ピエールとジャン
モーパッサン/杉 捷夫 訳
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ピエールとジャン
小説について
私はここでこのあとに続くつたない小説のための弁護を試みる意図を持ってはいない。それどころか、私がこれから理解していただこうという考え方は、むしろ私が『ピエールとジャン』のなかで企てた心理研究的ジャンルの批判を必然にともなうであろう。
私は小説について考察をすすめたいと思う。
私一人にかぎったことではないが、新しい本が出るたびに、同じ批評家から同じ非難があびせられる。
さんざんほめちぎった文句の真ん中で、いつも判で捺《お》したような文句にぶつかる。いつも同じ筆者の筆で。
――この作品の最大の欠陥は、本来的な意味の小説ではない、ということである。
同じ筆法でこう答えてもさしつかえなかろう。
――私を裁断してくださる、この筆者の最大の欠陥は、彼が批評家でないということである。
事実、批評家の本質的性格とはなにか?
予断を行わず、先入主を排し、流派的な考えを持たず、いかなる芸術家の徒党とも係累を結ばず、この上もなく相反した傾向のすべて、およそ正反対の気質、そういったものを理解し、区別し、説明しなければならず、この上もなく多種多様な芸術上の探求を包容する力がなければならぬ。
ところで『マノン・レスコー』、『ポールとヴィルジニー』、『ドン・キホーテ』、『危険な関係』、『ウェルテル』、『親和力』、『クラリッサ・ハーロー』、『エミール』、『カンディド』、『サン・マール』、『ルネ』、『三銃士』、『モープラ』、『ゴリオ親爺《おやじ》』、『従妹《いとこ》ベット』、『コロンバ』、『赤と黒』、『モーパン嬢』、『ノートル・ダム・ド・パリ』、『サランボ』、『ボヴァリー夫人』、『アドルフ』、『カモール氏』、『居酒屋』、『サフォ』、等々並べた後で、なおもこんなことを、「これは小説ではない。これもちがう」というようなことをあえて書くことのできる批評家は、私の目から見ると、はなはだ達識をめぐまれたものと言うべきであるが、この達識たるや鑑識力の絶無というのと区別がつかないしろものである。
一般にそういう批評家は小説を多少ともにもっともらしく見える事件というふうに考えているらしい。芝居のように三幕くらいにわかれていて、その第一幕に発端《ほつたん》の説明があり、第二幕が事件の動き、第三幕が大詰め、という寸法である。
こうした小説構成法は、ほかのすべてをも受容するという条件において、絶対に許さるべきものである。
小説をつくるのに規則があるだろうか? それをはずれたなら文章に書かれた物語が別の名前をとらなければならないというような規則が?
『ドン・キホーテ』が小説であるなら、『赤と黒』はなんだろう? やっぱり小説だろうか? 『モンテ・クリスト』が小説であるなら、『居酒屋』も小説だろうか? ゲーテの『親和力』と、デュマの『三銃士』と、フロベールの『ボヴァリー夫人』と、オクターヴ・フイエ氏の『カモール氏』と、ゾラ氏の『ジェルミナル』との間に比較を立てることができるだろうか? これらの作品のなかのどれが小説だろうか? 規則規則というが、それはどんなものだろうか? どこから由来するか? だれが立てたのか? いかなる原理の力で、いかなる権威を楯《たて》に、いかなるりくつを持ちだそうというのか?
だが、どうやら、その批評家諸氏は確実な、疑う余地のない方法で知っているらしい。小説を構成しているものがなにか、小説でない別なものと小説とを区別するものはなにかということを。これは単純に次の事実を意味する。生産者でもないのに、彼らも一の流派のなかへ編入されている。そして彼らもまた、小説家と同じように、彼らの美学のワクの外で抱懐され制作された作品をすべて排斥するのである。
聡明な批評家なら、反対に、すべて既成の小説に似ること最も少ないものを探求すべきであり、できうるかぎり若い人々を新しい道を試みるように押しやるべきである。
すべての作家は、ヴィクトール・ユゴもゾラ氏も、敢然として勝手な小説をつくる権利を、すなわち自分一個の芸術観にしたがって、想像し、あるいは観察する絶対権を、議論の余地のない権利を要求したものである。才能とは独創あってのものである。独創とは、思考し、ながめ、理解し、裁断する特有な方法のことである。ところで、自分の好きな小説をもとにつくりだした考えにしたがって「小説」というものを定義しようという批評家、小説作法の不変の規則若干をこしらえようという批評家は、新しい様式をもたらす芸術家気質を向うにまわして永久に戦うのであろう。批評家という名前に完全に値する批評家は、傾向を持たぬ、好ききらいのない、偏見のない分析家以外のものであってはならぬ。絵の鑑定家のように、人から渡される芸術作品の芸術的価値のみを評価しなければならない。彼の理解力は、あらゆるものにひらかれていて、自分が人間としては好きでないが、裁判官としては理解しなければならない書物を発見してきて、その値打ちを吹聴《ふいちよう》することができるくらい完全に自分の個性を没却していなければならぬ。
だが批評家の大部分は、けっきょくのところ、読者にすぎない。そこからこういう結果になる。彼らはほとんどいつも見当違いにわれわれを叱《しか》りつけるか、ないしは留保ぬき、節度ぬきでお世辞を言う。
読者というものは、書物のなかでひとえに自分の精神の本来の傾向を満足させることを求めるのだから、作家に対して自分の支配的な好みに答えてくれるように要求する。そして理想主義的な、あるいは快活な、あるいは猥雑《わいざつ》な、あるいは陰気な、あるいは夢みがちな、あるいは現実的な、それぞれの想像力に気にいる本なり本の一節なりを、相も変らず、すばらしいとか、「よく書いてある」とか評して、品さだめする。
要するに公衆はわれわれに向ってそれぞれ次のように叫ぶ一群の人々のたくさんの集まりからできている。
――慰めてくれ。
――楽しませてくれ。
――悲しがらせてくれ。
――感動させてくれ。
――夢想にふけらせてくれ。
――笑わせてくれ。
――戦慄《せんりつ》させてくれ。
――泣かせてくれ。
――考えさせてくれ。
ただ、若干の選ばれたる精神の持主のみが、芸術家に向って次のように要求する。
――なにか美しいものをつくっていただきたい。あなたにいちばん適合した形式で、あなたの気質に応じて。
芸術家は試みる。成功し、あるいは失敗する。
批評家は結果を努力の性質にしたがってのみ評価すべきである。傾向をうんぬんする権利はない。
これはすでに千度も書かれたことである。何度でもくり返さなければならないであろう。
さて、人生の、ゆがめられた、超人間的な、詩的な、感動的な、愛すべき、あるいは崇高な視像をわれわれに与えることを欲した、いくたの文芸上の流派の後に、ここに一つの写実主義または自然主義という流派が現われてきて、われわれに真実を示す、真実のみを、そしてすべての真実をと、となえた。
これらのじつに千差万別の芸術上の諸理論をことごとく相等しい関心をもって、許容しなければならず、それらの生みだす作品は、ひとえにその芸術的価値いかんの観点から、作品の生れてきた背景的な思想は「ア・プリオリ」に受けいれての上で、判断しなければならない。
詩的な作品をつくったりあるいは現実的な作品をつくったりする作家の権利に異議を申したてるのは、それは彼の生れつきの性質を変えるように無理じいしようとすることであり、その独創を拒否することであり、自然が彼に与えた目と知性とを使うのを許さないことである。
彼がものを美しいと見たり醜いと見たり、小さいと見たり壮大と見たり、優美と見たり不気味と見たりするのを責めるのは、彼がしかじかのでき方でできていて、われわれの視像と一致した視像を持っていない、といって彼を責めることである。
自分の好きなように、理解し、観察し、考えを持つのを勝手にさせておこうではないか。彼が芸術家でありさえすれば十分である。理想主義者を裁断するには自分も詩の世界に昂揚《こうよう》して、彼に向いその夢が凡庸だとか、俗悪だとか、十二分に奔放でないとか、壮大でないとかいうことを証明してやるようにしようではないか。だがもしわれわれが自然主義者を裁断しようというときには、いかなる点で人生における真実が彼の書物のなかの真実と異なっているかを示してやろうではないか。
このように異なった諸流派がまったく正反対の小説作法をもちいたに相違ないということは明らかである。
常住不変の、粗野な、不愉快な真実に変貌《へんぼう》を与えて、そこから例外的な人の心をそそる波瀾《はらん》をひき出す小説家は、真実らしさということについてあまりひどい心配はぬきにして、自分の思うままに事件をこねあげ、読者の気にいるように、感動させるようにあるいは哀れをもよおさせるように、準備し、配列すべきである。彼の小説の構想は巧みに大団円まで持ってゆかれる巧妙な事件の組合せの系列にほかならない。付帯的な事件はいちばんのやま[#「やま」に傍点]と結末の効果に向って順次に高まるように配列させる。結末がすなわち最も主要な決定的な事件であり、冒頭によびさまされたすべての好奇心を満足させ、興味に段落をつけさせ、いちばん心をひかれる人物でも、明日はどうなるだろうということを知りたい気持をもはや読者がおこさなくなるくらい、じつに完全に、物語られている話に結末をつける。
反対に、人生の正確な映像を与えると自称する小説家は、例外に見えるような事件の連鎖はすべて念入りにさけるべきである。彼の目的は決して物語を語ったり、おもしろがらせたり、ないしは哀れをもよおさせたりすることではなく、事件のかくされた深い意味を考え、理解するようにひとを強制することである。さんざん見、熟考を重ねたあげく、彼は、世界を、事物を、人間を、一種特有の見方で、彼の反省を重ねた観察の全体から生れる見方で、ながめる。この世界についての個性的な視像を書物のなかに再現してわれわれに伝えようと彼は努力する。彼自身人生の光景によって感動させられたと同じようにわれわれを感動させるためには、彼は人生をわれわれの眼前に、用意周到に似かよわせて再現してみせなければならない。そこで彼はその作品を、じつに巧みな、隠蔽《いんぺい》したやり方で、そして外見はいかにも単純に、その設計を認め指摘することができないように、その意図をあばくことができないように、構成しなければならない。
一つの波瀾《はらん》を道具だてして、それを大詰めまで興味をつなぐように、展開してみせるかわりに、彼は自分の一人あるいは多数の人物をその存在のある時期においてとらえ、それを、自然の推移によって、次の時期までみちびいてくるであろう。この方法で、あるときは人間の精神がこれを囲繞《いによう》する状況の影響のもとにいかに変化するかを示すであろうし、またあるときは、人間の感情や情熱がいかに発展するか、人はどういうふうに愛しあうか、憎みあうか、社会のあらゆる環境において人はいかに戦いあうか、ブルジョワ的な利害、金銭上の利害、家の利害、政治上の利害がいかに相剋《そうこく》するかを示すであろう。
彼の設計の巧妙さはだから感動や魅力のなかには存せず、また心をひきつける書きだしにあるのでもなく、興奮をよぶ破局にあるのでもない。そうではなく恒常的な小さな事実の巧みな集合のなかにあり、そこから作品の決定的な意義が自然に出てくる。もし彼がある生涯の十年を三百ページに盛り、それをとりまくすべての存在のなかにあって、その特別なまったく特徴的な意義がいかなるものであったかを示そうというのなら、無数の日常のこまごまとした事件のなかから、すべて無用なものを排除し、特別なやり方で、あまり慧眼《けいがん》でない観察者から見のがされるような、しかもその書物に対して、その意義を、その全体としての価値を与えるようなものをすべて、明るみへ出さなければならない。
そのような小説の構成法が、だれの目にも明らかな昔のやり方とはまるでちがった方法が、しばしば批評家をとまどいさせることは了解しうることである。そして筋という名前を持つたった一本の太いひものかわりに近代のある種の芸術家によってもちいられる、非常にこまかい、非常に秘密な、ほとんど目に見えないすべての糸を批評家が発見しえないということもわかる。
要するに、昨日の小説家[#「小説家」に傍点]が、人生の危機を、魂や心情の尖鋭化《せんえいか》した状態を選び、語ったとすれば、こんにちの小説家[#「小説家」に傍点]は尋常な状態における心情と魂と知性の歴史を書く。自分のねらう効果を、換言すれば、単純な現実による感動を、生みだすためには、そしてそこからひき出そうとする芸術的教訓、換言すれば、真に彼の目に映じた近代人とはどういうものかということの啓示を浮びあがらせるには、恒常的な抗弁の余地のない真実さを持った事実のみをもちいるべきである。
だがこうした写実派の芸術家の観点に立ってもなお、どうやら「真実のみを、そしてすべての真実を」というこの数語のなかに要約されるように思われる彼らの理論には異議をとなえる余地があるし、十分真偽を論ずべきである。
彼らの意図は恒常的などこにでもあるある種の事実から哲学を浮びあがらせようというのだから、彼らはしばしば真実らしさのために真実を犠牲にして事件を修正しなければならぬ羽目におちいるだろう。ほかでもない、
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ときとしては真実なものが真実らしくない場合もあるから。
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写実家は、もしも彼が芸術家であるならば、われわれに人生の平凡な写真を見せるのではなく、現実そのものよりもいっそう完全な、いっそう切実な、いっそうもっともらしい人生の視像をわれわれに与えることにつとめるであろう。
すべてを語るということはできない相談である。ほかでもない、そうなったら、われわれの生活をみたしている無意味な無数の付随的事件を数えあげるのに、少なくとも一日につき一巻は必要、ということになるであろう。
だからいやでも選択の必要にせまられる、――これは「すべての真実を」の理論への最初の打撃である。
のみならず、人生は、じつにさまざまな、じつに思いがけない、じつに相反した、じつにちぐはぐな事柄からできあがっている。残忍で、筋がとおらず、脈絡がなく、説明のできない、非論理的な、矛盾した「三面記事」の範疇《はんちゆう》に入れられるべき異変にみちている。
だからこそ、芸術家は、自分の主題を選んだあとで、この偶然と無駄とのごったがえしている人生のなかから、自分の題目に役だつ特徴的な細部のみしか使用せず、残りはすべて、まとはずれのものはすべて、これを投げすてるであろう。
たくさんのなかから一例だけあげる。
毎日事故で死ぬ人間の数は地球上では相当のものになる。だからといって、物語の最中に、偶然の持ち分をつくってやらなければいけないという口実のもとに、主要人物の頭の上に瓦《かわら》を落っことしたり、彼を車の輪の下へほうりこんだりできるだろうか?
さらに人生はすべてを同じ平面に残し、事実をどしどし経過させたり、あるいは無限にながく引っぱったりする。反対に、芸術は、示そうと思う特殊な真実の深い感覚をひきおこすために、用心と準備を重ね、賢明な露骨に出さぬ推移を準備し、構成の巧みという一手で、主要な事件を明るみへ出し、ほかのすべてに、その重要さに応じて、おのおのに適して浮きあがりの度を与える。これが芸術というものである。
真実を描くということは、だから、事物の通常な論理にしたがって、真実の完全な幻覚《イリユジヨン》を与えることであって、事物の継起の雑踏のなかに奴隷的にこれを敷きうつすことではない。
私はここから次のごとく結論する。才能ある写実主義者[#「写実主義者」に傍点]はむしろイリュジヨニスト[#「イリュジヨニスト」に傍点]とよばるべきである。
のみならず、現実を信じるとはいったいなんという子供らしいことだろう。われわれがめいめいわれわれ自身の現実を、われわれの思考のなかに、われわれの器官のなかに持っている以上は、われわれの目、われわれの耳、われわれの嗅覚《きゆうかく》、われわれの味覚は、それぞれ異なっていて、地球上にいる人間の数だけの真理をつくりだしている。これらの器官から報告を受けるわれわれの精神は、さまざまに異なった印象を受けるので、あたかもわれわれの一人一人が別の種族にぞくしているかのような理解をし、分析をし、判断をする。
だからわれわれはめいめい、世界についての幻影を自分につくっているだけのことである。おのおのの性質にしたがって、詩的な、感傷的な、陽気な、憂鬱《ゆううつ》な、きたない、あるいは凄惨《せいさん》な幻影を。作家は自分のまなんだ、そして自分の自由に駆使しうる芸術上の手法のすべてを使ってこの幻影を忠実に再生すること以外の使命を持ってはいない。
美といってもけっきょく人間が暗黙の同意で決めたものだが、その美の幻影! 醜といっても意見はまちまちだがその醜の幻影! 決して不動のものではない真の幻影! あんなにたくさんの人々をひきつける汚穢《おえ》の幻影! 偉大な芸術家とは人類に自分の幻影を押しつける芸術家のことである。
だからどんな理論にも腹をたてることはやめよう。そのおのおのはたんに、自己分析をするある持ち前の気質の表現の一般化されたものにすぎないのだから。
そういう理論でめだつのが二つある。両方とも許容するかわりに、両者を対立させてしばしば論議の対象となったものである。すなわち純粋な心理解剖小説の理論と客観小説の理論がこれである。心理解剖派に加担する人々は、作家がある精神の進化のどんなささいな段階をものがさず、われわれの行動を決定する最も秘密な動機のすべてを指摘することに専心すべきであるといい、事実そのものにはまったく第二義的な意義しか認めないことを要求する。事実は到着点であり、たんなる道しるべであり、小説の口実であるにすぎない。だから、彼らにしたがえば、例の頭でさんざん考えた正確な作品を書かなければならないということになる。そこでは想像が観察と入りまじる。心理学の書物を書く哲学者の流儀である。原因をいちばん遠い起原にさかのぼってとらえ、これを記述する。すべての意見の持つなぜを残りなく述べる。利害、情熱、あるいは本能の圧迫下に行動する魂のすべての反作用を識別する。こういうことが必要になる。
客観性(なんというあほらしい言葉だろう!)の加担者は、反対に、人生において行われたことの正確な再現をわれわれに与えようというのだから、複雑な説明や動機に関する長談義はすべて注意深くさけ、われわれの眼前に人物と事件とを通過させるだけにとどまろうとする。
彼らにとっては、心理は書物のなかにかくされていなければならない。ちょうどじっさいの人生において事実の下にかくされているように。
このようなやり方で考えられた小説は、興味と説話における動きと、色彩と、はつらつとした生命という点では、得るところが多い。
そこで、ある人物の精神状態を長々と説明するかわりに、客観派の作家はその心的状態がその男にある一定の状況において必然に遂行させるはずの動作や身ぶりを探求する。その一巻の初めから終りまで、その人物を行動させるのに、その人物のすべての行為、すべての動きが、彼の内的な本質、彼のすべての思想、彼のすべての意志、ないしは彼のすべての逡巡《しゆんじゆん》の反映であるように仕組む。心理をひろげて見せるかわりにかくすことになるわけである。心理を作品の骨組みにするのである。ちょうど外からは見えない骨が人体の骨組みであるように。われわれの肖像を描く画家はわれわれの骸骨《がいこつ》を見せはしない。
このやり方でしあげられた小説はまた真摯《しんし》さという点で得るところがあるように私には思われる。それはまずより真実らしいものになる。ほかでもない、われわれが自分たちの周囲で行動しているのをながめる人々はわれわれに向って彼らがそれにしたがって行動している動機を決して語りはしないのだから。
さて第二に次の事実を考慮に入れなければならない。すなわち、人間を仔細《しさい》に観察しているうちに、ほとんどすべての状況における彼らの存在のしかたを予見することができるほどに十分彼らの性質を規定することができ、「しかじかの気質のしかじかの男は、しかじかの場合において、これこれのことを行うであろう」ということを正確に言うことができたとしても、そのことから必然に、われわれの考えではないその男の考えのすべての秘密な進化を一つ一つ規定しうるという事実が出てくるものではない。われわれの本能と同じものではないその男の本能の神秘な要請のすべて、その器官や神経や血や肉がわれわれのものとはちがうその男の性質の混沌《こんとん》とした興奮のすべてをいちいち規定できるものではない。
情熱を持たない、柔和な、弱い男が、ひとえに学問と仕事とを愛している男が、どんな天才を持っていたにしたところで、精力のあふれるばかりの、肉感的な、はげしい性質の元気者、あらゆる欲望、否あらゆる悪徳につきあげられている男の魂と肉体のなかに完全にはいりこんで、あまりにも異なったこの存在の最も奥深い衝動と感覚を理解し指示するということはできない相談である。その男の生涯のすべての行為を十分に予見し語ることができたにしたところでそこまでは望めない。
要するに、純粋の心理探求にふける者は、すべての作中人物を配置するさまざまな場合において自分をその人物に置きかえることしかできないのである。なぜと言うまでもなく、自分の器官を変えることは不可能だからである。この器官こそ外部の生活とわれわれとのあいだの唯一の仲介機関であり、それがわれわれにその知覚を押しつけ、われわれの感受性を決定し、われわれのなかにわれわれをとりまいているすべての魂と本質的にちがう一つの魂を創《つく》りだすのである。われわれの視覚像、五感の助けによって得られた世界に関するわれわれの知識、われわれの人生観、そういうものをわれわれはすべての作中人物のなかへ一部分持ちこむことだけしかできないのである。作中人物の未知の内生沽を暴露すると称してはいるが、事実はこれである。だからそれはいつもわれわれ自身だったわけである。国王、人殺し、泥棒、あるいは堅気《かたぎ》の男、こびを売る女、尼僧、若い娘、ないしは市の物売女、そういったものの肉体のなかにわれわれの示すのは。けだしわれわれは次のように問題を自分に提出することを余儀なくされている。「もしも自分が、国王だったら、人殺しだったら、泥棒だったら、こびを売る女だったら、尼僧だったら、若い娘だったら、ないしは市の物売女だったら、自分[#「自分」に傍点]はなにをするだろうか、自分[#「自分」に傍点]はなにを考えるだろうか、どんなふうに自分は行動するだろうか?」だからわれわれは自然がこえることのできない器官の垣《かき》でとりまいたわれわれの自我[#「自我」に傍点]の年齢と、性と、社会的地位と、人生におけるすべての状況とを変化させることによってわれわれの人物をさまざまに変えているものにすぎない。
われわれの自我をかくすのに使われるこのさまざまなすべての仮面の下で読者からこの自我[#「自我」に傍点]を見破られないようにする、そこが腕の見せどころである。
だが、完全なる正確さという観点のみからみれば、純粋の心理分析は異議を申したてらるべきものであるとしても、それにもかかわらず、ほかのすべての制作法におとらぬ美しい芸術作品をわれわれに与えることはできる。
こんにち、象徴派なるものがある。なぜあって悪いことがあろう? 芸術家としての彼らの夢は尊敬さるべきものである。芸術の道の極度の困難ということを知りぬき、高く宣言している点が特別にわれわれの共感をそそる。
こんにちのような時代に物を書くなどとは、じっさいのところ、気ちがいざたであり、大胆不敵な話であり、傲慢不遜《ごうまんふそん》な話であり、ないしはよっぽどばかでなければならぬ! じつに千差万別の性質を持った、複雑な天才をめぐまれた巨匠の輩出したあとで、やられなかったようないかなることが残っており、言われなかったようないかなることが残っているというのか? われわれのなかで、だれが自慢できるか? どこかに、ほとんど同じような形で、すでに存在していないような一ページを、一句を、書いたといって? われわれが、フランス語で書かれたものに食傷しきって、われわれのからだ全体が言葉でできている練り粉であるような印象を与えるほどのわれわれが、ものを読むとき、ただの一行でも、一つの考えでも、われわれになれっこになっていないような、少なくとも漠《ばく》とした予感を覚えないような、なにかを一度でも発見することがあるだろうか?
すでに知られた手段で公衆のご機嫌《きげん》をとりむすぶことのみを念願とする男は、凡庸なままにけろりとした顔で、無知な有閑大衆のためにお膳《ぜん》だてされた作品を書いてゆうゆうとしている。だが、幾世紀の過去の文学の重荷を双肩に感じている男は、より以上のものを夢みるがゆえになにものにも満足させられず、すべてに嫌悪《けんお》を感ずる者は、すべてがつくったばかりでもう陳腐に見え、自分たちの作品がいつでも無用なありふれた仕事のように見えてならない者は、文学という芸術をとらえがたい、神秘的なもの、巨匠の作品の幾ページかがわれわれにわずかにあばいて見せるにすぎないものという判断を下すようになる。
二十行の詩、二十の句が、いきなり読んだとき、ふいの天啓のように、われわれを心臓の奥まで戦慄《せんりつ》させる。だがそれにつづく詩句はもうそこらにあるすべての詩句に似ているし、その後《あと》に流れだす散文はそこらにざらにある散文とちっとも変ったところはない。
天才人は、疑いもなく、こうした苦悩は、死ぬほどの苦しみは、知らない。彼はみずからのなかになにものにもおさえられない創造力を持っているからである。彼らはみずから自分を判断することはしないのである。そうでないほかの連中は、われわれ、自覚したねばり強い働き手であるにすぎない連中は、ただ努力の連続によってのみ征服不能の意気阻喪に対して戦うことができる。
二人の人がその単純な光明にみちた教訓でこの何度でもひるまずに企てる力を私に与えてくれた。その二人とはすなわちルイ・ブイエとギュスターヴ・フロベール。
私がここでこの二人と自分のことを引きあいに出すのは、わずか数行に要約される二人の忠告が、文壇に乗りだそうというとき普通の人ほど自信の持てないある種の若い人々にとっておそらくなにかの役にたつだろう、と思うからである。
ブイエのほうは、フロベールの厚情を克《か》ちうるよりも二年ほど早く、多少内輪な関係で初めに知ったが、私をとらえてさかんに次のような言葉をくり返した。すなわち、百行の詩が、否おそらくはもっと少なくても、芸術家の名声を決定するには十分である。もしもそれが非のうちどころがなく完成しており、たとえ二流の人物でもその才能と独自性との精髄をその詩句がふくんでいるならば、というのである。この意味のことをたびたびくり返すことによって私に次の事実を理解させてくれたのである。ふだんの努力と文章道を深く知ることによって、心気のすみわたった力のわいてくる、元気のあふれる日に、われわれの精神のすべての傾向とぴったり一致する題目にうまくぶつかることがあれば、短いが、独自なわれわれの力で生みだしうるかぎり最も完全なものであるような作品の開花をもたらすことができる、ということを。
私は次にまたこういうことを理解した。どんなに名のきこえた作家でもほとんど一冊以上のものを後世に遺《のこ》してはいない。そして、なによりもまず、われわれの選択の前に現われる無数の材料のなかで、われわれの能力のすべて、われわれの価値のすべて、芸術家としてのわれわれの力のすべてを吸いつくすようなものを識別し発見する機会を持たなければならない。
その後、フロベールも、ときどき会っているうちに、私に好意を感じてくれるようになった。私は思いきって二、三の試作を彼の手もとまでさし出した。親切に読んでくれて、こう返事をしてくれた。「きみがいまに才能を持つようになるかどうか、それは私にはわからない。きみが私のところへ持ってきたものはある程度の頭のあることを証明している。だが、若いきみに教えておくが、次の一事を忘れてはいけない。才能とは――ビュフォンの言葉にしたがえば――ながい辛抱にほかならない、ということを。精を出したまえ」
私は精を出した。たびたび彼のところへ出なおして行った。自分が彼の気にいっているということをのみこんだのである。ほかでもない、彼は、笑いながら、私のことをおれの弟子とよぶようになっていた。
七年間、私は詩を書いた。コントを書き、ヌーヴェルを書いた。のみならずわれながら吐きすてたくなるような劇さえ一つものした。一つも残ってはいない。先生は全部読んでくれた。それから次の日曜日、いっしょに昼飯を食べながら、その批評を展開してくれた。そして、少しずつ、彼のながい辛抱づよい教訓の要約ともいうべき二、三の原理を私の頭のなかへたたきこんでくれた。「もしも人が独創的な点を一つ持っているならば、なにをおいてもこれを発展させなければならない。もしも持っていないなら、一つはどうしても手に入れなければならない」たびたび彼はこう言っていた。
――才能はながい辛抱である――問題は表現しようと思うすべてのものを、だれからも見られず言われもしなかった面を発見するようになるまで、十分ながくまた十分の注意をこめてながめることである。どんなもののなかにも、まだ探求されてない部分というものがある。われわれは自分の観照しているものについてわれわれより以前にすでに人の考えたことをかならず頭においてそれに支配されながら自分の目を使うという習慣になっている、という理由のためである。どんなささいなものでもいくらかの未知の部分をふくんでいる。それを見つけようではないか。燃えている火、野原のなかの一本の木立を描写するのに、その火なり木なりに向って、それが、もはやわれわれにとって、他のいかなる木、いかなる火にも似ていないようになるまで、じっと立っていようではないか。
こういうやり方で、人は独創的になるのである。
さらに、この世界には絶対に同一な二粒の砂、二匹の蠅《はえ》、二つの手、二つの鼻、はないという真理を持ちだしたあげく、数行の文句で、ある生物なり品物なりを、はっきりと特殊化するような方法で、同一種なり同一類なりのほかのすべての生物、ほかのすべての品物とはっきり区別するような方法で、言いあらわすことを私に強制した。
よく私に向ってこう言ったものである。「戸口に腰かけている乾物屋、パイプをくゆらしている門番、辻馬車《つじばしや》のたまり、そういうものの前を通ったら、その乾物屋なり、門番なりを私に描いてみせてくれ。その姿勢なり肉体上の外見なりを一つ残さず、むろんそれには、描かれる姿の巧みさが自然に暗示しているその精神的な特質のすべてもふくんでいるべきだが、要するに私がほかのいかなる乾物屋、ほかのいかなる門番とも混同しないように、描いてみせてくれ。ただの一言で、ある辻馬車の馬が、あとから走ってくるあるいは先を走っている五十頭のほかの馬と、どの点で似ていないかを、私にわからせてくれ」
文体に関する彼の意見はほかの場所で詳述しておいた。それは私がいまここに開陳した観察論と深い関係がある。
言わんと欲することがなんであろうとも、それを言いあらわすには一つの言葉しかない。それを生き生きと躍動させるには一つの動詞しかなく、その性質を規定するのに一つの形容詞しかない。だから、それが見つかるまで、その言葉を、その動詞を、その形容詞を、探さなければならない。断じていいかげんなところで満足してはならない。困難をさけるために言葉の道化に頼ってはならない。たとえいかにうってつけのものであろうとも、ごまかしに援助を求めてはならない。
ボワロの次の一句を適用することによって最も微妙な事柄をも指示し、言葉にうつすことができる。
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置くべき場所に置かれた単語の力を教えた。
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思想のすべての陰影を定着させるのに、こんにち芸術的文字なる名の下にひとがわれわれに押しつけようとしている、奇怪な、複雑な、数ばかり多い、ちんぷんかんぷんの語彙《ごい》を必要としないが、一つの言葉の占める位置にしたがってその言葉の価値に生ずる変化のすべてを極度の明徹さをもって識別しなければならない。ほとんど意味のつかめないような名詞や動詞や形容詞はなるべく少なくするように、好いひびきとすぐれたリズムにみちた、巧みに句切り、さまざまに模様を変えて構成された、いろいろ変った句を、なるべくたくさん使うようにしよう。珍奇な言葉の蒐集家《しゆうしゆうか》であるよりはすぐれた文体家になることにつとめよう。
新しい表現を探したり、ないしは、人の知らない古い書物の奥に、われわれがその使い方や意味を忘れてしまったようなもの、われわれにとってはいわば死んだ言葉であるようなものを、わざわざ探すよりは、句を自分の思うとおりにあやつるほうが、その一句にすべてを、表面に現わしていないことまでも言わせるほうが、言外の意味でみたし、秘密なはっきり形に現わさない意向でみたすほうが、事実、ずっとむずかしい。
のみならず、フランス語は、気取り屋の作家が濁らせることのできなかった、そして今後も決して濁らせることのできないであろう澄める水である。各世紀がこの清澄な流れのなかに、その流行を、そのもったいぶった古風を、その様子ぶりを投げ入れたのであるが、こうした無益の企てから、力のない努力から、なに一つ浮びあがったものはない。この言葉の本質は、明快で、論理的で、きびきびしていることにある。やすやすと弱められ、あいまいにされ、ないし堕落させられるようなものではない。
抽象的な言葉を警戒もせずに、今日ものの姿をうつすものは、ガラスの清潔さ[#「清潔さ」に傍点]の上にみぞれや雨を降らせるものは、同僚の素朴さに向ってもまた石を投げることができる! その石は肉体を持っている同僚にはあたるかもしれないが、肉体を持たぬ素朴さには決してあたることはないであろう。
[#地付き]ギ・ド・モーパッサン
一八八七年九月
エトルタ、ラ・ギエットにて
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――ちぇっ! と、とつぜん父親のロランが叫んだ。十五分も前から、身うごきもせず、じっと水面を見つめ、ときどき、海の底にしずんでいる釣糸を、ひょいひょいと引きあげていたが、そのあげくにこの舌打ちである。
ロラン夫人は、この釣遊びに誘ったロゼミリ夫人と並んで、艫《とも》のほうで居眠りをしていたが、びっくり目をさまして、夫のほうをふり返りながら、こう言った。
――えっ!……なんですの!……ジェローム!
老人、憤然と、答えた。
――ちっともくいつかなくなりやがったってことさ。お昼から一匹も釣っちゃいねえ。釣りに出るなら男同士だけだな。女がはいると、いつでも舟に乗りこむのがおくれて困る。
二人の息子、ピエールとジャンは一人は左舷《さげん》に、一人は右舷に、めいめい人差し指に釣糸を巻きつけていたが、声をそろえて笑いだした。
ジャンがこう答えた。
――お父さん、お客をお招《よ》びしていながら失礼ですよ。
ロラン氏はどぎまぎして、弁解した。
――これは失礼、ロゼミリの奥さん。どうもわたしはこういう性質で。ご婦人がたといっしょにいるのが好きなものだから、お招きするんですがね、そのくせ、海の上へ出たが最後、もう魚よりほかのことは考えなくなっちまう。
ロラン夫人はすっかり目がさめて、断崖《だんがい》と海との連なっているひろびろとした遠景をうっとりながめいった。ささやくようにこう言った。
――だってずいぶんとれたじゃありませんか。
ご亭主はちがうというつもりで頭をふって見せたが、それでもまんざらでもなさそうな一瞥《いちべつ》をびく[#「びく」に傍点]のほうになげた。びくの中には三人がかりで釣りあげた魚が、命取りの空気の中で口をぱくつかせながら、力のないもがき方で、ひれをばたばたやる音とぬるぬるする鱗《うろこ》のやわらかい音をたてて、まだぴくぴくやっている。
老人は籠《かご》をひざのあいだにはさんで、かたむけ、獲物の銀色の波を縁まで流し、底のほうのやつを見ようとした。と、彼らの断末魔のあえぎがはげしくなり、魚のからだから発する強い臭気、健康な潮の香が、はりきった籠の胴から立ちのぼった。
老釣師はそれを強く吸いこんだ。バラの匂《にお》いでもかぐように。それからこう見得をきった。
――ちくしょう! いきがいいて、こいつは!
それからつづけてこう言った。
――おい、おまえの釣ったのは、幾匹だい、ドクトル?
長男のピエールは、黒いほおひげを裁判官かなにかのように刈りこみ、鼻の下とあごはきれいにそっている三十かっこうの男であるが、こう答えた。
――いや! ぼくのほうはたいしたことはありませんよ。三、四匹ですね。
父親は次男のほうをふり向いた。
――おまえはどうだ、ジャン?
ジャンは、背の高い金髪の青年で、ほおひげが濃く、兄よりはずっと若かったが、にやりと笑って、つぶやくように、こう言った。
――まあピエールと似たところですよ。四、五匹ですかね。
二人は、毎度、同じ嘘《うそ》をつくのだが、それでも父親のロランはいい気持になるのである。
櫂架《かいかけ》に糸を巻きつけていたが、腕組みをしてこう言った。
――おれはもう昼からは糸をおろさんぞ。十時を過ぎたら、もうだめだ。さっぱりくいつきやがらん。ちくしょうめ、日向《ひなた》ぼっこで昼寝をきめこみやがる。
老人は自分が持主ででもあるかのような満足しきった様子で、自分のまわりの海をながめまわした。
昔パリで宝石屋をしていた男であるが、舟と釣りが飯より好きで、そのために、年金でつましく暮してゆけるだけの余裕ができるがはやいか、勘定台の前からおりたという寸法である。
そこでル・アーヴルに引っこみ、ボートを一|艘《そう》買って、しろうと水夫になったのである。二人の息子、ピエールとジャンは、パリにとどまって勉強をつづけ、休みにはときどきやってきて父親の道楽のお相伴《しようばん》をした。
学校を出ると、長男のピエールは、ジャンより五つ年上であるが、いろいろな職業が次々に自分の天職のように思われて、次から次へ、半ダースほど試み、すぐにどれにもいや気がさして、すぐにまた新しい希望のなかにとびこむのだった。
最後に医学が彼をひきつけた。非常な熱心で勉強を始めたので、かなり短い期間の研究をしただけで、大臣から研究期間短縮の許可を与えられ、最近|医学博士《ドクトル》になったところだった。激越で、頭脳は明晰《めいせき》、気は変りやすいが、変るまでは頑強《がんきよう》で、哲学的な考えとユートピアで頭をいっぱいにしているたちの男だった。
ジャンは、兄が黒い髪をしているのとは反対にブロンド、兄が激情家であるのにひきかえおだやかな性質で、兄が腹をたてやすくいつまでも人をうらむのと反対に柔和な男であるだけに、なんのへんてつもなく法律の勉強をすまし、ピエールが医学博士の称号をとるのと同時に法学士の肩書を得たのだった。
だから二人とも家《うち》でひと休みというかっこうであり、二人ともうまく満足のゆく条件でできるなら、ル・アーヴルで開業したいというもくろみを持っていた。
だが漠然《ばくぜん》とした嫉妬《しつと》が、兄弟同士姉妹同士のあいだに一人前になるころまでほとんど目に見えずにしだいに成長して、結婚とか、一人の身の上にふいに幸運が降ってわくとか、そういう機会にふいに爆発する例の嫉妬が、表面友情をよそおった爪《つめ》は出さない敵意のなかに二人を互いに警戒させあっていた。むろん確かに二人は愛しあっていた。だが二人は互いに相手の動静をさぐりあっていた。ピエールは、ジャンの生れたとき五つだったが、甘やかされた小さな動物の敵意で、もう一匹の小さな動物、突如として父母の腕のなかに現われ、二人からこんなにかわいがられ、こんなに愛撫《あいぶ》されているこのもう一匹をにらんだのだった。
ジャンは、子供のときから、柔和で、気だてがよく、怒ったり、泣いたりしないおとなしい子の見本ということになっていた。ピエールはたえずこのまるまると太った男の子の自慢話が出るのに、だんだん、いらいらするようになっていた。弟の柔和というのは兄の目から見れば柔弱であり、気だてがいいというのはばかということであり、情け深いというのは目が見えないということだった。両親は、ただもうおだやか一方の人間だから、息子たちのために平凡な世間ていのいい地位を胸に描き、ピエールに向っては、いつまでもぐずぐずしていることを責め、なんだか知らないがいろいろなことに夢中になり、いろいろなことをやっては途中から投げだし、高尚な思想とやらに、はなばなしい職業とやらに、力もないのにたびたびとびつくのを非難していた。
大人になってからは、だれもピエールをとらえて、「ジャンをごらん、あの子のまねをするんだよ!」とは言わなくなった。だが、「ジャンがこんなことをした。ジャンがあんなことをした」とくり返されるのを耳にするたびに、彼にはその意味がよくわかったし、そうした言葉の下にかくされたあてこすりが了解できた。
母親は、きちょうめんな女、多少感傷癖のあるのがきずのつましい堅気な女、やさしいが会計係のような魂をめぐまれた女であるが、毎日大きくなった二人の息子のあいだに、一つ家での生活のあらゆるこまごまとしたことから生れる小さな対立をたえず鎮撫《ちんぶ》する役にまわっていた。それに、ちょっとした事件がいま母親の安心をかき乱していた。めんどうなことにならなければいいがと心配しているのである。ほかでもない、今年の冬のあいだに、すなわち息子たち二人がそれぞれ専門の勉強の最後の仕上げをしているあいだに、母親は近所に住むロゼミリ夫人という女と近づきになったのであるが、その女は二年前海で死んだ遠洋航海の船長の未亡人だった。この若い未亡人は、若いも若い、まだやっと二十三だったが、なかなかのしっかり者で、奔放な動物のように、本能の生活を知っていた。まるであらゆる可能なできごとを自分で見、経験し、理解し、評価しているかのようだった。そういうできごとを健全な、狭いいい気な精神で判断しているのだった。毎晩、お茶を一杯ごちそうしてくれるこの隣人夫妻のところへやってきて、しばらく腰かけて暇つぶしをしたり、話をしたりしてゆく習慣になっていた。
海のことならなんでもという熱狂ぶりでたえず好奇心を鋭くさせられているロラン老人は、この新しく知りあいになった女をとらえて、亡《な》くなった船長のことをいろいろ聞きただした。女は、べつに当惑した様子もなく、人生を愛し死を尊敬する、物のよくわかる、あきらめのいい女として、夫のことを、その航海のことを、昔聞いた話のことを、語った。
二人の息子は、帰ってみると、家のなかに美しい未亡人がいるので、さっそくご機嫌《きげん》を取始めたが、女に気にいろうという気持よりは、たがいに競争相手を押しのけようという気持から出発したものだった。
母親は、用心深い上に実際的な女だから、二人のうちどちらかがうまく射とめることを心から望んでいた。ほかでもない、この若い婦人はたんまり金を持っていた。だが同時にまた負けたほうがそのために苦しまないようにと祈っているのだった。
ロゼミリ夫人はブロンドで青い目をしており、そよとの風にもすぐにパッと乱れる細い豊かな髪で、いかにも負けじ魂の、大胆な、挑戦的な様子をしていたが、これは彼女の精神の賢明な方針とまったく調和しないものだった。
はやくもジャンのほうに心が傾いているように見えた。性質の似ているところからひきつけられているのである。もっともこの心の傾きは声と視線とに現われるほとんど感知できない程度の変化によって示されるものにすぎなかった。それからまたおりおり彼女がジャンの意見を求めるという事実に現われるのだった。
ジャンの意見は自分自身の意見を強めてくれるが、反対にピエールの意見は宿命的に自分とはちがうに相違ないということを見ぬいているように見えた。ドクトルの見解について、その政治的、芸術的、哲学的、道徳的見解について語るとき、ときどき「あなたの空想」と言ったりすることがあった。そういうとき、ピエールは裁判官のような冷たい目でこの女を見返すのだった。女を裁《さば》く裁判官、女という女を、この憫笑《びんしよう》に値する生物を、一人残らず容赦しない裁判官の目で!
息子たちが帰ってくるまでは、一度だってロラン老人はこの女を自分の釣遊びに招いたことはなかった。むろん女房を連れていったことなどは断じてない。ほかでもない、日の出ないうちに船長のボーシールといっしょに舟に乗りこむのを楽しみにしていたからである。これはいまは引退している遠洋航海の古強者《ふるつわもの》で、満潮のとき築港で会ってからの大の仲よしになった男である。それにもう一人、ジャン・バールとあだなされている老水兵のパパグリがいっしょだった。この男は舟の管理をひきうけてくれている。
ところで、先週のある晩、老人のところで晩餐《ばんさん》のごちそうになったロゼミリ夫人が、「きっとおもしろいでしょうね、釣りって?」と言うと、この引退宝石商は、自分の好きなことについてお世辞を言われたのにいい気持になって、これを人に伝えてやろう、坊さんの流儀で信者をつくってやろうという気持にかられ、思わずこう叫んだ。
――どうです、いっしょに来ませんか?
――お供させていただきますとも。
――こんどの火曜では?
――こんどの火曜日、けっこうでございますわ。
――ご婦人で朝五時に出かけられますか?
夫人は思わず胆《きも》をつぶした叫び声をあげた。
――まあ! いくらなんでも、それはだめでございますわ。
老人はあてがはずれ、出鼻をくじかれた。いきなりこれではものになるまいと思った。
それでもこうきいてみた。
――何時にお出かけになれます?
――そうでございますね……まあ九時でございましょう!
――だめですか、それより前では?
――だめでございますわ、それより前では。九時でももうずいぶんはやいのですもの!
老人は躊躇《ちゆうちよ》した。確かになにも釣れないだろう。ほかでもない、太陽が出て水があたたかくなりはじめたが最後、魚はもう食いつかない。だが兄弟二人はしきりにあっせんして、舟遊びをとり決めようとし、この場で万事お膳《ぜん》だてを決めてしまおうとあせった。
そこで、次の火曜〈真珠《ペルル》号〉はラ・エーヴの岬《みさき》の白い岩壁の下に錨《いかり》をおろしたという寸法なのである。お昼まで釣り、それから少し眠り、また釣りにかかったが、いっこうに釣れない。それにロラン老人はおくればせながらロゼミリ夫人が好きでその値打ちを知っているのはじっさいのところ海に舟を浮べることだけだということを見てとり、自分の釣糸がいっこうにぴくぴくしなくなったものだから、さてこそがむしゃらないらだちにかられて、のほほんとおさまっている未亡人とかからなくなった獲物に向って等分に投げつけた猛烈な舌打ちを発したしだいなのである。
いま老人はとった魚をながめていた。自分の魚を、守銭奴《しゆせんど》のような歓喜に胸をふるわせて。それから目をあげて空をながめ、太陽が傾いていることに気がついた。
――どうだい! おまえたち、ぼつぼつひきあげるとするか?
