町人貴族
モリエール作/鈴木豊訳
目 次
第一幕
第二幕
第三幕
第四幕
第五幕
解説
モリエールの生涯
『町人貴族』について
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登場人物
ジュールダン氏……町人
ジュールダン夫人……その妻
リュシール……ジュールダン氏の娘
ニコール……女中
クレオント……リュシールに恋する男
コヴィエル……クレオントの下男
ドラント……伯爵、ドリメーヌの恋人
ドリメーヌ……侯爵夫人
音楽の先生
音楽の先生の生徒
ダンスの先生
剣術の先生
哲学の先生
仕立屋の親方
仕立屋の職人
下男二人
男性歌手数人
女性歌手数人
楽師数人
ダンサー数人
コック数人
仕立て屋の職人数人
及び他の幕間劇とバレエの登場人物たち
[#改ページ]
舞台はパリ
第一幕
序幕はたくさんの楽器の合奏とともに幕があがる。舞台の中央に音楽の先生の生徒が一人見える。彼はテーブルに向かって、町人がセレナーデ用に頼んだ曲を作曲しているところである。
第一場
音楽の先生、ダンスの先生、三人の歌手、二人のヴァイオリン奏者、四人のダンサー
【音楽の先生】 〔歌手たちに〕さあ、きたまえ、広間へはいって、彼がくるまでそこで休んでいてくれたまえ。
【ダンスの先生】 〔ダンサーたちに〕そうだね、君たちもこのへんで休むといい。
【音楽の先生】 〔生徒に〕どう、できたかい?
【生徒】 はい、できました。
【音楽の先生】 見せてみたまえ……なるほど、これでけっこうだろう。
【ダンスの先生】 なにか新しい曲でも?
【音楽の先生】 そうなんです、セレナーデ用の曲なんですがね、うちの大将《ヽヽ》が眼をさますまでにね、ここでこの子に作曲させていたんですよ。
【ダンスの先生】 ちょっと拝見できますかな?
【音楽の先生】 うちの大将がきたら、歌詞をつけてお聞かせしますよ。おっつけ姿を現わすでしょうから。
【ダンスの先生】 あなたにとっても、わたしにとっても、今じゃあわれわれの仕事もなかなかバカにはなりませんな。
【音楽の先生】 そうですとも。ぼくら二人にとっては、お互いさまになくてはならぬ人物をここで探し当てたってわけですよ。あのジュールダンの大将ときたら、貴族や粋《いき》な紳士になりたいなんてとんだ夢を見たばっかりに、すっかり頭へきちまったんですね、ぼくらにとったらこんなうまい飯の種はありませんよ。あなたのダンスにしろぼくの音楽にしろ、みんながうちの大将みたいになってくれりゃあ、願ったりかなったりというところなんですがね。
【ダンスの先生】 いや、うちの大将とそっくりそのままっていうのもちょっと困りものですな。わたしに言わせればですね、われわれが大将に教えていることを、もう少しよくわかってくれたらありがたいんですがね。
【音楽の先生】 おっしゃるとおり、あの大将ときたらまったくものわかりが悪いですからな、しかしね、彼は金払いのほうがきれいですからね。ま、今のところ、ぼくらの芸術になにより必要なのはここのところですよ。
【ダンスの先生】 わたしとすればですな、実を申せば、まだまだ名誉にも多少のみれんがありましてな。わたしにとっては、満場の拍手というやつが、やっぱり魅力なんですな。それにわたしの信念では、これはすべての芸術について言えることですが、トンマを相手に理解させようと骨折ったり、創作の上でですな、センスのない男の無作法を我慢したりするくらいいやな拷問《ごうもん》はない、と思っているんです。まあ、言わでもがなのことですが、芸術の繊細なニュアンスまで感じとっていただけるようなかたがた、作品の美しさを優しく歓迎するすべを心得て、あなたのお仕事にですな、誇りを満足させてくれるような賞讃でこたえるすべを知っているようなかたがたのために仕事をするのは、まったくこの上ない喜びですからな。さよう、われわれが仕事によってうける報酬といえば、ま、なんといっても、仕事を理解してもらうこと、そうしてあなたの名声を高めるような拍手で迎えてもらうことが、いちばん気持ちのよい報酬でしょうな。わたしの意見では、われわれの仕事の疲れを癒《いや》すには、これよりよいものはほかに見当たりませんな。それに、芸術の理解者の賞讃というものは、心をとろけさせるほど気持ちのよいものですからな。
【音楽の先生】 おっしゃるとおりで、ぼくもあなたとまったく同じ意見ですよ。いまのお話のような賞讃ほど自尊心を満足させてくれるものは、ほかにはありませんね、たしかに。しかしですね、そうやっていくらお讃《ほ》めいただいても、飯の種にはなりませんよ。いくら讃辞を浴びたところで、讃められただけじゃあ悠々自適《ゆうゆうじてき》というわけにはゆきませんからね。もっと実質的なものをガッチリ抱きこまなければいけませんよ。ひとを讃《ほ》めるいちばん気のきいたやりかたはですね、ほら、こうやってお金を払いながら讃めることですよ。そりゃあじっさい、うちの大将ときたら、教養なんてものはカケラもありませんしね、なんの話をさせても、喋《しゃべ》ることときたらデタラメの言いほうだい、ひとを讃めれば的《まと》はずれなことばかりですよ。しかしですね、大将の趣味の悪い批評にしたところが、金のほうでじゅうぶん補いをつけてくれますよ。あの財布さえありゃあ鑑賞力もオーケーですよ。なあに、讃め言葉が形を変えて金になっただけのことですよ。あなたもそう思いませんか、あのなんにも知らない町人だって、われわれをこの家へ紹介してくれた例のインテリのお殿様なんかより、ぼくらにとっちゃあずっと値うちがありますよ。
【ダンスの先生】 あなたのおっしゃるところにもたしかに多少の道理はあります。しかしですな、わたしの見たところでは、あなたはお金お金と、あまりお金にこだわりすぎるきらいがあるような気がするんですがね。損得というのは、なにかこう、とても俗っぽいものですからな、品位を重んじる紳士たるもの、あまりお金に執着を見せるのもどうかと思いますな。
【音楽の先生】 ところがあなたにしても、たいそうごきげんで、うちの大将がくれるお金をおしいただいてるじゃあありませんか。
【ダンスの先生】 いや、たしかにおっしゃるとおりで。しかしですな、わたしは金がしあわせのすべてだとは思わんのですよ。わたしはですな、彼にしてもあれだけの財産があるんだから、なにかもっとよい趣味をもってくれれば、と望んでいるんですがね。
【音楽の先生】 そりゃあぼくだってそう思いますがね、まあ、ぼくら二人にしてもそのためにこうやって、できるだけ仕事をしてるんじゃあありませんか。しかしいずれにしろ、ぼくらが多少なりとも世間に知られるのは、彼のおかげでしょうね。それに、彼がほかのみなさんの代わりにお金を払い、ほかのみなさんが彼の代わりに讃《ほ》めてくださる、とまあこういったわけになるんでしょうね。
【ダンスの先生】 やあ、ちょうど彼のお出ましですよ。
第二場
ジュールダン氏(部屋着を着て、ナイト・キャップをかぶって)、下男二人、音楽の先生、ダンスの先生、ヴァイオリン奏者、歌手数人、ダンサー数人
【ジュールダン氏】 やあ諸君、どうですね?また例のカッポレでも踊ってみせてくれますかな?
【ダンスの先生】 なんとおっしゃいました?カッポレとはどういうことで?
【ジュールダン氏】 ほらほら、その……なんといいましたかな? 諸君がよくいう、そら、歌だか、ダンスだかの、プロローグとかディアローグとかいうやつ。
【ダンスの先生】 ああ! なるほどそのことですな!
【音楽の先生】 準備のほうはぜんぶできております。
【ジュールダン氏】 ちょっとばかり諸君をお待たせしましたな。なにしろ今日は上流階級のかたがたがお召しになるような服の着つけをしておりましたものでね、わしの仕立屋が絹の靴下を送ってきたんじゃが、わしのみたところ、どうもきゅうくつで、とってもはけそうもありませんや。
【音楽の先生】 ぼくらはここで、あなたのお体があくのをお待ちしておりますから、おかまいなく。
【ジュールダン氏】 お二人にお願いしますが、どこへもいらっしゃらないでくださいよ、いまここへ洋服をもってこさせますから、似合うかどうか、ぜひみていただきたいんでな。
【ダンスの先生】 よろしいようにいたしますから、どうぞ。
【ジュールダン氏】 つま先から頭のてっぺんまで、非のうちどころのないような衣装を着ますからな、ぜひともごらんいただきたいんでな。
【音楽の先生】 もちろんおっしゃるとおりでしょうね。
【ジュールダン氏】 どうですこのインド更紗《さらさ》は、わざわざ作らせたんですぜ。
【ダンスの先生】 まったくきれいなものですな。
【ジュールダン氏】 うちの仕立屋のはなしでは、上流階級のかたがたは、朝はこんな衣装をお召しになるんだそうですな。
【音楽の先生】 この上なし、ぴったりお似合いですよ。
【ジュールダン氏】 下男ども、こらーっ! 下男ども二人いないか!
【第一の下男】 はい、ムッシュウ、ご用は?
【ジュールダン氏】 いやなんでもない。わしの言うことが聞こえるかどうかためしただけのはなしじゃ。〔二人の先生に〕いかがですかな、わしのこのお仕着せは?
【ダンスの先生】 まったくすばらしいお仕着せですな。
【ジュールダン氏】 〔部屋着をはだけて、彼が着ているまっ赤なビロードのぴちっとした半ズボンと緑色のビロードのジャケツを見せて〕ほら、これは朝ですな、剣術のけいこをするときのちょっとしたふだん着でしてね。
【音楽の先生】 まったくエレガントですな。
【ジュールダン氏】 おおい、コラアーッ、下男!
【第一の下男】 はい、ムッシュウ、ご用は?
【ジュールダン氏】 コラアーッ、もう一人の下男!
【第二の下男】 はい、ムッシュウ。
【ジュールダン氏】 〔部屋着を脱いで〕この部屋着をもっていろ。〔音楽の先生とダンスの先生に〕いかがです、これは、似合うと思いますかな。
【ダンスの先生】 まったくごりっぱですな。天下一品という感じですよ。
【ジュールダン氏】 それでは諸君のお仕事を拝見とゆきますかな。
【音楽の先生】 その前にちょっと曲を聞いていただければありがたいんですが。〔生徒を指して〕この子がですね、いつかあなたがぼくにご依頼になったセレナーデ用の曲をいま作曲したところなんですよ。この子はぼくのところの生徒の一人ですがね、こういうことにかけてはすばらしい才能に恵まれておりましてね。
【ジュールダン氏】 なるほど、しかしそういったものをまだ学校へ通っている生徒に作らせるのはどうかと思いますな。先生のあなた自身にしてからが、こういった手間仕事はあんまり得意じゃあないくらいなんだから。
【音楽の先生】 いやいや、ムッシュウ、生徒という名前に欺《だま》されてはいけません。生徒とはいってもこういった連中は大家より腕がたちますからな、それにこの曲はじつにきれいで、非のうちどころのないできばえですね。とにかく聞いていただければおわかりになりますよ。
【ジュールダン氏】 〔下男たちに〕わしの部屋着をかしてくれ、このほうが聞きいいからな……いや待ってくれ、部屋着のないほうがいいような気がするな……いや、やっぱりそいつをかしてくれ、このほうが調子がでるわい。
【男性歌手】 〔歌う〕
[#ここから2字下げ]
恋はひねもす夜もすがら、なやみやつれて果てもなし、
汝《な》が美しき眼差《まなざ》しの、きびしく心をとらえし日より。
さあれイリスよ、かくもおんみをいとおしむ、われをつれなくふり捨てて、
汝《なれ》を恨《うら》みつ泣くひとを、ああ、おんみはいかにあしらわん?
[#ここで字下げ終わり]
【ジュールダン氏】 この歌はちょっとばかりしめっぽいような気がしますな、なんだか睡気《ねむけ》をもよおしてきますわい、それにねえ、あんた、あっちこっちもう少しイキのいいところを入れてもらいたかったですな。
【音楽の先生】 曲というものはですね、ムッシュウ、やっぱり歌詞とつり合いがとれてないといけませんから。
【ジュールダン氏】 いつだったか、こんな歌を教わったんじゃがね、めっぽうイカス歌だったがね。チョイ、チョイ、チョイ待ち……ほら……その、なんていったっけねえ?
【ダンスの先生】 いやいや、存じませんな。
【ジュールダン氏】 ほら、羊がでてくるんよ。羊が、その歌のなかにね。
【ダンスの先生】 羊ですって?
【ジュールダン氏】 ああ、そうだ!
〔ジュールダン氏が歌う〕
おいらはジャヌトンがベッピンで
気も優しいと思ってた。
おいらはジャヌトンが羊より
ずっと優しいと思ってた。
ところがありゃありゃ!
こりゃどうじゃ!
森の虎より百倍も、
千倍もむごい奴だった。
どうです、なかなかイカスでしょうが?
【音楽の先生】 りっぱなもんです、世界一ですね。
【ダンスの先生】 それに歌いかたもなかなか堂にいったものですな。
【ジュールダン氏】 音楽なんぞ習わなくたって、ざっとこんなもんでさあ。
【音楽の先生】 いや、あなたがダンスをお習いになるのといっしょに、音楽も勉強なさらなければいけませんよ、この二つの芸術は、それぞれ切っても切れない関係がありますからね。
【ダンスの先生】 それに、こういったものは人間の精神を良い趣味に向かって開いてくれますからね。
【ジュールダン氏】 上流階級のかたがたも音楽を勉強されるもんですかな?
【音楽の先生】 そうですとも。
【ジュールダン氏】 なるほど、それならわしも勉強しますわい。けれど、どの時間をその勉強にあてたらよいかわからんのでな。なにしろ、わしにけいこをつけてくださる剣術の先生をべつにしても、そのほかに今朝から始めるはずの哲学の先生に|とっつかまって《ヽヽヽヽヽヽヽ》おりますんでね。
【音楽の先生】 そりゃあ、哲学もまあまあですがね。しかしですね、音楽はですよ、ムッシュウ、音楽はですね……
【ダンスの先生】 音楽とダンスはですな……音楽とダンスはなにをおいてもぜったい必要なもんですからな。
【音楽の先生】 国家にとって、音楽ほど役にたつものはほかにはありませんよ。
【ダンスの先生】 人間にとって、ダンスより必要なものはまずほかに見当たりませんな。
【音楽の先生】 音楽がなくては、国家の存立さえ危ういものになりますよ。
【ダンスの先生】 ダンスなくしては、人間はなにひとつできんでしょうな。
【音楽の先生】 この世界に起こるすべての混乱、すべての戦争は、みんな音楽を勉強しなかったばっかりに起こるものですよ。
【ダンスの先生】 歴史のなかにみちみちているあらゆる人間の不幸、あらゆる不吉な災害、また政治家どもの大失策といい、指導者たちのあやまちといい、すべてこれダンスができない、という弱味が原因ですな。
【ジュールダン氏】 どういうわけかね、そりゃあ?
【音楽の先生】 戦争というものは、人間たちのあいだに結びつきがないところから起こるものじゃあないですかね?
【ジュールダン氏】 そのとおりですな。
【音楽の先生】 そこでです、もしすべての人間が音楽の勉強をすればですね、どうです、みんながいっしょに結ばれ、世界に平和をもたらす方法になりませんか?
【ジュールダン氏】 なあるほど、そりゃ道理だ。
【ダンスの先生】 ある男がですな、家庭内の些事《さじ》にしろ、一国の政治問題にしろ、あるいは軍の指揮に関することにしろ、彼のやりかたになんかのまちがいをしたときですな、いつもこんなことを申しませんかな、「だれそれがある問題で|勇み足《ヽヽヽ》をした」、とな?
【ジュールダン氏】 たしかに、そう言いますな。
【ダンスの先生】 つまり、勇み足をするなんて、ほかでもない、ダンスのステップを知らないからそんなことが起こるんじゃあないですかな?
【ジュールダン氏】 まさにそのとおりじゃわい、お二人のおっしゃるところはごもっともですな。
【ダンスの先生】 つまりですな、あなたにダンスや音楽の優《すぐ》れた点や有用な点をわかっていただきたかったわけで。
【ジュールダン氏】 お話を伺《うかが》ってみると、よくわかりましたよ。
【音楽の先生】 ぼくら二人の仕事をごらんになっていただけますか?
【ジュールダン氏】 けっこうですな、見せていただきますよ。
【音楽の先生】 すでにお話したように、これはちょっとした試作なんですよ、もうだいぶ前になりますが、いろいろな恋の情熱を音楽で表現できるかどうか試みてみたんですが。
【ジュールダン氏】 なるほどけっこうな話で。
【音楽の先生】 〔歌手たちに〕さあ、こちらへ寄りたまえ。〔ジュールダン氏に〕彼らが羊飼いの服装をしているとご想像ください。
【ジュールダン氏】 やれやれ、どうしてこういつも羊飼いばかり出てくるんですか? どこへいってもお目にかかるのは羊飼いばっかりじゃわい。
【ダンスの先生】 音楽に歌詞をつけて歌わせたかったら、どうしても羊飼い趣味に合わせなければいけませんな、だいいちほんとうらしくみえませんからな。いつの時代でも、歌ってものはもともと羊飼いの専売特許みたいなものでしてな。それにですな、恋の情熱を歌手の対話で歌うにしても、やれプリンスだのやれブルジョアだのっていうかたがたが歌ったんではあんまり自然じゃありませんからな。
【ジュールダン氏】 いやわかりましたよ、さあ、さあ、ひとつやってください。
曲をつけたディアローグ
女性歌手一人と男性歌手二人
【女性歌手】
恋知りそめしわが胸は、
憂い波だちたえもなし。
恋にやつれしため息も、
喜びなりとひとの言う。
人はなにをか語らんや、
自由にまさる宝なし。
【第一の歌手】
二人の胸の火をもやす、
やさしき愛にまさるものなし。
同じ望みにこがるる身には、
恋消ゆる日は甲斐《かい》なしや。
この世の恋の消ゆる日は、
共に果てなんよろこびも。
【第二の歌手】
まことの愛を知りえなば、
恋のきずなもこころよし、
さあれ、ああ! つれなき女《ひと》よ!
羊飼う乙女にまことの愛やなし!
きまぐれの、生命《いのち》甲斐なきこの乙女、
とことわに恋を忘れて生くるべし。
【第一の歌手】
優しきは恋のほむら!
【女性歌手】
幸《さち》多きわが自由!
【第二の歌手】
まことなき女ごころ!
【第一の歌手】
いとしきは汝《なれ》!
【女性歌手】
やさしきは汝《なれ》!
【第二の歌手】
つれなきは汝《なれ》!
【第一の歌手】
ああ! その深き憎しみを捨て愛を知れ!
【女性歌手】
羊飼う乙女のまこと、
乙女のまこと汝《なれ》に示さん。
【第二の歌手】
ああ! いずくにて乙女に会わん?
【女性歌手】
乙女ごの名を守るため、
わがこころ汝《なれ》に与えん。
【第一の歌手】
羊飼う乙女に問わん、
そのこころ偽りなきや?
【女性歌手】
いざ愛し合い知らんかな
われらが愛のいずれが深きを。
【第二の歌手】
まごころを忘るるものに、
神々の怒りあれかし!
【三人の合唱】
美わしき恋のほむらに、
わが胸の思いもやさん。
二人ながらまことの恋を知るときぞ、
ああ! 恋するは甘く美わし。
【ジュールダン氏】 それでぜんぶかね?
【音楽の先生】 そうです。
【ジュールダン氏】 なかなかうまく息があってらあね。それにだね、なかにゃあなかなかオツな文句もあるね。
【ダンスの先生】 さて、今度はわたしのほうをお眼にかけましょう、もっとも美しいあらゆる動作と姿勢を組合わせた、ちょっとした試みなんですが、これはつまりですな、ダンスとしての可能な限りのヴァリエィションを組み合わせてみたわけですな。
【ジュールダン氏】 またまた例の羊飼いどもがでてくるんでしょうな?
【ダンスの先生】 そのほうがあなたのお気に召すと思いましてな。〔ダンサーたちに〕さあ、やろう!〔四人のダンサーたちは、ダンス教師の号令に従って、みなそれぞれべつの動作をし、べつのステップを踏む。このダンスが第一幕の幕間劇になる〕
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第二幕
第一場
ジュールダン氏、音楽の先生、ダンスの先生、下男
【ジュールダン氏】 なるほど、なかなかバカにしたもんじゃないな、それにこの連中ときたら、よくもまあこんな小マメに動けるもんですな。
【音楽の先生】 このダンスも曲をつけ踊れば、いっそう効果があがるんですがね、それに、ごらんになればおわかりになりますが、ぼくらがとくにあなたのご趣味に合わせて作ったバレエの小品は、なかなかエレガントなもんですよ。
【ジュールダン氏】 のちほど、かならず拝見することにしましょうわい。ところで、じつは客がありましてな、そのためにこんなものを作っていただいたようなわけじゃが、そのお客さまをわしの邸《やしき》へ招待して、夕食をあがっていただくことになっとるんでな。
【ダンスの先生】 そのほうはもうすっかりお膳立てできておりますよ。
【音楽の先生】 それだけじゃあ、じゅうぶんとは言えませんね、ムッシュウ、あなたのように派手好《はでごの》みで、贅《ぜい》をつくしたことのすきなおかたは、やっぱりですね、水曜日か木曜日ごとにはお邸《やしき》でコンサートを開かれないといけませんね。
【ジュールダン氏】 上流階級のかたがたはそんなことをなさるかな?
【音楽の先生】 そうですとも、ムッシュウ。
【ジュールダン氏】 それじゃあ、コンサートを開くとしますか。カッコのいいもんでしょうな、そりゃあ?
【音楽の先生】 もちろんですとも。まず必要なのは歌手が三人、つまりですね、テノールとソプラノとバスというわけです、それに合奏する楽器には、低音のメロディー用としてですね、セロとテオルブとクラヴサン、それに間奏用としてはですね、高音のヴァイオリンが二提ほど要《い》りますね。
【ジュールダン氏】 それにあの海軍式のトランペットも一提ぜひ入れてほしいですな。あの海軍式のトランペットというやつはわしがとっても好きな楽器でな、それになかなか調子もいいもんじゃからな。
【音楽の先生】 そちらのほうは、まあぼくらにお任せください。
【ジュールダン氏】 ただ、これだけは忘れちゃあ困りますぞ、つまりですな、そのあとで歌手の連中をぜひともテーブルへよこして歌ってもらいたいんじゃがね。
【音楽の先生】 お気に召すようにいたしましょう。
【ジュールダン氏】 とくにですな、バレエはカッコいいやつを頼みまっせ。
【ダンスの先生】 それはもう、満足していただけますよ、とりわけですな、いくつかのメニュエットは、それはもうすばらしいできばえですからな。
【ジュールダン氏】 そりゃありがたい! メニュエットときたら、ダンスのうちでもわしの得意中の得意じゃからな、どうだね、これから、ひとつわしが踊ってお目にかけましょうかな。サア、いっちょういきましょう、先生。
【ダンスの先生】 帽子を、ムッシュウ、どうぞ帽子をかぶってください。
〔ジュールダン氏は下男の帽子をとり、ナイト・キャップの上からかぶる。ダンスの先生は、メニュエットを歌い、その曲に合わせて、彼を踊らせる〕
ラ、ラ、ラ。――ラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ。――ラ、ラ、ラ、もう一度。――ラ、ラ、ラ。――ラ、ラ。調子をとって、どうぞ。ラ、ラ、ラ、ラ。脚をまっすぐに伸ばして。ラ、ラ、ラ。そんなに肩を動かさないで。ラ、ラ、ラ、ラ、ラ。――ラ、ラ、ラ、ラ、ラ。両腕がきいていませんな。ラ、ラ、ラ、ラ、ラ。頭をあげて。――つま先を外へ回す。ラ、ラ、ラ。体を起こして。
【ジュールダン氏】 フーッ! どんなもんだね?
【音楽の先生】 まったく天下一品のみものですよ。
【ジュールダン氏】 さて、時にですな、侯爵夫人に敬意を表するには、どんなご挨拶《あいさつ》をしなければならんのかね、教えていただきたいんだが。のちほど、それが必要になるんじゃがね。
【ダンスの先生】 侯爵夫人に敬意を表するご挨拶ですって?
【ジュールダン氏】 さよう、ドリメーヌとおっしゃる侯爵夫人なんだが。
【ダンスの先生】 お手をお貸しください。
【ジュールダン氏】 いや。その、型をやって見せてもらえればけっこう、ようくそれを覚えておきますからな。
【ダンスの先生】 もしですな、とくべつに尊敬をこめてご挨拶したいとお思いなら、まずはじめに一回、うしろへさがっておじぎをする、その次に夫人に向かってあるいてから前へ三回おじぎをする、最後にですな、夫人の膝《ひざ》のところまで体をかがめるわけです。
【ジュールダン氏】 ちょっとやってみてくださらんか。〔ダンスの先生が三回おじぎをしてから〕なるほど!
【下男】 ムッシュウ、剣術の先生があちらにおいでになっておられます。
【ジュールダン氏】 こちらへおはいりになって、けいこをつけてくださるように言ってくれ。
〔音楽の先生とダンスの先生に〕わたしがけいこをするところを見ていてくださらんかね?
第二場
剣術の先生、音楽の先生、ダンスの先生、ジュールダン氏、下男
【剣術の先生】 〔下男の手から二本のけいこ用の剣をとって、それをジュールダン氏に差し出して〕さあゆきましょう、ムッシュウ、まず、礼をして。体をまっすぐにして。左の腿《もも》にすこし重心をかけて。脚はそんなに開いてはいけませんぞ。両足を一線におく。手首は腰のところへしっかりつける。剣のきっ先は肩の高さにおいて。それではあんまり腕が開きすぎてますぞ。左手は眼の高さにおいて。左の肩をもっと内側へ捻《ひね》って。頭はまっすぐに。眼をしっかりすえて。前へ。体をぐらぐら動かさないで。第四の構えでわたしを突いて、そう、もう一度突いて。イチ、ニッ。もとの構えにかえって。足はそのまま、体だけもう一度。跳んで後退。攻撃をするときには、ムッシュウ、剣のほうが先に出て、、体がじゅうぶんかくれるようにしなけりゃあいけませんぞ。イチ、ニッ。さあ、第三の構えでわたしを突いて、そう、もう一度突いて。前へ。体をぐらぐらさせない。前へ。そこから突いて。イチ、ニッ。もとの構えに。もう一度。跳んで後退。防禦《ぼうぎょ》の姿勢で、さあ、防禦の姿勢で!
〔剣術の先生は「防禦の姿勢で!」、といいながら、彼を二、三回攻撃する〕
【ジュールダン氏】 フウーッ! どうですな!
