ある女の告白
モーパッサン/新庄嘉章訳
目 次
聖水授与者
僕の妻
愛撫
パリの経験
ある女の告白
月光
宝石
たくらみ
温室
めぐりあい
衣裳戸棚
ロザリー・プリュダン
難破船
オトー父子
ボアテル
ランデヴー
港の女
離婚
死んだ女
アルーマ(砂漠の女)
解説
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聖水授与者
彼はむかし、村の入口の、国道に近い小さな家に住んでいた。土地の百姓の娘と結婚すると、彼は車|大工《だいく》として身をかためた。夫婦して大いに働いたので、ちょっとした蓄えもできた。ただ彼等には子供がなかった。それが二人の深い悲しみの種だった。ところがやっと男の子が授かった。そこでジャンという名をつけた。そして子供の顔を見ないでは一時間もじっとしていられないほどのかわいがりかたで、温い愛情で蔽《おお》い包みながら夫婦してかわるがわる愛撫《あいぶ》した。
子供が五つのとき、軽業師《かるわざし》の一座がこの地方に流れてきて、村役場の前の広場に小屋をかけた。
ジャンはそれを見て、家を抜けだした。父親は長い間探しまわったあげくやっとのことで、子供が、芸のできる利口な牝山羊《めやぎ》や軽業《かるわざ》をする犬にとりまかれ、老道化師の膝《ひざ》の上できゃっきゃっと笑っているところを見つけた。
それから三日のちのこと、夕飯の時刻に食卓につこうとした車大工夫婦は、子供が家にいないことに気がついた。庭を探したけれども見つからなかった。そこで父親は道ばたに立って大声をあげて「ジャン!」と叫んでみた。――夕闇がおちていた。あたり一面くすんだ靄《もや》がたれこめて、暗い、恐ろしい闇のかなたに、すべてのものが形を消してしまっていた。すぐ近くにある三本の大きな樅《もみ》の木は、なんだか泣いているように思われた。何も答えるものはなかった。ただ大気の中にはうめき声に似たものが微《かす》かに聞えるばかりだった。父親は長い間耳を澄ませていた。ある時は右に、ある時は左に、たえずなにか聞えるような気がするのだった。半分気ちがいのようになった彼は、闇の中を「ジャン! ジャン」と叫びつづけながらさまよい歩いた。
こうして彼は夜の明けるまで駈けまわった。深い闇は彼の叫び声でみたされた。夜歩きする獣《けもの》どもも恐がった。烈しい苦痛にいためつけられて、時には気が狂ったのではないかといった気がした。妻は門口の石の上に坐ったまま、朝まですすり泣いていた。
子供はとうとう見つからなかった。
そこで彼等は悲しみにくれて、急に老《ふ》けていった。
ついに彼等は家を売った。そして自分たちで子供を探そうと旅にのぼった。
彼等は山腹の羊飼いや、通りかかる旅商人や、村のお百姓さんに聞いてみた。また町役場でもしらべてもらった。だが、なにぶん彼等の息子が行方不明になったのはもうひさしい以前のことだったから、誰一人何一つ知っていなかった。当の息子ですら、今では自分の名も、故郷の名も忘れてしまったに相違ない。もう希望はなかった。彼等はさめざめと涙を流した。
やがて蓄《たくわ》えの金もなくなってしまった。そこで彼等は小作地や|はたごや《ヽヽヽヽ》で日やといにやとわれて、一番いやしい仕事をひき受け、他人の残りもので餓《うえ》をしのぎ、寒さに悩みながら、かたい寝床の上で眠った。だが、疲れきってからだがひどく弱ってくると、もう誰一人使ってくれようとはしなかった。そこでやむをえず路傍《ろぼう》にたたずんで、こじきをしなければならなかった。旅人の姿を見ると、悲しそうな顔をしてそばに寄り、哀れっぽい言葉をかけた。昼、野原で、樹かげで食事をしている百姓の一家にであうと、パンの一片をねだった。そして溝《みぞ》の縁《へり》に坐って、黙々としてそれを食べるのだった。
ある日、彼等の悲しい身上話を聞いた宿屋の主人は、彼等に向ってこんなことを言った。
「わたしはやはりあんたたちのように、娘さんが行方不明になった人を知っているが、その人はパリで娘さんにめぐり合ったそうだよ」
そう聞いた彼等はさっそくパリをさして歩きはじめた。
この大きな都会に一歩足を踏み入れた時、彼等はその広いことと、路行く人の多いことにおびやかされた。
それでも彼等は、これらの人々の間に自分の子がいるにちがいないと思った。けれどもそれを探すにはどうしたらいいか見当がつかなかった。それに、たとえ息子に出会っても見分けがつかないのではあるまいかと思った。なにぶん息子の顔をもう十五年も見ないのだから。
彼等は、あらゆる広場、あらゆる通りをたずねまわった。人だかりの前ではかならず足をとめた。神のみ恵みによるめぐりあいを、奇蹟的な偶然を、運命の慈悲を、ひそかに期待しながら。
しばしば彼等は互いにより添って、あてもなく前へ前へと歩いていった。その姿があまりにも悲しく、憐れっぽいので、人々は彼等が手をださないうちに施《ほどこ》しものをくれた。
日曜になると、彼等は教会の入口にたたずんで、出入りする人を眺めながら、人々の顔の上に遠い日の面影《おもかげ》を探しながら、一日を過した。幾度か見覚えのあるような気のする顔に出会ったけれども、いつもちがっていた。
彼等が一ばんよくやってくる教会の入口に、老人の聖水授与者がいて、彼等と友達になった。
その人の身上話も彼等のそれと同じようにひどく哀れなものだった。そこで同情が彼等の間に深い友情を生んだのだった。ついに彼等は、遠い町はずれの、畠の近くにある大きな家の見すぼらしい屋根裏の部屋を借りて、三人で暮すようになった。そして車大工は時々友達が病気の折は、彼にかわって教会にでかけた。冬がきた。この冬の寒さはひどく厳しかった。哀れな灌水器持ちは死んでしまった。そこで小教区の司祭は、車大工の不幸な身の上をかねがねきいて知っていたので、彼を後任に指名した。
それから彼は、毎日曜の朝、同じ場所の、同じ椅子《いす》の上に坐りにきた。よりかかる古い石の柱を、たえず背中でこすってはすりへらしながら。そして教会にくる人を一人残らず注意深く眺めていた。まるで学生のように日曜日が待ち遠しかった。なぜなら、日曜日はおまいりの人々でたえず賑《にぎわ》うからだった。
御堂の湿気のために彼はますます弱って、ひどくふけこんだ。しかも彼の希望は日毎に砕《くだ》けていった。
今では彼はおまいりにくるすべての人を知っていた。彼等のくる時刻や習慣も覚えてしまった。
敷石を踏む足音を開きわけることができるほどになっていた。
見知らぬ人が一人はいってきても彼にとっては大事件であるほど、彼の生活は狭いものになっていた。ある日、二人の婦人がやってきた。一人は老人で、一人は若かった。おそらく母親と娘であろう。そのうしろから一人の男が姿を現わした。ミサがすむと教会の出口で男は彼女たちに挨拶した。それから聖水を二人に差しだすと、彼は老婦人の腕をとった。
「若い娘さんの許婚《いいなずけ》にちがいない」と車大工は考えた。
それから、今日の男に似た青年に、昔会ったことのあるような気がして、夕方までかかって、思い出の中を探し求めた。だが、彼の記憶にあるその人は、いまでは老人になっているはずだった。なぜって、ずっと昔の若いころの知りあいのように思えたからだった。
この青年はそれからもしばしば二人の婦人のお伴をしてやってきた。そしてこの、はっきりは思い出せないが、とにかくどこか昔の親しい人に似ているということは、年老いた聖水授与者の心をひどくかきみだした。そこで彼は、自分一人の薄れた記憶力では頼りなくなって女房を呼び寄せた。
ある夕方、日が沈むころ、例の見知らぬ人たちが三人揃ってやってきた。彼等が前を通りすぎたとき、「おい、あの若い人に見覚えがないかい?」と彼は言った。
女房もそわそわとして思い出そうとあせっていたが、突然低い声で言った。
「そうだよ……そうだよ……でもあの人はずっと髪の毛は黒いし、背も高いし、がっちりしているし、それに紳士様のようなりっぱな身なりをしている。けれど、父さん、ほら、あれはあんたの若い時分の顔とそっくりですよ」
老人はそれをきいて飛びあがった。
まったくその通りだった。青年は彼に似ていた。死んだ彼の兄にも似ていた。彼の覚えているまだ若いころの父にも似ていた。老人夫婦はお互いに口もきけないほど感動していた。三人はおまいりをすませて、まさに門を出ようとしていた。青年は、聖水器に指をふれた。老人の手がぶるぶる震えたので、聖水が雨のように地面にこぼれた。老人はとっさに「ジャン?」と叫んだ。
若者は足をとめて彼等を見つめた。
彼は一層低い声でくりかえした。
「ジャン?」
二人の婦人はわけが分らず、じろじろと老人を眺めていた。
そこで老人はすすり泣きながら三度目に言った。
「ジャン?」
若者は身をかがめて老人の顔をしげしげ眺めた。そして幼い日の記憶にはっとして答えた。
「パパのピエールに、ママのジャンヌ?」
彼は父親の苗字《みょうじ》も、故郷の名も、何もかもすっかり忘れていた。けれども、あんなに何度もくりかえしたこの二つの言葉だけは、いつも記憶にあったのだ。パパのピエールにママのジャンヌ!
彼は身を投げて老人の膝《ひざ》の上に顔を埋めた。そして泣きつづけた。はかり知れぬ喜びにのどをつまらせた両親をかわるがわる抱きしめた。
二人の婦人も大きな幸福が訪れてきたことを知って泣いていた。
それから彼等はうち揃って青年の家へいった。青年は彼等に身上話を物語った。
軽業師の一行が彼をかどわかしたのだった。三年の間、彼は多くの国々を流れ歩いた。それから、一座は解散した。ある日、城に住んでいる老婦人が金を出して彼を手もとに引きとった。かわいい子供だと思ったからである。利口な子供だったから老婦人は学校にあげた。それから上の学校にもやった。老婦人には子供がなかったから、彼は遺産をもらった。彼もまた両親を探していたのだった。しかし「パパのピエール、ママのジャンヌ」という二つの名前しか思いだせない彼には、探そうにもどうしようもなかったのだった。いまや彼は結婚しようとしていた。彼は許婚《いいなずけ》を紹介した。実に気だてのいい美しい娘だった。
今度は老人夫婦がさまざまの切なかった悲しみや苦労を物語って、語りおわるやもう一度子供を抱きしめた。その夜は、夜のふけるまで語りつづけた。あんなに昔から自分たちの手を逃げまわっていた幸福が、寝ている間にまた自分たちを見捨てやしないかと心配になって、寝床にはいる気になれないのだった。
だが彼等はしっっこい不幸を味わいつくしていたのだった。その証拠には、彼等は死ぬまで幸福だった。
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僕の妻
それは、旧友同士の妻帯した連中が、時々細君抜きで集っては、昔のような独身気分で共にしている晩餐《ばんさん》の終る頃《ころ》であった。みんなはいつまでもたべ、また大いに飲んでいた。そして色んなことをしゃべりあい、昔の楽しい思い出話を持ち出していた。それは、思わず唇に微笑を浮かばせ、胸をときめかすような生き生きとした思い出だった。一人の男が言った。
「おい、ジョルジュ、モンマルトルの娘を二人連れて、サン・ジェルマンに遊びに行ったことをおぼえてるかい?」
「もちろん、おぼえてるさ!」
するとみんなは、あれやこれやとこまごましたことを思い出し、それは今日なお、彼等の心を楽しませてくれるのだった。
話がたまたま結婚のことになると、みんなそれぞれ真剣な調子で言った。「ああ! もう一度結婚し直せるんだったらなあ!……」そしてジョルジュ・デュポルタンがそのあとをこう続けた。
「不思議なことだが、人間は実に簡単に結婚の罠《わな》に落ちこむものだね。僕達は決して結婚なんかするものかとかたく決心している。だが、春になって、田舎《いなか》に出かける。空気はあたたかい。やがて気持のいい夏になる。草は花をつけている。たまたま友人の家で若い娘に出会う……ドカン! それでおしまいさ。帰って来る時には細君御同伴てことになる」
ピエール・レトワルが叫んだ。
「まさにその通りだ! 僕の場合がそうだ。ただ、こまかな点になるとちがってるがね……」
すると友人の一人が彼の言葉をさえぎった。
「君の場合は、文句を言うことはないぜ。だって君の細君は、綺麗《きれい》で、愛嬌《あいきょう》があって、一点非の打ち所のない世界一の美人じゃないか。たしかに君は、僕達の仲間で一番の仕合せ者だぜ」
すると相手は答えた。
「だってそれは僕のせいじゃないよ」
「そりゃ、いったいどういうことだね?」
「なるほど僕の家内は非の打ち所のないやつかも分らん。だが、僕は止むを得ず女房に貰ったんだ」
「まさか!」
「いや、そうなんだ……これには次のようないきさつがあるのさ。当時僕は三十五だったが、結婚なんてことは、首つりと同じように、考えてもいなかった。若い娘なんか味もそっけもないものに思えて、道楽|三昧《ざんまい》に耽《ふけ》っていたものさ。
ところが五月に、ノルマンディに住んでいた従兄《いとこ》のシモン・デラベルの結婚式によばれたんだ。
それは本式のノルマンディ風の結婚式だった。夕方の五時に食卓について、十一時になってもまだたべてるんだ。僕はその場の都合で、退役大佐の娘のデュムーラン嬢と席を共にすることになった。金髪《ブロンド》で、女の軍人のような、からだの恰好《かっこう》のいい娘だったが、なかなか大胆で、それにおしゃべりだった。一日中完全に僕を独占して、庭に引っぱって行っては否応《いやおう》なしに僕を踊らせる始末で、僕はへとへとに参ってしまった。
そこで僕は考えた。『今日はまあ仕方がないが、明日は逃げ出そう。よし、そうしよう』とね。
夜の十一時頃になると、女達は自分の部屋に引きさがったが、男達はあとに残って、酒を飲みながら煙草《たばこ》をふかしていた。あるいは、こういう言いかたの方がよければ、煙草をふかしながら酒を飲んでいた。
開けはなした窓から、田舎踊りが見えた。村の男女が、野性的なダンス曲をわめきながら、輪を作って踊りはねていた。大きな台所の食卓を演台代りにし、その上に陣取った二人のヴァイオリン弾きとクラリネット吹きが、弱々しい伴奏をつけていた。百姓達のやかましい歌声は、時として、楽器の音をすっかり消してしまった。そしてかぼそい音楽は、激しい声に引き裂かれ、きれぎれになり、まるでばらばらの音符となって空から降ってくるように思われた。
あかあかと燃えた炬火《たいまつ》に囲まれた二つの大樽《おおだる》から、村の衆に飲物がふるまわれた。二人の男がバケツの中でコップや茶碗《ちゃわん》を洗っては、早速それを、赤い葡萄酒《ぶどうしゅ》や黄色い純粋な林檎《りんご》酒が糸のように流れ落ちる樽の栓《せん》の下に差し出していた。すると、のどを乾かした踊手達が、老人達は静かに、娘遠は汗をかいて押しかけ、腕をのばして順々に容器をつかむと、頭をうしろにのけぞらせて、めいめいに好きな飲物をドクドクとのどに流しこんでいた。一つのテーブルの上には、パンや、バタや、チーズや、ソーセージがのっていた。みんなは時々それを一口ずつ頬張っていた。星空の下の、こうした健康で賑やかなお祭は、実際見ていて気持のいいもので、僕もあの大樽の腹から酒を飲み、バタと生の玉葱《たまねぎ》をつけて堅パンをたべてみたくなった。
僕は、この楽しいお祭騒ぎに加わりたくて矢も楯《たて》もたまらなくなり、仲間を離れた。
白状しなくちゃならないが、ことによったら少し酔っていたのかも分らない。だが、間もなくほんとに酔っぱらってしまった。
僕は、息をはずませているがっちりした田舎娘の手をつかむと、僕自身息が切れるまで、むちゃくちゃに女を踊らせた。
それから葡萄酒を一口ひっかけて、別の女をつかまえた。次には、元気を取り戻すためになみなみとついだ林檎酒を一杯あおって、また悪魔に取り憑《つ》かれた男のように踊りはじめた。
僕の身ごなしはしなやかだった。村の若者達はうっとり見とれて、僕の真似《まね》をしようとした。娘達はみんな僕と踊りたがって、牝牛のような優しい、重苦しい身振りで、跳びはねた。
葡萄酒から林檎酒へと、かわるがわる飲んでいるうちに、朝の二時頃になると、とうとう、立っておれないほどに酔っぱらってしまった。
僕は自分が客に来た人間であることに気がついた。そこで自分の部屋に帰ろうと思った。だが屋敷は真暗で、ひっそり静まりかえったまま眠っていた。
僕はマッチを持っていなかった。そしてみんなはもう寝てしまっていた。玄関にはいるや、急に眩暈《めまい》がした。なかなか欄干《てすり》が見つからなかった。やっと、手探りで、偶然にそれが見つかると、僕は階段の一番下の段に腰をおろして、少し頭の整理をしようとつとめた。
僕の部屋は三階にあった。左手の三番目の扉がそうだった。幸いにも僕はそれを覚えていた。
この記憶に力を得た僕は、やっとこさで立ち上った。そして、転ばないように鉄の格子にしっかとつかまりながら、決して音をたてまいと注意に注意を重ねて、一段一段とのぼりはじめた。
ただ三、四度、階段を踏み外して、膝をついた。だが、腕に力があったのと、気分を張りつめていたおかげで、転げ落ちることは免《まぬか》れた。
やっと、三階にたどりついた。そして壁を探りながら廊下を進んで行った。そこに一つ扉があった。僕は『一つ』と数えた。ところがこの時急にくらくらと眩暈《めまい》がして、僕は壁から離れた。そして変な風に一回転して、反対側の壁にぶっつかった。僕は真直ぐ引き返そうとした。そして、長いこと苦心して、廊下を横切った。やっとこさでもとの側に戻った僕は、再び、用心しながら、壁に沿って歩きはじめた。そしてもう一つの扉を見つけた。僕は間遠っていないことを確かめるために、今度も大声で『二つ』と数えて、また歩きだした。とうとう三つ目の扉が見つかった。
『三つ、俺《おれ》の部屋だ』と僕は言って、鍵穴に鍵を回した。扉があいた。僕は何か不安な気がしたが、『扉があいたんだから、たしかに俺の部屋だ』と考えた。そして静かに扉をしめると、暗闇の中を進んで行った。
と、何だか柔かいものにぶっつかった。長椅子だった。僕はすぐにその上にのびてしまった。
あんなに酔っていては、ナイトテーブルや手燭やマッチを辛抱強く探すはずはない。それらを探しだすのには、少くとも二時間はかかったろう。また着物をぬぐにも同じくらいかかったにちがいない。いや、おそらくぬげなかっただろう。僕は着物をぬぐのは諦めてしまった。
僕はただ靴をぬいだだけで、胸を締めつけるチョッキの釦《ボタン》をはずし、ズボンをゆるめると、どうにもねむたくて、そのまま眠りこけてしまった。
もちろん、長い間眠り続けていたに相違ない。が、いきなり、すぐ間近かに聞える、響き渡るような声で僕は眼をさまされた。『どうしたんだ、怠けもの、まだ寝てるのか? 十時だぞ』
すると女の声がそれに答えた。『もうそんなになって? あたし昨日すっかり疲れたわ』
僕はびっくりして、一体何の話だろうといぶかった。
『俺はどこにいたんだろう? 何をしたんだろう?』と考えてみた。
僕の頭は厚い霧に包座れていて、まだぼんやりしていた。
はじめの声がまた言った。『さあ、カーテンをあけるぞ』ってね。
そして僕の耳に、僕の方に近づいてくる足音が聞えてきた。僕は夢中で坐り直した。すると一つの手が僕の頭を抑えた。僕はいきなりはね起きた。語気の荒い声が『誰だ?』ときいた。だが僕は用心深く答えなかった。怒りにふるえた二つの手頸《てくび》がぐっと僕をつかまえた。今度は、僕の方から、誰とも分らぬ相手に組みついて行った。そこで恐ろしい格闘がはじまった。二人は家具をひっくり返したり、壁にぶつかったりして、床の上をころげまわった。
女の声が、恐怖にふるえて『助けて! 助けて!』と叫んでいた。
召使達や、近所の人達や、気ちがいのようになった夫人達が駆けつけてきた。みんなは鎧戸《よろいど》をあけ、カーテンを引いた。僕はデュムーラン大佐と組打ちをしていた!
僕は大佐の娘の寝台のそばに寝込んでいたのだ。
みんなに引き分けられるや、僕はあまりの驚きに呆然となって、早速自分の部屋に逃げ帰った。僕は鍵をかけて閉じこもり、椅子に足をのせたまま坐りこんだ。だって、靴は若い娘の部屋に置いてきてしまったからね。
扉を開けたてする音、囁《ささや》き声、せわしげな足音など、屋敷中が大騒ぎしているのが聞えていた。
三十分もした頃、僕の部屋の扉を叩く者があった。そこで僕は『誰だ?』と叫んだが、それは、前の晩に結婚した男の父、つまり僕の伯父《おじ》だった。僕は扉を開けた。
伯父は真青になって怒っていた。そして、突慳貪《つっけんどん》に『わしの家でよくもあんな無作法なまねをしたな!』と叱ったが、そのあと声を和《やわら》げて、『一体どうしたんだ、間抜奴《まぬけめ》! 朝の十時にもなってつかまるなんて! 用をすましたらさっさと引き上げればいいんだ。それをあの部屋で馬鹿のように眠りこけてるなんて……用がすんだらさっさと帰るもんだ』と付け加えた。
そこで僕は『そうじゃないんですよ、伯父さん、誓って言いますが、何もありはしなかったんですよ……ただ酔っぱらって扉を間違えただけなんですよ』と叫んだ。
伯父は肩をすくめて、『なんだって、馬鹿なことは言わないものだよ』ととりあってくれなかった。そこで僕は手をあげて、『僕の名誉にかけて誓います』と言ったが、伯父は『いいよ、いいよ、そう言わなくちゃなるまいからな』と、てんで相手にしてくれないのだ。
そこで今度は僕が憤慨《ふんがい》した。そして失敗の一部始終を語った。伯父はびっくりした眼を大きく見開き、どう信じていいか分らぬといった様子で僕を見ていた。
それから大佐と相談しに出て行った。
なおそれに引き続いて、母親会議といったものが開かれ、その席で、いろんな角度から事情が検討されたということを知った。
一時間ほどして伯父が帰ってきた。裁判官のような態度で坐ると、『何はともあれ、わしの見るところでは、この解決法は一つしかない。それはデュムーラン嬢と結婚することだ』と切り出した。
僕は驚いて飛び上った。
『そんなこと、とんでもない!』
すると伯父は、深刻な顔をして、『じゃ、一体どうするつもりなんだ?』ときいた。
僕はただあっさりと、『だって……靴を返して貰ったら、帰るまでのことですよ』と答えた。
すると伯父はまたはじめた。『冗談はよしてくれ。大佐はお前を見|次第《しだい》ピストルで射ち殺す決心でいるんだ。いいかい、決して空|脅《おど》しじゃないんだぞ。わしは決闘したらと言ってみたんだが、いやどうしても射ち殺してくれる、と言うんだ。こうなったら、問題を別の観点から考えてみようじゃないか。かりに、お前があの娘を誘惑したとする。そうなるとお前にとっては都合の悪いことになる。誰も堅気の若い娘の所に忍び込む者はないからな。また、お前の言う通り、酔っぱらったひょうしで間違えたとする。ところで、これまたやっぱりお前にとっては都合の悪いことになる。だって、そんな馬鹿なまねをしでかす奴はないからな。まあ、いずれにせよ、可哀そうにあの娘が評判を落とすんだ。酔っぱらいの言訳などきく者はないからな。この事件の本当の犠牲者《ぎせいしゃ》は、ただ一人の犠牲者は、あの娘だ。そこのところをよく考えてくれ』
伯父はそう言うなり出て行った。僕がその背中に向って、『なんとでも言うがいい。僕は決して結婚なんかしないから!』とわめきたてるのも構わずにね。
僕はもう一時間、そこに一人でいた。
今度は伯母がやってきた。伯母は泣いていた。そしてありったけの理屈を並べた。誰も僕の過《あやま》ちを信じてくれる者はないのだ。みんな、あの若い娘が、ひとの大勢いる家の中で扉に鍵をかけるのを忘れたなんて、そんなことありえないというんだ。大佐は娘をなぐった。娘は朝から泣いていた。今更どうにももみ消しようのない、厄介千万な醜聞だった。
人のいい伯母は付け加えて言った。『とにかく結婚を申し込みなさいよ。結婚の条件に文句をつけてうまく逃げ出すという手もないわけじゃないからね』
この見通しが僕をホッと安心させた。そこで求婚状を書くことを承知した。そしてそれから一時間して僕はパリにたった。
その翌日、求婚が承諾された旨の通知を受け取った。
さて、僕が何の術策も口実も見つけ出せずにいるうちに、三週間ばかりで結婚の予告が公けにされ、通知状が配られ、財産契約が署名されてしまった。そして、とある月曜日の朝、燈火《あかり》があかあかとともされた教会堂の内陣で、僕は若い娘と並んでいた。彼女は、僕が市長に二人は死に到るまで伴侶であることを承諾すると誓ったあとは、ずっと泣き続けていた。
僕はその後彼女には会っていなかったのだった。で、この時、僕は意地悪い驚きで、彼女を横合からじっと見ていた。だが、彼女は醜い女ではなかった。それどころではなかった。僕は考えた。『こいつはいつもいつも笑っているような女じゃないぞ』とね。
彼女は夕方まで一度も僕の顔を見なかった。そして一言も口をきかなかった。
真夜中頃、僕は自分の決心を打ち明けるつもりで夫婦の寝室にはいって行った。僕はもう主人だったからね。
彼女は昼間の着物のままで、眼を赤く泣きはらし、真青な顔で、安楽椅子に腰かけていた。僕がはいって行くとすぐに立ち上り、重い足取りで僕の方にやってきた。そして、
『わたしはなんでもあなたのお命じになる通りにいたします。もしお望みでしたら死にもいたします』と言うのだ。
大佐の娘だけあって、こうした英雄的な役を演ずると、とても美しかった。で、僕は彼女に接吻《せっぷん》した。それは僕の権利だったからね。
で、間もなく、僕は決して損をしなかったことに気がついた。
結婚してもう五年になるが、まだ全然後悔してなんかいないよ」
ピエール・レトワルはここで話をやめた。仲間の連中は笑っていた。その中の一人が言った。
「結婚というものは、一つの籤《くじ》みたいなものだ。番号を選《え》り好みするものじゃない。出鱈目《でたらめ》に取った番号が一番いいんだ」
すると、他の一人が次のように付け加えて、話のしめくくりをつけた。
「その通りだ。でも、酔っぱらいの神さまがピエールのために籤を選んで下さったことは忘れちゃいけないね」
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愛撫
いいえ、もうそのことはお考えにならないで下さいまし。あなたがわたしに求めていらっしゃることは、わたしにとっては堪えがたい、不愉快なことです。神さまは――わたしは神さまを信じています――かつて万物をお造りになる時に、何かしら怖ろしいものをまぜる方がいいとお思いになったかのようですわね。神さまはわたしたちに、この世で最も楽しいものとして、愛を与えて下さいました。しかし、それはわたしたちにとって、あまりにも美しいもの、あまりにも清らかなものであるとお思いになって、肉欲というものをお考え出しになりました。この肉欲は、いやしい、きたならしい、それこそぞっとするような、獣的なものです。神さまは、まるで、わたしたち人間を嘲弄《ちょうろう》するためにこんなものをおつくりになったかのようです。神さまはこれを肉体のけがれと一緒くたにしておしまいになりました。そこでわたしたちはこのことを考えると、思わず顔をあからめずにはいられないのです。このことを語る時には、どうしても声を低めずにはいられないのです。この肉欲の怖ろしい行為は恥ずかしさで蔽《おお》われています。それはこっそり物かげに隠れて行なわれ、ひとの心に反感を起させ、眼に不快な気持を与えます。そして、道徳には辱しめられ、法律には追い責められて、まるで罪人のように、蔭で危ないことをやっているのです。
もう決して二度とあんなことはおっしゃらないで下さいまし!
わたしには、あなたを愛しているのかどうか、よくわかりません。でも、あなたのおそばにいると嬉しいのです。あなたの眼はわたしにとってはとても優しく感じられ、あなたのお声はわたしの胸を愛撫するのです。わたしの弱気につけこんで、あなたがほしいと思っていらっしゃるものを奪っておしまいになったら、その日からあなたは、わたしにとっては憎らしい方になることでしょう。わたしたち二人を互いに結びつけているデリケートな絆《きずな》は断ち切られてしまうことでしょう。二人の間にはけがれた深淵《しんえん》ができることでしょう。
ずっと今のままでいましょうね。おのぞみでしたら、わたしを愛して下さいまし。そのことはわたしも承知いたしますわ。
あなたの友ジュヌヴィエーヴ
奥さま、今度は私が、露骨《ろこつ》に、御婦人に対する遠慮などかなぐり棄ててお話することをお許し下さいまし。永遠の誓いをたてたがっている男の友達に話すような調子でお話いたします。
私も、果たして自分が奥さまを愛しているかどうか、よく分りません。奥さまがあれほどおきらいなあのことをしたのちでなければ、私にはそれはほんとには分りますまい。
奥さまはミュッセの次のような詩をお忘れになりましたか?
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かの瞬間は、聖ならざる時は、いともおぞまし。
今なおわれは思い出す。かの怖ろしき痙攣《けいれん》、かの沈黙の口づけ、かの燃ゆる筋肉、
われを忘れて、色蒼ざめ、歯を食いしばりしかのひとを。
[#ここで字下げ終わり]
こうしたぞっとするような気持、なんとも抑えようのない嫌悪《けんお》の気持は、湧き立つ血にかっとなって野合などしてしまった場合には私たちも感じます。でも、相手の女性が選ばれたひとであり、絶えず魅力を発散しつづけているひとであり、例えば私に対するあなたのように、無限の魅惑を持っているひとでしたら、愛撫はこの上もなく熱烈で、完全で、そして無限の幸福となるのです。
奥さま、愛撫は恋の試験です。抱擁《ほうよう》ののちに私たちの熱情が消えたら、私たちは間違っていたのです。反対に、熱情が増して行ったら、私たちはほんとに愛しているのです。
こうした理論を一度も実行に移したことのない哲学者は、自然の罠《わな》なるものがあるから警戒せよと私たちに教えました。彼が説くには、自然は人間をふやすことをねがっている、そして私たちにどうしてもそれをつくらせようとして、罠のそばに恋と肉欲という二重の魅力ある餌《えさ》を置いたというのです。そしてそれに附け加えてこう言っています。一旦その罠に落ちこんで、狂熱の一瞬がすぎ去ってしまうと、大きな悲しみが私たちをとらえる、というのは、私たちをだました詭計《きけい》が分ってくるからだ、否応なしに私たちを押しやったあの隠されていた秘《ひめ》やかな理由が見えてき、感じられてき、はっきりそれと触知されるからだ、と。
それはしばしば、実にしばしばほんとです。すると、私たちは嘔吐を催すような気持で立ち上るのです。自然は私たちを征服したのです。そして自分の思い通りに、私たちを開かれた腕の中に投げこんだのです。自然は、腕が大きく開かれることを望んでいるのですからね。
しかし、恋と呼ばれるこの一種の愛の雲が二人を蔽い包んだ時、二人が互いに、いつも、そしていつまでも、想い想われしている時、互いに離れている間も、思い出が夜となく昼となく絶えず相手の面影や微笑や声の音を呼びおこす時、現《うつつ》にはいないけれども、絶えず限の前にはっきり見える姿に取り憑《つ》かれている時、遂に腕が大きく拡げられ、唇が合わさり、肉体が縺《もつ》れ合うのは極めて自然なことではないでしょうか? あなたはこれまでに、接吻したい欲望を一度もお感じになったことはないのでしょうか? 唇が唇を呼ばないということ、血管の中にも溶けこみそうな清らかにすんだ眼差《まなざし》が、狂おしい、なんとも抵抗しがたい熱情を湧き立たせないということが、果してありうるでしょうか? もちろんそれは罠《わな》です。けがらわしい罠だとあなたはおっしゃるでしょう! 構うものですか! 私はそれを承知の上で、そこに落ちるのです。私はこの罠が好きなのです。自然は自分の詭計を隠すために、そして私たちに否応なく子孫を永続させようとして、愛撫を私たちに与えています。では、この愛撫を自然の手から盗んでやろうではありませんか。それをわれわれのものとしてやろうではありませんか。それを洗練し、それを変改し、お望みとあらば、それを理想化してやろうではありませんか。今度は私たちの方が、自然を、この騙《だま》し手を騙してやりましょう。自然がしようと欲した以上のことを、自然が私たちに教えることができた、もしくはあつかましくも教えようとした以上のことをしてやりましょう。愛撫を、大地から出た生《き》のままの宝石のように取り扱って、これを磨き、これに加工し、完全に立派なものに仕上げましょう。あなたが神さまとお呼びになるものの最初の計画や、隠された意志などお構いなしにね。そして、奥さま、胸の思いは一切《いっさい》を詩化するものですから、私たちもこれを詩化することにしましょう。この愛撫が持っている怖ろしい獣性も、この上もなく不純な計画も、また奇怪きわまるあの思いつきも、一切を詩化することにしましょう。私たちをほんのり酔わしてくれる、あの葡萄酒《ぶどうしゅ》のように、口を芳香でみたす熟した果物のように、私たちの肉体を幸福でひたしてくれるすべてのもののように、この愛撫を愛することにしましょう。肉を愛そうではありませんか。だって、肉は、美しく、白く、かたく、まるく、あたたかく、そして唇の下、手の下でいかにも心地よいものだからです。
芸術が快い酔いを汲みとる盃《さかずき》のために最も珍らかな、また最も清らかな形を芸術家たちが探し求めた時、彼等は、そのはなやかな美しさが薔薇《ばら》の花のそれに似た乳房の曲線を選びました。
さて私は、『医学辞典』なる該博な知識が網羅《もうら》されてある本の中で、女性の胸について次のような定義が下されてあるのを読んだことがあります。なんでも、医学博士になったジョゼフ・プリュドムという人が考えたことだそうです。
「乳房は、女性においては、実用的なものであり、同時にまた快楽のための具とも考えられうる」
もしも奥さまがお望みでしたら、この実用の方は省くことにいたしましょう。そして快楽の方だけを取ることにいたしましょう。もしも乳房が、ただ単に子供に乳を飲ますだけの用しかないものでしたら、どうして、あんな、思わず愛撫せずにはいられないような惚々《ほれぼれ》するような形を持っているのでしょう。
そうです、奥さま、道学者たちには勝手に貞淑《ていしゅく》とかを説かせておきましょう。医者たちには慎重な態度とかをしゃべらせておきましょう。騙し手のくせに、しょっちゅう自分自身騙されているあの詩人たちには、魂の純潔な結合とか精神的な幸福とかを歌わせておきましょう。堅い女たちには彼女らの義務を、律義な男たちには彼らの無益な仕事を任せておきましょう。議論屋には議論を、お坊さんにはお説教をさせておきましょう。そして私たちは、何よりも愛撫を愛することにしようではありませんか。これは、ひとを酔わせ、夢中にさせ、苛立《いらだ》たせ、疲らせ、かと思うと再び力づけてくれるものです。そして、芳香よりも心地よく、微風よりも軽いものですが、また傷よりも鋭く心を刺し、たちまち胸を引き裂き、心をお祈りに誘うものです。そしてまた、あらゆる犯罪に、あらゆる勇気ある行為にかりたてるものなのです!
愛撫を愛しましょう。おだやかな、正常な、合法的な愛撫ではなく、激しい、物狂おしい、とどまるところを知らぬ愛撫を! 金かダイヤモンドを探すように、これを探し求めましょう。なぜといって、それはなんとも評価しようもないものであり、束の間にすぎゆくもので、金やダイヤモンドなどよりずっと貴いものだからです!
それを絶えず追い求めましょう。それのために死に、それによって死にましょう!
奥さま、あなたが御存じない一つの真理を申しあげましょうか。思うに、いかなる作品においても、この地上の幸福な女性というのは、すべての愛撫を受けている人たちです。彼女たちは、なんの心配も、悩みもなく生きています。望みといっては、この前の接吻と同じように甘く優しい次の接吻を待ちもうける望み以外にはなく生きているのです。
その他の女性たち、つまり、控え目な愛撫や、あるいは不完全な愛撫しか知らない女性たち、あるいはまたほんのたまにしか愛撫を受けない女性たちは、多くの惨めな不安や、金銭欲や、虚栄心など、心の悲しみの種となるあらゆる出来事によって悩まされながら生きているのです。
ところが、飽きるほど愛撫されている女性たちは、なにも必要としてはいません。なにも望んではいません。なにも思い残してはいません。静かに、ほほえみを浮かべながら夢みているのです。他の女性たちにとっては、あるいは取り返しのつかぬ悲劇になるかも分らないことも、彼女たちにはそっと触れるだけです。というのは、愛撫はすべての代りをしてくれ、あらゆるものから回復《かいふく》させてくれ、慰めてくれるからです!