二人の息子はめいめい糸をひきあげ、巻いた。鉤《はり》をきれいに掃除して、コルクのうきに刺し、それから待った。
ロランは立ちあがって、船長がやるように、沖のもようをながめた。
――もう風は出ないな。漕《こ》いでもらうぞ、若い連中には!
それからいきなり、北のほうに腕をのばしたと思うと、こうつけくわえた。
――や、や、サザンプトンからの船だ。
青い布を敷きつめたような、たいらな、はてしない海の上に、金と火の照りかえしにきらきら輝く海の上に、はるかかなた、指さされている方角にあたって、バラ色の空に、黒い煙の雲が立ちのぼっていた。と、その下に、遠くから見るのでじつに小さく見える船の姿が認められた。
南のほうにあたってもほかにたくさん煙が見えた。全部ル・アーヴルの突堤に向ってやってくる。突堤の白い線と、その先端に角のようにまっすぐに立っている灯台は、ここからはかろうじてそれと見わけがつく。
ロランがこうきいた。
――きょうじゃなかったかな、〈ノルマンディ号〉が入港することになっているのは?
ジャンが答えた。
――そうですよ、お父さん。
――おれの望遠鏡をとってくれ。きっとあれだろうと思う。向うにいる。
父親は銅製の筒をくり出し、自分の目にあてて、求める一点を探した。と、いきなり、見つかったらしく、有頂天になって叫んだ。
――そうだ、そうだ、あいつだよ、あの二本煙突に見おぼえがあったて。ごらんなさるか、ロゼミリ奥さん。
夫人は器械を受取って、遠くの大西洋通いの船のほうに向けたが、どうやら船の正面にうまくすえることができなかったらしい。彼女の目にはなにも識別することができなかった。青いものだけしか映らなかった。それに色の輪が、まんまるな虹《にじ》のようなものが映った。それからなんともいえぬ妙なもの、一種の蝕《しよく》のようなものが映って、目がくらくらした。
望遠鏡をかえしながら夫人はこう言った。
――だってこの道具の使いみちをどうしても覚えられなかったのですもの。船が通るのを窓に立って何時間もながめている夫を怒らせたほどですわ。
ロラン老人は、気を悪くして、言いかえした。
――奥さんの目がどうかしているせいですよ。わたしの望遠鏡はすばらしい逸品ですからな。
それから妻のほうにさし出した。
――どうだ見ないか?
――いいえ、たくさんです。わたしの手におえないことはわかっていますからね。
ロラン夫人は、四十八になるが、とても四十八とは見えず、だれよりも、この舟遊びとこの夕暮れの気分を楽しんでいるように見えた。
栗色の髪はわずかに白くなりはじめたばかりだった。落ちついたしっかりした様子、幸福そうな親切者らしい様子をしており、見る者に好印象を与えた。息子のピエールの言葉にしたがえば、この女はお金の値打ちを知っていた。とはいえそれは空想の魅力を味わうことをさまたげなかった。読書が好きだった。小説や詩が大好きだった。芸術的価値のために好きなのではなく、小説や詩が彼女のなかに目ざめさせるものういやさしい夢想のために好きだったのである。一行の詩が、しばしば平凡な、しばしば俗悪でさえある詩の一行が、彼女のいわゆる小さな琴線を振動させ、えたいのしれぬ欲望がほとんど実現したような感覚を与えるのだった。出納簿のようにきちんとしている彼女の魂を少々かき乱すこうしたつまらぬ感動にふけるのがとても好きだったのである。
ル・アーヴルへ来てから、相当目につくほど太りだし、それが昔は非常にしなやかで非常にほっそりしていた腰をいくぶんぼってりさせていた。
この舟遊びは彼女を有頂天にした。夫は、意地が悪いというのではないが、女房を手荒に扱った。店を持っている専制者が怒っているわけでも憎んでいるわけでもなくどなりちらす、そのごたぶんにもれなかったのである。こういう連中にとっては命令するということはけんつくをくわすということにひとしい。すべて他人の前では神妙にしているが、家族のなかではいい気になって雷|親父《おやじ》ぶりを発揮してみせる。そのくせ自分では皆がこわくてしかたがないのである。女房のほうは、噂《うわさ》がたつのがこわく、無用のいさかいや言いあいをするのがいやさに、いつでも譲歩をつづけており、なにも要求しなかった。だから、ロランに向って海へ連れていってくださいというようなことは、ずっと前から、とても口に出して言う勇気はなかったのである。そこで大喜びでこの機会にとびついたわけであり、このまれな新しい楽しみをゆっくり味わっているのだった。
舟がすべり出してからずっと、全身をあげて、精神の全部、肉体の全部で、この心持よい水の上をすべる感覚にひたっていた。なにも考えなかった、思い出のなかにも希望のなかにもとび歩かなかった。自分の心も肉体と同じようになにかやわらかいものの上を、流動する、甘美なものの上をすべってゆくような気がした。それが彼女をゆすぶり気を遠くさせてくれる。
父親が引きあげの命令を下し、「さあ、漕ぎ方用意、位置につけ!」とどなったとき、彼女は二人の息子、大きくなった二人の息子が、ジャンパーを脱ぎすて、腕をあらわにシャツの袖《そで》をまくりあげるのを見て、にっこり笑った。
ピエールは、二人の婦人のいちばん近くにいたが、右舷のほうの櫂《かい》につかまり、ジャンは左舷の櫂を握った。そして二人は船長が、「いっせいに漕ぎ方始め!」と叫ぶのを待った。ほかでもない、親父は万事の操作が規則的に遂行されることを大いに気にしていたからである。
二人とも、気をそろえて、櫂を落したと思うと、全身の力で引っぱりながらからだを後ろに倒した。と、体力を見せびらかすための競争が始まった。来るときには帆をあげて静かにすべってきたのだったが、風が落ちてしまったので、これから互いに力くらべをしなければならんと思うと二人の兄弟の男性としての自負がとつぜん目ざめた。
兄弟が父親と三人だけで釣りに出かけるときは、だれも舵《かじ》をとらずに二人はそうやって漕ぐのだった。ロランは舟の進み方を監視しながら、釣糸の準備をするのである。舟の進路は身ぶりなり言葉なりであやつった。
「ジャン、ゆるめて」――「こんどは、ピエール、力をこめて」というふうに指図する、あるいはまたこう言うこともあった。「一番[#「一番」に傍点]力を入れて、二番[#「二番」に傍点]力を入れて。少し肘《ひじ》をなめらかに」少しぼんやりしていたものはぐっと力を入れて漕ぎ、夢中に馬力をかけていたものは少しゆるめる。すると舟はたちなおる、という寸法である。
きょうは二人はめいめい自分の腕の筋力を見せようとしているのだった。ピエールの腕は毛だらけで、少しやせていたが、がっしりと筋張っていた。ジャンの腕はふっくりして白く、多少赤味をおびていて、皮膚の下にもりあがる筋肉のこぶを持っていた。
ピエールのほうが初め旗色がよかった。歯をくいしばり、額に八の字を寄せて、脚《あし》をまっすぐにのばし、両手がひきつるほどしっかり櫂を握り、ぐっと力を入れるたびにありたけの長さに櫂をたわませた。そして〈ペルル号〉は岸のほうへ近づいた。ロラン老人は艫《とも》の腰かけを全部二人の女に残すために舳《へさき》に腰かけていたが、「一番[#「一番」に傍点]ゆっくり、――二番[#「二番」に傍点]力を入れて」と指図するのに懸命だった。ところで一番[#「一番」に傍点]はますます勢いを猛烈にし二番[#「二番」に傍点]はこのがむしゃらな漕ぎ方に調子を合わせることができなかった。
とうとう、船長が、「ストップ!」を命じた。二丁の櫂がいっせいにさっとあがったが、それからジャンは、父親の命令で、しばらく一人で漕いだ。だがこのときを境にジャンのほうが形勢有利となった。元気づき、熱中してきたが、これに反してピエールは、息をきらし、一時に元気を出したために力がつき、弱ってきて、はあはあ言いだした。四度もつづけて、ロラン老人は、長男に息をつかせ、進路からそれたボートをたちなおらせるために、ストップを命じた。するとドクトルは汗で額がびっしょりになり、ほおをまっさおにしながら、くちびるをかんで、つぶやくように口のなかでこう言った。
――どうしたんだかぼくにもわからん。心臓が変な気持になりやがった。すべり出しはとてもよかったんだが、すっかり腕の力が抜けてしまった。
ジャンがこうきいた。
――ぼくが二本オールで一人で漕いでみようか?
――いや、それにはおよばん、じきによくなるよ。
母親が、見かねて、こう言った。
――さあさあ、ピエールや、どうしたというのさ、そんなことをして。子供じゃあるまいし。
ピエールは肩をそびやかしてまた漕ぎ始めた。
ロゼミリ夫人はこのいきさつにどこを風が吹くかというような様子をしていた。見ない、見てもわからない、聞えない、という様子だった。かわいらしい金髪の頭が、舟の進むたびに、いと愛らしく後ろにひかれ、こめかみの上に細い髪の毛が巻き上げられた。
が、ロラン老人が叫んだ。「や、や、来たぞ、来たぞ、〈プランス・アルベール〉が。追いつかれたな」と、みんながそのほうをながめた。細長く、甲板《かんぱん》が低く、二本の煙突が後ろに傾き、一対の外輪おおいは、ほおのようにまるく、黄色く塗ってある。こうしたかっこうでそのサザンプトン通いの汽船が、全速力でこっちへ向ってやってくる。甲板は旅客と開かれた傘《かさ》でいっぱいだ。めまぐるしく、大きな音をたてて回転する外輪が、水をうち、水は白く泡《あわ》だって滝のように流れ落ちる。それがこの船になにかあわてているような様子を、急ぎの飛脚といったような様子を与えている。まっすぐに切りたっている舳が海面を切って両側に薄い透明な波をかきたて、それが舷にそうてゆるやかにすべってゆく。
汽船が〈ペルル号〉のすぐ近くまで来たとき、ロラン老人は帽子を高くさしあげ、二人の婦人はハンカチを振った。すると半ダースばかりの傘が商船の甲板の上で激しくゆれながらこのあいさつに答えた。と、商船はみるみる遠ざかっていった。後ろに、平穏なきらきら輝く海面に、ゆるやかなうねりを残しながら。
と、そのほかにも幾|艘《そう》かの船が、同じように煙をたなびかせて、水平線の八方から、この短い純白の突堤をめざして走ってくるのが見えた。突堤はなにかの口のように、次々に船をのみこんだ。漁船や帆柱の細い大型の帆船が、目に見えぬひき船にひかれて、空を背景にすべってゆく。それがことごとく、矢のようにはやいのもゆっくり動いてゆくのもあるが、このがつがつ食べる貪食漢《どんしよくかん》のほうへ吸いよせられてゆく。もっとも、この貪食漢も、ときどきは食べあきたように、沖のほうへ向って、商船や、小帆船《ブリツク》や、軽帆船《ゴエレツト》や三本マストの一隊を吐き出した。せわしない蒸気船が大西洋のたいらな腹の上を右左に逃げてゆくあいだを、帆船が、いままでひいてくれていた小蒸気船から捨てられて、動かなくなり、大きな檣楼《しようろう》から小さな第二接檣まで、白やとび色の帆を張るのに忙しい。とび色の帆は夕陽《ゆうひ》をあびて真っ赤に燃えて見える。
ロラン夫人が、目をほそめて、ささやいた。
――まあ! なんて美しいんでしょう、この海は!
ロゼミリ夫人が、深い溜息《ためいき》といっしょに、答えた。そのくせちっとも悲しげな調子はこもっていなかった。
――ほんとにね。それだのにときどき人間にむごいことをするのですものね。
ロランが叫んだ。
――ほら、〈ノルマンディ号〉が港口へ来ている。どうだい、大きいだろう?
それから老人は向いがわの岸を説明した。ずっと向うの、セーヌ河の河口のもう一方のほうの側を。――この河口は二十キロメートルある――と老人は言っていた。ヴィレルヴィル、トルゥヴィル、ウルガト、リュック、アロマンシュ、カーン川を順々に指《さ》して見せた。それからカルヴァドスの岩。これがあるためにシェルブールまでの航行は危険である。それから老人はセーヌ河の砂洲《さす》の問題を論じた。潮のたびに移動してさすがのキーユブフの水先案内も、毎日水路の巡視をしていないと、失敗することがある。彼はいかにル・アーヴルが上ノルマンディと下ノルマンディを分っているかを指摘した。下ノルマンディでは沿岸がたいらで、牧場や草原や畑がだらだらにのびて、果てが海になっている。反対に、上ノルマンディの岸は、まっすぐに切りたっている。大きな断崖《だんがい》が、ところどころ中断され、のこぎりの歯のようになっていて、すばらしいながめだが、ダンケルクまで巨大な真っ白な壁をつくり、その間の切れ目ごとの入江は村なり港なりをかくしている。エトルタ、フェカン、サン・ヴァレリ、ル・トレポール、ディエップ、等々。
二人の女はちっとも聞いていなかった。巣のまわりを走りまわっている獣のような舟でいっぱいにおおわれているこの大洋のながめに感動し、幸福感に酔っていたのである。二人は黙っていた。この水と空との果てしのない水平線に圧倒され気味で、このすばらしい人の気分をしずめる入日のながめに口がきけなくなっていたのである。ただ一人、ロランはいつまでもしゃべりつづけていた。この男は何物にも心をかき乱されない種類の人間にぞくしているのである。女は、神経が鋭いから、ときに、なぜという理由はわからないながら、無用のことをしゃべっている声を、なにか無礼なしぐさのようにいらだたしく感じることがある。
ピエールとジャンは、興奮がさめて、ゆっくり漕《こ》いでいた。〈ペルル号〉は大きな船の並んでいるそばでじつに小さく、港のほうへ近づいていった。
桟橋に着くと、待っていた水夫のパパグリが、婦人の手をとって舟からおろしてやった。そして一同は町のなかへはいった。静かな、たくさんの群衆が、毎日満潮の時刻に突堤に出かけてくる人の群れが、同じく帰途についていた。
ロラン夫人とロゼミリ夫人が先にたって歩み、そのあとから三人の男がついていった。パリ通りをあがってゆきながら、二人の女はときどき帽子屋や飾屋の前に立ちどまって帽子だの装身具だのをながめた。それから二人は意見を交換しあうとまた歩きだす。
取引所の広場の前で、ロランは、毎日やるように、船でいっぱいになっているル・コメルスの碇泊区《ていはくく》をながめた。その先にいくつも別の碇泊区がつづき、大きな船体が腹と腹をくっつけあい、四、五列に並んでいる。波止場の数キロメートルの長さにわたって並んでいる無数の帆柱は、帆架、檣頭、綱具、そういったもののごたごたしている帆柱は、この町の真ん中の空地に大きな枯れた林のような様子を与えている。この葉の落ちた森の上を、かもめが舞っている。水の上に落ちているあらゆる余り物をうかがいながら、見つけると、石が落ちてくるように、さっと舞いおりる。最高檣の端に滑車をとりつけている一人の見習い水夫は、鳥の巣でも探しに高いところへのぼったといったかっこうである。
――かたくるしいことはぬきにしてわたしどもといっしょに晩の食事を召しあがりません? きょう一日を終りまでごいっしょに過すという意味で? ロラン夫人がロゼミリ夫人にこうきいた。
――けっこうでございますわ。喜んで参りますわ。わたしもかたくるしいことぬきでお受けいたしますわ。こんな晩に一人で家に帰るなんてさびしいですわ。
この言葉が耳にはいったピエールは、この若い女のずうずうしさに気を悪くしはじめていたが、口のなかでつぶやくようにこう言った。「ふん、とうとう後家め、押しを太く乗りだしてきやがったな」数日来、彼はこの女のことを「後家」と呼んでいた。この言葉は、なにも特別のことを表現していたわけではないが、その言葉のひびきだけでジャンの気を悪くさせた。意地の悪い、人を傷つけるもののように彼には思われた。
三人の男は自分の家のしきいをまたぐまで一言も発しなかった。狭い家で、階下は相当だが、その上に二階と三階が小さく乗っているだけだった。ベル・ノルマンド通りである。女中のジョゼフィーヌは、十九になる娘で、安い給料で使われる田舎出《いなかで》の女中、百姓特有のびっくりしたような動物的な様子を普通以上に持っている女であるが、出てきて、戸をあけ、またしめると、主人たちのあとから客間まであがってきた。客間は二階にあった。それからこう言った。
――どこかのおかたが三度も見えました。
ロラン老人は、この女中にものを言うとき、がなりたて、ののしらないことはなかったが、大きな声でこうどなった。
――なんだと、だれが来たって?
女中は主人の声の爆発には決して驚かなかった。もう一度こう言った。
――公証人さんとこのかたです。
――どこの公証人だ?
――カニュさんとこですとさ。
――そしてなんと言った、その人は?
――カニュさんが晩にご自分でいらっしゃるって。
ルカニュ氏は公証人であり、ロラン老人とは多少個人的のつきあいもあった。老人の法律関係のことを世話してやっていた。晩に訪《たず》ねるということを前もって知らせるというからには、よほど緊急な重大なことに相違ない。ロラン家の四人は顔を見あわせた。すべて公証人の介在と聞くとささやかな財産の持主たちがそうなるように、この知らせのため困惑を感じたのである。それは契約書だとか、相続だとか、訴訟だとか、そういったようなのぞましいまたは恐ろしい事柄に関する無数の考えを呼びさます。数秒の沈黙の後、父親がつぶやくようにこう言った。
――そりゃいったいなんというつもりだろうな?
ロゼミリ夫人が笑いだした。
――おほほ、遺産相続のことよ。きっとそうですわ。わたし、福の神ね。
だが四人の者は自分たちになにかを遺《のこ》してくれるようなだれかの死を願う心当りはなかった。
ロラン夫人は、血縁関係のこととなるとすばらしい記憶力をめぐまれていて、すぐ夫のほうのがわと自分のほうのがわとのすべてのつながりを探し始めた。親子関係をさかのぼり、いとこ同士の横の関係をたどったのである。
帽子も脱がずにこうきいた。
――ねえ、父さん(彼女は夫のことを家のなかでは「父さん」と呼び、客の前ではときに「ムシュ・ロラン」と呼ぶことがあった)、ねえ、父さん、ジョゼフ・ルブリュの再婚のときの相手はだれだったか覚えていますか?
――うん覚えている。デュメニルんとこの娘だ、ほら紙屋の娘さ。
――子供がありましたっけね?
――確かあったな。少なくとも、四、五人は。
――だめね、じゃそっちにはなにもなしと。
はやくもこの女はこの探求に熱中しはじめていた。いくらかの暮しむきのゆとりが天から降ってくる。この希望にしがみつきはじめた。だが母親を心から愛しているピエールは、母親がいくらか夢想家なのを知っているので、もしもその知らせが、よいかわりに、悪かったら、幻滅を味わわせなければならん、小さくとも心の苦しみを、悲しみを味わわせなければならんと、思ったので、母親をおしとめた。
――母さん、夢中になるのはおよしなさい、いまごろアメリカのおじさんはいませんよ! ぼくとしては、むしろジャンの結婚話だろうと思いますよ。
みんなこの意見には驚かされた。ジャンは、兄がロゼミリ夫人の前でそんな話を持ちだしたのに少し気を悪くした態《てい》だった。
――どうして兄さんでなくぼくなんです? その推定は大いに異議をさしはさむ余地があるよ。兄さんじゃありませんか。兄のほうをまず考えるのが順序ですよ。それに、ぼくは、結婚しようとは思わんし。
ピエールがあざけるような笑いをひびかせた。
――では意中の人があるという寸法か?
相手は、不満で、答えた。
――まだ結婚したくないというのに意中の人を持っている必要がありますか?
――よし! それでわかった。その「まだ」で全文修正さ。おまえは機会を待っているんだね。
――ぼくが待っているって、そんならそれにしておくさ。
だが、ロラン老人は、二人のやりとりに耳をかたむけ、じっと考えこんでいたが、とつぜんいちばん真実らしい解決を発見した。
――ええ! ばかだな、こんなことに頭を悩ますなんて。ルカニュさんは家《うち》とは懇意にしているんだ。ピエールが診療室を探していること、ジャンが弁護士の事務所を探していることを知っているので、おまえたち二人のどっちかのために家を見つけてくれたんだ。
これはじつに簡単でもっともらしかったので、みんなの意見がこれに一致した。
――支度《したく》ができました。と、女中がいった。
めいめい食卓につく前に手を洗うために自分の部屋へひきとった。
十分の後、一同は階下の小さな食堂で晩餐《ばんさん》の食卓についていた。
初めのうちはほとんど口をきかなかった。だが、しばらくたつと、ロランがあらためてこの公証人の訪問に驚いてみせた。
――けっきょくどうもわからんな。なぜ手紙に書かなかったのだろう。なぜ三度も手代をよこしたのかな。なぜ自分でやってくるというのだろう?
ピエールはそれはあたりまえのことだという意見だった。
――むろん即席の返事が必要なのさ。ことによったら、普通ひとが書くのをいやがる内密の契約条項を伝える必要があるのかもしれませんよ。
だが彼らはいつまでも気がかりだった。そして四人とも多少他人を招待したことに気づまりの態《てい》だった。なんといっても議論をしたり、決着をつけたりするのに窮屈である。
一同がふたたび客間にあがったところへ、公証人の来訪が告げられた。
ロランがとぶように駆けよった。
――ようこそ、先生《メートル》。
彼はすべて公証人の名前につきものの「メートル」という字を肩書のようにルカニュ氏につけていた。
ロゼミリ夫人が立ちあがった。
――失礼いたします。疲れましたから。
一同はたいして気を入れずにひきとめようとした。だが夫人はきき入れず帰っていった。いつもやるように三人の男のなかの一人が送りだすこともしなかった。
ロラン夫人は新しくはいってきた客人をいそいそともてなした。
――コーヒーを一杯、いかがでございましょう?
――いや、けっこうです、いま食事をすましてきたばかりで。
――ではお茶は?
――いただかぬとは申しませんが、もう少しあとに願いましょう。まず用件のお話をいたしましょう。
この言葉のあとにつづいたふかい沈黙のなかで、置時計の規則正しい刻みと下で女中の洗う皿の音しか聞えなかった。この女中、ドアのかげで立ち聞きするほどの知恵もないのである。
公証人が言葉をつづけた。
――パリでマレシャルさんというかた、レオン・マレシャルというかたとお知りあいになったことがありますか?
ロラン夫妻は同じ驚きのまじった「たしかに!」という言葉を発した。
――ご友人でしたか?
ロランが宣言するようにこう言った。
――最上の友人ですよ。しかしがんこなパリジアンでね。ブールヴァールを離れようとしないのです。大蔵省の局長ですよ。首都を離れてから一度も会ったことはない。それにその後二人とも手紙を書くこともやめちまってね。なにしろね、お互いに遠く離れて暮していると……
公証人はまじめな顔で言葉をついだ。
――マレシャルさんは亡《な》くなられました!
亭主も細君もいっしょに例の悲しい驚きの短い衝動を顔色に出した。無理につくったのかそれとも心からなのか、とにかく、すぐ顔色に出る、こうした知らせをうけるときにひとの浮べる驚きの色を浮べた。
ルカニュ氏は言葉をつづけた。
――パリの同業から同氏の遺言の主旨を知らせてきましたが、ご子息のジャンさんを、ジャン・ロラン氏を包括受遺者に指定しているのです。
驚きがあまりに大きかったので一語も発するものがなかった。
ロラン夫人が、いちばん先に、感動をおさえて、口のなかでこう言った。
――まあどうしましょう、かわいそうなレオン……あんなにお親しくしていたのに……どうしましょう……ほんとに……亡くなったとは!……
涙が彼女の目に浮んだ。例の女の流す沈黙の涙が。魂から出てきてほおを伝って流れる苦悩の滴《しずく》、清らかなだけに、じつに痛ましく見える。
だがロランは友を失った悲しみよりも予告された希望のほうを考えていた。といってもいきなりその遺言の条項について、財産の額について、きくのはさすがにはばかられた。そこでかんじんの問題に近づく前提としてこうきいた。
――気のどくに、なにがもとで死にました、マレシャルは?
ルカニュ氏はそのことはまるっきり知らなかった。
――わたしの知っているのは、直系の相続人がなく死亡されたので、全財産を、三分利の債券で年収二万フランほどのものを、あなたのご次男に遺《のこ》されたということだけです。生れたときから大きくなるまで見ており、この遺贈に値すると判断されたのですな。ジャンさんのがわからの受諾がなければ、遺産は養育者のない子供たちに与えられるはずです。
ロラン老人はもはや喜びをおしかくすことができずに、思わずこう叫んだ。
――こいつあ情味のあるいい考えだ。おれだって、子供がなけりゃ、このりっぱな友だちのことを、たしかに忘れはしないさ!
公証人はにやりと笑った。
――わたしもうれしいですよ。このことをわたしがお知らせするようなめぐりあわせになってね。いい知らせを持ってゆくというのはいつでもうれしいものですがね。
彼はこの知らせが友人の死にほかならぬこと、ロラン老人の無二の親友の死だということを、ちっとも考えてみなかった。老人自身、ついさっき確信をもって告げたこの親交を突如として忘却したのであるが。
ただロラン夫人の息子二人だけはいつまでも悲しげな顔つきをしていた。夫人は相変らずしのびやかに泣いていた。ハンカチを出して目をこすり、それからふかい溜息《ためいき》をころすために口におしあてるのだった。
ドクトルがつぶやくようにこう言った。
――いい人だったな、とても人なつっこい。たびたび晩餐に招《よ》んでくれましたよ。弟と私を。
ジャンは目を大きくひらき、輝かせながら、なれた手つきでその美しいブロンドのほおひげを右手でもてあそびながら、まんべんなく、ひっぱって細くのばそうとするかのように、なでまわした。
自分もなにか適当な言葉を口に出そうとして二度ばかりくちびるを動かしかけたが、けっきょくながいこと考えたあげく、これだけのことしか言えなかった。
――じっさい、ぼくもよくかわいがってもらった。行くたびにいつも抱いて接吻《せつぷん》してくれたものだ。
だが父親の考えは宙をとんでいた。この予告された遺産相続、はやくも手に入れたも同然のこの遺産、扉《とびら》の向うにかくれていて、すぐに、明日にでも、受諾の返事一つで、ころげこんでくるはずの遺産をめぐって、駆けまわった。
彼はこうきいた。
――じゃまの出るようなことはありますまいかな?……訴訟を起されるというような?……異議の申立てといったようなことが?……
ルカニュ氏は安心しきっている様子だった。
――いや、そんなことはありません。パリの同業からきわめて明快な状態だと言ってきています。ジャンさんの受諾がありさえすればそれでよいのです。
――それは申し分ない、して……財産のほうは明瞭《めいりよう》でしょうな?
――非常に明瞭です。
――手続きは残らずすんでいますか?
――残らず。
とつぜん、昔の宝石商は少し恥ずかしくなった。漠然《ばくぜん》とした、本能的な、一時性の恥ずかしさではあったが、こんなに急いでいろいろききただしたことが恥ずかしくなった。それで、言葉をつづけてこう言った。
――申すまでもなくわかってくださるでしょうが、こうしたことをすぐにいろいろお伺いするというのも、息子が前もって予想ができずにいやな思いをするようではかわいそうだと思うからです。ときとして借金が残っていたり、めんどうな状態になっていたり、その他いろいろ、妙なことがあることがありますからな。ぬきさしのならない棘藪《とげやぶ》のなかへ足を突っこむことがある。要するに、遺産相続をするのはわたしじゃないのだが、わたしとしてはなによりも小さいほうのことを考えますのでな。
家のなかではいつもジャンは「小さいほう」と呼ばれていた。じつはピエールよりもずっと背は高かったのである。
ロラン夫人が、とつぜん、夢からさめたような様子をした。なにか遠い事柄、ほとんど忘れてしまった昔聞いたことを、それもうろおぼえにしかおぼえていないことを、思い出したといった様子だった。そして口のなかでつぶやくようにこう言った。
――気のどくなマレシャルさんが、家《うち》の小さいジャンに財産を遺してくだすったとおっしゃいませんでしたでしょうか?
――ええそうですよ、奥さん。
すると彼女はこともなげにこう言った。
――それはたいへんうれしく存じますわ。わたしたちを思っていてくだすった証拠ですもの。
ロランは立ちあがっていた。
――いかがでしょう、先生、息子がすぐに受諾の署名をいたしましては?
――いや……いや……ロランさん。明日に願いましょう。明日、わたしの事務所で、二時に、もしそちらのご都合がよろしければ。
――けっこうですとも、むろんけっこうですよ、たしかに!
すると、ロラン夫人も、同じく立ちあがっていたが、涙のあとに微笑を浮べながら、公証人のほうに二歩ばかり進みより、肘掛《ひじかけ》いすの背に片手をのせながら、感謝に燃えている母親の感動をこめた視線を相手にそそぎながら、こうきいた。
――あのお茶はいかがでしょう、ルカニュさん?
――いや、こんどはちょうだいいたしましょう、奥さん、喜んで。
呼ばれた女中はまず深いブリキかんにはいった干菓子を持ってきた。例のイギリス風の味もそっけもないぼろぼろのパン菓子である。オウムのくちばしにはいるために焼かれ、世界一周旅行のために金属製の容器のなかにおさめられて密封されたといった形である。それから小さく四角に折りたたまれているねずみ色のナフキンを取りに出ていった。例のお茶のときのナフキンで、家計の楽でない家庭では決してせんたくしないやつである。三度目に砂糖壺《さとうつぼ》と茶碗《ちやわん》とを持ってひきかえしてきたが、それからまた出ていったと思うと、それがお湯をわかすためだった。そこで待たなければならなかった。
だれも口がきけなかった。あまりにも考えるべきことが多く、言うことはなにもなかった。一人、ロラン夫人だけがありふれた文句を探していた。きょうの釣遊びのことを話題にし、〈ペルル号〉とロゼミリ夫人の礼讃《らいさん》をした。
――いやまったく、いやまったく。と公証人もくり返した。
ロランは、冬、煖炉《だんろ》に火が燃えているときのように、煖炉の大理石によりかかり、両手をポケットに突っこみ、口笛でも吹くようなかっこうにくちびるを動かしながら、もうじっとしていることができなかった。全身の喜びを吐き出したいがむしゃらな気持にさいなまれていた。
二人の兄弟は、中央の丸テーブルの右と左に、同じような肘掛いすに埋まり、同じようなかっこうで両|脚《あし》を組んで、異なった表情をたたえた、同じような姿勢で、じっと前方を見つめていた。
とうとう茶が出た。公証人は茶碗を受取り、砂糖を入れ、かじるには固すぎる小さな煎餅《ガレツト》を中にひたしてくだいた後で、飲んだ。それから立ちあがった。人々の手を握り、出ていった。
――ではそう決めましたよ、明日、あなたのところで、二時ですね。と、ロランがくり返した。
――わかりました。明日、二時。
ジャンは一言もものを言わなかった。
公証人が出ていった後、またちょっと沈黙がつづいた。それからロラン老人が下の息子のそばへ寄って両肩を平手でぽんとたたきながら、こう叫んだ。
――おい! うまくやってるぞ、果報者が。どうだ、お父《とつ》つぁんを抱かないのか?
するとジャンは初めて微笑を浮べた。父親に接吻しながらこう言った。
――どうもね、かならずそうしなければならんものという気がしなかったのですよ。
だが老人はもう心が浮きたってじっとしていられなかった。歩きまわり、家具の上を不器用な爪《つめ》でピアノをひくようなかっこうに指を走らせ、かかとでくるりとからだを回転させたりして、こうくり返した。
――思いがけない幸運だったな! まったく! こういうのだよ、運がいいというのは!
ピエールがきいた。
――昔はよほどよくしっていらしたわけですね、そのマレシャルさんを?
父親が答えた。
――しってるどころかい。毎晩うちへやって来て過したものさ。おまえだってよく覚えているだろう。外出日には学校へおまえを迎えにいってくれたじゃないか。それから晩餐のあとでたびたびまた学校まで送っていってくれたろう。そうだ、思い出したよ、ちょうどジャンの生れた朝だ、医者を呼びにいってくれたのはあの男だよ! お母さんが気分が悪いと言いだしたときちょうどうちにいていっしょに昼飯を食べたんだ。すぐに事態がなにかということがわかったんだ。するとすぐ駆けだして行ってくれたんだ。あわてたひょうしにわたしの帽子をまちがえてかぶっていってね。あとになってさんざん笑ったものだから、いまでも覚えているのさ。いやきっと死ぬまぎわにこんなこまかいことを思い出したかもしれないよ。そして相続人が一人もないものだからこう自分に言ったのさ。「そうだった、おれはあの子の生れるのに力をかしてやったわけだ。あの子に財産を遺してやるとしよう」とね。
ロラン夫人は、大型の肘掛いすにふかぶかと埋まって、遠い昔の思い出を追っている様子だった。考えていることを声に出したといったかっこうで、こうつぶやいた。
――ほんとに! いいかただったわ。ほんとに親身な、忠実なかただったわ。いまどき、まったくめずらしい人でしたわね。
ジャンは立ちあがっていた。
――ちょっと散歩してきます。
父親は驚いて、ひきとめようとした。ほかでもない、いろいろ話すことがあった。計画を立て、いろいろ決定しておかなければならない。だが若者は頑強《がんきよう》に言いはった。人に会う約束があるという口実で。それに遺産がちゃんと手にはいるまでにはいくらでも相談する時間はある。
そういって彼は出ていった。ほかでもない、彼は一人になりたかった。よく考えてみるために。ピエールも、まねをしたように、自分も出かけると言いだした。そして、二、三分おくれて、弟の後を追って外へ出た。
女房と差向いになるがはやいか、ロラン老人は女房を両腕で抱きしめ、両方のほっぺたに十ぺんずつ接吻した。それから、女房が自分に向ってたびたび持ちだす非難に答えるつもりで、こう言った。
――どうだ、おまえ、わかったろう。パリにあれ以上ながくいたってなんにもならなかったということが。ここへ来て健康を取りもどすかわりに、パリで子供たちのためにあくせくしたって、なんにもならんさ。こうやって福運が天から降ってくるのだからな。
妻はすっかり真剣な顔になっていた。
――福運がジャンのために天から降ってきました。だがピエールはどうします?
――ピエール! だってピエールはドクトルだ、いくらでももうかるさ……金は……それに弟だってちょっとはなんとか色をつけるだろうさ。
――いいえ。あの子はうけませんわ。それにこの遺産はジャンのものですもの。ジャンだけのものですもの。ピエールは非常に不利になるわけですわ。
老人は当惑した様子だった。
――では、おれたちのほうで、あの子に遺言でいくらかよけい遺すことにしよう。おれたちのほうで。
――いいえ。それだってやっぱり正しくはありませんわ。
老人は思わずこう叫んだ。
――ええ! めんどうくさい! じゃどうしろというんだ、このおれに? いつでもごたごたおもしろくもないことを考えだしやがる。おれの楽しみをなんでも台なしにしなければ気がすまんのか。さあおれはもう寝るぞ。あばよだ。ふん、なんてったって、こりゃ福の神さ、たいした福の神だよ!
こう言い捨てて彼は出ていった。なにはともあれ、いい気持だった。そしてこんなに気前よく死んでくれた親友に対する一言の哀悼《あいとう》の言葉も口に出さなかった。
ロラン夫人はしんが黒くすすけてきたランプの前で、ふたたび物思いにふけりはじめた。
2
戸外に出るがはやいか、ピエールはパリの通りのほうに向って歩きだした。ル・アーヴルの目抜きの通りで、あかあかと灯が輝き、活気づき、ざわめいている。海岸特有の少し冷たい空気がピエールの顔をなでた。彼は、ステッキを小脇《こわき》に、両手を背中にまわして、ゆっくりと歩いた。
なんとなく気分が落ちつかなかった。胸が重苦しく、不満だった。なにかいやな知らせを受取ったあとのようだった。判然と思い浮べられるなにかが彼を苦しめているのではなかった。この魂の重苦しさ。からだのものうさはどこから由来しているのかといきなりきかれても、答えられなかったであろう。どこということはわからず、どこかが気持悪かった。身中《みうち》にどこか痛みを感じる小さな点があった。例のほとんど感じのない打ちきずの一つだった。あり場所はどこか見つからないが、そのためなんとなく気分がつかえ、疲労し、憂鬱《ゆううつ》になり、いらいらする。正体のわかっていない軽微な苦痛、なにかしら苦悩の種子といったようなものだった。
劇場広場《プラス・デユ・テアトル》まで来たとき、彼はふとカフェ・トルトニのあかりにひきつけられた。そこであかあかと飾灯の輝いている正面の入口のほうに向って寄っていった。が、はいりかけた瞬間、はいってゆけば、友人や、見知りごしの連中やいろいろな人間がいて、話をしなければならない、と思ってみた。するとこうしたコーヒー茶碗《ぢやわん》やブランデーの杯で結ばれる平俗な仲間つきあいに対する唐突《とうとつ》な嫌悪感《けんおかん》がからだじゅうにひろがった。そこで、くびすを返して、大通りにもどり、そこをまっすぐに港のほうへ歩いていった。
彼は何度も自分にきいてみた。「どこへ行こうか?」自分に気にいる場所、いまの気持にぴったりするところをあれこれ探してみるのだった。見つからなかった。見つからぬのも道理、一人でいることにいらだちながら、そのくせだれにも会いたくなかったのである。
大きな桟橋のところまで来て、もう一度迷った。それから突堤のほうへ曲った。一人でいるほうを選んだのである。
波よけの上のベンチにふれたので、その上に腰をおろした。はやくも歩き疲れ、散歩をおわらないうちからいやになった気持だった。
こう自分にきいてみた。「今夜はどうしたんだろう、いったいおれは?」そこでどんな不満が自分の身中にしのびこむことができたのか記憶のなかを探しにかかった。ちょうど発熱の原因を見つけるために病人にものをきくように。
彼は興奮しやすいが同時に考えぶかい精神の持主だった。いきなり夢中になっては、その後で順序だてて推理を行い、自分の熱中ぶりを肯定したり、非難したりする。だが彼にあってはけっきょく第一の性質のほうがたちまさっており、感性的人間のほうが知性的人間のほうを支配していた。
さて彼は、このいらだたしさ、なにもほしくないくせにただ歩きまわりたい気持、異なった意見を戦わしたいためにだれかに会いたい気持、それにまたいざ会うとなれば頭に浮ぶかぎりの人に対し、またそういう人たちが自分に言うかもしれない事柄に対してたまらない嫌悪をもよおしてくる、こうした気持がどこからくるのかいろいろ探してみた。
そしてこういう質問を自分にかけてみた。「ジャンの遺産相続のことだろうか?」
そうだ、それはありうることだ、けっきょくのところ。公証人がこの知らせを持ってきたとき、心臓がいつもより少し強くうつのを感じたではないか。たしかに、人はつねに自分を制御していられるものではない。自然にわきあがってくる根強い感動の影響をうけるものであり、それに向って抵抗してもむだである。
彼はふかく反省しはじめた。本能的な人間、自分のなかに奔流のような一系列の観念と感覚、苦しいあるいは愉快な観念と感覚を創《つく》りだす人間、そういう人間にある事実のおよぼす影響という生理学的な問題をふかく考えはじめた。思索型の人間、知性の陶冶《とうや》のおかげで自分自身をおさえていられるようになった人間が、望み、待望し、善《よ》いと思い健全だと思う観念や感覚とは正反対のものであろう。
莫大《ばくだい》な財産を相続する息子の気持を考えてみようとしきりにやってみた。その財産のおかげで、かねがね望んでいながら父親の吝嗇《りんしよく》のために禁じられていたかずかずのおもしろいことをこれから味わおうというのであるが、といって父親を心から愛しているのであり、その死を心から悲しんでいるのであるが、そういう息子の気持はどんなものだろうと考えてみた。
立ちあがって突堤の先端《はな》のほうへまた歩きだした。さっきよりは気分がよくなった。理解できたことが満足だった。思いがけぬ自分自身の姿をとらえたことが、われわれのなかに住んでいる別の人間のヴェールをひきはがしたことが満足だった。
――してみるとジャンに嫉妬《しつと》を感じていたんだ。こう彼は考えた。いくらなんでもあまりいやしいな、これは! いまでは疑いの余地がない。なぜといって最初に自分の頭に浮んだ考えはジャンがロゼミリ夫人と結婚するなという考えだったからだ。といってあのいやにお行儀ぶった小柄の七面鳥(間抜けな女)にほれているわけではない。あんなのは常識だの貞淑だのを鼻持ちのならないものにするために生れてきたようなものだ。だからこれは理由なしの嫉妬だ。嫉妬のエセンスというやつだ。嫉妬だから嫉妬だというやつなのだ! これはいまのうちに手当をしなければならんて!
港内の水深を示す信号|竿《ざお》の前まで来ていたので、マッチをすって、沖に碇泊《ていはく》しているむねの記《しる》されている、こんどの上げ潮に乗って入港するはずの船舶名を読んだ。ブラジルの、ラ・プラタの、チリの、日本の汽船がはいってくることになっていた。デンマークの小帆船《ブリツク》が二|艘《そう》、ノルウェーの軽帆船《ゴエレツト》が一艘、それにトルコの汽船が一艘あった。これは「スイスの汽船」とでも書いてあったほどにピエールを驚かせた。と、彼は、一種の奇怪な幻想のなかに、ターバンを頭に巻きつけた男が大勢、太いズボンをふくらませて、綱具に鈴なりになっている大きな船を思い浮べた。
――ばかな。トルコ人だってやっぱり海国人にちがいないじゃないか。こう彼は思ってみた。
また五、六歩歩いてから、立ちどまって、港外の碇泊所をながめた。右手には、サント・アドレスの上あたりに、エーヴ岬《みさき》の電気灯台が二基、双子《ふたご》の一つ目入道のようなかっこうで、その長い強烈な視線を海上に放っていた。隣りあった二つの光源から放射されるこの二条の並行した光は、二つの彗星《すいせい》の巨大な尾といったかっこうで、どこまでも一直線に傾きながら、断崖《だんがい》の頂から水平線の果てまで、のびていた。それから、二つの突堤の上には、別に二つの光が、この大入道の子供が、ル・アーヴル(港)の入口を示していた。そしてさらに向うには、セーヌ河の向いがわには、そのほかにも、たくさんの灯が見えた。固定しているのも、まばたきをしているのもある。隠現し、目のように開いたり閉じたりする。港の目である。黄、赤、青。船でいっぱいになっている海面をうかがっているのだ。客を迎える陸地の生きた目である。そのまぶたの判で捺《お》したような規則正しい機械的な運動だけで、「こちらはトルゥヴィルです。こちらはオンフルールです。こちらはボン・トゥドメールの河です」と言っているのだ。そして、ほかのすべてを見おろすように、ずっと高いところに、遠くからだと星と見誤るほど高いところに、エトゥヴィルの高檣《こうしよう》灯台が、この大きな河口の砂洲《さす》を縫ってルーアンに行く通路を示していた。
それから深い海の水の上に、果てしない水の上に、空よりも暗い水の上に、ところどころ、星が映っているように見えた。それは夜霧のなかでこまかくゆれ、小さかった。遠くあるいは近く、やはり白、緑、赤だった。ほとんどすべてその場所を動かなかった。それでも、なかには、走っているように見えるのもいくつかあった。それはこんどの潮を待ちながら錨《いかり》をおろしている船や、投錨所《とうびようしよ》を求めて動いている船の灯だった。
ちょうどこのとき、月が町の背後にのぼった。ほんものの星の数知れぬ船隊をみちびくために天空にともされた巨大な神聖な灯台といった様子をしていた。
ピエールは、ほとんど、声に出して、こうつぶやいた。
「あれだ。それだのにおれたちは愚にもつかぬことに腹をたてている」
ふいに、自分のすぐ近くに、突堤と突堤の間の幅のひろい真っ黒な水の上を、一つの影が、大きな奇怪な形をした影が、すべった。花崗岩《かこうがん》の手すりからからだをのりだしてみると、一艘の漁舟がひきあげてくるのが見えた。人声も聞えなければ、波の音もせず、櫂《かい》の音さえひびかせずに、高く張ったとび色の帆に沖から吹いてくる風をはらんで、静かに吹きおくられてくるのだった。
彼はこう考えた。「ああいう舟の上で生活できたら、どんなに気楽だろう、きっと!」それから、なお五、六歩進むと、防波堤の突端に腰をおろしている一人の男の姿を認めた。
夢想にふけっている男か、恋をしている男か、俗塵《ぞくじん》をいとう賢人か、幸福な男か、それともさびしい男か? いったい何者だろうか? 彼は好奇心にかられ、この一人でいる男の顔を見ようとして、近づいた。弟だった。
――おや、おまえじゃないか、ジャン?