【音楽の先生】 いや、まったく、おみごとですな。
【剣術の先生】 いぜんにもあなたに申しましたな。剣の道のすべての秘密は二つのことにつきるのです。つまり、相手を突くことと相手の突きをうけないことです。いつでしたか、たしかな例証をあげてあなたにごらんに入れたように、あなたの体の線から敵の剣を外すことができれば、ぜったいに敵の突きをうけることはないんです。つまりですな、問題は手首をですな、内側へ向けるか、外側へ向けるか、ちょっとした運動だけのことなんですな。
【ジュールダン氏】 それじゃあ、あの、あんまり度胸がない人間でも、そういうふうにやれば、たしかに敵の男を殺せたり、殺されなくてもすみますかね?
【剣術の先生】 あたりまえです。その例証を前にごらんになりませんでしたかな、あなたは?
【ジュールダン氏】 見ました、見ました。
【剣術の先生】 つまりですな、そのおかげで、われわれが国家でどれほどの尊敬をかちえているか、それにまたですな、剣の道というものがほかのすべての無用の知識よりどれほど優《すぐ》れているかがわかるわけですな、無用な知識というのは、つまりやれダンスの、やれ音楽の、やれ……
【ダンスの先生】 口を慎んだらどうです、ヤットウの大将。ダンスについて語るんなら、もっと敬意をこめて話してもらいましょう。
【音楽の先生】 音楽というものは優れたもんですよ、もう少し認識を改めていただきたいもんですね。
【剣術の先生】 わがはいの剣の道と諸君の知識を較べようとするなんて、ふざけた連中ですな、諸君は。
【音楽の先生】 いやはや、まったく高慢ちきな男だな。
【ダンスの先生】 妙な胸当てをつけたみっともない動物があったもんだ。
【剣術の先生】 チンピラダンス教師め、お望みならほんものの踊りを踊らせてやろうか。それからきさまもそうだ、チンピラ楽士め、きさまのほうにもチョイトばかり気のきいた歌を歌わせてやろうか。
【ダンスの先生】 棒ふり大将、こいつはあんたの本職だが、棒のふりかたを教えてやろうか。
【ジュールダン氏】 〔ダンスの先生に〕このひととチャンチャンバラバラやろうなんて、あんたは気でもちがったんですかいな? なにしろこのひとときたら第三の構えと第四の構えの達人ですからな、それに、たしかな例証で人を殺すことができるんですぜ。
【ダンスの先生】 たしかな例証だなんてチャンチャラおかしいや、それに第三の構えだの、第四の構えだのって、笑わせちゃいけませんや。
【ジュールダン氏】 〔ダンスの先生に〕まあとにかくことを荒立てないでくださいよ。
【剣術の先生】 〔ダンスの先生に〕なんだと? このヘナチョコ野郎め!
【ジュールダン氏】 まあまあ、そう頭にこないで! 剣術の先生。
【ダンスの先生】 〔剣術の先生に〕なにおっ? このお先マックラの馬車馬野郎め!
【ジュールダン氏】 まあまあ、とにかく穏やかに! ダンスの先生。
【剣術の先生】 わがはいが、きさまにとびかかったら、きさまみたいなヘナチョコ野郎は……
【ジュールダン氏】 〔剣術の先生に〕とにかく落ちついて。
【ダンスの先生】 あんたみたいなやつは、わたしがちょいと手をかけただけで……
【ジュールダン氏】 〔ダンスの先生に〕まあ、お静かに。
【剣術の先生】 ギューッというめにあわせてやろうか……
【ジュールダン氏】 〔剣術の先生に〕ねえ、後生《ごしょう》だから。
【ダンスの先生】 なぐりとばしてみせようか……
【ジュールダン氏】 〔ダンスの先生に〕お願いだ。
【音楽の先生】 この男に、口のききようを教えてやりますから、見ていてください。
【ジュールダン氏】 〔音楽の先生に〕困っちゃったな、もうやめてくださいよ。
第三場
哲学の先生、音楽の先生、ダンスの先生、剣術の先生、ジュールダン氏、下男
【ジュールダン氏】 やあ! 哲学の先生、ちょうどよいところへご入来だ、あなたの哲学をお役にたててください。こちらへ来て、ほれ、この連中の仲直りをさせてやってください。
【哲学の先生】 なんですかな? いったいなにごとです、みなさん?
【ジュールダン氏】 みんなね、自分の商売のほうがりっぱだっていい合って、大げんかをオッ始めちまったんですよ、あげくの果てはこのとおり、お互いに悪口のいいっこで、とうとう暴力ざたになりそうなんですよ。
【哲学の先生】 やれやれ、なんっていうことだ! みなさん、そのように血気にはやっていいものでしょうかな? セネカが、怒りについて論じたあの博学な論文をお読みになってないのですかな? 怒りの情熱以上に低級で、また恥ずべきものがほかにありましょうか? 怒りは人間を野獣にかえてしまうものですからな。そのうえですな、理性というものはわれわれの心のあらゆる動揺を制御しなければならんもんでしょうが?
【ダンスの先生】 なんですって! こいつときたら、わたしの商売のダンスや、このかたのお仕事の音楽まで軽蔑しおって、われわれ二人にさんざん悪口雑言の限りをつくしたんですぞ。
【哲学の先生】 賢者というものは、だれがなんと悪口を言おうと、そんなものは超然としているものです。侮辱に対してなすべき最もよい答えはですな、節度と忍耐ですて。
【剣術の先生】 この男どもときたら、二人ともまったく向こう見ずな野郎どもですわい、わがはいの仕事とこの男どもの商売と較べようなんぞという気をおこしおって。
【哲学の先生】 そんなことであなたは腹をたてなければならんのかな? 人間が互いに議論をたたかわせねばならんのは、そんな意味のない栄光だの、身分だののためではありませんぞ。吾人をして、他のものから完全に頭角を現わしめるのはですな、叡智と美徳ですのじゃ。
【ダンスの先生】 わたしがこいつに主張するのは、ダンスというのもはどれほど尊敬しても尊敬しきれないほどりっぱな知識だ、ということなんです。
【音楽の先生】 そしてぼくのいいぶんはですね、音楽というのはいついかなる時代にも尊敬されてきたものの一つだ、ということなんですね。
【剣術の先生】 で、わがはいがこの二人の男どもにはっきり言ってやりたいのは、剣をつかう道はあらゆる知識のうちでもっともみごとな、もっとも有用なものである、ということなんでな。
【哲学の先生】 とすると、哲学はどういうことになりますかな? わたくしをして言わしむれば、あなたがた三人とも愚かですな、このわたくしの面前でそんな尊大なもの言いをなさるばかりか、知識の名前にすら値いしないもの、たかが剣術つかいや、歌うたいや、大道踊りのしがない世渡りという名前しかつけようのないものをですな、破廉恥《はれんち》にも知識などと名付けようとするあなたがたがです!
【剣術の先生】 えい、失せろ、クソ哲学者め!
【音楽の先生】 ごくつぶしのニセ学者め、行っちまえ!
【ダンスの先生】 消えてなくなれ、いまいましい小使いめ!
【哲学の先生】 なんだって! きみたちときたら、なんていうならず者だ……
〔哲学の先生は彼らにとびかかり、ほかの三人は彼をなぐり、なぐり合いながら出てゆく〕
【ジュールダン氏】 とにかくまあ、哲学のセンセエーッ!
【哲学の先生】 はじ知らずめ! ならず者め! 無礼者め!
【ジュールダン氏】 哲学の先生、とにかくまあ!
【剣術の先生】 ちきしょうめ! ペストにでもかかれっ!
【ジュールダン氏】 まあまあみなさん!
【哲学の先生】 まったく破廉恥なやつらだ!
【ジュールダン氏】 まあまあ、哲学の先生!
【ダンスの先生】 悪魔に食われろだ、この無学者め!
【ジュールダン氏】 まあまあみなさん!
【哲学の先生】 この悪党どもめ!
【ジュールダン氏】 哲学の先生、まあまあ!
【音楽の先生】 生意気野郎め、悪魔にやっちゃうぞ!
【ジュールダン氏】 まあまあみなさん!
【哲学の先生】 ペテン師め! オタンコナスめ! こうもり野郎め! 猫っかぶりめ!
【ジュールダン氏】 まあまあ哲学者さん、みなさん、哲学者さん、みなさん、哲学者さん!……やれやれ!〔彼らはなぐり合いながら退場〕
気のすむまでなぐり合いなさい、わしゃもうどうしていいかわからんよ、それにまあ、あんたがたの仲裁なんかしてれば、わしの部屋着は台なしになりそうですからな。あの先生がたのけんかをとめにはいって、わしまで痛いめに合うのも、ワリの合わない話じゃからな。
第四場
哲学の先生、ジュールダン氏
【哲学の先生】 〔襟《えり》をなおしながら〕さあ、授業にはいりましょう!
【ジュールダン氏】 ああ、先生! まったく腹をたてましたよ、あの連中があなたのようなかたをあんなになぐるなんて。
【哲学の先生】 なに、なんでもありません。哲学者というものは、ものごとをあるがままに受けとることができますからな、それに、いつかわたくしは、あの連中に、ユーヴェナリス流のスタイルで諷刺詩を書いて、しごく優雅なやりかたで、連中をコテンパンにやっつけてやりますよ。ま、それはそれとして。ところでなにを勉強なさりたいのかな。
【ジュールダン氏】 わしにできることなら、なんでもお願いしますよ、というのはですな、わしは学者になりたくて、なりたくてあこがれておるんですよ、今になると、まったく腹がたってたまらんのですよ、つまり、わしのおやじやおふくろが、若い頃にわしに勉強させてくれなかったのがね。
【哲学の先生】 そのお気持ちはもっともしごくですな。ナム・シネ・ドクトリーナ・ウィタ・エスト・クアジ・モルチス・イマーゴ。これくらいはおわかりですな、おそらくラテン語はご存知でしょうな?
【ジュールダン氏】 わかりますがね、でも、わしがラテン語をできないものとして話してください。それはどういう意味か、説明してくれませんか?
【哲学の先生】 その意味はですな、つまり、「学なくば、生はほとんど死の影にひとし」、ということです。
【ジュールダン氏】 なるほど、なかなかうがったことを言っておりますな、そのラテン語は。
【哲学の先生】 なにかの基礎はご存知ですかな、つまり、学問のなにかの初歩といったようなものを?
【ジュールダン氏】 もちろん! それは知っていますよ、読み書きはできるんですから。
【哲学の先生】 ではどこから始めればよろしいかな? 論理学でもご教授いたしましょうかな?
【ジュールダン氏】 その論理学っていうやつはいったいなんです?
【哲学の先生】 いわば、精神の三つの働きを教える学問です。
【ジュールダン氏】 そいつはいったいなんです? その、精神の三つの働きとかってえのは?
【哲学の先生】 第一、第二、第三のものがありましてな。第一はすなわち、一般概念を媒体として正しい知識をうること。第二はカテゴリーを方法として正しく判断すること。第三は形象を用いて正しい結論をひきだすこと、これです。バルバラ・ケラレント・ダリイ・フェリオ・バラリプトン・エトセテラ。
【ジュールダン氏】 いやはや、そんな言葉を聞いてると尻がムズムズしてきますわ。その論理学ってやつは、わしの性《しょう》に合いそうにもありませんわい。なんかもっとほかの、こう、スッキリしたやつを教えていただけませんかな。
【哲学の先生】 倫理学なぞいかがなもんかな?
【ジュールダン氏】 倫理学ですって?
【哲学の先生】 さよう。
【ジュールダン氏】 なんですね、そりゃあ、その倫理学とかいうのは?
【哲学の先生】 人間の幸福を扱う学問でな、情欲を制御することを人間に教え、そして……
【ジュールダン氏】 いや、そいつはごめんこうむりましょう。なにしろわしときたらかんしゃくもちで、すぐカッカとくるほうでな。それに倫理学なんかじゃあ、とうてい抑えられませんよ、腹がたってくると、怒りたいだけ怒っちまわないと気がすまない性分でしてね。
【哲学の先生】 物理学はいかがです、勉強する気になりませんかな?
【ジュールダン氏】 どんな寝言をならべるんです、その物理学っていうのは?
【哲学の先生】 物理学とは自然の事物の原理や、物質の特性を説明する学問でしてな。諸元素、金属、鉱物、鉱石、植物及び動物について議論し、森羅万象《しんらばんしょう》、すなわち、虹、狐火、彗星《すいせい》、稲妻、雷、落雷、雨、雪、霰《あられ》、風、渦巻などの原因を教えてくれるものです。
【ジュールダン氏】 渦巻だなんて、なかへはいったらうるさくてやりきれませんよ、頭がガンガンしちまいますからね。
【哲学の先生】 それじゃあ、いったいなにを勉強なさりたいのかな?
【ジュールダン氏】 綴《つづ》り方ってやつを教えていただけませんか?
【哲学の先生】 たいへんけっこうですな。
【ジュールダン氏】 それが終わったら、暦のことを教えていただきたいんですがね、いつ月が出るか、欠けるかを知りたいんですよ。
【哲学の先生】 よろしい。あなたのご希望にそってですな、この問題を哲学的にとり扱うためにはですな、ものの順序に従って、文字そのものの性格と、すべての文字を発音するさまざまな方法についての正確な認識から入門しなければなりませんな。これについてまず申し上げねばならんのは、文字というものはいくつかの母音に区別されるということです、母音、つまり音を表現する母体なるが故にこう呼ばれているわけです。さらに子音に区別される、これはつまり子供が母に手をひかれるように、母音といっしょに音を出すのでこう呼ばれているのですな、それにこの子音はですな、音のさまざまな調音を示すのに用いられるだけなんですよ。母音、あるいは音には五つあります。すなわち、|A《アー》|・E《エー》|・I《イー》|・O《オー》|・U《ユー》がこれですな。
【ジュールダン氏】 なるほど、なるほど、みんなよくわかりますよ。
【哲学の先生】 Aの音は口をうんと開くとできます。アー。
【ジュールダン氏】 アー、アー、なるほど。
【哲学の先生】 Eの音は下あごを上あごに近づけるとできます。アー、エー。
【ジュールダン氏】 アー、エー。アー、エー。そのとおりですな、なるほど。すごいぞ。こいつはまったくイカスじゃあないか?
【哲学の先生】 つぎにIの音ですな、両方のあごをもっとうんと近づけてですな、口の両はじを耳のほうへぎゅっとひっぱると出ます。アー、エー、イー。
【ジュールダン氏】 アー、エ、イー、イー、イー、イー、イー。ほんとだ。学問ばんざい!
【哲学の先生】 Oの音は、両あごをもう一度開いてですな、唇の両端をひっぱって上と下を近づけるとできます。オー。
【ジュールダン氏】 オー、オー。こんな確かなことはほかにはありませんな。アー、エー、イー、オー、イー、オー。こいつはすげえや!イー、オー、イー、オー。
【哲学の先生】 口の開きかたは、ちょうどOの字の形になって、小さな円をつくります。
【ジュールダン氏】 オー、オー、オー。おっしゃるとおりですな。オー。まったく、ものを覚えるってことはすばらしいことですな!
【哲学の先生】 Uの音はですな、上下の歯が完全にくっつかない程度に近づけて、上下の唇を外側に突き出し、同様に両方の唇がぜんぶくっつかない程度に近づけると出る音ですな。ユー。
【ジュールダン氏】 ユー、ユー。まちがいなくほんとうですな。ユー。
【哲学の先生】 あなたの両方の唇は、ふくれっ面《つら》をするときのように突き出すんです。ですから、もしあなたがだれかにふくれっ面をしてやりたい、相手をバカにしてやりたいという時には、このユーを発音すればいいわけですな。
【ジュールダン氏】 ユー、ユー。まったくそのとおりだ! ああ! こんなことが覚えられるんなら、どうしてわしはもっと早く勉強しなかったんだろう!
【哲学の先生】 明日はべつの字を勉強いたしましょう、つまり子音ですな。
【ジュールダン氏】 今日のやつみたいにおもしろいのがあるんですか?
【哲学の先生】 もちろんですとも。たとえばですな、子音の|D《デー》です、これは舌の先を上の歯の上につけながら発音するんです。ダー。
【ジュールダン氏】 ダー、ダー。なるほど。ああ! まったくすばらしい! すばらしいもんだ!
【哲学の先生】 |F《エフ》という字はですな、上の歯で下の唇をおさえると出ます。ファ。
【ジュールダン氏】 ファ、ファ。まったくだ。ああ、おやじどの、おふくろどの、わしは恨みますぞ、ふた親を!
【哲学の先生】 つぎは|R《エール》です、舌の先を口腔《こうこう》のいちばん上までもってゆきます。勢いづいた空気でかすれるような具合いにすると、舌は空気に押されて、もとの場所へ戻ってくるわけです、そこでつまり、震えるような具合いになります。ルー、ラ。
【ジュールダン氏】 ルー、ルー、ラ、ルー。ルー、ルー、ルー、ルー、ラ。ほんとうですな。まったく、あんたはなんて器用なかたなんでしょう! それにしても、わしはなんと時間をムダにつかっていたんだろう! ルー、ルー、ルー、ラ。
【哲学の先生】 こうしたすべての興味津々《きょうみしんしん》の事実を徹底的にご説明いたしましょう。
【ジュールダン氏】 ま、よろしくお願いしますわ。ところでもうひとつ、じつはですな、あなたにちょっと打ちあけて、お話したいんですがね。わしは、その、上流のかたの|おなご《ヽヽヽ》にちょいとおぼしめしがありましてな、ラヴ・レターってやつを書いて、その|おなご《ヽヽヽ》にちょっとしたことを言いたいんですが、そのお手伝いをお願いしたいんですわ、そのレターをそのかたの足もとのところへ落とそう、とまあ、こんな寸法なんですがね。
【哲学の先生】 なかなかやりますな。
【ジュールダン氏】 なかなかエレガントでしょう、どうです。
【哲学の先生】 たしかにエレガントで。ところで、あなたはそのかたに韻文で手紙を書きたいんですかな?
【ジュールダン氏】 いやいや、とんでもない、韻文なんぞマッピラでさあ。
【哲学の先生】 では、つまり散文で、というわけですな?
【ジュールダン氏】 いやいや、散文も韻文もごめんで。
【哲学の先生】 そのどちらかでなければいけませんな。
【ジュールダン氏】 そりゃまた、どういうわけですかいな?
【哲学の先生】 つまりですな、ものを表現するには、韻文か散文しかないのです。
【ジュールダン氏】 韻文か散文しかないんですって?
【哲学の先生】 ありませんな。散文でないものすべてこれ韻文、韻文でないものすべてこれ散文です。
【ジュールダン氏】 というと、ふつうに人が話すのは、ありゃあなんになりますかね?
【哲学の先生】 散文ですよ。
【ジュールダン氏】 なんですって! わしが、「ニコール、わしのスリッパをもってきてくれ、それから、ナイト・キャップをとってくれ」なんていうのは、ありゃあ散文ですかいな?
【哲学の先生】 そうですとも。
【ジュールダン氏】 やれやれおどろいた! わしときたら四十年以上も、散文を喋《しゃべ》っていながら、その正体を知らなかったわけなんだな。あなたにはまったく感謝感激ですわい、こんなことを教えていただけるなんて。ところでわしは、そのラヴ・レターにですね、「美わしき侯爵夫人よ、汝《な》が美わしの眼差《まなざ》しは、恋にわが身を焦れしむ」てなことを書いてやりたいんですがね。こんな文句をですね、うんとエレガントに、できるだけ気のきいた言葉でやっつけてもらいたいんですがね。
【哲学の先生】 彼女の眼差しがあなたの心を焼きつくして灰にする、とか、夜も昼もたえまなく彼女に情怨の火を燃やしとか……
【ジュールダン氏】 いえ、ちがいます、ちがいます。そんなことはぜんぜん要《い》りませんよ。わしが言いたいのは、つまり、これだけですよ。「美わしき侯爵夫人よ! 汝《な》が美わしの眼差《まなざ》しは、恋にわが身を焦れしむ」、とね。
【哲学の先生】 もうすこし、なんとか内容をひき伸ばさんといかんですな。
【ジュールダン氏】 いいえ、わしがお願いしたいのはですね、そのラヴ・レターのなかにこの文句一つだけを入れたいんですよ。ただしですね、その、アラモードの言いまわしでですな、できるだけパンチのきいた言葉をつかってやりたいんで。なんとか、この文句をはさんで、できるだけいろんな言いかたで言ってみていただけませんか?
【哲学の先生】 まず第一にですな、あなたが言ったように、「美わしき侯爵夫人よ! 汝《な》が美わしの眼差《まなざ》しは、恋にわが身を焦れしむ」、と言えますな。あるいはまた、「恋にわが身を焦れしむ、美わしき侯爵夫人よ、汝が美わしの眼差しは」、とも言えます。あるいはまた、「汝が美わしの眼差しは、恋にわが身を、美わしき侯爵夫人よ、焦れしむ」、でもいいですな。あるいはまた、「汝が美わしの眼差しは、美わしき侯爵夫人よ、恋にわが身を焦れしむ」、でもよろしい。あるいは、「美わしき侯爵夫人よ、恋にわが身を焦れしむ、汝が美わしの眼差しは」とも言えますな。
【ジュールダン氏】 ずいぶんいろんな言いまわしがありますな、けれど、そのうちでどれがいちばんいいですかね。
【哲学の先生】 さっきあなたが言ったものですな。「美わしき侯爵夫人よ、汝《な》が美わしの眼差《まなざ》しは、恋にわが身を焦れしむ」、というのです。
【ジュールダン氏】 というとわしはなんにも勉強しないで、最初の一発でこいつを全部やってのけたわけですな。わしは先生に心から感謝しますよ、明日もまたうんと早くおいでになるように、ひとつお願いしますよ。
【哲学の先生】 まちがいなく参りましょう。〔退場〕
【ジュールダン氏】 〔下男に〕どうしたんだ、わしの洋服はまだこないのか?
【下男】 まだ参りません、ムッシュウ。
【ジュールダン氏】 あの仕立屋のちくしょうめ、わしを一日も待たせおった、こんなに仕事がつまってるというのに! ちきしょうめ、腹がムカムカしてくるわい。あのヘボ職人め、四日熱にでもかかってうなされちまえ! 悪魔に食われろ、仕立屋め! ペストでくたばれ、仕立屋め! 今度あの面《つら》を現わしたら、いまいましい仕立屋め、クソッたれの仕立屋め、裏切り者の仕立屋め、このわしが……
第五場
仕立屋の親方、仕立屋の職人(ジュールダン氏の洋服をもっている)、ジュールダン氏、下男
【ジュールダン氏】 やあ! ようやく来たかい、あんた? わしはいまにもあんたにかんしゃくをおこすところだったぞ。
【仕立屋の親方】 これ以上はやくはとうてい来れませんでしたよ、なにしろあなたのお洋服に二十人もの職人がかかりっきりになりましてね。
【ジュールダン氏】 あんたが届けてくれた絹の靴下じゃがな、あれゃあもうきゅうくつできゅうくつで、わしゃあはくのに骨を折ったわい、おかげで、もう編目を二つも切っちまったぞ。
【仕立屋の親方】 あの|て《ヽ》のものは伸ばそうと思えばいくらでも伸びるもんですよ。
【ジュールダン氏】 そりゃそうだろう、その代わりに編目はドンドン切れちまうぞ。こいつもあんたに頼んで作らせた靴のことだがな、あの靴にしても、はくと足が痛くてやりきれんぞ。
【仕立屋の親方】 どういたしまして、そんなことはないでしょう、ムッシュウ。
【ジュールダン氏】 なんだって、どういたしましてだと!
【仕立屋の親方】 あの靴をはいて、足が痛いなんて、そんあこたあありませんよ。
【ジュールダン氏】 あんたに言ってるじゃろうが、足が痛いんだよ、わしの足が。
【仕立屋の親方】 そりゃあ、気のせいでございますよ。
【ジュールダン氏】 そういう気になるのは、つまりわしが痛いと感じてるからだ。それに違いなかろうが!
【仕立屋の親方】 さあ、ごらんください、これこそ宮廷でいちばんりっぱな洋服でしょうね、それにコンビネーションから言っても、まず並ぶものはございませんよ。黒こそつかってありませんが、正装用に仕立てられた洋服の傑作でしょうね。どんなに腕の立つ仕立屋だって、これだけのものを仕上げるにゃあ、五回や六回は失敗しなきゃあできませんよ。
【ジュールダン氏】 こりゃあいったいどういうわけだい? 花が下向きについてるぞ。
【仕立屋の親方】 とくに花を上へ向けろとはご注文なさいませんでしたでしょう?
【ジュールダン氏】 そんなことまでわざわざ言わなきゃあいかんのかな?
【仕立屋の親方】 さようでございますとも、上流階級のみなさんはどちらさまでもこうやって下向きにおつけになるものでしてね。
【ジュールダン氏】 上流階級のかたがたは、花を下向きにつけるんだって?
【仕立屋の親方】 さようでございます、ムッシュウ。
【ジュールダン氏】 なるほどね! それじゃあこのままでけっこうだ。
【仕立屋の親方】 お望みなら、上向きにつけかえますが。
【ジュールダン氏】 いやいや、とんでもない。
【仕立屋の親方】 ひとことおっしゃってくだされば、すぐにでもつけかえいたしますが。
【ジュールダン氏】 いやとんでもない、みごとな腕だよ、あんたは。どうかね、この洋服はわしに似合うかね?
【仕立屋の親方】 いや、まったくぴったりで! 画家がどんなにうまく画《か》いても、これほどぴったり似合うようには画けませんよ。わたしどもには、ラッパズボンの仕立てにかけては、世界一の天才という職人がおりましてね。それからもう一人、上衣を仕立てる腕にかけては、まさに現代の英雄という職人がいるんです。
【ジュールダン氏】 |かつら《ヽヽヽ》と羽根飾りのついた帽子のほうはどうかね、できはいいかな?
【仕立屋の親方】 みんな申し分ございません。
【ジュールダン氏】 〔仕立屋の服を見ながら〕ありゃ! ありゃ! なあ、仕立屋さん、こいつはこの前わしがあんたに注文して作らした服の生地《きじ》じゃあないか。わしはこの生地をよくおぼえているぞ。
【仕立屋の親方】 つまり、この生地があんまりきれいだったんで、あたしのほうも、一着分あたし用に上前をはねさせていただいて服を仕立ててみた、とまあこんなあんばいで。
【ジュールダン氏】 わしの生地の上前をはねるなんてけしからんぞ。
【仕立屋の親方】 いかがです、洋服をお召しになってみませんか?
【ジュールダン氏】 そうじゃね。わしにとってくれんかな。
【仕立屋の親方】 ちょっとお待ちを。そんなふうになさっちゃあ台なしですよ。あたしは職人どもをいっしょにつれて参りました、調子をとってあなたさまのお召しかえをしようと思いましてね、こういった洋服のお召しかえには、威厳をつけてなさらなければいけませんからね。おーい! さあみんな、はいってくれ、いつも上流階級のみなさんにするように、こちらのムッシュウのお召しかえをしてくれ。
〔四人の仕立屋の職人が踊りながらジュールダン氏に近づく。二人は彼の剣術のけいこ着を脱がせる。他の二人はジャケツを脱がせる。それから、調子をとりながら、彼らはジュールダン氏に新しい洋服を着せる。ジュールダン氏は彼らのあいだをあっちへいったり、こっちへいったりして、彼らに服を見せながら、似合うかどうか聞いてまわる。すべて管弦楽の調子に合わせて〕
【仕立屋の親方】 |お殿さま《ヽヽヽヽ》、どうか職人どもにいくらかのご祝儀を。
【ジュールダン氏】 なんと呼んだな、わしのことを、あんたは?
