと、堪《たま》らなかった彼は、自分の気持で、そのまま相手を判断していたのである。交友の楽しみに捧《ささ》げられるこの一日を、ひとり胸の中の憂鬱《ゆううつ》を見つめて暮さなければならない孤独の画家を思うと、堪らなかったのだ。ストルーヴは、アトリエの中にクリスマスツリーを立てていた。いずれはその枝に、いろいろ馬鹿《ばか》馬鹿しい贈り物がぶら下るのだろう。が、さすがの彼も、今またストリックランドに会うのは気がひけた。あんなひどい侮辱を受けながら、そう簡単に宥《ゆる》してしまうというのでは、いくらなんでも自尊心が許さない。だからひとつ和解の席に、僕も一緒に立ち会ってもらいたいというのだった。
僕らは、クリシ街へ行ってみたが、彼の姿は例のキャフェにも見えなかった。屋外の席は寒すぎるので、僕らも中に入って、革《かわ》椅子《いす》に坐《すわ》った。中はむっとする暑さで、空気は、煙草《たばこ》の煙で灰色に曇っていた。ストリックランドは、ついに現われなかったが、しばらくすると、折々彼のチェス相手をしていたフランス人画家の姿が見えた。僕とも多少顔見知りだったので、僕らのテーブルに来て、一緒に坐った。ストリックランドに会ったかと、ストルーヴが訊《き》いた。
「病気ですよ、ご存じないんですか?」と、彼は言った。
「重いんですか?」
「そうでしょう、多分」
ストルーヴの顔は、蒼白《そうはく》になった。
「なぜ僕のところへ知らせてこないんだろう? 喧嘩をするなんて、馬鹿なことをしたもんだ。すぐにも行ってやらなくちゃいけない。世話してやるものもいないはずだ。いったい今どこにいます?」
「さあ、僕も知らないんだが」と、相手は言った。
結局、誰《だれ》にも見当がつかないことがわかった。ストルーヴは、いよいよ悲痛な顔になった。
「死んじまうかもしれん、誰一人知らないままでね。たいへんだぞ、これは。僕は、もう思っただけでも堪らない。すぐにも探し当てなくちゃ」
といって、パリ中を闇雲《やみくも》に探すというのでは、話にもなにもならない。それよりは、まずなんとか方針を立てることだ、と僕は、とにかくストルーヴをなだめてみた。
「そりゃそうだがね、言ってるうちにも、死にかけてるかもしれない。やっと探し当てたときには、もうなんとも手おくれだということもあるからね」
「まあ、坐れよ、そして考えようじゃないか」と、僕は、ほとんど叱《しか》りつけるように言った。
僕の知っている唯一《ゆいいつ》の住所といえば、あのオテル・デ・ベルジュだけだ。だが、そこはとっくの昔に引き払っていたし、とても彼を憶《おぼ》えているはずはあるまい。できるだけ居所を秘密にしておくという、彼の妙な癖から考えても、立退《たちのき》ぎわに行先を言って出たとは思えない。それに、もう五年以上も前のことだ。ただ彼が、そう遠くへは引越していないということだけは、まず確実に言えるように思えた。ホテル時代も今も、相変らず同じキャフェへ姿を現わすというのは、おそらくいちばん便利だということが理由に相違ない。そのとき、突然僕は、彼が買いつけのパン屋の紹介で、肖像描きの仕事を頼まれていると言ったのを思い出した。そのパン屋へさえ行けば、あるいは住所もわかるかもしれぬ。僕は店舗名簿をくってみて、パン屋を残らず調べ出した。この界隈《かいわい》に五軒あることはわかったが、あとはそれらを一つ一つ、当ってみるよりほかなかった。ストルーヴは、不承不承について来た。彼自身の考えは、クリシ街に通じるあらゆる通りを走りまわって、軒並み虱潰《しらみつぶ》しに洗ってみようというのだ。だが結局、僕の平凡きわまる方針が見事図に当ったわけで、訪ねて行った二軒目の店で、帳場の陰にいた女が、彼を知っていると言った。もっとも、どこに住んでいるかは、彼女もよく知らなかったが、ただたしか向う三軒のうちのどれか一つのはずだという。だが、これも運の好《い》いことに、いきなり最初に当ってみたアパートの管理人《コンシェルジュ》が、それはいちばん上の階だと教えてくれた。
「どうも病気らしいんだが」と、ストルーヴは言った。
「そうかもしれませんね」と管理人は、まるで興味なさそうに答えた。「なるほど《アン・エフエ》、この五、六日、ちっとも見かけないようですからね」
ストルーヴは、僕を残して、いっさんに階段を駆け上って行った。僕も後から最上階に上ってみると、ノックに応じて扉《とびら》を開けたシャツ一枚の労働者らしい男と、なにか話をしていた。男は今一つの戸口を指さした。そしてあの部屋の男が、たしか画家のはずだが、この一週間ばかりは全然姿を見ない、という。ストルーヴは、ノックせんばかりになったが、つと、いかにも困ったような身振りをして、僕のほうを振り返った。よほど狼狽《あわ》てたような様子だった。
「死んでたら、どうする?」
「そんなことはないよ」と、僕は答えた。
僕がノックした。答えはなかった。試しに把手《ハンドル》をまわしてみると、鍵《かぎ》はかかっていない。そのまま入って行った。ストルーヴも、後からついて来た。部屋は真暗だった。傾斜になった天井で、屋根裏部屋であることだけはわかった。微《かす》かな光、というよりはむしろ薄闇といったほうがいいくらいだったが、それが天窓から、仄《ほの》かに射《さ》している。
僕は、「ストリックランド君」と、声をかけてみた。
応答は、ない。むしろ妖《よう》気《き》を感じさせるような沈黙だった。僕のすぐ背後では、ストルーヴが、がたがた震えているらしかった。僕は、ちょっと灯《あか》りを点《つ》けるのを躊躇《ちゅうちょ》した。部屋の隅《すみ》に、ベッドが一つ、ぼんやり眼《め》に映った。もしここで灯りを点ければ、ベッドの上に、冷たい死《し》骸《がい》が映し出されるのではないかという気がしたのだ。
「マッチを持ってないのか? この馬鹿野郎!」
僕ははっとなった。暗闇の中から聞えた荒々しい声は、たしかにストリックランドだ。
ストルーヴが頓狂《とんきょう》な声を上げた。
「ああ、君はもう死んでるのかと思った」
僕は、マッチを擦って、蝋燭《ろうそく》を探した。すばやく小さな室内を見まわしてみたが、それは居室兼アトリエといったふうで、部屋の中は、ベッドが一つと、壁に裏向きにもたせかけた幾枚かのキャンヴァスと、画架と、テーブル、椅子が各々一つずつと、ただそれだけだった。床には敷物一つないし、暖炉もなかった。絵具や、パレットナイフや、その他いろんな物が雑然と散らかった机の上に、蝋燭の燃え残りが載っていた。僕は、それに火をつけた。ストリックランドは、身に合わない小さなベッドの上に、ひどく窮屈そうに寝て、ありったけの衣類を被《かぶ》って、暖をとっていた。一目見ただけで、高熱のあることがわかった。ストルーヴは、感きわまったように、おろおろ声を出しながら、近づいて行った。
「おい、どうしたんだ? 病気とは少しも知らなかった。なぜ知らせてくれないんだ? どんなことでもしてやるのに。いつか僕の言ったことを、気にでもしてたのかい? あんなことは、本気で言ったんじゃない。僕が悪かったよ。腹を立てたり、馬鹿なことをしたもんだ」
「うるさいっ!」と、ストリックランドが叫んだ。
「まあ、君、落着けよ。ねえ、もっと居心地よくしてやろうと思うんだが、君、世話してくれるものもいないんだろう?」
彼は、憮《ぶ》然《ぜん》として汚ない屋根裏部屋を見まわした。それから寝具を直してやった。だが、ストリックランドは、激しい息をつきながらも、怒気を含んだ沈黙を守っている。僕に対しても、眼に見えて憤然たる色を示していた。僕は静かに立って、眺《なが》めていた。
「なにかしてくれたいんなら、ミルクを買ってきてくれ」とうとう彼は口を切った。「もう二日も外へ出られないんだから」
ベッドの傍《わき》には、空になった牛乳壜《びん》と、新聞紙の上に、少量のパン屑《くず》とが残っていた。
「なにを食ってたんだ?」と、僕は訊いた。
「なんにも」
「いつからだ、いったい?」と、ストルーヴが叫んだ。「二日間、なんにも飲み食いしなかったというのか? むちゃだね、それは」
「水を飲んだよ」
そう言って彼は、手を伸ばしたあたりにある大きな缶《かん》のほうを、ちょっと見た。
「すぐ行ってきてやる」と、ストルーヴは言った。「なにか欲しいものはないか?」
僕は、検温器と、それに葡《ぶ》萄《どう》とパンを、少しばかり買ってくるように言ってやった。ストルーヴは、世話をするのが嬉《うれ》しくてたまらないかのように、がたがた階段を駆け下りて行った。
「馬鹿野郎だ!」と、ストリックランドが呟《つぶや》いた。
僕は脈をとってみた。おそろしく速い、しかも弱々しい脈だった。一言二言声をかけてみたが、彼は相変らず答えない。なおも問いつめると、今度はうるさそうに、くるりと壁のほうを向いてしまった。黙って待つより仕方がない。十分ほどすると、ストルーヴが息を切らせながら帰って来た。僕が言った物のほかに、蝋燭と肉汁とアルコールランプとを買ってきていた。小まめによく役に立つ男だ。帰るとすぐさま、パンとミルクの用意にかかった。まず体温を計ってみた。百四度あった。よほどの重態であることは明らかだった。
25
やがて僕《ぼく》らは暇《いとま》を告げた。ダークは食事に帰ると言ったが、僕は、ひとつ医者を頼んで往診に来てもらおうじゃないか、と言った。だが、むっとするような屋根裏部屋から往来へ出てほっとすると、ダークは、今すぐ自分のアトリエへ来てくれないか、と言う。なにか胸に一物あるらしいのだが、それは言わないで、ただぜひとも僕が一緒でなければいけないと言うのである。僕も、いま医者が来たところで、さしあたり僕らがしたこと以上に、なにができるわけでもあるまいと思ったので、彼の申し出に従った。家では、ブランシュ・ストルーヴが、食事の支度をしているところだった。ダークは、彼女のところへ行ったかと思うと、両手をとって言った。
「ねえ、一つお前にお願いがあるんだ」
彼女は、持前の愛嬌《あいきょう》である、こぼれるばかりの明るい微笑を浮べながらも、さすがに真剣な顔をして、夫の顔を見た。彼の赤ら顔は、汗に光っていた。むしろ滑稽《こっけい》なほど興奮の表情を見せていたが、驚きに丸く見張ったその眼《め》には、ひどく真剣な光が現われていた。
「ストリックランドが重態なんだよ。死ぬかもしれない。汚ならしい屋根裏部屋に一人いるんだが、世話するものもいないんだ。それでね、ここへ連れてきてやろうと思うんだが、いいだろうな」
彼女は、すばやく両手を退《ひ》いた。僕は、彼女がこんなに稲妻のように動くのを見たことがない。そして顔を真赤にして言うのだった。
「いいえ、いやですわ」
「ねえ、いい子だから、そんなことを言わないで。僕は、あのまま放《ほう》っておくことはできない。あの男のことを考えると、夜もおちおち眠れないだろうと思うんだ」
「世話なさるのは、あなたの勝手だわ」
彼女の声は、虚《うつろ》で冷たかった。
「でも、死ぬかもしれんぜ」
「いいじゃないの」
ストルーヴは、ちょっと喘《あえ》ぐように息を呑《の》んだ。顔を一つ拭《ぬぐ》うと、助け船でもほしそうに、僕の顔を見たが、僕としては、なんと言っていいものか、わからなかった。
「偉い芸術家なんだ、あいつは」
「そんなこと知らないわよ。とにかく私は大《だい》嫌《きら》い」
「ねえ、お前、本気で言ってるんじゃないんだろう? お願いだよ、連れてきてもいいだろう? 気持よく養生させてやるんだ。多分生命《いのち》を助けてやることもできると思うんだ。なにもお前に世話をかけるわけじゃない。僕がみんなやるから。このアトリエに、ベッドを作ってやろうじゃないか。あんな犬みたいな死に方がさせられると思うか? 不人情ってもんだよ」
「なぜどこかへ入院できないの?」
「入院だって? あの男に必要なのは、心から介抱してやる人間なんだ。よほど心得て、面倒を見てやらなければならない」
意外に激しい彼女の怒りには、僕自身も驚いたくらいだった。相変らず食卓の用意はつづけていたが、両手はぶるぶる震えていた。
「あなたみたいな人、もう我慢できないわ。あなたが病気でもしたとき、あの男、あなたのために、指一本でも動かしてくれる人間だとお思いになって?」
「そんなことは、どうだっていいじゃないか。僕には、お前っていう看護者がいるんだもの、そんな必要はないじゃないか。それに、僕の場合は話がちがう。僕はそんなたいした人間じゃない」
「あなたって人は、よくよくの意気地なしね、まるで野良《のら》犬《いぬ》みたいに。わざわざ地面へ寝転がって、人に踏んづけてもらいたいのよ」
ストルーヴは、ちょっと笑った。妻がそうした態度に出る理由も、まんざらわからないではないような気がした。
「お前は、あの男が僕の絵を見に来た、あの日のことを考えてるんだろう。くだらない絵だと思ったからって、そんなこと、どうだっていいんだよ。あの男に見せたりした僕のほうが、馬鹿《ばか》だったんだ。そう、たいした絵じゃないかもしれん」
彼は、悲しそうにアトリエを見まわした。画架の上には、黒い瞳《ひとみ》をした少女の頭の上に一房の葡《ぶ》萄《どう》をかざして、にこにこ笑っているイタリア農夫の絵が、描きかけになって載っていた。
「もし嫌いだとしてもよ、なんとかもっと言い方があるはずじゃないの? 馬鹿にすることはないと思うわ。向うじゃ、はっきり軽蔑《けいべつ》してることがわかっているのに、あなたったら、まるでその手に舐《な》めついてるのよ。ああ、あんな男大嫌い」
「ねえ、あれであの男は、天才なんだよ。僕にそんな自惚《うぬぼ》れがあるとは、まさか思うまいね。僕だって欲しいには欲しいが、だめだ。そのかわり天才を見れば、ちゃんとわかる。そして心から尊敬するんだ。天才、それはこの世界でも最も驚くべきものだ。しかし、持主にとっては大きな重荷なのだ。僕らは、彼らに対して寛容でなければいけない、じっと我慢してやらなければいけないのだ」
僕は、離れて立っていたが、この家庭風景に対しては、むしろ多少の当惑を感じたくらいだった。そして、なぜあんなに僕に一緒に来てくれと言い張ったものか、不思議でならなかった。細君は、ほとんど泣き出しそうになっていた。
「もっとも僕が連れてくるというのは、なにもあの男が天才だからというだけじゃない。あの男も人間なんだ、そして病気と貧乏とで苦しんでいる、それだからなんだ」
「とにかくあの人をこの家に入れることは、私、お断わりするわ――ええ、断然」
ストルーヴは、僕のほうを向いた。
「君からも言ってくれたまえよ、とにかく生死の問題だからってね。あんなひどいとこに放っておくなんて、そんなことができるもんか」
「そりゃ、ここなら世話するのに、ずっと楽なことだけはまちがいないね」と、僕は言った。「だが、それにはずいぶん厄介《やっかい》なこともあるぜ。つまり、昼も夜も、誰《だれ》か一人は付きっきりでいなくちゃならん、と思うんだ」
「ねえ、お前、そんなことくらい、面倒がるお前じゃないねえ?」
「私、あの人が来るなら、どこかへ行っちまうわ」と、ミセス・ストルーヴは、恐ろしい剣幕で言った。
「いつものお前とは、まるでちがった人間みたいだな。優しい親切な女なんだがな、お前は」
「ああ、もう後生だから、なにも言わないでちょうだい。気が変になりそうだわ」
とうとう涙がこみ上げてきた。彼女は、椅《い》子《す》に身を沈めて、両手に顔を埋《うず》めてしまった。両肩が痙攣《けいれん》的に震えていた。と思うと、ダークは、やにわに彼女の傍《かたわら》 に 跪《ひざまず》き、彼女の身体《からだ》を両腕に抱くと、接吻《せっぷん》をするやら、ありったけの愛称を並べたてるやら。安易な彼の涙は、もう両頬《りょうほお》を流れ落ちていた。やがて彼女は、つと身を退くと、涙を拭《ふ》いて言った。
「かまわないでちょうだいったら」だが、それはまんざら冷たい調子ではなかった。そして僕のほうに向き直ると、強《し》いて微笑をつくりながら、「あなたはどうお思いになって、私のことを?」
ストルーヴは、一瞬、当惑したように彼女の顔を見つめて、口ごもった。前額《ひたい》には一面の深い皺《しわ》がきわ立ち、赤い唇《くちびる》をぷすりと尖《とが》らせていた。僕は、なぜかしら、ふと物に怯《おび》えたモルモットの姿を連想した。
「じゃ、どうしてもいやだというんだね?」とうとう彼は言った。
彼女は、やれやれというような身振りを一つした。根負けがしたのだ。
「そりゃアトリエは、あなたのものだし、ここにあるものは、みんなあなたのものよ。連れてきたいとおっしゃれば、私としちゃ、なにも言うことないじゃないの?」
彼の円い顔に、さっと微笑の影が閃《ひらめ》いた。
「じゃ、いいんだね? たいていそんなことだろうとは思ってたが、ほんとにありがとう」
と、彼女は急にきっとなった。そして険しい、おびえたような眼をして、じっと彼の顔を見た。まるで心臓が脈打つ、その事実さえ堪えがたいかのように、両手を胸の上に組み合せた。
「ねえ、ダーク、あなたと会ってから今日まで、私、一度だって、自分のためになにかしてくれって、頼んだことないわね?」
「わかってるじゃないか、お前のためなら、僕は、どんなことだってしてやる」
「じゃ、どうかストリックランドを連れてこないでちょうだい。ほかの人なら、どんな人だっていいわ。泥棒《どろぼう》だって、酔っ払いだって、ごろつきだって、どんな人間だっていいわ。私、約束するわ、どんな世話だって喜んでするから。だけど、後生だから、あのストリックランドだけは連れてこないで」
「だけど、いったいなぜなんだ?」
「私、あの男が怖いの。自分でもよくわからないわ。でも、あの男、なぜだか怖いのよ。私たち、なにか恐ろしい目に遭うような気がするの。私にはわかるわ。予感がするの。連れてきてごらんなさい、きっとよくないことが起るに決ってるわ」
「だけど、そんなこと意味ないじゃないか?」
「いいえ、あるわ。私、決してまちがいじゃないつもり。きっとなにか恐ろしいことが起る」
「僕らが、いいことをしたからってかい?」
彼女は、もう激しい息づかいになって、顔には名状しがたい恐怖の色が浮んでいた。彼女がなにを考えていたのか、僕にはわからない。多分なにか形のない恐怖が、彼女の心を領して、すっかり自制力を奪ってしまったのだろう、と思った。いつもは、実に物静かな女だった。それだけに、今の興奮は意外だった。ストルーヴも、ちょっと手の出しようがないといった形で、しばらくは彼女を見つめていた。
「お前は僕の妻だ。この世界の何よりも大事な僕の妻だ。そのお前が、どうしてもいやだというものを、誰が連れてくるものか」
彼女は、しばらくの間、眼を閉じた。失神するのではないか、と僕は思った。僕としては、彼女に対して多少いらいらする気持もあった。こんなにまで神経質な女だとは、夢にも考えなかったからだ。が、そのとき、ふたたびストルーヴの声がした。沈黙の中に、それはひどく異様に響いた。
「お前だって、一度はずいぶん苦しい目に遭ったわけじゃないか。そこへ折よく、救いの手が伸びたというわけだが、それがどんなにありがたいものか、お前にはわかってるはずだ。それが今度は、お前のほうでしてやれる番なのだ。なんとか人のためになってやりたいと思わないかい?」
別にこれといって驚くほどの言葉ではない。僕などはむしろ笑い出してしまったほど、ひどく勧告じみた口吻《くちぶり》に聞えた。だのに、僕もすっかり意外に思ったことは、これがブランシュに対して、実に驚くべき効果を示したことだった。彼女は、ちょっとはっとなったように見えたが、そのままじっと夫の顔を見つめていた。彼は彼で、無言で床板を見つめている。彼がなぜこう困った顔をしているのか、僕にはわからなかった。と、彼女の頬に、かすかな血の色が射《さ》したかと思うと、今度は急に蒼白《そうはく》な――いや、白さを通り越して、恐ろしい形相に変った。まるで身体全体から、一時に血の気が退いたかのように見えた。両手の先まで真蒼《まっさお》だった。彼女の身体を、悪《お》寒《かん》が水のように流れ過ぎた。アトリエ全体の沈黙が、凝然と一つにかたまって、なにか触れれば堅く、手に感じられそうに思えた。どうしたものか、僕も面食らった。
「じゃ、連れてらっしゃいよ、ダーク。私もできるだけの介抱はしてあげるわ」
「ああ、ありがとう」彼は微笑した。
そして彼女を抱擁しようとしたが、細君は、つと身をかわした。
「そんなことするもんじゃないわよ、他人《ひと》様《さま》の前で。馬鹿にされてるようで、いやだわ」
彼女の様子は、全く元どおりだった。つい今し方まで、あんなにも興奮に震えていた女だとは、ちょっと想像もつかなかったろう。
26
次の日、僕《ぼく》らは、ストリックランドを引越させた。承知させるまでには、ずいぶん骨が折れたばかりでなく、さらにそれ以上に、できない我慢もしなければならなかった。もっとも実際の病状はひどいもので、ストルーヴの懇望と僕の決意とに対して、とうてい有効な抵抗をする力はなかった。まだなにかぶつくさ悪態を並べているのを、とにかく二人で着替えをさせ、かまわず担《かつ》ぎ下ろして、辻《つじ》馬《ば》車《しゃ》に乗せ、ストルーヴのアトリエへ連れてきてしまったのだ。着いたときには、さすがの彼も疲れきっていたので、僕らの言いなりに、黙ってベッドに横になった。病気は、六週間ばかりかかった。あるときなどは、もう数時間の生命《いのち》と思えるようなこともあったくらいで、実際彼がこの危機を切り抜けたのは、一にこのオランダ人の恐るべき粘り強さのおかげだと、僕は信じている。とにかく、これほど厄介《やっかい》な患者を僕は知らない。なにも注文が難かしくて、喧《やかま》しいというのではない。むしろ反対で、一言の不平を言うでもなければ、なに一つ頼むでもない。完全に無言なのだ。世話になるのが忿懣《ふんまん》に堪えないらしいのだ。気分はどうだとか、欲しいものはないかとか訊《き》いているのに、かえって嘲弄《ちょうろう》、冷笑、罵《ば》倒《とう》の逆襲を食うのである。これには僕も、すっかり腹を立てて、もはや危険状態は脱したと聞くやいなや、早速そのことを言ってやった。だが、彼の答えは、ただの一言、「勝手にしやがれ」とだけだった。
ダーク・ストルーヴは、自分の仕事はすべて放《ほ》ったらかしにして、実に至れり尽せりの介抱だった。事実また患者を居心地よくしてやることにかけては、実にうまかった。医者の処方していく薬一つ呑《の》ませるにしても、まことによく心得たもので、よくこの男にこんな知恵がと思えるような工夫を凝らしていた。どんな面倒も、決して苦にすることはない。彼ら夫婦暮しだけならば、まず困らない程度の金はあったろうが、むろんむだな余財などあるはずがなかった。それが今は、ストリックランドの気《き》紛《まぐ》れな食欲が要求する、季節外れの高価な食べ物に、まるで湯水のように使われるのだ。滋養物を摂《と》らなくちゃだめだと、諄々《じゅんじゅん》と説いていたあの根気と如才なさとは、僕など一生忘れないだろう。ストリックランドの非礼に対しても、彼は、決して腹を立てなかった。ただ拗《す》ねているだけのときは、見て見ぬふりをしているし、挑戦《ちょうせん》的に出てきても、ただくっくっと笑って受け流しているだけだった。いくぶん快《よ》くなって、上機嫌《じょうきげん》なストリックランドが、おもしろ半分に例の嘲笑をはじめたりすると、かえって彼のほうから、わざと馬鹿《ばか》げたことをして見せて、相手の嘲笑に油を注いでやる有様。そしてそのたびに、いかにも嬉《うれ》しそうに、僕のほうをちらちらと見る。ほら見ろ、病人はこんなに快くなった、とでも言わんばかりなのだ。まことにどうも神のような男だった。
だが、それよりも、いちばん僕を驚かしたのは、ブランシュだった。てきぱき面倒を見るばかりか、ほとんど献身的な看護者になっていた。最初ストルーヴが、病人を連れてきたいと言ったとき、あれほどむきになって反対した彼女が、今ではまるで嘘《うそ》みたいだった。病人に必要な世話で、自分にできることは、なんでもするからと言い出した。ベッドなども、病人を動かさずに、そのままシーツの取替えができるように、彼女自身が工夫した。身体《からだ》を拭《ふ》くのも、彼女だった。たいしたものですねと、僕が言ったら、例の明るい微笑を洩《も》らしながら、一時病院で働いていたことがあるものですから、と言った。あれほどまでストリックランドを憎んでいた様子は、今は少しも見えなかった。彼女のほうから話しかけることこそあまりなかったが、彼の欲しいものは、いち早く見て取った。最初の二週間は、夜通し誰《だれ》か付き添っていなければならなかったが、彼女も、ちゃんと夫と交代に、不寝番を受け持った。長い夜中をベッドの傍《わき》に坐《すわ》っていながら、いったい彼女は、なにを考えていたのだろうか? さらに一段と痩《や》せ衰え、例の赤鬚《あかひげ》は伸び放題だし、熱っぽい眼《め》をぎょろりと空《くう》に見据《みす》えているストリックランドの寝姿は、むしろ無気味に近かった。眼玉は、病気のためにいっそう大きく見え、むしろ異様な輝きさえ帯びていた。
「夜中、やつは何か物でも言いますか?」と、僕は、一度訊いてみたことがある。
「いいえ、なんにも」
「で、奥様は、やはりあの男がお嫌《きら》いなんですか?」
「ええ、前よりももっと」
そう言って、柔らかな、灰色の眼を僕に向けた。静かな表情だった。いつか見たような、激しい感情の動く女とは、とうてい考えられなかった。
「あなたの介抱に、お礼でも言ったことがあります?」
「いいえ」彼女は微笑した。
「実にひどいやつですよ」
「ええ、堪《たま》らないくらいいやですわ」
むろんストルーヴは、彼女に対して大喜びだった。彼自身持ち込んできた重荷を、心から喜んで受け容《い》れてくれた彼女の献身ぶりに、彼は、どうして感謝の意を表していいか、わからないようだった。だが、ただ一つ、多少彼を不安にしたのは、ブランシュとストリックランドとのお互いの態度だった。
「ねえ、君、僕は見たんだがね、あの病室で、二人は何時間も、じっと物一つ言わないで坐ってるんだよ」
あるとき、そうだ、ストリックランドがすっかり快くなって、もう一日二日もすれば起きられるというときだったが、僕は、彼らと一緒にアトリエにいたことがある。僕は、ダークと話していた。ミセス・ストルーヴは針仕事をしていたが、彼女の繕っているシャツが、ストリックランドのものであることは、すぐにわかった。彼は、仰向けに寝たまま、一言も口を利《き》かない。と、僕はふと、彼の眼がじっとブランシュの上に注がれているのを見た。しかもそれは、奇妙な皮肉を湛《たた》えた眼だった。彼の視線を感じたブランシュは、つと眼を上げると、一瞬互いにじっと眼を見合せた。僕には、彼女の表情の意味は、よくわからなかった。一種奇妙な当惑と、そしておそらくは――なぜだか、それがわからないのだが――恐怖とを湛えた眼だった。彼は、すぐに視線を外《そ》らして、ぼんやり天井を眺《なが》めまわしていたが、彼女のほうは、そのままいつまでもストリックランドを見つめていた。まったく不可解な表情だった。
二、三日すると、ストリックランドは起き出した。骨と皮とに衰えて、洋服を着た格好は、まるでぼろを着たかかし《・・・》そっくりだった。汚ならしい鬚、伸び放題の頭髪、平生《ふだん》から人並み以上に大柄《おおがら》な顔の造作が、病気のせいで、いっそうきわ立って見え、実になんともいえない格好だったが、それでいて奇妙なことには、必ずしも醜いとは思えないのだ。彼の醜さには、なにか一種異様なものがあった。僕は、彼から受けた印象を、適切に言い表わす言葉を知らない。それは、肉体という目隠し《スクリーン》が、ほとんど透明なまでに薄れてしまっていたそのときでさえも、通常いうところの精神的というものでは決してなかった。現に彼の容貌《ようぼう》には、むしろ驚くべき官能性が現われていたからである。そのくせ、馬鹿な言い方かもしれないが、彼のもつ官能性には、妙になにか精神的なものが見えるのだ。この男には、なにか原始性といったものがあった。ギリシャ人の想像が、サテュロスとか、ファウヌスとか、そういった半人半獣神の形で具体化した、あの不可解な暗い自然の力、それが彼の中に宿っているように思えた。神と歌の技を争ったために、ついに神のために生きながら皮を剥《は》がれたというあのマルシュアスのことを、僕は思い浮べた。ストリックランドという男は、彼の胸に、不思議なあるハーモニーと、なにか前人未到のパタンとを匿《かく》しているように思えた。そして僕は、彼の前途に、なぜか苦痛と絶望の最《さい》期《ご》を予見できるような気がした。魔性に憑《つ》かれた男というあの印象を、僕は、もう一度あらたにした。だが、それは悪魔とも言えないのだ。なんとなれば、それは、いわば善悪以前に存在する原始的な力だったからだ。
まだ絵を描く気力までは出なかった。黙々とアトリエに坐って、なにか知らないが、空想に耽《ふけ》ったり、読書したりしていた。しかも愛読書というのが、やはり変っていて、よくマラルメの詩集を読み耽っているのを見かけた。彼の読み方というのは、子供のそれと同じで、一語一語を唇《くちびる》の形でしてみるのだ。あの微妙な韻律や難解な章句から、果してどんな奇怪な感情を経験しているのか、よく僕は不思議に思った。そうかと思うと、ガボリオーの探偵《たんてい》小説を夢中になって貪《むさぼ》り読んでいることがある。書物の選択にさえも、彼の奇怪な性情の相容れない両面が、おもしろく現われているのを、非常に興味深く思った。それに、これもまた奇異に思ったことだが、こうした肉体の衰弱にありながら、依然として居心地、住み心地ということにはいっさい無関心なのだ。ストルーヴという男は、窮屈嫌いで、アトリエの中にも、深々と詰め物をした肘掛《ひじかけ》椅子《いす》が二脚と、大きな長椅子《デイヴアン》まで持ち込んでいたが、ストリックランドは、決してこれらに近づこうとしない。克己主義《ストイシズム》を衒《てら》っているわけでないことは、ある日僕が、彼一人でいるアトリエへ入って行ったときにも、やはり三本足の腰掛に掛けていたことでもわかる。要するに、嫌いだという、それだけのことだったのだ。彼は、好んで肘掛もなにもない台所椅子に腰を掛けた。彼を見ていると、よく僕は、いらいらしてくることがあった。とにかく彼くらい、自分の身のまわりに無関心な男を、僕は知らない。
27
二、三週間後だった。ある朝、僕《ぼく》は、仕事のほうが一段落したので、今日はひとつ休養ということにして、ルーヴルへ出かけた。もうすっかり知りつくした絵の前をぶらぶら歩きながら、それらの絵が与えてくれる感情から、次々と取り留めもない空想に耽《ふけ》っていた。ちょうどあの長い画廊へかかったときだった、ふと見るとストルーヴが歩いている。僕は、思わず微笑した。あの丸々と肥《ふと》った彼が、いつもなにかおどおどしている格好は、笑わないではいられないからだった。だが、近づいてみると、不思議なことに、ひどく悄然《しょうぜん》としている様子。なにか思い悩んでいるらしいのだが、それがまた着物ぐるみ水に落ち、生命《いのち》だけは救われたが、まだ怯《おび》えきったまま、なにか自分だけがひどく間抜けて感じられる、あれと同じで、かえって滑稽《こっけい》にみえるのだ。彼は引き返して来て、じっと僕のほうを見ていたが、僕だとはわからぬらしい。円い青い眼《め》が、眼鏡の奥に憂《うれ》わしげに、光っていた。
「おい、ストルーヴ君」
彼は、ちょっとはっとなったが、すぐに微笑に変った。だが、それは、愁《うれ》いに充《み》ちた微笑だった。
「どうしたんだ、そんなに悄《しょ》気《げ》返《かえ》ってぶらぶらしているのは」と、僕は快活に声をかけた。
「ルーヴルへも、ずいぶん来なかったねえ。なにか新しいものでも出てやしないかと思ってね」
「だが、君は、今週中に一枚描き上げなきゃならないと言ってたんじゃないか?」
「ストリックランドが描いてるんだよ、僕のアトリエで」
「ほう?」
「いや、僕が言い出したことなんだ。まだ自分の部屋へ帰って行くところまで、癒《なお》ってないもんでね。僕の考えじゃ、二人で一緒に描けると思ったんだよ。共同でアトリエを使ってるやつは、この辺にはいくらでもいるからね。それもおもしろいだろうと思ったんだ。僕はいつも考えるんだが、仕事に疲れたときなど、誰《だれ》か話相手がいたら、どんなに愉快だろうとね」
やっとこれだけのことを、彼は、一句一句勝手悪そうな間を置いては話した。そして例の柔和な、いかにもお人《ひと》好《よ》しらしい瞳《ひとみ》が、じっと僕の顔を見つめていた。眼は涙でいっぱいだった。
「僕にはわからないがね、君の言うことが」と、僕は言った。
「ストリックランドは、一人でなきゃ仕事ができないと言うんだよ」
「馬鹿《ばか》なことを言うな、君のアトリエじゃないか。そんなこと、君の知ったことじゃない」
彼は、情けなさそうな顔をして、僕を見た。唇《くちびる》はぶるぶる震えていた。
「どうしたんだね、いったい?」と、僕は、むしろつっけんどんな訊《き》き方をした。
彼は、顔を真赤にして、口ごもった。そしていかにも困ったように、壁の絵をちらと見た。
「僕に描かしてくれないんだよ。出て行けって言うんだ、僕に」
「だが、なぜ、馬鹿いえ、と言ってやらないんだ?」
「閉め出されちゃったんだよ。力ずくじゃ、僕の負けさ。とうとうあいつは、僕の後ろから帽子を投げつけて、入口に鍵《かぎ》をかけてしまったんだ」
僕は、ストリックランドに対して、憤然として怒りを発した。と同時にまた、僕自身に対しても、激しい憤《いきどお》りを感じた。というのは、それを言うストルーヴの馬鹿馬鹿しい格好を見ていると、思わず噴き出したくなるのだった。
「だが、奥様はなんと言うんだ?」
「いま買物に出て留守なんだよ」
「じゃ、奥様が帰ったら、奥様は入れるつもりなのか?」
「さあ、僕にはわからないが」
僕は、ストルーヴの顔を見ながら、どうしていいかわからなかった。まるで先生に叱《しか》られている子供みたいに、立っているのだ。
「僕が追い出してやろうか?」
彼は、ちょっとどきっとしたようだったが、彼のてらてら光る顔が、真赤になった。
「だめだよ。なんにもしないでくれたまえよ」
そして彼は、軽く会釈《えしゃく》すると、そのまま行ってしまった。なにか理由があって、明らかにこの問題については話したくないらしいのだ。僕には、さっぱりわからなかった。
28
一週間すると、いっさいが判明した。晩の十時頃《ごろ》だったろうか、僕《ぼく》は、一人レストランで晩飯をすませると、アパートへ帰って、応接間で本を読んでいた。と、突然けたたましくベルが鳴ったので、廊下へ出て、扉《とびら》を開けた。ストルーヴが立っていた。
「いいかい?」と、彼は訊《き》いた。
踊り場の暗がりで、顔はよく見えなかったが、その声には、思わずはっとなったほど、なにか異様なものがあった。彼が節酒家であることは、知っていたからよかったが、でなければ、おそらく酔っぱらって来たとでも思ったろう。僕は、部屋へ導き入れて、とにかく坐《すわ》れと言った。
「ああ、会えて本当によかった」と、彼は言った。
だが、その激しい語勢には、僕も驚いて、「どうしたんだ?」と、訊き返した。
僕は、はじめて彼の姿をよく見ることができた。平生《ふだん》から、身装《みなり》のほうはきちんとしている男だが、それが今日は、すっかりだらしない格好をしている。まるでにわかに薄汚なくなったような感じだった。僕は、てっきり酒を飲んで来たものと思って、笑い出してしまった。なんて態《ざま》だと、危うくからかい口さえ出るところだった。
「どこへ行っていいか、わからなかったんだ」と、彼は、突然大声に切り出した。「もっと早く来たんだが、君がいなかったもんでね」
「食事が晩《おそ》かったんだ」
僕は考え直した。この一目見てわかる、自《や》暴自棄《けくそ》のような状態は、決して酒のためではない。いつもは美しい薔薇《ばら》色《いろ》の顔が、今日はまるで奇妙に斑点《はんてん》だらけなのだ。手はぶるぶる震えている。
「なにかあったのかい?」と、僕は訊いた。
「家内が逃げてしまったんだ」
彼は、ほとんどこの言葉を口にすることができなかった。小さく、喘《あえ》ぐように息を呑《の》んだかと思うと、丸々とした両頬《りょうほお》を、涙がぽたぽたと伝いはじめた。なんと言っていいか、僕には見当がつかなかった。最初とっさに思ったことは、てっきりこれは、ストリックランドに現《うつつ》を抜かしている彼の腑抜《ふぬ》けさ加減に、とうとうしびれを切らし、加えて、あの男の皮肉な態度に腹を立てた彼女のほうで、あんな男、追い出してくれと言い出したのにちがいない。平生こそひどく物静かな女だが、どうして癇癪《かんしゃく》の強そうな女だということはわかっている。もしストルーヴがいやだなどと言えば、二度と帰るものかくらいの捨《すて》台詞《ぜりふ》を残してアトリエを飛び出すくらいは、平気でやってのけるだろう。それにしても、すっかり悄《しょ》気《げ》返《かえ》っているこの小男を見ていると、僕も笑えなくなった。
「まあ、君、悄気なくともいいよ。帰ってくるさ。女がかっとなって言う言葉を、そんなに気にするやつがあるもんか」
「君は知らないんだ。家内のやつは、ストリックランドに参ってるんだよ」
「ええっ!」僕も、これには驚いた。だが、ようやく腑に落ちると同時に、あまりにもそれは馬鹿《ばか》げた話に思えてきた。「馬鹿なことを言うのはよせよ。まさかストリックランドを妬《や》いてるんじゃないだろうな?」僕は笑い出しそうになった。「君もよく知ってるはずだ、奥様は、あんな男は見るのもいやだ、と言ってたじゃないか?」
「君にはまだわからないんだ」彼は、呻《うめ》くように言った。
「馬鹿だな、君のヒステリーだよ」僕は、多少腹立たしげに言った。「ウィスキー・ソーダでもやるから、一杯飲んでみろよ。少しは快《よ》くなるだろうから」
僕は思った、なにかこれには理由があって――実際人間というやつは、わざわざ自分を苦しめるために、どんなすばらしい創意を思いつくかしれないからである――ダークのやつ、細君がストリックランドに惚《ほ》れている、と思い込んでしまったに相違ない。しかし、いったんそうなると、そこはへまをやる天才の彼のことで、きっとなにか、彼女を怒らせるようなことをやってしまったのだろう。そうなるとまた細君のほうでも、おそらく彼を怒らすために、ことさら疑念を募らせるようなことをしたのに相違ない。
「じゃ、どうだ」と、僕は言った。「ひとつ君のアトリエへ行ってみようじゃないか。もし君が、自分から好んで馬鹿な真似《まね》をしてるんだったら、君は兜《かぶと》を脱いで、謝らなければだめだぞ。僕は思うんだ、奥様は、そんな悪い心を持つような女じゃない」
「だって、どうしてアトリエへ帰れる?」彼は、物《もの》憂《う》げに言った。「あいつらがいるんだよ。あいつらに明け渡して来たんだ」
「じゃ、奥様が逃げ出したんじゃない、君のほうで、奥様を放《ほ》ったらかして来たんじゃないか?」
「後生だから、そんな言い方はしないでくれたまえよ」
だが、それでもまだ僕は、彼の言葉が、本気だとは思えなかった。彼の言ったことを、とうてい信じる気にはなれなかったのだ。だが、ひどく悩んでいることは、事実だった。
「なるほど、その話に来たんだね? それじゃ、すっかり話してくれたまえ、そのほうがいい」
