脂肪の塊・テリエ楼
モーパッサン/木村庄三郎訳
目 次
脂肪の塊
テリエ楼
解説
訳者あとがき
[#改ページ]
脂肪の塊
数日間、引きもきらず、潰走《かいそう》する軍隊が市を通過して行った。それはもはや軍隊ではなく、烏合《うごう》の衆にすぎなかった。兵士たちは、髯《ひげ》ぼうぼう、服はぼろぼろ、見るかげもないありさまで、重い足を引きずって行った。軍旗もなく、隊伍《たいご》もなかった。みんな疲労|困憊《こんぱい》の極《きわ》み、放心して何を決心することもできず、ただ惰性《だせい》で歩いていた。もし、いったん立ち止まったら、そのまま、ばったり倒れてしまいそうにみえた。ことに目だつのは召集された兵士たちであった。恩給や利息で安楽に暮らしていた人々で、銃の重みで、身体《からだ》を|く《ヽ》の字に曲げていた。青年遊撃隊――これは若いだけに敏捷《びんしょう》で、そのかわり熱しやすく冷《さ》めやすく、攻撃、退却、ともに足の早い連中であった。彼らにまじって、赤い半ズボンがちらほら見えた。大会戦で、ほとんど徹底的な打撃をうけた師団の敗残兵だ。これら雑多な軍装の歩兵と並んで砲兵も歩いて行ったが、もともと地味な制服の砲兵は、いっそうみじめにみえた。ときどき、龍騎兵の冑《かぶと》が光ったが、歩きつけない彼らは、歩兵について行くのがやっとであった。
義勇軍の諸部隊がつづいた。「敗戦の復讐者《ふくしゅうしゃ》」「墓場の市民」「死の同伴者」――名前だけは勇ましかったが、いずれも山賊《さんぞく》よろしくのかっこうで、ぞろぞろと引き上げて行った。
彼らの隊長たちは、もともとラシャ商、穀物商、油脂商、石鹸《せっけん》商――それが財産と、ピンとはねあげた長い口髭《くちひげ》とに物いわせて将校になったという、いわば時局便乗型、一夜づくりの軍人であった。美々しい軍服、金モール、ピカピカ光るサーベル。口角泡《こうかくあわ》をとばせて作戦計画を論じあい、祖国の危機を救うのは俺《おれ》たちとばかり気炎をあげていた。そのくせ自分の部下さえ恐れ、その顔色ばかりうかがっていた。そのまた部下というのが、ときには猪突猛進《ちょとつもうしん》することもあったが、つねに略奪暴行、箸《はし》にも棒にもかからぬ手合いであった。
プロシア軍がルーアンに侵入してくる――もっぱら、そういう噂《うわさ》であった。
国民軍は二か月以来、鵜《う》の目|鷹《たか》の目、付近の森を偵察し、ときには味方の歩哨《ほしょう》を射殺するほど、はやりにはやっていたが、あるとき叢《くさむら》の中で小さなウサギが一匹、ゴソゴソ音をたてると、あわてて、わが家に逃げ帰った。ついこのあいだまで国道の周囲三リュー四方を脅《おびや》かしていた彼らの武器、軍服は、たちまち、どこかに影をひそめてしまった。
敗走するフランス軍の最後の兵士たちが、ようやくセーヌ川を渡った。サン・スヴェールからブール・アシャールへと道をとり、ポントードメールを目指しているのだ。兵士たちのいちばんあとから、将軍が左右をふたりの副官に守られながら歩いていた。将軍は絶望していた。宙を踏む心地であった。こんなぼろ切れのような軍隊では、もはや何を企てることもできないであろう。それにしても戦えば必ず勝ち、その武勇が伝説にまでなっているこの大国民が、こんな無残な敗北をこうむるとは……。
やがてルーアン市には深い沈黙がただよった。不安な、無言な待つ気持ち――嵐《あらし》の前の静けさであった。長年の商人生活でいわば去勢されてぶくぶくと肥った商人たちは、台所の焼串《やきぐし》や庖丁《ほうちょう》まで武器に思われはしないかと、びくびくしながら、戦勝軍の侵入を、きょうか、あすかと待っていた。
生活は停止してしまったように思われた。店々は戸を閉め、往来には人声がなかった。ときどき、付近の住民が、この沈黙に怯《おび》えきったように、こそこそ家々の壁にそって走って行った。
焦燥感から人々は、敵軍の侵入を待ち望むような気持ちにさえなった。
フランス軍が市を撤退した翌日の午後、プロシア軍の槍騎兵が数騎、どこからともなく現われて、風のように市を駆けぬけて行った。すると、ややしばらくして敵の一部隊が、まっ黒なかたまりとなって、サント・カトリーヌの丘をくだってきた。別の二つの部隊は、ダルネタール街道と、ボワギョーム街道とから、ひたひたと潮《うしお》のように押し寄せてきた。これら三つの部隊の先鋒《せんぽう》は、同時に市役所前の広場で相会した。やがて、広場に集まるあらゆる街路から、プロシア軍が舗道に軍靴《ぐんか》の音も高く、整然と歩調をとって広場にくりこんできた。聞きなれない、けたたましい声で叫ばれる号令が、家々にそって走った。その家々の閉めきった鎧戸《よろいど》の隙間《すきま》からは、あらゆる目が、こっそりと、それらの勝ち誇った男たちを眺《なが》めた。「戦争の法則」によって、これから、この市《まち》の主人となり、その生命財産を思いのままにする男たちである。
住民たちは暗くした部屋の中で、さながら大洪水や大地震にあったときのように――人間の知恵や能力ではどうすることもできない大災害にあったときのように、呆然《ぼうぜん》自失していた。なぜなら秩序や安全が破壊され、人間や自然の法則によって保護されていたあらゆるものが、本能的な獣性によって蹂躙《じゅうりん》されるときにも、人々は同じ虚脱状態におちいるからだ。倒れた家々の下で全住民を押しつぶす大地震。溺《おぼ》れた農民たちを牛の死骸《しがい》や剥《は》ぎ取られた屋根もろとも押し流す大洪水。――それらの天変地異とひとしく、勝ちに乗じて侵入してくる敵軍もまた大災害だ。彼らは抵抗する人々を虐殺し、抵抗しない人々を捕虜にする。「サーベル」の名において略奪し、大砲の音によって「彼らの神」に感謝する。そして、永遠の正義や神の加護や人間の理性に対して、われわれの抱《いだ》いているあらゆる信頼を根底から狂わせてしまう。
しかし、まもなく敵兵は、数人ずつに分かれて家々の戸口をたたき、その中に消えて行った。侵入軍、変じて占領軍になったのだ。勝者を歓迎しなければならない敗者の義務がはじまった。
数日して、最初の恐怖が消え去ると、新しい一種の平穏がおとずれた。多くの家でプロシアの将校が、その家の家族と食卓をともにした。将校のなかには、上流家庭出身の子弟もあって、たとえ礼儀上にせよ、フランスに同情し、戦争は自分も好まない、不本意ながら参加した、などと言った。フランス人は、相手が好意を持ってくれることを喜んだ。というのは、あすにも、そういう好意にすがらないともかぎらない、と思ったからだ。相手の歓心を買っておけば、たとえば、割り当てで宿泊を引き受けなければならない兵士の数を、いくらかでも、少なくしてもらえるだろう。だいいち、絶対勝ち目のない喧嘩《けんか》を売るなどと、だれがそんなことをするだろう? そんなことをするのは、勇敢というよりも無謀というべきだ。
無謀――そんな欠点を、もはやルーアン市民は持っていなかった。昔、勇敢に防戦して、ルーアン市の名を天下に轟《とどろ》かせたときとは時代がちがっているのだ。
結局人々は、外国人の将兵たちとは、おおっぴらに親しくしなければ、陰では、どんなに仲好くしても差し支《つか》えない、と思うようになった。それは、いかにもフランス人らしい洗練された社交性からくる物わかりのよさ、といえなくもなかった。人々は戸外でこそ知らぬ顔をしたが、家庭内ではプロシア人たちと談笑した。またプロシア人にしても、夜ごと、しだいに遅くまで、フランス人たちと暖炉を囲むようになった。
市そのものも、しだいに、平和なときと変らない様子を取り戻していった。フランス人たちは、まだほとんど外出しなかったが、町々は、散歩するプロシア軍の将兵たちで賑《にぎ》わっていた。プロシア軍の青い制服を着た軽騎兵の将校たちは、長い人切り庖丁を、これ見よがしに舗道に引きずって歩いたが、その彼らにしても、去年、同じ酒場で飲んでいたフランス軍の猟兵の将校たちよりも、もっとひどく市民を軽蔑《けいべつ》しているようには見えなかった。
とはいえ、空気中には、何か異様な未知のものが――耐えがたい重苦しい雰囲気《ふんいき》が、臭《にお》いのようにただよっていた。侵入軍の臭いだ。それは家という家を、広場という広場を満たし、食べ物の味を変え、人々に危険な蛮族のあいだを旅行しているような印象を与えた。
戦勝軍は、金を、それも多額な金を強要した。強要されるたびに、市民たちは、とくに商人たちは応じた。とにかく金があったからだ。
しかし、ノルマンディの商人は、金が溜《た》まれば溜まるほど、あらゆる出費を恐れ、自分の財産のどんな一部分でも、それがむざむざ人手に渡るのを見るに耐えない。
ところで、ルーアンからセーヌ川にそってクロワッセ、ディエップダール、ビサールの方へくだる二、三リューのあいだでは、船頭や漁師が、しばしば、水ぶくれした軍服姿のドイツ人〔プロシア人〕の死体を川から引き上げた。それらの死体は、いずれもナイフで刺されたり、どた靴《ぐつ》で蹴《け》られたり、石で頭を割られたり、橋から突き落とされたりしたものであった。これらの復讐は、いつも川底の泥土のなかに闇《やみ》から闇に葬られた。それは陰険で野蛮で、しかも正当な復讐であり、人に知られぬ英雄的行為であり、そして、白昼の戦いよりも、あるいは、もっと危険で、そのうえ名誉を称《たた》えられることのない無言の攻撃であった。
なぜなら、異民族にたいする憎悪《ぞうお》は、「信念」のためには死をも恐れない大胆不敵な人々に、つねに武器をとらせるからである。
ところで、侵入軍は、きびしい軍律のもとに市を屈服させてはいたが、彼らが勝利の進軍の途中で、かずかずの残虐行為を犯したということが、たんなる噂にすぎないとわかると、人々は、しだいに大胆になった。そして、土地の商人たちは、また、以前のように商売をしたいと思うようになった。彼らのなかには、商売上、ルアーヴルに重要な関係を持っている者が少なくなかった。ルアーヴルは、まだフランス軍が確保している。陸路、ディエップまで行き、そこから船に乗れば、ルアーヴルに達することができる。
そこで彼らは、かねて知り合いのドイツ軍の将校たちに頼んで、その力添えで、ついに司令官から出発の許可を得た。
この旅行のために、四頭だての大型駅馬車が予約された。座席を申し込んだのは十人で、彼らは人目を避けるため、火曜日の朝、夜の明けないうちに出発することにした。
その数日前から、寒さはいっそうきびしくなり、地面はコチコチに凍《い》てついていた。月曜日の午後三時ごろ、北の方から大きな黒い雲が現われて、こちらに近づいてきた。と思うと、雪が降りだした。雪は、ひと晩中、絶え間なく降りつづいた。
午前四時半、旅客たちは、ノルマンディ・ホテルの中庭に集まった。ここから馬車は出発する。
旅客たちは、寝惚《ねぼ》け眼《まなこ》をこすりこすり、毛布にくるまって寒さに震えていた。暗いので、たがいの顔が、よくわからなかった。みんな厚い冬物《ふゆもの》を山と着こんでいるので、肥った坊さんが長い衣をまとっているようにみえた。しかし、そのうちに、ふたりの男が、たがいに、それと気がついた。すると、三番目の男が、そこへ近づいて行った。三人は話しはじめた。
「わしは家内を連れて行きます」
「わたしも」
「てまえも」
すると、最初の男がつけくわえた。
「わしも家内も、ルーアンには戻らないかもしれません。もし、プロシア軍がルアーヴルに近づいてきたら、イギリスへ渡るつもりです」
話し合ってみると、三人とも同じ計画を持っていた。似たり寄ったりの気質だからだ。
ところで、馬車に馬をつける気配は、いっこうになかった。厩《うまや》の番人の持つ小さなカンテラが、ときどき、暗い戸口の一つから出て、すぐ次の戸口に消えた。馬どもが、しきりに土間《どま》を蹴っていたが、寝藁《ねわら》が敷いてあるので、足音は、あまり響かなかった。馬どもに話しかけたり、叱《しか》ったりする声が、厩の奥でした。かすかな鈴の音が聞こえてきた。馬どもに馬具をつけているのだ。その鈴の音は、馬どもがからだを動かすのに拍子《ひょうし》を合わせて、つづけさまにリンリンと聞こえるようになった。鈴の音は、ときどきやみ、また馬どもが激しくからだを揺するにつれて高く響いた。その音といっしょに、蹄鉄《ていてつ》が土間を打つ鈍い音も聞こえた。
戸口が急に閉まった。あらゆる物音がやんだ。旅客たちは寒さに凍えて棒立ちになったまま黙りこくっていた。
白い綿花《めんか》のとばりが光りながら、たえず地上に向って降りていた。それは、あらゆる物の形を消し、あたり一面を氷の泡でおおっていた。冬の下に埋もれ、静まり返った市《まち》の大きな沈黙の中には、降りしきる雪の音しか聞こえなかった。あとからあとからと数限りなく舞い落ちる雪片のかすかな摩擦音は、音というよりは一種の感覚であり、天地をみたす微小な原子の交錯であった。
さっきの男が片手にカンテラを持ち、片手に手綱《たづな》を持って、一頭の馬を引っ張りながら出てきたが、馬は自分からは歩こうとしなかった。男は馬を轅《ながえ》につけ、輓革《ひきがわ》をかけると、馬具の工合をしらべるため、馬の回りをまわったが、長いあいだかかった。カンテラを持っているため、片手しか使えないからだ。二番目の馬を引いてこようとして、ふと、旅客たちが雪でまっ白になり、棒立ちになっているのを見ると、声をかけた。
「何で馬車に乗らねえんです? 雪だけは、よけられますぜ」
ああ、そうだったとばかり、旅客たちは馬車に駆け寄った。まず、さっきの三人の男が、めいめい細君を助け乗せ、つづいて自分たちも乗り、いちばん奥に、三人ずつ、たがいに向い合って陣どった。それから他の連中が無言のまま乗り込んだ。この連中も、ぶくぶくに着ぶくれて、えたいの知れぬかっこうをしている。
馬車の床《ゆか》には、藁が敷いてあったので、その中に足を埋めることができた。いちばん奥に並んで腰掛けた三人の細君は、それぞれ小さな銅製の足行火《あしあんか》と炭団《たどん》とを持ってきたので、さっそく炭団に火をつけた。そして、しばらくのあいだ、たがいに低い声で、足行火の効能を――とっくにわかりきっていることを、くどくどと述べたてた。
やっと、全部の馬が馬車につけられた。いつもなら四頭ですむところだが、六頭つけられた。この雪で、道中、骨が折れるからだ。
馬車の外で叫んだ。
「みんな、乗ったかね?」
馬車の中で答えた。
「乗ったよ」
馬車は、のろのろと進んで行った。車輪が雪にめりこんだ。車体が軋《きし》んだ。馬どもはあがき、あえぎ、からだ中から湯気をたてた。御者の持つ、途方もなく長い鞭《むち》はたえず鳴り、空《くう》を切って、あちらに飛びこちらに飛び、蛇《へび》のようにからまったり、ほどけたり。そして、突然、ピシリと、どれかの肥えた尻《しり》を打つ。尻はビクッとして、いっそう力をこめる。
しかし、夜はしだいに明けかけた。さっき旅客のひとりが、いかにも生粋《きっすい》のルーアン人らしく綿花の雨にたとえた軽い雪は、いつかやんでいた。黒い大きな雲をとおして、鈍い光が射《さ》しはじめ、その雲は野面《のづら》をいっそう白く見せた。野面には、つぎつぎに、樹氷におおわれた大木の並木や、雪の頭巾《ずきん》をかぶった農家が現われた。
馬車の中には、夜明けの光が、ほのかにただよっていた。その光を透かして、旅客たちは、たがいに、ちらちらと好奇の眼差《まなざ》しを交《かわ》しあった。
いちばん奥には、ロワゾー夫婦が向い合って腰掛けて、うつらうつらしていた。ロワゾーは、グラン・ポン街のワイン問屋である。
むかし奉公していた店の主人が事業に手を出して失敗すると、その店を買い取って産をなした。安かろう悪かろうのワインを、手広く田舎《いなか》の小売り商人たちに売りつけていた。むちゃくちゃに陽気で、そのくせ腹の底では何をたくらんでいるかわからないずるいやつ、生まれながらのノルマンディ人――それが友人や知人のあいだでの彼の通り相場であった。
彼が海千山千のしたたか者であることは、ひろく世間にも知られていた。こんな話がある。トゥールネル氏といえば、寓話《ぐうわ》詩やシャンソンの作者として、あるいは機知にとんだ風刺《ふうし》家として、この地方では、ひとかどの名士であったが、そのトゥールネル氏が、ある晩、知事官邸の舞踏会で、婦人たちが退屈して眠そうにしているのを見ると、こんなことを言った。
「ロワゾー・ヴォルでもいたしましょうか?〔カード遊びの一種だが、「ロワゾーは盗む」という意味にかけている〕」
すると、この言葉は、たちまち知事官邸の客間から客間へと伝わり、さらに町中の客間から客間へと伝わって、ひと月のあいだ、市《まち》の人々の顎《あご》をはずさせたものである。
もっともロワゾーは、あの手この手で人を笑わせることでも有名であった。人を嬉《うれ》しがらせる冗談を、また、ときには、人を嫌《いや》がらせる冗談を言うことでも有名であった。だから人々は、彼の噂をするたびに、すぐ、こうつけくわえずにはいられなかった。
「どうして、どうして、たいしたやつですよ、あのロワゾーは……」
ずんぐりむっくりした身体つき。太鼓《たいこ》腹。その太鼓腹の上に、白髪《しらが》まじりの頬髯《ほおひげ》に囲まれた赤ら顔をのせている。
ところが、細君のほうは背が高く、がっちりした身体つき。よくとおる声で、物事をてきぱきと片づけていく。彼女は、亭主が鼻歌まじりで目まぐるしく動きまわっている店の、いわば秩序であり計算である。
ロワゾー夫婦の隣りには、カレ・ラマドン夫婦が、これも向い合って腰掛けていた。カレ・ラマドンは、いわゆる上流階級に属していて、それらしく、もったいぶってかまえていた。彼は三つの製糸工場を持つ紡績業界の有力者で、レジョン・ドヌール勲章の所持者で、県会議員でもあった。帝政時代を通じて、ずっと反対派の領袖《りょうしゅう》であったが、その態度は、はなはだ微温的であった。つまり彼自身の言葉によれば「鈍刀《なまくら》」を振りまわしていた。そして、それは、いざ時勢が変ったという場合、いくらかでも自分を高く売りつけるためであった。
カレ・ラマドンの細君は、夫とは親子ほど年が違っていた。彼女は、ルーアン守備のため駐在していた上流家庭出身のフランス軍の若い将校たちにとっては、あこがれのまとであった。
可憐《かれん》な美人である。毛皮にうずまり、さも悲しそうな目つきで陰気な車内を眺めていた。
カレ・ラマドン夫婦の隣りには、ノルマンディきっての名門、ユベール・ド・ブレヴィル伯爵《はくしゃく》と、その細君とが腰掛けていた。伯爵は風采《ふうさい》堂々たる老貴族で、生まれながらにしてアンリ四世に似ているところから、髪かたちや服装にまで工夫をこらし、いっそう似るようにつとめていた。ブレヴィル家の誉れある伝説によれば、むかし同家の一夫人はアンリ四世の寵をうけて懐妊《かいにん》したので、彼女の夫は伯爵に列せられ、州知事に任ぜられたというのである。
伯爵はカレ・ラマドンと同じく県会議員で、県のオルレアン党を代表していた。その伯爵が、どうしてナントの小さな回船問屋の娘と結婚したかは、いまもって謎《なぞ》に包まれている。ところが、伯爵夫人は押し出しも立派なら社交にも長《た》け、しかも、かつてルイ・フィリップの息子のひとりに愛されたという噂もあって、あらゆる貴族から下にも置かぬ扱いをうけていた。彼女の客間は昔ながらの優雅さを保ち、そこに迎えられることは困難で、その点で、この地方随一のものであった。
ブレヴィル家の財産は、すべて不動産で、年収五十万フランに達すといわれていた。
以上の六人が車内の奥をしめていた。いずれも富あり、力あり、安逸に日を送り、しかも「宗教」も「主義」をも持つ、世間的には押しも押されもしない人々であった。
奇妙な偶然で、車内の一方の腰掛けには、女たちばかりが並んでいた。伯爵夫人の隣りには、ふたりの修道女が腰掛けていて、長い数珠《じゅず》をつまぐりながら、「パーテール」と「アヴェ」とをつぶやいていた。ひとりは年寄りで、ひどい痘痕面《あばたづら》で、まるで至近距離から散弾の雨をあびたように顔中穴だらけであった。もうひとりは器量よしだが、肺を病んでいるらしく、いたいたしいほどにやせ、その薄い胸は、殉教者や見神者にありがちな、あの苦しい信仰によって、さいなまれているようにみえた。
ふたりの修道女と向い合って、男がひとり、女がひとり、腰掛けていたが、ふたりは車内の人々から、じろじろ見られていた。
男は、ルーアンでは、だれ知らぬ者もない共和主義者で、上流階級から鼻つまみになっているコルニュデであった。彼は二十年来、共和主義者の集まるあらゆる酒場のビールに、その長い赤茶けた顎髯をひたしてきた。糖菓製造業者だった父の遺産が相当あったが、主義を同じくする連中と飲みつぶしてしまい、共和制の実現を、いまやおそしと待ち焦《こ》がれていた。共和制が実現すれば、いままで革命に入れあげてきた金に匹敵《ひってき》する地位が得られる、と思い込んでいたからだ。九月四日、おそらく一場《いちじょう》の茶番劇の結果だったろうが、彼は自分が知事に任命されたと思い込んだ。しかし、任務につこうとすると、知事室を占拠していた若い事務員たちから、そんな知事は知らないと言われ、ほうほうのていで引き上げた〔一八七〇年九月二日、ナポレオン三世はセダンで降伏、この報を受けて帝政は崩壊、共和制が宣言された。この際、群集はパリの役所になだれこんだが、ルーアンでも同様な騒ぎとなった〕。――そんなことはあったが、しかし、とにかく彼はすこぶる気のいい男で、だれにたいしても親切で世話好きで、こんどの戦争でも、市を防衛するため骨身おしまず働いた。近郊のあらゆる野原に穴を掘らせ、あらゆる森に若木を横たえさせ、あらゆる街道に罠《わな》をしかけさせた。そして、敵軍が近づいてくると、自分の用意に満足して、意気揚々と市へ引き上げてきた。そして、こんどはまたルアーヴルへ行こうとしているのだ。ルアーヴルで、新しい防衛が必要となるであろう。さらに、ひと働きするつもりである。
コルニュデの隣りに腰掛けている女は、玄人《くろうと》と呼ばれる女たちのひとりであった。若いくせに、でっぷり肥っているのが評判で、それゆえ「でぶ」という綽名《あだな》をつけられていた。背が低く、身体中、どこもかしこも、まるまるとして、ふっくらした指は関節のところがくびれ、まるで短いソーセージを並べたようだ。つやつやしてピンと張りきった肌《はだ》、服の下で山のように盛りあがっている乳房、しかし、彼女の新鮮さは見た目にこころよく、男ごころをそそって、いたるところで引っ張り凧《だこ》であった。顔は紅《あか》い林檎《りんご》か、ひらきかけた牡丹《ぼたん》の蕾《つぼみ》のよう。長い濃い睫毛《まつげ》が影を落としている黒い大きな目、接吻を待って濡《ぬ》れているような小さな可愛《かわい》らしい唇《くちびる》。その唇のあいだからは、白く輝く小さな乳飲み歯がちらちら見える。
そのうえ彼女は、それとは人にわからない、さまざまないいところを持っている、とささやかれていた。
彼女がだれだかわかると、堅気《かたぎ》の女たちのあいだで、ひそひそ声が起こった。「淫売《いんばい》」「売笑婦」そんな露骨な言葉が耳にはいると、「でぶ」はキッと顔をあげて、そちらを睨《にら》んだ。いどむような、大胆な目つきだ。急に女たちはシーンとなって目を伏せた。ただロワゾーだけが、「でぶ」の顔をちらちら見ながら、嬉しそうににやにやしていた。
しかし、やがて三人の女たちは、また、ひそひそとやりだした。娼婦と同車していることで、彼女たちは急にうちとけた気持ちになり、ほとんど親友どうしになったのだ。この恥知らずの女に対抗して、自分たちは一致団結して、人妻としての権威を示さなければならない、そう思ったらしかった。もっとも、合法的な愛が、ふしだらな愛を見下すことは、ごく当り前なことなのである。
三人の男は男で、コルニュデの姿を見ると、これまた保守主義者の本能で、たがいに、うちとけた気持ちになった。貧乏人に対する一種軽蔑をこめた調子で、わざと金に関する問題を話しだした。ユベール・ド・ブレヴィル伯爵は、プロシア軍からうけた損害を――家畜を盗まれたり、作物を荒らされたりしたことを話した。しかし、そんな損害は一年たらずで取り戻せる千万長者らしい、それはいかにも鷹揚《おうよう》な口調であった。紡績業界の大立て者、カレ・ラマドンは、万一の場合に備えて六十万フランをイギリスへ送っておいた、と話した。すると、ロワゾーは、地下倉庫に貯蔵してあるワインを全部、フランス軍の兵站部《へいたんぶ》へ売る契約がしてあるので、政府から莫大《ばくだい》な金額を受け取ることになっていて、その金は、たぶんルアーヴルで受け取ることができるだろう、と話した。
こんな話をしながら三人は、ちらちらと親しそうな視線を交しあった。金が取り持つ縁《えん》で、兄弟のように感じあった。ポケットの中に手をつっこんで金貨をジャラジャラいわせている、いわゆる持てる者の大きな秘密結社――たがいに、その一員であることを認め合った。
馬車は、あいかわらず、のろのろと進んでいた。もう午前十時だというのに、まだ四リューとは進んでいなかった。男たちは三度、馬車から降りて、歩いて坂を登らなければならなかった。旅客たちは心配になりだした。トートで昼食をとる予定だったが、このぶんでは、そこに着くまでに日が暮れてしまうだろう。街道すじに居酒屋でもないかと、人々は、ずっと窓の外を見張っていた。ところが、それどころではなくなった。馬車が、大きな雪の吹き溜まりに、もぐりこんでしまったのだ、そこから馬車を引き出すために二時間もかかった。
また出発したが、空腹はますますひどくなり、みんな、いらいらしだした。食べ物を売る店も酒を売る店も、一軒として見あたらなかった。プロシア軍の進撃と、フランス軍の退却とに恐れをなして、あらゆる店が戸を閉めていたからだ。
男たちは、街道にそった農家を見かけるたびに走って行って、何か食べる物を売ってくれと頼んだが、パンさえ手に入れることができなかった。百姓たちは、貯蔵の食糧を全部隠していた。飢えた兵隊どもに見つけられたらさいご、いっさい略奪されてしまうからだ。