――おや……ピエール……なにしにこんなところへ?
――なにしにって、新鮮な空気を吸いにさ。おまえは?
ジャンは笑いだした。
――ぼくもやっぱり空気を吸いにです。
と、ピエールは、弟とならんで腰をおろした。
――どうだ、すばらしいじゃないか?
――まったくねえ。
その声の音色で、兄は、ジャンがなにもながめていなかったことを了解した。彼はこう言葉をつづけた。
――ぼくはね、ここへ来ると、無性に旅に出たい気持にかられるのだ。そこにいる船を全部ひきいて、北へでも南へでも行ってしまいたくなるのだ。考えてもごらん、あの、向うに見える、小さな灯は全部、世界のあらゆるすみずみからやってくるのだ。大きな花の咲いている国、顔のあおじろいのや銅色の美しい娘たちのいる国から、蜂雀《はちすずめ》や、象や、野ばなしの獅子《しし》のいる国、黒ん坊の王様のいる国から、「白猫」や「森の眠り姫」をもはや信じなくなったぼくたちにとってのおとぎの国であるすべての国からやってくるのだ。そういうところをずっとひとまわりできたら、どんなにすてきだかしれない。だが、そうとなったら、金がいるからな、ちっとやそっとでない金が……
兄はいきなり口をつぐんだ。その金を、弟はいま持っているんだ、と思いながら。すべての心配事から解放され、毎日の仕事から解放されて、自由になり、なんの桎梏《しつこく》もなく、幸福で、心もうきうきと、どこへでも自分の好きなところへ行くことができるのだ。金髪のスエーデンの女のところへでも、髪の黒いハヴァナの乙女《おとめ》のところへでも。
それから、あのいつもの、彼にたびたびおこる、意志の力のくわわらない考え、じつに唐突で、じつにすばやく、予見することも、途中でやめることも、修正をくわえることもできない考え、どうやら、独立したはげしい第二の魂から出てくるように思われる考えが、彼の脳裏を横切った。
「ふん! こいつにそんな芸当ができるものか。あのロゼミリと結婚するのが落ちさ」
彼は立ちあがっていた。
――失敬するぜ。未来の夢でもみていたまえ。ぼくは、歩きたいのだ。
彼は弟の手を握った。そして心をこめた調子でこう言葉をつづけた。
――ねえ、ジャン、きみは金持になったんだ! 今晩たった一人でおまえに逢《あ》えたのはうれしい。こんどのことがどんなにぼくにもうれしいか、ぼくがどんなにおまえにお祝いを言う気持になっているか、どんなにおまえを愛しているかを、知らせたかったのだ。
やさしい情愛のある性質のジャンは、ひどく感動して、口のなかでこう言った。
――ありがとう……ありがとう……ピエール兄さん、ありがとう。
と、ピエールは、ステッキを小脇に、両手を背中にまわして、例のゆっくりした歩調で、もと来たほうへひきかえした。
町へもどると、彼はあらためてまた、どうしようかと自分に問うてみた。散歩をはやく切りあげさせられたのが、弟がいたためにせっかくの海を楽しめなくなったことが、不満だった。
と、とつぜんいい考えが浮んだ。「マロウスコ爺《じい》さんのところでリキュールを一杯ごちそうになろう」そこで彼はもう一度アングゥヴィル区のほうへのぼっていった。
マロウスコ爺さんとは、パリの、病院で知りあいになったのだった。年をとったポーランド人で、人の話では、向うでさんざんすごいことをやってきた亡命客だということであるが、フランスへやってきて、試験を受けなおして、商売の薬剤師を開業したのである。この男の過去の生活については人はなにも知らなかった。だからまたさまざまの伝説が、内勤の医局員や、通勤の医師たちのあいだにひろまり、さらに後には近隣の人々のあいだにもひろがっていた。この名声、おそるべき陰謀家、虚無党員、国王暗殺者、水火を辞せぬ愛国者、奇蹟《きせき》によって死をのがれた男、という名声が、ピエール・ロランの冒険好きな強い想像力をひきつけたのだった。彼は老ポーランド人の親友になった。もっとも、相手から、以前の生活についてのいかなる告白をもひき出すことができたわけではなかった。老人がル・アーヴルへ移り住むようになったのも、若い医師のおかげだった。新博士が彼のためにつくってくれるであろうりっぱなおとくいをあてにしてのことだった。
それまでのあいだ、町内の小ブルジョワや労働者を相手に薬を売って、ささやかな薬局で貧乏暮しをしているというしだいだった。
ピエールはしばしば夕食後にこの老人を訪《たず》ねてゆき、一時間ばかりいっしょに無駄話をすることがあった。彼はマロウスコのおだやかな顔と言葉少ない話しぶりが好きだったのである。そのながい沈黙を意味深いものにピエールは思っていた。
ガラスびんのいっぱいのっている勘定台の上にガス・ランプが一つだけ燃えていた。店さきのほうのは、節約のために、一度も点灯されたことがなかった。その勘定台の後ろに、いすに腰かけ、両脚を重ねてのばしながら、頭のはげた老人が――鳥のくちばしのような大きな鼻が、はげあがった額からすぐにのびているので、オウムのようにさびしげな様子をこの老人に与えていたが――あごを胸にうずめて、ぐっすり眠りこけていた。
呼鈴の音に、目をさますと、立ちあがって、ドクトルの姿を認め、両手をさしのばして、迎えに出た。
老人の着ている黒のフロックは、酸やシロップの斑点《しみ》で虎斑《とらふ》ができており、やせた小柄のからだには少々どころではなくだぶだぶしすぎるので、時代ものの僧衣といったかっこうだった。この男は強いポーランド風の発音癖で話したので、それがこの男の細い声になにか子供らしいものを与えていた。やっと口をきき始めたおさない者の片言のようだった。
ピエールがいすに腰をおろすと、マロウスコがこうきいた。
――なにか変ったことがありますか、先生?
――ないね、なにも。相変らずどこへ行っても同じことばかりだ。
――今夜は、元気な様子をしていらっしゃいませんね。
――ぼくだって元気でないことがたびたびあるよ。
――さあ、さあ、そいつを振い落さなくっちゃいけませんよ。リキュールを一杯いかがです?
――うん、もらおう。
――ではひとつ新しくこしらえたやつを味見していただきましょう。すぐり[#「すぐり」に傍点]からなにかひきだそうと思ってこれで二カ月研究しているのです。なにしろいままではシロップが作られるだけでしたからね……ところで! 発見したのです……わたしが発見したのです……上等のリキュールです。とても、とても、上等な。
と、有頂天になって、戸棚《とだな》のほうへ立ってゆき、戸棚をあけると、びんを一本|選《よ》り出して、持ってきた。この男は動くにもなにをするにも小刻みのからだの動かしかたでやってのけ、決して終りまで動作をすることがなかった。決して腕をすっかりのばしきることがなく、脚を大股《おおまた》に開くことがなかった。完全な決定的な動作をすることがなかった。この男の考えもこの男の動作にそっくりのように思われた。彼はそれを指示した。ほのめかせた。だいたいの輪郭をかいて見せ、暗示して見せた。だが決してはっきりした言葉で述べることはない。
この男の人生における最大の関心事は、とにかく、シロップとリキュールの製造にあるらしかった。「うまいシロップかうまいリキュールが作れれば、一身代ですからな」よく、彼はこう言っていた。
すでに何百種というほど甘味の調合飲料を発明していながら、たった一種類をも売りだすにいたっていなかった。たしかにマロウスコはマラーを思わせると、ピエールは言っていた。
小さなコップが二つ店の奥から運ばれて、調合台の上に置かれた。それから二人の男はガスの灯にかざして液体の色をあらためた。
――美しいルビー色だ! と、ピエールが感嘆した。
――でしょう?
ポーランド人のオウムのような老いた顔が晴れ晴れと輝いて見えた。
ドクトルはちょっと口をつけてみ、口にふくんでよく味わい、考え、あらためて口をつけ、もう一度考え、それから、いよいよ意見を述べた。
――非常にいい、じつにいい、味としてはじつに新しい。これは見つけものだよ、きみ!
――ありがたい! まったくわたしはうれしいですよ。
そこでマロウスコはこの新しいリキュールに名前をつけるのに相手の意見を求めた。老人としては「すぐりエキス」とか「純正すぐり酒」とか、ないしは「グロゼリア」あるいは「グロゼリヌ」と呼びたいというのだった。
ピエールは、これらの名のどれにも賛成しなかった。
老人がいいことを思いついた。
――あなたがさっきおっしゃったことがとてもいい、とてもいいです。「美しいルビー」ってのが。
ドクトルは、自分で見つけた言葉ながら、この言葉の値打ちについて異議をさしはさんだ。簡単に「グロゼイエット」とすることをすすめ、マロウスコもこれはすばらしいと賛成した。
それから二人は沈黙した。そして一つだけともっているガス・ランプの下で、一言も発せずに、しばらく、いすの上でじっとしていた。
ピエールが、最後に、ほとんどいう気もなくこう言った。
――ところでね、今夜、ずいぶん妙なことがうちでおこったのさ。親父《おやじ》の友人の一人が、死にぎわに、財産をうちの弟に遺《のこ》していったのだ。
薬剤師はすぐには飲みこめないようだった。だが、じっと考えたあげく、先生も半分わけてもらったのでしょう、と言った。事態が十分に説明されると、老人はびっくりして、腹をたててみせた。年少の自分の親友が犠牲になるのを見るのが不満だということを言い表わすために、彼は何度もくりかえしてこう言った。
――それは妙なことになりますね。
またしても、むしゃむしゃする気持のおこってきていたピエールは、この言葉でマロウスコがなにを意味するつもりなのか知りたいと思った。――なぜそれが妙なことになるのだろう? 弟が一家の友人の財産を相続したということからどんなよくない結果が招来されるというのか?
だが老人は、用心深く、それ以上自分の考えを説明しなかった。
――そういう場合には兄弟二人に等分に遺すものですよ。だから妙なことになる、と申すんですがね。
と、ドクトルは、がまんができなくなって、店をとび出し、親の家へ帰り、寝床にはいった。
しばらくのあいだ、隣室でジャンが静かに歩きまわっている音が耳についた。それから、水を二杯飲んで、眠りにおちた。
3
ドクトルは翌日目をさますと、自分も一財産つくろうとかたく決心した。
すでに幾度もこの決意はかためたことがあるが実現に向って邁進《まいしん》することがなかった。いままですべて新しい職業への試みの門出において、一躍千金をつかむという希望が、最初の障害に出あうまで、最初の失敗を経験するまで、彼の努力と自信を力づけたが、一度失敗したとなるとすぐ別な道に向わせるのだった。
寝床の暖かい毛布のあいだにもぐりこんだまま、彼は思案にふけった。いかに多くの医者がわずかの時日のあいだに百万長者になったことか! 世渡りの術をほんのちょっぴり心得ていればそれでいいのである。ほかでもない、医学の修業をしている最中に、最も有名な教授連中の値打ちをはかる機会を持ったのであるが、彼はその教授連中をことごとく無類の愚物と判断していたのである。むろん自分だって彼らくらいの値打ちはある、それ以上とまではゆかないにしたところで。なんらかの手段によってル・アーヴルの上流の金のある患者をつかまえることに成功すれば、年に十万フランはらくらくもうけることができる。そこで彼は、正確に割りだして、確実なもうけを計算してみた。午前中は、往診ということにする。患者の自宅をまわるのだ。ごく内輪に見つもって、平均、日に十人とする。一人が二十フランずつで、それで、最少限度、年に七万二千フランになる。いや七万五千フランにもなるかもしれない。患者十人という数字は確実なところより内輪だから。午後は、家で別に、十フランずつの患者を平均十人|診《み》るとする。それで三万六千フラン。たちまち十二万フランだ。およその勘定だが。ながいなじみの患者や知人は往診十フラン、宅診五フランということにするので、おそらくこの総計は多少減るかもしれないが、そのかわりほかの医者との立合いや、医者という商売につきものの雑多なこまごまとした随時の利得でおぎないがつく。
巧みな広告記事を使えば、これをとげるほどやさしいことはない。「フィガロ」の消息欄に、パリの医学界が自分に目をつけている、ル・アーヴル在住の若い謙虚な医師によって企てられた驚くべき治療法に深甚《しんじん》な注意をはらっているというようなことを出させればそれでいい。そうすれば弟よりは金持になれる。もっと金持に、おまけに有名になれる。そしてわれながら満足だろう。自分の腕一つで財産を作るのだから。そして老いた両親に腹の大きいところを見せてやろう。まさしく自分の有名になったことに肩身を広くしている両親に。結婚はしないでおく。じゃまになるにきまった一人の妻というようなもので自分の生活の場所ふさげをするのはいやだ。いちばんきれいな患者のなかから選んで情婦をもてばいい。
成功がじつに確実なような気がしたので、すぐにでもつかまえるような気持で寝床からとび起きた。町じゅう歩いて自分に適した貸部屋を探すために、着がえをした。
すると、往来を方々歩きまわりながら、彼は、いかにささいなことがわれわれの行動を決定する原因になるかということを思ってみた。三週間前から、やろうと思えばできたのである。いや、しなければならなかったのである。疑いもなく、弟の遺産相続という事実につづいて、突如として身中《みうち》にわいてきたこの決心をつけることは。
彼は、美麗なる貸部屋とか豪華な貸部屋と書いてある貸間札のかかっている戸口の前で立ちどまった。なにも形容詞のついていない広告には目もくれなかったのである。それから傲然《ごうぜん》とした態度で検分してまわるのだった。天井の高さを計ったり、家の平面図や、部屋の連絡や出入口の配列を手帳に書きとめたりした。自分は医者で患者がたくさんある、と言い添えたりした。階段の幅が広く、作りがしっかりしていなければいけない。それに二階より上ではこまる。
七、八カ所所書をしるし、二百項目ほど必要事項を書きとめたりしたあとで、彼は昼食にひきあげたが、十五分ほどおくれた。
玄関からもう、皿のふれあう音が聞えた。してみると自分をのけ者にして食事を始めたのだ。なぜだろう? 決していままでこの家でそんなに時間をきちんと励行するようなことはなかった。彼は顔を逆撫《さかな》でにされたような気がし、不満だった。彼は少し腹をたてやすい性分だったのである。はいってゆくがはやいか、いきなりロランがこうどなった。
――おい、ピエール、急いだ、急いだ。困るじゃないか! 二時に公証人のところへ行くというのは知ってるだろう。のらくらしている場合じゃないんだ。
ドクトルは、それには答えずに、母親に接吻《せつぷん》し、父親と弟の手を握ってから、いすに腰をおろした。そして、食卓の真ん中の、深皿から、彼の分にとってあったカツレツを取分けた。冷えてからからになっていた。いちばん悪いのだったに相違ない。自分が来るまで天火のなかに入れておいてくれてもよさそうなものだ、と思ってみた。もう一人の息子の、長男の、存在をまるっきり忘れてしまうほど夢中にあがってしまわなくてもよかろう。彼がはいってきたために中断された会話が、彼のとぎらせたところからまた始まった。
――わたしならね。と、ロラン夫人がジャンに向って言った。わたしならね、すぐにこうしますよ。金をかけて住居をととのえるの。人の目を驚かすようなぐあいにね。社交界に顔出しをしますよ。馬なんかに乗ってね。それからおもしろそうな事件を一つ二つ選んで、弁護して、法廷での貫禄《かんろく》をつくりますね。非常に世間でもてはやす一種の好きでしている弁護士といったようなものになりたいと思いますね。ありがたいことに、おまえはこれでもう生活に困るということはないのだし、職業を持つといったところで、要するに、せっかくの勉強の収穫を無駄にしないためだけのことですからね。それに男がなにもしないでいるということはいけませんからね。
ロラン老人は、梨《なし》の皮をむいていたが、いきおいこんでこう言った。
――ちぇっ! おれがおまえなら、すばらしい舟を買うぞ。水先案内舟に型どった一本マストの遊覧船だ。それに乗ってセネガルまで行くがなあ。
ピエールが、こんどは、自分の意見を述べた。要するに、一人の人間の精神的な値打ち、知的な値打ちを決定するものは財産ではない。凡庸な人間にとっては堕落の原因以外のものではない。反対にりっぱな人間の手には強力なてこを渡すことになるが。もっともそういうりっぱな人間というものはまれである。ジャンが真実にすぐれた人間であるならば、生活に困らなくなったいま、すぐれた人間であるという事実を中外に示すことができる。だが、それには、ほかの状況においてするより百倍もよけいに努力しなければならない。寡婦《かふ》と孤児のために、もしくはそれを相手にまわして、法廷で争い、勝っても負けてもしこたま金をポケットに押しこむということがかんじんではない。かんじんなことは、すぐれた法曹家《ほうそうか》に、法律の光になることだ。
それから結論としてこうつけくわえた。
――ぼくに金があれば、ぼくなら、解剖をするがな、屍体《したい》解剖を。
ロラン老人は肩をそびやかした。
――たいへんな鼻息だな! 人生でいちばん賢い方法は、人生を楽におくることだね。おれたちは駄獣《だじゆう》じゃない。人間だからな。貧乏に生れたのなら、働かにゃならん。そうとなったら、しかたがない、働くさ! だが、年金があるなら、ばかばかしい! 汗水たらすなんて愚の骨頂よ。
ピエールは昂然《こうぜん》と答えた。
――人の性格は皆同じじゃありません。ぼくは、この世で学識と知性しか尊敬しません。他はことごとく軽蔑《けいべつ》あるのみです。
ロラン夫人はいつも父親と息子の間のたえまのない衝突を緩和させようと努力するのだった。そこで話をそらせようとし、先週、ボルベック・ノワントにおいて行われた殺人を話題にした。と、皆の頭はたちまちこの犯罪をめぐる諸状況に心をうばわれ、たとえ、俗悪で、破廉恥で、面をそむけさせるようなものであっても、犯罪というものが、人間のもつ好奇心にふしぎな一般的な魅力を投げる、その心をそそる恐ろしさ、誘惑的な神秘に、ひきつけられた。
それでも、ときどき、ロラン老人は、時計をかくしから出してはながめた。
――さあ、そろそろみこしをあげなくっちゃ。
ピエールがあざけるようにこう言った。
――まだ一時になっていませんよ。まったくさ、ぼくに冷えたカツレツをくわせるほどのことはなかったですよ。
――おまえも公証人さんのところへ行きますか? と、母親がきいた。
ピエールは冷淡に答えた。
――ぼくが? 冗談じゃない。なにしに行きます? ぼくの立合いなんてまったく無用でしょう。
ジャンはまるで自分に関係したことではないかのように沈黙をまもっていた。ボルベックの殺人事件が話題になったとき、法曹家として若干の意見を吐き、犯罪並びに犯罪者一般に関する若干の考察を展開してみせた。いま、彼はふたたび沈黙していた。だが、彼の目の光、両ほおの生き生きとした赤い血色、ひげのつやまでが、彼の幸福を高らかに語っているように見えた。
家族の者が出かけてしまった後、ピエールは、ふたたび一人になったので、午前中の貸部屋探しをふたたび始めた。二、三時間も階段をあがったりおりたりしたあげく、やっと、フランソワ一世通りに面した、とにかくこぎれいなのを見つけた。異なった通りに向ってあいている二つの入口を持った広い中二階だった。客間が二つ、ガラス張りのヴェランダ、ここなら、草花でも置けば、患者は、番を待ちながら、花の間をぶらぶら歩くことができる。それに海を見晴らす円形の食堂がついていた。
いざ借りようという段になって、三千フランという家賃が彼の手をひっこませた。最初の一期分だけは前金で払わねばならないのに、彼の手もとには、なんにも、一文も、なかったのである。
父親のためこんだささやかな財産は年ようやく八千フランの利子にしかならなかった。そしてピエールは、職業の選択にながいあいだいろいろと迷ったり、なにかをやってはいつでも投げだし、また相変らず勉強のやりなおし、そういうことで両親にたびたび迷惑をかけたというのが気がとがめていた。そこで二日以内に返事をすると約束して辞去した。すると、この最初の三カ月分の金を、いや半年分だっていいだろう、ジャンが例の遺産を手に入れしだい、弟に借りてやろうという考えが浮んだ。半年なら千五百フランだ。
「なにわずか数カ月の貸借だ。ことによったら今年の暮にならないうちにでも返せるだろう。それに、これはいちばん簡単だ。弟だっておれのためにそれをするのは悪い気持でもないだろう」こう考えてみるのだった。
まだ四時にならず、なにも、まったくなにも、することがなかったので、公園へ行ってベンチに腰かけることにした。そしていつものベンチに腰をおろしてながいあいだじっとしていた。なにも考えず、地面を見つめ、一種の疲労にうちのめされていたが、その疲労はしだいに悲哀に変ってきていた。
だがいままで毎日、自家《うち》へ帰って以来、こうやって暮してきたのである。生活の空虚と無為とにこんなにやりきれないほど苦しみはしなかったのである。いったいどういうふうにして起きてから寝るまでの時間をつぶしていたのだろうか?
満潮の時刻になると突堤の上をぶらぶら歩いた。往来をぶらぶら歩いた。カフェを歩きまわった。マロウスコのところで暇をつぶした。いたるところで暇をつぶした。ところで、とつぜん、いままで堪《た》えてきたこの生活が、たまらないものに、がまんのできないものになったのだ。いくらかの金の持ちあわせでもあれば、車をやとって、ぶな[#「ぶな」に傍点]やにれ[#「にれ」に傍点]がかげを落している農家の溝《みぞ》にそって田舎道《いなかみち》をながいこと走らせることもできたであろう。だが、彼は一杯のビールの値段、いや一枚の切手の値段も懐《ふとこ》ろと相談しなければならない身分だった。そうした勝手なまねは許さるべくもなかった。と、ふいに彼は、三十を過ぎて、ときどき、母親に顔を赤くしながら、二十フランの金貨一枚を、めぐんでもらわねばならぬ境涯が、つくづくつらいと思った。ステッキの先で、地面をひっかきながら、彼はこうつぶやいた。
――畜生! 金さえあれば!
と、弟の遺産相続のことが、蜂《はち》に刺されたようなぐあいに、またしても彼の頭にしのびこんだ。だが、彼は憤然とこれを追いはらった。この嫉妬《しつと》の坂をすべり落ちたくはなかったのである。
彼のまわりで、往来のほこりのなかを、子供たちが遊んでいた。金髪のふさふさと長い色白の子供たちで、ひどくまじめくさって、熱心に気を入れながら、小さな砂の山をいくつもつくっては、その後《あと》で足で踏みつぶしていた。
ひとが自分の魂のあらゆる隅々《すみずみ》をのぞきこみ、そのすべての壁をふるってみずにはいられない、気のめいる日、それがピエールのきょうだった。
「おれたちの毎日の仕事はこの子供たちの仕事に似ている」と、彼は思ってみた。それから彼は自分に向ってこう問うてみた。人生におけるいちばん賢明なことは、こうした無用な小さな存在を二、三人生んで、彼らが大きくなるのを満足と好奇の目でながめていることではなかろうか。すると、結婚してもいいという考えが彼の頭をかすめた。一人ではないということになれば、こんなに捨小舟《すておぶね》のような気持ではなくなる。少なくとも、昏惑《こんわく》と不安のとき、自分の傍《そば》近くでだれかが動いている気配が聞けるのだ。苦しんでいるときに、一人の女に向って、「おまえ」と言えることは、それだけでもすでになにかのたしになる。
彼は女のことを考えはじめた。
女は知っているといってもごくわずかだった。ラテン区にいたころ二週間程度つづく関係を経験したことがあるくらいのものだった。その月の金を使いはたすと切れて、翌月またよりをもどすか、ないしは河岸《かし》をかえるといったような関係にすぎない。とはいえ、女のなかには、非常に心根のやさしい、愛情のふかい、やさしく慰めてくれるような女がいるはずである。自分の母親は父の家庭の生命であり、魅力だったのではないか? 女を、ほんとに女らしい女を、じつに知りたいと思う!
ロゼミリ夫人をちょっと訪《たず》ねてみようと決心して、彼はとつぜん立ちあがった。
それからまたいきなり腰をおろした。あの女は好きにはなれなかった。あれは! なぜだろう? 低級な俗悪な分別をあまりにも持ちすぎているではないか。それに、どうやら自分よりもジャンのほうに気があるのではないか? はっきりとこのことを自分自身に言って聞かせはしなかったが、この女の気持が弟に傾いていることが、彼がこの寡婦の頭の程度を過小評価することにあずかって大いに力があった。ほかでもない。彼は弟を愛しているとはいえ、弟を多少凡庸な人間だと思い、弟よりも自分が上だと信じる気持をおさえることはできなかったのである。
とはいえ、夜までここにこうやっているわけにはゆかなかった。そして、またゆうべと同じように、不安な気持で、自分にこうきいてみるのだった。「さてどうしよう?」
いま彼は魂のなかに、愛情をかきたてられたい欲求を、抱擁し慰めてもらいたい欲求を感じていた。なにを慰めてもらうというのか? まさかそれを口に出して言うことはできなかったであろう。だが、彼はいま、例の気が弱りめいってくるあの潮時にいたのだ。そういうときには、女が傍にいることが、女の愛撫《あいぶ》が、手のふれることが、女の着物にさわることが、黒いあるいは青い目のやさしい凝視が、われわれの心に、即刻、欠くことのできないもののように、思われてくる。
と、ある晩家まで送ってやってからときどき会っている酒場の女給仕のことがふと胸に浮んできた。
そこでまた立ちあがって、あの娘を相手にビールを一杯飲もうと思った。彼女になんと言おうか? あの女はなにを言うだろうか? なんにもないだろう? きっと。なくたってかまわないではないか? ちょっとの間あの女の手を握ってやろう? どうやら自分に多少おぼしめしがあるらしい。なぜもっとたびたび会ってやらなかったのだろう?
行ってみると女はほとんど客のいない酒場の広間のいすに腰かけたまま居ねむりをしていた。客が三人、槲《かしわ》の木のテーブルにひじをついて、パイプをふかしていた。勘定台の女は小説に読みふけり、酒場の主人は、上着を脱いだまま、腰かけの上で、まるっきり眠りこけていた。
ピエールの姿を認めるがはやいか、女は急いで立ちあがると、寄ってきながら、こう言った。
――こんにちは、いかが。
――うん悪くもない。おまえどうだ?
――わたし、わたしはとても元気よ。ちっともいらっしゃらないのね?
――そうさ。自分の時間がちっともないんだ。知ってるだろう、ぼくは医者だからね。
――まあ、ちっともおっしゃらなかったじゃないの。もし知っていたら、先週ぐあいが悪かったんですもの、診《み》ていただいたわ。なにを召しあがるの?
――ビールだ。おまえは?
――あたし、あたしもビールよ。あんたにごちそうになるのですもの。
と、女はそれからしきりに、あんたあんたとなれなれしい言葉をかけつづけた。まるでこのビールをおごると言ったことがその暗黙の許可ででもあるかのように。そこで、二人は、さし向いにすわって、よもやまの話をした。ときどき、女は、愛撫を安売りする女のなれなれしさで、彼の手を握り、色気たっぷりの目で、じっと見つめながら、こう言った。
――なぜもっとたびたび来てくださらないの? あたしあなたがとても好きよ、ねえ。
だが、はやくも彼は、この女に吐き気をもよおしていた。なんという馬鹿な、ありふれた女だと思い、下層社会の臭《にお》いがすると、思うのだった。女は夢のなかか、それとも彼女たちの俗悪さを美化するぜいたくという後光を背負って現われなければだめだ。彼は心のなかでこう自分に言ってみた。
女は彼にきいた。
――あんたこないだ、朝、ひげをたくさん生やした金髪のきれいな男といっしょに通ったわね。あれあんたの弟さん?
――うん、弟だ。
――すてきな美男子ね。
――そう思うか?
――もちろんよ。それにのびのびとしたいいかたらしいわね。
どうしてまたいきなりそんな気になったのだろう? ジャンの遺産相続のことをこの酒場の女中ふぜいに話すというような気に? 一人でいるときには自分から押しのけた考え、自分の魂のなかへ持ちこまれる混乱を恐れてしりぞけた考えが、なぜいまの瞬間、とつぜんにくちびるにのぼってきたのか? そして、苦いものでいっぱいにふくらんでいる胸をあらためてだれかの前でぶちまけたい欲求を感じているかのように、口からすべらしてしまったのか?
彼は脚を組みなおしながらこう言った。
――やつはまったく運がいいよ、弟のやつは。年二万フランになる遺産がころげこんできたところさ。
女は青い貪欲《どんよく》そうな目を皿のように大きくした。
――まあ! だれが遺《のこ》してくれたの? おばあさん、それともおばさん?
――いやちがう。お父さんたちの古い友だちだ。
――友だちというだけなの? まさか! そして、あんたには、なんにも遺《のこ》してくれないの?
――うん、おれのほうはごくうすい知りあいだ。
女はしばらく考えこんだ。それから、くちびるに変な薄笑いを浮べながら、
――そうよ! 運がよかったんだわ。弟さんは、そんな知りあいを持って! ほんとね、あんたにちっとも似ていないのふしぎじゃないわ!
いきなりその女のほっぺたをひっぱたいてやりたい衝動にかられた。正確なところ、なぜという理由はわからなかったのであるが。くちびるをひきつらせながら、彼はこうきいた。
――それはどういう意味だ?
女はなにも知らないような、けろりとした顔をして見せた。
――あたしがどういうつもりかってきくの? べつになんでもないわ。ただあんたより運がいいっていうだけなの。
彼は一フランの銀貨をテーブルの上に投げだして、外へ出た。
いま彼はさっきの文句を自分に向ってくり返した。
「あんたにちっとも似ていないのふしぎじゃないわ」
あの女はいったいなにを考えたのだろう、この言葉で言外になにを言うつもりだったのだろう! 確かに悪意のある冗談だ。意地の悪い言葉、人を傷つける言葉がふくまれている。そうだ、あの女はジャンがマレシャルの息子だと考えたに相違ない。
この疑いが母親にかけられていると思っただけで彼の胸にこみあげてきた興奮があまりに激しかったので、彼はいきなり立ちどまって、どこかすわれる場所はないかと目で探した。
別のカフェがちょうど正面にあった。彼はそのなかへはいってゆき、いすにかけると、給仕がやってきたので、「ビール」と言いつけた。
彼は心臓がどきどきうっているのを感じていた。戦慄《せんりつ》が全身の皮膚を走った。と、だしぬけに、昨夜マロウスコの言ったことが記憶によみがえってきた。
「それは妙なことになるでしょうね」あの男も同じ考えを持ったのだろうか? あのお茶っぴいと同じ疑いをおこしたのだろうか?
ビールのコップの上にうつむきながら彼は白い泡《あわ》がふつふつわいてきては溶けるのをじっとながめていた。そして、こう自分にきいてみるのだった。「まさかそんなことを信じるなんて?」
人の頭にこのいまわしい疑いをおこさせると思われるような理由が、いま、次々に彼に、現われてきた。はっきりと、動かしがたく、いても立ってもいられなくなるような理由が。相続人のない年をとった独身者がその財産を友人の二人の息子に遺《のこ》す、というなら、これほど簡単なことはないし、またこれほど自然なこともない。だがその男がその財産を全部その二人の子供のなかの一人だけに与えるということになると、たしかに、世間は驚くであろうし、ひそひそ話をするであろうし、けっきょくにやりと笑うであろう。どうして自分は前もってこのことを見ぬかなかったのか? どうして父親がこれを感じなかったのか? なぜまた母がこれを感づかなかったのか? それはだめだ。こんな考えが彼らの頭をかすめるには、彼らはこの思いもうけぬ金のためにあまりに幸福に酔っていたのだ。それにまたこの正直な人々がどうしてこんな恥ずべきことを考えつこう?
だが世間は、近所の者は、出入りの商人は、彼らを知っているすべての人々は、この考えるだけでもいまいましい事柄を吹聴《ふいちよう》して歩きはしないだろうか? おもしろがり、楽しみにし、父親を笑いものにし、母をさげすみはしないだろうか?
そしてあの酒場の女給によってなされた指摘、ジャンが金髪で彼はとび色の髪をしているという事実、二人は、顔といい、歩きぶりといい、からだつきといい、頭の働きといい少しも似ていないという事実が、これからは、すべての人の目につき、すべての人の頭にはっきり映るであろう。ロランの息子が話題になるとき、人はこう言うだろう。「どっちだ? ほんものの息子のほうか、偽物《にせもの》のほうのことか?」
彼は立ちあがった。弟に知らせてやろう。自分たちの母親の名誉をあやうくするこの恐ろしい危険を警戒するように言おう、と決心しながら。だが、ジャンはどうするだろう? いちばん簡単なのは、もちろん、この遺産を拒絶することである。そのときはそれは貧民の手に渡るであろう。そしてこの遺贈のことを知っている知りあいの連中や近しい人たちにだけ、こう言えばいい。遺言書には受諾しがたい条件や条項がふくまれていて、それによるとジャンは、遺産相続人ではなく、委託者ということになるから、と。
家へ帰りながら、彼は、こんな題目を両親の前で口にしないために、弟が一人でいるとき会わなければならない、と思ってみた。
戸口のところから、客間でさかんに話したり笑ったりしている人の声が聞えた。はいってゆくと、ロゼミリ夫人とボーシール船長の声が聞えた。親父が引っぱってきて、めでたい知らせを祝うために晩餐《ばんさん》にひきとめたのである。
食欲をつけるためにベルモットとアブサントが運ばせてあった。そして一同はまず上機嫌《じようきげん》になっていた。船長ボーシールは、海の上でさんざんもまれたあげくすっかり角《かど》がとれたといったふうなまるまるとした小柄の男で、この男の頭のなかの考えもすべて、浜のかわら石のようにまるいと思われるような男だったが、rの音を喉《のど》いっぱいにひびかせてしきりに笑いながら、人生をこの上もなくすばらしいものだと言い、すべてこれを進んでとるべし、と言っていた。
彼はロラン老人を相手にコップを合わせ、一方ジャンは婦人たちにまた新しく二つのコップになみなみとついですすめていた。
ロゼミリ夫人が辞退すると、亡《な》くなった夫人の夫と知りあいだったボーシール船長が、いきおいこんでこう叫んだ。
――さあ、さあ、奥さん、| Bis repetita placent.《ビス・レペテイタ・プラケント》(二度くり返さるるものはよし)ですよ。われわれのほうの言葉でこう言うんです。心はすなわち、「ベルモット二杯が害になることなし」とね。わたしはね、よござんすか、船に乗るのをやめちまってからというものは、こいつをやるんですよ、毎日、晩飯の前に、二、三度こうやって人工の横揺れをやるんです! コーヒーの後でまた縦揺れを一つ足しておくんです。これで一晩じゅう荒れ模様の海の気分が出るという寸法です。決して暴風雨というところまではゆきません。これだけはどうして、絶対に、ゆかせませんよ。わたしだって損害はこわいですからね。
船気ちがいのロランは、老船長の言葉にいい気持にあおられて、心から笑っていた。アブサントのためにはやくも顔は真っ赤になり目はとろんとしていた。彼は店にすわっている商人らしい大きな腹をしていた。腹ばかりでほかのものはない。からだの残りの部分が腹のなかへ退却しているように見える。年百年中すわっている人間特有の例のだぶだぶの腹だった。腿《もも》も、胸も、腕も、首も、なんにもなくなっている。いすにすっぽりうずまっているものだから、からだじゅうの肉が一つ所に積みかさねられたのである。
反対に、ボーシールは、ずんぐりで、まるまると太っているとはいえ、卵のように張りきって、弾丸のように硬《かた》かった。
ロラン夫人は最初の一杯さえ干していなかった。幸福感にほおをバラ色にそめ、目を輝かせて、息子のジャンを見あかずながめていた。
ジャンにあってはいま絶頂に達した歓喜が爆発していた。もう決ったのである。署名をおわったのだから。年利二万フランの金を持つ身である。彼の笑う笑い方のなかに、前よりももっとよくひびく声で話す話しぶりのなかに、人々をながめる目つきのなかに、前よりもはっきりしてきた立居振舞いのなかに、前よりもましてきた自信ありげな態度のなかに、人は金の与える落ちつきを感じるのだった。
食事の支度《したく》のできたことが知らされた。ロラン老人がロゼミリ夫人に腕をかそうとすると、「だめ、だめ、父さん、きょうは万事ジャン本位ですよ」と細君が叫んだ。
食卓の上には、ついぞ見なれぬ贅《ぜい》をつくしたものが並んでいた。いつもの父親の席にすわったジャンの皿の前に、絹の細いリボンをふんだんに使った巨大な花束が、本物のお祝い用の花束が、旗を蜘蛛手《くもで》に飾った円屋根のようにそびえ、まわりに四つの脚《あし》つきの皿がならんでいたが、その一つにはみごとな桃がピラミッド型に積みあげられてはいっており、二番目には泡だてたクリームをいっぱいに詰め、煮とかした砂糖をところどころまるく垂らした、建物の形の菓子がはいっていた。菓子で伽藍《がらん》ができているのである。三番目にはパイナップルの切ったのをうすいシロップにひたしたものがはいっており、四番目には、これこそ未曽有《みぞう》の奢《おご》りであるが、熱い国から渡ってきた黒ぶどうがはいっていた。
――たいしたもんだね! と、ピエールがすわりながら言った。ジャン長者様の君臨を祝うというわけかね。
ポタージュのあとで、マデールのぶどう酒が出た。と、はやくも皆が一時にしゃべりだした。ボーシールはサン・ドミンゴ島のある黒人の将軍の食卓でたべた晩餐の話をした。ロラン老人は相手になってきいていたが、合の手にしきりに自分の友人の一人がムードンでもよおした別の宴会の話を入れようとした。なにしろそのときの客は全部後で二週間も病気をしたというのである。ロゼミリ夫人とジャンと母親は、サン・ジュアンへ遠足に行ってお昼を食べる計画を相談していた。どんなにおもしろいだろうと、いまから楽しみにしているのだった。ピエールは一人で食事をとらなかったことを後悔していた。海岸の小料理屋かなにかですましてくればよかった。彼をいらいらさせるこの騒ぎを、この笑い声を、このはしゃぎようをさけるために。
彼はどういうふうにきっかけをつくったものかと考えるのだった。いまとなって、弟に自分の心配をうちあけ、すでに受取ったこの財産を断念させるにはどうしたらいいか。すでにこれを享有し、使わぬさきから陶酔しているこの財産を。弟にしてみれば大打撃だろう、たしかに。だがどうしてもそうしなければならない。躊躇《ちゆうちよ》することはできない。自分たちの母親の名誉が危殆《きたい》に瀕《ひん》しているのだから。
途方もなく大きなすずき[#「すずき」に傍点]が出たことがまたしてもロランを釣りの話にひきこんだ。ボーシールがガボンやマダガスカルのサント・マリ島や、ことに中国および日本の近海での驚くべき釣りの話を物語った。なにしろ魚も住んでいる人間におとらない妙な顔をしているというのである。そしてそういう魚の顔つきを話すのだった。大きな金色の目、青いあるいは赤いその腹、扇子にそっくりの奇妙なかっこうをしたひれ、三日月型に切れこんだ尻尾《しつぽ》、というようなものを表情入りでじつにおもしろくまねして見せながら説明したので、みんなは聞きながら涙の出るほど笑った。
一人、ピエールだけが、信用できないといった顔をして見せ、口のなかでこう言った。
――まったくちがいないや。ノルマンディ人が北方のガスコーニュ人だというのは。
魚のあとで肉入りまんじゅうが出、それから、若鶏の焼いたの、サラダ、青豆、ピチヴィエのひばりのパテ、の順だった。ロゼミリ夫人のところの女中もお給仕の手伝いに来ていた。ぶどう酒の数が重なるとともに陽気な気分が高まっていった。シャンペンの最初のびんの栓《せん》が音をたててとんだとき、ロラン老人は、すっかりいい機嫌《きげん》になっていて、口でこのポンという音をまねしてから、せりふもどきにこう言った。
――わしはこれがピストルの音より好きだて。
ピエールはますますいらいらしてきていたので、あざけるようにこう答えた。
――そうかもしれませんよ。ですがね、お父さんにはピストルよりもっと危険ですよ。
杯をくちびるにつけようとしていたロランは、なみなみとついであるのをテーブルの上にもどして、こうきき返した。
――それはまたなぜだ?
ずっと前から老人は自分の健康をこぼしていた。頭が重いとか、めまいがするとか、しょっちゅう説明できない不快感を訴えていた。ドクトルは言葉をついだ。
――なぜといってピストルの弾《たま》ならわきへそれるということがありますが、ぶどう酒の杯はいやでも胃の腑《ふ》に命中しますからね。
――それでどうだと言うんだ?
――それで、胃をただらせ、神経系統を乱し、血行を沈滞させ、中風《ちゆうぶう》の下地を作りますね。お父さんのような体質の人はみんな中風にやられる危険があるのです。
元宝石商のだんだん発してきていた酔いは、風に吹かれる煙のごとく吹きちらされたように見えた。おびえたような目をじっとすえて、息子をながめながら、相手が冗談を言っているのではないかどうか見きわめようとするのだった。
だがボーシールがいきおいこんで叫んだ。
――ええ! 医者なんてやつは、どいつもこいつも同じだ。やれあれを食べるな、これを飲むな、女はいけない、ロンドを踊るのはいけない、ときやがるからね。こうやっていると丈夫のように見えてだんだん病気になる、とね。ところがどうです! わたしはね、この悪いということを全部実行したんですよ、先生。世界じゅうのあらゆるところでね。できるところなら、ところかまわず、そしてできるだけたくさんにね。それでいて、ちっともからだなんか悪くなりゃしませんよ。
ピエールは少し声をとがらせて答えた。
――だいいちに、船長さん、あなたは父より丈夫です。それに、酒飲みというものはだれもかれもあなたと同じようなことを言う、けっきょく……翌日用心深い医者をもう一度たずねて、「先生、おっしゃるとおりでした」と言う機会のなくなる日まで、そういうことを言っている。父が父にとっていちばん悪いいちばん危険なことをしているのを見ては、ぼくとして注意するのはあたりまえのことじゃありませんか。もしそうしなければ息子として不孝になるでしょう。
ロラン夫人は、困りきっていたが、このとき口を入れた。
――さあさあ、ピエールや、どうしたんですか、おまえは? 一度くらいだったら、お父さんにも害にはなりませんよ。お父さんにとって、わたしたちにとって、どういうお祝いだか考えてごらん。おまえはお父さんの楽しみを台なしに、あたしたちみんなの気持をいらいらさせるのですか。見苦しいことですよ、おまえのしていることは!
彼は肩をそびやかしながらつぶやいた。
――好きなことをなさるがいいですよ。ぼくはちょっとご注意しただけです。
だがロラン老人はもう飲まなかった。彼は自分のコップをながめていた。きらきら光る透きとおったぶどう酒のなみなみとつがれたコップを。その酒の軽い精は、人を酔わせる精は、小さな泡になって、底からわいてきては、上にのぼり、どこかへとんでゆく。次々に追いかけるように速い速力でのぼって、液体の表面で消える。死んでいる鶏を見つけて罠《わな》がありはしないかと嗅《か》いでいる狐のような疑い深さで、老人はそれをながめているのだった。
彼は、ためらいながら、こうきいた。
――これがわたしには非常に害になると、ほんとにおまえは思っているのかい?
