赤毛のアン
モンゴメリ/神山妙子訳
目 次
第一章 レィチェル・リンド夫人驚く
第二章 マシュウ・カスバート驚く
第三章 マリラ・カスバート驚く
第四章 「グリーン・ゲイブルズ」の朝
第五章 アンの生いたち
第六章 マリラ決心する
第七章 アンお祈りをする
第八章 アンの教育始まる
第九章 リンド夫人すっかり恐れをなす
第十章 アンのおわび
第十一章 教会学校についてのアンの感想
第十二章 おごそかな誓い
第十三章 待ち遠しいピクニック
第十四章 アンの告白
第十五章 教室騒動
第十六章 お茶の招待とその悲しい結末
第十七章 新たな関心
第十八章 アンの救援活動
第十九章 コンサート・大事件・告白
第二十章 想像力のつまずき
第二十一章 新機軸の香料
第二十二章 アンお茶によばれる
第二十三章 面目をかけた事件
第二十四章 音楽会の計画
第二十五章 マシュウとふくらんだ袖の服
第二十六章 物語クラブをつくる
第二十七章 虚栄と心痛
第二十八章 不運な白百合姫
第二十九章 生涯の一大事
第三十章 クィーン組の編制
第三十一章 小川の合流点
第三十二章 合格発表
第三十三章 ホテルの音楽会
第三十四章 クィーンの女子学生
第三十五章 クィーン学院の冬
第三十六章 栄光と夢
第三十七章 死と呼ばれる刈入れ人
第三十八章 曲がり角
解説
年譜
あとがき
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幸せの星|汝《な》が天宮に会し
精と炎と露もて汝を作れり
――ブラウニング
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第一章 レィチェル・リンド夫人驚く
レィチェル・リンド夫人の住居は、ゆるやかに下りてきたアヴォンリー街道が、小さな窪地《くぼち》に達する地点にあった。まわりははんの木やフクシャに囲まれ、ずっと奥のカスバート家の森から流れてくる小川がそこを横切っていた。森をぬける上流の方には、黒ずんだ淵《ふち》や滝がひそんでいることもあって、相当いりくんだ、手に負えない流れといわれていたが、「リンドの窪地」にくるころには、静かな、非のうちどころのない小川になっていた。小川でさえ、礼儀作法を無視して、レィチェル・リンド夫人の門口を流れることはできなかったからだ。レィチェル夫人が窓ぎわにすわって、小川から子供に至るまで、通り過ぎるすべてのものに油断のない眼をそそぎ、ちょっとでもおかしなことや、ふにおちない点を見つけると、とことんまでそのわけを探りださずにはおかないということに気づいていたのかもしれない。
アヴォンリーに住もうと住むまいと、自分のことは棚にあげて、近隣の世話やきに熱中する人は数多いが、レィチェル・リンド夫人ときたら、自分のことはちゃんと始末した上に、他人のことにまで手をのばすことができるような遣《や》り手だった。主婦としても見上げたもので、家事の手を抜くようなことは一切しない上に、どれも手際《てぎわ》よくやってのけた。裁縫のサークルを切り回し、教会学校の運営を手伝い、教会援護会や、外国伝道後援会などの最有力者として活躍していた。
しかもこんなに忙しいというのに、レィチェル夫人は台所の窓辺に何時間もすわって、木綿のさしこのふとんを作るひまにことかかなかった――もう十六枚も作り上げたそうだというのが、アヴォンリーの主婦たちのひそひそ話の種だった――しかもそのかたわら、窪地を横切って、向こうのけわしい赤い丘を曲がりくねって上っていく街道を油断なく見張ることもやってのけた。アヴォンリーは、セント・ローレンス湾(太西洋北部のカナダ沿岸の湾)に突き出ている小さな三角形の半島にあり、両側が海だったので、ここから出て行く者も、また入って来る者も、その丘の道を越える羽目になり、どうあってもレィチェル夫人のきびしい監視の目からのがれることはできなかった。
六月のはじめのある午後、彼女はそこにすわっていた。窓からは暖かな日の光がさんさんとさしこんでいたし、坂の下の果樹園では、うすもも色の花がいまを盛りと咲き誇り、無数の蜜蜂がぶんぶんいっていた。トマス・リンド――アヴォンリーの人達が「レイチェル・リンドの旦那《だんな》さん」と呼んでいるおとなしい小男――は納屋の向こうの丘の畑で、おくてのかぶの種をまいていた。マシュウ・カスバートも、ずっと向こうの「グリーン・ゲイブルズ」(緑の切妻)のそばの、広い赤土の川べりの畑で、かぶの種をまいているはずだった。前の晩、カーモディのウィリアム・ジェイ・ブレアの店で、マシュウがピーター・モリソンに、あすの午後、かぶの種をまくつもりだと話しているのをレィチェル夫人はちゃんと聞いていたのだ。もちろん、この時はピーターの方からたずねたのだった。マシュウ・カスバートときたら今まで一度だって自分から進んで話をしたことはなかった。
ところが、その忙しい日の午後三時半というのに、当のマシュウ・カスバートが悠然と馬にむちを当てながら、窪地を通り過ぎ、丘を上がって行くではないか。おまけに、白いカラーをつけて、一帳羅《いっちようら》を着ているのは、アヴォンリーから出かけて行くことの何よりの証拠だった。それに、栗毛の雌馬にひかせた馬車に乗っているのは、かなり遠くまで行くことを示していた。いったいマシュウ・カスバートはどこに行くのだろう、それも何しに行くのだろうか?
これがもしアヴォンリーのほかの男だったら、レィチェル夫人は、あれこれをうまくつなぎ合わせて、この二つの問いにかなりちがった答をだせたかもしれない。しかし、マシュウが出かけるのはめったにないことだったので、こうして出かけるのはよくよくのことであり、何かさしせまったことが起こったにちがいなかった。マシュウは無類のはにかみ屋で、知らない人たちの集まりや、口をきかなくてはならない所へ出かけて行くのが大嫌いだった。マシュウが白いカラーで着飾って、馬車を駆って行くというのはいかにも珍しいことだった。レィチェル夫人はいくら考えてもさっぱりわけがわからなかった。おかげで午後の楽しみはだいなしにされてしまった。
「お茶を飲んだら、ちょっと『グリーン・ゲイブルズ』に行って、マリラから、あの人がどこに何しに行ったか聞き出してこよう」とついにこのえらい婦人は決心した。「マシュウは今時分はたいがい町に行かないし、人を訪問することは絶対《ヽヽ》にない。もし、かぶの種が切れたんだったら、それを買いにわざわざ着飾って、馬車に乗って行ったりはしないだろう。医者を呼びに行くにしては、馬車の速度がのろい。でも、ああやって出て行くところを見ると、昨晩以来、きっと何かあったのだろう。何が何だかさっぱりわけがわからない。マシュウ・カスバートが今日、なぜアヴォンリーから出かけて行ったのかわかるまでは、わたしは午後も落着かないよ」
そこで、お茶のあと、レィチェル夫人は出かけて行った。たいした道のりではなかった。カスバートが住んでいる大きな、だだっぴろい、果樹園に囲まれた家は、「リンドの窪地」から街道沿いに、四分の一マイル足らずの所にあった。ただ、長い小道のせいで、もっと離れているような感じがすることは確かだった。息子と同様、はにかみ屋で無口のマシュウ・カスバートの父親は、森の中にひっこむところまではいかなかったが、人の住む所からできるだけ遠く離れた所に屋敷をかまえたのだった。「グリーン・ゲイブルズ」はその開墾地の一番はずれに建てられて今日におよび、アヴォンリーのほかの家々が仲よく立ち並んでいる街道からは、ほとんど見えなかった。レィチェル・リンド夫人に言わせると、そんな所にいるのは、とうてい「住んでいる」などとは言えなかった。
「ただそこにいるというだけさね」野ばらに縁どられ、深いわだちの跡がみえる草深い小道を歩きながら彼女は言った。「二人きりでこんな奥まった所にいるんだから、マシュウとマリラが妙に変わっているのも当たり前だ。木なんか話相手になりゃしない。もっとも木でいいっていうなら数には不足はないがね。わたしなら人間をみている方がずっとましだ。確かにあの二人にはこれでいいんだろうけど、それも慣れっこになったせいだろうね。人は何にでも慣れることができるんだ。アイルランド人の言い草じゃないけれど、首をしめられることだってもね」
そう言いながら、レィチェル夫人は小道から「グリーン・ゲイブルズ」の裏庭に入って行った。庭は青々していて、きちんと手入れがゆきとどいていた。片側には数本の堂々とした柳の老木があり、反対側にはとりすました西洋はこやなぎが植わっていた。棒切れ一本、石ころ一つ、落ちていなかった。もしそうなら当然レィチェル夫人の眼をのがれることはできなかっただろうから。マリラ・カスバートは、家の中と同じくらい、ひんぱんに庭掃除をしているのだろうと夫人はひそかに考えた。地面からじかに食物を口にいれても、口の中がじゃりじゃりする気|遣《づか》いはまったくなさそうだった。
レィチェル夫人は台所口をどんどん叩《たた》き、「お入り」と言われると、中に入った。「グリーン・ゲイブルズ」の台所は気持ちのいい場所だった――しかし、あまりきちんとしすぎていて、ふだんは使われない客間のような印象を与えることが玉に傷だった。東と西に面して窓があり、裏庭に面している西窓からは、やわらかい六月の日の光が部屋いっぱいにさしこんでいた。しかし、東側の窓は、青々としたつたですっかりおおわれていて、その間から、左側の果樹園の白い桜の花や、小川のそばの窪《くぼ》地に生えている、しなやかな枝ぶりの樺《かば》の木がちらちら見えた。マリラ・カスバートが腰をおろすのは、いつもこの窓ぎわだった。万事まじめにやっていかなければならない世の中に、始終ふらふらしていて、あてにならない日光にたいし、いつも多少の不信感をぬぐいされなかったからだ。今も彼女はそこにすわって編物をしていた。うしろのテーブルには夕食の用意がしてあった。
レィチェル夫人はドアをしめきらないうちに、そのテーブルにのっているものを一つ残らず心に留めた。皿が三枚並べてあるところを見ると、マリラはきっと、マシュウが誰かをお茶に連れてくるのを待っているのだろう。しかし食器はふだん使っているものだし、山りんごのジャムとケーキが一種類しか出ていないところを見ると、待っているのは、たいしたお客ではないらしい。でも、それならなぜ、マシュウはわざわざ白いカラーをつけて、栗毛の雌馬にひかせた馬車に乗って行ったのだろうか? レィチェル夫人は、ふだんは静かで、なにごともない「グリーン・ゲイブルズ」に、いつになく不思議なことが起こっているのを見て、ますますわけがわからなくなってきた。
「今日は、レィチェル」マリラはてきぱきと言った。「ほんとにいい夕方ですね。おかけになりません? 皆さん、お変わりなくて?」
マリラ・カスバートとレィチェル夫人はお互いに似ていなかったが――あるいは、そのためかえって――友情としか呼べないような心の通いが二人の間にみられた。
マリラは背の高い、やせた女で、どこもかしこもごつごつしていて、ふっくりしたところが少しもみられなかった。白髪のみえはじめた黒い髪の毛をいつもうしろで束《たば》ねて小さな固いまげに結い上げ、二本のかねのヘアピンできりりととめていた。視野の狭い、融通のきかない人柄といった印象を与えたが、事実またその通りだった。しかし口もとには、もうちょっとでユーモアのしるしとみられないでもないようなものが浮かんでいた。
「おかげさまで」とレィチェル夫人は言った。「でも今日、マシュウが出かけて行くのを見た時、あんたがどうかしたんじゃないかと気になってね。医者を迎えに行くのかもしれないって思ったんですよ」
さもありなんと言わんばかりに、マリラは笑いをこらえた。レィチェル夫人が姿を現わすことは予想していた。マシュウが、見当のつかない用向きで出かけて行くのを見たら、夫人の好奇心がそそられるにきまっていると思えたからだ。
「いいえ、わたしならこの通り元気ですよ。もっとも、きのうはひどい頭痛がしたけどね」と彼女は言った。「マシュウはブライト・リヴァに出かけたんです。ノヴァ・スコシア(カナダ東南部の半島、および州)の孤児院から男の子をもらうことにしたんですが、その子が今夜の汽車で着くんでね」
マシュウがオーストラリアからやってくるカンガルーを迎えにブライト・リヴァに行ったと聞かされても、レィチェル夫人はこんなにびっくりしなかっただろう。驚きのあまり五分間ほんとうに口もきけないくらいだった。マリラにからかわれているとはとても思えなかったが、レィチェル夫人としてはそうとらざるを得ないくらいだった。「本気なの、マリラ?」ようやく声が出るようになると夫人はたずねた。
「ええ、そうですとも」とマリラは答えた。まるで、ノヴァ・スコシアの孤児院から男の子をもらうのは、アヴォンリーのきちんとした農家がふだんからやっている春の行事の一部分にすぎず、前代未聞の珍事なんかではないと言わんばかりだった。
レィチェル夫人は胸の底から激しくつきあげられるのを感じた。何もかも驚くことばかりだった。男の子だって! よりによってマリラとマシュウ・カスバートが男の子をもらうなんて! しかも、孤児院から! そうだ、きっと世の中がひっくり返ろうとしているんだ! これからは、何が起こってもびっくりしないだろう! 何が起こっても!
「いったいどうしてそんなことを思いついたの?」と彼女は納得できないという顔つきでたずねた。これは夫人に一言の相談もなしにとられた処置だから、そのまま認めてもらえないのも当たり前だった。
「そうね、わたし達、ここしばらく――実は冬のあいだずっと――このことを考えてきたんですよ」とマリラは答えた。「アレクサンダー・スペンサーの奥さんが、クリスマスの前に、ここへみえて、春になったら、ホープタウンの孤児院から女の子をもらってくるつもりだとおっしゃったんですよ。奥さんの従姉《いとこ》がそこに住んでいて、奥さん、そこにたずねて行くので、孤児院のことは全部ご承知なんです。で、それからというもの何度もマシュウとそのことで話し合ってきたんです。結局男の子をもらおうということになりました。ご存知の通り、マシュウも年をとってきてるし――六十なんですよ――昔ほど元気じゃないんです。心臓の具合がとても悪くてね。それに、なにしろ、手伝いをやとうのはひどくやっかいになってきたでしょう。やとうと言ったって、あの頭の悪い、半人前のフランス人の男の子達しかいないし、それにあの子達ときたら、手取り足取り教えたあげく、何とかものになると思う頃になると、さっさとやめて、えびの罐詰工場か、合衆国に出かけちゃったりしてね。最初マシュウは国もとの子はどうだろうって言い出したんですけど、わたしはきっぱりいやだって言ったんですよ。『そりゃ、大丈夫だろうけどね――わたしは悪いとは言いませんよ――ただね、ロンドンの町をうろついているようなのだけはごめんですよ』ってね。『誰でもいいからこの土地の人間にしてくださいな、どうせ危険はつきものですからね。でもカナダ生まれということならなんといっても気楽だし、枕を高くして眠れるというものですよ』そんなわけで、結局、スペンサーの奥さんが女の子をもらいに行く時に、わたし達にも誰か一人みつけていただくようにお願いすることにきめたんです。その奥さんがいよいよお出かけになるって先週聞いたので、カーモディのリチャード・スペンサーの家の人に言づけをしましてね、りこうで頃合いの十か十一くらいの男の子がいたら連れてきてくださいって頼んだんですよ。それくらいの年頃が一番いいだろうというのでね――雑用ぐらいにはすぐに役立つでしょうし、ちゃんと仕込むのにおそすぎることもないでしょうからね。わたし達はその子にちゃんとした家庭を与え、教育を授けてやるつもりです。今日、アレキサンダー・スペンサーの奥さんから電報がきましてね――郵便屋さんが駅から配達してくれたんです――今夜五時半の汽車で着くというんです。で、マシュウがブライト・リヴァまで出迎えることになったんです。スペンサーの奥さんは駅でその子をおろしてくださる手筈になっています。もちろん、ご自分はずっとホワイト・サンドまで乗っていらっしゃるんですけどね」
レィチェル夫人はいつでも思ったことをはっきり口にだして言うのを自慢にしていた。今もこの驚くべき知らせに対する心構えができるや否や、早速にまくしたてた。
「ねえ、マリラ、はっきり言わせてもらえば、あんたはとんでもないまねをしでかそうとしているんですよ――それも危なっかしくてみていられないようなことをね。何をしょい込むのかわかったもんじゃない。見も知らない子を家に入れるというのに、その子のことは何一つわかっちゃいないんですものね。どんな性質で、両親はどんな人間なのか、またこれから先、どうなっていくのかってことも。そう、つい先週もね、島の西に住んでる夫婦者が孤児院から男の子を引きとったら、その子が夜、家に火をつけて――それもわざとですよ、マリラ――二人はもう少しでベッドの中で、黒こげになるところだったって新聞にでていたばかりですよ。それから、男の子をもらったら、卵を吸ってばかりいて、どうしてもそのくせが直らなかったっていう話も聞いたことがあってね。今度のことだって、もしあんたから話があれば――実際は何も相談は受けなかったけどね、マリラ――後生だからやめてくれって言ったに違いありませんよ」
しかしこの慰めともつかず、くさしているともつかない言葉を聞いても、マリラは怒ったり、驚いたりする風もなかった。落着きはらって、編物を続けるだけだった。
「あんたの話にも一理あるのはわかってますよ、レィチェル。わたしだって少しは気がかりだったんですもの。でもマシュウが今度のことじゃとても思いつめてね。それがわかったんで、わたしも折れることにしたんですよ。マシュウが何かに熱中することは滅多にないだけに、いったんそうなったら最後、こっちが折れるほかはないって気がするんです。それに危ないかどうかということになると、人間万事危険はつきものというほかはないでしょう。考えてみれば、自分の子供の場合だって、そうそう安心っていうわけにいかないしね――必ずしもいい人間になるとは限らないんですもの。第一、ノヴァ・スコシアはこの島のすぐ近くだしね。イギリスやアメリカからもらうのとはわけがちがいますよ。その子がわたし達とそんなにかけ離れているはずはないでしょう」
「まあ、うまくいくといいけどね」その点すこぶる怪しいといった気持ちをありありとしめすような口調で、レィチェル夫人は言った。「ただ、その子が『グリーン・ゲイブルズ』を焼き払ったり、井戸にストリキニーネを投げこんだりしても、わたしがあんたに注意しなかったからだなんて言わないで下さいよ――ニュー・ブランズウィックで孤児院の子がやったって話を聞いたことがあってね。そのため家中の人が散々苦しんだあげく死んだんですって。もっともこの場合は女の子だったけど」
「あら、家《うち》は、女の子をもらうんじゃないんですよ」マリラは、井戸に毒を投げいれるのは女の専売特許で、男の子がそんなことをする恐れはないのだと言わんばかりだった。「女の子をもらって育てるなんて、夢にも思っちゃいませんよ。その点、アレキサンダー・スペンサーの奥さんの気がしれない。でもね、あの人ときたら、いったんこうと思いこんだら、孤児院中の子をみんなもらうことだってやりかねませんよ」
レィチェル夫人は、実のところ、マシュウが、引きとったみなしごを連れて帰ってくるまで待っていたかった。しかし、それまでにはたっぷり二時間もあると思い、街道をロバート・ベルの家まで歩いて行って、このことを知らせようと決心した。一大センセーションをまき起こすにきまっているし、レィチェル夫人はセンセーションをまき起こすのが大好きだった。こうして彼女が引きあげて行くと、マリラはいくらかほっとした。レィチェル夫人の悲観論を聞いていると、様々な疑念や不安が再び舞い戻ってきそうな心配があったからだ。
「ああ、何と言っていいものやら、まるで夢でも見てるようだ」小道に入って一人になると、レィチェル夫人は思わず声に出して言った。「それにどう考えてもその子がかわいそうだ。マシュウとマリラは子供のことは何にも知らないから、その子がおじいさんよりもかしこくて、しっかりしているとでも思っているんだろう。もっとも、その子におじいさんがいたかどうかはっきりしないがね。『グリーン・ゲイブルズ』に子供がいるなんてどうみてもぞっとしないね。あすこに子供がいたことなんかないんだから。マシュウもマリラも、新しい家が建った時は、もう大きくなってたしね――あの人達にも子供の時代があったなんて、今のあの人達を見たら、とても信じられないけど。どんなことがあっても、そのみなしごにはなりたくないね。ああそれにしても、ほんとうにかわいそうな子だ」
レィチェル夫人は感無量の様子で野ばらの茂みに向かって言った。しかし、ちょうどその時、ブライト・リヴァの駅でしんぼう強く待っているその子を見たら、夫人の同情は一段と深まり、ふびんさも一層増したことだろう。
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第二章 マシュウ・カスバート驚く
マシュウ・カスバートと栗毛の雌馬は、ブライト・リヴァへの八マイルの道のりをのんびりと楽しんでいた。それはこじんまりとした農場の間を走っているきれいな道で、樅《もみ》の林をぬけるかと思うと、野生のすももがかすみのような花をたらしている窪地を過ぎることもあった。辺《あた》りはあちこちのりんご園から漂ってくる香りにつつまれ、牧場はなだらかな勾配をなして、真珠色と紫色のもやがたちこめるはるか彼方の地平線までつづいていた。そして
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鳥はうたう、声を限りに
この日をば 夏と讃《たた》えて
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マシュウは彼なりにこのドライヴを楽しんだが、女達に会って会釈《えしゃく》をしなくてはならない時は、そうはいかなかった――プリンス・エドワード島(セント・ローレンス湾内の島)では、知り合いであろうとなかろうと、道で会ったら誰にでも会釈することになっていたのだ。
マシュウにはマリラとレィチェル夫人以外の女はみんな恐かった。この不思議な生き物達は、自分のことをひそかに笑っているのではないかという不安があったからだ。彼がそう思うのは案外あたっていたかもしれない。無骨なからだつきに、鉄灰色の髪の毛を前こごみの肩にとどくほど長くのばし、二十歳《はたち》の時からだというふさふさした柔らかい茶色のあごひげをはやしたマシュウの姿はどうみても一風変わっていた。事実、髪が白くないというだけで、二十歳のマシュウは六十の今とほとんど同じに見えた。
彼がブライト・リヴァに着いた時には、汽車は影も形もなかった。早く来過ぎたのだと思ったので、ブライト・リヴァの小さな旅館の庭に馬をつなぐと、マシュウは駅まで歩いて行った。長いプラットホームにはほとんど人影はなかった。目にはいる生き物といったら、ホームの一番端に積んであるじゃりの上に腰かけている女の子ぐらいのものだった。マシュウはそれが女の子だということすらほとんど気づかずに、彼女には目もくれないで、そのそばをできるだけ足ばやに通り過ぎた。もし見ていたら、この子がこちこちに固くなって、ひたすらに何かを待ち受けている様子が、顔にも態度にもありありと現われていることに気づいただろう。その子はそこにすわって何かを、あるいは誰かを待っていた。そうしてじっと待っている以外に、さしあたってほかにすることもなかったので、ひたすらそこにすわりこんで待っていた。
マシュウは駅長にばったり出会ったので、五時半の汽車はすぐにくるのかとたずねた。駅長は夕飯に家へ帰るので、出札所をしめているところだった。
「五時半の汽車なら三十分も前に通りました」と駅長はきびきび答えた。「しかし、あんたのお客さんという人がおりましたよ――女の子です。あすこのじゃりの上にかけていますよ。婦人待合室に行くように言ったんですが、外にいた方がいいって大まじめで言うんですよ。『こっちの方が想像をめぐらす余地があるから』なんて言ってね。変わってる子のようですな」
「女の子には用がないんだがなあ」とマシュウは解《げ》せない面持《おもも》ちで言った。「迎えに来たのは男の子なんですよ。もう来ているはずなんでね。アレクサンダー・スペンサーの奥さんがノヴァ・スコシアから連れてきてくださる予定なんです」
駅長は口笛を吹いた。「何かの手違いでしょう」と彼は言った。「そのスペンサーの奥さんがあの子と一緒に汽車をおり、わたしにあずけていかれたんですよ。あんたと妹さんが孤児院からもらった子だから、そのうち迎えにみえるだろうと言ってね。わたしが知ってるのはそれだけです――ほかにみなしごなんかどこにもいやしませんよ」
「わからんな」とマシュウは途方にくれて言った。そしてマリラがそばにいて、うまくとりはからってくれたらと思わずにはいられなかった。
「それならあの子に聞けばいいですよ」と駅長は無造作に言った。「きっと説明してくれますよ――なかなか口が達者なようですからなあ。ことによると、あんたがたがほしいような男の子がいなかったのかもしれませんよ」
駅長は腹がへってたまらなかったので、すたすたと歩いて行ってしまった。そこでマシュウはあわれにも取り残されて、虎穴《こけつ》に入るよりももっと難かしいこと――つまり女の子、それも見も知らない女の子――みなしご――の所に行って、どうして男の子ではないのかとたずねる羽目に追いこまれた。マシュウは向きをかえ、ホームの端にいる子供の方に重い足どりでそろそろ近づきながら、心のなかでうなった。
女の子はマシュウがそばを通り過ぎた時からずっと彼に眼を注いでいたが、今やじっとこちらを見|据《す》えていた。マシュウは子供の方を見ていなかったし、たとえ見たにしても、どんな子かわからなかったかも知れない。しかし普通の人なら次のようなことを見てとっただろう。
子供は年の頃は十一ぐらいで、つんつるてんの、みるからに窮屈そうな、みっともない、うす黄色の綿と毛の交織《まぜおり》の服を着ていた。色あせた、茶色の水兵帽をかぶり、その下から、二本のとても太く編んだ、めだって赤い髪の毛が背中までたれていた。顔は小さく、青白く、やせていて、そばかすだらけだった。口は大きかった。目も大きくて、その時の光線の具合や気分で緑色に見えたり灰色に見えたりした。
このへんまでは普通の人の観察だが、特別よく気がつく人だったら、この子のあごがたいへんとがってつき出ており、大きな目はいきいきしていてはりがあり、くちびるはかわいらしくて表情に富み、ひたいは広く大きいことがわかっただろう。つまり、鋭い、人並以上の観察力を持った人だったら、マシュウ・カスバートがこっけいなほど恐れたこの宿なしの娘には非凡な魂が宿っているという結論に達しただろう。
しかしマシュウは自分から話しかけるといういやな思いをせずにすんだ。というのは、彼が自分の方にやってくることを見とどけるやいなや、女の子はやせて日焼けのした片手で、使い古した、旧式の手さげかばんの取っ手をつかんで立ち上がり、もう一方の手を彼の方にさし出した。
「『グリーン・ゲイブルズ』のマシュウ・カスバートさんでしょう?」彼女はひときわ澄んだ、きれいな声で言った。「お目にかかれてよかったわ。迎えに来てくださらないんじゃないかって心配になりだしたので、いらっしゃれないわけをあれこれ考えていたの。もし今晩お見えにならなかったら、線路づたいに曲がり角の大きな野生の桜の木の所まで行って、あの木の上で夜を明かそうときめてたのよ。ちっともこわくないわ。月の光に照らされて白い花がいっぱい咲いてる桜の木の上で眠るなんてすてきじゃない? まるで大理石の大広間に住んでるような気がするんじゃないかしら? それに今晩いらっしゃらなくても、あしたの朝はきっと迎えに来てくださると思ってたわ」
マシュウは女の子のやせこけた、小さな手をぎこちなくにぎった。そしてとっさの間にどうすべきか決心がついた。目をきらきら輝かせたこの子に、手違いがあったなどとは言えっこない。家に連れて行って、マリラに話させよう。とにかく、どんな手違いがあったにしろ、この子をブライト・リヴァに置きざりにすることはできない。だから、いっさいの問答は「グリーン・ゲイブルズ」に帰り着くまでのばすことにしよう。
「遅れてごめんよ」彼はおずおず言った。
「おいで。馬はあすこの庭につないである。かばんを渡しなさい」
「あら、自分で持てるわ」その子は元気よく答えた。「ちっとも重くないのよ。あたしの全財産が入ってるんだけど重くないの。それにうまくもたないと、取っ手がぬけるのよ――だから、こつを知ってるあたしが持つ方がいいと思うわ。とても古い手さげかばんよ。ああ、おじさんが来てくださってほんとによかったわ。そりゃ桜の木の上で眠るのもすてきでしょうけどね。長いこと馬車に乗って行かなくちゃいけないんでしょう? 八マイルだってスペンサーのおはさんが言ってたわ。うれしいわ、あたし、馬車に乗るの好きなんだもの。ああ、おじさんと一緒に住んで、おじさんの家《うち》の子になるなんてすてきだわ。あたし今までどこの子にもなったことないの――ほんとうよ。でも、孤児院は一番ひどかったわ。四ヵ月しかいなかったけど、もうたくさんよ。おじさんは孤児院のみなしごになったことないでしょう。だからきっとよくおわかりにならないと思うの。でもほんとに想像もつかないほどひどいのよ。スペンサーのおばさんは、そんなこと言うのはよくないって言ってたけど、あたし悪気はなかったのよ。知らないうちに、ついうっかりして悪いことをしちゃうものね。みんないい人ばかりだったわ――孤児院のことよ。でもあそこじゃ空想をめぐらす余地がないの――何しろまわりはみんなみなし子ばかりでしょう。あの子達のことで色々空想するのはかなり面白かったことは確かよ――となりにすわってる女の子はほんとうは堂々とした伯爵の娘で、小さい時に両親の所から人でなしの乳母にさらわれ、その乳母が罪を白状しないうちに死んでしまったのだなんて考えてみるの。あたし、夜、床のなかで眼をさましていてそんなことを想像したものよ。昼間はそのひまがなかったの。だから、あたしこんなにやせてるんだと思うわ――あたしとてもやせてるでしょう? 骨と皮ばかりみたい。あたし、自分がきれいで、ぽっちゃりしていて、ひじにえくぼがあったらさぞいいだろうなんて考えちゃうの」
ここまできて、マシュウの連れはしゃべるのをやめた。息切れがしたせいもあり、馬車を止めてある所に着いたからでもあった。二人が村を出て、急な丘を馬車で下るまで、彼女は、ひとこともものを言わなかった。丘の道になっている所は、柔らかい土をぐっとえぐって切り開いたものだったので、花ざかりの山桜とほっそりした白樺の木で縁どられた両側の土手は、二人の頭から数フィート上の所にあった。
女の子は手をさしのべて、馬車の横をかすった野生の西洋すももの枝を折った。
「なんてきれいなんでしょう。土手から突き出ている、まっ白な、レースのような木を見て、何を思い出す?」と女の子は聞いた。
「そうさのう、わしには、わからんよ」とマシュウは答えた。
「あら、もちろん花嫁よ――きれいな、霧のようなヴェールをつけた、白ずくめの花嫁よ。あたし、花嫁って見たことないけど、どんなものか想像できるわ。自分が花嫁になれるとは思ってないけど。こんなにぶきりょうじゃ、誰もあたしと結婚したがらないと思うの――外国へ行く宣教師以外はね。宣教師だったら、そんなにうるさいこと言わないと思うの。でも、いつかは白い服を着てみたいなと思うわ。この世で味わう幸せの最高の理想なの。あたし、きれいな着物がほんとうに好きなのよ。今まで一度もきれいな服を着た思い出なんてないわ――でも、もちろん、その方がかえって楽しみかもしれないわ。自分が豪華な着物を着てるって想像できるもの。けさ、孤児院を出てくる時、このいやな交織の服を着なくちゃならないので、とても恥ずかしかったわ。ほら、孤児はみんなこれを着なくちゃいけないのよ。この前の冬、ホープタウンの商人が三百ヤードの交織のきれを孤児院に寄付したの。売れないからそうしたんだって言う人もいたけど、親切な気持ちから寄付したんだとあたしは信じたいわ、そうでしょう? あたし達が汽車に乗った時、みんなあたしを見て同情しているような気がしたわ。だけど、あたしは早速想像をめぐらしはじめて、自分がとてもきれいな薄青色の綿のドレスを着てるってことにしたの――どうせ空想するんなら、そうするだけのねうちのあるものを思い浮かべた方がいいですものね――それから、花や、ひらひらする羽がいっぱいついた大きな帽子をかぶって、金時計をはめて、キッドの手袋に、キッドのくつをはいてると想像したの。そしたらあたしすぐに元気になって、島に着くまでせいいっぱい楽しんだの。船に乗って来る時もちっとも酔わなかったわ。スペンサーのおばさんもよ、いつもなら酔うんですって。あたしが船から落ちやしないかと見はっていたので、酔ってなんかいられないって言っていたわ。おばさん、あたしみたいにうろちょろする子は見たこともないって言うのよ。でも、そのおかげでおばさんが船に酔わずにすむんだったら、あたしがうろつきまわるのも悪くはないわね? それに、あたし、船から見えるものは何でも見ておきたかったの。またこんな機会があるかどうかわかんなかったんだもの。あら、またたくさん桜が咲いてるわ! この島みたいに花がいっぱい咲いている所はないわね。ここがとても気に入ったし、ここに住むのかと思うとうれしくてたまらないわ。あたし、プリンス・エドワード島がこの世の中で一番きれいな所だといつもきかされてたの。よく自分がここに住んでるんだと想像したわ。でも、ほんとうに住むことになるなんて夢にも思わなかったの。想像してたことがほんとうになると楽しいわ。でも、あの赤い道はとても変わっているわね。シャーロットタウン(プリンス・エドワード島の首府)で汽車に乗ったら、赤い道がさっと見えてきたので、なぜ赤いのってスペンサーのおばさんに聞いたのよ。そしたら、知りませんよ、後生だからもうあれこれ聞かないでおくれって言われたの。もう千回もいろいろ聞いたに違いないって。あたしもそうだと思うわ。でも、人に聞かなかったら、どうやっていろんなことがわかるのかしら? ねえ、どうしてあの道は赤いの?」
「そうさのう、わしには、わからんよ」とマシュウは答えた。
「じゃあ、これもいつか探しだすことの一つってわけね。探さなくちゃならないものについてあれこれ考えるってすばらしいことじゃない? 生きていてほんとに幸せって気がするの――面白《おもしろ》いことがいっぱいあるんですもの。何もかもわかってしまったら、楽しみが半分に減るんじゃないかしら? そうしたら空想の余地がなくなっちゃうでしょう? でもあたし、少ししゃべり過ぎる? よくそう言われるのよ。黙っている方がいい? もしそう言ってくだされば、おしゃべりをやめるわ。難かしいけれど、そのつもりになればやれないことはないのよ」
マシュウは自分でもびっくりするくらい、愉快になっていた。無口な人の常で、相手が一人でしゃべってくれて、特に調子をあわせる必要がない限り、話し好きの人がきらいではなかった。しかしまさか自分が、こんな小さな女の子の話に喜んで耳を傾けることになろうとは思ってもいなかった。まったくのところ女性は苦手だったが、小さな女の子となると尚更《なおさら》だった。少女たちが彼の方を横眼でみながらおずおずとかたわらをすりぬけていく様子といったら我慢《がまん》がならなかった。まるで一言でもものを言おうものなら、大口あいてかみつかれるとでも思っているみたいだった。これがアヴォンリーの育ちのよい女の子のやり方だった。
しかしこのそばかすだらけの子は大違いだった。それにマシュウのにぶい頭では、この子のめまぐるしいほどの頭の回転についていくのは容易ではないにしても、この子のおしゃべりはまんざらでもないような気がした。そこで、彼はいつものようにはにかんで言った。
「好きなだけしゃべってもいいんだよ。わしはかまわんから」
「まあうれしい。おじさんとはうまくやっていけそうね。好きな時におしゃべりできるわけだし、子供もいいが、うるさくてかなわないなんて言われないですむと思うと、ほんとにホッとするわ。これまでなんべんそう言われたかわからないんですもの。それにみんなあたしの言葉づかいが大げさだって笑うのよ。でも大きな考えをつたえようとすれば、言葉づかいだって大きくなってしまうんじゃない?」
「そうさのう、もっとものようだね」とマシュウは言った。
「スペンサーのおばさんは、あたしの舌はきっと中ぶらりんになっているんだろうって言ってたわ。でも、そんなことはないの――ちゃんと根元にしっかりとついてるわ。スペンサーのおばさんの話じゃ、おじさんの家には『グリーン・ゲイブルズ』っていう名前がついてるんですってね。あたし、いろんなこと聞いたの。まわりを全部木で囲まれてるんですって。それを聞いてあたし、ますますうれしくなったの。あたし、木が大好きなのよ。孤児院のまわりには木が全然なかったの。正面に、小さな白いさくに囲まれて、ひょろひょろした小さな木が二、三本|生《は》えているだけだったわ。まるでみなしごみたいなの。この木を見ていると、よく泣きたくなったものよ。あたし、よく言ったわ。『ああ、かわいそうに! もしお前達がほかの木と一緒に大きな森で暮らしていて、小さな苔《こけ》や釣鐘草が根もとに生え、近くには小川が流れ、小鳥もお前達の梢でさえずっていたら、もっと大きくなれるんじゃないかしら? だけどこれじゃ無理ね、小さな木よ、お前達の気持ち、とてもよくわかるわ』って。あたし、今朝、木をおいてくるのが、とても心残りだったの。ああいうものでも情がうつるのね。『グリーン・ゲイブルズ』のそばに小川ある? スペンサーのおばさんにそれ聞くの忘れたのよ」
「そうさのう、あることはあるよ。家のちょうど下にね」
「まあすてき! 小川のそばに住むのがいつもあたしの夢だったのよ。でも、まさかほんとにそうなろうとは思わなかったわ。夢が正夢になるなんてめったにないんじゃない? ほんとうになったらすてきね。だけど今、あたし、ほとんど申し分ないぐらい幸福よ。完全にとは思わないわ。なぜなら――ねえ、これ何色だと思う?」
彼女は長い、つやつやした編みおさげの一つをやせた肩ごしにぐいとひっぱって、マシュウの目の前にさしあげた。マシュウは、女の髪の色を当てるのは得意ではなかったが、この場合はあまり迷う必要はなかった。
「赤じゃないのかね?」
少女はおさげをもとのようにうしろにたらしながら、溜息をついた。それはつま先からこみあげてきて、長い年月につもりつもった悲しみを全部吐き出すといったようなものだった。
「そう、赤なのよ」彼女はあきらめて言った。
「これでなぜあたしが完全に幸福になれないかわかったでしょう。赤毛の人はみんなそうよ。あたし、ほかのことはそんなに気にしないわ――そばかすや緑色の目や、やせてることなんかよ。想像で忘れてしまうことができるんだもの。はだはきれいなばら色だし、目は美しい星のようなすみれ色だと想像できるのよ。でも、赤い髪だけはだめ。『あたしの髪はつややかな黒だ。烏のぬれ羽色をしているんだ』と一生懸命心の中で考えてみるの。でも、やっぱり赤以外の何物でもないとわかっているので、胸がはりさけそうになるの。生涯ついてまわる悲しみでしょうね。いつか、小説で、一生悲しみつづける女の子のこと読んだけど、赤い髪が原因じゃなかったわ。その子の髪はまじり気のない金髪で、石こうのような額からうしろへ波のように縮れてたれているのよ。石こうのような額ってどんなの? あたし、どうしてもわからないわ。おじさん教えてくれる?」
「そうさのう、どうもわからんようだね」と、少し頭がぐらぐらするのを感じながらマシュウは言った。むてっぽうだった少年時代に、ピクニックに行って、ほかの子にさそわれて回転木馬に乗った時も、やはりこんな具合だった。
「どっちにしても、きっとすてきなものだったんでしょうね。その子は神々しいほど美しかったんだもの。神々しいほど美しいってどんな気分がするものか考えたことある?」
「そうさのう、いや、ないよ」マシュウは率直に白状した。
「あたし、しょっちゅうあるわよ。もしえらぶとしたらどれがいい――神々しいほど美しいのと、まぶしいほど頭がいいのと、天使のように気質のいいのと?」
「そうさのう、わしには――どうもよくわからんよ」
「わたしもわからないわ。きめられないの。でも、どっちにしても、そう違いはないわ。そのどれにもなれそうにないんだもの。あたし、間違っても天使のように善《よ》い子になることなんかないわよ。スペンサーのおばさんが言ってたわ――まあ、カスバートさん! まあカスバートさん! まあ、カスバートさん!」
それはスペンサー夫人が言った言葉ではなかった。また、その子が馬車からころがり落ちたのでもないし、マシュウが何かびっくりするようなことをやったのでもなかった。二人はただ道の曲がり角をまわって「並木道」に来ていただけだった。ニューブリッジの人々が「並木道」と呼んでいるのは、長さ四、五百ヤードの一筋の道で、何年も前に、変わり者の老農夫が両側に植えたりんごの巨木が、枝を広げて、完全なアーチ形を作っていた。頭上には、雪のような、かおり高い花がおおいかぶさっていて、まるで長い天|蓋《がい》のようだった。大枝の下の方には紫色の夕やみがたちこめていた。はるか前方にのぞまれる夕日に彩《いろど》られた大空は、大寺院の側廊のつきあたりにある大きなばら窓のように輝いていた。
あまりの美しさに打たれたらしく、子供は口もきけなかった。馬車の背にもたれ、やせた両手の指をしっかり組み合わせ、頭上の白い輝くばかりの花を、恍惚《こうこつ》とした顔つきで見上げていた。馬車はそこを通りぬけて、ニューブリッジへの長い坂をおりて行ったが、それでもなお、女の子は身じろぎもせず、口もきかなかった。相変わらずうっとりした顔つきで、夕日の沈むはるか西の方をじっとみつめていた。燃え立つような背景の前を横切って行く、華やかな幻を見ているようだった。ニューブリッジは騒々しい小さな村で、犬達が二人に向かってほえ、小さな男の子達がはやし立て、もの好きな顔が窓からのぞいたが、二人は相変わらず黙ったままそこを馬車で通りぬけて行った。さらに三マイル行ったが、その子は口をきかなかった。しゃべる時も猛烈だったが、黙るとなると、どうやらそれにまけないくらい、おし黙っていられるらしかった。
「だいぶつかれて、おなかがへっただろう」マシュウは、女の子が長いこと黙りこくっているわけをこれ以外には思いつかなかったので、思い切ってたずねた。「しかし、もうじきだよ――あとたったの一マイルさ」
子供は物思いからさめると、ほっと深い吐息をした。そしてはるか彼方の天上界をさまよっていた人のような、夢みるような瞳を上げてマシュウをみつめた。
「ああカスバートさん」とその子はささやいた。「あたし達が通ってきた所――あの白い場所――あすこは何て言うの?」
「ええと、『並木道』のことを言ってるのかな」マシュウはしばらく考えこんでから言った。「ちょっときれいな所だね」
「きれいですって? まあ、『きれい』じゃそぐわないわ。美しい、でもだめよ。どっちも物足りないわ。ああ、すばらしかったわ――ほんとうにすばらしいわ。あんなに想像の入りこむ余地がないくらいすばらしいものを見たのははじめてよ。ここがいっぱいになったみたい」――女の子は片手を胸にあてた――「妙な具合にうずくような気がしたけど、気分の悪いものじゃなかったわ。そんなうずきをおぼえたことあって、カスバートさん?」
「そうさのう、ちょっと思い出せないよ」
「あたし、よくあるのよ――すばらしく美しいものを見ると必ずそうなるの。でも、あんなすばらしい所を『並木道』なんて呼ぶのはよくないわ。そんな名前は全然無意味よ。ええと――『歓喜の白い道』っていうのはどうかしら。すてきな、空想的な名前じゃない? 場所や人の名前が気にいらないと、あたし、いつも新しい名前を想像して、そういう名だと思うことにしているのよ。孤児院にヘプジバー・ジェンキンズという名の女の子がいたんだけど、あたし、いつもその子はロザリア・ディ・ビアなんだと想像してたの。ほかの人達はあすこを『並木道』と言うかもしれないけど、あたしは『歓喜の白い道』と言うつもりよ。あともう一マイルでほんとうに家に着くの? うれしいような、悲しいような気がするわ。なぜってこのドライヴとても楽しかったんですもの。楽しいことがおしまいになると、あたし、いつも悲しくなるの。あとでもっと楽しいことがあるかもしれないけど、あてにはならないでしょう。それに実際は楽しくないことの方が多いのよ。とにかく、あたし、そういうめにあってきたの。だけど、家に着くのかと思うとうれしいわ。ねえ、あたし、物心ついてからほんとうの家を持ったことがないのよ。いよいよほんとの家に行くんだと思っただけで、またあの気持ちのいいうずきがしてくるわ。まあきれいね」
馬車は既に丘の頂上を越えていた。下に池が見えた。長くて、曲がりくねっていて、まるで川みたいだった。池のなかほどには橋がかかっていた。そこから下手にかけて、こはく色の帯状の砂丘が、その向こうにある暗青色の湾との境をなしている辺りまで、池の水は色とりどりに輝いていた――黄色やばら色、たゆたうような緑などの気高い色あいのほか、名付けようもないほど微妙な色彩もいくつかまじっていた。橋の上手の池は樅《もみ》と楓《かえで》の木立に縁どられ、ゆれ動く木々の影を映して黒々と横たわっていた。ここかしこで野生のすももが岸から身をのりだしている様子は、爪先きだちして水鏡に自分の姿を映そうとしている、白い服を身につけた少女のようだった。池の上手の沼地からは、澄んだ、哀調を帯びたかえるの合唱がきこえてきた。向こうの坂の白いりんごの果樹園の辺りに一軒の小さな灰色の家がちらっと見えた。まだ日が暮れきっているわけではなかったが、窓辺にはあかりがともっていた。
「あれはバリーの池だよ」とマシュウは言った。
「あら、あたし、その名前もきらいだわ。あたしなら――そうね――『輝く湖水』って言うわ。そう、ぴったりだわ。胸がどきどきしてくるのですぐわかるのよ。あたし、ぴったりの名前を思いつくと、どきどきするの。おじさんもそんな気持ちがすることあって?」
マシュウは考えこんだ。
「そうさのう、あるよ。きゅうりの苗床をすきかえしているうちにあのいやな白いうじ虫が出てくるとね。あの恰好《かっこう》が気にくわないんだ」
「あら、そういうのは違うのよ。同じだと思う? うじ虫と『輝く湖水』の間にはあんまり関係がないんじゃない? でも、なぜほかの人たち、『バリーの池』って言うの?」
「バリーさんがあそこの家に住んでいるからだと思うよ。『オーチャード・スロープ』(果樹園の坂)というのがあの人の家の名前さ。その向こうの大きなやぶがなかったら、ここから『グリーン・ゲイブルズ』が見えるんだがな。しかし、橋を渡って、回り道をして行かなくちゃならんので、まだかれこれ半マイルばかりあるんだよ」
「バリーさんの所には女の子いるの? そうね、あんまり小さ過ぎない――あたしぐらいの大きさの子が?」
「十一ぐらいの女の子が一人いるよ。ダイアナと言ってね」
「まあ」と深々と息を吸いこみながら、「何てきれいな名前なんでしょう!」
「そうさのう、わしはわからんよ。何だかあまりクリスチャンらしくない名前のような気がするな。わしにはどっちかと言えば、ジェーンとかメアリーとか、そういったまともな名前の方がいいよ。でもな、ダイアナが生まれた時、そこに学校の先生が下宿しててな、その先生に名前をつけるのをまかせたんだよ。そしたら、やっこさん、ダイアナという名前をつけたんだよ」
「あたしが生まれた時も、そんな学校の先生がそばにいてくれたらよかったのになあ。あら、橋に来たわ。あたし、目をしっかりつぶるの。橋を渡るのがいつもこわいのよ。まん中辺りに来ると、橋がジャックナイフみたいにおれ曲がって、あたしをしめつけちゃうんじゃないかって気がするの。だから目をつぶるのよ。それでも、まん中辺りに来たなあと思ったら、あたし、きまって目をあけちゃうの。なぜって、ほら、橋がほんとに折れ曲がるんだったら、あたし、その現場を見たいのよ。まあ何てがらがらとにぎやかな音がするんでしょう! あたし、こんな風にがらがら音がするのが好きなの。世の中にこんなにたくさん好きになれるものがあるなんてすてきじゃない? ほら、渡り終わったわよ。さあうしろをふり返りましょう。おやすみなさい、『輝く湖水』さん。あたし、自分が好きなものに必ずおやすみなさいを言うのよ。ちょうど人間に言うようにね。向こうもうれしいと思うの。あの湖ったら、あたしの方を見てにっこり笑っているみたいだわ」
二人がそのさきの丘を馬車で上って、曲がり角をまわった時マシュウが言った。
「そろそろ家《うち》だよ。『グリーン・ゲイブルズ』はあすこの――」
「お願い、言わないで」彼女は息をはずませながらさえぎり、彼の上げかけたうでをつかまえて、目をとじて彼の身ぶりを見まいとした。「あたしに当てさせて。きっと当ててみせるわ」
女の子は目をあけて辺りを見まわした。二人は丘の頂に来ていた。日が沈んでからしばらくたっていたが、柔らかい余光にてらされて、景色はまだはっきり見えた。西の一方では、黒ずんだ教会の尖塔《せんとう》が、きんせんか色の空に向かってそびえていた。下の方には小さな谷があり、その向こうには長い、なだらかな傾斜があって、あちこちにこじんまりした農場がみられた。その子は眼を輝かせながら夢中になって次から次へと色々なものに目を走らせたが、ついに左手よりの、街道からずっとひっこんだ所にある屋敷に眼をとめた。うっそうとした木立に囲まれ、花盛りの木々のためにぼうと白く見えている所だった。その上の晴れ渡った南西の空には、大きな水晶のように白い星が、道しるべと、何ものかを約束する光のように輝いていた。
「あれよ、そうでしょう?」女の子は指さしながら言った。
マシュウはうれしそうに栗毛の馬の背を手綱でぴしゃっとたたいた。
「そうさのう、当たったよ! だけど、スペンサーの奥さんから聞いてたんでわかったんだろう」
「いいえ、違うわ――何にも聞かなかったのよ。おばさんの言ったことは、どの家にもあてはまることばかりですもの。どんな所か全然見当もつかなかったのよ。でも、あれを見たとたん、家《うち》じゃないかって気がしたの。ああ、夢みたいだわ。ねえ、あたしのうで、きっとひじから上にかけてあざだらけよ。今日、何度つねったかわからないんですもの。時々ひどい胸騒ぎがして、みんな夢なんじゃないかって、心配でたまらなかったの。それで つねってほんとうかどうか確かめたのよ――そのうち急にあたし、仮に夢だとしても、できるだけ長く夢を見てる方がいいんじゃないかって気がついたのよ。それでつねるのをやめたの。でもやっぱりほんとうなのね。もうじき家に着くんですもの」
うれしそうに溜息をついて女の子はまた黙ってしまった。マシュウはもじもじした。この宿なしっ子が、これほど憧れている家の子には、やっぱりなれそうもないということを言わなければならないのが、自分でなくてマリラでよかったと思った。二人は、「リンドの窪地」を過ぎて行った。もうかなり暗くなってはいたが、レィチェル夫人はみはらしのいい窓からちゃんと二人を見ていた。それから丘をのぼって、「グリーン・ゲイブルズ」の長い小道に入って行った。家に着く頃には、何もかもわかってしまう時が刻一刻近づいてくるのかと思うと、マシュウはいても立ってもいられないようなやりきれない思いにかられた。彼の念頭にあったのは、マリラや自分のことや、この手違いのために二人が受けるかもしれない迷惑のことではなく、この子がさぞがっかりするだろうということだった。子供のうっとりした目の輝きが消えることを考えると、自分が何かを殺す手伝いをしているようでいい気持がしなかった――それは、小羊や小牛や、そのほかの罪のない小さな生き物を殺さなくてはならない時に味わう気分にそっくりだった。
二人が庭に入って来た時はまっ暗で、ポプラの葉がまわりでさらさらと鳴っていた。
「木が寝言を言ってるわ、聞いてごらんなさい」マシュウがだきおろしてやっている時、女の子はささやいた。「きっとすてきな夢を見てるのよ」
それから、「全財産」の入っている手さげかばんをしっかり持って、彼女はマシュウのあとについて家の中に入って行った。
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第三章 マリラ・カスバート驚く
マシュウがとびらをあけると、マリラは急いで出てきたが、きゅうくつな、みっともない服を着て、目をきらきらと輝かし、赤い髪を長いおさげにしたおかしな子供の姿を目にとめると、びっくりして急に立ち止まった。
「マシュウ・カスバート、あの子は誰ですか?」彼女は叫んだ。「男の子はどこにいるんです?」
「男の子はいなかったよ」マシュウは情けなさそうに言った。「この子しかいなかったんだ」
名前も聞いてなかったことを思い出しながら、彼は子供に向かってうなずいた。
「男の子がいなかったんですって! そんなはずはないですよ」マリラは言いはった。「スペンサーの奥さんに男の子を連れて来てくださるようにことづけたんですからね」
「そいつがうまくいかなくてね。奥さんが連れてこられたのはこの子なんだ。わしは駅長に聞いたんだがね。それで、しかたがないからこの子をうちに連れて来たんだよ。どこで手違いがあったか知らないが、駅に置きっぱなしにするわけにもいかんのでね」
「まあ、困ったことですね!」マリラは叫んだ。
このやりとりの間、子供は黙っていた。目は二人の間を行ったり来たりし、顔からはすっかり血の気がひいていた。とつぜん女の子は二人の言っていることの意味がすっかりわかったようだった。だいじな手さげかばんを投げ出すと、一歩前におどり出て、両手をしっかりと組み合わせた。
「あたしがいらないのね!」彼女は叫んだ。
「あたしが男の子でないからいらないのね! そんなことじゃないかって思ってみるべきだったのに。あたしのことほしいなんて今まで言ってくれた人ないのよ。何もかもあんまりすばらしいんで、長続きしないだろうってことぐらい、考えてみるべきだったわ。あたしのことほんとにほしがる人なんていないだろうってことも。ああ、あたし、どうしたらいいんでしょう? 今にも泣き出しそうよ」
子供はほんとうにわっと泣き出した。テーブルのかたわらの椅子に腰をおろすと、その上に両腕を投げ出し、その中に顔をうずめておいおい泣き出したのだ。マリラとマシュウは、ストーブごしに、しかめ面《つら》をして顔を見合わせた。二人とも何て言ったらいいのか、また、どうしたらいいのかわからなかった。結局マリラがしどろもどろで矢おもてに立った。
「まあ、まあ、そんなに泣かなくてもいいよ」
「いいえ、そうはいかないわ!」子供はさっと顔を上げた。顔には涙のあとがにじみ、くちびるはふるえていた。「おばさんがもしみなしごで、自分をもらってくれると思ってる家に行ったのに、男の子じゃないからいらないって言われたら、|おばさんだって《ヽヽヽヽヽヽヽ》泣くわよ。ああ、あたしこんなに|悲劇的な《ヽヽヽヽ》目に会ったことないわ!」
長い年月の間にいささかさびついてしまったような、ぎこちない微笑めいたものが、マリラのいかつい表情を柔らげた。
「さあ、もう泣かないでおくれ。今夜は追い出したりはしないよ。あたし達がこの問題を調べるまで、あんたはここにいることになるだろうからね。名前は何て言うの?」
子供は一瞬ためらった。
「あたしのことコーデリアと呼んでくださらない?」彼女は熱心に言った。
「コーデリアと|呼べ《ヽヽ》だって! それ、あんたの名前なの?」
「いいえ、あの、あたしの名前ってわけじゃないんだけど、あたし、コーデリアと呼ばれたいの。とても上品な名前なんですもの」
「いったい何のことだかさっぱりわからないね。コーデリアじゃなかったら、何という名前なんだい?」
「アン・シャーリーよ」その名前の持ち主はしぶしぶ口ごもりながら言った。「でもね、お願いだからコーデリアと呼んでちょうだい。あたし、ここにちょっとしかいないんだったら、おばさんがあたしのこと何て呼んだってたいして変わりはないでしょう? それに、アンはとても現実的な名前だわ」
「現実的だって? ばかばかしい!」マリラは遠慮会釈もなく言った。「アンはほんとにわかりやすい、ちゃんとした、いい名前だよ。恥ずかしがるにはおよばないよ」
「あら、恥ずかしがってはいないわ」アンは弁明した。「コーデリアの方が好きなだけよ。あたし、いつも自分の名前はコーデリアなんだと想像してたわ――少なくとも、ここ数年間はそうしてたのよ。小さい時は、自分の名前はジェラルディンなんだと思っていたんだけど、今じゃコーデリアの方が好きよ。でも、もしアンて呼ぶんだったら、Eのついたつづりの方で呼んでください」
「つづり方でどんな違いがあると言うんだね?」きゅうすをとり上げながら、再びぎこちない微笑を浮かべてマリラはたずねた。
「あら、たいへんな違いだわ。Eがついている方がずっとすてきにみえるのよ。おばさんは名前が呼ばれるのを聞くと、まるで印刷したみたいに、眼に浮かんでくることってない? あたしはあるわ。そしてね、ANN はみるからにいやな名前だけど、ANNE はずっとりっぱに見えるのよ。Eがついてるつづりのアンで呼んでくださるんだったら、コーデリアと呼ばれなくてもあきらめるわ」
「わかったよ、それならEがついてる方のアン、どうしてこんな手違いが起こったのかわかるかね? わたし達、スペンサーの奥さんに、男の子を連れて来てくださるようにことづけたんだよ。孤児院には男の子はいなかったのかい?」
「いいえ、わんさといたわ。でも、スペンサーさんは、おばさんが十一ぐらいの女の子をほしがってるんだと確かにおっしゃったわ。それならあたしでもいいだろうって先生が考えたの。あたしがどんなに喜んだかおばさんにはわからないわ。きのうはうれしくて一晩中眠れなかったのよ。ああ」子供はマシュウに向かって非難がましくつけ加えた。「なぜ、駅であたしをいらないと言って、放っておいてくださらなかったの? 『歓喜の白い道』や『輝く湖水』を見なかったら、これほどつらくはないんだけど」
「この子はいったい何のことを言ってるんですか?」マリラはマシュウの顔をじっと見つめながらたずねた。
「この子は――この子はただ道でわし達がした話のことを言ってるんだよ」マシュウはあわてて言った。「馬を中に入れてくるよ、マリラ。戻って来たらお茶にしてくれ」
「スペンサーの奥さんはあんたのほかに誰か連れて来たのかい?」マシュウが出て行くと、マリラは話を続けた。
「おばさんはリリー・ジョーンズを連れてったわ。リリーはまだ五つで、とてもかわいいのよ。栗色の髪をしてるわ。もしあたしがとてもきれいで、栗色の髪をしてたら、ここにおいてくれる?」
「だめだよ。わたしたちはマシュウの野良仕事を手伝ってくれる男の子がほしいんだよ。女の子じゃ役に立たないだろうからね。帽子をおとり。帽子と手さげかばんをホールのテーブルに置いてくるからね」
アンはすなおに帽子をぬいだ。ほどなくマシュウが戻って来たので、三人は夕食の膳についた。しかし、アンには何一つのどに通らなかった。バターつきのパンをかじったり、皿の横の小さな扇形のガラスのはちに入っている野りんごの砂糖づけをつっついてみたりしたが、むだだった。一向に食が進まなかった。
「何も食べてないじゃないか?」とマリラは鋭い声で言って、まるでそれがひどく悪いことでもあるかのように彼女をじろじろ見た。
アンは溜息をついた。
「食べられないの。あたし、絶望のふちに沈んでるのよ。絶望のふちに沈んでる時に、おばさん、食べられる?」
「絶望のふちに沈んだことがないから、わからないよ」とマリラは答えた。
「ほんとう? ねえ、それじゃ、絶望のふちに沈んでると想像したことある?」
「いや、ないよ」
「そんなら、どんなものかおわかりにならないと思うわ。とても気持ちの悪いものよ。食べようとすると、胸がいっぱいになって、何ものどを通らなくなるの。チョコレート・キャラメルだってだめなのよ。あたし、二年前にチョコレート・キャラメルを一つ食べたことがあるけど、ほんとにおいしかったわ。よくそれからチョコレート・キャラメルをたくさん持ってる夢を見るんだけど、いつも食べようとすると目がさめちゃうのよ。あたしが食べないからって気を悪くしないでね。みんなとてもおいしいんだけど、やっぱりのどに通らないの」
「つかれてるんだろう」納屋から戻ってから口をきかなかったマシュウが言った。「ねかせるに限るよ、マリラ」
マリラはアンをどこにねかせようかと考えていた。来てほしいと思っていた男の子のためには台所のとなりの部屋に寝椅子を用意してあった。寝椅子は清潔できちんとしていたが、何だか女の子をねかせるにはふさわしくないように思われた。しかし、だからと言って、あんな宿なしのために客間を提供するのは途方もないことだった。そうなると、東の切妻の部屋しか残っていなかった。マリラはろうそくに火をつけると、アンについて来るように言った。アンはしょんぼりと言われた通りにし、通りすがりに、広間のテーブルから帽子と手さげかばんを持って行った。広間は恐ろしいほど清潔だったが、彼女がまもなく入って行った小さな切妻の部屋はそれ以上だった。
マリラは三本足の三角テーブルにろうそくを置くと、夜具を整えた。
「寝巻は持ってるんだろうね?」と彼女はたずねた。
アンはうなずいた。
「ええ、二枚持ってるわ。孤児院の先生が作ってくださったの。とてもきゅうくつなのよ。みんなにゆきわたるだけの余裕がないので、孤児院のものはいつもみんなきゅうきゅうなのよ――少なくともあたし達がいたような貧乏な孤児院ではね。あたし、きゅうくつな寝巻きらいなの。でもいくらきゅうくつだって、襟《えり》まわりにひだのある、きれいな裾の長い寝巻を着ているのと同じように、夢をみることはできるわ。それがせめてもの慰めよ」
「さあ、なるたけ早く着物をぬいで、ねなさい。じきにろうそくを取りにもどって来るからね。ろうそくの火を消すのはとてもまかせられないよ。火事でも起こされたらたまらないからね」
マリラが行ってしまうと、アンは沈んだ面《おも》もちであたりを見まわした。白ぬりの壁は、むきだしのままで、その白さが眼にしみた。アンは、壁も自分の殺風景なのに心を痛めているに違いないと思った。ゆかもむきだしで、ただ、まん中に、アンが見たこともないような、丸い、編んだ敷物がしいてあるだけだった。部屋の片すみには、黒っぽい、下の方の曲がった四本の柱に支えられた、高い、旧式の寝台が置いてあった。もう一つのすみには、例の三角テーブルが置かれていて、どんなにじょうぶな針の先でもまげてしまうほどかたい、ふくらんだ、赤いビロードの針刺しが飾ってあった。その上には、幅六インチ、長さ八インチの小さな鏡がかかっていた。テーブルと寝台の中間には窓があって、上にまっ白いモスリンのひだ飾りがさがっていた。窓の反対側には洗面台があった。部屋中に、言葉では言い表わせないような固苦しさがみなぎっていて、アンを骨の髄までぞっとさせた。しくしく泣きながら、急いで着物をぬぐと、アンはきゅうくつな寝巻に着かえ、寝台にとびこんだ。そして、枕に顔をおしあてると、頭から夜具をひっかぶった。マリラがろうそくを取りに上って行くと、きゅうくつそうな衣類がこの上なく乱雑に床のあちこちに散らかっていた。そしてすさまじい寝台のたたずまいだけが、人の気配を示していた。
彼女はゆっくりとアンの着物を拾い上げると、固苦しい黄色い椅子の上にきちんとたたんでのせた。それから、ろうそくを取り上げて、寝台に近づいた。
「|おやすみ《グッド・ナイト》」と彼女は声をかけた。少々ぎこちなかったが、不親切な言い方ではなかった。
いきなりアンの白い顔と大きな目が夜具をおしのけてあらわれた。
「あたしにとって今夜みたいなひどい晩ははじめてだとわかっているのに『|よい晩《グッド・ナイト》』なんてどうして言えるの?」
とがめるようにこう言うと、彼女は再び夜具の中にもぐりこんでしまった。
マリラはゆっくりと台所におりて行って、夕食の皿を洗い始めた。マシュウはたばこをすっていた――心が動揺していることの確かなしるしだった。彼はめったにたばこをすわなかった。不潔な習慣だと言ってマリラが反対していたのだ。しかし時にはすいたくてたまらなくなることもあった。そんな時マリラは、男である以上、どこかに感情のはけ口が必要なんだろうと理解して、見て見ぬふりをした。
「さて、困ったことになった」マリラは腹立たしげに言った。「自分で行かないで、ことづけをしたりするから、こんなことになるんですよ。ロバート・スペンサーの家の人達が、どういうわけかことづけをとり違えたのにきまってますよ。兄さんか、わたしのどっちかが、明日、スペンサーの奥さんのとこまでひと走り行ってこなくちゃ。あの子は孤児院にひきとってもらうほかはないですものね」
「ああ、そうだろうね」マシュウは不承不承答えた。
「|そうだろうね《ヽヽヽヽヽヽ》ですって! そうは思わないんですか?」
「そうさのう、あの子はなかなかいい子だよ、マリラ。あんなにここにいたがってるのに、送り返すなんて何だかかわいそうだよ」
「マシュウ・カスバート、まさかあの子をここに置いてやるべきだなんて言うんじゃないでしょうね!」
マシュウがさか立ちをしたいと言い出したとしても、マリラはこんなに驚かなかっただろう。
「そうさのう、いや、そんなことないさ――別にそういうわけのもんじゃないよ」言葉の意味を問いただされて、マシュウはあわてふためき、口ごもった。「ともかく――あの子を家に置くことはとても無理のようだな」
「そうですとも。あの子が何かの役に立つとでも言うんですか?」
「わし達の方であの子の役に立つかもしれんよ」ふいに思いがけなくマシュウが言った。
「マシュウ・カスバート、あの子に化かされたんじゃないでしょうね! あんたがあの子をここに置きたがってることはわたしにはよくわかってるんですよ」
「そうさのう、あの子は実に面白い子だよ」マシュウはあくまでも言いはった。「駅からここに来るまでのあの子のおしゃべりをお前にも聞かせたかったよ」
「ええ、あの子はまったく口がまわりますとも。わたし、すぐにわかりました。そんなことはあの子のとりえになりませんよ。わたしゃ、おしゃべりの子はきらいです。女のみなしごなんかいりません。仮にそうとしても、あの子はわたしの好きなタイプじゃないですね。あの子にはどこかつかめないとこがあるんです。いいえ、あの子はすぐもとの所に送り返さなくちゃいけません」
「わしの手伝いにはフランス人の男の子をやとえるよ」とマシュウは言った。「それに、あの女の子はお前の話し相手にもなるだろうし」
「わたしは相手には不自由してません」マリラはそっけなく言った。「また、あの子を置くつもりもありませんよ」
「そうさのう、もちろんお前の言う通りだよ、マリラ」マシュウは立ち上がって、パイプをかたづけながら言った。「わしは寝るよ」
マシュウは床についた。マリラも皿をかたづけると、ひどいしかめ面《つら》をしながら床についた。階上の東の切妻の部屋では、ひとりぽっちで、愛情にうえた、孤独な子供が泣き寝入りしてしまった。
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第四章 「グリーン・ゲイブルズ」の朝
アンが目をさました時は、もう日が高くのぼっていた。寝床の上に起き上がると、アンは部屋いっぱいにさしこむ明るい日光に目をしばたたいた。窓ごしに見える青い空には何か白いふわふわしたものがゆれていた。
ちょっとの間、アンは自分がどこにいるのか思い出せなかった。最初は、何となく楽しくて、脚がおどるような気がしたが、そのあと恐ろしい記憶がよみがえった。ここは「グリーン・ゲイブルズ」で、ここの人達は、男の子でないから、あたしがいらないのだ!
しかし、時は朝だし、窓の外では桜が満開だった。アンはさっとベッドからはね起きると、窓にかけよった。窓わくをおし上げたがなかなか上にあがらず、きいきい音がした。まるで長いことあけたことがないみたいだったが、事実その通りで、あまりきついために、支えがなくても落ちてくる心配はなかった。
アンはひざまずくと、喜びで目を輝かせながら、六月の朝の光景をみつめた。ああ何と美しいのだろう。ほんとにきれいな所だ。でも自分はここにはいられないのではないか! いや、いられると仮定しよう。ここには想像の余地がある。
外の、枝が家にふれるぐらいの近い所に、桜の大木があった。花が一面に咲いているので、実はほとんど見えなかった。家の両側は大きな果樹園になっていて、一方はりんごの木、片方は桜が、それぞれ枝もたわわに花をつけていた。下草には一面にタンポポの花が咲いていた。下の庭には、紫の花をつけたライラックが植わっていて、そのむせるような甘いかおりは、朝風にのって窓ぎわまでただよって来た。
庭の下の方に、クローバーをしきつめた緑の野原があり、小川と白樺林のある窪地に向かって傾斜していた。白樺が大空に向かってうきうきと枝をのばしている様子は、その下草に、しだや苔《こけ》や、そのほかたいていの森の植物が生《は》えているに違いないという楽しい予想を抱かせるに充分だった。その向こうには、えぞ松や樅《もみ》の柔らかい緑に包まれた丘があって、「輝く湖水」の向こう側から見えた小さな家の灰色の切妻が木の間からのぞまれた。
左の方には大きな納屋があってその向こうの、ゆるやかに傾斜した緑の野原のはるか彼方にきらきら輝く青い海がのぞいていた。
美しいものにひかれるアンの目はむさぼるようにこれらすべてに吸いよせられていた。かわいそうにアンはそれまで美しい所など見たことがなかったのだ。しかしここは夢に見たのに負けないくらいにすばらしかった。
アンはまわりの美しさに夢中になり、ほかのことはすっかり忘れて、そこにひざまずいていたが、誰かが肩に手をおいたので、びっくりしてとびあがった。アンが空想にふけっている間にマリラがいつの間にか来ていたのだった。
「まだ着物を着ていないのかい?」マリラはそっけなく言った。
この子にどう話しかけたらいいのか、マリラにはよくわからなかった。それがつかめないために不安になり、そうするつもりもないのに、ぶっきら棒でそっ気ない態度をとってしまうのだった。
アンは立ち上がって、深く息を吸った。
「まあ、何てすばらしいんでしょう」とアンは外の美しい自然にやさしく手を振った。
「あれは大きな木でね」とマリラは言った。「花もきれいだけど、実はたいしたことないんだよ――小さくて、虫食いで」
「あら、あたし木のことだけ言ってるんじゃないのよ――もちろんあの木はきれいよ――ほんとに輝くようにきれいだわ――花もそう思っているみたいね――まるで木がきれいな花を咲かせようと思っているみたいだわ――でも、あたしがすばらしいと言ったのは何もかもなの。庭も果樹園も小川も森も、この世界全体なのよ。こんな朝には、この世界が好きになるような気がしない? それに、小川の笑っているのがここまで聞こえてくるわ。小川がどんなにほがらかなものか気がついたことある? いつも笑っているのよ。冬でも氷の下で小川が笑っているのを聞いたことあるわ。
『グリーン・ゲイブルズ』のそばに小川があるので、あたし、うれしくてたまらないわ。あたしをおいてくださらないんだから、こんなことどうでもいいだろうっておばさん思うかもしれないけど、そうじゃないのよ。あたし、二度と見ることができなくても、『グリーン・ゲイブルズ』に小川があることをいつもおぼえていたいの。もし小川がないと、どうしてもあるはずだって、寝てもさめても考えることになりそうよ。あたしけさは絶望の淵《ふち》にいるわけじゃないわ、朝はそんな気になれないのよ。朝があるってすばらしいことね。でも、とても悲しいわ。おばさんがほしいのはやっぱりあたしで、あたし、ここにいつまでもいていいことになったんだと空想していたとこなのよ。空想している間はとても楽しかったわ。でも、空想の、いちばんいやなことは、いつかはやめなくちゃならない時が来ることなの。それがつらいわ」
「着物を着て、下に来なさい。空想なんかうっちゃっておくんだよ」口がはさめるようになったとたんマリラは言った。「朝ごはんのしたくができてるよ。顔を洗って、髪をとかしなさい。窓はあけたままにしといて、夜具は寝台の足の方に折りかえしておきなさい。なるたけ手早くやるんだよ」
アンがかなり手早くやってのけることができるのは間違いなかった。というのは、十分とかからないで、アンはきちんと着物を着、髪はブラシをかけて編み、顔を洗って、下におりて来たのだ。心の中は、マリラの言いつけをみんなやったのだという満足感でいっぱいだった。しかし、ほんとうは夜具を折りかえすのを忘れていた。
「けさはとてもお腹がすいたわ」マリラがおいてくれた椅子に腰をおろしながらアンは言った。
「ゆうべは世界がさびしい荒れ野のように思えたけど、けさはそんなことないわ。お日さまが出てるのでうれしいの。でも、あたし、雨の朝も大好きよ。どんな朝だって面白いと思わない? その日のうちに何が起こるかわからないので、空想の余地がふんだんにあるのよ。でも今日は雨が降ってなくてうれしいわ。苦しい時に元気を出して、がんばるには、お天気の方がやりいいんですもの。うんとがんばらなくちゃと思うわ。悲しい話を本で読んで、そのなかを自分がけなげにきりぬけて行くのを空想するのはいいけど、いざ自分がそういう目に会うとなると、あんまりいいもんじゃないわね」
「後生だから、黙っておくれ」とマリラは言った。「あんたは小さな子にしちゃ、まったくしゃべりすぎるよ」
するとたちまちアンは黙ってしまったが、それがあまりにすなおで徹底していたので、黙り続けているアンを見てマリラはかえっていらいらした。何か不自然なことが目の前で起こっているような気がするのだった。マシュウも黙っていたので――これは少なくとも不自然ではなかったが――食事はたいへん静かだった。
そうしているうちに、アンはますますうわの空のようになり、機械的に口を動かしながら窓の外の大空に、大きな放心したような眼をじっとそそいでいた。それを見るとマリラの心はいっそういらだった。この奇妙な子供は、からだは食卓にありながら、心は空想の翼にのってかけめぐり、遠い雲の世界にいるのではないかというえたいの知れない不安におそわれた。こんな子を家におきたいと思う人間なんてありっこない。
だがマシュウはおきたがっている。いったいどうしたというのだろう! マシュウはゆうべと同じょうにそれを望んでいるし、この先もその望みを持ち続けるだろうとマリラは思った。それがマシュウの手なのだ――いったんこうと思いこんだら、じっとおし黙ったまま、驚くほどのねばり強さで押してくるのだ――そのねばりときたら、黙っているだけに、はっきり口にだして言うより十倍もききめがあった。
食事がすむと、アンは空想からさめて、お皿を洗うと言いだした。
「ちゃんと洗えるのかい?」マリラは疑わしそうにたずねた。
「かなりうまく洗えるわ。でも、子供のお守りをする方がうまいのよ。扱いなれているんだもの。お守りをする子がここにいないんで残念だわ」
「これ以上お守りをする子なんかほしくないね。あんただけでもまったく手に余るくらいなんだから。あんたの扱い方すらわたしには見当がつかない。マシュウもほんとにおかしな人だ」
「おじさんはりっぱな人だと思うわ」アンは口をとがらして言った。「とても思いやりがあるわ。あたしがどんなにおしゃべりしても、おじさん、いやがらなかったわ――かえってあたしのおしゃべり、気にいってくれたみたいよ。おじさんに会ったとたん、あたし達、うまがあうんじゃないかって思ったわ」
「うまがあうっていうのがそういうことだったら、あんた達二人ともどうかしているよ」マリラは鼻であしらった。「ああ、お皿を洗ってもいいよ。お湯をたっぷり使って、よくかわかしてね。けさはわたし忙しいんだよ。お昼すぎにホワイト・サンドのスペンサーの奥さんのとこまで行ってこなくちゃいけないんでね。あんたもわたしと一緒に来なさい。あんたの身のふり方をきめるからね。皿洗いがすんだら、二階に行って、ベッドを整えるんだよ」
アンの皿洗いが上手だということは、その間中、じっと眼を光らせていたマリラにもわかった。そのあとで寝床を整える段になると、そうやすやすとはいかなかった。羽ぶとんの扱い方を知らなかったのだ。しかしアンはどうにかこうにかそれをやりとげて、ふとんを平らにした。それがすむとマリラは、アンを追いはらうつもりで、食事の時間まで表に遊びに行ってもいいと言った。
アンは顔と目を輝かせて入口の扉の方に飛んで行った。ちょうど敷居の所まで来ると、ぴたりと止まって、くるりと向きをかえ、戻って来て、テーブルのそばにすわった。まるで誰かに消火器でたたかれたかのように、顔と目の輝きはすっかり消えていた。
「今度はどうしたの?」とマリラはたずねた。
「とても外に出る勇気ないわ」この世のいっさいの喜びをすてさった殉教者《じゅんきょうしゃ》のような口調でアンは言った。「もしここに住めないなら、『グリーン・ゲイブルズ』が好きになってもどうにもならないんですもの。もし外に出て行って、木や花や果樹園や小川達みんなと近づきになったら、あたし、『グリーン・ゲイブルズ』がどうしても好きになっちゃうわ。今でもいいかげんつらいのに、これ以上つらくしたくないの。そりゃ、あたしだって行きたくてたまらないのよ――何もかもあたしのこと呼んでいるみたいだわ、『アン、アン、わたし達の所にいらっしゃい。アン、アン、わたし達遊び友達がほしいの』ってね――でも、外に出ない方がいいの。どうせ引き離されてしまうんだったら、何か好きになってもしょうがないでしょう? それに好きになるのをやめるなんてとてもむずかしいことじゃない? だから、ここで暮らせると思った時、あたしあんなに喜んだのよ。何にもじゃまされずに、こんなにたくさんのものが好きになれると思ったの。でも、短い夢は終わったわ。こうなったら運命だと思ってあきらめるわ。だから、気持ちがぐらつくといけないから、外に出ないの。窓の所に置いてあるあおいの花は何という名前なの?」
「りんごあおいだよ」
「あら、そういう種類の名前のことじゃないのよ。あたしは、おばさんがあの花につけた名前のことを言っているのよ。名前つけなかったの? そんなら、あたしがつけてもいい? あたし――そうねえ――ボニーはどうかしら――ここにいる間、あの花のことボニーと呼んでもいい? ねえ、ぜひそうさせて!」
「ああ! かまわないよ。でも、あおいの花に名前なんかつけていったい何になるんだい?」
「あら、たとえそれがただのあおいでも、名前がついている方がいいわ。その方があたし達の仲間みたいに見えるんですもの。ただあおいというだけでほかになんにも名前がないと、あおいの気持ちを傷つけるんじゃないかしら? おばさんだって、いつも女の人って呼ばれるだけだったらいやでしょう? そうだわ、ボニーにするわ。あたし、けさ、寝室の窓の外の桜の木に名前つけたのよ。まっ白なので『雪の女王』って呼ぶことにしたの。もちろん、いつも花をつけてるわけじゃないけど、咲いてるとこ想像できるんじゃない?」
「こんな子は今まで見たことも聞いたこともないね」マリラはそこを逃げ出して、地下室にじゃがいもを取りに行きながらつぶやいた。「マシュウの言う通り、確かに面白いとこがあるね。いったいこの次は何の話だろうなんて、つい思っちゃうもの。この分じゃあたしまで、魔法にかかりそうだ。マシュウの方はとうにかかっているんだからね。出て行く時のあの顔つきには、ゆうベ口にだして言ったことや、ほのめかしたりしたことが全部そのまま書いてあった。ほかの男達みたいにはっきり言ってくれるといいんだけど。そうすれば、こっちの言いたいことも言えるし、ときふせて正気に返らせることもできるのに。でも、顔色に出すだけの男は、どう扱ったらいいんだろうね?」
マリラが地下室から戻って来ると、アンはひじをつき、空を見つめながら、再び空想にふけっていた。マリラは早目の昼食が食卓に並べられるまでアンをそのままにしておいた。
「今日の午後、馬車を使ってもいいでしょうね、マシュウ?」とマリラはたずねた。
マシュウはうなずいて、心配そうにアンを見やった。マリラはその目つきをさえぎり、怖い顔をして言った。
「ホワイト・サンドまで行って、この問題をかたづけてくるつもりです。アンも一緒に連れて行きますよ。スペンサーの奥さんがすぐにこの子をノヴァ・スコシアに送り返す手はずを整えてくれるでしょうよ。兄さんのお茶の用意はしときますからね。牛の乳しぼりには間に合うように帰って来ますよ」
しかしあいかわらずマシュウは何も言わなかったので、マリラは口をきいて何だか損をしたような気がした。口答えをしない男ほどしゃくにさわるものはない――女ならいざ知らず。
時間を見計らって、マシュウが馬車に栗毛の馬をつないだので、マリラとアンは出発した。マシュウは二人のために庭木戸をあけてやった。馬車がゆっくりと木戸を通りぬけようとしている時、マシュウは誰にともなく言った。
「クリークからあのジェリー・ブートの奴がけさやって来たんで、夏の間、来てもらうと言っといたよ」
マリラは返事をしないで、雌馬に力いっぱいむちをあてたので、かわいそうに、そんな扱いに慣れていないふとった馬は、怒って、びっくりするような早さで小道をすっとんで行った。馬車が疾走している間、マリラが一度うしろをふり返ると、いまいましいマシュウは木戸にもたれて、何か言いたそうな顔をして、二人のあとを見送っていた。
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第五章 アンの生いたち
「あたしね、このドライヴを楽しむことにきめたの」とアンはうちあけた。「これまでの経験からみても、人間って本気でそうしようと思えば、たいていのことは楽しくなるものね、もちろん、心からその気にならなくちゃだめだけど。あたし、ドライヴしている間は、孤児院に帰ることを考えないようにしようと思うの。ドライヴのことだけ考えるわ。あら、ごらんなさい、あすこに早咲きの野ばらが咲いてるわ! きれいね。きっとばらに生まれてよかったって思ってるでしょうね。もしばらに口がきけたら、すてきだと思わない? きっととてもきれいな話をしてくれると思うわ。それに、ピンクって世界でいちばん美しい色ね。あたし、ピンク好きだけど、着るわけにはいかないわ。赤い髪の人はピンクのものは身につけられないのよ。たとえ空想の中でもね。小さい時髪が赤くて、大きくなってから髪の色が変わった女の人誰か知ってる?」
「いいや、知らないね」マリラは容赦なく言った。「それに、あんたの場合、そんなことはおそらく起こらないだろうね」
アンは溜息をついた。「ああ、これでまた希望が一つ消えたわ。あたしの一生はまったく埋もれた希望の墓場よ。これ、本で読んだ言葉なんだけど、がっかりするたびに、くり返し言ってみて、自分を慰めるのよ」
「それがどうして慰めになるのかわたしにはわからないね」とマリラは言った。
「あら、だってとてもすてきで、ロマンティックな言葉でしょう、あたし、まるで物語の女主人公になったような気がするのよ。あたし、ロマンティックなことが大好きなの。埋もれた希望でいっぱいの墓場ぐらい、ロマンティックなものってないんじゃない? わたしにそれがあるのがうれしいくらいだわ。今日は『輝く湖水』を渡って行くの?」
「バリーの池は渡って行かないよ。それがあんたの言う『輝く湖水』ならね。今日はなぎさの道を行くんだよ」
「なぎさの道ってすてきね」アンは夢みるように言った。「名前とおなじにすてきな所? おばさんが、なぎさの道っておっしゃったとたん、パッとそこの景色が眼に浮かんだわ。それにホワイト・サンドもきれいな名前ね。でも、アヴォンリーほど好きじゃないわ。アヴォンリーは美しい名前ね。ほんとに音楽のように聞こえるわ。ホワイト・サンドまでは、どのくらいあるの?」
「五マイルだよ。あんた、どうやらしゃべるのが好きらしいからどうせなら、自分について知ってることでも話しなさい」
「あら、あたしの知ってることなんて、しゃベる値打ないわ」アンは強い調子で言った。「もしあたしが空想してることについて話すんなら、ずっと面白いっておばさん思うわ」
「いいや、あんたの空想なんかまっぴらだよ。ありのままの事実だけを話すんだよ。最初から始めなさい。生まれはどこで、年はいくつなの?」
「この前の三月で十一歳になったわ」アンはかすかに溜息をつき、あきらめてありのままの事実を話すことにした。「あたし、ノヴァ・スコシアのボリングブルックで生まれたの。お父さんはウォルター・シャーリーという名前で、ボリングブルック高校の先生をしていたの。お母さんはバーサ・シャーリーという名前だったわ。ウォルターもバーサも美しい名前じゃない? 両親の名前がすてきだったのであたし、とてもうれしいわ。そうね、もし、お父さんがジェディダイアなんて名前だったら、ほんとに恥ずかしいでしょうね」
「行ないがちゃんとしていれば、名前なんかどうだってかまわないと思うよ」ここで一つ、ためになる、りっぱな教訓を教えこまねばと思って、マリラは言った。
「そうかしらね、よくわからないわ」アンは考えこんでいるふうだった。「いつか、ばらはほかの名前がついていたとしても、やっぱりいいにおいがするだろうって書いてあるのを読んだことあるけど、あたしには信じられないわ。もしばらがあざみとかざぜんそうという名前だったら、今みたいにすてきでなくなると思うの。あたしのお父さんがかりにジェディダイアという名前だったとしても、いい人には変わりないかもしれないわ。でも、やっぱりいやなことはいやだと思うの。ええと、お母さんも同じ高校の先生をしてたんだけど、お父さんと結婚した時、もちろん、先生をやめたわ。夫の世話だけでもたいへんだったのよ。トマスのおばさんの話だと、二人とも赤んぼうみたいで、とても貧乏だったんですって。両親はボリングブルックの小さな黄色い家に世帯を構えたの。あたし、その家、見たことないけど、何千回も想像したわ。きっと客間の窓の上にはすいかずらがはってて、前庭にはライラックが、門のすぐ内側にはすずらんが咲いてたんだと思うわ。そうよ、そして窓という窓にはモスリンのカーテンがかかってるの。モスリンのカーテンをかけると家がとてもひきたつのよ。あたしはその家で生まれたの。トマスのおばさんは、あたしみたいに無器量な赤んぼうは見たことないって言ったわ。あたしって、やせっぽちで、ちっちゃくて、目ばかりぎょろぎょろしてたのよ。でも、お母さんはあたしのことをとても美しいと思ったんだって。貧乏な掃除婦のおばさんよりも母親の方が正しい判断を下せると思わない? どっちにしても、お母さんがあたしを気にいってくれてうれしいわ。お母さんをがっかりさせたんだと思うだけで、あたし、とても悲しいと思うの――なにしろ、お母さんはそれから間もなく死んじゃったんですもの。あたしが生まれて三ヵ月たった時に熱病で亡くなったの。あたしが『お母さん』と呼んだことをおぼえていられるころまで生きていてくれたらよかったのにと思うわ。『お母さん』って言えたらさぞ気持ちがいいでしょうね。それから、お父さんも四日後に熱病で死んだの。だからあたし一人ぼっちになっちゃったのよ。トマスのおばさんの話だと、みんな、あたしをどうしたらいいんだろうって途方にくれたんだって。ねえ、その時だって、あたしをほしい人なんか誰もいなかったのよ。あたしはそういう回り合わせなんだわ。お父さんとお母さんの出身地《くに》は両方とも遠かったし、親戚も誰もいないことはよくわかってたの。結局トマスのおばさんが、自分は貧乏で、大酒飲みのだんなさんがいるのに、あたしをひきとると言ってくれたの。おばさんはあたしを牛乳で育ててくれたわ。牛乳で育った子は、ほかの子よりもいい子にきまってるのかしら? おばさんったら、あたしがいたずらをするたんびに、牛乳で育ててやったのに、よくもこんな悪いことができるもんだと言うの――しかるみたいにね」
「トマスさん夫婦はボリングブルックからメリスヴィルにひっこしたわ。あたし、八歳までそこにいたの。あたし、トマスさんの子供達をお守りするの手伝ったわ――あたしより年下の子が四人いたのよ――ずいぶん世話のやける子達だったわ。それから、トマスのおじさんが汽車にひかれて死んだのよ。それで、おじさんのお母さんが、おばさんと子供達をひきとろうと言ったんだけど、あたしのことはいやだって言うのよ。おばさん、あたしをどうしたらいいのか途方にくれたんだって。そしたら、川上のハモンドのおばさんがやって来て、あたしが子供の扱いがうまいとわかると、あたしをひきとろうと言ってくれたの。で、あたし、川上の切り株に囲まれたせまい開拓地で、おばさんと一緒に暮らしたの。とても淋しい所だったわ。想像力がなかったら、とても住めなかったと思うわ。ハモンドのおじさんはそこの小さな製材所で働いてたの。おばさんは八人の子持ちだったわ。三回もふたごが生まれたのよ。あたし、少しぐらいの赤んぼうならいいけど、続けて三回もふたごが生まれるなんてうんざりよ。最後のふたごが生まれた時、あたし、おばさんにはっきりそう言ってやったわ。あちこちだっこして歩くので、あたし、くたくたに疲れたのよ。あたし、二年以上も川上のハモンドのおばさんの所に住んでたんだけど、おじさんが死んじゃうと、おばさん、家をたたんじゃったの。それから、子供達をあちこちの親類の人達にやって、アメリカに行っちゃったのよ。誰もあたしをひきとってくれなかったので、あたし、仕方なしにホープトンの孤児院に行ったの。でも、孤児院でもことわられたの。もう満員だって言うのよ。だけど仕方なくひきとってくれたわ。そこに四ヵ月いたらスペンサーのおばさんが来てくださったのよ」
アンは話し終わるともう一度溜息をついたが、今度はほっとしたためのものだった。どうやら、自分をつまはじきした世間でどんな目に会わされたかは、あまり話したがらない様子だった。
「学校に行ったことはあるの?」栗毛の雌馬の向きをなぎさの道の方に変えながらマリラはたずねた。
「あんまり行かなかったわ。トマスのおばさんの所にいる最後の年にちょっと行ったのよ。川上に住んでた時は、学校が遠すぎたので、冬は歩いて通えなかったし、夏は休みで学校がなかったの。だから、春と秋だけしか行けなかったのよ。でも、孤児院にいた時はもちろん学校に行ったわよ。あたし、本を読むのはかなり上手だし、詩もずいぶんたくさん暗記しているわ――『ホーエンリンデンの戦い』や『フロデンの後のエディンバラ』や『ライン河畔のビンゲン』なんかよ。『湖上の美人』もだいぶおぼえているし、ジェームス・トムソンの『四季』もほとんどそらで言えるわ。おばさん、背筋が寒くなるような詩きらい? 読本の巻の五に『ポーランドの滅亡』という詩がのってるけど、ほんとにぞくぞくするようなことがいっぱい書いてあるのよ。あたし、巻の五はまだやってなかったの――やっと四をやってるとこだったのよ――でも、大きい子達が貸してくれたの」
「その人達――トマスやハモンドのおばさんはあんたによくしてくれたの?」アンを横目で見ながらマリラはたずねた。
「ええ――」アンは口ごもった。感じやすい小さな顔はさっと赤くなり、当惑の表情が浮かんだ。
「あら、二人ともその気はあったのよ――できるだけ、親切によくしてくれるつもりだったのは分っているの。よくしたいっていう気持ちがあれば、いつもそうはいかないことがあってもあまり気にならないものね。二人にはそれでなくても心配事がうんとあったのよ。大酒飲みのだんなさんを持つのはとてもつらいでしょう。続けて三回もふたごが生まれるのもきっとたいへんでしょうね? でも、二人とも、あたしによくしてくれるつもりがあったことは確かよ」
マリラはこれ以上何も聞かなかった。アンは一言も言わずになぎさの道にみとれ、マリラはうわの空で栗毛の馬をあやつりながら、深い物思いに沈んでいた。この子に対する憐れみが急にマリラの心にわいてきた。何という満たされない、愛に飢えた生活を送ってきたのだろう――つらい、貧しい、誰からもかまってもらえない生活。りこうなマリラは、アンの身の上を聞いて、真実を察したのだった。ほんとうの家《うち》が持てそうだとこの子が大喜びしたのも不思議ではない。送り返すのはかわいそうだ。もし自分がマシュウのわけのわからぬ気まぐれな願いをいれて、この子をおいてやったらどうだろうか? マシュウもそうきめているし、この子も教え甲斐のある、いい子らしいし。
「とにかくよくしゃべる子だ」マリラは考えた。「しかし、やりようによってはなおるかもしれない。それにこの子の言葉遣《ことばづか》いには、礼義にはずれたところや、くずれたところが少しもみられない。いかにも品がいい。いずれ身内はちゃんとした人達だったのだろう」
なぎさの道は[木の多い、荒れた、人気のない]所だった。右側には、樅《もみ》のやぶが、長年、湾から吹いてくる風と格闘してきたにもかかわらずびくともせず、うっそうと繁っていた。左側には、けわしい、赤い砂岩のがけがあり、場所によっては、道とすれすれの所までせまっていたので、この栗毛ほど落着いた雌馬でなかったら、馬車に乗っている人達の肝をひやしたことだろう。がけの下には、波ですりへった大岩や、大洋の宝石のような小石をちりばめた、小さな砂の入江があった。その向こうには、かすかに光る青い海が広がり、かもめが、日の光に翼を銀色に輝かせながら空高く舞っていた。
「海ってすばらしいわね」長いこと目を大きく見開いたまま黙りこくっていたアンがやっと口を開いて言った。「前に、メリスヴィルに住んでいた時、トマスのおじさんが急行馬車をやとってあたし達みんなを十マイル離れた海岸まで連れて行ってくれたことがあるの。一日中楽しかったわ。その間ずっと子供達の世話をしなくちゃならなかったんだけどね。それから何年もの間その楽しい日のことを夢に見たわ。でも、ここの海岸はメリスヴィルの海岸よりきれいよ。りっぱなかもめ達ね。おばさん、かもめになりたくない? あたしなりたいわ――つまり、人間の女の子になれないならばよ。日の出に目をさまして、水の上に舞いおりて来て、一日中あの美しい青い海の上を遠くまで飛んで行って、夜になると巣に戻って来るなんてすてきだと思わない? あああたし、自分がそうしてるのが眼に浮かぶわ。あのちょうどまっ正面の大きな家は何なの?」
「ホワイト・サンド・ホテルだよ。カークさんが経営してるんだけど、まだシーズンにならないからね。夏になるとアメリカ人が大勢やって来るんだよ。まずてごろな海岸と思われてるらしいよ」
「スペンサーのおばさんの家かと思ったわ」アンは悲しそうに言った。「あそこに着くのはいや。何となく、これで何もかもおしまいって気がするの」
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第六章 マリラ決心する
しかし、アンの願いをよそに、二人はやがてスペンサー夫人の家に到着した。夫人はホワイト・サンドの入江の大きな黄色い家に住んでいた。夫人はやさしい顔に驚きと歓迎のいりまじった表情を浮かべながら戸口に出て来た。
「おやまあ」夫人は叫んだ。「まさか今日お見えになるとは思っていませんでしたわ。でも、よくいらっしゃいましたね。馬を中にお入れにならない? アン、あなたも元気?」
「おかげさまで、この通り元気です」とアンはにこりともせずに答えた。暗い影がアンを覆《おお》いつくしたかのようだった。
「馬を休ませるためにちょっとおじゃましますわ」とマリラは言った。「でも早く帰るってマシュウに約束してきましたの。実はね、スペンサーの奥さん、妙な手違いがありましてね、どうしてこんなことになったのか伺いにあがりましたの。マシュウとわたしは、孤児院から男の子をもらって来てくださるように、奥さんにおことづけしたのです。お兄さんのロバートさんに、十か十一くらいの男の子がほしいということを奥さんにお伝えくださいって申し上げましたの」
「なんですって、マリラ・カスバートさん!」スペンサー夫人は困惑して言った。「あら、ロバートは娘のナンシーを通じてことづけしてきたんです。あの娘は、お二人が女の子をほしがつていらっしゃると言ってましたよ――そうじゃなかった、フローラ・ジェーン?」夫人は階段に姿をあらわした娘に助け船を求めた。
「確かにそうですよ、カスバートさん」フローラ・ジェーンは真顔であいづちをうった。
「どうしたらいいでしょう」スペンサー夫人は言った。「ほんとに困りましたね。でも、こればかりはわたしのせいじゃないんですのよ、カスバートさん。わたし、できるだけのことはしましたし、お言いつけの通りにしたとばかり思っていました。ナンシーはほんとにうっかり者でしてね、もっと注意するように始終|叱《しか》っているんですけど」
「わたし達が悪かったんですよ」マリラはあきらめたように言った。「じかにこちらにおうかがいすればよかったんです。大事な用件だというのに、あんなふうに伝言でお願いしたのがいけなかったんです。とにかく、こうした手違いができてしまった以上、何とか始末をつけるほかはありませんものね。あの子を孤児院に送り返せますか? もう一度ひきとってくれるんじゃないでしょうか?」
「そうでしょうね」スペンサー夫人は考えこんで言った。「でも、あの子を送り返す必要はないと思いますわ。ピーター・ブルエットの奥さんがきのうここに見えて、わたしに手伝いの女の子を探してほしいとおっしゃってたんです。ご存知の通り、ピーターさんとこは大家族なんで、なかなかお手伝いのきてがないんですの。アンならうってつけですわ。ほんとうに神様の思し召しですよ」
マリラは、神様の思し召しがこの件と何の関わりがあるんだろうというような顔をしていた。思いがけなく、このみなしごをやっかい払いするいい機会が訪れたのだが、マリラにはありがたいという気さえ起こらなかった。
マリラはピーター・ブルエット夫人とは顔見知りというだけで、小柄で、みるからに意地の悪い、余分な肉といったら、一オンスたりともなさそうな女だということしか知らなかった。しかし夫人の噂《うわさ》はマリラの耳にも入っていた。「大した働き者で人使いが荒い」というのがピーター夫人の評判だった。首になった女中たちは、夫人が怒りっぽくてけちなことや、子供達が生意気でけんかばかりしているといった芳《かんば》しくない噂をまきちらしていた。こんな人の手にわたされたら、アンがどんな目に会うかしれたものではないと思うと、マリラの良心はうずいた。
「ともかく、中に入ってご相談しましょう」とマリラは言った。
「あら、噂をすれば影とやら、あの小路をこちらにいらっしゃるのはピーターの奥さんじゃないですか!」スペンサー夫人は大声でそう言うと、広間を通って、さっさとお客達を客間に案内した。客間は冷え冷えしていた。濃い緑のブラインドを長い間しめきっておいたので、中の空気がすっかり暖かみをなくしてしまったみたいだった。「ほんとうに好都合ですわ。すぐに問題のかたがつきますもの。ひじかけ椅子をどうぞ、カスバートさん。アン、あなたはこの長椅子にすわりなさい。じっとしているんですよ。お帽子はこちらへどうぞ。フローラ・ジェーン、やかんをかけてきておくれ。こんにちは、ブルエットさん。奥さんがお出でになるなんて、何て運がいいんだろうって話してたとこなんですよ。ご紹介しましょう。こちらがブルエットさん、こちらがカスバートさんです。ちょっと失礼します。フローラ・ジェーンに、かまどから菓子パンを出すように言いつけるのを忘れましたの」
スペンサー夫人は、ブラインドをあげると、そのまま出て行った。アンは黙って長椅子にすわり、膝《ひざ》の上でしっかり両手を組み合わせて、射すくめられたかのように夫人を見つめていた。このとげとげしい顔をした、鋭い眼つきの女の人の所にやられるのだろうか?