まだまだ、申しあげたいことはたんとあるのですが!……
アンリイ
日本紙の上にしたためられたこの二通の手紙は、昨日の日曜日、一時の弥撒《ミサ》のあと、ラ・マドレーヌ寺院の祈祷椅子の下に落ちていたロシア革の小さな紙入の中にはいっていたものである。
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パリの経験
およそ人間の感情で、女性における好奇心ほど激しいものがあるだろうか? そうだ! なんでも知りたい、よく知りたい、夢みていたものに触れたい、というのだ! そのためには、女性はなんでもするだろう。性急な好奇心が眼覚めたら、女性はどんな過《あやま》ちでも、無謀なことでも、大胆なことでもやってのけ、どんなことがあっても一歩もあとには引かないであろう。私はここに本当に女性的な女性を問題にしているのである。三重底の精神を生れながらに恵まれた女性のことを語っているのである。この精神は表面的には理性的であり、冷静である。だが、その底にある三つの秘密室には、次のようなものが満たされているのである。第一の室には、いつも落ちつかずそわそわしている女性特有の不安が満ちている。第二の室には、うわべを誠実で取り繕《つくろ》った狡猾《こうかつ》、信者特有のあの詭弁《きべん》的で怖ろしい狡猾が満ちている。そして最後の室には、魅惑的な横着《おうちゃく》、微妙な欺瞞《ぎまん》、心地よい不実など、つまり馬鹿正直な恋人達を自殺に追いやりはするが、その他の男達を恍惚《こうこつ》とさせる、あの悖徳的《はいとくてき》なすべての性質が満ちているのである。
私がここにそのひとの色事の経験を語ろうとしている女性は、それまではごく平凡に堅気にすごしてきた田舎の普通の女性だった。見かけは穏やかな彼女の生活は、非常に多忙な夫と、一点非の打ちどころのない女性として育てている二人の子供達の間に挟まれて、家事のきりもりのうちにすぎていた。だが、彼女の心は、満たされない好奇心と、未知のものを知りたいもどかしさでふるえていた。彼女は絶えずパリに想いをはせ、世俗的な新聞を貪《むさぼ》るように読んでいた。お祭、化粧、娯楽などの記事は彼女の欲望をわきたたせた。だが、とりわけ、暗示たっぷりの噂話とか、また巧妙な文句でちょっと幕を持ち揚げて、危険で不埒《ふらち》な享楽の水平線をちらと見せる式のものに、あやしく胸を乱された。
豪奢《ごうしゃ》で退廃的《たいはいてき》な栄華をあがめる気持で、彼女ははるか彼方にパリを見ていた。
夫は、絹の布を頭の鉢に巻いて、自分の横に仰向きに寝ている。その規則正しいいびきにゆすぶられながら、彼女は長い夜を夢みつつすごすのだが、そうした時彼女は、暗い空にまたたく大きな星のように、新聞の第一面にその名が現われているかの有名人達のことを考えていた。そして、夜に日をついで酒色に溺《おぼ》れ、怖ろしく逸楽的な古代風の酒神祭《バッカス》を享楽し、想像さえもできないような凝《こ》った肉欲的な快楽に耽《ふけ》る彼等の狂おしいばかりの生活を、あれこれ想像した。
パリの大通りは人間の情熱が渦巻いている所のように思われた。そしてそこのすべての家は、たしかに、不思議な愛の神秘を隠しているもののように思われるのだった。
彼女は、そうこうしているうちに自分が老《ふ》けて行くように感じた。いわゆる家庭の幸福をつくっている、忌《いま》わしくも単調で平凡なこの規則正しい仕事のほかには、人生について何も知らずに老けて行くのだ。彼女はまだ美しかった。この静かな生活の中に、ちょうど閉された戸棚の中にしまいこまれた冬の果物のように、大事にそっとされていたのだ。だが、秘《ひめ》やかな情熱のためにむしばまれ、傷つけられ、心の中はめちゃめちゃだった。地獄に堕《お》ちるかも分らないようなああした狂熱を何一つ知らずに死なねばならないのかしら、あのパリの逸楽の波の中に、一度も、たったの一度も、ざんぶと全身で飛びこむこともせずに死なねばならないのかしら、と彼女は考えるのだった。
長い間辛抱して、彼女はパリ行を準備し、一つの口実を考え出して、両親から招待して貰った。
ところで、夫は一緒について行くことができないので、彼女は一人で出発した。
パリに着くや早速彼女は、必要な時には、二日、あるいはむしろ二晩家をあけることが許される理由を考えつくことができた。郊外に住んでいる友人に出会ったと彼女は言った。
さて彼女は探しにかかった。大通りをそれからそれと歩き回ったが、そこらあたりをぶらついている札《ふだ》つきの不良のほかには誰にも会わなかった。大きなカフェをじっと覗きこみ、『フィガロ』の消息欄を注意深く読んだ。この消息欄は、毎朝、彼女には恋愛を告げる鐘か喇叭《ラッパ》のように思われた。
だが、芸術家達や女優達のあの盛大な酒神祭《バッカス》を偲《しの》ばせるようなものは何一つなかった。『千一夜物語』の洞窟のように、一つの魔法の言葉で閉ざされる、彼女が想像していたような酒池肉林の大殿堂や、迫害された宗教の秘密の儀式がひそかに執《と》り行なわれていたあのローマの地下廊といったものを教えてくれるものは何一つなかった。
中産階級でもそう豊かでない彼女の両親は、彼女の頭の中でその名前が鳴りひびいている、彼女の目的の人を一人として紹介することはできなかった。そこで彼女は絶望して、帰ろうかと考えていた。とその時、偶然が助け舟を出した。
ある日のこと、ショーセ・ダンタン街を下っている時、ちょっと眼を楽しませてくれる極彩色の日本の骨董《こっとう》が所狭いまでに並んでいる店先で彼女は足をとめた。そして、象牙製の小さなおどけた人形や、ぴかぴかした釉薬《うわぐすり》のかかった大きな花瓶《かびん》や、青銅製の奇妙な像などを見ていると、店の中でしゃべっている主人の声が聞えてきた。主人はひどく丁寧《ていねい》にかしこまって、頭のつるりとはげ、胡麻塩《ごましお》のあごひげのはえた、ずんぐりした男に、便々《べんべん》と腹のはり出た大きな陶製人形を見せ、これはまたとない逸品でございます、と言っていた。
商人の一言《ひとこと》ごとに、この骨董通の名前が、有名な名前が、召集|喇叭《らっぱ》のように鳴りひびいた。店にいた他のお客の、若い婦人連や上品な紳士達は、この有名な作家の方をちらりちらりと見ていた。その礼儀正しい視線には、明らかに尊敬の念がこもっていた。ところでその作家は、夢中になってその陶製の人形をじっと見つめていた。作家も人形も、負けず劣らず醜かった。同じ腹から出た二人の兄弟のように醜かった。
商人は言った。
「ジャン・ヴァラン様、旦那様には千フランでお譲り致します。それがぎりぎりの元値でございます。ほかのお客様には千五百フラン頂かねばなりますまい。なにぶんわたくしは芸術家のお客様が大好きでございまして、芸術家のお客様には特別値でお願いいたしておるのでございます。
ジャン・ヴァラン様、芸術家の皆様はみんなわたくしの店に来て下さいます。昨日は、ビュスナック様が古代の大きな盃を買って下さいました。いつぞやは、アレクサンドル・デュマ様に、こんな風な燭台を――なかなか立派なものでございましょう?――一|対《つい》お売り致しました。そうですよ、旦那様が持っていらっしゃいますこの品は、もしゾラ様が御覧になりましたら、きっとお買いになりますよ、ヴァラン様」
作家は、咽喉《のど》から手が出るほど品物はほしかったが、さすがに値段を考え、困惑の顔でためらっていた。砂漠にたった一人いるかのように、ひとの視線など気にかけていなかった。
彼女はふるえながら店にはいって行った。その眼は大胆にも彼の顔をじっと見据えていた。相手が美しいかしらとか、上品かしらとか、あるいは若いかしらとかいったことは考えてもみなかった。相手はジャン・ヴァランその人なのだ! ジャン・ヴァランなのだ! 心の中の長い闘いと、苦しい躊躇《ちゅうちょ》ののち、彼は陶器をテーブルの上に置いた。そして言った。
「いや、やっぱり高すぎる」
商人は更に雄弁にまくしたてた。
「おお! ジャン・ヴァラン様。これが高すぎますって? これは二千フランでもただみたいなものでございますよ」
文学者はこの七宝の眼の人形を相変らず見つめながら悲しげに答えた。
「そうじゃないとは言わないよ。だが、わしには高すぎるんだ」
この時、彼女は思わず頭がぽっとなって、大胆になり、前に進み出た。
「この人形、わたしになら、いくらで譲って下さるの?」と彼女は言った。
「千五百フランでございます、奥様」
「じゃ頂くわ」
これまで彼女の存在など気付きもしなかった作家は、この時いきなりうしろを振り向いた。そしてやや閉じた眼で、頭の天辺《てっぺん》から爪先まで、観察者としてじろじろ見た。それから、今度は鑑定人として彼女をこまかく分析しにかかった。
彼女は、これまで心の奥底に眠っていた焔《ほのお》に突然照らし出されて、魅惑的になり、活気づいていた。それに、千五百フランの骨董を買った女性は先客ではなかった。
彼女はこの時、実に素晴しい微妙な動きに出た。彼の方を向いて、ふるえる声で言った。
「失礼いたしました。わたし、ひょっとすると、少し慌《あわ》てすぎましたわね。恐らく、あなたさまはまだ、最後のお言葉をおっしゃってらっしゃいませんでしたわね」
彼は会釈して言った。
「いいえ、申しましたのですよ、奥さま」
だが彼女は、すっかり感動して、続けた。
「結局、今日でも、あるいはこれから先にでも、あなたさまのお考えが変りましたら、この骨董はあなたさまに差し上げますわ。わたしが買いましたのは、これがあなたさまのお気に召したからですわ」
彼は微笑した。明らかに、彼はいい気持になったのである。
「でも、どうして、わたしを御存じなのですか?」
と彼はきいた。
そこで彼女は、彼を尊敬していることを述べ、彼の作品を一つ一つあげた。彼女は雄弁だった。
話すために、彼は一つの家具に肱《ひじ》をついていた。そして鋭い眼を彼女に注ぎながら、相手が一体何者であるかを判じ取ろうとつとめていた。
商人はこの生きた看板を手に入れたことが嬉しく、時々、新しい客がはいってくると、店の向うの隅にまで聞えるように叫んだ。
「ジャン・ヴァラン様、あれを御覧下さいまし? なかなか素晴しいものでございましょう?」
するとすべての人々が顔を上げた。そして彼女は、有名な人とこんな風に親しく話しているところを見られて、嬉しさにぞくぞくとからだをふるわせた。
最後に彼女は陶然《とうぜん》と酔い、突撃命令を出そうとする瞬間の将軍連のように、この上もなく大胆な気持になった。
「どうぞ、わたしに、大きな、非常に大きな悦びをお与え下さいませんでしょうか?」と彼女は言った。
「この人形を、あなたさまを情熱的に敬愛している、そしてあなたさまが十分間お会い下さった一人の女の思い出として、あなたさまに差し上げることを許して下さいませんでしょうか」
彼は辞退した。が彼女はしつこく頼んだ。彼は面白くなって、愉快げに笑いながら、なおも断り続けた。
頑強な彼女は、
「ではよござんす! これからすぐお宅にお届けします。お住いはどちらでございますの?」
と言った。
彼はアドレスを教えることを拒んだ。だが彼女は商人にきいて、それを知った。そこで金を払うと、辻馬車の方に逃げだした。作家は彼女をつかまえようと駈けだした。誰のところへ返していいか分らないようなこうした贈物など受け取りたくなかったからだった。彼女が馬車に飛び乗った時、やっと追いついた。そして彼も飛び乗ったが、動きはじめた馬車のはずみで引っくり返って、ほとんど彼女の上に倒れかかった。それからひどく当惑して、彼女の横に席を占めた。
彼がいかに頼んでも無駄だった。彼女は依然言うことをきかなかった。二人が彼の家の戸口に来た時、彼女が条件を切り出した。
「もし今日、わたしの願いを全部かなえて下さいましたら、これを差し上げないことに同意いたしますわ」
彼女の申し出が面白そうなので、彼は承知した。
彼女がきいた。
「普通、この時刻には何をなさいますの?」
ちょっとためらったのち、彼は答えた。
「散歩します」
すると、きっぱりした声で彼女は命令した。
「森《ボア》へ!」
二人は出発した。
彼は彼女に、知っているすべての女、特に淫奔《いんぽん》な女の名前を教えてやらねばならなかった。そして彼女達についてのこまごましたこと、彼女達の生活、習慣、内部の秘密、放蕩三昧《ほうとうざんまい》などを語ってやらねばならなかった。
夕方になった。彼女はきいた。
「毎日この時刻には何をなさいますの?」
彼は笑いながら答えた。
「アブサンを飲みます」
そこで、彼女は真剣な調子で附け加えた。
「それでは、アブサンを飲みにまいりましょう」
二人は大通りの、彼の行きつけの大きなカフェにはいった。そこで彼は大勢の仲間に出会った。
彼は彼等をみな彼女に紹介した。彼女は嬉しくて夢中だった。「やっと! これでやっと!」という言葉が、絶え間なく彼女の頭の中でなりひびいていた。
時間はすぎて行った。彼女はきいた。
「夕食をめしあがる時間ですの?」
「そうです、奥様」と彼は答えた。
「では、夕食にまいりましょう」
カフェ・ビニョンから出ると、彼女はきいた。
「夜は、何をなさいますの?」
彼は彼女の顔をじっと見つめた。
「それは時によります。時には芝居見物に行きます」
「では、お芝居に参りましょう」
二人はヴォードヴィル座にはいった。有難いことには、彼のおかげで、これこそまさしく最高の名誉だが、二階の正面桟敷に腰かけた彼女は、劇場中の人から見られた。
芝居がすむと、彼はいともねんごろに彼女の手に接吻して言った。
「楽しい一日をすごさして頂いたことをお礼申しあげねばなりません……」
だが彼女は相手の言葉を遮《さえぎ》って言った。
「この時刻には、毎晩どうなさいますの?」
「それは……その……うちに帰ります」
彼女は笑いだした。その笑いはふるえていた。
「では……お宅に参りましょう」
二人はもはや話さなかった。彼女は、時々、頭の天辺《てっぺん》から足の先まで、ぶるっと身ぶるいした。逃げだしたくもあり、踏みとどまりたくもあった。だが、心の奥底には、行きつく所まで行こうという固い決意があった。
階段で、彼女は手摺《てすり》につかまった。それほど彼女の感動は激しかった。男は、蝋《ろう》マッチを手にし、息を切らしながら、彼女の前を昇って行った。
部屋にはいるや、彼女は大急ぎで着物をぬぎ、一言《ひとこと》も言わないで寝床にすべりこんだ。そして壁の方にからだをくっつけて、待っていた。
だが彼女はいかにも田舎の公証人の細君にふさわしく単純だったし、男の方はトルコの総督よりも要求が強かった。二人は完全に理解し合えなかった。
そこで彼は眠った。夜はただ振子時計のチックタックという音で乱されるだけで、静かにふけて行った。彼女は、身動きもせず、夫婦生活の夜のことをあれこれ考えていた。そして、支那提灯《しなちょうちん》の黄色い光の下で、物悲しい気持に襲われながら、自分のそばに仰向きに寝ている、このずんぐりした男を見ていた。男の太鼓腹は、毛布を、ガスの充満した軽気球のようにふくらませていた。彼はパイプオルガンのような音をたてていびきをかいていた。その荒い鼻息はいつまでも長く続いては、のどを締めつけられるような滑稽《こっけい》な音を出した。僅《わず》かばかりの髪の毛が、彼のやすんでいる間を利用して、奇妙な風に逆立っていた。禿《はげ》を隠そうと長い間この頭の鉢にぴったりくっつけられていたのに疲れたのだ。そして、一筋のよだれが、半分開いた口の隅からだらりと垂れていた。
やっと朝になって、閉ざされたカーテンの間から、かすかな明りが忍びこんできた。彼女は起き上って、音を立てないようにそっと着物を着た。そして既に半分扉をあけた時、錠がきしって、彼が眼をこすりながら眼をさました。
彼の頭が完全にはっきりするまでには数秒かかった。そして、前日来の出来事がすっかり思い出されてくると、彼はきいた。
「お帰りですかね?」
彼女はどぎまぎして、突っ立ったままでいた。彼女は口ごもった。
「ええ、もう朝ですから」
彼は寝床の上に上体を起した。そして言った。
「さあ、今度はわたしの方でおききしたいことがあるのですが」
彼女は答えなかった。彼は言葉を続けた。
「昨日以来、わたしはすっかり度胆《どぎも》を抜かれているのですが。隠さずおっしゃって下さい。どうしてあんなことをなさったのです。わたしには全然分りませんが」
彼女は処女のように顔をあからめながら、そっとそばに寄ってきた。
「わたしは知りたかったのです……あの……あの放蕩ってことを……でも……でも、別に面白いことではありませんわ」
そう言って彼女はその場を逃げ出した。階段を駆けおりて、路に飛び出した。
掃除人夫の群が路の掃除をしていた。彼等は歩道や車道を掃除して、すべてのごみを川へ流していた。牧場の草刈人夫の動作と同じように、規則正しい同じ動作で、半円形の泥を自分の前に押しやっていた。路から路へと辿《たど》って行く彼女は、到るところで、それぞれ似通ったぜんまいで自動的に歩くからくり人形のような彼等に出会った。
彼女には、自分の中でも、同じように、何かしらが掃除されたような、過度にかきたてられた悪夢が川や下水に流されたような気がした。
彼女は息を切らし、氷のような冷たいからだで帰ってきた。頭の中にはただ、朝のパリを洗うあの箒《ほうき》の動きの感覚が残っているだけだった。
自分の部屋にはいるや、彼女はわっと泣き伏した。
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ある女の告白
私の生涯の一番強烈な想い出を話してくれという御注文でしたね。私はもうお婆さんですし、両親もなければ、また子供もありません。ですから自由になんでもお話できるわけです。でも、名前だけは秘密にして下さいますようお願いいたします。
御存じのように、私は非常に愛されました。私自身もまたしばしば愛しました。私はなかなかの美人でした。その名残《なごり》の全然ない今日では、そうはっきり申しても差し支えないでしょう。恋愛は私にとっては魂の生命でした。ちょうど、空気が肉体の生命であるようにね。愛情なしで暮すくらいなら、いつもひとに想われて暮すのでなかったら、いっそ死んだ方がましと思ったでしょう。女達はよく、全心をあげて愛するのは一生に一度しかないと言います。私は幾度か、とてもこの切ない恋の終ることはあるまいと思うほど激しく恋したことがありました。でも、そうした恋も、いつも、ごく自然に消えていきました。薪《まき》のきれた火のようにね。
今日は、私の最初の恋愛事件をお話しましょう。この事件では私自身はまったく清浄潔白だったのですが、これが次々に私に恋愛事件を起させるもとになったのです。
あのペックの残忍な薬剤師が犯した身の毛もよだつような復讐事件は、私が自分では知らずに巻き込まれた恐ろしい悲劇を思い出させました。
私はそのちょうど一年前に、エルヴェ・ドゥ・ケル……伯爵という金持と結婚していました。古い家柄のブルターニュ人でした。私はもちろん夫を全然愛していませんでした。本当の恋愛というものは、少くとも私の考えでは、自由と障害を同時に必要とするものです。法律で認められ、お坊さんに祝福された、強制的な愛などがどうして恋愛と言えるでしょう? 合法的な接吻《せっぷん》など決して盗まれた接吻ほどの値打はありません。
私の夫は背が高く、おしゃれで、実際見たところは立派な貴公子でした。でも頭が足りないのです。本人は何事でも割り切った話をし、庖刀の刃で素気なく切るような話をするのです。夫の頭の中には、でき合いの考え、父や母から貰ったそっくりそのままの考えが詰っているような気がしました。父や母にしても、やっぱりそれを彼等の先祖から貰ったのでしょう。彼は臆面もなく、すべてのことに、たちどころに、あさはかな狭い意見を述べたてました。いっこうに当惑した様子もなく、まだほかの見方だってあることなど分らないのですね。彼の頭は八方|塞《ふさが》りで、そこにはいろんな考えが絶えず循環してるようには思われませんでした。こうしたいろんな考えは、扉や窓をあけた家の中を吹き通る風のように、頭の中をすがすがしくさせ、健康にするものなのですがね。
私達の住んでいた屋敷は人気《ひとけ》のない田舎の真中にありました。それは巨《おお》きな樹で取り囲まれた、陰気な大きな家で、壁に蒸した苔《こけ》は、老人の白い髯《ひげ》を思わせました。庭はすっかり森になっていて、まわりぐるりを、|溝囲い《ソー・ド・ルー》と呼ばれている深い溝で取り囲まれていました。そして、ずっとはずれの、荒れた野原の方に、葦《あし》や浮草が密生した大きな二つの池がありました。そしてこの二つの池の間の、両方の池を結ぶ小川のほとりに、夫は鴨《かも》を射つための小屋を造らせていました。
私達の家には、普通の召使のほかに、死ぬまで夫に献身的に仕えた野獣のような番人と、一生懸命に私にかしずいてくれた、ほとんど友達と言ってもいいほどな小間使がいました。私はこの小間使を五年前にスペインから連れてきたのでした。棄児《すてご》だったのです。肌の色は黒く、眼も薄暗く、髪の毛は森のように奥深くて、いつも額《ひたい》のまわりに逆立っているところなど、まさにジプシーの女のようでした。その頃十六でしたが、二十《はたち》にも見えました。
秋のはじめでした。ある時は近所で、ある時はうちでと、狩猟が盛んになってきました。そして私は、C……男爵という若い方が、それこそもうしょっちゅう、うちにいらっしゃるのに気がつきました。それから男爵は急にいらっしゃらなくなりました。私はもうそんなことを忘れていましたが、夫の私に対する態度が変っているのに気がつきました。
彼はしょっちゅう何か考えこんでいて、無口になってしまったようでした。そして私に全然接吻しなくなりました。少し一人静かに暮したいと思って、私は自分の部屋を夫の部屋から離れた所にして貰っていましたが、彼はもうほとんどその私の部屋にはいって来ようとしませんでした。
しかし、しばしば、夜、忍び足がこっそり私の扉の所にまでやって来て、しばらくじっとしていたのちまた遠ざかって行くのを、私は耳にしました。
私の窓は、一階にありましたので、屋敷のまわりの闇の中を誰かがうろついているような足音も、しばしば耳に聞えてくるような気がしました。私はそれを夫に言いました。すると夫は、しばらく私をきっと見詰めていましたが、やがて、「それはなんでもないよ、番人だよ」と答えました。
さて、ある晩のことでした。食事を終えると、珍しいことには、エルヴェがいかにも快活そうに、胸に一物《いちもつ》あるはしゃいだ調子で、私に、「三時間ばかり見張りにいかないか。狐《きつね》が毎晩鶏をたべにくるので退治《たいじ》したいのだ」と誘いかけました。私はびっくりして、ためらっていました。でも、気持の悪くなるほどしつこく私を見詰めているので、とうとう私も、「じゃお伴するわ」と答えました。
ここで申しあげねばなりませんが、私は男のように、狼《おおかみ》や猪《いのしし》を狩っていたのです。ですから、夫がこんな風に獲物の待ち伏せに私を誘うのもごく当り前なことなのです。
ところが、私の夫はいきなり異様に神経質になりました。そして一晩中、興奮していて、熱病やみのように立ったり坐ったりしていました。
十時頃、夫は突然私に向って、
「用意はいいかね?」と言いました。そこで私は立ち上りました。夫は私の銃も持っていましたので、「普通の弾丸《たま》をつめるの、それとも鹿用の小さな弾丸《たま》にするの?」と聞きました。夫ははっと驚いた様子でしたが、やがて、「鹿用のやつだけでいいよ、それで十分だ。安心しておいで」と言いました。それからしばらくして、異様な調子で、「お前は自分の落ちつき払ってることを自慢していいよ!」と附け加えました。私は笑いだしました。「私が? なぜなんですの? たかが狐を殺しに行くのに落ちつき払うも何もありませんわ。一体何を考えてらっしゃるの?」と私は言いました。
さて、私達は庭を横切って、こっそり音を立てないようにして出かけました。家中は寝しずまっていました。満月が、薄暗い古びた建物を黄色く染めでもしているようで、スレートの屋根瓦は光っていました。建物の両隅にある二つの小さな塔の頂上には、避雷針がきらきら輝いていました。この夜の沈黙をみだすような物音一つしませんでした。まるで死んだような、澄みきった、物悲しい、静かな、それでいて重苦しくのしかかってくるような夜でした。そよとの風もなく、蟇《がま》の啼《な》き声も、また梟《ふくろう》の啼き声も聞えませんでした。すべてのものがなにか憂鬱《ゆううつ》そうに、眠気をもよおしているようでした。
庭の樹の下にはいりますと、私は冷たい空気にぞっとしました。落葉の匂いが鼻にきました。
夫は一言《ひとこと》も口をききませんでした。しかし、耳をじっと澄まし、何かを狙《ねら》っていました。爪先から頭の天辺《てっぺん》まで、狩りの情熱にとりつかれて、闇の中で何かを嗅ぎ分けているようでした。
二人は間もなく池のほとりに来ました。藺草《いぐさ》の穂はじっと動きませんでした。その上を優しく吹き渡って行く風もありませんでした。しかし、微かにそれと分る何かしらの動きが、水の中を走っていました。時々一つの点が水面を動かし、そこから光る皺《しわ》のような、微かな輪ができて、それは際限もなく拡がっていきました。
私達が待ち伏せすることになっている小屋まで来ますと、夫は私を先にはいらせ、ゆっくり銃に弾丸《たま》をこめました。かちりという金具の乾いた音が、私に異様な印象を与えました。私がぶるっと顫《ふる》えたのを感じて、夫は、「ひょっとして、これだけの試しでお前には十分かな? じゃ、帰りなさい」と言いました。私はびっくりして、「そんなことないわ、このまま引き返すために来たのじゃないわ。今晩のあなたはほんとに変ね!」と言いました。夫は「どうでも好きなように」と呟《つぶや》きました。そしてそのまま私達はじっとしていました。
約三十分経っても、この秋の夜の、重苦しい、澄みきった静けさをみだしにくるものはありませんでしたので、私は声をひそめて、「狐がここを通ることたしか?」とききました。
エルヴェは、私に噛《か》まれでもしたようにぶるっとからだを顫わせました。そして私の耳に口を当てて、「もちろんたしかさ」と言いました。
そして沈黙が再びはじまりました。
私が、うとうと眠りかけたなと思った時、夫が私の腕をつかみ、いつもと違う、歯の間から出すような声で、「そら、あそこの、樹の下に見えるだろう?」と言いました。私はじっと眼をこらしましたが、何も見分けることができませんでした。するとエルヴェは、私の眼をきっと見据えながら、ゆっくり銃を肩にあてました。私も射つ準備にかかりました。すると、突然、私達から三十歩ばかりの所に、一人の男が月の光を全身に浴びて現われてきました。その男は、からだを屈《かが》め、まるで逃げるように急ぎ足でやってきました。
私はびっくり仰天《ぎょうてん》して、大きな叫び声をあげました。しかし、私が振り向く前に、眼の前を一筋の光が飛び、つんぼになるような爆音が耳もとでひびきました。そして私は、その男が弾丸《たま》にあたった狼のように地上にころげるのを見たのでした。
私は思わずぎょっとし、まるで気ちがいになったように悲鳴をあげました。するとエルヴェの怒りに狂った手が私の咽喉《のど》をつかみました。私はそこに打ち倒され、それから、がっちりした腕にかかえられました。彼は私を宙に抱いたまま、草の上に倒れている死体の方に駆け寄りました。そして私をその上に乱暴に投げつけました。まるで私の頭を割ろうとするかのようにね。
私はもう駄目だと思いました。夫は私を殺そうとしていたのです。そして既に私の額の上に靴の踵《かかと》を上げていました。と、その時、今度は彼が抱きつかれ、倒されました。倒れてもまだ、私にはどうしたことやらさっぱり分りませんでした。
私は大急ぎで立ち上りました。と眼の前に、小間使のパキタが、私の夫の上に膝をついているのが見えました。彼女は怒りにからだを引きつらせ、気ちがいのようになって、夫の髪や口髭を引き抜き、顔の皮膚を掻《か》きむしっていました。
それから、いきなり他のことを考えついたように、彼女は立ち上りました。そして死体の上にがばと身を投げて、腕一杯に抱きしめ、眼の上に口の上に、接吻しました。自分の唇で相手の死んだ唇をあけ、そこに呼吸を探していました。それは愛する者の激しい愛撫です。
私の夫は立ち上り、そうした光景をじっと見ていました。彼には事情が分ったのです。そこで私の足もとにひれ伏して、「おお! 許しておくれ、私はお前を疑って、この娘の恋人を殺してしまった。あの番人が私を騙《だま》したのだ」と言いました。
私は、この死んだ男と生きている女との異様な接吻を、そして彼女のすすり泣きと、絶望した愛のあがきをじっと見ていました。
そしてこの時以来、私は夫に対して不貞な妻になるだろうということが分ったのです。
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月光
マリニャン神父は戦争にちなんだ自分の名前を辱《はずかし》めなかった。〔マリニャンはイタリアの町。十六世紀にフランス軍がここでスイス軍を撃破した〕痩《や》せ形の、背が高い、狂信的な司祭だった。
心はいつもたかぶってはいたが、それは真直ぐな心だった。すっかり信仰にこりかたまっていて、いささかの心のゆるぎもなかった。自分の神をよく知ってい、神の摂理も、意志も、意図も、すっかり分っているとまじめに思いこんでいた。
田舎の小さな司祭屋敷の小径を大股に散歩している時、時として一つの疑問が胸に浮かんでくることがあった。「どうして神さまはあんなものをお造りになったのだろう?」そして彼は、自分が神さまになったような気持になって、その理由を執拗《しつよう》に探し求めた。そしてほとんど常にそれを見出した。うやうやしくへり下った気持で「主よ、主の摂理はとうてい窺《うかが》い知ることはできません!」と呟くことは決してなかった。「わしは神の僕《しもべ》だ。わしは神のなさることの理由を知らねばならぬ。それを知らねば推察せねばならぬ」と胸の中で言っていた。
彼にとっては、自然の中の万物は、絶対的な賛嘆すべき論理で作られているように思えた。「なぜ」と「そのわけは」は、いつも均衡を保っていた。曙《あけぼの》は眼覚めを楽しくするために、昼は農作物を実らせるために、雨はそれをうるおすために、夕暮は眠気をもよおさせるために、そして暗い夜は眠るために造られてあるのだった。
四季は耕作のあらゆる要求に完全に一致していた。自然には意図などというものはない、それどころか、あらゆる生物は、時期や気候や物質の厳しい必然に屈従しているのだ、といった疑惑は、この司祭には決して湧くことはなかったであろう。
しかし彼は女性を嫌っていた。無意識的に嫌い、本能的に軽蔑していた。彼はしばしば「女よ、汝《なんじ》とわれとの間に何のかかわりあらんや?」というキリストの言葉を繰り返していた。そしてそのあとで「神さま御自身も、この創造物には御不満のようじゃ」と附け加えていた。女は、彼にとっては、詩人が語っているよりも幾層倍もけがれた子供だった。女は、最初の男を陥《おとしい》れ、しかも今なおその呪《のろ》われた仕事を続けている誘惑者であり、か弱くて、危険で、不思議にひとの心を掻き乱す存在だった。そして彼は、永劫《えいごう》の罪を受けた女の肉体よりも、情愛の深いその魂の方を更に一層憎んでいた。
しばしば彼は、彼女達の愛情が自分に向けられるのを感じた。そして自分は決して攻め落されないことをはっきり知ってはいたが、彼女達の心の中で常に顫《ふる》えているこうした愛の欲求を見るとかっとなった。
神が女を造り給うたのは、ただ、男を誘惑して男を試練するためである、というのが彼の意見だった。女に近寄るには、必ず、防禦《ぼうぎょ》的な用心と、罠《わな》に対する怖れとをもってしなければならなかった。実際、女は、男に向って腕を差しのばし、唇を開いていて、まったく罠と同じだった。
彼が大目に見ていたのは、お祈りをすることによってひとに害を与えない女になっている尼達だけだった。それでも彼は彼女達を厳しく扱っていた。なぜなら、彼女達の繋《つな》がれた心、へり下った心の奥底にも、あの永遠の愛情が相変らず生きていて、司祭の身である彼にも構わずそれが向けられてくるのを感じたからだった。
彼はこの愛情を、修道士達の眼よりも一層信仰に濡《ぬ》れている彼女達の眼の中に、彼女達の性が混入しているその法悦の中に、キリストに対する彼女達の愛の衝動の中に感じていた。――キリストに対するこの愛の衝動は彼を憤《いきどお》らせていた。というのは、それは要するに女の愛であり、肉的の愛だったからである。――彼はまたこの呪わしい愛情を、彼女達の従順さそのものの中に、彼に話しかける声の優しさの中に、俯《ふ》せた眼の中に、また厳しく彼に叱られた時の忍従の涙にも感じていた。
そして彼は尼僧院の戸口を出ると、法服をゆすぶった。そして、まるで危険からのがれたかのように、大股に立ち去った。
彼には一人の姪《めい》があったが、彼女は母親と一緒に隣りの小さな家に住んでいた。彼は彼女を修道女にしようと躍起《やっき》になっていた。
彼女は可愛くて、軽率で茶目だった。司祭がお説教をはじめると、笑いだした。そこで怒ると、いきなり彼をしっかと胸に抱きしめて、激しく接吻した。彼は無意識のうちに身をふりほどこうと努めていた。だが、この抱擁は、すべての男の中に眠っているあの父親の気持を彼の心の奥底に眼覚めさせ、優しい悦びを味わわせた。
しばしば彼は、田舎道を並んで歩きながら、神さまのこと、彼の神さまのことを彼女に語ってきかせた。彼女は殆んどそれに耳をかさなかった。そして、空や、草や、花を、生きていることの幸福感で眺めやっていた。この幸福感は彼女の眼の中にありありと浮かんでいた。時とすると、飛んでいる虫をとらえようと駆けだし、それをつかまえると大声に呼んだ。「御覧なさい、伯父さん、なんて綺麗《きれい》なんでしょう。接吻してやりたいようだわ」羽虫やリラの種子などに「接吻」したがるこうした欲求は司祭を不安にし、苛立《いらだ》たせ、怒らせた。彼はここにもまた、女の心の中にいつも芽生えているあの根絶しがたい愛情を見出したのだった。
ところで、ある日のこと、堂守《どうもり》の女房で、マリニャン神父の家事をみてくれている女が、姪御さんに恋人がありますよと、用心のために教えてくれた。
それを聞いて、彼は怖しい衝撃を受けた。ちょうどひげを剃《そ》っていた最中だったので、顔中|石鹸《せっけん》だらけにしたまま、思わず息をつめてしまった。
やっと落ちついてものが考えられるようになり、口がきけるようになると、彼は叫んだ。
「そんなことがあるものか、お前嘘をついたな、メラニー」
だが、百姓女は手を胸のうえに置いて言った。
「嘘をついているかどうかは、神さまがお裁き下さいましょうよ、司祭さま。毎晩、あなたの妹御さんがおやすみになるとすぐ、娘さんはお出かけになってますよ。川のそばで会ってますよ。司祭さまが御自分で、十時から十二時の間に行って御覧になりさえすれば分りまさね」
彼は顎《あご》を剃《そ》る手をやめて、いつも何か重大なことを考える時にするように、荒々しく歩きはじめた。それから再びひげを剃りにかかると、鼻から耳にかけて、三か所切傷をつけた。
司祭は一日中、怒りに胸がむかむかして、黙りこくっていた。こうした打ち勝ちがたい恋愛に直面した僧侶としての怒りの上に、一人の小娘に瞞《だま》され、眼を盗まれ、弄《もてあそ》ばれた教父、後見人、魂をゆだねられた者の憤慨が加わっていた。それは、娘が自分達に相談もせず、また自分達の意志も無視して夫を選んだことを娘の口からきかされた時の両親の、あの息づまるような利己的な憤慨だった。
夕食後、少し本でも読んでみようとやりかけたが、どうしても駄目だった。そしてますます腹がたってくるばかりだった。十時が鳴ると、司祭はステッキを取り上げた。それは、病人を見舞いに行く時、夜道を歩くのにいつも使っているふとい樫《かし》の棒だった。彼はその巨《おお》きな棍棒を微笑しながら打ち眺め、田舎者らしい逞しい腕力で、まるで脅《おど》かしつける風車のようにぶんぶん振り回した。やがて、彼はそれを上に振りあげ、歯ぎしりをして、一つの椅子の上に打ち落した。椅子の背木は割れて床に落ちた。
彼は戸を開けて外に出ようとした。だが、閾《しきい》の上ではたと立ち止った。ほとんどこれまでに見たこともないような輝かしい月の光に打たれたのだった。
そして彼も、教会の父達〔十三世紀以前の宗教的作家達〕、あの夢想の詩人達が持っていたにちがいない精神、つまり狂熱的な精神を持っていたので、蒼白い夜の壮大で平静な美に打たれてたちまち恍惚となった。
柔かな光にひたされた小さな庭では、果樹の並木が、緑葉をつけたばかりのか細い枝の影を小径の上に落していた。また巨きな忍冬《すいかずら》が家の壁にはい上って、気持のいい何か甘いような息を吐き出し、ほの温い澄んだ夜の空気の中に一種のかぐわしい生気を漂わせていた。
彼は、酔っぱらいが酒をのむように、空気をぐっとのみこみながら、ゆっくり深い呼吸をはじめた。そして、うっとり心を奪われ、姪のことなどはほとんど忘れて、ゆっくりした足取りで歩き出した。
野原に出るやいなや、彼は立ち止って、あの愛撫するような光にひたされ、澄んだ夜のあの優しく物憂《ものう》い魅力の中に溺《おぼ》れている広野をずっと眺めやった。蟇《がま》は絶えずあの短かな金属的な調べを中空に投げかけ、遠くで啼いている夜鶯は、考えさせるよりは夢みさせる、あの玉の転がるような楽の音を、接吻のために作られた軽やかで顫えるあの楽の音を、月の光の魅力にまぜ合せていた。
なぜかしら気抜けがしたような気持で、司祭は歩きはじめた。なんだか、がっかりしたような、突然からだから力が抜けてしまったような感じだった。そこに坐って、じっとしたまま、眺めたい、神を、神が造り給うたものの中であがめたいといった気持ちになった。
かなたには、小川の流れに沿って、ポプラの高い並木がうねりくねっていた。繊細な靄《もや》が、白い水蒸気が、月の光に貫かれて銀色になり、きらきら光って、両岸の堤の周りに、またその上にたれこめ、うねりくねった流れを、ずっと、ふんわりした透明な綿のようなもので蔽《おお》っていた。
司祭は、刻々に大きくなる、抵抗しがたい感動に、魂の奥底までみたされて、もう一度立ち止った。
すると、一つの疑いが、一つの漠《ばく》とした不安が胸にしみこんできた。時折胸に浮かんでくるあの疑問が心の中に生れてくるのを感じた。
なぜ神はこれを造られたのだろう? 夜は眠りのために、意識を休めるために、休息のために、すべての忘却のために充てられているものならば、なぜその夜を、昼よりも一層魅力あるもの、暁や夕暮よりも一層優しいものになさったのであろう? この悠々として魅惑的な、そして太陽よりも一層詩的な天体は、日光に照らされるにはあまりにも繊細で神秘的な物を照らすように運命づけられたかのようなこの天体――それほどこの天体は慎《つつ》ましやかだった――は、なぜ闇をこんなにも透明にするのであろう?
なぜ、囀《さえず》る小鳥の中で最も巧みな小鳥が、ほかの小鳥のように休息せずに、心をあやしく掻《か》き乱すような影の中で歌いはじめたのだろう?
なぜこうして薄紗が大地の上に投げかけられるのだろう? なぜ、心がこんなにも顫え、魂がこんなにも感動し、肉がこんなにもけだるいのだろう?
人は寝床についているのでこうした魅惑は誰の眼にも見えないのに、どうしてそれをこんなにまで地上に繰りひろげるのだろう? この崇高な眺め、大地の上にふりまかれたこのおびただしい詩情は、一体誰のためのものだろう? 司祭には合点がいかなかった。
ところがこの時、かなたの、牧場のはずれに、光り輝く靄《もや》にひたされた樹々の掩蓋《えんがい》の下に、二つの影が現われて、寄り添って歩いてきた。
男の方がずっと背が高くて、相手の女の首を抱き、時々額の上に接吻していた。二人はいきなり、二人のために作られた聖《きよ》らかな額縁《がくぶち》のように彼等を包んでいるあたりの動かない光景をいきいきとさせた。彼等は二人でありながら、ただ一人の人間のようだった。この静寂な夜があるのはこの人のためといった人間のようだった。そして彼等は司祭の方に、生きた解答のように、彼の仕える神が彼の疑問に投げ与え給うた解答のように、近寄ってきた。
彼は胸をどきどきさせ、気も顛倒《てんとう》して、そこに立ちすくんでいた。何か聖書の中のある光景でも見ているような気がした。ルツとボアブの恋〔旧約聖書の路得記に語られている〕を、聖書の中で語られているあの壮大な舞台で主の意志が遂行されるのを見ているような気がした。彼の頭の中では、雅歌の唱句が、熱情の叫びが、肉体の呼び声が、愛情にたぎったあの詩篇の燃えるような詩がうなりをたてはじめた。
そこで彼は胸の中で呟いた。「恐らく神さまは人間どもの恋を理想の面紗《ヴェール》で蔽《おお》うためにこうした夜をおつくりになったのだ」
抱き合ったまま、相変らず歩き続けているこの二人の前から、彼はあとずさった。たしかに姪にちがいなかった。だが今は、自分は神の意にそむこうとしているのではないかとためらっていた。こうした輝かしい光ではっきり恋を包み給うているところをみると、神さまは恋をゆるし給うているのではあるまいか? そこで司祭は、立ち入る権利のなかった殿堂に足を踏み入れでもしたように、どぎまぎし、ほとんど恥ずかしいような気持になって、その場を逃げ出した。
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宝石
ランタン氏はある晩役所の次官の邸宅の夜会でその娘に出会ったのだが、恋は網《あみ》をかぶせたように彼をとらえてしまった。
それは大分前になくなった地方収税吏の娘だった。父の死後母親と一緒にパリにやってきていたのだった。母親は娘のいい嫁入口を探したい気持があって、あちこち町内のお金持の家庭に出入りしていた。
暮しこそ貧しいが、気品の高い、物静かな、優しい母娘《おやこ》だった。娘は、貞淑《ていしゅく》な女性の完璧《かんぺき》な典型とも見える女性で、考え深い青年だったら、自分の一生を託することを夢みないではいられないであろう。その控え目な美しさには、天使のようなあどけなさの魅力があり、いつも唇にただよっているほのかな微笑は、その心を映しているもののように思われた。
誰もが彼女を賞め讃えていた。彼女を識っているほどの者は、皆口を揃えて、「あの娘を嫁に貰った男は倖《しあわ》せだ。あれほどの娘はざらにあるものじゃない」と繰り返してやまなかった。
その頃、年俸三千五百フラン、内務省の書記長をつとめていたランタン氏は彼女に求婚して、これを妻に迎えた。
彼女と一緒になって、彼は本当とも思えぬほど幸福だった。彼女は実に巧みに家計を切りもりしていたので、まるで贅沢《ぜいたく》な暮しをしているようにさえ見えた。いかなる配慮にしろ、細かな心づかいにしろ、また甘えるしぐさにしろ、彼女が夫に対してしないものは何一つなかった。彼女という人間の持つ魅力は実に大きかったので、相逢ってから六年にもなるというのに、彼は最初の頃よりももっと愛していた。
ただ困ったと思っていることが二つあった。それは、芝居が好きなことと、宝石類の好きなことだった。
彼女の友達(彼女は中級官吏の夫人連を五、六人識っていた)は、しょっちゅう流行の芝居の座席を彼女のために取ってくれた。初日の札を取ってくれることさえあった。そこで彼女は、夫を否応なしに芝居見物に引っぱって行ったが、夫の方は、何分一日役所で働いたあとなので、がっかり疲れてしまうのだった。そこで彼は、誰か識り合いの奥さんに連れて行って貰って、帰りも送って貰うようにしてくれと頼んだ。そうしたやり方は礼儀にかなったことではないと言って、彼女はなかなか承知しなかった。だが結局、夫に対する親切気から、夫のいうことをきくことに決心した。夫はそれを深く感謝した。
ところで、こうした芝居好きは、間もなく、おしゃれしたい気持を彼女に起させた。もちろん、お化粧は例によってしごくあっさりしたものであった。相変らずいい趣味の、だがつつましやかなものであった。そして、優しい淑《しと》やかさ、何としてもその魅力には抗し得ない、あの地味で微笑ましい淑《しと》やかさは、質素な衣裳から新しい味わいを得ているように思われた。ところが、ダイヤモンドまがいの大きなライン石を両耳に一つずつ下げる習慣を覚え、模造真珠の頸《くび》飾りをかけ、模造金の腕輪をはめ、宝石まがいのいろんな硝子《ガラス》玉をちりばめた櫛《くし》をさすようになった。
夫は細君のこうした安ぴかもの趣味には少々不愉快になって、たびたび、「ねえ、お前、本物の宝石を手に入れようがない時には、自分の生地の美しさと淑やかさで飾るほかないね。またそれがまたとない珍らしい宝石だよ」と繰り返していた。
だが彼女は優しく微笑んで、いつも決って「だってしようがないわ。あたしこれが好きなんですもの。あたしの悪い癖ね。よく分ってるのよ、あなたのおっしゃるのがもっともなくらいは。でも、自分の性格を変えるわけにはいかないわ。たとえ、変えられたとしても、やっぱり宝石は好きにちがいないわ!」と答えた。
そして真珠の頸飾りを指の間で爪繰って、カットグラスの切子をきらきら光らせながら、「でも、御覧なさいな、なんてよくできでるんでしょう。誰だって本物だって言うわ」と繰り返すのだった。
夫も微笑んで言った。「お前にはボヘミヤ女の趣味があるよ」と。
時には、夕方、煖炉の片隅に向かい合っている時など、お茶を飲んでいる卓子の上に、彼女は、ランタン氏のいわゆる「がらくたもの」がしまってあるモロッコ革の小函を持ち出してくることがあった。そして、まるで秘《ひめ》やかな深い悦びを味わうかのように、情熱的な注意をこめて、それらの模造宝石をしらべはじめた。そして、無理やり、夫の首に頸飾りをかけ、「まあ、滑稽《こっけい》だわ!」と腹の底から笑いこけた。それから夫の腕の中に身を投げかけて、狂おしく接吻するのだった。
冬のある夜、彼女はオペラ座に出かけて、寒さにぶるぶる身体を顫《ふる》わせながら帰ってきた。翌日|咳《せき》をしていた。そして一週間すると肺炎で死んでしまった。
ランタン氏はもう少しで墓の中まで追って行くところだった。すっかり悲観してしまって、一月《ひとつき》で髪が白くなったほどだった。堪《た》えがたい苦痛に胸を引き裂かれ、今は亡き妻の想い出や、微笑や、声など、彼女が持っていたあらゆる魅力に取り憑《つ》かれて、朝から晩まで泣いていた。
時が経っても、苦痛は鎮まらなかった。よく役所の勤務時間に、同僚がやって来て、その日の出来事をちょっと喋《しゃべ》って行くようなことがあったが、そんな時にも、いきなり彼の頬がふくれ上り、鼻に皺《しわ》がより、眼に一杯涙のたまるのを見たものだった。それから彼は醜《みにく》く顔をしかめて、啜《すす》り泣きはじめるのだった。
彼は妻の部屋はそのまま手をつけないで置いた。そして毎日そこに閉じこもって妻の想い出に耽《ふけ》っていた。すべての家具類も、また彼女の衣裳までも、最後の日にあった通りになっていた。
だが暮しはつらくなっていた。俸給は、細君の手に渡されていた時には、家事一切の必要をみたしていたのに、今は自分一人でも足りないのだった。一体どうして、あんなにいつもおいしい葡萄酒をのませてくれたり、御馳走をたべさせてくれたりできたものかと、びっくりしていた。彼のつましい財政ではとてもそんなものはもはや手に入れがたいのだった。
いくらかの借金をした。そして、やりくり算段に日を送らねばならぬ人々がやるように、金のあとを追いかけ回した。とうとうある朝のこと、月末までまだまる一週間あるというのに、無一文になってしまったので、何か売ろうと思いついた。すると、すぐに、細君の「がらくたもの」を売っぱらってやろうかしらという考えが頭に閃《ひらめ》いた。というのは、かつて彼を苛々《いらいら》させていたこれらの「まやかしもの」に対する一種の恨《うら》みが相変らず心の奥底にあったからだった。毎日、ただ見ただけでも、それらのものは愛妻の想い出を少しばかり損《そこ》ねていたのだった。
彼は、妻が残して行った安ぴか物の山の中を長いことかかって物色した。なにせ、死ぬ前まで根気強く買い集めて、ほとんど毎晩のように新しい品を買って来たのだ。ようやくのことに、妻が特に好きだったらしい大きな頸飾りを売ることに決めた。これだと、まがいものとしては細工が非常に念入りだから六フランか八フランにはなるだろうと考えたのだった。
彼はそれをポケットに入れて、信用ができそうな宝石商を探しながら、並木道を役所の方に歩いて行った。
やっと一軒見つけて、中にはいった。こんな風に白分の惨《みじ》めさをさらけ出し、三文の値打もないものを売ろうとするのは少々恥ずかしい気持だったが。
「今日は」と彼は商人に言った。「これいくら位に買っていただけるかね?」
商人は頸飾りを手に取って、念入りに調べだした。ひっくり返してみたり、手のひらに載せて重さをはかってみたり、拡大鏡でのぞいたり、店員を呼んで何か低い声でこそこそ注意を与えたり、勘定台の上に置いて、遠くから眺めて光り具合や感じでもっとよく鑑定しようとしたりした。
ランタン氏はこうした大袈裟《おおげさ》な鑑定に気まりが悪くなって、「おお……もちろんこんなものは値打ないと思うんだがね」――と言おうとして口を開きかけると、宝石商が言った。
「旦那さま、これは一万二千フランから一万五千フランする代物ですね。でも、出所をはっきりおっしゃって下さいませんことには頂戴いたしかねますが」
男やもめは、何が何だか呑みこめず、大きく眼を見開き、口をぽかんとあけたままだった。やっと口ごもりながら、「なんだって?……たしかかね」と言った。相手は彼の驚きの意味を取り違えて、冷たい調子で、「もっと高く売れるかどうか、ほかの店へいらしてみてはいかがですか。手前のところではぎりぎりのところ一万五千フランしか出せませんな。それ以上出す買手がありませんでしたら、またいらして下さい」と言った。
ランタン氏は完全にぽかんとしてしまい、頸飾りを手に取るや、店から出た。一人になって、よく考えて見たいという漠《ばく》とした気持があったのだった。
だが街路に出るやいなや彼は急に吹き出したくなった。そして考えた。「なんて馬鹿だ! いやはや実際、あきれた馬鹿だ! でも、やっぱりあいつの言うことを真に受けていればよかったなあ! 宝石商のくせに本物とまがいものの区別がつかないなんて!」
そこで彼はラ・ペー街のとっつきにあるもう一軒の宝石店にはいった。頚飾りを見るなり宝石商は叫んだ。
「おお! これはこれは、よく存じておりますよ、この頸飾りは手前どもの店から出たものです」
ランタン氏はすっかりどぎまぎしてしまって、
「いくら位するね?」ときいてみた。
「旦那さま、手前どもでは二万五千フランでお願いいたした品です。ですから一万八千フランでなら頂戴いたしてもよろしいと思います。もっとも、法規によりまして、どうしてこれを持っていらっしゃいますか、お教え頂かねばなりませんが」
今度は、ランタン氏は、あまりの驚きに腰がふらふらして、そこに腰をおろしてしまった。そして言った。
「だが……だがよっく調べて見てくれ給え。僕は今の今まで、に……にせ物と思ってたんだが」
宝石商は構わずきいた。
「お名前をおっしゃって頂けませんか?」
「お安い御用だ。ランタン、内務省官吏、住いはマルティル街十六番地」
商人は帳簿を開いて探していたが、はっきり言った。
「たしかにこの頸飾りは、一八七六年、七月二十日に、マルティル街十六番地、ランタン夫人宛に御届けしたものに相違ありません」
二人は互いにじっと眼の中を覗《のぞ》き合った。内務各官吏はあまりの驚きに茫然となり、宝石商の方は泥棒を嗅《か》ぎ出そうとしていた。
商人が口を切った。
「二十四時間だけで結構ですから、お預け願えませんでしょうか。受取証を差し上げますから」
ランタン氏は、
「もちろん結構だよ」と口ごもりながら言った。そこで、受取証を折って、ポケットに入れながら、店を出た。
それから街路を横切り、道を登って行ったが、ふと道を間違えていることに気がつき、テュイルリーに下りて、セーヌ河を渡った。と、またしても道を間違えているのに気がつき、シャンゼリゼまで引き返してきた。頭の中には、別にこれと言ってはっきりした考えはなかった。彼は頭を整理して、理解しようとつとめた。妻にはこんな高価な品は買える筈はない。――もちろんそうだ。――だとすると、贈物だ! すると誰からの贈物だろう? 何故の贈物だろう?          彼ははたと立ち止った。そして並木通の真中に突っ立っていた。怖しい疑惑が頭を掠《かす》めた。――妻が?――だとすると、ほかの宝石類も全部贈物なのだ! 大地がぐらつき、眼の前の樹が倒れたような気がした。彼は腕をのばし、意識を失って、その場に倒れた。
彼は薬剤師のもとで意識を取り戻した。通行人達がそこまで運んできてくれたのだった。彼は家まで連れてきて貰った。そして部屋に閉じこもった。
夜まで、彼は気が狂ったように泣いていた。声を立てないようにハンケチをかみしめながら。それから疲れと悲しみにぐったりとなって、寝床にはいった。そして重苦しい眠りに落ちて行った。
太陽の光線で眼が覚めた。役所に行かねばならないので、ゆっくり起き上った。こうした激しい打撃のあとでは、働くのは辛いことだった。そこで課長に許しを乞うことにしようと考えた。そして課長宛に手紙を書いた。それから、あの宝石商のところへ行かねばならないなと考えた。すると恥ずかしさに顔が赤くなった。長いこと、あれこれ思い惑っていた。だが頸飾りをあのままにして置くわけにもいかなかった。そこで服を着て、出かけた。
いい天気だった。青い空は都会の上にひろがり、都会は微笑んでいるようだった。散歩者達はポケットに手を乗っこんだまま、ぶらぶら歩いていた。
ランタンは、過ぎ行く彼等を見ながら、胸の中で呟いた。「ああ、金があったら、どんなにか幸福だろう! 金さえあったら、悲しみだってふるい落せるし、好きな所に行けるし、旅行もでき、気晴しもできる! ああ! 金持だったらなあ!」
彼はおなかがすいていることに気がついた。前々日から食事をしていないのだった。だがポケットは空っぽだった。そこであの頸飾りのことがまた想い出された。一万八千フラン! 一万八千フラン! こいつは相当の金額だ!