ピエールは後悔する気持になった。自分の不機嫌からほかの人々を苦しめていることをみずから責めた。
――そんなことはありませんよ。よござんす、一度だけなら、飲んでもよろしい。しかし濫用《らんよう》はいけません。習慣になってはいけません。
そこでロラン老人はコップを取上げたが、それでもまだ口へ持ってゆく決心はつかなかった。せつなさそうにそれをながめていた。飲みたくもありこわくもありという気持だった。それから嗅いでみた。ちょっと舌にのせた。それからちびりちびりと飲みはじめた。味わいながら。不安と、気弱さと、意地ぎたない飲みたさで胸がいっぱいだった。それから、最後の一滴を飲みほすと、後悔の念でいっぱいになった。
ピエールは、ふと、ロゼミリ夫人の目にぶつかった。それは彼の上にじっとそそがれていた。澄んだ、青い、射ぬくような、きびしい視線だった。と、彼は感じた。なかへはいったような気がした。はっきり推しはかることができた。この視線を燃えたたせているはっきりした考えを。心が単純でまっすぐなこの小柄の女の怒っている考えを。ほかでもない。その目つきはこう言っていた。「やいていますね、あなたは。恥ずかしいことよ、それは」
彼は顔をふせてまた食事にかかった。
彼は食べたくなかった。なにもかもまずかった。立って行ってしまいたいがむしゃらな気持が彼を責めさいなんだ。この人々のなかにまじっていたくない、彼らが、話をし、冗談を言い、笑うのをこの上ききたくない気持だった。
そのうちに、酒の気がふたたび頭を混乱させはじめていたロラン老人は、はやくも息子の忠告を忘れて、舌なめずりをしかねない横目で、自分の皿のそばに、まだほとんどいっぱいはいったままになっているシャンペンのびんをながめていた。またなにか言われるのがこわくて、それに手をふれる勇気はなかった。なんとかうまい計画で、うまくごまかして、ピエールの注意をよびさまさずに、せしめる工夫はないかと、探していた。ある計略が彼の頭に浮んだ。いちばん簡単な方法である。彼はなにげなくびんを取上げた。そして、底のほうをおさえながら、食卓ごしに腕をのばして、まずからになっているドクトルのコップをみたし、それからひとわたりほかの連中のコップをつぎまわり自分のコップの番のところへくると、声高《こわだか》に話しはじめた。そこで、少しくらいそのなかについでも、たしかにうっかりついだんだと言おうという寸法だった。もっとも、だれも注意をはらいはしなかった。
ピエールは、そんなことは考えずに、むやみに飲んでいた。気がたち、いらいらして、彼は、ひっきりなしに、無意識の動作で、細長い切子ガラスの脚つきのコップを、生き生きした透明の液体のなかを泡が走っているのが見えるコップを、くちびるへ運んだ。それから、非常にゆっくり口のなかへ流しこんでは、舌の上に、逃げてゆくガスの甘いかすかな刺すような味を感じるのだった。
しだいにこころよい暖かさが彼のからだじゅうにひろがった。からだにとって火をたくところであるように見える腹部から出発して、胸にうつり、手足に侵入して、全身の肉のなかにひろがる。ちょうど自分といっしょに喜びをもたらす、なま暖かい、苦痛をやわらげる波のように。彼はいくらかいい気持になった。さっきほど腹だたしくなく、不満でなくなった。すると、今夜にもすぐ弟に話をしようという決心がだんだんとにぶってきた。このことを断念しようという考えが頭をかすめたわけではなく、いま身中《みうち》に感じているこのやすらかな気持をまたすぐにかき乱したくないためだった。
ボーシールが乾杯の音頭をとるために立ちあがった。
ひとわたり一同に頭をさげてから、あらたまって彼はこう言った。
――いともあでやかなる淑女ならびに紳士諸君、われわれがここに集まりましたのは、われわれの友人の一人に降ってわいた、幸運な事件を祝福するためであります。昔は幸運は盲目なりと申しましたが、わたしの信じまするところでは、それはたんに近眼だったにすぎず、ないしは意地の悪いいたずら好きだったのであります。そしてどうやら最近すばらしい双眼鏡を買ったものとみえます。そのおかげで、このル・アーヴルの港において、わが敬愛する僚友、〈ペルル号〉の船長ロラン君の子息を万人のなかより選ぶことができたのであります。
ブラヴォの声が人々の口をついてわき、拍手がこれに加勢した。ロラン老人が答辞を述べるために立ちあがった。
せきを一つしてから、というのは老人ののどにたん[#「たん」に傍点]がつまっているようで、舌が少しもつれるような感じがしたのであるが、せきこんでどもった。
――感謝します、船長さん、わたしのために、そしてわたしの息子のために。きょうのあなたのことをわたしは決して忘れませんぞ。船長の希望のために乾杯いたしますぞ。
老人の目にも鼻にも涙がいっぱいたまっていた。そしてもうなにも言えなくなって、元の席へ腰をおろした。
ジャンは、ただ笑っていたが、こんどは自分の番で、発言した。
――わたしこそ、ここにおいでの皆さんに、心からわたしを愛してくださる、高潔な皆さんに(彼はロゼミリ夫人のほうをながめながら言っていた)、きょうその愛情の感激のほかはない証拠を見せてくださいました皆さんに、お礼を申上げなければなりません。しかしながら言葉ではとうていわたしの感謝をわかっていただくことはできません。明日から、いや生涯のあらゆる時間において、実地に証明してお目にかけましょう。われわれの友情はその場かぎりで過ぎてしまうような種類のものでは断じてないのですから。
母親は、ひどく感動して、つぶやくようにこう言った。
――ほんとによく言っておくれだ、おまえ。
だがボーシールがいきおいこんでこう叫んだ。
――さあ、ロゼミリの奥さん、ご婦人を代表してしゃべってください。
夫人は杯をあげた。そして、いくらかさびしそうなひびきのするやさしい声で、こう言った。
――わたくし、マレシャルさんの尊い思い出のために乾杯いたします。
数秒の間、一座がしんとしずまり、祈祷《きとう》の文句がとなえられた後のように、敬虔《けいけん》な沈黙が支配した。と、お世辞のいいボーシールが、気がついたようにこう言った。
――どうも、こういうこまかい心づかいはご婦人でないとおこりませんな。
それからロラン老人のほうに向きなおって、
――いったい、そのマレシャルって人はどんな人だったんです? よほど親しい間柄だったとみえますね?
老人は酔いも手伝って感動していたので、泣きはじめた。そして声をとぎらせながら、
――血を分けた兄弟同然ですよ……わかっているでしょうが……生涯に二度と見つからないといったふうな友だちです……まるでいっしょに暮していたようなものです……毎晩わたしどものところで食事をしたんですからな……そのかわりというんでときどき芝居をおごってくれたものです……これだけしか申せません……これだけ……これだけです……親友、ほんとの……ほんとの親友……ねえ、そうだろう、ルイーズ?
細君は簡単にこう答えた。
――ほんとに、心の変らないお友だちでした。
ピエールはそのあいだ父親と母親をながめていた。しかし皆がほかの話を始めたので、彼はまた酒を飲みはじめた。
この晩餐会《ばんさんかい》の終りのことを彼はほとんど覚えていなかった。コーヒーを飲み、そのあとでリキュールをやり、冗談口をききながらさかんに笑ったようだった。それから彼は床にはいった。真夜中近くだった。意識がもうろうとし、頭が重かった。翌朝の九時まで、けもののように眠った。
4
シャンペンとシャルトルーズにおぼらされたこの眠りはたしかに彼の気持をやわらげしずめたらしかった。ほかでもない。彼は非常になごやかな気分で目をさました。着物を着かえながら、きのうの興奮を、ゆっくり評価し、慎重に計量し、要約してみた。そのなかからはっきりそして完全に、真実の、底にかくれている原因を、外的な原因と同時に自分一個の気持にもとづく原因を、さぐり出そうとするのだった。
事実、酒場の女給がいやらしい想像を、まったく淫売婦《いんばいふ》にふさわしい想像を、ロランの息子の一人だけが縁もゆかりもない男から遺産をもらったということを聞いたとたんに、おこしたということはありうることである。だがこうした種類の女は、すぐにそういうふうな疑いを、これんばかりの理由もないのに、すべてのまともな婦人に向って、かけるのが常ではないのか? そういう女たちが、口をひらけば、悪口を言い、誹謗《ひぼう》し、けちをつけるのを、非のうちどころがないということが自分たちにもわかっている女のすべてにけちをつけるのを、よく聞くではないか? ひとが彼女たちの前で文句のつけようのない女をひきあいに出すたびに、まるで自分たちが侮辱されたかのように、腹をたて、こう言ってどなりだす。「ああ! たくさん! わたし知ってますわよ、その身をかためたご婦人とやらいうものはね。まったくたいしたものさ! わたしたちより情人《いろ》の数をたくさん持っていて、ただかくしているだけのことさ。猫かぶりだから。そうよ! ほんとに、たいしたものさ!」
なにかほかの場合だったら、確かに、気のどくな母親に対する、あんな心のやさしい、たかぶらない、あんなりっぱな母親に対する、こうした種類のあてこすりを、解きえなかったであろうし、そんなことがありうるとさえ思わなかったであろう。だが自分はあのとき、身中《みうち》に醗酵《はつこう》していた例の嫉妬《しつと》の酵母《こうぼ》のために心をかき乱されていたのだ。いやが上にも興奮させられた自分の精神が、いわば、われにもあらず、弟を傷つけることのできるようなものはなんでもつかもうとねらっていて、おそらくは、あのビールの売子にじっさいはあの女の持っていなかったいやしい意図を押しつけて考えたのかもしれない。自分の想像力が勝手に、例の制御しえたことのない想像力、たえず意志の下から逸脱し、自由に、大胆に、向う見ずに、しかもなにくわぬ顔で、観念の無限の世界にとんでゆき、ときに、口に出して言えないような、恥ずかしいものを持って帰り、自分の身中に、魂の奥底に、さぐりをいれることのできない襞《ひだ》のなかに、盗んだものをしまうようにかくしておく。その想像力だけが勝手に、あの恐ろしい疑いを考えだし、作りだしたのかもしれない。自分の心は、ほかでもない自分の心は、確かに自分も知らない秘密を持っている。この傷ついた心が、このいまわしい疑いのなかに、自分の内々やいている遺産相続を弟にさせないようにする手段を見いだしたのではなかったろうか? 彼は、いま、自分自身を疑っていた。信仰のあつい者がその心を吟味するように、自分の考えのすべてのかくされている部分を、吟味しながら。
たしかに、ロゼミリ夫人は、聡明でないとはいえ、女としての微妙な判断力は、嗅《か》ぎだす力は、微妙なかん[#「かん」に傍点]は持っている。ところでああした考えはあの女の胸には浮ばなかったのである。世にも自然な態度で、故マレシャルの尊い記憶のために乾杯したのだから。ほんのちょっとでも疑いの念が頭をかすめていたとしたら、あの女は、あんなことはしなかったはずである。いま彼はもう疑っていなかった。弟の上に降ってわいた幸運に対する意志の力のおよばぬ不満と、それから、また、たしかに、母親に対する宗教的な愛が、彼のとりこし苦労を、敬虔な、尊敬すべき、だが度をはずれたとりこし苦労を、あおったのである。
この結論をはっきり順序だてて心のなかに言ってみると、なにかりっぱな行いをした後のように、いい気持になった。そしてきょうはみんなにやさしくしようと決心した。まず手はじめに父から始めよう。あの父のいろいろなくせや、愚劣な判断や、俗悪な意見や、あまりにも歴然と見える凡庸さには、二六時《にろくじ》ちゅういらいらさせられているのだが。
昼飯の時間にはおくれずに帰宅した。そして、機知と上機嫌《じようきげん》とで家じゅうの者をおもしろがらせた。
母親は、すっかり喜んで、彼に向ってこう言った。
――ねえ、ピエロや、わかったでしょ。おまえは自分でしようとさえ思えば、いくらでもおもしろくしていられるし、ひとをおもしろがらせることもできるのですよ。
彼はしきりにしゃべった。気のきいた言葉を見つけだし、知りあいの連中の肖像をたくみに描いてみせてみんなを笑わせた。ボーシールがさんざんやられた。それからロゼミリ夫人も少し。だがひかえめに、あまり手ひどくはしなかった。彼は、弟のほうをながめながら、こんなことを考えていた。「おい、お人よしの坊ちゃん、ちっとはあの女の肩を持ったらどうだ。金持になったからっていばれないぞ。おれの好きなときにいつだっておまえを蹴落《けおと》すぜ」
コーヒーになって、彼は父親にこう言った。
――お父さんはきょう〈ペルル〉を使いますか?
――いいや、使わんよ。
――ジャン・バールも連れて、ぼくが使ってもよござんすね?
――いいとも、いくらでもお使い。
彼は、もよりの煙草屋《たばこや》で上等の葉巻を買い、それから、快活な足どりで、港のほうへおりていった。
彼は、晴れわたった、明るい空をながめた。薄青く、さわやかに、海風に洗いきよめられていた。
ジャン・バールこと、水夫のパパグリは、朝釣りに出ないときは、毎日正午には沖へ出る用意をしておく約束になっている小舟の底で、うたた寝をしていた。
――おれたち二人だけで出かけるんだぜ、親方! と、ピエールがどなった。
彼は波止場の鉄のはしごをおりて、舟のなかへとびこんだ。
――風はどっちだ?
――相変らず、陸風《ませ》でさ、ピエール先生。沖じゃいい風ですぜ。
――じゃ! とっさん、出かけよう。
二人は前檣《ぜんしよう》の帆を張り、錨《いかり》を引きあげた。と、舟は、自由の身になって、港内の鏡のような水の上を突堤のほうに向って静かにすべりはじめた。町の往来を通りぬけて吹いてくるかすかな風がちょうど帆の上部にあたる。しかしいかにも軽く吹きつけるのでほとんどなにも感じられない。と、〈ペルル〉は自分自身の生命に、舟自身の持っている生命に、活気づけられているように、身中にかくされている神秘的な力に押されているように見えた。ピエールが舵《かじ》を握っていた。葉巻をくわえ、脚《あし》を横桟の上に伸ばし、目のくらむような太陽の光線をあびて目を細めながら、自分とすれすれに、タールをぬった波よけの大きな材木が過ぎてゆくのをながめた。
いままで二人がそのかげになっていた北側の突堤の先端《はな》をまわって、大海に出たとたん、さっきよりずっと強い風が、ドクトルの顔と手を、愛撫《あいぶ》にしては少し冷たい愛撫でなで、胸に吹きこんだ。胸はおのずから開いて、ぐっと深呼吸をしながら、それを飲んだ。と、とび色の帆はまるくふくらみ、〈ペルル〉がぐいと傾いたと思うと、舟足がずっと軽くなった。
ジャン・バールが、いきなり、前檣の帆を全部たぐり上げた。その三角形の帆が、風をいっぱいにはらんで、翼のように見えた。それから、ふたまたぎで艫《とも》のほうへとんできたと思うと、マストに結びつけてあった後檣帆を解きはなした。
すると、いきなり、ほとんど横倒しになって、全速力で走りだした舟の横腹にあたって、たぎりたち、ざーっと流れてゆく水のやわらかいしかしせわしげな音が聞えた。
船首は、狂った鋤《すき》の頭のように、海面を切りさいてゆく。と、持ち上げられた海面は、しなやかに、真っ白に泡《あわ》だち、まるくふくれあがっては、また落ちた。ちょうどすき返された土が、褐色《かつしよく》に光りながら、どっしりと重く、落ちるように。
波にぶつかるたびに、――波のうねりは小さくひんぱんだった。――船首の三角帆からピエールの手に握られてこまかくふるえている舵のところまで〈ペルル〉がぐらっとゆすぶられた。風が、数秒の間、ぐっとつのりだすと、波は舟のなかに流れこむかと思うほどの勢いで舷《ふなばた》をかすめた。リヴァープールからきた石炭船が一|艘《そう》満潮になるのを待って錨をおろしていた。その船の船尾をまわって進み、それから港外|碇泊《ていはく》をやっている船を、一艘一艘見て歩いた。それから、海岸線を沖からながめるために、少しそこを離れて遠くへ出た。
三時間の間、ピエールは、ゆうゆうと、いい気持に、落ちついて、こまかくゆれている水の上を彷徨《ほうこう》した。翼の生えた生物のように、速い柔順な、この木と帆布でできた品物を、自分の思いのままにどこへでも動く、指の力の入れ方一つで自由になる、この品物をあやつりながら。
彼は夢想にふけった。馬の背や船の甲板《かんぱん》で人が夢想にふけるように。自分の未来のことを考えながら。その未来は美しい未来だった。そして知的な生活をおくることの楽しさを思いながら。明日にもさっそく弟に頼んでみよう。フランソワ一世通りのこぎれいな部屋にすぐ移るために、千五百フランの金を、三カ月だけ貸してくれるように。
水夫がとつぜんこう言った。
――霧が出ましたぜ、ピエール先生、引きあげやしょう。
目をあげて見ると、北のほうに、底のしれない、ふわふわした、薄墨色の影が、空をかくし、海をおおって、天から落ちてきた雲といったかっこうで、自分たちのほうに向って、まっしぐらに進んでくるのが見えた。
彼は舟をまわし、追風をうけて、突堤のほうへ走らせたが、速い霧に追われて、だんだん追いつかれそうになった。霧がいよいよ〈ペルル〉に追いつき、目には見えない濃さのなかに舟をつつんだとき、その冷たさに身ぶるいがピエールの五体を走った。と、煙ともかびともつかぬ臭《にお》いが、海のもや特有の奇妙な臭いが、思わずこのしめった氷のような煙霧を吸いこむまいとして、彼の口を閉じさせた。舟が港のいつもの場所へもどったとき、町全体ははやくもこのこまかな水蒸気のなかにうずまっていた。それは、空から降ってくるでもなくて、雨のようにぬらし、河が流れるように、家々の屋根や往来の上をすべった。
ピエールは、手も足も冷えきって、急いで家へ帰り、晩餐《ばんさん》の時間までひと寝入りするために寝床にもぐりこんだ。
彼が食堂に姿を現わしたとき、ちょうど母親がジャンに向ってこう言っていた。
――あのヴェランダはとてもすばらしくなりますよ。花を置くことにしようよ、ね。見ていてごらん、いまにわかりますよ。花の世話をしたりかえたりするのはわたしが引受けるから。なにかお祝いの集まりでもあそこでしたら、ほんとに夢の世界みたいでしょうよ。
――いったいなんのことです? と、ドクトルがきいた。
――ジャンのために借りてきたとても気持のいい部屋のことですよ。掘出し物ですよ。街二つに向っている中二階ですからね。客間が二つと、ガラス張りのヴェランダがあるの。それに小さなまるい部屋の食堂がついていてね、独身者にはまったくしゃれたものですよ。
ピエールはさっとあおざめた。怒りが胸をしめつけた。
――どこです、それは?
――フランソワ一世通り。
もはや疑いの余地はなかった。彼はぺったりいすに腰をおろした。思わずこうどなってやりたいほど胸が煮えかえっていた。「いくらなんでもあんまりだ! なにもかもあいつがとるのか!」
母親は、顔を輝かせて、なおもしゃべりつづけていた。
――それにね。まあ考えてもごらんよ、それだけのものが二千八百フランで借りられたのだからね。向うでは三千フランというのだけれど、二百フラン負けさせたのさ。三年、六年、場合によっては九年の契約をするからと言ってね。ジャンにはほんとうにうってつけですよ。弁護士が身代をつくるには、家のなかをきれいにしておくにかぎりますからね。それで依頼者が吸い寄せられ、ひきつけられますよ。足どめになるのさ。尊敬の気持をおこさせ、こんなりっぱな家に住んでいる先生の弁護料が高くてもふしぎではないと思わせるのさ。
彼女はちょっと黙ってから、また言葉をつづけた。
――おまえにもなにかせいぜいあれに近いくらいのを見つけなくちゃなりませんね。もちろんもっと地味なものでいいけれど。おまえにはなんにもないのだから。でもやっぱりある程度こぎれいでなくちゃね。そのほうがどれだけためになるかわかりませんよ、言っておくけれど。
ピエールはさげすむようにこう答えた。
――ああ、ぼくですか! ぼくはまあ一所懸命に働いて、自分の学問で、成功するならしますよ。
母親は言いはった。
――そりゃそうだけれど、でもきっときれいな住居がなんといってもどれだけ役にたつかわからないってことは、わたしが保証しておきますよ。
食事のなかばごろにピエールがとつぜんこうきいた。
――どんなふうにして知りあいになったんです、そのマレシャルさんと?
ロラン老人が顔をあげた。そしてしきりに自分の記憶のなかを探した。
――ちょっと待て、どうもよく思い出せないな。なんせ古いことだて。うむ! そうだ、思い出したぞ。おまえのおっ母《か》さんが最初店で知りあいになったのだ。なあ、そうだろう、ルイーズ? なにか注文に来たのだ。それからたびたびやってきたよ。友だちとして知りあいになる前にお客として近づきになったのさ。
ピエールは、豆を食べていたが、まるでくしざしにでもするように、フォークの先で一つ一つ突き刺しながら、こう言葉をつづけた。
――いつ時分のことですか。それは、その知りあいになったのは?
ロランはまた考えこんだが、こんどはさっぱり思い出せないので、細君の記憶に助け舟を求めた。
――ええと、何年だったかな、なあ、ルイーズ、おまえは忘れるはずがないだろう、あんなに物おぼえがいいのだから? 待てよ、えーと――えーと……五十五年、それとも五十六年だったかな?……おい、ひとつ、考えてくれ、おまえ、おれよりよく知っているはずだろう?
彼女はしばらく、じっさい考えているふうだったが、やがて落ちつきはらった静かな声でこう言った。
――五十八年ですよ。ピエールが三つでしたから。たしかにまちがってはいませんよ。この子がしょうこう[#「しょうこう」に傍点]熱にかかった年ですもの。そして、マレシャルさんが、まだそんなにふかいおつきあいではなかったのに、いろいろ奔走してくだすって、大助かりでしたわ。
ロランが思わず叫んだ。
――そうだ、そうだ、大助かりも大助かり、じつにまねのできないようなことをしてくれたよ! おっ母さんは看護づかれでもうへとへとになるし、わしはわしで、店が忙しいというので、よく薬屋へおまえの薬をとりに行ってくれたものだ。まったく、見上げた親切な仁《じん》だったよ。そしておまえがなおったとき、どんなに喜んで、おまえにほおずりしてくれたか、おまえには想像もつくまい。このときからだよ。おれたちが大の親友になったのは。
と、あっというまもない、激しい考えが、ピエールの頭のなかにとびこんできた。穴をあけもぐりこんでくる銃丸のように。「あの人がぼくのほうを先に知ったのなら、ぼくに対してそんなに献身的だったというのなら、ぼくが好きでそんなにほおずりをしてくれたというのなら、両親とのふかい交わりの原因がぼくだというのなら、なぜ全財産を弟に遺《のこ》して、ぼくにびた一文もくれなかったのだろう?」
彼はもうそれ以上問いはかけず、陰気に黙りこくっていた。ぼんやり考えにふけるというより、むしろ考えにしずんでいるほうだった。心のなかに、新たな、まだ判然としたかたちをとらぬ不安、新たな苦しみの秘密の萌芽《ほうが》を、つつみながら。
彼はじきに外へ出て、往来をあてもなく歩きだした。往来は霧の下に埋まっていた。霧は夜を、重い、不透明な、吐き気をもよおすものに変えていた。地面をはっている有毒ガスとでも言いたいところだった。ガス灯の上をかすめて流れるのが見えたが、ときどき灯を消してしまうように見えた。往来の鋪石《しきいし》は薄氷《うすらひ》の張った夕方のようにつるつるすべり、ありとあらゆる悪臭が家々の横腹からもれてくるように思われる。地下室や、便壺《べんつぼ》や、下水や、不潔な台所のたまらない臭気、それがこの漂泊の霧のひどい臭《にお》いとまじり合う。
ピエールは、背中をまるくし、両手をポケットに突っこんで、この寒さではとても外にいられないと思いながら、マロウスコのところへ出かけた。
彼にかわって寝ずの番をしているガス灯の下で、老薬剤師は相変らず眠っていた。ピエールの姿を認めると、彼は忠実な犬が主人を愛するようなやり方でピエールを愛していたが、眠気をはらいおとして、コップを二つとりにゆき、例のグロゼイエットを持ってきた。
――どうだい! 例の合成酒のことはうまく運んでいるかね? と、ドクトルはきいた。
ポーランド人は、この町のおもだったカフェのうち四軒が売りひろめに同意を与えてくれたこと、「沿岸の光」と「アーヴル通信」の二つが、編集者に若干の調剤を無料でしてやったかわりに、広告をのせてくれるだろうというようなことをことこまかに説明した。
ながい沈黙の後で、マロウスコは、ジャンが、財産をもらってしまったか、はっきり決ってしまったか、どうかときいた。それから同じ題目について、なお二、三|漠然《ばくぜん》とした質問をした。ピエールに対するこの老人の陰性の愛情がこのえこひいき[#「えこひいき」に傍点]を怒った。と、ピエールはこの男の考えていることがはっきりわかるような気がした。そむけられるこの男の目のなかに、ためらうような声の調子のなかに、くちびるまでのぼってきているが、言わない文句を、いや、用心深い、小心者の、ずるいこの男が、決して言わないであろう文句を、推しはかり、理解し、読みとった。
もはや疑いの余地はなかった。老人はこう考えているのだ。「母親を悪く言わせるようなことになるこの遺産をそのまま黙って受けさせてはいけなかったのです」いや、ことによったらこの男もジャンをマレシャルの子供だと思っているかもしれない! 確かにそう信じているのだ! どうしてまた信じないということがあろうか? ことはこれほど真実らしく、ありそうなことに、いや明白なこととして、人の目に映るはずなのだから! 彼自身、息子であるこのピエール自身、この三日間、全身の力をあげて、感情の微妙な力のすべてを動員して、自分の理性をあざむくために、この恐ろしい疑いに対して戦わなかったであろうか?
と、いきなり、またしても一人になりたい気持が、考えるために、このことを自分自身を相手に論議するために、大胆に、遠慮なしに、気弱さに負けずに、このありうるそして胆《きも》のつぶれるような恐ろしい事実に直面するために、一人でいたいという欲求が、じつにがむしゃらにわいてきたので、彼はグロゼイエットのコップに口もつけずに立ちあがり、あっけにとられている薬剤師の手を握ると、ふたたび往来の霧のなかへまぎれこんだ。
彼は心のなかで何度も自分に向ってこう言った。「なぜあのマレシャルは財産全部をジャンに遺したのだろう?」
彼にそれをせんさくさせているのは、それはもはや嫉妬《しつと》ではなかった。自分でも心の底にかくれていることを知っており、この三日間それに対して戦ってきた多少低劣な、しかし自然な羨望《せんぼう》の念ではなかった。そうではなく、戦慄《せんりつ》すべきあることに対する恐怖だった。彼自身、ジャンが、自分の弟が、あの男の息子であると考えることに対する恐怖だった!
むろん、こんなことは信じてはいない。こんな大それた質問を自分に提出することさえできないことだ! とは言いながら、この疑いは、どんなに軽々しく、どんなにありそうもないことであっても、自分の頭から、完全に、永久に、追いはらう必要がある。光明が、確信が必要だった。彼の胸のなかに完全な安全感が必要だった。この世で母親だけしか愛していなかったのだから。
夜の闇《やみ》のなかを一人さまよいながら、彼は、自分の記憶のなかを、理性のなかを、しさいに吟味しようとした。そこから燦然《さんぜん》たる真相が判明してくるであろう。それがすめばもう片づく。もうこんなことは考えまい。もう永久に。帰って寝るばかりだ。
彼はこんなことを思った。「待て、まず事実をしらべるのが第一だ。それからあの男について知っている全部を思い出そう。弟に対するまたおれに対するあの男の態度について知ってることを。この弟だけに選んだことのもとになりえたような原因を全部探してみよう……ジャンの生れるのを見たからかな?――それはそうだ。だがおれのほうをそれより先に知っている。――母を口に出さずつつましく秘めた愛し方で愛していたものなら、おれのほうを選ぶはずだろう。なぜといって、あの男がおれの両親の親友になったのは、おれのおかげではないか。おれのしょうこう[#「しょうこう」に傍点]熱のおかげではないか。だから、りくつから言えば、おれを選ぶべきだったのだ。弟が大きくなるのを見ているうちに、本能的な牽引《けんいん》を、偏愛を、抱《いだ》いたというのでないかぎり、おれのほうにいっそう強い愛情を持つはずではないか」
そこで彼は自分の記憶のなかを探した。全思考力、全知力を必死に緊張させ、頭のなかでもう一度あの男の姿を組み立てよう、もう一度見よう、もう一度認めよう、はっきりとつかもうとあせった。パリで暮した何年かの間、彼の心とはなんの交渉もなく、彼の前を通りすぎたあの男を。
だが、歩いていることが、自分の足の軽く動いていることが、いくらか自分の考えを乱し、考えがはっきりさだまるのをじゃまし、その力のおよぶ範囲をせばめ、記憶をくもらせるのを、感じた。
過去の上に、そして自分の知らぬ事件の上に、何者ものがれることのできない鋭い視線を投げるために、ひろびろとした人気のない場所で、じっと動かずにいる必要があった。そこで彼は、いつかの晩のように、突堤の上へ行って腰かけることにきめた。
港に近づいてゆくと、沖のほうにあたって、なげくような、不気味な、なにかを訴えるような音が聞えた。牡牛《おうし》の鳴き声にそっくりだったが、もっと長く、もっと力がこもっていた。それは汽笛の悲鳴だった。霧のなかで進路を失った船の悲鳴だった。
戦慄《せんりつ》が全身の肉を動かし、心臓をしめつけた。それほど彼の魂のなかに、神経のなかに、この危険を告げる悲鳴は強く鳴りひびいた。まるで自分がこの悲鳴を発したような気がした。と、別な同じようなもう一声が、またうなった。こんどはもう少し遠かった。それから、こんどは、すぐ間近で、港の警笛が、それに答えながら、つんざくような叫びをあげた。
ピエールは大股《おおまた》に突堤のほうへつかつかと歩みよった。もうなにも考えず、このうなり声にふるえている不気味な闇のなかへはいってゆくのが満足だった。
防波堤の先端《はな》まで行って腰をおろしたとき、彼は目をとじて、夜港へはいる目じるしになる、霧にぼかされている電気信号灯を見まいとした。それから南側の突堤の上の灯台の赤い灯も。とはいえこれはほとんど見わけがつかないくらいだった。それから横に向きなおって、花崗岩《かこうがん》の上に肘《ひじ》をつき、両手のなかに顔をかくした。
頭のなかで、くちびるを動かしてこの言葉を口に出すのでなく、何度も、「マレシャル!……マレシャル!」と、くり返した。まるでよびかけるように。この男の亡霊をよびだし、挑戦するかのように。と、伏せたまぶたの暗闇のなかに、とつぜんこの男の姿が、自分の知ったとおりの姿が浮びあがった。年輩は六十ぐらいの男で、真っ白なひげの先がとがり、眉毛《まゆげ》が、やはり真っ白だったが、太かった。背がひどく高いほうでもなく、といって、小柄のほうでもなかった。温顔、目は灰色でやさしく、動作もひかえめで、たかぶらない、やさしい、親切者といった様子だった。彼はピエールとジャンをいつも、「かわいい子供たち」と呼び、どちらかをよけいに愛している様子は少しもなかった。二人をいつもいっしょに食事に招待してくれた。
と、ピエールは、嗅《か》ぎ失った獲物の跡を追う犬のようなしつこさで、地上から消え失《う》せたこの男の言葉を、身ぶりを、声の抑揚を、視線を、探しはじめた。だんだんとこの男の姿が浮びあがってきた。全部の姿が、弟と自分をその食卓に招《よ》んでくれたときの、トロンシェ街の住居のなかでの姿が。
二人の女中がこの男の身のまわりの世話をしていた。二人とも年をとっていた。疑いもなくずっと前からのことに相違ないが、女中たちは二人を「ピエールさま」「ジャンさま」と言う言いならわしになっていた。
マレシャルが両手を二人の若者のほうへさし出す。はいってゆくときのぐあいでどちらというさだまったきめはなく、一人に右手を、もう一人に左手をさしのべた。
――やあよく来たね、子供たち。と彼はいつも言った。どうだい、お父さんたちから便りがあるかね? わたしのところへは、いっこう手紙をくれない。
いろいろな話をした。静かに、家にいるような調子で、あたりまえのことについて。この男の頭のなかには、なに一つ並みはずれたものがなかったが、温雅と、魅力と、やさしさだけはあふれていた。たしかに兄弟二人にとっては、よき友だった。十二分に信じきれるので、ついふだんは忘れて考えないといった種類のよき友だった。
いま思い出がピエールの頭のなかに洪水のように押しよせていた。彼が何度も浮かぬ顔をしているのをみて、どうせ学生のことだから金に困っているのだろうと察しをつけて、マレシャルは、自分のほうから進んで、申出てくれ、金を貸してくれた。ことによったら四、五百フランになっているかもしれない。両方とも忘れてしまって、一度も返したことはなかった。してみればあの男は始終変らず自分を愛していてくれたのである。いつでも自分に関心を持っていてくれたのである。金がいるだろうということまで心配してくれたのだから。では……では全財産をジャンに遺《のこ》す理由がどこにあるだろうか? 断じてそんなことはなかった。兄に対するより弟に対してめだって親切であるとか、一方より他方のことをより気にかけているとか、見たところ弟より兄に対して愛情の持ち方が少ないというようなことは、決してなかった。では……では……すべてをジャンに与える――すべてを――そしてピエールにはなに一つ遺さない――秘密な強力な理由があったのだ。
そのことを考えれば考えるほど、最後の幾年かの過ぎさった時をもう一度眼前にくりひろげればひろげるほど、ドクトルは、自分たち兄弟の間にたてられたこの差別を、信じがたいもの、ありえないものと思うようになった。
と、鋭い苦しみが、胸のなかに忍びこんできた、言葉に現わせない息のつまるような不安が、彼の心臓をもみくちゃになったぼろ布のようにおどりあがらせた。心臓のばねがこわれたように見えた。血がそのなかを奔流のように、なにもさまたげるものがなく、通過していった。忙《せわ》しい動揺で、心臓を激しくゆすぶりながら。
すると、小さく声に出してちょうど夢うつつのなかでものを言うようにこうつぶやいた。「知らなければならない。どうしたって、知らなければならない」
彼は、いま、もっと昔にさかのぼって、両親がパリに住んでいたころのことを思い出そうとした。しかし人の顔がなかなか思い出せなかった。それが彼の記憶を乱した。とくに彼はマレシャルの髪の色を思い出そうとあせった。ブロンドか、栗色《くりいろ》か、それとも黒か? どうしても思い出せなかった。この男の最後の顔が、老人としての顔が、ほかのすべての顔をかき消してしまった。それでも彼は、その男がもっとやせていたことだけは思い出した。声がやわらかで、たびたび花を持ってきたことを、非常にたびたび持ってきたことを、思い出した。ほかでもない父親がしょっちゅうこうくり返していたからである。「また花束ですか! 冗談じゃない、気ちがいざたですよ。バラで破産しますぜ」
マレシャルはこう答える。「ほっといてください。これが好きなんですから」
と、とつぜん母親の声のひびきが、にこやかに笑いながら、「まあありがとうございます」と言っている母親の声が彼の頭を通りぬけた。じつにはっきり、まるで耳ではっきり聞いたような気がしたほどだった。してみれば、たびたびこの言葉を、この三つの言葉を、よほどたびたび口にしたものに相違ない。息子の記憶にこのように刻みこまれるというのは!
ではマレシャルは花を持ってきたのだ。あの男は、金のある男、紳士、おとくいが、この小さな店の主婦に、このささやかな宝石商の細君に、花を持ってきたのだ。愛していたのだろうか? もし女房にほれていなかったとすれば、どうしてこんな商人づれの親友などになったのか? 教育のある、かなり洗練された頭の持主であった。ピエールを相手に幾度詩人や詩について語ったことだろう! もちろん作家たちを芸術家として評価しはしなかった。むやみに感心する俗人として味わうのだった。ドクトルはたびたびこの感激ぶりに微笑をもよおし、少々ばからしいと思うのだった。きょう、彼は、このセンチメンタルな男が決して自分の父親の、あのように現実的な、俗悪な、鈍重な父親、彼にとって「詩」という言葉はばかげたことという意味になるような男の友人には絶対になりえないことがわかった。
してみると、あのマレシャルは、若くて、独身で、金持で、まあ色事なら辞退するいわれがないというしだいで、ある日、偶然、一軒の店へ、おそらくはきれいなおかみさんに注意をひかれて、はいったのである。なにか買物をし、またやってきた。そしてむだ話などをした。一日一日と親しくなり、そして何度も買物をすることによって、この家のなかのいすに腰をおろし、若い細君に笑いかけ、ご亭主の手を握る権利を、まあ買ったわけなのだ。
そして、それから、その後で……その後で……ああ! たまらない……その後でなにをしたのだ?……
彼は長男を、宝石商の息子を、かわいがり愛撫《あいぶ》した。もう一人のが生れるまでは。それから死ぬまでどんな秘密があったかだれにもわからなかった。それから、墓がとじ、肉が分解し、その名が生きている者の名のなかから消され、彼の全存在が永久に消え、なに一つ用心することも、恐れることも、かくすこともなくなったとき、その全財産を二番目の息子にやったのだ!……なぜだろう?……あの男は頭のない男ではなかった……その子が自分の子だということを推定させるかもしれない、いやほとんどまちがいなしに推定されることになるということを予見し理解したはずである。――ではあえて一人の女の名誉を傷つけたわけではないか? もしジャンが自分の息子でもなんでもないのなら、どうしてそんなことができよう?
と、とつぜん、一つの正確な、恐ろしい思い出が、ピエールの心のなかを通りすぎた。マレシャルはブロンドだったのだ。ジャンと同じようにブロンドだったのだ。彼はいま、昔、パリで、自分たちの家の客間の煖炉棚《だんろだな》の上で、微細画の小さな肖像を見たことを思い出した。いまではどこかへ見えなくなっている。どこへ行ったのだろう? なくなったのか、それともかくしたのか? おお! たった一秒でもいいから、それを手にとることができさえすれば! たぶん母親が、愛の遺品《かたみ》などをしまいこんでおく人知れぬ引出しかなにかにだいじにしまったのであろう。
そう考えると同時に、彼の絶望はあまりにも堪《た》えがたくなり、彼は思わずうなり声を発した。あまりにも激しい苦悩のために喉《のど》から無理にひき出されるあの短い嘆声の一つだった。と、とたんに、まるで彼の声を聞きつけでもしたかのように、まるで彼の気持を理解し、それに答えでもするかのように、突堤の警笛が彼のすぐそばでうなり声をあげた。その超自然な怪物のような叫び声、雷よりももっと強くとどろきわたる、風と波の声をかき消すように鳴る、恐ろしい、荒々しいほえ声は、霧のなかに埋まっている見えない海の上の闇《やみ》に鳴りわたった。
すると、霧のなかを通して遠く近く、同じような叫び声が、またしても夜の闇のなかをわきあがった。それは身の毛のよだつような叫び声だった。盲《めしい》になった何|艘《そう》もの大きな船が一斉に発するこの救いを求める声は。
それからまたいっさいが沈黙にかえった。
ピエールは目をあけて、あたりをながめた。うつつのまま見ていた悪夢からさめると、こんなところにいるのにびっくりした。
「おれは気が狂っている」と、彼は考えた。「自分の母親を疑ったりして」と、愛慕と感動と、後悔と、祈りと、せつなさの洪水が彼の胸をひたした。母親ではないか! 自分のように母親をよく知っていながら、どうして疑うことなどができたのだろう? このたかぶらない、貞潔な、忠実な婦人の魂は、その生涯は、水よりもきよらかではないだろうか? この婦人を見、この婦人を知った者は、どうしてこの婦人を疑いなどかけられる女《ひと》ではないと判断せずにいられよう? それだのに、自分が、息子が、この女《ひと》を疑ったのだ! おお! いまこの瞬間に母を両腕に抱くことができたなら、どんなにかやさしく接吻《せつぷん》し、愛撫したことだろう。ひざまずいて許しをこうたことだろう!
母が父親の目をぬすんだのだろうか、あの母が?……父を! たしかに父は世間並みの感心な男である。尊敬に値する、仕事にかけては篤実な男である。しかしその頭はついぞ店の水平線を越えたことがない。どうしてあの婦人が、昔非常に美しかった婦人が――彼はそのことを知っていたし、いまでも見ればわかる――繊細な、愛情にみちた、感激しやすい魂を持って生れた婦人が、どうして、あんなに自分と異なった男を婚約者として、夫として、受けいれたのだろうか?
だがなぜそんなことをたずねるのか? すべての年頃の娘が両親の探してくる金のある男と結婚するように母親も結婚したのだ。二人はすぐにモンマルトル街の店に新居をかまえた。そして若い細君は、勘定台に君臨し、新しい家庭をつくったという気持にはげまされ、パリの大部分の商家の家庭において、恋愛や、ないしはただの愛情のかわりにさえもなる、あの共通の利害という神聖な微妙な感覚に活気づけられて、自分たちの家の財産を築きあげるという希望をめざして、活溌《かつぱつ》な鋭い全知力を働かせて、働きはじめたのだ。そして彼女の生涯はそうやって流れていった。なんの波瀾《はらん》もなく、静かに、公明に、愛の危機もなく!……
愛の危機もなく?――そんなことがありうるだろうか、一人の女が恋愛をしないというようなことが? 若い、美しい女が、パリに住んでおり、書物を読み、舞台の上で愛の激情のために死んでみせる女優に拍手をおくる女が、青春期から老年にいたるまで、ただの一度も、心を動かすことなしに、歩むことができるであろうか? ほかの女だったら彼はとうていそんなことは信じないであろう。なぜ母親についてだけそれを信じようというのか?
たしかに、母親も恋愛をすることができたはずだ、ほかの女と同じように! 母親であるからといって、なぜほかの女と異なっていなければならないのか?
母は若かったのだ。若い者の心をかき乱す詩的な脆弱《ぜいじやく》さをことごとく身につけて! 俗悪な、いつも商売の話ばかりしている夫のそばで、店のなかにとじこめられ、監禁されて、彼女は月明りを、旅を、宵闇《よいやみ》のなかでかわされる接吻を、夢みたのだ。と、それから、一人の男が、ある日、小説のなかに書いてある恋人がはいってくるようにはいってきたのだ。そして男は小説のなかの恋人のような話をしたのだ。
彼女はその男を愛した。なぜそうでないということがあるのか? 母親ではないか! それがどうしたというのか! ことが母親に関しているからといって、明白なことをしりぞけるほど盲に愚鈍にならなければならないのか?
身をまかせたのだろうか?……もちろんそうだ。あの男はほかに女をもたなかったのだから。――もちろんそれに決っている。遠く離れてしまい、年をとってしまった女に実《じつ》を立てとおしたのだから。――もちろんそうだ。全財産をその息子に、二人の間にできた息子に遺したのだから!……
と、ピエールは立ちあがった。怒りにふるえ、だれかを殺してやりたいくらいだった! さしのべられた腕は、大きくひらかれた手は、なぐりたい、傷をつけてやりたい、もみつぶしてやりたい、絞め殺してやりたい気持にうずうずした。だれを? だれもかれもを。父親を、弟を、死んだあの男を、母を!
彼は駆けだして家へひきかえした。なにをしようというのか?
信号柱のそばの小さな塔の前を通ったとき、つんざくような警笛の声が、まともに彼の顔にぶつかった。ピエールの驚きはあまりにも激しかったので、あやうく倒れそうになり、思わず花崗岩《かこうがん》の手すりのところまで後しざりしたほどだった。彼はそこにぺったりと腰をおろした。この感動にくたくたになり、もう立っている力がなかった。
いちばん最初にこれに答えた汽船はすぐ近くにいるように思われた。港の入口にさしかかっているのだった。ちょうど上げ潮になっていたのである。
ピエールはふり返った。そして、霧にぼかされているその赤い目を認めた。それから、港の電灯のぼーっとした灯の下に、大きな真っ黒な影が、二つの突堤の間に浮びあがった。ピエールの背後で、見張人の声が、引退した老船長らしいしゃがれ声が、こうどなった。
――船名?
すると霧のなかで、甲板《かんぱん》に立っている水先案内の、同じくしゃがれた声が、答えた。
――〈サンタ・ルチア〉
――国籍?
――イタリア。
――港?