アンののどにかたまりがつきあげて来て、眼のなかがジーンと熱くなった。これ以上はこみあげて来る涙を押さえられそうもないと思い始めた時、スペンサー夫人が戻って来た。頬《ほお》を上気させ、にこやかに微笑んでいる姿は、肉体的、知的、精神的などんな難問にせよ、片っ端からとりあげて、直ちに解決してみせるといわんばかりだった。
「この女の子のことで手違いがあったようなんです、ブルエットさん」と夫人は言った。
「わたしはカスバートさんご兄妹は女の子をもらいたがっていられるとばかり思いこんでたんです。確かにそう聞いたもんですから。でも、お二人がほしいのは男の子だったらしいんですよ。ですから、奥さん、もしきのうと同じお考えでしたら、この子なんか奥さんにはもってこいだと思うんですけど」
ブルエット夫人は、アンの頭のてっぺんから足のつま先まで目を走らせた。
「年はいくつで、名前は何ていうの?」彼女はたずねた。
「アン・シャーリーと言います」恐ろしさで縮みあがったアンはつかえつかえ答えた。名前のつづりのことで注文をつける勇気もなかった。
「年は十一です」
「ふふん! あまりみてくれはよくないね。でも、しんの強そうな子だ。何のかのと言っても、しんのあるのがいちばんだろうね。ともかく、もしあんたをひきとるんだったら、おとなしくしなくちゃだめだよ――おとなしくて、りこうで、行儀のいい子にならなくちゃね。自分が食べるだけのものは働いてもらいたいね。きっとだよ。そうですね、この子をいただくことにしましょう、カスバートさん。赤んぼうがほんとに手におえなくてね。お守りでくたくたですよ。あんたさえよければ、今すぐこの子をひきとってもいいですよ」
マリラはアンの方を見たが、無言のうちにみじめさをたたえたその青ざめた顔つきに急に哀れを催した。それは、せっかく逃《のが》れたわなに再びかかってしまった無力な、小さい生き物を思わせた。もしこの顔つきが訴えているものをこばんだら、きっと生涯これにつきまとわれるだろうとマリラは思った。その上、マリラはブルエット夫人が気に入らなかった。この傷つきやすく、[感じやすい子]をこんな女の手に渡すなんて! いいや、そんなひどいことはできっこない!
「そうですね、どうしたらいいか」マリラはゆっくりと言った。「マシュウとわたしはこの子を手放すとはっきりきめたわけではないんです。実を言うと、マシュウの方は手もとに置くことも考えているようです。わたしとしてはどうしてこんな手違いが起こったのか知りたいと思っておじゃまにあがりましたの。もう一度この子を連れ帰って、マシュウとじっくり話し合ってみます。あの人に相談せずに事を運んでしまうのもどうかと思いますしね。もしうちに置かないということになったら、明日の晩、この子をお宅に連れて行くか、送り届けるかいたします。もしそうしなかったら、この子はわたし達と一緒に住むことになったんだとお考えください。それでよろしいでしょうか、ブルエットさん?」
「仕方ないでしょう」ブルエット夫人は無愛想《ぶあいそう》に答えた。
マリラがこう話しているうちに、アンの顔にほのぼのとした夜明けがしのびよって来た。まず絶望の色がうすれ、ついで微かな希望の光がさし始めた。眼は深い色をたたえ、暁の星のようにきらきら輝いてきた。子供はまったく別人のようになっていた。そしてその後まもなく、献立表を借りるためにブルエット夫人がスペンサー夫人とともに奥に姿を消すと、アンはさっと立ち上がって、マリラの方にとんで行った。
「ああ ミス・カスバート、あたしを『グリーン・ゲイブルズ』に置いてやるかもしれないってほんとにおっしゃったの?」アンは息を殺してささやいた。まるで、大声で話したら、せっかくのいい話がおじゃんになってしまうと言わんばかりだった。「ほんとにそうおっしゃったの? それともあたしがそう思っただけなのかしら?」
「ほんとのこととそうでないことの区別がつかないくらいなら、空想は押えるようにした方がいいと思うよ、アン」マリラはふきげんに言った。「ああ、あんたの聞いた通りだよ。でも、まだきまったわけじゃないし、もしかしたらブルエットさんにあんたをひきとってもらうことになるかもしれないよ。あの人の方がわたしよりもずっとあんたが入り用なことは確かなんだからね」
「あの人のとこへ行くくらいだったら、孤児院に帰った方がましだわ」アンは猛烈な勢いで言った。「あの人ったら――ほんとに錐《きり》そっくりよ」
アンのこんな口のききかたはよくたしなめておかねばと思いながらマリラは笑いをこらえた。
「あんたみたいな小さい子が、よく知らないご婦人のことをそんなふうに言うのは恥ずかしいことなんだよ」彼女はきびしく言った。「椅子に戻って、おとなしくすわってなさい。口をきくんじゃないよ。女の子らしく行儀よくなさい」
「あたしを置いてさえくださるんだったら、おばさんの言うことは何でも聞くようにするわ」すなおに長椅子に戻りながらアンは言った。
二人がその晩「グリーン・ゲイブルズ」に帰って来ると、マシュウが小道まで二人を迎えにきていた。マリラは道をぶらついているマシュウにとうに気づいていたし、また、そのわけも見当がついていた。マリラがとにかくアンを連れて帰ったことを知って、マシュウは案の定ほっとした顔つきをした。しかし、マシュウと連れだって庭に出て、納屋のうしろで牛の乳しぼりを始めるまで、マリラはその件について一切ふれなかった。二人になると、マリラはかいつまんで、アンの身の上と、スペンサー夫人とのやりとりについて話した。
「あんなブルエットのかみさんなんかに、たとえ犬にしろ大切なものを渡すものか」マシュウはいつになく気色ばんで言った。
「ああいうタイプの人はわたしも好きじゃないですよ」マリラは認めた。「でもね、問題はあの人にやるか、わたし達で育てるかのどっちかなんですよ、マシュウ。それに、兄さんもあの子をほしがってるようだから、わたしも喜んで――というより、置いてやる以外に方法はないでしょう。あれこれ考えているうちに、だんだんその気になってきたんです。義務みたいなもんですよ。わたし、今まで子供は、ことに女の子なんか育てたことがないんで、ひどいへまをやるかもしれませんが、一生懸命やってみます。わたしは、あの子がいても、かまいませんよ、マシュウ」
マシュウの気弱そうな顔は喜びで輝いた。
「そうさのう、お前もそういう見方をしてくれるようになると思ってたよ」と彼は言った。
「実に面白い子だよ」
「役に立つ子だと言える方がずっと大切なんだけど」マリラは言い返した。「でも、なんとかあの子をしこんで、そうなるようにしてみせますよ。それからね、マシュウ、わたしのやり方に口出ししないでくださいよ。ひとりもんの女は子供の育て方はよく知らないかもしれないけど、ひとりもんの男よりはましだろうからね。ですからね、まああの子の扱いはわたしにまかしてください。兄さんがくちばしをいれるのは、わたしが失敗してからで結構ですよ」
「よしよし、マリラ、お前の思う通りにやってかまわんよ」マシュウは安心させるように言った。
「ただ、甘やかさない程度に親切に、よくしてやってくれ。あの子に好かれたらしめたもの、あとはあの子をお前の思い通りに扱えるんじゃないかと思うよ」
マシュウに女のことがわかるものかといった調子で鼻であしらって、マリラは手おけをさげて搾乳場《さくにゅうじょう》に歩いて行った。「あの子にここにいてもいいことを話すのは明日にしよう」マリラはクリームすくい取り器に牛乳をあけながら考えた。「そんなことをしたら、あの子は興奮のあまり一睡もしないだろう。マリラ・カスバート、お前はのっぴきならない羽目に陥ったのだ。みなしごの女の子をもらうことになるなんて考えてみたことがあるのか? それだけでもいいかげんあきれているのに、ことの起こりはふだんあんなに女の子をこわがっていたマシュウなんだから、まったくあいた口がふさがらない。とにかくわたし達は、やってみることにきめたんだ。やれやれ、いったいどうなってゆくんだろうね」
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第七章 アンお祈りをする
その晩アンを寝床に連れて行った時、マリラは改まって言った。
「ところで、アン、ゆうべ、ぬいだ着物を、床に放りだしてたね。あんなだらしないやり方を見のがすわけにはいかないよ。着ているものをぬいだらすぐにきちんとたたんで、いすの上に置きなさい。だらしない女の子はきらいだよ」
「ゆうべはとても悲しかったので、着物のことまで考えなかったのよ」とアンは言った。「今夜はきちんとたたむわ。孤児院ではいつもそうさせられてたのよ。もっとも、よく忘れちゃったけど。早く寝床に横になって色々なことを空想したかったものだから」
「ここにいるんだったら、ちゃんとおぼえているようにしなくちゃだめだよ」マリラは注意した。「そう、大分見つきがよくなった。お祈りをしてから寝床に入りなさい」
「お祈りなんかしたことないわ」アンは言った。
マリラはびっくりぎょうてんした。
「まあアン、どういう意味なの? お祈りを教わったことないの? 神様はいつも小さな女の子がお祈りするのを望んでらっしゃるんだよ。神様がどんな方か知らないの、アン?」
「神は無限にして、永遠に変わることなき霊なり。知と力、聖と義、善と真《まこと》なり」アンはすらすらと答えた。
マリラはいくらかほっとしたようだった。
「そんなら、少しは知ってるんだね。ああよかった! まったくの異教徒じゃないんだね。どこでそれを習ったの?」
「あら、孤児院の教会学校でよ。教義問答(キリスト教の原理をわかりやすくまとめた問答書)を全部習わせられたの。あたし、わりに好きだったわ。ときどきとてもすてきな文句があるのよ。『無限にして、永遠に変わることなし』なんて雄大ね。まるで大きなオルガンの音みたいに堂々としているわ。詩とは言えないでしょうけど、聞いてるとまるで詩みたいだわ」
「今は詩のことを話してるんじゃないよ、アン――あんたのお祈りのことを言ってるんだよ。毎晩お祈りしないことがどんなにいけないことかわからないの? あんたはとても悪い子みたいだね」
「赤い髪をしてると、いい人よりも悪い人になりやすいのよ」アンは口をとんがらせた。「赤い髪をしてない人は、それがどんなにいやなことかわからないんだわ。トマスのおばさんから、神さまがわざとあたしの髪を赤くなさったんだって聞いてから、あたし、神さまなんかどうでもいいと思うようになったの。それに、とにかく、夜になると疲れて、お祈りをする元気もなかったのよ。ふたごのお守りをする者にお祈りをしろったってむりよ。ねえ、ほんとにそう思わない?」
マリラは、すぐにアンの宗教教育を始めねばと決心した。どうみてもぐずぐずしてはいられなかった。
「わたしの家にいる間は、お祈りをしなくちゃいけないよ、アン」
「あら、もちろん、おばさんがお望みなら」アンはきげんよく同意した。「おばさんのためだったら何でもするわ。でも、今度だけはお祈りの文句を教えてくださらなくちゃ。あしたからのお祈りは、寝床に入ってからすてきなのを考え出すつもりだけど。考えてみれば、お祈りするのもなかなか面白いわ」
「ひざまずかなくちゃいけないよ」マリラは困ったように言った。
アンはマリラの足もとにひざまずくと、まじめな顔をして見上げた。
「なぜひざまずいてお祈りしなくちゃいけないの? ほんとうにお祈りしたい時に、あたしがどうするか教えてあげましょうか。たった一人で、とっても広い野原や、深い、深い森へ行って空を見上げるの――はてしなく青く見えるあのきれいな青空をずっと、ずっと上まで。そしたら、お祈りしたような気持ちになると思うの。さあ、いいわよ。何て言えばいいの?」
マリラはいよいよ困ってしまった。「これからお床に入ります」というありきたりの子供向きのお祈りを教えるつもりだったのだ。しかし、前にも言ったように、マリラは多少なりともユーモアのわかる女だった――つまり、ものにはそれぞれ向きがあるということを知っていたのである。それで、この時急に、この単純な短い祈りは、母親の膝にまつわりながら、まわらぬ舌でこれを唱える白い寝巻の子供にとってはこの上ないものであっても、このませた、そばかすだらけの女の子には、どうみてもふさわしくないということにマリラは気づいた。人の愛情というものにふれたことのないアンには、それを通じて知らされるはずの神の愛というものがわからず、そんなものはどうでもいいと思うのも無理からぬことだった。
「もう大きいんだから、自分でお祈りくらいできるだろう、アン」マリラは最後に言った。「神さまのお恵みを感謝し、あんたの願いをかなえてくださるようにお願いしなさい」
「じゃ、できるだけやってみるわ」マリラの膝《ひざ》に顔を埋めながら、アンは誓った。「恵み深い天の神さま――教会で牧師さんがそうおっしゃってるから、一人でお祈りする時もそう言っていいわね」アンはちょっとの間頭を上げて、ことばをさしはさんだ。「恵み深い天の神さま、『歓喜の白い道』や『輝く湖水』や『ボニー』や『雪の女王』のことであつくお礼を申し上げます。ほんとうに心から感謝いたします。お礼を言いたいのは今のところそれだけです。お願いの方は、あんまりたくさんあって、全部言うと時間がかかるので、いちばんだいじなもの二つだけにします。どうぞあたしが『グリーン・ゲイブルズ』にいられるようにしてください。それから、大きくなったら、美人になれますように。お願いします。かしこ。アン・シャーリー」
「ねえ、うまくやれた?」アンは立ち上がりながら、熱心にたずねた。「もうちょっと考える時間があったら、もっといろんな文句をつけたすことができたんだけど」
かわいそうにマリラはもう少しで腰をぬかすところだったが、そうせずにすんだのはアンのこの途方もない祈りが、神を敬う気持ちの不足というより、単に信仰上の無知のせいだということを思い出したからだった。明日はどんなことがあってもアンにお祈りを教えてやらねばと心の中で誓いながら、マリラはアンを寝具にくるんでやった。それから、あかりを持って部屋を出て行こうとしていると、アンがうしろから呼びとめた。
「たった今気がついたんだけど、あたし、『かしこ』のかわりに『アーメン』って言わなくちゃいけなかったんじゃない――牧師さん達がおっしゃっているように。あたし、すっかり忘れてたんだけど、お祈りは何とかしめくくらなくちゃいけないと思い、ああ言ってみたの。具合が悪いかしら?」
「さあね――どうということもないと思うよ」マリラは言った。「いい子だから眠るんだよ。おやすみ」
「今夜はあたし心おきなく『|おやすみなさい《グッド・ナイト》』が言えるわ」アンは気持ちよさそうに枕の間に頬《ほお》を埋めた。
マリラは台所にひっこみ、テーブルの上にしっかりとろうそくをたてると、マシュウをにらみつけた。
「マシュウ・カスバート、誰かがあの子をもらいうけて、色々教えこむ時期ですよ。あの子は異教徒と紙一重と言ってもいいぐらいです。あの子が今夜はじめてお祈りをしたなんて信じられますか? 明日、何はさておき、牧師館に人をやって、『|夜明け《ピープ・オーブ・デイ》』(宗教教育の幼児むけテキスト)双書を借りてこさせますよ。それから、何か適当な着る物ができ次第、すぐに教会学校に行かせますからね。これからは忙しくなりそうです。ええ、ええ、でもどっちみち、めんどうなことを分担しなくちゃ世の中は渡って行けないんですからね。今まで、わたし、ずいぶんのんびり暮らしてきたんだけど、ようやくわたしの出番がまわってきたんですよ。できるだけのことをしなくちゃと思ってます」
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第八章 アンの教育始まる
自分でいちばんよく知っている理由から、マリラは、アンを『グリーン・ゲイブルズ』に置くことにきめたことを、翌日の午後まで当人に言わなかった。朝のうちずっと、マリラはアンに次から次へと色々な用事を言いつけ、アンが忙しく立ち働いている間、注意深く見守っていた。昼ごろまでに、アンは気がきいていて、すなおで、働き者で、ものおぼえが早い子だということがわかった。アンのいちばんいけない欠点は、用事のまっ最中に空想にふけり、叱られたり、大ごとになったりしてはっと我にかえるまでは、何もかもすっかり忘れてしまうくせのあることだった。
皿を洗い終わると、突然アンはマリラの前にやって来た。最悪の事態にもおくせずに立ち向かおうという決意が顔にも態度にもありありと見えていた。やせた小さなからだは頭のてっぺんから足の先までぶるぶると震え、顔は紅潮し、目は、全体が黒く見えるほど、大きく見開かれていた。アンは両手をしっかりと組み合わせると、すがるように言った。
「ああ、お願い、ミス・カスバート、あたしをよそへやるのかどうか教えてくださらない? 朝のうちずっとがまんしてきたんだけど、もうこれ以上どっちつかずのままではいられそうもないの。とてもつらいわ。お願いだから教えて」
「わたしが言った通りに、ふきんをきれいな熱湯でゆすがなかったね」マリラはびくともしないで言った。「これ以上何か聞く前に、まずそれをやってきなさい、アン」
アンは台所に行って、ふきんの始末をした。それから戻ってくると、すがりつくような目でマリラをじっと見た。
「さてと」これ以上事情を話すのをのばす口実も見つからなかったので、マリラは言った。「では話してあげようかね。マシュウとわたしはあんたをここに置くことにきめたよ――つまりね、あんたがいい子になるようにつとめて、感謝の気持ちを見せるならばだよ。おや、どうしたんだい?」
「あたし、泣いてるのよ」アンはどうしていいかわからないみたいだった。「なぜだかわからないんだけど。あたし、うれしくてたまらないの。ああ、|うれしい《ヽヽヽヽ》なんてもんじゃないわ。あたし、白い道と桜の花を見てうれしかったわ――でも、この気持ちにくらべたら! ああうれしい以上よ。とても幸せだわ。うんといい子になるようにつとめるわ。きっとむずかしいと思うけど。トマスのおばさんが、あたしはどうしようもないほど悪い子だってしょっちゅう言ってたんですもの。だけど一生懸命やってみるわ。でもどうしてあたし泣いてるのかしら、おばさん、わかる?」
「ひどく興奮してるからだろうよ」マリラはたしなめるように言った。「あの椅子にすわって、気をしずめなさい。どうもあんたはすぐに泣いたり、笑ったりするようだね。そう、あんたはここにいてもいいんだよ。わたし達もあんたに入り用なことはちゃんとしてあげます。学校にも行かなくちゃいけないけど、あと二週間もすれば休みだから、九月の新学期までは行ってもしょうがないしね」
「おばさんのこと何て呼んだらいいの?」とアンはたずねた。「これからいつもミス・カスバートと言いましょうか? マリラおばさんと呼んでもいい?」
「いや、ただマリラと呼びなさい。ミス・カスバートなんて呼ばれることはめったにないから、落着かないんだよ」
「マリラと呼びすてにするなんてとても失礼に聞こえるわ」アンは文句を言った。
「尊敬の気持ちをこめて言うように気をつければ、失礼なことはないと思うよ。アヴォンリーでは、牧師さん以外の人達は、若い者も年寄りもみんなわたしのことをマリラと呼んでるよ。牧師さんはミス・カスバートっておっしゃるけど――気がついた時にはね」
「あたし、マリラおばさんって呼びたいわ」アンはそう呼びたくてたまらなそうな口ぶりだった。
「あたしにはおばさんも親類も全然いないの――おばあさんさえもよ。マリラおばさんと呼べたら、ほんとに家族の一員になったような気がするんだけど。マリラおばさんと呼んだらいけない?」
「だめだよ。わたしはあんたのおばさんじゃないし、自分のものでない名前で呼ばれるなんてごめんだよ」
「でも、あたしのおばさんなんだと思えばいいわ」
「わたしはできないよ」マリラは恐い顔をして言った。
「おばさんは何でも実際とは違ったように想像することはないの?」アンは大きく目を見開いてたずねた。
「ないよ」
「まあ!」アンは深く息を吸った。「まあ、ミス――じゃない、マリラ、それじゃずいぶんつまらないでしょうね!」
「ものごとを実際とは違ったように、想像するのはいいこととは思わないよ」マリラは言い返した。「神さまがわたし達をある環境にお置きになるのは、空想で変えてしまうためじゃないんだよ。そうそう、それで思い出した。居間にお行き、アン――足はきれいだろうね。はえを入れちゃいけないよ――暖炉だなの上に置いてある絵入りのカードを持ってきなさい。カードには『主の祈り』(新約聖書マタイによる福音書、五章九―一三)が書いてあるんだよ。午後のあいた時間はそれを暗記するのに使うといい。ゆうべのようなお祈りは二度と聞きたくないからね」
「あたしもまずかったと思うわ」アンはいいわけをした。「でもね、お祈りなんか一度もしたことなかったのよ。はじめてお祈りする人に、うまくやれと言ってもむりじゃない? あたし、おばさんに約束した通り、寝床に入ってから、すばらしいお祈りを考えついたの。牧師さんのお祈りと同じぐらいの長さで、とても詩的だったの。でも、どうなったと思う? けさ目をさましたら、一つもおぼえてないのよ。あんなにりっぱなお祈り、もう二度と考えつかないと思うわ。ともかく、二度目に考えついたものは、最初のほどよくないものね。そう思ったことない?」
「言っとくけどね、アン、わたしがあんたに用をいいつけた時は、すぐに言った通りにしてもらいたいんだよ。じっと立ったまんま、くだらないことをしゃべるんじゃないよ。さあ、あたしの言いつけたことをしてきなさい」
アンはすぐにホールを通りぬけて居間に向かったが、それっきり戻って来なかった。十分間待ってから、マリラは編み物を下に置くと、怖い顔をしてアンのあとを追って行った。居間に行ってみると、アンは二つの窓の間の壁にかかっている絵の前に身じろぎもせずに立ちつくして、顔をあおむけ、夢を見ているように、眼を大きく見開いていた。外のりんごやつたのしげみを通してさしこんで来る白や緑の日の光は、恍惚としてみとれている小さな姿を、ほとんどこの世のものとは思われないような輝きで照らしだしていた。
「アン、いったい何を考えてるの?」マリラは激しい口調でたずねた。
アンははっと我にかえった。
「あれよ」アンは、[キリスト幼な児を祝したもう]という題の、あざやかな着色石版画を指さした。「あたし、自分があの子達の一人だと想像してたとこなの――一人だけはなれて隅っこに立っている青い服を着た女の子がそうよ。あの子、あたしみたいに誰も身内がいないんだわ。寂しそうな、悲しそうな顔をしていると思わない? あの子にはお父さんもお母さんもいないんだと思うわ。でも、みんなと同じように祝福を受けたかったので、イエスさまのほかは、誰も自分のこと気がつかないといいなと思いながら、みんなのうしろからおそるおそる近づいて行ったの。あの子がどんな気持ちだったかよくわかるわ。あたしがここにいてもいいかっておばさんに聞いた時みたいに、きっとあの子、胸がどきどきして、手に冷汗をかいていたと思うの。イエスさまが自分のこと気がついてくださらないかも知れないと思ったのよ。でもお気づきになるんじゃないかしら? あたし、初めからずっと何もかも想像しようとしてたのよ――あの子は少しずつにじり寄って行って、とうとうイエスさまのすぐそばまで来てしまうの。するとイエスさまがあの子をごらんになって、あの子の髪に手をおあてになると、あの子はうれしくて胸がわくわくするのよ! でも、絵をかいた人がイエスさまをあんなに悲しそうなお顔にかかなければよかったのに。イエスさまの絵はみんなそうね。でもあたし、イエスさまがほんとにあんなに悲しそうな顔をなさってたとは思わないわ。でなければ、子供達がイエスさまをこわがったはずよ」
「アン」なぜもっと早くこのおしゃべりをやめさせなかったのだろうと思いながらマリラは言った。「そんな言い方をしちゃいけないよ。神さまに対して悪いじゃありませんか――第一もったいないよ」
アンは驚いて目を丸くした。
「あら、あたし、とても敬っているつもりだったのよ。神さまを粗末にするつもりなんて全然なかったわ」
「ああ、あんたがそうだったとは思わないよ――でもね、ああいうことを、あんなになれなれしくしゃべるのはいいことじゃなさそうだね。それから、もう一つ、アン。あたしがあんたに何か取りに行かせる時は、すぐにそれを持って来るんだよ。絵の前でぼんやりと空想にふけってるんじゃないよ。よくおぼえておおき。そのカードを持ってまっすぐ台所に行きなさい。さあ、すみっこにすわって、そのお祈りを暗記するんだよ」
アンはりんごの花をいっぱいにいけた花びんに向かってカードを立てかけると――アンが食卓を飾ろうと思ってその花を持ちこんだ時、マリラは花の方を横目でじろりと見たが、何も言わなかった――頬杖《ほおづえ》をついて、数分間黙って熱心にお祈りをおぼえだした。
「あたし、これ好きだわ」アンはしばらくして言った。「とても美しい文句ね。これ、前に聞いたことあるのよ――孤児院の教会学校の監督さんがいつかおっしゃるのを聞いたことがあるの。でもその時は好きじゃなかったわ。監督さんはとてもしわがれた声をしてて、ほんとに悲しそうにお祈りするんですもの。きっと、お祈りはつらい義務だって思ってたのよ。これ詩じゃないけど、ちょうど詩を読んだ時のような気分になるわ。『天にましますわれらの父よ、み名をあがめさせたまえ』まるで音楽みたいだわ。ああ、あたしにこれを習わせようと考えてくださってうれしいわ、ミス――じゃない、マリラ」
「さあ、おぼえなさい。おしゃべりはやめて」マリラはつっけんどんに言った。
アンはりんごの花をいけた花びんを手前の方に傾けて、ピンクのつぼみにそっと口づけすると、もうしばらくの間、お祈りをおぼえることに精出した。
「マリラ」まもなくアンはたずねた。「あたし、アヴォンリーで心の友が持てると思う?」
「え、なんの友達だって?」
「心の友――ほら、仲のいい友達のことよ。心の底からうちわって話のできる、うまのあう人のことよ。あたしそんな人にめぐり会える日のことをずっと夢みてきたの。実際に会えるとは一度も思ったことなかったけれど、あたしの一番すてきな夢が一ぺんに叶《かな》えられたので、ひょっとしたらこれもそうなるんじゃないかって気がするの。うまくいくと思う?」
「ダイアナ・バリーなら『オーチャード・スロープ』に住んでるがね。あんたとおないどしぐらいでね。とてもいい女の子だよ。家に帰って来たら、あんたの遊び友達になるかもしれないね。ちょうど今カーモディのおばさんのとこに行ってるよ。でも、お行儀に気をつけなくちゃだめだよ。バリーの奥さんはとても気むずかしいからね。ちゃんとしたいい子でないとダイアナと遊ばせないんだよ」
アンは好奇心で目を輝かせて、りんごの花ごしにマリラを見た。
「ダイアナはどんな子? 髪の毛は赤くないんでしょう? ああ、そうでない方がいいわ。赤毛はあたしだけでもうたくさん、心の友が赤い髪してるなんてぜったいにがまんできないわ」
「ダイアナはとてもきれいな子だよ。眼も髪も黒くて、頬《ほお》はばら色でね。それに気立てがよくて、りこうときてる。その方がきれいであるより、ずっと大事なことですよ」
マリラは『ふしぎの国のアリス』(英国の数学者ルイス・キャロルの書いた有名な作品)に出てくる公爵夫人のように教訓が好きだった。育てている子供に何か言う時は必ず教訓をつけ加えなくてはいけないと思いこんでいた。しかしアンは教訓にはあっさり肩すかしをくわせると、楽しさの見込まれる方にとびついた。
「ああその子がきれいでうれしいわ。自分がきれいなことの次には――あたしの場合はむりだけど――きれいな、心の友を持つのがいちばんよ。トマスのおばさんの所にいた時、おばさんの部屋にガラス戸がついた本箱があったの。本は一冊も入ってなかったけど、おばさん、とっておきの瀬戸物と砂糖漬をそこにしまっていたのよ――しまうような砂糖漬があった時にはね。かたっぽうのガラス戸は割れてたわ。トマスのおじさんがある晩少しよっぱらった時に、こなごなに割っちゃったのよ。でも、もう一枚の戸は何ともなかったので、あたしよく、ガラスにうつるあたしの姿は、そこに住んでる別の女の子だと想像したものよ。あたし、その子にケティ・モーリスという名をつけたの。あたし達、とても仲がよかったのよ。特に日曜日なんか、何時間も続けてケティに話しかけたものよ。あたし、洗いざらい話をしたわ。ケティがいるので、ほんとに助かったわ。あたし達、本箱が魔法をかけられていることにしたの。だから、じゅもんさえわかれば、あたしが戸を開けて、おばさんの砂糖つぼや瀬戸物の入ってる本箱じゃなしに、ケティ・モーリスが住んでいる部屋にすっと入れるはずだったの。そうすると、ケティ・モーリスがあたしの手を取って、年中日が照って、花が咲いてる、ふしぎな妖精の国に連れて行くの。そしてあたし達そこでいつまでも幸福に暮らすのよ。ハモンドのおばさんと一緒に住むことになった時、ケティ・モーリスを残して行くのがとても悲しかったわ。あの子もあたしと同じ気持ちだったのよ。本箱の戸の向こうからあたしにお別れのキスをしてくれた時、あの子泣いてたもの。ハモンドのおばさんのとこには本箱はなかったけど、家からちょっとはなれた川上に、細長い小さな緑の谷があって、とてもすばらしい山びこが住んでいたの。特別大きな声を出さなくても、こちらで言ったことは皆ちゃんと返って来るのよ。だからあたし、その山びこは、ヴィオレッタという名前の小さな女の子だってことにしたの。あたし達とても仲のいいお友達だったのよ。ケティ・モーリスと、だいたい同じくらいヴィオレッタが好きだったわ――まったく同じじゃなくて、だいたい同じというところよ。孤児院に行く前の晩、ヴィオレッタにさようならを言ったの。そしたらねえ、それはそれは悲しそうな声で向こうもさようならって言い返してきたのよ。あたし、ヴィオレッタにとてもひかれてしまったので孤児院じゃ心の友のことを考える気になれなかったの。たとえ空想の余地があったとしてもね」
「空想なんかしない方がましだよ」マリラはにこりともせずに言った。「そういうふるまいは感心しないね、あんたは自分の空想することは半分ぐらいほんとうだと思ってるようだね。生きたほんものの友達を作って、そんなばかなことは忘れる方があんたのためだよ。だけど、バリーの奥さんに、ケティ・モーリスやヴィオレッタの話を聞かせないようにしておくれ。でないと、あんたがいいかげんなことを言ってると思われるからね」
「あら、なんにも言わないわ。みんなに話せるようなことじゃないのよ――とても神聖な思い出なので、そんなことしたくないの。でも、おばさんには知っていただきたいと思ったの。あら、ごめんなさい、大きなみつばちがりんごの花からとび出してきたわ。なんてすばらしい住み家なんでしょう――りんごの花って。風にゆらゆらゆれながら、花の中でねむりにつくのね。もしあたし人間の女の子でなかったら、みつばちになって、花にかこまれて暮らしたいわ」
「きのうはかもめになりたいって言ってたね」マりラは鼻であしらった。「あんたは猫の目のようによく気が変わるね。おしゃべりしないで、お祈りをおぼえるように、言っただろう。でも話し相手がいると、おしゃべりがやめられないようだね。それじゃ、自分の部屋《へや》に行って、おぼえなさい」
「あら、もうほとんど全部おぼえたわよ――あとはおしまいの一行だけよ」
「さあ、いいから、言われた通りになさい。自分の部屋に行って、しまいまでちゃんとおぼえてしまうといい。お茶のしたくを手伝ってもらう時に、声をかけるから、それまでずっといるんだよ」
「りんごの花を一緒に持って行ってもいい」とアンはたのんだ。
「いけません。部屋に花をちらすといけないから。それに第一、枝を折っちゃいけなかったんだよ」
「あたしもちょっとそんな気がしたのよ」とアンは言った。「花をつんで、せっかくの美しい命をちぢめたらいけないような気持ちがしたの――もしあたしがりんごの花だったら、つまれるのがいやですもの。でも、誘惑に勝てなかったの。とても勝てないような誘惑に出会ったら、おばさんどうする?」
「アン、部屋に行きなさいというのが聞こえたの?」
アンは溜息をついて、東の切妻の部屋にひっこむと、窓ぎわの椅子にすわった。
「ほら――このお祈りおぼえたわ。おしまいの一行は二階に上がって来る時おぼえたし。さあ、この部屋にほしいものをあれこれ考えて、それがいつもあるんだということにしよう。床には、一面にピンクのばらの模様がある白いビロードのじゅうたんがしいてあって、窓にはピンクの絹のカーテンがさがっている。壁には金と銀のつづれにしきがかけてあるの。家具はマホガニーよ。マホガニーって見たことないけど、とても豪華に聞こえるわ。これは長椅子で、ピンクや青や深紅や金の、豪華な絹のクッションがうず高くつんであるの。あたしはこの長椅子にしとやかにもたれかかってるのよ。壁にかかってるりっぱな大鏡には、あたしの姿が映ってるの。あたしは背が高くて、堂々としていて、白レースのすその長いガウンを着て、胸には真珠の十字架をかけ、真珠の髪飾りをつけてるの。あたしの髪の毛は真夜中のようにまっ黒で、肌はすきとおった象牙のように青白い。あたしの名前はコーデリア・フィッツジェラルド姫よ。いいえ、だめだわ――本気になれないわ」
アンはおどるような足どりで小さな鏡の前まで行ってのぞきこんだ。するとそばかすだらけのとがった顔と、まじめくさった灰色の目がアンを見返した。
「あんたはただの『グリーン・ゲイブルズ』のアンよ」彼女は真顔で言った。「あたしがコーデリア姫なんだと空想しようとするたんびに、あんたの顔が見えるのよ。ちょうど今みたいにね。でも、どこの誰だかわからないアンよりも『グリーン・ゲイブルズ』のアンの方がずっとずっといいわね」
アンは前にかがんで、鏡にうつる自分の姿にやさしく口づけすると、あけひろげた窓の方に行った。
「『雪の女王』さま、こんにちは。こんにちは、窪《くぼ》地の樺の木さん。こんにちは、丘の上の灰色の家さん。ダイアナはあたしの心の友になってくれるかしら。そうだといいな。そしたらあたしもダイアナをうんと好きになってあげるんだけど。でも、ケティ・モーリスやヴィオレッタのこともぜったいに忘れちゃいけないわ。もし忘れたら、あの子達きっと気を悪くすると思うし、あたし、誰の気持ちも傷つけたくないわ。たとえ相手が本箱の女の子や、山びこの女の子でもね。あの子達を忘れないように気をつけてて、毎日キスを送ってあげなくちゃ」
アンは桜の花の方に投げキスを二つ送ってから、頬杖《ほおづえ》をついて、果てしもない空想の海へとゆらゆらと漕ぎ出して行った。
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第九章 リンド夫人すっかり恐れをなす
リンド夫人がアンを見にやって来たのは、アンが「グリーン・ゲイブルズ」にひきとられてから二週間もたってからだった。これをレィチェル夫人のせいにするのは、少々気の毒というものだった。時ならぬ悪性の流感にかかったため、この善良な夫人は心ならずも、この前の「グリーン・ゲイブルズ」への訪問以来、家にひきこもるはめになったのだった。レィチェル夫人はめったに病気にかからなかったので、病人をはっきり軽蔑していた。しかし、夫人によると流感だけは例外で、この病気になるのは神さまの特別の思し召しとしかとりようがないというのだった。医者に外出を許されるやいなや、夫人は「グリーン・ゲイブルズ」に飛んで行った。マシュウとマリラのひきとったみなしごを見たくてたまらなかったのだ。この子についてはさまざまなうわさや憶測がアヴォンリーに広まっていた。
アンはその二週間というもの、目がさめている間は一瞬たりともむだにしなかった。もう家のまわりの木やかん木とは残らず近づきになっていたし、りんごの果樹園の下に小道が通っていて、細長い森の中へ続いていることも知っていた。アンはその道のいちばんはずれまで出かけて行って、小川や橋、樅《もみ》の雑木林やアーチ形になった山桜の木、しだの茂った片すみ、もみじや、ななかまどが枝をのばしている細い道などを思うさま楽しんだ。
アンは窪《くぼ》地の泉となじみになった――深い、澄みきった、氷のように冷たい、すばらしい泉だった。すべすべした赤い砂岩が底に沈んでいて、まわりには大きなしゅろのような水しだが茂っていた。泉の向こうには小川が流れていて、丸木橋がかかっていた。
アンが飛びはねながら橋を渡って行くと、木におおわれた丘に出た。そこは、樅やえぞまつが天に向かってうっそうと茂っているので、昼でもうす暗かった。咲いている花といえば、森の花の中でもぬきんでてしおらしく、愛らしい釣鐘草がそのきゃしゃな花を無数につけているし、去年の花の精にも似た、数本の青白いスター・フラワーが風にそよいでいた。木々の間に張りめぐらされたくもの巣はかすかに光り、まるで銀の糸のようだった。樅の枝と花々は親しそうに話をしているみたいだった。
アンを夢中にした、こういった探検の数々はすべてたまたま遊びに行ってもいいと言われた三十分かそこらの間に行なわれた。アンは自分の見つけたものについてマシュウとマリラに報告したが、二人ともろくに聞いていないようだった。と言っても、マシュウはうるさがるどころか、黙って楽しそうににこにこしながら話の一部始終に耳を傾けた。マリラも「おしゃべり」を聞いているうちに、自分がそれに夢中になっているのに気づくと、即座にアンに「おだまり」とぶっきらぼうに命じるのだった。
レィチェル夫人がやって来た時、アンは果樹園にいて、風にゆれる青草が、燃えるような夕日をうけて、まだらに染まっているなかを、足の向くまま、のびのびと歩きまわっていた。そのため善良な夫人は自分の病気のことを心ゆくまで話すことができてご機嫌《きげん》だった。どんなに痛い目に会ったとか、脈はくがどうだったとか細大もらさずいかにも楽しそうに話すので、マリラは流感のようなものにも、多少は捨てがたいところがあるのかもしれないと思ったほどだった。何もかも言いつくしてしまうと、夫人は訪ねて来た、ほんとうのわけをはじめて話した。
「あんたとマシュウのことでびっくりするようなことを聞いてますよ」
「びっくりしているのはわたしの方ですよ」とマリラは言った。「もっとも、今じゃ、だいぶ落着きましたけどね」
「あんな手違いがあったなんてまったくとんだことでしたね」レィチェル夫人は気の毒そうに言った。「その子を送り返すわけにはいかなかったんですか?」
「返せないこともなかったでしょうけど、そうしないことにしたんです。マシュウがあの子を気にいってしまいましてね。実を言うと、わたしもあの子が好きなんですよ――もちろん欠点がないとは言いませんけどね。来たばかりだけど、あの子のおかげで、家の中がにぎやかになりましたよ。ほんとにほがらかな子です」
レィチェル夫人が不満そうな顔つきをしているのを見ると、マリラははじめは言うつもりがなかったことまでつい言ってしまったのだった。
「たいへんな責任をしょいこんだもんですね」夫人は顔をしかめて言った。「ことにあんたなんか子供を育てたことがないんだから。あんたはその子のことも、その子のほんとうの性質もよく知らないんでしょう。それに、その子が大きくなってどんな人間になるかわかったもんじゃない。でも、わたしは決してあんたをがっかりさせるつもりじゃないんですよ、マリラ」
「がっかりなんかしてませんよ」とマリラはそっけなく答えた。「わたしはいったんこうしようと決めたら、それっきり変えないたちなんでね。アンにお会いになりたいでしょう。なかに呼びましょう」
まもなくアンがかけこんで来た。果樹園の散歩を楽しんできたばかりだったので、生き生きした顔をしていたが、思いがけなくお客が目の前にいるのに気づくと、はにかんで扉の前で当惑したように立ち止まった。その姿はどうみても奇妙というほかはなかった。孤児院にいた時のままの、つんつるてんの窮屈な交織の服を着て、裾《すそ》からはみだしたか細い足は見苦しいほどひょろ長く見えた。そばかすはいつもよりも数が多く、めだって見えた。無帽の髪は風に吹かれてくしゃくしゃに乱れ、燃えるように赤かった。この時ほど髪が赤く見えたことはなかった。
「なるほどね、器量で選ばれたんでないことは確かだね」レィチェル・リンド夫人は一段と声を強めて言った。夫人は相手のおもわくなどかまわずに、思った通りのことをずけずけ言うのを自慢にしている、気のいい愛すべき人物だった。「ひどくやせっぽちで無器量ときているね、マリラ。さあ、こっちへ来て、おばさんに顔を見せておくれ。まあまあこんなひどいそばかすもめったにないね。それににんじんみたいな髪の毛をして。さあこっちへお出でといったら」
アンは[そこへ行った]ことは確かだが、レィチェル夫人が予期していたのとは少々違っていた。一足とびに台所の床をつっきると、レィチェル夫人の面前に仁王立ちとなった。顔は怒りに燃え、くちびるはわななき、ほっそりしたからだは頭のてっぺんから足の爪先まで震えていた。
「あんたなんかきらいよ」アンは床の上で足をふみならしながら、声をつまらせて叫んだ。「きらいき――らい――大きらいよ――」きらいと言うたびに、足をふみならす音はますます高くなっていった。「よくもあたしのこと、やせっぽちで、無器量だなんて言えたわね。よくもそばかすだらけで、赤毛だなんて言えたわね。あんたは不作法で、失礼で、思いやりのない人ね!」
「アン!」マリラはびっくりぎょうてんして叫んだ。
しかしアンは少しもひるまず、依然としてレィチェル夫人の前に立ちはだかっていた。頭を昂然と上げ、目をぎらぎらさせ、こぶしを固めて、激しい憤りの言葉を、まるで蒸気のように吐き出していた。
「あたしのことよくもそんなふうに言えたわね」とアンは激しくくり返した。「もしあんたがそんなふうに言われたら、どんな気がする? でぶで、ぶかっこうで、ひとかけらの想像力も持ってないらしいなんて言われたらどう? こんなこと言って、あんたの気にさわったって構うもんか! むしろそうしたいくらいだ。トマスのおばさんの酔っぱらいのだんなさんだって、あんたほどひどくあたしの気にさわることなんか言わなかった。ぜったいにあんたなんか許すもんか、どんなことがあったって、決して!」
どしん! どしん!
「こんなかんしゃくもちってあるだろうか?」レィチェル夫人は恐れをなして叫んだ。
「アン、自分の部屋に行きなさい。わたしが行くまで部屋から出るんじゃないよ」ようやく口がきけるようになるとマリラは言った。
アンはわっと泣き出すと、ホールの扉に向かって突進し、それをばたんとしめた。その激しさといったら、玄関の外壁にかかっていたブリキ鑵が、それにつれてカタカタと音をたてるほどだった。それからアンはつむじ風のように広間をかけぬけ、階段をかけ上がった。二階から、多少低めではあるが、やはりばたんという音が聞こえてきたので、東の部屋の扉も同じように乱暴にしめられたことがわかった。
「まあ、あんな子を育てるなんてわたしゃごめんだね、マリラ」とレィチェル夫人はおごそかな口調で言った。
マリラは口を開いて、何ともお詫びのしようもないというつもりだった。しかし実際に口をついて出たのは、その時だけでなく、あとになって思い出してみても、マリラの意表をつくものだった。
「器量のことで、あの子にとやかく言わない方がよかったと思いますよ、レィチェル」
「マリラ・カスバート、たった今あんなひどいかんしゃくを起こしたというのに、あんたまさか、あの子をかばうつもりじゃなかろうね?」レィチェル夫人はかんかんになって言った。
「いいえ」マリラはゆっくりと答えた。「わたしはあの子を見のがそうとしてるんじゃないですよ。あんなに悪いことをしたんだからよく意見してやる必要があります。でも多少は大目にみてやらなくちゃ。あの子はちゃんとしつけをされたことがないんですからね。それに、あんたはどうみてもあの子につらく当たり過ぎましたよ、レィチェル」
マリラはそんなことを言う自分に再度びっくりしながらも、最後の文句をつけ加えずにいられなかった。レィチェル夫人は威厳を傷つけられたといった様子で立ち上がった。
「やれやれ、これからは気をつけてものを言わなくちゃならないということがわかりましたよ、マリラ。どこの馬の骨だかわからないみなしごの気持ちをまっ先に考えなくちゃいけないんだからね。いいえ、怒ってなんかいませんよ――どうぞご心配なく。あんたが気の毒で怒る気にもなれませんよ。これからもあの子には手を焼くでしょうからね。でももしわたしの忠告を聞き入れるのなら――あまり聞きそうもないけどね。十人の子供を育てあげ、二人を死なせたこのわたしの言うことでも――その『意見』とやらは、頃合いの大きさの樺《かば》のむちでやるべきですよ。その辺がああいう子を叱るには一番ききめがありそうですからね。あの子の気性はあの髪の毛の通りだと思いますよ。ではさようなら、マリラ。これまで通りちょくちょく遊びに来てくださいな。でもわたしの方は当分失礼するかもしれませんよ。こんな具合にやっつけられたり、馬鹿にされたりするんじゃね。あとにも先にも、こんな目に会ったのははじめてですよ」
そう言うとレイチェル夫人はさっと出て行った――いつもよちよち歩いているふとった女の人にそれがあてはまるかどうかは別として――そしてマリラはいとも深刻な顔つきで東の部屋に出かけた。
二階に上がって行きながら、マリラはどうしたらいいだろうと思案した。先ほどくりひろげられた光景にすっかり度を失っていた。よりによってレィチェル・リンド夫人の前であんなかんしゃくを起こすなんて、何て運が悪いんだろう! その時マリラは突然、自分がこんなにひどいアンの欠点を見出して悲しむより、このことを恥じ入る気持ちの方が強いことに気づき、居心地の悪い自責の念にかられた。ではどうやってアンを罰したらいいのだろう? 樺のむちのききめは、レィチェル夫人の子供達を見れば明らかだったが、このせっかくの入れ智恵もマリラの気に入らなかった。子供をむちでひっぱたくなんてマリラにはとてもできそうになかった。いや、何かほかの罰し方でアンに自分の罪の重さをはっきり思い知らさせなくては……
マリラが部屋に行ってみると、アンは寝台にうつぶせになって、おいおい泣いていた。きれいなかけぶとんの上に、泥だらけの靴のまま上がっていることも頭にないようだった。
「アン」マリラはなるべく穏やかに言った。
答えはなかった。
「アン」前よりも声をぐっと強めて言った。「すぐに寝台からおりて、わたしの言うことを聞きなさい」
アンはもぞもぞと寝台からおりると、わきの椅子に身を固くしたまま腰をおろした。顔ははれあがって、涙にぬれ、目はかたくなに床に向けられていた。
「結構なお行儀だね、アン。恥ずかしくないのかい?」
「あの人があたしのこと、無器量で赤毛だなんて言う資格ないわ」アンは言い返した。いかにも承知できないといった反抗的な態度だった。
「あんたもあんなにかっとなって、あの人にあんな口のきき方をする資格はないんだよ、アン。わたしはほんとに恥ずかしかったよ――見ていられなかった。リンドの奥さんには行儀よくふるまってもらいたかったのに、あんたときたら、その代りに、わたしに恥をかかせるんだからね。リンドさんに赤毛で無器量だと言われたぐらいで、なぜあんなにかんしゃくを起こすのか、わたしにはさっぱりわからないよ。自分でおんなじこと、しょっちゅう言ってるじゃないか」
「だって、自分でそう言うのと、人に言われるのとでは大違いよ」アンは泣きわめいた。「自分ではそうだとわかっていても、ほかの人達がそう考えなければいいなとどうしても思っちゃうのよ。おばさん、わたしのことひどいかんしゃくもちだと思ってるでしょうけど、しかたがなかったのよ。あの人があんなことを言った時、何かがこみあげてきて、息がつまりそうになったの。黙っているわけにはいかなかったのよ」
「やれやれ、まったくいい恥をさらしたもんだよ。リンドさんは、行く先ざきであんたの噂《うわさ》をふりまくのにいい種を仕入れたんだよ――いや、あの人のことだから、やるにきまってる。あんなふうに怒り出すなんてほんとにいけないことだよ、アン」
「もし誰かがおばさんに面と向かって、お前はやせっぽちで無器量だと言ったらどんな気がするか、まあ考えてもごらんなさい」アンは涙ながらに訴えた。
突然、古い記憶がマリラの心によみがえった。ごく小さい時に、おばの一人がもう一人のおばに「かわいそうに、なんて色のまっ黒な、無器量な子なんだろう」と言っているのを耳にしたことがあった。マリラの身からその時の苦痛が消え失せるまでには五十年という歳月が必要だった。
「リンドさんがあんたにあんなことを言っていいとはわたしも思わないよ、アン」マリラは前よりもいくらか声を柔らげた。「レィチェルはずけずけものを言いすぎる。でも、そうだからといって、あんたがあんな態度をとってもいいことにはならないよ。はじめて会った人だし、年も相当だし、それに家にみえたお客じゃないか――この三つのうちどれをとってもあの人に丁寧《ていねい》にしなくちゃならないりっぱな理由になるんだよ。あんたは無作法で、なまいきで、その上」――その時ふいにマリラの頭にすばらしい罰の方法がひらめいた。――「あの人の所に行って、かんしゃくを起こして申しわけありませんでした、どうぞお許しください、と言って来なさい」
「そんなことぜったいにできないわ」アンはけわしい顔つきできっぱりと言った。「どんなでも好きなようにあたしを罰してください、マリラ。蛇やとかげが住んでる、暗い、じめじめした地下牢にあたしをとじこめて、パンと水だけしかくれなくてもいいわよ。あたし、文句言わないから。でも、リンドさんに、許してください、なんてとても言えないわ」
「今わね、暗いじめじめした地下牢に人をとじこめるなんてことは誰もやらないよ」とマリラはそっけなく言った。「特にアヴォンリーじゃ地下牢なんて聞いたこともないよ。でもリンドさんにはなんとしてもあやまらなくちゃならないし、またきっとそうさせるからね。すすんであやまりに行く決心がつくまではずっとこの部屋にいなさい」
「そんなら、いつまでもここを出られないわ」とアンは悲しそうに言った。「リンドさんに、あんなことを言ってすみませんでしたなんてとても言えないわ。どうして言える? 悪いなんて思ってないもの。おばさんを困らせたのは申しわけないと思うわ。でも、あの人にはあれくらいのこと言ってよかったと思ってるのよ。ほんとにすっとしたわ。悪いと思ってないのに、すみませんなんて言えないじゃない? そんなこと想像することも無理なくらいよ」
「たぶんあんたの想像力も明日の朝までにはもっとうまく働くようになってるだろう」マリラは出て行こうと思って立ち上がりながら言った。「一晩自分のしたことをよく考えて、心を入れかえなさい。あんたは、『グリーン・ゲイブルズ』に置いてくれるんだったら、いい子になるようにつとめると言ったけど、今夜のあんたはそれとはほど遠いようだよ」
怒りたけるアンにこうした捨てぜりふをつきつけると、マリラは台所におりて行った。心は千々に乱れ、どうしたらよいのかわからなかった。マリラはアンに対してだけでなく、自分自身にも腹がたった。レィチェル夫人のぼうぜんとした顔を思い出すたびに、おかしさがこみ上げてきて、口もとがおのずとほころび、悪いとは知りながらも、大声をあげて笑いたくてたまらなかったからである。
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第十章 アンのおわび
マリラは晩になっても、昼間の騒ぎのことはマシュウに何も言わなかった。しかし、翌朝になっても、アンがまだ言うことを聞かないので、アンが朝ごはんを食べにおりてこない理由を説明しないわけにいかなくなった。マリラは、アンの行儀がひどいことをマシュウにわからせようとしきりにつとめながら、一部始終を語った。
「レイチェル・リンドなんかやっつけられてよかったんだよ。おせっかいなおしゃべりばあさんだからな」マシュウはまあいいさ、と言った調子で答えた。
「マシュウ・カスバート、あんたにはあきれますわ。アンがひどいふるまいをしたと知りながら、あの子の肩を持つんですからね! この次には、全然罰なんかいらないって言うんでしょう」
「そうさのう――いや――そんなことないよ」マシュウはもじもじしながら言った。「ちっとはこらしめてやらなきゃなるまい。しかし、あの子にはあんまりきびしくせんでくれ、マリラ。ちゃんとしたしつけをしてくれる人がいなかったということを忘れんようにな。おまえ――とにかく、あの子には何か食べさせてやるんだろうね?」
「わたしが行儀を直すために人にひもじい思いをさせたなんて聞いたことあるんですか?」マリラは怒ってたずねた。「食事はきちんとさせますよ。わたしが自分で運んで行ってやります。でも、あの子がリンドさんの所にあやまりに行く気になるまでは、部屋から出しませんからね。ようござんすか、マシュウ」
食事は朝、昼、晩ともひっそりしていた――アンが相変わらず強情を張っていたのだった。自分達の食事がすむたびに、マリラは盆にごちそうをいっぱい並べて、東の部屋に運んで行き、あとでさげに行ったが、お盆の上のものにはほとんど手がつけられていなかった。マリラが食事をさげてくると、マシュウは心配そうなまなざしを向けるのだった。アンはいったい少しは何かを口にしたのだろうか?
