モーパッサン短編集2
シモンのパパ
モーパッサン/杉捷夫訳
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目 次
山小屋
ペルル嬢
オリーブ畑
シモンのパパ
わら椅子直しの女
狂女
海の上のこと
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山小屋
オート・ザルプ地方によく見うける風景であるが、山々の真白な頂《いただき》を削るようにして通じている岩ばかりの例の廊下の中に、氷河の麓《ふもと》かなにかに、木造のホテルがぽつんと建てられている。そうしたホテルの例にもれず、シュヴァーレンバッハの宿も、ゲンミの隘路《あいろ》を通る旅行者たちの万一のときの避難所である。
一年のうち半分は開かれており、ジャン・オゼ一家の者が住んでいる。それから、雪が積もってきて、谷を埋め、ロエーシュへの下りがやがてだめになるというころに女たちと、父親と三人の息子は山をおり、家の番には老案内人のガスパール・アリと若い案内人のウルリッヒ・クンジ、それに山歩きに連れて歩く大きな犬のサムを残して行く。
二人の男と犬は春までこの雪の牢屋の中で暮す。牢屋の窓から目にはいるものとてはバルムホルンの真白な巨大な斜面ばかりである。蒼白く輝く山々の頂にかこまれ、雪の下に閉じこめられ、封鎖され、埋められるのである。雪は彼らのまわりに積って、この小さな家を包み、締めつけ、押しつぶす。屋根の上に積り、窓までとどき、入口の戸を塗りつぶす。
その日はオゼ一家がロエーシュに帰る日だった。冬が近づき、くだりはだんだん危険になってきていた。
三頭の騾馬《らば》が、衣類その他の荷物を積んで、三人の息子にひかれて、先発した。それから母親のジャーヌ・オゼと娘のルイーズが四番目の騾馬に乗り、つづいて出発した。
父親が二人の案内人を従えてそのあとからつづいた。二人は坂のおり口のところまで一家の者を送って行くことになった。
一行はまず小さな湖をぐるりとまわった。湖はいま、宿の前にひろがっている岩ばかりの大きな穴の底で凍っていた。それから、敷布のように真白に輝いている谷、雪を頂いた嶺《みね》に四方から見おろされている谷に沿うて進んで行った。
強い陽の光の雨がこのまばゆい凍った真白な無人境に降りそそぎ、眼をあいていられない冷たい焔《ほのお》で燃えあがらせた。この山の大海の中に何一つ生きものの姿は現われなかった。はてしない静寂の中に何一つ物の動く気配がなかった。この深い沈黙をかきみだす物音一つしなかった。
少しずつ、若い案内人のウルリッヒ・クンジは、この脚《あし》の長い背の高いスイス人と、オゼの主人と老案内人のガスパール・アリをあとに残し、二人の女を乗せている騾馬に追いつこうとした。
二人のうちの若いほうは若者の歩いて来るのをじっとながめていた。悲しげな目つきが若者を呼んでいるように見える。金髪の小柄な田舎《いなか》娘で、牛乳のような頬と色の薄い髪の毛は氷に閉ざされた長い山ごもりのあいだに色があせたのだろうという気がする。
若者は娘の乗っている騾馬に追いつくと、騾馬の尻に手をかけて、歩みをゆるめた。母親のオゼが若者にむかって話し始めた。冬ごもりについての注意をこまこまと数えたてるのだった。若者が上に残るのは今度が初めてだった。アリ老人のほうはシュヴァーレンバッハの宿で雪に埋った冬をすでに十四たびもすごしている。
ウルリッヒ・クンジは神妙にきいてはいたが、相手の言うことがわかった様子には見えなかった。絶えず若い娘のほうばかりながめていた。ときどき「はい、わかりました」とは答えていたが、どうやら彼の思いはほかのことに飛んでいるらしく、おだやかな顔にはなんの表情もうかばなかった。
一行はドーブの湖水に着いた。その氷結した細長い表面は、鏡のようにたいらに、谷底にひろがっていた。右手にはヴィルドストルーベルの嶺の見おろしているレーメルンの氷河の巨大な堆石《たいせき》のそばにダウベンホルンが切り立った黒い岩を見せている。
ゲンミの隘路《あいろ》、そこからロエーシュへの下りが始まるのであるが、そこへだんだんと近づいて来たとき、一行の前にとつぜん、ローヌ河の深い幅の広い谷をへだててヴァレのアルプスの壮大な遠景がひらけた。
遠くから見ると、一群のふぞろいな白い山頂の集りである。押しつぶされたのも尖《とが》ったのもあり、みんな太陽に輝いている。二本の角《つの》のあるミスシャベル、ヴァィスホルンの堂々たる群山、どっしりしたブルネッグホルン、例の人殺しのセルヴァン〔マッターホルン〕の高いおそるべきピラミッド、それからあの恐ろしい魔女の「白歯山《ダン・ブランシュ》」
それから、足下には、どれだけ底が深いか見当のつかぬ穴の底に、ぞっとする深淵の底に、ロエーシュの村が見えた。こちらにはゲンミが一方の端になってふさぎ、むこうはローヌ河にむかって開けているこの巨大な地表の亀裂の中に、村の家々はふりまかれた砂粒のように見える。
騾馬《らば》は下りにかかるこみちの縁《ふち》まで来て立ち止った。こみちはうねうねと曲りくねり、進んだと思うとすぐ引き返すように絶えずまわりながら、まるで気まぐれな遊びごとでもしているように、しかしよくもこんなところにつけたものだと思わせるように、まっすぐ切り立った山腹を伝って、あの小さな村、ほとんど見えないくらいの、足下にうずくまっている小さな村まで延びている。女たちは雪の上へ飛びおりた。
二人の老人もあとから追いついた。
「さて」と、オゼの主人が言った。「さてこれでお別れだ。元気で暮してくれ。また来年あおうぜ」
アリ老人もくりかえした。「じゃまた来年」
老人同士は抱きあって接吻した。それから、今度はオゼのおかみさんが、頬をかわるがわるさしだした。若い娘も同じようにした。ウルリッヒ・クンジの番になったとき、彼はルイーズの耳もとに口を寄せてささやいた。「高いところにいるもののことを忘れないで下さい」娘はええと答えたが、あまりに声が低かったので、若者には聞えず、ただ察しでそう聞きとった。
「さて、お別れだ。たっしゃで暮せよ」と、ジャン・オゼがくりかえした。
それから、女たちの前をすり抜けて、先頭に立っており始めた。
やがて親子三人の姿は道の最初の曲り角のかげに消えた。
男二人はシュヴァーレンバッハの宿のほうへ引き返した。
二人は、並んで、口をきかずに、ゆっくり歩いた。とうとう行ってしまった。二人顔をつきあわせて、これから四、五ヵ月、自分たちだけになるのだ。
それからガスパール・アリはこの前の冬のことを話しだした。去年はミシュル・カノルといっしょだった。この老人は年をとりすぎてしまって今年はもう一度というわけにはいかない。ほかでもない、こういう長いさびしい生活のあいだにとんな突発事件が起るかわからないからである。もっとも、自分たちは退屈はしなかった。最初の日から腹をきめてかかればそれでいいのである。けっきょく自分でいろいろ気ばらしの方法を考え出す。遊びごとを、さまざまの時間つぶしを。
ウルリッヒ・クンジは、眼をふせて、相手の言うことをきいていたが、頭の中ではゲンミのつづら折れを村のほうにむかっておりて行く人の後姿を追っていた。
やがて二人の眼に宿の建物が見えた。やっと見えるか見えぬくらいの、じつに小さい、恐ろしく巨大な雪の波の足下にぽつりとうかんだ黒い点だった。
二人が入口の戸を開けると、サムが、ちぢれ毛の大きな犬が、よろこんで二人のまわりをはねまわった。
「さて」と、老ガスパールが言った。「さて、もう女衆がいないのだから、自分で晩飯の用意をしなくちゃならんて。おまえひとつ、じゃがいもの皮をむいてくれろよ」
それから二人とも、細長い木の腰掛の上に腰をおろして、スープにパンをひたして食べ始めた。
翌日の午前中はウルリッヒ・クンジには長いものに思われた。アリ老人はたばこをくゆらしては、暖炉の灰の中へ唾《つば》を吐いた。若者は窓越しに家の真正面の眼のくらむような真白な岩ばかりながめていた。
午後は外へ出て見た。そして昨日と同じ道をもう一度たどりながら、二人の女をのせて行った騾馬《らば》の藁靴《わらぐつ》のあとを雪の上に探した。それからゲンミの隘路《あいろ》のところまで来ると、断崖《だんがい》のふちに腹ばいになって、ロエーシュの村にながめいった。
村はその岩の井戸の中でまだ雪に埋っていなかった。雪は村のすぐそばまで来ていたが、あたり一帯をまもっているもみの林でぴたりとせきとめられているのだった。屋根の低い家々は、上から見おろすと、草原の中に敷石を並べたように見えた。
オゼの娘は、いま、あそこにいるのだ。あの灰色の人家のどれか一つの中に。どれだろう? はっきり見わけるにはウルリッヒ・クンジのいる場所はあまりに遠すぎた。まだおりようと思えばおりられるあいだに、おりて行ってしまいたい!
だが太陽はすでにヴィルドストルーベルの背の高い頂の背後に没していた。若者は引き返した。アリ老人は相変らずたばこをくゆらしていた。相棒が帰ったのを見ると、老人はトランプのひと勝負をいどんだ。二人は食卓の両側に向きあって腰をおろした。
二人はながいこと勝負をつづけた。ブリスクという簡単な勝負ごとだった。それから、晩飯をすませて、二人は寝どこにはいった。
それにつづいた幾日かは最初の一日にそっくりだった。よく晴れて寒かったが、新しく雪は降らなかった。老ガスパールは午後になると、たまたま凍った雪の頂まで出てくることのある鷲《わし》や、そのほかの珍しい鳥をねらって時間を消した。いっぽうウルリッヒは村をながめるために判でおしたようにゲンミの隘路へ出かけた。それから二人はトランプをやり、ダイスをやり、ドミノの勝負を戦わせた。勝負をおもしろくするためにちょっとした品物をかけて、とったりとられたりした。
ある朝、先に起きたアリが呼びたてた。ぐんぐん動いてくる雲が、底の知れないふわふわした雲が、真白な泡《あわ》の雲が、二人をめがけて、二人のまわりに、音もなく、押し寄せてきていたのである。二人を、しだいに、厚いすべての音を消してしまう泡の毛ぶとんの中に埋めていたのである。それが四日四晩つづいた。十二時間の凍結が氷河の堆石《たいせき》の花崗岩《かこうがん》よりもっと硬くしてしまったこの氷の粉の上に出るには、入口の戸と窓を掘り出し、廊下を掘り階段をきざまなければならなかった。
それから先はもう、二人は囚人のようにとじこめられて暮した。すまいの外へはほとんど出ることができなかった。仕事を二人で分担し、規則正しく片づけた。ウルリッヒ・クンジは掃除や洗濯、その他すべての清潔に関する仕事と配慮を引き受けた。まきを割るのも彼の役目だった。いっぽうガスパール・アリは台所の仕事をし火を絶やさないよう気を配った。規則正しい単調な二人の仕事は、トランプとダイスの長い勝負で中断された。絶対にけんかをするようなことはなかった。二人ともおだやかなおとなしい性質だった。一度もかんしゃくをおこしたり、不きげんになったりすることさえなかったし、とげのある言葉を口にすることもなかった。二人とも山の上で冬ごもりのためにあきらめの用意を貯えていた。
時どき、老ガスパールは、銃を手に、かもしかを探しに出かけ、おりおりはしとめて帰ることもあった。そのときはもうシュヴァーレンバッハの宿はたいへんな騒ぎで、新鮮な肉の大饗宴《だいきょうえん》だった。
ある日、老人はそうやって出ていった。戸外の寒暖計は氷点下十八度を示していた。太陽がまだ昇らないので、老人はヴィルドストルーベルの付近をうろうろしている獲物を襲ってやろうと思っていた。
ウルリッヒは一人になると、十時までとこの中でぐずぐずしていた。がんらい寝坊のほうなのだが、いつも早起きで溌剌《はつらつ》としている老案内人の面前ではそうやって自分の性癖のままにふるまうわけにはいかなかった。
彼はサムといっしょにゆっくり朝飯を食べた。サムもやはり昼も夜も炉の前で眠り暮らしていた。それから、ふっと淋しい気持になった。一人でいるのがおそろしくさえ感じられた。それから、毎日のトランプの勝負をやりたくてたまらない気持に駆りたてられた。ひとが押さえがたい習慣になった欲望に駆りたてられる型どおりの気持だった。
そこで彼は四時に帰るはずになっている仲間を迎えに行くために外へ出てみた。
雪が深い谷をすっかりたいらにしてしまっていた。裂け目を埋め、二つの湖を消し、岩を塗りつぶし、巨大な嶺《みね》と嶺のあいだに、ただ一個の真白な規則正しい、目もくらむばかりの凍った巨大な桶《おけ》を作ってしまった。
三週間このかた、ウルリッヒは村を見おろす例の断崖のふちへ足を向けていなかった。ヴィルドストルーベルにつづく斜面を登って行く前にもう一度あそこへ行ってみたい気になった。いまはロエーシュもまた雪の下に埋っていた。この蒼白《あおじろ》いマントの下に埋った人家はもはやそれと見わけがつかなかった。
それから、右にまわって、レーメルンの氷河のところまで行ってみた。石のように硬い雪をアルペン・ストックでたたきながら、例の山に育った男らしい大またで歩いて行った。そうして、鋭い眼を働かせながら、はてしなくひろがっている雪の布の上に、遠く、動いている小さな黒点はないかと探した。
氷河のふちまで来たとき、若者は立ちどまって、老人が確かにこの道を通ったろうか、と自分にきいてみた。それからいっそうあせった急ぎ足で堆石《たいせき》に沿うて歩きだした。
陽《ひ》は傾き、雪はばら色に染っていた。乾いた凍った風が水晶のような雪の表面をときどき思い出したようにどっと吹き渡った。ウルリッヒは鋭い叫び声を長く震わせながら、友を呼んだ。声は、山々の眠っている死の沈黙の上を渡り、遠く、氷の泡の動かぬ深い波の上を越えて行った。ちょうど海の波の上を海鳥の鳴き声が渡って行くように。それから自然に消えた。なんの返事もなかった。
若者は再び歩き始めた。太陽ははるかむこうの山々の頂のうしろに沈み、空の残照が、まだ山頂を赤く染めていたが、谷の底のほうは早くも灰色に暮れかかっていた。若者はいきなり全身に水を浴びたようにぞっとした。この冬の山々の死が、静寂が、寒さが、沈黙が自分の身うちに忍びこみ、血を凍らせ、とまらせ、五体をきかなくし、自分を動かぬ凍った存在にしてしまうような気がした。と、若者は駆けだした。自分の住居をさしていちもくさんにその場を逃げだした。老人は自分の留守の間《ま》に帰ったのだ。彼はしきりにそう考えた。別の道を歩いて帰ったのだ。今頃はしとめたかもしかを足もとに横たえて、暖炉の前に腰かけているかもしれない。
やがて、宿の建物が見えた。屋根から煙が出ていなかった。ウルリッヒはいっそう足を早めて走り、入口の戸を開けた。サムが喜んで飛びついたが、ガスパール・アリは帰っていなかった。
気もそぞろに、クンジはぐるぐるあたりを見まわした。まるで相棒がどこか部屋のすみにでもかくれていやしないかと思ってでもいるようだった。それから火をおこしてスープをこしらえた。相変わらず老人の帰ってくるのが今にも見られるような気がしていた。
時どき、老人の姿が現われはしないかと外へ出ては眺めた。あたりは夜になっていた。ぼーっと薄明りの残っている夜。蒼白い、鉛色の夜。空の端に、いまにも嶺のむこうに落ちようとしている黄色い細い三日月が、それを照らしていた。
それから、若者は家の中へ引き返した。椅子に腰かけ、手足を火にかざしながら、起ったかもしれない事件をあれこれと想像してみた。
ガスパールは脚《あし》を折ったかもしれない。穴の中へ落ちるか、足を踏みはずして足首をくじいたかもしれない。そうして雪の中に倒れているのだろう。寒さのために凍えてからだの自由はきかず、絶望に生きた心地もなく、途方にくれながらも、おそらくはしきりに助けを呼んでいるかもしれない。夜の静けさの中にあらん限りの声をふりしぼって呼んでいるかもしれない。
だが場所はいったいどこだろう? 山はあまりに広くあまりに嶮岨《けんそ》で、ことに今の季節では、このあたりは実に危険だ。この広い場所のどこかにいる一人の男を探し出すには、十人ないし二十人の案内人が一週間も八方にわたって歩きまわらなければならないだろう。
それでも、ウルリッヒ・クンジはもし夜の十二時から午前一時まで待っても、ガスパール・アリが帰らなかったら、サムを連れて出発しようと決心した。
そこで若者はみじたくにかかった。
二日分の食糧をリュックに詰め、鋼鉄のかすがいを用意し、腰のまわりに細くて丈夫な、長い綱を巻きつけ、例のアルペン・ストックと氷の中に段をつけるのに使う斧《おの》とをあらためた。それから待った。火は暖炉の中で威勢よく燃えていた。大きな犬はその炎のあかりに照されながらいびきをかいていた。柱時計が心臓のように規則正しい振子の音をよく響く木の箱の中で響かせていた。
若者は、遠くの物音に耳を澄ませながら、待った。かすかな風が屋根やら壁にさわって行くたびにぞっと震えあがるほどだった。
十二時が鳴った。彼は思わずぶるぶるっとからだを震わせた。それから、おじけがつき震えが出てきたのを感じたので、湯を沸かして、出かける前に熱いコーヒーを一杯飲むことにした。
時計が一時を打った時、彼は立ちあがって、サムを起し、戸を開けて、ヴィルドストルーベルの方角をさして歩きだした。五時間のあいだ、登りばかりだった。例のかすがいを使って岩をよじ登り、氷に段をつけ、ぐんぐん進みながら、ときには、あまりけわしくて登れない断崖の下に残っている犬を、綱の先にしばりつけて、引き上げた。六時ごろ、彼は、老ガスパールがたびたびかもしかを探しにやってくる山頂の一つに達した。
そこで若者は日の出るのを待った。
頭の上の空が白んできた。と、突然、どこからさして来るのかわからぬ不思議な光が、自分をとりまいて百里ほどの遠くにひろがっている蒼白い山々の頂の大海をいきなり照し出した。この茫漠《ぼうばく》とした光が雪からじかに発散されて、空中にひろがって行くとしか思われなかった。少しずつ一番背の高い、遠くの山頂がいっせいに人間の肉のような薄桃色に染ったと思うと、ベルン・アルプスの巨人のようなどっしりした姿の背後から真赤な太陽が現われた。
ウルリッヒ・クンジは歩きだした。かりゅうどのように地面にかがみこみ、足跡はないかとさぐりながら、進むのだった。そして犬にむかってこう言うのだった。「探してくれ、頼む、探してくれ」
彼はいま引き返して山をくだっていた。断崖をのぞきこむようにしながら、そしてときどき相手の名前を呼んだ。長くひっぱる叫び声を投げつけるのだが、その叫びはすぐに果て知らぬ沈黙の世界に消えてしまう。するとまた、今度は耳を地面にくっつけて、遠くの物音をききとろうとするのだった。人間の声を聞きつけたような気がして、走りだした。改めて相手の名を呼んだ。と、次にはもうなにも聞えなかった。がっかり、力が抜けて、その場にすわりこんでしまう。お昼近く飯を食べ、サムにも食べさせた。犬も主人と同じくらいに疲れていた。それからまたさがしにかかった。
夕方になった。彼はまだ歩いていたが、既に山道を五十キロもかけめぐったあとだった。家へ帰るにはあまりに遠くへ来すぎていたので、そしてこれ以上長く足をひきずって行くにはあまりに疲れていたので、雪の中へ穴を掘り、犬といっしょに持ってきた毛布にくるまって、その中にうずくまった。人間と犬は、くっつきあって寝た。そうやって互にからだをあたためたのであるが、それでも骨の髄《ずい》までこごえた。
ウルリッヒはほとんど眠らなかった。心は幻影に悩まされ、五体はわなわなふるえた。
夜が明けようとするころ、彼は起きあがった。両脚は鉄の棒のようにこわばり、すっかり意気がそそうして、不安のあまり悲鳴をあげそうな気持だった。胸はどきどきしてなにかちょっと物音が聞えるような気がしただけではっとして倒れてしまいそうだった。
彼はとつぜん自分もやはりこの淋しい場所で寒さのために死ぬのではないかと考えた。と、この死の恐怖が、彼の気力にむち打って、元気を呼びさました。
いま若者は宿をさして山をかけおりていた。ころんでは起き、起きてはころびながら。サムもずっとおくれてそのあとを追ったが、足を一本いためてびっこをひいていた。
午後四時ごろにようやくシュヴァーレンバッハに着いた。家はからっぽだった。若者は火をおこし、食事をして、眠った。くたくたに疲れてなにも考えなかった。
長いこと眠った。非常に長いこと。何物も破れぬ眠りだった。が、突然、だれか人間の声が、叫び声が、名を呼んだような声が、いや確かに「ウルリッヒ」と呼んだ声が、若者の深い眠りをゆり動かし、はっと起き直らせた。夢を見たのだろうか? 不安にかられている若者の夢の中を横切るあの不思議な呼び声の一つだったのだろうか? 否、若者の耳の底にはまだその声がこびりついている。あの震えるような叫び声が、耳の奥にいりこみ、肉の中に、ふしくれ立った指の先まで行き渡っていた。確かに、だれか叫んだのだ。だれか呼んだのだ。「ウルリッヒ!」だれかがそこにいる、家のすぐそばに。彼は、疑うことができなかった。そこで入口の戸をあけて、あらん限りの声を出してどなった。
「おーい、ガスパールかあ!」
なんにも答えはなかった。物音一つ、ささやき声一つ、うめき声一つしなかった。なんにも聞えなかった。あたりは夜になっていた。雪は鉛色に見えた。
風が出ていた。石を砕《くだ》き、人の住み捨てたこの高地の上に何ひとつ生きものを残さない、凍った風だった。砂漠の火のような風よりもっと命取りの、草も木も枯らせてしまう突風になって吹きすぎて行った。ウルリッヒはもう一度叫んだ。「ガスパール!――ガスパール!――ガスパール!」
それから待ってみた。山の上ではすべてが沈黙をつづけている! すると、肝のつぶれるような恐怖が骨の髄まで若者をゆすぶった。ひととびで宿の中にかけこみ、戸を閉めて、かんぬきをおろした。それからがたがた震えながら椅子《いす》の上に倒れた。ちょうど今、仲間が息をひきとろうとして自分を呼んだものであることは疑えなかった。
そのことだけはもう確かだ。生きていることやパンを食べることが確かのように。ガスパール・アリ老人は二日三晩のあいだ死の苦しみを味わったのだ。どこかで、どこかの穴の中で、一点の汚れもない、その白さが穴倉のまっくらな闇よりももっとものすごい、あの深い窪地《くぼち》のどれか一つの中で。彼は二日三晩のあいだ死の苦しみを味わったのだ。そしてたったいま自分の仲間のことを考えながら死んだのだ。老人の魂は、肉体から放たれるが早いか、ウルリッヒの眠っている山小屋を目ざして、飛来し、死者の魂の持っている生きている人間にとりつくことのできるあの神秘な恐ろしい力によって、ウルリッヒを呼んだのだ。魂が叫んだのだ。声なき魂が、眠っている男の疲れはてた魂の中で、最後の別れの言葉を叫んだのだ。いや非難の言葉かもしれない。いや、じゅうぶんに探してくれなかった男にたいするのろいの言葉だったのだ。
ウルリッヒはその魂をまざまざと感じた。そこに、すぐそばに、壁のむこうに、いま自分の閉めてきた戸のむこうに。魂はうろつきまわっているのだ。あかりのついた窓を羽でさわって行く夜の鳥のように。すると若者は生きた心地もなく、いまにもおそろしさのために大声をあげそうになった。この場を逃げだしたかったが、外へ出る勇気はなかった。どうしてもできなかった。いや今後はもう絶対にできないであろう。ほかでもない。亡霊はいつまでもそこにいるのだから。夜も昼も、この山小屋のまわりに。老案内人の死骸《しがい》が発見されて聖水できよめた墓地の土の中によこたえられるまでは。
夜が明けた。輝かしい太陽の顔を見るとクンジは少しおちつきをとりもどした。食事の用意をし、犬のスープを作り、それから椅子の上でじっとしていた。身動きもせず、胸をしめつけられ、雪の上に倒れている老人の身の上に思いをはせながら。