彼はラ・ペー街にやって来た。そして、宝石商の向かいの歩道を行ったり来たりしはじめた。一万八千フラン! 幾度となくはいりかけた。だがいつも恥ずかしい気特に引き止められるのだった。
だがおなかがすいていた。たまらないほどすいていた。しかも一文もない。彼はいきなり決心して路を走って横切った。反省の余裕を与えないためだった。そして宝石商の店に駆けこんだ。
彼の姿を見るや、店の主人はいそいそと、愛想よく椅子をすすめた。店員達も集ってきて、眼もとや口もとに愉快そうな笑いを浮べながら、ランタンを横から見ていた。
宝石商は言った。
「旦那様、十分照会いたしてみました。で、もし、やはり同じ御意向でございましたら、申し上げましたお代をお払いいたしますが」
内務省官吏は口ごもりながら言った。
「もちろん、そうするよ」
宝石商は抽斗《ひきだし》から大きな札を十八枚出し、それを勘定してからランタン氏に差し出した。彼は小さな領収証に署名するや、顫《ふる》える手で金をポケットに入れた。
それから、店を出かけたが、相変らず微笑している主人の方に振り向いて、眼を伏せながら言った。
「まだ…‥まだほかに宝石があるんだがね……やっぱり遺産としてね……手にはいったものだが。やっぱり買ってくれるかね?」
商人は頭を下げた。
「頂戴いたしますとも、旦那様」
店員の一人が、思うさま笑いたくなって、出て行った。するともう一人の店員がぷんと強く洟《はな》をかんだ。
ランタンは顔をあからめながらも、平然と落ち着いた態度で言った。
「じゃ持ってくるからね」
そして、宝石類を取りに行くために辻馬車を雇った。
一時間ほど経って、再び店に戻ってきた時、彼はまだ朝食もたべていなかった。店員達は宝石を一つ一つ丹念に調べては、一つ一つに値をつけて行った。ほとんど皆この店から出たものだった。
ランタンは、今度は、評価のことで争いもし、腹も立て、売上帳を見せろと要求もした。そして、値段が上れば上るほど、彼の声も大声になって行った。
切子細工の大きなダイヤモンドの耳飾りは二万フラン、腕輪は三万五千フラン、ブローチ、指輪、メダイヨンは一万六千フラン、碧玉と青玉の飾りは一万四千フラン、金鎖にダイヤモンドの一つぶらさがった頸輪が四万フラン、これらをしめると全部で十九万六千フランの額に達した。
商人は冷かし半分の人のいい調子で言った。
「これは全経済を宝石にかけられたお方のものですな」
ランタンはまじめくさった口調で言った。
「これもまた一つの投資法さ」
それから、翌日再鑑定をやることを買主と約束したのち、彼は店を出た。
通りに出るや、彼はヴァンドーム広場の円柱を見上げて、それに攀《よ》じ登ってみたいような衝動にかられた。まるでコカーニュの柱〔お祭の時など、つるつる滑る柱の頂上に賞品を結びつけ、登ってこれを取る〕でも見るような気持だった。また中空に立っているナポレオン皇帝の銅像など、その上をぴょんと蛙飛びに飛び越せそうな身軽さを覚えていた。
彼は「ヴォアザン」にはいって昼飯をたべた。そして一本二十フランもする葡萄酒を飲んだ。
それから辻馬車を駆って、森《ボア》を一周した。彼は多少の軽蔑をこめて行き交う馬車を眺め、通行人に向っては、「俺だって金持なんだぞ! 二十万フラン持ってるんだぞ!」と叫びたくてたまらなかった。
役所のことがふと頭に浮んだ。そこで馬車を役所に乗りつけた。それから思いきって課長室にはいって行って、言った。
「課長殿、辞職をお願いに参りました。三十万フランの遺産を相続したのです」
それからかつての同僚達の手を握りに行った。そして、新生活の計画をあれこれ話した。それから「カフェ・アングレ」で夕食をたべた。
立派な身分の人のように思える一人の紳士のそばに坐ると、四十万フランの遺産を相続したということを言いたくなってむずむずし、ついに思わせぶりよろしくしゃべりはじめた。
生れてはじめて芝居見物というものをやったが退屈しなかった。そしてその夜は女達と一緒に過した。
六か月ほどして、彼は再婚した。この二度目の細君はいたって謹直だった。だが扱いにくい性格だった。彼は大いに悩まされた。
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たくらみ
「女かね?」
「そうです、女なるものの正体はいったい何でしょうね?」
「いやはや、女くらいひとを騙《だま》すのがうまい手品師はいないよ。なにかにつけて、理由があろうとなかろうと、たいていの場合ただ騙すのが面白いというんで騙すんじゃからな。それに、信じられないほどの単純さと、驚くべき大胆さと、何とも抵抗しがたい巧妙さで騙すんじゃ。朝から晩まで、ひとを騙すことで終始し、それが、どんなに正直な女でも、どんなに真面目《まじめ》な女でも、またどんなに道理を弁《わきま》えた女でも、例外なしにみんなそうなんじゃ。
だが、たまには、どうやら仕方なくそんな羽目《はめ》に陥るということもあるにはある。だいたい、男なるものは、いつも馬鹿みたいに頑固で、暴君みたいに振舞いたいといった気持を持ってるものじゃ。亭主は家庭生活において、しょっちゅう、滑稽《こっけい》な我儘《わがまま》を通そうとするんじゃね。それがまるで狂気の沙汰じゃから、女房は亭主を騙して、御機嫌を取るということになるんじゃ。買物をしても、これこれの値段だと亭主に思いこませてしまう。それというのは、もしも本当の高い値段を言うと、どなりかねないからね。実際女って奴は、実に達者な、狡《ずる》いやり方で、しょっちゅう急場をうまく切り抜けてるんで、偶然の機会にそれが暴露《ばくろ》されでもすると、男の方はすっかり面|喰《くら》っちまうんじゃ。そして茫然として、どうして今まで気がつかなかったんだろう? と自分の胸に問うてみるような始末さ」
こう話しているのは、帝政時代には大臣をつとめたこともあるL伯爵で、ひとの噂では相当の道楽者だったらしく、才気煥発という人物だった。
一群の青年が彼の話に耳を傾けていた。
伯爵は話の先をつづけた。
「むかし、下らんプチ・ブルの女に、まんまと一杯くわされたことがある。いやはや、堂々たる喜劇さ。若い諸君の後学のために、ひとつ恥話でもしますかな。
その頃わしは外務大臣をつとめていたが、毎朝シャンゼリゼの大通りをゆっくり散歩するのが習慣じゃった。時はまさに五月、若葉のかぐわしい匂いを胸一杯に吸いこみながら、散策したものじゃ。
ところが、間もなく、毎日のように、一人の可愛い、惚々《ほれぼれ》するような美人、そうさな、パリ特製とでもいった、例の眼が覚めるような、優美な女に出会うことに気がついた。綺麗だったかって? そうさな、これは見る人の眼次第じゃ。いい身体つきだったかって? いや、それどころの騒ぎじゃない。なるほど、胴はすんなりしすぎ、肩はいかりすぎ、胸はふくらみすぎていた。だが、わしはミロのヴィーナスのような大きな図体より、こうした小ぶとりの肉でできた美妙な人形の方が好きなのじゃ。
それに、こうした女たちの歩きぶりがまた天下一品でね。衣《きぬ》ずれの音を聞いただけで、欲望が骨の髄《ずい》を走る思いがするよ。ところでその女は、通りすがりに、わしの方に流し目を使うような恰好《かっこう》をするのじゃ。もっとも、こうした女たちはどんな態度でもするものじゃが。まったくもって解ったものじゃない……。
ある朝のこと、その女がベンチに腰かけて、開いた本を手にしているところを見かけた。そこで早速わしはその横に腰をおろしたものじゃ。五分のちには、わし達はすっかり仲よしになっていた。そこで、毎日、にっこり笑顔を見合わせて、『お早う、奥さん』『お早うございます』と挨拶をかわしたのち、おしゃべりをはじめるのじゃ。女の話によると、なんでもどこかの役人の妻君ということじゃった。夫婦生活が憂鬱なこと、楽しみなんてものはほとんどなくて、心配の種のみ多いということ、その他あれやこれやの打明け話をした。
わしはついうっかり、いや恐らくは己惚《うぬぼれ》もあったのだろうが、自分が何者であるかということを明かしてしまった。すると女は非常にびっくりした風じゃった。
翌日、女はわしに会いに役所にやってきた。その後、しょっちゅうやってくるもんだから、守衛の奴らすっかり覚えちまって、女の姿が見えると、低い声で、『レオン夫人』なんて渾名《あだな》をつけて囁《ささや》き合うようになった。レオンてのはわしの名前さ。
三か月の間、わしは毎朝女に会ったが、一秒とて厭になったことはなかった。それほど、この女は愛情の目先を変えたり、愛情に薬味をきかす術を心得ていたわけじゃね。ところがある朝のこと、女が眼を泣きはらし、一杯たまった涙に瞳を光らせながら、何か秘密な心配事でもあるらしく、喘《あえ》ぎ喘ぎものを言っているのに気がついた。
何がそんなに思案にあまるのか、どうかはっきり打ち明けてくれるようにと、わしは懇願これつとめた。すると女は、やっとのことで、身を顫《ふる》わせながら、口ごもるように『あたし……あたし妊娠したの』と言ったと思うと、いきなり涙にむせぶのじゃ。おお! わしは思わず苦虫をかみつぶしたような顔をしたね。きっと、こんなことを聞いた時には誰でもそうのように、わしの顔も真青になったにちがいないね。思いがけず父親になったなんて言われて、どんなに不愉快なショックを受けるものか、諸君にはお分りになるまい。だが、おそかれ早かれ、諸君も経験なさることじゃろう。で、そうと聞いてわしの方も思わずどもって、『だって、だって、お前は結婚してるんじゃないか?』と言ったものじゃ。
ところが女が答えるには、『でも、主人は二か月前からイタリアに行っていますの。まだ当分は帰ってこないと思いますわ』というのじゃ。
こいつはどんなことをしても、責任からのがれなくちゃならんと思った。そこで、『それじゃすぐ主人のあとを追って行けばいい』と言うと、女は耳のつけ根まで赤くなって、伏目がちに、『ええ……でも』と言ったきり、その先を言わないのじゃ。あるいは終りまで言いたくなかったのかも知れん。
わしはなるほどと解って、旅費のはいった封筒をこっそり手渡してやったのさ。
それから一週間ほどすると、ジェノアから手紙をよこした。その次の週には、フローレンスからの手紙を受け取った。その次には、リヴールヌから、ローマから、ナポリからという具合に、次々に便りをよこした。女は手紙の中で、こんなことを言っていた。『愛するあなた、あたしはしごく達者です。でも、とても醜くなりました。お産がすんでからでなければ、お目にかかりたくありませんわ。だって愛想づかしをされてしまいますもの。主人は全然感づいていません。役目がら、まだ長い間こちらに滞在していなければなりませんので、お産がすんでからでなければ、フランスには帰りません』てね。
約八か月のち、『男の子でした』というしごく簡単な便りをヴェニスから受け取った。
それからしばらくして、ある朝のこと、女が突然わしの部屋にはいってきた。前よりずっと若々しく、綺麗になっているのじゃ。そして、わしの腕の中に身を投げかけてきたのじゃ。
こうして、わし達の愛情は再び昔を取り戻したわけさ。
やがてわしは大臣をやめた。女はグルネル街のわしの屋敷によくやってきた。しょっちゅう、子供の話をしてきかすのじゃが、わしはほとんど聴きもしなかった。わしに関係したことじゃないからね。ただ時々、かなりの額の金を、『子供のために貯金しておくがいい』とだけ言って手渡してやったものじゃ。
そうこうしているうちに二か年の歳月が流れた。女はますます例の『レオン』という子供の話をわしに聞かせるのに夢中になってきた。時には泣きながら言うのじゃ。『あなたは子供を可愛がっていないのね。見たいとも思わないのね。それが、あたしをどんなに悲しい目にあわしているか、御存じだったら!』なんてね。
あんまりうるさく言うものじゃから、とうとうわしも負けて、ある日のこと、では翌日シャンゼリゼに、女が子供を散歩させにつれてくる時間に会いに行くということを約束した。
じゃが、いざ出かけようとなると、不安な気特になって、足がすくむのじゃ。男というものは、弱い、愚かなものさ。その時わしの胸にどんな想いが湧《わ》きはじめたか、知る人ぞ知るじゃ。わしから生れたこの小さな子供が、わしの息子が可愛くなりはじめたらどうしよう? という不安が胸を去来するのじゃ。
帽子もかぶり、手袋もはめていた。が、わしは手袋を机の上に投げ、帽子も椅子の上にほうりだしてしまった。『いや、行くのは止そう、断じて止そう。その方が賢明だ』とわしは思ったのじゃ。
と、この時、部屋の扉があいて、弟がはいってきた。そして、その朝受け取ったという、署名なしの手紙をわしに見せた。『貴殿の兄上のL伯爵に注意してさしあげるといいと思いますが、カセット街の女は大胆不敵にも伯爵を翻弄《ほんろう》しているのです。女の身許を調べて御覧になってはいかがです』といった手紙さ。
わしはそれまで、この古い色事については、誰にも一言も洩《も》らしてはなかったのじゃ。わしはすっかり驚いて、一部始終を弟に物語り、『わしはこの問題には関係したくない。だが、ひとつお前が行って調べてみてくれると有難いがな』と頼んでみた。――弟が出かけたあと、わしはこう呟《つぶや》いたものさ。
『どうして騙したというんだろう? ほかに男でも持っているというのかな? そんなことはどうでもいいことじゃ! あの女は若くて、水々しくて、可愛らしい。それ以上のものはわしは望んでやしない。あの女はどうやらわしを愛しているようだし、結局そう高いものについているわけでもない。実際、どうもよく分らんな』とね。
間もなく弟が帰ってきた。警察に行って、女の亭主の身許をすっかり調べて貰ったのじゃ。それによると、その亭主というのは、『内務省の役人で、正直で、評判も悪くなく、きちんとした男だが、非常に美しい妻君を持っていて、その低い地位にしてはやや贅沢《ぜいたく》な暮しをしているらしい』と、まあそんなところなのじゃ。
さて、弟は女に会おうと、その足で住いに出かけたところが、外出中じゃったので、門番の女に鼻薬をきかして、いろいろ話を引き出してみると、――『D夫人ですか? なかなか親切なお方ですよ。御主人も、これまた親切な方でね。お二人とも高ぶらず、お金持じゃないけれど、なかなか気前のいい方たちで』てなことさ。
弟は、何か話の糸口を見つけだしたいと思ってきいてみた。
『坊やはいくつだね?』
『坊ちゃんなんかありませんよ』
『ええ? レオンという坊やだぜ?』
『いいえ、旦那、それは何かのお間違いでしょう』
『ほら、二年前に、イタリアに旅行している間に生れた坊やだよ』
『あら、奥さんはイタリアなんかにいらしたことはありませんよ、旦那。五年この方、ここのお住いを離れたことはありませんよ』
弟はびっくりして、なおその上に問いただしたり、探《さぐ》りを入れたり、できる限り調べてみたが、子供もなければ、旅行したらしい様子もない。
わしは胆《きも》をつぶしてしまった。だが、どうしてまたこんな狂言を仕組んだものか、さっぱり訳が分らないんで、弟に言ったもんじゃ。
『俺はこの問題をはっきりさせたいと思う。女に明日ここに来て貰うことにしよう。で、お前俺の代りに会ってくれ。もしもあいつが俺を騙していたのじゃったら、この一万フランを手切金にやってくれ。俺はもう二度とは会わんからな。実際、もうこりごりといった気持がしはじめてきたよ』とね。
ところでどうじゃろう、つい前の日までは、あの女に子供を生ませたことが心配の種じゃったくせに、今は、生ませなかったことが、苛立たしいような、恥ずかしいような気がして、心を傷つけられたものじゃ。今は、一切の義務や不安から解放されて自由になったのに、腹立たしい気持なのじゃ。
その翌日、弟は書斎で女の来るのを待ち構えていた。女はいつものように元気よくはいってきて、腕を拡げるなり、駆け寄った。ところが相手の顔を見て、はっと立ち止った。
弟はうやうやしく会釈して詫びを言った。
『奥さま、兄の代りに私がここにいましたことをお詫び申します。でも、兄は、自分自身の口からおききするのが苦痛なので、代って私からあなたにおたずねしてくれるよう、私に頼んだのですが』
そう言って弟は、女の眼の底をじっと見つめながらいきなり切り出したのじゃ。
『あなたが兄の子供をお生みにならなかったことは、私達よく存じていますが』
女は最初の瞬間、茫然自失の態《てい》じゃったが、間もなく落ちつきを取り戻して、椅子に腰をおろすや、にっこり笑って、この裁判官の顔を見つめた。そして、
『ええ、子供なんかありませんわ』としごくあっさり答えたのじゃ。
『あなたがイタリアにいらっしゃらなかったことも存じています』と言うと、女は今度は大声をあげて笑いだした。そして、
『ええ、イタリアに行ったことなどありませんわ』と言うのじゃ。
弟はあいた口が塞《ふさ》がらず、
『伯爵から、このお金をお渡しするようにことづかっています。それから、御縁はこれまでと思召《おぼしめ》して下さるようにとのことでした』と伝えた。
女は再び真面目な顔になって、ゆっくり金をポケットにしまいこみ、いかにも無邪気そうにたずねるのじゃ。
『では……伯爵さまにはもうお目にかかれませんのね?』
『そうです、奥さま』
女はむっとしたらしかったが、やがて落ちついた口調で附け加えた。
『仕方がありませんわ。心の底からお慕いしていましたのにね』
女がはっきり見切りをつけたと見たので、今度は弟の方がにこにこして、
『ところで、なぜあんなに旅行だとか、子供だとか、長ったらしいこみ入った手をお考えになったのか、ひとつ聞かせて頂けませんでしょうかね?』とたずねてみた。
すると女は、びっくりして、弟がまるで馬鹿げた質問でもしたかのようにじっと顔を見ていたが、やがて、
『まあ、意地の悪い方! あたしのように、値打ちも何もない、貧しいプチ・ブルの女は、何か手もとに引き止めるような手でも少し使わない限り、どうして、L伯爵さまのような、大臣で、大殿さまで、流行児で、お金持で、魅力ある方を、三年間も引き止めて置くことができるでしょう? 今となっては、万事休すですわ。仕方がありませんわ。こうした関係がいつまでもつづくわけのものじゃなし。とにかく三か年も持ったってのは、成功ですわ。どうぞあなたさまから、伯爵さまによろしくおっしゃって下さいまし』そう言って女は立ち上った。そこで弟が、
『ですが……子供は?…‥兄に見せるとおっしゃったあの子供は?』ときくと、
『もちろん、それは妹の子供ですわ。貸してくれましたの。あっ、そうだわ、あなたに密告したのは妹の奴にちがいありませんわ』
『なるほどね。ところでイタリアからお出しになった手紙は!』
と、女は再び椅子に腰をおろして、いかにも愉快そうに笑いだした。
『まあ、あの手紙ですの? あんなの、まるで詩みたいなものですわ。まあ、それがお分りにならないなんて、伯爵さまは外務大臣の資格ゼロですわ』
『だが……それにしても?』
『あとはあたしの秘密。ひとを巻き添えにしたくはありませんからね』
そう言うなり、ちょっとひとを小馬鹿にしたような微笑をうかべて会釈をし、役を演じ終えた女優のように、まるでもう感動なんかどこへやら、けろりとした様子で出て行ったと言うんじゃ」
そう言って伯爵は、結びの教訓のように附け加えた。
「じゃから諸君も、ああした女達の言うことはせいぜい真《ま》に受けてやることじゃ!」
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温室
ルルブール夫妻は同じ年だった。だが、おやじさんの方が、身体《からだ》こそ弱ってはいたが、若ぶりだった。綿布を売って一身上《ひとしんじょう》つくると、マントの近くに土地を買いこみ、そこを小綺麗《こぎれい》な別荘風につくって暮していた。
家の周りは美しい庭園に取り囲まれ、その庭園には、養鶏場や、支那風の四阿《あずまや》や、またずっとはずれには、小さい温室まであった。ルルブール氏は、寸のつまった、ずんぐりした身体つきで、帳場に坐った陽気な亭主という快活さを持っていた。細君は、痩《や》せぎすで、我儘《わがまま》で、しょっちゅう仏頂面《ぶっちょうづら》をしていたが、亭主のこの上機嫌を封ずることはできなかった。彼女は髪の毛を染め、時々は小説を読んでいた。人前ではそんな小説など軽蔑しているような口をきくくせに、読みながらうっとり空想に耽《ふけ》ったりするのだった。人の噂では、なかなかの情熱家だということだったが、この評判を裏書するような行為は全然なかった。だが亭主が時々、いかにも思わせぶりに、「家内はあれでなかなか達者ですよ」などというので、人々はあれこれ臆測を逞《たくま》しゅうしたものだった。
ところがこの数年来、細君はルルブール氏に喰ってかかってばかりいた。胸の奥底に、口に出しては言えないひそかな悲しみごとがあって、そのために苦しめられているとでもいったように、しょっちゅう苛々し、突慳貪《つっけんどん》に振舞うのだった。自然、なんとなく夫婦仲がしっくり行かなくなった。お互いにほとんどもう口もきかなくなった。たまに口を開くと、パルミール夫人は、無愛想きわまる挨拶、失礼な当てこすり、辛辣《しんらつ》な言葉を浴びせかけては夫君のギュスターヴ氏を散々にやっつけていた。ところでそれも、別段これと言った理由はないのだった。
氏はすっかり当惑して、背中をかがめていた。だが相変らず陽気だった。天性楽天家ときているので、こうした内輪のいざこざなど、諦めてかかることができるのだった。でも、こんな風に細君が日増しに気むずかしくなって行くのは、一体全体どんなわけがあるのだろうと、小首をかしげてみないではなかった。というのは、こんな具合に苛々するのにはきっと何か秘密な理由があるにちがいないと感じていたからだった。ところで、それを突きとめるとなると、まるで五里霧中《ごりむちゅう》で、氏も匙《さじ》を投げてしまうのだった。
一度ならず聞いてみた。
「さあさ、わしのどこが気に入らないんだ。たしかに、お前はわしに何か隠してるよ」
細君の答えは決っていた。
「だって、何でもないわ。本当に何でもないわ。第一、かりにあたしに何か不満に思ってることがあるとしたら、何が不満なのか、それを見極めるのはあなたの役目よ。何も物が解らないで、元気もなければ能もなく、詰まらないことまで一々教えてやらねば納得がいかないような男、あたし大嫌いよ」
夫君はがっかりして呟くのだった。
「わかったよ。お前は何も言いたくないと言うんだね」
そしてどうしても解《げ》せぬこの秘密をあれこれ考えながら、引き下るのだった。
ルルブールにとって、夜が特にやりきれなくなった。というのは、相変らずいまだに、夫婦仲のいいささやかな家庭で見られるように、一つ床に寝ていたからだった。細君はあらゆる手段を講じて亭主をいじめた。身体を並べて横になった頃を見計らって、この上もなく辛辣な嘲笑を浴びせかけるのだった。主として非難の的《まと》となるのは、彼が肥満していることだった。
「寝床をみんな取っちまうじゃないの。あなたったらほんとにでぶちゃんになったわね。おまけに、あなたと一緒に寝てると、背中に汗が出るわ。ラードが溶けるみたいにね。それが私にとって気持がいいとでも思ってらっしゃるのね!」
それから、何かちょっとした口実を見つけては、せっかく床にはいった夫を無理やり起した。
新聞を階下《した》に忘れたから探してきてくれとか、橙花水の瓶《びん》を取ってきてくれとかいうのである。ところで、もともと自分で隠して置いたのだから、そんな瓶など見つかりっこなかった。すると、細君はいきりたって棘《とげ》のある調子でどなるのだった。
「どこにあるか位、知っててもよさそうなものね。ほんとにお馬鹿さんたらないわ!」
寝しずまった家の中を一時間も探し回った揚句《あげく》、空手で帰ってこようものなら、お礼の代りにこんなことを言われるのだった。
「もう結構、おやすみなさい。あんたみたいな人は少し散歩するのがいいのよ、痩《や》せてきますからね。さもないと、まるで海綿みたいにぶよぶよになっちまうわ」
また、胃痙攣《いけいれん》がはじまったといってはしょっちゅう夫を起こした。そしてオー・ドゥ・コローニュをひたしたフランネルで腹をこすってくれと要求した。ルルブールは心配して、懸命に介抱した。そして、女中のセレストを起こしに行こうかと言った。すると細君はかんかんになってどなった。
「間抜け、馬鹿! もう結構よ。直ったわ。さあさ、もう寝て頂戴。意気地なしったらありゃしない」
ルルブールはきいた。
「本当にもう痛くないのかい?」
すると細君は相手の顔に叩きつけるように言った。
「痛かなんかないわ。黙ってて頂戴。そっと眠らせて頂戴。この上うるさく言わないで頂きたいわ。あなたったら、何もできないのね。御自分の奥さんのおなかをさすることさえできないんですものね」
ルルブールは絶望のどん底に突き落されてしまった。
「だけど……お前……」
細君は癇癪玉《かんしゃくだま》を破裂させた。
「だけども何もないもんよ……もう沢山《たくさん》。分ったでしょう。さあ、そっとしといて頂戴……」
そう言うなり、くるりと壁の方に向いてしまった。
さて、ある晩のこと、例によって細君が夫を揺り起こした。ところがその起こしようがまた実に荒っぽいので、ルルブールはびくっと跳ね上り、いつにない素早さで、寝床の上に起き直った。
彼は口ごもりながら言った。
「どうしたんだ?……どうしたというんだ?……」
細君は彼の腕を握った。思わず「痛いっ!」と叫んだほど強く握った。細君は耳もとに口を寄せて囁いた。
「家の中で、何か音がしたのよ」
ルルブール夫人のこうしたおどかしはいつものことなので、彼も慣れっこになっていた。で、そんなにも気にせず、静かに、
「どんな音だったね?」とききかえした。
ところが細君の方は気が狂ったようにぶるぶる顫《ふる》えていた。
「音なのよ……だって音なのよ……足音よ……誰かいるんだわ」
彼は信用しなかった。
「誰かだって? 本当かい? そんなことあるもんか。耳のせいだよ。第一、誰だと思うんだね?」
細君は顫えていた。
「誰だ……誰だですって?‥…馬鹿ね、泥棒に決ってるじゃないの!」
ルルブールはそっと寝床の中にもぐりこんだ。
「馬鹿な、誰もいやしないよ。きっと、夢でもみたんだろう」
これを聞くや、細君はいきなりかっとなって、蒲団をはねのけ、寝台から飛び下りた。
「あなたったら、能なしの上に、卑怯者なのね! いずれにせよ、あなたの臆病なおかげであたしが殺されるなんて、まっぴら御免だわ」
そう言うなり、煖炉の炭挾《たんばさみ》を掴むや、閂《かんぬき》のささった扉の前に立って、一戦《ひといくさ》しようと身構えた。
こうした勇ましいところを見せつけられて、ルルブールはびっくりした。あるいは事によったら気恥ずかしくなったのかも分らない。しょうことなしに、顔をしかめながらも起き上った。木綿の寝間帽子を冠《かむ》ったまま、シャベルを手にして、細君と差し向かいに陣取った。
森閑とした静けさの中で、二人は二十分も待った。寝静まった家の中では、こととの物音もしなかった。そこで、細君はぷりぷり怒りながら寝台に引き上げて行った。そして相変らず自説を固執していた。
「だけど、たしかに誰か人がいたのよ」
触らぬ神に祟《たた》りなしと、ルルブールは翌日は一日中、この夜の騒ぎのことには全然触れなかった。
ところが、その夜も、ルルブール夫人は夫を起こした。昨夜以上に手荒く揺すぶるのである。そして息も絶え絶えに、どもりながら言った。
「ギュスターヴ、ギュスターヴ、誰か今庭へ出る扉を開けたわよ」
再度のことにルルブールはびっくりして、これはてっきり夢遊病に取り憑《つ》かれたものにちがいないと思いこみ、この危険な眠りをふるい落してやろうと考えていたところに、なるほど、家の壁の下で、微かな物音がしたような気がした。
ルルブールは飛び起きるなり、窓辺に駆け寄った。と、見える、そうだ、たしかに見える。白い影が一つ、庭の小径をさっさと横切って行った。
ルルブールは茫然自失の態で、呟いた。
「たしかに誰かいる!」
だが次の瞬間には、己れを取り戻し、しゃんと立ち直った。だいたい地主なるものは、自分の土地の囲いが踏みにじられたとなるとひどく憤慨するものだが、ルルブールの胸の中にもいきなりそうした怒りがむらむらとこみ上げてきた。
「待て、待て、今に目にもの見せてくれるぞ!」
机に駆け寄るや、抽斗《ひきだし》をあけて、拳銃を取り出した。それから階段を駆け下りて行った。
細君はびっくりして、大声に叫びながら夫のあとを追って行った。
「ギュスターヴ、ギュスターヴ、置いてっちゃいや、一人ぼっちにしないでよ、ギュスターヴ、ギュスターヴってば!」
だがルルブールは耳をかさなかった。もう庭へ出る戸口のところまで行ってしまっていた。
仕方なく細君は引き返して、大急ぎで階段を駆けのぼり、寝室に閉じこもった。
五分、十分、十五分と細君は待った。ぞっとするような恐怖が身体中にひろがった。きっと、殺されたのだ。捉《つか》まって、首を絞められたのにちがいない。あの六連発の拳銃の音がした方がどんなにいいか分らない。夫の闘っていることが、身を防《ふせ》いでいることが分るわけだから、その方がどんなにいいか分らない。だが、このしんと静まりかえった沈黙は、田舎のこのぞっとするような沈黙は、どうにもやりきれなかった。
セレストを呼ぼうと呼鈴を鳴らした。だがセレストはやって来ない。返事もない。もう一度鳴らした。全身の力が抜けて、今にも気が遠くなるようだった。家中、森閑と、物音一つしないのだった。
細君は窓硝子に、燃えるような額を押しつけて、戸外《そと》の闇の中を見透かそうとした。だが、幾条もの灰色の路の脇に、木立の黒々とした繁みが見えるばかりだった。
十二時半が鳴った。夫が行ってからもう四十五分も経った。もう会えないのだ! そうだ、もう二度と夫の顔は見られないのだ! 細君はむせび泣きながら、そこに膝をついた。
コツ、コツと軽く二つ扉を叩く音がした。細君ははっと立ち上った。ルルブール氏が呼んでいた。
「開けてくれ、パルミールや、わしだよ」
細君はいきなり駆け寄って、扉をあけた。そして、眼にはまだ涙を一杯|溜《た》めているくせに、握り拳を腰に、夫の前に立ちはだかった。
「どこをほっつき歩いてたのよ、この馬鹿! ひとをたった一人置いてきぼりにしてさ! 死ぬほど怖い思いをするじゃないの! そうよ! あたしのことなんかどうだっていいんでしょう! いてもいなくても同じなんでしょう!……」
ルルブールは背後の扉を閉めて、笑っていた。両頬の間に大きく裂けたような口をあけ、太鼓腹《たいこばら》を抱えて、涙が出るほど笑いこけていた。
ルルブール夫人はあっけに取られて、黙ってしまった。
と、ルルブールは吃《ども》り吃り説明するのだった。
「あの……あの……セレストだよ。温室の中で、お…‥お……おとことあいびきしてたのさ……わ……わしが見たことを……お……お前が知ったらな……」
細君は真青になった。あまりの憤慨に息も詰りそうだった。
「なんですって?……ええ?……セレストですって?……あたしの家で?……あ……あ……あたしの家で……あ……あ……あたしの温室でですって? それなのに、あんたったら、男を殺さなかったのね。それじゃまるでぐるじゃないの! ピストル持ってるくせに、殺さなかったのね……あたしの家で……まあ、あたしの家で!……」
精も根もつきて、細君はそこにべったり坐りこんでしまった。
ところでルルブール氏の方は陽気にはね回り、指をカスタネットのように鳴らし、舌打ちをし、相変らず笑いこけていた。
「お前が知ったらなあ……お前が知ったらなあ……」
そしていきなり細君の身体《からだ》を抱いた。
細君は身体をふりほどいた。そして、憤慨のあまりに途切れる声で、
「あんな娘、一日だってうちに置くのはいやよ、よくって? 一日だって……いいえ、一時間だって! 帰ってきたら、早速叩き出してやるわ……」
ルルブール氏は細君の胴を抱えていた。そして頸《くび》ったまに、つづけざまに接吻の雨を降らせた。昔やったような、音のする接吻だった。細君はびっくりして、身体も萎《な》え、再び黙りこんだ。だがルルブール氏は両腕にしっかと細君を抱きしめたまま、そっと寝台の方へ引っぱって行った……
朝の九時半頃、いつもは早起きの主人達が今朝に限ってまだ姿を見せないので、セレストはびっくりして、寝室の扉をそっと叩いた。
御主人夫婦はまだ床の中にいた。そして、仲よく並んだまま、陽気にしゃべっていた。セレストははっと驚いて、その場に立ちつくした。だが思いきって言った。
「奥さま、ミルクコーヒーでございます」
ルルブール夫人は猫撫声《ねこなでごえ》で言った。
「ここに持ってきておくれ。あたし達少し疲れたの。だって、よく寝つかれなかったんですもの」
女中が出て行くやいなや、ルルブール氏は細君を擽《くすぐ》りながら、また笑いだした。そしてまたしても繰り返すのだった。
「お前が知ったらなあ! ほんとに、お前が知ったらなあ!」
だが細君は夫の両手を取って、
「さあさ、おとなしくするのよ、あなた、そんなに笑っちゃ、身体《からだ》に悪いわ」
そう言って細君は、眼にそっと唇を押しあてた。
ルルブール夫人はもう癇癪《かんしゃく》を起こさなくなった。時々、月の明るい晩など、夫婦揃って、足音を忍ばせながら、木立や花壇に沿って、庭のはずれの小さな温室まで歩いて行った。そして、そこに、二人ぴったり寄り添ったまま、硝子《ガラス》に身をすり寄せるようにして蹲《うずくま》っているのだった。中にある、何かしら怪しいもの、面白くて面白くてたまらないものをじっと覗きこんでいるという図だった。
夫婦はセレストの給金をあげてやった。
ルルブール氏も程よく痩《や》せてきた。
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めぐりあい
エドゥワール・ロットに
偶然だった。それこそまったくの偶然だった。エトライユ男爵は立ちつくしていることに疲れてしまって、饗宴《きょうえん》の今宵、公爵夫人邸のどの部屋も開けはなたれているのを幸い、人気ない寝室にはいって行ったのだった。煌々《こうこう》と輝いたサロンから出てきた眼には、ここはほとんど薄暗かった。
男爵夫人は夜が明ける頃にならねば引き上げないことを承知していたので、それまで一眠りするに恰好《かっこう》な場所はないものかなとあたりを見回した。と、大きな部屋の真中に、金色|絢爛《けんらん》たる花模様に飾られた空色の大きな寝台のあるのが、扉口に立っている男爵の眼に映った。寝台はあたかも恋の遺骸《むくろ》が眠っている葬龕《ずし》のようだった。というのは、公爵夫人はもはや若くないのだ。そのうしろには、腰高の窓から遥かに見はるかした湖とも見紛《みまが》うような、大きな光の斑点があった。それはそこに慎しみ深く、黒い帳《とばり》の陰に隠れている大きな鏡だった。この帳は時々おろされているが、しばしば高く上げられていたものだった。鏡は共犯者の寝台をじっと見下しているかのようだった。それは、死者の亡霊が夜ごとにさまようかの古城のように、多くの想い出や怨《うら》みを宿しているとでも言ったようだった。そして、その滑《なめ》らかで空《うつ》ろな面の上をば、美女の露《あら》わな腰が持つあの魅惑的な形や、男女が相抱く時の腕の優しい身振りなどの通りすぎて行くのが今にも見えてくるかのようだった。
男爵は、ちょっと感慨に打たれて、口もとに微笑をただよわせながら、この愛の部屋の入口に立ちどまっていた。と、この時ふと、鏡の中に何ものかが現われた。喚《よ》び起された亡霊がいきなり眼の前に姿を現わしたかのように。暗い物陰のうんと低い長椅子に坐っていた男と女が立ち上ったのだった。磨かれた鏡の面は、二人の姿を映した。立ち上って、別れる前に唇を合わせた二人の姿をはっきり映しだした。
男爵は、妻とセルヴィニェ侯爵の姿を認めた。男爵は踵《きびす》をめぐらして、騒ぐ胸をじっと抑え、強力な意志を持った人間のように、その場を立ち去った。夫人を連れて帰るのに夜のあけるのを待った。だがもう眠ることなどは考えなかった。
二人っきりになるや、男爵は夫人に言った。
「先程、レイヌ公爵夫人の寝室であんたの姿を見かけたんだがね。これ以上くどくど言いたくはない。わしはひとを責めたり、手荒なことをしたり、また世間の物笑いの種になるようなことはしたくない。そこで、それらのことを避けるために、穏やかに別れることにしようじゃないか。代理人がわしの命令でお前の立場を決めてくれるだろう。わしの家を出たからには、何をしようと勝手だ。だがこのことだけは前もってはっきり言って置くけれど、万一悪い評判を立てられるようなことでもしでかすと、やはりエトライユ姓を名乗っているわけだから、断乎たる処置を取らねばならなくなるかも分らないよ」
夫人は何か言おうとした。だが男爵はこれを押しとどめて、一礼するや、一人で自分の家に帰って行った。
ところで男爵は事の意外に気が顛倒《てんとう》し、深い悲しみにとざされて、わが身の不幸をかこつ余裕などなかった。新婚当時は彼は妻を熱愛していた。その情熱は少しずつ冷めて行って、今では、劇場や社交場裡で浮気心を起すことも一再ではなかった。がそれにしてもやっぱり、夫人に対してはいくらかの趣味を持ちつづけていたのである。
夫人はまだやっと二十四になったばかりで、若い盛りだった。小づくりで珍しいほどに明るい金髪だった。身体はほっそりしていた。ほっそりしすぎるほどほっそりしていた。華奢《きゃしゃ》で、おしゃれで、甘えっ子で、あだっぽく、それでいてしかも利口なところもあり、美しいというよりはむしろ、魅力たっぷりの、パリ人形だった。男爵はいつも自分の兄弟に向かって、「家内は愛嬌があって、挑発的なだけが取柄さ。……あとには何も残りはしない。たとえてみれば、泡ばかりの三鞭酒みたいなものさ。コップの底まで飲んでみると、やっぱりうまいにはちがいないが、なにせ内容があまりにも少なすぎてね」と洩《も》らしていた。
男爵は興奮して、部屋の中を、縦に横に行ったり来たりしていた。いろんな考えが頭に渦まいていた。時折り、怒りがむらむらとこみあげてきて、おのれ侯爵、腰骨を打ち砕いてやるぞ、横っ面をはり倒してやるぞと、いまにも倶楽部に駆けだしたい乱暴な気持にかられた。だが、考えてみれば、そんなのはあんまりいい趣味ではないし、結局相手よりは自分が笑われることになるばかりだし、それに、こうした興奮も、心が傷つけられたからというよりは、自惚《うぬぼれ》の鼻を折られたことから来ているのだと思い直した。そこでそのまま床にはいったが、もちろん眠れる筈はなかった。
それから五、六日すると、エトライユ男爵夫妻は、性格が合わないため、合意の上で別居することになったという噂がパリに拡がった。人は別にこれを怪しみもしないし、陰口もきかなかったし、驚きもしなかった。
だが男爵は、遇えばやはり辛いにちがいないと、それが厭《いや》さに一年ばかり旅に出た。それから、次の夏は海辺で過ごし、秋は狩猟に日をやり、冬になってようやくパリに帰ってきた。その間一度も夫人に遭《あ》わなかった。
誰も夫人の噂をしていないことが分った。してみると、少くとも、うわべだけはうまくつくろっているらしい。男爵はそれ以上のことは要求していなかった。
男爵は退屈した。そこでまたもや旅に出かけ、それから所有地ヴィルボスクの古城を修繕した。それに二か年かかった。修繕ができ上ると、今度は友人連を次から次と招待した。これには少くとも十五か月はかかった。やがてこうした平凡な享楽に飽き飽きしてしまって、リール街の邸宅に帰ってきた。その間にちょうど、夫人と別れてから六年の歳月が流れていた。
今や男爵は四十五歳、かなり白髪《しらが》が増え、腹もどうやら少し出ばってきた。かつては美しくて、女性にもてはやされ、愛されていた身も、今は日一日と衰えて行くのを物寂しく思う頃だった。
パリに帰って一か月経った頃、倶楽部からの帰りに風邪をひいて、咳《せき》をしはじめた。かかりつけの医者は、ニースへ行って冬を越すようにと命じた。
そこで月曜日の夜、急行で出発することにした。
停車場に行くのが遅かったので、着いた時には汽車がすでに動きはじめていた。車内に一つ空席があったので、そこに乗りこんだ。奥の腰掛にはすでに一人の先客が席を占めていた。毛皮とマントに深々とくるまっているので、男か女か見当がつかなかった。その客のものとしては、衣裳を包んだ長い荷物しか眼につかなかった。これではどんな人か分りっこないと諦めて、男爵も、座席に陣取った。それから旅行用の縁なし帽子をかぶり、毛布をひろげた。そしてその中にもぐりこむや、手足を長々とのばして、ぐっすり寝こんだ。
夜の明ける頃になってようやく眼がさめた。眼をさますや早速相客の方を見た。相客は一晩中姿勢を崩していなかった。まだ熟睡しているらしかった。
エトライユ男爵はその間を利用して、朝のお化粧をした。髯と髪に刷毛をかけ、ある年齢に達すると一夜のうちにすっかり変ってしまう顔の手入れをはじめた。
有名な詩人がこんな詩をうたった。
若き日は、朝の眼覚めぞ愉しけれ
実際、若い時には、朝の眼覚めはすばらしいものである。皮膚の色は鮮やかで、瞳は輝き、髪は精気にあふれて艶々している。
ところが年を取ると、朝の眼覚めはしごく味気ないものになる。どんより曇った瞳、充血してふくれた頬、厚ぼったくなった唇、べっとりくっついた乱れ髪、もつれた髯《ひげ》などは、顔に、精根つきはてた、疲れきった、老いの容貌を与えるのである。
男爵は旅行用の化粧箱を開けていた。刷毛でさっと顔の仕上げをすました。それから待っていた。
けたたましい汽笛がなって、汽車が駅にとまった。隣りの客がちょっと身体《からだ》を動かした。恐らく眼をさましたのであろう。やがて汽車はまた動きはじめた。太陽の光線が斜めに車内に射しこんできて、眠っている客の身体の上をちょうど横に切った。相客は再び身体をもぐもぐと動かした。そして殻から出てくる雛《ひな》のように、頭を二、三度突くように動かして、静かに顔を現した。
見ると、いかにも瑞々《みずみず》しくて、ぽってりふとった、まだうら若いブロンドの美人だった。彼女は座席に坐り直った。
男爵は茫然として相手を見つめた。これはまた何としたことであろう。たしかにこれは……わが妻ではないか。だがひどく変っていた……それも彼女にとって有利なことには、ふっくらふとってきたのである。おお! 自分と同じようにふとったのではあるが、自分と違って変りばえしたのだ。
彼女は静かに彼の顔を見たが、彼と分らないらしかった。そして落ちつき払って、身体にかけていたものをはらいのけた。
彼女は自信たっぷりな女のように落ちつきはらっていた。自分が美しいこと、若々しいことをちゃんと承知し、感じていて、眠りから覚めた女が見せるあの人を人とも思わぬ大胆な姿態を見せていた。
男爵はすっかり度を失ってしまった。
自分の妻だろうか? それとも姉妹のように似ている他人なのだろうか? なにせ六年も会わないのだから、間違いだってないとは言えないが。
彼女が欠伸《あくび》した。この身振りには見覚えがあった、だが、再び彼の方を見た彼女は、落ちつき払った無頓着な眼で、素知らぬ眼で、じろじろ見回していたが、やがて眼をそらすや窓外の景色を眺めだした。
男爵はすっかり当惑してしまって、頭が変になったような気持だった。横からじっと女の様子をうかがいながら、待っていた。
そうだ、確かに妻だ! 絶対疑いの余地はない。あんな形の鼻は二つとあるものじゃない。多くの想い出がどっと押し寄せてきた。愛撫の数々、肉体の隅々、腰と背中にちょうど向かい合って二つの黒子《ほくろ》のあったことまで想い出された。どんなにかこの黒子に接吻の雨を浴びせかけたことであろう! 肌の甘い匂い、肩に腕をかけてしなだれかかってくる時の微笑、なまめかしい声の抑揚、優しく甘えかかるしぐさなどが想い出されて、ありし日の陶酔《とうすい》にひたされて行くのを感じた。
だがなんという変りようであろう。なんと美しくなったことであろう。たしかに彼女にはちがいないが、もはや彼女ではないとも言える。一層成熟し、完成し、女になっていた。一層男心を唆《そそ》るようになっていた。前にもまして、その肉体が欲しくなるような、いやが上にも欲しくなるような女になっていた。
では、この他人と思った女、偶然同じ車室に乗り合わせたこの見知らぬ女は、自分の妻だったのだ、法律によって自分に属している女なのだ。ただ一言「お前はわしのものだ」と言いさえすればいいのだ。
かつてはこの女の腕の中に眠り、この女の愛情の中で生きていたのだ。それが今は、やっとそれと見分けられるほどに、変ってしまったのだ。それは他の女であり、また同時に彼女だった。自分が棄てたのちに生れ、育ち、成熟した他の女だった。それはまた、自分がかつて所有したことのある女だが、その物腰は変り、そのかみの目鼻立ちは一層整い、微笑には愛くるしさは消え失せ、身振には一層の自信がついているのだった。つまり一人の女の中に含まれてしまった二人の女だった。新しい未知のものの大部分と、懐かしい想い出の大部分が、一人の女の中に混淆《こんこう》されているのだった。それは、あやしく心を掻き乱し、掻きたてる何かしら異様なものだった。心地よい困惑が漂っている一種の神秘的な愛だった。それは、自分の唇がまだ触れてもみない新しい身体《からだ》、新しい肉体の中に蘇《よみがえ》った妻なのだ。
なるほど、六年もたてば、こんなにもすっかり変るものかと、男爵は感慨に耽《ふけ》っていた。僅かに輪郭だけがそれと分るのみである。それも、時には名残さえも止《とど》めぬこともある。
血も、髪も、皮膚も、一切は再生し、改まって行くのである。長い間互いに相見ずにいると、同じ人間でありながら、同じ名前を持っている人間でありながら、すっかり変った他の人間を見ることになるのだ。
人間の心にしてもそうであり、思想にしてもそうである。同じように変り、改まり、新しくなって行くので、ものの四十年も経てば、緩慢《かんまん》ながらも中絶することのない変形によって、お互いに全然新しいまったく別人となってしまうことがある。
男爵は魂の奥底までみだされて、そんな物想いに耽《ふけ》っていた。その時ふと、公爵夫人の寝室で図らずも彼女の姿を見かけたあの夜の記憶が浮んできた。ところがいかなる憤りも胸を掻きたてないのだった。眼の前にあるのはあの時のあの女ではなかった。かつての日のあの痩せた小さな生き人形ではなかった。
どうしたものだろう? どう話しかけたものだろう? 何と言ったらいいだろう? 果たして彼女は自分と知ってるのだろうか? 汽車がまた停った。男爵はつと立ち上って、会釈してから言った。
「ベルトや、何ぞ用はないかね? 何なりと喜んでするが……」
相手は男爵を足の先から頭の上までじろりと見て、別段驚いた風も、当惑した風もなく、平然とした冷やかな調子で言った。
「いいえ……別に……有難う」
男爵は汽車から降りて、度を失った気持を落ちつけようとするかのように、元気づけにプラットフォームをしばらく歩いてみた。どうしようかしら? ほかの車に移ってしまおうか? いや、それでは逃げたような恰好になる。ちやほやして御機嫌を取り結んでやろうか? いや、それでは詫びを入れるようで厭だ。では夫として口をきいてやろうか? いや、それはいかにも男の風上《かざかみ》に置けぬ人間のような遣口《やりくち》だし、それに今ではそんな権利もない。
男爵は再び車に乗って、席に戻った。
彼女の方でも、男爵のいない間に、手早く化粧をすませていた。そして、まばゆいばかりの美しさに輝きながら、平然と長椅子に身体を横たえていた。
男爵は彼女の方に向いて、それから言った。
「ベルトや、不思議なめぐり合わせで、六年も別れたのちに遇ったのだから、それも手荒なことをして別れたわけでもなし、いつまでも仇《かたき》同士のように睨《にら》み合ってる必要もなかろうじゃないか。わしたちはこうやってここに二人きりでいるんだ。幸か不幸か分らないがね。わしはこの車室からは出て行かないよ。だからせめて、汽車を降りるまで、その……その……その……友だちのように話す方がましじゃないかな?」
彼女は平然として答えた。
「どうぞ御遠慮なく」
そう言われると、ぐっとつまって、返す言葉もなかった。だが、勇を鼓《こ》して、そばに寄り、真中の椅子に腰をおろした。そして御機嫌を取るような声で言った。
「いや、これは挨拶を言わなくちゃならないね。実際、わしは嬉しいよ。なぜってあんたは実に綺麗だからね。この六年の間に、どんなに自分が美しくなったか、自分ではお分りになるまい。さっき、あんたが毛皮の外套から顔を出したのを見た時の、心地よい感じといったらなかったよ。どんな女だって、あんな気持をわしに起させたものはないよ。実際、こんなにまで変れるものとは思わなかったね……」
彼女は、相変らず頭を動かさず、そっぽを向いたまま言った。
「あたしにはあなたのようなお世辞言えないわ。だって、あなた随分お老《ふ》けになったのですもの」
男爵はどぎまぎして、顔をあからめた。それから諦めたような微笑を浮べて言った。
「随分手きびしいね」
この時彼女は急に彼の方を向いた。
「あら、なぜですの? だってあたしそう思ったからそう申しあげたのよ。まさか、これからあたしを可愛がって下さるおつもりもないんでしょう? だったら、あたしがあなたのことをどう思おうと、気になさることないわ。でも、こんなお話はあなたにとってはお厭ですわね。じゃほかのこと話しましょう。お別れしてから何をしてお暮しでしたの?」
男爵はすっかりあわてて、どもりながら言った。
「わしかね? 旅をしたり、狩をしたり、そんなことをしてるうちに、御覧の通り、こんなに老いこんじまったよ。ところであんたはどうだね?」
彼女は落ちつき払って答えた。
「お言いつけ通り、体裁をつくろって暮してましたわ」
乱暴な言葉が口元にまで出た。だが男爵はぐっとそれを呑みこんだ。そして妻の手を取って、それに唇を押しつけた。
「それはどうも有難う」
彼女は驚いた。実際男爵はしっかりしていた。いささかも取り乱したところはなかった。
男爵は続けて言った。
「わしのはじめの願いをきいてくれたんだから、針を含んだような話は止めようじゃないかね」
彼女はちょっと蔑《さげす》むような身振りをした。
「針を含んだですって? そんなことないわ。だって、あなたはあたしにとっては赤の他人でしょう。あたしただ、ぎこちない会話を活気づけようとしてるだけなのよ」
こんな手きびしい肱鉄砲《ひじでっぽう》をくらってもなお、男爵は心をひかれ、荒々しい欲望が、抵抗しがたい欲望が、支配者となりたい欲望が身体《からだ》中にひろがってくるのを感じつつ、相変らず彼女をじっと見つめていた。
彼女は、相手が気分を損じたことをはっきり見て取り、憎悪の思いをこめて更に言った。
「時においくつですの? お見受けするほどのお年じゃないと思ってましたけど」
男爵の顔がさっと蒼ざめた。
「四十五だよ」それから附け加えた。「レイヌ公爵夫人の消息をたずねるのを忘れていたが、やっぱりおつき合いしてるかね?」
彼女は憎しみのこもった視線を男爵に投げた。
「ええ、いつもお目にかかってるわ。とてもお達者よ。お蔭さまでね」
こうして二人は、互いに苛々し、興奮して、並んだままじっとしていた。と、突然男爵が言いだした。
「ベルトや。わしはたった今意見を変えたよ。あんたはわしの妻だ。だから、今日わしの家に帰って貰いたい。あんたは美しくもなったし、同時に気持も立派になったよ。わしはあんたを連れ戻すよ。わしはあんたの夫だ。だからそれはわしの権利だ」
彼女はびっくりした。そして、相手の考えを読み取ろうと、男爵の眼の底をじっと見つめた。
男爵は、ひとが何と言おうと受けつけないような、断乎《だんこ》たる顔つきをしていた。
彼女は答えた。
「でも困るわ。だって約束があるんですもの」
男爵は微笑した。
「なんともお気の毒だが、法律がわしに力を貸してくれるのだ。わしはそれを行使するよ」
汽車がマルセイユに着いた。汽笛が鳴り、速力が緩《ゆる》やかになった。男爵夫人は立ち上り、悠々と外套をまとい、それから夫の方を向いた。
「ねえ、レイモン、あたしが仕組んだこの相乗りのお芝居を利用なさることは御免よ。あたしは、あなたのお言いつけ通り、どんなことがあっても、あなたからも世間からもとやかく言われないよう、慎重に事を運ぼうとしただけなのよ。ところで、あなたはニースにいらっしゃるのでしょう?」
「いや、あんたが行くところに行くよ」
「お生憎《あいにく》さま。よっく聴いて下さいな。断じて構ってなど頂きたくないわ。もうすぐ、レイヌ公爵夫人とアンリオ伯爵夫人が御主人と一緒に、プラットフォームであたしを待ってらっしゃるのを御覧になると思うわ。あたしね、あたし達二人が一緒のところを皆さんに見ていただきたいと思ったのよ。この同じ車室の中で二人っきりで一夜を過したことを、皆さんにはっきり承知していただきたかったのよ。まあ、そう心配なさることなくってよ。奥さまたちはきっと到るところで吹聴《ふいちょう》なさることでしょう。それほど、このことは意外なことに思えるでしょうからね。さっきも申しあげたわね、あたしはあらゆる点において、あなたのお言いつけ通り、細心の注意を払って、体裁をつくろってきたわ。そのほかのことは問題じゃなかったのね、そうでしょう? で、ぜひあなたに遇えるように仕組んだのも、実はお芝居のつづきなのよ。世間から後指さされることだけは注意して避けるようにって御命令だったわね。だからあたしそれを避けるわけなのよ……だって、あたし……あたし……」
