矢の家
A・E・W・メイスン/守屋陽一訳
目 次
一 奇妙な手紙
二 助けを求める声
三 「機会の女神」のしもべ
四 ベティ・ハーロウ
五 ベティ・ハーロウの返答
六 ジム宿をかえる
七 ワベルスキー退場す
八 本
九 秘密
十 飾り棚の上の置時計
十一 新たな容疑者
十二 封印を破る
十三 サイモン・ハーロウ氏の宝物室
十四 一つの実験と一つの発見
十五 毒矢発見さる
十六 アノー声高く笑う
十七 ジャン・クラデルの店
十八 白い錠剤
十九 計画失敗に終る
二十 地図とネックレス
二十一 秘密の家
二十二 コロナ・タイプライター
二十三 飾り棚の上の置時計の真相
二十四 アン・アプコットの話
二十五 二十七日の夜に起こったこと
二十六 ノートル・ダムの正面
訳者あとがき
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登場人物
ジャンヌ=マリー・ハーロウ……グルネル荘の女主人
サイモン・ハーロウ……その亡夫
ベティ・ハーロウ……ハーロウ家の養女
アン・アプコット……ベティの話し相手
ボリス・ワベルスキー……ハーロウ夫人の義弟
フランシーヌ・ロラール……女中
ジャンヌ・ボーディーヌ……看護婦
ジャン・クラデル……薬草商
ジラルド……ディジョンの警察署長
モーリス・テヴネ……その秘書
ベクス氏……公証人
ジェラミ・ハズリット……フロビッシャー・ハズリット法律事務所の経営者
ジム・フロビッシャー……同事務所の共同経営者
アノー……パリ警視庁の探偵
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一 奇妙な手紙
ラッセル・スクェアの東側にあるフロビッシャー・ハズリット法律事務所を訪れる依頼人の中には、フランスで事業を起こした人が多かった。また事務所の方でも、そういった仕事をひきうけることに、かぎりない誇りを感じていたのである。
「この事務所のことは歴史にもちゃんと書いてある」ジェラミ・ハズリット氏は口ぐせのようにいっていた。「一八〇六年、当時この事務所をやっていた精力的なジェイムズ・フロビッシャー氏が、ナポレオン一世の勅令によってフランスに抑留されていた沢山のイギリス人の脱出の御膳立てをした時以来のことなんだ。そのときは政府から感謝状をもらったが、それ以来幸いその関係がずっとつづいているわけだ。私もフランス関係の仕事は自分でやるようにしている」
こんなわけで、ハズリット氏のところにくる手紙の中には、ダークブルーをしたフランスの切手をはったものが、かなりの数を占めていた。ところが四月になったばかりのその日の朝、フランスからの手紙はたった一通しかきていなかった。蜘蛛の足のように細長い、乱雑な筆跡で、全く心当りのないものだったが、ディジョンの消印がついていたので、ハズリット氏はいそいで封を切った。ディジョンにはハーロウ夫人という未亡人の依頼人がいて、からだの具合がよくないということをきいていたからである。それは彼女の住んでいるグルネル荘からきたものにちがいなかったが、彼女の書いたものではなかった。彼は署名も調べてみた。
「ワベルスキーだって?」彼はむずかしい顔をしながらつぶやいた。「ボリス・ワベルスキー?」それからやっと合点がいったように「ああ、そうか」とつけ加えた。
彼は椅子の上に腰をおろすと、その手紙に眼を通した。はじめの方は単なる形式的な挨拶にすぎなかったが、二頁目の中程までくると、いわんとしていることはガラスのようにはっきりしてきた。せんじつめれば五百ポンドほしいということなのである。ハズリット老人は微笑をうかべて読んでいったが、読みながら一人でその手紙の差出人と話をしていた。
「私にはその金がどうしても必要なのです。そして――」
「たしかにその通りでしょうな」ハズリット氏は答えた。
「私の最愛の姉であるジャンヌ=マリーは――」
「義理の姉ですな」ハズリット氏は訂正した。
「――いろいろ手をつくしてみたのですが、もういくらも生きられそうにないのです。御存知と思いますが、彼女の財産の大部分は私が相続することになっています。つまりすでに私のものといってもいいのではないでしょうか? そんなふうにいっても別にいいすぎではないと思います。われわれは事実というものをはっきり見なければいけないのです。そんなわけですから、私の相続する財産のごく一部分を書留で至急送って頂きたいと思います。敬白」
はじめ微笑していたハズリット氏も今ではにやにやしていた。ディジョンにいるフランス人の公証人によって作られたジャンヌ=マリー・ハーロウの正式の遺言書のうつしは、ブリキの箱の一つに入っている。それによると、亡夫の姪で養女になっているベティ・ハーロウが、彼女の全財産を無条件で相続することになっているのだ。ジェラミ・ハズリットはもう少しでその手紙を破ってしまうところだった。指がすでにそれをひねり――手紙のはしを破りかけた時、不意に彼の気持は変った。
「いや、破るのはよそう」彼は心の中で考えた。「まだどういう男なのかわかっていないんだからな」そこで彼は私用金庫の棚の中にその手紙をしまいこんだ。
それから三週間たって、「タイムズ」の死亡記事欄にハーロウ夫人の死亡記事が出、幅の広い黒枠のついている大型のフランス式死亡通知がベティ・ハーロウからとどいた時、彼は手紙を破らずにおいてよかったと思った。葬式にきてくれというその通知は、単に形式的なものにすぎなかった。すぐその場で出かけたとしても、ほとんど間にあいそうになかったからである。そこでベティという少女には、衷心《ちゅうしん》からの短い悔みの手紙を書き、フランス人の公証人には、もしベティが希望するなら当事務所としてはいかなる助力も惜しまないという手紙を書くことで満足しなければならなかった。こうして彼はその結果を待った。
「ボリスという男からまた手紙がくるにちがいない」彼はそうつぶやいたが、予想通り一週間もしないうちに、また手紙が送られてきた。筆跡はますます蜘蛛の足のように細長くなり、乱雑さはさらにその度を加えていた。病的な興奮と怒りがワベルスキー式英語を救いがたいめちゃめちゃなものにしていたのである。また彼の要求している金額も、前の二倍にはねあがっていた。
「全く信じられないことです。あれほど面倒をみてきた弟に、何一つ遺《のこ》してくれていないのです。なにか面白くないことがあるにちがいありません。今度は書留で一千ポンド送ってもらいたいのです。『かわいそうに、あなたはいつも運がわるかったのね』彼女は大粒の涙を眼にためていっていました。『だけど、あなたに私の遺言書で埋めあわせをしてあげるわ』それなのに、私の分は何一つないのです! もちろん姪には交渉してみます。――ああ、本当に血も涙もない女だ! あの女は私のことなんかまるっきり無視しているんです! 一体何たる態度でしょう。一千ポンドの金は是非たのみます。もし送ってもらえないと厄介なことがもちあがりますぞ!」今度は敬白とかそれに似た文字は見当らず、曲りくねった署名が紙面一ぱいに書きなぐってあるだけだった。
ハズリット氏も今度は微笑をうかべず、軽く手をもんだだけだった。
「こうなると、われわれの方でも厄介なことをはじめなければならなくなるぞ」彼はあわただしくそうつぶやくと、最初の手紙と同じ場所にしまいこんだ。しかしハズリット氏はすぐ仕事にとりかかる気にはなれなかった。ディジョンの大きな邸の中に住んでいて、血のつながった親類一人いない少女! 彼は突然立ちあがると、廊下を横切って年下の共同経営者の部屋に出かけていった。
「ジム、今年の冬モンテカルロにいっていたね」
「ええ、一週間ばかりいっていました」
「うちの依頼人のハーロウ夫人をたずねるようにいっておいたはずだが」
ジム・フロビッシャーはうなずいた。
「たしかに行きました。しかしハーロウ夫人は病気でした。姪御さんが一人いたのですが、外に出ていていませんでした」
「では、だれにもあわなかったのかい?」
「いや、そういうわけでもないんです」ジムは訂正した。「ハーロウ夫人は病気で失礼すると、玄関に出てきた妙な男がいました――たしかロシア人だったと思いますが」
「ボリス・ワベルスキーだ」
「ええ、そんな名前の男でした」
ハズリット氏は椅子の上に腰をおろした。
「ジム、一体どんな男だった?」
しばらくの間、ジム・フロビッシャーはぼんやりと空をみつめていた。彼はまだ二十六歳の青年で、一年前ハズリット氏の共同経営者になったばかりだった。なすべきことはこの上もなく迅速だったが、人の性格を判断するのは生れつき慎重だった。その上ハズリット老人に畏敬の念を抱いていたので、仕事のことになると、いっそうその慎重の度合が増すのである。大分たってから、彼はやっと返事をした。
「よろよろした背の高い男で、眼つきも荒々しく、せまい額の上には白いもののまじった針金のような髪の毛がもしゃもしゃとつっ立っていました。一口でいえば、ちゃんとひもの通っていないあやつり人形といった感じでした。ちょっととっぴで感情的なところがあるんじゃないでしょうか。煙草のしみのついた恐ろしく長い指で、しょっちゅう口ひげをひねくり回していました。かっとなると何をしでかすかわからない男です」
ハズリット氏は微笑した。
「私の想像していた通りだ」
「何か厄介な目にあわされそうなんですか?」
「いや、今のところはまだだ。だが、ハーロウ夫人が死んだとなると、そうなる可能性が強くなってくる。ワベルスキーというのは賭ごとは好きなのか?」
「大分好きらしいですね。恐らくハーロウ夫人を食いものにしていたんじゃないでしょうか」
「多分、そんなところだろうな」こういってからしばらくだまって考えこんでいたが、やがて口をひらいた。「ベティ・ハーロウにあわなかったのは残念だった。五年前南フランスに行く途中、一度だけディジョンによったことがある。まだ夫のサイモン・ハーロウ氏が生きている時分の話さ。ベティは黒い絹の長靴下をはいた、足の長いやせっぽちの少女だった。髪の毛が黒く眼が大きくて、青白い透き通るような顔をしていた。――まあ、どちらかといえば美人の部類に属していたな」ハズリット氏は坐り心地がわるいとでもいうように、椅子の中でからだを動かした。栗の木や大かえでの木が生えている大きな庭のついた古い邸、そしてその中であの少女は、何かごたごたを起こそうと企てている不満をもった半気違いと二人きりで暮しているのだ。――ハズリット氏はそう考えて行くだけで、何かいたたまれない気持になった。
「ジム」突然彼は口を切った。「もし行った方がいい場合、いつでもすぐ出かけられるように、今の仕事をかたづけておいてくれないかな」
ジムは驚いて顔をあげた。昔の芝居のト書きにあるような馬鹿さわぎは、この事務所では普通認められていなかったからである。備品が黒ずんでいると同様、その仕事のやり方も威厳のあるものだった。依頼人の方はせきたてたがるものだが、いそぐとかあわてるとかいう言葉は、この事務所では禁句になっていた。依頼人のいうことをよくきく弁護士なら、そこら辺にいくらでもいるというわけだった。ところがそのフロビッシャー・ハズリット法律事務所で、今、この上もなく聡明でありながら子供っぽい半面もある、頭の白い、好奇心のありそうな円顔のハズリット氏自身が、その年下の共同経営者に、すぐフランスに急行できる準備をせよといっているのである。
「たしかに承知しました」ジムがそういうと、ハズリット氏はよくいってくれたというふうに、彼の方に眼をやった。
ジム・フロビッシャーには、知人や友人でさえもその表面しかわからぬという変ったところがあった。彼は孤独な男だった。今までに親しくつきあった人々もごくわずかで、そのわずかな人々もいなければいないですんでいたのである。彼は他人とかかわりあったり、他人を利用したりしない生き方を強く望んでいた。そしてひまができると、そういう望みを何か月も実行にうつしていたのである。一人で操縦することのできる半甲板の帆船、ピッケル、ライフル銃、『指輪と書物』といった一、二冊の愛読書――これらのものは、星とか彼自身の思索と一しょに、しばしば孤独な旅行のときの伴侶になっていた。こんなわけで、一風変ったどこか超然とした印象を人にあたえ、仲間と一しょにいても、一見して別種の人間だと言うことがわかるのだった。別に充分正当な根拠もないのに人を信頼させてしまうので、その風貌はしばしば人の誤解を招いたが、今ハズリット氏に信頼の念をあたえてしまったのも、その風貌にほかならなかった。「ボリス・ワベルスキーのような男を扱わせるには格好の人物だ」そうハズリット氏は考えたが、口に出してはいわなかった。
彼はただ次のようにいっただけだった。
「だが、結局行く必要はなくなるだろう。ベティ・ハーロウにはちゃんとしたフランス人の弁護士がついている。その男が万事かたづけてくれるにちがいない。それに」――彼はワベルスキーの二番目の手紙にあった言葉を思いうかべて、思わず微笑をもらした。――「ベティという子はなかなかしっかりしているらしいからな。ともかく、もう少しばかり様子を見てみることにしよう」
彼はそういうと自分の部屋にかえっていった。そのことがあってから一週間ばかりは、ディジョンから何の手紙もまいこまず、ハズリット氏もほとんどそのことを忘れかけていた。ところが突然実に驚くべきニュースが、思ってもみなかった方面から彼のところにもたらされたのである。
そのニュースをもってきたのは、ジム・フロビッシャーだった。ハズリット氏がその朝きた手紙の返事を、事務員に書きとらせている神聖な時間に、彼が氏の部屋にとびこんできたのである。
「ハズリットさん!」ジムはそう大声で叫んだが、事務員の姿を見ると、はっと口をつぐんだ。ハズリット氏はジムの方にさっと視線を投げ、事務員に向かって口を切った。
「おい、ゴッドフリー、返事はまたあとにしよう」
事務員が速記のノートを手にして部屋から姿を消すと、ハズリット氏はジム・フロビッシャーの方にからだを向けた。
「ジム、何か困ったことでもできたのか?」
ジムは何の前おきもなくだし抜けに口を切った。
「ワベルスキーがベティ・ハーロウを殺人罪で告訴したんです」
「何だって?」
「その通りです。ワベルスキーはディジョンの警察署長に対して、正式の告訴をしたのです。四月二十七日の夜、ハーロウ夫人を毒殺したというのです」
「だが、逮捕されたのではないだろうね?」ハズリット氏は思わず大声をあげた。
「逮捕されたわけではありませんが、監視されているのです」
ハズリット氏は机の前のひじかけ椅子に、どっかと腰をおろした。非常識きわまる! 常軌《じょうき》を逸している! しかしそんな言葉もボリス・ワベルスキーに対しては全く生ぬるいものにすぎない。あの男の心の中には、恐ろしい憎悪の念がうずまいている。想像し得るかぎりもっとも卑劣な復讐の焔が、その心の中でもえさかっているのだ。
「しかし、ジム、一体どうしてそんなことがわかったんだ?」突然彼はたずねた。
「ディジョンから今朝、ぼくのところに手紙がきたんです」
「君のところに?」ハズリット氏は思わず大声をあげた。それをきいてジムの心にも同じ問いがうかび、すっかりわけがわからなくなってしまった。手紙を見た瞬間、ひどい衝撃をうけていたので、告訴という言語道断な事実以外には、何一つ頭にうかんでこなかったのである。しかし今彼の頭にも、どうしてこの手紙が何の関係もない自分のところにきて、ハーロウ家の財産を管理しているハズリット氏のところにこなかったのかという問いがうかんできた。
「ええ、そうなんです。しかしどうもおかしいですね。それにもう一つおかしなことがあるんです。実はベティ・ハーロウからきたんじゃないんです。彼女の友だちのアン・アプコットという女性からきているんです」
ハズリット氏は少しばかり安堵の胸をなでおろした。
「では、ベティにも友だちがいるわけか。それはよかった」彼はテーブルごしに手をのばした。
「ジム、その手紙を読ませてくれないか」
フロビッシャーは手にしていた手紙を、ハズリット氏に手渡した。それは何枚もの便箋にしたためた長い手紙だった。彼は便箋のはしをずらすと、親指のつけ根のふくらみでばらばらとやってみた。
「全部読まなければいけないのか?」彼はがっかりしたようにいいながら、その仕事にとりかかった。先ずボリス・ワベルスキーはベティの面前で彼女をなじった。ベティが横柄な態度でそれを無視すると、彼は警察署長のところにさっさと出かけていったが、一時間ばかりすると、大仰な身ぶりをしながら、大声でひとりごとをいってもどってきた。彼はアン・アプコットに味方になってくれと頼み、自分のものをトランクにつめこむと、町のホテルにひきあげてしまった。この間の事情は、ワベルスキーの激越な気違いじみた文句を引用して、こと細かにのべられていた。ジム・フロビッシャーは、ハズリット老人が手紙に眼を通すにつれて、だんだん不安になってきた。
彼は広場を見晴らす幅の広い高い窓のそばに腰をおろして、怒りと軽蔑の爆発するのを待っていた。しかし老人の顔には不安の表情がうかび、手紙を読んでいる間中、消えようとしなかった。また一度ならず読むのをすっかり中止して、何かを思い出そうとしたり、何かを見つけ出そうとしているようだった。
「これは完全な恐喝じゃありませんか」ジムは叫んだ。
ハズリット氏は肩をぴくりと動かし、はっとしてわれに返った。
「恐喝だって? ああ、もちろんだよ」
ハズリット氏は立ちあがると、金庫の鍵をあけ、ワベルスキーの手紙を二通出して、ジムのところにもどってきた。
「ほら、証拠ならちゃんとここにある。この上もなくのっぴきならない証拠がね」
ジムはその手紙に眼を通していたが、やがてかすかな喜びの叫びをあげた。
「この悪党は何もかも白状してしまっているじゃありませんか」
「たしかに君のいう通りだ」
しかしハズリット氏は、何か割り切れない気持だった。彼は依然として、手紙の行間にかくれているものをさがしつづけていた。
「では、一体何を気にかけているんです?」
ハズリット氏は炉を背に、すり切れた炉の前の敷物の上に立った。
「いいかい、ジム」彼はジムに向かって説明しはじめた。「こういった事件の背後には、大てい何かあるものだ。告訴の表面には出ていないが、脅迫者が確信をもっている何かがあるのだ。普通それは何か恥ずべき秘密か、家族の不名誉かのどちらかだが、公の裁判をやればすぐ露顕してしまうものだ。だから今度の場合も、必ずそういった種類のことがあるにちがいない。ワベルスキーの告訴が常軌を逸していればいるほど、ハーロウ家の人々が秘密にしておきたいと思っているハーロウ家の不名誉を、彼が知っているのが確実になってくるのだ。ただ、それがどういうことなのか、全く見当がつかないが!」
「何、きっとつまらないことですよ。どうせワベルスキーのような気違いじみた男は、誇張して考えているにきまっています」
「そうだな、まあそんなところだろう。誇大妄想狂で、気違いじみた、常識はずれの男だからな。そうだ、まあそんなところだよ」
ジェラミ・ハズリットの声は、前よりも元気になった。
「では一つ、あの一家のことでわれわれの知っていることを再検討してみよう」彼はそういって、ジムと窓に向かいあうように椅子を一つひきよせた。ところがその椅子にまだ腰をおろさないうちに、遠慮がちなノックの音がして、事務員が客の来訪を告げに入ってきた。
「まだ用がすんでいない」来客の名前が事務員の口からとび出さないうちに、ハズリット氏が口をひらいた。
そしてふたたびジムの方にからだを向けた。
「さあ、われわれの知っていることを、もう一度検討し直してみよう」彼はそういって、椅子の上に腰をおろした。
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二 助けを求める声
「サイモン・ハーロウは」ハズリット氏は口を切った。「ディジョンの東の方のコート=ドールというところにある、有名なクロ・デュ・プランスぶどう園のもち主だった。彼はノーフォークにも地所をもち、ディジョンには例の大きな邸グルネル荘、モンテカルロには別荘をもっていた。しかし彼は大部分ディジョンですごし、四十五の時に、ジャンヌ=マリー・ラヴィアールというフランス人と結婚した。この結婚には、恐らくロマンスめいたものがあったにちがいない。ジャンヌ=マリーは夫と別居中で、サイモンは夫のラヴィアールが死ぬまで十年間待っていたのだ」
ジム・フロビッシャーはせかせかと部屋の中を動き回った。絨毯の模様から今の話を読みあげていたという感じのハズリット氏は、それに気がついて顔をあげた。
「君のいおうとしていることはわかっている」彼はジムの動作に答えていった。「自由の身になって結婚できるようになるまでには、二人の間に何かあったといいたいのだろう。だが近頃では、世間も私の若かった頃よりずっと人間らしい物の見方をするようになってきた。それにこの秘密がボリス・ワベルスキーにとって価値をもつためには、ベティ・ハーロウに充分関係のあることでなければならない――明るみに出たら彼女が困ることではなくても、彼女が人に知られるのをいやがると、彼が思っているものでなくてはならない。ところがベティという女は、サイモンとジャンヌ=マリーが結婚して二年たち、どうも子供が出来そうにないということがはっきりしてくるまで、この舞台には姿を現わしていないのだ。サイモン・ハーロウの恋愛事件は一応除外してもいいんじゃないかな。今度のこととは全然関係のないことだからな」
ジムは恥ずかしそうにぱっと赤くなりながら、自分の考えを取り消した。
「どうも下らない考えでした」
「いや、そんなことはない」ハズリット氏は元気づけるようにいった。「さあ、あらゆる可能性について考えてみよう。事件の真相の糸口をつかむには、そうするよりほかにないのだ。では、話をもとにもどそう。サイモン・ハーロウは骨董品の収集家だった。ともかく物を集めるのが大好きで、何でも手当り次第集めていた。グルネル荘の居間の一つなどは、文字通り宝の倉といってよく、実にきれいなものがあるかと思えば、風変りなものもまじっていた。彼はそういう物にかこまれて生活し、そういうものの中で仕事をするのが好きだった。しかし彼の結婚生活はほどなく終りを告げた。彼は五年前、五十一の生涯をとじたからだ」
ハズリット氏はもう一度絨毯の渦巻模様の中にさまざまの記憶を追い求めているようだった。
「彼のことで私の知っているのはそれだけだ。ひどく快活な男だったが、あまり社交的な方ではなかった。どうも手がかりになりそうなものは見当らないらしいな」
ハズリット氏はなおも考えこみながら、窓の方に眼を向けた。
「ジャンヌ=マリー・ハーロウ、彼女のことは、今あらためて考え直してみると、ほとんど何も知らないといっていい。もっとも、それも当然だ。彼女はノーフォークの地所を売りはらってからというもの、モンテカルロとディジョンとコート=ドールのぶどう園にある小さな夏の別荘で、ずっと暮してきたんだから」
「財産は大部のこしたんでしょうね?」
「ともかく大変な金持だったからな。クロ・デュ・プランスのぶどう酒は品質がいいので有名だ。もっともとれる量はいくらでもないが」
「イギリスには全然きたことがないんですか?」
「全然ない。夫人はディジョンに満足していたものとみえる。フランスの小さな田舎町なんて、恐ろしく退屈なはずなんだが。しかし彼女はそれになれて何ともなくなったにちがいない。やがて心臓がわるくなり、死ぬ前の二年間はずっと床についたきりだった。だが、手がかりになるものは何もなさそうだな」
「何もないようですね」
「そうなると、のこっているのは養女のベティ・ハーロウと――君に長たらしい手紙を送ってきた、アン・アプコットの二人だけだ。ジム、アン・アプコットというのは、一体どういう女なんだ? どういう素姓の女だ? どういうわけでグルネル荘になんかいるんだ? さあ、一つ白状したらどうだ?」ハズリット氏はこういうと、いたずらっぽい視線を、年下の共同経営者に投げかけた。
「ボリス・ワベルスキーはなぜ彼女の援助を求めたりしたのだろう?」
ジム・フロビッシャーは手を大きくひろげてみせた。
「まるきり見当がつきませんね。あったこともないし、きいたこともない女です。今朝彼女の名前の書いた手紙がくるまで、そんな女がいることさえ知りませんでした」
ハズリット氏ははっとして立ちあがり、自分のテーブルのところまで行くと、眼鏡をかけて手紙の上にかがみこんだ。
「だが、手紙は君あてになっている。ちゃんとフロビッシャー様と書いてあって、事務所あてにはなっていないじゃないか」彼はジムの顔を見て、前いったことを取消すだろうと、じっと待っていた。
しかしジムは、ただ頭をふっただけだった。
「そいつはどうも困りましたね。何のことだかぼくにもさっぱりわからないんです」彼が率直にすっかり当惑しているのを見て、ハズリット氏ももう疑うわけにはいかなくなった。「しかし、どういうわけでぼくのところなんかにきたんでしょう? この三十分ばかり、ぼくはそのことが腑におちなかったんです。それに、あなたに管理をたのんでいるベティ・ハーロウが、どうしてあなたに手紙を出さなかったんでしょう?」
「ああ!」
ジムの疑問をきいて、ハズリット氏は一つの解釈を思いついた。
「その答はワベルスキーの二番目の手紙の中にある。ベティは彼の気のきかないやり方を軽蔑していて、告訴なんか真面目に相手にしていないんだ。その始末は多分フランス人の公証人にまかせるつもりなんだろう。そうだ、そうだとすれば、アン・アプコットからの手紙も充分理解できる。仰々しい法律などというものは、彼女のような外国人をおびえさせるには充分だ。もう四年も外国に住んでいるベティ・ハーロウならともかくもね。そこで彼女は事務所の最初の名前にあてて手紙を出した。つまりその名前個人にあてて出したわけだ」こういうとハズリット氏は満足そうに手をもみあわせた。
「恐怖にとらわれた少女は、抽象的なものに手紙を出しても何となく安心できないものだ。彼女は血のかよっている人間と接触していることを確認したかったのだ。そこで彼女は『フロビッシャー様』と書いた。どうだ、納得がいったろう」
ハズリット氏は自分の椅子のところにもどってきたが、その上には坐らず、ポケットに両手をつっこんだまま、フロビッシャーの頭ごしに窓の外をながめた。
「だが、ボリス・ワベルスキーの強硬な告訴の理由がわかったわけではない。まだ何の手がかりもつかめてはいないのだ」彼はくやしそうにいった。
実際、この事件の関係者の性格を少しもあきらかにしていない無味乾燥なハズリット氏の話は、氏自身にもジムにも、全く無意味なものに思われた。しかし一切の真相はそこに語られていたのである――ワベルスキーの行動のみならず、ジムがこれからとびこもうとしている奇妙な恐怖と神秘について、何もかも真相が語られていたのである。ジム・フロビッシャーはすっかり心をかき乱され、一時中断されていた事務所の仕事にもどった時、ようやくそのことに気がついた。
ジムの頭ごしに窓の外に眼をやっていたハズリット氏は、電報配達の少年が威勢よく広場を横切り、窓の下の道でためらっているのに気がついた。
「どうやら、あれはうちにきた電報らしいな」彼の言葉には、困難に直面した人間が、何か外部的な事件により、事態が好転するのを望んでいるような調子があった。
ジムもすばやく窓の方をふり向いた。少年はまだ依然として下の歩道で家の番地をしらべている。
「うちも一つ表札を出さなくてはいけませんな」ジムは少しばかりいらいらした調子でいった。その言葉をきくと、ハズリット氏の眉はその豊かな白髪に向かって、額のなかほどまでぐっとつりあがった。ワベルスキー事件のことで頭を痛めている最中ではあったが、このような提案が、よりによって同じ屋根の下にいる共同経営者の口から出たために、何か冒涜されたような気持を味わったのである。
「一体、何てことをいい出すんだ。私は新しいものには何でも反対する頑固な老人ではない。君も知っているように、ついせんだっても下級事務員の部屋に電話をつけさせた。それもこの私の提案だったはずだ。だがおもてに表札を出すとは何ということだ! いいか、ジム! そんなことは、ハーリー・ストリートやサザンプトン・ロウの連中だけで沢山だ!」
赤いひものついた制服を着、筒形前立のついた帽子をかぶった、ちっぽけな|使いの神《マーキュリー》はようやく決心をかためたらしく、階下の事務所の中に姿を消した。電報が二階にとどけられると、ハズリット氏はその封を破った。彼はしばらくの間、ぼんやりそれに眼をそそいでいたが、やがて無言のまま、眼に心配そうな表情を宿して、ジムに手渡した。
ジムはそれを読んでみた。
[#ここから1字下げ]
お願いです。私を助けるために、すぐどなたかよこして下さい。警察署長はパリ警視庁捜査課の、有名なアノー刑事をよびました。警察では私が有罪だと思っているにちがいないのです。
ベティー・ハーロウ
[#ここで字下げ終わり]
電報はジムの指をはなれて、ヒラヒラと床の上におちた。それははるかな遠いところから助けを求める、深夜の叫びのようなものだった。
「では、今夜の船で発たなければ」ジムはいった。
「うむ、君のいう通りだ!」ハズリット氏も応じたが、何か幾分うわの空だった。
しかしジムの熱意は、ハズリット氏の分もかねるほどだった。彼の騎士的精神も、多くの独身者の例にもれず、自ら描いた空想によってすっかり刺激されていたのである。年端も行かぬベティ・ハーロウ! 一体いまいくつなのだろう! まだたった二十一だ。それより上だということは絶対にない。彼女は自分自身の性と若さにたのみ、無関心な態度で歩き回っているうちに、突然裏切者の仕掛けた罠にかかっている自分に気がつき、はっとして回りのものに眼をくばりはじめたのだ。――そして恐怖におそわれ、荒々しい叫びをあげて、助けを求めたのだ。
「女の子というものは、なかなか危険には気がつかないものです」ジムはいった。「そして何も知らずに、破局のまっただ中に足をふみ入れてしまうのです」しかし折を見て、彼女の手首や足首にすばやくさっとはめこもうと、ボリス・ワベルスキーが、ひそかにどんな虚偽の証拠というくさりを、狡猾にも作りあげようとしているか、それはだれにもわからないのである。そう考えて行くと、ジムはすっかり意気沮喪してしまった。
「われわれは刑事訴訟に関しては、自分の国のこともほとんど知らないようなわけですからね」彼は残念そうにいった。
「幸いなことにね」ハズリット氏の言葉には幾分刺すような調子があった。彼にとっては、この事務所が何よりも大切だったのである。フロビッシャー・ハズリット法律事務所は、今まで刑事事件に首をつっこんだことはない。訴訟はどんなに純粋なものでも、あまり歓迎されなかった。たしかに一人の老練な幹部のひきいる少数の特殊な一団があるにはあったが、大きな邸の中に住む人に見せたくない親類のように二階に押しこめられ、時たまその方面の仕事に手をつけているにすぎなかった。そしてそれさえも、親の代からの依頼人から好意的にひきうけているだけだった。
「しかし」ハズリット氏はジムの不安そうな様子に気がついてつけ加えた。「君がどんな仕事でもできる男だということは、私がよく知っている。だが、この事件の背後には、何かわれわれの知らないことがあるにちがいない。そのことをよくおぼえておいてほしいのだ」
ジムは幾分苦い顔をしてからだを動かした。老人のこの言葉は、いつも耳にたこができるほどきかされているきまり文句だった。ジムは今、ディジョンにいる少女のことを心に思いうかべ、その助けを求めているあわれっぽい叫びに耳を傾けていた。彼女も今では、もう「軽蔑している」わけにはいかなくなっていたのである。
「まあ、常識の問題だな」ハズリット氏は主張した。「一つ比較してみるといい。例えばバスのようなところが、このような事件のために、ロンドンの警視庁に援助を求めるかどうか。いやしくも援助を求めるからには、犯罪が行なわれたという確たる証拠と、犯人はだれかという濃厚な容疑がなければならない。今度の事件は、まだ医者と検死を必要とする段階にすぎぬ。もしアノーという男に援助を求めたとすれば」ここで彼は言葉を切った。
彼は床から電報をひろいあげると、ふたたびそれに眼を通した。
「そうか――アノーか」彼はふたたび同じ言葉を口にし、はっきりおぼえていないことを思い出したと思った瞬間、また忘れてしまった男のように、表情を暗くしたり明るくしたりしていた。しかし彼はついにその追及をあきらめた。「ところで、ジム、ワベルスキーの二通の手紙と、アン・アプコットの長たらしい手紙と、ベティのよこした電報だが、あれは全部もっていった方がいいな」彼はそういうと、その手紙と電報をまとめて、細長い封筒の中に入れた。「二、三日うちに、笑顔でかえってきてほしいものだな。ボリスの奴、手紙の説明をしろといわれたら、一体どんな顔をするだろう?」
ハズリット氏はその封筒をジムに渡すと、ベルを押した。
「だれか待っている人がいたようだが」ベルをきいて現われた事務員に向かって、彼はいった。
事務員はある大地主の名前をつたえたが、その訪問者は掃除の行きとどいた待合室で、ガラス戸棚の中に納められた数冊のかびくさい古ぼけた法律書を相手にしながら、三十分ばかりも待たされていたのである。
「では、お通ししてくれ」ハズリット氏は、ジムが自分の部屋にかえって行くのを見て、口を切った。やがて大地主が入ってきたが、歓迎などはせずに、ただ非難の言葉を投げつけただけだった。
「前もってお約束を頂いていませんでしたな?」彼はいった。
彼の助言は、その事務所の地味な名声に値する、明快適切なものだった。彼はそんな助言をあたえながらも、依然として何かを思い出そうとしていたが、かすかに輝いては消える一瞬に、ちらりと思い出したにすぎなかった。
「記憶と言う奴は女と同じようなものだ」彼は心の中でつぶやいた。「あとを追いかけなければ、向こうから自然にもどってくる」
しかし彼も女性に対する男性通有の状態にあった。つまり女性のあとを追わないわけにいかなかったのである。しかし話が終りに近づくと、突然肩と頭をかすかにぴくりと動かし、一枚の紙片にある言葉を書きとめた。依頼人がかえって行くと、すぐさま彼は短い手紙を書き、返事をもらってくるようにいいふくめて、使いの者を走らせた。いくらもしないうちに、使いの者がかえってくると、ハズリット氏はジム・フロビッシャーの部屋にいそいだ。
ジムは何人かの所員と事務のひきつぎを終え、机の引出しに鍵をかけているところだった。
「ジム、アノーという名前をどこできいたか、今やっと思い出した。ジュリアス・リカードという男にあったことはあるね? うちの依頼人の一人の」
「ええ、おぼえています。――グロウヴナー・スクェアに住んでいる、少し気むずかしい人でしょう」
「そうだ、その男だ。アノーの友だちで、彼と親しくしているのがひどく自慢なんだ。何年か前、どうしたものか、彼ら二人は恥ずべき犯罪にまきこまれた。――多分エクスレバンでだったと思うが。今日の午後五時にグロウヴナー・スクェアに行けば、アノーへの紹介状をくれ、何かアノーのことを話してくれるだろう」
「それはすばらしい!」フロビッシャーは思わずつぶやいていた。
彼は約束通りリカード氏を訪れたが、先ず最初に、どれほど恐縮しなければならないかを教えられ、次に不愉快のあまりとびあがりたくなるような思いをし、三番目には馬鹿にされ、四番目には極めて丁重にこの上もなく親しげに取扱われた。ジムはリカード氏の熱狂的な言葉を多少割引きしてきいていたが、首尾よく紹介状を手に入れ、その晩の船でイギリス海峡を渡った。旅行しているうちに、もしアノーがそんなに有名なら、たとえどんなに火急の招きであっても、すぐ準備をして地方に出かけるのはとうてい不可能であることに気がついた。そこで、パリで一時旅行を中断し、朝のうちに、裁判所のすぐ裏にあるオーロージュ河岸のパリ警視庁に足を向けた。
「アノーさんは?」そうせきこんでたずねながら差し出す名刺と紹介状を、守衛は手にとった。それでは例の高名な刑事はまだパリにいるのか、ジムはそう考えて、ほっと安堵の胸をなでおろした。
初夏の晴れやかな朝にもかかわらず、電燈のともっているうす暗い長い廊下に案内され、三十分ばかりも犯人や憲兵と一しょにいる間に、彼の勇気は次第にその姿を消していった。やがてベルがなり、平服を着た警官が近づいてきた。廊下の片側には、ずらりとドアがならんでいた。
「さあ、こちらです」警官はそういって、そのドアの一つにフロビッシャーを導き、ドアをあけると、わきの方に立った。フロビッシャーは胸をはって、部屋の中に入っていった。
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三 「機会の女神」のしもべ
フロビッシャーの立っていたのは、長方形の部屋の一方の端だった。正面には窓が二つあり、キラキラ輝いている河の向こうには、大きなシャトレ劇場の姿が見える。左の方には、二、三の書類がきちんと積まれている大きな机があり、その後ろには、柄の大きい、どっしりした男が坐っていた。フロビッシャーは、決闘場で名剣士を相手にする未熟者のように、その男に眼を向けたが、全然何の奇もない男であるのを発見して、幾分意外の感にうたれた。
一方アノーの方は、全然フロビッシャーを見ている様子などなかったのだが、いざ口をひらいてみると、実によく見ていたことが明らかになった。彼は立ちあがって会釈をすると、フロビッシャーにわびをいった。
「どうもお待たせしましたな。リカード君の紹介状にはあなたの御用件が書いてなかったものですから、暗黒面をのぞきたいという、いつものお客さまかと思っていたのです。しかしあなたの御様子から察すると、もっと容易ならぬ問題のようですな」
アノーは豊かな黒い髪の毛をもった中年の男で、あごをきれいにそったまるい顔は、ちょっと喜劇俳優といった感じだった。少しばかりはれぼったいまぶたの下にある、恐ろしく淡い眼だけが、ともかくも好意的な初対面に際して、ジムに深い印象をあたえた。アノーは椅子を指さした。
「まあ、おかけ下さい。リカード君は実に立派な人物です。そして彼の友人としても――まあ、それはそれとして、一体どういう御用件なのですか?」
ジム・フロビッシャーは、アノーのテーブルの前に腰をおろした。
「私は、ディジョンにいるイギリス人の一家の面倒を見ている法律事務所の者です」この言葉をきくと、アノーの顔からは一切の生気と表情が消え失せた。一瞬前まで、アノーは親切な愛想のよい相手だった。しかし今、彼はまるで中国人のようだった。
「それで?」アノーは先をうながした。
「ハーロウという家なんです」ジムは言葉をつづけた。
「ほう!」アノーは思わず声をあげた。
その叫びには、驚きも、否ほとんど関心さえも含まれてはいなかった。ジムは、しかし、そんなことに頓着しなかった。
「そしてその一家の、ベティ・ハーロウという二十になる少女が、血のつながっていない叔父にあたる、ボリス・ワベルスキーというロシア人に、殺人罪で訴えられたのです」
「なるほど! しかしどういうわけで私のところにこられたのです?」
ジムはアノーにじっと眼をそそいだ。彼がアノーを訪れた理由は明白なはずだった。
しかし――彼はもはや自分の考えていた理由に自信を失いはじめていた。アノーはテーブルの引出しをあけると、書類の一つをかたづけようとした。
「それで?」アノーはさらにたずねたが、「ちゃんとあなたの話はきいていますよ」とでもいうような調子だった。
「もしかすると、何かのまちがいかも知れませんが、あなたがこの事件を担当されるという知らせを、うちの事務所できいたのです」
アノーはその言葉をきくと、たちまちその動作をとめた。彼は目方でもはかっているように、しまいかけた書類を手のひらの上にのせたまま、じっと身動きもせずに坐っていた。ジムはそれを見て、とっさに、彼がひどく当惑しているのを感じた。やがてアノーは書類を引出しの中に入れ、静かに引出しをしめた。彼は静かに話しはじめたが、そのなめらかな口調の中には、フロビッシャーを不安にさせるものがひそんでいた。
「なるほど、そんな知らせがとどいたのですか! しかもロンドンでね! それに――今日はまだ水曜だ! なるほど、最近では、ニュースというものは恐ろしく早くつたわるんですな! それはともかく、あなたの事務所が手に入れた情報は決してまちがいではありません。どうもおめでとう。先ずあなたの方の勝というわけですな」
ジム・フロビッシャーはすばやくその言葉にとびついていった。彼はみちみちどんなふうにして、この刑事に近づくのがもっとも有効かを、くり返し考えてきた。そして今、アノーの辛辣な言葉が、彼の必要としていた機会をあたえたのである。
「しかし、アノーさん、ぼくはあなたに勝とうなんていうつもりは全然ないんです」彼は真剣になって主張した。「ありがたいことに、ぼくとあなたの間には、なんの対立もないんです。もしそんなものがあったら、必ずぼくの方が負けるにきまっていますからね。対立なんて絶対にありません! あなたはこの事件の真相をつきとめたいと思っておいでになる。一方私の方は、つまり助手の一種とでも考えて頂きたいのです。うまく行けば、多少は役に立つ助手とね」
アノーの顔に微笑がうかび、幾分もとの愛想のいい顔にもどった。
「なかなかお口がお上手ですな。では、何の役に立って頂けるのです?」
「実はこの二通の手紙なんです。ボリス・ワベルスキーが金を送れといってきているんですが、二通目のものは脅迫に近いものなんです。どちらも告訴する前に、うちの事務所によこしたもので、当然のことながら、どちらにも返事は出してありません」
ジムは細長い封筒から手紙をとり出すと、テーブルごしにアノーに手渡した。アノーは頭の中でフランス語に訳しながら、ゆっくりとそれを読んでいった。ジムはその顔を見守りながら、安堵か満足の表情がうかぶのを待っていた。しかしそのような表情の変化は現われず、彼はすっかり失望してしまった。しかも読み終えて彼の方に向き直ったとき、その態度の中には、ほとんど不満とさえいえる、非難がましい様子があった。
「なるほどたしかにこの手紙には重要な点もいくらかある。だが、それを誇張して考えてはいけません。これは、実際むずかしい事件なのです」
「むずかしいですって?」ジムは腹立たしげに叫んだ。彼は神経のない厚い壁のようなものを、むなしくたたきつづけているような気持だった。しかし今眼の前にいる男は、決して無感覚なにぶい男ではなかったのだ。
「何のことだかさっぱりわかりません!」彼は叫んだ。「どう考えたって、恐喝にきまってるじゃありませんか」
「恐喝とはおだやかならぬ言葉ですな」アノーが口をはさんだ。
「もともと恐喝というのは、おだやかならぬことです」ジムは答えた。「ところで、アノーさん、ボリス・ワベルスキーはフランスに住んでいる人間です。彼のことは多少知っていらっしゃるはずです。彼に関する一件書類をもっていらっしゃるはずです」
アノーはかすかな喜びの叫びをあげて、その言葉にとびついていった。突然顔に微笑がうかび、ジムに向かって、機嫌よく人さし指をふり回した。
「ああ! 一件書類! 実は、その言葉を待っていたんです。偉大なる一件書類の伝説! あなたもその美しい信仰をもっていられるんですな。フランスとその一件書類! そうです。もしフランスに石炭がなくなっても、その書類をもやしてからだを暖めようという寸法ですな! はじめてカレーに上陸すると、すぐさまその書類という奴がはじまる。やがてパリにやってきて、リッツ・ホテルで食事をする! そしてそのあと、行くべきではないところに出かける! あなたはおちつかないひどく不安な気持で夜おそくホテルにもどってくる。あなたは、静かな夜の闇の中で、黒いあごひげをはやし、緑色の笠のついたランプをもっている六人の警官が、あなたの書類に何もかも書きつけてしまったと信じこんでいるからだ。だが――まあ、待って下さい!」
彼は唇に指をあて、眼を大きく見ひらくと、突然椅子から立ちあがった。自分の職業をこれほど神秘的に、これほどもったいぶってみせる男はいなかった。彼は図体の大きい割には驚くべき軽快さをもって、つま先でこっそりとドアの方に歩いていった。そして小鳥の眼を思わせる機敏そうな明るい眼でフロビッシャーに眼くばせをすると、音をたてないようにゆっくりとドアのノッブを回した。それからすばやくドアを内側に引いた。それは喜劇や道化芝居によく出てくる、立ちぎきの典型的な発見法だったが、そのまねがあまりにもうまかったので、ジムはこの警視庁の中でさえも、あわてふためいた女中がどさりとぶざまに這いつくばるのを見るのではないかと思った。しかし実際には、そんな女中の姿は見えず、人々が辛抱強く待っている、電燈の光に照らされたうすぎたない廊下があるだけだった。アノーは大げさにほっとしてみせると、ふたたびドアをしめた。
「総理大臣は立ちぎきしてはいなかった。これでひとまず安心です」彼はしっしっといいながら、こっそりとフロビッシャーのそばにもどってきた。そして身をかがめると、当惑している青年の耳もとにささやいた。
「では、その一件書類というものを教えてあげましょう。それは十のうち九つまでは、守衛のしているうわさ話を、だれもかれも刑務所に入れた方がいいと思っている警官の言葉に翻訳したものです。例えば守衛がこんなふうにいうとします――『このフロビッシャーさんという人は――火曜は午前一時にかえってきた。木曜は午前三時に仮装服を着てかえってきた』ところがこれが警官の報告では、『フロビッシャー氏の生活はだらしがなく非常識である』となってしまうのです。そしてそれがあなたの一件書類に書きこまれる――そうです。たしかにその通りです! しかしこの警視庁では――絶対にそんなことをいっちゃいけません。さもないと、私の首があぶなくなりますからね――ここでは、あなたのミス・ベティ・ハーロウのように、そんな一件書類なんてものは『全然問題にしていない』のです」
ジム・フロビッシャーは物ごとをじっくり考えるタイプだった。そんなわけで、一つのムードから他のムードにすぐ頭を切り変えるというわけにはいかなかった。彼はしばらくの間、何が何だかわからなくなってしまった。少し前まで、アノーは『正義の女神』の厳粛な代理人だったが、何の前ぶれもなく一変し、突然ひどく楽しそうに道化の役を演じ出した。彼はいたずら小僧か道化師にでもなったようだった。ジムがただ呆然としてみつめていると、アノーは失望したような微笑をうかべて、ふたたび椅子に腰をおろした。
「フロビッシャーさん、もしディジョンで一しょに仕事をするにしても」彼は妙に残念そうな口調でいった。「エクスで友人のリカード君とやった時のように楽しくやるわけにはいかないでしょうね。全くそんなわけにはいかないでしょう! こんなパントマイムをしてやったら、彼なら坐ったまま眼の玉をとび出さんばかりにしていますよ。そしてそっと小声でささやくでしょう。『総理大臣が明日の朝、このドアの外にさぐりにくる――おお!』そして本気でふるえあがるのです。ところがあなたは――あなたはただ冷然と私を見ているだけで、心の中では、『このアノーという男は喜劇役者じゃないか!』といっているのです」
「いや」ジムが真顔でいうと、アノーは笑いながらその抗議をさえぎった。
「別にそれがわるいというわけじゃありません」
「ぼくはうれしく思っています」ジムはいった。「あなたは今、絶対に取り消してほしくないことをいわれましたからね。あなたはぼくたちが一しょに働くという希望をあたえて下さったんです」
アノーは机の上に両ひじをついて前にかがみこんだ。
「まあきいて下さい」彼は暖かみのこもった口調でいった。「あなたは率直で誠実な人です。だから一つ安心させてあげましょう。このワベルスキー事件は、ディジョンの警察署長もあまり大したことだとは考えていないのです。またこの私も同様です。もちろん、殺人の容疑はあるわけですから、念入りに調べなければなりませんが」
「もちろんです」
「それから、これもやはり、いうまでもないことですが、この背後には何かちょっとしたことがあるのです」アノーは言葉をつづけた。英語とフランス語の違いこそあったが、ハズリット氏が前日いっていたのと全然同じことだったので、フロビッシャーは驚いた。「弁護士としてあなたにもおわかりのことと思いますが、そこにはわれわれにこの上もなく巧妙にかくされているちょっとした不快な事実があるのです。しかしこれは単純な事件で、あなたのもってきたこの二つの手紙で、一そう単純なものであることがわかりました。われわれはワベルスキーにこの手紙の説明を求めるでしょう。そしてできれば、ほかのいくつかのことの説明もね。あのボリス・ワベルスキーという男は、あるタイプの典型的な人物ですよ! ハーロウ夫人の死体は今日発掘され、医師たちの検死がある予定ですが、それさえすめば、告訴は必ず却下されますから、あなたの好きなようにワベルスキーを片づけることができるはずです」
「では、そのちょっとした秘密はどうなるんです?」ジムはたずねた。
アノーは肩をすくめた。
「多分明るみに出てくるでしょう。しかし警察に知られるだけで、世間に知られなければどうということはないじゃありませんか?」
「おっしゃる通りです」ジムは同意した。
「そのうちあなたにも分るでしょう。私たちは別にそれほど心配しているわけではない。それにあなたのかわいい依頼人も、不公平な目にあうことを心配せずに、安心して眠ることができるのです」
「ありがとう、アノーさん」ジム・フロビッシャーは興奮して叫んだ。彼は深い安堵の思いをおぼえた。それは自分でも驚くほど深いものだった。彼は、同じ年頃のもう一人の少女のほかには、だれ一人かばってくれる人もなく、気違いじみた悪党にせめさいなまれながら、大きな邸に住んでいるまだあったこともない少女に、深い同情をおぼえたのだ。「そうです。ぼくもそれをきいてうれしく思います」
しかしその言葉が終るか終らないうちに、彼の前に坐っている男の誠実さについて疑問を抱きはじめた。どんなに世間知らずだとはいえ、愚かな魚のように、計略にひっかかって釣りあげられるのはごめんだった。彼はアノーに眼をそそぎながら、いぶかしく思った。この男は今愛想がいいが、この愛想のよさは、ほかの気分の時にくらべて、芝居がかっているのではなかろうか? 彼はこの探偵のことがよくわからなくなった。少し前は法を司るどちらかといえば容赦のないきびしい人間だったが、次はいたずら小僧、次は友人という風に、全くつかみどころがない。どれが芝居で、どれが本当なのか? 幸いなことに、つい昨日のこと、ハズリット氏が窓ごしにラッセル広場を見渡しながら口にしていた質問が頭にうかんできた。ジムは今その問いをくり返した。
「この事件は単純な事件だといわれましたね?」
「ええ、恐ろしく単純な事件です」
「それならうかがいますがね、どうしてディジョンの予審判事は、パリの警視庁のお偉方の一人に援助をもとめなければならなくなったのです!」
この質問は明らかに予期されていたものだったが、答えにくいということもそれに劣らず明らかだった。アノーは一、二度うなずいてみせた。
「そうですね」彼はそういうと、何か迷っているらしく、ふたたび「そうですね」とくり返した。彼は値ぶみをするような眼でジムを見ていたが、突然口を切った。「では、何もかもお話ししましょう。しかし一度きいた以上はだれにもいわないと約束してほしいのです。重大なことですからね」
この瞬間、ジムはアノーの誠実さと友情をうたがうことができなかった。それらのものは、この男の心の中ではげしい焔のように光りかがやいていたのである。
「では、約束しましょう」ジムはそういうと、テーブルごしに手をのばした。アノーはその手をにぎると、「では、洗いざらいお話ししましょう」といい、真黒な煙草の入っている小さな青い包みを取り出しながら、「煙草はいかがです?」といった。
二人は煙草に火をつけた。アノーはその青い煙の中で説明をはじめた。
「実をいうと、ディジョンにはまるきり別のことで行くのです。このワベルスキー事件は単なる口実にすぎないんです! 私を招いた予審判事は――そうだ、いい文句がある」アノーは少しばかり得意そうに英語でいった。「顔を立てる! そうです。それは実にうまい文句です。顔を立てる、そうです、彼の顔を立てるのは一苦労なんですよ。まあきいて下さい! あの予審判事のことを考えると、腹が立ってきます」
彼はハンカチで額をぬぐうと、順序よく文章を整えるためにふたたびフランス語で話をつづけた。
「生活も大して派手ではなく、近所で起こったことに興味をもつ暇のある小さな町には、そういう場所特有の犯罪が起こるもので、恐らくその中で一番たちのわるいのは、匿名の手紙による犯罪なのです。はねつけようのない卑劣な非難攻撃とか、時には本当かも知れないことが書きならべてある手紙が、青天の霹靂のようにふりかかってくるのです。しばらくはこういういまわしいものが郵便箱の中にほうりこまれても、だれも何ともいいません。金が要求されれば、いわれた通り金をはらうのです。匿名の筆者が単なるいやがらせから出した場合にも、その手紙をうけとった人はやはり口をつぐんでいるでしょう。しかしめいめいがそれぞれの隣人を疑いはじめるのです。そしてその町の社会生活はめちゃめちゃになってしまうのです。恐怖が町の上におおいかぶさり、いつもは喜んで迎えられる郵便配達が恐怖のまととなり、最後には恐ろしいことが起こってくるのです」
アノーの口調はこの上もなく重々しくおちついたものだったので、河面に陽光のきらめくのが見え、パリのまちの楽しげなざわめきのきこえるこの部屋の中でさえも、ジムは思わず身をふるわせた。そしてその楽しげなまちのざわめきの中で、郵便配達の鋭いノックの音をきいた。さらに、血の気の失せた顔が一段と青ざめ、絶望で眼のおちくぼむのを目のあたり見たような気がした。
「今いったような災厄が突然ディジョンにおそいかかってきたのです」アノーは言葉をつづけた。
「そしてここ一年以上も猛威をふるってきたのです。警察はパリに援助を求めようとはしなかった。そうです。援助など必要とはせず、自分たちの手でこの問題を解決しようとしたのです。ところが手紙は相変らずそのあとを絶たず、町の人々は不平をいい出したのです。そこで警察は、『静かに! 予審判事は手がかりをつかんでいる。もう少し待ってくれ!』といいました。ところが手紙の方は前と変らない。そこへ一年たって幸運にもこのワベルスキー事件が起こった。そこで署長と判事とはすぐさま額をあつめて協議したのです。『そうだ、この単純な事件のためにアノーを呼ぶことにしよう。そうすれば、匿名の手紙の差出人をつきとめてくれるにちがいない。ごく内々で彼を呼ぶわけだが、だれかが通りで彼をみつけて――やあ、アノーだ――といったりしたら、ワベルスキー事件を調査しているのだといえばいい。そうすれば、手紙の差出人も警戒させずにすみ、われわれの顔も立つというものだ』つまりこういうわけなのです」アノーは熱っぽい口調で話を結んだ。「だが彼らは一年前に私を呼ぶべきだった。彼らは一年間も無駄にしてしまったのだ」
「その一年の間に何か恐ろしいことが起こったのですか?」ジムはたずねた。
アノーは腹立たしげにうなずいた。
「いつもホテルで昼食をとり、ありふれたキャフェでコーヒーを飲むような、人に何の害もあたえないひとりぼっちの老人が、地中海急行にとびこみ自殺をしたり、一組の恋人たちがモアソニエールの森でピストル自殺をしたりしているのです。ダンスパーティからかえってきて、自分の家の玄関の前で友人たちに快活な別れの挨拶をした少女が、次の日の朝、夜会服を着たまま、寝室の壁の釘から首をつっているところが発見され、それと同時に暖炉の中に例の手紙の一通がもえのこっていたのです。この気の毒な少女は、この最後の一通で狂乱状態におちいるまで、一体何通の手紙を受けとったことでしょう? それなのにあの判事は――さっきいったのをおぼえておいでだと思いますが――顔を立てようと思っていたのです」
アノーは机の引出しをあけると、緑表紙のとじこみを取り出した。
「ごらんなさい。これが今いった手紙のうちの二つです」こういうと彼は、とじこみの中からタイプで打った二枚の紙片を取り出して、フロビッシャーに手渡した。「そうです」彼は読んでいる相手の顔にうかんだ不快の表情を見て、つけ加えた。「あまり気持のいいものじゃないでしょう?」
「全くひどいものですね」ジムはいった。「ぼくには信じられません――」彼は突然小さな叫びをあげて話をとぎらせた。「アノーさん、ちょっと待って下さい!」彼はもう一度二枚の紙の上にかがみこむと、二つの手紙を比較し、一つ一つの文章を細かく調べてみた。すぐに気がついたのは、たった二つの打ちそこないだけだった。しかしそれは何と重大な打ちそこないだったろう! いずれにしても、眼のこえた多少とも経験のある者にとっては。つまりそれは、一瞬のうちに捜査範囲をちぢめてしまうからだった!