それから、再び夜のとばりが山を包むが早いか、あらたな恐怖が彼を襲った。彼はいま、わずかにロウソクの炎に照らされている真黒にすすけた台所の中を歩きまわった。部屋の端から端まで大またに、きき耳を立てながら歩いた。前の晩、あの身の毛のよだつ叫び声がまた外のしずまりかえった闇をつんざきはしないかと耳を澄ましながら。すると若者は自分が一人なのをひしと感じた。気の毒なこの若者は、どんな人間もいまだかつて経験したことのないような孤独を感じた。このはてしのない雪の砂漠の中にたった一人でいるのだ。人間の住んでいる土地から、人間の住んでいる家から、うごめき、物音を立て、ぴちぴち動いている人間の生活から、二千メートルも上の高いところにたった一人でいるのだ。凍った空の中に一人でいるのだ! どこへでもいい、どんなにしてでもかまわない。ここから逃げて行きたい。断崖から飛びおりてでもロエーシュへおりて行きたい。そういうがむしゃらな気持が彼をしめつけた。だが実際問題として入口の戸を開ける勇気さえなかった。あいつが、死人が、一人で上に残ることはなおさらいやがって、自分の行く手をふさぐだろうということははっきりわかっていた。
真夜中近く、歩き疲れ、不安と恐怖にへとへとになって、とうとう椅子の上でうたた寝をした。人が化け物の出る場所を恐れて近づかぬように彼は自分の寝どこを忘れた。
と、突然、前の晩と同じ鋭い叫び声が、若者の耳をつんざいた。あまりに鋭かったので思わずウルリッヒは幽霊を押しのけようとして両腕を突き出し、椅子もろともあおむけに倒れた。
その物音に眠りをさましたサムが、おびえた犬のほえるほえかたでほえ始めた。危険がどこから来るのか探しながら、家のまわりをぐるぐるまわった。入口の近くまで来ると、しきりに鼻をふんふんいわせて、戸の下をかぎ始めた。毛をさかだて、尻をまっすぐにのばして、低くうなりながら。
クンジは、夢中に、立ちあがっていたが、やにわに椅子の脚をつかんだと思うと、叫んだ。「はいるな、はいるな、はいったら殺すぞ!」犬は、このおどし文句にけしかけられて、主人の声が戦いをいどんでいる眼に見えぬ敵にむかって猛然とほえかかった。
サムは、だんだんしずまり、けっきょく暖炉のそばへ引き返して長々と寝そべったが、まだいつまでも、不安げな様子をし、頭をきっともたげて、眼を輝かし、牙《きば》を鳴らすことをやめなかった。
ウルリッヒもつづいて、正気に返ったが、こうやっていてはあまりの恐ろしさのために気絶しそうな気がしたので、戸棚の中からブランデーのびんを一本出してきて、つづけさまに、幾杯もあおった。頭がぼんやりしてきたが、元気だけはしっかりしてきた。火のような熱が血管の中を走った。
翌日は、アルコールをとるだけで、ほとんどものを食べなかった。つづく幾日かのあいだ、彼は白痴のように酔いしれて暮した。ガスパール・アリのことが頭に浮んで来るが早いか、酔いつぶれてゆかの上にぶっ倒れるまで飲み直すのだった。それからそこに、うつ伏せになって、死んだように酔いつぶれ、手も足もきかなくなって、額をゆかにつけたまま、大きな鼾《いびき》をたてるのだった。だがこの頭をばかにし、からだを燃えあがらせる液体の気が消えてしまうが早いか、相変わらず同じ叫び声が、「ウルリッヒ!」という呼び声が、鉄砲の弾が頭蓋骨《ずがいこつ》を打ち抜くように彼を覚醒《かくせい》させるのであり、若者はまだふらふらしながらも立ちあがり、倒れまいとして、両手を突き出しながら、サムを呼んで、救いを求めるのだった。と、犬もやはり主人と同じく気が狂ったのではないかと思われるような様子をし、入口の戸におどりかかって、爪でひっかき、長い真白な歯をむき出してかじる。いっぽう若者は、胸をはだけ、あおむけになって、かけっくらのあとの冷たい水のように、ブランデーをごくごくとあおる。酒はすぐに彼の考えを眠らせ、彼の思い出も、狂おしい恐怖も眠らせてしまうのだった。
三週間のあいだに、若者はアルコールのたくわえ全部を飲みつくしてしまった。だがこの不断の酩酊《めいてい》状態はただ彼の恐怖を眠らせたにすぎなかった。それはしずめることができなくなるが早いか、いっそう猛烈な勢いで目をさました。その時、一ヵ月の酔いでいっそうはなはだしくなった、あの気がかりなことが、絶対の孤独境でみるみる増大して、ねじ錐《きり》のように彼の頭の中にもみこまれた。彼はいま檻《おり》の中の獣のように部屋の中を歩きまわった。入口の戸にぴったり耳をくっつけて、もしやあいつがそこにいやしないかきこうとし、壁越しに相手にいどみかかるのだった。
それから、疲労に負けて、うとうとするが早いか、例の声を聞きつけて、飛び上って起きる。
とうとうある晩、どたん場に追いつめられた臆病者《おくびょうもの》が思い切ったことをするように、いきなり入口の戸をめがけて飛んで行ったと思うと、自分を呼んでいるやつの正体を見とどけ力ずくで黙らせるために、戸を開け放した。
さっと冷たい風がまともに顔にあたり、それが彼を骨まで震えさせた。彼はすぐにまた扉をしめてかんぬきをおろしたが、サムが外へ飛び出したことには気がつかなかった。それからがたがた震えながら、暖炉にまきをどんどん投げ込み、その前に腰かけて暖まろうとした。だが、とつぜん彼は震えあがった。だれかが、泣きながら壁を引っかいていた。
若者は夢中に叫んだ。「うせろ!」訴えるような声がそれに答えた。長い、苦しげな声が。
するともう残っていたわずかの理性もことごとく恐怖のために吹き飛ばされてしまった。彼はかくれる場所を見つけようと思って、ぐるぐるその場をまわりながら、「うせろ!」をくりかえした。相手は相変わらず泣きつづけ、壁にからだをこすりつけながら家に沿って走る気配を見せた。ウルリッヒは皿や小ばちや食料品のいっぱいいれてあるかしの木の戸棚の方へ飛んで行き、人間わざと思えぬ力でこれを持ち上げたと思うと、それを入口の戸のところまでひきずって行き、戸に押しあててバリケードを築いた。それからそのほかあるだけの家具や、毛ぶとんや、椅子を全部積み重ねて、敵に攻撃されるときにするように、窓をふさいだ。
だが外にいるやつは今度は気味の悪い大きなうなり声を出し、若者も同じようなうなり声を出してそれに答え始めた。
そうやって幾日も幾夜もすぎて両方は互にほえることをやめなかった。一方は絶えず家のまわりをまわっては壁の下を掘り、壁をくずそうとするのかと思うほど猛烈にガリガリやった。もう一方は、中にいて、相手の動くとおりに動きまわり、からだをかがめ、耳を石にくっつけて、おそろしい叫び声をあげながら相手の呼び声に答えるのだった。
ある晩、ウルリッヒの耳にぴたりと物音が聞えなくなった。彼は椅子に腰をおろしたと思うと、くたくたに疲れて眠ってしまった。
眼がさめた時にはなんの記憶もなかった。まるでへとへとになって眠っていたあいだに頭がからっぽになったかのように何ひとつ覚えていなかった。腹がすいていた。彼は食べた。
冬が終った。ゲンミの隘路《あいろ》がまた通れるようになった。オゼ一家の者は山の宿に帰るために出立した。
女たちは上りのつきるところまで来るとすぐに騾馬《らば》の背に乗った。やがて再び顔を合わせる二人の男たちのうわさをした。
道が通れるようになるとすぐに、長い冬ごもりのあいだのことを知らせるために、二人の中のどちらかが二、三日前に山をおりて来るはずのが、来ないのを女たちはいぶかしがった。
とうとうまだ雪をかぶってすっかり閉じこめられている宿が見えた。入口の戸も窓もしまっていた。かすかに煙が屋根から立ち昇っていた。それがオゼの主人を安心させた。だが近寄って見ると、しきいの上に、鷲《わし》につつかれた動物の骸骨が見つかった。横腹を上にして倒れている大きな骸骨だった。
みんなであらためた。「サムに違いありません」と母親が言った。それから彼女は呼んでみた。「おーい、ガスパール」中からなにか叫ぶ声が聞えた。鋭い叫び声で、動物ののどから出るものとしか思われなかった。オゼの主人がくりかえした。「おーい、ガスパール」前と同じ叫び声が聞えた。
そこで三人の男が、父親と息子二人が、入口の戸を開けようとかかった。戸は開かなかった。
三人は撞槌《つち》代りにからの厩《うまや》の中から長い梁《はり》を引き抜いて来て力まかせにぶつけた。木の戸がめりめりと音を立てて破れ、板はこなごなに飛び散った。それからとほうもなく大きな音が家を揺るがしたと思うと、家の中に、倒れた戸棚のむこうに、一人の男の立っている姿が見えた。髪の毛は肩までたれ、ひげは胸までたれて、眼はらんらんと輝き、からだにはぼろぼろになった布をまとっていた。
三人はその男の顔がわからなかったが、ルイーズ・オゼがいきなり「ウルリッヒです、母《かあ》さん」と叫んだ。すると母親も、髪の毛は真白になっているが確かにウルリッヒだと確認した。
その男は別に抵抗せずに人々を近寄らせた。からだにさわっても黙っていた。しかし人の問いかける質問には答えなかった。ロエーシュに連れて帰らなければならなかったが、医者に見せると、医者は気が狂っているという診断を下した。
もう一人の相棒がどうなったかはついに誰にもわからなかった。
オゼの娘は、その年の夏、〈ぶらぶらやまい〉であやうく死のうとした。人々はそれを山の寒さにあたったのだろうと言った。
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ペルル嬢
一
その晩、ペルル嬢を女王に選んだとは、まったく、われながらなんという奇妙な考えをおこしたものだろう!
私は毎年古くからの知り合いであるシャンタル家へ〈王さままつり〉の夕べをすごしに行くのをならわしにしている。私の父は、シャンタルのいちばん親しい同僚であったが、私の子供の時分、いつもいっしょに連れて行ってくれた。私はこの習慣を続けたのである。そして、これからもきっと続けるであろう。自分の生きている限り、そして、シャンタルをなのる人間が、この世にいる限り。
ついでにいうと、シャンタル家の人は実に奇妙な生活を送っている。パリに住んでいながら、まるでグラッスかイヴトかないしはポン・タ・ムッソンのような田舎《いなか》で暮しているとしか思えない。
天文台の近くに、小さな庭にかこまれた家を持っている。そこで、まるで田舎にいるように、自分流儀の暮しをしているのである。パリについては、ほんとのパリについてはなにごとも知らない。なにかがあると思ってもみない。まるで縁のない、遠い世界に住んでいるのである! それでも、ときに、パリの市中へ旅行を試みることがある、大旅行を。一家でいいならわしているように、シャンタル夫人の買物旅行である。買物旅行がどういうふうに行われるかというと、ざっとこんな調子である。
台所の戸棚のかぎを預かっているペルル嬢が(というのは、下着類の戸棚は主婦みずから管理していたのである)、そのペルル嬢が、砂糖がおしまいになりそうだとか、かんづめがきれたとか、コーヒー袋の底にもういくらも残っていないというふうな警告を発する。
かくして、飢饉《ききん》到来の警報を与えられたシャンタル夫人は、残っているものを次々に検査し、手帳に心覚えを書きつける。それから、たくさんの数字を書きこんだあげく、まず長い計算に没頭し、次に、ペルル嬢を相手に長時間の論争にふける。それでもけっきょく意見の一致を見、むこう三ヵ月間の用途のため買い入れるおのおのの品物の量を決定する。砂糖、米、ほしすもも、コーヒー、ジャム、グリンピース、隠元《いんげん》豆、大えびの罐詰《かんづめ》、塩魚あるいは燻製《くんせい》の魚、等々。
さてそのあとで、買物の日どりを決める。それから、馬車で出かける。箱形のやとい馬車で。行先は、橋のむこうに、新開地に住む、手びろく商売をやっている食料品屋。
シャンタル夫人とペルル嬢がいっしょにこの旅行に出かけるのである。いわくありげな様子で、そして、晩餐《ばんさん》の時刻に、引越し車みたいに紙包や袋を屋根いっぱいに積んだ箱馬車にゆられた興奮がまださめやらぬ態《てい》で、へとへとに疲れて、帰って来る。
シャンタル家の人々にとって、セーヌ河のむこう岸にあるパリはことごとく、新開地であり、奇妙な、騒々しい人間の住んでいる地区である。あまり尊敬のできない人種であり、毎日をむだづかいにすごし、夜はばか騒ぎをやり、窓から、金を投げ捨てている人種である。それでも、時どき、若い娘たちを芝居に連れて行くことがあった。「オペラ・コミック」とか「フランス座」とかへ。出しものがシャンタル氏の購読している新聞で推賞されているときは。
娘たちは今年十九と十七で、二人とも美しい娘である。背も高く、みずみずしい。非常に育ちがよく、育ちがよすぎる。あまりに育ちがよくて、かわいらしい人形を二つ並べたようで、かえって人眼につかずにすんでしまうくらいである。シャンタル家の令嬢に注意をはらうとか愛をささやくなどという考えはそれこそ一度だって私の頭に浮ぶことがないであろう。話しかけることさえやっとだった。それほどこの二人は無垢《むく》に感じられる。ほとんどあいさつをしてさえ失礼にあたるのではないかと思われるほどだった。
父親はどうかというと、これはまた愛すべき人物で、教養はあり、快濶《かいかつ》で、非常にていねいだったが、しかし、なによりも休息を、おちつきを、静かな空気を愛する人であり、自分の思いどおりに、よどんだ不動の空気の中で暮すために、そうやって家族の者をミイラのようにすることには大いに力をいたした人である。たくさん本を読んでおり、進んで座談もするし、たやすく感動する。接触のないということが、ひじをつきあわせ、ひとと衝突する機会のないことが、彼の皮膚を、精神の皮膚を非常に感じやすい、繊細なものにしてしまっている。どんな小さなことでも彼を感動させ、興奮させ、苦しませる。
シャンタル家にはそれでもつきあいがないわけではなかった。しかし、限られたつきあい、近所住居の中から念入りに選んだつきあいだった。彼らはまた遠くに住んでいる親戚の者と年に二、三度たずねあう。
私はというと、八月十五日と王さままつりの日にはこの一家で晩餐《ばんさん》のごちそうになることにしている。カトリック教徒にとって復活祭の聖体拝受が義務であるように、これは私の義務の一部になっている。八月十五日には、二三の友だちも招くが、王さままつりの日には私が内輪以外でのたった一人の客である。
二
そんなわけで、その年も、ほかの年と同じように、私は主顕節を祝うために、シャンタル家の晩餐につらなった。
いつものように、シャンタル氏とシャンタル夫人とペルル嬢に接吻し、ルイーズ嬢とポーリーヌ嬢にはていねいにお辞儀をした。いろいろなことをきかれた。さかり場の事件について、政治について、トンキン事件を世間ではどう考えているかということについて、わがほうの代表について。シャンタル夫人はふとりじしで、この人のいうことはすべて、どうしたものか、切石かなにかみたいな四角なものの印象を私に与えるのであるが、すべての政治的議論の結論としてきまって次のような文句をつけ加える。「のちのちのわざわいの種にならなければいいですがね」
なぜシャンタル夫人の考えが四角だというふうにいつも私が想像したのであろうか? われながらわからない。しかしこの人の口にすることはすべて私の頭で四角という形をとる。四角形、相等しい四つの角をもった大きな四角形。その考えがいつでも丸く思われ、輪まわしの輪のようにころがって行く、そういう印象を与える人もある。何かあることについてひとこといいはじめるが早いか、もうころがり出す。十、二十、五十というふうに、丸い考えが、大きいのに小さいのに、あとからあとから飛び出して、地の果てまで、走って行くのが見える。それからまた先のとがった考えをもっている人もいる……しかし、まあこんなことはどうでもいい。
いつものように一同は食卓についた。そしてなんにも特筆に値することをだれもいわずに、晩餐が終った。
デザートになって、型のごとく王さまの菓子が運ばれた。ところで、毎年きまったようにシャンタル氏が王さまだった。偶然が続いた結果か、それとも家の中で暗黙にそういうとりきめができていたのか、それは知らないが、とにかくシャンタル氏の分にとりわけられた菓子の中には間違いなく王さまのまめがはいっていた。そして彼はシャンタル夫人を女王に選ぶのだった。だからまた、パン菓子をひと口かんだ拍子に、危うく歯を一枚折ろうとしたほど硬いものをかみあてた時、私はあっけにとられた。その硬いものをそっと口から出して見た。そら豆ほどの大きさもない小さな陶製の人形だった。驚きのあまり思わず、「あっ!」と叫んだ。みんなが私の顔をながめた。シャンタルが手をたたきながら、「やあ、ガストンだ、ガストンだ。王さま万歳! 王さま万歳!」と叫んだ。
みんなが声をそろえてくりかえした。「王さま万歳!」私は耳のつけねまでまっかになった。いささか間《ま》の悪い位置におかれた場合、しばしば、理由なしに、ひとが赤面する定石《じょうせき》どおりの場合だった。私は眼をふせたまま、この豆粒のようなせとものを二本の指でつまみながら、強《し》いて笑おうとつとめ、じつのところどうしていいか何をいったらいいかわからずにいると、シャンタルがまたこういった。「さあ今度は、女王を選ぶ番だ」
そうなると私は狼狽《ろうばい》せざるを得なかった。一瞬の間に、無数の考えが、無数の仮定が、私の頭を横切った。シャンタル家の令嬢の一人を私に指名させようというのであろうか? どっちが好きかということを私にいわせるための手段なのであろうか? 実現の可能性のある結婚にむかってそれとなく、そっと、気づかれないように両親が圧力を加えているのだろうか? 結婚という考えが年ごろの娘のいる家の中には絶えずただよっており、さまざまの形を帯《お》び、あらゆる変装をし、あらゆる手段をとる。のっぴきならぬはめになりはしないかという激しい心配が私のうちにひろがった。それにまた、ルイーズ、ポーリーヌ両嬢の執拗《しつよう》に閉鎖的で礼儀正しい態度を前にしては極端におくびょうにならざるを得なかった。一方をさしおいて、二人のうちの一人を選ぶということは二つの水滴のうちから選ぶのと同じくらいむずかしいことに私には思われた。それに、うっかりつくりごとの中へ足をふみこみ、いやおうなしに結婚までつれて行かれる、なにげない王さま遊びといったような用心深い、人に気づかれない、おだやかな方法で、こっそり連れて行かれる。その心配がおそろしいほど私を混乱させた。
が、突然、私はあることを思いついた。そしてこの象徴的な人形をペルル嬢のほうにさしだした。みんな、初めはびっくりし、それから、私の心づかいを、用心深さを、評価してくれたに相違ない。次の瞬間われるような拍手がわいたから。みんなが、「女王万歳! 女王万歳!」と叫んだ。
ペルル嬢はどうかというと、気の毒にこの老嬢は、すっかり度を失い、わなわな震え、気もそぞろに、口の中でこうくりかえした。「いいえ、いけません……いけません……私なんか……お願いです……私なんか……お願いです……」
すると、生れて初めて、私はペルル嬢をながめる気になり、これはいったいどういう人だろうと自問してみた。
私はこの人をこの家の中で見ることに慣れていた。つづれ織で張った古い肘掛椅子《ひじかけいす》でも見るように。子供の時分から腰かけているくせに一度も注意を払わずにいる肘掛椅子。ある日なぜということなしに、太陽の光線が腰かけのところにあたったというようなことがきっかけで、ひとはとつぜん自分にむかっていう。「おや、これはおもしろい、この椅子は」そして木の部分の細工が芸術家の手になったものだということ、はってあるきれも、りっぱなものだということを発見する。今まで一度も私はペルル嬢に注意したことがなかった。
シャンタル家の一員、わかっているのはそれだけだった。だが、どうしてそうなのか? どういう資格でそうなのか? やせた、背の高いひとで、人目につかぬように努めているが、決して十人並み以下の女ではない。うちの者は好意をもって彼女を扱っていた。雇い人よりは上、親戚の女よりは下にというところであろう。今まで気にもかけなかった無数のこまかなことの意味が、いま、突然、はっきりのみこめた。シャンタル夫人は「ペルル」と呼んでいたし、娘たちは「マドモワゼル・ペルル」といっていた。シャンタルはただ「マドモワゼル」とだけ呼んでいたが、たぶんその調子にはいくらかよけい敬意がこもっていたと言えよう。
私は改めてこの人の顔をながめた。――いったいいくつだろう?――四十か? そう、四十ぐらいである。――お婆さんとはいえない。この老嬢は。しかし、もう年をとり始めていた。私はとつぜんこのことに気がついて驚いた。髪かたちでも、着つけでも、化粧でも、じつにこっけいなのだが、それでいて、彼女自身はちっともこっけいには見えなかった。それほど身にそなわった素朴《そぼく》で自然な魅力、念入りにかくした魅力が、ヴェールをかけた魅力があった。まったく、なんという奇妙な存在であろう! どうして今までもっとよく観察しなかったのか? ほとんどグロテスクといいたいような髪を結っている。ふきだしたくなるような古風に縮らせた髪の小さな房をたらしている。その古風な聖母像よろしくといった髪の下に、ひろいおだやかな額が、二本の深いしわで仕切られているのが見える。長い悲しみを語る二本のしわである。それから二つの大きなやさしい青い眼、じつにへりくだった、おずおずした、おくびょうな眼。小娘の驚きをたたえ、若々しい感覚と、それからまた苦しみを、この眼から奥へはいって行き、この眼に感動の色を浮べさせはしたが、それをにごらすことはなかった苦しみ、そういう苦しみをたたえている実に素朴な美しい二つの眼。
顔全体が線が細くつつましくできていた。使ってすりきれないうちに光の消えた顔、あるいは人生の大きな感動や疲れのために色のあせてしまった顔、そういう顔の一つだった。
なんという愛らしい口だろう! それからなんという愛らしい歯! けれどもまるでほほえむことを恐れているとしか思われない口もとだった。
と、突然、私はこの人をシャンタル夫人と比較した! 確かに、ペルル嬢のほうが美人だった。百倍も美人だった。ずっときゃしゃで、気品があり、おかしがたいところがあった。
私は自分の観察にわれながらあっけにとられた気持だった。シャンペンがつがれた。私は女王のほうへ盃をさしあげて、念入りに文句をととのえた祝辞でその健康を祝した。彼女はナプキンの中へ顔をかくしてしまいたかったに違いない、と私は見てとった。それから明るい色のぶどう酒に彼女が唇をつけると、みんなが「女王が飲んだ! 女王が飲んだ!」とはやした。すると、彼女はまっかになってむせた。みんな笑った。しかし、このうちではみんながこの人を愛していることを私は見てとった。
三
晩餐がすむとすぐ、シャンタルは私の腕をとった。食後は彼の葉巻の時間、神聖な時間だった。ひとりのときは往来を歩いて葉巻を吹かす。だれかを晩餐によんでいるときは、いっしょに玉つき部屋へはいり、葉巻を吹かしながら勝負を戦わす。その晩は王さままつりだというので、玉つき部屋にだんろさえたいてあった。と、私の親友はキューを握った。細づくりのキューで、彼はそれに打ち粉をつけて念入りにみがいた。それから、こういった。
「さあ、君からやれ!」
彼は二十五にもなっている私をまだ子供扱いにしたような口をきいていた。なにしろ小さい時からの私を見てきているのである。
そこで私は勝負を始めた。二、三度みごとな三つ玉をつき、それからまた二、三度失敗もした。しかし、ペルルのことが頭について離れないので、いきなりこうきいてみた。
「ねえ、シャンタルさん、ペルル嬢は親戚のかたなんですか?」
彼はひどくびっくりした態《てい》で、勝負の手を休めると、私の顔をながめた。
「なんだって、君は知らないのか? ペルル嬢の身の上話を知らないのかね?」
「知りませんとも」
「お父さんが一度も話したことがないのか?」
「ありません」
「へえ、そうかね、これは奇妙だ! いやまったく、奇妙だ! いやね! 話せばまったく一場の奇談というところなのだ!」
彼は口をつぐみ、それから言葉をつづけた。
「君は知るまいが、今日君がこの話をきくということは、じつにふしぎな暗合なんだよ。王さままつりの今日にね?」
「なぜです?」