その晩、マリラが裏の牧場にいる牛をよびもどすために外に出て行くのを見とどけると、納屋のあたりをうろつきながら機を窺《うかが》っていたマシュウは、どろぼうのようにこっそりと家に入り、足音を忍んで二階に上がって行った。ふだんマシュウは台所と、ホールの端にある小さな自分の寝室の間を行ったり来たりするだけだったが、たまに牧師がお茶を飲みに来た時に、思いきって客間の中にもじもじしながら入って行くことがあった。しかし、春にマリラが客用の寝室の壁紙をはるのを手伝って以来、自分の家だというのに、二階には一歩も足を踏み入れていなかった。しかもそれは四年も前のことだった。
マシュウはこっそりとホールを通って行った。東の部屋の扉の前まで来ると、ためらって、数分間立ち止まっていた。しかし、ようやく勇気をふるいおこすと、扉をこつこつとたたいて開け、部屋の中をのぞきこんだ。
アンは窓ぎわの黄色の椅子にすわって、悲しそうに庭をじっと見ていた。その小さい、みじめな姿を見て、マシュウは胸をしめつけられるような気がした。そっと扉をしめると、忍び足でアンに近づいた。
「アン」彼はささやいた。まるで人に聞かれるのを恐れているかのようだった。「どんな具合かね、アン?」
アンは力なく微笑んだ。
「まあまあね。いろんなこと空想してるの。そうすると時間のたつのがわからないでしょう。もちろん、淋しいことは淋しいわ。でも、それに慣れてしまう方がいいかもしれないわ」アンは再び微笑んだ。この先どれほど長く、一人淋しく閉じこめられてもくじけないといわんばかりだった。
マシュウは、ここに来た用件をすますのにぐずぐずしてはいられないと言うことを思い出した。マリラが早目に戻って来ないとは限らなかった。
「ところでなあ、アン、あれをやって、すましてしまった方がいいとは思わんかね?」彼はささやいた。「どうせ遅かれ早かれやらなくちゃならんのだよ。マリラは言い出したらぜったいあとにひかない女だからね――恐ろしくがんこなんだよ、アン。なあ、すぐにやって、すましておしまい」
「リンドさんにあやまれってことなの?」
「そう――あやまるんだよ――そのものずばりだよ」マシュウは熱心に言った。「つまり、まるくおさめるんだよ。わしが言おうとしていたのはそれなんだよ」
「おじさんのためならできると思うわ」アンは考えこみながら言った。「あたしがすみませんでしたと言っても、うそにならないわよ。今、あたし、ほんとに悪かったと思ってるもの。きのうの晩はちっとも悪いと思わなかったわ。かんかんに怒ってたのよ。一晩中ずっとそうだったわ。だって、あたし、夜中に三度、目をさましたんだけど、そのたんびに腹がたってたまらなかったの。でも、けさはすっかりおさまったわ。もう怒ってなんかいなかったのよ――そのうえ、とても気がぬけたみたいだったわ。自分がとても恥ずかしかったの。でも、リンドさんの所に行ってそう言うなんてどうしても考えられなかったわ。とてもなさけないんですもの。そんなことするぐらいなら、いつまでもここにとじこもっていようと決心したの。でも――おじさんのためなら何でもするわ――もしおじさんがほんとうにあたしにそうしてほしいなら――」
「そうさのう、もちろん、そうしてほしいよ。階下《した》はおまえがいないと火が消えたようだよ。とにかく行ってまるくおさめてきなさい――いい子だから」
「いいわ」とアンはあきらめて言った。「マリラが来たらすぐに、あたし後悔してると言うわ」
「それがいい――それでいいんだよ、アン。だけど、こんどのことでわしが何か言ったなどとマリラに言わんでくれ。わしがおせっかいをしてると思うかもしれんからね。くちばしをいれないと約束したんだよ」
「荒馬(人の両足を別々の荒馬にくくりつけて、これをいっせいに走らせる拷問と死罪の一種。アンはこれをなまはんかにかじったもの)がやって来てもこの秘密はもらさないわ」アンはおごそかに約束した。「それにしても荒馬はどうやって人の秘密をさぐり出すのかしら?」
しかしマシュウはもういなかった。あまりうまくいったので、我ながら信じられないくらいだった。自分のしたことをマリラに感づかれたら大変と、馬の放牧地の一番はずれまで一目散に逃げて行った。マリラはマリラで、家に帰るなり、手すり越しに「マリラ」と呼んでいる訴えるような声を聞いてびっくりするやら、うれしいやらだった。
「それで?」マリラはホールに入りながらたずねた。
「かんしゃくを起こして、失礼なことを言ったりしてすみませんでした。リンドさんの所に行って、そう言ってきたいと思います」
「わかったよ」マリラのそっけない答にはほっとした様子はみられなかった。しかし心の中では、もしアンがこのまま折れなかったら、いったいどうしたらいいだろうと案じていたのだった。「乳|搾《しぼ》りがすんだら連れてってあげるからね」
そんなわけで、乳搾りがすむと、マリラとアンは小道を歩いて行った。マリラは胸をはって、意気揚々としていたが、アンはうなだれて、元気がなかった。しかし途中で、アンはまるで魔法にかけられたみたいに元気をとりもどした。頭を上げると、夕空に向かって目をすえ、浮き浮きする気持ちをじっと押えているというふうで、足どりも軽く歩いて行った。マリラは承服しがたいもののようにその変化をながめた。どうみても、ご機嫌ななめのリンド夫人の面前にひっぱって行けるような、すなおに悔い改めた人の姿とは見えなかったからだ。
「何を考えてるんだい、アン?」マリラはつっけんどんにたずねた。
「リンドさんに何て言ったらいいのか考えてるのよ」アンは夢心地で答えた。
これでは文句のつけようがなかった――いや、つけられるはずはなかった。しかしマリラは、自分がこらしめようと考えていた通りには事が運んでいないような気がしてしかたがなかった。アンがこんなにうっとりと顔を輝かせるいわれはないのだ。
アンのうっとりした輝かしい表情はリンド夫人の面前に出るまで続いた。夫人は台所の窓ぎわにすわって編物をしていた。しかし夫人の顔を見たとたん、アンの顔はさっとくもった。後悔の気持ちが沈んだ顔ににじみ出ていた。ひとことも言わずに、いきなりアンは、あっけにとられているレィチェル夫人の前にひざまずき、どうぞお許しくださいというように両手をさし出した。
「ああリンドおばさん、ほんとうにすみませんでした」アンは震え声で言った。「あたしがどんなに後悔しているか、辞書の言葉を全部使っても、とても言いつくせません。だから想像していただくほかはないのです。あたし、おばさんにひどいふるまいをしました――そして、お世話になってるマシュウとマリラに恥をかかせたんです。お二人は、男の子でないあたしを『グリーン・ゲイブルズ』に置いてくださったというのに。あたしはとてもいけない、恩知らずの子なんです。おしおきを受けて、立派な人達から見捨てられても当たり前なんです。おばさんがほんとうのことをおっしゃったからって、かんしゃくを起こしたあたしがいけなかったんです。あれは確かにほんとうのことなのです。おばさんのおっしゃったことはみんなほんとうなんです。あたしは赤毛で、そばかすだらけで、やせっぽちで、無器量なんです。あたしがおばさんに言ったこともほんとうだけど、そんなこと言っちゃいけなかったんです。ああリンドおばさん、どうぞ、あたしを許してください。もし許してくださらなかったら、あたし一生悲しい思いをするでしょう。いくらかんしゃくもちだからって、かわいそうなみなしごを一生悲しませたいとは思わないでしょう? ああきっとそんなことはなさらないと思うわ。どうぞ許すとおっしゃってください、リンドおばさん」
アンは両手をしっかりと組み合わせると、うなだれて、裁きの言葉を待った。
アンが心から悔いているのを疑うことはできなかった――声を聞いただけでそれは明らかだった。マリラもリンド夫人もそれが真情を吐露したものであることを認めた。しかしマリラの方は、アンがほんとうは屈辱の谷間(十七世紀の宗教家ジョン・バンヤンの「天路歴程」の中に出ている)にいるのを面白がっていることを知り、大いにうろたえた――それは自分をあくまでいためつけることで悦に入っているようなものだった。マリラが自慢していた、健全なしおきはどうなってしまったのだろうか? アンはそれをまったくの快楽にすりかえてしまったのだった。
人のいいリンド夫人は、もともとあまり眼はしのきく方でもなかったので、これには気づかなかった。アンが平あやまりにあやまったとのみ思いこみ、多少おせっかいなところはあっても、根が心やさしい夫人は、すっかり機嫌をなおしてしまった。
「さあ、さあ、お立ち」夫人はやさしく言った。「もちろん、許してあげるよ。どっちにしろ、あんたにはちょっとつらく当たり過ぎたようだね。でもね、わたしは、あんなふうにずけずけものを言う人間なんだよ。まあ気にしないことだよ、ほんとに。あんたの髪の毛はひどく赤いには違いない。でも、あたしが昔知ってた女の子は――実はその子と一緒に学校に通ったんだよ――小さい時に髪の毛があんたみたいにまっ赤だったけど、大きくなったら、ほんとうにみごとな金褐色になったよ。あんたがそうなっても、わたしはちっとも驚かないさ――ああちっともね」
「まあリンドおばさん!」アンは立ち上がりながら深く息を吸った。「おばさんはあたしに希望を与えてくださったんだわ。これからおばさんのこと恩人だと思います。あああたしの髪が大きくなれば、きれいな金褐色になるんだと思ったら、あたし、どんなことだってがまんできるわ。もし髪がきれいな金褐色だったら、いい子になるのも決して難かしくないとお思いにならない? ねえ、お二人がお話している間、庭に行って、りんごの木の下のベンチにすわってていい?、あそこの方がずっと空想の余地があるんですもの」
「ああ、いいとも、走って行きなさい。それから、もしよかったら、すみに咲いてる白いゆりをつんでもいいよ」
アンが扉をしめて出て行くと、リンド夫人は勢いよく立ち上がって、ランプに火をともした。
「ほんとに変わった子だね。こっちの椅子におかけなさい、マリラ。あんたが今すわっているのより楽ですよ。それは手伝いの男の子をすわらせる椅子なんですよ。そう、あの子は確かに変わっている。でもあの子にはどこか人をひきつけるところがあるようですね。わたしはもう、あんたとマシュウがあの子を家に置くのを見ても驚かない――また気の毒だとも思いませんよ。あの子はさきざきなんとかなるでしょう。もちろん、あの子の口のきき方は一風変わってるけど――ちょっと――そう、何となく大げさみたいでね。でもこうしてもののわかった人達の間で暮らすようになったんだから、いずれ直るでしょうよ。それにすぐにかんしゃくを起こすらしいとこもある。でもかんしゃくもちで、すぐかっとなって、じきさめるたちの子は、幸いなことに、ずるいことをしたり、人をだます恐れは決してありませんよ。わたしはずるい子はごめんだ、ほんとに。なんのかのと言っても、わたしは何だかあの子が気に入りましたよ、マリラ」
マリラがいとまを告げると、アンが白い水仙の花束を持って、芳《かぐわ》しい、たそがれの果樹園から出て来た。
「わたし、かなり上手におわびしたでしょう?」小道を歩きながら、アンが誇らしげに言った。「どうせするんなら、徹底的にやった方がいいと思ったのよ」
「確かに徹底していたよ、十分すぎるくらいだ」とマリラは言った。思い出すと笑い出しそうになる自分に気づき、マリラはうろたえた。
その上、上手にあやまり過ぎたことでアンを叱るべきだと思うと不安の念がこみあげてきた。しかし考えてみれば、それもばかげている! 結局、きびしく注意することで、その場はおさまった。
「もうあんなおわびをするようなことは二度とごめんだよ。むかっ腹を立てないようにしてもらいたいね、アン」
「みんながあたしの顔かたちのことをなんのかんのと言いさえしなければ、なんでもないんだけど」アンは溜息をつきながら言った。「ほかのことだったら怒らないんだけど、いやというほど髪の毛のこと言われてきたんで、ついかっとなっちゃうのよ。大きくなったら、ほんとにあたしの髪、みごとな金褐色になると思う?」
「あんまり自分の顔かたちのことを考えちゃいけないよ、アン。あんたはどうもひどくみえっぱりのようだね」
「自分が器量が悪いと知ってて、どうしてみえっぱりになれる?」アンは口をとがらせて言った。「あたしはきれいなものが好きなの。鏡をのぞいて、きれいでないあたしの顔がうつると、がっかりよ。とても悲しくなっちゃうの――何か醜いものを見た時のような気持ちになるの。美しくないのがかわいそうに思えて」
「みめより心」
マリラはことわざを引き合いに出した。
「そのことわざ、前に聞いたことあるけど、あたしは信じないわ」水仙のにおいをくんくんかぎながら、疑い深いアンは言った。「まあ、よいかおりのする花ね! これをくださるなんて、リンドのおばさんは親切だわ。あたしもう、リンドのおばさんをうらんでないわ。おわびして、許してもらうって、とてもいい気持ちのものね。今夜は星がとてもきれい。もし、星に住めるんだったら、どの星がいい? あたしはあの暗い丘の上に光ってる、きれいな、明るい、大きい星がいいわ」
「アン、お黙りって言うのに」くるくる変わるアンの考えについて行くのに疲れ果ててマリラは言った。
二人が家の前の小道に入るまで、アンは何も言わなかった。そよ風が、露にぬれた若いしだのいいかおりを乗せて、二人を迎えた。はるか上手の暗やみに、「グリーン・ゲイブルズ」の台所からもれてくる楽しそうな光が木々の間から輝いていた。突然アンはマリラに身をすり寄せると、年上の女のこわばった掌《てのひら》に片手をすべりこませた。
「家《うち》に帰って行くってすてきね、自分の家とわかっている所に」アンは言った。「あたし、すっかり『グリーン・ゲイブルズ』が好きになってしまったわ。今までどこも好きになったことはないの。自分の家みたいに思えた所はどこもなかったんですもの。ああ、マリラ、あたしとても幸せよ。今ならあたし喜んでお祈りする気がするし、難しいとも思わないわ」
アンのか細い手が、自分の手にふれた時、何か暖かくて快いものがマリラの心にわき上がって来た――多分かつて味わったことのない母性愛の発露かもしれない。そうしたものに不慣れなのと、それがいかにも快いことでマリラはどぎまぎした。あわてて、いつものような平静な気分に戻るために、マリラは教訓をもち出した。
「いい子になったら、あんたはいつも幸せになれるんだよ、アン。そうしたら、お祈りをするのはちっともむずかしいことじゃなくなるよ」
「お祈りをとなえるのとお祈りをするのとはちょっと違うわ」アンは考えながら言った。「でも、あたしは、自分があそこのこずえを吹き渡ってる風だと想像しようと思うの。木にあきたら、ここのしだの上をそよそよと吹いているんだと考えるの――それから、リンドおばさんとこの庭に吹いて行って、花をおどらせるの――それから、クローバーの原っぱの上をさっと一飛びに行くの――そして『輝く湖水』の上を吹いて行って、水面にきらきら光るさざ波をたてるのよ。ああ、風には空想の余地がふんだんにあるわ! だから、今はこれ以上話をするのはやめるわ、マリラ」
「やれやれ助かった」マリラは心からほっとした。
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第十一章 教会学校についてのアンの感想
「どう、気に入ったかい?」とマリラは言った。アンは東の部屋で、ベッドの上にひろげられた三枚の新しい服をながめて立っていた。一つは茶のギンガムで、前の年の夏、行商人が売りに来たのだが、とても丈夫そうにみえたので、マリラがついふらふらと買ってしまったものだった。もう一つは黒と白の格子じまのサテンで、冬に安売りでみつけたものだった。あとの一つは、どうみてもきれいとは言いかねる、青っぽいごわごわした更紗《さらさ》でその週、カーモディの店で手に入れたものだった。
マリラは自分でこれらを仕立てたので、どの服も似たりよったりだった――ひだ一つない身巾いっぱいのスカートが、これまたなんの飾りもない上着につづいていた。袖も、上着やスカートと同じようにあっさりしていて、やっと腕が通るぐらいの細さだった。
「気に入ったと思うことにするわ」とアンはにこりともせずに言った。
「そんなことは願い下げだね」マリラは怒って言った。「ああ、わかったよ、気に入らないんだね! どこがいけないんだい? こざっぱりして、清潔で、しかも真新しいというのに?」
「そうよ」
「じゃあ、なぜ気に入らないんだい?」
「だって――だって――きれいじゃないんだもの」アンはしぶしぶ返事をした。
「きれいだって!」マリラは鼻をふんとやった。「わたしはあんたにきれいな服を買ってやろうなんて思わなかったよ。はっきり言っとくけどね、アン、わたしは虚栄心を満足させるなんて、いいこととは思わないね。ここにあるのは、みんなちゃんとした、丈夫で、どこにでも着ていかれる服なんだよ。よけいな飾りやふちどりもついてないしね。この夏は、この三着ですますんだよ。茶のギンガムと青の更紗は、あんたが学校に行くようになったら役に立つだろう。サテンは教会と教会学校に行く時に着なさい。服はいつもこざっぱりと、清潔にしておいてもらいたいね。かぎ裂きを作っちゃだめだよ。今まで着てたきゅうくつな交織の服の思いをしたら、たいがい何だってありがたいと思うんだけど」
「あら、あたし、ありがたいと思ってるわ」アンは口をとがらせた。「でも、もし――もし袖のふくらんだ服が一枚でもあれば、もっと、もっと感謝するんだけど。袖をふくらませるのが、今とてもはやってるのよ。あたし、ふくらんだ袖の服を着るだけで、うれしくて胸がわくわくすると思うわ」
「そう、あいにく、ふくらんだ袖に使うような余分なきれは持ちあわせてなかったんだよ。どっちにしても、ふくらんだ袖なんて、おかしなかっこうじゃないか。わたしは何も飾りのないちゃんとした服の方がいいと思うけどね」
「でもあたしだけ何もついてない、ちゃんとしたものを着てるよりは、ほかのみんなと同じようにおかしなかっこうしてる方がいいわ」アンは悲しそうな顔をして言い張った。
「まああきれた! さあ、服をていねいに開き戸棚につるすんだよ。それがすんだら、すわって、教会学校のレッスンを勉強しなさい。ベルさんからテキストをもらって来てあげたから、明日は教会学校に行っておいで」そう言うとマリラはぷんぷん怒って下におりて行った。
アンは両手をしっかり組み合わせて、服をながめた。
「ふくらんだ袖の白い服があればいいなと思ってたのに」アンはがっかりしてつぶやいた。「そんな服をお与えくださいってお祈りしたんだけど、あんまりあてにしてなかったわ。神さまは、みなしごの服のことを心配なさる暇なんかないだろうと思ってたの。服は、マリラをあてにするしかしようがないことはわかってたんだもの。でも幸いなことに、この中の一着は、まっ白なモスリンで、美しいレースのひだ飾りがついてて、袖にはふくらみが三つあるんだと想像できるわ」
翌朝になると、頭痛の兆候《ちょうこう》があったので、マリラは用心して、アンと一緒に教会学校に行くのをやめてしまった。
「リンドの奥さんのとこに寄って行かなくちゃいけないよ、アン」とマリラは言った。「あんたが適当なクラスに入るようにしてくださるからね。じゃあ、お行儀に気をつけなさいよ。クラスが終わったらお説教に残って、リンドさんに、うちの座席を教えてくださるようにお願いしなさい。これは献金に使う一セントだよ。じろじろ人を見たり、そわそわしたりするんじゃないよ。帰ったら、聖書の箇所について話してもらうからね」
アンは黒と白の格子じまのごわごわしたサテンに身をつつみ、非のうちどころのないかっこうをして出かけて行った。服は身丈《みたけ》の点からいえば申し分ないものなので、生地を節約したなどと人からとやかく言われる心配はなかったが、アンのやせたからだのごつごつと骨ばった部分を、一きわ目立たせる結果になるのはさけられなかった。帽子は、小さく、平たく、つやつやした、新品の水兵帽だったが、やはりあまりにあっさりしていることがアンをひどくがっかりさせた。これまでアンはひそかにリボンや花のついた帽子を心に描いていたのだった。しかし、花の方は、アンが街道に出る前に、現実のものとなった。というのは、小道の途中に、こがね色のきんぽうげが咲き乱れて風にゆれており、野ばらがみごとに咲き誇っていたので、アンはすぐに花をたくさんつんで、帽子に思いきりさして飾ったのだった。あとで他人がその帽子を見てどう思おうと、アンは満足だった。ピンクと黄の花飾りを誇らしげに赤い頭にのせて、軽やかにうきうきと道を歩いて行った。
リンド夫人の家に行ってみると、夫人は出たあとだった。アンはびくともせず、一人でそのまま教会に向かった。教会の入口には、白、青、ピンクとりどりの服でそれぞれみんな着飾った小さい女の子達が集まっていて、頭に妙な飾りをのせて自分達の群のなかに飛びこんで来た、この見知らぬ女の子をいっせいに好奇の眼を見張ってじっと見つめた。アヴォンリーの女の子達は、もうアンについて妙な噂《うわさ》を色々聞いていた。リンド夫人は、アンは恐ろしいかんしゃくもちだと言い、「グリーン・ゲイブルズ」にやとわれている男の子のジェリー・ブートは、アンがしょっちゅうひとりごとを言ったり、木や花に話しかけてばかりいて、まるで気違いみたいだと言った。女の子達はアンを見て、テキストのかげでひそひそ話し合った。アンに親しく声をかけようとする者は誰もいなかった。開会礼拝が終わってミス・ロジャソンのクラスに行った時も同様だった。
ミス・ロジャソンは二十年間教会学校で教えてきた年配の婦人だった。その教え方は、テキストに載っている質問を口に出して言ってから、テキスト越しに、当てようと思っている女の子にきびしいまなざしを向けるのだった。彼女は何度もアンの方を見たが、マリラのお仕込みのおかげで、アンはすらすら答えた。けれども、聞かれたこともその答えも、ほんとうに意味がよくわかっていたのかどうかは怪しいものだった。
アンは、ミス・ロジャソンが気に入らなかった。とてもみじめだった。クラスのほかの子はみなふくらんだ袖の服を着ていた。ふくらんだ袖がない人生なんか生きている甲斐《かい》がないとアンは思った。
「さあ、教会学校はどうだった?」アンが帰って来ると、マリラは様子を知りたがった。帽子の花輪はしおれたので、小道に捨ててきてしまった。そのため、マリラは当分そのことを知らずにすんだ。
「教会学校なんか大きらいよ。いやでたまらなかったわ」
「アン・シャーリー!」マリラはしかりつけるように言った。
アンはほうと長い溜息をついて揺り椅子に腰をおろすと、ボニーの葉に口づけし、フクシャの花に向かって手をふった。
「あたしの留守中、ボニーもフクシャの花も淋しかったでしょうからね」とアンは説明した。「それから教会学校のことだけど、あたし、マリラに言われたとおり、お行儀よくしてたのよ。リンドさんのお宅に行っだら、おばさん、もうお出かけになったあとだったんだけど、あたしそのまま一人で行ったの。教会にはたくさん女の子達が来てたわ。あたし、その子達と一緒に中に入って行って、開会礼拝の間、窓ぎわの座席のすみっこにすわってたの。ベルさんは長たらしいお祈りをなさったわ。窓ぎわにすわってなかったら、お祈りが終わらないうちに、あたし、うんざリしてたでしょうね。でも、窓がちょうど『輝く湖水』に面していたので、あたしはただ水をながめて、色々すてきなことを想像したの」
「そんなことしちゃいけないよ。ベルさんのお祈りを聞いてなくちゃ」
「でも、ベルさんはあたしに話しかけてらしたんじゃないのよ。神さまに話しかけてらしたの。それも、あまり身が入ってなかったみたいよ。神さまがあんまり遠くにいらっしゃるので、お祈りする甲斐がないとお思いになったんでしょう。でもあたし、自分で短いお祈りをしたわ。ずっと立ち並んでる白樺が湖水の上に枝をたれているの。そして日の光がその間から水のずっと、ずっと下までさしこんでるのよ。ああマリラ、まるで美しい夢を見てるみたいだったわ! あたし、胸がわくわくして、『ありがとうございます、神さま』って二、三回言ったのよ」
「大きな声を出したんじゃないだろうね」マリラは心配そうにたずねた。
「いえ、そっと言っただけよ。そのうち、ベルさんの長たらしいお祈りがやっと終わったの。そしたら、あたし、ミス・ロジャソンのクラスの子達と一緒に教室に行きなさいって言われたの。クラスにはほかに女の子が九人いたのよ。みんなふくらんだ袖の服を着てたわ。あたし、自分の袖もふくらんでることにしようとしたんだけど、だめだったわ。どうしてかしら? 東の部屋に一人でいる時は、あたしの袖はふくらんでると思いこむのとても簡単だったんだけど、ほんとうにふくらんだそでの服を着た女の子達に囲まれてると、そんな想像するのとてもむずかしいの」
「教会学校で袖のことなんか考えちゃいけないよ。一生懸命に勉強しなくちゃ。そんなことわかってると思ってたんだけど」
「あら、わかってたわ。あたし、たくさん質問に答えたのよ。ミス・ロジャソンたらとってもたくさんの質問なさるんだもの。一方的に質問するなんて不公平だと思うわ。ミス・ロジャソンに伺いたいことはいくらもあったけど、その気になれなかったの。話が通じそうもないと思ったんだもの。それからほかの子達はみんな宗教詩を暗唱したの。先生はあたしに、何か知ってるかとお聞きになったのよ。それであたし知らないと言ったの。でも『墓前の忠犬』でよかったら暗唱できるって答えたの。『ロイヤルリーダー』の巻三に載ってるのよ。ほんとうは宗教詩じゃないけど、とても悲しくて淋しい詩だから、いいかもしれないと思ったの。でも先生は、その詩はいけないと言って、来週の日曜までに十九番の宗教詩をおぼえて来るようにっておっしゃったの。あたし、あとで教会でそれをくり返し読んだけど、すばらしいわよ。特にこの二行は胸がわくわくするくらいよ。
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ミディアンののろわれた日に
屠《ほふ》られし騎兵隊のたおるる如くすみやかに
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『騎兵隊』も『ミディアン』も意味はわからないけど、とても悲劇的に聞こえるわ。暗唱する来週の日曜が待ち遠しいわ。一週間ずっと練習しようと思うの。教会学校が終わってから、あたし、ミス・ロジャソンに、おばさんの座席を教えてくださいってお願いしたの――リンドのおばさんはずっとはなれた所にいらっしゃったんですもの。あたし、なるたけおとなしくすわってたのよ。聖書の箇所は、『ヨハネ黙示録』三章の二節と三節だったわ。とても長い箇所だったわ。もしあたしが牧師さんだったら、短くてきびきびしたのを選ぶんだけど。お説教も長たらしかったわよ。聖書の箇所が長いので、それに合わせなくちゃいけなかったんでしょうね。牧師さんの話はちっとも面白くなかったわ。想像力が十分でないからこういうことになるんじゃないかしら。あたし、お説教はよく聞いてなかったわ。いろんなことがあとから、あとから心に浮かんできたの。ほんとにびっくりするようなことを考えたのよ」
マリラはアンの話を聞いて、きびしく叱ってやらねばと思ったが、どうしてもそれができなかった。何と言っても、アンの言ったことの一部は否定できない事実だった。とりわけ、牧師の説教や、ベルさんのお祈りについてのアンの意見は、マリラが口にこそ出さなくても、何年もの間、心の奥底で考えていたことと同じだった。それはまるで、これまでの心の中にしまってあった批判の思いが、この遠慮もなく物を言う宿なし子の姿を借りて、突如として、あからさまな攻撃の姿勢をとり始めたのではないかと思えるほどだった。
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第十二章 おごそかな誓い
次の金曜日になってはじめて、マリラは花で飾った帽子のことを聞いた。リンド夫人の家から帰って来ると、マリラはアンを呼んで問いただした。
「アン、レィチェルの奥さんがおっしゃったけど、あんた、この前の日曜日、帽子をばらやきんぽうげでごてごて飾りたてて教会に行ったんだってね。いったい何でそんなふざけたまねをしたんだい? さぞかし見ものだったろうね!」
「あら、ピンクと黄色があたしに合わないことはわかってるのよ」アンは口を開いた。
「合わないだって! ばかばかしい。わたしがおかしいって言うのはね、色が何であろうと帽子を花で飾ったりすることなんだよ。こんなしゃくにさわる子見たことないよ!」
「服には花をつけるのに、なぜ帽子に花をつけたらおかしいのか、あたしにはわからないわ」アンは口をとがらせた。「花をピンで服にとめた子がたくさんいたわよ。どこが違うの?」
しかしマリラは、具体的な話を抽象論にもちこんで、足場を危くするようなことはしなかった。
「そんなふうに口答えするんじゃないよ、アン。あんなことをしたのはほんとにまずかったよ。二度とそんなばかなことはしないでおくれ。レィチェルの奥さんは、あんたがあんなに飾りたてて入って来るのを見た時には、穴があったら入りたいような気持ちがしたと言っていられたよ。奥さんは花を取るように言おうと思ったんだけど、席がはなれていて、間に合わなかったんだとさ。みんな、何かひどいことを言ってたそうだよ。もちろん、あんたにそんなかっこうさせるのはわたしに常識がないせいだと思うだろうよ」
「まあ、ごめんなさい」とアンは言った。目からは涙がわき出ていた。「まさかおばさんが気になさるとは思わなかったのよ。ばらときんぽうげはとてもいいかおりがして、きれいだったので、帽子につけたらすてきだろうなって思ったの。帽子に造花をつけてた女の子が大勢いたわよ。あたし、おばさんのたいへんなやっかいものになるんじゃないかしら。孤児院に送り返された方がいいかもしれないわ。そうなったらたいへんだわ。あたし、とてもがまんできないと思うわ。たぶん、あたし、肺病になるでしょうね。今だってこんなにやせてるんですもの。でも、おばさんのやっかいものになるよりはその方がいいかもしれないわね」
「ばかばかしい」とマリラは言った。子供を泣かせてしまった自分がいまいましかった。「あんたを孤児院に返したくはないよ、ほんとうに。ほかの女の子みたいにふるまって、人の物笑いになりさえしなければ、それでいいんだよ。もう泣くのはおやめ。あんたに知らせることがあるよ。ダイアナ・バリーが今日のお昼過ぎ、家に帰って来たんだよ。スカートの型紙を借りに、バリーの奥さんの所まで行くから、もしよかったら、一緒に来てもいいよ。そしたら、ダイアナとお友達になれるしね」
アンは両手をしっかりと組み合わせ、ほおにはまだ涙を光らせながら、立ち上がった。マリラの言ったことに気を取られて、縁取りをしていたふきんが床にすべり落ちた。
「ああ、マリラ、あたし、こわいわ――いざとなるとほんとにこわい気がしてくるの。もし、その子があたしを気に入ってくれなかったらどうしよう! そうなったら、あたしの一生で最大の悲劇的な失望よ」
「まあ、あわてなさんな。それから、お願いだから、そんな長たらしい言葉を使わないでおくれ。小さい女の子が使うと、とても奇妙だよ。大丈夫、ダイアナはたぶんあんたが気に入るだろう。気をつけなければならないのは母親の方だよ。母親にきらわれたら、いくらダイアナに気に入られても何にもならないよ。もし、リンドさんの奥さんにくってかかったことや、帽子のまわりにきんぽうげをさして教会に行ったことを母親が聞いたら、あんたのこと何と思うかね。行儀よく、おとなしくしてなくちゃいけないよ。例の、人をびっくりさせるようなことは言わないでおくれ。おや、まあ、この子はほんとに震えているんだね!」
アンは実際ぶるぶる震えていた。顔はまっ青で、こわばっていた。
「ああ、マリラ。心の友になってほしいと思ってる女の子に会いに行くんだったら、おばさんだって興奮するわよ。それに、もしかしたら、その子のお母さんに気に入られないかもしれないんだもの」あわてて帽子を取りに行きながらアンは言った。
二人は小川を渡り、樅《もみ》の丘をのぼり、近道をして「オーチャード・スロープ」に行った。マリラのノックに答えて、バリー夫人は台所の入口に出て来た。夫人は背が高くて、黒い目をした、黒髪の女で、強い意志を示す口もとをしていた。夫人は自分の子供達に対してはたいへんきびしいという評判だった。
「こんにちは、マリラ」夫人はねんごろに挨拶した。「どうぞお入りなさい。あんたがおもらいになった女の子というのはこの子でしょう?」
「そうなんです。アン・シャーリーと言います」とマリラは言った。
「Eの字をつけて綴るんです」アンはあえぎながら言った。興奮してぶるぶる震えていたが、この大事な点に誤解があってはならぬと決心しているようだった。
バリー夫人はアンの言ったことが耳に入らなかったのか、それとも、聞いても意味がわからなかったのか、ただ握手してやさしくこうたずねた。
「ごきげんいかが?」
「気持ちはかなり乱れてますけど、おかげさまでからだの方は元気です。おばさま」とアンは重々しく答えた。それからマリラの方に向かって辺《あた》りに聞こえるようにささやいた。「あたし、別に大げさなことは何も言わなかったでしょう、マリラ?」
ダイアナはソファーにすわって本を読んでいたが、お客達が入って行くと、それを下に置いた。母ゆずりの黒い目と髪と、ばら色のほおをした、たいへんきれいな女の子だった。そしてほがらかそうな顔つきは父親ゆずりだった。
「娘のダイアナです」とバリー夫人は言った。「ダイアナ、アンを庭に連れて行って、あんたの花を見せておあげなさい。本ばかり読んで眼を悪くするといけないからね。この子はほんとに本を読み過ぎるんですよ」しまいの一言は女の子達が庭に出て行った時にマリラに向かって言われたものだった。「それにとめるわけにもいきませんの。なにしろ父親が先にたって読ませようとしているもので。あの子ときたらいつも本に読みふけってるんですよ。遊び友達ができそうでほっとしました――友達がいれば、もっと外に出て遊ぶようになるでしょうからね」
外の庭では、両側の樅の老木越しにさして来た柔らかい夕日がいっぱいにあふれている中で、アンとダイアナは、はなやかなおにゆりの茂みをはさんで立ち、気まりわるそうに相手を見つめていた。
バリー家の庭は花に埋まっていたので、これほどアンの運命を左右するようなことと関わり合っていない時なら、どれほどアンを喜ばせたかわからないくらいだった。庭は、たいへん大きいやなぎの老木や、高い樅の木に囲まれていて、下には、木陰の好きな花々が咲き誇っていた。貝がらできちんと縁取られたいくつかの小道が、湿った赤いリボンのように、庭を整然と直角に交差し、小道の間の花壇には、古風な花々が咲き乱れていた。それらは、ばら色のけまんそう、大きいみごとな深紅色のしゃくやく、かおりのよい白水仙、とげだらけのよくにおうスコッチ・ローズ、ピンクや青や白のおだまき、薄紫色のしゃぼんそう、にがよもぎやりぼん草やはっかの茂み、紫色のらん、らっぱ水仙、白い羽のような細い枝をつけたかおりのよい一むらのクローバーの茂み、とりすました白いじゃこう草の上に燃えるような穂先をつき出しているまっ赤な花などだった。庭では、日の光がたゆたい、みつばちがぶんぶんいい、風も立ち去りかねて木の葉の間を満足そうに、さやさやと音を立てながら吹いていた。
「ねえ、ダイアナ」アンは両手をしっかりと組み合わせ、ほとんど聞きとれないような小声で言った。「あんた――ねえ、あんた、あたしを少しでも好きになれると思う――あたしの心の友になってもいいと思うくらいに?」
ダイアナは声を立てて笑った。ダイアナは話をする前に笑うくせがあった。
「ええ、なれると思うわ」ダイアナは率直に答えた。「あんたが『グリーン・ゲイブルズ』に住むことになって、あたし、うれしくてたまらないの。遊び相手がいるなんて楽しいでしょうね。ほかに一緒に遊ぶような女の子は近くにいないのよ。妹は小さ過ぎるし」
「あんた永久にあたしの友達になるって『宣誓《スウェア》』してくれる?」とアンは熱っぽく言った。
ダイアナはぎょっとしたようだった。
「まあ、『|ののしる《スウェア》』なんてとてもいけないことよ」彼女はとがめるように言った。
「いいえ、それはあたしの言うスウェアとは違うのよ。ほら、二つの意味があるじゃない」
「あたし、一つしか聞いたことないわ」ダイアナは疑わしそうに言った。
「ほんとにもう一つの意味があるのよ。それはちっともいけないことじゃないの。おごそかに誓いを立てて約束するという意味なのよ」
「それならしてもいいわよ」ダイアナはほっとして承諾した。「どうやって誓うの?」
「手をつながなくちゃいけないのよ――そう」アンは重々しく言った。「流れる水の上でつながなくちゃいけないの。この小道が水の流れだと想像しましょう。あたしが先に誓うわ。太陽と月がなくならない限り、我が心の友、ダイアナ・バリーに忠実なることをおごそかに誓います。さあ、こんどはあんたが言う番よ。あたしの名前を間に入れてちょうだい」
ダイアナはあとさきに笑いを入れながらも誓いをくり返した。
「あんたって変わってるわね、アン。変わってることは前に聞いたことあるのよ。でも、あたし、あんたが大好きになれると思うわ」
帰りには、ダイアナがマリラとアンを丸木橋の所まで送って行った。二人の女の子は、互いの肩に手をまわして歩いて行った。小川に来ると、明日の午後は一緒に遊びましょうと何回も約束して、二人は別れた。
「ねえ、ダイアナとは気があいそうかい?」「グリーン・ゲイブルズ」の庭を歩いて行きながらマリラはたずねた。
「あら、もちろん」アンは溜息をついた。幸い、マリラの皮肉には気がつかなかった。「ああマリラ、あたしは今、プリンス・エドワード島でいちばん幸福な娘よ。今夜はきっと身をいれてお祈りするわ。ダイアナとあたし、明日ウィリアム・ベルさんの樺《かば》の林の中におままごとの家をたてるのよ。まき小屋にある瀬戸物のかけらをもらってもいい? ダイアナのお誕生日は二月で、あたしは三月なの。偶然の一致だと思わない? ダイアナはあたしに本を貸してくれることになってるの。とてもすばらしい、わくわくするような本なんだって。ダイアナは、森の奥の、ゆりが咲いてる所をあたしに教えてくれることになってるの。ダイアナってとても情熱的な目をしてると思わない? あたしも情熱的な目をしてたらいいのになあ。ダイアナはあたしに『はしばみ谷のネリー』という歌を教えてくれることになってるの。それから、あたしの部屋にかける絵をくれるんだって。とても美しい絵だそうよ――水色の服を着た美しい女の人の絵なんだって。ミシン会社の人がダイアナにくれたの。あたしもダイアナに何かあげるものがあるといいんだけどなあ。あたしはダイアナよりも一インチ背が高いんだけど、あの子はあたしよりもずっとふとってるのよ。ダイアナはやせてる方がずっと姿がいいから、やせたいなんて言ったけど、あたしを慰めるためにそんなことを言っただけだと思うわ。あたし達、いつか、貝がらを集めに海岸まで行くの。丸木橋のそばの泉を『ドライアドの泉』と呼ぶことにきめたの。とても上品な名前じゃない? 前に、そういう名前の泉の物語を読んだことがあるの。『ドライアド』は、まあおとなの妖精といったところでしょうね」
「とにかく、あんまりおしゃべりしてダイアナをうんざりさせるんじゃないよ。それだけはたのむよ」とマリラは言った。「でも、何を計画しても、これだけはおぼえといておくれ、アン。始終遊んでばかりいちゃだめだよ。あんたの仕事があるんだから、まずそれをやってしまわなくちゃね」
アンの胸は幸福でみたされていたが、さらにマシュウがそれをあふれんばかりにしてくれた。マシュウはカーモディに買物に行って、たった今帰って来たところだった。哀願するような顔をしてマリラの方を見ながら、おずおずとポケットから小さな包みを取り出すと、アンに手渡した。
「おまえがチョコレート・キャンデーが好きだと言ってたんで、買って来たよ」と彼は言った。
「ふふん」マリラは鼻を鳴らした。「歯やお腹に悪いよ。さあさあ、そんな憂うつな顔しなさんな。マシュウがせっかく買って来たんだから、食べてもいいよ。ハッカドロップを買って来てくれたらよかったのに。その方がからだにいいからね。今いっぺんに全部食べるんじゃないよ。気分が悪くなるからね」
「あら、いっぺんになんか食べないわ」アンはむきになって言った。「今夜は一つだけ食べるのよ、マリラ。それから、半分ダイアナにあげちゃいけない? 半分あげたら、残りの半分は二倍おいしくなるわ。あの子にあげるものがあるなんて考えただけで愉快だわ」
「あの子のいいところはね」アンが自分の部屋に行ってしまうとマリラは言った。「あの子はけちんぼうじゃないですね。わたしゃ、うれしくって。いろんな欠点の中でも、子供のけちほどいやなものはないからね。驚くじゃありませんか、あの子が来てまだ二週間にしかならないというのに、まるで昔からずっとここにいるみたいな感じなんですよ。あの子のいない家なんてとても考えられません。でもね、だから言ったじゃないかなんて顔はしないでくださいよ、マシュウ。女からそんな顔されるのだっていいかげんいやなのに、男の人だとがまんできないんですよ。あっさりとかぶとをぬいで認めますがね、わたしは、あの子をひきとることに賛成してよかったと思ってるし、あの子がだんだん好きにもなっています。でも、あまりたびたび持ち出すのはやめてくださいよ、マシュウ・カスバート」
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第十三章 待ち遠しいピクニック
「もうアンが家に入って縫い物をする時間だ」と言うと、マリラは時計の方をちらっと見て、外に視線を走らせた。すべてのものが炎の中にまどろんでいる、黄色い八月の午後だった。「きめてやった時間より三十分以上も長くダイアナと遊んでいた上に、こんどはあすこの薪《まき》の山の上にすわって、マシュウを相手にたてつづけにしゃべってるんだからね。仕事をする時間だってよく知ってるくせにさ。むろんマシュウの方もまるでばかみたいにあの子の話に聞き入ってるんだからね。こんなにのぼせ上がった男は見たことないよ。あの子がしゃべればしゃべるほど、また、妙なことを言えば言うほど、マシュウはますます喜んでるんだから。アン・シャーリー。たった今|家《うち》にお入り! 聞こえたのかい?」
マリラが西の窓を、間をおいてこつこつたたくと、アンが庭からかけこんで来た。目はきらきら輝き、顔はほんのりと桜色に染まり、ほどいたままのまっ赤な髪の毛は奔流のようにうしろになびいていた。
「ねえ、マリラ」アンは息を切らして叫んだ。「来週、教会学校のピクニックがあるのよ――『輝く湖水』のすぐそばの、ハーモン・アンドルーズさんの原っぱに行くの。そしてね、監督のベルさんの奥さんとリンドのおばさんがアイスクリームを作ってくださるんだって――考えてもごらんなさい、マリラ――|アイスクリーム《ヽヽヽヽヽヽヽ》よ! ねえ、マリラ、ピクニックに行ってもいい?」
「ちょっと時計を見てごらん、アン。あんたに何時に家に入るように言った?」
「二時よ――でも、ピクニックってすてきじゃない、マリラ? お願い、行ってもいい? ねえ、あたし、ピクニックに行ったことないのよ――ピクニックの夢は見たことあるけど、ほんとうのピクニックは今まで――」
「そう、わたしはあんたに二時に戻るように言ったんだよ。それなのに、もう三時十五分前じゃないか。なんでわたしの言うことをきかなかったのか知りたいね、アン」
「あら、なるたけそのつもりだったのよ、マリラ。でも、『アイドルワイルド』がどんなに魅力ある所かマリラにはわからないのよ。それから、もちろん、マシュウにピクニックのことを話さなくちゃならなかったし。マシュウはとても喜んで話を聞いてくれるんだもの。お願い、行ってもいい?」
「アイドル何とかの魅力に負けないようにしなくちゃだめだよ。わたしが時間をきめてあんたに戻って来なさいと言う時は、時間通りという意味で、三十分あとということじゃないんだよ。それから、途中で立ち止まって、喜んで話を聞いてくれる人達とおしゃべりする必要もないよ。ピクニックのことなら、もちろん行ってもいいよ。あんたは教会学校の生徒なんだし、ほかの女の子達がみんな行くのに、あんただけ行かせないようなことはしないよ」
「でも――でも」アンは口ごもった。「ダイアナが言ってたけど、みんなバスケットにいっぱい食べ物をつめて持って行かなくちゃいけないんだって。ほら、あたし、料理できないでしょう、マリラ。それに――それに――あたし、ふくらんだ袖の服を着ないでピクニックに行くのはあんまり気にならないけど、バスケットは持たないで行くのはとても恥ずかしいわ。ダイアナに話を聞いてからずっとそのことが気にかかってたの」
「さあ、そのことならもう気にする必要はないよ。わたしが料理を作ってあげるからね」
「ああ、親切なマリラ。ああ、なんてやさしいんでしょう。ああほんとうにありがとう」
「ああ」を連発し終わると、アンはマリラに抱きついて、夢中で青白いほおにキスした。子供の柔らかい唇がところきらわず顔にふれたのは、マリラにとって生まれて初めての経験だった。この突如として押しよせてくる驚くべき快感をまたもや味わって、マリラの心は躍った。マリラは心ひそかに、アンの衝動的な接吻《せっぷん》をたいへん喜んでいたが、それだけにかえって、わざとぶっきらぼうな口をきいてしまったようだった。
「さあさあキスなんかどうだっていいよ。それより、言われたことをきちんとやってもらいたいね。料理のことだけど、そのうちあんたに手ほどきをしてあげようと思ってるんだよ。でも、何しろあんたはそそっかしいんで、少し落着いて、あわてないようになってから始めた方がいいんじゃないかって気がしてね。料理をするには注意を集中していなければいけないんだよ。中途でほかのことをあれこれと考えたりしちゃあ、うまくいかないよ。じゃあ、つぎはぎ細工(さまざまな色や形の布きれを縫い合わせ、掛けぶとんなどの皮に使う)を出してきて、お茶までに自分の分をやっちゃいなさい」
「あたし、つぎはぎ細工はきらいだわ」アンは憂うつそうに言うと、針箱をさがし出してきて、溜息をつきながら、赤と白のひし形の布の山の前に腰をおろした。「縫い物の中には面白いのもあると思うわ。でも、つぎはぎ細工には想像の余地がぜんぜんないのよ。次から次と針目をはこぶばかりで、きりがないみたいなんだもの。でも、遊ぶことしかやることがない、どこかのアンよりも、つぎはぎ細工をやっている『グリーン・ゲイブルズ』のアンの方がもちろんいいわ。そうは言っても、つぎはぎ細工をやる時も、ダイアナと遊ぶ時みたいに、時間が早く過ぎればいいんだけど。ねえ、あたし達、とても楽しい時を過ごしてるのよ、マリラ。想像するのはたいがいあたしがやらなくちゃならないけど、そこはお手のものでしょう。ダイアナはほかのことではみんなほんとに申し分ないの。ほら、小川の向こう側の、うちの畑とバリーさんの畑の間に、せまい土地があるでしょう。ウィリアム・ベルさんの土地なんだけど。そのちょうどすみっこに、白樺の木が輪になってはえてるの――とてもロマンティックな所よ、マリラ。そこにダイアナとあたしのおままごとの家があるの。あたし達そこを『アイドルワイルド』と呼んでるのよ。詩的な名前でしょう? その名前を考え出すの、たいへんだったのよ。一晩中ほとんどねないで考えたの。ちょうどあたしがうとうとしかけたころ、その名前が頭にひらめいたのよ。ダイアナはその名前を聞いた時、有頂天だったわ。あたし達、家の調度を上品にしつらえたのよ。あたし達の家を見に来てくださらない、マリラ? そこにある苔《こけ》むした大きな石は椅子で、木から木にかけ渡した板きれは棚なの。お皿はぜんぶその棚の上にのってるのよ。もちろんかけたお皿ばかりだけど、かけてないと想像するのはお茶の子さいさいよ。赤と黄のつたの枝がかいてあるお皿のかけらなんか特にきれいよ。いつも客間に置いてあるの。それから妖精の鏡もあるのよ。夢のようにきれいよ。ダイアナが鶏小屋のうしろの森で見つけたの。一面に虹がいっぱいかいてあるのよ――まだ大きくなりきってない小さい虹がね。昔家にあったつりランプのかけらだって、ダイアナのお母さんが言ってたそうよ。でも、妖精がいつかの晩、舞踏会を開いてる時になくしたんだと想像する方がすてきなので、あたし達、妖精の鏡と言ってるの。マシュウはあたし達にテーブルを作ってくれるんだって。ねえ、あたし達、バリーさんの畑にある小さな丸い池を『ウィロウミア』と名づけたの。ダイアナから借りた本からとったのよ。その本はわくわくするような本だったわ、マリラ。女主人公には五人の恋人がいるのよ。恋人は一人でたくさんなのにね。女主人公はとてもきれいな人なの。さんざん苦労するのよ。それから、その人は気絶ばかりしてるの。気絶してみたいと思わない、マリラ? 気絶はとてもロマンティックだわ。でも、あたし、やせてるわりにはとても丈夫なのよ。もっとも、最近だんだんふとってきたと思ってるんだけど。そう思わない? あたし、毎朝起きたらひじを見て、えくぼができてないかどうか調べるの。ダイアナは半袖の服を作ってもらってるのよ。ピクニックに着て行くんだって。ああ、次の水曜日が晴れだといいんだけど。もし何かがもちあがって、ピクニックに行けなくなったら、あたしがっかりしてまいっちゃうと思うわ。そりゃ、いずれは立ち直るでしょうけど、悲しみは一生続くと思うわ。あとで百回ピクニックに行ったとしても何にもならないでしょうね。こんどのピクニックに行きそこなったら、百のピクニックだって埋め合わせできないもの。みんな、『輝く湖水』でボートに乗るのよ――それから、さっきも言ったようにアイスクリームよ。あたし、アイスクリームを食べたことがないの。ダイアナがアイスクリームがどんなものか説明しようとしたんだけど、アイスクリームは想像できるようなもんじゃないと思うわ」
「アン、時計ではかったら、あんた十分間もしゃべり続けだよ」とマリラは言った。「ねえ、ものはためしだから、同じ時間だけ黙っていられるかどうかやってごらん」
アンはマリラの望み通り口をつぐんだが、その週はあけてもくれても、ピクニックのことを話し、ピクニックのことを考え、ピクニックの夢を見るといった具合だった。土曜日は雨降りだった。アンは、そのまま雨が降り続いて、水曜日になってもやまないのではないかと考えて半狂乱のていになったので、マリラはつぎはぎ細工を余分にさせて、アンの気を静めようとしたほどだった。
日曜日、教会からの帰り道、アンはマリラに、牧師さんが説教壇からピクニックのことを知らせた時、自分は興奮のあまり全身が冷たくなったと話した。
「背中がひどくぞくぞくしたのよ、マリラ! その時まで、ほんとうにピクニックがあるのかどうかあたし半信半疑だったの。ただの想像のような気がしてしかたがなかったのよ。でも、牧師さんが説教壇でおっしゃったことは信じなくちゃね」
「あんたはものごとに熱中し過ぎるんだよ、アン」マリラは溜息をつきながら言った。「こんな調子だと、一生失望の連続だと思うよ」
「あら、マリラ、何かを楽しみにして待つところに喜びの半分があるのよ」アンは大声で言った。
「たとえ、期待通りに実現しなくても、楽しみにして待つ喜びを人からとりあげることはできないわ。リンドのおばさんは、『何も期待しない人達は幸いである。失望することがないからである』(新約聖書、マタイによる福音書、五章の有名な山上の垂訓の一節をもじったもの)っておっしゃってたけど、何にも期待しないことは、がっかりすることよりも悪いと思うわ」
マリラはその日、例によって紫水晶のブローチをつけて教会に行った。教会に行く時はそうする習慣だった。マリラは、ブローチを家に置いて行くのは冒涜《ぼうとく》行為で、聖書や献金のお金を忘れるのと同じように悪いことだと思いかねない女だった。この紫水晶のブローチはマリラのいちばんだいじな持ち物だった。船乗りのおじがマリラの母親に与え、その母親がさらにマリラに残してくれたのだった。古風な卵形のブローチで、中にマリラの母親の髪の毛が入っていて、縁はごく上等の紫水晶で囲まれていた。マリラは宝石にうといので、その紫水晶が実際にどのくらい上等なのかわからなかった。しかし、とても美しいと思った。自分には見えなかったが、茶のサテンの服のえり元にすみれ色に光っている紫水晶をいつも快く意識していた。
そのブローチをはじめて見た時、アンは感嘆の声を放った。
「まあ、マリラ、ほんとにきれいなブローチね。こんなブローチをつけてる時に、よくお説教やお祈りに注意が向けられるわね。あたしだったらできないわ。紫水晶ってほんとにきれいね。紫水晶は前にあたしが心の中で描いていたダイヤモンドに似てるわ。ずっと前、ダイヤモンドを見たことがない時、ダイヤモンドのことを読んで、どんなものかなって想像したことがあるの。ダイヤモンドは美しいきらきらする紫の石だと思ったのよ。それから、どこかの奥さんが本物のダイヤモンドの指輪をはめてるのを見た時、あたし、がっかりして泣いてしまったの。もちろん、とても美しかったわ。でも、あたしが考えてたダイヤモンドとは違うのよ。ブローチをちょっと手に持っていい、マリラ? 紫水晶って、すてきなすみれの魂だと思わない?」
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第十四章 アンの告白
ピクニックの前の月曜日の晩、マリラは困ったような顔をして自分の部屋からおりて来た。
「アン」マリラは、しみ一つない、きれいなテーブルのそばにすわって、えんどうのさやをむきながら、「はしばみ谷のネリー」の歌を歌っている小さな女の子に向かって言った。元気のいい、感情のこもった歌いぶりはダイアナの教え方のよさを物語るものだった。「わたしの紫水晶のブローチを見なかったかい? きのうの夕方、教会から帰って来た時、針山に刺しといたと思ったんだけど、どこにも見当たらないんだよ」
「あたし――今日のお昼過ぎ、マリラが後援会に行ってお留守だった時に見たわよ」アンはややゆっくりと言った。「マリラの部屋のドアの前を通ったら、針山にブローチが刺してあったので、あたし、見ようと思って中に入って行ったの」
「ブローチにさわったのかい?」マリラは怖い顔をして言った。
「ええ――」とアンは認めた。「あたし、ブローチを取り上げて、胸にとめたの。どんな具合か見たかっただけよ」
「あんたがそんなことをする権利はないよ。小さい子が人の物をいじくるなんてとても悪いことだよ。第一、わたしの部屋に入っちゃいけないよ。それから、人の持ち物のブローチにさわっちゃだめだよ。ブローチをどこに置いたの?」
「あら、たんすの上に戻しといたわ。一分間も胸につけてなかったわ。ほんとにいじくるつもりはなかったのよ、マリラ。部屋に入って、ブローチをつけてみるのが悪いことだとは思わなかったの。でも、それがよくないことだって今わかったわ。もう二度としないわ。それがあたしのとりえなの。二度と同じ悪いことはしないのよ」
「あんたはブローチを戻さなかったんだよ」とマリラは言った。「たんすのどこにもないもの。持ち出すか何かしたんだろう、アン」
「あたし、確かに戻しといたわ」アンは急いで言ったが、それがいかにも生意気そうにマリラには思えた。「針山に刺したのか、瀬戸物のお盆の上に置いたのか思い出せないの。でも、戻したのは確かよ」
「もう一度見てこよう」マリラは公正な態度を取ろうと決心した。「もしあんたがブローチを戻したなら、まだそこにあるはずだよ。ないなら、あんたが戻さなかったことになるんだよ!」
マリラは部屋に行って、徹底的にさがした。たんすの上だけでなく、ブローチがありそうな、ほかの場所も全部さがしたが見つからなかったので、台所に戻った。
「アン、ブローチはみえないよ。あんたが自分で認めたように、ブローチをいちばんさいごにさわったのはあんたなんだよ。さあブローチをどうしたんだい? すぐにほんとのことをお言い。外に持ち出して、なくしたのかい?」
「いいえ、持ち出さたかったわ」アンは真剣な顔をして言うと、怒りに燃えて自分を見つめているマリラをまともに見返した。「あたしはマリラの部屋からぜったいにブローチを持ち出さなかったわ。それはほんとうよ。たとえそのために断頭台に連れて行かれてもね――もっとも、断頭台がどんなものかあたしよく知らないけど。さあ、どうなりと、マリラ」
アンの「さあ、どうなりと」は自分の言い分を強調しょうとしただけなのだが、マリラはそれを反抗的な態度のあらわれと受け取った。
「あんたはきっとわたしにうそをついてるんだよ、アン」マリラはとがった声で言った。「わたしにはわかってるんだから。さあさあ、洗いざらいほんとのことを言う気がないなら、もうこれ以上何も言わないでおくれ。自分の部屋に行きなさい。進んで白状する気になるまで出て来るんじゃないよ」
「このえんどう持って行きましょうか?」アンはおとなしく聞いた。
「いや、さやをむくのはわたしがする。いいから、わたしの言いつけた通りになさい」
アンが出て行くと、マリラは激しい心の動揺をおぼえながら、夕方の仕度《したく》にとりかかった。だいじなブローチのことが気がかりだった。「もしアンがなくしたのだったらどうしよう? 自分で持ち出しておきながら、知らんふりをするなんて、なんて悪い子だろう。あの子のしわざに違いないことは一目|瞭然《りょうぜん》だというのに。それもあんなに虫も殺さない顔つきで! まさかこんなことが起こるとは思わなかった」いらいらしながらえんどうのさやをむいていたマリラは思った。「もちろん、本気でブローチを盗んだりなんぞしないと思うが。おもちゃにしたり、例の想像の足しにでもしようと思ってとっただけなのだ。きっとあの子がとったんだよ。それは確かだ。あの子が自分で言ってたように、あの子が部屋に入ってから、今夜わたしが上がって行くまで、誰もあの部屋には入らなかったんだもの。そのあげくブローチがなくなっちゃったんだからね、これ以上確かなことはないよ。たぶん、あの子はブローチをなくしてしまって、おしおきされるのがこわくて、白状できないんだ。あの子がうそをつくなんて考えるとぞっとする。あの子のかんしゃくよりずっと困りものだ。信用のできない子が自分の家にいるなんてまったくたいへんなものをしょいこんだものだ。ずるくて不正直――あの子はこの二つの性質をあらわしたのだ。ほんとにこの方がブローチそのものより、もっといやなことだ。あの子がほんとのことさえ話してくれたら、わたしもこんなに気にならないんだけど」
マリラはその夜じゅう、時々自分の部屋に行って、ブローチをさがしたが、見つからなかった。寝しなに、東の部屋に行ってみたが、何の成果もなかった。アンはあくまでブローチのことは知らないと言い張ったが、マリラはアンが知ってるはずだとの確信をますます深めただけだった。
翌朝、マリラが事情を話すと、マシュウはろうばいし、途方にくれた。さすがにアンに対する信頼の念をすぐさま変えるようなことはしなかったが、形勢がアンにとって不利なことは認めざるを得なかった。
「たんすのうしろに落ちてないか、確かめたのかい?」マシュウはそう言い出すのがせいいっばいだった。
「たんすも動かしたし、引き出しもはずしました。すき間というすき間もみんな見たんですよ」マリラはきっぱりと答えた。「ブローチは見つからないんです、あの子がとって、うそをついてるんですよ。マシュウ・カスバート、これははっきりした、いまわしい事実なんだから、いたずらに目をそらしたりしない方がいいですよ」
「そうさのう、どうするつもりだい?」マシュウはうちしおれてたずねたが、内心ではこの問題を始末するのが自分でなくてマリラだということにほっとしていた。今度はくちばしを入れたいとは思わなかった。
「白状するまで、あの子を部屋から出しませんからね」マリラは、前の時は、このやり方がうまくいったんだと思い出しながら、怖い顔をして言った。「そうすると、わかりますよ。あの子がブローチをどこに持って行ったか言いさえすれば、たぶん見つかるでしょう。でも、どっちにしても、きびしいおしおきをしなくちゃね、マシュウ」
「そうだなあ。おしおきはせにゃなるまい」マシュウは手を伸ばして帽子を取り上げながら言った。「いいかい、わしはこの件とは何の関係もないよ。口出しするなと注意したのはお前だからな」
マリラはみんなに見すてられたような気がした。リンド夫人の所に行って意見を聞くことさえできなかった。マリラは深刻な顔をして東の部屋に行ったが、部屋を出る時はもっと深刻な顔をしていた。アンは白状をすることを頑としてこばんだ。ブローチをとったおぼえはないとあくまでも言い張ったのだった。アンはそれまでずっと泣いていたらしかった。マリラはかわいそうで胸がうずくのをおぼえたが、心を鬼にしてそれをぐっとこらえた。自分で言ったように、夜ふけまでに、マリラはへとへとになってしまった。
「白状するまでこの部屋から出さないよ、アン。その覚悟でいなさい」マリラはきっぱりと言った。
「でも、ピクニックは明日なのよ、マリラ」とアンは叫んだ。「ピクニックに行かせないんじゃないでしょうね? 午後だけ外に出してくださらない? そしたら、あとで、マリラの気のすむまで、喜んでここにじっとしているから。でも、あたし、どうしてもピクニックに行きたいの」
「白状するまで、ピクニックにもどこにも行かせないよ、アン」
「まあ、マリラ」アンはあえいだ。
しかしその時、マリラはもう部屋を出て行って、ドアをしめたあとだった。
一夜明けた水曜日の朝は、ピクニックにはあつらえ向きの、うららかな上天気だった。「グリーン・ゲイブルズ」のまわりでは鳥がさえずっていた。庭の白ゆりが放つ、ぷんとするいいにおいは、目に見えない風に乗ってただよって行き、扉という扉、窓という窓から中に入りこんで、まるで祝福の精のように、広間や部屋の中を通りぬけて行った。窪地の樺《かば》の木はうれしそうに手を振っていた。まるで、アンが東の部屋から、いつものように朝の挨拶をするのを待ちかまえているかのようだった。しかし、アンは窓辺に姿をあらわさなかった。マリラが朝ごはんを持って行くと、アンはきちんとベッドの上にすわっていた。顔は青白かったが、決然たる態度だった。くちびるは固くむすばれ、目はきらきら輝いていた。
「マリラ、あたし、白状するわ」
「ああ!」マリラはお盆を下に置いた。またしてもマリラのやり方はうまくいったのだが、マリラにはその成功を喜ぶ気にはとうていなれなかった。「それじゃ、あんたの言い分を聞かせておくれ、アン」
「あたしが紫水晶のブローチをとりました」とアンは言った。まるで習ってきた学課を暗唱しているみたいだった。「確かにマリラが言った通り、あたしがとったの。部屋に入った時は、とるつもりはなかったのよ。でもね、マリラ、胸にブローチをつけたらとてもきれいだったので、あたし、誘惑に打ち勝てなかったの。ブローチをつけて『アイドルワイルド』に行って、コーデリア・フィッツジェラルド姫のようにふるまったらどんなにすばらしいだろうと思ったの。本物の紫水晶のブローチをつけていれば、自分がコーデリア姫だと思うのにずっと簡単でしょうからね。ダイアナと一緒にばらの実で首飾りをこしらえたんだけど、紫水晶にくらべたら、ばらの実なんて、ものの数じゃないわ。だから、ブローチをとったのよ。マリラが帰ってくる前に、もとの所に置けると思ったの。なるたけ長い時間、ブローチをつけていたかったので、あたし、街道を通って回り道して行ったの。『輝く湖水』にかかってる橋を渡る時、もう一度ブローチを見ようと思ってはずしたの。ああ、日の光を受けて、ブローチがどんなにきらきら輝いたことか! それから、あたしが橋から身を乗り出していると、ブローチが指の間からすべり落ちて――そう――沈んで行ったの。紫色に光りながら、ぐんぐんと下の方へ。そうやって『輝く湖水』の底に永久に沈んじゃったのよ。これがあたしのせいいっぱいの告白よ、マリラ」
マリラは再び胸の中に激しい怒りがこみあげてくるのをおぼえた。この子はわたしのだいじなブローチをとってなくしたのに、今ここにすわって、少しも悪いとも、すまないとも思ってる様子もみせずに、しゃあしゃあとてんまつを話しているのだ。
「アン、ひどいよ」マリラは冷静に話そうとつとめながら言った。「あんたみたいな悪い女の子は聞いたことないよ」
「ええ、あたしもそう思うわ」アンは落着きはらって言った。「そして、おしおきを受けなくちゃならないことも知ってるわ。あたしをおしおきするのはマリラのつとめよ。それを今すぐすませてくださらない? あたしさっぱりした気持ちでピクニックに行きたいんですもの」
「ピクニックだって! まあ! 今日はピクニックに行かせないよ、アン・シャーリー! それがあんたのおしおきだよ。それだって、あんたがしたことを思えば、その半分にもあたらないよ!」
「ピクニックに行かせないんですって!」アンはすっくと立ち上がると、マリラの手をつかんだ。
「でも、行ってもいいとはっきり約束してくれたんじゃない! ねえ、マリラ、あたし、ピクニックにどうしても行きたいの。だから白状したのよ。どんな罰でもうけるから、それだけは勘忍して。ねえ、マリラ、どうぞ、お願いだから、ピクニックに行かせてちょうだい。アイスクリームのことを考えてよ! とにかく、あたし、二度とアイスクリームを食べるチャンスがないかもしれないのよ」
マリラはしがみついたアンの手を無慈悲にふりほどいた。「いくら泣いてもむだだよ、アン。どんなことがあってもピクニックにやるわけにはいかないよ。もう何も言いなさんな」
マリラを動かすことができないと見てとると、アンは両手をしっかりと組み合わせて、かなきり声をあげ、ベッドにつっぷした。失望と絶望のどん底につきおとされ、身もだえして泣き叫んだ。
「まあ!」部屋から逃げ出しながらマリラはあえいだ。「この子はきっと気が狂ってるんだよ。正気の子だったらこんなふるまいはしないだろうに。気が狂ってないんだったらほんとに悪い子だ。ああ、ああ、どうもレィチェルははじめから正しかったようだ。でも、のりかかった船だから、過去をふり返るのはよそう」
さんざんな朝だった。マリラは猛烈に働いた。しまいには何にもやることがなくなって、玄関のたたきや搾乳場の棚までごしごしやった。棚も玄関もその必要がなかったのだ――それでもマリラはやった。それから外に出て庭を掃いた。
食事の仕度《したく》ができたので、マリラが階段の所に行ってアンを呼ぶと、泣き面《つら》があらわれて、手すりごしに悲しそうに見おろした。
「ごはんだからおりといで、アン」
「ごはんなんかほしくないわ、マリラ」アンはしゃくり泣きをしながら言った。「何にも食べられないの。胸がはりさけそうなのよ。あたしをこんな目に会わせて、おばさんはいつか良心の呵責《かしゃく》を受けると思うわ。でも、あたし、許してあげる。その時が来たら、あたしが許したことを忘れないでね。でも、お願いだから、何か食べろなんて言わないでちょうだい。特に豚肉や野菜の煮物は困るわ。つらい思いをしている者に豚肉や野菜の煮物は平凡過ぎるんだもの」
マリラはかんかんになって台所に戻ると、マシュウに思いきりぐちをこぼした。マシュウは自分の正義感と、アンに対する理不尽な同情との板ばさみになって、どうしてよいかわからなかった。
「そうさのう、あの子もブローチをとったり、うそをついたりしちゃいかんな」と認めると、マシュウは憂うつな顔をして、皿に盛られた、豚肉と野菜の平凡な煮物をながめた。アンと同様、こんなつらい思いをしている時にはふさわしくない食べ物だと思っているかのようだった。「しかし、あの子はあんなに小さいし――とても面白い子供じゃないか。あんなに行きたがってるのに、ピクニックに行かせないなんて、少しきびしすぎるとは思わんかね?」
「マシュウ・カスバート、あんたにはあきれますね。わたしゃ、あんまり簡単に許してやったと思ってるぐらいなんですよ。それにあの子は、自分がどんなに悪かったか、ちっともわかってないらしいんですよ――わたしはそれがいちばん心配なんです。あの子がほんとうに悪いと思ってるんだったら、これほど案じなくてすむんだけど。それから、兄さんにも、アンの悪いことがわかってないようですね。兄さんはいつも自分に向かって、あの子のいいわけばかりしてるんですよ――ええ、わかってますとも」
「そうさのう、あの子はとても小さいんだよ」マシュウは力なくくり返した。「それに、多少、大目にみてやらなくちゃならないこともあるよ、マリラ。ほら、あの子はしつけを受けたことがないんだよ」
「ええ、それを今受けているんですよ」マリラは言い返した。
マシュウはやりこめられて黙ってしまったが、心からマリラの言う通りだと思ったのではなかった。それはとても陰気な食事だった。はしゃいでいるのは、雇い男のジェリー・ブートぐらいのものだったが、マリラにはジェリーの陽気さも自分をばかにしているようで、しゃくにさわるのだった。
皿を洗い、パン種をしかけ、めんどりにえさをやってしまうと、マリラはいっちょうらの黒レースのショールの小さなほころびのことを思い出した。月曜日の午後、後援会から帰って来て、ショールをぬいだ時気がついたのだった。そうだ、あれをつくろってしまおう。
ショールは箱に入れてトランクにしまってあった。マリラがショールをひっぱり出すと、ショールについている何かが、窓辺にびっしりとすきまもないほどはびこっている、つたの葉越しにさしこむ日の光を受けて紫色にさん然と輝いていた。マリラはあっと息をのんでそれをつかんだ。レースの糸にひっかかってぶらさがっているのは紫水晶のブローチではないか!
「おや、まあ」マリラはぼうぜんとして言った。「これはどういう意味なんだろう? バリーの池の底に沈んでいるとばかり思ってたブローチがちゃんとここにあるなんて。あの子はどういうつもりでブローチをとってなくしたなんて言ったんだろう? ほんとに『グリーン・ゲイブルズ』はどうかなってるみたいだ。今思い出したけど、月曜の午後、ショールをぬいでから、タンスの上にちょっと置いたんだった。ブローチは何かの拍子にショールにひっかかったのだろう。さてと!」
マリラはブローチを持って東の部屋に行った。アンは涙もかれはてて、窓ぎわにしょんぼりとすわっていた。
「アン・シャーリー」マリラはいかめしい顔つきで言った。「たった今、ブローチが黒レースのショールにひっかかってるのを見つけたんだよ。さあ、わたしがけさ聞いた、わけのわからない話の意味を知りたいね」
「あら、だって、白状するまであたしをここにとじこめておくってマリラが言ったでしょう?」アンはものうげに答えた。「だから、あたし、白状することにしたのよ。どうしてもピクニックに行きたかったんですもの。きのうの晩、寝床に入ってから、白状の文句を考え出したの。できるだけ面白いものにしたのよ。そして忘れないように、何度も何度も言ってみたの。でも、マリラはけっきょくあたしをピクニックに行かせてくれなかったんだから、せっかくの苦心もみんな水のあわよ」
マリラは思わず笑ってしまったが、かわいそうなことをしたと思わずにはいられなかった。
「アン、あんたには参ったよ! でも、わたしが悪かった――今それがわかったよ。あんたがこれまで一度もうそをついたことがないんだから、あんたの話を疑っちゃいけなかったんだよ。もちろん、やりもしないことを、やったなんて白状するあんたもよくないよ――そんなことするのはとても悪いことだよ。でも、わたしがそうするようにしむけたんだからね。だから、もしわたしを許してくれるんだったら、わたしもあんたを許してあげるよ、アン。そして、もう一度やりなおそうじゃないか。さあ、ピクニックに行く仕度《したく》をなさい」
アンは打ち上げ花火のようにとび上がった。
「まあ、マリラ、もう遅すぎない?」
「いや、まだ二時だよ。みんな集まったぐらいのところだし、お茶までには一時間もあるよ。顔を洗って、髪をとかし、ギンガムの服を着なさい。バスケットはわたしがつめてあげるからね。焼いたものがたくさんあるよ。それから、ジェリーに馬車の用意をさせて、ピクニックの場所まであんたを送らせるからね」
「まあ、マリラ」と大声で言うと、アンは洗面台にとんで行った。「五分前、あたしはとてもみじめな気がして、こんなことなら生まれてこなければよかったと思ったけど、今は天使とだって代わりたくないわ!」
その晩、へとへとに疲れきってはいたが、幸福そのもののアンが「グリーン・ゲイブルズ」に帰って来た。それは何とも言えないほど満ちたりた姿だった。
「ねえ、マリラ、今日は|飛びきりすばらしい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》日だったわ。|飛びきりすばらしい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》って言うのは新しい言葉で、今日おぼえたのよ。メアリー・アリス・ベルが使ってるのを聞いたの。とても感じがでてるでしょう? 何もかもすてきだったわ。おいしいお茶をいただいたあと、ハーモン・アンドルーズさんが、『輝く湖水』であたし達みんなをボートに乗せてくださったの――一度に六人ずつね。ジェーン・アンドルーズはもう少しでボートから落ちるとこだったのよ。すいれんをつもうとして身をのり出してたの。アンドルーズさんがその子のベルトをつかむのがほんの少しでも遅かったら、水の中に落ちて、おぼれてたでしょうね。そんな目に会ったのがあたしだったらよかったのになあ。おぼれかけるなんて、とてもロマンティックな経験でしょうね。そしたら、とても面白い話の種ができたのに。それから、アイスクリームを食べたのよ。そのアイスクリームのおいしさを言葉ではとても言い表わせないわ。マリラ、ほんとにほっぺたが落ちそうだったわ」
その晩、マリラはくつ下かごを前にしてマシュウに一部始終を話した。
「わたしは自分が間違ってたことをあっさり認めますよ」マリラは最後に率直に言った。「でも、一つ教えられました。アンの『白状』のことを考えると、どうにもおかしくてね。笑ったりしちゃいけないと思うんだけど、なにしろアンがうそをついたことは確かなんですからね。だけど、どうもそれほど悪いとも思えませんしね。このわたしにも責任があるんですもの。あの子にはどこかわからないところがありますよ。でもね、心配はいらないと思いますよ。それに一つだけはっきりしていることがあります。あの子のいる家には退屈はありっこないってね」
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第十五章 教室騒動
「何てすばらしい日でしょう!」アンは深く息を吸いこみながら言った。「こんな日は生きてるだけで幸せじゃない? こんな日を知らないなんて、まだ生まれてない人達がかわいそうだわ。もちろん、その人達にもいい日があるかもしれないけど、今日という日はぜったいむりだわ。それに学校に行く道がこんなに美しいなんて、もっとすばらしいことじゃない?」
「街道を通って回り道して行くよりも、ずっとこの方がすてきよ。あっちはとてもほこりっぽくて、暑いわ」ダイアナは実際的なものの言い方をすると、べんとうのかごをのぞきこんで、中に入ってる、とろけるような、おいしい三つのいちごパイを、十人の女の子でわけたら、それぞれどのくらいの大きさになるだろうと胸算用した。
アヴォンリーの女生徒達はべんとうをみなでわけあうのがならわしだった。いちごパイを三つ全部食べたり、あるいはいちばんの仲よしとわけあって食べただけでも、その子は生涯消えることのない[ひどいけちんぼう]のらく印を押されてしまうのだった。しかしそうはいっても、パイを十人でわけるとなると、一人のわけ前はあまり少な過ぎて、どうにもならないのだった。
アンとダイアナが学校へ通う道筋はほんとうに美しかった。学校の行き帰りをダイアナと一緒にこうして歩くのは、想像の入りこむ余地がないほどすばらしいとアンは思った。街道を通って回り道して行くとなると、そうはいかなかっただろう。しかし「恋人の小道」や「ウィロウミア」や「すみれの谷」や「樺《かば》の道」を通って行くのは、どうみてもロマンティックだった。
「恋人の小道」は「グリーン・ゲイブルズ」の果樹園の下から始まって、森のずっと奥までのび、カスバート家の農場のはずれまで続いていた。その道を通って、裏の牧場に牛を連れて行ったり、あるいは、冬に、家まで材木を引いてきたりするのだった。アンは「グリーン・ゲイブルズ」に来てひと月とたたないうちに、その道を「恋人の小道」と名づけた。
「ほんとに恋人達がそこを通るわけじゃないのよ」とアンはマリラに説明した。「でもね、今、ダイアナとあたし、とてもすばらしい本を読んでるのよ。その本の中に『恋人の小道』が出てくるの。だから、あたし達も、そんな道がほしいなって思ったの。とてもきれいな名前だと思わない? すごくロマンティックだわ。ほら、その道を恋人達が歩いてると想像できるのよ。あたし、あの小道が大好き。あそこだと、頭に浮かんだことを大声で言っても、人に頭がおかしいと言われる心配がないんですもの」
アンは、朝、一人で家をぬけ出すと、「恋人の小道」を通って、小川まで行った。そこでダイアナがアンを出迎えた。二人は楓の葉のアーチの下をくぐって小道を歩きつづけた――「楓はとても人なつこい木よ」とアンは言った。「いつもさらさらと音を立てて、人にささやきかけてるのよ」――やがて二人は丸木橋の所に来た。それから、小道を出て、バリーさんの裏の畑を通りぬけ、「ウィロウミア」を通り過ぎた。「ウィロウミア」の向こうは「すみれの谷」だった――それはアンドルー・ベルさんの大きな森のかげにある、青々とした、小さな窪地だった。「今はもちろんすみれはなくてよ」とアンはマリラに言った。「でも、春になると、数えきれないくらいすみれが咲くってダイアナが言ってたわ。ねえ、マリラ、すみれが見えると想像できない? あたし、そのことを考えるとほんとに息がつまりそうな気がするわ。あたし、そこを『すみれの谷』と名づけたの。ダイアナは、あたしみたいにいろんな場所にすてきな名前をつけるのがうまい人は見たことないって言ってたわ。何か得意なものがあるのはいいことね。でも、『樺の道』はダイアナが名づけたのよ。あの子がそうしたいと言ったので、まかせたの。でも、あたしだったらきっと、平凡な『樺の道』よりももっと詩的な名前を考え出せたんだけど。そんな名前だったら、誰だって思いつくわ。でも、『樺の道』は、世界でいちばんきれいな場所の一つよ、マリラ」
その通りだった。アンだけでなく偶然そこにまぎれこんだほかの人達も同じ考えだった。それは小さな、せまい、曲がりくねった道で、うねうねと長い丘を越えて、ベルさんの森の中をぬけていた。森にさしこんで来た日の光は、幾重にも重なったエメラルド色の木の葉のとばりを通りぬけてきたので、無きずのダイヤモンドのしんのように美しかった。道の両側は、白い幹としなやかな枝を持った若い樺の並木でずっと縁どられていた。道に沿って、しだや、スターフラワーや、すずらんや、真紅の草の実が生い茂っていた。空中にはいつも気持ちのいい芳香がただよっているし、頭上の木々の間では鳥がさえずり、風がさわさわと笑いさざめていた。時々、こちらがじっとしていると、うさぎがはねながら道を横切って行くのが見られた――アンとダイアナも、ごくまれにはその姿を見かけることもあった。谷の所で、小道に出て、それからえぞまつの丘をのぼって行くともう学校だった。
アヴォンリーの学校は白塗りの建物で、のきは低く、幅の広い窓がついていた。校舎の中には、ふたのあけたてができる、使い心地のいい、頑丈で、古風な机が備えつけてあった。机のふたには一面に三代にわたる学童達の名前のかしら文字や、判読できない文字がきざまれていた。校舎は道路からひっこんでいて、うしろには、黒ずんだ樅《もみ》の林があり、小川が流れていた。子供達はみな、朝来ると、牛乳のびんを小川につけて、お昼までおいしく冷やしておくのだった。
マリラは、九月の最初の日、心の中で色々心配しながら、アンが学校に行くのを見送った。あんなに変わった子だ。ほかの子供達と仲よくやっていけるのだろうか? それから、授業時間中、黙っていることができるだろうか?
しかし、マリラが心配したより、万事うまくいった。その日の夕方、アンは元気よく家に帰って来た。
「あたし、ここの学校好きになれそうよ」アンは告げた。「だけど先生はたいした人じゃないと思うわ。いつも口ひげをひねったり、プリシー・アンドルーズに色目を使ったりしてるんだもの。ほら、プリシーはおとななのよ。今、十六歳で、来年、シャーロットタウンのクィーン学院の入学試験を受けるので、その準備をしているの。ティリー・ボールターが言ってたけど、先生はプリシーにぞっこんまいってるんだって。プリシーはきれいなはだをしてるのよ。茶色の髪はちぢれてて、それをとても上品に結ってるの。プリシーはうしろの長椅子にすわってるのよ。先生もたいがいそこにすわってるの――勉強を教えるためだと言ってね。でも、ルビー・ギリスが言ってたけど、先生がプリシーの石盤に何か書いたら、プリシーがそれを読んでまっ赤になってくすくす笑ってたんだって。それは勉強とは関係がないことだと思うってルビーが言ってたわ」
「アン・シャーリー、わたしの前で二度と先生のことをそんなふうに言うんじゃないよ」マリラはぴしりと言った。「あんたは先生のあらさがしをしに学校に行くんじゃないんだよ。先生はあんたに何かを教えることができる方だろうし、勉強するのがあんたのつとめなんだよ。いいかい、家に帰ってきて先生の蔭口を言うんじゃないよ。それだけは許すわけにいかないよ。学校ではおとなしくしてるんだろうね」
「もちろんよ」アンは少しも気にとめずに言った。「マリラが想像するほどたいへんでもなかったわ。あたしはダイアナのとなりにすわってるの。あたし達の席は窓のすぐそばにあって、『輝く湖水』が見おろせるの。学校には親切な女の子がたくさんいるの。おべんとうの時間は飛びきり楽しかったわ。遊び相手の女の子がたくさんいるってとてもいいものね。でも、もちろん、あたし、ダイアナがいちばん好きよ。それはこれからも変わらないわ。ダイアナが大好きなの。あたし、ほかの子達よりもずっと勉強がおくれてるのよ。みんなもう巻五をやってるのに、あたしはまだ四なのよ。何だか恥ずかしくて。でも、あたしみたいに想像力を持ってる子は一人もいないわ。そのことはじきにわかったの。今日は、読み方と、地理と、カナダ史と、書き取りを習ったの。フィリップス先生は、あたしのつづりはなってないと言って、いっぱい直したあたしの石盤を高く持ち上げて、みんなに見せたのよ。とてもくやしかったわ、マリラ。始めての子にはもっとていねいにしてくれたらいいのにと思うわ。ルビー・ギリスはあたしにりんごをくれたし、ソフィア・スローンは『家まで送って行ってもいい?』とかいた、きれいなピンクのカードを貸してくれたの。あした返すことになってるのよ。それから、ティリー・ボールターは、午後中ずっと、ビーズの指輪をあたしにはめさせてくれたの。屋根裏部屋にある古い針山から真珠玉を少し取って、指輪をこしらえてもいい? それからねえ、マリラ、ジェーン・アンドルーズがあたしにこんなことを言ってたわ。プリシー・アンドルーズがサラ・ギリスに、あたしがとてもきれいな鼻をしてるってと話してるのをミニー・マックファソンが聞いて、ジェーン・アンドルーズに話したんだって。マリラ、あたし、人からほめられたの、生まれてはじめてよ。どんなに変な気持ちがしたかマリラには想像できないわ。マリラ、あたし、ほんとにきれいな鼻してる? あたし、わかってるの、マリラならほんとのことを言ってくれるってね」
「あんたの鼻はまあまあだよ」マリラはぶっきらぼうに言った。心の中ではアンの鼻はとてもきれいだと思ったが、アンにそんなことを言うつもりはなかった。
それから三週間がたち、その間何もかもうまくいっていた。そしてこのさわやかな九月の朝、軽快な足取りで楽しそうに「樺《かば》の道」を歩いていくアンとダイアナは、アヴォンリーでいちばん幸せな女の子達だった。
「今日、ギルバート・ブライスが学校に来ると思うわ」とダイアナは言った。「夏中ずっと、ニュー・ブランズウィックのいとこのとこに行ってて、土曜日の晩、家《うち》に帰って来たばかりなのよ。とてもハンサムな男の子よ、アン。そしてね、すごく女の子をからかうの。そりゃ、途方もなくひどい目に会わせるのよ」
ダイアナの話しぶりは、途方もなくいじめられることを望んでいるみたいだった。
「ギルバート・ブライスですって?」とアンは言った。「それ、玄関の壁の上の方に、『注目』という大きな字の下に、ジュリア・ベルの名前と一緒に書いてあった男の子のこと?」
「そうよ」頭をつんと上げながらダイアナは言った。「でも、ギルバートはきっとジュリア・ベルがあんまり好きじゃないのよ。ジュリア・ベルのそばかすで、九九の表をおぼえたってギルバートが言ってたもの」
「あら、あたしにそばかすの話はしないでよ」アンはたのんだ。「こんなにそばかすだらけのあたしに思いやりがないわね。でも、壁の上に男の子と女の子に関して『注目』と書くぐらい、ばかばかしいことはないと思うわ。誰か男の子の名前と一緒にあたしの名前を書く勇気のある人がいたら、ほんとにお目にかかりたいわ。もちろん」アンはあわててつけ加えた。「誰もそんなことしっこないわ」
アンは溜息をついた。自分の名前が書かれるのはいやだったが、書かれそうもないとなると、ちょっぴり自尊心を傷つけられた。
「ばかばかしい」とダイアナは言った。ダイアナの黒い目と、つやのあるふさふさとした髪はアヴォンリーの男生徒達の胸をときめかせ、六回も名前を玄関の壁に書かれたことがあった。「それはただの冗談のつもりなのよ。それから、自分の名前は書かれっこないなんてきめちゃいけないわ。チャーリー・スローンはあんたにぞっこんまいってるわ。チャーリーはお母さんに――いい、彼のお母さんによ――あんたは学校でいちばんりこうな子だって話したんだって。顔がきれいだって言われるよりもずっといいじゃない」
「いいえ、そんなことないわ」骨の髄まで女であるアンは言った。「あたしはりこうであるよりもきれいな方がいいわ。それに、あたし、チャーリー・スローンがきらいよ。ぎょろぎょろした目の男の子なんてがまんできないわ。もし誰かがチャーリーの名前と一緒にあたしの名前を書いたら、あたし、ぜったいに忘れられないわ、ダイアナ・バリー。でも、クラスで首席を通すっていいものね」
「これからはギルバートがあんたのクラスに入ってくるわよ」とダイアナは言った。「あの子はいつもクラスの首席だったのよ。もうかれこれ十四なんだけど、まだ巻の四をやってるのよ。四年前、その子のお父さんが病気になって、静養のためアルバータに行かなくちゃならなくなって、あの子も一緒に行ったの。二人は三年間そこにいたんだけど、ここに戻って来るまでギルはほとんど学校に行かなかったのよ。これからは首席を通すのは簡単じゃないわよ、アン」
「あたしうれしいわ」アンはあわてて言った。「たった九つや十の男の子や女の子達の中で一番になったってほんとに誇りに思うことができなかったのよ。きのう、あたし、『沸騰《エブリッション》』という字のつづりを書かせられたの。ジョーシィ・パイがいちばんだったのよ。そしたらね、いいこと、ジョーシィったら本をのぞいてるのよ。フィリップス先生は見てなかったのよ――先生はプリシー・アンドルーズの方を見てたの――だけど、あたしは見てたわ。あたしがひややかな軽蔑のまなざしを向けたら、あの子、まっ赤になって、結局つづりを間違えてたわ」
「パイの女の子はみんなペテン師なのよ」街道のさくをよじのぼりながらダイアナはぶりぶりして言った。「ガーティ・パイはきのう小川のあたしの場所に自分の牛乳のびんをつけたのよ。そんなことってある? 今、あの子と口きかないのよ」
フィリップス先生が教室のうしろでプリシー・アンドルーズのラテン語を聞いている時、ダイアナがアンにこっそりささやいた。
「あんたのとこから通路をはさんで同じ列にすわってるのがギルバート・ブライスよ、アン。ハンサムかどうかちょっと見てごらんなさい」
そこでアンはギルバートの方を見た。間がいいことに、そのギルバートは、前にすわっているルビー・ギリスの長い黄色い編みおさげを、その子の椅子の背にピンで留めるのに熱中していた。ギルバートは背の高い子で、茶色の巻毛といたずらっぽい薄茶色の目をしており、まげた口もとには、からかうような微笑をうかべていた。まもなくルビー・ギリスは計算を先生の所に持って行こうとして立ち上がりかけたが、きゃっと悲鳴をあげながらうしろにたおれ、椅子にすわりこんだ。てっきり髪の毛が根元からひきぬかれたと思ったのだった。みんなルビーの方を見た。フィリッブス先生はものすごい顔をしてにらみつけるので、ルビーは泣き出した。ギルバートはピンをすっとかくすと、何食わぬ顔をして歴史を勉強していた。しかし騒ぎがおさまると、ギルバートはアンの方を見て、何とも言えないおどけたしぐさをしながらウインクした。
「あんたのギルバート・ブライスは確かにハンサムだと思うわ」アンはダイアナに耳打ちした。
「でもずうずうし過ぎると思うわ。知らない女の子にウインクするなんていいことじゃないわ」
しかしほんとうの騒ぎが起き始めたのは午後になってからだった。
その時、フィリップス先生はうしろのすみの方で、代数の問題をプリシー・アンドルーズに説明していた。あとの生徒達は、青いりんごを食べたり、ひそひそ話をしたり、石盤に絵をかいたり、こおろぎを糸で結んで通路のあちこちをひっぱり廻したり、したい放題のことをしていた。ギルバート・ブライスはアン・シャーリーに自分の方を見させようとしていたが、アンは見向きもしなかった。その時のアンには、ギルバート・ブライスの存在はおろか、アヴォンリーのほかの生徒達や学校そのものもまったく眼中になかった。アンは頬杖をついて、西の窓からちらっと見える青い「輝く湖水」に目を注ぎながら、はるかかなたのすばらしい夢の国をさまよっていたので、自分が見ているすてきな幻以外は何にも聞こえず、目に入らなかった。
それまでギルバート・ブライスがその気になればたいていの女の子は彼の方を見た。今度みたいに失敗したのははじめてだった。よし、こうなったら何が何でもあの子がこっちを見るようにしてやるから。あの小さなとがったあごと、学校の、ほかの女の子には見られないような大きな目をした、赤毛のシャーリーという女の子を!
ギルバートは通路越しに手をのばしてアンの長くて赤い編みおさげのはしをつかむと、腕をのばしてぐっと引っぱった。そして低いけれどよく透る声で言った。
「にんじん! にんじん!」
たちまちアンはギルバートの方をいやというほど見た。
見たどころか、すっくと立ち上がった。楽しい空想もすっかりだいなしだった。アンはギルバートをきっとにらんだが、そのぎらぎらと怒りに燃える目はたちまちくやし涙でいっぱいになった。
「ひきょうもの! 大きらい!」アンは怒り狂って叫んだ。「あんたよくも!」
それから――ぴしゃりと打つ音がした。アンが石盤をギルバートの頭の上に打ちおろしてくだいてしまったのだ――頭じゃなくて、石盤を――真二つに。
アヴォンリーの生徒達はいつも騒動が好きだった。特に今度のは面白い見ものだった。みんな、肝《きも》をつぶしながらも大喜びで「おお」と言った。ダイアナはあえぎ、ヒステリーの気味があるルビー・ギリスは泣き出した。トミー・スローンは口をぽかんとあけてこの大活劇をじっと見つめた。その間にこおろぎどもはみんな逃げてしまった。
フィリップス先生は通路を大またに歩いて行き、どすんとアンの肩に手を置いた。
「アン・シャーリー、これはどういうことなんだね?」先生は怒ってたずねた。
アンは答えなかった。「にんじん」と言われたことを、アンに、全校生徒の前で話せと言う方が何としても無理な注文だった。勇気を出してはっきりと答えたのはギルバートだった。
「ぼくが悪かったんです、フィリップス先生、この人をからかったんです」
フィリップス先生はギルバートを無視した。
「わたしの生徒がこんなにかんしゃくを起こしたり、執念深い性質をあらわしたりして、まことに残念です」と先生は重々しい口調で言った。まるで、いやしくも自分の生徒である以上、小さな不完全な人間の心の中から、すべてのよこしまな激情の根を絶ってしまうのが当然であるといわんばかりだった。「アン、黒板の前の教壇に午後ずっと立ってなさい」
こんな罰を受けるくらいなら、むちでたたかれた方が、アンにはどれだけましかしれなかった。感じやすいアンの心は、むちでたたかれたように、うちふるえた。アンはまっ青な顔をし、歯をくいしばって、命令に従った。フィリップス先生は白墨をとって、アンの頭の上の黒板にこう書いた。
「アン・シャーリーはひどいかんしゃく持ちです。アン・シャーリーはかんしゃくを起こさないようにしなくちゃいけません」それから先生はこの文句を、声を出して読んだ。字が読めない一年生でも意味がわかるようにとの配慮からだった。
アンは頭の上にこういう文句を書かれたまま、午後の残りの時間ずっと立っていた。アンは泣きもしなければ、うなだれることもしなかった。まだ腹の中がにえくり返るようだったので、それどころではなかったし、また、こうした辛い屈辱にもじっと堪《た》えていられるのだった。ダイアナは気の毒そうにアンを見つめ、チャーリー・スローンは憤慨してしきりにうなずき、ジョーシィ・パイは意地の悪い笑いを浮かべたが、そのどれに対してもアンは怒ったようなまなざしと、激情のために紅潮した頬を見せながら向かい合っていた。ギルバート・ブライスの方は見向きもしなかった。二度とあいつの顔なんか見るもんか! 二度と口なんかきくもんか!
授業が終わると、アンは赤い頭を高く上げてずんずん外に歩いて行った。ギルバート・ブライスはアンをひきとめようとした。
「きみの髪をからかったりしてほんとにごめんよ」ギルバートは心からすまなそうに言った。「ほんとに悪かったと思ってるよ。もうこのへんで怒るのはやめてくれよ」
アンは軽蔑するような態度でさっと通り過ぎて行った。ギルバートの方は見向きもせず、その言葉が聞こえた気配もなかった。
「まあ、あんたよくもそんな態度がとれたわね、アン」道路を歩いて行きながら、ダイアナは半分非難するように、また半分感心したように言った。ギルバートにあやまられたら、自分なら、たちまち陥落してしまっただろうとダイアナは思った。
「あたしはぜったいにギルバート・ブライスを許してやらないから」アンはきっぱりと言った。
「それにフィリップス先生もEをつけないであたしの名前をつづったのよ。あたし、煮え湯を呑《の》まされたようだったわよ、ダイアナ」
ダイアナはアンが何のことを言ってるのかぜんぜんわからなかったが、何かひどいことらしいということはわかった。
「ギルバートがあんたの髪をからかったからって気にしちゃだめよ」ダイアナは慰めるように言った。「だってね、あの子は女の子をみんなからかうのよ。あたしの髪もまっ黒だって笑ってたわ。何回もあたしのこと、からすって言ったわ。それに、あの子が何にせよあやまるなんて聞いたこともないわ」
「からすって言われるのと、にんじんって言われるのとじゃ大違いよ」アンはもったいぶって言った。「ギルバート・ブライスは拷問にかけるほどあたしの気持ちを傷つけたのよ、ダイアナ」
ほかに何ごとも起こらなかったならば、拷問にかけるほどの苦しみを、これ以上与えることなしに問題はおさまっていただろうが、事件はいったん起こったが最後、しばしば引き続いて起こるものなのだ。
アヴォンリーの生徒達は、丘を越えて、べルさんの大きな牧場の向こうにある、やはりベルさん所有のえぞまつの森の中で松やにをとって、よく昼休みを過ごしたものだった。そこからだと、生徒達は、先生が下宿しているエベン・ライトの家を見張っていられるのだった。生徒達は、フィリップス先生がその家から出て来るのを見ると、校舎に向かって走って行った。しかし、学校までの道のりは、ライトさんの小道の三倍ぐらいあったので、生徒達はたいてい先生より三分ほどおくれ、息もたえだえになって校舎に着くのだった。
その翌日、フィリップス先生はまたぞろ思い出したように生徒を矯正《きょうせい》してやろうという気になり、昼食に出かける前に、自分が戻って来た時には生徒達はみんな席についてるようにと言いわたした。誰でもおくれて来たら罰するというのだった。
男の子達全部と女の子の幾人かは、ちょっと味をみる分だけとったらすぐにひきあげるつもりで、いつものようにえぞまつの森に出かけて行った。しかし、森には人をひきつけるものがあったし、黄色いやにの塊もすてがたいものがあったので、生徒達はつみとったり、ぶらぶらしたり、あてもなくさまよったりした。そして例によってジミー・グローバーがえぞまつの老木の梢で「先生が来るぞ」と叫ぶまでみんなは時間のたつのも忘れていた。
地上にいた女の子達は、いちばん初めにかけ出して、どうにかこうにか間に合ったが、もう一秒遅かったらあぶないところだった。男の子達は、あわてて木からおりなければならなかったので、女の子より遅くなった。
そして、松やにとりには加わらずに、森のはずれを歩き回っていたアンが、いちばんおくれた。アンはほの暗い場所にひそむ何かの精のように、髪にゆりの花輪をつけ、腰の辺りまでわらびの茂みにつかりながら、ひっそりと歌っていたのだった。しかし、アンは鹿のように足が速かった。そして必死になって走った結果、入口で男の子達に追いつき、ちょうど先生が帽子掛けに帽子をかけようとしている時に、みんなと一緒に校舎へすべりこんだ。
フィリップス先生のつかの間の矯正《きょうせい》熱はもうさめていた。今さら十二人の生徒を罰するのはめんどうでいやだった。しかし、言いわたした手前、何かをする必要があったので、先生は辺りを見まわして身代わりになるものをさがしているうちに、息せききって椅子にすわりこんだばかりのアンが眼にとまった。取り忘れたゆりの花輪がアンの片方の耳の上にななめにたれさがっていて、ひときわだらしなく取り乱した印象を与えていた。
「アン・シャーリー、きみは男の子達と一緒にいるのが大好きらしいから、今日の午後はきみの好きなようにさせてあげよう」先生は皮肉たっぷりに言った。「髪の毛からその花を取って、ギルバート・ブライスの隣りにすわりなさい」
それを聞いてほかの男の子達はくすくす笑った。ダイアナは同情して青くなり、アンの髪から花輪をひきぬいて、強く手をにぎりしめた。アンは石の像と化したように先生の顔を見つめた。
「わたしの言ったことが聞こえたのかね、アン?」フィリッブス先生はきびしくたずねた。
「はい、聞こえました、先生」アンはゆっくりと答えた。「でも、本気でおっしゃったのではないと思ってました」
「確かに本気で言ったんだよ」――先生は相変わらず皮肉たっぷりの抑揚をつけて言った。子供達、とりわけアンはその調子が大きらいだった。それを聞くとみんなぴりぴりするのだった。「すぐにわたしの言う通りにしなさい」
一瞬、アンは反抗するようなけぶりを見せた。しかしどうしようもないことがわかると、傲然《ごうぜん》と立ち上がり、通路の向こう側に行った。そしてギルバート・ブライスの横にすわると、机に両腕をのせてその中に顔を埋めた。アンが顔を埋めようとしている時、その顔をちらっと見たルビー・ギリスは、学校からの帰り道、ほかの子達に言った。「あたし、あんな顔見たことないわ――まっ青で、気味悪いほど小さな赤いぽつぽつがうかんでるのよ」
アンにとって、これは何もかも終わってしまったも同然だった。同じように罪にあたるはずの十二人の生徒達の中から自分だけが罰を受けるだけでもいいかげんいやだったが、男の子の隣りにすわらせられるのはもっといやなことだった。しかも、その男の子がギルバート・ブライスなんて、傷つけられた上にさらに侮辱されたようなもので、まったくがまんできないほどだった。こんなことはとてもがまんできない、がまんしようとつとめてもむだだ、とアンは思った。アンはからだ中が、恥と怒りと屈辱でにえくり返った。
最初、ほかの生徒達は、アンの方を見て、ひそひそささやいたり、くすくす笑ったり、そっと肘《ひじ》で突いたりしていた。しかし、アンはけっして頭を上げず、ギルバートも分数の勉強だけに全心を打ち込んでいるようだったので、生徒達もやがて自分達の勉強にもどり、アンのことは忘れてしまった。フィリップス先生が歴史の授業を始めた時、アンも出て行くはずだった。しかし、アンは動かなかった。授業が始まる前、「プリシラヘ」という詩を書いていたフィリップス先生はその時、やっかいな押韻のことを考えていたので、アンのいないのに気づかなかった。一度、誰も見ていない時、ギルバートは机から、上に「きみはかわいらしい」と金で書いてあるハート形の小さなピンクのキャンデーを取り出して、アンの肘《ひじ》の辺りにそっとすべりこませた。するとアンは立ち上がって、そのピンクのハートを指先で用心深くつまみ上げると、床の上に落として、かかとでこなごなに踏みくだいた。そして、ギルバートの方はいちべつもくれようともせず、もとの姿勢にもどった。
授業が終わると、アンは自分の机にずんずん歩いて行って、人目につくように、本や、帳面や、ペンや、インクや、聖書や算数など、机の中に入ってるものを一つ残らず取り出すと、割れた石盤の上にきちんと積み上げた。
「なんで家にみんな持って行くの、アン?」道路に出るなりダイアナはわけを知りたがった。もっと早くそれを聞く勇気がなかったのだった。
「あたし、もう学校には戻らないわ」とアンは答えた。
ダイアナははっと息をのみ、アンが本気かどうかを知ろうとしてアンをじっと見つめた。
「マリラが家にいるのを許してくれるかしら?」とダイアナはたずねた。
「許さないわけにはいかないわ」とアンは言った。「あたし、ぜったいに、二度とあんな男のいる学校なんかに行かないから」
「まあ、アン!」ダイアナは泣き出さんばかりだった。「あんまりだわ。あたしはどうしたらいいの? フィリップス先生は、あたしを、あのいやなガーティ・パイと並ばせるわ――あたしにはわかってるのよ。ガーティは今、一人ですわってるんだもの。お願いだから戻って、アン」
「あんたのためだったらたいていのことはするわ、ダイアナ」とアンは悲しそうに言った。「あんたの役に立つんだったら、手足をもぎ取られてもいいわ。でも、これだけはできないの。だから、戻れなんて言わないでちょうだい。あたしをそんなに苦しめないで」
「考えてもごらんなさい。学校をやめたら楽しみが全部なくなっちゃうのよ」ダイアナは悲しんだ。「あたし達、小川のそばにとてもきれいな家をたてるのよ。それから、来週、ボール遊びをするのよ。あんた、ボール遊びをしたことないでしょう。とても面白いわよ。そして、新しい歌を習うのよ――ジェーン・アンドルーズが今その歌を練習してるとこなの。それから、アリス・アンドルーズが来週新しいパンジー・ブックを持って来るので、あたし達みんな、小川のそばで、それを一章ずつ朗読するのよ。「ほら、あんた、朗読するのが大好きじゃないの」
何を言われてもアンは少しも動かされなかった。もう心がきまっていたのだ。二度と学校のフィリップス先生の所に行くつもりはなかった。で、家に帰った時もその旨をマリラに話した。
「ばかばかしい」とマリラは言った。
「ちっともばかばかしくないわ」アンはまじめな、とがめるような目をしてマリラを見つめながら言った。「わからないの、マリラ? あたしは侮辱されたのよ」
「侮辱だって! ばからしい! あしたはいつもの通り学校に行きなさい」
「いやよ」アンは静かにかぶりを振った。「あたし、学校には戻らないわよ、マリラ。家《うち》で勉強するの。できるだけおとなしくして、できたら一日中黙ってるようにするわ。でも、あたし、ほんとうに学校には戻らないわよ」
マリラはアンの小さな顔に、てこでも動きそうもない固い決意が浮かんでいるのに気がついた。これに打ち勝つのはたいへんだと悟ったが、賢明にも今はこれ以上何も言うまいと決心した。
「今夜レィチェルの所にひとっ走り行って相談して来よう」とマリラは思った。「今、アンを説き伏せようとしてもむだだ。とてもかっかとしてるし、それに、わたしの感じだと、あの子はいったんこうと思ったが最後、ひどく頑固《がんこ》になるのだ。あの子の話を聞いてわかった限りでは、フィリップス先生は高飛車にことを運んだらしい。でも、あの子にそんなことを言うのはよくない。そのことはレィチェルに相談しよう。あの人は十人の子供を学校にやったんだから、こんな時どうしたらいいか知ってるはずだ。今ごろはもう話をすっかり聞いてるだろう」
マリラが訪れると、レィチェル夫人はいつものようにせっせと、きげんよくふとんを編んでいた。
「わたしがなんでおじゃまに上がったかご存知でしょう」マリラはちょっと恥ずかしそうに言った。
レィチェル夫人はうなずいた。
「アンが学校で起こした騒動のことでしょう」と夫人は言った。「ティリー・ボールターが学校の帰りに寄って話して行きましたよ」
「あの子をもてあましてるんですよ」とマリラは言った。「学校には戻らないなんて言ってるんです。あんなにかっかとしてる子は見たことないですよ。あの子が学校に行き出してからというもの、いつごたごたを起こすかとひやひやしてたんです。あんまり何もかも順調に運んでいましたからね。あの子はとても感じやすいんです。ほんとにどうしたらいいでしょうね、レィチェル?」
「そうね、わたしの意見をお求めなんだから言いますけどね、マリラ」とリンド夫人は愛想よく言った――リンド夫人は意見を求められるのが大好きだった――「わたしだったら、最初しばらくの間あの子の好きなようにさせますよ。フィリップス先生の方に落度があるとわたしは思いますね。もちろん、そんなことを子供達に言うのはよくないですよ。それから、もちろん、先生がきのう、かんしゃくを起こしたあの子を罰したのは当然のことです。でも、今日は事情が違うんですよ。おくれたほかの子達も同じように罰してやりゃよかったんですよ、ほんとうに。それに、罰として、女の子を男の子と並ばせるなんて、わたしゃいいこととは思わないね。行き過ぎですよ。ティリー・ボールターはかんかんになって怒ってましたよ。あの子は初めっからアンの味方だったんです。ほかの生徒達もみんな味方だってティリーが言ってましたよ。アンはどういうわけかみんなに人気があるようですね。こんなにみんなに気に入られるとは思わなかったけどね」
「そんなら、あの子が家にいるのを許してやった方がいいとほんとにお考えなんですか?」マリラはびっくりしてたずねた。
「そうですよ。つまりね、わたしなら、あの子が自分で言い出さないうちは、学校のことを二度と口にしませんね。だいじょうぶ、マリラ、あの子は一週間とたたないうちに冷静になって、自分から進んで学校に戻るようになりますよ。反対に、今すぐあの子を学校に戻らせようものなら、今度はどんな大騒動を起こすかしれたものではなし、ますますこんがらかるばかりですよ。わたしの考えじゃ、ごたごたは少ないほどいいからね。あんなことが続くかぎり、あの子が学校に行かないからってあんまり損にもならないですよ。フィリップスさんは先生としては全然だめですね。あの先生のやり方はほんとになってない。小さい子達をほっといて、クィーン学院の受験準備をさせてる上級生にばかり時間をかけてるんだから。おじさんが理事をしてなかったら、あの先生もこれ以上学校にのこれないはずなんだけど――その理事も一人も同様、あとの二人はいいようにされているんだからね。この島の教育もこの先どうなることやら、知れたものじゃありませんよ」
レィチェル夫人はかぶりを振って言った。まるでもし自分がその地方の教育機関のいちばん上にさえいたら、問題ははるかにうまく処理されるんだがと言わんばかりだった。
マリラはレィチェル夫人の忠告を聞いて、アンにひとことも学校に戻れとは言わなかった。アンは家で勉強したり、雑用をしたり、うすら寒い紫色の秋の夕闇の中でダイアナと遊んだりした。しかし、路上や教会学校でギルバート・ブライスと会った時、アンはひややかな軽蔑を表わしてそのそばを通り過ぎた。アンをなだめたいというギルバートの気持ちはだれの目にも明らかだったが、アンの方ではてんで受けつけようとしなかった。仲裁者としてのダイアナの努力さえも役に立たなかった。アンはギルバート・ブライスを生涯憎み続けようと決心しているらしかった。
しかし、ギルバートを憎むと同じぐらいにアンはダイアナを愛した。愛憎のどれにも等しく強烈なアンは、小さな心の情熱のありったけをダイアナに注いだ。ある晩、マリラがりんごのかごをさげて果樹園から家に入って来ると、アンは薄暗がりの中を東の窓のそばに一人ですわって、おいおい泣いていた。
「今度はどうしたんだい、アン?」とマリラはたずねた。
「ダイアナのことなの」アンは派手にすすり上げた。「あたし、ダイアナが大好きなのよ、マリラ。あたし、あの子なしには生きていけないの。でもね、あたし、よくわかってるの。大きくなったら、ダイアナが結婚して、あたしから離れていってしまうことが。そしたら、ああ、あたしはどうしたらいいの? あたし、あの子の夫になる人が大嫌い――猛烈に嫌いよ。あたし、全部想像したわ――結婚式や何もかもね――ダイアナはまっ白な衣裳《いしょう》を着て、ベールをつけ、女王さまのように美しく堂々としてるの。あたしは花嫁の付き添いで、やはり美しい着物を着て、袖もふくらんでるんだけど、はりさけそうな胸を笑顔の下にかくしてるの。それから、ダイアナにお別れを言いながら――」ここでアンはわっと泣き伏した。そして、一段と激しくむせび泣いた。
マリラはおかしさでひきつっている顔をかくそうと急いでうしろを向いたが、だめだった。いちばんそばの椅子の上にくずおれると、いつになく腹をかかえて笑い出したので、外の庭を横切っていたマシュウがびっくりして立ちどまったほどだった。マリラがこんなふうに笑うのをマシュウは聞いたことがあるのだろうか?