「アノーさん、ぼくにも少しばかり手伝いができます」彼は勢いよく叫んだ。しかし探偵の顔が突然すっかり変って、うれしそうににやりと笑っているのには気がつかなかった。「手紙の差出人をすぐにつきとめる方法があるんです」
「そうですか」アノーは大声で叫んだ。「教えて頂きたいものですな。人を興奮させっぱなしにしておかないでね。だが、コロナ・タイプライターで打ったなんてことはいわないで下さい。そのことなら、私たちも先刻承知しているんですから」
ジム・フロビッシャーはさっと顔を赤らめた。彼が自分の明敏さを誇って気がついたと思っていたのは、まさにその点だったからだ。大文字のDのあるべきところには%が、下の方の大文字のSのあるべきところには$が打たれていた。彼はコロナ・タイプライターをいつも使っていたので、大文字の代りにまちがえて数字のキイをたたくと、こういうまちがいが起こるということをおぼえていたのである。彼は今アノーのうれしそうな顔を目の前に見て――アノーはまたもとのいたずら小僧にもどっていた――ディジョンの判事はともかくとして、警視庁がこれら二つの点を見落すはずのないことをさとった。そこで彼もまたすぐに笑い出した。
「ところであなたによくお願いしておいたはずです」彼は手紙を返しながらいった。「ぼくたちが対立していないのは、ぼくにとって幸いだと、あなたにいっておいたのは賢明だったと思います」
アノーの顔から、いたずらっぽい表情がさっと消えた。
「あまり私を買いかぶらないで下さい。さもないと、失望するような結果になりますよ」彼はひどく真面目な顔をしていった。「私たちはどんなに最善をつくしてみたところで、結局は『機会の女神』のしもべにすぎないのです。彼女の衣服のすそのはしが眼の前に一瞬ひらめいた時、すばやくさっとつかむのが腕の見せどころなのです」
彼は二通の匿名の手紙を緑表紙のとじこみの中にもどし、そのとじこみを引出しの中に入れた。そしてボリス・ワベルスキーの書いた二通の手紙をひとまとめにし、ジムの手にもどした。
「これはディジョンで出さなければならないでしょう。今日立つんですか?」
「今日の午後に立ちます」
「結構です!」アノーはいった。「私は夜の急行で行きます」
「ぼくもそれにしましょうか」ジムはそういったが、アノーは首を横にふった。
「私たちは一しょに行ったり、同じホテルに泊ったりしない方がいいでしょう。ディジョンでは、あなたがミス・ハーロウのイギリス人の弁護士だということはすぐ知れ渡ってしまうから、あなたのつれも人の注意をひくにきまっています。話はちがいますが、私が、このアノーが、この事件を受けもつようになったことを、あなたはどうして知ったのです?」
「一通の電報をうけとったんです」ジムは答えた。
「なるほど。一体だれからうけとったのです? 是非知りたいものですね?」
「ミス・ハーロウからです」
アノーは一瞬すっかりめんくらってしまった。それは今度で二度目だった。それはジムにもはっきりとわかった。アノーは煙草を口にもって行きかけたまま、石にでもなってしまったように、長い間坐ったまま動かなかった。やがて彼は苦笑した。
「フロビッシャーさん、あなたには私のやっていることがわかりますか?」彼はいった。「私は自分自身に謎をかけているんです。その謎がわかったら、答えて下さい! 人間の感情の中で一番強いものは何でしょう? 貪欲でしょうか? 愛情でしょうか? 憎悪でしょうか? いや、決してそんなものではないのです。それは、一人の役人が大きな棍棒で同僚の後頭部をなぐりつけたいという感情なのです。私はちょっとした成功のチャンスをつかむために、ひそかにディジョンに立つことになっていました。そうなんです! 土曜にはそういうことになっていたのです。そして月曜には、すでに私の同僚がそのニュースを方々にまき散らしたので、ミス・ハーロウは火曜の朝に電報を打つことができたのです。しかしなかなか大したものじゃありませんか。その電報を見せて頂けますか?」
フロビッシャーが細長い封筒から取り出してアノーに渡すと、彼はもどかしそうに受けとって、二人の前にあるテーブルの上にひろげた。彼はひどくゆっくりと読んでいった。その速度があまりにもおそかったので、ジムは、電話で直接きくように、彼自身もきいた助けを求める悲しげな叫び声を、アノーも電文の行間からきいたのではないかと思った。実際、アノーがふたたび顔をあげた時、その苦々しい表情は顔から消えていた。
「このかわいそうなお譲さんはすっかりこわくなってきたようですね? もう軽蔑なんかしていられなくなったわけですね? まあ、数日中に私たちの手で解決しようじゃありませんか」
「ええ」ジムは断固とした口調でいった。
「ところで、この紙は破いてもかまいませんか?」アノーは電報の紙を取りあげながらいった。
「これには私の名前が出ています。あなたがおもちになっている分には何の危険もないが、別に役に立つわけではありませんからね。ここで破りすてたものは夜全部焼却されます。さあ、どうしましょうか」彼はそういうと、ジムの眼の前で電報をひらひらしてみせた。
「ええ、どうぞ」ジムがそういうと、アノーは電報を二つに破った。そして破られた二つの紙片を重ねてもう一度破り、くずかごの中に入れた。「さあ、これでかたづいた!」彼はいった。「ところで一つうかがいたいのですが、グルネル荘にはもう一人イギリス人の若いお嬢さんがいますね」
「アン・アプコットです」ジムはうなずいていった。
「そうですか、ではそのお嬢さんのことを話して下さい」
ジムはハズリット氏にいったと同じ返事をした。
「ぼくは一度もあったことがないんです。彼女のことは昨日まで何もきいたことがなかったんです」
しかしハズリット氏が驚いたのとは異り、アノーは批評めいたことは何一ついわなかった。
「では、私たちはディジョンでそのお嬢さんと知りあいになれるわけですね」彼は微笑しながらいうと、椅子から立ちあがった。
ジム・フロビッシャーは、この面談が最初は気まずくはじまり、やがて暖かい友情に変り、またもとにもどって、あまり見ばえのしない結末に終ったことを感じた。彼はアノーの態度に微妙な変化の起こったことに気がついた。それは別によそよそしく冷淡になったというわけではなかった。しかし――その変化を明確にいい表わすには、アノー自身の言葉を使うほかはなかった。つまりアノーは一瞬眼の前にひらめいた機会の女神の衣服のすそのはしをつかんだように思われたのだ。だが、そのすそがいつひらめいたのか、ジムには推測さえできなかった。
ジムは帽子とステッキを取りあげた。アノーはすでにドアのノッブに手をかけていた。
「では、フロビッシャーさん、失礼します。本当によくたずねてきて下さいました」
「では、ディジョンでお目にかかりましょう」ジムはいった。
「ええ」アノーは微笑をうかべながら同意した。「色々な機会にお目にかかれるでしょう。多分予審判事のところなどでね。グルネル荘ではいうまでもありませんが」
しかしジムは不満だった。ほんの数分前、アノーが単に引きうけただけでなく、期待さえかけているように見えたのは、いつわりのない真の協力だった。それなのに彼は今、それをさけようとしているのだ。
「しかし、もしぼくたちが一しょに仕事をするとしたら?」ジムはそれとなく話をもっていった。
「あなたは迅速に連絡をとろうとするでしょう」アノーは言葉をつづけた。「そうです。だが私は、あなたほど迅速ではないが、この上なく内密な方法で連絡をとる。そうなんです」彼はその問題を心の中で反芻《はんすう》しているようだった。「あなたはグルネル荘にお泊りになるんでしょうね?」
「いや」とジムはいったが、アノーの少しばかり失望した様子を見て、幾分気分がせいせいした。
「そんな必要はないと思います」彼は説明した。「ボリス・ワベルスキーはもう手出しすることなどできません。二人のお嬢さんも別に心配することはないでしょう」
「たしかにその通りです」アノーも同意した。「では、あなたはダルシー広場にある大きなホテルにお泊りなさい。私は人目につかないホテルに変名を使って泊りましょう。まだ秘密が守れるものならば、できるだけ守りたいと思っていますからね」
彼はその人目につかないホテルの名や、泊る時に使う変名については、自分の方から進んでいい出そうとはしなかったし、ジムの方もあえてたずねようとしなかった。アノーはドアのノッブに手をかけながら立っていた。
「では、あなたを信用して私の策略を教えておきましょう」彼はそういうと、微笑をうかべて、暖かみのある、明るい、機嫌のよい表情になった。「映画はお好きですか? いかがです? 私は映画の大ファンでね、どこへいっても少しばかり時間を都合して映画館に出かけるんです。すばらしいものを暗がりの中で見ることができるわけですからね――スクリーンを見ながら、友人とこっそり話をすることもできるのです。そして電燈がついた時、私たち二人の姿は消え、からになった黒ビールの壜だけが私たちの腰かけていた場所を示しているという具合なのです」
「もちろん、あなたの秘密は守るつもりです」ジムはかすかに声をふるわせながらいった。「そんなすばらしい場所はぼくにはとうてい思いつけそうにありません」
「結構です」アノーはいった。「では、なにか大事な用で行けない時以外は、毎晩九時にグランド・タヴェルヌの客席に坐っています。グランド・タヴェルヌは駅前の広場を横切った角のところにあります。すぐにわかりますよ。私は向かって左側、スクリーンのすぐそばの、撞球室に近い方の端にいます。電燈がついて明るくなっている時は私をさがさないようにして下さい。まただれかと話をしている時は絶対にそばにこないで下さい。わかりましたね?」
「よくわかりました」ジムは答えた。
「これであなたは守らなければならない私の秘密を二つ知ったことになります」アノーの顔はもう微笑をうかべてはいなかった。その顔は妙に鋭い感じになり、淡い色をした眼は、ひどく静かな厳粛な表情をおびてきた。
「フロビッシャーさん、そのこともよくおぼえておいて下さい」彼は口を切った。「というのは、私たちがもう一度パリに向かってディジョンを出発する前に、私たちは二人とも奇妙なことにぶつかるのではないかという気がしてきたからです」
切迫した瞬間がすぎ、彼は会釈をしてドアをひらいた。しかしジム・フロビッシャーは廊下に出て行きながら、今の面会中のある一瞬に、アノーがたとえ機会の女神の衣服のすそはつかまないにしても、ともかくちらりとそれを見たにちがいないという確信を抱いたのだった。
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四 ベティ・ハーロウ
ジム・フロビッシャーは、その夜、人を訪問するにはおそすぎる時間にディジョンについた。しかし次の朝の九時半には、胸をわくわくさせながら、シャルル・ロベールの小さな通りに入っていった。通りの片側にはずっと高い塀がつづき、その塀の上では大きな楓《かえで》や栗の木が、風に吹かれて一せいにざわざわを音を立てていた。通りのはずれのあたりでは、小道に張り出しているルネサンス風の華麗な出窓のついた家の端によって、その塀がとぎれ、さらに少し先で凝った鉄の門によってとぎれていた。ジムはその鉄の門の前で立ち止った。彼はグルネル荘の中庭にじっと眼をそそいだが、そうしている間に興奮がさめ、興奮したことが少しばかり恥ずかしくなってきた。興奮したりすることなど、ほとんどないように思われたからである。
それは、雲一つなく晴れ渡った、風のない暑い日だった。中庭の左手では、いくつもならんだ家事室の前で、女中たちが忙しそうに働いていた。その端の方では、車庫の中で二台の車の間を動き回っている運転手の姿がちらりと見えた。そして運転手が動き回りながら、快活に口笛を吹いているのもきこえてきた。右手には、大きな建物が広がっていた。その勾配の急なスレートぶきの屋根は、あざやかな黄色の巨大なダイヤの模様を派手にうき出させ、あけてある窓からは、一つのこらず陽光がさしこんでいた。扇の形をしたはめころしの下にある玄関のドアはあけ放され、鉄の門の一方も少しばかり開いていた。その小さな通りに立っている白ズボンの警官さえ、実際の警戒にあたっているというよりは、高い塀のかげで陽の光をさけているように見えた。このように何の変哲もない平和な光景を見ていると、この屋敷やその中に住んでいる人々に、何か脅迫めいたことが行なわれているとは、とうてい信じられなかった。
彼は門を押しあけると、玄関のドアのところまで歩いていった。一人の年とった召使が現われて、マドモワゼル・ハーロウはどなたにもおあいしないことになっていますと告げたが、ともかくもジムの名刺をうけ取って、広い真四角な玄関の広間の右手にあるドアをノックした。ノックをしてドアをあけると、ジムの眼には、図書室を通して奥の方の窓辺に、窓に背を向けている二人の人影が入ってきた。それは一人の男と少女だった。男の方は何か抗議をしているようだったが、イギリス人であるジムには、言葉も身ぶりも少しばかり大仰なものに思われた。少女の方は男の抗議に声をたてて笑っていたが、それは明るいなりひびくような笑い声で、少しばかり残酷なものを含んでいた。ジムはフランス語で話されている抗議の言葉をやっとのことで一言二言ききとることができたが、それらには何か妙に金属的ななまりがあった。
「私はあまりにも長いことお前の奴隷だった」男は叫ぶようにいったが、丁度その時、少女はドアがあいて、年とった召使が銀の盆に名刺をのせてドアの内側に立っているのに気がついた。彼女はすばやく歩みよると、名刺を手にとった。やがてうれしそうな叫び声がきこえ、広間に少女が走り出てきた。
「まあ!」彼女は眼をかがやかせながら叫んだ。「こんなに早くきて頂けるとは思ってもみませんでした。本当にありがとうございます」そして彼女はジムに両手をさし出した。
ジムは、ハズリット氏のいっていた『少女』だとわかるのに、その彼女の言葉をきく必要はなかった。実際の背の高さは決して低くはなかったが、ほっそりした華奢なからだつきだったので、『少女』という形容がいかにもぴったりしていた。光があたるとかすかに赤褐色がかってみえるこげ茶色の髪の毛は、一方で分けられ、小さな頭のまわりに手際よく整えてあった。広い額と卵形の顔は透き通るように青白く、その唇のあざやかな赤さを際立たせていた。そしてその灰色をした眼の大きな瞳は、魅惑的であると同時に何か思いに沈んでいるようにみえた。心からの感謝をこめて彼女が両手をさし出し、彼の手をにぎった時、彼には彼女が美しい陶磁器のようにこわれやすい、優美な焔の産物のように思われた。彼女は物わかりのよいすばやい一瞥《いちべつ》を彼に投げると、かすかな安堵の吐息をもらした。
「これから心配ごとは全部あなたにおまかせしますわ」彼女はいった。
「どうか御安心下さい」彼は答えた。「しかしぼくを何か特別な非凡な人間だとは思わないで下さい」
ベティはふたたび声をあげて笑うと、彼の袖をつかんで図書室にひっぱっていった。
「この方はエスピノーザさんです」彼女はそういって、一人の外国人を紹介した。「スペインのカタロニアの方なんですけど、ずっとディジョンに住みついていらっしゃるので、この土地の方も同然なんです」
カタロニア人はお辞儀をすると、歯並の整った丈夫そうな白い歯を見せた。
「私はスペインの大きなぶどう酒醸造会社をやっています。私たちは私たちの国のもっと上等な銘柄にまぜるために、ここでぶどう酒を仕入れ、もっと安いものにまぜてここで売るのです」
「何もここで御商売の秘密を教えて頂かなくても結構です」ジムは無愛想に答えた。エスピノーザのいわゆる第一印象はわるかったので、彼は特にその気持をかくそうとはしなかった。エスピノーザという男は全く派手な人物だった。油で光っている黒い髪の毛とキラキラ光っている黒い眼、血色のよい顔の色つや、ちぢれた口ひげ、柄の大きい肩幅の広い男で、指にはきらきらした指輪をいくつもはめていた。
「フロビッシャーさんは全然別の御用でロンドンからきて下さったんです」ベティが口をはさんだ。
「そうですか」カタロニア人は一歩も退くまいとするかのように、少しばかり挑戦的な口調でいった。
「そうですわ」ベティはそう答えると、彼に手をさし出した。エスピノーザは不承不承その手を唇のところまでもっていって接吻した。
「おかえりになる時お目にかかりますわ」ベティはそういってドアの方に歩いていった。
「もし立つと仮定すればね」エスピノーザは意地を張って答えた。「ベティさん、私は立つかどうかはっきりきめているわけじゃないんですよ」
彼はジムに向かって仰々しいお辞儀をすると、部屋から出ていった。しかしその動作は、ベティが二人の男を鋭い比較するような眼でちらりと見るひまもないくらいすばやいものではなかった。そしてジムはその彼女の視線に気がついた。彼女はドアをしめると、なぜか彼の心を明るくするような、親しみのこもった渋面を作りながら、ジムの方にもどってきた。ほかの男と比較され、自分が有利な立場に立たされれば、どんなに控え目な男でもうれしくなるものだ。
「ハーロウさん、また苦労の種がふえましたね」彼は微笑を一つうかべながらいった。「しかし、こんな種類の苦労の種はまだまだ当分続くと見なければなりませんね」
彼は彼女の方に歩みより、二人は中庭に面した二つの側面の窓の一つのところで向かいあった。ベティは窓の下に取りつけてある椅子に腰をおろした。
「私、本当をいうと、あの人に感謝しなければならないんです」彼女はいった。「だってあの人は私を笑わせてくれたんですもの。笑わなくなってからもうずい分たったような気がするわ」彼女は窓外に眼を向けたが、その眼は突然涙で一ぱいになった。
「ああ、どうか泣いたりしないで下さい」ジムは困惑しながら叫んだ。
「あなたの笑い声を耳にしてとてもうれしく思いました」彼は言葉をつづけた。「ぼくの共同経営者のところにあなたの不幸な電報がとどいたあとで、しかもぼくがあなたにいい報せを伝える前だったので」
ベティはじっと彼の顔をみつめた。
「いい報せですって?」
ジム・フロビッシャーは、もう一度ワベルスキーの書いた二通の手紙を細長い封筒から取り出すと、彼女に手渡した。
「さあ、読んでごらんなさい」彼はいった。「日付に注意してね」
ベティはその筆跡にちらりと眼をやった。
「まあ、ボリスさんからなのね」彼女はそう叫ぶと、よく読むために椅子に腰をおちつけた。短い黒のフロックを着、黒い絹の靴下に包まれたすらりとした足を組みあわせ、頭と白い頸をワベルスキーの手紙の上にかがめている彼女は、ジムにはまだ学校を出たばかりの少女のように思われた。しかし彼女は、この手紙の価値を充分理解できる頭をもっていた。
「もちろん、ボリスさんのほしがっていたものはお金だということを、私はいつも知っていました」彼女はいった。「そんなわけで、伯母の遺書が読まれて、全部私が相続するということを知った時、あなたに御相談して、あの人に少し分けてあげたいと思ったのです」
「あなたにそんなことをする義務はありません」ジムは異議をとなえた。「彼は実際は血のつながった親類ではないんです。ハーロウ夫人の妹さんと結婚しただけの話じゃありませんか」
「わかっていますわ」ベティはそう答えて笑った。「あの人は私が『叔父さん』といわないで、『ボリスさん』というのでしょっちゅう文句をいっていました。しかしそれでも、私は何かをしてあげようと思っていたのです。ただあの人は、私に時間をくれようとはしなかったのでした。あの人は最初から私もおどしたのです。おどされるなんて、私大きらいですわ――そうじゃないかしら?」
「ぼくもそう思います」
ベティはもう一度その手紙に視線を向けた。
「これはあの人のことを鼻の先であしらった時に書いたものだと思いますわ」彼女はいかにもうれしそうに言葉をつづけた。「そのあとであの人はあの恐ろしい告訴を起こして、私が何か分けようといっているのは、自分の罪をもみ消そうとしているからだなんていうんです」
「あなたのいっていることは正しい。たしかにその通りでしょう」ジムは心の底から同意した。
この瞬間までジム・フロビッシャーは心の奥では、この少女がボリス・ワベルスキーを少しばかり虐待していたのではないかと思っていた。ワベルスキーは食客であり宿なしで、彼女に何一つ要求する権利はもっていなかった。それは事実だった。しかし反面、彼は生計の手段をもたず、ハーロウ夫人――彼女からベティは財産を相続したわけであるが――は甘んじて彼のことをがまんし、甘んじて彼を養ってきたのだった。しかし今、彼女に対する疑いは消え去った。彼女の汚点と考えられていたものは、彼女自身の率直さによって取り除かれたのである。
「では、これで全部片がついたわけですのね」ベティは安堵のため息をつきながら、ジムに手紙を返していった。そして悲しげな微笑をうかべた。「だけど、このところしばらく、本当に恐い目にあいましたわ」彼女はいった。「だって、呼び出されて予審判事に色々尋問されたんですもの。だけど、尋問そのものよりも、その判事の方がこわかったわ。こわい顔をするのは職業柄仕方がないと思いますけど、あんなにこわい顔をされると、頭のわるいのを人に知られたくないからじゃないかと思ってしまうんです。頭のわるい人って危険なものですわね?」
「本当に大変でしたね」ジムは調子をあわせた。
「それからその判事は、私がにげ出すのではないかと思ったらしく、車を使うことを禁止してしまったんです。それだけじゃありません。裁判所からのかえりに出あった友だちからは、無実の罪で死刑にされた人たちが数えきれないほどいる話をきかされたんです」
ジムはじっと彼女の顔を見て、
「何て人たちだろう!」と叫んだ。
「友だちなんて、みんなそんなものですわ」ベティはさとり切ったように答えた。「だけど、私の友だちって特別感じがわるいの。だって、腕の立つ弁護士をどうして頼まなければいけないかとか、ハーロウ夫人が養女にしたのだから、母親殺しになるかならないかとか、平気で議論するんですもの。私のような場合には情状酌量なんてことはなく、黒いヴェールを頭にかぶり、はだしで断頭台に行かなければならないなんていうんです」彼女はジム・フロビッシャーの顔に嫌悪と憤りの表情がうかんでいるのを見て、彼の方に片方の手をさし出した。
「全くひどいことをいうものですね」ジムは叫んだ。
「ともかく、私が少しばかり取り乱してかえってきたことは想像して頂けると思います」彼女は言葉をつづけた。「私があの愚かな狼狽した電報を打ったのは、そのためだったのです。気持がおちついてから、取り消したいと思ったんですけど、もう間にあわなかったのです。電報は――」
少しばかり語調を高め、はげしく息を吸いこんだと思うと、彼女は不意に言葉をとぎらせた。
「あれは誰なの?」彼女の声はすっかり変っていた。今までは彼女の恐怖の原因について、ユーモラスといってもいいくらいの調子で静かにゆっくりと話をしていたのだったが、今のせきこんだきき方には、まぎれもない不安の色があった。
大柄な、がっしりした体つきの男が、ぶらぶらと鉄の門を通り抜け、突然足早に中庭の中に入ってきた。ほんの一瞬前まで、小道をのらくらしていたのに、今ではすでに玄関の大きな扇形をしたガラスの下に消えていた。
「あれはアノーです」ジムの言葉をきくと、ベティはバネでも仕かけてあるようにさっと立ちあがったが、その足もとはふらついていた。
「何も恐がることはありません」ジム・フロビッシャーは彼女を安心させた。「ぼくはワベルスキーの書いた二通の手紙を彼に見せました。彼はあくまであなたの味方なのです。昨日パリで彼からそうきいたばかりです」
「昨日、パリで?」ベティが不意に口を切った。
「ええ、ぼくは彼にあいに警視庁に行きました。彼のいった言葉ははっきりとおぼえているので、そっくりそのままいうことができます。『あなたのかわいい依頼人も、不公平な目にあうことを心配せずに、安心して眠ることができるのです』彼はそういったのです」
ジムがそういい終った時、玄関のベルがけたたましく家中になりひびいた。
「では、どうしてあの人はディジョンなんかにきたんです? どうしてうちの玄関の前なんかに立っているんです?」ベティはなおも執拗にくり返した。
しかしそれは、答えてはならない質問だった。彼はアノーから秘密を打ち明けられ、その秘密をもらさないことを誓ったのだ。もう少しばかり、アノーがディジョンにきたのはワベルスキーの告訴のためで、それが決して口実などというものではないことを、ベティに信じさせておかなければならない。
「アノーは命令に従って行動しているだけなのです」ジムは答えた。「ここにきたのも、命令を受けたからなんです」その答で彼女が納得したので、彼は安堵の胸をなでおろした。実をいうと、彼女は彼のあずかり知らない問題のことを考えていたのだったが。
「それであなたはパリにいるアノーさんにあいにいらしたんですのね」彼女はやさしい微笑をうかべながらいった。「私を助けるために何から何までして下さったわけね」彼女はそういいながら開いている窓の敷居の上に片手を置いた。「私のあのあわてふためいた電報を見て、あの人はさぞ満足だったことでしょう」
「彼はあなたが困っているのを気の毒がっていただけなんです」
「では、電報をお見せになったの?」
「彼は読んでから破ってしまいました。あの電報は、手紙をもって彼にあいに行く口実だったのです」
ベティはまた窓の下にある椅子に腰をおろすと、黙ってというように指を一本あげてみせた。ドアの外で人声がし、ドアがあいて例の老僕が部屋の中に入ってきた。今度は盆の上に名刺をのせてはいなかったが、何かにひどく心を動かされ、少しばかり度を失っているようだった。
「お嬢さま」そう彼がいいかけるのを、ベティはさえぎった。彼女の態度には、もはや不安の影は見られなかった。
「わかってるわ。ガストン。アノーさんをお通しして」
ところが、アノー氏はすでに部屋の中に入ってきていた。彼はベティ・ハーロウに向かって愛想よく頭を下げ、ジムと心からの握手を交わした。
「お嬢さん、庭を通りながら、フロビッシャーさんがもうあなたと一しょにいるのを見てほっとしました。ともかくも私が、お伽話の中に出てくる人食鬼ではないことを、彼があなたにお話しするでしょうからね」
「でも、あなたは一度も窓の方をごらんにならなかったわ」ベティは当惑の面持で叫んだ。
アノーは快活な微笑をうかべた。
「お嬢さん、窓を見上げないで、その向こうで何が起こっているかを知ることが、私の商売の腕の見せどころなのです。では、失礼します」彼はこういうと、部屋の中央にある大きな書き物机の上に、帽子とステッキを置いた。
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五 ベティ・ハーロウの返答
「しかし、窓がどんなに大きくても」アノーは言葉をつづけた。「二週間前に起こったことを見通すことは不可能です。そんなわけですから、御迷惑とは思いますが、少し質問させて頂かなければならないのです」
「どうぞ何でもおきき下さい」ベティはおちついた口調でいった。
「きっとそういって頂けると思っていました」アノーは快活に大きな声でいった。「腰を下してもかまいませんか?」
ベティは青白い顔をうす赤く染めて、さっと立ちあがった。
「どうも失礼いたしました。さあ、どうぞおかけになって」
この些細な礼儀上の手落ちから見ても、ジム・フロビッシャーには彼女が興奮しやすい女に思われた。もしそうしたことがなかったなら、年に似合わぬおちついた女だと思いこんだにちがいない。
「いや、かまいません」アノーは微笑をうかべながらいった。「いずれにしても、私たちは――たとえそれがどんなに温厚な人物でも――相手に不安な気持をあたえるらしいですからね」彼はテーブルのわきにある椅子をひきよせて、ベティと向かいあうようにした。しかし位置の点からいうと、彼女の方がはるかに有利だった。というのは、彼の顔には午前の強い陽光が一面にあたっていたのに、彼女の顔は部屋の内部に向いていたからである。
「では」彼は腰をおろしながらいった。「先ず私が今知っている範囲内で、簡単に私たちの計画をお話ししましょう。ハーロウ夫人の死体は昨日の夜、あなたの公証人の立会いのもとに発掘されました」
ベティは突然、ぞっとしたように身をふるわせた。
「わかっています」彼はすばやく言葉をつづけた。「止むを得ないこととはいえ、全く悲しむべきことです。しかし私たちは別にハーロウ夫人の名誉を傷つけようというわけではありません。私たちは生きのこっているあなたのことを考えて、あなたに嫌疑のかからないことを――あなたの一番信頼できる友人の間にも疑いがのこらないことを――たしかめておかなければならないのです。ねえ、そうじゃないでしょうか? では、これからあなたにいくつか質問しましょう。それさえすめば、あとは解剖の報告を待つばかりです。そして予審判事があなたに挨拶をし、この私は、運さえよければ、美しいミス・ハーロウの署名の入った写真を胸に抱いて、あの単調なパリにかえって行くわけです」
「それで全部片がつくわけですの?」ベティは両手をしっかりと組みあわせながら叫んだ。
「あなたに関するかぎりではね。しかしあのボリス君の方はそういうわけにはいかないのです!」アノーはこれから先のことを考えて、意地のわるそうな笑いをにやりともらした。「私はあのろくでなしの先生と三十分ほどあって話をするのを楽しみにしています。私はもったいぶったりは全然しないつもりです。それからフロビッシャー君とは同行しないようにしましょう。彼は私の楽しみを全部取りあげてしまうでしょうからね。まるでオールドミスの伯母さんみたいに真面目くさった顔で私を見て、『これはあきれた! なんという男なんだろう! 頭がどうかしているんだ!』なんて心の中で考えているんですからな。そうです、私はたしかに頭がどうかしているにちがいありません。しかしその代りに、ディジョンからパリにかえる間は、思う存分笑うことができるわけです」
アノーは実際に声をあげて笑い出していた。ベティも突然一しょになって笑い出した。彼女のよく通る甲高い楽しそうな笑い声をきいていると、ジムはあけ放したドアから玄関にひびいてきた、さっきの笑い声を思い出した。
「ああ、本当によかった」アノーは叫んだ。「お嬢さん、あなたは私のつまらない話をきいてさえ、笑うことができるんですからね。あなたはフロビッシャー君をこのディジョンにひきとめて、この笑いというもっとも神聖な術策をおぼえるまでは、ロンドンにかえさないようにしなければいけません」
アノーがこういって、少しばかり椅子をひきよせた時、ジム・フロビッシャーの脳裡には、この上もなく不快な考えが不意にうかんできた。そうだ、医者が軽口や冗談を無理やりにひねり出しながら、重病の患者のベッドのそばに椅子をひきよせるのとまるきり同じではないか。その考えがすっかり姿を消す前に、アノーはすでに数分間質問をつづけていた。
「さて!」アノーは口を切った。「仕事にとりかかって、一切の事実をはっきりと整理してみましょう」
「ええ」ジムは同意すると、同じように椅子を少しばかりひきよせた。この事件の事実を自分がほとんど知らないのは奇妙なことだ、彼の頭にはそんな考えがうかんできた。
「では、うかがいますが、ハーロウ夫人は夜、自分のベッドの中でごくおだやかに息をひきとられたわけですね?」
「ええ」ベティは答えた。
「四月二十七日の夜でしたね?」
「ええ」
「その晩、夫人は自分の部屋で一人で寝たのですか?」
「ええ、その通りです」
「いつもそういう習慣なのですか」
「ええ」
「夫人の心臓はもう前からわるかったのですね」
「三年前からです」
「それでいつも正規の看護婦がいたわけですね?」
「ええ」
アノーはうなずいてみせた。
「ではうかがいますが、その看護婦はどこで寝ていたんです? 隣の部屋でですか?」
「いいえ。階は同じですが、廊下の端の部屋でした」
「その部屋はどの位はなれているんです?」
「伯母の部屋から二部屋はなれています」
「それはどれも大きな部屋ですか?」
「ええ」ベティはいった。「どれも一階にあって、応接間といってもいいような部屋です。でも、階段が心臓に危険なので、伯母のために特に改造したんです」
「なるほど」アノーはいった。「その間に二つの大きな応接間があったわけですね? それに壁は厚いときている。近頃建った家でないことは簡単にわかりますからね。そこで一つうかがいたいのですが、夜家中がしんとしている時に、夫人が叫び声をあげたら、看護婦の部屋できこえるでしょうか?」
「きっときこえないでしょうね」ベティは答えた。「でも、伯母のベッドのそばにはベルがついていて、看護婦の部屋に通じるようになっていました。そして大して手をのばさずに簡単にボタンを押すことができたのです」
「ああ!」アノーはいった。「特別に取りつけたベルですって?」
「ええ」
「そして、手をのばせばとどくところにあるボタン。なるほど。気を失ってさえいなければ、全く重宝なものです。しかしもし気を失ってしまえば、大して役に立たないでしょう。もっと近くに看護婦を寝かせる部屋はなかったんですか?」
「伯母の部屋の隣に、ドアの通じている部屋がありました」
アノーは当惑の表情をうかべながら、椅子の背にもたれかかった。ジム・フロビッシャーは自分が口を出すべき時がきたと考えた。彼は二人のやりとりをきいているうちに、だんだんとおちつかなくなってきた。どんなにすらすらと苦もなく答えているとはいえ、必要もなくベティを困らせる理由は見当らないように思われたのである。
「アノーさん」彼は口を切った。「直接その部屋に行って見た方が、ずっと手っとり早いじゃありませんか」
アノーは勢いよくぐるりとふり向いた。そして驚嘆の眼で年下の仲間をみつめた。
「それはいい考えだ!」彼は熱のこもった口調で叫んだ。「全くすばらしい考えだ! 本当に気がきいている! なかなか凡人には考えつけない! それをこのフロビッシャーさんが考えついたわけです! 私はあなたに深い敬意を表しますよ!」こういうと、今度は気の抜けた調子でつけ加えた。「だが、全く残念なことだ!」
アノーはそのため息の説明をジムに求められるのをしきりに待っていたが、ジムは顔を赤くしただけで、たずねようとはしなかった。彼は明らかに間の抜けたことをいい出し、彼が救ってくれると思いこんでいる美しいベティ・ハーロウの前で、なぶりものにされているのだ。ともかくもアノーはしゃくにさわる男だ。しかしアノーは結局説明しなければならなかった。
「フロビッシャーさん、私たちはもっと早く部屋に直接いってみるべきでした。ここの警察署長が部屋に封印をしてしまったので、彼が立会わなければその封印を破ることができないのです」
窓のところにいたベティ・ハーロウは、その時気づかないほどのかすかな動きをした――一瞬唇に、かすかな微笑がかすめたのだ。そしてジムは、アノーが夜物音をきいた番犬のように身をこわばらせたのに気がついた。
「お嬢さん、あなたは面白がっているんですか?」アノーはきびしい口調でたずねた。
「とんでもありませんわ」
こういうと彼女はもう一度微笑したが、何かひどく思いに沈んでいるように見えた。「あのドアに貼ってある、リンネルのついた大きな封印をとって頂きたいものですわ。たしかに気まぐれかも知れませんけど、あれを見ると、本当にぞっとしてしまうんです。まるで家の中が差し押えられたみたいなんですもの」
アノーはすぐさま態度を変えた。
「お嬢さん、あなたの気持はよくわかります」彼はいった。「その封印がとれるように努力してみましょう。実際、告訴が起こされてから、それにハーロウ夫人が亡くなって十日もしてから、封印なんかしてみても大して役には立たないんです」彼はジムの方に向かってつけ加えた。「しかし私たちフランス人は、だれもかれもみんなお役所式の形式主義にしばられているんです。しかし今私が問題にしているのは、その部屋がどんな風になっているかということではありません。お嬢さん、それはつまりこういうことなんです」こういうと、彼はふたたびベティの方に向き直った。
「ハーロウ夫人は看護婦がいつもつきそっていなければならない病人でした。それなのにどういうわけで、ドアの通じている都合のいいその隣室で寝なかったんです?」
ベティはうなずいた。この質問にはちゃんと答えなければならない。彼女はからだを前にのり出して、慎重に言葉を選びながら、口を切った。
「ええ、でもそのことでしたら、伯母の性質を知って、伯母の立場になって考えて頂かなければなりません。それは伯母自身の注文だったのです。あなたがおっしゃったように伯母は病人でした。この三年の間、特別仕立ての列車で一年に一回モンテカルロに行く以外は、一歩も庭の外へ出なかったのです。しかし自分が病気だとはどうしても認めようとしませんでした。伯母はきかん気の勝気な人だったのです。やがてよくなる、もう二、三週間もすれば直ってしまうと思っていたので、まるでもうすぐ死ぬみたいにドアの通じている隣りの部屋に制服の看護婦がいることは、とうていがまんできなかったんです」ベティは一度言葉を切ってから、ふたたび言葉をつづけた。「もちろん、危険な発作が起こった時、看護婦はそばにうつしました。私がそういいつけたのです。でも発作がおさまると、また看護婦をもとにもどさなければなりませんでした。伯母にはとうていがまんすることができなかったのです」
ジムはその話を理解することができた。理解しただけではない。彼女の一言一句に何の疑いもさしはさまなかった。ただ――ただ――彼女は何かをかくしていた。彼の気にかかっていたのはそのことだった。彼女のいっているのはうそではない。しかし何かもっというべきことがあるはずだ。ベティは話しながら何かためらっていたようだった。そしてあまりにも入念に言葉を選び、突然ためらっているのをかくすかのように、少しばかりせきこんだ話し方をした。ジムがアノーの方に眼をやると、アノーはベティの顔をみつめたまま、身動きもせずに坐り、その冷静な態度によってさらに話をひき出そうとしていた。ジムは彼ら二人が、一つの秘密をはさんで対峙しているのを感じた。その秘密というのは、ハズリットやアノーによれば、ワベルスキーの気違いじみた告訴の背後に必ずひそんでいるという、世間の眼にふれないようにしておかなければならない小さなスキャンダルなのである。そしてベティの態度について考えこんでいたジムは、突然ベティのはげしい叫び声をきいてはっとわれにかえった。
「どうしてそんなふうに私をごらんになるの?」彼女はアノーに向かって叫んだ。その眼は青白い顔の中で突如としてもえ立ち、唇はふるえて、声は挑戦するように高くなっていた。
「アノーさん、私のことを信用していらっしゃらないのね?」
アノーは両手をあげて異議をとなえた。彼は椅子の背にもたれて、眼や姿勢を柔らげた。
「どうも失礼しました」彼はいかにもわるかったという口調でいった。「別に信用していないわけじゃないんです。何度も質問してあなたに迷惑をかけないように、一生けんめいきいていたのです。あなたがここ何日もひどい緊張の状態にいたのをつい忘れていたのです。申しわけありませんでした」
小さな激情の嵐は通りすぎた。ベティは窓際の腰掛のすみに身を沈め、窓枠に頭をもたせかけて、顔を少しばかり仰向けにしていた。
「アノーさん、あなたは本当に思いやりのある方ですわね」彼女はいった。「おわびしなければならないのは私の方です。まるでヒステリーの女の子みたいなまねをしてしまって。どうぞ質問の方をおつづけになって下さい」
「わかりました」アノーはおだやかな口調でいった。「こんなことはさっさと片づけてしまった方がいい。では二十七日の夜のことに話をもどしましょう」
「ええ」
「その夜、夫人の容態はいつもと同じでしたね――いつもよりよくもなければわるくもなかったのですね」
「どちらかといえば、少しいい方でした」
「それであなたはためらわずに、お友だちのダンスパーティにいらしたわけですね?」
ジムははっと驚いた。ではベティは、あの恐ろしい夜、外へ出ていたのだったか。これは彼女にとって有利な新事実だ。彼は思わず「ダンスパーティ!」と叫んだが、アノーは片手をあげてそれを制した。
「フロビッシャーさん!」彼はいった。「さしつかえなければお嬢さんに話をさせてあげて下さい!」
「私は別にためらったりはしませんでした」ベティは説明した。「家族の生活はいつもと同じでなければならなかったのです。私はいつもと変ったことをしてはいけなかったのです。伯母は極度に敏感なたちでした。表面では病気が重いのを認めようとしなかったのに、心底ではひそかに心配していたのです。そんなわけで伯母にショックをあたえないように注意をはらわなければならなかったのです」
「例えば、あなたが行くつもりにしているダンスパーティに行かなかったりすると、といったことですか?」アノーはいった。「なるほど、よくわかりました」
彼はジム・フロビッシャーの方に顔をあげながら、微笑してつけ加えた。「フロビッシャーさん、ベティさんがダンスパーティにいっていたことは今まで知らなかったでしょう。わが親愛なるワベルスキー氏も多分知らなかったのでしょう。さもなければ、あんなにあわてて署長のところにとびこんでくるはずがない。そうです。お嬢さんはあのもっとも極悪な犯罪の行なわれたと思われていた夜、お友だちとダンスをしていらしたわけです。ところで、お嬢さん、二十七日の夜、ワベルスキーはどこにいたのです?」
「家にはいませんでした」ベティは答えた。「二十五日にウーシュ河の近くにある村に鱒を釣りにいって、二十八日の朝になるまでかえってきませんでした」
「ほう」アノーはいった「なんという男だろう! ハーロウさんをあわててひっかけようとした手網よりも、少しはましな手網をもっていったんでしょうな。さもなければ、三日間の獲物もたかが知れている」
アノーが笑うと、その笑いと言葉につられて、ベティもかすかな微笑をうかべた。しかし彼はすぐさま質問にもどっていった。
「それであなたはダンスパーティにいった。その場所はどこですか」
「ティエール通りにあるド・プイアックさんのお宅です」
「出かけたのは何時ですか?」
「九時五分前です」
「それはたしかですね?」
「ええ」
「出かける前に夫人にあいましたか?」
「ええ」ベティは答えた。「出かける直前に伯母の部屋に行きました。伯母はベッドの上で夕食をとることが多かったのですが、その日もベッドの上で夕食をとっていました。私は今年の冬モンテカルロで買った新しいフロックを着ていたので、伯母に見せにいったのです」
「夫人は一人きりでしたか?」
「いいえ、看護婦が一しょでした」
これをきくと、アノーはずるそうな微笑をうかべた。
「お嬢さん、実をいうとそのことは知っていたのです」彼は歯を見せて親しげな笑いをうかべた。
「ちょっとあなたに罠をかけてみたのです。ここに看護婦のジャンヌ・ボーディーヌの供述書があります」
彼はポケットから一くぎりの文章をタイプで打った一枚の紙をとり出した。「予審判事が彼女を呼んで、供述をとらせたんです」
「私、ちっとも知りませんでしたわ」ベティはいった。「ジャンヌはお葬式の日に暇をとって家にかえりました。私はそれ以後一度もあっていないんです」
彼女は感心したようにかすかな微笑をうかべて、アノーにうなずいてみせた。
「アノーさん、私はあなたにかくしたりしようとは思いません」彼女は感嘆の面持でいった。「長い間かくしておくことなんか、とうていできそうもありませんから」
アノーはこのお世辞をきいて、ほくほくしてしまった。そしてジム・フロビッシャーには、それがひどく安っぽい新米の探偵のように思われた。
「あなたはなかなか頭のいい人だ」彼は叫んだ。「ともかくも私はアノーですからね。天下広しといえどもアノーは一人だけしかいないのです」こういうと彼は胸をどんとたたいて、うれしそうに微笑した。「ああ、そうだ、今のはお世辞でしたね! では話を本筋にもどしましょう。これが看護婦の供述です」彼は手にもっている紙片を大声で読みあげた。
「『お嬢さまは銀の紗《しゃ》の新しいフロックと銀色の上靴を奥さまに見せるために寝室においでになりました。お嬢さまは枕をお直しになり、奥さまのお気に入りの本と飲み物がベッドのそばにあるかどうかをたしかめられました。それからお休みの挨拶もなさり、美しいフロックをきらめかせさらさらと音を立てながら、足どりもかるく部屋を出て行かれました。ドアがしまるや否や、奥さまは私に向かって――』」アノーはここで不意に言葉を切った。「だが、こんなことはどうでもいいことだ」彼は早口でいった。
突然ベティはさっとからだを前にのり出した。
「どうでもいいことですって?」彼女は彼の顔をじっとみつめながらたずねたが、その青白い頬にはゆっくりと赤みがさしてきた。
「そうです」アノーはそういって紙片をたたみはじめた。
「ドアがしまるとすぐ、伯母が私のことを何といったと書いてあるのでしょうか?」ベティはゆっくりとしかし執拗に、一つ一つ言葉を計り分けるようにしていった。「ねえ、アノーさん! 私には知る権利がありますわ」そういうと彼女は、紙片の方に手をさし出した。
「大したことではないのを、自分でわかるようにしてあげましょう」アノーはいった。「よくきいていて下さい!」彼はもう一度読みあげた。
「奥さまは時計を見ながら私におっしゃいました。『あの子は早目に出かけてよかった。ディジョンはパリとちがう。ちゃんと時間通りに行かないと、ダンスの相手がみつからなくなるからね』それが九時十分前だったのです」
アノーは微笑をうかべながら、ベティの手に紙片を渡した。彼女は、彼の読みあげたことが本当に書いてあるかどうか疑っているとでもいうように、また部屋を出たあとハーロウ夫人が何といったのか不安で仕方がないとでもいうように、さっと紙片の上にかがみこんだ。彼女はほんの数秒間紙片に眼を走らせていたにすぎなかったが、アノーに紙片を返した時、その態度はすっかり変っていた。
「ありがとうございました」彼女はその深い色をたたえた眼をうらめしそうに光らせ、苦々しい口調でいった。ジムはこの変化に気がつき、彼女に同情をおぼえた。アノーは何も罠をかけていない時に、罠をかけたといった。なぜなら、看護婦のいる前で夫人にあい、パーティに出かける前にお休みなさいをいったことなど、何も警戒するにはあたらなかったからだ。ところがアノーは、そのすぐあとで本当の罠をかけ、ベティはたちまちその罠にひっかかってしまったのだ。彼は彼女を罠にかけて、彼女が寝室を出ていったあと、夫人が彼女のことを非難したり悪口をいったりしたのではないかという不安をもっていることを認めさせてしまったのである。
「アノーさん、知っておいて頂かなければなりませんわ」彼女はこの上もなく冷やかな口調で弁明した。「女同士というものは、必ずしも寛大であるとはいえません。そして時々、少しばかり人を傷つけようと思っていったことがどんな結果になるかを――何といったらいいでしょうか?――ありありと心に描く想像力に欠けているものなのです。私とジャンヌ・ボーディーヌは、私の知っているかぎりでは仲のよい友だちでしたが、実際のところはたしかでありませんし、あなたが供述書を急いでおたたみになった時、当然のことながら、そののこりをひどく知りたくなったのです」
「あなたのお気持はよくわかります」ジムが言葉をはさんだ。「証明することも反証をあげることもできない、何か意地のわるいことを看護婦がつけ加えたかも知れませんからね」
「お嬢さん、それは私の誤解でした」アノーはわびるような口調で答えた。「これからはそんなことのないように気をつけましょう」彼はそういうと、もう一度看護婦の供述書に眼を通した。
「これには、夫人の気に入りの本と飲み物がベッドのそばにあるのを調べてみたと書いてあります。たしかにそうなんですね?」
「ええ、その通りです」
「その飲み物は何でしたか?」
「レモネードでした」
「それは毎晩テーブルの上においてあったんですね?」
「ええ」
「催眠剤などは入っていなかったのですね?」
「ええ」ベティは答えた。「伯母が眠れない時には、看護婦が錠剤の阿片をあたえるか、ごくたまにはモルヒネを少量注射していました」
「しかしその晩は、そんなことはしなかったでしょう?」
「私の知っているかぎりではしませんでした。もしそういうことがあったとすれば、私の出かけたあとだと思います」
「よくわかりました」アノーはそういうと、紙片をたたんでポケットの中にしまった。「これで供述書の方はすみました。ところで、あなたは九時五分前に家を出、夫人はいつもと同じような容態でベッドに横になっていたわけですね」
「ええ」
「結構です!」アノーは態度を変えていった。「では、一つあなたのその晩のことを調べてみましょう。あなたはうちにかえってくるまで、ずっとド・プイアック氏の家にいらしたわけですね」
「ええ」
「だれと踊ったかおぼえていますか? 必要な場合には、ダンスの相手の表を作ってもらえますか?」
彼女は立ちあがると、机のところに行き、その前に腰をおろした。そして一枚の紙を手許に引きよせ、鉛筆を取りあげた。時々鉛筆のまるい端を唇にあてて、しきりに記憶をよびさましながら、名前の表を書いていった。
「これで全部だと思います」彼女はそういって、その表をアノーに渡した。彼はうけ取ると、ポケットの中にしまいこんだ。
「ありがとう」彼は今やすっかり満足しきっていた。次々に少しもためらわずに質問をつづけていったが、ベティの答はいずれも予期した通りのものらしかった。彼はきびしい取調べを強要しているというよりは、やむなく形式的な尋問をして、それを完全になしとげたいと思っている風だった。
「ところで、お嬢さん、家におかえりになったのは何時だったのです?」
「一時二十分すぎでした」
「たしかにその時間ですね? 自分の腕時計を見たのですか? それとも玄関の広間にある時計を見たのですか? あるいはほかの時計を見たのですか? グルネル荘にかえったのが、きっちり一時二十分だとどうして断言できるのです?」
アノーは自分の椅子を少しばかり前の方に引きよせたが、彼女は何のためらいもなく即座に答えた。
「玄関の広間には時計がなく、私も時計をもっていませんでした」ベティは答えた。「女の人には腕時計をしている人がありますが、私はきらいなんです。私は手頸にものを巻いたりするのが大きらいなんです」彼女はそういうとブレスレットにしめつけられたのを思いうかべたように、いらだたしげに腕をふってみせた。「その上すぐ置き忘れたりするので、ハンドバッグの中にも入れていなかったんです。そんなわけで、私が家にかえった時、何時だか全然わかりませんでした。私は運転手のジョルジュをいつもより少しばかりおそくまで働かせたのではないかと思いました。そこで何時だかわからなかったので、といってあやまったのです」
「わかりました。それでは、家にかえった時間を教えてくれたのはジョルジュだったんですね?」
「ええ」
「ジョルジュというのは、私が庭を横切ってきた時仕事をしていた運転手ですね?」
「ええ。ジョルジュは私が少しうきうきしているのを見てうれしいといい、自分の時計を出して、笑いながら私に見せてくれたのです」
「それは玄関でですか、それともあの大きな鉄の門のところでですか?」アノーがたずねた。
「玄関ででした。門番がいないので、だれかが外に出るときは、門をあけたままにしておくのです」
「それでは、家の中にはどうやって入ったのです?」
「自分の鍵を使って入りました」
「わかりました。何一つあやふやなところはありませんな」
しかしベティは、自分の答にアノーが満足したからといって、決して気持を和らげはしなかった。ぐずぐずしないでてきぱきと答えてはいたが、その態度は反抗的だった。ジムは少しばかり心配になってきた。彼女はもっとアノーと妥協しなくてはいけない。彼女は思慮分別もなく腹を立てやすい。
『尋問がすむ前に、この少女はアノーを敵に回すかも知れない』彼は不安な思いで考えた。しかし彼は、探偵の方をちらりと見て、安堵の胸をなでおろした。なぜならアノーは、これほど機嫌をわるくしていなかったら、どんな若い女性の心もやわらげてしまうにちがいない微笑――その微笑には親しみと興味とが入りまじっていた――をうかべて彼女をみつめていたからである。
「あなたは午前一時半前にかえってきて家の中に入ったわけですね」アノーはふたたび話をはじめた。「それから一体どうしたんです?」
「まっすぐに二階にある自分の寝室に行きました」ベティはいった。
「女中は起きて待っていましたか?」
「いいえ。おそくなるから着がえは自分でするといっておいたのです」
「お嬢さん、なかなか思いやりのある方ですね。あなたが少しばかりうきうきしていると、雇人たちが喜ぶのも無理からぬことですね」
こんなお世辞をきいても、少女の不機嫌は取除けなかった。
「まさか」彼女はなめらかな美しい声でいったが、どんな意地のわるい返事よりもはげしい敵意がこもっていた。しかしアノーは少しも腹を立てなかった。
「では、ハーロウ夫人の死んだのを最初にきいたのはいつだったのです?」彼はたずねた。
「次の日の朝の七時に、女中のフランシーヌが私の部屋にかけこんできたのです。看護婦のジャンヌが発見したすぐあとでした。私は化粧着をひっかけて階下にかけおりました。そしてそれが事実であることをたしかめると、すぐさまかかりつけの二人のお医者さまに電話をかけたのです」
「レモネードのコップは見ましたか?」
「ええ。コップはからになっていました」
「その女中は今でもここにいますか?」
「ええ――フランシーヌ・ロラールという女中です。いつでもお呼びしますわ」
アノーは肩をすくめると、疑わしそうに微笑してみせた。
「あう必要があるかも知れませんが、それはあとで結構です。今はあなたからあなたの行動についてうかがいたいのです。それが大事なことなのです」
彼はそういうと、椅子から立ちあがった。
「ハーロウさん、あなたは私のことをひどくしつこい男だとお思いでしょう」彼は会釈をして言葉をつづけた。「しかし世間の疑いに対して、あいまいな点を完全になくしておくことが、あなたのためにどうしても必要なのです。それにこのやっかいな尋問もあと少しで終りますからね」
ジムはアノーが立ちあがった時、この退屈な尋問もやっと終ったのかと胸をなでおろしたが、ベティの方は全く無関心だった。
「あなたの方こそ大変でしょう」彼女は冷然としていった。
「では、あと二つだけうかがいます。私は今まできたないやり方はしなかったと思いますが、そのことはわかっていただけるでしょう」
ベティは会釈をした。
「その二つの質問というのをおはじめ下さい」
「では、はじめましょう。第一にあなたは夫人の全財産を相続されたわけですね?」
「ええ」
「あなたはそれをそっくりそのまま相続できると思っていたのですか? 夫人の遺書のことは御存知でしたか?」
「いいえ。私はかなり沢山のお金がボリスさんのものになると思っていたのです。伯母がそうった記憶はないのですが、ボリスさんがたえずそうなるとくり返していたからです」
「たしかにその通りでしょう」アノーは軽い調子でいった。「夫人は生きている間、あなたに対して気前がよかったでしょうか?」
ベティの顔からはかたい表情が消えた。その表情は和らいで悲しみと後悔の色がうかんできた。
「ええ、とても」彼女は低い声で答えた。「お小遣いとして年に千ポンドもらっていました。ディジョンでは千ポンドはなかなか使いきれない金額なのです。それだけではありません。もっと必要な場合は、ほしいといいさえすればよかったのです」
突然ベティの声はすすり泣きのためにとぎれた。アノーはジムが思ってもみなかった思いやりを見せて、つと顔をそむけた。そして彼女が自分の悲しみをおさえることができるように、棚の上の本に視線を向けはじめた。
「サイモン・ハーロウ氏の蔵書だということがすぐわかりますね」彼は口を切ったが、突然口をつぐんだ。ドアがぱっとひらいて、一人の少女がとびこんできたからである。
「ベティ」彼女はそういうと、立ちどまり、二人の客を交互にみつめた。
「アン、こちらがアノーさんよ」ベティが無造作に手をふって紹介すると、アンはまっさおになった。
アンだって! ではこの少女がアン・アプコットだったのか、とジム・フロビッシャーは思った。これが彼に手紙をよこした少女、彼が二度までも知らないといい張った少女なのだ。この少女なら、となりに座ったこともあったし、話しかけたことさえあった。彼女はすべるように彼の方に進んできた。
「とうとうきて下さったのね!」彼女は叫んだ。「きっときて下さると思っていたわ!」
ジムは、キラキラ光る黄色い髪や、サファイア色の眼や、いいようもなくあいらしく優美な血色をした顔をぼんやりと感じた。
「もちろん、ぼくはやってきました」彼が力なくそういうのを、アノーは微笑しながらながめていた。やがて彼は視線をベティ・ハーロウの方にうつしたが、その微笑は『この青年はディジョンを立ち去る前に、色々なごたごたに巻き込まれるだろう』とはっきりいっているようだった。
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六 ジム宿をかえる
図書室というのは、中庭に面している二つの高い窓と、歩道につき出した出窓のある、大きな長方形の部屋だった。この出窓のすぐそばにある壁の中のドアは、となりの部屋に通じていて、中庭に面している窓の反対側には大きな暖炉がとりつけられていた。壁は、ところどころ本が抜き出してある以外はぎっしり本がつまっている本棚になっていた。アノーは手にもっていた本をもとの場所に返しながら口を切った。
「これが収集家のサイモン・ハーロウ氏の蔵書だということはすぐわかる。人が買ったり読んだりする本を比較検討する時間さえあれば、ほかのどんな方法によるよりも、その人の本当の姿をもっと確実に知ることができるはずです。もっとも残念なことに、そんな時間がないのです」彼は残念そうにジム・フロビッシャーの方をふり向いた。「フロビッシャーさん、ここにきて一しょに立ってごらんなさい。本の背文字をちょっと見るだけでも、何か得るところがありますよ」
ジムはアノーの傍に立った。
「ほら、ここに古代イギリスの金貨史がある。それからここには――この本の題名を読んでくれませんか」
ジムはアノーの指さした本の題名を読んだ。
『陶器及び磁器の記号と組みあわせ文字』
アノーはその題名をくり返しながら、先に進んでいった。そしてベティの坐っている窓の左側にある、彼の胸の高さの棚から、紙表紙のうすい大判の本を取り出し、その図版をめくった。それはバターシー産の琺瑯《ほうろう》細工のことを書いた仮綴《かりと》じ本だった。
「この本には続巻があるはずです」ジム・フロビッシャーは本棚にちらりと視線を向けながらいった。それは全く気乗りのしない口調だった。彼にとって、バターシー産の琺瑯細工の本なんか、何の関心ももてなかった。そんなことよりも、どういうわけでアノーがそばによんだのかと考えていたのだった。二人の少女がかわすすばやい合図とか、二人が共謀しているという形跡を探り出せというのか? もしそういうことだったら、失望を味わわなければならなかったろう。なぜなら、今ベティもアンも油断のないアノーの眼から自由にとき放されていたにもかかわらず、身動きもしなければ、合図もしあう様子もなかったからである。しかしアノーは、その本にすっかり興味をうばわれているらしく、ジムに返事をしていった。
「そうです。続巻がありそうに思えますが、これ一冊で完結しているのです」彼はそういうと、本をもとの場所にもどした。そのとなりには、同じくらいのうすさの四つ折判の本が一冊入るすきまがあったが、アノーは指をそのすきまにあてたまま、何かしきりに別のことを考えているようだった。
ベティが彼を現実によびもどした。
「アノーさん」彼女は窓際の椅子に腰をおろしたまま、おだやかな声でいった。「まだもう一つ質問がのこっているはずですわ」
「ええ、別に忘れてしまったわけではないのです」
彼はそういうと、恐ろしくすばやい動作でふり向き、二人の少女に面と向かった。ベティは彼の左側の窓のところに、アン・アプコットは右側の少しばかりはなれたところに立ち、畏怖《いふ》の念をこめて彼をみつめていた。
「お嬢さん」彼は口を切った。「ボリス・ワベルスキーが告訴してから、ディジョンではやっているらしい匿名の手紙に困らされたことはありませんか?」
「一通だけ受けとったことがあります」ベティは答えたが、アン・アプコットははっとして眉をあげた。「着いたのは日曜の朝でした。いうまでもなく、ひどく中傷的なものでしたが、一つのことが書いてなかったら、私の注意をひかなかったでしょう。その手紙には、アノーさんがこの事件を調べるためにパリからやってくると書いてあったのです」
「ほう!」アノーはおだやかな口調でいった。「あなたはその手紙を日曜の朝うけとったんですね? 私にみせてもらえませんか?」
ベティは頭を横にふった。
「お見せするわけには行かないのです」
アノーは微笑した。
「もちろんだめでしょうな。だれでもそんな手紙は破ってしまうものですが、あなたも破ってしまったわけですね」
「いいえ、破ったりはしませんでした」ベティは答えた。「ちゃんととってあります。私の居間の机の引出しの中に入れてあるんです。でもその部屋は封印されています。手紙は引出しの中にまだ入れたままになっているんです」
「では、にげ出すことはできないでしょう」彼は満足げにいった。しかしその満足もすぐ消え去ってしまった。「そうすると、警察ではあなたの居間まで封印してしまったんですね。たしかにそれは少し行きすぎだ」
ベティは肩をすくめた。
「あそこは私の部屋で、私のものがおいてあるんです。ともかくも私は告訴されたんですから!」彼女は苦々しい口調でいったが、アン・アプコットの方はそれだけで満足することができなかった。そしてベティの方に一歩進みより、アノーの方をみつめた。
「でも、それだけじゃありませんわ」彼女はいった。「ベティの部屋は、ハーロウ夫人の寝室になっていた一続きの部屋の一つなのです。それは玄関の広間に面している一続きの部屋の一番端の部屋なので、他の部屋と一しょに封印をしなければならなかったのです」
「よくわかりました」アノーは微笑をうかべながらいった。「それでは、署長が封印したのも無理はない」彼は窓のところの椅子に坐っているベティにふと眼を向けた。「ハーロウさんを怒らせてしまったのは運がわるかった。一つ厄介な日付をはっきりさせる手伝いをして頂けないでしょうか? ハーロウ夫人が埋葬されたのは、十二日前の土曜日の朝でしたね!」
「ええ」アン・アプコットが口をはさんだ。
「そして葬式のすんだあと、この家にもどってから、公証人が遺言をあけて読んだわけですね」
「ええ」
「ボリス・ワベルスキーもその場に居あわせたんですね?」
「ええ」
「そのことがあってから丁度一週間たった五月七日の土曜日に、彼は警察署にとびこんできたんですね?」
「ええ」
「そして日曜日の朝、匿名の手紙が郵送されてきたのですね?」
アノーがベティの方に向き直ると、彼女はうなずいたみせた。
「そして同じ日曜の午前中、署長がやってきてドアに封印をした」
「正確にいえば、十一時でした」アン・アプコットが答えた。
アノーは低く頭をさげた。
「あなた方は二人ともすばらしい女性だ。一つ一つ正確な時間をおぼえていらっしゃる。それは貴重な才能で、私のような人間には大変役に立つのです」
アン・アプコットは、質問に一つ一つ答えて行くにつれ、だんだんくつろいだ態度になってきたが、今や思う存分笑えるくらいになってきた。
「アノーさん、私って何ごとにつけてもそうなんです」彼女はいった。「私って生れつきオールドミスにできているんですわ。椅子がちょっとずれていても、本が散らかっていても、時計の時間があっていなくても、絨毯の上に針が一本おちていても、どうにもがまんできないんです。すぐ気がついてちゃんとしなければ気がすまないんです。そうです、署長さんが玄関のベルをならしたのは、ちょうど十一時でした」
「署長は封印する前に、部屋の中を捜索しましたか?」アノーはたずねた。
「いいえ。私たちは二人とも、署長さんが捜索しないので、おかしいと思っていたのです」アンが答えた。「しかしあとになって、予審判事が何も動かさないように望んでいたのだと、署長さんが教えてくれたんです」
アノーはにこやかに笑った。
「実をいうと、それは私のためなのです」彼は説明した。「アノーがパリからやってきたら、虫眼鏡を使って、どんな驚くべきことを発見するかも知れませんからね。どんな重要な指紋をみつけ出さないともかぎらない! いいですか! 燃やした手紙のどんなきれはしをみつけ出すかもわからない! だが、お嬢さん、たとえ犯罪がこの家の中で行なわれたとしても、犯行後二週間も家の人が自由に出入りできた部屋の中から、何か驚くべき発見ができようとは、このアノーでも期待してはいません。しかし」そういうと彼はドアの方に進んでいった。「私が今ここにきた以上は――」
この時ベティが、稲妻のようにさっと立ちあがった。アノーは立ちどまると、すばやく彼女の方にふり向き、挑戦的なきびしい眼で彼女をみつめた。
「あの封印を今破るおつもりなんですか?」彼女は妙に息せき切ってたずねた。「もしそうなら、私も一しょに行かせて頂けないでしょうか――どうか、お願いですわ! 告訴されたのはこの私なんです。私にだって立ちあう権利はありますわ」彼女の声は真剣な叫びにまで高まっていった。
「お嬢さん、おちついて下さい」アノーはおだやかな口調でいった。「あなたを出し抜いたりはしないつもりです。私は封印を破ったりしません。それは今いったように、行政官である署長の権限ですが、それにしても、解剖の手はずが整うまでは手をつけないでしょう。私はここにいるお嬢さんに――」彼はそういってアンを指さした。「その客間の外側と家の他の部分をみせて頂こうと思っていただけです」
「どうぞ、ごらんになって下さい」ベティはそういって、ふたたび腰をおろした。
「ありがとう」アノーはそういうと、アン・アプコットの方をふり向いた。「では、行きましょうか? 歩きながら、ボリス・ワベルスキーのことをどう思っておいでか、一つうかがいたいものですな」
「本当にあつかましい人ですわ」アンは叫んだ。「告訴をしたあとで、この家にもどってきて、私に味方になれっていうんですもの」そして彼女はアノーの先に立って部屋から出ていった。
ジム・フロビッシャーは二人のあとからドアのところに行き、ドアをしめた。この最後の数分間で彼の心はすっかりおちついた。本当に探偵がさがしているのは、匿名の手紙を書いた人間なのだ。手紙のことをいい出すと、彼の態度はがらりと変ってしまった。はなやかなおしゃべりも、冷淡さも、ベティの機嫌のわるさを面白がっている様子さえ、全く姿を消してしまった。そして彼は用心深くおちついて仕事にとりかかったのだ。ジムは部屋の中にもどると、ポケットからシガレット・ケースを取り出し、それをあけた。
「ちょっと失礼します」そういってベティの方を向いたとき、彼は新しいショックのために思考も言葉も一瞬凍りついたように思った。彼女は眼にあらわな狼狽の色をうかべ、顔を悲劇の仮面のようにこわばらせて、彼をみつめていたのだ。
「あの人は私が犯人だと思っているんだわ」彼女はささやくようにいった。
「いや、そんなことはありません」ジムはそういうと、彼女のそばに進んでいった。しかし彼女は耳を貸そうともしなかった。
「あの人はそう思っているわ。絶対そう思っているわ。あの人には犯人をみつけなければならない義務があるんです。あの人はパリからわざわざ派遣されてきたのです。ご自分の名声にかけても、かえる前に犯人をつかまえなければならないのです」
ジムはアノーとの約束を破ってしまいたい衝動にかられた。パリからアノーがやってきた本当の理由さえいえば、ベティのなやみは立ちどころに消え失せるのだ。しかし彼は約束を破ることができなかった。彼の生活のあらゆるしきたりが彼に沈黙を命じていた。彼は彼女に対する告訴さえも単なる口実にすぎないことさえ、あえて彼女にいわなかった。もう少しの間、彼女は不安な毎日をすごすほかはない。彼は彼女の肩にやさしく手を置いた。
「ベティ、そんなふうに思いこんでいてはいけません!」彼は、自分がいいたいと思っている説明にくらべて、今いっている言葉がどんなに不充分なものであるかを意識しながら、言葉をつづけた。「ぼくはアノーをよく観察しながら、注意深く耳を傾けていましたが、彼があなたにきいた質問の答を、前もって知っていたのはたしかです。だって、何もきかないのに、サイモン・ハーロウ氏が収集狂だということさえ知っていたじゃありませんか。彼は自分でも認めていたように、時々ちょっとした罠をかけながら、あなたがどう答えるかと思って、質問をしていたんです――」
「そうだわ」ベティは声をふるわせながらいった。「あの人はずっと罠ばかりかけていたんです」
「だが、あなたの答や、あなたの答え方は」ジムは断固として言葉をつづけた。「ますますあなたの無実を明らかにしてきたんです」
「あの人もそう思ったでしょうか?」ベティがたずねた。
「ええ、たしかに彼もそう思ったにちがいありません」
ベティ・ハーロウは彼の腕をつかむと、それを両手でにぎり、頭をもたせかけた。上衣のそでを通して、彼は彼女のすべすべした頬を感じた。
「ありがとう」彼女はささやくようにいった。「ありがとう、ジム」彼女は彼の名前を呼びながら微笑した。彼女は、彼の言葉が確固とした自信に充ちていたからというよりも、彼にさわっていることによって慰められたのを感謝したのだった。
「私ってちょっとしたことをあんまり考えすぎるんだわ」彼女は言葉をつづけた。「それからアノーさんに対しても、心がせますぎるんだわ。だけど、あの人は犯罪だとか犯罪者だとかの中で生きているのよ。人が有罪の宣告を受け、暗闇と恐怖の中に消え去って行くのをしょっちゅう見ているので、無罪であろうと有罪であろうと、そんなふうになって行くのを別に何とも思っていないんじゃないかしら」
「ベティ、それはちょっと当を得ていないように思えますね」ジムはいった。
「いいわ。今いったことは取り消しましょう」彼女はそういうと、彼の腕をはなした。「いずれにしても、ジム、私はあなたを頼りにしているのよ。あの人じゃなくてね」いい終ってベティは笑ったが、そのかすかにふるえる笑い声は訴えるようなひびきを含んでいて、彼の心をはげしくかき乱した。
「幸いにも、あなたには人に頼ったりする必要はないんです」
彼の言葉が終るか終らないうちに、アン・アプコットがひとりきりで部屋にかえってきた。彼女は背の高さも年も大たいベティと同じくらいで、ベティ同様、その年頃の少女によくみられるように、ボーイッシュなほっそりした体つきをしていた。しかしそれ以外の点では、着ている服の色にいたるまで、二人は全然ちがっていた。アンは上衣から靴にいたるまで、全部白いものを身につけていた。また大きな金色の帽子をかぶっていたので、どこまでが帽子でどこまでが髪の毛だか、はっきり区別ができなかった。
「アノーさんはどうしたの?」ベティはたずねた。
「あの方はひとりで方々歩き回っているわ」彼女は答えた。「私がお部屋を全部お見せして、だれが使っているのかお話ししたら、自分でちょっと調べるから、ここにもどるようにっておっしゃったの」
「あの人は応接室の封印を破ったの?」ベティ・ハーロウがたずねた。
「破ったりしないわ」アンがいった。「だって、署長さんが一しょにいなければ破れないっておっしゃってたじゃないの」
「たしかにその通りだけど」ベティは冷淡な口調でいった。「本気でそういったのかどうかはあやしいものよ」
「アノーさんのことは心配する必要はないと思うわ」アンはいった。ジム・フロビッシャーは彼女が今にもアノーおじさまとでも呼びだしそうな感じをうけた。彼女は探偵がきていると告げられた時のちょっとしたショックからはすでに完全に回復していた。
「それに」こういうと彼女は、窓の下のベティのとなりの席に腰をおろし、信頼しきったようなまなざしをジムに向けた。「それに、私たちもう安全なんだわ」
ジム・フロビッシャーは途方にくれたように両手を上にあげてみせた。彼のもっている一風変った超然とした風貌が、前にベティを誤解させたように、今またアン・アプコットを誤解させたのだった。帆をしっかりとりつけたヨットの中で突然突風におそわれた時とか、山の氷壁にのぼっている時とか、ナイル河畔の森の中で犀におそわれた時などに、この二人の少女から助けを求められたとしたら、彼にしても二人の信頼にこたえたことだろう。しかし、今の場合は全く事態がちがっていた。二人の少女たちはそれとなく彼をアノーと対抗させようとしていたのだ。
「あなた方はもともと安全なんです」彼は大声で叫んだ。「アノーはあなた方の敵ではないんです。それにぼくは、こういう種類の仕事には、経験もなければ才能もないんです――」彼はうなり声を一つあげて不意に言葉を切った。というのは、二人の少女とも、彼のいうことなど全然信用していないような微笑をうかべて、彼の顔をみつめていたからである。
『これは困った。二人ともぼくのことを機敏な抜け目のない男だと思っているようだ!』彼は心の中でつぶやいた。『ぼくが無能を認めれば認めるほど、ますます抜け目のない男だと思うだろう』彼はそこで議論は放棄することにし「もちろん、できるだけのことはするつもりです」といった。
「ありがとう」ベティはいった。「ホテルから荷物をもってきて、ここに泊って下さるでしょ?」
ジムはその招きに応じたかった。しかし一方、グランド・タヴェルヌでアノーにあいたかったし、アノーの方でも彼にあいたがらないともかぎらない。そしてこのような会合はあくまで秘密にしておかなくてはならない。そのためには自由に行動ができるようにしておいた方がいいのだ。
「ベティ、ぼくはあなたにあまり迷惑をおかけしたくないんです」彼は答えた。「また、そうしなければならない理由もありません。電話をかけて下されば、五分でとんできますよ」
ベティ・ハーロウは無理にすすめるべきかどうか迷っているようだった。
「それでは少し愛想がなさすぎるようですわ」そう彼女がいいはじめた時、ドアがあいて、アノーが部屋の中に入ってきた。
「帽子とステッキをここに置いておいたので」彼はそういって、それらのものを取りあげると、少女たちに向かって会釈をした。
「アノーさん、全部ごらんになりましたか?」ベティがたずねた。
「全部見せてもらいました。解剖の報告が手に入るまでは、もうご迷惑はかけないつもりです。では失礼します」
ベティは窓の下の席から静かに立ちあがると、玄関の広間まで彼を送っていった。ジム・フロビッシャーには、自分が不機嫌だったことに対して、彼女が埋めあわせをしているように思われた。そしてきこえてくる彼女の声には、何か謝罪の調子がこもっているようだった。
「できるだけ早くその報告の内容を教えて頂きたいものですわ」彼女は嘆願するような口調だった。「私が苦しい立場に置かれていることは、だれよりもあなたがご存知のはずです」
「お嬢さん、私にはよくわかっています」アノーはおちつきはらって答えた。「できるだけ早くあなたを苦しい立場から救うようにしましょう」
二人が日のあたっている玄関の広間に立っているのを、ジムは開いたドアごしにみつめていたが、ふと腕に何かかすかにふれるのを感じた。彼はすばやくふり向いた。それはアン・アプコットだった。アンの顔からは、みずみずしい生気もほのかな血色も、ことごとく消え失せ、眼には荒々しい絶望的な嘆願が宿っていた。
「この家に泊って頂けないでしょうか。お願いです!」彼女はささやくようにいった。
「今、お断りしたばかりです」彼は答えた。「あなたもきいていたはずです」
「私もききましたわ」彼女は一言二言口ごもりながら言葉をつづけた。「でも、もう一度考え直して下さい。お願いですわ! 私、とてもこわくて頭がおかしくなりそうなんです。私には何が何だかわからなくなってしまったんです。私、こわくて仕方がないんです!」
こういうと彼女は嘆願するように両手を強くにぎりしめた。ジムは今までにこれほどはげしい恐怖の表情を見たことはなかった。ついさっきベティの眼にうかんでいた恐怖も、とうていこれには及ばなかった。その恐怖は美しい彼女の顔から一切の美しさをうばい去り、一瞬のうちに老いやつれた顔に変えてしまった。ところが彼が口を切る前に、玄関の広間の敷石の上でステッキが大きな音を立て、ピストルの音のように二人をはっとさせた。
ジムは開いたドアのすき間からのぞいた。アノーはステッキを拾おうと腰をかがめた。ベティもあわてて身をかがめたが、アノーはすでに拾っていた。
「ありがとう、お嬢さん、私はこれでも爪先にさわることができるんです。毎朝パジャマを着たまま五回ずつ練習していますからね」こういうと、彼は声をあげて笑い、二段の石段を走りおりた。そして彼特有の妙に早いぶらぶらした歩き方で庭を横切り、あっという間にシャルル・ロベール通りに姿を消した。ジムがふたたびアン・アプコットの方をふり向いた時、彼女の顔からは恐怖の表情があとかたもなく消え去っていたので、彼はほとんど自分の眼を信ずることができなかった。
「ベティ、フロビッシャーさんはここにお泊りになるのよ」彼女は快活に叫んだ。
「私もそうなると思ってたわ」ベティは部屋の中にもどりながら、奇妙な微笑をうかべて答えた。
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七 ワベルスキー退場す
ジム・フロビッシャーはその日、それ以上アノーにあいもしなければ、彼の話をききもしなかった。彼はホテルから荷物を取ってきて、ベティ・ハーロウとアン・アプコットと一しょにその夜をグルネル荘ですごした。彼らは夕食が終ると、玄関広間の奥にある大きなドアから短い石段をおりて、裏庭でコーヒーを飲んだ。そして暗黙の了解のようなものができていて、三人ともワベルスキーの告訴の件にはふれないようにした。今のところ解剖の報告を待つ以外に打つ手はなかったのだ。アン・アプコットがすばやく前かがみになると、暗い芝生とかすかに白っぽく見える小道ごしに、高い木々の巨大なかたまりの方にじっと眼をそそいだ。それはまるで、彼女の眼が木々の幹の間に何か動いているものをみつけ出したようだった。しかし彼女は何もいわず、ほとんどきき取れないようなため息をもらして、また椅子の背にぐったりともたれかかった。
「通りから庭の中に入れる戸があるんですか?」フロビッシャーがたずねると、ベティがそれに答えた。
「いいえ。家の端の方の応接室の下に、植木屋が使っている中庭に通じる通路がありますが、それ以外には、私たちの後ろにある玄関の広間を通る入口があるだけです。この古い家は、家がお城の役割を果たしている時代に建てられたもので、入口の数が少なければ少ないほど、枕を高くして眠ることができたわけです」
沢山あるこの町の大時計が一せいに十一時を告げ、小尖塔や屋根の上で、先を争ってなりひびき出した。その時、ベティが立ちあがった。
「これでとにかく一日が過ぎたのね」彼女がそういうと、アン・アプコットもほっと安堵のため息をついてうなずいた。この二人の少女、毎日がはなやかであまりにも短い時間の連続であるべきこの二人の少女が、今日一日が過ぎたことを、静かに、ほとんど感謝せんばかりに喜んでいるのを見て、ジムはかわいそうな気持で一ぱいになった。
「いやな日もこれで最後ですよ」その彼の言葉をきくと、ベティは暗闇の中でその大きな眼をかがやかせながら、すばやく彼の方をふり向いた。
「お休みなさい。ジム」彼女は愛撫するように、彼の名前を長く引っぱっていうと、手をさし出した。「あなたにはとても退屈でしょうけど、私たちのわがままをきいて泊って頂きたいんです。だって、みんな私たちを避けているんですもの――もっともあたり前のことでしょうけど! 一しょにいて下さると、とても助かるんです。先ず第一に」彼女の口調は少しばかり明るくなった。「今夜はちゃんと眠れますわ」
彼女は石段をかけあがったが、玄関の広間の灯りを背景にして、一瞬のあいだ立ち止った。『黒い絹の長靴下をはいた、足の長いやせっぽちの少女』ハズリット氏は五年前の彼女のことをそんなふうにいっていたが、その形容は今もそのままあてはまっていた。
「お休み、ベティ」ジムがそういうと、アン・アプコットも彼の横を通って石段をかけあがり、彼に向かって手をふった。
「お休み」とジムはいった。アンは肩をねじるようにして、ベティのあとを追っていったが、やがてまたもどってきた。白い靴下とサテンの靴をはき、愛らしい白のクレープデシンのフロックを着た彼女の姿は、石段の一番上で細長い銀細工のようにかすかに光っていた。
「家の中にお入りになる時は、ドアに閂をかけて下さいね」庭の頑丈な塀の高さのことを考えあわせると、奇妙なほど不安そうに、彼女は嘆願した。
「わかりました」ジムはそういったが、アン・アプコットが何かにつけて恐怖の色を表に現わすのを、どういうわけだろうといぶかしく思った。今こそ一列にずらりとならんでいる窓は一せいにあけ放たれ、この家とそこに住んでいる人々から禁制がとかれるべき時なのだ。ジム・フロビッシャーは明日にでもそうなることを祈りながら、暗闇に包まれた静かな庭の中をゆっくりと歩き回った。応接室の上にあるベティの部屋では、彼女が眠れそうだといっていたにもかかわらず、窓の格子作りの鎧戸からまだ灯がもれていた――そして、通りに面した、家の一番端にあるアン・アプコットの部屋からも、同じように灯がもれていた。彼の心には、突如としてボリス・ワベルスキーに対するはげしい怒りが勢いよくもえあがった。
彼が家の中に入ってドアの閂をかけた時は、もうかなりおそくなっていた。そして眠りにおちた時はもっとおそくなっていたが、一度眠ってしまうと、ぐっすり眠り、眼がさめた時には、あけ放された鎧戸から日の光がさしこみ、枕もとのコーヒーは冷たくなり、老僕のガストンが部屋の中に立っていた。
「アノー様が図書室でお待ちになっていらっしゃいます」
ジムはさっとベッドからとび起きた。
「もうきたんですか? いったい何時なんです?」