――ナポリ。
と、ピエールは、もうろうとかすんでいる自分の目の前に、ヴェスヴィアスの噴火の煙が見えるような気がした。火山のふもとにはほたるが、ソレントやカステラマーレのオレンジの木のしげみのなかを飛びまわっている! 幾度彼はこうした親しい名前を夢みたことだろう。まるでその景色を見て知っているかのように。おお! このまま行ってしまうことができたなら! すぐに、どこへでも。そして二度と帰ってこない、手紙も書かない、自分の身がどうなったか絶対に知らせない! いやだめだ。帰らなければならない。家へ帰って、自分の寝床にもぐりこまなければならない。
だめでもしかたがない。帰るものか。夜明けまで待とう。霧笛の音は彼の気にいった。彼はふたたび立ちあがって、甲板の上で当直勤務をする士官のように歩きはじめた。
別の一艘の船が最初の船の後から近づいてきた。途方もなく大きく、正体がわかりかねた。インドから帰航の途中のイギリス船だった。
なお数艘がはいってくるのを彼は認めた。見とおしのきかない闇のなかから次々にぬっと出てくる。それから、霧の湿気でやりきれなくなったので、ピエールはまた町のほうへひきかえしはじめた。あまり冷えてきたので、彼はグロッグを一杯ひっかけるために水夫たちを常連にしている一軒のカフェにはいった。熱いぴりぴりするブランデーが口蓋《こうがい》と喉《のど》を焼くとはじめて、彼は希望がふたたび身中《みうち》にわいてくるのを感じた。
ことによったら、自分が思いちがいをしたのかもしれない? 自分でよく経験して知っている。自分の途方もない空想癖は! 疑いもなく自分がまちがったのだ! 罪があると思いさえすれば、やすやすと罪に落すことのできる無実の人間に対して検事が論告をやるように証拠を積みあげたのだ。眠って起きれば、まったく別な考え方をするようになるだろう。そこで彼は寝るために家へ帰った。そして眠ろう眠ろうとつとめたあげく、とうとう眠りにおちた。
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しかし、ドクトルのからだはわずかに一、二時間落ちつきのない睡眠のなかに落ちこんだばかりだった。しめきった暑い寝室の暗がりのなかで、目がさめたとき、頭の働きがふたたび活動を始めるよりはやく、彼はあの苦しい圧迫を、不愉快な気分のままで眠ったとき、あとに残るあの魂の落ちつきなさを感じた。きのうはただその衝突にどんと突きあたっただけの不幸が、われわれの休息している間に、肉体のなかにしのびこみ、なにかの熱病のように肉体を疲らせ、もみくちゃにするように思われる。やにわに記憶がよみがえり、彼は寝台の上にすわりなおした。
と、彼は、ゆっくり、一つ一つ、例の霧笛がうなりをあげているあいだじゅう突堤の上で彼の胸をしめつけた推理を全部、もう一度くり返した。考えれば考えるほど、疑いの余地はなくなってきた。彼は自分の論理にぐいぐい引っぱられるのを感じた。引きよせて喉をしめるなにかの手に引っぱられるように。許す余地のない確実さの淵《ふち》のほうへ。
喉がかわいて、暑かった。心臓がどきどき鼓動をうっていた。窓をあけて息を入れようと思って立ちあがった。と、立ちあがってみると、かすかな物音が壁ごしに彼のところまで伝わってきた。
ジャンが静かに眠っているのだった。おだやかにいびきをかいているのだった。眠っている、弟は! なんにも感じなかったのだ。なんにも推察しなかったのだ! 自分たちの母親と知りあいだった一人の男が彼に全財産を遺《のこ》した。彼はその金を受取り、それをあたりまえのこと正当なことと思っている。
兄が苦悩と絶望にあえいでいるのも知らず、たんまり金を握り満足しきって、眠っているのだ。と、この心配もなくいい気持に満足していびきをかいている男に対する怒りが兄の身中《みうち》にこみあげてきた。
これがきのうなら、弟の部屋の戸をたたき、ずかずかはいりこみ、寝台のそばに腰かけて、いきなり目をさまさせられたためにどぎまぎしている弟に向って、こう言ってやったであろう。「ジャン、おまえはあの遺贈を受取ってはならんぞ。明日からぼくたちのお母さんに疑いをかけさせ、お母さんの名誉を傷つけるかもしれないようなあんなものを」
だがきょうはもうものを言う力がなかった。ジャンに向っておまえをぼくたちのお父さんの息子だと思っていないぞ、と言うことはできなかった。いまとなっては、自分によって発見されたこの恥を、自分の胸一つにうずめ、しまいこまなければならない。この見つかった汚辱をすべての人の目からかくさなければならない。だれも発見してはならない。弟さえも、いやだれよりも弟が発見してはならない。
いまではもう世間の人がどう思うかということに対するむなしい考慮などほとんど念頭になかった。すべての人が母親を責めてもかまわない。自分さえ、自分一人さえ、母親が潔白だということを知りえたなら! 毎日母親のそばで暮し、そして母親の顔をながめながら、どこかよその男の愛撫《あいぶ》で弟を生んだのだ、と思う、どうしてそんなことが耐えられよう?
それにしてもなんと母はわだかまりがなく落ちつきはらっていることだろう。なんと心配事など一つもない、といったふうに見えることだろう! 母のような女が、きよらかな魂とまっすぐな心をめぐまれた女が、情熱にひきずられて、いったん落ちてから、あとになって、後悔の念が、乱された良心の思い出が少しも現われずにいられる。そんなことがありうるだろうか?
ああ! 後悔! 後悔! この気持が、昔、初めのころ、さぞかし彼女を苦しめたに相違ないのだ。それから自然に消えたのだ。すべてのものが消えるように。確かに、彼女は自分の過失に涙を流した。それから、少しずつ、ほとんど忘れてしまったのだ。すべての女が、一人のこらず、このすばらしい忘却の能力を持っていないだろうか? くちびるも肉体もあげて愛撫にまかせた男を、数年後に、ほとんど見おぼえのないくらいに思わせるあの忘却の能力を? 愛撫は雷のごとく打ち、情事はあらしのごとく過ぎる。そのあとで、生活が、ふたたび、空と同じく平静にかえる。そして何事もなかった前と同じように、ふたたび流れはじめる。ひとは雨雲を覚えていて、思い出すだろうか。
ピエールはもう自分の部屋にじっとしていることができなかった! この家が、自分の父親の家が彼を押しつぶした。屋根が頭の上にのしかかり、壁が息をつまらせるのを感じた。ひどく喉がかわいていたので、台所の蛇口《じやぐち》から冷たい水を一杯飲みにゆくために、ロウソクをとぼした。
階段を二つおり、それから、水差しにいっぱいみたしてまたのぼってゆく途中、風の通っている階段の上に、シャツ一枚の姿で腰をおろした。そして、コップなしで、走って息のきれた人のように、ごくごく喉を鳴らして飲んだ。いままで動いていたのをやめたとき、この家の静けさが彼の胸をついた。それから、一つずつ、その静けさのなかからじつに小さな物音が聞きわけられた。最初が食堂の柱時計だった。そのかちかちと時を刻む音が彼には一秒ごとに高まるように思えた。それからまたいびきの音が聞えた。短い、苦しげな、聞きづらい老人のいびきだった。むろん父親のいびきだった。と、彼は、まるでその考えがたったいま彼の身中《みうち》からほとばしり出たかのように、この同じすまいのなかでいびきをかいている二人の男が、父親と息子とが互いになんでもないのだ! という考えに胸をしぼられた。どんな絆《きずな》も、どんなささやかな絆も、二人を結びつけてはいないのだ。しかも二人はそれを知らないでいる! 二人は愛情を感じて話しあい、抱擁しあい、同じ事柄をいっしょになって感動し、喜んでいる。まるで同じ血が彼らの血管のなかを流れているかのように! しかも世界の両端で生れた二人の人間もおよばないほどこの父とこの息子は互いになんの関係もないのだ。二人は愛しあっているつもりでいる。作りごとが二人のあいだで大きくなったからだ。この父の愛と息子の愛を生れさせたのは一つの作りごとである。あばくことのできない嘘《うそ》である。彼よりほかには、真実の息子よりほかには、だれにも知らせてはならない嘘である。
でも、でも、もし自分がまちがっていたら? どうしたらそれがわかるだろう? ああ! もしおもかげに似たところが、どんなかすかな点でもかまわない、父親とジャンとのあいだに存在してさえいれば文句はない。祖父から曽孫《そうそん》にまで伝わるあの説明のつかない相似が、一族ことごとくが同じ愛撫から直接に出てきているという事実を示すあの相似が。このことを認めるのに、医者である自分にとっては、ほんのわずかな点だけでたくさんのはずである。あごの形とか、鼻の曲線とか、目と目のあいだの距離とか、歯や毛の質とか、いやそれよりもっとささいなことでもいい。身ぶりでも、くせでも、しぐさでも、親ゆずりと言われる趣味でも、なんでもいい、熟練をつんだ目には十分特徴的なものとして映るなにかのしるしがあればよい。
彼は探してみた。そしてなにも思い出せなかった。まったく、なにも。だがいままでの見方が悪かったのだ。観察のしかたが足りなかったのだ。こんな見えるか見えないくらいの徴候をわざわざ発見するなんの理由もなかったのだから。
彼は部屋へかえるために立ちあがった。そして、のろのろと、相変らず考えにふけりながら、階段をのぼりはじめた。弟の部屋の戸の前を通りながら、彼はぴたりと立ちどまった。手をさしのべて戸をあけるばかりの姿勢をしながら。すぐにジャンの顔を見たいという矢も楯《たて》もたまらぬ気持が身中《みうち》にわきあがってきたのである。ゆっくりながめてやりたい。眠っているあいだに、平静にかえった顔が、緊張のゆるんだ顔の造作が、休息している間に、生活の仮面がことごとく形を消している間に、ゆっくりながめるのだ。そうすれば、弟の容貌《ようぼう》の眠っている秘密をつかめるだろう。そしてもしなにか相似が存在していれば、それが目につくほどならば、見のがすはずはないであろう。
しかしもしジャンが目をさましたら、なんと言おう?
彼は、ドアの把手《とつて》をつかんだ指をひきつらせ、りくつを、口実を、探しながら、じっと立ちすくんでいた。
と、とつぜん、一週間前、歯痛をとめるためにアヘン剤の小びんを弟に貸してやったことを思い出した。自分でも、今夜、痛くなり、薬を返してもらいにきたことにすればいい。そこで彼は部屋のなかへはいった。だが、泥棒のような、しのび足で。
ジャンは、口を半分あけて、動物のようなふかい眠りにおちていた。ブロンドのほおひげと髪が白い敷布の上に金色の斑点《はんてん》を浮き出させていた。目はさまさなかったが、いびきをかくのをやめた。
ピエールは、弟のほうへかがみこんで、むさぼるようにじっとながめた。だめだった。この青年の顔はロランには似ていなかった。と、これで二度目だったが、見えなくなったマレシャルの小さな肖像のことが彼の胸に浮んだ。どうしてもあれを見つけ出さなければならない! あれを見さえすれば、たぶん、もう疑うことはないであろう。
弟が身うごきをした。きっと彼のいることが安眠をさまたげたのだ。さもなければ彼の持っているロウソクの光がまぶたをとおすのでじゃまされたのだ。そこでドクトルは、抜き足で、戸口のほうへ後しざりをし、その戸を音をたてずにまたしめた。それから、部屋へかえったが、寝床へははいらなかった。
夜はなかなか明けなかった。時刻が、次々に、食堂の柱時計でうった。この時計の音色《ねいろ》は奥深い荘重《そうちよう》なひびきを持っていた。まるでこの小さな時計という道具のなかに大伽藍《だいがらん》の鐘がのみこまれているかのように。それは、がらんとした階段をのぼり、壁や戸を突きぬけ、部屋の奥に眠っている人々の働きのとまっている耳のなかへ吸いこまれて消える。ピエールは、寝台から窓のところまで、部屋のなかを縦横に歩き始めた。どうしたらいいだろう? この一日を家族のなかで過すにはあまりに気持が顛倒《てんとう》しているのを感じた。もう少し一人でいたかった。せめて明日までくらいは。よく考えるために。気分を落ちつけ、また始めなければならない毎日の生活のための力をつけるために。
よし! トルゥヴィルへ行こう。たくさんの人々が砂浜の上にうようよしているところをながめにゆこう。それは気をまぎらせてくれるだろう。頭の空気を転換させ、自分の発見したおそるべき事柄に対し自分の気持を準備する時間を与えてくれるだろう。
白々と夜が明けそめるがはやいか、彼は身じまいをし、着物を着かえた。霧は跡かたもなく晴れ、上天気だった。すばらしい上天気だった。トルゥヴィル行きの船は九時でなければ出港しないので、ドクトルは出かける前に母親に接吻《せつぷん》しないわけにはいくまいと思ってみた。
毎日母親の起きる時刻まで待った。それから下へおりていった。母親の部屋の戸にさわりながら心臓があまりに激しく鼓動したので、息を入れるために彼は立ちどまった。把手の上にかけられた彼の手は、力がぬけ、ぶるぶるふるえていた。ほとんど把手をまわしてなかへはいるわずかな努力ができないくらいだった。彼はノックした。母親の声でなかからこうきいた。
――だれ?
――ぼくです、ピエールです。
――何ご用なの?
――きょう一日友だちといっしょにトルゥヴィルへ行って遊んできますのでごあいさつをしようと思って。
――だってわたしはまだ寝ていますよ。
――じゃ、無理にお起きにならないでください。夕方、帰ってきてからごあいさつしますから。
彼は母親を見ずに出かけられると思った。母親のほおにいつわりの接吻を押しつけなくてすめばありがたい。それは思っただけで吐き気をもよおさせた。
しかし母親は答えた。
――ちょっとお待ち、いまあけますから。わたしが寝床へかえるまで待ってちょうだい。
母親の素足が嵌木床《はめぎゆか》の上をすべる音が聞えた。それからドアのかんぬきのすべる音が。母親が大きな声でこう言った。
――おはいり。
彼ははいった。母親は寝台の上にすわっていた。一方、そのそばに、ロランが頭に絹のハンカチを巻いたかっこうで壁のほうを向き、頑強《がんきよう》に眠りをむさぼっていた。腕を引っこぬくほど激しくゆすぶらないかぎりどんなことをしてもこの老人を起すことはできないのだった。釣りに出かける日は、それは女中の役目だった。約束の時間に水夫のパパグリに呼鈴で起してもらって、それから主人をこのどうにもしまつにおえない休息から引っぱり出すのだった。
ピエールは、母親のほうに進みよりながら、じっとその顔をながめた。と、いきなり、いままで一度も見たことのない顔のような気がした。
母親は息子に両ほおをさし出した。彼はくちびるを二度押しつけ、それから低いいすの上に腰をおろした。
――ゆうべ決めたの、この遠出のことは?
――ええ、ゆうべです。
――晩ご飯にはお帰りだろうね?
――まだわかりません。とにかく、待たないでください。
彼はあっけにとられた好奇心で母親の顔をしげしげとながめた。これが自分の母親だ、この女が! 子供のときから見てきた、彼の目が物を見わけることができるようになって以来見てきた、この顔が、この微笑が、あのようによく知っている、あのように親しい声が、突如としてまるで新しいものとして、いままで彼にとって存在していたものと別なものとして現われたのである。いま、彼は理解した。母親を愛していながら、母親を一度も注視したことのなかったことを。とはいえこれはたしかに母親だった。この顔のどんな細部でも知らないところはなかった。だがその小さな細部をいま初めてはっきり認めたのだった。不安にかられている彼の注意力が、この愛する顔を隅々《すみずみ》までさぐり、いままで一度も発見したことのない風貌《ふうぼう》をもった別個のものとして彼にその存在を知らせたのだ。
彼は出かけるために立ちあがった。それから、とつぜんきのう以来心をかんでいる知りたいというおさえがたい欲望に負けて、こう言った。
――ねえ、母さん、以前、パリで、うちの客間に、マレシャルの小さな肖像画があったことを覚えているような気がするんだけれど。
母親は一、二秒ためらった。あるいは少なくとも彼は母親がためらっているように思った。それから母親はこう言った。
――そうそう。
――どうなったでしょうね。あの肖像は?
こんども、もっとはやく答えられそうなものだ、と彼は思った。
――あの肖像と……ちょっとお待ち……よく覚えていないね……ことによったらわたしの引出し箱のなかにあるかもしれない。
――見つけてくださるといいと思いますね。
――ええ、探してみましょう。でもなぜあれがいるの?
――いやあ! ぼくのためではありませんよ。ジャンにやるのがいちばん自然だと思ったのです。ジャンだって喜ぶでしょうし。
――そう、おまえの言うとおりですね。それはいい考えです。起きたらすぐに探しましょう。
そこで彼は部屋の外に出た。
そよとの風もない、青く晴れわたった日だった。往来を通る人々も晴れやかな顔をしているように思えた。商売へ急ぐ商人、事務所へ出勤する事務員、店勤めに出かける若い娘たち。なかには晴れわたった陽《ひ》の光に心が浮きたって、歌なんかうたっているものもあった。
トルゥヴィル行きの船の上には、はやくも船客たちが乗りこんでいた。ピエールは、ずっと艫《とも》のほうの、木の腰かけに腰をおろした。
彼はこう自分にきいてみた。
――母さんは肖像のことをきかれて不安になったろうか、それともただ驚いただけだったろうか、なくしたのか? それともかくしたのか? どこにあるか知っているだろうか、それとも知らないのだろうか、かくしたとしたら、なぜだろう?
と、彼の頭は、推論から推論へと、いつまでも同じ歩みをたどりながら、次の結論をくだした。
肖像は、友人の肖像は、いや情人の肖像は、客間の人目につく場所におかれていたのだ。女が、母親が、初めてだれよりもはやく、この肖像が自分の息子に似ていることに気がついたその日までは。疑いもなく、ずっと前から、彼女はこの相似が現われはしないかと気にして見ていたのだ。それから、それを発見したので、だんだん現われてくるのを見、いつかは、ほかの人にも同じように目につくかもしれない、ということをさとったので、ある晩、この恐るべき小さな絵を取りはらって、かくしたのだ。まさか破ってしまう勇気はなかったので。
と、ピエールは、いま、はっきり思い出した。あの微細画はずっと前から、自分たちがパリをひきはらうずっと前から見えなくなっていたのだ! それは、ジャンのほおひげがのびはじめて、とつぜん額縁のなかで微笑しているブロンドの青年にそっくりに見えるようになったときから見えなくなったのだ。そう彼には思われてきた。
動きだした船の動揺が彼の考えを乱し、ちりぢりに散らせた。そこで、立ちあがって、海をながめた。
小さな汽船は突堤を離れると、左にまわり、あえぎ、息をきらせ、こまかくふるえながら、朝もやのなかにかすんでいるのが見える遠い岸をめざしてゆく。ところどころ平らな海の上にどっしりと動かぬ漁船の赤い帆が、海のなかから突き出ている大きな岩のような様子をしている。と、ルーアンから下《しも》のセーヌ河は、隣り合った二つの陸地を分けている太い海の腕のように見えた。
一時間たらずでトルゥヴィルの港に着いた。海水浴の季節だったので、ピエールはすぐ砂浜のほうへ行ってみた。
遠くから見ると、目のさめるような花のいっぱい咲き乱れた細長い庭のように見えた。突堤から「黒岩《ローシユ・ノワール》」のところまで、黄色い大きな砂丘の上に、あらゆる色の日傘《ひがさ》が、あらゆる形の帽子が、千差万別の身支度《みじたく》が、脱衣場の前にかたまり、波うちぎわにそうて並び、ないしはあちらこちらに散って、文字どおり果てしのない野原のなかの巨大な花のかたまりにそっくりだ。それに混沌《こんとん》とした物音が、軽やかな空気のなかにまきちらされる人影のつくりだす近いと思えば遠い騒音が、呼びかわす声が、水のなかにつけてもらってきゃっきゃっと叫ぶ子供の声が、女たちの澄んだ笑い声が、とだえることのないやわらかなざわめきをかもしだし、それがあるかなきかの風にまじって、人は空気といっしょにそれを吸いこむ。
ピエールはその人々のあいだを歩いていった。沖合い百海里の所で、船の甲板《かんぱん》から海に投げこまれたよりも、もっと救いのない気持だった。もっとこの人たちとつながりがなく、もっと一人ぼっちだった。もっと胸をしめつける自分の考えにひたりきっていた。すれちがいざまにその人たちのからだにさわった。なにか言っている言葉が、聞くつもりでなく、耳にはいった。そして、見るつもりでなく、男たちが女たちに話しかけ、女たちが男たちに笑いかけているのが見えた。
が、いきなり、まるで目がさめたように、その人たちの姿がはっきり見えた。と、彼らに対する憎悪《ぞうお》が身中《みうち》にわきあがってきた。ほかでもない、彼らは幸福でみちたりているように見えた。
彼はいま、この人々の群れにさわり、そのまわりをまわりながら、別な考えにとらえられて、歩いていった。花束のように砂浜をおおうているこの千紫万紅のおしゃれが、このきれいな着物が、はでなこの日傘が、きっちりと海水着でしめつけた腰のわざとらしさが、かわいらしい海水靴から思いきって大胆な帽子にいたるまでの流行のあらゆる奇抜な考案が、身ぶりや声や微笑の誘惑が、要するにこの海岸にくりひろげられている女の媚態《びたい》が、彼の目に、突如として、女性の邪悪のはなばなしい開花として映った。この着かざった女たちはことごとく、気にいろうとしているのだ。誘惑しようとしているのだ。だれかを迷わせようとしているのだ。彼女たちは美しくよそおっている。男のために。すべての男のために、ただしもはや征服する必要のないご亭主だけをのぞいて。きょうの恋人のために、そしてあすの恋人のために、いきなり出あった見知らぬ男のために、目についた、いやおそらく待ちのぞんでいた見知らぬ男のために、美しくよそおっているのだ。
そして、この男たちは、彼女たちの傍《そば》にすわり、目と目を見かわし、口と口をつけんばかりに寄せてものを言い、彼女たちを呼び、彼女たちを求めている。すぐ手のとどくところにいてじつにとらえやすそうに見えながら、するりとすり抜ける獲物を追うように追っかけている。だからこの広い砂浜は恋の市場にほかならないのだ。あるものはそこで自分のからだを売り、あるものはただで提供している。自分たちの愛撫の値段のかけひきをしているものがあるかと思うと、約束だけをしてお預けをくわせるのもいる。この女たちは全部同じことしか考えていない。すでにほかの男に約束し、売り、与えた自分たちの肉を、なお提供し、望ませよう、ということだけしか考えていない。そして彼はこの地方ではどこも、いつでも同じことなのだ、と思ってみた。
母もほかの女たちと同じことをしたのだ。それだけのことだ! ほかの女たちと同じこと?――待て! 例外がある。いくらでも、たくさん例外がある! いま自分のまわりにいる女たちは、金のある連中、浮気な連中、恋をあさり歩く連中であるが、要するに趣味の洗練をほこる社交界の色事をする女たちであり、ないしは真実料金を取る色事をする連中ではないか。この有閑人の一団によって踏みあらされている砂浜の上では、家のなかにじっととじこもっているものがたい女たちの群れに出あうことはないのだから。
潮があげてきた。浴客の第一線をしだいに町のほうへ追いながら。かたまっている連中がいそいで立ちあがり、いすをかかえて、白い泡の小さなレースに縁どられて押しよせてくる黄色い波の前を、逃げだすのが見えた。車のついている脱衣場にも、馬がつけられて、同じく引きあげはじめた。海岸の端から端までついている散歩道の板の上を、いま、美々しい群衆のたえまのない、密集した、緩慢な流れがひじを突きあい、まじり合う、反対の方向に流れる二つの潮流をつくっていた。ピエールは、この接触に腹がたち、いらいらして、逃げだし、町へ逃げこみ、郊外に近い簡単な酒を飲ませる店で昼飯をとるために立ちどまった。
コーヒーを飲みおわると、彼は戸口の前にいすを二つ並べてその上に寝ころんだ。昨夜ほとんど寝ていないので、菩提樹《ぼだいじゆ》の木かげになっているのをさいわい、ひと寝入りした。
二、三時間休んだあとで、眠気をふるいおとすように元気をだして起きてみると、帰りの汽船に乗りおくれないためにはもう引きあげなければならない時間になっているのに気がついた。そこで彼は出かけた。うとうとしているまにいきなり襲ってきた疲労に気がめいっていた。いま彼は一刻もはやく帰りたかった。母親がマレシャルの肖像を見つけたかどうか知りたかった。母親のほうから先に言いだすだろうか、それともまたあらためてこっちからきかなければならないだろうか? もう一度ひとがたずねるまで言いださないとすると、たしかに、あの肖像をひとに見せてはならない秘密があることになる。
だが帰宅して自分の部屋へはいってみると、晩餐《ばんさん》に下へおりてゆくのが躊躇《ちゆうちよ》された。あまりに苦しかった。煮えかえっている彼の胸はまだ静まる時間がなかった。それでもようやく心を決して、みんながちょうど食卓についたところへ食堂に現われた。
楽しげな様子が一同の顔を生き生きと輝かせていた。
――どうだ! 進んでいるかい、おまえたちの買物というのは? わしは、全部そろってすえつけがすむまでは見たくないて。こう言ったのはロランだった。
細君が答えた。
――そりゃ、進んでいますとも、ただ不釣合いなものを背負いこまないようにずいぶん考えぬかなくちゃなりませんもの。家具の問題がいちばん気がかりですよ。
母はきょう一日ジャンを連れて敷物屋や家具店を見てまわるのに過した、と言うのである。豪華な布地のものがほしい。少し豪華すぎてもかまわない、人目をひくように、と言うのだった。息子は、反対に、なにか簡単ですっきりしたものがいい、と言うのだった。そこで、いかがでしょうとさし出される見本を前にして、そのたびに母子は、どちらも、自説をくり返したと言うのである。母親の主張は、おとくいが、訴訟依頼人が、まずこれはたいしたものだという印象をうける必要がある、待合室に足を踏み入れたとたん、金まわりのいい家だという感じを深くうけなければならない、と言うのだった。
ジャンは、反対に、金があってしかも上品な顧客だけをひきつけようという希望で、自分のひかえめなあぶなげのない趣味で、洗練された人々の心をとらえよう、と言うのだった。
そして、一日つづいていたこの議論が、食事が始まるといっしょにまた始まった。
ロランには意見はなかった。老人はなんどもこうくり返した。
――わしは、なんにも聞きたくない。できあがったら見にゆく。
ロラン夫人が長男の意見に助力を求めた。
――ねえ、おまえ、ピエールや、おまえはどうお考えだい?
彼はあまりに神経がいらだっていたので、なにかひどい言葉で答えてやりたい気持がおさえきれないほどだった。それでも彼はそっけない調子でこう答えただけだった。その声のなかに彼のいらだちがぴりぴりふるえていた。
――いやあ! ぼくですか。ぼくならジャンとまったく同意見ですよ。ぼくは簡素ということだけしか好みません。これは趣味をうんぬんする場合には、性格をうんぬんする場合のまっすぐということに比較さるべきものですからね。
母親がこう言葉をつづけた。
――だって考えてごらん、わたしたちは商売人の町に住んでいるのですよ。上趣味ということは通用しませんよ。
ピエールは答えた。
――それがどうしたというのです? ばかのまねをする理由になりますか? 同じ土地の者がばかだったり不正直だったりしたとて、わたしがその人たちのまねをする必要があるでしょうか? 近所の女たちが情人を持っているという理由で女は道にはずれたことをしてもいいわけのものではないでしょう。
ジャンが笑いだした。
――モラリストの金言集のなかからとってきたような比較論法ですね。
ピエールは言い返さなかった。母親と弟はまた布地や肘掛《ひじかけ》いすの話を始めた。
彼は、けさ、トルゥヴィルへ出かける前に、母親の顔をながめたときのように、三人をながめた。じっと観察する他人としてながめた。と、じっさい、見ずしらずの家庭にいきなりはいったような気持になった。
父親が、とくに、彼の目と頭を驚かせた。この太った男、ぶよぶよした、不足のなさそうな顔をした、この鈍物が、自分の父親なのだ、この自分の! ちがう、断じてちがう、ジャンは少しもこの男に似てはいない。
自分の家族! 二日前から、見知らぬ、悪いことをする手が、死人の手が、この四人を互いに結びつけていた絆《きずな》を全部、一つ一つ、取りのぞき、断ったのだ。もうだめになった。こわれてしまった。もう母親というようなものはいない。なぜと問うまでもない。彼はもはや母親を愛することができないのだ。息子の心に必要な、愛情のこもった孝心のあふれた、絶対の尊敬で母親を尊敬することができないのだから。弟もいない。この弟も他人の子なのだから。もはや父親しか残されていない。この太っちょの男しか、好きになろうと思っても好きになれないこの男しか、残っていないのだ。
と、いきなりこう言ってみた。
――ねえ、母さん、あの肖像は見つかりましたか? 母親は驚いたような目を大きくして見せた。
――肖像って、なんの肖像?
――マレシャルの肖像ですよ。
――いいえ……というのはつまりええというのも同じことだけど……まだ見つけはしないけれど、どこにあるかわかっているような気がするのですよ。
――なにかね、いったい? と、ロランがきいた。
ピエールが父親にこう説明した。
――マレシャルの小さな肖像画ですよ。昔パリの家《うち》の客間にあったあれですよ。ジャンがもらったら喜ぶだろうと思ったのです。
ロランが思わずいきおいこんでこう言った。
――そうだ、そうだ。よく覚えているぞ。それどころか先週の末頃だったか見たぞ。母さんが書類の整理をしていながら引出し箱から引っぱりだしたのだ。木曜日か金曜日だった。ルイーズ、おまえは覚えているだろう? おれがちょうどひげをそっている最中に、おまえが引出しのなかから取上げて、そばのいすの上にのせたのさ。手紙の束といっしょに。ほら手紙を半分燃したじゃないか。どうだい? こいつはふしぎじゃないか? ジャンが遺産をもらうわずか二、三日前におまえがあの肖像にさわったというのは? 虫の知らせなんてものを信じるとすれば、これなんかまあ確かにそれだね!
ロラン夫人は落ちつきはらって答えた。
――そう、そう。ある場所はわかっていますわ。あとですぐとってきましょう。
では母は嘘《うそ》をついたのだ! けさもけさ、あの微細画がどうなったかときいた息子に向って、「よくは覚えていないけれど……ことによったら引出し箱のなかへ入れたかもしれない」と答えたとき、明らかに嘘をついたのだ。
ほんの四、五日前に自分の目で見、手でさわり、動かしたのだ。それからまた秘密の引出しにかくしたのだ。手紙と、その男の手紙といっしょに。
ピエールはじっと母親を見つめていた。嘘をついた母親を。あざむかれた息子、神聖な愛情においてぬすみを受けた息子の激怒で、ながいあいだ盲目にされていたあげく、ついに恥ずべき裏切りを発見した男の嫉妬《しつと》で、母親を見つめていた。もしも自分が、息子である自分が、この女の夫だったなら、この女の手くびを、肩を、いや髪の毛を引っつかんで、床の上に引きずりたおし、殴《なぐ》り、めちゃくちゃに小突きまわし、踏みつぶすであろう! しかもいまなにもいうことができないのだ。なにをすることも、なにを示すことも、なにを明かすこともできないのだ。彼は息子だった。なにも復讐《ふくしゆう》をする理由はなかった。自分は。自分があざむかれたのではないのだから。
いや確かにあざむかれた。彼女はその愛情において彼をあざむいたのだ。孝心のあふれた尊敬において彼をあざむいたのだ。息子の目から見て、一点の非のうちどころのない人でいる義務がある。すべての母親が子供に対してそうでなければならぬように。彼の胸をわきたたせている激怒がほとんど憎悪《ぞうお》に達しているとすれば、それは彼が母を父自身に対してより自分自身に対して、より罪のあるものと感じている、ということである。
男と女とのあいだの愛は任意の契約であり、その関係において契約不履行におちいるものはたんに不信という点で責められるべきものにすぎない。しかし女が母となった場合、その義務は増大してくる。自然が種族を彼女に委託しているのだから。その場合彼女が義務に堪《た》えないなら、卑怯《ひきよう》であり、名をけがすものであり、言語道断の汚辱である。
――なんと言ったって。と、いきなりロランが食卓の下で両|脚《あし》をのばしながら――これは毎晩黒すぐり酒をちびりちびり楽しむときのしぐさであるが――言いだした。まあなんと言ったってちょっとした財産があってなにもせずに暮しているのは悪くないな。これからは、ジャンにときどき飛切りのごちそうをしてもらうぞ。なあに、ときに腹痛《はらいた》をおこしたってかまわんて。
それから細君のほうをふり向いて、
――おい、その肖像をとりに行ってこい。おまえ飯はすんだじゃないか。おれもそいつが見たいわ。
母親は立ちあがり、ロウソクを手に持って、出ていった。それから、彼女の中座した時間は、じっさいはたった三分ぐらいなのに、ピエールにはずいぶんながく思われたが、やがてロラン夫人は、にこにこしながら、昔風の形の金メッキをした額縁を環のところを持ってぶらさげながら、帰ってきた。
――ほら、これですよ。すぐ見つかりましたよ。
ドクトルが、最初に、手をさし出した。肖像を受取り、腕をのばし、少し離すようにして、じっとあらためた。それから、母親が自分のほうをながめているのを十分意識しながら、おもむろに目をあげて弟のほうに視線を移し、比較しようとした。と、思わずわけのわからぬ激しいものに胸をつかれて、あやうくこう言おうとした。
「あっ、これはジャンに似ている」さすがにこの恐ろしい言葉は口にしなかったけれど、彼は自分の思っていることを、描かれた顔と生きている顔を比較しているそのしぐさで現わした。
この二つは、たしかに共通の特色を持っていた。同じ形のひげ、同じ形の額。しかし、「なるほどこっちが父親で、こっちが息子だ」と言いきることを許すほど判然としたものはなにもなかった。それはむしろ同じ一族にどこか共通な風貌《ふうぼう》、同じ血が流れていることによってひきおこされる容貌の親近性といったようなものだった。ところで、ピエールにとって、この二つの顔の様子よりもっと決定的だったのは、母親の態度だった。立ちあがって向うを向き、砂糖と黒すぐり酒を戸棚《とだな》のなかにしまうようなふりをして、必要以上にぐずぐずしていることだった。
母は自分が知っているということを、少なくとも疑っているということを了解したのだ!
――おいこっちへよこせ。と、ロランが言った。
ピエールは微細画をさし出した。と、父親は、もっとよく見ようとして、ロウソクを引きよせた。
それから胸が迫ったといった声でこうつぶやいた。
――かわいそうにな! おれたちと知りあいになったときはこんな様子をしていたんだからな。畜生! 年をとるのははやいもんだ! なんと言っても、いい男だったな、あの時分は。それに、じつに当りのいい男でね。なあ。ルイーズ?
細君が返事をしないので、老人はまた言葉をつづけた。
――それになんて気だての落ちついた男だったろうな! 一度も機嫌《きげん》を悪くしているのを見たことがないて。いやはや、それも昔さ、いっさい空でなに一つ遺《のこ》っちゃいない……ジャンに遺してくれたもののほかはな。とにかく、これだけは断言できるよ、あの男は最後までりっぱな友人として忠実な人間としてふるまってくれたよ。死ぬまぎわでもおれたちのことを忘れなかったのだからな。
こんどは、ジャンが手をのばして肖像を受取った。しばらくながめてから、残念そうに、こう言った。
――ぼくにはちっとも見覚えがない。頭が真っ白になっているあの人しか思い出せない。
そういって彼は肖像画を母のほうへ返した。母親はそれにちらりとすばやい一瞥《いちべつ》をくれ、すぐにその目をそらせた。それはおびえているように見えた。それからいつもと少しも変らぬ声でこう言った。
――ジャンや、それはきょうからおまえのものですよ。だっておまえがあの人の遺産相続人なのだから。おまえの新居へ持ってゆきましょうよ。
そして一同が客間へ移ったので、彼女はその微細画を煖炉棚《だんろだな》の上にのせた。置時計のそばに。前にもそこに置いてあったのだ。
ロランはパイプに刻みをつめ、ピエールとジャンは巻煙草に火をつけた。彼らはいつも一人は部屋のなかをぐるぐる歩きまわりながら、もう一人は、肘掛《ひじかけ》いすにふかぶかと腰をおろして、両脚を組みながら、煙草をふかすのだった。父親だけはいつもかわらずいすの上に馬乗りになり、遠くから、煖炉のなかに唾《つば》を吐く。
ロラン夫人は、ランプののっている小さなテーブルのそばの低いいすにかけて、刺繍《ししゆう》をするか、編物をするか、裁ちものをするか、するのだった。
今晩は、ジャンの居間のための壁かけを始めていた。こみいったむずかしい仕事で、やりかけが非常な注意を必要とするものだった。それでもときどき、編目を数えている彼女の目があげられ、すばやく見てはすぐにそらすが、置時計に立てかけてある故人の小さな肖像のほうへ向うのだった。と、狭い客間を四足か五足で、両手を背中にまわし、巻煙草を口にくわえて、ぐんぐん歩きまわっているドクトルの目は、そのたびごとに母親の視線とぶつかるのだった。
二人は互いに様子をうかがいあっているとしか思われなかった。戦いが二人のあいだに開始されたかのようだった。苦しい不安が、堪えきれぬ不安が、ピエールの胸をしめつけた。彼は何度も自分に向ってこう言った。拷問の苦しみを味わいながら。しかもこれでやっとわかったという満足で胸がいっぱいだった。「ぼくが見ぬいたということを知っていれば、いまどんなにか苦しんでいるにちがいない!」そして、煖炉のほうへひき返すたびに、しばらく足をとめてはマレシャルのブロンドの顔をじっとながめた。自分がある一つのことに悩まされつづけていることをはっきり見せつけるために。するとこの小さな肖像画が、ひろげた掌《てのひら》よりも小さいくらいの肖像画が、なにか生きている人間のような、突如としてこの家のなかに、この一家のなかに、闖入《ちんにゆう》してきた、おそるべき、邪悪な人間のような気がしてきた。
とつぜん往来に向ってとりつけてある呼鈴が鳴った。と、いつも落ちつきはらっているロラン夫人がとびあがらんばかりに驚きの色を見せた。それはドクトルの目に神経の興奮を如実に語るものだった。
それから彼女はこう言った。「きっとロゼミリの奥さんですよ」そして不安におびえた彼女の目はまたしても煖炉棚のほうに向けられた。
ピエールには母親の恐怖と不安がわかった。あるいはわかったと思った。女の視線は鋭い。頭は早く働くし、疑りぶかい。いまここへはいってこようとしている女《ひと》がこの初めてみる微細画を目につけたら、おそらくは、ひと目で、この顔とジャンの顔との間の似かよっていることを見ぬくであろう、そうなればなにもかもわかり、ははんとうなずくであろう! ピエールは急に恐ろしくなった。この恥がばらされるといういても立ってもいられない激しい恐怖だった。そしてふり向きざま、ちょうどドアのあいたとき、この小さな絵に手をかけ、父親と弟に気づかれないうちに、置時計の下に押しこんだ。
またしても母親の目とぶつかったとき、その目はさっと色が変り、視線が乱れ、血走っているように彼には思われた。
――こんばんは。お茶を一杯ごちそうになりにあがりました。と、ロゼミリ夫人が言った。
しかし、おからだのほうはいかがですなどと言いながらみんなが夫人のまわりでがやがやしている間に、ピエールはあけ放しになったままの戸口から姿を消した。
ピエールが出ていったことに気がつくと、みんなびっくりした。ジャンは、この若い未亡人の気を悪くしたことを心配して、大いに不満でつぶやくようにこう言った。
――ぶしつけだな、兄さんは!
ロラン夫人がこう答えた。
――兄さんに怒ってはいけませんよ。きょうは少しからだのぐあいが悪いらしいのだよ。それとトルゥヴィルへ行ってきて疲れているし。
――それがどうした。と、ロランがひきとって言った。そのくらいなことで野蛮人みたいに出てゆく理由にはならん。
ロゼミリ夫人がとりなそうとして、断言するようにこう言った。
――いいえ、いいえ、ちがいますよ。イギリス風に座をおはずしになったのですよ。社交界で時間よりはやく帰るときには、いつでもああいうふうにして出てゆくものですわ。
――だって、そりゃ! と、ジャンが答えた。社交界でなら、いいでしょうが、自分の家族をイギリス風にあつかう手はありませんよ。兄さんは、いつでもあの調子だ。しばらく前からだけれど。
6
一、二週間の間ロラン一家にはべつになにごともおこらなかった。父親は釣りをし、ジャンは母親に助てもらって引越しのことで忙しく、ピエールはひどく陰気になって、食事のときでなければ顔を見せなかった。
父親がある晩こうきいた。
――いったいなんだってそんな葬式にでも行くような面《つら》をしているのだ? おれの気がついたのはきょうが初めてじゃないぞ!
するとドクトルはこう答えた。
――生きてゆくことの重荷をつくづく感じているからです。
老人はなんのことかわけがわからず、やりきれないといった調子で、こう言った。
――どうもあんまりだな。例の遺産がころげこむという幸運がとびこんで以来、だれもかれも不景気な面をしている。なにか椿事《ちんじ》がおこったみたいだぞ。まるでだれかのために泣いているみたいだ!
――そうです、ぼくはまったくだれかのために泣いているのです。と、ピエールが言った。
――きさまが? だれのことだ、いったい?
――いや、お父さんのご存じなかった人でぼくの非常に好きだった人です。
ロランは女のことだろうと思い、息子のくどいたどこかのおちゃっぴいだろうと思って、こうきいた。
――きっと、女だろう?
――ええ、女です。
――死んだのか?
――いや、もっと悪い、人間の資格を失ったのです。
――ふうん!
妻の前でいわれたこの思いがけない告白と、それを言う息子の奇怪な調子に驚きはしたものの、老人はそれ以上追及しなかった。ほかでもない。彼はこういう事柄は第三者の関知するものではないと考えていたのである。
ロラン夫人は聞えなかったかのようだった。顔色がひどくあおく病人のようだった。いままでに何度も、夫は、妻がまるで倒れるようにいすに腰かけるのを見、もう息ができないのかと思うほど苦しい息をつくのを聞いて、びっくりしてよくこうきいた。
――どうもこりゃ、ルイーズ、まったくお前は顔色が悪いぞ。きっとジャンの引越しをさせるのにからだを使いすぎたのだ! ちっとは休んだらどうだ。ばかばかしい! 急ぐことはありはせん。あいつめ、金はできたんだからな。
妻は返事はせずにかぶりを振るばかりだった。
しかし、きょうは、彼女の顔色のあおさがあまりひどかったので、ロランは、あらためて、それを注意した。
――おい、おい、ちっともよくなっちゃいないぞ。婆さん、気をつけなくちゃだめだ。
それから息子のほうをふり向いて、
――どうだ見ればわかるだろう、おまえには、おっ母《か》さんが病気だということが。おまえ診《み》るだけでも診たか?
ピエールが答えた。
――いいえ、お母さんがどうかなすったとは気がつきませんでした。
するとロランはいきりたった。
――ばかやろう。盲《めくら》でなけりゃいやでも目につくじゃないか! 母親の加減が悪いくらいのことに気がつかんようで、いったいドクトルになったってそれがなんの役にたつ? まあちょっと、見てみろ。ほんとに、しようのないやつだ。いやはや、人が目の前でくたばったって、このドクトル先生め気がつかないときやがるだろう!
ロラン夫人の息づかいがまた激しくなった。まるっきり蒼白《そうはく》になっているので、夫は思わずこう叫んだ。
――おい気絶するぞ。
――いいえ……いいえ……なんでもありません……すぐにおさまります……なんでもありません。
ピエールはそばへ寄ってきて、じっと見つめていたが、こう言った。
――さあ、どうなすったんです?
彼女は、低い声で、早口に、こうくり返した。
――いいえ、なんでもないの……なんでも……ほんとに……なんでもないの。
ロランは酢をとりに出ていったが、ひきかえしてきて、びんを息子のほうにさし出しながら、こう言った。
――ほら、これを……なんとかしてしずめてやれ。心臓にはさわってみたろうな?
ピエールが脈をとろうとしてかがみこむと、母親がいきなり激しくその手をひっこめたので、勢いがあまってそばのいすにぶっつけた。
――さあ、さあ。と、ピエールが冷やかな声で言った。おとなしく診させてください。お母さんは病気なのですから。
すると母親は腕をあげて息子のほうへさしのべた。皮膚は燃えるように熱く、脈は不調で結滞があった。彼はつぶやくようにこう言った。
――まったく、こりゃかなり重い。鎮静剤を飲まねばなりますまい。いま処方を書きますから。
ピエールが、紙の上にかがみこんで、ペンを走らせていると、せわしげに溜息《ためいき》をつくかすかな音が、息のつまるような、短い押しころした息の音が、思わず彼をふり向かせた。
母親は泣いているのだった。両手で顔をおおうて。
ロランは、あわてて、何度もこうきいた。
――ルイーズ、ルイーズ、どうしたのだ? いったいどうしたというのだ?
彼女は返事をしなかった。深刻な恐ろしい苦しみに身中《みうち》をひきさかれているらしかった。
夫は彼女の手を引っぱり顔から引きはなそうとした。妻はこばんだ、こうくり返しながら。
――いけません、いやです。
老人は息子のほうをふり向いた。
――おい、いったいどうしたんだろうな? 一度もこんなところを見たことがないが。
――なんでもありません。ちょっとした神経の発作です。こうピエールは答えた。
と、彼には母親がこうやって苦しんでいるのを見ると自分の胸が晴れるような気がした。この苦しみが自分の憤懣《ふんまん》を軽くし、母親の汚辱の負債を軽減するような気がした。自分の仕事に満足している裁判官のような気持でじっと母親を見つめていた。
が、とつぜん母親は立ちあがったと思うと、戸口のほうへ駆けだした。あまりに唐突にとびだしたので、だれも思いもよらず、ひきとめる暇もなかった。彼女は部屋のなかへとじこもるためいっさんに走りさった。
ロランとドクトルは顔を見あわせたまま立ちすくんだ。
――なんとか少しはわかるか?