「でもね、アン・シャーリー」口がきけるようになるやいなやマリラは言った。「取り越し苦労をするんだったら、後生だから、もう少し手近なところでやってもらいたいね。ほんとにあんたには想像力があることがわかったよ」
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第十六章 お茶の招待とその悲しい結末
「グリーン・ゲイブルズ」の十月は美しかった。窪《くぼ》地の樺は日光のように金色に変わり、果樹園のうしろの楓は真紅で、小道に沿って生《は》えている山桜は、この上なく美しい、濃い赤と青銅色を身にまとっていた。そして、二番刈りの牧草地も明るく輝いていた。
アンはまわりの色の世界を心ゆくまで楽しんだ。
「ねえ、マリラ」ある日曜日の朝、みごとな枝を腕いっぱいにかかえて、飛びはねながら家に入って来たアンは叫んだ。「十月がある世界に住めてとてもうれしいわ。十月をぬかして、いきなり九月から十一月になったらいやでしょうね。この楓の枝を見てちょうだい。胸がわくわくしない?――たてつづけに何回もあたし、この枝で自分の部屋を飾るの」
「散らかるよ」その後も、たいして美的感覚に磨《みが》きがかかったとは思われない、マリラは言った。
「あんたは外から持ち込んできた物で部屋を散らかし過ぎるよ、アン。寝室は寝るために作られてるんだよ」
「あら、それから、夢を見るためによ、マリラ。きれいなものが置いてある部屋で寝たほうが、夢がよく見られるのよ。あたし、この枝を古い、青色の水差しにいけて、テーブルの上に置くわ」
「そんなら、階段を葉っぱだらけにしないようにしておくれ。わたしは、今日のお昼過ぎ、カーモディの後援会の集まりに出かけるよ、アン。多分、暗くなるまで帰らないからね。マシュウとジェリーの晩ご飯の用意はあんたがしなくちゃいけないよ。こないだみたいに、テーブルについてから、お茶をせんじ忘れたことに気づいたなんてことがないようにしておくれ」
「忘れたのはほんとうに悪いことをしたわ」アンは言いわけがましく言った。「でも、あの日の午後、あたし、『すみれの谷』に名前をつけようとしてたの。そのことで頭がいっぱいで、ほかのことは忘れちゃったのよ。マシュウはとても優しかったわ。ちっとも叱らなかったのよ。自分でお茶を入れて、しばらく待てばいいんだと言ってくれたの。あたし、待ってる間、すてきな童話を話してあげたので、マシュウは、全然退屈しなかったのよ。美しい童話だったわよ、マリラ。あたし、お話の結末を忘れちゃったので、自分でしめくくったの。マシュウは、つなぎ目がわからないくらいよくできてる、と言ってくれたわ」
「マシュウはね、仮にあんたがばかな考えを起こして、真夜中に起き上がって、食事をしたとしても、かまわないと思うような人なんだよ。でも、今度はそそうがあっちゃいけないよ。それから――こんなことをしていいのかわたしはよくわからないんだけど――あんたが前よりもおばかさんになるかもしれないんでね――今日の午後、ダイアナに遊びに来てもらって一緒にお茶をのむことにしたらどう?」
「まあ、マリラ!」アンは両手をしっかり組み合わせた。「何てすてきなんでしょう! おばさんはやっぱり想像力があるのよ。でなければ、あたしがどんなにそうしたがってたかわかるはずがないもの。人をお茶に呼ぶなんて、楽しくて、おとなになったような気分になるでしょうね。お客さんがいる時は、お茶をせんじるのを忘れたりしないから、だいじょうぶよ。ねえ、マリラ、ばらのつぼみの茶器を使ってもいい?」
「いや、だめだよ! ばらのつぼみの茶器だって! さて、この次は何を言い出すやら。あれはねえ、牧師さんや後援会の人達が見えた時しか使わないんだよ。古い茶色の茶器をおろしてきなさい。でも、さくらんぼの砂糖漬の入った、小さな、黄色いつぼはあけてもいいよ。何にしても、もう食べてもいい頃だ――味がしみてきたと思うよ。それから、フルーツ・ケーキを切って、クッキーとしょうが入りせんべいを食べてもいいよ」
「あたし、テーブルの上席にすわって、お茶をついでる自分が想像できるわ」うっとりと目をとじながらアンは言った。「それから、あたしはダイアナにお砂糖を入れるかってきくの! あの子がお砂糖をとらないことはあたし知ってるの。でも、もちろん知らないふりをしてきくのよ。それから、フルーツ・ケーキをもう一切れと砂糖漬のお代わりをどうぞってすすめるの。ああ、マリラ、考えるだけでわくわくするわ。あの子が来たら、客用寝室に連れて行って、そこで帽子をぬいでもらっていい? それから客間に連れて行ってすわってもらっていい?」
「だめだよ。あんたやあんたのお客さんは居間でたくさんだよ。でも、こないだの晩、教会の懇親会で出して残ったいちご水が、びんに半分ほど残ってるよ。居間の戸棚の二番目の棚にのってるから、よかったら二人で飲んでもいいよ。それから、午後は、それと一緒にクッキーをおあがり。マシュウはじゃがいもを船に運んでいるので、たぶんお茶にはおくれるだろうからね」
アンは窪《くぼ》地に駆けおり、「ドライアドの泉」を通り過ぎ、えぞまつの小道を通って、「オーチャード・スロープ」に飛んで行き、ダイアナをお茶に招いた。その結果、マリラがカーモディに馬車で出かけた直後、ダイアナは二番目に上等の晴着に身をつつみ、まさにお茶に招かれた時にふさわしい姿でやって来た。いつもだったらノックもしないで台所に駆けこんでくるダイアナも、その日に限って正面玄関の戸をきどってノックした。二番目に上等の晴着を着たアンが、やはりきどって戸をあけると、二人の女の子は初対面のように大まじめで握手した。ダイアナは東の部屋に案内され、そこで帽子をぬいでから居間に行き、きちんとつま先をそろえて十分間すわっていた。こうしたいつにないしかつめらしさはその間ずっと続いていた。
「お母さまはいかがですか?」アンはその日の朝、元気よくりんごをもいでいたバリー夫人を見かけたことはおくびにもださずに、ていねいにたずねた。
「ありがとうございます。とても元気です。カスバートさんは今日の午後はリリー・サンド号にじゃがいもを運んでいらっしゃるのでしょう?」ダイアナは朝マシュウの馬車でハーモン・アンドルーズさんの所まで行ったくせにそうたずねた。
「そうなんですよ。今年はじゃがいもが豊作なんですの。お父さまのじゃがいもも収穫が多いんでしょう」
「おかげさまで、まあまあですの。もうたくさんりんごをおもぎになりましたか?」
「ええ、とてもたくさん」アンはもったいぶるのを忘れ、ぱっと飛び上がりながら言った。「果樹園に行って紅玉をとりましょうよ、ダイアナ。木に残ってるのはみんなとっていいってマリラが言ってたわ。マリラはとても気前がいいのよ。お茶の時、フルーツ・ケーキとさくらんぼの砂糖漬を食べてもいいって言ってたわ。でも、お客さまに何をごちそうするのか話すのはお行儀が悪いことだから、マリラが飲んでもいいと言ってた飲み物の名前は言わないわ。でも、これだけは言っとくわ。それはいの字ではじまって、まっ赤な色をしているのよ。あたし、まっ赤な飲み物が好きだわ。あんたは? ほかの色の飲み物の二倍も味がいいんだもの」
枝もたわわに実をつけた大枝が、地面までたれさがっている果樹園で遊ぶのはとても楽しかったので、女の子達は午後のほとんどをそこで過ごした。霜の害のおよんでいないすみの青草の上に腰をおろし、柔らかい秋の日ざしにあたたまりながら、りんごを食べたり、せいいっぱいおしゃべりをしたのだった。ダイアナは学校で起こったことについて、アンに話すことが山ほどあった。ダイアナはガーティ・パイと並ばせられて、いやな思いをしている。ガーティは、いつもきいきい音を立てて鉛筆を使い、ダイアナをぞっとさせている。ルビー・ギリスは、クリークのメアリー・ジョー婆さんからもらった魔法の小石でまじないをかけて自分の|いぼ《ヽヽ》をほんとにみんな取ってしまった。新月の晩に、その小石で|いぼ《ヽヽ》をこすってから、小石を左の肩越しに投げすてると、|いぼ《ヽヽ》はすっかり消えてしまうのだ。チャーリー・スローンとエム・ホワイトの名前が玄関の壁の上に一緒に書かれたので、エム・ホワイトはかんかんになって怒った。サム・ボールターが授業中フィリップス先生に口答えしたので、先生はサムをむちでたたいた。すると、サムの父親が学校にやって来て、二度と自分の子供に手をふれられるものならふれてみろと言った。マティー・アンドルーズが新しい赤いフードつきで、ふさのある青い肩掛けをして来たが、きどって着ているのを見たらほんとにいやになった。リジー・ライトはマミー・ウィルソンに口をきかない。マミー・ウィルソンの大きい姉さんがリジー・ライトの大きい姉さんの恋人をとってしまったのだ。みんなアンがいなくてとても寂しがり、アンがまた学校に来ればいいなと思っている。それから、ギルバート・ブライスは――。
しかしアンはギルバート・ブライスのことなんか聞きたくなかったので、急いで立ち上がると、家に入っていちご水を飲みましょうと言った。
アンは戸棚の二番目の棚を見たが、いちご水のびんはなかった。よく探してみると、それは一番上の棚のずっとうしろの方にのっていた。アンはびんを盆の上にのせると、コップと一緒にテーブルの上に置いた。
「さあ、どうぞご自由に召し上がってください」アンはていねいに言った。「あたし、今は飲まないわ。あんなにりんごを食べたあとなので、ほしくないの」
ダイアナはいちご水をコップ一杯になみなみとつぐと、まっ赤な色をうっとりと見てから、上品にすすった。
「とてもおいしいいちご水だわ、アン」とダイアナは言った。「いちご水がこんなにおいしいものとは知らなかったわ」
「喜んでくれてほんとにうれしいわ。好きなだけ飲んでよ。あたし、急いで火をかき立ててくるわ。家事を見るとなると、いろんなことが気にかかるものね」
アンが台所から戻って来ると、ダイアナは二杯目のいちご水を飲んでいるところだった。そしてさらにアンにすすめられると、ダイアナは三杯目を飲むことを大してこばみもしなかった。これだけ飲むとかなりの量になるわけだが、いちご水は確かにおいしかった。
「こんなおいしいの飲んだことないわ」とダイアナは言った。「リンドのおばさんは自分のいちご水をとても自慢してたけど、それよりずっとおいしいわ。全然味が違うのよ」
「おそらくマリラのいちご水はリンドのおばさんのよりずっとおいしいと思うわ」アンはマリラの肩をもった。「マリラは名コックなのよ。あたしにお料理を教えようとしてくれてるんだけど、お料理はむずかしいわ。ほんとうよ、ダイアナ。お料理には想像の余地がほとんどないわ。規則にもとづいてやればいいんだもの。この前ケーキを作った時、あたし、小麦粉を入れるのを忘れちゃったのよ。あなたとあたしに関するとても美しい物語を想像してたのでね。あたし、想像したの。あなたは天然痘にかかって危篤なの。みんなあなたを見捨てちゃうんだけど、あたしは平気であなたの寝床のそばに行って看病して、あなたを元の元気なからだにしてあげるの。すると、あたしは天然痘がうつって死んじゃうのよ。そしてね、墓地のポプラの木の下に葬られるのよ。あなたはあたしのお墓のそばにばらの木を植えて、涙でその木をぬらしてくれるの。あなたは、自分のために命を投げ出した若い頃の友達を決して決して忘れないのよ。ああ、とても悲しいお話だったわよ、ダイアナ。あたし、ケーキをまぜてたんだけど、涙が頬《ほお》を伝って流れ落ちて来るの。でも、小麦粉を入れるのを忘れちゃったので、ケーキは大失敗だったわ。ほら、小麦粉はケーキにとって、なくてはならないものでしょう。マリラはかんかんだったけど、無理もないわ。あたしはマリラにやっかいばかりかけているの。先週、プディング・ソースのことで、あたし、マリラに赤恥をかかせたのよ。火曜日、食事の時、干しぶどう入りプディングを食べたら、プディングが半分とソースがつぼ一杯残っちゃったの。そしたらマリラが、あと一回の食事分ぐらいあるから、食器室の棚の上にのせて、ふたをしときなさいと言ったの。あたし、ちゃんとふたをするつもりだったんだけど、食器室につぼを持って行った時、あたし、自分が尼さんだと想像したの――もちろんあたしはプロテスタントだけど、カトリックだと想像したのよ――失恋の傷手にたえかねて、修道院に身をひそめるってわけ。それでね、あたし、プディング・ソースにふたをするのをすっかり忘れちゃったの。次の日の朝、思い出したので、食器室に飛んで行ったの。プディング・ソースの中に、はつかねずみが溺れ死んでいるのを見て、あたしがどんなに震え上がったか、想像できるものならしてごらんなさい、ダイアナ! あたし、はつかねずみをさじですくい出してから、庭に捨てて、さじを三回も水で洗ったの。マリラは外で牛の乳を搾《しぼ》っていたので、戻って来たら、ソースをぶたにやってもいいかマリラにきくつもりだったの。でも、いよいよマリラが戻って来た時には、あたしは自分が霜の妖精だと想像してたのよ。あたしは森を通りぬけながら、木達を赤か黄色か、好きな色に変えてやるの。だから、あたし、プディング・ソースのことは二度と思い出さなかったのよ。そのうちにマリラに言われてりんごをもぎに行ったの。ところがね、その日の朝、スペンサーヴェイルのチェスター・ロスさんご夫婦がここに見えたのよ。あの人達はね、とてもハイカラでしょう。特に奥さんはね。マリラに呼ばれて、あたしが部屋に入って行ったら、食事の仕度《したく》はすっかりできてて、みんな食卓についてたの。あたしはなるたけ礼儀正しく、堂々とふるまおうとしたの。きれいじゃないけど、上品な女の子だと奥さんに思われたかったんだもの。何もかもうまく行ってたんだけど、やがて、マリラが一方の手にプディングを持ち、片方の手に暖めたプディング・ソースのつぼを持ってやって来るじゃない。あの時はほんとにびっくりしたわ、ダイアナ。それを見て、あたし、何もかも思い出し、椅子から立ち上がって金切り声で言ったの。『マリラ、そのプディング・ソースを使っちゃだめよ。ソースの中ではつかねずみが溺れ死んでたの。あたし、言うの忘れてたのよ』ああダイアナ、あたし、百まで生きたって、あの恐ろしい瞬間を忘れられないでしょうね。チェスター・ロスさんの奥さんはあたしの方をじっと見てばかりいるし、あたし、恥ずかしくて、穴があったら入りたいと思ったわ。奥さんは申し分のない主婦なのよ。だから、あたし達のことどう思ったか考えてもごらんなさい。マリラはまっ赤になったけど、一言も言わなかったわ――その時はね。そのソースとプディングを持って出て行って、代わりにいちごの砂糖漬を持って来ただけだったわ。それどころか、あたしにも砂糖漬をすすめてくれたんだけど、全然のどを通らなかったの。まるで、うらみに報いるに徳をもってするという具合ですもの。チェスター・ロスのご夫婦が帰ったあと、あたし、マリラにうんとしかられたわ。あら、ダイアナ、どうしたの?」
ダイアナはふらふらと立ち上がり、それから両手で頭をかかえてまたすわりこんでしまった。
「あたし――あたし、とても気分が悪いの」ダイアナはちょっとはっきりしない口調で言った。
「あたし――あたし――すぐに家に帰らなくちゃ」
「まあ、お茶も飲まないで帰るなんて考えちゃいけないわ」アンはがっかりして叫んだ。「すぐに用意するわ――今すぐお茶をいれてくるわ」
「家に帰らなくちゃ」ダイアナはろれつがまわらないながらも、きっぱりとくり返した。
「とにかく昼ご飯だけは食べてってよ」とアンはたのんだ。「フルーツ・ケーキとさくらんぼの砂糖漬を食べてって。ソファーにちょっと横になりなさいよ。すぐ気分がよくなるわよ。どのへんがおかしいの?」
「家に帰らなくちゃ」ダイアナはそれしか言えなかった。アンがいくらたのんでもだめだった。
「お茶も飲まないで帰るお客なんか聞いたことないわ」アンはなげいた。「ねえ、ダイアナ、ひょっとしたらあんたほんとに天然痘なんだと思わない? もしそうなら、だいじょうぶ、あたし、あんたのとこに行って看病してあげるから。ぜったいにあんたを見捨てないわ。でも、お茶がすむまでここにいてくれないかなあ。どのへんが気持ち悪いの?」
「とてもふらふらするのよ」とダイアナは答えた。確かにダイアナの足取りはひどくふらついていた。アンは失望のあまり目に涙を浮かべながら、ダイアナの帽子を持って、バリーの庭のかきねの所まで送って行った。それからずっと泣きながら「グリーン・ゲイブルズ」に戻ると、アンは悲しみにしずみながらいちご水を戸棚に戻し、マシュウとジェリーのお茶の用意をしたが、そのしぐさには全然熱が入らなかった。
その翌日は日曜日だったが、明け方から日暮れまでどしゃぶりの雨だったので、アンは一歩も外に出なかった。月曜日の午後、マリラはアンをリンド夫人の所まで使いにやった。するといくらもたたないうちに、アンはぽろぽろ涙をこぼしながら小道を駆け上がって来た。それから台所に駆け込み、ソファーにつっぷすと、身もだえして嘆き悲しんだ。
「今度は何がうまくいかなかったの?」どうしたのだろうと心配しながらマリラはたずねた。「またリンドさんに生意気なことを言ったんじゃないだろうね」
アンは答えず、ますます涙を流して、激しくすすり泣くばかりだった。
「アン・シャーリー、きかれた時は答えてもらいたいね。今すぐきちんとすわって、なんで泣いているのか話しなさい」
そこでアンはきちんとすわりなおした。まるで悲しみの化身《けしん》だった。
「今日、リンドのおばさんがバリーのおばさんに会いに行ったら、バリーのおばさんがかんかんに怒ってたんだって」アンは泣きわめいた。「おばさんはね、土曜日にあたしがダイアナを酔わせて、みっともない状態で家に帰したって言うのよ。それから、あたしはきっとしんから悪い子なんだ、もう二度とダイアナとは遊ばせないとも言ってるんだって。ああ、マリラ、あたし、悲しくてほんとにどうしていいかわからないわ」
マリラはぽかんとしてアンの顔を見つめた。
「ダイアナを酔わせただって!」ものが言えるようになるとマリラは言った。「あんた、気でも違ったの? それとも、バリーの奥さんがどうかしてるのかい? いったいダイアナに何を飲ませたの?」
「いちご水しか飲ませなかったわよ」アンはすすり泣いた。「いちご水を飲むと酔っぱらうとは思わなかったのよ、マリラ――ダイアナのように、たとえ大コップで三杯飲んだとしてもね。ああ、まるで――まるっきりトマスのおばさんのご主人の話みたい! でも、あたし、ダイアナを酔わせるつもりなんか全然なかったわ」「酔わせるだって! ばかばかしい!」そう言うと、マリラは居間の戸棚にずんずん歩いて行った。そこの棚には一本のびんがのっていた。マリラには、それが三年目の自家製のぶどう酒のびんであることが一目でわかった。マリラのぶどう酒はアヴォンリーでも有名だった。もっとも、バリー夫人を含むやかましやの部類に属する人達の中には、マリラのぶどう酒作りを強く非難する者もあったが。それと同時にマリラは、アンに言ったことは間違いで、いちご水のびんは食器室ではなくて、地下室に置いたことを思い出した。
マリラはぶどう酒のびんを手に持って台所に引き返した。マリラの顔はおさえきれない笑いにゆがんでいた。
「アン、あんたは確かにごたごたを起こす天才だね。あんたはいちご水の代わりにぶどう酒をダイアナに飲ませたんだよ。違いが自分でわからなかったのかい?」
「飲んでみなかったんだもの」とアンは言った。「いちご水だと思ったのよ。あたし、うんと――うんと――よくもてなしたいと思ったんだもの。ダイアナはとても気分が悪くなったので、やむをえず家に帰ったの。ダイアナがぐでんぐでんに酔っぱらってたってバリーのおばさんがリンドのおばさんに話したんだって。ダイアナのお母さんがどうしたのってきいたら、ダイアナはばかみたいに笑ってばかりいて、そのうち寝込んでしまって、何時間も眠り続けたの。お母さんがダイアナの息をかいだので、酔っぱらってることがわかったのよ。ダイアナはきのう一日中ものすごい頭痛がしたのよ。バリーのおばさんはかんかんなの。あたしがわざとそんなことをしたと思い込んでるのよ」
「あの人は、何にせよ、三杯も飲むほど食いしんぼうのダイアナに、しおきをした方がいいとわたしは思うね」マりラはつっけんどんに言った。「まあ、ただのいちご水だって、三杯も大きなコップで飲めば気分が悪くなるものね。ところで、今度の噂は、ぶどう酒を作るということでわたしにけちをつける人達のいい材料になるだろうよ。もっとも、牧師さんが喜んでないとわかってからここ三年間というもの、ぶどう酒は全然作ってないけどね。気分の悪い時にそなえてあのびんをとっといただけなんだよ。さあさあ、いい子だから泣くんじゃないよ。こんなことが起こったのは残念だけど、あんたが悪いわけじゃないんだからね」
「これが泣かずにいられるかしら」とアンは言った。「あたし、悲しくてたまらないの。運命の星が邪魔をするのよ、マリラ。ダイアナとあたしは永久にわけられちゃったの。最初に友情のちぎりを結んだ時、こんなことになるとは夢にも思わなかったわ」
「ばかなことをお言いでないよ、アン。バリーの奥さんも、ほんとうはあんたが悪いんじゃないということがわかったら、考えなおしてくださるよ。奥さんは、あんたが冗談のつもりか何かでそんなことをしたんだと思ってるんだろうよ。今夜、奥さんの所に行って、こうなったわけを話すのがいちばんいいよ」
「感情を害してるダイアナのお母さんに面と向かって会うのかと思うと気おくれがするわ」アンは溜息をついた。「ね、マリラ、代わりに行ってくれない? マリラはあたしよりずっと堂々としてるんだもの。あたしの話よりもマリラの話の方を聞いてくれると思うの」
「いいよ、そうしよう」その方が賢明なやり方だろうと思いながらマリラは言った。「もう泣きなさんな、アン。きっとなんとかなるよ」
しかし、「オーチャード・スロープ」から戻って来る頃には、マリラはなんとかなるということについては自分の考えを改めなければならなくなっていた。アンはマリラの帰りを待ちかまえていて、玄関の扉に飛んで行って、出迎えた。
「ああ マリラ、だめだったのね。顔を見ればわかるわ」アンは悲しそうに言った。「バリーのおばさん、あたしを許してくれないんでしょう?」
「まったくバリーの奥さんったら!」マリラはどなった。「今までいろんなわからずやの女を見てきたけど、あんな人ははじめてだよ。あの人に、みんな誤解で、アンは悪くないんだって言ったんだけど、わたしの言うことなんかてんで信じようとしないんだよ。そしてね、ぶどう酒のことをひっぱり出して、あんたはいつも、ぶどう酒を飲んでもちっとも酔わないって言ってたじゃないかって言うんだよ。だから、わたしもはっきり言ってやったんだよ。ぶどう酒はいっぺんに大コップ三杯も飲むもんじゃない、わたしんとこの子がそんな食いしんぼうなことをしたら、うんとひっぱたいて酔いをさまさせてやるってね」
マリラはひどく興奮して台所にすっと入って行った。あとには取り乱した小さな子が玄関に取り残された。やがてアンは帽子もかぶらずに、冷たい秋の夕闇の中に出て行った。それから、枯れたクローバーの生《は》えてる野原を通り、丸木橋を渡り、えぞまつの森を抜けて、西の森の上に低くかかっている青白い月のかけらに照らされて、決然たる顔つきで、しっかりと歩いて行った。おずおずと扉を叩《たた》く音を聞いてバリー夫人が出て行くと、戸口の上がり段に、まっ青な唇をし、必死の色を眼に浮かべたアンの哀願するような姿があった。
夫人の頬《ほお》はこわばった。バリー夫人は偏見が強く、嫌悪《けんお》の情の激しい人だった。怒った時は冷たく、むっつりと黙りこんでしまうという、いちばん扱いにくいタイプだった。夫人は夫人で、アンがまったくの悪意からダイアナにお酒を飲ませたのだと信じきっていた。そして自分の娘がこんな子供とこれ以上親しくなって、悪に染まるようなことがあってはたいへんだと、本気で思いこんでいるのだった。
「何の用?」夫人はよそよそしくたずねた。
アンは両手をしっかり組み合わせた。
「ああ、バリーのおばさん、どうぞあたしを許してください。あたし――あの――ダイアナを酔わせるつもりはなかったんです。どうしてそんなことができるでしょう? おばさんが、親切な人にもらわれたかわいそうなみなしごの女の子で、世界中で心の友といえる相手はたった一人なんだと想像なさってください。おばさん、その友達をわざと酔わせようとお思いになるでしょうか? あたし、あれはただのいちご水だと思ったんです。てっきりいちご水だと思いこんでいたんです。ああ、もうダイアナと遊ばせないなんてどうぞおっしゃらないでください。もしそんなことおっしゃったら、あたしの生涯は悲しみの暗雲でおおわれるでしょう」
こんなことを言われれば、気のいいリンド夫人だったらたちまち軟化しただろうが、バリー夫人はますますいらいらするばかりだった。アンの大げさな言葉や芝居がかった身ぶりを怪しみ、この子は自分をからかってるのかもしれないと思った。そこで夫人は冷く、無慈悲に言った。
「あんたはダイアナとつきあうのにふさわしい女の子だとは思いませんよ。家《うち》に帰って、おとなしくしてる方がいいでしょう」
アンはくちびるを震わせた。
「お別れを言いたいので、一度だけダイアナに会わしてくださいません?」とアンはたのんだ。
「ダイアナは父親と一緒にカーモディに行ってしまいましたよ」夫人はそう言うと、中に入って、ドアをしめた。
アンは絶望のあまりしょんぼりと「グリーン・ゲイブルズ」に帰って行った。
「最後の望みも消え失せたわ」とアンはマリラに言った。「あたし、バリーのおばさんに会いに行って、ひどい侮辱を受けたの。マリラ、あの人は育ちのいい人じゃないと思うわ。あとはもうお祈りするしかしょうがないけど、お祈りしてもたいしたききめはないと思うわ。神さまだって、バリーのおばさんみたいな頑固な人にかかったら、歯が立たないと思うもの」
「アン、そんなことを言っちゃいけないよ」とマリラは叱りつけた。こんな時に笑うのは不敬にあたると思いながらも、それをこらえるのが精一杯だった。しかも、最近はそれがだんだんこうじてきて、マリラは困っていたのだった。実際、その晩、マシュウに一部始終を話した時、マリラはアンの災難を思い出して大笑いした。
しかし、就寝前、東の部屋にそっと入って行って、泣き寝入りしているアンを見つけたマリラは、いつになく優しい顔つきになった。
「かわいそうに」その子の涙に汚れた顔にかかっているまばらな巻き毛をつまみあげながらマリラはつぶやいた。それから、身をかがめて、枕の上にのっている赤い頬《ほお》に口づけした。
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第十七章 新たな関心
次の日の午後、台所の窓のそばで身をかがめてつぎはぎ細工をしていたアンがふと外を見ると、ダイアナが「ドライアドの泉」のそばで意味ありげに手招きしているのが目にとまった。アンはさっと家を飛び出すと、窪《くぼ》地の方に駆けおりていた。その表情に富む目には驚きと希望が交錯していたが、ダイアナのしおれた顔を見た時、希望は消え失せた。
「お母さんはまだ怒っていらっしゃるのね?」アンはあえいだ。
ダイアナは悲しそうにうなずいた。
「そうなの。それにねえ、アン、お母さんは、二度とあんたと遊んじゃいけないって言うのよ。あたし、さんざん泣いて、アンが悪いんじゃないって言ったんだけど、だめだったわ。やっとのことで、あなたにお別れを言いに来る許しをもらったのよ。お母さんは、十分しか、いちゃいけないって言うの。時計で時間をはかってるのよ」
「永遠の別れを告げるっていうのに十分じゃ短いわ」アンは涙ながらに言った。「ああダイアナ、若き日の友として、あたしを決して忘れないって約束してくれる? よりいとしき人の汝《なれ》を抱くことありても?」
「ええ、きっと」ダイアナはすすり泣いた。「それから、あたし、決してもう心の友なんか持たないわ――持ちたくないの。どんな人だってあなたみたいに愛することはできないもの」
「まあ、ダイアナ」アンは両手をしっかりと組み合わせながら言った。「あなた、ほんとにあたしを愛していてくれるの?」
「あら、もちろんよ。知らなかったの?」
「ええ」アンはほっと溜息をついた。「もちろん、あたしを好いていてくれるとは思ってたけど、まさか愛してくれてるとは思わなかったわ。ねえ、ダイアナ、あたしを愛してくれる人があらわれるなんて思わなかったの。ものごころついてから、一人としてそんな人はいなかったんですもの。ああ、なんてすばらしいんでしょう! 汝をへだてる暗黒の道を、永久に照らす一筋の光というところよ、ダイアナ。ねえ、もう一度言ってみて」
「あなたを心から愛してるわ、アン」とダイアナはきっぱり言った。「いつまでも変わることなく、きっとよ」
「われまた汝を永遠に愛す、ダイアナ」とアンは重々しく片手をさしのべながら言った。「来るべき日々に汝《な》が思い出は星のごとくわが孤独な人生を照らすべし、われらともに読みし物語の言えるごとく。ダイアナ、別れに臨み、汝が黒髪の一房をとこしなえのかたみとて、われにたもうや」
「何か切るものあって?」アンの感きわまった句調に新たに涙にむせびながらも、これをはらいのけると、実際的な問題にたちかえったダイアナはこうたずねた。
「ええ。運よくつぎはぎ細工用のはさみがエプロンのポケットに入ってるわ」とアンは言った。アンはもったいぶってダイアナの巻き毛の一つを切り取った。「さらば、我がいとしの友よ。この後は、身近に住居ありともそしらぬものとしてふるまわねばならぬ。我が心、永久に汝がものなりとも」
アンは立ってダイアナが見えなくなるまで見送り、ダイアナがうしろをふり返るたびに悲しそうに手を振った。それから、アンは家に戻ったが、このロマンティックな別れのおかげで当座は少なからず慰められた。
「何もかも終わったわ」とアンはマリラに告げた。「もう別の友達はぜったいに持たないわ。あたし、ほんとに、前よりもみじめだわ。今はケティ・モーリスもヴィオレッタもいないんだもの。それに、仮にいたとしても、前とは違うでしょうね。だってほんものの友達を持ったあとは、夢の女の子では物足りないわ。ダイアナとあたしは、泉のそばで、とても心のこもった別れを告げたのよ。いつまでもあたしの神聖な思い出となるでしょうね。あたし、ありったけの悲劇的な言葉を使って、『汝』って言ったのよ。『汝』は『あなた』よりもずっとロマンティックに思えるわ。ダイアナはあたしに髪を一房くれたの。あたし、それを小さなふくろに縫い込んで、一生、常にかけていようと思うの。この髪の毛はきっとあたしと一緒にお墓に埋めてね。あたしはそんなに長生きしそうもないから。バリーのおばさんも、あたしが死んで冷たく横たわってるのを目の前にしたら、自分のやったことを後悔して、あたしのお葬式にダイアナを来させるかもしれないわ」
「おしゃべりができる限り、あんたが悲しみのために死ぬ気づかいはあんまりないと思うよ、アン」マリラは冷淡に言った。
次の月曜日、アンは本の入ったかごを腕にかけ、口を真一文字に結んで、自分の部屋からおりて来て、マリラを驚かせた。
「あたし、学校に戻るわ」とアンは告げた。「あたしにはそれしか残されてないのよ。友達があたしから無慈悲に引き離されてしまったんだもの。学校にいれば、あの子を見て、過ぎ去った日々のことを静かに考えることができるわ」
「学課や算数のことでも考えた方がいいよ」ひそかにことの成り行きを喜びながらマリラは言った。「学校に戻るんだったら、もうこれ以上人の頭に石盤をぶっつけたりなんかしないようにしてもらいたいね。お行儀よくして、先生のおっしゃる通りにするんだよ」
「模範生になるようにつとめるわ」アンは憂うつそうにマリラの言うことをきいた。「そんなに面白いことじゃないと思うけど。フィリップス先生が、ミニー・アンドルーズは模範的な生徒だとおっしゃってたけど、あの子にはひとかけらの想像力も活気もないのよ。にぶくて、退屈そうで、面白くなさそうな顔をしてるわ。でも、今はあたし元気がないから、簡単に模範生になれるかもしれないわ。あたし、街道を通って回り道して行くわ。『樺の道』をたった一人で通って行くなんてがまんできないわ。そんなことしたら、あたし、おいおい泣くでしょうね」
アンは学校で大歓迎された。みんな、遊戯の時はアンの想像力に、歌を歌う時はアンの声に、昼休みに朗読する時は、アンの演劇的な才能に接することができないことをひどく惜しんでいたのだった。ルビー・ギリスは、聖書朗読の時間に、青いすももを三つそっとよこし、エラ・メイ・マックファソンは、草花の目録の表紙から切り取った、とても大きい黄色のパンジーをくれた――それは机の飾りとして、アヴォンリーの学校では貴重品扱いにされていた。また、ソフィア・スローンは、エプロンの縁どりにもってこいのレース編みのとても上品な新しい型を教えてあげると言った。ケティー・ボールターは水差し用に香水のびんをくれるし、ジュリア・ベルは波形の縁をした、薄桃色の紙に、次のような詩を清書してよこした。
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アンへ
たそがれがそのとばりたれこめ
星でおさえなすおり
心にとめよ、汝《なれ》に友ありと
いかばかり道はるけくも
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「みんなに喜んでもらえるのはとてもいいものね」その晩、アンは有頂天になって溜息をつきながら言った。
アンを|喜んで《ヽヽヽ》迎えたのは女の子達だけではなかった。昼休みのあと、アンが自分の席に戻ると――アンはフィリップス先生から模範生のミニー・アンドルーズと並ぶように命じられていた――机の上に大きなおいしそうな赤りんごがのっていた。アンがそれを取り上げて、まさにかぶりつこうとした時ふと、アヴォンリーで赤りんごのなっているのは、「輝く湖水」の向こう側にあるブライスの果樹園だけだということを思い出した。アンはまるでまっ赤に焼けた石炭でもつかんだかのように、あわててりんごを落とすと、これ見よがしにハンカチで指をぬぐった。りんごはそのまま机の上にのっかっていたが、翌朝になると、校舎の掃除をしたり、火をたきつけたりしているティモシー・アンドルーズ少年がこれも役得とばかり、持ち去ってしまった。チャーリー・スローンが昼休みのあとでアンに贈った鉄筆は、赤と黄のしま模様の紙がきれいに巻いてあり、普通のがたった一セントなのに、二セントもするものだったが、この方ははるかにましな待遇をうけた。アンは大喜びでこれをうやうやしく受け取ると、贈り主の方へにっこり微笑みかけたので、アンに首ったけのこの少年はたちまち有頂天になり、書き取りの時、とんでもない間違いをしでかして、フィリップス先生に放課後残されて、書きなおしをさせられた。
しかし、
「ブルータスの胸像なきシーザーの壮麗な行列は、ますますローマ最上のその人を思い出させるのみ」
というように、ガーティ・パイのとなりにすわっているダイアナ・バリーからは、贈り物も、めくばせも、ないことがはっきりしてくると、アンのささやかな勝利も怪しくならざるを得なかった。
「一度ぐらいあたしに笑顔を向けてくれてもいいと思うわ」その晩、アンはマリラにこぼした。しかしその翌日、めちゃくちゃにねじられ、折りたたまれた手紙と、小さな包みがアンの手に渡された。
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大好きなアン(と手紙に書いてあった)
お母さんは、学校でだって、あんたと遊んだり、話したりしちゃいけないと言うの。あたしのせいじゃないから、気を悪くしないでね。あたし、前と同じようにあんたを愛しているわ。あんたに会って、あたしの秘密をみんなしゃべりたくてたまらないの。ガーティ・パイなんて大きらい。あんたに、赤い薄紙で新しいしおりを一枚作ったわ。今とてもはやってるんだけど、学校じゃ三人の女の子しか作り方を知らないのよ。しおりを見たら思い出して。
あんたの忠実な友の
ダイアナ・バリー
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アンは手紙を読むと、しおりに口づけして、教壇の向こう側に早速返事を送った。
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いとしのダイアナ
もちろん、あたし、怒ってなんかいないわ。あんたがお母さんの言うことをきくのは仕方がないもの。あたし達は心で通じ合うことができるのよ。あんたの美しい贈り物はいつまでもとっとくわ。ミニー・アンドルーズはとてもいい女の子よ――想像力は持ってないけどね――でも、あたし、ダイアナの心の友だったあとなので、ミニーの心の友にはなれないの。字を間違えてごめんなさい。あたしまだ、字のつづり方があんまり得意じゃないのよ。だいぶ上達はしたけどね。
死が我々を引き離すまであんたの
アンまたはコーデリア・シャーリー
二伸 今夜はあんたの手紙を枕の下に敷いて眠るわ。
アンまたはコーデリア
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アンが再び学校に行き出してからというもの、マリラはまたごたごたが起きるのではないかと内心案じていた。しかし何も起こらなかった。アンはミニー・アンドルーズから模範精神のようなものを学び取ったのかもしれなかった。少なくともアンはあれ以来フィリップス先生とたいへんうまくいっていた。どんな授業でも、ギルバート・ブライスに負けてなるものかと、アンは勉強に全心を打ち込んだ。二人の張り合いは、やがて誰の目にも明らかになった。張り合うと言っても、ギル・バートの方にはまったくわるげはなかったが、どうもアンはそうでないらしかった。アンは困ったことに、いったん根にもったら、容易にはとけないたちだった。愛することに劣らず憎しみも強烈だといえよう。アンは、学校の勉強で、ギルバートと張り合う気があることを認めるのもくやしくていやだった。そんなことをしたら、自分が頑強《がんきょう》に無視しているギルバートの存在を認めることになるからだった。しかし、二人が張り合っていることは事実で、優等生の名誉は二人の間を行ったり、来たりした。ギルバートがつづり字の授業で一番になったと思ったら、今度はアンが長いおさげをふりあげてギルバートを負かすといった具合だった。ある朝、ギルバートのやった計算が全部正解だったので、ギルバートの名前は優等生として黒板に書き出された。するとその翌朝、前夜一晩中、がむしゃらに小数と取り組んできたアンが一番になった。あるおそるべき朝、同点を取った二人の名前が一緒に黒板に書き出された。それは「注目」で名まえを書かれるのと同じぐらい、いやなことだった。アンがくやしがり、ギルバートが満足していることは誰の目にも明らかだった。毎月末にある筆記試験が行なわれた時の、気のもめることと言ったらなかった。最初の月はギルバートが三点上だったが、ふた月目はアンが五点差で彼を破った。しかし、せっかくのアンの勝利も、ギルバートが全校生徒の前で、アンに心から祝意を表したばかりに、だいなしにされてしまった。ギルバートが敗北の苦悩を感じていたら、アンもずっといい気持ちになれたのだが。
フィリップス先生はそんなにいい先生ではないかもしれないが、アンのように勉強しようと固く決意している生徒は、どんな先生に教わっても、たいてい進歩するものなのだ。学期末までに、アンとギルバートは二人とも五年に進級し、基礎部門の勉強を始めてもいいことになった――基礎部門というのは、ラテン語、幾何《きか》、フランス語、代数のことだった。アンは幾何が大の苦手だった。
「幾何ってまったくいやな学課よ、マリラ」アンはぶうぶう言った。「幾何がわかるようになるなんて考えられないわ。想像の余地が全然ないんだもの。フィリップス先生は、あたしみたいに幾何ができない生徒は見たことないっておっしゃってたわ。それから、ギル――つまりね、クラスの中には幾何がとても得意な子がいるのよ。くやしいったらないわ、マリラ。ダイアナだってあたしよりうまくやってるのよ。でも、あたし、ダイアナに負けても気にしないわ。いくらよそよそしくしていても、あたし、今でもあの子には、もえつきることのない愛情を抱いてるのよ。あの子のことを考えて時々とても悲しくなることがあるわ。でもね、マリラ、こんなに面白い世の中にいると、そうそういつまでも悲しんでばかりもいられないものね」
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第十八章 アンの救援活動
大事件というものはすべて、ありとあらゆるささやかな事件と関わりのあるものだ。カナダのある総理大臣がその遊説《ゆうぜい》先にプリンス・エドワード島を加えることにしたということが、一見したところ「グリーン・ゲイブルズ」のアン・シャーリーの運命とたいしてどころか、少しでも関係があるとは思えないだろう。ところがそれが大ありだった。
総理大臣がやって来たのは一月で、シャーロットタウンで開催された大演説会は、彼の忠実な支持者達と、支持者でないまでも、出席することにした人々で大賑わいだった。アヴォンリーの人々の大半は総理の属する政党を支持していたので、集会が催された夜には、ほとんどの男達と、かなりの数の女達が、三十マイル離れた町に出かけて行った。レィチェル・リンド夫人も例外ではなかった。夫人は反対党の支持者だったが、熱烈な政治狂で、自分が出席しない政党大会は成立し得ないと信じていた。そこで夫人は夫と――トマスは馬の世話をするのに役立つので――マリラ・カスバートを連れて町に出かけて行った。マリラ自身も政治にはひそかに興味を持っていたし、生きたほんものの総理大臣を見るのはこれが唯一のチャンスと思ったので、とびついたのだった。あとにはアンとマシュウが残って、次の日マリラが帰るまで、留守居をすることになった。
そんなわけで、マリラとレィチェル夫人が大集会で大いに楽しんでいる間、アンとマシュウは、「グリーン・ゲイブルズ」の居心地のいい台所を二人で占領していた。旧式のウォータールー・ストーブでは火が赤々と燃え、窓ガラスには青白い霜の結晶が輝いていた。マシュウは、ソファーにすわって、「農夫の擁護者」を読みながらぐらぐらと舟をこぎ、アンはテーブルで、不屈の決意に燃えて勉強していた。そうは言ってもアンは、その日ジェーン・アンドルーズが貸してくれた新しい本がのっている時計の棚の方が気になって、ちらちらと見ないわけにはいかなかった。ジェーンは、その本を読むと、ぞくぞくすること請け合いだとかなんとか言っていたので、アンは手を伸ばして本を取りたくてうずうずしていた。しかし、そんなことをしたら、翌朝ギルバート・ブライスが勝つことになる。アンは時計の棚に背を向けて、本はそこにはないんだと想像しようとした。
「マシュウ、学校時代、幾何《きか》を勉強したことある?」
「そうさのう、いや、ないよ」マシュウは、はっとして居眠りからさめながら言った。
「しておいてほしかったわ」アンは溜息をついた。「そうしたら、あたしに同情できるもの。幾何を勉強したこともないのに、同情してと言っても無理ね。幾何はあたしの一生に暗い影を投げかけてるの。あたし、ほんとに苦手なのよ、マシュウ」
「そうさのう、わからんよ」マシュウは慰めるように言った。「お前は何をやってもちゃんとやれてるとわしは思うよ。先週、カーモディのブレアの店でフィリップス先生に会ったら、アンは学校でいちばんできる生徒で、進歩も早いって言われたよ。『急速な進歩だ』ってな。テディー・フィリッブスをけなして、たいした先生じゃないと言っとる者もおるが、わしはりっぱなもんだと思うよ」
マシュウは、アンをほめる者は誰でも[りっぱな]人と思いかねなかった。
「先生が記号を変えさえしなければ、あたし、きっともっと幾何が進歩するんだけど」とアンはこぼした。「あたしがせっかく定理を暗記したと思ったら、先生が黒板に図を画いて、本にのってるのとは違った記号を書くので、あたし、すっかり混乱しちゃうのよ。先生がそんな卑怯なことしちゃいけないと思わない? あたし達、今、農業を勉強してるの、こないだようやく、なぜ道が赤くなるのかわかったわ。一安心というところよ。マリラとリンドおばさんは今ごろ何をしているのかしら。オタワ(カナダの首府。オンタリオ州の東南部にある)で、今のようなやり方をしていたら、カナダは破滅してしまう、これは有権者に対するたいへんな警告だってリンドのおばさんが言ってたわ。女が投票を許されたら、すぐにいい変化があらわれるんですって。どっちに投票するの、マシュウ?」
「保守党だよ」マシュウは即座に答えた。保守党に投票するのはマシュウにとって信仰みたいなものだった。
「じゃああたしも保守党よ」アンはきっぱりと言った。「あたし、うれしいわ。なぜなら、ギル――いいえ、学校の男の子の中にグリット党の子がいるんだもの。フィリップス先生もグリット党なんだと思うわ。プリシー・アンドルーズのお父さんがそうなんだもの。ルビー・ギリスが言ってたけど、男の人が求婚する時は、必ず、相手のお母さんの宗教と、お父さんの政党に合わせなくちゃいけないんだって。それほんとう、マシュウ?」
「そうさのう、わからんよ」とマシュウは言った。
「求婚したことあるの、マシュウ?」
「そうさのう、いや、したかどうかわからんよ」これまでただの一度も、そんなことを考えたことすらなかったマシュウは言った。
アンは頬杖《ほおづえ》をついて考えにふけった。
「きっと面白いでしょうね、マシュウ。ルビー・ギリスは、大きくなったら、たくさんの恋人達を思いのままにあやつって、みんな、夢中にさせちゃうんだって言ってたわ。でも、それは刺激が強過ぎると思うの。あたしなら、しっかりした恋人が一人いればたくさんだわ。ルビー・ギリスは、姉さん達がたくさんいるので、こういうことにはくわしいのよ。リンドのおばさんが言ってたけど、ギリスの娘達は飛ぶように売れちゃったんだって。フィリップス先生はほとんど毎晩のようにプリシー・アンドルーズに会いに行ってるのよ。先生は、プリシーの勉強を手伝うためだと言ってるけど、ミランダ・スローンもクィーン学院の受験勉強をしてるのよ。ミランダの方がずっと頭が悪いんだから、プリシーよりもはるかに先生に手伝ってもらう必要があると思うんだけど、先生は夜、全然ミランダの所に行かないのよ。この世の中には、あたしのよくわからないことがとてもたくさんあるわ、マシュウ」
「そうさのう、わしだって全部わかるとは思わんね」マシュウは認めた。
「そうだ、あたし、勉強をやってしまわなくちゃ。やってしまうまで、ジェーンが貸してくれたあの新しい本をあけないようにしよう。でも、恐ろしい誘惑だわ、マシュウ。本の方に背中を向けても、はっきりとそこにあるのが見えるんだもの。ジェーンは、あの本を読んで、泣けてしようがなかったって言ってたわ。あたし、泣かせるような本が好きよ。でも、あたし、あの本を居間に持って行って、ジャムの戸棚に錠をかけてしまって、かぎをおじさんにあずけようと思うの。だから、マシュウ、勉強がすむまで、かぎをあたしによこしちゃだめよ。あたしがひざまずいてたのんでもね。誘惑をしりぞけるというのはいいんだけど、かぎが手に入らない方がずっとしりぞけやすいわ。それじゃあ地下室に走って行って、冬りんごを取って来ましょうか、マシュウ? 冬りんごはいかが?」
「そうさのう、結構だね」マシュウはほんとうは冬りんごを口にしないのだが、アンが冬りんごに目がないことを知っていたので、そう言った。
ちょうどアンが冬りんごを皿一杯に盛って地下室から意気揚々と出て来ると、外の冷たい板敷きの歩道にあわただしい足音が響いたかと思う間もなく、台所の戸がさっと開いて、頭をショールにくるんだダイアナが、まっ青な顔をし、はあはあ息を切らして駆けこんで来た。はっと驚いたアンは、思わず皿とろうそくを取り落とした。皿とろうそくはりんごもろとも大きな音を立てて地下室の階段をころげ落ちて行き、下の床の上に溶けたろうで埋まっているのが、翌日、マリラに見つかった。それらを拾い集めながら、マリラは家が火事にならなくてよかったと胸をなでおろした。
「いったいどうしたの、ダイアナ?」とアンは叫んだ。「お母さんがやっと許してくれたの?」
「ねえ、アン、お願いだからすぐ来て」ダイアナはすっかりうろたえてたのんだ。「ミニー・メイがとても悪いのよ――喉頭炎にかかったんだって、子守りのメアリー・ジョーが言うのよ――お父さんもお母さんも町に行ってしまって、誰もお医者を呼びに行ってくれる人がいないの。ミニー・メイはとても具合が悪いのに、メアリー・ジョーはどうしたらいいかわかんないの――ねえ、アン、あたし、こわくてたまらないわ!」
マシュウは何にも言わずに、手を伸ばして帽子と上着を取ると、ダイアナのそばをすりぬけて、暗い庭へ出て行った。
「マシュウはカーモディにお医者を呼びに行くので、馬に馬具を取りつけに行ったのよ」急いで頭巾《ずきん》とジャケットを身につけながらアンは言った。「言わなくてもわかるのよ。あたし達、うまがあうので、何にも言わなくても、マシュウが何を考えてるのかわかるのよ」
「カーモディに行ってもお医者はいないと思うわ」ダイアナはすすり泣いた。「ブレア先生が町に行ったこと、あたし、知ってるのよ。スペンサー先生も出かけてると思うわ。メアリー・ジョーは喉頭炎にかかった人を見たことがないのよ。リンドのおばさんも留守だし。ねえ、アン!」
「泣かないで、ダイ」アンは元気づけるように言った。「喉頭炎の時どうしたらいいかよく知ってるのよ。ほら言ったでしょう、ハモンドのおばさんとこには三組のふたごがいたって。ふたごを三組も世話をしたら、自然、経験も豊かになるわ。ふたご達はみんな順に喉頭炎にかかったの。吐根《イピカック》(南米産の植物の根で吐剤・下剤として用いる)のびんを取ってくるからちょっと待ってて――あんたの家にないといけないから。さあ行きましょう」
二人の女の子は手をつないで家を飛び出すと、「恋人の小道」を走りぬけて、その向こうの凍てついた野原を横切って行った。森の近道は、雪が深く積もっていて、通れなかったのだ。アンはミニー・メイを心からかわいそうだと思う反面、この事態がロマンスにあふれていることや、うまのあう友達とそれを再びともにわかつことの喜びに無関心ではいられなかった。
晴れた、凍りつくように寒い晩だった。まっ暗闇の中に銀色の雪の斜面が光っていた。静まりかえった平原の上には大きな星がきらめいていた。そこかしこには、先のとがった、黒ずんだ樅《もみ》の木木が生えていて、霧氷に蔽《おお》われた枝の間を風がひゅうひゅうと吹きぬけた。アンは、長いことひきはなされていた心の友と一緒に、この神秘的で美しい自然の中を通って行くのはなんて楽しいことなのだろうと思った。
三歳のミニー・メイは確かに重態だった。ミニーは台所のソファーに横たわり、高熱にあえいでいたが、そのぜいぜいという息遣いは、家中に聞こえるほどだった。メアリー・ジョーは、クリークから来た、丸ぽちゃで、平べったい顔のフランス娘だった。バリー夫人が留守中の子守りにやとったのだが、手も足も出ず、途方にくれていた。何をしたらいいのかまったく考えることもできず、また、考えたとしても実行できないありさまだった。
アンはてきぱきと、なれた手つきで看病にとりかかった。
「そう、確かにミニー・メイは喉頭炎にかかってるわ。かなり重態だけど、あたしはもっとひどいのを見てきたわ。まずお湯をいっぱいわかさなくちゃ。やかんにはコップ一杯分しか入ってないわよ、ダイアナ。さあ、あたしがいっぱいに入れたわ。それから、メアリー・ジョー、ストーブに薪《たきぎ》でもくべたらどうなの。あんたの気持ちを傷つけたくはないけど、あんたが想像力があったら、もっと早くそれに気づいてたと思うわ。さあ、あたし、ミニー・メイの着物をぬがせて、寝かせるから、あんたは柔らかいフランネルの布を探してよ、ダイアナ。まっ先に吐根《イビカック》を飲ませなくちゃ」
ミニー・メイは吐根を飲むのをいやがったが、アンはだてに三組のふたごを育てたのではなかった。気のもめる、長い夜の間に、吐根は一回だけでなく何回もミニーの喉元を過ぎて行った。二人の女の子達は、苦しむミニー・メイを辛抱《しんぼう》強く看病した。メアリー・ジョーは自分もできるだけのことはしたいと心から願って、火をさかんに燃し続け、喉頭炎にかかった赤んぼう専門の病院でも、もてあますほどのお湯をわかした。
マシュウが医者を連れて帰って来た時は三時になっていた。医者がみつからないので、はるばるスペンサーヴェイルまで行かねばならなかったからだ。しかし差し迫まった看護の必要は既になくなっていた。ミニー・メイはずっと楽になり、ぐっすりと眠っていた。
「あたし、もうだめかと思って、もう少しであきらめるところだったわ」とアンは言った。「あの子はだんだん悪くなっていって、しまいにはハモンドのふたご達よりもひどくなったのよ。いちばんおしまいのふたごだってあんなじゃなかったわ。ほんとに窒息して死んじゃうんじゃないかと思ったわ。あたし、あのびんに入ってる吐根を一滴残らず飲ませたの。最後の一服を飲ませた時、あたし、自分に言い聞かせたの――ダイアナやメアリー・ジョーに言ったんじゃないのよ。あれ以上あの子達を心配させたくなかったの。あたし、ただ自分の気持ちを静めようと思ってひとりごとを言ったのよ――『これが最後の一縷《いちる》の望みだけど、はかない望みになるんじゃないだろうか』ってね。ところが、三分もたたないうちに、あの子、せきをして、たんがきれるようになり、それからすぐによくなりだしたのよ。あたしがどんなにほっとしたか、言葉では言い表わせないので、ただ想像していただくほかはないわ、先生。ね、うまく言えないことってあるでしょう」
「ああ、わかってるよ」医者はうなずいて、アンの顔を見た。まるでアンについて、言葉では言い表わせないことを考えているのだと言わんばかりだった。しかし、あとになって、医者はそれをバリー夫妻に告げた。
「カスバートさんの所にいるあの赤い髪の女の子はまったくきれものですな。あの子が赤ちゃんの命を救ったんですよ。わたしが行った時分には、手おくれになってたはずですからね。あれぐらいの年の子にしちゃ、まったくみごとな腕前と冷静さを持ってるようですな。容態をわたしに説明していた時のあの子の目つきといったらなかったですよ」
やがてアンは家に向かった。白い霜のおりた、すばらしい冬の朝だった。アンは一睡もしなかったので、眠そうな目をしていたが、細長い、白い野原を横切って、「恋人の小道」のきらきら光る、美しい楓《かえで》のアーチの下を歩きながら、アンは疲れも見せずマシュウに話しかけた。
「ねえ、マシュウ、すばらしい朝じゃない? 世界は、神さまがご自分の楽しみのために思い浮かべたもののように見えるわね。あの辺の木は、あたしがふっと息を吹きかけたら、吹き飛んでしまいそうだわ。白い霜がある世界に住めて、うれしいと思わない? それから、何のかのと言っても、ハモンドのおばさんのとこにふたごが三組いてほんとによかったわ。もしそうでなかったら、あたし、ミニー・メイをもてあましちゃったかもしれないもの。ハモンドのおばさんがふたごを持ったことに腹を立てて、あたし、ほんとに悪かったと思ってるわ。でも、ねえ、マシュウ、あたし、眠くてたまらないの。学校に行けないわ。行っても、目をあいていられっこないわ。ぼんやりしちゃってね。でも、あたし、家にいるのはいやだわ。だって、ギル――いいえ、クラスでいちばんになっちゃう子がいるんだもの。あとから追い越すのはとてもむずかしいのよ――もちろん、むずかしければむずかしいほど、追い越した時の満足感も大きいけどね、そうじゃない?」
「そうさのう、お前ならうまくやれるだろうよ」アンの小さい、まっ青な顔と、目の下のうす黒い|くま《ヽヽ》を見ながらマシュウは言った。「いいから寝床に入って、よくお休み。用事はみんなわしがしてやるからな」
そこでアンは寝床に入ったが、あんまり長時間ぐっすりと眠ったので、目をさました時は昼をとっくに過ぎていた。白い、ばら色の冬の午後だった。アンが台所におりて行くと、アンが眠っている間に帰宅したマリラが、すわって編み物をしていた。
「あら、総理大臣に会ったの?」マリラの顔を見るなりアンは叫んだ。「どんな顔をしてた、マリラ?」
「そうね、あの人は器量で総理大臣になったんじゃないんだよ」とマリラは言った。「あの人の鼻ったら! でも演説はうまいよ。わたしは自分が保守党なのを誇りに思ったよ。レィチェル・リンドは自由党だから、もちろん、総理大臣には用なしさ。あんたの食事はかまどに入ってるよ。それから、食器室から青すももの砂糖漬を出して来てもいいよ。おなかがすいてるんだろう。マシュウから昨夜のことは聞いたよ。病人の扱い方を知っててほんとにょかったね。わたしならお手上げだったよ。喉頭炎の病人なんか見たことないもの。これこれ、食べ終わるまでは口をきくんじゃないよ。あんたの顔を見れば、しゃべりたいことがいっぱいあることはわかるけど、話は後におし」
マリラはアンに話すことがあったが、その時は黙っていた。そんなことをしたら、アンが興奮して、食欲とか食事のような現実的なことはすっかり忘れてしまうだろうと思ったからだ。アンが青すももを食べ終わると、マリラはようやくそれにふれた。
「バリーの奥さんが今日のお昼過ぎに見えてね、アン。あんたに会いたがってなすったんだけど、わたしが起こさなかったんだよ。アンはミニー・メイの命の恩人だ、ぶどう酒のことではたいへん申しわけないことをしたって言ってなすったよ。アンがダイアナを酔わせるつもりじゃなかったことが今わかった、今までのことは水に流して、もう一度ダイアナのいい友達になってもらえないだろうかって言ってなすったよ。よかったら、あんた、今夜、伺ってみたら? ダイアナはゆうべのことでひどい風邪をひいちまって、外に出られないんだよ。まあアン・シャーリー、後生だから、そんなに飛び上がらないでおくれ」
しかし、そうした注意が不必要とは思えなかった。ぱっと立ち上がった時のアンの表情や身のこなしは、天《あま》がける妖精さながらで、顔は熱情で輝いていた。
「ああ、マリラ、今すぐ行ってもいい?――お皿は後廻しにして。帰って来てから洗うわ。こんなに胸のおどるような時に、皿洗いみたいな現実的なことにしばられたくないわ」
「ああ、いいとも、いいとも、走って行っといで」マリラは甘かった。「アン・シャーリー、気でも狂ったのかい? すぐ戻って来て、何か着なさい。まるで風に話しかけるようなもんだね。帽子もかぶらず、肩掛けもかけずに行っちまったよ。髪をなびかせて果樹園をつっ走って行くあの子をごらん。ひどい風邪でもひかなけりゃいいが」
紫色の冬の夕闇がたちこめるころ、アンは雪景色の中を踊るような足どりで帰って来た。白く輝く雪原と、黒々としたえぞ松の峡谷の上にひろがる、うすい金色と、淡いばら色の空のはるか西南方に、大きな真珠のような宵の明星が、きらきらと光を放っていた。冷たい空気を通して、雪の積もった丘から聞こえて来るりんりんというそりの鈴の音は、まるで妖精の鐘のようだった。しかし、その妙なる鈴の音も、アンの心の中やくちびるにのぼる歌の美しさにくらべれば、ものの数ではなかった。
「ここにいるのは完全に幸福な人間なのよ、マリラ」とアンは言った。「あたし、申し分なく幸せなの――そう、髪は赤くてもね。今は赤い髪なんか問題じゃないのよ。バリーのおばさんはあたしにキッスして泣いてたわ。そしてね、ほんとにすまない、ご恩返しのしようがないって言うのよ。あたし、とても困ったんだけど、なるたけていねいにただこう言ったの。『あたし、おばさんのことは悪く思ってませんわ。きっぱり申し上げておきますけど、あたし、ほんとにダイアナを酔わせるつもりじゃなかったんです。これからは過去を忘却のマントでおおうことにしましょう』威厳のある言い方じゃない、マリラ? あたし、うらみに報いるのに徳をもってしてるような気がしたわ。それからダイアナととても楽しく過ごしたの。ダイアナは、カーモディのおばさんから教わった新しいかぎ針編みを教えてくれたの。アヴォンリーでその編み方を知ってるのはあたし達だけなのよ。あたし達、その編み方を誰にももらさないっておごそかに誓いを立てたの。ダイアナはばらの花輪と詩がかいてある美しいカードを一枚くれたの。
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あなたもわたしを愛してくださるなら
この世にある限り二人が別れることはないでしょう
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ね、この通りなのよ、マリラ。あたし達、フィリップス先生に、もう一度前のように一緒にすわらせて下さいってたのむつもりなの。ガーティ・パイは、ミニー・アンドルーズとすわればいいんだもの。あたし達、すてきなお茶をいただいたのよ。バリーのおばさんは、たいせつなお客さんをもてなすように、とっておきの茶器を出してくださったの。それを見てあたしがどんなにわくわくしたか、口では言えないわ。今までとっておきの茶器であたしをもてなしてくれた人なんかいなかったからよ。それから、あたし達、フルーツ・ケーキとパウンド・ケーキとドーナツと二種類の砂糖漬をいただいたのよ、マリラ。それから、バリーのおばさんはあたしにお茶はいかがって聞いてからこう言ったの。『お父さん、ビスケットをアンに回してあげなさいよ』おとなになるのはきっとすばらしいことでしょうね。おとなみたいに扱われるだけでもこんなにいい気持ちなんだもの」
「さあ、どうかね」マリラは溜息まじりで言った。
「ええ、とにかく、おとなになったら」アンはきっぱりと言った。「あたし、いつも、おとなにするように女の子達に話しかけようと思うの。女の子達が大げさな言葉を使っても、あたし、決して笑ったりしないわ。それがどんなに相手の気持ちを傷つけるか、あたしの悲しい経験から知っているんだもの。お茶のあと、ダイアナとあたし、タフィーを作ったの。あんまりうまくできなかったわ。ダイアナもあたしもタフィーを作ったことがないからだと思うわ。ダイアナがお皿にバターをぬっている間、あたし、かき回すことをまかされてたんだけど、忘れちゃって、こがしちゃったのよ。それから台所にタフィーをのせてさましといたら、猫がお皿の上を歩いちゃったので、そのお皿は捨てなくちゃならなかったの。でも、作ること自体はとても楽しかったわ。おいとまを告げた時、バリーのおばさんはなるたけちょいちょい来て下さいねって言ってたわ。ダイアナは窓の所に立って、あたしが『恋人の小道』に来るまでずっと投げキッスを送ってくれたの。マリラ、今夜はお祈りしたいような気がするわ。ほんとうよ。今度のことの記念に特別新しいお祈りを考え出そうと思うの」
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第十九章 コンサート・大事件・告白
「マリラ、ちょっとダイアナの所へ行って来てもいい?」ある二月の夕方、アンは息せききって東の切妻から走って来ると、こう聞いた。
「日が暮れてから外をほっつき歩きたいなんて、いったい何の用事かい?」とマリラはそっけなく言った。「ダイアナと一緒に学校から帰って来たというのに、その上三十分以上も雪の中に突っ立って、ずっとぺちゃくちゃしゃべり通しだったじゃないか。その上まだあの子に会う必要があると言うのかい」
「でも向こうが会いたがっているの」とアンは食いさがった。「とても大事な話があるんだって」
「どうしてそれがわかるんだい?」
「窓の所から合図してよこしたの。ろうそくとボール紙を使って合図するようになっているのよ。窓の所にろうそくを立てて」ボール紙をその前にぱっぱとかざして、明りを点滅させるの。明りが幾つ見えたらこうって打ち合わせができているのよ。あたしが考えたんだわ。マリラ」
「そうにきまってるよ」とマリラは力をこめて言った。「そのうちばかげた合図とやらで、カーテンを燃やしかねないよ」
「あら、あたし達、とても注意深くやってるのよ、マリラ。それにすごく面白いの。二つ光ったら、『そこにいる?』っていうことだし、三つは『ええ』、四つは『いいえ』っていう意味なの。五つは『大事な話があるから、大急ぎで来て』ということだわ。ダイアナはたった今、五つ合図してよこしたの。だからあたし、何の用か知りたくて、うずうずしているのよ」
「じゃ、これ以上うずうずすることはないよ」とマリラは皮肉な口調で言った。「行っておいで、だけど十分たったら間違いなく帰って来るんだよ、忘れずにね」
アンは忘れずにきめられた通りに戻って来た。とはいえ、ダイアナの重大な知らせの論議を、十分という制限時間の中でやりとりするのは、どれほど大変だったかは知る人ぞ知ると言えたかも知れない。しかしとにかく、アンはそれをちゃんとやってのけたのだった。
「ねえ、マリラ、何だと思う? あしたはダイアナのお誕生日でしょう。それでね、ダイアナのお母さんが、あたしのこと、学校からダイアナの家に行って、そのまま泊まっていいっておっしゃったんですって。それにダイアナの従弟《いとこ》達もニューブリッジから大きな箱|ぞり《ヽヽ》でやって来て、あしたの晩公会堂でやる討論クラブ主催のコンサートに行くんですって。そしてダイアナとあたしも一緒にコンサートに連れて行くっていうの――もちろん、あたしを行かせてくれればの話だけど。マリラ、いいでしょう? ああ、あたし、とても胸がわくわくするわ」
「すぐに落着くよ、あんたは行かないんだからね。自分のうちの寝床の方がいいに決まってるよ。第一、クラブのコンサートなんてばかばかしい。それに年のいかない女の子達はそんな所に出入りするもんじゃないよ」
「あら、討論クラブってのはちゃんとした催しよ」とアンは訴えた。
「そうじゃないと言ってるわけじゃないんだよ。だけどお前を今からコンサートに出入りさせたり、一晩中家を外にして出歩くようなまねはさせないよ。それが子供のすることかね。バリーの奥さんがダイアナを行かせるなんて考えられないよ」
「でも今度はふだんと違うんですもの」とアンは今にも泣きだしそうになって言った。「ダイアナのお誕生日ってのは年に一回きりよ。ありきたりのこととは違うわ、マリラ。プリシー・アンドルーズが『今宵の鐘は響くことなし』って詩を暗唱するの。とても道徳的な詩なのよ、マリラ。聞いたら、ずいぶんあたしのためになると思うの。聖歌隊は、讃美歌と言っていいくらいの、すてきな悲しい歌を四曲歌うのよ。ああそれからね、マリラ、牧師さんもお出でになるの、ほんとよ。お話をなさるんですって。お説教と似たようなものだわ。ね、お願い、行っちゃいけない、マリラ?」
「わたしの言ったことが聞こえただろう、アン? 長靴をとってさっさと寝なさい。八時過ぎなんだから」
「もう一つだけあるの、マリラ」とアンはこれがとっておきの切札だといった調子で言った。「バリーのおばさんが、あたし達、客間のベッドで寝てもいいってダイアナにおっしゃったの。小さなアンが客間に寝かせてもらえるなんて、名誉だと思わない?」
「そんな名誉はなしでもすむことさ。寝なさい、アン、これ以上、何にもお言いでないよ」
アンが涙で頬《ほお》をぬらしながらしぶしぶと二階に上がってゆくと、こうしたやりとりの間中、長椅子でぐっすり眠っていたはずのマシュウが、大きく眼を開けて、きっぱりと言った。
「そうさのう、マリラ、アンを行かせなければなるまいよ」
「わたしはごめんですよ」とマリラは言い返した。「この子を育ててるのは誰ですか、あなたですか、それともこのわたしですか?」
「そうさのう、お前だね」とマシュウはみとめた。
「それじゃ口出しはしないでください」
「そうさのう、口出ししてるわけじゃないよ。めいめい意見をもつのは勝手だからね。そしてわしの意見では、お前はアンを行かせるべきだよ」
「兄さんはきっとアンがその気になれば、お月さまの所へでも行かせろと言うんでしょう」と、マリラは手きびしくやり返した。「ダイアナの所だけなら、行かしてもいいんですけどね。でもコンサートだけは許すわけにいきませんよ。あの子が行ったら、きっと風邪をひくだろうし、ばかげたことで頭をいっぱいにして、かっかとするのが関の山ですよ。もとに戻るまでには一週間かかりますからね。あの子の性質がどんなものか、どうすればいいかは、わたしの方がずっとわかっているつもりですよ、マシュウ」
「アンは行かせるべきだよ」と断固としてマシュウはくり返した。議論は苦手だったが、自分の意見を固執するという点では決してひけをとらなかった。マリラはどうしていいかわからなくなり、黙りこんでしまった。翌朝、アンが食器室で朝食の後片づけをしている時、マシュウは納屋に出かける際に足をとめて、またマリラに言った。
「わしはアンを行かせるべきだと思うよ、マリラ」
一瞬マリラはけわしい表情を浮かべたが、どうにもならないと悟ったらしく、ぴしゃりと言った。
「ようござんす、あの子は行かせますよ。そうでないとお気に召さないんだから」
アンは食器室から、滴《しずく》のたれる布巾《ふきん》を持ったまま飛び出して来た。
「ああ マリラ、そのすてきな言葉をもう一度言って」
「一度でたくさんだろうよ。これはマシュウのしたことだから、わたしは手をひかせてもらうよ。もしお前がよそのベッドで寝たり、真夜中に人いきれのする公会堂から外へ出て肺炎を起こしてもわたしは知らないよ、マシュウのせいだからね。アン・シャーリー、お前は床のあちこちに油っこい水をたらしているじゃないか。お前みたいにうかつな子は見たことがないね」
「ええ、ご厄介ばかりかけていることはわかっていてよ、マリラ」とアンは後悔するように言った。「始終失敗ばかりしでかしてるんですものね。でもあたしがやりそうでやらないでいる失敗もいっぱいあるってこと、考えてみてね。学校に出かける前に砂をとって来て、しみになったとこ、こすってみるわ。ねえ、マリラ、あたしの胸はコンサートに行くことでいっぱいだったの。まだ一度も行ったことがないもんだから、ほかの子が学校でコンサートの話をすると、とてもついていけないって感じなの。あたしのこの気持ち、マリラにはわかってもらえなかったようだけど、マシュウは違うわ。マシュウにはあたしのことがわかるのよ。わかってもらえるってとてもすてきね、マリラ」
その朝、学校で授業に身を入れることは、興奮しきっているアンにはできない相談だった。ギルバート・ブライスはつづり字のクラスではアンをうち負かしたし、暗算となるとまるっきりひきはなしてしまった。しかし、コンサートと客間のベッドのことを考えると、アンがそのためにおぼえた劣等感など物の数でもなかった。アンとダイアナは一日中ひっきりなしにそのことを話し合っていたので、フィリップス先生よりもっときびしい先生だったら、二人ともたいへんな目にあったに違いなかった。
アンはもし自分がコンサートに行けなかったら、とても我慢できなかっただろうと思った。その日一日中、学校ではその話でもちきりだったのだ。アヴォンリーの討論クラブは、冬の間中、二週間に一度催されるので、これまでもちょっとした催しは幾度かあった。だが今度のは、図書室整備のために十セントの入場料をとる、盛大なものだった。アヴォンリーの若い人達は、何週間も練習を続けていたし、生徒達も、兄さんや姉さん達が出演するというので、特に関心をもっていた。九歳以上の生徒は誰もかれも行くことになっていたが、ただキャリー・スローンだけは、父親がマリラと同じように、小さい女の子が夜のコンサートに出かけることに反対だったので行けなかった。キャリー・スローンは午後ずっと文法の教科書につっ伏して泣き続け、この世は生きるに価しないとまで思いつめた。
アンにとって本当の興奮が始まったのは、授業の終わりからだった。それからはぐんぐん高まるばかりで、いよいよコンサートということになって最高潮に達した。お茶は[申し分のない優雅な]ものだった。それから二階のダイアナの小さな部屋で着付にとりかかるという、すてきな作業にとりかかった。ダイアナはアンの前髪を今はやりの撫《な》で上げ型に整え、アンの方はダイアナの蝶結びを独得の技巧をこらして仕上げた。うしろの髪型については、それぞれ六回もあれこれいじくりまわした。とうとう仕度ができ上がった時には、二人ともすっかり上気して、頬《ほお》を紅潮させ、眼はきらきら輝いていた。
実のところ、アンは、自分の何の飾りもない黒い大黒帽や、型のくずれた袖のつまった手製のグレーの布製の外套《がいとう》を、ダイアナの毛皮のいきな帽子や、すっきりした短い上着と比べた時に、いささかひけ目を感じないわけにはゆかなかった。しかしすぐに自分には想像力があるのだから、それを使えばいいと思い返した。
やがてダイアナの従兄《いとこ》達で、ニューブリッジのマレー家の人達がやって来た。みんな毛皮の外套《がいとう》にくるまり、わらを敷きつめた大きな箱ぞりからこぼれ落ちそうだった。アンは公会堂までの道のりを大いに楽しんだ。そりがサテンのようになめらかな道をすべるように進んでゆく時、足もとの雪がパリパリ音をたてた。すばらしい夕焼けだった。白銀の丘と、眼のさめるような青いセント・ローレンス湾が、なみなみとぶどう酒と焔《ほのお》を満たした真珠とサファイアの巨大な器のように、その輝きを縁取っていた。りんりん鳴るそりの鈴の音と、森の精のさざめきのような遠くの笑い声が四方から聞こえていた。
「ああ、ダイアナ」とアンは、毛皮の外套《がいとう》の下の手袋をはめたダイアナの手を、ぎゅうと掴《つか》んではささやいた。「まるですてきな夢のようじゃない? あたし、ほんとうにいつもと同じに見える? まるっきり気分が違うものだから、外から見てもわかるんじゃないかって気がするの」
「あなた、とてもきれい」とダイアナは言った。ちょうど従兄姉《いとこ》からほめ言葉をもらったばかりだったので、順おくりにすべきだという気がしたのだった。「見たこともないほど、きれいな顔色よ」
その夜のプログラムは、少なくとも聴衆の一人にとってはまさに|スリル《ヽヽヽ》の連続だった。そしてアンがダイアナに言ったように、あとからのものは、どれもその前のよりはるかにスリルに満ちていた。プリシー・アンドルーズが真新しいピンクの絹の服を身にまとい、滑らかな白い首筋に真珠の首飾りをし、髪に本物のカーネーションの花をさして――これは先生がはるばる町から取り寄せて贈ったのだという噂が口から口へと伝わった――「一筋の光もささない、まっ暗なぬるぬるしたはしご」をのぼって来た時、アンは激しい共感に身をふるわせた。そして、聖歌隊が「たおやかな雛菊《ひなぎく》のはるか上空に」と歌った時、アンは天使の姿がフレスコ画で描かれているかのように天井をじっと見上げた。サム・スローンが「ソケリーがめんどりを巣につかせる方法」という話を絵入りで説明しだすと、アンは大声で笑いだし、まわりの人まで一緒になって笑う破目になったが、これはアヴォンリーのような田舎《いなか》でも知れ渡っている話の筋の面白さというより、まったくアンにつられてのことだった。そしてフィリップス先生が、シーザーの遺体を前にしたマーク・アントニーの演説(シェイクスピア「ジュリアス・シーザー」三幕二場)をじーんと胸にくるような名調子で――一句切りごとにプリシー・アンドルーズの顔を見ながら――熱演した時、アンは、もしたった一人でもローマ市民が立ち上がったら、自分もまた即座に叛乱に加われるのにと思ったくらいだった。
プログラムの中で、たった一つアンの関心を惹《ひ》かないものがあった。ギルバート・ブライスが「ライン河畔のビンゲン」を暗誦した時、アンはローダ・マレーが図書館から借りてきた本を取り上げて読み続けた。朗読が終わると、ダイアナは手のいたくなるほど、拍手したが、アンは、からだを固くして、身じろぎもせずにすわっていた。
家に着いたのは十一時だった。この上なく楽しかったが、それをもう一度話しあうというすてきな楽しみがまだ残されていた。
誰もかれも寝たらしく、家の中はまっ暗で、しんとしていた。アンとダイアナは、足音を忍んで客間に入った。細長い部屋で、その奥に客用寝室があった。部屋は心地よく暖められ、暖炉の残り火でほんのり明るかった。
「ここで着がえをしない?」とダイアナが言った。「とても暖かで居心地がいいわ」
「ほんとうに面白かったわね」とアンはうっとりしたように溜息をついた。「舞台に上がって暗誦するなんて、すばらしいに違いないわ。ね、ダイアナ、あたし達もやってくれってたのまれることあるかしら?」
「もちろん、いつかはね。いつでも大きい生徒達に暗誦をたのんでいるみたいよ。ギルバート・ブライスはよくやるけど、あたし達より二つ年が多いだけよ。ねえ、アン、どうしてあの人の朗読を聞かないふりをしてたの? あの人が『更に一人、妹ならで』というところにきた時、あんたの方をまともに見ていたわよ」
「ダイアナ」とアンはいかめしく言った。「あんたはあたしの心の友だね。でもそのあんただってあの人のことを話題にするのは禁物よ。寝る仕度《したく》できた? ね、走って行って、どっちが先にベッドに着くか競走しない?」
この提案はダイアナの気に入った。白い寝巻姿の二人は、細長い部屋を走りぬけ、客用寝室の戸口を過ぎ、同時にベッドに飛びのった。そのとたん――何かが――二人のからだの下で動き、ぎゃっと叫び――誰かが押しっぶされたような声で言った。
「ひゃあ、助けて!」
どんな具合にそのベッドから飛び降り、部屋を走り出たのか、アンとダイアナには、どうしてもわからなかった。ただおぼえているのは、そうして夢中で飛び出した後、震えながら二階に足音をしのんで上がっていったということだった。
「ああ、いったい誰――何者なの?」とアンは声をひそめて言った。寒いのと驚いたので、歯の根ががくがく音をたてていた。
「ジョセフィンおばさんだわ」とダイアナは笑いころげていた。「ねえ、アン、あれはジョセフィンおばさんよ。どうしてあそこにいたのかわからないけど。でもきっとかんかんに怒るでしょうよ。困ったわ――とっても――でもこんなおかしなことに出会ったことある、アン?」
「ジョセフィンおばさんってどういう方?」
「お父さんのおばさんで、シャーロットタウンにいらっしゃるの。とても年とっていて――七十いくつかよ――あのおばさんに子供の時があったなんて考えられないわ。おばさんが見えることはわかっていたけれど、こう早いとは思わなかったの。とても四角四面な人だから、今度のことではうんと叱られるでしょうよ。ともかく、ミニー・メイと一緒に寝るほかないわね――あの子ったら、とても寝相が悪いけど」
ジョセフィンおばさんは、翌朝の早い朝食には姿を現わさなかった。バリー夫人は二人の少女に優しく微笑みかけた。
「ゆうべは面白かった? ほんとうは帰って来るまで起きているはずだったのよ。なにしろ、ジョセフィンおばさんがお見えになったので、結局あなたがたには二階で休んでもらうほかはないということを話そうと思ってね。でもとても疲れていたので眠ってしまったのよ。ダイアナ、おばさんを起こしはしなかったでしょうね?」
ダイアナは用心して何も言わなかったが、テーブル越しにアンと、おかしさとやましさのいりまじったような微笑をこっそり交《かわ》した。アンは朝食後すぐ帰ったので、バリー家で間もなく始まった大騒動については、午後おそくマリラに頼まれてリンド夫人の所に行くまで幸いにもまったく知らなかった。
「ゆうべはあんたとダイアナで、バリーおばあさんを死ぬほどおどかしたんだってね」とリンド夫人はいかめしい口調で言ったが、眼は笑っていた。「あそこの奥さんがさっきカーモディへ行きがけに見えてね。とても困っていたようだよ。バリーおばあさんが今朝起きた時は、たいへんなけんまくだったんだって――何しろジョセフィン・バリーが怒ったとなると、まったく手がつけられないからね。ダイアナには口もきかないそうだよ」
「ダイアナのせいじゃないわ」とアンはうなだれて言った。「あたしが悪いのよ。どっちが先にベッドに着くかやってみようと言い出したの」
「やっぱりそうだ!」リンド夫人は予想が当たったので、すっかり気をよくして言った。
「あんたの考えにきまってると思っていたよ。ともかく、そのおかげで困ったことになったというわけさ。バリーのおばあさんは一月《ひとつき》ぐらい泊まるつもりでやって来たんだけど、こんな所には一日としていられないと言って、明日は日曜だというのに町に逆戻りするそうだよ。連れて行く人さえあれば、今日にでも帰りたいくらいだって。おばあさんはダイアナの音楽の授業料を四半期分出すって約束だったけど、あんなおてんば娘には何もしてやらないことにしたそうだよ。ああ ほんとに今朝は大騒ぎだったと思うよ。バリーさんとこじゃきっと困っているに違いない。あのおばあさんは金持だからね、機嫌を損《そこ》ねるようなことはしたくないにきまってるよ。もちろんバリーの奥さんは、そんなことはおくびにもださないけど、わたしにゃ人の気持ちはよくわかってるのさ」
「なんて運が悪いんでしょう」とアンはしおしお言った。「いつも何かしでかして、その上大事な友達までも――その人のためならどんなことでもするつもりの人達までも――巻き込むんだわ。どうしてそうなるのか、おばさん、わかる?」
「そりゃね、あんたがうかつで、思い立つと前後の見境がなくなるからさ。あんたはね、ちっとも考えることをしないんだよ――何であろうと、頭に浮かんだ通り、ぱっと口に出したり、やったりするからね」
「あら、でもそれがいちばんいいんじゃない?」とアンは口をとがらせた。「何かすばらしいことが頭に閃《ひらめ》いたら、すぐそう言わなくちゃ。あれこれ考えたりしてるとだめになってしまうわ。おばさんもそんなふうに感じたことない?」
あいにく、リンド夫人にはそんな経験はなかった。夫人は考え深げに首を振った。
「ともかく、アン、少しは考えるってこともおぼえなくちゃね。あんたに入り用なのは、『飛ぶ前に見よ』という諺《ことわざ》さ――特に客用寝室のベッドに飛びこむ前にはね」
リンド夫人は、自分の軽い冗談に大いに気をよくして笑ったが、アンはじっと考えこんでいた。笑いごとではすまされない、重大な事態のようにアンには思われた。リンド夫人の家を出ると、凍てついた野原をぬけて、アンは「オーチャード・スロープ」へと向かった。ダイアナが、台所の入口でアンを迎えた。
「ジョセフィンおばさんは、あのことでとても気を悪くしたんでしょう?」とアンは囁《ささや》いた。「そうよ」とダイアナは肩ごしに、しまっている居間の扉の方を気にして振り返りながらも、くすくす笑って言った。「からだ中、ふるわせながら、かんかんだったわ、アン。そりゃがみがみ言われたわよ。あたしみたいにお行儀の悪い子は見たことがないんですって。そしてこんな子を育てた親は恥ずかしいと思えって。おばさんはもうこんな家にはいられないって言うけど、あたしは平気よ、でも、お父さんやお母さんはそうもゆかないけど」