【仕立屋の親方】 お殿さま、と。
【ジュールダン氏】 「お殿さま」だって! これこそ上流階級のものにふさわしい呼びかたじゃわい! いつも町人みたいなみなりをしていたら、だれも「お殿さま」なんて呼んではくれんじゃろうな。〔金を渡して〕さあ、とっておいてくれ、これは「お殿さま」のオダチンだよ。
【仕立屋の親方】 閣下《ヽヽ》、ありがとうございます。
【ジュールダン氏】 「閣下」だと! いやはや! なるほどね! 「閣下」か! 待ちたまえ、きみ。「閣下」ってえのもなかなか値うちもんじゃわい、「閣下」なんていうのはちょっとやそっとじゃあ言える言葉じゃあないからな。さあとりたまえ、これは「閣下」がきみにあげるごほうびじゃ。
【仕立屋の親方】 閣下、これでみんなで殿下《ヽヽ》のご健康を祝わせていただきます。
【ジュールダン氏】 「殿下」じゃと! なるほど! いやはや! なるほど! 待ちたまえ、まだまだ帰らんでもよいですぞ。このわしに、「殿下」だって。〔小声で傍白〕まったくのはなし、もし陛下《へいか》までいったら、財布ごとくれちまうだろうな。〔大きい声で〕さあ、とっておきたまえ、こいつは「殿下」のご祝儀だよ。
【仕立屋の親方】 閣下、閣下はまったく気前のよいおかたで、われわれ一同つつしんでお礼申し上げます。
【ジュールダン氏】 やれやれ助かったわい、あぶなくそっくり連中にまき上げられるところだった。
〔四人仕立屋の職人は大喜びで踊りはじめる、これが第二の幕間劇になる〕
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第三幕
第一場
ジュールダン氏、下男二人
【ジュールダン氏】 わしのあとについてきてくれ、街を歩いてわしの洋服をみんなに見てもらおうって寸法じゃ。よく気をつけて、二人ともわしのすぐうしろを歩いてくるんだぞ、みんながおまえたちがわしの下男だということがよくわかったほうがいいからな。
【下男たち】 よろしゅうございます、ムッシュウ。
【ジュールダン氏】 ニコールを呼んでくれんかな、あれにちょっと頼みたいことがあるんじゃ。ああ、行かんでもいい、ちょうどあれがやってきたわい。
第二場
ニコール、ジュールダン氏、下男二人
【ジュールダン氏】 ニコール!
【ニコール】 なんでございますか?
【ジュールダン氏】 ちょっと聞いとくれ。
【ニコール】 〔笑う〕ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ!
【ジュールダン氏】 なにがおかしいんだ?
【ニコール】 ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ!
【ジュールダン氏】 このおてんば娘め、なにがおかしいんだ、いったい?
【ニコール】 ヒ、ヒ、ヒ! まあ、そのかっこうったら! ヒ、ヒ、ヒ!
【ジュールダン氏】 どうしたんだ、いったい?
【ニコール】 アハハ! アハハ! まったく! ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ!
【ジュールダン氏】 なんて尻の軽い女だ、こいつは? おまえはわしをバカにするつもりか?
【ニコール】 とんでもないですわ、だんなさま、バカにするなんて。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ!
【ジュールダン氏】 まだ笑いやまないと、おまえのその鼻っ面《つら》へいっぱつグァンと食らわすぞ。
【ニコール】 だんなさま、でもおかしくって、笑いがとまらないんで。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ!
【ジュールダン氏】 まだやめんつもりか?
【ニコール】 ごめんください、だんなさま。でも、あんまりおかしなかっこうをしていらっしゃるので、どうしても笑いがとめられないんで。ヒ、ヒ、ヒ!
【ジュールダン氏】 それにしても、なんという無作法な女だ、こいつは!
【ニコール】 ほんとうに妙チキリンなかっこうなんで。ヒ、ヒ!
【ジュールダン氏】 わしはもう……
【ニコール】 ほんとうにごめんください。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ!
【ジュールダン氏】 いいか、この上すこしでも笑ったら、いままでやったことがないくらいのビンタを、おまえのホッペタに食らわしてやるぞ。
【ニコール】 よろしゅうございます、だんなさま、もうだいじょうぶ、笑いません。
【ジュールダン氏】 いいか、よく気をつけるんだぞ。あとでな、家のなかをよく掃除しておいて……
【ニコール】 ヒ、ヒ!
【ジュールダン氏】 できるだけきれいに掃除しておいて……
【ニコール】 ヒ、ヒ!
【ジュールダン氏】 とくに客間はきれいに掃《は》いて、それがすんだら……
【ニコール】 ヒ、ヒ!
【ジュールダン氏】 まだ笑う気か?
【ニコール】 〔笑いすぎて腰をぬかす〕さあ、だんなさま、あたしをなぐってください、その代わりに思う存分笑わせていただきますよ、そのほうがずっと気が楽ですよ。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ!
【ジュールダン氏】 かんにん袋の緒《お》が切れるぞ!
【ニコール】 お願いですから、笑わせてください、だんなさま。ヒ、ヒ、ヒ!
【ジュールダン氏】 わしがおまえを、もし……
【ニコール】 だん、だんなさま……笑わないで、がまんしていたら……おなかが、よじ、よじれて……ヒ、ヒ、ヒ!
【ジュールダン氏】 こんなふとどきな女がいるかいな? わしの命令をきくどころか、このわしの鼻っ先で笑うなんて、無礼にもほどがあるわい。
【ニコール】 ご用はなんでしょうか、だんなさま?
【ジュールダン氏】 のちほどお客さまがみえるんだ、家のなかを片づけておこうという気にはならんのか、このアバズレめ。
【ニコール】 〔立ち上がりながら〕ああ、もう笑おうなんていう気はふっとんじまいましたよ。あのお客さまときたら、家のなかをメチャクチャにしちまうんですよ、お客さまと聞いただけで、あたしはもう気分が悪くなっちまうくらいですよ。
【ジュールダン氏】 じゃあなにか、おまえのためにわしの家の門を閉じてみなさんを追いかえせというつもりか?
【ニコール】 少なくとも、いくたりかのお客さまには門をお閉じになったほうがよろしいでしょうね。
第三場
ジュールダン夫人、ジュールダン氏、ニコール、下男二人
【ジュールダン夫人】 あらあら! まあまあ! またバカバカしいことをなさってるのね。それはなんのまねですの、いったい、その身なりは? そんな仮装行列みたいなおかしなかっこうして、あなたは、ひとのことを笑いものになさるつもり? それとも、あっちこっちで、笑いものにしてもらいたいの?
【ジュールダン氏】 なにを言うんだ、おまえは、男でも女でも、わしのことを笑うやつは、みんなトンマにきまっとる。
【ジュールダン夫人】 ほんとうにそうね、今日に始まった話じゃあないわ、あなたのそんな暮らしぶりは、もうずっと前から皆さんの話のたねでね、みなさんの笑いものですよ。
【ジュールダン氏】 そのみなさんっていうのはいったいだれのことだい?
【ジュールダン夫人】 みなさんというのはね、道理のわかる、あなたよりお利口《りこう》さんのことよ。あたしにすれば、あなたがそんな暮らしぶりをしてるんで、恥ずかしくってしかたがないわ。あたしにはもう、自分の家がなんだかわからないくらいですよ。毎日毎日が、まるで仮装行列のバカ騒ぎみたい。朝っぱらからまるでこれを忘れては一大事とばっかり、ヴァイオリンやら歌うたいのやかましい声がきこえるんでしょ、おかげでご近所のかたは悩まされどおしだわ。
【ニコール】 奥さまのおっしゃるとおりですよ。だんなさまがお呼びになるお客がワンサとおしかけるもんで、あたしはとうてい家の中をきれいにしておけやしませんよ。あのひとたちの足ときたら、まるでこの街のあっちこっちから泥をわざわざこの家へ運ぶみたいに泥をくっつけてるんですよ。フランソアーズをごらんなさい、かわいそうに、あの|ゴルッパ《ヽヽヽヽ》な先生がたが毎日判でも押したように泥をつけてゆく床をみがくのに精いっぱいで、くたくたに疲れきっちまってますよ。
【ジュールダン氏】 こら、ニコール、おまえはうちの女中だぞ、山出しの田舎《いなか》者めが、言いにくいことを平気でペラペラと喋《しゃべ》る女だ。
【ジュールダン夫人】 ニコールの言うとおりですよ、この子のいうことのほうがあなたよりずっと理屈が通ってますよ。あなたときたらその年で、ダンスの先生なんか頼んでどうするつもりなんですか?
【ニコール】 それにあのデッカイ棒ふりの先生、あの先生ときたら剣術の構えで足をドカンドカンと踏みならして家中が大地震、お客部屋のガラス窓をみんなオッパズしちまうんですからね。
【ジュールダン氏】 二人とも黙れ、なんだ女中の分際で、それにおまえもだ。
【ジュールダン夫人】 もう今じゃあ、あなたは足も満足に動かないじゃあありませんか、それでもダンスなんか習おうっていうんですか?
【ニコール】 だれか殺してやりたい人でもあるんですか?
【ジュールダン氏】 二人とも黙れというのに。まったくどっちもどっち、学のないやつらだ、おまえたちみたいなやつにそういうことのトク、エート、そうだ、その特典がわかってたまるか。
【ジュールダン夫人】 そんなことより、自分の娘をお嫁にやるさんだんでもしたほうが気がきいてますわよ、あの娘《こ》もそろそろ年頃ですし。
【ジュールダン氏】 娘を嫁にやる話なら、いい縁談でもあればいつでも考えてやるわい。しかしな、わしはな、やっぱりすばらしい学問を勉強したいんじゃ。
【ニコール】 奥さま、ちょっと小耳にはさんだ話ですけど、だんなさまは、この上またまた、今日は哲学の先生をお呼びになったそうですよ。
【ジュールダン氏】 そのとおりだ。わしはな、おおいに知識を身につけたい、そしてだな、りっぱな紳士がたのなかにたち交じって、おおいに議論をぶってやりたいんじゃ。
【ジュールダン夫人】 いい年をして笞《むち》でたたかれたいんでしょ、いずれ近いうちに中学へでもおはいりになるんじゃあないの?
【ジュールダン氏】 それがどうしていけないんだ。すぐにでも、みんなの前で笞で打たれてみたいもんじゃ、それに中学とやらではどんなことを勉強するか知りたいもんじゃ。
【ニコール】 そうですわね、でもそんなことがだんなさまになんの役にたちますかしら。
【ジュールダン氏】 役にたたないでどうする。
【ジュールダン夫人】 そうですとも、そういうことはみんな、この家をやってゆくのにとても必要なことですわね。
【ジュールダン氏】 もちろんじゃ。だいいちおまえたち二人の物言いときたら、まるでけだもの同然じゃわい。わしはお前たちの無学が恥ずかしくてたまらんのだぞ。〔ジュールダン夫人に〕ひとつの例がだ、どうじゃい、おまえたちは知っているか、いまおまえたちはなにを喋《しゃべ》っとるか。
【ジュールダン夫人】 知ってますわよ、あたしが喋っていることはりっぱに筋が通ってることですよ、あなたはもっとべつな生活をなさるように心掛けなければいけませんわ。
【ジュールダン氏】 そんなことを言っとりゃあせんよ、わしは。わしが訊《たず》ねているのはだな、いまおまえがここで言ってるのはどんな言葉だ、と聞いてるんじゃ。
【ジュールダン夫人】 りっぱに理屈のとおった言葉ですよ、けれどあなたの生活ときたら、まったくムチャクチャですよ、理屈もなにもあったものじゃないわ。
【ジュールダン氏】 そんなこと言ってるんじゃない、というんだ。つまりだな、わしがおまえと話してる、いまおまえに言ってるのは、こりゃなんじゃと聞いてるんだ。
【ジュールダン夫人】 ただの寝言ですよ。
【ジュールダン氏】 そうじゃないったら、そんなことじゃあないんだ。わしらが二人で言ってること、いま話してる言葉はなんだ、っていうんじゃ。
【ジュールダン夫人】 なんのこと、それ?
【ジュールダン氏】 これはなんと呼ばれるか、だ。
【ジュールダン夫人】 なんとでも、呼びたいように呼べばいいでしょ。
【ジュールダン氏】 散文というんじゃ、無学な女だな、おまえは。
【ジュールダン夫人】 散文ですって?
【ジュールダン氏】 そう、散文じゃ。散文はこれすべて韻文ではない。韻文でないものはすべてこれ散文でない。どんなもんじゃい! 勉強をするというのは、ざっとこんなもんだ。
〔ニコールに〕ところでおまえの番だ、|U《ユー》と言うときにはどういうふうにすればいいか知っとるか?
【ニコール】 なんでございますか?
【ジュールダン氏】 つまりだ、おまえがUというときはどうする?
【ニコール】 なんですって?
【ジュールダン氏】 まあためしに、ちょっとUと言ってみろ。
【ニコール】 いいですよ、ユー。
【ジュールダン氏】 どうやった、お前は?
【ニコール】 ユー、と言ったんです。
【ジュールダン氏】 そりゃそうだ。けれどだな、ユーと言ったとき、お前はどうやった?
【ニコール】 おっしゃるとおりにしましたよ。
【ジュールダン氏】 バカを相手にものを教えるのは、まったくシンが疲れるわい! おまえはだな、唇を外につき出して、上あごを下あごに近づけたわけだ。ユー、わかったか? ユー。しかめっ面《つら》をしてるだろう、わしは。ユー。
【ニコール】 ふんとに、|ゴレッパ《ヽヽヽヽ》なことで。
【ジュールダン夫人】 まったくすばらしいお説ですわね。
【ジュールダン氏】 まったくべつのやつもあるぞ、つまりオーがそれだな、またこれもちがう、ダ、ダ、ファ、ファ。
【ジュールダン夫人】 なんのことですの、それ、わけのわからないことばっかり。
【ニコール】 そうやれば病気でも癒《なお》るっていうんですか?
【ジュールダン氏】 無学な女どもを見てると、かんしゃくが起こってくるわい。
【ジュールダン夫人】 さあ、とにかくあのわけのわからないことばっかりわめいてる連中を追い出して、厄払《やくばら》いしていただきますよ。
【ニコール】 そうそう。とくにあのウスギタナイ、ウスデッカイ剣術の先生はごめんですよ、あの人が来ると家中ほこりをかぶっちまいますからね。
【ジュールダン氏】 なるほど、おまえたちはよっぽど剣術の先生のことを根にもっておるな。いまの無礼の一言、眼にもの見せてやるぞ。
〔彼は練習用の剣を持ってこさせて、それでニコールを突く〕さあゆくぞ。まず例証じゃて。つぎに体の線と。第四の構えで突くのは、こうするだけでいいんだ。第三の構えで突くには、これでよしと。いいか、こうやればぜったい人に殺されることはないんだ。だれかといっちょうやらかしても、こっちの生命《いのち》はぜったい安全というもんだ、どうだたいしたもんじゃないか? さあて、ためしにわしをちょっと突いてみろ。
【ニコール】 いいですよ、こうですか?
〔ニコールは彼をなん回も突く〕
【ジュールダン氏】 やめろ! おい! 待て待て! もっとそうっとやるんだ! このおてんば女め!
【ニコール】 だって突いてみろっていうから。
【ジュールダン氏】 そうだ。しかしだな、おまえは第四の構えで突く前に第三の構えで突いたじゃないか、それにおまえときたら、こっちが構えるのを待ちきれずに突くからいかん。
【ジュールダン夫人】 ロクでもない考えにとりつかれて、バカバカしいったらないわよ、あなた、あなたがこんなふうになったのは、それもこれもみんなあなたが貴族なんかと交際しようなんて気をおこしたのがまちがいのもとだわ。
【ジュールダン氏】 貴族と交際するというのは、つまりわしの目先がきくからじゃわい。なんといっても、おまえのすきな町人仲間と交際するより、ずっと気のきいたはなしじゃろうが。
【ジュールダン夫人】 そうでございましょうとも! あなたのお気に入りの上流のひとたちと交際をなさるのは、ずいぶん割のいいことですわよ、あのごりっぱな伯爵さまとだって、なかなかうまくやっておいでですものね、なにしろあなたときたらあの伯爵さまにのぼせ上がってるんですものね。
【ジュールダン氏】 黙りなさい! 自分がなにを言ってるか、よく考えてみろ。いいかな、おまえにはわかっているのか、あのおかたのことを話しているときに、どういうかたのことを喋《しゃべ》っているのかわかっているのか? あのおかたはな、おまえなんぞが思ってるよりずっとずっと尊いおかたなんだぞ。宮廷でも認められているし、王さまとお話をなさるにも、わしとおまえと話してるみたいに親しい口をきかれるお殿さまなんだぞ。ああいう身分の高いおかたがしょっちゅうわしの家へ出入りなさり、わしのことを「ネエ君」と親友みたいに呼んでくださったり、あのかたと対等のようにわしを扱ってくださるなんて、わしにとってはこれほど名誉なことはないじゃろうが? あのおかたはだれだってふしぎに思うほどわしに親切にしてくださる。みなさんがたの前で、あんまりわしをひいきなさるので、わしのほうで恐縮してしまうくらいじゃわい。
【ジュールダン夫人】 そうですわね、たしかにあなたに親切にしてくださったり、ひいきしてはくださるけれど、その代わりにあなたからずいぶんお金を借りるじゃあありませんか。
【ジュールダン氏】 いいじゃあないか! ああいう身分のおかたにお金を貸すなんて、わしにとってはしごく名誉なことじゃわい。わしのような者を、親友のように呼んでくださるお殿さまに、それ以上、ほかになにができるというんじゃ?
【ジュールダン夫人】 それでそのお殿さまとやらは、あなたに何をしてくださるんですか?
【ジュールダン氏】 ひとが聞いたら、眼を丸くしてびっくりするようなことじゃ。
【ジュールダン夫人】 え、なんですって?
【ジュールダン氏】 もうたくさんじゃ。そこまでわしが説明する必要はないわい。あのおかたにお金を貸す、あのかたがそれをわしに返してくださる、それだってたいして永い間じゃあない、それだけでたくさんじゃろうが。
【ジュールダン夫人】 そうですの。そんなことを当てになさっているの、あなたは?
【ジュールダン氏】 もちろんじゃ。あのかたがわしにそうおっしゃるんだからまちがいはない。
【ジュールダン夫人】 そうですとも、そうですよ。まちがいなく返しませんよ。
【ジュールダン氏】 あのかたは紳士の名誉にかけてお誓いになったんだぞ。
【ジュールダン夫人】 三味線ですよ、そんなことは。
【ジュールダン氏】 まったくなんていうやつだ! 強情もいいところだぞ、おまえときたら、あのおかたは約束を守る、ぜったいまちがいはない、と言うんじゃ。
【ジュールダン夫人】 あたしはね、まちがいなく返さない、と言ってるんです、それにあなたをひいきにしてくださるなんていったって、口先でゴマスリをしてるだけですよ。
【ジュールダン氏】 黙らんか。あのおかたがお見えになったぞ。
【ジュールダン夫人】 もうたくさんだわ、いやになっちまう。きっとまたお金をタカリに来たのよ。あんな人を見てると、ご飯がまずくなるわよ。
【ジュールダン氏】 黙れというのに、黙らんか。
第四場
ドラント、ジュールダン氏、ジュールダン夫人、ニコール
【ドラント】 やあ、ぼくの親友のムッシュウ・ジュールダン、ごきげんはどうです?
【ジュールダン氏】 しごく元気でして、ムッシュウ、いつでもお役にたてますよ。
【ドラント】 や、ジュールダン夫人もここにおいででしたか、ごきげんいかがですか?
【ジュールダン夫人】 ジュールダン夫人のほうは、まああたりまえっていうところですわ。
【ドラント】 これはこれは! ムッシュウ・ジュールダン、あなたはまたまったくお似合いの服を着ておりますな!
【ジュールダン氏】 お気がつきましたか。
【ドラント】 その服を着ると、まったく恰幅《かっぷく》がよくなりますな、宮廷に出入りする青年たちでも、あなたほどりっぱな服装をしているものは、まず見当たらないでしょうな。
【ジュールダン氏】 いやどうもね! どうもね!
【ジュールダン夫人】 〔傍白〕まったく痒《かゆ》いところに手が届くくらい、ゴマスリも堂に入ったものだわ。
【ドラント】 ちょっと向こうを向いて見せてくれませんか。なるほどまったくエレガントですよ。
【ジュールダン夫人】 〔傍白〕たしかにそうだわ、前から見てもうしろから見てもバカまるだしってところね。
【ドラント】 ところでムッシュウ・ジュールダン、ぼくはこのところずっと、あなたにお目にかかりたくて我慢できないくらいでしたよ。なにしろ、あなたは、この世でいちばんというくらいぼくが買ってる人物ですからな、そういえば、今朝もまた、陛下《へいか》のお部屋であなたの噂《うわさ》をしましてね。
【ジュールダン氏】 いや、まったく光栄の至りですわい、ムッシュウ。〔ジュールダン夫人に〕どうだおい、陛下のお部屋で噂にでたっていうんだぞ!
【ドラント】 まあ、どうか帽子をかぶってください……
【ジュールダン氏】 ムッシュウ、あなたの前で帽子をかぶるなんて、そんなもったいない。
【ドラント】 いやいや、どうかかぶってください。ぼくらのあいだでは、なにも格式ばったことなんか要《い》りませんよ。
【ジュールダン氏】 でも、それでは……
【ドラント】 どうぞ、どうぞかぶってください。ムッシュウ・ジュールダン。ぼくらは親友じゃあないですか。
【ジュールダン氏】 ムッシュウ、それじゃああんまり失礼で。
【ドラント】 あなたがかぶらないと、ぼくまで帽子がかぶれませんよ。
【ジュールダン氏】 〔帽子をかぶりながら〕それじゃあ、あんまり強情はるのもかえって失礼ですから。
【ドラント】 いやいや、ご存知のように、ぼくのほうがあなたに金を借りておりますのでね。
【ジュールダン夫人】 〔傍白〕そうですとも、もちろんそんなことは先刻ご承知だわ。
【ドラント】 あなたっていうかたはほんとに気前のよいかたですからな、何度もお金を貸していただいて、衷心《ちゅうしん》から感謝しておりますよ、まったく。
【ジュールダン氏】 ごじょうだんをおっしゃっちゃあいけません、ムッシュウ。
【ドラント】 しかしですな、ぼくはお借りしたものはもちろんお返しいたしますし、ご親切は身にしみて感じておりますから。
【ジュールダン氏】 そりゃもう、よくわかっております。
【ドラント】 今日参ったのは、じつはあなたとの貸借《かしかり》のかたをつけようと思いましてね、これまでの勘定をまとめてお返しするつもりで参ったわけなんですよ。
【ジュールダン氏】 〔ジュールダン夫人に小声で〕ざまを見ろ! 失礼なことを言ったってのがわかったろう。
【ドラント】 ぼくという男は、お借りしたものはできるだけ早く返さないと、どうも気がすまない性分でしてね。
【ジュールダン氏】 〔ジュールダン夫人に小声で〕ほら見ろ、言ったとおりじゃないか。
【ドラント】 さて、お借りしているのはいかほどになりますかな。
【ジュールダン氏】 〔ジュールダン夫人に小声で〕おまえというやつは、つまらん心配しおって。
【ドラント】 ぼくに貸してくださった金額が、ぜんぶでいかほどになるか、覚えていらっしゃいますかな?
【ジュールダン氏】 まちがいないと思いますよ。わしはそのメモをとっておきましたのでね。ほら、ごらんのとおりで。いつでしたかなこれは、二百ルイほどご用立てしましたね。
【ドラント】 たしかにそのとおりですな。
【ジュールダン氏】 べつの時に百二十ルイ。
【ドラント】 そのとおり。
【ジュールダン氏】 それからまたべつに百四十ルイ。
【ドラント】 おっしゃるとおりで。
【ジュールダン氏】 この三回のご用立てぶんがしめて四百六十ルイ、つまり五千六十リーヴルということになりますね。
【ドラント】 計算はまちがいなしです。たしかに五千六十リーヴルになりますな。
【ジュールダン氏】 羽根細工屋へのお立て替え分が千八百三十二リーヴル。
【ドラント】 たしかに。
【ジュールダン氏】 仕立屋のほうに二千七百八十リーヴル。
【ドラント】 そのとおり。
【ジュールダン氏】 生地《きじ》屋には四千三百七十九リーヴル十二ソルと八ドニエお立て替えしてあります。
【ドラント】 たしかにそのとおり。十二ソルと八ドニエ。勘定はぴったりです。
【ジュールダン氏】 馬の鞍《くら》をお買いになったときには千七百四十八リーヴル七ソル四ドニエをご用立てしております。
【ドラント】 みんなそのとおりですな。それで全部でいかほどかな?
【ジュールダン氏】 しめて一万五千八百リーヴルということですね。
【ドラント】 合計もぴたりです。一万五千八百リーヴル。ところでどうでしょう、あと二百ピストールほど用立てていただけませんか、そうすれば一万八千フラン、ジャストになるでしょう、近日中にお返ししますよ。
【ジュールダン夫人】 〔ジュールダン氏に小声で〕ほらごらんなさい、あたしの言ったとおりじゃあなくて?
【ジュールダン氏】 〔ジュールダン夫人に小声で〕やかましい!
【ドラント】 ご迷惑でしょうかな、お願いしたものを用立てていただいては?
【ジュールダン氏】 いえ、とんでもない。
【ジュールダン夫人】 〔ジュールダン氏に小声で〕この男ったら、あなたのことを金の卵を生む鶏だと思ってるんですよ。
【ジュールダン氏】 〔ジュールダン夫人に小声で〕黙ってろったら!
【ドラント】 ご迷惑なら、よそへ行って借りますから。
【ジュールダン氏】 いえ、ムッシュウ。
【ジュールダン夫人】 〔ジュールダン氏に小声で〕あなたが破産したら、この男は大喜びですよ、きっと。
【ジュールダン氏】 〔ジュールダン夫人に小声で〕黙ってろ、というのにまだわからんのか。
【ドラント】 ご都合が悪ければ、ひとこと言ってくだされば。
【ジュールダン氏】 都合が悪いなんて、そんなことはありませんよ。
【ジュールダン夫人】 〔ジュールダン氏に小声で〕口先ばっかりですよ、こんな男は。
【ジュールダン氏】 〔ジュールダン夫人に小声で〕口をつつしめ、少し。
【ジュールダン夫人】 〔ジュールダン氏に小声で〕最後の一銭まであなたにタカるつもりですよ。
【ジュールダン氏】 〔ジュールダン夫人に小声で〕少しは黙っていられないのか?
【ドラント】 ぼくになら喜んで金を貸そうという連中もおおぜいいるんですがね、しかしとにかくあなたはぼくのいちばんの親友だし、あなたをさしおいてよそで借りたりしたら、かえって失礼だと思いましてね。
【ジュールダン氏】 あなたにそんなに気を使っていただくなんて、光栄の至りですよ、ムッシュウ。あなたのご要《い》り用のぶんをとって参りましょう。
【ジュールダン夫人】 〔ジュールダン氏に小声で〕なんですって! この上この男にお金をめぐんでやろうっていうの?