「九時でございます。お風呂の用意ができております」彼は枕許のテーブルから盆を取りあげた。
「新しいコーヒーをもってまいりましょう」
「ありがとう! それからアノーさんにすぐ行くといっておいて下さい」
「はい、わかりました」
ジムは服を着ながらコーヒーを飲み、いそいで図書室におりていった。アノーは部屋の中央にある大きな机の前に腰をおろして、新聞をひろげ、おちついて記事に眼を通していた。しかしジムが姿を現わすと、すぐさま早口でしゃべりはじめた。
「やっぱりダルシー広場のホテルを引きあげてきましたね? ミス・アプコットの魅力は全く大したものだ! 少しばかりため息をついて手をあわせるだけでこういうことになってしまうんだから。実をいうと、玄関の広間から一切合切見ていたんです。若い人には全くかないませんな! それはそうと、あなたの事務所にきたワベルスキーの二通の手紙は、今手許にあるんですね?」
「ええ」ジムはいった。彼は嘆願したのはアン・アプコットだったが、グルネル荘にうつったのはベティのためであることを、別に説明する必要はないと思った。
「それは結構です! 実はあの男を呼びにやったところなんです」アノーはいった。
「ここにくるようにですか?」
「もうそろそろくる頃だと思いますが」
「それは面白い」ジムは叫んだ。「では、ぼくもあいましょう! あのごろつきめ! 一発お見舞いしてやろうかな」彼はこぶしをかためて、愉快な予想でもするようにふってみせた。
「あなたが考えているほど効果があるかどうかは疑問ですな。フロビッシャーさん、今朝はともかく私に任せてもらえませんか」アノーは冷静に口をはさんだ。「あなたがすぐその手紙をワベルスキーに突きつければ、彼の告訴は失敗に終る。彼は告訴を取りさげて弁解するでしょう。不平や非難をさかんにならべたてるでしょう。その結果私は彼から何一つ引き出すことができなくなる。そうなると具合がわるいですからね」
「しかし、一体何を引き出そうっていうんです?」ジムはいらいらしながらたずねた。
「何かあるかもしれないし、何もないかも知れない」探偵は肩をすくめながら答えた。「パリでお話ししたように、私がディジョンにきたのは、もう一つの任務のためなのです」
「匿名の手紙のためですか?」
「その通りです。昨日、マドモワゼル・ハーロウが、私がパリから呼ばれたのをどうして知ったか話してくれた時、あなたも一しょにいましたね。いずれにしても、そのニュースをひろめたのは、この土地の警察の連中ではありません。私がここにいることは、今だにだれ一人知らないのです。そうです、私のいることを知らせたのは、匿名の手紙を書いた人間なのです。事がこれほど面倒になってくると、どんな手がかりも見逃してしまうわけにはいきません。ワベルスキーは私が呼ばれるのを知っていたのか? 彼は土曜日に告訴をしにいったとき警察できいたのか? それとも同じ日に予審判事からきいたのか? もしきいたとすれば、予審判事にあった時刻と、日曜の朝配達された手紙がポストに投げこまれた時刻の間に、一体だれに話したのであろうか? これらの疑問を私は解決しなければなりませんが、われわれがあなたのもっている手紙で、彼をすぐノックアウトしてしまえば、答を引き出すことはできなくなるでしょう。私は友好的な態度で彼をおびき出さなければならないのです」
ジムはいやいやながら同意した。彼は、アノーがもっと乱暴にワベルスキーを相手にし、小学生のような罵倒と裏長屋に住む人のような品のわるさで、とびかかり、ひっかき、ふみにじるところが見たくて仕方がなかった。事実、その程度のことはアノーが彼に約束していたのである。ジムは何かだまされたような気持になった。
「しかし、ぼくはあの男にあうつもりなんですよ」彼はいった。「忘れてもらっては困ります」
「忘れたりはしません」アノーはそういってジムを安心させると、出窓のそばの壁にあるドアのところにつれて行き、それをあけた。
「さあ、よかったら、ここで待っていてくれませんか」アノーはそういったが、ジムの顔に失望の色が深まるのを見てつけ加えた。「何もドアまでしめなくてもいいんです。椅子をそこにもってきて下さい――そうです! ドアを少しばかり開いて下さい! そうすれば、相手からは見られずに、見たりきいたりすることができる。どうです、満足ですか? あんまり満足でもなさそうですね。あなたは俳優みたいに、はじめから終りまで舞台に出ていたいというんでしょう。ええ、だれだってそうですよ。しかしともかくも、あなたにだって役はちゃんとあるんだから」彼は親しげににやりと笑うと、テーブルの方にもどっていった。
その時、妙にだらしのない、ずるずると引きずるような足音が、中庭の方からきこえてきた。
「さて、これから一つ談判をはじめますかな」アノーは低い声でいった。「大草原からわれわれの主人公が現われましたからね」
ジムはいそいで出入口から頭をつき出した。
「アノーさん!」彼は興奮して小声でささやいた。「アノーさん! 中庭に向いている窓をあけておくのはよくありません。この部屋で足音があんなによくきこえるんですから、この部屋でしゃべっていることも、庭につつ抜けですよ」
「本当にその通りだ!」アノーもささやくように答えると、自分の愚かさに腹を立てて、こぶしで自分の額をたたいた。「だが、どうしたらいいかな? ひどく暑いから、窓をしめたらかまどの中みたいになってしまう。お嬢さんたちもワベルスキーもみんな目まいがして気が遠くなってしまいます。それだけではありません。庭に私服の警官を見張りに立たしてあるんです。ともかくも一か八かあけたままにしておきましょう」
ジムは引きさがった。
「この男はだれの忠告もうけ入れたがらないのだ」彼は腹立たしげにつぶやいた。だが、そのつぶやきも口にまでは出てこなかった。そしてまだ全部いい終らないうちにベルが鳴り、数秒たってからガストンが入ってきた。
「ボリス様です」彼はいった。
「わかった」アノーはうなずきながらいった。「それではお嬢さんたちにもくるようにいって下さい」
ボリス・ワベルスキーは、猫背でのっぽの、ひざの曲った不格好な足をした男で、黒い服を着、手に黒いソフトをもち、不格好な歩き方でいそいで部屋の中に入ってきたが、アノーの姿を見ると不意に立ち止った。アノーが会釈すると、ワベルスキーも会釈を返した。それから二人の男はたがいに相手の顔をみつめながら、立っていた――アノーは愛想のよい微笑をうかべ、ワベルスキーは、ディジョンの教会の円柱に彫刻してある、中世の気味のわるい戯画のように、不安そうな少しばかり異様な様子をしていた。彼は探偵の方を当惑したようにちらりと盗み見ながら、煙草のしみのついた長い指で、白いもののまじった口ひげをひねった。
「どうです、おかけになりませんか?」アノーは丁重にいった。「お嬢さんたちもすぐくると思います」
彼は机の前にある椅子を指さしたが、それは彼の左側で、ドアの反対側だった。
「何のことだかさっぱりわからん」ワベルスキーは不審そうにいった。「私は呼び出しをうけたが、予審判事からのものだとばかり思っていた」
「私は予審判事の代理なのです」アノーはいった。「私は――」彼はそこで言葉を切ると、「何ですか」ときき返した。
ボリス・ワベルスキーは空《くう》をじっと見すえた。
「私は何もいいませんよ」
「失礼しました。私は――アノーです」
彼は早口で名前をいったが、相手は驚きもしなければ、知っているという様子も見せなかった。
「アノーさんですって?」ワベルスキーは頭をふった。「それだけきけば、わからなければならないはずですが」彼は微笑しながらいった。「しかし率直にいった方がいいと思いますが――どうも私にはわからないのです」
「パリ警視庁のアノーです」
この時はじめて、ワベルスキーの顔にはげしい狼狽の色がゆっくりとうかんだ。
「ああ!」と彼はいうと、もう一度「ああ!」とくり返し、にげ出そうかどうしようかと迷っているように、悲しそうな視線をドアの方に向けた。アノーがもう一度椅子の方を指さすと、ワベルスキーは「そうですか――なるほど」とつぶやいて、小走りに椅子のところまで行き、腰をおろした。
ドアのかげにかくれてじっとみつめていたジム・フロビッシャーは、一つの確信を得た。それは、ベティに匿名の手紙を書いたのはボリス・ワベルスキーではなく、またその手紙を書いた人にアノーに関する情報を知らせたのも彼ではない、ということだった。アノーが自分の身分を告げる瞬間まで、アノーの名前を知らないふりをしていたと考えることもできる。しかしその瞬間からあとはそうではなかった。彼の狼狽ぶりはとうてい芝居とは思えないものだった。
「よくおわかりとは思いますが、あなたがミス・ハーロウに対して行なったような容易ならぬ告訴は、できるだけ綿密に調査しなければならないのです」アノーは言葉をつづけたが、その口調には全然皮肉めいたものはなかった。「そんなわけで、この事件を担当した予審判事が、パリの私たちに援助を求めてきたのです」
「そうです、これはひどく厄介な問題です」ボリス・ワベルスキーは、赤熱した鉄板の上の殉教者のように、からだをよじりながら答えた。
だが、厄介なのはワベルスキー自身の立場ではないか、ジムはその困りはてている男をまじまじとみつめながら、評価するだけの余裕が出てきていた。ワベルスキーは、脅迫状を出してもフロビッシャー・ハズリット法律事務所から全然返事がこないので、警察にとびこみ、失望と恨みのあまり告訴したのだったが、少しでも金が手に入ったら告訴を取りさげるつもりだったのだ。ところが今、警視庁の名探偵から証拠を見せろといわれているのである。それはワベルスキーの思ってもみないことだった。
「それで」アノーは気軽に言葉をつづけた。「速記者とか秘書などは入れずに、あなたと私と二人のお嬢さんたちで、気軽に話しあうのがいいのではないかと思ったわけです」
「私も賛成ですね」ワベルスキーは一縷《いちる》の望みを抱きながらいった。
「もちろん予備的なものにすぎませんがね」アノーは冷淡な調子でつけ加えた。「もっと重大な、今となってはさけることのできない、訴訟手続に対する予備的なものなのです」
ワベルスキーの抱いていた一縷の望みははかなく消えてしまった。
「なるほど」彼はやせた首を神経質にひっぱりながらつぶやいた。「訴訟には手続きが必要ですからね」
「そんなわけでお嬢さんたちにきてもらったわけです」アノーはもったいぶった口調でいった。
その時、図書室のドアが押し開かれてベティが部屋の中に入ってきた。そしてそのすぐあとからアン・アプコットも入ってきた。
「お呼びになったそうですね」ベティはアノーに向かって口を切ったが、ワベルスキーの姿を見ると、小さな頭を不意にぐっとあげ、眼に鬱積した感情を現わしていた。彼女は「ボリスさん」というと、ふたたびアノーに向かって話しかけた。「取るべきものを取りにいらしたわけね?」それからあたりを見回してジム・フロビッシャーの姿をさがしていたが、突然狼狽の叫びをあげた。
「だけど、私のつもりでは――」その時アノーはようやく彼女がだれかの名前を口にする前にさえぎった。
「お嬢さん、何ごとにも適当な時というものがあります」彼は早口にいった。「順々にかたづけて行きましょう」
ベティはいつもの窓の下の席に腰をおろした。アン・アプコットもドアをしめて、他の人々から少しばかりはなれた椅子に坐った。アノーは新聞をきちんとたたんで、わきの方に置いた。今まで新聞の下になっていた大きな吸取り板の上には、ジムが警視庁で見た緑色のファイルがのっていた。アノーはそのファイルをひらくと、一番上の書類を取りあげた。それから彼はきびきびした態度でワベルスキーの方を向いた。
「ワベルスキーさん、あなたは四月二十七日の夜、ここにいるベティ・ハーロウが、養母でもあり保護者でもあるジャンヌ=マリー・ハーロウに、過量の催眠剤を故意にあたえて、彼女を死に至らしめたというのですね」
「ええ」ワベルスキーは不敵な態度でいった。「たしかにその通りです」
「使われた催眠剤の種類まではわからないでしょうね?」
「多分モルヒネだとは思いますが、たしかではありません」
「この書類が正確なら、あなたの言葉に従えば、その薬はいつもハーロウ夫人の枕許にあるレモネードのコップの中に入っていたんですね」
「その通りです」
アノーはふたたび手にもっていた大判の紙を下に置いた。
「あなたは看護婦のジャンヌ・ボーディーヌを共犯として訴えないんですか?」彼はたずねた。
「とんでもない!」ワベルスキーは眼を見ひらき、眉を針金のような髪の毛の生えぎわまでつりあげて、恐ろしそうに叫んだ。「ジャンヌ・ボーディーヌなんか疑ってはいませんよ。アノーさん、その点ははっきりしておいて頂きたいのです。不正なことは許されるべきではありません! 絶対にそんなことがあってはなりません! 私は今日ここにきてよかったと思います! ジャンヌ・ボーディーヌ! いいですか! もし私が病気になったら、明日にでもきてくれるように頼みますよ」
「それだけうかがえば充分です」アノーは厳粛に同感を示しながらいった。「私はただお嬢さんが夫人にお休みをいって、新しいダンス用のフロックを見せるために、夫人の寝室に入った時、ジャンヌ・ボーディーヌがいたことがたしかなので、今のような質問をしただけです」
「そうですか、よくわかりました」ワベルスキーはいった。警視庁のアノーという人は本当に当りの柔らかな親切な人だ、彼はだんだんに確信を強めていった。「しかし、その薬はジャンヌ・ボーディーヌの見ていない間に、あのコップの中にこっそり入れられたにちがいありません。彼女には何の罪もありません。犯人はそこにいる冷酷な女です」彼の声はふるえ出し、その口はひきつりはじめた。「こっそりと催眠薬をコップに入れてから、いそいでダンスパーティに出かけ、被害者が死体になって横たわっている間、一晩中踊りつづけていたのです。恐ろしいことです! アノーさん、本当に恐ろしいことですよ。姉もかわいそうなことをしました」
「義理の姉さんですわね」
ドアのそばのひじかけ椅子から、おちついた意地のわるい訂正がはいった。それは、アン・アプコットのもたれかかっていた椅子だった。
「私にとっては姉なんだ!」ワベルスキーは悲しげな沈んだ調子でいうと、アノーの方を向いていった。「アノーさん、私は自責の念にかられているのです。私は森の中に魚なんか釣りにいっていたのです。あの時もし家にいたのだったら! 考えてもみて下さい! 私は――」ここで彼の声はかすれた。
「だがワベルスキーさん、あなたはもどってきたわけですね」アノーはいった。「そこが私の釈然としないところなんですが、あなたはあなたのお姉さんを愛している。それは、あなたが涙なしにはお姉さんのことを考えられないという一事から見ても明らかです」
「ええ、その通りです」ワベルスキーは一方の手で眼をおおった。
「それでは伺いますが、それほど深くお姉さんを愛しているのに、どういうわけでその復讐にすぐ取りかからなかったのですか? それにはもっともな理由があると思いますが、私にはそれがよくわからないのです」アノーは両手をひろげながら言葉をつづけた。「一つ日付を整理してみましょう。お姉さんの亡くなったのが四月の二十七日、あなたのもどってこられたのが二十八日。だが、あなたは何もされなかった。告訴もせず、ただじっとしていただけだった。お姉さんの埋葬されたのが三十日。そのあとも依然としてあなたは何もしなかった。ただじっとしていただけだった。あなたがお嬢さんを告訴したのは、それから一週間もしてからでした。一体、これはどういうわけです? ワベルスキーさん、別に私の顔に答が書いてあるわけではありませんから、指の間からこっそり見たりしないで、この難問を説明して下さいませんか」
アノーは別に調子も変えず、今までと同じ愛想のよい親しげな声でたずねたのだったが、ワベルスキーはさっと額から手をはなすと、きちんと坐り直した。
「では、早速お答えしましょう」彼は大声で叫んだ。「私は最初からここで知っていました」こういうと、彼はこぶしで胸をどんとたたいた。「これは殺人だということをね。しかしここではまだわかっていませんでした」彼は額をかるくたたいた。「私の頭ではね。そこで私は懸命になって考えてみました。その結果、理由と動機が自然にわかりはじめてきたのです。スタイルのいい美しい娘だが、人にはうかがい知れないような一風変った性格をもち、心の中でははなやかな快楽と権力を渇望していて、自分の魅力を利用すれば容易にそれを手に入れることもできるのに、心の中では渇望していながらも、表面は何くわぬ顔をしてかくしている。それがこの冷酷な娘、ベティ・ハーロウの本当の姿なのです」
この話しあいがはじまって、ここではじめてベティは幾分関心を見せた。それまで彼女は、誇りの氷室《ひむろ》の中に安置された尊大な像のように身動きもせずじっと坐っていたのだったが、今や不意に生気をおびてきた。彼女はからだを前にのり出し、組んだひざの上にひじをつき、手であごをささえ、ワベルスキーの顔をじっとみつめていたが、自分に対して行なわれている分析を面白そうにながめて微笑しているその顔は、生々とした活気にあふれていた。一方、ジム・フロビッシャーはドアのかげで、冒涜の言葉をきくような思いにかられていた。どうしてアノーは平気でききながしているのか? 彼はボリス・ワベルスキーからきき出したい情報があるといっていた。彼がきき出したいと思っていた情報の要点は、すでにずっと前に、この内々の話しあいのはじめに解決されているのだ。
ワベルスキーがベティのところに送られてきた匿名の手紙に何の関係ももっていないことは、明々白々である。それならばどうして、アノーはこのペテン師にベティ・ハーロウの悪口を勝手にいわせておくのか? どうして、この告訴に信頼すべき点があるかのように、次々に質問を重ねて行くのか? 一言にしていえば、どうしてこのドアをさっとあけ放ち、フロビッシャーに、ハズリット氏のところに送られてきた脅迫状をつきつけさせないのか? そして、ボリス・ワベルスキーにジャンヌ・ボーディーヌの看護を必要とするような状態に立ち至らせないのか? ジムは実際アノー氏が腹立たしくてならなかった。彼は見損なったと心の中でつぶやいた。
一方、ボリス・ワベルスキーの方は、ベティがからだを前にのり出した時、神経質に少しばかりためらったが、ふたたび言葉をつづけていった。
「こういう娘にとって、ディジョンはまったく退屈なところです。毎年ひと月ばかりモンテカルロに行くことはあるのですが、それは単に快楽の匂いをちょっとかぐだけの話で、煙草好きの男に一本だけ煙草をやるようなものです。そしてまたディジョンにもどってくる! いいですか、そのディジョンというのは、ブルゴーニュ公爵時代のディジョンでもなく、州議会のあった時代のディジョンでさえもないのです。今日のディジョンは、昔のはなやかさと輝きをことごとく失い、ただ骨董品といってもいいような建物とけちくさい冷笑癖だけがのこっている、活気のないありふれたフランスの田舎町にすぎません。まあ、想像してごらんなさい。手をのばせば手のとどくところに財産と自由をもっているこの女は、このボリスが家にいない夜、度胸をきめさえすればそれを手に入れることができるのです! また、それだけじゃありません。家には世話をしなければならない病人もいる――そうです、厄介な病人がいるんです」すっかり興奮したワベルスキーはちょっと言葉を切ると、眼を半ばつぶりながら、ずるそうにかるくうなずいてみせた。「姉は相当扱いにくい病人でした。そうです。あの愛すべき姉にも彼女なりの欠点があったのです。そんなわけですから、刑を軽くするように嘆願する時がきたら、そのことを忘れないようにするつもりです。そうです、実際」ここで彼は雄々しく片手をさし出した。「判決が下されたら、この私自身がいの一番に巡回裁判の判事に嘆願するつもりです」
ベティ・ハーロウはまたもや何の関心もないというように椅子の背にもたれかかった。ドアのそばにあるひじかけ椅子に坐っていたアン・アプコットは、のどをならすような笑い声をあげ、アノーさえも微笑をもらした。
「よくわかりました」アノーはいった。「しかし、ワベルスキーさん、巡回裁判はまだ大分先の話ですよ。現在はまだ、あなたが心では知っているが、頭ではよくわからないというところなんですよ」
「その通りです」ワベルスキーは元気よく答えた。「五月七日、土曜日、私は警察に訴え出ました。それはなぜか? その日の朝、私は確信をもつに至ったからです。とうとうここでも知ることができたのです」こういうと彼は、片手を額に当て、椅子からぐっと体をのり出した。
「私はガンベッタ通りにいました。そこは新しくできた小さな繁華街の一つで、小さな店がいくつかならんだ、あまり評判のよくないところでした。十時頃だったと思いますが、私がいそいでその通りを歩いていると、数ヤード先にある小さな店から、そこにいる私の姪がぱっととび出してきたのです」
突然、この会合の性格ががらりと変った。彼らとはなれて坐っていたジム・フロビッシャーでさえ、新しい緊張と期待をおぼえた。身ぶりを交えて話をしていたボリス・ワベルスキーは、一瞬前まで単なる嘲笑の対象にすぎなかった。その声は依然としてヒステリックに高くなったり低くなったりし、からだもあやつり人形のようにぎごちなかったが、今や皆――ベティ・ハーロウは別だったが――の注目を一身に集めていた。もはや彼は漠然としたことをいっていたのではなかった。はっきりした時刻と場所、そしてそこで起こったはっきりした出来事について話していたのだ。
「そうです、そのいかがわしい通りで、私は彼女を見たのです。私は自分の眼を信じることができませんでした。私は小さな狭い路地の中に足をふみ入れ、曲り角からこっそりとのぞいて見たのです。そしてはっきりたしかめたのです。そして彼女の姿が見えなくなるまで待ち、彼女がこの小さなむさくるしい通りのどの店にいったのか見るために、そっと路地から抜け出しました。彼女の出てきた店のドアの上には、『薬草商、ジャン・クラデル』としるしてありました」
彼は勝ち誇ったような口調でその名前を口にすると、椅子の背にもたれかかった。そして、しばらくの間、はげしく頭をふってうなずいていた。アノーの声がその沈黙を破るまで、部屋の中は物音一つしなかった。
「私にはよくわからない」彼は静かな口調でいった。「そのジャン・クラデルというのは、一体どういう人間なんです? また、若い女性がどうしてその店にいってはいけないんです?」
「これはどうも失礼しました」ワベルスキーは答えた。「あなたはディジョンの方ではありませんでしたね。そうです、もしディジョンの方なら、そんな質問はしないはずですからな。ジャン・クラデルというのは、彼が住むのにいかにもふさわしい通りに劣らないくらい、いかがわしい男なんです。ディジョンの町の人に彼のことをきいてごらんなさい。口にしてはいけない話題に出くわしたように、何もいわずに肩をすくめますよ。アノーさん、それより警察できいた方がてっとり早い。ジャン・クラデル! 彼は禁制の薬を売ったということで、二度も裁判にかけられたのです」
アノーもついに平静さを失った。
「何だって?」彼はかん高い声でたずねた。
「ええ、二度です。二度ともあぶないところで助かりましたが、薬を売っていたのは事実です。彼には顔のきく友人がいるし、証人たちも何となくいなくなってしまうのです。しかし彼は、悪名の高い男です! ジャン・クラデル! そうです、あのジャン・クラデルという男はね!」
「ガンベッタ通りの薬草商のジャン・クラデル」アノーはゆっくりとくり返した。「だが」――そういいながら彼は椅子の背にもたれかかって、もっと楽な姿勢をとった――「ワベルスキーさん、私にはちょっと釈然としないところがあるのです。十時といえば真昼間です。どんなばかな人間でも、そんな時間に出かけて行くなんて、ちょっと軽率すぎはしませんか」
「ええ、私もそう思ったのです」ワベルスキーがすばやく口をはさんだ。「さっきいったように、私は自分の眼を信じることができませんでした。しかし、私ははっきりとたしかめたのです――そうです、アノーさん、疑問の余地はありません。私は心の中でこう思ったのです。犯罪というものは、犯人がどんなに抜け目のない場合でも、いずれ何か抜けたことをやらかすので、結局発覚してしまう。そうじゃないでしょうか? 時によると、犯人はあまりにも細心の注意をはらいすぎる。世の中とは不完全なものであるにもかかわらず、彼らの証拠はあまりにも完全でありすぎる。そのくせ時にはあまりにも不注意なことをしたり、必要に迫られて向こう見ずなことをしてしまったりする。ともかくも何か失策をしでかして、正義が勝利を得ることになるのです」
アノーは微笑をうかべた。
「なるほど! あなたは犯罪を研究しておられるわけですな!」彼はこういうとベティの方を向いたが、彼がベティをまともに見たのはこれがはじめてだと気がつき、ジム・フロビッシャーは奇妙な不安におそわれた。
「お嬢さん、今の話をどうお思いですか?」
「いいかげんな作り話ですわ」彼女はおちつきはらって答えた。
「では、五月七日の午前十時に、あなたはガンベッタ通りのジャン・クラデルの店には行かなかったんですね?」
「行きませんでしたわ」
ワベルスキーは微笑をうかべながら、口ひげをひねった。
「そうでしょうとも! そうでしょうとも! 彼女が認めるはずなんかありません。だれだって自分自身がかわいいですからね」
「しかし、いずれにしても」アノーが、ワベルスキーの自己満足をぶちこわすような残酷な口調で話の腰を折った。「五月七日といえば、ハーロウ夫人が亡くなってから十日もたっているんですよ。どうしてお嬢さんがまだジャン・クラデルの店に行かなければならないんです?」
「支払いをするためです」ワベルスキーはいった。「もちろん、ジャン・クラデルのところで売っているものは値段が高いから、一度で払えるものではありません」
「売っているものというのは毒薬のことですね」アノーが口をはさんだ。「腹蔵《ふくぞう》なくいえば」
「その通りです」
「ハーロウ夫人を殺すのに使った毒薬のことですね」
「その通りです」ワベルスキーは腕組みをしながら断言した。
「結構です」アノーはそういうと、緑色のファイルから、もう一枚の書類を取り出した。それは見事な筆跡で書かれ、公式の判まで押してあった。「それでは、私がハーロウ夫人の死体はすでに発掘されたといったら、一体どうするつもりです?」アノーは言葉をつづけたが、ワベルスキーの顔からは、そのわずかな血色さえも消えてしまった。彼はアノーの顔をみつめながら、神経質に口を動かしていたが、口から言葉は出なかった。
「それから」アノーはさらに言葉をつづけた。「すでにわかっている一回の催眠薬以上のモルヒネは発見されず、その他どんな毒薬の形跡も見当らなかったといったら、あなたはどうします?」
すっかり静まりかえった中で、ワベルスキーはポケットからハンカチを取り出すと、額をかるくたたいた。勝負はきまった。彼は自分の主張を通そうとしていたのだが、はったりを見破られてしまったのだ。彼は自分の提出した告訴に何の確信も抱いてはいなかったのである。彼のとるべき道はたった一つしかなかった。つまり告訴を取りさげて、義理の姉に対する愛情のあまり、大変なあやまちを犯してしまったとわびることだった。しかしボリス・ワベルスキーは決してそんなことをする男ではなかった。彼はよく小悪党の破滅の原因になる、あの人なみ以上の狡猾さをもっていた。彼はアノーの方もはったりをいっているのだと、愚かにも想像していたのだ。
彼は自分の椅子を少しばかりテーブルの方に引きよせた。そしてくすくす笑いながら、親しげにうなずいてみせた。
「あなたは『もし私がいうとすれば』というふうにいわれる」彼はもの柔らかにいった。「そうです、しかし、アノーさん、あなたは決して断言はなさらない。それどころか、あなたはこういいたいのだ。『いいかい、ワベルスキー君、これはなかなか面倒な問題だ。世間に知らせれば、大変なスキャンダルになるし、論争点もはっきりしていない。まあ、臭いものにはふたをしておこうじゃないか』とね」
「私がそんなことをいうのですか?」アノーは愛想のよい微笑をうかべながらたずねた。
ワベルスキーは自信をもちはじめてきた。
「そうです、それだけではありません。あなたはおっしゃるでしょう。『ワベルスキー君、君はひどい扱いをうけてきた、だが、もし君があの姪と話しあいをして――』」そのとき彼は、坐っていた椅子を本棚のところまですべらせると、射撃された人間のように口をぽかんとあけた。
アノーがさっと立ちあがると、突然怒りに顔を紅潮させてテーブルの上に立ちはだかったのだ。
「いいかげんなことをいうのはやめてほしい!」彼は大声でどなりつけた。「この私が殺人事件でのつまらない取引をするために、はるばるパリからディジョンにやってきただって! 私が、このアノーが! では一つ教えてあげよう。これを読んでみるがいい!」こういって彼は前の方に身をかがめ、公の判の押してある一通の書類を突き出した。「検死の報告書だ。さあ、取って読むがいい」
ワベルスキーは、書類に近づくのをこわがっているように、ふるえる手をさし出した。そして書類を手にしても、手がふるえて読めないほどだった。しかし、自分の告訴に自信のない彼にとっては、読めても読めなくても大したちがいはなかったのだ。
「そうです」彼はつぶやいた。「たしかに私の思いちがいでした」
アノーはその言葉にとびついていった。
「思いちがいだって! それは都合のいい言葉だ! では、どんな思いちがいをしたのか、一つ教えてあげよう。私の前のテーブルにもっと椅子をよせなさい。そう、そうです! それからペンを取って――そうです! それから紙を一枚――そうです! では、私に代って手紙を書きなさい」
「わかりました」ワベルスキーはいわれる通りにした。彼の態度からは、一切の虚勢が、一切の取り入るようなずるさが、その姿を消した。彼は全身をしきりにふるわせていた。「私がわるかったと書きましょう」
「いや、そんなことを書く必要はない」アノーは大声で叫んだ。「あなたがわるかったかどうかはいずれわかることです。さあ! これから英語で口述することを代筆しなさい。いいですか? では『拝啓』と書いて、書きましたか?」
「はい、はい」あわてて書きなぐりながら、ワベルスキーはいった。彼の頭はすっかり混乱してしまった。彼は探偵のそびえ立つ大きなからだの下で、小さくなりながら手紙を書いた。彼は自分がどんな目にあうのか、さっぱり見当がつかなかった。
「よろしい! 『拝啓』」アノーはくり返した。「しかし、その手紙には日付が必要だ。四月三十日、そうでしたな? ハーロウ夫人の遺書が開封されて、あなたに遺産が全然もらえないとわかった日だ。四月三十日――そうです! さあ、次に行きましょう。『拝啓、至急書留で一千ポンド送って下さい。さもないと、厄介なことを起こして――』」
ワベルスキーはペンをおとすと、椅子からとびあがった。
「私にはわけがわかりません――そんなことは書けません――それは誤解です――私は決して――」彼はどもりながら、相手の攻撃を防ぐように両手をあげた。
「なるほど、あなたは恐喝するつもりなんかなかったというわけだね!」アノーは腹立たしげに叫んだ。「はっはっは! 私に今そのことがわかったのは、あなたにとって幸いだった! さっきあなたがお嬢さんに思いやりを見せたように、あなたの刑をかるくするように頼む時がきたら、私も法廷で立ちあがって主張しましょう。そうだ、私はこういうつもりです。『裁判長殿、この男は恐喝をしたのですが、本気で恐喝しようと思ったのではありません。ですから、どうかさらに五年刑を重くして頂きたい』」アノーはそういうと、旋風のように部屋を横切り、フロビッシャーが待機していたドアをさっとあけ放った。
「さあ!」彼はそういって、ジムを部屋の中に招き入れた。「フロビッシャーさん、あなたの事務所に送られてきた例の二通の手紙を出して下さい」
しかし、何も取り出す必要はなかった。ボリス・ワベルスキーは椅子の中にくずれおちると、突然わっと泣き出したからだ。アノー以外のすべての人間は、不安そうにかすかにからだを動かした。そしてアノーさえも怒りを忘れて無言のままワベルスキーをみつめていた。
「あなたのおかげで、私たちまで恥をかいてしまった。さあ、ホテルにもどって下さい」アノーは愛想のない口調でいった。「だが、ワベルスキーさん、あなたをどうするかがきまるまでは、ディジョンにいなければなりません」
ワベルスキーは立ちあがると、盲人のようによろめきながらドアの方に歩いていった。
「私はおわびしなければなりません」彼はどもりながらいった。「何もかも私の思いちがいでした。私はひどく貧乏で――別に悪気があったわけではないのです」こういうと彼は、だれの顔も見ないで、部屋から出ていった。
「いかにもあの男らしい! いずれにしても、これからはディジョンが退屈だなどとは思わなくなるでしょう」アノーはそういうと、もう一度危っかしい英語を使ってみせた。「リカード君だったら、何というと思いますか? わからない? では教えてあげましょう。きっとこういうにきまってますよ。『ああ、面白くもない! 何てあつかましい奴だ!』」
ベティ、アン・アプコット、ジム・フロビッシャーなど、部屋の中にのこっていた人々は、何か笑い出す口実を待ちうけるような気分になっていた。家の中におおいかぶさっていた禁制は解け、ベティに対する嫌疑は事実無根であることが立証され、一切のいまわしい出来事は終止符を打った。いや、少なくともそのように思われた。しかし、すばやくドアのところにいって、ドアをしめてもどってきたアノーの顔には、笑いの影は見られなかった。
「さて、あの男がいってしまったので」彼は重々しい口調でいった。「あなた方三人にこの上もなく重大なことをお知らせしなければなりません。ワベルスキーは知らないのですが、ハーロウ夫人は四月二十七日の夜、この家で毒殺されたものと思います」
この言葉は恐ろしい沈黙によって迎えられた。ジム・フロビッシャーは何か災難にあって茫然自失した男のように立ちすくんだ。ベティは恐怖と懐疑の表情をうかべながら、自分の席から身をのり出した。ドアのそばのひじかけ椅子に坐っていたアン・アプコットは突然、興奮した大きな叫び声をあげた。
「あの夜、この家にはだれかいたんです」彼女は叫んだ。
アノーは、眼を輝かせながら彼女の方にぐるりとふり向いた。
「お嬢さん、それは本当ですか?」彼は奇妙なおちつきはらった声でたずねた。
「ええ、本当ですわ」彼女は叫んだが、その口調には、じっと抑えつけてきた秘密を今ようやく打ち明けたというような、安堵のひびきがあった。「私は今確信をもっていうことができます。だれか知らない人がこの家の中にいたんです」
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八 本
ベティは両手を脇にだらりと下げ、疲れはてた顔に苦悩の色をうかべて、窓の下の椅子の背にもたれかかっていた。朝目をさまして、病気は単なる悪夢にすぎなかったのかと一瞬思いこむが、やがてはげしい痛みにおそわれ、また苦しみの一日がはじまったのを知る、そんな病人のことがジムの頭にうかんだ。ついさっき、ベティのきびしい試練は終ったように思われた。しかし今、それがふたたび新しい様相を呈しはじめてきたのだ。
「お気の毒です」ジムは彼女に向かっていった。
検死の報告書は、彼のすぐ目の前の机の上にのっていた。彼は気のないふうにそれを取りあげた。もちろん判も署名もにせもので、ワベルスキーに告訴を取りさげさせる目的で作られたものにちがいない。彼は最初ちらりと眼をやっただけだったが、あっと叫びをあげて、はじめから終りまで注意深く目を通した。読み終ると、彼は顔をあげてアノーをじっとみつめた。
「しかし、この報告書は本物じゃありませんか」彼は叫んだ。「検査とその結果がくわしく書いてありますが、毒薬の使用された痕跡は全然ない」
「そうです。その通りです」アノーは少しも動ずる色を見せなかった。
「それでは、どうしてあなたは毒殺されたといわれるのです? だれが犯人だとおっしゃりたいんです?」フロビッシャーは大声で叫んだ。
「私はだれも犯人だといっているわけではありません」アノーはおちつきはらっていった。「その点についてははっきりさせておきましょう! あなたのもう一つの疑問については――ほら、これをごらんなさい!」
彼はフロビッシャーのひじをつかむと、昨日二人で一しょに立った窓のそばの本棚のところにつれていった。
「昨日はここに一冊本が抜けていた。あなた自身が私に教えてくれたんです。ところが今日はちゃんと入っている」
「たしかにその通りです」ジムはいった。
アノーはその本を取り出した。それは四つ折版の、相当厚い、紙表紙の本だった。
「これを見て下さい」彼はいった。そしてジム・フロビッシャーはその本を受け取りながら、アノーの眼が自分に向けられているにもかかわらず、何の表情もないのに気がつき、奇妙なかるい驚きをおぼえた。その眼はジムを見てはいなかったのである。アノーの全感覚は表面には現われていなかったが、二人の少女に集中されていた。彼は二人を、驚きや恐怖から生ずる一切の挙動を、油断なく監視していたのだ。ジムは不意に反感をおぼえて、ぐっと頭をあげた。手品師に説き伏せられて舞台に立つばかな観客のように、ジムはまたしてもトリックに使われてしまったのだ。ジムはその本の表紙を見て、アノーの注意をひくのに充分なはげしい口調で叫んだ。
「そんな本は何の関係もありゃしない。エディンバラの学会から出ている論文なんですよ」
「あなたのいう通りです。しかしよく見てみれば、エディンバラ大学の医学教授の筆になるものだということがわかります。そしてさらによく見れば、インクで書いてある短い献呈の辞から、この本がサイモン・ハーロウ氏に贈呈されていることがわかります」
アノーはこういいながら、中庭に面した二つの窓の一方に行くと、頭を出してしばらく低い声で何かささやいていた。
「もうここには見張りをおく必要はない」彼は部屋の中にもどりながらいった。「彼を使いにやりました」
ジム・フロビッシャーは論文の頁をあちこちめくっていたが、一向に何のことだかわからなかった。アノーはそういうジムのところに近よってきた。
「どうです?」彼はたずねた。
「ストロファントス・ヒスピドス」ジムはその論文の表題を声をあげて読んでみた。「何のことだかさっぱりわかりません」
「一つ、私に見せて下さい」アノーはそういうと、フロビッシャーの手から本を取りあげた。
「今朝あなたを待っている間、私がどんなふうにして三十分を使ったか、一つ教えてあげましょう」
彼は机の前に腰をおろして、その論文を眼の前の吸取り板の上におくと、色のついた図版のところをあけた。
「これが、ストロファントス・ヒスピドスという植物の実が熟したところです」彼はいった。
その図版には、ふたつの長い先の細くなった袋果《たいか》が、茎のところで結合し、鋭角のコンパスのように開いているところがのっていた。その袋果の外側はまるく黒ずんでいて、斑点がちらばっていた。しかし内側は平たく、縦の裂け目から絹のような白い羽毛が無数にはみ出しているのが、何か異様な感じだった。
「この羽毛はどれも」アノーは言葉をつづけながら、顔をあげて、アン・アプコットが机に近より、ベティ・ハーロウの方も好奇の色を面にうかべて身をのり出しているのに気がついた。「この羽毛はどれも種子である楕円形の莢《さや》に繊細な柄《え》でつながっていて、実がすっかり熟し袋果が一直線にひらくと、羽毛がはなれて、風によって種子がまきちらされるのです。全く驚嘆すべきものですな。見てごらんなさい!」
アノーは頁をめくって、また別の図版のところをあけた。そこには、羽毛だけがしめされていた。それは扇のようにひろがり、いいようもなくきめが細かく美しかった。そして髪の毛のように細い茎によって、宝石のような種子がたれさがっていた。
「お嬢さん、どうお思いですか?」アノーは微笑しながらアン・アプコットの顔を見あげてたずねた。「気むずかしい職人が作った貴婦人の装身具といったところですね?」彼はそういうと、机の向かい側にいる彼女に、その図版がもっとよく見えるように、本をぐるりと回してみせた。
ベティ・ハーロウは、今ではすっかり好奇心のとりこになっているようだった。ジム・フロビッシャーは、アノーの肩ごしにその図版をのぞきこみながら、一体どういうことになるのかと、不安な気持にかられていたが、本の上に一つの影がおちたのに気がついた。それはベティの影で、アンのそばに立って、両方の掌を机の端にかけ、本の上にかがみかかっているのだった。
「このストロファントス・ヒスピドスの種子は装身具にしたいようなものです」アノーはうなずきながら言葉をつづけた。「だが、遺憾ながら、無害というわけにはいかないのです」
彼は本を自分の方に向けると、ふたたび頁をめくった。もはや微笑は、彼の顔から完全に姿を消していた。彼は三番目の図版のところで手を止めた。そこには、矢じりのついた原始的な矢がいくつかならんでいた。
アノーは肩ごしにちらりとジムの顔を見た。
「フロビッシャーさん、これでこの本の重要さはわかったでしょう?」彼はたずねた。「どうです、わかりませんか? この植物の種子は、アフリカの有名な毒矢の毒薬の原料なのです。この毒薬には解毒剤がありません。だからあらゆる毒薬の中でもっとも恐るべきものなのです」彼の声はだんだんに暗い沈んだものになっていった。「またもっともたちのわるいものなのです。全然跡がのこりませんからね」
ジム・フロビッシャーはすっかり驚いて、「それは本当ですか?」と叫んだ。
「本当なのです」その時、ベティが突然からだをかがめて、図版の一番下を指さした。
「その矢の矢柄《やがら》の下の方に、何か書いてありますわ」彼女は物珍しそうにいった。「インクで小さくメモみたいなものが書いてありますわ」
一瞬、ジム・フロビッシャーは、疑いもなく当惑と不安から生じた、一つの幻想にとりつかれた。彼の脳裡では、幕がするするとあがった。彼の目には、目の前にうかんでいる幻想しか入らなかった――五月の朝の金色の光をあびて机のまわりに集っているあいらしい少女たち、しかしそれらはすべてぞっとするような恐ろしいものに変り、金色の光も墓場のような灰色をした死の冷たい光に色あせてしまった。優雅な環境に育てられ、趣味のよい服装をした、若さと美しさに充ちあふれた二人の少女が、毒矢の図版の上にかがやく巻毛をたらしているところは、丁度講義をきいている生徒のようだった。ジムははげしい怒りの叫びをあげて、その講義の腰を折った。
「しかし、これは毒薬ではありません! これは毒薬のことを書いた本にすぎないじゃありませんか。この本で人を殺すことなんかできませんよ」
間髪を入れず、アノーが応じた。
「殺すことなんかできないですって?」彼は鋭い口調で叫んだ。「今お嬢さんがいったばかりのことをおぼえているでしょう。『F図』とあるこの矢柄の下に教授がちょっとしたメモを書いているのです」
その矢の矢柄《やがら》は、形が少しばかり他のものとちがっていた。三角形の鉄の先端のすぐ下のところから、矢柄がふくらんでいた。それはまるでその先端を球根の中にさしこんだようだった。ペン先をつけるところがずんぐりとまるくて、先の方に行くほど細くなっている木のペン軸のようでもあった。
「三十七頁を見よ」アノーは教授のメモを読みながら、頁をめくっていった。
「三十七頁。ここだ!」
アノーはその頁のまん中辺まで指をすべらせたが、大文字で書かれた言葉のところで止めた。
「F図」
アノーは机の方に椅子を少しばかり引きよせ、アン・アプコットはもっとよく見ようと、机の端を回ってきた。そしてジム・フロビッシャーでさえも、アノーの肩の上にかがみこんでいた。一同は奇妙な緊張をおぼえながら、何かを発見しようとしている探険家のように期待に胸をふくらませていた。アノーがその一節を読みあげている間、一同は息を殺しているようだった。その一節とは、次のようなものだった。
「F図は、ノーフォーク州のブラックマン、及びディジョン市のグルネル荘に住んでいる、サイモン・ハーロウ氏より、著者に貸与された毒矢の絵である。これは、コンベ地方のシーレ河の商人であるジョン・カーライル氏よりハーロウ氏の手に渡ったもので、著者が今までに見たもっとも完全な毒矢の一例である。ストロファントスの種子を水の中でつきくだき、コンベ地方の原地民の使う赤みがかった粘土とまぜあわせたものを、矢柄の先端と、先とへりを除いた矢尻のいたるところに、厚く塗りつけてある。この矢は作られてまだ間もないもので、毒薬もまだ新しい」
アノーはその一節の終りまでくると、椅子の背にもたれかかった。
「いいですか、フロビッシャーさん、ここに解決しなければならない問題があります。それは、サイモン・ハーロウ氏の毒矢は今どこにあるかという問題です」
ベティは眼をあげてアノーの顔を見た。
「もしこの家の中のどこかにあるとすれば、私の居間の錠をかけた飾り棚の中にあると思います」
「あなたの居間ですって?」アノーは鋭い口調で叫んだ。
「ええ。それは私たちが宝物室といっている部屋です――博物館と居間を兼ねたような部屋で、伯父も伯母も二人とも使っていました。それは骨董品や美術品のいっぱいある、二人のお気に入りの部屋でした。でも伯父が亡くなってからは、伯母は一度もその部屋に足をふみ入れようとしなかったのです。伯母は自分の化粧室に通じているドアに錠をかけて、うっかり入ったりしないようにしていたのです。宝物室には、玄関の広間に通じているドアがあります。伯母はその部屋を私に使わせていたのです」
アノーの顔からはしわが消えた。
「わかりました」彼はいった。「それでその部屋は封印されているわけですね」
「ええ」
「お嬢さん、あなたはその矢を見たことがありますか?」
「私の記憶では見たおぼえがありません。飾り棚の方もたった一度のぞいたことがあるだけです。何かぞっとするようなものが色々しまってありました」ベティはその記憶を肩からふるいおとそうとするようにかすかに身をふるわせた。
「矢は全然家の中にないのかも知れません。この家に返されていないのかも知れません」フロビッシャーは強情に主張した。「多分、その教授の手許にまだおいてあるんじゃないでしょうか」
「さあ、どんなものでしょう」アノーが口をはさんだ。「しかし、珍しいものを集めている収集家は人に貸してもすぐ取り返したがるものです」こういうと、彼はしばらく坐ったまま何か考えこんでいた。「私が何を考えているか知っていますか?」彼はついにそんな質問を発したが、その質問に自分で返事をした。「はたしてボリス・ワベルスキーが、五月七日ガンベッタ通りに行き、薬草商のジャン・クラデルの店のそばに、それもすぐそばに立ちよらなかったかどうか、私は疑問に思っているのです」
「ボリス! ボリス・ワベルスキーが?」ジムは思わず叫び声をあげた。アノーの眼には、彼が犯人だと映っているのだろうか? だが、そう思われても別に不思議はないのだ? ワベルスキーがハーロウ夫人の遺産を相続するものと自分で思いこんでいた以上、彼ほど有力な容疑者がほかにいるであろうか?
「ベティさん、私はあなたがしたとワベルスキーのいっていることを、彼が自分でやったのではないかと考えているのです」アノーは言葉をつづけた。
「お金をはらうためにですか?」ベティは叫んだ。
「金をはらうか――さもなければ――この方がもっと可能性がありますが――金のはらえないいいわけをしにか、あるいは――これが一番可能性が大きいのですが――毒のすっかりおちた毒矢を取りもどしにね」
ついにアノーは秘密と沈黙をすて去った。彼の疑いは、図版の矢のように、明白な標的に向かって一直線にとびかかっていった。ジムは悪夢から眼をさました男のように、息を一つ吸いこんだ。一同の緊張は目に見えてゆるんだ。アン・アプコットは机からはなれ、ベティはひとりごとをいうように、静かにつぶやいた。「ボリスさんが! ボリスさんが! ああ、私、思ってもみなかったわ!」その声には、疑いようのない悲しみの調子がこもっていて、ジムの心を動かした。
アノーは微笑をうかべながら答えたが、それから推すと、それは彼の耳にもきこえたようだった。
「しかし、お嬢さん、あなたがそう考えるのも当然ですよ。ともかく彼は、あなたが彼に好意を示すほど、あなたにやさしくしたわけではないんですからね」
ベティの頬には、かすかな血色がのぼってきた。アノーの言葉に、多少とも皮肉な調子がこめられていなかったとは、ジムにもはっきり断言できなかった。
アノーは妙に面白がっているような、何かわかったとでもいうような――フロビッシャーには全く何のことだかわからなかったが――微笑をふたたびうかべた。しかし彼は、表面は円滑に行なわれている問答のかげで、ベティ・ハーロウとアノーの間に、奇妙な決闘ともいうべきものがひそかにずっとつづけられているという不安な印象を時々うけていた――そしてその決闘では、たがいに小さなかすり傷を負わせあっていたのである。そして今度はベティが傷を負ったように思われた。
「お嬢さん、あなたが満足していても、警察では満足していないのです」アノーはいった。「ボリス・ワベルスキーは遺産をあてにしていたのです。彼はフロビッシャーさんの事務所に出した最初の手紙がはっきり示しているように、一刻も早く金を必要としていたのです。彼にはちゃんとした動機があったのです」彼はうなずきながら、きいている人一人一人の顔を見回し、問題の要点に深く入っていった。「たしかに動機というものは、判読しにくい道標のようなもので、いったん読みまちがえると、全然見当ちがいの方向に迷いこんでしまうものです。いいですか! しかしともかくも道標をさがして、ちゃんと正しく読まなければなりません。ではもう一度、エディンバラ大学の医学教授のいっていることに耳を傾けてみましょう! 彼のいっていることは、この上もなく正確です」
アノーの視線は、ふたたび眼の前の机の上に開かれたままになっている論文のF図の上におちた。
「この矢は、教授がかつて見たものの中で、もっとも性能のよい毒矢なのです。練って作った毒薬は、矢尻と矢柄の一部に厚くなめらかに塗ってあるのです。矢はまだ使われたことがなく、毒薬も新しく、その毒の効力は長い間失われないのです。もしこの本と矢を薬草商のジャン・クラデルに渡せば、彼は容易にその毒をアルコールに溶かして溶液を作ることができるのです。そしてそれを注射針で注射すれば、十五分もたたないうちに人を死亡させ、しかも何一つ跡を残さないのです」
「十五分もたたないうちにですって?」ベティはとても信じられないというふうにきき返し、壁際のひじかけ椅子にもどっていたアン・アプコットの口からは、驚きの叫びがあがった。
「まあ」と彼女は叫んだが、だれも全然注意をはらおうとはしなかった。ジムもベティも、議論の核心にふれようとすっかり夢中になっているアノーに目をそそいでいた。
「十五分もたたないうちにですって? どうしてそんなことがわかったんです?」ジムは叫んだ。
「それはこの本に書いてあるのです」
「それでは、ジャン・クラデルは、練り薬の安全な扱い方だとか、溶液の作り方などを、どうやって知ったのでしょうか?」ジムは言葉をつづけた。
「ほら、ここです! ここに書いてあるんです!」アノーは論文を指の関節でこつこつと叩きながら答えた。「何もかもここに詳しく書いてあるんです――何度もくり返し動物実験をしたり、毒の作用をはかったり、時間がどれくらいかかるか記録してあるのです。ジャン・クラデルのような化学薬品に関する実際的な知識のある人間の手にかかれば、その成果は確実なのです」
ベティ・ハーロウがまたもや本の上に身をかがめると、アノーは本を二人の間で半ば回し、首をのばせば二人とも読めるようにした。そして本を最初のところにめくり返し、もう一度しらべようとすばやく眼を通した。
「お嬢さん、見て下さい。これが時間の比較表です。ストロファントスはジギタリスと同じように心臓の筋肉を収縮させますが、その作用はもっとはげしく、もっとすみやかなのです。ごらんなさい。ここには死の瞬間にいたるまでの心臓の収縮状態が一分ごとに記入してあるのです。――皮肉なものじゃありませんか――この実験によって、毒薬も良薬と変り、死の武器も一変して生の薬と化するのです――たまたま、正しい人の手に入った場合にはね」アノーは後ろにもたれながら、半ばとじた眼でベティ・ハーロウをじっとみつめた。「お嬢さん、全く驚くべきことです。あなたはどうお思いですか?」
ベティはゆっくりと本をとじた。
「アノーさん」彼女は口を切った。「あなたが今朝ここで私たちを待っていらした三十分ばかりの間に、この本をそんなに完全に研究なさったことも、全く驚くべきことですわ」
今度はアノーの方が顔色を変える番だった。彼の顔には血がのぼってきた。一、二秒の間、彼はすっかり狼狽してしまった。ジムはまたもやひそかな決闘をちらりとかいま見たような気がしたが、今度かすり傷をうけたのは、アノー、かの偉大なるアノーの方だったので、彼は心中|快哉《かいさい》を叫ばないではいられなかった。
「毒薬の研究は私の専門なのです」アノーはそっけなく答えた。「警視庁でも、今日ではそれぞれ専門をもっているのです」こういうと彼は、すばやくフロビッシャーの方をふり向いた。「あなたは何か考えこんでいるようですね?」
ジムは自分ひとりで、ある考えを追っていたところだった。
「ええ」彼はそう答えると、今度はベティに話しかけた。
「ボリス・ワベルスキーは鍵をもっていたんでしょうね?」
「ええ」彼女は答えた。
「彼はいつももち歩いていたんですね?」
「そうだと思います」
「鉄の門に錠をおろすのはいつ頃なんです?」
「ガストンがベッドに入る前におろすことになっているんです」
ジムは彼女の返事をきくたびに一段と深い満足をおぼえた。「いいですか、アノーさん」彼は叫んだ。「ぼくたちは今まで重大な問題を一つ見落していました。それはだれが、いつ、この本を本棚にもどしたかということです。昨日の正午、その場所はあいていました。しかし今朝はちゃんとふさがっているのです。だれがそこに本を入れたのでしょう? 昨日の晩、ぼくたちは夕食のあと裏庭で腰をおろしていました。中庭にだれもいない時に、鍵を使って家の中にこっそりと入りこみ、本を本棚にもどして、だれにも見つからずにこっそりと外に出ることを、ワベルスキー以上にたやすくやれる人はいないはずです。どうして――」
ベティが身ぶりで彼の話の腰を折った。
「だれにも見つからずにですって? そんなこと不可能だわ!」彼女は苦々しい口調でいった。
「門のところでは、二十四時間中ずっと警察の見張りがいるんですもの」
アノーは頭をふった。
「もう巡査は立っていません。昨日の朝、職務上私のたずねた質問に、とても素直に答えて下さったので、早速彼の任務をといてやったのです」
「そうです、巡査なんかいませんよ」ジムはうれしそうに大声で叫んだ。昨日の午後、ホテルから荷物を車ではこんできた時、シャルル・ロベール通りにだれも人影がなかったことを思い出したのである。ベティ・ハーロウははっと驚いて立ちあがったが、やがて親しげな微笑をうかべ、うれしそうに眼をかがやかせた。それからちょっとおどけてひざをまげ、探偵に向かって会釈をしてみせた。
「アノーさん、どうもありがとうございます。巡査がいなくなったことは昨日全然知らなかったんです。もし知っていたら、もっと前にお礼をしていましたのに。本当に、あなたの方でそれほど思いやりをもっていて下さるとは、夢にも思っていなかったんです。ジムにいいましたように、私が有罪だと思っていらっしゃるものとばかり思っていたんです」
アノーは手をあげて異議をとなえた。ジムには、それが一試合終ったあとで、決闘者が剣をふり回す挨拶のように思われた。二人の間で行なわれていた小さな秘密の決闘は今終りを告げた。アノーは門の前から巡査部長を立ち去らせたことによって、ベティだけではなくディジョン全体に対して、彼女の出入りを監視したり、彼女の自由を制限したりする、正当な理由のないことを、明らかに示したのである。
「そんなわけで」ジムはなおも固執した。彼は骨をくわえた犬のように、まだ自分の解釈にこだわっていた。「そんなわけで、ワベルスキーは昨日の夜だれにもみつからずにすんだんです」
しかしベティはそれに同意しようとはせず、はげしく頭をふった。
「ボリスさんがそんな恐ろしい殺人を犯すとはとても考えられません。それに」彼女はそういうと、嘆願するように、大きな眼をアノーの方に向けた。「ここで殺人が行なわれたなんて、とても信じられないんです。また、信じたくもないんです」そして一瞬彼女は口ごもった。
「アノーさん、いったいどういう根拠で、そういう恐ろしいことをお考えになっているのです? サイモン伯父の本が昨日は図書室になかったが、今日はちゃんとある。たったそれだけのことではありませんか。私たちは果たしてジャン・クラデルという人が本当にいるのかどうかさえ、知ってはいないのです」
「お嬢さん、そんなことはすぐわかりますよ」アノーは机の上の本に眼をそそぎながらいった。
「私たちは、この家に矢があるのかどうか知りませんし、今までにあったかどうかも知らないのです」
「そのことははっきりたしかめなければなりませんね」アノーは頑強にいいはった。
「もし矢を手に入れて、矢柄にほんの少しばかり毒薬がついているのが認められたとしても、それ以外の毒薬が使われたのかどうかの証明にはなりません。アノーさん、ここに医者の報告書があります。この報告書に、毒薬の使用された跡が全然発見されなかったと書いてあるからといって、跡ののこらない毒薬を使ったのだと推断するのは行きすぎじゃないかしら。だって、証明なんかできないんですもの。あなたのおっしゃることには何の根拠もないんです。みんなただのあてずっぽうで、そのあてずっぽうのために、私たちは悪夢のような生活を強いられているんです。もし実際に殺人が行なわれたのだと、少しでも納得できたら、『さあ、遠慮なくお調べ下さい!』といいますわ。だけど、そんなことはなかったんです。絶対になかったんです」
ベティの声は疑いようのない真実な調子でなりひびき、平和な生活にもどりたい、もう疑うのはやめてもらい、自分も忘れ人にも忘れてもらいたいという切なる願いがこめられていたので、ジムはこの言葉にさからえる者はだれもいまいと思った。実際アノーも、彼女に答える前に、相当長い間坐ったまま机の上に眼を伏せていた。しかしついに彼が口を切った時、その声はおだやかなものだったが、ジムはただちに彼女の敗れたことを知った。
「ベティさん、あなたのおっしゃることにも一理あります」彼は口を切った。「しかし私たちはよかれあしかれ、一つ信条というものをもって生きているのです。私もささやかながら、一つの信条をもっています。私は大ていの犯罪に情状酌量すべき点を見出すのです――暴力による犯罪にさえもね。激情、怒り、さらには貪欲でもね! それらのものは、善良な性質が限度をこえてはみ出してしまったものにすぎないのではないでしょうか。はじめは善良だったものが、やがて途方もない恐ろしいものになってしまうのです! 犯行の場合には同じようなことがいえます。犯行に使用される凶器は、種々の生活の習慣に従って、自然種々のものになるわけですが、いったん犯行に使用された場合には、恐ろしい異常なものになり、ただそれを使ったというだけで恐ろしい邪悪なもののように思われるのです。そうです、私はそこに情状酌量すべき点を見出すのです。しかし、ここに一つだけ、どうしてもゆるすことのできない犯罪があります――それは毒薬による殺人なのです。そして私が絶対に追求の手をゆるめたくない犯人、それは毒殺者なのです」彼の言葉には、まぎれもない憎悪のひびきがこめられていて、声こそ低く、机から一度も眼をあげなかったが、耳を傾けている三人の男女を、恐ろしい呪文でしばりつけてしまった。
「卑怯にもこっそりと、毒殺者はその小さな世界を自由にあやつっているのです。そしてどんなひどいことでも確実に遂行してしまう」彼は苦々しげに言葉をつづけた。「この恐ろしい仕事はこの上もなく簡単なのです。それは酒と同じように悪習になる。しかも酒などよりもずっと楽しい。今日一人の犠牲者が出て、犯人がつかまらないとする。すると、一年経たないうちに、また犠牲者が出る。必ずまちがいなく出ます!」
話し終ると、アノーは顔をあげてベティを見た。そして手をかるくふり、申しわけなさそうな微笑をうかべて、彼女のゆるしを求めた。「お嬢さん、私はこんな男なんです。これから先も迷惑をおかけするでしょうが、私のことをあまりとがめないで下さい。これほどむずかしい事件にぶつかったのははじめてです。だから何としてでも解決にもって行かなくてはならないのです」
ベティがまだ答えないうちに、ドアをノックする音がひびいた。
「どうぞ」アノーが大声で叫ぶと、髪の毛の黒い、小柄な、平服を着た機敏な感じの男が部屋の中に入ってきた。
「中庭の見張りをしていたニコラ・モローです。さっき使いに出しておいたのです」アノーはそう説明すると、ふたたびモローの方を向いた。
「ニコラ、どうだった?」
ニコラは平服を着ていたにもかかわらず、ズボンの縫い目に両手をあてて、直立不動の姿勢をとったまま、何の表情もないお役所式の声で、話すというよりはむしろ暗誦するようにいった。
「ご命令通りジャン・クラデルの店にいってまいりました。店は七番地にありました。ガンベッタ通りから署に立ちよって調べてみましたが、おっしゃっていた通りでした。ジャン・クラデルは禁制の薬を売ったかどで、二度軽犯罪裁判所によび出され、二度とも証人が欠席したために放免されました」
「ニコラ、ご苦労だったな」
モローは敬礼をして、かかとでぐるりと回ると、部屋から出ていった。あとにはしばらくの間、落胆したような沈黙がつづいた。アノーは沈んだ顔をしてベティを見た。
「おわかりと思いますが、私は調査をつづけなければならないのです。あるいは毒矢があるかも知れませんから、サイモン・ハーロウ氏の鍵のかかった飾り棚をさがしてみなければなりません」
「部屋には封印がしてあるんですよ」フロビッシャーが口をはさんだ。
「封印は破らなければなりません」そういうと彼は、ポケットから時計を取り出し、顔をしかめてみせた。
「署長に立ちあってもらわなくてはならないが、今頃邪魔をすると、あまり機嫌がよくないだろうな。十二時といえば、昼食を食う神聖なる時間ですからね。警察署長が年がら年中機嫌のわるいものだということは、芝居でよくご存知でしょう。その理由は――」しかしアノーの話をきいている人々は、そのわかりきった説明をきかされることはなかった。依然として指の間から鎖にさがった時計をぶらぶらさせながら、彼が妙に声をひきつらせて突然口をつぐんだからだ。ジムとベティは二人ともすぐさま彼の視線を追っていった。二人の眼には、アン・アプコットが倒れないように椅子の背に片手をかけ、壁によりかかって立っている姿が入ってきた。彼女は眼をとじ、その顔は苦悩にうちひしがれていた。アノーは間髪を入れず、そのそばにとんでいった。
「お嬢さん」彼は息せき切って懸命にたずねた。「一体、何をおっしゃりたいんです?」
「では、本当なんですね?」彼女はささやくようにいった。「ジャン・クラデルという人がいるのは?」
「本当なのです」
「そして毒矢が使われたという可能性もあるんですね?」彼女はそこで口ごもり次の言葉をいうまいとしていたが、ついにそれを口に出した。「それから、十五分以内に死んでしまうんですね?」
「誓ってその通りです」アノーは口調を強めていった。「一体、何をおっしゃりたいんです?」
「私、それをやめさせることもできたんです。私、自分が許せないんです。私、殺人をやめさせることもできたんです」
アンをじっと見ていたアノーの眼は細くなった。アノーは失望したのだろうか、フロビッシャーは考えた。アノーはもっと別の答を期待していたのだろうか? その時、ベティがすばやい身動きをしたので、彼の考えはその方にそらされた。ベティは彼が今まで見たことがないようなキラキラ光った異様な眼で彼らの方をみつめていた。アン・アプコットはアノーのそばをはなれると、両腕をひろげながら、壁によりかかって立ちあがった。
アノーは時計をポケットの中にしまいこんだ。
「お嬢さん、署長にはゆっくり食事をさせることにして、あなたのお話というのを先ず伺いましょう。しかしここではなく、庭の木かげでね」彼はハンカチを取り出すと、額をふいた。「全く暑くてやりきれない。この部屋はかまどの中みたいですね」
ジム・フロビッシャーが、あとになってこの日の朝の出来事を思い返してみた時、彼の記憶の中に一番あざやかにのこっていたのは、毒矢の本やその図版でもなければ、アノーの信条についてのべた言葉でもなく、鎖の端についている時計をいじくり回して、陽光にきらめかせながら、今すぐ署長を呼んで封印を破らせようか、それともゆっくり彼に食事をさせておこうかと考えていた探偵の姿だった。
だれ一人気がつかなかったが、それからあとの一連の出来ごとは、すべてその瞬間にかかっていたのである。
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九 秘密
庭の端の方の、大きな木々のかげには、すでに、いくつかの庭椅子が芝生の上に出されていた。アノーは一同の先に立って、その方に歩いていった。
「さあ!」彼はいった。「これで涼しくなりました。ところで、さしつかえなかったら、煙草を吸わせて頂けませんか」
彼はふりかえってベティに許しを求めた。彼女はジムと一しょにあとから庭におりてきたところだった。
「どうぞ」彼女はそう答えると、前に進み出て、椅子の一つに腰をおろした。
アノーは細巻の黒い煙草の入っている、眼のさめるように青い袋をポケットから取り出し、そのうちの一本に火をつけると、二人の少女の近くにある椅子に腰をおろした。ジム・フロビッシャーはアノーの後ろに立っていた。芝生は陽光と涼しい影でまだらの模様を描いている。それは、アン・アプコットがこれから話そうとしている、物音の絶えた夜の闇の中で起こった出来事に関する気味のわるい物語には、全然そぐわない道具立てだった。しかしこの際立った対照が、彼女の話を一段と鮮明なものにしていたのである。
「四月二十七日の夜、私はド・プイアックさんのダンスパーティには行かなかったのです」その言葉をきいて、ジムははっとしたが、アノーは手をあげて、ジムの口出しするのをとめた。その夜、アン・アプコットがどこにいたかということは、今までジムの頭にうかんだことはなかった。しかしアノーにとっては、別に意外なことではなかったのだ。
「からだの具合でもわるかったのですか?」探偵はたずねた。
「そういうわけではありません」アンは答えた。「私とベティは――別に規則というわけではないんですけど、私がグルネル荘にきて以来実行している一種の取りきめのようなものがあるんです、私たちはそれぞれおたがいのプライバシーを侵害しないようにしてきたのです」
この二人の少女は、一しょに住むようになった一番最初から、プライバシーの尊重こそ、友情をつづかせる秘訣だと知っていたのだ。二人は自分の居間を神聖なものだと考えていたのだった。
「ベティは私の部屋には一度もきたことがありません。私の方も一、二回しか彼女の部屋にいったことがないのです」アンはいった。「友だちもそれぞれ別々でしたし、どこにいったのかとか、だれと一しょだったのかという質問で相手をうるさく悩ませたりはしなかったのです。つまり私たちは、全然別に生活していたのです」
「お嬢さん、それは賢明な規則です」アノーは衷心から賛意を表した。「世間には、そういう規則がないために、まふたつに割れてしまっている家庭が少なくありません。するとプイアック家の人たちは、ベティさんのお友だちだったわけですね」
「ええ」アンはふたたび話をつづけた。「ベティがいってしまうと、私はガストンに、いつでも灯を消して寝なさいといって、二階にある私の居間に行きました。その居間は私の寝室の隣です。ほら、ここからその部屋の窓が見えますわ!」
それらはひとかたまりになって、窓の向こう側にある長い建物の裏側に向かいあっていた。玄関の広間の右の方には、鎧戸のおりた窓がずらりとならび、ベティの寝室はそのすぐ上にあった。アンは道路に面した、玄関の広間の左の方にある翼を指さした。
「わかりました。図書室の上ですね」アノーはいった。
「そうです。私は手紙を一通書かなければならなかったのです」アンは言葉をつづけたが、不意に口ごもった。彼女は図書室で叫び声をあげた時には忘れていた、一つの障害にぶつかったのである。彼女はあえぎながら、「ああ!」とささやくようにいい、さらにもう一度低い声で「ああ!」とくり返した。それから心配そうにちらりとベティに視線を送ったが、彼女からは何の助けも得られなかった。ベティはひざの上にひじをついて、前にかがみ、足もとの草を見ていたが、心は全然別のことを考えているようだった。
「それで、どうしました?」アノーがもの柔らかにたずねた。
「それは大事な手紙でした」アンは用心深く言葉を選びながら、ふたたび言葉をつづけたが、それは昨日ベティが質問された時と同じように、何かをかくしているようだった。「私、それを必ず書くと約束したのです。しかし住所が階下にあるベティの部屋に置いてあったのです。それはあるお医者さまの住所でした」こういってしまうと、障害をのりこえたとでもいうように、楽な自然な口調になった。
「アノーさん、あなたにもおわかりのことと思います。私はその日の午後ずっとテニスをしていて、快い疲労を感じていました。そんな時に、気を使って手紙を書かねばならず、その住所を見るにはわざわざ階下におりて行かなければならなかったのです。そこで私は、先ず手紙の文句の方を考え出そうと思いました」
いらいらして足ぶみをしていたジム・フロビッシャーは、そのとき口をはさんだ。
「しかしそれはどんな内容の手紙だったんです? どの医者に宛てたものだったのです?」
アノーはほとんど怒ったようにぐるりとふり向いた。
「ああ、ちょっと!」彼は叫んだ。「そういうことは黙ってよくきいていれば段々自然にわかってくるはずです。今はお嬢さんに思い通りに話させてあげて下さい」彼はいい終るが早いか、またすぐアン・アプコットの方に向き直った。
「なるほど、それでどんなふうに手紙を書こうかと考えることにしたわけですね?」
一瞬、かすかな微笑が彼女の顔をかすめすぎた。「でも、本当は口実だったんです。大きなひじかけ椅子に腰をおろして、何もしないでいるための口実だったんです。それからどういうことになったか、おわかりでしょう?」
アノーは微笑しながらうなずいてみせた。
「知らないうちに眠ってしまったというわけですね。気を張っていても、健康で疲れている若い人は、つい眠ってしまうものです」彼はいった。
「ええ、でも」アンは答えた。「眼がさめると、すぐひどく気がとがめるものです。椅子に腰かけたまま眠るとだれでもそうですが、私も眼がさめた時、少しばかり寒気がしました。私は淡いブルーのチュールのうすいフロックを着ていたんです――それはとてもかるいフロックだったんです! 私は寒さにふるえながら、『まあ、何て怠け者なの! 手紙は一体どうしたの? どこにやったの?』と自分自身を責めてみました。
私はすぐさま立ちあがり、次の瞬間には部屋を出て踊り場にいましたが、まだ眼がすっかりさめてはいなかったのです。私はドアをしめましたが、そんなことをしたのもほんの偶然にすぎなかったんです。階段も階下の広間も灯りは全部消えていました。窓のカーテンも引いてあり、空には月もなかったのです。私のまわりの闇はあまりにも濃かったので、手を顔に近づけても全然見えないほどでした」
アノーは煙草の吸殻を足もとに落した。ベティは顔をあげて口を少しあけたまま、アンに眼をそそいでいた。
「それからどうしました?」アノーが静かな口調でたずねた。
「暗いのは別に何でもなかったのです」アンは、その夜の出来事を知ってしまった今となっては、そのとき恐がらなかった自分が不思議だというように、言葉をつづけた。「今になってみると恐いんですけど、その時は別に恐くも何ともなかったんです」ジムは彼女の話をきいて、昨日の夜庭の中にいた時、彼女があやしい人影をさがすように、あちこちの暗闇に眼をそそいでいたのを思い出した。明らかに彼女は、今恐がっているのだ! 彼女の両手は、椅子のひじかけを強くにぎりしめ、その唇はふるえていた。
「私は階段の段を一つのこらず知っていました。私は手すりに手をかけていました。物音は何もしませんでした。私以外にだれか起きているなどということは、全然頭にうかばなかったのです。私は階段の下にあるスイッチをひねって、広間の灯りをつけようとさえしませんでした。私はベティの部屋のドアの内側にスイッチがあるのを知っていました。そしてそれだけで充分だと思ったのです。また、ほかの人の眼をさましたくないと思っていたので、階段の下で兵隊さんみたいに回れ右をしたのです。私の丁度真前には、広間を間にはさんで、ベティの部屋のドアがありました。私は両手を前に出しながら広間を横切っていったのです」それをきくとベティが、自分が広間を横切っているように、突然両手を前にさし出した。
「そうだわ、だれでもこうする以外にないわ」彼女はゆっくりといった。「暗闇の中で――眼の前に空間しかない時には――たしかにそうだわ!」そして好奇の思いでみつめているアノーの眼に気がつくと、彼女は微笑してみせた。「アノーさん、そうお思いになりません?」
「たしかにその通りです」彼はいった。「しかし話の邪魔をしないようにしましょう」
「私は最初に壁にさわりました」アンはふたたび口を切った。「ちょうど、廊下と広間の角のところでした」
「一方には中庭に面した窓があり、反対側には応接室のドアに面している廊下ですね?」アノーはたずねた。
「ええ」
「窓にも全部カーテンが引いてありましたか?」
「ええ。どこからも光はもれていませんでした。私は右手の壁にそって、手さぐりで進んで行きました――もちろん、それは広間の壁で、廊下の壁ではありません――そうやって行くうちにとうとう壁から手がすべり、何にもさわらなくなりました。私はドアのところにたどりついたのです。それからドアのノッブを手さぐりでさがして回すと、部屋の中に入って行きました。スイッチは私のすぐ左手の、ドアの横の壁についていました。私はそれをぱちんと下におろしました。宝物室に灯をつけた時、私はまだすっかり眼がさめていなかったような気がします。しかし次の瞬間、私は完全に眼がさめてしまいました――そうです、あんなにはっきりと眼がさめたのは生れてはじめてのことです。灯をつけた指がはなれるかはなれないうちに、私は灯を消してしまったのです。もっとも、その時は注意に注意を重ねてスイッチを上にあげたので、ぱちんという音はしませんでした――そうです、ごく小さな音さえもしなかったのです。灯をつけてから消すまでの時間がごく短かかったので、私の向こう側の壁の真中にある寄木細工の飾り棚の上の置時計が一瞬眼に入っただけで、私はふたたび暗闇に包まれ、じっと息を殺して立っていたのです――少しばかりおびえながら――そうです、たしかに少しばかりおびえていました。でもおびえていたというよりはむしろ驚いたといった方がいいでしょう。なぜかというと、部屋の向こう側の壁についている、ほらあの窓のすぐそばの」――アンは何の表情もなく庭を見下している、鎧戸のしまっている窓の二番目を指さした――「あの窓のすぐそばにあるドアは、サイモン・ハーロウさんのおなくなりになったあと、ずっと錠をおろしてあったのですが、そのドアがあいていて、その向こうからあかあかとした灯がかがやいていたからです」
ベティ・ハーロウは小さな叫びをあげた。
「あのドアですって?」今や彼女は、とうとう本当に気がかりになってきたように、大声で叫んだ。「あのドアがあいていたんですって? 一体どういうわけで、あいたりしていたのかしら?」
アノーは椅子の中で姿勢を変え、ベティに質問を発した。
「鍵はドアのどちら側にさしてあったのです?」
「鍵がさしこんであったとすれば、伯母の部屋の側です」
「鍵がどちら側にあったのかおぼえていないのですね?」
「ええ、おぼえていません」ベティはいった。「もちろん、私もアンも伯母が病気の間その寝室に出入りしていました。でも、その寝室と私の部屋に通じているドアの間には、化粧室があったので、私たちは気がつくことができなかったんです」
「なるほど」アノーは同意した。「看護婦を寝かそうと思えば寝かせることができ、実際に夫人が発作を起こした時には看護婦を寝かせていたという化粧室のことですね。次の日の朝、あなたの部屋に通じているドアがあけっぱなしになっていたか、鍵があけられていたか、それもおぼえていませんか?」
ベティは眉をしかめて考えこんでいたが、やがて頭をふった。
「おぼえていませんわ。私たちはみんなすっかりごたごたに巻きこまれていたんです。しなければならないことも沢山あったんです。私、気がつきませんでした」
「そうですか。無理もないことです」アノーはそういうと、アンの方に向き直った。「お嬢さん、あなたが不思議な話をつづける前に、一つだけおききしたいことがあるのです! あいていたドアの向こうに見えた灯は、化粧室からもれていたものですか? それとも化粧室の向こうにあるハーロウ夫人の寝室からもれていたものですか? あなたは気がつきませんでしたか?」
「寝室からだったと思います」アンは確信ありげに答えた。「そうでなければ、宝物室がもっと明るかったはずです。宝物室はたしかに長い部屋ですわ。でも私は、まっくらな闇の中に立っていたんです。そこには、あいているドアのところから黄色い光がさしこんでいただけなのです。その一筋の光は絨毯の上をこえ、ドアの向かい側にある椅子|轎《こし》を、まるで銀のようにキラキラと輝かせていました」
「ほう、宝物室には、椅子轎があるんですか?」アノーは快活な調子でいった。「一つ見たいものですね。それで、その灯は夫人の寝室からもれてきたわけですね?」
「灯と――それから人声が」アンは声をふるわせながらいった。
「人声ですって?」アノーは叫んだ。彼は椅子の中でしゃんと坐り直し、ベティ・ハーロウは幽霊のようにまっさおになった。「声ですって! どんな声です? だれの声だかわかりましたか?」
「一人は夫人の声でした。それはたしかです。しばらくは大きな荒々しい声でしたが、やがてはっきりしないうめくような声に変って行きました。もう一つの方は、たった一度はっきりとごくわずかの言葉がきこえただけです。もっともそれはささやくような声でした。それから、何か動くような気配もしました」
「動く気配ですって?」アノーは鋭い口調で言った。そしてその声とともに顔も鋭くひきしまったようだった。「少し漠然としていますね。行列が進んで行く時にも使えば、椅子を押した時にも使います。口をふさいで声を立てないようにする時の手の動きにも使います。あなたのおっしゃるのは、そういう意味なのですか?」
探偵にきびしく問いつめられて、アン・アプコットは突然ぐらついてきた。
「そういわれてみると、そんな気もしてきます」彼女は大声で叫ぶようにいうと、両手で顔をおおった。「今朝、毒矢が使われたかもしれないとあなたがおっしゃるまでは、全然何のことかわからなかったのです。ああ、本当に大変なことをしてしまいました。私はほんの数ヤードしかはなれていない暗闇の中に立ったまま、灯のもれているドアの向こうで夫人が殺されているのを、じっと何もせずにきいていたんですもの!」彼女は顔から手をはなすと、気違いのように、にぎりしめたこぶしでひざをたたいた。
「そうだわ、今はっきりわかりました! 夫人はききおぼえのある、耳ざわりなしゃがれた声で叫びました。『裸にしてやる、いいかい? 身ぐるみはいでやる!』そういうと夫人は荒々しい笑い声をあげました。それから物音がして――そうですわ、あなたのおっしゃった通りかも知れませんわ!――おさえつけられたような物音がして、夫人の声はもぐもぐいうような声に変り、やがてその声もきこえなくなってしまいました――すると今度は、また別の声が低くしかしはっきりと、『これでいい』とささやくようにいいました。そしてその間、私は暗闇の中に立っていたのです――ああ!」
「そのはっきりしたささやくような声をきいてから、あなたはどうしたんです?」アノーはいった。「顔から手をはなして、そのつづきをきかせて下さい」
アン・アプコットはアノーのいいつけに従い、涙のつたう顔をさっとあげると小声で話し出した。
「私はぐるりと後ろを向いて部屋から出ました。ドアをしめて――できるだけ音のしないようにそっとしめて、にげ出してしまったんです」
「にげ出したですって? 一体どこににげ出したんです?」
「二階にですわ! 二階の自分の部屋にね」
「それではベルもならさずに? だれの眼もさまさないで? あなたは自分の部屋ににげかえったんですか! そして子供みたいに頭からふとんをかぶってしまったんですね! お嬢さん、何ということです!」
アノーは残酷な皮肉を急にやめて、ふたたび質問にうつった。
「では、『これでいい』とささやくようにはっきりいったのはだれだと思いますか? さっき図書室で知らない人がいたとおっしゃっていましたが、その人の声だったのでしょうか?」
「いいえ」アンは答えた。「よくわかりませんわ。ささやくような声なんてものは、だれのでも同じようにきこえますから」
「だが、だれの声だかはっきりきいておくべきでした。それなのににげ出してかくれてしまうなんて――本当に困った人ですね」
「私、ジャンヌ・ボーディーヌの声だと思ったんです」
アノーはもう一度椅子の背にもたれかかると、憎悪と不信の入りまじった眼でじっと彼女をみつめた。アノーの後ろに立っていたジム・フロビッシャーは、アンが自分と同じイギリス人であることを恥ずかしく思った。こんな見え透いたいいのがれがあるだろうか? 寝室にいるのが看護婦のジャンヌ・ボーディーヌだと思ったのなら、どうして後ろを向いてにげていったりしたのか?