――わかっています。母さんぐらいの年頃によくおこる単純なちょっとした神経の不調からきているものです。こんどのような発作がたぶんまだ何度もおこると思わなければなりますまい。
じっさい何度もおこった。ほとんど毎日だった。ピエールがまるで、ふしぎな正体の知れぬ母親の病気の秘密を握っているかのように、一言でひきおこすように見えた。母親の顔の上にまま休息の色のあらわれるのをうかがっていた。と、拷問をする役人のような狡知《こうち》で、たった一言を口にすることによって、一瞬しずまっていた痛みをまたうずかせるのだった。
そして彼もまた母と同じくらいに苦しんだ! もう母を愛せなくなっていることが、尊敬できないことが、苦しめていることが、たまらなく苦しかった。この女の心のなかに、母の心のなかに、息子の手によってあけられた傷口、血のしたたる傷口をまたしても十分にかきむしってやったあとでは、母親がどんなにみじめで絶望にしずんでいるかがひしひしと感じられて、たった一人で町へとびだしてゆくのだった。後悔の念にぐいぐいと胸をしめつけられ、憐憫《れんびん》の情に押しつぶされ、息子としての軽蔑《けいべつ》の下に母親をあんなふうに踏みつぶしたことがたまらなくなって、海にでも身を投げてしまいたい、こんな気持からのがれるために溺《おぼ》れて死んでしまいたいと思うのだった。
ああ! いまでは、許せたらどんなに許したかったことだろう! だが、それはできなかった。忘れることができなかったから。せめて母親を苦しめずにいられたら。だがこれもなおさらできない相談だった。自分自身二六時ちゅう苦しんでいるのだから。夕飯の時刻には、すっかり感動した決意で胸をいっぱいにして、帰ってくる。それから母親の姿を認めるがはやいか、母親の目を、昔はあのようにまっすぐであのように明け放しだったのに、いまではおどおどと、置場に困っているような、すぐ逃げようとする母親の目を見るがはやいか、くちびるまでのぼってくる子としてあるまじき言葉をおさえきれずに、われにもあらず母を鞭《むち》打つのだった。
二人だけの知っている口にも出せない恥ずかしい秘密が、母親に向って、彼をつっかからせるのだった。いま彼の血管のなかに毒液が流れていて、それが狂犬のようにかみつきたい気持を彼におこさせるのだった。
休みなしに母親を責めぬくのにもはや彼のじゃまになるものは一つもなかった。ジャンはいまではほとんどまったく新居のほうに住んでおり、毎晩、家族のなかで食事をし、寝るために、帰ってくるだけだった。
弟はたびたび兄の苦々しげな様子やつっけんどんな態度に気がついていたが、それを嫉妬《しつと》のせいにしていた。彼はひそかにいつかは兄に反省させ、思い知らせてやろうと思っていた。こうしたことがたびかさなっていては家庭生活はとてもたまらないものになるから。しかしいまでは彼は別居しているので、兄の粗暴さに苦しめられることが比較的少なかったし、平穏を愛する気持が彼を忍耐へ押しやった。それに、ころげこんだ財産が彼を酔わせていた。彼の頭の働きはもはや直接自分に利害のあることの上にだけしかとまらなかった。毎日新しいこまごまとした気がかりで頭をいっぱいにし、モーニングの裁ち方とか、フェルト帽の型だとか、名刺の頃合いの大きさはどのくらいだろうというようなことばかり考えて、やってくるのだった。そして根気よく自分の家のこまごましたことを残らず話すのだった。下着類をしまうために寝室の押入れのなかにとりつけた棚のこととか、玄関にすえつけた外套《がいとう》かけとか、家のなかへこっそり人がはいってきたらすぐわかるようにとりつけた電鈴のこととか。
引越しの祝いに、サン・ジュアンへ遠足して、晩餐《ばんさん》のあとで、彼の新居へ皆でお茶を飲みに寄るということになっていた。ロランは舟で行こうというのだったが、道のりが遠いのと、もし逆風でも吹いた場合、海路ではうまく着けるかどうか危ないという心配が、彼の意見をしりぞけさせ、けっきょくこの遠足のため乗合馬車が一台やとわれた。
昼飯までに着けるように十時ちかく出発した。ほこりっぽい街道がノルマンディの野を横切ってのびていた。野原の起伏と樹木にかこまれた農家が果てしのない荘園のように見えた。二頭の大きな馬ののろいだく[#「だく」に傍点]に運ばれてゆく車のなかで、ロラン一家の者と、ロゼミリ夫人とボーシール船長が黙りこくっていた。だいいち、車輪の音で耳は聞えなかった。そしてほこりの雲のなかでじっと目をとじていた。
ちょうど収穫時だった。暗緑色のうまごやしと、きつい緑色の砂糖大根と並んで、黄色い小麦が金色の光で野良を明るくしていた。空から降ってくる太陽の光を飲みでもしたかのようだった。ほうぼうで収穫《とりいれ》が始まっていた。鎌《かま》の攻撃を受けている野良のなかに、翼の形をした大きな刃を地面すれすれに振りまわしながらからだを左右に振っている男たちの姿が見えた。
二時間ほど走ってから、馬車は道を左に折れて、まわっている風車のそばを通った。灰色に汚《よご》れた見る影もない残骸《ざんがい》である。半分腐ってだめになっている旧式の風車の最後の残存物だった。それからこぎれいな庭に乗り入れたと思うと、しゃれた一軒の家の前にとまった。この地方に名のきこえた宿屋である。
美人のアルフォンシーヌと呼ばれている女主人が、愛想よく笑いながら、戸口まで出迎え、高すぎる踏み段の前でためらっている二人の婦人に手をかした。
りんごの木のかげになっている草原の縁の天幕の下で、幾人もの遠出の者らしい客がはやくも昼飯のテーブルについていた。エトルタから来たパリの人たちらしかった。家のなかからは、話し声や笑い声や皿のふれあう音が聞えてきた。
食堂は全部ふさがっているので、普通の部屋で食事をしなければならなかった。いきなりロランが壁にたてかけてあるエビ網に目をつけた。
――や、や! ここでエビがとれるな? と、彼は叫んだ。
――とれますとも。それどころかここいらの浜ではここが一等の場所ですよ。こう答えたのは、ボーシールである。
――しめた! 飯のあとでひとつ行くとしようじゃないか?
ちょうど三時には潮が引くことがわかった。みんなで午後いっぱい、エビを探しながら、岩の間で過す、ということに決った。
みんな食事はひかえめにした。水のなかへ足をつけたとき血が頭へのぼっては困るというのだった。それに晩餐のために余裕を残しておくという意味もあった。六時に、帰ってきたら、すぐに食べられるように、飛切り上等のやつを用意しておくように言いつけたのだった。
ロランは待ち遠しくてじっとしていられなかった。この漁に用いられる特別の道具を買おうと言ってきかなかった。それは野原でチョウを捕《と》るときに使う網によく似ていた。
これはラネと呼ばれている。長い棒の先にまるい木の輪がついていて、それに小さな網袋をとりつけたものだった。アルフォンシーヌが、相変らずにこにこ笑いながらそれを貸してくれた。それから女二人が晴着をぬらさないように即席の身支度《みじたく》をするのを手伝った。スカートと、粗末な毛の靴下と、サンダルをお使いなさいといってくれた。男たちは靴下を脱ぎ、土地の靴屋でスリッパや木靴を買った。
それから、ラネを肩に、びく[#「びく」に傍点]を背中に背負って、一同は出発した。ロゼミリ夫人は、このいでたちが、とてもかわいかった。思いもかけぬ、ひなびた、大胆な美しさをつくりだしていた。
アルフォンシーヌから貸してもらったスカートは、岩の間を心配なしに走ったり跳《と》んだりできるように、あだっぽくたくし上げて、留め針でとめてあったので、くるぶしとふくらはぎの下の部分を見せていた。しなやかな健康な小柄の女の肉《み》のしまったふくらはぎを。動きまわるのに勝手がいいように胴のところは自由にゆるめてあった。そして夫人は、途方もなく大きい植木屋のかぶる帽子を、黄色い麦わらで編んだすばらしくつばの広い帽子を見つけてきて、かぶっていた。それにかわやなぎの枝を一本さして、つばの一方をまくり上げたところは、不敵な、昔の銃士といった様子に見えた。
ジャンは、遺産を相続して以来、毎日この女と結婚したものだろうかどうだろうかと自問を重ねてきていた。この女の顔を見るたびに、よし妻にしようという決心ができたような気がするが、それから、一人になるがはやいか、とにかく、まあよく考えてみよう、せくわけはないのだから、と思うのだった。いまでは彼女のほうが彼よりは金持でなくなっていた。彼女のほうは一万二千フランばかりの年収しかなかったのである。しかしそれは不動産で持っていた。ル・アーヴルの、海岸寄りの土地や、小作地で持っていた。これは、将来非常な値上がりになるかもしれなかった。してみれば財産はだいたい釣合いがとれていると言ってもいい。そして、この若い未亡人は確かに大いに彼の気にいっていた。
この日自分の前を歩いてゆく女の姿をながめながら、彼は何度もこう考えた。「さあ、ひとつ、決心しなけりゃならんぞ。むろん、これ以上のものは見つかりっこない」
一行は、村から海岸の断崖《だんがい》のほうへだらだら坂になっている小さな谷間をおりていった。と、この谷を行きつくしたところに、断崖が、八十メートルの高さから海を見おろしていた。右と左から急に低くなっている緑の岸の額縁のなかに、大きな三角形の水が、陽《ひ》の光をうけて銀色に輝く青い色の海が、遠くに見えた。と、帆が一つほとんど見えるか見えないくらいのが、そこに浮んでいる虫のように見えた。光にあふれている空は水とまったくとけあっていたので、水がどこで終り空がどこで始まっているか、まるで見わけがつかないくらいだった。三人の男たちの先にたって歩いてゆく二人の女が、この明るい水平線の上に、コルセットにしめつけられた胴の線を、くっきりとえがきだした。
ジャンは、燃えるような目で、ロゼミリ夫人のほっそりしたくるぶしと、きゃしゃな脚と、しなやかな腰と、いどむような大きな帽子とが、自分の前を逃げてゆくのをながめていた。と、この逃亡は彼の欲望をあおりたて、しりごみしている者や臆病《おくびよう》な者がとっさにとびつくあの決定的な決意に彼を追いやった。海岸の匂《にお》いに、はりえにしだや、うまごやしや、そのほかいろいろな草の匂いに、潮が引いてあらわれた岩の強い潮の香のまじっている生暖かい空気が、ここちよく酔わせながら、さらに彼の心をかきたてた。と、彼は一歩ごとに、一秒ごとに、この若い女の活溌《かつぱつ》な後ろ姿に投げる一瞥《いちべつ》ごとに、ますます決心を強めていった。もう迷うのはよそう、自分が相手を愛しており、結婚したく思っているということを相手に話そう、と決心するのだった。エビ捕りがうまくとりもってくれるだろう。二人きりで話す機会を容易にするから。そればかりではなく、それはまことにあつらえむきの場面だろう。恋を語るにふさわしい場所だろう。澄んだ水溜《みずたま》りに足をひたし、エビの長い触角が海草の下をくぐって逃げてゆくのを見まもる、というのは。
一同が谷の端に、断崖の縁に、行き着くと、絶壁にそうて下のほうへついている細い小道が見えた。そして、見おろすと、海と崖《がけ》のすそとの間、ほとんど海岸の真ん中ほどのところに、巨大な岩の驚くべき混沌《こんとん》たる堆積《たいせき》があった。古い地すべりでできた、南へ向って目もはるかにのびている一種の起伏のある草の多い平原のなかに、くずれだし、ひっくりかえり、たがいに重なりあっているのだった。このひっくりかえされた草原と叢林《そうりん》の細長い帯のような土地の上に、いわば、火山の爆発かなにかで、落ちてきた岩が、昔、断崖の果てしのない真っ白な壁を後ろに背負い、大西洋を見晴らしていた埋没した大都会の廃墟《はいきよ》といったかっこうだった。
――まあ、きれい。と、ロゼミリ夫人が立ちどまりながら言った。
ジャンが後から追いついていた。胸をときめかせ、岩壁の間に切りひらかれた狭い段をおりるのに手をかした。
二人は先にたって進んだ。一方ボーシールは、短い脚をふんばって、まげた腕を、高い所から見おろしたためにめまいを起しているロラン夫人にさし出した。
ロランとピエールがしんがりだった。めまいのためにどうにもならなくなって、しりもちをついたまま、一段一段、すべるようにおりてゆく父親を、ドクトルは引っぱってやらねばならなかった。
先頭にたって降《くだ》ってゆく若い二人は、どんどん進んでいった。といきなり、路傍に木のベンチが見つかった。これがこの谷のちょうど中ほどの休息地点だった。きれいな一条の清水《しみず》が、断崖に開いている小さな穴から吹きだしていた。それはまず自然に掘られた洗面器ほどの大きさの水溜りになって落ち、それから高さわずかに二尺の滝となり、水たがらしの一面に生《は》えしげった小道の間を逃げてゆき、それから、例のくずれた岩の重なりあっている起伏のある原のなかをいばらや草のかげに見えなくなっていた。
――ああ! 喉《のど》がかわいたこと。と、ロゼミリ夫人が叫んだ。
だがどうしたら飲めるか? 掌のくぼみに水をうけようとやってみたが、水は指の間からどんどん漏った。ジャンがいいことを考えついた。道の真ん中に石を一つ置いた。夫人はその上にひざをつき、ちょうどくちびるが清水と同じ高さになるので、それにじかにくちびるをつけてごくごく飲んだ。皮膚にも、髪にも、まつげにも、胸のあたりにも一面にとび散ってきらきら光っている水滴をあびた姿で、彼女が頭を上げたとき、ジャンはおおいかぶさるようにかがんで、こうささやいた。
――じつにきれいですよ。あなたは!
夫人は、わざと子供を叱《しか》るときのような声を出しながら、こう答えた。
――お黙りなさい。
これが二人のかわした多少恋の遊戯に類する初めての言葉だった。
――さあ、はやく行きましょう、みんなの追いつかぬうちに。こう言ったジャンの声はひどくうわずっていた。
事実、ジャンは、いまでは自分たちのすぐ近くに、ボーシール船長の背中を認めたのだった。船長は両手でロラン夫人をささえるために後ろ向きになっておりていた。そして、ずっと上に、ずっと遠くに、相変らずロランがすべりながらおりてくる。亀《かめ》の子のようなかっこうで、しりもちをつき、足と肘《ひじ》をつかって、からだをすべらせている。一方ピエールは父親の動き方を監視しながら、その先にたってくるのだった。
いくらか切り立ち方のゆるくなった小道は、昔山から落ちてきた巨大な岩塊をうねうねとまわっているかっこうの一種の坂道になった。ロゼミリ夫人とジャンは駆けだして、やがて小石のつづいている砂浜へ出た。それを横切ると岩のあるところへたどりついた。岩は細長い平らな表面を見せてのび、その上は一面に海草におおわれて、無数の水溜りがきらきら光っていた。潮の引いた海が向うに横たわっていた。ずっと遠くに、黒光りに光る緑色の海草がぬるぬるする原の向うに。
ジャンはズボンをふくらはぎの上まで、袖《そで》を肘のところまでまくり上げて、水にぬれても平気のように身支度をした。それから、「前進!」と言ったと思うと、いきなり最初の潮水の溜りのなかへ威勢よくとびこんだ。
いずれ水のなかへはいろうと決心してはいるものの、ジャンよりは用心深く、この若い女は、おずおずとこの狭い水溜りのまわりをまわった。ぬるぬるする海草にともすれば足をとられそうだった。
――なにか見えて?
――見えますよ。水に映っているあなたの顔が見えます。
――そんなものしか見えないなら、ろくな漁はできませんよ。
男は感情をこめた声でこうささやいた。
――だって! ぼくはなにを捕るよりそれが捕りたいですよ。
相手は笑った。
――ではやってごらんになったら。あなたの網からどんなにするする逃げるかおわかりになりますわ。
――でも……あなたのほうにそのつもりが?
――わたしはあなたがエビを捕るところを拝見したいのよ……それ以外のものは見たくないの……いまのところ。
――意地悪ですね。もっと向うへ行きましょう。ここにはなにもいない。
彼はぬるぬるする岩の上を歩くのに夫人に手をかした。夫人は少しおずおずとよりかかってきた。と、男のほうは、とつぜんに、情欲が身中《みうち》にひろがってくるのを感じた。欲望につきあげられ、相手をどうでも自分のものにしなければいられない気持だった。まるで身中にきざしていた病気が一時に発するのにこの日を待っていたかのようだった。
二人はやがてもっと深い岩のくぼみのそばへきた。そこは、目に見えぬ亀裂《きれつ》から遠くの海へ向って、ふるえながら流れだしてゆく水の下で、長い、細い、奇妙な色をした海草がゆらゆらゆれていた。バラ色や緑色の髪の毛が水のなかを泳いでいるようだった。
ロゼミリ夫人がいきなり叫んだ。
――あれ、あれ、一匹見えましたよ。大きいのが、あそこに、とても大きいのが。
こんどはジャンにも見えた。腰までぬれるのもかまわず、決然と穴のなかへはいっていった。
しかし獲物は長いひげを動かしながら、網の前をすいすいと後しざりした。ジャンはそれを海草のほうへ追いつめた。そこで確実に捕えられるつもりで。獲物はじりじりとかこまれたのを感じると、いきなり勢いよくはねて、ラネの上をすいととびこし、泥水のなかをくぐって、見えなくなった。
息をこらして、この獲物をじっと見つめていた若い女は、たまりかねて思わずこう叫んだ。
――まあ! へたくそね。
男はむっとした。そしてがむしゃらに網を海草のいっぱいしげっている底のほうへ突っこんでぐっとひきまわした。網を水の表面にたぐり寄せたとたん、なかにすきとおった三匹の大きなエビがはいっているのを見つけた。人目につかぬ隠れ家にかくれているところをでたらめに入れた網につかまったのである。
彼は、勝ちほこって、それをロゼミリ夫人にさし出した。エビのきゃしゃな頭から突き出ているぎざぎざのついた鋭い触角がこわくて、夫人は手にとる勇気がなかった。
それでもやっと決心をして、二本の指で獲物のひげの細い端をつまんで、一匹ずつ、自分のかごのなかへ投げこんだ。エビを生かしておくように海草を少しずつつけて。それから、いまのよりは浅い水溜りを見つけて、おそるおそる、そのなかへはいった。いきなり冷たいなかへ足をつっこんだので息をつめながら。それから自分でもエビを捕《と》り始めた。彼女はじつに上手で計略がうまかった。手が器用で、おまけに必要なかんを持っていた。ほとんど網を一度入れるごとに、彼女の追跡の巧妙な緩慢さにだまされて不意を襲われた獲物を引きあげるのだった。
ジャンにはもうちっとも獲物が見つからなかった。それでも一歩一歩彼女の後《あと》についてゆき、からだが触れるほど近より、彼女の上にかがみこみ、自分の不器用なことを大げさに嘆いて見せ、教えてください、と言うのだった。
――ねえ! やって見せてください、お願いですよ!
それから、二人の顔が、くっつくように並んで、澄みきった水に映っているので――水底の黒い海草のおかげで明るい鏡ができあがっていた――ジャンは下から自分をながめているその隣の顔に笑いかけた。そして、ときどき、指の先で接吻《せつぷん》を投げた。それはちょうどその上へ落ちてゆくように見えた。
――まあ! うるさい人ね! 一度に二つのことをしてはいけませんわよ、あなた。若い女はこう言った。
相手は答えた。
――ぼくは一つのことしかしていませんよ。ぼくはあなたを愛しています。
女は向きなおって、まじめな調子でこう言った。
――さあさあ、全体どうなすったんです、十分ばかり前から? 気が変になったんですか?
――ちがいます。気が変になってはいません。ぼくはあなたを愛しています。そして、やっといま、それが言えるようになったのです。
二人はいま、ふくらはぎまでひたって、潮水の溜《たま》りのなかに立っていた。そして、滴《しずく》のたれる手を網にかけたまま、じっと目の奥を見あった。
女は、ばつの悪そうな、ふざけた調子にかえって、こう言葉をつづけた。
――いまこんなときにそれをおっしゃるなんて、気がきかないことね! またの日を待って、わたしのエビ捕りを台なしにしないでくださることができなかったの?
相手はつぶやくようにこう言った。
――失礼しました。けれどもぼくはもう黙っていられなくなったのです。ずっと前からあなたを愛しています。きょうあなたは、理性を失わせるほど、ぼくを酔わせてしまったのです。
すると、とつぜん、女は心を決めたかのように見えた。遊びごとを断念して、用件の話をすることにあきらめをつけたように見えた。
――この岩の上に腰かけましょう。そのほうが落ちついてお話ができますわ。
二人は少し高い岩の上によじのぼった。二人が、真向《まつこう》から陽《ひ》をあびて、足を宙にぶらぶらさせ、並んで腰をおろしたところで、夫人が言葉をつづけた。
――ねえ、あなた、あなたはもう子供ではないのですし、わたしだって小娘ではありません。二人ともなにが問題かということはよく知っているわけですわね。わたしたちのすることがどういう結果になるか十分考えてかかれると思いますわ。きょうわたしに愛しているということをうちあける決心をなすったというのは、もちろんわたしと結婚したいとおっしゃるのだろうと思いますけれど。
男は事態のこのようなはっきりした陳述をついぞ予期していなかったので、曲《きよく》もなくこう答えた。
――それはもちろんですとも。
――お父さんやお母さんにお話しになりまして?
――まだしません。あなたが承知してくださるかどうか知りたかったのです。
女はまだぬれている手を彼のほうにさし出した。男が勢いこんでその上に自分の手を重ねると、女はこう言った。
――わたしはけっこうですわ。わたしはあなたを親切なかた、実《じつ》のあるかたと思っております。でも、わたし、ご両親にきらわれたくないと思っていることを忘れないでちょうだい。
――なにを言うのです! お母さんがなんにも見ぬかなかったと思っているのですか? ぼくたち二人の間の結婚を望んでいなくて、いま現にしているようにあなたを愛すと思っているのですか?
――それはそうね。わたし少し混乱しているわ。
二人は口をつぐんだ。彼のほうは反対に驚いていた。相手が混乱しているというのが。こんなに理路整然としたことを言う相手が。彼のほうは色気たっぷりの思わせぶりを予期していた。承諾を意味する拒絶を、水をぱちゃぱちゃはね返しながら、エビ捕りのあいまに甘ったるい恋の喜劇を演ずることを予期していた! ところが、これで終りなのである。二、三度言葉のやりとりをしているあいだにたちまちしばられ、結婚してしまったのを彼は感じた。二人の意見が一致した以上二人はもうなにも言うことがなかった。二人はいま、二人の間に、あのように、電光石火におこってしまったことに二人とも多少気づまりでじっとしていた。多少途方にくれた形でさえあった。もう口をきくことができず、かといって釣りもできず、どうしてよいかわからぬ気持だった。
ロランの声が二人を救った。
――おーい。こっちへ来て見ろ、子供たち! 来てボーシールを見てごらん。この大将、海をからにしてしまうつもりだぞ。
まったく、船長は、すばらしい大漁だった。腰まで水にひたって、水溜りから水溜りを追って歩き、一目でいちばんいい場所を見ぬき、網をそろそろと正しく動かしながら、海草のかげになっているあなをさぐるのだった。
灰色がかったブロンドの、透きとおった美しいエビが、彼がびくのなかへ投げこむために無造作につかむと、掌《て》のなかでぴちぴちはねた。
ロゼミリ夫人はびっくりして、有頂天になり、船長のそばにくっついて離れなかった。しきりに船長のやり方をまねようと懸命になった。ほとんどさっきの約束も、夢見ごこちで後ろからついてくるジャンのことも忘れて、ゆらゆらゆれる海草の下から獲物をすくいだす子供らしい楽しみに没頭した。
ロランがいきなりこう叫んだ。
――おや、女房どんがこっちへやってくるぞ。
彼女は初めはピエールと二人だけ砂浜に残っていたのだった。二人とも岩の間を走りまわったり、水溜りをはね返したりして遊ぶ気持はちっともなかったのである。そのくせ二人はいっしょにいるのがなんとなく躊躇《ちゆうちよ》された。母親は息子を恐れ、息子は母親と自分自身を恐れていた。自分で制御できない自分の残忍さを恐れていた。
そこで二人は、並んで、かわらの上に腰をおろしたのである。
そして二人とも、海風にやわらげられた太陽の暑熱の下で、銀色の波形模様のついている青海原《あおうなばら》のひろびろとしたなごやかな遠景を前に、同じ思いにふけるのだった。「昔だったら、ここにこうやっていたら、どんなに楽しいことだろう!」
母親はピエールに話しかける勇気がなかった。相手がなにかひどいことを答えるだろうということがわかっていたので。そして彼も母親に話しかける勇気がなかった。われにもあらず、荒い言葉を使うだろうということがわかっていたので。
ステッキの先でまるいかわら石をつつきまわし、掘りかえし、なぐった。母親は、ぼんやりと視線を遊ばせながら、指の間に二つ三つ小石をつまみ上げ、一方の手からもう一方の手に、のろのろと機械的な動作で、うつしていた。それから、ぼんやり前方に遊ばせていた彼女の視線に、海草の真ん中で息子のジャンがロゼミリ夫人とエビを捕っているのが映った。そこで彼女は二人の姿を目で追った。二人の動きをうかがい、母親の本能で、漠然と、二人がいつものような話をしているのではないということをさとったのだった。二人が水のなかの自分たちの姿をながめたとき、並んでかがみこむのを見た。二人が互いの胸をたずねあったとき、面と向ってじっと立っているのが見えた。それから互いに約束しあうために岩の上によじのぼり、腰かけるのを見たのだった。
二人の影絵がくっきりと浮びあがった。地平線の真ん中に二人だけになったように見えた。空と海と断崖《だんがい》とのこのひろびろとした空間でなにかしら偉大な象徴的なものに見えてきた。
ピエールもやはり二人をながめていた。と、冷やかな笑いがいきなり彼のくちびるからもれた。
息子のほうへはふり向かずに、ロラン夫人がこう言った。
――どうしたの、おまえ?
彼は相変らず冷笑をつづけていた。
――ぼくは学問をしているのです。間男をされる準備をどうやってするものか教えてもらっているのです。
母親はいきなり怒りと反抗に胸をつき上げられた。この言葉に傷つけられ、自分なりにその意味を理解するとわれを忘れるほど激昂《げつこう》したのだった。
――だれにあてておまえはそれを言うの?
――ジャンのことですよ。むろん! 二人がああやっているのを見るのはじつにこっけいだ!
母親は、こみあげてくる感動にふるえる低い声で、こうつぶやいた。
――また! ピエール、なんてことを言うのです! あのかたは貞潔そのものですよ。ジャンにはあれ以上の女《ひと》は見つかりませんよ。
息子は加減をぬきにして笑いだした。ことさらの、ひきつったような笑い方で。
――はっ! はっ! はっ! 貞潔そのものか! どの女もこの女も貞潔そのもので……どのご亭主もどのご亭主も間男をされて。はっ! はっ! はっ!
それには答えず、母親は立ちあがった。はげしい勢いでかわら石の斜面をかけおり、足がすべるのもかまわず、草のかげにかくれて見えない穴のなかに落ちこむ危険も、脚や腕をおる危険も忘れて、ほとんど走るように、どんどん向うへ行った。水溜りを踏みこえ、なんにも目にはいらず、まっしぐらに、もう一人の息子のいるほうへ。
母親が近づいてくるのを見て、ジャンが大きな声でこう呼びかけた。
――どうです? 母さんもいよいよ始めますか?
それには答えずに母親は息子の腕にすがりついた。
「助けておくれ、わたしを護《まも》っておくれ」とでも言うかのように。
母親のとり乱しているのに気がつくと、非常に驚いて、ジャンはこう言った。
――まっさおじゃありませんか、お母さん! どうしたのです?
母親は口のなかでどもるようにこう言った。
――もう少しで倒れるところだったの。岩の上で急にこわくなって。
そこでジャンは母親の手を引き、ささえてやった。エビ捕《と》りを説明してやり母親にも興味を持たせようとした。しかし母親がちっとも聞いていないし、それに、だれかにいまの気持をうちあけたい激しい欲求を感じていたので、母親を遠くへ引っぱってゆき、小声でこう言いだした。
――ぼくのしたことをあててごらんなさい。
――だって……おまえ……わたしにはわかりませんよ。
――いいからあててごらんなさい。
――だって……わかりませんよ。
――じゃ言いましょう。ぼくはロゼミリ夫人に結婚したいと申しこんだのです。
母親は返事になるようなことはなにも言わなかった。頭ががんがんし、ようやくのことでなければ人の言うことがわからないほど心が乱れていたのである。おうむ返しにこう言っただけだった。
――結婚するって?
――そうです。よかったでしょう? ねえ、あの女《ひと》はとてもいいひとじゃありませんか?
――ああ……とてもいいひとですよ……よござんしたね。
――では賛成してくださいますか?
――ああ……賛成しますよ。
――なんて言い方をするんです。まるで……まるで……お母さんは不満だ、としか思われませんよ。
――そんなことがあるものですか……わたしは……わたしは満足ですよ。
――ほんとですか?
――ほんとですとも。
そのことを相手に証明するために、彼女は息子を腕いっぱいに抱きしめ、顔いっぱいに、大きく、母親の接吻《せつぷん》で接吻した。
それから、涙のたまってきた目をぬぐうと、母親は、向うに、砂浜の上に、まるで死骸《しがい》のように顔をかわらの上に伏せて、腹ばいに長くなっている人の姿を認めた。それはもう一人の息子だった。絶望に沈み、思いにふけっているピエールだった。
すると母親はかわいいジャンをもっと遠くへ、波打ちぎわのすぐ近くまで引っぱってゆき、この結婚のことについて長々と話をした。いま彼女の心はこの結婚のことにすっかり吸いよせられていた。
潮が上げてきて、二人は、エビを捕っている連中のほうへ追われ、皆といっしょになった。それからみんなで岸のほうへひきかえした。人々は眠ったふりをしているピエールをゆりおこした。晩餐《ばんさん》は非常にながかった。たくさん酒のコップが並んで。
7
帰りの馬車のなかで、男たちはみんな、ジャン一人をのぞいてうつらうつら眠った。ボーシールとロランが、五分ごとに隣の者の肩に倒れかかっては、ぐいとはね返されるのだった。すると、はっと起きなおって、いびきをかくのをやめ、目をあけては、こうつぶやく。「いい天気だね」それから、ほとんどすぐに、また反対のがわに倒れかかる。
ル・アーヴルの町へはいったとき、彼らの眠気はどうにもならぬほどふかくて、ふるいおとすのにひどく骨がおれた。ボーシールのごときはお茶の用意のしてあるジャンの家へあがることさえこばんだ。この男の戸口の前でおろしてやらねばならなかった。
青年弁護士は、今晩初めて、新居で寝ようとしているのだった。と、大きな歓喜が、多少子供らしい歓喜が、いきなり彼をとらえた。ちょうど今夜、婚約者に、彼女がやがて住むことになる部屋を見せてやるという喜びが。
女中はひきとったあとだった。ロラン夫人が自分でお湯をわかしてお茶をいれるからと言っておいたのである。彼女は、火元が心配で、女中たちを夜おそくまで起しておくのを好まなかった。
だれも、自分と、息子と、職人のほかはだれも、まだ家のなかへはいったものがなかった。どんなに美しいかということを見てみんながびっくりするその驚きを完全にするためだった。
玄関の次の間でジャンはみんなにちょっとお待ちくださいと頼んだ。ロウソクやランプに灯を入れようと思ったのである。そこでロゼミリ夫人と、父親と、兄とを暗闇《くらやみ》のなかに残した。それから入口の扉を観音《かんのん》びらきに大きくあけて、「さあおいでください!」と叫んだ。
ガラス張りのヴェランダは、棕櫚《しゆろ》やゴムの木やいろいろの花のかげにかくされた色ガラスのランプとシャンデリアに照らされて、最初見たところでは芝居の書割《かきわり》そっくりに見えた。みんなあっと驚いた。ロランは、このぜいたくさに目をみはって、こうつぶやいた。
「畜生、こりゃどうじゃ」夢幻劇の最後の舞台の幕があがったように拍手をおくりたい気持にかられた。
それから第一の客間にはいった。これは小ぢんまりしていて、いすの布と同じ、さびのついた金色の布で壁が張ってあった。事務用の大きな客間は、きわめて簡素で、明るい紅鮭色《べにざけいろ》の壁紙が張ってあったが、堂々としていた。
ジャンは書物をいっぱい積みかさねた机の前の肘掛《ひじかけ》いすに腰をおろし、もったいぶった、少し無理につくった声でこう言った。
――さよう、奥様、法律の条文は厳として明らかです。すでにご通告しました賛成があれば、今回の事件は三カ月以内に有利な解決を見るであろうという絶対の確信をわたしは与えられているのであります。
彼はロゼミリ夫人のほうをながめていた。ロゼミリ夫人はロラン夫人のほうを見ながら笑いだした。ロラン夫人はロゼミリ夫人の手をとって、ぐっと握りしめた。
ジャンは、顔を輝かせ、学生のようにふざけて見せた。そして勢いこんでこう叫んだ。
――どうです、声がよくひびくでしょう。この客間はきっと弁論にはすてきですよ。
それからとうとうとやりだした。
――もしも人道のみが、すべての苦悩に対してわれわれのおぼえる自然の惻隠《そくいん》の心のみが、不肖わたしがお願いする無罪放免の動機たるべきものといたしますならば、陪審員各位よ、わたしは各位の同情心にのみ訴えるでありましょう。父親としての人間としての各位の心情にのみ訴えるでありましょう。さりながら、不肖はここに法律を味方に持っております。各位の前に不肖の提出せんとするものはひとえに法律上の問題であります……
ピエールは自分のものになったかもしれないこの家のなかをじろじろながめまわした。そして弟がいい気持でふざけているのにだんだんいらいらしてきた。いかにも、あまりの愚物、あまりに頭のないやつだと思いながら。
ロラン夫人が右手のドアをあけた。
――こちらが寝室です。
この部屋をかざるのに彼女は母親としての愛情をそそぎつくした。張り布はルーアン製の麻布で、それは古いノルマンディの麻織りをまねたものだった。ルイ十五世風の模様――二羽の鳩《はと》がくちばしにくわえてとめているメダルのなかに一人の羊飼いの娘が浮いている――それが壁や、カーテンや、寝台や、肘掛いすにまったくすてきな田舎風《いなかふう》のしゃれた様子を与えていた。
――まあ! すてきね。と、ロゼミリ夫人が言った。この部屋のなかへはいると、急にいくらかまじめな顔になったのだった。
――気に入りましたか? と、ジャンがきいた。
――とても。
――それを聞いてぼくがどんなにうれしいかあなたにわかっていただけたら。
二人は一瞬じっと顔を見あった。信頼のこもった感情を目の底にいっぱいにたたえながら。
とはいえ、いくらか気づまりだった。自分の新婚の部屋になるであろうこの寝室のなかにいるのがきまりが悪かった。はいったとたんに、寝台の幅が非常にひろいことに気がついたのだった。まぎれもない夫婦用の寝台であり、むろん、ロラン夫人が息子のちかぢかの結婚を予想し、期待して選んだものである。とはいえ、この母親の心づかいは彼女を喜ばせた。この家ではあなたを待っていますよと言ってくれているような気がした。
それから客間へかえると、ジャンがいきなり左手のドアをあけた。と、窓が三つあいて、日本のちょうちんにかざられているまるい食堂が一同の目に映った、母親と息子はこの部屋のなかに二人のあらんかぎりの思いつきをこめたのだった。この竹細工の家具の置いてある部屋、人形や、壺《つぼ》のかざってある部屋、金箔《きんぱく》のおいてある絹と、ガラスの珠《たま》が水滴のように見える透きとおったすだれと、布をとめるために壁に釘《くぎ》でうちつけてある扇の部屋、衝立《ついたて》だの、刀だの、面だの、剥製《はくせい》の鶴だの、陶製、木製、紙製、象牙《ぞうげ》、らでん、青銅などのこまごまとした道具の置いてあるこの部屋は、鋭い頭と、趣味と、芸術的教養とを最も必要とする事物に対して無知な目と不器用な手とが与えるもったいぶった、わざとらしい様子をしていた。とはいえ、みんながいちばん感心したのはこの部屋だった。ピエール一人だけが少しにがい皮肉でみんなのしりうまに乗らなかった。この皮肉は弟の感情を害した。
食卓の上には果物《くだもの》がピラミッド型に積まれ、菓子がなにかの記念碑のように盛られていた。
みんなお腹は空《す》いていなかった。果物の汁を吸い、菓子を食べるというよりは、ちょっと口をつけてにちゃにちゃやるだけだった。それから、一時間ばかりして、ロゼミリ夫人が失礼します、と言いだした。
父親のロランがロゼミリ夫人を戸口まで送ってゆくことにし、いっしょにすぐ出かけることに決った。一方、ロラン夫人は、女中がいないので、息子になにか不自由なことがないように、家のなかをひとまわりして母親としての目をくばる、ということになった。
――おまえを迎えにかえってくるかな? と、ロランがきいた。
彼女はどうしようかとちょっと迷った。それから、こう答えた。
――いいえ、けっこうですよ、先にやすんでください。ピエールが送っていってくれますよ。
二人が行ってしまうと、彼女はロウソクを吹き消し、菓子や砂糖や酒などを戸棚《とだな》のなかへしまい、その鍵《かぎ》をジャンに渡した。それから寝室へうつって、寝床を半分あけ、水差しに冷たい水がいっぱいはいっているかどうか、窓がよくしまっているかどうかを確かめた。
ピエールとジャンとは小さいほうの客間に残っていた。ジャンは自分の趣味に対して言われた批評にまだ気を悪くしており、ピエールは弟がこの住居のなかにいるのを見ていることにますますいらいらしてきた。
二人とも、口をきかず、腰かけたまま煙草をふかしていた。ピエールがふいに立ちあがった。
――ふん! 後家さん今夜はひどく疲れたような様子をしていたな。遠足なんて柄にないのさ。
ジャンはとつぜん、元来人のいいおだやかな男が心を傷つけられて発する急激な猛烈な怒りに、胸をつき上げられた。
息が切れてものがいえないくらい彼の興奮は激しかった。どもるように口のなかでこう言った。
――兄さんに今後はやめてもらいますよ。ロゼミリ夫人の話をするとき「後家」という言葉を口にすることを!
ピエールは、昂然《こうぜん》と、弟のほうに向きなおった。
――おれに命令をする気らしいな。きさま気が狂ったのか、おい?
ジャンもすぐにきっとなった。
――ぼくは気が狂いはしません。しかしぼくに対する兄さんのやり方にはもうがまんできないのです。
ピエールはせせら笑った。
――おまえに対する? きさまロゼミリ夫人の代理人か?
――ロゼミリ夫人がやがてぼくの妻になる人だということを覚えていてください。
相手はいっそう声高に笑った。
――あっはっは! そりゃよかった。なぜあの女を「後家」とよんでは悪いかというわけがこれでよくわかった。だがおれに結婚の通知をするのに妙なやり方をしたものだな。
――冗談はやめてもらいますよ……いいですか――やめてもらいますよ!
ジャンは詰めよってきていた。あおざめ、声をふるわせ、自分が愛している女、選んだ女にしつこくあびせられるこの皮肉に激怒して。
だがピエールもとつぜん同じように怒りだした。しばらく前から身中《みうち》につもっていた無力な怒り、押しつぶされたうらみ、おさえつけてきた反抗、それに沈黙の絶望が、全部いきなり頭にのぼってきてちょうど血がのぼったようにかっとならせた。
――きさまそれを言うか?……きさまそれを?……おれはきさまに命じるぞ、黙れ、いいか、おれは命令するぞ!
ジャンは、この兄の勢いに驚き、ちょっとのあいだ口をつぐんだ。激怒がわれわれを投げこむあの精神の混乱のなかで、兄の心臓をぐさりと傷つけるような事柄を、文句を、言葉を、探しながら。
相手を十分に刺すためにつとめて自分を制御しようとし、言葉をいっそう鋭くするためにゆっくり言うように努力しながら、彼はこう言葉をつづけた。
――もうずいぶんながいことですよ。兄さんがぼくに嫉妬《しつと》していることをぼくが知っているのは。兄さんが「後家」と言いはじめた日からです。それがぼくに不愉快だということがわかったので、わざと言いだしたのです。
ピエールはお得意のつんざくような、軽蔑《けいべつ》のこもった笑い声をひびかせた。
――あっはっは! こりゃ驚いた! きさまに嫉妬していると!……おれが?……おれが?……おれがか?……なにをさ、いったい?……え、なにをだ、おい? きさまの顔をか、きさまの頭か?……
だがジャンは兄の魂の傷口にふれたことを確かに感じた。
――そうです、兄さんはぼくに嫉妬しているのです。子供のときから嫉妬しているのです。そしてあの女《ひと》がぼくのほうを選んで、兄さんに心を傾けないのを見て腹をたてたのです。
ピエールは、この推定に激昂《げつこう》して、どもった。
――おれが……おれが……きさまに嫉妬する? あの鈍物のために? あの七面鳥の、あの脂《あぶら》ぶとりのひな鳥のためにか?……
ジャンは自分の狙《ねら》いがうまく命中したのを見て、こう言葉をつづけた。
――じゃ、あの日のことはどうです? 〈ペルル〉に乗って、ぼくよりも強く漕《こ》ごうとあせった日のことは? そして自分をえらく見せようと思ってあの女《ひと》の前で兄さんの言ったすべてのことはどうです? 兄さんはまるで嫉妬のためにはりさけそうじゃありませんか! それからあの財産がぼくにころげこんできたとき、兄さんの憤《おこ》りようったらなかった。ぼくを憎んだじゃありませんか。あらゆる方法でそれをぼくに見せつけたのです。そしてみんなを苦しめました。息のつまるむしゃくしゃを吐き出さずには一時間もじっとしていられなかったのです。
ピエールは激怒にこぶしを握りしめた。弟におどりかかって喉《のど》をしめあげてやりたい衝動をおさえきれなかった。
――こら、黙れ! ばかめ、あの財産のことだけは言うな!
ジャンも思わずいきおいこんで言い返した。
――嫉妬が兄さんの毛穴から汗のようにしみ出ているじゃないか。お父さんに、お母さんに、ぼくに、ものを言うとき嫉妬の爆発しないときはないじゃないか。ぼくを軽蔑するようなふりをしているがそのじつはやいているのだ! やけてたまらないからだれかれの差別なくあたりちらすのだ。そしていまぼくが金持になったものだから、兄さんはもう我慢ができなくなったのだ。いよいよ毒々しくなって、お母さんを責めるのだ。まるでお母さんの罪かなにかのように!……
ピエールは煖炉の所まで後しざりをしていた。口をなかばひらき、目を大きく見はり、ひとが思わず犯罪を犯すときのあの狂気にちかい激怒に全身をくいやぶられながら。
前よりは低い、あえぐような声でこうくり返した。
――黙れ、黙れと言ったら黙れ!
――黙らん。ぼくはずっと前から兄さんに腹のなかにたまっていることをすっかりぶちまけたかったのだ。兄さんがその機会を与えてくれた。兄さんの自業自得さ。ぼくは一人の女を愛している! 兄さんはそのことを知っていて、ぼくの前でその女を嘲弄《ちようろう》する。そしてぼくの堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒を切ったのだ。兄さんの自業自得さ。だがぼくは兄さんの毒牙《どくが》を折ってやるぞ、ぼくは! ぼくを尊敬するようにきっとしてみせるぞ。
――尊敬する、きさまを?
――そうだ、ぼくをだ!
――尊敬するだと……きさまを……きさまの貪欲《どんよく》のためにおれたちみんなの顔に泥をぬったやつをか?
――なに? もういっぺん……もういっぺん言ってみろ!……
――いいか、別の人間の息子として世間に通用しているならほんとの親の財産でも受取ってはならぬ、と言うのだ。
ジャンはその場に釘づけにされたように立ちすくんだ。わけはわからぬながら、おぼろげに感じられるあてこすりにぶつかって度を失った。
――なんだと? え……もう一度言ってみろ。
――おれの言っているのは世間のやつらがみんなひそひそ話をしていることだ。方々にしゃべりちらしていることだ。きさまが財産を遺《のこ》してくれた男の息子だということなのだ。いいか! ちゃんとした息子なら母親の顔に泥をぬるような金は受取らん。わかったか。
――ピエール……ピエール……ピエール……そんなことを考えているのか?……兄さんが……兄さんが……ああ……兄さんがそんな恥ずかしいことを口にするのか?