彼女は汽車がすっかり停るのを待った。そして、出迎えの友人の群が昇降口に駆け寄ってきて、扉を開けると、あとをつづけた。
「妊娠したような気がするんですもの」
公爵夫人が腕をのばして彼女を抱擁した。すると彼女は、本当を見抜こうとあせりながらも驚きのために茫然としている男爵をさしながら、
「あら、レイモンをおぼえてらっしゃいません? ほんとに、すっかり変りましたものね。あたしに一人旅をさすまいと、送ってきてくれましたのよ。あたしたち、時々こんな風に、人眼を忍んだ旅をしますのよ。一緒に住めない仲のいいお友達みたいにね。でも、ここで別れますわ。あたしのおつき合いにももう飽きたようですからね」
彼女は手を差し出した。男爵はそれを機械的に握った。それから彼女はプラットフォームの、出迎えの人々の真中に飛びおりた。
男爵はいきなりばたんと車室の扉を閉めた。すっかり気が顛倒していたので、何か言うことも、また何とか決心することもできなかった。夫人の声と楽しそうな笑い声の遠のいて行くのが耳に聞えていた。
男爵はそれっきり夫人にめぐり合う機会はなかった。
あの言葉は嘘だったのだろうか? それとも本当だったのだろうか? ついぞ知るすべもなかった。
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衣裳戸棚
夕食のあとは、女の話になった。男が集まると、話は必ずそこに落ちていく。
私たちの一人が言った。
「そうだ、それについて実に滑稽《こっけい》な話があるんだ」
そう言って彼は語り出した。
「去年の冬のある晩のことだ。どうにも我慢のならない悩ましい倦怠《けんたい》に不意にとりつかれた。ときどき、肉体と魂を襲ってくるあいつだ。僕は家に一人っきりでいたが、このままでいると、恐ろしい憂鬱症の発作がおきてきそうな気がした。たびたびこれにやられると、しまいには自殺するにちがいないあの発作だ。
そこで僕は外套を引っかけて、どうするというあてもなく家を出た。大通りまで出て、カフェの軒並に沿ってぶらぶら歩きはじめた。雨が降っていたので、どのカフェもほとんど客はなかった。この雨ときたら、着物どころか心の中までも濡《ぬ》らしてしまうあの糠雨《ぬかあめ》なのだ。滝のように落ちかかって、息せき切った通行人を門の下に追い込むような痛快な夕立じゃないのだ。雨粒も感じられないようなごく細かな雨だ。眼に見えない小さな小さな雨粒となって、たえずからだに降りかかり、やがて、ぞっとからだにしみこむような水の苔《こけ》で着物を蔽《おお》ってしまうあの湿っぽい雨だ。
さて、どうしよう? 二時間ばかり時が過ごせるような場所を探しながら、行ったり来たりしていたが、パリには夜、気晴らしをするところがどこにもないことをはじめて発見したわけだ。結局、女たちの集まる愉快な遊び場の「フォリ・ベルジュール」へはいることに決心した。
大広間にはわずかな人しかいなかった。馬蹄形《ばていけい》の廊下をぶらついているのは、下層階級の奴ばかりで、歩きかたや、着物や、髪や髯《ひげ》の刈りかたや、帽子や、顔色に、同種族の人間といった共通点があった。からだのすみずみまで洗っているように思われる人間や、服装に統一が取れてるような人間はほとんど見かけられないのだ。女たちも相変らずで、御存じの通りの、醜い、疲れきった、だらりとした、二目《ふため》と見られぬ奴ばかりだ。獲物を追いかけているようなせかせかした足つきで、なぜかしら、例によって、おろかしい限りだが、つんとすまして歩き回っているのだ。
まったくこうした、形の崩れた女、つまり布袋腹《ほていばら》のくせに脚は水鳥のそれのように曲っているといった風に、ここは痩せて、ここはふくれてるといった女、脂肪がついているというよりは油じみているといった女は、五ルイと吹っかけてやっと一ルイにありつけるのだろうが、僕の考えではその一ルイにも値《あたい》しなかったね。
ところが、ふとその中に、おとなしそうな小柄の女を見つけたのだ。そんなに若くはなかったが、まだみずみずしくて、おもしろそうな女で、それに挑発的なのだ。僕はその女を呼び止め、ついうっかり、前後の見さかいもなく、一晩中という約束で話をきめてしまった。僕は一人で、たった一人で家に帰りたくなかったのだ。それくらいなら、こうしたあばずれ女とでもいっしょに抱き合って寝たほうがましに思われたのだ。
そこで僕は女のあとについて行った。女は、マルティル街のじつに大きな家に住んでいた。階段のガス燈はもう消えていた。僕はときどき蝋《ろう》マッチをすった。階段に足がぶっつかって、よろめきそうになった。そこで僕は不機嫌になって、すぐ顔の前でスカートががさがさ鳴る音を聞きながらゆっくり昇って行った。
女は五階に来て、やっと足をとめた。そして外側の扉をしめると、きいた。
『じゃ、明日の朝までいるのね?』
『もちろんさ。さっきそう決めたじゃないか』
『いいのよ。ただきいてみただけよ。ここでちょっと待っててね。すぐ来るわ』
そう言って女は、僕を暗闇の中に残して行った。女が扉を二度閉めるのが聞えた。それから何か話しているような気がした。僕はぎょっとし、不安になった。紐《ひも》でもいるのではないかという考えが頭をかすめた。だが僕には腕力があった。『そうしたらやっつけるまでさ』と僕は考えた。
僕は全身の注意を耳にあつめてきき耳をたてた。すると、用心深くそっと物を動かしたり、歩いたりしている音が聞えるのだ。それから別の扉が開かれ、また、ごく低い声だが何か話している声が聞えるような気がするのだ。
女が蝋燭《ろうそく》を手にして戻ってきて、
『はいっていいわよ』といった。
このなれなれしい口の利きかたに引きずられて、僕は部屋にはいった。これまで食事に使ったことのないことが一目ではっきりわかる食堂を横切ると、こうした稼業《かぎょう》の女特有の部屋にはいった。太織《ふとお》りのカーテン、あやしげなしみが虎斑《とらふ》のようについた真赤な羽蒲団といった、家具附きの部屋だ。
女はいった。
『さあ、気楽にしてよ、あんた』
僕はうさん臭そうな目で部屋の中を見回した。だが、別に気になるようなものもなかった。
女は素早く着物をぬいで、僕がまだ外套もとらないうちに寝台にもぐりこんだ。女は笑いだした。
『まあ、どうしたの? まるで木偶《でく》の坊みたいね。さあさあ、急いで』
僕は女にならって着物をぬぎ、女の横にはいった。
それから五分たつと、僕はもう着物を着て飛び出したくなった。だが、家にいた時の、あのどうにも我慢のならない倦怠が僕をつかまえていて、からだを動かす力が出ないのだ。そこで僕は、いやでいやでたまらなかったが、この共同の寝台の中でじっとしていた。あの、劇場の釣燭台の下で見た時には、肉感的な魅力があるように思ったのだが、そうした魅力は今は僕の両腕に抱かれた女からは消え失せていた。そして、僕のからだにぴったりくっついているのは、ありふれた下品な淫売女にすぎなかった。ただうれしがらせにする熱のない接吻には韮《にら》の後味がした。
僕は女相手に話をはじめた。
『もうここに長いこといるのかい?』
『一月十五日でちょうど六か月になるわ』
『その前は、どこにいたんだ?』
『クローゼル街にいたの。でも門番のおかみさんがいやがらせをするので、出ちまったの』
それから女は、自分のことを悪様《あしざま》に言いふらしたそのおかみさんのことを、くどくどと話しはじめた。
と、この時突然、僕たちのすぐそばで何やら動く物音を耳にした。最初は溜息のようで、つぎに、誰かが椅子の上で向きでも変えたような、かすかではあるが、はっきりした物音だった。
僕はいきなり寝台の上に上体を起して、女にきいた。
『なんだ、あの物音は?』
女は落ちつきはらって、静かに言った。
『気にすることないわ。あれはお隣りのひとよ。仕切りの壁がとても薄いんで、まるで同じ部屋にいるように聞えるのよ。まったく仕様のない部屋だわ。これでは紙細工だわ』
僕はもうぐったりしていたので、また蒲団の中にもぐりこんだ。そしておしゃべりを再びはじめた。男というものは、こうした女に接すると、まるで彼女らの心の中に、遠い日の無邪気の名残りでも見つけようとするかのように、また、ただのひとことで喚《よ》びさまされる、彼女らの昔のあどけなさや純潔さの一瞬の思い出の中で彼女らを愛そうとするかのように、彼女らの最初の色事についてたずねて、彼女らが犯した最初の過失をのぞいてみたがるものだ。僕もそうしたおろかしい好奇心にかられて、この女の最初の恋人たちについてうるさくきいた。
女が嘘をつくであろうことは承知していた。そんなことはかまわない。そうした嘘の中から、ひょっとすると、まじめで心をうつような一つの事実を見つけ出すことができるかもわからないと思ったのだ。
『さあ、どんな人だったか話せよ』
『船頭だったわ』
『なるほど! もっと話せよ。君たちはどこにいたんだ?』
『あたしはアルジャントゥイユにいたわ』
『何をしてたんだね?』
『料理屋の女中だったの』
『なんという料理屋だい?』
『若船頭亭《ヽヽヽヽ》よ。あんた知ってる?』
『知ってるとも。じゃ、ボナンファンの家だ』
『そうよ、その通りよ』
『で、男は、その船頭はどんな風に言い寄ったんだい?』
『あたしが寝床の支度をしてやってる時に、あたしを手ごめにしたの』
だがこの時、僕は急に、友人の医者が唱えている説を思い出した。この医者は、大きな施療病院に勤めていて、父《てて》なし子を産んだ娘や、淫売婦と毎日接触し、ポケットに金をじゃらつかせてぶらぶらしている男の気の毒な餌食《えじき》となった憐れな女たちの、あらゆる恥ずかしいこと、あらゆる惨めなことをよく知っている観察家で哲学者だった。
彼は私にこんなことを言った。
『女というものは、いつでも、同じ階級の男、同じ身分の男に誘惑されるものだ。それについて僕が観察した資料なら山ほどあるよ。世間では、金持が下層階敬の娘の蕾《つぼみ》を摘み取るといって非難する。だが実際はそうじゃない。金持は金を払って、すでに摘み取られた花を買うだけなのだ。なるほど摘み取ることもあるが、それは二度咲きの花だ。自分が最初に花を手折《たお》るようなことは決してしない』というのである。
そこで僕は女の方に向いて笑いだした。
『僕はきみの話をよく知ってるよ。きみがはじめて知ったって男は船頭じゃないよ』
『まあ! 誓って言うけどそうなのよ』
『嘘いってらあ、こいつ』
『嘘なんかいわないわ、誓うわ!』
『嘘だ。さあ、すっかり白状しろ』
女はびっくりして、ためらっているようだった。
僕はことばを続けた。
『ねえ君、僕は魔法使いなんだ、催眠術使いなんだ。もし本当をいわないと、眠らせて、すっかり聞いてしまうぜ』
この女もほかのこうした連中と同じようにばかだったので、こわがった。そして口ごもりながらいった。
『どうしてそれがわかったの?』
僕はなおもせかした。
『さあさ、話すんだ』
『だって、いちばんはじめのは、ほとんど何でもないことなのよ。それは土地のお祭りの日だったわ。アレクサンドルさんっていう臨時の料理頭を頼んだの。この人は、やって来ると、家の中のことを何でも自分の思う通りに切り回して、みんなを、親方であろうがおかみさんであろうがかまわず、まるで王さまのように顎《あご》で使うのよ……背の高いいい男で、いっときでもかまどの前にじっとしているってことはなかったわ。そしてのべつ幕なしに、やれバタだ――卵だ――マデール葡萄酒だ――ってどなるのよ。それをすぐに走って持っていかないと、かんかんに怒って、スカートの下まで赤くなるようなひどいことをいうのよ。
その一日がすんで、アレクサンドルさんは入口でパイプをふかしはじめたの。その時あたしが、積みかさねた皿を持ってその前を通りかかると、こんなことをいったの。「さあ、娘さん、川っぷちまで行って、ここの景色を見せてくれないか」ってね。あたしは、ばかみたいにいっしょに行ったわ。そして、川っぷちに来るか来ないかに、あっという間に手ごめにされたの。あんまり早いので、何をされたのかもわからなかったほどだったわ。そしてあの人は九時の汽車で帰ってしまったの。それっきり二度と会わないわ』
僕はきいた。
『それだけかい?』
女はどもりながらいった。
『そうだわ、フロランタンはきっとあの人の子だわ』
『フロランタンて誰さ?』
『あたしの子供よ!』
『なるほど! よくわかったよ。そこできみは船頭に、その子の父親だと思いこませたんだろう。そうだろう?』
『その通りよ!』
『その船頭ってのは、お金を持ってたのかい?』
『そうよ。フロランタンにといって三百フランの年金を残してくれたわ』
僕はおもしろくなりはじめた。そこで話を続けた。
『そいつはよかった。大できだ。きみたちはみんな、やっぱり、ひとが思ってるほどばかじゃないよ。そこで、フロランタンは今いくつなんだい?』
女は答えた。
『十二よ。この春はじめて聖体を拝領するの』
『そいつはいいね。ところで、その後も、良心に恥じないで君の商売ができるかい?』
女は仕方がないといったふうに溜息をついた。
『人間はできることをするほかないわ……』
ところが、この時、たしかにこの部屋の中で、大きな物音がした。僕は寝台から飛びおりた。からだが倒れて、手で壁をさぐりながら起き上ろうとする物音だった。
僕は蝋燭《ろうそく》を手に取って、びっくり仰天《ぎょうてん》したおそろしい眼で、あたりを見回した。女も起き上って、懸命に僕を引き止めながら、
『なんでもないのよ、本当になんでもないのよ』と小さな声で繰り返した。
だが、僕はこの異様な物音がどっちの方でしたか見当がついていた。そこで寝台の頭の方に隠されている扉に真っ直ぐ歩いて行った。そしていきなりそれを開けた……と、そこに僕が見たのは、おろおろした眼を光らせて僕を見ながら、ぶるぶるふるえている、顔の青白い、痩せた、憐れっぽい少年だった。少年は大きな藁椅子《わらいす》の横に坐っていた。少年はそこから落ちたのだった。
少年は僕の姿を見ると、急に泣きだした。そして両腕をひろげて母親の方に駆けだした。
『僕のせいじゃないよ、ママ、僕のせいじゃないよ。だって、眠ってるうちに落っこちたんだもの。おこらないでね。僕のせいじゃないよ』
僕は女の方を向いた。そして言った。
『これは、いったい、どうしたことなんだ?』
女は、当惑した、痛ましげな顔つきになった。そしてぽつりぽつりと話しだした。
『では、いったいどうすればいいと言うの? あたしには、子供を寄宿舎に入れるだけの稼ぎはないのよ。だから、手もとにおかなくちゃならないのよ。もう一部屋借りればいいけど、そんな金はもちろんないわ。お客がない時には、子供はあたしといっしょに寝るの。一、二時間のお客の時には、衣裳戸棚の中にはいって、じっとしてるの。そこは心得たものよ。でも、あんたみたいに、夜通しの客があると、椅子の上で眠るのは、腰が疲れるのよ。こんな子供だもの。……なにもこの子のせいじゃないことよ……あんたにやらせてみたいわ……一晩中椅子の上で寝させてみたいわ……さぞかし気持のいいことでしょうよ……』
女は怒りだし、興奮して、どなった。
子供は相変らず泣いていた。ひ弱な、内気な、憐れっぽい子供だった。そうだ、まさしく、衣裳箪笥の中の子供だった。つめたい暗い箪笥《たんす》の中に隠れていて、ときどき、寝台があくのを狙《ねら》っては、わずかばかりの暖をとりにくる哀れな子供だった。
僕も泣きたくなってきた。
そこで家に帰って寝ることにした」
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ロザリー・プリュダン
たしかにこの事件には、陪審員達にも、裁判官にも、検事にも、どうしても分らない不思議な一点が存していた。
マントのヴァランボ家に女中奉公をしていたロザリー・プリュダンは、主人達の気のつかないうちに身重になり、夜陰ひそかに、屋根裏の室で生み落し、ついでこれを殺し、庭の中に埋めたのだった。
これだけでは、世間一般の、女中達によって犯されるあらゆる嬰児《えいじ》殺しの場合と何の変りもなかった。ところがここに一つ、どうしても腑《ふ》に落ちない点があった。それは、プリュダンの部屋の家宅捜索をした結果、そこにロザリー自身によって準備された子供の仕度一切が発見されたからのことだった。彼女は、それを裁《た》ったり縫ったりするために、三か月というもの、毎晩かかりきりになっていたのだった。このことは、彼女がその久しきにわたる仕事のため、いつも給金のうちから蝋燭を買っていた食料雑貨店の主人が証明した。それにまた土地の産婆が、あらかじめ彼女から身体《からだ》の様子を聞かされ、いざという場合、どうしても駆けつけることができなかったときのことを慮《おもんばか》って、何くれとなく実際上の注意やら、参考になることやらを教えてやっていたということも分った。しかも産婆は、お暇が出るだろうということを予見していたロザリーのため、ポワシーに一軒勤め口を探して置いてやったのだった。何しろ、ヴァランボ夫妻は、素行ということにかけてはなかなか厳格だったからだ。
その夫妻は今、この重罪裁判の席につらなって、そこに居た。僅かばかりの金利で田舎住まいをしている彼等は、家の名誉を汚したこうしたお引きずりの女に対していきり立っていた。彼等は、彼女が裁判にもかけられないで、いきなり絞首台に上させられるところを見たい位に思っていた。そして憎しみたっぷりの供述を続けて彼女を責めたてた。そうした彼等の言葉を聞いていると、まるで告発でもしているかのように思われるのだった。
さて当の犯人、バス・ノルマンディの生れで、女中としてはかなり教育のある、背の高い、美しい女は相変らず泣きつづけているだけで、一言も答えなかった。
人々はそこで、彼女のこうした残忍な行為は、絶望と逆上の発作に襲われた瞬間に行なわれたものと考えるよりほかになかった。というのは、何しろ彼女が赤ん坊を育てあげて行こうと思っていたという証拠が、歴然としていたからだった。
裁判官はもう一度、彼女に口を開かせよう、彼女に告白をさせようと試みた。彼がこの上もなく優しい調子ですすめたので、遂に彼女にも、ここに自分を裁くために集っている人達は誰も自分の死刑を希っているのではないのだ、むしろ自分に同情しようとさえ思っているのかもしれないということが分ってきた。
そこで彼女も心を決した。
裁判官は「ところで先ず第一に、この子供の父親は誰だね?」ときいているのだった。
これまで、彼女は頑《がん》としてそれを隠していた。
彼女は、今夢中になって彼女の悪口を言っていた主人夫婦の方をじっと見ながら、いきなり答えた。
「ジョゼフ様です、ヴァランボ様の甥御《おいご》さんの」
二人の夫婦は思わず跳び上った。そして同時に叫んだ。
「とんでもない! 嘘だ。怪《け》しからんこった」
裁判官は彼等を抑えて、言葉を続けた。
「さあ、続けて話すがいい。で、一体どうしてそんなことになったのだね?」
すると彼女は、突然、雄弁に語りだした。重く閉《とざ》された心、打ち拉《ひし》がれた寂しい哀れな心の重荷をおろし、これまで、敵である、血も涙もない裁判官達であると思いこんでいたこれらの人々の前に、彼女は今、自分の悲しみを、悲しみのありったけをぶちまけているのだった。
「そうです、ジョゼフ・ヴァランボ様です。去年、休暇でいらっしゃいましたとき……」
「何をして居るのかね、そのジョゼフ・ヴァランボ氏は?」
「砲兵の下士さんです。で、家には二月《ふたつき》ばかりいらっしゃいました。夏の間の二月《ふたつき》でした。私あの方のことはなんとも思っていなかったのです。そこへあの方、眼をおつけになりました。それから私に嬉しがらせをおっしゃいました。その次には、一日中私の御機嫌をお取りはじめになりました。私は段々ひきずられて行きました。あの方は、お前は綺麗な女だ、面白い女だ……俺の好きな型の女だとおっしゃいました……私の方も、もちろん、あの方が好きになっていたのでございます……だって仕方がありませんわ。人間が一人ぼっちの時には……そうです、ちょうど私のように……たった一人ぼっちの時には、誰だってそうした言葉に耳を傾けるものなんですもの。私はこの世に一人ぼっちなのです……私には話相手は一人もないのです……悲しみを打ち明けるような相手は、一人だってないのです……お父さんもなければ、お母さんもない、兄弟も、姉妹もありません。身寄りの者といったら一人もいないのです! ですから、あの方が話しかけて下さった時、死んだ兄さんでも帰ってきたのではないかというような気持がしたのです。それから、ある晩のこと、ひとに気づかれないように、ゆっくりお喋《しゃべ》りしたいから、川の岸に行こうとおっしゃいました。私は行ったのです……一体私、どうしたというのでしょう? それから私、どうしたというのでしょう?……あの方は私の胴に手をお回しになりました……もちろん、私はそんなことして貰いたいとは思っていませんでした……決して……決して……でもどうにもしようがなかったのです、あたりの空気は気持よく、そして私は泣きたいような気持でした……月が明るくさしていました……私はどうにもしようがなかったのです……そうです……これは誓って申し上げます……私はどうにもできませんでした……あの方は思いを遂げておしまいでした……それは、その後三週間の間、あの方がいらっしゃる間中続きました……私は、あの方が行こうとおっしゃれば、世界の果てまででもついて行ったことでしょう……あの方は行っておしまいになりました……私にはその時、自分が身重になってることにまだ気がつかないでいたのでした、なんということでしょう!……私は次の月になってようやくそれに気がつきました……」
彼女は泣きはじめた。あまり激しく泣くもので、皆は、彼女が落着くまで待たなければならなかった。
さてしばらくして、裁判官は、告白室の懺悔《ざんげ》聴聞僧のような調子で再び口を開いた。
「さあ、続けて話すがいい」
彼女は再び語りはじめた。
「身重になったと分ると、私は、あそこに証人に来ていらっしゃる産婆さんのブウダン夫人に、前もって身体《からだ》の様子をお話しして置きました。そして、もしも産婆さんがいらっしゃらない時に産気づいた場合には、一体どうしたらいいものかとおたずねして置いたのでした。それから私は、毎晩毎晩、朝の一時頃までかかって、赤ん坊の仕度をしました。それからまた、新しい勤め口も探しました。なぜって多分お払い箱になるだろうっていうことが分っていたからです。しかし、どこまでも踏みとどまっていたいと思っていました。僅かでもお金を貯めたいためなのでした。なぜって、ろくろくお金もないところへ、さて赤ん坊が生れて来れば相当お金も要《い》ることでしょうし……」
「では殺すつもりはなかったのだな?」
「飛んでもない!」
「では、一体どうして殺したのだね?」
「実はこうしたわけなんでございます。思ったよりも早くやってきたのでした。ちょうど、台所でお皿を洗い終えようとしていた時に、突然やってきたのでした。
御主人御夫婦はもうやすんでいらっしゃいました。そこで私は、欄干《てすり》につかまりながら、ようやくのことで階段を昇って行きました。そして、自分の部屋にはいると、寝床を汚すまいと、床《ゆか》の上に、俯伏《うつぶ》せになってしまいました。一時間、二時間、あるいは三時間も続いたでしょうか、いっこう自分には分らなかったほど、それほど苦しがっていたのでした。そのうち私は、満身の力をこめて押し出しました。赤ん坊の出て行くのが分りました。そして私は抱きあげました。
おお! 嬉しゅうございました、本当に! 私は、ブウダン夫人から聞いた通りにいたしました。すっかりその通りにいたしました! それから赤ん坊を、寝台の上にのせました。すると、また苦しくなりはじめました。しかも死ぬような苦しみなのです――もしも皆さんにしたって、こうした苦しみを御存じだったら、あんなに沢山子供をお作りにはなりますまいよ!――私はがっくりと膝をつき、仰向けになって倒れました。と、あの苦しみが、また、一時間、あるいは二時間ほども続きました、しかも私は一人っきりで……やがて、また一人生れました……もう一人の赤ん坊が……二人なのです…そう……二人なのです……こんなのが! 私はその赤ん坊を、はじめの赤ん坊と同じように抱きあげました。そして寝台の上に寝かせました、二人を――並べて。――ところで一体どうしてやって行けるでしょう? 子供二人――そして私のお給金は、一か月僅か二十フランでしかないのです! ねえ、……どうしてやって行けましょう? 一人だけなら、そう、きりつめてやったらどうにかやって行けるにしても、二人となると頭が茫《ぼう》として来ました。一体どうしたこってしょう? 二人の一人を選ぶなんて、どうして私にできましょう?
一体どうしたこってしょう! 私は、もうこれが最後と思いました! 私は、いつの間にやら、上から枕を押しつけました……私には、二人を育てては行けないのでした……そして私は、われとわが身を上から|ずっしり《ヽヽヽヽ》のせました。そうした後で、朝の光りが窓から射《さ》してくる頃まで、もがきまわって泣きました。赤坊二人は、たしかに、枕の下に死んでいました。私はそれを腕の下に抱え、階段を降りて、野菜畠に出て行きました。そして、園丁の鋤《すき》を使って、二人を土に埋めました。できるだけ深く、一人はここ、一人はあそこと、別々に離して埋めました。死んだ子供達に口が利けて、母親のことを話しでもしてはと、そんなことを思ったからです。一体どうしたというのでしょう? それから帰って寝床に横になったのですが、いかにも身体の工合がわるく、とても起きられはしませんでした。そこでお医者を呼びました。お医者さまには、すっかりお分りになったのでした。裁判官さま、これが在りのままのお話なのです。どうぞお気に召しますように、どうなりとお裁き下さいまし。覚悟はすっかり決めて居ります」
陪審員の半数のものは、泣けてくるのを堪《こら》えるために、しきりに洟《はな》をかんでいた。傍聴席では、婦人達が啜《すす》り泣いていた。
裁判長はこう訊ねた。
「も一人の方はどこに埋めたね?」
彼女は尋ねた。
「どちらが見つかったのでございましょう?」
「それ……それ……朝鮮薊《ちょうせんあざみ》の畠に埋めた分さ」
「では、他の一人は、井戸ばたの、苺《いちご》畠に埋まっていますわ」
そう言うなり彼女は、激しくむせび泣いた。そしてその苦しげな泣き声は聞く人々の胸を刺した。
ロザリー・プリュダンは放免された。
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難破船
それは昨日、大晦日《おおみそか》のことだった。
ちょうど私は、旧友ジョルジュ・ガランと昼食を終ったところだった。そこへ召使が、封蝋《ふうろう》や外国切手の沢山ついた一通の手紙を持って来て彼に渡した。
ジョルジュが言った。
「失敬してもいいかね?」
「さあどうぞ」
すると彼は、大きなイギリス風の書体の縦横に入り乱れて書かれた八ページばかりの手紙を読みはじめた。彼は真剣な注意を籠《こ》めながら、何かしら心を撃《う》たれずにはいられないものにたいするあの関心を示して、その手紙をゆっくりと読んで行った。
やがて彼は、それを煖炉棚の片隅に載せて次のような話をはじめた。
「君にはまだついぞ話したことがなかったが、実に面白い話なんだ。しかもちょっとセンチメンタルな話と来ていてね。だがまさにこの僕自身に起ったことなんだ! いや、あの年の元日と来たら、実に一風変ったやつだった。もう二十年も昔の話だ……ちょうどこの僕が三十の年のことだ、今では僕も五十になってるからね……。
ちょうどその頃、僕は今社長をつとめている海上保険の査定係をやっていた。元日といえば、世上一般におめでたい日ということになっている。で僕もそのめでたい元日をパリで過そうと、そういう心構えをしていたところへ、突然支配人からの手紙で、即刻レー島へ出かけてくれという命令が下ったんだ。社《うち》で保険を付けているサン・ナゼールの三|檣《しょう》帆船が坐礁したというわけなんだ。それがちょうど朝の八時だった。僕は十時に会社に行って指令を受けた。そして、その晩すぐに急行に乗り込んで、翌十二月三十一日にラ・ロシェルに着いた。
レー行のジャン・ギトン号に乗るまでにはまだ二時間の余裕があった。僕は町を一回りした。ラ・ロシェルの町は、実に奇妙な町で、そして極めて特徴のある町なのだ。町並はまるで迷宮《ラビラント》のように入り込み、そしてその歩道は、果て知れぬアーケード、ちょうどリヴォリ町のそれのようなアーケード、ただしそれよりずっと天井の低い柱廊の下を走っている。この圧しつぶされたような、一種異様な柱廊とアーケード、それはまるで何か陰謀者達のための道具立て、昔の戦争、勇壮残忍な宗教戦争の、古い、胸をうつような道具立てとして作られ、それがそのまま残っているとでもいったように思われた。まさにこれカルヴィン教徒のものらしい古い町だ。どっしりとして、どこか控え目で、別にぱっとしたものもなく、あのルーアンの町の壮麗さを作り出しているような素晴らしい建物もない。その代り、そのいかにも峻厳《しゅんげん》な、いささか陰険とさえ思われるほどな外貌が特徴になっていて、まさに、そこに当然|狂信《ファナチスム》が起らなければならない執拗《しつよう》頑強な闘士達の町であり、カルヴィン教徒の信仰が激発し、『四人軍曹反乱事件』の陰謀が生れなければならなかった町であることを示していた。
こうした奇怪な町中をしばらくうろついた後で、僕は、レー島へ渡るため、黒い、腹のふくれた、一|艘《そう》の小さな汽船に乗り込んだ。船は、まるで腹を立てたようにぜいぜい言いながら出発した。そして港を守る昔ながらの二つの塔を抜け、湾を過《よぎ》り、かつてリシュリュによって造られ、その巨大な幾つもの石が、今もなお大きな頸《くび》飾りとでもいったように町をかこんで水面に姿をみせている防波堤も越えた。そして船は右に向って斜めに路を取った。
その日は、ちょうど人の気持をいためつけ、圧し殺し、人の心を緊《し》めつけて、あらゆる力、あらゆる活気を消してしまうといったような、そうした物悲しい一日だった。鼠《ねずみ》色の凍《い》てついた一日、そして、雨のようにじめじめした、霜のように冷たい、また下水から立ち上る空気のように鼻持ちならぬ、重い霧に汚《よご》れた日であった。
この低い、陰気な霧の天井の下にあって、黄色い海、浅い、そして渚《なぎさ》が無限に打ち続いているこの砂ぶかい海は、そこに少しの小皺《こじわ》もなく、動きもなく、まるで死んでいるとでもいったよう。水が濁り、どろりとして、澱《よど》んで動かぬ海なのだった。ジャン・ギトン号は例によって少し揺れながら、この曇った、滑らかな水面を分けて行った。そして、うしろに、いささかの波、いささかの波音、いささかのうねりを残して行くのだったが、やがてそれも静まって行った。
僕は船長と話をはじめた。まるで脚がないといったような小男で、その船同様にずんぐりして、船と同じように身体《からだ》を揺っていた。僕は、これから査定に行く遭難事件について何か情報に接したいと思った。サン・ナゼールの大きな三檣帆船マリー・ジョゼフが、嵐の晩にレー島の浅瀬に坐礁した。船主からの報告によれば、船は嵐のためにぐんと打ち上げられてしまって、浮揚させることは全然不可能だった、そして一刻も早く、船から取り出し得るだけのものを持ち出さなければならなかった、ということだった。そこで僕は、難破船の状況を検証し、その遭難前の状態がどうであったかを確かめ、果たして再び浮揚させるに必要なだけのあらゆる努力がなされたかどうかを査定しなければならない。つまり僕は、後日|訴訟《そしょう》においてその必要が生じた場合、その反対の証言ができるようにと、会社の命令を受けてやって来ていたのだった。支配人は僕の報告の結果によって、会社の利益を救うに必要と認められる種々の手段を講ずることになっていた。
ジャン・ギトン号の船長は、一から十まで事件を知っていた。というのは、彼は自分の船で、救助作業の手伝いをさせられたからだった。
彼は僕に、遭難事件について話してくれた。が、事件は至って簡単だった。マリー・ジョゼフ号は、奔騰《ほんとう》する風にはたかれ、闇の中に針路を失い、泡立ちかえる海の上を――船長は『たけりたった海』という言葉をつかった――あてどもなく漂った末、干潮時にはそのあたり一帯を無限のサハラ砂漠に化してしまう大きな浅瀬に乗り上げてしまったのだ。
話を交しながら、僕は身のまわり、また行手の方を眺めていた。重く垂れ下った空と海との間には、はるばると遠くまで見通される自由な空間が残されていた。僕らはちょうど一つの陸地に沿って進んでいた。僕は訊ねた。
『あれですか、レー島は?』
『そうなんですよ』
たちまち、船長は、右手をぐっとわれらの行手に差し伸べて、海の中の、ほとんど見えない位の何物かを指した。そして僕に向って、
『それ、あれが問題の船ですよ!』
『マリー・ジョゼフですか?……』
『そうなんですよ』
僕はあっけに取られてしまった。あのほとんど目にもはいらないような黒い一点、暗礁と見あやまりもしそうなその一点は、海岸から少くも三キロは離れていそうに思われた。
僕は言った。
『だって船長、あそこだったら百|尋《ひろ》位はある筈でしょう?』
すると船長は笑いだした。
『百尋ですって!……冗談じゃない、二尋だってありませんや……』
船長は、ボルドー生れだった。彼は言葉をつづけてこう言った。
『上潮は九時四十分ですからな。で、ドーファン海峡で昼食をすまして、渚《なぎさ》伝いに懐手《ふところで》してお出かけになる。そうすれば二時五十分、せいぜい三時までには、足を濡《ぬ》らさず船のところまでおいでになれます。船には、一時間四十五分、ないし二時間はおいでになれる。それ以上となるともってのほか、潮につかまってしまいますよ。ぐっと遠くへ引くのも早いが、帰って来るのも早いんですから。この辺の浜と来たら、まるで皿みたいに平らなんでさ! よござんすか、四時五十分になったらお帰りになるんですよ。そしてこの船には七時半にお戻りになる。そうすれば、ちゃんと今夜は、ラ・ロシェルの波止場にお届け申して上げますからね』
僕は船長に礼を言った。そして船首の方に行って腰を下し、今や見る見るうちに近づいて行く小さなサン・マルタンの町に眺め入った。
この町、それは、あの陸地に沿って散らばっている貧しい島にとって、一種その首都とでもいった役割をつとめている、そうした小作りな港町を思わせるものだった。それは、大きな漁村とでもいったようなもので、一方の足を海に下し、一方の足は地上に据え、魚と家禽、野草と貝類、苔と貽貝《いがい》とで生活していた。島は、土地が極めて低く、大して耕作されていないようだったが、それでいて随分人口がつんでいるらしい。でも僕は、島の中にははいらなかった。
昼食をすますと、僕は小さな岬を一つ通り過ぎ、そして、潮がぐんぐん引いて行くままに、砂地の上を、あの遠か彼方の、水の上に見えていた一種の黒い岩のようなものの方に向って歩いて行った。
僕は、こうした黄色い砂原の上を急ぎ足に歩いて行った。それはまるで肉のように弾力性を持ち、足で踏まれると汗でもかくような感じだった。海はつい今しがたまでそこにあった。ところが今や、それは遥かに逃げて行きつつあるのだった。そして僕にはもはや砂地と大西洋とを分っているその線さえも見えなくなってしまっていた。僕はまるで、大がかりな、途方もない、夢幻劇でも見ているような気持だった。つい今しがた、大西洋は僕の眼の前にあった。ところが、それはたちまちまるで書割《かきわり》が切穴の中に消えてしまうように砂浜の中に消えてしまい、わが身は今、砂漠の中を歩いているのだった。ただ潮水の感じ、その風だけが僕の中に残っていた。僕は海草の匂い、波の匂い、海岸の荒い、だが爽やかな匂いを感じていた。僕は急ぎ足に歩いて行った。僕はもう寒いとも思わなかった。僕は、坐礁した船に、じっと目を注いでいた。それは歩みにつれて段々大きくなり、今ではちょうど打ち上げられた大きな鯨《くじら》といったように見えているのだった。
それはまるで地面から湧いて出たとでもいったように、この広々とした、平らな、黄色い眺めの中にあって、驚くほど大きな姿を示していた。一時間ばかり歩いた後で、僕はようやくそこまで辿りついた。それは片方の腹を下にして横たわっていた。腹が裂け、破れ、まるで動物の肋骨《ろっこつ》といったように、その折れた骨、歴青《れきせい》を塗り、大きな釘を打ち込んである木の骨を見せていた。その中には、すでに砂がありとあらゆる隙間からはいり込み、これをしっかり引《ひっ》つかみ、ぐっと握って、今やいっかな放しそうにも見えなかった。それはまるで、この船の中にしっかり根を下してしまっているかのようだった。船首の方は、やわらかい移り気な砂の中に深く突っ込み、船尾は高く上って、その黒い船腹に白く書かれた Marie-Joseph の二つの文字は、まるで絶望的な救いの声を、空に向って叫んでいるかのように見えていた。
僕は一番低くなったところからこの残骸に攀《よ》じ上った。そして甲板に上ると、そのまま船の中へはいって行った。日の光は、打ち抜かれた揚蓋《ハッチ》や船腹の割れ目からはいって来て、破壊された木片で一杯の、細長く、薄暗い、この一種穴倉とでもいったようなところを物悲しく照し出していた。そこにあるものはもはや砂ばかりで、それがこの板片《いたきれ》の地下室の床になっていた。
僕は、船の状況についてノートを取りに掛った。空っぽの、毀《こわ》れた樽《たる》の上に腰を下して、一つの大きな裂け目からはいって来る光りを頼りに書きつづけていた。その裂け目からは、無限にひろがる浜の眺めが見えていた。寒さと寂寥《せきりょう》との不思議な戦慄は、折々僕の皮膚を流れた。そして僕は、時に書く手を止めては、難破船の、漠とした不思議な物音に耳を澄ました。蟹《かに》がその鉤形《かぎなり》になった爪で船腹を引っ掻く音、逸早《いちはや》くもこの骸《むくろ》に陣取った数知れぬ小さな海の虫どもの立てる音、螺錐《ねじきり》のような軋《きし》みを立てて、ありとあらゆる骨組を間断なく嚼《かじ》りつづけ、遂にそれを穿《うが》ち、それを食《は》んでしまう、あのしずかな、規則正しい船虫の立てる音。
突然、僕は、すぐ傍で人声のするのを聞きつけた。僕は、まるで亡霊に出会ったかのように跳《おど》り上った。実のところ、僕は一瞬、二人の溺死人が立ち上って、その死んだ有様を語り出すのではあるまいかと思ったことだ。そうだ、僕はたちまち、両腕に力を込めて、やおら甲板の上に攀《よ》じ上った。そして僕の眼は、娘三人を連れて船首のところに立っている大柄な紳士、というより、三人のミスを連れた大柄なイギリス人を見たのだった。棄てられている船の上に、ひょっこり躍り出した男を見るなり、当の本人たる僕にもまして、先方の恐怖は更に大いなるものがあった。娘達の一人は逃げ出した。そして他の二人はしっかり父親にしがみついた。そして父親は、口をぱっくり開けたままだった。それのみが、彼の驚愕《きょうがく》をあらわしていたのだった。
やがて、しばらくの後、彼はこう言った。
『おお、この船の所有者《もちぬし》でいらっしゃいますか?』
『そうです』
『見せて頂いてもいいですか?』
『どうぞ』
すると彼は何やら長々と英語をしゃべった。そして僕には、時々繰り返される Gracious という言葉だけしか聞き分けられなかった。
彼は攀じ上るための足掛りを探していた。そこで僕は恰好の場所を教えてやり、そして手をかしてやった。彼は上って来た。それから二人は、今は安心しきった三人の娘達に手をかしてやった。娘は三人とも美しかった。とりわけ姉娘が際立っていた。これは十八になるブロンドの娘、まるで花のように瑞々《みずみず》しく、いかにもすっきりとして、それにまたいかにも可愛かった! 美しいイギリスの娘達は、ほんとに可隣な海の果実のようにも思われた。その姉娘のごとき、まるで今砂から生れて来て、髪にはまだ砂の色が残っているとでもいうようだった。娘達の何ともいえない瑞々しさは、淡紅な美妙な色、大洋の見知らぬ底に花咲いている珍らしい不思議な真珠を思わせた。
彼女は父よりはいくらかフランス語がうまかった。そこで彼女は、僕達の通訳をつとめてくれた。僕は難破の一件を、まるで僕自身遭難に遇ったかのように、その詳細に亙《わた》って拵《こしら》え上げて話して聞かせた。それから皆は、難破船の中へ降りて行った。光線の足りない薄暗い船の中にはいるやいなや、彼等は驚きと賛嘆の叫び声を上げた。そして父親と三人の娘達とはたちまち、その大きな防水服の下に隠していたらしいスケッチ・ブックを取り出すやいなや、この痛ましい、また怪奇な場面のスケッチを、四人一時に描き出した。
彼等は、そこに突き出た一つの桁構《けたがまえ》の上に並んで腰を下し、そして八つの膝の上にひろげられた四冊のスケッチ・ブックは、やがてマリー・ジョゼフ号の口を開けた胴中をあらわす幾つもの短かい黒い線で覆われて行った。
描きつづけながら、上の娘は妹と話していた。僕は相変らず船の残骸を調べつづけていた。
僕は彼等が、ビアリッツへ冬を過しにやって来ていて、そしてこのレー島へは、坐礁したこの船を見るためにわざわざやって来たのだということを知った。彼等には、例の英国人らしい尊大さというものが見えなかった。これこそは、イギリスが全世界にばらまいているところの、あのいかにも呑気な、人のいい連中、永遠の彷徨者《さすらいびと》といったような輩《てあい》だった。父親は、痩せた、ひょろりとした男だった。その赤味勝ちな顔をかこむに白い頬髯をもってしているところは、まさに生きたサンドイッチだった。まるで、両側を髯で取りかこまれた人間の顔の形に切り抜かれたハムの一片とでもいったようだった。娘達はといえばすらりと丈が高く、伸び盛りの渉禽《しょうきん》類といったように、姉娘を除いてはこれまた同じく痩せぎすだったが、三人が三人ともいかにも可愛らしく、特に姉娘において然《しか》りだった。
彼女が口を利くとき、話をするとき、笑うとき、何か分ったとき、何か分らなかったとき、深い水のように青いその目を上げて僕に問いかけるような様子をするとき、こちらの気持を察しようとしばらく筆を止めるとき、さらにふたたびその筆を走らせはじめるとき、そしてイエスとかノーとか答えるとき、そこに何とも言われぬ風情《ふぜい》があって、僕は彼女の言葉を聞き、彼女の姿をながめながら、いつまでもそのまま茫然としていそうに思われた。すると突然彼女がこう囁いた。
『船に、何か聞えましたわ』
僕は耳を澄ました。そしてすぐに、軽い、不思議な、連続した物音を聞き分けることができた。何だろう? 僕は、割れ目のところへ行ってそこから覗いた。僕は激しい叫び声を立てた。海が戻って来たのだ。もう少しすれば、僕達を取り巻いてしまおうとしているのだった!
僕達はすぐさま甲板に飛び出した。だがもうすでに遅かった。海は僕達を取り巻いてしまい、そして今や岸をめざして、目も眩《くら》むような勢いで走っていた。否、走っているといっては当らない。それは、滑っているのだった。這って行っているのだった。途方もなく大きな汚点《しみ》とでもいったように、どんどんひろがって行くのだった。砂の上を覆っているのはわずか数センチメートルの水に過ぎなかった。だがもうそこにはあの目に見えぬ波の描く縹渺《ひょうびょう》とした線も見えなかった。
英国人は飛び出そうとした。僕はそれを引き止めた。とても逃げ出せなんぞしないのだった。というのはあの幾つもの深い凹みがあるからなので、来るときはそのまわりを回って来たが、帰りには、おそらくそれに落ち込むおそれがあるからだった。
僕達すべてにとって、実に恐ろしい苦悩の一瞬だ。やがて姉娘は微笑しながらこう呟いた。
『今度はあたし達が難船しちまう番なのね!』
僕は笑ってみせたかった。だが僕は、恐怖の気持にしっかり緊《し》め上げられていた。卑怯な、憶病風だ。ちょうどこの海のように人知れずこっそり忍びよってくる恐怖の気持だ。僕等のさらされているあらゆる危険が、いま一時に目の前にあらわれた。僕は『助けてくれ!』と叫びたかった。だが一体誰に向って叫ぶのだ? 二人の妹は、しつかりと父にかじりついていた。そしてその父は、茫然とした眼差で、僕達の周囲に途方もなくひろがっているその海にながめ入っていた。
そしてどんどん潮を上げて来る海に劣らないほどの速さで、夜が、重い、じめじめした、凍ったような夜が下りて来た。
僕はこう言った。
『こうなったら、ここにじっとしているよりほかにありませんよ』
するとイギリス人は、
『オー、イエース!』
とそれに答えた。
そして僕達は十五分、三十分、実のところどれだけの時間かはっきり分らず、身のまわりに、黄色い潮が段々濃くなり、旋回し、まるで沸騰《ふっとう》しているかのごとく、ふたたび征服することのできた限りない砂浜のうえで、さも敗れてでもいるような有様をながめていた。
娘達のうちの一人が寒いと言い出した。そこで僕達は、強くはないが冷たい風、僕達の上を吹き、皮膚を刺激するその風を避けようと、ふたたび中に降りることにした。    僕は揚蓋《ハッチ》から下をのぞき込んだ。中はもう一杯の水だった。こうなれば後部船腹のところに蹲《うずく》まるより他に途はなかった。あそこなら、少しは風から庇《かば》ってもらえるだろう。
今、闇は僕達をすっかり包んでしまっていた。そして僕達は闇と水とに取り巻かれながら、互いに犇《ひし》と身を寄せ合っていた。僕には、自分の肩のところに、あのイギリス人の娘が、折々その歯をガタガタ言わせながら、肩を震わせているのが感じられた。と同時に、着物を通して彼女の身体《からだ》のぬくみが伝わり、その温かみが、まるで接吻のように楽しく感じられていたのだった。もう誰も口を利く者はない。僕達は黙り込み、暴風雨のときに溝の中にへばりついている動物とでもいったように蹲《うずくま》り、身動き一つしないでいた。がそれでいながら、夜でもあり、怖ろしい危険が高まりつつあるにもかかわらず、僕には、そこにいるということや、また、寒さや危険さえもが幸福そのものであるかのように思われ出し、この甲板の上で、こうした美しい、可愛らしい女性の傍で、何時間という闇の不安な時を過すこともまた幸福だと考えはじめていたのだった。
僕は、われとわが心に、こうした不思議な、楽しい、幸福な気持が湧き起って来たのはどうしたわけなのかと考えてみた。
なぜだろう? どうしたわけだろう? 彼女がそこにいるためだろうか? 彼女、それは一体誰のことなんだ? この、見ず知らずのイギリス人の娘のことか? でも、僕はその娘を愛してなんぞいなかったのだ。その娘を少しも知ってはいなかったのだ。しかも今、何となく心が動かされ、参ってしまったように思われるのは? 彼女を救い、彼女のためにわが身を捧げ、その他ありとあらゆる途方もないことさえやってのけたい気特になるとは? 何という奇怪なことだ! 唯一人の女性のためにこうまで気持がひっくりかえされてしまおうとは! その優雅な力に包まれてしまうとでもいうのだろうか? 美と若さとの誘惑に、まるで酒でも飲んだように酔わされてしまうとでもいうのだろうか? これこそはむしろあの恋というものの、その一種の予感とでもいったようなものではあるまいか? 恋という不思議なやつは、いつも人間を一つにしたがり、男と女を互いに向い合わさせたと見るが早いか、たちまち己《おの》が力を試し、ちょうど花を植えようとする土地に湿りをくれると同じように、二人の心におぼろげな、底に隠された深い感動、そうした感動を植えつけるのだ!
だが、闇の沈黙はますます深くなり、それはやがて虚空の沈黙に変って来た。僕達の耳には、身のまわりに、軽い、絶え間ないぞよめきの声、高まって来る低い海のざわめき、船にあたる単調な潮の音が、おぼろげに聞えていた。
たちまち啜り泣きの声が聞えた。一番下の娘が泣いているのだ。すると父親が慰めにかかった。二人は何やらこの僕には分らない、自国の言葉で話しはじめた。父親の方では娘に安心させてやろうとしていること、娘の方ではなお怖がっていることだけは僕にも分った。
僕は隣りにいる姉娘にたずねた。
『ミス、寒かありませんか?』
『寒いんですの、とても、とても』
だが外套を貸してやろうとすると、彼女はそれを斥《しりぞ》けた。だが僕は、もうすでにそれを脱いでしまっていた。僕はむりやり彼女にそれを着せてやった。ちょっとの間揉み合ううちに、僕は彼女の手に触った。それは僕の身体《からだ》全体に、快い戦慄を伝えた。
しばらく前から、空気は冷々として、船腹に当る波の音は更に高まっていた。僕は立ち上ってみた。一陣の風が顔に当った。風が出たのだ!
イギリス人の方も、僕と同時にそれに気づいた。そして、簡単にこう言った。
『いけませんね、これは……』
たしかにいけないにちがいなかった。もし波が、たとえそれが力の弱い波であっても、この船に当ってゆすりでもしたら、それこそ確かに死があるばかりだ。こんなに毀《こわ》れ、こんなにばらばらになっている以上、ちょっと強い波でも食ったが最後、たちまちぐずぐずに毀れてしまうだろう。
今や、段々激しくなって行く突風の音を聞きながら、僕達の不安は一刻一刻と募《つの》って行った。海はいささか荒れはじめ、闇の中に白い幾つもの線、泡立つ線が見え隠れし、一方一つ一つの波はマリー・ジョゼフ号の残骸に打ち当って、心の底までぞっとさせるような短かい震動を感じさせていた。
娘は震えていた。僕は彼女の震えているのを感じながら、彼女を腕に抱きしめたいという、狂おしいほどの気持に駆られていた。
かなたには、僕等の前にも、右にも左にも、また僕等のうしろにも、ずっと海岸に幾つもの燈台が煌《きら》めいていた。白、黄、赤の燈台、回転燈台、それはまるで大きな眼とでもいったようだった。巨人の眼のようなその眼はじっと僕達を見守り、僕達を窺《うかが》い、僕達の姿の見えなくなるのを舌なめずりして待ちかまえているように思われた。中に一つ、とりわけいらいらさせるやつがあった。それは三十秒ごとに消え、そしてまたすぐに点《とも》るのだった。それこそまったく一つの眼だった。焔の眼差のうえに、絶えず瞼《まぶた》が下りかぶさるのだった。
イギリス人は、時々マッチを擦《す》っては時計を見た。そして再びそれをポケットにしまった。と、たちまち彼は、娘達の頭越しに、荘重な、改った口調でこう言った。
『明けましておめでとう』
ちょうど夜中の十二時だった。手を差し出すと、彼は握った。そして何か英語を喋ったかと思うと、たちまち彼と娘達とは『ゴッド・セーヴ・ザ・クイーン』を歌い出した。その歌声は、暗い空の中、しんとした空の中に上って行き、そして虚空の中に消えて行った。
僕は最初、何だか笑い出したかった。だがやがて、逞《たく》ましい、奇怪な感動を禁じ得なかった。難破したもの、宣告を下されたものの口から流れ出たこの歌、そこには何かしら悲痛な、と同時に堂々たるもの、たとえば祈祷《きとう》とでもいったようなもの、同時にそれより更に大きなもの、あの古《いにしえ》の荘重な Ave Caesar, morituri te salutant〔「皇帝に敬礼す。まさに死に行かんとするもの、いま君に敬礼す」の意。ローマの闘士が闘技場に入るに当り、玉座の前を通りながらなした挨拶〕にも比すべきほどのものがあった。
彼等が歌い終ったとき、彼は自分の隣の娘に向って、今度は彼女一人でバラッドなり、レジェンドなり、あるいは何でも彼女の好きなものを、皆にこの不安を忘れさせるために歌ってくれないかと言った。彼女はそれを承知した。そしてたちまち、澄んだ、若々しい彼女の声が闇の中に飛び散って行った。彼女はたしかに、何か悲しい歌をうたっているのにちがいなかった。なぜかといえば、歌は長く長くその尾を引き、静かに静かに彼女の口から歌われ、そしてまるで傷ついた小鳥のように、波の上を飛び立って行ったからだった。
海はますます高まり、船をどんどん叩いていた。だが僕には、もうその歌声だけしか聞えなかった。そして僕は、あの人魚《シレーヌ》のことを考えていた。もし一隻の船が僕達の傍を通りかかったら、その乗組の水夫達は果たして何と言うだろうか? あまりの不安に堪えかねて、僕の心は夢の中へとさまよい出した! おお、人魚! そうだ、この虫くいだらけの船の上に僕を引きとめ、そしてもうじきこの僕もろとも、波の中へとはまり込んでしまうであろうこの海の娘は、実は人魚だったのではないだろうか?……
ところが突然、皆はどさりと甲板の上に転がされた。マリー・ジョゼフの右の船腹がのめったのだ。娘は僕の上に倒れて釆た。僕は彼女を腕の中に抱えた。そしてまるで気が狂ったかのように、前後の見さかいもなく、いよいよ最後の時が来たと、彼女の頬、彼女のこめかみ、彼女の髪と、激しく接吻したのだった。船はそれきり動かなかった。僕達もまた動かなかった。
娘親が『ケート!』と呼んだ。すると僕に抱かれていた彼女は『イエス』と答えた。そしてたちまち身体《からだ》を振りほどいた。その瞬間、僕は、船が真二つに裂けてしまい、二人で波の底へ落ち込んでしまうことができたらと思った。
イギリス人はまた言った。
『ちょっと揺れたまでじゃ。何のこともない。娘三人も無事じゃった』
姉娘の姿が見えなかった彼は、最初、娘がさらわれたものと思っていたのだ!