「ああ、なぜですって! まあ、ききたまえ。今から四十一年前の話だ。主顕節の日の今日でちょうど四十一年になる。その時分、私たちはルイ・ル・トールに、城壁の上に、住んでいた。しかし、まず君によくわかってもらうためには、家の説明からしてかからなければならない。ルイの町は山腹に建っている。というより、牧場のつづく広い土地を見おろす丘陵の上に建っているといったほうがもっとよくわかるだろう。そういう地勢のところに私たちの家はあった。古い時代に築かれた外敵防御の城壁にささえられた、いわば宙に浮いている美しい庭がついていた。つまり、家は町のほうに、往来に面しており、一方、庭は平野を見おろしているというわけだ。この庭から野原のほうへ抜ける通用門が、城壁の中をくりぬいてつけてあるかくし階段を下りつくしたところにこしらえてあった。小説なんかによく出てくるやつさ。道路がこの門の前を通っており、門には大きな鐘がとりつけてあった。百姓たちが、大回りするのをいやがって、そこから野菜や穀物などを運びこむことがあったからだ。
これで舞台はよくわかったろう? どうだい? ところで、その年、王さままつりには、一週間も前から雪が降り続いていた。大げさにいえばこの世の終りかと思われるほどだった。城壁のところへ行って、野原をながめると、魂の中まで冷たくなる。このはてしない白い大地、真白な、凍った、そしてニスを塗ったように輝いている雪の世界。神さまが地球を古い世界の納屋《なや》へしまいこむために荷造りをしたところだとでもいいたくなる。いやまったく、いいようもない淋しい景色だったよ。
そのころ、私たちの一家は、みんないっしょに住んでおり、大人数だった。父と母と、叔父《おじ》と叔母《おば》、私の兄が二人に従妹《いとこ》が四人。きれいな娘たちだった。私は一番下のと結婚したわけだ。これだけの人数の中で、今生き残っているのはたった三人だ。家内と私とマルセイユに住んでいる義姉だけになった。歯がかけるように減っていくというが、まったくだよ。家族などというものは! 考えると身震いが出る! 私は十五だった。今年五十六だからそうなる勘定だよ。
さて、私たちは王さままつりを祝おうと、みんな愉快に、はしゃいでいた。一同客間に集まって晩餐の始まるのを待っていたのだ。と、その時、兄のジャックがこういいだした。『十分ばかり前から野原で犬がほえている。かわいそうに主人にはぐれたんだろう』
兄がこういい終らないうちに、庭の通用門の鐘が鳴った。人の死んだことを思わせる教会の鐘のような大きな音をたてる鐘だった。みんなが思わず身震いした。父が下男を呼んで、行って見て来いといいつけた。みんな鳴りをひそめて待った。私たちは降り積る雪のことを考えていた。下男が引き返してきて、確かに何も見えませんでしたと報告した。犬は相変わらず、休みなしに、ほえつづけている。ほえ声は少しも位置を変えていなかった。
一同は食卓についたが、みんないくらか興奮していた。ことに若い連中はそうだった。焼肉の皿が出るまではまずまず無事だったが、そこでまた、鐘が鳴り出した。三度つづけて、長く大きく鳴る鳴り方だった。私たちの指の先まで、ひびきわたり、私たちの息の根をとめた。私たちはフォークを宙にさし上げたまま顔を見合わせた。相変わらず耳をすまし、一種の人力をこえたものの与える恐怖にとらえられていた。
とうとう母が口をきった。『あんなに待ってからまた鐘を鳴らすなんておかしいじゃありませんか。バチスト、ひとりで行ってはいけませんよ。ここにいる男のうちだれか一人にいっしょに行ってもらいなさい』
叔父のフランソワが立ちあがった。巨人といってもいい大男で、大変な力自慢、この世の中にこわいものがないという偉丈夫《いじょうふ》だった。父が叔父にむかっていった。『銃を持って行けよ。相手が何かわからないからな』
しかし、叔父はステッキを一本持っただけで、すぐに下男といっしょに出て行った。
私たち、残った連中は、恐怖と不安に震えながら、食べることも、しゃべることも忘れてからだをかたくしていた。父が私たちを安心させようと試みた。『なに、今にわかるさ。雪のために道を踏み迷った通行人か乞食《こじき》かなにかだよ。最初に鐘を鳴らしたあとで、すぐにあけてもらえないものだから、また自分で道をみつけようとやってみたのだ。それから、どうしてもだめなので、またうちの門のところへ引き返したのさ』
叔父が席を立ってから一時間もたったような気がした。とうとう帰って来たが、ぷりぷり怒ってののしっている。『ちくしょう、なんにもありゃしない、だれかふざけたいたずらをしやがったんだ! 城壁から百メートルばかり離れたところでほえている犬の畜生だけで、ほかにはなんにも見えない。鉄砲を持って行っていれば、一発でしとめて黙らせてやるんだった』
みんなはまたごちそうを食べ始めた。しかし、だれも彼も不安な気持にかられていた。これで終ったのではないということをみんな感じていた。なにかが起るだろう、鐘が、今にもまた、鳴るかも知れない。
事実、また鐘が鳴った。ちょうど王さまの菓子をきってわけようとしている時だった。男は全部いっせいに席を立った。シャンペンをきこしめしていたフランソワ叔父は、『そいつ』を殺してやるといきまいた。あんまりいきり立つので、母と叔母が飛びついてひきとめたほどだった。父は、おだやかな性格で、いくらかからだも不自由だった(馬から落ちて脚を折って以来、片脚を引きずって歩いていた)にもかかわらず、負けずにとにかく何ごとか確かめるつもりだといい、自分で行くといいだした。十八と二十になる二人の兄は、自分たちの銃をとりに走って行った。私はみんなから閑却《かんきゃく》されていたが、私も鳥おどしの銃をひっつかむと、同じく一行について行こうと身がまえた。
一行はすぐに出発した。父と叔父がバチストを従えて、先頭に立って進んだ。バチストはカンテラをさげていた。兄のジャックとポルがそのあとからつづいた。私は、しんがりだった。母親がたのむように止めるのをふり切って飛び出したのだが、母は自分の妹や私の従妹《いとこ》たちといっしょに家のしきいのところに残った。
一時間ばかり前から雪が再びふりだしていた。樹という樹に一面に積っていた。もみの樹はこの鉛色の着物の下でしない、純白のピラミッドか巨大な棒砂糖そっくりに見えた。こまかくすきまなくふりこめる雪片の灰色のカーテンをすかして、やみの中で蒼白《そうはく》に見えるもっと身軽な灌木《かんぼく》の姿がかろうじで見わけられた。じつにすきまのないふりかたで、やっと十歩先が見える程度だった。しかしカンテラが大きなあかりを前方に投げていた。城壁の中にあなをあけてこしらえた回り階段をおりはじめたとき、まったくのところ、私はこわくなった。だれかがうしろから歩いてくるような、うしろからぐいと肩をつかまれてどこかへ連れて行かれるような気がした。引き返したくなった。しかし、なにしろ庭をもう一度横切らなければならないので、その勇気はなかった。
野原の向いている門をあける音が聞えた。それから、叔父の罵《ののし》る声が聞えた。『ちくしょう、また行っちまいやがった。影でも見えれば、撃ちもらしゃしないんだが、ちくしょうめ!』
まったく野原のながめはぶきみだった。いや、ながめというより、野原を自分の前に感じることは、というべきだろう。見えないのだから。はてしのない雪のヴェールが見えるばかりだった。上も、下も、正面も、右も、左も、どこもかしこも。
叔父が言葉をつづけた。『おや、犬のやつがまたほえだしたぞ。よし、あの畜生におれの腕前を見せてやる。よし、こいつぁもうけものだぞ』
しかし、心のやさしい父はそれをさえぎった。『行って連れて来たほうがいい。かわいそうに腹がすいてほえているのだ。助けを呼んでいるんだよ。絶体絶命の人間が助けを呼ぶように呼んでいるのだ。さあ、行って見よう』
一同はこのカーテンをわけて歩き出した。おやみなく降りしきる白いものの中を、夜のやみと空気とをすきまなくみたしているこの白い泡《あわ》の中を、かきわけて進んだ。揺れ、ただよい、落ち、そしてとけた拍子に肉を凍らせる白い泡。小さな白い雪片がふれるたびに、やけどでもしたように、皮膚の上をすばやい激しい痛みが走る凍らせ方だった。
この白い冷たいねり粉の中に私たちはひざまでもぐって進んだ。歩くには脚を高くあげなければならなかった。進むにしたがって、犬のなき声がはっきり、強く聞えた。叔父が『いたぞ!』と叫んだ。夜、敵兵に出あって面とむかったとき当然そうするように、一同は相手を見定めるために立ちどまった。
私には、なんにも見えなかった。そこで、みんなのいるところへ寄って行ったら、見えた。まったく身の毛のよだつような、そのくせ幻の世界のような気のする光景だった。雪の上に長く尾をひいたカンテラのあかりの端に四つ足をふんばって立っているその犬の姿は。大きな黒犬、顔が狼《おおかみ》にそっくりの毛のあらいシェパードだった。犬はその場を動こうとしなかったが、ほえるのはやめ、我々のほうをながめていた。
叔父がいった。『ふしぎだな、進みも逃げもしない。畜生、一ぱつぶちこんでやりたいな』
父がりんとした声でいった。『いかん、拾ってやらなければいかん』
すると兄のジャックがつけ加えていった。『や、犬だけじゃないぞ。そばになにかいる』
いかにも、犬のうしろになにかがいた。灰色の、形の見わけのつかないものだった。一同はまた用心深く歩き出した。
われわれが近づくのを見ると、犬は尻をついてすわった。猛悪そうな様子はしていなかった。むしろ人々を自分のそばへ引きよせることができたのに満足しているようにさえ見えた。
父がまっすぐに犬のそばへよったと思うと頭をなでてやった。犬は父の手をなめた。犬が小さな車の輪にしばりつけられているのだということがわかった。まずおもちゃの車といいたい小さな車で、三四枚の毛布で厳重にくるんであった。注意ぶかくその毛布をはがしてみた。バチストが、輪をつけた犬小屋とでもいいたいこの車の入口にカンテラを近づけると、中に赤ん坊が眠っているのが見えた。
あまりの意外さに、私たちは口をきくことさえできなかった。父がまっさきにわれに帰った。父は心のひろい人で、それに少し感激屋のほうだったから、車の屋根の上に手をさしのべたと思うとこういった。『捨て子とは気の毒な、よしよし、今日からうちの者にしてやる』こういったと思うと、兄のジャックに、この拾いものを押して先に立って行くように命じた。
父は考えていることを口にしながら、言葉をつづけた。
『不義の子か何かで、気の毒な母親がうちの門の鐘を鳴らしに来たのだ。主顕節の今夜、神なるおさな児《ご》の思い出に』
父はそこでまた立ちどまったと思うと、夜のやみをすかしながら四方を向いて四へん大声にどなった。『拾いましたぞ!』それから、弟の肩に手をかけながら、ささやいた。『フランソワ、犬をうたないでよかったな!……』
叔父は返事をしなかったが、まっくらな中で、大きく十字を切った。叔父は鼻っ柱が強いくせに、非常に宗教心のあつい人だった。
犬の綱をといてやると、われわれについて来た。
いや、まったく! それこそ涙ぐましい光景だった。この引きあげの状況は! 城壁の中の階段を車をひっぱり上げるには初め実に骨が折れた。それでも、どうにかひっぱり上げて、玄関まで押して行った。
母の様子のおかしかったこと、喜んだりあわてたり! それから四人の小さな従妹たち(一番下のが六つだった)は、巣のまわりに集った四羽の牝鶏《めんどり》といったかっこうだった。ついに車の中からまだ眠っている子供が引き出された。生後約六週間と見える女の子だった。むつきの中に金貨で一万フランはいっていた。そうだ、一万フラン! 父はすぐにその金をその女の子の婚資として預金した。貧乏人の子供ではなかったわけだ……そうではなく多分どこかの貴族と町の娘か何かのあいだにできた子供かも知れない……それとも……みんないろいろと想像をたくましくしたが、何ごともわからなかった……まったく、何ごとも……全然わからずじまいだった。……犬もどこのだれが飼っていた犬か、だれも知っている者はなかった。この土地の犬ではなかったのだ。しかしいずれにしても、男か女か、とにかく三度うちの門の鐘を鳴らした者が両親を知っていることだけは確かだった。わざわざうちを選んだのだから。
ペルル嬢が、生後六週間で、シャンタル家の人となったことの次第はざっと以上のとおりさ。
もっとも、ペルルという名がついたのはずっと後のことにすぎない。初めは『マリ・シモーヌ・クレール』という洗礼名前をつけた。クレールが苗字《みょうじ》の代りをすることになった。
一同は再び食卓につき、菓子がきりわけられた。私が王さまにあたった。私はペルル嬢を女王に選んだ。さっき、君がやったように。その日、本人は、自分に与えられた名誉を夢にも知らなかったわけさ。
そういうわけで、子供は養女になり、うちで育てられた。大きくなり、年月が流れた。やさしい、おだやかな、従順な娘だった。みんなにかわいがられた。母がとめなかったならみんなして甘やかして、だいなしにしてしまったろうと思う。
母はきちんとしたこと、けじめをつけることの好きな人だった。少女のクレールを自分の子供と同じように扱うことには同意したが、それでもわれわれをへだてている距離がはっきり認められ、位置が明瞭にきめられることを固執した。
だから、少女が物心がつくようになると、すぐ身の上話を聞かせてやり、少女の頭の中に彼女がシャンタル家の者にとっては拾いあげられ、養女として迎えられた者ではあるが、要するに外から来たものであるということを、静かに、それどころか、愛情さえこめて、のみこませるように努めた。
クレールは自分のおかれている位置を、ふしぎに鋭い頭の働きで、驚くべき本能で、理解した。じぶんに与えられた地位を受けとり保つのに、じつにこまかな気づかいを見せ、美しくふるまって見せたので、涙を催すまでに父を感動させたほどだった。
この愛らしいやさしい娘のいくらか遠慮がちな献身と激しい感謝の念に、母も強く感動し、クレールのことを「嬢や」というようになった。ときに、少女が何かいいことを、美しい心づかいの見えることを、したりすると、母はめがねを額の上におしあげて、ということは、彼女にあっては感動をおさえ切れないというしるしなのだが、いつもこうくりかえした。『真珠《ペルル》ですよ、ほんとに真珠ですよ、この子は!』――この名前がいつしかクレールに代り、今に至るまでそのままというわけさ」
四
シャンタル氏は口をつぐんだ。彼は玉つき台の上に腰をおろして脚をぶらぶらさせていた。左手で玉をもてあそびながら、右手で石板の上に書く点数を消すのに使うきれをいじっていた。そのきれは私たちが「白墨《はくぼく》ふき」と呼んでいるものだった。少し顔をあからめながら、声をひくめ、彼は今では自分自身のためにしゃべっていた。思い出の世界へ旅立った形だった。彼の頭の中に次々にめざめる古い事件、はるか昔の事柄のあいだを、静かにかきわけて行くのである。ちょうどひとが昔そこで育った故郷の家の庭の中をさまよい歩くように。そこではどの樹も、どの道も、とがった梢《こずえ》のひいらぎも、いい匂いのする月桂樹も、指で押すと赤い脂《あぶら》ぎった実のはじけるイチイも、一歩ごとに、われわれの過ぎ去った生活の小さな事実を、存在の根底そのものを、基盤を、形づくっているなつかしい無意味な小さな事実の一つを、浮びあがらせる。
私は、シャンタル氏と向かい合って、壁によりかかったまま、今は勝負をやめてしまった玉つきのキューに両手をささえて、じっとしていた。
しばらくたって、シャンタル氏が言葉をつづけた。「いや、じつにきれいだったよ、十八の時には……愛嬌《あいきょう》があって……非のうちどころがない……ああ、まったく! きれいで……じつにきれいで……それに気立てがよくて……けなげで……じつにいい娘だった!……眼は……青い……すきとおるような色の、明るい眼で……今までに、あんな眼を二度と見たことがない……まったくだ!」
彼は再び口をつぐんだ。私はきいてみた。
「なぜあの人は結婚しなかったんでしょう?」
シャンタル氏は、私にでなく、たまたま彼の耳をうった「結婚」という言葉に答えるように、こういった。
「なぜ? なぜだって? 本人が結婚したがらなかったのだ……結婚したくなかったのだ。といって、三万フランも婚資を持っていたのだ。何度も申し込みを受けたことがある……それでも結婚したがらなかったのだ! あのころ悲しげな様子をしていたなあ。私が従妹と、一番下のシャルロットと、家内と、結婚したころのことだ。家内とは六年前から婚約していたんだが」
私はシャンタル氏の顔をじっとながめていた。この人の精神の中へはいりこめたような気がしてきた。正直な心、まっすぐな心、だれからも非難されることのない心、そういう心の中にひめられたつつましい、そしていたましい悲劇の一つの中にいきなりとびこんだような気がした。口に出していったことのない、探《さぐ》りをいれたことのない心の秘密、だれも知らなかったもの、あきらめきった無言のその犠牲者でさえも知らなかったもの。
と、突然、大胆な好奇心に押しあげられて、私はこういってみた。
「シャンタルさん、あなたが結婚の相手になるべきだったのではないのですか?」
シャンタル氏はぎくりとからだを震わせ、私の顔を見返すと、こういった。
「私が? だれとかね?」
「ペルル嬢とです」
「なぜかね?」
「あなたが従妹よりもペルル嬢のほうをよけい愛しておられたからです」
彼はあわてたような、奇妙な、丸い眼をぱちつかせて私を見つめたと思うと、どもるように口の中でこういった。
「愛した?……私が?……どうして? だれが君にそんなことをいった?……」
「だれもいわなくたって、見ればわかりますよ……それどころか、ペルル嬢というものがあったからこそ、あなたは六年も前から待っている従妹と結婚することをそんなにお延ばしになったのでしょう」
すると、とつぜん彼は、左手で持っていた玉をはなし、白墨ふきのきれを両手でつかんだと思うと、それを顔におしあてて、さめざめと泣き始めた。気の毒だが、見ていておかしくなるような泣き方だった。海綿をおすと水が出るように、眼から鼻から口から同時に涙があふれた。それから、咳《せ》きいり、つばをはき、白墨消しのきれで鼻をかんだ、眼を拭《ぬぐ》い、くしゃみをし、それからまた、顔じゅうのあなから涙が流れ出す。うがいを思わせるようなのどの音を伴奏に。
私は、すっかりめんくらい、恥ずかしくなり、その場を逃げだしたくなった。何をいったらいいか、どうしたらいいか、五里霧中だった。
とつぜん、シャンタル夫人の声が階段のところでひびきわたった。「まだですか。おたばこの時間がすむのは?」
私はドアをあけてどなった。「奥さん、今すぐおりて行きますよ」
それから、私はご亭主のそばへ飛んで行き、ひじをつかむと、こういった。「ねえ、シャンタルさん、きいて下さい。奥さんが呼んでいらっしゃいますよ。さあ、おちついて下さい。早く。おりて行かなけりゃなりません。早くおちついて下さい」
シャンタル氏はどもった。「ああ……そうしよう……いま行きます……かわいそうに!……行きますよ……いますぐ行くといってくれたまえ」
そういって、念入りに顔を拭き始めたが、なにしろ二、三年前から石板の上の点数を消し続けてきたきれだからたまらない。拭いたあとの彼の顔は、半分は白で半分は赤く、額も鼻も頬もあごも白墨だらけ、泣きはらした眼にはまだ涙がいっぱいたまっていた。
私は彼の両手をとると、彼の居間へ引っぱって行きながら、小声でこういった。「すみません、シャンタルさん、ほんとうにすみませんでした。あんなにあなたを苦しめることになるとは……まさか、知らなかったのです……わかって……わかっていただけるでしょう」
彼は私の手をにぎった。「わかるとも……ああ、わかるとも……人間困るときはあるものだ……」
それから彼は洗面器の中へ顔をひたした。洗面器から顔をあげたときのシャンタル氏はまだとても人前に出せたものでないと私には思われたが、ふとある策略を思いついた。鏡を見ながら心配しているので、私はこういってやった。「眼の中へごみがはいったといえばいいじゃありませんか。みんなの前で好きなほど泣けますよ」
事実、シャンタル氏はハンカチで眼を拭きながらおりて行った。みんな心配して、ごみをみつけるといったが、みつからなかった。医者を呼びに行かなければならないようなことになった同じような場合の話をするものもあった。
私は、ペルル嬢のところへ行き、彼女の様子をながめていた。激しい好奇心に、苦痛と化した好奇心にさいなまれながら。いかにも美しかったに相違ない。やさしい眼をした美人だったであろう。じつに大きな、おだやかな、ぱっちりした眼で、ほかの人間がするように眼をとじるなどということは決してないというような様子をしている。身じまいはいささかこっけいだった。まったくの老嬢の身じまいである、ぶさいくに見せるほどではなくても確かに彼女の美しさをそいでいた。
さっきシャンタル氏の魂の中を読んだように、この老嬢の心の中が読めるような気がした。つつましやかな、簡素な、献身的なこの人の生涯を、端《はし》から端まで見通せたような気がした。が、ある欲求が私の唇の上までこみあげてきた。このひとにききただしてみたいという矢も楯《たて》もたまらぬ気持が。彼女もまた、彼を、愛していたのかどうか、彼女も彼と同じように長いひそかな苦しみで苦しんだのかどうか。ひそかな、鋭い苦しみ、ひとには見えず、ひとが知らず、推察もしない苦しみ、しかし、夜、自分のほかにだれもいない寝室のまっくらな闇の世界では、思わず外へもれる苦しみ、そういう苦しみを彼女が苦しんだのかどうか。私は彼女をじっと見つめた。ひだをとった胸かざりの下で心臓が波うっているのを見た。この罪を知らぬやさしげな顔をした人が、毎晩、ぬれた枕に顔をうずめて、うめき声をあげたのだろうか。そして、熱っぽいからだを寝どこの中でけいれんさせながら、むせび泣いたのであろうか。私はそう自分にむかってきいてみずにはいられなかった。
おもちゃをこわして中を見ようとする子供のように、私は彼女にむかって小声でこういった。「さっきシャンタルさんが泣くところを、見せたかったですね。あなたがごらんになったら、気の毒で見ていられなかったでしょう」
彼女は思わずからだを震わせた。「なんですって、お泣きになったんですって?」
「そうですとも、泣きましたよ!」
「なぜですの」
彼女はひどく胸をつかれたように見えた。私は答えた。
「あなたのことが原因ですよ」
「私のことですって?」
「そうです。昔あの人があなたをどんなに愛したか、あなたと結婚せずに奥さんと結婚したことがどれほどの犠牲だったか、話してくれました!……」
血の気のない彼女の顔が少し延びたように思われた。いつもぱっちりとあいている眼が、おだやかな眼が、急に閉じた。永久に閉じたかと思われるほどすばやい閉じ方だった。腰かけていた椅子からゆかの上にすべり落ちたと思うと、静かに、ゆっくりとくずおれた。ちょうどショールでも落ちたようなあんばいに。
私は大声をあげた。「だれか来て下さい! だれか! ペルルさんがたいへんです」
シャンタル夫人と二人の娘がかけよった。みんなが水だタオルだ酢だとさわいでいるあいだに、私は帽子をひっつかんで逃げ出した。
大またにぐんぐん歩いた。胸はみだれ、心は申しわけなさと後悔でいっぱいだった。そのくせ時どきはいいことをしてよかったという気がしないこともなかった。賞讃に値する必要なことを実行したように思われたのである。
何度もこう自問してみた。「おれはまちがっていたろうか? おれは正しかったろうか?」あの二人は、そのことを心の中に包んでいたのだ。ふさがった傷口の下に弾丸を保存しているように。今となってはあの二人は前よりもしあわせになれるのではないだろうか? 二人の苦悩が再び始まるにはおそすぎ、しみじみと感動しながら思い出すにはちょうどいいくらいの早い時期にいってやったのだから。
たぶん、次の春がめぐって来るころ、ある晩、樹の枝をすかして、二人の足もとの草の上に落ちたひとすじの月の光に感動して、二人は互に手をとり、しっかり握りあうであろう。おしころしたいたましい苦悩の思い出に。そしてまた、たぶんこの短い握手が二人の血管の中に、その時までは二人が知ることのないいささかの戦慄《せんりつ》を伝えるであろう。この二人に、一瞬よみがえらせたこの二人の死人に、あの陶酔と狂気とのすみやかないみじき感覚を投げ与えるであろう。ほかの人間が生涯かかってつみとりうるより以上の幸福を、つかのまの戦慄のうちに恋人同士に与えるあの狂気の感覚を!
