モーパッサン怪奇傑作集
モーパッサン/榊原晃三訳
目 次
手
水の上
山の宿
恐怖
オルラ
髪の毛
幽霊
だれが知ろう?
墓
痙攣《ティック》
訳者あとがき
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手
みんなは予審判事のベルミュティエ氏を取り囲んでいた。判事はサン・クルーで起こった怪事件について意見を述べていた。一カ月前から、この不可解な犯罪はパリじゅうを震え上がらせていた。だれにも事件の真相はまるで解らなかった。
ベルミュティエ氏は暖炉を背にして立ち、おおいに話し、いろいろな証拠を拾い上げ、さまざまな意見を検討したが、結論は下さなかった。
多くの婦人たちは、席をはなれて、つっ立ったまま、重々しい言葉が洩《も》れて来る司法官の、ひげをそったばかりの口元にじっと目をこらしていた。みんな、ぞっとして、がたがた震えていたが、怖いもの見たさで、この心につきまとって空腹のように苦しめる恐ろしい恐怖を飽くことなく知りたいという気持に駆られていた。
なかでも、ほかの婦人よりも顔を真青にした一人が、話の合い間に、こう言った。
「怖いわね。きっと[超自然]に関係があるのよ。ぜったい、解りっこないわね」
判事が彼女のほうに振り向いて、
「そうですよ、奥さん、おそらくお解りになりますまい。でも、[超自然]とおっしゃいましたが、それはこの際、意味がないでしょう。だって、われわれの直面しているのは、非常に巧妙に計画され、実に巧みに実行された犯罪であり、しかもあまりに謎に包まれているので、これを取り巻く不可解な事情を明らかにすることができないくらいですからね。でも、わたしは、昔のことですが、ほんとにどこか怪奇めいたところのあるような事件を調査したことがありました。もっとも、解決する決め手がなくて調査を放棄しなければなりませんでしたがね」
と言い終ると同時に、婦人たちが、声が一つにしか聞こえないくらいすばやく言った。
「そのお話をしてください!」
ベルミュティエ氏が重々しく笑った。いかにも予審判事らしい笑いだった。そして話し始めた。
「少くとも、わたしはその事件にどこか超人間的なところがあろうとは一瞬も考えたことはありませんでしたよ。もともとわたしはまともな事件しか信じないのです。しかし、わけの解らないことを表現するのに[超自然的]という言葉を使わないで、ただ[不可解]という言葉を使うだけにすれば、このほうがずっとふさわしいと思います。とにかく、これからお話ししようとする事件において、わたしが感動させられたのは、ことに事件の周囲の事情、つまり予備的な事情だったのです。では、その事情をお話ししましょう。
そのころ、わたしはアジャクシオ〔コルシカ島にある町〕で予審判事をしていました。アジャクシオは、周囲をぐるりと高い山で囲まれた美しい入江のほとりに寝そべっているような、白い小さな町です。
ここでわたしがとくに取り扱ったのは復讐事件でした。堂々たるものもあれば、極端に芝居がかったものもあれば、残忍なのも英雄的なのもありました。ここには、考えられるよりかずっとすばらしい仇討《あだう》ちの材料があります。百年にも及ぶ憎しみとかね。こういうのはたとえ一時おさまっても、決して消えはしません。それから唾棄すべき策略や、ほとんど名誉ある行為と言ってもよいような、虐殺に発展した殺人とかがあるのです。二年このかた、わたしが耳にするのは血であがなわれる事件ばかりでした。コルシカ人というのは、ちょっとでも侮辱されると、侮辱した人間ばかりか、その子孫や親戚にまで力ずくで復讐するという恐るべき偏見を持っているのです。わたしは老人や子供や従兄弟まで殺されるのを見ましたよ。当時わたしは、そんな話で頭がいっぱいでした。
さて、ある日、一人のイギリス人が入江の奥にある小さな別荘を数年間の契約で借りたことを、わたしは知りました。その男は、来る途中マルセイユで傭《やと》ったフランス人の下男を連れていました。
間もなく、世間はこの奇妙な男に注意するようになりました。だって、男は狩猟か釣りに行く以外は外に出ないで、家に一人で引きこもっていましたからね。だれとも話をせず、決して町にやって来ないで、毎朝一、二時間、ピストルと騎銃《きじゅう》を撃つ練習をしていました。
この男をめぐって、いろいろな噂が立ちました。政治的な理由で祖国から亡命して来た高官だと主張するものもいました。そうかと思うと、何か恐るべき犯罪を犯して隠れているのだ、と断言するものもいました。とくに恐ろしい状況を引用しさえするものもいました。
わたしは予審判事として、この男について何か情報を得ようとしましたが、何一つ知ることはできませんでした。この男はサー・ジョン・ロウウェルと称していました。
それで、わたしは彼を近くから監視するだけで満足するほかありませんでした。実際、彼について怪しいところを教えてくるものは一人もいませんでしたからね。
ところが、彼についての噂は絶えるどころか、ふくれ、広がったので、わたしは自分でこの奇妙な男に会うようにしてやろうと決心して、彼の屋敷の近くで定期的に猟をやり始めました。
わたしは長いこと機会を待っていました。とうとう、その機会が、わたしが撃って、そのイギリス人の目の前に落ちたヤマウズラの形をしてやって来ました。わたしの犬がその獲物をくわえて来ましたが、わたしはすぐその獲物を持って、サー・ジョン・ロウウェルのところへ行き、こちらの失礼をわび、死んだ鳥を受け取ってくれるよう頼みました。
それは、髪もひげも赤毛の大男で、背も高いし幅もあり、まるでおだやかで礼儀正しいヘラクレス〔ローマ神話に出てくる怪力の勇士〕といったところでした。彼にはイギリス人のいわゆるかた苦しさが少しもなく、英語なまりのフランス語でわたしの心づかいに心から感謝しました。それから一カ月たつうちに、わたしは五、六回会って話し合いました。
とうとう、ある夕方、彼の家の前を通りかかると、彼が庭で椅子にまたがってパイプをふかしているのを見かけました。わたしが挨拶すると、彼は家に入ってビールを一杯飲むように誘ってくれました。わたしはさっそく承知しました。
彼はわたしをイギリス人らしくとても細かく気を遣った丁重さでもてなし、フランスやコルシカのことをほめちぎって話し、この国とこの浜辺がとても好きだと言いました。
そこで、わたしは、よくよく注意を払いながら、しかしとても興味がありそうな顔をして、彼の生活や計画について二、三たずねてみました。彼はべつに困惑するでもなく答えて、アフリカ、インド、アメリカなどよく旅行したことを語りました。そして、笑いながら、こうつけ加えました。
『オオ! イエス、わたし、ずいぶん、いろんなことしましたよ』
それから、わたしが猟のことを話題にし始めると、彼は河馬《かば》狩りや、虎狩りや、象狩りや、それにゴリラ狩りのことまで、とびきりめずらしい話をくわしくしてくれました。
わたしは言いました。
『そういう動物はとても恐ろしいでしょう』
彼は笑って、
『オオ! ノー、いちばん恐ろしいのは人間です』
彼は満ち足りている太ったイギリス人らしい快い笑いで、ほんとうに笑い始めました。
『わたし、人間狩りもどっさりしました』
それから、彼は武器の話をしました。そしてわたしを家の中に招じ入れて、いろいろな型の銃を見せてくれました。
客間は黒い布、金糸の刺繍《ししゅう》をほどこした黒い絹で張ってありました。黄色の大きな花がいくつもくすんだ布地いっぱいに咲いていて、それが焔《ほのお》のように輝いていました。
『これは日本の布です』
と彼は言いました。
しかし、いちばん大きな羽目板の中央に、ある奇妙なものがあって、それがわたしの目を惹きました。四角い赤いビロードの上に、ある黒い物体が浮き出ていました。わたしはそばへ寄ってみました。それは手でした。人間の手でした。まっ白く清潔な、骨になった手ではなく、ひからびた黒い手で、黄色い爪と飛び出した筋肉がついていました。前腕の中ほどから、オノですっぱり切ったように、みごとに切れた骨が見え、それに古い血が、垢《あか》のようになって残っていました。その汚い手首のまわりには一本の太い鉄の鎖がくい入るようにしっかりと巻きついていて、象をつないでおくこともできそうなほどがんじょうな輪で壁にくっつけてありました。
わたしはたずねました。
『これはなんですか?』
イギリス人は平然と答えました。
『これ、わたしのいちばんの敵ですね。アメリカから持って来ました。軍刀で断ち切られ、よく切れる石で皮をむかれて、それから一週間、天日で乾かされました。おお、これ、わたしのとても大切なものです』
おそらく大男のものだったにちがいないこの人体の断片に、わたしは触ってみました。とびきり長い指が、皮ひもでところどころとめられている太い腱《けん》でつながれていました。この手は見るだけでぞっとするもので、このように皮をはがされているのは、当然、なにか残忍な復讐を考えさせました。
わたしは言いました。
『この男はきっととても強かったでしょうね』
イギリス人が静かに言いました。
『オオ、イエス。でも、わたしのほうが強かったですよ。この鎖で彼をしばりつけてやったのです』
わたしは彼は冗談を言っているのだと思いました。それで、こう言いました。
『この鎖は今はもう要らないでしょう。この手がにげることはありますまい』
すると、サー・ジョン・ロウウェルは真剣な顔で言いました。
『こいつはいつだってにげたがっています。この鎖は必要です』
わたしはちらっと彼の顔を見て、心の中でこう思いました。
(この男は気狂いだろうか、それとも悪ふざけをしているのだろうか?)
しかし、彼の顔はやはりもの静かで優しくて、どうも不可解でした。わたしはほかの話題に移して、銃をほめてやりました。
ところが、わたしは、弾丸をこめた三丁のピストルが家具の上にあるのに気がつきました。まるで、この男がいつも攻撃されるのを恐れながら暮らしているようでした。
それから、わたしは何度も彼の家へ行きましたが、そのうち、行かなくなりました。みんなもこの男の存在に慣れてしまい、彼はわたしたちから忘れられてしまいました。
一年過ぎました。さて、十一月末のある朝、うちの下男がわたしを起こして、サー・ジョン・ロウウェルが夜のうちに殺されたことを知らせました。
三十分後、わたしは警察署長と憲兵隊長といっしょにイギリス人の家へ入って行きました。下男が悲嘆と絶望にくれて、玄関の前で泣いていました。わたしはまずこの下男を疑いましたが、彼は無罪でした。
どうしても犯人を見つけることはできませんでした。
サー・ジョンの客間に入ると、わたしはまず部屋のまんなかに仰向けになって横たわっている死体をちらっと見ました。
チョッキは破れ、むしり取られた袖がぶらさがり、すべてが恐ろしい格闘の行なわれたことを物語っていました。
イギリス人は絞め殺されたのでした! 彼の黒く、ふくれ上がった、脅えた顔は、恐るべき恐怖を表わしているようでした。歯の間には、何かを堅く食いしばり、首には、鉄の釘ででも打たれたような穴が五つあいていました。
医者がやって来ました。医者は死体の肉についている指の跡を長いこと調べていましたが、こういう奇妙なことを言いました。
『まるで骸骨にでも絞め殺されたようですな』
わたしは背筋がぞっとして、壁のほうに目を上げました。ところが、あの皮をむかれた恐ろしい手は、もうそこにはありませんでした。鎖は切れて、ぶらさがっていました。
そこで、わたしは死体にかがみこみました。そして、食いしばった歯のあいだに、あの消えた手の指を一本見つけました。指はちょうど第二|指骨《しこつ》のところで切られて、いやむしろ食いちぎられていました。
それから検証に取りかかりました。だが、何一つ発見されませんでした。どのドアにも、どの窓にも、どの家具にも異状はありませんでした。二頭の番犬も目を覚まさなかったようでした。
下男の供述は次のようでした。
『一カ月前から、主人は不安におそわれているようでした。手紙がたくさん来ましたが、つぎつぎに焼いてしまいました。
ときどき鞭《むち》をつかんで、気がちがったみたいにたいそう腹を立てて、あの手を、壁にはめこまれ、どういう方法でか解らないが犯罪が起こった時に取り除かれたあのひからびた手を、はげしく打っていました。
主人は夜とても遅く寝て、戸じまりにはよく気をつけていました。いつも武器を手の届くところに置いていました。ときどき、夜中に、大声でしゃべっていましたが、まるでだれかと、けんかしているみたいでした。
事件のあった夜は、偶然にも、何の物音もしませんでした。それで、わたしは窓を開けにやって来て初めてサー・ジョンが殺されているのを発見したのです。わたしには思い当たるような人はありません』
わたしは死者について知っていることを司法官や警察官に伝えました。そこで、島中が細かく捜査されました。しかし、何一つ発見されませんでした。
ところで、犯行後三カ月たったある夜、わたしは恐ろしい夢を見ました。あの手が、あの恐ろしい手が、サソリのように、クモのように、カーテンに沿って、壁に沿って走り廻るのを見たような気がしました。三度、わたしは目を覚まし、三度、また眠りこんだのですが、三度とも、わたしはあのいまわしい肉の断片が、その指をまるで足のように動かしながら、部屋中走り廻っているのを見たのです。
その翌日、墓地で、サー・ジョン・ロウウェルの墓の上で発見されたその手を、だれかがわたしのところへ持って来ました。彼は、家族が見つからなかったので、ここの墓地に葬られたのでした。その手には食指《しょくし》が欠けていました。
さあ、奥さまがた、わたしのお話はこれだけです。これ以上は何も存じません」
婦人たちは、もう無我夢中で、真青な顔をして、ぶるぶる震えていた。中の一人がこう叫んだ。
「でも、それだけでは結末になってないし、説明にもなっていないではありませんか! あなたがお考えになったことをお話ししてくださらなければ、わたしたち、眠れませんわ」
司法官が、いかめしそうにほほえんだ。
「おお! 奥さまがた、わたしの考えなどお話ししたら、あなたがたの恐ろしい夢をぶちこわしてしまいましょう。わたしはとても簡単に考えているだけです。その手の正当な持ち主は死んでいるわけではなく、まだ残っているほうの手でその手を捜しに来たのだ、と。しかし、例えばそれをどんな方法でしたかということは、わたしには知ることができませんでした。まあ、一種の復讐だったのでしょうね」
一人の婦人が小声で言った。
「いいえ、そんなはずありませんわ」
すると、予審判事は、やはり微笑みながら、こう言って結んだ。
「だから、初めに申し上げたでしょう、わたしの説明はあなたがたには通用しないだろう、って」
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水の上
この夏、パリから数マイルのところのセーヌ河のほとりに、わたしは小さな田舎家を借りて、毎晩、そこへ泊りに行った。数日すると、ある近所の男と知り合ったが、それは三十から四十くらいの年の男で、これまで一度も出会ったことのないような変り者だった。老練なボート乗りだが、それがいつも水のそばにいる、水の上にいる、水の中にいるといった、一種のボート狂だった。きっとボートの中で生まれたにちがいないし、死ぬのもおそらくボートの中で、ボートを漕ぎながら最期をとげることだろう。
ある晩、その男と二人でセーヌ河のほとりを散歩していた時、わたしは何か水の上の生活にまつわるおもしろい話を聞かせてほしいと頼んでみた。すると、たちまち、男は活気づき、顔色も変り、雄弁になり、まるで詩人のようになった。彼の胸の中では、偉大な情熱、身をさいなむほどの情熱、つまり河というものがひそんでいたのだ。
「そんな話ならいくらもある!」男は言った。
「いま、わしらの目の前で流れているこの河にまつわる想い出だって、どれくらいあることか! あんたがたのように町に住んでいる人間は、河というものがどんなものか知らないんだ。ところが、漁師がこの河という言葉をどんなふうに発音するか聞いてみるといい。漁師にとっては、河は底知れぬ、得体の知れないものだ。いわば幻影と夢幻の国なんだ。つまり河では、夜になると、ありもしないものの姿が見えたり、決して耳にしたこともない物音が聞こえたりする。まるで、墓地を通り抜ける時みたいにわけもわからずに体が震える。実際、墓地の中でもいちばん不気味な墓地なんだ。なにしろ墓石のない墓地だからな。
漁師にとっては、陸には限界があるけれども、月のない夜の暗闇の中では、河は無限なのだ。海で暮らす水夫は、海についてそのようには感じない。そりゃ海だって、時に頑固で、意地悪なこともある。だが、海は大声で叫ぶし、わめくし、堂々としている。大海というのはそういうものだ。ところが、河というものは黙りこくっていて陰険だ。唸り声も上げずに、いつだって静かに流れている。この水の永久運動が、わしにとっては、大海の高波などよりうんと恐ろしいのだ。
夢想家の主張するところによると、海はその懐ろに、青味がかった広大な国を隠しているという。その国では、溺死者たちが大きな魚の群れに混じって、ふしぎな森や水晶の洞窟の中を流れて行く。ところが、河には暗い深みしかなくて、そこでは、どんなものも泥の中で腐りはててしまう。と言っても、河が美しくなる時もある。朝日を受けてきらきら光っている時や、そよぐ葦《あし》に覆われた岸にひたひたと寄せる時などは、実に美しいものだ。
どこかの詩人が、海のことをこんなふうに歌っていた。
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大海の波よ、おまえは何と不気味な話を知っていることか!
ひざまずいて子を待つ母らの恐れる深い波よ、
おまえは不気味な話を物語る、高まる潮《うしお》をひた寄せながら、
それゆえにこそ、おまえは夕べ、岸に迫り来る時、
あんなに悲痛な叫びを上げるのか。
[#ここで字下げ終わり]
ところが、あの細っそりした葦が、何とも優しいささやき声で語る物語のほうが、海の波が唸り声で語る悲痛なドラマよりも、もっとずっと不気味だと、わしは思うのだよ。
それはともかく、今は、何か想い出話を聞かせるという頼みだから、もう十年くらい前のことだが、この河でわしが出っくわしたある奇怪な出来事を話してあげよう。
そのころも、今と同じように、わしはラフォンのおかみさんの持ち家に住んでいた。それからルイ・ベルネという親友がいた。が、この男は、ボート漕ぎも、そのはなやかだが、なりふり構わぬ暮らしも、今ではもう見捨てて、国務院に入ってしまったが、そのころは下流のCという村に住んでいた。わしら二人は毎日いっしょに晩飯を食べたものだ。その男の家で食べたり、わしの家で食べたりした。
そして、ある晩のことだ。わしは一人ぼっちで、それにかなり疲れていたので、持ち舟の大きなボートを骨を折って糟ぎながら、家に戻って来た。ボートは長さ十二フィートのオセアン型で、いつも夜だけ使うことにしていたやつだ。鉄橋の手前二百メートルほどのところの、葦の群れの先あたりで舟を停めて、一息つこうとしたんだ。とてもいい時候だった。月が照って、河面はきらきらと光り、空気はそよとも動かず生暖かだった。わしはこの静けさに気を惹かれた。こういう場所で一服やったらさぞうまかろう、と思った。そう思うと、すぐに行動した。つまり、錨《いかり》をつかんで河に投げこんだのだ。
ボートは流れとともに少し流れたが、錨の鎖が伸び切ったところで止まった。そこで、わしは羊の皮を敷いた艫《とも》に、できるだけ楽な格好で座りこんだ。あたりは静まり返って、何も聞こえない。ただ、ときどき、河水が岸を打つかすかにひたひたいう音が聞き分けられるような気がした。そして、ひときわ高く茂った葦の群れが目に入ったが、それはなんだか不思議な形をしていて、ときどき風にそよいでいるように見えた。
河はまったく静まり返っていた。が、わしはまわりの異常な静けさにかえって心を乱されるような気がした。カエルやガマといった動物たち、こうした沼地に住む夜の歌手たちも、みんな押し黙っていた。と、いきなり、右のほうで、一匹のカエルが鳴いた。わしはぞっとした。が、それも鳴きやみ、それっきりもう何も聞こえなかった。そこで、わしは気を晴らすためにもう一服やることにした。ところが、わしは名うての煙草のみなのに、どういうわけか、もうそれ以上煙草をのめなかった。二服目をのもうとしたとたん、嫌気がさして、やめてしまった。そこで、鼻歌を歌おうとしたが、自分の声の響きにぞっとしてしまい、しかたなく、ボートの底に横になって、空をながめた。しばらく、そうして落ち着いていたが、やがて、ボートの軽い揺れに不安を覚えて来た。ボートが河の両岸に代る代る触れながら大きく揺れているような気がしたのだ。それから、何物かが、何か目には見えない力が、ボートをそっと河底のほうへ引っぱって、また持ち上げ、再び下へ落とそうとしているような気がした。わしはまるで嵐の中にいるように激しく揺すぶられていた。まわりには、いろいろな物音が聞こえていた。わしははっと起き上がった。が、河面はきらきら光り、何もかも静まり返っていた。
どうやら神経が少しまいっているなと了解したので、その場を引き上げることにした。錨の鎖を引っぱると、ボートは動き出したが、鎖を引く手にさからう力があるように感じた。そこで、もっと強く引っぱってみた。が、錨は上がって来なかった。河底で何かにひっかかっているにちがいない。錨を引き上げることができないのだ。もう一度引っぱってみたが、やはりだめだった。そこで、わしは舵を動かしてボートを河上に廻して、錨の位置を変えてやろうとした。が、やはりむだだった。錨はびくともしなかった。わしは腹が立って、鎖をむちゃくちゃに振ってみたが、やはり微動だもしなかった。わしはすっかりまいって座りこんでしまったが、自分の今の状況をよくよく考え始めた。鎖を切ってボートから離そうなどとは考えられもしなかった。だって、鎖はすごく太いし、わしの腕より太い木で舳先《へさき》に釘づけにされているのだから。しかし、実によく晴れ上がった晩だから、そのうちにきっとだれか漁師に出会って、助けに来てもらえると考えた。災難がかえってわしを落ち着かせてくれた。わしは座りこんで、やっとパイプをふかすことができた。ラム酒を一壜持って来ていたので、それを二、三杯飲んだ。すると、自分の今の状況が滑稽になって来た。とても暑い晩だったから、万一の場合は、さして苦痛を感じることなく、野天で一晩過ごすことだってできるのだ。
ところが、とつぜん、船腹に何かちょっとぶつかる音がした。わしはびくっとした。冷汗で全身がぞっと冷たくなった。その音はおそらく、木切れか何かが流されて来て、ボートにぶつかったのにちがいない。だが、それだけのことでも、わしは再び神経の奇妙な高ぶりにおそわれた。わしは鎖をつかみ、必死になって頑張ってみたが、錨は平然たるもので、わしは力つきて、再び座りこんでしまった。
そうこうする間に、河面を這うように漂っていた真白な濃い霧に、河は少しずつ覆われていった。立ち上がってみても、河も、自分の足も、乗っているボートももう見えないくらいだった。それでも、葦の穂先だけはなんとか見えた。それから、ずっと遠くで、平原が月の光で青白く見えた。大きな黒い塊りが空に突き出ているのは、たぶんイタリア・ポプラの木立ちにちがいない。わしは、不思議なくらい真白な綿の層に腰まで埋ずもれているような心地だった。すると、いろいろな怪奇な幻想におそわれて来た。わし自身もう見分けられなくなっているボートにだれかが乗ろうとしているのではないかと想像した。この半透明な夜霧に包まれた河には、わしのまわりを泳ぎ廻っている奇怪なものたちがいっぱいいるのだという気がしてならなかった。わしは恐ろしい不快感におそわれ、こめかみは締めつけられるようで、胸の動悸も激しくなって今にも窒息しそうなくらいだった。そして、正気を失ったのか、泳いでにげようとさえ思った。だが、そう思っただけで、たちまちぞっと怖くなってしまった。この濃い霧の中でそんな無謀なことをすれば身の破滅になることは解り切っている。避けることのできない水草や葦の中でもがき、恐怖のあまり息もつけず、岸は見えないし、もう自分のボートにも戻れないにちがいない。それに、この真黒な河の底に足を引きずりこまれるような気がした。
実際、足を取られる水草や藺草《いぐさ》のない安全な地点に出るためには、少なくとも五十メートルはさかのぼらねばならなかったから、わしがどんなに水泳に巧みでも、十中九まで、この霧の中で方向を定めることができずに、水に溺れてしまうにちがいない。
わしは理性の声に耳を貸そうと努めた。決して怖がらないという堅固な意志が自分にはあるとは感じたが、その自分の意志とは別のものが自分の中にはあるのだ。そして、この別のものが怖がっているのだ。わしはいったい自分は何を怖がっているか胸にたずねてみた。勇敢な「わし」が臆病な「わし」を嘲《あざけ》っているのだ。しかし、わしは、その日ほど、われわれ人間のうちにある二つの存在の対立をはっきり認識したことがなかった。一方は欲するのに、もう一方はそれに抵抗し、こうして、両者は代る代る相手に勝っているのだ。
この説明もつかぬばかげた恐怖感は相変らず増大し、それは激しい恐怖となって来た。わしは身じろぎもしないで、目を見開き、耳をそばだてて、待っていた。だが、いったい何を待っていたのか? わしにはさっぱり解らないのだが、それは恐るべきものにちがいなかった。この時、もし、一匹の魚が水の上に飛び上がったりしたら、これはよくあることだが、それだけでわしはもう気絶してしまって、その場にばったり倒れてしまったことだろう。
が、そうこうするうちに、わしは猛烈な努力をしたおかげで、失っていた理性を少々取り戻すことができた。もう一度、ラム酒の壜を取って、大いにあおった。
ところが、ふとある考えが浮かんで、わしは前後左右を次々に見ながら、力の限り叫び始めた。そして、もう喉からまったく声が出なくなったところで、耳を澄ました――すると、非常に遠くのほうで犬が吠えていた。
わしはまた酒を飲んで、ボートの底に長々と横になった。そうして、たぶん一時間、いやおそらく二時間くらい、そのままじっとしていた。目を開けたまま眠らないで、まわりにうごめいている悪夢に脅かされながら。わしは起き上がろうとしなかったが、そのくせ起き上がりたくってしかたがなかった。それでも、一分また一分と起き上がるのを先に延ばした。「さあ、起きよう!」と自分に言って聞かせるのだが、その実、少しでも動くのが怖かった。が、とうとう、注意にも注意してやっと起き上がった。まるで、ちょっとでも音を立てたら、生命にかかわるとでも思っているみたいだった。それから、舟べりからあたりをながめた。
こんなにすばらしく、こんなにおどろくべき光景など見られるものかと思うくらいのながめに、わしはすっかり眩惑されてしまった。それは仙女たちの住む国の幻のようなながめだった。非常に遠い国から戻ってきた旅人たちから聞かせられる幻の光景、われわれが耳傾けながらも信じようとしない光景だった。
二時間前に河面に漂っていた霧は、今では少しずつ引いて、両岸に立ちこめていた。河をすっかり解放してしまった霧は、両岸に高さ六、七メートルばかりの横に棚引く丘を形作り、その霧の丘は月光を浴びて、まるで華麗な雪の輝きのように光っていた。だから、金糸銀糸で織られたような、これら白い二つの丘の間を流れる河よりほかには、何一つ見えないのだった。そして、わしの頭上の、青味がかって乳色に輝く夜空に、大きくてまんまるな月が、皓々《こうこう》と浮かんでいた。
今では、水中に棲む動物たちがみんな目を覚ましていた。カエルがすさまじく鳴き立てている。かと思うと、右のほうから、あるいは左のほうから、あの短く単調で、もの悲しそうな調べが、聞こえて来る。ガマがかん高い声を星に向かって投げかけているのだ。そして奇妙にも、わしはもう怖くなかった。わしは世にも奇怪な風景のただ中にいたので、もうどんなに奇怪な目に出会っても、たぶんおどろかなかったにちがいない。
そういう状態が何時間続いたのか、わしには皆目解らなかった。とうとう、うとうと眠ってしまったからだ。そして、目を開けた時には、月はもう沈んでいて、空は一面に雲に覆われていた。河水は不気味にひたひたとざわめき、風が吹いて、大気は寒く、あたりはとっぷりと闇に包まれていた。
わしはラム酒の残りを飲んだ。それから、寒さにぶるぶる震えながら、葦の葉ずれの音と河水の不気味な音を聞いていた。わしは努めてあたりを見ようとしたが、自分の乗っているボートも見分けられなかったし、どんなに目を近づけても、自分の両手を判別することさえできなかった。
とは言っても、暗闇の厚味は少しずつ減少して来た。そして、いきなり、すぐそばを、何かの物影が滑って行くのを感じたような気がした。そこで、わしは叫び声を上げた。すると、それに答える声があった。声の主は漁師だった。わしが呼びかけると、漁師は近づいて来た。わしは彼に災難を話して聞かせた。そこで、漁師が自分の舟をわしのボートに横づけにし、漁師と二人で錨の鎖を引っぱってみた。が、錨はやはりびくともしなかった。やがて、朝になった。灰色で、雨もよいの、冷たい朝だった。不吉でいまわしいことの起こりそうな一日らしかった。そして、わしはまた一艘の舟がやって来るのに気づいたので、呼びかけた。その舟の男もわしたちに力を貸してくれた。すると、錨が少しずつ動き始めた。やがて上がって来たが、とてもゆっくりとで、何かえらく重い物を引っかけているようだった。とうとう、黒い塊りが見え、それをわしのボートの船べりに引っぱり上げた。
それは老婆の死体だったんだ、首に大きな石をくくりつけられていたんだよ」
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山の宿
オート・ザルプ地方の、真白い山頂を切り開いている、岩ばかりでむき出しの岩溝には、氷河の足元に、木造の山の宿が集中して建っている。それらの宿と同じように、シェワレンバッハの山の宿も、ゲンミイの隘路《あいろ》をたどる旅行者に避難所として使われている。
その宿は半年だけ開いていて、ジャン・オゼの家族が住んでいた。だが、雪が積もって、谷間を埋ずめ、ロエーシュ村に下りることができそうにないようになると、女たちと父親と三人の息子は山を下り、あとに残される老ガイドのガスパール・アリが、若いガイドのウルリッヒ・クンジと、山育ちの大きな犬のサムとともに、宿を守ることになっている。
こうして、この二人の男と犬は、春まで、この雪の牢獄に閉じこもる。目の前にあるのは、バルホーン山の真白で広大な斜面ばかりで、青白く光る峰々に取り囲まれ、雪の下に閉じこめられ、外部から遮断され、埋ずめられてしまう。雪は周囲に高く積もり、小さな宿を覆い隠し、消し去り、押しつぶさんばかりにし、屋根の上に積もり、窓まで届き、戸口もふさいでしまう。
冬が近づいて来て、里に下りる道も危険になったので、オゼの家族がロエーシュ村に戻る日になった。
まず、三頭のラバが衣類などの荷物を積み、三人の息子に引かれて、先に出発した。次に母親のジャンヌ・オゼと、娘のルイーズが四頭目のラバに乗って下に向かった。
父親は、二人のガイドを連れてジャンヌたちのあとに続いた。ガイドたちは峠まで一家のお伴をすることになるのだった。
彼らはまず小さな湖水を迂回した。湖と言っても、宿の前に広がっている岩でできた大きな穴のことで、今は、その底には氷が張っていた。それから、彼らはシーツのように白く輝く谷間の道をたどって行ったが、まわりには、雪を戴いた峰々がそびえていた。
太陽の光はにわか雨のように、この明るく、凍った白い砂漠の上に降り注ぎ、冷たくまばゆい焔であたりを明るくしていた。この山々の大海の中では、いかなる生命も現れず、この並はずれた孤独の中には、どんな動きもなく、この深い沈黙を乱す物音も一つも聞こえなかった。
若いガイドのウルリッヒ・クンジは、足が長くて背の高いスイス人だったが、徐々にオゼの父親と老ガイドのガスパール・アリを抜かして、二人の女を乗せているラバに追いつこうとした。
若いほうの女は、クンジがやって来るのを見ていたが、悲しげな目で彼に呼びかけているようだった。彼女は金髪の田舎娘で、乳色をした頬も透き通るような髪の毛も、氷の中に長く閉じこめられていたために脱色してしまったようだ。
その彼女を乗せたラバに追いつくと、若者はラバの尻に片手を当てて歩度を緩めた。母親のオゼが若者に話しかけて、冬の間のことをいろいろ事細かに注意した。老ガイドのアリは、十五年も、毎年冬には、シェワレンバッハの山の宿で、雪に閉ざされて過ごして来たのだが、この若者にとっては初めての冬ごもりだった。
ウルリッヒ・クンジは聞いてはいたが、解った様子ではなく、絶えず若い娘を見つめていた。ときどき、「はい、オゼのおかみさん」と返事したが、心ここにあらずで、その穏やかな顔はずっと無表情だった。
彼らはドオブ湖に着いた。凍った細長い湖面が、谷底に広々と広がっている。右のほうには、ドオベンホーン山が、鋭く尖った岩をそびやかし、そのそばに、レーメルン氷河の巨大な堆石《たいせき》があり、それをまた上から、ウィルドストルーベル山が見下ろしている。
ロエーシュ村への降り口になっているゲンミイの峠に近づくと、いきなり、目の前に、ヴァレー州のアルプスの広大なながめが広がり、その手前には深くて広いローヌ渓谷が横たわっている。
それらは、遥か遠くの、白い峰々で、押し潰されたようなのもあれば鋭く尖ったのもあって、一様ではなかったが、いずれも陽を浴びてきらきら光っている。つまり、二本の角を持ったミスシャペル山、ウィスホーンのどっしりとした山塊、荘重なブリュネグホーン山、人殺しのセルヴァンの高くて恐ろしいピラミッド、巨大な妖婦であるダン・ブランシュ(白い歯)山などである。
それから、下のほうに、巨大な穴の中、恐るべき奈落の底に、ロエーシュ村が認められた。村の家々は、この巨大な裂け目の中に砂粒をばらまかれたように散らばっている。この裂け目は、手前のほうはゲンミイによって塞がれ、向こうはローヌ河に面して開いている。
ラバが小道の端に停まった。小道はこれからくねくねと絶えず曲がったり、戻ったりして行く。こうして気紛れだが、ちゃんと続き、狭い山腹をたどって、目に見えないくらい小さな、ふもとの村まで伸びている。女たちは雪の上に降りた。
二人の老人も女たちに追いついていた。オゼ老が言った。
「さあ、お別れだ。二人とも元気でな。じゃ、また来年会おう」
アリ老も繰り返し言った。
「じゃ、また来年に……」
二人は抱き合った。それからオゼのおかみさんも両頬をさし出し、若い娘も母親にならった。
ウルリッヒ・クンジの番になると、彼はルイーズの耳元に「山の宿にいる者のことを決して忘れないでください」と小声で言った。彼女は「ええ」と答えたが、とても低い声だった。それで彼には聞き取れなかったが、言っている意味はなんとなく解った。
「さあ、お別れだ。達者でな」とジャン・オゼが繰り返した。
そして、老人は、女たちの先に立って、小道を下り始めた。
やがて、最初の曲がり角で、彼ら三人は姿を消してしまった。
そこで、二人の男はシュワレンバッハの山の宿のほうに引き返した。
二人は並んで、話もしないで、ゆっくりと歩いて行った。これでお終いだった。二人はこれから四、五カ月間、二人っきりで顔を突き合わせて暮らすのだ。
やがて、ガスパール・アリが、去年の冬の暮らしのことを話し始めた。去年はミシェル・カノールといっしょに冬ごもりしたのだが、この男はとても年を取っていたので、もう冬ごもりをすることはむりだった。長い孤独の生活の間には、どんな事故が起こるか知れないからだ。彼らは退屈しなかった。肝心なのは、最初の日にもう腹を決めてかかることだった。そうすれば、気晴らしや、勝負事など、いろいろな暇つぶしがおのずと見つかって来るものだ。
ウルリッヒ・クンジは目を伏せて話を聞いていた。だが、心のうちでは、ゲンミイの曲がりくねった道をたどって村のほうへ下りて行く人たちのあとを追っていた。
間もなく、二人は山の宿を認めたが、それはやっと見えるくらい小さくて、大きな波のようにうねる雪のふもとの黒い点に過ぎなかった。
二人が戸口を開けると、巻毛の大きな犬のサムが二人のまわりを飛び廻り始めた。ガスパール老が言った。
「さあ、もう女たちはいないんだから、夕飯の支度をしなきゃならん。おめえはジャガイモの皮をむけよ」
二人は木の腰かけに腰を下ろして、パンをスープに浸して食べ始めた。
翌日の午前は、ウルリッヒ・クンジにはひどく長いように思われた。アリ老は煙草をふかしては、かまどの中に唾を吐いていた。若者のほうは、宿の目の前にそびえる光る山を窓越しにながめていた。
若者は午後になると宿を出て、昨日の道をもう一度たどってみた。二人の女を乗せて行ったラバの蹄のあとを地面に捜した。やがて、ゲンミイの峠に来ると、崖の端に腹這いになって、ロエーシュ村をながめた。
その岩の井戸の底にあるような村は、まだ雪に埋ずもれてはいなかった。ただ、雪は村のすぐ近くまで来ていたのだが、そのあたりを守っているモミの林によってしっかり食い止められていた。村の低い家並みは、上から見ると、牧場に舗石を並べたようだった。
オゼの家の娘は、今、あの灰色の家々の一つの中にいるのだ。どの家だろう? ウルリッヒ・クンジは、その家を見分けるのには、自分はあまりに遠くにいるのだと思った。まだ下りることができるうちに、下りて行けたら、どんなによいか!