「今日午後だったが、僕はもうこれ以上我慢できなくなったんだ。僕は、ストリックランドのところへ行ってね、もう身体《からだ》もいいし、家へ帰ってもいいだろう、と言ってやったんだ。僕がアトリエを使いたかったからね」
「ストリックランドじゃないほかのやつなら、そんなこと、言わなくともわかってるんだがね」と、僕は言った。「ところでやつは、なんと言った?」
「ちょっと笑ってね。そうだ、君も知ってるだろう、あいつの笑い顔は? それは、おもしろいからというんじゃない、まるで貴様は馬鹿だ、とでも言わんばかりの笑い方だよ。そして今すぐにでも出てやると言うんだ。どんどん荷物を片づけだした。ほらね、要りそうな物だけは、いつかやつの部屋から、僕が持ってきてやってたろう? そしてブランシュに、紙と紐《ひも》とをくれというのだ、荷物を作るんだってね」
ストルーヴは、言葉を切ると、喘ぐように息をはずませた。昏倒《こんとう》するのではないかと思った。事実、まさか彼から、こんな話を聞こうとは思わなかった。
「家内は真蒼《まっさお》になったが、言われるままに紙と紐とを持ってきた。やつは一言も言わない。荷物をこさえながら、なんだか口笛で歌っているのだ。僕らには見向きもしない。そして眼《め》には、絶えずあの皮肉な微笑を浮べている。僕の心は、鉛のように重かった。きっとなにか起るに相違ない。こんなことなら、なんにも言わなければよかったと思った。やつは、きょろきょろと帽子を探していたが、すると、家内のやつが言い出したんだ。
『ダーク、私も、ストリックランドさんと一緒に行くわ。私、もうこれ以上あなたと生活することはできない』ってね。
僕も、なにか言おうと思ったが、どうしても言葉が出てこない。ストリックランドは、相変らず無言さ。まるで自分とは無関係のことのように、平然と口笛を吹いている」
ストルーヴは、また言葉を切って、顔を拭《ふ》いた。僕は、じっと石のように聞いていた。もはや嘘《うそ》とは思えない。僕は、いまさらのように仰天した。だが、わからないといえば、依然としてわからない。
声を震わせ、ぽろぽろ涙を流しながら、彼は、また話をつづけた。ブランシュに近づいて、両腕に掻《か》き抱こうとすると、つと身を退《ひ》いて、触らないでくれ、と言った話。後生だから行かないでくれ、どんなにお前を愛しているか、どんなに今日まで、すべてを捧《ささ》げて、お前を愛してきたか、せめてそれを思い出してくれ、と哀願した話。彼は、幸福だった二人の生活について話した。怒ってはいなかった。彼女を責めもしなかった。
「ねえ、ダーク、どうか黙って行かせてちょうだい」とうとう彼女は言った。「おわかりにならない? 私、ストリックランドを愛してるのよ。あの人の行くところへ、どこへだって一緒に行くの」
「だが、いいかね、あの男は、決してお前を幸福にしてくれる人間じゃない。お前のためなんだ、行かないでおくれ。お前にはわからないんだよ、前途にどんな運命が待っているか」
「あなたが悪いのよ。どうしても連れてくるって、あなたが言い張ったんじゃないの?」
彼は、ストリックランドのほうへ向き直った。
「この女をかわいそうだと思ってやってくれ」彼は哀願した。「こんな気違い沙汰《ざた》をさせないでくれたまえよ」
「それは女の勝手だ」と、ストリックランドは言った。「なにも無理に連れて行くわけじゃない」
「もう心は決ってるの」と、くすんだ声で、彼女が言った。
人を小馬鹿にしたストリックランドの冷静さが、とうとうストルーヴの自制心を奪ってしまったのだ。盲目的な怒りがこみ上げてきて、彼は、無我夢中でストリックランドに躍り掛っていた。不意を食らったストリックランドは、ちょっとよろめいたが、病後とはいえ、彼の体力はすばらしかった。あっという間に、ダークの身体は、床の上に伸びていた。
「おかしなやつだな、貴様は」と、ストリックランドが言った。
ストルーヴは、やっと起き上った。気がついてみると、細君は、身動き一つしないで立っている。彼女の前で醜態を曝《さら》したことは、彼の屈辱感をいっそう深いものにした。眼鏡は、格闘中に飛んでしまい、ちょっとすぐには見当らなかった。と、彼女が拾い上げて、無言で彼に手渡した。彼は、にわかに自分の不幸がひしひしと感じられるような気がした。輪をかけて恥を曝すことになるのはわかっていたが、とうとう声を上げて泣き出してしまった。両手で顔を隠して泣いた。二人は、じっと無言で見つめたまま、その場を動こうともしない。
「ねえ、ブランシュ」とうとう彼は、呻くように言った。「よくそんなひどい気持になれるもんだ」
「ダーク、私ね、自分でもどうにもならないのよ」と、彼女は答えた。
「僕がお前にしたほど、そんなに男から崇拝された女があると思うか? もし僕が、なにか気に障るようなことでもしたというのなら、なぜそう言ってくれないのだ? すぐにも改めたと思うよ。お前のためには、できるだけのことをしてきたつもりなんだ」
彼女は答えなかった。顔色一つ変らないのだ。彼の言葉は、いたずらに彼女を退屈させているにすぎないことがわかった。女は外套《がいとう》を着て、帽子を被《かぶ》った。静かに戸口のほうへ歩き出した。ああ、いよいよ行ってしまうのだ、と彼は思った。とっさに後ろから追い縋《すが》ると、前へまわって、跪《ひざまず》きながら両手を取った。もう自尊心もなにもあったものでない。
「ああ、どうか行かないでおくれ。お前なしでは、生きていられないのだ。僕は死んでしまう。もしお前を怒らせるようなことをしたのだったら、どうか宥《ゆる》しておくれ。もう一度僕にやらせてみてくれないか? 僕は、もっと一生懸命になって、きっとお前を幸福にしてみせる」
「立ってよ、ダーク。まるで自分で自分を笑いものにしてるみたいよ」
彼は、よろよろと立ち上った。だが、決して彼女を放そうとはしなかった。
「どこへ行くんだ?」彼は、急《せ》きこんで訊いた。「ストリックランドの部屋がどんな部屋だか、お前はまだ知らないんだ。あんなところで、お前が生活できるものか。とても堪《たま》ったもんじゃない」
「私さえよければ、なにもあなたが、そんなこと気にすることないじゃないの?」
「もうちょっと待ってくれ。言わなくちゃならないことがある。それまでいやだとは言わないでおくれ」
「そんなことして、なんになると言うのよ?もう私の心は決ってるんだもの。あなたがなんと言ったって、私の決心に変りっこないことよ」
彼は、ぐっと唾《つば》を呑んだ。そしてまるで痛む心臓の鼓動でも押えるように、胸の上に手をやった。
「なにも僕は、考え直してくれと言ってるんじゃない。ただ一言、聞いて欲しいことがあるんだ。僕の最後の願いだよ。いやだなどと言わないでおくれ」
彼女は、ちょっとためらって、例の物思いに耽《ふけ》るような瞳《ひとみ》を、ちらと彼に向けたが、すでにそれは、あまりにも冷やかな視線だった。彼女は、アトリエへ引き返すと、テーブルに倚《よ》りかかった。
「さあ、それでどう?」
ストルーヴは、必死になって気を落着けようとした。
「少しは物を考えなくちゃだめだよ。霞《かすみ》を食って生きられるわけじゃないんだからね。ストリックランドときたら、金など持ってやしないんだよ」
「知ってるわよ、そんなこと」
「どんなひどい目に遭うかしれやしない。知ってるはずだろう、なぜ回復が、あんなに長くかかったか。半分飢え死にしかかっていたんだよ」
「お金くらい、私が儲《もう》けるわ」
「ほほう、どんなふうにして?」
「そんなこと知らない。なんとかなるわ」
ある恐ろしい考えが、ストルーヴの胸に閃《ひらめ》いた。彼は慄然《りつぜん》となった。
「気でもちがったんじゃないか? どうしてそんな気持になったんだ?」
彼女は、肩をぴくりとすくめた。
「さあ、もう行ってもいい?」
「もう一秒だ」
彼は、物憂げにアトリエを見まわした。彼女がいて、楽しく、家庭らしくしてくれてこそ、彼も心から愛したこのアトリエだ。彼は一瞬、眼を閉じた。そして今度は、彼女の面《おも》影《かげ》をしっかり胸に焼きつけるかのように、じっと彼女を見つめた。が、やがて立ち上ると、帽子を取った。
「いや、僕が出て行く」
「あなたが?」
彼女は驚いた。彼の言う意味がわからなかったのだ。
「お前があの恐ろしい汚ない屋根裏部屋に住むなんて、考えるだけでも僕はたまらない。結局この部屋は、僕の家でもあるが、お前の部屋でもある。ここなら気持よく暮せるだろう。少なくともあの恐ろしい不自由だけは、しないですむだろうよ」
彼は、金のしまってある引き出しのところへ行くと、紙幣を何枚か取り出した。
「いま僕の持ってる半分だけ、お前にやろう」
言いながら、彼は、紙幣をテーブルの上に置いた。ストリックランドもブランシュも、一語も発しない。
彼は、またなにかほかのことを思い出した。
「僕の衣類は荷物にしてね、管理人《コンシェルジュ》のとこへ預けておいてくれないか? 明日、取りに来るからね」彼は、強《し》いて笑おうとした。「さよなら。お礼を言うよ、今日まで僕を幸福にしてくれたことに対してね」
彼は外へ出て、扉を閉めた。僕には、ストリックランドが、ぽいと帽子をテーブルの上に置くと、腰を下ろして、やおら紙巻に火を点《つ》ける姿が、眼に見えるような気がした。
29
僕《ぼく》は、改めてストルーヴの話を考えながら、ちょっと黙った。僕には、彼の弱さがなんとも我慢できなかった。彼も、僕の不満は見てとったらしい。
「君も知ってるはずだ、ストリックランドがどんな生活をしていたか」彼は、震えながら言った。「僕は、ブランシュにあの生活だけはさせたくなかった――どんなことがあってもね」
「そりゃ君の勝手だがね」と、僕は答えた。
「じゃ、君は《・・》いったいどうしろというんだ?」彼は訊《き》いた。
「奥様は、なにもかもわかって行ったんだろう。不自由をしようがしまいが、自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》、君の知ったことじゃない」
「そりゃそうだが、ただ、君は彼女を愛しちゃいないんだからねえ」
「君は今でも愛してるのかい?」
「愛してるとも。前よりももっと愛してる。ストリックランドという男は、女を幸福にしてやれる人間じゃない。永つづきするはずないんだ。僕はどんなことがあっても捨てやしない、そのことだけは、ブランシュに知っていてもらいたいんだ」
「つまり、いつでも引き取るという意味かい?」
「そうだとも。あの女には、今後ますます僕が必要なんだ。捨てられて、悲しみに沈んでいるとき、行き場所もないなんてのは、考えても恐ろしいことだからね」
少しも腹を立てている様子はなかった。意気地なさに、多少にせよ腹を立てた僕のほうが、むしろ月並みだったのだ。おそらく僕の心の中を察してだろう、彼は言った。
「僕があの女を愛してるほど、向うでも僕を愛してくれるとは、とても思わない。僕は道化さ。女に愛される種類の人間じゃない。それは前から知ってるよ。ストリックランドと恋愛に落ちたからって、女を責めることは僕にはできん」
「君くらい虚栄心《ヴァニテイ》のない人間も、たしかに珍しいねえ」と、僕は言った。
「僕は、僕自身よりも、もっとあの女を愛してるんだ。愛の中に虚栄心が入ってくるというのは、結局自分というものをいちばん愛するからにすぎないらしいな。よくあることだが、男は結婚すると、かえって他の女と恋愛に落ちる。だが、それが終ると、ふたたび細君のもとへ帰ってくるし、細君のほうでも彼を迎えてやる。そしてみんな、これが自然な成行だと思っている。女だって、同じことなんだよ」
「なるほど、まあ理屈は通るようだね」僕は微笑した。「ところがね、たいていの男は、そういうふうにできてないんだ。したがってそういかないんだよ」
だが、ストルーヴと話している間にも、僕は、事件の唐突さに、実は面食らっていたのだ。どう考えても、前もって彼が感づかないはずはない。僕はふと、いつか見たブランシュの不思議な表情を思い出した。おそらく彼女自身が驚き、恐れたある感情の動きを、漠《ばく》然《ぜん》とながら意識しはじめていたというのが、真相であろう。
「それにしても今日まで、全然気がつかなかったのかねえ、二人の間に、なにかあるっていうことをさ?」僕は訊いてみた。
彼は、しばらく答えなかった。そして、ちょうどテーブルの上に、鉛筆が一本あったが、無意識のように、なにかの頭を、吸取紙の上に落書きしていた。
「僕の質問がいけなければ、どうかそう言ってくれたまえ」
「話してしまえば、僕も気が楽になるんだが。ああ、僕のこの恐ろしい苦しみを、わかってもらえればなあ」そして鉛筆を放《ほう》り出すと、「そうなんだ、二週間も前からわかってはいたんだ。ブランシュよりも、僕のほうが先に気がついたくらいだ」
「じゃ、なぜストリックランドを追い出してしまわなかったんだ?」
「本当とは信じられなかった。まさかそんなことが、と思ったからねえ。ブランシュは、あんな男、顔を見るのもいやだと言うし、まさかどころか、とうてい信じられなかった。僕の嫉《しっ》妬《と》にすぎないと思った。ねえ、君、僕は、絶えず嫉妬を感じてたんだ。ただ自分を抑えて、決して表へ出さないようにしてただけなんだ。あの女と知合いのすべての男に、僕は嫉妬を感じた。君にも感じてた。僕が愛しているほど、向うじゃ愛してくれてないことは、よくわかっていた。それはむしろ当り前だよ、ねえ、君? だが、あの女は黙って僕の愛を受けてくれていた。それだけで僕は、幸福だったんだ。よく僕は、わざと何時間も外出して、彼らを二人きりにしてやった。つまり、われながら恥ずかしい、こんな猜《さい》疑《ぎ》心《しん》に苦しむ自分を、思いきり罰してやりたかったんだ。ところが帰ってみると、なにか僕を邪魔にでもするような様子なんだね――むろんストリックランドじゃない。やつは僕がいようといまいと、そんなことを気にする男じゃない。つまり、ブランシュなんだ。僕が接《せっ》吻《ぷん》に行くと、身《み》慄《ぶる》いするのだ。といって、いよいよそうだとわかったときには、僕は、どうしていいかわからなかった。ただ下手に騒ぎ立てたんじゃ、やつらの笑い物になるだけだという、それはわかっていた。いっそ黙って、見て見ぬ振りさえしていれば、万事巧《うま》くいくだろう、と僕は思った。喧《けん》嘩《か》などしないで、穏やかに出てもらおうと決心したんだ。その苦しみといったら、とても君なんぞにわかるもんか!」
それから彼は、ストリックランドに出てくれと言った話を、繰返した。切り出す時機をよく考えたうえで、ごくさりげなく言い出すつもりだった、という。だが、彼は、どうしても声の慄《ふる》えを抑えることができず、明るく打ち明けて言おうとすればするほど、嫉妬の苦さが、言葉の中に忍びこんでくるのを感じる。彼としては、まさかストリックランドが、たちどころに承知して、すぐにも出て行く支度をはじめようとは、予期しなかったし、まして細君までが一緒に行くなどと言い出すことは、夢にも考えなかった。今となっては、あんなことは言い出さなければよかったと、衷心思っているらしかった。夫婦別れの苦しみよりは、まだしも嫉妬の苦しみのほうがよかった。
「僕は、あいつを殺してやろうかと思った。しかもその結果は、僕のほうが醜態をさらけ出してしまっただけなんだ」
彼は、長い間黙ってしまった。が、やがて、本音であろうと思われるようなことを、言い出した。
「やっぱり待ってさえいりゃ、巧くいったんだろうがねえ。あんなに焦《あせ》るんじゃなかった。ブランシュがかわいそうだ。僕がこんな目に遭わしてしまったようなもんだからね」
僕は、肩をぴくりとすくめただけで、一言も言わなかった。ブランシュ・ストルーヴという女に対して、僕は少しも同情はなかったが、さりとて彼女に対する僕の意見を、ざっくばらんに言ったところで、ただダークを苦しめるだけだと思ったからである。
ただなにか喋《しゃべ》っていなければいられないという、あの困憊《こんぱい》状態にまで、彼はきていたのだ。そのときの問答を、それこそ細大洩《も》らさず、もう一度繰返した。前には言わなかったことを、今度はふと思い出して言うかと思うと、またあのときはあんな言い方をしたのがいけなかった、当然こう言ってやるべきだったのに、などと、しきりに論じ立てるし、かと思うとまた、自分の盲目さ加減をくやしがるのだった。あの仕打ちが悪かったとか、こうすればよかったのにしなかったとか、さんざん愚痴をこぼすやら、自分を責めるやら。夜はだんだん更《ふ》けてくるし、とうとう僕も、彼に負けないくらい疲れてしまった。
「ところで、どうするつもりなんだ?」とうとう僕は訊いた。
「どうするもこうするもないさ。ブランシュが呼びに来るまで、僕は待ってる」
「少し旅にでも出たらどうだ?」
「だめだ。あの女が僕を必要とするときに、僕は、すぐ傍《そば》にいてやらなければならない」
とにかく今のところは、すっかり気抜けの体だった。方策らしいものは、なんにも持っていない。もう寝たらどうだと言ってやったが、とても眠れるものではない、外へ出て、夜明けまで街々を歩きまわっていたい、と言う。といって、そのまま放っておける状態でないことは、明らかだった。とにかく今夜は泊っていくように言い、無理に僕のベッドに寝かしつけた。僕自身は、居間に長椅子《デイヴァン》があって、それでも結構寝られたからだ。もうそのときは、彼はすっかり疲れきっていたので、僕の強硬説得を振り切るほどの気力はなかったらしい。五、六時間ぐっすり眠れるように、ヴェロナールの相当量を与えた。僕としては、彼のために尽してやれる、これがまずせいぜいだった。
30
だが、僕《ぼく》自身のベッドのほうは、ひどく寝心地が悪く、一晩まんじりともしなかった。そしてこの不幸なオランダ人の話を、いろいろと考えてみた。ブランシュ・ストルーヴの行動を理解することは、さほど困難でなかった。要するに、それは肉体的魅惑の結果にすぎないと思えたからである。今までも、彼女が心から夫を愛していたとは、とうてい考えられない。一見愛情らしく見えたものも、実は愛《あい》撫《ぶ》と慰愛に対して女性の示す、一種の反応にすぎないのであって、ただそれが、たいていの女の胸にあって、いかにも愛情ででもあるかのごとく通用しているにすぎない。ちょうど葡《ぶ》萄《どう》の木が、どんな元木の上にでも接《つ》くように、どんな対象に対してでも起りうる、単なる受動的な感情にすぎないのだ。世間の知恵というやつは、この感情の強さを知り抜いていて、だからこそ若い娘に対して、誰《だれ》でも求愛する男があれば結婚するがよい、愛情などは、大丈夫後から生れてくるのだから、などとすすめる。いわばそれは、地位の安全さから来る満足感と、所有の誇りと、望まれることの幸福さと、家庭の喜悦と、そういったものが一緒になって出来上った感情であり、なにかさもそれを精神的価値ででもあるかのように考えるのは、結局のところ愛すべき虚栄心にすぎないのだ。そんな感情が、情熱の前にひとたまりもないのは当然だ。思うに、ストリックランドに対するブランシュの激しい憎《ぞう》悪《お》は、すでに最初から、漠然《ばくぜん》とではあるが、性的引力の要素を含んでいたのであろう。もとより僕は、今ここで性の神秘な錯綜《さくそう》を解きほぐしてみようなどという、大それた望みはない。だが、おそらくストルーヴの情熱は、彼女の本性のある部分に対して、単に刺激を与えるだけで、満足させることはできなかったのであろう。しかも彼女は、ストリックランドの中に、彼女の求めてやまぬある物を与えてくれる力を感じたがゆえに、彼を憎んだのであろう。夫が彼を連れてきたいと言ったとき、彼女は、激しく反抗したが、それは、彼女としては、真実心からのものであったにちがいない。自分でもなぜだかわからないままに、彼女は、彼を恐れたのだ。僕は、彼女がはっきり不幸を予想していたことを思い出す。多少奇妙な言い方だが、彼に対して彼女が抱いた恐怖というのは、彼から受ける異様な不安を前にして、自分自身に対する恐怖が、そのまま形を変えたものであったように思える。彼の外見は、野人そのままの無骨さだった。冷然たる眼《め》、欲情的な口もと、頑丈《がんじょう》な大男、なにか野獣のような情熱を思わせた。おそらく彼女は、まだ物質が大地との繋《つな》がりを失わず、いわばそれ自体の精神を持っていた、あの太初世界の生物人間を思わせる、なにか悪霊《あくりょう》のようなものを、彼の中に見たのであろう。その彼に対して心を動かすとすれば、彼女としては、愛するか、憎むか、そのどちらかのほかはなかったのだ。そして彼女は、憎んだ。
しかも、やがて病人との日々の接触は、彼女の中に異様な感動をもたらしたらしい。彼女は、病人の頭を抱き起すようにして、食べ物を摂《と》らせた。頭の重みが、支える彼女の手にずっしりと応《こた》えた。食事がすむと、あの欲情的な口もとと赤い鬚《ひげ》とを拭《ふ》いてやった。手足を洗ってやることもある。それは、一面深い毛に蔽《おお》われていた。両手を拭いてやるときなどは、衰弱こそしていたが、がっしりした筋肉質だった。長い両手の指、芸術家の逞《たくま》しい形成力を表象する指だった。果して彼が、どんな動揺を彼女に与えたか、それは知らない。彼は、身動き一つしないで、ほとんど死人のように静かに眠った。まるで長い狩りのあと、ぐったりと疲れて眠っている森の生物のように見えた。彼の夢の中を、どんな空想が駆けめぐっているのだろうなどと、彼女はよく思った。半獣神《サテュロス》に追われ、ギリシャの森の中を逃げ走るニンフの夢であろうか? 彼女は、足もとも軽やかに必死に逃げる。だが、半獣神《サテュロス》の足は、一歩一歩追いすがって、やがて彼女は、その熱い息を頬《ほお》のあたりにはっきり感じる。それでもまだ彼女は、無言で逃げた。彼も無言で追いすがる。だが、やがて、とうとう彼の腕の中に捉《とら》えられたとき、彼女の胸をときめかせたものは、果して恐怖だったろうか、それとも忘我の恍惚《こうこつ》だったろうか?
ブランシュは、残忍な欲情の虜《とりこ》になってしまった。おそらくまだストリックランドを憎んではいたろう。だが、彼女は、飢え渇くごとく彼を求めたのだ。今まで彼女の生活を作り上げていたいっさいが、まるで無意味なものに思え出した。やさしいかと思えば怒りっぽい、考え深いかと思えば無鉄砲な、そうした精神複合としての女ではもはやなかった。彼女は、すでにメナードであり、欲情そのものになってしまっていたのだ。
もっともこれは、あまりにも穿《うが》ちすぎた想像というものだろう。ただ夫に退屈して、冷酷な好奇心から、ストリックランドに走ったのかもしれない。別に彼に対して、これといった感情を持ったわけではなく、ただ肉体的な接近か、それとも一種の無為安逸感から、つい彼の要求に従ってしまったものが、さて一度自分で作った陥穽《かんせい》にはまってみると、今度はもう彼女の力ではどうにもならなかったという、それだけのことなのかもしれない。とにかく彼女の穏やかな前額《ひたい》と、冷たい灰色の眼の奥に、果してどんな感情、どんな考えが動いたか、僕の知るかぎりではなかった。
だが、たとえ人間という、計量を絶したこの不可解な存在に関して、なに一つ確実なことはわからないにしても、ブランシュの行動に対して、一応もっともらしい説明だけなら、いくらでもつく。ところが他方、ストリックランドとなると、僕には皆目わからなかった。ずいぶん脳《のう》味噌《みそ》もしぼってみたが、従来僕の理解していた彼とは、およそかけ離れた今度の行動に関して、なんとも説明のつけようがなかった。よくもこう残酷に、友人の信頼を裏切ったものだとか、また、他人を不幸に陥《おとしい》れて、よくも平然と自分だけの気《き》紛《まぐ》れを満足させることができたものだとか、それだけのことならば、少しも不思議はなかった。そこがあの男なのだ。感謝の念などといったものは、薬にしたくもない人間だし、憐憫《れんびん》などというものは、およそ知らぬ。普通たいていの人間が持っている感情は、彼には全然存在しなかったのだ。それがないからといって彼を責めるのは、あたかも虎《とら》に向って、獰猛《どうもう》残忍だからといって責めるのと同じ不合理だ。だが、わからないのは、むしろ気紛れという点だった。
彼がブランシュ・ストルーヴと恋に落ちたとは、まずほとんど信じられなかった。恋のできる男だなどとは、僕は考えていなかった。恋というからには、とにかくまず愛情というものがなければならないはず。ところが、ストリックランドときた日には、彼自身に対しても、他人に対しても、愛情などといえるものは微《み》塵《じん》もない。そもそも恋というものには、心の弱さ、他を保護したい欲求、そして善をなし、喜びを与えたいという切実な願い――たとえ全くの無私的な動機ではないにしても、せめては利己心を隠そうとする一種の利己心とでもいったものがある。つまり、どこかおどおどしたところがあるはずだ。ところが、そういったことは、およそストリックランドには、想像もできない性質だった。恋は、忘我の感情である。それは、恋するものから、自我の意識を奪ってしまう。いつかは彼の恋にも終りのあることを、頭では知っても、はっきり実感することはできぬ。どんな聡明《そうめい》な恋人でも、そうなのだ。みすみす幻影とわかっているものに、恋は実体を与えてしまう。そして恋する人間は、それをそうだと知りながらも、かえって現実以上に愛着する。恋は、人を実際以上の存在にすると同時に、実際以下の存在にもする。彼は、もはや彼ではない。もはや一つの個性ではなく、単に一つの物にしかすぎない。彼の自我とは全く無関係な、ある大きな目的のための道具にしかすぎないのだ。恋に全くの感傷抜きということはありえない。ところが、ストリックランドという男は、およそそうした弱さとは縁のない人間であった。その彼が、恋というような憑依《かみがかり》状態を許すなどとは、考えられなかった。外からの軛《くびき》を、決して堪えうる人間ではなかったのだ。たとえそれが苦痛であり、そのために彼自身は砕かれ、血みどろになろうとも、彼と、その彼を四六時中当てもなく駆り立てているあの不可解な渇望《かつぼう》との間に介入する夾雑《きょうざつ》物《ぶつ》などは、なんであろうと、断《だん》乎《こ》として根こそぎにできるのが彼だと、そう僕は信じていた。もしこんな言い方で、僕が彼から受けた複雑きわまる印象を、多少でも伝えることができるとすれば、恋などをするには、彼は、あまりにも偉大すぎた、と同時にまた、あまりにも小人物すぎたと言っても、あながちとっぴな言い方ではあるまいと思う。
だが、考えてみると、人間の恋愛観などというものは、それぞれの個性によって決定されるものであり、したがってそれこそ人さまざまのものらしい。ストリックランドのような人間は、やはり彼独特の恋愛の仕方をするのかもしれない。彼の感情を分析しようなどというのが、そもそもむだなのであった。
31
翌日、ずいぶん僕《ぼく》は引き留めたが、ストルーヴは帰っていってしまった。荷物なら、僕が行ってアトリエから取ってきてやると言ったのだが、それも彼は、どうしても自分が行くと言ってきかなかった。思うに、彼の考えでは、残った二人が、彼の荷物を纏《まと》めてくれてなどいるはずはない、だとすれば、もう一度細君に会う機会がないでもない、あわよくばもう一度、自分の懐《ふとこ》ろに帰るように説いてみるというのが、魂胆だったらしいのだ。だが、行ってみると、荷物はちゃんとボーイの溜《たま》りに置いてあった。そして管理人《コンシェルジュ》の話では、ブランシュは外出して留守だということだった。彼のことだから、またそこでも堪《こら》え性なく、胸の苦しみを逐一喋《しゃべ》ってしまったらしいのだ。実際彼は、ほとんど知る人ごとに喋っていた。彼のほうでは、同情を求めるつもりなのだろうが、結果は、嘲笑《ちょうしょう》を招いているばかりだった。
全くもってだらしなさの限りだった。ある日などは、思慕の情に堪えられなくなり、彼女の買物に出る時間は知っていたから、とうとう往来で待伏せをした。女のほうは口も利《き》こうとしないのだが、彼のほうでむりやりに話しかけた。なにか自分に落度があったのなら、宥《ゆる》してくれ、どんなにお前を愛していることか、なんとかもういっぺん自分の胸に帰ってくれ、というようなことを、いきなり急《せ》き込みがちに喋りつづけたのだった。女は答えようともしなかった。そっぽを向いたまま、急ぎ足に行ってしまった。彼があの肥《ふと》った短い脚を動かして、必死に追いすがろうとした格好が、眼《め》に見えるような気がする。急いで息をはずませながら、自分は今どんなに不幸だか、せめてかわいそうだと思ってくれ、とまで哀願した。宥してさえくれるなら、どんなことだってしようから、とも誓言した。なんなら一緒に旅にでも出ようか、いずれストリックランドは、お前にもすぐ倦《あ》いてしまうに決っているから、等々とも言った。この情けない話を、逐一繰返し聞かされたとき、僕は、むしろ腹が立った。分別も威厳もあったものでない。一から十まで、好んで女の軽蔑《けいべつ》を買うようなことばかりやってのけているのだ。男は愛しているが、女のほうでは愛していない、そうした場合の男に対する女の残忍さほど、恐ろしいものはない。思いやりはもちろん、寛容さすらない、あるものは、ただ狂ったような腹立ちだけなのだ。ブランシュは、突然立ち止ったかと思うと、力いっぱい彼の頬《ほお》に平手打ちを食わせた。そして驚いた彼が、たじたじとなる暇に、すばやくアトリエの階段を駆け上ってしまった。ついに女の唇《くちびる》からは、言葉一つ洩《も》れなかった。
この話をしたとき、彼は、まだその痛みを感じているかのように、頬に手をやった。そして眼には、痛々しいばかりの苦痛の色と、おかしいほどの驚きの表情が溢《あふ》れていた。まるで風に吹き倒された小学生のようだった。気の毒だとは思いながらも、噴き出さずにいられないのである。
それからというもの、彼は、彼女が買物に出て通る道筋を、毎日歩くことに決めた。彼女が通ると、反対側の角に立って、じっと見送っているのだった。二度と言葉をかける勇気はなかった。ただ胸いっぱいの訴えを、あの円い眼にこめて、じっと見送るのだ。悄然《しょうぜん》とした姿を見れば、多少は女の心が動くかもしれない、そう彼は考えたらしい。だが、女のほうでは、彼の姿など眼にとまる気配も見せなかった。買出しの時間を変えるでもなければ、別の道筋を選ぶこともしない。彼女の冷淡さの中には、なにか残忍なものが混じっていたように思える。おそらく彼を苦しめることによって、ひそかに快感を楽しんでいたのかもしれない。なぜそんなにまで彼を憎むのか、僕にはわからなかった。
僕は、ストルーヴに、もう少し利口になったらどうだ、とも言ってみた。あまりといえばその意気地なさに、堪《たま》らなくなったからだ。
「そんなことをしたって、君、なんにもなっていないんだぜ」と、僕は言った。「それよりも、ステッキで頭の一つもぶんなぐってやるんだよ、そのほうがよっぽど利口だぜ、君。少なくとも今のように、君を軽蔑するなんてことはなかったと思うんだ」
さらに僕は、一度国へ帰ってみたらどうだ、とも言ってやった。よく話してくれたものだが、どこか北オランダの静かな町、まだ両親も生きているということだった。貧しい家らしかった。父親というのは大工で、一家は、眠ったような運河に沿った、小さいが、小綺《こぎ》麗《れい》で、古い赤煉《あかれん》瓦《が》の家に住んでいた。人通りもない、広い往来。なにしろこの二百年間、町は年一年と衰微の一路を辿《たど》っているという。だが、家々は、まだ昔の素《そ》朴《ぼく》な威厳を残している。以前は、はるばるインドあたりまで商品を捌《さば》いていた富裕な商人たちが、静かな、だが豊かな生活を、これらの家々で送っていた。そのせいか今なお物《もの》寂《さ》びた衰えの中に、依然として華やかな過去の芳香を秘めている。運河沿いにさまよって行くと、やがて緑の野原が、ひろびろとひらけてくる。ここかしこに点々と風車が聳《そび》え、黒白の乳牛の群れが、のどかに草を食《は》んでいた。こうした環境にかこまれて、少年の日の思い出にでも帰っていけば、やがては不幸を忘れる日も来るだろうと、僕は思ったからだ。だが、彼は帰ろうとは言わない。
「あの女が僕を必要とするとき、僕は、ここにいてやらなければならないのだ」依然として同じことを繰返した。「なにか恐ろしいことが起って、しかも僕がいないとしてみたまえ、考えても恐ろしいことだ」
「起る、起るって、どんなことが起るんだ?」と、僕は訊《き》いてみた。
「僕にもわからん。だが、とにかく僕は心配なんだ」
僕は、肩をぴくりとすくめた。
苦悩も苦悩だが、ダーク・ストルーヴの馬《ば》鹿《か》馬鹿しさは、相変らずだった。それも彼が、痩《や》せ衰えるとでもいうのであれば、まだしも同情を惹《ひ》いたのだろうが、そういった様子は、薬にしたくもない。相変らずぶくぶく肥って、あの丸い、赤い頬は、まるで熟れた林《りん》檎《ご》のように艶々《つやつや》しいのだ。ひどく身だしなみのいい男で、相変らず粋《いき》な黒の上《うわ》衣《ぎ》に、山高帽――それも決って、やや小さい加減のを、きちんと、洒落《しゃれ》た格好に身につけている。おまけに、太鼓腹にまでなりかかっているくらいで、傷心などといっても、てんで影さえ見えないのだ。ますます金でも貯《た》めた旅商人然としてくるばかりで、およそ人間の外形が、こうまで魂とちぐはぐになるというのも、悲しいことだった。いわばサー・トビー・ベルチの肉体に、ロミオの情熱を盛ったという、それがダーク・ストルーヴだった。たしかに寛容な、優しい心情の持主ではあったが、それでいて、することなすことへまばかりなのである。美に対する誤りない感情を持っているくせに、実際描くものといえば、これはまたおよそ月並みであり、実に細かな心情であるかと思えば、呆《あき》れるような馬鹿な真似《まね》をしでかす。他人の世話をやくときなどは、実に如才なさがあるくせに、自分のこととなると、からっきしのだめ。よくもこれほど矛盾する要素を寄せ集めて、そしてその男を、かくもわからない冷酷な世界の前に放《ほう》り出すとは、自然の神もひどい悪戯《いたずら》をしたものである。
32
数週間、僕《ぼく》は、一度もストリックランドを見なかった。彼のやり方には、僕も愛《あい》想《そ》がつきた。もし会うような機会でもあれば、はっきりそう言ってやろうとは思ったが、といって、わざわざそのために、彼を探して会う気は、むろんなかった。僕という人間は、強《し》いて道徳的義憤を装うことに、妙に気がひける。そもそも道徳的義憤というやつが、決って一種の自己満足感を伴うものであり、かりにもユーモアを解するほどの人間は、それだけでもう照れ臭くなる。自分の馬鹿《ばか》さ加減にも気がつかなくなるほど、鈍感、無感覚になるには、よほどの激情でも起らなければだめである。それに、ストリックランドの一挙一動には、いやしくも虚勢《ポーズ》を思わせるような言動に対して、とりわけ人を敏感にさせなくてはおかぬ、妙に冷嘲《れいちょう》的な真《しん》摯《し》さがあった。
ところが、ある晩、クリシ街の例のストリックランド行きつけのキャフェ、したがって近頃《ちかごろ》では、僕はできるだけ避けることにしていたのだが、ちょうどその前を通っていると、ぱったり彼に出《で》会《くわ》した。彼は、ブランシュ・ストルーヴと一緒だった。しかも彼の大好きな、いつもの隅《すみ》っこへ行こうとしているのだ。
「いったい、君はどこにいたんだ?」と、彼は言った。「どこかへ行ってるのかと思ってたが」
こうしてなれなれしく話しかけてくること自体が、すでに僕のほうでは物も言いたくないという腹のうちを、ちゃんと読み取っている証拠なのだ。だが、もともと相手は、よけいな気がねなどしなければならない人間ではない。
「いいや」と、僕は答えた。「どこへも行きやしない」
「じゃ、なぜここへ来ないんだ?」
「広いパリじゃないか、暇潰《ひまつぶ》しをするキャフェくらい、いくらでもあるさ」
そのとき、ブランシュが手を出して、今晩は、と言った。なぜか知らないが、僕は、きっと彼女がどこか変っているにちがいないことを予期していた。ところが事実は、前によく着ていたことのある、小ざっぱりした、よく似合う鼠色《ねずみいろ》のドレスを着、その顔も、眼《め》も、あのアトリエで家事を切りまわしていた頃の彼女と、少しも変らない、明るい、冷静な表情だった。
「チェスでもひとつどうだ?」と、ストリックランドが言った。
今でもわからないのだが、なぜか僕には、とっさに断わりの口実が浮ばなかった。むしろむっつりしたまま、後からついて入って、いつも決って彼の坐《すわ》るテーブルについた。彼は、盤と駒《こま》を持って来させた。彼ら二人とも、まるで当り前のように、あまりにもけろりとした態度なので、僕としても同じ態度に出るほかないような気がした。ミセス・ストルーヴは、なにを考えていたのか知らないが、じっと勝負を眺《なが》めていた。一言も言わなかった。だが、この女の物言わずは、いつものことである。僕は、ちらと女の口もとに眼をやった。もしや彼女の気持を探るのに手掛りにでもなる表情が、つかめはしないかと思ったからだ。次には、彼女の眼をじっと探ってみた。閃《ひらめ》き一つでもいい、われ知らず狼狽《ろうばい》、苦痛といった気配が浮んでいはしないか。前額《ひたい》もつくづくと眺めてみた。浮んでは消える皺《しわ》一筋にも、なにか感情の沈澱《ちんでん》とでもいったものが現われていはしないか、と思ったからだ。だが、彼女の顔は、なに一つ表情を示さない仮面だった。両手を緩く組んで、静かに膝《ひざ》の上に載せている。聞いていた話では、激しい感情の女だということだった。あれほどまでに愛し抜いているダークに対して、あの痛烈な仕打ちは、てもなく彼女の衝動的な性格と、恐るべき残忍さとを裏書きするものでなければならない。夫の保護という安全な隠れ家と、なに不自由ない生活の気楽さを捨てて、おそらく自分でもはっきりわかっているはずの、極端な危険を選んだのだ。それから見ても、彼女の一種の冒険好き、つまり、その日暮しの苦労をさえ決していとわないという勇気はわかるが、同時にこの事実は、以前の彼女の世話《せわ》女房《にょうぼう》ぶりや、巧みな家事の切りまわしぶりなどと考え合せると、少なからず驚かされるのである。よほど複雑な性格の女に相違ない。そしてこのことを、他方いかにも取り澄ました様子と思い比べてみると、なにか劇的なまでに異常なものを感じさせるのだった。
この邂逅《かいこう》は、すっかり僕を興奮させた。勝負に熱中しようと思うのだが、空想の動きは、次から次へと忙しかった。いつも僕は、勝負事だけは、懸命になってストリックランドを負かすことにしていた。つまり彼は、負かした相手を軽蔑《けいべつ》する男なのだ。勝って有頂天になった彼を見るだけでも、いよいよこれは負けられないという気になる。ところが反対に、彼のほうが負けると、これはまた全くにこにこと上機嫌《じょうきげん》なのだ。いわゆる勝ち下手の負け上手というやつなのだろう。もし勝負事ほど、人間の性格を暴露するものはないと考えるならば、彼のこの態度からは、ずいぶん興味深い推論が引き出されるのではあるまいか?