「どうしてあたしのせいだって言わなかったの?」とアンは聞いた。
「あたしがそんなことすると思う?」とダイアナは軽蔑したように言った。「あたしはおしゃべりじゃなくてよ、アン・シャーリー、それにあたしだって悪いんだもの」
「じゃ、あたし、自分で言って来るわ」とアンはきっぱり言った。
ダイアナは眼を見張った。
「アン・シャーリー、あんた、まさか! おばさんは、あんたを頭からがりがり食べちゃうかもしれないわよ!」
「これ以上あたしをおどさないで」とアンは哀願した。「大砲の口に向かって、進んでゆく方がましみたいよ。でもよすわけにはゆかないのよ、ダイアナ。あたしのしたことなんだから、告白する必要があるの。告白なら、幸い練習も積んでいるし」
「おばさんはその部屋よ」とダイアナは言った。「行く気があるなら、行ってらっしゃい。あたしはごめんよ。それに何にもならないと思うわ」
こう言われながら、アンは勇を鼓してライオンの洞穴に向かった――というのはつまり、決然として居間の方に歩いて行き、そっと扉をたたいた。「お入り」というきつい声がした。
やせて、いかめしく、こわそうなミス・ジョセフィン・バリーは、暖炉のかたわらで、烈しく編物の針を動かしていた。怒りがまだおさまらないのか、金縁の眼鏡《めがね》ごしの眼がぎらぎらしていた。ダイアナがいると思って車椅子を廻すと、まっ青な顔をした女の子が眼に入った。大きな眼には必死の勇気と、身のちぢむような恐怖が、いりまじってたたえられていた。
「あんたは誰だい?」とミス・ジョセフィン・バリーは剣もほろろに言った。
「あたしは『グリーン・ゲイブルズ』のアンです」と小さな訪問者は、いつもやるように両手をしっかり組み合わせて、ふるえながら言った。「告白したいことがあって伺ったのです」
「告白するって何のことだい?」
「ゆうべあなたのベッドに飛びのったのは、みんなあたしのせいだということです。あたしが言いだしたんです。ダイアナがそんなことを考え出すはずは絶対にありません。ダイアナはとてもおしとやかなんです、ミス・バリー。だから、ダイアナを責めるのはどんなに間違っているかわかっていただけると思います」
「ほう、間違いだって? ダイアナだって一緒に飛びのったことは確かだからね。ちゃんとした家庭でそんな振舞《ふるまい》があっていいものかね!」
「でもただふざけてやっただけなんです」とアンは言い張った。「こうしてあやまっているんですから、許していただきたいと思います、ミス・バリー。そしてとにかく、ダイアナのことは勘忍してください。そして音楽の授業が受けられるようにしてください。ダイアナは音楽の授業に夢中なんです、ミス・バリー。それにあたし、夢中になっているものが手に入らないと、どんな気がするかよくわかるんです。もし誰か怒る相手がいるなら、あたしを怒ってください。あたしは小さいころ、叱られるのに馴れていましたから、ダイアナよりずっと我慢できるんです」
老婦人の眼から、今やあのぎらぎらした光はほとんどなくなり、その代わりに興味の色が浮かんでいた。しかし、依然として声だけはきびしかった。
「面白半分にしたっていうことは言いわけにならないよ。わたしの子供のころは、女の子がそんなふざけ方をするなんてとんでもないことだったからね。長い、しんどい旅行をした後で、ぐっすり眠っているところを、大きなからだの女の子達に二人まで飛びかかられて眼をさますってことがどんなことか、あんたにはわかってないんだ」
「わからないかもしれませんけど、想像することはできます」アンは熱心に言った。「きっとたいへんなことだったと思います。でも、あたし達の言うことも聞いてください。ミス・バリー、おばさんは想像力がおありですか? もしおありなら、あたし達の立場にもなってみてください。あたし達、あのベッドに誰かが寝てるなんて、全然知らなかったので、あなたのおかげで、とてもびっくりしたんです。あの時の気分といったらありませんでした。それに、前からの約束だったのに客用寝室で寝られなかったんです。あなたは客用寝室で休むことは慣れっこなんでしょう。でも、そんなふうに大事にされたことが一度もない孤児の女の子だったら、どんな気がするか想像してください」
今や怒りはまったく消え失せていた。ミス・バリーは事実笑い出した――その声を聞いて、部屋の外の台所で、心配のあまり、物も言えずに待っていたダイアナは、ようやくホッと一息ついた。
「わたしの想像力は少々さびついたかもしれないがね――何しろ長いこと使ってないからね」とミス・バリーは言った。「あんたの方にも負けず劣らず、それ相応の言い分があるらしいね。つまりどんな見方をするかできまるわけさ。まあおすわり、そしてお前の身の上を聞かせておくれ」
「せっかくですけど、そうしていられないんです」とアンはきっぱり言った。「できることならそうしたいんです。あなたは面白そうな方だし、みかけはそうでなくても、あたしとうまのあう方かもしれませんからね。でも、ミス・マリラ・カスバートの家へ帰らなくちゃならないんです。ミス・マリラ・カスバートは、あたしを引き取ってちゃんと育てようとしている、とても親切な人です。随分一生懸命にやっているのに、なかなかうまくいかないんです。あたしがべッドに飛びのったからって、マリラを悪く思わないでください。でも帰る前に、ダイアナを許してくださるかどうか、そしてアヴォンリーに予定通りずっといてくださるかどうか、教えていただけないでしょうか?」
「もしあんたが時々やって来て話を聞かせてくれるなら、そうするかもしれないね」とミス・バリーは言った。
その夜、ミス・バリーはダイアナに銀のきれいな腕輪を与え、大人達には旅行かばんを開けることにしたと告げた。
「あのアンという子の話をもっと聞きたくなったんで、ここにいることにしたよ」と.ミス・バリーは率直に言った。「面白い子だね、それにわたしぐらいの年になると、めったに面白い相手に出会うことはないからね」
マリラが一部始終を聞いた時に言ったのは、「わたしが言った通りですよ」ということだった。これはマシュウのために言ったのだった。
ミス・バリーは予定の一ヶ月を優に越してこの家に泊まった。これまでよりずっと扱いやすい客だった。これもアンがいつも夫人を上機嫌にしてくれたせいだった。二人はとても親しくなった。
ミス・バリーが発つ時、こう言った。
「いいかい、アンや、あんたが今度町に来る時は、きっと家へおいで。とっておきの客用寝室のベッドに寝かしてあげるよ」
「結局、ミス・バリーはうまのあう人だったのね」とアンはマリラに打ち明けた。
「ちょっと見たところじゃ、わからないでしょう。でもそうなのよ。マシュウの時みたいに一眼でわかるというわけにはいかないけど、そのうちにわかってくるものね。あたしが思っていたほど、うまのあう人というのは数が少ないわけでもなさそうだわ。この世の中にそういう人が幾人もいるってことがわかるのはすばらしいことね」
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第二十章 想像力のつまずき
春が再び「グリーン・ゲイブルズ」を訪れた――美しい、きまぐれな、カナダの春がやっと重い腰をあげたのだ。四月から五月にかけて、すばらしい新鮮な、ひんやりした日々を行きつ戻りつしながら、ピンクの夕焼けと眼をみはるような甦《よみが》えりと成長を伴ってやって来たのだった。「恋人の小道」のもみじは赤い芽を吹き、「ドライアドの泉」の周りでは、小さなくるくる巻いたしだが、勢いよくのび始めた。サイラス・スローンの家の裏手の荒地では、さんざしの花が咲いて、茶色の枯葉の下から、かわいらしいピンクや白の星のような花をのぞかせていた。生徒達は男の子も女の子もこぞって、よく晴れた日の午後、花をつみに出かけ、花かごや腕に持ちきれないほどの花を抱えて、澄みわたった夕空に歌声をひびかせながら、家路についた。
「さんざしのない所に住んでいる人は気の毒ね」とアンは言った。「ダイアナはね、そういう所にはもっといいものがあるかもしれないって言うの。でも、さんざしよりいいものってありっこないでしょう、マリラ? そしてね、ダイアナは、さんざしのことを知らない人達は、なくても何とも思わないだろうって言うの。でも、こんな悲しいことってあるかしら。さんざしがどんなものか知らず、なくても平気でいるなんて、それこそ悲劇的じゃない、マリラ。さんざしのこと、あたしがどう思ってるか知ってる、マリラ? 去年の夏死んだ花の魂なのよ、そしてここがその花達の天国なの。でも今日はとてもすばらしかったわ、マリラ。あたし達、古井戸のそばの苔むした広々とした窪地《くぼち》でお昼を食べたの――とてもロマンティックな所よ。チャーリー・スローンがアーティ・ギリスにその井戸を飛び越してごらんって挑戦したの。アーティはやったわ、だってそう言われて引込んでいられないでしょう。誰だって学校じゃそうよ。挑戦するのが今はやってるの。フィリップス先生はつんだ花を全部プリシー・アンドルーズにあげたの。『美わしきものを美わしき人に』って言うのが聞こえたの。本で見つけた文句にきまってるけど、先生にも少しは想像力があるってことね。あたしにもさんざしをくれた人がいたけど、あたし知らん顔してたの。その人の名前は二度と口にしないっていう誓いをたてたんだから、言うわけにはいかないけど。あたし達、さんざしの花環をつくって帽子にかざったの。そして家へ帰る時間になった時、三列にならんで花束や花環を抱《かか》え、『丘の上の我が家』を歌いながら行進したの。とてもすてきだったわ、マリラ。サイラス・スローンの家の人達は皆飛び出してあたし達を見たし、道で出会った人は皆立ち止まって、見送ってくれたわ。あたし達、ほんとにセンセイションを巻き起こしたのよ」
「たいしたことじゃないさ! そんなばかげたことなんて!」というのがマリラの答えだった。
さんざしのあとにはすみれが咲いた。そして「すみれの谷」は一面に紫色に染まった。アンは、学校へ行く時に、聖地を歩くようなうやうやしい足どりと、敬うような目つきでそこを通りぬけた。
「どうしてだかわからないけどね」とアンはダイアナに言った。「ここを通りぬける時には、ギル――誰かさんがクラスであたしを追い越そうと追い越すまいと、ちっとも気にならなくなるの。でも学校に着くと、そうはいかなくて、前と同じように気になるの。あたしの中にいろんなアンがいるのね、あたしがいろんな騒ぎを引き起こすのはそのせいじゃないかって思う時あるわ。あたしの中のアンがたった一人なら、きっと楽なんだろうけど、そうなると、今ほど面白くないかもしれないわね」
ある六月の夕方のことだった。果樹園が再びピンクの花に包まれ、「輝く湖水」の上手の沼では蛙がいい声でうたい、大気はクローバーの原や、かぐわしい樅の林の匂いに満ち満ちている時、アンは切妻の部屋の窓辺にすわっていた。それまでずっと勉強していたのが、暗くなって本が読めなくなったので、またもや見事な花房をつけた「雪の女王」の大枝を見やりながら、ぱっちりと眼を見開いたまま、空想にふけりだした。
この小さな切妻の部屋は、主要な点ではほとんど変わっていなかった。昔と同じように壁は白かったし、針差しは固く、椅子はこちこちで、黄色く突立っていた。しかし、部屋全体の性格はがらりと違っていた。新しい、生き生きと脈打つ個性がすみずみまで滲透《しんとう》しているようだった。それは学校通いの女の子の本や衣類やリボンとは別の、そしてテーブルの上のりんごの花のさしてある、青い欠《か》けた壷とも違うもののようだった。眠っていようと、覚めていようと、この部屋のはつらつとした主《あるじ》が見るありとあらゆる夢が、把《とら》え難くはあっても眼に見える形をとって、この何一つ飾り気のない部屋に、虹と月の光のすばらしい糸で織りなした綴れ錦で飾りつけをしたかのように思われた。やがて、マリラが、アイロンをかけたてのアンの学校行きの前掛けを手にして、急ぎ足で入って来た。マリラはそれを椅子の背にかけると、ほっと溜息をもらしながら腰をおろした。その日の午後持病の頭痛がしてたまらなかったのだ。痛みは去ったものの、元気がなく、マリラに言わせれば[へばって]いたのだった。アンは深い思いやりをこめてマリラを見た。
「ほんとに頭痛を代わってあげたいくらいよ、マリラ。マリラのためなら喜んで我慢できると思うわ」
「仕事をやってくれたおかげで、休めたから大助かりだよ。結構うまくやってくれたようだし、いつもほどしくじることもなかったらしいね。もちろん、マシュウのハンケチに糊をつける必要はないけどね! それにパイをかまどで温める時にはたいていだれでも、温まれば出して食べるものさね。入れっ放しにして、黒こげっていうのは聞いたことないけどね。でもあんたのやり方は全然違うらしいね」
頭痛がすると、マリラはややもすると皮肉になるたちだった。
「あら、ごめんなさい」とアンはすまなそうに言った。「あのパイのことは、かまどに入れたとたんから、今の今まですっかり忘れていたの。あたしのカンではね、食卓が何となく物足りないって気がしてはいたのよ。今朝仕事を任された時は、よけいなことは想像しないで、実際にあることだけを考えようと堅く決心したの。パイをかまどに入れるまでは、かなりうまくいってたんだけど、そのうちにどうしても誘惑を払いのけることができなくなって、自分が魔法にかかったお姫様で、ポツンと立っている塔に閉じこめられているのを、まっ黒な馬にまたがったすてきな騎士が助けに来てくれるんだって想像したの。だからパイのことを忘れちゃったのよ。ハンケチに糊をつけたのは知らなかったわ。アイロンがけをしながら、ずっとダイアナと二人で小川の向こうで見つけた新しい島の名を考えていたの。マリラ、とてもすばらしいとこなのよ。もみじの木が二本あってね、小川がその周りをぐるりととりまいているの。しまいにね、女王様のお誕生日に見つけたのだから、『ビクトリヤ島』って名前をつけたらすばらしいんじゃないかなって気がしたの。ダイアナもあたしもとても、とても忠義なんですもの。でもあのパイとハンケチのこと、ほんとうにごめんなさい。今日は記念日だから、特別いい子になろうと思っていたのに。マリラ、去年の今日は、何が起こったか知ってる?」
「いいや、これといって思いつくものはないね」
「あら、マリラ、あたしが『グリーン・ゲイブルズ』に来た日よ。あたし、どんなことがあっても決して忘れないわ。あたしの人生が、がらりと変わった日よ。もちろん、マリラには特にどうってことはないでしょうけどね。ここに来て一年になるけど、ずっととても幸せだったわ。もちろん、辛いことだってあったけど、そういうことは日がたてば忘れられるものね。ね、マリラ、あたしを引き取って後悔してる?」
「いいや、そうは思わないね」とマリラは言った。マリラには時々、アンが「グリーン・ゲイブルズ」にやって来る前に、いったいどんなふうに暮らしていたのかわからなくなることがあった。
「後悔なんてもんじゃないね。勉強がすんだらね、アン、バリーの奥さんの所へ行って、ダイアナのエプロンの型紙を拝借して来ておくれ」
「あら、だって、もうまっ暗だわ」とアンは叫んだ。
「まっ暗だって? なあに、まだ明るいよ。それにこれまでだって、日が暮れてからよく出かけていたくせに」
「朝、早く行くことにするわ」とアンは熱意をこめて言った。「日が出たらすぐ行ってくるわ、マリラ」
「アン・シャーリー、いったい何を考えだしたんだね? お前の新しいエプロンを裁つのにあの型紙が今晩いるんだよ。ぐずぐず言わないで、さっさとお出かけ」
「じゃ、街道の方を廻ってゆかなくちゃならないわ」とアンはしぶしぶ帽子をとりあげながら言った。
「街道を廻って、三十分も無駄にするんだって! どうしたっていうんだろう!」
「お化けのでる森を通りぬけることなんて無理よ、マリラ」とアンは必死に言った。
マリラはあっけにとられた。
「お化けの森だって! 気でも違ったんじゃないかい? お化けの森っていったい何のことかい?」
「小川の向こうのえぞ松の森のことよ」とアンは声をひそめて言った。
「ばかばかしい! お化けのでる森なんて、どこを探したってありっこないよ。いったいだれがそんなくだらないことを言って聞かせたのかね」
「ほかの人じゃないの」とアンは白状した。「ダイアナと二人であの森にはお化けがでるんじゃないかって想像してみたの。この辺はどこもかしこも、みんな――みんな平々凡々なんですもの。二人で面白半分に思いついたのよ。四月頃から始めたの。『お化けの森』って、とてもロマンティックでしょう、マリラ? えぞ松の森にきめたのは、あそこがとても陰気くさいからよ。あのね、あたし達、とても痛ましいことを想像したの。夕方今時分になると、小川に白い着物の女の人がやって来て、じっと両手を握りしめて、悲しい声をはり上げるの。誰か家族の中に死人があるような時に姿に現わすのよ。それから『アイドルワイルド』のすぐそばの片隅に、殺された子供の幽霊がでるの。そっとうしろから忍び足でやって来て、ひんやりした指で手にさわるのよ――こんなふうに。ああ、マリラ、考えただけでゾッとするわ。それにね、首なし男が道を行ったり来たりするし、木の間からは、がい骨がこっちをにらんでるのよ。ああ、マリラ、あたしこんなに暗くなってからは、どんなことがあっても『お化けの森』を通りぬけようなんて思わないわ、マリラ。きっと、白いものが木のうしろから手をのばして、あたしをひっつかまえようとするにきまってるわ」
「こんなことってあるもんかね」あきれて物も言えずにアンの話を聞いていたマリラは叫んだ。
「アン・シャーリー、自分の頭で考えだした、そんな途方もない作り話を、お前は本気にするっていうのかい?」
「本気にするっていうのとは少し違うけど」とアンは口ごもった。「少なくとも明るいうちは何とも思わないの。でもね、マリラ、暗くなるとそうはいかないのよ。幽霊が出歩く時分なんですもの」
「アン、幽霊なんてものはいないんだよ」
「あら、でもいるのよ、マリラ」アンは熱心に言った。「幽霊を見た人を知ってるの。それもちゃんとした人達なのよ。チャーリー・スローンがね、おじいさんが亡《な》くなってから一年もたってから、ある晩家へ牛を追って来るのを、おばあさんが見たって言うの。チャーリー・スローンのおばあさんって、絶対にいい加減なことを言う人じゃないでしょう。とても信心深いんですもの。それにトマスの奥さんのお父さんも、ある晩火の小羊に家まで追っかけられたんですって。切り落とされた首が、皮だけでたれさがっていたそうよ。奥さんのお父さんはね、それが兄さんの霊魂で、九日以内に亡くなるっていう知らせだってわかっていたって言うの。その通りじゃなかったけど、二年たってから亡くなったそうよ。だから、ほんとうのことだってわかるでしょう、それからルビー・ギリスが言ったのは――」
「アン・シャーリー」とマリラはアンの言葉をきっぱりとさえぎった。「もう二度とこんな話を聞かせてもらいますまい。お前の想像とやらはどうもおかしいと前っから思っていたけど、その結果がこうだと言うんなら、これ以上、そんなことはさせないよ。すぐバリーさんのお宅へ行っておいで。それもあのえぞ松の森をぬけてね。いいみせしめになるからね。そしてもう二度と『お化けの森』の話なんか口にするんじゃないよ」
アンは思いきり、頼んだり、泣きわめいたりしたいと思った――そして事実そうしたというのは、本気でこわがっていたからだ。想像力が先走って日が暮れると、えぞ松の森が、とても恐ろしいものに思えてならなかったのだ。しかしマリラは頑として聞かなかった。幽霊がでるといって脅《おび》えている子を、泉のそばまで引っぱって行き、橋をわたって、その向こうの、泣き女や首なしの幽霊がひそんでいるという薄暗い森へ、まっすぐに歩いて行くように命じたのだった。
「ああ、マリラ、どうしてそんなひどいことが言えて?」とすすり泣きながらアンは言った。「もし白いお化けがほんとうにあたしをつかまえて、ひっさらって行ったらどうする?」
「やってみようじゃないか」とマリラは平然と言った。「わたしが言い出したらあとへひかないことは知っているだろう。幽霊がいるなんて二度と考えないようにしてやるよ。さあ、さっさとお出かけ」
アンは言われた通りにした。つまり、よろめく足を踏みしめて橋をわたり、その向こうの恐ろしい暗い道をふるえながら歩いて行ったというわけだ。アンはこの時のことを決して忘れなかった。想像をここまでのさばらせたことをひどく後悔した。自分の想像が生みだした妖怪たちが、いたる所の暗い物蔭に身をひそめ、冷たい骨ばかりの手をのばして、自分達の生みの親の、おびえきった女の子をつかまえようとしていた。森の茶色にしきつめた落葉の上に、窪地の方から舞い上がってきた、白い樺の幹の皮を見た時は、心臓が止まるかと思われた。二本の古びた大枝が互いにこすれ合って、長いむせび泣きにも似た音をたてると、アンの額には、玉のような汗が浮かんだ。頭上の暗闇をこうもりがさっと舞い降りて来るのは、この世のものならぬ怪物の翼がなせる仕業《しわざ》かと思われた。ウィリアム・ベル氏の畑についた時は、白いものの軍勢に追われてでもいるかのように、アンはここをかけぬけた。そしてバリー家の台所に着いた時は、あまり息切れがして、エプロンの型紙を貸してほしいという用件を口にすることさえ、ろくにできないほどだった。ダイアナは留守だったので、いつまでもぐずぐずしている理由にはならなかった。恐ろしい戻り道がいやでも待っていた。アンは白いお化けの姿をみるよりは、木の枝に頭をぶっつけて死んだ方がましだと思い、両眼を閉じたまま帰ることにした。ようやくの思いで丸木橋をわたり終えた時、アンはふるえながらも、ほっと一息|安堵《あんど》の吐息をついた。
「おや、やっぱりつかまらないですんだのかい?」とマリラが平然と言った。
「ああ、マ―マリラ」とアンは歯をカチカチ言わせながら言った。「これからはあたし、ど―どんなことがあっても、あ―あ―平々凡々の場所だなんて、文句は言わないわ」
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第二十一章 新機軸の香料
「ほんとうに、会うは別れの初めっていうけれど、リンドのおばさんの言葉通り、世の中はそればかりね」アンは悲しそうに言いながら、六月の最後の日、台所のテーブルの上に石盤と本を置くと、ぐしょぐしょにぬれたハンケチで赤い眼をこすった。「あたしが余分のハンケチを今日学校に持って行って、とても助かったと思わない、マリラ? ひょっとしたらいるんじゃないかって予感がしたのよ」
「先生が学校をやめるっていうだけで、涙を拭《ふ》くのに二枚もハンケチがいるほど、あんたがフィリップス先生を好きだなんて、ちっとも知らなかったよ」とマリラが言った。
「先生がとても好きだから泣いたってわけでもないわ」とアンは我が身を顧みて言った。「ほかの人がみんな泣いたからよ。ルビー・ギリスがきっかけだったの。ルビー・ギリスったら、いつもフィリップス先生のことを嫌いだって言いふらしていたのに、先生が立ち上がってお別れの挨拶を始めたら、ワッと泣き出したの。そうするとね、女の子がいっせいに、次から次へと泣き始めたのよ。あたしは、じっとこらえようとしたのよ、マリラ。あたし、フィリップス先生が、ギル――男の子の隣にすわらせようとなさった時のことを思いだそうとしたの。それからあたしの名前を黒板に書くのにEを省こうとしたことや、幾何の時間にあたしのことを、これまで見たこともない大馬鹿者だって言ったり、あたしのつづりがおかしいって笑ったこともね。それに先生はいつもいじわるで皮肉ばかり言ってたわ。でもね、マリラ、どういうわけか、どうしてもそれが思い出せないの。そしてね、一緒に泣きだしちゃったのよ。ジェーン・アンドルーズなんか、一ヶ月も前から、フィリップス先生がいらっしゃらなくなったら、どんなにせいせいするだろう、涙なんて一滴も流すもんかって言い暮らしていたの。それがね、誰よりもわあわあ泣いて、兄さんからハンケチを借りるっていう騒ぎよ――だって男の子は泣かないでしょう――ジェーンはね、ハンケチなんかいるはずがないって持ってきてなかったの。ああ、マリラ、とても胸が張りさけそうだったわ。フィリップス先生はね、『いよいよお別れの時が来ました』っていう言葉で始まる、とてもすばらしいスピーチをなさったの、じーんと胸にきたわ。そしてね、マリラ、先生も眼に涙を浮かべていらっしゃったわ。ああ、あたし、とても悲しくなっちゃって、後悔したわ、だって始終学校で先生の噂をしたり、石盤に先生の似顔を書いたり、先生とプリシーのことをからかったりしてたんですもの。あたし、ミニー・アンドルーズのような模範生だったらよかったなあって思ったわ。あの子なら、何一つ良心に恥じることはないんですもの。女の子達は学校からずっと泣きながら帰って来たの。キャリー・スローンがいいかげんな時分になると、『お別れの時がやって来ました』ってくり返すでしょう。だから、みんなが笑顔を取り戻しそうになる度《たび》に、また泣き出すってわけよ。マリラ、あたしほんとうにとても悲しいの。でもね、これから二月《ふたつき》のお休みが待ってると思うと、絶望のどん底に沈んでばかりいるわけにはいかないわね、マリラ。それにあたし達、新しい牧師さんが奥さんと一緒に駅の方からいらっしゃるのに出会ったの。フィリップス先生がおやめになるのがどんなに悲しくても、新しい牧師さんに少しくらい心をひかれても悪くないでしょう? とてもきれいな奥さんよ。もちろん、まぶしいほど美人っていうわけにはいかないけど――第一、牧師さんの奥さんがまぶしいほど美しいっていうのは、あんまりいいことじゃないでしょう、悪い例になるかもしれないんですものね。リンドのおばさんは、ニューブリッジの牧師の奥さんは、流行の先端をいくような服装をしているから、よくないっておっしゃったわ。今度ここにいらっしゃった牧師さんの奥さんは、きれいなふくらんだ袖のついた青いモスリンの服を着て、ばらの飾りのついた帽子をかぶっていらっしゃったわ。ジェーン・アンドルーズは、牧師の奥さんがふくらんだ袖をしてるなんて、流行を追い過ぎるなんて言ってたけど、あたしはそんなつれないことは言わなかったわ、マリラ、だってふくらんだ袖に憧れる気持ちってよくわかるの。それに、まだ牧師の奥さんになってからいくらもたってないんだから、ある程度仕方がないんじゃない? 牧師さん達はね、牧師館に入れるようになるまで、リンドのおばさんのお宅に置いていただくんですって」
その晩、リンド夫人の所へ、前の年の冬に借りた、さしこぶとんの枠を返すのだと言って出かけたマリラに、それ以外の理由があったにしても、それはアヴォンリーに住む人々に共通の、愛すべき弱点とも言うべきものだった。リンド夫人はこれまでもいろいろなものを人に貸していて、なかには二度と戻るまいとあきらめていたものも少なくなかったのに、その晩になると、借り主の手によって次々と戻されてきた。新任の牧師、それも妻を同伴しているとあっては、刺激《しげき》らしいものに乏しいこの静かな田舎《いなか》で暮らしている人々が、大いに好奇心を燃やすのも不思議ではなかった。
アンから想像力に乏しいと言われた老ベントレー氏は、十八年間もアヴォンリーで牧師を勤めてきた。ベントレー氏は着任した時もやもめであったが、その後もずっと変わらなかった。もっとも在任中は毎年きまって、あの人と結婚するらしいとか、いやこの人だといった噂が絶えなかった。前年の二月、彼は職を辞し、人々に惜しまれながらこの地を去った。説教はうまいとはお世辞にも言えなかったが、長く接しているうちに大方の人々の心の中に、この善良な老牧師に対する愛情が自然と生まれてきたのだった。それ以来、アヴォンリーの人々は、大勢の種々雑多な志願者や「牧師候補」が日曜毎にやって来て、試験的に説教をするのを聞くことで、変化に富んだ宗教的気晴らしを楽しんできた。こうした人々の及落の判定は教会の長老達の手にゆだねられていたが、古いカスバート家の座席の片隅におとなしくすわっている赤毛の女の子にも、いろいろな意見があり、マシュウを相手に心ゆくまでこの問題を論じ合ったが、マリラの方は、どのような形にせよ、牧師についてとやかく言うことはやらない主義だと言って、いつもこれには加わらなかった。
「スミス牧師はきっと駄目だと思うわ、マシュウ」というのがアンの結論だった。「リンドのおばさんは、あの人の話し振りはいただけないっておっしゃったわ。でもあたしの考えでは、あの人の最大の欠点は、ベントレー牧師そっくりだと思うの――つまり、想像力が欠けているのよ。そこへいくと、テリーさんはあり過ぎるわ。あたしが『お化けの森』のことで失敗したみたいに想像力が先走る傾向があるのよ。それに、神学が健全じゃないって、リンドのおばさんがおっしゃったわ。グレシャム牧師はとてもよさそうな人だし、信仰も深いようだけど、おかしな話をいっぱいもち出して、教会で人を笑わせるでしょう。あれじゃ威厳がなさすぎるわ、牧師というものは、少しは威厳がいると思わない、マシュウ? マーシャル牧師はとても人をひきつける力があると思うわ。でも、リンドのおばさんの話ではまだ独身なんですって。それに婚約さえもしてないらしいのよ。おばさんは特にその点を確かめたようよ。そしてアヴォンリーに、若い未婚の牧師さんを迎えるのはどうしても駄目だっておっしゃったわ。だって、教会員の誰かと結婚するかもしれないし、そうなるとごたごたするでしょう。リンドのおばさんって、とても先の先まで考える方ね、マシュウ? アラン牧師をお呼びすることにきまって、とてもよかったと思うわ。お説教は面白いし、お祈りも習慣的にするんじゃなくて、ほんとうに心がこもっているのが気に入ったわ。リンドのおばさんは、あの方も完全とは言えないっておっしゃったけど、それにしても七百五十ドルの年俸で完全な牧師を期待する方が無理なんですって。それにともかく、あの方の神学は健全だそうよ。おばさんは教義について徹底的に質問なさったの。それにおばさんは牧師さんの奥さんの身内をご存じで、みんなちゃんとした人達だし、女の人は家事のきり盛りがうまいそうよ。リンドのおばさんはね、健全な教義の夫と、家事のきり盛りのうまい妻というのが牧師の家庭にとって理想的な組み合わせだっておっしゃっるの」
新しく着任した牧師とその妻は、若くて感じのいい容貌の人達で、まだ新婚ほやほやといった様子だった。そして、一生をかけるに価するとして、自分達が選んだ仕事に対する心からの美しい熱意に満ち溢れていた。アヴォンリーは最初からまったく心を開いて二人を迎えた。老いも若きも、高い理想に燃えた、率直で快括な若い牧師に好意を持ち、牧師館の管理にあたる明るい、穏やかで小柄《こがら》な夫人を愛した。アンは、たちまちのうちに、心底からミセス・アランのとりことなった。ここにもまた、うまのあう人を見つけたからだった。
「ミセス・アランはほんとうにすてきよ」とアンはある日曜の午後に言った。「あたし達の組を教えてくださったんだけど、とてもすばらしい先生なの。奥さんはね、いきなり先生ばかりが質問するのは公平じゃないっておっしゃったの。それがね、マリラ、あたしもずっと前から考えていたことなの。そして何でも質問があったら言っていいっておっしゃったの。だから、あたしいっぱいしちゃった。あたし、質問するの上手なのよ、マリラ」
「そうともさ」とマリラは一段と力をこめて言った。
「あたしのほかに質問したのはルビー・ギリスだけだったわ、あの子ったら、この夏は教会学校のピクニックはありますか、なんて言うの。習っていることと何にも関わりがないことを聞くのは、お門《かど》ちがいよね――ライオンのすみかに入ったダニエル(旧約聖書、ダニエル書、六章十六―二十四)について習っていたの――でも、ミセス・アランはにっこり笑って、多分あるでしょうっておっしゃったの。ミセス・アランの笑った顔ってとてもすてき。両方の頬《ほお》にとてもすてきな笑《え》くぼがよるのよ。あたしにも笑くぼがあるといいのにね、マリラ。あたし、ここに来た頃ほど、やせっぽちじゃないけれど、まだ笑くぼには手が届かないわ。もし笑くぼがよるようになれば、きっとみんなにいい影響を与えることができると思うの。ミセス・アランがおっしゃったわ、あたし達はほかの人にいい影響を与えることができるようにしょっちゅう努力すべきなんですって。いろいろなことについてとてもいい話をしてくださるの。あたし、これまで宗教ってこんなに楽しいものだって知らなかったわ。いつも何となく暗い感じがしていたの、でも、ミセス・アランのは違うわ。あの先生みたいになれるんなら、あたしもクリスチャンになりたいくらいよ。ベル監督みたいになりたいとは絶対に思わないけれど」
「ベルさんのことをそんなふうに言うなんて、ほんとうによくないね」とマリラはきっぱり言った。「あの方はとてもりっぱな方ですよ」
「あら、もちろんりっぱよ」とアンは同意した。「でもベルさんはいくらりっぱでもあんまり楽しそうじゃないわ。もしあたしがりっぱな人になれれば、あたしうれしくて一日中、踊ったり歌ったりすると思うわ。ミセス・アランは大人だから、踊ったり歌ったりはなさらないでしょうし、それに第一、牧師の奥さんがそんなことをしたら威厳がなくなるわね。でもあたし、ミセス・アランが、ご自分がクリスチャンだってことをとても喜んでいらっしゃるのがわかるし、それにたとえ神様を信じないでも天国に行けるとしても、あの方ならクリスチャンになりたいと思うに違いないわ」
「近いうちにアラン夫妻をお茶におよびした方がよさそうだね」とマリラは考えこみながら言った。「まだお招きしていないのは、うちぐらいのものだろう。そうさね、今度の水曜あたりはよさそうだけど、でもマシュウには何にも言いっこなしだよ。お二人がみえることがわかったら、何とかこじつけてその日は家をあけようとするだろうからね。ベントレー牧師とはすっかりお馴染《なじみ》みになっていたからよかったけど、新しい牧師さんと親しくなるのは容易じゃなかろうし、その上牧師の奥さんときちゃ、ふるえあがってしまうだろうからね」
「絶対に秘密は守ってよ」とアンは言った。「でもね、マリラ、その時のケーキはあたしに作らせてね。ミセス・アランのために何か是非したいの。それにこの頃はあたし、ケーキ作りがかなり上手になったでしょう」
「層状ケーキならいいよ」とマリラは約束した。
月曜から火曜にかけて、「グリーン・ゲイブルズ」ではお茶の仕度《したく》に大わらわだった。牧師夫妻をお茶に招くということは、容易ならぬ大事件だった。それでマリラはアヴォンリーのどの家の主婦にも劣らないようにしたいと心をきめた。アンはうれしいのとわくわくするのとで、もう夢中だった。火曜日の夕方遅くまで、そのことでダイアナと話し合った。二人は「ドライアドの泉」のそばの大きな赤い岩に腰かけ、樅《もみ》のやにをつけた小枝で水に虹をこしらえていた。
「もう何もかもそろったのよ、ダイアナ。ただケーキだけは、その日の朝あたしが作ることになっているの。それからふくらし粉を使った小型のパンは、マリラがお茶のすぐ前に焼くと言ってるわ。ほんとうにね、ダイアナ、マリラとあたし、この二日間は大忙しだったのよ。牧師さん一家をお茶におよびするって、とてもたいしたことなのね。こんな経験初めてよ。ご馳走のしまってある所をみせたいくらいだわ。そりゃみごとなものよ。雛鶏《ひなどり》の肉を寒天で固めたものや、牛の舌の冷やしたものがあるし、ゼリーは赤いのと黄色いのと二種類あるの。それから、泡《あわ》立て、クリームをかけたレモン・パイに桜んぼのパイと、クッキーが三種類、それにフルーツ・ケーキもあるのよ。それから、マリラが牧師さんに差し上げるために、とっておきの、有名な黄色いプラムの砂糖漬があるし、そのほか、カステラと層状ケーキと、前に話した小型のパンというわけよ。パンも新旧二通りそろえたの。もし牧師さんが消化不良で新しいのは食べられないと困るでしょう。リンドのおばさんがおっしゃるには、牧師さんってのはたいてい消化不良なんですって。でも、ミスター・アランは、まだ牧師になりたてだから、そんなことはないと思うわ。あたし、自分の作る層状ケーキのことを考えただけで寒気がするの。ああ、ダイアナ、もしうまくできなかったらどうしようかしら! ゆうべ、大きな層状ケーキのかぶりものをしたこわい鬼にそこら中追っかけられた夢をみたわ」
「大丈夫、うまくいくわ」とダイアナは太鼓判を押した。ダイアナはその点、頼もしい友人だった。「二週間前、『アイドルワイルド』でお昼に食べた、あなたの作ったケーキ、とてもおいしかったじゃない」
「ええ、でもケーキって、つむじ曲がりで、特別おいしく作りたいと思う時に限ってうまくいかないことがあるものよ」とアンは、特にやにのよくしみた小枝を水に浮かべながら、溜息をついた。「でもね、こうなると運を天にまかせて、粉を入れる時に注意するほかはないわ。まあご覧なさい、ダイアナ、何てきれいな虹でしょう。あたし達が帰った後、森の精が姿を現わして、あの虹をスカーフにしようとするんじゃない?」
「森の精なんて、いるはずがないでしょう」とダイアナは言った。ダイアナの母親は「お化けの森」の話を聞いて、ひどく怒ったのだった。その結果、ダイアナはアンの真似をして、これ以上想像をあれこれたくましくするのをやめてしまった。そのため、たいして害のなさそうな森の精にしろ、その存在を信じない方が無事だと考えたのだった。
「でもいると思うのはやさしいわ」とアンは言った。「毎晩、床に就《つ》く前、あたし窓の外を見るの。妖精がここに腰かけて、泉を鏡代りに髪をとかしているんじゃないかと思ってね。朝露のなかに足あとがのこっていやしないかって探す時もあるわ。ああダイアナ、妖精を信じることをやめないで!」
水曜の朝が来た。アンはすっかり興奮して眠っているどころではなかったので、夜明けとともに起きてしまった。前の晩、泉で水遊びをしたために、ひどい鼻風邪を引きこんでいた。しかし、その朝は本式の肺炎にでもかからない限り、アンの料理熱をさますものはなさそうだった。朝食がすむと、アンはケーキを作り始めた。とうとうかまどの入口を閉めた時、アンはやっと一息ついた。
「今度は何一つ忘れなかったと思うわ、マリラ。でもふくれてくれるかしら? ひょっとしてふくらし粉がきかなかったりしたら? あたし、新しい鑵《かん》のものを使ったのよ。リンドのおばさんがおっしゃったけど、近頃はまぜものが多くて、いいふくらし粉かどうかなかなかわからないんですって。政府がこの問題をとりあげるべきだっておっしゃったわ。でも王党の政府がやるなんてことは考えられないんですって。マリラ、ケーキがふくれてこなかったらどうする?」
「これがなくたって、食べきれないくらいだよ」というのがこの問題に対するマリラの落着きはらった見方だった。
しかし、ケーキはやっぱりふくれた。そして金の泡のようにふわふわと軽やかな姿をかまどから現わした。アンはうれしさのあまり頬《ほお》を染め、まっ赤なゼリーを内にはさんだ。そしてミセス・アランがそれを口に運び、ひょっとしたらもう一切れほしいと所望する場面を心に描いた。
「一番上等のお茶道具を使うんでしょう、マリラ」とアンは言った。「しだや野ばらでテーブルを飾っていい?」
「ばかばかしい」とマリラはやり返した。「わたしに言わせりゃ、大切なのは食べもので、くだらない飾りなんかどうでもいいのさ」
「バリーのおばさんとこじゃ、テーブルを飾ったわ」とアンは言った。アンにはまったく、蛇の悪知恵がひそんでいないとは言えなかった。「そしてね、牧師さんがとてもすばらしいっておほめになったのよ、味覚と一緒に眼の保養になるとおっしゃって」
「じゃ、好きなようにおし」とマリラは言った。バリー夫人であろうとなかろうと、誰にもひけはとるまいと思ったからだった。「ただお皿とご馳走を並べる余地はのこしておくんだよ」
アンはバリー夫人のものなど、ぐっと引きはなすようなやり方で飾りつけに精を出した。ばらとしだと持ちまえの芸術的な才能を惜しみなく注ぎこんで、お茶のテーブルを思いきって飾りたてたので、牧師夫妻は席につくなり、声をそろえて、その美しさをほめそやした。
「アンがしたんですよ」と渋面をつくりながらも、公平なマリラが言った。すると、ミセス・アランが、よくやったというかのようにアンに向かって微笑んでみせたので、アンは幸せのあまり、天にものぼる心地がした。
マシュウもちゃんとそこにいた。どんな仕組みでこの席につらなる羽目に導かれたかは、アンと神を除いては知るものはなかった。マシュウはとてもはにかんで神経質になっていたので、マリラはとうてい自分の手には負えそうもないとあきらめていたのだった。しかし、アンが巧みにマシュウを扱ったので、彼も今は一番上等の服に白いカラーをつけてテーブルにつき、結構たのしそうに牧師に話しかけていた。ミセス・アランには一言も話しかけようとはしなかったが、これは望む方が無理かもしれなかった。
万事は婚礼の鐘のように順調に行って、いよいよ、アンの層状ケーキがまわされることになった。ミセス・アランはもうこれまでに食べきれないほどいろいろな種類のものをすすめられた後なので、これを辞退した。しかしマリラはアンががっかりした顔つきをしたのを見て、にこやかに言った。
「まあ、ミセス・アラン、是非一つ召上っていただけませんか。アンが特に奥さまのためにと言ってこしらえたものですから」
「それでしたらお味見をさせていただきますわ」とミセス・アランは笑いながら言って、三角に切った大きなケーキを取った。牧師もマリラもこれにならった。
ミセス・アランが一口|頬《ほお》ばったと思うと、何とも言いようのない奇妙な表情がその面をかすめた。しかし夫人は何とも言わず、せっせとそれを食べ続けた。マリラはその表情に気づくと、さっそくケーキを口にした。
「アン・シャーリー!」とマリラは叫んだ。「いったいケーキの中に何を入れたんだい?」
「作り方に書いてある通りよ、マリラ」とアンはありありと心配の色を浮かべながら叫んだ。「どうかしたの?」
「どうかしたどころか! とても手に負えたものじゃないよ。奥さん、どうぞもう召上がらないでください。アン、食べてごらん。何の香料を入れたんだい?」
「バニラよ」とアンは言った。味見をした後のアンの顔は恥ずかしさのあまリ、まっ赤にほてっていた。「バニラを入れただけよ。ああ、マリラ、きっとふくらし粉のせいよ。何だかおかしいと思ったの、あのふく――」
「ふくらし粉が何だって! お前が使ったバニラの瓶をここに持っておいで」
アンは台所に飛んで行くと、茶色の液体が少し入っていて、「最上のバニラ」という黄色いラベルの貼ってある小瓶を持ち帰った。
マリラはそれを受け取ると、せんをあけ、匂いをかいだ。
「あら、いやだ。アン、お前はあのケーキの香料に痛み止めの塗り薬を使ったんだよ。先週塗り薬の瓶を割ったもんだから、残りを古いバニラの空《あ》き瓶に入れといたんだよ。多少はわたしの責任でもあるね――お前に言っとくべきだったね――でもいったいどうして匂いをかいでみなかったんだい?」
アンは失敗が二つも重なったことで、さめざめと涙にくれた。
「それができなかったの――風邪をひいたもんで」こう言い終わると、アンは切妻の部屋に逃げて行って」ベッドに身を投げ、慰めようもないほどに激しく泣いた。
間もなく軽やかな足音が階段でしたと思うと、誰かが部屋に入って来た。
「ああ、マリラ」とアンは顔も上げずにすすり泣いた。「あたしは永久に浮かばれないわ。今度のことはいつまでたっても消えないわ。みんなにも知れるし――アヴォンリーじゃ何でも必ず人にわかるようにできているんですもの。ダイアナはあたしにケーキの出来具合を聞くにきまってるし、そうすればほんとうのことを言わないわけにはいかないでしょう。これから先いつでも痛み止めの塗り薬をケーキの香料に使った子だって指さされるだろうし、ギル――学校の男の子達だっていつまでも笑うでしょうよ。ああ、マリラ、少しでもクリスチャンらしい憐みが残っていたら、こんなことのあとで、下へ行って食器を洗えなんて言わないでほしいわ。牧師さんと奥さんがお帰りになったら洗うわよ。でもあたし、もう二度とミセス・アランにはお目にかかれないわ。もしかしたら、あたしが奥さんを毒殺しようとしたなんて思うかもしれないし。リンドのおばさんが、恩人を毒殺しようとした孤児の女の子を知ってるっておっしゃったわ。でも痛み止めは毒にはならないわ。呑みこむものですものね――もっともケーキに入れるもんじゃないけど。ミセス・アランにそう言ってくれる、マリラ?」
「飛び起きて、ご自分でそうおっしゃったらどう」と明るい声が言った。
アンが飛び上がると、ミセス・アランがベッドのそばに立って、眼に笑みを浮かべながらアンを見おろしていた。
「いい子だから、そんなに泣かないで」と夫人は言った。アンの悲劇的な顔つきをとても案じて言った。「だって、誰でもやりそうな、おかしな間違いというだけじゃありませんか」
「いいえ、こんな間違いを仕出かすのはあたしぐらいのもんです」とアンはすっかりしょげて言った。「それにあたし、あのケーキを特別おいしく作ってあげたいと思っていたんです、ミセス・アラン」
「ええ、わかってますとも。それにおいしかろうとなかろうと、あなたが親切にいろいろ心づくしをしてくださったことはとても喜んでいるのよ。さあ、もう泣かないで、一緒に下へ行きましょう。そしてあなたの花壇を見せてくださるわね。カスバートさんが、あなた専用の場所があるっておっしゃったわ。是非拝見させてね。わたしはとても花が好きなのよ」
アンは言われるままに一緒に下へ行き、元気を取り戻した。そしてミセス・アランが自分とうまがあう人だということはまさに天の恵みだと思った。痛み止めの薬入りのケーキのことは、まったく話題にのぼらなかった。そしてお客の帰った後、アンはあんな途方もないことが起こったにしては、自分でも思いがけないほど、楽しい晩だったと思った。しかし、アンは深い溜息をつきながら言った。
「マリラ、明日という日は、何一つ間違いが起こっていない新しい日だと思うとすてきじゃない?」
「言っておくがね、きっと明日もいっぱいやらかすよ」とマリラは言った。「お前みたいに間違ってばかりいる子はみたことがないね」
「ええ、よくわかってるの」とアンは悲しそうにうなずいた。「でもたった一つ、いくらかましなことがあるのを知ってる、マリラ? あたし、同じ失敗は二度と繰り返したことはないの」
「次から次へと新しいのをやらかすんだから、同じことさ」
「まあ マリラ、わからない? 一人の人がする間違いにはきっと限度があってよ。だから終わりまでいけば、それを卒業したことにならない? そう思うとほっとするわ」
「ともかく、そのケーキを豚にやっておいで」とマリラは言った。「人間の口にはとても合いそうもないからね。いくらジェリー・ブートにしたってね」
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第二十二章 アンお茶によばれる
「そんな眼つきをしていったいどうしたっていうの?」とマリラがたずねた。アンはちょうど郵便局まで一走り行って帰って来たところだった。「また別のうまのあう人が見つかったのかい?」
全身これ興奮のかたまりと言ったように、アンは眼をきらきらさせ、顔中をほころばせていた。八月の日暮れの柔らかい日の光と、ものうげな影の中を、アンは風に吹かれた妖精のように、小道を踊るような足どりで戻って来た。
「違うのよ、マリラ。でも、何だと思う? 明日の午後、牧師館のお茶によばれたの! ミセス・アランが郵便局に、あたし宛の手紙を置いといてくださったのよ。ね、これをみて、マリラ。『グリーン・ゲイブルズのミス・アン・シャーリーヘ』って。ミスって呼ばれたの生まれて初めてよ。こんなにわくわくしたことはないわ。とっておきの宝物としていつまでも大切にしまっておくつもりよ」
「ミセス・アランはね、教会学校で教えている生徒達を順番に呼ぶつもりだっておっしゃってたよ」とマリラは、このすばらしい出来事を冷静に受けとめながら言った。「だからそんなに興奮する必要はないのさ。お前はもっとものごとに落着いてあたれるようになった方がいいね」
アンに対して、もっと落着いてものごとにあたれと言うのは、アンの性質を変えることにほかならなかった。アンのように「精と炎と露」(巻頭の英国詩人ブラウニングの詩の文句)の塊みたいな存在には、この世の喜びも苦痛も、人の三倍の烈しさで訪れるのだった。マリラもこのことに気づいて、漠然とした不安を感じていた。こういう衝動的な人間にとっては、人生の浮沈はとうてい堪えられないだろうと思うからで、喜びも同程度に深いということで、充分償いがつくだろうということまでは、はっきりわかっていなかったからだ。そのためマリラは、アンを穏やかな、むらのない人柄に変えるように仕向けることが自分の義務だと考えていたが、これは小川の浅瀬で踊る日の光に、始めから無理と知りながら難題を持ちこむようなものだった。マリラは、自分でもあまり効果があがっていないことを、しぶしぶながら認めざるを得なかった。大切に育《はぐく》んできた希望や計画が挫折したとなると、アンはたちまち「深い苦悩の淵」に沈んだ。それらが成就ということになれば、歓喜の絶頂に躍りあがるのだった。こうした一刻もじっとしていない子供を、お行義のいい、きちんとした、非の打ちどころのない少女に仕立てあげることに、マリラは絶望し始めていた。それでいて、本心では、今のままのアンの方がずっと気に入っているなどとは、決して信じようとはしなかったことだろう。
その晩アンは、悲しくてものも言わずに床についた。風が北東に変わったので、明日は雨かもしれないと、マシュウが言ったからだった。家の周りのポプラの葉ずれの音がアンの胸をしめつけた。ぽたぽたという雨だれの音そっくりだったからだ。遠くから聞こえる湾のにぶい波音も、ほかの場合だったら、耳なれぬ重々しいリズムにひかれて喜んで聞き入るというのに、今は特別に上天気を望んでいるこの小さな娘にとって、嵐や災害の前兆のように思えてならなかった。アンは朝がやって来ることは決してないだろうと思った。
しかしすべてのことには結末があるもので、牧師館のお茶によばれている前夜も明けた。マシュウの予言にもかかわらず、お天気は上々で、アンもまた天にものぼる心地だった。
「ああ、マリラ、今日は会う人がみんな好きになれそうな気がするの」朝食の後片づけをしながら、アンは叫んだ。「どんなにいい子になれそうな気がするかわかる? ずっとこのままならいいんだけどなあ! 毎日お茶によばれさえすれば、きっと模範生になれてよ。でもね、マリラ、お茶って大事な時なのね。とても心配だわ。お行儀よくできなかったらどうしよう? 牧師館によばれるなんてこれが初めてですもの。ちゃんとした礼儀作法がわかっているかどうか、自信がないの。この家に来てから『ファミリー・ヘラルド』のエチケット欄に出ている礼儀作法のことはちゃんとよく読んではいるつもりだけど。何かへまをしでかしたり、すべきことを忘れたりしないかと心配よ。とても欲しいと思ったら、おかわりをするのは、礼儀にかなっているの?」
「気をつけなくちゃいけないのはね、アン。お前は自分のことばかり考えているってことだよ。お前はミセス・アランのことだけを念頭において、どうすれば一番いいのか、何が一番喜んでいただけるのか考えるのさ」とマリラが言った。今度だけはまさに健全そのものの、簡潔な忠告をずばりと言いあてたというものだった。
「ほんとうにそうね、マリラ。自分のことは全然考えないことにするわ」
アンがたいした失敗もせずに訪問を終えたことは明らかだった。アンは日暮れ方、うこん色やばら色の輝かしい雲が、天高くたなびくのを見上げながら、うっとりした気分で戻って来たからだ。そして台所の戸口で、大きな赤い砂岩に腰をおろし、マリラのギンガムの膝に、疲れた巻毛の頭をもたせながら、楽しそうにお茶の時の模様をみんな話して聞かせた。
涼風が西の樅《もみ》の木の丘のふちから、細長い刈り入れ時の畑の上を吹きわたり、ポプラの梢を騒がせていた。果樹園の上には一つ星がきらめき、「恋人の小道」では、しだやさらさら鳴る梢の間を縫って、ほたるが光っていた。話しながら、それらをみつめているアンには、何となく風も星もほたるも皆一つになって、いうに言われないほど美しく魅惑的なものを作り上げているような気がした。
「ああ、マリラ、何とも言えないほどすばらしい集《つど》いだったわ。これまで生きてきた甲斐《かい》があったみたいよ。この気持ちはもう二度と牧師館のお茶によばれなくても変わらないと思うの。むこうに着いたら、ミセス・アランが戸口まで迎えてくださったわ。うすいピンクのオーガンジーのとてもすてきな服よ。ひだ飾りがたくさんついていて、半袖なの。ほんとうに天使のようだったわ。あたし、大きくなったらほんとに牧師の奥さんになりたくなったのよ、マリラ。牧師だったらあたしの赤毛をあまり気にしないでしょうからね。だってそんな俗っぽいことは考えないでしょう。でももちろんそのためには生まれつきいい子でなければならないでしょうし、あたしには無理な話だわ。だからそんなこと考えてもしようがないわね。生まれつきりっぱな人もいれば、そうでない人もいるわね。あたしは、りっぱじゃない方に入るわ。リンドのおばさんは、あたしのこと、原罪だらけだっておっしゃるの。どんなに一生懸命に、あたしがよくなろうとしても、生まれつきりっぱな人ほどうまくゆかないでしょうよ。きっと、幾何によく似てるのね。でもそんなに一生懸命にやったら、少しはききめがあってもいいと思わない? ミセス・アランは生まれつきりっぱな方なんだわ。あたし、大好きよ。マシュウとかミセス・アランみたいに何の苦もなくたちまち好きになれる人っているものね。それから、リンドのおばさんみたいに、好きになるのに骨がおれる人もね。とても物知りだし、教会では活躍なさるし、好きになるのが当たり前なんだけど、いつも自分にそう言い聞かせていないといけないの。でないと忘れるのね。牧師館にはホワイト・サンドの教会学校から来た女の子が一人いたわ。ロレッタ・ブラッドリーっていうの。とてもかわいい子よ。うまのあう方じゃなさそうだけど、でもいい子よ。みんなで優雅なお茶をいただいたわ。あたし、礼儀作法に書いてあることは皆、かなりうまくやれたと思うの。お茶のあとでミセス・アランが弾いたり、歌ったりなさったの。それからロレッタとあたしにも歌わせたの。ミセス・アランはあたしのこと、いい声だって、だから、これからは教会学校の聖歌隊で歌うようにおっしゃったわ。あたし、思っただけでもぞくぞくしたの。ダイアナみたいに教会学校の聖歌隊に入りたいと前から思っていたわ。でもあたしにはとても手の届かない、たいへんなことだとあきらめていたの。ロレッタは早目に引き上げたわ。今夜ホワイト・サンドのホテルで大きな演奏会があり、お姉さんが暗誦するんですって。ホテルに泊まっているアメリカ人が、シャーロットタウンの病院をもりたてるために二週間毎に演奏会を開くそうよ。だからホワイト・サンドのいろいろな人達に出演をたのむのだってロレッタが言うの。ロレッタ自身もそのうちたのまれるかもしれないんですって。あたし、あまり驚いたもんであの子の顔をじっと見ちゃったの。ロレッタが帰った後、ミセス・アランとあたしは、心の通う話をしたわ。あたし、何もかも打ちあけたの――トマスの奥さんのことやふたごのこと、ケティ・モーリスやヴィオレッタのこともよ。それから『グリーン・ゲイブルズ』に来たことや、幾何で困っていることもね。そしたらね、マリラ、信じられる? ミセス・アランはね、ご自分も幾何は駄目だったって教えてくださったの。どんなに、あたしが元気づけられたかわかるでしょう。帰ろうとしたら、そこにリンドのおばさんがみえたわ。そしてね、何だと思う、マリラ? 評議員会がね、新しい先生をきめたんですって。女の先生で、ミス・ミュウリエル・スティシーつておっしゃるの。とてもロマンティックな名前でしょう。リンドのおばさんはね、これまでアヴォンリーじゃ女の先生をお願いしたことはないし、こんなことを始めるのは危険だっておっしゃるの。でもあたし、女の先生に教えていただけるのはすばらしいと思うわ。これから学校が始まるまでの二週間、どうやって過ごせばいいかわからないくらいよ。とても先生にお会いするのが待ち遠しいの」
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第二十三章 面目をかけた事件
結局のところ、アンはその二週間あまりの時を過ごすほかはなかった。塗り薬入りケーキの一件からはほとんど一ヶ月経っているので、アンがまた何か新たな騒ぎを引き起こしても不思議ではなかった。もっともその間、脱脂乳を豚のバケツに入れる代わりに、うっかりして台所に置いてあった毛糸玉の籠にあけてしまったり、様々な空想にふけるあまり、丸木橋のふちからすっぽり小川にはまってしまうといった小さな事件はしょっちゅうだった。
牧師館のお茶の会から一週間目に、ダイアナ・バリーがパーティを催した。
「小人数だけど粒よりの会よ」とアンがマリラに言った。「同じクラスの女の子だけなの」
みんな大いに愉快に過ごし、お茶がすむまでは何一つ面倒なことは起こらなかったが、それまでのゲームにいささかあきてきたので、何か面白い遊びを探そうということで、そろってバリー家の庭に出て行った。その結果ただちに「挑戦」ごっこをしようということになった。
挑戦することは、当時アヴォンリーの子供達の間で、はやりの遊びだった。最初は男の子の遊びだったのが、すぐに女の子にも伝わった。その夏アヴォンリーで、挑戦されたからやったというばかげた行動を数え上げたら、それだけで一冊の本になりそうだった。
最初にキャリー・スローンがルビー・ギリスに挑戦して、家の前面の大きな柳の老木を、ある高さまで登れと言った。ルビー・ギリスとしては、その木にたかっている、まるまる太った緑色の毛虫は死ぬほど恐かった上に、おろしたてのモスリンの服にかぎざきでも作ったら、お母さんがどんな顔をするかと、びくびくしながらも、身軽にその木によじ登り、言いだしたキャリー・スローンをやっつけてしまった。
次にジョーシィ・パイがジェーン・アンドールズに向かい、左足で跳びはねながら庭をまわるように言い、その間、一回たりとも休んだり、右足を地面につけてはいけないと命令した。ジェーン・アンドルーズは、勢い込んで言われた通りに始めたが、三回廻ったところで動けなくなり、自ら敗北宣言をせざるを得なくなった。
ジョーシィの勝ち誇った様子にはいささか眼にあまるものがあったので、アン・シャーリーは、庭の東側の境の板塀の上を歩けるかと挑戦した。さて、板塀の上を「歩く」ということは、そうした経験のない者が考えるよりも、はるかに熟練や、頭と踵《かかと》の安定を必要とした。しかしジョーシィ・パイは、人気者になる素質には欠けていたとしても、板塀の上を歩くための才能は生まれつき身につけていた上に、相当の練習さえ積んでいた。ジョーシィはバリー家の塀を軽々と、いとも無造作に歩いてみせて、こんなつまらないことは「挑戦」のうちに入らないと言わんばかりだった。この離れ業《わざ》は、渋々ながらも拍手で迎えられた。ほかの少女達はみんな自分でも塀を歩こうとして、色々と苦労してきているので、これが並たいていでないことをよく知っていたからだった。ジョーシィは塀からおりると、勝利に頬《ほお》を紅潮させながら、アンの方に挑戦的な一べつをくれた。
アンは赤毛を編んでおさげにした頭をぐいともたげた。
「小さい低い板塀の上を歩くなんて、別にたいしたことじゃないわ」とアンは言った。「メリスヴィルの女の子なんか、屋根の棟木《むなぎ》を歩いてみせたわよ」
「うそよ」とジョーシィは真向《まっこう》からはねつけた。「屋根の棟木を歩ける人なんていっこないわ。少なくともあんたには絶対無理ね」
「無理なもんですか!」とアンは無暴にも叫んでしまった。
「じゃ、やってごらんなさい」とジョーシィは挑戦した。「バリーさんのお宅の台所の屋根に登って、棟木を歩いてみせてよ」
アンの顔色はさっと変わった。だが、なすべきことが一つしかないことは明らかだった。アンは母屋の、台所の屋根に梯子《はしご》がたてかけてある辺りに向かった。五年級の女の子達は、興奮のあまり、どうしてよいかわからず、いっせいに「ああ!」と声をあげた。
「アン、お願いだからやめて」とダイアナがとりすがった。「落ちて死ぬにきまってるわ。ジョーシィ・パイなんて気にすることないわ。そんな危ないことを人に命令するなんてひどすぎるもの」
「やるほかはないわ。あたしの名誉がかかっているんですもの」とアンはおごそかに言った。「ダイアナ、あたしはあの棟木《むなぎ》の上を歩くか、途中でおちて死ぬか、どっちかよ。もしあたしが死んだら、あたしの真珠玉の指輪をあげるわ」
アンは皆が息をつめて見守るなかを、梯子《はしご》を登って行き、棟木にはりつくと、その心|許《もと》ない足場の上に真直に立ち上がり、バランスをとりながら歩き始めたが、自分が途方もなく高い所にいて、どんなに想像力があっても棟木を歩く助けにはちっともなりそうもないことを思うと、眼がくらみそうだった。それでも五、六歩はどうやら進んだと思った時に、起こるべき事が起こった。アンのからだがぐらりとゆれたかと思うと、バランスが崩れ、宙に泳ぐような形でよろめき、夏の日でチリチリに焼けた屋根をころげ落ち、下のアメリカづたの茂みの中にどうと落ちこんだ――下ではらはら見守っていた女の子達が、いっせいに恐怖の叫び声をあげた時にはすべてが終わっていた。
もしアンが、最初登って行った方の屋根から転げ落ちたなら、真珠玉の指輪は即座にダイアナのものになったに違いない。幸いにもアンの落ちたのは反対側の方で、屋根が玄関の上までのびていて、地上すれすれまで達していたために、そこから落ちてもさほど心配することはなかったのだ。それにもかかわらず、ダイアナとほかの女の子達が気違いのようになって家の方にかけ寄った時――ただ、ルビー・ギリスだけは地面に根が生《は》えたように立ちつくしたまま、ヒステリー気味になっていた――アンが踏みにじられたアメリカづたの茂みの中に、まっ青になってぐったり倒れているのが見つかった。
「アン、あんた死んじゃったの?」とダイアナは友達のかたわらにガバと身を伏せながら金切り声をあげた。「ああアン、お願い、一言でもいいから口をきいてちょうだい。そして死んじゃったのかどうか教えて」
女の子達はみんな、アンがふらふらしながらも身を起こし、弱々しく口をきいたので、ほっと安心した。特に喜んだのはジョーシィ・パイで、乏しい想像力にもかかわらず、アン・シャーリーの悲劇的な夭折《ようせつ》の原因となった女の子という烙印《らくいん》をおされた未来を描いて、脅えきっていたのだった。
「いいえ、ダイアナ、あたし、死んではいないわ。でも何だか感覚がないみたいよ」
「どこが?」とすすり泣きながら、キャリー・スローンが言った。「いったいどこなの、アン?」
アンが答える前に、バリー夫人が姿を現わした。夫人の姿を見て、アンはどうにか立ち上がろうとしたが、苦痛のあまり、鋭い悲鳴を上げると、くずおれるようにしゃがみこんだ。
「どうしたの? どこを怪我したの?」とバリー夫人はたずねた。
「踵《かかと》なんです」とアンははあはあ息をきらせながら答えた。「ああダイアナ、お父さんを見つけて、あたしを家まで連れてってくださるようにお願いして。とても歩いては行けないわ。片足飛びだってあんな遠い所まで行けそうもないの。ジェーンがこの庭を廻ることさえできなかったんですもの」
マリラが果樹園で夏りんごをもいでいると、バリー氏が丸木橋をわたり、丘を登って来るのが見えた。バリー夫人が付き添い、そのうしろから女の子達が、ぞろぞろつながってやって来る。バリー氏の腕にはアンが抱《かか》えられ、ぐったりと頭を彼の肩にもたせかけていた。
その瞬間、マリラの頭にさっと閃《ひらめ》くものがあった。マリラの胸をその奥底までぐさりと突きさした恐怖の中で、アンが自分にとって何を意味しているかをマリラは悟った。アンが好きだということ――否、心から愛しているということは認めていただろう。しかし、今や夢中になって丘をかけ降りながら、マリラはアンが自分にとって、この世にかけがえのない存在であることを知ったのだった。
「バリーさん、この子はどうしたんです?」とマリラは息をはずませながらたずねた。自制心の強い、分別のあるマリラがここ何年となく見せたこともないほど、まっ青な顔をして、とり乱していた。
アンは自分で頭をあげて答えた。
「マリラ、心配しないで。棟木《むなぎ》を歩こうとして、落ちたの。きっと踵《かかと》をくじいたのよ。でもマリラ、首の骨を折っても仕方のないところだったの。不幸中の幸いというべきよ」
「お前をパーティにやる時に、こんなことを仕出かすんじゃないかって考えるべきだったよ」とマリラは、ほっとすると同時に、思わず、声を荒らげてぴしゃりと言い放った。「バリーさん、こちらへどうぞ。そしてこの子を長椅子に寝かしてやってください。おやおや、この子は気を失ってしまったよ」
その通りだった。傷の痛みにたえかねたアンにはもう一つの願いがかなえられたことになった。アンは死んだように気を失っていた。
刈り入れ時の畑から大急ぎで呼び戻されたマシュウは、まっすぐに医者を迎えに行った。間もなくやって来た医者は、思ったより怪我が重いことを発見した。アンの踵はつぶれていた。
その晩、マリラがまっ青な顔をした女の子が寝ている東の切妻を訪れると、ベッドからか細い声がマリラを迎えた。
「マリラ、あたしのこと、かわいそうだと思ってくれる?」
「みんなお前のせいだよ」とマリラはブラインドをおろし、明かりをつけながら言った。
「それだからよ、かわいそうに思ってほしいのは」とアンは言った。「何もかもあたしのせいだと思うと辛くてたまらないの。もし誰かほかの人のせいにできるんだったら、ずっと気が楽になれるのに。でもね、マリラ、屋根の棟木の上を歩けって言われたらどうするつもり?」
「わたしなら、がっちりした地面をはなれないで、勝手に言わせておくね。まったくばかげているよ!」とマリラは言った。
アンは溜息をついた。
「でもマリラはそんなにしっかりしているんですもの。あたしは違うわ。ジョーシィ・パイにばかにされるなんて我慢できないっていう気がしたの。これから先もずっと、あたしを見下したに違いないわ。それにあたし、こんなひどい目にあったんだから、マリラもあたしのこと怒らないでほしいの。何と言ったって、気絶するなんていいことじゃないわね。それにお医者さんが踵の治療をした時の痛さと言ったらなかったわ。これから先、六週間か七週間もじっとしていなくちゃならないし、新しい女の先生にも会えないわ。あたしが学校に行ける頃には、もう新しいなんて言えなくなるでしょう。それにギル――クラスのみんなに追い越されてしまうしね。あああたしはしいたげられた存在だわ。でもマリラ、もしあたしのこと怒らないでくれれば、あたし何もかもじっと我慢してよ」
「さあ、さあ、怒ってなんかいないよ」とマリラは言った。「お前は運が悪いのだと言うことさ。だけどお前の言う通り、いろいろ辛いことが待っているだろうよ。さあもう何も言わずに夕飯をおあがり」
「あたしに想像力があるっていうのは恵まれていると思わない?」とアンは言った。「きっと、直るまでの間、とても役立つと思うの。想像力のない人が骨折したら、どうすると思う、マリラ?」
このことがあってからの七週間という退屈きわまりない期間、アンは何度となく、想像力があってよかったと思わずにはいられなかった。しかしそれだからと言って、それだけに頼っていたわけでもなかった。見舞い客の絶え間がなく、花や本を抱えてやって来て、アヴォンリーの子供達の間に起こった出来事をあれこれと伝える学校帰りの少女達の一人や二人の姿が見られない日はないと言えるほどだった。
「みんなとっても親切でよくしてくれたわ、マリラ」始めてびっこを引きながら床におりたった日、アンはほっと溜息をつきながら、うれしそうに言った。「寝たままでいるって言うのは、面白いことじゃないわ。でもね、マリラ、明るい面だってあるにはあるのよ。どれくらいの友達がいるかわかるの。だって監督のベルさんまで見舞ってくださったんだもの。ベルさんって、いい方ね。もちろん、うまがあうっていうわけにはゆかないけど。でもあたしベルさんのこと、好きよ。それにあの人のお祈りのことをあれこれ言ったりして、ほんとうに悪かったと思うの。きっと本心からお祈りをなさったのだと思うけど、そうでないみたいに聞こえる言い方をするくせがついてしまったんだわ。少し気をつければ直るのにね。あたし、それとなくわかるような言い方をしたの。あたしが自分のお祈りをよくするために、どんなに苦心したか話したの。ベルさんはご自分が小さい時に踵《かかと》をくじいた話をしてくださったわ。監督のベルさんにも小さい時があったなんて、とても奇妙な気がするわ。あたしの想像力にもきりがあるとみえて、それだけはよくわからないの。あたしが子供の時のベルさんを想像しようとすると、教会学校で見かけるように、白いひげを生《は》やして、眼鏡をかけた姿ばかり浮かぶのよ。ただそれを小型にしただけなの。それがね、ミセス・アランの小さい時を想像するのはとても簡単よ。ミセス・アランは十四回もお見舞いに来てくださったわ。すてきなことだと思わない、マリラ? 牧師の奥さんって、いろいろな仕事があってとっても忙しいんですものね! それにあの方のお見舞いってとても楽しいの。あんたが悪かったんだとか、これからはいい子になりなさいなんて言われないですむわ。リンドのおばさんったら、来る度《たび》にそう言うの。それはいい子になれっていくら言っても、実際は無理だって思っていることがありありわかるような言い方をするのよ。ジョーシィ・パイまで来てくれたわ。あの子、あたしに屋根の棟木《むなぎ》の上を歩けなんて言ったことを後悔してるのがわかってたから、あたし、できるだけ丁寧にうけ答えしたの。もしあの時あたしが死んだら、あの子は生涯暗い自責の重荷を負い続けなければならなかったでしょうからね。ダイアナはまさに忠実な友よ。あたしの淋しい枕辺を慰めるために、毎日来てくれたんですもの。ああ、でも学校に行けるようになったらほんとうにうれしいわ。だって新しい先生のことで、すてきなことをたくさん聞いたんですもの。女の子達はね、みんな先生のことを申し分のないやさしい方だって思ってるわ。ダイアナは先生がとてもきれいな金髪の巻毛とすばらしい眼をしているって言ってたわ。先生の服もきれいなの。そして袖のふくらみがアヴォンリーの誰よりも大きいんですって。一週おきの金曜の午後には暗誦があって、みんな何か言わされるか、対話に加わるかしなければいけないのよ。ああ、考えただけでもすばらしいわ。ジョーシィ・パイはきらいだって言うの。でもそれはジョーシィの想像力が足りないからよ。ダイアナとルビー・ギリスとジェーン・アンドルーズは次の金曜に『朝の訪問』っていう対話をする用意をしてるの。そして暗誦のない金曜の午後は『野外授業』で、ミス・スティシーが皆を森へ連れて行ってくださるの。しだや花や鳥を研究するのよ。それから毎日、朝と夕方に体操をするんですって。リンドのおばさんはそんなやり方は聞いたこともないって言うの。そしてみんな女の先生が来たからだって言うのよ。でもあたし、きっとすばらしいと思うわ。それに、ミス・スティシーはきっとうまのあう人に違いないと思うの」
「間違いっこないことが一つあるね、アン」とマリラが言った。「バリーさんの屋根から落ちてもお前の舌は何ともなかったね」
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第二十四章 音楽会の計画
アンが学校に行けるようになったのはふたたび十月がめぐってきてからだった あたり一面が赤と金色に輝く十月、谷間にはえもいわれぬもやが立ちこめて、紫水晶や真珠色や、銀やばら色やいぶしのかかった青などのその色あいは、秋の精が太陽にそのとばりを上げさせるために注ぎこんだかと思わせるような、うるわしい朝が続いた。朝霧はしとどに野原をうるおし、白銀の布をのべたようだった。森の窪地《くぼち》には落葉が降りつもって、かけぬける度《たび》にかさこそと音をたてた。「樺の小道」は黄色の天蓋《てんがい》を広げたようで、そのかたわらのしだはすっかり枯れて茶色になっていた。かたつむりのようにのろのろ行くかわりに、いそいそとおどるような足取りで学校に向かう少女達の胸をはずませるなにかが、空気そのものの中にもまじっていた。それにダイアナの隣の小さな茶色の机にふたたび座をしめること自体、とても楽しいことだった。通路の向こうではルビー・ギリスが合図をしてみせ、キャリー・スローンは手紙を廻してくるし、ジュリア・ベルはうしろの席からチューインガムを送ってよこした。アンは鉛筆のしんをとがらせたり、机の中の絵のついたカードを整理しながら、ほっと吐息をついて幸せをかみしめた。人生はまったくすてきなものに思えたのだった。
新しい先生の中にアンは真実で頼りになる友達を見出した。ミス・スティシーは聡明な、思いやりのある若い女性で、生徒達の心をしっかりととらえて離さないばかりでなく、知的にも訓育の面でも一人一人の中の一番優れたものを導きだすという才能に恵まれていた。アンはこうした有益な感化のもとにあって花のように開いていった。そして何でも感心して聞いてくれるマシュウと、一言口出しをせずにはいられないマリラに学校でのいろいろな出来事を熱心に語って聞かせた。
「あたし、ミス・スティシーがとっても好きよ、マリラ。しとやかで、声がやさしいの。あたしの名前を呼ぶ時、つづりの最後のEをちゃんとおとしてないってことが、ピンとくるのよ。今日は午後に暗誦をしたの。あたしが『スコットランド女王メリー』の暗誦をするところを聞かせたかったわ。あたしは全身全霊をつぎこんでやったの。帰りにルビー・ギリスが言ったわ。『今よりは父君の御為、おなごの愛よさらばと語れり』ってあたしが言った時、ぞっとしたって」
「そうさのう、そのうち納屋でわしにも一つ聞かせてもらうかな」とマシュウが言った。
「ええ、もちろんやってよ」とアンは考えこむように言った。「でもね、そううまくはできそうもないわ。全校の生徒が眼の前でかたずをのんで一言も聞きもらすまいとしている時ほど、興奮できないんですもの。マシュウがぞーっとするなんてことになりっこないわ」
「リンドの奥さんが言ってたけどね、この前の金曜日、からすの巣をねらって男の子達が、ベルの丘の大きな木のてっぺんによじ登っているのを見た時は、ほんとうにぞっとしたそうだよ」とマリラは言った。「ミス・スティシーはどうしてそんなことをさせるのかね」
「でも自然研究にはからすの巣が必要だったの」とアンは説明した。「あの時は野外授業だったのよ。野外授業のある日の午後はすてきなの、マリラ。それにミス・スティシーはとても説明が上手よ。野外授業の作文を書かせられるんだけど、あたしがいちばんうまいのよ」
「そんなことを自分で言うのはどうかと思うね。先生が言うのならわかるけど」
「でも先生はほんとうにそうおっしゃったのよ、マリラ。それにあたし別にうぬぼれてなんかいないわ。あんなに幾何ができないっていうのに、どうしてそんなことが考えられるかしら? もっとも幾何だってどうやら目鼻がつきかけてきてはいるんだけど、ミス・スティシーがとてもわかりやすく教えてくださるからよ。でも、幾何が得意というところまではゆきっこないわ、それを思うとがっかりよ。でも、あたし作文は大好きよ。ミス・スティシーはたいてい好きな題で書いていいっておっしゃるの。でも来週は誰かえらい人について書くことになっているの。えらい人ってたくさんいたからきめるのはたいへんね。えらくなって、死んだ後にも作文に書かれるなんてすばらしいじゃない? ああ、あたし、えらくなれたらうれしいわ。あたし、大きくなったらちゃんとした看護婦になって、赤十字に入り、慈愛のにない手として戦場にも行くつもりよ。といっても、宣教師として外国へ伝道に行かない場合のことだけど。そうしたらとてもロマンティックでしょう。でも宣教師になるためには、りっぱな人間でなければね、だからとても無理みたいだわ。それにあたし達、毎日体操もしているのよ。からだつきがしなやかになるし、消化を促すのよ」
「促すだなんて!」とマリラは言った。そんなことは皆ばからしいと心底から思っていたからだった。
けれども野外授業の午後も、金曜日の暗誦も、身体の錬磨も、十一月になってミス・スティシーが持ち出した計画の前にはすっかり色あせた。その計画と言うのは、アヴォンリーの学校の生徒達が計画して、クリスマスに公会堂で音楽会を開こうというもので、校旗の費用の一部にというりっぱな目的があった。生徒達は誰もかれもこの計画が気に入ったので、プログラムの準備が早速始められた。そして出演予定者の中で、誰よりも夢中になったのはアン・シャーリーだった。アンはこの計画にすべてを捧げて打ちこんだが、マリラは頭から反対だった。マリラにはとてつもなくばかげたことに思えたのだった。
「くだらないことに熱中して、勉強のための時間をむだにしているだけだよ」とマリラは不平を鳴らした。「わたしゃ、子供達がコンサートなんかを計画して、練習に飛び廻るなんて言うのは賛成しないね。気位ばかり高くなって、ませてしまい、出好きになるだけだよ」
「でもとてもりっぱな目的のためなのよ」とアンは懇願した。「校旗は愛国精神を養ってくれるわ、マリラ」
「ばかな! お前達の誰が、愛国心のことなんて、考えているものかね。ただ、遊びたいだけだよ」
「だけど、愛国心と娯楽が結びつけば、それでいいんじゃない? もちろん、コンサートの計画をするのはとてもすばらしいわ。合唱が六曲あって、ダイアナは独唱するのよ。あたしは二つの対話に出るの――『かげ口抑制協会』と『仙女王』よ。男の子達も対話をやるの。それにね、マリラ、あたし、二度暗誦をやることになっているの、思っただけでからだがふるえるわ。でもそれはスリルがあるといった種類の気持ちのいいふるえよ。そして最後に活人画もやるはずなの――『信仰と希望と愛』(新約聖書、コリント人への第一の手)よりダイアナとルビーとあたしが髪を長く垂らし、まっ白な服を身にまとって出ることになっているの。あたしは『希望』をやるのよ。両手をこんなふうに組み合わせて――眼は高い所を見つめるの。屋根裏で暗誦の練習をやるのよ。妙な声を出しても、びっくりしないでね。片方の暗誦をやる時に、胸もはりさけんばかりの声を出さなくちゃならないの。それをちゃんと芸術的にやるってのはなかなか大変よ、マリラ。ジョーシィ・パイはとても不機嫌なの。対話でやりたがっていた役がまわってこなかったからなの。仙女王になりたかったのよ。そんなことになったらおかしいわね。ジョーシィみたいに太った仙女王なんて聞いたことあって? 仙女王はほっそりしてなくちゃね。ジェーン・アンドルーズが女王になって、あたしはおつきの一人になるの。ジョーシィは赤毛の仙女なんて、太った仙女と同じくらいこっけいだって言ってるけど、あたしはジョーシィの言うことなんか気にしないわ。あたしは髪に白ばらの花環を飾って、上靴はないから、ルビー・ギリスに、借りるつもりよ。妖精には上靴がどうしてもいるんですものね。長靴をはいた妖精なんて考えられないでしょう? 特に銅の爪先のなんかね? あたし達、公会堂を、つる性の常緑樹《ときわぎ》や、ピンクの化粧紙でこしらえたばらで飾るの。そして聴衆が腰をおろしたあとで、二列に並んで行進することになってるの。エマ・ホワイトがオルガンでマーチを弾くの。ああ、マリラ、あたしほどマリラがこのことに熱心でないってことはわかってるの。でもマリラのアンがみんなに認めてもらった方がいいと思わない?」
「わたしが思うのはね、前後の弁《わきま》えをもってほしいことさ。こんな騒ぎはいい加減にして、お前に落着いてもらいたいんだよ。最近のお前ときたら、対話だとかうめき声だとか活人画のことで頭がいっぱいで、ほんとうに何一つ満足にできたためしがない。お前の舌だけは、ちっともくたびれた様子が見えないのには舌をまくがね」
アンはほっと溜息をつきながら裏庭に出て行った。葉の落ちたポプラの梢をすかして、ほっそりした三日月が黄緑の西空にかかっているのが見え、マシュウはそこでまき割りをしていた。アンは切株の上にちょこんとすわり、コンサートの話をしたが、少なくともここには身を入れて聞いてくれる熱心な聞き手がいることは確かだった
「そうさのう、きっとなかなか面白いコンサートになるだろうな。それにお前はちゃんと見事にやってのけることだろうよ」とマシュウはほほえみながらアンの熱心な生き生きした小さな顔を見下ろして言った。アンも笑顔をかえした。この二人は最良の友であった。マシュウは自分がアンを育てるにあたって一切手を貸さないですむことに何度も星に感謝した。それはマリラだけに与えられた義務だった。もしそれが彼のものとなれば、自分自身の気持ちとそうした義務との板ばさみにあって、たびたび切ない思いを禁じ得なかったことだろう。現状ではマシュウは思いのままに[アンを甘やかす]――マリラに言わせれば――ことができるのだった。しかし考えてみれば、これは必ずしも誤った取りきめとはいえなかった。ほんのわずかばかりの[ほめ言葉]がありとあらゆる良心的な[しつけ]に勝る効果をあげることさえ、時にはあり得るからだった。
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第二十五章 マシュウとふくらんだ袖の服
十分間というもの、マシュウは気になって仕方がなかった。ひえびえとした灰色の十二月の夕方、マシュウは台所に入り、重い長靴を脱ごうとしてまき箱のある一隅に腰をおろしたが、アンと仲間の生徒達が、居間で「仙女王」の練習をしている最中だということには、ついぞ気づかなかった。間もなく皆はホールを通りぬけて、にぎやかに笑いさざめきながらどやどやと台所に入って来た。少女達はマシュウには気がつかなかった。恥ずかしがりやのマシュウが片手に長靴を、もう一方の手に靴脱ぎ器をというかっこうで、まき箱の奥のうす暗い所へ身をひそめてしまったからだった。マシュウは皆が帽子や上着を身につけ、対話やコンサートの話をしているのを、前にのべたような十分間というもの、ひっそりと見守っていた。アンもきらきら眼を輝かせ、皆と同じように元気な姿を見せていた。しかしマシュウは急にそうしたアンの様子にどこかほかの少女達と違う点があるのに気づいた。特にマシュウの気になったことは、その違いがどこからきているのか、よくつかめないということだった。アンはほかのどの女の子よりも晴れやかな顔をし、大きな輝く眼をもち、きゃしゃな目鼻だちをしていた。恥ずかしがりやで、あまり人を見ないマシュウの眼にも、こうした点は明らかだった。しかしマシュウの心をさわがせた違いは、これらのどれでもなかった。だとしたら、いったいどこが違うのだろう?