だが、太陽はすでにウィルドストルーベルのそびえる頂きの背後に沈んでいた。そこで、若者は宿に戻った。アリ老はやはり煙草をふかしていた。相棒が戻って来たのを見ると、トランプを一勝負しようと言い出した。そこで、二人はテーブルをはさんで向かい合って座った。
二人は長いことトランプをしていた。それはブリスクと言われる簡単なゲームだった。それから、夕飯をすますと、寝てしまった。
それからの日々も最初の日と似たりよったりだった。快晴で寒かったが、新たに雪は降らなかった。ガスパール老は午後から出かけて、ワシや、こんな凍りついた高山にやって来るいろいろ珍らしい鳥を撃ちに行った。その間、ウルリッヒのほうはいつも決まってゲンミイの峠まで行って、村をじっと見つめていた。それから、二人はトランプやサイコロやドミノをやり、勝負をおもしろくするためにわずかなものを賭けて、勝ったり負けたりした。
ある朝、アリが先に起き出して、相棒を起こした。ちらちらと動き、深々として軽く、白い泡のような雪が、音もなく、彼らをおそい、彼らのまわりに降って来たのだった。雪は厚くて重い泡の布団の下に彼らを徐々に埋めていった。雪は四日四晩降り続いた。この十二時間の凍結のため、氷河の堆石花崗岩より堅くなった氷の粉の上に出ようとしたら、戸口や窓の雪を取り除いたり、道路を掘ったり、階段を刻んだりしなければならなかった。
それからは、二人の暮らしはまるで囚人のようで、山の宿の外に出ようとはしなかった。二人は仕事を分け合って、それぞれ規則正しくやって行った。ウルリッヒ・クンジは、掃除や洗濯など、宿をきれいにする仕事を引き受けた。薪を割るのも彼だったが、一方、ガスパール・アリのほうは煮たきや火の番をした。この規則正しく単調な仕事の合間には、トランプやドミノの勝負を長い時間かけてやった。二人とも穏やかでおとなしい性質だったので、決して喧嘩などしなかった。辛抱できなくなったり、不機嫌になったり、とげのある言葉を口にしたりすることも一度もなかった。それは、この山の上で冬ごもりすることに対して、二人ともじっと忍従する覚悟だったからだ。
ときどき、ガスパール老は鉄砲をかついで、カモシカ狩りに出かけた。ときたま、しとめることもあった。その時には、シュワレンバッハの山の宿はお祭さわぎとなって、新鮮な肉の大ご馳走が出た。
ある朝、老人はいつもの猟に出かけた。戸外の寒暖計は氷点下十八度を示していた。太陽はまだ昇っていなかったから、老人はウィルドストルーベル山の周辺で獲物をおそってやろうと思った。
一人留守番のウルリッヒは、十時まで寝ていた。彼は生まれつき朝寝坊だったが、いつも元気一杯で早起きの老ガイドの前では、そうそう寝坊をする勇気がなかったのだ。
彼はサムといっしょに朝飯をゆっくりと食べた。サムも昼となく夜となく暖炉の前で寝てばかりいた。食事がすむと、何か妙に悲しくなって来て、孤独が恐ろしくさえ思えて来た。それで、日ごろのトランプ遊びをどうしてもしたくなった。人間はよく打ち勝ちがたい習慣に対する欲求に駆り立てられるものだが、ウルリッヒも同じだった。
それで、彼は、四時には戻って来ることになっている相棒を迎えに出かけた。
雪は深い谷間を一様に平らにしてしまっていた。裂け目を埋ずめ、二つの湖を消し、岩を解らなくしてしまっていた。つまり、大きな峰々の内に、形のはっきりした、まばゆい、凍りついた巨大な白い桶しかなくなってしまったということだった。
三週間前から、ウルリッヒは、村をながめるあの崖ぷちには行っていなかった。そこで、ウィルドストルーベル山へ通じる斜面の道を登る前に、彼はそこへ行ってみたいと思ったのだった。今は、ロエーシュ村は雪の下に埋ずまっていた。家々も、あの青白いマントの下に隠れて、もうほとんど見分けられなかった。
間もなく、右に曲がって、レーメルン氷河にさしかかるところまで来た。石のように堅い雪をアルペン・ストックで突きながら、山男らしく大股で歩いて行った。そして、遠くから鋭い目をこの広大な雪のナプキンに投げかけながら、小さな動く黒い点を捜し求めた。
氷河の端まで来ると、彼は立ち停まった。老人が確かにこの道を来たのだろうか、と胸に聞いてみたのだ。すると、いっそう心配になって、足を速めながら、氷河の堆石に沿って歩き出した。
夕暮れになって来た。雪がバラ色に染まって来た。乾いて凍りつくように冷たい風が、ときどき、結晶した雪の表面にさっと吹きつけた。ウルリッヒは、鋭い震え声を長引かせて友を呼んでみた。が、その声は、山々が眠っている死の沈黙の中に消え去ってしまった。声は、凍りついた泡の、不動で深い波の上を遠くまでひびいて行った。まるで、海の波の上を飛ぶ海鳥の声のようだった。それから、声は消えたが、それに答えるものはなかった。
彼はまた歩き始めた。太陽はもう峰々の向う側に沈んでいて、空に映える光がまだ山を赤く染めていたが、深い谷間はすでに灰色になっていた。すると、とつぜん、若者はぞっと恐くなった。沈黙と寒気と孤独が、冬の山々の死が、いっせいに彼の中に滲みこみ、彼の血を止めて凍らせ、彼の四肢をこわばらせ、彼を凍りついた動かなくなった存在に変えようとしているようだった。それで、彼は駆け出した。山の宿のほうへにげ出した。彼は考えた、老人は、自分の留守中に宿に戻ったのだ、きっと別の道を取ったのだ、今ごろは、仕止めたカモシカを足元に置いて、暖炉の前に腰を下ろしているだろう、と。
やがて、山の宿を認めた。が、煙はまるで出ていなかった。ウルリッヒはいっそう速く走って行って、戸口を開けた。サムが喜んで飛び出して来たが、ガスパール・アリは戻っていなかった。
うろたえたクンジは、家の中をぐるぐる見廻した。まるで、どこかの隅に相棒が隠れているのを捜そうとしているみたいだった。が、やがて、火を起こして、スープをこしらえながら、ひたすら老人が戻って来るのを祈っていた。
ときどき外に出て、老人が現れないかと、うかがってみた。もうすっかり夜になっていた。それは山の中特有の青白い夜、鉛色の夜で、峰々の向こうに沈もうとしている淡く黄色い三日月が、地平線の縁を明るく染めていた。
それから、若者は家の中に引き返して、腰を下ろすと、手足を暖めながら、ありそうな事故のことを想像してみた。
ガスパールは足を折って、穴にでも落ちたのかも知れない。あるいは、つまずいて、くるぶしを捻挫したのかも知れない。それで、雪の中に横になっているのだ。寒さに凍えて手足を硬直させ、居場所も判らなくなって悲嘆に暮れ、そして、おそらくは助けを呼び、沈黙の夜の中で、声を限りに叫んでいるのだろう。
でも、いったいどこでだろう? 山はなんとも広大で、険しく、あたりは危険な起伏に満ちている。この季節では、なおさらのことだ。だから、この広大な世界の中で一人の人間を捜すのにも、十人、二十人の山のガイドが、一週間も四方八方歩き廻らねばならないのだ。
にもかかわらず、ウルリッヒ・クンジは、もしガスパール・アリが真夜中と午前一時の間に戻らなかったら、サムを連れて出かけようと決心した。
それで、彼は支度をした。
リュックサックの中に二日分の食糧をつめこみ、鋼鉄のかんじきを取り出した。細くて強くて長いひもを胴に巻きつけた。それから、いつも持っているアルペン・ストックと、氷を削って階段を作るのに使うオノの具合も調べた。こうして、彼は待った。火は暖炉の中で燃えていた。焔の明かりの下で、サムがいびきをかいて寝ていた。柱時計は、ひびきのよい本箱の中で、まるで心臓のように規則正しく鳴っていた。
彼は待っていた。遠くに聞こえる音に耳をそばだて、かすかな風が屋根や壁をかすめるのにもぞっとしながら、待っていた。
やがて十二時が打った。彼はぶるっと身震いした。おびえて、身体ががたがた震え出したので、出かける前にうんと熱いコーヒーを飲むために湯をわかした。
柱時計が一時を打つと、彼は立ち上がって、サムを起こし、戸口を開けて、ウィルドストルーベル山の方向に向かった。五時間、登り続けた。かんじきを使って岩場をよじ登り、氷を刻んで足場を作りながら、ただ前進した。ときには、あまりに傾斜が険しい場合には、犬をひもの先に縛りつけて引っぱり上げた。こうして六時ごろには、ガスパール老がよくカモシカを求めてやって来る峰の一つにたどり着いた。
そして、陽が昇るのを待った。
頭上で、空が白み始め、とつぜん、どこからとも知れず奇妙な光がさして来て、彼の周囲数百里にわたって、青白い峰の広大な海を照らした。この正体のはっきりしない光は、空中に広がるために、雪自体の中からさし出して来たように思われた。そのうちに、遠くのほうのもっとも高い峰々は、肉のように柔らかなバラ色に一面に染って来た、そして、ベルニナ・アルプの荘重な巨人像の背後に、真赤な太陽が現れた。
ウルリッヒ・クンジは、また歩き始めた。彼は猟師のようにかがみこんで、足跡を捜しながら、そして犬に向かって「捜せ、サム、捜すんだ」と言いながら、歩いて行った。
それから、次に山を降りた。下の奈落のほうは目で捜しながら、またときには、大声を長引かせて呼びかけながら進んだ。しかし、その声は押し黙った広大な世界の中にたちまち消えてしまった。それから、地面に耳を押し当てて聞き入ってみた。ある声を聞きつけたような気がして、駆け出しながら、また呼びかけてみたが、もう何も聞こえて来なかった。もうへとへとになり、絶望して、その場にへたりこんでしまった。正午ごろに、食事をし、彼と同じように疲れ切っているサムにも食べさせた。それから、捜索を再開した。
夜になっても、彼はまだ歩いていた。もう山の中を五十キロも歩き廻っていた。山の宿に帰るのにはあまりに遠くに来てしまっていたので、それにそれ以上歩くのには、疲れ過ぎていたので、雪の中に穴を掘って、犬とともに穴の中にうずくまって、持って来た毛布をかぶった、人間と動物は、体をぴったりとくっつけ合って、たがいに暖め合いながら、それでも骨の髄まで凍えながら寝た。
が、ウルリッヒはほとんど眠らなかった。いろいろな幻想に憑《つ》きまとわれ、手足は寒気に震えていた。
夜が明けようとするころ、彼は起き上がった。両足は鉄の棒みたいに硬直し、まったく意気沮喪して、今にもうめき声を上げそうだった。心臓は激しく動悸を打って、何か物音を聞いたと思うと、もうたちまちびっくりして、倒れそうになった。
とつぜん、彼はもうこうして一人ぼっちで凍死するのではないかと思った。すると、この死に対する恐怖が、彼の気力を刺激したのか、元気を呼び戻してくれた。
そこで、彼は、転んだり、また起き上がったりしながら、山の宿のほうに下って行った。サムは三本の足でびっこを引きながら、遠くからついて来た。
人間と犬は午後四時ごろにやっとシュワレンバッハにたどり着いた。宿にはだれもいなかった。若者は火を起こして食事をすると、すぐ眠りこんでしまった。もう何も考えられないくらい疲れ果てていた。
打ち勝ちがたい眠気におそわれて、彼はいつまでもいつまでも眠り続けた。ところが、とつぜん、一つの声が、ある叫び声が、「ウルリッヒ」と呼ぶのが、彼の深い麻痺を揺り動かし、彼を起き上がらせた。夢を見ていたのだろうか? 不安に脅える人間の夢の中で聞かれる、あの奇妙な呼び声だったのだろうか? いや、ちがう。彼の耳にはそれがまだ聞こえていた。その震える叫びは、彼の耳の中に入りこみ、肉の中に滲みこんで、指先に残っているみたいだった。確かに、だれかが叫んだのだった。だれかが「ウルリッヒ」と呼んだのだった。だれかが宿のそばにいるのだった。それはもう疑う余地がなかった。そこで、ウルリッヒは戸口を開けて、大声でどなった。
「おおい、ガスパールかい!」喉も張りさけんばかりに叫んだ。
だが、返事はなかった。音一つしなかった。つぶやきも、うめき声もなんにも聞こえなかった。もう、すっかり夜だった。雪は青白かった。
風が立った。岩を砕き、荒涼たる高地に決して生物を残さない凍りついた風だった。それは、砂漠の熱風よりもいっそう乾燥し、いっそう致命的な烈風だった。ウルリッヒはもう一度叫んだ。「ガスパール! ガスパール!」
それから、彼は待った。やはり、山の上には沈黙があるだけだった! すると、恐怖に骨まで揺すぶられた。彼は一気に宿の中に飛びこみ、戸口を閉め、閂《かんぬき》をかけた。がたがた震えながら椅子の上にへたりこんだ。確かに、友が息を引き取る瞬間に自分を呼んだのだ。
それは確かだった。生きていることやパンを食べることが確かであるのと同じだった。ガスパール・アリは、どこかの穴か、地中の闇よりももっと不気味な、真白で汚《し》み一つないどこかの深い谷にでも落ちて、二日三晩、死の苦しみを味わっていたのだ。二日三晩、苦しんだあげくに、さきほど、友のことを考えながら息を引き取ったのだ。そして、魂がやっと自由になると、ウルリッヒが眠っている山の宿のほうに飛んで来て、生者に取り憑く死者の魂の持つ、あの恐るべき神秘的な力でもって、彼の名を呼んだのだ。その声のない魂が、眠りこんでいる打ちひしがれた魂の中で叫んだのだ。最後の別れの言葉を叫んだのだ。あるいは、自分をろくに捜してくれなかった男に対する非難か呪詛を叫んだのだ。
すると、ウルリッヒは、その魂をすぐそこに、壁の背後に、今彼が閉めた戸口の向こうに感じた。明かりのともった窓を羽でこする夜の鳥のように、そのへんをさまよっているのだ。若者はもう狂わんばかりになって、恐怖の叫びを上げそうになった。にげ出そうと思ったが、宿から外へ出る勇気もなかった。今もないし、これからもないだろう。なぜなら、老ガイドの死体が見つかって、墓地の神聖な土の中に葬られない限り、亡霊は、昼となく夜となく、山の宿のまわりをさまよっているにちがいないからだ。
やがて夜が明けて、クンジは再びめぐって来た輝く太陽を見て、少しばかり気力を回復した。食事の支度をし、犬にもスープを作ってやると、椅子に腰を下ろしたまま、身じろぎもせず、心をさいなまれながら、雪の中に横たわった老人のことを考えていた。
やがて、夜が山を包むと、クンジは新たな恐怖におそわれた。一本のローソクの火でかろうじて照らされている暗い台所を、彼はただ歩き廻った。部屋を端から端まで大股で歩き続けた。前夜のあの恐ろしい叫びが、戸外の陰気な沈黙を貫いてまた聞こえて来ないかと、じっと耳を澄ましながら。すると彼は自分が一人ぼっちであることを、今こそひしひしと感じた。この哀れな男は、どんな人間も一度も味わったことのない孤独を感じたのだ! 彼はこの広大な雪の砂漠の中で、たった一人なのだ。人のいる大地から、人の住む家々から、活気に満ち、騒々しく、うごめく生活から二千メートルも高い場所で、凍りついた空中で、一人ぼっちでいるのだ! どこへでもいい、どんな方法ででもいい、とにかくここからにげ出して、あの奈落に飛びこんでロエーシュ村へ下りて行きたいという、気狂いじみた欲望に苦しめられていた。といって、戸口を開ける勇気はなかった。きっと、もう一人の男が、あの死んだ男が、自分一人だけこの高所に取り残されまいとして、彼の行く道をふさぐにちがいないのだ。
真夜中ごろになると、彼は歩くのにも疲れ果て、苦しみと恐怖に打ちひしがれて、ついに椅子の上で眠りこんでしまった。人が幽霊の出没する場所を怖がるように、彼は自分のベッドが怖かったからである。
とつぜん、あの前夜の鋭い叫び声が、彼の耳をつんざいた。その叫びはあまりに鋭く、ウルリッヒは両手を振り廻して亡霊を追い払おうとしたくらいだった。たちまち、彼は椅子といっしょに仰向けに倒れてしまった。
その音にサムが目を覚まして、怯えたように吠え出した。そして、危険の迫って来る場所を捜しながら、宿の周囲を歩き廻った。戸口のそばにやって来ると、鼻を鳴らしてしつっこく嗅ぎ廻り、毛を逆立て、尻尾を立てて、唸り声を上げた。
クンジはもう夢中で立ち上がっていたが、椅子の足をつかんで叫んだ。「入るな、入っちゃだめだ、入ると殺すぞ!」しかし、犬はこのおどしにいっそう興奮し、主人の声が挑んでいるその目に見えない敵に向かって、狂ったように吠え始めた。
が、やがて、サムは徐々に落ち着きを取り戻し、暖炉のそばに戻って寝そべったが、やはり不安に怯えていて、首を上げ、目を光らせて、口の中で低く唸っていた。
ウルリッヒのほうも正気に戻ったが、恐怖のために意気沮喪していたので、戸棚からブランデーの壜を一本取って来て、続けて何杯もあおった。頭の中はぼっとして来たが、元気は出て来た。血管の中を、火のような熱が駆けめぐった。
翌日、彼はほとんど食べず、酒ばかり飲んだ。それから数日間、白痴のように酔っぱらっていた。ガスパール・アリのことを考えると、たちまち飲み始めて、ぐでんぐでんに酔っぱらって、床に倒れるまで飲んだ。そのまま、そこにうつ伏せになって、死んだように酔いつぶれ、手足を曲げ、額を床にくっつけたまま、いびきをかいていた。ところが、この人の気を狂わせる、焼けつくような液体を消化してしまうと、とたんにあの「ウルリッヒ」といういつもの同じ叫び声が、まるで頭蓋骨を貫き通す銃弾のように、彼を目覚めさせるのだった。すると、彼はよろめきながら立ち上がり、倒れないように両手を伸ばしながら、サムに助けを求めた。ところが、犬のほうも、主人のように気が狂ったらしく、戸口に駆け寄って、それを爪でひっかいたり、むき出した白い歯で噛んだりした。すると、若者のほうは、胸をはだけ、仰向けになって、走ったあとで水を飲むように、ブランデーをごくごくと飲んだ。すると、やがて、ブランデーが彼の思考も、思い出も、狂おしい恐怖も、再び眠らせてしまうのだった。
こうして、三週間たつと、彼は蓄えてあるアルコールをことごとく飲んでしまった。しかし、この絶え間のない飲酒も、彼の恐怖を一時ごまかしていただけなので、そのごまかしがきかなくなるととたんに、恐怖は前よりもいっそうものすごくなった。すると、例の固定観念が、一か月にわたる泥酔状態によってかえって高まり、この絶対的な孤独の中で絶えず増大し、きりのように彼の体内に刺しこんで来た。今や、彼は檻の中の動物のように家の中をうろつきながら、戸口に耳をくっつけては、もう一人の男が外にいやしないかと耳を澄ましてみたり、壁越しに挑んでみたりした。
が、やがて、彼は疲労にへとへとになってうとうとしたが、再びその声を耳にして、はっと立ち上がらなければならなかった。
とうとう、ある夜、追いつめられた臆病者のように、彼は戸口に駆け寄ってそれを開けると、自分を呼んでいる者を見つけて、なんとしても黙らせてやろうとした。
骨まで凍える寒気をさっと顔に吹きつけられた。彼は慌てて戸口を締めて、閂をさしたが、サムが外に飛び出したことには気づかなかった。寒さに震えながら、彼は暖炉の火に薪をくべて、その前に腰かけて暖まろうとした。が、とつぜん、彼はぞっとした。だれかが泣きながら壁をひっかいていたのだ。
彼は狂ったように叫んだ。「失せろ!」だが、長く、苦しげな、訴えるような声がそれに答えた。
すると、それまで少しは残っていた理性も、恐怖のために吹き飛んでしまった。彼は隠れ場所を捜してぐるぐる歩き廻りながら、「失せろ!」と繰り返すばかりだった。向こうは、相変らず泣きながら、壁に体をこすりつけて、家の周囲を廻っていた。ウルリッヒは、皿や食料品がいっぱい入っている樫材の戸棚のところへ走り寄ると、それを超人のような力で持ち上げて、戸口のそばに引きずって来て、バリケードを作った。次に、羽根布団、藁《わら》布団、椅子といった、残っている家具をすべて積み重ね、まるで敵に包囲されたように、窓もふさいでしまった。
しかし、外にいる者は、今度は気味の悪い呻《うめ》き声を出すので、それに対して、若者のほうも同じような呻き声を立てて答えた。
こうして、昼となく夜となく、彼らは絶えずたがいに吠え合っていた。外にいるやつは、絶えず家のまわりを廻って、爪で壁をひっかき、そのやり方があまりに激しいので、家をぶち壊そうとしているのだと思われるほどだった。家の中にいるやつは、かがみこんだり、耳を壁にくっつけたりしながら、外にいるやつのするとおりのことをやっていた。そして、外のやつに対して、同じような恐しい叫び声を上げて答えていた。
ところが、ある晩、ウルリッヒにはもう何も聞こえなくなった。そこで、彼は座りこみ、猛烈な疲れにおそわれて、すぐに眠りこんでしまった。
彼が目を覚ました時には、もうなんの思い出も、なんの思考もなくなってしまっていた。それはちょうど、あの圧倒的な眠りの間に、彼の頭の中がうつろになってしまったかのようだった。ただ、彼は飢《ひも》じかったので、食べた。
…………………………
冬が終った。ゲンミイの山の道も通れるようになったので、オゼの家族は山の宿に戻るために出発した。
峠の上にたどり着くと、女たちはすぐラバの背に乗った。そして、やがて再会する男たちのことを話し合った。
というのも、数日前から道が通れるようになっていたのに、二人の男のうちのどちらも、長い冬の暮らしのことを知らせに下りて来ないのに、おどろいていたからである。
とうとう、山の宿が見えた。が、まだ雪に包まれていた。戸口も窓も閉まっていた。屋根から煙がかすかに立ち昇っていた。それで、オゼの父親は安心した。ところが、家に近づいてみると、戸口の外に動物の骸骨があるのに気づいた。ワシにつつかれて、腹ばいになっている大きな骸骨だった。
みんなはその骸骨をくわしく調べた。「これはまちがいなくサムですよ」母親が言った。そして彼女は大声で呼んだ。「おおい、ガスパール!」すると、家の中から鋭い叫び声が答えた。それは、けだものが発したと思われるような声だった。オゼの父親が繰り返した。
「おおい、ガスパール!」また、前と同じような叫び声が返って来た。
そこで三人の男、父親と二人の息子が戸口を開けようとした。戸口はなかなか開かなかった。三人は空き家になっている馬小屋から槌《つち》代りに長い梁《はり》を持って来て、それを力いっぱい戸口にぶつけた。戸口は音を立てて壊れ、板はこなごなに飛び散った。一大音響が家を揺るがした。そして三人は、家の中の、崩れた戸棚の背後に、一人の男が立っているのを見つけた。男は髪を肩まで長く垂らし、あごひげは胸まで伸ばして、目をぎらつかせ、体にはぼろぼろになった服をまとっていた。
三人にはその男の見分けがつかなかったが、ルイーズ・オゼが叫んだ。「母さん、これはウルリッヒだよ」髪の毛が真白だったが、それはウルリッヒにちがいない、と母親も認めた。
その男は、みんなに近寄られても、体に触《さわ》られても、されるがままになっていた。だが、何をたずねられても、決して答えなかった。そこで、ロエーシュ村へ連れて行かねばならなかった。医者に見せると、気が狂っているという診断だった。
だが、ウルリッヒの連れがどうなったかは、まったく解らなかった。
オゼの娘は、その年の夏に、体が衰弱して死にそうになったが、みんなは山の寒気のせいにした。
[#改ページ]
恐怖
その一
――ジ・カ・ユイスマンスに
夕食のあと、みんなはデッキに上がった。われわれの前には、地中海がどこまでも小波一つ立てず、ただ大きな静かな月が海面にゆらゆらと影を映しているだけだった。巨大な船は、太い黒煙を大きな蛇のように星空にくねらせながら、滑るように走っていた。背後には、重い船がフルスピードで航行しているので真白な水が波立ち、それはまたスクリューに打たれて泡立ち、捻《ね》じれて、沸き立つ月の光のような無数の光を揺り動かしていた。
われわれ、六人から八人の男たちは、これから行こうとしている遥かなアフリカのほうに目を向けて、黙りこくって感慨にふけっていた。みんなの真中で葉巻をくゆらせていた船長が、とつぜん、夕食の時の会話をむし返した。
「そうですとも、あの日は本当に怖かったんです。わたしの船は六時間も暗礁にとっつかまって波に打たれていたんですから。幸いなことに、夕方ごろ、イギリスの石炭船に発見されて救助されたのです」
われわれの中に、一人の陽焼けした大男がいた。この男はいつも悠然たる顔をし、たえず危険にさらされながら未知の国々を縦横に歩き廻ったような男、その静かな目の奥には自分が見て来た奇怪な風景を秘めているみたいな男、あの一見して勇気のあることが解るといった男の一人だった。その男が最初に口を開いた。
「船長、あなたは怖かったと言われましたが、わたしにはどうも信じられません。あなたは怖いという言葉について、あなたが味わった感覚について、思いまちがいをしておいでです。勇敢な人間というものは、危急に直面しても絶対に恐怖など覚えないものです。興奮したり、動揺したり、不安を感じたりはしますが、それは恐怖とは別物なのです」
船長は笑いながら答えた。
「それがどうして! わたしは怖かったとお答えするしかありませんよ」
すると、陽焼けした男はゆっくりした口調で言った。
「どうか、わたしに説明させてください! 恐怖というものは(どんなに大胆な人間でも怖いと思うことはあり得るのですが)、何か恐るべきもの、残酷な感覚なんです。つまり魂の分解とか、思考と心の恐るべき痙攣《けいれん》とか、そのことを思い出すだけで真底からぞっとするものなんです。ところが、たとえ敵の攻撃を受けても、避けがたい死を前にしても、危険だということが解っているいろいろな事態に出会っても、勇敢な人間なら恐怖などは起こらないのです。恐怖は、ある種の異常な場面、つまり漠然とした危機に直面して、ある種の神秘的な効力の影響を受けた場面に起こるのです。本当の恐怖というものは、昔経験した恐怖の無意識的な影響みたいなものなのです。幽霊を信じている人間が、夜の闇の中で妖怪を認めたと想像したなら、それこそ、猛烈に激しい恐怖を覚えたにちがいありません。
このわたしは、十年ばかり前に、真っ昼間に恐怖を覚えたことがあります。去年の冬、十二月のある夜にも、同じ恐怖を感じました。
ところが、このわたしは、致命的とも思われる冒険をいくつも経験して来た人間なんですよ。わたしは何度も打ち倒されました。盗賊どもから今にも死ぬような目に合わされたこともあります。アメリカに行った時には、暴徒として絞首刑を宣告されたこともあります。中国の沿岸地方では、船のデッキから海に投げこまれたこともあります。そのたびに、わたしは自分はこれで最後だと思って、たちまち腹を決めたものですが、恐ろしくもなければ後悔もしませんでした。
ところが、恐怖というものは、そのようなものではないんです。
その恐怖を、わたしはアフリカで経験しました。でも、ふつう、恐怖は北国特有のものだとされています。南の国では、太陽が恐怖を霧のように消してしまうのです。みなさん、どうかこの点に注目してください。だいたい、近東の国々では、生命を失うことなど何とも思わず、さっさとあきらめてしまいます。夜でもあたりは明るいので、伝説などまるで生まれないし、寒い国々の人々の脳髄に憑《つ》きまとっている暗い不安など少しもないからでしょう。近東では、パニックは知られていますが、恐怖はまるきり知られていません。
ところがです! その恐怖はアフリカの地でわたしをおそったのです。
その時、わたしはウァルグラの南方にある大砂丘を横断していました。そこは世界でももっとも奇怪な土地の一つです。みなさん、行けども行けども砂ばかり、果てしなく続く海辺の砂浜を知っておいででしょう。でも、暴風の真っ只中で砂と化した大海を想像できますか? 黄色い砂塵による不動の波の音のない嵐をご想像ください。山のように高いその波は、起伏があり、形もいろいろで、荒れ狂う波のようにそば立つかと思うと、海より広大で、波形の条《すじ》が入っています。このもの言わぬ、微動だにしない荒海の上には、南国の激しい太陽の、冷酷無比の直線的な焔《ほのお》が降り注いでいます。こうした金砂の波をよじ登ったり下ったり休息もなく木蔭もなく、またよじ登り、たえずよじ登らなければなりません。馬は喘ぎ、足はひざまで砂に没してしまいます。この世のものとも思われぬような砂丘の斜面を、ころげ落ちるように降りなければなりません。
わたしと友人の二人は、八人のアルジェリア土民騎兵と四頭のラクダ、それにそれぞれのラクダ引きを伴っていました。わたしたちは暑気と疲労に打ちひしがれ、この焼けつくような砂漠のように涸《かわ》き切って、もう口もききませんでした。すると、とつぜん、男たちの一人が叫びのようなものを上げました。みんなはいっせいに立ち止まりました。この地の果てに見失われた国を旅する者ならだれでもが知っている、ある説明しがたい現象に茫然として、立ちすくんでしまったのです。
どこか、わたしたちのすぐ近くで、と言っても、はっきりどこと決められない方角で、太鼓が鳴っているではありませんか。砂丘の謎の太鼓なのです。太鼓ははっきりと鳴っていました。時には強くひびき渡り、時には弱く、鳴りやんだかと思うと、また、この世のものとも思われぬどろどろという音を鳴りひびかせるのでした。
アラビア人たちは、もう恐れおののいて顔を見合わせるばかりです。が、そのうちの一人が、アラビア語で「死がわれわれの上にある」と言いました。すると、いきなり、ほとんど兄弟同様なわたしの友人が日射病にやられて、まっさかさまに落馬してしまいました。
それから二時間、わたしは友人を助けようと手をつくしましたが、むだでした。その間も、その不可解な太鼓は、単調で、不思議で、いつ果てるとも知れぬひびきで、わたしの耳を満たしていました。四方を砂で囲まれて、太陽で焼けるように熱いあの穴の中で、親友の死体を前にした時、わたしは恐怖が、真の恐怖が、あの呪うべき恐怖が、骨にまでしみこんで来るのを感じました。しかも、その太鼓の急速な音は、フランス人の集落からは二百里も遠いところで、その未知の奇怪な音をわたしたちに投げかけていたのです。
その日、わたしは生まれて初めて、怖いということを知りました。その後にもう一度経験して、もっとはっきり知ったのですが……」
船長が話し手をさえぎって口を開いた。
「失礼……その太鼓はいったい何だったのですか?」
旅行者が言葉をついだ。