僕はやおら立ち上った。と突然、僕達のつい近く、海の上に灯が一つ見えた。呼んでみると返事があった。それはホテルの亭主が僕達の軽率に気がついて、探しに来てくれた船だった。
僕達は救われた。しかも、僕はすっかりしょげていた! 僕達は船から救われ、そしてサン・マルタンに連れ戻された。
イギリス人は、揉手《もみて》をしながら呟いていた。『晩飯だ! うまい晩飯だ!……』
その晩飯にもありついた。だが僕は、何だか心が浮かなかった。マリー・ジョゼフのことが思い出されてならないのだった。
さて翌日、何度となく抱擁やら文通の約束やらをし合った後で、僕達は別れなければならなかった。彼等はビアリッツへ向けてたって行った。僕は危うく彼等と一緒に行きかけた。
僕は、気が狂ったようになっていた。危うく、結婚の申込みさえしかねなかった。そうだ、もしも一緒に一週間もいたら、たしかに彼女と結婚したにちがいなかった! 人間って、どうして時々、こんなに弱く、また不可解なものになるんだろう!
それから二年というもの、僕は彼等の噂を少しも聞くことなしに過した。と僕は、ニューヨーク発の手紙を受け取った。彼女は結婚した。そしてそのことを僕に知らせてよこしたのだ。それからというもの、僕達は毎年、正月元日に手紙のやり取りをする。彼女は、その生活のこと、子供達、妹達のことなどを書いてよこす。だが夫については何とも書いてよこさないんだ! なぜだろう? そう、なぜだろう?‥…そして僕の方から書いてやるのは、いつもあのマリー・ジョゼフ号のことなんだ……恐らくは僕が愛したたった一人の女……ちがう……僕が愛したであろうたった一人の女……おお……それもこうしたありさまなんだ……人は、いろんな事件に動かされる……だがその後では……その後では……すべては過ぎ去ってしまうのだ……彼女も今は随分年をとったことだろう……会ってもそれとは分るまい……おお! 昔の彼女……難破船の彼女……それはじつに……神々しいほどの女だった! 手紙によれば、髪も真白になったという……おお!……それを聞いて、僕はほんとに辛かった……おお! あのブロンドの彼女の髪…‥そうだ、もはや僕の彼女は居ないのだ……あれやこれや思えば、何と悲しいことだろう!……」
[#改ページ]
オトー父子
半ば農家で半ば邸宅のような家――かつては領主とでもいった人が居を構えていたあとを、今は富裕な農夫達が住んでいる折衷《せっちゅう》式な農家がよくあるが、これもそうした家の一つだった――の扉の前で、庭の林檎《りんご》の樹に縛りつけられた犬どもが、番人や子供達の持っている獲物|嚢《ぶくろ》を見て、熾《さか》んに吼《ほ》えたてていた。食堂と台所が一緒になっている大きな部屋の中では、オトー父子《おやこ》と収税吏のベルモン氏と、公証人のモンダリュ氏が、猟に出かける前に先ず、軽い食事をとり、一杯傾けていた。この日は狩猟解禁の日だったのだ。
父の方のオトーは、自分の所有しているすべてのものが自慢で、お客達がこれから自分の所有地で見つけるに違いない獲物のことを今のうちから鼻にかけていた。彼は背の高いノルマンディ人で、よく林檎車でも肩にかつぎあげるという、力の強い、多血質の、骨っぽい人がいるが、彼もその一人だった。半ば農夫で、半ば紳士で、金持で、ひとの尊敬も受け、なかなか勢力があり、そして一徹者《いってつもの》の彼は、息子のセザールには、一応の教育を持つようにと、高等学校の六年級まで学校を続けさせたが、息子が土に対して無関心な紳士にでもなっては困ると思って、そこで勉強を打ち切らした。
セザールはほとんど父と同じ位の背丈があったが、父よりは痩せていた。おとなしくて、何事にも満足し、父の意見や意志に対しては、賛嘆と尊敬と謙譲の念に満たされた善良な息子だった。
赤い頬の上に、地図に描かれた河の曲りくねった流れや細い支流に似た紫色の血管が、細い網《あみ》の目のように浮んでいる、背の低い太っちょの、収税吏ベルモン氏が訊《き》いた。
「で兎は――兎いますかね?」
親父《おやじ》さんのオトーが答えた。
「いくらでも、お望みなだけいますよ、なかでも、あのピュイザティエの窪地《くぼち》にはうんとございますよ」
「どこから始めますかな?」――と公証人が、陽気で快活な公証人が訊いた。脂肥《あぶらぶと》りで皮膚の色の蒼白い彼は、下腹が飛び出、先週ルーアンで買ったばかりの真新しい狩猟服には革帯を締めていた。
「じゃ、あそこから、あの窪地からはじめましょう。鷓鴣《しゃこ》を野っ原に追いこんで、ひとつ上から射ってやりましょう」
そう言ってオトー爺さんは立ち上った。皆もそれに倣《なら》って、隅に立てかけた銃を手に取って遊底を調べ、足を踏みならして、まだ血液の温かさによって柔かくなっていない少し硬い靴の中にきっちりと足をはめこませた。それから皆は出かけた。犬どもは、鎖の先端《さき》に立ち上り、前肢で空間を掻きながら、鋭い啼き声を立てた。
皆は窪地の方へ歩いて行った。そこは小さな谷間、というよりは寧《むし》ろ、痩せた土地が大きく波打って窪んだ所で、痩地《やせち》というのでそのまま耕さずにほったらかしになってい、細い急な流れが幾条も走り、歯朶《しだ》が一面に生え繁っていて、獲物となる鳥や獣を養い置くにはもってこいの場所だった。
猟人達は横に散った。オトー爺さんは右の端、息子のオトーは左の端、そして二人の客人は真中に位置を取った。番人と獲物嚢を持った男達がその後に続いていた。それは、皆が最初の一発を待っている緊張した瞬間で、心臓は少しどきどきし、そして神経質な指は絶えず引金に触れるのだった。
突然、どんと銃声が響いた! オトー爺さんが射ったのだ。皆は立ちどまった。一羽の鷓鴣《しゃこ》が、一散に飛び去る仲間から離れ、谷間の荊棘《いばら》の叢《くさむら》の下に落ちて行ったのが見えた。興奮した猟人は、走りはじめた。大股に、邪魔になる茨を引き技きながら。そして、彼の姿もまた、獲物を探すので、叢の下に消えて見えなくなった。
それとほとんど同時に、二度目の銃声が響いた。
「やあ、やあ、奴《やっこ》さん」とベルモン氏が叫んだ。「あそこで兎を見つけだしたな」
皆は待ち構えていた。内部《なか》の方が見通せない、その枝の繁みの方をじっと見つめながら。
公証人が、手を喇叭《ラッパ》のようにして、大声に叫んだ。「獲《と》れましたかあ?」オトー爺さんの返事はなかった。そこで、セザールは、番人の方を向いて言った。「ジョゼフ、助けに行ってこい。真直ぐ歩かなけれゃ駄目だぞ。俺達はここで待ってる」
さて、立ち枯れた樹のような、節くれ立って、すべての関節が瘤《こぶ》になっているジョゼフは、落ちついた足取りで出かけ、狐のような用心深さで、通行できる隙間を探しながら、谷間へ降りて行った。するとただちに、彼の叫び声がきこえた。
「おう! みんな来ててくれ! 来てくれ! 大変なことじゃ!」
皆は走りだした。そして茨の中に飛びこんで行った。オトー爺さんが、気を失って横向きに倒れ、両手で腹を抑えていた。そこから、弾丸《たま》で裂けたリンネル地の胴着を通して、血が草の上に、長く尾を引いて流れ出ていた。手の届くところに落ちている死んだ鷓鴣《しゃこ》を拾おうと、銃を持った手を弛《ゆる》めた拍子に、銃が下に落ちて、その衝撃《ショック》で二発目が発射し、彼の臓腑《ぞうふ》をえぐったのだった。
皆は彼を窪地から運びだし、服を脱がせた。すると腸のはみ出た怖しい傷口が現れた。さてそこで、どうにかこうにか傷口を塞《ふさ》いだ後に、彼の家へ運んで行った。そして、呼びにやった医者と司祭さんがやってくるのを待った。
医者がやって来た時、彼は重そうに腰を動かし、椅子の上で噎《むせ》び泣いている息子の方を向いて言った。
「可哀そうな子供や、どうもこれゃいけないらしい」
しかし、傷の手当が終るや、負傷者は指を動かし、口を開き、次いで眼を開き、濁った血走った眼でじっと前を見つめ、次に、何かしらを記憶の中でまさぐり、憶《おも》い出し、やっと解ったような様子をした。そして彼は呟いた。
「ああ! もう駄目だ」
医師は彼の手を取った。
「いや、いや、ただ五、六日安静にしてらっしゃりさえすれば、なにごともありませんよ」
オトーは再び口を開けた。
「そうだ! わしは腹に穴を開けたんだ! たしかにそうだ」
それからいきなり、
「もしも死ぬにまだひまがあったら、息子に話したいんですがね」と言った。
息子のオトーは、泣くまいと思っても涙が出て来、まるで小さな子供のように繰り返していた。
「パパ、パパ、お気の毒なパパ!」
だが父親は、一層しっかりした調子で言った。
「さあ、泣くのはやめろ、泣いてなんかいる時じゃない。わしはお前に話したいことがある。そこにお坐り、ずっと側に寄ってくれ、用事はすぐ済むことだ。それが済めばわしも安心できるというものだ。皆さん、申し訳ありませんが、しばらくどうぞ」
皆は、息子を父の前に残したまま、部屋から出て行った。
二人っきりになるやいなや父親は言った。
「なあ、お前ももう二十四だから、なんでも遠慮なしに言っていいわけだ。それに、わしが話そうってことには、なにもそんなに神秘な秘密があるわけじゃない。お前のお母さんは七年前になくなったんだったな、ええ? そして、わしは十九の歳に結婚したんだから、四十五以上にはならないわけだな、ええ?」
息子は呟いた。
「そうです、その通りです」
「さて、お前のお母さんは七年前になくなった。そしてわしは鰥夫《やもめ》暮しをつづけてる。さて、ところで、わしのような男は、三十七で鰥夫暮しをするなんてことはとてもできぬ、そうじゃないかな?」
息子は答えた。
「そうです、その通りです」
父親は、息を途切らせ、蒼白な顔をひきつらせながら続けた。
「ああ痛っ! さて、解ってくれるね。男はただ一人で住めるように作られてはいないのだ。だが、わしはお前のお母さんのあとに、後妻《のちぞい》を貰おうとは思わなかった。お母さんにちゃんと約束したんでな。そこで……お前解ってくれるね?」
「ええ、お父さん」
「さてそこで、わしはルーアンに一人の女を囲ったんだ。レベルラン街十八番地の、四階の、二番目の扉の部屋にな――わしはお前にみんなそれを言うから、忘れてくれるなよ――だがその女は、親切で、一生懸命わしのことを考えてくれ、優しくて、忠実で、ほんとに立派な女だよ。ええ? 解るかね?」
「ええ、お父さん」
「で、もしもわしが死んだら、わしほ彼女になにかしらを与えなくちゃならぬ、それも、彼女の身の安全を保証してやるだけの、しつかりしたなにかをな。解るかね?」
「ええ、お父さん」
「まったく、立派な女だよ、いや、実際見上げた女だよ。お前がいなければ、お前のお母さんの想い出がなければ、それからまた、わし達三人が暮した家がなければ、わしは彼女をここに連れてきただろう。そしてもちろんのこと、結婚しただろう……聴いてくれ……まあ聴いてくれ……わしは遺言状をつくることもできただろう……しかしわしはつくらなかった! わしはそんなものをつくりたくなかった……なぜって紙にそんなことを書き残して置くものじゃないからな……そんなことはな……そんなことをすると、お前に残す遺留《いりゅう》分が損害を受けすぎることになるからな。……それにそんなものは、ことを縺《もつ》れさせるもとだ……みんなに迷惑をかけるもとだ……いいかね、印紙をはった書類なんて、必要のないものだ、決してそんなものは使うものじゃない。わしが今金持だとすれば、それはわしが一生そんなものを使わなかったからだ。解るね?」
「ええ、お父さん」
「もう少し聴いてくれ……よく聴いててくれ……そこで、わしは遺言状はつくらなかった……そんなものつくりたくなかったのだ……それに、わしはお前のことをよく識ってるが、お前はやさしい心を持った男だ、強欲でもなければ、吝嗇《けち》でもない、まったくのところ。でわしはかねがね思ってたものだ、死ぬ時には、お前にすべてを打ち明けよう、そしてあの女のことを忘れないでくれるように頼もうとな。レベルラン街十八番地、四階、二番目の扉のカロリーヌ・ドネだ、忘れないでくれ。――それから、もう少し聴いてくれ。わしが死んだら、早速そこに行ってくれ――そして、彼女がわしの想い出に愚痴《ぐち》をこぼすことがないようにことを処理してくれ。――お前にはそれだけの財産《もの》があるのだ。――お前はそれができるのだ――わしがそれだけのものは十分に残してやってるのだからね……いいかね……彼女は普通の日は家《うち》にはいないよ。彼女はボーヴォアジーヌ街のモロー夫人の家で働いてるのだ。木曜日に行ってくれ。その日は彼女はわしを待ってるのだ。それは六年このかた、わしの日なのだ。可哀そうに、さぞかし泣くことだろうな!……わしはお前になにもかも打ち明ける、なぜって、わしはお前をよく識ってるんだからな。こうしたことは、誰にも、公証人にも、司祭さんにも話せないものだ。こんなことがあり得るってことは、誰でもが知っている。だが、よっぽどせっぱつまった場合でもなければ、口に出してひとに言えるものじゃない。だから、外部の人は誰も秘密は知らないのだ。家族の者しか知らないのだ。なぜなら家族ってものは、みんな一心同体のものだからな。解るかね?」
「ええ、お父さん」
「約束してくれるかね?」
「ええ、お父さん」
「誓うかな?」
「ええ、お父さん」
「お願いだ、お頼みだ、どうか忘れないでくれ。きっとだよ」
「大丈夫です、お父さん」
「お前自身で行ってくれ。お前にすべてを処理して貰いたいのだ」
「承知しました、お父さん」
「それから、それからさきは……彼女がお前に説明することをきいてくれ。わしはもうこれ以上話せない。誓ったね?」
「大丈夫です、お父さん」
「ではよしと。さあ、子供や、わしに接吻してくれ。おわかれだ。わしはもう駄目だ、はっきりそうとわかる。皆さんに、おはいり下さるように言ってくれ」
息子のオトーは、噎《むせ》びながら、父親に接吻した。そして、いつも従順な彼は、言いつけ通りに、扉を開けた。すると、白衣を纏《まと》い、聖油を手に捧げた司祭がはいってきた。
しかし瀕死《ひんし》の負傷者は眼を閉じていた。そしてそれを開けることを拒んだ。返事をすることも、ひとの言葉が解るということをただの合図によって示すことさえも拒んだ。
彼はもう十分語ったのだ。それでもう精根が尽きてしまったのだ。それに彼は今は胸に落ちつきを感じていたのだ。彼は静かに死んで行きたいと願っていた。この上何を、この神の代理者たる司祭に告白することがあろう、なぜって自分の血を享《う》けた自分の息子に今告白してしまったところなのだ!
友人達や跪《ひざまず》いた召使達に取り囲まれながら、彼は秘蹟を授けられ、浄《きよ》められ、罪を恕《ゆる》された。その間にも、彼の顔の表情には、まだ生命があるということを示すただ一つの動きも現れなかった。
彼は真夜中頃、怖しい苦痛を示す痙攣《けいれん》を四時間位続けた後、息を引きとった。
狩猟が解禁されたのは日曜日だったから、彼が埋葬されたのは火曜日だった。父親を墓地に送って行った後、自分の家に帰ってきたセザール・オトーは、その日一日を涙に暮した。彼はその夜もほとんど眠れなかった。そして翌朝眼が覚めた時、むやみに悲しくて、こんなことではこれから先どうして生きて行けるかしらとまで考えた。
それでも彼は、父親の最後の意志に従うために、翌日ルーアンに行って、レベルラン街十八番地の、四階の二番目の部屋に住んでいるあのカロリーヌ・ドネに会わねばならないと、夜に到るまで考えていた。彼は低い声で、まるでお祈りでも唱えるように、この名前とこの宛名を、忘れないようにと、幾度となく繰り返していた。するとしまいには、それをもう止めることができなくなり、何を考えることもできないで、ただ際限なくいつまでも口の中でぶつぶつ呟いていた。それほど彼の舌と彼の心は、この文句に憑《つ》かれていたのだった。
さてその翌日、八時頃、彼は二輪馬車にグランドルジュを繋がせ、アンヴィルからルーアンへの大きな街道の上に、ノルマンディ産の足の重い馬を一散に走らせた。彼は黒いフロックコートを身につけ、頭には大きな絹帽をかぶり、そして脚には皮紐つきの半ズボンを穿《は》いていた。場合が場合なので、綺麗な服の上に、あの、風にふくらみ、服地を埃や汚点《しみ》から防いでくれ、そして目的地に着いて馬車から降りるやいなやすばやく脱いでしまう、あの青い仕事着《ブルース》は羽織りたくなかったのだった。
ルーアンの町にはいった時、十時がなった。彼はいつものように、トロア・マール街のボンザンファン・ホテルの前に馬車をとめた。そして、ホテルの主人や主婦《かみ》さんや、五人の子供達の抱擁を受けた。というのはホテルの人達は悲しい報知《しらせ》を識っていたのだった。さてそれから彼は、不意な出来事の詳細を語ってやらねばならなかった。そうこうしているうちに、彼は自分の話で涙が出てきた。そして、しきりに機嫌を取ろうとするこれらの人々――というのは、彼が金持だということを彼等は知っていたからだった――の世話をば断わり、彼等の用意した昼飯までも断わった。それは彼等の気持を害《そこ》ねた。
さて、帽子の埃を払い、フロックコートに刷毛《ブラシ》をかけ、靴を拭ったのち、彼はレベルラン街を探しに出かけた。彼は、他人に知られて、疑惑を喚《よ》び起すことが怖くて、誰にも道をきこうとしなかった。
だが、見つからないもので、とうとう一人の司祭の姿を認め、聖職者の職業的な慎しみ深さを信用して彼の傍に寄ってきいてみた。
それはそこから百歩ばかりの所でしかなかった。右に歩いて、ちょうど二番目の通りだった。
さて、彼はためらった。これまでは、死んだ父の意志に、まるで獣のように従っていたのだった。だが今は、息子の自分が、父親の情婦だった女の前に出るのだという考えに屈辱を感じ、胸を乱され、困惑しきっていた。幾世紀もの代々の教育によって、われわれの感情の奥底に堆積し、われわれの胸の裡に隠されているあらゆる道徳観、彼が教理問答で教育を受けた子供の時代からずっと日陰の女について終っているすべての観念、すべての男が彼女達に対して抱いている本能的な軽蔑――たとえそうした素性の女の一人を自分が娶《めと》っている場合でもそうだ――田舎の人間に有り勝ちな彼の狭隘《きょうあい》な廉恥心《れんちしん》、そういったものが彼の胸の中で騒ぎ立ち、彼を引きとめ、彼に恥ずかしい思いをさせ、彼の顔をあからめさせたのだった。
しかし彼は考えた。――「俺はお父さんに約束したのだ。約束を破ってはならぬ」と。そこで、十八番地と記《しる》されてある家の、半ば開かれた扉を押すと、暗い階段があった。四階まで昇ると、一つの扉が、それからその次の扉が眼にはいった。彼はそこに呼鈴の紐を見つけて、それを引っぱった。
チリンチリンという音が隣りの部屋で響いた。それを聞くと、彼の身体《からだ》を冷たい戦慄が走った。扉が開かれ、眼の前に、きちんとした服装《みなり》の、顔にお化粧をした、栗色の髪の毛の若い婦人が現れた。その婦人はびっくりした眼で彼を見つめていた。
彼は何と言っていいか言葉が見つからなかった。そして、もちろんまだ何事も知らず、別の人を待ち設けていた彼女は、彼に中へはいるようにとは勧めなかった。二人は、こうして、三十秒近くも互いに顔を見合っていた。
ついに彼女がたずねた。
「何か御用でございますか?」
彼は口の中で言った。
「私はオトーの息子です」
彼女は飛び上らんばかりに驚いて、真蒼《まっさお》な顔色になった。そしてずっと前から彼のことを識っているかのように口ごもりながら言った。
「では、セザールさまですか?」
「そうです」
「それで……?」
「父の代理として、お話し申し上げたいことがあるのです」
彼女は――「まあ!」――と言って、彼を中へ招じ入れるために後退《あとずさ》りした。彼は扉を閉めて、彼女のあとについてはいった。
と、そこに、火にかけられている御馳走から湯気が立ちのぼっている竈《かまど》の前に、地面に坐ったまま猫と遊んでいる四つか五つ位の小さな子供の姿が眼にはいった。
「どうぞおかけ下さいまし」と彼女は言った。
彼は腰をおろした。……彼女はきいた。
「御用件は?」
彼はもはや言いだせなかった。彼の眼は、部屋の真中にしつらえられて、子供を入れて三人前の食器が並べてある食卓の上にじっと注がれていた。彼は、背を火の方に向けている椅子、皿、ナプキン、コップ、口を切られた赤葡萄酒の壜《びん》、まだ手のついてない白葡萄酒の壜などを見回していた。それは父親の席だった、背を火の方に向けた! 彼女達は父を待っていたのだ。彼が見たのは、彼がフォークのそばに認めたのは、父のたべるパンだった。なぜなら、父の歯が悪いのを慮《おもんばか》って、固い皮がむしり取ってあったから。それから、眼を上げると、そこの壁の上に、父の肖像、博覧会のあった年パリで写した大きな写真を見出した。それは、アンヴィルの父の寝台の上に掛けてあるのと同じ写真だった。
若い婦人は再び口を開いた。
「御用件はなんでしょう、セザールさま?」
彼は彼女の顔を見た。苦痛が彼女の顔を鉛色にしていた。彼女は恐怖に手をぶるぶる顫《ふる》わせながら待っていた。
そこで、彼は思いきって言った。
「じつは、パパが、この日曜日に、狩猟の解禁日にでかけて死んだのです」
彼女はすっかり気が転倒してしまって、身体も動かさなかった。しばらくの沈黙の後、彼女はほとんど聞きとれない位の声で呟いた。
「まあ! そんなことが!」
次に、突然、涙が彼女の眼に湧き出た。と思うと、両手で顔を蔽《おお》いかくして、噎《むせ》び泣きはじめた。
すると、子供がうしろを振り向いた。そして、涙に泣きぬれている母親を見ると、大声をあげた。それから、この突然の悲しみは、そこに居る見知らぬ男から齎《もたら》されたのだとわかると、セザールに飛びかかり、一方の手で彼の半ズボンをつかまえ、もう一方の手で、力一杯に彼の腿《もも》を叩きつづけた。そこでセザールは、彼の父親のことを泣いているこの女と、自分の母親を守っているこの子供との間に挟まれて、胸を衝《つ》かれたまま、ただ茫然としていた。そうこうしているうち、彼自身も、胸が迫ってくるような気がし、眼が悲しみのためにふくれてきた。そこで彼は、落ちつきを取り戻すために、話しはじめた。
「そうです」と彼は言った。「不孝な出来事は、日曜日の朝の、八時頃起きたのです……」彼は、彼女が聴いているかのように思いこんで、どんな細かなことも忘れずに、田舎の人によくあるあの細心さをもって、この上もなく些細なことまで残らず語った。小さな子供は、今度は彼の踝《くるぶし》を蹴《け》りながら相変らず彼の腿を叩きつづけていた。
父のオトーが彼女のことを話したという条《くだり》にまで来た時、彼女は自分の名前を耳にして、顔から手を離して、たずねた。
「御免下さい。私、あなたのお話をきいていませんでしたの、私伺いたいと思いますわ……もう一度はじめからお話し下さるのがお気に障りませんでしたら」
彼は再び同じ言葉ではじめから話しはじめた。「不幸な出来事は、日曜日の朝の、八時頃起きたのです……」
彼は、途中幾度か話を途切らせたり、時折頭に浮んでくる考えを交えたりして、長いことかかって一切を語った。彼女は、女性の神経質な感受性をもって、彼の語る椿事《ちんじ》の一部始終を感知し、怖しさに身を顫わせ、時々「まあ!」と声をたてながら、熱心に聴き入っていた。子供は、母親の気持が鎮まったものと思いこんで、もうセザールを叩くのをやめていた。そして母親の手を取り、まるで自分にも話がわかるかのように、彼もまた耳を澄ましていた。
話が終った時、息子のオトーは再び口を開いた。
「さあ、これから、父の意志通りに、御一緒に御相談致しましょう。まあお聴き下さい。私は裕福なのです。父が財産を残してくれましたからね。私は、あなたに御不満な思いをおさせしたくないのです……」
しかし彼女はせきこんで、彼の言葉を遮《さえぎ》った。
「いいえ、セザールさま、セザールさま、今日は止しましょう。私は胸が一杯なのです……今度、またの日に致しましょう……いいえ、今日は駄目ですわ……よし私が、あなたさまのお申出をお受けしましても……お聞き下さいまし……それは私のためにではないのです……いいえ、いいえ、いいえ、それはお誓い致しますわ。それはこの小さな子供のためにです。結局、その財産はこの子供にかけることになるのですわ」
そう聞いて、セザールはびっくりし、それと察し、口ごもった。
「では……父の子供なんですか……この子供さんは?」
「もちろんそうなのです」と彼女は言った。
そこで息子のオトーは、錯雑した、激しい、胸苦しい感動をもって、自分の弟を見つめた。
長い沈然の後に――というのは彼女は再び泣いていたから――すっかり当惑してしまったセザールは、再び口を開いた。
「では、ドネさん、これで失礼致します。いつ、そのことに就いてお相談致しましょうね?」
彼女は大声に叫んだ。
「いいえ、いいえ、まだお帰りになってはいけませんわ、お帰りになってはいけませんわ。私をエミールと二人っきりに残しておかないで下さいまし! それでは私、悲しくて死ぬかもわかりませんわ。私はもう一人ぼっちなのです、この子供しかいないのです。まあ! なんて惨めなことでしょう、なんて惨めなことでしょう、ねえセザールさま! さあおかけ下さいまし。もっと何か話して下さいまし。あなたのお父さまが、お家《うち》で、一週間中、何をしてらっしゃいましたか、話して下さいまし」
そう言われて、いつも他人の言うことをきくに慣れているセザールは腰をおろした。
彼女は、自分のために、もう一つの椅子を、相変らず御馳走がとろ火で煮えてる竈《かまど》の前に近づけ、エミールを膝の上に抱きあげた。そして、セザールに、彼の父に就いてのいろんなこと、内輪なことをあれこれたずねた。そこには、彼女が女性の哀れな真心をこめてオトーを愛しているということが窺《うかが》われ、彼は理屈なしにはっきりそれを感じた。
さて、彼の頭にはそう沢山の思念《かんがえ》はないので、話は自然、再びあの椿事《ちんじ》に戻り、そっくり同じ顛末をまた語りはじめるのだった。
彼が、「腹に穴が開いたのです。拳二つ位はそこにはいったでしょう」と言った時、彼女は叫びに似た声をあげた。そして、涙がまた、眼から迸《ほとばし》りでてきた。すると、セザールもそれに釣りこまれて、自分も同じように泣きはじめた。さて、涙というものはいつも人の胸を感動させるものである。彼も思わず、その額が自分の口のすぐそばにあるエミールの方へ身体を屈《かが》めるやこれに接吻した。
母親は息を継いで、呟いた。
「可哀そうな坊や、これからは孤児《みなしご》ですわ」
「私もそうです」とセザールが言った。
そして、二人とももう黙っていた。
ところが、いきなり、すべてに気を配ることに慣れている女中の実際的な本能が、若い女の裡に眼覚めた。
「多分まだ、朝から何も召し上ってらっしゃらないのでしょうね、セザールさま」
「ええ」
「まあ! ではお腹おすきでしょう。一口召し上ってはいかがですか」
「有難う存じます」と彼は言った。「お腹はすいてはいません。あんまり苦しみが大きいもので」
彼女は答えた。
「どんなにお苦しくても、召し上るものは召し上らねばなりませんわ。どうぞ御辞退なさらないで下さいまし! それに、もう少しここにいて下さいまし。あなたさまがお帰りになりましたら、私どんなことになりますかわかりませんわ」
なおもしばらく辞退していたが、ついに彼は相手に譲った。そして、火を背にして、彼女と向き合って坐り、竈《かまど》の中でちびちび音をたてていた臓物料理を一皿喰べ、赤葡萄酒を一杯飲んだ。しかし、彼は、彼女が白葡萄酒の栓を抜こうというのは承知しなかった。
幾度となく、彼は、ソースで顎《あご》じゅう汚す子供の口を拭いてやった。
帰ろうと立ち上った時、彼はきいた。
「いつ御相談に参ったらいいでしょうね?」
「もしも、お差し支えがありませんでしたら、来週の木曜日にいらしていただけませんでしょうか。そうして頂けますと、私の方はほかの日の時間をつぶさないですむのですが。私はいつも木曜日に身体《からだ》が空《あ》いているのです」
「こちらもそれで結構です。来週の木曜日ですね」
「お昼飯を召し上って下さいますわね?」
「おお! それは、御約束できません」
「でも、御飯をたべながらだと、よくお話しができますわ。それにまたその方がゆっくり時間があって」
「では、そう致しましょう。では正午に参ります」
そう言って、もう一度エミールに接吻し、ドネ嬢の手を握った後に、彼は出て行った。
セザール・オトーには一週間が非常に長く感じられた。これまで彼はたった一人きりでいたことはなかったので、孤独はじつに堪えがたいものに思えた。これまで彼は、父のそばに、まるでその影のように倚《よ》りそって生きていた。父について畑に行き、父の命令が実行されるのを監視し、そして、しばらく父のもとを離れていても、食事の時にはまたすぐ一緒になるといった具合だった。夜は、互いに向かい合って、煙草《たばこ》をくゆらし、馬や牛や豚のことを語り合いながら過していた。そして朝眼が覚めた時に交わす握手は、家庭的な深い愛情の交換のように思えたのだった。
ところが今は、セザールは一人ぼっちだった。彼は秋の畑の間をさまよった。今にも、野原の果てに父の身振り多い大きな半影《シルエット》がひょっこり現れてきそうな気がして。時間を消すために、彼は近所の家にはいっては、まだ事件の話をきいていない人達にそれを語って聞かせ、時には、その他の、もうそれを知っている人達にも繰り返し話したりした。それから、仕事も考え事も済ましてしまうと、路のほとりに坐って、こうした生活がいつまでも長く続くのかしらと考えこむのだった。
しばしば彼は、ドネ嬢のことを考えた。彼女は彼の気に入った。父親が言ったように、完全な、優しい正直な女だと思った。そうだ、正直な女という点では、たしかに申し分なく正直な女だ。彼は、気前よく事を処理してやろう、資本《もとで》は子供に保証して、二千フランの年金を彼女に与えることにしようと決心した。彼は同時にまた、次の木曜日に彼女に会いに行き、彼女とそのことに就いて相談するのだと考えることに、ある悦びを感じていた。それから、あの弟、父の息子であるあの五つばかりの小さな子供のことは、彼を悩まし、少しばかり物悲しい気持を覚えさせた。が同時にまた、彼の心を温かく和《なご》めもした。彼は、この、決してオトーを名乗ることのできない秘密な子供の裡に、一種の家族を、彼が自由にどうにでもできる、しかし常に彼に父親のことを想い出さす家族を見出したのだった。
それで、木曜日の朝、グランドルジュの戞々《かつかつ》と響く速足に運ばれながら、ルーアンへの途上にある自分を見出した時、彼は、不幸以来かつて覚えたことのないほど、心が軽く、落ちついているのを感じたのだった。
ドネ嬢の部屋にはいった時、彼は先週の木曜日とそっくり同じに用意されている食卓を見た。ただパンの皮が取り除いてないだけが違っていた。
彼は若い婦人の手を握り、エミールの頬に接吻し、胸はやはり一杯ではあったが、ちょっと自分の家に居るような気持で椅子《いす》についた。ドネ嬢は、先週よりは少し痩せ、少し顔色が蒼ざめているように思えた。きっと、激しく泣いたものに違いなかった。前週は不幸の突然の衝撃のために気のつかなかったことが、今ははっきり解っているかのように、彼女は彼を前にして、当惑したぎごちない様子をしていた。そして、過度の尊敬と、苦しいまでの謙遜《けんそん》と、それから、自分に示された親切に対して注意と献身によって報いようとするかのような傷《いた》ましいばかりの心遣いとをもって、彼に応待した。彼等は、彼をここに導いてきた用件について語りながら、長い時間かかって食事した。彼女は多くの金を欲していなかった。彼の申し出た金は余りにも多額だった。余りにも余りにも多額だった。彼女は生活するに要るだけの金は稼《かせ》いでいた。しかしただ、エミールが大きくなった時に、彼がいくらかの金を持っていることを欲しているのだった。セザールは自説を固執した。そして、彼女のために、彼女の悲しみのために千フランの見舞金を附け加えさえした。
彼がコーヒーを飲み終えた時、彼女がきいた。
「煙草《たばこ》召し上りますか?」
「ええ……パイプは持ってます」
彼はポケットの中を探った。しまった、彼は忘れてきたのだ! 彼が、がっかりしかけたところへ、彼女が、戸棚の中に蔵《しま》っていた父のパイプを彼に差し出した。彼はその好意を受け、それを手に取って、それが父のパイプであることをたしかめた。それから鼻に持って行って嗅《か》いでみ、声に感動の調子をこめて、品の良いことを賞め、煙草をつめて、火をつけた。それから、エミールを膝の上に馬乗りにさせて、彼女が食卓を片づけ、彼の帰った後洗おうと汚れた皿を食器棚の下に押しこんでいる間、ハイハイドードーをさせていた。
三時頃、帰らねばならぬという考えに淋しくなりながら、彼はしぶしぶ立ち上った。
「では、ドネさん」と彼は言った。「さようなら、私はこうしてあなたにお目にかかったことを嬉しく思います」
彼女は、顔をあからめ、深く心を動かされて、彼の前に突っ立っていた。そして、彼の父親のことを思いながら、彼を見つめていた。
「もうお目にかかることはございませんでしょうかしら?」と彼女は言った。
彼は率直に答えた。
「お目にかかりますとも。あなたさえおよろしかったら」
「もちろん嬉しく思いますわ、セザールさま。では、来週の木曜日はいかがでしょう?」
「結構です、ドネさん」
「もちろん、お昼召し上りますわね」
「でも……そうしろとおっしゃるのでしたら、辞退はしませんが」
「承知致しましたわ、セザールさま、では、来週の木曜日の正午、今日のようにね」
「ええ、木曜日の正午にね!」
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ボアテル
ロベール・パンションに
ボアテル爺さん《アントアーヌ》はこの地方で、汚ない仕事を一手に引き受けてやっていた。大便壺や肥料溜や水溜を掃除せねばならぬとか、或いは下水や泥沼を浚《さら》わねばならぬとかいう場合には、人は決《きま》って彼の所に頼みに行った。
彼は泥を浚《さら》う道具をかつぎ、垢《あか》のこびりついた木靴を穿《は》いてやってきた。そして、絶えず自分の仕事のことをぶつぶつ愚痴《こぼ》しながら、仕事をはじめるのだった。そこで、なぜこんな穢《きた》ならしい仕事をしているのかときくと、諦めきった様子で答えるのだった。
「仕様がありませんや。餓鬼《がき》どもにおまんまを食わしてやらにゃなりませんからね。この仕事はほかの仕事よりは収入《みいり》があるんですよ」
実際、彼には十四人の子供があるのだった。彼等は一体どうなってるかときくと、彼は決って無頓着な様子で言った。
「家には八人しか残ってません。一人は兵隊に行ってるし、あとの五人は結婚しちまいましたよ」
彼等は幸福な結婚をしたかどうかを知ろうとすると、彼は勢いづいて言葉を続けたものだった。
「わしは彼等《あいつら》のいうことに楯はつきませんでしたよ。なんでも彼等《あいつら》のいうことに楯をついたことはありませんでしたよ。彼等《あいつら》は、自分の思う通りの結婚をしました。他人の趣味に反対するってことはいけないこってす。そいつは不孝の原因《もと》でさ。わしが今こうやって溝浚《どぶさら》いなんかしてるのは、ほかでもない、わしの両親がわしの趣味の反対をしたからでさ。そんなことさえなけりゃ、わしもほかの仁《じん》と同じように、職工さんになってたことでしょうがね」
彼の両親が彼の趣味の邪魔をしたというのは、次のような経緯《いきさつ》だった。
彼は当時兵卒で、ル・アーヴルで兵役に就いていた。彼は他の連中に較べて、より馬鹿であるとか、より利口であるとかいうことはなかったが、でもやっぱり少し単純なところがあった。身体が自由な時の、彼のこの上もない大きな悦びは、鳥屋が集っている海岸通りを散歩することだった。ある時はただ一人で、ある時は同じ村の人間と連れ立って、並んだ鳥籠に沿ってゆっくり歩いて行った。そこの鳥籠には、背が青で頭の黄色いアマゾン産の鸚鵡《おうむ》や、背が灰色で頭の紅いセネガル産の鸚鵡や、彩色の美しい羽根、前立、冠毛を持った、温室の中で育てられた鳥のような気のするブラジル産の巨《おお》きな鸚鵡や、細密な画を描く神さまの細心な注意をもって彩られたように見えるいろんな背丈《せたけ》の小さな鸚鵡や、赤、黄、青、あるいは雑色の、小さな、ほんとに小さなぴょんぴょん跳《は》ねる小鳥などが、その啼き声を海岸通りの騒音にまぜながら、荷揚げする船や通行人や車のざわめきの中に、遠い彼方の超自然的な森の、けたたましい、鋭い、しばしも啼き止まぬ、耳も聾《ろう》せんばかりの喧騒を齎《もたら》していた。
ボアテルはよく、彼の眼の覚めるような緋色《ひいろ》のズボンと革帯の銅の金具に向って白あるいは黄色の冠毛で敬礼する籠の中のカカトエス〔鸚鵡の一種〕の前に、眼を大きく瞠《みは》り、歯が見えるほどに大きく口を開いて、嬉しそうに笑いながら立ちどまっていた。言葉を話す小鳥に遇うと、彼はいろんなことを問いかけた。そして、もしも、その日小鳥が返事する気分になっていて、彼と話でもすると、彼は夜まで、楽しい満足した気持を持ち続けていた。猿《さる》を見てもまた、彼は有頂天《うちょうてん》になって悦んだ。そこで彼は思うのだった。金持にとって、まるで、犬か猫でも飼うようにこうした動物を飼うことほど素晴しい贅沢《ぜいたく》はあるまいと。こうした趣味、こうした異国情緒趣味は、彼はそれを血の中に持っていたのだった。ちょうど人々が猟の趣味や、医学に対する趣味や、あるいは僧職に対する趣味を血の中に持っているように。彼は、兵営の門が開かれるたびごとに、まるである一つの欲望に惹きつけられているかのように、海岸通りの方へ行かずには居られなかった。
さてある時のこと、怪物みたいなアララカ鸚鵡が、羽毛をふくらませ、身体《からだ》を屈めたり起したりして、鸚鵡の国の宮廷の敬礼でもしているようなのを、ほとんど我れを忘れて見ていると、小鳥屋の隣りの小さな料理店の扉が開かれるのが眼にはいった。すると、紅い絹布を頭にかぶった若い黒人の女が姿を現して店の中から栓や砂埃を道の方に掃《は》きだした。
ボアテルの注意はたちまち動物と女との間に二分されてしまった。実際、彼はこれらの二つの生物のどちらを、より以上の驚きと悦びをもって眺めているのか、自分でもはっきり言うことはできなかったであろう。
黒人の女は、店の汚れ物を外に掃き出すと、眼を挙げた。そして今度は、彼女の方が兵士の制服にすっかり眼を奪われたままそこに突っ立ってしまった。彼女は、まるで捧げ銃《つつ》でもしてるように、箒《ほうき》を手にしたまま、彼の前に立ちつくしていた。その間、アララカ鸚鵡は相変らず身体《からだ》を前に屈めつづけていた。さて兵士はしばらくすると、こうした女の注意に気詰りを覚えた。そして、決して退却してるのではないぞといった風に、小刻みに立ち去った。
しかし彼は再びここに戻ってきた。ほとんど毎日、彼はこのカフェ・デ・コロニの前を通った。そしてしばしば、窓硝子を通して、水夫達に麦酒《ビール》や火酒《ブランデー》を給仕している皮膚の黒い小さな女中の姿を認めた。そしてまた彼女の方もしばしば、彼の姿を認めて、戸外に出てきた。間もなく、まだ一言《ひとこと》も口をきかないうちに、まるで旧知の間柄でもあるかのように微笑《ほほえ》み合うようにさえなった。そしてボアテルは、娘の黒い唇の間に、突然眼の覚めるように美しい歯並《はなみ》が輝くのを見ると、思わず胸があやしく乱されるのを覚えた。ついにある日のこと、彼は店の中にはいった。そして彼女が皆と同じようにフランス語を話すのを知ってびっくりした。レモン水の壜――彼女はその一杯を飲むことを承知してくれた――は、兵士の想い出の中に、忘れることのできぬ心地よいものとして残った。さてこうして彼は、この港町の小さな酒場に、財布が許す限り、甘い飲物を飲みに来る習慣がついてしまった。
眼よりも綺麗な歯で笑いながら、彼の盃に何か飲物を注いでくれる可愛いい女中の黒い手を見ることは、彼にとっては一つの嬉しい楽しみであり、幸福であって、彼は絶えずこの幸福の方へと想いを馳《は》せていた。二か月通い続けた後、二人は完全に仲好しになった。そしてボアテルは、この黒人の女の考えが彼の国の娘の立派な考えとそっくり同じであり、倹約や仕事や宗教や品行を尊敬していることに先ずびっくりした後、そのために一層彼女が好きになり、結婚したいと思うほどに夢中になってしまった。
彼は彼女にこの計画を打ち明けた。すると彼女は躍り上って悦んだ。それに、彼女は、牡蠣《かき》売りの女から残されたいくらかの金を持っていた。この牡蠣《かき》売りの女は、アメリカ船の船長が彼女を船からこ町ル・アーヴルの海岸通りにおろした時に、彼女を拾い取ったのだった。船長は、船がニューヨークを出た数時間後に、当時六歳ばかりの彼女が、船艙の木綿の梱《こり》の上に蹲《うずくま》っているのを発見したのだった。船がル・アーヴルに着いた時、船長は、誰が、どんな風にして連れてきたのか解らない、この船底に隠れていた小さな黒い動物を、しきりに不憫《ふびん》がるその牡蠣売りの女に託したのだった。牡蠣売りの女が死ぬと、黒人の若い娘は、カフェ・デ・コロニの女中になったのだ。
アントアーヌ・ボアテルは附け加えた。
「もしも父《とっ》つぁん、母《かあ》さんが反対しなかったらそうすることにしようね。わしは父つぁん達に楯つきたくないからね、解るね、どんなことがあっても楯つきたくないんだ! 今度|郷里《くに》に帰った時、ちょっと話してみよう」
その言葉の通り、その翌週、彼は二十四時間の休暇を得たので、イヴトの近所のトゥールトヴィルで小さな畠を耕している両親の家へ帰って行った。
彼は、食事の終るのを待った。皆の心を一層打ち融《と》けさせてくれるあの火酒《ブランデー》入りのコーヒーが出る時間を待った。この機会に彼は、自分の趣味、自分のあらゆる趣味にぴったりかなった女を見出したということ、この地上にこれほど完全に自分に適した女はいる筈はないということを両親に言ったのだった。
老人達は、この話を聞くと、すぐに用心深い態度になった。そしていろいろ説明を求めた。彼はしかし色の黒いことを除いては何も隠さなかった。
その女は、今女中をしていて、大した財産はないが、頑健で、倹約家《しまりや》で、几帳面で、身持のいい、そしていい相談相手にもなる女である、これらのことは、性悪《しょうわ》るの女中が持ってる金などよりどんなにましかわからない、それに彼女は、自分を育ててくれた女から残されたいくらかの金、ちょっとした持参金と言えば言える位の、まあ相当な金、即ち貯蓄銀行に千五百フランも預けている、といったことを話した。老人達は、こうした彼の話に釣りこまれ、それに彼の判断も信用していたので、少しずつ譲って行った。がついに、例の微妙な点に到達した。彼は、少してれ臭そうな笑いに紛らして、
「おしまいにただ一つ、お父つぁん達に気に入らないことがあるんですがね。その娘っ子はちょっとばかり白くないんですがね」
両親にはなんのことだか解らなかった。そこで彼は、彼等に不快な気持を与えないようにと用心に用心を重ねて、彼女は、彼等がエピナル焼の陶器に描かれた見本しか見たことがない、あの色の黒い人種に属しているのだということを、長いことかかって説明しなければならなかった。
すると彼等は悪魔との結婚の許しを求められでもしたように、不安になり、当惑し、恐怖を抱いた。
母親は言った。――「黒いんだって? どの位黒いんだね? 身体《からだ》中黒いのかい?」
彼は答えた。――「もちろんですよ! ちょうどお母《かあ》さんが身体中白いようにね!」
父親が口を開いた。――「黒いんだって? 鍋《なべ》のように黒いのかい?」
息子は答えた。――「多分、そんなに黒くはないでしょうね! 黒いには黒いけれど、でも気持の悪い黒さじゃないんですよ。司祭さんの衣は黒いでしょう。でも、白い衣と同じように、汚ならしくは思わないでしょう」
父親は言った。――「その娘っ子の国には、その娘っ子より黒い女がいるかね?」
すると息子は、確信をもって叫んだ。
「もちろんいますとも!」
しかし老人は頭を振っていた。
「きっと厭な気持がするだろうな」
すると息子は言った。
「ほかのものより厭ってことはありませんよ。なぜって、すぐに慣れちまいますからね」
母親がきいた。
「ほかの者より、襦袢《じゅばん》をよごすってことはないかい、そんな膚《はだ》をしてて?」
「お母《っか》さんと同じですよ、なぜって黒いのはただ肌の色ですもの」
さて、なおもあれやこれやと質問があった後に、話を決める前に先ずその娘に会ってみよう、来月兵役の終った時家に連れて来て、首実験した上で、果たしてボアテル家に入籍させることができるほど黒くないかどうかを、皆で話しながら決めようということになった。
そこでアントアーヌは、五月二十二日の日曜日、即ち彼の除隊日に、女を連れてトゥールトヴィルに来ようと言った。
彼女は、恋人の両親の家へのこの旅行のために、一番綺麗な、一番派手な服を着た。それは黄と赤と青が主な色調をなしているので、まるで国祭日のために着飾ってでもいるような恰好だった。
ル・アーヴルを出発する時、停車場で、皆盛んに彼女の方を見た。ボアテルは、こんなに人の注意を惹いている女に腕を与えているのが得意だった。それから、三等車の車室で、彼女が彼と並んで坐ると、百姓達はすっかりびっくりして、隣りの仕切り室の百姓などは、腰掛の上に乗って、車室を幾つかの仕切り室に区切っている木の隔壁越しに彼女を覗き見した。一人の子供は、彼女の姿を見て、怖がって泣きだし、もう一人の子供は母親の前掛に顔を埋めた。
だが、到着地の停車場までは万事事なく済んだ。ところが、汽車がイヴトに近づいて速力を緩《ゆる》めだすと、アントアーヌは、自分の解らない課目の試験でも受ける時のように、不安な気持になってきた。それから、昇降口に身を屈めて見ると、二輪馬車に繋《つな》いだ馬の手綱を振っている父親と、物見高い見物人が寄っている柵のところまで来ている母親の姿が、遠くから眼にはいった。
彼が先ず最初に降りて、恋人に手を差しのべた。そして、まるで将軍の護衛でもしているように胸を反《そ》らして、両親の方へ歩いて行った。
母親は、雑色の着物を着たこの黒い女が自分の息子と連れ立って近づいて来るのを見て、すっかり胆《きも》をつぶしてしまい、口を開《あ》けることさえできなかった。そして父親の方は、機関車かそれとも黒人の女に驚いて幾度も後肢で立ち上る馬を辛うじて抑えつけていた。しかしアントアーヌは、年取った両親の姿を再び見た混りけのない喜悦《よろこび》に突然とらえられて、両腕を拡げて駆け寄り、母親に軽い接吻をし、次に、馬が怖かったけれども父親にも軽い接吻をした。それから、びっくりした通行人達が立ちどまってじろじろ見ている連れの女の方を向いて、弁明した。
「あの女ですよ! この間も言ったように、はじめ見た時は少し薄気味悪いですが、しかし人間がわかってくると、これほど気持のいい奴はこの世にいませんよ。あれが心配しないように挨拶してやって下さい」
すると母親は、発狂するのではないかという不安に怯《おび》えながら、ちょっと挨拶のような恰好をした。だが父親の方は「さあ、御遠慮なくお乗り下さい」と呟きながら、帽子を取って挨拶した。
それから早速、皆馬車に乗った。二人の女は奥の方の椅子の上に坐った。そして、路の凸凹したところに来るごとに二人は上に飛び上った。男の方は、前の方の腰掛に席を占めていた。
誰も口をきかなかった。不安になったアントアーヌは軍歌を口笛で吹いていた。父親は馬を鞭打っていた。そして母親は、臭猫のような視線をじろりじろりと動かして、額と頬骨が太陽の光を受けて磨かれた靴のように光っている黒人の女を、横眼でこっそり見ていた。
こうした気詰りな空気を破るために、アントアーヌはうしろを向いて、
「なんだ、みんな話さないんだね?」と言った。
「だってそんなにすぐってわけにはいかないよ」と老婆は答えた。
彼は言葉を続けた。
「さあ、牝鶏の八つの卵の話でもしてきかせなさいよ」
それは家中の者が知っている一つの笑い話だった。しかし母親が、感動のために呆然として、相変らず黙りつづけているので、彼自身が口を開いて、盛んに笑いながら、その忘れようにも忘れられぬ話を語りだした。その話を暗唱するほどによく知っている父親は、最初の言葉ですでに皺《しわ》を伸ばした。間もなく母親もそれに倣《なら》った。そして黒人の女は、一番滑稽な条《くだり》で、いきなり噴きだした。その笑い方が、余りにも騒々しく、まるで太鼓か雷のように響き、そして堰《せき》を切った水のように迸《ほとばし》り出たので、びっくりした馬は、しばらくの間駆足で疾走した。
これで互いに打ち融けた気持になった。皆はしゃべりだした。
家に着いて、皆が馬車から降りるや、彼は彼女を自分の部屋に連れて行って着物を脱がせ――老人を先ず腹の方から征服して行こうという彼女一流の御馳走をこしらえながら、着物を汚しては困ると思ったのだった――それが済むと早速両親を扉の前に引っぱって行って、胸をどきどきさせながらきいた。
「どうですね?」
父親は黙っていた。父親よりは大胆な母親は言った。
「あんまり黒すぎるよ! いや、ほんとに黒すぎるよ。あたしゃ、気が転倒したよ」
「いまに慣れますよ」とアントアーヌは言った。
「そりゃそうかもわからないがね。でもさしあたって困るよ」
皆は部屋の中にはいった。老婆は黒人の女が炊事をしているのを見て心を動かされた。そこで老婆も、スカートをまくり、年齢《とし》に似合わぬ元気で、彼女の手伝いをはじめた。
食事は、なかなかおいしくて、長い時間かかり、皆陽気だった。食事が済んで近所を一回りしようと出かけた時、アントアーヌは父をわきの方に引っぱって行った。
「お父《とっ》つぁん、どうですね?」
この農夫は決して自分を危険な位置に置かなかった。
「わしにはどうっていう意見はない。お母《っか》さんにきいてみな」
そこでアントアーヌは母親のところに行って、母親をうしろから引きとめた。
「お母《っか》さん、どうですね?」
「気の毒だが、あんまり黒すぎるね。もう少し白けりゃ、反対はしないがね。だがあんまりひどいよ。まるで悪魔だよ」
老婆は頑固だということを知っているので、彼は強いては言い張らなかった。しかし激しい悲しみがどっと胸を襲ってきたのを彼は感じていた。どうしたらいいだろう、なにかいい知恵はないものかしら、と考えていた。だが彼は、どうして彼女が、自分を魅惑したように両親をすでに征服してしまわなかったのだろうと不思議でならなかった。
さて四人は、再び段々|黙《もだ》しがちになり、ゆっくりした足取りで、麦畑を横切って行った。彼等がさる家の塀に沿って歩いていると、農夫達は柵から顔を出し、子供達は傾斜の上に匐《は》い上り、近所の連中はそれボアテルの息子が連れてきた「黒ん坊」が通るぞと、道の方に走ってきた。まるで生きものの見世物の太鼓が鳴ったのを聞きつけたかのように、人々が畠を横切って駆けてくるさまを、彼等は遠くから見ていた。ボアテル夫婦は、自分達が近づいて行くにつれて畠一面に撒《ま》きちらされるこうした好奇心に怖れをなし、互いに倚《よ》りそったまま足を急がせて、息子をずっと後に引き離した。息子の連れの女は、彼に、両親が自分のことをどう思っていらっしゃるかをきいた。
彼はためらいながら、彼等の決心はまだ決っていないと答えた。
さて、村の広場には、湧きたちかえった村中の人々が、みんな家をあけて群がり集っていた。刻々に増えて行く弥次馬の群を見て、ボアテル老夫婦は逃げだし、自分の家に帰ってきた。ところが激昂したアントアーヌは、恋人と腕を組み、唖然と眼を瞠《みは》っている人々の前を、威儀をつくろって歩いて行った。
彼には、万事もうおしまいだ、もう希望の余地はない、黒人の女と結婚はできないということがはっきりわかっていた。彼女にもまたそれがわかっていた。で、彼の家に近づいてくると、二人とも泣きはじめた。家に帰ってくるや、彼女は再び着物を脱いで、母親の仕事の手伝いをした。
彼女は、老婆の行くところへは、牛乳小屋へでも、牛小屋へでも、鳥小屋へでも、どこへでもそのあとについて行って、絶えず「あたしにさして下さい、ボアテルの奥さま」と繰り返しながら、一番辛い仕事を引き受けた。余りよくしてくれるもので、老婆は感動させられはしたが、それでも頑として心を枉《ま》げず、夕方が来ると息子に言った。
「なんと言ってもやっぱり感心な娘さんじゃあるね。あんなに黒いってことが気の毒だよ。いや、まったく、ほんとに、少し黒すぎるよ。あたしにはとても慣れるなんてことできそうにないよ。帰さなくちゃならんね。あんまり黒すぎるよ!」
そこで息子は、恋人に向って言った。
「お母《っか》さんはいやだってんだ、お前の色があんまり黒いってんだ。帰らなくちゃならないね。停車場まで送って行こう。なあに、悲しがるこたないよ。お前が行ってしまってから、またよく話してみるからね」
さてそこで、彼は、なおも彼女に希望を失わしめないように力づけながら、停車場まで送って行った。そして、固く抱いた後、彼女を汽車に乗せた。彼は涙ではれた眼で、汽車が遠ざかるのを見ていた。
老人達にいくら嘆願しても駄目だった。彼等はどうしてもきいてくれなかった。
この地方の誰でもが知っているこの話をし終ると、アントアーヌ・ボアテルは必ずそれに附け加えるのだった。
「それからってものは、わしはどんな仕事にも精が出ないんです、どんな仕事にもね。どんな仕事も身につきませんでしたよ。で、こんな溝浚《みぞさら》いみたいなものになりさがっちまったんでさ」
人々が彼に、
「それでもあんたは結婚したじゃないかね」と言うと、彼は次のように答えたものだった。
「なるほどおっしゃる通りだ。それに女房が気に入らなかったなんてことも言えませんね。なぜって十四人も餓鬼を生ませたんですからね。だが、彼女《あれ》とは較べもんになりませんよ、とても、とても、もちろんですよ! 彼女《あれ》ってそら、あの黒人《くろんぼ》の女ですよ。わしは、彼女《あれ》にちょっと見られるだけで、もうまるでぼうとなったもんですよ……」
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ランデヴー
彼女は帽子をかぶり、マントを羽織り、黒いヴェールを鼻の上にかけ、自分を罪へとみちびく馬車に乗る時に更にその上にかけるもう一枚のヴェールをポケットにしのばせ、日傘の先で靴の先をコツコツ叩きながら、さっきから部屋の椅子に腰かけていた。あのランデヴーに出かける決心がつきかねるのだった。
だが、二年このかた、ごく世俗的な株式仲介人の夫が取引所に行っている留守に、恋人の美しいマルトゥレ子爵に会いに独身下宿に行こうとして、幾度こんな風に外出の着物に着換えたことだろう。
振子時計が彼女のうしろでせわしく時を刻んでいた。半分読みかけた本が、窓と窓の間の花梨木《かりんぼく》の小机の上に少し開いていた。そして、煖炉棚の上に置かれたサクソン焼の二つの可愛い花瓶にさされた二つの小さな花束から発散する菫《すみれ》の強い匂いが、なかば開かれたままになっている化粧室の扉からかすかに流れてくる美女桜のほのかな香とまざっていた。
時計がなった。――三時だ。――彼女は立ち上った。うしろを振り向いて時計の文字板を見、――「もうあの人待ってるわ。そろそろいらいらしはじめる頃だわ」と考えて、にっこり笑った。そこで部屋を出て、下男に、おそくとも一時間したら帰ると言い置き――それは嘘だった――階段をおりて路に出、歩きはじめた。
時はまさに五月の下旬だった。田舎の春がパリを四方から包囲して、先ず屋根から攻撃してかかり、壁を通して家々に侵入し、町中を花だらけにし、家の正面や、アスファルトの歩道や、敷石の車道に陽気さを撒《ま》きちらし、緑色になる樹のように、町を樹液でひたし、町を酔わす、あの心地よい季節だった。
アカン夫人は、いつものように、プロヴァンス街に行って辻馬車を拾うつもりで、右の方に少し歩いた。だが、爽やかな大気、ちょうどこの頃になると胸にしみ入ってくるあの夏の情緒にいきなりとらえられて、彼女は考えを変え、ショーセ・ダンタン街の方に歩きだした。なぜそちらに足を向けたのか分らないが、おそらくは、ラ・トリニテ辻公園の樹を見たいという気持がどこかにあったのかも知れない。「構やしないわ! 十分だけ余計に待てばいいのだから」と彼女は考えた。この考えは、彼女を更に悦ばせた。人混みの中を小刻みに歩いている彼女には、いらいらしながら時計を見たり、窓を開いたり、戸口の方に耳をすましたり、しばらく坐ってはまた立ち上ったり、煙草が吸えないで――ランデヴーの日には煙草を吸わないようにと言い渡したのだった――絶望的な視線を煙草入れの方にちらちら投げたりしている彼の姿が見えるようだった。
彼女は行き逢うすべてのもの、人の顔や店に心を奪われて、ゆっくり歩いていた。歩みがだんだんのろくなった。恋人に会いに行きたい気持はほとんどなくなったので、商店の飾窓で立ち止る口実を探した。
その街のはずれまでくると、教会堂の前の、小さな辻公園の緑が彼女を強く引きつけた。そこで彼女は広場を横切って、その公園に、子供の鳥籠にはいって行った。そして、乳母たちが美しいリボンを結び、陽気にはしゃぎ、さまざまの花のように着飾っている中を縫うようにして、そこの狭い芝生の周囲を二度も回った。それから一脚の椅子を取って、そこに腰をおろした。そして、鐘楼の月のように円い時計台の方に眼を上げて、針の歩みを見た。
ちょうどこの時、三時半がなった。その鐘の音を聞くと、彼女の心は嬉しさで顫《ふる》えた。これで三十分時を稼いだことになる。ミロメニル街に行くのに十五分、それにもう少しぶらぶらして幾分かを費せば――都合一時間だ! ランデヴーの時間が一時間だけ少なくてすむ! そうすれば向うにいるのは四十分そこそこですむ。それで一回片がついてしまうのだ!