勝負が終ると、僕は、ウェイターを呼んで、勘定をすませ、そのまま別れて帰った。とりたてて何もない会合だった。頭に残るような話は、なに一つ出なかったし、かりにああこう臆測《おくそく》してみたところで、別に根拠があるわけでない。体よく煙に巻かれた形だった。どうしてやって行ってるものか、それさえわからなかった。できることなら、魂だけでも抜け出して行って、彼らが二人きりのアトリエ生活で、どんなことをしているのか、なにを話しているのか、見たかった、聞きたかった。いかに想像の翼をのばそうにも、てんで手掛り一つないのである。
33
二、三日すると、ダーク・ストルーヴが訪ねて来た。
「ブランシュに会ったというじゃないか?」と、彼は言った。
「どこで聞いたんだ?」
「君らが一緒にいるところを見たという、ある男から聞いたんだがね。なぜ僕《ぼく》に言ってくれないんだ?」
「だって、君を苦しめるだけじゃないか?」
「そんなことかまうもんか。君も知ってるはずじゃないか、あの女のことなら、どんなちょっとしたことだって、聞きたがってるってことは」
僕は、彼が質問をつづけるのを待った。
「どんな様子をしていた?」と、彼は訊《き》いた。
「全然変ってないよ」
「幸福そうだったかい?」
僕は、両肩をぴくりとすくめた。
「そんなこと、わかるもんか。僕らは、キャフェにいたんだよ。しかもチェスをしてたんだよ。話しかける機会なんてありゃしないよ」
「でも、顔つきでわかりゃしないか?」
僕は頭を振った。僕としては、言葉はもちろん、素振りらしいものにさえ、彼女の感情は少しも現われていなかったと、同じ言葉を繰返すよりほかなかった。いかに自制力の強い女であるかは、僕よりも彼のほうがよく知っているはずだ。彼は、感に堪えないもののように、両手を組み合せた。
「ああ、僕はもう恐ろしくてたまらない。きっとなにか起る。恐ろしいことが起る。だのに、僕にはどうする力もない」
「どんなことがだい?」と、僕は訊いた。
「ああ、僕にもわからん」両手で頭を抱えながら、彼は、呻《うめ》くように言った。「ただなにか恐ろしい結末の来るのが、眼《め》に見えるような気がするのだ」
いったいがすぐ興奮する男ではあった。だが、今日のストルーヴは、正気の沙汰《さた》とは思えなかった。道理もなにもないのである。ブランシュ・ストルーヴが、ストリックランドとの生活に堪えられなくなるということは、結構ありうることだと、僕も思った。だが、およそ世の中で嘘《うそ》でたらめの諺《ことわざ》というのは、播《ま》いた種子《たね》は刈り取れ、というあれである。つまり、われわれの経験からいえば、結局人間というものは、朝から晩まで、不幸を招く原因ばかり作っているといえるのだが、そこはちゃんと、なんとかうまく幸運によって、愚行の結果を免《まぬか》れているのだ。もしブランシュが、ストリックランドと喧《けん》嘩《か》にでもなれば、彼を捨てて飛び出しさえすれば、それでよいのだ。夫のほうでは、喜んでいっさいを宥《ゆる》し、いっさいを忘れようと言って、待っているのだ。だから、僕としては、彼女に対して、そう同情する気にはなれなかった。
「そりゃ、君はあの女を愛してないからだよ」と、ストルーヴは言った。
「要するに、彼女が不幸だという証拠は一つもないのだ。見たかぎりじゃ、しごく家庭的なご夫婦、なんてところに落着いてるのかもしれんね」
ストルーヴは、悲しそうな眼をして、僕を見た。
「もちろん君にはなんでもないさ。だが、僕にとっては重大問題なんだ。重大も重大、生《いの》命《ち》に関《かか》わる重大問題なんだぜ」
僕の言い方が、もし性急すぎたり、ないしは不真面目《ふまじめ》に聞えたのだったら、それは僕が悪かった、と謝った。
「君、頼むから、なんとかしてくれないか?」と、彼は言い出した。
「そりゃ喜んでするがね」
「ひとつブランシュに手紙を書いてくれたまえよ」
「だが、なぜ君自身で書けないのだ?」
「いや、もう何度出したかわかりゃしない。むろん返事を当てにしたわけじゃない。果して読んでくれたかさえ、疑問だと思うんだ」
「だがね、君は、女の好奇心ってやつを考えていない。読まないでいられると思うかい?」
「いられると思うんだ――少なくとも僕の手紙に対してはね」
僕は、大急ぎで彼の顔を見た。彼は眼を伏せていたが、それにしてもこの答えは、なんともいえない屈辱的なものに聞えた。彼の自筆を眼の前に見てさえ、女の心は髪の毛ほども動かないという、この深刻な女の冷たさを、彼自身はっきり知っているのだ。
「君は本気で信じているのかい、いつかは彼女が、君のところへ帰って来るとでもいうふうに?」と、僕は訊いてみた。
「僕はね、彼女に伝えておいてもらいたいのだ、つまりね、最悪の場合が来たときには、大丈夫、僕という人間がいるってことをだね。それなんだよ、伝えてもらいたいのは」
僕は、紙を取り上げた。
「じゃ、ぎりぎり君の言いたいことは、どうなんだ?」
結局、僕の書いた手紙はこうだった。
奥様
これは、ダークからの伝言をお伝えするのですが、もし奥様に、彼を必要とするようなことが起った場合には、彼は喜んでお役に立とうと、そう言うのです。今日までのことについては、彼は、奥様に対して少しも悪くは思っていません。奥様に対する愛は、ちっとも変っていない。ご用事があれば、いつなりと下記の住所へお出《い》でください、とのことです。
34
ストリックランドとブランシュとの関係が、いずれはよくない結果に終るだろうとは、ストルーヴに劣らず、僕《ぼく》自身も確信していたが、ただそれが、まもなく現実に起った、ああした悲劇の形をとろうとは、まさか考えもしなかった。夏が来た。風一つない蒸暑さで、日が暮れてからも、焦《いら》立《だ》った神経を鎮《しず》めてくれる冷気一つ起らない。照りつけられていた往来が、終日吸いこんだ熱気を一時に放散するようで、道行く人々も、物《もの》憂《う》げに足を引きずっていた。ストリックランドとは、もう何週間も会っていなかった。他の用件に取り紛れ、彼のことも、事件のことも、すっかり忘れていたのだ。それにダークについても、あの意味のない愁嘆ぶりには、うんざりしかけていたところだったから、むしろ避けるようにしていた。聞かされるほうが辛《つら》くて、もうこのうえ悩まされるのは、ごめんだといった気持だった。
ある朝、僕は仕事をしていた。パジャマのままテーブルに向って、思いは遠く、ブルターニュの海岸の明るい陽射《ひざ》しや、海の新鮮な美しさなどを追っていた。傍《わき》には、管理人《コンシェルジュ》が持って来てくれたコーヒー茶碗《キャフェ・オ・レぢゃわん》の空っぽになったのと、食欲も起らないままに食べさしになった、三日月パン《クロワッサン》の切れはしなどが残っていた。隣の部屋では、管理人《コンシェルジュ》が浴槽《よくそう》の水を落してくれているのが聞えていた。ベルが鳴った。僕は、彼女に扉《とびら》を開けてもらったが、すぐ僕の在否を訊《き》いているストルーヴの声が聞えた。そのまま、大声に上れと怒鳴ってやった。彼は、そそくさと入って来たが、いきなり僕のテーブルの前へ来たかと思うと、
「自殺だ」と、叫んだ。恐ろしい嗄《しわが》れ声だった。
「なんだって?」僕も、はっとして大声に聞き返した。
彼は、なにか言おうとするように、唇《くちびる》を動かした。が、言葉にはならなかった。まるで馬鹿《ばか》みたいに、譫言《うわごと》のようなことを喋《しゃべ》っている。僕の心臓は、躍るように激しく打ちだした。僕までが、なぜか知らない、妙に興奮してしまったのだ。
「おい、頼むから、しっかりしろ」と、僕は言った。「いったいなんの話をしてるんだ、それは?」
彼は、両手で、もうだめだというような身振りをした。だが、言葉は、依然として唇を洩《も》れない。驚いて、口が利《き》けないのかもしれない。僕もまた、どうした感情の加減だったのだろう、彼の両肩を鷲掴《わしづか》みにすると、力いっぱいに揺すぶってやった。今から考えると、われながら馬鹿なことをしたものだと思うが、やはりその前、幾晩かというもの、ほとんど眠っていなかったのが、われにもなく神経を焦立たせていたのだろう。
「まあ、坐《すわ》らせてくれよ」とうとう彼は、喘《あえ》ぐように言った。
僕は、サン・ガルミエを一杯ついで、飲めと言ってやった。子供にするように、口もとへ持っていってやると、一口に飲み干したが、一部はこぼれて、彼のシャツの胸をよごしてしまった。
「誰《だれ》が自殺したというんだ?」
いま考えると、なぜこんな愚問を発したのだろうと思う。誰のことを言ってるかくらいは、僕にもわかっていたはずだ。彼は、懸命に気を落着けているらしかった。
「昨夜、一騒動やったらしいんだ。ストリックランドのやつはいない」
「奥様は死んだのか?」
「いや、病院へ担《かつ》ぎこまれたところだよ」
「じゃ、君はなんのことを言ってるんだ?」僕も、なにか妙にいらいらしていた。「なぜ自殺したなんて言ったんだ?」
「いじめるのはよしてくれ。そんなふうに言われちゃ、もうなんにも言えなくなる」
僕も、興奮を抑えるように、両手を強く握りしめた。そして強《し》いて笑顔をつくろうとした。
「悪かった。まあ、落着きたまえ。急ぐことはない、ね、いいだろう」
眼鏡越しに光る彼の円い、青い眼《め》は、すっかり恐怖に怯《おび》えていた。拡大眼鏡をかけていることが、いっそうそれを歪《ゆが》めて見せるのだ。
「今朝ね、管理人《コンシェルジュ》が手紙を持って上って行ったら、いくらベルを押しても応答がないというんだ。しかも誰か呻《うめ》くような声がする。鍵《かぎ》がかかってなかったもんで、入って見ると、ブランシュが、ベッドに寝たまま、もがき苦しんでいる。そしてテーブルの上には、蓚酸《しゅうさん》の壜《びん》が載っていたというんだ」
ストルーヴは、両手で顔を蔽《おお》うと、身体《からだ》を前後に揺《ゆす》りながら、呻くように言いつづけた。
「意識はあったのかね?」
「そうなんだ。君なんぞに、あの女の苦しみがわかるもんか! ああ、僕はもう堪《たま》らない。堪らない」
彼の声は、ほとんど絶叫に変った。
「馬鹿野郎、苦しいのはお前じゃないんだぞ」僕も、かっとなって叫んだ。「苦しいのは奥様なんだぞ」
「よくもまあ冷酷な男だよ、君は」
「で、君は、いったいどうしたんだ?」
「アパートじゃ、まず医者と、それから僕を呼びによこした。警察にも知らせた。前からね、僕は、管理人《コンシェルジュ》に二十フラン握らせておいて、なにかあったら使いをくれと、言っておいたんだよ」
彼はちょっと息をついだ。彼の言おうとする事柄《ことがら》が、どんなに言いにくいことであるかは、僕にもよくわかった。
「飛んで行ったが、ところが、彼女《あいつ》は物も言ってくれないんだ。帰ってもらってくれと、みんなに言っていた。僕のほうじゃ、いっさいを宥《ゆる》すからと言ってやったんだが、それでもきかない。壁に頭を打《ぶ》っつけようとさえするんだ。医者も、やっぱり僕がいちゃいけないと言うんだねえ。彼女《あれ》は彼女《あれ》で、いつまでも、『出て行け、出て行け』と繰返している。仕方がない、僕は部屋を出て、アトリエで待っていた。やがて運搬車が来て、担架に載せることになったんだが、そのときも、みんなは僕に台所へ行っておれという。僕のいるのが、わかるといけないからというんだ」
僕が着替えをしている間も――僕に一緒に病院へ行ってくれというのだ――彼は、せめて汚ない雑居病棟《びょうとう》だけは免《まぬか》れさせてやりたいと思って、個室をとってやったことなどを話していた。そして道々も、なぜ僕の同行を求めたか、理由を説明した。つまり、たとえ依然として彼女が会ってくれなくても、僕ならばおそらく会うだろう、そのときに、どうか、今でも彼女を愛していると、そう伝えてもらいたい、自分としては、なに一つ彼女を咎《とが》めようとは思わない、ただ、なんとかして力になってやりたいのだ、要求などはむろんしないし、快《よ》くなったところで、自分のところへ帰ってくれとは言わない、それは完全に彼女の自由だからと、ざっとそういった話だった。
だが、病院へ着いてみると、これはまたおそろしく侘《わび》しい、陰気な、一目見ただけで気の滅入《めい》りそうな建物だった。あちこちと係員の間を尋ね歩いた末、はてしないような階段を上り、長い、むきだしの廊下を行くと、ちょうど医者の診察がはじまっているところだったが、だいぶ重態で、今日はとても面会はできない、とのことだった。医者は、白衣を着、鬚《ひげ》などはやした小男で、ひどくぶっきらぼうな男だった。彼の眼から見れば、患者はどこまでも患者であり、やきもきする身内のものなどは、邪魔になるばかりで、そんなものには、てきぱき応対するに限る、とでも考えているらしかった。それに彼の身になってみれば、こんな事件は珍しくもなんともない。ヒステリー女が、情夫と喧《けん》嘩《か》した揚句、毒を飲んだという、それだけのことなのだ。そんなことは、毎日のように起っていた。しかも最初は、ダークこそ、この事件の原因だと早《はや》呑《のみ》込《こ》みして、よけいに彼に対してつっけんどんに当ったのであった。僕は、彼は亭主《ていしゅ》であり、しかもいっさい宥すと言っているのだと説明してやると、医者は、急に彼の顔を、いかにも不思議そうな、探るような眼付で、しきりに見ていた。嘲笑《ちょうしょう》の色さえ浮んでいるように思えた。事実ストルーヴという男は、女《にょう》房《ぼう》を寝取られる亭主のような顔をしているのだ。医者は、ちょっと肩をすくめた。
「今すぐ、どうこうということはありませんがね」僕らの質問に答えて、彼は言った。「どれだけ飲んだか、知れたもんじゃありませんよ。やっぱり怖くなって、止《よ》すものらしいんですね。つまり、女ってやつは、絶えず恋をしては、死のう死のうと思ってるんですなあ。だが、たいていは巧《うま》くいかないように、そこはちゃんと心得てますからね。要するに、相手の同情とか、恐怖とかを刺激しようというジェスチャーなんですよ」
彼の言葉には、冷たい侮《ぶ》蔑《べつ》がこもっていた。彼にとっては、ブランシュ・ストルーヴも、パリに起る自殺未遂事件の年間統計数字を増大する、ただ一つの単位数字にすぎなかったのだ。多忙で、僕らのために時間を空費している暇などないらしかった。明日しかじかの時間にもう一度来てみたまえ、容態さえよければ、ご主人なら会ってもよかろう、というようなことだった。
35
その日一日、どうして送ったか、ほとんど憶《おぼ》えていない。ストルーヴは、とても一人ではいられないと言うし、僕《ぼく》は僕で、彼の心を紛らせるのでへとへとになってしまった。ルーヴルへ連れて行ってみた。彼は、絵を見ているような顔はしていたが、心は絶えずブランシュの上に走っているのは、あまりにも明らかだった。無理に食事をさせて、昼食の後、少し横になってみろと言ったが、やはり眠れないらしかった。二、三日僕のアパートにいてみたらどうだと言ったが、これは喜んで承知した。読書でもと思って、本を渡してみたが、一、二ページも読むと、もう本を置いて、じっとあの悲しい眼《め》で空《くう》を見つめている。夜は、何回勝負か、数も忘れてしまったほどピケットをしたが、僕の骨折りを失望させまいという心づかいか、健《けな》気《げ》にも、さも興がっているような顔をしてみせる。とうとう睡眠剤を飲ませてやると、やっと不安な眠りに落ちた。
翌日、僕らは、ふたたび病院へ行って、看護婦に会った。少しはよいとのことだったから、彼女に頼んで、ダークに会うかどうか、訊《き》いてもらうことにした。ブランシュの寝ている部屋から、声が聞えていたが、やがて看護婦が出てきて言うには、誰《だれ》にも会いたくない、との返事だった。ダークがいやなら、僕ではどうだと、もう一度訊かせてみたが、それもいやだということだった。ダークの唇《くちびる》が震えていた。
「私も、強《し》いてとは言えないんですのよ」と、看護婦は言った。「まだひどくお悪いもんですからねえ。まあ、一、二日もすれば、またお気がお変りになることもございましょうから」
「ほかに誰か、自分のほうから会いたがっている人間でもいるんですか?」と、ダークは、まるで囁《ささや》くような低声《こごえ》で訊いていた。
「このまま、ただそっとしておいてもらいたいって、そう言ってらっしゃいますわ」
ダークの両手が、まるで胴から抜けてしまって、それだけ独りでに動くかのように、ふらふらと揺れた。
「じゃ、こう伝えてください、もし誰でも会いたい人間があるなら、きっと連れてきてやるから、と。僕は、ただもう彼女が幸福になること、それだけが望みなんです」
看護婦は、静かな、優しい眼をして、じっと彼を見た。この世のあらゆる悲惨と苦痛を見つくしてきたが、ただ罪を知らぬ清浄な世界の幻を見つづけているゆえに、いまだに静けさを保っている、美しい眼だった。
「もう少しお落着きになりましたら、申し上げておきますわ」
不《ふ》憫《びん》さで胸がいっぱいになったのだろう、ダークは、今すぐに伝えてほしい、と言い出した。
「そういえば、きっと快《よ》くなると思うんです。どうかいま言ってやっていただきたいんですが」
憐《あわれ》むような微笑を浮べながら、看護婦は、また中へ入って行った。彼女の低い声が聞えていたが、突然、誰か全然聞き憶えもないような声で、
「いいえ、だめ、だめ、だめ」と、叫んだ。
ふたたび看護婦が出て来て、黙って首を振った。
「今の声が、彼女ですか?」と、僕は訊いた。「ひどく聞き慣れない声でしたが」
「酸のために、すっかり声帯が爛《ただ》れてらっしゃるらしいんですの」
ダークは低く、呻《うめ》くような嘆声を上げた。僕は、ちょっと看護婦に話があるから、先に行って、玄関で待っていてくれ、と彼に言った。彼は、別になんの話だと聞き返すでもなく、黙々として出て行った。意志の力というものが、まるきり失われてしまって、まるで従順な子供のようだった。
「なぜこんなことをしたか、あの人は言いましたか?」と、僕は訊いた。
「いいえ、なんにもおっしゃいません。じっと仰向けに寝たまま、それこそ何時間も、身動き一つなさいませんの。そのくせ絶えず泣いてばかりいらして、枕《まくら》などはびしょ濡《ぬ》れなんですのよ。ハンカチをお使いになる気力もないようで、涙は流れ放題なんですもの」
僕は、急に胸を緊《し》めつけられるような思いがした。あのときもしストリックランドがいたら、実際僕は、殺していたかもしれない。看護婦にさよならを言ったとき、われながら声の慄《ふる》えに気がついていた。
ダークは、入口の石段に待っていた。眼はなにも見ていないらしく、僕が行っても、腕に触るまで、気がつかなかった。僕らは、黙々として歩いた。かわいそうに、どうした原因で、こんな大事をしでかしたものだろう、僕はいろいろと考えてみた。きっとストリックランドなら、いっさいの事情を知っているに相違ない。警察からも、誰かきっと行ったはずだ。そして彼の供述は、すでにちゃんとすんでいるにちがいない。だが、その彼はどこにいるのだ? 多分、以前アトリエがわりに使っていた、あの汚ない屋根裏部屋へ帰って行ったのだろうとは思ったが、それにしても、彼女が会いたがらないというのはおかしい。おそらく彼のほうで断わることを予想して、迎えを出してもらいたくない、と言ったのだろうか? 驚きのあまり、生命《いのち》さえ断とうとしたというからには、いったいどんな残忍性の深淵《しんえん》を垣《かい》間見《まみ》たというのだろうか
36
翌週は、悪夢のような一週間だった。ストルーヴは、毎日二回ずつ病院へ見舞に出かけた。しかも、女は相変らず面会を拒みつづけていた。はじめのうちは、快方に向っているという話を聞くだけで、ほっとして帰ってきていたが、そのうちに、医者の最も恐れていた余病が出て、もう回復は難かしいと聞かされると、すっかり絶望に変ってしまった。彼の愁傷ぶりには、看護婦も同情していたが、といって別に慰めの言葉もなかった。病人は、いっさい口を利《き》かず、まるで死の近づくのを待ってでもいるかのように、眼《め》を据《す》えたまま、身動き一つしないで横たわっていた。あと一日か二日の問題だった。ある晩、おそくストルーヴが訪ねて来たときには、僕《ぼく》は、いよいよ死んだという知らせだな、とすぐ悟った。彼は、全くくたくたになっていた。あのお饒《しゃ》舌《べり》が、とうとう物も言えなくなって、ぐったりソファの上に倒れてしまった。いまさら悔みを言ってやったからとて、どうなるものでもない。そのまま静かにしておいてやった。いま物を読んだりするのも、心ない所業と思われそうなので、僕は、窓ぎわに坐《すわ》って、パイプをふかしながら、彼が口を開く気になるのを待っていた。
「君には、いろいろ親切にしてもらってありがとう」とうとう彼は言った。「みんな、実に親切にしてくれた」
「そんなつまらん話はよせよ」と、僕は、いささかあがり気味で、あわてて言った。
「病院じゃ、まあ待っててごらんなさいと言ってくれるもんでね。僕は、椅子《いす》をもらって、扉《とびら》の外に待ってたんだ。いよいよ昏睡《こんすい》状態に陥ると、入ってもいいと言ってくれた。口も顎《あご》も、一面に焼け爛《ただ》れているんだねえ。あの美しい皮膚がめちゃめちゃになってるんだ、とても見られたもんじゃなかった。死にぎわは、それは静かなもんだったよ。あまり静かなもんで、看護婦に言われるまでは、僕など気がつかなかったくらいだ」
疲労しきって、泣くにも涙が出ないらしかった。まるで、身体《からだ》中から、力という力が抜けてしまったように、ぐったり仰向けに倒れていたが、しばらくして気がつくと、昏々《こんこん》と眠りに落ちていた。この一週間、おそらくこれがはじめての自然な睡眠だったろう。あの残酷な自然というやつも、時には妙に情け深いことがある。僕は、そっと上掛けをかけて、あかりを消してやった。翌朝、僕が起きたとき、彼はまだ眠っていた。身動き一つしていなかった。例の金縁眼鏡は、まだ彼の鼻の上に載っていた。
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ブランシュ・ストルーヴの死は、事情が事情だけに、うんざりするほど面倒な手続きを経たあとで、やっと埋葬の許可が下りた。ダークと僕《ぼく》とが、柩《ひつぎ》について墓場まで行った。馬車は、行きは並足で行ったが、帰りは早足で飛ばしてきた。ことに霊柩車《れいきゅうしゃ》の馭者《ぎょしゃ》が、しきりに馬を鞭《むち》うつのが、僕にはなにか見るに堪えないような気がした。まるで死者に対して、侮《ぶ》蔑《べつ》の肩をすくめ、厄介払《やっかいばら》いでもしているかのような気がしたのだ。ときどき僕は、眼《め》の前を揺れながら行く霊柩車を見た。僕の車の馭者も、取り残されないように、しきりに馬を駆り立てるのだった。もっとも僕自身も、なんとか当面の問題を忘れてしまいたい気持は、一緒だった。本当は僕となんの関《かか》わりもない悲劇に、なにか僕自身までが悩まされはじめていた。ストルーヴの気を紛らせてやるのだ、と自分に言い訳を言いながら、実はほっとした思いで、ほかの話題に転じていった。
「少し旅にでも出てきたら、どうだね?」と、僕は言った。「今パリにいたところで、なんの生活目標もないわけだろう?」
彼は答えなかった。だが、心ない僕は、止《や》めなかった。
「さし当り、明日からのプランとでもいったものはできてるのかい?」
「いや」
「なんとかここで、生活の収拾を計らなくちゃだめだねえ。なぜイタリアへ行って、仕事のほうをはじめないんだ?」
彼は、またしても答えなかった。だが、幸い馭者がなにか声を掛けてきた。ちょっと馬の足を緩めて、身体《からだ》を乗り出すようにして、なにか言った。なにを言ってるのか、聞き取れなかったので、窓から首を出してみると、どこへ着ければいいか、それを訊《き》いているのだった。僕は、ちょっと待て、と言っておいて、
「君も一緒に来て、昼食を食って行きたまえよ、そのほうがいい」とダークに言った。「ピガール広場で降ろしてくれるように言うからね」
「いや、やっぱりよそう。僕は、アトリエへ行ってみようと思うのだ」
僕は、ちょっとためらった後で、
「僕も一緒に行ってやろうか?」と、もう一度訊いてみた。
「いや、一人で行ってみたいんだ」
「それもいいだろう」
僕は、馭者に必要な指図を与えた。そしてまた僕らは、黙々と車を走らせた。考えてみると、ブランシュが入院したあの朝以来、ダークは、一度もアトリエを訪れていないのだ。僕としては、一緒に行ってくれと頼まれないで、助かった気持だった。戸口で別れると、僕は、重荷でも下ろしたような気持で帰った。パリの街々が、新しい喜びをもって眺《なが》められた。忙《せわ》しげに道行く人を、僕は、微笑の眼をもって見送った。美しく晴れた日だった。僕は、身内に疼《うず》くような生命の喜びを感じていた。僕自身にさえどうにもならない気持だった。ストルーヴのことも、彼の悲しみも忘れた。生きることを楽しみたいような気持だった。
38
それからまた一週間ばかり、彼を見なかった。と、ある晩、七時ちょっと過ぎだったが、ひょっこりやって来て、晩飯に出ようという。黒ずくめの喪服を着て、例の山高帽にも、黒の幅広リボンを巻いていた。ハンカチにまで黒い縁をつけている。服装だけから見ると、まるで細君の又《また》従兄弟《いとこ》まで含めて、身内を一挙に失ってしまったとでもいった様子だった。そのくせ肥満した体《たい》躯《く》と、丸い、赤い頬《ほっ》ぺたとは、ひどく喪服を不《ふ》釣《つり》合《あ》いなものに見せている。悲嘆のどん底にありながら、なおなにか道化めいたものを思わせるとは、むしろかわいそうでさえあった。
彼は、パリを去る決心をしたと言う。もっとも行先は、僕《ぼく》の言ったイタリアでなく、オランダだということだった。
「明日発《た》つつもりだ。多分、君とも、これが別れだろう」
僕も、そこはしかるべく返事をしたが、彼は、消え入るような微笑を浮べていた。
「もう国へも五年帰らないからねえ。なにもかも忘れてしまったように思う。親《おや》父《じ》の家からも、すっかり遠く離れてしまったような気がして、家へ帰るというのが、気恥ずかしいような気持さえするんだ。だが、僕の身を置くところといえば、あそこだけなんだからね」
すっかり打ち砕かれてしまった彼の思いは、おのずと母親の優しい愛に帰っていくらしかった。この幾年堪えつづけてきた嘲笑《ちょうしょう》の重荷が、ようやくこたえはじめたのだろう。それにブランシュの裏切りという最後の打撃が、これまではとにかく朗らかに受け流していた心の弾力性を、奪ってしまったらしいのだ。もはや彼を笑う人々を、笑ってすませることはできなかった。いわば「天涯の流人《アウトカースト》」といった形だった。彼はよく僕に話した。少年の日のあのきちんと片づいた煉《れん》瓦《が》の家、そして母親のひどい綺《き》麗《れい》ずき。台所などは、嘘《うそ》のようにきれいに光っていた。なにもかもがきちんと片づいていて、塵《ちり》一筋見られなかった。実際、潔癖といってもいいくらいだった。林《りん》檎《ご》のような頬ぺたをして、小ざっぱりした小《こ》柄《がら》な老婦人、もう何十年となく、朝から晩まで働き抜いて、家の中をきちんと綺麗に整えている姿が、僕にはまるで眼にみえるようだった。父親というのは、痩《や》せた老人で、手などは半生の労働で節くれ立っており、無口で正直だった。毎晩、夜になると、声を出して新聞を読んだ。しかもその間も、妻と娘(今ではある漁船の船長に嫁いでしまったが)は、一刻を惜しむように、一心不乱に縫物に耽《ふけ》っている。文明の進歩からぽつんと取り残された、小さなこの町では、いっさい何事が起るでもなく、一年一年が経《た》っていって、やがて死が、それも友達のように、一生ただ働きつづけてきた人々の上に、休息をもって訪れて来る。
「親父は、家業をついで、大工になれと言ったんだがねえ。もう五代というもの、親子相伝で、この同じ職をやってるんだ。そういうのを人生の知恵というんだろうな、親の跡をついで、よけいな傍《わき》見《み》なんぞしないのがねえ。僕は、子供のときに、こんなことを言ったことがある。隣の馬具屋の娘を、僕はお嫁に貰《もら》うんだとね。青い眼をして、亜麻色の髪をお下げにした、可愛《かわい》い娘だった。あの娘だったら、僕の家を綺麗に気持よくしてくれて、それにもう家業をつぐ男の子の一人くらい、できてたかもしれん」
ストルーヴは小さな溜息《ためいき》をつくと、そのまま黙ってしまった。彼の想像は、実現していたかもしれない数々の幻を、はてしなく追っていたのだ。そしてわれとみずから拒んでしまった生活の静けさを思うと、なにか憧憬《どうけい》にも似たものが、胸いっぱいに湧《わ》いてくるのだった。
「世間は冷酷なもんだよ。僕らは、なぜだかしらないが、この世界に生れてきて、そしてまた誰《だれ》も知らない、どこかへ行ってしまうのだ。僕らは謙虚でなくちゃいけない。静かな生活の美しさを知るべきだよ。『運命』にさえも気づかれないで、そっと人知れぬ一生を終るべきなんだ。そして単純で無知な人々の愛を求めるんだ。彼らの無知のほうが、いっさいの僕らの知識よりもはるかに貴い。彼らのように、黙って片隅《かたすみ》の幸福に満足し、謙遜《けんそん》で柔和な人間になることだねえ。それこそ人生の知恵なんだよ」
だが、僕にとっては、それは砕かれた彼の魂が語っているのであって、僕自身は、彼の諦《あきら》めに対して、むしろ一種の反抗をさえ感じた。だが、さすがに口に出しては言わなかった。
「それが、どうしてまた画家になろうなどと思ったんだね」と、僕は訊《き》いた。
彼は、ぴくりと肩をすくめた。
「つまり、ちょっと絵が描けたんだねえ。学校で賞をもらったりした。すると、母親《おふくろ》のほうが、僕の才能を得意になってしまってね、水彩絵具を一箱、贈り物にくれた。そして牧師だとか、医者だとか、判事だとかいった連中に、しきりに僕のスケッチを見せてまわったんだ。だもんで、僕はとうとうアムステルダムへ奨学資金《スカラシップ》志望の試験にやられて、しかもそれが通ってしまったんだねえ。さあ、母《おふ》親《くろ》にしてみれば大自慢さ。そりゃ僕を手放すのは、身を切られるように辛《つら》かったんだが、そこは笑顔で、悲しみ一つ見せなかったからね。子供が画家になるってことが嬉《うれ》しかったんだな。それこそ爪《つめ》に火を点《とも》すような倹約をして、僕が生活に困らないだけの金をこさえてくれた。僕の絵がはじめて展覧会に出たときなどは、親父と母親《おふくろ》と、それに妹と、みんなでアムステルダムまで見に来てくれたし、母親《おふくろ》などは、絵を見ると、そのまま泣き出してしまった」彼の優しい眼が、きらきら光っていた。「今じゃあの古い家には、壁ごとに僕の絵が、りっぱな金縁の枠に入ってかかっているはずだ」
彼は、幸福そうな誇りに顔を輝かせた。僕は、彼の絵の、あの綺麗な農夫や、糸杉《サイプラス》や、オリーブの木のある冷たい景色を思い浮べていた。けばけばしい金縁の枠に入って、農家の壁を飾っている光景は、さだめし奇妙なものだろう。
「かわいそうに、母親《おふくろ》にしてみりゃ、僕を画家にしたことを、大変なことでもしてやったように思ってたらしい。だが、今にして思うと、親父の意見のほうが通って、ただの大工にでもなってたほうが、よっぽど幸福だったんだろうな」
「だけど、君、芸術の与えてくれる喜び、ありがたみというものを知ってるはずの君が、いまさら商売替えをしようとでもいうのかい? 今日まで芸術から受けてきた喜び、それを君は、いっさい考えまいというのかね?」
彼は、一瞬考えていたが、「やっぱり芸術は、この世界で最も偉大な物だよ」
そしてちょっと反射的に僕の顔を見た。なにか言いにくそうにしていたが、やがて、
「君、知ってるかい? 僕はね、ストリックランドに会いに行ったんだよ」
「君が?」
僕は、呆《あっ》気《け》にとられた。顔を合わせるのもたまらないだろうと思っていたのに、だ。ストルーヴは、消え入るような微笑を浮べた。
「君ももうわかったろう、僕という人間はね、本当の意味でのプライドというものがないんだ」
「それはまたどういう意味なんだ?」
彼は、実に奇怪きわまる話をはじめたのである。
39
ブランシュの埋葬を終って、僕《ぼく》らが別れた後、ストルーヴは、重苦しい心を抱いて、あの家に入ったという。なにかが彼を、あのアトリエへと駆り立てていたのだ。いわば漠然《ばくぜん》たる自虐《じぎゃく》的欲望とでもいうのだろうか。そのくせ自分でも予見できる苦痛に恐れ戦《おのの》いていたのである。足を引き摺《ず》るようにして、階段を上った。足さえなにか心進まないようだった。思い切って入る勇気が出るまで、扉《とびら》の外に立って、しばらくためらっていた。恐ろしく胸騒ぎがした。いっそこのまま駆け下りて、もう一度、僕に同行を頼んでみようかとも思った。誰《だれ》かアトリエにいるような気がして仕方がない。彼は、ふと思いだした、よくこの階段を上ってきては、息つぎに一、二分、この踊り場で休んだ。そしておかしいようだが、一刻も早くブランシュの顔が見たい一心に、思わず息をはずませたものだった。彼女を見ること、それは倦《あ》きることのない喜びだった。たった一時間外出していただけで、まるで一カ月も別れていたような、胸のときめきに心躍るのであった。突然彼は、彼女が死んだとは信じられなくなった。すべてはただ恐ろしい悪夢にすぎなく、ただ鍵《かぎ》をまわし、扉《とびら》をさえ開ければ、今日もまた、彼がいつも感嘆していた、あのシャルダンの『食前の祈祷《ベネディシテ》』の女のように、軽くテーブルの上に屈《かが》み加減に乗り出している彼女の淑《しと》やかな姿が、待っているのではなかろうか。彼は、急いでポケットから鍵を出し、扉を開けて入った。
アパートは、人のいない部屋とは思えなかった。彼を最も喜ばせたのは、ブランシュのひどく綺《き》麗《れい》好《ず》きなことだった。育ちのせいか、彼は、整頓《せいとん》好《ず》きということに、深い共感を持っていた。彼女が、ほとんど本能的に、物をそれぞれの置場所へ始末するのを見ると、彼は、胸のあたりに温かい気持の湧《わ》いてくるのを感じたものだった。寝室は、まるで今しがた出て行ったばかりのようだった。化粧台の上には、ブラシが二つ、櫛《くし》を真中にしてきちんと揃《そろ》えてある。彼女がこの部屋での最後の夜を過したベッドの上は、誰かが綺麗に直してあり、寝衣《ねまき》まで小さな箱に入って、枕《まくら》の上に置かれている。もう二度と彼女は、この部屋へ帰って来ないなどと、誰が信じられよう。
彼は、渇きを覚えて、水を飲みに台所へ行った。ここも見事に片づいている。食器棚《しょっきだな》には、あのストリックランドと喧《けん》嘩《か》をしてしまった晩、夕食に使った皿《さら》が載っていた。綺麗に洗ってあった。ナイフやフォークは、引き出しにしまってあったが、蔽《おお》いの下には、まだチーズの食べさしが残っていたし、ブリキ缶《かん》の中には、パンの切れはしも入っていた。彼女は、毎日買出しに出ることにして、ぜひ要る物だけを買うようにしていたから、翌日まで物が残るということは決してなかった。警察の調査によると、あの晩、ストリックランドは、夕食をすませると、すぐ出て行ってしまったということだ。それでも彼女は、いつもと同じように食後の洗い物まですませたのかと思うと、彼は、おそろしい身《み》慄《ぶる》いのようなものを感じた。いっこうに取り乱した様子はない。それだけに、彼女の自殺が、考えに考えたうえのことであることは明らかだ。とにかく彼女の落着きぶりは、おどろくべきものであった。彼は、にわかに激しい苦《く》悶《もん》を感じた。両脚ががくがくして、ほとんど立っていられなかった。ふたたび寝室へ取って返すと、そのままベッドに倒れてしまった。そして大声に、彼女の名前を呼んでみた。
「ブランシュ――ブランシュ」
彼女の苦しみを思うと、胸をかきむしられるようだった。突然彼は、はっきり彼女の幻を見た。台所――なぜかそれは、戸棚のような可愛《かわい》らしい台所だった――に立って、皿やコップやフォークやスプーンなどを洗っている。それから手早くナイフを研台《とぎだい》にかけると、次には、それらをみんな片づけてしまって、流し台をごしごし擦《こす》り、布《ふ》巾《きん》を拡《ひろ》げてかけ――そういえば、あの鼠色《ねずみいろ》になった破れた布片《ぬのきれ》は、まだそのままになっていた――そして改めて、きれいに片づいたかどうか、あたりを見まわした。捲《まく》り上げていた袖口《そでぐち》をもどし、エプロンを外して――それも扉の陰の木《き》釘《くぎ》にかかっている――やがて蓚酸《しゅうさん》の壜《びん》を取り上げると、それを持って静かに寝室へ入って行った。
彼は、堪《たま》らなくなって、ベッドから立ち上ると、そのまま部屋を飛び出した。アトリエに入ってみた。大きな窓にカーテンが引かれ、部屋は真暗だった。彼は、手早くカーテンをあけたが、あんなにも幸福な日を過したこの場所を、今すばやく眺《なが》め渡してみると、思わずすすり泣きがこみ上げてきた。ここもまた、なに一つ変ったものはない。ストリックランドという男は、環境には無頓着《むとんちゃく》な人間で、他人のアトリエに住みながら、別に何一つ変えようとも考えなかった。それは、わざわざ芸術的に苦心した部屋で、芸術家のための環境という問題に対するストルーヴの考え方を、そのまま表わしたものだった。壁には、古《こ》代《だい》錦《にしき》の布片が掛っており、ピアノの上には、艶《つや》を消した、美しい絹布の蔽《おお》いがしてあった。一方の隅《すみ》には、ミロのヴィーナス、そしていま一方の隅には、メディチのヴィーナスの、それぞれ複製が置かれている。ところどころにデルフト陶器の載ったイタリア風の飾戸や、薄浮彫が飾ってあった。そのほか、ストルーヴがローマにいたとき描いたという、ベラスケスの『法王インノセント十世』の模写が、堂々たる金の額縁に入っているし、ほかにも彼の作品が何枚か、いかにも装飾的効果を引き立てるかのように、りっぱな額縁に入ってかかっていた。もともとストルーヴは、自分の趣味について、大得意の男で、どんな場合にも、アトリエのロマンティックな雰《ふん》囲気《いき》ということを忘れる男でなかった。そして、今ではもう見るのさえ身を切られる思いであろうと思われるのに、自慢の秘蔵品の一つであるルイ十五世王朝風のテーブルの位置を、ふとなんの気もなく、少しばかりかえてみた。が、そのときだった、ふと、壁に裏向きに立て掛けてある一枚のキャンヴァスに気がついた。彼がいつも使っているものよりは、よほど大きかった。あんな場所に、どうしたのだろう、と彼は思った。そばへ行って、画面が見えるように、手前に傾けてみた。裸婦《ヌード》だった。心臓の鼓動が、急に速くなった。ストリックランドの絵に相違ないことは、一目でわかった。一時に憤《いきどお》りを感じると、投げつけるように壁に返した――こんなものをおいて行って、どういうつもりなんだろう?――だが、その拍子に、絵は画面を下にして、ばたりと床に倒れた。たとえ誰の絵であるにせよ、このまま塵埃《ごみ》の中に捨てておくわけにはいかない。彼は、倒れた絵を起したが、その瞬間、激しい好奇心が彼を捉《とら》えた。もう一度よく見てやろう、と彼は思った。そして絵を持ち出してきて、画架に載せると、改めて後ろへ退《さが》って、ゆっくりと眺めてみた。
思わず息をのんだ。ソファに臥《ね》た女の絵だ。片腕を頭の下にやり、もう片方は身体《からだ》に沿って垂らしている。そして片膝《かたひざ》を立て、他の脚は、まっすぐに伸ばしていた。古典的なポーズだった。ストルーヴは、眼《め》の前がぐらぐらっとなった。ブランシュだ。悲しみと嫉《しっ》妬《と》と怒りとが、一緒になって彼を襲った。嗄《しわが》れ声でなにか叫びだしたが、なにを言っているかは、わからなかった。両の拳《こぶし》を握り締め、まるで見えない敵にでも打ってかかるように、高く振り上げた。声を限りに叫んでいた。すっかり狂乱状態だった。どうしてこれが我慢できようか。あまりといえばひどいやり方だ。なにか手《て》頃《ごろ》の凶器はないかと、血走った眼で見まわした。ずたずたに引き裂いてしまってやろう、こんなものが一分でも置いておけるものか、と彼は思った。だが、あいにく格好な刃物が見つからなかった。絵道具の中を引っくり返してみたが、これというものもない。彼は狂ったようになった。が、とうとう大きなへらを見つけると、勝ちどきを上げて、飛びついていった。そしてまるで匕首《あいくち》のように、鷲掴《わしづか》みにすると、いきなり絵のほうへ突進した。
この話をしながらも、ストルーヴは、事件が本当に起ったときと同じように、興奮してしまって、テーブルの上の食卓ナイフをつかんで、夢中で振りまわしていた。が、彼は、今にも打ち下ろさんばかりに腕を振り上げたかと思うと、そのままはっと手を開いて、ナイフはぱたりと床の上に落ちた。彼は、わなわなふるえながら、笑顔を僕に向けたが、そのまま口を閉じてしまった。
「さっさと言えよ」と、僕は言った。
「どういうことだったか、僕にもわからないのだ。たしかに僕は、その絵に大きな穴を開けてやるつもりだった。あわや振り下ろさんばかりになっていた。ところが、そのとき突然、僕は、はじめて見たのだ」
「なにをだよ?」
「絵をさ。たしかに、こいつは芸術品だった。僕は、手を下ろすことができなくなった。怖くなったんだよ」
ストルーヴは、ふたたび黙ってしまった。ぽかんと口を開け、あの円い青い眼を、まるで飛び出さんばかりに、いっぱいに瞠《みは》って、僕の顔を見つめた。
「たいした、すばらしい絵なんだ。僕はぞっとした。すんでのことで、おそろしい罪悪を犯すところだった。もっとよく見ようと思って、二、三歩後ろへ退ったが、とたんに足がへらにつまずいた。僕は慄然《りつぜん》とした」
いつのまにか、僕も彼の激しい感動に感染気味だった。じっさい異様な感銘だった。突如として、価値関係の全く転倒した別の世界へ移されたようなものだった。周囲の事物に対する反応が、今までのそれとはことごとにちがう、いわば新しい国に来た旅人のように、僕は、呆然《ぼうぜん》と立っていた。ストルーヴは、絵の説明をしようとするらしいのだが、言うことは支離滅裂で、僕は辛うじて推測してやるよりほかなかった。今まで彼を縛っていた絆《きずな》を、ストリックランドは、見事に断ち切ったのだ。よく言われる言葉だが、単に彼自身を見《み》出《いだ》したというだけでない。思いがけない力をもった、新しい魂を見出したのだ。それは、単に豊かな、そして特異な個性を示す、大胆な描線の単純化というだけではなかった。なるほどその肉体は、ほとんど奇《き》蹟《せき》といってもよいほど、情熱的な官能をもって描かれていたが、決して単なる色調ばかりではない。またそれは、肉体の重さをさえ感じさせる、異常なまでの立体感ではあったが、それだけでもないのだ。それらに加えて、さらに見る人を困惑させる、新しい一種の精神的なものがあった。そしてそれは、われわれの想像を駆って、思わぬ方へと導き、ただ永劫《えいごう》の星の光だけが輝いている、ほの暗い、空虚な空間、そこでは、まったく赤裸々になった魂が、新しい神秘を求めて、激しい冒険を試みている、そういった空間を、連想させるのだった。
もし僕の言い方が修辞的だというなら、それはむしろ、ストルーヴ自身が修辞的であったからだ(人間というものは、感情の昂《たか》まったときには、当然、小説のような言い方をするのではなかろうか)。いわば彼は、今まで一度も経験したことのない感情を、言い表わそうとしていた。だからそれを、普通の言葉ではどういえばいいものか、わからなかったのだ。もともと言語を絶した経験を、なんとか言葉で言い表わそうとする、いわば神秘家の努力にも似ていた。だが、ただ一つ、僕にもはっきりわかったことは、人は、あまりにも軽々しく美について語る、しかも、言葉に対して無感覚であるために、美という言葉をいたずらに乱用し、その結果、かえって言葉は力を失ってしまう。おかげで、それが表わす実体もまた、凡百のくだらない事物とその名をわかち合うことになり、空《むな》しく威厳を失ってしまうということである。たとえば人は、衣裳《いしょう》を、犬を、説教を、美しいと呼ぶが、さてかんじんの真の「美」に直面したときには、かわいそうに、それがわからないのだ。自身のくだらない思想を飾り立てようという誤った強勢が、かえって彼らの感受性を鈍らせる。事実は、ほんの時々しか経験しない霊的経験を、いたずらに大《おお》袈裟《げさ》に吹聴《ふいちょう》する山師と同断で、乱用によって、かえって効力を弱めている。それに反して、ストルーヴという男は、なるほど度しがたい道化ではあったが、ただ美というものに対しては、彼自身の魂がそうであるように、誠実で、ひたむきな愛と理解とを持っていた。あたかもそれは、信徒が神に対するようなもので、彼にとっては、美をみることは、恐ろしいことであった。
「で、君はストリックランドに会って、なんと言ったんだ?」
「一緒にオランダへ来ないか、とすすめてみたんだよ」
僕は、呆《あき》れて物が言えなかった。ただ呆然と、彼の顔を見ているよりほかなかった。
「僕ら二人とも、ブランシュを愛してた。母《おふ》親《くろ》の家には、まだあの男を置いてやるくらいの余裕はあるはずだ。貧しい質朴《しつぼく》な連中とつき合うことが、きっとやつの魂に、いい結果を与えることになると思う。彼らから、大いにためになることを学べるだろうと思うんだ」
「ところで、あいつ、なんと言った?」
「薄笑いをしてたがね。おおかた僕を大《おお》馬鹿《ばか》野郎《やろう》だとでも思ってたんだろうさ。まだほかに大事な仕事があるからな、とそう言ったよ」
同じ断わるにしても、なんとかほかに言い方もあったろうにと、僕は思った。
「そしてそのブランシュの絵は、僕にくれたよ」
なぜストリックランドがそんなことをしたのか、僕にはわからなかった。だが、僕も別になんにも言わず、二人の間には、ちょっと沈黙があった。
「家財道具はどうしたんだい?」とうとう僕が言った。
「ユダヤ人が入ってくれてね、全体で相当の値段で買ってくれたよ。絵だけは持って帰ろうと思うんだ。今じゃ僕の持ち物といえば、絵のほかには、そうだ、服が一箱と、本が少しばかり、後にも先にもそれっきりだよ」
「国へ帰るというのは賛成だね」と、僕は言った。
彼としては、なにを措《お》いてもまず過去を忘れてしまうことだ。今でこそ堪えられないかに見える悲しみも、やがては時がいやしてくれるだろうし、憐《あわれ》み深い忘却が、もう一度、この人生の重荷を背負い上げる気力を与えてくれることだろう。まだ若いのだ。五、六年もすれば、今のいっさいの不幸も、かえって一種の喜びさえ混じった悲哀感をもって、静かに回想できるときが来るだろう。そのうちには、誰かおとなしいオランダ娘とでも結婚して、幸福な生活に入るかもしれぬ。ただ彼が今後も一生描きつづけるであろうおびただしいへぼ絵のことを考えると、僕は苦笑を禁じえなかった。
翌日、僕は、アムステルダムへ発《た》つ彼を見送った。
40
それから一月ばかり、僕《ぼく》は仕事に追われて、この悲劇の関係者には、誰《だれ》にも会う機会がなかったし、自然それについて考えることもなくなった。ところがある日、一心に考えごとをしながら、街を歩いていると、ひょっこりストリックランドに行き会った。顔を見ると、むしろ忘れてしまいたかったあの恐ろしい記憶が、まざまざと蘇《よみがえ》ってくるとともに、いわばその原因ともいうべき彼に対して、急激に反発の湧《わ》き起るのを感じた。といって、知らん顔をするのも大人気なかったので、軽い会《え》釈《しゃく》をしただけで、急ぎ足に通り過ぎた。が、次の瞬間には、彼の手を肩口に感じた。
「馬鹿《ばか》に急いでるじゃないか?」と、彼は、馬鹿丁寧に声をかけた。
こちらで避けようとすると、きまって向うから愛《あい》想《そ》よくしてくるという、これが、この男の性質だった。僕の挨拶《あいさつ》の冷淡だったことが、てっきりそうした疑念を抱かせたのにちがいない。
「そうさ」僕は、ぶっきらぼうに答えてやった。
「僕も一緒に行こう」
「なぜだね、そりゃ?」
「なに、君と話がしたいからなんだ」
僕は答えなかった。が、彼は、僕と並んで、黙々とついて来た。そんなふうで四、五百メートルも歩いたろうか。僕は、多少馬鹿馬鹿しくなってきた。ちょうどある文房具屋の前を通ったので、いっそここで紙でも買って行こうか、そうすれば、彼を追い払う口実にもなろうからと、ふとそんなふうに考えたのだ。
「ちょっとここへ寄って行くから。失敬」と、僕は言った。
「じゃ、待ってるよ」
僕は、ぴくりと肩をすくめながら、店の中へ入って行った。考えてみると、フランスの紙はひどく品質が悪いのだ。かんじんの計画は、うまうまと外されたうえに、要りもしない買物をするのも馬鹿らしかったので、どうせないにきまっている品物を訊《き》いて、そのまますぐ店を出てしまった。
「買いたい物はあったかい?」と、彼は訊いた。
「いいや」
僕らは、また無言のまま歩きつづけた。やがていくつかの通りが合流しているところへ出た。僕は、舗道の縁に立って、訊いてみた。
「君は、どっちへ行くつもりだ?」
「君の行くほうへだよ」彼は薄笑いを浮べた。
「僕は家へ帰るんだがね」
「じゃ、一緒に行って、煙草《たばこ》でも一服やらしてもらおう」
「それは、君、こっちから来いとでも言ったときのことだよ」僕は、冷やかに言い返した。
「そりゃ、言ってもらえる見込みでもあるなら、僕だって待つがね」
「君、あの向うの壁が見えるかい?」と、僕は、前方を指さしながら言った。
「見えるよ」
「それじゃ、これも見えてるはずだと思うがねえ、もう君とのお付合いは、まっぴらだと思ってることくらい?」
「まあそんなところだろうとは思ってたがね」
僕は、噴き出さずにいられなかった。笑わせてくれる人間というと、どうしても憎みきれないのが、僕の性格的欠点の一つなのである。だが、僕は、ここだと思ったので、
「君は唾棄《だき》すべき人間だよ。君くらい、いやな人間を知らない、獣《けだもの》だよ。君のような人間に会ったことを、僕は僕の不幸だと思っている。僕は君を憎《ぞう》悪《お》し、軽蔑《けいべつ》してるんだよ。君もまたどうしてそんな人間と、わざわざつき合おうとするんだ?」
「ねえ、君、僕は、君からなんと思われようと、そんなこと屁《へ》とも思う人間だと思ってるのかい?」
「もう止《よ》してくれ」僕の動機自体が、決して自慢になるものでないことを、われながら多少気づいていただけに、いっそう声を荒らげて言った。「君の言い分なんか聞きたくない」
「汚《けが》れるとでも思うのかい?」
彼の調子には、僕自身の態度を、われながらいささか馬鹿らしく思わせるようなものがあった。僕は、彼が冷嘲《れいちょう》的な薄笑いを浮べて、じっと横《よこ》眼《め》で睨《にら》んでいるのを、はっきり意識した。
「また金にでも困ってるんだろう?」と、わざと横柄《おうへい》に出てやった。
「大丈夫だよ、君から金を貸してもらえると思うほど、僕も馬鹿じゃない」
「だが、君もお世辞を言うようになるとは、零落《おちぶ》れたもんだねえ」
彼はにやりと笑った。
「だが、君はね、僕から時々いい物を摂取する機会があるかぎり、決して心から僕を憎みきれるもんじゃない」
僕は、噴き出したくなるのを、唇《くちびる》を噛《か》んで我慢しているよりほかなかった。実に癪《しゃく》に障るが、彼の言い草は、たしかに真実なのだ。僕の性格のいま一つの欠点は、相手がどんな背徳漢であろうと、僕の中のオリヴァに対してローランの役をしてくれるかぎり、秘《ひそ》かにその人間との交渉を喜びとしていることである。ストリックランドに対する嫌《けん》悪《お》も、よほど僕のほうで踏ん張らなければ危なかしいものだ、という気がしだした。そうした道徳的弱味は、僕も認めた。だが、それよりも、彼に対する僕の非難そのものの中に、すでにある種の虚勢《ポーズ》が含まれていることに気がついていたのだ。そして、それに僕が気がつくくらいなら、彼の鋭い直感が、とっくに見抜いていることは明らかだった。きっと腹の中では、僕を笑っているにちがいない。最後の言葉は相手に言わせておいて、僕はただ肩をすくめ、かたく口を緘《と》じることによって、わずかにその場を切り抜けるよりほかなかった。
41
僕《ぼく》の家の前まで来た。一緒に入れとは言わないで、僕は、黙って階段を上って行った。だが、彼は、ついて来て、僕の後から部屋に入ってしまった。彼には、この部屋ははじめてだった。だが、彼は、せっかく居心地よく苦心した部屋の様子にも、別に一顧すら与えるわけでない。テーブルの上の煙草《たばこ》缶《かん》を見ると、いきなりパイプを出して詰めた。しかも、わざわざたった一つきりの、肘置《ひじおき》のない椅子に腰を下ろすと、後ろへ傾《かし》いだ不安定な姿勢で反り返っているのだ。
「君、楽にしたいんなら、なぜ肘掛椅子のほうに掛けないんだ?」僕は、いらいらしてきて訊《き》いた。
「楽だろうと、楽でなかろうと、君が気にすることなんかないじゃないか?」
「もちろん気にしないよ」僕も負けてはいなかった。「問題は、僕自身のことなんだ。人がね、坐《すわ》り心地の悪い椅子に腰掛けているのを見れば、僕のほうが気持が悪くなるからね」
彼は、くすりと笑ったが、動く様子はなかった。ただ黙々とパイプを吹かし、僕などまるでいないかのように、なにかしきりに考えこんでいるらしかった。それにしても、なぜまたやって来たのだろう?