「ね、お嬢さん」アノーは口を切ったが、その声は不意におだやかなほとんど嘆願するような調子に変っていた。「私には何か釈然としないんですが」
アン・アプコットは困惑した身ぶりでベティの方を向いた。
「ねえ、分るでしょう!」アンはいった。
「ええ」ベティはそう答えると、少しばかりためらっていたが、やがてさっと立ちあがった。
「ちょっと待っててね!」彼女はそういうと、だれもひきとめることができないうちに、家に向かって庭を半分ばかりとぶようにかけ抜けていた。ジム・フロビッシャーは、アノーがいったんは彼女をとめようとしたが間にあわないと知ってあきらめたのか、それともはじめからとめるつもりなどなかったのか、どちらだろうと考えた。
「何という走り方だ!」彼はフロビッシャーに向かっていった。「少年のようなすばしっこさと少女の優雅さの両方をもっている! なかなかかわいいじゃありませんか。足はつややかですらりと長く、からだの線はながれるようだ!」そういっているうちにベティは石段をかけあがり、家の中に入っていった。
アノーの態度には、その口調の軽さにそぐわぬ切迫したものがひそんでいた。彼は何か期待をこめたまなざしで、表情のない家の窓をみつめていた。しかしベティは、一分たつかたたないうちにもどってきた。彼女は幾分大きめの封筒を手にもって、ふたたび石段に姿を現わすと、すばやく一同のところにやってきた。
「アノーさん、私たちはこのこともあなたにかくしておこうとしてきたんです」彼女の言葉に苦々しいものは全くなく、深い後悔の念がこもっていた。「私たちが長い間ディジョンの人たちにかくしてきたように、昨日は私が、今日はアンがあなたにかくしていたのです。でも、もうかくしておくことができなくなりました」
彼女は封筒をあけると、一枚のキャビネ判の写真を取り出し、それをアノーに手渡した。
「これは、伯父と結婚した当時の伯母の写真です」
それは若々しく胸を張り、すらりとした女性の半身像で、その顔には若い女性のあいらしさの代りに一種の風格ともいうべきものがにじみ出ていた。思いに沈んだ暗い眼とやさしい口もとをもつ、苦しみに浄化された顔で、写真という粗雑な媒介物によってさえ、気まぐれなユーモアのセンスが現われていた。アノーの肩ごしにじっとのぞきこんでいたジム・フロビッシャーも、「美人ですね」といわずに、「友だちにでもなりたかったような人ですね」といったほどだった。
「全くです、友だちにでもしたいような人です」アノーもつけ加えた。
ベティは封筒からもう一枚の写真を取り出した。
「これは一年前にとった伯母の写真です」
その二枚目の写真は、モンテカルロで撮ったもので、とうてい同じ一人の人間とは思われなかった。この十年の間にそれほど悲惨な変り方をしていたのである。アノーは手にとって二枚の写真をならべてみた。優雅さやユーモアはすっかり影をひそめ、からだはすっかりふくれて幅が広くなり、顔の造作は品がなくなり、重苦しいものになっていた。頬は肉がつきすぎ、唇はすっかりたれさがり、眼には荒々しい光が宿っているだけだった。それは恐るべき頽廃の姿だった。
「この二つの写真は不幸な経歴をはっきりと語っていますが」アノーはおだやかな口調でいった。「やはりはっきりさせておいた方がいいと思います。ハーロウ夫人は晩年に酒を飲まれるようになったんですね?」
「伯父が亡くなってからのことです」ベティが説明した。「もう多分おわかりになっていることと思いますが、伯母の生活は結婚する前までは、どちらかといえばみじめなさびしいものでした。しかし伯母には、生きるささえになる夢があったのです。ところが、伯父が亡くなったあとは――」彼女はある身ぶりをして口をつぐんだ。
「そうですか」アノーは答えた。「もちろん、私もフロビッシャーさんも、この事件に関係をもつようになって以来、何か秘密がかくされていることに感づいていました。あなたが昨日、アンさんが今日、だまりこんでしまう前から、先刻承知していたのです。ワベルスキーがロンドンのあなたの弁護士を脅迫したりあなたを告訴したりしたのは、あなたのかくしておきたがっていた何かを知っていたからなのです」
「ええ、彼はたしかに知っていました。また医者や召使たちも知っていましたが、彼らはとても義理がたい人たちだったのです。私たちはその秘密を一生懸命もれないようにしていましたが、果たしてかくし切れたかどうかはわからないのです」
アノーの顔には、親しげな微笑がひろがった。
「それは今ここでたしかめることができます」アノーのその言葉をきいて、二人の少女とジムはアノーの方に眼をそそいだ。
「どんなふうにして?」彼らは信じられないような口調で叫んだ。
「簡単な質問に一つだけ返事をして下さればいいんです」アノーはいった。「その秘密のことを書いた匿名の手紙をうけ取ったことはありますか?」
それをきいて一同はすっかり驚いた。しかしそれ以上適切な質問はないことをただちに認めた。この町のあらゆる秘密は、いずれにしても、この未知の人間あるいは未知のグループによって利用されていたからである――このハーロウ夫人の堕落に関する秘密だけは例外だったが、その証拠に、ベティが返事をした。
「いいえ! 一通も受け取りませんでしたわ」
「私も受け取りませんでした」アンもつけ加えた。
「では、この秘密はまだもれていませんね」アノーはいった。
「でも、いつまでかくしておけるでしょうか?」ベティが早口でたずねたが、アノーは一言も答えなかった。彼にしてみれば、自分の信条ともいうべきものを忠実に守ろうとすれば、人と約束することなどできなかったのである。
「本当に残念なことですわ」ベティは沈んだ調子でいった。「私たちは一生懸命努力したんです。私もアンもね」それから彼女は、グルネル荘で送ってきた自分たちの生活をかいつまんで話し出した。「私たちにできることはほとんど何もなかったのです。私たちは二人とも何の権力ももっていなかったのです。私たちは二人とも伯母のお情けにすがって生きていたのです。伯母はふだんは非常に親切な人でしたが、からだの具合がわるくなると、ひどく扱いにくくなりました。そして伯母と私たちは年があんまりはなれすぎていたので、私たちはただ見張っているほかはなかったのです。
伯母は干渉されるのを極度にいやがり、自分の寝室でひとりきりでお酒を飲み、口出しする人があると、狂暴になっておどしたりしたのです。そんな人は一人のこらず外に追いはらったことでしょう。もっとも、用があればベルを押して看護婦を呼ぶことができました。そして実際時々そうやっていましたが、それもめったにないことだったのです」彼女ののべる生活はたしかにやりきれない、うんざりするようなものだった。
「私たちはすっかり望みを失っていました」ベティは言葉をつづけた。「実際伯母は心臓の具合がわるく、私たちはたえず万一の場合を心配していたからです。私がド・プイアックさんのダンスパーティにいっていた時、アンが書こうとしていた手紙も、私たちの試みの一つでした。それはイギリスのある医者に出す手紙だったのです。――その人はともかくも医者だと自分でいっていましたが――患者にはわからないように食べ物や飲み物にまぜることのできる禁酒の薬があると広告していたのです。そんな薬を別に信用していたわけではありませんが、ともかくもやってみなければならなかったのです」
アノーは勝ち誇ったようにフロビッシャーの方に眼をやった。
「フロビッシャーさん、その手紙のことをあなたがききたがった時、私が何といったかおぼえていますか? こういうことは、ほっておけばだんだんにわかってくるものなのです」
しかしその時、勝ち誇ったような口調は突然消えた。彼は立ちあがると、自然な威厳と敬意を見せながら、ベティに会釈し、二枚の写真を返した。
「お嬢さん、本当に申しわけありませんでした」彼はいった。「あなたやアンさんが、そんなに苦労しておいでになろうとは、想像もしていませんでした。夫人の秘密については、絶対に人にもらしたりはいたしません」
ジムは、ベティに対する殊勝な態度を見て、今まで自分を冷たくあしらってきたアノーを許してやろうという気になった。彼はアノーがその信条をひっこめて、秘密をあばき出すことをやめ、二人の若い番兵はその綿密な見張りに対して報酬をあたえられるのではないかという望みさえ抱いた。ところがアノーはふたたび椅子に腰をおろすと、またもやアン・アプコットの方に向き直った。アノーはなおも取調べをつづけるつもりなのだ。ほっておくつもりなど毛頭ないのだ。ジムは前よりも一そう失望してしまった。というのは、この事件が実体のないものから実体のあるものに、推測から論証に――ある人にとって不利なものに変化しながら、だんだんにはっきりした姿を現わして行くのをさとらないわけにいかなかったからである。
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十 飾り棚の上の置時計
アン・アプコットの話は、この新しい打明け話によって、充分理解できるものになった。彼女は暗闇に立ったままきいていたのだが、夫人がいつもの狂暴な怒りの爆発を起こしているのだと考えたのである。そして、看護婦のジャンヌ・ボーディーヌが夫人につきそっていて、夫人をなだめすかし、最後に鎮静剤でもあたえたのだと思い、ほっと安堵の胸をなでおろしたのだった。夫人の叫び声は次第に弱まりついに消えた。そして最後に、看護婦が病人にいったのか、自分自身にいったのか、「これでいい」というささやくような声がきこえてきた。そこでアンは、人に気づかれないように注意しながら、後を向いてにげ出した。彼女が逃げ出したのは決して臆病によるものではなかった。危機はすでにすぎ去った。アンが入って行くことは、少し前までは夫人に一そう狂暴な怒りを爆発させる原因になるだけのことであり、現在では全くその理由さえ見当らなかった。そんなことをすれば、もう一度病人を刺激し、次の日グルネル荘での生活を一そう不快な厄介なものにするにちがいない。なぜなら、ハーロウ夫人は理性をとりもどした時、またしても醜態をアンに見られたということをさとるにちがいないからだ。もしアンの下したその場合の解釈が正しかったとすれば、それは彼女のなし得る、そして実際に行なった最善の方法だったのである。彼女は暗闇の中を足音をしのばせて自分の部屋にかけもどったのだ。
「なるほど」アノーはいった。「だが、今になってみると、自分の解釈が正しくなかったのではないかと思っているわけですね。今では、ドアがあいていて、その向こうに灯りの見える暗闇の中に立っている間に、ハーロウ夫人が殺された、ほんの数フィートしかはなれていないところで冷酷にも虐殺されたと信じるようになったんですね」
「そんなことを信じたくはないんです」彼女は叫んだ。「あんまり恐ろしすぎることですもの」
「今になってみると、『これでいい』とささやくようにいったのがジャンヌ・ボーディーヌではなかったと思っていらっしゃるんですね」アノーはなおも固執した。「そういったのは、だれか知らない人間で、そのささやくような声は、その部屋の中にいたまた別の人間が殺人を行なった後に口にしたものだというんですね」
「そうではないかと思うんです!」アンはうめくようにいった。
「そしてそっと歩いていって、宝物室の暗闇から、灯りの見えるドアの向こうを見なかったことに自責の念をおぼえていらっしゃるんですね」彼の口調には非常な思いやりがこもっていて、相手の苦悩を充分に洞察した話しぶりには、それなりに相手をなぐさめるものがあった。
「そうなんです」彼女は懸命になって叫んだ。「さっき申しあげたように、私、やめさせようと思えば、やめさせることもできたんです。それなのに今朝までそれに気がつかなかったんです。それから、あの日の夜にはほかにも何かあったんです」今や彼女ははげしい恐怖におそわれ、その頬からは血の気が消え、眼がキラキラと輝いた。
「ほかにも何かですって?」ベティはすばやく息を吸いこんでたずねると、アンに向かいあうように椅子を少し動かした。ベティは襟の開いた白い絹のブラウスの上に黒い上衣を着ていたが、上着の脇ポケットからハンカチを取り出して、額をふいた。
「その通りです」アノーはいった。「あの日の夜、あなたのお友だちに何か別のことが起こったのはたしかです。そのことと今朝毒矢の本を見ながら話したことを思いあわせて、アンさんは殺人が行なわれたことを信ずるようになったのです」こういうと彼はアンの方に視線を向けた。「それであなたは自分の部屋にもどったんですね?」
アンはふたたび話をはじめた。
「私は寝床の中に入りました。ところが、夫人の狂暴な怒りの爆発のことを考えるととても――何といったらいいでしょうか?――不安な気持になってしまったのです。この家の中で何が起こっているのかさっぱり見当がつかなかったのです。私はいらいらして気持がおちつかず、しばらくの間、ベッドの上で寝返りばかりうっていました。何か熱にうかされているようでした。それから突然、私はぐっすり眠りこんでしまいました。しかしそれもほんのしばらくの間でした。眼がさめた時、部屋の中は依然としてまっくらでした。鎧戸からはまだ一筋の光もさしこんではおりません。私は寝返りをうって仰向けになり、頭の上の方に両手をのばしました。するとたしかに、その手が人の顔にさわったのです――」
それから何日もたったあとだったが、今だにその時の恐怖がはっきりと生々しくこびりついているらしく、彼女は身ぶるいすると、短いすすり泣きをもらした。「その顔は無言のまま、私の上におおいかぶさっていました。私は息がとまるような思いでさっと手をひっこめました。心臓は早鐘のように打ち出しました。一、二秒の間、私は麻痺したように口もきけずにじっとしていましたが、やがて声が出せるようになると、甲高い叫び声をあげました」
彼女の言葉以上に、彼女の表情がその時の恐ろしさをはっきりと物語っていた。そしてその恐怖は、きいている人々の間に伝染していった。ジム・フロビッシャーは不安そうに肩を動かし、ベティは大きな眼を見ひらき、息を殺して、アンの話に耳を傾けていた。アノーさえも、
「甲高い叫び声をあげたですって? 無理もないことです」と口をはさんだ。
「しかし、その叫び声はだれにもきこえず、だれの助けも得られないことも知っていました」アンは言葉をつづけた。「そこで私は、あわててベッドからとびおりましたが、今度はだれにもさわりませんでした。私は肝をつぶして度を失い、方向の観念を完全になくしてしまったのです。私は電燈のスイッチをみつけることができず、よろめきながら壁にそって手探りで進んでいったのです。まるで自分のすすり泣く声が他人の声のように思われました。ようやく箪笥にぶつかって少しばかり正気にもどり、スイッチのありかがわかって灯をつけました。部屋の中にはだれもいませんでした。私は自分に夢を見ていたのだといいきかせようとしましたが、それが夢でないことはよくわかっていたのです。だれかが暗闇の中で、こっそりと私の上に、私のすぐそばにかがみこんでいたのです。その顔にさわった私の手は、ずきずきとうずくようでした。とうとう私は決心してドアをさっと大きくひらきました。しばらくの間、私は後ろに身をひいて立っていましたが、いったんドアがあいてしまうと、もう何の物音もしませんでした。私は正面階段の上まで足音を忍ばせていってみました。下の方には、玄関の広間がだれもいない教会のようにしんと静まり返っています。蜘蛛一匹動いてもきこえそうな静けさでした。私は突然、私の部屋から光がながれ出て、私のところまで達しているにちがいないことに気がつきました。そこで私はすぐに『そこにいるのはだれなの?』と叫びました。それから自分の部屋にかけもどって、内側から鍵をかけたのです。もう今夜は眠れない、そう思ったので、窓のところに走って行くと、さっと鎧戸をあけ放ちました。私は窓のところに五分ばかりいたと思います。その時――アノーさん、あなたもディジョンの町の大時計が一せいに時間を告げて鳴り出し、山の方までひびいて行く様子をご存知だと思います――全部の大時計が一せいに三時を打ったのです。私はそれから夜明けになるまで、窓のところに立っていたのです」
彼女の話が終ったあと、しばらくの間は、だれ一人口を切ろうとはしなかった。アノーはゆっくりと新しい煙草に火をつけ、地面をみつめたり、空をみつめたりしていたが、そこにいた三人の顔だけは見ようとしなかった。
「では、その驚くべきことが起こったのは、午前三時少し前だったんですね?」彼は重々しい口調でたずねた。「たしかにまちがいはありませんね? 非常に重要なことかも知れませんからね」
「たしかにまちがいはありません」彼女はいった。
「そして、今までその話はだれにもいわなかったんですね?」
「だれにも話していません」アンは答えた。「次の日の朝、ハーロウ夫人の亡くなったことがわかりました。そしてお葬式の準備があり、つづいてボリスさんの告訴がありました。私がそれにつけ加えるまでもなく、家の中にはごたごたがたえなかったのです。それに、暗闇の中でさわった顔などという話を信じてくれる人はいないでしょうし、私自身その時は夫人の死と結びつけて考えたりしなかったのです」
「なるほど」アノーはいった。「あなたは病気で亡くなったのだと思っていらしたわけですからね」
「ええ、今だって病気で亡くなったのではないと確信しているわけではないんです」アンは抗議した。「でもアノーさん、今日はどうしてもあなたにその話をしなければならなかったのです」彼女はそういうと、椅子から身をのり出したが、その眼やその顔や、緊張した身のこなしはアノーの注意をひきつけた。「なぜなら、もしあなたのおっしゃっていることが正しく、二十七日の夜この家の中で殺人が行なわれたとすれば、その正確な時間をお知らせできると思ったからです」
アノーは一度か二度、ゆっくりとうなずいてみせた。
「宝物室の壁の中央にある寄木細工の飾り戸棚の上の置時計のことですね」彼はいった。「スイッチをひねってまたすぐ消した短い一瞬に、白い文字盤と針の指していた時間があなたの眼にとびこんできたというわけですね」
「ええ、そうなんです」アンはゆっくりと静かな口調で、しかし力をこめながらいった。「時計の指していた時間は十時半でした」
その言葉をきいて、一同の緊張はゆるんだ。ベティはかたくにぎりしめていた手をひらき、ハンカチがヒラヒラと草の上にまいおちた。ジム・フロビッシャーはほっと安堵の息をもらした。
「そうです、その時刻が非常に重要なのです」アノーはいった。
「重要です。全くその通りです!」ジムが叫んだ。
そのことは次のことを明らかにし証明したからだった。もし四月二十七日の夜、殺人が行なわれたとすれば、グルネル荘の家族の中で一人だけその犯行に関係のない人間がいる――つまりそれは、彼の依頼人であるベティ・ハーロウだったのだ。
ベティはハンカチを拾おうと身をかがめた時、アノーに話しかけられ、幾分びくっとしてふたたびまっすぐにからだを起した。
「お嬢さん、寄木細工の飾り棚の上にある置時計はちゃんとあっているんですか?」彼はたずねた。
「ええ、ちゃんとあっています」彼女は答えた。「リベルテ通りにある時計屋のサバンさんが、たびたび手入れをしています。八日巻きの時計ですから、今日の午後封印をとる時にも、まだ動いていると思います。ご自分でお調べになれますわ」
ところがアノーは、すぐさま彼女の言葉を信用した。彼は立ちあがると、形式的に、しかしそれを充分にうめあわせる微笑をうかべて、彼女に会釈をした。
「ベティさんは十時半にティエール通りのド・プイアックさんのお宅でダンスをしていらした」彼はいった。「その点については、なんら疑問の余地はありません。すでに調査してありますからね。そして午前一時まではそこにおいでになった。このことについては、お宅の運転手からダンスのパートナー、そしてその夜ずっと手さげランプをもって石段の一番下に立ち、お嬢さんのかえる時に車のドアをあけたのをおぼえているド・プイアックさんの家の下男にいたるまで、どんな悪意をもっている人間をも納得させずにはおかない明白な証拠があるのです」
『やっとこれですんだ』ジムは心の中でつぶやいた。これでともかくも、ベティが罠にかけられる心配はなくなった。このようにたしかな見込みが立ってみると、彼の考えはまた別の方向に向かっていった。どうしてアノーはさらに調査をつづけないのか? この事件の未知の犯人がだんだんに追いつめられて行くのを見守っているのは、たしかに興味津々たるものがあった。巡回裁判でも妥当な判決の下し得ない事件、毒薬の痕跡のない毒殺事件、数多くの推測の中から、あちらこちらにだんだんとはっきりした事実が現れてくる事件。そうだ、今ジムは、アノーの言葉を借りていうなら、事が順々にわかってくるように、機敏に研究をつづけていってもらいたかった。ところが、アノーが見落していて、彼の注意を喚起しなければならない一つの問題があった。ジムは罠にかかったライオンを二十日ねずみが助けにいったこともあると、控え目な男としては精一ぱいのうぬぼれで考えた。彼は口をひらく前にせきばらいをした。
「アンさん、ちょっとあなたに一つだけうかがいたいことがあるんです」彼が口を切ると、驚いたことには、アノーがものすごい顔をしてくってかかってきた。
「何かききたいですって?」彼はいった。「ききたければきいてごらんなさい。それはあなたの権利ですからね」
しかしアノーの態度は、『そして、その結果はあなたの責任ですよ』という口に出さなかった言葉をつけ加えていた。ジムは思わずためらった。彼は自分のききたい質問に何のさしさわりもみつけることができなかった。それだけではない、それはこの上もなく重要な質問なのだ。ところがアノーは険悪な顔をして彼の前に立ちはだかり、するなら勝手にしろといっているのだ。ジムは今や、アノーが彼のいおうとしていることをよく知っていながら、何か秘密の理由でそれを明らかにすることに反対しているのだという確信を抱くに至った。ジムは譲歩した。しかしそれは、あまり優雅と言うわけにはいかなかった。
「いや、つまらないことなんです」彼は不機嫌そうにいうと、アノーはすぐさまもとのように機嫌よくなった。
「では、この辺で散会ということにしましょうか」アノーは自分の時計を見ながらいった。「もうそろそろ一時頃です。署長には三時といっておきましょうか? いいですね? それでは私の方から連絡して、三時に図書室に集ることにしましょう」――そういうと彼は、ベティに、軽い会釈をしていった。「これで禁制もとかれることになるでしょう」
「では、三時に」ベティは快活な調子でいった。
彼女は椅子からさっと立ちあがると、身をかがめ、すばやいしなやかな動作でハンカチを拾いあげた。そしてかかとでぐるりと回ると、大声でいった。「アン、早くいらっしゃい!」
四人は家の方に向かって歩いていった。その時ベティはふり向くと、だしぬけにアノーにいった。
「椅子の上に手袋を忘れていらっしゃるわ」アノーはその言葉をきくと、ふり向いた。
「ああ、本当だ」彼はそういったが、すぐいそいで彼女をとめた。「ああ、お嬢さん!」
しかしベティはすでに手袋のあるところにとんで行き、手袋を手にぶらさげてもどってきた。
「お嬢さん、どうもすみませんでした」彼は手袋をうけ取りながらいった。そして少しばかり体をこわばらせているフロビッシャーの方を見て、にやりと笑った。
「やあ! フロビッシャーさん」彼はいった。「お嬢さんにこんなに親切にしてもらうのが、あなたの気に入らないようですね。そうです、あなたはあんまりちゃんとしすぎてますよ。あなたはコチコチすぎるんです。しかし考えてごらんなさい。『若さや美貌なんてものは、アノーにくらべたら、一体なんだろうか?』とね」
いたずら小僧になった時のアノーに、ジム・フロビッシャーはどうしても好感がもてなかった。特に面白くないのは、いい返す言葉のみつからないことだった。ジムはすっかり赤くなったが、事実いい返す言葉をみつけることができなかった。一同は無言のまま家に向かって歩いていった。アノーは帽子とステッキを手に取ると、別れを告げ、中庭から表の門を通って立ち去った。アンは図書室の方にぶらぶらと歩いていった。その時ジムは、腕にだれかのさわるのを感じた。見ると、ベティが面白がっているような微笑をうかべて彼のそばに立っていた。
「アノーさんの手袋を取りにいったのが、お気に召さなかったの?」そして彼女の面白がっているような微笑はやさしい微笑に変っていった。「もしお気に召さないことがわかっていたら、絶対にそんなことはしなかったのに」
ジムの不機嫌は、夏の朝のもやのように跡かたもなく消え去ってしまった。
「気にさわるですって?」彼は叫んだ。「もしよろしければ、彼のボタンの穴にばらの花をつけてやってもかまいませんよ。そうしたらぼくはいうつもりです。『ぼくにも同じことをしてくれるにちがいない』とね」
ベティは声をあげて笑うと、なれなれしく彼の腕をにぎりしめた。
「では、仲直りしましょう」彼女はそういうと、次の瞬間、玄関のガラス飾りの下の石段を下りていた。「アン! 二時にお昼にしましょう!」彼女は叫んだ。「一つ気ばらしに散歩にでもいってこなきゃ」
彼女はジム・フロビッシャーにとって、あまりにもすばしこくとらえどころのない相手だった。彼女がいってしまうことを彼がはっきりと知る前に、彼女はすでに中庭を横切り、シャルル・ロベール通りに姿を消していた。彼はどうしようかと思って、アンの立っている図書室の方を向いた。
「一しょに散歩にいった方がいいのかも知れない」彼はそういって、自分の帽子に手をのばした。
アンは微笑しながら、心得顔に頭をふった。
「私は行かない方がいいと思うわ。ベティのことはよく知っているんです。あの人一人になりたがっているのよ」
「そうでしょうか?」
「そうにきまってるわ」
ジムは彼女の半分も確信がもてないというように、手で帽子をひねくり回していた。アンはしばらく少しばかり悲しげな微笑をうかべて彼をみつめていたが、突然腹立たしげに肩をすくめた。
「それより、あなたにはしなければならないことがありますわ」彼女はいった。「ベティの公証人のベクスさんのところにいって、今日の午後封印のとられることを知らせてあげなければいけませんわ。あの人はここにこなければならないんです。封印された時もここにきていました。それにあの人はハーロウ夫人の引出しや戸棚の鍵をみんな預っているんです」
「たしかにその通りだ」ジムは大声で叫んだ。「すぐいってきます」
アンはエチエンヌ・ドレ広場のベクス氏の住所を教えた。そして、使いに行く彼の後ろ姿を、図書室の窓からじっとみつめていた。彼女は彼の姿が見えなくなってからも、ずっと長い間窓のところに立ったままだった。
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十一 新たな容疑者
フロビッシャーが名刺を出すと、公証人のベクス氏が玄関の広間にやってきた。彼はあごひげをきちんととがらせ、髪の毛を短く刈りこんだ、きびきびした小男だった。カラーの折り返しの間には、ナプキンの端が押しこまれたままだった。
ジムはグルネル荘の部屋の封印が取り去られることを告げたが、毒矢の本の発見に端を発した事件の新しい進展については、何一つ話さなかった。
「フロビッシャー・ハズリット法律事務所とは文通したことがありますが」ベクス氏は大声で口を切った。「何もかも非の打ちどころもないほどきちんとしていました。ああいうちゃんとした事務所の経営者におあいできて幸いです。わかりました。三時には鍵をもってまちがいなくうかがいましょう。そしてこの悲しむべきスキャンダルの結末を見せて頂きましょう。全く不名誉なことでしたね。あんなに感じのいい、ちゃんとしたお嬢さんを訴えたりするなんて、ワベルスキーという男は、全くけだもの同然ですな! しかしあの男に制裁を加えてやることはできます。フランスには、ちゃんと法律というものがあるんですからな」
彼はフランス以外には法律というものがないかのような口ぶりでいうと、会釈をしてジムを通りに送り出した。
ジムはゴドラン通りと、この町の本通りでもあるリベルテ通りを通ってかえろうとしたが、市役所の前にある半円形のアルム広場を横切った時、葉巻をくわえたアノーに突然出くわした。
「昼食はもうすんだんですか?」彼は大声でいった。
「十五分ですませてしまいました」アノーは手をふりながらいった。「あなたは?」
「二時に昼食です。ベティさんが散歩をしたいというので」
アノーは微笑をうかべた。
「私にはよくわかります! きびしい試練のあとの最初の散歩! 手術のあとの回復期の最初の散歩! 重大な嫌疑の晴れた被告の最初の散歩! だれだって散歩したくなるのが当然です。だが、昼食がおくれたのはむしろ感謝すべきです。あなたは私にあえたんですから!」そういうと彼は少し気取ってみせた。
ジムは芝居がかったことがひどく嫌いだった上、特に人前でやられるのがたまらなかったので、よそよそしい態度で答えた。「本当に幸運でした」
アノーはにやりと笑った。ジムに澄ました様子をさせるのが面白くて仕方がないといったふうだった。
「では一つ褒美をあげましょう」彼はそういったが、ジムは何のために褒美をくれるのか見当がつかなかった。「私と一しょにきて下さい。今時分フィリップ・ルボンの塔の上にのぼると、景色がいいですよ」
彼は先に立って市役所の広々とした中庭に入っていった。彼らの正面にある長い翼の後ろに、高さ百五十フィートもある、頑丈な四角い塔がそびえていた。アノーはフロビッシャーの先に立って、三百十六段の階段をのぼり、雲一つなく晴れ渡った、フランスの五月の青と金の空の下に出た。彼らは東の方に眼をやった。フロビッシャーはその美しい眺めに一瞬息が止る思いだった。
アノーは石のベンチの上に腰をおろし、手すりごしに片手をさし出した。「ごらんなさい!」彼は誇らしげに熱のこもった口調で叫んだ。「これを見て頂こうと思って、あなたをつれてきたんです。ほら、ごらんなさい!」
それをながめたジムの顔は明るくかがやいてきた。はるか彼方の地平線のはてに、この世のものとも思われない美しさで、偉大なモンブランの山々がそびえていた――それらは、銀のように白く、ビロードのように柔らかく、丁度もえあがってはくずれ落ちる焔のように、ここかしこ金色にきらめいていた。
「おお!」アノーはジムの顔をみつめながらいった。「どうやら私たちは二人とも意見があったようですね。あなたはあの山の頂上にのぼったことがあるでしょうね?」
「五回あります」ジムはさまざまの思い出のわきあがってくるのをおぼえながら、微笑して答えた。「またのぼりたいと思っています」
「あなたは仕合せなんだ」アノーは少しばかりうらやましそうにいった。「私などは、遠くの方からただながめているだけですよ。だが、それだけでも――心に悩みのある時には――黙って友人と向かいあっているような気持になるのです」
「では、今度の事件で悩んでいらっしゃるわけですね?」ジムは同情をこめていった。青空を背景に、銀とビロードの弧を描いてそびえ立つ山々の、遠くはなれた絶妙な光景は、たとえ瞬間のことにすぎなかったにせよ、二人の男に一種の友情をもたらした。
「ええ、その通りです」アノーは地平線をじっとみつめたまま、ゆっくりと答えた。「それには、色々理由があるのですが、あなた自身はどうお考えですか?」
「アノーさん、ぼくは」ジムはそっけない口調でいった。「あなたが自分以外のだれにも質問させたがらないと思っているだけです」
アノーは一本とられたというように、声をあげて笑った。
「そうです、あなたはあの美しいアプコットさんに質問したがっていましたね。あなたのきこうとしていたことを、一つあててみましょうか? 彼女が暗闇でさわったのは、すべすべした女の顔だったのか、それとも男の顔だったか、とききたかったんでしょう?」
「ええ、その通りです」
今度はアノーが好奇の眼ですばやくジムに視線を送った。『これからはあなたにも少しばかり特別の注意をはらわなくてはいけない』そういう考えが彼の心をかすめすぎたのはたしかだったが、彼はそれを口に出さないように気をつけた。
「その質問はしてもらいたくなかったのです」彼はいった。
「それはまたどういうわけです?」
「必要がないからです。必要のない質問は事態を混乱させるから、避けるのが一番いいのです」
ジムはその説明を一言も信用しなかった。彼はアノーが自分をとめた時の、すばやい動作と表情をはっきりと心にとどめていた。それは二つとも、まぎれもない狼狽のしるしだった。ただ単に必要のない質問だというだけの理由で、それがジムの口から出かけたとき狼狽するというのはおかしい。理由はまた別にあったのだ。ジムはこの上もなく不可避の理由があったのだと確信した。ただ、ジムにはその理由が何だかわからないだけの話なのだ。
「そうです」アノーは答えた。「もしあのお嬢さんの手が暗闇の中で、自分の上に低くかがみこんでいる、無精ひげをはやした、皮膚のかたい、短い髪の毛の男の顔にさわったとしたら、この上もなく生々しく恐ろしいことではなかったでしょうか? 何気なく頭の上に手をのばして、突然思いがけず、男の顔にさわったとしたら? 彼女はそのことを話さずに、あの話をすることはできなかったはずです。それは忘れようにも忘れられないことであり、同時に彼女の恐怖の中心だったはずだからです。もし彼女が本当に男の人の顔にさわっていたらね!」
ジムにも、アノーの推論が正しいことはわかっていた。しかし、どうしてアノーがあれほど懸命になって質問をさせないようにしたのか、という彼の疑問の解決にはならなかった。そして次にアノーがおちついていった言葉のために、ジムは長い間その疑問からすっかり考えをそらされてしまった。
「ところが、あの夜アンさんは、暗闇の中で女の人の顔にさわったのです――もしあの夜、彼女が本当にだれかの顔にさわったとすればね」
ジムはすっかり驚いてしまった。
「彼女がうそをついているというんですか?」彼は叫んだ。
アノーは抗議するように手をふってみせた。
「私は何も信用してはいません」彼はいった。「私はただ犯人をさがしているだけです」
「アン・アプコット!」ジムは驚いてその名前を口にした。「アン・アプコット!」そして彼は、恐怖に顔をひきつらせ、声をふるわせながら、話をしていた時の彼女を思い出した。「彼女がうそをついていたなんてとても信じられません。あんなにうまくおびえたふりをするなんて、とても不可能なことです」
アノーは声をあげて笑った。
「では、一つ教えてあげましょう。大きな犯罪を犯す女は、みんな達者な役者ばかりです。例外なんて一人もありませんでしたね」
「アン・アプコット!」ジムはもう一度大声をあげたが、今度はもう前ほど驚いていなかった。
彼はゆっくりとだんだんにその考えになれてきた。しかしそれにしても――若さにかがやいていた少女が! いや、そんなはずはない!