午後一時ごろ、ロワゾーは、いよいよ、がまんができなくなって、「ああ、腹がへった」と、思わず大きな声を出した。他の者たちも、もうだいぶ前から同じ苦しみを感じていた。何か食べたい――刻一刻につのる、その激しい欲望で、会話はとっくにとだえていた。
ときどき、ひとりが欠伸《あくび》をした。すると、それはすぐ他の者にうつった。人柄、育ち、身分によって、大口をあけて無遠慮にする者もあれば、慎《つつ》ましく片手を口に持っていく者もあった。しかし、その片手で押えた口からも、白い息が洩《も》れた。
「でぶ」は腰掛けの下から何かを取り出そうとするように、たびたび身をこごめたが、そのたびにためらって、あたりの人々の顔をうかがい、また、そっと身を起こした。ロワゾーは、「ハムひと切れあったらなあ、千フラン出しても惜しくないぞ」と、大声で言った。細君は、とんでもない、という身ぶりをしたが、口に出して言うのは、やっと思いとどまった。亭主は、とかく大風《おおふう》なことを言う。たとえ軽口にせよ、金をむだに使う、そういう言葉を聞くことは、彼女にとっては、つねづね、身を切られるようにつらかったのだ。
さすがの伯爵も、ロワゾーの言葉につられて、こんなことを言った。
「じつのところ、わしも少々こたえましたよ。こんなことなら弁当を持ってくるんでしたが」
うっかりした……だれの思いも同じであった。
ところで、コルニュデは水筒にいっぱいラムを詰めて持ってきていたので、いかがです、と差し出したが、だれもそっけなく断わった。ただロワゾーだけが二杯ちょうだいして、水筒を返しながら、
「いや、どうもどうも。酒はやっぱりいいですな。身体はあったまるし、腹のへったのもごまかせるし」
酒がはいって上機嫌《じょうきげん》になったロワゾーは、口から出まかせの冗談を言いはじめた。
「どうです、みなさん、あのシャンソンにある船乗りたちのように、みんなの中で、いちばん肥った人を食べちまおうじゃありませんか。おいしい。きっと、おいしいですよ」
あきらかに、「でぶ」目当てのくすぐりだ。上品ぶった人々は、眉《まゆ》をひそめた。だれも返事をしなかった。ただコルニュデだけがニヤニヤした。ふたりの修道女は、もはや、お祈りをつぶやくのもやめ、両手をたがいちがいに広い袖口《そでくち》に入れ、目を伏せたまま、じっと身動きもしなかった。
ついに三時になった。馬車は、見渡すかぎり村ひとつ見えない平野のまん中にかかっていた。「でぶ」は急に身をこごめて、腰掛けの下から白い切れに包んだ大きな籠《かご》を取り出した。
籠の中から、まず陶器の小さな皿《さら》と銀のきれいなコップとを取り出すと、次には、これも陶器の大きな蓋物《ふたもの》を取り出した。蓋物の中には、まるのままの雛鳥《ひなどり》が二羽、すぐ食べられるようにナイフが入れられて、煮凍《にこご》りのようになった汁《しる》につかっていた。籠の中には、そのほかにも、まだいろいろ、うまそうなものが包んであった。挽肉《ひきにく》のパイ、果物、砂糖菓子。――旅の三日間、宿屋で出すものを食べないですむようにと用意してきた食糧だ。
それらの食べ物の包みのあいだからは、ワインのびんも四本、細長い首を立てていた。「でぶ」は、雛鳥のつばさの肉をひとつ取ると、ノルマンディでは「レジャンス」というあのプティ・パンといっしょに食べはじめた。いかにも、あたりに気をかねた様子であった。
みんな思わず彼女のほうを見た。そこへプーンといい匂いがしてきたので、鼻の穴がひろがり、唾《つば》が溜まり、両耳の下から顎にかけて皮膚がピクピクひきつった。娼婦にたいする堅気の女たちの軽蔑は憎悪に変った。殺してやりたい、くらいであった。グラスや籠や食べ物もろとも、馬車の外に、雪の中に、放り出してやりたい、と思った。
ただロワゾーだけは、雛鳥のはいった蓋物を穴のあくほど見つめながら、ひとりごとのように、
「いや、恐れ入りましたな。じつにどうも用心のいいことで、われわれとは大違い。それにしても世の中には、万事ぬかりのない人もいるもんで……」
彼女は、彼のほうに顔を向けると、
「よろしかったら、どうぞ。朝からなんにもあがらないでは、たまりませんわ」
待ってました、とばかり彼はペコリとひとつお辞儀をすると、
「じゃあ遠慮なくちょうだいするとしましょう。もう目がまわりそうで。……戦争中は戦争らしく、相身《あいみ》たがい、ですかな、奥さん」
それから、みんなをぐるりと身まわすと、
「こんな時節に、ご親切なかたに巡り会うなんて、これぞまさしく地獄で仏ですわい」
そして、ズボンを汚さないように、膝《ひざ》の上に新聞紙をひろげると、いつもポケットの中に持っているナイフを取り出し、ゼリーのように凍った汁のたっぷりついた脾肉《ももにく》を突き刺して口に持って行き、むしゃむしゃやりだした。さもうまそうだったので、馬車の中には大きな溜息《ためいき》が起こった。
「でぶ」は修道女たちにも、慎ましい、やさしい声で、おひとつ、いかが、とすすめた。修道女たちは、すぐうなずいて、あいかわらず目を伏せたまま、何か小声で礼を述べると、さっそく食べはじめた。コルニュデも、隣りに腰掛けている「でぶ」の申し出を辞退しなかった。「でぶ」とコルニュデとは、向い合って腰掛けている修道女たちと、まるでひとつテーブルを囲むようにして、膝の上に新聞紙をひろげた。
四つの口が、たえず、開いたり、閉じたりして、噛《か》んだり、呑《の》みこんだり、いそがしく動いた。
ロワゾーも四人といっしょに、むしゃむしゃやっていたが、小声で細君に、おまえも遠慮するな、としきりにすすめた。細君は頑固《がんこ》に意地を張っていたが、そのうちに腹の中がキューッと引きつってきたので、とうとう降参した。そこでロワゾーは「でぶ」に、猫撫《ねこな》で声で、家内にも少々、お分けねがえまいか、と頼んだ。
「さあ、さあ、どうぞ、どうぞ、旦那《だんな》さま」
と、「でぶ」はニッコリ笑って、雛鳥のはいった蓋物を差し出した。
ワインの最初の一本をあけたとき、ちょっと工合のわるいことが起こった。コップがひとつしかなかったので、めいめい飲んだあとでは、拭《ふ》いて渡さなければならなかったのだ。しかし、コルニュデだけは、「でぶ」が唇をつけた、まだ濡れているところへ唇をつけて飲んだ。おそらく「でぶ」の気を引く心からであったろう。
ところで、ブレヴィル伯爵夫婦とカレ・ラマドン夫婦とは、さんざんうまそうな匂いをかがされて、あのタンタロスの苦しみを、いやというほど味わされていた。すると突然、ラマドンの若い細君が、悲鳴にも似た大きな溜息をもらしたので、みんなは思わず振り返った。細君は目を閉じ、がっくりとうなだれ、顔色は車の外の雪よりも白かった。気を失ったのだ。ラマドンはびっくり仰天、おろおろ声で、みんなの助けを求めたが、だれもあわてるばかり。すると、年とったほうの修道女が細君の顔を持ち上げ、「でぶ」のコップを唇に押し当てて、ワインを数滴、流し込んだ。美人の細君は、身体を動かし、目をパッチリあけ、微笑すると、蚊《か》の鳴くような声で、もうすっかりよくなりました、と言った。しかし、修道女は用心のためにと言って、ワインをコップに一杯、むりに飲ませた。そして、つけくわえた。
「いいえ、おなかがおすきになっただけでございますよ」
すると、「でぶ」は、朝から断食をつづけている四人の旅行者を見まわして、顔を赤らめながら、おどおどとつぶやいた。
「いかがでございましょう、旦那様がたも奥様がたも、おあがりになりましては……」
そこで急に口をつぐんだ。身のほどをわきまえろ――そんな侮辱《ぶじょく》の言葉が、はねかえってくることを恐れたのだ。すると、ロワゾーが引き取って言った。
「なあに、こんなときでさあ。おたがいに、兄弟同様助け合わなけりゃあ。……さあさあ、奥さんがた、ここはひとつ、ざっくばらんに。遠慮はご無用! ひょっとすると、今夜は泊まるところもないかもしれませんよ。こんなぐあいだと、トートに着くのは、あしたの昼ごろになっちまいますぜ」
みんな、ためらった。「では、そういたしましょう」と言う者は、だれもなかった。自分がまっ先に口火を切ることは、何となく、うしろめたかったのだ。
しかし、伯爵が一気に問題を解決した。おどおどしている肥った娼婦のほうに向き直ると、貴族らしい、もったいぶった態度で、やおら言った。
「ありがたく、ちょうだいいたします、奥様」
難関は最初の一歩だけ。ひとたびルビコン川を渡ってしまうと、あとは遠慮も会釈もなかった。籠はたちまち空になってしまった。とはいっても、まだそこにはフォワグラや、雲雀《ひばり》のパイや、牛の舌の燻製《くんせい》や、クラサンや、ポン・レヴェックのチーズや、プティ・フールや、それから酢づけにしたキュウリやタマネギのいっぱいはいったびんもあった。「でぶ」は、あらゆる女と同様、なまの野菜が好きなのである。
ご馳走《ちそう》になった以上、いかに相手が娼婦でも、口をきかないわけにはいかなかった。そこで話しはじめた。最初は用心しながら、しかし、相手が思ったより品がいいので、しだいに、うちとけて話すようになった。ブレヴィルの細君も、カレ・ラマドンの細君も、社交はお手のもの、下品にならぬかぎり、なんでも相手に調子を合わせた。ことにブレヴィルの細君は、どんな下々《しもじも》の者に会っても、けっして名誉や体面にかかわることのない大貴族の夫人に特有な、あの優美で寛闊《かんかつ》な態度を見せた。しかし、心も身体も、頑丈《がんじょう》一点ばりなロワゾーの細君は、どこまでもむっつりしていて、あまり話さず、そのかわり、さかんにぱくついた。
話は、しぜん戦争のことになった。あいもかわらずプロシア軍の野蛮さとフランス軍の勇敢さ。しかし、故郷を見捨てて逃げて行く自分たちにくらべて、あとに踏みとどまる人々の勇気を、いちおう、褒《ほ》めずにはいられなかった。それから、てんでに自分自身の話をはじめた。
「でぶ」は、自分がどうしてルーアンから逃げ出したか、その一部始終を話した。その口調には、娼婦がときとして、やむにやまれぬ怒りにかられて真情を吐露《とろ》するときの、あの一語々々に熱をおびた、心からなる感動があった。
「あたし、はじめはルーアンに残っていられる、と思ってたんです。食糧の貯えは充分ありましたし、ですから、知らない土地を当てもなくうろつくよりは、プロシア兵の四、五人ぐらい養ってやるほうが、まだしもと思ってたんです。ところが、いざ、やつらを見たら、とたんに頭に血がのぼっちゃったんです。腹が立って腹が立って、一日中泣いてました。ああ、あたしが男なら、ただじゃおくもんか! そう思って、窓に立って、あの先のとんがった冑《かぶと》をかぶった肥った豚どもを、睨《にら》みつけてました。もし女中が、あたしの手を押さえつけてなかったら、やつらの背中めがけて手当りしだい、椅子やテーブルを投げつけてやったところです。そのうちに、やつらは、うちに泊まろうとしてやってきました。あたし、いきなり、最初にはいってきたやつの首っ玉にとびつきました。プロシア兵だろうと、なんだろうと、恐《こわ》いことなんかあるもんですか! もし、ほかのやつらが、あたしの髪の毛をつかんで引きずり戻さなかったら、あたし、ほんとに、そいつを絞め殺してやったところです。……でも、そんなことがあったんで、あたし、ルーアンに身の置きどころもなくなってしまったんです。でも偶然、うまい|つて《ヽヽ》が見つかったんで、こうして、やっとの思いで逃げてこられたんです」
みんな口々に、よかったですね、と言った。彼女ほど勇敢にふるまえなかった者の目には、彼女はあっぱれ女丈夫《じょじょうふ》に見えた。コルニュデは彼女の話を聞きながら、使徒のような温情あふれる微笑をたたえていた。信心ぶかい信者が神を称えるのを聞いている司祭のようでもあった。というのは、この長い顎髯《あごひげ》を持った共和主義者は、ちょうど聖職者が宗教の専門家をもって任じているように、愛国といえば自分の一手販売だ、と心得ているからであった。
彼は自分の出番だとばかり、説教でもするような、もったいぶった調子で話しだした。毎日のように壁に張り出されていた布告文の大言壮語を引用しながら、「バダンゲの放蕩《ほうとう》者」〔ナポレオン三世のあだ名〕を、こっぴどくやっつけた。
ところが、「でぶ」はボナパルト派〔帝政派〕であった。たちまち腹を立て、桜桃《さくらんぼ》より赤くなって、咳《せ》きこみ咳きこみ食ってかかった。
「じゃあ、あんたがた、あの人のかわりにやってみりゃよかったんですよ。ふん、さぞうまくやったでしょうよ! なによ、あの人を裏切ったのは、あんたがたじゃありませんか! あんたがたのようなごろつきに、いいようにされるくらいなら、あたしたち、みんなフランスから逃げだすわ」
コルニュデは平然として、上から見おろすような微笑をたたえていたが、「でぶ」は、なおも乱暴なことを言いそうなけぶりを見せた。そこで伯爵が仲に割ってはいった。どんな議論でも、まじめな議論には、感情に走らず耳を傾けなければならないと、いささか強面《こわもて》に言ってきかせたので、いきりたった娼婦も、やっと矛《ほこ》をおさめた。
ところで、伯爵の細君と紡績業者の細君とは、共和国に忠誠な連中にたいしては理屈ぬきの憎悪を持っていた。と同時に、軍帽の羽飾りも美々しい専制的な政府にたいしては、あらゆる女が本能的に持っている愛情を、心ひそかに抱いていた。
彼女たちは、自分たちの感情にあまりにも似た感情を持っている、この見識の高い娼婦にたいして、われにもあらず親身《しんみ》な心持ちを持った。
籠は空になった。なにしろ十人で食べたのだから、空にするのに暇はかからなかった。もっと、籠が大きかったらよかったのに、とだれもが思った。会話は、さかんにつづいていたが、食べ終ると、だんだん下火になった。
いつか日が暮れ、あたりは暗くなってきた。寒さは、食べているときはそれほどでもないが、食べてしまうと、急に身に染《し》みてくるものだ。「でぶ」は、いくら肥っていても、ゾッと身を震わせた。それを見たブレヴィルの細君は、わたくしの足行火をお使いください、と言った。朝から何度も炭団を入れ替えたので、行火はほどよく暖まっていた。足が凍《こご》えそうになっていた「でぶ」は、さっそく拝借におよんだ。カレ・ラマドンの細君と、ロワゾーの細君とは、修道女たちに貸した。
御者は左右のカンテラに灯《ひ》を入れた。その明るい光で、馬どもの汗をかいた尻《しり》から湯気がもうもうと立つのが見え、街道の両側の雪は、走る光をあびながら果てしもなくつづいた。
車内は、もう何も見わけられないほどに暗かった。と、ふいに、「でぶ」とコルニュデとのあいだで何か起こったらしい気配がした。ちょうど、そのあたりの闇《やみ》に目をやっていたロワゾーは、長い顎髯をはやした共和主義者がサッと身を引いたのを見たような気がした。頬をひっぱたかれたか、肘《ひじ》でひどく突かれたらしかった。
街道の行く手に点々と灯が見えだした。トートだ。ここに来るまでに、じつに十三時間かかったのだ。走ったのが十一時間、それに途中で四回、馬どもに烏麦《からすむぎ》を食べさせ息をつかせたのが二時間、つごう十三時間というわけである。馬車は村にはいり、オーテル・デュ・コメルスという商人宿の前でとまった。
昇降口が開かれた。とたんに一同、ギョッとした。いつも耳について離れない、あの音がしたからだ。地面にガチャつくサーベルの音だ。つづいて、何か叫ぶドイツ人の声が聞こえた。
だれも降りようとはしなかった。降りたらさいご殺される、と思っているかのようだ。
すると、片手にカンテラを持った御者が現われた。サッと強い光が車の奥まで射し込んで、二列に並んだ顔を照らしだした。恐怖で生きた心地もなく、ぽかんと口をあけ、目を大きく見開いた顔、顔である。
御者のかたわらにドイツ人の将校が、光をあびて立っていた。ひょろひょろと背の高い、金髪の青年だ。まるでコルセットをはめた若い娘のように、きっちりした軍服に身を固めている。蝋《ろう》引きの平らな帽子を、ちょっとかしげてかぶっているところは、イギリスのホテルのドア・ボーイを思わせる。左右にピンと、途方もなく突き出た口髭は、先にゆくにしたがって無限に細くなり、果てはあるかなきかの金色になって、どこで消えるともなく消えている。しかも、その口髭は、むりに垂れさげ、はねあげてあるので、それは唇の両はしを押しつけ、頬を引っ張り、両の唇に垂れさがる皺《しわ》をつけているように見える。
彼はアルザス訛《なまり》のフランス語で、命令するように言った。
「諸君、降りたまえ」
最初に、ふたりの修道女が降りた。あらゆる服従に慣れているからだ。つづいて伯爵夫婦とカレ・ラマドン夫婦とが降りた。ロワゾーは、背の高い細君を先に立てて降りた。地面に足をつけるやいなや、「今晩は。ご苦労さまでございます」と、頭をさげた。礼儀からではなく、安全第一、用心にしくはなし、という心持ちからであった。将校は、いかにも全能な人間らしく、傲然《ごうぜん》とかまえていた。じろりと一瞥《いちべつ》しただけで、返事もしなかった。
「でぶ」とコルニュデとは、昇降口のいちばん近くに腰掛けていたが、敵に対して毅然《きぜん》たる態度を示そうとして、わざと最後にゆうゆうと降りた。肥った娼婦は、冷静さを失うまいとして、つとめて自分を抑えていた。共和主義者は、悲壮な身ぶりよろしく、わななく手で、その長い赤茶けた顎髯を、しきりにしごいた。
彼らは、こういうときこそ、自分たちふたりがフランスを代表すべきだと考え、できるだけ威厳のある態度をとろうとした。同行者たちの卑屈な態度を見ると、内心、憤慨にたえなかった。「でぶ」は、堅気の女たちを尻目にかけて、つとめて肩をそびやかそうとし、共和主義者は、街道を掘り返して以来、ずっと自分の使命としている抗独を、一挙手一投足にも示そうとした。
一同は、宿屋のだだっ広い台所に連れていかれた。将校は一同に、ドイツ軍の司令官が署名した出発許可証を出させた。それには旅行者の姓名や人相や職業が書きこまれていた。将校は、いちいち、その記載事項と本人とを見くらべながら、長いあいだかかって一同をしらべた。
やがて、ひとこと、「よし」と言うと、どこかへ行ってしまった。
みんな、ホッとした。すると、また空腹を感じたので晩飯を注文したが、三十分ばかりかかると言われた。そこで、ふたりの女中がいそがしく支度をしているあいだに、部屋を見ておこうと思って二階へあがった。部屋は長い廊下の両側に並び、突当りのドアにはガラスがはめてあって、そこには例の一〇〇という番号が書いてあった〔便所のこと。一〇〇はサン(cent)で、「臭う」のサン(sent)との語呂合わせ〕。みんなは階下《した》に降りた。
食卓へつこうとしているところへ、宿屋の亭主が現われた。以前は博労《ばくろう》をしていた、肥った、喘息《ぜんそく》もちの男で、ひっきりなしに、喉《のど》の奥で、ヒューヒュー、ゼーゼーいわせていた。彼の名はフォランヴィ。れっきとした父親ゆずりの名である。
口をひらいて、
「エリザベット・ルーセさんというお嬢さんがいらっしゃいますか?」
「でぶ」は、ハッとして振り返った。
「あたしですが」
「プロシアの士官さんが、何か、すぐお話したいことがあるそうです」
「あたしに?」
「ええ。もし、あなたが、そのエリザベット・ルーセさんなら」
彼女は顔を曇らせた。ちょっと考えていたが、きっぱり言った。
「たぶんあたしのことでしょうが、行きませんよ」
彼女の回りで、ひそひそ声が起こった。いったい、なんで呼ばれたのだろう? すると、伯爵が彼女のところにやってきた。
「断わるのは、よろしくありませんよ。あなたが断わると、あなたばかりでなく、ここにいる皆さんまで、どんな災難を受けないともかぎりません。長い物には巻かれろ、です。それに、いらっしゃっても、なんの危険もないと思います。たぶん手続き上、何か不備な点でもあったのでしょう」
みんなも彼女に近づいて、伯爵といっしょに頼んだり、急《せ》かせたり、道理を言ってきかせたりした。ちょっと、だだをこねただけでも、どんないざこざが起こらないともかぎらない。みんなは、それを恐れたのだ。とうとう彼女はうなずいた。
「じゃあ行くには行きますが、あなたがたのためですよ。よござんすね!」
伯爵の細君は、「でぶ」の手を握った。
「だから、わたくしたち、こうして感謝いたしておりますわ」
彼女は出て行った。あとに残った連中は、食卓につかないで、彼女の帰りを待つことにした。
みんな気が気ではなかった。あんな、喧嘩っぱやい気の強い女では、どんなことになるかもしれない、それよりも自分が呼ばれたほうがよかった、と思った。そして、このつぎ自分が呼ばれたら、ああも言おう、こうも言おう、と追従《ついしょう》たらたらの言葉を心のなかで用意した。
しかし、十分ほどすると、「でぶ」は帰ってきた。ひどく腹を立てているらしく、顔をまっ赤にし、窒息せんばかり息をはずませていた。とぎれとぎれにつぶやいた。
「ああ、ちくしょう! ちくしょう!」
みんなは様子を聞こうとして、すぐ彼女のまわりに集まったが、彼女はひとことも口をきかなかった。伯爵が、強《し》いてたずねると、ひらきなおって高飛車な態度で言った。
「みなさんに関係したことではありません。お話しできません!」
そこで一同は、キャベツの匂いのプンプンする背の高いスープ鉢《ばち》のまわりに陣どった。食事は思いがけない故障でおくれたが、陽気にはじまった。ロワゾー夫婦と、ふたりの修道女とは、倹約して林檎《りんご》酒を注文したが、ほかの連中はワインを飲んだ。ただコルニュデだけはビールにした。この男のビールの飲み方は、いっぷう変っていた。まず彼独特の手つきで栓《せん》を抜き、コップについで泡だたせると、そのコップを持ち上げてランプの光に透かせ、ビールの色を子細に吟味する。さて、いよいよ飲みだすと、彼の愛する飲物の色によく似た彼の長い顎髯は、その飲物にたいする愛《いと》しさで震えるように思われる。そして、コップを下に置いても、それから目を離すまいとして、たえず横目で眺めている。その様子は、さながら唯一の天職を果たしているかのようである。おそらく彼の心のなかでは、彼がこれまでの生涯を賭《か》けてきた、ふたつの大きな情熱が、切っても切れない縁で結びついているのであろう。ビールと革命とにたいする情熱だ。たしかに彼はビールを味わわずには、革命をも味わうことができないのであろう。
フォランヴィ夫婦も食卓のはしで食事をともにした。こわれた機関車のように、たえずあえいでいる亭主は、食べながら話す、という器用なことはできなかった。そのかわり、かみさんが、かたときも黙っていなかった。プロシア軍が、この土地にはいってきたときのあらゆる印象を――あらゆる彼らの言行を、さも憎々しげに話した。「あいつらのために、お金をさんざん使わされ、おまけに、ふたりの伜《せがれ》を兵隊にとられているんでございます」かみさんは、もっぱら伯爵の細君に話した。伯爵の奥方――高貴な婦人に話すのが嬉しかったのだ。
さらに、かみさんは、これはここだけのお話でございますが、と前置きして話しはじめた。そして、亭主がときどき、あえぎあえぎ、「おい、おい、かあさん、よけいなことは言わないほうがいいよ」と、注意するのもかまわず、しゃべりまくった。
「ええ、ええ、そうでございますとも、奥さま。あいつらときたら、のべつまくなし食べてばかりいるんでございますよ。豚とジャガイモ、ジャガイモと豚。……あいつらの汚いことといったら、お話にもなんにもなりゃしません。ああ、ほんとにいやんなっちゃう! 失礼なお話で恐れ入りますが、どこででも用を足すんでございます。そうかと思うと、何時間でも何日でも、ぶっつづけに教練とやらをいたします。ひとり残らず野っ原へ出て、前へ進め、まわれ右前へ進め、まわれ右、まわれ左!……せめて、あのまに自分の国で、畑を耕すとか、道普請《みちぶしん》でもすりゃいいのに!……でも、だめ、だめ! 兵隊なんて、だれの役にもたつもんじゃございません! それなのに、あんなやつらを飼って人殺しを習わせるために、貧乏人がお金を出さなきゃならないなんて!……そりゃあ、あたしなんか教育もなんにもない、時代おくれの人間でございますが、でも、大の男が朝から晩まで、オイッチニ、オイッチニとやって、身体をへたばらせているのを見ると、これでいいんだろうか、と思わずにはいられないんでございます。世の中には、人さまのお役にたとうと、いろんな発明をしてる人もあるというのに、一方では、人さまに迷惑をかけようと、いっしょうけんめいやってるやつもあるかと思うと、これでいいんだろうか、と思わずにはいられないんでございます。……殺す相手が、たとえプロシア人だろうと、イギリス人だろうと、ポーランド人だろうと、フランス人だろうと、とにかく人を殺すなんて、ほんとに、いやなこっちゃあございませんか! 自分をひどい目にあわせたやつに復讐してさえ有罪を宣告されるのに、うちの伜たちを、まるでウサギかなんぞのように鉄砲で撃《う》ち殺すことは、立派なことになるんでございます。その証拠には、いちばんたくさん人を殺した者は勲章がもらえるんですから。……いいえ、いいえ、奥さま、あたしには、こんなこと、さっぱり合点がまいりません!」
コルニュデが大声で言った。
「戦争は、何ら侵略的意図を有しない隣国を攻撃するときには野蛮行為になるが、祖国を防衛するときには神聖な義務になるんです」
かみさんは「ええ、ええ」と、うなずいて、
「そりゃあ国を守るとなれば、お話は別でございます。でも、それなら、いっそのこと、戦争をなくすため、どこの国の王様でも、自分の道楽で戦争をする王様は、皆殺しにしてしまったほうがよかないでしょうか?」
コルニュデは目を輝かせて叫んだ。
「えらいぞ、シトワイエンヌ!」
カレ・ラマドンは、じっと考えこんでいた。彼は武勲|赫々《かっかく》たる将軍たちの熱狂的な崇拝者であったが、この田舎のかみさんの、いかにももっともな言い草を聞いていると、(なるほど)と、思わずにはいられなかった。
(なるほど、たくさんの人手を、むだに遊ばせておくことは不経済きわまる。もし、この非生産的な労働力を、たとえば、数世紀かからなければ完成できないような大事業に使うとしたら、国家は、どれほどの富を増すだろう?)