女の子達が互いに腕を組んで、長い、固く凍てついた小道を帰ってゆき、アンが本を読み始めてからも、暫《しばら》くはこの問題がマシュウの頭にこびりついて離れなかった。マリラには話すわけにはゆかなかった。話したところで軽く鼻先であしらったあげく、アンとほかの子との違いは、ほかの子ならたまには口を閉じることもあるが、アンにはできっこないと言うにきまっていると思えたからだった。これじゃ何の足しにもならないとマシュウは感じた。
その晩、マリラにいやがられながらも、マシュウはパイプに頼ってこのなぞを解くことにした。二時間あまりもくゆらしつづけ、頭をひねったあげく、マシュウはようやく答を見つけることができた。アンの服装がほかの子と違うということだった。
マシュウがこの点について考えれば考えるほど、アンがこれまでただの一度も、ほかの女の子と同じような服を身につけたことがないということがはっきりしてきた――「グリーン・ゲイブルズ」に来てからは一度としてないことだった。マリラはずっと飾り気がない、色の濃い服を、まったく同じ型に仕立ててアンに着せてやっていた。もしマシュウが服には流行というものがあることを知っていたとしても、それが精一杯のところだった。しかしアンの袖がほかの女の子の着ている服の袖とは違うということは、彼にもはっきりわかった。マシュウはその晩アンの周囲に見かけた女の子達を一人一人思い浮かべた――皆赤や青やピンクや白の華やかな装いをしていた。なぜマリラがアンにあいも変わらず何の飾りもない地味な服を着せているのかとマシュウはいぶかった。
もちろん、それでいいのだ。マリラなら間違いっこないし、アンを育てているのはマリラだ。しかしだからと言って、子供に一枚ぐらいきれいな服をあてがっても悪いことにはなるまい――ダイアナ・バリーがいつも身に着けているようなものを。マシュウはアンにも一つ買ってやろうと心にきめた。この程度ならよけいなおせっかいだとして斥《しりぞ》けられることはあるまい。あと二週間でクリスマスがやってくる。可愛い新調の服はクリスマスの贈り物にはもってこいだ。マシュウははっと安堵《あんど》の吐息をついた。パイプをしまい、床に就《つ》いたが、その間中マリラは扉という扉を開《あ》け放し、空気の流通をはからねばならなかった。
そのすぐ翌日、服を買いにマシュウはカーモディに出かけて行った。いやなことはさっさとすませてしまおうと思ったからだった。これはなまやさしいことではあるまいとマシュウは覚悟をきめていた。マシュウにとって男物はすべて苦手というわけではなく、物によってはむしろその反対だった。しかし女の子の服を買うということになると、店の人に頼るほかはなさそうだった。
さんざん頭をひねった末、マシュウはウィリアム・ブレアの店をさけて、サミュエル・ローソンの方を選ぶことにした。言うまでもなく、カスバート家にとって、行きつけの店といえば、ブレアの方だった。長老派の教会に行き、保守党に投票するのと同様、これは良心の問題と言えた。しかしブレアの店ではよく二人の娘が客の応待をすることがあり、マシュウの悩みの種になっていた。何を買うかがわかっていて、それと名指しができるのだったら、まだ方法もあっただろう。しかしあれこれ説明したり、相談にのってもらわなければならない、こうした場合には、どうしても男の店員でなければ困るとマシュウは思った。そこでサミュエル自身か、息子が客の相手をするローソンの店にしたのだった。
ああ、しかし、マシュウはサミュエルが最近店を広げ、女店員を置くことにしたのを知らなかった。この店員はおかみさんの姪《めい》で、とても活発な若い女性だった。髪を大きくふくらまし、大きなくるくる動く茶色の眼をして、にっこりと魅惑的な微笑を絶やさなかった。服といえばこの上なくしゃれた洒落たものだったし、手首にはいくつも腕輪をつけていて、それが動きまわるたびごとにキラキラ輝き、カラカラと音をたてるのだった。マシュウはその姿を見ただけで、すっかり落着きを失い、さらにその腕輪のおかげで、まったく何が何だかわからなくなってしまった。
「カスバートさん、今日は何をさし上げましょうか」とミス・ルシラ・ハリスはたずねた。両手でカウンターを軽く叩きながら、いかにもてきぱきとして愛想がよかった。
「えーと、えーと、えーと、そうさのう、熊手はありますかな」と、どもりどもりマシュウは聞いた。
ミス・ハリスはいささか驚いた様子だった。十二月の半ばというのに熊手のことなど聞かれたのだからそれも無理はなかった。
「さあ、一つか二つは残っていると思いますけれど」と彼女は言った。「二階の物置にありますから、見て参ります」
彼女が探しに行っている間に、マシュウは落着きを取り戻そうと努めた。
ミス・ハリスが熊手を抱《かか》えて来ると、にこやかにたずねた。「カスバートさん、ほかにご用は」
マシュウは両手にぐっと力をこめて答えた。「そうさのう、せっかくだから――もらっていこうかな――いや、その――見せてもらって――ほんの少しばかり――乾草《ほしくさ》の種を――買うとするかな」
ミス・ハリスはかねがねマシュウが変人だということは聞いていた。しかしここに至ってこれは気が狂っているに相違ないときめてしまった。
「乾草の種は春にならないと扱いません」と彼女はつんとして言った。「今はお生憎《あいにく》さまです」
「ああ、そうだとも――その通りだ――あんたの言う通りですよ」と哀れなマシュウはどもりどもり、熊手を掴《つか》んで扉の方へ向かった。入口まで来て、まだお金を払ってなかったことを思い出したマシュウは、しおしおと後戻りした。ミス・ハリスが釣銭を数えている時、マシュウは勇をこして、最後の突撃を試みた。
「そうさのう――面倒でなければ――もしかしたら――そのつまり――砂糖を――少々――見せてもらいたいんだが」
「白砂糖ですか、黒ですか」とミス・ハリスはじっとこらえながら聞いた。
「ああ――そうさのう――黒にしよう」とマシュウは弱々しく言った。
「あちらに樽詰めがおいてありますわ」とミス・ハリスは腕輪をゆすりながら言った。「ただ今のところ、あれだけですけど」
「ええと――二十ポンドほどもらうかな」とマシュウは、額に玉のような汗を浮かべながら答えた。
マシュウが我にかえった時には、家路に向かって半ば以上も馬車を走らせてからだった。何とも後味の悪い経験だったが、行きつけない店に入るという誤ちを犯したのだから、それも当然という気がした。家に着くとマシュウは熊手は道具小屋にかくしたが、砂糖はマリラの所へ持ち込んだ。
「黒砂糖ですって!」とマリラは叫んだ。「いったいなんでこんなにたくさん買い込んだんですか? やとい人のおかゆか、黒いフルーツ・ケーキを作る時しか使わないのを知っているでしょう。ジェリーは今いませんし、ケーキの方はとうの昔に作ってしまいましたよ。それに品もよくないし――きめが荒くて色も黒いですよ――ウィリアム・ブレアの所ではこんな砂糖は置いてないはずだけど」
「わしは――手もとにあれば重宝かと思ってね」とマシュウは言い、どうやらごまかした。
この問題をじっくり考えたあげく、マシュウは事態に対処するには女性の協力がいるという結論に達した。マリラは問題にならない。彼の計画に即座に冷水を浴びせるにきまっていた。頼るところはリンド夫人だった。アヴォンリーでマシュウが助けを求めて行ける女性と言えば夫人をおいては考えられなかった。そこでマシュウはリンド夫人の所へ出かけた。この親切な夫人はただちに、この悩める人の手から重荷をひき受けてくれた。
「アンに着せる服をさがすというんですね? もちろんお引き受けしましょう。明日カーモディに行きますから、見て来ましょう。特に何かご注文がありますか? 別におありにならない? じゃわたしなりの判断でやらせていただきますわ。濃い目の茶がアンには似合うと思いますけど、ウィリアム・ブレアの店にとてもきれいな毛じゅすの新柄がありましたよ。多分仕立ての方もわたしがやる方がいいんでしょうね。もしマリラがやるとなると、アンにあらかじめ悟られてしまって、せっかくの趣向がフイになる恐れがありますものね? ええ、よござんす。いいえ、ちっとも厄介なことはありませんよ。裁縫は好きな方ですからね、姪のジェニー・ギリスにあわせてやってみますよ。あの子ときたら背恰好から言えばアンと瓜二つですからね」
「そうさのう、まったく恩にきますよ」とマシュウは言った。「それに――それに――何と言ったらいいか――でも実は――どうも袖の作りが近頃は昔と違うようですな。もしあまりお手数でなければわたしとしては――その新式の方でお願いしたいんで」
「ふくらみのことですか? よござんすとも。マシュウ、ちっとも心配はいりませんよ。最新流行のでやりますよ」とリンド夫人は言った。一人になるとリンド夫人はさらにこうつけ加えて自分自身に言ってきかせた。
「あの可哀相な子にたった一度でもちゃんとしたものを着せることができたら、どんなにいいだろうね。マリラの着せるものときたら、まったくもって気がきかないからね。わたしだって、何べんそう言ってやりたかったかしれやしない。でも我慢してきたんだ。あの人ときたら、人の言葉なんか受けつけない質《たち》だし、独《ひと》り者のくせに、子供の育て方については自分の方が何倍もよく知っていると思いこんでいるんだから。だが万事そんなもんだね。子供を育てた経験のある人なら、どの子供にもぴったり合うような方法なんてありっこないことを知ってるんだけど。でも経験のないのに限って『比例』みたいに簡単に考えるもんだよ――式を並べさえすりゃ答えはちゃんとでてくるものと思ってるんだ。だけど血の通った人間は算術みたいなわけにはゆかないからね。そこがマリラ・カスバートの間違いのもとさ。きっと今みたいな服をアンに着せておけば、アンがへりくだることをおぼえるとでも思っているんだろうね。だけどうっかりすると、ねたみや不満のもとになるのが関の山さ。あの子だって、自分の着ているものとほかの子のとが違うことくらいわかっているに違いないよ。でもね、マシュウがこのことに気がつくとはね! あの人は六十年以上も眠っていたあとで眼がさめたとでもいうのかね」
その後の二週間というもの、マシュウが何か企《たくら》んでいるらしいことはマリラにもわかったが、その内容となると、クリスマス・イヴにリンド夫人が仕立て上がった服を届けて来るまでは、皆目見当もつかなかった。マリラは一応さりげなく応待したものの、マリラにやってもらうとアンに悟られる恐れがあるので、マシュウから仕立てを頼まれたという、リンド夫人の外交辞礼を、決してそのまま受け取ったわけではなかった。
「この二週間というもの、マシュウがいわくありげな様子で、一人でにやにやしていた理由はこれだったんですね?」とマリラはいささか固苦しい口調ながら、寛大なところを見せて言った。
「何かあの人がばかげたことをやってるなとは思っていたんです。まあわたしとしちゃ、アンがこれ以上服をつくる必要はないと思ってますがね。秋になってから、ちゃんとした、暖かい実用的な服を三着もつくってやりましたからね、これ以上は贅沢だと思いますよ。袖の生地だけでもたっぷり上着がとれそうですね。マシュウ、あんたはアンの虚栄心を増長させるだけじゃありませんか。あの子ときたら、くじゃくみたいにすっかりみえっばりになっていますよ。ともかく、これで満足するでしょうよ。何しろあのばかげた袖がはやりだしてからというもの、ずっと欲しがっていたことはちゃんとわかってますからね。もっとも最初ねだったきり、二度と口には出さなかったけどね。あのふくらみときたら、どんどん大きくなって、途方もないものになるばかりじゃありませんか。今じゃもう風船そっくりですよ。来年からは、ああいう袖の服を着た人は、からだをはすにしなければ戸口から入れなくなるでしょうよ」
クリスマスの朝は美しい銀世界だった。十二月に入ってからおだやかな日が続いたので、人々は緑のクリスマスを期待していたのだった。しかし夜の間にふんわり降り積もった雪が、アヴォンリーの姿を見違えるように変えていた。アンは凍てついた切妻の窓から、うれしそうに外をながめていた。「お化けの森」の樅《もみ》の木は、どれも鳥の羽のようにすばらしかった。樺と野生の桜の木は真珠でふちどられていた。耕された畑は、雪原のえくぼのようだった。大気のなかには、ぴんと張りつめた何かがあるようで、いかにも快よかった。アンは歌いながら下へかけ降りて行ったが、その声が「グリーン・ゲイブルズ」全体にひびきわたった。
「マリラ、クリスマスおめでとう! マシュウ、クリスマスおめでとう! とてもすばらしいクリスマスじゃない? まっ白でほんとうにうれしいわ。ほかのクリスマスじゃ本物みたいな気がしないんじゃない? あたし、緑のクリスマスってきらいよ。ほんとの緑じゃないですもの――きたならしい、さめたような茶色と灰色をしているわ。なぜ、緑なんて言うのかしら? あら――あら、マシュウ、これあたしの? ああ、マシュウ!」
マシュウはおずおずと紙包みをひろげると、マリラの方を遠慮がちに見やりながら、なかみを取り出した。マリラは知らん顔をして、お茶を注いでいるようなふりをしていたが、それにもかかわらず、かなり興味をひかれたように、横眼でその場の光景を見やっていた。
アンは服を受け取ると、何かに打たれたかのようにじっと押し黙ったままそれを見つめていた。ああ、なんてきれいなのだろう――絹のようなつやをもった、美しい柔らかい茶色の毛じゅす、ひだ飾りや縫いちぢみなどのついた優雅なスカート、最新流行の手のこんだピンタックのある上着、首廻りの透けてみえるひだ状のレース。だが袖――これこそは特にぬきんでてすばらしかった! ひじのあたりの長いカフス、その上にある幾列もの縫いちぢみと、蝶結びをした茶色の絹のリボンで二つに仕切られた見事なふくらみ。
「アン、それがお前にあげるクリスマスのプレゼントだよ」とマシュウははにかみながら言った。
「どうしたね――アン、気に入らないのかい? そうさのう――そうさのう」
不意にアンの眼が涙で溢れそうになったからだった。
「気に入らないんですって? ああ、マシュウ!」アンは服を椅子の上に置き、両手をしっかり組み合わせた。「マシュウ、ほんとにすばらしいわ。ああ、何とお礼を言っていいかわからないわ。この袖を見て! ああ、まるで幸せな夢をみてるみたいだわ」
「さあ、さあ、食事にしようじゃないか」とマリラがさえぎるように言った。「わたしにわね、アン、あんたに服はいらないという気がするよ。だけどせっかくマシュウが買ってくれたんだから、大事にするといいね。リンド夫人がお前にと言って、髪につけるリボンをくださったよ。服に合うようにっていうわけで茶色のだよ。さあ、さあ、こっちへ来ておすわり」
「とても朝食なんて喉に通らないわ」とアンは有頂天になって言った。「こんなすばらしい瞬間に比べると、朝食なんてとても無味乾燥なことに思えるの。服をながめて眼のご馳走をいただくことにするわ。ふくらんだ袖がまだすたらないうちでほんとうによかったわ。あたしがふくらんだ袖の服に手を通さないうちに、流行がかわってしまったら、きっとあきらめきれないでしょうよ。どうしても心底から満ち足りた気分になれなかったわけだわ。リンドのおばさんもリボンをくださるなんてとてもご親切ね。あたしもほんとうにいい子にならなくちゃって気がするの。こういう時はいつも人の模範になるような女の子じゃないことが気になるの。これからはきっとそうなろうって、いつも決心はするの。だけど抵抗し難い誘惑にさらされると、決意を実行するというのはなまやさしいことじゃないわね。でもこれからはうんとがんばるわ」
[無味乾燥な]朝食をすませた頃、まっ赤な外套を着たダイアナの快活な姿が、白い丸木橋をわたってくるのが見えた。アンは丘をかけ降りてダイアナを迎えに行った。
「クリスマスおめでとう、ダイアナ! それもとてもすばらしいクリスマスよ。あんたに見せるすてきなものがあるの。マシュウがとてもきれいな服をあたしにくれたの。それもこんな袖がついているのよ。これ以上すばらしいものは想像もつかないわ」
「あたしの方もあんたにあげるものがあるの」とダイアナは息をはずませながら言った。
「ほら――この箱よ。ジョセフィンおばさんからいろんなものの詰まった大きな箱が届いたの――そしてこれはあんたのものよ。ほんとうはゆうべ持ってくるとよかったんだけど。でもこれが届いたのは暗くなってからなの。この頃じゃ、あたし日が暮れてからあの『お化けの森』を通るのが薄きみ悪くて」
アンは箱を開けて、中を覗きこんだ。最初に眼についたのは「アンヘ、クリスマスおめでとう」と書かれた一枚のカードだった。次いでこの上もなく優雅な小さな山羊《やぎ》皮の上靴が見えた。爪先にはビーズの飾りがあり、サテンの蝶結びと、キラキラ光る留め金がついていた。
「ああ」とアンは言った。「ダイアナ、これはどうみてもりっぱ過ぎるわ。あたしはきっと夢を見ているんだわ」
「あたしなら、天の恵みというところよ」とダイアナは言った。「もうルビーの上靴を借りないでもすむでしょう、ほんとによかったわね。だってあの人の靴は、あんたのよりサイズが二つほど上なんですもの。妖精が足をひきずっている音がするのはよくないでしょう。ジョーシィ・パイが喜ぶところだったのに。あのね、ロブ・ライトがガーティ・パイとおとといの晩、一緒に帰ったんですって。そんな話、聞いたことある?」
その日一日中、アヴォンリーの生徒達は、熱っぽい興奮に包まれていた。公会堂の飾りつけと、大詰めの総ざらいをしなければならなかったからだ。
コンサートは夕方からだったが、まさに大成功だった。小さな公会堂は満員だった。出演者は誰もすばらしい出来栄えだったが、アンはその中でも抜きんでた大スターだった。やきもちやきのジョーシィ・パイでさえ、これを否定することはできなかった。
「ああすばらしい晩だったわね?」とアンは溜息をついた。何もかも終わりを告げ、ダイアナと連れ立って暗い星空のもとに家路につくところだった。
「ほんとにみんなうまくいったわね」とダイアナは現実的な話をした。「十ドルぐらいもうかったと思うの。あのね、ミスター・アランがね、シャーロットタウンの新聞に記事をのせるそうよ」
「ああ、ダイアナ、あたし達の名前がほんとに新聞にのるの? 考えただけでもぞくぞくするわ。あんたの独唱はほんとに見事だったわよ、ダイアナ。アンコールになった時は、あたしの方が胸をはったくらいよ。あたしひとり言を言ったの。『こんなにほめそやされているのは、あたしの腹心の友なんだ』って」
「あら、あんたの暗誦だって、割れるような拍手だったわよ、アン。あのもの悲しい詩は、言いようもないほどすてきだったわ」
「ああ、あの時はとてもあがっていたのよ、ダイアナ。ミスター・アランがあたしの名前を呼んだ時、どんなふうにあの壇の上にあがれたのか、さっぱりわからないの。まるで百万の眼《まなこ》に底の底まで見透されたような気がして、ちょっとの間だけど、とても言い出せないと思ったわ。それからね、あのすてきなふくらんだ袖のことを思いついたら勇気が湧いてきたの、あの袖にかけてもがんばろうと思ったのよ、ダイアナ。
それでいよいよ始めたんだけど、何だか自分の声がどこか遠くの方から聞こえてくるみたいだったわ。自分がおうむになったような気分だったの。あの屋根裏で暗誦の練習をうんと積んどいたのは天の恵みだわ。さもないと、とてもやり通せなかったでしょうよ。あたしのうなり声、どうだった?」
「ええ、大丈夫、よくできたわよ」とダイアナは太鼓判を押してくれた。
「あたしが腰をおろした時、スローンのおばあさんが涙を拭《ぬぐ》っているのが見えたわ。誰かの心を打てたと思うとうれしいわ。コンサートに出演するというのは、とてもロマンティックじゃない? ああ、ほんとうにとてもいい記念になるわ」
「男の子の対話もよく出来たと思わない?」とダイアナが言った。「ギルバート・ブライスはとてもすばらしかったわ。アン、あんたのギルに対する態度は、どう考えてもよくないと思うわ。まあちょっと待って。妖精の対話をすませて舞台からかけて行った時、あんたの髪にさしたばらの花が落ちたの。ギルったらそれを拾って胸ポケットにさしたのをあたし見ちゃったの。ね、わかった? あんたはとてもロマンティックだから、この話は気に入るはずよ」
「あの人が何をしたって、あたしは平気よ」とアンはつんとして言った。「とにかくあの人のことなんて考えるだけ無駄よ、ダイアナ」
その夜、二十年ぶりでコンサートに出かけたマリラとマシュウは、アンが床《とこ》に就《つ》いたあと、しばらくの間、台所の炉端に腰をおろした。
「そうさのう、うちのアンは誰にも負けないほど上手だったなあ」とマシュウは鼻高々に言った。
「そうですとも」とマリラも同意した。「あの子はりこう者ですよ、マシュウ。それに外見《みかけ》だってなかなか大したものですよ。わたしはあんまりこのコンサートの話には賛成しなかったけど、別にこれといって困ることもなさそうですね。とにかく、今夜はアンのことをとても自慢に思いましたよ。本人にはそんなことを言うつもりはありませんけどね」
「そうさのう、わしもそう思ったよ、だからあの子が二階に行く前に言ってやったんだ」とマシュウは言った。「遠からずあの子の身のふりかたも考えてやらずばなるまいよ、マリラ。そのうちアヴォンリーの学校だけじゃ不足ということになるだろうな」
「まだまだ先のことですよ」とマリラは言った。「三月にやっと十三というところですからね。でも今夜はあの子が大きくなったのが眼につきましたね。リンドの奥さんが服を長目に仕立てたもんだから、アンの背が高く見えたんですね。あの子は呑みこみが早いから、そのうちにクィーン学院へやるのが一番よさそうですね。でもまだ一、二年先は何も言わない方がいいんじゃないですか」
「そうさのう、時に考えてみるのも悪くあるまいよ」とマシュウが言った。「こうした類《たぐい》のことは、考えれば考えるほどよくなるものさ」
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第二十六章 物語クラブをつくる
アヴォンリーの子供達が平凡な日常生活に落着くのには暇がかかった。特にアンにとっては、何週間にもわたって興奮の盃を味わい続けたあとでは、一切のことがらがひどく無味乾燥でつまらなく思われた。いったいあのコンサート以前の遠い日々の、おだやかな喜びに戻れるのだろうか? アンがダイアナに語ったように、最初のうちそんなことはとても無理のように思われた。
「昔と同じ生活に戻るなんてこと、絶対に考えられないわ、ダイアナ」とまるで少なくとも五十年くらい昔のことのように、アンは悲しそうに言った。「多分そのうちに馴れると思うけど、音楽会のために普段の生活がこわれるかも知れないのね。マリラが反対するのはそのためなんだわ。マリラって、とても分別のある人よ。分別がある方がいいにきまっているわ。でもね、あたし、自分が分別のある人になりたいとは思わないわ。だってどう考えてもロマンティックじゃないもの。リンドのおばさんはね、あたしがそうなれる見込みはまったくないって言うの。でもそれだけはわからないわね。今のところ、あたしも大人になったら分別のある人になるかも知れないって気がするの。でもこれだってあたしがくたびれているせいかもね。ゆうべはとても長い間、寝つかれなかったの。眼が冴えてしまって、音楽会のことばかり、何度も何度も考えてたわ。ああいう催しのすばらしさって、そこにあるのかもしれない――ふり返ってあれこれ考えるのって、とてもすてきですものね」
しかし結局アヴォンリーの学園は、いつの間にやら昔の軌道に戻り、もとのままの関心事が人々の心をとらえた。確かに音楽会は何の痕跡ものこさなかったわけではなかった。舞台の席順のことで先を争ったルビー・ギリスとエマ・ホワイトは、今では同じ机にすわらなくなってしまって、三年も続いていた頼もしい友情も、すべてご破算になってしまった。ジョーシィ・パイとジュリア・べルはもう三月《みつき》もの間、口をきかなかった。ジョーシィ・パイが、ジュリア・ベルの暗誦の時のお辞儀が、ひよこが頭を振りたてたみたいだったと、べッシー・ライトに言ったのを、べッシーがジュリアに話してしまったためだった。スローン家の子供達は、ベル家の子供達とは没交渉になってしまった。ベルの方では、スローンの連中がプログラムに出過ぎたと言い、スローンの方ではべル達が、与えられた僅かばかりの役どころさえ、ろくにこなせなかったとやり返したからだった。さらに、チャーリー・スローンはムーディ・スパージョン・マックファソンと争った。
アン・シャーリーが暗誦の時、ひどく気取っていたと言ったために、ムーディ・スパージョンはなぐられたからだった。その結果、ムーディ・スパージョンの妹のエラ・メイは、その冬の間中、アン・シャーリーと口をきこうとはしなかった。こうした些細ないざこざを除けば、ミス・スティシーの小さな王国では、きちんと円滑にことが運ばれていた。
冬の日々は知らぬ間に過ぎていった。いつになく暖かい冬で、ろくに雪も降らなかったので、アンとダイアナはほとんど毎日、「樺の道」を通って学校に行くことができた。アンの誕生日に二人は軽やかな足どりで、おしゃべりの間もずっと周囲に眼を配り、きき耳をたてながら、そこを歩いて行った。ミス・スティシーから「冬の森を行く」という題の作文を、近いうちに書くようにと言われていた二人は、観察眼を働かせる必要があったのだ。
「ダイアナ、考えてもごらんなさい。あたし今日で十三になったのよ」とアンは畏怖の念に打たれたように言った。「自分がもうすぐ大人になるなんて、とても信じられないわ。今朝眼がさめたら、何もかもこれまでと違うんだって気がしたの。あなたは十三になってから一月《ひとつき》もたつんだから、そんなに珍らしくないかもしれないけど、何だか人生がうんと楽しくなったような気がするの。あと二年たてば、すっかり大人になるでしょう。そうなれば、難しい言葉を使っても笑われずにすむと思うと、とてもうれしいわ」
「ルビー・ギリスったら、十五になったらすぐ恋人をもつんだって言うのよ」
「ルビー・ギリスは恋人のことしか頭にないのよ」とアンは軽蔑したように言った。
「あの子ったら、落書に名前を書かれると、かんかんになって怒ったふりをするくせに、内心はうれしくてしようがないのよ。でもこんなことを言うと、悪口になるかもしれないわね。ミセス・アランは人の悪口を決して言うなっておっしゃったわ。でも悪口って思わず知らず言ってしまうものじゃない? あたしがジョーシィ・パイの話をしようとすると、きっと悪口になってしまうもんだから、あの人の話はしないことにしているの。あんた気がついていたかしら。あたしできるだけ、ミセス・アランのようになりたいと思っているの。だってあの先生には非のうちどころがないわ。ミスター・アランも同じ意見よ。リンドのおばさんはね、ミスター・アランが奥さんの歩いた地面まで拝みかねないって言うの。そして牧師のくせにそんなに人間に対して愛情を注ぐのはどうかと思うって。でもね、ダイアナ、牧師さんだって人間でしょう。だからほかの人と同じように、持って生まれた罪からは逃れられないわね。この前の日曜の午後、あたし、ミセス・アランと人間が生まれながらに持っている罪のことで話し合ってとても面白かったわ。日曜日にとりあげていい話題って限られるでしょう。そしてこれもその一つよ。あたしの生まれながらの罪は、あんまり想像をたくましくするので、やるべきことを忘れるってことなの。何とかして直そうって努めているけど、十三になったんだから、うまくゆくかも知れないわ」
「もう四年したら、あたし達、髪を結うことができるわね」とダイアナが言った。「アリス・ベルはまだ十六だけど、もう髪を結っているわ。でもやっぱりおかしいんじゃないかしら。あたしは十七になるまで待つわ」
「あたしの鼻がアリス・ベルみたいに曲がっていたら」とアンはきっぱりした口調で言った。「絶対に――あら、あたしこれ以上言うのはやめとこう。だってひどい悪口になりそうですもの。それにあたし、自分の鼻と比べるところだったんだから、思い上がりになるわね。ずっと前に、ほめられてからというもの、鼻のことばかり考え過ぎているんじゃないかしら。ほんとうはとても慰めになっているの。あら、ダイアナ、ごらんなさい、兎《うさぎ》よ。あたし達が森の作文を書く時におぼえておくといいわね。夏もいいけど、冬の森ってほんとにすてきね。どこもかしこもまっ白で、しんとしていて、まるで眠っていて、すばらしい夢をみてるみたい」
「いざとなればその作文を書くのはあまり気にならないわ」とダイアナが溜息をつきながら言った。「森についてなら何とか書けそうだから。でも日曜に出す方のは困ったわ。ミス・スティシーったら、自分の頭で考えた物語を書けなんておっしゃるんですもの!」
「あら、そんなの何でもないじゃない?」とアンは言った。
「あんたは想像力があるからそうでしょうよ」とダイアナは言い返した。「でも生まれつき想像力のないものはどうしたらいいの? あんたの作文はすっかり出来上がっているんでしょう?」
アンはうなずきながらも、自己満足の色をつとめてあらわすまいとしたが、とうていできない相談だった。
「この間の月曜の晩に書いたの。『ねたみ深い恋|敵《がたき》、あるいは死もまた離すあたわず』っていう題よ。マリラに読んで聞かせたら、くだらない|たわ言《ヽヽヽ》だって言ったわ。それからマシュウに聞かせたら、とてもいいって言うの。こういう批評家の方がいいわ。とても悲しい美しい物語よ。あたし、自分で書きながら、子供みたいに声を出して泣いたわ。それはね、コーデリア・モンモレンシーとジェラルダイン・セイモァという二人の美しい乙女の話よ、二人とも同じ村に住んでいて、心から互いに愛し合っているの。コーデリアはきりっとした浅黒い肌に、ゆたかな緑の黒髪と、黒くきらきら輝く瞳の持主なの。ジェラルダインは気高いほど色白で、髪は金糸のようで眼はビロードのように紫なの」
「あたし、紫色の眼の人って見たことないわ」とダイアナは信じかねるように言った。
「あたしもよ。ただそう想像したの。何か普通と違ったものがほしかったの。それにジェラルダインは石膏のような額をしているのよ。あたし、石膏のような額ってどんなものかわかったの。これも十三になったおかげよ。十二にしきゃならない時より、いろんなことがわかるんですもの」
「そのコーデリアとジェラルダインはどうなったの?」とダイアナは聞いた。二人の運命に興味をそそられ始めたようだった。
「二人とも美しい娘に成長して十六になったの。その時、バートラム・ディ・ヴィエがこの村に現われて、美しいジェラルダインと恋におちるの。馬がジェラルダインを馬車に乗せたまま走り出した時、バートラムが助けたの。そして失心したジェラルダインを腕に抱いたまま、三マイル先の家まで届けるの。なにしろ馬車はすっかりめちゃめちゃになってしまったからよ。結婚の申しこみの場面を考えるのが難しかったわ。自分で経験したことがないんですものね。
あたし、ルビー・ギリスに、男の人の申しこみの仕方を知ってるかって聞いたの。なにしろ幾人も結婚した姉さんがいるんだから、あの子に聞けば間違いないと思ってね。ルビーはマルカム・アンドルーズが姉さんのスーザンに結婚を申しこんだ時、玄関の戸棚にかくれてたって言うの。マルカムはね、スーザンに父親から自分名義の農場をもらったっていう話をしたそうよ。そして『どうだい、お前、この秋に一緒になるってのは』って言ったんですって。そうするとね、スーザンが『ええ――いいえ――わからないわ――考えさせて』とか何とか言って、さっと婚約してしまったんですって。でもそんなふうな申しこみ方では、どう考えてもロマンティックじゃないでしょう。だから結局あたし、自分で想像してやってみるほかはないと思ったの。あたし、とても華やかに詩的にしようと思って、バートラムを膝まずかせることにしたの。ルビー・ギリスは、今はそんなことはしないって言ってたけどね。ジェラルダインが承諾する時のスピーチは、一頁分もあるのよ。そのスピーチはとても苦心した所なの。五回も書き直したし、傑作といっていいと思うわ。バートラムはジェラルダインにダイヤの指輪とルビーの首飾りをわたして、二人で新婚旅行にヨーロッパに行こうと言うの。何しろ、大した金持なのよ。でもそのうち、二人のゆくてに暗い影がさし始めるの。コーデリアもまたひそかにバートラムを愛していたのよ。だからジェラルダインが、婚約した話をすると、かっとなってしまうの。特に首飾りとダイヤの指輪を見せられるとね。ジェラルダインに対する愛情は激しい憎しみとなり、絶対にバートラムと結婚できないようにしてやるって誓いをたてるの。でも表面はこれまでと変わりなく、ジェラルダインの友達のように振る舞っているの。ある晩、二人は激しく渦巻く激流の上にかかった橋の上に立っているの。そして二人きりだと思ったコーデリアが、『は、は、は』と荒々しく嘲笑いながら、ジェラルダインをまっさかさまにつき落とすの。でもすべてを見ていたバートラムは、『われ、汝を救うべし、何物にもかえがたきジェラルダインよ』と叫びながら、即座に流れに身を投じるの。でも哀れなことに、バートラムは自分が泳げないことをすっかり忘れていたものだから、二人とも、しっかりと抱きあったまま、溺れ死んでしまうの。二人の遺体はやがて岸辺に流れつくの。二人は一つ墓に埋められ、すばらしいお葬式が行なわれるのよ、ダイアナ。物語のしめくくりは、結婚式よりお葬式の方がずっとロマンティックね。コーデリアの方は、悔恨の思いに責められて気が狂い、気違い病院に入れられてしまうの。犯した罪の正当な報いだと思うわ」
「なんてすばらしいんでしょう」とダイアナは溜息をついた。ダイアナもマシュウと同じ派の批評家だった。「自分の頭でそんなわくわくするような話を考えだすなんて、あたしには見当もつかないわ、アン。あたしの想像力もあんたのと同じくらいすてきならいいんだけど」
「想像力を養うつもりになりさえすればいいのよ」とアンは浮き浮きして言った。「ダイアナ、いいことを思いついたわ。あたしたち、二人で物語クラブをつくって、あれこれ書いてみない? あんたが一人でも書けるようになるまで手を貸すわ。想像力を養うことは大切よ。ミス・スティシーがそうおっしゃったもの。ただ正しい方向をとる必要があるの。あたし『お化けの森』の話をしたの。そしたらそれは方向が間違っていたっておっしゃったわ」
これが物語クラブ誕生のいきさつだった。最初はダイアナとアンの二人だけのものだったが、やがてジェーン・アンドルーズとルビー・ギリスのほか、一人二人が加わるまでになった。みんな自分達の想像力を養う必要を感じたからだった。男の子達は入れないことになった――ルビー・ギリスは入れた方がもっと活気がでるとしきりに言っていたが――そして会員は毎週一つずつ物語を書くことになった。
「とっても面白いのよ」とアンはマリラに言った。「一人ずつ自分の書いたものを読み上げて、皆でそれについて話し合うの。あたし達、それを大切にしまっておいて、子孫にも読ませるつもりなの。みんなペン・ネームを使うのよ。あたしのはローザモンド・モンモレンシーって言うの。みんななかなかよくやるわ。ルビー・ギリスのは少し感傷的よ。物語の中に求愛の場面が入りすぎるの。多すぎるのって足りないより具合が悪いでしょう。ジェーンのはそれが全然ないのよ。朗読の時てれくさいからですって。ジェーンの物語はとてもまともなのよ。それからダイアナのはやたらに人殺しがでてくるの。人物をどう扱っていいのやらわからないことが多いっていうの。だからさっさと殺してしまうんですって。物語の材料はたいていいつもあたしがみんなに教えなければならないけど、そんなことちっとも苦にならないわ。いくらでも考えが湧きでてくるんですもの」
「この物語を書くとか何とかいうことぐらいばかげたことはないね」とマリラはからかった。「くだらないことばかり頭に詰めこんで、勉強の時間を無駄使いすることになるんだからね。物語を読むだけでもたくさんなのに、その上書くなんて、まったくしようがないね」
「でもね、マリラ、あたし達、どの物語にもちゃんと教訓があるように気をつけてるの」とアンは説明した。「あたしがそう言いだしたの。善人は一人残らずちゃんと報いられるし、悪人は皆それ相応に罰を受けるの。きっといい影響を与えると思うわ。教訓って大切ですものね。ミスター・アランがそうおっしゃったわ。あたし、自分の作った物語をミスター・アランと奥さんに読んで聞かせたの。お二人とも教訓は申し分ないっておっしゃったわ。ただ思いがけない所で声をたてて笑ったわ。あたし、泣いてくれる方が好きなのに。ジェーンとルビーは、悲しい所にくるとたいていいつも泣くの。ダイアナはジョセフィンおばさんに手紙を書いてあたし達のクラブの話をしたの。そしたら、あたし達の話を幾つか見せてほしいって返事がきたわ。それで一番いいのを四つ清書して送ったの。ミス・ジョセフィン・バリーはこれまでにこんな面白い話を読んだことがないってご返事をくださったわ。あたし達、ちょっと面くらったの。だって物語はみんなとても悲劇的で、ほとんど皆死ぬのよ。でもミス・バリーの気に入ったのはうれしいわ。あたし達のクラブが少しでも世の中のためになっている証拠ですものね。ミセス・アランは、それこそあたし達が万事につけて目標とすべきことだっておっしゃったわ。あたしもそのつもりで一生懸命にやってるつもりだけど、何かに夢中になっていると、つい忘れてしまうの。あたし、大きくなったら、少しでもミセス・アランのようになりたいわ。その見込みあると思う、マリラ?」
「大いにあるとは言えないようだね」というのがマリラのはげましの言葉だった。「ミセス・アランが、お前みたいにばかげた、忘れっぽい女の子だったなんて思えないからね」
「そうね。でも、ミセス・アランだって皆みたいにいつでもりっぱだったわけじゃないでしょう」とアンはむきになって言った。「ご自分でそうおっしゃったの――つまりね、子供の頃はひどいいたずらっ子で、始終いざこざを起こしていたんですって。それを伺った時、とても元気づけられたわ。でもね、マリラ、ほかの人が昔は悪い子でいたずらだって聞いて元気づけられるなんて、悪いことだと思う? リンドのおばさんはそうおっしゃるの。おばさんはね、どんなに小さい時のことでも、誰かが悪い子だったという話を聞くと、ショックを受けるんですって。ある牧師さんが子供の時、叔母さんの家《うち》の台所からいちごのお菓子を盗ったことがあるという告白を聞いてから、二度とその牧師さんを尊敬できなくなったって言うの。でもね、あたしならそうは感じないと思うわ。その牧師さんがそういう告白をしたのはえらいと思うし、今いたずらをして後悔している男の子達が聞いたら、そういう子でも大きくなれば牧師になれるかもしれないと思って、どんなに励まされるかしれないと思うの。それがあたしの感じることよ、マリラ」
「今、あたしが感じることと言えばね、アン」とマリラが言った「今頃は、お皿がすっかり片付いていていい頃だということさ。おしゃべりに夢中になって、いつもより三十分もよけいにかかっているみたいだよ。先ずやることをやってから、話は二の次ということをおぼえるんだね」
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第二十七章 虚栄と心痛
四月も末のある夕方、マリラは婦人会からの帰途、春の到来が、若くて陽気な者ばかりか、年老いて沈みがちな者にも間違いなくもたらす、あの喜びに心が弾むのを覚えながら、冬はすっかり終わったのだという感を深くした。マリラは別に自分の考えや感じていることを分析しているわけではなかった。恐らくは婦人会のことや、外国伝道への献金や、牧師室の新しい敷物のことなどを考えていたに違いない。しかし、こうした思いの背後に、夕日を浴びて淡紫色のもやにいぶされた赤い野原や、小川の向こうの牧場に落ちかかる、長い尖った葉の樅《もみ》の影や、鏡のような森の池を囲む、じっと動かないもみじのまっ赤な芽だしや、ありとあらゆるものが眼ざめて、灰色の芝土の下でひそやかに脈打っていることなどが、マリラの意識の中に一つの調和を形づくっているのだった。春がこの地上のいたる所にあふれているのだと思うと、マリラの落着いた、中年者らしい足どりも、こうした深い、こみ上げてくるような喜びに刺激されて、いそいそしたものになっていた。
「グリーン・ゲイブルズ」が、木の間がくれにその姿を現わし、幾つもの窓がまぶしいほどに夕日を照り返しているのがわかると、マリラの眼はじっといとおしむようにその上に注がれた。しっとりぬれた小道に気をとられながら、我が家ではぱちぱちと音高く暖炉の火が燃え上がり、すっかりお茶の仕度《したく》が整っているのだと思うと、マリラはとてもうれしかった。アンが「グリーン・ゲイブルズ」にやってくる前は、婦人会のある夕方、マリラを待っていたのはみるからに寒々とした我が家にすぎなかったからだ。
だから、台所に入ったマリラが、暖炉の火がすっかり燃えつきていて、どこにもアンの姿が見えないことに気づくと、ひどくがっかりし、腹を立てたのは当然だった。アンには忘れずに五時にはお茶の用意をしておくように言いつけて出かけたのだ。しかし今、マリラは、二番目に上等の晴着を大いそぎでぬぎすて、畑を耕しているマシュウの帰る前に食事の仕度をしなければならなかった。
「アンが戻って来たら、叱ってやらなきゃいけませんね」と、むやみと力をこめて、大型包丁でたきつけを削りながら、マリラはきびしい口調で言った。マシュウは既に帰宅して、いつもの隅っこで、じっと辛抱強く、お茶の仕度が整うのを待っていた。「あの子はきっとダイアナとどこかをほっつき歩いているんですよ。物語を書くんだとか、対話の練習だとか、ばかげたことばかり言ってね。時間のことも自分がしなくちゃならないことも一度も考えようとしないんですからね。こんなことはすぐにやめさせるほかはありませんよ。いくらミセス・アランがアンのことを、こんなにりこうで可愛い子は見たことがないって言っても構うもんですか。りこうで可愛いかも知れないけど、ばかげたことで頭がいっぱいなんだから、次に何をやり始めるかわかったもんじゃありません。やっと一つ気紛れから抜け出したかと思うと、すぐ次が始まるんですからね。だけど、どうでしょう。わたしったら、今日の婦人会でレィチェル・リンドにそう言われて、腹をたてたくせに、まるっきり同じことを言ってしまいましたよ。ミセス・アランがアンを弁護してくれた時にはホッとしました。さもないと、わたしはもう少しで皆の前でレィチェルにくってかかるところでしたよ。アンにはまったく山ほど欠点がありますし、わたしはそれを否定するつもりなんかこれっぽっちもありません。でもあの子を育てているのはこのわたしで、レィチェル・リンドじゃないんです。あの人にかかったら、大天使のガブリエルだって、アヴォンリーにいたら最後、あら探しをやられるでしょうからね。そうかと言って、アンがこんなふうに家を外にしていいわけはありませんよ。午後は家《うち》にいて、家事をやるように言いつけておいたんですからね。ただね、これまでは、いくら欠点だらけにせよ、あの子が言いつけに背《そむ》いたり、あてにならない人間だっていう印象を与えたりしたことはなかったんですよ。だから今度そうだとわかったことはがっかりですね」
「そうさのう、わしにはわからんがね」とマシュウは言った。辛抱強くてかしこく、その上、空腹だったので、マシュウは手だしをせずに、マリラに言いたい放題言わせるのが最上の分別と考えていた。これまでの経験から、よけいな議論などで手間どらせさえしなければ、マリラは怒っている時の方がかえって、どんな仕事にせよずっと手早くやってのけることをちゃんと呑みこんでいたのだった。「そうきめてしまわない方がいいかも知れないよ、マリラ。あの子がはっきり言いつけに背《そむ》いたとわかるまでは、あてにならないなんて言わない方がいいよ。これにはわけがあるかもしれんて――アンは説明がうまいからな」
「家《うち》にいろと言いつけたのに、あの子はいないんですからね」とマリラはやり返した。「それだけはわたしに納得がいくように説明するなんてできない相談ですよ。もちろん、マシュウ、あなたがあの子の肩をもつことはわかってましたよ。でもあの子を育てているのはあなたじゃなくてこのわたしですからね」
夕飯の仕度ができた時はもうまっ暗だったが、依然としてアンの姿は見当たらなかった。丸木橋か「恋人の小道」を通って、義務を果たさなかった時のうしろめたい表情を浮かべながら、息せききって大急ぎで帰ってくるかと思われたのに。マリラは仏頂面で皿を洗い、しまい込んだ。それから地下室へ降りていくのに灯が必要になったので、いつもアンのテーブルに置いてあるろうそくをとりに、東の切妻へ上がっていった。灯をともし、ふり返ると、ベッドの上で枕につっぷしているアンの姿が眼に入った。
「どうしたの?」とマリラはびっくりして言った。「ずっと眠っていたのかい、アン?」
「いいえ」とアンはくぐもった声で答えた。「気分でも悪いのかい」と心配になってきたマリラは、ベッドの方へ近づきながら言った。
アンは人眼を永遠に避けたいとでもいうように、ますます深く枕の中に頭を埋めた。
「そうじゃないの。でもお願いだからあっちへ行って、あたしを見ないでちょうだい、マリラ。あたし絶望のどん底にいるの。だから誰がクラスでトップになろうと、誰が一番上手な作文を書こうと、教会学校の聖歌隊で歌おうと、絶対に気にしないわ。そんなちっぽけなことはどうでもいいの。あたし、もうどこにも行けやしないんだもの。あたしの生涯は万事休すよ。お願いだから、マリラ、あっちに行って。そしてあたしを見ないでちょうだい」
「こんな話ってあるかい?」とすっかり煙にまかれたマリラは、真相を知ろうとした。「アン・シャーリー、いったいどうしたんだい? 何をしたって言うの? ちゃんと起き上がって、言いなさい。さ、今すぐだよ。ほら、どうしたって言うの?」
アンはあきらめて言われた通りに床に降り立った。
「マリラ、あたしの髪を見てちょうだい」とアンは小声で言った。
そこでマリラはろうそくを掲げ、アンの背中に房々と波うっている髪の毛をじっと見た。確かにそれは異様な光景だった。
「アン・シャーリー、あんた、髪の毛をどうかしたのかい? おや、緑色をしているじゃないか!」
もし何色かというのなら、緑としか言いようがないだろう――奇妙な、にぶい、青銅のような緑で、ところどころにもとの赤が縞のようにまじり、一段と陰惨な印象を深めていた。その瞬間のアンの髪の毛ほど、グロテスクなものを、マリラはこれまでただの一度も見たことはなかった。
「そうよ、緑なのよ」とアンはうめいた。「あたし、赤毛ほどいやな色はないと思っていたの。でも緑色の髪ってその十倍もいやなことがわかったわ。ああ、マリラ、あたしがどんなにみじめかわからないでしょう」
「あんたがどうしてこんな目に会ったかわからないが、きっと探し出すよ」とマリラは言った。「すぐ台所へ来なさい――ここは寒くてかなわない――そしてあんたのしたことを全部話しなさい。ここのところ何か妙なことが起こるんじゃないかと思っていたよ。二月《ふたつき》以上も無事だったからね。きっとそろそろ何か始まると思っていたんだ。さあ、髪をどうしたと言うんだね?」
「あたし、染めたの」
「染めたんだって! 髪の毛を染めたんだって! アン・シャーリー、そんなことをしちゃよくないってことを知らなかったのかい?」
「ええ、あんまりよくないってことは知ってたわ」とアンは同意した。「でも赤毛でなくなるんだったら、少しくらい悪いことをしても仕方がないと思ったの。あたし、あらかじめいろいろ考えてみたの。それに、この埋め合わせに、ほかの点では特別いい子になるつもりだったわ」
「さてね」とマリラは皮肉たっぷりに言った。「わたしが髪の毛を染める値打があると思ったら、少なくとももっとちゃんとした色に染めただろうね。緑色なんてまっぴらごめんだよ」
「でもマリラ、あたしだって緑色にするつもりはなかったのよ」とアンはしょんぼり言った。「あたしが悪いことをしたにしても、多少は目的があってしたことよ。あの人はあたしの髪の毛がきれいな烏《からす》のぬれ羽色になるって言ったの――大丈夫そうなるって、はっきり言い切ったのよ。どうしてあの人の言うことを疑える、マリラ? 自分の言うことを疑われると、どんな気がするか、あたし知ってるわ。それに、ミセス・アランがおっしゃったわ。はっきりした証拠がない限り、人の言葉を疑ってはいけないって。今なら証拠があるわ――誰が見たって緑の髪は、はっきりした証拠よ。でもその時にはなかったから、あの人の言ったことは、一つのこらず頭から信じたの」
「誰の言葉だい? 誰のことをあんたは言ってるの?」
「午後にやって来た行商人のことよ。あたし、その人から毛染めを買ったの」
「アン・シャーリー、ああいうイタリア人を家《うち》に入れちゃいけないって、あれほど言ってあるのに! あんな連中にうろちょろされるとろくなことはないからね」
「あら、家の中へは入れなかったわ。言いつけられた通りにしたのよ。あたしの方から外へ出て、ちゃんと戸を閉めてから、階段の所で品物を見せてもらったの。それにあの人、イタリア人じゃなかったの。ドイツ系のユダヤ人ですって。大きな箱に面白そうなものをいっぱい詰めていたの。そして一生懸命働いて妻子をドイツから呼び寄せるためのお金を貯めるんだって言ってたわ。とても実感がこもった話し方だったので、すっかり同情しちゃったの。あたし、何か買ってあの人のりっぱな目的に手を貸したくなったの。そのとたん、毛染めのびんが眼についたってわけ。行商人は、その毛染めならどんな髪でも見事な烏のぬれ羽色に染まることうけ合いだし、容易なことじゃ落ちないって言ったわ。そう言われたとたんに、見事な烏のぬれ羽色の髪をした自分の姿が眼先にちらついて、どうしても誘惑に勝てなくなっちゃったの。でもね、一びんが七十五セントするのに、あたしの小づかいは五十セントしか残ってなかったの。あの行商人は親切な人だと思うわ。だってあの人はこう言ったの。『あんたなら五十セントに負けましょう。まるでただで上げるようなもんだけど』って。だからあたし毛染めを買ったのよ。あの人の姿が見えなくなるとすぐ、あたしはここに来て、説明書にある通り、古いブラシで髪を染めたの。一びん全部使ったわ。そしてね、マリラ、髪の毛が途方もない色に染まっているのがわかった時、あたしほんとうに自分が悪かったと気がついたの。その時からずっと後悔し続けているのよ」
「後悔もいいけどね、やるんなら、本気でやってもらいたいね」とマリラはきびしく言った。「そしてお前の虚栄心の結果がどうなるか、ちゃんと見定めなくちゃいけないよ、アン。さて、どうしたらいいだろう。何はともあれ、あんたの髪をよく洗って、うまく落ちるかどうかためすとしようかね」
そこでアンは石鹸と水でごしごしこすって髪を洗ったが、もとの赤毛を洗うのと同様、そこには何の変化も見られなかった。行商人はほかの点では不正直と言われても、この毛染めが簡単に落ちないという点では正に真実を語ったのだった。
「ああ、マリラ、あたしどうしよう?」とアンは涙ながらにたずねた。「これだけはどうしようもないわ。みんなほかのあやまちはだいぶ忘れてくれたわ――ケーキに薬を入れたことや、ダイアナを酔わせたことや、リンドのおばさんにかんしゃくを起こしたこともね。でもこれだけはみんな忘れないでしょう。あたしのことをまともな人間とは見てくれそうもないわ。ああ、マリラ、『始めて人をあざむかんとする時、われらの織りなす糸のもつれぞいくばくなりや』。これは詩だけど、ほんとうよ。ああ、それにジョーシィ・パイがどんなに笑うことか! マリラ、あたし絶対にジョーシィ・パイとは顔を合わさない! このプリンス・エドワード島で一番不幸な女の子はあたしよ」
アンの不幸は一週間続いた。その間中、アンは一歩も家を出ず、毎日洗髪した。家族以外の者ではダイアナだけがこの致命的な秘密を知っていた。しかしダイアナは決して誰にも言わないと堅く約束した。そして事実それを守ってくれた。一週間たった時、マリラはきっぱりと言った。
「アン、どうにもならないね。こんながん固な毛染めってみたこともない。髪を切るほかはなさそうだね。それじゃどうみたって外へ出られないよ」
アンのくちびるは震えた。しかしマリラの言っていることは好むと好まざるにかかわらず、事実であることは否めなかった。重い吐息をつきながら、アンは鋏《はさみ》をとりに行った。
「ね、マリラ、すぐに切って、さっぱり片をつけてね。ああ、あたし、胸がかきむしられるようよ。でもこの悩みときたら、ちっともロマンティックじゃないわ。物語の中の女の子は熱病に罹《かか》って髪を切ったり、何かよい事のためにお金をかせごうとして自分の髪を売ったりするわ。あたしだってそんなわけで髪を切るのなら、この半分も辛くはないと思うの。でもね、途方もない色に髪が染まったからって、切らなきゃならないなんて、ちっともいいことはないわね。もし構わなければ、切ってもらっている間中、泣くつもりよ。とっても悲しいことなんですもの」
そう言ってアンは泣いたが、後で二階に上がって鏡の中を覗いた時、どうにもならないとわかって、かえって冷静になれた。マリラの切り方は徹底していた。それにできるだけ短く刈りこむことがどうしても必要なのだった。その結果は、どうひいき目にみても似合うとは言えなかった。アンはあわてて鏡の面を壁の方に向けた。
「髪がのびるまでは二度と再び鏡を見ないことにしよう」とアンは激しい口調で叫んだ。それからアンは急に鏡をもと通りにした。
「いいえ、やっぱり見るわ。それが悪いことをした罪ほろぼしなんだわ。部屋に入る度《たび》に鏡を見て、どんなに自分がみっともないかをこの眼で確かめるわ。想像で気を紛らすこともやめよう。ほかのことはともかく、髪のことでうぬぼれているなんて、考えたこともなかったけれど、そうだったことがやっとわかったわ。赤毛には違いないけど、何しろ長くて、たっぷりあって、それにきれいに巻いていたんですものね。この次にはきっと鼻がどうにかなるんじゃないかしら」
次の月曜日、アンの短く刈った頭は学校でセンセーションを起こした。しかしアンをほっとさせたことには、誰一人真の理由に気づくものはいなかった。ジョーシィ・パイとて例外ではなかったが、ジョーシィは、アンがどこからみても|かかし《ヽヽヽ》そっくりだと言うことは忘れなかった。
「ジョーシィがあたしにそう言った時、あたし知らん顔してたの」と、アンはその晩マリラに話した。マリラは例の頭痛で長椅子に横になっていた。「だって罪ほろぼしにあたるんだから、じっと我慢しなくちゃね。|かかし《ヽヽヽ》そっくりなんて言われるのは辛いわ。あたし、何とか言いかえしたかったの。でもよしたのよ。軽蔑したような眼でじろっとあの子の顔を見ることで許してやったわ。人を許すって、とてもえらくなったような気分がするものね。これからはいい人間になることに精力を傾けて、きれいになろうなんて思わないことにするわ。いい人になる方がずっといいんですものね。わかってはいるんだけど、いくらわかっていることでも、それを信じるのは難かしい時もあるのね。あたし、ほんとうにいい人になりたいのよ、マリラ。マリラやミセス・アランやミス・スティシーみたいに。そしてマリラが自慢できるような人になりたいの。ダイアナはね、あたしの髪が伸び始めたら、黒いベルベットのリボンをつけて片側で蝶結びにしたらって。きっと似合うって言うのよ。あたし、そうしたら『|スヌード《はちまき》』って呼ぶことにしよう――その方がロマンティックでしょう。でもマリラ、あたし、しゃべり過ぎる? 頭痛にさわると思う?」
「頭痛はだいぶよくなったよ。でも午後はとてもひどかったのさ。わたしの頭痛ときたらひどくなる一方なんだよ。一度お医者さんに診てもらう必要がありそうだね。あんたのおしゃべりが気になるかどうかは何とも言えないね――きっと馴れっこになっちゃったんだね」
これが、アンのおしゃべりを聞きたいということの、マリラ流の表現なのだった。
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第二十八章 不運な白百合姫
「もちろん、あんたがイレインをやるにきまってるわ、アン」とダイアナが言った。「あんな所まで舟で流されて行くなんて勇気はあたしにはありっこないわ」
「あたしだっていや」とルビー・ギリスは身震いしながら言った。「二人か三人一緒に乗って、ちゃんとすわって行くんなら平気だけど。そんなら面白いんですもの。でも舟の中に横になって、死んだ振りをするなんて――どうしたってできないわ。恐くてほんとうに死んでしまうかもしれないわ」
「もちろんロマンティックなことは確かね」とジェーン・アンドルーズが言った。「でもあたしならじっとしていられそうもないわ。一分毎に飛び起きて、どの辺に自分がいるのか、遠くに流されてやしないかを確かめたくなるでしょうよ。アン、そんなことをしたら、何もかも台なしになるわよ」
「でも赤毛のイレインなんて、どう考えてもこっけいよ」とアンは嘆いた。「あたしは舟で流されるのは平気だし、イレインには是非なりたいわ。でもどっちにしてもおかしいことに変わりはないわ。ルビーがイレインになるべきよ。とても色白だし、そんなにすばらしくて長い金髪をしてるんですもの――イレインは『その輝ける髪をなびかしぬ』(英国の詩人テニソンの大作、「王のうた」ランスロットとイレインより)ってあるじゃない。それにイレインは白百合姫と言われたのよ。だからね、赤毛の人間は白百合姫には向かないわ」
「あんたの顔色だってルビーと同じくらい白いわよ」とダイアナは熱心に言った。「それに髪だって、切り落とす前に比べたら、とても色が濃くなったわ」
「あら、ほんとうにそう思う?」とアンは叫んで、うれしさのあまり、ぱっと頬《ほお》を染めた。「自分でもそう思うことがあるの――でも誰かに聞いたりして、そうじゃないって言われはしまいかと気になって黙っていたのよ。今じゃ、赤褐色って言ってもおかしくないと思う、ダイアナ?」
「ええ、それにあたし、とてもきれいだと思うわ」とダイアナは短い絹糸のような巻毛をうっとりと見やりながら言った。アンの頭を包む巻毛はとてもいきな黒いベルベットのリボンと蝶結びでまとめられていた。
みんなは「オーチャード・スロープ」の下の池のほとりに立っていた。樺で縁取られた岬が岸から突き出していて、その先端に小さな木の台が、漁師や鴨撃ちの便宜のために、水際にしつらえてあった。ルビーとジェーンが真夏の午後をダイアナと過ごしている所へ、アンも遊びにやって来たのだった。
アンとダイアナは、その夏の遊び時間の大部分を、この池の周囲で過ごして来た。「アイドルワイルド」はもう過去のものだった。ベル氏がこの春、屋敷の裏手の牧場の一群の木々を情け容赦《ようしゃ》もなく切り倒してしまったからだった。アンは切株に腰をおろしてさめざめと泣いたが、そうしているのがロマンティックだという気がしないでもなかった。しかしアンはじきに立ち直った。結局のところ、アンもダイアナも言うように、十三の女の子、それももうじき十四になろうという大きな娘には、ままごとの家といったような子供っぽい遊びは不向きだったし、他の周囲にはもっと面白い遊びの対象が見つかったからだ。橋の上から釣糸を垂れて姫鱒を釣るのはすばらしかったし、バリー氏が鴨撃ちに使う平底の小舟を漕ぎ廻ることもできるようになった。
イレインの物語を劇にしょうと言い出したのはアンだった。みんなはこの冬学校でテニソンの詩をならったが、これはプリンス・エドワード諸島の学校で国語の教科にとり入れるように、教育長から指定されたためだった。みんなはいつものようにそれを分析し、解剖し、ばらばらにしてしまったので、しまいには意味らしいもののかけらさえ残っているかどうかわからないほどだったが、少なくとも美しい白百合姫と騎士ランスロットと王妃ギニヴィアにアーサー王(英国のアーサー王伝説中の主人公達。テニソンはこれを一大叙事詩にまとめ上げた。イレインはランスロットと恋をし、恋のために死んだと伝えられる)は実在の人物のように思えたことは確かだった。アンは自分がキャメロット(アーサー王の居城のあったと伝えられる場所)に生まれなかったことをひそかに悔やんだ。アンに言わせると、その頃の方が今よりずっとロマンティックだったというわけだ。
アンの計画はみんなの大歓迎をうけた。女の子達は、平底舟を舟着き場から押しやれば流れにのって橋をくぐり、自然に流されて下手の池のわん曲部につき出している別の岬に行き着くことを知っていた。これまで度々《たびたび》こうして下って行ったことがあったからで、イレインの劇をやるとなれば、これ以上好都合な場所は考えられなかった。
「じゃ、あたし、イレインになるわ」とアンは渋々承諾した。アンとしては主役をやることはうれしいはずだったが、アンの芸術的なセンスは、適任者を求めてやまず、自分の限界からして、これはとうていできない相談と思っていたのだった。「ルビー、あんたはアーサー王になるのよ。ジェーンはギニヴィアをやってね。それからダイアナはランスロットでなければいけないわ。でもその前にまずイレインの兄さん達とお父さんになるのよ。おしの年とった従者はぬきにしましょう。一人が横になったら、舟はいっぱいになってしまうんですもの。舟には端から端まですっぽりまっ黒な錦《にしき》の布で蔽《おお》いをしなければね。ダイアナ、あんたのお母さんの古い黒ショールならぴったりよ」
黒いショールが手に入ると、アンは小舟の上にひろげ、舟底に横たわって、じつと眼を閉じ、胸のあたりに両手を組み合わせた。
「あら、ほんとに死人のように見えるわ」とルビー・ギリスは不安そうに言い、樺の影がちらちらする下で静まりかえった白い小さな顔を見守った。「ね、みんな、何だか恐くなってきたわ。こんなことをするの、ほんとにいいと思う? ミセス・リンドは芝居というものはどれもこれも、文句なしに悪いって言ってたわよ」
「ルビー、ミセス・リンドの話なんかやめて」とアンはきつい声で言った。「興がそがれるじゃありませんか。これはあのおばさんが生まれる何百年も前の話なのよ。ジェーン、あんたが指図するのよ。死んだはずのイレインが、しゃべるのはおかしいわ」
そこで、ジェーンがその衝《しょう》にあたることになった。上にかける金襴《きんらん》の布などはありっこなかったが、黄色の日本ちりめんでできた古いピアノ掛けが、うってつけの代用品となった。この季節には純白の百合は手に入らなかったが、アンの組んだ手に持たせた長い水色のあやめの効果は文句のつけようがなかった。
「さあ、イレインの用意はできたわ」とジェーンが言った。「これからイレインの動かない眉にキスをするの。そしてね、ダイアナ、あんたは『妹よ、とわにさらば』って言うのよ。それからルビー、あんたは『さらば、いとしの妹よ』って言ってね。二人ともできるだけ悲しそうな顔つきをして。アン、おねがいだから、少しは微笑んで。イレインが、『微笑む如く、横たわりぬ』とあるのは知ってるでしょう。ええ、いいわ。さあ、舟をぐっと押して」
そこで平底舟はぐっと押し出されることになったが、その時、池に埋まっていた古い杭《くい》の上を強くこすってしまった。ダイアナとジェーンとルビーは舟が流れに乗って橋の方に向かったと見るやいなや、森をぬけ、道を横切り、下手の岬に向かって馳け出した。そこで今度はランスロットとギニヴィアと王として、白百合姫の到着を待ち受けることになっていたのだった。
しばらくの間、ゆるやかに流されながら、アンは自分のおかれたロマンティックな立場を心ゆくまで楽しんでいた。そのうち、ロマンティックなどと言っていられない事態が起こった。小舟が洩《も》りだしたのだ。数分のうちにイレインは立ち上がらざるを得なくなり、金色の蔽《おお》いとまっ黒な錦の掛け布を拾い上げると、文字通り水のふき上がる舟底の大きなひびを呆然とみつめていた。舟着き場の尖った杭が、小舟に釘で打ちつけてあった詰め物を引き裂いたのだった。アンはそれとは知らなかったが、自分がいま危険な状態に置かれていることはすぐにわかった。この分では小舟は下手の岬に着くずっと前に、水の重みで沈んでしまうに違いない。オールはどこにあるのだろう? 舟着き場に置いてきてしまったのだ!
アンは思わず小さい悲鳴をあげたが、誰の耳にもはいらなかった。アンはくちびるまでまっ青になったが、落着きは失わなかった。チャンスはただ一つ――たった一つだけあった。
「とっても恐かったわ」と翌日アンはミセス・アランに言った。「舟が橋に向かって流されてゆく間は、とても長く感じました。何しろ水かさが刻一刻増えるんですもの。あたしね、ミセス・アラン、心からお祈りしたんです。でも眼を閉じてお祈りするわけにはゆきませんでした。だって神様に救っていただくには、舟が橋杭のどれかにうんと近づいてくれて、あたしがそれにしがみつくことしかなかったからです。橋杭って古びた幹みたいで、こぶや枝をはらったあとなどがあるでしょう。お祈りも大切だけど自分でもちゃんと見張りをしなくちゃあと思ったんです。あたし、こう言いました。『神様、お願いだから舟を橋の杭に近づけてください。そうすればあとは自分でやります』ってくり返したの。こんな有様じゃあまりこったお祈りは考えられないんですものね。でもあたしのお祈りはかなえられました。舟が橋の杭にドシンと打っかったものだから、スカーフと肩かけをさっと肩にかけると、大きな恵みの切株にしがみついたんです。そしてね、ミセス・アラン、あたしはそのまんま、よじ登ることも降りることもできずに、ぬるぬるした棒杭にじっとかじりついていました。そりゃとてもロマンティックどころの話じゃなかったけど、その時はそんなことは全然頭になかったんです。やっと水死をまぬがれたっていう時にロマンスのことなんかあまり考えていられないですものね。あたしはすぐ感謝のお祈りを捧げました。それからしっかりとつかまっていることに注意を集中したんです。何しろ乾いた地面に戻るためには人の手を借りなければならないってことがわかっていたんですもの」
小舟は橋の下を通りぬけたかと思うと、間もなく流れの中央で沈んでしまった。ルビーとジェーンとダイアナは、既に下手の岬の所で待ち構えていたが、その眼の前で舟が沈むのを目撃し、アンも一緒に沈んでしまったものと思いこんだ。一瞬三人は棒立ちとなり、まっ青になって、この恐ろしい悲劇の前に凍りついたようになった。それからあらん限りの声をふりしぼって悲鳴をあげながら狂気のように森をかけぬけて行ったが、広い通りを横切る時に、立ち止まって橋の方を見ようなどとは考えもしなかった。アンは、危なっかしい足場に必死でしがみつきながら、三人の馳けて行く姿を見、みんなの悲鳴を聞いた。間もなく誰かが助けに来てくれるだろうが、それまでの間、アンの置かれた位置はひどく居心地の悪いものだった。
しばらくの時が過ぎたが、不運な白百合姫には、一刻一刻が一時間にも相当するかと思われた。どうして誰かがあらわれないのだろう? あの三人はどこへ行ったのだろう? もしあの三人が、三人とも気を失ってしまったとしたら! もし誰も来ないとしたら? もし自分が疲れ切って手足がしびれ、つかまっていられなくなったりしたらどうしよう! アンは眼の下の、長い縄のような影を宿してゆれている、恐ろしい緑色の深みを見て、身震いした。アンの想像力は、ありとあらゆる種類の暗い予測をし始めていた。
やがてアンが腕と手首の痛みに、これ以上一刻も堪えられられそうもないと本気で感じ始めた時に、ギルバート・ブライスが、ハーマン・アンドルーズの釣舟を操りながら、橋の下にやって来た!
何の気なしに上を見上げたギルバートは、小さなまっ青な軽蔑したような顔が自分を見下ろしているのを見て、びっくりした。その大きな、おびえたような灰色の眼にはやはり軽蔑したような表情が浮かんでいた。
「アン・シャーリー! いったいどうしてそんなとこにいるの?」と彼は叫んだ。
答も待たずに、ギルバートは舟を杭の方によせると、片手をのばした。どうしようもなかった。アンはギルバート・ブライスの手につかまると、釣舟に乗りこんだ。アンは両手に滴《しずく》のたれる肩かけと、ぬれたちりめんを抱えたまま、泥まみれの、すさまじい姿で、|とも《ヽヽ》の方にすわった。こうした状況では、威厳を保っていることは確かにまったく困難だった。
「どうしたっていうの、アン?」とギルバートはオールを取りあげながら聞いた。
「イレインの芝居をしていたの」とアンは救い主の方を見ようともせずに、こちこちになって答えた。「それであたしは舟に乗って――あの平底舟のことよ――キャメロットにくだって行くことになったの。舟が洩りだしたので、あたしは橋の杭によじのぼったのよ。女の子達は人をよびに行ったの。すまないけど、舟着き場まで連れていってくださる?」
ギルバートは喜んで舟着き場に漕ぎよせた。そしてアンは、ギルバートのさし出す手をふりきって敏捷《びんしょう》に岸へ飛び移った。
「いろいろとありがとう」とアンは傲然《ごうぜん》と言って立ち去ろうとした。しかしギルバートもまた舟から岸に飛び移り、アンの片腕に手をかけて、アンを引きとめようとした。
「アン」と彼は早口に言った。「待ってくれ。ぼく達、友達になれないかい? あの時、君の髪のことでからかったりして、とても悪かったと思ってるよ。君を困らせるつもりじゃなくて、ほんの冗談だったんだ。それに、あれはずっと昔のことだろう。今は君の髪はとてもきれいだと思っているよ――ほんとなのさ。ね、仲直りしようよ」
一瞬アンはためらった。怒りに任せて威厳を保ってはいるものの、アンは自分の胸に、奇妙な、これまでとは違った感情が湧き上がってくるのをおぼえたからだった。ギルバートのはしばみ色の眼に浮かんだ、はじらいと熱意のこもごも溢れた表情が、何かしら好もしいものに思えたのだ。アンはにわかに奇妙な胸のときめきを覚えた。しかし古い傷口の痛みが、急速にアンの揺れ動いていた決意を硬化させた。二年前のあの場面が、まるで昨日のことのようにありありとアンの記憶によみがえってきた。ギルバートは自分のことを「にんじん」と呼んで、学校中の生徒の前で恥をかかせたのだ。ほかの者や年上の人なら笑ってすませることかも知れないが、アンの憤りときたら、月日が経ったからといって、少しでも柔らげられたり、軽減されるという質のものではなかった。ギルバート・ブライスなんか大きらいだ! 絶対に許してたまるもんか!