「わたしにはさっぱり解りません。だれにも解りません。あの地方の士官たちは、こういう不思議な音をよく聞くのですが、ふつう、この音を山彦のせいにしています。つまり、風に運ばれる砂の粒が乾燥した草のしげみにぶつかって起こる音が、砂丘の起伏のせいで並はずれて拡大され、倍加されて、ものすごく大きくなった音というわけです。なぜなら、いつも常に、その現象が起こるのは、太陽に焼かれて羊皮紙のように固く乾燥した草のはえているところの近くだからです。
従って、その太鼓の音は、音響の蜃気楼に過ぎないのでしょう。それだけのことなのです。しかし、わたしはそのことをのちになって初めて知りました。
さて、次に、わたしが味わった二つ目の恐怖の話をしましょう。
去年の冬、フランス北方地方の森林の中でのことでした。二時間も早く夜が来たようで、空は真暗でした。わたしは農夫を案内人として連れていて、その男と並んでとても狭い道を歩いていました。頭上でアーチを作っている樅《もみ》の木々が、激しい風にあおられてすさまじい音を立てていました。梢《こずえ》の間から、雲が算を乱して飛び去るのが見えていましたが、雲はまるで恐ろしさのあまり狂ったようになってにげているのではないかと思われるくらいでした。時には、猛然たる突風がおそって来て、森全体が苦しげな呻き声を上げながら同じ方向に傾いていました。わたしは厚い服を着て、急ぎ足で歩いているのに、寒気が体にしみ通って来ました。
わたしたちは山の番人の家で夕食をとって、寝ることになっていましたが、その家ももう遠くはありませんでした。わたしはそこで狩猟をしようとしていたのです。
案内の農夫は、ときどき目を上げて『いやなお天気で!』とつぶやいていました。が、やがて、これから行こうとしている家の人たちのことを話してくれました。父親は、二年ほど前に密猟者を殺したのだが、それからというもの、その記憶にたえず取り憑かれて、ひどく憂鬱になっているらしいということでした。二人の息子たちは結婚していましたが、父親と暮らしていました。
闇は深くなっていました。前方、左右を見ても何も見えず、ただぶつかり合う木々の枝が、たえまのないざわめきで夜を満たしていました。とうとう、わたしは明かりを認めました。やがて、案内人はドアをたたきました。女たちの鋭い叫び声が答えました。それから、咽喉を絞めつけられるような男の声が『だれだ?』とたずねました。案内人が名を名のりました。わたしたちは家の中へ入りました。が、そこには忘れられない光景がありました。一人の白髪の老人が、狂ったような目つきをして、片手に弾をこめた銃を持って台所の真中に突っ立って、わたしたちを待ち構えていたのです。一方、二人の屈強な大男が斧を手にして、戸口を守っていました。わたしは暗い隅で二人の女が壁のほうを向いて顔を隠してひざまずいているのに気づきました。
家の者たちがやっと納得しました。老人は銃を壁にかけると、わたしのための部屋の支度を命じました。それでも、女たちが少しも動かないので、老人がいきなりこう言いました。
『だんな、実はわたしは二年前の今夜、ある男を殺しました。それから去年、その男がわたしを呼びに来たんです。それで今夜はこうしてこの男を待っているんです』
それから老人は、つい笑わせられるような口調でこう言い足しました。
『そういうわけで、わしらはとても落ち着いてはいられないんですよ』
わたしはちょうどその晩に来合わせて、こんな迷信的な恐怖の一幕を目撃できたことを幸せに思って、できるだけ老人を安心させるようにしました。いろいろな話を聞かせて、一家の人たちを少しは落ち着かせることができました。
炉端には、ほとんど目の見えない、ひときわ太いひげをはやした老犬が(自分のよく知っている人間によく似た犬がいるものですが、それもそういった犬でした)、鼻を両足の間に突っこんで眠っていました。
戸外では、激しい嵐が小屋をおそっていました。そして、戸口のそばにある覗き穴のような四角い窓ガラスから、とつぜん、大きな稲妻の走る中で、木々が風に打ち倒されているのが見えました。
わたしがどんなに努力しても所詮むだで、この家の人々がある深い恐怖にとらわれていることがはっきりと感じられました。そして、わたしが話しやめるたびごとに、彼らの耳はどこか遠くのほうに向かってそば立てられるのでした。こんな愚かな臆病者たちといっしょにいるのに倦きたわたしが、寝かしてもらいたいと言った時、老人はいきなり椅子から飛び上がり、またも銃を手に取ると、うろたえた声で『来た! やつが来た! おれは待っていたんだ!』と、どもりながら言いました。二人の女は、顔を隠しながら、さっきまでいた片隅にまたもひざまずきました。息子たちは再び斧を手に取りました。わたしはもう一度彼らを落ち着かせようとしましたが、その時、眠っていた犬がいきなり目を覚まして、頭を持ち上げ、首を伸ばして、ほとんど見えない片目で炉のほうを見ながら、夕方、野を旅する者をぞっとさせる、あの悲痛な声を上げました。みんなはいっせいに犬のほうに目を向けました。犬は、今は、何か幻覚にとらわれたかのように起き上がってじっと動かずにいましたが、やがて何か目には見えない未知のもの、毛がみんなさか立っているからおそらくは恐るべきものに向かって、激しく吠え始めました。老人が真青になって叫びました。『あいつは感じているんだ! 解っているんだ! おれがあの男を殺した時、そばにいたんだから』そして、おろおろした女たちが、犬といっしょになってわめき始めました。
わたしはわれ知らず背筋に激しい戦慄が走るのを覚えました。こんな場所で、こんな時刻に、そしてこんな度を失った人々の中では、犬の幻覚は見るも恐ろしいものでした。
こうして、一時間ばかり、犬は身動きもしないで吠えていました。まるで悪夢にうなされているように吠え続けました。すると、恐怖が、恐ろしい恐怖が、わたしの中に入って来ました。何に対する恐怖なのか? まるで解りません。とにかく恐ろしい、それだけでした。
わたしたちは、あるおぞましい出来事を待ちながら、真青になって、身じろぎもしないでいました。耳をそば立て、心臓もどきどきさせ、ごくわずかな音にもびくっとしながら、そのうちに、犬が壁を嗅ぎ、あいかわらず唸りながら、部屋のまわりをぐるぐると廻り始めました、まったく、その犬の様子を見ていると、わたしたちは気が狂いそうになりました! その時、わたしを案内して来た農夫が、激しい恐怖にたえかねて、犬に飛びかかると、狭い中庭に面したドアを開けて、外へ放り出しました。
犬はすぐに黙りました。ところが、わたしたちはいっそう恐ろしい沈黙に陥ってしまいました。そして、とつぜん、みんないっせいに、ぎょっとして飛び上がりました。何物かが、森のほうに向かって、家の外壁をこすっているのでした。やがて、そのものは入口のドアにぶつかったようでした。手でおずおずとドアをたたいたようでもありました。次には、二分ほど、何も聞こえませんでしたが、それはわたしたちに常軌を逸しさせるような二分間でした。やがて、そのものは、やはり壁をこすりながら戻って来ました。そして、子供が爪でひっかいてでもいるように壁を軽くかいているのでした。すると、いきなり、覗き穴のガラスの向こうに、頭が一つ現れました。それは、まるで野獣のように、目をらんらんと光らせた、真白い頭でした。その口からはある音が出ましたが、それは何かはっきりとは聞き取れない、訴えるようなつぶやきでした。
その時、台所でものすごい音がはじけました。老人が発砲したのでした。と、すぐに、息子たちが駆けつけて来て、大きなテーブルを持ち上げて覗き穴をふさぐと、それを食器棚でしっかりと固定してしまいました。
正直言って、その予期していなかった銃声を聞いた時、わたしは心にも体にも、激しい苦しみを覚えて、今にも失神しそうになり、恐怖のために死にそうなくらいでした。
わたしたちは、身動きもできず、一言も口をきけないで、言語に絶する恐怖とわななきながら、夜明けまでじっとしていました。
庇《ひさし》の隙間から朝の細い光がさしこむのに気づいて、みんなはやっと入口のバリケードを取り除きました。
入口の壁の下に、老犬が口に弾丸を受けて倒れていました。
犬は柵の下に穴を掘って中庭から外へ出ていたのです」
陽焼けした男は口をつぐんだが、すぐにこうつけ加えた。
「ところが、その晩、わたしはどんな危険にも出会いませんでした。でも、覗き穴に現れた、一面にひげをはやした頭に発砲した瞬間と比べたら、わたしがこれまでに直面したもっとも恐ろしい危険をすっかり繰り返すほうがよいくらいですよ」
その二
汽車は闇の中をフルスピードで走っていた。
車室には、わたしのほかには、向かいにいる老紳士しかいなかった。老紳士は昇降口の扉越しに外をじっと見つめていた。パリ=リヨン=地中海線のこの車室には石炭酸の匂いがぷんぷんしていた。この列車はおそらくマルセーユから来たのにちがいない。
月も風もない、焼けるように暑い夜だった。星も見えなかった。爆進する汽車の吐息が、何か生暖かく、耐えがたく、息苦しいものをわたしたちの顔に吹きつけていた。
わたしたちは三時間前にパリを発って、通り抜ける地方の風景など何も見ないで、フランスの中央部めがけてひた走っていた。
とつぜん、この世のものとも思われない幽霊みたいなものを見た。森の中で、さかんに燃える火の周囲に、人間が二人立っていたのだ。
それを見たのはほんの一瞬のことだった。どうやら、ボロをまとった二人の物乞いのようだった。激しく燃えるたき火の明かりで赤く染まり、ひげをぼうぼうとはやした顔をこちらに向けていた。二人のまわりには、舞台装飾のように、青々とした木立があった。明るくてつやのある緑色だった。木の幹は焔《ほのお》の強い光に照り映え、葉の茂みは、森の奥へと流れこむ光に貫かれ、しみこまれ、濡らされていた。
が、すぐに、もとの暗闇に戻った。
確かに、それは何とも奇怪な幻だった! あの二人の浮浪者は、森の中で何をしていたのだろう? こんな息のつまるような暑い夜に、なぜ火などたいていたのだろうか?
老紳士が懐中時計を出して、それからわたしにこう言った。
「ちょうど十二時です。何とも奇妙なものを見ましたね」
わたしは肯《うなず》いて、それからわたしたちは話をし始め、あの浮浪者たちは何だろうと詮索し始めた。悪事の証拠を焼き捨てている悪者どもだろうか? それとも媚薬を作っている魔法使いたちだろうか? 真夏の真夜中に、スープを作るために、あんなたき火をすることはない。いったい何をしていたのだろうか? わたしたちはありそうなことを想像することは決してできなかった。
すると、老紳士が話し始めた……職業の見当がつけかねるような老人だった。確かに少々変人めいた人で、とても物知りだったが、ひょっとすると頭がおかしいのではというフシもあった。
しかし、この世の中では、理性がときに愚直と呼ばれ、狂気が天才と呼ばれねばならぬ場合があるのだから、だれが賢くて、だれがバカなのか、解ったものではないではないか?
老人は言った。
「わたしはあれを見て満足ですよ。ほんの数分間ですが、失われていた感覚を味わいましたから!
この世が昔、あんなに神秘に包まれていたころには、さぞ不安だったでしょうね!
未知のベールがはがされるにつれて、人間の想像力も減少していきます。夜、幽霊が出現しなくなってからは、夜がとても空虚になり、ごくありふれた闇になってしまった、とはお思いになりませんか。
人はこう考えます。(もう幻想的なものも、奇怪な信仰もなくなった。説明のつかないとされていたものもみんな説明がつけられるようになってしまった。超自然的なものは、運河で汲みつくされる湖水のように、徐々に減少していく。科学は日一日と驚異の範囲をせばめていく)と。
ところが、このわたしは、信ずることの好きな古い時代の人間です。物事を理解しないこと、研究しないこと、知らないことに慣れている素朴な古い時代の人間なのです。
そうです。人間は目に見えないものを除去して、想像力を減少させてしまいました。今日では、わたしたちの大地は、見捨てられて、うつろで、裸の世界にわたしには見えます。この大地を詩的なものにしていたさまざまな信仰が、どこかへ消えてなくなってしまったのです。
墓場の塀に沿って歩く時に、おばあさんたちが十字を切りたくなるようなあの怖さ、今でもいくらかいる迷信深い人間が、沼の奇怪な水蒸気やあやしいキツネ火を見ると、にげ出したくなるようなあの怖さ、あのような恐怖を、わたしは夜分に外出する時に、身震いするほど経験してみたいのです! 昔の人間は、何か漠然とした恐ろしいものが闇の中を通り過ぎるような気がすると想像しましたが、そうしたものの存在を、わたしは信じたいのです。
昔は、夜の闇はどんなに暗く、恐ろしかったことでしょう! 形も定かでなく、奇怪で、未知なもの、あちこちをさまようたちの悪いものがうようよしていて、それを思うと心臓も冷たくなりました。そうした神秘的なものの力はわれわれの想像力の限界を越えていて、そういうものの打撃はもう避けようがなかったのです!
超自然的なものとともに、本当の恐怖もこの地上から消え去ってしまいました。なぜなら、本当に恐ろしいものは、どうしても理解できないものであるからです。目には見えない危険が人間の心を動かし、混乱させ、ぞっとさせることもあり得るでしょう! しかし、あちこちさまよう幽霊に出会うかも知れないとか、死人に抱きつかれるかも知れないとか、人間の恐怖心が発明したあの恐ろしい動物のどれかが走って来るのを見るかも知れないと思って、ぞっとすることに比べたら、目に見える危険などたいしたことではありません。夜の闇がそうした化け物に取り憑かれなくなってからは夜は明るくなった、という気がします。
その証拠に、もしわたしたちだけがいきなりあの森の中に置かれたとしますと、何か現実的な危険を感じてにげ出すというよりか、たき火の明かりに照らされたあの二人の奇怪な姿にぞっとしてにげ出すことでしょう」
老紳士は繰り返した。
「本当に恐ろしいのは、どうしても理解できないものだけですよ」
とつぜん、わたしに記憶が蘇って来た。それは、ある日曜日に、ギュスターヴ・フローべールの家で、ツルゲーネフがわれわれに語った話の記憶だった。
ツルゲーネフがそれをどこかで書いたかどうか、わたしは知らないが。
このロシアの大小説家以上に、ベールで包まれた未知なるものの戦慄を人の魂に通わせ、奇怪な物語の薄明かりの中で、不気味で、不確かで、ぞっとさせるものの世界を垣間見させることのできる者はいなかった。
ツルゲーネフといっしょにいると、人の目に見えないものに対する漠然とした恐怖、目に見える生活の背後にひそんでいる未知なるものに対する恐怖がはっきりと感じられるのだった。彼のそばにいると、ただわれわれの不安を増大するためにしか光らないようなはっきりしない明かりが、いきなりわれわれを貫くのだった。
ときにツルゲーネフは、奇妙な偶然の一致や、情況の思いもかけない接近などの意味をわれわれに示してくれるようだった。それらの情況は上面《うわつら》は偶然のようだが、何か隠れた陰険な意志で導かれているかも知れないのだ。彼といっしょだと、一本の目には見えない糸が、あくまで現実生活の中にありながら、まるでたえず意味がはっきりしていない漠然たる夢の中でのように、何とも神秘的な具合でわれわれを導くような気がしたものだ。
ツルゲーネフは、エドガー・アラン・ポーやホフマンのように、超自然の中にずかずか入りこんでは行かなかった。ごくわずかに漠然とした、ごくわずかに不安を抱かせるような、単純な話を物語るだけなのである。
その日も、彼はこう言った。「本当に恐ろしいのは、まるで理解できないものだけだ」と。
ツルゲーネフは両腕をたれ、両足をだるそうに投げ出して、肘掛椅子に座っていた、と言うよりむしろ仰向けになっていた。真白な顔が、銀色のひげと髪の毛の大きな波に埋もれているところは、永遠の父なる神か、オウィディウスが歌った河の神のような風貌をあたえていた。
ツルゲーネフは、一つ一つの語の彩《あや》のある正確さをきわ立たせる、多少重苦しいためらいのようなものでもって、ゆっくりと話した。大きく見開かれた青白い目は、まるで子供の目のように、彼の思念の中にあるすべての感動を反映していた。
彼は次のように話した。
ツルゲーネフは若いころロシアの森で狩猟をしていた。一日じゅう歩いて、夕方ごろ、ある静かな河の岸辺にたどり着いた。
河は木立の下を流れていて、一面に浮き草を浮かべていた。水は深くて、冷たく、そして澄んでいた。とつぜん、この透明な水に飛びこみたいという抵抗しがたい欲望にとらわれた。彼は衣服を脱いで、流れの中に飛びこんだ。彼は背のとても高い、屈強の青年で、また力強く大胆な泳ぎ手でもあった。
草や木の根にそっとかすめられたり、蔓草が軽く肌をなでるのを感じながら、落ち着いて流れに身を任せていた。
と、とつぜん、一本の手が彼の肩に置かれた。
はっとして振り向くと、むさぼるようにこちらを見つめている恐ろしいものを認めた。
それは女のようでもあり、雌猿のようでもあった。
大きなしわだらけの顔をしかめて、しかも笑っていた。何とも名づけようもないものが二つ、それはおそらく乳房なのだろうが、それを体の前にぶらさげていた。そして、陽焼けして褐色になった、もじゃもじゃに乱れた髪が顔を包み、背中に垂れて波打っていた。
ツルゲーネフは、ぞっとするような気味の悪い恐怖、超自然的なものに対する血の凍るような恐怖におそわれた。
深く考えたり、理解したりする余裕もなく、彼は岸のほうに夢中になって泳ぎはじめた。しかし、その怪物は彼よりもずっと速く、うれしそうな小さな笑いを洩らしながら、彼の首筋や、背中や、足に触った。恐怖で気も狂いそうになった青年は、ようやく岸にたどり着くと、衣服や銃を捜そうという考えも浮かばず、一目散に森の中に走りこんだ。
恐るべき怪物は、彼と同じ速さで走り、やはり奇怪な声を上げながら、彼を追って来た。
にげるツルゲーネフは、もはや力もなくなり、恐怖のために体がきかなくなって、今にも倒れそうになったが、その時、山羊の番をしていた一人の子供が鞭を持って駆けつけて来た。そして、鞭で怪物をたたき始めた。すると怪物は苦しそうな声を上げてにげ出した。ツルゲーネフは怪物が雌のゴリラのように木の茂みの中に消えるのを見た。
その怪物は、実は三十年も前から、羊飼たちの施しを受けながら、その森の中に住んでいる狂女で、毎日、半日をその河で泳いで暮らしているのだった。
ロシアの大作家はこうつけ加えた。「一生のうちで、あんなに怖かったことはありません。だって、わたしにはあの怪物が何であるかまるで解らなかったからです」
汽車の相客の老紳士は、この話をわたしから聞くと、また口を開いた。
「そうですとも。理解できないものだけが怖いんですよ。恐怖と呼ばれる魂の恐るべき痙攣を真底から感じるのは、恐怖に、過ぎ去った幾世代もの迷信的な恐怖がいくらか混じる時だけですよ。このわたしも、そのような恐怖を心の底から感じたことがあります。しかも、それは何とも単純で、愚かなことのためなんですから、口にするのも恥ずかしいくらいです。
その時、わたしは一人で、徒歩で、ブルターニュを旅行していました。ル・フィニステール地方をあちこち歩き廻りました。あれは荒涼たる土地で、むき出しの土には、大きな聖石や魔石のかたわらにハリエニシダがはえているだけでした。前の日に、わたしはあのラーズの陰気な岬を訪れていました。あそこは古い世界の先端で、大西洋とマンシュ海という二つの大海が永遠にぶつかり合っているところです。わたしの頭は、この信仰と迷信の土地について読んだり聞かされたりした伝説や物語でいっぱいでした。
そして、わたしは夜中にパンマルクからポンリラベに行きました。パンマルクというところをご存じですか? 平坦な、まったく平坦な、それにとても低い、海よりも低いような海岸です。まるで怒り狂った猛獣がよだれをたらしたような暗礁のやたらと多い、威嚇するような灰色の海が一面に見えるところです。
わたしは漁師たちが行く居酒屋で夕食を取ると、荒野の中を真直ぐに走る一本の道を歩いて行きました。あたりは真暗闇でした。
ときどき、ゴール時代の名残りの巨石がまるで幽霊のように立ち現れて、わたしが通り過ぎるのをじっと見ているような気がして、わたしの心の中に、ある漠然とした不安が入りこんで来ました。いったい何が怖かったのでしょう? まったく解りません。精霊が体をかすめるような気がしたり、魂がわけもなくわなないたり、何か目に見えない漠然とした不安に胸がどきどきしたりする夜があるものですが、わたしには、そういう目に見えないものがなつかしく思われるのです。
その道は長く思われました。果てしなく長く、空虚に思われました。
遥か彼方、わたしの背後でとどろいている波の音のほかには、何の音も聞こえませんでした。でも、この単調で威嚇するような響きは、ときには、すぐ近くに、本当にごく近くにあるような気がしました。燃えるように熱い額を振りながら走る人間のように荒野を走って来て、わたしにつきまとっているように思われました。それから全速力でにげ出したいと思ったほどでした。
風が、突風になって低く低く吹きすさぶ風が、わたしの周囲で、ハリエニシダをヒューヒュー鳴らしていました。わたしは急ぎに急いでいましたが、手も足も冷え切っていました。それは恐怖ゆえのあの気持の悪い冷たさでした。
ああ! どんなにわたしは人に会いたかったことでしょう! どんなに人に話しかけたかったことでしょう!
あたりが真暗なので、今ではもう道もはっきりとは見えませんでした。
と、とつぜん、前方、遥か向こうから、車のきしる音が聞こえて来ました。(おや、荷馬車だ)とわたしは思いました。が、次には、もう何の音も聞こえませんでした。
それから一分ほどすると、同じ音が、今度はもっと近くから、はっきりと聞こえました。
ところが、明かりはまるで見えませんでした。でも、わたしは思いました。(ランターンを持っていないんだな。こんなひどい田舎なんだから、おどろくには当たらないな)
その音はまたやみました。ところが、また聞こえて来ました。荷馬車の音にしては、細くて鋭すぎます。それに馬の足音も聞こえません。これはびっくりしました。だって、静かな夜だったのですから。
わたしは考えました。(いったい何だろう?)
その物音はやはり近づいて来ました。そして、とつぜんわたしは漠とした、ばかばかしい、わけのわからない不安にかられました。(あれは何だ?)音は急速にどんどん近づいて来ました! 確かに、車輪の音しか聞こえません。蹄鉄の音も、足音も、まったく聞こえません。いったい何なのでしょう?
音はすぐそばまでやってきました。わたしは本能的な恐怖にかられて、そばの溝の中に飛びこみました。そして、一台の一輪手押車がわたしに向かってやって来るのを目にしました。その手押車は……押し手もなく、ひとりでに走っているのです……そうです……手押し車が……まったくひとりでに走っているのです……
心臓がものすごく激しく打ち始めたので、わたしは草の上に身を伏せました。そして、車輪のきしるのが海のほうへ遠ざかって行くのを、じっと聞いていました。もう起き上がったり、歩いたり、何か動作をしたりする勇気がありませんでした。なぜなら、もしあの手押車が戻って来たら、わたしを追いかけて来たら、わたしは恐怖で死んでしまったでしょうから。
しばらく、本当にしばらくたってから、やっとわたしは気を取り直しました。そして、ほんの些細な物音にも息が止まるほどの不安を覚えながら、残りの道を歩きました。
ねえ、あなた、これは愚かなことでしょうか? でも、何と怖かったことか! あとになって、よくよく考えてみて、やっと解ったのでした。つまり、おそらく素足の子供があの手押車を押していたのです。それを、このわたしは、ふつうの背丈のところに大人の頭を捜していたのです!
これがお解りになりますか?……前もって心の中に超自然的なものに対する戦慄があったところへ……手押車が走って来たのです……ひとりでにね……何と怖かったことでしょう!」
波は一瞬黙ったが、また話し始めた。
「ところで、あなた、わたしたちは奇怪で恐ろしい光景を目撃しているところなんですよ。つまり、コレラの侵入というやつですよ!
この汽車に石炭酸の匂いがするのを感じていらっしゃるでしょう。それは〈あれ〉がどこかにいるからなんですよ。
今のトゥーロンをご覧にならなければなりません、〈あれ〉があそこにいることが感じられます。トゥーロンの人たちを怖がらせているのは、病気に対する恐怖ではありません。コレラは別のもの、〈目に見えないもの〉です。それは昔の、過ぎた時代の災厄で、一種の悪魔みたいなものです。それがまたやって来て、われわれをおどろかしたり、怖がらせたりしているのです。なぜなら、あれは消え去った時代のものらしいですからね。
医者たちは細菌の話をしますが、これにはわたしは笑ってしまいます。人間を窓から飛び出させるほど怖がらせるのは細菌なんかではありません。それはコレラという、オリエントの果てからやって来た、いわく言いがたい、恐るべきものなのです。
トゥーロンを通ってごらんなさい。みんなが路上で踊っていますよ。
こんな死の日々に、なぜダンスなどするのでしょうか? 町の近くの野原では花火を打ち上げています。祭りの明かりをともし、ありとあらゆる遊歩道では、オーケストラが陽気な音楽を演奏しています。
なぜこんなことをするかと言うと、それは〈あれ〉がそこにいるからです。人々が細菌にではなくコレラに立ち向かっているからです。物陰に隠れて窺っている敵のそばにいるように、〈あれ〉の前で勇ましいところを見せようとしているのです。人々が笑ったり、叫んだり、火をともしたり、ワルツを演奏したりしているのは、〈あれ〉のためなのです。人間を殺す〈悪霊〉のためなのです。目には見えないけれども、至るところにいるのが感じられ、未開時代の祭司がお祓いをした昔の悪霊のような、人間を脅かす霊のためなのですよ……」
[#改ページ]
オルラ
……
五月八日――なんとすばらしい日だろう! 午前中、家の前の草に寝そべって過ごした。家全体をすっぽりと覆い隠しているプラタナスの大木の陰だ。ぼくはこの土地が好きだ。この土地で暮らすのが好きだ。なぜならば、ぼくはこの土地に自分の根を、あの深くて繊細な根をおろしているからだ。この根は、先祖たちが生まれて死んだ大地に人間を結びつけている。人の考えること、人の食べるもの、習慣や食糧、方言や百姓の訛り、あるいは土や村や空気そのものの匂いに、人間を結びつけているのだ。
ぼくは自分が育った自分の家が好きだ。家の窓からはセーヌ河が見える。セーヌ河はぼくの庭に沿って、道を一つへだてた向こうに、まるでぼくの家の一部のように流れている。大きく広々としたセーヌ河は、こうしてルーアンからル・アーヴルまで、行き交う多数の船を乗せて流れて行く。
左手の、ずっと遠くにルーアンの町が見える。青い屋根の並ぶ大都市で、ゴチック様式の鐘楼が無数に突き出している。これらの細い、あるいは幅広の無数の鐘楼を見おろしているのは、大聖堂の鋳造の塔である。そして、鐘楼の鐘はよく晴れた朝の青空に響き、その遥か遠くから聞こえる心地よい鉄の音をぼくのところまで運んで来る。微風が運んで来る青銅の音は、風の強さ弱さに従ってあるいははっきりと、あるいはかすかに聞こえて来る。
今朝はなんといい天気だろう!
十一時ごろ、長い列を作った船団が、はしけくらいの引き船に引かれて、わが家の門の前を通り過ぎて行った。はしけは濃い煙を吐きながら苦しそうに喘いでいた。
二隻のイギリスのスクーナーが赤い旗を空にひるがえしながら通り過ぎたあとから、三本マストのすてきなブラジル船がやって来た。純白のすばらしく清潔な船体を輝かせていた。ぼくはわれ知らず敬礼してしまった。それほど、その船は見る目を楽しませてくれた。
五月十二日――二、三日前から少し熱がある。気分が悪い。と言うよりは、妙に気が沈んでいるのだ。
いったいどこから、この不可解な影響力がやって来て、人間の幸福を失意に変え、自信を悲嘆に変えてしまうのだろうか? 空気、あの目には見えない空気の中には、測り知れぬ〈力〉が充満していて、人間は周囲にこもるその不可思議な力の影響を受けているのだ。ぼくは快活な気分で目覚めて、つい歌でも口ずさんでみたくなる──なぜなのか?──ぼくは河のほとりに降りて行く。そして、ほんのちょっとぶらぶら歩くと、いきなり落ちこんだ気分になって家に戻ってしまう。まるで何か悪いことが家で待ち受けているみたいな気がするのだ。──なぜなのか?――鳥肌をたたせる悪寒が神経を揺すぶり、心を暗くしたのだろうか? 雲の形、あるいは陽の色といった、非常に変化しやすい周囲の事物の色が、ぼくの目から体内に入って来て、ぼくの思考を乱したのだろうか? だれに解るだろう? ぼくらを取り巻いているもの、それとなくぼくらが見ているもの、手では触らないが実は触れているもの、それと見分けないで出会っているもの、これらすべてのものが、ぼくらの上に、ぼくらの器官の上に、それらを通してぼくらの思考の上に、あるいはぼくらの心臓自体の上に、すばやくて、おどろくべき、また不可解な影響をあたえているのだ。
この〈目には見えぬもの〉の神秘は何と深遠であることか! ぼくらのみじめな五官をもってしては、この神秘を測ることはできぬ。あまりに小さなものも、あまりに大きなものも、また、あまりに身近なもの、あまりに遠いものも、さらにまた、星の住民も一滴の水の中の住民もとらえることのできぬぼくらの目をもってしては……ぼくらの耳にしてもぼくらを欺いている。なぜなら、耳は空気の振動を音調としてぼくらに伝える器官であるからだ。耳なんてものは妖精みたいなもので、空気の運動を騒音に変えてしまうという奇跡をやってのけ、そしてこの変身によって、あの音楽なるものを産み出し、音楽は自然の無言のざわめきを旋律的なものにするのだ……人間の嗅覚なんてものも犬の嗅覚より劣っている……味覚だって、ブドウ酒の醸造年代さえろくに見分けることができないではないか!