いっぽうロワゾーは立って行って、亭主の隣りに腰をおろすと、何やらひそひそ話しだした。肥った亭主は笑ったり、むせんだり、咳きこんだり。彼の大きな腹は、ロワゾーが、何かおもしろおかしいことを言うたびに波うった。そうしているうちに、ついにロワゾーの口にのせられて、ワインを六|樽《たる》、買うことにした。いずれプロシア軍も撤退するであろうから、春の用意に、というわけである。
食事が終ると、みんな疲れきっているので、さっそく寝ることにして二階へあがり、それぞれの部屋に引き取った。
しかし、ロワゾーだけは横にならなかった。細君を寝かせてしまうと、自分は部屋の鍵穴《かぎあな》に耳を当てたり目を当てたり、いずれ何事か起こるだろう、と様子をうかがった。彼にいわせれば「廊下の秘密」というところだ。それを嗅《か》ぎ出そうとつとめた。
はたして一時間ばかりたつと、廊下に衣《きぬ》ずれが聞こえた。ロワゾーは急いで鍵穴に目を当てた。「でぶ」が現われた。ふちに白いレースの飾りのついた青いカシミヤの寝巻きを着た「でぶ」は、いっそう肥って見えた。片手に手燭《てしょく》を持ち、廊下の突当りの例の番号のほうへ歩いて行った。すると、隣りの部屋のドアが細目にあく音がした。二、三分して「でぶ」が戻ってくると、ズボン吊《つ》り姿のコルニュデが現われ、彼女のあとからついて行った。ふたりの姿が見えなくなると、ロワゾーは鍵穴に耳を当てた。ふたりは、しきりに何か言い争っているらしかったが、ロワゾーには何を言っているのかわからなかった。しかし、そのうちに声が高くなった。
コルニュデは、しつこくねばっていた。
「どうして、そんなに頑固なんだい? きみにとっちゃあ、なんでもないことじゃないか」
「でぶ」は憤然として答えた。
「いけません! 時と場合ということがあります。ことに、このうちじゃあ……。恥をお知りなさい!」
「恥? どうして?」
コルニュデには、彼女の言う意味がわからなかった。
彼女は、ますます腹を立てた。
「どうしてですって? そんなことがわからないんですか? このうちにはプロシア人がいるじゃありませんか! それも、もしかすると隣りの部屋に!」
そう言われると、コルニュデは、きっぱり口をつぐんだ。
敵のかたわらでは、ぜったい男に抱かれない――そういう娼婦の愛国的な廉恥心《れんちしん》が、コルニュデの誇りを――失いかけた誇りを、目覚めさせたのにちがいなかった。
ロワゾーは鍵穴を離れると、部屋の中を、ぴょんぴょん、跳《は》ねまわった。いま、鍵穴から見たひと幕で、ひどく興奮したのだ。マドラス織りの寝間帽《ナイトキャップ》をかぶると、ふとんをまくった。ふとんの中には、背の高い細君が、丸太ん棒のように横になっている。細君に接吻して目を覚まさせると、猫撫で声で、
「ねえ、おまえ、可愛がってくれるね?」
……やがて、家中、シンと静まり返った。しかし、まもなく、どこかで――地下室か屋根裏部屋か、方角ははっきりしなかったが――単調な、規則正しい、しかし、騒々しいいびきが聞こえはじめた。まるで圧力の加わった罐《かま》のように、震えながら長く尾を引く音だ。亭主のフォランヴィが眠っているのであろう。
翌朝は八時出発となっていたので、その時刻に、みんな台所に集まった。しかし、馬車は幌《ほろ》に雪をのせたまま、中庭に置きざりにされていた。馬もつけてなければ御者もいなかった。御者はどこかと、厩《うまや》や、秣《まぐさ》小屋や、物置まで探したが、みつからなかった。
そこで、男の旅客たちは近所を探すことにして外へ出た。そこは広場で、突当りには教会があり、その左右には低い家々が並んでいたが、どの家の中にもプロシアの兵隊の姿があった。最初に見かけた兵隊は、ジャガイモの皮をむいていた。そのすこし先で二番目の兵隊は、床屋の店先を洗っていた。三番目の、髯の中から目だけ出しているような兵隊は、泣きわめく赤ん坊を膝の上でゆすりながら、しきりにあやしていた。亭主を戦争にとられている肥っちょの百姓女たちは、従順な征服者たちを、顎《あご》で使っているのだ。薪《まき》を割らせたり、スープをつくらせたり、コーヒーをひかせたり。なかには、身体のきかない婆さんの家に泊まっているので、婆さんの下着を洗っている者さえある。
そのありさまを見ると、伯爵はびっくりしてしまった。おりから教会の年とった小使いが司祭の家から出てきたので、伯爵は、そのことを言って、たずねてみた。すると、老人は答えた。
「いや、まったくどうして、あの兵隊どもは、けっして悪い人間じゃござんせん。なんでも人の話じゃあ、プロシア人じゃなくて、もっと遠いところの人間だそうで……どこの国だか知りませんが……。あの連中だって、国に女房や子供を残してきたんですから、戦争を喜んでるはずはありません。向こうでも亭主の身を案じて泣いてること、うけあいでさあ。戦争は、わしらにとってと同様、あいつらにとっても、ひどい災難で……。でも、いまんところは、ごらんのとおり、どうということはござんせん。なんしろ、あいつらは悪いことはしませんし、それどころか自分のうちにいるように、よく働いてるんですから。……旦那様、貧乏人どうしは、このとおり助け合わなきゃやっていけねえんでさあ。つまるところ、戦争をするのは、お偉方《えらがた》なんで……」
コルニュデは、征服者と被征服者とのあいだに一種の和親協約が成立しているのを見ると憤慨《ふんがい》した。胸糞《むなくそ》がわるい、これくらいなら宿屋に引きこもっているほうがましだ、と言って帰って行った。
ロワゾーは冗談口をたたいた。
「なあに、あの兵隊どもめ、また、ここで子供をふやしまさあ」
カレ・ラマドンは、分別くさい顔をして言った。
「彼らは、犯した罪の償《つぐな》いをしているのです」
御者は、なかなか見つからなかったが、とうとう最後に、村の居酒屋で、例の将校の従卒と仲よく飲んでいるところを見つけた。伯爵が言った。
「八時に馬をつけろ、と命令しておいたじゃないか」
「へえ、さようで。でも、あとでまた別の命令が出たんで」
「なんという命令だ?」
「馬をつけるなっていう……」
「だれが命令したんだ?」
「だれがって、プロシアの士官さんで」
「どうして?」
「どうしてだか知りません。士官さんにきいてください。とにかく、馬をつけるな、と言うからつけないんで」
「あの将校が直接、きみに命令したのか?」
「いいえ、旦那様、宿屋の親爺《おやじ》が取り次いだんで」
「いつ?」
「ゆうべ、寝る前に」
三人の男は、ひどく不安な気持ちになって宿に帰った。
亭主のフォランヴィに会って様子をきこうと思ったが、女中は答えた。喘息《ぜんそく》にさわるから、十時前には、けっして起こしてはいけない、もっとも火事の場合は別だがって、いつも、旦那さんに、きびしく言われているんです。
では、将校に会いたいと言うと、士官さんは、うちに泊まってますが、とても会えません。なにか用があるときは、旦那さんだけが会って話すことができるんです。
待つほかはなかった。女たちは二階へあがり、それぞれの部屋に引きこもって、なすこともなく時をすごした。
コルニュデは、さかんに火の燃えている、台所の大きな暖炉の前に陣取ると、そこへバーの小さなテーブルとビールとを持ってこさせた。そして、おもむろにパイプを取り出したが、そのパイプたるや、共和主義者の仲間からは、持ち主のコルニュデ同様、尊敬されている代物《しろもの》であった。コルニュデに役立つものは、すなわち国家に役立つものだ、とでも思っているかのようであった。しかし、それは海泡石《かいほうせき》の、まったくすばらしいパイプであった。みごとに燻《いぶ》され、持ち主の歯と同じように黒くつやつやとしていて、いかにも持ち主の手や顔と調和し、それらと一体をなしていた。
コルニュデは、燃えさかる火を見つめたり、コップのふちについたビールの泡を見つめたり……じっと身動きもしなかった。そうかと思うと、やがて、ひと口飲んで、ビールの泡のついた口の回りの髭《ひげ》をすすりながら、さも満足そうに、その長いやせた指を櫛《くし》にして、脂《あぶら》じみた長い髪をかきあげるのであった。
ロワゾーは、「じっとしてると、足がしびれちまう」などと、そらとぼけて外に出た。村の小売商をまわって、ワインを売りつけるためだ。
伯爵と紡績業者とは政治の話をはじめ、フランスの将来について、それぞれ意見を述べあった。前者は、オルレアン家が政権をとるだろう、と言った。後者は、もし情勢が切迫した場合には、未知の救世主が――英雄が、現われるだろう、と言った。たとえばデュ・ゲクラン〔百年戦争で名を轟かした将軍〕、ジャンヌ・ダルク、あるいはナポレオンのような……。ああ、もし皇太子さまが、あれほどご幼少でなかったら!
コルニュデは、ふたりの話を聞きながら、さながら運命の秘密を知っている男のように、ニヤニヤ笑っていた。彼のパイプは、広い台所中を匂わせた。
十時が鳴った。フォランヴィが現われた。男たちは、すぐ事情をたずねたが、彼は何度きかれても判で押したように、こうくりかえすだけであった。
「士官さんが、ゆうべ言ったんです。『フォランヴィくん、あすの朝、あの連中の馬車に馬をつけさせないでくれ。わが輩の命令があるまで、出発させてはいかんぞ。わかったね。それだけだ』」
そこで直接、将校に会ってみようということになった。伯爵は名刺を持たせてやったが、その名刺にはカレ・ラマドンも自分の名と、あらゆる肩書とを書き添えた。将校は、昼飯を終ったあとで、つまり一時に、ふたりを引見する、と言ってよこした。
女たちが降りてきた。一同は不安に怯《おび》えていたが、とにかく食卓についた。「でぶ」は病気にでもなったかのように、ひどく元気がなかった。
コーヒーを飲み終ったところへ従卒が迎えにきた。
ロワゾーも、ふたりといっしょに行くことにした。頼むのには、なるべく大勢で行くほうが効果があるだろう、というわけで、コルニュデも誘ったが、頑《がん》として応じなかった。俺は、どんなことがあってもドイツ人には頭をさげないぞ、と昂然《こうぜん》と言い放った。そして、また暖炉の前に戻り、もう一本、ビールを注文した。
三人の男は案内されて二階へあがり、この宿ではいちばん上等な部屋に通された。将校は、肘掛け椅子にふんぞり返り、両足を暖炉の棚《たな》にのせ、瀬戸物の長いパイプをくゆらせていた。燃えるようにまっ赤なガウンを着ていたが、それはおそらく趣味のわるい田舎紳士の空家《あきや》になった邸《やしき》から掻《か》っ払ってきたものにちがいなかった。彼は起きあがりもせず、いや、こちらを振り向こうとさえしなかった。いかにも戦勝国の軍人らしい傲岸不遜《ごうがんふそん》の、それも最大の見本であった。
しばらく待たせたあとで、やっと口をひらいた。
「なんの用かね?」
伯爵が答えた。
「出発したいのですが」
「いかんよ」
「失礼ですが、どういう理由でしょうか?」
「わが輩が許さんのだ」
「お言葉を返して恐縮ですが、わたくしどもは司令官殿からディエップ行きの出発許可証をいただいているのです。それに、わたくしどもとしては、こんなひどいお取り扱いをうけるようなことは何もした覚えはないのですが……」
「わが輩が許さんのだ。それだけだ。さがりたまえ」
三人は一礼すると部屋を出た。
午後は、何ともいえぬ重苦しい気分であった。どうして、あのドイツ人は、やぶから棒に、こんなことを言いだしたのだろう。まったく、わからなかった。一同は台所に集まって、それからそれへと、とめどもなく話し合ったが、しまいには疑心暗鬼、あらぬことまで想像した。もしかすると人質にとられるのではなかろうか? 捕虜にされて連れて行かれるのではなかろうか?……いったい、なんの目的で?……たぶん莫大な身代金《みのしろきん》を要求されるのだろう。いや、きっとそうにちがいない!
そう思うと、みんな、あわてた。ことに金のある連中は、あわてた。いまにも命と引き換えに、袋にいっぱい詰まった金貨を、あのいまいましい野郎の手に、ざくざくとあけなければならないような気がした。いざとなったら、なんとかして金持ちに見られないように――貧乏人に見られるように、それもごくごくの貧乏人に見られるように、知恵をしぼった。ロワゾーは時計の金鎖をはずすと、ポケットにしまった。
夕方になるにつれ、ますます心細くなってきた。ランプがつけられた。が、食事までには、まだ二時間ほど、まがあった。ロワゾーの細君が、トランプの「三十一」をしたら、いくらか気がまぎれるでしょう、と言いだした。みんな賛成した。コルニュデまでが仲間に加わった。婦人たちにたいする礼儀上、パイプの火を消して……。
伯爵がカードをきって配った。「でぶ」は、たちまち三十一をつくってしまった。すると、勝負への熱中が、いままで心につきまとっていた不安を忘れさせた。しかし、やがてコルニュデが、ロワゾー夫婦がぐるになってインチキをしているのを見破ったので、この勝負事も、おひらきになってしまった。
一同、食卓につこうとしていると、またフォランヴィが姿を現わした。そして、例の痰《たん》のからんだ声で言った。
「プロシアの士官さんが、きいてこいとおっしゃってます、エリザベット・ルーセ嬢は、まだ、お考えが変らないかって……」
「でぶ」は、つと立ちあがった。まっ青になり、まっ赤になった。憤怒《ふんぬ》のあまり、喉が詰まり、口がきけなかった。ついに、すごい剣幕で言った。
「ぜったい、断わるって言ってください、あの穢《けが》らわしいやつに……プロシアのごろつきに! ぜったい、ぜったい、ぜったい、断わるって!」
肥っちょの亭主は出て行った。すると、みんなは、すぐ「でぶ」を取り巻いて、亭主がやってきた裏には、どんな事情があるのか、打ち明けてくれと言って、たずねたり頼んだりした。彼女は、はじめは首を横に振っていたが、やがて、こみあげてくる怒りにたえられなくなり叫んだ。
「あいつは、あいつは、あたしと寝たいんです!」
その露骨な言葉も気にならなかったほど、みんなも腹を立てた。コルニュデは、ビールのコップをたたきつけるようにテーブルに置いたので、コップは割れてしまった。あの軍服を着た無頼漢にたいする非難のざわめきが――憤慨のいきまきが、期せずして起こった。みんなは彼女に強要された横暴な犠牲が、自分たちめいめいにも強要されたかのように、一体となって敵愾心《てきがいしん》に燃え立った。伯爵は、にがにがしげに断言した。あいつらの行為は大昔の野蛮人どもそっくりだ。
ことに女たちは「でぶ」にたいして、心からの同情を示した。修道女たちは、食事の時だけにしか降りてこなかったが、うなだれて、なんにも言わなかった。
憤慨が、いちおう静まると、一同、食事をはじめたが、それぞれ思いにふけっているので、あまり口をきかなかった。
女たちは、さっさと部屋へ引き上げてしまった。男たちは、煙草《たばこ》をふかしながらエカルテをはじめたが、亭主のフォランヴィを仲間に引き入れた。将校の横車を押さえつけるためには、どんな手を打ったらいいか、それとなくたずねるつもりだったが、亭主はゲームに気をとられて、何も耳にはいらなかった。たえず、「さあ、みなさん、早く早く」とばかり、くりかえした。勝負に夢中になって、痰をはくことも忘れていたので、胸の中からは、しばしばパイプオルガンの長く尾を引くような音が聞こえた。あえぐ肺のなかからは、喘息のあらゆる音階が――重苦しい、しゃがれた音から若い雄鶏《おんどり》がときをつくるような、かん高い声まで聞こえた。
亭主は、眠くてたまらなくなった女房が呼びにきても立ち上がろうとはしなかった。そこで女房は、ひとりで戻って行った。女房は早起きで、夜が明けると同時に起きるのだが、亭主のほうは宵《よい》っぱりの朝寝坊、相手さえあれば、いつまでも夜ふかしをするのである。
亭主は、戻って行く女房のうしろから、「おい、俺の卵入り牛乳を暖炉の前に置いといてくれ」と声をかけると、また勝負をはじめた。しかし、男たちは、亭主から、もう何も聞き出せないとわかると、時間だからと言って、めいめい寝室にあがった。
一同は翌朝も、かなり早く起きた。万一にも出発できるかもしれないという希望……ぜひとも出発したいという欲望……もう一日、こんな田舎の安宿ですごさなければならないかもしれないという恐怖――それらの入りまじった気持ちで早く目が覚めたのだ。
ところが、ああ! あいかわらず馬どもは厩にいた。御者の姿は見えなかった。
人々は、なんとなく馬車の回りをまわってみた。
朝飯は、ひどく陰気であった。「でぶ」にたいする一種冷やかな空気が生じていた。というのも、あれやこれやと考えさせる夜が、人々の意見を変えさせたからだ。いまとなっては、この肥った娼婦が、ゆうべ、こっそりプロシア人のところに忍んで行って、今朝、吉報で自分たちを驚かさなかったことを、恨《うら》めしくさえ思った。この女にとっては、いとも簡単なことじゃないか! だいいち、だれにも知れないことじゃないか!……連れの人たちが気の毒で見ていられない、とプロシア人に言えば自分の体面も保てるだろう。だいいち、この女に体面なんかあるのか!
しかし、さすがにまだだれも、こんな考えを口に出して言う者はなかった。
午後になると、あまりの所在《しょざい》なさに、どうにもやりきれなくなった。伯爵が言い出して、村をひとまわりしてみよう、ということになった。みんな用心して厚着をし、小さなひとかたまりになって出かけた。ただしコルニュデだけは、暖炉のそばのほうがいい、と言って残った。それに修道女たちも、夕方まで教会か司祭の家ですごすと言った。
日ごとにきびしくなる寒さで、鼻や耳は切られるようであった。足も凍え、一歩々々、歩くのに骨がおれた。村はずれまで行くと、広い野面《のづら》が現われたが、それは見渡すかぎり雪におおわれて、すごいほど陰気に見えた。魂も凍る思いで、そうそうに引き返した。
女四人が先に立ち、男三人は、かなりおくれてついて行った。
ロワゾーは突然、あの売女《ばいた》め、いつまで俺たちを、こんなところに引き止めておくつもりなんだろう、と言った。彼にすれば、いくらじたばたしたって、どうせ逃《のが》れっこない、と見通しをつけているのだ。
伯爵は表面上にせよ、とにかく礼儀を守って言った。そんな過酷な犠牲は、はたから強要すべきではありません。本人の自由意志にまかせるべきです。
カレ・ラマドンは、また、こんなことを言った。まだ断言はできないが、もしフランス軍がディエップ方面から反撃に出るとしたら、両軍の衝突は、かならずトートで起こるでしょう。
そう言われると、他のふたりは、たちまち心配になった。
「じゃあ歩いて、ここから逃げだしますかな?」
と、ロワゾーが言った。
「とんでもありません、この雪の中を、しかも女連れで」
と、伯爵が肩をすくめて言った。「たちまち追いかけられ、十分たつかたたないうちに捉《つか》まって、兵隊どもに小突かれながら連れ戻されるにきまっています」
ロワゾーは、なるほどと思った。三人とも黙りこんでしまった。
女たちは化粧のことを話したり、服のことを話したり。しかし、話はなんとなく、はずまなかった。みんな、それぞれ、心の底に、わだかまりがあったからだ。
突然、往来の向こうに、例の将校が現われた。見わたすかぎりの雪の上に、背のひょろ長い軍服姿が浮かびあがった。ピカピカに磨きあげた長靴を汚すまいとして、軍人特有のがに股《また》で、こちらに歩いてきた。
彼は、女たちとすれちがうときには軽く会釈したが、男たちには、横柄な一瞥《いちべつ》を与えただけであった。もっとも男たちのほうも、そ知らぬ顔をして、帽子も脱《ぬ》がなかった。ただロワゾーだけは、ちょっと帽子のつばに手をやった。
「でぶ」は屈辱感で耳まで赤くなった。他の三人の女も、これは別の意味で赤くなった。将校から人扱いもされない商売女と連れだって歩いているところを、その当の将校に見られたからだ。
細君たちは、将校の容貌《ようぼう》や風采《ふうさい》について、あれこれと話し合った。カレ・ラマドンの細君は、たくさんのフランス人将校を知っているので目が肥えていた。
「ちょっと、よくない?」
と、彼女は言った。「フランス人でないのが残念だわ。フランス人なら、美男の軽騎兵将校として、さぞ女を迷わせるでしょうよ」
一同、宿屋に戻ると、もはや何もすることができなかった。退屈で気がむしゃくしゃしていたので、なんでもないことでも、ちょっと口喧嘩のようなことをしたりした。
夕食は、黙ったまま、そこそこにすませた。ひまつぶしには寝るにかぎる、そう思って、めいめい寝室に引き取った。
翌朝は、みんな疲れたような顔をして降りてきた。なんとなく気が立っていた。女たちは、ほとんど「でぶ」と口をきかなかった。
鐘の音が聞こえてきた。教会で洗礼式があるのだ。「でぶ」には子供があって、レヴト〔フランス北部の町〕の農家へ里子にやってあった。一年に一度、会いに行くか行かないくらいで、ふだんは思い出しもしなかった。しかし、いま、だれかの子供が洗礼を受けようとしていると思うと、突然、わが子にたいする激しい愛情がわきあがってきて、しゃにむに洗礼式に参列したくなった。
「でぶ」が出て行ってしまうと、待っていたように一同、顔を見あわせた。たがいに、椅子を寄せあった。きょうこそ、いやでもおうでも結着をつけてしまおうと、だれも思ったのだ。ロワゾーが「妙案を思いついたぞ!」と叫んだ。むりにも「でぶ」をここに置いていくから、そのかわり、われわれを出発させてくれ、そうドイツの将校に頼もう。
またフォランヴィを使者に立てた。が、すぐ降りてきた。ドイツ人は人間の本性を知っていた。フォランヴィをドアの外に押し出すと、断然言った。わが輩の言い分が通るまでは、だれも絶対立たせんぞ!