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オリーブ畑
一
浜の人々――マルセイユとツーロンの中間にあるピスカ湾の奥のプロヴァンス地方の小港ガランドゥの人々――が、沖づりから帰って来たアベ・ヴィルボワの小舟を認めた時、一同は舟を引き上げる手助けをしようと、波打ちぎわに下り立った。
舟の中にはアベ一人が乗っていた。五十八とは思えぬ元気で、まるでほんものの水夫のようなこぎかたでこいでいた。筋肉の隆々と盛りあがっている腕の上に袖をまくり上げ、法衣のすそもまくってひざのあいだにしっかりはさみ、胸のボタンを少しはずし、三角帽は脱いでそばの腰掛の上に置き、そのかわりに白い麻布《あさぬの》をかぶせたコルク製のヘルメットをかぶったところは、いかにもミサを唱えるよりは冒険のほうがふさわしい暖国のたくましい奇怪な坊さんの風貌《ふうぼう》だった。
時どき、舟をつける地点を見きわめるために、うしろを振り向いては、またこぐ手を動かすのだった。拍子の取れた、規則正しい、力強いこぎかたで、南国《ミジ》のやくざな水夫たちに北国の人間がどんなふうに舟をこぐかを改めて教えてやるといったかっこうだった。
勢いのついた舟が砂に触れたと思うと、まるで竜骨をつっこんで砂浜全部を乗りきってしまうかのように勢いよくその上を滑って、それからぴたりととまった。司祭の帰って来るのをながめていた五人の男は、愛想よく、満足げに、自分たちの坊さんに精いっぱいの好意を示しながら、そばへ寄って行った。
「どうです! 司祭さま、大漁かのう?」中の一人がプロヴァンス風の訛音《なまり》を響かせてこういった。
アベ・ヴィルボワはかいをおさめ、ヘルメットを脱いで三角帽をかぶった。まくってあった袖をおろし、法衣のボタンをかけた。それから、村の司祭としての威儀《いぎ》をととのえながら、誇らしげにこう答えた。
「さよう、すばらしい大漁だな。ルゥが三尾に、ミュレーヌが二尾、それにジレルが何枚かあろう」
五人の漁師は小舟のそばへ寄って来ていたが、ふなばた越しにのぞきこんで、したり顔に、もう動かなくなった獲物をあらためた。脂ぎったルゥ、頭の平たいミュレーヌ、こいつは全く不気味な形をした海の蛇である。それからオレンジの皮の色のような金色の帯で、稲妻形に縞《しま》のはいった紫色のジレル。
中の一人が言った。
「ご別荘まで持ってあがりましょう。司祭さま」
「それはありがたい」
ひとわたりみんなの手を握ると、司祭は、中の一人を従えて歩きだした。残った連中にボートの世話をまかせながら。
ゆっくりと大またに歩いて行く。力と威厳のそなわった様子だった。ひどく力を入れてこいだあと、まだ暑くてしかたがなかったので、彼はオリーブのさわやかな木陰を通りかかりながら時どき帽子を脱いでは、相変わらず生温かいながら、沖から吹いて来るかすかな風のためにいくぶんおちつき気味の夕方の空気に角張った額をあてた。
硬《こわ》い短い白髪におおわれた、坊さんの額というよりむしろ軍人の額だった。海のほうにむかって平らになるようにしだいに傾斜をつくっている幅の広い谷の真中の小さな丘の上に村が見えだしていた。
七月の夕方だった。まぶしい夕陽が遠く連なっている丘の、のこぎりの歯のような頂《いただき》に今にも触れようとして、ほこりの屍衣《しい》に埋った真白な往来の上に、坊さんの長い影を斜めに落していた。とほうもなく大きな三角帽が隣の畑に黒い大きな斑点を動かして行き、それはまるで、オリーブの樹の幹に出合うたびにするするするとよじ登っては、またすぐ地面に飛び下り、地面では樹と樹のあいだをはって行く、そういう遊びごとをしているように見えた。
アベ・ヴィルボワの歩いて行く足もとに、細かいほこりの雲が、例の、夏になるとプロヴァンス地方の道という道がことごとくおおわれる、手に触れてもわからぬほど細かい粉の雲が、僧衣のまわりに煙をあげながら立ち昇り、すそのほうをだんだん白っぽさの増していく灰色でぼかし、塗りつぶしていった。彼はいま、汗もおさまり、両手をポケットに突っこみながら、山国の男が登り坂を行くときのようなゆっくりした力強い足どりで歩いて行った。穏やかな眼は村を見つめていた。彼の村を。三十年以来司祭を勤めている村、自分から選んだ村だった。特別のはからいで当てがわれた村、そこで死ぬつもりでいる村だった。教会が、彼の教会が、そのまわりにかたまっている家々の作っている幅の広い円錐の上に冠をのせたように、茶色の石でできた二基の塔をそびえさせている。大きさはふぞろいだが両方とも四角で、この美しい南国の谷間に、神をまつる建物の尖塔というよりは城の防御物に似ているその古風な影絵を見せていた。
アベはいい気持だった。なにしろルゥを三尾、ミュレーヌを二尾、それに何枚かのジレルをつったのだから。
教区の人々に対してまたちょっと鼻を高くすることができる。おそらく、年をとっていながら、この土地で一番筋骨の隆々としているという理由のためになによりも尊敬されているこの司祭には、こうした無邪気なたわいのない誇りが一番の楽しみだった。ピストルでみごとに花の茎を折ることができたし、ときに隣のたばこ屋を相手に剣術のけいこをつけることもあった。たばこ屋は昔、連隊で剣術の助教師をつとめたことのある男だった。それから彼は浜ではだれよりも泳ぎの名人だった。
それに昔は社交界に名をつらねた男だった。かつては伊達者《だてしゃ》の名をほしいままにしたヴィルボワ男爵その人だった。恋の痛手《いたで》を受けた後、三十二歳で、僧籍にはいったのだった。
ピカルジーの旧家の出であるが、この家は王室に忠実でまた敬神の念にあつく、数世紀このかた、男の子たちを、軍隊、司法官職、ないしは聖職者に出していたが、はじめ彼は母親のすすめに従って宗門にはいろうと思った。それから父親の切なる願いをいれて、単にパリへ出て、法律の勉強をすることにし、さてそのあとでなにか裁判所で重い役につく算段をすることに心をきめた。
ところが学業を修めているあいだに、父親が沼地での狩猟のあとで肺炎にかかって他界し、母親も心痛のあまり、あとを追うようにして死んだ。そこで、とつぜん莫大《ばくだい》な財産を相続したので、なにか職につく計画は断念し、金のある男として生活するだけで満足することにした。
美男ではあり、信仰と伝統と道義心のために――これは彼のピカルジーの田舎《いなか》貴族らしい筋肉同様、親ゆずりのものである――多少窮屈な考え方の持主であるとはいえ頭は好いし、上流の社会で、人々に好感をもたれ、もてはやされた。そうして、若い、しっかりした、生活の豊かな、人に尊敬されている男として人生を味わった。
だが、たまたまある友人のところで、二、三度会ったのが縁である若い女優に夢中になってしまった。まだほんの年端《としは》のいかぬコンセルヴァトワールの生徒で、オデオン座の初舞台ではなばなしく名をあげたばかりの女だった。
絶対の真理を信じるように生れてきた男のもつ荒々しさと夢中な気持で、彼はその女に恋した。その女がはじめてお目見得《めみえ》をしたその日に大成功をかちえたロマネスクな役を通して、その女を見ながら夢中に恋に落ちてしまったのだった。
その女はきれいだった。生れつき心は邪悪で、そのくせ無邪気な子供のような顔をしていたが、彼はそれを天使のような顔と呼んでいた。女は完全にこの男を征服することを知っていた。例の無我夢中の狂人の一人に、女の一瞥《いちべつ》なり女のスカートなりが「命とりの情熱」の火焙台《ひあぶりだい》の上で死なせる例の恍惚《こうこつ》境にある精神錯乱者の一人にしおおせていた。彼はその女を囲い、舞台をひかせて、四年のあいだ、ますます熱をあげながら、かわいがった。確かに、家名も家門の名誉も振り切って、ついにはその女を妻に迎えたことであろう。もしも、ある日、女がもうずっと前から、二人をひきあわせてくれた友人と通じて自分をだましていたということを発見しなかったとすれば。
女は身重《みおも》になっており、彼としては結婚の決意をかためるのに子供の生れるのを待っていただけに、その悲劇はおそろしいものだった。
証拠を、引出しの中に見つけた幾通かの手紙を、手に握ったとき、彼は女の不実を、裏切りを、破廉恥を責めた。もちまえの半野蛮人としての乱暴さをことごとく発揮しながら。
だが女のほうは、パリの町の舗道の子であり、みだらであると同じくらいふてくされで、この男をやすやすと制御できたように、他の男だっていつでも手にはいるという気持があり、のみならず、単なる強がりからバリケードにも登る下層社会の娘たちにふさわしい大胆不敵さで、男にくってかかり、相手をののしった。男が手を振り上げると下腹をさして見せた。
男は出鼻をくじかれて、あおざめた。自分の血をわけたものがそこにいるのだ、この汚れた肉の中に、この下賤《げせん》なからだの中に、この不潔なやつの中に、自分の子供が! すると彼はいきなり女におどりかかって二人とも押しつぶしてしまおうとした、この二重の汚辱《おじょく》を消し去ろうとあせった。女はとつぜん恐ろしくなった。助からないという気がし、相手のげんこの下をころげまわり、相手の足が今にも床《ゆか》の上でふくれあがっている横腹を、早くもその中に人間の形をした芽生えが息づいている横腹を踏みつぶそうとしているのを見て、襲いかかって来る相手の足を押し止めようと両手をさしのべながら、叫んだ。
「殺さないで。あんたのじゃない。あのひとのです」
男はひととびにうしろに飛びのいた。彼の憤怒《ふんぬ》も彼のかかとも宙にとまってしまったほど気も心も転倒し、どぎもを抜かれた形だった。どもるようにやっとこれだけ言った。
「な……なに?」
女は、この男の恐ろしい目つきと身ぶりの中に垣間《かいま》見た死を前にしてとつぜん、夢中に恐ろしくなって、こうくりかえした。
「あんたのじゃない。あのひとのです」
男は、歯をくいしばり、精根のつきた気持で、つぶやくようにこう言った。
「子供がか?」
「そうです」
「うそだ」
そう言ったと思うと、またしても、だれかを押しつぶさずにはやまない勢いで足を動かし始めた。いっぽう情婦は、ひざをついて立ちあがり、一心にうしろへさがろうとあせりながら、相変わらずよどみながらこう言った。
「あの人のだと言っているのに。あんたのだったら、もうとっくにできているはずじゃないか」
この理屈は真実そのもののように彼を打ちのめした。あらゆる推理が同時に、なにもかも照し出す明るさで、的確な、駁論《ばくろん》の余地のない、否応《いやおう》なしに納得させられる、抗弁のできない姿で現われてくるある瞬間的な思考の稲妻の中で、彼は確信させられた。自分はこの女がそのからだの中に持っているあさましい淫売婦の子の父親ではないという確信が持てた。すると、ほっとして、解放されたような気がし、ほとんどとつぜんに怒りが静まり、この汚《けが》らわしいやつを八つ裂きにしてやるという気持を捨てた。
それからずっと穏やかな声で女にむかってこう言った。
「起きろ。出て行け。もう二度と顔を見ないぞ」
女は、しおしおと、言うとおりになり、出て行った。
彼はその後二度と女に会わなかった。
彼は彼で自分の道へ出発した。南国へ下った。太陽のほうへ。そして、谷の真中に、地中海のほとりに立っているある村まで来てそこに足を止めた。海を見晴らす宿屋が彼の気に入った。そこに部屋を借りて滞留した。悩みと絶望と完全な孤独の中に十八ヵ月そこにそうやっていた。裏切った女の、胸をかむ思い出に悩まされながら毎日を送った。女の魅力、押し包むように迫って来るその力、口に出して言えないその悩殺《のうさつ》力、そういうものの思い出にさいなまれ、女が自分のそばにいることや女の愛撫のことが返らぬ昔となった事実を嘆く気持で頭がいっぱいだった。
プロヴァンス地方の谷をさまよい、オリーブの樹の細かい葉を透かしてこぼれてくる陽の光を、病める頭に、悩みの住んでいる哀れな病める頭に浴びながら歩きまわった。
しかし、この苦しい孤独の生活の中で昔の敬虔《けいけん》な思想が、年少のころの信仰の多少しずまった熱が、静かに胸によみがえった。かつては未知の生活にたいする避難所として彼に現われた宗教は、今あざむくこと多く悩み多き生活にたいする避難所として現れた。彼は祈りを上げる習慣はなくさずにいた。いま心の悩みをいだいてますます祈りに救いを求めた。夕やみの迫るころ、たびたび薄暗い教会の中へ、聖所の神聖な番人であり神のいますことの象徴であるランプの光だけがさびしく内陣の奥を照している教会の中へ、出かけて行ってはひざまずいた。
彼はこの神に、彼の神に、自分の悩みを告白し、自分のあさましい境涯《きょうがい》のすべてを訴えた。忠告を求め、憐れみを、救いを、保護を、慰めを求めた。そうして毎日ますます熱烈にくりかえされる祈りのうちに、一回ごとにいよいよ強い感動をこめた。
一人の女の愛にむしばまれ、押しつぶされた彼の胸は、口をひらき、あえぎながら、永久に愛を求めていた。祈りを捧げつづけ、しだいに増大する信仰の習慣を持して隠者のような生活をし、悩める者を慰め引き寄せる「救世主」との信仰厚き魂の秘密な交通にふけっているうちに、少しずつ、神にたいする神秘的な愛が彼の身うちにしのびこみ、もう一つの愛を征服した。
すると彼は年少のころの志望に再び帰り、無垢《むく》なままで捧げる機会を失った破滅の生涯を教会に捧げる決心をした。
そこで僧侶になった。家門の光と、姻戚関係の力で、彼はこの偶然にたどり着いたプロヴァンスの村の仮司祭に任命されることができた。財産の大部分は慈善事業に寄付してしまい、死ぬまで貧しい人々に救いの手を延べ、役に立つことができる程度のものだけを残して、敬虔《けいけん》な勤行《ごんぎょう》と同類への献身との静かな生活の中へ逃れた。
彼は眼界の狭い、だが善良な司祭だった。軍人の気質をもった一種の宗教的案内人だった。さまよえる盲目の人類、この人生という森、われわれの本能やわれわれの好き嫌いやわれわれの欲望がわれわれを迷わせる小径《こみち》である、この人生の森の中で道を踏み迷った人類を力ずくで正しい道に引きもどす教会の案内者だった。とはいえ昔の性質の中の多くが相変わらず彼の中に生き残っていた。激しい運動を好むことをやめていなかった。上品なスポーツ、剣術のようなものが好きだった。彼は女を蛇蝎視《だかつし》した。えたいの知れぬ危険を前に子供のいだくような恐怖心で女という女をきらった。
二
司祭のあとからついて行く水夫は、例の南国人特有の、しゃべりたくてたまらぬむずがゆさを舌の上に感じていたが、口をきる勇気はなかった。司祭はその信者にたいして大いに威令を行なっていたのである。とうとう思い切ってその男はこう言った。
「いかがでございますか、司祭さま、ご別荘は気持がいいでございますかな?」
この|ご別荘《バスチッド》というのは例の眼の中へはいってしまうような小さな家の一つだった。プロヴァンスの人間が町の者も村の者も、夏になると、涼を取ろうとしてこういう家に出かけて行く。アベは野良《のら》の中にあるこの小屋を借りていた。司祭住宅から五分の距離のところにある。司祭住宅のほうは教会にすぐ隣り合って教区の真中にとじこめられ、窮屈だった。
彼は、夏でも、この別荘に規則的に住んでいるわけではなかった。ただ時どき二、三日をすごしに行くだけだった。草木の青々と繁った所で呼吸をし、ピストルの練習をするためだった。
「いや、いい気持だよ。全くいい気持だ」こう司祭は答えた。
屋根の低いその家は木立の繁みの真中に建てられていた。桃色に塗ってあるが、垣根《かきね》のしてない畑に一面に植えられているオリーブの樹の枝や葉の陰になって、こまごまに切り刻まれ、しまになって見えた。この畑の中にプロヴァンス地方のきのこのように生えているといったかっこうだった。
一人の大柄な女が小さな晩餐《ばんさん》の食卓をととのえながら戸口の前を行ったり来たりしている姿が見える。その食卓の上に、規則正しい緩慢さで、一度引き返して来るごとになにか一つだけ品物を置いて行くのだった。食卓掛を一枚、皿を一枚、ナプキンを一枚、パンを一つ、コップを一つ、というふうに。アルルの女のかぶる小さな帽子《ボンネ》をかぶっていた。黒の絹やびろうどで作ったとがった円錐帽で、てっぺんに白い玉飾りが花のように咲いている。
声のとどく所まで来ると、アベはその女にむかって大声にこう呼びかけた。
「おーい、マルグリットかあ?」
女は歩くのをやめてこっちをながめた。それから主人だとわかると、こう答えた。
「はあ、司祭さまですかあ?」
「そうだよ、獲物をどっさり持ってきたぞ。すぐにルゥを焼いてもらうぞ。ルゥのバタ焼きだ。バタばっかりでほかのものを使わんのだぞ、わかったか?」
女中は、男たちを迎えに出て来ながら、したり顔に、水夫のさげてきた魚をあらためた。
「ですけれどな、もう牝鶏《とり》の米|煮《た》きがこしらえてありますがの」
「しかたがない。魚を明日まで置いたんではつりたてのとは比べものにならん。ちと腹の町の祭りをしてやるさ。そんなにたびたびあることではないからの。それに、罪は罪でも、たいした重い罪ではないて」
女中はルゥを選り分けていた。それからそれを持ってむこうへ行こうとして、思いついてふりむいた。
「ああ、そうでございました! どこぞの男が司祭さまを三度たずねてみえました」
司祭は気に止めたふうもなくこうきいた。
「男が! どんなふうな男かな?」
「なんの、あまり人体《にんたい》のよくない男でございます」
「なに! 物ごいか?」
「ことによったら、そうかも知れません。どうですかね。それよりマウーファタンだと思いますがの」
アベ・ヴィルボワはこの言葉を聞くと笑いだした。このプロヴァンス語は〈街道に出没する悪漢〉という意味である。ほかでもない、バスチッドに滞在していると一日じゅう、ことに夜は二人とも悪漢のために殺されると考えずにはいられないマルグリットのおくびょうな心を司祭は知っていたのである。
司祭は水夫に銅貨を二、三枚握らせ、男は帰って行った。それから、昔の社交界の人間としての身だしなみの習慣を失っていないので、――「ちょっと顔と手を洗ってくるぞ」と言い捨てて行こうとすると、マルグリットが庖丁《ほうちょう》でルゥの背中を逆にこそぎながら、少し血のついたうろこを小さな銀貨のようにはがしている台所から、いきなり大きな声でこう呼んだ。
「ほら、あそこへ来ましたよ!」
アベは往来のほうに向き直った。そして実際一人の男の姿を認めた。遠くから見てもひどく見すぼらしい服装をしているのがわかった。この家のほうにむかって、小刻みの足どりで歩いて来るのだった。司祭はその男の近づくのを待った。女中のこわがりようをまだおかしく思いながら、こう考えた。「まったく、あれの言うとおりだぞ。まったくマウーファタンらしい様子をしている」
見知らぬ男は、両手をポケットに突っ込み、司祭のほうをじっと見つめながら、別に急ぎもせずに近づいて来た。若い男だった。頬ひげがブロンドで縮れていた。髪の束がくちゃくちゃのフェルト帽の下からはみだして、いくつも輪をつくりながらうずまいていた。帽子のきたなさと形のくずれかげんは言語道断で、だれもその最初の時の色と形を当てることはできかねるしろものだった。栗色の長い外套《がいとう》を着ていた。ズボンのすそがぼろぼろに切れて、くるぶしのまわりにのこぎりの歯のようになってたれていた。スペイン靴をはいていたが、それがその男の歩きぶりを、盗むような、音をたてない、不安げなものにしていた。人にさとられない浮浪者の歩き方だった。
坊さんのいるところまであと五、六歩というところまで来たとき、その男はとにかく額をかくしていた例のぼろを取りはずした。その帽子の脱ぎ方は少し芝居がかった身ぶりだった。そうして生気のうせた、放逸《ほういつ》のあげくの疲れの見える、そのくせちょっとかっこうのいい頭を見せた。てっぺんがはげていた。働き疲れたか、それとも年より早い放蕩《ほうとう》のしるしだった。というのは、この男は確かに二十五歳以上にはなっていなかったからである。
司祭も、すぐ帽子を脱いだ。これはあたりまえの浮浪人ではないということが≪かん≫でわかった。失業労働者とか、ないしは監獄と監獄のあいだを彷徨《ほうこう》する前科者、徒刑場の隠語だけしか話せなくなっているような前科者、そういうものではないと感じた。
「こんにちは、司祭さま」と、その男が口を切った。司祭はただ「ごあいさつ申す」と答えただけだった。このぼろをまとった怪しげな通行人を「ムシュ」と呼ぶことははばかられた。二人はじっと眼を見合った。アベ・ヴィルボワは、この浮浪者の視線にあって、怪しい心の乱れを覚えた。見知らぬ敵と直面したときのような感動だった。肉や血の中へ戦慄《せんりつ》となって忍び込む、例の不思議な不安の一つに襲われた。
しまいに、浮浪人がふたたび言葉を継いだ。
「いかがです! 私に見覚えがありますか?」
司祭は、激しい驚きを感じながら、答えた。
「私が見覚え? とんでもない。私はあんたを知ってはおらん」
「そうですか! 私を知らんとおっしゃいますか。もっとよく見て下さい」
「いくら見てもだめだ。前にあんたを見たことは一度もない」
「そりゃそうでしょう」と、相手が引き取った。皮肉な声だった。「ですがね、あなたがもっとよく知っていらっしゃる人を今、お目にかけますよ」
彼はふたたび帽子をかぶり、外套のボタンをはずした。外套の下は胸がむきだしだった。やせた下腹に巻きつけた赤い革帯が、腰の上にズボンをつなぎ止めていた。
若者はかくしの中から一枚の封筒を取り出した。例のとうてい封筒とは思えないしろもの、ありとあらゆるしみが大理石模様を作っている封筒、浮浪者の内ふところの中で、なにかの書類を、ほんとのものもあればにせのもあり、盗んだのもあれば正当なのもある、そういう憲兵に出会った場合に放免にありつかせてくれる貴重な弁護人である書類をいれておく封筒の一通だった。その中から写真を一枚取り出した。葉書型の写真だった。昔はよくひとが作らせたもので、黄色くやけ、くしゃくしゃになり、長いあいだ方々を持ちまわったものらしく、この男の肌《はだ》で暖められ、その熱で色があせていた。
それから、自分の顔と並べるように持ち直しながら、こうきいた。
「これなら、ごぞんじですか?」
司祭はもっとよく見るために二歩進み出た。そうしてまっさおになったまま息をのんだ。かっとあたりが真暗になった気持だった。それはほかならぬ自分の写真だった。「あの女」のために、恋に目のくらんでいた遠い昔の時代につくらせたものだった。
司祭は返事をしなかった。事情がのみこめなかったのである。
浮浪人は促すようにまたこう言った。
「見覚えがおありですか、これなら?」
司祭はどもるようにこう言った。
「むろん」
「だれです?」
「私だ」
「確かにあなたですか?」
「むろんだ」
「よろしい! それならこの二人をながめて下さい。あなたの写真とこの私とを」
司祭は言われなくても、もう見ていた。このみじめな男は、この二人の男が、写真の男とそのそばで笑っている男とが、兄弟のようによく似ていることを見て取っていた。だが彼にはまだのみこめなかった。どもりながらこう言った。
「とにかく、なにが望みなのかね?」
すると、浮浪人は、意地悪げな声で、
「なにが望みかって、とにかくまず私を認めて下さることが望みですよ」
「君はいったいだれだ?」
「私がだれだって? 往来を通っているだれでもかまわないから捉《つかま》えてきいてごらんになるといいですよ。いや、女中にきいてごらんなさい。なんならここの村長さんの所へ行ってきいてもらってもいいですよ。これを見せてね。大きな声で笑うでしょうよ。私が保証しておきますよ。ふふん! あなたは私があなたの息子だということを認めようとしないのですかね、え、司祭のお父さん?」
すると老人は、聖書に出てくるような絶望的な身ぶりで、両腕を高くさし上げたと思うと、うめくようにこう言った。
「それはうそだ」
若者は、顔と顔を突き合わせるように、ぐっとそばへ寄って来た。
「ふふん、それはうそだ、か。いいですかい! アベ、うそをつくのはやめなくちゃいけませんよ、わかりましたか?」
恐ろしい形相をつくり、拳《こぶし》はしっかり握りしめられていた。あまりに激しい確信ぶりで物を言っているので、司祭はしだいにあとすざりをしながら、いま二人のうちどちらが間違っているのだろうかと、自分に問いかけないわけにはいかなかった。
だが、もう一度、彼はきっぱりとこう言った。
「私は子供をもったことはない」
相手ははねかえすようにこう言った。
「情婦をもったこともないのでしょうね、たぶん?」
老人は、決然とたったひと言こう言った。昂然《こうぜん》たる告白だった。
「ある」
「では、その情婦はあなたが追い出したとき身重《みおも》ではなかったですかね?」
とつぜん、遠い昔の怒りが、二十五年前に押し殺した怒り、いや押し殺したのではない、男の胸の底に塗りこめてあった怒りが、信仰と、覚悟をきめた神への献身の生活と、すべてのものをあきらめきった気持との天井《てんじょう》を、塗りこめた怒りの上に彼が建てた天井を、打ちくだいた。われを忘れて彼は叫んだ。
「あの女を追い出したのは、あの女が私をだましたからだ。別の男の子供をみごもっていたからだ、さもなければ、殺していたところだ。いいか、おまえさんもあの女といっしょに」
今度は若者のほうが、司祭の真剣な憤激にどぎもをぬかれて、ためらった。それから前よりはやわらかくこう言い返した。
「だれがそう言いました。ほかの男の子だということを?」
「むろんあの女だ。あの女が自分で言ったのだ。私にくってかかりながら」
すると、浮浪人は、この断定に異議を申し立てようとはせず、事件をさばくならず者の無関心な調子でこう結論した。
「そんなら! おふくろがあなたに突っかかって行ったときに間違って言ったんですよ。それだけの話さ」
夢中の怒りを発散させたあとで、アベもやはり少しはおちつきを取りもどし、今度は自分のほうからこうきいた。
「だれが言ったかね、おまえさんにむかって、おまえさんが私の息子だということを?」
「おふくろです。死にぎわにね、司祭さま……それにこれがありますよ!」
こう言いながら、司祭の眼の前へ、例の小さな写真をつきだした。
老人はそれを手に取った。それからゆっくり、長いこと、あえぐような不安に胸をつき上げられながら、この見知らぬ通行人と昔の自分の肖像を見比べた。もはや疑えなかった。確かにそれは自分の息子だった。
暗澹《あんたん》たる絶望が彼の魂をひっつかんだ。とうてい言葉に言い現わせない恐ろしい苦痛を伴う感動だった。昔犯した罪の古傷がうずきだすのに似ていた。いくらかわかってきた。あとは推察がついた。女との別れのときの荒々しい光景がふたたび眼底にありありと浮んだ。自分の命を救うためだったのだ。侮辱された男の怒りの前に危くなった自分の命を。あの女が、うそつきの裏切りの雌がこのうそを投げつけたのは。
そしてこのうそはみごとに成功したのだ。それからこの自分の血を分けた子供が生れたのだ。大きくなり、この汚らわしい、街道をうろつき歩く男になったのだ。雄山羊《おやぎ》がけだものの匂いを放つように悪行の匂いのする、この浮浪人になったのだ。
司祭はささやくようにこう言った。
「お互にもっとよく説明するために、少し私といっしょに歩いてくれないか?」
相手はあざけるような笑い声をたてた。
「むろん、歩きますよ! そのためにはるばるやって来たんですからね」
二人は並んでオリーブ畑の中をいっしょにむこうへ歩いた。太陽は落ちてしまっていた。南国のたそがれのひややかな涼気が、野原一面に目に見えぬ冷たいマントをひろげていた。アベはからだが震えていた。神に仕える者のいつものしぐさで、ふと眼をあげると、あたり一面に、空を背景に細かく震えながら、あの神聖な樹の灰色がかった小さな葉が、そのか弱い木陰に世界でいちばん大きな苦悩、キリストの心のたった一度のくずおれをかくしたことのある、あの神聖な樹の葉がひろがっているのが映った。
祈りが胸の底からほとばしった。短い絶望的な祈りだった。決して唇には浮んでこない内なる声、信者が救世主に救いを求める声の押し包まれた祈りだった。「神よ、救いたまえ」
それから息子のほうをふりむいてこう言った。
「では、おまえのおっかさんは死んだのか?」
「おまえのおっかさんは死んだのか」というこれだけの言葉を口にすると同時に、新たな苦しみが彼の身内に目ざめ、彼の胸を締めつけた。決して忘れ切ってしまうということのない人間の肉体のふしぎなみじめさだった。彼のかつて受けた死の苦しみの残酷な反響だった。いやおそらくはそれ以上のものだった。女は既に死んでいるのだから。あの青年時代の無我夢中の短かった幸福を思い出しての戦慄だった。今では思い出の傷口のほかにはなにも残っていない幸福の。
若者は答えた。
「そうです、司祭さま、母親は死にました」
「もうずっと前にか?」
「そうです。もう三年になります」
新たな疑いが司祭の胸の中にひろがった。
「ではどうしてもっと早く私に会いに来なかったのだ?」
相手はためらった。
「できなかったのです。いろいろ故障があって……ですが、すみませんが、この打明け話はちょっと中止させて下さい。あとでいたします。いくらでも詳しく申しますよ。じつは昨日の朝からまだなにも食べていないんで」
大波のような憐憫《れんびん》の情がこみ上げてきて、老人の全身を揺り動かした。いきなり、両手をさしのべたと思うと、
「そうだったか! かわいそうに」と言った。
若者はそのさしのべられた大きな手を受けとめた。それは彼の指を、ずっと細い、生温い、熱に震えている指を包んでくれた。
それから、例のこの男の唇からついぞ消えることのないほら吹きめいた調子で、こう答えた。
「やっぱりね! まったくだよ、やっぱり話合えばわかるという気がしてきたよ」
司祭は歩きだした。
「それじゃ飯にしよう」
彼はとつぜん、本能的な小さな喜びとともに、それは混沌《こんとん》とした変な気持のする喜びだったが、自分のつってきたみごとな魚のことを思い浮べた。それは、牝鶏《とり》の米|煮《た》きと合わせれば、今日、このかわいそうな子供にとってなによりのごちそうになるだろう。
アルル生れの女中は、心配をして早くも怒鳴《どな》りだしそうな気勢を見せながら、戸口の前で待っていた。
「マルグリット」と、アベが叫んだ。「食卓を片づけて部屋の中へ持ってはいってくれ。大急ぎ、大急ぎだ。皿を二人前並べてくれ。いいか大急ぎだぞ」
女中はもう気もそぞろに立ちすくんでいた。主人が、この悪漢といっしょに食事をするとは!