――するとも……おれが……このおれが言うのだ。きさまにはわからんのか、おれがこの一カ月死ぬほど苦しんでいることが。夜も寝られず、昼間は獣みたいに人に姿を見られないようにしているのがわからんのか。もうなにを言っているのか、なにをしているのか、どうなるのか、それもわからぬほど苦しんでいることが、恥ずかしさと苦しさで気が狂いそうになっていることが、きさまには見えないのか。初めは推察しただけだった。いまでははっきりわかっているのだ。
――ピエール……黙ってくれ……母さんが隣の部屋にいる! 考えてくれ。母さんに聞えるかもしれない……いや、母さんは聞いている。
だが、ピエールは胸にたまっているものをぶちまけなければならなかった! 彼は全部ぶちまけた。自分の疑いのこと。自分の推理。良心の闘争。得た確信。それからあらためてもう一度かくされた肖像のこと。
彼は短い、とぎれとぎれの、ほとんど連絡のない言葉で、幻想につかれた者の言葉でしゃべった。
彼はいまジャンも隣の部屋にいる母親のことも忘れたように見えた。だれも聞いているものがないかのようにしゃべった。しゃべらなければならないから、あまりにながく苦しみすぎたから。傷口をあまりにながくおさえ、とじてきた日から、傷口ははれもののようにふくれあがっていた。そのはれものがいま破れたのだった。みんなにそのきたない膿《うみ》の飛沫《ひまつ》をあびせながら、ほとんどいつもやるように、ぐるぐる歩きはじめた。目をじっと前にすえ、絶望に狂いたった身ぶりをまじえながら、すすりなきで喉をつまらせ、憎悪《ぞうお》の反動を自分自身に対して向け、まるで自分のあさましさと、自分の身内の者のあさましさを告白するかのようにしゃべった。自分の言葉の乱れとぶ、目に見えぬ、音の聞えぬ空気に向って自分の苦しみを投げつけるかのようにしゃべった。
ジャンは無我夢中で、そして兄の盲目的な力にとつぜんほとんどこれは嘘《うそ》ではないという気持になりながら、ドアに背中をもたせて立ちすくんだ。そのドアのかげで母親が二人の話を聞いたことをありありと感じながら。
母親は外へは出られないはずである。出るにはこの客間を通らなければならないのだから。母親はひき返してこなかった。してみれば出てくる勇気がなかったのだ。
ピエールがいきなりじだんだを踏みながら叫んだ。
――ばか、おれは畜生だ。こんなことを言ってしまって!
こう言ったと思うと、帽子もかぶらず、階段のほうへ、逃げるように駆けだした。
往来に面した大きな戸があらあらしくしめられた物音がジャンの落ちこんでいた深い感覚喪失の状態から彼をよびさました。何秒かの時間が経過していたのだった。何時間よりもながい何秒かが。そして彼の魂は白痴のような無感覚状態に落ちこんでいたのだ。すぐにでも考えなければならない。なにかしなければならないということはわかっていた。だが彼はそれをのばしているのだった。事態を理解することさえ、知ることさえ、思い出すことさえしたくなかった。恐ろしさのため、弱さのため、卑怯《ひきよう》さのためだった。彼は常に物事を翌日に延期する因循派の人間だった。即座になにか決心をしなければならないときでも、まだ、本能的に、いくらかの時間をもうけようとするのだった。
だが、ピエールのわめきちらした後、いま自分をとりまいているこのふかい沈黙は、壁や家具のこのとつぜんの沈黙は、六本のロウソクと二つのランプのこうこうたるあかりに照らしだされたこの沈黙は、いきなり彼に激しい恐怖を覚えさせ、彼も思わず逃げだしたい気持に襲われたほどだった。
そこで彼は頭をさまし、胸をさまして、よく考えてみようとあせった。
いままでの生涯にめんどうなことというものには一度もぶつかったことがなかった。彼は水が流れるように、なりゆきにまかせて生活をおくる種類の人間にぞくしていた。学校は注意深くやってのけた。罰を受けないために。それから、法律の勉強もきちんとしあげた。彼の生活になんの波瀾《はらん》もなかったからである。すべての世間のことはあたりまえのこととして彼の目に映じ、それ以外にはべつに彼の注意を喚起することがないのだった。生れつき、秩序を、節度を、平穏を愛した。心のなかに襞《ひだ》というものを持たなかったのである。この破局を前にして、一度も泳いだことのない男が水にとびこむように、立ちすくんだのだった。
初めはまず疑ってみようとした。兄が憎悪と嫉妬から嘘をついたのだろうか?
とはいえ、兄自身絶望のために正気を失っていなかったとすれば、どうして自分たちの母親についてあのようなことを口にするほどあさましくなれよう? それに、ジャンの耳の底に、目の底に、神経のなかに、いや筋肉の奥にまで、ピエールの言葉のあるものが、苦悩の叫びのあるものが、声の抑揚と身ぶりが、こびりついて残っていた。あまりにも苦しげで、はねかえすことができなかった。はっきりした確証をつきつけられたと同じくらい拒否することができなかった。
動くこともなにかしようという意志を持つこともできないくらい押しつぶされていた。絶望は堪《た》えきれないほどになった。それに彼は感じていた。ドアの向うに、母親がいる。いっさいを聞き、そして待っている母親がいる、ということを。
なにをしているのだろう? ごとりともものの動く気配がしない。身ぶるい一つ、吐く息一つ、溜息《ためいき》一つ、この板の向うに人間のいることを告げていない。逃げだしたのだろうか? どこから? 逃げだしたとすれば――では窓から往来にとんだのだ!
はっととびあがるほどの驚きが彼をつき上げた。あっというまもないおおいかぶせるような恐怖だった。ドアをあけるというよりは突き破るようにして、寝室のなかへとびこんだ。
寝室は空《から》っぽに見えた。タンスの上に置かれたたった一本のロウソクがあたりを照らしていた。
ジャンは窓のそばへ駆けよった。窓はしまっていた。よろい戸もしめてあった。彼は後ろをふり向いた。不安に燃える視線でくらい隅々《すみずみ》をさぐった。と、寝台のカーテンがひかれたままになっているのが目についた。彼はそのほうへ駆けよって、さっとひきあけた。母親が自分の寝床の上に横になっていた。けいれんにふるえる両手で頭の上に枕《まくら》を引きよせ、これ以上聞くまいとして、顔をそのなかに埋めているのだった。
とっさに窒息しているのだろうと思った。それから、両肩をつかんで、ぐいと抱きおこすように向きなおらせたが、母親は顔をかくしている枕を離さず、叫び声をたてないために歯をくいしばって枕をかんでいた。
だがこの硬直している肉体、けいれんしている両腕にふれたとたん、とうてい言葉にはあらわせぬ母親の苦悩の戦慄《せんりつ》が息子に伝わった。鳥の羽を入れてふくらましてあるこの布を指と歯で、口と目と耳の上にしっかりと押しつけ、息子に顔を見られないように、息子が話しかけないように必死になっているその勢いは、ひとがどこまで苦しむことができるかということを、彼のうけた衝撃によって、彼に教えた。と彼の心は、単純な心は、憐憫《れんびん》の情に引きさかれた。彼は裁判官ではなかった。慈悲ぶかい裁判官でさえもなかった。あくまでも弱い一個の人間であり、愛情にみちた一人の息子だった。兄の言ったことなどはもう念頭になかった。りくつもたてず議論もしなかった。ただ両手で魂のぬけがらのような母親のからだにさわった。そして枕を母親の顔から引きはなすことができなかったので、着物に接吻《せつぷん》しながらこう叫んだ。
――母さん、母さん、ねえ、母さん、ぼくのほうを見てください!
ほとんど目に見えないふるえ方で、張りきった弦の振動のようなふるえ方で、全身に波動が走っていなかったとすれば、死んでいるとしか思われなかったであろう。ジャンはもう一度くり返した。
――母さん、母さん、ぼくの言うことを聞いてください。あんなことは嘘です。ぼくはよく知っています。あんなことは嘘です。
けいれんがおこり、息がつまった。それからとつぜん母親は枕のなかで嗚咽《おえつ》を始めた。すると全身の神経の緊張がゆるみ、硬直していた筋肉もやわらかくなり、指が開きかけたと思うと、枕の布を離した。息子はすかさず母親の顔を引きはなした。
その顔はまっさおだった。真っ白だった。と、とじたまぶたから大粒の涙があふれ出るのが見えた。母親の首に腕をまきつけ、両方の目に接吻した。ゆっくりと悲しみにみちたながい接吻で。その接吻は涙にぬれた。そして息子は相変らずこう言いつづけた。
――母さん、ねえ、母さん、ぼくはよく知っています。あんなことは嘘です。泣かないでください、ぼくは知っています。あんなことは嘘です!
母親は立ちあがり、すわりなおし、息子の顔をじっとながめた。そして、ある種の場合に自殺するのに必要な勇気をふるいおこしながら、息子に向ってこう言った。
――いいえ、あれはほんとのことです。
と、二人は、そのまま、声をのんで、向きあったまま、じっとしていた。しばらくの間なおも母親はむせびつづけた。胸をつき出すようにし、頭を後ろへひいて息を入れようとした。それから、もう一度自分を制御するとともに、こう言葉をつづけた。
――ほんとですよ、おまえ。なにしに嘘をつきましょう? ほんとのことです。信じておくれ、嘘はついていないから。
母親は気の狂った女のように見えた。恐怖にとらえられて、彼は寝台のそばにひざまずきながら、ささやくようにこう言った。
――言わないで、母さん、言わないで。
母親は立ちあがっていた。恐ろしい決意を顔に浮べて。
――もうなんにもおまえに言うことはありません。さようなら。
こう言いすてて母親は戸口のほうへつかつかと歩いた。
息子はそれを抱きとめながら、叫んだ。
――どうしたのです、母さん、どこへ行くのです?
――知りません……どうしてわたしが知っていよう……わたしはもうなんにもすることがない……わたしはほんとに一人ぼっちだもの。
母親はのがれようと身をもがいた。それをひきとめながら、息子はたった一つの言葉しか見つからず、夢中でそれをくり返した。
――母さん……母さん……母さん……
と、母親もおさえられているのを振りはなそうとして、必死にこう叫んだ。
――いいえ、いいえ、わたしはもうおまえの母さんではありません。わたしはもうおまえにとっても、だれにとっても、なんでもないのです、なんでもない、なんでもないのです! おまえにはもう父も母もありません、かわいそうだけど……さようなら。
息子はとっさに了解した。もしもこのまま行かせてしまえば、二度と母親の顔が見られないということを。そこで、抱きかかえながら、肘掛《ひじかけ》いすの上へ連れてゆき、無理にすわらせた。それから、ひざまずき、自分の両腕を鎖にして、こう言った。
――ここから出てはいけません、母さん。ぼくは母さんを愛しています。ぼくは母さんを離しません。いつまでも離しません。母さんはぼくのものです。
母親は力の尽きはてた声でこうつぶやいた。
――いいえ、おまえ、それはもうできないことです。今夜おまえは泣いてくれていますが、明日になればおまえはわたしを外へつき出すでしょう。おまえだってなおさらわたしを許さないでしょう。
息子は思わず真剣な愛情でとびつくようにこう答えた。――えっ! ぼくが? ぼくがですか? お母さんはそんなにぼくを知らないのですか?――母親はわけのわからぬ叫びをあげたと思うといきなり息子の髪をつかんで、激しく引きよせ、顔じゅう夢中に接吻をおしつけた。
それからじっと動かなくなった。ほおを息子のほおに押しつけたまま息子のひげごしに、息子の体温を感じながら。それから、かすかな声で、耳のなかへ吹きこむようにこう言った。
――いいえ、わたしのジャンや。明日になればきっとおまえはわたしを許しませんよ。おまえは許していると思っているけれど、自分をだましているのです。おまえは今夜はわたしを許してくれました。その許しがわたしの命を助けてくれたのです。けれどももうこれから先おまえがわたしに会うことはいけません。
息子は、しっかり相手を抱きしめながら、くり返した。
――母さん、それを言わないで!
――いいえ、言います。わたしは出てゆかねばなりません。どこへ行くか知らないし、どうすればいいか、どう言えばいいか知らないけれど、とにかく行くことは行かねばなりません。わたしはもうおまえの顔を見る勇気がなくなるでしょう。もうおまえに接吻ができなくなるでしょう。わかりましたか?
すると、こんどは、息子が、小声で、母親の耳もとでこうささやいた。
――ねえ、母さん、ここにいるのですよ。ぼくがそうしてほしいからです。ぼくには母さんが必要だからです。さあ、すぐに、ぼくの命令に服従すると誓ってください。
――いいえ、だめです。
――なにを言うのです! 母さん、そうしなければいけません、わかりましたか。そうしなければいけません。
――いいえ、だめです、それはできません。それはわたしたち二人を地獄へ落すことです。わたしは知っています、それがどういうものかということを、このわたしは、この苦しみを、一カ月このかた。おまえはいまは感激しています。けれどもそれが消えてしまったとき、ピエールがわたしをながめるような目でおまえがわたしをながめるようになったとき、おまえはわたしの言ったことが思いあたるでしょう!……いいえ、ほんとですよ!……ねえ、ジャンや、考えておくれ……わたしがおまえの母さんだということを考えておくれ!……
――母さんがぼくのところを出てゆくのはいやだ。ぼくには母さんだけしかないのだ。
――だが、考えておくれ、ねえ、わたしたちはもう二人ともあかくならずに顔を見あわせることができないのですよ。恥ずかしさに死ぬ思いをし、おまえの目がわたしの目を伏せさせずには、顔があわせられないのですよ。
――それは嘘です、母さん。
――いいえ、いいえ、いいえ、ほんとです! ああたまらない! わたしにはわかったのです。ほんとに、かわいそうなおまえの兄さんの心のおののきが全部、一つ残らずわかりました。いちばん初めの日からのことが。いまでは、兄さんの足音が家のなかでしていると思うとき、胸が破れるほど心臓がとびあがるのです。兄さんの声を聞くと、気絶しそうな気がするのです。わたしにはまだおまえというものがありました。おまえというものが! いまではおまえというものがありません。おお! ジャンや、わたしがおまえたち二人のあいだにはさまって生きてゆけると思いますか!
――ゆけます、母さん。母さんがそんなことをもう考えなくなるくらいぼくは母さんを愛してあげます。
――まあ、なにを言うの! それができることなら!
――いいえ、できます!
――おまえの兄さんとおまえとのあいだにはさまっていて、どうしてわたしにそれを考えなくなることができるというの? おまえたちだってこのことを考えなくなるだろうか?
――ぼくは大丈夫です。誓います!
――いいえ、二六時ちゅう考えるにきまっています。
――嘘です。誓います。それに、いいですか、もし母さんが行ってしまえば、ぼくは兵隊を志願して、わざと死ぬようにしますよ。
母親はこの子供らしい脅迫に顛倒《てんとう》して、ジャンをひしと抱きしめたと思うと、激しい愛情をこめて、愛撫《あいぶ》した。息子はつづけてこう言った。
――母さんの考えていらっしゃるよりずっとよけいにぼくは母さんを愛しています。いいですか、ずっとよけい、ずっとよけいですよ。さあ、ききわけをよくしてください。たった一週間でいいですからここにいてください。一週間の約束をしてくださいますか? それまでいやとはおっしゃらないでしょう。
母親は両手をジャンの肩の上にのせ、両脚をのばした姿勢で息子をしっかりおさえながら、こう言った。
――ねえおまえ……二人とも落ちついて、感情に動かされないようにしようよ。まずわたしに話させておくれ。この一カ月おまえの兄さんの口から聞いているようなことがたった一度でもおまえのくちびるからもれるなら、たった一度でもおまえの目のなかに兄さんの目のなかに読むようなことを見るなら、たった一言で、たった一目で、わたしがおまえの目から見ても兄さんにとってと同じけがれた女として映っているということを、このわたしが察しるような羽目になるなら……一時間後には、いいかい、一時間後にはだよ……わたしは永久にどこかへ行ってしまいますからね。
――母さん、ぼくは誓います……
――ちょっと待って、わたしに話させておくれ……この一月というものわたしは一人の人間が苦しめるかぎりのものを苦しんできました。おまえの兄さんが、わたしのもう一人の息子がわたしを疑っている、一分ごとに、だんだん真相をさぐりだしている、ということがわかったとき以来、わたしの生活のすべての時間が死の苦しみでした。とても説明のできない苦しみでした。
母親の声があまりにいたいたしかったので、その拷問の苦しみが相手に伝わって、ジャンの目に涙がいっぱいたまった。
息子は母親に接吻しようとしたが、母親はそれを押しのけた。
――ちょっと待って……聞いておくれ……わたしはまだたくさん言うことがあるのです。おまえにわかってもらわなければならぬから……だけどおまえにはわかりますまい……ほかでもないけど……もしわたしがどこにも行かないとすると……どうしたって……いいえ、だめです、わたしにはとてもできない!……
――言ってください、母さん、言ってください。
――じゃ! 言いましょう。せめておまえだけはだますことになりたくないの……おまえはわたしにいっしょにいてくれというのだね? そのためには、わたしたちが一日じゅう家のなかで出あったり、話しあったり、顔を見あったりすることがこれから先もできるためには――なぜと言っておまえ、わたしは恐ろしくて戸もあけられないのだよ。戸のかげにおまえの兄さんがいるかと思うと――それができるためには、どうしたって、おまえがわたしを許すというのではなく――許されるほどつらいものはないもの――そうではなく、おまえがわたしのしたことをうらみに思わないということがなくちゃ……おまえが自分に自分がロランの息子ではないと言って聞かせ、それでも顔をあかくせず、わたしを軽蔑《けいべつ》もしないでいられるほど、十分強く、十分他の人間と異なっていると、感じてもらわなければならないのだよ!……わたしはずいぶん苦しんだ……苦しみすぎた。もう我慢ができない、ほんとに、もう我慢ができない! それにきのうやきょうのことではないのだよ、おまえ、ずっとながいことなのだもの……でもおまえにはとてもわかりますまい、こんなことは、おまえには! わたしたちがこれから先もいっしょに暮してゆけるためには、接吻しあったりしてゆけるためには、ねえ、ジャンや、おまえははっきり自分に言っておくれ。わたしがたとえおまえのお父さんの道ならぬ関係の女だったとしても、それ以上にわたしはあの人の妻だったのですよ。ほんとの妻だったのです。心の底では恥ずかしいと思っていません。ちっとも悔いることなどはありません。亡《な》くなったとはいえ、わたしはいまでもあの人を愛しています。永久に愛します。わたしの愛したのはあの人だけだった。あの人はわたしの全生命だった。喜びのすべて、希望のすべて、慰めのすべてだった。すべてだったのです。わたしにとってのすべて、あんなにながいあいだ! ねえ、聞いておくれ、わたしの言葉をお聞きくださる神様の前で。わたしは、もしあの人に出あわなかったなら、この生涯でなんにも楽しいことを経験しなかったでしょう。絶対に何一つ、やさしい愛情も、楽しい気持も、年をとるのがほんとに残念だと思わせるあの楽しい時間の一時間だって、持ちはしなかったでしょう。ほんとに何一つ持たなかったにちがいない! すべてがあの人のおかげです! この世界にあの人だけしかなかった。それからおまえたち二人が、おまえの兄さんとおまえが、おまえたちというものがなければ空虚です。真っ暗で空虚でしょう。夜の闇《やみ》のように。なんにも愛さなかったでしょう。なんにも知らなかったでしょう。なんにも望まなかったでしょう。泣くことさえしなかったでしょう。だって、ねえ、ジャンや、わたしは泣いたもの。ほんとに! わたしは泣いた。わたしたちがこの土地へ引越してからというものは。わたしはあの人に、身も心も、すべてをささげたのです。永久に。幸福にひたりきって。それから十年以上もの間、わたしはあの人の妻でした。あの人がわたしの夫だったように。わたしたち二人を互いのものとしてつくってくだすった神様の前で。それから、わたしにはわかりました。あの人が前ほどわたしを愛さなくなっていることが。相変らずやさしくて親切だったけれど、わたしはもうあの人にとっていままでどおりのものではなくなったのです。もう終ったのでした! ほんとに! わたし泣いたっけ!……なんて情けない頼りないものなんだろう、人生なんて!……永続きするものはなんにもない……それからわたしたちはここへ移ったのです。それから後は一度もあの人に会ったことがありません。一度もあの人は来てくれなかった……いつでも手紙のなかでは約束しながら!……わたしはいつまでも待っていた!……そして一度も再会の機会はなかった!……そこへいきなり亡くなったという知らせだった。それでもあの人はまだわたしたちを愛してくれていたのです。おまえのことを考えてくれたのですから。わたしは、最後の息をひきとるまであの人を愛します。決してあの人の愛を受けたことを否定しません。わたしはおまえがあの人の息子だからおまえを愛します。おまえの前であの人のことを恥ずかしく思うことはわたしにはできません! わかりますか? わたしにはできませんよ! おまえがわたしにいてもらいたいと言うなら、おまえがあの人の息子だということを喜んで認めなければなりません。わたしたち二人でときどきあの人の話をし、おまえもあの人をいくらか愛し、わたしたち二人が目を見あわせるとき、あの人のことを考えるというふうでなければなりません。おまえにそれがいやなら、それができないなら、お別れです。いまとなっていっしょに暮してゆくことはできません! わたしはおまえの決めるとおりにします。
ジャンはやさしい声で答えた。
――いてください、母さん。
母親は息子を抱きしめたと思うと、泣きだした。それからほおを押しつけあったままの姿勢でこう言葉をつづけた。
――そうしようね。だけどピエールは? あの子といっしょにいてわたしたちはどうなるのだろう!
ジャンがつぶやくように言った。
――なんとかなりましょう。お母さんはもう兄さんのそばでは暮してゆけません。
長男のことを思い出すと、母親はまた全身がひきつるほどの不安におそわれた。
――ええ、できませんとも! できませんとも!
ジャンの胸にとびつきながら、絶望に魂をしぼられ、母親は思わずこう叫んだ。
――わたしをあの子から救っておくれ、ねえ、おまえが救っておくれ。なんとかして、わたしにはわからないけれど……考えておくれ……助けてちょうだい!
――わかりました。母さん、考えてみましょう。
――すぐに……してもらわなければ、すぐにですよ……わたしのそばを離れないで! わたしはあの子がこわい……ああこわい!
――わかりました。なんとかしましょう。ぼくがうけあいます。
――だって! はやくだよ、はやく! おまえにはわからないのです。あの子の姿を見るときのわたしの気持が。
それから母親は息子の耳のなかへ吹きこむように小声でこうささやいた。
――ここへかくまっておくれ、おまえの家へ。
息子は躊躇《ちゆうちよ》した。考えた。そして、持前の堅実な判断力で、この思いつきの有する危険性を了解した。
しかし彼はながいことりくつを並べなければならなかった。正確な議論で、母親が夢中にこわがっているいわれなさを説得し、打破しなければならなかった。
――今晩だけ、今夜だけでも。と、しきりに母親は言った。明日行っておまえからロランにわたしが気分が悪くなった、と言ってくれればいい。
――それはだめです。ピエールが帰っていますもの。さあ、勇気を出してください。ぼくが万事いいようにします。うけあいますよ。明日にでもすぐに、九時には家《うち》へ行きます。さあ、帽子をかぶってください。ぼくが送ってゆきます。
――おまえの言うとおりにしましょう。こう言った母親の声には子供のようにまかせきった、まだ恐怖にふるえる、感謝にみちたひびきがこもっていた。
母親は立ちあがろうとした。しかし激動はあまりに強かった。まだちゃんと立っていることができなかった。
そこで息子は母親に砂糖水を飲ませ、アンモニア水を嗅《か》がせ、酢でこめかみをこすってやった。母親はなすがままにまかせていた。まるでお産の後《あと》かなにかのように、へとへとに疲れて、そのくせ、重荷のおりた気持だった。
やっと歩くことができるようになり、息子の腕につかまった。二人が市役所の前を通ったとき、時計が三時をうっていた。
自分たちの住居の戸口の前で息子は母親に接吻し、こう言った。「さようなら、母さん、元気を出して」
母親は、しのび足で、音のせぬよう階段をあがり、自分の部屋にはいった。大急ぎで着物を脱ぎ、昔不義をしたころの感動をゆくりなくもまた味わいながら、いびきをかいているロランのそばへもぐりこんだ。
家じゅうでただ一人ピエールが、眠らずに、母親の帰ったのを聞きつけていた。
8
自分の新居に帰ると、ジャンはぐったりと蒲団《ふとん》いすの上に倒れた。追われるけもののように逃げ走りたい気持に兄をかりたてたあの苦悩と不安が、元来動くことのきらいな彼の性質の上にはちがったふうに作用して、脚《あし》も腕もぐったり力がぬけたほど彼を疲れさせたのである。もう少しも動くことができないほど、寝台のところまで歩いてゆくことさえできないほどぐったりしているのが、心もからだも、押しつぶされ、絶望にうちのめされて、ぐったりしているのが、自分にも感じられた。彼は、ピエールが受けたように、息子としての愛の純真さにおいて、気位の高い心の外被であるあのひそかな威厳において、打撃を受けたのではなかった。そうではなく、同時に彼の最も大切な利益をもあやうくする運命の打撃に押しひしがれたのである。
やっと彼の魂が平静をとりもどし、彼の考えがひっかきまわされたあとの水のように澄んだとき、彼は自分の前に明かされた事態を直視した。もしこれとまったくちがった方法で自分の生れの秘密を知ったとすれば、たしかに腹がたったであろうし、深刻な苦しみを覚えたことであろう。しかし兄とのいさかいのあとで、神経を根こそぎゆすぶるような激しい乱暴な暴露のあとで、母親の告白から受けた胸をえぐるような感動が、反抗の気力もおきないほど彼をたたきのめした。彼の感受性の受けた衝撃は、抗しがたい感動のなかに、本然の道徳のすべての神聖なかん[#「かん」に傍点]やすべての偏見をことごとくおし流すほど強かった。それに、彼は抵抗のできる種類の人間ではなかった。だれを相手に戦うことも好きではなかった。自分自身を相手にすることはなおさらきらいだった。そこで彼はあきらめた。そして本能的な心の傾きから、生れつき休息と平穏無事の生活を愛する気持から、すぐに、自分をめぐってわきおこるであろうごたごたを、一挙に自分に打撃を与えぬともかぎらぬごたごたを心配しだした。彼はそれをさけがたいものとして感じた。それを押しのけるために、気力をふるいおこし活動するのに超人的な努力を決心した。すぐに、明日からにでもさっそく、困難は一刀両断に解決されなければならぬ。ほかでもない、彼はまたときとして即刻の解決を望むがむしゃらな欲求を覚えることがあった。これが弱者の力の全部である。ながいこと望んでいるなどという芸当はできないのである。それに、弁護士としての彼の頭は、複雑な事態を研究し分析するのになれ、ごたごたのおきた家庭における内密な問題を研究することになれているので、兄の心の状態から近い将来にひきおこされる結果を即座に発見した。われにもあらずほとんど職業的な観点からその結果をながめていた。まるで道徳上の破滅を経験した未来の訴訟依頼者の依頼事項を処理しているかのようだった。言うまでもなくピエールとしょっちゅう肘《ひじ》つきあわせていることは彼にとっては不可能なことになった。自分の家にじっとしていることによってこれは容易にさけることができる。だがまた母親が上の息子と同じ屋根の下で生活をつづけるということは、なおさら許しがたいことなのである。
ながいこと彼は考えにふけった。クッションの上でじっと身うごきもせず、いろいろな思いつきを考えだしてはしりぞけ、満足のできるようなものはなかなか見つからなかった。
が、とつぜん一つの考えがつき上げるように浮んできた。――自分の受取ったこの財産、りっぱな人間だったらこんなものを取っておくだろうか?
彼ははじめ、自分に向って「否」と答えた。そして貧しい人たちに与えようと決心した。それはつらいことだ。だがしかたがない。家具やなにかを売りはらい、他の人間と同じように働こう。すべてある生涯に初めて乗りだす者が働くように。この男らしい悲痛な決心が彼の勇気に鞭《むち》打ち、彼は立ちあがって、窓のところへ歩みよりガラスに額をくっつけた。元来貧乏だったのだ。もう一度前のように貧乏になるだけだ。まさか、それで死にはすまい。彼の目は往来の向いがわの正面に燃えているガス灯の灯をながめていた。と、遅くなって家へ帰る一人の女が歩道の上を通りかかったので彼はいきなりロゼミリ夫人のことを思った。と、彼は胸に、つらい考えがわれわれの身中《みうち》に生れさせるふかい感動の衝撃を受けた。彼の決心からつづいておこるはずのすべての絶望的な結果が一時に彼の眼前に浮んだ。あの女と結婚することもあきらめなければならぬだろう。幸福を断念しなければならぬだろう。すべてを断念しなければならぬだろう。あの女と面と向って約束していながらいまさらそんな行動をとることができるだろうか? 自分に金があるということを知っていて承知してくれたのだ。貧しくても、やっぱり承知してくれたかもしれない。だがこの犠牲を要求する権利が、押しつける権利が自分にあるだろうか? この金を委託されたものといったぐあいにして保管しておき、もっとあとになって極貧者に返還したほうがよくはないだろうか?
利己主義が律儀《りちぎ》の仮面をかぶっている彼の魂のなかで、変装したすべての利害が戦い、うち負かしあった。最初の心づかいが巧妙なりくつの前に席をゆずり、それからまた姿を現わしたと思うとまた見えなくなるのだった。
彼は元の場所へもどってすわりなおした。躊躇《ちゆうちよ》をやめさせ生れつきの正直さを説得するにたる決定的な動機を、全能の口実を、探そうとするのだった。すでに幾度もくり返した次の質問を自分にかけてみた。「自分があの人の息子であり、自分でもそのことを知っており、承認している以上、あの人の遺産を受けるのも当然ではないか?」だがこのりくつは心の奥底の良心によってささやかれた「否」をうち消すには足りなかった。
とつぜん彼はこう考えた。「自分は自分の父親だと思っていた人の息子でない以上、その人から、生きているあいだでも、その人の亡くなったあとでも、塵《ちり》っぱ一つ受取ることはできない。その資格はないのだし、また公平なことでもない。兄さんのものを盗むことになる」
この新しい見方が彼の気持を軽くし、良心をしずめてくれたので、彼はまた窓のそばへもどった。
「そうだ」と彼は心のなかで言った。「うちのほうの財産の相続は断念しなければならない。全部ピエールに遺《のこ》すのが当然だ。自分はピエールの父親の子供ではないのだから。それが正当だ。してみれば自分が自分の父親からもらった金はとっておくのが正しいのではないか?」
ロランの財産の利益にあずかることはできないと気づき、これはそっくり捨てると決心すると、そこで彼はマレシャルの分はとっておくことに同意し、このほうはしかたがないとあきらめをつけた。両方ともしりぞけた日にはまったく乞食《こじき》同然になるわけだから。
この微妙な問題が、いったん片づくと、彼はピエールが家のなかにいることの問題のほうにかえった。どうしてピエールを遠ざけたらいいだろう? 実際的な解決方法を探しあぐねているところへ、とつぜん港へはいってきた汽船の汽笛が、彼にある考えを暗示し返事を投げつけてくれたような気がした。
そこで彼は着物を着たまま寝床の上に長々と横になり、夜明けまで空想にふけった。
九時近く、彼は自分の計画の実行が可能かどうか確かめるために外出した。それから二、三|人《ひと》を訪《たず》ねたり寄り道をしたりしたあげく、両親の家へ出かけていった。母親は居間にとじこもって待っていた。
――おまえが来てくれなければ、とても下へおりてゆく勇気なんかなかったよ。
と、たちまち階段のところでなにかどなりちらしているロランの声が聞えた。
――きょうは飯は食わんのか、ばかにしていやがる、畜生め!
だれも返事をしなかったので、老人はやっきにがなりたてた。
――ジョゼフィーヌ、ばかやろう! きさまなにをしているのだ!
女中の声が地下室の底から聞えてきた。
――はーい、旦那《だんな》様、なんですか?
――奥さんはどこだ?
――奥様はジャンさまといっしょに二階ですがの!
すると老人は上のほうをふりあおいでわめいた。
――ルイーズ!
ロラン夫人はドアを半分あけて、答えた。
――なんですか? あなた。
――いったい飯は食わんのか、ばかにしてやがる!
――はい、はい、いま参りますよ。
と、母親はジャンをしたがえておりていった。
ロランは若者の姿を認めると思わずこう叫んだ。
――ほほう、おまえが来ていたのか! もう自分の新居が退屈になったな。
――ちがいます、お父さん、けさ母さんと話をすることがあったのです。
ジャンは、手をひらいて、進みでた。老人の父親としての握手が自分の指の上にぐいとおおいかぶさるのを感じたとき、思いがけない奇妙な感動が彼の全身をひきつらせた。二度と帰ってくる望みのない別離の感動だった。
ロラン夫人がきいた。
――ピエールはまだですか?
ご亭主は肩をすくめて見せた。
――まだだ。しかたがないさ。あいつはいつでも遅れるのがくせだ。あいつをぬきにして始めよう。
母親はジャンのほうをふり向いた。
――おまえが呼びに行ってきたほうがいいでしょ。待ってやらないといつでも気を悪くするから。
――わかりました。ぼく行ってきます。
そこで若者は出ていった。
決闘に出かけてゆく臆病者《おくびようもの》の熱に浮かされた決意で、彼は階段をあがった。
ドアをたたくと、ピエールが答えた。
――おはいり。
弟ははいった。
兄は机の上にかがみこんだまま、なにか書きものをしていた。
――おはよう。と、ジャンが言った。
ピエールも立ちあがった。
――おはよう。
と、二人は互いに手をさしのべた。まるでなにごともおこらなかったあとのように。
――ごはんにおりてこないんですか?
――いや……そういうわけじゃないが……仕事が忙しくて。
兄の声はふるえていた。不安げな目は弟に向って、なにをしようとしているのかと問いかけていた。
――みなさん待っていますよ。
――そうか! じゃ……じゃ母さんも下にいるのだね?……
――いますよ。母さんが兄さんを呼んでこいとぼくに言いつけたのですからね。
――ああ、そうか! じゃ……おりてゆこう。
食堂のドアの前で彼は先頭にたってはいるのをちょっとためらった。それから、少し乱暴にドアをあけた。と、父親と母親が向き合って、食卓についているのが見えた。
彼はまず、目を伏せたまま、一言も発せずに、母親に近づいた。そしてかがみこむようにして、接吻《せつぷん》をしてもらうのに自分の額をさし出した。昔のように母親の両ほおに接吻するかわりに、しばらく前からこうするようになっていた。母親が口を近づけた気配は感じたが、皮膚の上にくちびるを感じはしなかった。と、この擬装の愛撫《あいぶ》のあとで、彼は、胸をどきどきさせながら、起きなおった。
彼は心のなかにこうきいてみた。「おれが出ていったあと、二人はなにを話しあったろう?」
ジャンはたえず愛情をこめて、「お母さん」とか、「ねえ、母さん」とか呼びかけながら、母親に気をくばり、料理をとりわけてやったり、飲物をついでやったりした。そこでピエールは二人がいっしょに泣いたことをさとった。だが二人の考えの奥にまで立ちいることはできなかった! ジャンは母親を罪あるものと思っているのだろうか、それとも兄をあさましいやつと思っているのだろうか?
恐ろしいことを言ってしまったあとで自分に向けた非難がまたぞろ新しく彼を襲ってきた。喉《のど》をしめつけ、口をふさいで、食べる気持もしゃべる気持もなくさせた。
いま彼は逃げていってしまいたいこらえきれぬ気持に襲われていた。もはや自分のものではないこの家を去るのだ。もはや目に見えぬ絆《きずな》で自分に結びついているにすぎないこの人たちのもとを去るのだ。と、すぐにでも行ってしまいたい気がした。どこへでもかまわない。もはやとりかえしがつかない。もういまとなってはこの人たちのそばにとどまることはできない。われにもあらず、この人たちを二六時ちゅう苦しめるだろう。ただ自分がここにいるということだけで。そしてこの人たちも自分にたえまなく我慢のできない苦しみを味わわせるだろう。
ジャンはしきりにしゃべっていた。ロランを相手に話をしていた。ピエールはもう聞く気持もないので、なんにも聞いていなかった。それでも、そのうちに、弟の声のなかに、なにか特別な意味が感じられるような気がして、言葉の意味に注意をはらいだした。
ジャンはこう言っていた。
――どうやら、あの会社の商船隊でいちばんきれいな船になりそうですよ。六千五百トンとか言っていましたからね。来月処女航海だそうです。
ロランはびっくりしてみせた。
――はやいもんだな! 今年の夏はまだ就航できまいと思っていたがな。
――いいえ、それがね、一所懸命に作業を急がせたのですよ。処女航海が秋前にできるようにね。けさちょっと会社の事務所へ寄って、重役の一人と話してきたのです。
――うん、そうか! だれとだ?
――マルシャンさんです。取締役会長の親友の。
――へえ、おまえあの人を知っているのか?
――知っています。それに、ちょっとあの人に頼みたいことがありましてね。
――そうか! じゃおまえおれにくわしく〈ロレーヌ号〉を見物させてもらってくれるだろうな、港へはいりしだいに、え?
――いいですとも、おやすいご用です!
ジャンはなにかためらっている様子だった。うまい文句を探し、なかなか見つからない言葉の継穂《つぎほ》に苦心しているらしかった。やがてこう言葉をつづけた。
――しかしなんといっても、ああいう大きな大西洋通いの船の上でおくる生活は悪くないと思いますね。毎月の半分は、ニューヨークとル・アーヴルという二つのすばらしい都会で陸上生活をおくり、残りはよりすぐったようなりっぱな人たち相手に海上生活ですからね。それに船の上では非常に愉快なまたあとあとのために非常に役だつ知りあいをつくることさえできますからね。そうですよ。非常に役だちますよ。船客のなかにはそういう人がいますからね。なにしろ、どうでしょう、船長なんか、石炭をうまく倹約すれば、年二万五千フランになるって言いますからね。それ以上にはならないにしたところで……」
ロランは「ひええ! たいしたもんだな!」と叫んでから口笛を吹いた。それはこの金高と船長とに対する深甚なる尊敬をあらわすものだった。
ジャンが言葉をつづけた。
――事務長が一万フランになるそうです。船医が固定給五千フランで、部屋も、食物も、照明も、煖房も、給仕も、そういったものは全部向う持ちです。少なく見つもったって一万フランに相当しますからね。ずいぶん悪くないじゃありませんか。
目をあげて聞いていたピエールは、弟の視線とぶつかった。彼は弟の真意をのみこんだ。
すると、ちょっとためらった後で、こうきいた。
――どうだろう大変むつかしいかね、そういう大西洋通いの船の船医の地位を手に入れるのは?
――むつかしいと言えばむつかしい、わけはないと言えばわけはないようなものですが。万事そのときの情勢とひき[#「ひき」に傍点]のいかんですね。
ながい沈黙があった。それからドクトルがこうつづけた。
――〈ロレーヌ号〉が出帆するのは来月だったね?
――そうです、来月の七日です。
それから二人は口をつぐんだ。
ピエールは考えにふけった。確かに、もしその商船に船医として乗り組むことができれば、それは一つの解決策になる。それから後でもっとゆっくり考えればいい。たぶん一生船医ではいないだろう。とにかくそれまでうちからなんにももらわずに生活をたててゆくことができる。一昨日は時計を売らなければならなかった。いまではもう母親の前に手をさし出すことができなかったから! これをのぞいては、だから、他に手段がないわけである。住むに耐えなくなった家のパン以外のパンを食べ、別な寝床に、別な屋根の下で眠る手段が。そこで、彼は、いくぶん躊躇《ちゆうちよ》しながらこう言った。
――もしできれば、ぼくなら喜んでその船に乗っちまうがな。
ジャンがきいた。
――どうしてできないことがあります?
――だって大西洋汽船会社にだれも知ってる人がいないからね。
ロランはあきれた顔をしていた。
――じゃおまえ、あの成功、成功っていうりっぱな計画はいったいどうなったのだ?
ピエールはつぶやくようにこう言った。
――すべてを犠牲にすることを、いちばん大切な希望でも断念することを知っていなければならないときがあるものですよ。それに、これはただ第一歩にすぎませんからね。あとで開業するために四、五千フランのものをためる手段ですよ。
父親は、すぐに、なっとくした。
――うん、そりゃほんとだ。二年もすれば六、七千フランは貯金できる。うまく使えばうんと驥足《きそく》がのばせるさ。どうだ、ルイーズ、おまえはどう思う。
母親は、ほとんど聞きとれないような低い声で答えた。
――ピエールの言うとおりだと思います。
ロランはいきおいこんで叫んだ。
――ようし、おれが行ってプーランさんに話してやろう。あの人ならよく知ってるぞ! 商事裁判所の判事で会社の事件を担当している人だ。それにルニアンさんも知っているぞ。船主だが副社長の一人と懇意だ。
ジャンが兄に向ってきいた。
――どうです、ぼくがきょうにでもマルシャンさんの意向をたたいてみましょうか?
――うん、それはありがたい。
ピエールは、しばらく考えてから、また言葉をつづけた。
――いちばんいい方法はたぶんやはり医学校の先生に手紙を書くことだろうな。先生たちはかなりぼくを認めていてくれたからね。ああいう船にはときどきあまり香《かんば》しくないやつが乗り組ませられることがあるからね。マルッセル、レミュゾ、フラーシュ、ボリケルといったような諸教授の熱心な推薦状があれば、たちまち事は片づいてしまうだろう。あやしげな推薦状を全部束にしたより効《き》き目《め》があるさ。おまえの知りあいのマルシャンさんの手を通して、その手紙を重役会に提出するだけでたくさんだろうよ。
ジャンは全幅の賛意を表した。
――そりゃいい考えですよ、そりゃすてきだ!
と、ジャンはもうにこにこ笑っていた。ほっと一安心し、ほとんど満足していた。かならずうまくゆくと確信しながら。ながいこと苦しむというようなことはこの男にはできないのだった。
――きょうにでもすぐ書くといいですね。
――うんいま書く、すぐに書く。よし。けさはコーヒーは飲まん。神経が興奮しすぎている。
彼は立ちあがって出ていった。
すると、ジャンは母親のほうをふり向いた。
――どうです、母さんはどうします?
――べつに……どうって。
――ロゼミリ夫人のところまでぼくといっしょに来てくださいますか?
――そうだね……ええ……行きましょう……
――ほら……きょうはどうしたって行かなければならないのです。
――そう……そう……そうですとも。
――どうしたってとはそりゃまたなぜだ? と、ロランがきいた。もっとも自分の面前で言われることはなにもわからないのはなれっこになっているのだが。
――あの女《ひと》に行くと約束したからです。
――ああ! そうか。それじゃ、べつだ。
こういって老人はパイプに煙草を詰めはじめた。一方母親と息子は帽子をとりに二階へあがった。
二人が往来に出ると、ジャンは母親にきいた。
――ぼくの腕につかまりませんか、母さん?
いままで一度もこんなことを言ったことはなかった。二人はいつも肩を並べて歩くのが習慣だった。母親は息子の申し出を受けいれ、その腕によりかかった。
しばらくのあいだ二人は口をきかなかった。それから息子がこう言った。
――ほら、ごらんなさい、ピエールがすっかり、この土地を離れることに同意していますよ。
母親はつぶやくようにこう言った。
――かわいそうに!
――なぜかわいそうなんです? 〈ロレーヌ号〉に乗り組めばちっとも不しあわせなことなんかありませんよ。
――いいえ……わたしにはよくわかっています。わたしはいろいろなことを考えるから。
ながいこと母親は物思いにふけった。顔をふせ、息子に歩調をあわせて歩きながら。それから、ひとがながいあいだこっそり考えていたことに結論をつけるときに時として出すあの奇怪な声で、こう言った。
――いやだねえ、人生なんて! なにかの拍子にちょっと楽しいことが見つかったと思うと、それにおぼれて罪におち、後《あと》でひどい目にあうのだからね。
息子は、声をひくめて、こう言った。
――もうその話はよしましょう、母さん。
――それができますか? わたしは二六時ちゅう考えている。
――いまに忘れますよ。
母親はまた口をつぐんだ。それから、心の底から無念げに、こう言った。
――あーあ! ほかの男と結婚していたら、どんなに幸福になれたろう!