ああ! もしも人間が、人間のためにもっと他の奇跡を起こしてくれるような器官を持ち合わせていたら、どんなに多くの事物を周囲に発見することができることか!
五月十六日──ぼくは病気だ、絶対だ! 先月はあんなに体の調子がよかったのに! 熱がある、ひどい熱だ。と言うよりは、熱のためにいら立っている。この熱がぼくの肉体ばかりか精神まで苦しめるのだ! 何かさし迫った危険があるような恐ろしい気分にたえずおそわれる。何か不幸がやって来るような、あるいは死が近づいて来るような不安な気分だ。おそらくは血液や肉の中に芽ばえている、まだ未知の病気にかかったような予感がするのだ。
五月十八日──もうどうしても眠れないので、医者に診てもらって来た。医者は、脈も速いし、眼球は膨張しているし、神経は高ぶっているが、少しも心配な症状ではないと言った。必ずシャワーを使って、臭素カリを服用しなければならない。
五月二十五日──まったく変化はない! まったく、ぼくの体の状態は奇妙だ。夕方になるにつれて、わけの解らない不安におそわれる。まるで夜がぼくのために何か恐るべき威嚇を隠しているみたいだ。夕食をさっさとすませて、本を読むうとする。ところが、読んでいることの意味が解らない。文字も見分けられないほどだ。それで、客間の中を歩き廻ってみるが、ある漠然とした、だが何とも抵抗しがたい恐れ、不眠への恐れ、ベッドに対する恐れに息苦しくなるのだ。
二時ごろに、ぼくは寝室へ上がって行く。部屋に入るやいなや、鍵を二重にかけて、かんぬきをかける。怖いのだ……何を?……これまでは、何一つ怖くなかったのに……ぼくは戸棚を開ける。ベッドの下を見る。耳を澄まして……じっと聞き入る……何だというのか? 単なる不快感が、おそらくは血液循環の不調が、神経網のいら立ちが、わずかな充血が、こうしたすべてのことのほんの小さな混乱が、人間の生きている仕組みの、かくも不完全でデリケートな働きに起っただけで、男の中でももっとも快活な男を憂鬱な人間とし、もっとも勇敢な男を臆病者にしてしまうとは? それからぼくは寝床に横になり、死刑執行人を待つような気持で眠りが訪れるのを待つ。眠りが訪れる恐ろしさにおびえながら待つのだ。胸は動悸を搏ち、脚はわななき、寝具に暖かく包まれながら、全身がふるえる。が、やがて、いきなり安息の中に落ちこむ。まるで水のよどんだ湖の中へでも落ちて溺れでもするように。するともう、以前のように眠りが訪れて来るのが感じられない。この不実な眠りというやつは、ぼくのそばにひそんでいて、しかもぼくを見張り、ぼくの頭をつかまえ、ぼくの目を閉ざし、ぼくを消滅させようとするのだ。
ぼくは眠る──長い間――二、三時間──それから夢がいや、ちがう──悪夢がぼくを締めつける。ぼくはベッドに横になって眠っているのだと確かに感じている……ぼくはその悪夢を感じ、悪夢だということが解る……また、だれかがぼくに近づいて来るのを、ぼくを見つめ、ぼくを探り、ベッドに上がり、ぼくの胸の上に乗り、ぼくの首筋を両手でつかまえて、絞めて……絞めて……力をこめてぼくを絞め殺そうとするのを感じる。
ぼくはもがく。夢の中で人間を麻痺させる、あの恐るべき無力に縛られながら。ぼくは叫ぼうとする──が、できない──体を動かそうとする――それもできない――喘ぎながら、必死の力を振り絞って寝返りを打とうとする、ぼくを押し潰し、ぼくを窒息させるやつをはね返そうと努める──が、それがぼくにはできないのだ!
そしてとつぜん、ぼくは目を覚ます。恐れおののき、冷汗にまみれて。ぼくはローソクをともす。ぼくしかいない。
この発作のあとで──それは毎晩繰り返されるのだ──ぼくはやっと眠りに陥る。やすらかに、夜が明けるまで。
六月二日――容体はますます悪化して来た。いったいぼくはどうしたというのか? 臭素カリは何にもならない。シャワーも何の効果もない。すでに非常に疲れている体をもっと疲れさせてやろうと思って、ルマールの森を一廻りして来た。草や木の葉の香に満ちた、新鮮で甘い空気が、ぼくの血管に新しい血を注ぎこみ、心臓に新たなエネルギーをあたえてくれるにちがいないと思ったのだ。ぼくは狩猟場の広い道を取って、狭い小径からラ・ブイユのほうへ曲がって行った。小径の両側はとてつもなく高い木立ちで、ほとんど黒いと言ってよい緑の厚い屋根を、ぼくと空との間に作っていた。
すると、とつぜん、ぼくはある戦慄におそわれた。それは悪寒のせいではなかった。苦悩ゆえの何とも不思議な戦慄だった。
ぼくは足を速めた。この森の中に一人でいるのが不安で、底知れぬ孤独感のためにわけもなくばかみたいに怯《おび》えていた。と、不意に、自分はあとをつけられているという気がして来た。だれかがぼくのすぐあとから、ほとんどくっつかんばかりにして追って来る。
ぼくはいきなり振り返った。が、ぼくはやはり一人だった。うしろを見ても、広い道が真直ぐに延びているだけで、道には人っ子一人いはしない。そして、前方にも、その道はやはり同じように、ぞっとするように、見渡すかぎり続いている。
ぼくは目をつむった。なぜなのか? それから、片方の踵で独楽のようにくるくる廻り始めた。ぼくは倒れそうになった。目を開けた。木々が踊り、地面が揺れ動いていた。ぼくは立っていられなくて座った。それから、ああ! もうどこを通って来たのか解らなくなった! 何と奇妙な考えだ! おかしい! 妙だ! ぼくにはもうさっぱり解らなかった。それから、右手にある道を歩き始め、そして元の広い道に戻った。さきほど、ぼくを森の中へ導いた道に。
六月三日――昨夜は恐ろしかった。二、三週間、家を留守にしようと思う。おそらく、小旅行でもしたら、体の調子が治るかも知れない。
七月二日――家に帰る。すっかりよくなった。それにしても、すてきな旅だった。これまで知らなかったサン=ミシェル山を訪ねた。
ぼくみたいに、夕方ごろにアヴランシュに着いた者には、何ともすばらしいながめだ! 町は丘の上にある。そして、ぼくは町の端にある公園に連れて行かれた。ぼくは驚嘆の叫びを上げた。目の前には、見渡すかぎり、広大な湾が広がり、その両側から、はるか霧の中にうすれながら、二つの相へだたる岩壁が迫っている。そして、この広大な黄色い湾の真中に、金色に輝く空の下、砂地の中に、陰気でとがった奇怪な山が突出している。ちょうど太陽が没したところで、まだ燃えるように赤く染まっている水平線の上に、異様な建物をいただく奇怪な岩山のシルエットがくっきりと浮かんでいた。
夜明けになるとすぐに、その岩山のほうへ行った。海は昨日の夕方のように干潮だった。近づくにつれて、あのおどろくべき僧院が目の前にそびえ立って来た。それから数時間歩いて、巨大な石の塊りにたどり着いた。この上に小さな町があって、それを大寺院が見下ろしている。狭くて険しい道を登ってから、この上なく壮麗なゴチック建築の住居の中へ入って行った。それは大地の上に神のために建てられたもので町くらい広大である。丸天井の上で押し潰されたように低い部屋が無数にあり、折れそうに細い円柱に支えられた天井の高い廻廊があちこちにある。ぼくは、そのレースのように軽そうな、花崗岩の巨大な細工物の中に入って行った。そのあちこちに、ほっそりした鐘楼がそびえていて、各鐘楼へは、螺旋状の階段で昇って行くようになっている。奇怪な塔のてっぺんは、噴火獣、悪魔、怪獣、異様な花などの彫刻で飾ってあって、それらを昼間は青い空に、夜は暗い空に突き出し、塔と塔は細工を施した細いアーチで連絡するようになっていた。
頂上に達した時、ぼくは案内してくれた修道士に言った。「こんなところにいると、さぞよろしいでしょうね!」
修道士が答えた。「でも、風が強いですよ」ぼくらは高まる海を見ながら話し始めた。波は砂の上に打ち寄せて、それを鉄の胸甲で覆っている。
修道士はいろいろな話をぼくに語って聞かせた。みんな、この土地の古い話である。つまり伝説、相も変らぬ伝説なのだ。
が、その中の一つにいたく感動させられた。土地の人々、つまりこの山の住人たちはこう主張しているという。夜、砂浜で人の話し声がすると、次に二頭の山羊の鳴き声が、一つは強く、もう一つは弱く聞こえる、と。それを信じない人たちはこう主張している、海鳥の声は時には動物の鳴き声に、また時には人間の声に似ているのだから、と。ところが、帰るのが夜遅い漁師たちは断言している、世間から遠く離れているこの小さな町の周囲の砂丘を、潮の満ちるのと引くのとの間に、老羊飼いがさまよっているのに出会った、と。その老人はマントを頭からすっぽりかむっているので顔は決して見せないが、男の顔をした雄山羊と、女の顔をした雌山羊を連れていて、両方とも長く白いひげをはやし、たえず何か喋ったり、何か聞いたこともない言語で言い争ったりしている。が、とつぜん叫ぶのをやめて、力いっぱい声を出してメーメーと鳴くというのだ。
ぼくは修道士に言った。「あなたはその話を信じているんですか?」
修道士がささやくように答えた。「さあ、解りませんね」
ぼくはもう一度たずねた。「もしも、この地上に、われわれより別のものが存在しているとしたら、どうして、ずっと以前から、われわれがそれを知らずにいたのですかね? どうしてあなたはそれを見なかったのでしょうね? どうしてわたしがそれを見なかったんでしょうね?」
修道士はこう答えた。「われわれは存在しているものの十万分の一も見ているでしょうか? ほら、風が吹いているでしょう。風は自然の中でもっとも強い力のあるものです。風は人間を倒すし、建物をひっくり返すし、樹木を根こそぎにするし、海水を山のように盛り上げるし、断崖を突きくずします。大きな船を暗礁に乗り上げさせもすれば、人間を殺しもします。そして口笛を吹くかと思えば、呻き、とどろいたりもします――でも、あなたはその風を見たことがありますか? いや、今、風を見ることができますか? 見えないでしょう? でも、風はやはり存在しているのですよ」
このいとも単純な理屈を前にして、ぼくは黙ってしまった。あの修道士は賢者か、さもなければばか者だったにちがいない。ぼくだったら、彼のようにはっきりと断定できなかっただろう。でも、ぼくは黙ってしまった。あの修道士が言ったことを、ぼくだってもう何度も考えたのだ。
七月三日――昨夜はよく眠れなかった。確かに、ここには何か熱っぽい影響力がある。というのは、うちの御者もぼくと同じように不眠で苦しんでいるからだ。咋日、家へ帰ると、御者の顔がふしぎに青いのに気づいた。ぼくはたずねてみた。
「ジャン、どうしたんだい?」
「どうも、まるで休めないんですよ、旦那さま。夜が昼まで出っ張ってきているみたいで。旦那さまがお出かけになって以来、このいやなやつにとっつかれていますんでね」
しかし、ほかの召使たちは元気だった。それでも、ぼくはまたいやな病気に取りつかれるのではと非常に不安だ。
七月四日――確かに、また病気に取りつかれた。以前の悪夢をまた見るようになった。昨夜、だれかがぼくの上にうずくまって、口をぼくの口に合わせて、口からぼくの生命を飲んでいるような気がした。まちがいない、そいつは蛭《ひる》のようにぼくの咽喉《のど》からぼくの生命を吸ったんだ。そして、そいつは腹いっぱい飲んでから立ち上がった。ぼくは目を覚ましたが、傷つけられ、破壊され、ぐったりさせられて、もう動くこともできなかった。こんなことがまだ数日も続いたら、きっとまた出かけなきゃなるまい。
七月五日──ぼくは気が狂ったのだろうか? 昨夜起きたことは、昨夜目撃したことは、思うたびに頭が錯乱するくらい奇妙なことだ!
毎晩やっているように、昨夜もドアに鍵をかけた。それから、咽喉が渇いたので、水をコップに半分くらい飲んだ。ところが、偶然、水さしの水がガラスの栓のところまでいっぱい入っていることに気づいた。
それから、ぼくはベッドに入ったが、たちまち、恐ろしい眠りに陥った。が、二時間くらいたつと、今度はいっそう恐るべき夢におそわれた。
眠りながら殺される男を想像してほしい。目を覚ますと、胸にナイフを突っこまれ、血にまみれて喘いでいるのだ。もう呼吸もできず、死のうとしている。しかも、どういうわけなのか解らない──そういう夢なのだ。
とうとう正気に返ると、ぼくはまた咽喉が渇いた、そこでローソクをともして、水さしがのっているテーブルに近づいた。水さしを取ってコップに注ごうとした。ところが、水が一滴もないのだ──まるっきりなくなっているのだ! すっからかんなのだ! 初めは、どういうことかまるで解らなかったが、やがて、とつぜん、何とも恐るべき感情を覚えた。椅子に座らねばならないくらいだった。いや、むしろ、椅子の上に倒れたと言うほうがいい! それから、はっとまた立ち上がって、あたりを見廻した! そして、驚愕と恐怖にわれを忘れて透明なガラスの水さしの前にまた座りこんでしまった! ぼくは目を凝らして水差しを見つめた。どういうことなのか解ろうとした。両手がぶるぶる震えていた! いったい、だれがこの水を飲んだのか? いったいだれだ? ぼく自身が飲んだのだろうか? ぼくしか水が飲めないではないか? とすると、ぼくは夢遊病にかかっていたのだ。知らぬ間にあのふしぎな二重生活をしていたのだ。あの二重生活は、われわれのうちに二つの存在があるのではと疑わせ、あるいは奇怪で、不可知な存在がわれわれの精神がマヒしている時などに、とらわれた肉体を自由に動かし、そうして肉体をわれわれ同様、いやわれわれ以上に意のままにするのではと疑わせるものなのだ。
ああ! いったいだれに、このぼくの恐ろしい苦悩が理解できようか? 精神も健全で、しかもはっきりと目覚め、まちがいなく正気でありながら、眠っている間に消してしまった水を水さしのガラスを通して、恐怖の目でながめている人間の胸のうちを、いったいだれに理解できるだろうか? ぼくはベッドに戻る勇気もなく、夜が明けるまで、そこにじっとしていた。
七月六日――ぼくは気が狂ったんだ。昨夜は、また水さしの水を全部飲まれてしまった。──と言うよりも、ぼくが飲んでしまったのだ!
でも、ほんとにぼくが飲んだのか! ぼくの仕業だろうか? ぼくでなければ、だれだろう? え、だれなのだ! ああ! 神よ! ぼくはほんとに気が狂ったのだろうか? だれがぼくを救ってくれるだろうか?
七月十日──おどろくべき実験をした。確かに、ぼくは気が狂っているのだ! それにしても……
七月六日、ベッドに入る前に、テーブルの上にブドウ酒と牛乳と水とパンとイチゴを置いておいた。
その水と、牛乳少々とを、だれかが──きっとぼくが──飲んでしまった。ブドウ酒にも、パンにも、イチゴにも、手をつけていなかった。
七月七日には、同じ実験を繰り返してみたが、やはり同じ結果だった。
七月八日には、水と牛乳はやめておいたら、少しも手がつけてなかった。
最後に七月九日に、テーブルの上に水と牛乳だけ置いて、両方の水さしを白いモスリンの布で包んで、栓をひもで縛っておいた。それから、唇、ひげ、両手に白墨をこすりつけて、ベッドに入った。
抵抗しがたい眠りにつかまえられたが、やがて、ぞっとする夢で目を覚ました。ぼくは眠っている間絶対に動かなかった。その証拠に、夜具にさえ白墨の汚れ一つついていなかった。ぼくはテーブルに向かって突進した。水さしを包んでおいた布は元どおり真白だった。ぼくは不安におののきながらひもをほどいた。水は全部飲まれていた! 牛乳もすっかり飲まれていた! ああ! 神よ!……
すぐパリヘ行こう。
七月十二日――パリ。やはり、ぼくは最近正気を失っている! ほんとうの夢遊病者ではないにしても、神経衰弱的想像力のおもちゃにされていたのにちがいない。あるいは、すでに確認ずみながら今日まで説明できなかったあの影響力の一つ、つまり暗示と称せられているものの作用を受けていたのだろう。いずれにせよ、ぼくの狂気の沙汰は精神錯乱に近かったのだが、パリで過ごした丸一日は、ぼくに落ち着きを取り戻させるのに充分だった。
昨日は、いろいろ買い物や訪問をしたので、そのために生き生きとした新鮮な空気がぼくの心に吹きこまれた。夜はテアトル・フランセ座へ行った。アレクサンドル・デュマ・フィスの戯曲を上演していて、あの作家の溌剌として力強い才知がぼくをすっかり回復させてくれた。確かに、孤独というものは、活動している知識人には危険なものである。われわれにとっては、考えたり話したりする人間を周囲に置いておくことが必要だ。長い間一人ぼっちでいると、われわれはその空虚を亡霊で充たしてしまうのだ。
ぼくは非常に愉快な気分で大通りを歩いてホテルに帰った。群衆に押されながら、前の週に恐怖を感じたことや推測したことを考えると、何とも皮肉なものを覚えた。そうなのだ、自分の家の中に目に見えないものが住んでいると信じていたのだから。人間の頭なんて、何て弱いものだろう。ほんの些細なことが解らなくなると、もうたちまち怯えて、迷ってしまうんだから!「原因が見つからないから、わけが解らない」という、こんな簡単な言葉で結論を出せばよいのに、そうしないで、すぐに恐るべき神秘や超自然的な力を想像してしまうのだ。
七月十四日――パリ祭。ぼくはあちこちの通りをぶらついた。花火や旗を見ると、子供のようにはしゃいだ。しかし、政府の政令で定められた日に愉快になるなどとは、実にばからしい。民衆はばかな羊の群れのようなもので、ある時はばかみたいに忍耐強いかと思うと、ある時は獰猛《どうもう》に反抗する。「楽しめ」と言われると、民衆は素直に楽しむ。「隣りの国と戦争せよ」と言われると、たちまち戦争をする。「皇帝に投票しろ」と言われると、皇帝に投票する。ところが次に、「共和国に賛成しろ」と言われると、共和国に賛成する。
民衆を指導する連中もやはり愚かだ。ところが、彼らは人間に従う代りに主義に従う。が、その主義なるものも、やはりばかげた、空虚な、偽物に過ぎない。それは主義は主義に過ぎないから、つまり、光は幻影であり、音も幻影であるから確実なものは何一つないこの世では、いつまでも確実で不変な観念であるからこそである。
七月十六日――昨日、いろいろなことを目にしたが、それで心を大いにかき乱された。
従妹《いとこ》のサブレ夫人の家で夕食をご馳走になった。従妹の夫はリモージュの第七十六猟騎兵隊の隊長をしている。従妹の家で、二人の若い婦人に会ったが、その一人は医者のパラン博士の細君だった。パラン博士は神経系統疾患と、近ごろの催眠術や暗示に関する実験に伴う異常現象とをもっぱら研究している。
この医者が、イギリスの学者たちや、ナンシーの医学校の医者たちの研究のふしぎな結果について、ながながと話してくれた。
彼が提示したいろいろな事実があまりに突飛に思われたので、ぼくはまるで信じられないと言った。すると、彼が次のように主張した。
「われわれは自然の中のもっとも重要な秘密の一つを発見しようとしているのです。つまり、この地球上のもっとも重要な秘密の一つをという意味です。なぜなら、あの空の星はまた別の秘密が確かにあるらしいからです。人間が思考するようになって以来、その思考に従って口で言い、筆で書くようになって以来、人間は己れの粗雑で不完全な五官では感得できない神秘に触れていると感じています。それで人間は己れの器官の無力を知的な努力で補おうと努めます。そして、この知力がまだ未発達の状態にある時は、その目に見えない現象に対する妄想は、平凡に恐怖の形を取ったのです。そこから、超自然なものに対する民俗信仰、つまり生霊、仙女、地の精、幽霊などの伝説が生まれたのです。神の伝説さえも、とわたしは言いたいのです。と言うのは、われわれの、創造主に対する観念は、たとえそれがどんな宗教に由来するものであれ、被造物の怯えた頭脳から生まれる、もっとも平凡で、もっとも愚かで、もっとも受け入れがたい発明物であるからです。ヴォルテールの、「神は自分の姿をかたどって人間を造ったが、代りに人間は自分の姿にかたどって神を造った」という言葉くらい真理をついたものはありませんよ。
ところが一世紀ちょっと前から、人間は何か新たなものを予感しているらしいのです。メスナールその他の二、三の学者たちは、われわれをある意外な道に導きました。そして、われわれは、ここ四、五年前から、おどろくべき結果に到達しました」
従妹も、やはり何とも信じかねて、笑っていた。するとパラン博士が彼女にこう言った。
「奥さん、あなたを眠らせてあげましょうか?」
「ええ、ぜひ」
従妹が肘掛椅子に座ると、博士は彼女を幻惑するようにその顔をじっと見つめた。ぼくはとつぜん少し不安を覚えて、胸がどきどきし、咽喉が締めつけられた。見ていると、サブレ夫人の目が重くなり、口は痙攣し、胸は喘いでいた。
十分ほどすると、彼女は眠ってしまった。
「お従妹さんのうしろに座ってください」と医者が言った。
ぼくは従妹のうしろに腰を下ろした。医者は従妹の手に名刺を一枚置いて、こう言った。「これは鏡です。この中に何が見えますか?」
従妹が答えた。
「従兄《いとこ》が見えます」
「お従兄さんは何をしていますか?」
「ひげをひねっています」
「では、今は?」
「ポケットから写真を出しています」
「だれの写真ですか?」
「彼の写真です」
そのとおりだった! その写真は、その日の夕方、ホテルで渡されたものだった。
「どんなふうな写真ですか?」
「手に帽子を持って立っています」
と言うことはつまり、従妹は、まるで鏡をのぞいているように、その名刺の中を、一枚の白い紙の中を見ているのだった。
若い婦人たちが、ぞっとして、こう言った。
「もうたくさんです! もうやめてください!」
しかし、医者は従妹にこう命じた。「あなたは、明朝、八時に起きるのです。それから、ホテルヘお従兄さんを訪ねて行って、あなたのご主人が必要だとあなたにおっしゃる五千フランというお金を貸してもらいなさい。ご主人は今度の旅行にそのお金をあなたに要求なさるでしょう」
次に、医者は従妹の目を覚ました。
ホテルヘ帰りながら、この奇怪な実験のことを考えてみると、さまざまな疑惑におそわれた。従妹のことは、子供のころから妹のようによく知っていたから、絶対に疑う余地なく信用することができるが、医者にはペテンをやる可能性がある。彼は手に鏡を隠していて、名刺を渡すのと同時に、その鏡を従妹に見せたのではないか? 本職の手品師なら、こんなことくらい朝飯前だろう。
ホテルに帰ると、すぐベッドに入った。
ところが、今朝八時半ごろ、ぼくはルーム・ボーイに起こされた。彼はこう言った。
「サブレ夫人という方がすぐお目にかかりたいとおっしゃってます」
ぼくは急いで服に着替えて、従妹を迎えた。
従妹はひどくどぎまぎした様子で、伏目になり、ベールも上げずに腰を下ろしたが、やがて、こう言った。
「実は、わたくし、あなたにとんでもないお願いがあるんですの」
「どんなお願いなの?」
「とっても言いにくいんですけれど、でも言わなきゃなりません。実は、わたくし、ぜひ五千フラン必要なんです」
「あなたが?」
「ええ、わたくしが。と言うよりもむしろ、主人がそのお金を都合してほしいとわたくしに頼んでいるんです」
ぼくは唖然としてしまい、返事を口の中でもぐもぐやっているだけだった。従妹がパラン博士と謀ってぼくをからかっているのではないか、あらかじめ用意してあった芝居を巧みに演じているのではないかと、本気で疑っていた。
しかし、従妹をよくよく注意して見てみると、ぼくの疑惑はことごとく消え去ってしまった。彼女は困り切って体を震わせていて、その様子はいかにも辛そうだった。こみ上げそうになる鳴咽《おえつ》をこらえていることがよく解った。
ぼくは従妹が大金持であることを知っていたので、こう言った。
「何だって! 君のご亭主は五千フランくらいの金が自由にできないのか! まあ、よおく考えてみたまえ。確かにご亭主はぼくから金を借りるようにって言ったのかね?」
従妹は非常に努力して何か思い出そうとするようにしばらく躊躇していたが、やがて、こう答えた。
「ええ……ええ、そうよ……確かにそう言いましたわ」
「君に手紙を書いてよこしたの?」
従妹はまたも躊躇して、考えこんでいた。彼女が頭の中で非常に苦しんでいるのが解った。彼女は知らなかったのだ。ただ、夫のためにぼくから五千フラン借りねばならないことしか知らなかった。だから、彼女は嘘をつかねばならなかったのだ。
「そうですわ、手紙で言って来たんです」
「それはいつのことかね? 昨日、君はそんなことは何一つ言わなかったじゃないか」
「今朝、手紙を受け取ったのですわ」
「じゃあ、それを見せてごらんよ」
「だめ……だめよ……だめよ……手紙にはうちわのことが書いてあるから……とっても個人的な……わたくし……わたくし、燃やしてしまいました」
「じゃあ、ご亭主は借金をしているんだね」
「さあ、知りません」
ぼくはいきなりこう言った。
「今すぐ五千フランと言われても、ぼくには用立てできないよ、君」
従妹は苦しげな叫び声を上げた。
「ああ! ああ! お願いです。お願いだから、用立ててくださいな……」
従妹は興奮し、まるでぼくにお祈りするみたいに両手を合わせた。彼女の声が急に調子を変えるのが解った。彼女は自分が受けたあらがいがたい命令に縛られ、支配されて、泣きながら口ごもった。
「ああ! お願いです……わたくしがどんなに苦しんでいるか解っていただけたら……そのお金は今日どうしても必要なんです」
ぼくは彼女がかわいそうになった。
「じゃあ、あとで都合して上げるよ、請け合うよ」
従妹は叫んだ。
「おお! ありがとう! ありがとう! ほんとに、あなたはご親切ね」
ぼくはもう一度言った。「昨夜、君の家であったことを覚えているね?」
「ええ」
「パラン先生が君を眠らせたことを覚えているね?」
「ええ」
「実は、パラン先生は今朝五千フランぼくに借りに行くようにって、君に命令したんだ。そして君は今、その暗示に従っているんだよ」
従妹はしばらく考えこんでいたが、やがて、また口を開いた。
「でも、お金を要求しているのは主人ですよ」
一時間ほど、ぼくは彼女に解らせようと努めたが、どうしても解らせることはできなかった。
従妹が帰ると、ぼくは博士の家へ駆けつけた。博士は外出するところだったが、ぼくの言うことを笑いながら聞いてくれた。そして、こう言った。
「今なら、もう信じるでしょう?」
「ええ。信じざるを得ません」
「じゃあ、これからお従妹さんのところへ行きましょう」
従妹は疲れ切って、すでに長椅子の上でうとうとしていた。医者は彼女の脈を取り、片手を彼女の目のほうに上げて、しばらくじっと見つめていた。彼女はこの磁力の抵抗できない作用を受けて、少しずつ目を閉じていった。
従妹がすっかり眠りこんでしまうと、医者は言った。
「ご主人はもう五千フランを必要とされていませんよ。だから、お従兄さんにお金を貸してほしいとお頼みになったことはもう忘れるのです。お従兄さんがこのことを話しても、あなたには何のことかもう解りませんよ」
そして、医者は従妹の目を覚ました。ぼくはポケットから札入れを取り出して、こう言った。
「ほら、今朝君から頼まれたお金だよ」
従妹があまりにびっくりしているので、ぼくはそれ以上しつこく言うことができなかった。それでも、彼女の記憶を呼び覚まさせようと努めたが、彼女は強く否定し、ぼくにからかわれていると思いこみ、ついには腹を立てそうになった。
…………………………
今、帰って来たところだ! ぼくは昼食が食べられなかった。それほど、この実験に動転させられていた。
七月十九日――多くの人にこの経験を話したが、だれもまじめには取ってくれなかった。ぼくはもうどう考えてよいのか解らない。利口な人は、「そうかも知れないね」と言った。
七月二十一日──ブージヴァルで夕食を食べに行き、それから夜分はボート選手たちの舞踏会で過ごした。確かに、何もかも場所と環境次第なのだ。〈蛙島〉の遊び場で超自然的なことを信じるなんてのは、まさに狂気の沙汰だろう……だが、サン=ミシェル山の頂上ではどうだろうか?……インドでは? われわれ人間は周囲の影響をひどく蒙っているのだ。来週は家に帰ろう。
七月三十日――昨日、家に帰った。何もかも調子がよい。
八月二日――何も目新しいことはない。すばらしい天気だ。毎日、一日じゅう、セーヌ河の流れをながめて暮らす。
八月四日──召使たちの中で喧嘩が起こった。彼らは戸棚の中のコップを夜中にだれかが壊すと主張している。部屋係りの召使は料理女の落度にし、料理女は下着類係りに罪があるとし、下着類係りはまたほかの二人を非難する。いったい犯人はだれなのか? だれにも解りはしないではないか?
八月六日――今度こそ、ぼくは気が狂ってはいない。ぼくは見たのだ……見たのだ……ちゃんと見たのだ!……もう疑う余地はない……確かに見たのだ!……今でもまだ爪の中までぞっとしている……骨の髄まで怖い……ぼくは見たのだ!……
日ざかりの二時ごろ、ぼくはうちのバラ園を散歩していた……花が咲き始めた秋のバラ園の小径を。見事な花を三輪つけた〈戦士の巨人〉というバラをながめようと立ち止まった時、ぼくは見たのだ、はっきりと見たのだ。ぼくのすぐ近くで、三輪のうちの一輪の花茎が、まるで見えない手でねじられるかのようにたわむのを見たのだ。そして、まるでその手で摘まれでもするように折れるのを見たのだ! それから、花は、口のほうへ持って行かれる時に腕が描くようなカーブを描きながら、ひとりでに上に上がったが、すぐに澄明な大気の中に宙ぶらりんになってしまった。ぼくのすぐ目の前に、恐ろしい赤い斑点となって動かなかった。
ぼくは夢中になってそれにとびついてつかまえようとした! が、何もなかった。それは消えてしまっていた。すると、ぼくは自分自身に対して激しい怒りを覚えた。なぜなら、こんな幻覚にとらわれるなんてことは、理性のある誠実な人間にとって許されることではないからだ。
しかし、それはほんとうに幻覚だったのだろうか?
ぼくはあたりを見廻してその花茎を捜した。すると、たちまちそれはバラの木の上に見つかった。それは、枝にまだついている二輪の花の間に、折られたばかりの状態になっていた。
そこで、ぼくは激しいショックを覚えながら家に戻った。なぜなら、今や、ぼくのすぐ近くに、目に見えないものが存在したことが、昼夜が交替するのと同じくらい確かだったからだ。その目に見えないものは、牛乳と水を養分にして育ち、いろいろな事物に触れ、つかまえ、その位置を変えることができる、それゆえ、われわれの五官ではつかまえることができないにしても、物質の性質を備えていて、ぼくと同じように、ぼくの家の中に住んでいるのだ……
八月七日――安眠した。あいつはぼくの水さしの水を飲んだが、ぼくの眠りは邪魔しなかった。
ぼくは気が狂っているのだろうか? さきほど、真昼の陽の下で、河のほとりを散歩していると、自分の理性についてさまざまな疑惑が浮かんで来た。それは今まで抱いていたような漠然とした疑惑ではなく、明確で絶対的な疑惑だった。ぼくは今まで何人もの狂人を見たことがある。中には、ある一点を除けば、人生のすべてのことについて理性的で、明晰で、洞察力のある者たちもいた。彼らはすべてについて明瞭に、柔軟に、深遠に語ったが、とつぜん、彼らの思考は、その狂気という障害に触れたとたん、粉みじんとなり、散り散りとなり、〈心神喪失〉という、逆巻く波と霧と突風に満ちた怒り狂う恐るべき大海に沈んでしまった。
もしもぼくが意識していないとしたら、もしもぼくが自分の状態を完全に知っていないとしたら、もしもぼくが完全に明晰に自分の状態を分析して推測していないとしたら、確かにぼくは自分は狂人だ、絶対に狂人だと信じていただろう。だが、事実はそうではないのだから、要するに、ぼくは単に自分で幻覚者だと解釈しているに過ぎぬのだろう。まだ未知の神経障害、つまり今日では生理学者が注目して確定しようとしているあの神経障害の一つが、ぼくの脳髄の中で起こったのだろう。そして、この神経障害が、ぼくの精神の中に、ぼくの観念の秩序と論理の中に、深い亀裂を作ったのだろう。このような現象が夢の中で起き、その夢の中で、われわれがもっともあり得べからざる幻影の中を何らおどろくことなく歩むというのも、空想能力のほうが目覚めて活動しているのに反して、検査器官、つまり制御する感覚のほうが眠っているからである。目には見えぬ脳の鍵盤の一つが、ぼくの場合は麻痺しているということもあり得るのではなかろうか? 人間は、何か事故が起きた結果、固有名詞や、動詞や、数を、あるいはただ日付などの記憶を失ってしまうことがある。今日では、思考のあらゆる部分の位置は、証明されている。ところで、ある種の幻覚の非現実性を制御するぼくの機能が、現在、ぼくにおいては麻痺していることなど、何もおどろくことではないではないか!