すると、アベ・ヴィルボワは、自分で手を下して皿を運び、一階のたった一つしかない部屋に、自分のために準備された食卓を移しにかかった。
五分の後、司祭は、浮浪人と向き合って、キャベツのスープをみたしたスープ鍋《なべ》を前にすわっていた。二人の顔のあいだに、鍋から熱い湯気が小さな雲になって立ち昇った。
三
皿になみなみとスープが注がれると、浮浪人はせわしくさじを動かしながら、がつがつ食べ始めた。アベはもう食べる気がなくなっていた。彼はただ甘味のあるキャベツのスープをゆっくりすすっていた。パンは皿の底に残ったままだった。
とつぜん彼はこうきいた。
「なんという名かね?」
男は笑った。飢えをみたすのが満足だった。
「父《てて》なし子ですからね、母親の名前のほかに苗字《みょうじ》はありませんよ。これはたぶんまだお忘れではありますまい。そのかわり名前のほうは二つあります。ついでながら、あまり似合わない名前でね。『フィリップ・オーギュスト』と言うんです」
アベはさっとあおざめてのどをつまらせながらききかえした。
「なぜそんな名前をつけたのだ?」
浮浪人は肩をそびやかした。
「おわかりのはずですがね。あなたと別れてから、おふくろはあなたの恋敵《こいがたき》に私がその男の子だということを信じさせようとしたのです。その男も私が十五になるまではおおかた信じていました。けれども、この時から、私はあまりにもあなたに似てきたのです。そこで私の認知を取り消したのです。その畜生が。だからそいつの二つの名前、フィリップ・オーギュストをもっているわけです。私が運よくだれにも似ていないか、それともただだれか三番目のやつ、名乗り出て来ない三番目の男の子供だったら、今ごろはフィリップ・オーギュスト・ド・プラヴァロン子爵と名乗っているところですよ。同名の伯爵、上院議員の彼に認知された息子としてね。私はね、自分で自分にこういう名前をつけてやりましたよ。〈運無し〉とね」
「どうして、そういうことがわかっているのだ?」
「私の前で言い合いが行われたからですよ。どうもこうもない。猛烈な言い合いがね。ふん! これですよ! これが世の中を教えてくれるんでさ」
彼が一時間前から感じ、堪え忍んだすべてよりもっと胸を締めつけるなにかが司祭を押しつぶした。一種の呼吸困難が始まった形だった。それがやがて大きくなり、ついには自分を殺してしまうような気がした。しかもそれは司祭の聞いた数々の事柄からくるのではなく、それを言うときの男の物の言い方、力をこめて言うときの、ならず者の自堕落《じだらく》な顔つきを見ることからきているものだった。この男と自分とのあいだに、自分の息子と自分のあいだに、司祭は今、あの道徳的汚辱の汚水溜《おすいだめ》を感じていた。これはある種の魂の持主にとって命取りの毒に等しい。これが、この男が、自分の息子なのであろうか? 司祭はまだ信じることができなかった。すべての証拠が欲しかった。ひとつ残らず、すべてが知りたく、すべてが聞きたかった。すべてを聞き、すべてをがまんしたかった。彼はもう一度自分の小さなバスチッドをとりまいているオリーブの樹を思った。そうしてこれで二度「おお! 神よ、救いたまえ」と口の中で言った。
フィリップ・オーギュストはスープを食べおわっていた。彼はこうきいた。
「もうほかに食えないんですか、アベ」
台所は家の外に、附属した建物の中にあって司祭の声がマルグリットに聞えないので、彼は自分の背後の壁のそばにかけてあるシナの銅鑼《どら》を二つ三つたたいて用のあることを知らせるのだった。
そこで彼は革で作ったつちを取り上げ、その金属製の丸い盤を幾度もたたいた。はじめ、弱い音が飛び出した。それから大きくなり、調子がつき、震え、鋭くなり、ますます鋭くなり、つんざくような音になった。たたかれている銅の恐ろしい悲鳴だった。
女中が姿を見せた。顔を引きつらせ、怒りに燃えた視線を「マウーファタン」の上に注いでいた。忠犬の本能で、主人の上に襲いかかっている悲劇を予感しているかのようだった。両手に焼いたルゥを捧げていたが、溶けたバタのうまそうな匂いが立ち昇っていた。アベはさじを手に、魚を頭からしっぽまで縦にさき、背中の肉のほうをその青年時代の子供にすすめた。
「さっき私がつってきたのだ」まっくらな絶望の中にまだかすかに残っている得意さのなごりを顔に浮べて、彼はこう言った。
マルグリットはむこうへ行こうとしなかった。
司祭が言葉をつづけた。
「ぶどう酒を持ってきてくれ。上等のを。カップ・コルスの白がいい」
女中はほとんど反抗的な身ぶりをして見せた。司祭はきつい顔をつくって、こうくりかえさなければならなかった。「さっさとしろ。びんを二本持ってくるのだ」
ほかでもない、彼はだれかに酒を出すとき、そんな気になることはめったになかったが、彼はいつでも自分の分にひとびん持ってこさせるのだった。
フィリップ・オーギュストははればれと顔を輝かせて、こうつぶやいた。
「ありがたい。すてきな考えだ。こんなのずいぶん久しぶりだな」
女中は二分ほどで引き返してきた。アベはその二分を一分が永遠一つほどに長く思った。ほかでもない、知りたいという欲望がいま彼の血を燃えあがらせ、地獄の火のように苦しめるのだった。
びんの栓《せん》が抜かれたが、女中は、男にじっと眼を注いだままそこに立っていた。
「むこうへ行ってくれ」と司祭が言った。
女中は聞えないふりをしていた。
司祭はほとんど荒々しく聞えるほどにこうつづけて言った。
「私たちだけにして置いてくれと言いつけたではないか」
それを聞くと女中は立ち去った。
フィリップ・オーギュストはがつがつしながら急いで魚を食べた。父親はそれをながめていた。自分にこれほどよく似ているこの顔の上に発見する卑しさのすべてに、ますます驚きの念を激しくされ、絶望的な気持にしずみながら。
アベ・ヴィルボワが小さく切って口へもっていくごちそうはいつまでも口の中に残っていた。のどがつまって通らなかったのである。長いこと口の中でかんでいた。頭に浮んでくるすべての質問の中で、いちばん早く答を聞きたいのをあれこれとさがしながら。
とうとうささやくようにこうきいた。
「なんで死んだのかね?」
「胸です」
「長く病んでいたのか?」
「十八ヵ月、かれこれそのくらいでしょう」
「どうしてそんな病気になったのかね?」
「知りません」
二人は沈黙した。アベは考えに沈んでいた。あまりにもたくさんのことが、本来ならばもっと早く知りたいという気をおこしたはずのことが押しつぶすように彼の胸に押し寄せてきていた。ほかでもない。あの別れた日以来、危うくあの女を殺そうとした日以来、彼は女についてはなんにも聞いていなかった。むろん、知ろうとしなかったことも確かである。彼は決然と忘却のみぞの中へ投げこんだのだから。女と、それからあの幸福だった日のことを。だが今とつぜん、女が死んでしまった今日、知りたいという激しい欲望が、身内に生れてきたのを彼は感じていた。嫉妬的な気持さえ混っている欲望、ほとんど恋する男の欲望だった。
彼は言葉をつづけた。
「一人でいたんではないだろうな?」
「そうです。いつでもあの男といっしょに暮していました」
老人は戦慄《せんりつ》を覚えた。
「あの男と! プラヴァロンとか?」
「むろんです」
これを聞くとむかし裏切られた男は、自分をあざむいたこの同じ女が自分の恋敵といっしょに三十年以上も同棲《どうせい》していたのだということを胸の中で数えた。
ほとんどわれにもあらず、口の中でこう言ってしまった。
「二人はいっしょにいて幸福だったか?」
あざけるように笑いながら、若者は答えた。
「むろんですよ。潮の高低《たかひく》はありますがね! 私というものがなければ大いによかったでしょうよ。いつでも全部だいなしにしてしまったのです、この私が」
「どうして、なぜだ?」と、司祭が言った。
「もう話したじゃありませんか。私が十五ぐらいになるまでは私を自分の息子だと信じていたからです。だが、あの男もばかじゃなかったのです。あのおいぼれもね。似ていることをだれにも教えられずに見つけたのです。それから大変な場面がありましたよ。私は戸の陰で聞いていたのです。あいつはだましたと言っておふくろを責めました。おふくろもやりかえしました。『それが私の罪ですか? あんたはちゃんと知っていたじゃないか。私を自分のものにした時、私が別の男の女だったということを』別の男というのはあなたのことです」
「そうか! じゃ二人は時どき私のことを話していたのだな?」
「そうです。しかし私の前では一度もあなたの名を名|指《ざ》ししたことはありません。最後の時、いちばん最後の時は別ですが。おふくろがもうだめだと感じた最後の日には言ってしまったのです。それでもやっぱり、用心していたんですね」
「それからおまえは……おまえは早くから母親が日陰の身だということを知っていたのかね?」
「冗談じゃない! 私は世間知らずじゃありませんよ。ばかにしちゃいけない。一度だって世間知らずだったことはありませんよ。そういうことはね、世間を知り始めるとすぐに自然にわかるもんですよ」
フィリップ・オーギュストは手酌《てじゃく》でぐいぐい飲んだ。眼がきらきら輝きだした。長く飲まず食わずにいたために、急に酔いがまわったのだった。
司祭はそれに気がつき、もう少しで止めようとした。それからふと、酔えば用心がゆるみ饒舌《じょうぜつ》になるという考えが彼の頭をかすめた。そこで、びんを取り上げて、新しく若者のコップについでやった。
マルグリットが牝鶏《とり》の米|煮《た》きを持ってきていた。それを食卓の上に置くと、改めて浮浪人の上にじっと眼を注いだ。それから怒ったような調子で主人にむかってこう言った。
「まあちょっとごらんなさいまし、あんなに酔っぱらってさ、司祭さま」
「静かにさせておけと言ったらおけ。それからあっちへ行ってくれ」
女中は戸をばたんと閉めながら出て行った。
司祭はきいた。
「私のことをなんと言っていたかね、おまえのおっかさんは?」
「なんと言ったところで、逃した男についてふつう言うようなことを言ってましたよ。扱いいい人ではないとか、女にとってはうるさ型とか、いつでもいっしょにいたらあなた流の考えで連れ添うのが骨だったろうとかね」
「たびたびそんなことを言ったのか?」
「そうですよ。時どきはぼかした言葉を使ってね。私にはわからないようにと思ってそうするのだが、私はいっさい察していましたよ」
「それからおまえを、その家ではおまえをどんなふうに扱ったかね?」
「私をですか? そりゃ初めは非常によかったですよ。それからあとでひどくやられた。私がおふくろのもくろみをだいなしにしてしまったのを見て取ると、あっさり追い出しやがったんで」
「どうして?」
「どうしてって! わけはないことですよ。私が十六の時分にちょっと若気のあやまちをしでかしたんですよ。するとあの畜生ども二人が、私を感化院へぶちこんだのです。私を片づけるためにね」
若者は食卓にひじをつき、両手で頬をささえた。すっかり酔っぱらい、頭が酒の中に沈没して。とつぜん、自分についてしゃべりたいという押さえがたい欲望、酔っぱらいにとんでもないだぼらを吹かせる、あの押えがたい欲望の一つにこの男はとらえられた。
のみならず彼はにこにこ笑っていた。唇に女のような柔和さを浮べながら。司祭には見覚えのある恐ろしい邪悪さを包んだ柔和さだった。見覚えがあるばかりではなかった。彼はそれをまざまざと感じた。憎い、しかし愛撫で包んでくるこの柔和さを。かつて彼をとりこにし彼を破滅させたこの魅力を。いま子供がいちばん生き写しに見えるのは母親だった。眼鼻だちからではなく、人の心を捕えずにはおかない偽りの視線と、それからなによりもうそつきの嬌笑《きょうしょう》の魅力、内なるすべての汚辱にたいして口を開いているかのように見える偽りの微笑の魅力の点で、生き写しだった。
フィリップ・オーギュストは話を始めた。
「はっ、はっは! 私はね、感化院以来、じつに変った生活をしてきましたよ。大小説家なら高い金を出してネタに買ってくれるかも知れない。まったくのことでさ、大デュマが、『モンテ・クリスト』を書いたって、私の身の上に起った以上の風変わりなことは見つけられなかったんですからね」
若者は口をつぐんだ。なにか考えようとする酔った男のもったいぶった重々しさで。それからまた、ゆっくり話をつづけた。
「子供がよくなってくれるようにと願うなら、決して感化院になんか入れるもんじゃありませんね。あの中で覚えることが恐ろしいです。たとえどんなことをしたにしたところでね。私のは、愉快ないたずらをしただけなんだが、それがとんでもないことになっちまったんでさ。三人の仲間といっしょに、四人とも少しほろ酔いぎみでしたがね。
ある晩、九時ごろ、フォラックの渡し場の近くの街道をぶらぶらしていると、いきなり一台の馬車に出会ったんですが、中ではみんな眠っているんです。御者《ぎょしゃ》台に乗っている男もその家族の者も。町で夕飯をたべてこれからうちへ帰るマルチノンの連中だったのです。私は馬のくつわを取って渡し舟に乗せ、渡し舟を河のまんなかへ押し出してやったのです。それで音がしたもんだから、手綱を握っていたブルジョワのやつめ目をさましちまって、なにも見えないもんだから、むちを当てやがったのさ。馬のやつが飛びあがって馬車もろとも水煙をあげて飛び込んだという寸法でね。みんなおぼれちまいやがったんで! 仲間が私のことを訴えやがったんで。初めは私のいたずらを見てさんざん笑っていやがったくせに。まったく、そんな悪いことになろうとは考えてはいなかったんですよ。ただちょいと水漬けが見たかったんで、ほんの冗談にね。
それ以来、もっとひどいことを幾つもしてやりましたよ。初めのときのしかえしのつもりでね。これは誓って、感化院ほどのことはないんですからね。だがそんなのはお話するほどのことではありませんよ。たった一つ、いちばんおしまいのだけを申しあげましょう。こいつはお気に入るでしょうからね。こいつだけはあなたの仇《あだ》を取ってやったんですよ、おとうさん」
アベはおびえたような眼で自分の息子をじっと見つめていた。もう食べるほうは全くやめていた。
フィリップ・オーギュストはふたたび話し初めようとした。
「待ってくれ」と、司祭が言った。「今はいけない。あとにしてくれ」
うしろをふりむき、かん高い音を立てるシナのサンバルをたたいて鳴らした。
マルグリットがすぐはいってきた。
主人は命令を伝えた。その声があまりに激しかったので、女中はおびえ、素直になり、頭をたれた。
「ランプを持ってきてくれ。それからまだ食卓に出せるものを全部持ってこい。それをしたら、もう銅鑼《どら》を鳴らさないかぎり出てくるな」
女中は出て行き、また引き返してきて、テーブル・クロースの上に緑色の笠をかぶせた白い陶製のランプをのせ、大きなチーズの切れと果物を並べ、それからさがった。
するとアベは決然とこう言った。
「さあ、聞こう」
フィリップ・オーギュストはおちつきはらってデザートの皿とぶどう酒のコップをみたした。司祭は手を触れなかったにもかかわらず、二番目のびんもほとんどからだった。
若者は、食べ物を頬ばっているのと酔っているので口が動かず、どもりながら、ふたたび話をつづけた。
「いちばんしまいのことというのは、こうなんですよ。なかなかすごいやつでさ。私は家へ帰っていきました、……あいつら二人のおもわくにはかまわずがんばってやったんで。なにしろ二人は私をこわがっているのです……私をこわがってね……あたりまえでさ! 私に乙なまねをすりゃ罰が当りまさ、この私はね……乙なまねをされるとなんでもやりかねないたちでね……ごぞんじの筋だが……二人はいっしょに暮していたりいなかったり。男は住居を二つ持っていたのでさ、あいつはね。上院議員の住居と色男の住居をね。しかし家よりはおふくろの所によけいいましたよ。あの女がなくちゃすまされなかったんですよ。まったくだて!……なかなかどうしてすごいもんだ、たいしたもんだよ……おふくろは……男を逃がさない術をちゃんと知っていたんだからね。あれは! あいつの身も魂もしっかりつかんで、終りまで離さなかったんだからね。ばかなもんさ、男なんて!