すると、ロワゾーの細君が、下衆根性《げすこんじょう》まる出しに、わめきたてた。
「でも、まさか、あたしたち、ここで一生暮らすわけにはいきませんからね。だいたい、あのあばずれは、どんな男とでも、なにするのが商売なんですから、より好みする権利なんかありませんよ。……ほんとに、あきれますよ! ルーアンでは、どんな男とでも手当りしだい……御者たちとまで! うちへお酒を買いにくる県庁の御者に聞いて、あたし、よく知ってるんです。それなのに、こんどにかぎって……あたしたちが急場から逃れられるか、逃れられないかというときにかぎって、いやにお上品ぶって! ふん、あのあばずれめ!……それに、あたし、あの士官さんは、お行儀がいいと思うんです。なにしろ長いあいだ、あのほうは不自由してたんでしょう。そこへ、あたしたち女三人、よりどり見どり。あの人にすりゃあ、「でぶ」なんかより、あたしたちのほうが、ずっといいにきまってますよ。ところが、あの人は商売人でがまんしたんです。亭主のある女は遠慮したんです。ねえ、考えてもごらんなさい。あの人は、ここでは主人ですよ。たったひとこと『欲しい』と言やあ、それでいいんです。兵隊どもを連れてきて、腕ずくで、あたしたちを捉まえることだってできるんですよ」
聞いていたふたりの女は身震いした。カレ・ラマドンの美人の細君は、すでに、むりやり将校の腕に抱きすくめられたかのように目の色を変え、まっ青になった。
短気なロワゾーは、いっそのこと、あの売女《ばいた》の手足を縛《しば》りあげて敵に引き渡してしまおうか、と言った。しかし、伯爵は――三代にわたって大使を出した家に生まれ、その容貌風采まで、いかにも外交官らしい伯爵は、ずるい人間であった。
「いや、あの女が自分から決心するように、何とかして持って行くべきですよ」
と、言った。
そこで、みんなで計略を練りはじめた。
女たちは、身体を寄せあい、声をひそめて、ささやきあった。男たちも加わって、めいめい意見を述べた。その話し方は、なかなか品がよかった。ことに女たちは言いまわしに気をつけて婉曲《えんきょく》な表現を用いた。第三者が聞いたら何を話しているのかわからないくらいであった。しかし、それも最初のうち――やれ上流婦人だ、淑女だ、などといっても、その羞恥心《しゅうちしん》は、ほんの上っ面のものにすぎなかった。彼女たちは、この卑猥《ひわい》な事件に異常な興味をそそられ、話がだんだん細かくなると、待ってましたとばかり、気もうきうきと、さかんに、際《きわ》どいことをしゃべりまくるようになった。それはさながら食いしん坊のコックが、他人に食べさせる料理を舌なめずりしながら、こしらえているようなものであった。
一同、しだいに上機嫌になった。結局、この話は、だれにとっても面白くないはずはなかったのだ。伯爵さえ、かなり思いきった冗談を言ったが、さすがに話し方がうまかったので、女たちは喜んだ。ロワゾーにいたっては、いやらしいことの言いづめであった。しかし、それでも、いまはもう気をわるくする者はなかった。要するに、さっきロワゾーの細君がずばりと言った言葉が、みんなの心を支配していたのだ。
「あのあばずれは、どんな男とでも、なにするのが商売なんですから、より好みする権利なんかありませんよ」
カレ・ラマドンの美人の細君さえ、もし自分があの女の立場になったら、より好みはしないだろう、と思っているようにみえた。
人々は、まるで天下の堅城を包囲したかのように、それを陥落させる法を、あれやこれや、と論じあった。それぞれが分担して、その演ずべき役割を、のっとるべき論拠を、実行すべき方法を決めた。なんとしてでも、あの生きた城に大手《おおて》を開かせなければならなかった。そのための攻撃方法、計略、ときには奇襲作戦について打ち合わせた。
ただしコルニュデだけは仲間に加わらなかった。喧々囂々《けんけんごうごう》もどこ吹く風、ひとり離れて腰掛けていた。
みんな思案をこらしていたので、「でぶ」が帰ってきたのに気づかなかった。伯爵が小声で「しっ!」と言ったので顔をあげると、目の前に「でぶ」が立っていた。みんな、さすがに話しかけることができなかった。しかし、伯爵の細君は、ほかの連中より、腹と口とがうらはらのサロン式会話に慣れていたので、すかさずたずねた。
「いかがでした、洗礼式は?」
肥った娼婦は、まだ感動のさめない顔つきで熱心に話した。会衆の表情、態度、さては教会内部の様子など。そして、言った。
「たまにお祈りするのは、ほんとにいい気持ちなものですわね」
昼食になるまで、女たちは目をつぶって「でぶ」にやさしくしてやった。自分たちを信用させ、自分たちの言うことにすなおに従わせるためである。
しかし、食卓につくと、人々は、さっそく攻撃にかかった。まず献身的行為に関する、とりとめのない会話からはじめた。古代の例が、いろいろ引き合いに出された。最初はユーディットとホロフェルネス、それからクレティアとセクストゥス、さらに話はとんでクレオパトラ――敵の将軍たちを次々に寝室に迎えて、ついには奴隷のように膝下《しっか》にひざまずかせたクレオパトラ。
話は、さらに飛躍して、カレ・ラマドンやロワゾーなど、無知|蒙昧《もうまい》な百万長者たちが、いかにも真《ま》に受けそうな、真偽いずれともわからない、あやふやな話がくりひろげられた。ローマの女たちは、カプアに陣したハンニバルを腕に抱いて眠らせた。いや、ハンニバルばかりでなく、彼の幕僚たちや傭兵《ようへい》隊長たちまで同様にして骨抜きにした。……それからまた一座の人々は、征服者をとりこにした、あらゆる女たちの例をあげた。彼女たちは自分たちの肉体を戦場とし、抵抗の手段とし、武器として、忌《い》むべき憎むべき男たちを、その英雄的な愛撫《あいぶ》で征服し、復讐と忠誠とのために、その貞操を犠牲にしたのである。
そればかりでなく人々は、遠まわしな言い方ながら、あのイギリスの名門の婦人のことさえ話題にした。彼女はボナパルトに病毒をうつすため、みずからすすんで、その恐ろしい伝染病にかかったが、ボナパルトは、いざというとき不能におちいったので奇跡的に難をまぬがれた、という話である。
人々は、すべてこれらのことを、さりげなく、控え目に話したが、それでも、ときどき熱烈な口調を挟《はさ》むことを忘れなかった。間接的に「でぶ」を激励するためである。
しまいには人々は、こんなふうに考えているくらいにみえた。この世における女の唯一の役割は、軍服を着たけだものの気まぐれな欲望に、いつでも身を捧げ、貞操を犠牲にすることではないのか?
ふたりの修道女は、一座の話など、いっこう耳にはいらぬ様子で瞑想《めいそう》にふけっていた。「でぶ」は初めから終りまで、ひとことも口をきかなかった。
午後は「でぶ」を、ずっと、そのままにしておいた。考えさせるためだ。しかし、みんなは彼女を、いままでのように奥さんとは呼ばず、お嬢さんと呼んだ。なぜ、そうしたのか、だれも知らなかったが、それは、まるで彼女が不当によじのぼった地位から引きおろして、その恥ずかしい身分を思い知らせてやろう、とでも思っているかのようであった。
夕食になり、スープが出された。そのとき、亭主のフォランヴィがまた現われて、ゆうべと同じことを言った。
「プロシアの士官さんがエリザベット・ルーセ嬢に、まだお考えが変らないかきいてこい、と言ってるんですが」
「変りません」
と、「でぶ」は、にべもなく答えた。
食事がはじまったが、ぐるになって攻め落とそうと相談した手はずが狂いそうになった。ロワゾーが、つい口をすべらせて、短気なことを言ってしまったからだ。ぶちこわしてはたいへんと、みんな、やっきになって、何か献身に関する新しい例を持ち出そうとしたが、べつだん、これはという例も見つからなかった。
やがて、伯爵の細君が、おそらく、何の底意もなく、ただ宗教にたいして敬意を表したいという漠然《ばくぜん》たる気持ちから、年とったほうの修道女に向って、聖者たちの生涯の偉大な事跡についてたずねた。すると、修道女は答えた。聖者たちの多くは、われわれ凡人の目から見れば罪となるような所業を犯しているが、しかも教会は、それらが神の栄光、あるいは隣人の幸福のためになされたものなら、どんな罪でも、いささかも咎《とが》めることなく許しているのである。
まさに渡りに舟の論法であった。伯爵の細君は、さっそく、それを利用した。
年とった修道女は、奥方の意向を暗黙のうちに了解したのか、それとも聖職者によく見られる、あの、それとなく相手に媚《こ》びる気持ちからであったか、いや、それとも偶然、この場に役立った無知や愚かさの結果であったか、とにかく一同の陰謀の有力な加担者となり共犯者となった。
一同は、この修道女を内気な女だと思っていたが、あにはからんや、あっぱれ剛の者であった。猛烈ないきおいで、しゃべりまくった。教義について悩むような殊勝な女ではなかった。その理論は鉄のごとく、その信念は岩のごとく、その良心には、兎《う》の毛ほどの不安もなかった。アブラハムの犠牲などとるにたらず、わたしなら神様の命令とあらば、たちどころに父母さえ殺してごらんにいれる、と断言した。彼女の意見によれば、意図さえ立派なら、どんな行いでも神意にそむくはずはないのである。
伯爵の細君は、この思いがけない共犯者が神に仕える者であることを利用して、「目的は手段を選ばず」という世俗の諺《ことわざ》を、神聖不可侵なものにでっちあげようとした。
で、こんなふうにたずねた。
「では、神様は、方便は問題になさらない、動機さえ正しければ、どんな行いでも許してくださる、と、おっしゃるのでございますね?」
「それはもう奥様、申すまでもございません。たとえ悪い行いでも、それを行う人の考えしだいで立派なものになるのでございます」
ふたりの女は、こんな調子で勝手に神の意志を忖度《そんたく》したり、その裁断を推測したり、はては、ほとんど神とは関係のないことにまで神を引き合いに出して、いつまでも話し合った。
すべてこれらのことは、それとなく、巧みに話された。しかし、頭巾をかぶったこの修道女の一語々々は、肥った娼婦の、敵なんかになびくもんか、という燃えるような反抗心に水をそそいだ。
しかし、会話は横にそれた。長い数珠《じゅず》を首からたらした修道女は、自分の属する教団の修道院のこと、修道院長のこと、自分自身のこと、さては隣りにいる器量よし、大の仲好しのサン・ニセフォール尼のことなどを話した。
ふたりの修道女は、天然痘《てんねんとう》にかかって入院している数百人の兵士の看護をするため、ルアーヴルへ派遣されるところであった。年とった修道女は、それらの哀れな兵士たちが病気で苦しんでいるありさまを思いやって、こと細かに話した。こうして、あのプロシア人の横車のために立ち往生しているあいだにも、どんなにたくさんのフランス兵が死ぬだろう? 彼女たちが看護すれば助かるかもしれないのに!
年とった修道女は、これまでも、もっぱら兵士たちの看護に当ってきた。クリミアにも、イタリアにも、オーストリアにも従軍した。いったん戦争の話になると、彼女は突然、あの勇敢な従軍尼僧の真の姿を現わした。陣営から陣営を駆けめぐり、戦場の混乱のなかから負傷兵たちを助け出す。隊長もおよばぬ激しさで、箸《はし》にも棒にもかからぬ大男の兵隊どもを叱りとばす。――その従軍尼僧の、彼女は典型のように思われた。無数の穴をうがたれた、その荒涼たる痘痕《あばた》さえ、戦争の惨禍を物語っているように思われた。
彼女が話し終ると、あとは、だれも口をきく者がなかった。それほど、みんな感動したのだ。
食事を終えると、人々は、すぐ寝室にあがった。そして翌朝は、日が高くなるまで降りてこなかった。
朝食は静かにすませた。きのう蒔《ま》いた種が芽を出し、実を結ぶのを待つ――みんな、そんな気持ちであった。
午後になると、伯爵の細君が言い出して、一同そろって散歩することになった。伯爵は、かねての手はずにしたがって「でぶ」の腕を取り、みんなのあとから、ふたりだけでついて行った。
伯爵は、謹厳な紳士が玄人《くろうと》の若い女にたいして使う、あの父親らしい、やさしい、しかし、どこか人を見下した口調で話した。さも親しそうに「可愛いお嬢ちゃん」などと呼びながら、しかし押しも押されもしない社会的な地位や名誉の高みから彼女を扱った。そして単刀直入に問題の核心にはいった。
「では、あんたは、わしらを、いつまでも、ここに引き止めておくつもりなんだね? あんたは、これまでも、たびたび男の言うことをきかなければならないことがあったんだろう。それなのに、こんどにかぎって、あの男の言うことがきけないなんて! こんなところにまごまごしていて、もしプロシア軍の旗色がわるくなって引き上げて行くとしたら、そのどさくさにまぎれて、わしらばかりでなく、あんたまで、どんなひどい目に会うかもわからないんだよ」
「でぶ」は、なんにも言わなかった。
伯爵は、やさしい態度で、道理を説いたり、感情に訴えたりした。あくまで「伯爵閣下」の威厳を保ちながらも、できるだけ下手《したて》に出、ときには愛嬌《あいきょう》たっぷりに持ちかけた。もし、あんたが目をつぶって、うんと言ってくれたなら、わしらは、どんなに助かるだろう、どんなに恩にきるだろう。――それから、ぐっとくだけた調子になって、笑いながら言った。
「それに、やっこさん、お嬢ちゃんのような美人に可愛がられたら、さぞ鬼の首でも取ったように喜ぶだろうよ。やっこさんの国には、お嬢ちゃんのような美人は、そうめったにいないからね」
「でぶ」は答えなかった。足を早めて、先を行く人々に追いついた。
宿に帰ると、「でぶ」は、すぐ自分の部屋にあがって行って、それきり降りてこなかった。人々は気が気ではなかった。あの女は、これからどうするつもりなんだろう? もし、うんと言わなかったら、どんな困難が持ち上がるだろう!
時計が夕食の時を告げた。一同、待った。「でぶ」は降りてこなかった。すると、フォランヴィがまた現われて、ルーセ嬢は、ご気分がおわるいようだから、お先にあがってください、と言った。みんな、耳をそばだてた。伯爵は亭主に近づいて、こっそりきいた。
「首尾は?」
「へえ、どうやら」
伯爵は、さすがに遠慮して、それ以上きかなかったが、ただ、みんなのほうに向いて、ちょっと目配《めくば》せしてみせた。みんな思わずホッとした。喜びで顔を輝かせた。
ロワゾーが叫んだ。
「しめ、しめ! このうちにシャンパンがあったら、いくらでもおごるぞ!」
すかさず亭主が四本、両手にさげて戻ってきた。ロワゾーの細君は青くなった。めいめい急にしゃべりだし、はしゃぎだした。みだらな喜びが、だれの心をも満たした。伯爵は、カレ・ラマドンの細君が美人なことに気がついたようであったし、ラマドンはラマドンで、さかんに伯爵の細君にお世辞をふりまいた。会話は活気をおび、賑《にぎ》やかになり、気のきいた冗談がとびかった。
と、突然、ロワゾーが真顔《まがお》になり、両手を高くあげて「静かに!」と叫んだ。みんなはハッとして、何事が起こったのかと口をつぐんだ。ロワゾーは両手で一座を制するような手つきをしながら天井を見あげて、耳を傾けていたが、やがて、ぐっと声を落とし、いかにも剽軽《ひょうきん》な調子で言った。
「ご安心めされ。首尾は上乗」
みんな、さすがにちょっと、なんのことかわからない、という顔をしてみせたが、やがて言いあわせたようにニヤリとした。
十五分ばかりたつと、ロワゾーは、またもや同じ道化を演じてみせた。ばかりでなく、それからも、たびたび、それをくりかえした。しまいには、ワインの行商をしていた男の根性まるだしに、二階の客に、こんなふうにすすめる身振りさえしてみせた。ええいかがでございます、お値段といい、お品《しな》といい……?
そうかと思うと、さも、いたたまれないというように、溜息をついてみせた。「ああ、ああ、可哀《かわい》そうな娘《こ》だ!」それから、いかにも憤慨にたえないようにつぶやいた。「プロシアのごろつきめ、くたばっちまえ!」
そして、一同二階のことを忘れかけると、そのたびに、わざと聞こえよがしに、声を震わせて言った。「ああ、このくらいで勘弁してやったらどうだ。長すぎる、長すぎる!」それから、ひとりごとのようにつけくわえた。「ああ、もう一度、あの娘《こ》が見られればいいが。まさか、あの野郎、取って食ってはしまわないだろうな!」
じつに鼻持ちならぬ道化だったが、みんな面白がり、だれも憤慨する者はなかった。というのは、憤慨などというものは、他の感情同様、その場その場の気分によるもので、それに一座には、みだらな思いをそそる雰囲気《ふんいき》が、さっきから、しだいに高まっていたからだ。
食事が終るころになると、女たちまでが、それとない、しかし、うがった冗談を言った。一同、目を輝かせて大いに飲んだ。伯爵は、こんな無礼講の席でも、日ごろの荘重な態度を崩さなかったが、それでも、こんなうまい譬《たと》えを言った。目下のわれわれの状態は、ちょうど北極で氷に閉ざされて長い冬ごもりをした連中が、ようやく南に航路のひらけたのを見て、踊りあがって喜んでいるようなものですな。――みんな、ごもっとも、ごもっとも、と相槌《あいづち》を打った。
感きわまったロワゾーは、シャンパン・グラスを片手に立ちあがると叫んだ。「われらの解放を祝して乾杯!」一同も立ちあがって、歓呼の声をあげた。ふたりの修道女までが、女たちにすすめられるままに、こわごわ、生まれてはじめて泡立つ酒に唇をひたした。そして、なんだかソーダ水に似ているが、それよりもおいしい、と言った。
ロワゾーの次の言葉は、いかにもよく一座の雰囲気を表わすものであった。
「残念だなあ、ピアノがあれば、カドリーユを踊るところだが!」
コルニュデだけは、初めから終りまで無言の行《ぎょう》、身体さえ動かさなかった。何か深刻な瞑想にでもふけっているかのようであった。ときどき、さも腹立たしそうに、その長い顎髯を、もっと長く引きのばそうとでもするように、しきりにしごいていた。
真夜中ごろ、やっと散会になった。ロワゾーは千鳥足でコルニュデに近づいて、ぽんと相手の腹をたたくと、呂律《ろれつ》のまわらぬ口調で言った。
「今夜は、さっぱり気勢があがらなかったね。しじゅう、だんまりで。おい、どうした、市民《シトワイヤン》?」
コルニュデは、それには答えず、突然キッと顔をあげると、ギラギラ光るすごい目つきで一座を睨《ね》めまわしながら叫んだ。
「諸君、諸君が今夜やったことは卑劣《ひれつ》きわまることだぞ!」
そして、いきなり立ちあがり、出口のところに行くと、もう一度、
「卑劣きわまることだぞ!」
と叫んで姿を消した。
一同、冷や水を浴びせられたように感じた。ロワゾーは度胆《どぎも》をぬかれて、ぽかんとしてしまった。しかし、やがて、われに返ると、急に腹をかかえて笑いだしながら、
「まあまあ大将、そんなに嫉《や》きなさんなってえことよ。階上《うえ》のやつらは、まだ若いんだ、若いんだ」
嫉く? 一同、なんのことかわからなかった。そこでロワゾーは「廊下の秘密」をすっぱぬいた。すると、みんな、わっとばかり……ことに女たちは、気がちがったように笑いこけた。伯爵とカレ・ラマドンとは、おかしさのあまり涙を浮かべた。けれども、笑いが静まると、みんな、そんなこと、ほんとうかしら、と思った。
「あの男が、そんなことをするなんて?」
「この目で見たんでさあ」
「すると女は、あの男をふったんだね?」
「プロシア人が隣りの部屋にいるから、いやだって……」
「まさか!」
「まさかどころか。嘘《うそ》いつわりは言いませんや」
伯爵は、ふたたび笑いで息を詰まらせ、紡績業者は両手で腹を押さえた。ロワゾーは、なおもつづけた。
「だから大将、今夜は大むくれ、というわけでさあ。可愛さあまって憎さが百倍、というところですかな」
そこで三人の男は、またもや腹の痛くなるほど笑いこけた。
やっと人々は散会した。
ところで、ロワゾーの細君は、生来、イラクサのような刺《とげ》のある女であった。寝床にはいると、さっそく亭主に、カレ・ラマドンの細君の悪口を言いはじめた。あのおつにすました、いけすかない女は、今夜はずっと、なにか心の中にもやもやがあったとみえて、ただ顔だけで笑っていた。
「やっぱり嫉いてるんですよ。ほんとに女なんて、軍服さえ着てれば、フランス人だろうとプロシア人だろうと、おかまいなしさ。浅ましいったらありゃしない!」
ひと晩中、廊下の暗がりの中には、ほとんど聞こえるか聞こえないくらいの軽い物音がしていた。それは息吹《いぶ》きのようでもあり、素足で踏む音のようでもあり、なにか物の軋《きし》む音のようでもあった。みんな、なかなか寝つかれないらしかった。というのは、それぞれの部屋のドアの下から細い光が洩《も》れていたからだ。シャンパンを飲みすぎると眠れないというが、おそらくそのせいかもしれなかった。
翌日は快晴で、冬の太陽がまぶしく雪を照り返していた。宿の前には、こんどこそ馬どもをつけた馬車が待っていた。その六頭の馬の脚《あし》のあいだを、まん中に黒い点のあるバラ色の目を持った白いハトの群れが、厚い羽根におおわれた胸を反《そ》らせて歩きまわりながら、湯気のたつ馬糞《ばふん》を蹴ちらし蹴ちらし、餌《えさ》をあさっていた。
羊の毛皮にくるまった御者は、すでに御者台でパイプをふかせていた。旅客たちは喜色満面、これからの旅のための弁当を大急ぎで包ませていた。
「でぶ」を待つばかりであった。
「でぶ」が出てきた。恥かしそうに、おずおずと近づいてきた。みんなは、いっせいに顔をそむけた。伯爵は例のもったいぶった様子で細君の腕をとると、不浄なやつには近よるな、とでもいうように自分のほうに引き寄せた。
肥った娼婦は、びっくりしたように立ち止まった。それから勇気をふるい起こして、紡績業者の細君に近づくと、おどおどとつぶやいた。
「おはようございます、奥様」
しかし、相手は横柄に、軽くうなずいただけであった。しかも、おまえさんなんかに挨拶《あいさつ》されては、こちらの身分にかかわる、と言わぬばかりに、じろりと睨みつけた。
だれもかれも彼女など目にはいらず、ほかのことに気を取られているふりをしていた。スカートの下に忌まわしい病気でも仕入れてきたかのように、彼女から離れて立っていた。やがて、われがちに馬車に乗り込んだ。彼女は、いちばんあとから、ひとり、しょんぼり乗ると、黙って、この前と同じ席に腰をおろした。
みんな彼女を見ないふりをした。どこのだれとも知らないふりをした。しかし、ロワゾーの細君は、遠くから横目で、いまいましそうに彼女を見ながら亭主の耳にささやいた。
「やれやれ助かった、あの女の隣りじゃなくて……」
重い馬車が、ぐらりと揺れた。旅がはじまった。
最初のうちは、みんな、黙っていた。
「でぶ」は目をあげなかった。あげられなかったのだ。車中の連中にたいして、やり場のない怒りを感じていた。と同時に、こいつらの口車にのせられて、むざむざと、あのプロシア人の腕に抱かれてしまった自分に、たまらない悔《くや》しさを感じていた。
しかし、やがて伯爵の細君が、カレ・ラマドンの細君のほうへ振り向いて、車中にただよう重苦しい沈黙を破った。
「ご存知でいらっしゃいましょう、あのエトレル様の奥様?」
「はあ、お友達でございます」
「なんて、すばらしい方でございましょう!」
「ほんとにすばらしい! ああいう方こそ生まれながらの才女と申すのでございましょう。すぐれた教養がおありになって、そのうえ指の先まで芸術家でいらっしゃいますわ。歌もみごとにおうたいになりますし、絵もじょうずにおかきになりますし……」
紡績業者は伯爵と話していた。窓ガラスがガタガタと鳴るなかで、ときどき、こんな言葉が高く聞こえた。
「配当……期限……プレミアム……先物《さきもの》」
ロワゾーは細君相手にペジーグをやりだした。そのトランプは、この抜け目のないワイン商人が宿屋からちょろまかしてきたもので、ろくに拭きもしない食卓で五年間も使われていたので、脂《あぶら》でベトベトになっていた。
ふたりの修道女は、帯にたらした長い数珠《じゅず》を取り上げ、十字を切ると、急にいそがしく、唇を動かしはじめたが、まるでお祈りの競争でもするように、だんだん速度を早めて、なにか訳のわからぬ文句をつぶやいた。そして、ときどき思い出したように胸の十字架に接吻したり、十字を切ったりしては、またその早口の、いつ果てるともない文句をつぶやきつづけた。
コルニュデは、何か物思いにふけっているらしかった。身動きもしなかった。
出発してから三時間たった。ロワゾーはトランプをしまいながら言った。
「ああ、腹がへった」
細君が紐《ひも》でからげた包みを解いて、なかから子牛の冷やし肉の大きなかたまりを取り出した。そして、それを手際よく、なるべく薄く切ると、夫婦で食べはじめた。
「わたくしどももいただきましょうか」
と、伯爵の細君が言った。カレ・ラマドン夫婦も賛成したので、伯爵の細君は四人分として用意させた弁当の包みをひらいた。
それはウサギのパイを入れるので蓋《ふた》にウサギの形をした陶製のつまみのついた、あの小判型の容器で、なかにはウサギと豚との肉を合い挽きにした、さもうまそうなパイがはいっていて、その褐色《かっしょく》の肉のかたまりには脂肪が白く尾を引いていた。これもうまそうなグリュイエル産の四角なチーズは、新聞紙にくるんであったので、そのねっとりした表面には雑報欄という文字がうつっていた。
ふたりの修道女は、ニンニクの匂いのする環型《わがた》のソーセージの包みをひらいた。コルニュデは、大きな外套《がいとう》の大きなポケットに両手を同時につっこむと、片方からは茹卵《ゆでたまご》を、もう一方からはパンのかたまりを取り出した。そして卵のからをむいて、足もとの藁《わら》の上に散らかせながら、手づかみみで、むしゃむしゃやりだしたが、長い顎髯《あごひげ》に引っかかった黄味《きみ》の粉は、まるで星のように見えた。
「でぶ」は弁当を持っていなかった。あわてて起きてきたので、それどころではなかったのだ。そんな自分には目もくれずに、ゆうゆうと食べている連中を眺めていると、むらむらと腹が立ってきて、身体が震え出した。思いきり、こいつらの仕打ちをののしってやろう! 激しい言葉が堰《せき》を切ったように、あとからあとからと、唇にのぼってきたが、しかし声に出なかった。あまりの怒りで、喉が詰まってしまったのだ。
だれも彼女のほうを見る者もなく、彼女のことを考える者もなかった。彼女は、彼らの軽蔑のなかに首までひたっている自分を感じた。紳士淑女の皮をかぶった人非人どもめ! こいつらは自分を犠牲にしておきながら、さて用がすむと、自分を、さも役に立たない、汚らしいものでもあるかのように、放り出したのだ!
彼女は、われにもあらず、あの、ご馳走のいっぱいはいった籠を思い出した。ゼリーのようになった汁が光っていた二羽の雛鶏《ひなどり》、パイ、梨《なし》、四本のワイン。……と、突然、ピンと張りきっていた糸がプツリと切れてしまったように怒りが消えさり、悲しみが湧《わ》きあがってきた。泣くまいとして歯を食いしばり、まるで子供のように、すすり泣きをのみこみ、のみこみした。しかし、涙がもりあがり、瞼《まぶた》のふちが光ったと思うと、二つの大きな涙の玉が目からあふれ、ころころと頬をころがり落ちた。と、もうがまんができなくなった。涙は、あとからあとからと、しかも、しだいに速度をまして、ちょうど岩のあいだから清水が流れ出るように、とめどもなく流れ出て、そして、ぽたぽたと規則ただしく、こんもりとした胸の曲線の上に落ちた。泣いているところを、だれにも見られたくないと思って、彼女は、わざと、まっすぐに身体をおこし、目をすえ、青ざめた顔をこわばらせていた。
しかし、伯爵の細君が気がついて、夫に目配せすると、伯爵は、それがどうした、わしの知ったことではない、とでもいうように肩をそびやかしてみせた。ロワゾーの細君は、ふん、いい気味だ、というようにニヤリとすると、「身から出た錆《さび》ですよ」と、夫にささやいた。
ふたりの修道女は、食べ残したソーセージを紙にくるんでしまうと、また、お祈りをはじめた。
卵とパンとに満腹したコルニュデは、長い足を向う側の腰掛けの下までのばすと、ぐっと反り身になって腕を組んだが、ふと、面白いいやがらせでも思いついたかのように、ほくそえんだ。そして、口笛で「ラ・マルセイエーズ」を吹きだした。
人々は眉《まゆ》をひそめた。この民衆的な歌は、あきらかに彼らの気に入らなかったのだ。彼らは、苛《いら》だたしそうな表情になり、ハンドル・オルガンを聞いた犬のように、いまにも吠《ほ》えたてんばかりであった。コルニュデは、もちろん、それに気がついたが、いっこう、やめようとはしなかった。そればかりでなく、ときどき歌詞まで口ずさんだ。
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祖国のためなるぞ
復讐の腕を!
自由のためなるぞ
防ぎ戦えよ!