長い習慣というやつが、感受性を麻痺《まひ》させてしまってからでは別だが、そうでなければ、世の作家というものには、人間性の不思議さ、異常さ、それは道義感など一瞬にして吹き飛ばしてしまうほど興味深いものだが、好んでそうしたものに心を惹《ひ》かれる、いわば本能ともいうべき志向があり、それには、ときにわれながらおそろしいことがある。いつのまにか悪の凝視に芸術的満足を感じている自身を見《み》出《いだ》して、思わずはっとなるのである。だが、偽りのない話、ある種の行為に対して抱く彼の反感は、その行為の動機に対する好奇心ほど強いものでは決してない。論理一貫した、完全な悪人というものは、たとえ法と秩序を害するものであるにせよ、創造者にとっては堪《たま》らない魅力なのだ。思うに、イアゴーを創造したときのシェイクスピアは、これまた空想の糸を織り成して、あのデズデモナを想像したときの彼よりも、はるかに激しい興味《ガストー》を感じていたのではなかろうか。作家というものは、その創《つく》り出す悪役を通して、実は彼自身の中に深く根ざしながら、たまたま文明社会の慣習というもののために、潜在意識の奥深く押しやられてしまったある種の暗い衝動に、秘《ひそ》かな満足を与えているのかもしれない。彼が創造した人物に血肉を与えるのは、いわば他に全く表現の道を持たない彼自身の中のあるものに対して、生命をあたえているのである。彼の満足感は、結局一つの解放感であるのだ。
作家の関心は、審判することではない、知ることである。
僕の心の中には、たしかにストリックランドを憎み抜くものがあった。それには一点の嘘《うそ》もない。だが、一方それと並んで、彼の動機について知りたいという冷たい好奇心のあったことも事実である。僕には、ストリックランドという人間がわからなかった。あれほどまで親切をつくしてくれた人々の生活に対して、すべて彼が原因になって惹き起したあの悲劇を、いったい本人の彼はどう考えているのだろうか、それが聞きたかった。僕は、思い切ってメスを突きつけてみた。
「ストルーヴの話じゃね、君の絵では、やつの細君を描いたのが、一等の傑作だと言ってたが」
ストリックランドは、静かに口からパイプを放した。彼の眼《め》に微笑が輝いた。
「あれはおもしろかった」
「だが、なぜやつにくれてしまったんだね?」
「描き上げてしまったからさ。もう僕にはなんの用もなかったんだ」
「知ってるかい? ストルーヴは、すんでのことであれを破るところだったんだぜ」
「僕自身も、あんまり満足のいく作品だとは思わないねえ」
彼は、ちょっと黙ったが、静かに口からパイプを放すと、くすりと一つ笑った。
「君は知ってるかね? 先生、あれからまた僕に会いにやって来てね」
「君も、やつの言葉に少しは心を動かされたろうな?」
「とんでもない。あんな愚劣な感傷なんぞ、犬にでも食われろだ」
「忘れてしまったと見えるね、君は、あの男の一生を台なしにしちまったんだぜ」と、僕は言った。
なにか考えるように、彼は、鬚《ひげ》の顎《あご》を撫《な》でまわしていたが、
「やつときちゃ、実にどうもくだらない絵描きさ」
「だが、いい人間だよ」
「おまけにすばらしい料理人か?」ストリックランドは、噛《か》んで吐き出すように言い添えた。
その冷たさは、とうてい人間の心を持ったものとは思えなかった。僕もぐっと癪《しゃく》に障ったから、もはや歯に衣《きぬ》着せる気にはなれなかった。
「なに、ちょっと物好きからなんだがね、ひとつ君に訊きたいことがあるんだ。いったい君は、ブランシュ・ストルーヴの死に対して、少しくらいは良心の呵責《かしゃく》を感じているのかね?」
少しは顔色でも変えるかしらと、僕は、じっと彼の顔を窺《うかが》っていた。だが、それは、依然として氷のように冷たかった。
「それはまた、どうしてだ?」と、彼は訊いた。
「じゃ、言ってやろうか。そもそも君は死にかけてたんだぜ。それをストルーヴが、わざわざ自分の家へ連れて帰って、まるで母親のように看病してくれたんだ。自分の時間も、楽しみも、金も、みんな君のために犠牲にしてしまってな。いわば君は、死の牙《きば》から奪い返してもらったようなもんだ」
ストリックランドは、ぴくりと両肩をすくめた。
「やつは妙な男でね、他人のために尽すのが楽しみなんだ。それがあいつの生活なんだよ」
「仮にだね、やつからなんの恩義も受けてないとしてもだよ、なにもわざわざやつの細君を奪《と》ることはないじゃないか? 君が来るまでは、あれで二人とも幸福だったんだからねえ。なぜそっとしておいてやれなかったんだ?」
「やつらが幸福だったというが、どういう根拠があって、君は言うんだ?」
「そんなことくらい、わかってたさ」
「いや、どうも頭のおよろしいことで。じゃ、訊くがね、やつもあの女のためにはいろいろつくしてやったが、そのしてやったことがだよ、あの女として、宥《ゆる》すことのできるものだったと、君は思うのかい?」
「どういうことだ、それは?」
「なぜあの二人が結婚したか、知ってるかい?」
僕は頭を振った。
「あの女はね、あるローマの貴族の邸《やしき》へ家庭教師に入ってたんだ。そして、そこの息子に口説き落されたんだねえ。女のほうじゃ、結婚してもらえるものとばかり思ってた。ところが、事実はぽんと首になって放《ほう》り出されてしまった。おまけに子供まで生れそうだというんで、とうとう自殺しようとしたことさえある。そこへ現われたのが、ストルーヴさ。そして、とうとう結婚してしまった」
「いかにもやつらしいな。とにかく僕も、あの男ほどすぐ同情に溺《おぼ》れてしまう男は知らん」
そういえば僕も、以前から、なぜこの不《ふ》釣《つり》合《あ》いな二人が結婚したものか、不思議に思ったことは何度もある。だが、まさかこうした事情とは考えなかった。細君に対する彼の愛情に、なにか普通とちがったものがあったのも、そうした事情からだったのだろう。とにかくただの愛情以上のものがあるような気はしていた。妙に控え目がちな態度に、なにか僕などにはわからないものが秘められているのではないかと、そんな気がしたのを憶《おぼ》えている。だが、今にして思えば、それは、単に恥ずかしい秘密を隠すというだけではない、もっとそれ以上のものがあったわけだ。彼女の物静かさには、たとえばハリケーンに襲われた後の島を包んでいるような、なにか重苦しい静けさにも似たものがあった。明るさは、絶望からきた明るさだったのだ。だが、ちょうどそのとき、突然僕の黙想を中断したのは、僕自身思わずはっとなったほど、おそろしい冷嘲《れいちょう》を帯びたストリックランドの言葉だった。
「女というやつはね、男から受ける傷なら、いくらでも宥すことができる。ところが、かりにも自分のために、男からなにか犠牲行為の奉仕を受けるというのは、絶対に宥せないんだからね」
だが、僕も負けてはいなかった。「だから、君なら絶対安心だというんだろう。つまり、いくら女に近づいても、まずそうした怨《うら》みを受ける危険は絶対にない、というわけだろうからね」
彼の唇《くちびる》に薄笑いが浮んだ。そして答えた。
「なるほど、気の利《き》いた応酬《やりとり》がしたいためには、主義もなにも、いつでも犠牲にして平気な男なんだからな、君は」
「ところで、子供はどうなったんだ?」
「ああ、死産さ、二人が結婚して三、四カ月目にね」
さていよいよ、僕の最も理解に苦しんだかんじんの問題だが、
「一つ訊きたいんだがね、いったい君は、どうしてブランシュなんて女に興味を持ったんだ」
彼は、しばらく答えなかった。僕は、危うくもう一度訊き返すところだったが、そのときやっと彼は、
「そんなことがわかるもんか? あの女は、僕の顔を見るのも堪らないと言った。そいつが、僕にはおもしろかったんだ」
「なるほどねえ」
が、その瞬間、彼は、さっと激しい怒気を表わしたかと思うと、
「くそ、馬鹿《ばか》馬鹿しい話だ、つまり、あの女に欲情を感じたんだよ」
だが、次の瞬間には、ふたたび元の平静さに返り、例の薄笑いさえ浮べて、僕を見た。
「はじめは、あの女、おぞ気をふるってたねえ」
「で、君は、はっきり口に出して言ったのかい?」
「そんな必要があるもんか。女のほうじゃ、ちゃんと知ってたんだ。僕は一言も言わなかった。すっかりおびえていたのを、とうとう手に入れてしまったんだ」
この話をしている彼の口吻《くちぶり》に、なぜああ恐ろしいまでに情欲の激しさを思わせるものがあったのか、僕にもわからない。驚いたというよりは、むしろ恐ろしかった。今までの彼の生活は、奇妙なまでに、感覚的なものから切り離されたものだったが、ただ時おり、肉体が、その精神に対して、恐ろしい復讐《ふくしゅう》を加えるらしかった。突如として、彼のうちなる半獣神《サテュロス》が彼を領し、彼は、あたかも原始自然力さながらの激しさを持つ本能の虜《とりこ》になって、その力を失ってしまう。いわば完全に憑《つ》かれた状態であり、彼の魂の中には、もはや分別も、感謝も、その場所を失ってしまうのであった。
「だが、それにしても、なぜあの女を一緒に連れて行く気になったんだ?」と、僕は訊いた。
「いや、そんなつもりはなかった」と、彼は眉《まゆ》を曇らせた。「あの女が自分も行くと言い出したときには、実は僕もストルーヴ同様、びっくりした。僕は女に言ってやった、もしお前がいやになったら、いやでも行ってもらわなくちゃならんのだからねえ、と。だが、それでもいいから、とあの女は言うんだ」彼は、ちょっと言葉を切った。「いや、すばらしい肉体の持主だった。こいつはひとつ裸婦《ヌード》を描いてやろうと思った。だから、でき上ったときには、もうあの女にはなんの興味もなかった」
「ところがね、女のほうじゃ、心から君を愛してたんだ」
彼は、にわかに立ち上ったかと思うと、小さな部屋の中を往復しだした。
「僕は、恋愛なんかまっぴらだ。そんな時間はない。要するに、あんなものは弱さだ。そりゃ僕だって男さ、だから、ときどき女が欲しくはなる。だが、一度肉欲が充《み》たされてしまえば、僕は、もうすぐにほかのことを考えている。僕は、自分の肉欲に勝てない人間なんだ。だが、肉欲を憎んでいる。肉欲というやつは、僕の精神を押し込めてしまうんだ。あらゆる欲情から自由になった自分、そしてなんの妨げもなく、いっさいをあげて仕事に没頭できる日の自分、僕は、どんなにその日を待ち望んでいることか。女というやつは、恋愛をする以外なに一つ能がない。だからこそ、やつらは、恋愛というものを、途方もない高みに祭り上げてしまう。まるで人生のすべてでもあるかのようなことを言いやがる。事実は、なに鼻糞《はなくそ》ほどの一部分にしかすぎないのだ。肉欲というものは、僕も知ってる。正常で、健康なものなんだ。だが、恋愛というのは、あれは病気さ。女というやつは、僕の快楽の道具にしきゃすぎないんだ。それが、やれ協力者だの、半身だの、人生の伴侶《はんりょ》だのと言い出すから、僕は我慢ができないんだ」
ストリックランドが、一時にこれほど饒舌《じょうぜつ》になったのは、はじめてだった。まるで忿懣《ふんまん》にたえないかのような言い方だった。いつでもそうだが、彼の言葉どおりそのまま伝ええたとは思わない。彼の語彙《ごい》は、きわめて貧しいうえに、文章を作ることの巧《うま》い人間でもなかった。だから、間投詞や、表情や、身振りや、陳腐な言葉遣いの端々から、結局彼の言う意味をつづり合せるよりほかなかった。
「それじゃ君は、女は家財道具で、男は奴《ど》隷《れい》の主人だったという、そうした時代にでも生れて来るべき人間だったんだねえ」と、僕は言った。
「つまり、僕はあらゆる意味で、正常な人間なんだ」
とにかく大《おお》真面目《まじめ》に言うのだから、これには僕も、笑い出さずにはいられなかった。だが、彼は、相変らず檻《おり》の中の獣のように、ぐるぐる歩きながら、喋《しゃべ》りつづけている。本当の気持を、必死になって言いたいらしいのだが、ただ筋道を立てて言うことが、極度に困難らしかった。
「たとえば女が恋をする。やつらは、相手の魂を手に入れてしまわないかぎり、満足しないのだ。やつらは弱い。だが、弱いからこそ、いっそう狂ったように支配者になりたがる。そうならなければ承知できないのだ。ちっぽけな心の持主だもんで、自分にわからない抽象的なものは、いっさい嫌《けん》悪《お》する。感覚的なものばかりに心を奪われて、観念、理想といえば、頭から憎んでかかる。男の魂というものは、この宇宙のどんな限りない涯《はて》まででも天翔《あまがけ》って行く。それをやつらは、なんとかして家計簿の中に閉じ込めてしまおうというのだ。君は、僕の家内を憶えてるかい? 僕はね、ブランシュのやつが、そろそろあらゆる小細工をやりだしたのに気がついた。それは実に驚くほどの忍耐をもって、この僕に罠《わな》をかけて、縛り上げてしまおうとした。つまり、自分と同じレヴェルにまで引き下ろそうというのさ。僕のことなんぞ、これっぱかりも思ってやしない。ただ僕を、しっかり自分の物にしようという、それだけなんだ。なるほど僕のためには、どんなことでも喜んでしてくれたろう。だが、かんじん僕のほうでして欲しいことだけは、断じてしてくれない。つまり、僕をそっと放《ほ》っといてくれることなんだ」
僕は、しばらく黙って聞いていたが、
「じゃ、君は、あの女を捨てて行ったとき、女にはどうしろというつもりだったんだ?」
「なに、帰ろうと思えば、ストルーヴのところへ帰れたんだよ」彼は、腹立たしげに言った。「あの男のほうじゃ、いつでも宥すつもりだったんだからね」
「君は、人間じゃないねえ」と、僕は答えた。「君とこの問題を話してもむだだよ。ちょうど生れつき眼が見えない人間をつかまえて、色の説明をするのと同じだ」
彼は、僕の椅子の前へ来て立ち止った。そして僕の顔を見下ろしていたが、明らかに侮《ぶ》蔑《べつ》に充ちた驚きの色が溢《あふ》れていた。
「ブランシュのやつが死ぬか生きるか、爪《つめ》の垢《あか》ほどでも、君、本気で問題にしているのかい?」
僕は、この質問を、幾度か反芻《はんすう》してみた。少なくとも僕自身の心を欺《あざむ》かない、真実な答えがしたかったからである。
「あの女の死が、僕にとってたいした問題じゃないとすればね、それは僕自身に同情が足りないせいだろうな。あの女には、大きな人生が開けていた。それがこんなふうに、無残に奪われてしまうというのは、恐ろしいことだと思うよ。本気で考えてないことを、むしろ僕は恥ずかしいと思ってる」
「君は、自分の信念に対して勇気がないんだよ。人生なんてなんの価値がある? ブランシュ・ストルーヴは、僕に捨てられたからって、自殺したんじゃない。あの女が馬鹿で、心のバランスというものを知らない女だからなんだ。だが、もうあの女の話はたくさん。実にくだらない女だった。さあ、それよりも僕の絵を見せてやろうか?」
まるで子供でもあやしているような口吻だった。癪に障ったが、それは、彼に対してよりも、むしろ僕自身に対してだった。ストルーヴとブランシュ、僕は、二人が、モンマルトルの快いアトリエで送っていた幸福そうな生活を思った。無邪気で、親切で、そして心から迎えてくれたあの二人。それがかくも無残に壊されてしまったというのには、なにか眼を蔽《おお》いたいようなものがあった。だが、それにもまして残酷なのは、この事実がほとんどなんの影響も残していないということだ。世界は同じ世界であり、彼らの痛ましい不幸のために、さて誰《だれ》一人どうなったというでない。僕は思った、ダークという人間は、感情の深さよりも、次々と感情の反応で生きて行く男だから、まもなく忘れてしまう日もあるだろう。ところが、ブランシュの一生にいたっては、どんなにか明るい希望と、そして夢とをもって生れてきたであろうのに、今にして思えば、むしろ生れてこないほうがましだった。すべては、空《むな》しいむだだったように思えるのだ。
ストリックランドは、もう帽子を取って、僕を待っていた。
「来るかね?」
「なぜそう僕に近づこうというんだね?」と、僕は訊いてみた。「僕が、君を憎み、軽蔑していることは、わかってるはずじゃないか」
彼は、おもしろそうに、くすりと笑った。
「ねえ、君、君と僕とで、どうしても喧《けん》嘩《か》になる点は一つなんだ。つまり、君からどう思われようと、そんなこと、僕は屁《へ》とも思わんってことね」
僕は、怒りに両頬《りょうほお》がかっと燃えるのを感じた。彼の冷酷きわまる身勝手が、いかに人の感情を害するものであるか、いくら言ってやっても、この男には通じないのだ。僕は、この徹底的無関心という彼の鎧《よろい》を、なんとかして刺し通してやろうと思った。もっとも煎《せん》じつめると、彼の言葉にも真理のあることはわかっていた。おそらく無意識にではあろうが、人は、自分の意見がいかに尊重されるかによって、己れの他に対する支配力みたいなものを信じたがるもので、したがって、そうした支配力の働かない相手に対しては、自然これを憎むことになる。実際これほどプライドを傷つけられるものはないわけだが、といって、口惜《くや》しい顔を見せるのも業腹《ごうはら》だった。
「だがね、君、全然ほかの人間を無視して生きるなんて、そんなことができるもんかね?」彼に言うというよりは、むしろ僕自身に言って聞かせた質問だった。「生きている以上、やっぱり一から十まで他人の世話になってると思うな。自分一人で、しかもただ自分のためだけに生きようなんて、君、途方もない話だよ。たとえばだよ、遅かれ早かれ、君だって病気にもなれば、老衰することだってある、そうすればやはり元の群れへ這《は》い戻《もど》ってくるわけさ。君の心にだって、慰めや共感を求めるときはあるだろう、そんなときに、君、恥ずかしいとは思わないかい? 君のやろうということは、不可能事だよ。遅かれ早かれ、君の中の人間が、やはり人と人との共通な絆《きずな》を求める日があると思うんだ」
「おい、僕の絵を見に行こうじゃないか」
「君は、死ということを考えたことがあるかね?」
「考えるもんか、そんなことは、どうだっていいんだ」
僕は、呆然《ぼうぜん》として彼を見つめた。身動き一つしない、しかも眼には嘲笑の薄笑いさえ浮べて、僕の眼の前に突っ立っている。だが、豪語にもかかわらず、ほんの一瞬間ではあったが、僕は、この肉体に縛られた人間の力では捉《とら》えることのできぬ、なにかはるかに高いものを求めて、火のように悶《もだ》えている魂、とでもいったものを、漠然《ばくぜん》とながら感じたような気がした。神聖なものへのひたすらな追求を、いわば鳥影のように、一瞬ちらと垣《かい》間《ま》見《み》たのだ。眼の前に見ているものは、薄汚ない服を着、大きな鼻と、ぎらぎら光る眼と、赤い鬚と、そして埃《ほこり》だらけの頭髪をした一人の人間にすぎない。だが、不思議にも僕には、それはただ外衣にしかすぎないもので、実際いま前に立っているのは、なにか肉体を離れた一つの精神だというような気がした。
「じゃ、ひとつ見せてもらうとしようか」と僕は言った。
42
ストリックランドが、どうして突然絵を見せようなどと言い出したか、僕《ぼく》にもわからない。だが、僕は、またとない機会だと思った。作品は、つねに人間を暴露する。社会的な接触においては、人は、ただ世間に見てもらいたい表面だけを示すにすぎない。真にその人間を知ることができるのは、むしろ本人には無意識なちょっとした行動や、知らず知らずに現われては消える、瞬間的な顔の表情などからの推論である。ときとして人は、あまりにも巧みに仮面を被《かぶ》りおおせる結果、やがて彼自身が、仮面そのものになりきってしまう場合さえ珍しくない。だが、そうした場合にも、作品の中では、依然として真の人間が現われるのをどうすることもできぬ。そこでは、虚勢は空虚の暴露にしかならない。いかに鉄板のように塗り立てたところで、細板はついに細板にすぎない。いかに奇才を衒《てら》ったところで、とうてい精神の月並みさを隠しおおせるものではない。鋭い観察者の眼《め》には、どんなかりそめの作品といえども、きっと作者胸《きょう》奥《おう》の秘密を暴露しないではおかないのだ。
ストリックランドの宿の、おそろしく長い階段を上りながら、正直にいうが、僕は、いささか興奮を感じていた。なにか驚くべき冒険の入口にでも立つような気がしていた。僕は、部屋の中をきょろきょろ見まわしてみた。以前感じたよりも、さらに小さく、さらにいっそうがらんとしたものだった。広々としたアトリエでなければだめだ、すべての条件が気に入らなければ描けないなどという、僕の友人の画家どもに見せたら、果してなんというだろうか、と思った。
「君はそこに立っていたまえ」と、彼は、おそらく絵を見てもらうのに一番好《よ》い場所とでも考えたのだろう、片隅《かたすみ》を指して言った。
「批評してくれというんじゃないだろう?」と、僕は言った。
「もちろんだとも、黙っていてもらえばいいのだ」
彼は、一枚の絵を取って画架に載せた。そして一、二分ばかり、そのまま見せていたが、やがてそれを下ろして、また別の絵を載せた。三十枚ばかり見せてくれたろう。絵を志してから六年間の、それが収穫だったのだ。一枚として売ったのはない。キャンヴァスの号数はいろいろだったが、小さいのは静物で、大きいのは風景だった。ほかに肖像も五、六枚あった。
「みんなだ、これで」と、最後に彼は言った。
僕としては、むろん一目見てただちにその美を認め、偉大なる独創性《オリジナリティ》に驚嘆した、と言いたいところだ。だが、事実は、これらの作品の大部分は、その後も改めて見たことがあるし、そのほかのものも、複製ではお馴《な》染《じみ》のものばかりだが、今にして思うと、はじめ一目見てひどい失望を感じたというのは、われながら不思議な気がする。芸術のみが与えうる特有の感動を、僕は少しも感じなかった。ストリックランドの絵から受けた印象といえば、ただ一言、面食らったというよりほかはない。そして今では実に残念で堪《たま》らないのだが、一枚だって買う気にはならなかった。大変な好機を逸したものであり、今ではそれらの大部分は、美術館に入ってしまったし、そうでないものは、すべて美術好きの富豪たちの秘蔵に帰してしまった。むろん僕は、僕なりになんとか理屈をつけている。つまり、僕の鑑識眼が悪いとは決して思わないが、ただ自分でもわかっていることとして、決して独創的な鑑識眼ではない。絵画に関する僕の知識は、実に貧弱きわまるもので、多くの場合、他人が指示してくれた跡を辿《たど》っていくよりほかはない。しかもその頃《ころ》、僕が夢中になっていたのは、印象派画家であり、本当に欲しかったのは、シスレー、ドガといったところだった。とりわけマネには心酔していた。僕にとっては、彼の『オランピア』こそ近代画壇最高の作品であり、また『草上の朝餐《デジュネ・シュル・レルブ》』などにも、どんなに深く心を動かされたことか。それらの作品は、もはや絵画における最後の言葉であるかのように、僕には思えた。
ここで、そのとき見た絵の説明をすることはよそう。およそ絵の説明ほど退屈なものはなく、おまけに、これらの絵は、その方面の研究家にはお馴染のものばかりである。ストリックランドが近代絵画に与えた影響というのは、非常なものであり、それに彼などが最も早い一人として、開拓の足を踏み入れたこの新天地も、その後他の人々の手によってすっかり探求しつくされた今となっては、はじめて彼の絵を見る人も、多少は心の準備といったものができていよう。だが、ここが大事な点なのだが、僕は、それまでおよそこんな絵を見たことがなかった。まずなによりも技巧の稚拙さ(僕にはそう見えた)に驚いた。いわゆる巨匠連の絵に慣れ、アングルなどを近代随一の技巧家と心得ていた僕にとっては、ストリックランドは、どうみてもまずかった。彼が意図した単純化、そんなものは僕にはわからなかった。今でも憶《おぼ》えているが、皿《さら》に盛ったオレンジの静物は、第一、皿がいっこうに円くなく、オレンジに至っては、すっかりいびつなのに面食らってしまった。肖像は、たいてい実物よりやや大きくできていたが、それがまたよけいにいけなかった。僕などには、まるで戯画《カリカチュア》に見えるのだ。とにかく僕にとっては、それまで見たこともない描法だった。風景画となると、もう一つ閉口した。フォンテンブローの森を描いたのが二、三枚と、同じくパリの街路を描いたのが五、六枚あったが、僕の印象を正直にいえば、まず酔っ払った辻《つじ》馬《ば》車《しゃ》の馭者《ぎょしゃ》でもが描いたかと思えるものだった。どう考えても、さっぱりわからなかった。色は色で、おそろしく生々しいし、とにかくすべてが、とてつもない不可解な茶番としか思えないのだ。今から思っても、ストルーヴの炯眼《けいがん》にはいよいよ頭が下るのであって、彼は、実に最初から、これこそ絵画の革命だと信じており、今でこそ世界中の承認するところであるが、当時はまだ天才のほんの黎明《れいめい》期《き》にしかすぎなかったのに、すでにはっきり認めていたのである。
面食らうばかりで、わからなかった、とは言ったが、むろんなんの印象も残らなかったというのではない。いかに度しがたい僕の無知をもってしてさえ、なにかそこに、表現を求めて苦しんでいる真の力といったものを感じないわけにはいかなかった。むしろ僕は、興奮を感じ、異常な興味をさえそそられた。それらの絵は、たしかに何か知るに値する物を語っている。ただそれが何であるか、僕にはわからなかった。事実それらは醜悪にさえ見えた。だが、そこには明示されてこそいないが、なにか途方もない大きな秘密のようなものが暗示されている。とにかく見る人の心をひどくいらいらさせる作品であった。それは、自分でも分析しきれない感動なのだ。言葉ではなんとも言い表わせない何物かを、それらの絵は語っている。僕はこんなふうにも考えてみた。彼は、物質的な物の中に、漠然《ばくぜん》とではあるが、なにか精神的な意味を見ている、しかもそれは、彼自身にさえあまりにも奇怪で、ただ不完全な象徴による暗示以外には、表現の方法を知らないらしいのだ。いってみれば、宇宙の混沌《こんとん》の中に、一つの新しい範型を見《み》出《いだ》したとでもいうか、それを、彼は、いかにも不細工に、魂を責め苛《さいな》みながら、キャンヴァスの上に描きとめようと悩んでいるのだ。表現の解放を求めて、血みどろになって苦闘している一つの魂を、僕はそこに見た。
彼を顧みて、僕は言った。
「君が、絵という手段を選んだのが、誤りだったんじゃないかね?」
「それはまたどういう意味だ?」
「なんだか、それはよくわからないが、とにかく君が、何かを言おうとしていることはわかる。だが、それにしてもだよ、その表現方法として絵を選んだということは、果して賢明だったろうかな?」
彼の絵を見ることによって、この異常な性格に対する理解の手掛りをつかもうと考えた僕の予想は、全く誤りだった。彼に対する驚きは増すばかり。ますますもって暗中模索という形だった。ただ一つ、確からしいことといえば――もちろん、それすら空想にすぎなかろうが――なにか彼をしっかり捉《とら》えている力からの解放を求めて、必死にもがいている彼の姿だったが、では、その力が何であるか、また、その解放がどんな方向をとるか、ということになると、やはりわからなかった。われわれは、この世界にあって、みんな一人ぽっちなのだ。黄銅の塔内深く閉じこめられ、ただわずかに記号《しるし》によってのみ互いの心を伝えうるにすぎない。しかもそれら記号もまた、なんら共通の価値を持つものでなく、したがって、その意味もおよそ曖昧《あいまい》、不安定をきわめている。笑止千万にもわれわれは、それぞれの秘宝をなんとか他人に伝えたいと願う。だがかんじんの相手には、それを受け容《い》れるだけの力がない。かくして人々は肩を並べながらも、心はまるで離れ離れに、われわれも彼らを知らず、彼らもまたわれわれを知らず、淋《さび》しくそれぞれの道を歩むのだ。たとえていえば、美しいこと、神秘なこと、それこそ限りなくさまざまの語りたいものを持ちながら、ほとんど言葉も通じない異郷の人たちの間に移り住み、やむなく陳腐な会話入門書の対話を繰返しているよりほかない人間、それがわれわれの姿なのだ。頭の中は思想で煮えたぎっている、そのくせ口に出して言えることは、園丁の叔母さんの傘《かさ》が家の中にあります程度の、くだらない会話にすぎないのだ。
結局、彼から受けた印象を要約していえば、なにかある心の状態を表現しようとして、死の苦しみを嘗《な》めている人間ということだった。そしてこの苦しみの中にこそ、僕をあんなにも戸惑いさせたものの説明があったのに相違ない。色彩も形態も、ストリックランドにとっては、明らかに彼独自の意味をもつらしかった。彼は、彼の感じているものに表現を与えないではいられなかった。そしてまたそのような意図だけで、それらの色と形とを創造した。だから、もしそれが、彼の求めるある未知なるものに向って、少しでも近づくことであるならば、単純化も歪曲化《わいきょくか》も躊躇《ちゅうちょ》するところではなかった。彼にとって、個々の事実はなんの意味もなかった。彼の求めたものは、一見無関係な事実の集積の背後に潜む、ただ彼にとってだけ重大な一つの意味であったのだ。彼としては、いわば宇宙の魂ともいうべきものを発見した以上、もはやそれを表現しないではいられないとでもいったところ。絵そのものは、ひどく僕を面食らわせたが、その中に潜む深い情熱には、とうてい無関心ではいられなかった。そして自分でもわからないのだが、ストリックランドに対して、夢にも予期しなかった感情が湧き上ってくるのを感じた。僕の胸は、憐憫《れんびん》の情でいっぱいになった。
「僕にもわかったような気がする、なぜ君がブランシュに対する感情に負けてしまったかね」
「なぜだ?」
「つまり、君の勇気が尽きたんだよ。君の肉体の弱さが、君の精神にまで伝わったんだねえ。どんな激しい憧《あこが》れが君の心を占めていたか、僕は知らん。だが、そのために、君はただ一人、なにかゴールを求めて、追われるもののように、危険な模索の旅にさまよい出たのだ。そこへさえ辿り着けば、君を責め苛んでいる精神から、今度こそは解放されるだろうと思ってね。結局、君は、ありもしない神殿を尋ねてさまよい歩く永遠の巡礼だと思う。君の求めるものが、どんな神秘な涅槃《ニルヴァーナ》であるか、僕は知らない。だが、君自身もわかってるのか? おそらく君の求めているものは、真実と自由なのだろう。それに時にはまた、ほんの一瞬間ではあるが、恋愛の中に解放を夢みたこともあるだろう。君の疲れた魂は、女の腕の中に休息を求めたのだ。だが、それも空《むな》しいとわかると、今度は女を憎みはじめたのだ。いかにも君は、女に対して微《み》塵《じん》も憐《あわれ》みを知らない男だった。だが、それというのも、君が君自身に対してさえ憐みを知らない男だからだ。むしろ君は、恐怖からあの女を殺したんだ。なぜならば、君自身がやっとのことで逃れてきた危険の恐ろしさに、まだ震えていたんだからな」
彼は、例の乾いた薄笑いを浮べながら、鬚《ひげ》をしごいていた。そして言った。
「驚いたセンティメンタリストだね、君は」
一週間ばかりして、偶然僕は、彼がマルセイユへ発《た》ってしまったという噂《うわさ》を聞いた。そして、それっきりついに彼に会わなかった。
43
さて、ここまで書いてきて、以上チャールズ・ストリックランドに関する僕《ぼく》の記述は、さぞかし不満なものであろう、それはわかる。僕としては、知りうるかぎりいっさいの事実を書いたつもりだが、ただどうしてそうした事実が起ったか、それがわからないかぎり、すべてが謎《なぞ》であることに変りはない。最も奇怪なことは、ストリックランドがなぜ突然画家になろうなどという決心をしたかだが、これがどうも唐突なのである。むろんなにか生活上の事情に原因があったものと思うが、僕にはいっさいわからない。彼自身の口から、それらしいものは何一つ洩《も》れなかった。これがもし一人の奇妙な人間について、ただ知るかぎり事実だけを語るというのでなく、一編の小説を書いているというのであれば、むろんこの回心を説明するいろいろな理由を考え出す手もあったろう。たとえば、少年時代にすでに激しい天職の自覚を感じながら、不幸にも父親の意志によって挫《くじ》かれたとか、生活のために犠牲にならなければならなかったとか、そしてそれが、ついに生活の絆《きずな》に堪えきれなくなったのだとか、そんなふうな書き方もできたろう。そうなれば、彼が芸術愛と生活義務との間に立って苦悩したというようなところで、彼のために大いに同情を惹《ひ》くこともできたわけだ。またそうなれば、彼ももっと偉大な人物になり、おそらく新しいプロメテウスとして彼を描くこともできたろう。人類の幸福のためには、身を地獄の業苦にさらしても悔いないという、あっぱれ近代版の英雄を作り上げる機会さえあったかもしれぬ。とにかくそれは、古今かわらぬ感動的な主題であるにちがいないからである。
しかしまた反対に、動機を結婚関係の影響に求めることもできたろう。その具体的方法については、いくらも考えることができる。たとえば隠れていた天分が、たまたま妻の求めた画家、作家たちとの接触を機縁として、誘発されたということもあろうし、また夫婦間の相《あい》容《い》れない性格の対立が、彼をしていっさいの興味を自己に集中せしめたとも言えようし、さらにまた彼の胸中に、人知れずくすぶっていた芸術の火が、たまたま恋愛をえてにわかに燃え上ったというふうにも考えられなくはない。そうなれば、ミセス・ストリックランドという女もまた、まるでちがった女になってくるはずだ。いっさい事実を無視してしまって、ただ口うるさい、退屈な女とするか、でなければ、精神的要求というようなものには少しも同情のない、頑迷《がんめい》度しがたい女にでもしなければならなかったろう。そうなれば、ストリックランドの結婚生活は、もはや逃げ出す以外救いのない、長い苦悩の連続ということになり、この悪妻を彼がよくも我慢強く堪え忍んだこと、それどころか、むしろ哀れとさえ思って、その圧迫の軛《くびき》をいかに恋々として捨て悩んだかということ、等々を大いに強調しなければならなかったかもしれない。少なくともあの子供たちだけは出すべきでなかった。
さらにまたこんな方法によっても、おもしろい話を作り上げることはできたろう。たとえば、偶然なにかの機会で彼が一人の老画家と知合いになる。この男は、生活のためか、それとも金銭的成功を求めてか、青年時代に彼の天才を売ってしまったのだ。それがたまたまストリックランドを見たことから、自分は空費してしまった可能性を、あらためて彼の中に見《み》出《いだ》す。そして彼の影響が、ついにストリックランドをしていっさいを放擲《ほうてき》し、神聖な、しかし同時に暴君じみた芸術の道に献身させることになるといった工《ぐ》合《あい》。金もでき、地位もでき、人生の成功者であるこの老人、それが今、もっとよい、生き甲斐《がい》のある生活だと知りながら、自分ではそれを生きる勇気のなかった生活を、別の人間の生活の中で生きようというこの構想は、案外皮肉なものになっていたのではあるまいか。
だが事実は、はるかに平凡であった。学校を出るとすぐ、ストリックランドは、別にいやな顔一つしないで仲買人の店に入った。結婚するまでの生活も、同僚たちのそれと変りない、ごく当り前の生活で、取引所でほんの少しばかり投機をやるとか、ダービー競馬や、オックスフォード対ケンブリッジの対抗競漕《きょうそう》などに、まず一ポンド金貨《ソヴェリン》一、二枚を賭《か》ける程度の興味はあった。仕事の暇にはボクシングも少しばかりやったようだ。炉棚《マントルピース》にはミセス・ラントリやメアリ・アンダスンの写真が載っていたし、読み物には『パンチ』や『競馬タイムズ』などを読んでいた。ハムステッドあたりへ踊りに行くこともあったらしい。
いったいストリックランドという男は、かりにどんなに長い間、消息が絶えるというようなことがあっても、別にどうということもない男なのだ。彼が困難な絵の修業に精進していた数年間も、実はきわめて平凡単調なものであった。それにしても、どうして露命をつないでいたか、といったような問題でも、これまた特筆に値するようなことはなに一つなかったらしい。今それを書いてみたところで、現に彼が他の連中にいくらも起るのを見ていた、その同じ話をすることになるだけだ。微《み》塵《じん》も彼の性格を変えたとは思えない。むろん彼といえども、結構現代のパリを舞台に一編の悪漢小説が書けるくらいの経験はしたに相違ない。だが、彼はむしろ超然としていたようで、その口裏から判断したかぎりでは、その間特に深い印象を受けたというようなものは全然なかったらしい。おそらくパリへ行ったときの彼は、もうよい齢《とし》で、いまさら環境に眩惑《げんわく》されて、その犠牲になる年齢ではなかった。妙な言い方かもしれないが、僕には、彼が常に実際家であるばかりか、ひどく無味乾燥な男にさえ見えた。この時期の彼の生活は、さだめしロマンティックなものだったろうと思うのだが、彼自身はいっこうにロマンティックだなどとは思っていない。なるほど、ロマンティックな生活を実践しようというためには、ある程度の俳優的天分がなければならないかもしれない。常に自己の外に立って、自己の行動を、一歩離れた興味と、すべてを没入する忘我的興味と、その両方を同時に持って見まもっている必要があろう。だが、その意味では、ストリックランドほど単純な心の持主はなかった。彼ほど自意識というもののない人間を僕は知らない。だが、それにしても、彼がいかに刻苦して、その必要な技法を習熟したものか、その過程をいっさい伝えることができないのは残念である。というのは、失敗にも挫けず、不屈の勇気をもって絶望に対して反撃しつづけ、さらに芸術家最大の敵である自己懐疑にも、頑《がん》として突っ張り抜いた彼の苦闘を、もしここで語ることができたならば、あるいはこの不思議なほど可《か》愛《わい》げのない――それは僕自身が最もよく知っている――人物にも、多少の同情くらいはあつめることができたろう。ところが、それがなに一つないのだ。僕なども、ただの一度として仕事をしているストリックランドを見たことがないし、僕以外の人間もやはりそうらしい。いわば彼は、いっさいの苦悩をことごとく自分の胸に秘し隠し、たとえアトリエの中ではただ一人、「天使」相手に死物狂いの格闘をつづけていたにせよ、少なくともその苦しみを、他人に気取られるなどということは決してなかった。
ブランシュ・ストルーヴとの関係に至っては、僕の知っている事実のあまりにも断片的なのに、ただ焦《じ》れったくなるばかりである。もしこの物語に、一貫した首尾を与えようというならば、僕は、当然この悲劇的関係の進行について語るべきであろう。ところが、彼らの同棲《どうせい》生活三カ月について、僕はなに一つ知らないのだ。どうして食っていたか、何を話し合っていたか、それさえわからない。一日といえば二十四時間だ、人間、感動がその極致に達するときといえば、そう日にたびたび起るわけでない。その他の時間はどうしていたものか、ただもう想像するよりほかにないのである。外光があり、ブランシュの体力のつづくかぎりは、おそらくストリックランドは、ひたむきに描きつづけていたのだろう。そして彼の、そんなにも仕事に我を忘れている姿は、おそらく彼女をいらいらさせたにちがいない。彼にとって、そんなときには、彼女はもはや情婦ではない、ただモデルとしてのみ存在した。だが、それも終ると、今度はただ黙々と向い合って過す長い時間が来る。きっとそれは、彼女を驚かしたに相違ない。ブランシュが身をまかせたのは、とりも直さず僕がダークに勝ったことだ、なにしろ僕は、あの女がいちばん困っているときに助け出してやったのだからなと、ストリックランドがそんなふうなことをそれとなく言ったことがあるが、だとすれば、いろいろ暗い臆測《おくそく》もできないわけでない。だが、それは、おそらく嘘《うそ》だろうと思う。それではあまりひどすぎるからだ。だが、それにしても、誰《だれ》が人の心の深い秘密を知ることができよう。少なくとも人間の心から、ただお上品な情操と正常な感情だけを期待する人々の知ったことではあるまい。一度欲情が爆発したときの激しさにもかかわらず、ふだんの超然たるストリックランドの態度を知ったとき、ブランシュの心はまさに胸つぶれる思いであったにちがいない。しかも、その情熱の瞬間においてすら、彼女は、自分が彼にとって決して一人の人間ではなく、ただ快楽の道具としてだけあるにすぎないことをはっきり知ったろうと思うのだ。依然として彼は他人であり、その彼を、彼女は、なんとかして自分の胸に引き留めようとして、ほとんど悲痛なまでの技巧をつくした。せめて生活を楽しくすることによって、彼の心を捉《とら》えようと努めた。そして彼が、およそ生活の楽しさということに無関心である事実には、強《し》いて眼《め》を蔽《おお》おうとした。どんなに骨身を削って、彼に好きなものを食べさせようとしたことか。しかも彼がおよそ食べ物に無《む》頓着《とんちゃく》な男であることには、強いて眼を閉じた。彼を一人きりでおくのは恐ろしかった。心の限りを尽して彼を追い求めた。彼の欲情が眠ったときには、強いてもそれを掻《か》き立てようとした。というのは、少なくともそうした瞬間だけは、しっかり彼を掴《つか》んでいるような幻《イリュ》覚《ージョン》を持つことができたからだ。おそらく聡明《そうめい》な彼女には、ガラス窓を見ると、つい煉《れん》瓦《が》片《へん》を拾い上げたくなるように、彼女が作り出す鉄鎖の拘束そのものが、かえって逆に彼の破壊本能をそそるばかりだというくらいのことは、わかっていたろうと思う。だが、もはや理性的判断などできなくなっていた彼女の心情は、みすみす破滅を知りながら、それを変えることができなかった。心は不幸に泣いていたにちがいない。にもかかわらず恋の盲目さは、ただ真実なれかしと願うことを、そのまま真実と信じてしまい、そして自分の愛の激しいままに、どうしてそれが相手の胸にも同じ愛を目覚めさせないはずがあろうかと、頭からそう思い込んでしまったのだった。
だが、僕のストリックランドの性格研究には、単に事実に関する無知以上に、さらに重大な欠陥があるはずである。僕は、ただそれがわかりやすく、しかも異常なという理由だけで、彼の対女性関係を書いてきたのだが、考えてみると、これは彼の生活全体にとって、部分も部分、ごく一小部分にすぎないのだ。もっともそれが、他人に対して、とんだ悲劇的な影響をあたえたということは、まことに皮肉な話であるが、彼の真の生活そのものは、ただ夢と、そして驚くべき激しい仕事欲とだけから成っていた。
それを思うと、小説などというものは、結局、絵空事にすぎぬ。というのは、通常男の生活にとって、恋愛ということは、要するにさまざまな一日の仕事の中の、ただ一つのエピソードにしかすぎないのだ。それを小説がさも重大に誇張するのは、いわば虚偽である重大性を与えているにすぎない。その男の生活にとって、恋愛が最も重大な事件だなどという、そんな男はめったにいるものでない。いれば、たいていくだらない人間に決っている。恋愛こそ至上の関心であるといわれる女ですら、そうした男を軽蔑《けいべつ》するのだ。なるほど、彼女たちはいい気持になり、興味をそそられるということはあるかもしれぬ。だが、それにしてもなお、そうした男が、なにかつまらない人間だという不安な感情は免《まぬか》れない。男というものは、現に恋愛中である短い時間においてさえ、なお他に心を紛らす仕事をしているのだ。生計を立てている商売のことも気にかかろうし、スポーツに熱中することもあれば、芸術に興味を感じることもある。多くの場合、彼らは各方面にわたってさまざまの活動をつづけている、そしてある一つの興味に、しばらく他のいっさいを忘れることができる。現にいま興味の中心となっている事《こと》柄《がら》に、すべての関心を集中するということ、それが男にはできるのだ。そしてそんな場合、互いに興味が侵し合うことは、もっとも彼らを退屈させる。恋人としての男女の差異は、女が四六時中恋愛ばかりしていられるのに反して、男はただ時にしかそれができないということだ。