さてと、私は家へ帰っていましたが、おどしの一手でやつらを制御していたんです。すばしこいほうなんで、この私は、必要とあればね。それに悪知恵でも策でも、それにまた腕っぷしにかけたって、こわいやつはいないんでさ。ところでおふくろが病気になる。男の野郎はムーランの近くのりっぱな所有地に森ほどもある大きな荘園の真中におふくろを移したのです。それがかれこれ十八ヵ月も続きました。……さっき言ったとおりです。そのうちにこれは最後が近いと感じるようになりました。やつは毎日パリからやってきました。悲しがっていましたよ。これだけはまったく、心からね。
さて、ある朝、二人はいっしょに一時間近くもこそこそしゃべっていました。なにをそんなに長くべちゃくちゃ言うことがあるんだと思っているところへ、私を呼びに来たのです。おふくろは私にこう言うのです。
『私はもうすぐに死ぬ。一つお前に打ち明けておきたいことがある。伯爵の意見は反対だけれどね』――おふくろはいつでも、あいつのことを話すときには『伯爵』と呼んでいました。
『じつはまだ生きているおまえのお父さんの名前のことだよ』と、こう言うのです。
私はそれまでに百ぺん以上もそのことをおふくろにたずねていたのです……百ぺん以上もですよ……自分の父親の名前をね……百ぺん以上も……いつだってそれを言うことをおふくろは拒《こば》んでいたのでした。……確か覚えていますが、ある日なんか、唇を開かせようと思って横っ面《つら》を張ってやったくらいですよ。しかしそれでもだめでした。それからうるさい私をまくために、あなたがびた一文残さず死んでしまったと言ったのです。たいした男じゃない、自分の若気のあやまちだ、おぼこ娘のしくじりだ、というようなことを言ったのです。あまり話がうまいもんだから、つい、いやまったくまんまと、あなたが死んだものと思いこまされちまったほどです。
さて、おふくろはこう言うのです。
『おまえのお父さんの名前のことだがね』
あいつは、肘掛椅子《ひじかけいす》に腰をかけていましたが、こんなふうに、三度続けて反対をしたのです。
『いけないよ、いけない、いけない、ロゼット』
おふくろは寝床の上にすわりました。今でも目に見えますよ。頬骨のところが赤く血の気がさして目がきらきら輝いていた様子が。なんといったって私をかわいがっていてくれましたからね。おふくろは男にむかってこう言いました。『ではこれのためになにかしてやって下さい、フィリップ!』
男にむかって話すときは『フィリップ』と呼び、私のことは『オーギュスト』と言うのです。
男は気違いのようにどなりだしました。
『こんな極道者《ごくどうもの》のために、なにをするものか。こんなやくざ者、前科者、こんな……こんな……こんな……』
それから私のためにいろいろな名前を、まるで生涯そればかり探していたように、たくさん見つけやがったのです。
私は腹をたてようとしました。おふくろが私を黙らせました。それから男にむかってこう言いました。
『ではこれが飢え死するのを望んでいらっしゃるのです。だって私はなにも持っていませんもの。私は』
男はひるまず言い返しました。
『ロゼット、私はおまえに年三万五千フランずつやっている。三十年以来のことだ。それだけで百万フラン以上になっている。私のおかげでおまえは金に不自由のない女として、かわいがられている女として、いやはっきり言うが、しあわせな女として生きてこられたのだ。この無頼漢に私からなんの負い目もない。二人の最後の幾年かをだいなしにしたこんなやつに、私からはなにひとつやらない。これ以上言ってもむだだ。言いたかったらあいつの名前を言うがいい。私は残念だ。だが私はもう手を引く』
すると、おふくろは私のほうに向き直りました。私は心の中にこう思っていました。『しめた……これでほんとのおやじが見つかったぞ、……ぽっぽの暖かいおやじなら、おれは助かる……』
おふくろはつづけました。
『おまえのお父さんは、ヴィルボワ男爵、今ではアベ・ヴィルボワと呼ばれています。ツーロンの近くのガランドゥの司祭です。私のいい人だったのだけれど、この人のために私から捨てたのです』
と、勢いづいて全部話してくれました。ただ妊娠のことであなたをだましたことだけは口をぬぐっていました。ですが女なんてものはね。まったくのところ、決してほんとのことを言いませんよ」
若者はあざけるような笑いを響かせた。無意識に、心の底にたまっている泥をすっかりいい気持に吐かせながら。なおも続けて飲んだ。それから顔だけは相変らず陽気に輝かせながら、つづけた。
「おふくろは死にました。二日……二日後に。二人で墓までひつぎを送って行きましたよ。あいつと私が……変なもんでさ、ねえ……あいつと私ですからね……それに召使が三人……それだけです。男はおんおん泣いていましたよ……二人は並んでいましたがね……どう見たっておやじとおやじの息子というところですよ。
それから家へ引き返して来ました。二人だけでね。私は心にこう思っていました。『一文なしで、ずらかるてって術《て》があるか』とね。ちょうど五十フラン持っていました。どうしたらしかえしをしてやれるかってことですがね。
野郎が私の腕をつかんで、こう言うのです。
『話がある』
書斎へついて行きました。机の前にすわったと思うと、涙に言葉をとぎらせながら、私にむかってなにを言うかと思うと、おふくろに言ったほど私にたいしてひどいしうちをしたくないと言うのです。私にむかってあなたを苦しめてくれるな、と言うのです。……『これは……私たち二人のことですからね、あなたと私との……』あいつは私に千フランの札を一枚出してくれました。……千……千ですよ……千フランぽっちで私になにができるというのです。私が……私のような人間がね。引出しの中にはほかにもっとあることを私は見て取りました。ほんとの札束がね。その札束を見ると、急にむらむらっとなってやっつけてやりたくなったのですよ。あいつのくれようとしているのを取ろうとして手を延ばしました。しかしあいつの施しを受ける代りに、おどりかかって、あいつを床にたたきつけてやったのです。あいつが目をまわすまでのどをしめてやったのです。それから、半死半生になったと見てとったとき、さるぐつわをはめ、がんじがらめに縛って、着物を脱がせ、ころがしてやりました、それから……はっ! はっ! はっ!……みごとにあなたのあだを取ってやったんですよ」
フィリップ・オーギュストは、歓喜にのどがつまって、せきこんだ。相変わらず凶悪な陽気な影を浮べて少しそりかえっている唇の上に、アベ・ヴィルボワは自分に正気を失わせた女の昔の微笑を再び見いだしていた。
「それから?」と司祭は促した。
「それから! はっ! はっ! は!……暖炉の中に威勢よく火が燃えていたんですよ……十二月でしたからね……ひどい寒さで……その寒さで死んだんだ……おふくろは……威勢のいい石炭の火でさ……私は火かきを取り上げてね……真赤に焼いたんでさ……それから……野郎の背中に十字を描いてやったんで……八つだったか、十だったか、数は忘れたがたくさんにね。それからぐるりとひっくり返して腹のほうへも同じほどつけてやったんでさ。いい思いつきじゃねえか、え、おやじさん! 昔はそうやって懲役人にしるしをつけたんだからね、うなぎみたいにからだをくねらせてもがきゃがったよ、……しかしじゅうぶんにさるぐつわがはめてあるからね、声はたてられないのさ。それから、札をつかんでやった――十二枚――さっきのやつと合せて十三枚だ……もっともこれで目は出なかったがね。それから下男どもに伯爵は眠っていらっしゃるから食事の時間まで起すなと言っておいて逃げだしてやったんでさ。
なにしろ上院議員の肩書があるから、醜聞を恐れて、なんにも言わないだろうと思ったんですがね。それが思い違いでね。四日後にパリのあるレストランにいるところをあげられちまったんで。三年の懲役でさ。そのためにもっと早くまいれなかったようなわけですよ」
彼はまた飲んだ。それからかろうじて言葉に聞えるほどの早口で。
「さて……おやじさん……司祭のおやじさんか!……司祭をおやじに持つなんて乙なもんさね! はっは! ぼんちにはやさしくしてやらなくちゃいけねえ、たんとやさしくね。ぼんちはただのぼんちじゃねえんだからな……それにりっぱな……そうじゃねえか……りっぱなしかえしをおいぼれに」
裏切った情婦の前で、昔アベ・ヴィルボワを狂気のようにさせた同じ怒りが、今またこの畜生にも劣る男を前にして彼をつき上げた。
懺悔聴聞室《ざんげちょうもんしつ》の神秘な世界でささやかれる数々の秘密の醜行を、神の名によって、何度も許してきた彼は今、自分自身の名において、情もなく、容赦もない自分を感じていた。彼は今ははや自分の助けにあの救い給い慈悲を垂れ給う神を呼ばなかった。天の助けであろうと地の助けであろうと、いかなる庇護《ひご》も、この世において、こうした不幸の落ちかかってきた者を救うことはできないとさとったのである。
僧職という境涯によってしずめられていた激しやすい心と荒々しい血の激しさがことごとく、押えがたい激怒となって目ざめた。自分の息子であるこの浅ましい男にたいして、この自分との相似にむかって、それからまた母親との相似、あの不肖の母親、自分に似せてこいつを身ごもったあの母親、それからまたこの無頼漢を父親の足元に徒刑囚の足に結びつけられた鉄の球のようにしっかりと結びつけている宿命にたいして。
彼は見た。とつぜんの明察ですっかり見抜いた。この激動のために二十五年の信仰深い眠りと静寂から目ざめたのだった。
この悪者からなめられないためには強い口をきかなければならない、最初の一撃から縮みあがらせなければならないということをとっさに確信して、司祭は、憤激に歯を食いしばりながら、もはや自分の夢中の考えのことしか頭になく、相手にむかってこう言った。
「全部話すことを話したんだから、今度は私のいうことを聞け。いいか、明日の朝ここを立つのだ。私の指定する土地に住むのだ。そうして私の命令があるまでは一歩もその土地を離れてはならん。下宿代は払ってやる。生きていくにはじゅうぶんだ。だがわずかだぞ。私には金はない。一度でも言いつけにそむけばもうおしまいだぞ。おれはただでは置かんぞ」
酒のために頭がばかになっていたとはいえ、フィリップ・オーギュストはそれがおどかしだということがわかり、彼の中に住んでいる犯罪者がとつぜん前におどり出た。酒のおくびといっしょにこういう言葉を吐き出した。
「いけねえよ! とうさん、それを私に使う手はないや……おまえさんは司祭だからね……動きはとれねえはずだよ……おとなしくするこったね。ほかのやつらとおんなじく!」
アベは飛びあがった。老エルキュールの筋肉の中に、この畜生をひっ捕えて、棒切れを折るように折り曲げてやりたい、いやでも頭を下げなければならぬぞということを見せてやりたいという押えがたい欲望がわきあがった。
テーブルをゆすぶり、相手の胸につき当てながら、こうどなった。
「いいか! 気をつけて口をきけ、いいか……おれはだれも恐ろしくないんだぞ、このおれは……」
酔っぱらいは、からだの中心を失って、椅子の上でふらふらした。これは倒れるなと感じ、司祭にやっつけられると思ったものだから、彼は、人殺し特有の眼をらんらんと輝かせながら、テーブル・クロースの上にころがっていたナイフの一本のほうに手を延ばした。アベ・ヴィルボワはすばやくその動作を見てとり、食卓を力まかせに押したので、息子はあおむけにつき倒されて、床《ゆか》の上に倒れた。ランプがころがって消えた。
数秒のあいだ、ぶつかりあうコップ類のチャリンという音が闇の中で歌った。それから床の石の上を柔らかい人間のからだが這《は》いまわるような気配がしたと思うと、それから先はもうなんの物音もしなかった。
ランプがこわれるのといっしょに突然の夜が二人の上にひろがった。あまりにすみやかに、あまりに思いがけなく、あまりに深かったので、二人は恐ろしい出来事に会ったようにどぎもを抜かれた。酔っぱらいは壁によりかかってうずくまったまま、動かなかった。司祭は椅子の上にじっとしていた。彼の怒りをおぼれさせる闇《やみ》の中に沈んだまま、彼の上に投げられたこの暗いヴェールは彼の突進を押し止めると同時に、魂の猛然たる憤激をも金《かな》しばりにした。怒りとは異なった感慨がわいてきた。くらやみのように真黒な悲痛な感慨が。
沈黙がひろがった。閉じられた墓のような厚い沈黙だった。生きて呼吸をしているものの気配が一つもしない沈黙だった。外からの物音はなおさら聞えなかった。遠くに車のわだちの響きもなく、犬のほえ声さえしなかった。木の枝や壁の上を渡るかすかな風のささやきさえ聞えなかった。
それが長いことつづいた。非常に長いこと。おそらくは一時間も。それから、とつぜん、銅鑼《どら》が鳴った! たった一つ強くたたかれた音だった。強く、かたく。続いて奇妙な物の落ちたような音と椅子のひっくり返る大きな音がした。
さっきから待ち伏せていたマルグリットが駆け寄った。だが戸を開けるが早いか、女中は一歩も進めないようなまっくらやみにおびえてあとじさりをした。それからわなわな震え、早鐘のような胸をおさえて、声を低くはずませながら、呼んでみた。
「司祭さま、司祭さま」
だれも答えなかった。なんにもものの動く気配がなかった。
「どうしよう、どうしよう。何をしたんだろう。何事が起ったんだろう」こう女中は心の中で叫んだ。
女中は進み出る勇気も、引き返してあかりを取りに行く勇気もなかった。この場を逃げ出したい、逃げて行きたい、大声をあげたい気違いじみた気持がこの女をとらえた。その場に倒れてしまうほど足の力が抜けているのが自分にもわかっていたくせに。女中はくりかえした。
「司祭さま、司祭さま、私ですよ。マルグリットです」
だが突然、彼女の恐怖を押し切って、主人を救おうという本能的な気持が、そして女のあの勇気が、彼女たちをときに英雄にする女の勇気が女中の魂を恐ろしさのあまりの大胆さでいっぱいにした。台所へ走って行ったと思うと、自分のケンケ・ランプを持ってきた。
部屋の戸口の所で、女中は立ちどまった。まず浮浪人の姿が見えた。壁にくっついて長々と寝そべっていた。眠っていたか、それとも眠っているように見えた。それからこわれたランプが見えた。それから、食卓の下に、アベ・ヴィルボワの黒い靴下をはいた二本のすねと真黒な足が見えた。司祭があおむけに倒れるひょうしに頭で銅鑼《どら》につき当ったものに相違なかった。
恐ろしさに胸がどきどきし、手を震わせながら、女中はくりかえした。
「どうしよう。どうしよう。これはまあなんとしたことだろう?」
それから、小刻みに、のろのろと進み出ようとしたひょうしに、なにかぬるぬるしたものに足がすべって、危うく倒れようとした。
そこで、かがみこんで見ると、赤い床の石の上に、やはり赤い水のようなものが流れており、自分の足もとにひろがり、戸口のほうにむかってどんどん流れているのが、見えた。女中はそれが血だということを察した。
気も狂わんばかりになって、女中はその場を逃げ出した。これ以上なんにも見えないようにあかりも投げ捨てた。戸外《おもて》へ駆け出した。村のほうをさして、木にぶつかり、遠くの灯に眼をすえ、大声にわめきながらどんどん走った。
彼女の鋭い声が、夜の闇を縫って不気味なふくろうの鳴き声のように飛んだ。そうして一刻の休みもなくわめきつづけた。「マウーファタンだ……マウーファタンだ……マウーファタンだ……」
最初の人家にたどり着くと、びっくりした男たちが出て来て、彼女をとりまいた。だが女は返事はせずに身をもがくばかりだった。まるで気が転倒してしまっていたのである。
それでもけっきょく大変なことが司祭の別荘で起ったということだけはわかった。救援にはせつけるために武装した男たちの一隊が出来あがった。
オリーブの畑の真中にある桃色に塗った小さなバスチッドは深い沈黙の夜の闇に真黒に塗りつぶされていた。あかりのついていた窓のたった一つのあかりが眼を閉じたように消えて以来、くらやみの中にぼかされ、ゆくえが知れずになっていた。土地っ子でないかぎり見当をつけることは不可能だった。
やがて地面とすれすれに、樹の間を縫って、いくつもの灯が、この家のほうへ走った。しおれた草の上に長い黄色な光を走らせた。その動きまわるあかりの下にオリーブの樹のねじれた幹が時どき化け物のように見え、からみあいねじれている地獄の蛇のように現われた。遠くまで放射された光が、とつぜん暗い中になにか白っぽい、ぼーっとしたものを浮びあがらせた。それから、やがて小さな家の低い四角な壁が手提げ燈の明りに照らし出されてふたたび桃色になって見えた。灯をさげているのは四、五人の百姓で、ピストルを手にしている二人の憲兵に従っているのだった。それから林野巡羅卒《りんやじゅんらそつ》に村長、それにマルグリットだった。マルグリットは男たちにささえられていた。気を失っていたのである。
開け放された、不気味な戸口の前で、一時みんながためらった。だが憲兵班長が大形の手提げ燈をつかんだと思うと、真先に飛び込み、ほかの連中がそれにつづいた。
女中の言ったことはうそではなかった。血が一面に、敷物のように床の石の上にひろがり、早くも凍っていた。浮浪人のいる所までも流れて行っていた。男は片脚と片手をその中に浸していた。
父親と息子は眠っていた。一人はのどを切られて、永遠の眠りを眠り、もう一人は酔っぱらいの眠りで眠っていた。二人の憲兵は酔っぱらいにおどりかかった。眠りをさます前に手錠がかかっていた。若者は眼をこすった。あっけにとられ、まだ酒で頭がぼんやりしていた。司祭の死骸《しがい》を見ると、ぎょっとしたような様子で、なんのことやらさっぱりわからないらしかった。「どうして逃げなかったんだろう?」と、村長が言った。
「酔いつぶれていやがったのさ」班長がこう答えた。
みんなその意見だった。アベ・ヴィルボワがことによったら自殺したかも知れないという考えは、だれの頭にも浮ばなかったのである。
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シモンのパパ
今しも正午の鐘が鳴りおわったところ。学校の入口の戸があき、子供たちは先を争ってもみあいながら、外へなだれ出た。しかし、いつものように、すぐに八方に散って昼飯を食べに帰ろうとはせず、五、六歩の距離のところで立ちどまり、いくつも組をつくってかたまったと思うと、ひそひそ話を始めた。
この日、ブランショットのむすこシモンが、はじめて教室に姿をあらわしたからである。
子供たちはみんなブランショットのことはめいめいのうちで話が出るので聞いて知っていた。大ぜいの前ではこの女にあいそのいい顔を見せていたとはいうものの、母親たちは内輪《うちわ》話のときにはいくらか軽蔑《けいべつ》のまじった一種の同情の気持でこの女を扱っていた。その気持が、わけはわからぬながら子供たちに感染しているのだった。
本人のシモンについては、子供たちはこの少年を知らなかった。シモンはめったにおもてに出たことがなく、子供たちといっしょに村の往来や川のふちを遊びほうけて歩くことをしなかったからである。そういうわけで子供たちはシモンに好意をもたなかった。かなりの驚きのまじった一種の喜びを包みかねる気持で、彼らは仲間の一人の十四、五になる男の子の言った言葉をむかえ、互にこれを復唱《ふくしょう》した。この大きな男の子は、くわしいことを知っているらしく、したり顔にまばたきをして見せた。
「おい、知ってるか……シモンはな……ててなし子だぞ」
その時、ブランショットのむすこが学校の玄関のしきいの上にあらわれた。
年の頃は七つか八つ、色がなま白く、小ざっぱりした身なり、おくびょうそうな、ほとんどぎごちない様子をしている。
母親のいる家へ帰ろうと歩きかけたところへ、いくつものかたまりをつくっていた級友が、相変らずひそひそ話し合い、何かわるさをしようとたくらんでいる子供たち独特の残忍な意地の悪い目つきでシモンのほうを見ながら、少しずつ彼のまわりに集まって来たと思うと、とうとうぴったり彼をとりまいてしまった。シモンは、大ぜいのまんなかに立ちつくしたまま、何をされるのが合点《がてん》がいかず、びっくりし、かつ、当惑するばかりだった。が、先刻、ニュースをもってきた男の子は、早くも成功をおさめたのにいい気になって、シモンにむかってこうきいた。
「おい、おまえの名は何てんだ?」
少年は答えた。――「シモン」
「シモン、それから何だ?」と、相手は言いかえした。
少年は狼狽《ろうばい》してくりかえした。「シモン」
男の子がかみつくように言った。――「人の名前ってものはな、シモン何とかっていうものだ……シモンだけじゃ……名前にならないや、いいか」
シモンは今にも泣きだしそうになって、三度目にこう叫んだ。
「ぼくの名はシモンだよ」
悪童どもはどっと笑いだした。勝ち誇った男の子が一段と声をはりあげた。――「みんなわかったか、こいつはててなし子なんだ」
みんながしんとなった。この異常な事柄に、――父親のない子供――というありうべからざる、おそろしい事柄に、子供たちはごくりと唾《つば》をのみこむ気持だった。異常な現象を、自然からはずれた存在をながめる気持でシモンをながめた。ブランショットにたいする母親たちの軽蔑、今日まで意味のよくわからなかったあの軽蔑、それが彼らの胸の中で大きくひろがっていくのを彼らは感じていた。
シモンはどうかというと、倒れまいとして木によりかかっていた。とりかえしのつかない災害のためにうちのめされたように、じっとしていた。言いひらきをしようとあせったが、自分に父親がないという恐ろしい事実を否認するのに相手にたたきつけてやる言葉をみつけることができなかった。とうとう、鉛のように蒼《あお》ざめた顔をあげたと思うと、いきなり出まかせにこうどなった。――「うそだ。パパはいるんだ」
「どこにいるんだ?」と男の子がきいた。
シモンは黙った。父親がどこにいるか彼は知らなかったのである。子供たちは、勢いづいて、声をたてて笑った。人間よりも動物に近いこの田園の子らは、とりごやのめんどりどもが仲間の一羽が傷ついたとたんにみんなでおどりかかって殺してしまおうとする、あの残忍な欲望にかりたてられているのだった。シモンはふと、ごけの息子で近所に住んでいる少年がそばにいるのに目をつけた。彼自身と同じように、いつも母親と二人だけでいるのを彼は見ていた。
「おまえだって、パパはいないじゃないか」
「うそだい、いらい」と相手は答えた。
「どこにいるんだ?」と、シモンもやり返した。
「死んだんだい、お墓の中にいらあ、おれんちのパパは」と、少年は得意になって相手をみくだすような調子でこう宣言した。
そうだそうだとけしかけるようなささやきが、わんぱく小僧どものあいだを流れた。まるで父親が死んで墓の中にいるという事実がこの級友を急に偉大なものにし、父親をぜんぜん持っていないもう一人の級友をおしつぶしてしまうかのように。このわんぱくどもの父親たちの大部分は、性悪《しょうわる》で、酒くらいで、泥棒で、女房を手荒く扱う連中であるが、その息子たちであるこのがきどもは、押し合いながらしだいに円陣をせばめ、まるで、彼ら、嫡出《ちゃくしゅつ》のがきどもが、法律の外にいる一人を、おしつぶして、ちっそくさせてやろうとするかのようだった。
中の一人で、シモンのすぐそばにいたのが、ずるそうに舌を出して見せたと思うと、こうどなった。
「ててなし! ててなし! やーい!」
シモンは両手で相手の髪につかみかかったと思うと、足を使ってめちゃめちゃに相手の両足をけり、一方、口で相手の頬にひどくかみついた。激しいもみあいが始まった。二人はひきわけられ、シモンは、はやしたてるがきどもの円陣のまんなかで、なぐられ、ひっかかれ、傷だらけになり、地面にころがされた。彼が立ちあがって、ほこりだらけになった小さな上っぱりをはらっていると、だれかがこう叫んだ。
「ふん、行ってパパに言いつけるといいや」
これをきくと、少年の胸の中で、何かが大きくくずれた。彼らのほうが自分よりは強い。彼らは彼をなぐった。そして、彼はそれにやり返すことができない。自分にパパがないということはほんとだと彼ははっきり感じていたのである。気をはって、じっと歯をくいしばると、彼は何秒かのあいだ、のどもとをしめつける涙に抵抗しようと試みた。息がつまってむせた。それから、声を立てずに、少年は泣き始めた。大きくしゃくりあげる泣き方で、それが小きざみに激しく彼の全身をゆすぶった。
すると狂暴な歓喜が敵方のあいだに爆発した。当然のなりゆきとして、野蛮人が興奮して快活になるときのように、子供たちは手をつなぎ合ったと思うと、シモンのまわりを円陣をつくっておどり始めた。――ててなし! ててなし! という文句を折返しのようにくりかえしながら。
が、シモンは突然すすり泣きをやめた。狂暴な怒りが彼を逆上させた。足もとに落ちている石を拾ったと思うと、あらん限りの力で、自分を迫害するやつらに投げつけた。二、三人の者にその石があたり、その連中は泣きわめきながら逃げ出した。彼の様子があまりにものすごかったので、ほかの連中のあいだにも恐慌が伝染した。捨て身になった一人の男を前にしたときに、衆をたのむものがおくびょう風に見舞われるように、急におじけづいた少年たちはちりぢりになって逃げ出した。
ひとりになると、父親のない少年は、いきなり野良《のら》のほうへかけだした。急にあることを思い出し、それが彼の胸に大決心をうかばせたのだった。川へ身投げをしようと思ったのである。
事実、一週間ほど前、ずっと乞食《こじき》をしていたかわいそうな男が、一文なしになったため、身投げをしたことを彼は思いだしたのだった。その男が水からひきあげられた時、シモンはその場に居あわせた。ふだんは、みじめで、汚ならしく、みにくく思われたそのあわれな老人が、そのときは、ふしぎにおだやかな顔つきになっているのに少年は驚かされたのだった。蒼白《あおじろ》い顔、ぬれた長いあごひげ、それから、じつにおだやかに見開かれた眼。まわりの声がこんなことを言っていた。――「死んでいる」――だれかがこうつけ加えた。――「こうなったほうがしあわせさ」――シモンも身投げをしたいと思う。父親がないので。金のないこのあわれな男がやったように。
川のふちまで来ると、少年は水の流れるのをながめた。魚が五、六匹、すいすいと、ふざけるように、きれいな水の中でおよいでいる。ときどき、小さくはねては、水の表面をとんでいる羽虫をぱくりとくわえた。少年は泣きやんで魚を見るほうに気をとられた。魚が虫をとる動作にひどく興味をひかれたのである。しかし、ときどき、ちょうど嵐《あらし》のおさまりかけている時に、思い出したように突風が吹きすぎ、木の枝を鳴らし、地平のはてまで駆けすぎて行くように、さっきの考えが、「パパがいないから、身投げするんだ」という考えが、鋭い痛みをともなって、少年の胸によみがえるのだった。
暖かく、とてもいい気持だった。太陽が気持よく草をあたためていた。川の水は鏡のように光っていた。シモンはうっとりとするような幸福の時間を味わった。涙のあとにつづくあのぐったりとした気持、その中で、シモンははげしいねむけに何度もおそわれた。このまま、草の上で、暖かい空気の中で眠ってしまいたい。
一匹の小さな青蛙《あおがえる》が彼の足もとからとび出した。彼はそれをつかまえようとした。蛙は少年の手をすりぬけた。少年はそれを追いかけ、三度つづけてつかまえそこねた。やっと、あとあしのはじをつかまえると、蛙は逃げようとしてもがくので、その様子がおかしくて、少年は笑いだした。あとあしを曲げてからだをちぢめたと思うと、とつぜん、ひく力をゆるめて、二本の棒のようにまっすぐにのばす。、一方、金色のくまどりのあるまんまるな目をつき出し、人間の手のように動くまえあしでばたばた空をうつ。それを見ていると、少年はあるおもちゃを思い出した。ほそい木の板をひしがたにかさねて釘《くぎ》でとめてあるもので、蛙のあしの運動と同じような動き方で、板の上につきさしてある小さな兵隊の調練があやつられるしくみのものだった。すると、少年はうちのことを思い出し、それから、母親のことを考えた。するとまた、急に悲しくなって、改めて泣きだした。五体にふるえが走った。少年はひざまずくと、ねる前にやるようにお祈りの文句をとなえはじめた。しかし、その文句を終りまで言うことができなかった。泣きじゃくりがあとからあとからとつき上げてきて、全身が泣きじゃくりに占領されてしまった。彼はもう考えることをやめていた。まわりのなにものも目にはいらず、ただ泣くことに夢中だった。
だしぬけに、どっしりと重い手が少年の肩にかかったと思うと、男のふとい声がこうきいた。――「坊や、なにがそんなに悲しいんだ?」
シモンはふりむいた。あごひげをたくわえ、ちぢれた黒い髪の毛の背の高い職人風の男が、いかにもひとのよさそうな様子でシモンをながめていた。少年は目に涙をいっぱいため、涙でのどをつまらせながら答えた。
「やつらがぼくをぶったんだよ……ぼくに……パパが……パパがいないからって」
「なんだって」と、男は笑い顔になりながら言った。「だれだってパパのない人間なんていやしないじゃないか」
少年は悲しみの発作のあいまにやっとこう答えた。――「ちがうよ……ぼくには……ぼくにはパパがいないんだ」
これを聞くと、職人はしんけんな顔になった。彼は少年がブランショットのむすこだということを認めた。この土地に古くからいる人間ではないが、ばくぜんとながらブランショットの身の上話は知っていた。
「よしよし泣かんでもいい。おじさんがいっしょに行ってやるから、おかあさんのところへ帰ろう。パパなんて……いくらでもできるさ」
二人は歩きだした。大きいほうが小さいほうの手をひきながら。男は改めてにやりと笑った。土地で指折りの美人だいうこのブランショットという女にあうのは悪い気持はしなかったのである。ことによったら若い時に一度あやまちをやった女が、もう一度妙な気をおこさないものでもないというようなことを、心の底で、考えていたかもしれない。
二人は白く塗った小ぎれいな小さな家の前に来た。
「ここだよ」少年はこう言ったと思うと、それから――「かあさん!」と叫んだ。