ああ! あそこに行くのは彼女にとってどんなにか厭なことだったであろう! 歯医者のもとへ通う患者のように、彼女の心の中には、この二年以来平均して週に一回ぐらいの割でやっていたすべてのランデヴーの堪えがたい思い出があった。そして、これからまたそのランデヴーをしなければならないのかと思うと、頭の先から足の先まで苦悩で締めつけられるような思いがした。それは別に苦痛なのではなかった。歯医者にかかるように苦痛なのではなかった。だが、じつに退屈で、退屈で、面倒臭くて、長ったらしくて、辛いので、これ以外のことなら、たとえ手術であろうとましに思えるくらいだった。だが、彼女はやはり彼の家の方へ歩きつつあった。それこそゆっくり、小刻みな足取りで、立ち止ったり、腰かけたり、到るところをさまよいながら。それでもやっぱり彼の家の方へ歩いていた。おお! 今度もすっぽ抜かしてやりたかった! でも、先月は二度続けて、あの可哀そうな子爵を欺《だま》したのだった。さすがに、すぐまたとはやりかねた。なぜ彼のところへ行くのだろう? ああ、なぜだろう? それは要するに習慣にすぎない。あの不幸なマルトゥレがこの「なぜ」を知ろうとしても、彼女にはその理由を言うことはできないのだ! なぜ、こんなことをはじめたのだろう? なぜだろう? 彼女にはもはや分らなかった! 彼を愛していたのだろう? たぶんそうにちがいない! そんなに強くではなく、ほんの少しばかり。それもずっと前のことだ! 彼は美貌で、流行児で、粋《いき》で、女には親切で、一見して、社交界の女性の完全な恋人といった型だった。彼は三か月間彼女の御機嫌を取り続けた。――だいたいこれが標準の期間で、彼女は立派に闘い、十分に抵抗した。――ついに彼女は最初のランデヴーを、感動と痙攣《けいれん》と、怖いけれども同時に快い恐怖を感じながら承諾し、以後ずっとミロメニル街の独身者の中二階の部屋でそれを続けているのだった。彼女の心はどうだったであろう? 誘惑され、打ち負かされ、征服された彼女の小さな心は、その時、この悪夢の家の扉をはじめてくぐりながら、何を感じたであろう? 実際のところ、彼女にはもう分らなかった! もう忘れてしまっていた! ひとは、行為や、日附や、事実はおぼえている。だが、二年もたてば、飛び去った感動はほとんどもうおぼえていない。なぜなら、感動なんてものはじつに軽いものだから。おお! 彼女もその後のランデヴーを、あのランデヴーの連続を、愛の十字架の通行を忘れてはいなかった。だが、その道行の留《りゅう》〔キリストの受難を現わす十四の像の前で祈願する場所〕はじつに退屈で、単調で、いつも決って同じだったので、もうじきにはじまるであろうことを考えると、嘔気《はきけ》が唇にまでこみあげてくるのだった。
ああ! あそこに行くために呼ばねばならぬ辻馬車は、普通の場合に使う他の辻馬車とは似ていなかった! たしかに、馭者たちは見抜いているのだ。彼等が自分を見る眼つきだけで彼女はそれを感じていた。パリの馭者《ぎょしゃ》のこうした眼つきは怖かった! 馭者はたった一度だけ、真夜中に、ある路からある停車場にまで乗せた犯人を、数年たっても、法廷においていつも見覚えていること、彼等はほとんど一時間に一人の旅行者を扱っているが、彼等の記憶力はじつに正確で、「これはたしかに私が去年の七月十日にマルチィル街から乗せて夜の零時四十分にリヨンの停車場でおろした人です!」と断言することを考えると、最初に出会った馭者に自分の評判を托してラソデヴーに赴《おもむ》く若い女がやるような危険をおかすことは、身顫いするほどに怖いことではあるまいか! 二年この方、ミロメニルへの旅に、一週間に一度と計算して、少くとも百人か百二十人のそうした馭者を彼女は使っていた。それは、いざという時に彼女に不利な供述をする立会人がそれだけいるということだった。
馬車に乗るや早速、彼女はポケットから、仮装舞踏会の布の仮面のように厚くて黒いもう一枚のヴェールを取り出して、眼の上にかけた。なるほど、それは顔を隠すことはできた。だが、他の部分、たとえば、衣裳や、帽子や、日傘をひとは見なかったであろうか? それはこれまでにすでに人の見たものではなかっただろうか? おお! このミロメニル街を通るのは、どんなに辛いことだろう! 彼女には、すべての通行人、すべての召使い、すべての人々に見覚えがあるような気がした。馬車がとまるや、彼女は早速飛びおりて、いつも自分の部屋の閾《しきい》の上に立っている門番の前を走って通った。ここにも、すべてを――彼女の住所――彼女の名前――彼女の夫の職業など――すべてを知っているにちがいない人が一人いるのだ。なぜと言って、こうした門番なるものは元来もっとも敏感な警察官だからである! 二年前から、彼女は彼を買収したいと思っていた。いつか、彼の前を通る時に百フランの紙幣をつかませたいと思っていた。ところでただの一度も、紙幣をまるめて彼の足もとに投げるといったちょっとしたことができなかった! 彼女は怖かったのだ。――何が?――彼女には分らなかった!――何のことやら合点のいかぬ彼に呼び返えされるのが怖いのか? 醜聞が怖いのか? 階段に人の集ってくるのが怖いのか? それとも、逮捕されるとでも思っているのか? 子爵の戸口までは、階段半分しかなかった。ところがそれがサン・ジャックの塔ほどに高く思われた! 玄関にはいるや、罠にかかったような気がした。そして、前や後でちょっとした物音がしても、思わず息が詰った。あの門番と路で退路を絶たれて、引き返すこともできなかった。そして、ちょうどこの時誰かが降りて来ようものなら、マルトゥレの扉の呼鈴を鳴らすこともできないで、どこかよそへ行くかのように、彼の扉の前を通りすごしてしまった! 彼女は更に、のぼり、のぼり、のぼって行った! 四十階でものぼったであろう! そして、階段がふたたび元通りしずかになったような気がすると、彼女は走りながら降りてきた。中二階の彼の部屋が分らないのではないかと心配しながら!
彼はそこに、絹裏の粋《いき》なビロードの服を着て待っていた。ひじょうなしゃれた恰好だが、ちょっと滑稽だった。そして二年この方、彼女を迎える彼の態度はいささかも変らなかった。それこそ、身振り一つ変らないのだった!
扉をしめるや、彼は彼女に言った。「あなたのお手に接吻させて下さい、私の親しいひと、私の親しい友よ!」そう言って、彼女のあとから部屋にはいって行った。部屋は、おそらく粋をきかしたつもりなのだろうが、冬も夏も、鎧戸《よろいど》をしめて、火をともしてあった。彼は彼女の前にひざまずき、賛嘆の身振りよろしく、下から彼女を見上げた。最初の日は、この身ごなしは、じつに優しく思われ、ひじょうに成功した! だが今は、ドゥローネイ氏が当り芸の第五幕を、百二十回目に演じているところを見ているような思いだった。趣向を変える必要があった。
ところで、その後、ああ! それはじつに堪えがたいことだったが、このへまな青年は趣向を変えなかった! なかなかいい青年だが平凡だった!……
それに、小間使いの手をかりずに、着物をぬぐのはむつかしかった! 一度はまあいい。だが毎週となると、まったくやりきれなかった! 実際、男は女にこんな苦役を要求すべきではない! だって、着物をぬぐのがむつかしければ、着物を着直すのはほとんど不可能で、叫びだしたくなるほどいらいらしても、自分のまわりをうろうろしながら「何か手助けをしましょうかね?」などと言っている男の横面をはりたくなるものだ。――手助けだって! ああ! 何を助けるといぅのだろう? 何ができるというのだろう? ピンを指につまんだ恰好を見ただけでそれはすぐに分った。
たぶんこうした瞬間に、彼女は彼に反感を抱きはじめたのだ。「何か手助けをしましょうかね?」と言った時、彼女は彼を殺したくなった。それに、二年来ずっと、百二十回以上も小間使いなしで着物を着直させるような男を、女がついに憎まずにおれるということがはたしてありうるだろうか? たしかに、彼のように無器用な、気のきかない、退屈な男も少なかった。あの可愛いグランバル男爵だったら、あんなばかみたいな恰好で、「何か手助けをしましょうかね?」などとは言わないであろう。はしっこくて、おもしろくて、気のきいた男爵はきっと自分を助けてくれるだろう。そうだ! あの人は外交官だ。世界中を旅行し、いたるところを歩き回り、おそらく、世界中のあらゆる流行に従った着つけをした女たちの着物をぬがせたり、着せたりしたにちがいない。あの人ならきっとそうだ!
教会の時計が四十五分を打った。彼女は立ち上って、文字板を見、「まあ! きっといらいらしてるにちがいないわ!」と呟きながら笑いだした。それから、急ぎ足に辻公園を出た。
広場に出て十歩もしないうちに、うやうやしくお辞儀している一人の紳士にぶっつかった。
「まあ、あなた、男爵さま?」――彼女はびっくりして言った。ちょうど今彼のことを考えていたところなのだ。
「さようです、奥さま」
そして彼女の健康をたずね、それからしばらくあれこれとりとめない話をしたのち、彼は言った。
「私の女友だちのうちで――そう申し上げてよろしいでしょうね?――まだ私の日本のコレクションを見に来てくださらないのはあなた一人ですよ」
「でも、男爵さま、女はそうむやみに独身者を訪問することはできませんわ」
「なんですって! 珍しいコレクションを見に行くのがいけないんですって!」
「いずれにせよ、一人で行くことはできませんわ」
「どうしていけないんでしょう? だって、私のところには、ただ私のコレクションを見たいというので、女一人の客がたくさん来ていますよ! 毎日そうした訪問客がありますよ。名前を申しあげましょうか?――まあ、それはひかえましょう。たとえ、何でもないことでも、世間には遠慮というものがありますからね。原則として、世間にも知られ、相当の地位あるまじめな男の家を訪問するのが無作法だというのは、口に出して言えないある理由のために行く時だけですよ!」
「つきつめて言えば、あなたのおっしゃることは本当ですわ」
「じゃ、私のコレクションを見にいらっしゃいますね?」
「いつですの?」
「もちろん、今すぐにですよ」
「それは駄目ですわ。私いそがしいんですもの」
「これは驚いた! 奥さまは三十分も辻公園の椅子に腰かけてらっしゃいましたよ」
「私をスパイしてらしたのね?」
「私は奥さまをじっと見ていたのです」
「本当に、私いそがしいんですの」
「そんなはずはありませんよ。白状なさい、そんなにいそがしくはありませんよ」
アカン夫人は笑いだした。そして白状した。
「ええ……そう……そんなに……」
一台の辻馬車が二人に触れんばかりにそばを通りかかった。男爵が「馬車屋!」と叫んだ。馬車は止った。そこで彼は扉を開けながら、
「さあ、奥さん、お乗りください」と言った。
「でも、男爵さま、駄目ですのよ、今日は伺えませんわ」
「奥さま、さあ、うかつな真似はなさらないでください。さあ、お乗り下さい! みんなが私たちの方を見はじめていますよ。弥次馬が集まってきますよ。私があなたをかどわかしてるとでも思って、私たち二人を引き止めるかもしれませんよ。さあさ、乗ってください。お願いです!」
彼女はびっくりし、どぎまぎして、馬車に乗った。すると、男爵は彼女のそばに坐り、馭者に言いつけた。
「プロヴァンス街」
だが、この時いきなり彼女が叫んだ。
「ああ、そうだわ! 私、大至急の電報を忘れてたわ。すみませんけど、その前に、どこかもよりの電報局にお願いしますわ」
辻馬車は少し行ったところで、シャトーダン街に止った。そこで彼女は男爵に言った。
「おそれ入りますが、五十サンチームの電報用紙を取ってきてくださいませんか。明日の夕食にマルトゥレさんをおよびすることを主人に約束したのに、すっかり忘れてましたわ」
男が青い用紙を手にして戻ってくると、彼女はそれに鉛筆で書いた。
「私、今ひじょうに苦しんでいます。ひどい神経痛で床についています。外出できません。明日夕食にいらしてください。その上でお詫びいたします。ジャンヌ」
書き終ると、糊《のり》をぬらして、念入りに封をし、宛名を書いた。「ミロメニル街、二四〇番地、マルトゥレ子爵様」そしてそれを男爵に返して言った。
「すみません、これを電報のポストに投げこんでくださいましな」
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港の女
一八八二年五月三日ル・アーヴルの港を出帆して支那海に向った三本マストの方帆船ノートルダム・デ・ヴァン号は、一八八六年八月八日、四か年の遠洋航海を終えてマルセイユの港に帰ってきた。はじめ、目的地の支那のさる港で積荷をおろすと、すぐに新しい傭船《ようせん》契約ができてブエノスアイレスに赴き、そこから更にまたブラジルまで貨物を運んだのだった。
そのほかあちらこちらに寄港はするし、それに船が損《いた》むので時々は修繕もしなければならぬし、いざ港を出ると数か月の無風状態があったり、かと思うと今度は逆に颱風《たいふう》で吹き流されたり、その他あれやこれやの思いがけない故障や災難にあって長いこと母国を離れていたが、今やこのノルマンディの三本マストの帆船は、アメリカ製の罐詰《かんづめ》のはいったブリキ罐を満載して、マルセイユの港に帰ってきたのである。
ル・アーヴルを出帆した時は、乗組員は船長と一等運転手を除いて十四人いた。うち八人はノルマンディ生れで、あとの六人はブルターニュ生れだった。ところがマルセイユに帰ってきた時には、ブルターニュ人は五人、ノルマンディ人は四人になっていた。ブルターニュ生れの一人は航海の途中死に、四人のノルマンディ人はいろんな機会に逃げてしまったのだった。そこでその穴埋めとして、アメリカ人が二人、黒人が一人、ノールウェー人が一人乗り組んでいたが、このノールウェー人はある晩シンガポールの酒場から誘拐されてきたのだった。
帆を畳んで、十字架形の帆架《ほげた》をあらわに見せたこの大きな貨物船は、前を喘《あえ》ぎ喘ぎ進んで行く曳船にひかれながら、大洋の名残のうねりを受けて大きくかしいでいたが、そのうねりも急に鎮まり、今は滑るようにイフ城の前を通り、折から夕陽を浴びて金色にけむっている入江の灰色の岩々の間を抜けて、マルセイユの旧港へとはいってきた。埠頭《ふとう》には世界各国の船が舷と舷とを擦り合わせるように並んでいた。大きいのや小さいのや、いろんな型、いろんな装いの船が、腐れ水をたたえたこの狭い場所に、船のブイヤベース〔マルセイユ名物の魚のシチュー料理〕よろしくごちゃまぜにもやっていた。互いに犇《ひし》めき合い、ぶっつかり合っているさまは、船の漬物のようにも見えた。
ノートルダム・デ・ヴァン号はイタリアの二本マストの帆船とイギリスのゴエレット船の間に錨をおろした。二艘の船はこの兄弟分を入れてやるために身を引いてくれたのだった。それから税関や港務局の手続がすむと、船長は乗組員の三分の二に外泊を許した。
夜となった。マルセイユの町は明るく輝いていた。真の宵の蒸暑さの中で、人声や、轍《わだち》のひびきや、甲高い物音など、南国特有の陽気さに満たされているこの賑やかな町の上に、韮《にら》料理のにおいが漂っていた。
幾月も荒浪に揉《も》まれていた十人の船乗りは、埠頭に降り立っても、陸地に慣れないせいか何となく勝手がちがい、二人ずつ並んで、ためらいがちにゆっくり足を運んで行った。
ここ二か月あまりの海上生活で、身体《からだ》のうちに性欲がたぎっていた彼等は、港へとつづいている狭い小路を嗅《か》ぐようにしながら、あちこちさまよい歩き、先へ進んで行った。セレスタン・デュクロを先頭に、ノルマンディの連中が先を歩いていた。このデュクロという男は、見るからに強そうな、陽気な大男で、上陸した時にはいつも船長代理をつとめていた。色街を嗅ぎつけるいい鼻を持っていて、独特の串戯口《じょうだん》も叩くという男だった。港町でありがちな船乗り同士の喧嘩沙汰にはめったに巻きこまれることはなかったが、しかしいったんかかり合ったからには、どんな相手であろうと恐れるような男ではなかった。
下水のように海の方へ降りている薄暗い小路、そこから、陋屋《ろうおく》の息吹とでもいうべき重苦しい臭気が立ちのぼっている小路をすっかり歩き回ったあげく、セレスタンは、戸ごとに軒燈がともされて、その艶消しの色ガラスに大きな字で番号のついている、うねりくねった廊下のような、さる路地を選ぶことにした。アーチ形の狭い入口には、まるで女中のような前掛をかけた女達が、藁椅子の上に坐っていたが、彼等がやってくるのを見ると、立ち上って、路を二つに分けている溝の縁まで出てきた。男達も、籠の鳥の巣の近くまで辿《たど》りついたのでもうすっかり張りきって、鼻歌をうたったり、串戯口《じょうだん》を叩いたりしながら、ゆっくり大股に溝の向う側にまでやってきた。
時々、玄関の奥の、褐色の革を張った第二の扉がいきなり開いて、大柄な女のしどけない姿の見えることがあった。大きな大腿や脂ぎったふくらはぎが、白木綿のごつごつした肌着の下にくっきり線を描いていた。スカートは短かくて、まるでふくらんだ腹帯のようだった。胸や肩や腕のむっちりした軟かな肉は、金モールで縁取った黒ビロードの胴着からはみ出て、ちょうど薔薇色の斑点のように見えた。女は遠くから、「寄ってらっしゃいよ、ちょいと、兄さん!」などと声をかけた。時には、わざわざ出てきて、男の一人にしがみつき、自分より大きな獲物を引っぱりこもうとする蜘蛛《くも》よろしく、全身の力でぐいぐい門口にまで引きずってきた。男はこうして抱きつかれると、もう浮足立って、抗らう腕にはもう力は抜けていた。すると他の連中は、男のあとを追って自分達もはいりたいという欲望と、もっとこの煽情的な素見《ひやかし》をつづけてみたい気持の間にためらって、立ちどまりながらそれをじっと見ていた。女がやっとこさで男を戸口まで引きずりこみ、他の連中もそれに釣られてどっと雪崩《なだ》れこもうとした時、さすがにセレスタン・デュクロは家の構えを見て取って、いきなり、「マルシャン、よせ、こんな所は駄目だよ!」と叫んだ。
それを聞いて、男は乱暴に女を突き放し、つれの連中もまた元通りの列をつくった。その背中に向って、憤慨した女が口汚なく罵《ののし》った。行く先々で、女たちが彼等の足音を聞きつけて、狭い路地の軒ごとに戸口から出てきた。そして、たんと可愛がってあげるわよといったようなことを、嗄《しゃが》れ声でわめいた。こうして彼等は、行く手で恋の門番たちが声を揃えて唱う甘い言葉と誘惑のコーラスと、彼等の背中でがっかりした女たちが投げつける口汚ない悪罵のコーラスとの間を、ますます気持をあおられて進んで行った。時々、他のグループと行きあうことがあった。それは、脚にサーベルをがちゃつかせながら歩いている兵士や、彼等と同じような船乗りや、一人歩きの町の若い衆や店員たちだった。到る所に、怪しげな軒燈が点々とともっている狭い路地がそれからそれと開けていた。彼等は相変らず、この胡散《うさん》臭い家の立ち並んだ迷宮の中を、腐った水のにおいがするどろどろした舗道の上を、女の肉であふれた壁の間をさまよいつづけていた。
やっとデュクロも心を決めて、一軒の小ざっぱりした構えの家の前に立ちどまって、仲間を中に案内した。
歓楽はまさに絶頂に達した! 四時間ぶっ通しで十人の船乗りは恋に酒に満喫した。おかげで半年分の給料がけし飛んだ。
彼等は大広間をまるでわが物顔に占領して、隅っこの小さなテーブルにいる定連を、意地の悪い眼でじろじろねめまわしていた。大きな赤ん坊かカフェの歌手のような服装をした、お茶をひいている一人の女が、その定連の間をサービスして回ったり、客のそばにべったり坐ったりしていた。
だいたい下層階級の人間は移り気ではないので、はいるなり、彼等はそれぞれ、一晩中胸に抱く敵娼《あいかた》の女を選んでいた。そしてテーブルを三つ寄せ集めて、満杯の酒をぐいぐいひっかけてから、女を加えて倍となった彼等は、再び行列をつくって階段を昇って行った。二人ずつ組んだ四つの足が長いこと木の階段を踏みならしていたが、この長い恋の道行も、部屋部畳の狭い戸口の中に吸いこまれて行った。
それから酒を飲みに降りてきたり、また部屋に昇ったり、そしてまた降りてきたり、そんなことがひっきりなしにつづいた。
今はほとんどもう酔いつぶれて、わけも分らぬことをわめきたてていた。みんな眼を真赤に充血させて、敵娼《あいかた》を膝の上にのせ、歌ったり、叫んだり、テーブルを拳固で叩いたり、がぶがぶ酒をあおったり、人間の中にある獣性をほしいままに解放していた。皆のまん中に陣取ったセレスタン・デュクロは、膝の上に馬乗りになった、頬の紅い背の高い女をじっと抱きしめ、顔をまじまじと見ていた。他の連中より飲みかたが少なかったわけではないが、皆ほど酔っていない彼は、まだ何かほかのことを考えていた。そして連中にくらべれば、優しい心根を持った男だけに、何か女と話すきっかけを見つけようとしていた。が、なんだか頭の中の考えがまとまらず、何か思いついてもすぐ消えて行った。そしてまた何か浮んでくるのだが、いつの間にか、一体何を言おうとしたのかも分らなくなってしまうのだった。
彼は笑いながらこんなことを繰り返していた。
「それで、それで……もうここは長いのかい?」
「半年ぐらいよ」と女は答えた。
彼は満足げにうなずいた。まだ六か月にしかならないということが、まだ堅気な女であることの証拠のように思われたのだった。
「こんな暮し、好きかい?」
女はちょっとためらったが、やがて諦めきった調子で、
「結局慣れちまうのね。ほかの商売ほど面倒くさくないし、それに、おさんどんになったり、女工になったりするの、汚ならしくていやだわ」
いかにももっともというように、彼は大きくうなずいた。
「お前はここの生れじゃないね」
女は黙ったまま、頭を横に振った。
「遠いのかい?」
女はやっぱり黙ったままうなずいた。
「ベルピニャンなの」
彼はまた嬉しくなった。
「そうなのかい!」
今度は女の方がきいた。
「あんた、船乗りね?」
「そうだよ」
「遠くから来たの?」
「そうともさ! いろんな国、いろんな港を見てきたんだ。何から何まで見て来たんだ」
「じゃ、世界を一回りしてきたのね?」
「一回りどころか、二回りぐらいしてるよ」
女はまた、忘れたことを思い出そうとするかのように、しばらくためらっている風だったが、急に真面目な、やや改った声で言った。
「じゃ、そうして旅してる間に、沢山の船に出会ったでしょうね?」
「もちろんさ」
「ひょっとして、ノートルダム・デ・ヴァン号って船に逢わなかった?」
彼はからかうように、
「その船なら、つい一週間ほど前に見かけたぜ」
女はさっと蒼ざめた。頬から血の気が引いてしまった。
「ほんと? ほんとなの?」
「ほんとさ」
「嘘なんか言わないわね?」
彼は片手を高く上げた。
「神さまに誓うよ!」
「じゃ、セレスタン・デュクロって人、まだ船に乗ってるかしら? あなた知らない?」
彼ははっと驚いた。激しい不安にかられたが、答える前に、もっと先を知りたいと思った。
「奴《やっこ》さんを知ってるのかい?」
今度は女の方が警戒した。
「いいえ、あたしじゃないの! あの人を知ってる人がいるの」
「ここの女かい?」
「いいえ、よそなの」
「この町にいるのかい?」
「いいえ、よその町なの」
「どんな女だい?」
「どんな女って、やっぱし、あたしのような女よ」
「何の用があるってんだろうな?」
「きっとどこかであんた会ったことがあるんじゃないかしら?」
何か重大なことが二人の間に持ち上るような予感がして、互いに探りを入れるように、相手の眼をじっと覗きこんだ。
「その女に会えるかな?」
「逢って何を言うつもり?」
「そうだな……そうだな……セレスタン・デュクロに逢ったってことを言ってやりたいんだ」
「じゃ、その人、達者でいることだけはたしかなのね?」
「俺やお前のようにぴんぴんしてるよ。愉快な男だよ、あいつは」
「ノートルダム・デ・ヴァン号はどこへ行ったの?」
「どこって、このマルセイユにはいってるよ」
女は思わずぎくっとした。
「ほんと?」
「ほんとだとも!」
「じゃあんたデュクロよく知ってる?」
「知ってるともさ」
女はまたためらっていたが、やがて穏やかな調子で、
「まあ、そうなの?」と言った。
「一体|奴《やっこ》さんに何の用があるんだい?」
「ねえ、一つ伝えてほしいことがあるの……いいえ、いいわ、よすわ!」
彼はますます気がかりになって、女をじっと見詰めていた。とうとう、一切を知りたくなって、
「お前知ってるんだろう、奴《やっこ》さんを?」と言った。
「いいえ、あたしじゃないわ」
「じゃ、どうしようってんだい?」
女は急に何か決心して、つと立ち上るや、女将《おかみ》がふんぞり返っている帳場の方に駆け寄り、レモンのエキスの壜《びん》を取るやそれをコップにつぎ、その上に綺麗な水をなみなみと満たした。そしてそれを持ってきて、
「これをおのみよ」と言った。
「どうしてだい、こんなもの?」
「酔いをさますのさ。あとで聞いて貰いたいことがあるの」
彼はおとなしくそれを飲んで、手の甲で唇をふいてから言った。
「よし、話っての拝聴しようじゃないか」
「じゃ、あたしに会ったってことはあの人に黙っててね。それからあたしが言うことも、誰からきいたときかれても黙っててね。さあ誓って頂戴」
彼は白っぱくれて、片手をあげた。
「誓うよ」
「神かけて?」
「うん、神かけて」
「じゃ言うわ。あの人に言って頂戴な。おとっつあんも、おっかさんも、兄さんも、一八八三年のお正月に、一か月たらずのうちに腸チフスで死んじまったってね。もう三年半になるわ」
そう聞いて、今度は彼の方で、思わず全身の血が逆流するように感じた。あまりの驚きに茫然自失して、しばらくは答えることもできなかった。が、やがて、疑わしそうに、
「おい、それほんとかい?」ときいた。
「ほんとよ」
「じゃ、誰からきいたんだい?」
女は彼の両肩に手を置いて、じっと男の眼の中を覗きこみながら、
「誰にも喋《しゃべ》らないと誓ってくれる?」言った。
「あたし、あの人の妹なの?」
彼は思わず、
「じゃ、フランソアーズか?」と言ってしまった。
女は再び男をじっと見詰めていたが、やがて、狂おしい恐怖と、深い嫌悪に襲われて、低い声で、ほとんど口の中で呟いた。
「おお、じゃ、あんたは……セレスタンなのね?」
二人はじっと見合ったまま、しばらくは身じろぎもしなかった。
彼等の周囲では、仲間の連中が相変らずがやがや騒いでいた。コップの触れ合う音、拳骨でテーブルを叩く音、踵《かかと》で歌の拍子を取る音、女どもの甲高い叫び声などが、騒々しい淫《みだ》らな歌声と入りみだれていた。
彼はわが身にしがみついている、おびえたあたたかい肉体、しかも実の妹の肉体を感じていた。やがて、人に聞えるのを憚《はばか》って、女の耳にもやっとはいるかはいらないか位の低い声で言った。
「なんてことだ! とんでもないことをしてしまった!」
と、瞬間に、女の眼は涙で一杯になった。そして口ごもりながら、
「でも、あたしの罪かしら?」と言った。
だが、それには答えずに彼はいきなり、
「じゃ、みんな死んだのか?」と言った。
「ええ、みんなよ」
「おやじも、おふくろも、それから兄貴も?」
「さっき言ったように、三人とも一か月足らずのうちに死んだのよ。あたしひとりぼっちになったの。薬屋さんや、お医者さんや、葬儀屋さんに払わねばならないので、家財道具を売っぱらったら、あとにはあたしのボロ着物しか残らなかったわ。そこで、カシウさん、知ってるでしょう、あの跛《びっこ》の……あの人んとこに女中に住みこんだの。その時あたしちょうど十五だったわ。なんせ、兄さんが出かけた時には、あたしまだ十四にもなっていなかったのね。そしてあたし、あの人と間違いをしでかしちゃったの。若い時って、ずいぶん馬鹿げたことをするものね。そののち公証人のところに住み替えて、ここでまたさんざんなぶりものにされ、揚句《あげく》の果ては、ル・アーヴルに連れて行かれて、宿屋に置いてきぼりをくっちまったの。三日三晩というもの、何一つたべず、それに仕事も見つからないので、ざらにある話だけど、こんな泥水稼業に落ちこんでしまったの。それからというもの、あちこち流れ歩いたわ。ああ、思ってみてもぞっとするような国々をね! ルーアン、エヴルー、リール、ボルドー、ペルピニャン、ニース、それから今こうやってマルセイユに落ちついているわけなの」
眼や鼻からあふれ出る涙は、女の頬を濡らし、口に流れこんだ。
女はまた口を開いた。
「兄さんも死んだものとばっかり思ってたのよ」
彼は言った。
「俺にはお前の見分けはつかない筈だよ。なにしろ、あの頃はお前はまだほんの子供だったのに、今はこんなに大きくなったんだからな! でも、お前の方で、どうして俺ってことが分らなかったんだろうな?」
女は捨鉢な身振りをした。
「だって随分沢山の男を知ったんですもの。誰も彼も同じに見えるわ!」
彼はなおも女の眼をじっと覗きこんでいた。千々に胸がみだれ、あまりにも強い感動にぎゅっと胸を締めつけられて、まるで殴られた子供のように泣きだしたくなった。彼は、なおも自分の膝の上に馬乗りになっている女の背中に腕をまわしてじっと抱きしめていたが、そうやって見詰めているうちに、自分が海に乗り出している間、今は亡き両親と一緒に故郷に残して置いた可愛い妹の面影がはっきりよみがえってきた。といきなり、船乗りのごつごつした手で、この再び見出された顔をかかえ、肉親にする滑らかな口づけをした。すると、嗚咽《おえつ》が、波のように長い男の鳴咽が、酒に酔った時のしゃくりのように、咽喉《のど》にこみあげてきた。
彼は口ごもりながら言った。
「おお、お前だったのか、フランソアーズだったのか、可哀そうに……」
突然彼は立ち上って、上に載っているコップがひっくり返って壊れるほど乱暴にテーブルを叩きながら、物凄い声で罵《ののし》りはじめた。そして、二足三足歩いたかと思うと、急によろめいて、両腕をのばしたまま、床の上にうつぶしに倒れた。それから、何やら大声に叫びながら、両手や両足をばたばたさせて、床の上をころげ回った。その呻《うめ》き声はまるで断末魔の息切れのようだった。
仲間はこうした彼の姿を見て、げらげら笑いだした。
「奴《やっこ》さんすっかり酔っぱらったな」と一人が言った。
「とにかく寝床にかつぎこもうぜ。このまんま外へ出たら、それこそ豚箱の御厄介だ」
と他の一人が言った。
まだポケットにいくらかの金が残っていたので、女将も泊めることを承知した。そこで、同じように足腰立たぬほどに酔っぱらった仲間の連中が、よいしょ、よいしょと、狭い階段をさっきの敵娼《あいかた》の部屋までかつぎ上げて行った。女は、恐しい罪を犯したあの寝台の足もとの椅子によりかかったまま、男と同じように、朝まで泣きつづけていた。
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離婚
パリ法曹界《ほうそうかい》にその人ありときこえた弁護士で、十年このかた、仲|違《たが》いした夫婦の離婚事件を扱っていつも成功しているボントラン先生は、事務所の扉をあけて、新来の依頼者を中へ招じ入れた。
それは、金褐色の頬髯《ほおひげ》の濃《こ》い、あから顔のでっぷりふとった男だった。太鼓腹で、血色がよく、いかにも元気そうだった。彼は会釈した。
「まあ、おかけ下さい」と弁護士は言った。
依頼者は腰をおろした。それから一つ二つ咳ばらいをしてから、
「じつは先生、一つ離婚事件を弁護して頂きたいと思いまして」と言った。
「どうぞお話し下さい。承《うけたまわ》りましょう」
「先生、私はもと公証人をしておりました」
「ほう、以前ですか!」
「そうです、以前にです。私はこれでも三十七歳なのです」
「先を承りましょう」
「先生、私は不幸な、それこそ非常に不幸な結婚をいたしました」
「それはあなたお一人じゃありませんよ」
「それはよく存じています。そういう人たちを私もお気の毒に思っています。でも、私の場合はまったく特別なものでして、家内に対する私の苦情は極めて特殊な性質を持ったものなのです。しかし、そもそもの発端からお話しいたしましょう。私は非常に奇妙な結婚をしたのです。先生は危険な思想というものをお信じになりますか?」
「いったいそれはどういう意味でしょう?」「ある思想がある精神にとって危険なことは、あたかも毒が身体《からだ》にとって危険であるのと同じだとお思いになりますか?」
「もちろん御説の通りでしょうな、恐らく」
「いや、まさしくそうなのです。ある思想はわれわれの心の中にはいってきますと、これに抵抗できない場合は、われわれを蝕《むしば》み、われわれを殺し、われわれを気ちがいにしてしまいます。それは人の魂を蝕む葡萄根油虫《ぶどうねあぶらむし》のようなものです。もしも不幸にして、こうした思想の一つでもわれわれの心の中に入りこませたり、それが侵入者であり、情婦であり、暴君であることを最初に気づかなかったり、時々刻々それが勢いを拡げて行き、絶えず立ち戻ってきては心の中に根を張り、日常茶飯の心配事を駆逐《くちく》し、注意力を全部奪い取ってしまい、判断力を狂わせてしまうことに気づかないと、私たちは自滅してしまうのです。
先生、この私がその一例なのです。先ほど申しあげましたように、私はルーアンで公証人をしていました。やや手元不如意で、ひどく貧乏というのではありませんでしたが、やっぱり貧乏にはちがいなく、いろいろ苦労をし、しょっちゅうつましくしていなければならず、趣味といったものはすべて、そう、それこそすべてです! 切り詰めねばなりませんでした。それは私の年頃には辛いことなのです。
商売柄、私は新聞の第四面の広告や、さまざまな申込みや需要や、細々した消息などには入念に眼を通していました。こうした方法によって、幾度か、依頼人に有利な結婚をさせたことがあったのです。
ある日のこと、こんな広告が目にとまりました。
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『容姿端麗、教養ある理想的令嬢。社会的地位ある紳士と結婚したし。持参金二百五十万フラン。仲介謝絶』
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さて、ちょうどその日、私は二人の友と晩餐《ばんさん》をともにしました。一人は訴訟代理人で、一人は製糸工場主でした。どうしたことか、会話が偶然結婚問題に触れました。そこで私は笑いながら、持参金二百五十万フランの令嬢のことを二人に話しました。
『そういう女はいったい何者なんだろうね?』と製糸工場主は言いました。
訴訟代理人は、これまでに幾度となく、こうした好条件の素晴しい結婚を見ていましたので、そうした結婚のことをあれこれ語りました。それから私の方を振り向いて、こう附け加えました。
『なんだって君自身のためにそいつを考えてみないんだね? ちぇっ! 二百五十万フランあれば、君の苦労なんかけし飛んじゃうよ』
私達は声を揃えて笑いだしました。それから話題を他に移しました。
一時間ほどして私はうちへ帰ってきました。
その夜は寒い晩でした。それに私は、古びた家に住んでいたのです。菌《きのこ》を栽培する小屋にも似たあの古色蒼然たる田舎家なのです。階段の鉄の欄干《てすり》に手をかけると、氷にふれたような戦慄が腕を走りました。壁を探ろうとしてもう一方の手をのばしますと、その手が壁にふれるや、第二の戦慄がぞっと感じられました。これはもっと湿っぽい感触でした。そしてこの二つの戦慄は私の胸で一緒になって、私を悩まし、悲しませ、苛々させました。その時いきなり、あの持参金つきの女のことが想い出されて、私は、
『ちぇっ! あの二百五十万フランがあったらなあ!』と呟きました。
部屋は陰気極まる部屋でした。炊事の方も引き受けている女中が万事世話をみてくれるルーアンの独身者の部屋です。先生にも楽に御想像のつく部屋です! カーテンのない大きな寝台が一つ、戸棚が一つ、箪笥と化粧棚が一つずつ。それに火の気などはありません。椅子の上には着物がしどけなく脱ぎ棄てられ、床には紙が散らばっています。私は寄席《よせ》でよくきく音楽の節《ふし》に合わせて、次のような文句を口ずさみました。そんな場所にも時には足を運んだことがあったのです。
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二百万フラン
二百万フラン
こいつは悪かない
それにおまけが
五十万フランに
別嬪《べっぴん》さん
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実際のところ、私はまだその女のことは考えてはいなかったのでした。ところが、寝床にはいると、急にその女のことを考え出したのでした。あれこれ思うもので、なかなか寝つかれませんでした。
翌日、夜明け前に眼をさましますと、ある重要な用件で八時にダルネタルに行かねばならぬことを思い出しました。そこで六時に起きねばならなかったのです。――その朝は氷が張りました。
ちぇっ! 二百五十万フランさえあれば! と思いました。
私は十時頃に事務所に帰ってきました。部屋の中は、赤く灼《や》けた暖炉の臭いや、古い書類の臭い、――昔の訴訟書類の黴《かび》くさい臭いほど厭な臭いはありません――それに筆生達の体臭や、長靴、フロックコート、肌着、髪の毛、皮膚、しかも冬なのでほとんど風呂にはいらぬ皮膚などの臭いが、摂氏十八度の温度でむっと温められているのです。
私はいつものように、焦げたカツレツと一片のチーズで昼飯をすまし、それから仕事に取りかかりました。
この時、私ははじめて、あの二百五十万フランの持参金つきの女のことを真剣になって考えたのでした。あの女はいったい何者だろう? なぜお前は手紙をやらないのだ? なぜ知ろうとはしないのだ? と自分に向って言ったのでした。
先生、かいつまんで申しあげましょう。半か月というもの、私はこの考えにうるさく附きまとわれ、苦しめられました。私が絶えず悩んできはしたものの、その日までは気にもとめず、ほとんど気づきもしなかったようなありとあらゆる倦怠、小さな不幸が、今は針のように私の胸を刺すのです。そんな風にちくりと胸を刺されるごとに、すぐに想い起されるのは、あの二百五十万フランの持参金つきの女のことでした。
とうとう私は、彼女の身上話を想像ででっちあげてしまいました。先生、人間って、何か一つのことを望むと、自分の願っている通りにそれをつくりあげてしまうものですね。
相当の額の持参金を持ったこうした良家の令嬢が、新聞広告などで配偶者を求めるなんて、どう考えても不自然です。たしかにそうです。でも、この令嬢は立派な人柄ではあっても、不幸な女であるかも分らないのです。
まず、この二百五十万フランという財産ですが、これは神秘的なことがひとの心を眩惑するように、私の心をとらえたのではありません。こうした性質の申込みを書類の上に読んでいるわれわれ公証人は、六百万フラン、八百万フラン、一千万フラン、ないしは一千二百万フランという大金を伴った結婚の申込みには慣れているのです。一千二百万フランという数字だって、かなり、ありふれたものです。聞いていてまんざら厭な気持のするものではありませんね。われわれはこうした約束が果して真実なものであるかどうか、あまり信を置かないものです。それは私もよく承知しています。しかし、こうした約束は、われわれの心の中に、空想的な数字を導き入れて、われわれの不注意な、軽々しくものを信じこむ心に、ある程度まで、その数が示す莫大な金額をいかにも本当らしく思いこませて、二百五十万フラン位の持参金は、極めてあり得べき、軽少なものと思わせる傾向があります。
さて私はこんなことを想像したのです。――この娘は成金と小間使の間にできた私生児で、突然父親の遺産をつぐと同時に自分の生れに汚点のあることを知った。そこで、他日自分を愛してくれる男にそれを告白しないですむように、極めてありきたりの方法で見知らぬ男性に呼びかけたのだ。この方法は、それ自体、生れの瑕瑾《きず》をそれとなく告白しているようなものである、と。
私のこうした推量はおよそ馬鹿げたものでした。でも私はこれを念頭から追い払うことができませんでした。公証人なんて手合は、元来小説など決して読まないものですが、私はそれを読んでいました。
さてそこで、私は、公証人の資格で、依頼者があったからといって手紙を書きました。そして返事を待ちました。
それから五日ばかりして、午後の三時頃でした、私が事務所で仕事をしていますと、書記長が来客を告げました。
『シャントフリーズ嬢という方です』
『お通ししなさい』
すると、年の頃三十歳ばかりの、ややがっちりした栗色髪の婦人が、おどおどしながらはいってきました。
『どうぞ、おかけ下さい』
女は腰をおろして呟くように言いました。
『あの、わたくしでございます』
『とおっしゃいますと? 失礼ながら、まだ存じあげておりませんが』
『お手紙を頂きました者でございます』
『あ、あの結婚についての?』
『左様でございます』
『あ、そうでしたか! それはようこそ!』
『わたくし、自分で参りましたの。自分のことは自分で致した方がよろしいと存じまして』
『御説の通りです。ところで、結婚なさろうという御希望でしたね?』
『左様でございます』
『御家族がおありですか?』
女はためらい、眼を伏せ、口ごもりながら言いました。
『いいえ、わたくしの母は……それから、あの、父も……なくなりました』
私は思わずぶるっと身ぶるいしました。――では俺が推察した通りだ! と。――すると、この哀れな女に対する烈しい同情の念が勃然と私の心に湧き起ってきました。
彼女の気持をいたわるために、私はそれ以上聞こうとはしませんでした。そして話を先につづけました。
『あなたの財産はちょうどあれだけなのですね?』
今度はいささかのためらいもなく、彼女は答えました。
『はい、左様でございます』
私は彼女をじっと観察しました。じつを言うと、私は食指が動かなくもなかったのです。ちと分別臭いところはありましたが。私が考えていた以上に分別臭いところはありましたがね。美しい、丈夫そうな、立派な女でした。持参金が空約束のものでないことがはっきり分ると、一つ彼女に感情の小さな芝居を打ってみよう、架空の依頼人に取って代って、彼女の情人になってやろうという考えが頭に浮かびました。そこで私は、依頼人を陰気な男のように語りました。非常に尊敬すべき男ではあるが、やや病身な男のように述べたのでした。
すると彼女は語気を弾ませて言いました。
『まあ! でもわたくし、丈夫な方が好きなんですけれど』
『まあ、とにかく、その人にお会いになって御覧なさい。でも、三、四日うちというわけにはいかないのですが。と申しますのは、昨日イギリスへたちましたのでね』
『まあ、それは残念ですわ』と彼女は言いました。
『まったくね! ところでお帰りをお急ぎですか?』
『いいえ、それは決して』
『では、当地にいらっしゃい。退屈なさらないでおすごしになれるよう努力しましょう』
『まあ、御親切に有難う存じます』
『宿はおとりになりましたか?』
彼女はルーアン一の旅館の名をあげました。
『では、お嬢さん、あなたの未来の……公証人が、今夕晩餐にお招きすることを許して下さいますか?』
彼女は心を決しかねて、不安げにためらっている風でした。ですが、そのうちに決心して、
『お受けいたします』と言いました。
『では七時にお迎えにあがります』
『承知いたしました』
『では、今晩また』
『はい』
そこで私は彼女を戸口まで送って行きました。
七時には私は彼女のホテルに行っていました。私が来るというので、彼女は念入りにお化粧をしていました。そして、いかにもあだっぽい身ごなしで私を迎えました。
私は行きつけの料理店へ案内し、相手をあっと言わせるような料理を注文しました。
一時間もすると、私達はすっかり仲よしになってしまいました。彼女は自分の身上話を語ってきかせました。なんでも、ある貴族に誘惑された上流の婦人の娘で、百姓家で育てられたというのです。父母の莫大な財産を相続したので、今は裕福な身上でした。ところで、両親の名前だけは、頑として言おうとしないのです。きいたところで、頼んだところで明かしそうにはありませんでした。そんなことは大して知りたくもなかったので、財産のことをきいてみました。すると彼女はすぐにいかにも実務家らしく話しだしました。財産のことは詳しく知っていて、その数字についても、また証券、収入、利子、投資などについてもはっきりしたことを語りました。こうしたことに関する彼女の能力は、ただちに私の心に彼女に対する大きな信頼の念を呼び起しました。そこで私は、彼女の御機嫌を取りはじめました。もっとも控え目にです。でも、彼女を憎からず思っていることだけははっきり示しました。
彼女はちょっと気障《きざ》な気取り方をしましたが、優美な趣がなくもなかったのです。私は彼女にシャンパンをつぎ、自分でも飲みました。それで頭がぼうとしてきました。これは何か思い切ったことをやりそうだなと、私ははっきり感じました。そして、怖くなりました。自分が怖くなり、彼女が怖くなったのです。彼女の方でも何かしら胸を乱されて、負けてしまうのではないかと、それが怖かったのです。私は興奮を鎮《しず》めるために、話をまた持参金の方に持って行きました。依頼者は実際家だから、話をはっきりきめて置かねばならないからと言ったのでした。
彼女は快活な調子で答えました。
『ほんとにそうですわ。だから証拠書類を持ってきましたわ』
『ここにですか、ルーアンにですか?』
『ええ、ルーアンにですよ』
『ホテルにあるんですね?』
『もちろんですわ』
『見せていただけますか?』
『もちろん御覧に入れますわ』
『今晩ですか?』
『もちろんですとも』
これは、あらゆる意味で私を救ってくれたのです。私は勘定をすませて、彼女のホテルへ帰ることになりました。
彼女の言った通り、彼女は証書を全部持ってきていました。もはや疑いの余地はありませんでした。私はそれを手に取り、それに触れ、それを読んだのです。私は有頂天になって、いきなり彼女に接吻したくなりました。これは満足した人間の欲望、純潔な欲望だと私は思います。で、私は本当に接吻してしまったのです。一度、二度、十度……その果てにはシャンパンの酔いも手伝っていたのですが……私は負けてしまいました……と言うよりはむしろ……そうです……女の方が負けてしまったのです。
ああ、先生、そんなことをしでかしたあと、私はそうした自分に憤慨を覚えずにはいられませんでした。……ところで彼女は! 彼女はさめざめと泣いているのです。そして、裏切らないでくれ、見棄てないでくれと嘆願するのです。私は彼女の言うなりに約束しました。そしておぞましい気持を抱いて帰って行きました。
いったいどうしたものでしょう? 私は依頼者の名を濫用したのです。もしも彼女と結婚したいという依頼者があるのでしたら、事は簡単だったでしょう。ですが、そんな依頼者なんかなかったのです。依頼者というのは、だまされた純朴な依頼者、手もなく自分の方からだまされた依頼者というのは、ほかならぬこの私なのです。なんという立場に置かれたものでしょう! 私は彼女を棄てようと思えば棄てることもできたのです。それはそうです。ですが、彼女には、持参金が、素晴しい持参金が、手でちゃんと触ることのできる確実な持参金があったのです。それに、こんな目にあわした揚句、この可哀そうな女を見棄ててしまう権利が私にあったでしょうか? でも、妻にしたら、この後、どんなに不安に悩まねばならないことでしょう!