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雪が固くなるにつれ、馬車はいくらか速力を増した。しかし、ディエップまでの道中は、長く、侘《わび》しかった。でこぼこ道がつづき、馬車は激しく揺れた。そのうえ夕方になり、やがて車内はまっ暗になった。そのあいだもコルニュデは意地わるく、これでもか、これでもかというように口笛を吹きつづけた。疲れきって、それでなくても苛々《いらいら》している人々は、そのうえ、いやおうなく、その歌の初めから終りまでを、くりかえし、くりかえし聞かされ、そのメロディの一つ一つに結びついている歌詞を思い浮かべなければならなかった。
「でぶ」は、いつまでも、すすり泣いていた。ときどき、押えようとしても押えきれない泣き声が口笛の合間々々をぬって闇の中に聞こえた。
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テリエ楼
一
常連は毎晩、十一時ごろになると、まるで喫茶店にでも行くように、ぶらりと、そこへ出かけて行った。
落ち合うのは六人から八人。いつも同じ顔ぶれ。道楽者なんかではなかった。町の名士、大店《おおだな》の商人、良家の若者。――シャルトルーズを舐《な》めながら、女たちをからかったり、おかみとまじめに話したり。みんな、おかみには一目《いちもく》おいていた。
十二時前に引き上げるが、若者たちは残ることもあった。
気のおけない家であった。黄色いペンキ塗りの、こぢんまりした二階屋で、サン・テティエーヌ教会の裏通りの角にあった。窓からは、荷揚げをしている船でいっぱいな港や、土地で「塩浜《しおはま》」と呼んでいる大きな塩田が見えた。その向こうには「聖母が丘」も見え、そこには古色|蒼然《そうぜん》たる礼拝堂が立っていた。
おかみはウール県の相当な農家の出だが、まるで婦人服店か下着類の店でも開くように、平然と、この店を引き受けた。こんな商売をすることを、都会では一にも二にも恥とするが、そんな先入観は、ここノルマンディの田舎《いなか》町には、まったくなかった。「けっこうな商売でさあ」と、百姓たちは言う。そして、息子を町に出して、あわよくば女郎屋の亭主にしようとする。まるで女学校の舎監にでもするようにである。
もっとも、この店は、前経営者の年とった伯父さんから遺産としてゆずられたものであった。テリエ夫婦は、それまでイヴトの近くで宿屋をやっていたが、ここフェカンの、この商売のほうが有利なことを見てとると、さっそく宿屋を売り払い、ある朝、店に乗り込んできた。そして、伯父さんの死後さびれていたこの店を経営することにしたのである。
夫婦とも気立てのいい人だったので、前からいる女たちもすぐなつき、近所の人からも好かれるようになった。
二年後、亭主は卒中で、ぽっくり亡くなった。急に身体のらくな商売になったので肥りすぎ、心臓をやられてしまったのだ。
おかみは後家《ごけ》になると、常連のだれかれからとなく言い寄られたが、ぜったい堅いという評判であった。事実、ひとつ屋根の下に寝起きしている女たちも、何ひとつ、嗅《か》ぎつけたことはなかった。
大柄で肉づきのいい、愛嬌《あいきょう》のある女であった。色が青白く、それもニスでも塗ったように、透き通っているのは、いつも陽の目おがまず、閉めきった、薄暗い家の中にばかりいるからであろう。入れ毛をちぢらせて、それで、ほっそり、額《ひたい》をふちどっているところは、その年増ざかりの堂々たる恰幅《かっぷく》にも似ず、いかにも娘々して可愛《かわい》らしかった。いつも陽気な、明けっぴろげな態度で、ずいぶんあけすけな冗談も言うが、一種の慎《つつし》みは忘れなかった。まだ新しい稼業《かぎょう》の泥水《どろみず》に、そこまでは染《し》みていなかったのだ。あまり露骨な言葉を聞くと、いやな顔をした。チンピラなどから自分のうちのことを、あからさまに「淫売屋」などと言われると、しんから憤慨した。まずは上等な魂の持ち主といってよかった。抱《かか》えの女たちを友だちのように扱ってはいたが、いつも口癖のように言っていた。「あの人たちとは育ちがちがいます」
ときどき、週日に、女たちを貸し馬車に満載して、ヴァルモンを流れている小川のほとりに遊びに行った。女たちは寄宿舎をエスケープした女学生さながら、草の上で、飛んだり、跳《は》ねたり、子供っぽい遊戯をしたり。――大気に酔いしれた籠《かご》の鳥の歓喜である。芝生の上にすわって、ハムやソーセージを食べ、林檎《りんご》酒を飲み、そして夕方になると、身も心も、ぐったりと、こころよく疲れて帰途につく。馬車の中で、女たちは争って、おかみに接吻の雨をあびせた。ああ、いいおかあさん、やさしいおかあさん、親切なおかあさん……。
家には入口が二つあった。裏通りの角に面したほうは、夜、労働者や水夫を相手にする、あいまい酒場になっていて、この家独特の商売に当っている女たちのうち、ふたりがもっぱら、こちらのほうの客を引き受けていた。ほかにフレデリックという、金髪で、髯《ひげ》のない、背の低い、まるで牛のようにがっちりした身体つきのボーイがいた。ふたりの女は彼に手伝わせて、葡萄《ぶどう》酒の大コップやビールびんを、脚のぐらつく大理石のテーブルに運ぶと、客の首っ玉に両腕を巻きつけたり、膝《ひざ》の上に横っちょに腰掛けたり、そして、酒や料理をすすめる。
女たちは全部で五人。このうち三人は、やや上玉《じょうだま》で、二階の客の相手をした。もっとも二階に客がなかったり、階下《した》が忙しかったりするときには、このかぎりではない。
土地の旦那《だんな》がたの集まるジュピテルの間《ま》には、青い壁紙が張ってあり、白鳥を抱いて横たわっているレダの大きな画がかかっていた。
この部屋は、回り階段を登って達するようになっていて、階段の下には往来に向って、狭い、人目にたたない入り口があった。入り口の上には、格子《こうし》の中に、小さな灯火《ともしび》が、夜っぴてともっていた。今日でも、まだ田舎の小さな町々へ行くと、壁にはめこまれた聖母像の足もとに、しばしば、小さな燈明《とうみょう》が置いてあるのを見うけるが、あれによく似た灯火だ。
古い、湿っぽい家の中には、かすかに、黴《かび》の臭いがただよっていた。それにまじって、ふと廊下に、安っぽい香水の匂いのただようこともあった。そうかと思うと、半ばひらいた階下のドアから、テーブルを囲んだ労働者たちの野鄙《やひ》な叫び声が湧《わ》きあがって、雷鳴のように家中に轟《とどろ》きわたり、二階の旦那がたの眉《まゆ》をひそめさせることもあった。
おかみは二階の客とは友だち同様、心安くしていたので、いつもジュピテルの間に陣どって、旦那がたのもたらす町の噂話《うわさばなし》に興じていた。彼女のまじめな話は、三人の女がのべつまくなししゃべりたてる、その息抜きのようなものであった。と同時に、それはまた毎晩、女たち相手にリキュールをちびちびやりながら、しごく安直《あんちょく》、かつ衛生無害な放蕩《ほうとう》にふけっている太鼓腹の旦那がたが、たえず、いかがわしい冗談をとばす、その休息のようなものでもあった。
二階の三人の女は、フェルナンド、ラファエル、それに、ぐうたらローザ。
そう何人も置くわけにはいかないので、この三人が、それぞれ、女の雛形《ひながた》という趣向《しゅこう》である。だから客たちは、そのどれかに、どうにか自分の理想のタイプを見いだすことができるのだ。
フェルナンドは「金髪美人」の典型。でっぷり肥った大女で、野良仕事をしていたときの日焼けが、いまでも、雀斑《そばかす》のように残っている。輝くような、といいたいが、じつは色褪《いろあ》せた短い金髪が、くしゃくしゃと麻のように乱れて、どうにか頭をおおっている。
ラファエルはマルセーユ生まれ。港々を流れ歩いてきた女で、「ユダヤ美人」という、なくてはならぬ役を勤めている。やせっぽちで、頬骨《ほおぼね》がとがり、そこにまっ赤に紅《べに》をさし、牛の髄《ずい》の脂《あぶら》で艶出《つやだ》しをしたまっ黒な髪は、こめかみのところで鉤形《かぎがた》に曲っている。右の目に星さえなければ、目はさぞきれいだろう。わしっ鼻、四角い顎《あご》。上の二枚の新しい入れ歯が、古材《ふるざい》のように黒ずんだ歯ならびの中で、いやに目立つ。
ぐうたらローザは、背のちんちくりんな、まるまると肥った、手足の短い、身体中腹ばかり、といいたいような女で、朝から晩までガラガラ声で歌ばかり、それも鄙猥《ひわい》な歌と純情可憐な歌とを、ちゃんぽんに歌っている。そのうえ、ひどいおしゃべりで、のべつまくなし、くだらないことをしゃべっている。この女が、しゃべるのをやめるのは食べるためで、食べるのをやめるのは、しゃべるためである。肥って足が短いくせに、リスのようにすばしこく、しじゅう目まぐるしく家の中を飛びまわり、いたるところで――寝部屋でも、屋根裏部屋でも、階下の酒場でも、箸《はし》が転んだといってもゲラゲラと、そうぞうしい笑い声をたてている。
階下のふたりは、おてんばルイズと、すこしびっこで、身体を揺すって歩くので「ぶらんこ」と綽名《あだな》されているフロラとであった。ルイズは「自由の女神」をきどって、いつも三色のバンドを締めている。フロラのほうはスペイン女としゃれこんで、頭に昔の銅貨をつらねた輪飾りをつけているのはいいが、その銅貨は、びっこを引くたびに赤毛の中で揺れている。ふたりとも、カーニヴァルで着飾った台所女中よろしく。要するに、あらゆる下層階級の女たちに似て、それより醜くもなく、美しくもなく、まずは宿屋の女中といったところであった。港の水夫仲間では「二台のポンプ」という綽名《あだな》でとおっていた。
これら五人の女は、内心、いがみあいながらも、めったに喧嘩《けんか》口論したことはなく、表面、とにかく仲好くやっていた。というのも、ついぞ、だれにたいしても、いやな顔ひとつしたことのないおかみが、しじゅう笑顔《えがお》で、うまく梶《かじ》をとっているからであった。
この種の家は、この小さな港町には一軒しかなかったので、いつも繁昌していた。ひと口にいえば、この家は、おかみでもっていたのだ。おかみは、この家を居心地よくする術《すべ》を心得ていた。だれにたいしても愛想がよく、親切だった。だから客たちのほうも、おかみ、おかみと立てていた。常連は、おかみのため、つい散財した。おかみから、特別親しくされたりすると、鬼の首でも取ったように思った。常連は昼間、商売上のことで会うと、ついでに、こんなことを言う。「じゃあ、今夜また……」。ということは、「今夜、飯を食ったら、また、あのうちで落ち合おう」という意味である。
要するに、テリエ楼は一種の溜《たま》り場であった。毎晩の集まりに、だれかが欠けるということは、めったになかった。
ところで、ある晩――五月の末――材木商で前町長のプーランさんが、一番乗りでやってくると、戸口が閉まっていた。格子の中の小さな灯火《ともしび》も消えていた。家の中は死んだように、ひっそりしていた。はじめは静かに、それからドンドン戸をたたいたが、返事はなかった。しかたがなく、通りをぶらぶら引き返してくると、市場《いちば》の広場でデュヴェールさんに会った。デュヴェールさんは廻船問屋で、やはりこれから行くところであった。いっしょに、もう一度行ってみたが、戸は、やはり閉まっていた。と、突然、近くで、激しい物音が起こった。そっと家についてまわって行くと、水夫たち――イギリス人の水夫たちとフランス人の水夫たちとの一団が、酒場の、これも閉まっている鎧戸《よろいど》を割れよとばかりたたいていた。
見つけられてはめんどうとばかり、すぐ逃げ出そうとすると、小声で呼びとめられた。見れば、懇意な塩物商のトゥールヌヴォーさんで、ふたりの姿を見て声をかけたのだ。ふたりが、ことのしだいを話すと、すっかりあわててしまった。というのは、一家の主人で、子供たちもあり、しかも細君の監視がきびしいこのトゥールヌヴォーさんは、土曜日にしか、ここに来られない。そして、きょうが、その土曜日だ。だから今夜をはずせば、また一週間、待たなければならない。――なぜ土曜日がいいかというと、友だちの警察医ボルド先生から、土曜日に定期検診があると聞かされているので、心ひそかに土曜日を「安全日」と呼んでいるからである。
三人は一大方向転換をこころみて、波止場のほうへぶらぶら歩いて行った。すると途中で、銀行家の御曹司《おんぞうし》の若いフィリップ君と、これも常連の収税吏のパンペスさんとに出会ったので、もう一度、念のため引き返すことにした。「ユダヤ人町」を通って行ってみた。ところが、例の水夫の群れが、いきりたって家を取り巻き、石を投げたり、わめいたり。そこで、五人の「お二階のお客さん」は、ほうほうのていで逃げ出すと、あてもなく町から町をうろついた。
そして、さらに保険代理店主のデュピュイさんと、商事裁判所判事のヴァス先生とに出会ったので、ここに同勢七人、うちそろっての長い散歩がはじまった。まず突堤へ行き、花崗岩《かこうがん》の胸壁《きょうへき》に並んで腰掛け、はるかかなたに波の寄せるのを眺《なが》めた。波頭が、闇《やみ》のなかで一瞬、白く光って消えると、岩に当って砕ける波の単調な音が、断崖《だんがい》にそって、遠く夜の中を走って行く。――一同、浮かぬ顔をして、しばらく、そんな景色を眺めていたが、やがてトゥールヌヴォーさんが、
「つまりませんな」と言った。
「つまりませんな」と、すぐパンペスさんが応じた。
そこで、みんなはまた、ぞろぞろ歩きだした。
こんもり茂った丘の裾《すそ》のある「森下」と呼ばれている町を通り、「塩浜《しおはま》」にかかった板橋を渡り、鉄道線路にそって、ふたたび市場の広場に出てきたときに、収税吏のパンペスさんと塩物商のトゥールヌヴォーさんとのあいだに、ちょっとした口論が持ち上がった。口論の種は、なんとかいう食用|茸《きのこ》のことであった。ふたりのうちのどちらかが、その茸なら町の近在で見つけた、と言うと、もうひとりが、いや、ぜったい、見つかるはずはない、と言った。
ふたりとも所在なさのあまり、苛々《いらいら》していたので、ほかの連中が仲裁にはいらなかったら、あわや大立ち回り、というところであった。パンペスさんは、怒って帰ってしまった。すると、こんどは元町長のプーランさんと、保険代理店主のデュピュイさんとのあいだで、またもや口論が持ち上がった。口論の種は、いま帰って行った収税吏のパンペスさんの俸給と役得《やくとく》についてであった。ふたりは、さんざん、悪態をつき合った。と、そこへ、突然、ものすごいわめき声が聞こえてきた。いくら待っても戸が開かないので業《ごう》をにやした水夫たちが、ふたりずつ腕を組み、長い行列をつくって、声をかぎりに叫びながら広場めざしてくりこんできたのだ。旦那がたは、とある戸口の陰に身をひそめた。そうぞうしい連中は、修道院の方へ消えて行った。その叫び声は、いつまでも聞こえていたが、やがて嵐《あらし》が遠ざかるように聞こえなくなった。すると、急にまた、あたりがシンとなった。
プーランさんとデュピュイさんとは、たがいに腹を立てていたので、さよならも言わず、それぞれの方角へ帰って行った。
あとに残った四人は、また歩きだしたが、足はしぜんにテリエ楼《ろう》のほうへ向った。行ってみると、戸口はやはり閉まっていて、中はシンとしていた。酔っ払いがひとり、酒場のほうの戸口を静かに根気よくたたいていたが、やがて、たたくのをやめ、フレデリック、フレデリックと、ボーイの名を小声で呼びはじめた。しかし、いつまでたっても返事がないので、戸口の石段の上に腰をおろしてしまった。覚悟をきめて、成り行きをまかせる気なのだろう。
旦那がたが帰りかけると、また騒がしい水夫の群れが通りのはずれに現われた。フランス人の水夫は「ラ・マルセイエーズ」を、イギリス人の水夫は「ルール・ブリタニア」を歌っていた。と思うと、いきなり壁に向って、身体ごとぶつかっていった。
さて、それから暴漢の群れは、ふたたび港のほうへ押し出して行ったが、港で両国人のあいだに喧嘩《けんか》がはじまり、乱闘の結果、イギリス人がひとり腕を折られ、フランス人がひとり鼻を割られた。
戸口に頑張《がんば》っていた酔っ払いは、いまはエーンエーンと泣いていた。酔っ払いや子供が途方にくれて泣く、あの泣き方だ。旦那がたも、ついに、それぞれ家路についた。
ざわめいていた町全体も、しだいに静かになった。あちらこちらの広場では、まだ、ときどき人声がしていたが、やがて、それらも遠くへ消えてしまった。
ところで、ただひとり、いつまでも町をうろついている人があった。ほかならぬ塩物商のトゥールヌヴォーさんで、こんどの土曜日まで待たなければならないことで意気|消沈《しょうちん》し、同時に自分でもなぜかわからず万一の僥幸《ぎょうこう》を期待していた。……だいいち警察がけしからん、と憤慨もしていた。なぜ警察は、その監督と保護下にある公共施設が、このように勝手に休業するのを許すのか!
もう一度、引き返すと、壁を嗅ぎまわるように家の周囲をぐるぐるまわって、休業の理由を発見しようとした。と、戸口の上に、なにか張り紙がしてあるのを見つけた。急いで蝋《ろう》マッチをすった。張り紙には、大きな、不揃《ふぞろ》いな字で、こう書いてあった。
「初の聖体拝受《せいたいはいじゅ》のため休業いたします」
万事休す。トゥールヌヴォーさんは、すごすごと帰って行った。
例の酔っ払いは、この無情な戸口の前に、ななめにひっくり返って眠っていた。
翌日、常連は、てんでに、何か口実をみつけては、もっともらしく書類などを小脇に抱え、この横町を通った。そして、こっそり横目を使って、張り紙の上に、次のような不可解きわまる文句を読んだ。
「初の聖体拝受のため休業いたします」
二
どうして、こういうことになったのか、と言えば……。
おかみには、ひとりの弟があり、郷里のウール県ヴィルヴィル村で建具屋をしていた。おかみは、まだイヴトで宿屋をしていた時分、この弟の娘の名づけ親となり、コンスタンスという名をつけてやった。コンスタンス・リヴェ。――リヴェは、おかみの実家の姓であり、すなわち弟の姓である。
リヴェは姉の羽振りのいいことを知っていたので、かねがね、あまり疎遠《そえん》にしたくないと思っていたが、たがいに商売に忙しく、それに離れて暮らしているので、めったに会うこともなかった。ところが、こんど、娘が満十二歳になろうとし、初の聖体拝受〔イエスの血と肉の象徴である葡萄酒とパンとを会衆にわかつ儀式。カトリックでは、幼児が満七歳に達すると、なるべく早く聖体拝受をするよう定めている〕をすることになったので、この機会を利用して久しぶりで姉に会いたいと思い、手紙を書いて、ぜひ式に参列してくれるように頼んだ。おかみとしては、ほかならぬ名づけ子のことではあるし、それに両親――コンスタンスの祖父母も亡くなっていることだし、断わるわけにはいかなかった。――結局承知した。一方弟のジョゼフにすれば、姉には子供がないのだから、こういう機会に、機嫌《きげん》をとっておけば、将来、娘の仕合わせになるような遺言状を書いてもらえるかもしれない、と、そんな下ごころもあったのである。
姉の商売のことは、すこしも気にならなかった。だいいち、村では、だれも知っている者はなかった。姉の話が出るたびに、さり気なく、「フェカンで気楽にやってますよ」と言った。で、聞くものは、みんな、恩給かなにかで相当に暮らしている、と思っていた。それにフェカンとヴィルヴィルとでは、すくなくとも二十リューは離れている。百姓にとって二十リュー離れた土地へ行くことは、上流階級の人が大西洋を渡るよりも、もっと大変なのだ。ヴィルヴィルの人間は、いまだかつてルーアンより先へ行ったことはない。と同時にフェカンの連中も、隣県の、それも草深い、戸数五百ばかりの小さな村などに用のあるはずはない。結局、たがいに何も知らないのである。
ところで、聖体拝受の日が近づくにつれ、おかみは非常な困惑を感じずにはいられなかった。留守中、自分の代りを頼む人はなく、それかといって一日でも、このまま、うちをあけたくはなかった。そんなことをすれば、それでなくても階上《うえ》と階下《した》とでもめがちな女たちは、さっそく、もんちゃくを起こすだろう。それにフレデリックときたら、すぐ酔っ払う。そして、酔っ払えば、ささいなことでも、だれかれの見境なく喧嘩を吹っかけ、乱暴を働く男だ。――思案にあまったすえ、ついに決心した。女たち全部を連れて行き、フレデリックには二日間、暇をやることにしたのである。
手紙で言ってやると、喜んでお待ちする、お宿はひと晩、引き受けた、という返事がきた。そこで土曜日の朝、おかみと、その一党とは、八時発の急行の二等車に乗り込んだ、というわけである。
ブーズヴィルまでは貸し切り同様だったので、女たちはカササギのように、しゃべりまくった。ブーズヴィルで、夫婦者が乗ってきた。亭主は年とった百姓で、青い、ゆったりした仕事着を着ていた。襟《えり》から胸にかけて襞《ひだ》があり、だぶだぶの袖《そで》が手首のところで細くなり、そこに白い小さな刺繍《ししゅう》のある仕事着である。頭に乗せた旧式のシルクハットは日に焼けて、|けば《ヽヽ》立っている。片手に緑色の、ばかに太い、こうもり傘《かさ》を持ち、もう一方の手には大きな籠《かご》を持っていたが、その籠からはアヒルが三羽、首を出して、びっくりしたように、きょろきょろ、あたりを眺めていた。女房は田舎ふうにめかしこんで、よそゆき顔をしていたが、その顔は雌鶏《めんどり》に似て、とがった鼻は、口ばしそっくり。――亭主と向い合って腰掛けたが、身動きもしなかった。上《うえ》つ方《がた》のまんまん中に飛び込んだので、コチコチに堅くなっているのである。
上つ方――まったく、それにはちがいなかった。車内の|仕切り席《コンパルティマン》は絢爛《けんらん》、目を奪うばかり。青い絹の服を着たおかみは全身青ずくめ。しかも、その上から、目もくらみそうにまっ赤な、ピカピカ光るフランス製の、まがいカシミヤのショールを掛けている。フェルナンドは、スコットランドふうの、ごばん縞《じま》の服の下で、苦しそうに喘《あえ》いでいる。コルセットを傍輩《ほうばい》に頼んで力いっぱい締めてもらったからだ。だらりと垂れた大きな乳房が押しあげられて、もりあがり、服の下で右に左に、まるで液体のように、たえず揺れている。
ラファエルは、鳥の二、三羽は巣ごもっていそうな羽根だらけの帽子をかぶり、金モールの飾りをつけた薄紫の服を着ているが、そのどこか近東ふうないでたちは、「ユダヤ美人」の顔立ちに似あわなくもない。ぐうたらローザは大きな裾《すそ》飾りのついた桃色のスカートをはいている。肥った坊や、ないしは、でぶの一寸法師、といったところだ。階下のふたり、「二台のポンプ」は、古いカーテンを、――それも、あの王政復古時代の、枝葉《えだは》模様のついた大時代なカーテンを裁《た》って仕立てたような、なんともいえぬ妙な服を着ている。
車内の|仕切り席《コンパルティマン》が自分たちばかりでなくなると、女たちは急にすました顔になり、堅気《かたぎ》らしく見せかけようとして、もっともらしいことを話し出した。ところで、ボルベックに着くと、また、ひとり乗り込んできた。ブロンドの頬髯《ほおひげ》をはやした紳士ふうの男で、指輪をいくつもはめ、金鎖をぶらさげている。頭の上の網棚《あみだな》に、蝋引きの布に包んだ箱をいくつかあげた。見るからに、剽軽《ひょうきん》そうな、愉快そうな男であった。会釈をし、ニッコリ笑うと、くだけた調子で話しかけた。
「いよう、これはこれは、おねえさんがた、河岸《かし》をお変えなさるんで?」
女たちは言葉につまり、たがいに気まずい顔を見あわせた。おかみも息をのんだが、やっと立ち直り、一党の名誉のため一言せずんばあらずとばかり、たしなめるような調子で言った。
「失礼なこと、おっしゃるもんじゃありません」
すると、男はぺこぺこ頭をさげて、
「これは、どうもどうも。修道院をお変えなさるという意味だったんで……」
これには、さすがのおかみも返答に窮したのだろう。いや、あるいは、とにかく男があやまったので、腹の虫を押えたのかもしれない。唇《くちびる》をとがらせて、うなずいた。
男はぐうたらローザと年とった百姓とのあいだに腰掛けていたが、大きな籠から首を出している三羽のアヒルに向きなおり、目をパチパチさせながら、からかいはじめた。そして、女たちが早くも自分に注意を向けているのを意識すると、彼女たちを笑わせるために、アヒルたちの口ばしの下をくすぐりながら、ふざけた調子で、こんなことを言い出した。
「あたしたち、ちっちゃなお池とさよならしてきたの、グワッ! グワッ! グワッ! ちっちゃな金串《かなぐし》と、お友だちになるために、グワッ! グワッ! グワッ!」
哀れな鳥たちは、男の愛撫《あいぶ》を避けるため、首を反らし反らし、必死になって柳の牢屋から逃げ出そうとしたが、突然、いとも悲しげに声をそろえて鳴きたてた。
「グワッ! グワッ! グワッ!」
どっと女たちが笑いくずれた。そして、アヒルたちを、もっとよく見ようとして、身をこごめるやら押しあうやら、すっかり、夢中になってしまった。男は、してやったりとばかり、ますます面白おかしくアヒルたちをからかった。
とうとうローザが男の仲間に加わった。隣りに腰掛けている男の膝ごしに身をこごめて、アヒルたちの鼻面《はなづら》に接吻したのだ。すると、たちまち女たちは、われもわれもとアヒルたちに接吻したがった。男は、そういう女たちを膝の上に抱きあげてやったり、降ろしてやったり、さあ、お次の番は、と手を差し伸べてやったり。そのうち、いきなり、十年の知り合いのように話し出した。
百姓夫婦はアヒルよりも、もっとびっくりして、身動きひとつせず、目ばかりパチクリさせていた。その年とった、皺《しわ》だらけな顔には、微笑も浮かばず、さりとて、さもいやらしそうに眉をひそめる表情も浮かばなかった。