一人の女があらわれた。職人はとつぜんにやにや笑うことをやめた。この背の高い顔色の蒼い女を相手にじょうだん口をきくことはできないと、とっさにさとったからである。べつなある男のために、すでに一度そこで裏切られたことのあるこの家のしきいをどんな男にでもまたがせまいとするかのように、厳然と門口に立っている女の姿だった。おじけづき、鳥打帽をぬいで手に持ったまま、男は口ごもるようにこう言った。
「いや、こんちは。川のそばでまいごになっていたお宅の小さいのをつれて来てあげましたよ」
が、シモンは母親の首にとびつくと、また泣きだしながらこう言った。
「ちがうよ、かあさん、ぼく、身投げをしようと思ったんだよ。ほかのやつらがぼくをぶったんだもの……ぼくをぶったんだよ……ぼくにパパがないからって」
若い女の頬にさっと血の気がのぼった。からだのしんまで屈辱のためにおしつぶされ、子供をはげしく抱きしめて接吻したと思うと、どっとあふれた涙が頬をつたわって流れた。男は、帰って行くきっかけがつかず、感動してその場に立ちすくんでいた。が、シモンがとつぜん男のほうへかけよってこう言った。
「おじさん、ぼくのパパになってね?」
だれもものを言わなかった。ブランショットは、はずかしさに身をさかれ、黙ったまま、両手を胸にあてて、壁によりかかっていた。少年は、返事をしてもらえないのを見ると、言葉をつづけた。
「おじさんがなってくれなけりゃ、ぼくまた身投げをしに行くよ」
職人はことをじょうだんにまぎらせて、笑いながらこう答えた。
「いいとも、なってやるよ」
「おじさんは何て名前だい」と、少年がきいた。「やつらがおじさんの名前は何てんだってきいたときに返事をしてやらなくちゃならんもの」
「フィリップさ」と、男は答えた。
シモンはしばらく黙って、この名前をよく頭にたたんでおこうとした。それから、すっかり安心して、こう言いながら、腕をのばした。
「よしきた、フィリップおじさん、ぼくのパパだよ」
職人は、少年を地面から抱き上げると、いきなり両頬に接吻をおしつけて、それから、大またにどんどん逃げ出した。
翌日、少年が学校の建物の中へはいって行くと、意地の悪い笑い声がいっせいに彼を迎えた。おひるあがりのとき、例の男の子がまた始めようとしたが、いきなりシモンが相手の顔に、石でも投げつけるように――「ぼくのパパはフィリップてんだ」という言葉を投げつけた。
おもしろがってはやしたてる声が八方からわきおこった。
「フィリップ何だい?……フィリップのあとは何さ?……フィリップだけじゃわからんぞ……どこでひろってきたんだ、そのフィリップてのを?」
シモンはなにも答えなかった。しかし、彼の信念はゆるがず、同級生のがきどもをにらみかえしてやった。こいつらの前から逃げ出すよりはいつでも進んでいじめられてやろうという気概《きがい》を見せながら。受持の先生が出てきて彼を救い出してくれ、少年は母親の待っている家へ帰った。
三ヵ月のあいだ、背の高い職人のフィリップはたびたびブランショットの家のそばを通りかかった。そして、ときには、女が窓のそばで針仕事をしているのを見ると、思いきって話しかけてみることもあった。女はていねいにうけ答えをしたが、いつもきまじめで、男を相手に笑い声を立てるようなことはせず、一度もうちの中へはいれなかった。とはいえ、たいていの男がそうであるように、この男もいささかうぬぼれのけをもっていたせいかもしれないが、女が自分と口をきくときにはいつもより赤くなることが多いように思った。
しかし、ひとたび泥にまみれた評判はたて直すのが実に骨の折れるもので、またいつくずれるかもしれない頼りない存在にしかすぎず、ブランショットがいくら用心して遠慮がちにふるまっても、世間で早くもあらぬうわさをたてはじめた。
シモンはどうかというと、彼は彼の新しいパパが大好きで、ほとんど毎日、夕方仕事がすむと、いっしょに散歩した。少年は精を出して学校に通い、級友たちのあいだでは、なにを言われても口答えせず、けなげな威厳のある態度をもちつづけた。
ところが、ある日、いちばんさきに彼をいじめた例の男の子が、彼にむかってこう言った。
「やい、うそをついたな、フィリップという名前のパパなんか、おまえのとこにいないじゃないか」
「どうしてだ?」――と、シモンも強く胸にこたえて、ききかえした。
男の子はしきりに手をこすっていたが、こう言葉をつづけた。
「だって、おまえにパパがあるなら、パパはおまえのおふくろの亭主のはずだぞ」
シモンはこの理屈の正しさにろうばいしたが、それでもこう言い返した。――「だってパパはパパだぞ」
「そうかもしれないや」と男の子はわざとらしくせせら笑いをしながら答えた。「しかし、とにかく、完全なパパじゃないぞ」
ブランショットの小せがれは頭をたれ、物思いに沈みながら、フィリップの働いているロワゾン親方の鍛冶場《かじば》のほうへ歩いて行った。
この鍛冶場はいわば木立のしげみの中に埋っていた。中はひどく暗く、ただはげしい勢いで燃えている炉の赤い火の大きくゆれるほかげだけが、腕をむきだしにして、おそろしい音をたてながら金しきをたたいている五人の鍛冶屋の姿を照し出していた。彼らは地獄の悪魔のように炎をしょって、立ちはだかり、まっかに焼けた鉄にじっと目を注ぎながら、しきりに鉄をたたいてはのばしている。彼らの鈍重なもの思いは、彼らのふりあげる槌《つち》といっしょにあがったりさがったりしている。
シモンはだれからも見られずに中へはいったと思うと、自分の親友のそばへよって行ってそっと袖をひっぱった。フィリップはうしろをふりむいた。たちまち仕事は中断され、みんな、何事かと思いながら、子供のほうをながめた。と、つねにないこの静寂の中で、シモンのかんだかい細い声が立ちのぼった。
「ねえ、フィリップ、ミショードのところの男の子がね、さっき、小父《おじ》さんが完全なぼくのパパじゃないって言ったよ」
「なぜだ?」と、職人はきいた。
少年はいとも無邪気に答えた。
「小父さんがぼくのおっかさんの亭主じゃないからさ」
だれも笑うものはなかった。フィリップは、立ったまま、金しきの上に立てた槌の柄《え》の上に大きな両手を重ねて、その甲にひたいをもたせていた。じっともの思いにふけっているのだった。四人の仲間はじっと彼の様子をみつめており、その中にまじって巨人の中の小人のようなシモンが、かたずをのんで、返事を待っていた。突然、仲間の鍛冶屋の一人がみんなの考えを代弁しながら、フィリップにむかってこう言った。
「なんとかいろいろ言うけれど、感心なりっぱな女だよ。あのブランショットという女は、あんな目にあってはいるが、きちんとしたけなげな女さ、まっとうな男にとって不足のないりっぱな女房《にょうぼう》になるさ」
「そうだ、そりゃほんとだ」と、ほかの三人も言った。
その職人はなおもつづけてこう言った。
「あやまちをしたことはしたが、それがあの女の落ち度だろうかな? 夫婦になると男が約束したんだ。同じ様なことをして、しかもいま世間にりっぱな女として通用しているものをおれは何人も知っているよ」
「そうだ、そりゃほんとだ」と、三人の職人が声をそろえてそれに答えた。
職人はまた言葉をつづけた。――「どれだけ苦労したかしれないんだ、気の毒に、女手一つでこの男の子をそだてるのにさ。外へ出るのは教会に行くときだけというふうになってから、どれほどあの女が人知れぬ涙をしぼったか、知ってござるのは神さまだけさ」
「それもほんとだ」と、ほかの連中が言った。
すると、あとは、炉の火を吹きおこすふいごの音がきこえるばかりだった。いきなり、フィリップが、シモンのほうへかがみこんだと思うと、こう言った。
「帰っておっかさんに言うんだ、今晩話があって行きますからってな」
それから、少年の肩をおして、外へ出してやった。
彼は仕事のほうへ引き返してきた。と、たちまち、五本の槌《つち》が、言いあわせたように金しきの上にふりおろされた。五本の槌はそうやって夕方まで鉄を打った。力強く、たのしげに、なにかうれしいことのある槌といったかたちで。が、ちょうどお祭の日に本寺の鐘がほかの鐘の音を圧して高くひびきわたるように、フィリップの槌は、ほかの槌の音をおさえて、一秒ごとに、耳を聾《ろう》するばかりのひびきを立ててうちおろされた。と、フィリップは、目を輝かし、火花の中に立ちはだかったまま、心をこめて、鉄を打つ仕事に熱中した。
彼が、ブランショットの家の戸口をたたいた時は、もう日がとっぷり暮れて、空は一面の星こぼれだった。日曜の外出着に着かえ、シャツも新しいのととりかえて、ほおひげもかりこんでいた。若い女は、しきいのところまで出てくると、困ったような様子でこう言った。――「フィリップさん、こんなに日が暮れてからいらしては困りますわ」
男は答えようとして、口の中でもぐもぐ言ったが、女の顔を見ると当惑して立ちすくんだ。
女は言葉をつづけた。――「わかってくださるでしょうけれど、このうえ世間からうわさを立てられては困るのです」
これをきくと、男は、いきなりこう言った。
「そんなことはなんでもないさ、私の女房になってくれる気さえあれば!」
彼の言葉に応える声はきこえなかった。しかし部屋の奥の闇の中に人のからだがくずおれる音がきこえたような気がした。男はいそいで家の中へはいって行った。自分の寝床の中にねていたシモンの耳に、接吻の音と、それから、母親が小声でふた言み言とささやく声がききわけられた。それから、とつぜん、シモンのからだが彼の親友の腕にかかえられて宙にういた。フィリップはエルキュールのような腕の先にシモンを持ちあげたと思うと、子供にむかってこうどなった。
「さあ、友だちのやつらのところへ行って言ってやれ。おれのパパは鍛冶屋のフィリップ・レミだ、おれをいじめるやつの耳をひっぱりに来るからって」
その翌日、学校が登校してきた生徒たちでにぎわい、やがて授業も始まろうとする頃、シモン少年は、まっさおな顔をして唇をふるわせながら、立ちあがったと思うと、よくとおる声でこう言った。――「ぼくのパパは、鍛冶屋のフィリップ・レミてんだ。ぼくをいじめるやつがあったらみんな耳をひっぱってやるって約束してくれたんだぞ」
このたびはもうだれも笑わなかった。鍛冶屋のフィリップ・レミならみんなよく知っていた。これなら、たしかにだれだって、自慢したくなるパパだった。
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わら椅子直しの女
――レオン・エニックに――
ベルトラン侯爵のところでの猟開きの晩餐《ばんさん》会のコースが終ったところだった。十一人の猟客と、八人の若い婦人と、この土地の開業医とが、果物と花でおおわれた、まばゆいばかりの大食卓を取り巻いて居並んでいた。
恋愛が話題に上った。大議論になった。例の、いつの時代になっても打ち切られることのない議論、ひとは一度しか真剣に恋愛できないものかそれとも何べんもできるものかどうかという議論である。真剣な恋愛は絶対に一度しか覚えがないという人の例がいくつもあげられた。するとまた、生涯に何度も、しかも猛烈に、恋愛した人間の別の例がいくつもあげられた。男たちは、一般に、情熱というものは病気と同じことで、同一の人間を何度でも襲うことができる。しかも何か障害がその前に立ちふさがれば、その人間を殺しかねないほどに激しく襲うことができる、という主張だった。この見方は異議の申し立てようがなかったにもかかわらず、婦人連は、その意見というのは観察よりむしろ詩に立脚しているのであるが、恋愛は、真実の恋愛は、偉大な恋愛は、生涯にたった一度しか人間の身の上に落ちえないと断言した。この恋愛は、落雷みたいなものである。この恋愛に触れられた心はそのあとでは、すっかり空虚になり、荒れはて、火事場の跡のようになるので、いかなる力強い感情も、いや、夢でさえも、あらたにそこに芽生えることはできない、というのだった。
侯爵は、たくさん恋愛した経験があるのでこの信仰を激しく論駁《ろんばく》した。
「私は、はっきり申しあげますが、人間は何度でも、全力を傾けて、魂の全部を打ちこんで、恋愛することができますよ。二度目の情熱が不可能だという証拠として、恋愛のためにわが身を殺した人間をあなたがたは例におあげになりますがね。私はこう言ってお答えしますよ。その人たちがもし自殺するというような愚かな誤りを犯さなかったとすれば、まあそれを犯したために二度深みに落ちるあらゆる機会が奪われたわけですが、それでなければ、なおっていたはずです。そして、もう一度やったに違いないのです。そして何度でもくりかえしたに違いないのです。あたりまえの死にかたで死ぬまではね。恋愛病患者も酔っぱらいも同じことですよ。酒の味を知ってるやつはまた飲む――恋愛の味を知っているやつはまた恋愛しますよ。これは、気質の問題です」
審判者としてドクトルがひっぱり出された。田園に引退したパリの老医である。先生の意見を述べて下さいと懇望《こんもう》された。
ところでまさしく自分の意見というやつの持ちあわせがないのだった。
「侯爵も今おっしゃったように、それは気質の問題です。私だけのことを申しますと五十五年間ただの一日の休みもなしに続いて、死によって初めて終焉《しゅうえん》を告げた情熱に身近にふれた経験があります」
侯爵夫人は手をうって喜んだ。
「まあなんて美しい話でしょう! そんなふうに愛されるなんてすばらしい夢だわ! そんな熱烈な岩でも透《とお》すような愛情で五十五年間も包まれて生きるなんて、なんという幸福でしょう? その男の人、そんなふうに崇拝を捧げられた男の人、どんなにか幸福で、人生を祝福したことでしょうね?」
医者は微笑した。
「おおせのとおりです。侯爵夫人のご推察ははずれていません。その愛された人間が男だったという点では。ごぞんじの人間ですよ。シューケさんです。この町の薬剤師の。女のほうはだれかと申しますと、これもごぞんじの機会のあった人間です。毎年お邸《やしき》へも伺った、わら椅子《いす》直しのあの婆さんです。しかしまあもっとくわしくわかるようにお話いたしましょう」
婦人連の熱烈な共感は消え去った。興ざめた彼女たちの顔ははっきり「まあいやらしい!」という気持を語っていた。まるで恋愛が洗練された、ぬきんでた人間だけしか襲ってはならないかのように。上流の人間が関心を寄せる値うちのあるのはそういう人間だけなのであるから。
医者は言葉をつづけた。
「私は三ヵ月前、その婆さんの、臨終のところへ呼ばれて行きました。その前日、婆さんにとっては家の役目をしている例の車に乗って、やって来たのです。あなたがたもごらんになったことのある例のやせ馬の引っぱっている車です。婆さんの親友でもあり護衛でもある二匹の黒い大きな犬を供につれていました。坊さんがすでに先着していました。婆さんはわれわれ二人をその遺言執行人に指定しました。そして、自分の最後の意志の意味をわれわれにあかすために、全生涯のことを語ったのです。これほどふう変りな、これほどいたましい話を私はほかに知りません。
婆さんの父親はわら椅子直し、母親もわら椅子直しでした。地面の上に建てられた家というものに婆さんは生涯住んだことがなかったのです。
まだ年端《としは》のいかぬ時分から、ぼろを下げ、しらみをたけ、むっとするような汚ないかっこうで、ほうぼうを流浪して歩きました。村々の入口で、みぞのふちなどで、立ちどまるのです。馬を車からはずすと、馬は草を食べ、犬は、前あしの上に鼻面《はなづら》をのせて、眠っています。そして、女の子は、父親と女親が、道ばたのにれの木陰で、村じゅうの古椅子を修繕しているあいだ、草の上にころがっているのです。この移動住居の中では三人はめったに口をきくこともありませんでした。例の『椅子の直しはよろしゅう!』というおなじみの呼び声を流しながら家々をまわって歩く役をだれの番にするかということをきめるために必要な、ふた言み言が取りかわされると、すぐに、むかいあったり、あるいは並んだりの姿勢で、わらをないにかかるのです。子供があまり遠くへ行ったり、村のわんぱくのだれかと遊び友だちになろうとする気配を見せたりすると、父親の怒気《どき》を含んだ声が呼びもどします。『やい。こっちへ帰ってこう、どすあまが!』これが彼女の耳にする唯一の愛情のこもった言葉だったのです。
もう少し大きくなると、破損した椅子の底を集める仕事にやらされました。するとところどころでわんぱく小僧たちとのあいだに多少の顔見知り程度の関係ができました。しかし、今度はそういう新しい友だちの両親が、あらあらしく子供たちを呼びかえすのでした。『ばか、早くこっちへ来い! こじきの子なんかと話すんじゃない!』
たびたび男の子たちから石を投げつけられました。
いい家の奥さんたちから何枚かの銅貨をもらったので、だいじにしまっておきました。
ある日――そのときは十一になっていました――この土地を通りかかったおり、墓地の裏で、遊び友だちの一人から赤銭を二枚とられたと言って泣いているシューケ少年に出会ったのです。このブルジョワの少年の涙が、運命から幸福の道をたたれた少女としての彼女のかよわい頭の中で、いつも快活で満足しているものと考えていた少年の一人が流しているこの涙が、少女の気持をすっかり転倒させてしまいました。少女はそばへ寄って行きました。少年のなげきの原因を知ったとき、彼女は自分の貯えの全部を、七スゥの銭《ぜに》を、少年の手に握らせました。少年はもちろん、涙を拭きながら、それを受けとりました。すると、うれしさに上気して、急に大胆になり、少年を抱いて接吻したのです。少年はもらったお金をあかずにながめているところだったので、相手のするままにさせました。衝《つ》きのけられもせず、打たれもしないのを見て、少女はもう一度やる気になりました。両腕にしっかり抱きしめて、思いの限り接吻を押しつけました、それからいちもくさんに逃げ帰ったのです。
この少女のあわれな頭の中に何ごとが起ったのでしょう? 流浪の子の全財産をこの鼻たれ小僧のために犠牲にした、そのためにこの少年にたちがたい愛着を覚えたのでしょうか、それとも生れて初めての愛情のこもった接吻を与えたためでしょうか? 神秘の世界はおとなにとっても子供にとっても同じことです。
幾月ものあいだ彼女はこの墓地の一隅とこの少年のことを夢みました。もう一度この少年に会いたいばかりに、両親の金を盗みました。古椅子直しの代金や、食料品を買いにやらされるときの銭の中から、あちらで一スゥ、こちらで一スゥというふうにごまかしたのです。
もう一度この土地にもどって来たとき、少女のポケットには二フランの金がたまっていました。しかし、思う薬屋の少年の姿は、少年の父親の店のガラス戸のむこうに、赤い色のついた広口びんとさなだ虫の標本とのあいだに、小ざっぱりとしたなりをしている姿が、ちらりとかいま見えただけでした。
そのために恋しいと思う気持はたちまさるばかりでした。色のついた水のまばゆさに、きらきら輝くガラスの後光に、恍惚《こうこつ》となり、興奮し、とりこになったのでした。
消すことのできない思い出を胸にたたみこみました。そして、翌年、学校の裏手で、少年が仲間といっしょに石はじきをして遊んでいるのにめぐり会ったとき、少女は相手に飛びつき両腕にしっかり抱きしめました。そしてあまりに激しく接吻したので、少年はおびえて、大声に泣き出しました。すると、なだめようとして、彼女は自分の持っていた金を少年に握らせました。三フラン二十、まったくのひと財産です。
少年はそれを受けとりました。そして少女の思うままに、その愛撫《あいぶ》に身を任せました。
それからなお四年のあいだ、少女は少年の手に自分のたくわえのすべてを注ぎこみました。少年はちゃんと意識して接吻に同意を与える代償として、それをふところにねじこんだのです。一度は三十スゥ、一度は二フラン、その次は十二スゥでした。(彼女は少ないのがつらく恥ずかしく泣きました。しかしその年はみいりが悪く、どうにもならないのでした)そして最後のときが、五フランでした。丸い大きな銀貨です。少年は満足の微笑で顔をほころばせました。
彼女はもうこの少年のことのほかになにも考えませんでした。そして少年のほうも彼女がまたやって来るのを一種の待ち遠しさで待つようになりました。彼女の姿を見ると駆けて迎えにくるのです。それは少女の心臓をおどりあがらせました。
それから少年は姿を消しました。中学へいれられたのです。彼女は巧みにききだして、そのことを知りました。すると彼女はあらゆるかけひきを用いて苦心さんたんのあげく、両親の商売の順路を変更させ、ちょうど学校休みのときにこの土地を通るようにさせました。それに成功はしましたが、一年間くふうをこらしたあげくのことです。ですから、二年間少年の姿を見ないですごしたわけです。そしてようやくめぐりあったときにはほとんど見覚えのない人を見るような気がしました。それほど少年は別人のように変り、背がのび、りっぱになって、金ボタンの詰めえりの制服を着て堂々としていました。こちらを見ないようなふりをし、昂然《こうぜん》と少女のそばを通りすぎて行きました。
それが悲しくて二日間泣き明かしました。そしてそのとき以来終ることなく苦しんだのです。
毎年この土地へやって来ました。少年の前を通るのですが、こちらからあいさつをする勇気はなく、むこうはまた彼女のほうへ視線を向けることさえしてくれないのです。彼女は気も狂うばかりに少年を愛していたのです。
『先生さま、あの人がこの世で私が見た、ただ一人の男でございます、ほかに男がいないかどうかということさえ知らなかったのでございます』私にむかってこう申しました。
両親が死にました。彼女は両親の商売をつづけましたが、犬一匹のかわりに二匹を飼うことにしました。二匹ともだれでもちょっと薄気味が悪くて手出しのできないようなおそろしげな犬です。
ある日、心は一刻も離れたことのないこの村へ再び帰ってきたとき、一人の若い女がシューケの家の店先から一刻も忘れたことのない男の腕にすがって出て行く姿を認めました。それが細君でした。男は結婚したのです。
その晩、彼女は役場前の広場につづく、ため池に身投げをしました。夜ふけて通りかかった酔っぱらいが彼女を救いあげ、薬屋へかつぎこみました。シューケの息子は、手当をするためにねまき姿でおりてきました。そして女と見知り越しであるようなふうは少しも見せず、着物を脱がせ、乾布摩擦《かんぷまさつ》をしてくれました。それからつっけんどんな声でこう言いました。
『ばかなまねをしては困るじゃないか! いくらなんでもあんまりばかだね!』
これだけで彼女をいやすにはじゅうぶんでした。男が口をきいてくれたのです! 彼女は永いこと幸福でした。
女のほうはお金を払うといって強く主張しましたが、シューケは手当の報酬として一文でも受けとろうとしませんでした。
そうやって彼女の生涯はすぎたのです。彼女はシューケのことを思いながら椅子わらの詰《つ》めかえの手を動かしました。毎年男の姿をガラス戸のむこうに認めました。男の店でこまごまとした薬の買物をするならわしにしました。そういうふうにしてそば近くから男の顔をながめ、男に話しかけ、なおも男に金を注ぎこんだわけです。
初めに申しましたように、婆さんの死んだのはこの春です。この悲しい身上話の全部を私にむかって語り終ったあとで、婆さんはあのようにしんぼう強く愛した男に生涯のたくわえの全部を渡してくれるように私にたのみました。ほかでもない、婆さんはあの男のことだけを思いながら働いたのです。あの人をめあてに、それだけでしたと、婆さんも申しました。倹約をして金をため、そして、せめて一度、自分の死んだときに、男が自分のことを考えてくれるという確信をもちたいばかりに、食事をぬくことさえあったというのです。
そこで私に二千三百二十七フランの金を渡しました。私は埋葬の費用として二十七フランを坊さんに渡し、残りを、いよいよ彼女が最後の息を引きとったとき、家へ持って帰りました。
翌日、私はシューケ夫妻のところへ出かけて行きました。夫婦は、さしむかいで、食事をおわったところでした。二人ともふとって、あから顔で、薬品の匂《にお》いをぷんぷんさせ、もったいぶっていやに納まりかえっていました。
椅子をすすめられ、桜桃酒《キルシュ》をいっぱい出されたのでごちそうになりました。私は感動にのどをつまらせながら用意してきた文句を述べ始めました。二人が泣き出すだろうと確信していたのです。
あの乞食婆さんから、わら椅子直しの女から、どこの馬の骨かわからぬ渡り者から、自分がずっと愛されていたのだということを了解するが早いか、シューケは激怒のためにおどりあがりました。あたかも相手が自分の名声を、まともな世間の衆から寄せられている尊敬を、たいせつな名声を、自分にとって命よりもたいせつな言いがたいあるものを、盗みでもしたかのようにたけりたちました。
細君も、ご亭主に劣らずたけりたって、こうくりかえしました。『まあ、あの乞食が! あの乞食が!』これ以上の言葉が口から出ないのです。
亭主は立ちあがっていました。トルコ帽が片方の耳の上にずり落ちたままのかっこうで、食卓のむこうを大またに歩きまわりました。どもりどもり、しきりにこう言うのです。『こんなべらぼうな話があるでしょうか? 男にとって実におそろしいことです。よくもまあこんなことが! まったくどうしたらいいでしょう? むろん! あいつの生きているうちにこんなことを知っていれば、すぐに憲兵に引き渡して、牢屋《ろうや》へぶちこんでもらうところです。生涯出させやしません。出させませんとも!』
私は自分の敬虔《けいけん》な気持からやった行動の意外の結果に茫然《ぼうぜん》としました。言うべき言葉もなすべき処置もわからぬありさまでした。しかしとにかく使命は完了しなければなりません。私は言葉をつぎました。『あの婆さんは自分の貯金をあなたにお渡ししてくれるように私にたのみました。貯金の額は二千三百フランです。さきほどお知らせしたことがたいへんご不快のようですから、その金は貧民に施すのがいちばんいいかもしれませんね』
夫婦は驚きのあまり釘づけにされた形で、私の顔を見つめました。
私はポケットから金をとり出しました。あらゆる土地のあらゆるしるしのついた、金貨と銅貨をとりまぜた、血の出るような金です。それから『どうなさいます?』ときいてみました。
シューケのおかみさんのほうが先に口をきりました。『しかし、とにかくそれが、婆さんの、その女の、最後の意志だというのですから……ことわるのはむずかしいように思われますが』
亭主は、いささかてれながら、こう言いました。『まあとにかくそれで子供たちになにか買ってやることはできるからね』
私は冷やかな調子で『どちらでもご随意に』といってやりました。
亭主はまたこう言いました。『とにかく渡していただきましょう。あの女があなたにそうお願いしたのですから。なにか有益な仕事に使う方法は見つかるでしょう』
私は金を渡し、一礼して、外へ出ました。
翌日、シューケが私のところへ会いに来て、いきなりこういうのです。『ここへ車をおいたはずですね、……あの女が、あの車はどうなさいます?』
『どうもしません。よかったら引きとって下さい』
『そいつはいい。けっこうです。野菜畑の小屋にしますよ』
シューケはむこうへ行きかけました。私はそれを呼び返しました。『それからまだおいぼれ馬と犬が二匹残してありますがね。それも持って行きますか?』シューケはびっくりして立ちどまりました。『とんでもない! そんなものをどうしろとおっしゃるのです? かってに処分してください』こう言って彼は笑いました。それから私のほうへ手をさしのべましたので、私もそれを握りました。どうもこれよりほかにしかたがないではありませんか? 同じ土地で医者と薬剤師がにらみあうというのは常道ではありません。
私は犬を飼うことにし、家に大きな裏庭のある坊さんは、馬を引きとりました。車はシューケの小屋になっています。シューケは例の金で鉄道の株券を五枚買いました。
これが生涯で私のぶつかった唯一の深刻な恋愛です」
医者は話しおわって口をつぐんだ。
すると、眼に涙をうかべていた侯爵夫人が、ため息といっしょにこう言った。
「はっきりきまりましたよ。ほんとうに恋愛のできるのは女だけですね」
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狂女
――ロベール・ド・ボニュールに――
なんですよ、と、マチウ・ダンドラン氏が話を始めた。山しぎの姿をみかけると、戦争のときの身の毛のよだつ事件を思い出させられましてね。
コルメイユの郊外にある私のやしきをみなさんはごぞんじでしたね。プロシャ軍が侵入してきたとき、ちょうど私はあそこに住んでいました。
隣のやしきには、ふしあわせが重なって気が変になって、まあキ印ともいうべき婦人が住んでいました。昔、二十五のころ、たったひと月のうちに、父親と夫と生れたばかりの子供とを、つづけさまになくしたのでした。
死神が一度家の中へ足を踏みいれると、まるで入口をおぼえてしまったかのように、ほとんどいつでも、出て行ったと思うとすぐにまたやってくるものです。
気の毒なその若い婦人は、悲しみのために雷にうたれた態《てい》で床《とこ》につき、六週間、あらぬことを口走っていました。それから、一種のおだやかな虚脱状態がこの激しい発作《ほっさ》のあとにつづき、その婦人はねたままじっと動かず、食事もろくにとらず、ただ目を動かすばかりでした。ひとが起してやろうとするたびに、まるで殺されでもするかのように、悲鳴をあげるのでした。そこでしかたなくねかしたままにしておき、ただ身じまいのときと、毛ぶとんを裏返しにするときにだけ、ふとんから外へ出すことにしました。
年をとった女中がひとりつきそっていて、ときどき飲みものをとらせたり、冷肉をわずかばかり口にいれてやったりしていました。この絶望に沈んだ魂の中になにごとがおこっていたのでしょうか? それはだれにもわかりませんでした。ひと言も口をきかなくなっていたからです。死んだ人たちのことを考えていたのでしょうか? はっきりした記憶はなく、ただ悲しい気持でぼんやり夢想にふけっていたのでしょうか? それとも、涸《か》れはてた彼女の思考は、はけ口のない水のようにじっと動かずにいたのでしょうか?