「ハーロウ夫人の遺書には、アン・アプコットのことは何も書いてありません」彼は主張した。「夫人を殺したところで、何にもならないじゃありませんか」
「まあ、待って下さい! 彼女の話を念入りに検討してみようじゃありませんか! 分析してみるんですよ。あなたにもわかるでしょう? 彼女の話は二つの部分からできているのです。
第一の部分は、彼女が自分の寝室に一人でいた時のことです――それはちょっとした恐怖小説で、充分に効果的なものでしたが、要するにだれにでも考え出せるものです。しかしもう一つの部分は、そう簡単に考え出せるものではありません。何の理由もないのに、境のドアがあいていて、その向こうに灯が見え、『これでいい』というささやきや、もがくような物音がきこえてきた! そうです、これは作り話だとは思えない。そこには実際に経験したとしか思えない、あまりにも多くのことがあるのです。置時計の白い文字盤だとか、眼にとびこんできた時間だといったようなね。そうです、それには、みんな裏づけになる事実があるのです。それはともかく、その話を少しばかり脚色してみましょう。今朝、ワベルスキーが、ガンベッタ通りだとか、ジャン・クラデルだとかいう話をしていましたね!」
「ええ、おぼえています」ジムはいった。
「そして私があとで、ワベルスキーが自分のしたことを、ベティさんにあてはめていったのではないかと、あなたにいいましたね?」
「ええ、その通りです」
「では、アン・アプコットの話も同じように解釈してみようではありませんか」アノーは言葉をつづけた。「あの日彼女は、いつだかわからないが、ともかくも境のドアをあけたと仮定してみましょう! そんなことはごく簡単なことです。ハーロウ夫人は昼間は二階にいて、彼女の部屋はからっぽだからです。それに例の境のドアは、鍵がかかっているかどうかがわかる夫人の寝室ではなくて、化粧室に通じていたのです」
「たしかにその通りです」ジムも同意した。
「では、先をつづけましょう! ベティさんがド・プイアック氏の家のダンスパーティに出かけたあと、アン・アプコットはひとりであとにのこりました。彼女はガストンをやすませます。家の中はまっくらで寝しずまっています。そこで彼女は、もう一人の人間――注射針に矢の毒を入れて準備を整えている人間と一しょになる。そしてアンのいっていたように、二人は宝物室に入る。彼女が一瞬灯をつけた間に――その人間は宝物室を横切ってドアをあける。『これでいい』とささやいたのはアン・アプコット自身の声で、夫人の死体を中にして、その部屋にいたもう一人の人間にささやいたのかも知れないのです!」
「『もう一人の人間』ですって」ジムは大声で叫んだ。「しかし、それはいったいだれなんです? だれなんです?」
アノーは肩をすくめた。「ワベルスキーではいけないでしょうか?」
「ワベルスキーですって?」ジムは一そう興奮した口調で叫んだ。
「あなたは夫人を殺したことによって、アン・アプコットに何の利益があるのかと私にききましたが、あなたはその質問に自分で答えているのです。あなたは、何もない、といっていました。しかし、あなたの性急な答にはちゃんとした根拠があるでしょうか? ワベルスキー――彼はともかくも充分遺産をもらえると思っていたのです。自分の手伝いをしてくれれば、その遺産の分け前をやると、あの美しいアン・アプコットに申し出ていたらどうでしょう? それでも彼女に動機がないということができるでしょうか? 結局、彼女について私たちの知っているのは、彼女が雇われている話相手で、従って貧乏な少女であるということだけではありませんか。あのアンという少女はね!」そういって彼は、両手をひろげてみせた。「いったい、彼女はどういう素姓の女なんです? どうやってあの家に雇われるようになったんです? ワベルスキーの友だちだったんですか?」――その時ジムが大声をあげたので、アノーは口をつぐんだ。
ジムは、もし殺人が行なわれていたとすれば、ワベルスキーが犯人だという可能性もあり得ると考えていた。つまり、遺産めあてに殺人をしてみたものの、何の利益も得られないことに失望し、恐喝と虚偽の告訴という悪事をその上に重ねたのである。しかし、この塔の上にくるまで、アン・アプコットをワベルスキーと結びつけて考えたことはなかったのだ。今ジムの頭にはさまざまの記憶がよみがえってきた。一例をあげれば、彼のところに送られてきた手紙のことだった。その手紙の中では、ワベルスキーに援助をたのまれたが、そんなものは一笑に付してしまったと書いてあった。あの手紙も、人の目をくらますための、狡猾な手段にすぎなかったのではないか? 中でも、彼の心にはっきりとうかびあがってきたのは、今眼前にひろがっている光景と似ても似つかない一つの光景だった。それは、あかあかと灯のともっている部屋、長い緑色のテーブルをとりかこんだ人々の群、テーブルの前に腰をおろし、元じめの熊手で紙幣の小さな山を一つのこらず取り去られるまでさんざんに負け、昂然としながらも唇をふるわせて立ち去って行く、ほっそりした美しい少女、彼の心にうかんできたのは、そういった光景だった。
「さては!」アノーは鋭い口調でいった。「あなたはやっぱりアン・アプコットのことを何か知っているんですね。いったい、何を知っているんです?」
ジムはためらった。この話をするのは、アンに対して公平ではないように思われたのである。今説明すれば、全然ちがったふうに受け取られる恐れがある。また別の機会に、彼女の口から説明させた方が公平ではないか。しかしベティのことを考えてやらなければいけない。そうだ。先ず第一にベティのことを考えてやらなければならない。ディジョンにやってきたのは彼女のためなのだから。
「では、お話ししましょう」彼はアノーに向かっていった。「パリであなたにお目にかかった時、ぼくはアン・アプコットにあったことなどない、といいました。その時、ぼくは本当にそう思いこんでいたのです。昨日の朝、彼女が図書室の中に踊るようにとびこんでくるまで、まちがったことをいっていたのに気がつかなかったのです。今年の一月、ぼくはモンテカルロの『スポーツ・クラブ』のトラント・エ・キャラントのテーブルで、彼女にあったことがあるのです。ぼくは彼女のとなりに坐っていたのですが、彼女はひとりきりで、負けてばかりいました。一方ぼくの方はずっと勝ちつづけていたので、千フラン札をそっとテーブルから床の上に落して、かかとでしっかりとふみつけていたのです。そして彼女が人ごみの中から立ち去ろうとした時、呼びとめてみました。イギリス人にちがいないと思われたので、英語で話しかけてみたのです。『これはあなたのですよ。あなたが落したのです』彼女はぼくに微笑すると、かるく頭をふったのです。ぼくは口をきく自信がないのかと思ったのですが、彼女はすぐさま人ごみの中に姿を消してしまいました。ぼくも少しやってから立ちあがりました。そしてオーヴァを取りにバーの入口を通ると、沢山ある小さなテーブルの一つから、その少女が立ちあがって、ぼくに話しかけてきたのです。彼女はぼくの名前を呼んだのです。彼女は礼儀正しく感謝の言葉をのべ、負けたことは負けたが、別に困っているわけではない、とつけ加えました。ぼくは彼女の言葉を信じませんでした。だって、指輪もネックレスも全然つけていないし、ドレスにも髪の毛にも一つとしてアクセサリーが見当らなかったからです。彼女はすぐぼくのところをはなれて、つれのいる小さなテーブルにもどって行きました。その少女はいうまでもなくアン・アプコットで、男の方はワベルスキーでした。彼女は彼からぼくの名をきいたにちがいありません」
「その話はアン・アプコットがハーロウ家にくる前のことでしょうね?」アノーがたずねた。
「そうです」ジムは答えた。「彼女はモンテカルロでハーロウ夫人とベティにあい、一しょにディジョンにきたのではないかと思います」
「まちがいないでしょう」アノーはそういうと、坐ったまましばらく口をつぐんでいたが、やがて静かな口調でいった。「これはアンさんにとって、あまり有利な話ではありませんな」
ジムもその言葉を認めないわけにはいかなかった。
「しかしこう考えるのはどうでしょう」彼は主張した。「ぼくはアン・アプコットがこの事件に関係しているとは思いませんが、もしかりに関係しているとすれば、どうして、きかれもしないのに、二十七日の夜にきいたことだとか、暗闇の中でかがみこんでいた顔とかの話をするんでしょう?」
「私はこう思っているんです」アノーは答えた。「彼女がその話をしたのは――いつでしたかね? 今日の午後封印をとって、部屋をあけなければならないと私がいったあとですよ。封印をとって部屋の中に入れば、何かみつけ出されるかも知れない。そんな場合に備えて、家の中のだれか別の女性に嫌疑を向けた方が賢明だというわけです。ジャンヌ・ボーディーヌとか、ベティの小間使である、フランシーヌ・ロラールとかいった女性にね」
「しかし、ベティにではないでしょうね」ジムはすばやく口をはさんだ。
「そうです、その通りです!」アノーは手をふりながら答えた。「その問題は寄木細工の飾り棚の上の置時計が解決しています。ベティさんはこの事件には何の関係もありません。まあ、夕方までにははっきりわかるでしょう。ところで、もう行かないと昼食におくれますよ」
アノーはベンチから立ちあがった。二人はフランスの前哨線をなしている、不思議な力をもつ山々に最後の一瞥を向けてから、町の方に眼を向けた。
ジム・フロビッシャーは、緑の菩提樹の茂っているちっぽけな広場や、古い家々の勾配の急な派手な模様の屋根を見下した。家々の屋根をこえて、四分の一マイルばかりの、少し南によったところに、大きな邸の長々とした棟と、煙の立ちのぼっている一つ二つの煙突と、そのうしろの、葉をゆすって陽光をきらめかせている、高い木々の梢が眼に入った。
「あれはグルネル荘だ!」ジムはいった。
答はなく、傍のアノーは身動き一つしなかった。
「そうじゃないでしょうか?」ジムはそういって、ふり向いた。
アノーは彼のいっていることが耳に入らないようだった。彼もジム同様、この上もなく奇妙な表情をうかべながら、グルネル荘の方をじっとみつめていたのだった。それは、ジムに見おぼえのある表情だったが、一瞬何の表情だかはっきり思い出すことはできなかった。それは驚きの表情ではなかったが、単なる関心という言葉では弱すぎた。実際ジム・フロビッシャーは理解した。そして理解すると同時に不安な気持になってきた。ひどく生き生きして、油断のない、少しばかり冷酷そうなその表情は、飼い主が銃をもち出した時の、充分な訓練をうけている猟犬の表情そっくりだった。
ジムはもう一度邸の高い棟に眼をうつした。屋根のスレート瓦は、破風のついている小さな窓によって、所々途切れていたが、その窓には一人も人影が見えなかった。また手をふって合図をしている者もいなかった。
「いったい、何を見ているんです?」ジムは当惑してたずねた。それから少しばかりいらだたしげにつけ加えた。「見ていないはずなんかない」
とうとう、アノーの耳にもジムの言葉がきこえたようだった。彼の顔はたちまち一変し、幾分残酷な油断のなさは消え、道化の顔つきになった。
「もちろん、見ています。私はいつでも何かを見ているんです。私はアノーなんですからね。それがアノーであることの責任なんです! そんな責任をもっていないあなたは本当に仕合せですよ。私など全くあわれなものです! 探偵というものは、どこにいても、必ず何かを見ていなければならないのです――見るものが何もない時にもね。さあ、行きましょう!」
彼は日の輝いている塔の上から、暗い塔の階段にいそいで入っていった。二人の男は階段をおりると、ふたたび半円形をしたアルム広場に出た。
「ところで!」とアノーはいい、それから、何かちょっとしたことをいおうかいうまいかとためらっているように「そうですね」といったが、やがて妥協してきた。「昼食に行く前に、ベルモットでも飲みませんか」
「でも、昼食におくれるんじゃないでしょうか」フロビッシャーは答えた。
アノーは、のばしている人さし指をふって、その異議をはらいのけた。
「時間はまだ充分あります。私と一しょにベルモットを飲んでも、ベティさんよりは先にかえれるでしょう。このアノーがちゃんと保証しますよ」アノーが堂々といったのでジムも笑って同意した。
「彼女が先にかえっていて、アンと一しょに食事をしていたら、あなたのうぬぼれのせいだといっておきましょう」
リベルテ通りとアルム広場の角に一軒のカフェがあって、日除けの下の歩道に、小さなテーブルが二つ三つならんでいた。テーブルの一つに腰をおろすと、アノーはベルモットを飲みながら、またもや忠告か意見をのべようとした。
「いいですか――」彼はそういいかけて、またもや話をそらした。「それでは、あなたは、モンブランの頂上に五回ものぼったんですか? シャモニーからですか?」
「一度はそうです」ジムは答えた。「一度はブレンヴァ氷河に沿って、コル・デュ・ジェアンから。一度はドーム・ルートを通って。一度はブルイアール氷河から。そして最後はモンマンディからです」
アノーは心からの親しみをこめて、ジムの話に耳を傾けていたが、
「それは面白い。私にはとても新鮮にきこえます」彼は興奮の面持でいった。「全く感謝したい気持です」
「ところが」ジムはそっけない返事をした。「あなたの方はほとんど何も話してくれませんね。このカフェにつれてきた理由さえも、秘密にしようとしている。しかしぼくはそんな腹の小さい男じゃありません。ぼくは自分の考えていることを話すつもりです」
「どうぞ、話して下さい」
「ぼくたちは方法をまちがえていると思うんです」
「なるほど」
アノーは紙袋から煙草を一本抜き出した。
「こんなことをいうと、生意気だとお思いになるでしょう」
「いや、そんなことは全然ありません」アノーは真面目な口調でいった。「私たち警察の人間は、捜査の手をひろげすぎて、目の前にあることをつい見のがしてしまいがちです。それが私たちの危険なところです。別の角度からの見方――それは実に貴重なものです。是非きかせて頂きたいものですな」
ジム・フロビッシャーは、鉄でできたまるいテーブルに自分の椅子をひきよせた。
「ハーロウ夫人が殺されたのかどうか、また殺されたとしたらだれに殺されたのか、そのことを解決するためには、どうしても答えなければならない疑問があるのです」
アノーはうなずくと、ゆっくり話し出した。
「どうぞいって下さい。ただ私たちの抱いている疑問が完全に同じものかどうかはわかりませんが」
「それはぼくたちが今まで見すごしてきた疑問です。つまり――昨日の正午から今日の朝までの間に、ストロファントスに関する教授の論文を、だれが図書室の本棚にもどしたのかという疑問です」
「たしかにそれは重要な疑問です」アノーは少しばかり無造作に認めた。「しかし、私のとはちがいます。私はもっと重要なことがあると思いますね。サイモン・ハーロウの死んだあと、ずっと鍵のかかっていた宝物室のドアが、四月二十七日の夜どうしてあけられたのか、その疑問をとくことができれば、このなぞめいた事件の真相はほぼその全貌が明らかになるのですが。しかし」彼はさっと両手をひろげた。「その疑問がどうしても解けないのです」
ジムはアノーをのこして立ち去った。アノーはテーブルに腰をおろしたまま、丁度そこから解答を読みとろうとするかのように、不機嫌な顔をしてじっと歩道をみつめていた。
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十二 封印を破る
数分の後、ジム・フロビッシャーは、アノーのいっていたことが、幸運にも的中していることを認めなければならなかった。しかし彼には、それが単なるあて推量以上のものとは、どうしても思えなかった。アノー氏は完全無欠な物知りかも知れない。しかしどれほどすばらしい洞察力を備えていたところで、このような偶然の出来事を予知することはできないだろう。しかし事実は、アノーのいっていた通りだった。全くいまいましいことだったが、フロビッシャーはベティ・ハーロウのかえる前に、グルネル荘についていたのである。彼はこういう事態に立ちいたらないように、あのカフェでアノーと時間をつぶしていたのだ。彼はいま疑問を抱きはじめたアン・アプコットと二人だけでいるのを何とかさけたいと思っていたのである。彼は自分の悩みの理由をかくすのがやっとのことで、悩みそのものを彼女の前でかくすことはできなかった。しかも彼女はしんみりした同情をこめて話しかけるので、彼の立場は一そう困難なものになった。
「あなたは何か心配していらっしゃるのね」彼女はやさしくいった。「だけど、もう大丈夫ですわ。今朝私のいったことは本当です。あの恐ろしいささやきのきこえたのは、十時半でした。ベティは一マイルもはなれている舞踏室でお友だちと一しょに踊っていたのです。それは動かしがたい事実ですわ」
「ぼくが心配しているのは、ベティのことじゃないんです」彼は叫んだ。
アンが質問する前に、当のベティが中庭を横切って広間に入ってきた。そして昼食の間中、彼は面白くはないが、あたりさわりのない話を次々にならべたてた。
三人がまだコーヒーを前にして煙草をふかしている時、署長と秘書が図書室で待っていると、ガストンが知らせにきた。
「こちらは、ロンドンの私の弁護士のフロビッシャーさんです」ベティはそういってジムを紹介した。
署長のジラルド氏は、でっぷりふとった頭のはげている中年の男で、つき出したまるい鼻に鼻眼鏡をかけていた。秘書のモーリス・テヴネは、背の高いハンサムな青年で、警察ではまだかけ出しだったが、少しばかりキザな格好をしていて、ドンファンをもって自認しているようだった。
「ディジョンのベティさんの公証人であるベクス氏にも立ちあうように頼んでおきました」ジムはいった。
「それは結構でした」署長がそういった時、ベクス氏の到着が報じられた。彼のやってきたのは丁度三時だった。彼がドアのところで会釈をした時、時計がなった。何もかも調子よくはこんでいった。ベクス氏は満足そうだった。
「では、署長さんのご承諾を得て」彼は微笑しながらいった。「この事件最後の儀式を行うことにします」
「いや、アノー氏のくるのを待って下さい」署長はいった。
「アノーですって?」
「この事件を受けもつために、予審判事の招きをうけた、パリ警視庁のアノー氏です」署長は説明した。
「事件ですって?」ベクス氏は叫んだ。「しかし、アノー氏の受けもつような事件など何もないじゃありませんか」その時ベティ・ハーロウが彼をわきによびよせた。
彼女が小柄な公証人に今朝の出来事を、すばやく手短かに話している間に、ジムはアノーをさがすために部屋を出て広間にいった。アノーはすぐにみつかったが、驚いたことに、庭からでも入ってきたように、広間の奥の方から姿を現わしたのだった。
「食堂にいるのかと思ってさがしていたのです」そういいながら、アノーは、図書室のうしろにあり、たしかにこの家の裏の方になっている、階段のうしろの方に入口のついた食堂のドアを指さした。「では、皆さんのいるところに行きましょう」
アノーはベクス氏に紹介された。
「それから、こちらにいる方は?」アノーはテヴネに向かってかるく会釈しながらたずねた。
「私の秘書をしている、モーリス・テヴネです」署長はそういうと、さらに低く太い声で「すばらしく頭のいい、魅力的な青年です。前途有望な男ですよ」
アノーは好意のある興味をこめて、テヴネをみつめた。若い新人も、この偉大な探偵をもえるような眼でじっとみつめた。
「アノーさん、これは私にとってまたとないよい機会ですが、もしこれを充分に活用できないなら、自分の無能を明らかに証明するようなものです」彼は儀礼的な謙譲を示したが、ベクス氏は心からそれに同感した。
「たしかにその通りです」ベクス氏はいった。
アノーはアノーで、決してお世辞が嫌いではなかった。彼はジム・フロビッシャーを上目使いに見てから秘書とかたい握手をかわした。
「では、何でも遠慮せずにきいて下さい。今でこそ、私もアノーとして名前が知られていますが、かつては私もモーリス・テヴネ青年でした。ただ、残念なことに、あなたほどハンサムではなかったが」
「それは、どうもご親切に」ベクス氏が口をはさんだ。
「この分だと、親しい家族の集りみたいなものになりそうだ」ジムは心の中でつぶやき、署長が「ふむ」とか「ほほう」とかいう言葉を楽しい気持できいていた。
署長は部屋のまん中に進み出ると、もったいぶった口調でいった。
「警察署長ジラルドが、今より封印を破ります」
彼は先に立って図書室を出ると、広間を横切り、廊下を通ってハーロウ夫人の寝室の大きなドアのところにやってきた。そして封印を破り、バンドを取りのけ、秘書から鍵をうけ取ると、鎧戸のおりている部屋のドアをあけた。一同がどっと進み出るのを、アノーは両手を大きくひろげて、押しとどめた。
「入るのはちょっと待って下さい!」そういっているアノーの肩ごしに、ジム・フロビッシャーはその部屋の中をちらりと見て、思わず身をふるわせた。
その寝室は、鎧戸のすき間から射しこんでくる数条の陽の光にかすかに照らされ、冷たくひっそりとしていて、神秘的で、眼に見えぬ亡霊が、ものかげでぼんやりとひしめきあっているようだった。アノーと署長は部屋を横切ると、向かい側にある窓のところに行き、その窓をあけ、鎧戸をさっとひらいた。たちまち明るいかがやかしい陽光が隅々にまであふれ、ジム・フロビッシャーは安堵の胸をなでおろした。部屋の中は掃除がよく行きとどいていて、椅子は壁際にならべられ、ベッドはしわをのばして、刺繍のしてあるベッドカバーがかかっていた。すべてものものはきちんと整えられていて、ホテルの空いている部屋のように、不審の念を起こさせるものは何一つなかった。
アノーはまわりを見回した。
「そうです」彼はいった。「この部屋は夫人の葬式のすんだあと、一週間もあけたままにしてあったんだから、何か役に立つようなものがみつかったら、奇跡とでもいうべきですね」
彼はベッドのところにいった。それはドアと窓の中間の壁に頭をくっつけているベッドだった。枕もとのまるいテーブルの上には、エナメルの押しボタンのついた小さな平たい台がのっていて、その台からは、一本のコードがテーブルの脚にそってたれさがり、絨毯の下に姿を消していた。
「これが看護婦の寝室に通じているベルですね」彼はベティの方に向きながらいった。
「ええ、そうです」
アノーはかがみこむと、コードを念入りにしらべた。しかしいじくったような形跡はなかった。
「お嬢さん、ジラルド氏をジャンヌ・ボーディーヌの寝室につれていって、ドアをしめて頂けませんか。このボタンを押しますから、ベルがなるかどうかきいていて下さい。ここにいる私たちも、向こうの部屋でなるベルの音がこの部屋できこえるかどうかたしかめることができますからね」
「承知しました」
ベティは署長をつれ去り、いくらもしないうちに、ハーロウ夫人の部屋にのこっている人々の耳に、廊下でドアのしまる音がきこえた。
「そのドアをしめて頂けないでしょうか?」アノーはたのんだ。
公証人のベクス氏がドアをしめた。
「さあ、どうか静かにして下さい!」
アノーはボタンを押したが、何の物音もきこえなかった。彼は何度も押してみたが、結果は同じだった。そのとき署長が寝室にもどってきた。
「どうでしたか?」アノーがたずねた。
「二度なりました」署長がいった。
アノーは声をあげて笑いながら肩をすくめた。
「ベルというものはかん高い音をたてるものですからね」彼は叫んだ。「たしかにそれだけのことはあります。だが、この邸が建てられた時代には、しっかりした壁の厚い家が流行だったんですね! 戸棚や箪笥はあいていますか?」
彼はそのうちの一つをあけようとしたが、鍵のかかっているのに気がついた。ベクス氏は前に進み出た。
「ハーロウ夫人の死んでいるのが発見された朝、すべての引出しには鍵がかけられました。私の見ている前でベティさん自身が鍵をおかけになり、財産目録を作るために、その鍵を私にお渡しになったのです。お嬢さんのとられた処置は、全く適切でした。というのは、葬式がすむまでは、遺言状の中身が明らかにされないことになっていたからです」
「しかしそのあとで、財産目録を作った時、引出しをあけなければならなかったはずです」
「アノーさん、私はまだ財産目録を作っていないのです。葬式の準備とか、財産評価のリストの作成とか、ぶどう園の管理とかがあったのです」
「ほほう」アノーは油断のない調子で叫んだ。「では、ここにある洋服箪笥や戸棚や箪笥の中は、四月二十七日の夜と同じ状態になっているというわけですね」彼はすばやく部屋の中を歩き回って、ドアを調べたり、箪笥を調べたりしていたが、壁にはめこまれている戸棚のそばで立ちどまった。
「困ったことに、曲った針金が一本あれば、子供にでも簡単にあけられるのです。ベクスさん、ハーロウ夫人はここに何を入れておいたかご存知ですか?」そういうとアノーは、戸棚の戸をこぶしでコツコツ叩いた。
「いや、知りません。あけてみましょうか?」ベクス氏はポケットから一束の鍵を取り出した。
「いや、あとで結構です」アノーはいった。
それまで彼は、時間などいくらかかってもかまわないというように、鍵とか引出しとかを念入りに調べていたが、今不意に勢いよく部屋の中央にもどっていった。ジムは部屋の様子を調べるのだろうと考えた。廊下からドアをあけて入ると、床を間にはさんで、庭に面した二つの高い窓が正面にある。その窓に向かって入口に立つと、ベッドは左側にある。ベッドの廊下よりの側には、少し小さいもう一つのドアが半分あいていて、白いタイルを張った浴室に通じていた。またベッドの窓よりの側には、女の肩ほどの高さの戸棚が、壁にはめこまれていた。二つの窓の間には化粧台があり、右側の壁には、大きな暖炉があった。また同じ壁の、右側の窓のすぐそばにはさらにもう一つドアがあった。アノーはそのドアの方に進んでいた。
「これが化粧室のドアですね?」彼はアン・アプコットに向かってたずねると、返事も待たず、さっとドアを押しあけた。
ベクス氏は鍵の束をがちゃがちゃならせながら、探偵のすぐあとについていった。「ここにあるものも全部鍵がかかっています」彼はいった。
アノーはその言葉には何の注意もはらわないで、窓の鎧戸をあけた。
それは暖炉もついていない幅のせまい部屋で、今彼の入ってきたドアの真正面に、また別のドアがあった。
「すると、これがいわゆる宝物室に通じているドアにちがいない」彼はそういうと、ノッブに片手をかけたまま、油断のない鋭い眼で、一同の顔を見回した。
「ええ、そうです」アン・アプコットがいった。
ジムは奇妙な戦慄をおぼえた。しかしアノーは動かなかった。彼は墓の入口の守護聖人の像のように、何の表情もなくじっと立っていた。ジムは彼がいつまでも動き出さないのではないかと思い、腹立たしげに叫んだ。
「このドアには鍵がかかっているんですか?」
アノーは静かな、しかし奇妙な声で答えた。疑いもなく彼も、部屋の中にいる人々全部を呪文にかけている、感動と期待の奇妙なながれを感じていたにちがいない。そして、その感動と期待とは、一つ一つの異なった顔に、しばらくの間家族のような類似をもたらしていた。
「このドアに鍵がかかっているかどうかは知りません」彼はいった。「しかし、この部屋は現在ベティさんの居間になっているのですから、あの人がくるまで待っていた方がいいでしょう」
ベクス氏がアノーの言葉に賛成して、「全くその通りです」といい終ると同時に、夫人の寝室に通じている入口から、ベティの生き生きとした明るい声がひびいてきた。
「私、ここにいますわ」
アノーはノッブを回した。ドアには鍵がかかっていなかった。それはさわるとすぐ開いた――一同の方に向かって手前の方に、廊下の方に向かって奥の方に。宝物室は彼らの眼の前に姿を現わし、かすかな光におおわれていたが、あちこちで金色の光がきらめき、驚くべき品々のあることを思わせた。アノーは注意しながら優美な身のこなしで歩いて窓のところまで行くと、鎧戸を両側に開いた。そして一同に「どうか、ここにあるものにさわらないで下さい」といった。
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十三 サイモン・ハーロウ氏の宝物室
その部屋は、廊下に沿っている他の応接室と同様、どちらかといえば細長く、部屋というよりは回廊といった方が適切だった。しかし時々くる来客のためというよりは、普段住む部屋として整えられていた。というのは、ごたごたしない程度に贅沢な居心地のいい家具が備えつけられていたからである。壁の淡茶色の羽目板には、精巧をきわめたフラゴナールの絵が、何枚か額に入れてかけられ、窓のそばの中国風のチッペンデール式の机の上には、インクスタンドやペン皿や蝋燭立てや砂時計など、あらゆる種類の文房具がのっていたが、いずれもピンク色のバターシー焼で、きずは一つもなかった。しかし、それらは人に見せるために置いてあるものではなく、実際に使うために置いてあったのである。それだけではなかった。広間の側の壁の中央には、ひときわ目につく大きな暖炉があって、それが部屋の中につき出しているので、二つの部屋をつなぎあわせたような感じをあたえていた。実際、一目見て収集家の部屋であることを示している特徴の一つは、ハーロウ夫人の寝室に通じているドアの正面の、暖炉のそばの壁のくぼみに置いてある椅子|轎《こし》だった。胴体はうすい緑色がかった灰色に塗られ、縁には金色の念入りに彫刻をほどこした鋳造物が取りつけられ、円型飾りの中央には、流行の羊飼いの男女が優美に描かれていた。轎《こし》の両側には、のっている人を引き立たせるために、ガラスの窓がついており、縁の色にあうように、金の糸で刺繍したうすい灰色の繻子《しゅす》でふちどられていた。後ろの方の蝶番で上にひらくようになっている屋根は、金の線条細工がほどこされ、前の方には、上半分がガラスになっているドアがついていた。全くそれは、轎つくりの技術が到達し得る、この上もなく美しいきらびやかなもので、金めっきをした横の棒も、それに全くふさわしいものだった。アノーでさえ、その優美さには感心したらしく、両手を横の棒の上に置いたまま、楽しそうな微笑をうかべて、それをながめていた。
「フロビッシャーさん、金持の美しい世界ですな」彼はいった。「波を打つような裳裾をひいた淑女、絹靴下をはいた紳士! そして、歩いて行かなければならない不幸な人間どもは泥をさんざんはねかされるのです!」
彼は轎椅子に背を向けると、部屋の中を見渡した。「お嬢さん、あなたが電燈をつけた時、十時半をさしていたのはあの時計ですね?」彼はアンに向かってたずねた。
「ええ」彼女はすぐに答えた。そして彼女はもう一度時計を見た。「ええ、そうです」
ジムは彼女が二度目に返事をしたとき、その抑揚に、前とはかすかにちがうものがあるように感じた。疑いというほどではなかったが、当惑の調子が感じられたように思った。しかしアノーは全然それに気がついた様子を見せなかったので、単なるジムの気のせいだったにちがいない。ジムは心の中で自分自身に向かって忠告した。『注意しなければだめだ! 一度人を疑い出すと、その人のいうこともすることも、全部疑わしくなってくる』
アノーは明らかに満足しているようだった。その時計は、ヴァイオリンのように胴のくびれている、ルイ十五世時代風の美しい小さな金色の置時計で、白い文字盤がついていた。それは、背の高いヴェネチア風の鏡の前に置いてある、腰より少しばかり高い寄木細工のブール式飾り棚の上に置かれていたが、アノーはその真前に立って、自分の時計とくらべてみた。
「お嬢さん、一分の狂いもありませんね」彼はベティに向かってそういうと、微笑しながら時計をポケットにもどした。
彼はぐるりと置時計に背を向けると、すぐ前の暖炉の方を向いた。その暖炉には、細い柱と棚の下の板の上に美しい彫刻のある、羽目板と同じ淡茶色の木材で作られたアダム式のマントルピースがついていた。棚の上の方には、フラゴナールの絵が一枚、額に入れて壁にかけてあったが、棚の上には背の高い装飾品が一つもなかったので、何物にもさえぎられずに、よく見ることができた。棚の上の装飾品といっては、バターシー焼の小さな箱が一つ二つと、平たいガラスのケースが一つあるだけだった。アノーは炉の上の飾り棚のところに行き、二、三分調べたあと、いかにも感心したように口笛をならしながら、その平たいガラスのケースを手にとってみた。
「お嬢さん、どうぞお許し下さい」彼はベティに向かっていった。「こんなすばらしいものは、もう二度と見る機会にめぐまれないように思いますのでね。それに炉の上の飾り棚が少し高すぎてよく見えないのです」
彼はベティの承諾も待たず、窓の方にそれをもっていった。
「フロビッシャーさん、一しょに見ませんか?」アノーに呼ばれて、ジムも彼のそばに歩みよった。
そのケースの中には、ベンヴェヌート・チェリーニの作った、金と玉髄と半透明の琺瑯でできているペンダントが入っていた。ジムは、これほど精巧優美な細工を見たことがないのを認めたが、自分の仕事を忘れてしまったように見えるアノーの態度には、腹立たしさを感じた。
「こういう立派なものに見とれていたら」探偵は大声でいった。「一日ぐらいはすぐたってしまいますね」
「おっしゃる通りです」ジムはそっけない調子で答えた。「しかし、ぼくたちは毒矢をさがすはずだったと思いますが」
アノーは笑った。
「あなたのおかげで仕事のことを思い出しました」彼はもう一度その装身具に眼をやって、ため息をもらした。「そうです。あなたのいう通り、私たちは遊びにやってきたのではありません」
彼はそのケースをふたたび炉の上の飾り棚のところにもって行くと、もとの場所にもどした。そのとき突然彼の態度は一変した。彼は依然としてガラスのケースに両手をかけたまま、前の方にかがんでいたが、眼は下の方に向けられていた。暖炉の火床は、青いラッカーを塗ってある低い仕切りで見えないようにしてあったが、彼の立っている場所からは、仕切りごしに火床を見ることができた。
「これはいったい何です?」彼は声をあげた。
彼は炉から仕切りをもちあげると、注意深くわきの方にとりのけた。一同は、彼の心をかき乱したものを見ることができた。それは火床の中の白くなった灰の山だった。
アノーは膝をつくと、炉格子からシャベルを取りあげ、横木の間に突っこんで、灰を少しすくいあげて引き出した。灰は白く、完全に粉々になっていた。そこには、指の爪ほどのかけらもまじっていなかった。アノーはまだ熱いかも知れないというように、恐る恐る慎重にさわってみた。
「この部屋に封印がはられたのは日曜の朝で、今日は木曜の午後です」ジム・フロビッシャーは頭からひやかすような調子でいった。「アノーさん、灰が三日も熱いなんてことはないと思いますがね」
「私はただ調べてみただけです」アノーはおだやかな口調で答えたが、依然としてシャベルを手にしたまましゃがんでいた。
「お嬢さん!」アノーに呼ばれて、ベティは前に進み出た。そして彼とならんで炉の上の飾り棚にもたれた。「この紙をこんなに念入りにもやしたのはだれなんです?」彼はたずねた。
「もやしたのは私ですわ」ベティは答えた。
「それはいつのことです?」
「土曜の晩に少しもやしました。そしてのこりは日曜の朝にもやしたんです」
「このもやした紙は何なのです?」
「手紙ですわ」
アノーはさっと彼女の顔を見上げた。
「ほう」彼はもの柔らかにいった。「手紙ですか! なるほど! では、どんな種類の手紙か教えて頂けませんか?」
ジム・フロビッシャーはうんざりしたように両手をあげた。いったい、アノーはどうしたのだ? ついさっきは、サイモン・ハーロウのコレクションに見とれて、自分のしている仕事をすっかり忘れ、今度は匿名の手紙を追いかけるという無駄なことをやっているのだ。ジムは今探偵が匿名の手紙のことを考えているにちがいないと思っていた。だれかが「手紙」とでもいおうものなら、彼はすぐに脇道にそれて、その手紙の筆者だときめてしまおうとするのだ。
「ごく個人的な手紙です」ベティは答えたが、だんだんに頬が赤くなってきた。「あなたのお役に立つようなものではありませんわ」
「なるほど」アノーはシャベルで灰を火床におとしながら、少しばかりとげのある調子でいった。「しかし、お嬢さん、私はどんな種類の手紙だったかときいているのですよ」
ベティは返事をしなかった。彼女は不機嫌そうに床をみつめていたが、まもなく床から窓に視線をうつした。彼女の眼に涙が光っているのを見て、ジムは刺すような胸の痛みをおぼえた。
「アノーさん、この辺でぼくとお嬢さんの二人で相談した方がいいのではないかと思いますが」ジムが口をはさんだ。
「お嬢さんにはその権利がありますね」ベクス氏も口をそえた。
しかしベティは、気むずかしそうに肩を少しばかりすくめて、その権利を放棄した。
「結構です。アノーさん、お答えしますわ」彼女はしゃがれた声でいった。「どんなに神聖なことでも、明るみにひきずり出さなければならないようですわね。でも、もう一度申しあげますけど、あの手紙は、あなたのお役に立ちませんわ」
彼女は公証人の方に視線を向けた。
「ベクスさん」と彼女に呼ばれて、公証人はアノーのそばに進み出た。
「夫人の寝室のベッドと浴室のドアの間には、小さな櫃《ひつ》があって、その中に夫人は、大して重要ではない書類、例えばとっておいた方がいいと思われるような古い領収書などをしまっておられたのです。夫人が亡くなられたあと、もちろんお嬢さんの承諾を得てですが、ひまな時にそれを調べて、重要でないものは全部破りすてた方がいいとお嬢さんにいうつもりで、この櫃を私の事務所にもってきたのです。ところが、さっきも申しあげたように、仕事に追われて、五月六日の金曜日までは、それをあけてみるひまがなかったのです。あけてみると、意外にもその一番上に、リボンで結んだ、インクの色もあせている一束の手紙がのっていたのです。私は一目見て、それが公証人とは何の関係もない個人的な神聖にして侵すべからざる手紙だということを知りました。そこで、私は、土曜日の朝、私の手からベティさんにお返ししたのです」
ベクス氏が一礼して引きさがると、ベティがその先をつづけた。
「私は夕食のあとでゆっくり読もうと思って、その手紙を別にしておきました。あいにく私は、夕食前それらの手紙を全然読むひまがなかったのです。というのは、その日の朝、ボリスさんが私を告訴なさり、午後から予審判事のところに行かなければならなかったからです。おわかりと思いますが、私は――恐ろしくはなかったのですが――その告訴を苦にしていましたので、何も手につかず、手紙を読もうと思ったのはかなり夜もふけてからのことでした。そして手紙を読もうと思ったのも、むしろ気をまぎらわせるのが目的だったのです。しかし一目見るや否や、それは焼きすてるべきものだということをさとったのです。というのは、つまり」――そこでおろおろした声になったが、努力して、またもとのしっかりした声にもどった――「つまり、説明するのは何か冒涜するような気がするのですが、その手紙は、伯母がラヴィアールさんと非常に不幸な結婚をしていた、別居中に、サイモン伯父と取り交したものだったのです――長いものもあれば、走り書きのごく短いものもありました。――それは遠慮のない打ちとけたもので――わずかな時間を盗んで書かれたものでした。それは――」そこでふたたび彼女の声がしゃがれ、次第に細くなっていったので、一同は彼女のいおうとしていることを誤りなく理解した――「恋人同士の手紙――恋人同士が愛の言葉を交しあい、恋の勝利に酔った手紙だったのです。もちろん、焼き捨ててしまわなければならない性質のものでした! しかし私は一つのこらず目を通さなければならないと思ったのです。何か私の知っておかなければならないことが書いてあるかも知れないというのが、そもそもの理由でした。私はその夜かなりの手紙を読んで焼きすてました。ところが、夜がふけてきたので、のこりは日曜の朝にとっておいたのです。そして日曜の朝、読み終ると、その分も燃やしてしまいました。署長さんが封印をしにいらしたのは、私がすっかり燃やしてしまったすぐあとでした。アノーさん、ここにある灰は、日曜の朝私が燃やした手紙の灰なのです」
ベティの話し方はひどくあいらしく、しかも飾り気のない威厳をもっていたので、きいている人々の心に、心からの同情をよび起こした。アノーは火床にそっと灰をもどした。
「お嬢さん、私はいつもあなたを誤解してばかりいるようです」彼は後悔したような口調でいった。「あなたに返事をさせるごとに、私は恥ずかしい思いをし、あなたをも尊敬するようになるのですからね」
ジムは、アノーがその気になった時には、ひどく愛想よく立派にふるまうことができるのを認めていた。しかし不幸にして、彼の愛想のよさは、決して長つづきしない性質をもっているようだった。例えば、今がそのいい例だった。彼は依然として暖炉の前に膝をついたままだった。そして口では詫びの言葉をいいながら、どこから見ても自分が何をしているのか全然気がついていないように、シャベルで灰の中をかき回していた。ところが突然、彼ははっとわれにかえった。かき回していたシャベルの先が、もえのこっている青白い紙の切れはしにひっかかったのだ。アノーはからだをかたくしながら、身をのり出して、火床からその紙片を拾いあげた。一方ベティも、少しばかり好奇心にかられたように、かがみこんだ。
アノーはもう一度しゃがんだ。
「ほほう! この前の日曜の朝、さっきいわれた手紙以外のものも燃やしたんですね」彼はいった。
ベティが当惑したような顔をしていたので、アノーはその紙片を彼女の方にさし出した。
「領収書も燃やしましたね」
ベティはその紙片を手に取ると、頭をふってみせた。それはまぎれもなく領収書の右の上の端だった。なぜなら、印刷した住所のあやしげな切れ端が見え、その下の欄に一つ二つ数字も読みとれたからである。
「手紙の中に一つか二つ請求書も入っていたにちがいありませんわ」ベティはいった。「私にはおぼえがないんですけど」
彼女が紙片をアノーに返すと、彼はしゃがんだまま、それに視線をそそいでいた。彼のすぐ後ろに立っていたジム・フロビッシャーは焼けのこった名前などの文字や、その下にある数字を自然にそっくりそのままおぼえこんでしまった。アノーはそんなに長い間その紙片を手にもっていたのである。一番上の名前は大きな大文字、次は小さな大文字が梯形にならび、それから下の欄は数字だった。そして全体は、焼けて褐色になり、ギザギザになった斜めの線のある、三角形になっていた。
「幸いなことに、別に重要なものではありません」アノーはそういうと、その紙片を火床の中に投げこんだ。「ジラルドさん、日曜の朝この灰のあるのに気がつきましたか?」彼は、この質問がベティの陳述の真実性に汚点をつけないように、弁解した。
「お嬢さん、補強証拠が得られる時には、いつでも得ておいた方がいいと思いますのでね」
ベティはうなずいたが、ジラルドの方は困惑していた。彼はこの上なく尊大な態度をとったが、そんなことをしてみても何の役にも立たなかった。
「おぼえておりません」彼はいった。
ところが、ともかくも一種の補強証拠のようなものが、別のところから現われた。
「アノーさん、私が申しあげてもよろしいでしょうか?」モーリス・テヴネが懸命になっていった。
「どうぞ、いって下さい」アノーは答えた。
「日曜の朝、私は署長のすぐあとからこの部屋の中に入ってきました。私の見たところでは、炉の中に灰はありませんでした。そのことにまちがいはありません。しかしお嬢さんは、いま目の前にあるように、炉の前にある青いラッカーを塗った仕切りを整えている最中でした。お嬢さんは入ってきたのが私たちだと知ると、はっとして立ちあがりました」
「そうですか!」アノーは温情をこめていうと、ベティに向かって微笑してみせた。「この証言は、テヴネさんが灰そのものを見たと同じ程度の価値のあることですね」
彼は立ちあがると、彼女の方に近づいていった。
「だが、あなたが見せると約束していた手紙がありましたね」彼はいった。
「あの――」ベティがそこまでいうと、アノーがいそいで彼女を制した。
「いや、だまっていた方がいい」彼はおたがいに共犯者だというように、うなずきながらにやりと笑った。「このことは私たちだけの間の秘密ですね。もっとも、署長さんがおとなしくしていれば、教えてあげてもかまいませんが」
彼が自分の冗談に声をあげて笑っている間に、ベティはチッペンデール式の机の引出しの鍵をあけて、ごく普通の折りたたんである一枚の紙を取り出した。アノーはそれを彼女から受け取ると、窓のところにもって行き入念に眼を通した。それから眼くばせをしてジラルドを傍に招いた。
「フロビッシャーさんもきて下さい。この人も内情を知っているから」彼はつけ加えた。このようにして、三人の男は皆とはなれて窓のところに集り、その手紙に眼をそそいだ。日付は五月七日になっていて、他の匿名の手紙と同じように、「鞭」という署名があり、前置きなしにすぐ本文がはじまっていた。それはタイプで打ったごく短いもので、ベティのような若い女性が読むべきものではないと、ジムの血を煮え返らせるような、ここに写すのも憚《はばか》られるいくつかの形容詞が使ってあった。
「いよいよお前もおしまいだ、お前は――」それから恐ろしいみだらな言葉がつづいていた。
「ベティ・ハーロウ、これが当然の報いだ。パリのアノー探偵が、手錠をポケットに入れて、お前を調べにやってくる! 手錠をはめられたお前は、さぞあいらしく見えるだろう。われわれの目的は、お前の白い頸なのだ! ワベルスキーのために万歳三唱! 鞭」
ジラルドはこの残忍な文章をじっとみつめていたが、鼻に眼鏡をかけると、もう一度じっと見た。
「だが――だが」彼は口ごもりながら、日付を指さした。アノーが警告するような身ぶりをしたので、署長は突然口をつぐんだが、フロビッシャーはその中断された言葉の意味をほぼのみこむことができた。アノーと同じように、ジラルドもまた、そのニュースがこのように早くもれたことに驚いていたのである。
アノーは手紙を手紙入れの中にしまい、その手紙入れを胸のポケットの中に入れた。彼がふたたび顔をあげると、ベティの鍵をさし出しているのが眼に入った。
「これが部屋の奥の飾り棚の鍵ですわ」
「そうですか! では、一つ有名な毒矢をさがしてみることにしましょう。さもないと、またフロビッシャーさんのご機嫌を損じますからね」アノーはいった。
その飾り棚は、玄関の広間に通じているドアのそば――つまり、窓の反対側の部屋のすみの壁際――に置いてあった。アノーは鍵を受け取ると、飾り棚の扉をあけたが、「やっ」と叫んで後ろにとびのいた。彼は本当にはっとしたようだった。なぜなら、彼の前にある棚の上に、二つのちっぽけな人間の頭がのっていたからである。その頭は髪の毛も眼もそっくりそのままで、大きなオレンジぐらいの大きさに縮められていたものだった。それはアマゾン河の岸で殺されたインディアンの頭で、彼らの間で普通に行なわれている方法で、征服者が保存し縮小したものだったのである。
「この部屋のどこかに毒矢があるとすれば、一番ここにありそうですね」彼はいった。彼は沢山の珍しいものを見つけ出したが、毒矢の完全な見本らしいものは全く見つからなかった。彼は落胆の面持でふり向いた。
「お嬢さん、この分では、ほかの場所にもなさそうですね」彼は残念そうにいった。彼はそれから一時間ばかりの間、部屋の中をさがし回った。絨毯をめくったり、椅子の布張りやカーテンを調べたり、花瓶をさかさにしてふってみたりしていたが、とうとう彼は、ベティの机に眼をつけた。彼はその一つ一つのすき間も念入りに調べ、秘密の引出しの簡単な機構をつきとめ、整理棚を片はしから全部ひっくり返していたが、その仕事ぶりは迅速をきわめ、すべてのものを次々に元通りにきちんと片づけていった。そして一時間後には、部屋の中は彼が入ってきた時と同じようにきちんと片づいていた。しかし彼はしらみつぶしに徹底的に調べあげたのである。
「ここにはない」彼はそういうと、椅子に腰をおろして息を一つ吸いこんだ。「しかし、お嬢さん方やフロビッシャーさんがお気づきのように、私はここで見つかるとは思っていませんでした」
「では、これでおしまいなんですのね?」ベティがそういったが、アノーは身動き一つしなかった。
「ちょっと待って下さい」彼は答えた。「ジラルドさん、広間に通じているこの部屋の端のドアの封印をとってもらえないでしょうか?」
署長は秘書をつれ、ハーロウ夫人の寝室を通って出ていった。一分ばかりたつと、鍵の回る音がして、ドアが開いた。署長と秘書は広間からもどってきた。
「結構です!」アノーはいった。
彼は椅子から立ちあがると、今や当惑し不安におそわれている一座の人々を見回しながら、重々しい口調でいった。
「法の名のもとに申しあげます。どなたも私のすることに、言葉や身ぶりで邪魔しないようにして下さい。私はこれから一つ実験をしてみようと思うのです」
完全な沈黙の中を、彼は暖炉のところに歩みより、ベルをならした。
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十四 一つの実験と一つの発見
ガストンがベルに答えて姿を現わした。
「フランシーヌ・ロラールにくるようにいってくれませんか?」アノーはいった。
しかしガストンは自分の立場にあくまで固執していた。彼はアノーの向こうにいるベティに視線を向けた。
「お嬢さま、いかがいたしましょうか?」彼はうやうやしくたずねた。
「すぐ呼んでおいで」ベティはいった。
フランシーヌ・ロラールは容易に説得されなかったらしく、何分かしてやっと宝物室に姿を現わした時には、おびえ切って気のすすまない様子だった。彼女は二十になったかならないかぐらいの、小ざっぱりしたあいらしい娘で、森の中から出てきたびくびくした野性の動物を思わせた。彼女は疑い深そうな機嫌のわるい態度で、眼にそわそわしたおちつきのない表情をうかべながら、待ちうけている一座の人々を見回した。それは野育ちの人間が都会の人間に抱いている疑い深さだった。
「ロラール」アノーはやさしい口調でいった。「君を呼んだのはね、ちょっとした芝居をやるのに、手伝ってくれる女の人がほしかったからだ」
彼はアン・アプコットの方に向いた。
「ところで、お嬢さん、ハーロウ夫人が亡くなられた夜、あなたがここでしたことをもう一度そのままやって頂けないでしょうか? あなたはこの部屋に入ってきた――そうです。そしてそこにある電燈のスイッチのそばに立った。それから電燈をつけて、時間を知り、すばやくスイッチを切った。それはこの境のドアが広く開いていて――そうです!――ドアのところから、ハーロウ夫人の寝室の灯りがあかあかとさしこんでいたからです」
アノーはアンのそばに行って、彼女のいった通りの場所に立っているかどうかをたしかめたり、ドアを広く開けるために部屋をあわただしく横切ったりして、忙しく動き回った。
「これで椅子|轎《こし》の装飾や羽目板の上と、あなたの右側の暖炉の向こう側に、光がきらめいているのが見えるでしょう。そうです! そしてそこであなたは暗闇の中に立って」彼は一言一言はっきりと区切りながら――「寝室からきこえてきたもがくような音をきき、はっきりしたささやく声をきいたわけですね」
「ええ」アンはからだをふるわせながら答えた。アノーの厳然とした重々しい口調が、彼女を驚かせたのは明らかだった。彼女は心配そうな眼で彼をみつめた。
「では、もう一度そこに立って」彼は言葉をつづけた。「あの夜と同じように耳をすまして下さい。ありがとう!」彼はベティの方に歩みよった。「では、お嬢さん、それからフランシーヌ・ロラール、二人とも私と一しょにきてくれませんか」
彼は境のドアの方に歩いていったが、ベティは椅子から立ちあがろうとさえしなかった。
「アノーさん」彼女は頬をまっさおにして、声をふるわせながらいった。「あなたが何をなさろうとしているのか、私にもわかっています。でもそれは、恐ろしいことですわ。残酷なことですわ。それに、そんなことをしてみても、何にもならないじゃありませんか」
アノーが返事をする前に、アン・アプコットが口をはさんだ。彼女の役はベティのよりやさしいはずだったが、ベティ以上に困惑していた。
「そんなこと何の役にも立ちませんわ」彼女はいった。「どうしてあの時の恐ろしい出来事をもう一度まねしてみなければなりませんの?」
アノーはドアのところでふり向いた。
「お嬢さん方、どうか私の思い通りやらせて下さい。終ってさえしまえば、私の実験が役に立つことをわかって頂けると思います。もちろん、事件をもう一度再現すればあなた方の悲しみを大きくすることもわかっています。しかし――失礼とは思いますが――私はあなた方のことを考えてはいないのです」――言葉こそ苛酷なものだったが、彼の口調には、相手の感情をそこなわないだけのおちつきと重々しさがあった。「私が今考えているのは、あなた方のどちらの年の倍以上もある一人の女性、四月の二十七日の夜ここで不幸な一生を終えた女性のことです。ベティさん、私は今朝あなたに見せて頂いた二枚の写真のことが頭にこびりついてはなれないのです――私はすっかり心を動かされてしまったのです。そうです、それが本当のところです」
彼はその恐ろしい対照がまぶたにきざみこまれている二枚の写真を、いま目前にありありと見るかのように、眼をとじた。「私は彼女の擁護者です」彼は感動をあたえるような口調でさけんだ。「ああ、不幸な女性、私は彼女の味方です! もし彼女が殺されたのだとしたら、私はとことんまで調べて犯人を処罰するつもりです!」
アノーがこれほどまでに別人のようになり、これほどまでに感動したり、情熱をこめて語り得るとは、フロビッシャーの全く予期しないことだった。
ベティはそれ以上何もいわずに椅子から立ちあがった。しかし彼女は、立ちあがるのにかなりの努力を要した。そしてやっとのことで立ちあがったものの、ふらふらしていて、顔はまっさおだった。
「さあ、フランシーヌ!」それは、まるで言語障害を起こした人間のような口のきき方だった。
「アノーさんに、私たちがアノーさんの思っていらっしゃるような臆病者ではないことをお見せしなくてはね」
ところがフランシーヌは依然としてためらっていた。
「私には何のことだかさっぱりわかりません。私は気がよわくて、とても恐いんです。警察って――人を罠にかけるんでしょ」
アノーは声をあげて笑った。「警察が罪を犯していない人に、罠をかけたりしたことがあったかね? フランシーヌ、一ついってごらん!」
彼はほとんど軽蔑したような態度で、ハーロウ夫人の寝室に向かった。ベティとフランシーヌがそのすぐあとにつづき、フロビッシャーを最後に、他の人々もぞろぞろとあとについて入っていった。少女たちが実験の仲間に入るのをいやがっていたと同様、フロビッシャーもアノーの実験を見るのがいやでたまらなかった。彼はアンを一言はげまそうと、ドアのところで立ちどまったが、彼女はまたもや寄木細工の飾り棚の上の置時計を困惑したような奇妙な表情でみつめていた。
「アン、何もこわがることはありません」彼がそういうと、彼女は置時計から視線をそらした。彼女の視線がフロビッシャーに向けられた時、その眼は生き生きとおどっているようだった。
「私をはじめて名前で呼んで下さったのね」彼女は微笑しながらいった。「ジム、ありがとう!」彼女はためらっていたが、突然顔を赤らめた。「本当をいうと、少しばかり嫉妬を感じていたんです」彼女は低い声でつけ加えると、その告白を幾分恥ずかしく思っているように、少しばかり照れたような笑いをうかべた。
そのとき運よくアノーがドアのところに姿を現わしたので、ジムはその返事をするという間のわるいことをまぬがれた。
「フロビッシャーさん、お邪魔して申しわけありませんが」アノーは微笑をしながらいった。「今お嬢さんの気を散らさないことが一番大切なんです」
ジムはアノーのあとから寝室の中に入っていって、すっかり驚いてしまった。署長と秘書とベクス氏は、皆とはなれて窓のそばに集っていた。ベティ・ハーロウはハーロウ夫人の寝台の上に身を横たえ、フランシーヌ・ロラールはすっかりおびえて度を失い、よくなれていない動物のように、こそこそした不安そうな眼で、あちこちにちらりと視線を送りながら、ドアに近い壁によりかかって立っていた。しかしジム・フロビッシャーをこの上もなく驚かせたのは、この奇妙な光景ではなく、ベティ自身の顔にうかんでいる奇妙な、何かぞっとするような表情だった。彼女はドアのところをじっとみつめながら、片ひじをついていたが、その眼には、彼がまだ見たこともないような、奇妙な、不可解な、ものすごい表情が宿っていた。彼女は回りのものから全く孤立していた。フランシーヌにしりごみをさせたこの実験も、彼女には何の意味ももっていなかったのである。彼女は何かにとりつかれていた――ジムの脳裏には、そんな古めかしい言葉がちらりとうかんできた――彼女の顔は仮面――凍りついた情熱の仮面のように静かなものではあったが。しかしその奇妙な発作ともいうべきものは、ほんの一瞬で終り、ベティの顔は和らいできた。彼女は指図を待つようにアノーの顔をみつめながら、ベッドの上に仰向けに横になった。
アノーは指さして、ジムを窓のそばにいる一団のところに行かせた。それから彼はベッドの片側に行き、フランシーヌを手招きした。彼女はひどくのろのろとベッドの端に近よってきた。アノーは同じような無言の身ぶりで、ベッドの反対側に自分と向かいあって立つように命じた。しばらくの間、フランシーヌは命じられたことをしようとしなかった。彼女はベッドの端の方に立ったまま、強情に頭をふりつづけていた。彼女は罠にかけられるのを恐れていたのだ。ようやくベティに合図をされ、まるで床が足もとで口をひらきはしないかと恐れるように、用心しながらそろそろと歩き、指定された場所についた。アノーがもう一度身ぶりで合図をすると、彼女はアノーが何か書いておいた小さな紙片に眼を向けた。その紙片と命令は、ジムがアン・アプコットに話しかけている間に、彼女にあたえられたものに相違なかった。フランシーヌは何をするのかよくわかっていたのだが、疑い深い田舎者の気質から、容易に従おうとしなかった。しかしアノーが強制するようにじっと眼をそそいで促したので、しぶしぶベッドに横になっているベティ・ハーロウの上にかがみこんだ。
アノーがうなずいてみせると、彼女は低いはっきりした声でささやいた。
「これで――いい」
ハーロウ夫人が死んだ夜、アン・アプコットが耳にしたというその言葉を、フランシーヌは辛うじて口にしたが、アノーは自分でもその言葉をもう一度ささやくようにくり返さなければならなかった。
それが終ると、彼はまた普通の声にもどって、ドアの方に大声で呼びかけた。
「お嬢さん、きこえましたか? 夫人が亡くなられた夜、あなたの耳に入ったのは今と同じささやき声ですか?」
寝室にいる人々は、皆不安な思いでその返事を待った。特にフランシーヌ・ロラールは、疑惑にせめさいなまれながら、アノーの顔をじっとみつめていた。まもなく返事がきこえてきた。
「ええ、きこえました。でもどなたの声だかわかりませんが、今のは二度きこえました。あの夜、私がまっくらな宝物室の中できいたのは、たった一度だけでした」
「では、お嬢さん、今二度きこえたのは、二つとも同じ人の声でしたか?」
「ええ――そうだと思います――同じ人の声にきこえました――そうですわ」
アノーは両手をひろげてさもがっかりしたようにおどけてみせると、部屋の中の人々に向かっていった。
「私の小さな実験の結果はよくおわかりになったでしょう。ささやくような声! ささやくような声などというようなものは、だれの声か容易に区別などつけられないものなのです! 抑揚もなければ、高い低いの区別もない。男か女かの区別さえつかないのです。ハーロウ夫人の亡くなった夜、『これでいい』とささやいた人間の正体については全く手がかりがつかめないのです」彼はベクス氏に向かって手をふってみせた。「ここにある戸棚をあけて頂けませんか? そしてベティさんに、何かなくなったものはないか、何か動かされたものはないかを、できるだけ教えて頂きましょう」
署長と秘書の監督の下に、ベクス氏とベティを仕事にとりかからせると、アノーは宝物室にもどっていった。ジム・フロビッシャーもアノーのあとについていった。彼はアノーが実験の真意をもらしたとはまるきり思っていなかった。ささやく声は区別できないだって! 今まで数え切れないくらい沢山の事件を扱ってきたアノーに、そんなことのわからないはずはない! そうだ、あの説明にはたしかに釈然としないところがある。もっと別の理由のために、彼はああいうメロドラマ的なシーンを演出したにちがいない。ジムはその理由をさぐり出そうと思って、アノーのあとからついていったのだが、低い声で探偵が話しているのをきき、例の境のドアに近い化粧室の内側で立ちどまった。そこにいれば、こちらの姿は見られずに、相手の話をよくきくことができたからである。
「お嬢さん」アノーはアン・アプコットに向かっていっていた。「この時計のことで、何か気にしていらっしゃることがあるんですね」
「ええ――ほんとにばかげたことなんですけど――私の思いちがいにきまっていますわ――だって、飾り棚はここにちゃんとあるし、置時計もその上にのっているんですから」
二人の声の様子から、ジムは彼らが寄木細工の飾り棚のすぐ前に立っているのを推察することができた。
「なるほど」アノーはいった。「それでもやっぱり気になるんですね」
「私には」アンはおぼつかない口調で答えた。「どうも時計の位置が低くなったように思えるんです。もちろん、そんなはずはないんですけれど――私はほんのちらっと見ただけですけど――でも、はっきりおぼえていますわ――部屋は一瞬明るい光に照し出されて、ふたたび暗闇の中に消えていったのですから――そうですわ、置時計の位置はもっと高かったように思いますわ」そのとき突然彼女は、警告の手が腕の上に置かれたように話をやめた。彼女はまた話をはじめるだろうか? ジムがそんなことを考えていると、アノーがすばしこい動物のように音もなくドアのところに現われて、彼の前に立ちはだかった。
「なんだ、フロビッシャーさんですか」アノーは妙にほっとしたような口調でいった。「早速あなたを警視庁の一員にしなくてはね。なかなか有望ですよ。さあ、中にお入り下さい!」
彼はジムの腕をとると、部屋の中につれていった。
「時計の問題は――お嬢さん、灯りがついてまたすぐ消えたのですから――あなたが一瞬の間に何もかも細かいところまで正確に見ることができたら、全くの奇跡です。いや、そんなことは絶対にありません!」彼はどしんと椅子に腰をおろすと、失望したようにしばらくは何もいわなかった。
「フロビッシャーさん、あなたは今朝私に、あなたはやり方がまちがっている、色々と推測したり、墓の中にそっと入れておいた方がいいような古いごたごたをあばき出したりするが、結局は何も発見できないだろう、といっていましたね。たしかに、あなたのおっしゃる通りです! さっきの実験! 全く惨憺たるものでしたな」
アノーはすばやく坐り直すと、
「どうしたのです?」とたずねた。
ジム・フロビッシャーの頭に、一つの霊感がひらめいた。アノーの顔と態度に現われた明白な落胆の表情を見たことが、その霊感の原因だった。そうだ、彼の実験は失敗に終った。それはフランシーヌ・ロラールを目的にしたものだったからだ。彼は前もって何の予告もなく彼女を呼び出し、すぐその場で一つのシーンを演じることを、それだけではなく主役も演じることを命じたが、それは彼女が良心の呵責をおぼえて自分が犯人であることを告白させようと思ったからに他ならない。彼はアンに嫌疑をかけていた。もし彼女が犯人だとすれば、必ず共犯者があるにちがいない。その共犯者をみつけ出すこと――そこに彼の実験の目的があったのだ。だが、アノーが自分でいっていたように、その実験は惨憺たる失敗に終った。たしかにフランシーヌはそのテストにしりごみをした。しかしその理由は明白だった――つまり警察に対する恐怖とか、罠にかけられるのではないかという疑惑とか、無知な人間のもっている不安な気持とかが、その理由だったのだ。彼女はアノーの苦心してかけた罠にかかろうとはしなかった。しかしジムは、こういう推測を一言もアノーに告げはしなかった。ただどうしたのかという質問には、簡単に次のような返事をした。
「いや、何でもないんです」
アノーは両方の掌で椅子のひじかけをたたいた。
「何でもない? 何でもないですって? それがこの事件に対するたった一つの解答なんですね。あらゆる疑問、あらゆる捜査に対するね! 何でもないか!」彼が意気消沈した声でいい終えた時、寝室の中で驚きの叫び声がひびき渡った。
「ベティだわ!」アンが大声で叫んだ。
アノーはオーヴァでもぬぐように、落胆をふりおとし、椅子から立ちあがると、叫び声の終らないうちに化粧室を横切っていった。ベティは身動きすることもできなかったにちがいない。彼女は化粧台の前に立って、黒ずんだ色をしたモロッコ革の大きな宝石箱を見下ろしながら、とても信じられないというような顔つきでそのあいているふたをあげたり下げたりしていた。
「ほほう!」アノーはいった。「鍵があいていたんですね。フロビッシャーさん、やっぱり収穫がありましたね。宝石箱の鍵があいている。だが、鍵が自然にあいてしまうということはあり得ませんからね。それはここにあったんですね?」
「ええ」ベティはいった。「私は扉をあけ、わきについている取っ手をもってこの箱を取り出しました。すると、さわっただけでふたがあいてしまったのです」
「中をよく見て、何かなくなっているものはないか調べてくれませんか?」
ベティが宝石箱の中身を調べている間に、アノーは一人だけはなれて立っていたフランシーヌのところに行き、腕をとってドアのところにつれていった。
「フランシーヌ、驚かせてわるかったな」彼はいった。「だが、警察の人なんてものは、そんなに恐いものじゃなかったろう? 女中さんたちがだまっているかぎり、私たちはおたがいに仲よくやって行くことができるんだ。しかしもしおしゃべりをして、かっこいいパン屋の小僧が明日にでもアノーの小さな実験のことをディジョン中にまき散らしたりしたら、だれがそんなことをしゃべったか、アノーにはすぐわかるんだからね」
「一言もしゃべったりしません」フランシーヌは叫んだ。
「そうだ、それが一番いい!」アノーは恐ろしくなめらかな猫なで声でいった。「アノーはおしゃべりなわるい子には、恐ろしく意地のわるいおじさんになることができるんだからね。はっ、はっ、そうなんだ! わるい子をしっかりつかまえて――『これでいい!』なんてことはなかなかいわないんだ!」
アノーはおどし文句を親しげな笑いで結び、フランシーヌ・ロラールをやさしく部屋から押し出した。それから彼は、宝石箱の中の仕切り箱をとると、底にあるいくつかの小さな箱をあけているベティのところにもどっていった。ペンダントやブレスレットやバックルや指輪などが光にきらめいていたが、ベティは依然としてさがしつづけていた。
「お嬢さん、何かみつからないんですか?」
「ええ」
「きっとそんなことになるだろうと思っていました」アノーは言葉をつづけた。「殺人が行なわれる以上、何か動機があるにちがいありません。なくなった宝石というのは、大変高価なものではないでしょうか」
「ええ、高価なものです」ベティはアノーの推測を肯定した。「でも、どこかにまちがえて置いただけなのかも知れません。引出しにでもしまいこんだのではないかと思いますわ。きっとどこかから出てくるでしょう」彼女の口調には、何か恐ろしく懸命なものがあり、これ以上深入りしないでくれという嘆願の調子があった。「いずれにしても、なくなったものは私のものですわ。そうでしょ? ですから、ボリスさんの真似をしようとは思っていません。私、愚痴はいいませんわ」
アノーは頭をふった。
「お嬢さん、あなたは少し心がやさしすぎる。しかし私たちは『これでいい』などといっているわけにはいかないんです」ジムはアノーがあのささやく声を何度もくり返していうのをきいて、ちょっと妙な気がした。「私たちの扱っているのは、窃盗事件ではなく殺人事件なのです。私たちは取調べをつづけていかなければなりません。一体、何がなくなったんです?」
「真珠のネックレスですわ」ベティは不承不承答えた。
「大きいものですか?」
ベティがますます気の進まない様子を見せるにつれ、アノーの口調が一段と断固としたぶっきらぼうなものになって行くのがはっきりしてきた。
「それほど大きくはありません」
「お嬢さん、詳しく話して下さい」
ベティはためらった。彼女は困ったような顔で庭をみつめていたが、やがてあきらめたように肩をすくめて、アノーの言葉に従った。
「真珠は三十五ついていて――そんなに大きくはありませんが、粒がよくそろっていて、美しいピンクをしていました。それは伯父が何年もかかって、色々苦労して集めたものなのです。伯父はそれを手に入れるのに十万ポンド近くもかけたと、伯母がいっていました。今ではもっと高くつくでしょう」
「あなた以外に、だれがこのネックレスのことを知っていましたか?」アノーがたずねた。
「家の中の者はみんな知っています。伯母はほとんどいつも身につけていましたから」
「では、亡くなられた日もつけていらしたのですか?」
「ええ、私は――」ベティはいいかけて、たしかめるようにアンの方を向いたが、またすばやくアノーの方に向き直った。「私はつけていたと思います」
「たしかにつけていらしたと思います」アンはしっかりしたおちついた声でいったが、その顔は少しばかり青ざめ、眼には不安のかげを宿していた。
「フランシーヌ・ロラールはあなたの小間使になってどのくらいになります?」アノーはベティにたずねた。
「三年になります。いいえ――もう少し長いかしら。私はフランシーヌ以外に女中を使ったことはありません」ベティは笑いながら答えた。
「わかりました」アノーは思いにふけりながらいった。そしてアノーの頭にうかんだのと同じことを、部屋の中にいる人々も全部考えているように、ジム・フロビッシャーには思われた。なぜなら、だれ一人アン・アプコットの方を見ようとしなかったからだ。長い間いる雇人というものは、高価なネックレスなど盗んだりはしない。ここ何年かの間に、グルネル荘に新しくきたのは、アン・アプコットと看護婦のジャンヌ・ボーディーヌの二人しかいない。そしてジャンヌ・ボーディーヌはこの上もない善良な女なのだ。だれも口にこそ出さなかったが、一同はそんなふうに考えているようだった。
アノーは戸棚の錠に注意を向け、そこにかがみこんだまま頭をふっていた。それから化粧台とモロッコ皮の箱のところにいった。
「ははあ!」彼は強い興味をこめていった。「これはちょっと変っていますな」
その箱は鍵で錠をかけるものではなく、前面に小さな金色のつまみが三つついていて、それぞれきまった回数だけ回すことによって錠がかかるように作られていた。もちろん一つ一つの回す回数は異なっていて、箱をあけるためには、前もってそのことを全部知っていなければならなかった――ハーロウ夫人の宝石は、一つの方式によってまもられていたのである。
「別段、無理にこじあけたような形跡はありませんね」ふたたび立ちあがりながら、アノーはいった。
「きっと伯母が錠をかけるのを忘れたんでしょう」ベティがいった。
「そういう可能性も充分にありますね」アノーも同意した。
「それに、この部屋は伯母の葬式の時からドアに封印がはられた日曜の朝まで、だれでも自由に出入りすることができたのです」
「実際――ボリス・ワベルスキーも一週間この家にいましたからね」アノーはいった。
「ええ――そうですわ」ベティはいった。「ただ――でも、きっとどこかに置きまちがえただけだと思います。そのうちみつかると思いますわ。ご存知の通り、ボリスさんはロンドンにいる私の弁護士にお金を送れと要求しました。たしかにあの人は私と取引をするつもりだったんです。あの人がネックレスを盗んだとは思えません。もし盗んだとすれば、一千ポンドほしがるはずはないと思いますわ」
ジムは自分の考えからボリスを取りのけた。アノーがワベルスキーの名前を口にした時、犯人を発見したと思ってわくわくするような胸のときめきをおぼえたが、ベティ・ハーロウのしぶしぶした決定的な推論によって、その期待もふたたび消えていった。しかし一方、ボリスとアンが共謀して殺人を行なったとすれば、彼の方が遺産をねらっていたのであるから、ネックレスがアンの分け前になるのも当然だと思われる。どちらから見ても、アンは次第に不利な立場に追いこまれていった。
「では、置きまちがえたのかどうか、調べてみましょう」アノーはいった。「それはともかく、この宝石箱は錠をおろして、今日中に銀行にもっていった方がいいですね」
ベティはふたをとじて、つまみを順々に回した。小さな鋭い音の連続が、三度部屋の中できこえた。
「あなたはハーロウ夫人がお使いになっていた組み合わせを使っていたのではないでしょうね」アノーはいった。
「伯母の使っていた組み合わせは知りません」ベティはそういうと、宝石箱を戸棚の中にもどした。そして引出しや戸棚の捜査がはじまった。しかし、宝物室の毒矢の捜査と同じく、ネックレスはみつからなかった。
「これ以上さがすところはありません」アノーはいった。
「いいえ、もう一つあります」
静かな口調でアノーの言葉を訂正したのは、アン・アプコットだった。彼女はひどく青ざめ、反抗的な態度で、ひとりだけはなれたところに立っていた。彼女は今自分に嫌疑のかかっているのを知っていた。一同は気を使って彼女の方を見ないようにしていたのだが、他ならぬそのことが、明らかに彼女を孤立させていたのである。
アノーは部屋の中を見回した。
「いったい、どこをさがすんです」彼はたずねた。
「私の部屋ですわ」
「だめですわ!」ベティがはげしい口調で叫んだ。「そんなことはできませんわ!」
「どうぞ、さがして下さい」アンはいった。「その方が気持がすっきりしますわ」
ベクス氏はしきりにうなずいてみせた。
「お嬢さんのおっしゃることはもっともなことです」彼はいった。
アンはアノーに向かって話しかけた。
「私はご一しょにはまいりません。私の部屋には、小さな革の状箱以外には、鍵のかかったものは一つもありません。その状箱の鍵は、私の化粧台の左側の引出しの中に入っています。私は図書室で待って居りますわ」
アノーが会釈をして動き出そうとする前に、ベティは、ジムがその場で彼女をだきしめたいと思うようなことをやってのけた。彼女はつかつかとアンのところに歩みよると、彼女の腰のところに片手を置いた。
「アン、一しょに待っているわ」彼女はいった。「本当にばかばかしいことだわ」彼女はそういうとアンの先に立って部屋から出ていった。
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十五 毒矢発見さる
アンの部屋は、庭に面した窓のついている三階で、寝室と居間が通じていた。屋根裏で天井こそ低かったが、広々としていて、アノーは寝室の中を見回した時、不審そうにいったくらいだった。
「なるほど――突然驚いて度を失ったら、部屋の暗闇の中でよろめき、スイッチの場所がどこにあるかわからなくなるだろう。スイッチは枕もとにないのだから」それから肩をすくめて「しかし、たしかに、細かいことが証明されるとすれば、だれでも用心深くなるだろう。だから――」そして彼の口調からは不審そうなところが消え去った。
ジムは居間の方に歩いていった。彼はアノーや署長が捜査するのに、一々ついて行く気にはなれなかった。それに彼は、部屋の中央にあるテーブルの上に、吸取り板や便箋やペン、インクなどがあるのに気がついたからである。彼はこの二日間に経験した、推測や事実や虚偽の渦巻きの一切を、分類し、区別し、整理してみたいと思った。それには、無人島におけるロビンソン・クルーソーのように、「有利」と「不利」の二つに分けて、簡潔に書いてみるのが一番いいと考えた。アノーが根気よく捜査をしている間、一時間かそこらは静かな時間がもてるにちがいない。彼は一枚の紙をとり、ペン皿から任意に一本のペンを選んで、書きはじめた。しかし全部書きあげるまでには、アン・アプコットの便箋を何枚となく使い、何度もペン軸からペン先が抜けおちるので、ペン軸にさしこまなければならなかった。彼は次のような項目にまとめあげた。
***
〔有利〕
(一)先ず第一に、殺人が行なわれたという疑いは、「ストロファントス・ヒスピドスに関する論文」を本棚に返した者がいるという事実によるものにすぎないとはいえ、その後の進展、例えば毒矢の紛失、悪評の高いジャン・クラデルの登場、アンの宝物室にいった時の話、さらにハーロウ夫人の真珠のネックレスがなくなった不可思議な事件など、調査すべき事件としての一応の資格は備えている。
〔不利〕
しかし、夫人の死体から毒物が検出さなかったところから見て、次の二つのことがないかぎり、犯人をあげることは困難であろう。
(a)自白
(b)同じような犯罪がふたたび行なわれること。アノーの説によれば、一度毒殺をした者は、それをくり返すようになる。
〔有利〕
(二)もし殺人が行なわれたものとすれば、アン・アプコットが宝物室でもがく音と、「これでいい」とささやく声を耳にした、夜の十時半に行なわれたものと思われる。
〔不利〕
アン・アプコットの話は、その一部分、あるいは全部がうそであるかも知れない。彼女はハーロウ夫人の寝室がひらかれて捜査されるのを知っていた。彼女が同じように真珠のネックレスが紛失することを知っていたとしたら、自分から嫌疑をそらすために、その紛失が発見される前に、何か作り話をしておく方が好都合だと考えたにちがいない。
〔有利〕
(三)もし殺人が行なわれたものとすれば、たとえ犯人がだれであろうとも、ベティ・ハーロウと無関係であることは明らかだ。彼女は充分すぎるくらいの証拠をもっている。その夜彼女は、ド・プイアック氏の家のダンスパーティにいっていた。しかも夫人が死亡すれば、そのネックレスは当然ベティのものになるはずである。彼女が殺人犯人であるのなら、ネックレスは紛失しなかっただろう。
〔不利〕
もしこれが他殺だと仮定しても、ネックレスの紛失したことは、殺人事件と何の関係もないかも知れない。
〔有利〕
(四)では、犯人はだれなのだろうか?
(a)使用人
〔不利〕
使用人はいずれも長い間つとめていて、充分信用がある。また「ストロファントス・ヒスピドスに関する論文」を利用できるくらい理解できる者もいそうにない。かりにこの事件に関係のある者がいるにしても、だれか他の人間の指示に従った従犯者か幇助《ほうじょ》者であるにすぎまい。
〔有利〕
(b)看護婦のジャンヌ・ボーディーヌ
彼女にはもっと注意をはらう必要がある。彼女が何の関係もないということを、あまりにも容易に受けいれすぎている。
〔不利〕
彼女に嫌疑をかける者はいない。彼女の経歴は申し分ない。
〔有利〕
(c)フランシーヌ・ロラール
彼女は今日の午後、たしかにおびえていた。ネックレスは彼女にとって、一つの誘惑であるにちがいない。暗闇の中で、アン・アプコットの上にかがみこんだのは、彼女だろうか?
〔不利〕
彼女は犯人だといわれることよりも、彼女の属している階級の偏見によって、警察をこわがっていたのである。彼女は別に取乱すことなく、例のシーンを演じてみせた。かりに彼女が関係をもっていたとしても、先にあげたような理由により、単なる幇助者にすぎないものと思われる。
〔有利〕
(d)アン・アプコット
彼女ははっきりしない事情のもとに、ワベルスキーの紹介によって、グルネル荘の一員となった。彼女は貧しい少女で、報酬をもらってベティの話相手になっていた。そんな彼女にとって、ネックレスはかなりの財産であると思われる。
〔不利〕
彼女がグルネル荘の一員となったのは、何かもっともな釈然とした理由があるのかも知れない。彼女の経歴をもっとよく知るまでは、判断することができない。
〔有利〕
ハーロウ夫人の死んだ夜、彼女は家にいて、ガストンに灯を消して早く寝てもよいといった。彼女は簡単にワベルスキーのいうことをうけ入れ、共謀した代償としてネックレスをもらったのかも知れない。
〔不利〕
四月二十七日の夜のことに関する彼女の話は、何もかもことごとく真実であるかも知れない。
〔有利〕
庭でわれわれにした話は、実際にあったことを作り変え、自分のしたことを他人にあてはめたのかも知れない。「これでいい」とささやいたのは、彼女自身なのかも知れない。彼女がワベルスキーに向かってささやいたのかも知れないのだ。彼女とワベルスキーとの関係は、ワベルスキーがベティを告訴した時、彼女の援助を求めたほど充分に密接なものだった。
〔不利〕
そうなると、他殺説は極めて有力になってくる。だが、それならば、「これでいい」とささやいたのはだれなのか? またアン・アプコットが眼をさました時、その上にかがみこんでいたのはだれなのだろうか?
〔有利〕
(e)ワベルスキー
彼はならず者で、恐喝未遂の男でもある。彼は金に困って、ハーロウ夫人から莫大な遺産を手に入れようとした。
彼は殺人をする場合のことを考えて、アン・アプコットをグルネル荘に引き入れたのかも知れない。
殺人の結果、何の利益も得られなかったので、自分の罪をベティになすりつけ、恐喝の種にした。
夫人の墓が発掘され、検死が行なわれたことを知るや否や、彼はすっかり意気沮喪してしまった。彼が自分で毒矢を使ったとすれば、その毒の痕跡がのこらないことを知っていたはずである。
彼はジャン・クラデルを知っていた。そして彼自身の話によると、クラデルの店に近いガンベッタ通りにいたのである。それ故、彼自身がストロファントスの溶液の代金を払いにクラデルのところへいったとも考えられる。
〔不利〕
しかし、他殺ではなく病死にすぎないと思いこんでいた場合も、同じように意気沮喪していたことだろう。
***
もし他殺であると仮定すれば、アンとワベルスキーが共謀してやった疑いが一番濃い。
ジム・フロビッシャーは不本意ながらそういう結論に達した。しかし書いている間にも、解答のみつからぬ疑問がしきりにうかんできた。彼は犯罪の捜査などということにかけては、全くの素人であることを充分に知っていた。そしてこれらの疑問に解答があたえられれば、自分の考えにまた別の方向があたえられるのではないかと思った。
従って彼は、そのおぼえ書の一番終りに、それらの厄介な疑問をつけ加えておいた――それは次のようなものだった。
だが
(1)どうしてアノーは「ストロファントス・ヒスピドスに関する論文」が図書室のもとの場所に返されたことを重視しないのか。
(2)塔のてっぺんでアノーをはっとさせたものは何か?
(3)アルム広場にあるカフェで、何かいおうとしてやめたが、あれは何だったのだろうか?
(4)アノーはなくなった毒矢をさがすために、宝物室をくまなくさがし回った――しかしどうして椅子|轎《こし》の内部だけはさがさなかったのだろうか?
その時、しずかにドアをしめる音が、思いにふけっていたジムをよびさました。彼は音のした方に視線を向けた。アノーが寝室から入ってきて境のドアをしめたところだった。彼はドアのノッブに手をかけたまま、奇妙なはっとしたような表情でフロビッシャーをみつめた。そしてジムの坐っているテーブルのところに、すばやく歩みよってきた。
「あなたのおかげで助かった!」彼は微笑しながら、低い声でいった。「本当に助かった!」
ジムの耳は嘲笑のひびきに敏感だったが、その言葉にはそんな調子は少しも見出せなかった。アノーの言葉は真剣そのもので、眼はキラキラとかがやき、生気のない顔は、例の無気味なほど鋭い表情に一変していた。ジムはそれを見て、事件の進展をうながすような、何か新しいものを発見したのだと思った。
「あなたの書いたものを見せてもらえますか?」アノーはたずねた。
「あなたには何の価値もありませんよ」ジムは控え目に答えたが、アノーは耳を傾けようとはしなかった。
「他人が何を考えているのか知ることは大事なことです。まして他人が気がついたことはね。パリで私は何といいました? すぐ目の前にあるものは、なかなか気がつかないものだといったでしょう」彼はそういうと、ひどく愉快そうに、しかしかるく笑いつづけていたが、ジムには何のことだかわけがわからなかった。しかしジムは譲歩し、自分が少しばかり子供じみていたのを恥じる一方、自分の書いた疑問に多少とも解答の得られるのを期待しながら、おぼえ書をアノーの方に押しやった。
アノーはジムのそばにあるテーブルの端に腰をおろし、時々うなり声をあげたり、「ほほう!」としきりにいったりしながら、そのおぼえ書をひどくゆっくりと読んでいったが、顔の表情は全然変らなかった。ジムはそのおぼえ書を彼の手からひったくって引きさいてしまった方がいいか、それとも自分の書いたものを自慢に思っていいのか、しきりに思いまどった。しかしたった一つはっきりしていたのは、アノーが真面目にそれを読んでいたことだった。
「そうです、ここには疑問と矛盾があります」彼は親しげにフロビッシャーをみつめた。「一つあなたにたとえ話をしましょう。私には、スペインで闘牛士をしている友人がいます。彼は牛の話をして、牛が利口な動物ではないと考えている人たちがどれほど愚かであるかを話してくれました。そうです、しかし、とび上ったり、こわい目付きでにらみつけたりしないで下さい。品がわるいとか、趣味が最低だとかいわないで下さい。そんなことは私自身よくわかっているんですからね。そんなことをするより、私の友人の闘牛士の話をきいて下さい。スペインにいる闘牛士を必ず全部殺すために牛が必要としているのは、極めて小さな経験でことが足りるのです。そして牛はそれをこの上もなく迅速におぼえこんでしまいます。いいですか! 牛が闘技場に入ってきてから殺されるまで、たった二十分しかかからないのです。分別のある闘牛士ならば、それ以上時間をかけないでしょう。牛というものは――闘技場でのたたかいをそれほど迅速におぼえこんでしまうのです。私は闘牛場で何度もたたかってきた老牛です。あなたにとっては、これが最初の闘牛《コリダ》というわけです。しかし二十分のうち、まだ十分たっただけにすぎません。だがあなたはすでに沢山のことをまなばれた。そうです、ここには、あなたが思いつこうとは予想もしていなかった鋭い質問が書いてあります。二十分もすれば、全部自分で解答が出せるようになるでしょう。ところで」――彼は別のペンを取ると、おぼえ書の(一)のところにほんの少しばかりつけ加えた――「私は一歩だけ前進させてみました。見てごらんなさい!」
彼はおぼえ書をジムの眼の前に押しもどした。ジムは読んだ――
「――その後の進展、例えば毒矢の紛失、悪評の高いジャン・クラデルの登場、アンの宝物室にいった時の話、さらにハーロウ夫人の真珠のネックレスがなくなった不可思議な事件、そして|毒矢の発見《ヽヽヽヽヽ》など、調査すべき事件としての一応の資格は備えている」
ジムは興奮してさっと立ちあがった。
「では、あなたは毒矢をみつけたんですね?」彼はアン・アプコットの寝室のドアの方にちらりと視線を向けながら叫んだ。
「いや、みつけたのは私ではありません」アノーはにやりと笑いながら答えた。
「では、署長ですか?」
「いや、署長でもありません」
「では、署長の秘書ですか?」
ジムはふたたび椅子に腰をおろした。
「残念ですね。彼は安物の指輪をいくつもつけていて、どうも好きになれません」
アノーは突然喜びの笑い声をあげた。
「心配するには及びませんよ。あの連中はひどく自慢していますが、私はあの若い紳士が好きではありません。モーリス・テヴネは何もみつけてはいませんよ」
ジムは当惑の面持でアノーをみつめた。
「では、何のことだかわかりませんね」彼はいった。
アノーは両手をこすりあわせた。
「闘技場の中に十分間いたことを、一つ私に証明してみせて下さい」彼はいった。
「ぼくはまだ五分しかいないような気がします」ジムは微笑しながら答えた。「ちょっと待って下さい! ぼくたちが最初にアンの部屋に入った時には、まだ毒矢は発見されていなかったんですね?」
「その通りです」
「それが今は見つかったんですね?」
「そうです」
「しかもあなたが発見したのではないんですね?」
「そうです」
「署長でもないんですね?」
「そうです」
「モーリス・テヴネでもないんですね?」
「そうです」
ジムはじっとみつめたまま頭をふった。
「ぼくはまだ一分も闘技場にいないようです。ぼくにはわかりません」
アノーの顔はたのしそうな生き生きしたものになってきた。
「では、あなたのおぼえ書にもう一度書いてあげましょう」
彼は左手の手のひらでジムの眼から紙をかくしながら、右手で何やら書いていたが、勝ち誇ったようにジムの眼の前に置いた。アノーは最後の疑問に、きちんとした小さな字で答えていた。
ジムは読んだ。
(4)アノーはなくなった毒矢をさがすために、宝物室をくまなくさがし回った――しかしどうして椅子|轎《こし》の内部だけはさがさなかったのだろうか?