ぼくはこうしたことを考えながら水辺を歩いていた。太陽は河面を明るく包み、地面を甘美にしていた。その陽を浴びると、ぼくの目は愛をこめて人生を見ることができた。敏捷に飛んで見るのもたのしいヒバリを、風におののく音が耳に心地よい河辺の草を、いとおしく見ることができた。
ところが、やがて、少しずつ、いわく言いがたい不快感がぼくの中にしみこんで来た。どうやらオカルト的な力が、ぼくを麻痺させ、引き止め、これ以上先へ進むことを妨げ、うしろへ引き戻そうとした。ぼくは、例えば愛している病人を家へ残して来て、その病人の容体が悪化したことを予感した時に、家へ引き返さねばならないという、あの胸も潰されるような苦しい気持を味わった。
そこで、ぼくは、家には何か悪い知らせが、手紙か電報かが届いていると確信して、不本意ながら家に戻った。ところが、何も来ていなかった。すると、またまた奇怪な幻覚にとらわれたのではないかと考えて、ますますおどろき、いっそう不安になるのだった。
八月八日――昨日、恐ろしい夜を過ごした。あいつはもう現れなくなったが、ぼくのすぐそばにいて、ぼくを窺い、ぼくを見つめ、ぼくを貫き、ぼくを支配しているのが感じられる。あいつが超自然的現象によって、その目には見えぬが確かな存在を示していた時よりも、こうして隠れているほうがずっと恐ろしい。
それでも、ぼくは眠った。
八月九日――何事もないが、怖い。
八月十日――何事もない。だが、明日は何が起こることか?
八月十一日――相変らず何事もない。心の中に入りこんだこんな恐怖と観念を抱いて、家にいるなんてもうできない。どこかに出かけよう。
八月十二日――夜の十時――一日中、どこかへ出かけようと思いながら、それができなかった。出かける──馬車に乗ってルーアンヘ行く――という、このいとも容易でいとも簡単な自由への行動を起こそうと思いながら──それができなかった。なぜだろう?
八月十三日――何かの病気にかかると、肉体のあらゆるバネが破壊され、あらゆるエネルギーはなくなり、あらゆる筋肉はゆるみ、骨は肉のように柔らかくなり、肉は水のように液化してしまうようだ。ぼくはこうしたことを、何とも奇妙で歎かわしい仕方で精神の中で味わっているのだ。ぼくにはもう何の力も、何の勇気も、自分に対する何の支配力も、自分の意志を仰がせる力さえも失っているのだ。ぼくにはもう何かを欲するということができない。ところが、だれかがぼくについて欲すると、ぼくはそれに従うのだ。
八月十四日──ぼくはもうだめだ! 何者かがぼくの心を所有して、それを支配しているのだ! 何者かがぼくのすべての行為を、行動を、思考をつかさどっている。ぼくにはもう自分というものがなく、自分が行なうすべてのことを怯えながら見守っている奴隷のような観客に過ぎないのだ。ぼくは外出したいのだが、それができない。あいつが外出したがらないのだ。それでぼくは、あいつがぼくを座らせておく肘掛椅子に、絶望しながら、震えながら、じっと座っている。ぼくはまだ自分を支配できると信じたいがために、ただ立ち上がってみようとして、体を持ち上げようとする。ところが、それができないのだ! ぼくは椅子に堅く結びつけられている。そして、椅子は床にぴったりとくっついていて、もうどんなに強い力ででも引っぱり上げることはできない。
それから、とつぜん、何としても庭へ行き、イチゴを摘んで食べなければいられなくなる。そこで、ぼくは庭へ行く。イチゴを摘んで食べる! おお! 神よ! 神よ! 神はいらっしゃるのか? いらっしゃるのならば、ぼくを解放してください、ぼくを助けてください! ぼくを救ってください! お許しください! お憐みください! お恵みを! ぼくを助けて! おお! 何という苦悩! 何という責苦! 何という恐怖!
八月十五日――確かに、五千フランを借りに来た時、従妹もこんなふうにものに憑かれて、唯々諾々《いいだくだく》としていた。従妹は身の内に入ったある奇怪な意志の言うがままになっていた。その意志は、ちょうど、ある別の魂、寄生していながら横柄な別の魂みたいなものなのだ。世界が終りになって来たのだろうか?
しかし、ぼくを支配しているやつは何ていうやつだろう、あの目に見えないやつは? あの不可解なやつ、あの超自然的な種族の浮浪者は?
では、やはり〈目に見えない者たち〉は存在しているのだ! とすると、彼らが今もぼくに対してやっているような明確な方法で自分を示したことが、有史以来まだ起こっていないのはどうしたことなのか? ぼくはこの家で起こったのと似たことを本で読んだことは一度もない。おお! もしこの家を離れることができたなら、もしどこかへにげて行って二度と帰らなくてもよいのなら! そうしたら、ぼくは助かるにちがいない。ところが、それができないのだ。
八月十六日――今日、二時間ばかり家を抜け出すことができた。たまたま独房のドアが開いているのを見つけた囚人みたいだった。ぼくは自分がとつぜん自由になって、あいつが遠のいているのを感じた。さっそく馬車の用意を命じて、ルーアンヘ行った。おお! 自分の言うことをきいてくれる人間に「ルーアンヘ行ってくれ!」と命令できるとは、何という歓びだろう!
図書館の前に馬車を停めさせると、ぼくはエルマン・エレスタウス博士の大論文を貸してほしいと頼んだ。それは古今の世界の未知の住民に関するものである。
次に、再び馬車に乗った時、ぼくは「停車場へやってくれ」と言おうとした。ところが、ぼくは叫んでしまった――言ったのではなく、叫んだのだ──通行人が振り返るほどの大声で「家へ帰ってくれ」と叫んでしまったのだ。そして、気も狂いそうなくらい苦しみながら、馬車のクッションに倒れてしまった。あいつがまたぼくを見つけて、つかまえたのだ。
八月十七日──ああ! 何たる夜だろう! 何たる! だが喜ぶべきだという気がする。ぼくは朝の一時まで読み続けたのだ! 哲学と神学の博士であるエルマン・エレスタウスは、人間のまわりをうろつき、あるいは人間によって夢想された、あらゆる目に見えないものの歴史とその出現を書いている。博士はそれらの起源、それらの領域、それらの力について述べている。しかし、それらのどれもがぼくに取り憑いているやつには似ていないのだ。博士はこう言っているようである。人間は、思考能力を身につけて以来、自分よりも力の強い新しい存在物、つまりこの世界での人間の後継者の出現を予感し、恐れていた。そして、それを身近に感じつつも、この新たな支配者の本性を知ることができず、それでそういう恐怖の中で、オカルト的存在の架空の民族、つまり恐怖から生まれた漠然とした幽霊を創造したのである、と。
こうして、ぼくは朝の一時まで読み耽った。それから開いた窓の近くに腰を下ろして、額と思念を暗闇の中の静かな風に当てて冷やした。
穏やかな、暖かい夜だった! 以前だったら、こんな夜をどんなに愛したことか!
月は出ていなかった。暗い天空の果てで、星がちらちらとまたたいていた。あの星にはだれが住んでいるだろうか? どんな形をしたものが、どんな生物が、どんな動物が、どんな植物があるのだろうか? あの遥かな宇宙で考えているものたちは、われわれ以上のことを知っているのだろうか? われわれ以上に何かすることができるだろうか? われわれが知らないものを見るのだろうか? いつの日か、彼らのうちのどれかが空間を通り過ぎて、その昔、ノルマン人たちがより弱い民族を征服するために海を渡って来たように、この地球を征服するために出現して来ないだろうか?
われわれ人間はこんなに力が弱く、こんなに無防備で、こんなに無知で、こんなに小さいのだ。一滴の水の中に溶けて廻っている、この些細な泥土の上にいるわれわれ人間は。夜の冷たい風に当たって、こんなことを夢想しながら、ぼくはうとうとと眠ってしまった。
ところが、四十分ばかり眠ったあげくに、何ともわけの解らない、漠然とした、奇妙な感動を覚えて目をさますと、ぼくはじっとしたまま目を開けた。最初は何も見えなかったが、やがて、とつぜん、テーブルの上に開きっぱなしにしてあった本のページが、ひとりでにめくられるような気がした。窓からは風のそよぎ一つ入って来ていなかった。ぼくはぎょっとして、そのまま待った。すると、四分ばかりしてから、ぼくは見た、ぼくは見たのだ、そうだ、まるで指でめくられるように、次のぺージが上に持ち上がって、前のページの上に落ちるのを、この目で見たのだ。ぼくの椅子はあいていた。いや、あいているように見えた。しかし、ぼくの代りにあいつがそこに腰を下ろして、本を読んでいることはちゃんと解った。ぼくは猛烈な勢いで、まるで猛獣使いを引き裂こうとしている、憤激した猛獣のようにとびすさり、部屋を横切って、あいつをとっつかまえ、絞め上げて、殺してやろうとしたのだ!……だが、ぼくがあいつに追いつく前に、ぼくの椅子がまるでにげ去るようにぼくの前でひっくり返ってしまった。テーブルは激しく揺れ、ランプは倒れて消え、窓は閉じてしまった。それはまるで、不意をくった泥棒が両開きのドアをばたんと閉めて闇の中に飛び出してにげたかのようだった。
では、あいつはにげたのだ。あいつは怖かったんだ、このぼくが怖かったんだ、あいつは!
とすると、明日……あるいは明後日に……それともいつか、ぼくはあいつをこの手で取り押さえて、地面に踏み潰してやることができるのだ! 犬でも、時には飼い主にかみついて殺さないとも限らないではないか?
八月十八日──ぼくは一日中考えた。おお! そうだ、ぼくはあいつに服従してやろう。あいつの衝動に従い、あいつのあらゆる意志を満足させ、自分はへりくだり、屈従し、卑屈になってやろう。あいつがいちばん強いのだ。しかし、時が来たら……
八月十九日――解った……解ったぞ……何もかも解ったぞ! ぼくは『科学世界』であのことを読んだのだ。こう書いてあった。
『かなり珍らしいニュースがリオデジャネイロから届いた。中世にヨーロッパ民族をおそった伝染性の精神錯乱にも比すべき狂気、狂気の伝染病が、現在、サン=パウロ地方に猛威を振るっている。絶望した住民たちは家を去り、村を見捨て、農作物をあきらめている。彼らの言うところでは、確かに感知できるのだが目には見えないもの、つまり一種の吸血鬼みたいなものに、人間でありながら家畜のように追われ、取り憑かれ、支配されている。その吸血鬼は、人間が眠っている間はその血をすすり、その上、水と牛乳だけ飲んで他のどんな食物にも手を触れないようだ、という。
ドン・ペドロ・アンリッケ教授は、数人の医学者を伴ってサン=パウロ地方に向かった。このおどろくべき狂気の原因と発現状況を現地で研究し、錯乱した村人たちを正気に返すのにもっとも有効と思われる処置を皇帝に奏上するためである』
ああ! ああ! 思い出す、ぼくは思い出す、あの五月八日、わが家の前のセーヌ河をさかのぼって行った三本マストの美しいブラジル船を! ぼくはあんなに美しく、白く、軽快だと思ったものだ! ところが、〈あいつ〉があの船に乗っていたのだ! あいつの種族が生まれた原地からやって来たところだったのだ! そして、あいつはぼくを見たのだ! ぼくの白い家も見たのだ。そこで、船から陸へ飛び降りたのだ。おお! 神さま!
今こそ、ぼくには解った、すっかり解った。これで人間の時代が終ったのだ!
あいつがやって来たのだ。あいつは素朴な民衆がいちばん怖れているやつだ。怯えた聖職者たちがお祓いをしたやつだ。魔法使いどもが闇夜に呼び寄せようとするのに、いまだ一度も現れるところを見られなかったやつだ。この世界の一時的な支配者たちの予感によって、地の精、生霊、神霊、仙女、妖怪など、あらゆるおぞましく、あるいは上品な形を賦与されたやつだ。このような粗野な概念は、原始的な恐怖によるものであるが、洞察力を備えるようになった人間があいつのことをより明確に予感するようになったのだ。メスメールがあいつの存在を見抜き、さらに、すでに十年前に、何人かの医者たちが、あいつの力の本質を、あいつ自身がその力を行使する前に、正確な方法で発見した。医者たちは、この〈新たな領主〉の武器でもって、奴隷となった人間の魂を神秘的な意志の力で支配した。彼らはこれを磁気術とか、催眠術とか、暗示とか呼んでいるが……そんなことはぼくに解るわけがない! ぼくは医者たちが、まるで腕白な子供のように、この恐るべき力をもてあそんでいるのを見たのだ! われわれに災いあれ! 人間に災いあれ! あいつが来たのだ、オ……オ……あいつは何ていう名前だったか……オ……あいつは自分の名前を大声で叫んでいるらしいが、ぼくには聞こえない……オ……そうだ……あいつは叫んでいる……耳をすましても……聞こえない……もう一度言ってくれ……オ……オルラ……聞こえた……オルラだ……これがあいつなのだ……オルラ……あいつが来たのだ!……
ああ! ハゲタカがハトを食ったのだ。オオカミがヒツジを食ったのだ。ライオンが鋭い角の水牛をむさぼり食った。人間は矢や槍や火薬でライオンを殺した。しかし、オルラは、人間が馬や牛に対してしたことを人間に対してしようとしているのだ。意志というあいつの唯一の武器でもって、人間を所有し、奴隷にし、しかも人間を食物にするようだ。われわれに災いあれ!
しかし、動物でも時には反抗して自分を手なずけた者を殺すことがある……ぼくもそうしてやろう……できれば……だが、それには、あいつを知り、あいつに触れ、あいつを見なければならない! 学者はこう言っている、動物の目は人間の目とはちがって人間のようにはものを識別できない……ところが、ぼくのこの目は、ぼくを虐げる新参者を識別することができるのだ。
それはなぜなのか? おお! ぼくは今こそ、あのサン=ミシェル山の修道士の言葉を思い出す。「われわれは存在しているものの十万分の一も見ているでしょうか? ほら、風が吹いているでしょう。風は自然の中でもっとも強い力のあるものです。風は人間を倒すし、建物をひっくり返すし、樹木を根こそぎにするし、海水を山のように盛り上げるし、断崖を突きくずします。大きな船を暗礁に乗り上げさせもすれば、人間を殺しもします。そして口笛を吹くかと思えば、呻き、とどろいたりもします──でも、あなたはその風を見たことがありますか? いや、今、風を見ることができますか? 見えないでしょう? でも、風はやはり存在しているのですよ」
そこで、ぼくはまた考えた。ぼくの目が弱くて不完全であるから、固体もまるでガラスのように透明になって識別できないのにちがいない!……もし裏箔のついてない鏡がぼくの行手をふさいでいたら、ぼくはそのガラスにぶつかるだろう、ちょうど部屋に飛びこむ鳥が窓ガラスに頭をぶつけるように。その他にも、無数のものが目を欺き、目を惑わせるのではないだろうか? 光が貫き通る新しい物体を目で認めることができないでも、何もおどろくに当たらないではないか。
新しい生物! あってもおかしくないじゃないか! そいつが当然やって来たまでのことではないか! われわれ人間が最後の生物というわけでもあるまい! しかし、われわれ人間以前に創られた他のすべての生物のように、そいつが識別できないのか? それは、そいつの本性がより完全であり、その肉体がわれわれよりもずっと精巧にできているからだ。われわれ人間の肉体は、実にか弱く、実に不器用にできていて、そこに含まれる器官は、いつも疲れていて、複雑過ぎるバネのように無理強いされている。人間の肉体は、植物や動物同様に、空気や草や獣肉からやっと栄養を取って生きている。まったく動物的な仕組みであって、病気になりやすく、障害を起こしやすく、すぐに腐敗するし、息切れもする。調整が取れておらぬくせに素朴で奇怪で、不細工にできていて、粗雑でありながら、繊細でもある。つまり、これから知能も高く優秀なものになるかも知れない生物の下絵みたいなものである。
カキから人間まで、われわれ生物は、この地球上において、まったく取るに足りぬものである。すべての相異なる種族の連続的な出現をそれぞれ区別する時期がひとたび終われば、また新たなる生物が一つ出現したところでよいではないか?
なぜ、もう一つの生物が存在しないのか? なぜ、あちこちの地方一帯を香らせる、巨大で色鮮やかな花をつける他の樹木がないのか? なぜ地水火風以外の要素がないのか?──地球上の全生物を育てる親として、それら四つの要素しかないとはどういうわけなのか? 何とも哀れなことではないか! なぜ、四十も、四百も、四千もあっていけないのか? 何とすべてが貧しくて、卑小で、みじめなことか! 何とけち臭くあたえられ、投げやりに発明され、不細工に作られていることか! ああ! ゾウやカバがどれほど優雅だというのか! ラクダがエレガントだと言えるだろうか!
しかし、蝶はどうだ! と君は言うかも知れない。飛ぶ花ではないか、と。ぼくは宇宙の百倍もある蝶を夢見る。その翼の形、美しさ、色、動きを説明することはできないが、ぼくにはその蝶が目に見えるのだ……そいつは星から星へと飛び、そのスマートで軽やかな羽搏《はばた》きで星々をすがすがしく、かぐわしくするのだ!……そして、星々の住人たちは、その蝶が飛び行くのを、うっとりとわれを忘れてながめるのだ!……
…………………………
いったい、ぼくはどうしたんだろう? あいつだ、あいつだ、オルラだ。ぼくに取り憑いて、こんな愚かなことを考えさせるのは! あいつがぼくの中に入りこんで、ぼくの魂になっているんだ。あいつを殺してやらねば!
八月十九日――あいつを殺してやろう。ぼくはあいつを見たんだ! 昨夜、ぼくはテーブルの前に腰を下ろしていた。そして、よくよく注意しながら、何かものを書いている振りをしていた。ぼくにはすっかり解っていたのだ。あいつがぼくの周囲を、ぼくのすぐそばをうろつきに来るのを。できれば、ぼくがあいつに触り、つかまえられるくらい近くにやって来るのを。そうなったら最後!……そうなったら、ぼくは必死になって、両手、両膝、胸、額、歯を総動員して、あいつを絞め、潰し、噛み、引き裂いてやるから!
こうして、ぼくはすべての器官を猛烈に鋭敏にして、あいつを待ち構えていた。
ぼくは二つのランプと暖炉の上の八本のローソクに火をともした。これだけ明るかったら、あいつを発見できるだろう。
目の前にはベッド、柱つきの樫材の古いベッドがある。右手には暖炉、左手にはドアがある。ドアは、あいつをおびき寄せるために、長い間開けておいてから、そっと閉めた。背後には、非常に丈の高い、鏡のついた衣装だんすがある。ぼくは毎日、このたんすの前でひげをそったり、服を着たりしている。この前を通るたびに、頭のてっぺんから足の先まで鏡に映す習慣になっている。
こうして、あいつにいっぱいくわせるために、ぼくはものを書いているような振りをしている。なぜなら、あいつもまたぼくを窺っているからだ。そして、とつぜん、ぼくは感じた、確かに感じた。あいつが確かにそこにいて、ぼくの耳に触れながら、ぼくの肩越しにテーブルの上のものを読んでいるのを感じたのだ。
ぼくは両手を広げながら立ち上がると、今にも倒れそうになるくらい急にさっと振り返った。ところがどうだ!……真昼間のようにものがよく見えるはずなのに、鏡にはぼくの姿が映っていないのだ!……鏡は空虚で、奥のほうまで澄んで、明るいのだ! ぼくの姿はその中にはないのだ……その前に立っているのに! ぼくは澄んだ大きなガラスを上から下までながめた。気狂いじみた目でながめた。しかも、それ以上一歩も前に進めなかった。身動き一つできなかった。あいつがそこにいるのが確かに感じられるのだが、あいつはまたもにげのびるにちがいないからだ。その目に見えぬ肉体でぼくの姿をむさぼり食ってしまったやつなのだから。
何て恐ろしかったことか! が、やがて、とつぜん、霧の中に、鏡の奥の霧の中に、まるで水の層を通してみるように、ぼくの姿がみえ始めた。そして、その水がゆっくり左から右へと流れて行くと、刻一刻、ぼくの姿がはっきりとして来るようだった。ちょうど日食の終りのようだった。ぼくからは見えなかったものは、はっきりと固定された輪郭を持っていなくて、一種不透明のようなものらしく、それが徐々に薄れて行くのだった。
ついに、ぼくは自分の姿を完全に識別することができた。毎日、鏡に映しているとおりだった。
ぼくはあいつを見たのだ! その恐ろしさはまだ残っていて、今なお、ぼくをぞっとさせるのだ。
八月二十日――あいつをどうやって殺してやろうか? 何しろあいつに手をかけることができないのだから。毒を盛るか? だが、あいつはぼくが毒を水に溶かすところを見るにちがいない。それに、われわれの毒薬は、あいつの目に見えない肉体に効果があるだろうか? いや……だめだ……効果などあるわけがない……では、どうしてやろうか?
八月二十一日──ぼくはルーアンから錠前屋を呼んで、泥棒に備えて、パリのあいまい宿の一階に取りつけられているような鉄製の鎧戸をぼくの寝室に取りつけるように頼んだ。そのほか、やはり同じ宿にあるようなドアも作ってもらおうと思う。ぼくは自分が臆病者であることを認めてしまったが、何、構うものか!……
…………………………
九月十日──ルーアン・ホテル・コンティネンタル。やった……やったんだ……だが、あいつは確かに死んだのか? ぼくはこの目で見たもののことで、気も狂いそうだ。
つまり、昨日、錠前屋が鉄製の鎧戸とドアを取りつけてしまったあと、少し冷えこんで来たが、真夜中まで開け放しにしておいた。
とつぜん、ぼくはあいつがそこにいるのを感じた。ぼくは歓喜を、気も狂いそうな歓喜を覚えた。ぼくはゆっくりと起き上がって、右に左にと歩いてみた。しばらくは何も見えなかったが、やがてぼくは何くわぬ顔で長靴を脱いでスリッパをはいた。それから鉄の鎧戸を閉めてから、忍び足でドアのところへ戻り、ドアに二重に錠をかけた。もう一度窓のところへ行くと、ポケットに入れておいた鍵で窓に南京錠をかけた。
とつぜん、あいつがぼくの周囲でうごめいているのが解った。今度は、あいつのほうが怖くなって、戸を開けてくれとぼくに頼んでいるのだ。ぼくはもう少しであいつの言うとおりにするところだった。が、そうはしないで、ドアに背中をくっつけ、あとずさりしながら、やっと通れるくらいわずかに開けた。それに、ぼくは身の丈が高いので、頭が鴨居につかえていた。確かに、あいつはにげることができなかった。こうやって、ぼくはあいつを一人だけ、あいつだけを部屋の中に閉じこめてしまった。何とうれしかったことか! ついにあいつをつかまえたのだ! それから、ぼくは階段を駆け降りて、寝室の下の客間で二個のランプを手に取ると、絨毯の上、家具の上、いやいたるところに石油をぶちまけた。そして火をつけると、にげ出した。玄関の大きなドアは二重に錠をおろしておいた。
それから、ぼくは庭の奥にある月桂樹のしげみの中に身を隠した。何と長かったことか! どんなに長かったことか! あたりはまっ暗闇で、音一つなく、何一つ動かない。風のそよぎも、星のまたたきもなかった。ただ雲の山だけが、目にこそ見えなかったが、ぼくの心を重く重く圧していた。
ぼくは家をながめながら待っていた。その長かったこと! 火がひとりでに消えたのか、あるいはあいつが消したのか、とぼくがすでに思い始めた時、階下の窓の一つが、火の力で破壊された。そして、長い、柔らかな、なでるような、赤黄色の大火炎が、白壁にそって立ち昇り、屋根までなめて行った。一筋の光が、木立や、枝や、木の葉の中を走り、戦慄も、恐怖の戦慄も同じように走った。小鳥は目を覚まし、犬が吠え始めた。まるで夜明けのようだった!
やがて、ほかの二つの窓も爆発し、すでに階下はすさまじい火の海と化していた。ところが、一声、恐ろしい、かん高い、引き裂くような声、女の悲鳴が夜の闇をつんざいたかと思うと、屋根裏部屋の二つの窓が開いた! ぼくは召使たちのことを忘れていたのだ! 彼らの逆上した顔と、激しく振る腕とを見た!……
それで、ぼくは恐怖でわれを忘れて、わめきながら村のほうに走り始めた。「助けてくれ! 助けてくれ! 火事だ! 火事だ!」すでに駆けつけていた村人たちに出会ったので、彼らといっしょに引き返して、火事を見に行った!
今や、わが家は恐ろしくも壮大な火刑台に過ぎなかった。あたりの地面一帯も明るく照らし出す火刑台、人間たちを焼いている火刑台だった。また、そこでは、あいつ、あいつも、ぼくの捕虜、新しい生物、新たな支配者の、あのオルラも焼けたのだった!
とつぜん、屋根全体が壁の間に呑みこまれ、火山から噴き出すような焔が天に向かってほとばしった。この猛火に面して、すべての窓から、大きな火桶が見え、ぼくはあいつがその巨大なかまどの中で死んでいると思った。
死んだのだろうか? おそらく……では、あいつの肉体は? 陽の光が通り抜けてしまうあいつの肉体は、われわれを殺すような方法では殺せないのではなかろうか?
もし、あいつが死んでいなかったら?……おそらく、時間だけが、この〈目に見えない、恐ろしい存在〉をやっつけることができるのではなかろうか? なぜ、あの透明な肉体、あの識別できぬ肉体、あの〈精神〉からできた肉体もまた、病気、傷害、身体障害、早死を恐れるわけがないではないか?
早死だと? あらゆる人間の恐怖は、この点に由来しているのだ! 人間の次にはオルラがやって来る──どんな日、どんな時間、どんな事故によっても死ぬかも知れないもののあとから、死ぬべき日、死ぬべき時間、死ぬべき瞬間にならなければ死ぬはずのないものがやって来たのだ。なぜなら、そのものは存在の極限に達して死ぬからなのだ!
いや……いや、確かに……あいつは死ななかったのだ……とすると……とすると……と言うことは、このぼくが死ななければならないのだろう!……
[#改ページ]
髪の毛
独房の壁は漆喰で塗ってあるだけでむき出しだった。手が届かないように、ずっと高いところに狭くて鉄格子のはまった窓が一つついているだけで、そこからさしこむ光が、明るくて陰気なこの部屋を照らしていた。狂人は、藁《わら》椅子に腰を下ろして、物に憑《つ》かれたような、焦点の決まらない目で、わたしたちを見ていた、彼はとてもやせていて、頬はこけ、髪はほとんど白かったが、その髪は数カ月のうちにそうなったことがすぐ解る。かさかさになった手足、縮まった胸、へこんだ腹には、衣服は大き過ぎるようだった。この男は、ちょうど果物が虫に食われるように、自分の考え、一つの〈思考〉に荒らされ、食われていると感じられた。彼の狂気、彼の≪考え≫は、彼の頭の中に取り憑いて、彼を苦しめ、悩ましていた。その≪考え≫は彼の体を少しずつ食っていた。その≪考え≫、目には見えず、手でも触《さわ》れず、捕えることもできない、非物質的な観念は、肉を徐々にむしばみ、血をすすり、生命を消滅させていた。
「夢想」に殺されているとは、これはなんと不可思議な男だろう! この「魔に憑かれた」男は、見る者に苦痛と恐怖と憐憫を起こさせた。男の頭の中には、なんと奇妙な、恐るべき、致命的な夢想が住みついていて、深い皺を刻ませ、絶えずピクピクと痙攣させていることか?
医師はわたしにこう言った。
「あの男は激しい狂暴な発作を起こします。わたしも、あんな奇妙な精神錯乱者を見たことがありません。色情的死体愛玩の狂気に取り憑かれているのです。一種の屍姦《しかん》症患者です。ところで、あの男は日記をつけていましてね、その日記が、あの男の精神の病いを実にはっきりと教えてくれています。日記を読むと、あの男の狂気が、いわば手に取るようによく解ります。もしご興味がおありでしたら、日記に目を通してごらんになってください」
わたしは医者のあとについて診察室に入り、その哀れな男の日記を渡された。医者は言った。
「読んで、感想をお聞かせください」
以下が、その日記の内容である。
*
ぼくは三十二の歳まで恋愛もしないで穏やかに暮らして来た。ぼくにとっては、人生はきわめて単純で、楽しく、容易に思われていた。ぼくは金持だった。いろいろ趣味も豊かだったが、何事にも熱中することができなかった。生きるとはなんと楽しいことだろう! 毎日、ぼくは楽しい気分で目を覚まし、自分の好きなことをした。そして、満足してベッドに入った。気楽な明日と未来への平和な希望を抱きながら。
ぼくは情婦を何人も持ったが、女を得たいという欲望に心を逆上させるとか、女を手に入れたあとで愛の思いに悩むとかいうことは、まったくなかった。そういうふうに生きるのは楽しいことだ。愛するということは、もっと楽しいことだが、恐ろしいことでもある。ごく普通に愛する男たちも、激しい幸せを感じるにちがいないだろうが、それでも、ぼくの味わったような幸せより大きいとは思えない。なぜなら、愛は信じられないような仕方で、ぼくのところにやって来たからだ。
金持だったので、ぼくは年代物の家具や骨董品を探し求めた。そして、しばしば、それらの品物に触れた未知の人間の手や、それらを感嘆しながらながめた目や、それらを愛した心などのことに思いをはせた。人間は事物でさえ愛するからだ! ときに、ぼくは、前世紀の小さな時計を何時間も何時間もながめていた。その時計は、七宝《しっぽう》が施してあり、金側に彫刻がしてあって、非常に美しくて、かわいいものだった。それに、昔、どこかの女が、この華奢な装飾品を所有する喜びに恍惚としながら買った日と同じように、今なお動いていた。絶えずカチカチと音を立てて、その機械としての生命を生き続け、一世紀たった今でも規則正しく時を刻んでいた。いったい、どんな女が、これを最初に胸からさげて、布地の暖かさで暖め、時計の心に合わせて自分の心をときめかせたのだろうか? いったいどんな女が、少し熱い指先に持って、裏を返し、表に戻して、肌の湿り気で一瞬曇った七宝の羊飼いをなでたのだろうか? また、どんな目が、この花飾りの文字盤の上に、待ちに待った時間を、いとしい時間を、神聖な時間を計ったのだろうか?
この精巧で類い稀れな品物を選んだ女を、ぼくはどんなに知りたい、会ってみたいと思ったことか! だが、その女はもう死んでしまっていた! ぼくは昔の女たちに対する欲望に取り憑かれ、かつて男を愛したすべての女たちを、遥か遠くから愛した。過ぎ去った愛の歴史がぼくの心を哀惜の想いでいっぱいにした。おお! 美貌の女よ、その微笑みよ、若い愛撫よ、希望よ! こういうものはすべて、なぜ永遠のものであってはいけないのだろうか?