ストリックランドにとっては、性欲は彼の生活のほんの一部分にしかすぎなかった。少しも重要なものでないばかりか、むしろ荷《に》厄《やっ》介《かい》でさえあった。彼の魂の目的は、もっと他にあった。なるほど彼は、激しい欲情の持主であった。そして時としては、欲情が彼の肉体を領して、肉欲の狂歓に我を忘れることもある。だが、それにもかかわらず、彼の自制力を麻痺《まひ》させてしまうそうした本能に対して、彼は激しく憎《ぞう》悪《お》した。あるいはさらに彼の放《ほう》恣《し》に欠くことのできない相手の女をすら、むしろ強く憎んでいたように思う。一度自制力が返ってみると、現にいま欲情を充《み》たしたその女の姿に対してさえ、激しい身《み》慄《ぶる》いを経験した。そのときは、すでに彼の心は静かに天上に遊んでいるのであり、相手の女に対して感じる彼の嫌《けん》悪《お》感《かん》は、いわば色美しい蝶《ちょう》が、花のあたりを舞いながら、彼自身が勝利感をもって脱《ぬ》け出してきたばかりの醜悪な蛹《さなぎ》の殻《から》に対して、激しい悪を感じるのと同じである。僕は思うに、芸術とは結局性的本能の一つの現われであり、人々の胸の中に、佳人の艶《えん》姿《し》が呼びさます感動も、月夜のナポリ湾によって起されるそれも、はたまたあるいはティツィアーノの『埋葬』によって起される感動も、結局は同じ感動にすぎぬ。考えようによっては、ストリックランドが正常な性の解放を憎んだのは、それが芸術的創造衝動の満足と比較して、あまりにも動物的であるというのが理由だったかもしれない。残忍で、利己的で、動物的で、肉欲的な一人の人間を描きながら、いまさら彼を偉大な理想家だなどというのは、実際僕自身にさえ異様に響く。だが、事実はいかんともすることができないのだ。
彼は、一介の職人《アーティザン》よりも、もっとひどい暮しをしていた。そしてまた仕事の猛烈さもそのとおりだった。普通、生活の楽しみだとか、美しさだとか呼ばれる事物に対して、彼はいっさい無頓着だった。金銭にはてんで興味がないし、名声にもまたそうだ。たいていの人間ならば、まず好《い》い加減のところで世間と妥協してしまうのだが、その妥協の誘惑にさえ、彼は厳として打ち勝った。もっとも、それだからといって、別に彼を褒《ほ》める必要はない。彼の場合は、てんではじめからそういった誘惑がない。妥協の可能性などということは、最初から彼の頭には浮んでこないのだ。パリの雑踏の中にあって、まるでテーベの沙《さ》漠《ばく》に住む隠者よりも、もっと淋《さび》しい孤独の中に生きていた。彼がその仲間から要求したことは、自分をそっとしておいてくれという、ただそれだけだった。全くたった一つ目的の鬼だったのだ。そしてそのためには、進んで自己を犠牲にしたばかりか――それなら他にいくらもいる――さらに他人をさえ犠牲にして顧みなかった。幻の人だったのだ、彼は。
いやな男だといえば、実にいやな男だった。だが、それにもかかわらず、やはり偉い男だったと、僕はいまもって思っている。
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画家の絵画論というものは、決して馬鹿《ばか》にしたものではない。で、ここでひとつ、僕《ぼく》の聞いたかぎりで、過去の巨匠連に対するストリックランドの意見を紹介しておくのもむだではなかろう。もっともこれといった意見はないかもしれない。というのは、第一、ストリックランドは座談家でなかったうえに、自分の言いたいことに、聞き手が一度聞いたら忘れないというような警句的表現を与える天分は、皆無といってよかった。いわゆる機知のある人間ではない。もし僕が、多少でも彼の口調を出すに成功していたとするなら、読者諸君には想像できようと思うが、彼のユーモアはひどく皮肉なものだった。彼の応酬はずいぶんと辛辣《しんらつ》だった。ときに真実を穿《うが》った名言を吐いて、人を笑わせることもあったが、いったいそうした種類のユーモアは、稀《まれ》に出てこそ効果があるのであって、ふんだんにやられたのでは、おもしろくもなんともなくなるに決っている。
さらにまた彼は、とうてい傑《すぐ》れた知性の人とはいえなかった。したがって彼の絵画論は、決して平凡以上には出なかった。おまけに彼が、多少でも自分の絵と類似のあるような画家――たとえばセザンヌとか、ヴァン・ゴッホとかいった連中――について語るのを聞いたことは一度もない。果して彼らの絵を見たことがあるのか、それさえ僕は疑わしいと思う。いわゆる印象派なるものには、あまり興味を持っていなかった。彼らの技法には感心していたらしいが、かんじんの態度については、むしろ月並みとでも考えていたらしい。いつだったか、最後にストルーヴがモネを担《かつ》ぎ出して、大いに褒《ほ》め立てたときでも、彼は、「僕はヴィンテルハルターのほうが好きだね」と、ただ一言いっただけだった。もっとも、おそらくこれは、いやがらせに言ったもので、そうだとすれば、たしかに成功だったとも言える。
過去の巨匠たちについて、なに一つ彼のとっぴな批評を報告できないのは、僕としても残念なような気がする。とにかく彼の性格には、ひどく人と変ったものがあった。それだけに、僕としては、彼の意見が乱暴であったほうが、かえって彼の人間像をちゃんと一貫したものにしてくれていいのである。むしろ先人たちに対するなにかとっぴな批評を、強《し》いても彼に付け加えさせたいような気がするくらいで、事実は、彼の意見が世間一般のそれとほとんど変らなかったなどというのは、多少の幻滅をさえ伴いかねない。エル・グレコ、きっと彼は知らなかったと思う。ベラスケスに対しては、非常な、だが、聞いているほうでは多少堪《たま》らなくなるほどの賛辞を呈していた。シャルダンが好きで、レンブラントにはほとんど首ったけだった。レンブラントから受ける印象について、いつか話してくれたことがあるが、ただその言葉のがさつさ加減は、ちょっとここに書くことを憚《はばか》るほどだった。彼が興味をもった唯一《ゆいいつ》の画家で、全く案外だったのは、ブリューゲル父子の父のほうだった。実をいうと、その頃《ころ》の僕は、まだほとんどこの画家を知らなかったうえに、ストリックランドという男は、自分の気持を説明するということが全くできない。むしろ僕は、そのとき彼の言ったことがさっぱりわからなかったので、かえっていまだにその言葉を憶《おぼ》えているくらいだ。
「こいつはりっぱだ」と、彼は言った。「彼にとっちゃ、絵を描くことは地獄の苦しみだったんだ」
その後僕はウィーンで、このピーテル・ブリューゲルの絵を何枚か見たが、なるほど、なぜ彼がストリックランドの注意を惹《ひ》いたか、僕にもわかるような気がした。彼もまた、彼だけの独自の世界を夢みつづけていた人間だった。そのときは僕も、彼についてなにか書くつもりで、かなりのノートを取っておいたが、今はすべて失《な》くしてしまって、ただそのときの感動だけがはっきり残っている。彼の眼《め》に映る人間は、すべてグロテスクな存在だった。しかもグロテスクなるがゆえに、彼は人間に対して我慢ができなかったのだ。彼にとっては、人生とは馬鹿げた、浅ましい事件の混沌《こんとん》であり、およそ嘲笑《ちょうしょう》の好題目だった。しかもなお笑うことは、彼にとって悲しかったのである。ブリューゲルから受けた僕の印象をいえば、もっとほかに、はるかに適した表現様式のありそうな感情を、まるで見当ちがいな様式で表現しようとして苦しんでいる人間ということだった。そしてその彼がストリックランドの共鳴をえたというのも、朧《おぼろ》げながら、そうしたことを意識したからだったかもしれぬ。おそらく両者とも、はるかに文学のほうに適した観念を、ひたすら絵によって表現しようとしていたのであろう。
このときストリックランドは、すでに齢《とし》四十七に近かったはずだ。
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前にも言ったが、もし僕《ぼく》があのタヒチへの旅行をしなかったならば、もちろんこの書物を書くことはなかったであろう。チャールズ・ストリックランドが長い漂泊の果てに足を留めたのがこの島であり、そして、また彼の名声を確実に打ち立てたあの幾多の傑作を描き上げたのも、やはりここだった。思うに、心に憑《つ》かれている夢を、心ゆくまで実現できたという芸術家はまずあるまい。技法という問題で、たえず苦しんでいたストリックランドに至っては、彼の心眼が見つめる幻を現実に表現するという点では、むしろ他の人々に劣るものがあったろう。だが、ただタヒチにおいては、すべての事情が彼に幸いした。周囲には、彼の霊感を実現するのに、ぜひとも必要な条件がことごとく揃《そろ》っていた。そのせいか晩年の作品は、少なくとも彼が真実求めていたものを髣髴《ほうふつ》とさせてくれる。それらは、われわれの想像になにか新しい、不思議なものを与えてくれる。いわば肉体を離れ、ひたすら新しい棲《す》み家を求めて漂泊しつづけていた彼の精神が、いまこの遥《はる》かな異域において、はじめてその肉の衣を見出したともいえる。陳腐な言い方だが、この島ではじめて自己を見《み》出《いだ》したのだ。
してみれば、たまたまこの孤島を訪れた僕が、ただちにストリックランドに対する興味を呼び覚されたとしても、少しも不思議はないだろう。だが事実は、僕は当面の勉強に忙殺されて、その他のことはいっさい考える暇もなかった。彼とこの島との関係を思い出したのさえが、着いてかれこれ数日も経《た》ってからだった。とにかく彼と別れてからすでに十五年経っており、彼が死んでからさえ九年経っていた。しかし、それにしてもタヒチへ来たということが、すっかり僕を興奮させて、ほかのもっと直接大事な用件すら、すっかり忘れてしまっていたらしいし、事実一週間経っても、まだ容易に静かな気持になることはできなかった。今でも憶《おぼ》えているが、着いた翌朝は、ひどく早起きをした。ホテルのテラスへ出てみたが、人一人起きていない。台所のほうへまわってみたが、ここも鍵《かぎ》がかかっており、外のベンチには土地の少年が一人眠っていた。ちょっと朝飯もできそうにないので、そのままぶらぶらと海岸のほうへ歩いてみた。中国人たちはもうちゃんと起き出して、忙しそうに店で働いている。空には、まだ蒼《あお》ざめた夜明けの光が残っており、礁湖《ラグーン》には影のような沈黙が漂っていた。十マイル沖合には、ムリアの島が、まるで聖盃《せいはい》を守る高い堡《ほう》塁《るい》のように、神秘を守っていた。
僕は、ほとんど自分の眼《め》を信じることができなかった。あのウェリントンを発《た》ってから幾日間、それはあまりにも異常な経験だった。ウェリントンは、小ぢんまりとした、いかにもイギリス風の町で、どこかちょっと南英海岸の港町を思わせるようなところがあった。それから三日間、海はひどい暴《あ》れだった。灰色の雲塊が、後から後からおそろしい速さで空を飛んだ。と思うと、今度は風がぱったり落ちて、海には紺青《こんじょう》の凪《な》ぎが来た。太平洋というやつは、他のどこの海よりも一段と荒涼さを思わせる海だ。ちょっとした空間にもあの涯《はて》しない広さが連想され、ほんのなんでもない旅行にさえ、なにか大きな冒険をでもするような気持を味わわせてくれる。吸う息一つにしてが、思いがけぬ期待にわれわれの心をときめかせる強烈な霊薬《エリキシヤ》なのだ。事実、船がようやくタヒチへ近づくときのあの気持などは、およそこれほど、われわれの空想する黄金楽土への期待を思わせるものはない。おそらく地上の人間に許される最上の至福なのではあるまいか。まずあの姉妹島であるムリアの荘厳《そうごん》な岩礁《がんしょう》が、まるで魔法の杖《つえ》から繰り出される蜃《しん》気《き》楼《ろう》のように、荒涼とした海から忽然《こつぜん》と現われてくる。あの峨々《がが》たる島の姿は、なにか太平洋のモントセラット島といったものを思わせる。そして、いわばポリネシアの騎士どもが、あの怪奇な祭式によって、人間の垣《かい》間見《まみ》を許さない妖《あや》しい神秘を、厳として守っている姿を連想させるのだ。そして島の美しさは、段々と距離が狭まって、あの絵のような尖頂《みねみね》がいっそうはっきりした形を取り出すとき、一時にわれらの眼の前に拡《ひろ》げられる。だが、それにしてもこの妖しい美は、船が島のすぐ傍《そば》を通りすぎるときでさえ、ついにその秘密を深い帷《とばり》のかなたに秘めつづけているのであり、まるで一種無気味な神聖さをすら湛《たた》えて、近づきがたい、険しい岩礁に結晶しているのだった。もし珊瑚礁《さんごしょう》の断《き》れ目を求めて来た船が、突然消えるようにその入口を見失い、あとにはただ見渡すかぎり青い太平洋の寂寥《せきりょう》が展《ひろ》がっているというような神秘が、たとえば起るとしても、人は決して不思議とは思わないだろう。
タヒチは高い、緑の島だった。濃緑の深い山襞《やまひだ》が幾重にも重なり合い、その陰には一つ一つ静かな峡谷を想像することができる。冷たい流れが音を立てて流れ落ちる仄暗《ほのぐら》い谷の底には、なにか深い神秘が隠されている。そしてこうした山陰の村々では、もう人々の記憶もとどかないさまざまの古い習俗が、いまなおかたく守られているのだ。むろん、そこにも悲しみや、恐怖はある。だが、それらの印象は、ほんの束《つか》の間のものであって、むしろ次の瞬間の歓楽を、いっそう鋭いものにしてくれるだけだ。いわば屈託のない楽しい観客が、他《た》愛《わい》もなく道化役者の駄洒落《だじゃれ》に笑い崩れているとき、ちらと彼の瞳《ひとみ》に光って消える悲しみの影とでもいおうか。笑いの波の中に、ひとしお堪えがたい孤独の自分を見出すゆえに、彼の唇《くちびる》はただ淋《さび》しく微笑し、おどけはいっそう楽しげに見えるという、いわばあれなのだ。微笑《ほほえ》むがごとく、親しむがごときタヒチは、たとえていえば、美と魅力とを惜しげもなく浪費する美しい女だった。静かに船がパペーテの港に入って行くときほど、心のなごむときはない。埠《ふ》頭《とう》に並んで繋《つな》がれている、まるでお洒落女のような小型帆船《スクーナー》、白く光る高雅な、海沿いの小さな町、火焔木《フランボアイヤン》は、まるで情熱の叫びをでも見るように、紺碧《こんぺき》の空に真紅の色を誇っている。それはまるで息づまるような、羞恥《しゅうち》を知らぬ欲情の激しさを思わせる。船が着くと、埠頭は明るい浮き浮きした人の群れでいっぱいになる。がやがや騒いだり、しきりに身振り話を仕かけたり、おそろしく陽気な群衆だ。鳶色《とびいろ》の顔、顔、顔の海。燃えるような空の青さに対して、それは一つの大きな色彩の流れだった。船荷の積卸しから、税関の検査まで、すべてがあわただしいざわめきであり、そしてすべての人間が、君たちに微笑みかけている。焼けつくような暑さ。すべての色彩が眼も眩《くら》むばかりなのだ。
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タヒチへ着くと、まもなく僕《ぼく》はキャプテン・ニコルズに会った。ある朝早く、まだホテルのテラスで朝食をとっているところへ来て、自分から名乗って出た。僕がチャールズ・ストリックランドに興味をもっていると聞いたので、会って彼の話がしたくなって来たのだと言った。英国の田舎なども同じことで、タヒチもずいぶん雑談《ゴシップ》の花の咲くところだった。ストリックランドの絵について、僕が一言二言尋ねると、それでもう話題はすらすらと運んでいった。朝食はすませたのか、と訊《き》いてみた。
「ええ、私は朝早くコーヒーを飲んですませることにしているもんですから」と、彼は答えた。「もっともウィスキー一杯くらいなら、頂戴《ちょうだい》しても結構ですがね」
僕は、中国人のボーイを呼んだ。
「でも、少し早すぎやしませんかな?」と、キャプテンは言った。
「それは君、君自身と君の肝臓との談合できまることじゃありませんか?」
「いや、私はほとんどまあ禁酒ってほうでしてな」と、彼は、カナディアンクラブを、たっぷり大コップに半分ばかりも手酌《てじゃく》で注《つ》ぎながら言った。
笑うたびに、欠けた、汚ない歯並みが見えた。ひどく痩《や》せこけた男で、背はまず中背というところか。灰色の頭髪を短く切って、鼻の下には切株のような灰色のちょび髭《ひげ》を置いていた。もう二日くらいも顔を当らないのだろう。ひどく皺深《しわぶか》い顔は、長い海上生活ですっかり渋紙色に焼きこまれていた。小さな、青い二つの眼《め》は、おそろしく落着かない。僕のちょっとした身振り一つにも、すばやくついて動くのだ。そのせいか、ひどく悪党らしい印象を与えるようなところもあった。もっともその日の彼は、すっかり上機嫌《じょうきげん》ではしゃいでいた。ただ服装のほうは、よれよれの薄汚ないカーキ色の服で、手なども、ちょっと洗ってでもくればよいのにと思われるような手だった。
「ストリックランドのことなら、私はよく存じておりますんで」椅子《いす》にぐったり倚《よ》りかかり、僕の出した葉巻に火を点《つ》けながら、彼は言った。「いったいあの男がこの南海へやって来たというのもですな、つまりは私の世話なんですよ」
「じゃ、君はどこで会ったんです?」と、僕は訊いた。
「マルセイユですよ」
「で、君はマルセイユでなにをしてたんです」
彼は、ちょっと追従笑《ついしょうわら》いのようなのを一つした。
「まあ波止場ゴロといったところでしょうな」
しかも彼の様子からみると、今もやはり尾羽打ち枯らしているらしかった。僕は、これならかえって気持よくつきあえるだろうと思った。というのは、いわゆる波止場ゴロと呼ばれる連中は、つきあってみて、なるほど多少困ることもあるが、そうした迷惑くらいは償ってあまりがある。くだらん人見知りなど決してしない、そして実に快く話相手になってくれる。よけいな気取りもなければ、一杯の酒で、すっかり心の底をぶちまけてもくれる。彼らと親しくなるのに、面倒な手続きなどはなに一ついらない。彼らの話に耳を傾けてさえやれば、それだけでもう彼らの信頼ばかりか、感謝さええられるのだ。人と会って話すことを、彼らは人生の大きな楽しみだと考えている。それだけでも、彼らの文明のいかに進んでいるかを示すに十分なのだが、それにまた、たいてい実に巧みな話し手ときている。経験の豊富さと、ほとんどそれに負けない想像力の豊かさとの、彼らは持主なのだ。ときに偽りがないとはいえない。だが、彼らは、法というものが力によって支持されているかぎり、むしろ法のよき尊重者といってよかろう。なるほど、彼らと一緒にポーカーをやるのは、少々危険がある。だが、それにしても彼らの小手先の器用さは、たださえおもしろいこの賭事《かけごと》に、不思議な興趣を添えてくれるほどである。僕はタヒチを発《た》つまでに、このキャプテン・ニコルズとはずいぶん親しくなったが、今でもそれをいいことをしたと思っている。彼に飲まれたウィスキーや葉巻(彼はいつも、事実上禁酒しているつもりなんで、と言って、カクテルは辞退した)、それからまるで恩でも着せるような調子で、僕のポケットからしゃあしゃあと借りていった何ドルかの金――だが、そんなものは、彼のほうで与えてくれた精神的ご馳《ち》走《そう》に比べれば、ほとんど物の数でない。いつも借方はむしろ僕だった。そんなわけで、僕は今いくら当面主題の興味に忙しいからといって、この人物をほんの二行や三行で片づけてしまうことは、どうも良心の手前すまないような気がするのだ。
キャプテン・ニコルズが、なぜはじめイギリスを捨てたか、それは僕にもわからない。これだけは、彼もどうしても言わなかったし、といって、彼のような気質の人間に、直接露骨な質問は最もまずいやり方だった。もっともなにか冤罪《えんざい》とでもいったようなことが原因らしいことは、彼もちょっと洩《も》らしたことがあり、明らかに自分でも社会不正の犠牲になったつもりでいた。詐欺《さぎ》、暴力――僕はそうしたいろんな場合を考えてみた。そして彼が、英本国のお上というやつは、すべて度しがたい形式屋だといった言葉には、僕も深く同感した。だが、それにもかかわらず、祖国で受けたこの不快な印象が、少しも彼の熱烈な愛国心を損じていないのには、僕はむしろ感心した。彼はよく言った、なんといっても世界でいちばんよい国はイギリスですぜ、旦《だん》那《な》、アメリカ人だろうが、植民地人だろうが、南《デイ》欧人《ゴー》だろうが、オランダ人だろうが、カナカ人だろうが、俺《おれ》たちに比べりゃ、へん、物の数じゃござんせんからね、と。
だがその彼も、決して幸福な人間ではなかったらしい。ひどい消化不良に苦しんでいて、よくペプシン錠を呑《の》んでいるのを見たことがある。そのせいか、朝はほとんど食欲がないらしかった。もっともそれだけならば、まさか彼も精神的にまで参ることはなかったろう。彼がたえず人生に対して不満を感じていたのには、もっとほかに大きな理由があった。八年前、彼は実に早まった結婚をした。思うに、世間にはいわば慈悲深い神様の命令で、明らかに一生独身生活を規定されている人間というものがいる。それを彼らは、依怙地《いこじ》からか、それとも自分ではどうにもならない周囲の事情からか、とにかく真正面からこの命令に反逆してみせるのだ。だが、およそ世の中に、妻帯の独身男というものほど哀れなものはない。そしてキャプテン・ニコルズも実にその一人だったのだ。細君というのには僕も会ったことがある。齢《とし》はたしか二十八だったと思うが、ただこの女というのは、幾つになっても齢がわからないという、よくある種類の女の一人だった。おそらく二十のときでも今と同じだったろうし、といって四十になっても、これ以上老《ふ》けようとは思えない。頭の天頂《てっぺん》から爪先《つまさき》まで、完全な「隙《すき》のなさ」を思わせる女だった。美人とはいえない顔に小さな唇《くちびる》、いかにもそれは「隙のなさ」を思わせるものだった。皮膚がまた、骨の上にさも「隙間なく」張りつめた感じだったし、笑い顔も隙間なければ、頭の髪も服装も一点の隙とてなかった。白の綾木綿地《ドリル》の服までが、まるで黒の混織《ボンバジン》でも着ているように見えるのだ。どうした理由で、キャプテンがこの女と結婚したものか、また結婚はしたにせよ、なぜ捨てて逃げ出さないのか、その辺の消息は僕にはとうていわからなかった。いや、おそらく逃げ出したことはあるのだろう、しかも何度となく。そして彼の憂鬱《ゆううつ》は、それらがすべて失敗に終ったことから来ているのだった。どんなに遠く逃げ延びようとも、どんな隠れ家に身を潜めようとも、きっとこの女は、運命のように仮借なく、良心のように残忍に、やがては彼を捉《とら》えてしまう。原因というものが結果から逃げることができないように、彼もまたこの女から逃れることはまずできなかった。
無頼漢というものは、芸術家や、またおそらくは紳士などと同様に、決して一定の階級に属することのない存在である。彼らは、浮浪者の無遠慮さにも驚かないかわりに、貴人の儀礼《エテイケット》にも狼狽《あわ》てるような人間でない。ところが、反対にミセス・ニコルズは、もっともはっきりした階級、すなわち近年著しく発言権を得てきた、あのいわゆる下中級階級《ロウアミドル・クラス》の出であった。しかも親《おや》父《じ》というのは巡査だったが、きっとあっぱれ敏腕な巡査だったのだろう。果してどういう理由で、彼女が彼を捨てようとしないのか、それは僕にもわからない。だが、とにかく愛ではなかったはずだ。僕は、一度として彼女が口を利《き》くのを聞いたことがない。だが、おそらく二人きりのときには、ずいぶんと多弁な女だったろうと思うのだ。とにかくキャプテンは、まるで虎《とら》のように彼女を恐れていた。ときどき、僕と一緒にホテルのテラスに坐《すわ》っているときなど、ふと往来を歩いている細君の姿に気がつくことがある。細君のほうでは、呼びもしなければ、彼のいることなどてんで問題にしている気配一つない。ただ悠然《ゆうぜん》と行ったり来たりしているのだ。すると、いつもキャプテンは、急に異様な不安の色を現わして、時計を見ては溜息《ためいき》をつく。
「私は、これで失礼します」
そうなればもう、おもしろい話も、ウィスキーも、彼を引き留める力はない。それでいてこの男は、かつてどんな台風もハリケーンも平然として乗り切ってきた男であり、また相手に凶器さえなければ、十人やそこいらの黒人くらいは、自分はピストル一梃《いっちょう》で、いつでも相手になったろうと思える男なのだ。ときどき細君が、七つになる、顔色の悪い、ふくれっ面《つら》の娘を迎えによこすことがある。
「母ちゃんが呼んでるよ」泣きそうに哀れっぽい声で言う。
「ああ、よしよし」と、キャプテンは言った。
そして立ち上ると、娘を連れてそそくさと帰って行く。僕はこれを、精神が物質に勝った見事な実例の一つだと見ているのだが、それだけでもこの脱線の教訓は、十分にあろうと思うのだ。
47
僕《ぼく》は、ストリックランドについて、キャプテンからその折々に聞いた話を、ある程度整《せい》頓《とん》し、できるだけ順序立てて書いてみようと思った。二人は、僕がパリで最後にストリックランドを見た、あの年の冬の終り頃《ごろ》に、はじめて知合いになったらしい。それまでストリックランドが何をしていたか、それは僕にもわからない。だが、おそろしくひどい生活だったことは間違いないようで、はじめてキャプテンが彼に会った場所が、無料宿泊所《アジール・ド・ニュイ》であったというのを見てもわかる。ちょうどその頃マルセイユにストライキがあり、すでにすっかり食い詰めていたストリックランドとしては、わずかに露命をつなぐものさえ得られなくなっていたらしい。
無料宿泊所というのは、大きな石造の建物で、ちゃんとした身分証明書があり、管理人の神父たちに、労働者であるという承認さえしてもらえれば、とにかく一週間の寝泊り場所は与えられる。キャプテン・ニコルズの話によると、開門を待っている群れの中に、ひときわ大きなストリックランドの図体《ずうたい》と、一種異様な風体とが、まず彼の注意を惹《ひ》いたということである。彼らは物《もの》憂《う》げに待っていた。歩きまわっている男もあれば、ぐったり壁にもたれているものもある。かと思えば、溝《みぞ》の中に足を投げ出して、舗道の縁石に腰を下ろしている男もいた。彼らがぞろぞろと事務所に入って行ったとき、キャプテンは、ストリックランドの身分証明書を読んだ修道士が、彼に英語で話しかけているのを聞いた。だが、そのときは、ついに口を利《き》く機会はなかった。というのは、キャプテンが休憩室へ入って行くと、大きな聖書を抱えた修道士が入って来て、部屋の端にある説教壇に上って、お勤めをやりだしたからである。寝泊り場所を与えられる代償として、宿無しどもも、これだけは我慢しなければならないことになっていた。彼とストリックランドとは、別の部屋に割当てられた。翌朝は五時に、頑丈《がんじょう》な修道士が来てたたき起して行くと、彼はまずベッドを直して、それから顔を洗った。が、そのときには、もうストリックランドの姿は見えなかった。キャプテンは、凍《い》てつくような寒さの中を、小一時間も街から街へとうろついていたが、やがて船員たちの寄合場所であるヴィクトル・ジェリュ広場《プラース》へと足を向けた。そのときだった、彼は、とある銅像の台座にもたれて、うとうとしているストリックランドを再び発見した。彼は一つ軽く蹴《け》っておいて、言った。
「おい、朝食だ、行こうぜ」
「勝手にしやがれ」と、ストリックランドは答えた。
なるほど、たしかに数少ない、いつもの彼の口癖だった。僕は、キャプテン・ニコルズの言葉を信用していいような気がした。
「文なしかい?」と、キャプテンは訊《き》いた。
「うるさいっ」
「一緒に来なよ。朝食は奢《おご》るぜ」
一瞬躊躇《ためら》っていたが、やがてストリックランドはのこのこ起き上ると、一緒にパン接待《ブシエ・ド・》所《パン》へ行った。ここは飢えたものなら、誰《だれ》でもパンを一片《ひときれ》ずつもらえるのだが、ただそれは、そのときその場で食べなければならない。持って帰ることは許さないというのだった。次にはスープ接待所《キュイエール・ド・スープ》へ行った。ここはまた十一時と四時とにさえ行けば、一週間は、薄い塩スープを一杯ずつ振舞ってもらえる。ただこの二つの建物は、互いに遠く離れていて、結局本当に飢えかつえた人間ででもなければ、とても両方を利用する気にはならないようにできていた。こんなふうにして、とにかく朝食はすんだ。そして同時に、この奇妙なチャールズ・ストリックランドとキャプテン・ニコルズとの交情もはじまったのである。
それから四カ月ばかりというものは、二人は一緒にマルセイユで暮していたらしい。彼らの毎日は、昼間は一晩の宿賃と、辛《かろ》うじて飢えの苦痛を凌《しの》ぐだけの食費を稼《かせ》ぐ、ただそれだけであり、およそ波《は》瀾《らん》――もっともこの言葉を、なにか意想外な、手に汗でも握るような出来事という意味にとっての話だが――もなにもないものであった。だが、ただ一つ僕は、ここでキャプテンが、例の巧みな話術で、まるで目《ま》のあたり見るように想像を刺激してくれた、あの興味深い、新鮮な幾場面かを紹介しておきたいと思うのだ。この港町のどん底生活で彼がした数々の発見は、それだけでも実におもしろい読物になったろうし、彼が直接接触したさまざまの人間については、それこそすばらしい悪党辞典ができるくらいの材料は、優に集まったろうと思えるのだ。だが、むろんここではほんの一端に触れるだけで我慢するよりほかない。それにしても、彼の話から受けた僕の印象は、おそろしく野蛮で、動物的で、多彩で、そして精気に溢《あふ》れた、激しい生活ということだった。それに比べると、僕の知っていたマルセイユ、何不自由ない人間どもの集まっている快いホテルとレストランとのマルセイユ、身振りの多い明るいマルセイユなどは、ひどく平凡で、食い足りないものに思えた。そして彼が話したような光景を、現にその眼《め》で見てきたという人々に対し、僕はむしろ羨《うらや》ましい気持さえ感じた。
無料宿泊所にもいられなくなると、二人はタフ・ビルを頼って行った。タフ・ビルというのは、黒人との混血児で、強そうな腕節《うでっぷし》をした、おそろしく大きな図体の男だったが、それが海員宿の親爺《おやじ》をしていて、ここへさえ行けば、とにかく乗る船が見つかるまで、食い詰め者の船員に食べ物と宿だけは提供してくれた。ここには一カ月ばかりいたらしい。ほかにも十人あまり、スウェーデン人や、黒人や、ブラジル人などと一緒に、宿泊所に充《あ》てられている、まるで空家のような二部屋の床の上に寝起きしていた。そして毎日の日課といえば、船員を求めて船長たちが集まってくるヴィクトル・ジェリュ広場《プラース》へ、のこのこ出かけて行くことだった。主婦《おかみ》というのは、アメリカ人の女で、でぶでぶ肥えた、おそろしいおひきずりだったが、そこはいろんなわけがあって、結局こんな境涯《きょうがい》に零落《おちぶ》れてきたものであろう。宿泊人たちは、毎日交代で彼女の家事の切りまわしを手伝うのが仕事だった。ストリックランドだけは、タフ・ビルの肖像を頼まれたというので、うまく免《まぬか》れていたが、それをキャプテンは、やつめ、巧《うま》くやりやがった、としきりに言っていた。キャンヴァス代、絵具代、筆代など、いっさい出してもらえるほかに、まだ密輸入の煙草《たばこ》一ポンドまでもらえるのだった。たしかこの絵は、今でもまだジョリエット埠《ふ》頭《とう》に近い、あの小さな壊れかかった家の客間を飾っているはずだが、いま売ればどうしても千五百ポンドにはなるだろう。ストリックランドの希望は、どれかオーストラリア行、またはニュージーランド行の船に乗り組んで、さらにそこから、サモアかタヒチまで渡りたいというのだった。どうして南海などを考えついたか、それはわからないが、ただ一つ憶《おぼ》えていることは、すでにずっと以前から、彼の心はあの濃紺の海――それは、北緯圏などで見られる海よりも、はるかに青いのだ――に囲まれた、明るい緑の島、そういった幻に魅入られていたということだ。思うに、彼がニコルズにくっついて離れなかったのも、おそらく彼がこの地方について知っていたからだろうし、また事実、貴様などはタヒチへ行ったほうが幸福だろう、と彼の心を動かしたのもキャプテン・ニコルズだった。
「タヒチといや、フランス領でしょうが」と、いつか彼は僕に言った。「フランス人ってやつは、そううるさい面倒なことは言いませんからね」
彼の言う意味は、僕にもわかるような気がした。
むろんストリックランドは、海員免状など持っているはずがない。だが、タフ・ビルという男は、金儲《かねもう》けとさえ見れば(つまり、彼は周旋してやって、船員から最初の一カ月分の給料をはねるのだ)、そんなことで辟易《へきえき》する男ではなかった。とんだ幸運にも、彼の厄《やっ》介《かい》になって死んだあるイギリス人火夫の免状というのが、早速ストリックランドに渡された。ところが、キャプテンにせよ、ストリックランドにせよ、乗りたいのは東行の船なのだが、あいにく契約書を突きつけられたのは、どれもこれも西行ばかりだった。とうとうストリックランドは、アメリカ行の貨物船を二度と、ニューカッスル行の石炭船を一度、断わってしまった。みすみす自分の懐《ふとこ》ろにひびくような我儘《わがまま》を、黙ってさせておくタフ・ビルではなかった。この最後のときに、とうとう二人は苦もなく往来へたたき出されてしまったのだ。彼らは、またしても当《あて》途《ど》のない放浪生活に帰った。
むろんタフ・ビルの食事がたいしたご馳《ち》走《そう》であるはずもなく、食卓に坐《すわ》ったときも、立つときも、腹のひもじさ加減はほとんど変らないのが常だった。それでも当座は、ずいぶんと未練が残った。飢えがどんなに苦しいものか、身にしみて知った。スープ接待所も無料宿泊所も、もう構いつけてくれないので、今ではパン接待所でくれる一片のパンが、飢えを凌ぐ唯一《ゆいいつ》の糧《かて》だった。寝泊りにいたっては、それこそ行き当りばったりで、駅の傍《わき》の待避線に放《ほ》ったらかされている空貨車で寝たこともあれば、倉庫の陰の荷馬車に潜りこんだこともある。だが、なにしろ刺すような寒さだ。一、二時間もうとうとすると、またしても往来を歩き出す。だが、それよりももっと痛切に堪《こた》えたのは、煙草の欠乏だった。とりわけキャプテンときた日には、煙草なしでは生きていられないという。とうとう彼は、夜の散歩者などの捨てていく紙巻の吸殻《すいがら》や、葉巻の吸いさしを求めて、ごみ溜め《キャノビア》漁《あさ》りをやり出した。
「いや、私もずいぶんひどいやつをパイプにつめて吸いましたよ」そういって彼は、僕の差し出したケースから葉巻を二本、一本は口へ、そしていま一本はひょいとポケットに入れながら、悟りきったように両肩をぴくりと聳《そび》やかした。
それでもときには、小金の入ることがある。つまり、ときどき郵便船が入るのだ。すると、彼は巧みに荷揚監督に取り入って、なんとかうまく二人分の仲仕の口をもらってくる。ことにそれがイギリス船だったりすると、彼らはいつのまにか水夫部屋《フォクスル》にもぐりこんで、しこたま朝食のご馳走にありつくのだ。そのかわり、ときにはぱったり高級船員の誰かにぶつかって、深靴《ふかぐつ》の尖《さき》で蹴飛ばされながら、転がるように舷梯《げんてい》を駆け下りなければならない危険もある。
「だが、旦《だん》那《な》、なに腹のほうさえくちく《・・・》なりゃ、尻《しり》っぺたの一つくらい屁《へ》でもねえからね」と、キャプテンは言った。「それに私は、そんなことくらいなんとも思やしませんよ。そりゃまあ上役の身になってみりゃ、しめし《・・・》ってこともありましょうからね」
僕は、あの狭い舷梯を、かんかんに怒った航海士か誰かの足《あし》蹴《げ》に追われながら、まるで逆さまになって駆け下りるキャプテンの姿、そのくせ、そこはイギリス人らしく、商船隊精神とやらに悦に入っている彼の姿が、眼に見えるような気がした。
魚市場に行くと、たいていなにか仕事があったし、また一度は、波止場に陸揚げされたおびただしいオレンジの箱を貨車に積み込んで、一人一フランずつもらったこともある。またある日などは、実に運よく、ある宿泊所の親爺が、喜望峰まわりでマダガスカルから来た貨物船の塗《ぬり》更《か》えの契約をとってきて、おかげで、それから数日間というもの、二人は終日舷側からぶら下った板の上で、錆《さ》びた船腹のペンキ塗りをして暮したこともある。あの冷嘲屋《れいちょうや》のストリックランドには、さぞかし気に入った生活だったろう。僕は一度キャプテン・ニコルズに訊いてみたことがある、この受難時代を、いったい彼はどんなふうに堪えていたか、と。すると、キャプテンは答えて言った。
「それがね、旦那、不平なんてものは、一言だって聞いたことがねえんですからね。そりゃときには仏頂面《ぶっちょうづら》をしてたこともないじゃない。だけどもですね、旦那、たとえ朝からパン一片食べなくったって、いや、そればかしじゃねえ、あのチャン《・・・》宿に泊るね、そのお銭《あし》一文なくったってさえ、やつはまるでぴちぴちと恐ろしく元気でしたからね」
だが、それには僕は驚かなかった。たいていの人間なら顎《あご》を出しそうな環境でも、平然として乗り切っていくのが、ストリックランドという男なのだ。ただ、それが果して自若たる精神から来るものか、それとも一種の反抗性から来るものか、そいつは大いに問題だと思うのだが。
チャン《・・・》宿といったのは、ブトリ街のはずれにあったひどい安宿を、浮浪人どもが通称していた名前である。主人というのは片眼の中国人だったが、六スー出せば簡易ベッドがもらえるし、三スー出せば、とにかく床の上に眠れるのだ。彼らはこの家で、同じようなどん底にいるたくさんの連中と親しくなった。彼らは金などなくても、極寒の夜などは、昼間とにかく余分の金にありついた連中から、なんとか屋根の下に寝られるだけのものを、さっさと借りることになっていた。宿なしどもには吝嗇《りんしょく》ということがない。持ったものは、いつでも喜んでみんなと分け合った。国籍などは、ほとんど世界中すべての国々にわたっていたはずだ。だが、いささかもそれは友情を妨げる障壁ではなかった。いわば彼らは、彼らすべてを包容する偉大な国家、いいかえれば逸楽郷《コカイン》の自由民であることを自覚していたからであった。
「だが、やつも一度腹を立てると、とんでもない厄介な野郎でしてね」と、彼は昔を思い出すように言った。「ある日広場《プラース》でね、ぱったりタフ・ビルの野郎に出《で》会《くわ》しちまった。すると、ビルのやつめ、チャーリーにいつか渡した海員免状を返せって言うんでがしょう。
チャーリーの言い草もいいや。要るなら、いつでも取りに来たらいいだろう、ってね。
タフ・ビルって野郎はね、たいていのことには驚かねえしたたか者だったが、やっぱしチャーリーの顔付だけはおもしろくねえんだねえ。そこで、いきなり悪態口をはじめやがった。口から出任せでさ、ずいぶん言いたいことを言ったようだった。それにね、ビルの野郎ときちゃ、悪態口をはじめたとなると、どうしてこいつは聞きものだったね。ところでですぜ、旦那、チャーリーの野郎も、しばらくは我慢して聴いてた。ところがだね、やがてぐっと一足乗り出したかと思うと、いきなり言いやがったねえ。『やい、出ろ、このヒョーロク玉!』なに、言葉どおりそう言ったわけじゃねえが、まあ、そういった調子だあね、ねえ、旦那。ところがよ、タフ・ビルの野郎、一言も返さねえんだ。そしてね、ちょろちょろっと尻尾《しっぽ》を巻いたと思や、まるで人と会う約束でも思い出したかのように、こそこそっと帰っちまいやがった」
つまり、キャプテン・ニコルズによると、ストリックランドの言った言葉は、決して右に書いたような生易しいものではなかった。だが、僕のこの本は、なにぶん家庭の中でも読まれるであろうことを考えたので、たとえ多少の真実は曲げても、やはり家庭の人間にも耳慣れた言葉を使わせたほうがよかろうと思ったにすぎないのだ。
さて、しかしタフ・ビルも、むろん平《ひら》水夫風《ふ》情《ぜい》に辱《はずか》しめられて、黙っている男ではなかった。彼の勢威というものは、結局彼の顔にかかっているのだ。果してまもなく彼の家の宿泊者の誰彼が、きっとこの仕返しはするからと言っている、という消息を伝えてくれた。
ある晩、キャプテン・ニコルズは、ストリックランドとブトリ街のとある酒場で飲んでいた。ブトリ街というのは、ずっと平家建の小家の並んだ狭い往来である。しかもそれらの家々は、どれもたった一部屋しかない。まるで混雑した市日の小屋掛けか、でなければ、サーカスの獣の檻《おり》とでもいった格好だった。戸口ごとに女が一人立って、しどけなく柱に倚《よ》りかかって、鼻歌を口ずさんだり、嗄《しわが》れ声で通行人に呼びかけているのもいれば、なにか物憂げに本を読んでいるのもいる。フランス人、イタリア人、スペイン人、日本人、黒人、それこそ色とりどりだった。肥えたのもいれば、細々と痩《や》せ衰えたのもいる。顔の厚化粧や、濃い引き眉《まゆ》や、真赤な唇《くちびる》の下からは、包みきれない年波の小《こ》皺《じわ》と、放埒《ほうらつ》の深い痕跡《こんせき》とがのぞいていた。黒の肌着《シフツ》一つに、肉色の長靴下《ストッキング》だけをはいた女もいれば、巻毛の髪を黄色に染めて、まるで小娘かなにかのように、短いモスリン・フロックを着たのもいる。開いた戸口から見ると、中は赤煉《あかれん》瓦《が》敷になって、大きな木造ベッドが一つ置いてある。そして樅材《もみざい》のテーブルには水差しと金盥《かなだらい》が一つずつのっていた。半島・東洋《ピー・エンド・オー》行定期船のインド人水夫、スウェーデン帆船の金髪の北欧人、日本軍艦の水兵、イギリス船の船員、スペイン人、フランス巡洋艦の朗らかそうな水兵、アメリカ貨物船の黒人水兵――国籍とりどりの、それこそ雑然たる群衆が往来を流れて行く。昼見れば、ただ汚ならしい通りというに尽きる。それが夜になると、これら小家の灯火に照らされて、一種なにか邪悪な美しさを帯びるのだった。あたりの空気一帯にたれこめている恐るべき欲情は、むしろ人の心に圧迫と戦慄《せんりつ》とを感じさせる。そのくせ、その風景の中には、妙にわれわれの心を不安にさせる、神秘的なものさえ感じられるのだ。よくはわからないが、われわれが反発を感じながらも、なお心惹かれないではいられない、あの不可解な、原始的な力なのである。ここでは、いっさいの文明の仮面が剥《は》ぎとられ、いわば人々は暗澹《あんたん》たる真実に直面する。強烈な、そして同時に、なにか悲《ひ》愴《そう》な雰《ふん》囲気《いき》なのである。