その疑問の下に、まるでジム・フロビッシャーが自分で答えたかのように、アノーは書いていた。
「椅子轎を調べ忘れたのは、アノーの落度であったが、幸いにもその悲しむべき手ぬかりによって、何の支障も生じなかった。なぜなら、手に負えない劇作家の『運命』は、矢柄の先端を、このおぼえ書を書いているペン軸となるように、巧妙に取りはからってくれたからである」
ジムはペン軸を見ると、驚きの叫びをあげて、下におとした。
まさしくその通りだった――ほっそりした鉛筆のような格好の柄《え》が、指のあたるところで小さな球根のようにふくれ、鉄の矢じりを取りつけるための小さな割れ目に、ペン先がさしこまれていた! ジムは、一度か二度ペン先がゆるんで、書きながら紙の上できしみ、乱暴に押しこんだことを思い出した。
次の瞬間、恐ろしい考えが頭にうかんできた。彼は口をぽかんとあけ、恐怖の眼でアノーをみつめた。
「おぼえ書の文句を考えながら、この先をしゃぶっていたかも知れないんです」彼はどもりながらいった。
「何ですって!」アノーはそう叫ぶと、ペン軸をひったくり、ハンカチでつよくこすった。そしてそのハンカチをテーブルの上にひろげると、ポケットから小さな拡大鏡を取り出し、詳しく調べはじめた。やがて彼は、ほっとした面持で顔をあげた。
「毒物を練り物のような状態にした、あの赤褐色の粘土は全然のこっていません。毒は矢からペン皿に入れられる前に、すっかりきれいにすり落されています。本当によかった。私の若い同僚を失いたくはありませんからね」
フロビッシャーは深く息を吸いこんでから、煙草に火をつけたが、またもや自分が新米の牛であることを証明してしまった。
「あの論文の図版を一目見れば、子供でも簡単にわかる矢柄の先を、おおっぴらにペン皿の上に置くなんて、全くどうかしていますよ!」彼は大声で叫んだ。
これではまるで、アン・アプコットがわざと断頭台の木製の輪の中に自分から首をつっこむようなものではないか。
アノーは頭をふった。
「それほど気違いじみているわけでもありません! 昔から法則というものは中々よくできています。人目につかないすみの方にかくしておけば、必ず発見される。何げなくだれでも人目につくところに置いておけば、だれも気がつかない。そうです、気がつく人なんかいませんよ! これは全く上手なやり方です。あなたが私たちの捜査に顔を出すかわりに、椅子に腰をおろして、アンさんの便箋にこれほど貴重なおぼえ書を書くなんて、だれに予知できたでしょう? しかもあなたはおぼえ書を書いている時にさえ、自分の使っているペンに気がつかなかった。そうじゃありませんか?」
しかしジムは、まだ釈然としなかった。
「ハーロウ夫人が殺されてから――もし他殺だとしての話ですが――もう二週間もたっています」彼は叫んだ。「どうして矢も焼きすててしまわなかったのでしょう?」
「しかし今朝まで矢のことは全然問題になっていなかったのです」アノーは言葉を返した。「それは貴重品であり、コレクションの中の一つでした――どうしてわざわざ焼きすてたりする必要があったでしょう? ところが、今朝になると、この矢をもっていることが危険になってきたのです。そこで、いそいでかくさなければならなくなった。なぜなら時間がいくらもなかったからです。私とあなたが塔の上でモンブランにみとれていた一時間しかなかったのです」
「それはベティが外に出ていた一時間ですね」ジムは早口でつけ加えた。
「ええ――あなたのいう通りです」アノーはいった。「そのことには気がつきませんでした。フロビッシャーさん、ベティさんを容疑者の中から除外する理由の一つに、その点をつけ加えることができるわけです。そうです」
彼はしばらく坐ったまま何かしきりに考えていたが、フロビッシャーよりもむしろ自分自身に向かっていっているように、とぎれとぎれに話し出した。「ここにかけあがってきて――矢を切りつめ――いそいでできるだけ上手に先をまるくし――ニスを塗り――ペン皿の中にほかのペンと一しょに入れておく。まんざらわるくないな!」彼はその策略に感心したようにうなずいてみせた。「しかしそうだとすると、あのすばらしいアンさんは、ますます不利になってくる」
となりの寝室で家具を動かしている音が、彼の注意をひきつけた。彼は矢の先からペン先を抜き取った。
「この小さな品物はしばらくほかの人には秘密にしておきましょう」彼は早口でそういうと、間にあわせに作ったペン軸を一枚の便箋で包んだ。「これを知っているのは私とあなたの二人だけです。ほかにはだれもいません。これは私の扱っている事件で、署長の扱っている事件ではありませんからね。私たちに確信がもてるまでは、あまり人に苦しみや迷惑をかけないようにしましょう」
「おっしゃる通りです」ジムは熱をこめていった。「全くその通りです」
アノーは矢の先端を注意深くポケットの中にしまいこんだ。
「こっちの方も」彼はそういうと、ジム・フロビッシャーのおぼえ書を取りあげた。「もち歩いてなくしたりすると困る。私の集めた他の小さな物と一しょに署に保管しておきましょう」
彼は書類入れの中に、そのおぼえ書をしまいこんで、立ちあがった。
「矢柄ののこりはきっとこの部屋のどこかにあります。さがせばすぐみつかるでしょう。しかしそんなものをさがしているひまはありませんし、ともかくも大事なところはすでに手に入ったんですからね」
彼が、鏡のわくの中に何枚か招待状がさしこんである炉の上の飾り棚の方を向いた時、ドアがあいて、秘書をつれて署長が寝室から出てきた。
「ネックレスはあの部屋にはありません」署長は断定するようにいった。
「ここにもありません」アノーは厚かましくも答えた。「さあ、下に行きましょう」
ジムはすっかり驚いてしまった。この部屋で、ネックレスなど全然さがしてはいないのだ。最初は椅子轎、そして今度はこの居間が無視されている。アノーはうしろをふりかえることさえしないで、先に立って階段の方に歩いていった。彼はパリで、自分と自分の同業者のことを、機会の女神のしもべだといっていたが、それもあえて異とするに足らぬことだった。
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十六 アノー声高く笑う
階段の一番下で、アノーは署長の助力に誠意をのべた。
「ネックレスのことですが、もちろん家中の者のもち者を全部調べてみましょう」彼はいった。
「しかし、何もみつからないと思いますね。それはまずたしかですね。もしネックレスが盗まれたものと仮定すれば、ここで発見できるには、あまりにも時間がたちすぎていますからね」
彼がうやうやしく頭をさげて署長を家から送り出している時、ベクス氏はジム・フロビッシャーをわきの方に呼びよせた。
「私はアンさんに法律に関する助力者が必要だと思うのです」彼は口を切った。「私にしてもあなたにしても二人ともハーロウさんの側に立つ人間です。それに――ちょっと巧くいえないんですが――この二人のお嬢さんの利害は一致していないかも知れませんからね。そんなわけですから、ともかくも、私が協力を申し出るわけには行きません。しかしディジョンにいる、私の友人の弁護士を推薦することはできます。なかなか腕の立つ弁護士です。ご承知のように、これは重要なことかも知れませんからね」
フロビッシャーは同意した。
「たしかにその通りだと思います。そのお友だちの住所を教えて頂けないでしょうか?」彼はいった。
ジムが弁護士の住所を書き取っている時、アノーが突然大声で笑い出し、彼をはっとさせた。奇妙なことに、別に笑うような理由は何一つ見当らなかった。アノーは彼らと玄関のドアの間に、一人きりで立っていた。中庭には一人として人影はなく、玄関の広間では、ジムとベクス氏が小声で真剣に話をしている最中だった。アノーは何もない空間に向かって笑いつづけていたが、その笑いには、深い安堵のひびきがあった。
「どうしてこんなことに今まで気がつかなかったんだろう」彼は、このアノーに気がつかないことがあるとは意外だといいたげな様子で大声で叫んだ。
「いったいどうしたんです?」ジムはたずねた。
しかしアノーは一言も返事をせず、ジムとベクス氏のそばを通って玄関の広間を勢いよく走り抜けると、宝物室の中に姿を消し、中から錠をおろした。
ベクス氏はぐいとあごをしゃくってみせた。
「全く変り者ですね、あの人は。ディジョンには向いていないようだ」
ジムはアノーの弁護をした。
「あの人はいつでも芝居をしたがるんです。本当です」彼は答えた。「どんなことをする場合にも、そしてそれをどんなに熱心にやる場合にも、自分の眼の前にフットライトがならんでいるように思っているんです」
「そういう人はよくいるものですね」ベクス氏はいった。彼もフランス人の例にもれず、人間をはっきりしたタイプに分類しないと気の休まらない男だった。
「しかし彼は、今ひどく重要な仕事をしているんです」ジムは得意そうに少しばかり胸をはって、言葉をつづけた。彼は闘技場で十五分は完全にすごしたような気持になってきた。「彼は何かをどこかでさがしているところです。ぼくはそのことについて彼に注意しました。彼はすっかりそれを見落していたのです。ぼくは今朝、熱心な協力者の提案を受け入れたがらないことについて、彼に文句をいいました。しかし、ぼくは明らかに思いちがいをしていたのです。彼はすぐさま喜んで耳をかしてくれました」
ベクス氏はすっかり心を動かされ、少しばかりうらやましそうだった。
「私もアノーさんに何か提案をしなくてはなりませんね」彼はいった。「そうだ、そうだ! イギリスで当局の追及がきびしくなってきた時、真珠のネックレスをマッチ箱に入れて溝の中に捨てたという話があります。たしかにそんな話を読んだことがありますよ。アノーさんに一日か二日、溝の中のマッチ箱を拾って歩くようにいってやらなくちゃ。ハーロウ夫人のネックレスがみつかるかも知れませんからね。そうです。きっとみつかりますよ」
ベクス氏は自分の頭にうかんだグッドアイディアに意気揚々としていた。彼はこれでイギリス人の同業者と対等になったと思った。彼はアノーがディジョンの通りをとび歩きながら、人にきかれるたびに、「これは公証人のベクス氏の思いついたアイディアです。ご存知でしょう。エチエンヌ・ドレ広場のベクス氏ですよ」といっている姿を心に思い描いた。ところが、アノーが発見すべき高価なネックレスの入ったマッチ箱を、どこの溝におちていたことにしようかと、ベクス氏がはっきりきめないうちに、図書室のドアが開いて、ベティが玄関の広間に姿を現わした。
彼女は驚いて二人の男をみつめた。
「アノーさんは?」彼女はたずねた。「おかえりになった様子もないけど」
「宝物室にいます」ジムはいった。
「まあ!」ベティは大声で叫んだが、その口調には彼女に関心のあることが示されていた。「またあの部屋にいらしたんですの!」
彼女はいそいでドアのところに足をはこぶと、ドアのノッブを回してみた。
「鍵がかかっているわ!」彼女は驚いて少しばかりはっとしたが、ふり向かずに言葉をつづけた。「鍵をかけて部屋の中においでになるんだわ! どうしてでしょう?」
「フットライトのためです」ベクス氏の返事をきくと、ベティはふり返って彼にじっと眼をそそいだ。「そうです。私たちはそういう結論に達したのです。私とフロビッシャーさんはね。あの人は何をやる時にも幕をおろさないと気がすまないのです」その時また鍵の回る音がした。
ベティはその音を耳にすると、ふたたびぐるりとふり向いた。そしてアノーに面と向かいあった。
アノーは彼女の肩ごしにフロビッシャーを見て、がっかりしたように頭をふってみせた。
「では、みつからなかったんですね?」ジムはいった。
「ええ」
アノーはジムからベティ・ハーロウに視線をうつした。
「お嬢さん、フロビッシャーさんに注意されたんですが、私はあのすばらしい椅子轎の中を調べるのを忘れていたのです。あのネックレスがクッションのうしろにでもかくされていることだってないとはかぎりませんからね。しかしあそこにはみつかりませんでした」
「それでドアに鍵をおかけになったんですのね?」ベティはかたい口調でいった。「申しあげておきますけど、それは私の部屋のドアですわ」
アノーはきっとなった。
「たしかに鍵をかけました」彼は応じた。「しかし、それがどうだというんです?」
ベティは舌の先まで出かかっていた痛烈な返答をやっとのことでのみこみ、肩をすくめながらひややかな口調でいった。
「たしかに、あなたはその権利をおもちですわ」
アノーは機嫌よく彼女に微笑してみせた。彼はまたもや彼女の感情を害してしまったのだ。彼女は昨日の朝と同じように、気むずかしい、反抗的な子供のような態度を、彼に示した。ところが、彼の顔からは突然微笑が消えた。図書室のドアのところにアン・アプコットが立っていたのだった。彼女の顔は相変らずまっさおで、眼の中では火のようなかがやきがくすぶっていた。
「アノーさん、私の部屋は調べて下さったんでしょうね?」彼女は挑戦するような口調でいった。
「お嬢さん、徹底的に調べてみました」
「ネックレスはみつからなかったんですね?」
「ええ、みつかりませんでした!」彼はそういうと、不意にきびしい顔になり、広間をまっすぐに横切って彼女のところにやってきた。
「お嬢さん、一つ私の質問に答えて下さい。しかし答えたくなければそれでもいいんです。その点はご承知おき下さい。あなたには予審判事のところに行くまで、返事を保留する権利があります。またそういう場合でも、弁護士の立ちあいのもとに、その同意を得た上で返事をする権利があるのです。ベクス氏もその点は保証してくれるはずです」
アンの挑戦的な態度はやわらいできた。
「いったい、何をおききになりたいんです?」彼女はたずねた。
「あなたはどういうわけでグルネル荘にくるようになったんです?」
彼女の眼からは、もえるようなかがやきが消え去り、まぶたがひくひくと動いた。そしてからだをささえるために、ドアのわき柱に一方の手をのばした。ジムは、サイモン・ハーロウの矢の先が、今アノーのポケットにあるのを、彼女は知っているのかどうかと思った。
「私はモンテカルロにいたんです」彼女は口を切ったが、すぐに口をつぐんだ。
「一人きりでですか?」アノーは容赦なく言葉をつづけた。
「ええ」
「お金ももたないで?」
「少しはもっていました」アンが訂正した。
「そのお金をなくしたんですね」アノーはいい返した。
「ええ」
「それで、モンテカルロでボリス・ワベルスキーと知りあいになったんですね?」
「ええ」
「それでグルネル荘にくるようになったんですね?」
「ええ」
「お嬢さん、全く妙な話ですね」アノーは重々しい口調でいった。ただ妙な話だけならいいが、ジム・フロビッシャーは心からそう願った。アン・アプコットは探偵のちらりと向けた視線の前ですっかりちぢみあがっていたからだった。探偵がさらに一つ質問すれば、真実の告白が彼女の口からしどろもどろにもれるにちがいない。ボリス・ワベルスキーと共謀してやった犯行の告白が! そしてその次には? ジムの眼には、彼女を待ちうけている未来の恐ろしい光景が、ちらりとうかんできた。断頭台だろうか? いや、恐らくもっとわるい運命であるにちがいない。断頭台の方ならすぐに片がついて、休息を得ることができるだろう。数時間にわたる胸のかきむしられるような苦しみ、希望に酔うかと思えば、次の瞬間には恐怖のどん底につきおとされる、待つことの苦悶。ある明け方の恐ろしい数分間――そして最後の時がやってくる! しかし、フランスの刑務所の囚人たちと一しょに、粗末な衣食とみじめなうんざりするような労働のつづく、いつはてるともない年月を送るよりは、まだその方がましだといってよい。
ジムは不安のあまりぞっとして彼女から視線をそらしたが、ベティが異様なほどの熱心さで彼をみつめているのに気がつき、奇妙なかるいショックを感じた。彼女に関心があるのは、アンの危険にさらされた立場よりも、それに対する彼の感情だといっているかのようだった。
やがてアンは意を決したようだった。
「ともかくも今すぐお話ししますわ。別に大して何もありませんけど」
彼女ははっきりといった。その言葉はひどく勇敢なものだったが、いい終ったとたんにその勇気は姿を消してしまった。最初は明らかに挑戦的な調子ではじめたのだったが、終りの頃になると、ほとんどききとれないようなささやきに変ってしまった。しかし彼女はドアの柱にもたれて、何とか話を進めていった。実際、話を進めて行くうちに彼女の声は力強いものになり、一度などは心から楽しそうな微笑を、唇や眼にちらりとうかべたほどだった。
今から十八か月前までは、彼女はドーセットシャーの、ウェイマスから数マイルはなれたところに、未亡人である母親と一しょに暮していた。二人の生活は苦しいものだった。アプコット夫人の境遇はイギリスの中流階級の女性によくあるように、全く望みのないものだったのである。彼女は税金で首の回らない小地主だったが、それを上回る地方税に頭をなやましていた。一方アンはといえば、近くにいる人々の間で、将来画家になるものと嘱望《しょくぼう》されていた。母親が死んだ時、土地はとある工場主に二束三文でうり渡され、アンはいくらも入っていない財布をもち、野心に胸をふくらませて、ロンドンに出発した。
「自分は単なるアマチュアにすぎない、決して専門の画家などになるべきではないとさとるには、一年の年月を要しました。私は自分のお金を数えてみました。のこっていたのは三百ポンドでした。そんなお金で一体何ができるというのでしょう? 自分で店をもつには不充分でしたし、人に頼るのもまっぴらでした。そこで私は、モンテカルロで十日間派手に遊び、一か八かの勝負をしてみようと決心したのです」
微笑が彼女の眼を輝かせたのはその時だった。
「もう一度同じことをやってみたいくらいですわ」彼女は少しも後悔していない様子で叫んだ。
「それまでイギリスの外に出たことはなかったのですが、学校では充分にフランス語をやっていました。私はフロックと帽子をいくつかもって、旅に出かけたのです。私はとても楽しい時をすごしました。十九歳の私は、寝台車から賭博場の元じめにいたるまで、一切のものに魅了されてしまったのです。丘の上にあるわりに小さなホテルに泊っていたのですが、一人二人知人にあい、スポーツクラブに案内してもらいました。そしてとても沢山の方が私の世話をしようとするんです!」彼女は叫ぶようにいった。
「それはよくわかります」アノーはそっけない口調でいった。
「例えば、スポーツクラブの大きな部屋にいた、トラント・エ・キャラントの元じめがそうでした。私はいつも彼のとなりに坐るようにしていました。なぜなら彼は、私のお金が盗まれないように気をつけてくれたり、私が勝っている時にそのかけ金を確保するため、時々お金の山から少しずつかきのけるように注意してくれたからです。私はそこに五週間滞在し、四百ポンドもうけたのですが――それから三日、恐ろしい夜がつづき、ホテルの金庫にしまっておいた三十ポンドを除いて、あり金全部をなくしてしまったのです」彼女は広間の反対側にいるジムの方に向かってうなずいてみせた。「その最後の夜のことはフロビッシャーさんにうかがうといいですわ。フロビッシャーさんは私のそばに腰かけていらして、とても思いやりのあるやり方で、私に千フラン下さろうとなさったんですもの」
しかしアノーはわき道にそれようとはしなかった。
「あとでそのことはフロビッシャーさんからうかがいましょう」彼はそういうと、ふたたび尋問をつづけた。「ワベルスキーとはその晩がはじめてじゃなかったんですね?」
「ええ、二週間前にあいました。でも、だれから紹介されたのかおぼえておりません」
「それならベティさんの方は?」
「ボリスさんが、それから一両日あと、オテル・ド・パリの休憩室で、お茶の時に紹介して下さったんです」
「そうですか!」アノーはいった。彼はほとんど気づかれないくらいかすかに肩をすくめながら、ジムの方にちらりと眼を向けた。入念に案出され、いずれ実行される計画の一部として、ワベルスキーがアン・アプコットを計画的にこの家族の中に引き入れたことが、だんだんに明らかになってきた。
「ベティさんの話相手になるように、ワベルスキーが最初にいい出したのはいつですか?」アノーがたずねた。
「その一番最後の晩です」アンは答えた。「彼はトラント・エ・キャラントのテーブルの反対側の私の真前に立っていて、私がまけているのを見ていたのです」
「なるほど」アノーはうなずきながらいった。「彼は絶好のチャンスだと思ったわけですね」
彼は両手をひろげたが、その手を下におろした。まるで患者にさじを投げた医者のようだった。彼はアンから顔をそむけると、肩をおとし、困惑したように大理石の床の基盤縞をじっとみつめていた。ジムには彼がこの瞬間、アンを拘留すべきか否か、しきりに考えているとしか思えなかった。
しかしその時、ベティが口をはさんだ。
「アノーさん、誤解して頂いては困りますわ」彼女はすばやくいった。「ボリスさんがあの晩はじめてアンにそのことを話したのはたしかです。でも私は、それより前に伯母とボリスさんに、一しょに暮せる同じぐらいの年の友だちがほしいといって、特にアンの名前をあげておいたのです」
アノーは疑わしげに彼女を見あげた。
「お嬢さん、アンさんと知りあってまだいくらもたたないのに?」
しかしベティはあくまで自分の考えを曲げなかった。
「そうですわ。私、最初からアンがとても好きだったんです。彼女はひとりぼっちでした。彼女が私たちと同じ社会の人間だということは、すぐにはっきりとわかりました。私が彼女を望んだ理由は充分すぎるほどあったのです。そして彼女がこの家にきてからの四か月が、私の考え方の正しかったことを証明してくれたのです」
彼女はアノーに向かって挑戦的に一つうなずいてみせると、アンの方に歩みよった。アノーは暖かい笑いをもって応じ、英語で話し出した。
「今いったことをよく考えてみるがいい、私の友人のリカードならそういうでしょう。あなたも全く同感でしょう? 忠実な友情の前には、何ものも無力ですな」
そういうと彼はベティに向かって親しげに一礼した。アンの逮捕を思いとどまったのは、ベティの仲裁によるものだということを、これ以上はっきりと言葉でいい現わすことはほとんど不可能だったにちがいない。それはアンにとっては、アノーに犯人だと思われていることを告げるものだった。
玄関の広間にいる人々は一人のこらず、アノーのいったことをそういう意味だと考えた。一同はぼんやりと立ちながら、眼のやり場に困ってあちこちに視線を向けていた。この面白くない光景のまっただ中に、不つりあいな小さな事件が起こって、ちょっと異様な感じをあたえた。開いている表のドアに通じている二段の石段をのぼって、長方形をした洋服屋の大きなボール箱をもった娘が姿を現わした。彼女がベルを押そうとした時、アノーが前に進み出た。
「ベルをならす必要はない」彼はいった。「一体、何をもってきたのかね?」
娘は玄関の広間の中に入ると、アンの顔を見た。
「これは明日の晩のダンスパーティにお召しになるお嬢さまのドレスです。一番最後の仮縫いにおいで頂くように申しあげておいたんですが、おいでにならなかったんです。でもマダム・グロランは別にさしつかえないと思っておいでです」彼女はそういうと、広間のすみの方にある櫃《ひつ》の上にその箱をおき、かえっていった。
「私、すっかり忘れていましたわ」アンはいった。「夫人が亡くなられた直前に注文して、一度だけ仮縫いをしたんです」
アノーはうなずいてみせた。
「それはたしかル・ヴェイ夫人の仮装舞踏会のためのものですね」彼はいった。「あなたの居間のマントルピースの上に、招待状があるのをみつけました。それで、どんな扮装で行かれるつもりだったんです?」
アンは一同を驚かせた。彼女はさっと頭をあげたが、頬には血がのぼり、眼はキラキラとかがやいていた。
「いずれにしても、ブランヴィリエ夫人〔フランスの有名な毒殺者〕じゃありませんわ」彼女は叫んだ。
アノーさえ、それにははっとしてしまった。
「何もそんなつもりじゃなかったんです」彼は冷静な調子で答えた。「しかし、ともかくも見せて下さい!」
彼は一瞬怒りで顔を紅潮させながら、せっせと箱のひもをほどきにかかった。
その時ベティが前に進み出た。
「そのドレスのことは、一か月以上も前から、私たち二人で相談しあっていました。それは睡蓮を表わしたものなのです」
「それはさぞすばらしいことでしょう」アノーはそんなことをいっていたが、指先の方は相変らず動かしつづけていた。
「何と残酷に嫌疑をむき出しにするのだろう」ジム・フロビッシャーは心の中で考えた。一体アノーは、この箱の中に何がみつかると思っているのだろうか? 洋服屋のグロラン夫人まで、ワベルスキーの共犯者だと思っているのだろうか? この挿話的な事件は、少々滑稽でもあったが、また不気味なところもあった。アノーはふたをとると、薄葉紙をめくった。その下からは、金色のベルトと、端の方に大きな金色の花飾りが一つついている、目のさめるような草色のクレープデシンの短いフロックが現われた。スカートは腰のところが張り出すようにかたくしてあり、金色の芯のついた白いサテンの花飾りが縁にずらりとならんでいた。そのドレスの付属品として、金の刺繍のしてある白い絹の長靴下と、白いサテンの靴が入っていた。その靴は甲の部分に一本のひもを渡し、そのひもをボタンでとめるところには小さなダイヤ型のふさをつけ、後ろのかかとのまわりには四本の金色の筋がついていた。
アノーはフロックの下や脇の方をさぐっていたが、やがてふたをもとにもどし、からだをまっすぐに起こした。彼はアン・アプコットの方には一度も視線を向けず、まっすぐにベティ・ハーロウのところに歩いていった。
「お嬢さん、色々ご迷惑をおかけした上、時間をすっかりつぶしてしまって、本当に申しわけありません」彼は思いやりをこめていった。そして丁重に一礼すると、テーブルの上から帽子とステッキを取り、まっすぐに表のドアの方に歩いていった。グルネル荘での彼の仕事は、どうみてもこれで終ったように思われた。
しかしベクス氏はまだ不満足だった。彼は自分の提案を三十分近くも心の中で暖めていたのである。それは詩と同じように、表現されることを求めていた。
「アノーさん!」彼は探偵に呼びかけた。「アノーさん! マッチ箱のことをお話ししなければなりません」
「何ですって!」アノーは油断なく立ち止って答えた。「マッチ箱ですって! あなたの事務所の方に行きますから、道々お話をうかがいましょう」
ベクス氏はすぐさまアノーのところに行くと、弁舌さわやかにまくし立てながら、門を通ってシャルル・ロベール通りに出ていった。
ベティはジム・フロビッシャーの方を向いた。
「また車が使えるようになりましたから、明日この近くを車でご案内しましょう。今日の午後は――おわかりになっていると思いますけど――アンの相手をしなければならないんです」
彼女はアン・アプコットの腕を取ると、一しょに庭におりていった。ジムは広間にひとり取りのこされたが、それは今むしろ彼の望むところだった。今広間の中はこの上もなく静かで、深閑としていた。開いているドアの外からきこえてくる小鳥の鳴き声や蜜蜂のうなり声も、その静けさを破るというよりは、むしろその伴奏をつとめていた。ジムは、さっきアノーがひどく奇妙な笑い声をあげた場所に立っていた――それはベクス氏と一しょに立っていた階段の下と、ポーチとの丁度中間にある場所だった。しかしジムには、笑いとか興奮をひき起こすようなものは、何一つみつけることができなかった。「どうしてこんなことに今まで気がつかなかったんだろう」アノーはあの時、大声でそう叫んでいた。彼は一体何に気がついたのだろう? 注意をひくものは何一つ見当らない。テーブルが一つと椅子が一つか二つ、一方の壁には晴雨計、反対側の壁には鏡が一つかかっている――そうだ、注意をひくようなものは何一つない。
「ああ、何て男だ? 一体何に気がついたんだろう」ジムは叫んだ。「あの男は塔の頂上で何に気がついたんだろう? この広間で何に気がついたんだろう? どうしてあの男はいつも何かに気がついていなければならないんだろう?」彼は腹立ちまぎれにぐいと帽子をかぶると、大手をふって家から出ていった。
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十七 ジャン・クラデルの店
その晩の九時、ジム・フロビッシャーは切符売場の前を通って、グランド・タヴェルヌの中に入っていった。頭の上の方では、映写機が音をたててすばやく回転し、銀色をした光の刃が、暗闇を切断していた。正面にある四角いスクリーンには、明るい光があふれ、映像が次々に消えてはまた現われていた。
ジムは通路を歩いていって、左に曲りテーブルの間に入っていった。そして壁際のところにくると、ふたたび座席の一番前に向かって進んでいった。左手の方は低くなっていて、くぼんだところには、玉突き台の置いてある大きな部屋が二つあった。一人の青年が手前の方の部屋の壁にもたれて、スクリーンをじっとみつめていた。ジムはそれがモーリス・テヴネのように思われたので、通りすぎる時、かるく頭を下げた。その少しばかり先には、黒ビールを前に置いて、一人の男が腰をおろしていた――それはアノーだった。ジムはこっそりととなりの席に腰をおろした。
「あなたですか?」アノーは驚いていった。
「どうしていけないんです? この時間にはここにいるとおっしゃったじゃありませんか?」ジムは答えた。その声の中の落胆の調子が、アノーの注意をひきつけた。
「あの二人のお嬢さんがあなたを放そうとは思っていなかったんです」アノーはいった。
「それどころじゃありません」ジムは短い笑いをあげた。「ぼくなんかおはらい箱ですよ」
彼はさらに言葉をつづけようとしたが、思い直してウェイトレスを呼んだ。
「黒ビールを二つ下さい」彼はそういうと、アノーに葉巻をさし出した。
黒ビールがはこばれてくると、アノーは彼に向かっていった。
「すぐ金を払った方がいい。そうすれば、いつでもこっそり抜け出せますからね」
「今晩何かすることがあるんですか?」ジムはたずねた。
「ええ」
ジムが金を払い、ウェイトレスが黒ビールをのせてきた小さな二枚の受け皿をさかさまに伏せていってしまうまで、アノーは一言も口をひらかなかった。それから彼はジムの方にかがみこむと、低い声でささやいた。
「よくきてくれました。実は今夜こそ真相を知ることができる見込みなのです。その時はあなたにも立ちあって頂かなければなりませんからね」
ジムは自分の葉巻に火をつけた。
「だれからその真相を知るつもりなんです?」
「ジャン・クラデルからです」アノーはささやくような低い声で答えた。「もう少しして、町中が静かになったら、ガンベッタ通りにいってみましょう」
「あの男が本当のことをいうと思っていらっしゃるんですね?」
アノーはうなずいた。
「この事件では、クラデルは無罪です。あの矢の毒をとかしたことは、別に法にふれるわけではありませんからね。しかも彼は不利な立場に立っているのですから、できれば私たちの味方になりたいと思うでしょう」
では今夜、事件は片がつくにちがいない。ジム・フロビッシャーはうれしくて仕方がなかった。ベティは望み通り自由の身になり、好きな場所に住み、好きなことができるようになるだろう。そして青春を心ゆくまで楽しみ、ここ何週間かの恐怖を忘れることができるだろう。
「しかし」彼は真剣な口調でアノーにいった。「あなたの考えがまちがっていることが、今にわかると思います。つまり、もしこれが他殺だとしても、アン・アプコットはこの事件に何の関係もないのです。そうです、ぼくはそう信じています」彼はアノーを説得すると同時に、自分自身も納得させるような口調で自分の主張をくり返した。
アノーは彼のひじをつっついた。
「あまり大きな声を出さないで下さい」アノーはいった。「そこの壁にもたれている人が、光栄にも私たちに注意をはらっているようですからね」
ジムは頭をふった。
「あれはモーリス・テヴネですよ」彼はいった。
「ほほう!」アノーはほっとしたように答えた。「そうでしたか。少しばかり心配しましたよ。私は見張りをされているのかと思いました」そしてささやくような小声でつけ加えた。「私も私の考えがまちがっていることが証明されればよいと思っています。しかし、ペン皿に矢の先が入っていたことはどうなるんです? あのことを忘れてもらっては困りますよ!」そういうと彼は考えこんだ。
「あの晩、グルネル荘に何が起こっただろう?」アノーはいった。「どうしてあの晩のドアはあいていたのか? 狂暴な夫人によって身ぐるみはがれようとしていたのはだれだったのだろう? 『これでいい』とささやいたのはだれだったのだろう? アン・アプコットは果たして本当のことをいっているのだろうか? 彼女がたまたま宝物室に入る前に、何か恐ろしいことが――あの不気味なささやきで終った恐ろしいことが起こっていたのだろうか? それとも、アン・アプコットははじめから終りまでうそをついているのだろうか? あなたは今日の午後、おぼえ書のあとにいくつか疑問の点を書いていましたが、あの疑問は私も解答を得たいと思っていたものです。一体、どうしたら解答がみつかるでしょうかね?」
ジムはこれほど興奮しているアノーを見たことがなかった。彼は両手をかたくにぎりしめ、額に青筋を立て、ささやくような声ではあったが、声をふるわせていた。
「ジャン・クラデルが何か役に立つでしょう」ジムはいった。
「そうです、あの男は何かしゃべりますよ」
二人は映画の終るまでそこに坐っていた。そしてあかりがついてまた消えると、アノーはしきりに時計に眼をやっていたが、やがて困惑の身ぶりでそれをポケットにしまいこんだ。
「まだ早すぎるんですか?」ジムはたずねた。
「ええ、クラデルは雇人をやとわないで、外で食事をしているんです。まだ家にかえっていないでしょう」
十時少し前に、一人の男がぶらぶらと入ってきて、アノーのうしろのテーブルに腰をおろすと、二度火をつけずにマッチをすった。アノーはからだも動かさずに、そっとフロビッシャーにいった。
「彼は今かえってきました。私はすぐ出かけます。五分してからあなたもきて下さい」
ジムはうなずいてみせた。「どこであったらいいんです?」
「リベルテ通りをまっすぐに歩いていらっしゃい。そうすれば、私の方でいいように取りはからいましょう」アノーはいった。
彼はポケットから煙草の袋をひっぱり出すと、その中の一本を唇にくわえて、ゆっくりと火をつけた。それから立ちあがったが、その時都合のわるいことに、モーリス・テヴネが彼を認めて会釈し、彼の方に近づいてきた。
「アノーさん、フロビッシャーさんが私に会釈をされてからそこに行かれた時、あなたではないかと思っていたのです。しかし声をおかけするのもでしゃばりすぎると思いましてね」
「でしゃばるですって? 私たちは同じ仕事をやっているんですよ。ただ、あなたには若さという強みがある」アノーはふり返ると慇懃な口調でいった。
「しかし、アノーさん、これからお出かけになるんでしょう?」テヴネは困ったような顔をしてたずねた。「一人で心細かったものですから、お話に割りこむという気のきかないことをしてしまいました」
「いや、どういたしまして」アノーは答えた。アノーの忍耐力は、モーリス・テヴネの厚かましさと同様、全く非凡なものだと、ジム・フロビッシャーは考えた。「少しばかりあきあきしながら、ぼんやり映画を見ていたところです」
「では、別にお忙しくないのでしたら、一つ大目に見て頂きたいものです。ほんの少しで結構です。『アノーさんと一しょに映画を見た――そうだ、本当なんだ――それに助言も求めたんだ』そう私の友人にいってやりたいんです」
アノーはふたたび腰をおろした。
「署長さんに高く評価されているあなたが、私に何の助言を求めたいというんです?」アノーは笑いながらたずねた。
この若い田舎者のはてしのない野心は、血気さかんな青年を苦しめていた。パリに出ること――それが彼のすべてだった! 幸運、名声、はなやかな生活。アノーが何か一言いってくれれば、きっと道がひらけるにちがいない。自分はその推薦に価するよう、日夜懸命になって働くつもりだ。
「テヴネさん、私に約束できるのは、適当な時がきたら、何とかしてあげようということだけです。しかしその約束は、今心からしているつもりです」アノーは暖かくそういうと、会釈をして立ち去っていった。
「何という立派な人なんだろう!」モーリス・テヴネは熱のこもった口調でいった。「あの人に何かかくしておこうという気には、とうていなれませんね。全くです!」ジムはそれと同じような感想がもっと熱をこめて他の人の口からもれるのをきいたことがあった。「あの人がどういうつもりでフランシーヌ・ロラールにあんな芝居をやらせたのか、私にはその意図が理解できませんでした。しかし、何かちゃんと意図があったんです。そうです、たしかです。何かすばらしい意図があったにちがいありません。それに宝物室の捜査もすばらしかった! 迅速で非の打ちどころがなかった! 私たちがアプコットさんの寝室をさがしている間に、あの人は例の迅速完璧なやり方で居間の方を調べてしまったにちがいない。しかし、あの人は何もみつけなかった。何一つね」
彼はジムが自分の考えに賛成するのを待っていたが、ジムはただ「ほほう!」といっただけだった。
しかしテヴネは、それでひっこむような人間ではなかった。
「私の頭にうかんだことをいってみましょう。あの人は別に嫌疑のために追及しているわけではないのです。そうじゃありませんか? あの人は公平で何の偏見ももっていません。あの人は、いずれ一つ一つのものがぴったりとあって、最後には一つの完全な絵になるのを予期しながら、小さなことを一つ一つ拾い集めているのです。全く一つの芸術だといってもいい! 例えば、ハーロウさんがあの人に渡した手紙、私たちこの土地の者には恥辱ともいえるあのなげかわしい手紙のことですが――あの手紙のことはおぼえておいでですね?」
「ほほう!」フロビッシャーは、アノーのいつもする返事をした。「しかしこの映画もやがてめでたしめでたしで終りそうです。では失礼します」
フロビッシャーは会釈をすると、パリでの成功を夢見ているモーリス・テヴネをあとにのこして立ち去っていった。彼はギヨーム門のアーチのところに行き、それからリベルテ通りに曲っていった。
田舎町の人たちは皆早く寝てしまうらしく、昼間はあれほどにぎやかだった通りも、今はさびれはてた町の通りのようだった。二百ヤードばかり進んで行った時、アノーがひょっこりと姿を現わして彼とならんで歩き出したのには、彼も驚いた。
「あの秘書は、私がいったあと、あなたを話に引き入れていたようですね?」アノーはいった。
「モーリス・テヴネは」ジムはいった。「署長のいっているように、頭の切れる青年かも知れません。しかし率直にいえば、ずい分出すぎた男ですね。先ず第一に、あなたがアン・アプコットの居間で何かみつけたかどうか、そしてベティのうけ取った匿名の手紙に何が書いてあったか、知りたがっていました」
アノーは興味深そうにジムを見た。
「そうです、知識欲が旺盛なんですよ。あの青年はね。署長がいっている通り、いずれ出世するでしょう。だが、あなたは彼に何と答えたんですか?」
「ぼくの簡単な質問に答えたくない時、手に負えないぼくの友人がよくいうように、『ほほう!』とか『ほう!』とかいっておきました」
アノーは大声をあげて笑った。
「それはうまくやりましたね」彼はいった。「さあ、右側の横町に曲りましょう。そうすれば目的地につきます」
「待って下さい!」ジムは懸命になってささやいた。「ちょっと道を横切らないで。耳をすましてごらんなさい!」
「何もきこえませんね」アノーはいった。
「いや、それが気になるんです!」ジムはものものしく声をひそめていった。「たった今まで、後ろの方で足音がしていました。ところがぼくたちが立ちどまると、その足音も立ちどまりました。もうしばらくまっすぐに歩いてみましょう」
「わかりました」アノーはいった。
「それから、口もきかないようにしましょう」ジムは要望した。
「一言もききませんよ」アノーはいった。
彼らがふたたび歩き出すと、うしろの方でまた足音がひびいた。
「ぼくは今あなたに何ていいました?」ジムはアノーの腕をつかんでいった。
「おたがいに口をきかないようにとね」アノーは答えた。「そういっておきながら、自分で口をきいているじゃありませんか!」
「しかし、口をきかないわけに行かないじゃありませんか。ふざけたりしないで下さい」ジムは憤然として彼の腕をゆすぶった。「ぼくたちは尾行されているんですよ」
アノーはぴたりと立ちどまると、ほとほと感心したというように年下の仲間をじっとみつめた。
「ああ!」彼はささやいた。「あれに気がついたんですね? そうです。あなたのいう通りです。私たちが尾行されていないのを確認するために、私の部下の一人につけさせているんです」
フロビッシャーは憤然としてアノーの腕をふりはなし、からだをこわばらせて直立した。それから彼は、アノーの口がぴくぴく動いているのを見て、探偵が「すました顔をしよう」としているのを知った。
「さあ、ジャン・クラデルをさがしに行きましょう」アノーは笑いながらそういうと、道を横切った。二人は網の目のようになった小さなうす汚い通りを通り抜けていった。戸外には人影一つなく、家々は暗闇に包まれていた。彼らの耳に入る物音といっては、歩道になりひびく自分たちの足音と、後ろから尾行してくる男のかすかな低い足音だけだった。アノーは左に曲って短い道に入り、鎧戸をしめた小さな店の前で立ち止った。
「ここがクラデルの店です」彼は低い声でそういうと、ドアの柱についている押しボタンを押した。ベルは、羽目板のすぐ後ろでかん高い音をたてた。
「あの男が寝床に入ってしまったとすれば、少し待たなければならないでしょう」アノーはいった。「この家には雇人がいないんですからね」
一分か二分がすぎた。町中の時計が半を告げた。アノーはドアの羽目板に耳を押しつけた。しかし家の中からは、何の物音もきこえてこなかった。彼はもう一度ベルをならした。しばらくすると、二階の鎧戸がさっとひらかれ、一つの窓があいた。そして窓の後ろからだれかが小声でいった。
「だれですか?」
「警察の者だ」アノーが答えると、頭の上の窓は静かになった。
「あなたに迷惑はかけない」アノーはいらいらして声を高めた。「ちょっとききたいことがあるだけだ」
「わかりました」同じ場所からささやくような声がきこえてきた。部屋の暗闇の中に立っている男は、前の場所から動いていなかった。「待って下さい! 今、何かひっかけておりて行きます」
窓と鎧戸とはしまり、すき間から数条の光がもれてきた。アノーは満足そうに、かすかなうなり声をあげた。
「あの野郎、とうとう出てくるな。あんなに小声で用心深く返事をするところをみると、善良なディジョンの市民の中にも、あやしげな顧客がいるにちがいない」
彼はふり向くと、後甲板にいる男のように、二、三歩歩いてはまたもどってきた。この二日間、ジム・フロビッシャーは、これほどいらいらしておちつかないアノーを見たことがなかった。
「どうするわけにもいかない」彼は低い声でジムにいった。「あと五分たてば、この事件の真相にふれることができるでしょう。だれがグルネル荘から矢をもってきたかわかるでしょう」
「もし矢をもってきた者がいるとすればね」ジム・フロビッシャーはつけ加えた。
しかしアノーは、「もし」とか「あるいは」とかいったことは全然頭にないようだった。
「ああ、そんなことですか!」彼は肩を一つすくめるといった。そしてかるく額をたたいた。「その点についてはワベルスキーと同じ意見です。矢をジャン・クラデルのところにもってきたものがあると考えているのです」
彼はそういうと、またもや甲板の上を歩くように、いったりきたりしはじめた。ただ今度は歩くというよりはむしろ早足に近かった。ジムは自分の提案を冷淡にあしらわれて、少しばかりいらいらしていた。彼は今だにアノーがその捜査の出発点においてまちがっていると、かたく信じていたのである。彼はつっけんどんな口調でいった。
「もしここに矢をもってきた者があるとすれば、図書室の本棚にストロファントスに関する論文を返したのと同一人物にちがいない」
アノーはジム・フロビッシャーの前で立ちどまると、突然低い声で笑い出した。
「私はそうではないということに、世界中の金と、ハーロウ夫人の真珠のネックレスを賭けましょう。というのは、ジャン・クラデルのところに矢をもっていったのは私ではないが、本棚にあの論文を返したのは、ほかならぬこの私なんですからね」
ジムは一歩後ろにしりぞいた。彼は愕然として口をあけたままアノーをみつめた。
「あなたがですか?」彼は大声で叫んだ。
「この私です」アノーは爪先で立ちながら答えた。「ほかならぬこの私です」
次の瞬間おどけた態度はその姿を消した。彼は不意に心配そうな表情になって、鎧戸のしまっている窓を見あげた。
「あの野郎、ばかに時間がかかるな」彼はつぶやくようにいった。「別にブルゴーニュ公の舞踏会に招待しているわけでもないのに」
彼は前よりももっとあわただしい手つきでベルをならした。ベルは彼をあざけるように甲高いひびきをあげた。
「どうも面白くない」アノーはいった。
彼はドアのノッブをつかむと、羽目板に肩を押しあて、全身でぐっと押した。しかしドアは頑丈にできていてびくともしなかった。アノーは唇に指をあてると、そっと口笛を吹いた。すると、彼らのやってきた方角から、一人の男がいそいで走ってくる音がきこえてきた。その男は角のところにある街燈の光の中に入り、ふたたびそこから姿を消して、彼らの横に立った。それは、今朝アノーがジャン・クラデルの実在の有無をたしかめにやった、部下のニコラ・モローだった。
「ニコラ、ここで待っていてくれ」アノーはいった。「もしドアがあいたら、私たちを口笛で呼んで、あけたままにしておいてくれ」
「承知しました」
アノーはフロビッシャーに向かって当惑したような低い口調でいった。「何か厄介なことが起こりそうだ」彼はそういうと、店のわきのせまい路地にとびこんでいった。
「ワベルスキーが五月七日の朝、身をかくそうとしたのは、この路地にちがいない」ジムはアノーのあとをいそいで追いながらささやいた。
「たしかにその通りです」
その路地は、ガンベッタ通りと並行に走っている、一本の小道につながっていた。アノーはその小道の方に入っていった。所々今にも倒れそうな木戸のついた、高さ五フィートばかりの塀が、家々の裏庭を取り巻いていた。アノーはその塀の最初の木戸の手前で立ち止った。そして爪先で立って背伸びをすると、塀ごしにのぞきこみ、先ず下の裏庭に眼を向け、次に家の後ろを見あげた。小道に街燈は一つもなく、灯りのもれている窓もなかった。もやのない晴れた夜だったが、家々の裏手になっているこのせまい小道は、ほら穴のように暗かった。ジム・フロビッシャーは眼が暗闇になれてきたものの、十ヤードもはなれていたら、相手が動いていたとしても、認めることができないだろうと思った。ところがアノーは、依然として塀の一番上に手をかけたまま、じっと家の後ろをのぞきこんでいた。
「二階の裏窓があいているらしい」彼はささやくようにいったが、その声は前よりも一そう不安そうだった。「中に入って調べてみましょう」
彼が木戸に手をふれると、蝶番がかすかにきしんで内側にぎいとひらいた。
「あいた」アノーはいった。「音を立てないように気をつけて下さい」
二人は足音を忍ばせて裏庭を横切った。一階は低かった。ジムは頭の上の窓が大きくあけ放されているのを見ることができた。
「あなたのいう通りですね」ジムはアノーの耳にささやくようにいったが、アノーは『静かに』というように彼をつっついた。
部屋の内部はまっくらだった。二人はその下に立ってじっと耳をすました。何一つ物音はきこえなかった。アノーは家の壁に沿ってジムの手をひっぱっていった。壁がつきると、家の中に通じているドアが現われた。アノーは最初ノッブを回し、次にそっと肩で羽目板を押してみた。
「鍵はかかっていますが、表のドアのように閂はさしていないようです」彼はささやくようにいった。「それなら何とかできるでしょう」
そしてできるだけ音を立てないようにポケットから鍵の束を取り出すと、錠の上にかがみこんだが、物音は何一つたてなかった。ところが三十秒もたたないうちに、ドアはゆっくりとひらいた。眼の前に現われたのは廊下だったが、それは頭の上の部屋と同じようにまっくらだった。アノーは足音を忍ばせて廊下に入っていった。ジム・フロビッシャーも興奮のあまり胸を高鳴らせながら、そのあとにつづいた。階下の灯りのついていた部屋とその奥の暗い部屋で、一体何が起こったのだろう? どうしてジャン・クラデルは階下におりてきて、ガンベッタ通りに面しているドアをあけないのか? またどうして、ニコラ・モローの低い口笛か呼び声がきこえてこないのだろうか? アノーはジム・フロビッシャーの前を一歩さがって、ドアをしめ、もとのように鍵をかけた。
「むろん、懐中電燈なんかもってないでしょうね?」アノーはささやくようにいった。
「ええ」ジムは答えた。
「私ももっていないのです。かといってマッチはすりたくありませんしね。二階で何か恐ろしいことが起こっているようです」
二人の話している声は、ほとんどききとれないくらい低いものだった。まるで単なる空気の振動さえも、階上の部屋に何かを伝えるとでもいうような話し方だった。
「できるだけ用心深く行きましょう。私の上衣につかまって下さい」そういうと、アノーは前に進みはじめたが、数歩行くと立ち止った。
「私の右側に階段があります。階段はすぐ曲っています。最初の段につまずかないように気をつけて下さい」彼はふり向きながらそうささやいた。そしてすぐに階段の下にくると、ジムの右手をつかんだまま、手すりの上に一方の手をのせた。ジムは片方の足をあげてあたりをさぐり、階段の一番下の段をみつけると、アノーのあとからのぼっていった。彼らは、自分たちがこの家に入ってきたドアの丁度真上にある小さな踊り場で足をとめた。
ジムは、前の方にあいているドアが一つあり、ドアの向こうの向かって左側のあいている窓から、かすかな光がさしこんでいるのを知った。
アノーはドアのところを通って部屋の中に入っていった。ジムもそのあとにつづいて、すでに敷居をまたいでいた時、アノーがつまずいて叫び声をあげた。それは低い叫び声にすぎなかったが、長い沈黙のあとで突然発せられたものだったので、ジムはピストルの音でもきいたようにはっと驚いた。
しかし、それだけであとは何も起こらなかった。身動きする者も、不審の叫びをあげる者もいなかった。ジムは大声をあげて叫びたい衝動にかられた。どんなことでも、どんなに子供っぽいことでも、たとえ自分の声であっても、ともかくも何かしゃべっている声がききたかった。しかしとうとう部屋のすみの方から、アノーの声がきこえてきた。しかしジムには彼の声とは思えなかった。
「動かないで下さい! 何か――恐ろしいことが起こっている、といいましたね――おお!」そしてアノーの声は次第にため息に変っていった。
ジムには、アノーが恐ろしく用心深く動いているのがわかった。やがてジムはもう少しで金切声をあげるところだった。窓の鎧戸がゆっくりぎいと動き、部屋がふたたび闇に包まれたからである。
「だれだ?」ジムははげしい口調でささやくと、アノーの返事がきこえてきた。
「私です――アノーですよ。窓をあけても、光を外にもらしたくはありませんのでね。何かわからないが、ともかくも恐ろしいことがここで起こったようです。部屋の中に入って、後のドアをしめて下さい」
ジムは彼の言葉に従って部屋の中に入ると、部屋の反対側の床の上に、鉛筆で書いたような、まっすぐな細い一条の黄色い光が眼に入った。そこにはドアが一つあった。それは、彼ら二人がガンベッタ通りから灯のともっているのを見た表の部屋に通じているドアだった。
ジム・フロビッシャーがそのことに気がつくと時を同じくして、ドアが音をたててぱっとひらいた。そしてドアのところに、後ろの灯りを背景にして、巨大なアノーの姿がうかびあがった。
「ここには何もない」彼はポケットに両手をつっこんだまま、ドアのところに立ちふさがりながらいった。「この部屋には全然何もありません」
その部屋は、表に面しているその部屋は――全くその通りだった! しかしアノーの足の間から、裏側にあたるこの暗い部屋にかすかな光がもれてきて、床の上を照らし、にぎりしめた片手と、しわくちゃになったワイシャツのそでに包まれた二の腕を示して、ジムをぞっとさせた。
「こっちを向いて下さい」ジムはアノーに向かって叫んだ。「ほら、見て下さい!」
アノーはふり向いた。
「ええ」彼はおちつきはらっていった。「私はさっきそれにつまずいたんです」
アノーはドアの近くの壁にスイッチのあるのをみつけ、それをぱちんと下におろした。暗い部屋の中は光で一ぱいになっていた。そして床の上には、テーブルが押しのけられたり、椅子がひっくり返ったりしている混乱の光景の中で、一人の男の死体が横たわっていた。上衣はつけず、ワイシャツの上にチョッキを着ていて、海老のようにあごにひざを、頭をひざにつけんばかりにして、いかにも苦しみもだえたというように横たわっていた。一方の腕はぴったりとからだにくっつけ、もう一方の、ジムの眼にとびこんできた方の腕はぐっとのび、手は耐えがたい苦痛のあまりかたくこぶしをにぎりしめていた。そして死体のまわりには、とうてい人のからだから出たとは思えないほどの、多量の血がたまっていた。
ジムは両手で眼をおおうと、よろめきながらあとずさりをした。彼は胸がむかむかしてきた。
「では、ぼくたちのくるのを知って、自殺したんですね」彼はうめくように叫んだ。
「だれが?」アノーはおちつきはらっていった。
「ジャン・クラデルです。窓の後ろから小声でぼくたちに答えた男です」
アノーは一つの質問によってジムを茫然とさせた。
「一体、何を使ってです?」
ジムはゆっくりと眼から手をはなして、無理やりにあたりを見回した。黒っぽい絨毯の上には、どこにもナイフやピストルは見当らなかった。
「日本人みたいにハラキリをしたというんですか?」アノーはいった。「もしそうなら、ナイフがそばになければならないが、そんなものはないじゃありませんか」
彼は死体の上にかがみこむと、さわってみてまた手をひっこめた。
「まだあたたかい」彼はそういってから、あえぐように、「ほら、見てごらんなさい!」と指さしてみせた。その男は筋肉の収縮した耐えがたい苦痛を示しながら、恐ろしい格好をして横向きに倒れていた。そしてワイシャツのそでには、大きな赤いしみがにじんでいた。
「ここでナイフをふいたわけです」アノーがいった。
ジムは前の方に身をかがめた。
「たしかにそうです」彼は叫ぶようにそういったが、しばらくして恐怖の口調でつけ加えた。
「では、他殺なんですね」
アノーはうなずいてみせた。
「たしかにその通りです」
ジム・フロビッシャーは、かがんでいたからだを起こした。床の上にくずれおちているグロテスクな苦しみの象徴、恥も外聞もないあさましい死、こんなことがあり得る以上は、人間の創造に何か大変なまちがいがあったのではないかと思わせるような死体を、彼はふるえる指先で指さした。
「ジャン・クラデルでしょうか?」彼はいった。
「一つたしかめてみなくてはなりませんね」アノーは答えた。彼は表のドアに通じている階段をおり、ドアの閂をはずすと、モローを家の中によび入れた。ジムは階段の上からアノーのたずねている声をきいた。
「ジャン・クラデルの顔は知っているか?」
「はい」モローは答えた。
「では、一しょにきてくれないか」
アノーは先に立って裏の方の部屋にもどってきた。一瞬モローは、ぽかんとしたまま入口のところで立ちどまった。
「これはクラデルかね?」アノーはたずねた。
モローは前に進み出た。
「はい」
「これは他殺だ」アノーは説明した。「所轄署の警部と医者をつれてきてくれ。私たちはここで待っているから」
モローは回れ右をすると、階段をおりていった。アノーは椅子にどっかと腰をおろした。そして不機嫌そうに死体をみつめた。
「ジャン・クラデルの奴め」彼は落胆したようにいった。「もう少しで少しは世の中の役に立つところだったのに! 真相を知る助けになるところだったのに! だが、私の方にも落度があった。今夜まで待っているべきではなかった。こんなことになるのを前もって予知すべきだった」
「一体だれが殺したんでしょう?」ジム・フロビッシャーは叫んだ。
アノーは自責の念からわれにかえった。
「窓の後ろから小声で答えた男です」アノーは答えた。
ジム・フロビッシャーはそれをきいて心の動揺をおぼえた。
「まさか、そんなはずはない!」彼は叫んだ。
「どうしてです?」アノーは問い返した。「たしかにあの男にちがいありません。よく考えてごらんなさい!」そして本を読むように声に出してたしかめながら、順々に話していった。
「十時五分すぎに、私の部下の一人が少しばかり息を切らせながらいそいでグランド・タヴェルヌにやってきて、ジャン・クラデルがかえってきたことを告げたのです。それから考えると、クラデルが家にかえってきたのは十時五分前ということになります」
「そういうことになりますね」ジムも同意した。
「私たちはモーリス・テヴネに数分間ひきとめられましたね」彼は舌の先端で唇をしめしながら、静かな口調でいった。「あの控え目で、前途有望な青年には少しばかり警戒する必要があります。彼は私たちをひきとめました。私たちがこの通りで待っていた時、時計が十時半を打ったのです」
「その通りです」
「そしてその時には、すべてが終っていたのです。この家は文字通り――墓の中のように物音一つしませんでしたからね。しかも、死体がまだあたたかいところから見ると、そのすぐ直前の犯行だったにちがいありません。もしこれが――ここに横たわっているのがジャン・クラデルなら、だれかが彼のかえるのを待っていたにちがいないのです。表の通りにいた私の部下が見かけなかったのですから、裏の小道で待っていたにちがいありません。そしてそれは知りあいか友人だと思われます――ジャン・クラデルが家の中に入れて、ドアの鍵をかけているのですから」
ジムは話の腰を折った。
「その男は、この暗い部屋の中でナイフを抜いて彼を待ち伏せていたのかも知れませんね」
アノーは部屋の中を見回した。それは事務所兼居間で、安物の家具がごたごたとつめこまれていた。窓の近くにある壁には、引出しのついている大きな机が蓋のあいたままよせつけてあり、扉のしまっている飾り棚が、一方の側の大部分を占めていた。
「どうでしょうかね」アノーはいった。「たしかに、そういうこともあり得るでしょう――しかし、もしそうだとすれば、犯人はどうして長い間ここにいたんです? 何かさがした形跡はない――引出しの中を荒らした形跡もないのです」彼は飾り棚の扉をあけようとした。「これは鍵がかかったままです。いや、犯人が待っていたとは思えません。友人か顧客として中に通されたのだと思います――ジャン・クラデルには、夜の闇にまぎれて裏からやってくる顧客がかなりいたのではないでしょうか。今夜ここにきた男は、彼を殺すつもりでやってきて、機会をねらって殺したが、犯行直後に私たちのならしたベルをきいたのでしょう」アノーははげしく息を吸いこんだ。「まあ、考えてもごらんなさい! 犯人は殺したばかりの男の前に立っていた。ところが突然、かん高いベルの音が家中になりひびいたのです――『われ汝を見たり!』という神の声のようにね。考えてもごらんなさい! 彼は灯りを消すと、暗闇の中で息を殺していたのです。するとふたたびベルがなりひびいた。それに応じなければ、もっとわるいことが起こるかも知れない。彼は表の部屋に行って窓をさっとあけました。そして表のドアのところにいるのが警察の者だということを知ったのです」アノーはしぶしぶ相手をほめるように、うなずいてみせた。「しかしその男は大胆な男でした! 彼はあわてて度を失ったりはしませんでした。鎧戸をしめ、今起きたばかりのように思わせるために、電燈をつけてこの部屋に走ってもどったのです。彼は階段をつまずきながらかけおりたり、裏口のドアの錠を手さぐりしたりして、時間を浪費するようなまねはしなかった。彼はこの鎧戸をあけると、地面にとびおりたのです。それは一秒あれば充分にやれることです。次の瞬間、彼は小道に立っていました。そして次の瞬間には、無事に恐ろしい使命を終えていたのです。クラデルは永久に口をきくことはないのです」
アノーは飾り棚のところに行くと、合い鍵を使って、その扉をあけた。棚の上には、ガラスの壷が一つ二つ、蒸溜器が一つ、ごく簡単な実験器具がいくつか、さらに数個の瓶がおいてあり、他のものよりも大きな一つの瓶には、無色の液体が半分ばかり入っていた。
「アルコールですね」アノーはレッテルを指さしながらいった。
ジム・フロビッシャーは、取りちらかされた家具の位置を変えないように注意しながら、部屋の端の方を用心して歩き回った。彼はならんでいる瓶に眼を走らせたが、教授が論文の中で書いていた、うすいレモン色の溶液はどこにもみつからなかった。アノーは飾り棚の扉をしめて鍵をかけると、引出しのついた大きな机の方に用心しながら進んでいった。それは蓋があけられていて、たれ板の上には数枚の書類が散らばっていた。彼は机の前に腰をおろすと、念入りにその書類を調べはじめた。ジムも椅子に腰をおろした。アノーがジャン・クラデルに眼をつけ出したことが、どうしたものか今朝から外にもれてしまったのだ。そこでジャン・クラデルの口をふさがなければならなくなり、そのことが実行されたのである。フロビッシャーは、四月二十七日の夜、グルネル荘で殺人が行なわれたことをもはや疑うことができなくなった。事件はすべて必然的に展開して行く。事件は次々につみ重ねられて行くのだ――そしてこの新しい犯罪によって、また一つ階が重ねられたのである。そうだ、それは確実に着々と築きあげられて行く――ある人物に不利な状況は。
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十八 白い錠剤
その状況はまたたくまに測り知れないほど重大なものになってきた。アノーの口から叫びがもれた。彼はすっくと立ちあがると、机の棚にのっている緑色の笠のついたスタンドの灯をつけた。彼は今、机の小さな引出しを灯の下にもっていった。彼は細心の注意をはらって、何か小さなものをその引出しから取りあげたが、それは男性がボタン穴につけるバッジのようなものだった。彼はそれを吸取り紙の上におくと、死体のおいてある部屋の中で荒々しい笑い声をあげた。
彼はジムを手招きした。
「ここへきて見てごらんなさい!」
ジムの眼に入ったのは、鉄の柄のついた、細い、小さな逆刺《さかとげ》のついた鉄製の投げ矢だった。それがどういうものであるか、あえてきく必要はなかった。彼はその日の朝、エディンバラ大学の教授の論文の中で、それと同じものを見ていたからである。これこそ他ならぬサイモン・ハーロウの毒矢の矢尻だったのだ。
「とうとうみつけたんですね!」ジムはふるえる声でいった。
「ええ」
アノーはちょっとそれをつついてから、何か考えこみながらいった。
「ここから何千マイルもはなれている、コンベ地方で、一人の黒人が自分の小屋の外に坐り、毒草の種を打ちくだき、赤い土とまぜあわせ、新しい矢の柄に厚くべっとりと塗りつけて、敵のくるのを待っていました。しかし敵はやってきませんでした。そこで彼は、シレ河で交易している白人の友人と物々交換をするか、その友人にやってしまうかしたのです。そしてその商人はそれを本国にもってかえり、グルネル荘のサイモン・ハーロウ氏に譲ったのです。サイモン・ハーロウ氏は、それをエディンバラ大学の教授に貸し、教授は本に書いてからハーロウ氏に返したのです。そして最後には、めぐりめぐって、ディジョンの裏通りにあるジャン・クラデルの家にもちこまれ、恐るべき新たな任務を遂行することになったのです」
このように悲しげな調子で、毒矢についての説教じみた話をいつまでつづけて行くのかは、全然見当がつかなかった。その時幸いにも、階下のドアのしまる音がし、廊下でがやがやと人声がしたので、ジム・フロビッシャーはようやく彼の話から解放された。
「警部だ!」アノーはそういうと、すばやく階下におりていった。
ジムは彼が低い声でかなり長い間話をしているのを耳にしたが、それはこの事件について色々と説明しているのに相違なかった。なぜなら、彼は警部と医者をつれて二階にあがってきた時、すでにジムを知っているものとして紹介したからである。
「これがフロビッシャーさんです」アノーはいった。
ジラルド署長よりは若く、もっと元気のある警部は、ジムに向かってきびきびした態度で会釈すると、ねじくれたジャン・クラデルの死体に眼を向けた。
この警部でさえも、ちょっとした嫌悪の身ぶりを示さないではいられなかった。彼はかるく舌打ちをしてみせた。
アノーはもう一度机の方に行くと、注意深く矢尻を紙に包んだ。
「あなたのお許しを得て」彼は仰々しいいい方で警部にいった。「これは私が預っておきましょう。ちゃんと責任はもちます」彼はそれをポケットにしまいこむと、ジャン・クラデルの傍にかがみこんでいる医者の方に眼をやった。「何も口出しするつもりはありませんが、死亡診断書のうつしを一通頂けないでしょうか。恐らく何かの役に立つのではないかと思うのです。この殺人がある人間固有の方法で行なわれたことがわかるかも知れませんからね」
「アノーさん、たしかに診断書のうつしはさしあげましょう」若い警部も礼儀正しい丁重な口調で答えた。
アノーはジムの腕に手をおいた。
「さあ、邪魔になるといけません。たとえ警部さんが親切にひきとめて下さってもね。これは私たちの仕事ではありません。さあ、行きましょう!」彼はジムの先に立ってドアのところに行くと、ふり向いた。「何も口出しするつもりはありませんが」彼はくり返していった。「鎧戸や窓に犯人ののこした指紋があるかも知れません。しかし犯人は用心深いから、大して希望はもてないでしょう。もっとも、ひどくあわててにげて行きましたから、もしかしたらのこっているかも知れませんが」
警部は心から感謝の意を表した。
「鎧戸や窓枠には充分気をつけます」
「もしみつかったら、指紋のうつしの方も」アノーは遠まわしにいった。
「できるだけ早くおとどけしましょう」警部は同意した。
アノーとフロビッシャーは階段をおりて、通りに出た。近所の家々は眼をさましてはいなかった。二人の警官がドアの前に立っていた。ガンベッタ通りはまだ眠っていて、そのもっとも見苦しい家の一つで起こった犯罪には何の関心ももっていないようだった。
「私はこれから署に行きます」アノーはいった。「署には、ソファのおいてある部屋を一つもらっているんです。ホテルにかえる前に、矢尻をかたづけておきたいと思いましてね」
「では、一しょに行きましょう」ジムはいった。「あの部屋の中にいたあとで、新鮮な空気の中で、少しばかり散歩するのも気晴らしになりますから」
警察署はまちの中を一マイルばかりいったところにある、もっとましな場所にあった。アノーは足早に歩いて行ったが、やがて警察署の建物につくと、壁に金庫のはめこまれている部屋の中にジムを案内した。
「ちょっとかけて下さい。煙草でもどうぞ」彼はいった。
彼はすっかり落胆している様子だった。いつもの快活さはすっかり影をひそめていた。ジム・フロビッシャーは今になってやっと、どれほどアノーがジャン・クラデルとあうことに大きな期待をかけていたかを理解した。アノーは金庫の錠をあけると、色々な大きさの数枚の封筒とか、例の論文のうつしとか、緑色のファイルとかを、テーブルの上にもってきた。彼はジムの前に腰をおろすと、封筒をあけてその中身を一列にならべはじめたが、その時ドアがひらいて一人の警官が敬礼をして前に進み出た。彼は手に一枚の紙をもっていた。
「アノーさん、今夜九時にパリから電話で返事がありました。これがあなたのお知りになりたい会社の名前だろうということです。それはバチニョール通りにあったのですが、七年前になくなったそうです」
「なるほど、そんなことではないかと思っていた」アノーはその紙をうけ取りながら、不機嫌な口調でいった。彼はその上に書いてあることを読んだ。「うん――なるほど。これだ。たしかにこれだ」
彼はテーブルの上にある書類入れから封筒を取り出すと、その紙片をその中に入れ、封をした。ジムは彼が封筒の表に「住所」と飾り文字で書くのを見ていた。
それからアノーはもやもやした気分を示す眼でジムの顔を見た。
「これら一切のことには、何か宿命的なものがあるようだ」彼は叫んだ。「私たちは、殺人が行なわれたことや、そのやり方についてはますます確信を深めている。その動機もわかりかけてきた。しかし、だれがやったかという証拠には――本当に納得できるような証拠には、一歩も近づいていないのだ。宿命的? こんな言葉を使うなんて、私は何とばかなんだろう。私たちを袋小路に追いこみ、このアノーを愚弄するとは、全く頭のいい、大胆不敵な奴だ!」
彼は荒々しくマッチをすると、煙草に火をつけた。フロビッシャーは彼を慰めようとした。
「おっしゃる通りです。しかし、その頭のよさと大胆不敵なことから考えると、どうも一人の人間ではないようですね」
アノーは鋭い眼でちらりとフロビッシャーを見た。
「今いったことを説明してみて下さい」
「ガンベッタ通りをあとにした時から、ぼくは何度もそのことを考えてきました。もはや今では、グルネル荘でハーロウ夫人が殺されたことに疑いをもってはいません。もはや疑う余地などはないのです。しかしハーロウ夫人の殺人ということは、彼ら一味の活動の一部分にすぎないのです。そうでなければ、どうして今夜、ジャン・クラデルまで殺されたりしたんです?」
その時微笑がうかんで、一瞬アノーの顔から暗さが消えた。
「そうです。あなたもたしかに闘牛場に十分はいましたね」
「では、あなたもぼくと同じ意見なんですね?」
「そうです!」しかしアノーの顔はふたたび暗くなった。「だが、その一味を逮捕することができないのです。私たちはなすこともなく時間をつぶしていますが、もうなくす時間さえないのではないかと思うのです」アノーは突然寒けがし出したように身をふるわせた。「そうです、私は今はひどく心配しているのです。ひどく――恐いのです」
彼は一つの封筒から矢の柄の先を、ポケットから逆刺を取り出して、その二つをはめてみた。ペン先をさしたので、矢の柄の先の穴は広くなり、鉄の逆刺をさしこむにはゆるくなっていたが、さしこむ部分の長さは寸分のちがいもなかった。彼は矢をテーブルの上において、緑色のファイルをあけた。薬屋の使うような、小さな四角い封筒がジムの注意をひいた。彼はその封書を手に取った。その中には何も入っていないようだったが、さかさにしてふってみると、かたくて白い四角な錠剤がテーブルの上にころげおちた。それは埃でよごれ、緑のしみがついていた。そしてひっくり返してみると、何か角ばったものがぶつかったように、ひびのようなものがついているのに気がついた。
「一体、こんなものが、この事件と何の関係があるんです?」ジムはたずねた。
アノーはファイルから顔をあげた。そしてジムから錠剤を取りあげようと、すばやく手をのばしたが、思い直してふたたび手をひっこめた。
「色々あるかも知れませんし、またないかも知れません」彼は重々しい口調でいった。「しかしこれは興味のある品物です――この錠剤はね。明日になれば、もっと色々のことがわかってくるでしょうがね」
ジムはこの錠剤には全然おぼえがなかった。すでにこの部屋の金庫の中にしまってあったのだから、ジャン・クラデルの家で見つけたものでないことはたしかだった。それはベクス氏のいっていたマッチ箱のように、道におちていたのを拾ってきたもののようだった。さもなければ――そうだ、緑色のしみがついていたのだから――草の生えているところからだ。ジムは椅子の中できちんと坐り直した。今朝一同は皆一しょに庭にいた。アノー、ジム、ベティ、そしてアン・アプコットは。しかしここまでくると、ジムの推理ははたと行きづまった。彼の記憶力も推理力も、この錠剤と彼ら四人が大かえでの木かげですごした三十分とを結びつけて考えることはできなかった。彼にとって唯一のたしかなことは、アノーがそれにこの上もない関心をよせていることだった。ジムがその錠剤を手にして調べている間中、アノーの視線はただの一度も彼からそらされなかったからである。その視線は片時も油断なく、彼の指先や親指の些細な動作にそそがれていた。そしてやっとジムが掌を傾けて小さな封筒の中にその錠剤をもどした時、探偵はまぎれもない安堵の息をついた。
ジム・フロビッシャーは陽気な笑い声をあげた。今では彼にも、アノーという男がわかり出してきた。それで彼は、益のない質問をして、「ほう」とか「おお」とかいわせるようなまねはしなかった。彼はテーブルの上に身をかがめると、アノーがファイルからはずしておいた彼自身のメモを手に取った。そしてそれを目の前のテーブルの上におくと、前に詳しく書いておいたものに、新しく二つの質問をつけ加えた。それは次のようなものだった。
(5)パリから署に電話がかかってきて、アノーが「住所」と書いた封筒に入れたものには何が書いてあったのか?