こんな簡単に負けてしまう女では、どんなにか頼りないことでしょう!
私は決心のつきかねる怖しい一夜をすごしました。後悔の念に責めさいなまれ、恐怖に苦しめられ、いろんな不安、心配に心をゆさぶられました。けれども、朝になりますと、理性がはっきりしてきました。そこで入念に服装をととのえ、十一時が鳴るのを聞いて、彼女の泊っているホテルに行きました。
私の姿を見るや、彼女は眼まで真赤になりました。
私は彼女にこう言いました。
『私の過ちを償う手段は一つしかありません。結婚していただきたいのです』
すると彼女は呟くように言いました。
『承知いたしました』
そこで私はこの女と結婚したのです。
六か月の間は、万事うまく行きました。
公証人事務所はひとに譲ってしまい、利子で暮していました。実際何一つ不平はありませんでした。何一つ家内に文句を言うことはありませんでした。
ところが、そのうちに、時折家内が長時間家をあけることに段々気がついてきたのです。それは決った日にそうなのでした。今週が火曜日だとすると、来週は金曜日なのです。私はてっきりだまされているのだと思いました。そこであとをつけてみました。
それは火曜日のことでした。家内は一時頃徒歩で出かけ、ラ・レピュブリック街を下り、右に曲って、大司教の邸宅に沿っている路を辿り、それからグラン・ポン街をセーヌ河まで歩き、河岸《かし》に沿って石橋《ポン・ト・ピエール》まで行き、そこで河を向うに渡りました。この頃から、家内は何やらそわそわしだした風で、うしろを振り向いたり、通行人をうかがったりしていました。
私は石炭運びに変装していましたので、家内は気づきませんでした。
とうとう、家内は左岸の停車場にはいって行きました。もはや疑いの余地はありません。情夫が一時四十五分の列車でやってくるのにちがいないと私は思いました。
私は一台の荷馬車のうしろに隠れて、待っていました。汽笛が鳴りました。……旅客がどっと降りてきました。……家内は一、二歩前に出たかと思うと、急に駆け出して、ふとった田舎女が連れてきた三歳ばかりの女の児を両腕に抱きあげ、情熱的な接吻をしました。それから、うしろを振り返って、もう一人の子供の姿をそこに見つけました。それは今の児よりも小さくて、女の子だか男の子だかよく分りませんでしたが、別の田舎女の腕に抱かれていました。家内はその方に駆けより、その児を乱暴に抱きしめました。それから、この二人の子供と、二人の女中を連れて、クール・ラ・レーヌの、人の往来の少ない、ほの暗い長い散歩道の方へ行ってしまいました。
私は思いがけないことにびっくりし、暗然たる気持を抱いて帰ってきました。分ったような分らないような、何とも判じかねたのでした。
家内が夕食の時間に帰ってきた時、私は家内の方に飛びかかって行ってどなりました。
『あの子供達はなんだ?』
『どの子供ですの?』
『お前が待っていた子供達だ。サン・スヴェル発の汽車で来たあの子供達だ』
家内は大きな叫び声をあげて、その場に気を失ってしまいました。意識を取り戻した時、家内はとめどもなく涙を流しながら、自分には四人の子供があるということを告白しました。そうなのです、先生、火曜日に二人、女の児にあい、金曜日に二人、男の児にあっていたのです。
そして、それが……ああ、なんて恥ずかしいことでしょう!……それが家内の財産の出所だったのです……四人の父親!――家内はこうしてその持参金を掻き集めたのです。
先生、いかが致したらよろしいものでしょう、お教えを願いたいのですが」
そこで弁護士は荘重な口調で答えた。
「その子供さん達を認知なさることです」
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死んだ女
僕はまるで気ちがいのように彼女を愛していた! なぜ人間は恋をするのだろう? この広い世界の中でもはや一人の人間しか眼に映らず、胸にはもはやたった一つの思いしかなく、心にはただ一つの望みしかなく、口にするのはただ一つの名前だけだ。しかもこの名前は、絶えず浮かんでくる、泉の水のように、魂の奥底から唇に浮かんでくるのだ。そしてそれを口に出して言い、繰り返して言い、到るところで、まるでお祈りの文句のように絶え間なく呟きつづけるのだ。まったくもって不思議なものさ。
僕は何も僕達の恋物語をしようとは思わない。だいたい恋物語なんて幾通りもあるものじゃない。どれもこれも同じさ。僕もただ彼女に逢って、愛した、ただそれだけのことさ。僕は一か年間というもの、彼女の愛情の中に、彼女の腕の中に、彼女の愛撫の中に、彼女の限差の中に、彼女の衣裳の中に、彼女の言葉の中に、いわば、彼女に属するあらゆるものの中に、包まれ、縛られ、とらえられていた。すっかりもう無我夢中なので、昼なのか夜なのか、生きているのか死んでいるのかも分らぬという始末だった。
ところがその彼女が急に死んでしまったのだ。どうして死んだのか、僕は知らない。覚えていないのだ。
雨のそぼ降るある宵のこと、彼女は濡れて帰ってきた。そしてその翌日、さかんに咳をしていた。約一週間というもの咳をし通しだったが、とうとう病床についた。
どんな工合だったか、僕はもう忘れてしまった。
幾人もの医者が診察にきては、処方箋を書いて帰って行った。薬がとどけられた。一人の女がそれを彼女にのませていた。彼女の手はあつく、額《ひたい》は灼《や》けつくような熱で汗にべっとり濡れていた。瞳はギラギラ光って、悲しそうだった。僕は彼女に話しかけ、彼女はそれに答えた。いったいどんなことを話し合ったのだろう? もう覚えてはいない。すっかり忘れてしまった。それこそすっかりもう忘れてしまったのだ。彼女は死んだ。彼女の臨終のあのかすかな吐息、弱い弱いあの吐息だけは今もはっきり覚えている。看護をしていた女が「ああ!」と言ったので、僕は分ったのだ。これが最期だと分ったのだ! 僕はもうすべてを忘れてしまった。それこそ何も覚えていない。ただ、牧師がやって来て、「あなたのいいひとは」と言った時、僕は彼女が侮辱されたように思った。彼女は死んでしまったのだから、そんな差別をする権利はないのだ。僕は牧師を追い帰した。次に来た牧師は非常に優しい、善良なひとだった。このひとが彼女のことを話しはじめると、僕はついに泣きだしてしまった。
埋葬について、ひとびとはいろいろなことを僕に相談しかけたが、もう僕は全然覚えていない。だが、柩《ひつぎ》と、柩の蓋を釘で打ちつける槌《つち》の音だけは今もはっきり覚えている。ああ!
彼女は土の下に葬られたのだ! 土の下に! 彼女が! この穴の中に! 幾人かの女友達がやってきていた。僕は逃げ出した。僕は走った。長いこと、町から町とさまよい歩いた。そして家に帰ってきた。翌日僕は旅に出た。
昨日、僕はパリに帰ってきた。
僕の部屋、いや僕達二人の部屋、僕達二人が寝た寝台、僕達二人が使った家具、一切のものが死んだのちもなお生前のままに残っているこの家を再び見ると、激しい悲しみが再び胸に立ち戻って、あやうく、窓を開けて下の街路に飛びおりるところだった。こうした数々のもののまん中に身を置き、かつて彼女を取り巻き、その身を守っていたこれらの壁、彼女の肉や息吹《いぶき》などの幾千の原子《アトム》をその眼に見えない隙間に今なお存しているにちがいないこれらの壁の間にいるのは、もうどうにも我慢ができなくなって、僕は帽子をつかんで、逃げ出そうとした。戸口まで来て、いきなり玄関にある大きな鏡が眼についた。これは彼女が在りし日に、ここに懸けさせて、毎日出がけには必ずこの前に立っては、爪先から頭の天辺《てっぺん》まで映してみて、お化粧がよくできているかどうか、靴から髪のつくりまで、きちんと綺麗に整っているかを調べてみたものだった。
彼女が幾度となく己《おの》が姿を映してみたこの鏡の正面に僕は立ちどまった。あれほど姿を映した鏡だ。きっとその面影を今なお宿しているにちがいないと思われた。
僕はぞくぞくと身を顫《ふる》わせながら、この硝子、平たい、底知れぬ、空《うつ》ろな硝子にじっと眼を注いだまま立ちつくしていた。空ろではあるが、この僕と同じように、僕の熱情的な眼差と同じように、彼女をすっかり所有しているのだ。そう思うと、この鏡までがいとしくなって、そっと触ってみた。――ひやりとつめたい! おお! 想い出よ! 想い出よ! それは、傷ましい鏡だ、火と燃える鏡だ、生きた鏡だ、あらゆる地獄の責苦をなめさせるむごたらしい鏡だ! 影が呪っては消えて行く鏡のような心を持った人間は幸いだ! そうした心は、持っているすべてのものを、己れが前を過ぎ行くすべてのものを、恋や情の中に映し出されたすべてのものを、みんな忘れてしまうのだ! だというのに、僕のこの胸の苦しさはどうだろう!
僕は外に出た。と知らず知らず、別にそんな気持もないのに、足が自ずと墓地の方に向いて行った。しごく簡素な彼女の墓が眼についた。大理石の十字架には次の数語が刻まれていた。
「彼女は愛し、愛されて、みまかりぬ」
彼女はそこにいるのだ。土の下に、腐っているのだ! なんという怖しいことだ! 僕は大地にひれ伏して啜《すす》り泣いた。
僕はいつまでもそこにじっとしていた。そのうち、夜になったのに気がついた。すると、気ちがいじみた奇妙な欲望が、絶望に陥った恋人の欲望が僕の心をとらえた。最後の一夜を、彼女のそばで、彼女の墓の上で泣き明したくなったのだった。だが、見つかったら、追い出されるだろう? どうしたものだろう? 僕はずるい計略を思いついた。僕は立ち上って、この亡者の町をさまよいはじめた。僕は歩いた。なおも歩きつづけた。この町は、もう一つの町、生の町にくらべてなんと狭いことか! 死人は、生きている人間よりずっと多いというのに! 一時代を二十五年とすれば、生きているわれわれ四時代の人間には、高い家、街路、広場などが必要なのだ。そしてわれわれは同時に陽の光を見、泉の水、葡萄酒をのみ、野の麦からつくるパンをたべているのだ。
ところで、各時代の死者にとっては、最後がわれわれにまで達している人類の梯子《はしご》の各段階にとっては、ほとんど何も要らないのだ。ただ大地の片隅があれば事足りるのだ! 大地は再び彼等を奪い取り、忘却が彼等を消滅させてしまう。そして永遠におさらばだ!
ちゃんと骸《むくろ》の葬られている墓場のはずれに、突然、今は見る影もなく荒れはてた墓場のあるのが眼にはいった。そこでは、遠い昔の骸は完全に土に還り、十字架さえも朽ちはてて、明日にはまた新しい死人を葬るような墓地なのだ。一面野生の薔薇《ばら》が咲き乱れ、黒い糸杉がすくすくと伸びている。人間の肉で肥やされた見事な、しかし物悲しい庭である。
僕は一人だった。それこそ一人ぼっちだった。僕は一本の緑の木の中に蹲《うずく》まり、密《ひそか》に繁った暗い枝の間にすっぽり身体《からだ》を隠した。
そして、難船にあった人間が、破片にでも取り縋《すが》っているように、僕は幹にしがみついて、時間の経つのをじっと待っていた。
あたりも暗くなり、真の暗闇となったので、僕は隠れ場から出て、ゆっくり、足音を忍ばせながら、死人に満ちたこの大地の上を静かに歩きはじめた。
僕は長いこと、それこそ長いことさまよい歩いた。だが彼女の墓はどうしても見つからなかった。両腕をひろげ、眼を大きく見開き、墓石に、手や足や膝や胸や、しまいには頭までぶっつけながら探して歩いたが、どうしても見つからなかった。僕は道を探す盲人のように、手探りして進んで行った。墓石や、十字架や、鉄柵や、硝子製の花環や、枯れた花環などをいちいち手でさわってみた。碑銘の文字の上を指先で辿《たど》って、名前を判読した。なんという夜であろう! なんという暗い夜であろう! 彼女の墓は依然見つからなかった! 月もない真の闇! なんという暗い夜だろう! 僕は怖くなってきた。二列に並んでいる墓石の間のこの狭い小径にいるのが、ぞっとするほど怖くなってきた。墓! 墓! 墓! 墓ばっかりだ! 右も、左も、前も、まわりぐるり、到るところ墓だらけだ! 僕はとうとう、その一つに腰をおろした。膝ががくがくしてそれ以上歩けなくなったのだ。胸の動悸のどきどき打つのがはっきり聞える! と、そのほかに何か聞えるものがある! 一体なんだろう? なんと名づけようもない、漠とした物音だ! 狂った僕の頭の中で鳴ってるのだろうか? 測り知れぬほど深い闇の底の物音だろうか? それとも、屍が埋もれているこの大地、神秘的なこの大地の下からひびいてくる物音だろうか? 僕はあたりをじっと見回した。
どの位そこにいたろうか? 自分にも見当がつかない。恐怖のあまり身体《からだ》が麻痺してしまっていた。すっかりおびえきって、今にも叫びだしたくなった。今にも死んでしまいそうな気持だった。
と、突然、僕の腰かけている大理石の墓石が動いたような気がした。そうだ、たしかに動いている。誰かが持ち上げてでもいるように。僕はいきなりはね上って、隣りの墓石に飛び移った。そして僕は見たのだ。そうだ、この眼ではっきり見たのだ。今まで腰かけていた墓石がむくむくと持ち上って、真直ぐに立ったのを。そして、そこから一人の亡者が現われた。裸の骸骨が、その曲った背中で墓石をはね起したのだ。僕にはそれがはっきり見えた。闇の深い夜だったが、はっきり見えた。その十字架の上に僕は次の文字を読むことができた。
[#ここから1字下げ]
「ジャック・オリヴァンここに眠る。享年五十一歳。彼は家族を愛し、誠実にして善良、主のみ恵みのうちに逝きぬ」
[#ここで字下げ終わり]
その時、骸骨も、像と同じように、自分の墓の上に書かれたこの碑銘を読んでいた。それから、路の上の小石を、尖《とが》った小石を拾い上げて、念入りにこれらの文字を消しはじめた。ゆっくりと、これを完全に消し終ると、先程まで文字が刻まれていた場所を、その空ろな眼でじっと見据えていた。それから、食指だったらしい指の先で、まるでマッチで壁にものを書くように、燐光を発する文字をそこに書きはじめた。
[#ここから1字下げ]
「ジャック・オリヴァンここに眠る。享年五十一歳。彼は遺産欲しさに父を虐待してその死を早からしめ、妻を苛《いじ》め、子供を苦しめ、隣人を欺《あざむ》き、機会あるごとに盗みをはたらき、浅ましき死を遂げたり」
[#ここで字下げ終わり]
書き終えるや、骸骨はじっと身じろぎもせず、自分の仕事を打ち眺めていた。この時僕が、ふとうしろを振り返ってみると、まあどうしたことだろう、墓という墓がみんな持ち上げられて、骸骨がそこから姿を現わし、墓石の上に親戚の者が彫りつけた嘘八百の碑文を掻き消して、そこにありのままの真実を刻みつけているのだ。
見ると、誰も彼も、近親を殺した人でなしであり、執念深い奴であり、不正直者であり、偽善者で嘘つきであり、狡猾《こうかつ》で、他人を羨んだり、他人を中傷してよろこぶような連中ばかりである。善き父、貞節なる妻、孝行な息子、純潔な娘、正直な商人、つまり一点非の打ち所のない善男善女と言われている人達も、一人残らず、人の物を盗み、人を欺《だま》し、あらゆる破簾恥な行為、あらゆる悪業をやったのである。
彼等はみんな一斉に、自分達の永遠の棲家の入口に、現世では誰も知らなかった、あるいは知らぬ風を装っていた、残酷な、怖しい、しかも神聖な真実を書いているのだった。
彼女《ヽヽ》もきっと自分の墓の上に真実を書いているにちがいないと思った。そこで今は、いささかの怖れもなく、半ば開かれた柩《ひつぎ》や、死骸や、骸骨の間を走って、彼女の方へと行った。彼女は大丈夫すぐにも見つかるような気がしたのだった。
果たして遠くから彼女の姿が見えた。顔は屍衣に蔽《おお》われて見えなかったが。
そして、先程「彼女は愛し、愛されて、みまかりぬ」という文字が読み取れた大理石の十字架の上に、今度は次の文字を見たのだったり.
「ある日外出して情人を裏切り、その帰り、雨に打たれて病《やまい》を得、ついにはかなく逝《ゆ》きぬ」
その翌朝、墓のそばに気を失っている僕をひとが助けてくれたものらしい。
[#改ページ]
アルーマ(砂漠の女)
一人の友人が私に言ったことがあった。「今度のアルジェリア旅行で、もしひょっとしてボルジ・エババの近所でも通ったら、僕の古い友人のオーバールに会いに行ってみたまえ、そこに移住民として住んでるから」と。
私は、オーバールという名前も、エババという地名も忘れてしまっていた。でこの移住民のことはほとんど私の念頭になかった。ところが、まったくの偶然で、彼の家を訪れることになったのだった。
一か月以来というもの、私は、アルジェからシェルシェール、オルレアンスヴィル、ティアレにかけて拡がっている、あの素晴しく眺めの大きな地方の到る所を、徒歩のままさまよっていた。この地方は、森に蔽われた所があるかと思うと露わな所があり、大きく濶《ひら》けているかと思うと、またある場所はこぢんまり落ちついていた。山と山の間には、冬になると急流がほとばしり流れる狭い渓間《たにま》に、深い松の森があった。落窪《おちくぼ》の下に倒れた巨《おお》きな樹は、アラビア人には橋の用をなしていた。そして蔦《つた》もまた、えたりかしこしと、その枯れた幹に絡《から》みつき、新しい生命をもってそれを飾っていた。山のそれとわからぬ襞《ひだ》の間に、物凄いほど美しい豁間《たにま》があれば、また一方には、爽竹桃《きょうちくとう》で蔽われ、想像も及ばぬ物静かな美しさを持った、なだらかな小川の岸辺があった。
しかし、この旅において、一番懐しい想い出を私の胸に残したものは、午後、あのいくつもの丘の起伏の上の、疎《まば》らに樹の生えた道を辿《たど》ることだった。丘の上からは、青みがかった海から、頂上にトゥニテル・ハードの柏香樹の森をいただいたウアルスニ山脈に到るまでの、波のように起伏した焦《こげ》色の茫漠たる地方が瞰下《みおろ》された。
その日、私は道を踏み迷ったのだった。ちょうど一つの頂上に攀《よ》じ登ったところだった。私はそこから、一聯《いちれん》の丘の彼方に、長いミティジャの平原と、そしてその背後《うしろ》のほとんど眼に見えぬほど遥か遠くに、他の山脈の頂きの上に立っている、「キリスト教信者の墓」と呼ばれている異様な墓碑を見ていた。それは、モオリタニのさる王族の墓地だとかいうことだった。それから南部地方の方に向って再び降りて行った。眼の前には、砂漠の入口に、澄みきった青空にすっくと聳《そび》え立っている峰々の頂きまで、くぼんだり盛り上ったりしている、灰褐色の地方が拡がっていた。
それらの丘々は全部、縫い合わされた獅子《しし》の皮で蔽われているかのように灰褐色をしていた。時々、それらの丘々の真中に、もっと高い地瘤《こぶ》がちょうど駱駝《らくだ》の毛ばだった背中のように、黄色く尖って立っていた。
山の傾斜の曲りくねった小径を辿る時は誰でもがそうのように、私は急ぎ足に、身も軽々と歩いて行った。こうして、高地の清らかな空気の中を足早やに歩いていると、何も重くのしかかってくるものはなかった。身体《からだ》も心も、想いも、また心労《わずらい》さえも、決して重くは感じられなかった。この日私の胸の中には、私の生命《いのち》を苦しめ悩ますものは、もはや何もなかった。この、降りることの悦びしかなかった。遠くにアラビア人の野営しているのが見えた。それは岩にこびりついた貝殻のように地面に密着している、鳶色《とびいろ》の、尖った天幕か、あるいは、一条の灰色の煙をあげている柴小屋、即ち樹枝を組合せた小屋だった。その周囲を、男か女かわからないが、白い影が緩やかな足取りでさまよっていた。そして、家畜の群の鈴の音《ね》が、夕暮の空気の中で、微かに顫えていた。
私が歩み進んで行く路の上には、楊梅《やまもも》の樹が、真紅な果実を異様なまでに撓《たわ》わにつけた枝を垂れていた。その果実は路の上にも撒《ま》きちらされていた。これらの樹は、血まみれの汗を滴《したた》らせる、苦しみ悩める樹といった感じがした。というのは、どの小枝の先端《さき》にも、血の滴《しずく》のような赤い実が垂れ下っているからだった。
これらの樹の周囲の地面は、この血の滴で蔽われていた。そして、足は、楊梅《やまもも》の実を踏み潰しては、そこに虐殺の痕《あと》を残して行った。時々、私は通りすがりに、ぴょんと一飛び跳び上っては、一番|熟《う》れたようなのをもいで口に持って行った。
どこの小さな谷も、今は、黄金色の靄《もや》に満たされていた。その靄は、牛の横腹から立ちのぼる水蒸気のように緩やかに上《あが》っていた。そして、サハラの国境の方の地平線を閉ざしている山脈の上には、弥撒《ミサ》集に描かれてあるような空が燃えていた。細長い金色の条と血色の条が――またしても血だ! 血と金、それが人間の全歴史だ――互い違いになっていた。そして、折々、それらの間に、ほっそりした隙間が、夢のように涯しなく遠い、緑色がかった瑠璃色《るりいろ》を見せて覗いていた。
おお! なんと私は遠く来たことであろう! 都会の大通りでかかずらう人々や事物からなんと遠く離れていたことであろう。また、私自身からも遠く離れて、意識もなければ思念もない、一種のさまよえる物体となっていたのだった。ぶらぶらものを見ながら行く一つの目、見ることの好きな一つの眼となっていたのだった。それからまた、私の歩かねばならぬ路からも遠く離れていた。私はもはや自分の路のことも考えていなかった。というのは、夜が近づいて来た時、私ははじめて、自分が道に迷っていることに気がついたのだった。
影は、闇の驟雨《しゅうう》のように地上に落ちかかってきた。私の眼の前には、もはや、見渡す限り山しか見えなかった。ところが一つの小さな谷間にいくつかの天幕が見えてきた。私はそこへ下りて行った。そして最初に出会ったアラビア人に、私が求めている方向をわからせようと努力した。
彼は私の言う意味が判じとれたのだろうか? そこのところは私にはわからない。しかし彼は長いこと私になにやら答えていた。が、私にはいっこうにその言葉が理解できなかった。仕方なく私は、天幕のそばで、毛布にくるまって夜を過そうと決心しかけた。とその時、この男の口から出る異様な言葉の中に、「ボルジ・エババ」という言葉を開きとったように思った。
私は繰り返した。――「ボルジ・エババ――そうだ、そうだ」
そこで私は彼に二フラン差しだした。これはなかなかどうして大した財産だ。彼は歩き始めた。私は彼のあとについて行った。おお! 私は長い間、深い闇の底を、この蒼白い亡霊のような彼について行った。彼は私の前を、はだしのまま小石の多い小径を走って行った。私はしょっちゅう躓《つまず》き倒れた。
突然一つの光が輝いた。私達は、一軒の白壁の家の扉の前に到着した。それは壁の線の真直ぐな、外面に窓のない、一種の小さな砦《とりで》のような家だった。私は扉を叩いた。内部《なか》で幾匹かの犬が吠えた。一つの声がフランス語でたずねた。
「どなた?」
私は答えた。
「オーバールさんのおすまいはこちらでしょうか?」
「ええそうですが」
扉が開けられた。私は、オーバール氏その人の前に立っているのだった。それは、髪がブロンドの、背の高い人で、古靴をはき、口にはパイプをくわえ、腕力の強い、お人好しのような様子をしていた。
私は自分の名前を告げた。彼は両手を差し出して言った。「ようこそ、さあどうぞ御気楽に」
それから十五分の後、私は、相変らずパイプをくゆらし続けている主人の前で、がつがつと夕食をたべていた。
私は彼の身上話を知っていた。多くの女に金を注ぎこんだのち、彼は残った金をアルジェリアの土地に投資して、葡萄の樹を植えたのだった。
葡萄の樹はすくすくと育って行った。彼は幸福だった。彼は満足した人間の持つあの落ちついた態度をしていた。私は、どうしてこのパリ人が、あれほどの遊人《あそびにん》が、こうした孤独の中の単調な生活に慣れることができたものか理解できなかった。そこで私はきいてみた。
「いつからここにいらっしゃいます?」
「九年前からです」
「淋しくて我慢できないってことございませんか?」
「いやそんなことはありませんね。人はこの土地に慣れてきますよ。そして、しまいには、好きにさえなってきますよ。いかにこの土地が、私達の裡《うち》の私達が知らない多くの動物的な本能を魅惑するものか、あなたにはおわかりになりますまい。私達ははじめには、まず器官によってこの土地に執着を感ずるのです。即ち、この土地は、器官に対して、なんともわけのわからぬ秘やかな満足を与えるのです。空気と風土は、いつの間にか、私達の肉を征服してしまいます。そして、あたりにあふれている楽しげな光は、たやすく人々の気持を透明にし、満足せしめるのです。光は、絶えず、眼から波のようにはいりこみ、まったく、魂の暗い隅々を残らず洗ってくれるとでもいったようです」
「ですが女の方は?」
「なるほど!……そいつは少し不自由しますね」
「少し位ですみますか?」
「もちろんですとも……少しですよ。というのは、土人部族の中にだって、キリスト教徒の夜のことを考えてくれる女はいつもいますからね」
彼は、私に給仕していてくれたアラビア人の方を振り向いた。それは、捲頭巾《ターバン》の下に黒い眼が光っている、褐色の膚《はだ》の、背の高い男だった。主人はその男に言った。
「あっちへ行ってろ、モハメッド、用があったら呼ぶからな」
それから、私の方に向って、
「あいつはフランス語がわかりますのでね。これから一つあなたにお話をしますが、その中であいつは大きな役割をつとめているのです」
召使いが出て行ったので、彼は話しはじめた。
「私は、その頃、この土地に来てからまだ四年位で、ようやく土地の言葉を片言交りにしゃべりはじめた位のもので、あらゆる点においてここにはまだほとんど腰が落ちついていなかったのです。そしてもともと私にとっては致命的なものであったあの情熱が棄てきれないで、時々、アルジェへ数日の旅にでかけねばならなかったのです。
私は、耕作に使っている人足共が住んでいる土人の天幕から数百メートル離れているこの農園と、もと防備を施された哨所だったこの家《ボルジ》を買いました。来るそうそう私は、ウラド・タアジャ族の一部族であるここの部落民の中から、身の回りの面倒を見てくれる男として、先刻あなたが御覧になった、あの背の高い男を傭《やと》ったのです。名前はモハメッド・ベン・ラマールといいますが、間もなくじつによく私に献身的に仕えてくれるようになりました。彼は慣れない家の中では寝たくないというので、いざという時には私がすぐ窓から名前を呼べるようにと、扉から数歩のところに自分の天幕を張ったのです。
私の生活、それがどんなものであるか、おわかりになるでしょうか? 朝から晩まで、開墾や植付を見たり、たまには狩猟をしたり、近所の哨所の士官達のところへ御馳走をたべに行ったり、あるいは彼等の方が私の家へたべに来たりするのです。
例のその……快楽については――先刻申し上げました通りです。アルジェはこの上もなく洗練された快楽を私に与えてくれました。さてまた時には、親切な同情心のあるアラビア人が、散歩している私をつかまえて、夜私の家へ部落の女を連れて来ようかなどと申し出ることがありました。時々は私もその申し出を受け入れました。しかしたいていの場合は、それが私の胸に生ぜしめる倦怠が怖くて断りました。
さて、夏のはじめの、ある夕方のことでした、耕作地の巡回から帰ってきた私は、モハメッドに用がありましたので、別に彼の名前も呼ばずに彼の天幕の中にはいって行きました。私はいつもそうしていたのです。
ところが、毛蒲団のように厚くて柔かな、あのジェベラムール製の上等な、紅い大きな絨緞《じゅうたん》の上に、一人の女が、ほとんど裸体の女が、腕を眼の上に組み合せて眠っているのです。もたげた天幕の隙間から差しこむ明りの下に、艶々した白い色を浮かべている女の白い肉体は、私がこれまで見た人間の、この上もなく完全な標本の一つのように見えました。一般にこの地方の女は綺麗で、大柄で、それに身体《からだ》の輪郭や線がじつにたぐい稀《ま》れな調和を保っているのです。
私はいささか困惑して天幕の端をおろし、家に帰ってきました。
大体私は女好きな男なのです! この幻影の閃きは、私はこうした土地に来させる原因になったあの怖しいその昔《かみ》の情熱を再び私の血管の中に蘇らせながら、私の身体を貫き、私の身体を燃えたたせたのでした。それは七月のことで、暑い夜でした。で私は、窓に倚ったまま、モハメッドの天幕が地上に落している黒い影をじっと見詰めながら、ほとんど一夜を過したのでした。
翌日、彼が私の部屋にはいってきた時、私は彼の顔を真正面から見詰めました。すると彼は、あたかも罪を犯して困惑している男のように、顔を伏せました。彼は、私が知ってることを見抜いたのでしょうか? 私はいきなり彼に、
『お前嫁を貰ったんだね、モハメッド?』と訊きました。
私は彼の顔が赧《あか》らむのを見ました。彼は口|籠《ごも》りながら、
『いいえ、旦那《ムシュ》』と言いました。
私は彼に強制的にフランス語を話させる一方、また私にアラビア語を教えるようにさせていましたので、彼はよく、どっちつかずの、変てこな言葉を口に出しました。
私は重ねて、
『じゃ、なぜ、お前のうちに女がいるんだね?』と訊きかえしました。
すると彼は、
『あれは南の女なんです』と呟きました。
『なに! 南の女だって! だがそれはなにも、あの女がお前の天幕の下にいる説明にはならないじゃないか』
彼は私の質問には答えようともせずに、
『あいつはとても綺麗ですよ』と言いました。
『まったくだ! そこでと、今度、あんな綺麗な南の女が来たらね、お前の天幕の中へじゃなくって俺の所に連れてくるんだぞ、いいかわかったかい、モハメッド?』
彼は恐しく真面目な顔をして、
『わかりました、旦那《ムシュ》』と答えました。
白状しますが、私は一日中、あの、赤い絨緞の上に横たわったアラビアの女の想い出から来る激しい感動に襲われつづけていました。そして、夕食の時間に家に帰ってきた時は、もう一度、モハメッドの天幕の中にはいってみたい強い欲望をおぼえました。宵の間、モハメッドは例の無感覚な顔をして、私のまわりを行ったり来たりしながらいつものように自分の勤めを果たしていました。私はあやうく、幾度か、彼があの非常に美しい南の女をば、駱駝《らくだ》の毛で葺《ふ》いた彼の屋根の下にこれからも長い間引きとどめて置こうとするのかどうかを訊きかけました。
犬における猟の本能と同じように執拗な、あの女の肉体に対する味覚に相変らず悩まされつづけた私は、九時頃、戸外《そと》の涼しい風にあたるために家を出ました。そして、一点が燈火《ともしび》のために明るく透いてみえる円錐形の鳶《とび》色の天幕のあたりを少しぶらつきました。
それから、こうして彼の天幕のそばをぶらぶらしてるところをモハメッドに見つかっては困ると思って、そこから遠ざかりました。
それから一時間位して帰ってきた時、私は天幕に映っているモハメッドの横顔をはっきり見ました。さて、私はポケットから鍵を出して、家の中にはいりました。家には、私のほかに、私の支配人と、二人のフランス人の労働者と、アルジェで見つけた年取った炊事女が寝ていたのです。
私は自分の部屋へ通ずる階段を昇って行きました。と、部屋の扉の下から細い光線が洩れているのを見て、私はびっくりしました。私は扉を開けました。するとそこに、真正面に、一本の蝋燭《ろうそく》が燃えている卓子《テーブル》の横の藁《わら》椅子に、偶像のような顔をした女が坐っているのを見たのでした。
彼女は静かに私の帰りを待っていたような様子でした。彼女は、南の女達が、脚や腕や頸や、また腰にまでつけているあの銀の細かな装飾品ですっかり身を飾っていました。黛《まゆずみ》に隈《くま》どられて大きく見えるその眼は、私の方にゆったりした視線を投げていました。肉の上に精巧に黥《いれずみ》された青い小さな四つの痣《あざ》は、額と両頬と顎の上に星と輝いていました。腕輪をはめた彼女の腕は、両肩からだらりと垂れている紅絹の一種のマントで蔽われた腿の上に、きちんと載せられていました。
私がはいってくるのを見ると、彼女は立ち上りました。そして従容と身を任せきった態度で、粗野な宝石類で蔽われた身体《からだ》を、私の前にじっと立たせていました。
『ここでなにしてるんだね?』と私はアラビア語で訊きました。
『ここに来るようにと言いつかったので参りました』
『誰がそんなことを言いつけたんだ?』
『モハメッドです』
『そうか、ならよろしい、そこにお坐り』
彼女は腰をおろして、眼を伏せました。私は彼女をじろじろ見回しながら、その前に立ちつくしていました。
顔は、どこか不思議な趣を漂わせ、整って、ほっそりしていました。そしていくらか動物的なところはありましたが、仏陀の顔に見られるような神秘的なかげがありました。唇はいかにも逞《たくま》しそうで、彼女の身体《からだ》の他の部分にも見られる一種の赤い花のような色彩で色どられていましたが、これは、彼女の血の中に黒人の血が少し混っていることを物語っていました。手や腕は申し分のない白い色をしているのですがね。
私は、胸をあやしく乱され、唆《そそ》られ、どぎまぎしてしまって、一体どうしたらいいものかためらっていました。私は、時を延して、よく考えてみるだけの余裕をつくるために、彼女の生れ故郷のことや、この地方にやってきたわけや、モハメッドとの関係など、いろいろなことをたずねました。しかし彼女は、私に一番興味の薄い質問にしか答えませんでした。で私は、彼女がなぜ私の家にやってきたのか、どういうつもりで、どんな命令を受けて、いつからやって来たのか、また、彼女と私の下男との間にどんな関係があったのかも、一切知る由がありませんでした。
私が『モハメッドの天幕へお帰り』と言おうとしましたら、恐らく、私の胸の裡《うち》を見通したのでしょう、いきなり立ち上り、澄んだ響をたてる腕輪をみんな肩の方にすべらせながら、露わな両腕を上にあげ、両手を私の頸のうしろに回して組み合わせ、嘆願するような、また抑えきれなげな気持を見せつつ、私を惹《ひ》きよせました。
男性を誘惑したいという欲望、女達の淫《みだ》らな眼を猫の眼のように魅惑的なものにする、男性をば征服しようというあの欲求によって焔をともされた彼女の眼は、私を呼び、私を縛りつけ、私からあらゆる抵抗力を奪い取り、狂おしいばかりに激しい情熱をもって私の血を湧きたたせました。それは、言葉もなく、瞳と憧の間だけで交される、短かい、しかし激しい闘いでした。雄と雌の、二種の人獣の間で交され、そしていつも決ったように雄の方が敗ける、永遠の闘いでした。
私の頭のうしろに回された彼女の手は、まるで機械の力のような、徐《おもむ》ろに力を増してくる抵抗しがたい圧力をもって、動物的な微笑をたたえた赤い唇の方へと私を惹きつけて行くのでした。私はいきなり、私の唇を彼女の唇にぴったりとくっつけました。一方私の手は、私の抱擁の下で頸《くび》から足先に至るまで響をたてている銀の輪で飾られた、ほとんど裸体の肉体を抱きしめていました。
彼女は、獣《けだもの》のように、強く、しなやかで、健康でした。そして、羚羊《かもしか》のような様子と動きと優美さと、それからあの一種の匂いとを持っていました。この匂いは、彼女の接吻に、熱帯地方の果実の味のような、今まで私の感覚が経験したことのない、未知の、比類ない味わいを見出させたのでした。
間もなく……そうです、私は敢えて間もなくと言います。でもそれは、多分もう夜明け近くだったと思いますが、私は彼女が、来た時と同じような調子に帰って行くものと思い、そして、私が彼女をどうすべきものだとも、もしくは彼女の方が私をどうすべきものだとも、まだ考え到らずに、彼女を帰そうとしました。
しかし、そうした私の意志を読みとるやいなや、彼女は呟きました。
『私をここから追いだして、今頃どこへ行けとおっしゃるの? 闇の中の、地面に寝なくちゃなりませんわ。どうぞ、あなたの寝台の足もとの、敷物の上に寝かせて下さいな』
どう答えたらいいものでしょう? 一体どうしたらいいものでしょう? 私は、今度はモハメッドの方が、きっと、私の部屋の明りのともった窓をじっと見ているにちがいないと思いました。すると、はじめ頭が混乱していて考えてもみなかったいろいろな問題が、この時はっきりした形をとってきたのでした。
『じゃここにじっとしておいで。いろんな話をしよう』と私は言いました。
私の決心はたちどころにきまりました。この娘は俺の腕の中に身を投げこんできたのだから、俺が預かって置いていいわけだ、回教徒の閏房《ハレム》の女達のように、俺の家の奥に隠して置いて、女奴隷のようなものにして置こう、いざ気に入らなくなった日には、なんとかして棄てちまうぐらいのことはいつでもわけなくできるだろう。なぜって、アフリカの土地のこうした女達は、身も心もほとんどわれわれに属してるようなものだから、とこんなことを私は考えたのでした。
私は彼女に言いました。
「私はお前にとって親切な人になってあげよう。お前が決して不倖《ふしあわせ》にならないように待遇してあげよう。だが、私はお前がどんな人間なのか、そして一体どこから来たのか知りたいんだ」
彼女は、今は話さなくてはならないと覚ったのでした。そこで、自分の身上話をはじめました。いやそれはむしろ、ある身上話と言った方がいいでしょう。というのは、すべてのアラビア人が、しょっちゅう、理由があってもなくても嘘をつくように、彼女の話も徹頭徹尾嘘にちがいなかったからです。
土民の性格の、この上もなく驚くべき、そしてこの上もなく不可解な特徴の一つは、この嘘をつくということです。回教は彼等の間にしみこんで、彼等の本能を規定し、彼等の種族全体を改造し、そして、皮膚の色が白人から黒人を区別させているように、精神までも他の種族から区別さすほど、それほどまでにこれらアラビア人達の間に発達したのですが、彼等の言は頭から信用できないほど、心《しん》の髄からの嘘つきです。これは彼等の宗教のせいなのでしょうか? そこのところは私にはわかりません。とにかく、どんなに嘘が彼等の身体《からだ》や、胸や、魂の中にしみこんでいるか、またどんなに嘘が、彼等の間にあっては、なにかしら第二の天性みたいなものになり、生命の必要物になっているかを知るためには、彼等の間で生活してみなくてはわかりますまい。
さて彼女の語ったところによりますと、彼女は、ウレッド・シディ・シェーク族のある酋長と、彼がトゥアレッグ族を掠奪した時奪ってきた一人の女との間にできた娘だというのです。その女は、黒人の奴隷か、あるいは、少くとも、アラビア人の血と黒人の血の最初の雑交から生れたものに違いありません。黒人の女達は、誰でもが御存じのように、回教徒の閏房《ハレム》では非常に珍重がられています。というのは、彼女達はそこで、淫欲をそそる役目を演ずるのです。
ところで、この血統を示すものとては、唇のあの真赤な色と、発条《ばね》仕掛で張られているように細長く尖ってしなやかな乳房の、黒ずんだ苺のような色しかありませんでした。これは、注意深い眼でしたら、決して見逃しっこないものでした。しかしながら他のすべての部分は、膚が白くて身体《からだ》のすらりとした南方の美しい種族に属していました。この種族の者のほっそりした顔は、インドの画に描かれた人物の頭部の、あの真直ぐで単純な線でつくられているのでした。非常に間の離れた両の眼は、この砂漠の放浪者のどこかしら神性を帯びた調子をなお一層強めていました。
彼女のほんとの生活については、私ははっきりしたことは全然知りませんでした。彼女は、無秩序な記憶の中にでたらめに浮かんできたらしい取りとめもない細々《こまごま》したことによって、それを私に語りました。そして彼女はその話の中に、まるで心楽しくなるほどの子供らしい観察を織りまぜるのでした。それは、天幕から天幕へ、野営から野営へ、種族から種族へと栗鼠《りす》のように跳び歩いた彼女の頭に浮かんだ、遊牧の民特有の幻に過ぎないのでした。
そして、それらのことは、ゆるやかなマントを纏《まと》ったこの民族特有のあの厳粛な態度と、何か罵《ののし》っている偶像のような顔付きと、やや滑稽じみた物々しい調子で、まるで朗読するように語られるのでした。
彼女が語り終った時、私は、彼女の単純な頭の中に詰めこまれている、意味もない出来事で満たされたこの長話から、なにものも得ていないのに気がつきました。そして、彼女についても、また彼女の生活についても、何事も私に教えてはくれない、こんな空ろなお喋りを真面目くさってして、しごくあっさり私を愚弄《ぐろう》したのではあるまいか、などとも思ってみました。
そして私は、この被征服民族――私達が彼等の問に野営生括しているというよりは、むしろ彼等の方が私達の間で野営生活をしているという方が適切なこの民族のことを考えていました。私達は彼等の言葉を話しはじめています。私達は彼等が、天幕の透き通った帳《とばり》の下で毎日生活しているのを見ています。そして、私達の法律、私達の親則、私達の習慣を私達は彼等に押しつけています。それでいて、私達は彼等についてはまるっきりなにも知らないのです。そうです、まるっきりなにも知らないのですよ。よござんすか。私達フランス人が彼等を観察することにのみ汲々としてこの地にあること、間もなく六十年にもなろうとしてるなんて、まるで嘘みたいです。私達は、私達の家の扉から二十メートルばかりの所に、杭で地面にとめられているあの小さな円錐形の帳《とばり》の下や、あの樹の枝で編んだ小屋の下にどんなことが起きているかということは、なおのこと知らないのです。まして、アルジェのモール式の家に住んでいる、いわゆる文明開化したアラビア人達が、何をしているか、何を考えているか、どんな人間であるかといったことは一層わからないのです。町の住居の白亜を塗った壁のうしろや、柴小屋の樹枝の仕切の彼方や、あるいは風に揺り動かされるあの駱駝毛の鳶色の薄い帳のなかで、彼等は、私達の傍近く、しかも、人知れず、謎のごとく、言葉を偽わり、陰険に、卑下し、微笑み、そして内部を決して見透かされることなしに生きているのです。まったく、双眼鏡で遠くから附近の野営地を覗いてみますと、彼等が、私達にまだ知られていない、それどころか夢想だにも及ばぬ迷信や、儀式や多くの慣習を持っていることがわかりますよ! 恐らく、力によって征服された民族で、この民族ほど完全に、支配者の執拗ではあるがしかし無益な穿鑿《せんさく》や、精神的な影響や、現実の支配からのがれている民族はありますまい。
さて、不可解な自然が人種と人種との間に固く閉した、この飛び越えることのできぬ、秘やかな障壁を、私は突然これまで感じたこともないほどしみじみ感じたのでした。このアラビアの娘と私との間に――今身を投げかけ、身をまかせ、肉体を私の愛撫に提供したばかりのこの女と、彼女をわがものとした私との間に打ち立てられた障壁を、私は感じたのでした。
私ははじめてこの時気がついて彼女にたずねました。
『お前の名はなんていうんだね?』
彼女はしばらく前から黙りこんでいましたが、私の言葉にはっと身|顫《ぶる》いしたのを私は見ました。自分に向い合ってすぐそこに私がいることを、ふっと忘れてしまったところらしい様子でした。さてそこで、私の方に向けられた彼女の眼の中に、今睡魔が彼女の上に襲いかかっている瞬間であることを私は読みとりました。それは、女達の変化し易い感覚を捉えるすべてのものがそうのように、抵抗しがたい、突然の、ほとんど雷撃のような睡魔だったのです。
彼女は欠伸《あくび》を口の中で噛み殺しながら、物|倦《う》げに、
『アルーマ』と答えました。
そこで私は、
『お前眠たいんじゃないか?』と言いました。
『ええ』と彼女は答えました。
『じゃ、おやすみ』
彼女は静かに私の横に身体《からだ》をのばし、腹匍《はらば》いになって、額を組み合わせた腕の上に置きました。そして私はほとんどすぐに、移ろいやすい未開人の思念が、彼女の眠りの中に消えて行ったのを感じました。
私も、彼女のそばに横になって、謎を解こうとしながら、いろいろな夢想に耽りはじめました。なぜモハメッドは私にこの女をくれたのだろう? 自分の快楽のために自分の天幕の中に引き入れた女を譲るほど、主人に献身的な心の広い召使い振りを見せたのであろうか? それとも、私の気に入ったこの娘を私の寝床に投げこんだのは、そんな寛大な気持ではなく、もっと複雑な、もっと実際的な思慮があってのことではあるまいか? アラビア人は、女のこととなると、極端にはにかみ屋であると同時に、またじつに恥ずべき悦楽をもそこに求めている。で、アラビア人の峻厳《しゅんげん》であると同時に安易な道徳は、彼等の抱く感情の他の部分よりも理解がむずかしいのだ。恐らく、私は偶然彼の天幕の中にはいって、彼の女友達であり、共謀者であり、また恐らくは情婦でもあるこの女を私に提供しようと考えていた、この眼先きの利く下男の親切な意志の先回りをしてしまったのだ……