ぼくは、かくも美しく、優しく、甘やかな昔の女たちのことを想って、何日も夜が夜中、泣いたことか! その腕を開いて接吻した女、今はもう死んでしまった哀れな女たちのことを! 接吻は不滅なのだ! それは唇から唇へ、世紀から世紀へ、時代から時代へと伝えられる──人は接吻を受け、あたえ、そして死んで行く。
過去はぼくを惹きつけ、現在は脅かす。それは、未来は死であるからだ。ぼくは過去に起こった一切のことを惜しみ、過去に生きたすべての人間に涙を流す。できれば、ぼくは時を停め、時間を停めたい。だが、時は行き、時間は過ぎ去る。一秒一秒、ぼくを少しずつ持ち去って、明日の虚無へと連れて行く。そして、ぼくは二度と蘇ることはないのである。
さらば、過ぎし咋日の女たちよ。ぼくは君たちを愛する。
しかし、ぼくは苦情など言うことはない。待ちこがれていた女を見つけ、その女によって、信じられないような喜びを味わったからだ。
ある晴れた朝、ぼくは心浮き浮きとし、足取りも軽く、パリの街中をぶらついていた。あの散歩する者の何とない興味をもって、あちこちの店を覗いていた。そして、とつぜん、ある骨董屋で、十七世紀のイタリアの家具を見つけた。とても美しく、それに非常に珍らしいものだった。それはヴィッテルリというヴェネツィアの芸術家の作と思われた。ヴィッテルリは当時非常に有名な人である。
が、やがて、ぼくはその店を離れた。
ところが、なぜか、その家具のことがしきりに想い出され、それでぼくは引き返した。もう一度、その店の前に立ち停まって、その家具をながめた。その家具がぼくの気を惹いているような気がした。
誘惑というものは、なんと奇妙なものだろう! ある品物をながめると、やがて、その品物はまるで女の顔のように見る者を魅惑し、心をかき乱し、胸に滲みこむ。その魅力、その品物の形や色や外観から生ずる奇妙な魅力が、見る者の中に入りこんで来る。そうなると、もう、その品物を愛し、欲し、手に入れたいと思っている。そして所有欲に取り憑かれ、その欲望は、最初はとまどっているように軽いが、やがて徐々に増大し、激烈となり、それから抵抗しがたいものとなる。
すると、商人たちは、その焔《ほのお》のようなまなざしで、その徐々に増大するひそかな欲望をちゃんと見抜いてしまうようだ。
ぼくはその家具を買って、すぐに家に届けさせ、家具がやって来ると、寝室の中に置いた。
世の蒐集家と、彼が買って来た骨董品との、この蜜月の味を知らない人間を、ぼくはかわいそうだと思う。蒐集家はその骨董をまるで肉体のように目と手で愛撫する。どこへ行こうと、何をしようと、しょっちゅうそばへ戻って来て、いつもそのことを思っている。街頭でも、社交界でも、至るところで、その愛すべき想い出がついて廻る。そして、家へ戻れば、手袋も帽子も脱がない先に、愛人のような優しさでそれを見つめに行く。
事実、まる一週間、ぼくはその家具を熱愛した。絶えず扉を開き、引き出しを開けた。うっとりしながら撫で廻し、それを所有していることのひそやかな喜びを味わった。
ところが、ある晩のこと、板の厚味を手で確かめているうちに、そこに小さな隠し場所があるはずだと気づいた。ぼくの胸はどきどきし出し、一晩かかって秘密を捜してみたが、どうしても発見できなかった。
しかし、翌日、板の隙間にナイフの刃をさしこんでみて、秘密をつかむことができた。板が滑って、黒いビロードを敷いた上に、女のみごとな髪の毛が伸ばして置いてあるではないか!
そうだ、髪の毛だった。茶色と言っていいくらいのブロンドの髪の毛の大きな束だった。生え際から切り取ったものにちがいなく、金色のひもで束ねてあった。
ぼくは茫然とし、心を乱し、震えていた! ほとんど感じられないくらいの、香りの精みたいな非常に古い香りが、その謎めいた引き出しと意外な形見から漂って来た。
ぼくはその髪の毛をほとんど敬虔な気持でそっとつかんで、隠し場所から引っぱり出した。すると、たちまち、髪の毛は垂れ下がって、金色の波を振りまいて床に届いた。まるで彗星の尾のように厚くて軽く、それにしなやかで光り輝いていた。
ぼくは不思議な感動におそわれた。いったいこれは何だろうか? いつ、どのようにして、なぜ、この髪の毛がこの家具の中に閉じこめられたのだろうか? この形見には、どんな恋のアヴァンチュールが、どんなドラマが隠されているのだろうか?
だれがこの髪の毛を切ったのか? 別れの日に、恋人が切ったのか? 復讐の日に、夫が切ったのか? あるいは、これを額の上につけていた女が、絶望した日に切ったのか?
修道院へ入る日に、生者たちの世界に残す証拠として、この愛の遺産をこの引き出しに投げこんだのか? あるいは、若く美しい死者を墓の中に入れる時に、その女を激しく愛した男が、女の頭の飾りを取っておいたのか? それは彼女のうちで保存できる唯一のものだった。彼女の肉体のうちの唯一の生ける部分で、これだけは決して腐ることはなかったからだし、悲しみの思いで切ない時に、なお愛撫し口づけできる唯一のものだったからだろうか?
この髪の毛を生んだ肉体はもう少しも残っていないのに、この髪の毛だけがこうしてここに残っているのは、何とも奇妙なことではなかったか?
髪の毛はぼくの指の上に落ちて、奇妙な愛撫、つまり死んだ女の愛撫で、ぼくの皮膚をくすぐった。ぼくは思わずほろりとなって、今にも涙をこぼしそうになった。
ぼくはその髪の毛をいつまでも手に持っていた。すると、それが少し動いているような気がした。まるで、その中に何か魂のようなものがひそんでいるかのようだった。それから、長い年月のせいで色の褪せたビロードの上に髪の毛を戻すと、引き出しを押して、家具の扉を閉めた。そして、町へ出て行って、あれこれ想いをはせた。
ぼくは悲しみに沈み、また心の動揺に満たされながら、ひたすら前を向いて歩いた。心の動揺とは、あの愛の接吻のあとに心に残る動揺だった。自分がすでに昔の時代に生きたことがあって、その女を知っていたにちがいないような心地だった。
すると、まるで鳴咽《おえつ》がこみ上げて来るように、ヴィヨンの詩が唇に浮かんで来た。
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語れ、いまいづこ、いかなる国にありや、
ローマの遊女、美しきフロラ、
アルキピアタ、また、タイス、
同じ血の通ひたるその従姉妹《うから》
河の面 池のほとりに
呼ばへはことふる こだまエコー、
その美しき 人の世の常にあらず
さはれさはれ 去年《こぞ》の雪、いまいづこ。
人魚《シレーヌ》の声 玲瓏《れいろう》と歌ひたる
ゆりのごと 真白き太后ブランシュ、
大いなる御足のベルト姫、またビエトリス、アリス
メェヌの州を領したるアランビュルジス、
ルウアンにイギリスひとがひあぶりの刑に処したる
ロオレエヌのたけきおとめのジャンヌ、
このきみたちは、いまいづこ、聖母マリヤよ。
さはれさはれ 去年《こぞ》の雪、いまいづこ。(鈴木信太郎訳)
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家に戻ると、ぼくはあの奇妙な発見物を見たいという抗《あらが》いがたい欲望を覚えた。それで、また手に取ってみたが、それに手を触れてみると、戦慄が手足の先までいつまでも走るのを感じた。
けれども、その後数日間は、いつもあの髪の毛のことが頭にあって離れなかったものの、ぼくはごくふつうの精神状態にあった。
外出して、家に戻ると、とたんに、どうしても髪の毛をながめ、手でいじくってみないでは気がすまなかった。ぼくはまるで最愛の女の家のドアを開ける時のようなおののきを覚えながら、あの家具の扉の鍵を廻した。それは、あのすでに死んでしまった髪の毛の魅力の流れに指をひたしたいという、わけの解らない、奇妙な、絶え間のない、肉感的な欲求を、手に心に感じたからである。
それに、愛撫をし終って、家具の扉を閉めても、髪の毛がいつもそこにあるのを感じた。まるで生きた者をそこに隠して、閉じこめてしまったような感じだった。ぼくは髪の毛を感じ、なおも髪の毛を愛撫したい欲求を覚えた。またしても、髪の毛をどうしても再び手に取って、なでまわしたいという欲求、あの冷たく、すべすべとし、焦立たしく、もの狂おしく、甘美な接触感を苦痛を覚えるまでに味わってみたいという激しい欲求に駆られた。
こうして、ぼくは、今ではもう覚えていないが、ひと月かふた月過ごした。髪の毛はぼくに取り憑いて離れなかった。ぼくは幸福であると同時に苦しんでいた。それはまるで恋を待ちこがれるような気持、あるいは抱擁前の愛の告白が終ったあとのような気分だった。
ぼくは髪の毛とともに一人閉じこもって、それを肌の上に感じ、その中に唇をさしこみ、口づけし、噛んだりした。あるいは、髪の毛を顔に巻きつけ、口に呑みこみ、その金色の波に目を溺れさせて、髪の毛を透して陽をながめたりした。
ぼくは髪の毛に恋していたのだ! そうだ。まちがいなく恋していた。もう髪の毛なしではいられなかった。一時間も髪の毛を見ないではいられなかった。
そして、ぼくは待っていた…… 待っていた。……しかし何を? ぼくはそれを知らなかっただろうか? いや、もちろん、彼女を待っていたのだ。
ある夜、自分は部屋の中で一人ぼっちではないという考えが浮かんで、ぼくははっと目を覚ました。
部屋の中にはだれもいなかった。だが、もう、なかなか眠ることができなかった。それで、熱っぽい不眠に悩まされて苦しかったので、ぼくは起き上がって髪の毛を触りに行った。いつもよりずっと柔らかく、一段と生き生きしているような気がした。死者は蘇るのか? 髪の毛に何度も接吻して暖めると、ぼくは幸福感で気も遠くなりそうになった。そこで、髪の毛をベッドの中に持ちこみ、横になると、髪の毛を唇に押しつけた。まるでこれから所有しようとしている情婦にするように。
死者は蘇って来るのだ! 彼女は蘇ったのだ。ぼくは彼女を見たのだ。彼女を抱いたのだ。彼女を所有したのだ。それは、昔、生きていたそのままの彼女、大柄で、ブロンドで、小太りで、乳房が冷たく、竪琴の形をした腰の持ち主だった。ぼくはその肉のあらゆる起伏をたどりながら、胸元から足に至る、あの波打つ聖なる線に、愛撫を走らせた。
そうだ、ぼくは毎日毎晩、彼女を所有した。死んだ女、美しい死女、熱愛すべき、神秘な、未知の女は、夜毎、蘇って来たのだ。
ぼくの幸福はあまりに大きかったので、それを隠しておくことはできなかった。ぼくは彼女のかたわらで超人間的な恍惚感を覚えた。とらえることのできない女、目には見えない女、死んだ女を所有しているという、なんとも説明のつかない、深い喜びを感じた。どんな恋する男も、これ以上熱烈で、これ以上恐るべき喜びを味わったことはないだろう!
ぼくは自分の幸福を隠すことができなかった。ぼくは彼女をあまりにも愛していたので、もう彼女から離れることができなかった。ぼくはいつも、どこへでも、髪の毛を持って行った。妻のように街を散歩させ、恋人のように劇場の桟敷席に連れて行った……ところが、人は髪の毛を見つけ……わけを見抜き……そして、ぼくから取り上げてしまった……そして、ぼくを牢獄へ投げこんでしまった、まるで悪人のように。あれは取り上げられてしまったのだ……ああ、なんて情けないことを!
*
日記はここで終っていた。わたしが怯えた目を医師のほうに上げた時、とつぜん、恐ろしい叫び声が、どうすることもできない怒りと焦立った欲望の叫びが、病室の中で起こった。
「あの叫びをお聞きなさい」医師が言った。
「あの猥褻な狂人は日に五回もシャワーを使わせなければならないんです。死んだ女を愛したのはベルトラン軍曹〔十九世紀に、屍姦常習者として有名になった〕一人ではありません」
わたしは、おどろきと恐怖と憐憫に心つかれる思いをしながら、つぶやいた。
「でも……その髪の毛は……本当にあるのですか?」
医師は立ち上がると、ガラス壜や医療器具がいっぱい並んだ戸棚を開けて、診察室の向こうから、ブロンドの髪の長い房をわたしに投げて寄こした。髪の毛は金の鳥のように飛んで来た。
わたしは髪の毛の柔らかく軽い感触を両手に感じながら身震いした。しばらくは、嫌悪と欲望とに胸をときめかせていた。嫌悪というのは、犯罪の匂いのする品物に触れる時に覚える嫌悪であり、欲望というのは、謎めいた忌まわしい物に誘惑を覚える場合の欲望だった。
医師は肩をそびやかしながら、もう一度、こう言った。
「人間の精神というものはどんなことでもできるのですね」
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幽霊
最近あったある訴訟事件に関して、みんなは不法監禁を話題にしていた。グルネル街の、ある古い邸宅での親しい者たちだけの夜の集いが終わろうとしている時のことで、みんなはそれぞれ自分の経験談、まさしく実際にあった話というのを持っていた。
その時、ド・ラ・トゥール=サミュエル侯爵という八十二歳になる老人が立ち上がり、暖炉に歩み寄ってもたれかかった。そして、いくぶん震え気味の声でこう言った。
「わたしも奇怪なことを一つ知っているのですよ。それがなんとも奇怪なことなので、これまでの生涯、それが憑きまとって離れなかったのです。そのことが起こってから今年でもう五十六年にもなるというのに、月に一度は必ずそのことを夢に見るのです。それが起こった日以来、それは恐怖の痕跡、恐怖の刻印となってわたしに取り憑いているのです。お解りですか? そうなんです、わたしは十分間、すさまじい恐怖におそわれたのですが、その結果、その時からは、一種のとぎれることのない恐怖がわたしの魂の中に残ってしまったのです。予期しない物音を聞くと、わたしはもう心臓までもちぢみ上がるし、夜の物蔭の中にはっきり見分けられない物を見ると、もうにげ出したくて矢も楯もたまらなくなります。つまり、わたしは夜が怖いのですよ。
いや、とんでもない! この年になるまで、わたしはそのことをだれにも言う気になれませんでしたよ。でも、今なら、もう何もかも言えます。八十二にもなってしまえば、想像で描く危険を前にして勇気がなくとも、まあ許してもらえるというものです。でも、ご婦人のみなさん、わたしは現実に存在する危険に直面しても、一度だって退却したことはありませんでしたよ。
そのことはわたしの精神をものすごく動転させましたし、わたしを何とも深く、謎めいて、ぞっとする不安に陥れたので、わたしは今まで一度だってその話を人に話したことがありませんでした。あの辛い秘密とか、恥ずかしい秘密など、われわれの日常の生活では告白できないような弱みが隠れている、あの心のいちばん奥底にしまっておいたのです。
わたしはその出来事を、それが起こったとおりに、説明など加えないでお話しいたしましょう。それは確かに説明のできる出来事なのですから。ただ、その時、わたしが気が狂っていなかったらの話ですが。いえ、いえ、わたしは気まで狂っていませんでしたよ。これから、それを証明してみせますが、まあ、みなさん、お好きなように想像なすってください。ごく簡単にお話しすれば、こういう出来事なんです。
一八二七年の七月のことでした。その時、わたしはルーアンの駐屯部隊にいました。
ある日、セーヌの河岸を散歩していると、一人の男に出会いました。それは見覚えのある男でしたが、はっきりだれだと思い出すことができませんでした。わたしは本能的に立ち止まろうとする素振りを見せました。すると、その見知らぬ男がわたしの素振りに気づいて、わたしをじっと見ましたが、やがてわたしの腕の中に身を投げかけました。
それは若いころの友人で、わたしの大好きだった男でした。五年会わなかったのですが、彼はもう五十年も年を取ったような様子でした。頭髪は真っ白で、まるで疲れ果てているように背中をまるめて歩いていたのです。彼はわたしのおどろきが解ったようで、一別以来の生活を話してくれました。彼は恐ろしい不幸に打ちのめされてしまったのでした。
その男はある若い娘を激しく愛して、いわば幸せの絶頂で彼女と結婚しました。そして、一年間、並みはずれた至福と果て知れぬ情熱に身を任せたあとで、彼の熱愛せる妻は心臓病でとつぜん亡くなりました。おそらく、恋そのもののために殺されたも同然でした。
妻の葬式当日に、彼は自分の屋敷を出て、ルーアンに来て、そこにもある自分の家に住むことにしました。その家で彼は苦しみにさいなまれながら孤独と絶望の日々を送りました。それはあまりにもみじめで、彼はもう自殺のことしか考えられないくらいでした。
『こうしてまた君に会ったのだから』と彼はわたしに言いました。『君に一つ大切なことをお願いしたいんだよ。ぼくの屋敷へ行って、ぼくの部屋、というよりぼくたちの部屋の机から書類を取って来てもらいたいのだ。その書類が至急要るのでね。執事や下僕などには頼めないことなんだ。絶対に秘密を守って、決して人に洩れないようにしなければならないからだ。ぼく自身は、もう金輪際、あの屋敷には戻らないつもりなんだ。
ぼくが出て来る時に閉めて来た部屋と机の鍵を君に渡しておくよ。それに、屋敷の庭師に一筆書いておくから、それを見せれば屋敷を開けてくれるだろう。
とにかく、明日、昼飯を食べに来てくれないか。君とゆっくり話したいと思うから』
わたしはこの何でもない用事を足してやることを約束しました。それに、これくらいのことは、わたしにとっては散歩みたいなものでした、男の屋敷というのはルーアンから五里ばかりのところにあるので、馬でなら一時間で行ってしまいます。
翌日、十時に、わたしは彼の家に行きました。わたしたちはさし向かいで食事をしましたが、彼はあまり口をききませんでした。それで彼はわたしにさかんにあやまっていましたが、彼の幸福が眠っている部屋をわたしが訪れるのかと思うと気が動転してしまう、と彼は言いました。事実、彼は不思議なくらい動揺していて、何か気がかりがあるような様子でした。まるで彼の心の中で何か謎めいた闘争が行なわれているかのようでした。
が、ようやくのことに、彼はわたしがしなければならないことを正確に説明しました。とても簡単なことでした。つまり、わたしが鍵を持たされている机の右側のいちばん上の引き出しに入っている手紙二束と書類一束を取ってくればよいのです。彼はこうつけ加えました。
『君にお願いするまでもないことだが、決して中身を見ないようにね』
これを聞くと、わたしは腹が立ちました。それで少々言葉を荒らげながら、決して見ないと言いました。彼はしどろもどろに答えました。
『許してくれたまえ。ぼくはもう苦しくてたまらないのだよ』
そして、泣き出してしまいました。
わたしは一時ごろに彼と別れて頼まれた用事を果たしに出かけました。
上天気でした。わたしはヒバリのさえずりとサーベルが長靴に当たるリズミカルな音を聞きながら、速歩で牧場を横切って行きました。
やがて森に入り、わたしは馬を並み足にしました。木々の枝がわたしの顔をなでました。わたしはときどき木の葉を歯で摘み取って、むさぼるように噛みました。人間は時に何かわけの解らない、激しい幸福感、一種の力の陶酔感といったようなものに満たされますが、その時、わたしもそのような生の歓喜にひたっていました。
屋敷に近づいたので、わたしは庭師に宛てた手紙をポケットから取り出しましたが、おどろいたことに、それは厳重に封印がしてありました。わたしはびっくりもし、腹も立ちました。もう少しで用事を足してやることをやめて帰ろうとしたくらいです。しかし、そんなことをしたら、自分は恥ずべき癇癪持ちであると公表するようなものだ、と思い返しました。それに、わたしの友人も、あのような心の混乱状態の中で、ついうっかり手紙に封印してしまったのかも知れません。
友人の屋敷はまるで二十年も前から見捨てられているようでした。門は開けっぱなしで腐っていました。どうして立っているか解らないくらいでした。庭の小径は一面に雑草がしげり、芝生の花壇はもう見分けられません。
わたしが足で扉をけった音を聞いて、一人の老人が小門から出て来ましたが、わたしを見てびっくりしているようでした。わたしは馬から飛び降りて、友人の手紙を渡しました。老人はそれを読み、もう一度読み返し、次に手紙をひっくり返し、わたしをひそかに盗み見していましたが、手紙をポケットに突っこむと、やっとこう言いました。
『それで、何のご用ですか?』
わたしはつっけんどんに答えました。
『あんたにはそれが解っているはずだ。その手紙にはご主人の命令が書いてあるのだから。わたしはこの屋敷の中に入りたいんだ』
老人は茫然としているようでした。彼はこう言いました。
『では、あなたさまは中にお入りになる……主人の部屋にお入りになるので?』
わたしはいらいらして来ました。
『当たりまえだ! でも、なんだって、そんなことをわざわざ聞くんだい?』
老人はしどろもどろになって言いました。
『いや……あなた……でも、それは……あの部屋はずっと……ずっと開けてなかったので……その……お亡くなりになってから。五分お待ちくださったら、わたしが行って……ちょっと様子を……見て……』
わたしは腹を立てながら老人を止めました。
『え! なんだって? じゃあ、あんたはわたしを信用しないのか? あんたは部屋には入れないぞ。鍵はわたしが持っているんだから』
老人はもう何も言うことができません。
『それでは、あなた、わたくしがご案内いたしますです』
『いや、階段だけわたしに教えてくれればよい。あとは、わたしを一人にしておいてもらいたい。あんたがいなくとも、部屋は解るよ』
『でも……あなた……それは……』
今度こそ、わたしはかっとなってしまいました。
『もう黙っていろ! 喧嘩する気ならいつでも相手になってやるぞ!』
わたしは激しく老人を押しのけて、家の中に入って行きました。
最初に台所を通りぬけ、次に老人が妻君と住んでいる二つの小部屋を通りました。それから、広い玄関ホールを過ぎて、階段を上がると、友人が教えてくれたドアを認めました。
そのドアはすぐに開き、中に入りました。
部屋は非常に暗くて、最初は中の物が何も見分けられませんでした。わたしは、このような人が住んでいなくて使ってない、いわば死んだ部屋独特のカビ臭い、むっとくる匂いにおそわれて、何度も立ち止まりました。が、徐々に目が暗闇になれて来て、その大きな、散らかった部屋がかなりはっきり見えるようになりました。ベッドには掛け布団はなく、ただマットレスといくつかの枕が置いてありました。枕の一つには、肘と頭の跡が深くついていて、先ほどまでその上にだれかが寝ていたかのようでした。
椅子はみんな、あちこちに置きっぱなしというふうでした。扉が一つ、おそらく衣装だんすの扉が半開きになっているのに気がつきました。
わたしはまず窓を開けて外の明かりを入れようとしました。ところが、雨|除《よ》けの鎧戸の金具がひどく錆びついていて、いくら開けようとしても開きません。
わたしはサーベルを使って金具を壊そうとしましたが、どうもうまくいきません。このむだな努力に腹が立ってきましたし、目もようやく暗闇にすっかりなれて来ましたので、部屋もそれ以上明るくすることはあきらめて、机のところへ行きました。
わたしは椅子に腰をかけると、机の折りたたみ式の台を下ろして、指定された引き出しを開けました。引き出しの中はいっぱいでした。でも、わたしに必要なのは三束の手紙と書類だけで、それに見分けのつけ方も解っていましたので、捜し始めました。
わたしが目を凝らして表書きを判読しようとした時、背後で何か物が軽くすれるような音が聞こえました。と言うよりむしろ、そんな感じがしました。が、わたしはそれに気も留めませんでした。隙間風でも入って来て、衣類か何かを揺り動かしたのだくらいに考えていました。ところが、その直後に、ほとんど気づかないくらいの別の動きがあって、そのため、わたしの肌の上を、何とも不愉快な小さな戦慄が走りました。たとえほんの少しにしろ、びっくりするのは愚かなことなので、わたしは自分に対する恥ずかしさから、振り向こうとしませんでした。ちょうど二つ目の束を見つけたところで、続いて三つ目を見つけようとしていましたが、その時、深く苦しそうな溜息が、わたしの片方の肩にかかったので、わたしはわれ知らず二メートルほど飛びのいてしまいました。そうしながら、サーベルの柄に手をかけて、振り向いてみました。確かに、あの時、もしサーベルを腰のところで触らなかったら、わたしはきっと卑怯者のようににげ出していたことでしょう。
白衣をまとった背の高い女が、今までわたしが腰かけていた椅子の背後に立って、わたしをじっと見つめていました。
あまりに激しい動揺が手足に走ったので、わたしはもう少しで仰向けにひっくり返るところでした! ああ! それを現実に感じない限り、だれだって、そのおどろくべき、ものすごい恐怖を理解できないでしょう。魂が溶けてしまい、もはや自分の心臓さえ感じられません。体全体が海綿のようにくにゃくにゃになってしまいます。まるで体の中身全体が流れてなくなってしまうようです。
わたしは幽霊など信じておりません。だからです! わたしは死人に対するあのどうしようもない恐怖のために卒倒したのです。わたしは苦しかったんです。ああ! わたしの残りの人生の全体よりも、その数秒間が苦しかったのです。その超自然的な恐怖ゆえのあらがいがたい苦しみに落ちこんで苦しかったのです。
もし、その白衣の女が口をきかなかったら、わたしはきっと死んでいたことでしょう! ところが彼女が口をきいたのです。神経を震わせるような、苦しみと優しさの入りまじった声で、彼女が話し出したのです。その時、わたしは再び己れを制御して、理性を取り戻したなどと言うつもりはありません。いいえ、わたしはもう自分がしていることも解らないほど度を失っていました。しかし、自分が内心に持っている自尊心のようなもの、つまり職業柄持っているわずかな自負心が、恥ずかしくない態度をわたしにいやおうなく取らせるようにしたのです。つまり、わたしは気取っていたのです。自分に対して、そしておそらく彼女に対しても、彼女が女性であろうと幽霊であろうと、とにかく彼女に対しても気取っていたのです。もちろん、こういうことはみんなあとになってから解ったことですが。なぜなら、はっきり言いますが、彼女が出現した瞬間には、わたしは何も考えていなかったからです。ただ怖いばかりでした。
彼女はこう言いました。
『ああ! あなたにぜひしていただきたいことがございます!』
わたしは返事をしたかったのですが、一言も口にすることができませんでした。はっきりしない音が喉から出ただけでした。
彼女がもう一度言いました。
『していただけますか? そうすれば、あなたはわたしを救ってくださることになります。わたしをなおしてくださるわけです。わたしはとてもとても苦しいんです。ああ! 苦しくてしかたないんです!』
そして、彼女はわたしが腰かけていた椅子にそっとすわりました。そして、わたしをじっと見つめながら、こう言いました。
『していただけますか?』
わたしは、声がまだ麻痺していたので、頭で『ええ!』と答えました。
すると、彼女はべっこうの櫛《くし》をわたしにさし出しながら、こう呟きました。
『これで髪をとかしてください。ねえ、髪をとかしてください。そうしてくだされば、わたしの苦しみはなおるのです。どうしても、とかしていただかねばなりません。わたしの頭をごらんください……わたしの苦しみといったら。髪がとかしてないので、気持が悪くってしょうがないんです!』
彼女のとても長くて、とても黒い髪の毛は、ばらばらに乱れていて、椅子の背を越えて垂れ下がり、床にとどいているようでした。
なぜ、わたしは言われたとおりにしたのでしょうか? なぜ、その櫛を震えながら受け取ったのでしょうか? なぜ、彼女の長い髪の毛を両手に取ったのでしょうか? その髪の毛は、まるで蛇をにぎったかのように、おそろしい悪寒を肌に走らせたのに。なぜなのか、今もって解らないのです。
その時の感覚は、以来ずっとわたしの指に残っていて、それを考えると、今でもぞっとします。
わたしは彼女の髪をとかしてやりました。どんなふうにやったか解りませんが、その氷のように冷たい髪の毛を手で扱ったのです。その髪の毛をねじったり、結んだり、ほどいたりしました。馬のたてがみを編むように、その髪の毛を編んだりしました。彼女は溜息をつき、頭を垂れて、幸せそうでした。
とつぜん、彼女は『ありがとう!』と言うと、わたしの手から櫛をひったくって、半開きになっていたドアからにげて行きました。ドアが半開きになっていたことは、わたしも先ほどから気づいていました。
一人になると、数秒間、わたしは悪夢から覚めた時のように、ただもう茫然としていました。それから、やっとわれに返ると、窓に駆け寄って、雨除けの鎧戸をすさまじい力で破りました。
陽ざしがさっとはいって来ました。わたしは≪あのもの≫が出て行った戸口に飛びかかりました。が、それはすでに閉まっていて、もうびくともしませんでした。
すると、ただもうひたすらにげたいという気持におそわれました。もうパニック状態でした。戦争の時に起こるような真のパニック状態に陥っていました。わたしは開けたままになっている机の上から三束の手紙をひっつかむと、部屋を走り抜け、階段を飛ぶように駆け下りて、どこからとも知れず戸外に出て、十歩ばかりのところにいた馬を認めてそれに飛び乗って、ギャロップで走り出しました。
わたしはルーアンに着くと自分の宿舎の前で初めて馬を止めました。従卒に手綱を投げると、自分の部屋ににげこんで、そこに閉じこもってじっくり考えることにしました。
こうして、一時間、自分はひょっとして幻覚にもてあそばれたのではないかと、不安におそわれながら自問しました。いや確かに、あれはあの不可思議な神経の動揺だったのだ、〈超自然〉なるものが力を振るう、あの奇跡を生み出す脳の錯乱を起こしたのだ、とわたしは考えました。
そして、わたしはある幻影を、自分の五感の錯誤を信じようとした時、窓に近づきました。と、偶然、わたしの視線が自分の胸の上に落ちました。わたしの騎兵の軍服には、一面に女性の長い髪の毛がくっついていて、ボタンにからみついていたのです!
わたしは髪の毛を一本一本つまんで、それを震えながら指で外へ投げ捨てました。
それから、わたしは従卒を呼びました。わたしはもうあまりに動転していたので、もうその日のうちには友人のところへは行かれませんでした。それに、友人に言うべきことをじっくりと考えておきたかったのです。
そこで従卒に命じて手紙を友人に届けさせたところ、友人は従卒に受領書を渡しました。友人はわたしのことをやたらと問い合わせたということでした。それで、従卒は、わたしが気分が悪がっているとか、日射病にやられたとかといったことを言ったらしいのですが、それを聞くと、友人は心配そうだったそうです。
翌日、夜が明けるとすぐに、わたしは友人に真実を言おうと決心して、友人の家に赴きました。ところが、友人は前日の夜に出かけたまま、帰宅していませんでした。
わたしはその日のうちに戻って来ました。そして、それきり、だれも友人に会っておりません、わたしは一週間待ちました。が、友人は帰って来ません。そこで、わたしは警察に届け出ました。至るところを捜索しましたが、友人の足取りも隠れ家も見つかりませんでした。
例の見捨てられた屋敷も詳しく調査されましたが、疑わしいものは一つも見つかりませんでした。
そこに女性が隠れていたという形跡も一つも出ませんでした。
捜索は何の得るところもなく、結局中止されてしまいました。
そして、あれから五十六年、わたしは何一つ知るところもなく、お話しした以上のことは知らないのです」
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だれが知ろう?
一
だめだ! ああ、もうだめだ! ぼくの身に何が起きたか、やっぱり書くことにしよう! でも、ぼくに書けるだろうか? 書くだけの勇気があるだろうか? それほど、これは奇怪なことなのだ、説明のつかないことなのだ、理解を絶した、気狂いじみたことなのだ!
もしぼくの目撃したことが確実なことではないとすればの話だが。ぼくの推理力には何の欠陥もなく、ぼくの確認したことには何の誤りもなく、たゆまなく続けられたぼくの観察には何の欠落もないとすればの話だが。そうだとしたら、ぼくは自分を、奇怪な幻想のおもちゃにされた、単純な幻覚者と思わなければなるまい。が、要するに、そんなことを、いったいだれが知ろう?
ぼくは今、精神病院にいる。ところが、ぼくは自分から進んで入院したのだ。用心のために、恐怖のために! たった一人の人間がぼくの経験したことを知っている。この病院の医師だ。ぼくはその経験したことを書こうと思う。なぜ書くのか、自分でもよく解らない。厄介払いしたいからだろう。なぜなら、あのことはいつもぼくに取り憑いて離れないからだ、まるでしつっこい悪夢のように。
以下は、ぼくが経験したことである。
ぼくはいつも孤独だった。夢想家だった、孤絶した哲学者のようなもので、人に親切で、わずかなもので満足し、人に対してきびしくはなく、天を恨んだりはしない。ぼくは今まで、ずっと一人で暮らして来た。それは、他人の存在がぼくのうちに一種の窮屈さをさしはさむからだった。これをどう説明したらよいか? どうもうまく説明できないようだ。ぼくは人と会ったり、友人と語ったり食事をしたりすることを拒んではいない。だが、ぼくは自分のそばに彼らがいつまでもいるのを感じると、たとえそれがどんなに親しい者であっても、ぼくは彼らに飽き、疲れを覚え、いら立って来るのだ。そして、彼らが早く行ってくれるとよい、あるいはこちらが立ち去りたい、一人っきりになりたいという、じれったい欲望がふくらむ一方になるのだ。
この欲望は必要以上に大きい。抵抗できないほどの必要事なのである。そして、もしぼくが会っている人間がいつまでもぼくのそばにいるとすれば、とくに注意して耳を傾けないまでも、その人の話をこれ以上まだ聞いていなければならないとしたら、ぼくは何かの事故が必ず自分の身の上に起こるにちがいないと思う。どんな事故だと? ああ、そんなことは解るはずがない。おそらく、ただ卒倒するくらいだろうか? そうだ! たぶんそうだろう!