(6)白い錠剤を拾ったのはどういうわけか? またいつ? どこで拾ったのか? そして一体それは何を意味しているのか?
またもや笑い声をあげながら、フロビッシャーはアノーにメモを投げ返した。しかしアノーは、考えこみながらゆっくりと読んでいった。「私は今夜、あなたの質問全部に答えることができると思っていました」彼は元気のない調子でいった。「ところが、ご承知のように、何もかもうまくいっていませんので、質問の方も待って頂かなくてはなりません」
アノーがメモをきちんとファイルの中にもどしている時、驚きの表情がフロビッシャーの顔に現われた。彼はファイルを指さした。
「あの電報がある!」
ファイルには、三通の匿名の手紙に一通の電報がピンでとめてあった。そのうちの二通は、アノーにパリで見せてもらったので、あとの一通は、今日の午後ベティ・ハーロウがアノーに渡したものだった。そしてその電報は二つの細長い紙片を十文字にしてつなぎあわせてあった。
「これはうちの事務所にきた電報だ。月曜日にミス・ハーロウがうちの事務所に打ってきた電報です――そうです。この前の月曜でした」
ここ何日かの間は、恐怖と安堵、興奮と疑惑、発見と失望をくり返し経験してきたので、今日がまだ金曜日の夜にすぎないこと、つい二日前の水曜までは、ベティ・ハーロウとあったことも話したこともなかったことを考えると、ジムはいいようのない驚きにおそわれた。「この電報は、あなたがこの事件を担当することになったと、ロンドンのうちの事務所に知らせてきたものです」
アノーはうなずいてみせた。
「そうです。あなたが私に渡してくれたものです」
「しかし、あなたは破ってしまったじゃありませんか」
「たしかに破りました。しかしあとで屑かごから拾ってきて、はりあわせたのです」アノーは、フロビッシャーの鋭い追求に少しもまごつくことなく、おちついて説明した。「私は秘密をもらしたことについて、ここの警察に文句をいってやるつもりだったんです。今では、これを拾っておいてよかったと思っています。私がグルネル荘にまだついていなかったあの翌朝、あなたがこの電報を私に見せたことをベティさんに話した時、あなた自身もこの電報の大事なことに気づかれたにちがいありません」
ジムは記憶をたどってみた。彼は職業柄、正確さと厳密さをひどく好んでいた。
「ベティさんが匿名の手紙によってそのニュースを知ったことは、あなたがいらしてはじめてわかったんです」彼はいった。
「いや、そんなことはどうでもいいことです」アノーは少しばかり早口で口をはさんだ。「私にとって大切なのは、事件がかたづいて、匿名の手紙に専念するひまができたら、この電報が役に立つにちがいないということなのです」
「そうですか、わかりました」ジムはいった。「わかりましたよ」彼はくり返していいながら、椅子の中で気持わるそうに姿勢を変えた。それからいったん口をひらきかけたが、またとじてしまった。そしてアノーがファイルに眼を通し、証拠書類をよく調べて、何の望みももてないことを知るまで、ジムはずっと口を切ろうか切るまいかと考えあぐんでいた。
「これでは何の手がかりもつかめない!」アノーが乱暴な口調でいった時、ジム・フロビッシャーはようやく心をきめた。
「アノーさん、あなたはぼくに思っていることを打ち明けてくれないようですが」彼は幾分あらたまった口調でいった。「ぼくは喜んであなたのお役に立つつもりです。グルネル荘の事件は別にしても、あなたは匿名の手紙という謎めいた事件の方も解決しなければならないのです。ぼくはその方であなたのお役に立てると思います。また一通、匿名の手紙がとどいたんです」
「それはいつのことです?」
「今夜、ぼくたちが夕食を食べている時です」
「だれに宛てた手紙でしたか?」
「アン・アプコットです」
「何ですって!」
アノーは叫び声をあげて椅子からすっくと立ちあがった。その顔は壁と同じくらい青白く、その眼はもえるようにジムの顔にそそがれていた。これほど思いがけない、これほど驚くべきニュースは、まだかつてなかったのだ。
「それはたしかですか?」アノーはたずねた。
「たしかです。それは夕方の配達の時にとどいたのです――ほかの郵便にまじってね。ガストンがそれらの郵便を食堂にもってきたのです。ロンドンのうちの事務所からぼく宛に一通、ベティに二通、そしてアン・アプコットに一通とどいたのです。彼女はだれからきたのだろうというように、むずかしい顔をして封を切りました。ぼくは彼女が手紙をひらくのを見ていたのです。それはいつもと同じありふれた用紙で――上の方に宛名がなく――同じようにタイプで打たれていました。彼女はそれを見ると、はっと息をとめ、それからもう一度目を通しました。そして微笑をうかべながら手紙をたたんで、かたづけてしまいました」
「微笑をうかべながら?」アノーがきき返した。
「そうです。彼女は喜んでいました。彼女の顔には血色がよみがえってきました。苦悩の色は顔から消え去ったのです」
「では、あなたには見せなかったんですね?」
「見せませんでした」
「マドモワゼル・ハーロウにも?」
「見せませんでした」
「しかし、彼女は喜んでいたんですね?」アノーには、その点が一番異様に思えるらしかった。
「彼女は何かいっていましたか?」
「ええ」ジムは答えた。「『彼はいつも正しかったのね?』といっていました」
「そんなことをいっていたんですか?『彼はいつも正しかったのね』と」アノーはゆっくりと椅子のところにもどると、石になった男のように腰をおろした。
「それから何が起こったんです?」彼はたずねた。
「夕食が終るまでは、何も起こりませんでした。夕食がすむと、アンはその手紙を手に取り、『あなたには、一人でコーヒーを飲んで頂かなければなりません』とぼくにいったベティに向かってうなずいてみせました。二人は広間を横切ってベティの部屋に行きました。つまり宝物室にいったわけです。私は少しばかりいらいらしてきました。ディジョンにきてからというもの、あう人ごとに口出ししないでおとなしくひっこんでいろといわれるんですからね。そんなわけで、グランド・タヴェルヌにあなたをさがしに出かけたのです」
「二人は例の手紙のことを相談しにいったわけですね」アノーはいった。「それで、今日の午後、あんなに悩んでいたあのお嬢さんが喜んだんですね。とすると、何か解決の方法がみつかったわけだ!」アノーはテーブルの上をじっとみつめたまま、自問自答した。「『鞭』が一度だけ親切にするだって? どうも信じられない。どうもよくわからない!」彼は立ちあがると、一、二度部屋の中をいったりきたりした。「そうだ、千軍万馬の老牛であるこの私を、アノーをめんくらわせようというのか」
彼はもはや気取ったりしてはいなかった。彼は自分がどれくらい途方にくれているかを、率直に無邪気に驚いていたのである。ところが彼は、不意に気分を変えて、テーブルのところにもどってきた。
「ところで、この不可思議な新事実の説明がつくまで、あなたの助けを借りたいのです」彼は真剣に恐縮さえしながら嘆願した。その眼や声には、ふたたび恐怖の表情が現われてきた。彼はジムの想像できないほど不安な思いにかられていたのである。「これは極めて重大なことです。あなたにお願いしたいのは――どういったらあなたにわかってもらえるでしょうか?――あなたにお願いしたいのは、できるだけグルネル荘をはなれないようにしてもらいたいのです――つまり――あのあいらしいアン・アプコットを見張って――」
彼はその申し出をそれ以上つづけるわけには行かなかった。ジム・フロビッシャーが腹立たしげに彼の言葉をさえぎったからである。
「いや、ぼくはいやです」ジムは叫んだ。「それはあなたの思いすごしです。あなたのスパイにはなりたくありません。ぼくはそんなことをするためにここにきたのではないのです。ぼくがここにきたのはぼくの依頼人のためなのです。またアン・アプコットのことですが、彼女はぼくと同国人です。彼女に不利なことで、あなたの手伝いをするわけには行きません。絶対にそんなことはできません!」
アノーはテーブルごしに、今その任務を放棄し、無条件に敗北を認めた、「年下の仲間」の怒りに紅潮した顔をみつめた。
「私は別にあなたを非難しているわけではありません」彼はおだやかな口調で答えた。「実をいうと、それ以上の返事を期待してはいなかったのです。私はいそがなければなりません。それだけです。私はひどくいそがなければならないのです!」
フロビッシャーの怒りは、肩からマントをぬぐように、彼からおちていった。彼の眼には、アノーが青白い不安そうな顔で、眼に疑う余地のない恐怖のきらめきを宿しながら、彼の方に身をのり出しているのが映った。
「ぼくにいって下さい!」ジムは憤然として叫んだ。「一度だけで結構です。率直にいって下さい! アン・アプコットは犯人なのでしょうか? いずれにしても、もちろん彼女一人でやったのではありません。たしかに仲間がいるのです。その点ではぼくたちは同じ意見でした。もちろん、ワベルスキーもその一人ですね? アン・アプコットも共犯なんですか? あなたはそう信じているんですか?」
アノーはゆっくりと証拠書類を集め出した。彼の心の中では、一つの戦いが行なわれていた。今夜の緊張は彼ら二人にかなりの影響をあたえていたので、アノーは今度だけは本当のことを打ちあけたい誘惑にかられた。そしてその誘惑は耐えがたいほどのものだった。一方、ジム・フロビッシャーの方は、アノーの中に、事実から逸脱してはならぬ、嫌疑を口に出してしまってはいけない、あくまで公平でなければならないといった、彼の職務上の一切の慣習を読みとった。アノーは出ているものを全部金庫の中にしまいこんでから、ようやくその誘惑に屈した。そしてその時でさえも、彼はあからさまにいおうとはしなかった。
「アン・アプコットのことをどう思っているか、知りたいんですね?」彼は一言一言無理にひきさかれるように、不承不承叫んだ。「明日、ノートル・ダムの聖堂にいって、その正面を見てごらんなさい。あなたがめくらででもないかぎり、ちゃんとわかるはずです」
彼がそれ以上何もいうつもりのないのは明らかだった。いや、それどころではない。彼はそれだけでもすでにしゃべりすぎたと後悔して、むっつりとフロビッシャーの前に立っていた。フロビッシャーは帽子とステッキを手に取った。
「ありがとう」彼はいった。「では、お休みなさい」
ジムがドアのところまで行くと、アノーがようやく口を切った。
「あなたは明日ひまですね。私はグルネル荘には行きません。あなたは何か予定があるんですか?」
「ええ、この近所のドライヴに誘われているんです」
「そうですか。それは結構です」アノーは気のりのしないふうに答えた。「しかし、出かける前に必ず電話して下さい。私はここにいます。何かニュースがあればお知らせしましょう。では、お休みなさい」
ジム・フロビッシャーはアノーを部屋の真中にのこして去っていった。ジムがドアをしめる前に、アノーはもはや彼のいることを忘れてしまっていた。なぜなら、彼はほとんど絶望的な口調で、何度もくり返しひとりごとをいっていたからだった。「私はいそがなければならない! ひどくいそがなければならない!」
ノートル・ダムの聖堂の正面を見るようにといったアノーの言葉を心の中で反芻しながら、フロビッシャーは、エルネスト・ルナン広場からリベルテ通りを元気よく歩いていった。忘れずにそのことをおぼえていて、朝になったら出かけてみよう。しかしその日の夜は、それで全部が終ったというわけには行かなかった。
彼がシャルル・ロベール通りの入り口にやってきた時、少しばかり後ろの方でかるいすばやい足音を耳にした――それは何かききなれた足音のように思われた。そこで彼はその通りに曲ると、歩調をおそくしてあたりを見回した。一人の背の高い男がその通りの入口をすばやく横切って、反対側の家々の間に姿を消すのが眼に入った。その男はその通りの角の街燈の下に一瞬立ち止ったが、ジムはそれがアノーにちがいないと考えた。このあたりにはホテルも貸し間もない。ここは個人の住宅地である。一体、アノーは何をさがしているのだろうか?
この新しい疑問で頭が一ぱいになり、ジムはノートル・ダムの聖堂の正面のことはすっかり忘れてしまった。そして彼がグルネル荘についた時、あるちょっとした出来事が起こって、一そう思い出す見込みがなくなったのである。彼は渡されていた鍵で家の中に入ると、ドアのわきにあるスイッチで広間の灯りをつけた。そして広間を横切って階段の下に行き、アン・アプコットのいっていたスイッチで灯りを消そうとした時、宝物室のドアがあいて、ベティがドアのところに現われた。
「まだ起きていたんですか?」彼は、半ば彼女が起きていたことを喜び、半ば彼女の眠る時間が足りなくなるのではないかと心配しながら、低い声でたずねた。
「ええ」そして彼女の顔はゆっくりとゆるみ、微笑がうかんできた。「お泊りになっているお客さまをお待ちしていたのよ」
彼女はドアをあけたまま待っていたので、彼は彼女のあとから部屋の中に入っていった。
「お顔を見せて下さらない」彼女はそういって、ジムの顔を見てから、つけ加えた。「ジム、今夜何かあったのね」
ジムはうなずいてみせた。
「一体、何があったの?」彼女はたずねた。
「ベティ、明日まで待って下さい」
ベティはもはや微笑してはいなかった。その黒いなやましげな眼からは光が消え去り、疲労と苦悩がその上をおおっていた。
「では、何か恐ろしいことが起こったのね?」彼女はささやくようにいった。
「その通りです」というジムの返事をきいて、彼女は椅子の背に片手をのばすと、からだをささえた。
「ジム、どうか今すぐ話して下さい! 話して下さるまでは、眠れそうもありません。私、とても疲れているんです!」
彼女の口調には、是非どうしてもという調子があり、その若々しい肢体にははげしい疲労の色が現われていたので、ジムは彼女の願いをききいれないわけに行かなかった。
「ベティ、では、話してあげましょう」彼はおだやかな口調でいった。「ぼくとアノーとは、今夜ジャン・クラデルをさがしに行きました。ところが、彼は死体になっていたのです。彼は殺されたのです――むごたらしくね」
ベティはうめくような声をあげると、からだをふらつかせた。ジムが抱きとめなかったら、倒れてしまうところだった。
「ベティ!」彼は叫んだ。
彼女は彼の肩に顔をうずめた。彼は心臓のあたりに、彼女の胸のふくらみを感じることができた。
「おそろしいことだわ!」彼女はうめくようにいった。「ジャン・クラデルが! 今日の朝まで、だれ一人そんな人のことをきいたこともなかったのに――それが、今ではこんなおそろしい事件に巻きこまれて――私たちと同じようにね! ああ、一体どこまでいったら終るのかしら?」
ジムは彼女を椅子に坐らせると、その傍にひざをついた。
彼女は今すすり泣いていた。彼は彼女の顔を自分の顔の方にもちあげようとした。
「ベティ!」彼はささやいた。
しかし彼女は頭をあげようとはしなかった。
「いや」彼女は窒息するような声でいった。「いやよ」彼女は一そう彼の肩に顔を押しつけ、懸命になって彼にしがみついた。
「ベティ!」彼はくり返した。「本当にかわいそうに……だが、何もかもうまくおさまりますよ。きっとうまくおさまります。おお、ベティ!」彼はそういいながら、自分の言葉の平凡さをのろった。自分はどうして彼女をなぐさめるもっと適切な言葉を思いつくことができないのだろうか?「かわいそうに」とか「何もかもうまくおさまる」とかいう、ばかげたありふれた文句よりも、もっとましな言葉を? しかし、そんなものは頭にうかんでこなかった。そしてそんな必要もなさそうだった。なぜなら、彼女の両腕が彼の首にそっと巻きつき、彼をぐっと抱きしめたからである。
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十九 計画失敗に終る
道は紙のリボンのように曲って、丘の肩を回り、浅い谷の中におりていった。向かって左の方の道から少し低くなっている、青々と草の茂った細長い低地の中を、一筋の小川が走るようにながれていた。川辺の低地の向こうには、岩石の露出した谷の壁面がそそり立ち、草は太陽にやかれて褐色になっていた。右の方には、谷の北側の壁が、ほとんど道のすぐ端のところからそそり立っていた。谷は長々とゆるやかなカーヴを描き、それが見えなくなる地点までの途中で、ドライバー用の旅行案内書には一本の点線で示されているわき道が、左の方に分岐し、一つの石橋で小川を渡り、南側の壁の割れ目の中に姿を消していた。そのわき道の向こうの方には、木々が葉を茂らせていた。
二人のりの小型車が丘の肩をものすごい勢いで回りながらおりてきた時、白いリボンのような道は、はるか彼方にちっぽけなしみのようなものが一つ見えるだけで、ほかには何も見当らなかったが、そのしみのうしろの方には、エンジンの気筒から出る煙のように、一条の砂埃がほとばしるように舞いあがっていた。
「あの車の埃の中を通り抜けたら、窒息しそうですね」ジムはいった。
「私たちも負けずに仕返しをしてやりましょうよ」ハンドルをにぎっていたベティは、肩ごしにふり返りながらいった。「だめですよ。もっとひどいことになる!」車のうしろでは、埃が煙幕のように舞いあがっていた。「だけど、私は平気よ。ジム、あなたは?」彼女は笑いながらたずねたが、その口調の中にはじめて快活なひびきをきき、ジムは心からうれしくなった。「ああ! たとえたった一時間の間でも、あの町から自由になれるなんて!」そういうと、ベティは日光と空気を思う存分吸いこんだ。「一週間ぶりの、本当に自由な時間だわ!」
フロビッシャーも黄金海岸の丘にやってきたことを喜んだ。ディジョンのまちは、その日の朝、ジャン・クラデルの殺人事件の話でもちきりだった。どの通りでも、クラデルの名前と警察に対する皮肉な言葉が、耳に入ってきた。ジムは、ガンベッタ通りへの悪夢のような訪問や、裏の部屋の床の上に横たわっていた恐ろしいねじくれた死体のことを、一刻も早く忘れてしまいたかった。
「ベティ、あなたはもうすぐ、永久にあの町から立ち去ることになるでしょう」彼は意味ありげにいった。
ベティは彼に向かってちょっと顔をしかめてみせ、片方の手を彼の袖においた。
「ジム!」彼女はそういって顔を赤くしたが、そのひょうしに車が道からそれた。「運転をしている女の子に、そんなことをいってはいけないわ」彼女は車を元のコースにもどしながら、笑っていった。「さもないと、あのオートバイの男の人と、サイドカーの女の子にぶつかるじゃないの」
「あの女の人は」ジムはいった。「実は旅行鞄だったというわけですか!」
オートバイの男は、事実、この土地のことをよく知らない旅行者らしく、岐れ道に近づくにつれてスピードをおとした。そしてそこにやってくると、ぴたりととまって車からおりた。ベティはその男の傍に車をとめると、目の前にある時計と速度計にちらりと眼をやった。
「どうなさいましたの?」彼女はたずねた。
オートバイの傍に立っていた男は、やせていて色の黒い、愛想のいい顔をした青年だった。彼はヘルメットをとると、礼儀正しく一礼した。
「奥さん、ディジョンはどっちでしょう?」彼は耳ざわりなひどい訛《なまり》でいったが、フロビッシャーにはどうしたものかどこかできいたことがあるように思われた。
「この谷のあの切れ目から、町の先端が見えます」ベティは答えた。その切れ目の丁度中央のところに、大聖堂の尖塔が細い槍のようにそそり立っていた。「でも、注意しておきますけど、その道は近道ですが、道はよくありません」
車の後ろの方に立ちこめていたものすごい埃がだんだんにうすれて行くにつれて、もう一台、オートバイの近づいてくる音がきこえてきた。
「私たちのきた道の方がいい道ですわ」彼女は言葉をつづけた。
「でも、距離はどのくらいあるんです?」その青年はたずねた。
ベティはもう一度速度計に目をやった。
「四十キロですわ。それを四十分で走ったんですから、道のいいのがおわかりになるでしょう? 私たちはきっちり十一時に出発して、今十二時二十分前なんですから」
「たしか十一時前に出発したんじゃなかったでしょうか?」ジムが口をはさんだ。
「ええ、でも町のはずれで、道具箱のひもをしめるために、一分か二分とまりました。そこを出発したのが、十一時でしたわ」
オートバイにのっている男は、自分の腕時計に眼をやった。
「なるほど、今は十二時二十分前です」彼はいった。「しかし四十キロですか? ガソリンがまにあうかな? 近道の方でないとだめかも知れませんよ」
二番目のオートバイは、海の上の霧の中から出てきたボートのように埃の中から現われると、次第に速力をおとして彼らの傍にやってきた。のっていた男はサドルからとびおりると、塵よけ眼鏡をさっと額にあげて、その話の仲間に加わった。
「あの小さな道です。国道のような具合には行きませんが。行ってみればすぐわかります。しかしそんなにわるい道ではありません。石橋のところからディジョンの市役所まで二十五分あれば行けます」
「ありがとう」その青年はいった。「では失礼します。ここで七分ばかり時間をつぶしてしまいました。それに人が待っていますから」
彼はふたたびヘルメットをかぶり、オートバイにまたがると、エンジンを入れ、五、六回爆音をたてて、谷間の中に走っていった。
二番目のオートバイの男も塵よけ眼鏡をかけた。
「奥さん、先にいらっしゃいませんか?」彼はいった。「さもないと、ぼくの埃を浴びてしまいますよ」
「ありがとう!」ベティは微笑をうかべながらいうと、クラッチを入れて車を出した。
小さな森とカーヴを一つすぎると、土地が高くなり谷は平坦になった。彼らの進んで行く道と交差して、石の里程標が南北にならんでいる幅の広い街道が走っていた。
「パリに行く道だわ」ベティは、角に木を茂らせた庭のついている、一軒の小さな旅館の前で車をとめた時にいった。彼女はその道のパリの方向に眼を向けた。「まあ、何ていい空気!」彼女はそういうと、眼をかがやかせ、甘い果物でもかむように白い丈夫そうな歯をならしながら、あこがれの思いをこめて息を吸いこんだ。
「ベティ、もうすぐです」ジムはいった。「もうほんの少しです!」
ベティは川ぞいにあるせまい庭に車をのり入れた。
「あの庭でお食事をしない?」彼女はいった。「ハサミムシとばらの中でね」
オムレツ、上手に揚げてあるやけどをするくらい熱いカツ、それから一皿のサラダと一九〇四年産のぶどう酒の一壜が、光輝に充ちたパリをいいようもなく身近なものに感じさせた。彼らは背の高い生垣のかげに腰をおろした。二人きりで木の生い茂った庭を占有し、すばらしい五月の中で陽気に笑いさざめいていると、ジム・フロビッシャーの眼の前には、驚くべき幻がゆれ開いた。
しかし、ジムが葉巻に、ベティが煙草に火をつけ、二人の前におかれている小さな茶碗からコーヒーの湯気が立ちのぼっている時、彼女によってその幻は吹きはらわれてしまった。
「ジム、実際の問題に話をうつしましょう」彼女はいった。「私、あなたにお話ししたいことがあるの」
「どうぞ、いって下さい!」彼は促した。
「アンのことなんです」彼女はあたりを見回してから、ジムの顔に視線をとめた。「あの人はここから出て行かなくてはいけません」
「にげ出すんですか!」ジムははっとして叫んだ。
「ええ、今すぐ、そしてできるだけ人目につかないように」
「そんなことうまくできるでしょうか」彼は異議をとなえた。
「うまく行きますわ」
「もしうまく行くとしても、彼女が同意するでしょうか?」
「同意しますわ」
「そうなると、自分で罪を認めることになってしまいますよ」彼はゆっくりといった。
「ジム、そうじゃありませんわ。あの人には時間が必要なんです。それだけの話ですわ。私のネックレスがみつかるまでの時間、ジャン・クラデルを殺した犯人が発見されるまでの時間ですわ。私がアノーさんについてあなたにいったことをおぼえていらっしゃるわね? アノーさんは犯人を仕立てあげなくてはならないのです。あなたは私のいうことをお信じにならないかも知れません。でも、それは本当なんです。アノーさんはパリにかえっていって、『いいか、私はディジョンから呼ばれた。そして五分間ですんだ! 私にはそれだけで充分だった! たった五分で、犯人をみつけてがんじがらめにしてやった!』といわなければならないんです。あの人は最初私を犯人に仕立てあげようとしていたのです」
「そんなことはありません」
「ジム、そうなんです。あの人は失敗したので、今度はアンをねらい出したんです。アンはにげ出さなければなりません。アノーさんは私を犯人に仕立てあげることができない以上、アンの方を犯人にしてしまうにちがいありません――そうですわ。それに証拠なんかいくらでもでっちあげられますわ」
「ベティ! アノーがそんなことをするはずはない!」フロビッシャーは異議をとなえた。
「ジム、だけど、あの人は実際にやっているんです」彼女はいった。
「いつそんなことをしたんです?」
「あのエディンバラ大学の先生の書いた毒矢の本を、あの人が図書室の本棚にもどした時ですわ」
ジムはすっかり驚いてしまった。
「彼がやったのを知っていたんですか?」
「知らないわけには行きませんわ」彼女は答えた。「あの人がいつ本棚から本を取り出したかは、はっきりわかっていました。あの人は、まるで小祈祷書のように、すみからすみまで暗記していたんです。あの人は、図版のことも、伯父の毒矢の来歴のことも、矢の毒の効果も、それをとかして作る溶液のことも、すぐその場で的確に指摘することができたのです。あの人は私たちを待っていた三十分の間に、すっかりおぼえてしまったような顔をしていました。でも、そんなこと不可能ですわ。あの人は前の日の午後、どこかであの本をみつけて、こっそりともち出し、夜おそくまでかかって読んでいたのです。それ以外にはありませんわ」
ジム・フロビッシャーはすっかり頭がこんがらがってしまった。彼は最初、アノーという人間を推測するにとどまっていた。そして色々なことがあったあと、最後に真相を知らされたのだった。ところがベティの方は、その機知によって即座に真相を見破ってしまったのだ。ジムは自分がまだ一分半ぐらいしか闘牛場に立っていないように感じた。
ベティははげしい軽蔑をこめてつけ加えた。
「あの人はすっかり暗記してしまうと、こっそりと本棚に返し、私たちを攻撃したんです」
「しかし、本を返したことは自分でも認めていますよ」ジムはゆっくりといった。
ベティははっと驚いた。
「いつそのことを認めたんです?」
「昨日の夜です。ぼくにそういったんです」ジムの答をきくと、ベティは苦々しい笑いをあげた。アノーに有利なことには、耳を傾けようともしなかったのだ。
「そうだわ。あの人はもっといいことをみつけたからですわ」
「もっといいことですって?」
「私のネックレスのなくなったことです。おお、ジム、アンはここから出て行かなくてはいけませんわ。アンがイギリスにいってしまえば、あの人たちだってつれもどすことはできないでしょう? 証拠なんか充分にないんですもの。ただ、嫌疑、嫌疑、嫌疑、それだけですわ。でも、このフランスでは事情がちがってきます。そうでしょう? あの人たちはただ嫌疑だけで逮捕し、ひとりにして次から次へと尋問することができるんです。そうです、昨日の午後も、あの玄関の広間で――ジム、おぼえているでしょ?――私、アノーさんがその場でアンを逮捕するつもりなのかと思いましたわ」
ジム・フロビッシャーはうなずいてみせた。「ぼくもそう思いました」
彼はベティの提案に少しばかりショックをうけたが、だんだんなれてくるに従って、なるほどと思われてきた。彼もアノーもベティには一言もいわなかったが、それを支持するに足る強力な証拠があったのだ。矢の柄がアン・アプコットの部屋から、矢尻がジャン・クラデルの家からそれぞれ発見されている。この二つは全くどうしようもない事実なのだ。結局、まだ時間のある今のうちに、アンはいってしまった方がいい――もしアノーが彼女を犯人だとかたく信じこんでいるならば。
「でも、アノーさんがそう思っているのは疑う余地がないわ」ベティは叫んだ。
ジムはゆっくりと答えた。
「ぼくもそう思います。ともかくもよく考えてみましょう。ぼくは昨日の夜、一つの疑いがうかんだので、率直に彼にきいてみたのです」
「あの人は返事をしたんですの?」ベティはあえぎながらたずねた。
「それが答えたような答えないような、ひどく奇妙な返事なのです」
「一体、何ていっていたんです?」
「ノートル・ダムの聖堂に行け、といっていました。そこの正面を見れば、アンが潔白であるかどうかわかるというんです」
ゆっくりと、ベティの顔からは血の気がひいていった。彼女の眼は恐怖の色をたたえて、じっと彼に向けられていた。彼女は氷の像のように坐っていた――眼だけをキラキラとかがやかせながら。
「恐ろしいことだわ」彼女は低い声でつぶやくようにいい、もう一度「恐ろしいことだわ」とくり返した。それから叫び声をあげると、さっと立ちあがった。「行ってみましょう? さあ」彼女はそういうと、車の方に走っていった。
二人にとって楽しかるべき日も、すっかり台なしになってしまった。ベティはハンドルの上にかがみこみ、眼を前方に向けて、車をもときた道に返した。しかしフロビッシャーは、車がものすごい勢いで走って行く白い道を彼女が見ているのかどうか、いぶかしく思った。丘と森から平地におりてきた時、彼女は口を切った。
「私たちはこれから見るものをそのまま信じていいでしょうね?」
「そうです」
「もしアノーさんがアンのことを潔白だと思っているのなら、何も出て行く必要はありません。もし犯人だと思っているのなら、出て行かなければなりませんわ」
「そうですね」フロビッシャーも応じた。
ベティはディジョンの街を次々に通り、大きな広場に入っていった。二つの塔の上には八角形の小さな丸屋根がつき、正面の入口の上にある涼み廊下の上にも小さな丸屋根のついている、ルネサンス式の大聖堂が姿を現わした。ベティは車をとめると、その入口にフロビッシャーを案内した。扉の上には「最後の審判」の巨大な浅浮き彫りがあり、天主は雲の中に、天使たちはラッパを吹きならし、地獄におとされた者は永遠の苦しみをうけるべく墓から立ちあがっていた。ベティもジムも、その彫刻をしばらく口もきかずにみつめていた。ジムには、この彫刻が、アノーのうそいつわりのない信念を示すにふさわしい、残酷で野蛮な作品のように思われた。
「彼のいいたかったことははっきりした」彼はいった。そして彼らは、沈んだ気持でものもいわず、グルネル荘にかえってきた。
運転手のジョルジュが車の世話をするために、車庫から出てきた。ベティは家の中にかけこむと、ジム・フロビッシャーのくるのを待っていた。
「本当にかわいそうだわ」彼女はかすれたような声でいった。「私は、私たちが何もかも全部思いちがいをしているのではないかという希望を、心の一隅に抱きつづけてきました――私のいっているのは、アンのおちいっている危険のことですわ――もちろん、アンが犯人だなどと一度だって思ったことはありません。でも、アンは出て行かなければなりません。――それはたしかなことです」
彼女はゆっくりと会談をのぼっていった。そしてジムは、いつもよりずっとおそい夕食がならべられるまで、彼女の姿を見なかった。アン・アプコットとはその日一日中一度もあわず、夕食の時も出てこなかった。ベティは九時少し前になって、図書室にいる彼のところにやってきた。
「大変おそくなりました。ジム、私たち二人だけなの」彼女は微笑をうかべながらいうと、先に立って食堂に入っていった。
夕食の間中、彼女は何かに心をうばわれ、不安でならない様子だった。彼のいう言葉にうなずきはしたが、全くうわの空で、いいかげんな返事をしたり、全然返事をしなかったりした。彼女は玄関の広間で何か物音のするのを待っていたのだが、その物音がなかなかしないのだ、フロビッシャーはそんなふうに考えた。なぜなら、彼女はおちつかない様子でたえず眼を時計に向け、ふだんひどくおちついている彼女にしては珍しく、心の動揺がだんだんはっきりとその挙動に現われてきたからである。やっと十時少し前になって、彼らは静まり返っている通りで、車の警笛の鳴る音をきいた。フロビッシャーには、車が門のすぐ前でとまったように思われた。それからすぐつづいて、ベティがあれほど熱心に耳を傾けて待っていた物音――だれかが用心深くそっとしめる、重い扉のしまる音がきこえてきた。ベティはジム・フロビッシャーにちらりとすばやい視線も投げかけたが、彼と視線があうと顔を赤らめた。数秒の後、車が動き出し、ベティは深く息を吸いこんだ。ジム・フロビッシャーはベティの方に身をかがめた。部屋の中には彼ら二人しかいなかったが、彼は驚いたように小声でいった。
「では、アン・アプコットはいってしまったんですね?」
「ええ」
「こんなに早く? では、何もかも準備しておいたんですね?」
「昨日の夜、すっかり準備ができていたんです。アンは明日の朝パリにつき、明日の夜にはイギリスについているでしょう。万事順調にはこべばね!」
不安にみちた緊張の中にありながら、ベティはジム・フロビッシャーの質問の中にただよっているごくかすかな不快の調子を敏感に感じとった。彼は二人の少女の相談の仲間からはずされ、彼女たちの準備は彼の参加なしに行なわれ、最後の瞬間になってようやく知らされただけだった――それはまるで、ジムが信用できないおしゃべりで、意見をきくなどということは時間の無駄である無能な人間にすぎないというようなものではないか。ベティはそのことに対していい訳をした。
「もちろん、あなたに助けて頂けたら、もっとよかったと思いますわ。でも、アンがそれを希望しなかったんです。彼女は、あなたは私のためにここにきているのだから、自分が高とびをする手伝いなんかさせるべきではないと、いいはったんです。彼女がそれを条件にしたので、私も譲歩しなければならなかったのです。でも今は色々手伝って頂かなくてはなりませんわ」
ジムはその言葉をきいて気持が休まった。いずれにしても彼を必要としているベティは、彼を除外して企てた計画が失敗に終るのではないかと、まだ心配しているのだ。
「手伝うって、何をやればいいんです?」
「あの映画館にいって、アノーさんをひきとめておいて頂きたいんです。明日の夜まで、アンの高とびのことが知られないようにするのが大切ですわ」
ジムはアノーが映画館で人目を忍んでいても何にもならないのを知り、思わず笑わないわけにはいかなかった。彼が夜グランド・タヴェルヌにいるということは、明らかに町中に知れ渡っているのだ。
「ええ、行きましょう」彼は答えた。「これからいってみます」
しかしアノーは、その晩いつもの場所にいなかった。そこでジムは十時半までひとりでそこに坐っていた。その時、一人の男が撞球室からぶらぶらと出てきて、ジムの後ろに立ち、眼をスクリーンの方に向けたまま、小声でささやくようにいった。
「私の方は見ないで下さい! 私はモローです。外に出ますから、あとからきて下さい」
彼はそういうと、ぶらぶらと立ち去っていった。ジムは二分ばかり待った。彼はアノーの忠告を思い出し、黒ビールがきた時にその代をはらっておいた。小さな受け皿は代をはらってあるしるしに、さかさまに伏せてあった。二分間すぎると、彼はぶらぶらと外に出、左右を見回したりしないで、駅前通りをぶらぶらとものぐさそうに歩いていった。ダルシー広場にさしかかると、ニコラ・モローがそしらぬ顔で追い抜き、リベルテ通りにそって右に向きを変えた。フロビッシャーはうかない気持で彼のあとについていった。もちろん、あのアノーをたやすくだませるというのは甘い考えだ。あの自動車はきっと停められたにちがいない。アン・アプコットは留置場にぶちこまれてしまったにちがいない! そうだ、アノーが最後にいっていた言葉は、「いそがなければならない!」ではなかったか!
モローはセヴィーヌ通りに折れ、もう一度駅前の広場にもどりかけながら、そのあたりに群がっている小さなホテルの一つにこっそりと入っていった。ロビーには人影は見えず、せまくて勾配の急な階段がそこから上の階に通じていた。モローがフロビッシャーをすぐ後ろにしたがえてその階段をのぼり、一つのドアをあけると、家の裏の方になっている、小さなうすぎたない居間が、フロビッシャーの眼の中にとびこんできた。窓はあいていたが、鎧戸は一つのこらずとざされていた。部屋の中央にあるシャンデリアが部屋の中を照らし、シャンデリアの下のテーブルでは、アノーが一枚の地図を熱心にみつめていた。
地図には赤いインクで妙なふうにしるしがついていた。柄のないテニスのラケットそっくりの一種の輪が、その上に描かれていて、底の方から一番上まで一本の不ぞろいな線が引かれ、輪を大まかに二つの半円形に分けていた。モローがジム・フロビッシャーをそこに立たせたままにしておくと、まもなくアノーが眼をあげた。
「フロビッシャーさん」アノーは恐ろしく重々しい口調でたずねた。「あのアン・アプコットが、今夜、ル・ヴェイ夫人の仮装舞踏会にいったのをご存知ですか?」
フロビッシャーはすっかり驚いてしまった。
「そうです、ご存知なかったでしょう」アノーは言葉をつづけた。彼はペンをとると、輪の底に近いところに赤い点をつけた。
ジムは驚きからさめてわれに返った。ル・ヴェイ夫人の舞踏会は、高とびの出発の地点なのだ。アンがみつからずに舞踏会につくことさえできれば、この計画もまんざらわるいものではない。庭のある邸、こんな暑い夜のことだからきっとあけ放しになっていて、うす暗い提灯がついているだけ、仮面をつけ仮装服を着て、同じような人々の群の中にまぎれこめば――彼女にとって逃亡する絶好のチャンスなのだ。だが、そのチャンスはすでに失われていた。なぜなら、アノーがふたたびペンを下において、気味のわるい口調で次のようにいったからである。
「たしか睡蓮のドレスでしたね? 今夜は、あの睡蓮のお嬢さんも、あまり楽しくは踊れないでしょう」
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二十 地図とネックレス
アノーは地図をぐるりと回すと、テーブルごしにジム・フロビッシャーの方に押しやった。
「これをどう思いますか?」ジムはその問いをきくと、椅子をひきよせてよく調べようと腰をおろした。
彼は先ず最初に、それがディジョンとその近郊の拡大地図で、赤い輪の底の方、テニスのラケットの柄の先端にディジョンの町のあるのをみつけた。その赤い輪は、だれかがディジョンを出発し、郊外をかなり大きく回って、もう一度町にもどってくる道順を示しているように思われた。しかしそれは、単にそれだけのものではなかった。例えば、輪の一番上のところから柄のところ、即ちディジョンまでのびている波状の分割線がある。また、ジムが地図の上にかがみこんでみると、輪の左側の端、ディジョンのすぐ外側に、アノーが書きこんだばかりの小さな赤い正方形のしるしがみつかった。その正方形には時間が書きこまれていた。
「午前十一時」彼は読んだ。
赤い曲線を眼で追って行くと、分割線が輪の縁に接しているところに、また別の時間が記入されていた。フロビッシャーは読んだ。
「十一時四十分」
フロビッシャーはびっくりしてアノーをみつめた。
「何ということだ!」彼はそう叫ぶと、もう一度地図の上にかがみこんだ。等高線を見てわかるように、分割線が分岐しているところは、谷の中にあった――そうだ――今ではその名前もわかった――それはテルゾンの谷だった。十一時少し前、ベティは、ディジョンの町をはずれたところにある、背後に大きな邸の立っている庭園の向かい側で車をとめると、道具箱の革ひもをしめてくれと彼にたのんだ。彼らはきっちり十一時にふたたび出発した。ベティは正確な時間に気をつけていた――そして彼らはきっちり十一時四十分に、輪の縁と分割線の接している地点、つまり輪の一番上の方、道が二つに分れてディジョンにもどるところで車をとめたのだ。
「これは、今日ぼくたちがドライヴした道だ」彼は叫んだ。「では、ぼくたちは尾行されていたんですね?」
彼は突然、もうもうたる煙の後ろからやってきて、旅行者との話の仲間に入ろうと、彼らの車のそばにとまった、二番目のオートバイの男を思い出した。
「あのオートバイの男ですね?」彼はたずねたが、ふたたび答は得られなかった。
しかし、そのオートバイの男ははじめから終りまで彼らのあとをつけていたのではなかった。かえり道、彼らは木の茂った庭で昼食を食べるために車をとめた。そこにはその男のいた様子はなかった。ジムはふたたび地図に眼をそそいだ。彼は二つの道の接している点から、谷のカーヴを回り、パリに通じている大きな国道が突っ切っている角、つまり彼らの昼食を食べたところまで、赤い線を追っていった。昼食をすましたあと、彼らは国道を通ってディジョンにもどったのだが、その赤い線の方は、国道を横切って、もっと距離の長い、明らかに交通量の少ない道を通ってもどっていた。
「アノーさん、どうして今朝、あなたに尾行されたのか、ぼくには見当がつきません」彼は少しばかり興奮して叫んだ。「しかし、こういうことはできます。尾行の効果はあまりあがらなかったとね。ぼくたちはかえりにその道は通りませんでしたよ」
「どんなふうにあなたがかえったかは、関係のないことです」アノーはおちつきはらって答えた。「円のそちら側の線は、あなたには何の関係もありません。その線のはじまるところに記入されている時間を見れば、あなたもおわかりになるでしょう」
赤い輪の底は完全にとじられてはいなかった。ラケットの柄がつぎ足されるべきところに一つだけ空間があって、そこがディジョンの町になっていた。そして右側にある線のはじまっているところに、小さいながらはっきりした数字を、フロビッシャーは読んだ。
「午前十時二十五分」
ジムは前よりも一そう困惑してしまった。
「何のことだかさっぱりわかりませんが」彼は叫ぶようにいった。
アノーは手をのばして、ペンの先でその点を指した。
「これはオートバイにのった男が出発したところです。わかれ道のところで、十一時四十分にあなたがあった男です」
「あの旅行者ですって?」ジムはきき返した。一秒前までは、これ以上わけがわからなくなるとは思ってもみなかったのである。
「サイドカーに旅行鞄をのせた男といっておいた方がいいでしょう」アノーが訂正した。「おわかりのように、この男はあなた方が出発する三十五分前にディジョンを出発しているのです。この作戦は実に巧妙に計画されていたようです。なぜならあなたはきっちり十一時四十分に、取りきめてあった場所で出あったからです。自動車もオートバイも全然待つ必要がなかったんですからね」
「作戦ですって! 取りきめてあった場所ですって!」フロビッシャーは叫ぶようにそういうと、絶望したようにあたりを見回した。「みんな頭がおかしくなったんじゃありませんか? 一体どういうわけで、サイドカーに旅行鞄なんかのせて十時二十五分にディジョンを出発し、遠回りになる田舎道を三、四十マイルも走って、まっすぐなわるい道を通ってかえってきたりしたんです? 全然無意味としか思えませんね!」
「たしかに、あなたにはわけがわからないでしょう」アノーは同意した。彼がうなずいてみせると、モローはドアを通って家の表の方に出ていった。「では、一つ教えてあげましょう」アノーは言葉をつづけた。「あなたが町はずれで道具箱の革ひもをしめ直して出発したところに、庭園を前にした大きな邸があったでしょう?」
「ええ」ジムはいった。
「あれが、今夜仮装舞踏会のひらかれるル・ヴェイ夫人の邸なのです」
「ル・ヴェイ夫人の邸ですって!」フロビッシャーはくり返した。「そこには――」彼は口をひらきかけたが、不意に口をつぐんだ。しかしアノーがつけ足した。
「そうです、今そこにアン・アプコットがいるのです。あなたはきっちり午前十一時にそこから出発しました」彼は自分の時計を見た。「まだきっちり午後十一時にはなっていない。だから彼女はまだあそこにいます」
フロビッシャーは椅子の中ではっととびあがった。アノーの地図に書いてあった赤い線の意味、そして今朝ベティが一しょにドライヴした意外な動機が、今彼にもはっきりわかってきた。
「リハーサルだったんですね」彼は叫んだ。
アノーはうなずいてみせた。「時間をはかるためのリハーサルでした」
「なるほど、主役なしでやる、芝居のリハーサルのようなものか」フロビッシャーは心の中で考えた。しかしすぐに彼は、その説明に不満をおぼえた。
「ちょっと待って下さい!」彼はいった。「どうもぼくにはよくわからないんです」
サイドカーをつけていたオートバイの男が、彼の推理を行きづまらせてしまった。その男の行動の時間は地図に記入されている。それ故に、それらの時間は重要なのである。その男は、アン・アプコットの逃亡に何の関係があるのだろうか? しかしオートバイの男とそのサイドカーを目の前に思いうかべた時、ジムはその男と事件との関係がはっきりわかってきた。例の大きな旅行鞄がジムに手がかりをあたえてくれたのだ。アン・アプコットは仮装服を身につけたまま、ル・ヴェイ夫人の邸を立ち去るにちがいない。グルネル荘にかえって行くようなふりをして――荷物など全然持たずに。そんな格好をしていたら、あやしまれたり人目をひいたりしないで、パリに着くことはまず不可能である。オートバイの男はテルゾンの谷で彼女とおちあい、彼女の荷物を手早く彼女の車にうつし、自分はまっすぐな近道を通ってディジョンにかえって行く。一方彼女の方は谷のはずれで道を折れてパリに向かう。ジムは、オートバイと自動車が出あってから別れるまでに七分間かかったのを思い出した。そうしてみると、荷物のつみかえに七分間を計算に入れてあったのだ。すると、また別の推理が不意に頭にひらめいた。ベティはこの計画について、何一つ彼に話さなかった。自由の身になった最初の時間を楽しむ、単なる夏の日のドライヴだとばかり、ジムは思いこんでいたのだった。彼女がだまっていたのは、彼を陰謀にひきこむまいとする、ベティとアン・アプコットの決心のあらわれに他ならなかったのだ。一つ一つの部分が、絵あわせパズルの一枚一枚のように、ぴったりと符合する。そうだ、あれは時間をはかるリハーサルだったのだ。そしてアノーは、それについて何もかも知っていたのだ!
この計画そのものからうけた驚きを克服した時、第一にフロビッシャーを圧倒したのは、確信の動揺だった。アノーは知っていた! それなのにベティは、アンの逃亡にあれほど望みをかけていたのだ。
「彼女を行かしてやって下さい!」彼は懸命になって嘆願した。「アン・アプコットをパリからイギリスに逃がしてやって下さい!」その言葉をきくと、アノーはかすかなため息をついて椅子の背にもたれかかった。その時、彼の顔には不意に恐ろしく奇妙な微笑がうかんだ。
「なるほど」彼はいった。
「ぼくにはわかっています」フロビッシャーは熱心にうったえるような調子で叫んだ。「あなたは警視庁の方ですが、ぼくは一介の弁護士で、イギリス高等法院の一員にすぎません。ですから、こんなお願いをする権利などはないのです。しかしぼくは遠慮などしません。あなたは、アン・アプコットに対する有罪の証拠をつかんではいないのです。そんなものをつかむ見込みはないのです。それなのにあなたは、彼女がにげることのできないように、嫌疑の網をはりめぐらしたのです。そんなことをしていると、彼女を破滅させてしまいます――そうです――あなたにできるのはそれだけですよ」
「ずい分熱心ですね」アノーが口をはさんだ。
ジムは、友人を助けようとしているベティの熱望によって、自分が懸命に嘆願しているのだということは説明できなかった。彼は裁判にでもなったら、スキャンダルがひろまって大変だという口実で、がまんした。
「ボリス・ワベルスキーのおかげで、もうすっかり知れ渡っています」彼は言葉をつづけた。「ベティさんは色々と心を痛めているのです。ろくな結果にならない裁判で、どういうわけで彼女は証人席に立って、彼女の友人に不利な証言をしなければならないんです? アノーさん、あなたによく考えて頂きたいのはそこなんです。ぼくにも少しは刑事裁判の経験があるのです」おお、ハズリット氏の口調に似てきてしまった! あの礼儀作法のやかましい人がこの場にいて、フロビッシャー・ハズリット法律事務所に加えられたこの汚名を、憤然としてぬぐい去ってくれたらどんなによかっただろう! 「それに、どんな陪審員にしても、そんな証言で宣告をすることなどできません。それはたしかです。真珠のネックレスだってまだみつからないじゃありませんか――これからだって絶対にみつからないでしょう。アノーさん、ぼくが保証しますよ! 絶対にみつかりゃしませんよ!」
アノーはテーブルの引出しをあけると、イギリスの一流製造業者がその製品に使っている、煙草百本入りの杉材でできた小さな箱を取り出した。彼はそれをテーブルごしにジムの方に押しやった。煙草より固い感じのものが、その中で音をたてた。ジムはあわててそれをつかんだ。ジムは、アン・アプコットが破滅してしまうなら、ネックレスなどみつからない方がいい、とベティが思っていると確信していた。彼はその箱のふたをあけた。中には脱脂綿が一ぱいつまっていた。彼はその脱脂綿の中から一連の真珠を取り出した。それは大きさも申し分なく、ピンクの光沢をおびて柔らかくきらめき、素人のジムにもいいようもなく美しく見えた。
「マッチ箱の中でみつけたのなら、もっと具合がよかったでしょうがね」アノーはいった。「しかし、ベクスさんには、マッチと煙草は似たようなものだといってやりましょう」
ジムがすっかりがっかりしてネックレスをみつめている時、次の部屋に通じているドアをモローが向こう側からノックした。アノーはもう一度自分の時計を見た。
「そうだ、もう十一時だ。私たちもでかけなければならない。ル・ヴェイ夫人の邸から、すでに車は出発した」
「車はまだ出発していないんじゃないでしょうか」ジムは突然希望をかけていった。「偶然の事故ということもありますし、運転手がおくれることだってあるでしょう。どんなことが起こるかもわからないじゃありませんか!」
「あれほど念を入れて想をねり、あれほど細かいリハーサルまでした計画が? いや、そんなはずはありません」
アノーは壁際の飾り棚から自動拳銃を取り出して、ポケットに入れた。
「ネックレスをあんなふうにテーブルの引出しに入れたまま出かけるんですか?」ジムはたずねた。「先ずあれを警察にもって行くべきですね」
「この部屋には見張りがいないわけではないのです」アノーは答えた。「あんなふうにしておいて安全なのです」
ジムは希望をかけて、別の議論をもち出してみた。
「わかれ道でアン・アプコットを待ち伏せするには、もうおそいじゃありませんか」彼は主張した。「あなたのいわれるように、十一時を――それも大分すぎています。それに昼間オートバイで三十五分かかるなら、夜自動車で五十分はかかります。特に道がわるいとすればね」
「わかれ道でアン・アプコットを待ち伏せするつもりはありません」アノーは答えた。彼は地図をきちんとたたむと、それを炉の上の飾り棚の上においた。
「いいですか、私は大きな危険を冒そうと思っているのです」彼はおだやかな口調でいった。「だが、それをやめるわけには行きません。それに――いや! 私がまちがっているはずはない!」しかし、炉の上の飾り棚からふり向いた時、彼の顔にはいいようのない不安が宿っていた。彼の心には、ジムをみつめている時、全然別のことがうかんだようだった。
「ところで」アノーは口を切った。「ノートル・ダムの正面は見ましたか?」
ジムはうなずいてみせた。
「『最後の審判』の浅浮き彫りですね。ぼくたちは見に行きました。あなたの思っていることを現わしているにしても、少しばかり残酷だと思いました」
アノーは床をじっとみつめたまま、しばらく何もいわなかった。やがて彼は静かに口を切った。
「それは残念です」そして一つの質問をつけ加えた。「あなたは今、『ぼくたち』といいましたね?」
「それは、ぼくとベティさんのことです」ジムは説明した。
「ああ、そうですか――なるほどね。私もそれを考えに入れておくべきでした」その時、またもや荒々しい叫びが彼の唇からもれてきた。「たしかにそれにちがいない! そうだ、私がまちがっているはずはない――ともかくも、今になって考えを変えるにはおそすぎる」
またもやモローがとなり部屋に通じているドアをこつこつ叩いた。アノーはさっと油断なく身がまえた。
「おお、そうだ」彼はいった。「フロビッシャーさん、帽子とステッキをお取りなさい! よろしい! 用意はできましたか?」そういうと部屋はとたんにまっくらになった。
アノーは隣室に通じているドアをあけ、彼らは表の部屋に入っていた――それは、駅前の大きな広場を見渡す寝室だった。その部屋もまっくらだった。しかし鎧戸は開いていて、広場にある街燈やその角にあるグランド・タヴェルヌからの光が、壁のあちこちにまだらを描いていた。三人はたがいに相手の顔を見ることはできたが、ジムには、うす暗がりの中でのこりの二人の顔が幽霊のように青白く見えた。
「私が最初にノックした時、ドーネイが位置につきました」モローがいった。「そして今、パテイノが彼と一しょになりました」
モローは広場ごしに駅の建物を指さしてみせた。数台のタクシーがパリに行く列車を待っていたが、その前で工員風の身なりをした二人の男が話をしていた。一方の男はつれのさし出す煙草から火をつけていた。部屋の中からじっと見守っていた三人の眼には、その煙草の先が赤く光っているのが見えた。
「途中にはだれも居りません」モローはいった。「さあ、出かけましょう」そういうと彼は向きを変え、旅館を出るために階段に向かって歩き出した。ジムもそのあとを追って歩きはじめた。これからどこに行こうとしているのか、ジムには皆目わからなかった。推測さえもできなかった。彼はただひどく心をなやませていた。ワベルスキー事件を迅速かつ完全に隠蔽してしまいたいという、彼とベティの希望は、どうやら失敗に終ったようだった。そこで彼は、アノーの手が腕におかれ、彼をおしとどめた時も、一向に気が引き立たなかった。
「フロビッシャーさん、おわかりだと思います」アノーは威厳のあるもの静かな調子でいった。彼の眼は暗闇の中で間断なく光り、その顔は異様に青白くかがやいていた。「今、フランスの法律が命じているのです。勤務中の警官に何かいったりしたりして、その職務をさまたげてはなりません。しかしその代り、あなたの望んでいるものをお約束しましょう。たとえだれであろうと、単なる嫌疑だけで逮捕されるなどということはありません。あなた自身の眼で、私のすることをよくたしかめて下さい」
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二十一 秘密の家
暗い晴れ渡った夜で、空気はよどんでいてあたたかく、空には無数の星がかがやいていた。少人数の一行は、裏通りやせまい路地を通って町の中に入っていった。ドーネイが先頭に立ち、パテイノは三十ヤードばかりはなれてしんがりをつとめ、モローは通りの向こう側を歩いていった。ひとたび駅前の広場の灯をあとにすると、灯りを消した家々のとざされた扉や暗い玄関がつづいた。フロビッシャーの心臓は早鐘のように高鳴っていた。彼はすぐあとからスパイでもつけていはしまいかと、眼と耳を緊張させていた。しかし、どの家の玄関にも人のひそんでいる形跡はなく、尾行してくるかすかな足音もきこえなかった。
「こんな夜には」彼はできるだけ自分をおちつかせようと努めたが、その声はかすかなふるえをおびていた。「四分の一マイルぐらい先からでも敷石の上の足音はきこえるものですが、何もきこえてきませんね。それにしても、もし一味がいるのなら、ぼくたちを見張っていないはずはないでしょう」
アノーはそれに対して異議をとなえた。「今夜はアリバイを作らなければならないのです」彼は声をひそめながら答えた。「申し分のない文句のつけようのないアリバイをね。仕事にとりかかっていない連中は全部公然と人前に出るのに忙しく、仕事にとりかかっている連中は、私たちがどのくらい彼らの秘密に近づいているか知ってはいないのです」
彼らはせまい通りに曲り、左側を歩いていった。
「私たちはどこにいるかわかりますか?」アノーはたずねた。「わかりませんか? 私たちはグルネル荘の近くにいるんです。左側の家なみの向こう側が、シャルル・ロベール通りなのです」
ジム・フロビッシャーは不意にぴたりと足をとめた。
「そうすると、昨夜署でお別れしたあと、あなたのいらしたのはここだったんですね」彼は叫んだ。
「ほほう、では私に気がついたんですか!」アノーは平然とおちつきはらって答えた。
通りの向こう側は、家並みが高い塀で中断され、その塀には二つの大きな木製の扉がついていた。塀の内側の、中庭の奥の方には、かなり大きな建物の階上と屋根とが、星空に向かって鋭くそびえていた。
アノーはその建物を指さしてみせた。
「あの家を見て下さい! ラヴィアール夫人は、離婚が整うのを待っている間、あそこに住んでいたのです。あれのもち主はグルネル荘と同じです。彼女はサイモン・ハーロウと結婚したあとも、あそこを人に貸そうとはせず、二人の恋の聖堂として、そのまま保存しておいたのです――ともかくも、妙にロマンティックな夫婦ですからね。しかし、あそこには、ほかにももっと色々なロマンスがあったのです。それ以来、あそこにはだれも住んでいません」
ジム・フロビッシャーは心臓のあたりに寒気のようなものをおぼえた。アノーが自信にみちた足どりで自分を導いて行く目的地は、この家なのか? ジムは門と建物に視線を向けた。ドアのペンキははげ、どの窓にも灯影は見えず、夜見ても長い間手も入れずに朽ちるにまかせていたことがわかる。
しかし、この通りにもまだ起きている人があった。なぜなら、彼らの頭の真上で、恐ろしく用心深く窓があげられると、ささやくような声が彼らのところまでただよってきたからである。
「だれもまだ姿を現わしません」
アノーはそのささやきをきいた様子も見せなかった。彼は依然として歩きつづけていたが、フロビッシャーに向かって話しかけた。
「おききの通り、あの家にはまだだれもいません」
通りの端まで行くと、不意にドーネイが姿を消した。アノーとフロビッシャーは、モローをすぐ前に立たせて道を横切り、家と家との間の通路を右に曲っていった。
その通路をこえると、彼らはもう一度右に曲って、高い塀と塀の間のせまい小道にはいっていった。そして三十ヤードばかり行くと、右側の塀の上に、葉の茂っている木々の枝が、フロビッシャーの眼に入ってきた。彼らはラヴィアール夫人がかつて住み恋に酔った邸の庭の裏の方に出たのだった。
アノーはジム・フロビッシャーの腕を強くにぎって、全然身動きができないようにした。パテイノもドーネイと同じように音もなく姿を消していた。のこされた三人の男は、暗闇の中に立ったまま耳を澄ました。アン・アプコットは、暗闇の中でかがみこんでいた顔にさわった時の恐怖を、グルネル荘の庭で話したが、その時の言葉が今彼の心によみがえってきた。その言葉をアンの口からきいた時、彼はそんなものはうそだと思っていた。しかし今、その非難は撤回しなければならなかった。なぜなら、彼自身も、自分の心臓の鼓動がディジョン中の人の眼をさまさせてしまうような気持にかられていたからである。
彼らは一分間ばかりのあいだ、身動きもせずに立っていた。それからアノーが手でさわると、ニコラ・モローが身をかがめた。彼の手のひらが木材の上をすべり、そのすぐあとで錠に鍵をさしこんで回す、ごく小さなカチリという音が、フロビッシャーの耳に入ってきた。塀の扉の一つが音もなくひらき、かすかな光が小道にさしこんできた。三人は、雑草が生い茂り、芝生がのび放題にのび、潅木が一面に生えている庭の中に入っていった。モローは後ろの扉をしめると、錠をかけた。錠をかけている時、ちょうど町中の時計が半を打った。
アノーはフロビッシャーの耳もとでささやいた。
「奴らはまだテルゾンの谷についていません。さあ、行きましょう!」
彼らは芝生や雑草の上をそっと歩きながら、邸の裏手に向かって進んだ。所々かびの生えている短い石段がテラスから庭につづき、テラスの奥には鎧戸のしまった窓がならんでいた。ところがその家の隅の方の、庭と同じ高さのところに、一つ扉があった。もう一度モローが身をかがめると、もう一度扉が音もなく内側にひらいた。しかし庭の扉をあけたときはかすかな光がさしこんできたのに、この扉は地獄のような暗闇に向かってひらいていた。ジム・フロビッシャーは思わずしりごみしたが、それは生理的な恐怖によるものではなく、その扉から出てくる時は、同じからだに同じ衣服をつけてはいても、また別の人間になっているのではないかという、ぞっとするような恐怖をおぼえたからだった。彼は心臓が不意にとまってしまったように感じた。その時、アノーが彼を静かに通路の方に押しやった。扉は彼らの後ろでしまり、ほとんどききとれないような音をたてて、扉に錠がかけられた。
「耳を澄ましてごらんなさい!」アノーは鋭くささやいた。彼の熟練した耳が、頭の上に物音をかぎつけたのだ。フロビッシャーもすぐその音に気がついた。それは規則的な、間断のない、ごくかすかな物音だったが、まっくらな人の住んでいない家の中では恐ろしく気味わるく思われた。ジムにもだんだんにそれが何の音かわかってきた。
「あれは時計のチクタクいう音だ」彼は声を殺しながらいった。
「そうです! 空家の中で時計がチクタク音をたてている!」アノーは答えた。彼の返事はささやくというよりは息をもらしたというような感じだったが、ジムにききまちがえることのできない、奇妙な感動のひびきを含んでいた。猟人が野獣の足跡をかぎ出したのだ。まもなく向こうから獲物が姿を現わすにちがいない。
その時突然、一筋の光が通路に沿ってきらめき、短い階段とその一番上の右側にあるドアを照らし出し、また消えた。アノーは懐中電灯をこっそりポケットの中にしまうと、モローの横を通りすぎ、先頭に立って進んだ。階段の一番上にあるドアが、蝶番をはっとさせるようにきしませて開いた。フロビッシャーはぎょっとして歩みを止めたが、何がそんなに恐ろしかったのか自分でもよくわからなかった。ふたたび一筋の光がひらめき、今度はさぐるようにあたりを照らした。三人は自分たちが板石を敷いた広間にいるのに気がついた。
アノーは広間を横切ると、懐中電燈を消して、一つのドアをあけた。蝶番の上でぶらぶらしているこわれた鎧戸のおかげで、彼らの眼には、暗がりの中にのびている一つの回廊がぼんやりと見えた。窓からさしこんでくるかすかな光で、家の裏手にある部屋に通じている、背の高い両開きのドアが眼に入ってきた。アノーは足音を忍ばせて床板の上を歩いて行き、羽目板に耳をつけた。少しばかりして、彼は安心したようだった。彼の手はドアのノッブにかかり、一つのドアが音もなくあいた。そしてその時、懐中電燈がふたたび光を放った。その光が、高い天井や、赤い絹の紋織りのどっしりしたカーテンをおろした高い窓をかすめると、フロビッシャーはこの部屋がふだん使われているらしいのを知り、驚いてしまった。一切のものは整頓され、きれいにしてあった。家具はみがきあげ、充分に手入れがしてあった。花瓶の中には、切ったばかりの花が入れられ、芳香があたりにただよっていた。そしてチクタク音をたてていた時計は、大理石のマントルピースの上に置かれていた。
部屋には、軽快でエレガントな家具が備えつけてあったが、暖炉の近くにあるくぼみに置いてある、どっしりした寄木細工の、両開きの扉のついている見事な戸棚だけは例外だった。今では電気がつくようになっている、鏡と金めっきの枠のついていた枝つき燭台が、何枚かの水彩画と一しょに、壁にとりつけられていた。キラキラ光っているシャンデリアが天井からさがり、窓のそばには帝政時代風の書き物机がおかれ、暖炉の向かい側の壁のところには、ふかふかしたクッションのついた長椅子があった。懐中電燈の灯りが消えるまでの間に、フロビッシャーはそれだけのものを眼にとめた。アノーはふたたびその部屋のドアをしめた。
「私たちはあの窓のまわりの朝顔形のところにかくれましょう」アノーは、彼らがもう一度長い回廊に出た時、ささやくようにいった。「あの鎧戸はぶらぶらしていますから、灯りで照らされる心配はないでしょう。だから、音をたてないように注意しながら、見張っていましょう」
彼らはこわれた鎧戸のついている窓のわきの暗がりの中で、それぞれの部署についた。彼らは、中庭と、その先端の塀についている大きな馬車用の扉をぼんやりと見ることができた。そして彼らは待った。
少しするとアノーが彼の袖をつかみ、だんだんに力を入れてきた。ジムは発作におそわれた人間のように、じっと身動きもせずに立っていたが、アノーもはげしい興奮のうずに巻きこまれていた。なぜなら、中庭の大きな扉の一つが音もたてずに開いたからである。それはほんの少し開くと、ふたたび音もなくとざされた。ところが、だれかがこっそりと忍び込んでいた――それは、大きな扉の中央にもっと黒っぽいしみのようなものが見えなかったらジムが妄想だと思ったほど、ぼんやりした、すばやい、物音をたてない人影だった。ほんの一分ばかり前までだれもいなかった場所に、だれかが立っていたのだ。回廊で見張りをしている三人と同じようにじっと静かにして、いや、そのうちの一人よりはもっとじっと、だれかが立っていたのだ。なぜなら、アノーは不意に爪先立ちで歩いて、一番暗いところに行くと、しゃがんでポケットから時計をひっぱり出したからだった。彼はそのまわりを上着でぴったりとおおい、一瞬の間、懐中電燈でその文字盤をさっと照らした。時間は十二時五分すぎだった。
「いよいよ時間です」彼はこっそりともとの場所にもどりながらささやいた。「では、耳を澄ましていて下さい!」
一分経った。さらにもう一分経った。フロビッシャーは、写真屋にじっとしていろといわれるとふるえ出す人のように、自分がふるえているのに気がついた。今にも倒れてしまいそうだった。その時、遠くの方から物音がきこえ、彼の神経はたちまちしゃんとなってきた。それはオートバイの音で、だんだんに高くなってきた。彼はアノーが彼のわきでからだをこわばらせているのを感じた。そうか、やはりアノーの考えていたことは正しかったのだ! その確信はジムの心の中で深まっていった。自分には何のことだか全然わからなかった時、アノーは最初からはっきりとわかっていたのだ。しかしアノーには何がわかっていたのか? フロビッシャーには依然としてその問いに答えることができなかった。だがいろいろと推測をめぐらしているうちに、深い安堵の思いがこみあげてきた。なぜなら、さっきのオートバイの音が全く消えてしまったからだった。あのオートバイは近くの通りを走り抜け、郊外に向かっていってしまったにちがいない。もはやかすかなエンジンのひびきもきこえてこなかった。深夜の旅行者はディジョンの町を一またぎで通り抜けてしまったのだ。突然ほっとしたので、ジムは星を恥じ入らせるようなライトをかがやかせながら、何マイルもの道をたちまちあとに、オートバイをとばす旅行者の姿を思い描いてみた。その時突然、その楽しい光景は彼の眼の前から消え去り、彼は心臓がとびあがるくらいはっとした。なぜなら、馬車用の大扉の一方が前よりも広く開いてふたたびしまり、サイドカーのついたオートバイが中庭に入ってきたからである。のっていた男は、百ヤード以上もはなれた別の通りでクラッチをはずし、エンジンをとめていたのだった。道の角を曲って中庭に入ってくるのには、その余勢だけで充分すぎるほどだった。扉をしめた男が、オートバイをおりた男の傍に近よってきた。彼らは二人がかりでサイドカーから何かをもちあげると、それを地面に置いた。見張りの男がふたたび扉をあけると、オートバイの男は、オートバイを押して外に出、扉はしめられ、鍵が回された。言葉は一言も交されず、余計な動きも見られなかった。それはすべてわずか数秒の間に行なわれたのだった。男が門のそばで待っていると、しばらくしてほかの通りからオートバイのエンジンの音がまたもやひびいてきた。その男の仕事はそれで終ったのだ。
ジム・フロビッシャーは、アノーがその男を立ち去らせてしまったのを不思議に思った。ところがアノーは、あとにのこされた男と、暗い塀の下の地面に置いてある大きな包みにじっと視線を向けていた。男はその包みの方に近よると、身をかがめ、ひどく重そうにそれをもちあげ、両腕にかかえてさっと立ちあがった。それは不格好な、長い、重そうなものだった。回廊の中で見張っている三人の男にはそれだけしか見えなかった。
中庭にいる男は、音一つ立てずにドアの方に近づいてきた。アノーはこわれた鎧戸のついている窓のところから二人を後ろにさがらせた。彼らの動作はすばやかったが、もう少しでうす明りの中に姿を現わすところだった。荷物をもった侵入者はすでに回廊に立っていた。表のドアに掛け金のかかっていなかったのは明らかだった。それはちょっと押しただけですぐあいたからである。侵入者は、アノーがその一方をあけた両開きのドアの方に、物音一つたてずに近づいた。彼がその前に立ち、片方の足で押すと、ドアは両方とも内側に向かって開いた。彼は部屋の中に姿を消した。ところが一瞬、かすかなぼんやりした光がその男を照らし出し、その男がだれであるかはわからなかったが、三人ともその男のもっているのが重そうなズックの袋であることがわかった。
今度こそは、いずれにしても、アノーは行動を開始するだろう、フロビッシャーはそう考えた。しかし、アノーは動かなかった。彼ら三人には男のいる気配は感じられたが、その足音はききとれなかった。それは彼の着ているものが家具にさわったかすかな気配にすぎなかった。それから、彼がふかふかした寝椅子の上に荷物をおろしたような、柔らかなほとんどききとれないような音がきこえた。そしてその男はふたたびドアのところに姿を現わしたが、その腕の中には何もなく、帽子を目深にかぶっていた。そして顔と思われるあたりがぼんやりと白かった。しかし、あたりが暗かったにもかかわらず、眼のキラキラ光っているのがわかった。
「さあ、今だ」フロビッシャーは、アノーが暗がりからおどり出て、その侵入者を地面にたたきつけてくれることを期待しながら、心の中でつぶやいた。
しかしアノーは、この男も立ち去らせてしまった。男は二つのドアを一しょにひき、ふたたびドアをしめると、足音を忍ばせて回廊を出ていった。外のドアのしまる音はきこえなかったが、何か金属製の物が、びっくりするほど大きな音を家の中の石畳の上でたてた。ジム・フロビッシャーは、表のドアに錠がかけられ、その鍵が郵便うけから落されたのがわかった。三人の男は窓のところに足音を忍ばせてもどった。彼らは侵入者が中庭を横切り、馬車用の扉の一方をあけ、あたりをのぞきこむようにしてから立ち去って行くのを見た。またもや鍵が石畳の上で音をたてた。大きな扉の鍵を、下から押しこむかけるかして、中庭の中に返したのである。その時、町中の時計が不意に十五分を告げた。フロビッシャーが驚いたことには、時間は十二時十五分だった。オートバイにのった男が門にのり入れてから、まだ五分しか経っていないのだ。そしてまたもや、三人以外には邸の中にだれもいなくなってしまった。
しかし、実際、だれもいないのだろうか?