こうしたあらゆる憶測は、私を悩まし、すっかり疲れさせてしまいましたので、今度は私も、すやすや深い眠りに落ちて行きました。
私は扉の軋《きし》る音で眼が覚めました。モハメッドが、いつもの朝のように私を起しにはいってきたのです。彼は窓を開けました。すると光線の波がどっと流れこみ、寝台の上の、相変らず眠っているアルーマの肉体を照しだしました。それから彼は、刷毛《ブラシ》をかけるために、絨緞の上に落ちている私のズボンとチョッキと上衣を拾いあげました。彼は、私の横に寝ている女には一瞥《いちべつ》もくれませんでした。彼女がそこにいるということを知らないといったような、あるいは気がつかないといったような顔をしていました。そして、いつものように真面目くさった、同じ態度、同じ顔をしているのです。ところが、光線や、物の動く気配《けはい》や、彼のはだしの微かな足音や、また皮膚の上や肺の中に感じられる爽やかな空気の感覚が、アルーマを、懶《ものう》い眠りから覚ましました。彼女は腕を伸ばし、寝返りをうって、眼をあけ、私を見、それから同じような平気な顔でモハメッドを見、そして起き上りました。そして、
『お腹《なか》すいたわ』と呟きました。
『何がたべたいかね?』と私はききました。
『珈琲《カウア》』
『珈琲《カフェ》と牛酪《バタ》つきパンだね?』
『ええ』
モハメッドは、私の服を腕に抱え、私達の寝台のそばに立ったまま、言いつけを待っていました。
『アルーマと私に朝飯を持ってきてくれ』と私は彼に言いました。
さて彼は、顔にいささかの驚きも、あるいはいささかの悲しみも現さないで、出て行きました。
彼が出て行くと、私は若いアラビア娘にたずねました。
『お前私の家にいたいと思うかい?』
『ええ、ほんとにいたいわ』
『ではお前専用の部屋を上げよう。それから女中を一人つけてあげよう』
『あなた親切な方ね、お礼言うわ』
『しかし行儀をよくしないと追い出すよ』
『なんでもあなたの言いなり通りになるわ』
彼女は私の手を取って、服従のしるしにそれに接吻しました。
その時モハメッドが朝食を載せた盆を持って、はいって来ました。私は彼に言いました。
『アルーマはうちにいることになったよ。廊下の突き当りの綿屋に絨氈《じゅうたん》を敷いてくれ。それからアルーマ附きの女中にするんだから、アブデル・カデル・エル・ハダラの女をよこしてくれ』
『はい、旦那《ムシュ》』
これで万事済んだのです。
それから一時間の後、私の美しいアラビア娘は、明るい大きな部屋に身を落ちつけていました。さてこれでなにもかもうまく行ったと安心していたところが、彼女は哀願するような口調で、姿見付きの箪笥《たんす》を贈物にくれとせがみました。私はやることを約束しました。そして、彼女をそこのジェベラムール製の絨緞の上にくつろがせました。彼女は巻煙草を口にくわえたまま、私が先刻呼びにやったアラビア人の老婆と、あたかももう幾年もの識り合いででもあるかのように、お喋りしていました。
一か月間というもの、私は彼女と一緒に非常に幸福な生活を続けました。そして、他の天体で生れたほとんど別種の生きもののように思えるこの別人種の女に、あやしいまでに熱中したのです。
私は彼女を恋していたのではありません。――そうです――誰もこの原始的な大陸の娘達を恋する者はいないのです。彼女達と私達の間には、いや彼女達と彼女達の自然の男性、即ちアラビアの男性達との間にさえも、あの北国の青い可憐な花は決して咲くことはないのです。彼女達は余りにも人間の動物性に近いのです。彼女達の心は余りにも発育不全で、感覚性は余りにも洗練されていないのです。ですから愛の詩的情緒であるあの感情的な情熱を私達の魂の中に眼覚めさせることはできないのです。知的なところはいっこうになく、魅惑的で空虚《うつろ》なこれらの女達が私達のうちに挑発する肉感的な陶酔には、精神的な陶酔はいっこうにまじっていないのです。
しかしながら彼女達は、よその女達と同じように、私達をじっと引きとめ、掴《つか》まえているのです。しかしよその女達とは違った風にです。あれほどしつこくもなければ、残酷でもなく、またあれほど悩ましくもないのです。
私がこの女について感じたことは、今だにそれをはっきり説明することはできそうにありません。先程も申しましたね、この芸術もなければ、知的な快楽とても全然ない裸のこの国、このアフリカは、得体《えたい》の知れぬ確かな魅力と、大気の愛撫と、黎明《あけがた》と夕暮時の変りない甘さと、心地よい日光と、私達の五官をひたす秘やかな幸福感とによって、少しずつ私達の肉体を征服して行くのです。これなんです! アルーマも、これと同じように、即ち、ひとを恍惚とさす肉体的な、幾多の隠された魅力をもって、じっと身に沁みこむような誘惑をもって私を捉えたのです。その誘惑というのは、決して抱擁などからくるのではなく――というのは彼女はまったく東洋的な懶《ものう》さを持った女でしたから――彼女が心地よく身を任せきったところからくるのでした。
私は彼女の出入《ではい》りは絶対に自由にして、干渉しませんでした。で、彼女は少くとも二日に一度は必ず、近所の野営地の、私が使っている土民の農夫の女房達の間に、午後の日を過しに行きました。それからまた、一日中、私がミリアナから取り寄せた桃花心木《マホガニー》の姿見附き箪笥の前で、自分の姿を眺め暮すようなこともしばしばありました。彼女は、大きな玻璃扉の前に立ち、そこに映った自分の身体《からだ》の動きを慎重な注意深い眼で追いながら、ありったけの意識をよびさまして眺め入っていました。彼女はまた、自分の腰つきや臀《しり》の形を見るために頭を心持ち反らして歩いたり、ぐるりとうしろを向いたり、遠ざかったり、近寄ったりしていましたが、遂に動くことに疲れると、座蒲団の上にどっかと腰をおろして、自分自身の姿と向き合うのでした。厳粛な顔つきをし、眼は自分の眼をじっと覗きこみ、魂はこうしてつくづく自分を眺め入ることの中に溺れてしまっているのでした。
やがて私は、彼女がほとんど毎日、朝食が済むとどこかへ出かけて行って、夕方まで完全に姿を隠しているのに気がつきました。
私は少々不安になったもので、モハメッドに、こうして長い時間家を明けて一体彼女は何をしているのかとたずねました。ところが彼は、落ちつき払って、
『御心配なさることはありません。もうじき大斎《ラマダン》なのです。お詣りに行ってるのにちがいありません』と答えるのでした。
彼自身も、アルーマが家の中にいることを大変悦んでいるような様子でした。しかしそれかといって、ただの一度だって、彼等二人の間に、これは臭いぞと思われる一寸した合図でも交されるのを見たことはありませんでした。彼等はただの一度だって、私からこそこそ隠れるとか、互いに牒《しめ》し合すとか、何かを私に隠すとかいった素振りを見せたことはありませんでした。
そこで私は、時と偶然と生活にすべてを任せて、なんのことだかわからないながら、こうした状態をそのままに受け入れていたのでした。
耕作地や葡萄畠や開墾地を見回ったついでに、私はよく遠くへ散歩にでかけたものでした。アルジェリア地方のこのあたりの素晴しい森や、倒れた樅《もみ》の木で渓流が堰《せ》きとめられているあの足も踏みこめないような峡谷や、山の頂上から東洋製の絨緞を水の流れに沿うて展《ひろ》げたように見えるあの爽竹桃の谷間などは、あなたもよく御存じでしょう。それからまた、誰一人はいったことはあるまいと思われるようなこれらの森や山腹で、いつも、思いがけず、浮世を棄てた謙譲な回教隠者《マラブウ》の骨をおさめた雪のように白い納骨堂の円屋根に出会《でくわ》すことも御存じでしょう。ここへは、時たま、根気強い少数の信者達が、聖者の墓の上に点《とも》す蝋燭を衣嚢《かくし》に入れて、近所の部落から訪れてくるに過ぎないのです。
さて、ある夕方のこと、帰りがけに、回教のこうした礼拝堂のそばを通り、いつも開けっぱなしになっている扉口からちらと内部《なか》を覗いてみますと、納骨匣《のうこつばこ》の前で祈っている女の姿が眼にとまりました。風が思いのままに吹きこんで、細い松の枯葉を隅々に黄色く寄せ集めているこの毀れた部屋の中に、そうしたアラビアの女が地に跪《ひざまず》いているさまは、じつに美しい一幅の画でした。私はもっとよく見るためにそばに近寄りました。と、それはアルーマだったのです。彼女には、私の姿は眼にはいりませんでした。私の足音もきこえませんでした。聖者を思う一念にひたりきっていたのです。彼女は低い声で話をしていました。聖者とただ二人きりしかいないと思いこんで、彼に話しかけていました。心にかかるすべてのことを神の僕《しもべ》に語っているのでした。時折少し口を噤《つぐ》んでは、じっと考えこんだり、なお言うべきことを探したり、打ち明けようと貯めてあることを一つ残らず言ってしまおうと努力していました。それから、また時には、神の僕《しもべ》から何か返事をきいたかのように、何か自分のしたくないことを忠告されて、それに対していろいろ理屈をつけては抗《あらが》っているかのように、興奮したりするのでした。
私は、はいって行った時と同じように、こっそりと足音もたてず、遠ざかりました。そして夕飯をたべるために帰ってきました。
その晩、私は彼女を私の部屋に来させました。彼女はこれまでに決して見せたことのない、気遣《きづか》わしげな顔をしてはいってきました。
『そこにお坐り』と私は、長椅子の私の横を指して言いました。
彼女は腰をおろしました。そこで私が彼女の方に身を屈めて、彼女の身体《からだ》を抱こうとしますと、彼女はすばやく顔を遠ざけました。
私はびっくりして、
『一体どうしたのだ?』とききました。
『大斎《ラマダン》です』と彼女は言いました。
私は笑いだしました。
『聖者殿《マラブウ》が、大斎《ラマダン》の間は抱擁さしちゃいけないとおっしゃったんだね?』
『そうですわ、私はアラビア人で、あなたは|キリスト教徒《ルウミ》だから!』
『大きな罪にでもなるのかね?』
『そうよ!』
『ところで、お前は日暮れまで一日中何もたべなかったね?』
『ええ、なんにも』
『しかし、日が暮れたらたべたろう?』
『ええ』
『それみなさい、もうすっかり夜になったんだから、ほかのほうだって口と同じようにそう厳格にする必要はないよ』
彼女は心を傷つけられて、むっとし、いらいらした気持になったらしい様子でした。そして今までに見たこともないほどの尊大な態度で言いかえしました。
『もしも大斎《ラマダン》の間に|キリスト教徒《ルウミ》に身体を触らせようものなら、そのアラビアの女はいつまでも呪われるでしょう』
『で一か月の間その状態を続けなくちゃならないのかい?』
彼女はきっぱりと返事しました。
『そうよ、大斎《ラマダン》の間まる一か月よ』
私はいらいらした態度で彼女に言いました。
『よろしい、じゃ大斎《ラマダン》の間は自分の家で暮すといいや』
彼女は私の手を握り、それを自分の胸に持って行きながら言いました。
『あらお願いだから、そんな意地悪る言わないで頂戴。私がどんなしおらしい女か、今におわかりになるわ。一緒に大斎《ラマダン》を祝いましょうよ、ねえ? 私、あなたを大事にするわ、甘やかしてあげるわ、だけど、意地悪るだけは言わないでよ』
私は思わず微笑《ほほえ》まないではいられませんでした。それほど彼女の様子は悲しそうでもあれば滑稽でもあったのです。私は彼女を自分の部屋に寝せにやりました。
それからものの一時間もして、私が床に就こうとしていると、扉を軽く二つ叩く者がありました。それはきこえるかきこえない位の微かな音でした。
『おはいり』と私は叫びました。すると、はいってきたのはアルーマでした。彼女は、アラビアの砂糖菓子や、油で揚げた甘いコロッケや、遊牧の民が用いるあらゆる異様な饅頭菓子を載せた大きな盆を眼の前に捧げていました。
彼女は綺麗な歯を見せて笑っていました。そして、
『一緒に大斎《ラマダン》を祝いましょうよ』と繰り返しました。
あなたも御存じのように、黎明《よあけ》にはじまって、白と黒の綾目がわからなくなる黄昏《たそがれ》に終る断食の後には、毎晩、ささやかな内輪な宴が張られて、翌朝まで御馳走をたべるのです。でその結果、呑気な土民達には、大斎《ラマダン》というと、夜が昼になり、昼が夜となるのです。ところがアルーマは信仰には極端なほどに細心でした。彼女は盆を長椅子の上の二人の間に置きました。そしてほっそりした長い指で、粉をふった小さな塊を取って、
『これおいしいわ、たべて御覧なさい』と呟きながら、それを私の口に入れてくれました。
私はその軽い菓子を噛みました。なるほどそれはすばらしくおいしいものでした。そこで私は彼女にたずねました。
『これお前がこしらえたのかい?』
『ええ、私がこしらえたのよ』
『私のためにかね?』
『そうよ、あなたのためによ』
『これで大斎《ラマダン》を辛抱させようってんだね?』
『そうよ、意地悪る言わないで頂戴! 私毎日持ってくるわ』
まったく、何という怖しい一月《ひとつき》を過したことでしょう! それは、砂糖のように甘ったるく、もどかしい、一月《ひとつき》でした。溺愛と、誘惑と、怒りと、打ち勝ち難い抵抗に対する無益な努力の一月《ひとつき》でした。
それから、ベイラム祭の三日間がやってきましたので、私はそれを私の流儀で祝いました。すると大斎《ラマダン》のことはすっかり忘れ去られてしまいました。
夏も過ぎ去りました。それは非常に暑い夏でした。秋風のたちそめた頃、アルーマはなにかこうぼんやり考えこんで、何事にも興味がないといった風に見えました。
さて、ある晩のこと、私が彼女を呼びにやりますと、彼女の姿が部屋に見えないというのです。私は彼女が家の中を歩きまわっているのだろうと考え、探すようにと命じました。だが彼女はまだ帰ってきていなかったのです。私は窓を開いて、
『モハメッド!』と大声に呼びました。
天幕の下に寝ている彼の声が、
『はい、旦那《ムシュ》』と答えました。
『アルーマがどこにいるか知ってるかい?』
『いいえ、旦那《ムシュ》――そんな筈はないでしょうにね――アルーマがいないんですか?』
数秒の後に、アラビア人の下男は私の部屋にはいってきました。彼は、困惑を押し隠しきれないほど強く胸に衝撃を受けていました。彼はききかえしました。
『アルーマがいないんですか?』
『そうだよ、いないんだよ』
『そんな筈はないでしょうがね?』
『いいから探せ』と私は言いつけました。
彼は、じっと考えこみ、あれやこれやと頭の中で思案し、結局どうも解《げ》し兼ねるといった風に突っ立っていました。それから彼は、アルーマの着物が、東洋風に乱雑に散らばっている部屋にはいって行きました。彼は探偵のような眼ですべてを眺め回しました。というよりはむしろ、犬のように嗅ぎ回ったという方が適切でしょう。それから、いつまでも努力を続けていることができないで、
『逃げちまったんだ、逃げちまったんだ!』と投げだすように呟きました。
私は何か突発的な災難でも起きたのではないかと心配しました。谷の底へでも落っこちて、足でも挫《くじ》いたのではないかと案じました。そこで、野営地にいる男を総動員して、彼女が見つかるまで捜せと命じました。
皆は一晩中捜しました。その翌日も捜しました。とうとう一週間中捜したのです。あとを追う手掛りになる痕跡すら一つも見つからないのです。私は苦しみましたよ。彼女がいなくなったのです。私には家の中が空虚《うつろ》に見えました。生活も索莫たるものに思えてきました。それから不安な考えが私の胸を掠《かす》めました。彼女は拐《かどわ》かされたのではあるまいか、あるいは恐らく殺されたのではあるまいかと心配になってきたのです。しかし、私がしょっちゅうモハメッドを捉えては質問したり、胸の中にある不安を伝えたりしようとすると、彼は決ったように、
『いやそんなことはありません、逃げたんです』と答えました。
それから彼は『レザァル』というアラビア語を附け加えました。それは『羚羊《ガゼル》』の意味なんです。つまり、彼は、彼女がすばやく走って遠くへ逃げたのだということを表現しようとしたのでしょう。
三週間はこうして過ぎました。そして私はもはや、あのアラビアの情婦《おんな》に二度と会う望みは棄てていました。ところがある朝のこと、モハメッドが、悦びに顔を輝かせながら部屋にはいってき、
『旦那《ムシュ》、アルーマが帰ってきましたよ!』と言いました。
私は寝台から飛び下りて、
『どこにいる?』とたずねました。
『来《こ》れないでいるんです! あれ、あそこの樹の下に』
そう言って彼は、腕をさしのべて、窓越しに、橄欖《かんらん》の木の根元の白っぽい一点を指しました。私は、出て行きました。麻布がよじれた幹に投げかけられているように見えるその方へ近寄って行きますと、私はそこに、私を誘惑した野蛮な娘の、あの面長な端麗な顔と、星形の入墨《いれずみ》と、黒い瞳を見たのです。近づくにつれて、怒りがこみあげてきました。殴りつけたい、苦しめてやりたい、復讐してやりたいといった欲望がむらむらと湧いてきました。
私は遠くから叫びました。
『どこから帰って来たんだ?』
彼女は返事をしませんでした。そして、もはや僅かに生命を保っているに過ぎないかのように、私の暴力を受けることを観念し、殴られることを待ち設けて、ぐったりそこに身動きもせずとどまっていました。
今や私は彼女のすぐそばに立って、彼女の身体《からだ》を蔽うている襤褸《ぼろ》、埃で灰色になり、ぼろぼろに千切《ちぎ》れ、きたなく汚れたその絹や羊毛のつづれを、びっくりした眼で見ていました。
私は犬をしかる時のように手を上にあげて繰り返しました。
『どこから帰って来たんだ?』
彼女は口の中で呟きました。
『あっちから!』
『どこからだって?』
『部落から』
『どこの部落だ?』
『私の部落』
『なぜ逃げだしたんだ?』
私が殴らないとみると、彼女はいくらか大胆になりました。そして低い声で言いました。
『あの……あの……家の中に住んでるのが我慢できなくなったんですもの』
私は彼女の眼の中に涙がにじんでいるのを見ました。するとたちまち私は、愛撫された獣のように、気持を和らげました。私は彼女の方に身を屈めました。そして、坐ろうとして、うしろをふりかえりますと、遠くから私達の方をじっと窺っているモハメッドの姿が眼にはいりました。
私は再び口を開いて、非常にやさしい調子で言いました。
『では、さあ、なぜ逃げだしたのかその理由《わけ》を話しておくれ』
すると彼女は、漂泊《さすらい》に慣れた自分の胸の中に、久しい以前から抵抗しがたい欲望を感じていたことを物語りました。天幕の下に帰りたい、砂の上で寝たい、砂の上を走りたい、砂の上で転びたい、野原から野原へと、羊を連れてさまよいたい、夜中に眼を覚した時、空の黄色い星と自分の顔の青い星との間には、輝く星粒が透いてみえる、あの擦《す》りきれた、つぎはぎだらけの薄い帳《とばり》しか感じたくないと思ったというのでした。
彼女はそれを、素朴で力強い、そしてじつに正確な言葉で私に理解させましたので、彼女は決して嘘をついてるのではないと私は感じました。そこで彼女が可哀そうになって、
『どうして、しばらく暇《ひま》がほしいと言わなかったんだね?』とききました。
『でも、許しては下さるまいと思って……』
『きっと帰ってくるってさえ約束したら、許してやったろうに』
『でも信用なさらなかったと思うわ』
私が怒っていないと見ると、彼女は笑いました。そして附け加えました。
『でもいいでしょう、もう済んだんだから。うちに帰ってきたんですもの、こうやってここにいるんですものね。私、ただ、ほんのしばらく、あっちへ行ってなくちゃならなかったの。でももう十分だわ。もういいのよ、もう済んだの。もう癒ったの。私帰ってきたわ、私もう病気じゃないの。私ほんとに嬉しいわ。あなたは意地悪る言わないし』
『うちにおはいり』と私は彼女に言いました。
彼女は立ち上りました。私は彼女の手を、ほっそりした指の綺麗な手を取りました。すると彼女は、襤褸《ぼろ》に蔽われながらも意気揚々と、指輪や腕輪や頸《くび》飾りや金属板の装飾品などを響かせながら、モハメッドが私達を待っている家の方へと、威儀をつくろいつつ歩いて行きました。
家にはいる前に、私はもう一度言いました。
『アルーマ、これから自分の家に帰りたくなった時には必ず前もって言っておくれ、そうしたら許してあげるから』
彼女は疑わしげにききかえしました。
『約束なさる?』
『もちろんだとも、約束するよ』
『じゃ私も約束するわ。私、病気になったら――そう言って彼女は物々しい身振りで両手を額に置きました――あっちへ行かなくちゃなりませんって言うわ。そうしたらあなた行かして下さるわね』
私は彼女の部屋まで一緒に行きました。モハメッドは水を持ってうしろをついて来ました。というのは、まだあのアブデル・カデル・エル・ハダラの女に、女主人が帰ってきたことを通知できなかったからです。
彼女は部屋の中にはいって、姿見附きの箪笥を見ました。すると彼女は、顔を輝かせて、まるで久し振りに会った母親の懐へ飛んで行くかのように、そばへ走り寄りました。彼女は数秒間鏡の中の顔を見ていましたが、ふくれ面《つら》をし、それから少し不機嫌な声で、鏡に言いました。
『ちょっと待っといで。私箪笥の中に絹の着物を持ってるんだよ。今すぐ綺麗になって見せるから』
さて私は、彼女が自分自身の姿を前にして嬌態を演ずるのをそのままに放《ほ》って置きました。
前の通りの生活が再びはじまりました。そしてますます、この娘の肉体的な異様な魅力にひきずられて行きました。一方にはまた、父親らしい一種の見下した感情も抱いていたのですが。
六か月の間は万事調子よく行きました。ところがまた、彼女が前のように神経質になり、苛立ち、なにか少し悲しそうな顔をしているのを私は感じました。そこで、ある日のこと、私は彼女に言いました。
『うちに帰りたいのかい?』
『ええ、帰りたいの』
『言いだしかねてたんだね?』
『そう、言いだせなかったの』
『行っといで、許してあげるよ』
彼女は私の手を取りました。そして感謝の気持に興奮した時いつもするように、その上に額をおしあてました。さてその翌日、彼女は姿を消しました。
彼女は、はじめの時と同じく、約三週間ばかりして帰ってきました。やはり前の時のように、襤褸をまとい、太陽と埃で真黒になり、砂と自由の放浪生活に満足して帰ってきました。二年間に、彼女はこうして、都合四度自分の家に帰って行きました。
私は、そのたびに、いささかの嫉妬心もなく、帰ってきた彼女を陽気に迎えました。なぜと言って、私には、恋の場合でなければ嫉妬心なんてものは縁がありませんでしたからね。もっともそれは私達誰でもがそうですがね。もちろん、彼女が私を瞞《だま》しているということがはっきりわかったら、殺しもしたでしょう。しかし、殺すにしても、言うことをきかない犬を全然暴力で打ち殺すような、ちょっとあんな具合にして殺したでしょう。北国人の嫉妬にある、あんな苦痛、あんな肉を噛むような情焔、あんな怖しい不快は感じなかったでしょう。私は今、言うことをきかぬ犬を叩き殺すように彼女を殺したかもわからないと言いましたね! まったく、私は彼女を愛していました。だがそれは、非常に珍しい動物、たとえば掛替えのない犬とか馬とかを愛するといった、ちょっとそうした風に愛していたのです。彼女は実際、人間の女の肉体を持ったすばらしい獣、肉欲的な獣、快楽の獣でした。
私達の心臓は、時々互いに興奮しては触れ合うことも多分あったのでしょうが、私達の魂と魂とは、どんなに測りきれぬ距離によって隔てられていたか、これはちょっと説明できそうにありません。彼女は私の家、私の生活に附属したなにものかだったのです。私がそれに執着しているところの、非常に快い一つの習慣、私の中にいる眼と感覚しかない肉欲的な人間が愛しているところの一つの習慣に過ぎなかったのです。
さて、ある朝のこと、モハメッドが、異常な顔つきをして私の部屋にはいってきました。犬に出会った猫のおどおどした眼に似た、あのアラビア人特有の不安げな眼つきをしているのです。
私はそうした顔色を見てとって、彼にたずねました。
『なんだい? どうしたんだい?』
『アルーマが逃げちまったんです』
私は笑いだしました。
『逃げたって? どこへさ?』
『ほんとに逃げちゃったんです、旦那《ムシュ》』
『なんだって? ほんとに逃げたんだって?』
『そうです、旦那《ムシュ》』
『お前気でもちがったのか!』
『いいえ、旦那《ムシュ》』
『じゃなぜ逃げたってんだ? どうしたわけなんだ? ええ? わけをきこうじゃないか』
彼は口を開きたがらないで、じっと立ちつくしていました。それから突然、アラビア人特有のあの物凄い怒りを爆発させました。よく、町角で悪魔に憑《つ》かれたような二人のアラビア人が、東洋風の沈黙と厳粛な態度を、突然この上もなく極端な身振りと、この上もなく凶暴な喚《わめ》き声に変化させて、道を歩いている私達の足を引きとめることがありますが、あの怒りの爆発です。
そして私は、叫び声の中から、アルーマが私の使っている羊飼と一緒に逃げたということを聞きわけたのでした。
私はモハメッドの気持を鎮《しず》めてやって、彼から事の子細を少しずつ引きださねばなりませんでした。
それには随分ひまがかかりました。ようやく事の真相をききだしたわけですが、彼は、私の支配人が先月の終りに羊飼として傭い入れた浮浪者みたいな男と彼女が、近所の仙人掌《サボテン》の森のうしろや、爽竹桃の谷間で逢曳《あいびき》してるところを、一週間前から窺っていたというのです。
昨夜も彼は、彼女が出て行くところを見かけたが、ついに彼女は帰ってこなかったというのでした。彼は憤慨した態度で、
『逃げちまったんだ、旦那《ムシュ》、あいつは逃げちまったんだ!』と繰り返していました。
なぜだかわかりませんが、彼のそうした確信、彼女がその浮浪者と逃げたのだという彼の確信は、一瞬のうちに、絶対的な、抵抗できないものとなって私の胸の中にはいってきました。そんなことはとてつもないことであり、ありそうにもないことなのですが、女の唯一の論理である無分別故に、確実な事実となったのでした。
胸を緊めつけられ、血の中に怒りをたぎらせた私は、その男の容貌を想い起そうと努力しました。すると、突然、前の週、羊の群に取り巻かれて、私の方をじっと見ながら小さな丘の上に立っていたその男の姿を見かけたことが思いだされました。それは、露《あら》わな四肢の色と身にまとった襤褸《ぼろ》の色とが紛らわしいような、背の高い一種の遊牧者で、頬骨は出、鼻は鉤形《かぎがた》に曲り、顎《あご》は短かく、脚は枯木のようにひからびた、獰猛《どうもう》な蛮人の型をしていました。まるで、金狼の義眼を入れ、襤褸をまとった丈の高い骸骨とでもいった恰好《かっこう》の男でした。
私はもう疑いませんでした――そうです――彼女はこの乞食みたいな男と逃げたのです。なぜでしょう? それは、彼女はアルーマだからです、砂漠の女だったからです。これが、パリの街頭の女でしたら、私の馭者かあるいは追剥《おいは》ぎと一緒に逃げたことでしょう。
『よしよし、もしもほんとに逃げたんだったら、彼女が自分で馬鹿をみるだけさ。俺は手紙を書かなくちゃならん。一人にして置いてくれ』と私はモハメッドに言いました。
彼は、私が落ちつき払っているのに驚きながら、出て行きました。私は立ち上って、窓を開け、大きな呼吸をしました。ちょうど熱帯風《シロッコ》が吹いていましたので、南方から吹いてくる息詰るような空気が、胸の底まではいってきました。
それから私は考えました。『ああ、彼女も……彼女もやっぱり女なのだ、多くのほかの女達と同じように。なにが……なにが彼女達を行動させるのか、なにが彼女達を愛させるのか、なにが彼女達に男のあとを追ったり、男を棄てたりさせるのか……誰が知ろう』と。
そうです、たまにはそれがわかることもあるのです。――わからない場合がしばしばなのですが。わかったとしても時にはまた疑わしくなってくるのです。
なぜ彼女はあんな厭らしい恋人と一緒に姿を隠したのでしょう? 一体なぜでしょう? 恐らくは、一月《ひとつき》前から、風がほとんど規則正しく南から吹いていたからでしょう。
それで十分なのです! 風だけで十分なのです! 彼女は、彼女達は、たとえどんなに繊細な、どんなに複雑な気持を持っていても、多くの場合、なぜ自分達が行動するか知っているでしょうか? 女なんて、風に回る風見《かざみ》以上のものではありませんよ。感じられないほどの微風でも、鉄や、鋼や、亜鉛や、あるいは木の矢を旋回させるのです。それと同じように、知覚できない位の影響や、ほとんど認められないほどの印象が、女達の――それは都会の女であろうと、田舎の女であろうと、都の郊外の女であろうと、あるいは砂漠の女であろうと結局同じことですが――彼女達のうつろい易い心を動かし、決心にまで駆りたてるのです。
彼女らとても、あとになって、あれこれ考えてものが分ってくると、どうしてあんな真似をしたのだろうと、身にしみて感ずることもあるのです。しかし、即座には、彼女らはなんにもわからないのです。なぜならば彼女らは、いつも不意の刺激を待っている感受性の玩具であり、事件や、環境や、感動や、偶然の機会や、また彼女らの魂と肉体とを顫わせるあらゆる擦過物《さっかぶつ》の軽率な奴隷だからです!
オーバール氏は立ち上っていた。氏は二足三足歩いて、私の顔をじっと見た。そして微笑みながら言った。
「これが砂漠の恋ですよ!」
私はそこでたずねた。
「もしもその娘が帰ってきましたら?」
すると彼は呟いた。
「穢《けが》らわしい奴!……でもやっぱり嬉しいでしょうね」
「そしてその羊飼は許しておやりになりますかね?」
「それゃもちろんですとも。相手が女じゃ、いつでも恕《ゆる》してやるか……それとも眼をつぶっていてやるかしなくちゃなりませんよ」
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解説
ジイドが『一粒の麦もし死なずば』の中で、どの人名辞典を見ても、傑出した人間の父方の血統は詳しく書かれていても、母方の血統についてはほとんど言及されていない、という憾《うら》みを述べているが、実際、文学者の場合にはとりわけ、母の影響は見のがしてはならないものであろう。例えばボードレールの作品を理解しようと思えば、どうしても彼と母との関係を調べねばならない。母に対する切々たる思慕と憎しみの複雑な感情を見ずには、とうてい彼の作品は味到できないのである。モーパッサンの場合にも、母親の影響はじつに力強く働いている。
モーパッサンの父母は、恋愛結婚をした仲ではあったが、その結婚生活は決して幸福ではなかった。母親は怜悧《れいり》な女性で、文芸の趣味も持っていたが、父の方は見かけこそ立派な好紳士ではあったがしごく平凡な男性で、性格的にもいろいろ欠陥が多かった。ギィは一八五〇年にこうした両親の間に生まれ、六年後に生まれた弟のエルヴェとともにもっぱら母親の愛によって育てられ、母親も子供達に愛情を注ぐことによって、夫婦生活の索漠たる悲しみをまぎらわしていた。子供心にもギィには、両親の間にかもされている微妙な空気は分っていた。こんな逸話さえある。ある日、子供達がさる夫人の宅に招待されていた。ところが、弟のエルヴェが急に病気になり、母親はその看護でギィの外出の支度をしてやるどころの騒ぎではない。父親はこの思わぬ故障に苛立って、やいやいギィをせかせる。父親はひそかにこの夫人を恋していたのである。これは九歳の頃の出来事であるが、早熟で、すでに観察力の鋭くなっていたギィは、意地悪く、わざとのろのろ着物を着た。父親はいきり立って、もう連れて行ってやらないとおどしつけた。するとギィは、「僕よりお父さんの方が行きたいの?」と皮肉な言葉を吐いているのである。
母親はこうした雰囲気が子供の教育によくないことを痛感したので、話合いで夫婦別れをし、子供達を連れてエトルタの別荘に隠棲した。ギィは少年時代の大半を、このノルマンディの家で過ごしたのだった。海から程遠からぬここの家を、ギィは「懐しの家」と呼んでいつも回想しているが、樺、無花果《いちじく》、菩提樹などが、所狭いまでに植えられ、紅白の野薔薇が香り、白塗りの鄙《ひな》びた露台には葡萄や素馨《そけい》や忍冬《すいかずら》が這い上り、広い部屋には古色を帯びた家具やルーアン焼の立派な陶器が飾ってあった。この家でギィは十三歳まで過ごした。優しい愛情と深い理解で見守っていてくれる母親と、浜辺で遊ぶ漁師の子供や農家の子供達だけが、彼をめぐる人の世界であった。彼は後年、その作品の中に、ノルマンディの人情風俗を巧みに描写したが、これには少年時代のこうした生活環境が大いに与って力あったのである。
母親は、若い頃から、夭折した兄のアルフレッドや、またアルフレッドの友人のギュスターヴ・フローベールやルイ・ブイエなどと一緒に詩を読み合ったり、劇をやったりして、多分に芸術的素質に恵まれた女性であっただけに、ギィに文学好きだった亡兄の面影が見え、芸術家の発芽が見えはじめるや、彼を立派な文学者に仕上げようという秘やかな野心を持つに到った。彼女は、ギィに、考えることより先ず見ることを教えたいと思った。後年フローベールがギィに教えた通りに、子供に教えたのだった。何よりも先ず、事物に接して、自然を理解させること、そして現実の理解を土台として空想を働かせることを彼女は教えた。「世の出来事をいったん認めるや、その出来事は描写用の幻想となるらしい」というフローベールの教訓を、早くよりギィの上に施していたのである。そして、その実際の指導をするために、子供や子供の友達と一緒に野山や海岸を歩き回った。
読書についても、母親はモーパッサンに強い影響を及ぼしている。母親は少女の頃、兄のアルフレッドからシェイクスピアを教わった。そこで、子供にも『マクベス』や『真夏の夜の夢』を読ませたのだった。殊に、この『真夏の夜の夢』は、少年ギィに快い戦慄と自由奔放な空想とを与えたものであった。
しかしギィは、母から受ける学課よりも、自由な、気儘な生活が好きであった。よく母親の眼をのがれては、浜辺に走った。母はこれを「逃げ出した小馬の生活」と言って、寛大な微笑で見送っていた。
だが、ギィが十三歳になると、母親は、いつまでもこうした気随気儘な生活を送らせるのは危険であると思った。そこで、慣例に従って、イヴトの神学校に入れた。ギィはここの厳しい生活に親しむことができなかった。優しい母親、友人の漁師の子、楽しい舟遊びなどが想い出されては、幾度か仮病を使って逃げだしてきた。そのたびに母親はなだめすかして学校に連れ戻した。
もともとギィには宗教的な気質はなく、自由な精神の持主だったので、紋切り型な神学校生活は息苦しかった。そこで、その味気ない生活を慰めるために、盛んに詩を書いた。これを見て、内々ギィを持てあましていた学校では、いい口実ができたというのでギィを放逐した。
そこでギィは、今度はルーアンの公立中学に移った。ここでは、幸いなことに、母の幼な友達であったルイ・ブイエが教師をしていた。ブイエは幼な友達に対する追憶もあって、特別ギィに眼をかけた。ところでこの詩人ブイエは、一八六九年に死んだのであった。「もしブイエさんが生きていらしたら、子供を詩人になすったかも知れません」と母親は後年述懐しているが、それほどブイエの力の入れ方はすさまじかった。
一八七〇年に普仏戦争が勃発すると同時に、ギィは召集された。そして親しく戦争の惨禍を目撃し、多感な胸にそれを犇々《ひしひし》と感じたのだった。彼のすべての生活経験は、いずれも深く彼に影響の痕を残しているが、中でもこの戦争は、人間の持つ残虐性、愚かしさ、利己主義などについて、癒しようのないペシミスムを感じ易い青年の心に刻みつけたのであった。処女作の名品『脂肪の塊』(一八八〇年)をはじめ『二人の友』『フィフィ嬢』『狂女』『二十九番のベット』等、普仏戦争に取材した作品が十七篇(モーパッサンの短篇は全部で二百七十一篇)あるが、いずれも戦争の暗い面を描いたものばかりである。
例えば『脂肪の塊』であるが、舞台は、プロシア軍に占領されたルーアンの町から、許可証を貰ってディエップへと急ぐ一群の人々を乗せた乗合馬車。プロシア軍の一士官が乗客の一人の「脂肪の塊」とあだ名されている商売女によからぬ欲望を起こして、馬車を出発させない。女は敵の士官に身を任せることを潔《いさぎよ》しとせず頑強に拒みつづけるが、乗客の一人の伯爵が、皆のために犠牲になってくれるようにと頼むので、止むを得ず同意してしまう。いったん出発の許可がおりるや、皆は恩人ともいうべきこの女を白眼視する。前に女から食べものを分けて貰ったことも忘れ去ったかのように、彼女を除《の》け者にして自分勝手に物をたべはじめる。前に女をくどいて肱《ひじ》鉄砲を食ったコルニュデという共和主義者はやけ気味にマルセイエーズをどなる。戦争といった異常な境遇に置かれた時はじめてはっきり暴露される人間の愚かさ、醜《みにく》さがじつによく描かれている。この作品に対して、フローベールは心からなる賛辞を送った。「これは正真正銘の傑作だ。大家の風格がある。構想もまったく独創的だ。背景も人物も眼に見えるようだ。心理描写もしっかりしている。この小さな物語は後世に残ること請合いだ。君の書いたブルジョアどもの面《つら》はまったく素晴しい。一人として的を外れていない。コルニュデは素敵だ。そして真実だ。あばた面の尼、これも完全、それから『|ねえ、お前さんや《マ・シェール・アンファン》』と猫撫で声を出す伯爵、それに結末がいい、可哀そうな女が泣いている。一方でコルニュデの奴がマルセイエーズを唄う、素晴しい!」
戦争から帰るや、モーパッサンは海軍省にはいって役人生活をつづけながらも、作家志望を棄てないで、母の紹介でフローベールの薫陶《くんとう》を受けていたのだった。海軍省の次には、フローベールの尽力で文部省にはいり、仮病を使っては習作の筆を取ったり、セーヌ河にボートを浮かべたりしていた。フローベールは幼な友達の息子というので特別眼をかけ、常に激励の言葉を送っていた。ある時モーパッサンが「退屈」をかこった時に、フローベールはこんな意味のことを書き送っている。「君の退屈ぶりは気の毒だ。というのは、君は自分の時間をもっと愉快に使える筈だからだ。いいかね、もっと猛烈に修業しなければならない。……少しボート遊びが過ぎはしないかね……君は詩を作るために生まれてきたのだ。詩を作り給え……他はことごとく空しきものだ……芸術家にとって生活の指導原理はただ一つしかない。すべてを芸術のために犠牲にすることだ。生活は彼にとって一個の手段として考えられねばならぬ。それ以上の何物でもない。そして彼が第一に蹴飛ばさねばならないのは、それは先ず己れ自身だ」
またこんなことも言っている。「才能というものは、ビュッフォンも言った通り、要するに根気にすぎない」と。モーパッサンは師に励まされながら、作品を書くとそれをフローベールのもとに届ける。すると次の日曜日、フローベールは中食を共にしながら、細かな批評をしてくれた。そして原理的なことも教えてくれるのだった。「もし独創的なものを持っているなら、何よりも先ず、これを導き出さねばならぬ、もし持っていなければ、どうしても一つは獲得しなければならぬ」とか「燃えている火、野原の真中に立っている一本の木、こういうものを描写するに当って、その火なり木なりが、他のいかなる火、いかなる木にも似ていないものになるまで、じっとその前に立っていなければならぬ」こんな風に噛んで含めるように言いきかして、典型的な現実主義作家モーパッサンの根底を造ってくれたのであった。こうした熱心な師の薫陶に立派に応えたのが、実に『脂肪の塊』だったのである。
この作品はゾラを中心とする六人のグループ「メダンの群」が持ち寄って作った『メダン夜話』の一席として発表されたことは周知の通りである。モーパッサンはフローベールの薫陶を受けていたが、年齢から言ってもゾラに近く(ゾラは彼より十歳年上であった)時代的に自然主義の影響を受け、「自己を作品の裏にかくす」フローベールの信条よりも、「芸術とは気質を通して眺められた現実である」というゾラの主張の方に親近さを感じていたのである。
この同じ年に「ゴーロア」紙に連載されて、当時は単行本にならなかった『一パリ市民の日曜日』という連作物の短篇は、善良さと言おうか、愚かしさと言おうか、プチ・ブルジョアの持つ悲しむべき凡俗さを揶揄《やゆ》した作品で、どこかに師匠フローベールの『ブヴァールとペキュシェ』のにおいをただよわせ、その後彼が多く書いた犯罪もの、色情もの、娼婦ものなどよりもむしろ、この皮肉なユーモアのある作品を取る読者も少なくはない。医者に運動をすすめられて、毎日曜日パリの近郊を歩く一人の中年の小役人が、道に迷った女を助けて巧妙な詐欺《さぎ》にひっかかって金をまきあげられる話、釣に出かけて魚は釣れずに女の帽子に針をひっかけて弁償させられる話、同僚のお世辞にのって郊外の友人の家を訪れたはいいが、稀代のけちんぼの細君に突慳貪《つっけんどん》な目に合わされる話等々味わい深い作品である。
その後『テリエ楼』『フィフィ嬢』などを発表して文名|頓《とみ》に上り、一八八三年には不朽の名作『女の一生』を発表して、文壇における彼の地歩は確固不動のものとなった。この作品はほとんど解説を要しない程に有名である。夫に裏切られ、次には子供にまで裏切られる、哀れな女性の物語で、その暗いペシミスムの底には、無慈悲に突き放しきれない現実に対する惻隠《そくいん》の情がひめられているようである。さればこそトルストイも、この作品においてモーパッサンに対する認識を改めたのであった。
その後長篇小説としては『ベラミ』(一八八五年)『モントリオール』(一八八七年)『ピエールとジャン』(一八八八年)『死のごとく強し』(一八八九年)『男心』(一八九〇年)その他短篇は二百数十、牡牛のような精力で彼は書きなぐった。中には駄作もあるが、後世に残るべきものとして数十篇の多種多彩の傑作を書いたということは、一大壮観である。
彼の文壇活動は僅か十年間であった。その間にこうした多作をしたため、精力的な彼もさすがに疲れを覚えてきた。わずらわしい社交界や友人をのがれたくなった。そこで愛する快艇「ベラミ」に乗ってはよく海上にのがれた。そして海上でしみじみ孤独の静けさを味わうのが無上の楽しみとなった。しかしその次の瞬間にはまた、都会の喧騒が慕われてくるのだった。彼の心は常にこうして、二つの極の間に振幅広く揺れるのだった。
狂人小説『オルラ』(一八八七年)を書いた頃から、彼には狂的徴候が現れてきた。弟が若く狂死していることから考えて、彼の血の中には遺伝的に狂人が住まっていたものと思われるが、過労は更にこの症状の発現に拍車をかけたものであろう。更に彼が紀行文『水の上』(一八八八年)の中で作家の心理を説明して言っているように、作家は何を見ても、他人の行為のみならず、自分自身の思想や感情や行為に対しても、常に絶えず批判し、評価しなければならない、恋愛の法悦にひたっている瞬間でも、また恋人が墓に埋められている悲しい時でも、決して単純な率直な気持で行為を遂行することができない。つまり、作家は二重の視覚を、二重の心を持っているのである。こうした二重性は極度に彼を疲れさせたのであった。「作家を羨むことを止めてくれ、憐れんでくれ」という言葉にはあまりにも悲痛なひびきがこもっている。
彼の恋愛生活については詳しいことは知られていない。彼を熱愛していた婦人は幾人もあったが、彼は終生独身であった。
一八九二年一月、病が昂《こう》じて、彼は咽喉を切った。パッシイ病院に入れられた後は、普通の人のように温順であったが、時には幻覚におびやかされて騒ぎ立てることもあった。翌年の春、大地に緑が萌え出ると、その美しさはモーパッサンの眼と心を楽しませた。下僕がある灌木の美しさを称えると、「ほんとに綺麗だね、でもあのエトルタの白楊の木には及ばないぜ。時に、白楊の葉が微風に吹かれてなびく時の美しさったらなかったぜ」などと語った。狂人の彼の脳裡にも、懐しい母と少年時代を過ごしたあのエトルタの風物が鮮やかに印されていたのである。小康を得ていたかに思われていた彼も、一八九三年六月、遂に四十三歳を一期として、華やかながらも侘しい、短い生涯を閉じたのである。何物にも換えがたく彼を熱愛している母をあとに残して。(訳者)