ぼくは一人でいることが好きだ。だからこそ、隣人がぼくと同じ屋根の下で眠っていることさえ我慢ならないのだ。ぼくはパリには住むことができない。パリでは、ぼくは際限なく苦しまねばならないからだ。ぼくは精神的に死んでしまうのだ。そしてまた、ぼくのまわりで生き、うごめいている、あの無限の群衆によって、たとえ彼らが眠っている時でさえ、ぼくの肉体もぼくの精神も死の責苦を受けるのだ。ああ! 他人の眠りは、ぼくにとっては、彼らの話す言葉以上に耐えられない。そして、こうした理性の規則的な侵蝕によって寸断された存在を、壁の向こうに感じる時には、ぼくはもう絶対に休息することなどできないのだ。
なぜぼくはこうなのだろう? そんなことを、いったいだれに解るだろうか? おそらく、原因はしごく単純なことなのだろう。つまり、ぼくは自分の内部で起こることすべてにすぐ疲れてしまうのだろう。そして、ぼくと同じケースの人間はたくさんいることだろう。
この地上には二種類の人間がいる。一方は、他人を必要とする人間、他人によって気晴らしをし、他人にかまけ、他人によって休息する人間で、彼らは孤独でいると、恐るべき氷山を登ったり、砂漠を横断したりする時のように、疲れ果て、くたくたになり、気も沈んでしまう。他方は、その反対に、他人がいると飽きてしまい、疲れ果て、窮屈になり、気づまりになって来る人間である。彼らは、孤立していると落ち着けるし、自立した思念を気ままに発展させることによって、たっぷり休息にひたることができるのである。
要するに、そこには、ごくふつうの心霊現象があるのである。ある人聞は外面的に生活するように生まれついていて、その他の人間は内面的に生活するように生まれついている。そして、このぼくの外面に対する注意力は、長続きしないで、すぐに疲れてしまうのだ。その注意力が限界に達すると、ぼくは自分の肉体と精神の全体に、ある耐えがたい不快感を覚えるのである。
その結果、ぼくは自分にとって重要なものである無生物に非常に心惹かれたのだったし、現在でも心惹かれている。ぼくの家は一つのぼくだけの世界だったし、現在でもそうである。この世界では、ぼくは孤独でしかも動きのある生活をしている。周囲の事物、家具、細々としたものは、ぼくの目には、人間の顔のように親しみがあって、心が通うものである。ぼくは自分の家をそういうもので徐々に満たし、飾り立てて来た。そして、そういうものに囲まれていると、まるで愛すべき女性の腕の中にいるように、ぼくは満足して、幸せだと思う。その女性の習慣によって愛撫が、穏やかで甘やかな必要物となるようなものである。
ぼくはその家を、道路からへだたった、美しい庭の中に建てさせたのだった。しかも、ある町のはずれに建てさせた。それは、時によっては社交をする必要を感じることもあるので、その便宜と必要に応じて利用できるためだった。召使たちはみんな、高い塀に囲まれた菜園の奥の別棟で寝起きしていた。大きな木立の葉陰に隠れ、溺れてしまったようなわが家の静けさの中で、夜の闇にすっぽり包まれていると、心から休息できて心地よいので、それをいつまでも味わいたいばっかりに、ぼくは毎晩、ベッドにつくのを何時間も迷っているくらいだった。
さて、その日は、町の劇場で『シグール』が上演された。この夢幻的なミュージカルを観たのはそれが初めてだったので、ぼくはおおいに楽しい気分になった。
ぼくは徒歩で浮き浮きして足も軽く、家路についた。頭の中では歌詞が鳴りひびき、目には美しい幻が取り憑いて離れない。暗い暗い夜だった。大通りもやっと識別できるほど、そして何度も溝へ転落しそうになるほど暗かった。町からわが家までは一キロばかりある、いや、もう少しあるかも知れない。ゆっくり歩いて二十分ぐらいのものだろう。午前一時だった。目の前で空が少し明るくなって、三日月が昇った。泣きべそをかいているような下弦の月だった。夕方の四時か五時ごろに昇る上弦の月は銀色を帯びて、明るく、晴れやかである。ところが、真夜中過ぎに昇るこの月は、赤味を帯びて、陰鬱で、何か不安をおぼえさせる。まさしく、〈|悪魔の狂宴《サバト》〉に昇る三日月である。しかし、夢遊病者でなければ、こんなことに気づく者はいないにちがいない。上弦の月は、たとえ糸のように細くても、心を晴れ晴れとさせるような、ささやかながら楽しげな光をそそいで、地にはっきりした影を描く。が、下弦の月は、ほとんど影を作らないくらいに鈍い、瀕死の光をやっと投げかけるだけである。
遠くに、黒い塊となったわが家の庭の茂みが見えた。すると、どういうわけだか解らないが、あの家の中に入って行くのだと思うと何かしら不愉快になった。ぼくは歩度をゆるめた。とても気持のよい夜だった。木立の大きな塊りは、ぼくの家が埋められている墓場のようだった。
ぼくは柵門《さくもん》を開けて、両側にカエデが植わっている長い小径に入った。高いトンネルのようにアーチ形になっている小径は、暗い茂みを横切り、芝生のまわりを廻って、母屋のほうに伸びている。芝生の中にある花壇は、青白い暗闇の下で、色の具合もはっきりしない卵形の斑点のように見えている。
母屋に近づいて行くにつれて、ぼくは何とも奇妙な不安におそわれた。ぼくは立ち止まった。何の音も聞こえなかった。木々の葉むらの中では、風はそよとも吹いていなかった。(いったいどうしたっていうんだろう?)とぼくは考えた。十年この方、ぼくはほんの些細な不安も覚えることはなく、こんなふうに家に戻って来ていた。ぼくは怖がったりはしない男だ。夜でも、怖いと思ったことは一度もなかった。畑荒らしだって、泥棒だって、見たら最後、ぼくは体中怒りの塊りにして、ためらうことなく、そいつに飛びかかっていったにちがいない。おまけに、ぼくは武器を持っていた。ピストルを持っていた。でも、決してそんなものには触ろうともしなかった。自分の中に芽生えたこの不安の影響力に抵抗してみたかったからだ。
これはいったい何なのだ? 予感だろうか? これから不可解なものを見ようとする時に人間の感覚をとらえる神秘的な予感なのだろうか? たぶん、そうにちがいない。でもそんなことを、いったいだれが知ろう?
前進するにつれて、鳥肌立って来た。そして、広いわが家の、窓の閉まっている庇《ひさし》の下の壁の前まで来た時、ぼくは玄関を開けて家の中に入る前に数分待つべきだと感じた。そこで、客間の窓の下にあるベンチに腰を下ろした。ぼくは、頭を壁にもたせかけ、目を木々の葉むらの暗がりに凝らして、少し震えながら、そこにじっとしていた。この最初の瞬間には、周囲には何の異常も認めなかった。耳の中で何かぶんぶんいうような音が鳴ったが、そういうことはぼくにはよくあることだった。汽車が通過する音のような時もあるし、鐘が鳴りひびく音のような時もあるし、また、群衆が歩いて行く音のような時もある。
が、やがて、その唸りはもっとはっきりと、もっと正確に、もっと識別できるようになって来た。ぼくは思いちがいをしていたのだ。それは、いつものように、ぼくの静脈が耳の中にこんなざわめきを起こすのとはちがっていた。だが、それはとても特殊な、と言ってもとても漠とした音で、しかも、疑う余地もなく、わが家の内部から聞こえて来るのだった。
壁を通して、その音が聞こえた。それは音と言うよりむしろ一種のざわめき、物がいくつも集まって漠然ときしむような音だった。まるで、わが家の家具が全部、揺すぶられたり、移動されたり、静かに引きずっているような音だった。
ああ! それでもなお長い間、ぼくは自分の耳の確かさを疑っていた。しかし、ぼくはわが家のこの奇怪な騒動をもっとよく確かめてみようと、耳を壁にぴったりくっつけてみて、やっと納得したのだった。家の中では、何か異常な、不可解なことが起こっていたのだ。ぼくは怖くなった。しかし、ぼくは……どう説明したらよいだろう?…おどろいて狼狽していたのだ。ぼくはピストルを持っていなかった──ピストルなど少しも必要でないことがはっきり解っていたのだ。ぼくは待った。
しばらく待ったが、少しも決心がつかなかった。頭は澄み切っているのに、何とも激しい不安におそわれているのだ。ぼくは立ったまま、その音に相変らず耳傾けながら、待っていた。その音はますます大きくなり、ときどき非常に激しくなった。いら立ちと怒りと、不可解な騒動が入り混ったとどろきのようなものになっているようだった。
すると、とつぜん、ぼくは自分の臆病が恥ずかしくなって、鍵束を手にすると、必要な鍵を選び出し、それを錠にさしこんで二度廻してから、力いっぱいにドアを押しやり、ドアが仕切り壁にぶつかるまで開け放した。
ドアがぶつかった音は、まるで銃を撃ったように鳴りひびいた。すると、この爆発音に対して、階上からも階下からも、ものすごい騒音が呼応した。それがあまりにだしぬけで、恐ろしく、耳をろうするばかりだったので、ぼくは数歩あとずさりして、やはりむだではないかと思いつつも、ケースからピストルを抜き出したほどだった。
ぼくはなおも待った。と言っても、ほんの短い間だった! 今では、音をはっきりと聞き分けることができた。階段の上、床の上、敷物の上を踏む奇怪な音だった。と言っても、はきものや人間の足で踏む音ではなく、松葉杖、木製の松葉杖、鉄製の松葉杖が、まるでシンバルのように震動する音だった。ところが、とつぜん、ぼくは認めた。肘掛椅子が、ぼくの読書用の大きな肘掛椅子が、戸口の敷居の上を、尻を振りながら外へ出て行くのだ。そして、庭のほうへ行ってしまった。ほかの家具──客間の家具も肘掛椅子のあとについて行った。次に丈の低いソファが、まるでワニのように、四つの短い足で、のそのそと這って行った。次は、椅子が、全部の椅子が、まるで雌羊のように跳びはねて行った。それから、小さな腰掛がウサギのようにチョコチョコと小走りに駆けて行った。
おお! 何という感動だろう! ぼくは庭の茂みの中にもぐりこみ、そこにうずくまったまま、この家具の行列をいつまでも見つめていた。というのも、家具はあとからあとからどんどんやって来たからだ。その背丈や重さによって、速かったりのろかったりまちまちだった。ぼくのピアノ、あのグランド・ピアノは、腹の中で音楽のつぶやきをやりながら、怒馬のように駆けて行った。ブラシ、ガラス器、コップといった小物が、アリのように砂の上を這って行く上に、月の光が土ボタルのような燐光を投げかけていた。敷物も這って行った。それは、水溜りのところでは、タコのように広がった。ぼくはまた、ぼくの仕事机、十九世紀の珍らしい品である仕事机も認めた。その中には、ぼくが受け取った手紙が全部入っていた。それはぼくの歴史なのだ。ぼくがあんなに悩んだ古い歴史なのに! おまけに写真まで入っていた。
ぼくは急に怖くもなんとも思わなくなった。それで、仕事机に飛びかかって行ってつかまえた。泥棒をつかまえるように、にげて行く女をつかまえるように。ところが、仕事机は、自分でも止めようがないんだと言わんばかりに駆けて行ってしまった。ぼくがどんなに努力しても、どんなに怒ったところで、その歩みをゆるめることさえできなかった。ぼくはその恐るべき力に抵抗しようとして、仕事机と格闘したが、たちまち地面へ倒されてしまった。それから、仕事机はぼくをころがし、砂の上を引きずって行った。すでにそのあとに続いていたほかの家具も、ぼくの上を歩き始めていて、ぼくの両足を踏みつけて傷を負わせた。次に、ぼくが仕事机を放した時には、ほかの家具がぼくの体を乗り越えて行った。ちょうど、騎兵が落馬した兵士を襲撃するのに似ていた。
ついに驚愕のあまり気狂いのようになったぼくは、広い道の外に這い出して、もう一度木立の中に隠れることができた。そうして、ぼくの所有しているものの中でもいちばん小さなもの、いちばん目立たないもの、いちばんくだらないものが、ついに姿を消すのをながめていた。
やがて、遠くから、もう今では空き家のように空虚になった家の中から、ドアがばたんと閉まるものすごい音が聞こえた。上から下まで家じゅうのドアがいっせいに音を立てて閉まった。そして最後に、ぼくが非常識にも開けて家具をにがしてしまった玄関のドアまでが閉まった。
ぼくもにげ出して、町のほうへ走って行った。そして、あちこちの通りで、夜の遅い人々に出会って、やっと落ち着きを取り戻した。それから、ぼくはよく知っているホテルヘ行って呼鈴を鳴らした。両手で衣服をたたいて埃を払ってから、自分が家の鍵束を紛失したこと、その中には菜園の鍵も混じっていること、菜園の果実や野菜を泥棒から保護するために囲い塀がしてあって、その塀の中の別棟に召使たちが寝起きしていることなどを話した。
ぼくはあたえられたベッドの中に頭までもぐりこんだ。しかし眠れなかった。心臓がどきどきいう音を聞きながら夜明けを待った。夜が明けたらすぐに家の者に知らせてもらうことにしてあった。それで、朝の七時に、下僕がぼくの部屋のドアをたたいた。
彼は仰天している様子で、こう言った。
「旦那、実は昨夜、とんだことが起こりました」
「何だと?」
「お家の家具がみんな盗まれてしまったんです。いちばん小さなものまで、そっくりなんで……」
このニュースを聞いて、ぼくは愉快になった。なぜだろう? そんなことをだれが知ろう? だが、ぼくは自分を制御するすべを心得ていた。自分が目撃したことを秘密にし、だれにも言わないでおける自信があった。それを恐るべき秘密のように自分の良心の中に埋めておける自信があった。そこで、ぼくはこう答えた。
「すると、犯人はわたしの鍵を盗んだのと同じ人間だ。すぐ警察に通知しなければならん。わたしもこれから起きて、あとから行く」
捜査は五カ月続いた。が、何も見つからなかった。ぼくの持っているがらくたの中でもっとも小さなものも、泥棒のどんなちょっとした手がかりも見つからなかった。当たり前だ! だが、もしここでぼくが自分の知っていることを言ったとしたら……もしかりに言ったとしたら、どうだろうか……ぼくは監禁されてしまうだろう。泥棒としてではなく、あんなに異常なものを見ることができた人間としてである。
おお! ぼくは沈黙を守ることを知っていた。しかし、ぼくは家の家具を新調したりはしなかった。そんなことをしてもむだなのだ。また同じことが繰り返されるだけのことなんだ。ぼくはもう家へ帰りたくなかった。もう帰らないつもりだ。実際、ぼくは二度とわが家を見なかった。
ぼくはパリに来て、ホテルに泊った。そして、あの何とも嘆かわしい夜以来、自分の神経の状態がとても心配だったので、何人もの医者に診てもらった。
どの医者もぼくに旅行を勧めた。ぼくは医者たちの勧告に従った。
二
ぼくはまずイタリアを遊覧することから始めた。イタリアの太陽はわたしにはよく効いた。半年間、ジェノヴァからヴェネツィアヘ、ヴェネツィアからフィレンツェヘ、フィレンツェからローマヘ、ローマからナポリヘと、ぼくはさまよった。それからシチリア島を歩き廻った。この島は、その自然、ギリシア人やローマ人が残した遺物により、すばらしい土地である。次にぼくはアフリカヘ行き、あの黄色く静かな大砂漠を横断した。そこには、ラクダやカモシカや放浪のアラビア人がうろついていて、軽やかで透明な大気には、昼と言わず夜と言わず、どんな強迫観念も漂ってはいない。
ぼくはマルセーユからフランスヘ戻ったが、プロヴァンス地方特有の陽気さはあっても、とぼしくなった空の光はぼくを悲しませた。病気は治ったとばかり思っていたのに、いざ大陸に戻ってみると、その病気の奇怪なところをまたも感じた。そして病気の因《もと》がまだ消えていないことを、ある内にこもった苦しみが予告していることを知った。
それから、ぼくはパリに帰った。すると、一カ月たつうちに、ぼくは退屈して来た。季節はちょうど秋だったので、冬になる前に、まだ知らないノルマンディ地方を遊覧してみたくなった。
もちろん、まずノアンの町から始めた。そして、この中世の都市、異様なゴティック様式の建造物の立ち並ぶこのおどろくべき美術館を、一週間かけて、うっとりとし、感嘆し、われを忘れながら見て廻った。
ところが、ある夕方の四時ごろ、ぼくはこの世にはあり得べからざるようなある通りにさしかかった。それは〈ロベック河の水〉と名づけられた、インクのように黒い河の流れている通りだった。と、その時、ぼくは立ち並ぶ家々の古風で奇怪な佇《たたず》まいにじっと注意を凝らしていたが、その注意が、軒を列ねて並んでいる古物商の店々にとつぜん向けられた。
おお、そうだ! これらの店はまさにあるべき場所にあると言ってよい! 陰気な流れのほとりのこんな奇怪な小路に、このような古物を扱う汚ない店が並んでいるのだから! 瓦やスレートでふいた光った屋根にも、今なお、過去の時代の古臭い風見《かざみ》が廻っているのだから!
暗い店の奥には、彫刻を施した大箱、ルーアンやヌヴェールやムスティエの陶器、彩色をした彫刻、カシ材の彫刻、キリスト像、聖母像、聖者像、寺院の装飾品、上祭服、法衣など、それに祭器や、祭った神などもうどこかへ引っ越してしまっている金塗り木製の古い聖櫃《せいひつ》などが、うず高く積んであるのが見えた。おお! これらの高い家々、広い家々は、まるで奇怪な洞窟のようなもので、その中には、地下室から屋根裏部屋に至るまで、あらゆる種類の品物が充満している。その存在価値が消滅してしまったと思われるようなこれらの品物が、それらのもともとの所有者、それが生まれた世紀、それが生きた時代、その流行を失っても、いまだに生き残っているのは、新たな世代によって骨董品として買われるためなのである。
そして、ぼくの骨董品に対する情熱が、この古物商の町に来て蘇って来た。ぼくは店から店へと見て廻った。〈ロベック河の水〉の、あの胸の悪くなるような流れにかかる四枚の腐った板の橋をひとまたぎにしながら。
ところが、何とおどろき入ったことか! まさに衝撃! ぼくが大事にしていた戸棚の一つがあったのだから。品物がいっぱいつまっているアーチ型の店の脇、古手の家具類の墓場のような地下室の入口にあったのだから。ぼくは手も足も震わせながら近づいて行った。あまりに震えているので、その戸棚に触れることもできないくらいだった。ぼくは片手をさし出しながら、ためらっていた。だが、確かにあの戸棚だった。これを一度見た者ならだれでもこれとすぐ解る、ルイ十三世時代様式の戸棚だった。その時、ぼくはふと、もっと先のほう、その廊下のもっと奥のほうへ目を移した。すると、あの目の細かいタピスリーが張ってある、ぼくの肘掛椅子が三脚、目に入った。さらに、もっと先には、あのパリから人が見に来るほどの珍品の、ぼくのアンリ二世時代様式の小卓が二脚あるではないか。
考えてもみてくれ! その時のぼくの精神状態を!
興奮のあまり息もつまって、体もきかなかったが、でもぼくは進んで行った。ぼくは勇敢だからだ。まるで暗黒時代の騎士が魔法の棲み家へ侵入するように進んで行った。そして、一歩また一歩と進むごとに、かつてぼくの所有していたあらゆる品物に再会した。ぼくの釣り燭台も、ぼくの書物も、ぼくの絵画も、ぼくの絨毯も、ぼくの武器も。ただ、あの手紙がいっぱい入っていた仕事机だけは決して見当らなかった。
ぼくは薄暗い廊下に下りたり、上の階へ上がったりして進んだ。ぼくは一人だった。家の者を呼んでみたが、答えはまるでなかった。ぼくは一人っきりだった。迷路のように曲がりくねった、このだだっ広い家の中には、だれもいなかったのだ。
夜になった。ぼくは暗闇の中で、ぼくの椅子の一つに腰を下ろさねばならなかった。だって、絶対に立ち去りたくなかったからだ。ときどき、叫んでみた。「おおい! おおい! だれかいないのか!」
そこでじっとして、確かに一時間以上もたったころ、足音が聞こえた。かすかな、ゆっくりした足音が、どこからか聞こえて来た。ぼくは今にもにげ出しそうになった。だが、にげるのも癪《しゃく》だと思って、もう一度叫んでみた。すると、隣りの部屋に明かりが見えた。
「どなた?」と声が言った。
ぼくは答えた。
「お客です」
返事が返って来た。
「店に来るには時刻が遅過ぎますな」
「もう一時間以上も待ってますよ」
「いやあ、明日、もう一度来てみてください」
「明日はもうルーアンを発ちますよ」
ぼくはもう進む勇気がなかったし、相手もこちらへやって来なかった。が、相変らず明かりは見えていた。明かりは、壁掛けを照らしていて、そこには二人の天使が戦場で死んだ者の上を飛びかっている図が描いてあった。その壁掛けもまたぼくが所有していたものだった。ぼくは言った。
「いやあ、こちらへ来てくれませんか?」
相手が答えた。
「わたしのほうへ来てください」
ぼくは立ち上がって、声のするほうへ行った。大きな部屋の真中に、非常に小さな男がいた。とても小さくて、やたらと太った男だった。化け物のように太って、化け物のように醜かった。
男はひげもまばらで、その毛も不揃いで、薄くて、黄色っぽかった。それに何と、頭には髪の毛がなかった! 一本もなかったのだ! 男が、ぼくをよく見ようとして、手に持ったローソクを高く掲げたので、その禿げ頭が見えたのだ。その禿げ頭は、この古手の家具がぎっしりつまった広大な部屋の中に小さな月のように浮かんでいた。顔はしわだらけで、むくんでいて、目は見えないくらいに小さかった。
ぼくは、以前自分が所有していた三脚の椅子を値切って、その場で大金を払うと、泊っているホテルの部屋の番号だけを教えた。椅子は翌日九時前にホテルに届けられるはずだった。
それから、ぼくはその店を出た。男はとても愛想よく、ぼくを戸口まで送って来た。
ぼくはすぐ警察署長のところへ行って、家具類の盗難に会ったのだが、それを今発見したことを話した。
署長は、以前この盗難事件を審理したことのある検事局へ電報で問い合わせる一方、ぼくには返事が来るまで待つように勧めた。そして一時間後に返事が来たが、それはぼくにとってはまことに満足すべきものだった。署長は言った。
「その男を逮捕して、すぐ訊問します。その男は疑わしいし、あなたの家具を隠匿したふしもありますからな。あなたはこれから夕食へ行って、二時間後に、またここへ来てください。それまでに、その男をここへ連れて来て、あなたの前でもう一度訊問しますから」
「おっしゃるとおりにします。どうもいろいろありがとうございました」
ぼくはホテルヘ帰って夕食を食べた。自分でも信じられないくらいよく食べた。ぼくはやはりうれしかったのだ。あの男をつかまえてしまったのだ。
二時間後、ぼくは自分を待っている署長のところへ戻った。
ところが署長はぼくを見てこう言ったのだ。
「やあ! 実は、あの男は見つかりませんでしたよ。部下の警官たちもつかまえることができませんでした」
ああ! ぼくは卒倒しそうになった。
「でも……男の家は見つかったでしょう?」とぼくはたずねた。
「もちろんです。男が戻るまで張り番をつけて監視することにしました。ただ、男は失踪してしまいましたからね」
「失踪したですって?」
「そう、失踪したんです。男は夜分はいつも隣家の女のところへ行っていたらしい。女は未亡人のビドワンといって、やはり古物商ですが、これがまるで魔女みたいな女でしてね。昨夜、女は男に会わなかったから、男については何の情報も持っていないのです。明日まで待たねばなりませんね」
ぼくは立ち去った。ああ! ルーアンの町が何と陰惨に、奇怪に、魔物に憑かれたように見えたことか!
ぼくはあまり眠れなかった。眠りこむたびに悪夢にうなされた。
だが、あまりに心配しているように、あるいはあまりに慌てているように思われるのもいやだったので、翌日は、十時まで待ってから警察署へ赴いた。
古物商は二度と現れていなかった。店は閉まったままだったのだ。
署長はぼくにこう言った、
「必要な手はみんな打ちましたよ、検事局にも一件を通知してあります。これからいっしょに行って、その店を開けさせましょう。あなたの所有していたものをすべて教えてください」
荷馬車がぼくたちを運んだ。警官たちが、錠前師を連れて、店の戸口の前に集まっていた。戸口が開けられた。
中へ入ったが、戸棚も、肘掛椅子も、小卓も見当らなかった。何も、何一つ見当らなかった。ぼくの家の家具は一つもなかった。ところが、前の晩には、ぼくの家具のどれにでも突き当らずにはいられなかったのに。
署長もびっくりして、最初は疑わしそうにぼくを見つめた。
「ああ、署長さん、あの家具類がなくなったことは、商人が消えたことと奇妙に一致していますね」とぼくは署長に言った。
署長がにやりと笑った。
「なるほど! 昨日、あなたが家具を買って金を払ったのはまちがっていましたな。それで、あの商人が勘づいたんですよ」
ぼくはもう一度言った。
「わたしに納得がいかないのは、わたしの家具が置いてあった場所には、今ではほかの家具が置いてあることです」
署長が答えた。
「ああ! 一晩まるまる時間があったし、それにおそらく共犯者もいたでしょうしね。この家は、近所の家とも連絡があるにちがいありません。いや、ご心配いりませんよ。わたしは本気になってこの件を捜査しますから。われわれがこの巣窟を監視しているのですから、盗賊もいつまでもにげてはいられませんよ」
ああ! ぼくの心、ぼくの心、ぼくの哀れな心は、何と激しく悸《う》ったことだろう!
ぼくはルーアンに十五日間滞在した。だが、あの男は戻って来なかった。あたりまえだ! まったく! あんなしぶとい男がつかまるなんてことがあるわけがないではないか?
ところが、十六日目の朝、ぼくは略奪されて空っぽになった家の番人をしているうちの庭師から奇怪な手紙を受け取った。文面は次のようなものだった。
[#ここから1字下げ]
拝啓
昨夜起こったことを旦那さまにお知らせいたします。それはだれにも理解できない、警察だってわたくしども以上に理解できないことでございます。家具がみんな戻って来たのです。一つ残らずみんな、どんながらくたな品物もみんなです。今では、お家は盗難に会った前の日とまったく同じになっております。まったく、頭がおかしくなりそうなくらいです。起こったのは金曜日から土曜日にかけての夜のことでした。道はでこぼこになっています。門から玄関まで引きずって行ったかのようにでこぼこなのです。ちょうど家具がなくなった日と同じなのです。
わたしどもはみんな旦那さまのお帰りをお待ちしております。
フィリップ・ローダン
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ああ! いやだ! ああ! だめだ! だめだ! 家に帰るなんて、ああ、いやだ!
ぼくはこの手紙をルーアンの署長に見せに行った。署長がこう言った。
「いや、実に巧妙に盗品を返したものですな。われわれは知らん振りをしていましょう。近日中に、あの男をきっとつかまえてやりますよ」
ところが、あの男はつかまらなかった。そうなんだ。あの男は逮捕されなかったのだ。そして、このぼくは、今では、あの男が怖い。ぼくの背後に放された猛獣のようだ。
見つかるわけがないんだ! あの月みたいな禿げ頭の怪物が見つかるわけがないんだ! あの男は決してつかまるまい。あの男は決して家には戻って来ないんだ。家に帰るなど、あの男にはどうでもいいことなんだ。あの男に出会うなんていう人間は、ぼく以外にはいないのだ。そして、ぼくはあの男に出会うのがいやなんだ。
出会いたくない、出会いたくない! 絶対に出会いたくない!
たとえあの男が戻って来ても、あの店に戻って来たところで、ぼくの家具があの男の家にあったことを、いったいだれに証明できるというのか? ぼくの証言以外には、あの男に抵抗できるものはないのだ、ところが、そのぼくの証言自体がどうやらあやふやになって来ていると、ぼくは強く感じているのだから。
ああ! だめだ! もうこんなふうに生きていることは不可能だ。しかも、ぼくは自分が目撃したことを秘密にしておくことができなかった。あれと同じことが再び起きるのではないかという不安を抱えていては、世間の人並みに暮し続けていくことはできなかった。
ぼくはこの精神病院の院長をしている医者に会いに来た。そして、何もかもすっかり話した。
医者は長いことぼくを訊問してから、こう言った。
「しばらく、ここにいらしてみたらどうでしょう?」
「そういたします」
「裕福でいらっしゃいますか?」
「ええ」
「では、離れ家においでになったらどうですか?」
「ええ、結構です」
「お友だちには面会なさいますか?」
「いいえ、いやです。だれにも会いません。あのルーアンの男は、復讐しようとして、わたしをここまで追いかけて来るかも知れませんから」
そして今、ぼくは一人だ。三カ月以来、一人ぼっちだ。が、ぼくはほとんど落ち着いていると言ってよい。ぼくには一つのことしか怖くない……もしあの古物商が気が狂ったら……そして、もしこの精神病院へ連れて来られたら……牢獄だって安全だとは限らないのだから……
[#改ページ]
墓
一八八三年七月十七日、午前二時半ごろ、墓場の端にある番小屋に住む、ベジェ墓地の管理人は、台所に閉じ込めておいた飼犬の激しい吠え声で目を覚ました。
すぐ階下《した》に下りて行ってみると、犬は戸口の下を狂ったように嗅ぎ廻っていた。まるで家の周囲で浮浪者か何かがうろつき廻ってでもいるみたいだった。管理人ヴァンサンは、銃を手にして、用心しながら外へ出て行った。
飼犬はボネ将軍家の墓へ通じる小径に向かって走り出し、トモアゾー夫人の記念像のそばでぴたっと止まった。
そこで管理人は警戒しながら進むと、やがてマランヴェール小路の方向に小さな明かりを認めた。彼はすばやく墓と墓の間に滑りこんで、そこから恐るべき墓地荒らしを目撃した。
一人の男が、前日埋葬された若い女の死体を掘り起こし、墓の外に引っぱり出していた。
土の山の上に置かれた小さなランタンがこのぞっとする光景を照らし出していた。
管理人ヴァンサンはこのあさましい男に飛びかかって、投げ倒し、両手を縛り上げて、警察に引っぱって行った。
その男は、クールバタイユという名の、この町でも評判のよい、金持の若い弁護士だった。
彼は裁判にかけられた。検事局は、あの有名なベルトラン軍曹の獣的行為を傍聴人たちに思い起こさせて、彼らを煽動した。
傍聴人の中に、憤慨の戦慄が起こった。裁判官が席につくととたんに、「死刑だ! 死刑だ!」という叫びが爆発した。裁判官は法廷に静粛を回復するのに大いに骨が折れた。
それから、おごそかな口調で言った。
「被告には弁明することがあるか?」
弁護士を要求していなかったクールバタイユは自ら立ち上がった。背が高く、髪の毛は褐色で、顔は明るく、精悍《せいかん》な顔立ちで、ものを怖れぬ目つきをした美青年だった。
傍聴席から口笛が飛んだ。
青年は、少しも心乱れるふうがなく、初めは少々不明瞭な声で話したが、やがて、その声はだんだん強くなって来た。
「裁判長殿
陪審員諸君、
わたしにはほんのわずかだけ言うべきことがあります。わたしが墓をあばいた女は、実はわたしの愛人であったのです。わたしは彼女を愛していました。
わたしは肉体的な愛ではなく、ただ単なる心の優しさでもなく、絶対的な完璧な愛、狂熱的な愛で彼女を愛していました。
お聞きください。
わたしが初めて彼女に会った時、彼女を目にして、わたしは不思議な思いに打たれました。それはおどろきでもなく、感嘆でもなく、一と目惚れと呼ばれるものでもなく、ある得も言われぬ甘美な幸福感でした。まるで生暖かい湯の中に漬かったみたいな心地でした。彼女の素振りはわたしを惹きつけ、彼女の声はわたしをうっとりとさせ、彼女の体全体が、それを見るわたしに限りない歓びをあたえました。また、もうずっと以前から彼女と知り合っていたような、あるいはすでにどこかで彼女に会ったような気がしました。彼女は身内に、なにかわたしの精神のようなものを持っていました。
わたしには彼女が、わたしの魂が投げかける呼びかけに対する答えのように、人間が生涯を通じて希望に向かって投げている漠とした絶えざる呼びかけのように思われたのです。
彼女をもう少しよく知るようになると、彼女に会うのだと考えるだけで、もうわたしは深く快い気持に心をかきたてられました。わが手に、彼女の手を握ると、わたしはかつて一度も想像したことのないような恍惚とした思いに打たれ、彼女の微笑みはわたしの目の中に狂おしいほどの歓喜を注ぎこみ、そのため、わたしは走りたい、踊りたい、地面をころげ廻りたいと切なく思うのでした。
こうして、彼女はわたしの愛人になりました。
いや、彼女は愛人以上のものでした。わたしの生命そのものでした。わたしはもうこの世で何も期待せず、何も望まなくなりました。もう何一つほしいものはありませんでした。
ところが、ある晩、わたしたちは河に沿って少し遠出をしたのですが、その時、雨に降られてしまいました。彼女は風邪をひきました。
そして翌日、彼女は肺炎を起こして、一週間後に死んでしまったのです。
彼女が死の苦しみを味わっている何時間か、わたしはあまりのおどろきと狼狽のために、もう何も解らなくなり、何も考えることができませんでした。
彼女が亡くなった時には、わたしは絶望のあまり茫然となり、もう思考能力も失って、ただ泣いてばかりいました。
恐ろしい埋葬の儀式が行なわれている間、わたしの激しい狂おしい苦悩はまた、亡き女《ひと》の苦しみでもありました。つまり一種の感覚的、肉体的苦しみでした。
が、やがて、彼女がいなくなってしまい、地中に埋められてしまった時になって、わたしの意識はとつぜん鮮明になりました。そして、わたしは続けざまにあまりに恐ろしい心の苦しみを味わいましたので、彼女から受けた愛すらも、これほどの代償には引き合わないような気がしたくらいでした。
その時、わたしの頭にこんな考えが浮かび、それが固定観念になってしまいました。
「もう二度と彼女には会えないんだ」
まる一日中、こんなことを考えていれば、だれだって頭がおかしくなってしまいます! まったく、考えてもみてください! あなたが激しく愛している人間がいるとします。それはかけがえのない人間です。なぜなら、この広大な世界の中で、その人間に似ている人は一人もいないからです。この人があなたに身を捧げ、あなたとともに〈愛〉と呼ばれている神秘的な結合を創造します。あなたにとっては、その人の目は宇宙空間より広く、世界よりも魅力的であるような気がします。その明るい目の中では、愛情が微笑んでいるのです。そんな人があなたを愛しているのです。その人があなたに話しかけると、その声はあなたに幸せの波を注ぎかけるのです。
ところが、その人がとつぜん消えてしまうのです! 考えてもみてください! その人は、ただあなたにとって消えるだけではなく、永久に姿を消してしまうのです。その人は死んだのです。この死という言葉の意味がお解りでしょうか? もう決して、決して、決して、どこにも、その人は存在していないのです。もう絶対に、その目は何ものも見ないのです。もう決して、その声は、そのような声は、人間のすべての声の中で、その声が発音していた言葉のどの一つさえも、そのようには発音しなくなるのです。
決して、いかなる顔も彼女の顔そっくりには生まれて来ません。決して、決して、です! 彫像の鋳型は取っておくことができます。同じ輪郭と同じ色彩を持つ品物を再生する押し型は保存しておくことができます。しかし、彼女の肉体、彼女の顔は、決して二度とこの世に現れません。何千、何百万、何十億という無数の人間は生まれるでしょうが、こうして未来において生まれるすべての女たちの中で、彼女は二度と生まれては来ません。そんなことがあるわけがないでしょう? それを思うと、気が狂ってしまうのです!