いま彼女はロランに対して言いようもなく腹をたてていた。夫の醜さの上に、彼の愚鈍さの上に、その不作法さの上に、頭の働きのにぶさと姿の平俗さの上に、自分の過誤と自分の不幸との全責任を投げかえしたのだった。みんなそのためである。この男の俗悪さのためである。この男をだまさなければならないような羽目になったのは。一人の息子を絶望におとしいれ、もう一人の息子には母親の心が血ににじむ世にも苦しい告白をするようなことになったのは。
彼女はつぶやくようにこう言った。「わたしの夫のような人と結婚することは若い娘にとってほんとに不幸なことです」ジャンはそれには答えなかった。彼はいままで自分がその人の息子だと信じていた人のことを思っていた。おそらくは父親の人物が平俗なことについてずっと前から持っていた漠然《ばくぜん》とした意識、兄のふだんの皮肉、他の人々が軽蔑《けいべつ》して相手にしないこと、女中までがロランに対して侮《あなど》る気持を持っていること、そうしたことが、母親の恐ろしい告白に対して彼の魂を準備していたものであろう。他の男の息子だということはそれほどの打撃ではなかった。昨夜のあの激しい感動の衝撃のあとで、ロラン夫人の恐れていた反抗、憤激、怒りの反動をおこさなかったとすれば、それはもうずっと前からこの人が好いだけの鈍物の子供だと感じることに無意識に苦痛を感じていたからである。
二人はロゼミリ夫人の家の戸口の前まで来ていた。
夫人は、サント・アドレス街道に面した家に住んでいた。自分の持物である大きな建物の三階だった。部屋の窓からル・アーヴルの港の全景が見渡せた。
先にたってはいってきたロラン夫人の姿を認めると、いつものように両手をさしのべるかわりに、両腕を大きくひろげて、相手を抱擁した。相手がわざわざやってきた意向がどういう性質のものか見ぬいたのである。
客間の家具は、厚地のビロードで張られ、いつでもおおいがかぶせてあった。壁には、花模様の壁紙が張られ、最初の夫である船長の買いいれた版画が四つかけてあった。船に関する感傷的な場面をあらわしているものだった。第一の絵には、夫をのせた舟が水平線に没してゆくのを見送って、岸でハンカチをふっている漁師の妻が描いてあった。二番目は、同じ女が、同じ岸の上にひざまずき、はるか向う、稲妻《いなずま》のひらめく空の下に途方もなく大きな波のたっている海上で、まさに沈もうとしている夫の舟をながめながら、腕を振りしぼっている図だった。
他の二つの版画は社会的地位のより高い階級における同じような場面をあらわしていた。
金髪の若い女が港を出てゆく大きな船の甲板《かんぱん》に肘《ひじ》をついて、物思いにふけっている。はやくも遠くなった岸をなごりおしさの涙でぬれた目でながめている。
この女はなにを後に残してきたのだろうか?
それから、同じ女が大西洋に向ってひらかれた窓のそばで肘掛いすにかけたまま気絶している。手紙が一通彼女のひざからじゅうたんの上にすべりおちたところである。
では男は死んだのだ。なんという絶望!
訪問者はたいてい、この見えすいた詩的な題材の平俗な悲しさにひきつけられ感動させられた。説明も探求もいらず、すぐに了解できた。そしてかわいそうな女たちを気のどくがるのである。もっとも正直なところ身分の高いほうの女の苦悩の性質がどんなものかわかっていないのだけれど。だがこの不確かさがかえって空想を助けた。許婚《いいなずけ》の男を失ったに相違ない! 客の目は、この部屋にはいるがはやいか不可抗的にこの四つの主題のほうに引きよせられ、呪縛《じゆばく》をかけられたように釘《くぎ》づけにされる。ちょっと外へそらされてもまたすぐにそこへかえってくる。姉妹のようによく似ている二人の女のこの四つの表情をいつまでもながめずにはいられない。とくにそのはっきりしたデッサンから、流行雑誌のさしえ式に上品に、念入りに、ていねいに描かれたデッサンから、そしてまたぴかぴか光っている額縁から、一種の清潔とかきちょうめんといった感じが生れてきていたが、それをまた他の家具類がいっそう強めているのだった。
いすはいつも判で捺《お》したような順序に並んでいた。あるものは壁にくっつけて、他のものは丸テーブルのまわりにといったふうに。一点のしみもない純白のカーテンは、あまりにまっすぐな規則ただしい襞《ひだ》がついているので、それを見ているとちょっとしわくちゃにしてやりたい気持がおこるくらいだった。帝政時代風の金メッキの置時計、ひざまずいているアトラスにささえられている地球儀型の時計が室内できのメロンみたいにそのなかで熟しているように見えるおおいガラスに塵《ちり》ひとつとまっていなかった。
二人の女は腰かける拍子にいすのいつもの場所を少し狂わせた。
――きょうはお出かけになりませんの? と、ロラン夫人がきいた。
――ええ、こうしておりますの。じつは少し疲れておりますの。
それから夫人は、ジャンと母親に礼をいうように、きのうの遠足とエビ捕《と》りの楽しかったことを思い出して話題にした。
――ねえ、こうなんでございますよ。けさ捕ってきたあのエビをいただいたんでございますよ。とてもおいしいんですの。およろしかったら、またいたしましょうね、いつか、きのうのような遠足を……
青年が相手の言葉をさえぎった。
――二度目をやる前に、第一回の片をつけようじゃありませんか?
――なんですって? だってあれはもうすんだようではございませんか。
――なにを言っているのです! 奥さん、ぼくはぼくで、あのサン・ジュアンの岩の間で、捕ったものがあるんですよ。ぼくもそれをうちへ持ってかえりたいですからね。
相手はわざとずるく、けろりとして見せた。
――あなたが? いったいなんですの? なにをお見つけになったの?
――一人の女性です! それでわたしたちは、母さんとぼくとは、そのご婦人がけさになって気が変らなかったかどうかうかがいにあがったのです。
相手ははじめてにっこり笑って見せた。
――いいえ、申し上げますけれど、わたしは決して気が変りはいたしません。
そこで男は手を大きくひろげて相手のほうにさし出した。と夫人はその上に自分の手をきっぱりとすばやくかさねた。男がこうきいた。
――できるだけはやいほうがいいですね?
――あなたのご都合のよろしいときに。
――六週間後ということでは?
――わたしはどうでもよろしいの。でも未来のお母さんはどうお考えになりまして?
ロラン夫人はいくぶんさびしげな微笑を浮べながら答えた。
――まあ! わたしなんか、なんにも考えることはございません。ただジャンのところへ来ていただくことをご承知くださいましてお礼を申上げます。あなたならきっとジャンを幸福にしてくださいますわ。
――できるだけのことをいたしますわ。母さま。
はじめて、いくらか感動したように、ロゼミリ夫人は立ちあがったと思うと、ロラン夫人をしっかりと抱き、ながいこと子供のように接吻した。と、この新たな愛撫《あいぶ》の下で、力づよい感動がこのあわれな女の病める胸をふくらませた。彼女は自分のいま体験していることを言葉にあらわそうと思ってもできなかったであろう。それは同時に悲しくそして甘美なものだった。一人の息子を、大きくなった一人の息子を失った。そしてかわりに一人の娘を、大きくなった一人の娘を返してもらったのだった。
二人はまたいすにもどって向きあうと、互いに手を取りあった。そうやっていつまでも目を見あわせ笑いあっていた。その間ジャンはまるで二人から忘れられたかのようだった。
それから二人はちかぢかの結婚のために考えておかねばならぬたくさんのことについて語った。万事決定し、落着したところで、とつぜん、ロゼミリ夫人はなにか思い出したように見えたが、こうきいた。
――ロランさんにはご相談なすったんでございましょうね?
いきなりさっと同時に赤い色が母親と息子のほおにのぼった。返事をしたのは母親だった。
――いいえ! まだですの。その必要はございませんわ!
それから彼女はちょっと口ごもった。説明が必要なことを感じながら。それからこう言葉をつづけた。
――わたしたちは万事たくにはなんにも申さずにいたしておりますの。決めたことをあとから知らせれば十分でございますわ。
ロゼミリ夫人は、少しも驚かず、にこにこ笑っていた。しごくあたりまえのことと思ったのである。老人はまったく物の数にはいっていなかった。
ロラン夫人が息子といっしょにふたたび往来に出たとき、こう言った。
――おまえのうちへ行ってみましょうか。少し休みたいから。
彼女は身をやすめる場所も、逃げてゆく場所もない、という気がしていた。自分の家がこわくてたまらなかったので。
二人はジャンの家へはいった。
入口の扉が自分の背後でしまるのを感じるがはやいか、母親はほっと大きな溜息《ためいき》をもらした。まるでこの錠が自分を安全地帯においてくれたかのように。それから、はじめにいったように休息するかわりに、戸棚《とだな》をあけたり、積みかさねてある下着の数や、ハンカチや靴下の数をあらためたりする仕事にかかった。もっと調和のとれた整頓法《せいとんほう》を見つけるために、いままでの順序を変え、家事を上手にとる女としての彼女の目にいっそうよく気にいるようにした。自分の思いどおりにいろいろのものを並べ、ナフキンや袴下《ズボンした》やシャツをそれぞれ特別の棚の上に、洗濯して使うものを三つに大別して、からだに着けるもの、家のなかのもの、食卓に使うものと、わけて整頓しおわったとき、母親は二、三歩さがって自分の仕事をながめ、それからこう言った。
――ジャンや、ちょっと来てごらんよ、きれいになったから。
息子は立ちあがり、母親を喜ばせようと思ってほめた。
ジャンがふたたび肘掛いすにかけたところへ、いきなり、母親が後ろからぬき足で近づいてきたと思うと、右腕を息子の首に巻き、左手に持っている白い紙につつんだ小さな品物を煖炉棚の上に置きながら、息子に接吻《せつぷん》した。
息子はきいた。
――なんですそれは?
母親が返事をしないので、息子は形から額縁だということを認めて、さとった。
――こっちへください!
けれども母親は聞えないふりをして、戸棚のほうへひき返した。息子は立ちあがった。いそいでその苦しい思い出のかたみを手にとると、つかつかと部屋を横切り、自分の仕事机の引出しのなかへ二重に鍵《かぎ》をかけてしまいこんだ。と、母親は目の縁にあふれてきた涙を一粒指さきでぬぐい、それから少しふるえる声でこう言った。
――さあ、こんどはおまえのとこの新しい女中が台所をうまくやっているか見てきましょう。ちょうどいま留守だし、よくしらべて確かめるにはもってこいだから。
9
マルッセル、レミュゾ、フラーシュ、ならびにボリケルら諸教授が、彼らの教え子ドクトル・ピエール・ロランのために最上級の讃辞《さんじ》をつらねて書いた推薦状がマルシャン氏によって大西洋汽船会社の重役会に提出され、商事裁判所判事プーラン、大船主ルニアン、ボーシール船長と別懇のル・アーヴル市助役マリヴァルの諸氏によって支持をうけた。
〈ロレーヌ号〉の船医はまだ指名されていないという事情だったので、ピエールはわずか数日で任命されるという幸運をひきあてた。
それを知らせる手紙が、ある朝、彼が朝の身じまいをおわっているところへ、女中のジョゼフィーヌによってもたらされた。
彼の受けた最初の感じは死刑を宣告された者が減刑の通告を受けたときの感動だった。彼は即座に自分の苦悩がいくらか軽くなったのを感じた。この出発ということを考えただけで。この静かな生活、いつでも波にゆられ、二六時ちゅう放浪の旅をつづけ、逃亡の旅をつづけるこの生活を思っただけで。
彼はいまでは父親の家のなかで小さくなり沈黙している他人として生活しているのだった。弟の面前で自分の発見したあさましい秘密を思わず口外したあの晩以来、家族の者とのあいだの最後の絆《きずな》を断ってしまったことを感じていた。あのことをジャンに言ってしまった後悔が彼をさいなんだ。彼は自分をあさましい、けがらわしい邪悪な人間と思わずにいられなかったが、それでもしゃべってしまったことでずっと気が楽になっていた。
あれ以後は一度も母親や弟と視線をあわさなくなった。彼らの目は互いにさけあうために驚くべき敏捷《びんしよう》さで動くようになり、互いに出あうのを恐れる敵《かたき》同士のようにこそこそするようになった。彼はいつでも自分にこうきくのだった。「いったい母さんはジャンになにを言ったのだろうか? 白状したろうか、それとも、うち消したろうか? 弟はどう思っているだろうか? 母さんのことを、おれのことをどう思っているだろう?」どうしても察しをつけることができず、腹がたった。それにもうほとんど二人には話しかけなかった。ロランの前だけではべつだったが。親父《おやじ》からなにかきかれるのがうるさいので。
正式の任命を知らせるこの手紙を受取ると、彼は、即日、それを家族に披露《ひろう》した。なんでも大喜びする傾向の大いにある父親は、手をうって喜んだ。ジャンは厳粛な調子で、しかも心は喜びにあふれながら、こう答えた。
――兄さんに心からおめでとうを言いますよ。だって競争者がずいぶん多かったことをぼくは知っていますからね。たしかに先生たちのおかげですよ。
母親は顔をふせてささやくようにこう言った。
――うまくいってわたしもほんとにうれしい。
彼は、朝飯のあとで、いろいろなことを問いあわせるために、会社の事務所へ行ってみた。翌日出帆するはずの〈ピカルジ号〉の船医の名前をきいた。その人に会って新しい生活のいろいろこまごまとしたこと、当然自分の遭遇するいろいろ変ったことを、よく聞いておくためだった。
ドクトル・ピレットはちょうど船に乗りこんでいるというので彼はそこへ出かけていった。狭い船室で弟に似たブロンドのほおひげを生《は》やした青年に迎えられた。二人は長い間いろいろのことを話しあった。
がらんとした大きな船の底のほうでたえまのない混沌《こんとん》としたざわめきが聞えていた。船艙《せんそう》に積みこまれる商品のどしんと落ちる音が、足音や、人声や、箱を積みこむ機械のきしむ音や、監督の笛の音や、蒸気のしわがれたような息で巻揚機械の上に巻きあげられたりひきずられたりする鎖の音にまじって聞えた。蒸気が苦しげに息づくので大きな船の全体がかすかにこまかくふるえていた。
ピエールが同業に別れてふたたび往来に立ったとき、新たな憂鬱《ゆううつ》がふたたび彼の上に襲いかかり、海の上を走る濃霧のように彼をつつんだ。世界の果てからやって来て、遠い不健康な土地の悪疫の息吹《いぶ》きのような不純な正体のしれないなにものかを、その手にとらえられぬ密度のなかに持っているあの濃霧のように。
いちばんひどかった苦しみの最中にも、彼はまだこんなみじめさの下水だまりのなかへ落ちこんだような気持になったことはなかった。最後の切断が行われたのだった。もうなんにもつかまるものがなかった。彼の胸から彼のすべての愛情の根をひきぬいても、まだ、とつぜん彼をとらえたこの捨て犬のような絶望を味わったことはなかった。
それはもはや胸をしぼるような精神的の苦痛ではなかった。そうではなく、身をかくすところのない獣の狂いたつばかりの不安だった。屋根を持たぬさまよえるものの、雨や風やあらしや、世界のありとあらゆる暴虐な力が襲いかかろうとするものの肉体的な死の不安だった。あの船に足をふみいれた拍子に、波の上でゆられているあの小さな船室にはいった拍子に、いままでずっと落ちついた動かぬ寝台の上で眠りつけてきた人間の肉体が、これから先の毎日の不安に対して反撥《はんぱつ》したのである。いままで、この肉体は、自分が安全に保護されているのを感じていた。大地に深く根を張ってささえられているかたい壁のおかげで、そして同じ場所で、風に抵抗する屋根の下で休息するという安全感によって。いま、しめきった住居の暖かい空気のなかでなら人が平気でいるようなことが、一つの危険となり不断の苦痛となるであろう。
足の下にはもはやかたい地面というものはない。そのかわりに、うねり、ほえ狂い、船でも人でものんでしまう海がある。自分のまわりに、歩きまわるべき、走りまわるべき、いろいろな道を通って勝手にさまよい出るべきひろい土地というものがない。あるのは数メートルの板敷である。他の囚人に伍《ご》して受刑者のように歩きまわるための。木も、庭も、往来も、家も見られない。見えるのは水と雲ばかりである。そしてたえずこの船が自分の足の下でゆれ動くのを感じるであろう。しけ[#「しけ」に傍点]の日には床の上にころげないために、仕切り板によりかからなければならないだろう。ドアにしがみつき、狭い寝台の縁につかまらなければならないだろう。なぎ[#「なぎ」に傍点]の日には推進機のうなるような震動が耳につき、船が自分を乗せてどんどん走り去るのを感じるであろう。休みのない、規則正しい、思わず声をあげたくなるような逃亡で。
と、彼は、このあてどもなくさまよう懲役人の生涯に自分が追いおとされているのをいまさらにさとった。それもひとえに自分の母親が他の男の愛撫《あいぶ》に身をまかせたということが原因で。
彼は足の向くままに歩いていた。いまではまさに離郷せんとする人々の絶望的な憂鬱に押しつぶされ、倒れそうな気持になりながら。
彼はもはや道を通っている見知らぬ人々に対するあの傲然《ごうぜん》たる軽蔑《けいべつ》、軽侮のこもった憎悪《ぞうお》を胸に感じていなかった。反対にその人たちに話しかけたい情けない気持、その人たちに向って自分はフランスを去ろうとしているのですと言いたい気持、聞いてもらい慰めてもらいたい気持を感じていた。彼の心の奥に、手をさし出そうとする乞食《こじき》のような恥ずかしい欲求、自分が行ってしまうことをだれかが悲しんでくれると感じたい臆病なしかし強い欲求が生れてきているのだった。
彼はマロウスコのことを考えた。この老ポーランド人だけは彼を愛しているので、真実の、胸をえぐられる感動を覚えてくれるであろう。そこでドクトルはすぐにこの老人に会いにゆこうと決心した。
店にはいってゆくと、大理石の薬研《やげん》でなにか粉薬をくだいていた薬剤師は、ちょっとぎくりとしたような様子を見せ、それから仕事をおいて立ちあがった。
――ちっともお見えになりませんでしたな!
青年はいろいろ奔走しなければならないことがあったのだと説明して聞かせた。もっともその動機を明かすことはしなかった。それからこうききながら、いすに腰かけた。
――どうだい! 商売はうまくいっているかね?
うまくいっていると言うわけにはゆかないのである、商売は。競争が激しい上に、この労働者街では病人が少なく、あっても貧乏でしかたがない。値段の安い薬しか売ることができない。ここでは医者は五倍ももうけのあるような複雑な貴重薬は処方してくれない。老人はこう結論した。
――こんなありさまがあと三カ月もつづけば、店じまいをしなくちゃなりませんよ。先生のご親切をあてにしていなければ、とっくに夜逃げの支度《したく》でもしているところですよ。
ピエールは胸をしめつけられるような気がした。そこでいきなり単刀直入に言ってしまおうと決心した。とにかく言わなければならないのだから。
――ところがね! ぼくのほうは……ぼくは……ぼくはもうきみの手助けをしてあげることもできなくなるのだよ。来月早々ル・アーヴルにいなくなるのでね。
マロウスコはいきなり眼鏡《めがね》をはずした。それほど彼の受けた衝動は激しかった。
――あなたが……え……なんですって?
――ぼくがこの土地にいなくなると言っているんだよ、気のどくだけれど。
老人は地べたにたたきつけられた気持だった。自分の最後の希望がくずれるのを感じた。と、いきなりこの男に対して、自分が後《あと》からついてきた男、愛してきた男、あのように信頼していた男、そしていまこんなふうに自分を捨てた男に対して、猛然と反撥した。
どもるようにこう言った。
――まさか、あなたが、このわたしを裏切るのではないでしょうな?
ピエールは相手を抱いて接吻《せつぷん》してやりたいほど胸がせまっていた。
――いや裏切りはしないよ。ここでは開業する場所がないので大西洋通いの船に船医として乗り組むのだ。
――だって! ピエール先生、あなたはあんなに約束してくだすったじゃありませんか、食えるようになんとかしてやると!
――だってしかたがないじゃないか! ぼくだってまず食わなきゃならんよ。一文の財産があるわけじゃなし。
マロウスコは何度もくり返した。
――よくない、よくないですよ、先生のやり口は。わたしはもう飢え死するよりほかはない。この齢《とし》になっちゃ、もうだめです。よくないとも。あなたの後からついてゆくためにやってきたかわいそうな老人を見捨てなさるのだ。よくないとも。
ピエールは説明しようとあせった。抗弁し、自分の理由をわかってもらおうとした。これ以外にどうにもできなかったことを証明しようとした。ポーランド人は少しも耳に入れようとしなかった。相手の脱走に腹をたて、とうとうこんなことまで言った。むろん政治上の事件にあてつけたのである。
――あなた方フランス人は、どうせ約束を守らん国民だ。
するとこんどは、ピエールもむっとして、立ちあがった。少しきっとなってこう言った。
――きみもわからず屋だね、マロウスコ爺《じい》さん。ぼくのやったようなことを決心するには、よほどの動機があるんだぜ。きみだってそれくらいわかってくれなければ困る。失敬するよ。こんど会ったときはもう少し物わかりがよくなっていてくれ。
こう言いすてて彼は外へ出た。
――やれやれ、だれも心からおれを気のどくがってくれるやつはないのか。そう彼は考えた。
彼の頭は、知りあいのすべての人、もしくは知りあったことのあるすべての人を、順々に探してみた。と、彼の記憶のなかを行列してゆくいろいろな顔のなかで、ふと母親を疑う気をおこさせた例の酒場の女給の顔にめぐりあった。
彼は躊躇《ちゆうちよ》した。この女に対して本能的なうらみをまだ持っていたのである。それからとつぜん、心を決めて、こう考えてみた。「けっきょくのところ、あの女の言うとおりだったじゃないか」そこでその町へ行こうとして方角を見定めた。
酒場は偶然、人でいっぱいで、そのうえ煙草の煙でもうもうとしていた。客は、町の人々や労働者たちだったが――ちょうど祝祭日だったのである――人の名をよび、笑い、大声にどなっていた。主人までとび出して給仕に懸命で、テーブルからテーブルを走りまわり、空《から》になったビールのコップをひっさらうように持ってゆき、泡《あわ》がこぼれるほどなみなみとついでまた持ってくる。
ピエールは、勘定台の近くにやっと席を一つ見つけると、例の女給が自分の姿を見て気がつくだろうと思いながら、待った。
だがその女は、彼の前を何度も行ったり来たりしながら、目もくれず、スカートをひきずるように、愛嬌《あいきよう》のある腰のふり方をしながら、小走りに歩いてばかりいた。
とうとう彼は銀貨でテーブルをたたいた。女は駆けよってきた。
――召しあがりものは?
女は彼の顔を見ていなかった。お客のところへ運んだ品物の勘定に気をとられていたのである。
――おい、おい! なじみの客にそんなふうにあいさつをするものかい?
女は彼を見なおした。それからあわてたような声で、
――あら! あなたでしたの。ごきげんよう。でもわたしきょうは暇がないのよ。ビールでしょ、召しあがりものは?
――うん、ビールだ。
女がビールを運んでくると、彼はまた言葉をつづけた。
――お別れにきたんだ。ぼくは旅だちだ。
女は気のない返事をした。
――あらそう! どこへいらっしゃるの?
――アメリカだ。
――とてもいいところですってね。
それっきりだった。まったくこんな日にこの女に話しかけるなんて気のきかぬ話だった。カフェにはあまりにたくさんの人がいた。
ピエールはそこを出て海のほうへ行ってみた。突堤の上に出てみると、父親とボーシール船長を乗せて帰ってくる〈ペルル号〉が見えた。水夫のパパグリが漕《こ》いでいた。二人の男は、艫《とも》に腰かけて、いかにもみちたりた幸福な様子でパイプを吹かしていた。ドクトルは彼らが通りすぎてゆくのをながめながら、「福《さいわい》なるかな質直《すなお》なる人、か」と思ってみた。
そこで彼は波よけの腰かけの一つの上に腰をおろし、頭をまったく働かせない半睡状態に自分を忘れようとしてみた。
夕方、うちへ帰ると、母親が、目をあげて相手を見ようとせずに、こう言った。
――たつとなるといろいろなものが入用でしょう。わたしもどうしていいか少し困っていますよ。ついいましがたおまえの下着類を注文してきて、それから服もと思って仕立屋へ寄ってきたところなんだけれど、なにかほかにいるものはないだろうかね、わたしも気がつかないようなものが、なにか?
彼は、「いいえ、べつになにも」と言おうとして口をひらきかけた。しかしせめてちゃんとした身なりをするだけのものはもらっておかねばならんと思ってみた。そこで非常におだやかな調子でこう答えた。
――まだぼくにもよくわかりませんが、会社できいてみましょう。
彼は行って問いあわせてみた。会社の者が必要な品物を書きだした表を渡してくれた。母親はそれを彼の手から受取りながら、久しぶりにはじめて彼の顔をながめた。母親の目の底には、打たれながら許しを求めるあわれな犬の哀願するような、悲しい、やさしい、おどおどした表情がたたえられていた。
十月の一日、〈ロレーヌ号〉は、サン・ナゼールから回航されて、ル・アーヴルの港へはいってきた。同月七日ニューヨークへ向け出航するためだった。ピエール・ロランは今後自分の生活がとじこめられるべき水の上の小さなキャビンに引越さなければならなかった。
翌日、出かけようとすると、階段のところで母親に出あった。母親は彼を待っていたのだった。そしてほとんど聞きとれないくらいの声でこうささやいた。
――あの船に引越すお手伝いをしましょうか?
――いいえ、けっこうです。全部すみましたから。
母親はささやくようにこう言った。
――おまえの小さい部屋というのを見たいと思いますよ。
――それにはおよびませんよ。とてもきたなくって小さいです。
彼はすいとすりぬけて階段をおりた。後《あと》にうなだれ、壁に身をもたせて、顔をまっさおにしている母親を残したまま。
ところで、ちょうどその日〈ロレーヌ号〉を見物してきた父親は、晩餐《ばんさん》の間じゅうこのすばらしい船の話で夢中だった。そして細君が自分たちの息子が乗り組むというのにちっともその船を知りたい気持をおこさないのをひどく驚いてみせた。
ピエールはその後の数日間ほとんど家族のなかでは生活しなかった。神経質になり、いらいらし、つっけんどんだった。乱暴な彼の言葉はだれかれの差別なく鞭《むち》打つように思われた。ところが出発の前日だしぬけに態度が変り、非常にやわらいだように見えた。初めて今夜から船のなかで寝るために出かける前、両親にお別れの接吻《せつぷん》をしようとするとき、彼はこうきいた。
――明日船の上へお別れに来てくださいますか?
ロランが叫んだ。
――行くとも、行くとも、行かなくてどうする。なあ、ルイーズ?
――ええ参りますとも。と、母親が小声で言った。
ピエールが言葉をつづけた。
――十一時きっかりに出帆です。おそくとも九時半には来ていただかなければ。
――おい! と、父親が勢いこんで叫んだ。いいことを考えたぞ。おまえにお別れをいったら大急ぎで駆けつけて〈ペルル〉に乗りこむのだ。そして突堤の外でおまえを待って、もう一度おまえの姿を見るんだ。おい、どうだ、ルイーズ?
――そりゃ、ようござんすわ。
ロランがつづけて言った。
――そうすれば、おまえがおれたちと他の連中と見わけがつかないというようなことがなくていい。なにしろ大西洋通いが出るときは波止場はいっぱいだからな。ああごったがえされては家《うち》のものを見わけるなんてできない相談だからな。どうだおまえもそれでいいだろう?
――もちろんけっこうですとも。じゃそう決めましょう。
一時間の後ピエールは小さな船の寝台の上に横たわっていた。棺桶《かんおけ》のように狭くて細長い寝台の上に。ながいことじっとしていた。目をあけたまま、二カ月以来自分の身の上に、とくに自分の魂のなかにおこったことをあれこれと思いめぐらしながら。さんざん自分も苦しみ人をも苦しめたあげく、彼の報復的な、攻撃的な苦痛が疲れて弱ってきたのだった。ちょうどにぶった刃のように。もはやだれかをまたなにかをうらむ勇気もほとんどなかった。そして彼はその反抗を自分の生活と同じく流れるままに流すばかりだった。あまりにも戦うのに疲れていた。人を打つことに疲れ、軽蔑《けいべつ》することに疲れ、あらゆることに疲れきっていたので、もうやりきれなくなり、自分の心を忘却のなかに眠りこませようとつとめた。ちょうどひとが眠りのなかに落ちこむように。自分のまわりに聞きなれない船の生活の雑音がかすかに聞えていた。この港の静かな夜のなかでほとんど聞えるか聞えないくらいのかすかな物音だった。と、いままであんなに堪えがたかった彼の傷も、もはやなおりかけている傷口の不快なひきつる感じしか与えなかった。
ぐっすり眠ったと思うと、水夫たちの動きまわる音が彼を休息から引っぱり出した。もう夜が明けていた。一番列車がパリからの旅客を運んで波止場に着いていた。
そこで彼も船の上をせわしげな、不安げな人々の群れにまじって歩きまわった。いよいよ旅だというせきたてられる気持で、自分たちの船室を探したり、名前をよびあったり、でたらめに人をとらえてきいたり答えたりしている人々。船長にあいさつをし、同僚の事務長の手を握ってから、彼はサロンにはいってみた。そこには五、六人のイギリス人がはやくも隅《すみ》のほうでうとうとしていた。金色の溝《みぞ》に縁どられた白大理石の壁の大きな部屋は、ザクロ色のビロードを張った回転いすの無限の二列に両側からはさまれた細長いテーブルのつづいている光景を四壁の鏡に映してどこまでも果てしのないものに見せていた。いかにも広大な、五大陸の金持連が席を同じくして、食事をするコスモポリタンの、水に浮べるホールだった。その堂々たる豪華さは大ホテルや、劇場や、賭博場《とばくじよう》の豪華さ、百万長者連の目を満足させるこけおどし的な俗悪な豪華さだった。ドクトルは二等船客級のためにとりのけてある船の部分を見にゆこうと思った。と、そのときふと昨日の夕方移民の大群が乗りこんだことを思い出した。そこで中甲板《ちゆうかんぱん》へおりていった。そこへ足を踏み入れたとたんに、貧しい不潔な人間の吐き気をもよおすような臭《にお》いに鼻をつかれた。動物の毛皮の臭いよりももっと胸の悪くなる裸の肉の悪臭だった。と、鉱山の坑道にそっくりの天井の低い薄暗い一種の地下室のようなところに、積みかさねた板の上に寝そべったり床《ゆか》の上にうじょうじょかたまったりしている幾百人という男や女や子供の姿がピエールの目にはいった。顔の見わけがつかなかったが、ぼろをまとった汚《よご》れくさった群衆が漠然《ばくぜん》と見えた。生活にうち負かされた悲惨な人間の群れ。力がつきはて、押しつぶされ、やせ衰えた妻とがき[#「がき」に傍点]のような子供をたずさえて、見知らぬ国へ出かけてゆく。そこならば、たぶん、飢え死しないですむという希望をつないでいるのである。
過ぎさった仕事、失われた労働、むだになった努力、毎日むなしくくり返されたがむしゃらな奮闘、このあわれな人々によって浪費された精力――彼らはまたしても、どこか場所は知らぬが、このあさましい悲惨な生活をふたたび始めようとしているのだ――それを思うとドクトルは思わず彼らに向ってこうどなってやりたくなった、「おい、いっそ水にでもとびこんだらどうだ、女房も子供もいっしょに!」彼の胸は憐憫《れんびん》の情に堪えがたくしめつけられたので、これ以上見ていられなくなって、彼はその場を立ちさった。
父と母と弟とロゼミリ夫人がはやくも彼の船室で待っていた。
――はやいですね。と、彼は言った。
――ええ。と、答えたロラン夫人の声はふるえていた。ちっとはゆっくりおまえに会っている時間がほしいと思って。
彼は母親をながめた。黒い着物を着ていた。まるで喪に服しているかのように。と、いきなり彼は気がついた。先月まではまだ灰色だった母親の髪がいまでは真っ白になっていた。
自分の小さな住居に四人の者をすわらせるには骨がおれた。彼は自分の寝台の上にとびあがった。あけ放しにした戸口からたくさんの人がぞろぞろ通るのが見えた。まるで祭りの日の往来のようだった。船客を見送りに来た人々や単純な物見だかい連中の洪水がこの巨大な商船になだれこんだのである。人々は、廊下やサロンや、いたるところを歩きまわっていた。人の顔が部屋のなかまでのぞきこむことがあった。一方、外で、「船医の部屋だよ」とささやく声が聞えたりした。
そこでピエールは戸をしめた。だが家族の者といっしょにとじこめられたと感じるがはやいか、すぐにまたあけたくなるのだった。船のざわめきのおかげでぎごちなさと沈黙がまぎれるからである。
ロゼミリ夫人がとうとうこう言ってくれた。
――この小さな窓じゃ風が通りませんわね。
――だって舷窓《げんそう》ですよ、と、ピエールが答えた。
どんな強い衝撃にもたえられるようにできているガラスの厚さをみんなに見せた。それから閉鎖装置を長々と説明した。こんどはロランがこうきいた。
――ここでは薬局まであるかい?
ドクトルは戸棚《とだな》をあけて、白い四角な紙にラテン語の名前が書いてはってある薬びんのずらりと並んでいるところを見せた。
彼はそのなかの一つを取上げてそのなかにはいっている薬品の薬効を数えあげた。それから二番目、三番目というふうに、さながら治療学の講義を始めた。みんなそれを熱心に聞いているような顔をしていた。
ロランが頭をふりふり何度もこう言った。
――なかなかおもしろいな、こりゃ!
ドアを軽くたたく音が聞えた。
――おはいり! とピエールが叫んだ。
ボーシール船長があらわれた。
彼は、手をさしのべながら、こう言った。
――おそくなりました。手放しでなんとかいうやつをじゃましたくないと思いましてね。
この男も寝台の上に腰かけなければならなかった。と、また沈黙がはじまった。
が、とつぜん、船長が耳をすました。号令の声が、仕切りの羽目板を通して彼には聞えたのである。あらたまった口調でこう言った。
――さあもう行かなきゃならん時刻ですよ。〈ペルル〉に乗って、もう一度ドクトルの姿を港外で見て、大海の真ん中でさようならを言うつもりなら。
ロラン老人は大いにこのことに固執していた。むろん〈ロレーヌ号〉の乗客の目をそばだたせてやりたいためである。あわてて立ちあがった。
――さあ、こうしちゃいられんぞ。
彼はピエールのほおひげに接吻し、それから入口の戸をあけた。
ロラン夫人は動かなかった。目をふせたままひどくまっさおな顔をしてじっとしていた。
夫が腕にさわった。
――おい、はやくせんか。一分を争うんだぞ。
母親は立ちあがった。息子のほうへ一歩進み出たと思うと、ロウのように真っ白な両のほおを、かわるがわるさし出し、息子はそれに一言もいわずにくちびるをつけた。それから、ピエールはロゼミリ夫人の手を握り、弟の手を握って、こうきいた。
――いつだい結婚式は?
――まだはっきり決りません。兄さんのほうの航海の都合とうまくあわせるようにしよう。
やっとみんなが部屋から出て、群衆や、荷物の運搬人や水夫たちでごったがえしている甲板《かんぱん》へのぼった。
船の巨大な腹のなかで蒸気がしきりにうなり声をあげ、船は待ち遠しさにうずうずしているようだった。
――あばよ。と、相変らずいそいでいるロランが言った。
――さようなら。〈ロレーヌ号〉と桟橋とをつなぐ小さな木の橋の一つの縁に立ってピエールもこう答えた。
ピエールがもう一度皆の手を握り、そして家族の者は遠ざかっていった。
――はやく、はやく、馬車に乗るんだ! と、しきりに父親が叫んだ。
一台の辻馬車《つじばしや》が彼らを待っていた。それからパパグリが〈ペルル〉を沖へ出るばかりに支度《したく》してくれている外港へ彼らを運んだ。
そよとの風もなかった。からりと晴れた静かな秋の一日で、とぎすまされたような海が鋼鉄のように冷たくかたく見える。
ジャンが櫂《かい》を握り、水夫ももう一つのほうにとりついた。そして二人は漕《こ》ぎはじめた。いくつもある波よけの上に、突堤の上に、花崗岩《かこうがん》の手すりの上にまで、無数の群衆ががやがやひしめいて〈ロレーヌ号〉を待っていた。
〈ペルル号〉はこの二つの人間の波のあいだを通りぬけて、やがて桟橋の外へ出た。
ボーシール船長が、二人の婦人のあいだにすわって、舵《かじ》を握っていたが、こう言った。
――いまにわかりますよ。ちょうどあの船の航路へ出ますからね。ちょうどこのまっすぐですよ。
二人の漕手《こぎて》はできうるかぎり遠くまで行こうとしてあらんかぎりの力で漕いだ。とつぜんロランが叫んだ。
――来たぞ。マストと煙突が二本見える。碇泊区《ていはくく》から出るところだ。
――ほら、しっかり! とボーシールがくり返した。
ロラン夫人はかくしからハンカチを取出し、目にあてた。
ロランは、立ったまま、帆柱につかまっていたが、大声にこう言った。
――いま外港のほうに進んでいるぞ……や動かなくなった……また動きはじめた……きっとひき船をつけていたんだな……や動く動く……万歳!……突堤のあいだへはいったぞ!……ほらみんな叫んでいるのが聞えるだろう……万歳!……引いているのは〈ネプチューン〉だ……や、舳《へさき》が見えた……さ、来たぞ、来たぞ……ちくしょう、こりゃなんてきれいな船だ! ちくしょう、ちょっと見てみろ!……
ロゼミリ夫人とボーシールがふり向いた。二人の男は漕ぐのをやめた。ロラン夫人だけが動かなかった。
巨大な商船は、その前でまるで青虫くらいに見える力のあるひき船にひかれながら、静かに堂堂と港を出かかっていた。と、桟橋や海岸や家々の窓にかたまっているル・アーヴルの町の人々は、突如として愛郷的興奮にかられて『〈ロレーヌ号〉万歳!』を叫びだし、この堂々たる出港を、海にその最も美しい娘を与えるわけであるこの一大海上都市の誕生を拍手|喝采《かつさい》した。
だが彼女[#「彼女」に傍点]は、花崗岩の二つの壁の間にとじこめられている狭い通路をこえるがはやいか、やっと自由になったと言いたげに、ひき船を捨て、一人で、水の上をすべる巨大な怪物といったかっこうで動きだした。
――そら来た……来たぞ!……。と相変らずロランは叫びつづけた。まっすぐにこっちへやってくる。
と、ボーシールも、有頂天になって、くり返した。
――どうです。わたしの言ったとおりでしょう? 船の通り道はわたしがよく知っているでしょう?
ジャンは、小声で、母親にこう言った。
――ごらんなさい、お母さん、こっちへやってきますよ。
とロラン夫人は涙にくもって見えない目からハンカチを離した。
〈ロレーヌ号〉は近づいてきた。この晴れわたった、おだやかな上天気をさいわいに、港を出るがはやいか、全速力で走りだしたのだった。ボーシールが、望遠鏡を向けながら叫んだ。
――やっ! ピエールさんが艫《とも》にいるぞ、たった一人で、よく見える。ごらんなさい!
山のように高く、汽車のように速く、巨船はいま、〈ペルル〉とほとんどすれすれに走っていた。
ロラン夫人は、夢中に、とり乱し、両腕をそのほうへさしのべた。と、息子が見えた。息子のピエールが、金モールのついた帽子をかぶって、両手で別れの接吻を投げている息子の姿が。
が、はやくも息子は遠ざかっていった。どんどん逃げてゆき、見えなくなり、すでに小さくなってしまった。巨大な船の上で、ほとんど目にはいらぬ一点となるくらいにかき消されてしまった。母親はもう一度息子の姿を見つけようとあせったが、もう見わけることはできなかった。
ジャンは母親の手を握っていた。
――見えましたか?
――ええ、見えました。やさしくしてくれたね!
一同は町のほうへひきかえした。
――ちくしょうめ! 速いもんだな。とロランが心から信じきっている様子で夢中になって叫んだ。
商船は、事実、一秒ごとに小さくなってゆき、まるで大西洋にとけてしまうかと思われた。ロラン夫人はそのほうに向きなおり、世界のもう一方のはずれの見知らぬ土地に向って水平線に消えてゆく船を見おくった。なにものもとめることのできないこの船の上に、やがて全然見えなくなるであろうこの船の上に、自分の息子が、かわいそうな自分の息子がいるのだ。と、自分の心の半分が息子といっしょに行ってしまうような気がした。そしてまた自分の生涯がこれで終ったような気がした。それからもう永久にあの子に会えないような気がした。
――なぜ泣くんだ、一月たてば帰ってくるじゃないか? こう夫がきいた。
母親がつぶやくようにこう言った。
――なぜかわかりません。胸がいっぱいで泣けるんです。
一同が上陸すると、ボーシールは知りあいのところで昼飯を食う約束があるからと言ってすぐ別れていった。そこでジャンはロゼミリ夫人と並んで先にたって歩きだした。ロランが細君をかえりみてこう言った。
――なんといっても、なかなかりっぱな風采《ふうさい》をしているの、家《うち》のジャンは。
――そうですね。と、母親は答えた。
それから自分でなにを言っているかよく考えるにはあまりに心が乱れていたので、彼女は思わずこうつけくわえた。
――あの子もロゼミリ夫人と結婚することになってうれしいですわ。
老人はどぎもをぬかれた。
――ええっ? なんだって? ロゼミリの奥さんと結婚するって?
――そうですとも。きょうにもあなたのご意見をうかがおうと思っていました。
――うむ! うむ! して、そのことは前から話があったのか?
――いいえ、ほんの二、三日前からですよ。ジャンがあなたにご相談する前に先方の同意を確かめておきたいと言うものですから。
ロランは両手をこすった。
――けっこう、けっこう、申し分なしだ。わしはぜったいに賛成さ。
波止場を離れて、フランソワ一世通りにかかろうとしたとき、妻はもう一度ふり返って最後の一瞥《いちべつ》を沖に投げた。だが、もはや一片の灰色の煙のほかにはなにも見えなかった。それはあまりに遠く、あまりにかすかで、一抹《いちまつ》のもやとしか見えなかった。
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あとがき
『ピエールとジャン』(Pierre et Jean)は一八八七年十二月、一八八八年一月の両月にわたって、『新評論』(la Nouvelle Revue)誌上に発表され、更に一八八八年一月七日付の『フィガロ紙』の「文芸付録」にかかげられた「小説論」を序に添えて、一八八八年早々オランドルフ書店から出版されたものである。前著『モントリオル』(一八八七年)が著しくバルザック的な方面に傾いているのに対し、これは序文の冒頭にモーパッサン自身も言っているごとく、典型的な「心理研究的ジャンル」である。十九世紀末から二十世紀の初めにかけて心理小説派の総帥として仰がれるようになったポル・ブルジェ(一八五二―一九三五)はモーパッサンと親交があったが、われわれはブルジェの影響をここに認めることが――少なくともこのようなジャンルを企てたという点だけで、そしてこれを意識して小説論を書いたという点だけでも――至当であろう。登場人物は少なく、手法は手堅く、構造は緊密であり、心理解剖は一本調子である。突然に遺産が二人の兄弟の中の弟のところにころげこんでくるところから、眠っていた兄弟の反目を爆発させ、母親の過去の過失がそれぞれの当事者たちの意志に反して暴露される――ただしモーパッサンの得意の筆法でいつものごとくこの悲劇は三人の当事者の心を揺すぶるだけで埋もれてしまう――という絶好の題目が、古典悲劇の好んで使う手法である精神的危機の直前においてとらえられ、兄弟の苦悩、感情、意志の動きは、人物の性格や地位にふさわしく、じつに完全に描きつくされている。モーパッサンの長編の中でいちばんよくまとまった、いちばん一気呵成《いつきかせい》という感じのする傑作である。事実、翻訳の台本としたコナール版校訂者の注によれば、百八十八枚の原稿は書体も正確で一気に書かれた形跡があり、第八・九両章を除いては珍しく訂正個所が少ないとのことである。この書物を初めて読んだときのふかい感銘はとうてい忘れることができない。モーパッサンをあまり好きでなかった夏目|漱石《そうせき》もこの小説だけは「名作ナリ。Une Vie ノ比ニアラズ」(漱石全集第二十巻別冊。旧普及版百二十三ページ)と激賞している。
巻頭の小説論に注解めいたものを加えればきりがないが、いっさい省略し、ただ『フィガロ紙』編集当局が一部の削除を要求したため、危うく訴訟|沙汰《ざた》にまでなりかけた事実を申添えておく。この論文の終りのほうに「芸術的文字、云々《うんぬん》」とあるのは明らかにゴンクール兄弟の奇矯《ききよう》な文体を指したものであるが、おそらくこういう個所が問題になったのではないかと思う。その他『危険な関係』が十八世紀末ラクロという一砲兵将校の著わした書簡体小説で、好色物の傑作であるということなども、知れきった事実としていわゆる「訳者注」めいたものはいっさい避けた。ただこの中に引用されている十七世紀の批評家ボワロの『作詩法』中の二句は、この書の訳が丸山和馬氏の訳により岩波文庫から出ているので、便宜上訳語をそのまま借用したから出典を明らかにしておく。すなわち、前の一句は第三編四十八行(岩波文庫「詩学」六十二ページ五―六行)、後の句は第一編百三十三行(「詩学」四十六ページ十三行)に見いだされる。なお後の句の直前にある「文体に関する彼(フロベール)の意見はほかの場所で詳述、云々」というのはジョルジュ・サンドとフロベールとの往復書簡の序につけたモーパッサンのフロベール論を指している。なお、水夫パパグリのあだなジャン・バールが十七世紀の有名な提督の名であることを、念のためつけ加えておく。
[#地付き]訳 者
この作品は昭和二十七年十月新潮文庫版が刊行された。