男は旅回りの注文取りで、おどけながら、ひとつ、おねえさんがたに敬意を表して、ズボン吊《つ》りを進呈しよう、と言い出した。そして、荷物をひとつ網棚からおろしたが、それは計略で、箱を開けると、中には婦人用の靴下どめがはいっていた。
青、桃色、赤、紫、えび茶、緋《ひ》――色とりどりの絹の靴下どめで、金色のキューピッドが抱き合っている留め金がついている。女たちは、わっとばかり歓声をあげたが、たちまち、世にも真剣な表情になった。女たちが小間物《こまもの》などをいじるときの、あの表情だ。いちいち、それらの見本を吟味《ぎんみ》したり、あるいは、たがいに目と目で――ひそひそ声で、相談し合ったりした。おかみは、いかにも気に入ったように、なかでもいちばん上等な、オレンジ色のを取りあげた。これぞまさしく、おかみ向きの品であった。
男は胸に一物《いちもつ》、しばらく頃合いを見計らっていたが、
「さあさあ、ねえちゃんたち」と言った。「ひとつ、あたしが、はめてあげましょう」
女たちはキャッと叫んで、あわててスカートを足のあいだに挟《はさ》み込んだ。まるで、いたずらでもされそうな騒ぎだ。男は成算ありげに、ゆうゆうと、そのありさまを眺めていたが、やがて潮時《しおどき》とばかり、
「いらないんだね。じゃあ、しまうよ」と言ったが、いかにも気を引くように、「はめさせてくれた人には、どれでも一対《いっつい》、好きなのをあげるよ」
それでも女たちは、ツンとすまし返って、取り合おうとはしなかった。ただし「二台のポンプ」だけは、いかにも、未練たっぷりにみえたので、男はもう一度、同じ文句を繰り返した。ことに、ブランコのフロラが、ありありと迷っているのを見てとると、ここぞとばかり、
「さあさあ、ねえちゃん、勇気を出して……。ほら、この藤色のやつ、ねえちゃんの服にはぴったりだよ」
そこでフロラは決心して、スカートをまくりあげ、片足を突き出した。安物の靴下をだぶだぶにはいた、牛飼い女のそれのように、たくましい足だ。男はかがみこんで、まず膝の下に靴下どめをはめると、それをぐっと膝の上まで押し上げた。ついでに、そこらを、こちょこちょと、くすぐったので、フロラはキャッキャッと笑いながら身をもんだ。男は、もう一方の足にもはめてしまうと、その藤色のをフロラに進呈すると言い、
「さあ、さあ、お次は、お次は?」
「あたいよ、あたいよ」と、女たちは、いっせいに叫んだ。中でも、ぐうたらローザが、いち早くスカートをまくりあげ、太い、というもおろか、足首もない、のっぺらぼうな――ラファエルがいつもからかって「あんよのソーセージ」と言っている――それを突き出した。次はフェルナンド。男は、その堂々たる円柱には感嘆おくあたわず、さかんにほめあげた。「ユダヤ美人」の蚊《か》の脛《すね》は、それほどの成功は博さなかった。おてんばルイズは、はしゃいで、かがみこんだ男の頭にスカートをかぶせたので、おかみは、なんぼなんでもふざけすぎると、思わずたしなめた。そして、最後に、おかみ自身スカートをまくった。すらりとして、しかも肉づきのいい、いかにもノルマンディ女らしい、みごとな足だ。旅回りの注文取りも、しばしうっとり。やがて、うやうやしく帽子を脱ぐと、まさにフランスの騎士よろしく、このふくらはぎの傑作に敬礼した。
百姓夫婦は、さっきから、あっけにとられて身動きもせず、ただ横目で、ちらちら眺めていたが、彼らの顔つきは鶏《にわとり》そっくり。ブロンドの頬髯は、いきなり立ち上がると、夫婦の鼻先で、「コケッコッコー」と鳴いてみせた。それで一座、またドッときた。
年寄り夫婦はモットヴィルで降りた。籠とアヒルと、こうもり傘とを持って……。遠ざかりながら、女房が亭主に言っているのが聞こえた。
「淫売《いんばい》だろう。また、あの、恐《お》っそろしいパリさ行くんだろう」
剽軽者の小間物商人が、あまり、いい気になってふざけるので、おかみは、ぴしゃりと一言、たしなめてやろうと思ったが、男はルーアンに着くと、さっさと降りて行ってしまった。おかみは、おそまきながら、お説教めいたことを言わずにはいられなかった。
「見ず知らずの人と、あんまり、馴《な》れ馴れしくしてはいけないよ。わかったね」
オワセルで乗り換え、次の駅で降りた。ジョゼフ・リヴェが迎えにきていた。乾草《ほしくさ》などを運ぶ大型二輪車には白い馬がつけられ、車の上には、いくつかの椅子が置かれてあった。
建具屋は女たちの頬に、いちいち礼儀正しく接吻すると、手を取って乗せてやった。三人は、うしろに並んだ三つの椅子に腰掛け、ラファエル、おかみ、おかみの弟の三人は、前に並んだ三つの椅子に腰掛けた。ローザは席がなかったが、大女のフェルナンドの膝の上に、どうやら腰をおろすことができた。
いよいよ出発。ところが走り出すや、馬車はひどく揺れた。老いぼれ馬が、びっこを引き引き、しゃにむに走りはじめたからだ。椅子が踊る。女たちは、あやつり人形さながら、右によろめき左に倒れ、宙に跳ねあがる。そのたびに恐怖の表情も大袈裟《おおげさ》に、キャーキャー騒ぐが、そこへまた、さらに猛烈なひと揺れをくらうと、さすがに一瞬、ハッと息をのむ。――とうとう車体の両側の仕切りにしがみついてしまった。帽子は背中にずりおち、鼻にかぶさり、肩にかしいだ。そのあいだも白い駄馬《だば》は、首を突き出し、尻尾《しっぽ》を立てて、いっさんに走った。まるでネズミの尻尾のような、毛のない小さな尻尾で、それでときどき尻《しり》をちょこちょこたたいた。
ジョゼフ・リヴェは片足を梶棒にふんばり、片足を曲げて身を反らせ、両|肘《ひじ》を高くあげて手綱《たづな》をとっていた。喉《のど》からは、雌鳥が雛《ひな》を呼ぶコッコッコッというような声がたえず洩《も》れ、それを聞くと馬は耳を立てて、いっそう足を速めた。
街道の両側には、見渡すかぎり緑の麦畑がひろがっていた。ところどころには、花ざかりの菜種《なたね》畑が、その黄色い、波立つ、大きな面《おもて》をひろげ、そこからは健康な、力強い、胸に染みこむような芳香が立ちのぼって、遠くまで風に運ばれていった。もうかなり伸びたライ麦のあいだには、矢車草の群れが、その青い、可憐《かれん》な頭を見せていた。女たちは摘みたがったが、リヴェは馬車をとめようとはしなかった。やがて、ところどころに、まるで一面血を流したような、まっ赤な畑が現われた。雛罌粟《ひなげし》の畑だ。
これら地上の花々で目もあやな田園のまっただ中を、それらの花々よりさらに絢爛《けんらん》たる花々を満載しているかに見える馬車は、白い馬の足掻《あが》きにつれて走りつづけた。それは農家の大きな木立の陰に入り、そこから出ると、また、おりからのうららかな陽射《ひざ》しをあびながら、黄色い畑、緑の畑――そのあいだには赤い畑も点在する――広々とした田園風景の中を、しだいに小さく遠ざかっていった。
ちょうど一時の鐘が鳴っているとき、建具屋の戸口の前に着いた。
女たちは、へとへとになっていた。それに家を出て以来、なにも食べていなかったので、空腹で青い顔をしていた。リヴェの細君が駆け寄って、ひとりひとり手を取って降ろしてやり、降りるそばから接吻した。ことに義姉《あね》には、いつまでも接吻の雨をあびせた。せいぜい、ご機嫌をとっておこうという魂胆《こんたん》だ。
食事の支度《したく》は仕事場にできていた。あすの宴会のため、仕事台などもうすっかり片づけられていた。
うまいオムレツ。つぎには豚《ぶた》の腸詰め。これは焼いて、辛口《からくち》の上等な林檎酒がかけてある。女たちは、たちまち元気を回復した。リヴェはグラスの数をかさねたが、細君のほうは、もっぱらサービスにまわった。料理を作ったり、皿を持ってきたり、持ち去ったり、その合間々々には、女たちのひとりひとりの耳に口を当てて、
「いかが? お口に合うでしょうか?」
周囲の壁には、削《けず》りたての板が何枚も立てかけられ、部屋のすみには、木屑《きくず》がうずたかく掃き寄せられていた。鉋《かんな》をかけた木の匂いが――建具屋の匂いが――あの肺の奥まで染みこむ脂《やに》の匂いがただよっていた。
女たちは口々に、お嬢ちゃんは、とたずねたが、教会に行っていて、夕方でないと帰らない、ということであった。
そこで食後、女たちは、そのへんをひと回りすることにして、リヴェ夫婦もいっしょに家を出た。
街道にそった、ごく小さな村で、両側に、それぞれ十軒ほどの店屋が並んでいた。肉屋、乾物屋、指物《さしもの》屋、居酒屋、靴屋《くつや》、パン屋などで、それらが、この村の、店屋の全部であった。教会はこの、いわば目抜き通りを出はずれたところにあり、狭い墓地で囲まれ、正面玄関の前には四本の大きな菩提樹《ぼだいじゅ》がそびえ、教会の建物は、それらにすっぽり包まれていた。硅石《けいせき》づくりの、様式もなにもない平凡な建物で、スレートぶきの鐘楼が屋根の上に立っていた。裏手からは、すぐ畑がひろがり、ところどころに木立が農家をおおっていた。
リヴェは仕事服のままであったが、形式に従って姉の腕を取り、しゃちほこばって、あちらこちら案内した。細君はラファエルの金糸を刺繍《ししゅう》した服にすっかり感心して、ラファエルとフェルナンドとのあいだに割り込んだ。そのあとからは、でぶのローザ、おてんばルイズ、ぶらんこフロラが、ちょこちょこついて行った。フロラはくたびれて、いっそう、びっこを引いている。
村の人たちは家の中から出てきて戸口に立ち、往来で遊んでいた子供たちも遊びをやめた。窓のカーテンがまくられ、その陰からサラサの頭巾《ずきん》をかぶった顔がのぞく。そうかと思うと、杖《つえ》にすがった、ほとんど目の見えない婆さんが、尊い行列でも通ると思ったのだろう、うやうやしく十字を切る。――だれもかれも、ジョゼフ・リヴェの娘の初の聖体拝受のため、はるばる町からやってきた美しい女たちを、いつまでも見送った。たちまち建具屋にたいする尊敬が生じた。
教会の前を通りかかると、子供たちの合唱が聞こえてきた。幼い、かん高い声で、天に向って歌われる讃美歌だ。女たちは中にはいりたがったが、おかみはとめた。天使たちをじゃまさせまいとする心遣《こころづか》いからだ。
野良を歩きながら、リヴェは、あちらの畑はだれの、こちらの畑はだれのと、おもな畑を指さしたり、作物や家畜からのあがりを説明したり。やがて、女たちを、まるで羊の群れを連れ戻すようにして家に帰った。
家が狭いので、部屋ごとに、ふたりずつ、わかれて寝ることにした。
リヴェは、この際だから仕事部屋の鉋屑《かんなくず》の上に寝て、夫婦の寝台には、細君と義姉《あね》とを寝かせることにした。フェルナンドとラファエルとは隣りの部屋に、ルイズとフロラとは台所の床《ゆか》の上に毛布をしいて寝ることにした。ローザは、梯子《はしご》段をあがったとっつきの、狭い暗い部屋に寝ることにし、こんど聖体拝受する少女は、これもこの際だから今夜だけはローザの部屋のすぐ隣りの、窮屈な、天井裏のようなところに寝ることにした。
夕方、少女が帰ってくると、女たちは先を争って接吻したがり、愛撫《あいぶ》したがった。それは、この種の女たちに共通な、あの愛したいという欲求、好かれたいという職業的習慣からで、今朝、汽車の中でアヒルたちに接吻したのも、いってみれば同じような心理からであった。一同、かわるがわる膝の上に抱きあげては、そのしなやかな金髪を愛撫したり、心の底から湧きあがる烈《はげ》しい愛情にかられて、ぐっと腕《うで》の中に抱きしめたりした。柔順な少女は、さながら信仰心にひたりきって、いかなる穢《けが》れからも守られているように、いつまでも辛抱《しんぼう》強く、娼婦たちのなすままになっていた。
きょうは主客いずれにとっても、あわただしい日だったので、夕食をすますと、さっそく寝ることにした。
田園の、あの、ほとんど宗教的ともいうべき無限の沈黙が、小さな村をつつんでいた。あの森閑《しんかん》とした、人の心に染みこむような、広大無辺、星空までも満たしているような沈黙だ。娼家のそうぞうしい夜に慣れている女たちは、眠れる田園の静かさが、しんしんとして身に染みるのを覚えた。なにか不安な、落ち着かない心持ちになり、淋《さび》しさがゾクゾクと、まるで寒気《さむけ》のように背筋を走るのを感じた。
ふたりずつ、ひとつ寝床にはいると、思わず、この大地の眠り――あたりに満ち満ちている深い静寂から身を守ろうとするように抱きあった。
しかし、狭い暗い屋根裏部屋にひとりで寝かされたローザは――もちろん、ひとり寝になれないせいもあったが、なんともいえぬ心細さにおそわれて、眠れぬまま、右に左に寝返りをうっていた。と、枕《まくら》もとの板仕切りの向こうで、しくしく泣いている声が聞こえた。少女の声だ。びっくりして、そっと声をかけると、しゃくりあげながら、ぼそぼそと答えた。いつもは母親の部屋に寝る少女が天井裏に寝かされて、淋しがって泣いているのだ。
ローザは、むしょうに嬉《うれ》しくなり、起きあがると、だれも目を覚まさないように、そっと足音を忍ばせて迎えに行った。連れてくると、床《とこ》の中に入れて――床の中は、ばかに暖かかった――胸に抱きしめ抱きしめ、接吻したり、撫《な》でたり、さすったり、むちゃくちゃに可愛がった。そのうちに自分もいい心持ちになり、眠ってしまった。あす、聖体拝受する少女は、こうして夜が明けるまで、娼婦のあらわな胸に額をつけて眠ったのである。
翌朝五時――アンジェラス〔カトリックで、天使ガブリエルの聖母マリアにたいする受胎告知の記念に、朝・昼・晩におこなう祈祷。お告げの祈り。教会は鐘をついて知らせる〕の時刻になると、教会の小さな鐘が鳴って、女たちの目を覚まさせた。いつもなら夜の疲労の唯一の休息として昼まで眠っている女たちである。
村の百姓たちは、もうとっくに起きていた。女房たちは声高《こわだか》にしゃべりながら、忙しそうに戸口から戸口へと行ったり来たりしていた。糊《のり》がきいてボール紙のように突っ張ったモスリンの小さな服をささげるように持っているものもあれば、教会用の大|蝋燭《ろうそく》をうやうやしく持っているものもあった。それは、途方もなく長い蝋燭で、金糸の房のついた絹のリボンで、まん中のところをくくられ、手に持つところは、蝋を削って細くしてある。
すでに、かなり高くのぼった太陽が、まっ青《さお》に晴れわたった空に明るい光をみなぎらせていたが、地平線のあたりは、朝焼けの名残《なご》りであろうか、まだかすかにバラ色に染まっていた。家々の前では、雌鳥たちが、雛を連れて遊んでいた。首筋の光っている、まっ黒な雄鳥《おんどり》が、まっ赤なとさかの頭を高く持ちあげ、羽ばたきしながら風に向って、しゃがれ声を張りあげると、あちらこちらで、他の雄鳥たちが声を合わせた。
雑多な二輪馬車が、つぎつぎに近在の村々からやってきて、家々の前に大柄なノルマンディ女をおろした。女たちは、みな言いあわせたように黒っぽい服を着て、ショールを胸もとでかきあわせ、先祖伝来、とでもいいたいような、古めかしい銀のブローチでとめている。男たちは新調のフロックコートや、ひと昔まえにはやった緑色の燕尾服《えんびふく》を着ているが、みな、それらの上に青い仕事着を羽織っているので、燕尾服の尻尾が仕事着の下から垂れている。
馬を厩《うまや》に入れてしまうと、街道の両側には、あらゆる型、あらゆる年代の、田舎くさいガタ馬車が、ずらりと二列に並んだ。それらは、あるいは地面に鼻をつき、あるいは梶棒を空に向けて尻餅《しりもち》をついている。
建具屋の家は、蜂《はち》の巣をつついたような騒ぎであった。女たちはシュミーズ一枚で、髪の毛を――使い古して色が褪《あ》せ、擦《す》り切れてしまったような、短い、とぼしい髪の毛を背中に乱し、少女の化粧や着つけに大わらわだ。
少女はテーブルの上に、じっと立たされていた。女たちは、おかみの指図《さしず》にしたがって、その顔に化粧したり、髪をすいたり、結《ゆ》ったり、服を着せたり、ピンをふんだんに使って、襞《ひだ》を整えたり身幅を縮めたり。すっかり、きれいにこしらえてしまうと、少女を椅子に掛けさせ――なんという聞きわけのいい子だ!――動いてはいけない、と言いつけておいて、さて、こんどは急いで自分たちの化粧に取りかかる。てんてこまいの騒ぎである。
小さな教会は、また鐘を鳴らしはじめた。といっても、その貧弱な鐘の音は、すぐ空にのぼって消えてしまう。ちょうど、かぼそい人声が、たちまち虚空《こくう》に吸いこまれてしまうようにである。
聖体を拝受する子どもたちは家々を出て、街道のはずれにある村立の建物――ふたつの学校と村役場とから成っている――のほうへ進んで行った。ただし、「神さまのおうち」は、街道の、もう一方のはずれにあった。
着飾った両親たちは照れくさそうな顔をして、日ごろの労働にねじ曲った身体を不器用に動かしながら、チビたちのうしろから歩いて行った。女の子たちは、泡《あわ》だったクリームを思わせるまっ白な紗《しゃ》のヴェールを頭からすっぽりかぶっていた。男の子たちは、髪をポマードでべったりなでつけ、カフェのボーイの見本よろしく。黒いズボンを汚すまいとして、足をひろげて歩いている。
遠方からやってきた親類縁者が、おおぜい子供に付きそっているのが、家族にとっては何よりの名誉である。その点で、建具屋は、おおいに鼻が高かった。コンスタンスを先頭に、テリエ家の一同が、それにつづいた。すなわち父親が姉の腕を取り、母親はラファエルと、フェルナンドはローザと、ルイズはフロラと、それぞれ並んで歩いて行った。さながら参謀本部の一団が軍服姿も美々しく、堂々と進んでいるようだ。
村中の人々は、びっくり仰天、目を丸くした。
学校に着くと、女の子たちは、尼さんの三角頭巾の下に並んだ。男の子たちは、代表の先生の帽子の下に並んだ。すこぶる美男の先生だ。一同、さっそく讃美歌を歌いながら出発した。
男の子たちが先になり、二列になって、両側に馬をはずした馬車の並んでいるあいだを進んで行くと、あとから女の子たちが、これも二列になってつづいた。その次には、村の人たちが町からきた婦人たちに敬意を表して先をゆずったので、女たちが、やはり二列になって――左右に三人ずつ――子供たちのあとにつづいた。色とりどりのその姿が行列のしんがりをつとめたところは、まさに花火大会で最後に一発、呼び物を打ちあげた観があった。
女たちが教会に姿を現わすと、会衆はワッとばかりどよめいた。われがちに見ようとして振り返り、押しあい、へしあいした。聖歌隊の金襴《きんらん》の袈裟《きさ》よりもきらびやかな女たちを見ると、信女たちは感嘆し、思わず声高に話しあった。村長が聖歌隊の間《ま》に向って右側の最前列のベンチをゆずってくれたので、おかみは、義妹《いもうと》、フェルナンド、ラファエルといっしょに並んで腰掛けた。ぐうたらローザと二台のポンプとは、建具屋と並んで二列目に腰掛けた。
聖歌隊の間《ま》は、ひざまずいた子供たちで、いっぱいであった。一方の側に女の子たちが、もう一方の側に男の子たちが並び、彼らの持った長い蝋燭は槍のように、右に左に揺れていた。
譜面台の前に三人の男が立って、声を張りあげて歌っていた。響きのいいラテン語の音節を長く引っぱり、「アーメン」の「アー」を「アーーー」というように歌うと、セルパン〔大きな筒口をもつ金管楽器。教会のみで用いられる〕が、その単調な吠《ほ》え声を無限に引きのばして伴奏した。ひとりの男の子のかん高い声が、それに調子を合わせた。角帽をかぶり、座席に掛けている司祭が、ときどき立ちあがり、何か早口でボソボソとつぶやいては、また腰をおろした。すると、ふたたび三人の男が、目の前にひろげてある大きな聖歌集を見つめながら歌いだした。聖歌集は、細い支柱の上にとまっている木彫りのワシの、ひろげた両翼の上に乗っている。
一瞬、シンとなった。会衆は、いっせいにひざまずいた。祭司が現われたのだ。白髪の、いかにも有徳《うとく》そうな老人で、ふたりの、赤い法衣を着た助修士を先に立て、左手に持った聖杯の上に俯《うつ》むくように背をこごめていた。あとからは、ドタ靴をはいた聖歌隊員の一団がドヤドヤと現われて、左右の聖歌隊員席に並んだ。
シンと静まり返った中で、小さな鈴が鳴った。祭式が始まったのだ。祭司が金色の聖櫃《せいひつ》の前をしずしずとまわり、ひざまずき、老人らしいかすれた、震え声で聖詩を唱《とな》えた。唱え終ると、聖歌隊員たちの歌とセルパンの吠え声とが一時に起こった。つづいて会衆一同も歌いだしたが、その声は、いつものとおり聖歌隊員たちの声よりも低く、遠慮がちであった。
と、突然、キリエ・エレイソンが、あらゆる胸の奥から、心の底から、天に向ってほとばしった。湧きあがる声に揺り動かされた古い円天井から、ほこりや、虫に食われた材木の屑が降ってきた。スレートぶきの屋根に照りつける太陽が、この小さな教会を、まるで竈《かま》の中のようにしている。深い感動が――恐怖に似た期待が――言いしれぬ奇跡の接近が、子供たちの胸を締めつけ、母親たちの喉を詰まらせた。
祭司は、しばらく腰をおろしていたが、やがて、ふたたび祭壇に近づくと、無帽、銀髪の老体を震わせながら宗教的な行為をはじめた。
信者たちのほうを振り向き、手を差し伸べると、「祈れ、兄弟たちよ」と言った。人々は、いっせいに祈りはじめた。老祭司は、つぶやくような低い声で、何か神秘な、神聖な文句を唱えつづけた。小さな鈴の音が、たえまなく響き、会衆は、頭を低くして一心に神を求めた。子供たちは、はかりしれぬ不安に失神せんばかりであった。
まさに、そのときであった。ローザは両手の中に額をうずめていたが、ふと母親のことを――故郷の村の教会のことを――自分がはじめて聖体を拝受したときのことを思いだした。自分があんなに小さく、まっ白な衣装《いしょう》にすっぽり包まれていた日――その日に返ったような気がした。泣きだした。はじめは静かに、声を立てずに泣いた。涙がゆっくり瞼《まぶた》にもりあがり、頬《ほお》を流れ落ちた。やがて、いろいろなことが思いだされるにつれ万感胸にせまり、とうとう声に出して泣きだした。ハンカチを出して目を拭《ふ》き、鼻と口とをおおった。声をたてまいとしてだ。しかし、その努力はむなしかった。というのは、なおも声が洩れるとともに、それに応ずるように、そばから、ふたつの、なんともいえず、切なそうなむせび泣きが起こったからだ。並んで腰掛けているふたり――ルイズとフロラとが、同じような遠い日の思い出に胸せまって、しとど涙で頬をぬらしながら泣きはじめたのである。
しかも、涙は伝染するものだ。おかみまでが、瞼《まぶた》のうるむのを感じ、義妹《いもうと》のほうを振り向くと、同じベンチに腰掛けているものたちが、みんな泣いているのを見た。
祭司は聖体を迎える儀式を行っていた。子供たちは、もはや何も思わず、ただ一心不乱に神を念じながら石畳にひざまずいていた。ベンチのあちらこちらでは、妻が、母が、姉妹が、不思議にも心から心へと伝わる激しい感動に捉《とら》われていた。ことに例の、町からきた、きれいな婦人たちがひざまずき、肩を震わせながら、すすり泣いているのを見ると、気もてんとうし、しきりに、格子縞《こうしじま》の木綿のハンカチを涙でぬらし、しゃくりあげる胸を左手でしっかり押さえていた。
たちまちにしてローザとその仲間たちとの涙は、さながら枯れ野を焼く火のように、全会衆に伝わった。女も、男も、年寄りも、新しい仕事着を着た若者も、ひとり残らず、すすり泣いた。一同の頭の上には、あたかも、何か超人間的なものが――舞い降りた霊魂が――目に見えない全能の存在の神秘な息吹きが、飛びかっているかのようであった。
すると、聖歌隊の間《ま》で、コツコツという音がした。修道女が祈祷書《きとうしょ》を指でたたいて、聖体拝受のはじまる合図をしたのだ、子供たちは神聖な興奮にわななきながら、聖櫃のほうに近づいた。
一列にひざまずいた。老祭司は、金色の飾りのついた銀製の聖体器を片手に持ち、子供たちの前を通りながら、そのひとりひとりに聖パンを――すなわち、おん身を犠牲にして現世の罪を贖《あがな》われたキリストの肉体を、二本の指でつまんで差し出した。子供たちは青ざめ、目を閉じ、頬を引きつらせながら口を開けていた。祭壇をおおっている布のはしが、子供たちの顎《あご》の下で、流れる水のように揺れている。
突然、教会の中には一種の熱狂が――感極まった会衆のどよめきが――声を押しころしたむせび泣きが、まるで森を揺るがす嵐のように吹きすぎた。祭司は感動のあまり、聖パンを手に、身動きもせず、棒立ちになったまま、思わずつぶやいた。
「おお、神だ。神が、ここに――われわれのところに、現われたもうたのだ。わしの声につれて、これら、ひざまずいている人々の上に、お降《くだ》りになったのだ」
そして、なおも狂おしげに、何かぶつぶつ唱えながら、いわば言葉にならぬ祈りを――魂の祈りを、一心不乱に天に捧げた。
聖体を授け終ったときには、法悦のあまり、足が震えて立っていられないくらいであった。そして彼自身、主のおん血〔葡萄酒〕をすすってしまうと祭壇に向って、しばし、われを忘れて深い感動にしずんだ。
背後で会衆は、しかし、しだいに落ち着いてきた。聖歌隊員たちは、白い法衣姿もいかめしく、また歌いだしたが、その声は、どこか湿《しめ》って、さっきほど朗々《ろうろう》たるものではなかった。セルパンまでが泣いたあとのように、音がかすれているように思われた。
そこで祭司は両手をあげて、歌いやめるように合図をすると、無我の幸福感にひたっている小さな聖体拝受者たちが二列に並んでいるあいだを通って、聖歌隊の間《ま》と会衆席とを仕切っている柵《さく》のところまで近づいてきた。
会衆は、ベンチをガタガタいわせてすわりなおし、音高く、鼻をかんでいたが、祭司が近づいてくるのを見るとシンとなった。祭司は、低い、聞きとりにくい、ぼそぼそした調子で話しだした。