「いいえ」とアンは冷たく言い放った。「あたし、あなたとは仲よしになれないわ、ギルバート・ブライス。それになりたいとも思ってないの!」
「わかったよ!」ギルバートは怒りのあまり頬《ほお》をまっ赤にして、自分の小舟に飛び乗った。「仲よしになろうなんて、もう二度と頼まないよ、アン・シャーリー。それにぼくだってまっぴらさ」
ギルバートはオールを持つ手に力をこめるとたちまちのうちに姿を消してしまった。アンは楓《かえで》の下のしだの生《お》い茂ったけわしい小道を登って行った。昂然とした態度を崩さなかったが、奇妙な後悔に似た思いがアンの心の中にきざしていた。ギルバートにあんなことを言わなければよかったという気さえしていた。もちろん、ひどいことを言われたのは確かだ、でもそうだとしても! まったくのところアンは、そのままべったり腰をおろして、思いきり泣けたら、どんなに胸がすっとするだろうと思った。恐ろしさや、腕のしびれるほどしがみついていたことの反動で、自分でもどうしていいのかわからなかったのだ。
小道を半ばあがった所で、アンはほとんど狂乱に近い有様で、池の方に馳け戻って来るジェーンとダイアナに出会った。「オーチャード・スロープ」には誰もいなかったのだ。バリー夫妻は二人とも留守だった。ルビー・ギリスはヒステリーの発作を起こしてどうにもならなくなってしまったので、そこに置いたまま、ジェーンとダイアナは「お化けの森」を抜け、小川を渡って「グリーン・ゲイブルズ」にかけつけた。ここにも人影はなかった。マリラはカーモディに出かけたあとだったし、マシュウは裏の畑で乾草を作っていたからであった。
「ああ、アン」とダイアナは相手の首にしがみつき、安心と喜びとで泣きながら言った。「ああ、アン、あたし達――あんたが――溺れ死んだとばっかり――だからあんたを殺したのはあたし達のような気がしたの――あたし達が――あんたを――イレインにしたんですものね。それにルビーはヒステリーを起こすし――ああ アン、あんたどうやって助かったの?」
「杭によじのぼったのよ」とアンはものうげに言った。「そしたらギルバート・ブライスがアンドルーズさんの舟でやって来て、おかに上げてくれたの」
「ああ、アン、ギルバートって、なんてすてきなんでしょう! それに、とてもロマンティックじゃない!」と、ようやく口をきく余裕ができたジェーンは、言った。「もちろん、これからはあの人に話しかけるわね」
「もちろん、しないわ」と一時的にもとの気分に戻ったアンは、かっとなって言った。「それにもう二度と再びロマンティックなんて言葉を言ってもらいたくないわ、ジェーン・アンドルーズ。ね、みんな、みんなをそんなにびっくりさせて悪かったわ。みんなあたしのせいよ。あたしはよくよく運が悪いのね。あたしのすることは何もかもみんな、自分か、一番親しい人を窮地に追いやる羽目になるの。ダイアナ、あたし達、あんたのお父さんの舟を駄目にしてしまったんだわ。もうこれからは池で舟を漕いではいけないっていうことになりそうな予感がするわ」
アンの予感はあたるどころの騒ぎではなかった。バリーとカスバート両家に午後の事件が知れわたった時の驚愕はたとえようもなかった。
「アン、いったいお前には分別というものがあるのかい?」と、マリラはうなった。
「ええ、あるわよ、あると思うわ、マリラ」とアンは楽観的に答えた。東の切妻の部屋でたった一人になれて思いきり泣けたことで、神経の昂《たかぶ》りがおさまり、いつもの快活さに戻ることができたのだった。「あたしが分別のある人間になれる見込みは前よりずっと多くなったようよ」
「どうしてかね」とマリラは言った。
「だってね」とアンは説明した。「今日は新たにとても大事なことを学んだの。『グリーン・ゲイブルズ』に来てから、いろいろな失敗を重ねたわ。でもね、そうした失敗のおかげで、何かしら大きな欠点が一つずつ直っていったのよ。水晶のブローチの事件の結果、自分のものでない品物をいじり回すくせが直ったんだわ。『お化けの森』の過《あやま》ちは、自分の想像に流されるのを直してくれたの。薬の入ったケーキで失敗したために、不注意なお料理をしなくなったわけよ。毛染めのおかげで、あたしの虚栄心もなくなったわ。もう髪のことや鼻のことなんか全然考えないわ――たといあってもほんのたまよ。今日の失敗でロマンティックになり過ぎるのが直ると思うわ。アヴォンリーじゃロマンティックになろうとしても無駄なことがわかったの。何百年も昔の、塔のあるキャメロットならそれもいいんでしょうけど、今はロマンスはもてないのね。この点についてはね、マリラ、あたしがずっとよくなるのがじきに眼につくようになってよ」
「そうなってほしいもんだね」とマリラは半信半疑で言った。
しかし、いつもの片隅でじっと聞き耳をたてていたマシュウは、マリラが出て行くとアンの肩に手をかけた。
「お前のロマンスをすっかり棄てるんじゃないよ、アン」とマシュウははにかみながら言った。「ロマンスは少しはある方がいいよ――もちろん、あり過ぎては困るがな――少しはとっておくんだよ。アン、少しはね」
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第二十九章 生涯の一大事
アンは「恋人の小道」をぬけて牛を裏手の牧場から連れ戻すところだった。九月の夕暮れで、森のすき間や開墾地はどこもかしこも、まっ赤な夕日で吹きこぼれんばかりだった。小道のそこかしこにも夕日はさし込んでいたが、楓《かえで》の下|辺《あた》りは大部分仄暗い影で蔽《おお》われていたし、樅《もみ》の下の空間には、ぶどう酒のような澄んだ紫色の夕闇がたちこめていた。風が梢をわたっていたが、夕暮れの樅の梢をそよがす風ほど心地よい音楽はこの世にないと思われるほどだった。
牛の群れが悠然と小道を行くあとから、アンは「マーミオン」(英国の詩人・小説家サー・ウォルター・スコットの詩)の戦いの一節を声高にくり返しながら、夢見心地で歩いて行った――この詩も去年の冬の国語の授業で習ったもので、ミス・スティシーがみんなに暗誦させたものだった――そしてアンはその詩の突撃の場面や、槍の打ちあう音を心に描いて胸を高鳴らせた。
やがて
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つわものは槍かざしつつなおも進みぬ
暗くとざせる森の奥深く
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という一節に至るや、アンはうっとりとして足を止め、その勇壮な一団の一人である自分の姿をよりよく見ようとするかのようにじっと眼を閉じた。アンが再び眼をあけると、ダイアナがバリー家の畑に通じる門をぬけて、こちらにやって来るのが見えた。ダイアナは子細《しさい》ありげな様子だったので、アンはこれは何か起こったなということを直ちに見てとった。しかしあまり好奇心を露《あらわ》にだすことは、アンのとるところではなかった。
「今日の夕方はまるで紫の夢と言いたいとこね、ダイアナ。生きているのが楽しくなるわ。朝になると、いつも朝が一番いいっていう気がするの。でも夕方がやって来ると、夕方の方がずっとすてきに思えるわ」
「確かにきれいな夕方ね」とダイアナは言った。「でもね、あたし、すてきなニュースがあるのよ、アン。あててごらんなさい。三度までやらせてあげるから」
「シャーロット・ギリスが結局教会で式を挙げることになって、ミセス・アランがあたし達に飾りつけをしてほしいっておっしゃったんでしょう」とアンは叫んだ。
「いいえ、シャーロットのお相手はそんなこと賛成しっこないわ。誰も教会で結婚した人がないし、そんなことをすればお葬式みたいだって言うの。そんなんじゃないわ。とてもすてきなことなんですもの。さあ、もう一度」
「ジェーンのお母さんが、お誕生会をやってもいいっておっしゃったの?」
ダイアナは首を振った。ダイアナの黒い眼は愉快そうに躍っていた。
「何のことだかわからないわ」とアンは絶望して言った。「まさかあのムーディ・スパージョン・マックファリンがゆうべの祈祷《きとう》会の帰りにあんたを家まで送り届けたっていうわけじゃないでしょう? それともほんとうに送って来たの?」
「とんでもない」とダイアナは憤然として言った。「あんな人に送られたって、自慢するはずがないわ。あてるのは無理のようね。今日お母さんの所へジョセフィンおばさんから手紙が来たの。おばさんは、あんたとあたしに来週の火曜に町に来ないかって。共進会を見に行くのに泊めてあげるって言うの。どう?」
「ああダイアナ」とアンは楓《かえで》の木によりかかってからだをささえる必要を感じながら言った。
「それ、ほんとう? でもマリラがきっといけないって言うわ。あちこち出歩くのはよくないって言うにきまってるわ。先週ホワイト・サンド・ホテルのアメリカ人の音楽会に、大型の馬車で行かないかってジェーンに誘われた時、マリラはそう言ったの。あたしは行きたかったけど、マリラはそれより家《うち》で勉強した方がいいし、ジェーンも同じだって言ったの。あたし、とてもがっかりしたわ、ダイアナ。あんまり悲しかったので、床に入る前にお祈りをする気になれなかったの。でもあとで、悪かったと思い直して、真夜中に起き出してお祈りしたのよ」
「いいことがあるわ」とダイアナが言った。「うちのお母さんからマリラに頼んでもらいましょうよ。マリラだって、あんたを出してくれると思うわ。そうなったら、あたし達、思いきり羽をのばしましょうよ、アン。あたしだって共進会には行ったことがないから、みんなが行った話を聞くと、しゃくにさわるわ。ジェーンとルビーはもう二度も行ったし、今年もまた行くそうよ」
「行けるかどうかはっきりするまではそのことは考えないでおくわ」とアンはきっぱり言った。「もし考えてから行けないことになると、とても我慢できないと思うわ。でもほんとに行けるんだったら、新調のコートがそれまでに出来上がるからうれしいわ。マリラは新しいコートなんていらないって言ったの。古いのだってもうひと冬は充分着られるんだから、新しい服ができたことで満足すべきだって言ったのよ。服はとてもすてきなのよ、ダイアナ――ネービー・ブルーで型が新しいの。マリラはね、今じゃあたしの服はいつも流行の型にしてくれるの。マシュウがリンドのおばさんに頼みに行くようなことはもうたくさんなんですって。あたし、とてもうれしいわ。服が最新の型だと、いい子になるのが楽よね。少なくとも、あたしにはそうよ。生まれつきりっぱな人達には服のことなんか、あまり関係ないんでしょうけど。でもね、マシュウがコートも新しくしなければ駄目だって言ったの。それでマリラはすてきな上等のラシャ地を買って来て、カーモディの本職の洋装店に頼んだところなの。土曜の晩にはできるはずよ。だから日曜日に新調の服と帽子で自分が教会に入って行くところをできるだけ考えないようにしているの。そんなことを考えるなんてよくないでしょう。それでもね、うっかりするとつい考えてしまうのよ。帽子もとてもいいの。カーモディに行った時、マシュウが買ってくれたわ。いま大はやりの、金のひもとふさのついた、ブルーのベルベットの帽子よ。あんたの新調の帽子、とても優雅ね、ダイアナ。それによく似合うわ。先週の日曜、あんたが教会に入って来るのを見た時、あんたがあたしの親友なんだと思うと、誇りで胸がふくらむようだったわ。着るもののことをこんなに考えるなんて悪いと思う? マリラはとてもいけないって言うの。でもね、確かに面白いと思わない?」
マリラはアンが町へ行くことを承知した。そしてバリー氏が次の火曜に二人を連れて行くことになった。シャーロットタウンまでは三十マイルほどあり、バリー氏はその日のうちに帰るつもりなので、早く出かける必要があった。しかしアンにとってはそれさえもうれしくてたまらず、火曜の朝はまっ暗なうちに起き上がった。窓の外を見ると、上天気であることが一眼でわかった。「お化けの森」の樅《もみ》の背後に広がる東の空はどこもかしこも銀色に輝き、雲一つなかった。木の間がくれに、「オーチャード・スロープ」の西側の部屋にあかりが灯っているのが見え、ダイアナももう起きているのがわかった。
アンは、マシュウが火を起こすまでには着更えをすませ、マリラが起きて来るまでに朝食の仕度《したく》をしておいたが、興奮し過ぎて、自分では何一つ食べられなかった。食事がすむと、最新流行の帽子と上着を身に着けたアンは、小川をわたり、樅の林をぬけて、「オーチャード・スロープ」へと急いだ。バリー氏とダイアナはアンを待ち受けていたので、三人はすぐに街道へ出た。
道のりは長かったが、アンとダイアナは退屈するどころではなかった。刈入れのすんだ畑に差しこんでくる明け方の太陽を浴びながら、しっとりと朝露のおりた道を馬車でゆられてゆくのは気持ちがよかった。空気はさわやかで冷たく、小さなうすいもやが谷間からまき上がり、丘の方へと漂って行った。途中、もみじが真紅の旗をかざし始めている森をぬけるかと思うと、時には川にかかった橋を渡ることもあり、アンはずっと昔味わった、喜びと相半ばした恐怖に身をすくませることもあった。街道は港の海岸をうねって、風雨にさらされて灰色に見える漁師の村落をすぎることもあり、更にまた丘を登って、はるか彼方に起伏する台地や、かすみのかかった青空の眺めをほしいままにすることもあった。しかし何処を通っても、興味をひくような話題にことかかなかった。町に着き、「ビーチ・ウッド」(ぶなの森)に向かったのはお昼近くだった。「ビーチ・ウッド」は古いりっばな邸宅で、街道から奥まった所にあり、緑のにれと大枝をさしかわすぶなの大木にひっそりと囲まれていた。ミス・バリーは鋭い黒い目をきらきらさせながら、みんなを戸口に迎えた。
「やれやれ、とうとう来てくれましたかね。アンさん」とミス・バリーは言った。「だけど、あんた、大きくなったね! このわたしより背が高くなったよ、ほんとに。それに器量も前よりずっとよくなったようだよ。でもそんなことは言われるまでもなく自分でもわかってるだろうけどね」
「いいえ、ちっとも知りませんでした」とアンはにっこり笑って言った。「自分でも昔ほどそばかすがひどくないってことは知ってました。だからとても喜んでいたんです。でもそれ以外に前とかわったところがあるなんて、思いもよりませんでした。きれいになったとおっしゃっていただいてとてもうれしいんです、ミス・バリー」
ミス・バリーの家の家具調度は、あとでアンがマリラに話したところによると、[まったくすばらしい]ものだった。二人の田舎娘は、ミス・バリーが食事の様子を見に部屋を出て行ったあとで、客間のすばらしさにすっかり気を呑まれてしまっていた。
「宮殿みたいじゃない?」とダイアナが言った。「ジョセフィンおばさんの家《うち》は初めてよ、だからこんなに立派だなんてちっとも知らなかったわ。ジュリア・ベルに見せたいくらい――ジュリアったら、お母さんの客間の自慢ばかりしてるんですもの」
「ベルベットの敷物よ」とアンは大きな溜息をついた。「それに絹のカーテン! あたし、こういったものをずっと夢に描いてきたわ、ダイアナ。でもいざとなると居心地がいいっていうわけにはゆかないみたいね。この部屋には何もかも揃っていて、それがみんなすばらしいもんだから、想像を働かす余地がないの。貧しいことにも慰めがあるってわけ、想像できるものがいっぱいあるんですものね」
アンとダイアナにとって、町における滞在は、いつまでも忘れられないものとなった。初めから終わりまで、楽しいことばかりだった。
水曜日にミス・バリーは二人を共進会の会場に伴い、一日中そこで過ごした。
「とてもすばらしかったわ」とアンはあとになってマリラに話した。「あんなに面白いものだってこと、今まで想像もできなかったわ。どの部門が一番面白いかっていうのはよくわからないの。馬と花と手芸の部門がよかったと思うの。ジョーシィ・パイがレース編みで一等賞になったの。あたし、とてもうれしかったわ。そしてそのうれしいと思ったことが、またうれしかったの。だってジョーシィの成功を喜べるなんて、あたしがよくなった証拠だと思わない、マリラ? ミスター・ハーマン・アンドルーズは高級りんごで二等をとったし、ミスター・べルは豚で一等になったの。ダイアナに言わせると、教会学校の校長さんが、豚で入賞するなんておかしいそうだけど、あたしはそうは思わないわ。マリラはどう思う? ダイアナはね、これからさき、ミスター・ベルがいかめしくお祈りをする時、いつも思い出すって言うの。クララ・ルイーズ・マックファソンは絵で入賞したし、リンドのおばさんは自家製のバターとチーズで一等賞になったわ。だから、アヴォンリーはかなり成績をあげたわけじゃない? リンドのおばさんもちょうど見えたの。あたし、知らない人達ばかりの中に、おばさんの見慣れた顔を見つけた時ほど、おばさんを好きだと思ったことないわ。ほんとに何千人という人がいたのよ、マリラ。なんだか、とっても自分がとるにたりないって気がしたの。それからね、ミス・バリーが競馬を見るんだと言って、特別席に連れて行ってくれたの。リンドのおばさんは行かなかったわ。おばさんはね、競馬はとてもいやだって。そして教会員である以上は、そんなものから遠ざかることで、りっぱな模範を示す義務があるんですって。あの人出じゃ、リンドのおばさんが行かなくても誰にもわからないと思うけど。でもね、あたし競馬ってあんまりしょっちゅう行くとこじゃないと思うの。だって、とっても魅力があるんですもの。ダイアナはすっかり興奮しちゃって、赤い馬が勝つだろうから、十セント賭けないかって言ったの。あたしはそうは思わなかったけど、賭けは断わったの。ミセス・アランに、何から何まで、すっかり話したいと思っていたし、そんな話をするのはよくないと思ったの。牧師の奥さんに言えないようなことをするのは、いつも間違いよね。牧師の奥さんのお友達がいるってことは、良心をもう一つよけいにもっているようなものだわ。それに賭けなくてとてもよかったの。だって、赤い馬はほんとうに勝ったのよ。だからあたし、十セントをなくすところだったの。いいことをすればお返しが来るものね。あたし達、男の人が気球に乗ってふわふわ昇ってゆくのを見たわ。あたしも気球に乗りたいわ、マリラ。どんなにかスリルがあると思うの。それから、おみくじを売ってる人を見たわ。十セント払うとね、小鳥がおみくじをくわえて来るの。ミス・バリーがおみくじをひくようにってダイアナとあたしに十セントずつくださったわ。あたしのはね、とてもお金持の浅黒い男の人と結婚して、海外で暮らすんですって。それからは色の浅黒い人に会う度《たび》に、じっと見ることにしたの。でも誰一人気にいるような人は見つからなかったわ。それに今から相手を探すなんて早すぎると思うの。ああ、生涯忘れられない一日だったわ、マリラ。あたし、とてもくたびれちゃって、一晩中、寝つかれなかったの。ミス・バリーはね、約束通り、あたし達を客用寝室に寝かせてくださったの。とても優雅なお部屋よ、マリラ。でもね、客用寝室で寝るというのは、これまで、あたしが考えていたのとは少し違うの。これが大きくなるってことの一番困った点ね。やっと、わかってきたわ。小さい時にあんなに欲しかったものでも、大きくなってみるとその半分もすてきに見えないのね」
火曜日、女の子達は公園にドライヴした。そして夕方はミス・バリーが二人を音楽学校のコンサートに連れて行った。有名なプリマ・ドンナがうたうというのだった。アンにとって、この晩は夢のような喜びに輝いていた。
「ああ マリラ、もう何と言っていいかわからないの。あたし、すっかり興奮して、ものも言えなくなってしまったの。だから、どんなふうだったかわかるでしょう。あたしは、恍惚としてじっとおし黙っていたの。マダム・セリッキーってすばらしい美人よ。まっ白なサテンの服に、ダイヤを身に着けていたわ。でもいざ歌い始めると、もうほかのことは一切考えられなくなってしまったの。ああどんな気持ちだったかよく言えないわ。でもね、いい子になるってことが、ちっとも難かしくないって気がしてきたの。星を見上げている時みたいな気分よ。涙が溢れてきたけど、もちろんうれし涙よ。すんだらとてもがっかりしちゃって、ミス・バリーに二度と再び平凡な生活に戻れそうもないって言ったの。ミス・バリーは、通りの向こうのレストランへ行ってアイスクリームを食べたら何とかなるかもしれないって言ったの。なんて無味乾燥な話だろうと思ったけど、驚いたことに、その通りだったのよ。アイスクリームはとてもおいしかったわ、マリラ。そして夜の十一時にそういう所でアイスクリームを食べるっていうのは、とてもいい気分で、開放感を与えてくれるものね。ダイアナは自分は都会の生活をするようにできているんだって言ったの。ミス・バリーはあたしはどう思うって聞いたわ。でもあたしは自分の考えをミス・バリーに伝える前に、じっくり考えてみなければわからないって言ったの。だから床に就《つ》いてから考えたわ。ものを考えるには一番いい時間ですものね。そしてね、マリラ、あたしは都会生活には向いていないし、その方がいいんだっていう結論がでたの。夜の十一時に、明るいレストランでアイスクリームを食べるのも時にはいいけれど、でもふだんのことなら十一時には東の切妻の部屋にいて、ぐっすり眠っている方がいいって気がしたわ。でもね、そうして眠っていても、外では星がきらめき、風が小川の向こうの樅《もみ》の梢をわたっているってことが何となくわかってるの。翌朝ミス・バリーに朝食の時その話をしたら、とても笑われたわ。ミス・バリーはあたしが何を言ってもたいてい笑うのよ。それがどんなにまじめな話でもそうなの。あんまり感じがよくないことよ、マリラ。だってあたし別に笑わせるつもりでやってるわけじゃないんですもの。でもミス・バリーはとてももてなしのいい方で、あたし達すばらしい待遇をうけたわ」
金曜の帰宅の時間が来た。バリー氏は馬車で二人を迎えにやってきた。
「どう、面白かった?」とミス・バリーはわかれぎわに言った。
「ええ、とっても」とダイアナが言った。
「そして、アンさんの方は?」
「初めから終わりまでとても面白かったわ」とアンは言うと、老婦人の首に衝動的に両手を巻きつけ、皺《しわ》だらけの頬《ほお》にキスをした。ダイアナにはどんなことがあっても、そんなことはできそうになかったので、アンのなれなれしさには呆気《あっけ》にとられた。しかしミス・バリーはとても喜んで、ベランダに立ち、馬車が見えなくなるまで名残りを惜しんだ。それから、溜息をつきながら大きな家の中に引きこんだ。二人の若々しい姿が消え去ったあとは、とても淋しくなったような気がした。実のところ、ミス・バリーはどちらかと言うと自己中心的な婦人で、自分以外の他人に深く心をひかれたことは一度もなかった。他人を評価する時には、相手が自分の役に立つとか、自分を楽しませてくれるかということだけが大事だった。アンはこの前ミス・バリーを楽しませたので、老婦人に大いに気にいられたのだった。しかし、ミス・バリーはアンの風変わりな物の言い方よりも、その若々しい熱意や、透明な心の動き、ちょっとした愛らしい動作、眼と唇のかわいらしさといったものを主に心に浮かべていた。
「マリラ・カスバートが孤児院から女の子を引き取ったと聞いた時は物好きにも程があると思ったものだ」とミス・バリーは独り言を言った。「でも、こうしてみると失敗というほどのこともなかったようだね。アンみたいな子をしょっちゅう手許におけるなら、あたしだって、もう少しましで幸せな暮らしができるのにね」
アンとダイアナは、往きと変わらぬ愉快な馬車の旅をした――それどころか、帰れば家が待っているという喜びから、愉快さは一層増した。ホワイト・サンドを過ぎ、海岸の道にさしかかると日没だった。行手にアヴォンリーの丘が、うこん色の空を背景に黒く姿を現わした。背後の海から月が昇り、刻一刻と明るさを増し、辺りを照らし出した。曲がりくねった道路沿いの小さな入江という入江にはさざ波がきらめき、すばらしい眺めだった。足もとの岩にあたって、波が柔らかい音をたて、つんと鼻をつく湖の香が、あたり一面に漂っていた。
「ああでもこうして生きていて家《うち》に帰るっていいものね」と大きく息をしながらアンが言った。
小川にかかる丸木橋をわたった時、「グリーン・ゲイブルズ」の台所の灯がまたたいて、アンを優しく迎えた。そして開いた戸口から、暖炉の火が輝いて、ひえびえした秋の夜気のなかに、あかあかと暖かいほのおの色をみせていた。アンは元気よく丘をかけのぼり、台所に入った。テーブルの上には、ほかほかの夕食が整えられていた。
「おや、お帰りかい?]とマリラは編物を片づけながら言った。
「ええ、ただいま。家に帰るってなんてすばらしいんでしょう」とアンはうれしそうに言った。「あたし手当たり次第にキスしたいわ、時計にもね。マリラ、鶏の丸焼じゃない! まさかあたしのためにつくってくれたんじゃないでしょう!」
「ああその通りさ」とマリラは言った。「長いドライヴのあとじゃおなかが空《す》くから、何かほんとに美味《おい》しいものがよかろうと思ってね。急いで着がえをしておいで。マシュウが帰り次第夕飯にするから。帰ってきてほんとによかったよ。お前がいないと、とても淋しくてね。こんなに四日間が長く思えたことはなかったよ」
夕食後、アンはマシュウとマリラの間にすわり、訪問の一部始終を述べた。
「ほんとにすばらしかったわ」とアンはうれしそうに話をしめくくった。「あたしの生涯の一大事だって気がするの。でも一番よかったのは家に帰るってことだわ」
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第三十章 クィーン組の編制
マリラは膝に編物を置くと、椅子に背をもたせた。眼の疲れをおぼえたからだった。マリラは、ぼんやりと、この次町に出たら、眼鏡の度を変えるかどうか調べる必要があると思った。近頃は眼の疲労を感じることが度重なっていた。
あたりは薄暗かった。どんよりした十一月のたそがれが「グリーン・ゲイブルズ」をすっぽり包み、暖炉におどる赤い炎だけが、台所を照らしていた。
アンは炉端の敷物にトルコ人のように丸くなり、その陽気な輝きをみつめていた。楓《かえで》のまきからは長い年月の間にたくわえられた太陽が勢いよく放出されているように思われた。読みかけの本が床にすべり落ちたのも知らずに、半ば開いた口もとに微笑を浮かべたアンは夢想にふけっていた。光り輝くスペインの城が、アンの生き生きした空想のもやと虹の中からおのずと姿を現わし、その夢幻の世界の中から、すばらしい胸を踊らせるような冒険が次々に生まれてくるのだった――どの冒険もすべて勝利に終わり、実人生におけるように、さまざまな困難にアンをまきこむことはまったくなかった。
マリラは愛情のこもったまなざしでアンを見ていた。それは炉の明りと影の柔らかく交錯している、今のような仄暗《ほのぐら》い場所でなければ決してマリラが見せようとはしないものだった。愛の思いを言葉や顔にあからさまに示すことは、マリラにはとうていできない相談だった。しかしこのようにして、表に出さないだけに一層深く、烈しく、このほっそりした灰色の眼の娘をマリラは愛するようになっていた。実際、マリラは自分のアンに対する愛情が節度を越えたものになることを案じた。アンに対して感じているような強烈な愛情を、人間に抱くことは罪深いことなのではないかという思いがマリラを不安にした。ひょっとしたらマリラはアンが可愛ければ可愛いだけきびしくアンを叱責することで、無意識のうちに罪ほろぼしをしているつもりなのかも知れなかった。確かにアン自身はマリラに愛されているとは知らなかった。マリラはひどく気難かしいし、どうみても同情と理解に乏しいような気がして、物足りぬ思いをすることもあった。しかしアンは自分がとれほどマリラに世話になっているかを思い出して、いつもそんなことを考えてはいけないと自戒するのだった。
「アン」とマリラは急に声をかけた。「午後にお前がダイアナと出かけたあとにミス・スティシーがお見えになったよ」
アンははっとして溜息をつきながら、現実に戻った。
「あら、ほんと? 出かけていて悪かったわ。どうして呼んでくれなかったの、マリラ? ダイアナとあたしはすぐそこの『お化けの森』にいたのよ。今森はとてもきれいよ。森の潅木は、しだもサティン・リーブズもごぜんたちばなもみんな眠りについてしまったわ。まるで誰かが春が来るまで落葉の毛布をかけてやったみたいよ。きっと七色のスカーフをつけた小さな灰色の妖精が、この前のお月様のきれいな晩にこっそりやって来てそうしたんだと思うの。でもダイアナはそういうことはあんまり言おうとしないのよ。『お化けの森』に幽霊がいるって想像してお母さんに叱られたのを決して忘れないの。あれはダイアナの想像力に悪い影響を与えたわ。しぼんでしまったというところよ。リンドのおばさんはマートル・ベルのことをしぼんだ人間だって言ったわ。あたし、ルビー・ギリスにどうしてマートルはしぼんだのって聞いたの。ルビーったら、恋人に裏切られたからだろうって言うの。ルビー・ギリスは恋人のことしか考えないの。大きくなるにつれて悪くなる一方よ。恋人だってそれなりのよさはあるけれど、何にでも引っぱり出すのはおかしいわね。ダイアナとあたしは、二人とも結婚なんかやめて、いつまでも独身のままで一緒に暮らす約束をお互いにしようって真剣に考えているところよ。でもダイアナはまだはっきり決心がつかないの。ひよっとしたら、荒くれた、手のつけられない悪党と結婚して、相手を立直らせる方がりっぱなことじゃないかって気がするんですって。ダイアナとあたしはね、この頃はいろんなまじめな話をしているのよ。あたし達もこんなに大きくなったんだから、子供っぽい話は似合わないんじゃないかと思うの。もうすぐ十四になるっていうのはとても重大なことね、マリラ。ミス・スティシーは先週の水曜に十三以上の女の子をみんな小川の所に連れて行って、その話をなさったの。あたし達の年頃にどんな習慣をつけるか、どんな理想をもつかということにはどんなに注意をしてもし過ぎることはないっておっしゃったの。あたし達がはたちになるまでには、すっかり性格ができあがって、将来の人生の基礎が固まってしまうからですって。もしその基礎がぐらぐらしていると、ほんとうにちゃんとしたものは何一つその上にうちたてられないっておっしゃったの。ダイアナとあたしは、学校の帰りに色々その話をしたわ。あたし達、とても厳粛な気分になったのよ、マリラ。二人とも充分に気をつけ、ちゃんとした習慣をつけ、何でも身につけ、できるだけ分別のある人間になるように努力しようってきめたの。そうすればはたちになる頃には、ちゃんとした性格ができあがるだろうからって。はたちになるってことを考えると、とても恐いみたいね、マリラ。ひどく年取って、おとなになるっていう感じがするわ。でもミス・スティシーはどうして今日午後お見えになったの?」
「それをこれから言いたいと思っているのさ、アン、もしあんたが、わたしに口を挟《はさ》む機会を与えてくれればね。先生はお前の話をしていらっしゃったよ」
「あたしのこと?」とアンはいささかおびえたような表情を浮かべた。それから顔を赤らめて叫んだ。
「ああ何の話かわかったわ。あたし、話すつもりだったのよ、マリラ、ほんとにそのつもりだったのに忘れてたわ。昨日の午後、学校でカナダ史の時間にあたし『べン・ハー』(米国作家リュー・ウオーレスが一八四〇年に書いた宗教的な歴史小説。ベン・ハーは主人公の名前で戦車競走の場面は特に有名)を読んでいるところをミス・スティシーに見つかったの。ジェーン・アンドルーズが貸してくれたのよ。あたしは昼休みに読んでいたんだけど、戦車競走の所へきた時に授業が始まったの。あたし、その先がどうなったのかどうしても知りたかったの――きっとべン・ハーが勝つにきまってるとは思っていたの。だってそうでないと因果応報《いんがおうほう》ってことにならないんですもの――それで机の上には歴史の本をひろげておいて、机と膝の間に『ベン・ハー』をおしこんだのよ。そうすれば、カナダ史を読んでいるように見えながら、実はその間ずっと『ベン・ハー』を読んでいられるわけ。あたしはすっかり夢中になっていたものだから、ミス・スティシーがすっと通路を歩いていらっしゃたのに全然気がつかなかったの。そしてふっと顔をあげると、先生が恐い顔をしてあたしを見下ろしていらっしゃったのよ。あたし、どんなに恥ずかしかったかわからないわ、マリラ、特にジョーシィ・パイがくすくす笑っているのが聞こえた時はね。ミス・スティシーは『ベン・ハー』を取り上げて行ってしまわれたの。でもその時はひと言もおっしゃらなかったのよ。先生は休み時間にあたしをのこして、いろいろご注意をなさったの。あたしは二つの面でとても間違ったことをしたっておっしゃったの。第一に、勉強に打ちこむはずの時間を無駄にしたということ。第二に歴史の本を読んでいるように見せかけながら、実際は小説を読んでいたことで、先生をだましたということなの。そう言われる瞬間まで、自分のしたことが、人をだますようなことだったなんて、あたし、全然気がつかなかったのよ、マリラ。とてもショックだったわ。あたし、とても泣いたの。そしてミス・スティシーに、二度とこんなことはしませんから許してくださいってお願いしたわ。そして罰として、丸二週間、『べン・ハー』を手にとることもしません、戦車競走がどうなったかを見ることもしないつもりです、って言ったの。でもミス・スティシーはそんな必要はないっておっしゃって、あたしをすっかり許してくださったのよ。それなのにやっぱり家まで来てマリラに言いつけるなんて、少しひどいと思うわ」
「ミス・スティシーはそんなことはちっともおっしゃらなかったよ、アン。そう思うのはお前の気がとがめるからだよ。学校に小説を持ちこむなんてよくないね。だいたいお前は小説を読み過ぎるよ。わたしの子供の頃には、小説なんて見ることさえ許されなかったんだよ」
「あら、『べン・ハー』のように立派な宗教的な書物を小説だなんて言えると思う?」とアンは抗議した。「もちろん日曜の読みものとしちゃ、少し刺戟が強過ぎるかも知れないわ。だからあたし、ふだんの日だけ読んでるの。それにあたし、今じゃミス・スティシーやミセス・アランが十三歳と九ヶ月の女の子の読んでもかまわないって思うもののほかは、どんな本も読まないことにしているの。ミス・スティシーがあたしにそう約束するようにおっしゃったのよ。ミス・スティシーはあたしが或る日『幽霊屋敷の恐ろしい秘密』という本を読んでいるところをごらんになったの。ルビー・ギリスが貸してくれたのよ。それがね、マリラ、ぞっとするほど面白いの。ほんとにからだ中の血が凍るようよ。でもミス・スティシーは、とてもくだらない、ためにならない本だから、その本だけでなくて、それと同じような本も一切読まないようにっておっしゃったの。もう読まないと約束するのは構わなかったけど、終わりがどうなったかもわからずにその本を返すのはとても辛かったわ。でもミス・スティシーは好きだから何とか我慢できたのよ。誰かをほんとうに喜ばせたいと思えば、どんなことでもできるものね」
「さて、わたしは明りをつけて、仕事にとりかかろうかね」とマリラは言った。「お前がミス・スティシーの話を聞く気がないことははっきりわかったよ。お前ときたら、何よりも自分の舌から出る音の方に関心があるみたいだからね」
「あら、いやだ、マリラ、あたし是非聞きたいわ」とアンは後悔しながら叫んだ。「あたし、もう何も言わないわ――一言も。あたし自分がしゃべり過ぎるのはよくわかっているの。でも何とかしてやめたいと努めているのよ。それに確かにあたしはしゃべり過ぎるけれど、あたしが口に出したいと思いながら、しないですますことがどれだけあるかわかってもらえさえしたら、少しは賞めてもらえると思うの。マリラ、お願いだから聞かせて」
「さてね、ミス・スティシーはね、よく出来る生徒の中で、クィーンの入試の準備をしたいと思っている人達のクラスをつくりたいとおっしゃるんだよ。放課後一時間ずつ、課外授業をなさるおつもりのようだよ。それで先生はマシュウとわたしに、お前をそのなかまに入れる気があるかどうか、尋ねに来られたのさ。お前自身はどう思う、アン? クィーンに行って先生になるつもりはあるのかい?」
「ああ、マリラ!」アンは居ずまいを正すと、両手をしっかり握りしめた。「それこそあたしの一生の夢だったの――つまり、この六ヶ月というもの、ルビーとジェーンが入試の準備の話を始めてからずっとなの。でもあたしは一切黙っていたわ。だって言ったって何にもならないと思ったからよ。あたしはとても先生になりたいの。でも随分お金がかかるんじゃない? ミスター・アンドルーズの話じゃ、プリシーをやるのに百五十ドルもかかったんですって。それにプリシーは幾何だってちゃんとできるんだし」
「そのことなら心配しなくてもいいと思うよ。マシュウとわたしがお前を引き取って育てることにした時、わたし達にできるだけのことはしてやろう、そして教育もおろそかにすまいと決心したんだよ。女の子はその必要があろうとなかろうと、自分で暮らしていけるだけのものを身につけておくべきだと思うよ。マシュウとわたしがいる限り、『グリーン・ゲイブルズ』はお前の家《うち》さ。だけど世の中のことはあてにならないから、何が起こるかわかったもんじゃないからね。備えをしておくに越したことはないよ。だからお前が行きたければ、クィーンのクラスに入っていいんだよ、アン」
「ああ マリラ、ありがとう」アンは両腕をさっと拡げてマリラの腰に飛びつき、じっとマリラの顔を見上げた。「マリラとマシュウにほんとうに感謝するわ。あたし、精一杯がんばって、二人の誇りになるように最善をつくすわ。幾何にはあまり期待してほしくないけれど、そのほかのものだったら、一生懸命にやれば人に引けはとらないつもりよ」
「お前ならちゃんとやってゆけるよ。ミス・スティシーは、お前のことを頭もいいし、よく勉強するっておっしゃったからね」マりラはどんなことがあっても、ミス・スティシーの言葉をそのままアンに伝えようとは思わなかった。アンの虚栄心をあおると思われたからだ。「勉強をし過ぎてからだをこわすような極端なまねはおしでないよ。何も急ぐことはないからね。試験までにはまだ一年半もあるんだもの。だけどそのうちぼつぼつ始めて、しっかり基礎を固めておく方がいいって、ミス・スティシーも言われたよ」
「これからは今まで以上に勉強に身を入れるわ」とアンはうれしそうに言った。「だって人生に目標が生まれたんだもの。ミスター・アランがおっしゃったわ。人は誰でも人生に目標を抱いて、それに向かって忠実に進みなさいって。ただその場合、それがちゃんとした目標かということを最初に確かめる必要があるっておっしゃるの。ミス・スティシーのような先生になりたいと思うのはりっぱな目標と言えるわね、マリラ? あたし、とても気高い職業だと思うわ」
やがてクィーンのクラスは編制された。ギルバート・ブライス、アン・シャーリー、ルビー・ギリス、ジェーン・アンドルーズ、ジョーシィ・パイ、チャーリー・スローン、それにムーディ・スパージョン・マックファソンが加わった。ダイアナ・バリーは両親がダイアナをクィーンにやるつもりがないというので、加わらなかった。このことはアンにとって、たいへんな衝撃だった。ミニー・メイが喉頭炎を起こしたあの夜以来、アンとダイアナはすべて行動をともにしてきた。クィーン組が課外授業のために初めて居残った日の夕方、ダイアナがほかの生徒達と重い足どりで校門を出て、一人で「樺の道」や「すみれの谷」を通って家路につくのを見た時、アンは席をけたてて、親友のあとを追いかけたい衝動にかられた。大きなかたまりのようなものが喉咽にこみ上げてきて、アンは眼に溢れる涙をかくそうとして、あわてて手にもったラテン文法の教科書の背後に顔をかくした。どんなことがあっても、ギルバート・ブライスやジョーシィ・パイにこの涙を見せたくなかったからだ。
「でもね、マリラ、ダイアナが一人で出てゆくのを見たら、ミスター・アランが先週の日曜の説教で言われたように、あたし死の苦しみを味わったような気がしたわ」とアンはその晩、悲しげに言った。「あたし、ダイアナも入試の準備をすることになったら、どんなにすてきだろうと思ったわ。でもリンドのおばさんが言ったわね、この不完全な世の中に完全なものはあり得ないって。リンドのおばさんのおっしゃることは、人の気にさわることもあるけれど、あたっていることもとてもあるわね。それにあたし、クィーンのクラスはきっととても面白いものになると思うの。ジェーンとルビーは先生になるつもりで勉強するの。それが二人の大望の最たるものなんですって。ルピーは卒業後二年だけ教えて、あとは結婚するつもりよ。ジェーンの方は生涯のすべてを教職に捧げて、どんなことがあっても結婚しないって言うの。だって教えればサラリーがもらえるでしょう。でも夫は何にもくれないし、卵やバターの収入を分けてほしいって言えばぶつぶつ怒るからですって。きっとジェーンは悲しい体験からそう言うのね。だってリンドのおばさんが言うには、ジェーンのお父さんは大変な偏屈で、とてもけちなんですって。ジョーシィ・パイはただ教養のために学校に行くんだって言うの。自分でかせぐ必要がないからですって。人の施しをうけて暮らしている孤児とはわけが違うって言うの――弧児ならそんな悠長なことは言っていられないって。ムーディ・スパージョンは牧師になりたいって言うの。リンドのおばさんは、あんな名前にふさわしい生き方をしようと思えば牧師になるほかはないんですって。(ドワイト・ライマン・ムーディは米国の伝道者。チャールズ・ハドン・スパージョンは英国バプティスト派の説教者)あたしね、マリラ。こんなことを言っちゃ悪いけど、ムーディ・スパージョンが牧師になると思うと、笑わずにはいられないの。ムーディときたら、大きな丸々太った顔に、小さな青い眼をして、耳が妙につき出てるのよ。でも大きくなればもう少し知的な顔つきになるかも知れないわ。チャーリー・スローンは政界に入って国会議員になるんですって。でもリンドのおばさんはチャーリーにはとても無理だって言うの。だってスローン一家は皆正直者が揃っているのに、いま政治の面で成功するのは悪者ばかりなんですって」
「ギルバート・ブライスは何になるつもりだい?」とマリラは聞いた。アンが「シーザー」を開こうとしているのを見たからだった。
「ギルバートの生涯の大望が何なのか、あたしにはさっぱりわからないわ――それがあるとしての話だけど」とアンは軽蔑したように言った。
今ではギルバートとアンの間にはあからさまな競争意識があった。これまではその競争心というのもどちらかといえば一方的だった。しかし今ではギルバートの方でもアンと同様、一番になろうと心を決めていることには疑問の余地がなかった。ギルバートはアンにとってまったく文句なしの好敵手だった。クラスのほかの生徒達は二人が抜きん出ていることを黙認した形で、二人と争うことなどは考えても見なかった。アンが池のそばで、許しを乞うギルバートの懇願を斥《しりぞ》けた時以来、ギルバートは前に述べたようなはっきりした対抗意識を除いて、アン・シャーリーの存在を一切無視する態度に出た。ほかの女の子達とは話もするし、冗談も言い、本や問題集を交換したり、学課のことや様々の計画について討論し、祈祷《きとう》会や討論会の帰りには女の子のうちの誰れ彼れを家まで送り届けることもあった。しかしアン・シャーリーだけは無視した。そしてアンの方では無視されることはあまりうれしくないことがわかった。どうでもいいと頭を振って自分に言って聞かせたところでどうにもならなかった。アンのゆれ動く小さな女心の奥深くで、自分がそれを気に病んでいることをアンは知っていた。そしてあの「輝く湖水」の時と同様な機会に再びめぐりあえたら、きっと自分の答は違ったものになるだろうと思った。まったく突然に、ギルバートに対して抱いていたあの敵愾心《てきがいしん》が、すっかり消え失せてしまったことに気づいて、アンは無念の思いにかられた――それによる支えが今こそ一番必要だというのに。あの記憶のひだに深くきざみこまれた折の一つ一つの出来事や感情の起伏を思い返して、昔のような激しい怒りに身をこがそうとしても、どうにもならなかった。池のかたわらのあの日のことは、残り火が瞬間的に爆発したに過ぎなかったのだ。アンは気づかぬうちに自分が相手を許し、あの事件を忘れていたことに気づいた。しかし今となっては遅過ぎた。
だが少なくともギルバートもほかの人達も、ダイアナでさえ、アンがどれほど後悔しているか、あんなに傲慢で憎らしい態度をとらなければよかったと思っていたことに気づかなかった。アンは[我が思いを深い忘却の彼方へ押しやる]決意をした。そしてそれをあまりにも見事にやってのけたので、恐らく外見ほど無関心でいられなかったギルバートとしては、自分が報復的にアンを軽蔑してみせても一向に通じないということで、少しも心が晴れなかった。わずかに慰めとなったことは、アンがチャーリー・スローンをしょっちゅう、不当に思えるほどつれなくあしらっていたことぐらいだった。
ほかの点では冬は楽しい日課や勉強の日々に明け暮れた。アンにとっては毎日毎日が一年という首飾りの黄金の玉めように過ぎて行った。アンは幸せで熱心で楽しかった。学ぶものはたくさんあり、受くべき栄与があった。読みたい本もあれば、教会学校の聖歌隊では新しい歌の練習もあった。日曜の午後はミセス・アランと牧師館で楽しく過ごした。そうしているうちに、アンがほとんど気づかぬうちに春が再び「グリーン・ゲイブルズ」にめぐって来て、世の中はもう一度花に包まれた。
その頃になると、勉強にもいささか倦怠のきざしが見えて来た。ほかの生徒達が緑の小道や葉の茂る森の細道や牧場を縫う道へと思い思いに散ってゆくのを、あとに残されたクィーン組は窓から恨めしげに見送った。ラテン語の動詞やフランス語の問題に対しても、きびしい冬の間に抱いていた興味や熱意がどうやら薄れてくるのをどうすることもできなかった。アンやギルバートさえ、だれてきて、前ほど勉強に打ちこまなくなった。先生も生徒も、学期が終わり、楽しい休暇の日々が行手にばら色に繰りひろげられた時に、ともに喜んだ。
「でもみんなはこの一年というものよくやりましたよ」と最後の夕方ミス・スティシーは一同に告げた。「だから存分に楽しい休暇を送っていらっしゃい。戸外で思いきり愉快に過ごしなさい。来年度にやりぬけるだけの健康と活力と大望をたっぷり蓄えていらっしゃい。何しろ決戦の年ですからね――入試に備える最後の年ですよ」
「来年度も教えていただけるのですか、ミス・スティシー?」とジョーシィ・パイはたずねた。
ジョーシィ・パイは質問をするのをためらったことはなかった。この場合クラスのほかのものはジョーシィに感謝した。皆質問したいと思いながら誰一人ミス・スティシーにたずねかねていたのだった。というのはしばらく前から学校中に驚くべき噂がひろまっていて、ミス・スティシーは来年度には戻って来ない――生まれ故郷の町の学校で教えないかと言われ、承諾するつもりらしいと言われていたからだ。クィーン組の生徒達は不安におののきながら、じっと息をこらして先生の答に耳をすませた。
「ええ、そのつもりですよ」とミス・スティシーは答えた。「ほかの学校に移ろうかとも思いましたが、アヴォンリーに戻ることにきめたのです。実を言えば、この学校の生徒達のことが気になって、とてもほかへ行く気になれなかったのです。だからこの学校にいて、みんなの卒業を見届けますよ」
「万歳!」とムーディ・スパージョンが言った。ムーディ・スパージョンはこれまでそんなに我を忘れて叫ぶほど、感情的になったことがなかったので、それから一週間というもの、そのことを思い出すたびに頬《ほお》をあからめてそわそわしていた。
「ああよかった」とアンは眼を輝かせながら言った。「ミス・スティシー、もし先生がお戻りになれないとなると、ほんとうにたいへんなことになったと思うわ。別の先生じゃ、勉強をつづける気になれないかもしれないんですもの」
その晩家に帰ると、アンは教科書を全部屋根裏の古いトランクの中に入れ、かぎをつけ、そのかぎを毛布の箱に投げこんだ。
「お休みの間は教科書は見るつもりもないの」とアンはマリラに言った。「あたし学期中は精一杯勉強したし、幾何ときちゃ巻一の定理はすっかり暗記するほどやったから、記号が変わっても心配ないわ。頭を使うことはもうあきあきしたから、夏の間は想像力をうんとのばすことにするの。あら、マリラ、びっくりしなくてもいいのよ。一定の範囲内でのばすだけですもの。でもあたし、今年の夏はほんとうに思う存分愉快に遊ぶつもりよ。だってあたしが子供で通るのはこの夏が最後かも知れないでしょう。リンドのおばさんは、あたしが来年も今年の割で背がのびてゆくなら、もっと長いスカートにしなきゃいけないって言うの。あたしは眼と脚ばかりになりそうだって。そして長いスカートをはくとなると、それに見合うような暮らし方をしなきゃならないし、子供っぽくちゃおかしいでしょう。そうなると妖精を信じることもできなくなるんじゃないかしら。だからこの夏は心底から思いきり信じることにするの。今年の夏休みはとても賑やかになりそうよ。ルビー・ギリスはすぐに誕生日のパーティをするって言うし、教会学校のピクニックがあるし、来月は、宣教師のためのコンサートもあるの。そしてミスター・バリーがおっしゃるには、そのうちダイアナとあたしをホワイト・サンドのホテルへ連れて行ってディナーをご馳走してくださるんですって。あそこのディナーは夕方なのね。ジェーン・アンドルーズは去年の夏一度行ったことがあるの。電燈や花や、きれいに着飾った女のお客さんを見るのはまぶしいくらいなんですって。ジェーンは上流の人達の暮らしを見たのはあれが最初で、死ぬまで決して忘れないだろうって言ったわ」
リンド夫人は翌日の午後、マリラが木曜の後援会の集まりに休んだので、様子を見にやって来た。マリラが欠席する時は、何か「グリーン・ゲイブルズ」によくないことが起こったのだということを皆知っていたのである。
「木曜にマシュウが心臓の発作を起こしましてね」とマリラは説明した。「マシュウを置いて出かける気になれなかったんですよ。ええ、もちろん、今はすっかり元気になりましたがね、でも昔より発作の回数が増えているので心配なんです。医者は興奮するようなことは避けるように言ってますがね。それなら容易《たやす》いことですよ。マシュウは自分で興奮の種を探しまわるようなことは全然ありませんからね。でもあまり力仕事はいけないそうですよ。それにあの人に働くなって言うのは息をするなというのと同じですからね。さあ、お荷物はこちらへ。お茶をつきあってくださるんでしょう」
「そういうことなら、ご馳走になろうかしらね」とレィチェル夫人は言ったが、もともとそのつもりでやって来たのだった。
レィチェル夫人とマリラが客間でくつろいでいる間にアンはお茶をいれ、ビスケットをこしらえたが、さすがのレィチェル夫人も文句のつけようがないほど、軽くてまっ白にできあがっていた。
「アンはほんとにいい子になったもんだね」とマリラが夕方小道のはずれまで送って出た時にレィチェル夫人は言った。「とても手助けになるでしょうね」
「そうなんですよ」とマリラは言った。「それに今じゃすっかり落着いて、頼もしくなりました。あの子のそそっかしいやり方はとても直らないかと気にしたもんですよ。それがすっかりなくなりましたからね、今じゃ何でも任せることにしていますよ」
「三年前にここで初めて会った時には、こんなによくなるなんてとても思えなかった」とレィチェル夫人は言った。「まったくのところ、あの子のかんしゃくは未だに忘れられないものね。あの晩家へ帰ってトマスにこう言いましたよ。『いいですか、トマス、マリラ・カスバートは今にきっと自分のしたことを悔やむでしょうからね』とね。でもわたしの考え通りにならなくて、ほんとによかったと思いますよ。わたしはね、マリラ、自分で間違ってもそれを認めないようなたちの人間じゃありませんよ。そんなことはこれまで唯の一度もないからね。わたしのアンを見る眼は確かに間違っていたけど、それも当然でしょう。世の中にあんなに風変わりで、思いもよらないことを仕出かす子供なんているもんじゃないからね、まったくほかの子供と同じ物差しで計ろうたって計れるもんじゃありませんよ。この三年間のあの子の変わり方はまったく驚くほかはないけれど、特に見つきがよくなりましたね。ほんとにきれいになったこと。もっともわたしはあの子みたいに青白くて眼の大きいタイプはあんまり好かないけどね。ダイアナ・バリーやルビー・ギリスみたいにもっと元気で血色のいい方が好きですよ。ルビー・ギリスの顔はまったく目立つからね。でもどういうわけか――わたしには見当がつかないけれど、アンとあの子達が一緒にいると、アンはあの子達の足もとにも寄れないはずなのに、あの二人の方がありふれて、しつっこいように見えるのはどういうわけかしらね――まあ大輪のまっ赤なしゃくやくと並んだ、清そな白い水仙の花とでも言うところだろうね、まったく」
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第三十一章 小川の合流点
アンは[すばらしい]夏を過ごし、心ゆくまで楽しんだ。アンとダイアナとはほとんど戸外で暮らし、「恋人の小道」や「ドライアドの泉」や、「ウイロウミア」やヴィクトリヤ島が与えてくれる喜びを存分に味わった。マリラはアンがあちこち飛び廻るのに少しも反対しなかった。ミニー・メイが喉頭炎を患《わずら》った夜やって来たスペンサーヴェイルの医者が休暇の初め頃のある日の午後、患者の家でアンに会い、しげしげアンを見つめ、口元をゆがめて首を振り、人づてにマリラ・カスバートに言ってよこしたのだった。
「お宅の赤毛の女の子を夏じゅう戸外で過ごすようにしむけなさい。もっと活発に跳び廻るようになるまで、一切書物に近よらせてはいけません」
この伝言はマリラをすっかり震え上がらせた。きちんと言われた通りにしないと、アンは肺病で死んでしまうと言われたような気がしたのだ。その結果、のびのびと遊び廻るという意味では、この上ない夏休みをアンは迎えることになった。アンは心ゆくまで歩き廻り、舟を漕ぎ、いちごを摘み、夢想にふけった。そのため九月になった時には、アンはきらきらした眼を輝かせ、敏捷そのものの姿で、スペンサーヴェイルの医師も文句のつけようがないような軽やかな足どりと、以前と同じく大望と熱意にあふれるばかりの心をもった娘になっていた。
「あたし、根《こん》限り勉強したくなったわ」とアンは屋根裏から書物をおろしながら言った。「ああ大切な旧友達よ、お前達のりっぱな顔をみてうれしいわ――ええ、幾何さん、お前もよ。ほんとうに申し分のないくらいすばらしい夏だったわ、マリラ。先週の日曜のミスター・アランのお説教のように、あたしはつわ者として競争に喜び勇んで出てゆくの。ミスター・アランはすばらしい説教をなさると思わない? リンドのおばさんはね、ミスター・アランが日一日とりっぱになってゆくから、今にどこか大きな町の教会が引き抜いてゆくに違いない、そしてあとにのこされたあたし達は仕方がないから誰か新米の牧師さんを連れてきて訓練することになるって言うの。でもあたし、取越し苦労をする必要はないと思うけど、マリラはどう思う? ミスター・アランがいらっしゃる問は喜んでお説教を伺えばいいと思うわ。あたしが男なら、牧師さんになりたいわ。もししっかりした神学さえあれば人々にとてもいい影響を及ぼすことができるんですものね。それにりっぱなお説教をして、聞き手を感動させるなんて、とても胸がわくわくするわ。どうして女は牧師になれないの、マリラ? あたし、リンドのおばさんに聞いたの。そしたらおばさんはびっくりして、とんでもないことだって言うの。おばさんはね、米国にはひょっとしたら女の牧師さんがいるかもしれない、たぶんいたと思うが、カナダでは幸いにもまだそんなところまで行っていないし、今後もなってほしくないって言うの。でもあたしはそうは思わないわ。あたし、女の人はすばらしい牧師になれると思うの。親睦会でも教会のお茶の会でも、そのほか寄付金を集めるとなると、婦人会が活躍することになるでしょう。あたし、リンドのおばさんなら監督のベルさんに負けないくらいりっぱなお祈りができるし、お説教の方だってちょっと練習すればやれると思うわ」
「そうだね、わたしもそう思うよ」とマリラはそっけなく言った。「今だって結構お説教みたいなものを年中やってるよ。レィチェルが見張っているから、アヴォンリーじゃ誰も曲がった方向へそれる恐れはないようなものさね」
「マリラ」とアンは急に声をひそめて言った。「あたし、マリラに話があるの。そしてマリラの意見を聞きたいの。あたし、とっても気になっていたの――つまり、日曜の午後みたいに、特にそういう問題を考える時にね。あたし、ほんとうにいい子になりたいと思うの。そしてマリラとかミセス・アランとか、ミス・スティシーと一緒にいると、いつもより以上にそう思うの。そしてマリラに喜んでもらえることとか、マリラがほめてくれるようなことをしたいと思うのよ。でもリンドのおばさんと一緒にいると、あたしとても悪い人間になったような気がして、おばさんがしてはいけないっていうことをしたくなるの。どうにも押えがきかないほど強い誘惑を感じるのよ。でもね、いったいどうしてそんな気になるのかしら? あたしがほんとうに悪い人間で罪深いせいかしらね?」
マリラは一瞬とまどった様子だった。それから笑い出した。
「もしお前が悪人なら、わたしも同じことだろうよ、アン、だってレィチェルはまったくお前が言うのと同じような気分にわたしをさせることがよくあるんだよ。わたしは時々思うんだけど、レィチェルがあんなにしょっちゅう皆に正しいことをしろってうるさく言うのをやめれば、お前の言う通り、もっといい感化を人に与えるかも知れないとね。ああいううるさい小言に対する特別な戒めがあってもいいんだよ。でもまあわたしもこんなことは言わない方がよさそうだ。レィチェルはりっぱなクリスチャンだし、よかれと思ってしていることなんだから。アヴォンリー中探したって、あんな親切な人はいないし、あの人は自分に割り当てられたことをなまけたりは絶対しないしね」
「マリラも同じように感じていることがわかって安心したわ」とアンはきっぱり言った。「とてもうれしいの。これからはこの問題であんまり気をもまないことにするわ。次から次へと色んなことが起こるものね――つまり心配事のことよ。一つ片がついたと思うと、ちゃんと次のが待っているんだもの。大人になり始めると、あれこれ考えたり、決心したりしなければならないことがいっぱいあるものね。年中よく考えたり、どれが正しいか決めなくちゃならないからとても忙しいわ。大人になるって生やさしいものじゃないわね、マリラ。でもあたしにはマリラやマシュウや、ミセス・アランやミス・スティシーのようなすてきな人達がついているんだからりっぱな大人にならなくちゃね。もしうまくゆかなければ自分のせいに決まってるわ。たった一度しか機会がないと思うと、とても責任を感じるわ。ちゃんとした大人になれなくても、後戻りして、もう一度やり直すわけにはいかないんですもの。あたし、この夏に二インチ背がのびたのよ、マリラ。ミスター・ギリスがルビーのパーティで計ってくださったの。新しい服を長目に作ってもらってほんとうによかったわ。あの濃い緑色の服はとてもすてきね、それに裾の方にひだをつけてくれてうれしいわ。もちろん、なくったってすむことはわかってるけれど、裾ひだはこの秋の流行だし、ジョーシィ・パイは自分の服に全部つけてるの。あたし、自分のにもついてると思うと、勉強に身がはいるわ。あの裾ひだのおかげで、心の奥底まで安らかになれそうよ」
「あれはつけるだけの値打はあるね」とマリラは相づちを打った。
ミス・スティシーはアヴォンリーの学校に戻って、自分の生徒達がもう一度勉強に熱意をもやしているのを知った。特にクィーンの組は戦《いくさ》に備えて気をひきしめて立向かおうとしていた。というのは翌年の終わりに、「入学試験」という恐るべきものがその姿をあらわして、みんなの行手に既に暗い影をおとし始めていたからだ。誰も彼も、試験のことを思うだけで、ずしんと気が重くなるのだった。もし試験に落ちるようなことがあったら! アンはそうした考えにその冬の間中ずっととりつかれた。日曜の午後ともなればなおさらだった。そのため、倫理的な問題や神学上のそれも、まったくといっていいほどおろそかになった。悪い夢というと、入試の合格発表をしょんぼりと見つめている時で、ギルバート・ブライスの名前が一番という晴れがましい場所に載っているというのに、自分のはどこにも見つからないからだった。
しかしいずれにしても楽しく、忙しい、恵まれた冬がまたたく間に過ぎ去って行った。授業は昔と同様、興味を惹くものであり、クラスの間の競争もまた盛んであった。思考と感情と大望の新しい世界と、新鮮で魅力に富んだ知識の新たな分野が、アンの眼前にぐんぐん広がってゆくように思われた。
「山また山のにぎわいに
アルプスもまた十重二十重《とえはたえ》」
こうしたことの多くは、ミス・スティシーの巧みな、注意深い、寛大な導きによるものだった。生徒達が自分で考え、調べ、発見するようにしむけるとともに、既に踏み固められた道にとらわれないようにすすめることも辞さなかったので、リンド夫人や学校の理事などはひどく衝撃をうけた。既成の方法を無視して新しいものに手をつけることには、みな疑惑を棄てきれなかったからだ。
勉強のほかに、社交の面でもアンは進出した。マリラが、スペンサーヴェイルの医者の診断を心に留めて、時折外出することに反対をとなえなくなったからだ。討論会はますます発展し、時折コンサートが催された。大人のものと区別しにくいようなパーティも一つや二つはあった。そりで外出したりスケートに出かけることもしょっちゅうだった。
その間もアンはぐんぐん成長した。あまり背ののび方が著しいので、或る日のこと、たまたまアンのかたわらに立ったマリラは、アンが自分より背が高いことを知り、びっくりした。
「おや、アン、大きくなったね!」とマリラは自分の眼を疑うかのように言った。そう言い終わらぬうちに溜息がマリラの口からもれた。アンの背がのびたことにマリラは奇妙にも落胆を禁じ得なかった。マリラがあれほど愛した小さな子はいつの間にやら消え失せ、その代りにこの思慮深い額をし、頭を昂然とあげた、背の高い、真剣なまなざしの十五歳の少女が姿を現わしたのだ。マリラはあの子供に注いだと同じ愛をこの娘にも与えたものの、何かを失ったという奇妙な悲しみをおぼえた。それでその晩アンがダイアナと連れ立って祈祷《きとう》会に出かけたあと、あの夕闇の中に一人坐したマリラは、思うままにむせび泣いた。明りを提げて帰宅したマシュウはそうしたマリラを見て、びっくりぎょうてんしてまじまじとマリラをみつめたので、マリラは涙を拭《ぬぐ》いながらも笑い出したほどだった。
「アンのことを考えていたんですよ」とマリラは説明した。「ほんとにすっかり大きくなってしまって――それに来年の冬にはたぶん家を離れるでしょう。とても淋しくなると思いましてね」
「しょっちゅう帰ってこられるさ」とマシュウは慰め顔に言った。マシュウにとっては、アンは今も昔も変わりなく自分が四年前の六月の夕方、ブライト・リヴァから連れ帰った、小さな熱っぽい女の子なのだった。
「その頃までには、カーモディまで支線ものびることだし」
「ずっと手許に置いているようなわけにはゆかないでしょうよ」とマリラはほうっと重い吐息をついた。もっと思いきり悲しみに浸っていたいと思ったからだった。「でもね、男にはこういうことはわからないものですよ」
外見の変化に劣らず、目立って変わった点がほかにもアンの上に見られた。一つには、前より無口になったことだった。物を思う点では前以上だったし、夢想に耽ることも変わりはなさそうだったが、口数だけは目立って減った。マリラはそのことに気づき、口にも出して言った。
「昔の半分もおしゃベりをしなくなったね、アン、それに大げさな言葉もうんと数が減ったようだし。いったいどうしたというの?」
アンは頬を赤らめ、ちょっと笑うと、本を伏せて、うっとりと窓の外を眺めた。つたには大きな赤い芽が春の日光に誘われて、今にもほころび始めようとしていた。
「自分でもわからないの――前ほどしゃべりたくないのよ」とアンは考え深げに人さし指であごをつつきながら言った。「大事なことで、すてきな考えが浮かんだら、そっと心の中にしまっておくの、宝石みたいにね。そのことで人から笑われたり、かれこれ言われたくないの。それにどういうわけか、大げさな言葉を使う気がしなくなったの。でもちょっと淋しい気がするわね。だってあたしもこんなに大きくなったから、その気になればいくらでも使えるはずなんですもの。大人に近づくということはある意味では面白いけど、あたしが思っていたのとは違うみたいね、マリラ。知らなければならないことや、したり考えたりすることがありすぎて、大げさな言葉にまで手が廻らないの。それにミス・スティシーが、簡潔な言葉の方がずっと力強くていいっておっしゃるの。論文を書く時にはできるだけ簡潔にするようにって。はじめは難しかったわ。これまでは頭に浮かぶ限りの、りっぱな大げさな言葉をずらりと並べるくせがついていたでしょう――それにまたいくらでも出てくるものだから。でも今はすっかり慣れたし、短い方がずっといいって気がするの」
「お前達の物語クラブはどうなったんだい。もう長いこと話題にのぼらないようだね」
「物語クラブはもう解散したの。とても暇がなくなったのよ――それにみんなあきたんじゃないかしら。恋とか殺人とか駆け落ちとか不思議な事件とか、そんなことばかり書いてるのはばかげているわ。ミス・スティシーもたまには作文の練習に物語を書くようにおっしゃることがあるの。でもアヴォンリーのあたし達の生活に起こるかも知れないようなことしか書いてはいけないの。そしてとてもきびしく批評してくださるし、めいめい自分でも批評させられるのよ。自分の書いたものの欠点を探し始めるまでは、こんなにたくさんあるなんて思いも寄らなかったわ。とても恥ずかしいのでもう一切書くまいと思ったの。でもミス・スティシーは、自分に対して誰よりもきびしい態度がとれるようにさえなれば、うまく書けるようになるだろうっておっしゃったの。だから今一生懸命やっているところよ」
「入試まではもう二月《ふたつき》しかないね」とマリラは言った。「うまく合格すると思うかい?」
アンは身震いした。
「わからないわ。大丈夫だって気がする時もあるけど――とても恐くなることもあるの。みんな一生懸命やってるし、ミス・スティシーも徹底的にしつけてくださるのよ。それでもみんながみんな通るとは限らないわ。めいめい不得手なものがあるの。あたしのはもちろん幾何だけど、ジェーンはラテン語、ルビーとチャーリーは代数、ジョーシィは算術よ。ムーディ・スパージョンは英国史で失敗しそうな気がしてしょうがないんですって。ミス・スティシーは六月に入試と同じくらい難しい試験をして、同じくらいきびしい採点をするっておっしゃるの。そうすれば、見当がつくでしょう。早くすんでしまうといいと思うわ、マリラ。始終頭にこびりついて離れないの。ときどき夜中に眼がさめると、落ちたらどうしようと心配になるわ」
「そりゃ、もう一年学校ヘ行って、次の機会を待つだけさ」とマリラは平然と言った。
「あら、とてもそんな勇気はないわ、落ちたらとても恥ですもの。特にもしギルが――もしほかの人達が入ったらね。それに試験っていうと、とてもあがるたちだから、きっとへまをやるにきまってるわ。ジェーン・アンドルーズみたいな神経がほしいわ。あの子は決してあわてないの」
アンは溜息をついた。そして魅惑に溢れた春の世界、人の心を誘うような微風と、青く晴れわたった空、庭にもえ出した緑の草木などから眼をそらすと、決然として書物に没頭した。春はこれからも幾度かめぐってくるが、もし入試に合格しなければ、二度と再び春を心から楽しむことはないように思えたからだった。
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第三十二章 合格発表
六月が終わりを告げるとともに学期末がやってきた。そしてそれはミス・スティシーのアヴォンリー校における在職期限がきれる時でもあった。アンとダイアナはその晩ひどく深刻な顔つきで家路についた。赤く泣き腫らした眼とぬれたハンケチは、ミス・スティシーの別れの挨拶が、三年前ミスター・フィリップスが同じような場合に述べたものに劣らず、生徒達の心を動かしたことの何よりの証拠だった。ダイアナは、えぞ松の丘の麓から校舎をふり返り、深い溜息をついた。
「これで何もかも終わったみたいじゃない?」とダイアナは淋しそうに言った。
「でもあたしよりずっとましよ」とアンは言いながら、ハンケチのまだぬれていない所をさぐったが無駄だった。
「あんたは新学期が始まればまたここに来られるわ。でもあたしは懐かしい母校に永久に別れを告げるかも知れないんですもの――もっとも、運がよければの話だけど」
「でもすっかり変わってしまうのよ。ミス・スティシーはいらっしゃらないし、あんたもジェーンもルビーもたぶんいなくなるでしょう。あたしはぽつんと一人ぼっちですわることになるのよ。あんたのあとではほかの人と並ぶ気はしないわ。ああ、ほんとうに楽しかったわね、アン。もう何もかも終わりだと思うとたまらないわ」
大粒の涙が二筋ダイアナの鼻筋をつたわった。
「あんたが泣くのをやめなければどうしようもないわ」とアンは懇願するように言った。「ハンケチをしまおうとすると、あんたの眼が涙でいっぱいになるのがわかって、あたしの方もまた泣きだしてしまうのよ。リンドのおばさんの言葉じゃないけど、朗らかにはなれないにしても、できるだけそうなるように努めるほかはないわね。結局、新学期には戻ることになりそうよ。受かりそうもないってことが眼に見えてるって感じ。こんな気分になることしょっちゅうよ」
「だって、ミス・スティシーの試験の成績、すばらしかったじゃない?」
「ええ、でもあの時は全然あがらなかったの。本番のことを考えただけで、胸の中がすっと冷たくなって、動悸がしてくるの。それにあたしの受験番号ったら十三番でしょう。ジョーシィがとても悪い番号だっていうの。あたしは迷信なんか気にしないたちだし、番号なんて関係ないと思うの。でも十三でなければよかったっていう気はするわ」
「一緒に行けたらいいのにね」とダイアナは言った。「うんとすばらしいことができるかも知れないわ。最後の追い込みで大変でしょう?」
「ええ、ミス・スティシーは教科書を絶対開けないようにっておっしゃったの。疲れるし、間違いのもとだからですって。試験のことは考えずに、散歩でもして、夜は早く寝るようにっておっしゃるの。その方がいいとは思うけど、守れそうもないわ。忠告ってそういうものね。プリシー・アンドルーズは試験の間中、夜中まで起きていて、必死になって詰めこんだんですって。だからあたしも、せめてプリシーと同じくらいには起きているつもりよ。あんたのジョセフィンおばさんが、試験中『ビーチ・ウッド』に泊まってもいいって言ってくださったので助かるわ」
「町にいる間に手紙くれるわね」
「火曜の晩に、第一日目の様子を知らせるわ」とアンは約束した。
「水曜に郵便局の辺りで待ってるわ」とダイアナは誓った。
アンは次の月曜は町へ発った。そして約束通り水曜に郵便局の辺りをうろついていたダイアナは手紙を受け取った。
ダイアナヘ(と、アンは書いてよこした)
今は火曜の晩よ。あたしは今「ビーチ・ウッド」の読書室でこの手紙を書いてるの。ゆうべは部屋で一人ぼっちでとても淋しかったわ。あんたがいてくれればと思ったわよ。ミス・スティシーに約束した以上、詰めこみはできなかったわ。でも歴史の本を見ずにいるのは、勉強がすむまで物語を読まないでいるのと同じくらいに辛かったわよ。
今朝はミス・スティシーが迎えに来てくださって、途中ジェーンとルビーとジョーシィの所に寄ってから学校に行ったの。ルビーが手にさわってみてって言うの。氷みたいに冷たかったわ。ジョーシィはあたしのことを一睡もしていないみたいだなんて言うの。そしてね、たとい試験に受かっても師範科のきびしい勉強には体力的に堪えられないだろうですって。あたし、ジョーシィ・パイを好きになろうと思っても、どうしても無理みたいよ。学校に着くと、島の各地から集まった生徒達がいっぱいいたわ。最初に会ったのはムーディ・スパージョンで、階段に腰をおろして、一人でぶつぶつ言ってたの。ジェーンがいったい何をしてるのって聞くと、気を落着けるために九九の表をくり返し言ってるところなんだから、決して邪魔をしないでくれって言ったの。ちょっとでも途中でやめると気が転倒して、これまでおぼえたものも全部忘れてしまいそうだけど、九九の表をくり返していれば、それぞれみんな適当な場所にちゃんとおさまっているって言うの。
部屋の割当がすむと、ミス・スティシーはお帰りになったの。ジェーンとあたしは一緒の席についたけど、ジェーンがあまり落着いているので羨ましかったわ。しっかりしていて、落着いた、分別のあるジェーンには九九の表なんていらないのよ! ほかの人の眼にも、あたしの胸のうちがわかるんじゃないか、部屋の向こう側にいても、あたしの胸の鼓動が聞こえるんじゃないかってとても気になったわ。そのうち男の人が入って来て、国語の試験用紙を配り始めたの。それを受取った時には、手が冷たくなるし、頭がくらくらしたわ。ほんの一瞬間だけど、とても恐ろしかったわ――ダイアナ、その時の感じは四年前にマリラに「グリーン・ゲイブルズ」においてもらえるのかどうか聞いた時とまったく同じよ――そのうちに頭がはっきりしてきて、心臓の鼓動ももとに戻ったの――言い忘れてたけど、それまですっかり止まっていたのよ! ――その試験なら何とかなるとわかっていたからよ。
お昼にいったん食事に戻り、午後は歴史の試験をまた受けに行ったわ。歴史はかなり難しくて、年号がすっかりごちゃまぜになってしまったの。でもあたし、今日はかなりうまくできたと思うの。でもね、ダイアナ、あしたは幾何の試験があるの。そのことを思うと、幾何の本を開けないようにするには、一大決心が必要よ。もし九九の表が役に立つなら、明日の朝までずっと言い続けたいくらいよ。
今夜、ほかの女の子達に会いに行ったわ。途中、ムーディ・スパージョンが気もそぞろに歩き廻っているのに出会ったの。あの子ったら、歴史は駄目だった、自分は両親を失望させるために生まれてきたようなものだ、朝の汽車で帰るつもりだって言うの。そして、どのみち、牧師になるよりは大工になる方が楽だなんて。あたしはムーディを励まして、最後までちゃんといるように説得したの。でないとミス・スティシーに悪いからって。あたし、男の子に生まれればよかったって思うこともあるけれど、ムーディ・スパージョンを見ると、いつも自分が女の子で、それもムーディの妹でなくてよかったと思ってしまうの。
女の子の宿舎に行ってみると、ルビーはヒステリーを起こしていたわ。国語の試験でとんでもない間違いをしたことがたった今わかったんですって。ルビーの発作がおさまった時に、みんなで町へ出て、アイスクリームを食べたの。あなたが一緒だとどんなにいいだろうって話し合ったのよ。
ああ、ダイアナ、幾何の試験さえすんでしまえば! だけどリンドのおばさんの言う通り、あたしが幾何で失敗しようとしまいと、太陽は相変わらず昇ったり沈んだりするわね。そうに違いはないけれど、あんまり慰めにはならないわ。失敗したら、太陽がどうにかなってほしいと思うくらいよ!
アンより
幾何の試験もほかのものもやがて一切終わりをつげ、アンは金曜の夜帰宅した。多少疲れの色をみせながらも、全力をつくしたという落着きがみられた。アンが戻るとダイアナは「グリーン・ゲイブルズ」に出かけたが、二人の再会はまるで何年も会わなかった人のようだった。
「まあアン、お帰りなさい。あんたが町に出かけてから、とても経ったような気がするわ。ああ、アン、試験はどうだった?」
「幾何を別にすれば、まあまあというところよ。幾何だけは、受かったかどうかもわからないけど、どうも駄目じゃないかって、いやな予感がするの。ああ、帰って来てほんとにうれしいわ。『グリーン・ゲイブルズ』ほどすばらしい所はないわ」
「ほかの人達はどう?」
「女の子達はとても受かりそうもないって言ってるけど、みんなかなりよさそうよ。ジョーシィったら、幾何はとてもやさしかったから、十の子供でもできるだなんて! ムーディ・スパージョンは今だに歴史が駄目だったって言ってるし、チャーリーは代数で失敗したって言ってるわ。でもほんとのところは誰にもわからないし、合格発表があるまでは無理よ。あと二週間もあるのよ。こんな不安な気持で二週間暮らすなんて考えてもごらんなさい! すっかりすむまで眠りつづけて、眼がさめないといいと思うわ」
ギルバート・ブライスの出来具合を聞いても無駄なことがわかっていたので、ダイアナはただこう言った。
「あら、あなたは大丈夫よ。心配はいらないわ」
「いい成積でなくちゃ受からない方がましなくらいよ」とアンは言ったが、それはギルバート・ブライスより成積が上でなければ、せっかく受かってもあまりうれしくないし、かえって辛いという意味だった――ダイアナにもそれはよくわかっていた。
こうした目的を抱いて、アンは試験の間じゅう全力をつくしてやったのだった。ギルバートの方も同じだった。二人は町で何度もすれ違ったが、知らん顔をしてゆきすぎた。その度《たび》にアンはつんと頭をそらしながらも、心の中では向こうが言いだした時に、ギルバートと仲直りをしておけばよかったという思いが一段とつのるのを感じ、試験ではギルバートを打ち負かそうという決意をなお一層強めた。アンにはアヴォンリーの若い人達が、二人のうちどちらがよい成積をあげるかに関心をよせていることがわかっていた。それどころかジミー・グローバーとネッド・ライトがこの問題に賭をしていることや、ジョーシィ・パイが、ギルバートが勝つにきまっていると言ったことまで知っていた。それにもし自分が失敗すれば、恥ずかしくていたたまれないだろうという気がした。
しかしアンがよい成積をあげたいと願うのには、これとは別の、もっとりっぱな動機があった。アンはマシュウとマリラのために――特にマシュウのために――よい成積で合格したいと願ったのだった。マシュウはアンに向かって、アンが「島中の受験生を打ち負かすだろう」という確信を述べていた。どんなに高望みをしたところで、そこまではとても手が届かないとアンは思った。しかしせめて最初の十番以内に入って、マシュウのやさしい茶色の瞳が、アンの成功をみて誇らしげに輝くのをみたいものだと心から願っていた。それこそこれまでの辛い勉強や、面白くもない方程式や動詞の活用を辛抱強く学んできたことに対する、この上ない報いだという気がした。
二週間がすぎると、ジェーンやルビーやジョーシィなどの気が気でない連中と一緒に、アンもまた郵便局参りを始め、シャーロットタウン日報を、ふるえる手で、入試の間に経験したのと同じ、地の底に引きずりこまれるような気分で開くのだった。チャーリーとギルバートも同じことをせざるを得なかったが、ムーディ・スパージョンだけは断乎としてこの仲間に加わらなかった。
「あそこに行って平然と新聞を見る勇気がないのさ」と彼はアンに言った。「ぼくは家《うち》にいて、受かったとか落ちたとか、不意に誰かが言いに来てくれるのを待つことにするよ」
三週間が過ぎても依然として合格発表がないので、アンにはもうこれ以上緊張に堪えられないような気がし始めた。食欲がなくなり、アヴォンリーの出来事にもさっぱり関心がもてなくなった。リンド夫人が、保守党の教育長が責任者じゃこれ以上のことは考えられないと言うので、アンの青ざめた顔や元気のない様子、毎日午後になると郵便局から帰る時の、のろのろした足どりが気にかかったマシュウは、この次の選挙の時には、革新派に投票した方がよさそうだと本気で考え始めた。
しかしある日の夕方、ついに知らせは来た。アンは開けはなした窓辺にすわり、しばらくの間は入試の心配もこの世の煩わしさも忘れて、下の庭から漂ってくる花の香りにやさしく包まれ、風にそよぐポプラの葉ずれの音に耳を傾けながら、夏の夕暮の美しさに陶然としていた。樅の木の梢の上に広がる東の空は西の反射でかすかなピンクに染まっていた。アンが、色の精とはこんなものかなどと、ぼんやり考えていると、ダイアナが手に新聞をひらひらさせながら樅の林をぬけ、丸木橋をわたり、坂道を飛ぶようにかけ上がって来るのが眼に入った。
アンは飛び上がった。その新聞に何が出ているかを即座に悟ったからだった。合格発表があったのだ! 頭はくらくらし、胸は早鐘のように打ち、きりきり痛いほどだった。アンはその場に釘づけにされた。ダイアナがホールを走りぬけ、興奮のあまり、ノックすることも忘れて部屋に跳びこんで来るまで、一時間もかかったような気がした。
「アン、合格よ」とダイアナは叫んだ。「それも一番よ――あんたとギルバートと二人――同点だったのよ――でもあんたの名前が先に出てるわ。ああ、あたしとてもうれしいわ!」
ダイアナはテーブルに新聞をほうり出すと、アンのベッドに身を投げた。すっかり息切れがして、それだけ言うのが精一杯だったのだ。アンは明りをつけようとしたが、マッチ箱をひっくり返し、六本のマッチを無駄にしたあげく、震える手でようやく目的を達することができた。それからアンは新聞を急いで取り上げた。そうだ、確かに受かっていた――二百人の合格者の一番先頭にアンの名前が載っていた! その瞬間、アンは生き甲斐を胸一杯に味わった。
「ほんとによくやったわね、アン」と息切れがおさまって、からだを起こし、物が言えるようになったダイアナが言った。眼をきらきら輝かせ、有頂天になったアンは一言も口をきかなかったからだ。「十分かそこら前に、お父さんがブライト・リヴァから新聞をもち帰ったの。午後の汽車で着いたんだから、ここに着くのは郵便だと明日になるのよ。そして合格発表が出ていたもんだから、夢中で飛んで来たの。あんた達、みんな一人残らず合格よ。ムーディ・スパージョンも含めてね。でもあの子は歴史は条件つきだけど。ジェーンとルビーはかなりいい成績よ――真中より上ですもの――チャーリーも同じだわ。ジョーシィは三点のところでかすかすに受かったんだけど、あの子のことだから、一番で通ったような横柄なふうをするにきまってるわ。ミス・スティシーが喜ぶと思わない? ああ、アン、一番で合格っていうのはどんな気持ち? あたしだったら、うれしくて頭がおかしくなりそうだわ。今だって、どうにかなってしまいそうだけど、あんたときたら春の泉みたいに落着きはらって平気な顔をしてるわね」
「心の中はその反対よ」とアンは言った。「言いたいことはいっぱいあるの。そのくせそれを表わす言葉が見つからないのよ。本当に思いがけなかったわ――いいえ、考えたことはあるの。たった一度だけ! 一度だけ『もし一番になったらどうしよう』ってぶるぶる震えながら考えたの。だってそうでしょう、あたしが島中で一番いい成績をとるなんて思っただけで高慢で生意気なことですもの。ちょっと待っててね、ダイアナ。あたし一走り畑に行って、マシュウに言ってこなくちゃ。そしたら街道へ出てこのすばらしい知らせをほかの人達にも届けましょうよ」
二人はマシュウが乾草を束ねている納屋の裏手の乾草の原へ馳けて行った。するとまったくおあつらえ向きに、リンド夫人が小道の柵によりかかって、マリラと話していた。
「ああ マシュウ」とアンは叫んだ。「受かったのよ、それも一番で――というより一番のうちの一人なの! 自慢するつもりはないけれど、とてもありがたくて」
「そうさのう、わしが言っていた通りになったなあ」とマシュウは合格者の一覧表をみつめながらうれしそうに言った。「お前なら簡単にみんなを打ち負かせると思っていたよ」
「ほんとにアン、なかなかよくやったね」とマリラはアンに対するひどく誇らかな気持をレィチェル夫人に見破られまいと気を使いながら言った。しかしこの気のいい相手は心から言った。
「まったく大したもんさね、このわたしだって心からそう思うよ。アン、あんたはわたし達みんなの名誉だということさ、とても誇りに思ってますよ」
その晩、ミセス・アランと牧師館でまじめな話をすることで楽しい夜の最後を飾ったアンは、すばらしい月光のさしこむ、開け放たれた窓辺にそっと膝まずき、胸底から溢れ出る感謝と希望の祈りを捧げた。過去に対する感謝と、未来への敬虔な願いがそこにはこめられていた。そしてまっ白な枕に頭を埋めた時には、アンの夢は、乙女の願いそのまま、清らかで輝かしく、また美しさに溢れたものだった。
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第三十三章 ホテルの音楽会
「アン、絶対にこの白いオーガンジーになさいよ」とダイアナはきっぱりとした口調ですすめた。
二人は東の切妻の部屋にいた。外はまだ暮れきってはいなかった。澄んだ雲一つない青空に、美しい黄味を帯びた緑色のたそがれがたちこめていた。白っぽい色から鮮かな銀色へと、ゆっくりその輝きを増してゆく大きな丸い月が「お化けの森」の上にかかっていた。辺りには麗わしい夏の物音が溢れていた――眠そうな小鳥のさえずり、むら気な微風、遠くから聞こえてくる人声や笑い声など。しかしアンの部屋にはブラインドがおろされ、灯がともっていた。大切なお化粧が行なわれている最中だったのだ。
東の切妻の部屋は四年前とはうって変わった光景を呈していた。あの時のアンにとって、この部屋のがらんとした様子は、つき放すような冷たさとしてアンの骨の髄にまで染《し》み通るように感じられたのだった。マリラが見て見ぬふりをしてくれたので、多くの変化がもたらされ、今では若い娘の望むような美しい優雅な巣となっていた。
アンが小さい時に夢みたような、ピンクのばら模様のビロードのじゅうたんや、ピンクの絹のカーテンなどはとうてい実現されはしなかったが、アンの夢もまたアンの成長と歩調をそろえているために、アンがそのことを残念に思うということは考えられなかった。床にはきれいな敷物が敷かれて、高窓の感じを柔らげ、あるかなきかの微風にゆれるカーテンは淡緑のモスリンだった。金銀の錦の壁掛けの代りに、りんごの花模様の美しい壁紙を張った壁面には、ミセス・アランから贈られた幾枚かの好もしい絵がかかっていた。ミス・スティシーの写真のある所が最上の場所とされ、アンはその下につき出した棚に新鮮な花を絶やさないようにつとめることで、感謝の意を表わしていた。今夜はまっ白なゆりの筒型の花が、夢のようにほのかな香りを部屋一面に漂わせていた。
「マホガニーの家具」こそなかったが、本のいっぱいつまった白い本箱や、クッションのついた柳のゆり椅子、白いモスリンのひだ飾りのある化粧台、以前は客用寝室に掛かっていたもので、かわいいピンクのキューピッドと紫色のぶどうとが、アーチ型のてっぺんに描いてある、古めかしい金の縁取りをした鏡、そして低い白いベッドが置かれてあった。
アンはホワイト・サンド・ホテルで開かれる音楽会のために着付けをしているところだった。ホテルの客がシャーロットタウンの病院を援助するために催したもので、それを成功させるために、この付近の素人のタレントを全部かり出すことになったのだった。ホワイト・サンドのバプティストの聖歌隊に入っているバーサ・サンプソンとパール・クレイは頼まれて二重唱をするはずだった。ニューブリッジのミルトン・クラークはヴァイオリン独奏を、カーモディのウィニィ・アデラはスコットランド民謡をうたうことになっていた。そしてスペンサーヴェイルのローラ・スペンサーと、アヴォンリーのアン・シャーリーが暗誦をする予定だった。
以前のアンの口をかりれば、これは「アンの生涯の一大事件」とでも言うべきものだった。そしてアンはその興奮を存分に味わっていた。
マシュウは自分のアンに与えられたこの名誉に誇らしさと喜びで有頂天になっていたし、マリラの方もその点は同感だった。ただマリラは、そんなことはどうしても口にすまいと思ったので、若い人達が大勢ちゃんとした付添いもなしにホテルに出かけるのは感心しないなどと言っていた。
アンとダイアナは、ジェーン・アンドルーズと兄のビリーと一緒に大型の馬車で連れて行ってもらうことになっていた。そしてほかにもアヴォンリーから若い人達が何人かゆくはずだった。ホテルの客以外に街からやって来る人達も大勢いて、音楽会のあとでは出演者に夕食が供されることになっていた。
「オーガンジーが一番いいとほんとに思う?」とアンは心配そうに聞いた。「青い花模様のモスリンの方がよさそうな気がするけど――それにあんまり流行の型ではないし」
「でもこの方がずっとあんたに似合うわよ」とダイアナは言った。「ふわっとしていて、ひだがたくさんあって、からだによくまつわるでしょう。モスリンはこわばっていて、いかにも着飾ったっていう感じがするの。でもオーガンジーの方はからだの一部のように自然にみえてよ」
アンは溜息をつき、ダイアナの意見に従うことにした。ダイアナは服装の趣味に秀でているという定評を得るようになり、こうした問題に関してはみんなから助言を求められていた。今夜という今夜、ダイアナは愛らしい野ばらのような白の服を身につけ、みるからに美しかった。しかもこうした服は、アンがどんなに願ってもとうてい着られそうもないものだった。しかしダイアナは音楽会には出演しないので、この場合自分の服装などどうでもよいことだった。ダイアナはアンのために精根傾け、アヴォンリーの名誉のためにも今夜のアンは、着付けも髪型も飾りも女王の好みにも比すべきものでなければならないと断言していた。
「もう少しそのひだを引き出して――そら。さあ、ベルトをしめてあげるわ。今度は靴をはくのよ。髪は二つにゆるく編んで、なかほどを白い大きなリボンで蝶結びにして束ねるの――あら、額にカールを一つでも出しては駄目よ――ふっくりした分け目をつけておくだけよ。この髪が一番あんたにはよく似合うわ、アン、ミセス・アランもね、あんたがそんなふうに分けるとマドンナのようだっておっしゃったわ。耳のうしろにこの小さな白いばらをさしておくわ。庭の茂みに一つだけ咲いてたので、あんたにとっておいたのよ」
「真珠の首飾りをしてもいい?」とアンは聞いた。「マシュウが先週町から買って来たの。きっとあたしが着けたところをみたいと思うの」
ダイアナは口をすぼめ、黒い髪をした頭をかしげて考えた末、首飾りをしてもいいと言ったので、早速アンのほっそりした乳白色の首筋にそれはかけられた。
「あんたにはどこかとてもすてきなところがあるわね、アン」とダイアナは少しも羨むふうをみせずに言った。「頭をしゃんとしているところがとてもいいわ。きっとあんたのからだつきのせいよ。あたしはデブなんですもの。前からこうなるんじゃないかと気にしてたんだけど、やっぱりそうなってしまったわ。まあ、諦めるほかはなさそうだけど」
「でもあんたにはすてきなえくぼがあるじゃない」とアンは眼の前の、かわいらしい明るい顔に向かって、優しく微笑みながら言った。「とてもかわいいえくぼよ。まるでクリームをちょっとつついたみたい。あたしはえくぼのことはすっかり諦めたの。えくぼの夢は決して実現しそうもないんですもの。でも実現した夢もたくさんあるんだから、ぜいたくは言えないわ、もうこれですっかりいい?」
「ええ、いいわ」とダイアナが答えた時、マリラが戸口に姿をあらわした。前よりいくらか髪が白くなり、ごつごつと骨ばったからだつきをしていたが、表情はずっと柔らいでいた。「どうぞ中に入って、うちの朗読家をみてちょうだい、マリラ。とてもきれいじゃない?」
マリラは鼻先きであしらっているとも、うなり声とも聞こえる声で答えた。
「さっぱりして悪くないね。その髪型は気に入ったよ。だけど、ほこりと露の中をあんなとこまで乗って行ったら服が台無しになるよ。それにこんなしめっぽい晩にしちゃ薄すぎるよ。オーガンジーってのはまったく役に立たない生地さね。マシュウが買ってきた時にもそう言ってやったよ。だけどこの頃はマシュウに何か言っても無駄なんだよ。以前はよくわたしの言うことを聞いたもんだけど、今じゃアンのものはおかまいなしに買いこんでね。それにカーモディの店の者も、マシュウには何でも押しつけられると思っているのさ。これはきれいで流行《はや》ってますって言いさえすれば、マシュウはぽんぽん金を出すんだからね。スカートが車にさわらないようにするんだよ、アン、そして暖かい上着を着て行くことだね」
そう言うとマリラは大またに下へ降りて行ったが、[額からさしのぼる月のきらめき]をもったようなアンをとてもきれいだと得意に思い、自分も音楽会に行ってアンの暗誦を聞けないのがひどく残念に思えた。
「今晩はこの服が着られないほどしめっぽいかしら」とアンは心配そうに言った。
「そんな心配はいらないわ」とダイアナは言い、窓のブラインドを上げた。「申し分のない夜よ。露だっておりないと思うわ。月光をごらんなさい」
「部屋の窓が東向きで日の出がみられるのがとてもうれしいの」とアンはダイアナの方に近づきながら言った。「あの長い丘の上に朝がやってきて、尖った樅《もみ》の梢越しにてり輝くのをみるのはとてもすばらしいの。毎朝違うのよ。そうして朝日を浴びていると、心の底まで洗い流されるようなの。ああ、ダイアナ、この小さい部屋が大好きよ。来月町へ行く時、この部屋なしでどうしてやっていけるかわからないわ」
「今夜は町へ行く話はやめましょう」とダイアナは頼んだ。「そのことは考えたくないの。とても悲しくなるんですもの。それに今夜は是非楽しくすごしたいの。今夜は何を暗誦するの、アン? それにどきどきしない?」
「全然よ。人前で何度も暗誦したことがあるから今は平気なの。『乙女の誓い』をやるつもりよ。とてももの悲しいの。ローラ・スペンサーは喜劇的なものを暗誦するんですって。でもあたしは人を笑わせるより泣かせるものをやりたいわ」
「アンコールされたら何をやるつもり?」
「アンコールされるなんて思いもよらないわ」とアンは笑いとばしたものの、内心ひそかにそうしてもらいたいと願い、翌日、朝食のテーブルで、マシュウにその話をしている自分の姿を心に描いていた。「ビリーとジェーンが来たようよ――車の音がしたわ。さあ出かけましょう」
ビリー・アンドルーズは、アンに自分と一緒に、前の席にすわれといってきかなかった。アンとしては女の子達と同じうしろの席にすわり、思いきり笑ったりおしゃべりがしたいところだった。ビリーとでは笑ったりしゃべったりすることがなかったからだ。彼は大柄で太った、神経の鈍い二十歳の若者で、丸い無表情な顔をし、ひどく話下手だった。しかし彼はアンをとても崇拝していて、このほっそりした姿のいい少女と並んでホワイト・サンドまで馬車を走らせることを考えただけで、得意満面だった。
アンは肩越しに少女達と話をしながら、時折はビリーにも愛嬌をふりまいたりして、結構ドライヴを楽しんだが、ビリーの方ではにやにやしたり、くすくす笑ったりするだけで、ただの一度もちゃんとした受け答えはできなかった。それは楽しい夜だった。街道はホテルへと向かう馬車でいっぱいだった。そして冴えわたった笑い声があちこちでこだましていた。ホテルに着くと、そこは上から下まで光り輝いていた。一同は音楽会の委員達の出迎えを受け、そのうちの一人がアンを出演者の控え室に案内してくれた。そこはシャーロットタウンの交響楽団のメンバーでいっぱいだったが、そうした人波にもまれながら、アンは急激に気おくれがし、おびえ、自分が田舎者のような気がしてきた。あの東の切妻の部屋でみた時には、あんなに優美にみえたアンの服も、ここではあっさりした粗末なものに見えた――きらびやかで、さらさら音をたてる絹やレースの華やかな衣装にまじると、あっさりし過ぎ、みるからに粗末なもののように思われるのだった。
アンの着けている真珠の首飾りは、かたわらの大柄できれいな貴婦人のダイヤモンドに比べれば何程のことがあるだろう? そしてアンのちっぽけな白いばらは、ほかの婦人達の身につけた華やかな温室咲きの花と比べて、どんなにか見劣りがすることだろう! アンは帽子と上衣をぬぎ、みじめな気持で片隅に身をひそめた。アンは「グリーン・ゲイブルズ」の白い部屋に戻りたくさえなった。
やがてアンはホテルの大きな音楽会場の壇の上に案内されたが、そこでは事態は一層悪化した。電燈の光が眼にまぶしく、香水と人々のざわめきはアンをとまどわせた。アンは自分がダイアナやジェーンと一緒に下の聴衆席にいたらどんなにいいかと思った。二人はうしろの方の席で、大いに楽しんでいるらしかった。アンはピンクの絹の服を着た、太った婦人と、白レースの服を身にまとった、人を見下したような顔つきの少女の間にはさまれていた。太った婦人は時折じろりとこちらを向き直っては、眼鏡越しにアンをじっと眺めるので、こんなふうにじろじろ見られるのがひどく身にこたえたアンは、大声で叫び声をあげなければ気がすまないように感じた。そして白レースの娘は、隣りの仲間に向かって聞こえよがしに聴衆の中の[田舎者]や[田舎娘]について話しかけ、プログラムの中の地元のタレントの出しものは、「さぞかし面白いだろう」などと、初めから投げてかかった物言いをしていた。アンは白いレースの娘を死ぬまで憎むだろうと思った。
アンにとって運の悪いことに、たまたまホテルに朗読の玄人《プロ》が滞在していて、暗誦を引き受けていた。彼女はしなやかな黒い瞳の婦人で、月光を織りなしたような光り輝く灰色のすばらしい衣装を身にまとい、首筋と黒髪には宝石がきらめいていた。彼女の声は驚くほど緩急《かんきゅう》自在ですばらしい表現力を備えていた。聴衆は彼女の暗誦に湧きたった。アンはしばし自分のことも、いま直面している困難も忘れ、うっとりと眼を輝かせて聞きいった。しかし暗誦が終わると、突然アンは両手で顔をおおった。このあとではとうてい立ち上がって暗誦なんかできない――絶対に。自分が暗誦できるなどとほんとうに考えたのだろうか? ああ「グリーン・ゲイブルズ」に戻ることさえできたら!