ストリックランドとニコルズが飲んでいた酒場では、自動ピアノがなにかダンス音楽をがんがん鳴り響かせていた。客たちは、ずっと壁に沿うた周りのテーブルに坐り、こっちでは数人の船乗りが、向うでは一団の兵隊が、それぞれしたたか酔い痴《し》れていた。部屋の真中では、組み合って踊る男女の群れが、いっぱいに肩と肩とを擦り合せている。陽《ひ》に焼けた顔に、鬚《ひげ》を生やした水兵たちが、大きな、角のような堅い両手にしっかり相手を抱いて踊っている。女といえば、肌着《シフツ》一枚きり。ときどき水夫が二人立ち上って、一緒になって踊った。耳も聾《ろう》せんばかりの喧噪《けんそう》だった。人々は歌い、叫び、笑っていた。一人の男が、膝《ひざ》にのせた女に長いキスをすると、一方からどっとはやすイギリス船員たちの猫《ねこ》鳴《な》き声がする。空気は、男たちの大きな深靴が上げる塵埃《じんあい》と、濛々《もうもう》と立ちのぼる煙草の煙に、重苦しげに濁っていた。蒸すような暑さだった。酒台《バー》の背後には女が一人坐って、赤ん坊に乳をふくませていた。平たい顔に、ひどいそばかすのある小男のウェイターが、ビールのコップを盆に載せて、忙しそうに右往左往していた。
しばらくすると、突然黒人の大男を二人つれたタフ・ビルが入って来た。もうべろべろに酔っていることは、一目見てわかった。なにか言い掛りを待ち構えているとでもいった様子。三人の兵隊が飲んでいたテーブルへよろめきかかると、いきなりビールのコップをひっくりかえした。たちまち激しい口論が起ったが、やがて酒場の親爺が出て来て、タフ・ビルに出て行けと言った。おそろしく屈強な男で、たとえ相手がお客でも、馬鹿《ばか》な真似《まね》は断じて許さぬという男だった。タフ・ビルも、たじろいだ。背後には警察という味方もあり、この親爺だけは相手にとって苦手だった。彼は一言二言悪《あく》罵《ば》を投げつけると、くるりと背中を向けて逃げ出した。だが、そのときだった、彼はふとストリックランドの姿を見つけたのだ。ずかずかと寄って行った。物をも言わず、口いっぱいに唾《つば》を含んだかと思うと、いきなり彼の顔に吐きかけた。ストリックランドは、すばやく前のコップをつかんで投げつけた。踊りはいっせいにぴたりと止った。一瞬、完全な沈黙があった。だが、次の瞬間には、タフ・ビルの身体《からだ》がストリックランドに向って躍りかかったと見ると、たちまち激しい闘争性がすべての人間をつかんだ。一瞬にして起るなぐり合いの乱闘。テーブルはひっくりかえるし、コップは床に粉《こな》微《み》塵《じん》に砕ける。死物狂いの乱闘だった。女たちは戸口や酒台《バー》の背後に逃げ散った。通行人どもは、たちまち戸口から雪崩《なだ》れこむし、ほとんどあらゆる国語の罵声、殴られる音、悲鳴。そして部屋の真中では、十人あまりの人間が、それこそ必死に闘っていた。と突然、警官がどやどやと駆けこんで来て、逃げられるものは、いっせいに戸口のほうへ殺到した。ようやく酒場の中が多少空《す》いてみると、なんと床の上にはタフビルが、大きく頭を割られ、失神して長くなっているではないか。服はずたずたに引き裂かれ、腕の傷からは血の流れているストリックランドを、キャプテンが引きずるようにして、外へ出した。彼も自分の鼻血で、顔中真赤に染めている。
「おい、タフ・ビルのやつが病院を出てくる前に、マルセイユをずらかっちまったほうがいいぜ」チャン《・・・》宿に帰って、身体を洗いながら、ニコルズが言い出した。
「軍鶏《しゃも》の喧《けん》嘩《か》以上だあね」と、ストリックランドが呟《つぶや》いた。
僕には、彼の皮肉な薄笑いが見えるような気がした。
だが、キャプテン・ニコルズは心配だった。タフ・ビルの執念深さを知っていたからだ。ストリックランドは、二度までもこの混血児をやっつけたが、しかし素面《しらふ》のときの彼は、決して馬鹿にはできないはず。おそらくじっと機会の来るのを待つだろう。決して急ぎはしない。だが、いつかはきっと、ストリックランドの背中をぐさっと一刺しやる日が来るにちがいない。そしてその翌日か、翌々日には、身《み》許《もと》不明の浮浪人の死体が一つ、港の汚ない水の中から引き揚げられるのだ。ニコルズは、翌晩タフ・ビルの家へ行って、様子を訊いてみた。彼はまだ病院にいたが、代って出た主婦《おかみ》の話では、今にみろ、病院さえ出れば、きっと生かしておくもんか、と怒鳴り散らしているということだった。
一週間経《た》った。
「だから、私はいつも言うんですよ」と、キャプテンは言った。「やるんなら、いっそうんとやっちまいなってね。そうすりゃ、旦那、とにかく周囲を見まわして、次の手を考える余裕はありますからね」
実際ストリックランドは幸運だった。ちょうど一艘《いっそう》、オーストラリア行の船から、ジブラルタル沖で、アルコール中毒性精神錯乱の発作で投身自殺した男のかわりに、火夫を一人欲しいという申し込みが、海員ホームに来ていたのである。
「貴様、大急ぎで港へ行ってな」と、キャプテンは言った。「すぐにも契約にサインするんだぞ。免状は持ってるんだろう?」
ストリックランドは、すぐに出て行った。そしてそれっきりニコルズも彼に会わなかったのだ。船はたった六時間仮泊しただけで、その日の午後、キャプテン・ニコルズは、冬の海を蹴って一路東に走る船の、遠く消えてゆく煙突の煙を、いつまでも見つめて立ちつくしていた。
以上僕は、できるだけ忠実に書いてみたつもりである。僕も知っているが、ストリックランドがまだアシュレー・ガーデンズに住んで、証券類や株のことで頭がいっぱいだった頃の生活に比べて、これらのエピソードを実に興味深く感じたからだ。ところが、あとでわかったのだが、キャプテン・ニコルズという男は途方もない嘘《うそ》つきであり、現に僕に語った話なども、実に一つとして本当のことはないらしいのである。したがって、彼がストリックランドに会ったなどということは、最初から一度もなく、またマルセイユに関する知識なども、全く雑誌かなにかの受け売りだったとかりにしても、決して僕は驚きはしないだろう。
48
実は、ここでこの本の筆をおこうと思ったのだ。僕《ぼく》の最初の考えは、まずはじめにタヒチにおける晩年のストリックランドの生活と、その凄惨《せいさん》な死態《しにざま》について語り、それから逆に、僕の知るかぎりの初期の彼について描いてみようと思った。もっともそれは、別に奇を好んでそうしたかったわけではない。ただストリックランドが、その想像を刺激された未知の島々に対して、なにかしら数々の神秘的空想を抱きながら、はるかに船出して行ったという、そこで筆をおきたかったのである。四十七といえば、たいていの人間なら、もはや何不足もなく、一定の生活軌道に落着いてしまう年頃《としごろ》だが、その齢《とし》になって、新しい世界を求めて出発して行ったという彼の面影《おもかげ》を、僕は深く愛していた。強い西北風《ミストラル》に、白い波頭を躍らせる灰色の海、そして彼にはついに再び見ることを許されなかったあのフランスの海岸――いま目《ま》のあたり薄れてゆくその影を、いつまでも見つめて立っている彼の姿が、僕には眼《め》に見えるように思えた。その態度には、なにか悲壮なものが、またその魂には、なにか不《ふ》逞《てい》なものさえ、感じられるような気がした。僕としては一《いち》縷《る》の希望をもってこの書物を結びたかった。それでこそ、人間不屈の精神を強調することになると思えたからだった。ところが、僕にはそれができなかった。どうしたものか、なんとしても物語になってこないのである。それでも一、二度はやりかけてみたが、結局投げ出してしまった。そして改めて普通の方法で、最初からやり直してみたのだが、そこで思ったのは、僕にできることは、ストリックランドの生活について僕が聞いた事実を、しかもそのままの順序で語ること、ただそれだけである、と。
といって、現在僕の知っている事実は、断片的なものにしかすぎない。今の僕の立場は、たとえばたった一本の骨片から、すでに絶滅した動物の形態、さらにはその習性にいたるまでを再現しなければならないという、生物学者のそれであった。ストリックランドは、最初タヒチへ来て接した人々には、これといってなんの印象も与えなかったらしい。いつも金に困っている宿なしの一人というだけで、強《し》いて変った点といえば、絵を描くというくらいのことで、その絵がまた彼らからみれば、お話にもなにもならないのである。死んで数年も経《た》ってからだったろう、パリやベルリンの画商の代理人たちがやってきて、どんなものでもいい、彼の描いたものがまだ島に残っていやしないかと、鵜《う》の眼鷹《たか》の眼で探しはじめたが、そのときになってはじめて彼らは、自分たちの間に、そんな大変な人間がいたことに気がついたのである。そして、いまさらのように思ったのは、今でこそそんな大変な値段かもしらぬが、あんなものは幾枚でも、ただ同様で買えたものを、ということだった。あまりにもむざむざ逸してしまった機会に対して、歯がみをして口惜《くや》しがった。コーエンというユダヤ系商人がいたが、彼などは実におもしろい奇縁で、彼の絵を一枚手に入れていた。この男はフランス人で、親切そうな眼と、快い笑顔をした小男の老人だったが、商売はまず商人兼船乗りとでもいったところだったろうか、カッターを一艘《いっそう》持っていて、トゥアモトゥ、マルケサスなどの群島間を大胆に乗りまわしては、雑貨類を売って、コプラ、貝殻《かいがら》、真珠などを手に入れてくるのだった。僕が彼を訪ねたのは、とても大きな黒真珠を彼が持っていて、安く売ってくれそうだという話からだったが、行って見ると、とても僕の金などで手に入る代物《しろもの》ではなかったので、ついでに、ストリックランドのことも訊《き》いてみた。ところが、実によく知っている、というのである。
「ねえ、旦《だん》那《な》、画家でござんしょう? だからですよ、私があの男に興味を持ったのは」と、彼は言い出した。「こんな島には、画家なんてそういやしませんしね。だが、ただどうもまずいのには、私もお気の毒だった。そうだ、はじめてあの人に仕事をこさえて上げたのが、この私でしてね。私はね、半島のほうに農園を持ってるんですがね、そこに一人、まあ白人の監督といったようなものが欲しかった。いや、なんといっても白人の監督なしじゃあ、原住民に仕事なんぞできるもんじゃござんせん。そこで、私はあの男に言ってやった、絵を描く時間はいくらでもあるんだし、それに多少はお金も入るんだから、ってね。奴《やっこ》さんが食うや食わずだってことは、ちゃんと知ってましたしね、お礼のほうはうんと奮発してやったつもりなんですよ」
「よくあれで監督が務まりましたね」と、僕は笑いながら言った。
「そりゃまあ大目に見てたわけなんで。それに、これでも私は、芸術家って連中に大いに理解があるつもりなんでしてね。ねえ、旦那、やっぱり私たちの血ってもんですよ。ところが、あの先生、たった二、三カ月しかつづかないんだな。やっと絵具やキャンヴァスを買う金ができたと思うと、そのままぷいと行っちゃった。つまりね、旦那、その辺の土地がすっかり奴さんの気に入っちまったんでしょうな、叢林《ブッシュ》の中に入っちまいたいって、そう言うんですよ。もっともその後も、ときには姿を見かけましたがね。つまりねえ、二、三カ月経つとパペーテへやって来て、しばらくぶらぶらしてるんだ。そしてどこからか金をこさえると、またぷいと行っちまう。そう、いつだったっけか、やっぱりそんなときでしたな、突然、私のところへやって来ましてね、二百フラン貸してほしいというんですよ。見ればね、まるで一週間くらい物も食べないって格好じゃありませんか。どうも断わるにも断われなかったねえ。むろん、旦那、返してもらうなんて、そんなことは夢にも思わなかった。ところがね、旦那、一年ほどすると、またひょっこりやって来た。しかもなんだか絵を一枚持って来ましたね。かんじんの借りた金のことは一言半句も言わないでですよ、いきなり、これはあんたのあの農園の絵だがね、あんたに上げようと思って、わざわざ描いたんだよって、まあそういった調子でさね。私もちょっと絵を見ましたが、こいつだけはどうも呆《あき》れて物が言えなかったねえ。でも、仕方がない、お礼は言いましたよ。で、先生が帰ると、私はその絵を女房《にょうぼう》に見せた」
「どんな絵でした?」と、僕は訊いた。
「それだけは勘弁しておくんなさいよ。どうにもこうにも、私にはさっぱり見当もつかないんですからね。とにかく、あんな絵ってものは見たことがないねえ。私は女房に言いましたよ。いったい、こいつはどうしたもんだろう、ってね。ところが、女房も、むろんこんなもの、掛けておけるもんじゃない、第一、人に笑われますよって、そう言うもんですからね。それから、なんでも女房が屋根裏部屋へ持って上って、がらくた類の中へ一緒に放《ほう》りこんじまったようでしたよ。いや、この、なんでもかんでも捨てられないってのが、女房の病気でしてね。ところが、旦那、それがまあどうです、そうだ、大戦のはじまるすぐ前だったっけね、パリの兄貴から手紙が来ましてね、タヒチにいたイギリス人の画家ってのを知ってるか? どうもそいつが天才らしいんで、その絵があれば、こいつはたいした金になる、だから、ひとつそちらで手に入れて、早速パリへ送ってもらえないだろうか、たしかに金になる、と、そう来たもんでしょう。私も女房に言ったね。あのストリックランドからもらった絵はどうなったろうかねえ? まだ屋根裏部屋にそのままになってるんだろうか、ってね。ところが、女房の言い草がいいや。当り前じゃありませんか、なんでもかんでも捨てられないのが、ほら、あたしの病気じゃありませんか、ってね。やられたねえ、こいつは。そこで屋根裏部屋へ上ってみましたよ。いや、あったね、なんだかしらんが、おっそろしく大変ながらくたが。なにしろこの家へ来て三十年、その間ずっと集めてきたってんですからね。だが、やっぱりちゃんとその中にあったねえ、旦那。私はもう一度見直してみましたよ。そして女房に訊いてみたんだ。おい、あの半島の農園を監督させた男のだぜ、ほら、二百フラン貸してやったあれよ。まさかあの男が天才だなんて、誰《だれ》が考えると思う? いったいお前にはこの絵がわかるか、ってね。ところが、女房も言ったねえ。わかるもんですか、第一、ちっとも農園には見えやしないし、それに紺色の葉っぱをした椰子《やし》なんて、見たこともありませんわ、でも、パリの人たちは気が狂っているんだから、ひょっとしたら、貸してやった二百フランくらいにはなるかもしれませんわねえ、ってね。それでまあ、とにかく荷造りをして送ってみましたよ。ところが、とうとう来ましたね、手紙が。ところで、旦那、なんとあったとお思いになります? 『絵はたしかに受け取った。有体に言ってしまうと、実は俺《おれ》も一杯担《かつ》がれてるんじゃないかと思っていたので、もしそうだったら、むろん送料なども送ってやるものかと思っていた。だから、実はこの話をしてくれた男にも、あの絵を見せるのは、半分びくびくものだった。ところが、なんとこれは傑作だという。そして三万フランなら出そうと言い出した。そのときの俺の驚きは、まあ想像してみてくれ。いや、実はもっとでも出したかもしれない。だが、まったく正直な話、俺は驚いてしまって、なにがなんだかわからなかった。ほとんど考える間もなく、うんと言ってしまっていたのだ』と、そう言うんですよ」
そしてコーエン氏は、最後に実におもしろい一言を付け加えた。
「ところで、ストリックランドのやつ、生きてりゃおもしろかったんですがね。ほら、お前の絵の代だぜと言ってね、二万九千八百フランだったねえ、そいつを渡してやったら、奴さん果してなんと言ったか、こいつはたしかに聞きもんだったと思うんですが」
49
僕《ぼく》は、花屋ホテル《オテル・ド・ラ・フルール》に泊っていたが、女将《おかみ》のミセス・ジョンソンというのが、これまた惜しいことをしたと口惜《くや》しがっていた。ストリックランドの死後、彼の持ち物の一部は、パペーテの市にせりに出た。そのがらくたの中に、彼女の欲しがっていたアメリカ製のストーヴが出ているというので、出かけて行って、二十七フランで買ってきた。
「絵だって十枚あまりはありましたがね」と、彼女は言った。「額縁一つあるじゃなし、買う者なんているもんですか。それでも二、三枚は、十フランくらいに売れましたかしら。でも、たいていはもう、旦《だん》那《な》、五フランか、せいぜい六フランでしたねえ。ねえ、旦那、私なんぞもあのとき買っときゃ、今頃《いまごろ》は一身代できてたんですがねえ」
ところが、ティアレ・ジョンソンは、とうてい金持などになれる女でなかった。第一、じっと金を持っていられる人間でない。土地の女と、タヒチに住み着いてしまったイギリス人船長との間にできた子供だということだったが、僕が知った頃は、すでに五十女だった。齢《とし》よりは老《ふ》けて見え、それに物凄《ものすご》く大柄《おおがら》の女だった。のっぽのうえに、おそろしく頑《がん》丈《じょう》な作りときている。もしあのいかにも人の好《よ》さそうな顔付で、怖い顔などしようにもできない表情がなかったならば、むしろ僕らは彼女から威圧をさえ感じたろう。腕は羊の腿《もも》肉《にく》そっくりだし、乳房はまるで大キャベツを並べたようだった。大柄な、そして豊満な顔は、なにか淫《みだ》らな赤裸々さをさえ思わせる。大きな顎《あご》は、幾重とも知れない肉襞《にくひだ》を作って、そのままなだれこむように、大きな胸肌《むねはだ》につづいていた。いつも淡紅《とき》色《いろ》のマザハバッドを着、頭には一日中大きな麦稈《むぎわら》帽子を被《かぶ》っていた。髪を解いて垂らしたときに見ると――つまり、彼女はそれが自慢で、時々そうしていることがあったが――長い、黒い、そして美しい巻毛だった。眼《め》は、若い日をそのままに実に生々と輝いていた。笑い声にいたっては、およそ僕の聞いた最も魅惑的なものだった。咽喉《のど》のかすかな轟《とどろ》きにはじまったかと思うと、刻一刻と大きくなり、やがて身体《からだ》全体をゆすぶり動かして鳴り響くのだ。彼女の愛したものは三つ――冗談と、酒と、美《び》貌《ぼう》の男とだった。彼女を知ったことは、たしかに一つの光栄であった。
彼女は、島一番のコックであり、またたいへんな美食の礼賛《らいさん》家《か》だった。朝から晩まで、料理場の低い椅子《いす》に腰掛けて、一人の中国人コックと二、三人の土地の娘に囲まれながら、しきりに指図を与えている。しかもその間も、誰彼《だれかれ》となく愛嬌《あいきょう》を振りまきながら、自分の工夫したご馳《ち》走《そう》の味見をしてまわる。特に友達を招《よ》ぶ場合などは、きっと手ずから調理をした。客をもてなすこと、それが彼女の病気だった。だから、ホテルに食べるもののあるかぎり、島の人間で食事のご馳走にならないで帰る者はまずなかった。たとえ勘定を払わないからといって、彼女の家から玄関払いを食う客はいない。人間払えるときには払うと、彼女はいつも信じているのである。あるときも一人、災厄《さいやく》にあって零落《おちぶ》れた男がいたが、彼女は、ほとんど四、五カ月も食事と寝泊り場所とをあたえてやっていた。ことに中国人の洗濯《せんたく》屋《や》が、金をもらわなければ洗濯はいやだと言い出したときなどは、なんと彼の洗い物まで、ちゃんと自分のものと一緒に出してやったくらいだった。かわいそうに、男が汚ないシャツなど着て歩いているのを、黙って見ていられますか、と言うのだ。まだその上に、男というものは、煙草《たばこ》くらいは吸わなくちゃならんからと言って、一日一フランずつの煙草銭までやっていた。しかも彼に対する彼女の態度というものは、一週一回ちゃんと勘定を払ってくれるお顧客《とくい》様《さま》に対するのと、ちっとも変らない快いものだったというのである。
なにしろ齢といい、それに今の肥《ふと》り方では、自分はもう色恋沙汰《ざた》でもなかったろうが、若い者の情事などには、実に熱心な興味を持っていた。彼女に言わせると、人間色恋は自然の道だというのである。そしてそのたびに、彼女自身の豊富な経験から、教訓を引き、実例を語り、まことにこんこんとして尽きないものがあった。
「そう、十五前だったわねえ、男があるってことを、お父つぁんに感づかれちゃったのは」と、彼女は言った。「『熱帯鳥《トロピック・バード》』って言った船の三等航海士だったのよ。いい男だったわ」
彼女は、ちょっと溜息《ためいき》をついた。女というものは、最初の恋人だけはなつかしく思い出すというが、彼女の場合は、果してどこまで憶《おぼ》えていたろうか?
「でも、お父つぁんは利口だったと思うわ」
「どうしました?」と、僕は訊《き》いた。
「私をね、それこそ半殺しになるくらい打《ぶ》ったのよ。そうしておいて、キャプテン・ジョンソンのところへ、ぽいとお嫁にやってしまったのよ。私、別になんともなかったわ。むろんずっと年上よ。だけど、これもやっぱりいい男だったわ」
ティアレ――それは彼女の父親が、この島の、ある白い芳《かんば》しい花、なんでも彼らに言わせると、一度この花の香りを嗅《か》いだものは、たとえどこの地の果てにさまよおうとも、いつかはきっと再びこのタヒチに惹かれて帰ってくるという、その花の名前に因《ちな》んでつけたものだが――ティアレは、ストリックランドのことをよく憶えていた。
「ときどきここへも来ましたし、よくあのパペーテを歩いてる姿など見かけたもんですわ。かわいそうでしたのよ、本当に。ひどく痩《や》せ衰《おとろ》えて、お金なんぞ一度だって持ってたことないんですもの。だから、私、あの人が町へ来てるって聞くと、よくボーイを呼びにやって、家でご飯を食べさせてやったりしてましたの。それに一、二度は、仕事などもこさえてやったんですがね、絶対長続きしっこないんですもの。しばらくすると、また叢林《ブッシュ》の中へ帰りたいって言い出すんですのよ。そして、そのうちに朝起きてみると、ちゃんといなくなってるんですわ」
ストリックランドは、マルセイユを出てから約半年後にタヒチへ着いたものらしい。オークランドから、サン・フランシスコ通いの船で、むろん船賃は船内の労働で稼《かせ》ぎながら、やって来た。着いたときは、絵具箱と、画架と、キャンヴァスが十枚あまりと、それにポケットには、シドニーで稼いだ二、三ポンドの金くらいは持っていたということだ。そして町はずれの原住民の家の小さな部屋を一つ借りた。タヒチの土を踏んだ瞬間に、彼は救われたような気持がしたと思う。いつかティアレに言ったことがあるそうである。――
「ちょうど僕がね、甲板洗いをやってるときだった。誰だか突然、ほうら、あれだと言ったやつがある。ふと顔を上げて見ると、この島影さ。僕は即座に思ったねえ、これだ、ここだ、僕が一生探《たず》ね歩いていた場所は、とね。そのうちに近づいてみると、なんだか僕にははじめての場所だという気がどうしてもしない。僕はね、今でもこの島を歩いていると、故郷のような親しさを感じてくることがある。そうだ、たしかに僕は前にもこの島にいたことがあると、そう言いたくなるのだ」
「ときどき、人をそんなふうな気持にさせる島らしいんですのね」と、ティアレは言った。「私、いくらもそんな人を知ってますわよ。よく船の積荷の間に、二、三時間くらいちょっと上って来て、そのまま帰らないでしまう人がいるんですの。そうかと思うと、お上の勤めで一年ばかり来た人なんですがね、こんないやなところはないって、さんざん悪口ついたうえにね、また帰るときには、こんなところへ死んでも二度と来るもんかなんて、大きな口を利《き》いておきながらですよ、それがね、旦那、ものの半年もすると、ちゃんとまた船から上って来て、そしておっしゃることがいいじゃありませんの、よそじゃ、とても暮せるもんじゃないって、そうなんですよ、旦那」
50
人間の中には、ちゃんとはじめから決められた故郷以外の場所に生れてくるものがあると、そんなふうに僕《ぼく》は考えている。なにかの拍子に、まるで別の環境の中へ送り出されることになったのだが、彼らはたえず、まだ知らぬ故郷に対してノスタルジアを感じている。生れた土地ではかえって旅人であり、幼い日から見慣れた青葉の小道も、かつては嬉々《きき》として戯《たわむ》れた雑踏の町並みも、彼らにとっては旅の宿りにすぎないのだ。肉親の間においてすら、一生冷たい他人の心をもって終始するかもしれないし、また彼らが実際知っている唯一《ゆいいつ》のものであるはずの風物に対してすら、ついに親しみを感ぜずじまいで終ってしまうという場合もある。よく人々がなにか忘れがたい永遠なものを求めて、遠い、はるかな旅に出ることがあるが、おそらくこの孤独の不安がさせる業なのであろう。それとも心の奥深く根差す隔世遺伝《アタヴィズム》とでもいうべきものが、旅人の足を駆り立てて、遠いはるかな歴史の薄明時代の中に、彼らの祖先たちの捨てて行った国々を、ふたたび憧《あこが》れ求めさせるのであろうか? ときには漠然《ばくぜん》と感じていた神秘の故郷をうまく探《たず》ね当てることがある。それこそは求めていた憧れの故郷なのだ。そしてむろんまだ見たこともない風物の中、また見も知らぬ人々の中に、まるで生れた日以来、そこに住みつづけていたかのような心安さをさえおぼえる。そして、そこにはじめて休息《いこい》を見《み》出《いだ》すのだ。
僕は、聖トマス病院付属医学校で知っていたある男の話を、ティアレにした。エイブラハムと呼ぶユダヤ人だった。金髪《ブロンド》の、どちらかといえばがっしりした、そのくせ、おとなしい、はにかみがちの青年だったが、その才能はすばらしかった。奨学資金《スカラシップ》をもらって入ってきていたのだが、五年間の課程の間、獲《と》れるかぎりの褒賞《ほうしょう》は、すべて一人で獲っていた。病院住み込みで、内科外科を兼任し、その秀才ぶりは、万人の認めるところだった。最後には正職員の一人に選ばれ、前途は実に洋々たるものがあった。もし人間の運命が予言できるものだったならば、まさに彼の将来こそ、同業者間の最高地位に上るものであろうことは、もはや確定的に見えた。名誉と富とが待っていた。ところが、彼はこの新しい地位に就く前に、少し休暇が欲しいと言い出した。だが、資産といってはない男だったから、ちょうどレヴァント行の不定期貨物船に船医として乗って行った。元来は医者など乗せている船ではなかったのだが、幸い病院の外科医の一人が、同航路の会社の重役を知っていたもので、特に頼んで乗せてもらったのだった。
二、三週間たつと、病院当局は、この誰《だれ》もが望んでいる正職員の地位に対して、彼からの辞表を受け取ったのだった。非常な驚きを与えるとともに、ずいぶん勝手な噂《うわさ》も乱れ飛んだ。人がなにか思いがけないことをしでかすと、とかく同僚というものは、いろいろと実にひどい理由を結びつけたがるものである。もっとも、エイブラハムの後釜《あとがま》には、すぐかわりの人間が入って、彼のことはいつのまにか忘れられてしまった。それっきり杳《よう》として、彼の消息は聞かれなかった。文字どおり消えたのだ。
それから十年ばかりも経《た》ってであろうか、ある朝僕が、アレキサンドリアに上陸しようとしていると、急に検疫《けんえき》があるから、乗客は全部整列せよという命令だった。医者というのは、汚れた服を着て、頑丈《がんじょう》そうな男だった。帽子を脱《と》ると、頭はすっかり禿《は》げ上っている。と、そのとき、ふと僕は、なにか前に会ったことがあるような気がした。そして卒然として思い出したのだ。
「エイブラハム君」と、僕は言った。
怪《け》訝《げん》そうな顔をして、彼は僕の顔を見たが、はっと気がつくと、いきなり僕の手をつかんだ。双方とも意外な邂逅《かいこう》に驚いたが、やがて僕が、今夜はアレキサンドリアで泊るつもりだと言うと、それではイギリス人クラブで晩《ディ》餐《ナー》を一緒にしたいと言い出した。改めて晩また会ったときに、僕は、それにしても、こんな場所で会おうとは意外だった、と言った。彼の地位はよほど低いらしく、生活にさえ困っているらしい様子だった。やがて彼はいっさいを語った。休暇をとって、地中海に出たときは、もちろんロンドンへ帰って、聖トマス病院の新しい地位につくつもりでいた。ところが、ある朝、船がアレキサンドリアでドックに入った。彼は甲板に立って、白々と陽《ひ》に光る町と、埠《ふ》頭《とう》に集まる群衆を眺《なが》めていた。薄汚ない長衣《ガバディーン》を着た原住民、スーダンから来た黒人、罵《ののし》り騒ぐギリシャ人やイタリア人の群れ、房のついた回教帽《タブーシュ》を被《かぶ》った沈痛な顔のトルコ人、そしてまたさんさんと降り注ぐ日光と青い空とを眺めていたのだった。そのとき、彼の心に一つの変化が起った。われながらなんと名状していいかわからなかった。青天の霹靂《へきれき》とでもいうのだろうか? いや、そうでもない。むしろ啓示であった、と彼は言った。なにかに胸を振り絞られるような思いだった。そして突然、一種不可思議な解放感、恍惚《こうこつ》たる忘我の歓喜が彼を襲った。なにか言いようのないくつろぎを覚えた。そしてそのとき、その場で、ここアレキサンドリアこそ、自分のこれからの人生を送るべき場所だと決心した。船を下りるのにたいした困難はなかった。二十四時間後には、もう持ち物いっさいを持って、上陸していた。
「いずれ船長は、とんだ気違い野郎もあったもんだ、くらいに思ったろうね?」僕は笑いながら訊《き》いてみた。
「人がどう考えようと、そんなことがなんだ。僕がそうしたというよりは、僕の中の、なにかもっともっと強いものの仕業なんだ。あたりを見まわしているうちに、どこか小さなギリシャ人のホテルへでも行ってみようと思った。ところが、それが妙なのだが、僕にはそのホテルがどこにあるか、ちゃんとわかるような気がしたのだ。ねえ、いいかい、君、それで僕は、どんどん歩いて行った。そしてホテルが見えてくると、あああれだなと、すぐにわかった」
「それまでに、アレキサンドリアへ来たことはあったのかね?」
「いや、どうして。イギリス以外に踏み出したのははじめてなんだ」
まもなく彼は、政府の役人の口を得た。そしてそのまま今日に及んでいたのである。
「後悔しないかね?」
「後悔どころか。一分間だってそんな気はしない。食えるだけのものはくれるのだ。僕は満足している。死ぬまでこのままでいられれば、もうなにも言うことはない。すばらしい生活をしてきたんだ」
翌日、僕はアレキサンドリアを発《た》った。そしてエイブラハムのことも、そのまま忘れてしまっていた。ところが、ついせんだってのことだが、これも昔の医者の友人で、アレック・カーマイクルという男が、ちょっと休暇をとってイギリスへ帰って来て、食事を一緒にした。というのは、ぱったり往来で会ったので、僕はまず、彼が大戦中の功労で勲爵士《ナイト》をもらったことに対して、祝いの言葉を述べてやった。お互い昔馴染《むかしなじみ》のことではあり、一晩話そうかということになったが、それでは晩餐でも一緒にしながらということになると、彼のほうは、いっそ水入らずで話したいから、ほかには誰も呼ばないことにしようと言い出した。彼の家はアン女王街《クイーン・アン・ストリート》にあり、古い美しい建物だったが、なにしろ彼が趣味人だったもので、家具、調度類などは実に見事なものばかりだった。食堂の壁には素敵なベルロットーがかかっていたし、ツォファニーのものなども、実にすばらしい、僕も欲しくなったようなのが二枚ほどあった。ところで、彼の細君――金糸織の衣裳《いしょう》をつけた、背の高い美人だった――が席を立って行ったので、僕は笑いながら言ってやった。それにしても以前、同じ医学生だった頃《ころ》に比べると、お互いずいぶん変ったものだねえ、と。実際その頃は二人とも、ウェストミンスター橋通りにあった薄汚ないイタリア料理屋で食事するだけでも、大変な奢《おご》りのように思っていた。それが今は、アレック・カーマイクルなど、ほとんど五つ六つの病院で主任を務めている有様だ。収入の点でも年一万ポンドはあったろうし、勲爵《ナイ》士《ト》になったなどというのも、いずれ今後、次々と与えられるにちがいない栄誉の数々を考えると、ほんの序の口にしかすぎなかったろう。
「これで僕も、相当にはやって来たが」と、彼は言った。「おもしろいもんでね、結局あるたった一つの幸運、それですべてが決っちまったというわけだからね」
「それはどういう意味?」
「うむ、君は、あのエイブラハムといった男を憶《おぼ》えてるかい? あれは有望な男だった。僕らが医学生だった時分、僕は何をやってもあの男に勝てなかった。僕と競争になるいろんな賞や奨学資金《スカラシップ》など、全部奴《やっこ》さんがさらって行ってしまった。僕は、終始あいつに頭が上らなかった。もしあの男がいればだね、彼こそまさに僕の今いる地位にいたろうと思うのだ。外科の腕にかけちゃ天才だった。あの男を出し抜こうなんて人間はいなかった。だから、奴さんが聖トマス病院の幹事《レジストラー》に挙げられたときに、僕にはもう正職員になる望みは断たれていたわけだった。そうなればもう、何でも屋の医者《ジー・ピー》にでもなるよりほか仕方がない。ところが、君、何でも屋《ジー・ピー》の将来なんて、どうせ知れたもんさ、ね。うだつ《・・・》の上りっこなどありゃしない。ところが、どうだ、そのエイブラハムのやつがひょろんといなくなって、その後を僕がもらった。つまり、こいつが機会だったんだねえ」
「そうかもしれないね」
「運だ、実際、運だよ。エイブラハムという男も、ちょっとどうかしてたんだねえ。かわいそうに、すっかり零落《おちぶ》れちまいやがった。検疫医だったか、何だったか――とにかくアレキサンドリアで、医者は医者だが、ひどい仕事をしてるってことだ。それに誰かの話じゃ、なんでも醜い年かさのギリシャ人の女と一緒になって、結核性リンパ腺炎《せんえん》の子供さえ何人かできてるっていうじゃないか。つまりだねえ、君、人間やっぱり頭だけじゃだめだってことなんだよ。問題は意志の力だねえ。エイブラハムにはそいつがなかった」
意志の力? だが、そういえば、いかにそのほうが充実した、生き甲斐《がい》のある生活だと考えたにしても、三十分やそこいらの考慮一つで、決然と一生を棒に振ってしまうというには、果して意志の力は要らないものだろうか? さらにはまた、このいったんの決心を、あくまで悔いないというにいたっては、もう一つ強い意志力が要るのではなかろうか? だが、もちろん僕はなにも言わなかった。そしてアレックは、なおも感慨深げに言葉をつづけて言った。
「もちろん、僕がだよ、あの男も惜しいことをしたもんだなどと言えば、それは偽善だよ。とにかく僕は、おかげで得をしてるんだからね」そう言って彼は、長いコロナの紫煙を気持よさそうに吐き出した。「だが、もしこれがだね、僕自身に関係したことでさえなけりゃ、やっぱり馬鹿《ばか》なことをしたもんだと言いたいねえ。自分の一生を、こんなふうに台なしにしてしまうなんて、意味ないよ、君」
だが、果してエイブラハムは一生を台なしにしてしまったろうか? 本当に自分のしたいことをするということ、自分自身に満足し、自分でもいちばん幸福だと思う生活をおくること、それが果して一生を台なしにすることだろうか? それとも一万ポンドの年収と美人の細君とを持ち、一流の外科医になること、それが成功なのだろうか? 思うにそれは、彼が果して人生の意味をなんと考えるか、あるいはまた社会といい、個人というものの要求をどう考えるか、それらによって決るのではあるまいか? だが、もちろん今度も僕は黙っていた。なにしろ相手は勲爵士《ナイト》だ、僕など議論に出る幕でないと思ったからである。
51
僕《ぼく》のこの話を聞いて、ティアレは、それは利口だったと褒《ほ》めてくれた。そして、ちょうど僕らは、豌豆《えんどう》の莢《さや》むきをしていたのだが、しばらくは黙って手を動かしていた。と突然、料理場のことだけには眼《め》を放したことのない彼女に、なにか中国人コックのやったことが眼についたからにちがいない、やにわに血相を変えたかと思うと、まるで堰《せき》でも切って落したように罵《ば》声《せい》を浴びせだした。コックのほうも負けていなかったので、口論は俄《が》然《ぜん》猛烈なものになってきた。二人とも土地の言葉で怒鳴るので、僕にはほとんどわからなかったが、とにかく今にも世界の終りが来るかと思えるような物凄《ものすご》い剣幕だった。ところが、しばらくすると、いつの間にか仲直りができて、ティアレなどは、コックに煙草《たばこ》までくれてやっていた。二人でいい気持そうに吹かしているのである。
そのとき、だしぬけにティアレが、あの大きな顔をいっぱいの笑顔にして言った。「ああ、そう、旦《だん》那《な》はご存じ? あの人に奥様を世話してやったのは私なんですのよ」
「あの人って? コックですか?」
「いいえ、ストリックランドですよ」
「でも、それなら、前からちゃんとあるじゃありませんか?」
「そりゃ、そんなふうなことは言ってましたけど。でも、私は言ってやったのよ、奥様はイギリスじゃありませんか? イギリスなんて、世界の果てみたいなもんじゃないの、ってね」
「なるほどねえ」と、僕は答えた。
「あの人、二、三カ月に一度は、きっとパペーテへ出て来てましたわ。絵具だの、煙草だの、それからお金などのなくなったときなんでしょうよ。そして来ると、まるで迷い犬みたいにうろうろしてるんですの。なんだか私も気の毒になりましてねえ。ちょうどその頃《ころ》、部屋の掃除などさせてました娘で、アタって子がいましてね。まあ、私の遠縁みたいなものにあたるんですけど、両親ともに死んじまったもんで、私の家へ引き取ってやってましたのよ。ストリックランドは、ときどきここへ来ましたけど、たいていそれはたらふくお腹《なか》をこしらえるとか、ボーイを相手にチェスをするためなんですのよね。ところが、あの人が来ると、アタがじっとあの人ばかり見てますのよ。私、気がついたもんだから、一度訊《き》いてやりましたの、お前あの人が好きなのかい、って。すると、とても好きだって言うんでしょう。ねえ、旦那、ご存じでしょう、この辺の女の子ってのを? 白人と一緒になることが、とても嬉《うれ》しいんですのよ」
「土地の娘だったんですね?」と、僕は訊いた。
「ええ、白人の血は一滴も混じってないんですの。ところで、ねえ、旦那、私は本人にそう訊いておいて、それからすぐにストリックランドに来てもらいましたのよ。そして言ってやりましたわ。あんたも、そろそろ身を固める時分じゃない? もうあんたみたいな齢《とし》をして、あの海岸通りの女なんか相手にするもんじゃないわ。第一それに、あの女たちってのはいけない女よ、きっとあんたにだって、いいことはありゃしないわ。あんたって人は、お金が一文あるわけじゃなし、それに仕事だって、二月とはつづきゃしないじゃないの。あんたみたいな男を雇う人なんて、一人だってありゃしないわよ。そりゃあんたは言うだろうさ、一人か二人、原住民さえいてくれれば、結構あの叢林《ブッシュ》の中で暮していけるってね。むろん原住民たちは喜んでるのさ、とにかくあんたは白人なんだもんね。だけど、白人のほうにしてみりゃ、あんまり感心した話じゃないわよ。そこで話があるんだがねって、まあそういった工《ぐ》合《あい》に切り出してみましたのよ、旦那」
ティアレの話は、フランス語と英語とのちゃんぽんだった。つまり、どちらも同じくらい楽に話せるのだ。なにか一種歌うような調子だったが、それが妙に耳に快かった。もしも鳥に英語がしゃべれたら、きっとあんな調子なんじゃなかろうかと、そんな気がした。
「ところで、あんたはアタと一緒になることをどう思う? いい娘《こ》だわよ、たった十七でね。この辺の娘によく見るように、たくさん男がいるわけじゃなし――せいぜいが船長さんか、一等航海士さんってとこよね。だけど、そのほかには、原住民なんかとあれしたことなんて絶対にない。自尊心があるのよ《エル・ス・レスペクト・ヴォア・テユ》。この間も『オアフ』号の事務長さんが言ってたっけ、この辺の島でも、あんないい娘は見かけたことがないってさ。あの娘にしたって、そろそろ身を固める年頃だし、それに、船長さんだとか、一等航海士さんなんて人は、ときどき相手が変るほうがいいらしいのよ。だから、私なんかも、あんまり長いこと女の子を置いとくなんて決してしないのよ。それにあの娘は、タラヴァオにちょっとした財産も持ってるし――むろん、あんたが半島へ来るちょっと前よ――それに、コプラを今の値段で金にすりゃ、あんたたち二人の暮しくらい、なに不自由なくやれると思うのよ。それに家はあるんだし、あんたはいくらでも、朝から晩まで絵を描いていられるじゃないの? ねえ、どう思う、あんた? って」
ティアレは、ちょっと息をついた。
「そうねえ、そのときだったわ、あの人が国の奥様のことを言い出したのは。で、私言ってやったわ。そんなことをいや、誰《だれ》だってどこかに奥様くらい持ってるわよ。だからこそ、みんなこんな島まで流れてくるんじゃないの? 利口な女よ、アタってのは。それにあの娘、市長さんの前で式を挙げることなんぞ考えてやしないわ。新教徒《プロテスタント》でしょう、だから、なにも旧教徒《カトリック》のように、そんなことぐずぐず言う女じゃないわよ、ってね。
すると、あの人が言うのよ。でも、アタはどう言うんです、ってね。だから、私は、あの娘あんたに気があるのよって、そう言ってやったのよ。あんたさえよければ、あの娘は喜んで来るわ、ここへ呼んであげましょうか、ってね。すると例によって、あのおもしろい、無愛想な笑い方を一つくすりとするじゃありませんの。だから、私、呼んでやりましたわ。ところがね、あの娘ったら、ちゃんと私たちの話を察してたのねえ。ちらっと横目で見てると、どうでしょう、旦那、私が頼んだ洗濯《せんたく》物《もの》のブラウスにね、アイロンをかけるようなふりしながら、一生懸命こちらの話に聞き耳を立ててるじゃありませんの。もちろんすぐ来ましたわ。口ではけらけら笑ってましたけど、ちょっと恥ずかしいらしいことは、すぐわかりましたわ。ストリックランドは、無言でじっと娘を見てました」
「美人だったんですか?」と、僕は訊いた。
「まあまあってところねえ。でも、旦那はきっとアタの肖像をごらんになったはずですわよ。あの娘をモデルに、それこそ何枚描いてるかしれませんもの、パレオを纏《まと》ったのや、それから何一つ身に着けない裸体《はだか》のやら。そう、やっぱり綺《き》麗《れい》な女でしたわ。それに料理もできたし。ええ、私が教えてやりましたの。それでストリックランドのほうは、なにか考えてるらしい様子でしたから、私はまた言ってやりましたわ。あの娘には、私から十分お給金はやってあるはずだし、それをずっと貯《た》めてるらしいうえに、馴《な》染《じみ》の船長さんや一等航海士さんからも、ときどき多少はいただいてたようだから、かれこれ何百フランがものは持ってるだろうと思う、ってね。
すると、あの人、例の大きな赤鬚《あかひげ》をしごいて、笑いながら言いましたわ。
『ああ、アタ、僕のようなものが亭主《ていしゅ》でも、お前、それでいいのか?』
アタは黙って、ただくすくす笑ってました。
だから、私はまた言ってやりましたのよ。わからないのかね、ストリックランド、この娘はあんたに気があるんだって言ってるじゃないの、ってね。
と、あの人、じっとアタを見ながら言うじゃありませんの?