「親愛なる兄弟たちよ、姉妹たちよ、子供たちよ、わしは心から、あなたがたに感謝します。あなたがたは、いま、わしの生涯における、もっとも大きな喜びを与えてくださった。わしは神が、わしの祈りに応《こた》えて、われわれの上にお降りになったことを、はっきり感じました。神は来まして、ここにおわしました。神は、あなたがたの魂をみたし、目に涙をあふれさせました。わしはこの教区で、もっとも年とった司祭だが、同時に、きょうは、もっとも幸福な司祭である。奇跡が――そうです、真の、偉大な、崇高な奇跡が、われわれのあいだで成就《じょうじゅ》したのであります。イエス・キリストが、はじめて、これらの子供たちの肉体に宿るあいだに、聖霊が――天上の鳥が――神の息吹《いぶ》きが、あなたがたに舞い降り、あなたがたの上にとまり、風になびく葦《あし》のようにひれ伏しているあなたがたを捉えてしまったのです」
それから例の女たち――建具屋の客たちが腰掛けている二列のベンチのほうに向きなおると、ややはっきりした声で、
「親愛なる姉妹よ、わしはとくに、あなたがたに感謝します。あなたがたは遠路をいとわず出席され、しかも見るからに奇特《きとく》な信仰を示されて、当地のもの一同にとっての、このうえもない模範となられた。あなたがたは、わが教区に、善《よ》き感化をもたらされた。あなたがたの感動は、一同の心をあたためた。もし、あなたがたのご出席が得られなかったら、きょうという、この偉大な日も、真に神聖なる性格は持ち得なかったと信じます。主をわれわれの上に迎えるためには、おうおうにして、ひとりの選ばれた信者さえあれば足りるのであります」
そこで声が詰まってしまったが、最後につけくわえた。「あなたがたに神の恵みがありますように。アーメン」
そう言うと、式を終らせるため、ふたたび祭壇のほうに引き返して行った。
人々は帰りを急いだ。子供たちまでが長い緊張に疲れ、それに空腹も感じていたので、ざわざわと浮き足たった。両親たちは最後の福音書の朗読を待とうともせず、次から次へと立ちあがって帰途につく。早く、ご馳走の支度をするためである。
出口は、ごったがえした。てんでにノルマンディ訛《なまり》のだみ声で呼んだり叫んだり。たいへんな騒ぎだ。人々は両側に垣《かき》をつくり、子供たちが出てくると、それぞれの家族が駆け寄った。
コンスタンスは家中の女たちに取り巻かれ、接吻の雨をあびせられた。ことにローザは、両手で、いつまでも抱きしめていたが、やっと片手を離したので、おかみがコンスタンスのもう一方の手を取った。ラファエルとフェルナンドとは、少女の長いモスリンのスカートが地にひきずらないように、裾《すそ》を持った。ルイズとフロラとは母親と並んで、しんがりをつとめた。少女は、さながら神さまがのりうつったように真剣な顔をして、わき目もふらず、お供の面々に囲まれて歩きだした。
祝宴の用意は仕事場にできていた。ご馳走は、ななめに組んだ脚の上に長い板をわたした、その上に並んでいた。
戸口が往来に向って開け放してあるので、村中の歓声がはいってきた。どの家でも祝宴のさいちゅうだ。窓ごとに、着飾った会食者たちの姿が見え、一杯機嫌の叫び声が聞こえる。百姓たちは上着を脱ぎ、とびきり上等の葡萄《ぶどう》酒をあおっている。どの家の祝宴でも、ふたりの子供が一座の中心をしめている。こちらの家では女の子がふたり、あちらの家では男の子がふたり。つまり、どちらかの家の子供が、もう一方の家に招かれて、ご馳走になっているのである。
正午の太陽が照りつけている街道を、ときどき、老いぼれ馬に引かれた腰掛けつき四輪馬車がガタガタ揺れながら通った。仕事着を着て馬を御《ぎょ》している男は、うらやましそうに横目で、軒なみの大盤振舞《おおばんぶるま》いを見てすぎる。
建具屋の家では、午前の感動の名残りで、陽気なうちにも、どこか控え目なところがあった。ただリヴェだけが浮かれて、さかんに飲んだ。
おかみは時間ばかり気にしていた。二日つづけて休業したくなかったので、ぜひ三時五十五分発の汽車に乗り、夜までにフェカンへ帰ろうと思っているからだ。
建具屋は、なんとかして姉の気をそらし、客たちをもう一晩、泊めようと、やっ気になった。しかし、こと、商売に関するかぎり、冗談ひとつ言わないおかみは、その手には乗らなかった。
コーヒーを飲んでしまうと、おかみは女たちに急いで支度をするように言いつけて、それからリヴェのほうを向いて、「さあ、馬車の支度をしてくださいな」
そう言って、自分も支度をするために二階にあがった。
降りてくると、細君が待ちかまえていた。子供の将来について相談したいというのだ。――ふたりの女は長いあいだ話したが、話はいっこう煮つまらなかった。細君は、そら涙を流さんばかり、しきりに持ちかけたが、おかみは、どっちつかずのことばかり、何ひとつ、はっきりしたことは言わなかった。子供を膝の上に抱きあげながら、ええ、ええ、この子のことは、けっして忘れやしませんよ。まだ先が長いんですもの、いずれまた会ったとき、ゆっくり相談しましょう。……
ところで馬車は来ず、女たちも降りてこなかった。それどころか二階はたいへんな騒ぎだ。キャッキャッという笑い声。ドタンバタンという物音。叫んだり、手を打ったり。細君が馬車の支度ができたかどうか、厩《うまや》に見に行ったので、おかみは、さっそく二階にあがって行った。
リヴェがぐでんぐでんに酔っ払い、しどけないかっこうで、ローザに挑《いど》みかかろうとしているのを、二台のポンプが、いっしょうけんめい、その腕を捉《つか》まえ、押さえつけている。当のローザは笑いこけている。二台のポンプは、きょうという日がらもわきまえず、こんな醜態《しゅうたい》を演ずるなんて、と憤慨している。そのそばで、ラファエルとフェルナンドとは、これはまた腹をかかえて笑いながら、さかんにリヴェをけしかけている。リヴェはたけりたち、満面朱を注ぎ、ワイシャツの胸もあらわに、すがりつく二台のポンプを必死に振り払いながら、「うぬ、いやだというのか?」とばかり、ローザのスカートにつかみかかっている。――おかみは見るなり憤然と飛びこんで、弟の肩をつかみ、いやというほど突き飛ばしたので、リヴェは廊下まですっ飛んで、壁にぶつかった。
しばらくすると中庭で、ポンプの水を頭からジャージャーかぶっている音が聞こえた。やがて、リヴェが馬車を御して現われた。酔いはもうすっかり醒《さ》めていた。
さんさんたる日光が、食事中慎んでいた茶目気《ちゃめけ》を一時に爆発させた。女たちは、馬車の動揺をおもしろがったり、たがいに椅子を押しあったり、たえず笑い声をたてたりした。さっきのリヴェの失敗で、いっそう愉快になっているのだ。
明るい太陽の光が、野や畑にあふれていた。キラキラと、目にまぶしい光である。車輪のあげる土煙りが、馬車の進むにつれ、ふたすじの雲のように、どこまでも街道の上にたなびいた。
歌の好きなフェルナンドが、ローザに、何か歌ってよ、と言った。ローザは、いきおいよく「ムードンのでぶ坊主」を歌いだした。すると、おかみが、きょうはそんな歌は歌わないほうがいいと言って、すぐやめさせた。そして、つけくわえた。
「それよりも、なにかベランジェ〔シャンソンの作詞家〕のものでも歌ったら?」
そこでローザはなにを歌おうかと、しばらく思案していたが、やがて思い定めて、例のガラガラ声で「お祖母《ばあ》ちゃん」を歌いだした。
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おばあちゃん誕生日の晩に
お酒ちょっぴりいただいて
頭ふりふり言うことにゃ
これでも昔は ウグイス鳴かせたこともある
さてもなつかし わが姿
腕はむっちり
脚はすんなり
みんな返らぬ夢かいな!
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すると、こんどは、おかみが音頭《おんど》をとって、一同で合唱した。
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さてもなつかし わが姿
腕はむっちり
脚はすんなり
みんな返らぬ夢かいな!
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「いよう、いいぞ!」
と、リヴェが、おもしろおかしい節回しに熱狂して叫んだ。ローザが、すぐ、あとをつづけた。
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あれさ母《かあ》ちゃん 驚いた
おまえはほんに浮気者!
――そうとも、あたしは器量よし
花の蕾《つぼみ》の十五のときから
恋の手習い みっちり受けて
夜もろくろく寝なかった
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みんな声をそろえ、喉も裂けよとばかり、ルフランを歌った。リヴェは、それに調子を合わせて片足で轅《ながえ》をたたき、白い馬の背中の上で手綱を振った。すると、馬までがリズムに浮かれたように、いきなり猛然と駆けだした。女たちは馬車のうしろに、将棋倒しにひっくり返った。
気がちがったようにキャッキャッと笑いながら起きあがると、また声をかぎりに歌いつづけた。その歌は田園を横ぎり、燃えるような太陽の下を――熟《う》れた麦畑のまっただ中を、老いぼれ馬の狂ったような足掻《あが》きにつれて運ばれて行った。馬はルフランが歌われるごとに、踊りあがり、百メートルばかり突っ走る。女たちは狂喜する。
街道のところどころで石工《いしく》が仕事をしていたが、腰を伸ばして針金製のマスクごしに、歌いわめきながら気でもちがったように、もうもうたる砂塵《さじん》の中を走り去る二輪馬車を見送った。
駅前で、一同、馬車から降りると、建具屋は、いかにも名残りおしそうに言った。
「やれやれ、もう、お別れですか。もっと愉快にやりたかったですな」
すると、おかみが、もっともらしい口調で答えた。
「何ごとにも、きりというものがあります。そうそう遊んでばかりはいられませんよ」
とたんにリヴェの頭には、ひとつの考えが閃《ひらめ》いた。
「そうだ! 来月、フェカンにおたずねしますよ」
そう言って、彼は胸に一物、ちらりとローザに目配せした。目が物ほしそうにキラキラ光った。
おかみはピシャリと言った。
「来たければ、おいでなさい。でも、おかしなまねはしないでくださいよ」
リヴェは黙っていた。
汽車の響きが近づいてくると、彼は急いで女たちに接吻しはじめた。ローザの番になると、必死に唇を求めたが、彼女は、唇をしっかり閉ざし、ふくみ笑いをしながら、右に左に、すばやく彼を避けた。彼は彼女を両腕の中に抱きながら、目的を達することができなかった。というのも、ひとつには、片手に持った大きな鞭《むち》が、じゃまになったからだ。努力のさいちゅうも、彼は彼女の背中の上で、それを工合わるそうに振り回した。
「ルーアン行きのかたは、ご乗車願います」
と、駅員が叫んだ。女たちは乗り込んだ。
汽笛が鳴り、機関車が最初の蒸気を吐きだすと、車輪がガタンと揺れて回りはじめた。
リヴェは駅から飛びだすと、もう一度、ローザを見ようとして柵のところに走って行った。そして、女たちを満載した――つまり人間商品を満載した、目指す車輛《しゃりょう》が近づくと、鞭をヒューヒュー鳴らしながら、飛びはね飛びはね、声をかぎりに歌いはじめた。
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さてもなつかし わが姿
腕はむっちり
脚はすんなり
みんな返らぬ夢かいな!
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やがて、リヴェは、一枚の白いハンカチがヒラヒラとひるがえりながら遠ざかって行くのを見た。
三
着くまで、みんな、ぐっすり眠った。満ちたりた良心の平和な眠りだ。――ゆっくり休養し、すっかり元気になって、さあ、今夜からまた精だして働こう、そう思って帰ってきたが、おかみは、ついうっかり、こんなことを言ってしまった。
「いやはやだね。これだけのことで、あたし、もう商売するのが、なんだか、おっくうになってしまったよ」
手早く夕食をすませ、客を迎えるため服を着かえると、常連を待った。椅子の中の小さな灯火《ともしび》――マリアさまのお燈明にも火が入れられ、それは道行く人々に、羊たちが羊小屋に帰ってきたことを知らせた。
だれが、どんなふうに知らせたのか、またたくまに情報がひろがった。銀行家の御曹子《おんぞうし》、フィリップくんは、わざわざ使いの者を走らせて、家に閉じこめられているトゥールヌヴォーさんに知らせてやった。
ちょうど塩物屋さんは、日曜日のしきたりで、いとこたちと晩餐《ばんさん》をともにしているところであった。コーヒーを飲んでいるところへ、手紙を持った男がやってきた。何ごとだろうと封を切ると、顔色を変えた。鉛筆の短い走り書きで、こう書いてある。「船はタラを積んで帰港せり。絶好の商機。すぐ、おいで乞う」
彼はポケットをさぐって男に二十サンチームやると、突然耳まで赤くなりながら、「用事だ。ちょっと出かけてくる」と細君に言って、この短い、謎《なぞ》めいた手紙を見せた。そして、呼び鈴を鳴らし、女中が現われると、「オーバーだ。早く、早く。それから帽子……」
往来に飛び出すと、いきなり口笛を吹きながら駆けだした。気はもうとっくに向こうへ行っていた。道が、いつもの倍も長く思われた。
テリエ楼は割れんばかりの騒ぎであった。階下《した》は水夫たちのわめき声で耳も聾《ろう》するばかり。ルイズとフロラとは、どちらを向いて返事をしたらいいのやら。あちらで飲み、こちらで飲み、まさに「二台のポンプ」の名に恥じない働きぶりであった。みんな一度に、ふたりの名を呼びたてた。それにさえ、いちいち応じられないので、今夜、引けてからの忙しさが思いやられた。
二階も九時にはもう満員だった。かねて、おかみに人知れずプラトニックな思いを寄せていた商事裁判所判事のヴァス先生は、部屋のすみで、おかみとひそひそ話していた。ふたりは、どうやら意気投合したらしく、嬉《うれ》しそうに、微笑《ほほえ》みあっていた。ローザは前町長のプーランさんの膝の上にまたがり、鼻に鼻をくっつけんばかり顔を寄せ、老人の白い頬髯《ほおひげ》の中に、まるまっちい両手の指を突っこんで、かきまわしていた。プーランさんの黒いズボンの上で、ローザの黄色い絹のスカートがまくれあがり、白い腿《もも》がちらちら見え、赤い靴下には、例の旅回りの注文取りからもらった靴下どめがはめてある。
大女のラファエルは、保険代理店のデュピュイさんと相談しているらしかったが、やがて、こう言って話を結んだ。
「ええ、いいわ、旦那。今夜は特別よ」
そして、部屋中を、ひとりでくるくる踊りまわりながら、「今夜は、あたしたち、みんな、お望みしだい。いやとは言わないわよ」
そのとき、ドアがあわただしく開いて、トゥールヌヴォーさんが飛び込んできた。
「いよう、トゥールヌヴォー!」
と、常連は、いっせいに、囃《はや》したてた。
ひとりで踊りまわっていたラファエルは、いきなり駆け寄って、その胸に倒れかかった。
相手は心得たとばかり、物も言わず、まるで羽根のように軽々と抱きあげて、部屋を横ぎり、奥のドアに達すると、生きた荷物をかかえたまま、やんやの声に送られながら、寝室に通じる階段に消えた。
さっきから前町長をそそのかしていたローザは、ひっきりなしに接吻したり、頭をしっかり起こしておくために両手で同時に左右の頬髯を引っ張ったりしていたが、トゥールヌヴォーさんとラファエルを見ると、いいお手本ができたとばかり、
「さあさあ、おとうさんも……」
そこで、気のいい年寄りは、やおら立ちあがり、チョッキの皺をのばし、片手をポケットに突っこんで金をさぐりながら、ローザのあとについて行った。
フェルナンドとおかみ、それに四人の男があとに残った。すると、フィリップくんが叫んだ。
「よし、ぼく、シャンパン、おごるぞ! 奥さん、三本、願います」
すると、フェルナンドがフィリップくんにからみついて、その耳にささやいた。
「踊りたいわ。ねえ、弾《ひ》いてよ」
そこで御曹子は立ちあがって、部屋のすみでほこりをかぶっている時代物のエピネット〔クラブサン〕の前に腰掛けると、ワルツを弾きだした。まるでブツブツと、ぐちでもこぼしているような不景気な音だ。フェルナンドは収税吏のパンペスさんに抱かれ、おかみはヴァス先生に抱かれた。二組の男女は、ときどき接吻をかわしながら、ぐるぐるまわった。ヴァス先生は、以前社交界で踊ったこともあるだけに、さすがにみごとな踊りぶりだ。おかみは横目で、ほれぼれと先生の顔を眺めていたが、その目は「ええ、いいわよ」と言っていた。言わぬは言うにまさる、いかにも情《じょう》のこもった目つきである。
フレデリックがシャンパンを運んできた。最初の一本が景気よく抜かれると、フィリップくんはカドリーユを弾きだした。
四人の踊り手は器用に当世風に――そうかと思うともったいぶって、お辞儀をしたり会釈をしたり、みごとに踊った。
踊り終えると、飲みだした。すると、そこへトゥールヌヴォーさんが戻ってきた。晴ればれと、いかにもご満悦のていである。いきなり「どうしたっていうんだい、今夜のラファエルは? 至れり尽くせりさ」そう叫ぶと、だれかの差し出した一杯を息もつかず飲みほして、「ちくしょう、甘露《かんろ》々々!」
すかさずフィリップくんが、いきおいよくポルカを弾きだした。すると、トゥールヌヴォーさんが、素早くラファエルを引っかかえ、宙に振りまわすようにして踊りはじめた。つづいて収税吏のパンペスさんとヴァス先生とが、いままでの相手と組んで、これまた激しくまわりはじめた。ときどき、踊り手の一組が暖炉のそばに立ち止まって、シャンパン・グラスを取りあげ、ぐいぐい飲んだ。と、ドアが半分開き、そのあいだからローザが現われた。手に燭台《しょくだい》を持ち、シュミーズ一枚、髪を振り乱し、スリッパを突っかけ、まっ赤に上気した顔をしている。「あたしも仲間に入れてよ」と叫んだ。
ラファエルが振り返って、
「あら、お爺《じい》ちゃん、どうしたの?」
「ああ、あれ? もう眠っちまったわ。だらしがないったらありゃしない」
そう言うと、ソファの上でポカンとしていたデュピュイさんを捉まえた。またポルカがはじまった。
ところで、びんはもう空になっていた。
「あたしが一本おごろう」と、トゥールヌヴォーさんが言った。すると、「わが輩も」とヴァス先生が、――つづいて「ぼくも」とデュピュイさんが言った。
こうなると、いよいよ本式の舞踏会だ。ルイズとフロラも、ときどき駆けあがってきては、仲間に加わった。階下《した》では、どこへ行った、どこへ行った、と大騒ぎ。ふたりは急いでひと踊りすると、チェッと舌打ちして、また駆け降りて行く。
夜中になっても、ダンスはまだつづいていた。ときどき、女たちのだれかが消える。それを知らないで、相手をさせようと目で探すと、男たちは、自分たちのだれかも、いつのまにか雲隠れしているのに気がつく。
そこへ、ひょっくり、パンペスさんがフェルナンドと戻ってきたので、「おや、どこへ行ってたんです?」と、フィリップくんが、からかい半分、たずねると、「ちょっと、プーランさんの寝顔を見に行ってきたよ」と、収税吏が答えた。うまい返事だ、と、みんな感心した。それからは、みんな、ふざけて、「おい、プーランさんの寝顔を見に行こう」と、女たちのだれかれを誘って出て行った。女たちも、今夜は、不思議なほど愛想がよかった。おかみは目をつぶって、うっとりしていた。すでに了解は成立しているのだが、最後の細部を決定するため、さっき部屋のすみでヴァス先生と長いあいだ、ひそひそやっていたのである。
とうとう一時になったので、女房もちのトゥールヌヴォーさんとパンペスさんとは帰ると言いだし、勘定を頼んだ。ところが、ついているのはシャンパン代だけで、それも、いつもは一本十フランのが六フランになっている。なんというサービスだ! びっくりして、たずねると、おかみはニッコリ、こう答えた。
「いつも柳の下に泥鰌《どじょう》がいるとはかぎりませんよ」(完)
[#改ページ]
解説
「脂肪の塊」一八八〇年(明治一三年)作。
原題は「ブール・ド・シュイフ」(Boul de suif)。直訳すれば「脂肪の塊」にはちがいないが、これは本編の女主人公である肥った娼婦をさすのであるから、本来なら「でぶ」とでも訳すべきで、「脂肪の塊」とは、はなはだ未熟な訳である。しかし、わが国では古くから「脂肪の塊」の題名で親しまれているので、訳者も旧習にしたがって、そう題することにした。
しかし、本文のなかでは、すべて「でぶ」と訳した。たしかに作者ギー・ド・モーパッサンは作品のなかで彼女のことを、つねに「ブール・ド・シュイフ」と呼んでいる。だから従来の訳では、本文のなかでも、やはり「脂肪の塊」、あるいは「ブール・ド・シュイフ」と訳している。しかし、「脂肪の塊が笑った」、「ブール・ド・シュイフが泣いた」、と邦文で読まされては興味|索然《さくぜん》として、この作品の底に流れる哀感が失われてしまう。ここはどうしても「でぶが笑った」「でぶが泣いた」でなければならぬ。
「おでぶさん」。悲しいひびきをもった言葉である。この「おでぶさん」は、背の低い、色の白い、身体中、どこもかしこもまるまると肥って、ふっくらした指は関節のところがくびれて短いソーセージを並べたような、若い娼婦である。どこまでも人のいい彼女が、上流社会の紳士淑女――じつは血も涙もない、利己主義のかたまりのようなブルジョワどもに利用されるだけ利用されて、用がなくなるとポイと捨てられてしまうさまは痛ましい。まるで狼《おおかみ》どもが寄ってたかって小さな弱い生き物を食いちらし、骨だけ残す、そういう無残さだ。「おでぶさんは可哀そうだ」と作者は言っている。それが、いうまでもなく、この作品のテーマである。
作品の終りで、「でぶ」は泣きつづける。戦争で荒廃したノルマンディの夜を行くガタ馬車の中で、ブルジョワどもの冷酷な視線にさらされながら、「でぶ」は泣きつづける。その泣き声は、いつまでも――そうだ、永遠に、読者の心にひびく。
「けさ、校正刷りで『ブール・ド・シュイフ』を読んだ。傑作だ」と、フローベールは一八八〇年二月、姪《めい》のカロリーヌ・コマンヴィルに書いた。「傑作だよ。断言する。構成、観察、喜劇的効果、いずれの面でも傑作だよ」
それから、すぐ「わが弟子」(フローベールはギーを好んでそう呼んだ)に書いた。「まったくすばらしい。正真正銘、大家の作だ。構想も独創的だし、理解も周到、心理描写も適確だ。……この小説は後世に残るぞ! 確信したまえ。きみのブルジョワどもは、なんとおかしな面《つら》をしていることだろう! ひとりとして書き損じた人物はない。コルニュデは、いかにも真に迫っている。あばたの尼《あま》さんも申し分ないし、『伯爵殿』もうまいものだ! ことに結末はなんともいえない。……十五分も、きみを抱擁したい! いや、まったく満足だ!」
ギーにとって、フローベールは、きびしい師であった。有望な選手を青竹でなぐりつける、こわい「おやじ」であった。三十歳になるまでの七年間、いくら習作を見せても、「いけない、いけない、やぶいてしまえ!」と言いつづけた。その師にして、いまや、この言ありだ。ギーとしては、天にものぼった心地がしたであろう。
フローベールの目に狂いのあろうはずはない。たしかに「脂肪の塊」は、「テリエ楼」とともに、モーパッサンの全作品のなかでも、もっとも完成された芸術品といえる。
すぐれた描写は全編にみちている。まず冒頭の敗戦場面。髯《ひげ》ぼうぼう、服はぼろぼろ、山賊よろしくのかっこうで逃げて行く兵隊は、十年前、普仏戦争にかり出された作者自身の姿であった。――市《まち》にはいると、「戦勝軍」は「占領軍」に変った。市は一見、平和に戻った。しかし、そこには「侵入」の臭《にお》いがあった。その臭いは家の中にみち、街路にみち、食べ物の味を変えた。敗戦・占領を経験した日本人には、胸をつかれる描写である。――旅客たちは馬車の出発を待って、暁闇《ぎょうあん》のなかに凍えて立ちつくした。霏々《ひひ》として降る雪の音、それは「音というよりは一種の感覚であり、天地をみたす微小の原子の交錯であった」。冬の下に埋もれ、まだ眠っている大きな市の沈黙は、まるで耳鳴りのようにジーンと読者の耳に伝わる。――いよいよ出発。青白い夜あけの光のなかにうかぶブルジョワどもは「なんとおかしな面《つら》をしていることだろう!」。ひそひそ声がおこる。「淫売」「売笑婦」。「でぶ」はキッと鎌首をもたげる。しかし一同が空腹で苦しむようになると、自分の食糧を分けようとする。それも赤くなり、おどおどしながら小さな声で、「よろしかったら、どうぞ……?」
結局、一同、むしゃぶりつく。ちょうど、あとで、「でぶ」そのものに、むしゃぶりついたように――。
小説が動き出す。事件が起こる。ドイツ人将校の無法な命令。最初は一同、期せずして憤慨し、一致団結して「でぶ」を守りとおそうとする。しかし、「でぶ」の抵抗によって、二日目も三日目も出発できなくなると、しだいに一同の心は冷えてくる。最初の正義心もどこへやら、身にふりかかる火の粉は、なんとしてでも払わねばならぬ。ついに四日目、「でぶ」が教会の洗礼式に行った留守を利用して、「でぶ」攻略の謀議をこらす。ロワゾーの細君が「下衆根性《げすこんじょう》まる出し」に、「だいたい、あのあばずれは、どんな男とでも、なにするのが商売なんですから、より好みする権利なんかありませんよ」と、わめいたのがきっかけで、女たちまで意見を述べあう。表面、上品をよそおいながら、内心、下等な興味に嬉々《きき》とする彼女たちのいやらしさ!「食いしん坊のコックが、他人に食べさせる料理を舌なめずりしながら、こしらえているような」とは、じつに巧みな比喩《ひゆ》である。