彼女は二十年間存在しただけで、それでもうおしまいでした。彼女は永遠に消滅してしまったのです。永遠に、永遠に、です! 彼女は考え、微笑み、そしてわたしを愛しました。それなのに、もう何も存在しないのです。秋に死ぬハエも、創造の世界においては、わたしたち人間と同じです。もう何ものもないのです! そして、わたしは、彼女の肉体、生き生きとして暖かい彼女の肉体、あれほど柔らかく、あれほど白く、あれほど美しかった肉体も、地下の箱の中で腐っていくのかと思いました。彼女の魂や、彼女の考えや、彼女の愛は、いったいどこに行くのだろう? と。
もう二度と彼女に会えない! もはや二度と彼女には会えない! この分解していく肉体という考えがわたしに取り憑いて離れなくなりました。でも、おそらく、わたしはそれをよく知ることはできるだろう。こうして、わたしはその肉体を今一度この目で見たくなったのです!
わたしはシャベルとランタンと槌《つち》を持って出かけました。墓地の塀を乗り越えました。彼女の墓穴を見つけました。まだ土を全部はかけてなかったのです。
わたしは棺をむき出しにしました。そして棺の蓋の板を一枚開けました。嘔き気を催すような臭気、おぞましい腐敗の匂いが、わたしの顔に吹きつけました。ああ! 彼女の寝床はアイリスの香りがしたのに!
でも、わたしは棺の蓋を取り、火をともしたランタンを棺の中に入れて、彼女の顔を見ました。彼女の顔は真青で、むくんでいて、ぞっとしました! 彼女の口からは真黒い液体が流れ出ていました。
彼女でした。まちがいなく彼女でした! わたしはぞっと恐ろしくなりました。それでも、わたしは片腕をのばして、その髪をつかんで、その恐ろしい顔を引き寄せようとしました。
その時です、わたしが逮捕されたのは。
その腐敗の悪臭、最愛の女の匂いが、一晩中、わたしにしみついていました。まるで愛の抱擁のあとで、相手の女の匂いがしみついているように。
どうか、わたしを存分になさってください」
何とも奇妙な沈黙が法廷内にみなぎっているようだった。人々はまだ何かを待っているようだった。陪審員たちが協議するために中座した。
数分後、陪審員たちが戻って来た時には、被告は少しも不安な様子もなく、何も考えてさえいないようだった。
裁判官は型どおりの言葉で、評決が無罪を宣告した旨を被告に言い渡した。
被告は身振り一つしなかった。傍聴席から拍手が湧き上がった。
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痙攣《ティック》
晩餐の招待客たちがホテルの大広間にゆっくり入って来て、それぞれの席についた。ボーイたちが、遅刻したお客がまだ席につけるように、またそのたびに新たに料理を運んで来なくてもすむように、ゆっくりと給仕し始めた。古くからいる湯治客や常連など、シーズンが始まるとすぐやって来た客たちは、ドアが開くたびに、新来の客が現れるのを見たいので、期待顔でドアのほうをながめた。
こういうことが温泉町では大きな気晴らしになるのである。その日に町へやって来た客を観察するために、あるいはその客がどんな人間が、何をしているのか、何を考えているか見抜こうとして、夕食を待つのである。われわれの頭の中にはある種の欲望が巣くっている。愉快な出会いをしたいとか、気持のよい知己を得たいとか、おそらく恋愛にめぐり会いたいとかいった欲望である。たがいに肘と肘とをつき合わせるような生活においては、隣人──と言ってもたがいに知らない間柄だが──はきわめて重要な存在となる。好奇心が目覚め、共感が待ち受け、社交性が働く。
初めの一週間はたがいに毛嫌いしていても、一と月たつと親しくなり、温泉町で知り合うという特別の見方によって、たがいにちがった目で人を見るのである。そこで、夜、夕食後に、温泉がたぎっている公園の並木の下で、一時間も喋ったりしていると、話の相手がすばらしく頭がよくて申し分のない価値を持っていることが、とつぜん解ったりする。が、さらに一と月もすると、初めのころはあんなに魅力のあった、こうした新しい友のことなどすっかり忘れてしまうのである。
しかし、また、真面目で持続する関係が、ほかのどんな場所でよりも速く作られもする。みんな、一日中顔を合わせているので、たちまち知り合いになる。こうして結ばれた愛情には、古くから親しい間柄にあったための甘えた気持と投げやりなところとが混じり合って来る。こうして、ずっとあとになってからも、友情の最初のころの懐しく感動的な思い出、たがいに心の底が解り合った最初のころの談話の思い出とか、まだ口には出さないで秘めている疑問や考えに問いかけたり返答したりした最初のころのまなざしの思い出とか、胸襟を開いてくれたと思われる相手にこちらも胸を開いた時のあのえも言われぬ感激の思い出などを忘れないのである。
さらに、温泉宿のわびしさや、いつも同じ毎日の単調さが、このような愛情の開花を一時間ごとにいっそう完全なものにするのである。
さて、そうしたいつものようなある晩のこと、わたしたちは未知の顔ぶれが入って来るのを待っていた。
新しい顔ぶれは二人だけだったが、それは奇妙な男と女、つまり父親と娘の二人連れだった。たちまちわたしは、この二人連れに、エドガー・アラン・ポーの小説の中の人物のような印象を覚えた。と言っても、二人にはある魅力、不幸ゆえの魅力といったものがあった。二人は運命の犠牲者のように思われた。男は非常に背が高くて痩せていた。少し猫背で、髪は真白だった。そのまだ若い顔つきに比べると白過ぎるくらいだった。そして、その物腰や人柄にはどこかしら深刻なところがあり、その厳格そうな態度にはプロテスタントみたいなところがあった。娘のほうは、おそらく二十四、五の年ごろで、背が低く、やはりとても痩せていて、顔色は青白く、どこかだるそうで、疲れていて、沈みこんだ様子をしていた。このように、日ごろの仕事や生きるために必要なことをするのにはあまりに弱々しく、体を動かしたり、歩いたり、日常のあらゆるふつうのことをするのには、あまりに弱々しく見える人間によく出会うものである。かなり美しい娘だった。だが、その子供っぽい美しさは、幽霊のように透きとおる美しさだった。さらに、その娘は両腕をほとんど動かすことができないかのように、非常にゆっくりと食事をしていた。
湯治にやって来たのは確かにその娘のほうだった。
二人はテーブルの向こう側の、わたしの真正面に腰を下ろした。すると、すぐに、わたしには、父親のほうがきわめて奇妙な神経性の痙攣を起こすのに気づいた。
何か品物をつかもうとするたびに、彼の手は、その捜している品物に触れる前に、一種血迷ったようなジグザグの形、鉤《かぎ》形の線をさっと描いた。その動作をしばらく見ていると、わたしはもう見ないようにしようと顔をそむけるほど疲れてしまった。
それからわたしはまた、娘のほうは食事をとる際に、右手に手袋をはめたままであることに気づいた。
夕食がすむと、わたしはホテルの庭を一廻りしに行った。この話は、オーヴェルニュ地方の、シャテルギュイオンという、高い山のふもとの谷間に隠れた温泉場で起こったことである。その高い山から、昔の火山の深い釜から湧き出る豊かな温泉が流れて来ているのである。わたしたちの頭上遥か彼方の、今は死滅している火山《クレーター》である円頂の山々が、その切り取られた頭部を長く連なる山脈《やまなみ》の上に突き出している。これは、このシャテルギュイオンが円頂の山々の地方のとば口にあるからである。
さらにその向こうには、高峰の国が広がっている。そのまた彼方には、さらにもっと険しい高山の国があった。
ドーム山というのが円頂の山々の中でもっとも高く、サンシーの高峰というのが高峰群中もっとも高くそびえ立ち、そしてカンタル山というのが高峰中いちばん雄大な山である。
その晩は非常に暑かった。わたしは庭を見下ろす円形の丘の上で、カジノの音楽が演奏され始めるのを耳にしながら、並木道の陰の下をあちこち歩き廻っていた。
そして、わたしはあの父娘《おやこ》がゆっくりした足取りでこちらへやって来るのを認めた。それでわたしは、温泉町では、だれもがホテルの同宿者に対してするように、二人に挨拶した。すると、父親のほうがすぐ立ち止まって、わたしにこう言葉をかけてきた。
「あの、もしありましたら、短くて、歩きやすくて、景色のいい散歩道を教えていただけないでしょうか? ぶしつけなお願いで申しわけありませんが」
わたしは、細い川が流れている谷間へ案内しようと申し出た。その谷間は深く、岩と木立に覆われた二つの大きな斜面の間が狭い隘路《あいろ》になっている。
二人は承知した。
そして、わたしたちは当然のことに温泉の効き目のことで話し合った。
「実は、うちの娘はどこが悪いのか解らないような、奇妙な病気を持っているのです。この子は、わけの解らない神経症状に悩んでいます。ある時は心臓の病いにかかっているかと思うと、ある時は肝臓が悪いと言われ、またある時は脊髄の病気だとも言われます。今は、体の大事な≪汽罐≫であり調整器である胃が悪いとされています。まるでいろいろに姿を変え、いろいろな病いにかかった〈病めるプロテウス〉〔プロテウスはギリシャ神話の変幻自在の海神〕といったところです。それで、わたしどもはここへ来ているのです。でも、わたしは、むしろ、神経がやられていると思っています。とにかく、何とも憂鬱なことでしてね」
これを聞くと、わたしは父親の手の痙攣を思い出した。そこで、彼にこうたずねてみた。
「でも、それは遺伝ではありませんか? あなたご自身も、どこか神経が悪いのではありませんか?」
すると彼は静かにこう答えた。
「わたしがですって? いえ、わたしはちがいますよ……わたしの神経は正常です……」
それから、ちょっと黙ってから、いきなりこう言った。
「なるほど! あなたはわたしが何か取ろうとするたびに手を痙攣させることを言っておいでですね! あれは、わたしがとても恐ろしいことを経験したせいなんです。何しろ、この娘は生き埋めになったのですからね!」
わたしは、驚愕と興奮の〈ああ!〉という叫び以外には、どう言ってよいか言葉が見つからなかった。
相手が言葉を続けた。
「それはこういう出来事なんです。とても単純なことなのですが。娘のジュリエットは、以前から重い心臓病をわずらっていました。わたしどももその病気だと思いこんで、万一の場合を覚悟していました。
ある日、娘は冷えきってしまい、死んだようにぐったりして、担ぎこまれて来ました。娘は庭でころんだというのです。医者も娘の死亡を確認しました。わたしは一日二晩、娘のそばで通夜《つや》をしました。自らの手で娘を棺に納め、墓場までついて行きました。娘の棺はわが家の先祖代々の墓に入れられました。そこはロレーヌ州の田舎の真只中でした。
前々から、わたしは、娘が死んだ場合には、娘の宝石類、腕輪、首飾り、指輪など、わたしが娘にやったものをみんな、娘の最初の舞踏会のドレスも、いっしょに埋めてやろうと思っていました。
墓場から家へ帰って来た時の、わたしの気持や精神状態がどんなだったか、察していただかねばなりません。妻はもうずっと以前に亡くなっていましたので、わたしには娘しかありません。わたしは憔悴し切って、半ば狂人のようになって、一人、自室に閉じこもり、放心して、今はもう動いたりする気力もなく、肘掛椅子に倒れこみました。わたしはもう苦しげに震動する機械か、皮を剥かれた人体に過ぎませんでした。わたしの魂はなまなましい傷口のようでした。
その時、わたしの老僕のプロスペルというのが――この男がジュリエットを棺に納めたり、娘に死化粧をしたりする手伝いをしてくれたのですが──音もなく部屋に入って来て、こうたずねました。
「旦那さま、何か召し上がりませんか?」
わたしは「いや」と首を振っただけで、口では返事をしませんでした。
プロスペルがもう一度言いました。
「それはいけませんよ、旦那さま。それでは旦那さままで病気になってしまいます。では、食事をベッドにお持ちしましょうか?」
わたしはしかたなく口で言いました。
「いらない。放っておいてくれ」
老僕は引きさがりました。
それからどれほどの時間がたったか、わたしにはまるで解りません。ああ、何という夜だったでしょう! 何という! 寒い夜でした。それなのに大きな暖炉の火は消え、冬の風が、凍りつくように冷たい風が窓をたたいて、不吉で規則的な音を立てていました。
時間がどれほどたったのか? わたしはそこに、疲れ切り、打ちひしがれて、眠りもできず目を見開き、両足を投げ出していました。体はだらりと死んだようになり、心は絶望のために痙攣していました。とつぜん、玄関のドアの大鐘、玄関の間にある大鐘が鳴りひびきました。
わたしははっとおどろき、体の下の椅子がきしんだほどでした。重々しく陰《いん》にこもった鐘の音が、まるで地下納骨所のようながらんとした邸の中に鳴りひびきました。わたしは時刻を見ようとして柱時計を振り返りました。夜中の二時でした。こんな時刻に、いったいだれがやって来たのだろうか?
それからいきなり、また鐘の音が二度続けて鳴りひびきました。おそらく、召使たちは起きて出て行く勇気がなかったにちがいありません。わたしはローソクを手にして、階下《した》へ下りて行きました。わたしは今にもこうたずねるところでした。
『どなたですか?』
が、すぐに、そんな臆病が自分でも恥ずかしくなりました。わたしは玄関の太いかんぬきをゆっくりとはずしました。心臓がどきどきしていました。怖かったのです。それから、わたしはいきなりドアを開きました。そして、暗闇の中に、何か幽霊のようなもの、白いドレスを着たものが立っているのを認めました。
わたしは恐ろしさに体がしびれたようになって、あとずさりしながら、口ごもりました。
『だ……だ……だれですか――あなたは?』
声が答えました。
『わたしですわ、お父さま』
それは娘だったのです。
もちろん、わたしは自分が気が狂ったのだと思いました。そして、家の中に入って来る幽霊を前にして、あとずさりしました。あとずさりしながら、手で、あなたがさきほどご覧になったような仕種《しぐさ》をしました。それからというもの、この仕種はわたしから離れなくなったのです。
幽霊が再び口をききました。
『怖がらないでよ、パパ。わたしは死んだのではありません。だれかがわたしの指輪を盗もうとして、わたしの指を切ったの。それで血が流れ始め、そのためにわたしは息をふき返したのよ』
なるほど、娘が血だらけになっているのが解りました。
わたしは息をつまらせ、しゃくり上げ、喘ぎながら、その場に倒れてひざまずいてしまいました。
やがて、わずかにわれに返って──でも、自分に起こった恐ろしい幸せがよく理解できないほど気が転倒していたのですが──やっと娘を二階の部屋まで連れて行くと、肘掛椅子に座らせました。それから、暖炉に火をつけさせたり、飲み物を用意させたり、助けを呼ばせたりするために、呼鈴を立て続けに何度も鳴らして、プロスペルを呼びました。
あの男は部屋に入って来て、娘を目にすると、おどろきと恐怖のあまり体をわなわなと震わせながら、口をぽかんと開け、そのうちに、死んだように硬直して仰向けに卒倒してしまいました。
墓場をあばいて、娘の指を切り、そのまま娘を放置して来たのはこの男だったのです。盗みの痕跡を消すことができなかったからです。彼を信頼し切っているこのわたしから疑われることはまずあるまいと確信して、棺を元の仕切りに置き直しておく心遣いさえしなかったのでした。
これでもうお解りでしょう。わたしたちくらい不幸な人間はおりませんよ」
ここで彼は口をつぐんだ。
もう夜になっていて、だれ一人いないさびしい谷間を闇が包んでいた。生き返った死人やおぞましい仕種をする父親といった、これら奇妙な人間といっしょにいるのだと悟ると、わたしは何か神秘的な恐怖に心を締めつけられるような思いがした。
わたしはどう返答してよいか解らなかった。ただ、こうつぶやいただけだった。
「何と恐ろしいことでしょう!……」
それから、少したってから、こうつけ加えた。
「さあ、帰りましょうか。冷えてきたようですよ」
そして、わたしたちはホテルのほうへ戻った。
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訳者あとがき
モーパッサンのいわゆる怪奇幻想的な作品は三十数編ありますが、ここではそのうちから十一編をえらびました。一口に怪奇幻想的な作品と言っても、それぞれちがった持ち味があります。モーパッサンはキリスト教を否定したようですが、やはりフランスの作家らしくキリスト教伝説や悪魔説話などに材を取った作品も書きました。が、そういう怪奇的な作品は省きました。それからファンタスティックな要素のみ色濃いものも取りませんでした。
今さら言うまでもなく、モーパッサンは十九世紀フランス自然主義文学の代表的な作家です。
モーパッサンは一八五〇年にブルターニュ地方に生まれ、同地方で少年時代を過ごしたのち、普仏戦争に従軍し、のちにパリに移り住んで、海軍省や文部省に勤めるかたわら、文学の勉強にはげみました。文学的教養豊かで、モーパッサンがその素質を十二分に受け継いだ母親のロールの強い希望で(母親は早くから息子の文学的才能を認めていました)、当時の自然主義文学の雄フローべール(文学少女のロールの幼な友達でした)に師事し、自然主義的小説作法を徹底的に教えこまれました。
心理小説『ピエールとジャン』の序文として書かれた『小説論』の中で、モーパッサンは師フローべールの教え方を次のように説明しています。
『……どんなささいなものでも、未知の部分をいくらか含んでいる。それを発見しようではないか。燃える火、野中の一本の木を描写するには、その火なり木なりが、他のどんな火、どんな木とも似たところがなくなるまで、正面から立ち向かっていようではないか。
……門口に腰を下ろした雑貨商、パイプをくゆらす門番、つじ馬車の停留場、そういうものの前を通ったら、その雑貨商なり門番なりの品性まで含めて、じょうずに写しだしてみせてごらん。わたしがそれらを他の雑貨商や門番ととりちがえないようにだよ。そして、たった一語で、馬車馬の一頭が、あとにつづいたり、先に立ったりする五十頭の他の馬と、どこがちがっているか、わたしにわからせてごらん』(鈴木力衛訳)
これはいわゆる写実の真髄で、モーパッサンの大方の作品はこうしたリアリズムに貫かれています。これ一作で一躍文壇の寵児となったと言われる『脂肪の塊』、あまりにも有名な代表傑作『女の一生』以下『ベラミ』『モントリオール』などの長編、『首飾り』『メゾン・テリエ』『雨傘』『ジュール叔父』『ペルル嬢』『紐』『シモンのパパ』『二人の友』『パリ人の日曜日』などの二百七十数編に及ぶ短編の大部分は、この写実の手法で描かれています。
ところが、ゾラ、ドーデー、ゴンクールなど他の自然主義作家のとはまるで異なる素質を、モーパッサンは持っていました。この素質こそ、現代においてもモーパッサンのある種の作品──つまりファンタスティックな作品、怪奇幻想的な作品が再評価されている所以です。この素質とはつまり〈幻視者〉(ヴォワイアン)という特異な素質です。これはいわゆる自然主義作家にはめずらしい、あるいは写実主義とは相容れない素質と思われます。
モーパッサンにおけるこうした素質──ある意味では病的な素質は、まず第一に遺伝的なものと考えられます。母親のロールは繊細な感覚の持ち主でしたが終生病身でしたし、弟は狂死しています。それに、早くからロールと別れたモーパッサンの父親は遊蕩児で、とかく遊蕩児につきものの病気――梅毒を子のモーパッサンが受け継いでいたと言われます。そして、こうした病的な血筋は、モーパッサンの作家的感覚を病的に尖鋭化したと思われます。
さらに、流行作家となったモーパッサン自身の過重な執筆生活と、今ではあまりにも有名な女性遍歴、放蕩の結果、彼は三十四、五歳ころから心身のはなはだしい疲労に陥っていました。出世作『脂肪の塊』が一八八○年の作品ですから、文壇に登場してわずか数年のうちに、彼はすでに文壇の一方の旗頭となり、社交界では流行作家ともてはやされ、一年に三、四冊の新作を発表するまでになりました。十九世紀末のパリの性的にデカダンな社交界、紊乱《びんらん》した花柳界で、若く、独身で、しかも経済的に豊かな流行作家がどんな生活を送ったか容易に想像できます。病身の母親に似ず、生まれつきたくましく、性的欲望の旺盛な体の持ち主で(この点では父親そっくりだったと言われています)、ボート漕ぎなどスポーツの好きだったモーパッサンが、このように若くして病気に悩まされるようになったのですから、その作家生活、遊蕩生活はよほど激烈だったと想像されます。
とにかく、一八八四年ころから、モーパッサンは体の変調を覚え、苦痛を訴えるようになり、ついに医師から過労のための脳脊髄炎と診断されました。
モーパッサンの病気は結局は神経的疾患だったのですが、それはまず眼病から始まりました。この眼病はすでに『脂肪の塊』発表のころから始まっていて、やがて、それが昂じて、時には視覚の幻想を見るようになりました。
写実の作家として出発したモーパッサンの拠りどころは〈事物を見る〉ことでした。師フローべールから教わったように二本の木がその他の木とちがって来るようになるまで見つめる……」ことでした。〈事物を注視する〉作家が眼病をわずらうのは致命的打撃だったと思われます。(こうした苦しみは、本集に収められた『オルラ』や、視力を失う画家の苦悩を描く『死のごとく強し』などに描かれています)。その眼病がさらに悪化すると、モーパッサンは突発的な偏頭痛や眩暈《めまい》におそわれ、一方では猛烈な不眠症に陥りました。そうした苦しみを鎮めるために、彼はエーテル、阿片《モルヒネ》などを使用しましたが、これがなおのこと病気を一段と悪化させることになりました。エーテルやモルヒネを使うと、一時的な〈人工楽園〉に遊ぶことができます。こうしてモーパッサンは幻視、幻聴、幻想に憑かれるようになり、一方においてはその肉体と精神をむしばみながら、他方においては一種異様な作品──いわゆる怪奇幻想的な作品を産み出すことになりました。
モーパッサンはやはり『小説論』で、まことに写実の作家らしからぬことを言っています。
『……昨日の小説家が、一生の危機とか、魂や内心の激越な状態を選んでこれを物語ったとすれば、今日の小説家は正常な状態にある心情や、魂や、頭脳の歴史をつづっているのだ。企図する効果、つまり、そぼくな現実の情緒を生みだすために、さらにはその効果からひきだそうとする芸術的教訓、換言すれば、眼前に映じた現代人とはなんであるかという啓示、[そうしたものを浮きあがらせるために、作者は異論の余地のない恒常的な事実のみを用いねばならないだろう。]
[しかし、かかる写実主義作家の現実に身を置いてさえ、「真実のみを、そしてあらゆる真実を」という数語に要約されるように思われる彼らの理論は、なお論議され、検討されなければならぬ。]
……写実作家は、芸術家であるかぎり、[人生の平板な写真をわれわれに見せるのではなく、真実そのもの以上に完全な、身に迫る、確証のある人生の幻影を、われわれに与えるべく努力するのだ。]
……真実を描くとは、それゆえに、事実の正常な論理をたどって、真実のイリュジオン(幻想)を与えることであって、事実に拘泥《こうでい》して、それが順序よく輩出するままに、盲めっぽうひき写すことではない。]
こうしたことから、[有能な写実主義者は、むしろイリュジオニスト(幻想家)と呼ばれるべきだ]とわたしは結論する。
それに、われわれが各目の思考の中に、各目の器官の中に、それぞれの現実を持っている以上、現実を信ずるとは、なんという子どもらしいことであろう! [われわれのそれぞれ異なった視覚、聴覚、嗅覚、味覚は、地球上の人間の数だけの真実をつくりだしている。]そして、われわれの精神は、これらの器官からまちまちの印象を受け、あたかも、われわれひとりひとりが異なる種族に属するかのごとく、理解し、分析し、判断する。
人間の約束にすぎない美の幻像! うつろいやすい一つの意見にすぎない醜の幻像! けっして不易ではない真の幻像! あんなにも人生をひきつける卑賎の幻像! [大芸術家とは、人類に自分独特の幻像を押しつける人間のいいである]』(同上訳)([ ]は筆者)
ここでモーパッサンは、自然主義的リアリズムや写実主義的芸術には限界のあることをはっきりと表明しているわけで、外面的な観察や描写を突きぬけたところに事物や人間の本質、幻影に包まれている真実を求めようとしているのです。つまり、モーパッサンはきびしい写実主義を徹底的に押し進めた結果、観念主義者、幻想主義者──あくまでリアルに迫ることによって事物や人間の隠れた部分、秘められた魂の部分とも言うべきものに迫ろうとした幻視者となったのです。
しかし考えてみると、過去の偉大なリアリストたち──バルザック、フローべール、トルストイ、ドストエフスキー、ディケンズなども、リアルに徹した結果、リアルの上に、あるいはリアルの彼方に幻影を垣間見ていますから、真の芸術家というものは、究極においては、リアリズムとかシュールレアリスムとかいうものでは解釈しきれない境地に達するものでしょう。
ふつうの意味でのリアリストとしてのモーパッサンは、あくまで感覚的に外面から人間や事実に迫って、現実を越えた問題──たとえば人間の幻想や魂の問題を脇に置いていたように見えます。せいぜい人間の本性の根源には動物的欲望がひそんでいて、その欲望が人間の生を発動して、さまざまな興味ある行為を引き起こす点に着目して、そういう生の動物的側面を執拗に追求し続けていたかのように見えます。
そのモーパッサンが幻視者に変貌する時、それまではひたすら外的現実を踏まえて視覚し客観化して来たものを、人間や事物の言わば〈実存〉に幻想の力で肉迫し、入りこみ、主観化し、精神化しようとするようになったのです。ひたすら視覚的感覚によって現実の真実をとらえようとした芸術家が、眼病、神経症の苦しみを知ることによって、〈目には見えないもの〉の実在を、研ぎ澄まされた異常神経の神秘的な触覚で探ろうとしたとも言えるでしょう。
と言っても、本来感覚的なリアリストだったモーパッサンは、幻想の世界に分け入るに際しては、当然のことにリアルの領域にある正常な肉、血、欲望、心、魂が、ある種の歪みを持つか分裂するかする状況でとらえることになります。それがモーパッサンにおけるファンタスティックな世界、怪奇的な世界だと思います。
ともあれ、晩年になるにつれて、モーパッサンはこうした幻視者としての面をいっそう強く見せるようになりました。
モーパッサンの怪奇的幻想的な作品に接すると、すぐ思い起こされるのは、ゲルマン的幻想家のホフマンやアングロ=サクソン的幻想家のポーなどの作品です。しかし、ポーやホフマンの怪奇的幻想的な作品は、あくまで想像力で書いたものと言ってよいと思います。それは『赤死病』『アッシャー家の崩壊』『砂男』『悪魔の美酒』などを見れば了解されるでしょう。それに対して、モーパッサンは、あくまでもその目でとらえたもののヴィジョンをリアルに描き、その奥に〈目には見えないもの〉を垣間見させるので、いっそう薄気味が悪くて、言わば現実の生を超越した彼方の世界──〈|あの世《オ・ドラ》〉からの不気味な呼び声を聞く思いに背筋を寒くさせられます。つまり、モーパッサンの怪奇幻想は、〈目に見えないもの〉をキャッチした時、その描くところはあくまで〈目で見たもの〉だけを冷厳なリアリズムで描くので、ポーやホフマンのような技巧が加えられていず、奇妙な表現かも知れませんが、何ともリアリスティックな怪奇幻想となるのです。
晩年のモーパッサンは狂気の世界に踏みこんでしまいました。快楽も苦痛となり、享楽への欲望も飽満を経て倦怠に至ります。生きるもの、あるいは生きることに対して抱くアンニュイは、ついには存在することへの嫌悪にまで昂じ、死を望むまでになってしまいます。正気と狂気とのあわいに漂うモーパッサンの書いた作品には、徹頭徹尾、生への限りない倦怠感、死を望みながら死を恐怖する悲痛な魂の告白が見られます。こうした死の恐怖、発狂への怖れ、老いへの不安、これらがモーパッサンのペシミズムを構成しているのです。
そして、モーパッサンは、芸術家としてはリアリストからシュールレアリストヘ、人間や事物の外面的現実を描くことから、それらが象徴する人間の魂や事物の核を描くことへ、唯物的世界から唯心的世界へと移行して行き、ついには『オルラ』や『だれが知ろう?』のような人間の狂気錯乱の世界へ陥って行った、と言うことができるかと思います。
一八九二年(四十二歳)の一月六日、モーパッサンは主治医ブランシュ博士の経営するパッシー精神病院に収容されました。その年の秋のある日、病院の庭園の花壇の前で、植木をしている召使のフランソアに「そこにこれを植えよう。来年になると、モーパッサンの子どもたちが生まれてくる」と言いました。翌九三年には間歇的に正気に戻ることがありましたが、その年の六月二十八日、幾度めかの痙攣発作におそわれ、七月六日、午後三時ごろ、激しい痙攣の中で最後の息を引き取りました。モーパッサンはパリのモンマルトル墓地に眠っています。
最後に本書に収録した作品の初出年代、初出誌の明細を付記しておきます。
「手」……一八八三年十二月 ゴーロワ紙
「水の上」……一八八一年十二月 小説集『メゾン・テリエ』所収
「山の宿」……一八八六年九月 レットル・エ・レ・ザール誌
「恐怖その一」……一八八二年十月 ゴーロワ紙
「恐怖その二」……一八八四年七月 フィガロ紙
「オルラ」……一八八六年十月 ジル・ブラス紙
「髪の毛」……一八八四年五月 ジル・ブラス紙
「幽霊」……一八八三年四月 ゴーロワ紙
「だれが知ろう?」……一八九〇年八月 エコ・ド・パリ紙
「墓」……一八八三年七月 ジル・ブラス紙
「痙攣」……一八八四年七月 ゴーロワ紙
平成元年初夏