こうした運の悪い瞬間に、アンの名前が呼ばれた。どうにかこうにかアンは立ち上がった――白レースの娘がやや気がとがめたように、ぎくりと驚きを示したのにも気づかず、またたとい気づいたにしても、そこにこめられた微妙な称賛まではとうていくみとれなかったことだろう――そしてよろめくように前に進み出た。アンの顔色があまりまっ青なので、聴衆の中にいたダイアナとジェーンはアンの身を案ずるあまり、しっかりと互いの手をにぎりあった。
アンは完全にあがっていた。これまで幾度か人前で暗誦をしたことはあっても、このような聴衆を相手にしたことは一度もなかったので、こうして向かいあっただけで、全身の力が抜ける思いがした。なにもかも――幾重にも並んだ夜会服の婦人達、あら探しをしているような顔つき、アンを取り巻く富と教養の雰囲気――みんな親しみのうすい、きらびやかで、とまどいをおぼえさせるようなものばかりだった。素朴な、同情的な友人や近隣の人々で埋まった討論会の粗末なベンチとはこれはあまりにもかけ離れた世界だった。ここに集まった人々は、容赦なくあら探しをするだろうとアンは思った。あの白レースの娘と同じように、自分の[ひなびた]努力をなぐさみものにしようと待ち構えているのだ。アンは絶望し、無力な自分を恥じ、みじめな気持をかみしめた。膝はがたがた震え、心臓は高鳴り、いまにも失心しそうな気分におそわれた。アンは一言も発することができなかった。そして、そんなことをすれば永久に屈辱につきまとわれるだろうとは感じながらも、次の瞬間、まさに壇上から逃げだしそうになった。
しかしおびえきって大きく見開いた眼をじっと聴衆にそそいでいるうちに、突然アンは部屋の後方でギルバート・ブライスが顔に微笑を浮かべ、身をのり出しているのをみとめた――アンにはそれが勝ち誇った嘲《あざけ》りの微笑に見えた。実際は決してそんなものではなかった。ギルバートはただこの場の様子全体が気に入ったのと、特にアンのほっそりした白い服に身を包んだ姿と清楚な顔立ちが、しゅろを背景に見事な効果をあげているのに気づいて微笑したのだった。彼が一緒にのせて来たジョーシィ・パイは、ギルバートの隣にいたが、彼女の顔こそ、勝ち誇り、嘲っているようだった。しかしアンにはジョーシィの姿は眼に入らなかった。それに見たところで別にどうということもなかった。アンは深く息をすると、さっと誇らかに頭をふった。勇気と決意が電撃のようにびりびりとアンの体内を走った。どんなことがあってもギルバート・ブライスの眼の前でしくじってたまるものか――ギルバートなんかに笑われてなるものか、どんなことがあっても決して! おびえも気おくれも今はなく、アンは暗誦を始めた。澄んだきれいな声はいささかも震えることなく、とぎれもせずに、部屋の隅々まで鳴りひびいた。すっかり落着きを取り戻し、かつあの恐ろしい無力の瞬間の反動から、アンの暗誦はこれまでにないほどの出来栄えだった。無事にやり終えた時、心からの拍手がわき起こった。恥ずかしさとうれしさで頬を染めながらアンがもとの席に戻ると、ピンクの絹の服を着た太った婦人がしっかりとアンの手をとらえ、握手を求めた。
「まあ、ほんとに見事でしたよ」と彼女はほめたてた。「ほんとに赤ん坊のように泣けてきましたの。ほら、アンコールですよ――みんなあなたに是非もう一度やってほしいんですよ!」
「あら、だめだわ」とアンは混乱してしまった。「でも行かなくちゃ――マシュウががっかりするでしょうから。きっとアンコールされるって言ってたんです」
「それじゃマシュウをがっかりさせてはいけませんよ」とピンクの婦人は笑いながら言った。
微笑み、頬を赤らめ、澄みきった瞳をあげてアンは後戻りをし、古めかしくておかしい短いものを暗誦したが、これはなお一層聴衆の心をとらえた。それからあとは、アンにとってまさに勝利の連続だった。
音楽会が終わると、太ったピンクの婦人――アメリカの百万長者の奥さんだった――はアンを小脇にかかえこんで皆に紹介した。そして誰もが優しかった。プロの朗読家のミセス・エヴァンズもやって来てアンと言葉を交わし、アンが魅力的な声の持主である上に、作品の理解もよくゆき届いていると言ってくれた。あの白いレースの娘さえ、一応お座なりの讃め言葉をのべた。一同は大きな美しくしつらえられた食堂で夕食をとった。ダイアナとジェーンもアンと一緒に来たということで、この仲間に加えられたが、ビリーはこうした種類の招待にすっかりおじけづいて、姿をかくしてしまい、とうとう見つからずじまいだった。それでも万事が終わり、三人の少女が嬉々として、おだやかな白い月光に照らしだされた戸外に出てみると、彼は馬車もろとも、ちゃんと待っていてくれた。アンは深く息を吸い、黒々とした樅《もみ》の森の向こうの澄んだ空を見上げた。
ああ、清らかで静寂そのものの夜の世界に連れ戻されるこのうれしさ! 何もかも何と堂々としていて、静かで、すばらしいのだろう。その中を海がささやき、黒々とした崖は魔法にかけられた海岸を守る暗い巨人のように思われた。
「とてもすばらしかったじゃない?」とジェーンは馬車が動き出すと溜息をつきながら言った。
「あたしも金持のアメリカ人になってホテルで夏を過ごし、宝石を身につけ、襟元の開いた服を着て、毎日かかさずアイスクリームやチキン・サラダが食べられたらいいなあ。学校で教えるよりずっと面白いと思うわ。アン、あんたの暗誦はほんとによかったわ。もっとも最初はこのままやらないんじゃないかと思ったけど、ミセス・エヴァンズのよりすばらしかったようよ」
「あら、だめよ、ジェーン、そんなことを言っちゃあ」とアンは急いで言った。「だっておかしいもの。どうしたってミセス・エヴァンズにはかなうはずがないわ。だって向こうはプロだし、あたしの方はちょっと暗誦ができるというだけの生徒にすぎないんですもの。みんなに何とか気に入ってもらえればそれで充分よ」
「あんたが喜びそうな話があるのよ、アン」とダイアナが言った。「話しっぷりから多分讃め言葉だと思うの。一部は確かにそうよ。ジェーンとあたしのうしろにアメリカ人がいてね――まっ黒な髪と眼をした、とてもロマンティックな感じの男の人よ。ジョーシィ・パイはその人が有名な画家で、その人の昔の同級生と、ジョーシィのお母さんのボストンにいる従妹とが結婚したんですって。ともかく、その人がこう言ってるのが聞こえたわね、ジェーン。『あの壇上のすばらしいティツィアーノ(イタリヤの画家)の髪をした娘さんはどういう人ですか? あんな顔を描いてみたいなあ』って、どう、アン? でもティツィアーノの髪って何のこと?」
「つまり、ただの赤毛のことだと思うわ」とアンは笑いながら言った。「ティツィアーノっていうのは赤毛の女をよく描いた有名な絵描きさんよ」
「あそこの女の人達のつけていた宝石よくみた?」ジェーンは溜息をついた。「ほんとに眩《まぶ》しいくらいだったわね。ね、みんな、お金持になりたいと思わない?」
「あたし達だってお金持よ」とアンはきっぱりと言った。「だって、これまで十六年もこうしてやってきたんだし、申し分なく幸せだし、みんな大なり小なり想像力を持ち合わせているんですもの。ね、海をみてごらんなさい――どこもかしこも銀色で浅瀬になっていて、眼にみえないものの幻みたいね。いくら何百万というお金があったにしても、ダイヤの首飾りが何本もあっても、この美しさを楽しむ点では変わりはないわ。たとえできたってあんな人達とかわりたいとは思わないでしょうよ。あの白いレースの服を着た女の子になって、まるで世の中を軽蔑するために生まれてきたようなしかめっ面を一生していたいなんて思う? それにあのピンクの女の人だって親切でいい人みたいだけど、あんなに太ってちんちくりんで、みられたもんじゃないでしょう? あのミセス・エヴァンズにしたところで、あんなに見るから悲しそうな眼つきをしてたじゃない? あんな眼つきをしてるからには、とても不幸だった経験があるに決まってるわ。あんな人になりたいなんて思わないでしょう、ジェーン・アンドルーズ!」
「はっきりは――わからないけど」とジェーンは心をきめかねているようだった。「ダイヤモンドは人の気持ちを大いに慰めてくれるものでしょう」
「ともかく、あたしは自分以外のものにはなりたくないわ。たとえダイヤで慰められるなんてことが一生起こらなくてもね」とアンは宣言した。「あたしは真珠の首飾りをつけた『グリーン・ゲイブルズ』のアンで満足よ。あのピンクのご婦人の宝石と同じくらいすばらしい愛情を、マシュウがこの中にこめてくれたことがよくわかっているんですもの」
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第三十四章 クィーンの女子学生
その後の三週間というもの、「グリーン・ゲイブルズ」では慌《あわただ》しい日々が続いた。アンがクィーン学院に行く準備のため、縫物もたくさんあれば、相談も打合せをすることもいろいろあったからだ。アンの支度《したく》は充分で美しいものばかりだった。マシュウが見立てにあたったのと、マリラも今度ばかりは、マシュウが何を買おうと、何を言い出そうとまったく反対を唱えなかったからだ。そればかりではなかった――ある日の夕方、マリラはふわりとした淡緑色の生地を両手にいっぱい抱えて、東の切妻にやって来た。
「アン、これはよそゆきにどうかね。ほんとうは幾枚もきれいな服があるから、そう必要はないかもしれないけど、もし町で夜の集りなどに招かれた時には、ドレッシィなものも要るかと思ってね。ジェーンや、ルビーやジョーシィが『イヴニング・ドレス』とかいうものを作ったと聞いたよ。お前だけが肩身の狭い思いをしてもいけないからね。先週ミセス・アランに手伝っていただいて町でこれを探したんだよ。そしてエミリー・ギリスに縫ってもらおうと思ってね。エミリーは好みもいいし、仕事の腕は確かだからね」
「ああ、マリラ、ほんとにきれいだわ」とアンは言った。「どうもありがとう。そんなにしてもらっていいのかしら――ここを発つのが日一日と辛くなるばかりよ」
緑の服にはエミリーの好みの許す限りの、たくさんのつまみやひだや縫いちぢめがつけられた。ある晩アンはマシュウとマリラのためにそれを着て、二人のために台所で「乙女の誓い」を暗誦した。その明るい生き生きした顔と優雅な動きをみつめていると、マリラの思いはアンが初めて「グリーン・ゲイブルズ」にやって来た晩にたち戻った。そして変てこな黄色っぽい茶色の木綿の服を着たあの風変わりな脅えたような子供が、眼にいっぱい涙をため、胸もはりさけそうな表情を浮かべていた時の光景が記憶の底からまざまざとよみがえってきた。そうした思い出の中の何かが、思わずマリラ自身の眼に涙をもたらした。
「あら、あたしの暗誦で泣いてくれたのね、マリラ」とアンは陽気に言い、マリラの椅子の上に身をかがめて、頬に軽くキスをした。「これこそ大成功だわ」
「いいや、お前のを聞いて泣いたわけじゃないよ」とマリラは言った。詩みたいなものでそんな弱気をさらけだすのは、マリラには許し難いことだった。「お前の子供の頃を思い出してしまったんだよ、アン。変わり者でも何でも、いつまでも小さいままでいてくれたらなんて考えてね。今じゃこんなに大きくなって、家を出て行くというんだからね。それにそんなに背がのびて、りっぱにみえて――とにかくその服を着ると見違えるようだね――全然アヴォンリーの人間じゃないみたいに――そんなことをあれこれ考えていたら、淋しくなったのさ」
「マリラ!」とアンはマリラのギンガムの膝に腰をおろし、両手でマリラのしわだらけの顔をはさみ、じっとマリラの眼をやさしくみつめた。「あたしはちっとも変わっていなくてよ――ほんとに。ただ少し鋏《はさみ》を入れたり、枝をのばしたりしただけだわ。ほんとうのあたしは――そのうしろにいて――今までとまったく同じなのよ。何処へ行こうと、どれほど外見が変わろうとそんなことは全然関係ないの。心の中ではこれから先もずっとマリラの小さいアンなのよ。マリラとマシュウとこの『グリーン・ゲイブルズ』をこれからもますます好きになるばかりよ」
アンは自分の柔らかく若々しい頬を、マリラのしなびた頬にすりよせ、片手をのばして、マシュウの肩をさすった。マリラはその時こそ、アンのように自分の気持ちを存分に言い表わせたらと思ったかもしれない。しかしマリラの性質から言っても、これまでのやり方からしてもそうはゆかなかった。そのためマリラは両腕をアンのからだにまわし、やさしく胸に抱きかかえて、この子をやらないですむものならと願わずにはいられなかった。
自分も眼がしょぼしょぼしてきたのを感じたマシュウは立ち上がって外へ出て行った。青い夏の夜の星空のもとを、波立つ胸をおさえながらマシュウは庭を横切り、ポプラの木の下の門の方へと歩いて行った。
「そうさのう、あの子はそう甘やかされもしなかったようだ」と彼は胸を張ってつぶやいた。「時々わしがおせっかいをしたのも別に害はなかったようだ。あの子はりこうできれいで、それに何よりいいことにやさしい子だ。わし達にとってお恵みだった。スペンサーの奥さんが間違ってくれて運がよかったというものだ――もっともこれが運ならばの話だが。どうもそれとは少し違うようだ。神の思し召しというものかも知れない。全能の神がわし達にはあの子が必要だと認めてくださったんだ」
アンが町に出かける日がついにやってきた。九月のある晴れた日の朝、アンはダイアナと涙ながらに別れを告げ、マリラとは涙ぬきのさらりとした別れ方をしたあとで――少なくともマリラの方はそうだった――マシュウに伴われて馬車に乗った。しかしアンが去ってしまうとダイアナは涙を拭《ぬぐ》い、カーモディの従妹達とホワイト・サンドの海岸へピクニックに行くことで何とか気晴らしをしようと計った。一方マリラの方は烈しい胸の痛みにたえかねて、しなくてもいい仕事にまで手を出し、一日中猛烈に働きつづけた――それは胸をこがし、きりきりしめつけ、泣くことぐらいではとうていおさまりそうもない苦痛だった。しかしその夜床に就《つ》いたマリラは、廊下のつきあたりの小さな切妻の部屋にはあの活発な若い娘の姿はもはやなく、柔らかい息遣いも聞かれないのだという思いに胸をつかれてすっかりみじめになり、枕に頬を埋めると激しくむせび泣いた。やがて気持ちが静まってくると、同じ罪深い人間のことで、こんなにも取り乱した自分が反省され、空恐ろしくなるのだった。
アンとほかのアヴォンリーの生徒達は町に着くと休む暇もなく学園にかけつけた。第一日は新入生同志の顔合せや教授紹介、クラスの編成などで興奮の渦の中に結構楽しく過ぎていった。アンはミス・スティシーにすすめられるままに上級の授業をとることにした。ギルバート・ブライスも同じだった。このことは二人が試験に受かれば、一級教員の免許をとるのに二年かかるところを一年ですませることができることを意味した。しかしそれにはまた、並みはずれて烈しい勉学が必要だった。
ジェーン、ルビー、ジョーシィ、チャーリー、ムーディ・スパージョンなどはそうした野心に煩わされることもないので、下級の授業を受けることで満足した。アンはほかの五十人の生徒と一緒に教室に入った時、淋しさに胸をつかれる思いがした。知った顔といえば、部屋の向こうの方に背の高い、茶色の髪の毛をした少年が一人いるだけだった。その上、知り合いと言ったところで、ああしたいきさつがあるからには、大して力になりそうもなく思えて、アンはがっかりした。そうは言うものの、二人が同じクラスだということは何としてもうれしかった。昔ながらの競争をこれからもさらに続けてゆくことができるのだ。もしそれがないとなると、どうすればよいのかアンには皆目見当がつかなかったことだろう。
「あれがなくなったりしたらとてもじっとしていられないだろう」とアンは思った。「ギルバートはいやにはりきっているみたいだわ。きっと今日只今、メダルを手に入れる決心をしているところかも知れない。なんてすばらしい顎をしてるんだろう。ジェーンもルビーも上級に来ればいいのに。でも知合いができればよその屋根裏に紛れこんだ猫みたいな気分にならなくてもすむかもしれない。いったいどの子と友達になれるのかしら。考えてみると面白いわ。もちろんダイアナに約束した通り、どんなにあたしがクィーンの子を好きになったにしろ、ダイアナほど大切に思うことはあり得ない。でもその次ぐらいに好きな人ができたってちっとも不思議じゃないわ。みたところ茶色の眼をした真紅の上着を着た女の子はよさそうだけどな。活発で血色もいいし。それから窓の外ばかり見ている青白い金髪の子もいいな。とても髪の毛がすてきだし、夢についても多少はわかってるみたい。あの二人と友達になりたいな――とても親しくなって――腰に手を廻して一緒に散歩したり、あだ名で呼び合ったりしたいな。でも今は二人のことを知らないし、向こうもあたしのことを知らないばかりか、あたしと特に親しくなりたいとも思っていないかもしれない。ああ淋しいな!」
その日の夕方、下宿の自分の部屋に一人きりになってみると、その淋しさは一層つのった。アンはほかの娘達とは別の所に下宿していた。みんなにはそれぞれ町の親戚がいて面倒をみてくれることになっていた。ミス・ジョセフィン・バリーはアンを自分の手元に置きたがったが、「ビーチ・ウッド」は学院からとても遠かったので、これは論外だった。そこでミス・バリーは自分で下宿探しをし、マシュウとマリラに、アンにとって最上の場所だと太鼓判を押して言った。
「下宿をやっている人は昔は身分のある人だったんですよ」とミス・バリーは説明した。「ご主人はもと英国の将校ですし、下宿人をきめる時はとても慎重です。あの家なら困るような人と近づきになる気遣いはありませんよ。食事も悪くないし、場所も学院の近くの閑静な所です」
実際その通りに違いないことはすぐわかったが、この最初の日にアンをおそったホームシックをいやす上には何の役にも立たなかった。アンは細長い小部屋を見廻して悲しくなった。くすんだ壁紙を張った、額一つかかっていない壁、小さな鉄製の寝台と、ガランとした本箱などが眼につくと、アンは「グリーン・ゲイブルズ」の自分の白い部屋が思い出されて、一時に涙がこみ上げてきた。あそこなら一歩外に出れば静かな緑の大自然があり、庭に咲くスイート・ピーや、果樹園に降り注ぐ月の光や、坂の下を流れる小川や、その向こうで夜風に戦《そよ》ぐえぞ松の梢、果てしもなくひろがる星空や森のすき間から輝くダイアナの窓の灯など、どれを思っても楽しいことばかりなのに。ここには何一つそんなものは見当たらなかった。窓の外は固い舗装された道になっていて、電話線が網の目のように大空に張り巡《めぐ》らされ、誰のものとも分からない人の足音がし、何千という灯が照らし出すのは未知の人の顔だった。アンは今にも大声をあげて泣き出しそうな自分を感じ、必死になってこらえようとした。
「何としても泣くまい。泣くなんてばかげているし――弱虫の証拠だ――鼻の横を三粒目の涙が伝わってゆく。これだけではすみそうもないわ。何かおかしなことでも考えてとめる方法はないかしら。でもおかしなことは皆アヴォンリーと関係があるし、そうなると事態は深刻になるばかりだわ――四つ――五つ――今度の金曜には家に帰れるけど、百年くらい先きのことみたい。ああもうそろそろマシュウが帰って来る頃だわ――六つ――七つ――八つ――ああ、数えたってしょうがない! すぐにどっとやってくるんだもの。元気になんかなれない――なりたいとも思わない。悲しいままでいる方がいいわ」
疑いもなく涙の洪水は、その瞬間にジョーシィ・パイが姿を現わさなければどっとアンを襲ったに違いなかった。見馴れた顔に出会ったうれしさのあまり、アンはジョーシィとはあまり仲がよくなかったことさえ忘れた。アヴォンリーの生活の一部であるからにはパイ家の人間でさえ、歓迎したかった。
「よく来てくれたわね」とアンは心をこめて言った。
「あんた、泣いてたのね」とジョーシィは同情とは名ばかりの針を含んだ調子で言った。「ホームシックなんでしょう――そういう点で自制心が足りない人がいるものね。あたしなんか、ホームシックなんて絶対|罹《かか》らないわよ。あんな息のつまりそうな旧式のアヴォンリーに比べたら町はとても楽しいわ。あんな所に何故長い間いられたか不思議なくらいよ、泣いちゃだめよ、アン。あんたには似合わないわ。だって鼻も目もまっ赤になるし、どこもかしこもまっ赤ってことになるじゃない。今日は学院でとても愉快だったわ。フランス語の先生がとても気に入ったわ。口ひげがすてきなの。アン、何か食べるものない? あたし、飢え死にしそうなの。きっとマリラがあんたにいっぱいケーキを持たせただろうと思ってね。だからやって来たのよ。でなければフランク・ストックリーとバンドが公園で演奏するのを聞きに行ったはずよ。フランクとは下宿が同じだけど、面白い子よ。あんたのことクラスで眼をつけて、あの赤毛の娘だれってあたしに聞いたの。あたし、あんたがカスバート家にもらわれた孤児で、その前のことは誰もよく知らないって言っておいたわ」
アンが結局のところ、孤独な涙の方がジョーシィと一緒にいるよりよっぽどましなのではないかと思い始めていた時、ジェーンとルビーがやって来た。二人とも一インチほどのクィーン学院の色のリボン――紫と真紅のと――を誇らしげにコートにピンでとめていた。ジョーシィはちょうどジェーンと[口をきかない]ことになっていたので、あまり毒舌をふるうことはできなくなってしまった。
「今朝からもう幾月もたったような気がするわ」とジェーンは溜息をつきながら言った。「ほんとは家でウェルギリウス(古代ローマの詩人)の勉強をしなくちゃいけないの――あのこわい老教授ったら、明日までに二十行やって来るようにっておっしゃったわ。でも今晩はどうしても落着いて勉強する気になれないの。アン、あんた泣いてたんでしょう。もしそうなら、はっきりそう言って。あたしも気が楽になるから。あたしもルビーが来る前さんざん泣いてたの。ほかにも仲間がいると思えば多少自分が抜けてると思っても気にならないもの。ケーキですって? 小さいのをいただくわ。どうもありがとう。まさにアヴォンリーの味がするわね」
ルビーはクィーンの学年暦が机の上にあるのを見て、アンが金メダルをねらうつもりかと聞いた。
アンは頬を赤らめたがそのつもりだと答えた。
「ああ、それで思い出したわ」とジョーシィが言った。「結局クィーンにもエィヴリー奨学金が出ることになったんですって。今日知らせがあったそうよ。フランク・ストックリーから聞いたの――フランクのおじさんは理事なの。あした学院で正式に発表があるんですって」
エィヴリー奨学金! アンは胸の鼓動が一段と高まるのを感じ、野心の地平線が魔法にかかったようにその位置を変え、その巾を広げていった。ジョーシィから話を聞くまではアンの大望の最高峯は一年の終わりに地方教員の一級免許を手に入れ、できれば金メダルを獲得することだった。しかし今は一瞬のうちにアンは自分がエィヴリー奨学金を獲得し、レドモンド・カレッジの文科に入り、ガウンと角帽に身を包んで学位授与式に出席する姿を眼に浮かべた。ジョーシィの言葉の余韻が去りやらぬ間のことだった。というのはエィヴリー奨学金は英語の力に対して与えられるものだったし、これこそアンが得意とする科目だったからだ。ニュー・ブランズウィックの金持の実業家が亡くなった時、その資産の一部で数多くの奨学金が設定され、沿海州の各地の高校や専門学校に、それぞれの規模に応じて配分されることになっていた。クィーン学院にもそれが割当てられるか否かについてあれこれ取沙汰されていたのが、最終的にきまり、学年の終わりに英語学と英文学で最高点を得た学生に奨学金が与えられることになったのだ――四年間、年間二百五十ドルの奨学金を与えられて、レドモンド・カレッジに通学することができるというものだった。その晩アンが頬を燃やしながら床に就いたのも無理はなかった。
「もしがんばってとれるものなら、あの奨学金をとろう」とアンは決心した。「あたしが文学士になれたらマシュウがどんなにか鼻を高くするだろう? ああ、野心をもつことは楽しいわ。こんなにたくさん野心がもててうれしいわ。それにこれで終わりということは絶対なさそうだし――それが何よりだわ。一つの野心が実現するとすぐ、次のがもっと高い所で輝いているんだもの。これだから生きることは楽しいわ」
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第三十五章 クィーン学院の冬
アンのホームシックは週末の帰宅をくり返すうちに次第に快復した。おだやかな気候の続く限りアヴォンリー出の学生達は毎週金曜の夜になると新たに施かれた鉄道の支線を使ってカーモディまで行くのだった。ダイアナやほかの数人の若い人達がたいていそこまで出迎え、皆でアヴォンリーまで賑やかに笑いさざめきながら歩いて帰った。アンはこうして金曜の夕方がくる度《たび》に黄金色に染まったさわやかな大気の中を、アヴォンリーの家々の灯がきらめくのをはるか彼方に望みながら、秋の丘を越えて、のんびり歩くのを、一週間のうちの最上の、一番大切な時間と思わずにはいられなかった。
ギルバート・ブライスはほとんどいつもルビー・ギリスと並んで歩き、ルビーの鞄を持ってやるのだった。ルビーはとても美人で、もうすっかり大人になったと思い込んでいたし、事実そうだった。スカートも母が許す限り裾を長くし、町にいる時は髪を結い上げていたが、家に帰る時はほぐさないわけにはゆかなかった。ルビーは大きなきらきら光る青い眼をし、血色がよく、ふっくりした人眼に立つ容姿の持主だった。彼女は笑い上戸の上、陽気で人がよく、楽しいことにはどんどん手を出す方だった。
「でもルビーはギルバートが好きになるタイプとは思えないわ」とジェーンがアンに耳打ちした。アンにもそうは思えなかったが、エィヴリー奨学金にかけてもそうは言えなかった。アンはまたギルバートのような友達をもって、冗談を言い合ったり、おしゃべりができたらと思い、書物や勉強や野心について意見を交換できたらさぞ楽しいだろうと考えずにはいられなかった、ギルバートには野心があることをアンは知っていた。そしてルビーはそうした問題をとりあげて、実のある議論を戦わす相手とは思えなかった。
ギルバートについてのアンの考え方には何等浮わついたものはまじっていなかった。男の子というものは、アンがもし考えるとすれば、アンにとってよい勉強相手になり得る存在の域を出なかった。もしギルバートと友達だったら、彼がほかにどんな友達を持っていようと、誰と並んで歩こうと、どうでもよいことだった。アンは友達をつくるのがうまかった。女の友達はうんといた。しかしアンは仲間作りという考えをより豊かなものにし、判断や比較に際してより広い見方をするためにも、男の友人をもつのも悪くないということを漠然と意識していた。もちろんアンはこの事に関する自分の気持ちに、こんなに明確な定義づけをしていたわけではなかった。しかしアンは、もし汽車から降りたギルバートが爽やかな野原を越え、しだの生《は》えた小道をぬけながら、家まで自分と並んで歩いてくれたら、二人の周囲に開けた新しい世界や、そこに秘められた二人の希望や野心について、たくさんの愉快で楽しい会話を交すことができるに違いないと思うのだった。ギルバートは聡明な若者で、何事についても自分なりの考えをもち、人生から最上のものを汲み取り、またそのなかに最上のものを注ぎ入れる決意をしていた。ルビー・ギリスは「ギルバート・ブライスの言うことの半分もつかめない」とジェーン・アンドルーズに言っていた。「ギルバートは何か物を考えこむ時のアン・シャーリーそっくりの話し方をするの。でもあたしは書物にしろ何にしろ、その必要のない時に頭を使うのはまっぴらだわ。そこへ行くとフランク・ストックリーは活気に溢れてていいんだけど、ギルバートの半分もハンサムとはいえないでしょう。だからどっちがほんとうに好きなのか決められないの!」
学院でアンはいつの間にか自分の周囲に友人達の輪をひろげていった。皆アンと同じように、考え深い、想像力に富んだ、野心に燃える人達だった。[ばら色]の娘のステラ・メイナードと[夢見る乙女]プリシラ・グラントとはすぐ親しくなったが、このプリシラという青白い頬をした知的な娘は大変な茶目でいたずら好きで冗談ばかりを言っているのに対し、快活で黒い瞳のステラの方は、アンと同じようにとらえにどころのない虹のような様々な夢や空想に溢れていることがわかった。
クリスマスの休暇が終わるとアヴォンリー出身の学生達は金曜毎の帰宅をあきらめ、勉強に熱中しだした。この頃までにはクィーン学院の学生達はめいめい自分自身にふさわしい在り方を見出していたし、それぞれのクラスははっきりと定着した様々な個性を打ち出していた。幾つかの事実が全体として受け入れられた。メダルの候補は実際上ギルバート・ブライス、アン・シャーリー、ルイス・ウィルソンの三人にしぼられてきたことは明らかだった。エィヴリー奨学金の方はそれほどはっきりせず、六人ほどの生徒の誰かが与えられるだろうという程度だった。数学の銅メダルは額のつき出た、つぎの当たった上着を着た、太った、おどけた顔つきの島の奥地から来た小柄な少年にふさわしいとされていた。ルビー・ギリスはその年の学院きっての美人とされていたし、上級だけに限れば、ステラ・メイナードが美女の栄冠を獲得したが、少数でも眼のある連中の中にはアン・シャーリーを支持する者もあった。エセル・マーは皆の一致した判断で髪形が優れているとされた。そしてジェーン・アンドルーズ――あのなりふりかまわず、こつこつ勉強する良心的なジェーン――は家庭科の優等生という評判だった。ジョーシィ・パイでさえクィーンの在学生中、最も口の悪い若い女性ということで、かなり知られるようになった。つまリミス・スティシーの昔の生徒達は学園生活のより広範な土俵の上で、それぞれの持ち場を見出したと言ってもよいだろう。
アンは営々と着実に勉強した。ギルバートに対する競争心は一般にはあまり知られていなかったがアヴォンリーの学校にいた頃に劣らず激しかった。しかしそこにはもはや昔のとげとげしいものは消えていた。アンは単にギルバートを打負かすために勝とうなどとは考えてもみなかった。それよりも好敵手と存分に打ち合って勝利を得ることができたらという誇らかな意識があるだけだった。勝てるに越したことはなくても、勝てなければ生きている甲斐がないなどとは思わなくなっていた。授業に追われていても生徒達は楽しむ機会を逃すようなことはしなかった。アンは暇をみては「ビーチ・ウッド」に出かけ、日曜はたいていそこでご馳走になり、ミス・バリーと一緒に教会へ行った。ミス・バリーは確かに前より老けてはいるようでも、黒い眼は依然としてその輝きを失わず、口の悪いことも相変わらずだった。しかしアンだけは特別で今まで通りにこのやかましい老婦人の大のお気に入りだった。
「あのアンときたら、よくなる一方ですよ」と彼女は言った。「ほかの娘達だとすぐ厭きがくるけれど――何しろじれったいほど、変わりばえがしないんだからね。アンは虹のようにくるくる変わって、しかもその一つ一つが続いている間はこの上なくきれいだときてる。子供の時ほど面白いかどうかは知らないけど、あの子を可愛いいと思うし、こんな気にさせてくれるところがいいんですよ。こっちから好きになろうと努める手間が大いに省けるのでね」
やがて、ほとんど誰も気がつかないうちに春がやって来た。アヴォンリーでは所々雪の消えのこる荒涼とした風景の中にさんざしがピンクの花をつけ、[緑のもや]が森や谷間に棚引いた。しかしシャーロットタウンでは追いつめられた生徒達の、思うことも語ることも試験のことばかりだった。
「もうこの学期も終わりに近いなんて信じられないわ」とアンが言った。「だって去年の秋にはとても先のことのように思えたのに――丸々一冬勉強や授業があったんですものね。それなのに来週は試験が始まるってわけだわ。ね、みんな、試験がすべてだって思う時もあるけど、あの栗の木の大きくふくらんだ蕾《つぼみ》をみたり、大通りのつき当りのかすんだ青空に気づいたりすると、試験なんてどうでもいいっていう気になるわね」
ジェーンとルビーとジョーシィは、たまたま来合わせていたが、こうした見方には賛成しなかった。彼等にとっては差し迫った試験は終始一貫大切なもので――栗の蕾や春がすみのかかった空などとは比べものにならないほど重要だった。アンはパスすることは少なくとも確実なものだから、試験を過少評価する時があっても構わないかもしれない。しかし自分の未来が何から何までこれ一つにかかっている――と少女達は思いこんでいた――ような場合には、そんな具合に哲学的な見方などしていられるわけがない。
「この二週間で、七ポンドもやせたわ」とジェーンは溜息をついた。「くよくよするなって言ったって無理よ。どうしたって気になるわ。くよくよするのも少しは役に立つわよ――それだけで何かをやってるって気がするみたいだもの。冬中ずっとクィーンに通って、たくさんのお金を使ったあげく免状がとれなかったら大変だわ」
「あたしは平気よ」とジョーシィが言った。「今年駄目ならまた来年やってみるわ。お父さんにはそれくらいのお金はあるわ。アン、フランク・ストックリーが言ってたけど、トレメイン先生がギルバート・ブライスがメダルをとるのは確実だし、エミリー・クレイがたぶんエィヴリー奨学金を受けることになりそうだっておっしゃったそうよ」
「その話は明日になったらあたしをくさらせるでしょうね、ジョーシィ」とアンは笑いながら言った。「でも今は、すみれが『グリーン・ゲイブルズ』の下の窪地一面に紫の花を咲かせ、小さなしだが『恋人の小道』で頭をもたげているんだと思うと、奨学金がとれようととれまいとたいした違いはないって気がするの。あたしは最善をつくしたんだし、それに『戦う喜び』っていうことの意味がわかりかけてきたような気がするわ。やってみて勝つことの次にいいことは、やったけど負けるってことだと思うの。ね、みんな、試験の話はやめましょうよ! 家並の向こうに弧を描いているうす緑の空をごらんなさいな。そして同じ空がアヴォンリーの紫色をした暗いぶなの森の上ではどんなに見えるか想像してみてよ」
「ジェーン、卒業式には何を着てゆくの?」とルビーは実際的な質問をした。
ジェーンとジョーシィはすぐにこれを応じたので、おしゃべりは、流行の話の方へとそれて行った。しかしアンは窓枠にひじをつき、組み合わせた両手に柔らかい頬をのせ、眼には様々な幻想を思い浮かべつつ、町の屋根と尖塔の彼方の輝かしい日没の大空をあてどもなく見やりながら、若者特有の楽天的な黄金の糸から可能な未来の夢を織りなしていた。未来はすべてのアンのもので、無限の可能性が来たるべき年月の中にばら色に見えかくれしていた――そして一年一年は不滅の花の冠として織りなされてゆく約束のばらのようであった。
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第三十六章 栄光と夢
クィーンの掲示板に試験の最終決定が張り出されるはずの朝、アンとジェーンは一緒に大通りを歩いていた。ジェーンはにこにこして幸せそうだった。試験はすんでしまったし、少なくとも合格は確実と思われた。それ以上のことはジェーンは気にしなかった。これといった野心もなかったから、それらにつきものの不安に悩まされることもなかった。何故なら人はこの世で手にするあらゆるものに対して代価を払うものだし、野心はもつだけの値打はあっても、手に入れるのは容易なことではなくて、努力と自己否定、心配、失望といったそれなりの税をきびしく取り立てられるはずだからだ。アンは青ざめ、口をきかなかった。もう十分たてば、誰がメダルを手に入れ、誰が奨学金を受け取るかがはっきりするのだ。今のアンには、その十分がたってしまえ[時]という名に価するものは何一つ残っていないように思われた。
「もちろんどっちか一つはどのみちあなたのものよ」とジェーンは言った。それとは別の決定をするほど教授会が不公平などととうてい考えられなかったのだ。
「エィヴリーの方はとても駄目」とアンが言った。「みんなエミリー・クレイだって言ってるわ。だからあたし、あの掲示板のとこまで歩いて行って、皆の前で見るのはよすわ。そんな勇気はとてもないの。女子の控え室へ真直ぐに行くわ。ジェーン、発表をみたら、あたしに教えてね。そして昔からの友情のよしみで、お願いだからできるだけ早くね。落ちていたら、ぼかした言い方などはやめて、落ちたとはっきり言ってちょうだい。あたしのことはちっとも心配しなくていいの。これだけは約束してね、ジェーン」
ジェーンは重々しく約束した。しかし結局そんな約束の必要はないことがわかった。二人がクィーン学院の入口の階段を上がってゆくと、ホールいっぱいの若者達がギルバート・ブライスを胴上げして、大声を張り上げているところだった。「ギルバート万歳! メダル受賞者万歳!」
一瞬アンは敗北と失望に胸をつかれる思いがした。それじゃ自分が負けてギルバートの勝ちなんだ! ともかく、マシュウはがっかりするだろう――あんなに自分の勝ちを信じていたんだから。
ちょうどその時だった。
誰かが大声で呼ばわった。
「ミス・シャーリーのために万歳三唱、エィヴリーの受賞者万歳!」
「ああ、アン」と心からの歓声の中を女子の控え室に飛びこみながら、ジェーンが言った。
「ああ、アン、あたし、とてもうれしいわ! ほんとうにすばらしいじゃない?」
やがて少女達が二人を取り囲み、アンは笑いさざめき、祝辞をのべる一団の中心にいた。幾度も肩を叩かれ、手をはげしく振り廻された。おされたり、引っぱられたり、抱きつかれたりしながらも、アンはジェーンの耳にようやく次のようにささやいた。
「ああ、マシュウとマリラは喜ぶでしょうね! すぐに家へしらせなくちゃ」
卒業式が次の大事な出来事だった。学院の大きな講堂で式典が行なわれた。告辞がなされ、論文が読み上げられ、歌が歌われ、卒業証書や賞状やメダルの授与が行なわれた。
マシュウとマリラも出席したが、二人の眼も耳も壇上のたった一人の学生に注がれていた――淡い緑の服を着、かすかに赤らんだ頬ときらきら輝く瞳をした長身の少女、最優秀の論文を読み上げたこの少女を指して、あれがエィヴリーの受賞者だとささやく声があちこちから聞こえた。
「あの子を家に置いてよかったと思うだろう、マリラ?」とアンが読み終えた時に、講堂に入って初めて口をきいたマシュウがささやいた。
「そう思うのはこれが初めてじゃありませんよ」とマリラは言い返した。「あんたは同じことを何度も言うのが好きですね、マシュウ・カスバート」
二人のうしろにすわっていたミス・バリーは身をのり出して、パラソルの先でマリラの背中をつっついた。
「あのアンのことで鼻が高いでしょう? わたしももちろんですよ」と彼女は言った。
アンはその夜のうちにマシュウとマリラと一緒にアヴォンリーの家に戻った。四月以来帰っていなかったのと、もう一日として待てそうにもなかったからだ。りんごが花を開き、どこもかしこも新鮮で若さに溢れていた。ダイアナは「グリーン・ゲイブルズ」でアンを待っていた。マリラが窓ぎわに咲きほこるばらをいけておいてくれた自分の白い部屋で、アンは辺りを見廻し、胸一杯幸せの吐息をついた。
「ああ、ダイアナ、家に帰るってほんとにすばらしいわね。ピンクの空を背景にあの尖った樅《もみ》が突き立っているのはとてもすてきだわ――それから白い果樹園や昔なじみの『雪の女王』も。はっかの香っていいわね。それからあの庚申《こうしん》ばらときたら――ほんとに歌と希望と祈りが皆一つになったみたい。それにあんたにこうして会えるのが一番すばらしいわ、ダイアナ!」
「あんたはあのステラ・メイナードの方が好きなのかと思ったわ」とダイアナは口をとがらして言った。「ジョーシィ・パイがそう言ってたわ。ジョーシィったら、あんたがあの子に夢中なんだって」
アンは笑いながら、花束の中のしおれた水仙をダイアナに投げつけた。
「ステラ・メイナードは一人を別にすれば一番好きな子よ。その一人があんたなの、ダイアナ」とアンは言った。「あんたがますます好きになるわ――それに話も山ほどあるの。でも今はここにすわってあんたを眺めているだけで幸せな気がするわ。きっと疲れているのね――勉強したり、野心をもったりしたせいよ。あしたは少なくとも二時間は果樹園の草の上に寝ころんで、何一つ考えないことにするつもりよ」
「ほんとによくやったわね、アン。エィヴリーに受かった以上、もう教えないんでしょう?」
「ええ、九月になったらレドモンドに行くつもりよ。すばらしいと思わない? 三ヶ月にわたる輝かしい金色の休暇が終わる頃までには、真新しい野心を貯えておくつもりよ。ムーディ・スパージョンやジョーシィ・パイまで、みんなパスしたなんてすばらしいでしょう?」
「ニューブリッジの評議員達はジェーンを招聘《しょうへい》することにきめたらしいわ」とダイアナが言った。
「ギルバート・ブライスも教えるのよ。そうせざるを得ないんですって。結局お父さんには来年あの子を大学にやるだけのゆとりがないもんだから、自分で働くほかはないって言うのよ。もしミス・エイムズがやめることになればアヴォンリーの学校を教えることになると思うわ」
アンはびっくりするとともに思わずうろたえた。このことについてはまったく知らなかったのだ。アンはギルバートもまたレドモンドに行くものと思いこんでいた。二人が競争することではげまされてきたのに、それがないとするとどうしたらいいだろう? 本物の学位をめざす共学のカレッジでさえ、アンの敵でもあり友達でもある人が欠けては勉強にも身が入らなくなりはしないか?
翌朝、朝食の時にアンはマシュウの元気がないのににわかに気づいた。確かに一年前に比べると白髪もずっと増えていた。
「マリラ」とマシュウが出て行くと、アンはためらいがちに声をかけた。「マシュウはどこか悪いの?」
「そうなんだよ」とマリラは心配そうに言った。「この春はひどい心臓の発作を起こしてね、それにちっともからだを休めることをしないんだよ。心配でたまらないんだけど、このところ多少はよくなったみたいだし、いい働き手も見つかったものだから、せいぜい養生してよくなってもらいたいもんだよ。あんたが帰って来たからきっとそうなるよ。あんたがいると、いつもあの人は元気になるからね」
アンはテーブル越しに身をのり出すと、両手にマリラの顔をはさんだ。
「マリラだって、思ったほど元気じゃないみたいよ。とても疲れてるようよ。少し働きすぎじゃない? あたしが帰って来たからには、マリラにも休んでもらわなくちゃね。あたし、今日一日だけ暇をもらって、昔なじみの場所を訪ね、昔の夢を追ってみようと思うの。それから先はあたしが働くからマリラにはのんびりしてほしいの」
マリラはやさしく自分の娘にほほえみかけた。
「働くせいじゃないんだよ――頭のせいさ。近頃は度々《たびたび》痛んでね――眼のうしろ辺りなのさ。スペンサー先生は眼鏡のことばかりあれこれ言うけど、いくら変えてもちっともよくならないんだよ。六月の末になると眼科の名医が島に見えるとかで、先生は是非診てもらえと言うんだよ。たぶんその方がいいだろうよ。本を読むにも縫物をするにもこの頃は難儀でね。でもね、アン、あんたはクィーンでほんとうによくやったね。一級の免状を一年でとった上にエィヴリー奨学金まで手に入れるなんて――まあ、ともかく、リンドの奥さんは『おごるものは久しからず』とか、女が高等教育を受けてもろくなことはない、女性の本来の使命を危なくするなんて言ってるけどね、わたしはそんなことは全然信じないよ。レィチェルのことで思い出したんだけど――最近何かアベィ銀行のことで小耳にしなかったかい、アン?」
「危ないって言うんでしょう」とアンは答えた。「どうして?」
「それをレィチェルが言うのさ。先週いつだったかここへやって来て、そういう噂が立っているって言うんだよ。マシュウはとても気にしていたよ。家《うち》の貯金は一切合切あの銀行に入れてあるのさ――ほんとに全部をね。わたしはこの際いちど貯蓄銀行に移したらって言ったんだけど、アベィ老人が亡くなった父さんの親友でね、ずっとあの銀行に預けていたんだよ。マシュウはあの人がやっている限り心配はないって言ってたけどね」
「アベィさんはもうずっと前から実際の仕事からは手を引いてるんじゃない?」とアンは言った。「もういい年でしょう。銀行の方はあの人の甥がやってるはずよ」
「ともかく、レィチェルからその話を聞いた時、すぐに預金を引き出すようにマシュウに言ったんだけど、考えさしてくれって言うのさ。でも昨日ラッセルさんはマシュウにあの銀行は大丈夫だなんて言ってたようだけどね」
アンは戸外の世界の人となって、一日中思いきり楽しんだ。アンはこの日のことを決して忘れなかった。明るく金色に輝き、あくまで晴れわたって、影一つなく、至る所に花が溢れていた。アンはそうした豊かな時をしばらくのあいだ果樹園で過ごした。さらに「ドライアドの泉」や「ウィロウミア」や「すみれの谷」へ行った。牧師館を訪問し、ミセス・アランと思いきり話した。そして最後に日の暮れ方になってマシュウと一緒に「恋人の小道」をぬけ、奥の牧場まで牛を迎えに行った。森全体が夕日で赤々と照らし出され、その暖かい光が西の丘の間から流れこんでいた。マシュウはうなだれてゆっくり歩いていた。長身で真直ぐなアンもはずんだ足をマシュウの歩調に合わせた。
「今日も働き過ぎたんでしょう、マシュウ」とアンは非難するように言った。「どうしてもっとのんびりやろうとしないの?」
「そうさのう、わしにはできないみたいだなあ」とマシュウは裏木戸をあけ牛を入れながら言った。「これも年のせいだよ、アン、そのくせ、しょっちゅうそのことを忘れるんでね。まあともかく、これまでずっと結構働いてきたんだから、そのままぽっくり死にたいね」
「もしあたしがマシュウのほしがっていた男の子だったら」とアンは気になるように言った。「今頃は大いに役に立って、色んな面で楽をさせてあげられたのにね。それを思うと、男の子だったらよかったのにってどうしても考えちゃうの」
「そうさのう、わしはな、アン、男の子が十二人いるより、お前にいてもらう方がうれしいよ」とマシュウはアンの手を愛撫しながら言った。「いいかい――十二人の男の子よりもだよ。そうさのう、エィヴリー奨学金をとったのは男の子じゃなかっただろう? 女の子さ、わしの娘だよ――わしの大事な娘じゃないか」
マシュウは裏庭に入りながら、アンに向かってはにかんだような笑顔を見せた。その晩自分の部屋に入った時、アンにはその時のことが忘れられず、長い間開け放した窓辺にじっとすわり、過ぎし日のことを思い、未来を夢みた。戸外では「雪の女王」が月光の中に仄白く浮かんでいた。「オーチャード・スロープ」の向こうの沼地からは蛙の合唱が聞こえていた。アンはいつまでもその夜の銀色に輝く平和な美しい光景と芳《かぐわ》しい静けさを忘れなかった。それはアンの人生に悲しみがふりかかる前の最後の夜だった。そしてどんな人の生涯も、いったんあの冷たく冒し難い手にふれると、二度と再びもとと同じものにはなれないのだ。
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第三十七章 死と呼ばれる刈入れ人
「マシュウ――マシュウ――どうしたんです? マシュウ、気分が悪いんですか?」
それはマリラの声だった。ふるえ声で呼ばわる一語一語に不安がにじみ出ていた。アンは両手一杯に白い水仙を抱えホールを入って来た――それから当分の間、アンには白水仙の姿も香も嫌いになった――ところだったが、マリラの声を聞くと同時に、玄関の入口で折りたたんだ新聞を手にしたマシュウが、奇妙に顔をひきつらせ、まっ青になって立っているのが眼に入った。アンは思わず花を取り落とすと、台所を横切ってほとんどマリラと同時にマシュウの所にかけつけた。二人ともおそかった。一足先きにマシュウは入口にたおれてしまった。
「気絶したんだよ」とマリラはあえいだ。「アン、マーチンをよんで――早く、早く! 納屋にいるから」
雇人のマーチンはたった今郵便局から戻ったばかりだったが、すぐに医者をよびに出かけ、途中「オーチャード・スロープ」によって、バリー夫妻に応援を求めた。たまたま用事で訪ねて来ていたリンド夫人も一緒にやって来た。アンとマリラが狂気のようになってマシュウの意識を回復させようとしているところだった。
リンド夫人はそっと二人を押しのけると、マシュウの脈をとり、それから心臓に自分の耳をあてた。彼女は二人の不安そうな顔を悲しげに見やり、眼にいっぱい涙を浮かべた。
「ああ、マリラ」と夫人はおごそかに言った。「どうにも――しようがないようだ」
「リンドのおばさん、まさか――まさかマシュウが」アンには恐ろしい言葉を口にすることはできなかった。アンの顔からは血の気が失せ、まっ青だった。
「そうなんだよ、アン、たぶん間違いないよ。マシュウの顔を見てごらん。わたしみたいにたびたびああいう表情を眼にしたことのある者にはわかるんだよ」
アンはじっと動かない顔に眼をあてた、そしてそこに[偉大なるもの]のしるしを見た。
医者が来ると、死はほとんど瞬間的なもので恐らく苦痛はまったくなかっただろう、あらゆる点からみて何か急激なショックによるものに違いないという診断がくだされた。ショックの原因はマシュウの手にしていた新聞にあることがわかった。マーチンがその日の朝郵便局から持って来たもので、アベィ銀行の破産の記事が載っていた。
知らせは急速にアヴォンリー中に広がった。そして一日中、友人や知人が「グリーン・ゲイブルズ」に押しかけ、死者と遺族のために何くれとなく親身になって尽くしてくれた。無口ではにかみやのマシュウ・カスバートがこんなに皆の注目を集めたのはあとにも先にもこれが初めてだった。死の白い厳かな手がマシュウの上に置かれ、彼を特別に取り立てたのだった。
夜のしじまが「グリーン・ゲイブルズ」に訪れた時、古びた家はしんと静まりかえっていた。客間に安置された棺にはマシュウ・カスバートが横たわり、長い白髪に縁取られた穏やかな顔に、楽しい夢でも見ているような優しい微笑を浮かべていた。マシュウは花に埋もれていた――亡くなった母親が嫁いで来た時に庭に植えたもので、マシュウはこの美しい古風な花に、口には出さなくてもひそかな愛情を注ぎつづけてきた。まっ青な顔に、苦しみのあまり涙も涸れ果てたような眼を燃やしたアンは、これらの花を摘んで来て、マシュウに供えた。アンがマシュウのためにできることと言えばもはやこれしか残されていないのだった。
その夜バリー夫妻とリンド夫人がお通夜に残ってくれた。東の切妻の部屋に行ったダイアナは、アンが窓辺にたたずんでいるのを見るとやさしく声をかけた。
「ね、アン。あたしも今夜ここに泊まった方がいい?」
「ありがとう、ダイアナ」アンはじっと友の顔をみつめた。「あたしが一人になりたいと言っても誤解しないでほしいの。こわいことなんかないわ。今度のことがあってから一度も一人きりになったことがないのよ――だからそうしたいの。黙ってじっと静かに納得がゆくまで考えてみたいの。あたしにはどうしてもよくのみこめないの。マシュウが死ぬなんてことはあり得ないっていう気がするかと思うと、それはもうずっと昔のことで、それ以来、こうした何とも言いようのない鈍い痛みに悩まされているように思える時もあるの」
ダイアナにはアンの言うことがよくわからなかった。マリラの方は生来のつつしみや長年の習慣に逆らって、せきを切ったような激しい悲しみに身を任せていたが、アンのように涙のあともみせずにひたすら苦しんでいるのより、この方がはるかに理解できるように思えた。しかしダイアナはアンが悲しみの第一夜を一人で過ごせるようにと、そのまま立去って行った。
アンは一人になれたら泣けるに違いないと思った。あんなにも愛し、あれほど自分に尽くしてくれたマシュウのために、一滴の涙も流すことができないとは、まったく途方もないことだった。前の日の夕方、アンと一緒に歩いたマシュウは、今や厳として犯し難い平和《やすらぎ》の色を額に浮かべながら、下の仄暗い部屋に横たわっているのだ。しかし初めのうちアンはどうしても泣けなかった。まっ暗な窓辺に膝まずき、丘の彼方の星空を見上げながら祈りを捧げても無駄だった――涙の代わりに、あの前と同じ、何とも言いようのない鈍い痛みのような切なさがこみ上げてきて、一日の苦痛と興奮に疲れ切って眠りにおちるまで、アンをさいなみつづけた。夜半、闇と静けさの唯中にアンは眼をさました。昼の記憶が悲しみの大波のようにアンを押し包んだ。アンには二人がその前夜木戸の所でわかれた時のように、マシュウが自分に微笑みかけているように思われ――「わしの娘――わしの自慢の娘」と言っているマシュウの声が聞こえてくるような気がした。すると涙がこみ上げてきてアンは思いきり泣いた。マリラがそれを聞きつけて、アンを慰めようとしてそっとやって来た。
「さあさあ いい子だから、そんなに泣くんじゃないよ。マシュウが生き返るもんでもなしね。そんなに――そんなに泣いても仕方がないよ。そうはわかっていても、わたしも今日はどうにもならなかったけどね。マシュウはほんとに優しくてわたしにとっちゃかけがえのない兄だったからね――でもこれも神さまの思し召しだよ」
「ああ、マリラ、思う存分泣かせて」とアンはすすり上げながら言った。「泣く方があの痛みほど辛くないの。しばらくの間あたしのとこにいて、あたしを抱いて――そんなふうに。ダイアナにそばにいてもらうわけにはいかなかったの――あの子はとても親切で優しいけど――今度のことはあの子の悲しみじゃないでしょう――ダイアナには無関係なことだから、あたしの心の中まで入りこんで慰めてくれることは難しいのよ。これはあたし達の――マリラとあたしの悲しみなんですものね。ああ、マリラ、マシュウがいなくなったら、いったいどうすればいいの?」
「二人で力を合わせてゆくことだよ、アン。あんたがいなければ――もし家へ来ていなければわたしはどうなったかわからないよ。ああ、アン、これまであんたには少しきつくあたり過ぎたかも知れないけど、だからと言って、マシュウほどあんたを可愛がっていなかったなんて思わないでおくれ。今ならそれができると思うから言わしてもらうけどね、わたしはね、こんな時でもない限り、思った通りのことを口に出して言えないたちなのさ。あんたのことは自分の腹をいためた子のようにいとしいと思っているんだよ。『グリーン・ゲイブルズ』に来てからというもの、あんただけがわたしの喜びであり、慰めだったのさ」
二日後マシュウ・カスバートは我が家を出て、これまで耕してきた畑や、手塩にかけてきた果樹園、自ら植えた木々などを後にして、運ばれて行った。そしてアヴォンリーは平静を取戻し、「グリーン・ゲイブルズ」にあってさえ、万事がもとに復し、[見なれたもののすべてに何かが欠けている]という辛い思いはどうすることもできないにしても、前と同じような日課が規則正しく営まれるようになった。人の死というものをまったく知らなかったアンには、こうしたことがら――つまり、マシュウがいなくてもその気になれば昔と同じにやってゆけるということが、うら悲しく思えるのだった。樅《もみ》の木の背後から太陽が昇るのを見たり、庭の淡いピンクの蕾《つぼみ》がふくらむのを見つけると、昔同様、喜びに胸を躍らせてしまうことや、ダイアナに来てもらうとうれしくなり、ダイアナの陽気な言葉やしぐさに、思わず笑ったり微笑んだりしてしまうこと――つまり、花や愛や友情が、これまでと少しも変わらずにアンの空想を刺戟し、アンの胸をときめかす力を失っていないことや、人生が依然として、様々な声音《こわね》で強くアンに呼びかけているのだということに気づいた時、アンは恥ずかしさと後悔に似たものを感じた。
「マシュウが亡くなったというのに、こういうものを面白がるなんて、何だかマシュウに悪いみたいな気がするんです」とアンはある晩牧師館を訪ねた時、ミセス・アランに考えあぐねたように言った。「マシュウがいなくなってとても淋しいんです――始終――それなのに、ミセス・アラン、この世界も人生もとても美しくて興味のあるものに思えて仕方がないんです。今日ダイアナが何かおかしなことを言ったら、あたし思わず笑ってしまったんです。それに気づいた時、あたしはもう二度と笑うことはできないって思いました。第一あたしは笑ったりしてはいけないんだって気がするんです」
「マシュウが生きていた時には、あなたの笑い声を聞きたがったのじゃない? そして何か面白いことがあってあなたが楽しんでいるとわかれば喜んでくれたでしょう」とミセス・アランは静かに言った。「マシュウはね、今ここにいないというだけよ。だからあなたが楽しむ姿をこれまでと同じようにみたいと思うに違いないわ。わたし達はね、自然が心の傷手をいやすようにしむけてくれるなら、それに任せるべきではないかしら。でもあなたの気持はよくわかってよ。誰も同じ経験をもつと思うの。誰か愛する人がこの世を去って、わたし達と一緒に喜びをわかつことができなくなると、自分が何かに心をひかれるということが許せないような気になるのね。そして、人生に対する関心が再び戻ってくると、悲しみに忠実でないような気さえするんじゃない?」
「午後、マシュウのお墓にばら苗を植えに墓地に行ったんです」とアンは夢みるように言った。
「マシュウのお母さんがスコットランドからずっと昔持って来た小さな白いスコットランドのばらのつぎ穂です。マシュウはこのばらが一番好きだと言っていました――とげのある幹に小さな可愛らしい花を咲かせるんです。お墓のかたわらにそれを植えられると思うとうれしくなりました――マシュウのそばにもって行くことで、きっと喜んでもらえるという気がして。天国にもあんなばらがあるといいと思います。たぶん夏毎にマシュウがあんなに愛していた小さな白ばらの魂が、みんな打ちそろってマシュウを迎えてくれるかも知れませんね。そろそろ失礼します。マリラが一人で待っていますし、日暮れ時は特に淋しがるんです」
「あなたが大学に入るともっと淋しくなるでしょうね」とミセス・アランが言った。
アンは何とも答えずに別れを告げ、重い足どりで「グリーン・ゲイブルズ」へ帰って行った。マリラは入口の階段に腰をおろしていたので、アンもマリラと並んですわった。うしろの扉はあけ放したままで大きなピンクの貝がそれを支えていた。貝の内側のすべすべした渦巻はまるで海の日没のように見えた。アンは淡い黄色のすいかづらの小枝をいくつか集めて髪に挿した。アンがからだを動かす度に頭上から漂ってくるあるかなきかの甘い香は、天からの祝福のようにアンの心をとらえた。
「あんたの留守にスペンサー先生が見えてね」とマリラは言った。「あした眼科の先生がみえるから、是非行って眼の検査をするようにっておっしゃるんだよ。ともかく行ってすましてくるつもりだがね。眼に合うようなちゃんとした眼鏡を作ってもらえればそれに越したことはないんだけれど。あしたは留守番をしてもらえるだろうね? マーチンに乗せて行ってもらうつもりだけど、アイロンがけもあるし、パンも焼かなくちゃならないんでね」
「大丈夫。ダイアナが来てつき合ってくれるわよ。アイロンも。パンのこともちゃんとやっておくわ――ハンケチに糊をつけすぎたり、ケーキに薬の味つけをしたりする気遣いはもうないわ」
マリラは笑った。
「あの頃のあんたときたら、アン、まったく間違いをしでかす名人だったね。しょっちゅう、事件を起こしてばかりいたっけ。いったいどうなってるのだろうと本気で考えたものさ。髪を染めた時のことおぼえているかい?」
「ええ、おぼえてますとも。忘れっこないわ」とアンは恰好のよい頭をとりまく豊かな三つ組の髪に手をやりながら言った。「あの頃なんで髪のことがあんなに気になったかと思うと時々おかしくなるわ――でもどこか笑いきれないものもあるわ。だってあの頃のあたしにとってはほんとに大問題だったんですもの。髪とそばかすがとても気になっていたの。そばかすの方はすっかり消えてしまったし、髪の毛の方も金褐色だって皆言ってくれるわ――ジョーシィ・パイは別だけど。昨日もね、あたしの髪が前よりもっと赤くなったみたいだって言うの。少なくとも喪服を着ると赤さがめだつんですって。そして赤毛の人間はそれが気にならなくなる時がくるものだろうかなんて聞くのよ。マリラ、ジョーシィを好きになろうとすることなんか、もうやめようと思ったわ。これまでそのために涙ぐましいほどの努力をしてきたつもりだけど、どうしてもジョーシィ・パイを好きになれそうもないわ」
「ジョーシィはパイ家の一人だからね」とマリラはきっぱり言った。「人の気に障るようなことばかり言う羽目になるのさ。あの手の人間でも社会に役立つことが丸っきりないとは思わないけど、せいぜいあざみの効用と言ったところだろうね。ジョーシィは先生になるつもりかい?」
「いいえ、もう一年クィーンで勉強するんですって。ムーディ・スパージョンやチャーリー・スローンもそうよ。ジェーンとルビーは教えるつもりで学校もきまったの――ジェーンはニューブリッジでルビーはどこか西の方らしいわ」
「ギルバート・ブライスも教職につくんだろう?」
「そうよ」とアンは言って言葉をきった。
「見るからにりっぱな若者になったね」とマリラはぼんやり言った。「この前の日曜に教会でみかけたけど、背が高くてとても男らしくなったね。あの子の父親の若い頃そっくりだよ。ジョン・ブライスはなかなかいい青年だった。あの人とわたしはとても仲よしだったものさ。世間ではわたしの恋人だなんて言ってたよ」
アンは好奇心にかられて顔をあげた。
「あら、マリラ――そしてどうなったの? ――どうして二人は――」
「けんかをしたのさ。向こうがあやまって来た時わたしがうんと言わなかったんだよ。あとになってからは許す気になったんだけどね――でもその時はつんつんして怒ってみせたんだよ。ともかく思い知らせてやろうと思ってね。あの人は二度とわたしの所にやって来なくなった――ブライス家の人間は皆とても人に頭を下げるのがきらいだからね。でもわたしの方じゃずっと――悪いことをしたと思っていたよ。せっかくのチャンスをのがすべきではなかったって気が今でもすることがあるよ」
「じゃマリラにも若い時の思い出があったってわけね」とアンはそっと言った。
「まあそんなものさね。今のわたしを見ただけじゃ思いもかけないだろうね。でも人のことは外見だけじゃきめられないよ。みんなわたしとジョンのことは忘れてしまったし、わたしだってそうだよ。でもギルバートを教会で見かけたとたん、昔のことを思い出してね」
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第三十八章 曲がり角
マリラは翌日町へ出かけ、夕方に帰って来た。ダイアナと一緒に「オーチャード・スロープ」に行っていたアンが戻って来ると、マリラは台所のテーブルのかたわらで頬杖をついていた。その打ちしおれた様子にアンは思わずぎくりとした。マリラがこれほど元気なくしょんぼりしているのを一度も見たことがなかったからだ。
「マリラ、疲れたの?」
「ああ――いや――よく分からないね」とマリラはもの憂げに答えながら面をあげた。「疲れたといえばそうかも知れないけど、言われるまでは気がつかなかったよ。原因はほかにあるのでね」
「眼科の先生に診ていただいたの? 何ておっしゃった?」とアンは心配そうに聞いた。
「ああ診ていただいたよ。先生はね、読書や裁縫はもちろん、眼に負担をかけるようなことは一切やめた上、泣いたりなんかしないようにって。そして先生のくださる眼鏡をかけたら、この辺でくいとめられるかも知れないっておっしゃるのさ。でもその通りにしなければ半年以内に完全に失明するだろうって。めくらになるんだよ、アン、考えてもごらん!」
アンは驚きの叫びをあげた後、しばらくはじっとおし黙っていた。まるで口がきけなくなったみたいだった。しかしやがて声をつまらせながらも思いきって語りだした。
「マリラ、お願いだからそんなことは考えないで。先生は希望を与えてくださったのよ。気をつけさえすればすっかり見えなくなる心配はないんだわ。それに眼鏡で頭痛がなおるなら、こんないいことはないじゃない?」
「これが希望って言えるかね」とマリラははき出すように言った。「本を読むことも縫物も、その類のことは全部だめということになったら何を頼りに生きて行くっていうんだい? めくらになる方がましか――死んでしまうかだね。泣いちゃいけないって言われても、淋しい時にはどうしようもないだろう? でもね、こんなことをいくら話していても何にもならないよ。お茶をひとついれてくれないかい? 何だかがっくりしてしまってね。とにかく、このことは当分人に言うんじゃないよ。みんながやって来て、あれこれ聞かれたり、同情されたり、噂の種にされるのはご免だからね」
お茶のあと、アンはマリラに一休みするようにすすめた。それから自分も東の切妻の部屋に行き、あかりもつけないまま一人窓辺に腰をおろした。眼は涙で溢れ、心は鉛のように重かった。うちに帰って来た晩、ここに腰かけた時からみると、何という悲しい変わり方をしたことだろう! あの時は希望と喜びに溢れていて、未来はばら色に輝いていたというのに。アンにはあの時からもう何年も経ってしまったように思えた。しかしやがて床に就《つ》く頃になると、アンの口元には微笑が浮かび、心も平静に復していた。アンは自分のなすべきことをしっかりと真正面から見据え、そこに味方を見出したのだった――義務というものが、率直にこれを受けいれる時にいつもそうであるように。
それから数日後の或る日、それまで裏庭で客と話をしていたマリラがのろのろと家に入って来た――それはアンも顔見知りのジョン・サドラーというカーモディの人だった。アンはマリラの顔つきがおかしいのでいったい何の話だったのかと不審に思った。
「サドラーさん、何の用だったの、マリラ?」
マリラは窓辺に腰をおろし、アンの顔を見た。眼医者からいけないと言われたにもかかわらずマリラの限には涙が溢れ、話す声もとぎれがちだった。
「『グリーン・ゲイブルズ』を手放すという話を聞いて、買いたいと言って来たんだよ」
「買うんですって! 『グリーン・ゲイブルズ』を買うっていうの?」アンは思わず自分の耳を疑った。「ああ、マリラ、まさか『グリーン・ゲイブルズ』を売るつもりはないんでしょう?」
「アン、ほかにしようがあるかい? わたしも散々考えたんだけどね、眼さえちゃんとしていれば、わたしだって此処にずっといて、しっかりした人を雇って、どうにかこうにかやってゆけると思うんだよ。だけどこの分じゃとても難しいよ。丸っきりめくらになるかもしれないし、そうでないにしても、もう一人前に働くというわけにはゆかないしね。自分の家を売らなきゃならないなんて羽目になろうとは夢にも思わなかったよ。でもこんなふうに悪いことが重なると、しまいに買手もなくなる恐れもあるしね。うちのお金は洗いざらいあの銀行に預けてあったんだし、去年の秋マシュウが振出した手形も二、三あるんだよ。リンドの奥さんは家を売ってどこかに下宿すればいいって言うしね――たぶん、自分のとこに来いというつもりなんだろう。売ってもいくらにもならないのさ――地所も狭いし、建物も古いからね。でもわたし一人が食べてゆくくらいは何とかなるはずだよ。お前があの奨学金を貰っておいてほっとしたよ、アン。休みの時に帰る家がないのは何としても気の毒だけど、でもお前のことだもの、何とかやってゆけるよね」
マリラはくずおれて、涙にむせんだ。
「『グリーン・ゲイブルズ』を売っちゃいけないわ」とアンはきっぱり言った。
「ああ、アン、それに越したことはないんだよ。でも見りゃわかるだろう。わたしは一人でここにいるわけにはゆかないよ。心配事やら淋しいやらで頭がおかしくなってしまうだろうよ。それに眼はいずれ見えなくなるだろうし――わたしにははっきりわかってるんだよ」
「一人で此処にいる必要はないのよ、マリラ。あたしがいるわ。レドモンドにはゆかないことにしたの」
「レドモンドに行かないんだって!」マリラは両手をやつれた顔からはずし、アンを見た。「いったい、どうしたっていうんだい?」
「今言った通りよ。奨学金は貰わないの。マリラが町から帰って来た晩にそうきめたのよ。マリラが困っている時にあたしが放っておくなんてまさか考えないでしょう、マリラ、だってあんなにあたしのために尽くしてくれたんですもの。ずっとこのことを考えて計画を練ってきたの。あたしの計画を話すわ。バリーさんが来年畑を貸してほしいと言ってるの。だからそのことは心配いらないわ。あたしは教えるつもりよ。ここの学校に申込んではおいたけど――でもたぶん駄目らしいわ。理事会はギルバート・ブライスを採用するって約束しちゃったらしいの。でもカーモディの学校には行けそうよ――ブレアさんがゆうべ店へ行ったら教えてくれたの。もちろん、アヴォンリーで教えるほど、万事好都合というわけにはゆかないわ。でも部屋を借りて、カーモディとの間を馬車で往復すればいいでしょう。寒くなれば別だけどね。それに冬だって金曜にはいつも帰って来られるわ。そのために馬を手元に置くのよ。ああ、マリラ、すっかり計画はできているのよ。そしてマリラに本を読んであげたり、はげましてあげたりするわ。退屈したり、淋しいことはないのよ。だからあたし達二人一緒にここで楽しく幸せに暮らせるわ」
マリラは夢でも見ているかのようにじっと聞きいっていた。
「ああ、アン、あんたがいてくれればちっとも心配ないことはわかっているよ。でもわたしのためにあんたに犠牲を払わせるわけにはゆかないよ。そんなことになったら大変だもの」
「とんでもない!」とアンは陽気に笑って言った。「犠牲なんてもんじゃないわ。『グリーン・ゲイブルズ』を手放す以上に悪いことはなくてよ――あたしにとっては一番辛いことだわ。この古い大事な家を何としても守らなくちゃ。あたしの決心はついてるのよ、マリラ。レドモンドには行かないの。そして此処に居て教えるのよ。あたしのことは心配しないでね」
「でもあんたの野心が――それに――」
「あたしの野心ならちっとも変わらないわ。ただ対象が違っただけなの。あたし、りっぱな先生になりたいの――そしてマリラの視力を取り戻したいのよ。それに家にいて教えながら大学の課程を独りでやってみるつもりなの。ああ、たくさん計画があるのよ、マリラ。一週間の間、ずっと考えていたの。ここで全力を尽くしてやってみるわ、そうすればきっとそれだけのものは返ってくると思うの。クィーンを卒業した時は、未来が一本の真直ぐな道のように思えたわ。途中に幾つも道しるべがあってね。今はそこに曲がり角があるのよ。角を曲がるとどんなことが待っているかわからないわ。でもいちばんいいものがあるって信じているの。曲がり角って、それ自体の魅力があると思わない、マリラ? その先の道がどうなっているかは分からないわ――緑の輝きと柔らかい色とりどりの光と影に包まれたものかもしれないし、みたこともない風景や眼新しい美しいものなのか、カーブや丘や谷がその先に待っているのかも知れないわ」
「あんたにあきらめてもらうわけにはいかないような気がするけどね」とマリラは奨学金のことを持ち出して言った。
「でもあたしを留めることは無駄よ。もう十六歳と六ヶ月になるんですもの。それにリンドのおばさんに何時か言われたように|らばのように《ヽヽヽヽヽヽ》頑固《ヽヽ》ときてるから」とアンは笑った。「ああ、マリラ、あたしを憐れんだりしないでね。あたし人に同情されるの嫌いよ。第一その必要もないわ。あたし、大事な『グリーン・ゲイブルズ』にいられると思うだけでとてもうれしいの。あたし達二人ほどここの好きな人間はないと思うわ――だからどうしても手離すことはできなくてよ」
「まったくあんたにはかなわないね!」とマリラは折れてでた。「おかげで生き返ったような気分だよ。本来ならここで頑張ってあんたを大学に行かせるべきだとは思うけど――無理なことがわかっている以上、手を引くほかはないよ。でもね、アン、いつかはこの償いはするよ」
アン・シャーリーが大学行きを諦めて家に残り、教職につくということがアヴォンリー全体に知れわたった時、様々な議論が巻き起こった。善良な人々の多くはマリラの眼のことを知らないので、アンのことを愚かだと言った。しかしミセス・アランは別だった。彼女は自分も賛成だということを伝えたのでアンの眼には喜びの涙が溢れた。あの親切なリンド夫人も同様だった。或る晩、アンとマリラが暖かく芳《かぐわ》しい夏のたそがれに包まれて、戸口にすわっているところへ夫人が現われた。二人は夕闇が辺りを包み、庭に白い蛾が舞い、はっかの香が湿った大気の中に漂う頃、そこに腰をおろすのが好きだった。
リンド夫人は、戸口のかたわらの、背の高いピンクと黄色の立ちあおいの列の前におかれた石のベンチに、疲れと安心の入りまじった大きな溜息をつきながら、どっかりと腰をおろした。
「こうして腰かけるとほっとしてね。一日中かけずり廻っていたものだからね。二百ポンドの体重を二本の脚で支えるのはまったくらくじゃないよ。太っていないってのはたいしたことですよ、マリラ。感謝しなくちゃね。さて、アン、大学に行くという考えをすてたそうだね。ほんとによかったと思うよ。女として必要な教育は充分に与えられたんだからね。女が男と同じように大学に行ってラテン語とかギリシャ語とかいうばかげたものを詰め込むのは感心しないね」
「でもね、リンドのおばさん、あたし、大学に行かなくたってラテン語やギリシャ語はやっぱり勉強するのよ」とアンは笑いながら言った。「この『グリーン・ゲイブルズ』で文科のコースをとり、大学でやるものは残らず勉強しようと思うの」
リンド夫人は呆れ果てたように両手をあげた。
「アン・シャーリー、そんなことをしたら、死んでしまうよ」
「そんなことはないわ。元気にやるつもりよ。ええ、無理はしないつもり。[ジョサイア・アレンのおかみさん]じゃないけど、[ほどほどに]やるわ。でも、冬の夜長にはたっぷり時間もとれると思うの。それにあたし、手芸なんかには向いてもいないしね。あたしね、カーモディで教えるのよ」
「どうかね、あんたはこのアヴォンリーで教えるんじゃないかい? 理事会はそうきめたはずだよ」
「リンドのおばさん!」とアンは叫び、驚きのあまり跳び上がった。「だって、ギルバート・ブライスと約束したんじゃなかったの?」
「そうだよ。だけどギルバートはあんたが申込んだと聞くとすぐ出かけてね――夕ベ学校で集りがあったんだよ――自分は申込みを取消すから、あんたのを受付けるように言ったんだよ。ホワイト・サンドで教えるつもりだからってね。もちろんギルバートはあんたのためを思って学校を諦めたのさ。あんたがマリラと一緒にいたがっていることをよく知っていたからだよ。ほんとにギルバートはやさしくて思いやりがある子だね。犠牲的精神に富んでいるとも言えるよ。ホワイト・サンドに行けば下宿しなければならないし、皆も知っての通りあの子は大学の学費をかせがなくちゃならないからね。そういうわけで理事会はあんたを採用することにきめたんだよ。トマスが帰って来て、その話を聞かせてくれた時にはとてもうれしかったよ」
「そんなにしてもらうわけにはいかないわ」とアンはつぶやいた。「ギルバートにそんな犠牲を払わせるなんて――それもあたしのために」
「今からではどうにもならないだろうよ。ギルバートはホワイト・サンドの理事との契約に署名してしまったからね。あんたが断わってもあの子のためにはなるまいよ。もちろん、ここで教えることにするんだね。もうパイ家の子供はいないから、ちゃんとやってゆけるよ。ジョーシィが最後でほんとによかったよ。この二十年というもの、アヴォンリーの学校には、誰かしらパイ家の人間がいたけどね。あの子達の人生における役割といえば、この世は安息の地に非ずということを学校の先生達に思い知らせるために違いないよ。おや、バリー家の切妻でチカチカしているのは何だろう?」
「ダイアナが来いって合図をよこしてるんだわ」とアンは笑った。「昔ながらの習慣をつづけてるのよ。ちょっと行って何の用か聞いてくるわね」
アンはクローバーの丘を鹿のように馳け下りて行き、「お化けの森」の樅《もみ》のかげに姿を消した。リンド夫人はアンのうしろ姿をやさしく見送った。
「まだ子供子供したとこが結構残ってるようだね」
「なかなかどうして大人っぽいところもありますよ」とマリラは昔のきびきびした口調を一瞬取り戻したように言った。
しかしこういうきびきびしたところは、もはやマリラを特色づける点ではなかった。リンド夫人はその晩夫のトマスに言った。
「マリラ・カスバートはすっかりおだやかになったもんですね、まったく」
アンは翌日の夕方、小さなアヴォンリーの墓地に行き、マシュウの墓に新鮮な花を捧げ、スコットランドのばらに水をやった。アンはこの小さな墓地の、平和で静かなたたずまいが気に入って、暗くなるまで辺りを行きつ戻りつした。ポプラが低く友達のような口調でさやさやそよぎ、墓の間にのび放題の下草が小声でささやいた。アンがようやくそこを立去り、長い丘を「輝く湖水」の方へと下ったのは、すっかり日が落ちてからで、眼下にアヴォンリーが夢のような残光の中に一望のもとにおさめられていた――まさに「古《いにしえ》の平和の地」といった風情だった。辺りにはクローバーの甘い香の漂う原を吹いてきた風のような新鮮さが溢れていた。家々の灯が、それを囲む木立の間にちらほら見えがくれしていた。その向こうには海がぼうと紫色にかすみ、うむことのないつぶやきをくり返して横たわっていた。西の空は柔らかい様々な輝きに染まり、それらがさらに柔らかい色合いとなって他に反射していた。こうした辺りの美しさにアンの心は打ちふるえた。アンは心の扉を深い感謝とともにそれに向かって開いた。
「すばらしい世界」とアンはつぶやいた。「あんたはほんとうに美しいわ。そこで生きてゆくのだと思うととてもうれしいの」
丘を半ば下った頃、ブライス家の門口から背の高い若者が口笛を吹きながら出て来た。それはギルバートだった。そしてアンに気づくと、口笛を吹きやめた。彼は丁寧に帽子をとったが、アンが足をとめて手を差出さなかったら、そのまま通り過ぎるところだった。
「ギルバート」とアンは頬を染めながら言った。「あたしのために学校をゆずってくださってどうもありがとう。ほんとうにご親切に――とても感謝していることをお伝えしたいと思って」
ギルバートは差出された手を固く握りしめた。
「別に特別なことをしたわけじゃないんだよ、アン。少しでもお役に立てばいいと思ってね。これからは僕と友達になってくれるかなあ? 昔のことをほんとうに許してもらえるの?」
アンは笑って手を引込めようとしたが無駄だった。
「あの日、船着き場の所で許していたわ。自分では気がつかなかっただけ。ほんとに何て頑固なおばかさんだったんでしょう。あの時から――何もかも言わせてね――あたし、ずっと後悔していたの」
「僕達、すばらしい友達になろうね」とギルバートは大喜びで言った。「二人ともいい友達になれるように生まれついているんだよ、アン。君はこれまでその運命に逆らってきたようなもんさ。お互い随分力になれるはずだよ。君もずっと勉強を続けるんだろう? 僕もそうだよ。さあ、一緒に家まで歩いて行こう」
アンが台所に入ると、マリラが不思議そうにアンをみて言った。
「あんたと小道を一緒にやって来たのは誰だい?」
「ギルバート・ブライスよ」とアンは答えながら、思わず顔を赤らめた。「バリー家の丘で会ったの」
「あんたとギルバートが戸口で三十分も立話するほど親しいとは知らなかったよ」とマリラはにやにやしながら言った。
「親しいどころか――今までは敵だったのよ。でもこれからは仲よしになる方がずっと意味があると思うようになったの。ほんとにあたし達三十分もあそこにいて? ほんの二、三分にしか思えなかったけど。でもね、マリラ、あたし達、五年分の会話を取り返そうとしていたのよ」
アンはその夜深い満足感にみたされながら、長い間窓辺にすわっていた。風が桜の大枝を静かにわたり、はっかの香が漂ってきた。谷間の尖った樅《もみ》の林の上に星がきらめき、昔ながらの木々のすき間から、ダイアナの灯がみえた。アンの地平線はクィーンから帰った夜を境にぐっと狭められた。しかしたとえアンの足もとに敷かれた道がどんなに幅が狭くても、静かな幸福がその道に花開くことをアンは知っていた。真剣な仕事と立派な抱負と好ましい友情を手に入れる喜びがそこにあった。何物もアンがもって生まれた空想力と理想的な夢の世界を奪うことはできなかった。そして道にはいつも曲がり角があるものだ!
「神は天にいまし、この世はすべて事もなし」(ロバート・ブラウニングの「ピッパは行く」より)とアンは小声でつぶやいた。 (完)
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解説
作者と作品について
作者
「赤毛のアン」の作者ルーシィ・モンゴメリは、一八七四年、プリンス・エドワード島のクリフトンに生まれた。カナダ東部にあって、全長三〇マイルほどの半月形のこの島は、風光明眉なことで早くから聞こえていた。生後間もなく母を失い、父もやがて事業のため島を去ったため、ルーシィは母方の祖父母で、キャヴァンディッシュで三等郵便局を営むマクネイル夫妻の農場で育てられることになった。小さい時から物を書くことが好きだったルーシィは、長じて同級生達と物語クラブをつくり、作品を競い合ったが、ルーシィのものはいつも群をぬいた出来栄えだった。
シャーロットタウンの、プリンス・オブ・ウェールズカレッジを卒業したルーシィは、さらにノヴァ・スコシアの首府ハリファックスにあるダルハウジー大学に入学し、卒業後は教員として働いた。ルーシィが二十四歳の時、祖父が亡くなったため、祖母を助けて、郵便局の事務をとるようになったが、そのかたわら、地方新聞や教会関係の出版物等に寄稿をつづけていた。
「赤毛のアン」を書きあげたのはルーシィが三十歳になって間もなくだったが、出版のめどがたたないまま、三年の月日が流れた。或る日探しものをするために屋根裏に上がったルーシィは古びたトランクのなかに旧稿を見出し、時の経つのも忘れて読みふけった。作品の価値を再認識したルーシィがボストンの出版社にこれを送ると、相手は五百ポンドでこれを買いとることを承諾した。一九〇八年にこれが出版されると世間の非常な反響をよび、たちまちのうちにべストセラーの一つに数えられるようになった。
「ハックルベリー・フィンの冒険」等で我が国にも知られている有名なアメリカの作家マーク・トゥエインは、アン・シャーリーのことを「『不思議の国のアリス』以来、稀に見るすばらしく、愛らしい娘」と絶賛を惜しまなかった。
一九一一年、祖母が亡くなったので、ルーシィは郵便局を閉鎖し、かねて婚約中の長老派の牧師マクドナルド氏と結婚した。時既に三十七歳、夫も四十を越えていた。心優しいルーシィは祖母の身を思い、これまで結婚を延期していたのだった。翌年長男が生まれ、三年後には次男にも恵まれて、ルーシィの身辺は多忙を極めた。家庭内の仕事のほかに、牧師夫人として教会に奉仕する日々の中で、ルーシィの作家活動は続けられ、三十冊を越える作品と一冊の詩集が世に出た。ルーシィは一九四二年、夫に先立つこと一年で、六十八歳の生涯をとじた。
作品
「赤毛のアン」の英国版はアメリカ版よりはるかに遅れて一九二五年に初めて世に出たが、今日までに既に四十七版を重ね、百万部以上を売りつくした。やがてオランダ、デンマーク、スウェーデン、フランス、スペインと各国語に訳されるにつれ、愛読者は世界中にひろがった。日本には一九五四年(昭和二十九年)に村岡花子氏によって紹介されたが、それ以来、多数の読者の熱狂的な支持を受けていることは言うまでもなかろう。映画に制作されたのも一度や二度ではないが、そのミュージカル版はロンドンとブロードウェイで上演され、好評を博した。大阪で開かれた万国博覧会で、カナダ館の呼びものの一つとなったのがこれである。最近ではBBCの古典シリーズの一つとして、テレビドラマにも制作されるなど、世に出てから既に六十余年を経た今日なお、「赤毛のアン」を愛する人々の数は上昇の一路を辿るばかりである。
「赤毛のアン」の成功が決定的なものとなるとともに、その続編の刊行を望む声が作者のもとに殺到した。今日「アン・ブックス」と呼ばれる八編のシリーズが生まれたのは、そのためである。先ず「グリーン・ゲイブルズのアン」(「赤毛のアン」の原題)に引きつづき、「アヴォンリーのアン」(邦訳名「アンの青春」)が刊行された。アヴォンリーの小学校の先生となったアンの活躍を中心に、アンとその仲間の、地域社会における活動の模様や、マリラが引取ったいたずらなふたごのことなどが述べられている。次の「アンの婚約」では、アヴォンリーを出て、仲のよい友達と下宿しながら大学に通うアンの生活が中心となる。成人したアンの周囲ではダイアナを初め昔の友達が続々と結婚し、アン自身も幾度か結婚の申込みを受けるが、様々な曲折を経て、ギルバートこそは自分の愛する唯一の存在であることをアンは悟る。これに続く「ウィンディ・ウィロウのアン(アンの愛の手紙」)は中学の校長となったアンが、今なお医師になるための勉学を続ける婚約者のギルバートに送った愛の手紙で、三年間にわたる下宿生活の中で起きる様々な出来事が中心となるが、ここでもアンの個性は躍如として読者を倦かせない。
次の「アンの夢の家」に到り、医師としての第一歩を踏み出すギルバートとアンはついに結ばれる。海|沿《ぞ》いの寒村で営まれる二人の新婚生活は、村人達の数奇な運命と関わり合うことにより、楽しさのなかにもしっとりと落着いたものとして描かれている。最後の「イングルサイドのアン」では既に大勢の子供達に囲まれ、俊敏な医師として活躍する夫ギルバートを助けながら多忙な日常をおくる中年のアンが、結婚十五周年の記念日を迎えるまでのことが述べられている。このほか「アヴォンリー年代記」正続二巻として、アンの周囲の人々にまつわる様々な挿話を短編小説の形式でまとめたものがある。
以上のアン・ブックスの続編として、アンの子供達が成長するまでの出来事を記した書物が二冊あるが、これらはすべて作者ルーシィ自身及びルーシィの身辺の人々に材料をとったものである。しかし自伝的な色彩は三部作の「エミリー・ブックス」において、より一層色濃くあらわれている。ルーシィはこれらの作品を通じて、カナダの美しい風土を背景に世界中の人々に夢と希望を与えることに成功した稀な作家の一人であると言えよう。
「赤毛のアン」について
構成とあらすじ
物語は孤児院から男の子を貰おうとした老いた兄妹のところに、間違って女の子が送られてきたことから始まる。妹のマリラはこの闖入者《ちんにゅうしゃ》を家に入れることに最初反対したが、その子の明るい性格にひかれたマシュウの熱意にほだされて養育を引き受ける。十一歳になるアンというこの赤毛の女の子は二人の生活に様々な波紋を投ずるが、同時にかれらに生きる喜びをももたらした。五年後、アンは、教員養成学校を首席で卒業し、大学の奨学資金まで手に入れるが、恩人一家にふりかかった不幸の連続のなかで、進学をあきらめ、家に留まって教職につく決心をする。
ここにはアンデルセンの「醜いあひるの子」にみられるような変身物語ないしは成功物語の要素がある。やせこけて、青ざめた顔にそばかすを一杯浮かせた、にんじんのような凄まじい赤毛の孤児は「グリーン・ゲイブルズ」のアンとして、輝くばかりの金褐色の髪をなびかせた、白い水仙のような清楚な乙女に成長した。それとともに幼い日のアンのトレード・マークのように思われていた大げさな言葉遣いや、饒舌は消え、簡潔な表現を好む、思慮深い少女が姿を現わす。即ち作者モンゴメリは、多感な魂の少女期から青年期にわたる変貌の日々をとらえ、その哀歓を挿話風に連ねることで、一つの非凡な個性を鮮かに浮かびあがらせたものと言えよう。
アン・シャーリー
「赤毛のアン」の魅力の中心は、疑いもなく主人公のアンその人にある。アンの頭は片時もじっとしていない。外界の刺戟に対してめまぐるしいほど敏感に反応する。これに連鎖反応が加わって、アンの速射砲のようなおしゃべりはつきるところをしらない。そのたくまずして奇抜な表現は、頑なな人の心をほぐし、気難かしい人の口許をもほころばす威力に満ちている。
「七色の虹」のようなアンはまた炎の人である。人生の喜びや悲しみが、普通の人の三倍の烈しさで襲ってくるために、歓喜の天国から絶望のどん底へと、一瞬のうちに墜落することも珍らしくない。かんしゃくを起こせば大人もたじろぐ勢いで攻撃に立ち向かい、気に入ったとあらば時の経つのも忘れてひたむきに没頭する。
こうしたアンの鋭敏な感受性は、美しいものに対する時、最もめざましく反応する。今を盛りと咲き誇るりんご並木に、「この世には想像を絶するものがある」と悟り、マリラの紫水晶のブローチをみて「すみれの魂」だと嘆賞するアンのなかには、正に芸術家の繊細な感覚が息づいている。しかし美に対するアンの渇望のなかには、凡そ美しいものとは無縁のアンの過去があづかっていることも否めない。窮屈な実用一点張りの服を着せられ、樹木さえろくに見当たらないような寒々とした環境で育てられたアンが、真白なふくらんだ袖に憧れ、「グリーン・ゲイブルズ」をめぐる自然に恍惚となるのも当然であろう。
アンの生涯に欠けていたのは美しい衣服や風景だけではなかった。両親の死後、人手から人手へとたらい廻しにされてきたアンは、何ものにも増して人の情けに飢えていた。本箱のガラスにうつる自分の姿を唯一の友とし、山のこだまに話しかけては孤独の日を慰めてきたアンは、すべてを打ち開けることのできる相手をひたすら求めた。しかし隣家の少女ダイアナのなかにそうした心の友を見出したアンが、ダイアナを愛するあまり、成長したダイアナの結婚式の場面を想像して、別れの悲しみにもだえるのを見ては、マリラならずとも吹きださずにはいられない。こうした強烈な想像力こそは、アンの暗い日々の唯一の支えだった。どんなにつらいことも、これあるがために、じっと堪えることができたし、どん底の暮らしのなかで明るさを持ちつづけたのもこの想像力のお蔭だった。アンは始終「想像の余地」の有無を問題にする。孤児院が嫌いなのは、それがないからであり、想像力に乏しい人物に対する評価がきびしいのもそのせいだった。それだけにアンの想像力はいつも真に迫っていた。自分の名前を「綴りの最後にEのついたアン」で呼んでほしいと頼むのは、名前を呼ばれただけで、アンにはその綴りがありありと眼に浮かぶからだった。こうした豊かな想像力は「お化けの森」の事件ではマイナスに働いたが、これをきっかけにやがて「物語クラブ」がつくられた時、アンの文学的才能は、開花の準備を完了したものといえよう。
そのアンが、どれほどの想像力を駆使してもごまかしようのないものが一つあった。赤毛がそれである。「赤毛の子には完全な幸福はあり得ない」とまでアンが思いつめていることを知らないところにギルバートの誤算があった。しかしアンが猛然と勉強に打ち込むようになったのは自分を「にんじん」と呼んだギルバートに対する烈しい敵愾心《てきがいしん》からであり、ギルバートがアンに特別な関心を抱くようになったのも、この時アンに頭をなぐられたからにほかならない。即ち赤毛はアンの将来を決定する上においても、若い二人の結びつきにおいても、重要な役割を果たしていて、主人公アンと切っても切れない関係にあることを明らかにしている。
しかしアンをして真にアンたらしめるものは、酷薄な人生もついにアンから奪うことのできなかったアンの純粋さであろう。アンのくもりない眼は直観的に物の真偽を見分ける。口先だけの祈りや、説教のための説教はアンの心に何の感動をもよび起こすことができない。一見華やかな都会生活のむなしさを本能的にかぎわけるのもそのためである。その反面、真実なるものの前ではアンは少しもためらわない。アンは真白な吸取紙のように、ミセス・アランやミス・スティシーの言葉を吸収する。そしてひたすらよい人間になりたいと願い、与えられた人生を精一杯生き抜くことを心に誓う。
そういうアンだからこそ、人生の曲がり角に立たされた時、この世には人智をもってしては到底計り知ることのできない神の摂理が働いていることを身をもって悟ることができた。「神は天にいまし、この世はすべて事もなし」というブラウニングの詩の一節をくちずさむ時、アンはまた一つ新たな成長の柵を乗り越えたといえよう。
マシュウとマリラ
アンの幸福は、アンその人にひそむ優れた資質によるところが大きいにしても、それを一眼で見破ったのは、はにかみ屋で純朴そのもののマシュウだった。ふだんは無口で控え目だが、ことアンに関する限り、頑として自分の意見をゆずらないマシュウがいなければ「グリーン・ゲイブルズ」のアンは生まれなかったことだろう。世間にうといマシュウがアンの流行おくれの服装に気づくのも、彼の愛情がさせる業《わざ》だった。「イレイン事件」でロマンスはもうこりごりと嘆くアンの耳許で「少しはとっておくんだよ。アン、少しはね」と囁くマシュウこそは、まさにアンにとってこの上ない理解者であり、またとない心の友であった。
マリラもまたマリラなりにアンを愛した。しかし昔|気質《かたぎ》で、てれやのマリラは、自分の内心の声を外に表わすことを好まなかった。仄《ほの》暗い夕闇に紛れて、じっと愛の瞳を炉辺の少女に注ぐマリラ、同じ罪深い人間にこれほどまでに心惹かれてよいものかと、畏れおののくマリラの姿には深い感動を誘うものがある。そしてマリラは変わっていった。やせぎすの身体に、きりりとひっつめた髪は昔ながらでも、いかつい表情はすっかり消え、どんなにそっけない口振りをしても、口許のほころびがそれを裏切った。愛が人を変えた例がここにある。
アヴォンリー
「赤毛のアン」は美しい愛の物語である。そしてその背景をなす自然もその内容に劣らず魅惑的だ。ゆるやかに起伏する丘と、地平線まで続く広大な牧場や畑の間に、こんもりした森や、白く光る池が見え、真青な海や白砂の入江とけわしい断崖に縁どられた赤土の村アヴォンリーは、作者の故郷キャヴァンディシュをモデルにしたものだった。路傍の一木一草から、夕焼雲のたたずまいにわたるまで、丹念に、愛情こめて描かれているのもそのためである。風景には一つ一つ名前がつけられ、はっきりした個性が与えられている。牛の群を牧舎につれ帰るひっそりした道は「恋人の小道」であり、アンの窓下に枝もたわわに咲く桜は「雪の女王」だ。「白樺の小道」や「すみれの谷」のように、名が体を表わすものもあれば、「アイドルワイルド」や「ウィロウミア」のような気取った名称もある。
これらの自然は生きている。季節によって衣更えをするのは言うまでもなく、登場人物の心の動きと行をともにする。ダイアナの妹を救ったことで、その母親の誤解をとくことができた夕暮は、アンにとって、果てしない雪原の上に宵の明星が輝き、そりの鈴が高らかに勝利を奏でるものでなければならない。「かえでの赤い芽が眠りからさめる世界」は、中年のマリラさえ軽い足どりで家路につく季節の到来を示す。マシュウの死後、新たな決意を固めたアンが、墓地に近い丘の頂きから眺めたアヴォンリーの平和そのもののたたずまいは、アンその人の心境をうつすものにほかならなかった。こうした自然の扱いは、作品の興味を深めるだけでなく、その文学的価値に寄与することが大きいと言えるだろう。
「赤毛のアン」の意義
「赤毛のアン」はたのしい。一度読み出したらやめられない本である。淡々と日常生活の一こまを述べながらも、次には何が始まるか、という読者の好奇心を十二分に満足させてくれるスリルに満ちている。豊かな色彩と音と香りにもことかかない。そしてそれらすべての上に、アンという強烈な個性が君臨する。ここにはよりぬきの材料を使って優れた調理師が腕をふるったご馳走があると言ってよいだろう。
しかし「赤毛のアン」は単によく出来た面白いお話に過ぎないだろうか。アンと世代をともにする少年少女のみならず、かつて「赤毛のアン」を手にしたことのあるすべての人々が、アンと聞いただけで眼を輝かせずにはおかないのは何故だろう。
「赤毛のアン」は明るさに満ちた書物である。しかしその明るさは適当な陰影の存在をこばむものではない。舞台に登場する前のアンの周囲は、暗い壁に塗りこめられている。物語の進展につれ、急速に明るい未来が開けてくるが、最後に至ってその道は直線でないことが明らかにされた。マシュウ兄妹にしても淋しい人達である。村はずれにひっそりと暮らす二人は、これまで家庭の喜びというものをほとんど知らずに過ごしてきた。アンを得て、「グリーン・ゲイブルズ」には明るい笑いが響きわたるようになったが、やがて破産と死と失明の恐怖が一挙に訪れる。作者はこれが人生だと言いたいのだろう。人間が完全でないと同じように、人の世も明一色ではあり得ないからだ。そうした泣き笑いの人生において、なおかつ「赤毛のアン」のような明るさが可能だと悟る時、人は人生航路における燈台の役割を思い出さずにはいられない。そして、どんな時にも希望を失わず、明るい笑いをふりまいてゆくアンこそは、紺碧の波の上に白く輝かしい姿を現わし、夜ともなれば暗い海上をあかあかと照らす燈台そのものなのではあるまいか。「赤毛のアン」が青春の書であるとともに、人生の書であるゆえんがここにある。
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年譜
一八七四 十一月三十日、カナダのプリンス・エドワード島のクリフトンに生まれる。父はヒュー・ジョン・モンゴメリ、母はクララと言った。生後間もなく母と死別、父も事業のためサスカッチワンに去ることになり、母方の祖父母アレクサンダー・マクネール夫妻の農場で育てられた。祖父はキャヴァンディッシュの三等郵便局長をしていた。プリンス・エドワード島の首府シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズカレッジを卒業後、ノヴァ・スコシアの首府ハリファックスにあるダルハウジーカレッジで教育を受ける。大学卒業後、プリンス・エドワード島のビドフォードで初めて教職にたずさわった。
一八九八(二四歳)祖父死す。教職を辞してキャヴァンディッシュに帰り、祖母を助けて郵便局の仕事にあたる。
一九〇一(二七歳)秋、ハリファックスのクロニクル社の夕刊紙デイリー・エコーの新聞記者として就職する。この年、長老教会所属の青年牧師ユーアン・マクドナルドと知り合う。
一九〇二(二八歳)六月、キャヴァンディッシュに戻り、以前どおりの祖母を助けての生活を再び始める。
一九〇五(三一歳)『グリーン・ゲイブルズのアン』(赤毛のアン)を書きあげる。
一九〇七(三三歳)ボストンのページ出版社に『グリーン・ゲイブルズのアン』の原稿を送る。
一九〇八(三四歳)『グリーン・ゲイブルズのアン』出版。たちまちベストセラーとなる。
一九〇九(三五歳)「アン・ブックス」の第二弾として『アヴォンリーのアン』を出版。
一九一〇(三六歳)『果樹園のキルメニー』、続いて『ストーリー・ガール』を出版。これがキャヴァンディシュでの最後の作品である。
一九一一(三七歳)祖母死す。郵便局を閉鎖、叔父の家に移る。七月、長年の婚約者ユーアン・マクドナルドと結婚し、スコットランドへの新婚旅行の後、夫の新任地オンタリオ州リースクデールへ赴く。
一九一二(三八歳)『アヴォンリーの記録』出版。長男誕生。
一九一五(四一歳)次男誕生。
一九一七(四三歳)詩集『ウォッチマンその他』を出版。
一九二一(四七歳)『赤毛のアン』無声映画で初めて映画化される。
一九二六(五二歳)一九一四年以来、この時までに『島のアン』『アンの夢の家』等の「アン・ブックス」や「エミリー・ブックス」三部作等を書き続ける。
一九三七(六三歳)『丘の家のジェーン』出版。
一九四二(六八歳)四月二四日、オンタリオ州の首府トロントで、夫に先立つこと一年で世を去る。現在「グリーン・ゲイブルズ」を見おろす場所に墓所がある。
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あとがき
『赤毛のアン』を読みかえす度に、本書が少女小説として第一級の作品であることを改めて認めないわけにはゆかない。そしてこの種の読物こそ、現代の日本で最も等閑視されていると言ってよかろう。幼児向けの絵本や、小学校低学年の子供達を対象とした児童文学には、最近非常な関心が寄せられているし、事実優れたものも相当出廻ってきた。それがもう少し年齢の上の少年少女のためのものとなると、質の高下をうんぬんするどころか、作品そのものの数が極端に少ないのが実状である。潔ぺきで、一途で、美しい夢に溢れたこの年頃の少女達の深い共感を喚び起こすような作品が、我が国にもそろそろ姿を見せていい頃ではあるまいか。
しかし翻って考えてみれば、こんな注文をつけること自体、あまり意味のないことかもしれない。『赤毛のアン』ほどの作品がそう易々と現われるはずはないのだ。その上アンがどれほどカナダの風土に溶け込んだ存在であるにしても、そのアンは今では世界中のアンを愛する人々にとって心の友以外の何者でもないのだから。
なお、本書の訳出に際しては、河田智雄氏に色々御尽力頂いた。ここにあつく御礼を申し述べる次第である。
一九七三年六月 訳者
〔訳者略歴〕
神山妙子(かみやまたえこ) 東京生まれ。青山学院大学教授。東京女子大学、ウェスタン・メリーランド・カレッジ、ボストン大学卒。主要論文「エリザベス・ボーエン」「ヴァージニア・ウルフ」「リットン・ストレッチー」「サミュエル・ジョンソン」ほか。おもな訳書「ジェーン・エア」「クリスマス・カロル」など。