散歩の途中、ドイツ人将校に会うと、細君たちは彼の容貌《ようぼう》や風采《ふうさい》について、あれこれと話し合う。ラマドンの美人の細君は、蓮葉《はすは》な調子で言う。「ちょっと、よくない? フランス人でないのが残念だわ。フランス人なら、美男の軽騎兵将校として、さぞ女を迷わせるでしょうよ」。ロワゾーの細君は、ラマドンの細君の悪口を夫に言う。「やっぱり嫉《や》いてるんですよ。軍服さえ着てれば、フランス人だろうとプロシア人だろうと、おかまいなしさ。浅ましいったらありゃしない!」浅ましいのは、ご当人も同然であろう。あまりにも身近に起こった卑猥《ひわい》な事件は、堅気の細君たちの――今日の言葉でいえば主婦たちの心をくすぐる。女性心理の微妙な襞《ひだ》は行間ににじみ出ている。
伯爵の妻を、訳者は「伯爵夫人」とはせず、伯爵の「細君」とした。まして、ラマドンの細君、ロワゾーの細君だ。彼女たちは、その性根《しょうね》においては、上流婦人どころではなく、ゾラの描く洗濯女と変りはない。
「あばたの尼さんも申し分ない」と、フローベールは言う。ギーは普仏戦争に出征して、ルアーヴルで天然痘にかかった兵士たちを看病していたとき、ひとりの従軍尼僧と知り合った。あばたの修道女は、たぶんこの尼僧を下敷きにしたのであろう。この修道女は、なにも深い魂胆あって、ブルジョワどものお先棒をかついだわけではなかった。ただ彼女は、隣人の幸福のためになされたものなら、どんな罪でも神は嘉《よみ》する、という不動の信念の持ち主で、そこを利用されて、「でぶ」を屈辱におとしいれるための、もっとも重要な役割をつとめることになったのだ。しかし、それは単に彼女の狂信、あるいは無知のせいばかりであったろうか? 「どうもくさい」と作者は感ずる。「年とった修道女は、奥方の意向を暗黙のうちに了解したのか、それとも聖職者によく見られる、あの、それとなく相手に媚《こ》びる気持ちからであったか」――聖職者、宗教家、俗にいう坊主に、ともすれば見られる幇間性《ほうかんせい》、それを見ぬく作者の眼光は、はなはだ鋭いといわねばならぬ。
「コルニュデは、いかにも真に迫っている」と、これもフローベールは言っている。コルニュデにはモデルがある。モーパッサンの姻戚《いんせき》にあたるシャルル・コルドムだ。その大きな帽子、大きな顎髯《あごひげ》、気ちがいじみた「共和主義」、選挙のたびの万年落選候補。彼はルーアンでは、だれ知らぬ者もない名物男だ。作中では、ブルジョワどもと同様、作者によって揶揄《やゆ》されている。いわゆる「バッタ」「跳《は》ねあがり者」――現代にも見られる一種の「革命家」で、当人が悲壮がればがるほど滑稽《こっけい》な三枚目だ。車中の暗がりで、ちょっと「でぶ」にいたずらしようとしてピシャリとやられたり、夜、宿屋で彼女をくどき、「いけません! 敵のかたわらで、そんなことはできません! 恥を知りなさい!」と、たしなめられて急にシュンとなり、「失いかけた愛国心に目覚め」たりする。「でぶ」から、ご馳走を分けてもらったくせに、「でぶ」に弁当を分けようとはしない。「でぶ」の泣き声をよそに、ブルジョワどもへのいやがらせに「ラ・マルセイエーズ」を歌いつづける。じつに幼稚で自己本位だ。しかし、彼について、作者は次のようにも書いている。「しかし、とにかく彼はすこぶる気のいい男で、だれにたいしても親切で世話好きだ」。訳者は、この一行を読んで心を打たれた。この一行によって、モーパッサンは、コルニュデの外観や挙動の奥にあるその人間性に照明を当てている。この道化者は、じつは善良で純真な魂の持ち主だ。モーパッサンは、目に見えるものだけを描いて、ことたれりとはしない。目に見えるものの背後にある、目に見えないものを描く。モーパッサンの写実とはそういうもので、そして、そういう写実こそ真の写実であろう、と訳者には思われる。
「でぶ」にもモデルがある。前記コルニュデのモデル、シャルル・コルドムから、モーパッサンは彼女のことを聞いていたが、「脂肪の塊」発表後まで彼女に会ったことはなかった。彼女の本名はアドリエンヌ・ルゲ。一八七〇年、普仏戦争当時、二十八歳。それまで次々に軍人や商人の情婦になって、じだらくな生活をつづけていたが、娼婦ではなかった。戦争中、ルアーヴルにいる情人に会うため馬車でノルマンディを旅行したことはあったが、
小説に扱われたような事件に出会ったことはなかった。これは作者の空想である。彼女はプロシア軍がルーアンに侵入してくると、戸口に黒旗をかかげた。そして、同じ「罪」をおかした他のルーアン人たちとともにプロシア軍に追われる身になった。「娼婦はときとして、やむにやまれぬ怒りにかられて真情を吐露《とろ》する」。そのときの彼女がそれであった。
それから十年、彼女は「脂肪の塊」の女主人公になった。モーパッサンは、「脂肪の塊」が発表されてからしばらくたったある晩、ルーアンのラファイエット座で彼女を見かけた。彼女は桟敷《さじき》席にたったひとりでいた。モーパッサンは、自分を一躍有名にしてくれた作品の女主人公を胸をふるわせながら眺めた。それから人目もはばからず彼女のところにあいさつに行き、ル・マン・ホテルへ食事に誘い、食事をともにして感謝の意を表した。
後日談を書けば、その後、彼女は男から男への生活から足を洗い、ルーアンのナショナル街に喫茶店を買った。しかし、商売はうまくいかなかった。その日の糧《かて》を得るために裁縫の賃仕事をしたり、ついにはトランプの占い師にまで身を落とした。生活苦を忘れるためにモルヒネを常用し、中毒患者になった。一八九二年〔モーパッサン没の前年〕六月、シャレット街に部屋を借り、八月十八日、ガス自殺を企て、病院に運ばれて死亡。五十歳。
フローベールは一八七五年から七六年にかけての冬を〔ギー、二五〜二六歳〕、パリで過ごすことにした。日ごろは故郷のクロワッセで、まるで修道士のように孤独な生活をおくり、労作に没頭しているフローベールも、ときどきパリに出てきて気をまぎらすため、パリに家を借りていた。フローベールはギーに手紙を書いた。「坊や、きみはこの冬中、毎日曜日、ぼくのうちで昼食をすることにきまったよ」フローベールの家で、ギーは、アルフォンス・ドーデ、エドモン・ド・ゴンクール、ツルゲーネフ、エミール・ゾラなど当代の大家たちと知り合った。といっても、ギーはまだフローベールのそばにつつしんで掛けている駆け出しの若者にすぎなかった。若者はフローベールがたわむれに「ブルターニュの雄牛」と呼んだように筋肉隆々たる体格の持ち主であったが、知能にはあまりめぐまれていないようにみえた。ドーデは言っている。「首の太い、こくのある林檎《りんご》酒のような色つやをした、このノルマンディ生まれの若者が、うちへくる他の連中のように、自分の天職はなんだろうとたずねたら、わたしは躊躇《ちゅうちょ》なく答えたろう。『とにかく、ものを書く商売だけはよしたまえ』」
大家たちはフローベールの家で、あるいはパリの料理屋で、夜を徹して大いに飲み、大いに食らい、かつ呵々《かか》大笑しながら若き日の卑猥きわまる体験談を、うそもまこともつきまぜて、ということは、つまり文学的に語った。老兵たちの話が終るたびに、ギーは立ちあがって「ブラヴォー!」と叫ぶ役割をつとめた。ギーこそ現役中の現役であったが、まだ自分の話をする分際ではなかったのだ。
ゾラは故郷南仏の田舎町で十八歳のとき、白昼出会ったアヴァンチュールを話した。無一文の少年は相手を人気のない墓地に連れこんだ。「ノートをとったかい?」と、だれかが叫んだ。ゾラの「科学的自然主義」を皮肉ったのだ。それはともかく、ゾラはいまや「居酒屋」〔一八七七年刊〕によって文壇に確固たる地位をしめる大家であったが、「老兵」どころではなく、当時三十七歳、ギーより十歳の年上にすぎなかった。その年齢上の親近感もあって、ギーは大家たちのなかで、とくにゾラに急速に近づいていった。端的にいって、フローベールは聖、ゾラは俗。しかし、俗なればこそ、多くの若い作家志望者がゾラを慕って集まった。ジョルジュ・ユイスマンス〔一八四八〜一九〇七。「さかさに」の作者〕、アンリ・セアール、レオン・エニック、ポール・アレクシス、およびギー・ド・モーパッサン。ゾラもまた彼らにたいして親切であった。なんとかして彼らを世に送り出そうとつとめた。ゾラはもともと貧乏からのがれるため文筆稼業にはいったので、文学を職業とすることをすこしも恥としなかった。遺産でゆうゆうと生活するフローベールやゴンクールは、ゾラにとっては雲の上の人であった。ギーがゾラに親しんだことは、考えようによっては、ギーにとって宿命的なことであった。もしギーがゾラのグループにはいらず、あいかわらずフローベールの「弟子」でありつづけたら、そしてフローベールがもっと長生きしたら、ギーは三十代になっても、その作品を世に問うことはできなかったかもしれない。そのうちには病気が――二十代、あるいはすでに十代から身うちに巣くっていたといわれる病気(梅毒)が悪化して廃人になってしまったかもしれない。そうすれば今日、われわれはモーパッサンという作家を持たなかったかもしれないのである。
ゾラは若い作家志望者たちに提案した。
「諸君は、みんな普仏戦争に参加した。ドーデのいわゆる『敗戦の落し子』だ。ひとつ戦争に材を取った小説を書こうではないか。各自が一編ずつ中編小説を書く。ぼくも書く。ぼくが書けば、どんな本でも売れるだろう。戦争は冷静に見よう。盲目的愛国主義や、非国民的自嘲はよそう」
そして付け加えた。
「本が出たら匿名で、諸君の一方が新聞で攻撃し、もう一方が称讃する。批評家たちが論争にまきこまれる。世間が騒げば、本はかならず売れる」
ゾラは「居酒屋」の成功で莫大な収入を得、パリ近郊、セーヌ川ぞいのメダンに別荘をかまえ、連中は、しばしばそこに集まっていた。相談は一決した。本の題名は「メダン夜話」とすることにした。
ゾラは「水車小屋攻撃」を書き、ユイスマンスは「背嚢《はいのう》を負って」を書いた。ゾラの作を巻頭に置き、次からは籤《くじ》引きで順番をきめることにした。ギーが一番に当った。「脂肪の塊」が、ゾラの作の次に並ぶことになった。
「メダン夜話」は、金だけが目的の企てといってもよかった。フローベールはギーから話を聞いたとき、にがにがしげに、「諸君は、どこぞの実業家にでもなった気か」と言った。しかし、いまやギーは傑作を書いた。そうなれば、話はおのずから別だ。ギーが小役人の境涯から足を洗い、これからはジャーナリズムの世界で立派にやっていけるように願わずにはいられなかった。もともとフローベールは、ギーの母、幼ななじみのロールの頼みもあって、ギーをわが子のように愛していた。愛していればこそ「こわいおやじ」であったのだ。フローベールはギーのため、できるだけ後援しようと決心した。
「メダン夜話」が出版される二十日ほど前、一八八〇年三月二十八日、復活祭の日曜日、フローベールはクロワッセの家に、ゴンクール、ドーデ、ゾラ、および、こんど「メダン夜話」の出版を引き受けることになった出版者シャルパンティエを泊りがけで招待した。ルーアン駅まで、ギーが迎えに出ていた。フローベールは、とくにシャルパンティエを丁重にもてなした。その夜、客たちが寝室に引き取ると、フローベールはギーの肩をポンとたたいて、うまくいったぞ、というふうに目配せしてみせた。
翌月四月十五日、「メダン夜話」はシャルパンティエ書店から出版された。本はよく売れた。しかし結局、結果はただ一つ。ギー・ド・モーパッサンという作家が、はなばなしく文壇に登場したことであった。
昨日までの小役人は(ギーはまだ文部省勤めをしていたが)、たちまちパリ中で――客間でも街頭でも、話題の人となった。しかし、その彼は、またたちまちにして悲嘆のどん底に突き落とされた。
「メダン夜話」が出版されてから二十日あまり、五月八日午前、フローベールがクロワッセの家で脳卒中で急逝《きゅうせい》したのだ。知らせを受けたギーは、その夜、クロワッセに駆けつけた。十一日、フローベールはルーアン市外、セーヌ川と自分の家とが見おろせる墓地に葬られた。「ヴァイキング」(フローベールは彼一流の冗談で、自分の先祖はヴァイキングだと誇っていた)の棺は大きく、なかなか墓穴にはいらず、ななめに引っかかった。ギーは茫然として墓地を立ち去った。……だぶだぶのガウンを着、腕を振り回しながら大声でしゃべる師の姿は、いつまでたってもギーのまぶたから消えなかった。声までが聞こえてくるようであった。ギーにとっては、すべてが空しかった。しかし、 そのギーにも、ただ一つの慰めはあったにちがいない。師の生前に「脂肪の塊」を見せたことだ。もし「メダン夜話」の出版が、もうひと月おそかったら……ほんとうにあぶないところであった。
「テリエ楼」一八八一年(明治一四年)作。
「脂肪の塊」を契機にして、モーパッサンは多産な創作活動にはいった。師の死を悲しんでいるひまもなかった。まず「ゴーロワ」紙から寄稿の依頼を受け、「パリ一市民の日曜日」を毎週月曜日、十回にわたって同紙に連載した。古手の役人を主人公にした皮肉なコントの連作である。ついで「ジル・ブラス」紙、「フィガロ」紙からも依頼されたので、次々に短編小説を書いた。
翌一八八一年二月には中編小説「内輪どうし」を「新評論」誌に発表した。死期のせまった老母をめぐる息子夫婦や親類縁者の欲の皮の突っ張り合いを書いた力作で、好評を得た。亡師の親友ツルゲーネフはモーパッサンに称賛の手紙を寄せ、ロシア語に翻訳して、ひろく本国に紹介しよう、と言ってくれた。モーパッサンは「内輪どうし」を書きながら、すでにそれと並行して「テリエ楼」を書いていたが、作中でイギリス人の水夫たちに歌わせる歌の種類についてツルゲーネフに相談すると、ツルゲーネフは「ルール・ブリタニカ」がよかろう、と助言してくれた。そんなこともあって「テリエ楼」は「深き愛情と大いなる尊敬とをもって」という献詞をともなってツルゲーネフに捧げられている。
「テリエ楼」は、五月八日、パリのアヴァール書店から出版された。モーパッサンの最初の小説集で、題名となった「テリエ楼」のほかに前記「内輪どうし」をはじめ、前年度に書かれた六篇の短編小説、および「シモンのパパ」が収められている。「シモンのパパ」は「脂肪の塊」より三年前、つまり習作時代に書かれたものだが、私生児を扱った秀作である。
さて、「テリエ楼」である。
原題は「メーゾン・テリエ」(La maison Tellier)。フランス語のメーゾンは、もちろん家であるが、他に妓楼とか娼家とかいう意味もある。そこで訳者は「テリエ楼」と題することにした。楼とは古くさい言葉であるが、この作品のイメージにはピッタリと思われ、それにこの作品が、わが国の明治十四年に書かれたことも訳者は考えに入れた。原作がどんな時代に書かれたか、その時代の感覚を表わすことは、原作を生かすゆえんであると思ったからである。
「テリエ楼」が出版される四月前、一八八一年一月、ギーは母に手紙を書いた。「ぼくは初聖体拝受式に参列する女郎屋の女たちを扱った小説を、もうほとんど書きあげました」。「女郎屋の女たち」とは、息子の母にたいする手紙としては露骨すぎる言葉であるが、前にもちょっと触れたように幼時からフローベールの親友で(フローベールと母ロールとは、ともに一八二一年生まれ)、一種の文学婦人であった母は、息子が小説家として大成することのみを念願し、息子もまた自分の書く小説について何くれとなく母に相談し、この習性はギーの晩年までつづいたのであるから、この「女郎屋の女たち」も奇異ではない。
それにしてもギーは、この題材をどこから得たのであろうか。一説では、地方紙「ルーアンのうわさ」紙の編集長シャルル・ラピエールから聞いた、もう一説では、エクトール・マロー〔一八三〇〜一九〇七。「家なき子」の作者〕から聞いた、となっているが、後者のほうが、ほんとうらしいといわれる。いずれにしても、ルーアン市のコルドリエ街にあった娼家が「初聖体拝受式のため休業した」、そして、その宗教的儀式は市から四キロのボワギョーム、あるいは市から十一キロのカンカンポワでおこなわれた、ということは事実であった。しかし、その話からヒントをえただけで、ギーは「テリエ楼」を書いた。それはちょうど、会ったこともないルーアンの肥った娼婦の話を聞いて「脂肪の塊」を書いたと同様で、ストーリーは作者の空想の所産なのである。
すでに述べたように「脂肪の塊」と「テリエ楼」とは、モーパッサンの全作品のなかでも、もっとも完成された芸術品である。しかし、どちらかというと、「テリエ楼」のほうが、より醇乎《じゅんこ》たる芸術品であるように訳者には思われる。「脂肪の塊」は、輪郭がやや揺れ動いている。小説の終ったところから、また小説がはじまる、ともいえそうである。「でぶ」の涙は一生つづくであろう。コルニュデは一生「ラ・マルセイエーズ」を歌いつづけるであろう。そこへいくと、「テリエ楼」は、いかにも起承転結がととのっている。読み終ると、フランス映画の最後に出るfinという字が目に見えるようだ。あとに残るのは、まれに見る完璧《かんぺき》な芸術品のみが人に与える、あの静謐《せいひつ》な、透明な、一種さびしい、ともいえる感動である。
「テリエ楼」では、ルーアンの娼家がフェカンに置きかえられている。フェカンは、いうまでもなく英仏海峡にのぞむ漁港で、塩物商のトゥールヌヴォーさんが「船はタラを積んで帰港せり」という暗号の手紙をもらって「テリエ楼」に駆けつけたように、北海漁業の基地である。海の風、塩漬けの魚のにおいの町で、文化のにおいはない。この俗な、平和な町で、トゥールヌヴォーさんたちは、昼は商売にはげみ、夜は「テリエ楼」で娼婦たちを相手にリキュールをちびちびやりながら、しごく安直、かつ衛生無害な遊蕩に時間をつぶし、夜中になると、ちゃんと家へ帰って寝る。「でぶ」を泣かせた非道なブルジョワどもとはちがい、まことに穏和な町人どもである。女たちもまた彼らを相手に夜ごと、笑い、飲み、歌い、そして商売にはげむ。商売は、なかなかの労働だ。しかし、労働は神聖なり。それなりの充足感はある。けっして「でぶ」のような屈辱感に泣くことはない。
愛されたい、愛したい、それが娼婦の職業的習慣、いや、本能にすらなっている、とモーパッサンは「テリエ楼」のなかで言っているように思われる。汽車の中で、旅回りの注文取りが、彼女たちのスカートをまくる。悪ふざけ――これも彼女たちにとっては愛されることである。彼女たちはキャーキャーいってよろこぶ。われがちにアヒルたちの鼻づらに接吻するのは、これはもちろん愛すことである。建具屋の家に着き、夕方、コンスタンスが教会から帰ってくると、少女にたいする彼女たちの愛は爆発する。「かわるがわる膝の上に抱きあげては、そのしなやかな金髪を愛撫したり、心の底から湧きあがる烈《はげ》しい愛情にかられて、ぐっと腕の中に抱きしめたり」。
酔っぱらった建具屋はローザに挑《いど》みかかる。悪ふざけ以上だ。しかし、ローザはおこらない。おこるどころか笑いこける。しかも、帰りの汽車の窓から、彼女は白いハンカチを振って、停車場に立って見送る建具屋に別れをつげる。……ああ、リヴェのおじさんは、あたしを好いてくれた。その思いが彼女を幸福にしているのである。
果物に芯《しん》があるように、小説にも芯がある。「初聖体拝受のため娼家が休業した」と聞いただけでは、モーパッサンは書きはじめなかったろう。教会における娼婦たちの嗚咽《おえつ》、それを思ったとき、書きはじめたにちがいない。
「まさに、そのときであった。ローザは両手の中に額《ひたい》をうずめていたが、ふと母親のことを――故郷の村の教会のことを――自分がはじめて聖体を拝受したときのことを思いだした。自分があんなに小さく、まっ白な衣装《いしょう》にすっぽり包まれていた日――その日に返ったような気がした。泣きだした。はじめは静かに、声を立てずに泣いた。涙がゆっくり瞼《まぶた》にもりあがり、頬《ほお》を流れ落ちた。やがて、いろいろなことが思いだされるにつれ万感胸にせまり、とうとう声に出して泣きだした」。
ローザばかりではない。傍輩《ほうばい》はみな泣いた。
昨夜からの少女への愛は、要するに自分自身への愛ではなかったのか。遠い幼い日の自分自身が、いとおしかった。きょうのわが身が、いとおしかった。あまい涙、にがい涙。が、いずれにしても、神の息吹《いぶ》きの下で心ゆくばかり流した涙は、結局、快いものであったろう。彼女たちは洗われたような心になって教会を出たにちがいない。
帰りの汽車の中では、みんな、ぐっすり眠った。「満ちたりた良心の平和な眠りだ」と、作者は書いている。
娼婦は徳への郷愁を持つ。それゆえ「堅気《かたぎ》」にあこがれる。あこがれるということは、劣等感を持つことだ。しばらくでも、その劣等感を忘れることは幸福だ。ヴァルモンの谷間で遊ぶ彼女たちは、なんと楽しげであろう。「大気に酔いしれた籠《かご》の鳥の歓喜」。この句には可憐な彼女たちにたいする涙がにじんでいる。
一言にしていえば、「テリエ楼」は娼婦の生態をえがいた小説である。
「脂肪の塊」と同じく、「テリエ楼」もすぐれた描写にとんでいる。
「テリエ楼」の戸が閉まっているので、常連はしかたなく港へ行き、突堤の胸壁に腰かけて、夜のなかの白い波を見る。
「つまりませんな」と、ひとりが言う。
「つまりませんな」と、もうひとりが言う。
たったこれだけの描写であるが、これは一家の長である中年すぎた男たちの――精神的な楽しみなど何も持たない男たちの心情を、痛いほど感じさせる。
リヴェは女たちを停車場に出迎える。女たち、ひとりひとりの服装は、けばけばしくてグロテスクだ。しかし、広い田園の中で遠く小さく眺めたら、たしかに絢爛《けんらん》たるものがあろう。その絢爛たる花々を満載した馬車が、緑の麦畑、黄色い菜種畑、青い矢車草の畑、まっ赤な雛罌粟《ひなげし》の畑、それらのあいだを、白い馬の足掻《あが》きにつれて走りつづける。「それは農家の大きな木立ちのかげにはいり、そこから出ると、おりからのうららかな陽射しをあびながら、広々とした田園風景の中を、しだいに小さく遠ざかっていった」
カラー映画の、もっとも美しい一シーンである。文字で、こんなに美しい画《え》がかけるものかと驚かずにはいられない。
翌日、馬車はまた花々を満載して、こんどは停車場に向う。同じ風景、しかし同じ描写はくり返されない。そのかわり作者は、街道のかたわらに立って馬車を見送る石工を点出する。それも単なる石工ではない。石の破片で目を傷つけないために、目の上に針金のマスクをかけた石工である。馬車のロングショット、あっけにとられた石工のクローズアップ。もっとも印象的な映画のひと駒《こま》である。
美しい描写といえば、すでにわれわれは「脂肪の塊」のなかで、次のような文章に接した。「でぶ」の犠牲によって翌朝、一同、出発を許されたときである。
「冬の太陽がまぶしく雪を照り返していた。宿の前には、こんどこそ馬どもをつけた馬車が待っていた。その六頭の馬の脚のあいだを、まん中に黒い点のあるバラ色の目を持った白いハトの群れが、厚い羽根におおわれた胸を反《そ》らせて歩きまわりながら、湯気のたつ馬糞《ばふん》を蹴《け》ちらし蹴ちらし、餌《えさ》をあさっていた」。
文字によって、こんな強烈な光がかけるものなのか! この光は、読者の目をまぶしがらせる。
この一節を読んで、フローベールは喜びのあまり飛びあがった。「わたしは情にほだされて誤った見方をしているのではないか、と何度も自分にたずねてみた」と、フローベールはギーに書いた。
「テリエ楼」の女たちは、ひと晩、休養して、すっかり元気になって帰ってくる。「さあ、今夜からまた精だして働こう」。そして商売に張り切る。本来なら猥雑《わいざつ》なるべき場面だが、それがそれほど猥雑には感じられず、むしろ、どこか健康的にさえ感じられるのは、そういう彼女たちの明るい心が反映しているからであろう。読み終った後味《あとあじ》は、すこぶるよい。
モーパッサンは、その長編小説「ピエールとジャン」〔一八八八年〕の「序――小説論」のなかで次のように書いている。
「われわれは、われわれの観念のなかに、器官のなかに、それぞれの現実を持っているのであるから、万人に共通の現実を信ずるなどということは児戯に類する。
すぐれた写実家《レアリスト》は、むしろ幻想家《イリュジョニスト》と呼ばるべきである」
「脂肪の塊」「テリエ楼」、これら二つの作品において、われわれは多くの男や女に会った。そして彼らが、それぞれ両足をしっかり大地につけた確固不動の存在と感じた。
しかし、彼らもまた、モーパッサンがその天才によって見た幻影であったのか。写実主義はもう古い、なんだかそんな言葉が、弱々しく感じられる。
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訳者あとがき
本書を訳出するに当っては、テキストとして、一九七一年、パリのガルニエ社から刊行された、いわゆるガルニエ・クラシック版「ブール・ド・シュイフおよびその他のノルマンディ短編集」(Boule de suif et autres Contes normands)を用いた。この書はルーアン大学のM・C・バンカール教授の編集に成るもので、本文の正確さはもとより、その注解は精密をきわめている。訳者が、まがりなりにも本書を訳出できたのは、このテキストに負うところが多い。
解説を書くに当たっては、一九六七年、パリのファイヤール社から刊行された「美男子モーパッサン」(Maupassant le bel-ami)を参照した。この書はゴンクール賞作家アルマン・ラヌーの著で、わが国では、その後、一九七三年、河盛好蔵・大島利治両氏の訳で「モーパッサンの生涯」と題され、新潮社から出版されている。
訳者は、かねて河盛好蔵氏訳「モーパッサンの情熱的生涯」(S・クールター著、一九六三年、文芸春秋新社刊)を愛読している。訳者のモーパッサンに関する知識は、この書によるところが多い。この機会に、同氏に厚くお礼を申しあげる。
一九七四年七月