【ジュールダン氏】 〔ジュールダン夫人に小声で〕どうすりゃあ気がすむんだ? こんなご身分のかたに断れとでもいうのか? なにしろこのかたは、今朝わしのことを陛下《へいか》のお部屋でお話ししてくださったんだぞ。
【ジュールダン夫人】 〔ジュールダン氏に小声で〕いいわよ、あなたってまったく底抜けのお人よしだわ。
第五場
ドラント、ジュールダン夫人、ニコール
【ドラント】 たいへんお顔の色がすぐれませんが、どこかお加減でも悪いんじゃあありませんか、ジュールダン夫人?
【ジュールダン夫人】 頭が重くてしかたがないんですよ、といって仮病をつかってるわけじゃあないんですがね。
【ドラント】 お嬢さまはどちらですか、まだお見かけいたしませんが?
【ジュールダン夫人】 娘がどこへ行こうとこちらの勝手ですよ。
【ドラント】 お嬢さまはお元気ですかな?
【ジュールダン夫人】 どうかこうか両足で立っていられますよ、おかげさまで。
【ドラント】 陛下《へいか》のところでいまバレエと喜劇を演《や》っておりますが、近いうちにお嬢さまとごいっしょにお出かけになりませんか?
【ジュールダン夫人】 ええ、ほんとうに、わたしたちうんと笑ってやりたいと思ってるんですよ、思う存分笑ってやろうとね。
【ドラント】 ねえ、ジュールダン夫人、あなたもお若い頃にはさぞ男を泣かせたことでしょうな、なにしろおきれいだし、ご気性もほんとうに竹を割ったようだし。
【ジュールダン夫人】 どうせそうですよ! ジュールダン夫人はすっかりもうろくしたっておっしゃりたいの、首もしっかり据《す》わっていないって?
【ドラント】 ああ、失礼、ジュールダン夫人。あなたはまだまだお若くていらっしゃる、忘れておりましたよ。ぼくはどうもいつもうっかりしておりましてね。まったくぶしつけなことを言っちゃって、まあごかんべんください。
第六場
ジュールダン氏、ジュールダン夫人、ドラント、ニコール
【ジュールダン氏】 〔ドラントに〕さあどうぞ、まちがいなく二百ルイお渡ししますから。
【ドラント】 ほんとうに感謝しますよ、ムッシュウ・ジュールダン、宮廷で、なにかお役にたちたいものですな。
【ジュールダン氏】 どうかよろしくお願いしますよ。
【ドラント】 マダム・ジュールダンが、もし陛下《へいか》のお楽しみに列席なさりたいときには、いちばんいい席をとってさしあげますから。
【ジュールダン夫人】 ジュールダン夫人はごめんこうむりますよ。
【ドラント】 〔ジュールダン氏に小声で〕例の侯爵夫人ですがね、手紙でお知らせしたように、のちほどこちらへお見えになりますよ。夕食をごちそうになりながら、バレエを見物なさりに。あなたがあのかたにお贈りするというプレゼントね、あれもようやく納めていただくことになりましたよ。
【ジュールダン氏】 ちょっと向こうへ参りませんか、つまり、その、事情がありましてね。
【ドラント】 この前お眼にかかってから一週間になりますが、例のダイヤモンドの件をお知らせできませんでしたな、ほら、夫人に差し上げるようにと、あなたにお預りした例のダイヤの件ですよ。なにしろ夫人も慎重なかたでしてな、説得するのに大骨を折りましたが、今日になってやっとあれを受けとってくださる気になっていただけましてね。
【ジュールダン氏】 で、あのダイヤはお気に召しましたか?
【ドラント】 いやもうたいへんお気に入りましてな。夫人のお気持ちをあなたにひきつけるには、あのダイヤの美しさは正に効果満点、これはもうかけ値なしですよ。
【ジュールダン氏】 しめしめ!
【ジュールダン夫人】 〔ニコールに〕顔を見たら最後、あの男ときたらこんりんざいうちの人を離さないんだからね。
【ドラント】 夫人にはうんと吹き込んでおきましたよ、あのプレゼントがどんな値うちものか、あなたの愛情がどんなにりっぱかということをね。
【ジュールダン氏】 そんなにお気にかけていただいてまったく恐縮してしまいますよ。あなたのようなご身分のおかたが、わしらのためにそこまで身を落としてくださるなんて、かえって当惑するくらいです。
【ドラント】 ごじょうだんでしょう? 友だち同志の間柄で、そんな心配はいりませんよ。あなただってこんな立場になったら、同じようになさるでしょう?
【ジュールダン氏】 ああ、もちろんですとも! 喜んでいたしますよ。
【ジュールダン夫人】 〔ニコールに〕まったくあの男が前にいるだけで肩がこってしまうよ。
【ドラント】 ぼくはですな、友だちのために一肌ぬごうという場合には、損得なんて度外視してやってるわけですよ。ぼくが往来《ゆきき》していたあの気持ちのさっぱりした侯爵夫人に、あなたが恋をしているとうち明けられたときにですな、まずはじめからあなたの恋のために仲をとりもとうとしたことは、あなたもご承知のとおりです。
【ジュールダン氏】 その通りです。ご親切にはまったく恐縮しておりますよ。
【ジュールダン夫人】 〔ニコールに〕まだ帰らないの、あの男ったら!
【ニコール】 とってもウマが合うらしいですよ。
【ドラント】 とにかくあれはうまい策《て》でしたな、夫人の気持ちをぎゅっと掴《つか》むにはね。とかく女性というものは、だれかが自分のために金を費《つか》ってくれるのを喜ぶもんでしてね。あなたが何度も夫人の部屋の下でセレナーデを演奏させたり、たえず花束を送ったり、いつかのように水の上でみごとな花火を打ち上げたり、あなたの名前で贈ったダイヤとか、これから夫人に用意されるプレゼントとか、こういったものはすべてですな、あなたご自身の口で話されたどんな言葉より雄弁にあなたの恋のために語りかけてくれるものですよ。
【ジュールダン氏】 そこから夫人のお気持ちにはいり込める隙《すき》ができるんなら、わしが使った費用なんてたいしたもんじゃあありませんよ。上流の|おなご《ヽヽヽ》というのは、わしにとってはたまらない魅力でしてね、どんなに高い値段を払ってでも、そんな光栄に浴したいもんですな。
【ジュールダン夫人】 〔ニコールに〕さっきから、なにをそんなに話すことがあるんだろうね? そうっと行って、ちょっと話を聞いてきておくれ。
【ドラント】 もう間もなくあのかたに会えますよ、まあせいぜいお楽しみになるんですな、眼の保養をする時間はたっぷりありますからな。
【ジュールダン氏】 家内のやつを妹のところへ夕食にやることになってるんですよ、夕食後もたっぷりそちらで過ごしてもらって、わしのほうは大いにハメを外《はず》しましょうや。
【ドラント】 なるほどうまいことを考えましたな、なにしろ奥さんは眼の上のコブになりそうでしたからな。ところでぼくは、コックやら、バレエに必要なものの注文を伝えて参りましたよ、あなたの代わりにね。これはぼくのアイデアでしてね、ぼくの思いつきがそのまま実現すれば、かならずしゃれたものになると思うんですが……
【ジュールダン氏】 〔ニコールが盗み聞きしているのに気づき、彼女に平手打《ビンタ》をくれる〕こらあ! なんて無作法な女だ!〔ドラントに〕さあどうぞ、あちらへ参りましょう。
第七場
ジュールダン夫人、ニコール
【ニコール】 ねえ奥さま、あたしがきき耳をたてていると、たしかにコチョコチョ聞こえてきましたよ、岩の下にゃあ、どうやら|うなぎ《ヽヽヽ》がひそんでいそうですよ。お二人でなんか企んでおりますね、お二人ともなんだか、奥さまがいては都合がわるそうな様子ですよ。
【ジュールダン夫人】 うちのひとが臭い臭いと思ったのは、今日にはじまったことじゃあないんだよ、ニコール。わたしのカンに狂いがなければ、あのひときっと浮気の虫を起こしはじめているのよ、その正体をひっぱいでやるわよ、わたしは。でもね、娘のことも考えてやろうね。おまえも気づいているだろ、あのクレオントがね、あの娘《こ》が好きなんだよ。あの青年ならわたしのメガネにぴったりだから、二人を結婚させるようになんとか骨折って、とにかく彼にリュシールを嫁《や》ろうと思っているんだよ。
【ニコール】 奥さま、じっさいあたしもそのお気持ちには大賛成ですよ。と申しますのはね、ご主人さまのほうが奥さまのお気に入りなら、あの下男のほうも、あたしゃなかなか悪くないと思ってるんですよ。そうしてね、お二人さまのお陰をこうむって、あたしたちのほうも結婚にゴールインしちまえたら、ってわけなんですよ。
【ジュールダン夫人】 おまえ、ちょっと行って、わたしの言伝《ことづ》てを伝えておくれ、すぐにもわたしのところへ来て、娘を嫁にもらえるようにわたしといっしょに、うちの人に頼むように、って言ってくれないかい。
【ニコール】 じゃあ大喜びで、ひとっ走りでかけてきますよ、奥さま、今までこんな嬉しい仕事をしたことはありませんよ。〔ひとりで〕この話を聞いたら、あの二人とも、きっと大喜びすると思うよ、あたしは。
第八場
クレオント、コヴィエル、ニコール
【ニコール】 〔クレオントに〕あら! ちょうどいいところへおみえですわ。あたしは喜びのお使者ですよ、あたしはね、これから……
【クレオント】 おまえみたいなやつはひっ込んでろ、この意地悪女め、おまえのその嘘八百の口車《くちぐるま》に乗せられにきたんじゃあないんだ。
【ニコール】 顔を見るなりそんなことを言うなんて、あんまりですよ……
【クレオント】 ひっ込んでろと言ったろう、その足でとっとと帰り、おまえの不実な女主人にこう言ってやれ、お人好しのクレオントだって、そうそう鼻の下をのばしてばかりいないってな。
【ニコール】 まったくお天気やさんだわね!どういうことなの、それ? ねえ、あたしのかわいいコヴィエル、今のはどんな意味だか説明してちょうだいよ。
【コヴィエル】 おまえのかわいいコヴィエルだって、このあばずれめ! おいらの眼の前からとっとと消えてなくなれ、オタンコナスめ、おいらのことなんかよけいなおせっかいだ。
【ニコール】 なんですって! あんたまであたしに……
【コヴィエル】 とっとと消えろと言ってるんだ、生涯口なんぞきいてくれるなってんだ。
【ニコール】 なんってことなのえらくご機嫌ななめだけど! どうした風の吹きまわしなの、二人とも? さて、この奇妙な話をご主人さまにご注進だ。
第九場
クレオント、コヴィエル
【クレオント】 まったく、恋人にこんな仕うちをするなんて、どういうつもりだろう? 二人とも忠実そのもの、大アツアツの恋人だというのに?
【コヴィエル】 おいらたち二人にこんなことをするなんて、まったくオドロキでさあ。
【クレオント】 ぼくは一人の女性に、考えうる限りのあらゆる情熱と、あらゆる優しさを見せてやったんだ。この世界で彼女ひとりを愛し、ぼくの心を占めるのはただ彼女だけだった。ぼくの心は彼女のことでいっぱいだ、彼女こそあらゆる欲望であり、あらゆる喜びなんだ。ぼくは彼女のことしか語らない、彼女のことしか考えない、夢に見るのは彼女のことばかり、彼女によって息を吸い、ぼくの心は彼女の中で生命《いのち》を燃やしているんだ。こんなに愛情を捧げたというのに、その報いがごらんの通りだ! 二日も彼女に会わないでいると、ぼくにとっては恐ろしい二世紀もたったような気がする。ぼくは偶然彼女と出会った。このとき彼女を見ただけで、ぼくの心は有頂天になった、喜びがぼくの顔をパッと明るくした。うっとりしたように、ぼくの心は彼女のほうへ飛び去っていった。ところが彼女ときたら、なんて不実なひとだろう、ぼくから眼をそらし、ぼくなんか今まで見たこともないような様子で、すげなく行ってしまうんだ!
【コヴィエル】 おいらが言いたいのもあなたと同じことですよ。
【クレオント】 なあコヴィエル、あのリュシールみたいな、不実な、うちとけない女を見たことがあるかい?
【コヴィエル】 ねえだんな、あのニコールみたいなやくざな、不実な女がありますかっていうんだ?
【クレオント】 ぼくのほうじゃあ、彼女の美しさに、これほどの情熱と、恋の溜息《ためいき》と誓いを捧げてるっていうのに!
【コヴィエル】 おいらのほうじゃあ、あれほどちやほや殺し文句を並べたり、気をつかったり、お勝手仕事の手伝いまでしてやったというのに!
【クレオント】 彼女の前にひざまずいて、あれほど涙を流したのに!
【コヴィエル】 あいつの手からバケツをとって、あれほど井戸から水|汲《く》みをしてやったのに!
【クレオント】 ぼく自身より彼女を愛し、あれほど情熱を注いだというのに!
【コヴィエル】 あいつの代わりにコンロの前で、肉を焼く串《くし》を裏がえし、あれほど熱さを我慢したというのに!
【クレオント】 あげくの果ては、人を無視してハイさようならだ!
【コヴィエル】 あげくの果ては、あつかましくも尻に帆をかけグッドバイだ!
【クレオント】 どんな罰を与えたっていいくらいの不実なやりかただ。
【コヴィエル】 なん回ビンタを食らわしてもかまわないくらいの裏切りだ。
【クレオント】 おまえにひとこと忠告しとくがな、彼女のことなんかぜったい弁護するんじゃあないぞ。
【コヴィエル】 おいらがですって、だんなさま? とんでもない話でさあ!
【クレオント】 あの薄情な女のことをかばったりしてくれるなよ。
【コヴィエル】 心配ご無用でさ。
【クレオント】 いいか、彼女のことをかばいだてしてなにを話そうとも、なんの役にも立たんからな。
【コヴィエル】 だれがそんな気を起こすっていうんですかい?
【クレオント】 彼女に対する恨みは忘れないぞ、もうお互いに絶交だ。
【コヴィエル】 がってん承知ですよ。
【クレオント】 彼女の家へ出入する例の伯爵は、おそらく彼女のおめがねにかなったんだろうな。ぼくにゃあよくわかるんだ、彼女の心は、伯爵の肩書に眼がくらんだってわけだよ。しかしだな、ぼくの名誉にかけても、相手の気が変わったんなら、こっちのほうで先手を打ってやるよ。見たところたしかに彼女は心変わりをしたらしい、それならぼくのほうは一歩先んじてやるぞ、ハイさようならと言われて、指をくわえて引っこんでいられるもんか。
【コヴィエル】 まったくおっしゃるとおりでさあ、だんなの意見にぜんぜん賛成ですよ。
【クレオント】 ぼくの仕返しに一肌ぬいでくれよ、それにぼくの気持ちがぐらつかないように、しっかり尻押しを頼んだぜ、なにしろぼくは、彼女にゃみれんがある、彼女を弁護するようなことを言うかも知れないからな。いいかい、言いたいだけ悪口を言うんだ。彼女という女を、うんと軽蔑したくなるような人間に描きあげてくれないか。彼女の性質をスミまでほじくってうんとアラを探し出して、ぼくの眼の前にさらしてくれよ、ぼくが興ざめしてゲッソリするように。
【コヴィエル】 あの女《ひと》のことですか、だんな? ちょっとイケるけれど山出し女ですよ、見かけだけはなかなかイカすんで、だんながアツアツになるのは、まあむりもないところですが、オツにすまし込んだキザな女ですぜ。おいらの眼から見ればせいぜいまあ十人並みっていうところですかね、なあにだんなにお似合いのひとはほかにワンサところがっていますよ。まずだいいちに、眼が小さくてね、この奥に眼ありって立て札が要《い》りますよ。
【クレオント】 たしかにそのとおりだ、眼は小さいよ、だけどその眼がだな、燃えるようで、キラキラ輝き、まず例がないくらい鋭いんだな、あれほど人の心を唆《そそ》る眼はないな。
【コヴィエル】 口が少々大きすぎまさあ。
【クレオント】 たしかにそうだ。しかしね、ああいう口はザラにはないぜ、なんとなく優雅じゃあないか。あの口もとときたら、見ているうちに欲望をかきたてるんだよ、男の気持ちを惹《ひ》きつける、あの愛らしさはまず最高だろうな。
【コヴィエル】 上背《うわぜい》がちょっと足りませんよ。
【クレオント】 そう。でもスマートでカッコいいぜ。
【コヴィエル】 話しかたでも身のこなしでも、なんとなく投げやりな感じですぜ。
【クレオント】 そのとおりだ。だけどそれがみんなエレガントなんだな、彼女がすることなすこと人の気をひくし、なんかわけのわからない魅力が心の奥にしのび寄ってくる感じなんだな。
【コヴィエル】 それにウィットが……
【クレオント】 ああ! ウィットのほうはじゅうぶんだ、コヴィエル、まったく繊細だし、ほんとにデリケイトでね。
【コヴィエル】 あの女《ひと》の話ときたら……
【クレオント】 その話がチャーミングなんだな。
【コヴィエル】 でもいつもツンとして……
【クレオント】 じゃあなにかい、機嫌ばかりいい陽気な女や、開《あ》けっぱなしなおてんば女がいいっていうのかい? 箸《はし》が転んでもケラケラ笑う女くらい無作法なものはないと思わないかい?
【コヴィエル】 とにかくあの女《ひと》くらいむらっ気な女はいませんぜ。
【クレオント】 そう、たしかにむらっ気だな、おまえの言うとおりだよ。けれどね、美しければなんだって似合うんだな、きれいなら、ほかのことはなんでも我慢できるってわけさ。
【コヴィエル】 おいらの見たところじゃあ、だんなはまだまだあの女《ひと》にみれんたっぷりというところですね、だから話がこんな具合いになっちまう。
【クレオント】 ぼくがだって、じょうだんじゃない、そんなくらいならいっそ死んだほうがましなくらいだ。今まで彼女を愛していたのと同じくらい、ぼくは彼女を憎むだろうね。
【コヴィエル】 あの女《ひと》のことをだんなが完全無欠な女だと思っていたら、なんか策《て》のうちようがありますか?
【クレオント】 そこだよ、そこでぼくの復讐はいっそう目ざましいものになる、ってわけだよ、彼女はまったくきれいだ、魅力たっぷりで、ぼくの眼からすれば可愛《かわ》いくてしかたがない、その彼女を憎み、その彼女と別れられれば、ぼくの意志の力もなかなか大したものだってことがはっきりするだろう。そこが問題だ、ってわけさ。や、彼女がやってきたぞ。
第十場
クレオント、リュシール、コヴィエル、ニコール
【ニコール】 〔リュシールに〕あれを聞いちゃあ、まったく愛想がつきましたよ。
【リュシール】 あたしがおまえに言ったでしょ。ニコール、きっとあのことよ。あら、あそこへ彼が見えたわよ。
【クレオント】 〔コヴィエルに〕ただちょっとだけ彼女に話したいことがあるんだよ。
【コヴィエル】 じつはおいらもだんなの真似をしたいんで。
【リュシール】 どうなさったの、クレオント? なにかご用がおありですの?
【ニコール】 どうしたっていうのさ、コヴィエル?
【リュシール】 なにかご心配ごとでもありますの?
【ニコール】 ご機嫌ななめってとこらしいわね?
【リュシール】 唖《おし》におなりになったの、クレオント?
【ニコール】 口のききかたを忘れたの、コヴィエル?
【クレオント】 まったくひどい話だ!
【コヴィエル】 まったくユダそこのけの裏切りだ!
【リュシール】 そうね、わかったわ、さっきちょっと出会ったときのことで、あなたはツムジを曲げていらっしゃるのね。
【クレオント】 〔コヴィエルに〕ほら! ほらみろ! やっと自分のしたことに気づいたぜ。
【ニコール】 理由もないのに怒っていらっしゃるのね、今朝お会いしたときの態度が悪いっていうんでしょう。
【コヴィエル】 〔クレオントに〕ムクれてるわけがようやくのみ込めたらしいね。
【リュシール】 あなたの怒っていらっしゃるのはそのためね、クレオント、そうじゃあなくって?
【クレオント】 そうですとも、そのとおりですよ、お望みならば言わせてもらいますよ。あなたに言わなきゃならないことはどっさりあるんです、あなたは自分で不実なことをしておきながら、いい気になろうなんて思ってもそうは問屋がおろしませんよ、ぼくのほうで一足お先にあなたと絶交しようと思っているくらいですからね、ぼくを追っ払おうったって大して得になるわけじゃあないですよ。そりゃあぼくにしたところが、あなたのことが好きなんですから、その愛を忘れるのはきっとつらいことでしょうね。ぼくは苦しむでしょうね。しばらくの間は苦しみ抜くでしょうね。しかしぼくは最後までがんばりますよ、みれんたらしくもう一度あなたを愛そうなんて弱気をおこすくらいなら、むしろ心臓をグサリとやったほうがましですよ。
【コヴィエル】 〔ニコールに〕おいらも|マンズー《ヽヽヽヽ》おんなずこった。
【リュシール】 火のないところに煙をあげてるのよ。今朝お会いしたときにあたしが道をさけた理由をお話しするわ、クレオント。
【クレオント】 〔リュシールを避けて、向こうへ行く〕いえいえ、なんにも聞きたくないですよ。
【ニコール】 〔コヴィエルに〕あたしたちがあんなに急いで行っちまったわけを教えてあげるよ。
【コヴィエル】 〔同じようにニコールを避けて向こうへ行く〕なんにも聞きたかねえよ。
【リュシール】 〔クレオントの後を追う〕ねえ、今朝はねえ……
【クレオント】 〔リュシールのほうを見ないで歩き続ける〕聞きたくないって言ったでしょ。
【ニコール】 〔コヴィエルの後を追って〕ねえ、聞いてよ。
【コヴィエル】 〔同じようにニコールのほうを見ないで歩き続ける〕いやだっていうのに、浮気者め!
【リュシール】 ねえ、聞いてくださらない。
【クレオント】 話すことなんかないですよ。
【ニコール】 とにかく話さして。
【コヴィエル】 おいらはつんぼだ。
【リュシール】 クレオント!
【クレオント】 いやです。
【ニコール】 コヴィエル!
【コヴィエル】 だめだ!
【リュシール】 ねえ、待って。
【クレオント】 むだですよ!
【ニコール】 お聞きよ。
【コヴィエル】 バカいえ!
【リュシール】 ちょっとでいいのよ。
【クレオント】 ぜんぜんごめんだ。
【ニコール】 なにもそんなにムクレないでも。
【コヴィエル】 タラランランランのラン、だ。聞きたくないよ。
【リュシール】 二言《ふたこと》、三言《みこと》でいいのよ。
【クレオント】 いえ、もうオシマイですよ。
【ニコール】 一言だけだってば。
【コヴィエル】 もう絶交だ。
【リュシール】 〔立ち止まって〕いいわ、話がききたくないんなら、お好きなようにどうぞ、なんとでも好きなようになさるがいいわ。
【ニコール】 〔同じように立ち止まって〕そんなふうにしたいんなら、したいようにするがいいわ。
【クレオント】 〔リュシールのほうを向いて〕おや大へんなけんまくですね、そのわけを言ってください。
【リュシール】 〔今度は彼女がクレオントを避けて向こうへ行く〕お話ししたくないんですの、あたくし。
【コヴィエル】 〔ニコールのほうを向いて〕ざっと事情を話してみろよ。
【ニコール】 〔同じようにコヴィエルを避けて向こうへ行く〕あたしゃあね、そんなこと話すのはごめんこうむるよ。
【クレオント】 〔リュシールの後を追って〕ねえ、話してくれない……
【リュシール】 〔クレオントのほうを見ないで歩き続ける〕いいえ、なにもお話ししたくありませんの。
【コヴィエル】 〔ニコールの後を追って〕いいじゃあないか、話したって……
【ニコール】 〔同じようにコヴィエルのほうを見ないで歩き続ける〕なんにも話すことはないってばさ……
【クレオント】 ね、お願いだから……
【リュシール】 ございません、って言ってるでしょ。
【コヴィエル】 〔ニコールの後を追って〕後生《ごしょう》だ。
【ニコール】 話なんてないよ。
【クレオント】 ねえ、頼みますよ。
【リュシール】 放っといて。
【コヴィエル】 手を合わせて頼まあ。
【ニコール】 そこをおどきよ。
【クレオント】 リュシール!
【リュシール】 ごめんこうむりますわ。
【コヴィエル】 ニコール!
【ニコール】 ごめんだよ。
【クレオント】 ねえ、誓ってもいいから……
【リュシール】 あたくし存じませんわ。
【コヴィエル】 話せったら。
【ニコール】 話なんかゼンゼンないわ。
【クレオント】 ぼくの疑心暗鬼を晴らしてください。
【リュシール】 いいえ、そんなつもりはぜんぜんございませんわ。
【コヴィエル】 おいらの気分を直してくれよ。
【ニコール】 気が向かないね。
【クレオント】 それならいいさ、ぼくの悩みを和らげようなんていう気もなければ、ぼくがこんなに燃えているのにチグハグな仕打ちを弁解する気もないんですね、あなたは。それならもうこれが最後だ、ぼくはあなたなんかとは別れて遠くへ行っちまいますよ、そして苦しみと恋にやつれて死んでやりますよ。
【コヴィエル】 〔ニコールに〕それじゃおいらも、だんなといっしょだ。
【リュシール】 〔出てゆこうとするクレオントに〕クレオント!
【ニコール】 〔主人について行くコヴィエルに〕コヴィエル!
【クレオント】 〔立ち止まって〕え?
【コヴィエル】 〔同じように立ち止まって〕なんだい?
【リュシール】 どちらへいらっしゃるの?
【クレオント】 いまお話ししたところへです。
【コヴィエル】 これから死のうってところでね。
【リュシール】 死ににいらっしゃるの、クレオント?
【クレオント】 そうです、そんなことを平気で言えるなんて、あなたも残酷な女《ひと》ですね。
【リュシール】 あたしが、あなたが死ねばいいって思っているとおっしゃるの?
【クレオント】 そうです、死ねばいいと思ってるんです、あなたは。
【リュシール】 そんなこと、だれが思いまして?
【クレオント】 〔リュシールに近づいて〕ぼくの疑いを晴らしてくれないのは、つまり死ねばいいってことじゃあありませんか?
【リュシール】 それがあたくしの罪だっておっしゃるの? もしあなたがあたくしの言うことを聞いていてくださったらあたくしが包まずお話ししなかったとお思いになるの? あなたがブツブツおっしゃる今朝のことね、あれはお年寄りの伯母さまがそばにいたのであんなことになってしまったのよ、その伯母さまは、男のかたのそばへ寄っただけでも娘にとっては恥になるって頑固に思いこんでいらっしゃるのよ。口をすっぱくしてあたくしたちにそんなお説教をなさって、およそ男のかたってみんな悪魔みたいなもんだから、顔を合わせたら逃げなきゃいけないって説明なさるんですもの。
【ニコール】 〔コヴィエルに〕これで今朝の一件もはっきりしただろ。
【クレオント】 嘘じゃあないだろうね、リュシール?
【コヴィエル】 嘘っぱちじゃねえのかい?