十五年のあいだ、この婦人はこうやって、一室にとじこもったきりの生活をしていました。
戦争になり、十二月の初め、プロシャ兵がコルメイユにも侵入してきました。
昨日のことのようにはっきり覚えています。外は石も割れるほどに凍《い》てついていました。私自身、痛風のために動けず、ひじかけ椅子に腰かけて長くなっていると、そこへ、プロシャ兵の拍子《ひょうし》をとった重そうな足音がきこえてきました。私の部屋の窓から、彼らの通って行くのが見えました。
行列は、はてしもなく、つづいて行きます。特有のからくり人形のような動き方で、どの兵隊も区別ができません。それから、隊長が部下たちを民家にわりあてました。私のうちへは十七人わりあてがあり、隣のキ印の女のいる屋敷は、十二人で、うち一人は、指揮官でしたが、気性のはげしい無骨者《ぶこつもの》で、骨の髄《ずい》まで軍人でした。
初め何日かのあいだ、万事は順調に行きました。例の指揮官には、このうちの奥さんは病気だと言ってあり、士官はそれを別に気にかけませんでした。しかし、まもなく、いっこうに姿を見せないこの婦人の事が彼をいらだたせました。彼はどんな病気かときかせました。激しい心労のあまり十五年このかた床についたきりだと答えますと、むろん、そんなことは信じなかったのでしょう、そのかわいそうな気の変になった女がねどこを離れないのは気位が高いためだと考えました。プロシャ兵を見たくないからだ、プロシャ兵と口をきかないため、袖をふれあわないためだ、と考えました。
自分に面接するようにと要求しました。そこでうちの者は士官を彼女の部屋へ案内しました。士官は、つっけんどんなドイツなまりで、こうききました。
「おぐさん、おぎて、下へおりて、みんなに会ってもらいだいな」
彼女は士官のほうへ、どんよりした目を、魂の抜けたような目を、向けましたが、返事はしませんでした。
士官は言葉をつづけました。
「無礼は許さんぞ。進んでおぎないなら、いくらでもひとりで散歩させてやるぞ」
婦人は身じろぎさえしませんでした。あいかわらず、まるで相手を無視したようにじっと動きませんでした。
士官はいきりたちました。このおだやかな沈黙を最高の軽蔑《けいべつ》のしるしととったのです。こうつけ加えました。
「あすた、下へおりなければ……」
こう言い捨てて、出て行きました。
翌日、老女中は、気もそぞろに、女主人の着がえをさせようとしましたが、気の狂った婦人は泣きわめきながら身をもがきます。士官がいそいで上ってきました。女中は、士官のひざにとりすがって、叫びました。
「いやだと申しております。隊長さま、いやだと申しております。許してあげてください。ほんとに気の毒な境涯なのです」
士官は、当惑して立ちすくみました。いかに腹がたっているとはいえ、部下に命じてねどこからこの婦人をひきずり出すことはさすがに決行しかねたのです。が、いきなり、声をたてて笑いだしたと思うと、ドイツ語で命令を下しました。
やがて一分隊の兵士が負傷兵をはこぶように毛ぶとんをかかえて出て行くのが見えました。一度も片づけたことのないこの寝床の中で、狂女は、あいかわらず黙り通し、ねかしておいてもらいさえすれば、ほかの事件にはまったく無関心で、じっと静かにしていました。そのうしろから一人の兵士が女物の着物の包みをかかえて行きました。
士官は手をこすりながら、宣告するようにこう言いました。
「ひとりで着がえをして、散歩に出ることができないかどうか、ちょっと見てやる」
それから、その一隊がイモーヴィルの森にむかって遠ざかって行くのが見えました。
二時間の後、兵士たちだけが帰ってきました。
その後二度と狂女の姿は見られませんでした。彼らはいったいこの女をどうしたのでしょうか? どこへつれて行ったのでしょう? それはついにわかりませんでした。
雪はいま夜となく昼となく降りつづけ、野原も森も氷の泡の屍衣《しい》の下に包みました。おおかみが家の戸口の近くまでやってきてほえました。
ゆくえの知れなくなったこの婦人のことが私の頭について離れず、私は、情報を得たいと思って、何度もプロシャ軍当局にたいして陳情を試み、あやうく銃殺されるところでした。
春がまためぐってきて、占領軍は移動しました。隣の婦人の家は戸をとざしたまま、屋敷の中の道には草があつく生いしげっていました。
老女中は冬のあいだに死に、この事件のことをもうだれも心にとめるものはありませんでした。私ひとりがたえず考えていました。
いったいあの婦人を彼らはどうしたのでしょう。森の中を抜けて逃げのびたのでしょうか? どこかでひとに救われ、慈善病院かなにかにいれられたまま、なにをきいても答えがないので、そのままになっているのではないでしょうか? 私の疑いをはらしてくれるような事実はなに一つ出てきませんでした。しかし、少しずつ、時が私の胸にひめた気がかりをしずめてくれました。
ところで、その年の秋、山しぎがいつになくたくさんわたりました。痛風の痛みがいくらか楽になっていたので、私は、少しむりをして森まで出かけて行きました。このくちばしの長い小鳥をすでに四、五羽いとめ、次の一羽もみごとにしとめたと思うと、獲物は木の枝のいっぱいつまっている窪地《くぼち》の中へ落ちて見えなくなりました。獲物を拾うために私はそこまでおりて行かなければなりませんでした。行ってみると獲物の落ちているそばにしゃれこうべがありました。と、とつぜん、あの狂女のことが、ぐわんとげんこのひとつきを食ったように、私の胸によみがえってきました。このいやな一年のあいだに、この森の中で、たぶんほかにもたくさん死んだ人間があるかもしれません。しかし、なぜということはなく、私ははっきりそうだと思いました。あの気の毒な頭の狂った女のしゃれこうべにめぐりあったのだ、それは動かすことのできない私の確信でした。
とつじょとして私は理解しました。いっさいを見抜きました。彼らは、冷たい人気のない森の中に、毛ぶとんの上にのせたまま、あの婦人をおき去りにしたのです。と、婦人は、一つことを思いつめたまま、ふりつもる軽い雪の綿毛の下で息たえたのです。手や足を動かすこともせず。
それから、おおかみが彼女の肉をむさぼり食ったのです。
小鳥がやぶれた寝床の毛で巣をつくったのでしょう。
私はこの悲しい遺骨を拾って、しまっておきました。私は激しく祈らずにいられません、われわれの子供たちは絶対二度と戦争を見てはならない、と。
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海の上のこと
――アンリ・セアールに――
最近新聞で次のような記事をよんだ。
「ブローニュ・スール・メール、一月二十二日発、――通信。
「おそるべき不幸がすでに二年このかたいくたの試練をへている当町漁民のあいだに狼狽《ろうばい》と悲嘆の色を濃くひろげている。船長ジャヴェルの指揮する漁船が入港せんとして、西に流され、突堤の波よけの岩にのりあげ、船体を破壊した」
「救助船の努力にもかかわらず、また救命火矢を使用して綱《つな》を打ち出したりしたが、乗組みの大人四名と見習い水夫は溺死をとげた」
「依然険悪な天候が続き、あらたなる不祥事の勃発《ぼっぱつ》が懸念されている」
この船長ジャヴェルというのはだれのことだろうか? ひょっとしたらあの、てんぼうの兄だろうか?
波のためにまきこまれ、おそらくは粉みじんになった自分の船の破片の下で横死《おうし》をとげた男がもし私の頭にうかんだ男だとすると、彼はもう一つ、今では十八年の昔になるが、もう一つ別な悲劇、波の上のおそろしい悲劇が常にそうであるように、おそろしいそして単純な悲劇の目撃者だったことがある。
ジャヴェル兄は当時|曳網《ひきあみ》船の船長だった。
曳網船というのは実に理想的な漁船である。どんな天候も恐るるに及ばぬ丈夫な船で、横腹が丸くふくれており、たえず波のためにコルクせんのようにもまれながら、いつでも波の外に出ており、たえずイギリス海峡の塩気の強い激しい風にむち打たれながら、疲れることを知らず、海を荒しまわる。帆を張り、横腹から大洋の底を洗いざらいひっかきまわす大きな網をおろしてひっぱりながら、岩のあいだに眠っているありとあらゆる獲物を引きはがし、拾いこむ。砂にぴったりへばりついている平たい魚、かぎのような足をもっているどっしりと重いカニ、尖ったひげのある大エビ。
風がやや強く波のうねりが短いというようなときに、この船は漁にかかるのである。その網は鉄の金具のついた太い木のさおに沿ってずっとしばりつけてあり、それを船の艫《とも》と舳《へさき》にとりつけてある二つのローラーの上をすべる二本の大綱をたよりにおろしてやる。と、船は風と潮に流されながら、海底をひっかきまわし荒しまわるこの機械を自分といっしょにひきずって行く。
ジャヴェルは乗組員として自分の弟と四人の水夫と一人の見習水夫を乗せていた。曳網をおろそうとしてよく晴れた日にブローニュを出帆したのだった。
ところが、まもなく風が出てきたと思ううちに、どっと突風がやってきたので、やむをえず曳網船は逃げ出さなければならなかった。イギリス側の岸へたどり着いたが、波浪の高い海が断崖に打ちよせ、陸地に襲いかかって、どの港へもはいることができなかった。小さな船は再び沖へ出てフランス側の岸をさして引きかえした。嵐はあいかわらず続いており、突堤を越えて中へはいることは不可能だった。すべての避難港の付近は一律に真白な泡とごうごうという物音に包まれ、危険で近よれなかった。
曳網船はまたしても出発した。波の背に乗って走り、もまれ、揺すぶられ、飛沫《ひまつ》をあげ、大波にたたきつけられながら。しかも、すべてを無視して、びくともしなかった。そうした荒天には慣れきっているのである。ときには五日も六日もこの隣りあった二つの国のあいだをどちらの岸にも船を着けることができずにそうやって漂流をつづけさせられることもある。
それからついに嵐がしずまった。ちょうど船が海のまんなかへ出ているときだった。波はまだ高かったが、船長は網をおろすことを命じた。
そこでこの大きな漁の道具はふなばた越しにおろされ、二人の水夫が舳《へさき》に、二人は艫《とも》にいて、ローラーをまわしながら網《あみ》をつなぎとめている太い綱《つな》をのばしてやる作業にかかった。どしんと、網が海の底についたが、そのとたん、大きなうねりが船をかたむけたひょうしに、舳にいて網の引きおろしを指図していた弟のほうのジャヴェルがよろめいたと思うと、あおりを食って一瞬間ゆるんだ綱と綱がその上をすべっていた木とのあいだに片腕がはさまれた。彼は必死の努力で、もう一方の手で綱を持ちあげようともがいた。だが、網は早くも海底を曳きずっており、ぴんと張ってしまった綱はびくともしなかった。
男は痛さに堪えかねて救いを呼んだ。みんなが駆けつけた。兄も舵棒《かじぼう》を離して飛んできた。一同は綱にとびかかり、押し潰している手を抜き取ろうと力をあわせた。どうしてもだめだった。
「切るんだな」と、一人の水夫がいったと思うと、ポケットから大きなナイフをとり出した。これなら、ぐいぐいと二度も力をいれればジャヴェル弟の腕を救うことができる。
だが、切るということは、それは網を捨てるということである。網には金がかかっている。莫大《ばくだい》な金がかかっている。千五百フランという大金が。これはジャヴェル兄の所有物である。兄は物をだいじがる性質の男だった。
彼は胸をしめつけられるような気持で叫んだ。「いかん、切るな。待て。いま船を風上へまわすから」こういい捨てて舵のほうへ走った。それからあらん限りの力で舵棒をぐっと下へ引きおろした。
船はなかなかいうことを聞かなかった。舵の押す力を金《かな》しばりにするこの網の重みのために動きがとれず、おまけに潮の流れと風のために押し流されていたのである。
ジャヴェル弟は倒れるようにひざをついていた。歯を食いしばり、眼は血走っていた。彼はひと言もいわなかった。兄がまた引きかえしてきた。あいかわらず水夫の一人がナイフのことをいいだしはしないかとびくびくしながら。
「待て、待ってくれ。切るなよ。錨《いかり》をおろせば大丈夫だぞ」
錨がおろされた。鎖の長さ全部をのばしてやった。それから曳網の綱をゆるめるために一同は万力のろくろをまわしにかかった。とうとう綱が少しゆるんだ。血だらけの服の袖の下にだらりとなっている腕を引き出した。
ジャヴェル弟は白痴《はくち》のようになっていた。仕事着を脱がせてみると、おそろしい光景が現われた。肉がぐにゃぐにゃにつぶされ、血がまるでポンプで押し出すように噴きでていた。すると男は自分の腕をながめて、つぶやくように「やられた」といった。
それから、血がとまらず、船の甲板の上に水たまりができるほどになったのを見て、水夫の一人が叫んだ。「血がなくなっちまうぞ。腕をしばれ、腕を」
そこで彼らはひもを持ってきた。瀝青《チャン》を塗った茶色の太いひもだった。それから傷口のすぐ上のところに巻きつけ、あらん限りの力をだして締めつけた。血の噴出が少しずつとまり、ついにぴったりとまった。
ジャヴェル弟は立ちあがった。腕は脇にだらりとさがっていた。もう一方の手でそれをつかんだと思うと、持ちあげ、引っくりかえし、揺すぶってみた。まるで切れてしまっていた。骨は砕けていた。筋肉だけの力でこのからだの断片がつなぎとめられていた。彼は陰気な眼でじっと考えに沈みながらそれをながめた。それから彼は畳んだ帆の上に腰をおろした。仲間は破傷風にならないように傷をたえず水でしめしているといいと忠告した。
彼のそばに手桶をおいてやった。刻々に、その中からコップで水をすくっては、おそろしい傷口にかけ、その上にちょろちょろ光るきれいな水の細い流れを流してやるのだった。
「下へ行ったほうがよくはないか」と、兄がいった。弟はおりて行ったが、一時間ほどするとまたあがってきた。たった一人でいるとかえって気持が悪かったのである。それに、外の空気のほうが気持がよかった。例の帆の上に腰をおろし、また腕をしめしはじめた。
大漁だった。大きな魚が白い腹を見せて彼のそばに横たわっていた。断末魔の痙攣《けいれん》にその腹をぴくぴくさせながら。彼は押しつぶされた自分の肉に水をかける手を休めずに、じっとそれをながめていた。
ブローニュに着こうとするころ、またしても風が出てきた。小さな船はまた無軌道の帆走をはじめた。おどりあがり、つまずき、かわいそうな負傷者を容赦なく揺すぶりながら。
夜になった。明け方まで荒れがつづいた。日の出に再びイギリスが見えたが、海がいくらかおだやかになったので、再びむかい風を間切り迂回《うかい》しながらフランスにむけて出発した。
その日の夕方、ジャヴェル弟は仲間を呼んで、点々と黒い斑点の出たのを仲間に見せた。いまははや彼のものではなくなっているそのからだの部分に一面にきたならしい腐敗の徴候が現われていた。
水夫たちはそれをながめながら、めいめい自分の意見を述べた。
「きっと破傷風に違いない」一人はそういう意見だった。
「塩水かけたほうがいいね」もう一人がこういった。
そこで塩水を持ってきてやり、患部にかけた。病人は鉛色になり、歯をがたがたいわせ少しからだをねじったが、声はたてなかった。
それから、やけどのような痛みがしずまると、「兄貴のナイフをかしてくれ」と兄にいった。兄は自分のナイフをさしだした。
「おれの腕をささえていてくれ、まっすぐに、上へ引っぱりあげるようにして」
彼のいうとおりにしてやった。
すると彼は自分で切断にかかった。静かに考え考え切った。かみそりの刃のように鋭い刃物で最後に残ったすじをたち切った。とたちまち、ひじから先のない腕になってしまった。彼は深いため息を吐きながら宣言するようにこういった。「しかたがない、こうするより。やられちまったからな」
彼はほっとしたような様子で力をこめて息を吸いこんだ。それからまた残っている半分の腕の上に水をかけはじめた。
夜はまた天気が悪く、船を陸につけることができなかった。
夜が明けたとき、ジャヴェル弟は切り離された自分の腕を取りあげ、永いこと検査した。腐敗の徴候がはっきり現われていた。仲間たちもやってきてあらためた。次々に手渡ししながら、さわってみたり、引っくりかえしたり、かいでみたりした。
兄がこういった。「そんなものはもう海へ捨てっちまえ」
それを聞くとジャヴェル弟は腹をたてた。
「やだぞ! それは、やだぞ! おれは不承知だ。おれのもんだぞ、そうじゃねえか、おれの腕だものな」
彼は自分の腕を取りもどして、ひざのあいだへおいた。
「やっぱり腐ることは腐るぞ」と、兄がいった。するとある考えが負傷者の頭にうかんだ。長いあいだ海の上にいなければならないようなとき、魚を貯蔵するのに塩のたるの中へ詰めこむことがあった。
彼はきいてみた。「塩かすの中へいれてもいいかな?」
「そうだ、そいつはいい」と他の連中がいっせいに合づちを打った。
そこで、早くも先日来の魚の獲物をみたしてあるたるの一本をあけ、そしていちばん底に腕をおいた。その上に塩をふりかけ、それからまた、一尾ずつ、魚をいれなおした。
水夫の一人がこういう冗談をいった。「せり売りのとき売ったらことだぞ」
みんな笑った。ジャヴェル兄弟だけが笑わなかった。
風はあいかわらず吹いていた。ブローニュが見えてもまだ翌日の十時まで風を間切って迂回しながら進んだ。負傷者は休みなしに傷口に水をかけつづけていた。
ときどき立ちあがって船の端から端まで歩きまわった。
かじを握っている兄は、頭を振り振り、眼で弟の後姿を追った。
とうとう港に帰り着いた。
医者は傷をあらためて経過は良好だといった。ひととおりの手当をしてくれて安静を命じた。けれどもジャヴェルは自分の腕を取りかえすまでは床につくことを欲しなかった。十字のしるしをつけておいたたるを見つけるために大急ぎで港に引きかえした。
彼の見ている前でたるがあけられた。塩かすの中にちゃんと保存され、しなびてはいるが、色つやはかえって新しくなったように見えるその腕を彼は再び手にとった。そのつもりでもってきたナフキンの中に包み、家へ持って帰った。
妻と子供たちはその父親のからだの一部分をいつまでも珍しそうにあらためた。指にさわったり、爪のあいだに残っている塩をほじくったりしながら。それから指物屋を呼んで小さな棺桶を造らせた。
翌日、曳網船の乗組員全員がこのからだから離れた腕の埋葬式に参列した。兄弟が、並んで、葬列の先頭に立った。教区の納室係がこの遺骸《いがい》を小脇にかかえていた。
ジャヴェル弟は船に乗ることをやめた。港でちょっとした役にありついたが、後にこの事件について話をするときは、いつも聞き手にむかって声を低めてこっそり打ち明けるのだった。
「兄貴が網を切る気になっていてくれたら、まだこの腕はついていたよ、確かなところ。だが、兄貴はけちだったからな」