『いいかい、僕はお前を打《ぶ》つぜ』
すると、旦那、どうでしょう、あの娘ったら、打たれでもしなきゃ愛されてるってこと、わからないじゃないのって、そう言うんですのよ」
ティアレは、ちょっと言葉を切って、今度はしみじみと言い出した。
「そうでしたねえ、そういえば、私の最初の亭主――ええ、それがキャプテン・ジョンソンなんですけど、あの人がやっぱりよく打ちましたもんね。りっぱな男だったわ。六フィート三インチもあって、いい男でしたのよ。そのくせ酒でも飲んだ日には、どうにも手のつけようがない。私なんか、よく何日も身体《からだ》中紫色になってしまうことがありましたわ。死んだときなんぞ、嬉《うれ》し泣きに泣いたくらいだったわ。だって、一生逃れっこないと思ってたんですもの。ところが、それがね、今度ジョージ・レイニーと一緒になってみて、私ははじめてしみじみわかりましたわ、失《な》くしたものが、どんなに大変なものだったかってことを。やっぱり男には添うて見よ、ってもんね。あのジョージ・レイニーくらい、ひどい食わせものもなかったと思うわ。そりゃあの人だって、すらっとしたいい男よ。背だって、キャプテン・ジョンソンとほとんど変らないし、とても頑丈《がんじょう》そうな身体をしてるんでしょう。ところがね、それが上っ面《つら》ばっかりなのよ。酒も飲まなきゃ、腕一つ振り上げたこともないじゃないの。いっそ宣教師にでもなったほうがいいような男だったわ。私はもう、この島へ来る船という船、どの船の船乗りたちとも浮《うわ》気《き》してやったわ。ところが、ジョージったら、全然感じないんだもんね。私はもう顔を見るのもいやになって、別れちまった。私は思うわ、あんな亭主、いったいなんになるんだろうって。考えてもぞっとするわねえ、女に対するああした男のやり口ってのは」
まあ、そう言ったものでもない、お気の毒なことだったが、どうせ男なんてものは、食わせものに決っているのだから、と僕も多少しみじみした気持で言ってやった。そして、それはとにかくストリックランドの話をつづけてくれ、と頼んだ。
「私は言ってやったのよ。そうねえ、なにも急ぐことはないんだから、ゆっくり考えてごらんなさいよ。ちょうどこの娘は、この家の離れにいい部屋を持ってるんだから、試しに一カ月ばかりも一緒に暮してみたらどう? 好きになれるかどうか、みてみるといいわ。食事はここでできるし、それで一カ月たってだね、もしそのまま一緒になりたけりゃ、行ってあの娘の持ち家に落着いたらいいじゃないの? って。
すると、あの人もよかろうってことでね。アタにはそのままここの仕事もやってもらうし、あの人には、言ったとおり食べ物だけこさえてやりゃいいんだしさ。あの人の好きな料理ってのは、私にはわかってたから、そんなのを一つ二つあの娘に教えてやったのよ。絵はあまり描いてなかったようだわ。ただ山の中を歩きまわったり、流れで水浴びをしたり、そうかと思うと、あの海岸通りへ下りてって、じっと礁湖《ラグーン》に見入っているのよ。そう、陽《ひ》の落ちる頃になると、よく下りて行って、あのムリアの島をじっと眺《なが》めてましたっけ。それからよく珊瑚礁《さんごしょう》へ魚釣《さかなつ》りにも行ったわ。だいたいあの人、原住民たちと話しながら、港のあたりをぶらぶらするのが大好きだったらしいのね。物静かな、いい男だったわ。そして毎晩、食事をすませると、アタと一緒に離れへ行っちまうのよ。でも、やっぱり早くあの叢林《ブッシュ》へ帰りたがってることは、よくわかってたわ。だから、一月たつと、あんた、いったいどうするつもりなの、と訊いてやったのよ。すると、アタさえよければ、僕は喜んで一緒に行くって、そう言うんでしょう。そこで私、さっそく婚礼のご馳《ち》走《そう》をこさえてやったのよ。もちろん私の手づくりでね。青豆のスープと、伊勢海老の料理《ロブスター・ア・ラ・ポルテュゲーズ》と、カレーと、椰子《やし》のサラダと――そうねえ、旦那はまだ私の椰子のサラダはご存じないわねえ。お帰りまでには、ぜひ一度ご馳走しますわ――ああ、それにまだアイスクリームもつけてやってね。それからシャンパンも、リキュールもふんだんに出してやって、とにかくできるだけりっぱにしてやろうと思ったのよ。晩餐《ディナー》がすむと、みんなでダンスもあの客間でしたわ。私だって、その頃はまだこんなおでぶさんじゃなかったし、それにダンスは、子供のときから大好きだったんですものねえ」
花屋ホテル《オテル・ド・ラ・フルール》の客間というのは、客間といっても小さな部屋だった。小型ピアノや押し模様をしたビロード張りのマホガニー調度のセットなどが、小ぢんまりと部屋の周りに置かれている。円卓の上には写真帳が置いてあり、壁にはティアレと先夫キャプテン・ジョンソンとの引伸し写真が掛っていた。ティアレも今では齢をとり、肥えてしまったが、それでもときどきは床のブラッセル絨毯《じゅうたん》をのけてしまい、女中たちや、一人二人ティアレの友達などを招《よ》んで、かんじんの音楽こそ、まるで喘息《ぜんそく》病《や》みのような蓄音器だったが、とにかく一緒に踊ったものだった。ヴェランダには、強烈なティアレの花の香りが漂っており、仰げば雲一つない空に、南十字星がかがやいていた。
遠く消えてしまった華やかな日のことを思い出すと、ティアレは、とろけるように微笑した。
「そうねえ、三時まで踊ってたわ。みんな寝たときは、酔っぱらってないものなんて、いなかったんじゃないかしら。私は二人に言ってやったの、行けるとこまで私の馬車で行ったらいいだろう、ってね。だって、それからまだ、ずいぶん歩かなくちゃならないんですもんね。なにしろアタの所有地《もちじ》ってのが、ずっと山の陰になってるんですのよ。二人とも明け方近くになって発《た》って行ったわ。そう、一緒につけてやったボーイが、翌《あく》る日になって、やっと帰って来たくらいですもの。
そう、まあそんなふうで、ストリックランドにもお嫁さんができたってわけね」
52
それからの三年間は、おそらくストリックランドの一生で、もっとも幸福な三年間だったのではあるまいか。アタの家は、島を一周《ひとめぐ》りしている街道から、八キロばかりも入っていた。鬱蒼《うっそう》たる熱帯植物に蔽《おお》われた、曲りくねった小道を行くと、そこへ出る。素木《しらき》のままのバンガロー作りだが、部屋は小さいのが二つと、ほかに小さな差掛小屋が一つ、これが台所がわりになっていた。家具といっては、ベッドにしている蓆《むしろ》と、ヴェランダの揺《ゆり》椅子《いす》と、それっきりだった。まるで悲運をかこつ女王の弊衣にも似たような、大きな破《や》れ葉の芭蕉《ばしょう》が、家のすぐそばまで繁《しげ》っていた。すぐ背後には、アリゲーター梨《なし》の木が一本立っており、家のまわりは、この土地の収入《みいり》でもある椰子《やし》の木の林であった。アタの父親は、土地のまわりに巴豆《はず》の木を植えていたが、土地を囲む火《か》焔《えん》の垣《かき》とでもいおうか、目もさめるような色鮮やかな花を、枝もたわわにつけていた。家の前にはマンゴーが一本繁っているし、開拓地のはずれには、双生樹になった火《フラン》焔木《ボアイヤン》が二本、まるで椰子の木の黄金色に挑《いど》みかかるように、真紅の花をつけていた。
ストリックランドは、たいてい食べ物は土地でとれるものですませ、パペーテへはほとんど出て来なくなった。家から少しばかり行くと、小さな流れがあり、彼はよくそこで水浴びをした。それに時には、おびただしい魚群がこの流れを下ってくることがある。そんなときには、原住民たちはめいめい手《て》槍《やり》を持って集まって来、大騒ぎをしながら、海へと急ぐ魚の群れを突き刺すのだ。時には珊瑚礁《さんごしょう》へ行って、伊勢海老《ロブスター》や、美しい小魚を、籠《かご》いっぱいに獲《と》ってくることもある。すると、それをアタが椰子油であげてくれる。また時には、彼女は足もとを狼狽《あわ》てて走る大きな陸蟹《ランドクラブ》を捕まえて、実にうまい料理を作ってくれる。山には野生のオレンジが繁っていた。ときどきアタは、村の女たち二、三人と一緒に行って、あの青くて、甘い、香りのよい果実を籠いっぱいにして帰ってくる。それから次は、椰子の実の熟れるころだ。彼女の従兄弟《いとこ》たち(原住民の常で、彼女もまた大変な数の身内がいた)が、たちまち木に競い登っては、大きな、熟れたのを落してくれる。彼らはそれを割って、そのまま陽《ひ》に乾かすのだ。そしてコプラを切り取ると、袋に詰めて、女たちが担《かつ》いで、礁湖《ラグーン》沿いの村に住む商人のところへ持って行く。すると、そこで米や、石鹸《せっけん》や、肉の缶詰《かんづめ》や、わずかばかりの金に替えてくれるのだ。そうかと思うと、なにか近辺に大振舞があって、豚を一匹殺すこともある。そんなときには、彼らは必ず集まって来て、たらふく食っては、踊ったり歌ったりするのだった。
だが、家は、村からよほど隔たっていた。それに、タヒチ島人は怠け者である。旅行好きで、雑談《ゴシップ》好きではあるが、足を使って歩くのは嫌《きら》いだった。したがってストリックランドとアタとは、ほとんど何週間というもの、まったく二人きりで暮すことがある。彼は絵を描いたり、本を読んだりしている。そして夜になって、真暗になると、二人は一緒にヴェランダに坐《すわ》り、煙草《たばこ》を吹かしたり、夜をじっと見つめているのだった。やがてアタは男の子を生んだ。お産の間手伝いに来てくれた婆《ばあ》やが、そのままいてくれることになった。と、やがて婆やの孫娘というのが来て一緒に住むようになり、さらにまたまもなく若者が一人――ただし、彼がどこから来たか、誰《だれ》の何だかというようなことは、いっさい誰もよく知らない――来た。ストリックランドは、これらの人たちと一緒に、まったくのんきに、いわばいっさいを運命任せに暮していたのだった。
53
「ねえ、ちょっと《トウネ・ヴォアラ》、キャプテン・ブルノよ」ある日僕《ぼく》は、ストリックランドについて、いろいろとティアレから聞いた話を考え合せていると、彼女が突然叫んだのである。「ストリックランドのことは、あの人がよく知ってますわよ。家まで訪ねて行ったことがあるんですもの」
なるほど、見ると、大きな胡麻《ごま》塩《しお》の鬚《ひげ》、陽《ひ》焼《や》けのした顔、そして大きなぎらぎら光る眼《め》をした中年のフランス人が立っている。小綺《こぎ》麗《れい》なズックの服を着ていた。この男なら、僕は昼食のときにすでに気がついていた。中国人ボーイのアー・リンの話では、今日トゥアモトゥ群島から着いた船で来たのだという。ティアレは僕を紹介した。彼のほうでも名刺をくれたが、見ると大きな名刺に、ルネ・ブルノ、そしてその下に『ロン・クール』号船長とあった。ちょうど僕らは料理場の外の小さなヴェランダに坐《すわ》り、ティアレは、家の娘っ子の一人に仕立ててやる服地の裁断をしていたが、彼女も一緒に来て坐った。
「ストリックランドですか? ええ、よく知ってますよ」と、彼は言った。「私はチェスが大好きでしてね。それにあの男がまた、大の勝負事好きときている。いったい私はね、このタヒチへ、そうですねえ、一年に三度か四度は商売の用で来るんですがね、まだやつがパペーテにいた時分は、いつでも来て、チェスをして行った。だが、しまいには《アンファン》結婚してしまってですねえ」ここで彼は、にやりと笑って両肩をぴくりとすくめた。「ティアレが世話したあの娘と一緒に行ってしまってからは、今度は私に来てくれと言うんですよ。いや、私もあの結婚披《ひ》露《ろう》に招《よ》ばれた一人なんですがね」彼はちらとティアレの顔を見た。そして二人とも声をあげて笑った。「どうもその後は、ほとんどパペーテへは来なかったらしいんですねえ。そうだ、それから一年ばかりも経《た》った頃《ころ》だったろうかな、なんの用件だったか、とにかく私はあっちのほうへ行く用事ができた。そこで用事がすむと、私は考えた。そうだ《ヴォワヨン》、ここまで来て、ストリックランドに会わないで帰るという手はないぞ、とね。私は一人二人原住民をつかまえて、ストリックランドという男を知ってるかと訊《き》いてみた。と、そこからほんの五キロばかり行ったところに住んでるというじゃないか。行ってみましたよ。だが、あのとき最初に見た印象というのは、まず一生忘れまいと思うな。いったい私の住んでる島は、あの環礁《アトル》というやつでしてね、円く礁湖《ラグーン》を囲んだ帯のような、低い島なんですよ。だから、その美しさといえば、海と空との美しさだ。色彩の万華鏡《まんげきょう》ともいうべき礁湖と、優艶《ゆうえん》な姿態を誇る椰子《やし》の木の美しさだ。ところが、ストリックランドの住んでたあの場所ときたら、エデンの楽園さながらの美しさなんだな。ああ、実際あの美しさは、君にも見せてあげたい。いっさいの外界からそっと切り離された一隅《いちぐう》、仰げばあの青い大空だし、あたりは咽《む》せ返るような木立の繁《しげ》りだ。いわば色彩の饗宴《きょうえん》というやつだな。冷たい風、かぐわしい香り、とても言葉などで形容できる楽園じゃない。そして彼はそこで、いっさいの世界を忘れ、世界からも忘れられて生きていたのだ。なるほどヨーロッパ人の眼から見ればね、おそらくびっくりするほど不潔な住居だったかもしれぬ。家は崩れかかっているし、決して清潔だとは言えなかった。私が行ったときも、原住民が三、四人、ヴェランダに寝そべっていたが、あのすぐ寄り合いたがる原住民たちの癖は、もうご存じだろうと思う。若者が一人、長々と寝そべって煙草《たばこ》を吹かしていた。見れば、身にはパレオを一枚着けているだけなのだ」
パレオというのは長い粗《あら》木《も》綿《めん》の布片《ぬのぎれ》であり、色は赤か、青、それに白い押し模様がしてある。原住民たちは、それを腰に纏《まと》い、膝《ひざ》まで長く垂らしているのである。
「それから、十五くらいかと思える娘が一人、パンダナスの葉を編んで帽子を作っていたし、また老《ろう》婆《ば》が一人、やはり土間に腰を下ろして煙草をくゆらしていた。それから私はアタを見た。生れたばかりの赤ん坊に乳房をふくませていたが、足もとにはもう一人、真裸の子供が遊んでいた。彼女は僕を見ると、大声でストリックランドを呼んだ。と、彼は戸口へ顔を出した。彼もやはりパレオ一つだった。赤い鬚、ぼうぼうと伸びるに任せた頭髪、そしてあの大きな毛むくじゃらの胸――とにかく奇怪きわまる光景だったねえ。いつも跣足《はだし》で歩いているらしい。足先などは、角のように硬化して、傷痕《きずあと》だらけだった。どうみても原住民に成りきっている。私の訪問がよほど嬉《うれ》しかったらしく、ご馳《ち》走《そう》に雛鶏《ひなどり》でも一羽しめるがいいなどと、アタに言いつけていた。それから私を招じ入れて、ちょうど描いていた絵を見せてくれたよ。部屋の片隅《かたすみ》にベッドと、真中にはキャンヴァスを載せた画架が一つ置いてあった。いったい私は、彼を気の毒に思って、それまでにも安い値段で絵を二枚ばかり買ったことがあるし、そのほかにもフランスにいる友人たちに送ってやったことがあってね。そんなわけで、買った動機は同情からなんだが、不思議なことに、掛けて見ているうちに、だんだんと好きになりだした。なんというか、一種不可思議な美を感じはじめたんだな。みんなは、私を狂人だと思った。だが、今になってみると、やっぱり私のほうが正しかったわけさ、ね。おそらくこの島々で、彼の最初の礼賛者《らいさんしゃ》は私だろうと思うんだ」
彼は、ティアレに意地悪そうな微笑を向けた。すると彼女は、いかにも口惜《くや》しそうに、またしてもあのストリックランドの遺品売立てのときの話、そして彼女がかんじんの絵はそっちのけで、アメリカ製のストーヴを一つ、二十七フランで買ったという話をやりだした。
「今もその絵はお持ちですか?」と、僕は訊いた。
「もちろん。娘が年頃になるまで、持ってるつもりですよ。そして、そのときになって売るんだな。結構持参金くらいにはなりますからね」
それからふたたび、彼はストリックランド訪問の話をつづけた。
「彼の家で泊った一晩は、一生忘れられない思い出でしょうな。もともと私は、一時間くらい、それ以上はいるつもりはなかった。ところが、彼がぜひ泊っていけと言うんですよ。だが、これには私も二の足を踏んだね。有体に言うが、この上に寝るんだと言って出された蓆《むしろ》を見ると、さすがにいい気持はしなかった。だが結局、肩をすくめながらも、うんと言っちまった。考えてみると、私だってトゥアモトゥの家を建てたときには、何週間も、屋根といっては繁った灌木《かんぼく》しかない屋外で、もっと堅いベッドに寝た経験があるからね。毒虫の危険ということもあるが、それには私の硬い皮膚は、どうやら免疫《めんえき》に近くなっていた。
アタが食事の支度をしてくれる間、私たちは流れへ水浴に行った。そして食事がすむと、一緒にヴェランダに出た。煙草を吹かしながら、いつまでも喋《しゃべ》ってましたよ。すると、先《さ》刻《っき》の若者が手風琴《コンセルテイナ》を弾き出したが、弾いてる曲ってのは、もう十何年か前に、ミュージック・ホールなどで流行《はや》った古いものばかりなんだな。ところが、それが、文明というものから何千マイルか隔たった、この熱帯の夜に聞いてると、妖《あや》しい美しさをさえ帯びてくるんだね。私はストリックランドに訊いてみた、こんな雑然たる中に住んでいて、たまらなくなるようなことはないかね、とね。が、やつは言下に、とんでもない、と答えたねえ。いつでも眼の前にモデルがいてくれること、それだけでも嬉しいね、と彼は言った。やがて大きな欠伸《あくび》をしたかと思うと、原住民たちはみんな寝に行ってしまい、いよいよ私はストリックランドと二人きりになった。あの夜の深い沈黙、とてもいま君に言ってもわかってはもらえまい。トゥアモトゥの私の島じゃね、ここのような完全な夜の静寂というものがないんだな。海岸では、ほとんど絶えまなく這《は》いまわる、なにか無数の生物のうごめきといったような、ひそやかな音がある。それからあのがさごそとあわただしく走り去る陸蟹《ランドクラブ》の足音だ。かと思えば、礁湖《ラグーン》じゃ、ときどき思い出したように魚がはねる。あるいはまた、あの鼠鮫《ねずみざめ》に追われる魚の群れが、あわてふためいて激しく水を切って逃げる水音だよ。だが、なによりも、まるで時の歩みのように絶えまなく響くのはね、あの珊瑚礁《さんごしょう》に砕けるあの波の音だね。それがここじゃ、物音一つしない。空気は白々とした夜の花の香りにむせぶように薫《かお》ってる。なんという美しい夜だろう。私たちの魂は、ほとんどもう肉体というこの檻《おり》の中にじっとしていられなくなる。なにか、そうだ、今にも虚《こ》空《くう》にあくがれ出てしまいそうな、まるで死さえも妙に懐かしい友達のように思えてくる」
ティアレが大きく溜息《ためいき》をついた。
「ああ、私ももう一度十五の春になってみたいわねえ」
そのとき彼女は、一匹の猫《ねこ》が、料理場のテーブルの上の皿《さら》に載った車海老《くるまえび》を狙《ねら》っているのに気がついた。すばやい手つきと、そしておそろしい罵《ば》声《せい》の連続が、たちまち彼女の口を衝《つ》いて出たかと思うと、逃げて行く猫の尻《しっ》尾《ぽ》に、本が一冊つぶてのように飛んだ。
「じゃ、君はアタと二人で幸福なんだね? と、私は訊いてみた。
すると、彼の答えがいいじゃないか。あの女は、僕をそっとしておいてくれるんだよ、食事をこさえてくれ、それから子供の世話もしてくれる、僕の言うとおりなんでもしてくれる、つまり、僕が女から求めているものだけは、ちゃんとあの女はやってくれるんだな、ってね。
ところで、私はもう一度訊いてみた。ヨーロッパのことを思い出すことはないか? たまには、あのパリやロンドンの街の灯《ひ》、友達や同僚の思い出、そういったものが懐かしくてたまらないというようなことはないかね? どうだ《ク・セ・ジュ》? それからあの劇場と新聞だ、舗道の小石を鳴らして通るあの馬車の轍《わだち》の轟《とどろ》きだ、とね。
しばらく彼は、黙りこんでいたが、やがて言ったねえ。僕は死ぬまでここにいるんだ、とね。
だが、私はもう一度訊き返してみた。でも、ときには退屈したり、淋《さび》しくなったりすることはないもんかね、とね。
ところが、彼は、くすりと一つ笑ったかと思うとね、ねえ、君《モン・ポーヴル・アミ》、君にはまだわかってないんだよ、芸術家の本当の気持ってもんが、と、こうなんだよ」
キャプテン・ブルノは、穏やかな微笑を浮べながら、僕の顔を見た。そして彼の黒い、やさしい瞳《ひとみ》には、驚異に充《み》ちた光が光っていた。
「もっとも彼のこの言葉は当らないと思うね。いくら私だって、夢を持つ気持くらいはわかっている。私にだって幻はある。私は私なりに、これでも芸術家のつもりなんだからねえ」
僕らは、しばらくみんな押し黙った。ティアレは、大きなポケットから紙巻を一掴《ひとつか》み取り出すと、僕らに一本ずつ配ってくれた。僕ら三人は、黙って煙を吹いていたが、とうとう彼女が口を切った。
「この旦那《ス・ムシュー》はね、ストリックランドに興味をもっておいでになるんだよ。あんた、ひとつクトラ先生のところへお伴《とも》してあげたらどう? あの人の病気や、それから臨終についても、先生ならいろいろ話があるだろうからね」
「お安いことだ《ヴォロンテイエ》」と、キャプテンは、僕のほうを見ながら言った。
僕は礼を述べた。と、彼は時計を見て、
「六時過ぎだな。あなたさえよければ、いま行けばきっといるだろうがね」
もちろん僕は、すぐに立ち上った。そして、まもなく僕らは、ドクトル・クトラの家のほうへ行く街道を歩いていた。彼はずっと町はずれに住んでいたが、幸い花屋ホテル《オテル・ド・ラ・フルール》がすでに町の端近くにあったので、まもなく僕らは郊外に出た。広い街道は、胡椒《こしょう》の並木に蔽《おお》われており、両側には、椰子やヴァニラの農園が、ずっと遠くまで展《ひら》けている。棕《しゅ》櫚《ろ》の葉がくれには、海賊鳥《パイレート・バード》の群れが甲高い鳴き声を立てていた。やがて浅い川に架けた石橋を渡ったが、僕らは二、三分間も立ち止って、水を浴びている土地の子供たちを眺《なが》めていた。甲高い叫び声や笑い声を上げて、追い駆けっこをしているのだった。鳶色《とびいろ》に濡《ぬ》れた彼らの身《か》体《らだ》が、艶々《つやつや》と陽に輝いていた。
54
歩きながら、僕《ぼく》は、この数日間ストリックランドについて聞いたいろんな話が、いやでも僕の心に与えたある一つの印象について、いろいろと思いめぐらしていた。この遠い島へ来てからは、彼は故国にいる間よく招いたような、ああした人々から蛇《蝎《かっ》視《し》されるようなことは、まったくなかったらしい。それどころか、深い同情をさえ受けていた。彼の気《き》紛《まぐ》れも、寛容な心で許されていた。原住民といわず、白人といわず、人々の眼《め》には、たしかに彼は変人だった。だが、その変人ぶりにも慣れてしまって、あれはもうああいう人だということになっていた。世間には、奇妙なことをする奇妙な人間がいっぱいいる。そして人間というものが、決して意志どおりになるものでなく、むしろどうにもならぬ必然によって動かされるものだということを、おそらく彼らは知っていたのだろう。イギリスやフランスでは、彼はいわば円い穴に差しこまれた四角な木《き》釘《くぎ》だった。ところが、ここでは、穴はどんな形にでもなるのであり、したがって、どんな木釘でも合わないということはない。この島へ来たからといって、彼が前よりもおとなしくなり、前よりも我儘《わがまま》でなく、獣的でなくなったとは、僕は思わない。だが、ただ環境がよかったのだ。もしこうした周囲の情況の中で生活するのであれば、彼も決してそう特に悪人として毛《け》嫌《ぎら》いされることもあるまい。彼はこの島へ来てはじめて、同胞の間では期待もしなければ、また望みもしなかったあるもの――すなわち、同情というものを得たのである。
僕は、こうした事情から感じた僕の驚きを、多少でもキャプテン・ブルノに伝えようとした。しばらくは、彼も黙って答えなかった。だが、ついに言ったことは、
「いや、不思議でもなんでもないよ、少なくとも私が、彼に対して同情を感じたということはね。つまり、こうなんだ、そりゃ私たち自身も知らなかったろうよ、だが、私とあの男とは、結局同じものを求めていたんだねえ」
「いったいどういうことです、それは? あなたとストリックランドと、これはまたあまりにも懸け離れた二人が、同じように求めていたとおっしゃるものは?」僕は笑いながら、訊《き》いてみた。
「美なんだよ」
「これはまた大きな話で」と、僕は呟《つぶや》くように言った。
「ねえ、君、人間が恋愛に夢中になってね、ほかのことはいっさいわからなくなる、あの気持はわかるだろう。つまり、そうなった人間は、あのガリー船のベンチに繋《つな》がれた奴《ど》隷《れい》と同じで、もはや自由な人間とはいえない。あのストリックランドの足を繋いでいた情熱というのは、この恋愛にも劣らない狂暴なものだった」
「これはおもしろいことを伺いました」と僕は答えた。「実は僕もですね、ずっと前でしたが、まさしくこれは悪魔に憑《つ》かれた人間だと、そんなふうに考えたことがあるんですが」
「ところが、あのストリックランドを捉《とら》えていた情熱は、いわば美の創造という情熱だった。それは彼に一刻として平安を与えない。絶えまなくあちこち揺すぶりつづけていたのだ。いわば神のようなノスタルジアに付き纏《まと》われた、永遠の巡礼だったとでもいおうか。彼のうちなる美の鬼は、冷酷無比だった。世の中には、真理を求める激しさのあまり、目的を達することが、かえって彼らの拠《よ》って立つ世界を、その根底から覆《くつがえ》してしまうような結果になる、そういった人間がいるものだ。ストリックランドがそれだった。ただ彼の場合は、美が真理に代っていただけのことだ。私は彼に対して、ただ深い深い憐《あわれ》みを感じるだけだ」
「なるほど、これもまたおもしろい話ですねえ。実はある男なんですがね、ストリックランドのためにずいぶんひどい目に遭いながら、やっぱりあなたと同じことを言いましたよ、自分はあの男がかわいそうで仕方がないんだ、と」僕はここでちょっと言葉を切った。「いったいあの男は、今まで僕には全然わからない男だったんですが、なるほど、今のあなたの言葉は、案外あの人間の説明になるかもしれませんね。だが、どうしてそんなふうにお考えになりました?」
彼は、軽く破顔して、僕を見た。
「だから先刻《さっき》も言ったじゃないか? これでも、私なりには芸術家のつもりなんだって。つまり、私の胸の中に、彼を動かしていたと同じ衝動が動いていることに気がついたんだ。ただそれを、彼は絵筆を通して、そして私は生活そのものを通して、表わそうとした、ただそれだけの差異《ちがい》なんだ」
ここで僕は、彼が話してくれた一つのエピソードを、ぜひ紹介しておく義務があるように思う。つまり、それは単に対照という意味だけでも、ストリックランドに関する僕の印象に、何物かを加えてくれるものであるが、さらにまた話それ自体としても、ある美しさをもっているように思えるからである。
キャプテン・ブルノは、ブルターニュの生れで、フランス海軍にいた男だった。それが結婚と同時に海軍を退《ひ》くと、カンペールにほど近い少しばかりの所有地に落着いて、そこで静かに余生を送るつもりだった。ところが、たまたま弁護士の失敗から、彼は一夜にして無一文に零落《おちぶ》れてしまった。そうなってみると、彼も彼の細君も、今までは周囲から立てられて暮してきた同じ土地で、いまさらみじめな暮しをつづけることは、なんとしてもいやだった。幸い彼は、まだ海軍にいた時分、この南洋のほうを通って知っていたものだから、いっそそちらで一旗揚げてみては、という決心になったのである。まず最初四、五カ月ばかりパペーテに滞在してみて、その間に将来の計画を立てたり、いろんな経験をやってみた。それからいよいよフランスの友人から借りた金で、トゥアモトゥ群島の一つの島を手に入れた。深い礁湖《ラグーン》を取り囲んだ、環《わ》のような形をした島だった。むろん無人島で、ただ小さな雑木や、野生のグァヴァなどが、島いっぱいに生い繁《しげ》っていた。細君――実に恐れを知らない勇ましい女だった――と、ほかには数人の原住民だけを連れて、彼は上陸した。さっそく家を建て、次には雑木林を伐《き》り開いて、椰子《やし》の木を植えた。やっと二十年前の話だ。そして今では、あの無人不毛だった島が、まるで庭園のようになっていた。
「最初は気苦労ばかり多い、大変な仕事でしたよ。私たち夫婦は、それこそ身を粉にして働いた。毎朝、夜明けとともに起き、木を伐っては、木を植える。それから今度は家だ。そのかわり、日が暮れると、私はもう倒れんばかりにベッドにもぐりこんで、そのまま朝まで死んだように眠った。家内も私に負けないくらい働いた。まもなく子供が生れた。上の子は男、次は女だった。子供たちの教育は、すべて私たち夫婦でやった。家には、フランスから持って来たピアノがあった。家内はこれで音楽を教えたり、また英語の会話を教えたりするし、私は私で、ラテン語と数学を教えてやった。歴史はみんなで一緒に読んだ。今では子供たちは帆走《セイリング》もできるし、泳ぎなどは土地の子供と少しも変らない。島のことなら、なに一つ知らないことはない。植えた木もどんどん生長するし、珊瑚礁《さんごしょう》には貝類がいる。今度もタヒチへ来たのは、小型帆船《スクーナー》を一《いっ》艘《そう》買い入れるためなんだが、貝類のほうだって、結構算盤《そろばん》に合うだけは漁《と》れる。それに万一真珠が出てこないともかぎらない。要するに、私は無から有を作り出した。私もまた美を作り出したのだ。ああ、君なんぞにはとてもわからないだろう、あのそそり立つ、健康そのもののような木立を眺《なが》めて、その一本一本が、自分の植えたものだと思うときの、その気持さ、ねえ、君」
「じゃ、お伺いしますがね、つまり、あなたがストリックランドにお尋ねになったのと、そっくり同じ質問なんですがね。あなたはフランスのことや、ブルターニュの故郷のことを、ちっとも心残りにはお考えになりませんか?」
「それはいつかね、たとえば娘も嫁《かたづ》くし、息子のほうにも嫁ができ、島のほうは十分後継ぎができたならばだね、私たちはやはり故郷へ帰って、自分の生れたあの古い家で一生を終りたいもんだとは思うさ」
「でも、やっぱり幸福だった日のことを、振り返ってごらんになるでしょうねえ?」と、僕は言った。
「そりゃむろんだ《エヴィドマン》。私の島にはなに一つ心を刺激してくれるものがない。外の世界からはまるっきり離れてしまっている――考えてもみたまえ、タヒチへ来るだけでも、四日かかるんだからね――だが、私たちは幸福だよ。物を計画して、それを成就《じょうじゅ》するということは、君、決して誰《だれ》にでも許されることではないんだからな。私たちの生活は、単純で、そして天真爛漫《てんしんらんまん》だ。野心に悩むこともない。私たちの誇りといえば、それはただ自分のした仕事を考えること、それだけだ。悪意も起らなければ、羨望《せんぼう》もない。ああ、君《モン・シェル・ムシュー》、世間ではよく労働の祝福ということを言うねえ。意味のない言葉だよ、だが、ただ私にとっては、それは最も切実な意味をもっている。私は幸福な人間だよ」
「当然の酬《むく》いというもんでしょうね」と、僕は微笑した。
「私も、できればそう思いたいんだ。だが、私にはわからん、どうして自分が、こんな完全な友人であり、助手であり、さらにまた完全な主婦であり、母親である今の家内に、ちゃんとふさわしいような人間であったか、私にはわからん」
僕は、キャプテンの言葉から、僕の想像の中に浮び上ってくる一つの生活について、しばらく黙って考えていた。
「でも、そうした生活をつづけ、そうした成功を得るについては、さぞお二人とも強い意志と毅《き》然《ぜん》たる性格とがなければなりますまいねえ?」
「そりゃそうだろう。だが、そのほかにもう一つ、それがなければ絶対に何もできないというものが一つある」
「それはまた、何ですかねえ?」
むしろ芝居じみて見えたほど、彼は一瞬言葉を切った。そしてぐっと腕を突き出したかと思うと、
「信仰だ、神への信仰だよ。これがなかったら、私たちの一生はだめだったろうと思うね」
ちょうどそのとき、僕らはドクトル・クトラの家の前に来ていた。
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ドクトル・クトラは、がっしりした骨組で、恐ろしく大きく肥満した老フランス人だった。胴体は、まるで巨大なアヒルの卵のような格好になっており、青くて、鋭い、それでいて好人物らしい眼《め》が、いかにも満足そうに、ときどき自分の巨大な布《ほ》袋《てい》腹《ばら》を、じっと眺《なが》めている。頭髪は真白だったが、皮膚の色は艶々《つやつや》しい桜色に輝いていた。とにかく、すぐにも親しみを感じさせるような人物だった。僕《ぼく》らはフランスの田舎町にでも見られそうな、したがって一つ二つ飾ってあるポリネシア原住民の民芸品のほうが、むしろ妙に不調和に見えるような、一室へと招じ入れられた。そして大きな両手に僕の手を握ると、心からの歓迎の意――といっても、その中に生馬《いきうま》の眼を抜くような俊敏さは、さすがに争えなかったが――を、はっきり顔に出して見せた。次にはキャプテン・ブルノとも握手を交わしたが、ついでに、奥様やお子様《マダム・エ・レザンファン》はいかがです、と丁重に訊《き》いていた。しばらくは儀礼的挨拶《あいさつ》の交換や、島の各地の噂話《うわさばなし》や、今年のコプラとヴァニラの収穫予想や、そんな話で忙しかったが、それらがすんで、やっと話題は僕らの訪問の目的にきた。
だが僕は、ドクトル・クトラの話を、そのまま彼の言葉で伝えることはよそう。というのは、彼のあの生々とした話術の印象は、とうていこんな二番煎《せん》じで伝えることはできないからである。彼は、その偉大な体《たい》躯《く》にいかにもふさわしい、底力のある、朗々たる声の持主だったばかりでなく、劇的効果に関しても実に鋭い感覚の持主だった。彼の話を聞いているのは、文字どおり芝居を観《み》ているようなおもしろさ、いや、たいていの芝居よりは、むしろはるかにおもしろかった。
ある日のこと、ドクトル・クトラは、病気の老女酋長《おんなしゅうちょう》の診察をしに、タラヴァオへ行ったらしいのである。黒い顔をした大勢の家来に取り囲まれ、大きなベッドに煙草《たばこ》を吹かしながら寝ている、この脂《し》肪肥《ぼうぶと》りの女酋長の格好を、彼の言葉は実に生々と描写してくれた。ところで、さて診療が終ると、彼は別室に通されて、晩飯のご馳《ち》走《そう》になった。といっても、それは生魚、揚げ《フライド》バナナ、雛鶏《ひなどり》といったようなご馳走で――どうだね《ク・セ・ジュ》、君、これが原住民《アンディジェンヌ》のまあ代表的なご馳走なんだねえ――ところが、ちょうど食べている最中に、彼は、小娘が一人、泣きながら戸口から追っ払われているのを見た。そのときは別に気にもとめなかったが、外へ出て、馬車に乗って帰ろうとすると、またしてもその小娘が、すぐ向うに立っているのを見た。彼女は悲しそうな眼をしてドクトルを見た。両頬《りょうほお》には涙が雨のように流れていた。ドクトルは、傍《かたわら》のものに、どうしたのかと訊いてみた。それによると、彼女は山を下りて来たもので、それは病気をしているある白人のために、往診を頼みに来ているのだ、という。だが、みんなで寄ってたかって、先生は忙しくて、そんなことはとてもだめだ、とはねつけたところだとのことだった。彼は娘を呼んで、直接用件を訊いてやった。彼女の言うには、もと花屋ホテル《オテル・ド・ラ・フルール》にいたアタの使いで来たのだが、赤鬚の先生《レッド・ワン》が悪いんです、という。言いながら、彼女は、彼の手の中に、なにかくしゃくしゃになった新聞紙包みをねじこんだが、開けてみると、中から百フラン紙幣が一枚出た。
「誰《だれ》だね、赤鬚の先生《レッド・ワン》というのは?」と、彼は傍の一人に訊いてみた。
答えによると、赤鬚《あかひげ》とは、そこから七キロばかりも行った峡谷の奥に、アタと一緒に住んでいるイギリス人の画家を、原住民たちが呼んでいる名前だとのことだった。その話で、ストリックランドだとはすぐわかった。だが、行くとすれば、歩いて行くよりほか仕方がない。それは彼としては不可能だ。だからこそ、彼らも小娘を追っ払ったのだった。
「正直なところ」と、ドクトルは僕の顔を見て言った。「私もちょっと躊躇《ちゅうちょ》しましたねえ。十四キロ、それもひどい道を歩かなければならないと思うと、どうも気がすすまない。それに行けば、その晩パペーテまで帰れる見込みはとうていない。それに私としては、ストリックランドという男は、どうもいやな人間だった。怠け者で、ろくでなしで、われわれほかのもののように、一生懸命生活のために働くというでもなく、あんな土地の女などと一緒に暮している。もちろん、あなた《モン・デユウ》、あの男がですよ、天才だなんて世間が騒ぐ、そんな人間になるなどとは、誰が考えます? 私は言ってやりましたよ、山を下りて、私の家まで来るくらいのことはできるんじゃないか? いったいどこが悪いんだ、ってね。ところが、娘はどうしても答えない。私はいよいよせき立てる、しかも多分癇癪《かんしゃく》をおこしてだったろうが、それでも、娘は相変らず俯《うつむ》いたまま、とうとう泣き出してしまいましてね。やれやれ、仕方がない、これも自分の義務だと思って、私は肩をぴくりとすくめ、ぷりぷりしながら、じゃ道案内しろと、叱《しか》るように言ってやりましたよ」
汗だくにはなるし、咽喉《のど》は渇くし、着いたときも、彼の機《き》嫌《げん》は少しも直っていなかった。アタは待ちかねて、少し途中まで迎えに来ていた。
「診察はさておいて、とにかくなにか飲物が欲しいね。咽喉が渇いて死にそうだ」と、ドクトルは大声に叫んだ。「ああ、お願いだ《プール・ラムール・ド・デュウ》、椰子《やし》の実でも一つ頂戴《ちょうだい》したいねえ」
彼女が呼ぶと、男の子が一人駆けて来た。するすると木の上に消えたかと思うと、やがて熟した実を一つ投げて落した。アタが穴を開けて渡すと、ドクトルはさも快げに、長々と飲み干した。それから一本、煙草を巻くうちには、やっと機嫌も直ってきた。
「ところで、赤鬚の先生はどこだね?」と彼は訊いた。
「家の中で絵を描いてるの。先生が来てくださるとは言ってないけど。行って、診てあげてちょうだい」
「だが、いったいどこが悪いんだね? 絵が描けるくらいなら、タラヴァオまで下りて来ることだってできそうなもんだが。私だって、忌々《いまいま》しい、こんなところまで歩いて来なくてすむわけだしな。時間のもったいないことは私も彼と同じなんだよ」
アタは一言も言わなかった。ただ子供と一緒に、黙々と家のほうへ後からついて来た。使いに来た小娘は、もうちゃんとヴェランダに坐《すわ》っていたし、こちらには老《ろう》婆《ば》が一人、壁を背に寝そべりながら、土地の煙草を巻いていた。アタが戸口を指さした。なぜまた誰も彼も、こんな妙な素振りばかりするのだろう? ドクトルはひどく不愉快になりながら、家の中へ入った。見ると、ストリックランドはパレットを拭《ふ》いており、画架には絵が一枚載っている。彼はパレオ一枚の姿で、戸口を背にして立っていた。だが、靴音《くつおと》を聞くと、くるりとこちらへ向き直った。そして怖い顔をしてドクトルの顔を睨《にら》んだ。不意の訪問者に驚くとともに、闖入《ちんにゅう》に対しては忿懣《ふんまん》に堪えないらしかった。だが、それよりもドクトルは、思わず息を呑《の》むと、床の上に棒立ちになった。そして眼をいっぱいに開くと、眼玉も飛び出さんばかりに見つめた。まったく夢にも考えないことだった。彼は慄然《りつぜん》となった。
「君は、礼儀ってものを知らないのか?」と、ストリックランドが言った。「なんの用事だ?」
ドクトルは、やっと気を落着けたが、声を出すにはまだなかなかだった。先刻《さっき》までの不機嫌は消し飛んでいた。そして彼は――ねえ、《エ・ビアン》君、本当だよ《・ウイ・ジュ・ヌ・ル・ニ・パ》――いても立ってもいられないような憐憫《れんびん》を感じた。
「私は医者のクトラだ。ちょうど女酋長の往診で、タラヴァオへ来ているところへ、アタから往診の迎えが来たもんでね」
「あの女は馬鹿《ばか》だ。そりゃ近頃《ちかごろ》、少しばかり方々が痛かったり、熱があったりはする。だが、そんなことがなんだ。すぐに癒《なお》るよ。今度パペーテへ誰かついでのものがあったら、キニーネでも買って来てもらおうかと思ってたところだ」
「それよりも、君、鏡を見てみたまえ」
ストリックランドは、ちらと彼の顔を見ると、薄笑いをしながら、壁にかかっている小さな木《き》枠《わく》の安物鏡のほうへ歩いて行った。
「どうしたと言うんだ?」
「顔が変ってるのが見えないかね? 顔全体が厚ぼったく脹《は》れ上って――そうだ、なんと言ったらいいか――よく書物などには、獅子《しし》のような容貌《ようぼう》とあるが、それだ――見えないかね、それが? ねえ、君《モン・ポーヴル・アミ》、言ってやらなくちゃわからないかねえ、恐ろしい病気にやられてるということが」
「なに、僕が?」
「鏡を見てみたまえ、癩《レプラ》の典型的症状が現われてるじゃないか?」
「冗談はよしてくれ」と、ストリックランドは言った。
「冗談ですめばいいがね」
「じゃ、なにか、僕が癩《レプラ》にでもやられているというのか?」
「お気の毒だが、まあ間違いはないようだねえ」
今日までにドクトルは、もう何人の人間に死の宣告を申し渡したことだろう。それでいて、彼はいまだにその瞬間の恐ろしさに打ち勝つことができないのだ。丈夫で、健康で、限りなく貴い生の特権を享受《きょうじゅ》している医者、それに対して、その人の口から死の宣告を受ける人たちは、どんなに激しい憎《ぞう》悪《お》に捉《とら》えられることだろう、そのことばかりをいつも彼は考えた。ストリックランドは、黙って彼の顔を見た。すでに業病《ごうびょう》のために崩れかかっているその容貌には、感情らしいものはなに一つ見えなかった。
「あの連中はもう知ってるのだろうか?」とうとう彼はそう言った。そして、なにかただならぬ異様な沈黙の中に、じっと待っているヴェランダの人たちを指さした。
「島の原住民なんてのは、よく症状を知ってるからね」と、ドクトルは言った。「ただ、君にそれを言うのを怖がってるだけだよ」
ストリックランドは、つかつかと戸口へ行って、外を見た。彼の顔に、なにか恐ろしい変化でもあったものにちがいない。彼らは突然、悲しみの叫び声を上げた。そしていっせいに声を上げると、泣き出してしまった。ストリックランドは一言も言わなかった。そして瞬間ちらと彼らを見まわすと、そのまま引き返して来た。
「あとどれほど生きられるだろう?」
「さあ、そいつはわからないねえ。二十年ばかりもつづくこともある。だが、とにかく早く進めば進むほど、幸運《しあわせ》だというもんだろうね」
なにを思ったか、ストリックランドは画架の前へ進んで行って、しばらくじっと載っている絵を眺めていたが、
「遠方をどうもありがとう。重大な音信《おとずれ》を持って来てくれた人間には、十分の酬《むく》いをするのが礼儀だろう。君、この絵をもらってくれたまえ。今じゃまだ紙屑《かみくず》みたいなものだろう。だが、きっといつかは喜んでもらえる日が来るだろうと思うんだ」
ドクトルは、なにも来たからといって礼は要らないと言い張った。例の百フラン紙幣も、すでにアタに返してしまっていた。だが、ストリックランドは、どうしても絵だけは受け取ってくれという。やがて二人はヴェランダへ出た。原住民たちは、激しく啜《すす》り泣いていた。
「落着くんだ。いいか、涙を拭いて」ストリックランドは、やさしくアタに声を掛けた。「なんでもありゃしない。もうすぐお前ともお別れだからね」
「まさかあなたを連れて行ってしまおうというんじゃないわねえ?」と、アタは大声に叫んだ。
その頃はまだ島では、隔離などということがさほど厳重には行われないで、癩患者なども、自分の意志次第では、自由に歩きまわることができたのである。
「いや、僕は山の中へ入ってしまうんだ」と、ストリックランドは言った。
と、アタは、すっくと立ち上って、彼の前に立ちはだかった。
「ほかのものが行くなら、勝手に行かしておくがいい。でも、私はいや、私は別れない。あなたは私の夫《マン》、私はあなたの妻《ウーマン》なのよ。もしあなたが行っちまったら、私はあの家の背《うし》後《ろ》の木で首を縊《くく》って死ぬだけだわ。神様にお誓いしてもいい」
彼女の言葉には、妙に強く人の心を動かすものがあった。もはやあの柔和な、物静かな土地の娘ではなかった。火のような一人の女だった。まるで人間が変ってしまったかのようだった。
「なぜお前は僕などと一緒にいようというのだ? もう一度パペーテへ帰って行けばいいのだ。じきにまた白人が見つかるだろう。子供たちは婆《ばあ》やが見てくれるし、お前が帰れば、ティアレも心から喜んでくれるだろうからな」
「あなたは私の夫《マン》、私はあなたの妻《ウーマン》よ。どこだって、あなたの行くところへ、私も行くわ」
一瞬ストリックランドの不屈の精神も、動揺を抑えきれないようだった。両の眼が涙でいっぱいになったかと思うと、やがてぽたぽたと頬を伝わり落ちた。だが、次の瞬間には、ふたたび例のあの皮肉な薄笑いが浮んで、「女ってやつは奇妙なやつですよ」と、彼はドクトルを顧みて言った。「まるで犬のように扱われ、両腕が痛くなるまで打《ぶ》たれて、それでまだ愛しつづけているんですからねえ」そしてぴくりと両肩をすくめた。「女に魂があるなんていうのは、もちろんキリスト教のもっとも愚劣なイリュージョンの一つですよ」
「なに言ってらっしゃるのよ、先生に?」アタが怪しんで訊いた。「行かないわねえ、どこへも?」
「そんなに言うなら、よし、ここにいよう」
アタは、急に彼の前に跪《ひざまず》いたかと思うと、両腕でしっかり彼の脚を抱えて接吻《せっぷん》した。ストリックランドは、消え入るような微笑を浮べながら、ドクトルを見た。
「結局は彼女《やつ》らの勝ちなんだ。一度彼女《やつ》らの手に捉ってみたまえ、僕らはいっさいの力が脱《ぬ》けてしまうんだ。白人だろうが、原住民だろうが、同じことさ」
こうした恐ろしい災厄《さいやく》に対して、いまさら気の毒だなどというのは、言うほうがむしろどうかしている。ドクトルはよく知っていた。彼は黙って暇《いとま》を告げた。ストリックランドは、ボーイのタネに、村まで案内するように言いつけた。ところで、ドクトル・クトラは、ここでちょっと言葉を切ると、改めて言った。
「私は、決してあの男が好きじゃなかった。先刻《さっき》も言ったように、どうも虫の好かん男だった。ところがだねえ、だんだんタラヴァオのほうへ山を下っているうちに、もちろんそれは不承不承ではあったが、とにかく人間業苦の中でも、もっとも恐ろしい業苦を、ああしてじっと堪えているあの男の克己的《ストイック》な勇気には、ほとほと感心しないではいられなくなった。タネが別れて帰って行くとき、私はなにかしかるべき薬を送ってやるから、とは言っておいた。だが、もちろんあのストリックランドが、そんなものを飲もうはずもなし、たとえ飲んだところで、効《きき》目《め》はまったくおぼつかなかった。ただアタにだけは、呼びにさえ来れば、いつでも来てあげるからと、言伝《ことづて》をしておいた。人生《・・》は冷酷だ、しかも自然《・・》というやつは、ときどきその子供たちを苦しめることに、恐るべき喜びをさえ感じるらしい。私は重い心を抱いて、あの快いパペーテの家へ帰った」