【リュシール】 〔クレオントに〕正真正銘のお話ですわ。
【ニコール】 〔コヴィエルに〕つつみ隠さずそのままの話だよ。
【コヴィエル】 〔クレオントに〕まあこのへんで折れ合っておきましょうか?
【クレオント】 ああ! リュシール、君の口から出る言葉を聞いてると、ぼくの心のなかの波風がおさまるからふしぎだな、それに、人間っていうものは、愛してるひとの言うことはいともかんたんに納得させられてしまうもんだね!
【コヴィエル】 なにしろ相手が相手だからね、すぐに鼻毛を読まれっちまってね!
第十一場
ジュールダン夫人、クレオント、リュシール、コヴィエル、ニコール
【ジュールダン夫人】 あなたに会えてよかったわ、クレオント、ちょうどいいところへ来たのね、あなたは。主人が来るわ、うまくチャンスをつかんで、リュシールと結婚させてもらうように主人に頼むのよ。
【クレオント】 ああ、ありがたい! 奥さん、ぼくにはなんと優しく、ぼくにどれほど希望を与えてくれる言葉でしょう! これほどすばらしいご命令を、こんなに尊いご厚情を受けたことは、ぼくにとってはまったくはじめてのことです!
第十二場
ジュールダン氏、ジュールダン夫人、クレオント、リュシール、コヴィエル、ニコール
【クレオント】 ムッシュウ、ぼくには前々からあなたにお願いしようと考えていたことがあるんです。ただ、ぼくとしてはどなたにも仲に立っていただかないで、直接ぼくの口から申し上げたかったので。この用件はとても大事なことなので、ぼく自身でその責任を負うべきだと思ったものですから。というのは、ズバリと申し上げましょう、ぼくをあなたの聟《むこ》にしていただければほんとうに光栄で、ご承諾いただければこれにすぎた喜びはない、ということなんです。
【ジュールダン氏】 ご返辞する前に、こちらから一言お訊《たず》ねしたいんですがな、ムッシュウ、あなたは貴族ですかな?
【クレオント】 そのご質問になら、大部分の人が躊躇《ちゅうちょ》なく、貴族だとお答えするでしょうね。つまり、ぞうさなく貴族だと言い切るでしょうね。こんな肩書はなんの心配もなくつけられますし、今の世の中じゃあそれも習慣みたいなもんで、ずうずうしく貴族を名乗っても別に文句はつけられないようですからね。正直のところ、この問題については、ぼくはもう少しデリケイトな意見をもっているんですよ。どんなことにしろ嘘をつくのは紳士にはあるまじきことだ、天がわれわれをこの世に生んだ時の身分をごまかしたり、勝手に盗んだ肩書で人眼を飾ったり、そうでない身分を自称したりするのは卑怯きわまる、というのがぼくの意見なんです。ぼくを生んでくれた両親も、もちろん名誉ある仕事をしておりましたし、ぼく自身も六年間も軍隊で勤めあげる光栄に浴しましたし、社会へ出てまあまあの地位につくには、じゅうぶんの財産もあります。ところがぼくは、いま申しあげたような意見を持っておりますので、ほかの人がぼくのような立場なら名乗りたいと思うような肩書をつけるつもりはないんです。はっきり申し上げましょう、ぼくは貴族ではありません。
【ジュールダン氏】 それではお手を拝借。だけど娘はあげられませんわい。
【クレオント】 なんとおっしゃいました?
【ジュールダン氏】 あなたは貴族じゃない、だから娘は嫁にやれん、ということですわい。
【ジュールダン夫人】 またあなたのお得意の貴族が始まった、それはどういう意味なの? わたしたちだって、べつに聖ルイさまの肋骨から生まれたわけじゃあないでしょう?
【ジュールダン氏】 おまえは黙っとれ、またよけいなところへ顔を出す。
【ジュールダン夫人】 わたしたちは二人とも、ちゃんとした町人の出じゃあなくって?
【ジュールダン氏】 ほら、よくペラペラと回る舌だ!
【ジュールダン夫人】 あなたのお父さんだってわたしの父と同じ商人じゃあなかったかしら?
【ジュールダン氏】 女なんてものは、まったく手におえぬ代物《しろもの》じゃわい! いつだってこの調子じゃ。もしおまえのお父さんが商人だったら、お父さんにはなんとも気の毒なはなしだ。けれどわしのおやじのことでだな、そんなことを言うやつは無分別なやつらにきまっとる。わしは、ぜひともおまえに言っておかなきゃならんことがあるんじゃ、それはだな、わしは貴族を聟《むこ》にしたい、ということじゃ。
【ジュールダン夫人】 わたしの娘にはね、あの娘《こ》につり合った夫が必要なんですよ、あの娘《こ》にとっても、スッカンピンで、ボロを着た貴族なんかより、お金持ちのみなりのよい紳士のほうがずっといいにきまっていますよ。
【ニコール】 まったくその通りですよ。あたしの村の貴族のせがれときたら、あたしが見たなかでもいちばんの生まれそこないの、ドアホウときてるんですからね。
【ジュールダン氏】 〔ニコールに〕でしゃばり女め、黙っとれ! いつも話に口を出しおって。わしはな、娘のためにじゅうぶんの財産を持っておる、もう欲しいのは名誉だけじゃ。だからな、わしはあれを侯爵夫人にするんじゃ。
【ジュールダン夫人】 侯爵夫人ですって!
【ジュールダン氏】 そうじゃ、侯爵夫人じゃ。
【ジュールダン夫人】 ほんとにどうしよう!えらいことになったわ。
【ジュールダン氏】 もう、わしが決めたことだからな。
【ジュールダン夫人】 わたしに言わせれば、そんなことわたしが承知しませんよ。自分より身分の高い人などと縁組みをしたりすると、どうしてもつまらないゴタゴタが起こりがちのもんですよ。わたしはね、お聟《むこ》さんがわたしの娘に娘の両親のことを悪く言ったり、孫ができてもわたしのことを「おばあちゃん」と言うのが恥ずかしい、なんてことになるのはごめんですよ。あの娘《こ》がご大家の奥方ぶって大ぜいお供を連れて里帰りして、町内のかたについうっかり挨拶《あいさつ》するのを忘れたりしたら、みんな、してやったりとばかりつまらないことをさんざん言うでしょうね。「ごらんになった、ほら例の侯爵夫人さまね、なんてお高くとまってるの? あのひとジュールダンさんの娘なのよ、子供のころはあたしたちと仲間になって、奥さまごっこして大喜びしていたものよ。あのひとだって昔はあんなに見識ぶっちゃあいなかったものよ。あのひとのお祖父さんは、両方ともサン・ティノサン門のそばでラシャを売っていたのよ。二人とも、昔は子供のためにさんざん財産をつくったけれど、今じゃああの世でさんざんつらい思いをしてるわよ、きっと。だいいちね、まともなことをしてたんじゃ、あんなにお金がたまるもんじゃあないわよ」。みんなが話すのはこんなところがせいぜいだわ。そんな陰口たたかれたら、うんざりですよ、つまりね、一言で言えば、娘を嫁にもらったのをあたしに感謝してくれるようなひとに、それにあたしのほうでも、そのひとに、「そこへお掛け、ねえおまえ、わたしといっしょに夕食を食べてゆきなさい」、ぐらい言えるようなひとを聟《むこ》にしたいのよ。
【ジュールダン氏】 いつまでも身分の低いまま甘んじてるなんぞ、まったく女子と小人養いがたしじゃわい。問答無用、もう口答えするな。だれがなんて言ったって、娘は侯爵夫人にしてみせるわい。これ以上わしを怒らしてみろ、もう一階級昇進させて、娘を公爵夫人にしちまうぞ。
【ジュールダン夫人】 クレオント、まだまだ力を落としちゃあだめよ。〔リュシールに〕おまえはこっちへおいで、お父さんにね、はっきり言っておやりよ、もしあのひとといっしょになれなければ、だれとも結婚しませんから、ってね。
第十三場
クレオント、コヴィエル
【コヴィエル】 あんまり大見得きったんで、話がえらくこじれましたね。
【クレオント】 こじれたからってどうしたっていうんだい? このことじゃあべつに気がひけることはないよ、たとえどんな話を持ち出されたって、ぼくはひっ込まないよ。
【コヴィエル】 じょうだん言っちゃあいけませんや。あんな男の言うことがまじめに聞いていられますかってんだ。あの大将だいぶオテンテンへきてませんか? どうです、あの大将の誇大妄想狂にすこし調子を合わせてみちゃあ?
【クレオント】 おまえのいうとおりだ。だけど、ジュールダンさんの聟《むこ》におさまるのに、貴族っていう証拠を見せなきゃいけないって、ぼくは考えもしなかったよ。
【コヴィエル】 〔笑って〕ハ! ハ! ハ!
【クレオント】 なにがおかしいんだい?
【コヴィエル】 ちょいとうまい思いつきが浮かんだんでさ、やっこさんにいっぱい食わせてね、だんなのお目当てのものを手に入れようっていうわけですよ。
【クレオント】 どういうはなしだい?
【コヴィエル】 まったく愉快な思いつきですぜ。
【クレオント】 いったいなんだい?
【コヴィエル】 ほら、ついこのあいだある仮装舞踊団ができたでしょ、あれがこいつにまさにおあつらえですよ、そこであのオテンテンの大将に、このお笑いに一役買ってもらおうってわけでさあ。こいつはちっと道化芝居めいてはいますがね。あの大将が相手なら、なにをやらかそうが構やあしません、むずかしいことはなにもないですよ、それにね、あの大将ならこんな役をこなすにゃあうってつけの役者ですぜ、こっちが思いきってやっこさんに言えば、どんなバカげたことだって平気でやっちまう男ですよ。おいらのほうには役者も衣装もすっかり揃《そろ》ってまさあ、なに、黙っておいらのすることを見ていてくださいよ。
【クレオント】 でも少しぐらい話してくれたって……
【コヴィエル】 そのうちすっかり話してあげますよ。またやっこさんがきましたぜ、こっちはひっこんだほうが好さそうだ。
第十四場
ジュールダン氏、下男
【ジュールダン氏】 なんってことだ、まったく? やつらときたら、わしが上流の殿さまがたとおつき合いするのを、難癖つけるしか能がないんだ、わしに言わせれば、上流のお殿さまと往来するくらいりっぱなことはないと思ってるのに。ああいうかたがたのなかにいれば、ただ箔《はく》がつくばっかりか、礼儀だって良くなってくるからな。まったく指の二本ぐらいなくってもかまわんから、侯爵か伯爵の家へ生まれてくればよかったな。
【下男】 ムッシュウ、伯爵さまがお見えです、伯爵さまはご婦人を案内しておいでになりました。
【ジュールダン氏】 さてさてと! またいろんな用事を言いつけたりしなければいかんな。すぐここへ戻ってくるから、とお二人に申し上げてくれ。
第十五場
ドリメーヌ、ドラント、下男
【下男】 だんなさまのお話ではすぐこちらへお見えだそうで。
【ドラント】 それはよかった。
【ドリメーヌ】 ねえドラント、これはどういうことなの。あなたのお誘いでぜんぜん知らないかたのお宅へ連れてきていただいたんですけれど、あたくし、ずいぶんおかしなことだと思いますわ。
【ドラント】 それじゃあ、いったいどこでパーティを開けばいいんですか、奥さん。だってあなたときたら、あなたの家も、ぼくの家も人目につくからいけないっておっしゃるんでしょう?
【ドリメーヌ】 あなたの愛情の大げさな証拠を毎日毎日お受けしていたら、あたくしだって知らん顔をしているわけにはゆきませんわ。いくらあたくしがお断りしてもむだで、根気が続かなくなりますのよ、あなたっていうかた、いんぎんなくせに頑固なところがあって、優しい調子でご自分のいいほうにあたくしをひっぱってしまうんですもの。いちばん最初は、三日にあげず訊ねていらしった、かと思うとつぎには愛の告白をなさったでしょ、そのつぎにはセレナーデとお夕食の会が続き、それがすむと今度はプレゼント、でしょう。あたくし、かたっぱしからお断りしても、あなたはちっともくじけないで、一歩一歩あたくしの決心を陥落させてしまうんですもの。あたくし、もうどうお答えしたらいいかわかりませんの、あたくしがみたところ、あなたはおしまいには結婚しようというところまで話をすすめるおつもりらしいけれど、でもあたくしまだまだその気はありませんのよ。
【ドラント】 奥さん、あなただってもうそのおつもりになってもいいでしょう。あなたはご主人をなくされたんだから、あなたの胸ひとつで決められることですよ。ぼくだって気ままなひとり者、それにぼくは、ぼくの命よりあなたを愛しているんです。今日すぐからでも、ぼくを幸福にしてくださってもよさそうなものを、そうなさらないのはなんかとくべつの理由でもあるんですか?
【ドリメーヌ】 でもねえドラント、いっしょに幸福な生活をしようと思ったら、二人ともどちらもいろいろいい所がなきゃあだめじゃあないかしら。男も女も分別がありすぎる人たちがいっしょになったりすると、当人同志はうまくいっても、いろいろ苦労がたえないってことがよくあるものよ。
【ドラント】 じょうだんじゃあありませんよ、奥さん、そんなにしちめんど臭いことばっかり考えて。あなたがいままで経験なさったことが、ほかの人間にもそのまま当てはまるなんて思ったら大まちがいですよ。
【ドリメーヌ】 結局、いつも同じことばかり堂々めぐりしてしまいますわ。あなたがあたくしのために、派手にお金を使っているのを見ていて、あたくしつい心配になりますのよ。理由は二つあるの。一つは、こちらにはその気がないのに、ズルズルと深間にはまってしまいそうですし、もう一つは、お気を悪くなさるかもしれないけれど、あんなことをなされば、お金に困って、ニッチもサッチもゆかなくなるのは眼に見えておりますわ。それがいやなんですの、あたくし。
【ドラント】 いえ奥さん、あんなものそれほどたいしたものじゃあありませんよ、それにですね……
【ドリメーヌ】 あたくしだって、自分が話していることぐらい、わかっているつもりですわ。なかでもあのダイヤモンドね、あなたがむりにあたくしにおしつけたあれなんか、たいへんなお値段で……
【ドラント】 ああ! 奥さんお願いです、あんなものそれほど値うちがあるわけじゃあありませんよ、あなたを愛しているわたしの気持ちからみれば、それほど大げさなものでもないですよ、どうか……や! この家の主人が参りましたよ。
第十六場
ジュールダン氏、ドリメーヌ、ドラント、下男
【ジュールダン氏】 〔二回おじぎをしてから、あまりドリメーヌが近くにいすぎるので〕奥さま、も少しむこうへさがっていただきたいんで。
【ドリメーヌ】 どういうことですの?
【ジュールダン氏】 一歩お下がりくださいませんか。
【ドリメーヌ】 なんておっしゃったんですの?
【ジュールダン氏】 三回目のおじぎをいたしますので、もう少しお下がりいただけませんか。
【ドラント】 奥さん、ムッシュウ・ジュールダンは上流社会の作法をよく心得ておりましてね。
【ジュールダン氏】 奥方さま、奥方さまにご臨席の栄を賜わり、わたくしめに光栄をお与えくだされたことは光栄これにすぎるものはございません、また奥方さまの寛大なお心をもちましてそのご好運をご承諾いただき、わたくしごときがかかる幸福を味わいえましたことは、まったく幸福のきわみ、思いがけぬ幸運で、奥方さまにお目もじできましたことは、この上なき光栄でございます。もしわたくし如きが、奥方さまに値いするほどの値いある男としての値いがございますならば、しかしてまた、天が……わたくしの財産に嫉妬《やきもち》をやいて……わたくし如きが奥方さまにお目もじできるなどという喜びを与えますれば……その……かくなりますれば……
【ドラント】 もうそれでじゅうぶんですよ、ムッシュウ・ジュールダン。奥さまはあまり大げさな挨拶《あいさつ》はお好みにならないのでね、それに、奥さまはあなたがなかなかの才人だということはよくご存知ですからね。〔小声でドリメーヌに〕おわかりでしょう、この男、お人好しの町人ですが、なにをやらしてもこっけいな男ですよ。
【ドリメーヌ】 〔同じく小声で〕一眼見ただけですぐわかりますわよ。
【ドラント】 〔大きな声で〕奥さま、この方はわたくしのいちばんの親友です。
【ジュールダン氏】 そんなことをおっしゃられると、光栄すぎてどうも。
【ドラント】 非の打ちどころのないくらい粋《いき》なかたですよ。
【ドリメーヌ】 このかた、ほんとうにごりっぱだと思いますわ。
【ジュールダン氏】 いえ奥方さま、そのようにおほめにあずかることは、まだなにもしておりません。
【ドラント】 〔小声でジュールダン氏に〕これだけはよく注意してくださいよ、つまり、あなたが夫人に贈った例のダイヤモンドのことは口にしないことですよ。
【ジュールダン氏】 〔小声でドラントに〕あれをどう思われたか、ちょっとお訊《たず》ねするだけでもいけませんかねえ?
【ドラント】 〔小声でジュールダン氏に〕なんですって? それそれ口を慎んでくださいよ。そんなことをしたら、あなたは素町人まるだしですよ。それに、粋な人間らしくするにゃあ、夫人にあのプレゼントをしたのはあなたじゃない、ってな顔をしてなきゃあいけませんよ。〔大きい声で〕奥さま、ジュールダン氏は、彼のお宅であなたにお会いできて手の舞い足の踏むところを知らずだ、と申しております。
【ドリメーヌ】 そんなにおっしゃられると、気がひけてしまいますわ。
【ジュールダン氏】 〔小声でドラントに〕わしの代わりにあんなうまい言葉をつかってくださって、まったく感謝いたしますよ、ムッシュウ。
【ドラント】 〔小声でジュールダン氏に〕夫人をお宅までお連れするのに、エラい骨を折りましたよ。
【ジュールダン氏】 〔小声でドラントに〕まったくなんと感謝してよいかわからんくらいですよ。
【ドラント】 彼の言うところでは、あなたは世界一美しい、という話ですよ、奥さま。
【ドリメーヌ】 ほんとにいろいろお心にかけていただいて。
【ジュールダン氏】 奥方さま、お心にかけていただいてるのはわたくしめのほうで、それに……
【ドラント】 そろそろ食事にいたしましょう。
【下男】 〔ジュールダン氏に〕準備はよろしゅうございます、ムッシュウ。
【ドラント】 さあ、それじゃあテーブルにつきましょう、そして歌手を呼んでいただきましょうか。
〔パーティの準備をした六人のコックたちがみんないっしょに踊り、第三の幕間劇が始まる。そのあとで、コックたちがテーブルにいろいろな料理の皿を置く〕
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第四幕
第一場
ドラント、ドリメーヌ、ジュールダン氏、男性歌手二人、女性歌手、下男
【ドリメーヌ】 まあ、ドラント、ほんとうにすばらしいごちそうじゃあないの!
【ジュールダン氏】 とんでもございません、奥方さま、あなたさまのお口にあえばと思っているんですが、とうていお気に召しますまい。〔みんなテーブルにつく〕
【ドラント】 ムッシュウ・ジュールダンはああ言いましたが、まったく彼の言うとおりですよ、奥さま。彼の家であなたのおもてなしをするように、と頼まれたんですが、この料理があなたのお口に合わないだろう、というのは彼と同じ意見ですな。なにしろこれを注文したのがぼくでしてね、ぼくはどうも、ぼくの友人ほどこのほうのことは詳しくありませんのでね、あなたはここでは格式どおりの料理はあがれないかも知れませんよ。作法にかなわぬごちそうやら、趣味の悪い、野蛮なものを召しあがるようなことになるかも知れませんな。例のダミスでも仲間になっていればすべて作法通りで、隅から隅までエレガントで、食道楽ぶりがゆきわたっているでしょうがね、ただあの男ときたら、あなたが食べる料理の一品一品ごとに講釈をつけて、こと料理のことにかけては彼がどれほど通人かということをあなたに吹き込むのを忘れずに、なんだかんだといろいろ能書《のうがき》を並べますよ、きっと。ちょっと歯でかんだだけで柔らかく砕ける、皮全体がこんもり盛り上がって切り口が金色に焼けたリーヴ・パンのことを一席。香りも渋《しぶ》味もありながら口当たりのよいブドー酒のことや、パセリで味つけした羊の角切りのはなし。こんなに長くて柔らかくて、歯に当たるとまるでアマンドのほんとうのパテみたいにとけてしまう河辺の子牛のことだの、すばらしい香料で仕上げた|しゃこ《ヽヽヽ》のこと。それにあの男得意の傑作、小鳩の肉を四隅に飾った、肥った若い七面鳥に、チシャといっしょに白い玉ねぎを刻み込んだブィヨン・スープの能書は忘れないでしょうな。しかし正直なところ、ぼくの料理の知識は貧弱でしてね。ジュールダン氏はうまいことを言ってくれましたが、ぼくにしてもそのとおりです、あなたが召しあがるにふさわしいごちそうがほしかったところですな。
【ドリメーヌ】 あたくし、モリモリいただいてそのご挨拶《あいさつ》に答えさせていただきますわ。
【ジュールダン氏】 ああ! なんてお美しいオテテでしょう!
【ドリメーヌ】 あたくしの手なんてごくあたりまえの手ですわ、ムッシュウ・ジュールダン。それよりこのダイヤをどうお思いになって、とてもきれいでしょう。
【ジュールダン氏】 奥方さま! わたくしは、とんでもない、そんなことは申しませんよ。粋《いき》な男ってのはそんなことは言わんもんでしてな、だいいちダイヤなんてものは大したもんではございませんしな。
【ドリメーヌ】 もう食傷していらっしゃるんですのね、ダイヤなんて。
【ジュールダン氏】 そんなお言葉をいただいて、いたみ入ります。
【ドラント】 〔ジュールダン氏に合図をしてから〕さあ、ムッシュウ・ジュールダンに一杯さしあげましょう、それにこちらの歌手の皆さんにもね、この人たちはぼくらに乾盃の歌を歌ってくださるんですよ。
【ドリメーヌ】 音楽の伴奏がつけば、ごちそうもいっそうおいしくいただけますわ、ほんとうに至れり尽せりの歓待をしていただいて……
【ジュールダン氏】 いや、それは奥方さま……
【ドラント】 ムッシュウ・ジュールダン、お静かに、歌手たちの歌を聞きましょう。われわれのお喋《しゃべ》りより、この人達の歌のほうが楽しいですからな。
〔男性歌手たちと女性歌手は盃を手にもち、乾盃の歌を歌う、歌は管絃楽の伴奏とともに〕
第一の乾盃の歌〔第一、第二の男性歌手の合唱、手に盃をもって〕
さかずきを、フィリスよ一口飲みたまえ、
君の手のさかずきは、楽しくこころ誘うらん!
君と酒、たがいに魅力を交えつつ、
わが胸の恋のほむらをいやまさん。
恋人よ、酒を交わして君とわれ、
とことわの恋を誓わん。
酒の香に、唇の匂うとききみが魅力はいやまさん、
うま酒に、唇は美しく輝きわたる!
うま酒と、唇は、わが胸の炎を燃やし、
酒の香と、唇にわが酔はさめず。
恋人よ、酒を交わして君とわれ、
とことわの恋を誓わん。
第二の乾盃の歌〔第二と第三の男性歌手の合唱〕
友よきて飲め、飲まんかな。
過ぎゆく時が、酒に誘う。
生ある限り飲まんかな。
酔ってこの世を、楽しもう。
地獄の河を渡ったら、
酒とも恋ともお別れだ。
急いで飲もう、飲まんかな、
いつまで飲めるわけじゃなし。
しあわせの念仏なんか、
酒飲めぬ、バカのたわごと。
酒瓶にとり囲まれて、
酒飲んで、酔うがしあわせ。
金も知識も名誉の地位も、
浮世の苦労にゃ勝てやせぬ。
この世のしあわせつかむなら、
飲んで酔うよりほかになし。
〔男性歌手三人で合唱〕
それ注《つ》げ、それ注げ、みなに注げ、
酔って飲めぬと言うまでは、
注げ注げ酒を、浴びるまで。
【ドリメーヌ】 こんなすばらしく歌える歌手がほかにいるかしら、ほんとにきれいな歌ですのね。
【ジュールダン氏】 いやいや奥方さま、ここにもっときれいなものがありますよ。
【ドリメーヌ】 あらあら! ムッシュウ・ジュールダンって、思ったより粋《いき》なかたですのね。
【ドラント】 なんですって! 奥さん、ムッシュウ・ジュールダンをだれだと思っていらっしゃるんですか?
【ジュールダン氏】 思ってることをそのまま口にする男だと思っていただきたいですな。
【ドリメーヌ】 またあんなお上手を!
【ドラント】 〔ドリメーヌに〕彼のことをご存知ないんですよ、奥さんは。
【ジュールダン氏】 お気に召すんなら、いつでもご存知になれますよ。
【ドリメーヌ】 このかたにはとてもかないませんわ。
【ドラント】 この人はいつでもすかさず受け答えのできる人なんですよ。あれあれ、奥さま、ごらんなさい、ムッシュウ・ジュールダンはあなたが手をつけた料理をかたっぱしから食べてますよ。
【ドリメーヌ】 ムッシュウ・ジュールダンってほんとにすばらしいかた、あたくし心を奪われて……
【ジュールダン氏】 もしほんとうにあなたの心をガッチリ奪いとれたら、わしはもう……
第二場
ジュールダン夫人、ジュールダン氏、ドリメーヌ、ドラント、男性歌手たち、女性歌手、下男たち
【ジュールダン夫人】 あら、あら! みなさんこちらでお楽しみですわね、まさかわたしが現われるなんて思ってもみなかったようですわね。ねえあなた、あなたが早く早くとせきたててあたしを妹の家へ夕食に追いやったのは、こんなうまい計画があったからなのね? わたし、いま向こうで見世物を見てきたのよ、こっちはこっちで今後は結婚の披露宴を拝見できるってわけですわね。あなたはこんなことで財産を湯水のように費《つか》うのね、それにこんなふうに、わたしの留守のうちによその女をひっぱり込んでお祭りさわぎ、わたしを外へ追い出しておいて、その間に女共を相手にやれ音楽だの喜劇だのでご歓待っていうわけなのね。
【ドラント】 そりゃあどういうわけです、ジュールダン夫人? あなたのご主人がお金をつかってるとか、ご主人がこの奥さまにこんな歓待をしてるなどと、とんでもないお考えですよ、頭にきてるんじゃあありませんか? いいですか、よくお聞きください。パーティを開いてるのはぼくなんですよ、あなたのご主人はお宅をぼくに使わしてくれただけのことなんです、もう少し考えて口をきいていただきたいもんですな。
【ジュールダン氏】 そうだとも、無作法ものめが、奥方さまにこんな宴会を開いているのは伯爵さまじゃわい、それにな、奥方さまは上流のご婦人じゃぞ。わしの家をお使いくださったのも、わしの同席を許してくださったのも、わしにとっては光栄じゃあないか。
【ジュールダン夫人】 信用できるもんですか、そんなこと。わたしはね、自分がなにを考えなければいけないかぐらい知ってるつもりですよ。
【ドラント】 ジュールダン夫人、もっとね、もっといい眼鏡をかけなきゃあいけませんな。
【ジュールダン夫人】 眼鏡なんか要《い》るもんですかね、ムッシュウ、わたしはこれでじゅうぶんよく見えますからね。わたしだってバカじゃあありません、ずっと前から、なんか臭いなと嗅ぎつけていたんですよ。わたしの主人のきちがい沙汰に手を貸そうなんて、あなたのそんなやり口は、あなたのようなお殿さまにしてはお品が下がりますよ。それに奥さま、あなたにしてもそうですよ、ひとの家庭に内輪喧嘩《うちわげんか》の種をまいたり、わたしの主人があなたを愛してるのを平気で放っておいたりなんて、あなたのような貴婦人としてはあんまりごりっぱとも、身持ちがいいともいえませんわよ。
【ドリメーヌ】 それはいったいどういう意味なんですの? ねえドラント、あなたったらこの無鉄砲な女のひとのバカバカしい冗談であたくしを煙に巻いてからかおうっていうのね、そうでしょ?〔彼女は出てゆく〕
【ドラント】 〔出てゆくドリメーヌに〕奥さん、待って! ねえ奥さん、どこへいらっしゃるんです?
【ジュールダン氏】 奥方さまあ! 伯爵さま、あやまってくださいよ、奥方さまをもう一度連れてきてくださいよ。〔ジュールダン夫人に〕ああ! なんて無作法なやつだ、おまえときたら、なんてことをしでかしてくれたんだ、おまえは。みなさんの前でわしに恥をかかせたんだぞ、とうとう上流階級のかたがたをわしの家から追い出しちまったじゃあないか。
【ジュールダン夫人】 あのひとたちの階級がなんだっていうの? チャンチャラおかしいわ。
【ジュールダン氏】 ちきしょうめ、おまえが台なしにしちまったこのごちそうの道具で、お前の頭を打ち割りたくなるわい。こうやってかんしゃくを抑えていられるのが、自分でもふしぎなくらいだわい。〔下男たちがテーブルを片づける〕
【ジュールダン夫人】 〔出てゆきながら〕わたしはヘッチャラですよ、そんなこと。わたしにだって自分を守る権利はあるわよ、女はみんなわたしの味方になってくれますからね。
【ジュールダン氏】 あんまりわしを怒らせんほうが身のためだぞ。〔独白〕あいつめ、まったく間の悪い時に顔を出しおったわい。あの時の気分は上々、うまいことがいくらも言えそうで、あれほど才気|横溢《おういつ》っていう感じははじめてだったんだが。やや、あれはなにごとだろう?
第三場
コヴィエル〔旅行者に変装して〕、ジュールダン氏、下男たち
【コヴィエル】 ムッシュウ、わたくしのことを覚えていらっしゃいますか?
【ジュールダン氏】 さて、覚えはありませんが。
【コヴィエル】 〔手を床から一尺ほどのところへ伸ばして〕あなたにお会いしたのは、あなたがまだこのくらいしか背がなかった頃ですからな。
【ジュールダン氏】 わしがですか?
【コヴィエル】 さよう。あなたは世界一と言っていいほどきれいなお子さんでしてね、ご婦人たちはみんなあなたを抱き上げて、キスをしたもんですよ。
【ジュールダン氏】 わしにキスを、ですって?
【コヴィエル】 さよう。わたしは亡《な》くなったあなたのお父さまの親友でしてね。
【ジュールダン氏】 死んだわしのおやじと?
【コヴィエル】 さよう。まったくごりっぱな貴族でしたな。
【ジュールダン氏】 いまなんとおっしゃいました?
【コヴィエル】 まったくごりっぱな貴族でした、と申しましたが。
【ジュールダン氏】 わしのおやじが?
【コヴィエル】 さよう。
【ジュールダン氏】 あなたは父をよくご存知でしたか?
【コヴィエル】 もちろんですとも。
【ジュールダン氏】 で、父が貴族だったとおっしゃっるんですな?
【コヴィエル】 そうですとも。
【ジュールダン氏】 まったく浮世のことはわからんですな。
【コヴィエル】 どういうわけです、そりゃあ?
【ジュールダン氏】 わしの父が商人だったなんて言いたがるバカどもがおりましてね。
【コヴィエル】 彼が、商人ですって! そりゃあひどい中傷だ、ぜったい商人なんかじゃあありませんよ。お父さまはずいぶんいろんなことを手がけましたがね、それはお父さまが世話ずきで、小まめに気さくにひとのことをやってあげたからですよ、それになにしろ生地《きじ》のことが詳しくてね、あっちこっちとび回って生地を選び、お宅へ届けさせては、お金とひきかえにその生地をお友だちに配ったりしたもんですよ。
【ジュールダン氏】 あなたとお知り合いになれてしあわせですよ、なにしろあなたは、わしの父が貴族だったという大事な証人になりますからな。
【コヴィエル】 みなさんの前ではっきり言ってやりますよ。
【ジュールダン氏】 まったく感謝感激ですて。ところでどんなご用件でいらっしゃいました?
【コヴィエル】 亡くなったあなたのお父さま、先程申し上げたように、りっぱな貴族だったお父さまとですな、最後にお目にかかってから、わたしは全世界中を旅行しておりました。
【ジュールダン氏】 全世界をですって!
【コヴィエル】 さよう。
【ジュールダン氏】 考えてみると、その全世界という国はずいぶん遠いところにあるんでしょうな。
【コヴィエル】 もちろん。で、わたしは四日前にようやくこの永い旅行から帰ったばかりなんです。そこでですな、わたしとしてはあなたに関係のあることは、わたしにとってもひと事ではありません、たいへん興味がありますのでな、今日はこの上ないよいニュースをお知らせに上がったわけですよ。
【ジュールダン氏】 どんなニュースです、そいつは?
【コヴィエル】 トルコ大王の王子がいまこちらへお見えになってることはご承知でしょうな?
【ジュールダン氏】 わしが? いや、知りませんな。
【コヴィエル】 ご存知ないんですって! まったく豪勢なお供を連れてきてるんですよ。猫もしゃくしもそのお供を見物に行ってますよ、それに王子はこの国でも国賓の格式で待遇をうけたんですな。
【ジュールダン氏】 そいつはまったく知りませんでしたな。
【コヴィエル】 そこであなたに耳よりな話なんですがね、王子がですな、あなたのお嬢さんに恋をした、ってわけなんですよ。
【ジュールダン氏】 トルコ大王の王子さまがですって?
【コヴィエル】 さよう、あなたの聟《むこ》どのになりたい、というわけでしてな。
【ジュールダン氏】 わしの聟に、トルコ大王の王子さまが?
【コヴィエル】 トルコ大王の王子があなたの聟どのにですよ。わたしが王子にお会いした折にですな、わたしは王子の言葉が完全にわかるもんですから、王子とお話し合いをしたんですよ。しばらく四方山《よもやま》の話をした後で、王子がこう申されるんですな。「アシャム・クロック・ソレール・ウーシュ・アラ・ムスターフ・ジデルム・アマナヘム・ヴァラヒニ・ウーセレ・カルブラート」。これはつまり、「おまえは美しい少女に会わなかったかな? パリの貴族、ムッシュウ・ジュールダンの令嬢じゃが」、という意味です。
【ジュールダン氏】 トルコ大王の王子さまが、わしのことをそう申されたんですか?
【コヴィエル】 さよう。わたくしがあなたと個人的な知り合いで、ご令嬢を知っている、と申しあげたところ、王子はこう申されました。「ああ! マラババ・サーヘム」とな。つまり「ああ! 余はなんと彼女を愛しておることか!」、という意味です。
【ジュールダン氏】 ああ! マラババ・サーヘム、つまり、ああ! なんと彼女を愛していることか、とおっしゃったんですな?
【コヴィエル】 さよう。
【ジュールダン氏】 まったくあなたはよいことを言ってくださいましたな、つまり、わしには、このマラババ・サーヘムなんてのが、「ああ! なんと彼女を愛していることか」なんて意味だなんて、とてもじゃないがわかりませんからな。いやはや、このトルコ語ってやつはたいした言葉ですわい!
【コヴィエル】 信じられぬくらいたいした言葉ですよ。カカラカムーシェン、ってのはどういうことかご存知ですかな?
【ジュールダン氏】 カカラカムーシェン? いや、わかりませんな。
【コヴィエル】 つまり、わが恋人よ、っていう意味です。
【ジュールダン氏】 カカラカムーシェンがわが恋人よ、ですか?
【コヴィエル】 さよう。
【ジュールダン氏】 こいつはイカスぞ! カカラカムーシェン、わが恋人よ、か。こんなことが言えますかってんだ? 嬉しくてゾクゾクしてきたぞ。
【コヴィエル】 さて、わたくしの使者の役目を果たしますかな、王子のおっしゃるには、あなたのご令嬢と結婚を許していただきたいというんです。そしてですな、王子の舅《しゅうと》としてふさわしいように、あなたをママムーシに任命したいとおっしゃるんです、これは王子のお国では高位高官といっていいでしょうな。
【ジュールダン氏】 ママムーシですと?
【コヴィエル】 さよう。ママムーシ、すなわち、われわれの国語に直せば、そう、パラダンですかな。パラダン、つまり例の昔のですな……さよう、パラダンです、ぴったりですな! これ以上高貴な位は、世の中にまずなにも見当たりませんな。さて、これであなたも世界中の大諸侯と肩を並べられるわけですな。
【ジュールダン氏】 トルコ大王の王子さまのおかげでわしもたいへん面目をほどこしましたわい、ところでお願いがあるんですが、お礼言上のために、王子さまのところへわしを連れていっていただけませんかな。
【コヴィエル】 なんですって! もうおっつけ王子がこちらへお見えになりますよ。
【ジュールダン氏】 王子さまがここへお見えですと?
【コヴィエル】 さよう。それにあなたの叙勲式に必要なものまでみんなお持ちになりますよ。
【ジュールダン氏】 いやはや、えらいスピードですな。
【コヴィエル】 ちょっと遅れても待ちきれないくらい、王子は令嬢を愛していらっしゃるんですよ。
【ジュールダン氏】 ここに困ったことがありましてね、娘がえらい強情なやつでしてね、クレオントとかいう男のことで頭がいっぱいで、その男でなければだれとも結婚しないと言いはっておりましてね。
【コヴィエル】 なに、トルコ大王の王子さまにお会いになれば、気が変わりますよ。こちらで偶然も偶然、すてきな偶然に出会いましてな。というのはですな、トルコ大王の王子と例のクレオントという男は、まったく瓜二つ、そっくりなんです。あれが例の男だと教えてもらったもんですからね、わたしはいましがたそのクレオントに会ったところなんですよ。お嬢さんが片一方をお好きなら、牛を馬に乗りかえるのもしごく簡単ですよ、それに……どうやら王子がお見えになったらしい。王子がお見えです。
第四場
クレオント〔トルコ服を着て、小姓が三人上衣の裾をもって従う〕、ジュールダン氏、コヴィエル〔変装して〕
【クレオント】 アンブーサヒム・オクイ・ボラーフ・ジョルディーナ・サラマレクイ。
【コヴィエル】 〔ジュールダン氏に〕こういう意味です。「ムッシュウ・ジュールダン、あなたの心が一年中花咲けるバラのように」。これはあちらの国ではすこぶる心のこもった話し方でしてな。
【ジュールダン氏】 トルコ王子殿下にかしこんでご挨拶《あいさつ》申し上げます。
【コヴィエル】 カリガール・カムボト・ウスチン・モラーフ。
【クレオント】 ウスチン・ヨック・カタマクレイ・バスム・バセ・アラ・モーラン。
【コヴィエル】 王子は、天があなたにライオンの如き力と、蛇の如き慎重さを与えられんことを、とおっしゃっておいでです。
【ジュールダン氏】 トルコ王子殿下、それはわたくしめには過ぎた名誉でございます。殿下の、ますますのご隆盛をお祈りいたします。
【コヴィエル】 オッサ・ビナーメン・サドック、ババリイ・オラカフ・ウーラム。
【クレオント】 ベル・メン。
【コヴィエル】 王子は、王子とごいっしょに、あなたも早く式の準備をされるように、そしてその後にご令嬢とご対面、その上で挙式という段どりになさりたいから、と仰せです。
【ジュールダン氏】 二言三言で、またなんてたくさんの話ができるんですな?
【コヴィエル】 さよう。トルコ語というのはこうしたものでしてな、ちょっと口をきくだけでいろんなことが言えるんですよ。さあ急いで王子のご希望のところへ参りましょう。
第五場
ドラント、コヴィエル
【コヴィエル】 〔独白〕ハッ! ハッ! ハッ! まったく奇妙キテレツな話だよ。なんてオメデタイオッサンだ! そらであの役を覚えたって、あれほどうまくはこなせないくらいだ。あれ! あれ! 〔ドラント登場〕ムッシュウ、お願いしますよ、この家ではチョイト事件が起こるんですが、一肌ぬいでいただけませんかね。
【ドラント】 リャ! リャ! コヴィエルじゃないか、おまえを見違えちまうところだった。まったくその衣装はお似合いだぜ。
【コヴィエル】 バレましたか。ハッ! ハッ!
【ドラント】 なにを笑ってるんだい?
【コヴィエル】 いえね、ムッシュウ、まったくこれが笑わずにいられるか、って話があるんでさあ。
【ドラント】 なんだい、そりゃ?
【コヴィエル】 いいですか、ムッシュウ、ひとつずばりと当ててみませんか、ここに計略あり、ってわけですよ、こいつにムッシュウ・ジュールダンをいっぱいはめ込んで、大将の頭んなかへ、うちのだんなと娘さんを結婚させるように吹き込んでやろう、って次第なんですがね。
【ドラント】 どういう計略だかわからんね、ただみんなをアッと言わせることはまちがいないだろうな、なにしろおまえが陰で糸を引いてるんだから。
【コヴィエル】 なるほど、おいらの真価をよくご存知ですね。
【ドラント】 で、その計略とやらを話してくれ。
【コヴィエル】 ほうら来ましたぜ来ましたぜ、やっこさんたちに場所をあけてやらなけりゃあいけないんで、ちょっと向こうへ退ってもらえませんか。さて例の計略の一部はここでごらんになれまさ、あとのことは後ほどおいらがお話ししますよ。
〔町人を叙勲するトルコの儀式がダンスと音楽で始まり、第四の幕間劇になる〕
回教の大僧正、四人の僧、六人のトルコ人のダンサー、六人のトルコ人の歌手、およびト ルコ風の楽器の演奏者数人がこの儀式の俳優 である。
大僧正が十二人のトルコ人と四人の僧といっしょにマホメットに祈りを捧げる。その後に、トルコ風の服装で、ターバンも剣も着けてい ない町人が大僧正のところへ案内され、大僧 正が町人に、次の歌詞を歌って聞かせる。
【大僧正】
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セ・チ・サビール(知らば)
チ・レスポンディール(答えよ)
セ・ノン・サビール(知らざれば)
タジール・タジール(黙れ、黙れ)
ミ・スタール・ムフチ(われ大僧正)
チ・クィ・ツァール・チ?(なんじ何者?)
ノン・インテンディール(わからぬか?)
タジール・タジール(されば黙れ、黙れ)
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大僧正は同じ言葉で居並ぶトルコ人たちに、町人が何教信者かを尋ね、トルコ人たちは彼が回教信者なることを確証する。大僧正はフランク語でマホメットに祈りを捧げ、次の歌詞を歌う。
【大僧正】
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マハメッタ・ペル・ジウルディーナ(回教徒、ジュールダン氏のために)
ミ・プレガール・セラ・エ・マチーナ(われ祈る、昼も夜《よ》も)
ヴォレル・ファル・ウン・パラディーナ(パラダンにせんがため)
デ・ジウルディーナ・デ・ジウルディーナ(ジュールダンに、ジュールダンに)
ダル・トゥルバーナ・エ・ダル・スカルシーナ(ターバンと剣とを与う)
コン・ガレーラ・エ・ブリガンチーナ(軍艦と小舟をそえて)
ペル・デフェンデール・パレスチーナ(パレスチナを護るために)
マハメッタ……(マホメットよ)
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大僧正はトルコ人たちに、町人が回教を固く信じるかどうかを尋ね、次の歌詞を歌う。
【大僧正】
[#ここから2字下げ]
スタール・ボン・チュルカ・ジウルディーナ?(ジュールダンはよきトルコ人なりや?)
[#ここで字下げ終わり]
【トルコ人たち】
[#ここから2字下げ]
ヒ・ヴァラ(われら神に誓わん)
[#ここで字下げ終わり]
【大僧正】 〔踊りながら歌う〕
[#ここから2字下げ]
フ・ラ・バ・バ・ラ・シュ、バ・ラ・バ・バ・ラ・ダ
[#ここで字下げ終わり]
トルコ人たちは同じ歌詞で答える。大僧正は町人にターバンを与えるように提案し、次の歌詞を歌う。
【大僧正】
[#ここから2字下げ]
ティ・ノン・スタール・フルバ?(なんじペテン師にあらざるか?)
[#ここで字下げ終わり]
【トルコ人たち】
[#ここから2字下げ]
ノ・ノ・ノ(いな、いな、いな)
[#ここで字下げ終わり]
【大僧正】
[#ここから2字下げ]
ノン・スタール・フルファンタ?(サギ、ヌスットにあらざるか?)
[#ここで字下げ終わり]
【トルコ人たち】
[#ここから2字下げ]
ノ・ノ・ノ(いな、いな、いな)
[#ここで字下げ終わり]
【大僧正】
[#ここから2字下げ]
ドナール・チュルバンタ、ドナール・チュルバンタ(与うべしターバンを、与うべしターバンを)
[#ここで字下げ終わり]
トルコ人たちは町人にターバンを巻こうとして大僧正が言ったことを繰りかえす。大僧正と僧たちは儀式用のターバンを巻いている、ひとびとは大僧正にコーランを捧げ、残りのトルコ人たちみんなで第二の祈りを唱える。その祈りが終わると大僧正は町人に剣を与え、次の歌詞を歌う。
【大僧正】
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チ・スタール・ノビーレ、エ・ノン・スタール・ファボラ(なんじは貴族、まことの話)ピグリアール・シャボーラ(サーベルを手にすべし)
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トルコ人たちがみなみなサーベルを手にして同じ歌詞を繰りかえし、彼らのうち六人が町人を囲んで踊る、彼らは町人を何度もサーベルで打つまねをする。
大僧正はトルコ人たちに町人を棒でたたくように命じ次の歌詞を歌う。
【大僧正】
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ダラ・ダラ(たたけよたたけ)
バストナーラ・バストナーラ(棒で打て、棒で打て)
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トルコ人たちは同じ歌詞を繰りかえし、調子をとって棒で何度か彼をたたく。
大僧正は彼を棒でたたいてから、彼に次の歌を歌ってきかせる。
【大僧正】
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ノン・テネール・オンタ(恥知らぬこそ)
クエスタ・スタール・ウルチマ・アフロンタ(最大の恥辱なるぞ)
[#ここで字下げ終わり]
トルコ人たちは同じ歌詞を繰りかえす。
大僧正は再び祈りを捧げ、儀式が終わると、すべてのトルコ人たちといっしょに、トルコ風の数種類の楽器の伴奏につれて、踊り、歌いながら退場する。
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第五幕
第一場
ジュールダン夫人、ジュールダン氏
【ジュールダン夫人】 あらあら! たいへん! なんてことでしょう! そりゃあいったいなんの真似なの? なんて恰好《かっこう》してるの? あなたは仮装行列のお面でもつけようっていうの? 今どきお面をつけるなんて時期|外《はず》れじゃあない? ね、どういうわけだか話して。いったいだれがそんな見っともない服を着せたの?
【ジュールダン氏】 無礼者め、ママムーシさまに向かってそんなぞんざいな口を訊《き》くやつがあるか!
【ジュールダン夫人】 なんですって?
【ジュールダン氏】 そうじゃ、今度こそわしにうんと敬意を払わなけりゃあいかんぞ、なにしろわしはママムーシになったところだからな。
【ジュールダン夫人】 あなたが言うそのママムーシとかって、いったいなんのことなの?
【ジュールダン氏】 ママムーシと言ってるじゃろうが。わしはママムーシじゃぞ。
【ジュールダン夫人】 どんなケダモノなの?
【ジュールダン氏】 ママムーシ、これすなわちわれわれの言葉でいうパラダンじゃわい。
【ジュールダン夫人】 バラダンスですって!バレエのダンサーっていう年令《とし》じゃありませんよ、あなたは。
【ジュールダン氏】 まったくなんて無知な女だ! パラダン、と言ったんだぞ、わしは。今しがた叙勲の儀式が終わってな、そういう位をいただいたんだ。
【ジュールダン夫人】 どんな儀式なの、それ?
【ジュールダン氏】 マハメタ・ペル・ジョルディーナ。
【ジュールダン夫人】 それはいったいなんのことなの?
【ジュールダン氏】 ジョルディーナ、すなわちジュールダンじゃ。
【ジュールダン夫人】 で、ジュールダンがどうなったの?
【ジュールダン氏】 ヴォレル・ファル・ウン・パラディーナ・デ・ジョルディーナ。
【ジュールダン夫人】 なんですって?
【ジュールダン氏】 ダル・ツルバンタ・コン・ガレーラ。
【ジュールダン夫人】 なんの意味なの、それ?
【ジュールダン氏】 ペル・デフェンデール・パレスチーナ。
【ジュールダン夫人】 どういうわけ、いったい?
【ジュールダン氏】 ダラ・ダラ・バストナーラ。
【ジュールダン夫人】 そのチンプンカンプンはなんのことなの?
【ジュールダン氏】 ノン・テネール・オンタ・クェスタ・スタール・ルルチマ・アフロンタ。
【ジュールダン夫人】 そりゃなんのこと、さっぱりわからないわ。
【ジュールダン氏】 〔踊り、歌い出す〕ウ・ラ・バ、バ・ラ・シュ、バ・ラ・バ・バ・ラ・ダ。〔床に尻もちをつく〕
【ジュールダン夫人】 あらあら! たいへん、このひと、とうとう頭にきちまったわ。
【ジュールダン氏】 〔出てゆきながら〕静かにせい、無礼者め! ママムーシさまにもっと敬意を払え。
【ジュールダン夫人】 〔独白〕あのひとったら正気をなくして、どこへ正気を落としてきちゃったのかしら? なんとかあのひとが外へ出てゆかないようにしなけりゃあ。〔ドリメーヌとドラントが来るのに気づいて〕あら! あら! さてこれでおつりはぜんぶ返したし、役者が勢揃いってところね。四面楚歌ってのはこのことだわ。〔退場〕
第二場
ドラント、ドリメーヌ
【ドラント】 そうです奥さん、これから世界最高っていう愉快なものがごらんになれますよ。この世の中に、あの大将ほどノーテンパーの男を見っけることは、まずできないでしょうね。それから奥さんお願いですからクレオントの恋のために一肌ぬいで、この仮装パーティに手を貸してやってください。彼はなかなかりっぱな男ですし、尻押しをしてやる値うちはじゅうぶんある男ですよ。
【ドリメーヌ】 あたくしも彼はりっぱだと思いますわ、彼は幸福になる資格じゅうぶんですわ。
【ドラント】 そうでなくても、まだ例のバレエがありますからね、あれはぼくらがお膳立てしたもんだし、あのままたち消えにしちまうテはないですよ。ぼくのアイデアがうまくゆくかゆかないか、じっくり見てやらなければね。
【ドリメーヌ】 あちらにずいぶんデラックスな準備がしてあるのを拝見しましたわ、それにねえドラント、あたくし黙って見ていられないんですの、あんなこと。そうなの、とうとう、あたくしあなたにあんまり派手にお金を費《つか》っていただくのを、やめていただこうなんていう気になってしまったわ。それでね、あなたがあたくしのためにあんなにお金を費うのをやめていただくには、もう大急ぎであなたと結婚したほうがいいと決心いたしましたのよ。お金を費うのをやめていただく秘訣はこれだけね、結婚すれば万事めでたしめでたしで収まると思いますの。
【ドラント】 ああ! 奥さん、ぼくのために、そんな思いやりのある決心をしていただくなんて、まったく夢みたいですよ!
【ドリメーヌ】 あなたが破産なさるのを見ていられないからですわ。それに、そうでもしなければ、もう幾日もしないうちに、あなたったら一文なしになってしまやしないかしら。
【ドラント】 奥さん、ぼくの財産を守るために、そんなにお気をつかってくださるなんて、なんと感謝したらいいんでしょう! ぼくの財産はぼくのハートと同じように、すっかりあなたのものですよ、財産もハートも、あなたのお気の向くようにお使いください。
【ドリメーヌ】 どちらも使わせていただきますわ。でも、ほら例のかたが見えましたわ。たいへんな変装をしてるじゃない。
第三場
ジュールダン氏、ドラント、ドリメーヌ
【ドラント】 ムッシュウ、あなたが新しく高い位にお就きになったというので、奥さまとごいっしょに、敬意を表しに参りましたよ、それと、あなたがお嬢さまとトルコ大王の王子とのご結婚をお決めになったと伺《うかが》ったので、お慶《よろこ》びを申し上げようと思いましてね。
【ジュールダン氏】 〔トルコ流の挨拶《あいさつ》をしてから〕ムッシュウ、あなたに蛇の力とライオンの慎重さが与えられるようお祈りいたします。
【ドリメーヌ】 あなたがお受けになった、名誉ある高い地位をあたくしたちが第一番にお祝いできるなんて、とても嬉しゅうございますわ。
【ジュールダン氏】 奥方さま、あなたさまが一年中花咲けるバラのようにお祈りいたします。わたくしがお受けした名誉を共にお慶びくださったことを心から感謝いたします、それにわたしはほんとうに嬉しいんですよ、あなたさまが戻ってきてくださったことが、うちの家内の無作法は、まったくなんとお詫《わ》びしてよいやら。
【ドリメーヌ】 そんなことなんでもございませんわ。わたくしのほうこそあんな事をして、奥さまに申し訳けないと思っておりますの。奥さまにとってはあなたのお心は当然、大切ですわ、それにあなたのようなご主人を持ったら、だれだっていろいろ気がもめるのもちっとも不思議なことじゃあありませんわ。
【ジュールダン氏】 わたくしの心はすべてあなたのお心のままでございます。
【ドラント】 これでおわかりでしょう、奥さま、ジュールダン氏ってかたは、栄耀栄華《えようえいが》に目がくらむような人間じゃないんです、偉くなっても前と変わらず友人は友人として扱いますからね。
【ドリメーヌ】 ほんとにおうような心の持主でいらっしゃるのね。
【ドラント】 ところでトルコ王子殿下はどちらにおいでですか? われわれもあなたの友人として敬意を表させていただきたいんですがね。
【ジュールダン氏】 ちょうどお見えになりましたよ、わたしは娘を呼びにやったんですがね、王子さまとの結婚をウンと言わせようと思いましてね。
第四場
クレオント、コヴィエル、ジュールダン氏、その他
【ドラント】 〔クレオントに〕殿下、殿下のお舅《しゅうと》さまの友人として殿下にご挨拶に参りました、われわれはいつでも殿下にご奉仕申し上げることを、お約束申します。
【ジュールダン氏】 通訳はどこへ行ったろう? あなたがだれだか殿下に話してもらい、あなたがなんと言ってるか説明してもらわなきゃあいけませんよ。彼がいれば、殿下があなたにお答えになることもわかりますよ。なにしろ彼はトルコ語を達者に喋《しゃべ》りますからね。オーイ!ちきしょうめ、どこへ消えちまったんだろう?