長い間、僕らは押し黙ったまま向き合っていた。
「だが、アタからは、いっこう迎えの使いは来なかった」と、彼はまた話をつづけた。「それに、ちょうど私も、長い間そちらのほうへ行く用事がなかった。そんなわけで、ストリックランドの消息についても、なにも聞かなかった。もっとも、一、二度、アタがパペーテへ来て、絵の材料を買って行ったという噂は聞いたが、ついに会う機会はなかった。そうだ、二年以上も経《た》ってからだったろうか、私はまたタラヴァオヘのついでがあった。つまり、またしても例の老女酋長を往診に行ったのだが、そこで私は訊いてみた、もしかしてなにかストリックランドの消息を聞いてやしないか、とね。ところが、その頃では、もう彼が癩《レプラ》だということはすっかり広まっていた。まずあのボーイのタネがいなくなるし、しばらくすると、今度は婆やが孫娘をつれて出て行った。いよいよストリックランドは、アタと、その二人の赤ん坊と、それっきりになってしまった。農園の近所へ、足を踏み入れるものさえなくなった。なにしろ原住民たちの癩《レプラ》を恐れることは非常なものだった。現に以前などは、見つけ次第患者を殺してしまったとさえいうのだからね。だが、ときどき、村の子供たちが山を駆けずりまわっていると、ふと大きな赤い鬚をした白人が歩いているのを見掛けることがある、ということだった。むろん子供たちは怖がって逃げ出した。また稀《まれ》にはアタが、夜、村へ下りて来て、店の人をたたき起して、なにか入用のものを買い込んで行くことがある。原住民たちから見れば、怖がられているのは、自分もストリックランドも同じであることを、彼女はちゃんと知っていた。したがって、彼女のほうでも、できるだけ村人たちの眼を避けた。一度こんなことがあった。二、三人の女たちが、つい彼の農園の、いつもよりずっと近くまで行ったことがある。見るとアタが、小川でなにか着物のようなものを洗濯《せんたく》している。女どもは小石を投げつけた。ちょうどその後だったが、例の店の人が、アタにこう伝えてくれるようにと頼まれた。つまり、もし二度とあの小川を使用するようなことがあれば、それこそ村人が押し寄せて、家を焼き払ってしまうぞ、というのだった」
「乱暴ですねえ」と、僕は言った。
「ねえ、君、そうじゃない《メ・ノン・モン・シェル・ムシュー》。人間というやつは、いつもそうしたものに決ってるんだ。怖くなると残忍になる……ええと、ところで、私もね、ひとつやつに会ってみてやろうと思った。で、酋長の診察がすむと、子供に道案内をしてくれろと頼んでみた。ところが、誰一人行ってくれようとしないのだ。とうとう私は、一人でたずねて行くより仕方がなかった」
農園に着いてみると、思わず不安な感情にぎくりとした。歩いて来て、熱くてたまらないにもかかわらず、むしろ悪《お》寒《かん》に似たものを感じた。あたりの空気全体が、なにか敵意でも持っているかのようだった。彼は思わずためらった。なにか見えない力があって、彼の足を引き留めているようにさえ思えた。見えない手が、彼を強く引き戻《もど》しているような気がした。今ではもう椰子の実採りに来るものもいないらしい。腐ったまま、点々と地上に転がっていた。すべてが荒廃だった。叢林《ブッシュ》ばかりが我物顔に生い繁《しげ》って、一度は大変な労力をかけて、自然の手から奪いとったこの土地も、もしこのままでいけば、ふたたびまた原始林が占領してしまうのではないかとさえ思えた。これこそ苦痛の棲《す》み家とでもいうのか、ふと彼はそんな気がした。家に近づくに従って、彼は一種異様な、この世のものとは思えない沈黙に激しく心を打たれた。はじめは誰もいないのかと思った。だが、ちょうどそのときアタの姿が見えた。台所がわりにしていた差掛小屋の中に、彼女はぺたりと坐って、なにか鍋《なべ》で煮かけている食べ物をじっと見つめていた。傍《そば》には小さな男の子が一人、黙々と泥《どろ》にまみれて遊んでいる。彼女のほうでも気がついたが、アタはにこりともしなかった。
「ストリックランドさんに会いに来たんだがね」と、彼は言った。
「じゃ、そう言ってみるわ」
彼女は家のほうへ行って、ヴェランダに通じる低い段々を上ると、そのまま家の中へ消えて行った。ドクトルも後からついて行ったが、彼女の手真似《てまね》に従って、外でじっと待っていた。彼女が扉《とびら》を開いたとき、彼は、癩患者のいる場所に特有な、あの妙に甘《あま》酸《ず》っぱいような不快な臭気を、ぷんと強く感じた。彼女の声、つづいてストリックランドらしい声がした。だが、実を言えば、彼にはその声がよくわからなかった。すっかり嗄《しわが》れて、よく聞き取れない声音だった。ドクトルは思わず眉《まゆ》を上げた。すでに声帯までもやられてしまったのか? と、そのときふたたびアタが出て来た。
「お目にかからないと言いますのよ。どうぞお帰りくださいって」
ドクトルも一応は固執してみたが、女はいっかな通そうとはしなかった。彼はぴくりと肩をすくめると、一瞬ちょっと考えていたが、そのままくるりと踵《くびす》を返した。女はしばらく一緒について来た。彼女もやはり、早く帰ってほしいと言わぬばかりだった。
「別に用事はないんだね?」と、彼は訊いてみた。
「少しばかり絵具を送ってやってくださらない?」と、彼女は言った。「ほかにはなんにもありませんわ」
「まだ描けるんだね?」
「ええ、壁いっぱいに何か描いてますの」
「だが、かわいそうに君だって大変だろうねえ」
そのときはじめて女は軽く微笑した。両の瞳《ひとみ》には、もはや人間以上の愛が輝いているように思えた。ドクトルは驚いて、はっとなった。むしろ恐ろしかった。なんと言っていいか、言葉もなかった。
「だって、夫ですもの」彼女は言った。
「もう一人の子供はどうしたの?」と、彼は訊いた。「この前は二人いたじゃないか?」
「ええ、死にましたわ。私たち二人で、マンゴーの木の下に埋めてやりましたの」
少しばかり行くと、女はこれで失礼しますと言った。これ以上出ることは、もしか村人の誰かに見られはしないかと、それが怖いのだろうと察した。彼はもう一度繰返して、もし用事があったら、使いさえよこせばいい、すぐに来てあげるから、と言った。
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それからまた二年、いや三年くらい経《た》った。というのは、タヒチでは、歳月の流れというものがほとんど感じられないからであり、それを数えているほうがむしろ困難だった。だが、とうとうストリックランド危《き》篤《とく》という知らせがドクトルのもとへ届いた。なんでもアタが、パペーテへ来る郵便車を途中で待ち受けて、どうかすぐに先生に知らせてくれと、馭者《ぎょしゃ》に頼んだのだそうである。だが、知らせの着いたときには、ちょうど彼は外出していて、受け取ったのはもう夜だった。こんなに夜おそく出かけることは不可能だった。そんなわけで家を出たのは、翌朝明るくなってからだった。タラヴァオへ着いた。そして、いよいよこれが最後だろうが、例の七キロの坂道を登りはじめた。道は草ぼうぼうで、この何年間ほとんど踏むものがなかったことは、一見して明瞭《めいりょう》だった。道を探すだけでも容易でなかった。ときには河床につまずいてみたり、またときには密生した茨《いばら》の繁《しげ》みをかきわけなければならなかった。かと思えば、すぐ頭上の木にぶら下っている熊蜂《くまんばち》の巣を避けるために、なんど岩を攀《よ》じ登らなければならないかしれなかった。しみ入るような沈黙だった。
やっとのことで、小さな素木《しらき》の小屋の前へ出たときには、思わずほっと息をついた。家は、荒れ放題に汚れていたが、ここもまた痛いほどの沈黙だった。近づいて行くと、小さな男の子が一人無心に遊んでいたが、彼の姿を見ると、飛び上って、一目散に逃げてしまった。彼にとっては、他人はすべて敵なのである。ドクトルは、なにかその子供が、木の背後にでも隠れていて、こっそり彼のほうを窺《うかが》っているような気がして仕方がなかった。戸口は開けっ放しになっている。声を掛けてみた。だが、なんの応答もなかった。そのまま入って、部屋の扉《とびら》をノックした。依然として応答はない。かまわず把手《ハンドル》をまわして、中に入った。と、いきなり彼を襲った悪臭に、ほとんど倒れそうになった。だが、ハンカチを鼻にあてて、勇気を奮い起して入った。部屋の中は薄暗かった。長い間ぎらぎらする太陽の中を歩いて来た後で、彼の眼《め》はなんにも見えなかった。と、突然彼は飛び上らんばかりに驚いた。いったいこれはどこなのだ? 一瞬まるで魔法の世界にでも飛び込んだような気持がした。朦朧《もうろう》と、まるでそれは巨大な原始林と、そしてそれら木立の下を歩いている裸形の群像とでもいったようなものが、彼の眼に映ったのだ。彼ははじめて知った、それは壁一面に描かれた絵だった。
「やれやれ《モン・デュウ》、暑さで頭がどうかしたんじゃなかろうかな」と、彼は呟《つぶや》いた。
が、そのとき彼は、なにか幽《かす》かに物の動く気配を感じた。アタだ。アタが床の上に長くなって、静かにすすり泣いているのだった。
「アタ」と、彼は声を掛けてみた。「アタ」
いっこう聞えないらしかった。またしてもたまらない悪臭に、彼はほとんど気が遠くなりそうだった。両切りに火を点《つ》けた。ようやく暗さに慣れてくると、彼は壁の絵を眺《なが》めながら、なにか魂のどん底から揺り動かされるようなものを感じた。もちろん彼は、絵については全くの素人《しろうと》だった。だが、それらの絵には、なにか恐ろしいまでの魅力があった。床上から天井まで、壁という壁はことごとく、奇怪きわまる、そして恐ろしく入念な構図でいっぱいになっていた。しかも、それはまったく言語を絶した驚異と神秘だった。彼は息を呑《の》んだ。自分にもわからない、むろん分析などできるはずもないある異様な感動で、胸いっぱいになってしまったのだ。まさに世界の創造を目《ま》のあたり見たものが感じたであろうような、不思議な畏怖《いふ》と歓喜とを、彼は感じた。すばらしい、官能的な、そして情熱的な絵であった。そのくせそこには、彼を思わずぞっとさせるような、恐ろしい戦慄《せんりつ》があった。いわば自然の隠れた深淵《しんえん》に潜りこみ、迷うことなく、そこに、美しい、だが同時に、恐ろしい秘密を掴《つか》み出した男の作品であった。さらに言えば、それは人間として知ることを許されない、ある神聖な秘密を知ってしまった人間の作品であった。なにか原始的な、そして恐怖に充《み》ちたものがあった。もはや人間のものではなかった。彼は、なんとなく漠然《ばくぜん》と、悪魔の呪術《じゅじゅつ》とでもいったものを思い出していた。美しい、しかも淫《みだ》らな美しさだった。
「ああ《モン・デュウ》、これこそ天才だ」
胸の底から絞り出すように呟いた言葉だった。彼自身意識しないで呟いた言葉だった。
それからふと彼の視線は、片隅《かたすみ》のベッドがわりの蓆《むしろ》の上に落ちた。彼はつかつかとそのほうへ近づいて行った。そしてつい昨日まではストリックランドであった、恐ろしい、崩れ果てた、そして二目とは見られない物を見た。すでにこと切れていた。ドクトルは勇気を奮い起して、醜怪な塊をのぞきこんでみた。が、その瞬間、彼は飛び上るほど驚くと、恐怖が電光のように心臓を貫くのを感じた。誰《だれ》か彼の後ろへ来て立っている。アタだった。彼には、女の立ち上るのも聞えなかった。彼女は、そっと彼の小《こ》脇《わき》に寄り添って、じっと同じ物を見ているのだ。
「やれやれ、私もすっかり頭がどうかしているんでね」と、彼は言った。「いや、まったく驚いた、すんでのことで胆《きも》を潰《つぶ》すところだったよ」
そして彼は、もう一度、かつては人間であったものの死の塊を覗《のぞ》きこんだ。だが、しばらくすると、ふたたびぎょっとなって跳《と》び退《すさ》った。
「だが、アタ、盲目じゃないか。これは?」
「ええ、もうここ一年ばかり、すっかり見えなかったんですの」
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ちょうどそのとき、訪問に出ていたマダム・クトラが帰って来て、僕《ぼく》らの話している中へ入ってきた。まるで満帆に風を孕《はら》んだ船のように、彼女は現われた。高い背丈、頑丈《がんじょう》な作り、広い胸、脂《し》肪肥《ぼうぶと》りの胴を恐ろしいばかりに締め上げた、前の切り立ったコルセット、とにかく圧倒的な女だった。傲然《ごうぜん》たる鉤鼻《かぎばな》、三重顎《あご》、そして棒のように反り返っている。なんとなく人を無気力にする熱帯の魔力にも、彼女だけはまったくの不死身だった。それどころか、温帯の人間にも想像できないほど、活動的で、世故にたけ、てきぱきとしていた。また恐るべき饒舌《じょうぜつ》家《か》でもあった。入って来たかと思うと、息もつかせず、立てつづけに、噂話《うわさばなし》や、それに対する意見などをまくしたてるのだった。おかげで、僕らが今まで話していたことは、すべて遠い昔の、まるで嘘《うそ》のような気持になった。
やがてドクトル・クトラが僕を見て言った。
「今でも私は、ストリックランドのくれた絵を、診察室《ピュロー》に掛けていますがね。ごらんになりますか?」
「拝見しますとも、喜んで」
僕らは立ち上った。彼は、彼の家を取り巻いているヴェランダのほうへ僕らを導いた。庭一面まるで饗宴《きょうえん》のように咲き誇っている華やかな花に、僕らは思わず足を止めたが、
「私はね、長い間、あのストリックランドが壁一面に描き散らしていたすばらしい装飾画のことが、頭にこびりついて離れませんでしたよ」と、彼はしみじみした調子で述懐した。
僕も実は、それを考えていたところだった。ここではじめてあの男は、自分というものをすっかり吐き出してしまうことができたような気がする。僕にはそんなふうに思えて仕方がなかった。最後の機会だと知って、ただ黙々と描きつづけていたのだ。そしてその絵の中にこそ、彼が人生について知り、かつ望見していたいっさいのものを語りつくしていたのだ。ここに至ってはじめて、心の休息《いこい》を見《み》出《いだ》したのではなかろうか。彼に憑《つ》いていた悪《あく》霊《りょう》が、ついに調伏《ちょうぶく》されたのだ。そしてこの作品の完成――彼の一生は、すべてそのための苦しい準備でしかなかった――とともに、静かに永遠の休息が、この遥《はる》かに遠い苦悩に充《み》ちた魂の上に降《くだ》ったのだった。彼は喜んで死んでいったにちがいない。彼の目的は達せられたのだから。
「何を描いたものなんです?」と、僕は訊《き》いた。
「さあ、それがよくわからないんだが。奇怪といえば、実に奇怪きわまるものだった。世界の創造、エデンの楽園、そしてアダムとイヴ――とでもいったらいいだろうかな?《ク・セ・ジュ》――とにかく男、女、いっさいの人間の肉体美への賛歌、あるいはまた荘厳《そうごん》で、非情で、美しくて、そのくせ残忍な自然に対する礼賛《らいさん》でもあった。ほとんど恐ろしいまでに、空間の無限と、時間の悠久《ゆうきゅう》とを思わせるものだった。彼は、私が毎日身近に見ているいろんな植物、たとえば椰子《やし》だとか、榕樹《ようじゅ》だとか、火焔木《フランボアイヤン》だとか、アリゲーター梨《なし》だとか、そういったものも描いていたが、私は、彼がそれらを描いていたばっかりに、その後は同じ植物を見ても、見る眼《め》がすっかり変ってしまった。なにかそれらの中に、精霊と神秘がひそんでいて、それらを今一息で捉《とら》えたかと思うと、たちまちするりと逃げられてしまう。なるほど、色そのものは、私たちが毎日見るのと同じなのだが、それでいてちがうのだ。すべてが独自の意味を帯びてくる。同じことは、男女の裸体の群像についても言えた。土なる人間であることには変りない。が、そのくせ地上的なものからは完全に離れている。彼らが創《つく》られた元の土塊《つちくれ》のあるものは、どこまでも残している。それでいて同時に、それは神にさえ近いのだ。そこには人間の真裸な原始的本能の姿があった。そして人はそれを恐れた。つまり、自分自身をそこに見たからだったのだ」
ドクトルは、ぴくりと両肩をすくめると、軽く微笑《ほほえ》んだ。
「いや、お笑いになるでしょう。私は元来唯《ゆい》物論者《ぶつろんしゃ》だ。そのうえすっかり肥ってしまって、醜くさえなっている――なに、フォールスタフだって?――とにかく抒情《じょじょう》なんてものは、私の柄《がら》じゃない。人から見れば、ずいぶん馬鹿な人間だろうと、自分でも思っている。だが、私はあれほど深い感動を受けた絵を知らない。ねえ《トウネ》、君、私はかつてローマのシスティナ礼拝堂《チャペル》へ行ったことがあるが、そのときちょうど同じ感動を受けたように思う。あそこでもやはり、私はあの天井の絵を描いた人間の偉大さに、愕然《がくぜん》として畏《おそ》れを抱いた。天才だ、われわれを心の底から揺り動かす、驚くべき天才だ、とね。あの前に立つと、私自身などまったくつまらない、吹けば飛ぶような人間に思えて仕方がなかった。だが、ミケランジェロの場合はだね、われわれは彼の偉大さに対して、心の準備ができている。ところが、この絵の場合はだね、文明からまったく切り離されたタラヴァオの山奥のね、しかも汚ない原住民の小屋の中に、誰《だれ》がこの驚嘆すべきすばらしい絵を予想したろうか? しかもミケランジェロの芸術は、あくまで明朗で、健全だ。彼のあの傑作の中には、荘厳の静謐《せいひつ》さとでもいうものがある。ところが、これはどうだ、美しいにもかかわらず、なにか人を不安にするものがある。それが何であるか、私にもわからない。だが、とにかく私は不安を感じた。そうだ、たとえば、君が坐《すわ》っているその隣の部屋だが、人がいないとよくわかっていながら、そのくせなぜかしらぬが、誰かたしかにそこにいるような気がして仕方がないといった、恐ろしい不安、ちょうどその気持だった。自分で自分を叱《しか》ってみる。馬《ば》鹿《か》な、心の迷いじゃないか、とね――だが、それでもだめなのだ……やがてはその恐ろしさに堪えきれなくなって、見えない恐怖の爪《つめ》の中に、身動き一つできなくなってしまう。そうだ、正直なことをいえば、あの奇怪な傑作が焼けてしまったと聞いたときも、私はあまり惜しいとは思わなかったくらいだ」
「焼けたんですって?」
「そうなんだ《メ・ウイ》。ご存じなかったんですか?」
「もちろん知るもんですか。なるほど、その絵のことは、話も聞いたことがありませんでしたねえ。でも多分、誰か個人の所蔵にでも帰しているのかと思ってました。いまだにたしかな作品目録さえないような有様ですからね」
「眼が見えなくなってからは、朝から晩まで、あの二つの部屋にばかり閉じ籠《こも》っていたわけだねえ。そして、見えない眼で、壁の上の自分の作品をじっと見つめていた。いや、おそらく彼の眼は、今までの一生のいつのときよりも、いっそうはっきり見えていたにちがいない。アタの話では、一度として自分の運命に不足を言ったことはないそうだ。決して勇気は失わなかったと見える。最後まで心は平静で、少しも乱れていなかった。だが、ただ一つ、あの女にかたく約束させたことは、彼を葬《ほうむ》ってしまったら――そうだ、この話を忘れていたが、彼の墓を掘ったのは、この私なのだ。なにしろ原住民たちは、汚《けが》れていると言って、誰一人あの家へ近寄ろうとしない。仕方がないから、アタと私とで、パレオを三枚ばかり縫い合せ、それに包んで、マンゴーの木の下に埋めてやったわけさ――ええと、ところで約束の話だが、つまり、それは、あの家にすぐ火を放《つ》けろというのだった。そして家が焼け落ちて、木《き》片《ぎれ》一本残らなくなるまで、行ってはいけない、というのだ」
僕は頭がいっぱいになって、しばらくは物も言えなかった。だが、やがて、
「するとあの男は、最後まで同じだったんですね?」
「ところで、いいですか、ぜひこれだけは言っておかなくちゃいけないと思うんだが、私はね、そんなことはよせ、とあの女に言ってやるのが、私の義務だと思ったんだが」
「すると、つい先刻《さっき》おっしゃったこととは?」
「そうなんだ。私は、あの絵こそ天才の作品だと信じていた。だからして、そうした作品を、この世界から抹殺《まっさつ》してしまうなどということは、とうてい許されないことだと考えたんだね。だが、どうしてもアタはきかない。約束したんですから、とそう言うんですよ。私としては、そんな野蛮な行為を見ているに忍びなかった。だから、そのときの様子は、後になって聞いただけなんですがね。あの女は、床板や、パンダナスの蓆《むしろ》の上に、一面に石油を撒《ま》いて、それから火を放けたんだそうです。まもなく小屋は灰燼《かいじん》に帰してしまった。そしてこの傑作も、永久に失われてしまったというわけなんですよ」
「ストリックランド自身、傑作だということは知っていたんでしょうね。つまり、彼の望みは達せられ、彼の一生は完成されたというわけ。いわば世界をつくり、それをよしと見たわけですねえ。だからこそ、誇りをもって、同時にまた侮《ぶ》蔑《べつ》をもって、永久にそれを抹殺してしまった」
「だが、そうだ、かんじんの絵をお目にかけなければいけない」言いながら、ドクトルはまた歩き出した。
「ところで、アタと子供はどうなりました?」
「マルケサス群島のほうへ行っちまいましたよ。向うに身内がいるらしいんです。なんでも子供のほうは、カメロン所有の小型帆船《スクーナー》で働いているとかいうことです。人の話じゃ、父親そっくりだということですね」
ヴェランダから診察室に通じる戸口のところで、彼はちょっと立ち止って微笑した。
「果物の静物なんですよ。医者の診察室などに、どうかとお思いになるかもしれませんがね、なにしろ家内のやつが、応接室には絶対いけないというもんですから。家内に言わせると、猥雑《わいざつ》でいやだというんですよ」
「果物の静物がですか?」と、僕は思わず驚いて叫んだ。
部屋へ入った。問題の絵はすぐ眼についた。僕は長い間見つめていた。
マンゴーや、バナナや、オレンジや、そのほかいろいろ知らない果実類を、うずたかく盛り上げた絵であった。ちょっと見たところは、別になんでもない絵だった。もし不注意な見物人ならば、後期印象派の展覧会などで、いい絵だが、といって特にどうということもない絵だというくらいのところで、簡単に片づけられてしまいそうな作品でさえあった。そのくせ、なぜか忘れられない、後になって必ず思い出す、そしてわれながら奇異に思うのだ。しかも思いだしたら最後、もう二度と忘れることはまず不可能であろう。
まず第一に、恐ろしく奇怪な色彩だった。したがって、それが与える一種不安な感動は、ほとんど言葉で言い表わすことは不可能であろう。くすんだ群青《ぐんじょう》、それはまるで精巧な彫物をした瑠璃石《ラピス・ラズリ》の鉢《はち》を思わせる、暗い不透明さを見せながら、しかもまるで神秘な生命の鼓動をでも感じさせるような、震える光沢を帯びている。次は紫だ。まるで腐った生魚のように、ひどく不快な紫ではあるが、同時になにか漠然《ばくぜん》と、あのヘリオガバルスのローマ帝国の遠い記憶を呼び覚してくれるような、妙に官能的な情熱に燃えている。そして赤は――ヒイラギの赤い実――それはまたイギリスのクリスマス、雪、ご馳《ち》走《そう》、そして子供らの喜び、そういったものを思わせる――鋭い、刺すような赤さだった。しかもまたその赤が、まるで魔法ででもあるかのように、あの鳩《はと》の胸毛の消え入るような軟調にまで和らげられているのである。黄色は黄色で、なにか異常な痴情を思わせるようなのが、そのまますっと緑に溶けこむあたりは、たとえば春のように芳《かんば》しく、きらめく山の渓流《けいりゅう》のように清らかだった。それにしても、どのように悲痛な空想が、このすばらしい果実を生み出したのだろう? それらは、南海ポリネシアのヘスペリデスの花園が生み出した果実なのでもあろうか? ここには、この世界のいっさいの事物が、まだ動かしがたい一定の形態など持たなかった時代、そうした世界の原始暗黒の歴史の中ででも創造されたかのような、異常に溌剌《はつらつ》としたものがあった。すべてが並はずれて豊饒《ほうじょう》であり、熱帯の強烈な香りに咽《む》せ返るようだった。まるで果実自身が、なにか一種独自の暗い情熱をでも秘めているかのように見えた。いわば魔法の果実であり、それを味わうことは、とりも直さず人知れぬ霊魂の秘密、想像の幽宮へと人々を導いていく神秘の扉《とびら》を押し開くことではなかったろうか。不測の危険を孕んで、沈鬱《ちんうつ》に静もり返っている。そしてそれらを味わうことは、人間をときには動物に、ときには神にすることになる。すべて健康で、自然なもの、すべて人間同士の幸福な関係や、素《そ》朴《ぼく》な人間の単純な喜びにつながるようなものは、完全に画面から消えている。それでいて、そこには恐ろしいまでの魅力が漂っている。あたかもあの善悪の知恵の木の実のように、未知なる《・・・・》ものへのあらゆる可能性を孕んで、人々を脅《おび》やかしているのであった。
やっと僕は絵の前を離れた。ストリックランドという男は、ついにその秘密を、墓の中にまで持って行ってしまった、というような気がした。
「ねえ、あなた《ヴォワヨン・ルネ・モナミ》」マダム・クトラの大きな元気そうな声が聞えた。「先刻《さっき》から何をしてらっしゃるの? さあ、アペリティーフが出ましてよ。お客様に伺ってくださいましな、キンキナ・デュボネを召し上りますか、って」
「ああ、結構ですとも、奥様《ヴォロンテイエ・マダム》」僕は、ヴェランダへ出ながら答えた。
夢は一瞬のうちに消えた。
58
僕《ぼく》のタヒチ出発のときが来た。島の美しい習慣として、知り合ったほどの人たちすべてから、椰子《やし》の葉で作った手《て》籠《かご》、パンダナスの蓆《むしろ》、扇といった、それぞれ心づくしの餞別《せんべつ》を贈られた。ことにティアレは、小さな真珠を三つと、あの太い手で手ずから作ったグァヴァのゼリーの壜詰《びんづめ》三本とを贈ってくれた。郵便船は、ウェリントンからサンフランシスコ行の便が、ほんの一昼夜だけ寄港して行くのだが、いよいよ乗船合図の汽笛が鳴り響くと、彼女は僕を力いっぱい、あの巨大な胸に抱き締めてくれた。僕は大洋のうねりの中へでも沈んで行くような気持がしたが、彼女はかまわず、赤い唇《くちびる》をしっかり僕の唇に押しつけてくる。そして眼《め》には涙さえ光っていた。船がゆっくり礁湖《ラグーン》を滑り出し、用心深く珊瑚礁《さんごしょう》の断《き》れ目を抜けて、やがて大洋に向って針路を転じると、僕は急に悲しさがこみ上げてきた。風には、まだ快い島の香りが漂っている。タヒチといえば、遥《はる》かな国だ、もう二度と訪れて来ることはあるまい。僕の人生の一章が閉じられた。そして僕は、避けがたい死の運命の足音の、またしても一歩近づくのを聞いた。
一月と経《た》たないうちに、僕はロンドンの土を踏んでいた。とりあえず当面の急用だけをすませると、ふとミセス・ストリックランドも、夫の晩年については聞きたかろうと思ったので、手紙を出してみた。彼女には、大戦のずっと以前から一度も会っていない。宛《あて》名《な》を知るにも、電話帳を繰ってみなければならないくらいだった。彼女からさっそく約束の時間を知らせてきたので、僕は、彼女の今の住居であるキャムデン・ヒルの小綺《こぎ》麗《れい》な家を訪ねて行った。彼女も、もう六十近い女だったが、案外老《ふ》けてもいないで、とても五十以上に見る人はなかったろう。皺《しわ》もあまり見えない、痩《や》せぎすな細面《ほそおもて》、若い頃《ころ》はよほど美しかったにちがいないなどと実際以上に買い被《かぶ》られる、つまり、美しく老ける型の女だったのだ。まだ真白には程遠い頭髪も、ちゃんと齢《とし》相応の結い方にしているし、黒い服も当世風に気が利《き》いていた。そういえば、彼女の姉のミセス・マクアンドルーが、わずか一、二年で夫の後を追ってしまい、おかげでその遺産がすっかりミセス・ストリックランドに転げ込んだというような噂《うわさ》は、いつか僕も聞いていた。そして事実、家の様子や、取次に出た小綺麗な女中などの風体から判断しても、寡婦《かふ》の一人暮しくらいは、結構楽にできる程度のものであることは見てとれた。
客間に通されると、ミセス・ストリックランドにはもう一人の訪問者がいることがわかった。しかも、その人物の正体がわかってみると、どうやら僕がこの時間に招《よ》ばれたのも、まんざら理由のないことでないらしかった。訪問者はヴァン・ブッシュ・テイラーというアメリカ人だった。ミセス・ストリックランドは、彼に対して愛嬌《あいきょう》たっぷりな笑顔で言い訳をしながら、いろいろと紹介の労をとってくれた。
「まあ、私たちイギリス人ってものは、本当に物知らずなんでございますのよ。ねえ、あなた、本当に失礼な、ごめんあそばせ、こんなふうなご紹介を申し上げなくちゃなりませんなんて」それから、僕のほうへ向き直ると、「ヴァン・ブッシュ・テイラーさんは、アメリカでも第一流の批評家でいらっしゃいますのよ。まだこの方の本をお読みになりません? それはいけませんわねえ。あなたの教育の欠陥というような、大変なことにもなりますわよ。今すぐにも罪亡《つみほろ》ぼしをなさらなくっちゃ。ところで、今度テイラーさんがチャーリーのことをお書きになりたいんですって。で、私にもなにか力になってくれないかって、その用件でいらっしゃいましたのよ」
ヴァン・ブッシュ・テイラーは、細々と痩せこけて、しかもてかてか光る大きな禿頭《はげあたま》をした男だった。円蓋《えんがい》のように膨れ上った、巨大な頭蓋骨の下に、深い皺を刻んだ、黄色い顔がよけいに小さく見えていた。物柔らかな、むしろ馬鹿《ばか》丁寧《ていねい》ともいうべき男だった。ニューイングランド訛《なま》りの英語を話していたが、物腰全体にまるで冷血動物のような冷たさが滲《にじ》み出ていた。なぜまたこんな男がチャールズ・ストリックランドに夢中になっているのか、むしろ不思議なくらいだった。おまけにミセス・ストリックランドが、夫の名前を口にするときのやさしい口吻《くちぶり》がまた、ちょっとくすぐったいくらいだった。二人が話している間、僕はゆっくりと部屋の中を眺《なが》めまわしてみたが、ミセス・ストリックランドは時代とともに移り変っていた。例のモリス好みの壁紙もなければ、渋いクレトン更《さら》紗《さ》もない。そういえば、あのアシュレー・ガーデンズの客間の壁を飾っていたアランデル更紗も見えなかった。いわば部屋全体が奇矯《フアンタステイック》な色彩に燃え上っていた。おそらく彼女は、流行に盲従してやっているのだろうが、そもそもこうした色彩の配合それ自体が、南海の孤島で死んでいった一貧乏画家の夢から生れた好みであることを、果して彼女は知っているのだろうか? だが、その解答は、見事に彼女自身がしてくれた。
「これはすばらしいクッションですねえ」と、ヴァン・ブッシュ・テイラーが言った。
「お気に召しまして?」彼女は、微笑しながら言った。「バクストですのよ、ね」
もっとも壁には、その頃ベルリンのある出版社が売り出していた、ストリックランド傑作選とでもいうべき原色複製が、何枚かかかっていた。
「まあ、私のあの絵をごらんになってらっしゃるの?」と、彼女は、僕の視線を追いながら言った。「もちろん本物のほうは、とても私なんかに手の出るものじゃありませんもの。これがせめてもの心遣《こころや》りなんですのよ。出版社が送ってくれましたの。私としては、これだけでもとても慰めになりますわ」
「毎日、これをごらんになっておいでになれば、大きな楽しみというもんでしょうねえ?」と、ヴァン・ブッシュ・テイラーが言った。
「ええ、それに本当の意味で、とても装飾的なんですもの」
「そうです。それが私の最大確信なんです」と、ヴァン・ブッシュ・テイラーが相槌《あいづち》を打った。「偉大な芸術というものは、常に装飾的なもんですからね」
彼らの視線は、嬰《えい》児《じ》に乳房をふくませている裸体の女の絵を見入っていた。親子の傍《かたわら》には女の子がもう一人、跪《ひざまず》いて無心の嬰児に一輪の花を差し出している。さらに彼らを見下ろすように、皺だらけの、骨と皮との老《ろう》婆《ば》が一人立っている。これがストリックランドの『神聖家族』だった。僕は秘《ひそ》かに思った、おそらくこれらのモデルには、あのタラヴァオの奥での彼の一家がなったものであろう。女と嬰児とは、むろんアタと彼の長男とである。ミセス・ストリックランドは、少しでもそれらの事実を知っているのであろうか?
会話はつづいていた。それにしてもヴァン・ブッシュ・テイラーが、いやしくも彼女を困惑させるような問題には決して触れないという如才なさと、さらにはまた、決して嘘《うそ》はつかないが、それでいて、彼ら夫婦の関係が終始実に完全であったかのごとく匂《にお》わせる、ミセス・ストリックランドの巧みな手ぎわにいたっては、ただただ驚嘆のほかなかった。最後にテイラーが、帰ると言って立ち上った。しかも別れの握手をしながらも、まだひどく愛《あい》想《そ》のよい、だが同時に、あまりにも馬鹿念の入った謝辞を一席述べてから、帰って行った。
「退屈なすったんじゃない?」彼を送り出してしまうと、彼女は言った。「ときには私も、ずいぶんたまらないことがありますのよ。でも、やっぱりできるだけチャーリーのことを世間に伝えてやるのが、私の義務だというふうに思いますの。天才の妻だってことは、同時にある種の責任を伴うことだと思いますわ」
彼女は、例のあの愛想のよい眼付――それは二十年以上前と少しも変らない、きさくな、思いやり深い眼付だった――をして、僕を見た。僕は、馬鹿にされているのではないかとさえ思った。
「で、もちろん商売のほうはおやめになったんでしょうねえ?」
「もちろんですわ」いかにも浮々とした調子だった。「あんなことは、あなた、ほんの片手間仕事にしてたんですもの。それに子供たちが売ってしまえって、しきりに言うもんですからね。つまり、私の過労を心配してくれるんですのよ」
僕は、ミセス・ストリックランドが、とにかく一度は生活のために働くという、恥ずべき行為をしたことがある、その事実さえすっかり忘れてしまっているのに気がついた。つまり、彼女こそは、女というものが他人の金で生きるもの、そんなことは当り前だという、いわば奥様階級まるだしの本能を具《そな》えた女だったのだ。
「ちょうど子供らが帰っておりますのよ」と、彼女は言った。「お父様の話ですもの、子供たちもきっと聞きたがると思いますわ。ロバートのこと、憶《おぼ》えてらっしゃる? おかげさまで、今度十字勲章《ミリタリ・クロス》に推薦されましてね」
彼女は、戸口へ行って子供たちを呼んだ。僧職詰襟《パーソンズ・カラー》に、軍服を着た、背の高い青年が入って来た。ちょっと陰気そうなところもあったが、美しい若者で、ことにその明るい瞳《ひとみ》は、僕の憶えている子供時分そのままだった。後から妹も入って来た。僕がはじめてこの母親を知った頃の彼女と、ほとんど同じ年頃に相違ない。母親そっくりだった。彼女がやはり、子供のときは実際以上にもっと可《か》愛《わい》かったろうと思わせる、そうした女だった。
「なんにも憶えていらっしゃいませんでしょうね」と、ミセス・ストリックランドは、誇らかに笑いながら言った。「娘のほうは、今ではミセス・ロナルドソン。夫は砲兵少佐なんですのよ」
「ええ、主人《たく》は本当の軍人になるつもりなんですの」ミセス・ロナルドソンがいかにも楽しそうに言った。「だもんで、まだ少佐にしかなれないんですわ」
そういえば、ずっと以前、彼女がきっと軍人の妻になるというようなことを予想したことを憶えている。いわば運命なのだ。軍人の妻たるべきあらゆる美点を具えているといってもよい。なるほど物柔らかで、人あたりもよかった。だが、そのうちにも、世間普通の女などと一緒にしてもらいたくないとでも言いたげな内心の確信を、ほとんど隠しきれないようだった。ロバートのほうは、元気そうな若者だった。
「せっかくいらしてくだすったときに、ちょうどロンドンにいて実に幸福だったと思います」と、彼は言った。「休暇はたった三日間だもんですから」
「帰りたがって仕方がないんですのよ」と、母親が横から言った。
「いや、こんなことを言うと、どう思われるかしらないが、前線というのは実に愉快なもんですよ。友達もいくらだってできますしね。なんといっても第一級の生活ですよ。もちろん戦争とか、そういったものは、恐ろしいもんでしょう。だが、人間のいちばんいいところが出るのも、やっぱり戦争ですからね。これだけは否定できないと思うんですよ」
それから僕は、タヒチで聞いたストリックランドの話をしてやった。もっとも、アタとあの子供のことだけは、言う必要もないと思ってやめたが、その他の点はできるだけ正確に話してやった。そして最後にあの悲痛な死のことを話して、それで話はおしまいにした。一、二分間は、みんな黙々として向い合っていた。やがてロバートがマッチを擦って、紙巻に火を点《つ》けた。
「神の挽《ひ》きたもう臼《うす》は緩けれど、いと精《くわ》しく挽きたもうなり、ですからね」と、幾分しみじみとした調子で、彼が言った。
ミセス・ストリックランドと、ミセス・ロナルドソンは、ちょっと敬虔《けいけん》そうな顔をしてうなだれた。きっと今の言葉が、てっきり聖書からの引用だと思ったからであろう。そういえば、ロバートまでが、同じ幻覚《イリュージョン》を持っているのではないかと、そんな気さえ僕はした。だが、そのとき突然、僕はなぜかしらあのアタの生んだストリックランドの息子のことを思い出したのだ。人の話では、陽気で快活な青年だということだった。粗木綿《ダンガリー》ズボン一つで、小型帆船《スクーナー》に働いている彼の姿を心に描いてみた。夜が来て、船脚が軽い微風に乗っているときなど、水夫たちは上甲板に集まるし、船長や船荷監督なども甲板椅子《いす》にもたれて、パイプをくゆらしていることだろう。僕は、あの喘息《ぜんそく》病《や》みのような手風琴《コンセルテイナ》に合わせて、仲間の水夫たちと踊り狂っている彼を見るような気がした。仰げば青空と、空いっぱいの星《ほし》屑《くず》だ、そしてあたりは見わたすかぎり、あの太平洋の蒼茫《そうぼう》だ。
聖書からのある引用が、ふと僕の唇まで出かかった。だが、思い返して口を緘《つぐ》んだ。つまり、あの聖職者という人種は、彼らの禁猟区へ少しでも俗人の立ち入ることを、まるで涜神《とくしん》行為ででもあるかのように心得るからだ。僕の叔父で、二十七年間もウィトスタバルの牧師をしていたヘンリーは、そんな場合に、悪魔でも聖句を身勝手に引用することはできるからね、とよく言ったものだった。彼はす《ロ》ばらしい本場牡蠣《イヤル・ネイテイヴ》が十三も、たった一シリングで買えた時分のことを思い出していたのである。
解説
中野好夫
『月と六ペンス』は、モームがジュネーヴでの諜報《ちょうほう》機関の激務に健康を害し、一九一八年スコットランドのサナトリウムに静養中に書き上げられ、翌一九年出版を見たものである。この作品は、周知のように、「画家ポール・ゴーギャンの伝記から暗示を受けたものである」が、モームがこの題材によって小説を書く腹案を抱いたのは一九〇三年彼のモンマルトルの生活がはじまって間もなくであったらしい。彼がセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ等の後期印象派の作品を知ったのはすべて、この頃《ころ》であるが、彼は作品としてはセザンヌに最も深い感銘をうけ、人間としてはゴーギャンに最も動かされたのである。そのことは、『人間の絆《きずな》』の中に見える、この当時のパリの芸術家たちの会話の中にすでに一度現われているのを見てもわかる。モームは、当時出ていた唯一《ゆいいつ》のゴーギャン伝を読み、深くその小説化を決心したらしいが、彼は実に十年間そのまま胸の奥に醗酵《はっこう》するのを待ち、前述ジュネーヴにおけるホテル生活中にようやく構想の熟するのを覚え、一九一六年のタヒチ旅行においてはっきり具体的な想像を与えられたのである。
出版されるとたちまち英米両国においてベスト・セラーになった。殊《こと》にアメリカでは、最初の半カ年に十万部を売ったというので、この数字は当時の事情からすれば驚くべき数字だった(それで思うのは、もしこれが今日ならば、もうとっくにそこいらのハッタリ先生の好《こう》餌《じ》とばかり、とても筆者などの手にかかる望みはないのであるが、幸か不幸か、筆者もまたモーム得意の冷笑的《シニカル》な薄笑いを禁じ得ないのである)。さらに今一つ大切なことは、この『月と六ペンス』の名声によって、改めて前作『人間の絆』が大衆によって読み直され、小説家モームの位置は不動の確立を見たことである。筆者の正直な判断を言えば、その芸術的至純さに至っては、『月と六ペンス』は到底『人間の絆』の高さに及ぶものではない。『人間の絆』に至っては、モームその人に対する思想的批判は別として、芸術的完成においては殆《ほと》んど妥協というものは見られない。それに反して『月と六ペンス』においては、あらゆる意味で、通俗的興味を作者は見事にねらい当てている。小説は、勇敢にプロットと「やま」とを利用し、巧みに読者の興味を捉《とら》えるべきであるという彼の主張を、恐らく最も見事に実践した作品であろう。では、モームの通俗性とは? それは改めて後述することにしよう。
『月と六ペンス』は、ゴーギャンの伝記に暗示を得たものであると言った。だが忘れてならないことは、これは決して伝記ではない。あくまで一個の小説であり、そして「詩と真実」であることである。ゴーギャン自身については、今日ではすでに十に余る伝記が書かれ、「真実」のゴーギャンが、決して、「詩」のストリックランドでないことは言うまでもない。ストリックランドの中には、むしろ多分にセザンヌ、ランボー、ヴァン・ゴッホの面影《おもかげ》が入っていること、あるいは実にモーム自身が少なからず織り込まれていることは批評家の指摘する通りである。しかし反面に、その後出版されたゴーギャンの『日記』等の中に、はなはだしくストリックランド的なもののあることもこれまた動かし難《がた》い事実であろう。事実その後のゴーギャン伝が必ずこの小説について一言(多くの場合反駁《はんぱく》であるが)も言及しないのは殆んどなく、またこの小説が、英米のゴーギャン熱に拍車を加えたことは事実であるが、しかし問題は決してゴーギャン対ストリックランドの類似にあるのではなく、全くモームの創造した性格ストリックランドにあることは言うまでもない。
『月と六ペンス』を一読する読者がおそらく直ちに気付くであろうことは、作者が殊更に小説らしくなく書いていることだろう。全編、殊に舞台がタヒチへ移ってからは、はなはだしく断片的である。事実この作が出版された時、ある一部の批評家の非難は少しも小説らしい構想がないということだったのである!! 成程、いわゆる恋愛シーンもなければ、人物もストリックランドを除いては、誰《だれ》一人一貫する性格はない(語り手「僕《ぼく》」は無論別として)。それにいわゆる近代小説の殆んど必《ひっ》須《す》条件ともいうべき心理分析や、動機づけに恐ろしく無精であることに気がつくであろう。作者の全知という、小説家の特権をさえ彼は捨てているかに見える。しかし再考するならば、この通俗小説的でない構想の中に、実は作者の非常に巧妙な計算に基づく驚くべき通俗さが盛りこまれているという、いわば逆説的効果をいみじくも狙《ねら》っているものであることに気がつくだろうと思う。描かれた性格としてはかんじんなストリックランドのはなはだしい通俗的興味に対して、挿《そう》話《わ》的人物ではあるが、ダーク・ストルーヴの鮮明さは、けだし本作品(あるいはかかる一種の芸術家型を描いた世界文学中)の圧巻ではあるまいか。
モームくらい安心して通俗作家だと言える作者は珍しかろう。「僕は批評家たちから、二十代には残忍《ブルータル》だと言われ、三十代には軽薄だと言われ、四十代には皮肉《シニカル》だと言われ、五十代では一寸《ちょっと》やると言われ、現在六十代では皮相だと言われた」と洒々《しゃあしゃあ》として書いている彼である。『回想録《サミング・アップ》』の中では、読者というものは作者をイリュージョンの霧の中に置きたがるものだと冷笑しながら、いかに金のために通俗小説を書いたか、自作の内幕話を平然と述べたてている彼である。彼を通俗作家ということくらい造作ないことはない。ただしかし彼は、ではシェイクスピアは、そしてまたモリエールは果して通俗作家でなかったかと反問するであろう。あるいはまた彼のいわゆる絵模様の人生哲学も、決して「皮相」の批評を免《まぬか》れるものではないだろう。一体モームには前世紀末から今世紀初頭にかけて芸術家的魂の形成を経験した多くの作家に免れ得ない、世紀末唯《ゆい》美《び》思想の悪影響がこびりついて、むしろ彼の芸術思想の発展大成を妨げているようにさえ思える。彼の作品を読んで、彼が美とロマンスの幻を大《おお》真面目《まじめ》に説けば説くほど、何か二十年前の文学運動をそのまま土の下から蘇《よみが》らせてきたような時代錯誤の通俗性も確かにある。あるいはまた、彼のプロット構成がいかにハッタリ沢山の意識的なものであるかということも一応批判を免れるものではあるまい。
しかしかかる通俗性の皮を一枚一枚剥《は》いでいった後に、モームの場合、果してラッキョウの皮を剥《む》くように何一つとして残らないであろうか。そこに彼の通俗さの最後の問題が残っていると思う。私見によれば、モームの作品は一切の通俗性という皮を剥ぎとってしまった最後に、人間の不可解性という、常に最後の核に打《ぶ》つかるのである。人間は彼自身にさえどうにも出来ない、複雑極まる矛盾の塊である。人間の動機は決して理知のよく説明し尽せるような単純なものではない。いわば永遠の謎《なぞ》なるものとして人間の魂を描くこと、これが彼の一生を通じて歌いつづけている唯一の主題であるといってよい。その他の点で彼がたとえいかに通俗作家であろうとも、彼はこの最後のぎりぎりにおいて、文学永遠の主題、あるいは文学のみがよく取り組みうべき問題と必死に取り組んでいるのである。これをしも通俗というならば、作家はむしろ勇気と自信をもってこの通俗さと格闘すべきであろう。少なくともモームは、たとえその他のすべての点で芸術的《・・・》であって、しかもただこの最後の一つの堡塁《ほうるい》を失うよりは、たとえ他のすべての点でいかに浅薄、皮相、通俗であろうとも、なおこの最後のものを失わざらんことを選んだであろう。筆者はもし恐るべき批評家たちから『月と六ペンス』をなぜ訳出したかと問われるならば、わが国の通俗作家の歩むべき道に何らかの暗示を投じるものではあるまいかというのが第一動機であって、必ずしも卑俗な意味で大衆化されることが筆者の希望ではない。
最後に、『月と六ペンス』という題名は、スタンダールの『赤と黒』のごとき象徴的意味をもつもので、「月」は、人間をある意味での狂気に導く芸術的創造情熱を指すものであり、「六ペンス」は、ストリックランドが弊《へい》履《り》のごとくかなぐり捨てた、くだらない世俗的因襲、絆《きずな》等を指したものであるらしい。
(昭和三十四年九月)