〔クレオントに〕ストルーフ、ストルーフ、ストルーフ、ストルーフ。こちらのムッシュウはグランデ・セニョーレ、グランデ・セニョーレ、グランデ・セニョーレでございまして。それにこちらの奥方さまはグランダ・ダーマ、グランダ・ダーマでして。
〔彼が意味がわからないのに気づいて〕アヒ!〔ドラントを指し〕このかたフランスのママムーシで、この奥方さま、フランスの女ママムーシ。これ以上はっきり話せったってとうていむりですよ。ああよかった! 通訳が参りましたわい。どちらへいらしってたんです。あなたがいないと唖《おし》同然ですよ、わたしは。〔クレオントを指して〕殿下にちょっと申し上げていただけませんか、このかたとこちらの奥方さまは上流階級のかたがたで、わたくしの友人として殿下にご挨拶《あいさつ》を申し上げ、なにかお役にたちたいと申し上げるために参上いたしました、とね。〔ドリメーヌとドラントに〕さあ、殿下のご返事がわかりますよ。
【コヴィエル】 アラバラ・クロシアム・アシ・ボーラム・アラバーメン。
【クレオント】 カタレクイ・ツバール・ウーリン・ソテル・アマルーシャン。
【ジュールダン氏】 〔ドリメーヌとドラントに〕どんなもんです?
【コヴィエル】 殿下のお言葉では、繁栄が雨の如くにつねにあなたがたの家の庭をうるおすように、とおおせです。
【ジュールダン氏】 どうです言ったでしょう、まったくかれのトルコ語は達者なもんですよ!
【ドラント】 まったくすばらしいですな。
第五場
リュシール、ジュールダン氏、ドラント、ドリメーヌ、その他
【ジュールダン氏】 こちらへ来なさい、もっと近くへ、こちらのムッシュウに手を出すんじゃ、こちらのかたは、恐れ多くも、おまえと結婚したいとおっしゃるんじゃ。
【リュシール】 なんですって! お父さん、まあなんてことなさったの! お芝居でもしていらっしゃるの?
【ジュールダン氏】 いや、いや、芝居じゃあないぞ、大まじめな話じゃよ、おまえにとっては光栄この上なしの玉の輿《こし》じゃよ。〔クレオントを指して〕さあ、わしがおまえに選んだご主人さまだ。
【リュシール】 わたしに、お父さん?
【ジュールダン氏】 そう、おまえにじゃ。さあ、手をとって、と、おまえの幸福を天にせいぜい感謝するんだな。
【リュシール】 結婚なんてごめんですわ。
【ジュールダン氏】 わしが望んどるんじゃ、おまえの父親のわしがな。
【リュシール】 ぜったいダメだわ。
【ジュールダン氏】 ああ! やかましいわい! さあ、言うとおりにするんじゃ。さ、手を出して。
【リュシール】 いやです、お父さん。いやだってば、クレオント以外のひとを夫にさせようなんて、ぜったいごめんだわ。そんなくらいならいっそのこと、思いきって決心して、トコトンまでいって……〔クレオントに気づいて〕そうね、あなたはあたしのお父さま、あたしはお父さまにはぜったい服従ですものね。いいわ、お父さまのお気持ちどおりにあたしも覚悟をいたしますわ。
【ジュールダン氏】 ああ! わしはほんとに嬉しいよ、おまえがこんなに早く娘のつとめを果たす気になってくれるなんてね。素直な娘を持つっていうのはほんとにありがたいことだわい。
第六場
ジュールダン夫人、ジュールダン氏、クレオント、その他
【ジュールダン夫人】 いったいどうしたんです? なにごとですか、これは? あなたがうちの娘をこのチンドン屋みたいな男と結婚させようっていう話だけれど、そりゃあほんとうなの?
【ジュールダン氏】 でしゃばり女め、ちょっと黙っていてくださらんかね? おまえときたらいつでも向こう見ずになんにでも首をつっこんできおるわい、おまえみたいなやつに、もうすこし分別ってものを教えてやる方法はないもんかな。
【ジュールダン夫人】 そりゃああなたのことですよ、もう少しお利口《りこう》さんになれないものかしら、あなたときたら、まったく気違いさわぎの連続なんだから。いったいなにを企んでるんです、みなさんガン首を並べてなにをやらかそうっていうの?
【ジュールダン氏】 うちの娘をだな、トルコ大王の王子さまのところへお嫁にやろうというんだ。
【ジュールダン夫人】 トルコ大王の王子さまですって?
【ジュールダン氏】 そうじゃ。〔コヴィエルを指して〕こちらの通訳のかたにお願いして、殿下にご挨拶申し上げろ。
【ジュールダン夫人】 通訳なんか要《い》るもんですか、その男の鼻っ先で、わたしの口から言ってやりますよ、娘は嫁にはやりません、ってね。
【ジュールダン氏】 もう一度お願いしますよ、お黙りくださいませんか、だ?
【ドラント】 なんですって! ねえジュールダン夫人、あなたときたら、こんな幸福に反対なさるんですか? トルコ王子殿下がお聟《むこ》さんになりたいって言ってるのに、ソッポを向こうっていうんですか?
【ジュールダン夫人】 うるさいひとね、あなたは自分の頭の蠅を追ってればいいのよ。
【ドリメーヌ】 たいへんな名誉じゃあございません、ご辞退なさる|テ《ヽ》はないですわ。
【ジュールダン夫人】 奥さま、奥さまにもお願いしますわ、あなたに関係ないことにまで首を突っこんでいただきたくないの。
【ドラント】 ぼくらがあなたがたのためによかれと考えるのは、あなたがたに対する友情からなんですよ。
【ジュールダン夫人】 あなたがたの友情なんてものは、なくたってヘッチャラですよ。
【ドラント】 お宅のお嬢さんのほうからお父さまのお気持ちに賛成されたんですよ。
【ジュールダン夫人】 娘がトルコ人との結婚に賛成したんですって?
【ドラント】 そうですとも。
【ジュールダン夫人】 クレオントのことを忘れられるのかしら?
【ドラント】 貴婦人になれるって餌《えさ》がブラ下がってるんですもの、ほかにどうしようもないでしょう?
【ジュールダン夫人】 娘がそんな破廉恥《はれんち》なことをしたら、わたしがこの手で首を絞めてやりますよ。
【ジュールダン氏】 いくら囀《さえず》ってもむだな話だ。どうだわしが言ったとおりだろう、この縁談はきっとまとめてみせる、とな。
【ジュールダン夫人】 わたしも言わしてもらいますよ、ぜったいまとまりません、ってね。
【ジュールダン氏】 ああ! やかましいわい!
【リュシール】 ねえ、お母さま!
【ジュールダン夫人】 ほんとに、おまえって娘《こ》は尻の軽い女だよ。
【ジュールダン氏】 〔ジュールダン夫人に〕なんだって! この娘《こ》がわしの言うことを聞いてるのに、この娘《こ》にイチャモンつける気か、おまえは?
【ジュールダン夫人】 そうですとも、たしかにこの娘《こ》はあなたの娘ですけれどね、わたしの娘でもあるんですよ。
【コヴィエル】 〔ジュールダン夫人に〕奥さん!
【ジュールダン夫人】 なにか言うことがあるんですの、あなたは?
【コヴィエル】 ちょっとひとこと。
【ジュールダン夫人】 あなたのひとことなんてごめんですよ。
【コヴィエル】 〔ジュールダン氏に〕ムッシュウ、奥さんと二人だけで話させていただければ、あなたのお望みどおりに奥さんを説き伏せるってお約束しますよ。
【ジュールダン夫人】 説き伏せられるもんですか。
【コヴィエル】 まあ、ちょっと聞いてください。
【ジュールダン夫人】 まっぴらですよ。
【ジュールダン氏】 〔ジュールダン夫人に〕まあ聞きなさい。
【ジュールダン夫人】 聞きたくありませんよ。
【ジュールダン氏】 このかたのお話はだな……
【ジュールダン夫人】 このひとのお話なんてけっこうですよ。
【ジュールダン氏】 まったく女というやつは、こうと思ったら一歩もひかないんだから! 話を聞くぐらいどうってことはないだろう?
【コヴィエル】 ちょっと聞いてくださるだけでいいんですよ、そのあとはお好きなようになさってください。
【ジュールダン氏】 どうだ、それでいいだろ?
【コヴィエル】 〔小声でジュールダン夫人に〕奥さん、一時間もまえからあなたにサインを送っていたんですぜ。この一件はみんな、あなたのご主人の例の誇大妄想にバツを合わせてるだけなんですよ、それにね、この変装でご主人をいっぱい食わせてやろうってわけですよ、トルコ大王の王子ってのは、ほかでもないクレオントっていう次第なんです、どうです、おわかりですか?
【ジュールダン夫人】 〔小声でコヴィエルに〕なるほど! なるほど!
【コヴィエル】 〔小声でジュールダン夫人に〕そこでおいらは、と。通訳の正体はこのコヴィエルですよ。
【ジュールダン夫人】 〔小声でコヴィエルに〕ははん! なるほどそれならわたしも賛成するわよ。
【コヴィエル】 〔小声でジュールダン夫人に〕そんなそぶりを見せちゃあいけませんぜ。
【ジュールダン夫人】 いいわ、それで話はついたわ、この結婚に賛成しますわ。
【ジュールダン氏】 よしきた、と! これでみんな話がわかったというもんじゃ。〔ジュールダン夫人に〕おまえはこのひとの言うことにちっとも耳をかそうとしなかったがな、わしにはようくわかっていたよ。どうだ、トルコ大王の王子さまがどんなおかたか、納得のゆくように説明してくださったろうが、このひとは。
【ジュールダン夫人】 ほんとに堂に入ったご説明でしたよ、それでわたしも満足しておりますわ。さっそく公証人を呼びにやりましょう。
【ドラント】 なるほどそいつは名案だ。そこでジュールダン夫人、あなたのお気持ちがトコトンまで納得されるように、今日からは、あなたがさかんにご主人のことを心配していらっしゃる、その嫉妬も全部水に流せるようにですな、ぼくらにもその同じ公証人を使わせていただこうと思うんですがね、つまりですね、この奥さんとぼくが結婚するためなんですがね。
【ジュールダン夫人】 お二人の結婚にも賛成いたしますわ。
【ジュールダン氏】 〔小声でドラントに〕これで家内をいっぱい食わせる、ってわけですね?
【ドラント】 〔小声でジュールダン氏に〕こうやって牽制《けんせい》球を投げといて、奥さんのご機嫌をとっとかなけりゃあね。
【ジュールダン氏】 〔小声でドラントに〕なかなかやりますな! 〔大きな声で〕さっそく公証人を呼びにやりましょう。
【ドラント】 公証人が来て、結婚証書を書き上げるうちに、ぼくらのバレエを見ようじゃあありませんか、トルコ王子殿下にもこの余興を見ていただきましょう。
【ジュールダン氏】 そいつはいい思いつきだ。それじゃああっちへ行って、席につくとしますかな。
【ジュールダン夫人】 で、ニコールはどうします?
【ジュールダン氏】 あいつはこの通訳にやろう。ところでうちの女房だが、好きな者がありゃくれてやるんだが。
【コヴィエル】 ムッシュウ、感謝感激でございます。〔傍白〕これ以上のオテンテンにお目にかかれたら、ローマまででも飛んでゆかあ。
〔喜劇は前から準備されていたバレエで終わる〕(完)
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解説
モリエールの生涯
〔生い立ち〕
モリエールはきっすいのパリッ子で、ブルジョワ出身である。彼は一六二二年一月十五日、パリのサン・トゥスターシュ教会で洗礼をうけ、父の名を継いでジャンと命名されたが、後にはジャン・バチストと呼ばれた。生家はパリの中央市場に近く、家の角の柱にオレンジの木に猿の戯れる彫刻があるところから、「群猿の家」と呼ばれていた。父のジャン・ポクランは祖父に続いての室内装飾商である。母親はマリー・クレッセ、彼女の父ルイもまた数代前からパリに住むブルジョワで、室内装飾商の店を開いていた。記録によると母親は、当時の婦人としては珍らしく読み書きができ、衣装や装身具にも贅沢《ぜいたく》な、趣味のよいものを好む、優雅な人柄だったらしい。ポクラン家は父の代から次第に財をふやし、社会的地位を高め、三一年に弟のニコラから王室室内装飾商の権利を買って、一種の政商的な利権を得てからは、商売はますます発展した。三七年に、父は長男のジャン・バチストのためにその世襲権を確保した。
三二年に母のマリー・クレッセが四人の子供を残して死ぬと、父ポクラン氏は、翌年再婚する。後妻はパリのブルジョワの娘、カトリーヌ・フルーレットであるが、彼女も三六年に産褥《さんじょく》で死ぬ。後世、ポクラン氏は『守銭奴』のアルパゴンに似た吝嗇《りんしょく》で粗野な男だとか、継母《ままはは》は『気で病む男』のベリーヌのような悪女だとかの憶測が行なわれたが、いずれもこれを確証する資料はない。
継母の死と前後してモリエールはジェズイット派のクレルモン学院へ入学する。この学校は現代フランスでも屈指の名門校ルイ・ル・グラン高校の前身で、当時は貴族や大ブルジョワの子弟の特権校であったが、彼はここで終生の友人となったシャペル、ベルニエ、後に彼の劇団の庇護者となったコンチ公を識ったという。三九年頃、この学院を離れて後、彼は当時デカルトと対比された唯物論哲学者ガッサンディの講義を聴き、思想的に深い影響を受けた。剣客詩人シラノ・ド・ベルジュラックと識ったのはこの時であろう。四十年頃からは彼は法律を学び、オルレアン大学で資格をとり、一時弁護士を開業したというが、確証はない。ただ彼がこの時代から劇場に入りびたった、ということは一致した見解である。
後年喜劇俳優・作家となるために彼の環境は非常に恵まれていた。当時のパリ第一の劇場、ブルゴーニュ座は「群猿の家」から数分のところにあり、芝居好きで、幼い孫を溺愛していたルイ・クレッセはこの劇場に特別席をもち、しばしば彼をここへ連れて行ったという。また父方の祖父はサン・ジェルマン市場に出店をもっていたが、ここではオルヴィエッタンのファルス、ブリオーシェの人形芝居、イタリヤ人劇団などが人気を集め、さらに生家から一、二分のポン・ヌフは当時第一の盛り場で、タバランはじめ有名なファルス役者が小屋掛けの芝居でパリジャンを楽しませていた。少年ジャン・バチストの胸に、淡い演劇への憧憬が生まれたのも自然のなりゆきであった。
ジャン・バチストがベジャール家と親しくなったのはクレルモン学院を終える前後と思われる。元来、この家は官吏であったが、作家や詩人と親しく、芝居や楽屋の事情通で、ポクラン家に比べてずっと自由な家庭だった。長女のマドレーヌは早くから舞台に立ち、三八年にはすでにモデーヌ某との間に一女を生んでいたが、おそらくジャン・バチストの求愛も退けはしなかったろう。舞台への漠然とした野心に形を与えたのは彼女への愛情だったと思われる。
平坦ではあるが安全な家業を捨てて志したのは、作家としての栄光ではなく、俳優になって舞台に立つ野心であった。当時、俳優はまだ一種のボヘミアンとして堅気《かたぎ》の家庭からは軽蔑された時代だから、父ポクラン氏は当然長男のこの野心をひるがえそうとしただろう。四二年四月に、自分の代理人としてルイ十三世に従ってナルボンヌまで旅行させたのも、演劇熱と年上の女優から、青年の頭をひやそうとした処置にちがいない。童話で名高いぺローは、父ポクラン氏が昔の家庭教師のピネルに息子を意見してくれるように依頼したところ、逆にピネルのほうがモリエールに言いくるめられ、医者の役としてモリエールの旗上げに参加した、と語っているが、その真偽は別として、ポクラン氏の心痛をよく物語る挿話である。
かくして彼は王室室内装飾商の世襲権を弟に譲り、家族と訣別《けつべつ》して舞台に走る。ジャン・バチスト、二十一歳の時であった。
〔盛名劇団〕
モリエールの家、と呼ばれるコメディ・フランセーズの歴史には、一六四三年六月三十日を、世界に輝くこの劇団創立の日として特筆している。この日、九人の若者たちがベジャール家に集まり、新しい劇団設立の証書に署名した。ジョゼフ、マドレーヌ、ジュヌヴィエーヴのベジャール家の三兄妹。それにペローの挿話にあったピネルの名もあった。マドレーヌとモリエールが座長格で、新劇団は「盛名劇団」と名づけられた。本拠としてネール門に近いメテイエ掌球場を借りたが、その改造工事の間が待ちきれずにルーアンへ上演旅行に出かけている。ただ一人の本職俳優のマドレーヌが元来悲劇女優であり、また初期のモリエール自身も悲劇に野心があったためだろう、一座はトリスタン・レルミット、デュ・レィエなどの悲劇を上演、また座付作者デフォンテーヌの悲喜劇なども手がけたらしい。「盛名劇団」のパリ旗上げの直後、彼らは一人のダンサーと契約し、ジャン・バチスト・ポクランはここではじめてモリエールを名乗る。「盛名劇団」がオルレアン公、ギイズ公などの財政的援助をうけているところからみると、すべり出しは悪くなかったのだろう。しかし元来ごくわずかな資金で発足した一座はたちまち資金繰りに追われ、クロア・ノアール掌球場に本拠を移したころから破綻《はたん》に拍車をかけ、四五年八月にはついに百四十リーヴルほどの借金が払えず、責任者モリエールはシャトレの獄につながれる悲境に立ち到った。数日後に出獄を許されたものの、もはやベジャール家の三人を除いて座員は四散し、劇場もなく、「盛名劇団」もついに|のぼり《ヽヽヽ》を降ろす。僅か三年にみたない夢に終わった。
〔地方巡業〕
最近発見された資料によれば、モリエールは四五年十二月にパリを離れて後援者を求め、翌年はじめにエペルノン公の知遇を得てマドレーヌを呼び寄せ、シャルル・デュフレーヌを座長とする公のお抱え劇団に合流したらしい。一座はその後、ボルドーをかわきりに、アジャン、トゥールーズ、アルビ、カルカソンヌなどフランス南西部に足跡を残している。
一六五三年の秋、すでにデュフレーヌに代り座長交代していたモリエール一座は、ベジエで開かれていたラングドック州議会に姿を現わした。そしてかつてのクレルモン学院の同窓のコンチ公に会い、ライバルのコルミエ劇団をしりぞけて公の愛顧をうけ、年金を下賜されるほどの優遇をうけた。以後、一座は「コンチ公専属劇団」を名乗り、地位的にも財政的にも一つの足がかりをえた。そして以後数年間、一座は形影《けいえい》相伴うように公の傍に姿を現わしているところからみると、公は彼らにとってよほど頼りになる庇護者だったらしい。
巡業の間に、一座はしばしばリヨンに立ち寄っている。リヨンが文化的にパリに次ぐ都市であることは十七世紀も今も変わりないが、地理的にイタリアーパリの通路に当たるという条件に恵まれてイタリア人劇団ともなじみが深く、好劇の気風はパリを凌《しの》ぐほどだったといわれ、自然この町での人気は劇団にとっては一つの試金石だった。五五年四月、モリエールは彼としては最初の本格喜劇、『あわて者』をリヨンで初演した。この喜劇は大成功で、劇場の入場券を奪い合った貴族が決闘さわぎまで起こしたという逸話があるくらいだから、モリエールも大いに自信をつけただろう。五六年十二月、一座はすでになじみになっていたラングドック州議会に姿を見せ、ベジエで第二の喜劇『恋のうらみ』を上演し、これも大成功をおさめた。
コンチ公が信仰の道に入り、一座を見捨てて「専属劇団」の名を拒むと、モリエールは昔のパトロンで、当時ブルゴーニュ太守になっていたエペルノン公に再び援助を頼み、ディジョンに到る。すでに二つの大作で作家としての自信をつけ、また喜劇俳優としても修業をつみ、ようやく評判をえていたモリエールは、ここではっきりとパリに目標を置きはじめた。五八年四月、一座はパリまでひと跨《また》ぎのルーアンで公演し、その間にマドレーヌはパリに出て、マレー掌球場を借りて首都公演の準備をする。そしてモリエールは|つて《ヽヽ》を求めて王弟フィリップ・ドルレアンに援助を請い、その専属劇団の称号をうける。ここに、夜逃げ同然にパリを去って以来、十三年間の巡業の旅を終る。モリエール、ときに三十六歳であった。
〔巡業の成果〕
地方巡業の十三年間はモリエールにとって失意の時代だった。しかしまた、モリエールという天才の形成には最も重要な年月でもあった。彼の才能が徐々に発酵し、成熟したのもこの時期である。彼の芸術の基礎は観察にある。風俗喜劇や性格喜劇の傑作も、すべて観察によって得た素材を舞台に再現したものであるが、その観察を学び、人間と、人間の心にひそむさまざまな感情についての知識を蓄えたのもこの時代である。ペズナスの床屋ジェリイの店に何日も坐って客を観察し、彼らの会話に耳を傾けた、という話はこの間の事情をよく物語った伝説である。はじめて劇作の筆を執り、作家として立とうという意志を固めたのもこの時期である。もちろん苦労は絶えない。座員を養うためにはどんな客でも喜ばせなければならない。俳優に対する田舎者の保守的な無理解と軽蔑。他の劇団との競争。劇団内部の俳優同士の対立。すべてが若い座長の肩にかかってきた。彼はそれらをとりさばきながら、座長として劇団を御してゆくコツをも体得してゆく。そしてパリを目ざした頃の彼には、作家・俳優、そしてまた劇団の座長としても十分な自信と成算をもつまでに成長していた。
「王弟専属劇団」のメンバーは多くない。「盛名劇団」から苦労を共にしたベジャール家の三兄妹に、後に加入したルイ。「エペルノン公劇団」時代からのデュフレーヌ、デュ・パルク。五十年に入団したド・ブリー夫妻、五三年にリヨンで加入したデュ・パルク嬢とその夫ルネ・ベルトロ、男優六人、女優四人がすべてである。しかし成功の下地は十分だった。マドレーヌは悲劇女優として一家をなしていたし、ド・ブリー嬢、デュ・パルク嬢は、その美貌の故につねに人気の的になった。とくにマルキーズという派手な名のデュ・パルク嬢はコルネイユ、モリエール、ラシーヌの三大古典詩人の恋愛事件で有名である。座長モリエールはコミックな演技もすでに評判だったが、その上彼は、ごく凡庸に見える俳優からもその長所を掘り出し、それを育てる独自の才能をもっていたと伝えられる。
巡業期間中にモリエールの名を最も有名にしたのはファルスである。ファルスは、語源的にはサンドイッチの中味のように、料理の中につめた挽肉《ひきにく》を意味するが、それが転化して、ちょうど能と能の間に息抜きの狂言を演ずるように、まじめな芝居(宗教劇)の間に上演されたドタバタ芝居で、中世以来の伝統的ジャンルだった。その面白味《おもしろみ》は、状況のおかしさ、キプロクス(とり違え)、せりふのしゃれ、などの外に、卑俗な、エロチックな冗談や身振りが大きな要素だった。モリエールは伝統のファルスから卑俗な笑いをとり去り、これにイタリア喜劇の軽妙なジェスチアや表情をとり入れて新しいスタイルを創造した。この時代には現存の『ル・バルブィエの嫉妬』『飛び医者』のほか数篇のファルスを書いたが、これらの題材や手法は後年大作家になっても何度も焼き直され、また『タルチュフ』『守銭奴』などの本格喜劇にも随所に再現されて、モリエールの笑いを支えている。これらの小ファルスは、本格喜劇という大きなタブローを仕上げる前に、何枚も書き直されたデッサンとみてよいだろう。
〔当時のパリ劇壇〕
ここでモリエールのパリ帰還前後のパリ劇界の情勢をかんたんに説明しよう。当時の劇壇は次の三勢力に分れていた。
1 オテル・ド・ブルゴーニュ座。一五九九年創設。ジャン・バチストが祖父に手をひかれて通った劇場で、ここの俳優たちは大俳優《ヽヽヽ》と呼ばれ、もっとも権威をもっていたが、その誇張された演技はモリエールに激しく攻撃され、後にモリエール一座の宿敵となる。六十年前後には俳優も演技も老化して、徐々に若返りを心掛けていた。呼びものは悲劇だったが、その間に上演されるファルスにも数々の名優を出し、当時はポアッソンの演じるクリスパンが当たりをとっていた。
2 マレー座。コルネイユの盟友モンドリが『ル・シッド』を上演した三六年頃が全盛時代で、この時は狭いホールに観客が溢れ、舞台に椅子を並べて応急の見物席で急場をしのいだという。モンドリが倒れ、その後援者の宰相リシリューの死後べつの作品に活路を見出して、七三年にはモリエール一座と合併し、ゲネゴー座となる。
3 イタリア人劇団。十六世紀末にイタリア出身の母后、カトリーヌ・ド・メディシスに招かれてパリに来演したが、モリエールのパリ進出とともに、モリエール一座とプチ・ブルボン劇場で交代出演した。脚本をもったふつうの喜劇も上演したが、とくにパリジャンを喜ばせたのは彼ら独自のコメディア・デル・ラルテだった。これはイタリアに古くから伝わる演劇様式で、俳優たちは役柄によってきまったマスクをかぶり、脚本をもたずに荒筋だけをのみこんで、あとは即興でせりふやジェスチアをつける喜劇である。彼らはイタリア語で上演したので、観客はせりふは理解できなかったが、彼らにはそれに代わる軽快な身振りと、感情の細かいニュアンスまで表現できる豊かなジェスチアが天性備わり、これがむしろせりふ以上の魅力であった。とくに筋の進行には関係なく、そのときの拍子で思いつくままに加えられるこっけいな、また時にはアクロバット式なジェスチアは|ラッチ《ヽヽヽ》と呼ばれ、イタリア人劇団の特技であった。伝説では、モリエールはイタリア人の名優スカラムーシュに演技指導を受けたといわれるが、モリエールの喜劇、とくにファルス的な作品にはラッチの効果がみごとに生かされている。
当時の劇場はほとんどうなぎの寝床式の細長いホールで、貴婦人たちが桟敷《さじき》に座り、平土間と呼ばれる大衆席の観客は立って見物する。舞台はローソク、後にはシャンデリヤで照明されていたが、暗く、狭く、劇通を自任する貴族の特別席があるためいっそう狭くなる。彼らの傍若無人なおしゃべりはしばしばせりふを中断し、当時の叫ぶような大げさなせりふのつけ方は、このおしゃべりと場内の喧噪《けんそう》が原因だったといわれる。この時代の劇場は、ロスタンの『シラノ』の序幕を読めばおよその想像はできるだろう。
上演は週三回、開場は夕方が普通で、入場料は桟敷《さじき》席五リーヴル、平土間一五ソル、初演及び好評の時は倍の入場料をとった。俳優の給金は純益金の分配方式で、自然金銭上のトラブルがたえず、ライヴァル劇団からのトレードで顔ぶれはしばしば変わった。
十七世紀の中葉以後は俳優たちの暮らしはだいぶ楽になり、都会ではそれほど軽蔑されることはなかったが、教会関係者はつねに彼らを良風美俗の敵として非難していた。コンチ公がモリエールの援助をやめたのは後のアレトの司教の示唆であるといわれ、また『タルチュフ』事件をみても、当時の教会の態度は理解できよう。
〔パリ進出〕
一六五八年十月二十四日、一座はルーヴル宮殿の控えの間で、ルイ十四世及び全延臣の御前公演を行なった。はじめのだし物、コルネイユの悲劇『ニコメード』では女優たちの美しさが人眼を惹いた程度だったが、お添えもののファルス『恋する学者』が非常な好評をえた。当時沈滞気味だったファルス界にとってこの作品が新鮮だったことと、学者を演じたモリエールの芸がすばらしかったためである。ルイ十四世はこのファルスに非常に満足し、「王弟専属劇団」にプチ・ブルボン劇場の貸与を許可した。スカラムーシュのイタリア人劇団が火金日の一般日に出演し、それ以外の三日間、常時公演することを許されたわけで、これで彼らの将来はほぼ確定した。
この頃にもまだ彼は悲劇にみれんがあったらしい。はじめに一座はコルネイユの五つの悲劇をつぎつぎに上演したがどれもみな失敗に終わり、意を決してリヨンやベジエで好評だった『あわて者』『恋のうらみ』を上演するに及んでようやくパリの注目を浴びはじめた。かくして「王弟専属劇団」は、宮廷と民衆と両方の支援をえて、ブルゴーニュ座の地位をおびやかしはじめた。
五九年十一月、プチ・ブルボン座はモリエールの風俗喜劇の最初の傑作、『才女気どり』を上演した。初演の折、平土間の観客が狂気して、「がんばれモリエール、こいつはすてきな喜劇だぞ」と叫んだというエピソードが残るほどの当たりをとり、入場料を倍にしてもなお客足が落ちず、この喜劇を見ないのはパリッ子の恥といわれたという。結局、約一年間で四十回以上も上演したが、この成功はモリエールに一躍スターの座を約束すると同時に、多くの敵を作った。彼の成功を嫉視するブルゴーニュ座の大俳優と、この喜劇で槍玉にあげられたプレッシューズ、プチ・マルキたちである。
〔プレッシューズとプチ・マルキ〕
プレッシューズの発祥は十七世紀初頭にさかのぼる。この時代のフランスは宗教内乱の余燼《よじん》いまだ収まらず、尚武の気風は盛んであったが、文化的にはまだ暗黒時代だった。名君と仰がれたアンリ四世ですら文学的教養面でははなはだ頼りなかった逸話がたくさんあるくらいだから、一般の貴族には文盲の者も多く、粗野で野蛮な風習が時代を支配していた。こうした時代色をぬぐって、言葉を改革し趣味を洗練させようと、貴族の女性たちが自邸に学者や文人を招いたのが文学サロンに発展する。ランブイエ夫人の「青い部屋」、ソアッソン夫人、スキュデリー嬢のサロンがその代表で、こうしたサロンに集まるインテリ女性たちがプレッシューズと呼ばれた。ところがこうした一流のプレッシューズが社会の表面に浮かび上ると、続々とその亜流が生まれるのは自然のなりゆきで、才知も学問もないのに、上っ面ばかり彼女らを真似る貴族や大ブルジョワの子女が話題をまいた。彼女らは特に地方都市の名士夫人に多く、モリエールも地方巡業中にその題材をえたらしい。趣味の洗練も度をこして、当たり前の言葉を妙に雅《みや》びた言葉におきかえようとし、例えば月を「沈黙のたいまつ」、鏡を「美の忠告者」などと呼ぶに至っては正に噴飯もので、こうした傾向をプレシオジテと呼ぶ。モリエールが『才女気どり』で嘲弄したのは亜流のプレッシューズであり、ほんとうの才女たちはむしろこの喜劇を賞賛した。プレッシューズが古典主義文学に及ぼした影響は少なくない。例えば古典演劇の指導原理となった三一致の法則なども、最初はアリストテレスの『詩学』を奉ずる一部の学者の実験的理論だったが、これを一般に広め、確立したのも彼女たちの力が大きくあずかっている。
三一致とは、時・所・行為の一致をいう。当時の作品では第一幕で赤ん坊だった主人公が終幕では老人になったりするような、時間的混乱は一般だった。この混乱を統一して、自然らしくするために舞台での事件は太陽が一回転(十二時間とも二十四時間ともいう)するうちに終わらせよ、というのが時の一致である。空間的にも同様で、一幕のうちにヴェニスからパリへ主人公が飛ぶなどという不自然は避けて、舞台はなるべく一つの家、一つの部屋に限ること、というのが所の一致。行為の一致とは芝居の筋は中心的な事件にすべて帰属すべきで、煩瑣《はんさ》な挿話的事件は切り捨てるべしとする理論で、コルネイユの『ル・シッド』をめぐる論争以来、三一致の法則は古典演劇の鉄則となった。しかし元来|自然らしさ《ヽヽヽヽヽ》から出発した法則も、余り厳格な強制になるとかえって不自然な印象を与えることは、『人間ぎらい』『町人貴族』を読んでも明らかで、モリエールはこの理論には反対の立場をとり、とくに『ドン・ジュアン』などでは意識的にこの法則を踏みにじっている。
十七世紀初頭の気骨稜々という武人肌の貴族たちは、フロンドの乱にこりたルイ王朝の宮廷政策によって、十七世紀中葉になると全く性格を変え、柔弱な、女性的|宮廷人《ヽヽヽ》に姿をかえた。サロンに集まってのおしゃべり、流行の服装、有閑婦人や女優たちとの情事が彼らの関心事で、有力なブルジョワに取り入って金を借りてその日を送る、全く無気力な存在になり果てた。モリエールがしばしば攻撃するプチ・マルキ(チンピラ侯爵)とはこうした貴族たちで、『人間ぎらい』のアカスト、クリタンドル、『町人貴族』のドラントなどその典型である。
『才女気どり』で諷刺されたプレッシューズやプチ・マルキたちはこぞってこの作品を非難し、ブルゴーニュ座の俳優や狂信者たちと共同戦線をはって、モリエール弾劾の準備をはじめた。
〔モリエールの戦い〕
六十年十月、プチ・ブルボン劇場が突然にとりこわしの命令をうけ、一座が劇場を失う悲境に立たされたのも、『才女気どり』の成功以来とみに結束をかためた敵勢力の策動の結果であった。一時しのぎにルーヴルその他の貴族の邸へ出張興行をし、その間に王や王弟に運動して、パレ・ロワイヤル劇場への移転を許可されたが、移転費用、座員のトレードの誘惑など、座長モリエールの有形無形の損害は大きかった。
パレ・ロワイヤル劇場へ移ったモリエールは、『スガナレル』『ドン・ガルシイ・ド・ナヴァール』『うるさがた』『亭主学校』などをやつきばやに上演した。『ドン・ガルシイ』は嫉妬深い王子の心理分析に終始する悲喜劇であるが、彼の生涯で最も惨めな失敗に終わり、以後モリエールは悲劇、悲喜劇をあきらめて、ひたすら喜劇に専心する。これに反して『亭主学校』は、『ドン・ガルシイ』の失敗を十分につぐなう成功を納め、パレ・ロワイヤルの観客はもちろん、王・王弟・大蔵大臣フーケなどの絶讃をあびた。
六二年十二月、パレ・ロワイヤル劇場に『女房学校』が上演された。この喜劇はモリエールの生涯でも最も輝かしい成功をおさめたが、この成功はついに彼の敵方の作家や俳優たちの嫉妬羨望を爆発させた。敵の陣営は筆を揃《そろ》えてモリエール及び『女房学校』を弾劾し、彼はまたこれに答えて、ここに喜劇戦争の火ぶたがきられた。二年以上にわたるこの戦争は両陣営ともに喜劇上演という形式で応酬された、演劇、文学史上類を見ない論争である。モリエールは『女房学校批判』『ヴェルサイユ即興』で彼の自然主義的演劇観を主張し、相手方は『画家の肖像』『ヴェルサイユ即興への答辞』などで逆襲した。この間に某公爵は、ボタンに針をうえつけたチョッキを着て彼を路上で抱擁し、血まみれになったモリエールに「タルタラクレーム」(『女房学校』中のせりふ)の捨てぜりふを残して去ったというエピソードもある。この戦いはモリエールに軍配があがった。というのは六三年三月、彼は『女房学校』により、ルイ十四世から「優れたる劇詩人」として千リーヴルの年金を受け、その地位を固めたからである。
六四年五月、ヴェルサイユ宮殿の一部が完成すると、王は空前の大パーティ「極楽島の歓楽」を開いた。そしてその六日目、五月十二日に『タルチュフ』の最初の三幕が上演された。えせ信者や宗教家を痛烈に諷刺したこの喜劇は大センセイションをまき起こし、即日上演禁止の命をうけた。自信と愛着をもって『タルチュフ』を発表した彼は、その後|執拗《しつよう》と思われるほどその上演許可を請願し、そして敵側はこれを妨害する。こうして五年間にわたる戦いが始まる。敵は狂信者、パリ司教とその管轄にある僧職、高等法院、そして母后アンヌ・ドートリッシュと、彼女を囲む貴族たちである。味方としては王をはじめ、王弟、法王の使節などがいたが、問題の性質から内政的にも外交的にも微妙ないきさつがあって、表面から彼をバックアップできず、ルイ十四世と法王の感情的対立が解消し、母后と有力な敵勢力が死ぬまでモリエールの闘争は続いた。完全な『タルチュフ』が上演されたのは六九年である。
『タルチュフ』が上演禁止の厄《やく》にあうや、東奔西走のうちにも彼は次の作品を世に送った。六五年、パレ・ロワイヤル劇場に上演された『ドン・ジュアン』がこれである。この作品のなかには『タルチュフ』禁止の怒りが凝結されているのだろうか、恐ろしいまでの迫力があって、大衆を熱狂させ、大当たりをとったが、この喜劇もまた狂信者たちの非難の的となり、モリエールはわずか十五回の上演で『ドン・ジュアン』を舞台からおろしてしまった。この喜劇をめぐっても、敵味方それぞれパンフレットで応酬したが、最後にはルイ十四世の裁定によりモリエール方に凱歌《がいか》があがる。そして以後一座は、王弟から国王の手に移り、「国王の劇団」を名乗るようになった。同年ブルゴーニュ座との敵対関係が表面化する。事の起こりは美貌の女優デュ・パルクで、彼女をめぐってラシーヌとの仲がこじれ、ラシーヌは『アレクサンドル』をブルゴーニュ座に持ち込み、当時ラシーヌと恋愛中だったデュ・パルクのトレードの原因となった。彼が病にたおれ、オートゥイユの別荘にひきこもり、「モリエールたおる」の噂《うわさ》が町で囁《ささや》かれたのもこの頃である。そしてその間、彼は大作『人間ぎらい』の筆を執っていた。
〔私生活の苦悩〕
グリマレは、モリエールが「なかなか色好みだった」と伝えている。そのモリエールが自由で奔放な当時の俳優社会に生活していることを考えれば、彼の生涯を彩る女性たちが数人いてもけして不思議ではない。マドレーヌ、ド・ブリー、デュ・パルク、アルマンド……しかし彼の心を最も強くとらえ、終生の不幸の原因となったのはアルマンドである。
『亭主学校』上演の後、六二年二月、サン・ジェルマン・ローセロア教会で二人の結婚式が挙行された。新郎は四十歳、新婦は二十歳だった。新婦アルマンド・ベジャールは、モリエール一座の地方巡業中の楽屋の中で成長した。巡業中にすでにムヌー嬢の名で舞台を踏み、モリエールの父親のような愛情に包まれながら、懇切な演技指導をうけたというから女優としては最も環境に恵まれていたが、才能は凡庸だったらしい。『町人貴族』でクレオントが語るリュシールの肖像は彼女がモデルだったという通説を信ずれば、美人とはいえないまでも、容貌物腰ともに男心をそそるコケットだったらしい。モリエールは彼女を熱愛していた、という友人シャペルの証言は信じてよいだろう。結婚の翌年発表された『女房学校』のアニェス、アルノルフの関係はそのまま作者夫婦の関係だったという噂《うわさ》は当時信じられていたが、破局がそれほど早く訪れたかどうかは別として、「余り口もきかず……人々の動作や習慣を観察するのが」好きで、「夢想家で憂鬱な男といわれていた」モリエールが、二十歳も年下で華やかな生活に憧れる若妻と、幸福な家庭を築けたとも思えない。彼女が不身持で、数人の男たちとスキャンダルを起こしたという資料があるが、モリエールが友人に「私はあらゆる男のうちで最も不幸だ」と洩らしたというグリマレを信じてもよいだろう。
しかし、そうした行状以上にモリエールを悩ましたのは、アルマンドの出生の謎である。アルマンドはジョゼフ・ベジャールとマリー・エルヴェの娘、つまりマドレーヌの末の妹ということになるが、それにしては姉より二十三歳も年下で、年令が開きすぎる。事実、マドレーヌはアルマンドの母親代わりになり、彼女を育てた。私生児を不身持な娘の母親、つまり実の祖母の子として入籍する戸籍上の操作は、よくある事だから、マドレーヌはアルマンドの母親にちがいない、というのが一般の意見で、親友のボアローまでこれを信じていた。さらに始末の悪いのはマドレーヌはモリエール年来の情婦である。アルマンドの出生は四一年といわれるが、その前にマドレーヌはモデーヌ某の情婦で、また後には若いジャン・バチストの愛もうけ入れていた。とすると、アルマンドの父親は? 近親相姦の非難は執拗《しつよう》に繰りかえされ、終生彼の身辺につきまとった罪名だった。ブルゴーニュ座の俳優モンフルリーは、「彼《モリエール》が自分の娘と結婚し、またかつてその母とベッドを共にしたことを非難し」、王に提訴したという。王はこれをとり上げなかったばかりか、ここでもモリエールに味方した。すなわち六四年に夫婦の間に長男が生まれると代父の役を買って出て、子供に自分の名、ルイと名付けることを許した。しかしこの非難はその後もやまず、現在に到ってもアルマンドの出生の謎は明らかにされていない。
舞台の上からは万人を笑わせ、不断の闘争に明け暮れながら、その疲れを癒《いや》す家庭をもたなかったモリエールは、モーリヤックの言うように、「不幸な、パスカル以上に不幸な」人間であった。
〔晩年〕
『守銭奴』のなかに、やりて婆《ばば》のフロジィヌと主人公アルパゴンの間にこんな対話がある。「……どこにも具合いのわるそうなご様子はありませんよ」「おかげで大したことはないがな。ただときどきやられる気管支炎というやつがあるだけでな」。このせりふは作者自身の持病を語ったものといわれ、モリエールはしばしば咳に悩まされていたという。モリエールが生まれつき頑健だったかどうかは同時代人の証言が食いちがっているので明白でないが、六五年頃から彼の健康がにわかに衰え、しばしば郊外の別荘に病を養ったことはたしかである。健康を気づかった友人たちが、舞台をやめて執筆に専念するように進めたが、頑として聞かなかった、というのもこの頃のことだろう。こんな状態にあっても彼は活動をやめなかった。『人間ぎらい』にすぐひき続いて『心ならずも医者にされ』、同年『メリセルト』、翌六七年には『田園喜劇』『シシリー人』、六八年『アンフィトリヨン』『ジョルジュ・ダンダン』そして性格喜劇の傑作『守銭奴』と続く。六九年には積年の苦労が実って『タルチュフ』の上演禁止が解け、空前絶後の盛況を続けて後は、精神的余裕ができたためだろうか、従来の辛辣《しんらつ》な作品にかわって、どちらかといえば陽気で気易い舞踊喜劇やファルスを書き上げている。『町人貴族』『スカパンのペテン』などがその代表である。七二年には、三十年以上恋人として、また片腕として労苦を分ち合ったマドレーヌが他界する。同年、彼の作品として構成的に最も均整のとれた名作『女学者』が発表される。
一六七三年、パレ・ロワイヤル劇場は『気で病む男』を上演した。二月十七日の夜、四回目の上演中、終幕も近いコミックな儀式の場面で、「お誓い申す」というせりふを言ったとき、彼は観客にもはっきりわかるくらい激しい痙攣《けいれん》におそわれた。客席にどよめく笑いに包まれて最後まで舞台をつとめたが、幕が降りる頃には立っていられない有様だった。リシリュー街の自宅へ担《かつ》ぎ込まれて、再びいっそう激しい痙攣におそわれ、喀血した。グリマレによれば、その時枕頭にアルマンドはいず、モリエールに「家内にここへくるように言ってくれ」、と頼まれた弟子のバロンが呼びにいった間に、この大作家は息をひきとった。毎年四旬節の期間中モリエールの家に止宿していた二人の尼僧だけが、彼の死をみとったという。モリエール五十一歳の冬である。家人が教会へとんで臨終の秘蹟に立ち合ってもらうように司祭に頼んだが、モリエールの名を聞くとみな断り、三人目の司祭がようやく腰をあげてくれたが間に合わなかった。
『タルチュフ』の作者には教会は冷たかった。死後、アルマンドがその教区サン・トゥースターシュ教会の墓地に埋葬を依頼したが許されず、百方手をつくして、最後に王のお声がかりでようやく、サン・ジョゼフ墓地へ葬ることが許されるような有様だった。友人達の哀惜のうちに二月二一日の夜葬儀が行なわれた。できるだけ簡素にという趣旨にもかかわらず、家の前には群集がひしめいて、その真意をはかりかねたアルマンドが小銭をまいて散らさなければならなかった、という。
死後パレ・ロワイヤル劇場は忠実な弟子のラ・グランジュとアルマンドの努力で維持されたが、モリエールの死後は人気も落ち、死後三か月目には、リュリイにパレ・ロワイヤル劇場を乗取られて、ゲネゴー劇場へ移り、マレー座を合併した。その後七九年十月に到ってブルゴーニュ座も合併し、永い間ライヴァルとして抗争を続けてきた劇団が一つにまとまってイタリヤ人劇団に対しフランス人劇団として民衆の中に生きる。ここにコメディ・フランセーズの歴史が始まり、モリエールの功績を記念するために、この劇団は『モリエールの家』という別名でも呼ばれる。
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『町人貴族』について
〔成立と上演〕
一六六九年十一月、フランス宮廷はサン・ジェルマン離宮にトルコ特使シュレイマン・アガを迎えた。派手ずきなルイ十四世のこととて、歓迎のパーティは思いきり華々しく、王はまばゆいばかりのダイヤをちりばめた王冠をかぶって特使を謁見《えっけん》した。しかしこの特使は傲慢不遜《ごうまんふそん》でこの歓迎にも少しも感激せず、サルタンの手紙を受取る時に、王は起立すべきだと主張し、その言が容れられないと憤然として引き退った。そして、ルイ十四世のダイヤを指して、トルコではサルタンの乗馬でもあの程度のダイヤを飾っていると洩《も》らしたという。これに腹をたてたルイ十四世は、不遜なトルコ人と野蛮なトルコ風俗を嘲弄するような喜劇を書くようにモリエールに命令した。『町人貴族』はこうして執筆されたといわれる。
当時トルコ風俗はフランス文芸の流行だった。その先鞭をつけたのは、四一年に発表されたスキュデリー兄妹の小説『イブラヒム、一名、名高いバッサ』で、この小説の題材となったトルコが好評を博するや、四五年にはロトルーが喜劇『妹』で、登場人物の一人にトルコ語を語らせ、六十年にはリュリイが『トルコ風の物語』を宮廷で上演して王の激賞をうけ、さらに七三年にはラシーヌがコンスタンチノープル宮廷を題材に悲劇『バジャゼ』を発表して成功する。
六九年、シュヴァリエ・アルヴィユーが十二年間近東諸港に滞在して帰り、王の前でその国々の風習を物語った。王の愛妾モンテスパン夫人は「百歩のところからでも聞こえる程の笑い声をあげて」喜び、王自身もまたアルヴィユーの語るトルコ語に耳を傾けた。こうした流行に眼をつけたモリエールは「王家のお楽しみ」にトルコの儀式の場面をとり入れる計画を立て、アルヴィユーをオートゥイユの別荘に招いて相談して新しい喜劇の大要を決め、同時にリュリイの意見を問い、彼に音楽と舞踊の振付を依頼した。
「王家のお楽しみ」用として、モリエール、リュリイの合作になるコメディ・バレエ『町人貴族』は一六七〇年十月十四日シャンボール離宮で初演され、同月十六・二十・二十一日とシャンボールで再演され、さらに十一月八日にはサン・ジェルマンで上演された。パレ・ロワイヤル座で一般観客を前に公開されたのは十一月二三日であった。グリマレの伝えるところではこの喜劇の初演はさんざんの失敗で、第二回目の上演で王がこれを讃《ほ》めたために貴族たちもこれに賛同したというが、上記の上演経過からみればおそらく誤伝であろう。
コメディ・バレエとは喜劇に音楽とダンスを織りこんだもので、リュリイが音楽を担当し、彼自身儀式の場の大僧正を演じた。モリエールはもとよりコミックな歌や踊りも達者で、作品のなかにトルコ様式を巧みに織り込み、「作品の主題を幕間劇でつなぎ、バレエと喜劇を一体のものにする」ような方法を考え出した。
ラ・グランジュの「控え帳」は『町人貴族』の宮廷及び一般公開での成功を裏書きしている。一六八〇年から一九六三年まで、コメディ・フランセーズで千回以上上演し、また昭和四〇年に同座の来日公演での『町人貴族』の大成功は記憶に新しい。
〔登場人物〕
ジュールダン氏的人物はすでにモリエール以前にたくさんの喜劇に登場しているが、そのモデルについてはいろいろな説が流布されている。例えば帽子屋で産を成したガランド某。彼はモリエールの知人の女性に五万エキュの大金を入れあげ、ムードンには彼女に別荘を買い与えるなどジュールダン氏的言行が多かったという。別の説では作者の友人の外科医がボアロー、ある女性歌手、マルシャン氏というブルジョワを晩餐に招待したところ、突然にマルシャン夫人が現われて落花狼藉《らっかろうぜき》の大騒ぎ、この話を聞いてモリエールはジュールダン氏を描いたという。最近の説ではルイ十四世の敏腕の蔵相コルベール、モデル説がある。重商主義政策で歴史に名を残したこの宰相もジュールダン氏と同じラシャ商人の息子。立志伝中の人物であるから、勉強も高い地位についてから始めた。宰相になると貴族の祖先がほしくなり、スコットランドのコルベール家の末裔《まつえい》を自称した。元来冷血漢といわれた彼がある侯爵夫人に恋をしたが、これも上流夫人への憧れのためだという。ジュールダン氏が哲学の先生に言葉の勉強をするシーンは、発音にひどい訛《なまり》のあったコルベールへの諷刺である。さらにモリエールの保護者、王弟夫妻は彼を毛虫のように嫌ったという。しかしジュールダン氏のモデルを限定する必要はあるまい。ちょうど江戸末期の旗本と大町人との関係に似て、ブルジョワが抬頭する一方名ばかりの貴族が数をまし、その権益や肩書が金で買えた時代である。ジュールダン氏は作者の周囲に転がっていただろう。
ジュールダン氏は虚栄が強く信じ易いという以外に特別な性格のない、いわば操り人形である。彼は哲学も音楽も知らない。上流階級に憧れるあまりに、父としても夫としても落第である。しかし上流階級に憧れると同時に、彼には勉強したいという欲がある。これは愚かではない。また莫大な金を貸しはするが計算を忘れてはいない。彼がバカではない証拠だろう。観客が笑うのは、彼のそんな欲望が余りに素朴であり、学問や礼儀作法に全く不向きな性格の持主だということである。一六七〇年代の観客を笑わせた上流階級への憧れはこの喜劇の発表以来陰をひそめ、再び貴族の気取りを嘲弄しはじめるのは一七八四年のフィガロの出現を待たなければならない。この事実は、作者がそれと意識しなかったにもかかわらず、ジュールダン氏のカリカチュアの社会的影響が意外に大きかったためと言えるだろう。
ドラントの性格は|あいまい《ヽヽヽヽ》である。没落貴族で小才のきいた彼は、ジュールダン氏から大金を借りていながら返そうという意志は全然ない。反信行為も平気でする。サン・シモン、ル・サージュ、タルマン・デ・レオーなどがたくさんの例を伝えているその日ぐらしの悪辣《あくらつ》な貴族の一例であるが、第五幕に到って突然転向しクレオントの味方に立つ。作者はタルチュフやプチ・マルキに対するような激しい怒りをドラントには投げかけていないように見える。ということは、彼はただ、町人の奇矯さを引き立たせる点景人物にすぎないからだろう。
ジュールダン夫人は、やや粗野で偏狭ではあるが、当時の良識をもったブルジョア夫人の典型である。彼女はニコールとともに、不正や偏執と闘う女性として、作者の代弁者と思ってよいだろう。ニコールはモリエールの喜劇には必須の、作者の代弁者的下女の一タイプである。
コヴィエル――スカパンやラ・フレーシュと同様に、モリエールがイタリヤ喜劇を土台にして創造したこの下男は、モリエールの喜劇には不可欠の人物である。彼は献身的で機智に富み、コミックな人物を嘲弄するためにはどんな方法もあえて辞さない。第三幕の半ばに彼が登場して後は、舞台はほとんど彼ひとりの才覚で動く。いわば舞台を回す葛藤を創り出す人物である。
〔鑑賞〕
日本の読者や観客にとって、モリエールといえば『人間ぎらい』や『タルチュフ』「女学者』の作者でありファルスやコメディ・バレエはとかく疎略に扱われがちであった。しかしすでに書いたように、モリエールの才能の本質はファルスとイタリヤ喜劇的な笑いにあった。そして、そうした明るい、無条件なおかしさを最もゆたかに盛りこんだ作品の一つが『町人貴族』である。この喜劇にとりかかった頃の作者はすでに晩年に入っていた。『タルチュフ』や『ドン・ジュアン』の闘争も終わり、彼はもはや「社会を矯正する」喜劇を書くつもりもなかったのだろう。『町人貴族』の笑いには辛辣《しんらつ》な悪意はない。皮肉や諷刺にも憎悪や復讐の底意がない。ジュールダン氏は無知で独りよがりな町人として描かれてはいるが、タルチュフやドン・ジュアンのような制裁もうけない。彼のきちがいじみた執念も結局はトルコ風の幻想的な儀式とめでたしめでたしの大団円で終わる。一種の諷刺劇、風俗劇として当時の貴族やブルジョワの絵画を見せてはくれるが、それ以上に観客の眼と耳を楽しませることを主眼としたスペクタクルと思ってよいだろう。
この喜劇は国王からの注文によって、時間を限られ主題を定められた作品であるが、ほとんど破綻《はたん》もなく、苦しまずに「あらゆる法則のうちで最も大きな法則は人を楽しませることです」(『女学者』)という信条をそのまま再現し、そしてモリエールのファルス的な笑いを満喫させてくれる喜劇である。
なおこの作品は終幕後に『諸国民のバレエ』という舞踊劇がつけられているが、喜劇の本筋には全く関係なく、また近代の上演ではほとんど省いているので、この訳でも省略した。