なぜなら、その時アノーが、足音を忍ばせて部屋のドアの方に歩いて行き、それをあけると、そのまっくらな部屋の中から、何か生き物が窮屈そうに動いているような、かすかな物音がきこえてきたからである。ジム・フロビッシャーのすぐそばで、アノーが安堵の吐息をもらした。何かアノーのあまり望んでいないことが起こったが、彼が確信しているこの上なく恐ろしいことはまだ起こっていないようだった。その吐息のすぐあと、かん高い大きなカチリという音がし、バネがはずれて、閂が引き抜かれた。アノーはさっとドアに身をよせ、彼ら三人は後ろにしりぞいた。どうしたわけか、だれかがこの部屋の中に入り、こっそりと動き回っているのだ。彼らのかくれている廊下の一隅から、彼ら三人は両開きのドアがゆっくりと内側にひらくのを見ることができた。だれかが敷居の上に姿を現わし、耳を澄ましてじっと立っていたが、少しして回廊を横切り窓の方に進んでいった。それは若い女性だった――その頭とほっそりした頸の輪郭から彼らはそういう判断を下すことができたのである。三人の驚いたことには、また一つの人影がとぶように彼女の傍に近づいてきた。二人は窓から中庭の方をのぞきこむようにして見た。中庭には深夜の来訪者がきて去った形跡もなければ、これからくるという気配もなかった。二人のうちの一人がささやくようにいった。「鍵を!」
すると、もう一方の背の低い方が足音を忍ばせて広間に入って行き、郵便受けからおとされた鍵を手にしてもどってきた。二人のうちの背の高い方は声をあげて笑ったが、小鳥のさえずりを思わせる、明るい楽しそうなそのひびきは、ジム・フロビッシャーにとって瞬時もききちがえることのできないものだった。鍵を手にもって、この暗いかくれ家の窓のところに立ち、計画はすべてうまくいったと話している若い女性は、他ならぬベティ・ハーロウであったのだ。物音のしない回廊で快活なひびきをたてている、あの明るい楽しげな笑い声ほど、邪悪で不穏なひびきを、ジム・フロビッシャーは今まで想像してみたこともなかった。
「これは何かもっともな理由があるにちがいない」ジムはそう自分に向かっていってみたが、彼の心は恐怖の中に沈んでいた。あの笑い声はどんな恐ろしい事件の前兆なのであろうか?
窓のところにいた二つの人影は、回廊を横切ってかるやかにとぶようにもどってきた。もはやこれ以上警戒する必要はない、とでも思ったようだった。
「フランシーヌ、ドアをしめて」ベティは普段の声でいった。そしてドアがしまると、部屋の中に電燈がついた。しかし長いこと使われていなかったので、ドアがゆがみ、二枚の扉はぴったりとはしまらず、金の光の線が一筋、棒のようにもれていた。
「さあ、仕事にとりかかりましょう」ベティが叫んだ。「仕事にとりかかりましょう」そして彼女はもう一度笑った。その笑い声に乗じて、三人の男は足音を忍ばせて前に進み出、中をのぞきこんだ。モローはひざをつき、フロビッシャーは彼の上に身をかがめ、アノーは彼ら二人の後ろに全身をのばしたまま。
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二十二 コロナ・タイプライター
探偵の手が静かにフロビッシャーの肩にかかり、何もいわないように警告したが、その警告は明らかに必要なものだった。大きなガラスのシャンデリアのきらめきは、キラキラする宝石のかがやきのようだった。枝つき燭台についている鏡は、ろうそくの形をしたランプを何倍にも増し、そのはなやいだ小さな部屋はもえあがるばかりだった。そのまばゆい光の中で、ベティは笑いながら立っていた。白い肩を黒いビロードのほっそりしたイヴニングからのぞかせ、入念に結いあげられた銅色の髪の毛から黒いサテンの靴にいたるまで、彼女はひどくきちんとした身なりをし、長椅子の上に置いてある口をとじた袋に向かって、心からうれしそうに笑っていた。その袋は海岸に打ちあげられた魚のように、グロテスクにぴくぴくしたりばたばた動いたりしていた。だれかがあの中にとじこめられているのだ。ジム・フロビッシャーには、それがだれであるか疑問の余地はなかった。そして、ベティの陽気な笑い声ほど、血も涙もない残酷なものはないように思われた。彼女は頭を後ろにのけぞらせていたが、ジムの眼には、彼女のほっそりした白い喉が動き、肩がかがやきながらゆれるのが見えた。彼女はぞっとするような喜びを面に現わしながら、手をたたいた。それを耳にした瞬間、何ものかがジム・フロビッシャーの胸の中で死に絶えた。それは自分の心の中であったろうか、彼はいぶかしく思った。しかしベティ・ハーロウの笑うのも、これが最後になるにちがいない。
「フランシーヌ、外に出してもいいわ」ベティはそういうと、フランシーヌが鋏で袋の端を切っている間、背を向けて書き物机の前に坐り、引出しの錠をあけた。袋の端が切られ床の上に投げ出されると、アン・アプコットがキラキラ輝く舞踏服をきたまま、後手にしばられ、足首を残酷にもしばりつけられて、長椅子の上に横たわっている姿が眼に入った。髪の毛は乱れ、顔は紅潮し、完全に茫然としている様子だった。彼女は胸を波打たせながら、深く息を吸いこんだ。しかししばらくは、今自分の置かれている状態に気がつかないようだった。そして視線をフランシーヌに向け、次いでベティの背にうつしたが、相手がだれだが認めた様子はなかった。彼女は両方の手首を少しばかりねじったが、それも全く本能的なものにすぎなかった。それから彼女は、眼をとじてじっと動かなくなった。あまりにもじっと動かないので、息をしていなかったら、ドアのところから見ている三人には、生きているのがほとんど信じられなかったにちがいない。
一方ベティの方は、あけた引出しの中から、先ず最初に淡黄色の液体を取り出し、次にモロッコ革の小さなケースを取り出した。そしてそのケースの中から皮下注射器と針を取りあげると、注射器に針を取りつけた。
「アンの準備はできた?」ベティは瓶の栓を抜きながらたずねた。
「お嬢さま、すっかりできています」フランシーヌは答えた。彼女はくすくす笑い出したが、話をしながら捕えられた女に眼を向けると、はっとしてあえぎながら口をつぐんだ。というのは、アンが恐ろしく奇妙な、まごつかせるような眼でまっすぐにじっと彼女をみつめていたからである。フランシーヌだということがわかっていたのか、わかっていても、それを認めたいと思わなかったのか、その辺はよくわからなかった。しかしアンの視線は少しもひるまず、じっとみつめられると本当に恐ろしかったので、フランシーヌは突然かん高いヒステリックな叫びをあげた。
「私をそんなにじっと見ないで」彼女はからだをふるわせながらつけ加えた。「お嬢さま、とても恐いんです! お嬢さまが部屋の中を歩き回るのを、死んだ人が見張ってるみたいですわ」
ベティが好奇心にかられて長椅子の方に向きを変えると、アンの視線も彼女の方にふらふらと向けられた。アンの意識を取りもどすには、このように視線を交わすだけでことたりたようだった。なぜなら、ベティがふたたび瓶から注射器に液体をみたし出すと、アン・アプコットの顔に困惑の表情がしのびよってきたからである。アンはきちんと坐ろうとしたが、それが不可能なことに気づき、手首をしばってあるひもをひきちぎろうとした。そして長椅子の上で足をばたつかせた。苦しみのうめき声が彼女の唇からもれ、それと一しょに意識がもどってきた。
「ベティ!」彼女がささやくようにいうと、ベティは用意のできた注射器を手にしてふり向いた。ベティは何もいわなかったが、その顔が言葉の代りに物語っていた。彼女の上唇は少しばかりひきつり、歯がのぞき、その大きな眼には、ドアの外にいるジム・フロビッシャーをぞっとさせるような表情がうかんでいた。前にも一度、彼はこれと同じ表情を見たことがあった――それはアノーの実験のためにベティがハーロウ夫人のベッドに横になり、彼がアン・アプコットと一しょに宝物室をぶらぶら歩いている時のことだった。その時彼には何のことだかわからなかったが、今では疑いようのないほどはっきりしていた。それは殺意を示していた。そして、アン・アプコットもそのことを認めたようだった。どうすることもできなかったが、彼女は長椅子の上でしりごみしようとした。そして恐怖におそわれどもりながら、何か恐ろしいつかれたような眼つきで、じっとベティをみつめた。
「ベティ! あなたが私をここにつれてきたのね! あなたがル・ヴェイ夫人のところに行かせたのね――計画的に。おお! では、あの手紙は! あの匿名の手紙は!」――そして新しい考えがアンの頭にひらめくと、新しい恐怖が彼女におそいかかった。「あなたがあの手紙を書いたのね! ベティ、あなたが! あなたが――あの『鞭』だったのね!」
彼女はそういうと、ぐったりしてまたひもを解こうと空しく身をもがいた。ベティは椅子から立ちあがると、彼女の方に近づいていった。その手には注射器がキラキラと輝いていた。不幸な囚人は、それに眼をとめた。
「それは何?」彼女はそう叫ぶと、大声で絶叫した。彼女のうけた恐怖はあまりにもはげしかったので、異常な力がわいてきたのだ。彼女はともかくも体を起こすと、足を床につけた。そしてふらつきながらも、ともかくまっすぐに立ちあがった。
「あなたは私を――」彼女はそういいかけたが、不意に口をつぐんだ。「ああ、だめよ! そんなことだめだわ!」
ベティは一方の手をのばしてアンの肩の上に置くと、復讐の味をかみしめるように、しばらくそのまま手を置いていた。
「暗闇の中であなたの顔のすぐ上までかがみこんだのは、だれの顔だった?」ベティはぞっとするような静かな声でたずねた。「アン、だれの顔だった? あててごらんなさい!」彼女はふらふらしている囚人を、その静かな声と同じようなぞっとするやさしさでゆすった。「あなたはおしゃべりしすぎるわ。アン、あなたの舌は危険だわ。アン、あなたは好奇心が強すぎるんだわ! 昨日の夜、時計を手にもって宝物室の中で何をしていたの? え? 返事ができないの? このかわいいおばかさん」それからベティの声に変化が生じた。依然として低い静かな声だったが、憎悪が、深い、心の底からの憎悪がしのびこんできた。
「アン、それにあなたは私の邪魔をしてきたわ。そうだわ、おたがいにそのことはよくわかっているわね!」その時、アノーの手がフロビッシャーの肩の上をぎゅっとつかんだ。ここにベティの憎悪の他ならぬ鍵と説明があったのだ。アン・アプコットはあまりにも多くのことを知りすぎていた。彼女はさらにそれ以上を知ろうとしていた。そしていつ何時、一切の真相を知ってしまうかも知れない。そうだ! アン・アプコットがいなくなってしまえば、狼狽してにげ出したように思われ、自分で罪を認めたことになってしまう――それは疑う余地がない! しかしこのような考えにもまさって、ベティ・ハーロウの心の中に位置を占めていたのは、自分の恋敵を直ちに罰して亡きものにしてしまおうという決意だった。
「この一週間というもの、あなたは私の邪魔ばかりしてきたわ!」彼女はいった。「アン、これがその報いよ。そうよ。あなたの手や足をしばらせてここにつれてこさせたのは、この私だわ。睡蓮さん!」彼女は、優美なキラキラかがやくフロックを着、白い絹の靴下と繻子の上靴をはいて、恐怖のあまりふらふらしている犠牲者に眼をそそいだ。「アン、十五分よ! あのばかな探偵がいってた通りだわ! 十五分! 矢の毒がからだに回るのはそれだけで充分なのよ!」
アンの眼は大きく見開かれた。血が彼女の青白い顔にさっとのぼり、また引いてしまうと、その顔は前よりも一そう青白くなった。
「矢の毒ですって!」彼女は叫んだ。「ベティ! では、あれはあなただったのね! ああ!」彼女は前に倒れそうになったが、ベティがかるく肩を押すと、長椅子の上にあお向けに倒れた。ベティがあの恥ずべき事件の犯人――自分を養ってくれた伯母を殺した犯人――であるとは、今この瞬間まで一瞬たりとも考えたことなどなかったのだ。そして今ではほんの僅かの希望さえのこされていないことをはっきりと知ったのである。アンは不意にわっと声をあげて泣き出した。
ベティ・ハーロウはアンの傍の長椅子の上に腰をおろすと、残酷きわまりない喜びにひたりながら、好奇の眼でつくづくとアンをみつめた。アンのすすり泣きは、彼女の耳には快い音楽のようにひびいたにちがいない。彼女はその音楽をやめさせようとはしなかった。
「アン、あなたは一晩中まっくらなこの部屋の中に横になっているのよ。たった一人でね」彼女はアンの上にかがみこみながら、低い声でいった。「明日になれば、エスピノーザがあなたを台所の敷石の下にうめてくれるわ。だけど今夜は、このまま横になっているのよ。さあ!」
彼女はアン・アプコットの上にかがみこむと、片手でアンの腕の肉をつまみ、もう一方の手で注射針を前に出した。ところがその時、フランシーヌ・ロラールが鋭い金切り声をあげた。
「見て下さい」彼女はそう叫ぶと、ドアの方を指さした。見るとドアがあいていて、アノーが敷居の上に立っていた。
その叫びをきくと、ベティは眼をあげたが、その顔からは血の気が引いていた。彼女は蝋人形のように腰をおろしたまま、あいているドアのあたりをみつめていたが、一瞬の後、稲妻のようなすばやさで、針を自分の腕につきさし、注射器の中をからにした。
フロビッシャーは恐怖の叫び声をあげると、とめようと前に突進したが、アノーの手荒い手で押しもどされた。
「邪魔をしないようにと、注意しておいたはずです」彼は荒々しい口調でいったが、ジムはそんな口調をきいたのははじめてだった。そしてベティ・ハーロウは注射器を寝椅子の上におとし、針はそこから床の上にころげおちた。
ベティはかかとをあわせ、両手を左右にひろげてさっと立ちあがった。
「アノーさん、十五分間よ」彼女は虚勢をはって叫んだ。「私、あなたになんかつかまりゃしないわ」
アノーは声をあげて笑うと、軽蔑するように人さし指をふってみせた。
「お嬢さん、色のついた水では死ねませんよ」
ベティはふらふらしかけたが、からだをしゃんとささえた。
「アノーさん、私をおどかそうっていうの!」彼女はいった。
「今にわかりますよ」
アノーの自信にあふれた口調がベティに確信させた。彼女はとぶように部屋を横切ると、書き物机のところにいった。彼女の動作はすばやかった、彼女のくる前にアノーがすでにそこにとんできていた。
「ああ、それはだめだ!」アノーは叫んだ。「それは全然別だ!」彼は彼女の手首をぐっとつかんだ。「モロー!」彼はそう叫ぶと、フランシーヌの方をあごでしゃくってみせた。「それからフロビッシャーさん、そちらのお嬢さんのひもをほどいてあげて下さい!」
モローはフランシーヌ・ロラールを部屋からひきずり出すと、一つの部屋にとじこめた。ジムは大きな鋏をさっと手に取ると、アンの手首や足首のひもを切って自由にしてやった。ジムはそうしている時、アノーが書き物机の前にある椅子を広い場所にほうり投げたことや、もがいていたベティがやがておとなしく静かになったことや、アノーがベティを椅子の中に押しこみ、ジムが床の上に落したひもの一つをひったくったことなどに気がついた。ジムが自分の仕事をやり終えた時、ベティは両手に手錠をかけられ、両方の足首を椅子の脚の一つにしばりつけられて坐り、アノーは血の出ている手の傷をハンカチでおさえているところだった。罠にかかった野獣のようにベティがアノーにかみついたのだった。
「そうです、お嬢さん、あなたにはじめておあいした朝、あなたは私にいいましたね」アノーは残忍な皮肉をこめていった。「手首にものをつけるのが大きらいだから、腕時計はつけていないと。どうも失礼しました。私は忘れていたんです!」
彼は書き物机のところにもどると、引出しの中に片手をつっこみ、小さなボール紙の箱を取り出して、そのふたをあけた。
「五つある!」彼はいった。「そうだ、五つある!」
彼は箱を手にして部屋を横切り、死人のような顔をして壁の方を向いて立っているフロビッシャーの方に歩いていった。
「ごらんなさい!」
箱の中には五つの白い錠剤があった。
「六錠目がどこにあるかはわかっています。むしろどこにあったかわかっていたといった方がいい。今日それを分析させたからです。それは青酸カリだったのです。この一つをカリカリとかんでごらんなさい――十五分? とんでもない! ほんの一瞬です! それで一切が終りなのです!」
フロビッシャーは前にかがむと、アノーの耳もとにささやいた。「彼女の手のとどくところに置いて下さい!」
ジムが最初本能的に考えたのは、ベティの自殺をさまたげようということだった。ところが今、彼は彼女が自殺してくれればいいと考えていた。そしてその願いがあまりにも懸命なものだったので、アノーの眼も深い憐憫の情で和らいできた。
「それはいけません」アノーはおだやかな口調でいうと、モローの方を向いた。「グルネル荘の角で辻馬車が待っている」モローはそれをさがしにいった。アノーは頭を下げ体をふるわせながら、長椅子に腰をおろしているアン・アプコットの方に近づいていった。
「お嬢さん」彼は彼女の前に立っていった。「私はあなたに事情を説明して、お許しを頂かなくてはなりません。私は最初から――そうです、ほんの一瞬の間もね――あなたがハーロウ夫人の殺人犯人だとは思っていませんでした。またあなたが真珠のネックレスにさわったことなどないことは、はっきりわかっていました――ネックレスがみつかるずっと前に、私は一目で確信したのです。庭であなたのいわれたことも、一語一語全部信じていました。しかし私は、あえてそれをあなたに示そうとしなかったのです。なぜなら、あなたが犯人であるにちがいないと思いこんでいるふりをすることによってのみ、この一週間、グルネル荘であなたをまもることができたんですからね」
「アノーさん、ありがとうございました」彼女は微笑しようと力なく努めながらいった。
「しかし、今夜のことについては、あなたにおわびしなければなりません」彼は言葉をつづけた。「全くお恥ずかしい次第です。あなたがベティの思いやりのあるご慈悲をうけるために、ここにつれもどされることは、私にはよくわかっていました。そして、そんなご慈悲をうけないですむことをたしかめるために、私はここにやってきたのです。しかし私は、今までこんなに扱いにくい事件に出くわしたことはありません。これほど有罪であることがはっきりしていながら、法廷にもち出す証拠は皆無に等しいのです。今夜この部屋で必ずみつかるにちがいないと信じていた証拠を私は何とかつかまなければならなかったんです。だが、あなたがこんな残酷な目にあうと少しでもわかっていたら、そんな証拠などもちろん犠牲にしていたでしょう。どうか、私を許して下さい」
アン・アプコットは片手をさし出した。
「アノーさん」彼女は素直に答えた。「でも、もしあなたがおいでにならなかったら、私は今生きていることはできなかったでしょう。私は定められたように、この暗闇の中にひとりで身を横たえ、エスピノーザと――彼の鋤を待っていたにちがいありません」彼女の声はかすれ、はげしく身をふるわせた。
「そんなつまらないことは忘れてしまわなければなりません」アノーはやさしくいった。「前にもあなたにいったように、あなたには若さがあります。少し時間がたてば――」
その時、ニコラ・モローがもどってきて、アノーの言葉を中断させた。モローは警官二人とジラルド署長を伴っていた。
「フランシーヌ・ロラールは捕えてあるんだろうね?」アノーはたずねた。
「おききの通りです」モローは機械的な口調で答えた。
その時、廊下の方でさわがしい物音が起こり、足をひきずる音と、女の甲高いののしりの叫びが起こったが、やがて静かになった。
「ここにいるお嬢さんの方は、大して手数をかけないだろう」アノーはいった。
ベティは不機嫌な顔をして顔をそむけ、何やらききとれないような言葉をぶつぶつつぶやきながら、からだをまるくちぢこませるようにして椅子に坐っていた。彼女はジム・フロビッシャーが部屋の中に入ってきて以来、一度も彼の方を見なかったし、今も見ようとしなかった。
モローは身をかがめると、彼女の足首のひもをほどいた。そして大柄な一人の警官が彼女を立ちあがらせた。ところが彼女はひざががくがくして、立つことができなかった。体力も気力もすっかりつきはててしまったのだ。警官が子供でも扱うように彼女を立ちあがらせ、ドアの方に歩き出した時、ジム・フロビッシャーはその前に立ちはだかった。
「待って下さい!」彼は力強いひびきわたるような声でいった。「アノーさん、あなたはたった今、アンさんの話は何もかも信じているといいましたね」
「たしかにその通りです」
「では、ハーロウ夫人は四月二十七日の夜、十時半に殺されたと信じているんですね。ベティは十時半にド・プイアック夫人のダンス・パーティにいっていたんですよ! だから釈放してやらなくてはいけません」
アノーはそのことについて何もいおうとはしなかった。
「それでは、今夜のことはどうなんです?」彼はたずねた。「どうか、わきにどいて下さい!」
ジムは少しばかりそこを動こうとしなかったが、やがてわきにひっこんだ。彼は眼をつぶったまま立っていたが、ベティがつれ去られる時、彼の顔にいいようのない苦しみの表情がうかんでいたので、アノーはあまり器用ではなかったが、なぐさめの言葉をかけようとした。
「フロビッシャーさん、あなたはとても辛かったでしょう」彼は口を切った。
「最初から何もかも打ち明けてくれればよかったんです!」ジムは勢いよく一気に叫んだ。
「もし打ち明けていたら、あなたは私のいったことを信じたでしょうか?」アノーの言葉をきいて、ジムも口をつぐんでしまった。「実をいうと、フロビッシャーさん、今になって思うのですが、自分の権限をこえる大きな危険を冒して、あなたの思っている以上に色々のことをお話ししたんですよ」
アノーはそういうと、モローの方に顔を向けた。
「みんながいってしまったら、庭の扉と家のドアに錠をおろして、鍵を私のところにもってきてくれ」
ジラルド署長は、溶液や皮下注射器や青酸カリの錠剤やひもなどを、一まとめにした。
「ここに大事なものがあります」アノーはそういうと書き物机の上にかがみこみ、蓋の平らな、四角い、黒い色をしたケースを取りあげた。「これが何だかわかりますね」彼はそれを署長の手に渡しながら、ジムに向かっていった。それはコロナ・タイプライターのケースだったが、その重さから考えると、中身が入っているのは明らかだった。
「そうです」アノーは署長が出ていってドアがしまると、説明した。「この美しい部屋は、あのいまわしい手紙を作る仕事場だったのです。ここで情報はその使いみちによって整理され、ここで手紙がタイプに打たれ、ここからそれが出されたのです」
「脅迫状ですね!」ジムは叫んだ。「金を要求する脅迫状ですね!」
「中にはそういうものもありました」アノーは答えた。
「しかしベティ・ハーロウには金があったじゃありませんか。必要な金は充分にあったはずです。そして、ほしいといいさえすれば、もっともらえたじゃありませんか」
「必要な金は充分にあったですって?」アノーは頭をふりながら答えた。「とんでもない。恐喝者というものはね、いくらあっても充分だとは思わないものです。だれだって恐喝されただけ金を出すわけじゃありませんからね」
フロビッシャーは突然、つじつまのあわない激怒におそわれた。彼とアノーは、この犯罪に関係している一味がいることで意見が一致していた。ベティはそのうちの一人だったろう。そうだ、一味の首であったかも知れない。だが、それならば、ほかの者はみんな何の罰もうけないのか?
「ほかにもまだいます」彼は大声で叫んだ。「あのオートバイにのっていた男は――」
「あれはエスピノーザの弟です」アノーは答えた。「あなたは、テルゾンの谷のわかれ道のところで車をとめた時、彼のなまりに気がつきませんでしたか? あの男は二度とオートバイにのることはできなかったでしょう。二度とね!」
「では――あの袋をはこんできた男は?」
「モーリス・テヴネです」アノーはいった。「あの有望な若い新人ですよ。あの男は今留置場にいます。あの男の出世の道をひらくために、口をきいてやることもとうとうできなくなりました」
「では、エスピノーザ自身は――明日ここにくることになっていたあの男は――」彼はアンに視線を向けながら、突然口をつぐんだ。
「そして、ジャン・クラデルを殺したあの男は? そういうつもりでしょう?」アノーがそのあとをひきとった。「あれはばかな男です! 一体どういうわけで、カタロニアのナイフをカタロニア人風に使ったりしたんでしょう?」アノーは自分の時計に眼をやった。「これで全部終りました。エスピノーザも逮捕されているにちがいありません。その他にも、あなたの知らない連中が何人かいます。今夜は網を広く張りめぐらしてありますからね。心配する必要はありません!」
モローはいくつかの鍵を手にしてもどってくると、それをアノーの手に渡した。アノーはそれをポケットにしまいこむと、アン・アプコットの方に歩いていった。
「お嬢さん、今夜は色々質問したりするつもりはありません。しかし明日にでも、ル・ヴェイ夫人のダンスパーティにいった理由を話して下さい。あなたが高とびするつもりだったということになっているようですが、それはもちろん事実ではありません。明日本当の理由を話して下さい。それからそこで何が起こったかも話して下さい」
アンはその夜のことを思い出して身をふるわせたが、おだやかな口調で答えた。
「ええ、何もかもお話しします」
「結構です。では、行きましょう」アノーは元気よくいった。
「行くですって?」アン・アプコットは不思議そうにたずねた。「あなたは私たちをみんなここにとじこめてしまったじゃありませんか」
アノーは笑った。彼はアンを驚かすちょっとした材料をもっていたのである。彼は自分で考え出したものであるかぎり、人を驚かせるのが大好きだったのだ。
「フロビッシャーさんは真相を推測していたにちがいないと、私は思っています。お嬢さん、今私たちのいるブレビザール館は、直線距離で行くとグルネル荘のすぐそばにあるんです。その間には、一列の家なみ、シャルル・ロベール通りの家なみがあるだけなのです。この邸は、ルイ十五世の時代に国会議長をやっていた、政界の大立物エチエンヌ・ブーシャール・ド・グルネルによって建てられたのです。そして彼は、お嬢さん――ここが大事なところなのですが――グルネル荘も同時に建てたのです。彼はこの邸を建てると、その名を取ってこの邸の名にした、領地のある美しい女性――マダム・ド・ブレビザールという女性をここに住まわせたのです。彼とその女性との間には何のスキャンダルもありませんでした。なぜなら、国会議長は一度もマダム・ブレビザールのところを訪問しなかったからです。そしてそれにはもっともな理由があったのです。当時は秘密の通路がさかんに作られていた時代で、彼もこの邸とグルネル荘の間に秘密の通路を作らせていたのです」
フロビッシャーははっと驚いた。アノーは、自分のもっていない機敏さをジムがもっていると認めていた。そのジム・フロビッシャーでさえ、今夜の出来事で心も頭も一ぱいになっていたのである。色々なことが次々と矢つぎ早に起こって、ゆっくりと考えているひまなどほとんどなかったのだ。「一体どうやってそれをみつけたんです?」ジムはたずねた。
「いずれあなたにもわかるでしょう。今のところは事実だけでがまんしておきましょう」アノーは言葉をつづけた。「エチエンヌ・ド・グルネルの死んだあと、何代かたつと、この通路の秘密は忘れられていました。恐らくすっかり荒れはて、自然にふさがってしまったにちがいありません。いずれにしても、十八世紀の終りにブレビザール館はグルネル荘の所有者とは別の人間のものになったのです。ところが、サイモン・ハーロウはその秘密をみつけ出し、ブレビザール館を買いもどし、通路をもと通りに修理して、昔エチエンヌ・ド・グルネルのやったと同じ目的に使用したのです。つまり、ラヴィアール夫人は、夫が死んで自由の身になり、サイモンと結婚するまで何年かの間、ここにきて住んでいたのですから。さあ、私の講義は終りです。これからいってみましょう」
彼は講演者が聴衆に向かってするように、アンに向かって低く頭をさげると、壁のくぼみに置いてある大きなブール細工の飾り棚の左右にひらく二枚の扉のかけ金をはずした。足もとをふらつかせながら立っていたアンの口から驚きの叫びがもれた。飾り棚の中は何もなかった。その中には棚一つなく、床がななめにもちあげられ、厚い壁の中をくり抜いて一つの階段が下の方に走っているのが眼に入った。
「さあ」アノーは懐中電燈を取り出しながら口を切った。「フロビッシャーさん、これをもってお嬢さんと先にいってくれませんか。私は電燈を消して後ろから行きます」
ところがアンは顔をちょっとしかめて、すばやくさっと身を後ろにひいた。彼女は片手でアノーの袖をつかむと、それで体をささえた。「私、あなたと一しょに行きます」彼女はいった。「私、まだ足がふらふらするんです」
彼女は自分のことを笑いにまぎらわせたが、二人の男にはその意味がよくわかっていた。ジム・フロビッシャーは彼女を犯人――窃盗と殺人の犯人だと思っていた。彼女はそういう彼をさけて、自分が無罪であることを信じていた男の方に助けを求めたのである。そしてそれだけではなかった。彼女はジムに疑われたことによって、ほかのだれから受けるよりも深い傷を心に負っていたのだった。ジムはわかったというしるしにうなずいてみせ、懐中電燈をつけて、せまい階段を五、六段おりていった。彼のあとからモローがつづいた。
「お嬢さん、いいですか、では!」アノーはいった。
彼は片方の腕を回して彼女をささえ、飾り棚のあいている扉のそばにあるスイッチを押し上げた。部屋の中は不意にまっくらになった。懐中電燈の光に導かれながら、彼らはフロビッシャーのあとから階段に足をかけた。アノーは飾り棚の扉をしめると、閂をかけた。
「前進」アノーは叫んだ。「お嬢さん、石段につまずかないように気をつけて下さい」
アノーの頭が最初の段の少し下にきた時、彼はフロビッシャーを呼びとめ、懐中電燈を上に向けるようにといった。それからアノーは飾り棚の床板をもと通りに直し、床板の下にぶらさがっている落し戸をあげ、きちんと閂をかけた。
「では、行きましょう」
それから十段ほどおりると、小さな丸天井のついた部屋にやってきた。そしてそこから、煉瓦でできた通路が暗闇の中に通じていた。フロビッシャーはまた別の階段の下に達するまで、先に立ってその通路を進んでいった。
「この階段はどこに通じていると思いますか?」アノーはフロビッシャーに向かってたずねたが、その声はこの地下道の中で、奇妙にうつろなひびきをたてた。「一つ教えてくれませんか」
ジムは、自分とアンとベティがかぐわしい庭の暗がりの中に腰をおろしていた時、アンの眼が大かえでの暗い茂みのあたりをあちこちとさがしていたのを思い出し、すぐさま返事をした。
「グルネル荘の庭だと思います」
アノーはくすくす笑った。
「では、お嬢さん、あなたはどう思います?」
それをきくと、アンの顔は暗くなった。
「私、今になってわかりました」彼女は重々しい調子でいうと、からだをふるわせ、肩にマントをひきよせた。「では、上っていって、たしかめてみましょう」
今度はアノーが先頭に立った。彼は階段の一番上で落し戸を下におろし、ばねにさわって羽目板をすべらせた。
「待って下さい」彼はそういって外にとび出すと、電燈をつけた。
アン・アプコットとジム・フロビッシャーとモローとは、サイモン・ハーロウの椅子轎から這い出して、宝物室の中に立っていた。
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二十三 飾り棚の上の置時計の真相
モローが不意に笑い出したので、一同はすっかり驚いてしまった。今まで彼は、機敏で腕の立つ、表情のない男だったが、無神経なところが特徴だった。その彼が今、おかしくてたまらないように、脇腹をかかえ両手をもみながら、ものすごい勢いで笑い出したのだ。一度か二度彼は口をひらこうとしたが、笑いのために言葉が出てこなかった。
「ニコラ、一体どうしたんだ?」アノーがたずねた。
「どうも失礼しました」モローはどもりながらいったが、またおかしさがこみあげてきて言葉が出てこなかった。しかしついに二つの言葉をききとることができた。「ええ、署長が」と彼は叫ぶと、鼻に眼鏡をかけるまねをして、ふたたびどっと笑い出した。その笑いの発作の理由は、少しずつとぎれとぎれの言葉で説明された。
「ええ、署長が! ドアに封印をしろと。それなのに、すぐ眼の前にいつでも出たり入ったりできる道がちゃんとあったんです! 部屋の中のものにさわってはいかん――いいか! アノーという名探偵が、パリから調べにこられる。だから、しっかりと封印しておかなければならないって。署長は。ああ! 署長は何とばかなんだろう! もったいぶって念入りにリンネルのバンドなんか使ったりして! 署長は裁判の時にもの笑いになるだろう! 全くですよ! 署長は裁判の終らないうちに辞表を出さなければならなくなるでしょう」
モローのユーモアは、一同にとって少しばかり職業的なものでありすぎたようだった。またその夜の情況が、一同の正常な感覚をにぶらせていたのかも知れない。そんなわけで、笑ったのはモロー一人きりだった。ジム・フロビッシャーは寄木細工の飾り棚の上に置いてある小さなルイ十五世風の置時計のことが気にかかってならなかった。彼はそのことを瞬時も忘れることができなかった。ベティ・ハーロウの運命は、この置時計にかかっていたからである。今夜たとえ彼女がどんなに恐ろしい言葉をのべたてたとしても、ハーロウ夫人の殺人に何の関係もないことを証明する、時計という議論の余地のない証拠がある。彼はポケットから自分の時計をひっぱり出して、置時計とくらべてみた。
「一分もちがっていない」ジムは少しばかり得意そうにいった。「今、一時二十三分だ――」すると突然、アノーが妙に油断のない様子で彼のそばに近づいてきた。
「そうですか?」アノーはそういうと、自分の時計とくらべて、フロビッシャーのいったことが正しいのをたしかめた。「なるほど、一時二十三分だ。これは好都合だ」
彼はアン・アプコットとモローをそばに呼び、一同は飾り棚のまわりに集った。
「この置時計の謎をとく鍵は」アノーはいった。「封印がドアから取り去られ、アンさんが昼の光の中でふたたびこの置時計を見た時、彼女のいった言葉の中にみつけることができます。彼女は困惑していました。お嬢さん、そうでしたね?」
「ええ」アンは答えた。「私には――今でも私には――あの置時計が今よりも少し高いところにあったような気がするんです――」
「たしかに、その通りです。一つテストしてみましょう!」
彼は置時計に眼をやって、針が一時二十六分を指しているのをたしかめた。
「みなさん、この部屋から出て、暗い玄関の広間で待っていて下さい。おぼえておいでのように、お嬢さんが階段をおりてきたのは暗闇の中でしたからね。私はここの電燈を消して、入るようにいいますから、そうしたらお嬢さんは四月二十七日の夜のように、電燈のスイッチをつけて、またすぐ消して下さい。そうすれば、一切のことがはっきりするでしょう」
彼は広間に通じているドアのところに行き、内側から鍵がかかっているのを知った。
「いうまでもないことだが」彼はいった。「ブレビザール館に行くのに、秘密の通路が使われているのだから、このドアに鍵がかかっているのも当然だ」
彼は鍵を回して、ドアを手前に引いた。一同の前には、広間がしずまり返ったまっくらな口を大きくあけていた。アノーはわきの方によった。
「どうぞ!」
モローとフロビッシャーは部屋の外に出た。アン・アプコットはためらって、アノーの方を訴えるように見た。彼女の困難な立場はすでに解決した。彼女にしてもそれを疑ってはいなかった。何の望みも見出せないように思えた時、この男が彼女の生命を救ってくれたのである。彼に対する彼女の信頼は絶対的なものだった。しかし彼女の困難な立場など、とるに足りないものだった。立ち直ることのできない打撃が、今ベティ・ハーロウに加えられようとしている。アン・アプコットは、ベティのように人を憎むことのできる性質ではなかった。彼女は、自分自身がその打撃をあたえることになるのかと思うと、しりごみしないわけに行かなかった。
「お嬢さん、勇気を出して下さい!」
アノーが好意のこもった微笑でアンをはげましてくれたので、彼女は暗い広間にいる二人の方に歩いていった。アノーは一同の前でドアをしめ、置時計のところにもどっていった。時計は一時二十八分を指していた。
「まだ二分ある」アノーは心の中でつぶやいた。「いそいでやればまにあうだろう」
部屋の外では、三人の証人が暗闇の中で待っていた。三人のうちの一人が不意に身をふるわせたので、彼女も歯をカチカチならした。
「アン」ジム・フロビッシャーはそうささやくと、彼女の腕に手を回した。アン・アプコットは全身の力がすっかり抜けて行くようだった。彼女は発作的に彼の手にすがりついた。
「ジム!」彼女は小声でいった。「あなたってひどい人ね!」
その時、アノーの声が部屋の中からきこえてきた。
「中に入って下さい!」
アンは前に進み出ると、手さぐりでノッブをみつけた。そしていらいらしながら乱暴にさっとドアをあけた。宝物室は広間と同じようにまっくらだった。アンは敷居をまたいで中に入ると、スイッチに手をのばした。
「では、はじめますわ」アンはふるえる声で一同に告げた。
突然、宝物室はぱっと明るくなったが、すぐまたもとのようにまっくらになった。そして暗闇の中でそうぞうしい叫びが起こった。
「十時半だ! 時間が見えた!」ジムが叫んだ。
「それに置時計の位置がまた高くなったわ!」アンが大声をあげた。
「その通りです」モローも同意した。
部屋の向こう側の隅から、アノーの声もきこえてきた。
「お嬢さん、これは二十七日の夜、あなたが見たのと全然同じですか?」
「全然同じです」
「では、もう一度電燈をつけて、真相をたしかめてみましょう!」
その命令はあまりにも重々しい口調だったので、まるで葬式の鐘のようにひびいた。アンの指はすぐには自由に動かなかった。またもや彼女の心の中には有罪の判決を下してしまうという意識が入りこんできた。何か取り返しのつかない災難が、彼女の手によって起こりそうに思われたのである。
「お嬢さん、勇気を出して下さい!」
ふたたび電燈がつき、今度はそのまま消えなかった。三人の証人は部屋の中に入っていって、もう一度、すぐ近くから前よりも長くじっとみつめた。すると一同は驚きの叫びをあげた。
寄木細工の飾り棚の上には、置時計の姿は見当らなかった。
ところが、飾り棚の後ろの方の高いところにある細長い鏡の中に、時計がはっきりと映っていて、その白い文字盤は実にはっきりとあざやかに見えたので、その時でさえも本物の時計ではないと思うのは困難だった。そして二本の針は、きっちり十時半を示していた。
「では、ふり向いて見てごらんなさい!」アノーはいった。
実物の方はアダム式マントルピースの上に置いてあり、そこから一同を見下しながら、本当の時をきざんでいた。それはきっちり一時半を示していた。長針は六のところ、短針は十二の右側、一と二の中間にあった。一同は申しあわせたようにふたたび鏡の方をふり向いて見た。これで謎の説明はついた。鏡の中の短針は十二の左側になっていて、そこに実際時計があって十時半であるとしたら、当然指すべきところを指していたのだ。文字盤の数字はさかさまになっていたが、ちらっと見ただけでは見分けることが困難だった。
「おわかりのように」アノーは説明した。「どんな小さなことでも、人間の手間を省いてくれるのが自然の法則です。私たちは色々な時計の中で生活しています。時計というものは毎日食べるパンと同じように、習慣的なものになっているのです。そして私たちは、手間を省く直観によって、針の位置から時間を知るわけです。つまり時計の針が指している時間を何の疑いもなく信じてしまうのです。お嬢さんは暗いところから出てきて、ほんの一瞬明るくなった時に時計の文字盤を見たのです。十時半! フロビッシャーさん、あなたもおぼえておいででしょう。お嬢さん自身まだそんなに早い時刻だったことに驚いていたのです。お嬢さんは、ひじかけ椅子の中で長い間眠っていたように寒気をおぼえた。彼女自身長い間眠っていたような気がしたのです。それはまちがってはいなかったのです。本当の時間は一時半だったんですからね。ベティ・ハーロウが、ド・プイアック邸のダンスパーティからかえってから、すでに二十分もすぎていたのです」
アノーは勝ち誇ったような口調で話を結んだので、フロビッシャーは腹立たしい気持になった。
「それは少し先ばしりすぎてはいないでしょうか?」ジムはたずねた。「封印が取り去られ、ぼくたちがはじめてこの部屋の中に入ってきた時、置時計はマントルピースの上ではなく、寄木細工の飾り棚の上にあったじゃありませんか」
アノーはうなずいてみせた。
「アンさんが私たちに話をしたのは昼食の前でした。そして私たちがこの部屋の中に入ってきたのは昼食のあとです。昼食の間に、時計の位置が変えられたのです」彼は椅子轎を指さした。「それがどれほど簡単にやれたかは、あなたにもおわかりになっているでしょう」
「|やれた《ヽヽヽ》、|やれた《ヽヽヽ》ですって!」フロビッシャーはいらいらしながらくり返した。「しかし、だからといって、実際に|やった《ヽヽヽ》ことにはなりませんよ」
「たしかにその通りです」アノーは答えた。「それでは、今、あなたのメモの中の質問の一つに答えましょう。塔の一番上から見たものは何だったか、という質問にね。私はこの邸の煙突から煙が立ちのぼっているのを見たのです。私はこの邸の建物や窓やドアや煙突などに注意を向けてみました。すると五月も終りに近いあたたかい真昼に、封印のしてある部屋の煙突から煙が立ちのぼっているではありませんか。さては、私たちの全然知らない出入口があるにちがいない! そしてだれかがそれを使っているのだ。それはだれだろうか? 考えてみて下さい。私が出ていったすぐあと、たった一人でグルネル荘をとび出していったのはだれだったろうか? 置時計はどうしても置きかえる必要があったのです。それに燃やさなくてはならない手紙もあったようですからね」
ジムは最後の言葉はほとんどきいていなかった。時計のことがまだ頭にこびりついてはなれなかったのである。彼の名論は解体し、ベティに不利な一切の推測や事実にもかかわらず、彼女の無実を立証しようという彼の夢は、むなしく消え去ってしまった。彼は椅子の上にくずれるように腰をおろした。
「そんなに早く何もかもわかっていたんですね」彼は苦々しげにいった。
「いや、別に早くはありません!」アノーは答えた。「私にずば抜けた才能があるからではありません。ただ私には年季がはいっているだけです。闘牛場に二十分いたというだけの話です。どうしてわかったのか、お話ししましょう!」彼はおどけた微笑をうかべながら、フロビッシャーの方に眼を向けた。「あの熱心なモーリス・テヴネ青年がここにいて私の講義をきくことができないのは、全く残念なことです。ところで、先ず第一に私は、ベティがここで何かひどく重大なことをしたのを知ったのです。炉の中で手紙を燃やしただけなのかも知れない。あるいは、それだけではないのかも知れない。私は眼を光らせながら待っていなければならなかったのです。すると好都合なことに、アンさんが鏡の前に立って、置時計の位置がもっと高かったようだと注意してくれた。それで私にはもうわかったかって? いや、わからなかった。しかし私は興味をおぼえたのです。それから私は奇妙なもののあるのに気がつきました。それはだれの眼にもつかないマントルピースの上に高く横に置かれている、ベンヴェヌート・チェリーニの美しい作品でした。そこで私はそれをおろして窓のところにもって行き、その美しさを充分に味わってから、またもとのマントルピースにもどしたのです。その時その装身具の入っている平たいケースでかくされていた棚の上の四つの小さな跡が眼につきました。その四つの小さな跡は、あのこの上もなく美しいルイ十五世風の置時計がちゃんとした場所に――本来の場所に置かれていれば、つくにちがいない脚の跡にとてもよく似ていました。そうです、マントルピースよりもかなり低い寄木細工の飾り棚の上が、チェリーニの装身具のケースが置かれるべき本来の場所でもあるのです。しかし飾り棚の上ではだれの眼にもすぐとまってしまいます。そこで私は、自分に向かっていいました。『おい、アノー君、この若い女性はアクセサリーを置き変えたらしいぞ』しかし私に、その置き変えた理由がわかったでしょうか? いや、わからなかったのです。前にもあなたにいいましたが、今あらためて謙虚な気持でくり返します。私たちは単なる機会の女神のしもべにすぎないのです。機会の女神はこちらが眠ってさえいなければ、全く親切な女主人なのです。そしてあの日の午後、彼女は私を親切に扱ってくれました。そうです! 私はこの事件のことでしきりに頭をなやませながら、玄関の広間に立っていました。全く何の手がかりもつかめなかったからです。私の後ろの壁には、フライパンのような、大きな昔風の晴雨計がかかっていました。そして私の前にある壁には鏡がかかっていたのです。私が床から眼をあげた時、偶然後ろにある晴雨計が鏡の中に映っているのを見たのです。たまたま私の注意はそれにひきつけられてしまいました。というのは、全くばかげたことですが、晴雨計の針が荒天を指していたからです。そこで私は、後をふり向いてみました。針はちゃんと晴天をさしています。私はとっさに了解しました。私は文字の方は見ないで、針の位置だけを見ていたのです。前から見れば、晴雨計の針はちゃんと晴天を指しています。背を向けて、鏡の中を見れば、針は荒天を指しているのです。私は何もかも了解しました。私は宝物室の中にかけこむと、人目につくのを恐れてドアに錠をおろしました。といっても、別に置時計を動かしたりはしませんでした。置時計を動かす必要は全然なかったからです。私はその代りに自分の懐中時計を取り出して鏡の前に立ちました。手にもっている懐中時計を鏡の方に向け、ガラスの蓋をあけて、鏡の中で十時半を指しているように見えるまで針を回したのです。それがすむと、私は本当の時計に眼を向けました。針は一時半を指しています。これですっかりわかりました。これ以上どんな証拠が要るでしょう? 私は証拠を手に入れたのです。私が錠をはずしてドアをあけた時、ベティが私の眼の前に立っていたのです! あのお嬢さんがね! 前から疑ってはいたものの、本当のところはっとしました。ものに驚いたりすることのないこの私がね。一瞬、彼女の顔からは仮面がすべりおちていたのです。私は背筋に冷たいものの走るのをおぼえました。彼女の美しい大きな眼にありありと殺意が宿っていたのですからね」
アノーはその時のものすごい眼つきを思い出して、魔法にかけられたようにじっと立っていた。彼は「うっ」とうなるようにいうと、水から出てきた大きな犬のように身をふるわせた。
「フロビッシャーさん、あなたは少しおしゃべりがすぎますよ」アノーは口調を変えて叫ぶようにいった。「一時間も前に寝ていなければならないアンさんをこうやって起こしておくんですからね。さあ、行きましょう!」
彼は一同を広間に追い出すと、電燈をつけ、宝物室のドアに錠をおろし、鍵をポケットにいしまいこんだ。
「お嬢さん、この部屋の電燈はつけたままにしておきましょう」彼はアンに向かってやさしくいった。「そしてモローがこの家の警戒にあたっています。だから恐がることは何もありません。モローはあなたの部屋からそう遠くないところにいます。では、お休みなさい」
アンは力のない微笑をうかべて、アノーに手をさし出した。
「明日、改めてお礼を申しあげるつもりです」彼女はそういうと、足をひきずり、疲労で体をふらつかせながら、ゆっくりと階段をのぼっていった。
アノーは彼女の立ち去るのをじっとみつめていた。それから彼は奇妙な微笑をうかべながら、フロビッシャーの方をふり向いた。
「かわいそうに!」彼はいった。「あなたも――そして彼女も! ちがうでしょうか? 結局、恐らく――」ここで彼は突然あわてて口をつぐんだ。フロビッシャーは顔を赤らめ、すました顔をしようとした。このことに関して、フロビッシャーの感情を傷つけるのは、アノーの一番望んでいないことだった。
「あなたにおわびしなければなりません」アノーはいった。「私は出しゃばりでおしゃべりです。もし私がまちがっていたとすれば、それはあなたのためを思ったからなのです。わかってもらえますね? よろしい! では、話を進めましょう。明日アンさんは、今夜どんなことが起こったか、どういうわけでル・ヴェイ夫人の邸にいったかなど――一切のことを話してくれるでしょう。あなたにも立ちあって頂きたいと思います。そうすれば、あなたにも一切のことがはっきりしてくるでしょう。私もどんなふうにして結論に達したか順々にお話ししましょう。質問には全部お答えしますし、あらゆる援助、あらゆる機会をあなたに提供するつもりです。あなたが今夜見たことについて、証人としてよび出されることもないように、取り計っておきましょう。そして一切のことが終った時、いかに苦しくいかに辛くても、法というものは曲げるわけにはいかないことを、私とともに理解するでしょう」
今フロビッシャーの見ているのは、今までとはちがった新しいアノーだった。そこには策略も、大風呂敷も、道化も見当らなかった。勝ち誇った様子さえなかった。一種の威厳ともいうべきものが、強烈な光のように彼から放射されていたが、同時にやさしさと思いやりがそこにあった。
「では、お休みなさい!」アノーはそういうと頭を下げた。ジムは衝動的に手をさし出した。
「お休みなさい!」彼も応じた。
アノーはよくわかったというような微笑をうかべてその手をにぎると、立ち去っていった。
ジム・フロビッシャーは玄関のドアに錠をおろすと、みじめな気持で広間にもどってきた。彼は大きな鉄の門がゆれて音をたてているのをきいた。あれはいうまでもなく、家族の一人のかえるのがおそい時の常として、門があけたままにしてあるのだ。そうだ、何もかも、指揮官が作戦をたてる時のような慎重さで、計画が立てられていたのだ。この邸の中では、雇人たちは一人のこらずベッドの中でぐっすり眠っている。もしアノーがいなかったら、今この瞬間、ベティ・ハーロウは恐ろしい仕事をやり終えて、こっそりと音もなくこの階段を彼女の部屋に向かってのぼっていたかも知れない。雇人たちは明日眼をさまして、アン・アプコットが裁判に出るのを怖れ、高とびしてしまったと告げられるにちがいない。夕方になると、エスピノーザがやってきて、宝物室に迎え入れられ、ブレビザール館のアーチ形の天井のついた大きな石造りの台所の中で、彼を待っている鋤をみつけるだろう。おお、そうだ、一切の危険はあらかじめ計算に入れられていたのだ――アノーという人物だけを除いては。いや、そのアノーさえ、ある程度までは計算に入れられていたのである! アノーが仕事にとりかかる前に、あわてふためいた一通の電報がフロビッシャー・ハズリット法律事務所にまいこんだのだから。
「フロビッシャーさん、もし御用がおありでしたら、お嬢さんの部屋の下の、階段のところにいますから」モローがいった。
ジム・フロビッシャーは、物思いからわれにかえった。
「ありがとう」彼はそういうと、自分の部屋に向かって階段をのぼっていった。ベティにとって、あの電報は全く大した役に立ったものだ、彼は苦々しい思いにとらわれた。「彼女は今夜どこにいるのだろうか?」彼は自分の心に問いかけ、その問題を自分の心から追いはらった。
ベティ・ハーロウの計画の失敗は、あのあわてふためいた電報による以外の何ものでもなかったのだ、彼はそう思わないわけにはいかなかった。
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二十四 アン・アプコットの話
次の日の朝早く、アノーはグルネル荘に電話をかけてきて、午後にあう約束をした。そこでジムは、午前中ベクス氏とあったが、ベクス氏はジムの話をきいてすっかり困惑してしまった。
「今では囚人にも権利というものがあります」彼はいった。「判事に審問される時には、法律顧問の立ちあいを要求することができるのです。ではすぐに署の方にいってみましょう」彼は昂然と頭をあげ、小さな胸をちゃぼのようにはり、自分の依頼人のための戦いをするために、いそいで出かけていった。ところが、戦うべきものなど何一つなかった。ベクス氏のみじめな依頼人は当分のあいだ面会禁止になっていた。彼女はここ二日ばかりは判事の前には出ないだろう。今はフランシーヌ・ロラールの番だった。被告側にはあらゆる機会があたえられているのだから、もしベティ・ハーロウのたっての希望があれば、判事のところにつれて行かれる前に、ベクス氏は彼女との面会を許されることだろう。
ベクス氏がエチエンヌ・ドレ広場にもどってみると、ジム・フロビッシャーがそわそわしながら事務所の中を歩き回っていた。ジムは懸命になって眼をあげたが、ベクス氏になぐさめの言葉を見出すことはできなかった。
「面白くない!」ベクス氏は叫んだ。「全く不愉快だ。どうも気にくわない。警察の連中はだれもひどく丁重です――そうです。しかし女中の方を先に調べている。これは全く具合がわるい」そういうと彼はテーブルの上をコツコツと叩いた。「これはアノーの指し金です。全く手なれたものです。雇人とはね。雇人ならすぐ口を割ってしまう。それにこのフランシーヌ・ロラールという女は――」彼は頭をふってみせた。「この分では、フランス一の弁護士を頼まなくてはね」
ジムは仕事をはじめたベクス氏にいとまを告げて、グルネル荘にもどってきた。「ワベルスキー事件」のこの新たな恐るべき進展について、何一つまだ外部にもれていないのは明らかだった。まちでそのうわさをしている者もなく、グルネル荘の門のあたりをうろつく者もいなかった。「ワベルスキー事件」は全般的にいって、古くさい笑い話になってしまっていた。ジムは彼女の部屋にいるアン・アプコットに伝言を書き、自分はこの家を出て、ダルシー広場のホテルに荷物をもって行くが、彼女は是非この邸にとどまってほしいと頼んだ。こんな時でも、アンはジムの困惑げな伝言を読んだ時、おかしそうに少しばかり唇をひきつらせた。
「ベクスさんのいっているように、あの人はとても礼儀正しいわ」彼女は心の中で考えた。「そしてアノーさんをぞくぞくうれしがらせるほど、ちゃんとしているんだわ」
午後になってジムがもどってくると、陽光が芝生にまだらを描き、蜜蜂がばらの間でうなり声をあげている、大かえでの木蔭で、アン・アプコットは前よりは数の少なくなったきき手に向かって、もう一度恐怖と暗黒の話をしてきかせた。そしてアノーは所々その話を補足した。
「もし匿名の手紙がこなかったら」彼女は口を切った。「ル・ヴェイ夫人のダンスパーティに行くなんて夢にも思っていませんでした」その言葉をきくと、アノーは油断なくからだを前にのり出した。
匿名の手紙は、彼女とベティとジムが夕食のテーブルについている時に、とどけられたものだった。そのことからみると、その日の昼頃、アンが庭で最初に話をした直後に投函されたものにちがいない。アンは請求書でもきたのかと思い、その封筒をあけてみたのだったが、「鞭」という署名を見てびっくりし、少しばかりこわくなった。その中身を読むにつれて、驚きは一段と増したが、恐怖の方は鎮まっていった。「鞭」はそのダンスパーティに行くように彼女に命じていた。十時半に舞踏室を出て、応接室からはなれた一つの翼に通じている専用の廊下を行き、小図書室のカーテンの後ろにかくれろと、はっきりした指示をあたえていた。彼女がじっと静かにしていれば、いくらもしないうちに、ハーロウ夫人の死についての真相を耳にはさむことができるにちがいない。しかしこの計画はだれにもいってはいけないと、警告していた。
「そんなわけで、私はだれにもいいませんでした」アンはいった。「この手紙はいかにも『鞭』のやりそうな意地のわるいいたずらのように思われたのです。私はその手紙を封筒の中にもどしましたが、そのことが頭にこびりついてはなれないのです。もしかしたらそこになにかがあるかも知れない――そして私が行かなかったら! お金もなければ地位もないこの私に、『鞭』が罠をかけるようなことがあり得るでしょうか? そんなふうに考えているうちに、どんなに推論を重ねても押しつぶすことのできない一種の希望が、だんだんに大きくなってきたのです!」
夕食のすんだあと、アンは手紙をもって自分の居間にあがり、その手紙を信じてみたり、そんなものを信じる自分を軽蔑してみたり、また信じてみたりした。その日の午後、彼女は今にも手首に手錠がかけられるような気持になっていた。どんなに無謀なものであろうとも、自分の嫌疑を晴らすチャンスをのがすべきではない!
アンはベティに相談することに心を決め、宝物室に向かって走っていった。宝物室は電燈はついていたが、人のいる様子はなかった。時間は九時半だった。アンはベティのもどってくるのを待つことにしたが、寄木細工の飾り棚の上の置時計の位置が低いのに、またもや当惑をおぼえた。彼女はその前に立つと、じっと時計に眼をそそいだ。そして何かの役に立つかも知れないと漠然と考え、自分の時計を手にとった。実際、もう少しで役に立つところだった。もし彼女が置時計の後の鏡にその文字盤を向けていたら、真相はたちまち判明したにちがいない。しかし彼女にはそうした余裕がなかった。なぜなら、彼女の背後で起こったかすかな気配が、彼女の注意をひきつけたからである。
彼女は不意にふり向いた。部屋の中にはだれもいなかった。しかし、かすかな物音がしたのは、疑いもなくこの部屋だった。そしてそれが起こるはずのところは、たった一つしかなかった。ピカピカ光った灰色の羽目板や、エレガントな金色をした玉かざりをつけた、精巧な椅子轎の中に、だれかがかくれていたのである。アンはおびえるというよりはむしろ不安な気持におそわれた。先ず彼女の頭にうかんだのは、暖炉のそばにあるベルをならし――それなら椅子轎から見られずにできたのである――ガストンが応ずるまでならしつづけることだった。ここには、沢山の泥棒がやってきてもおかしくないくらい数多くの貴重な品があるのだ。それから、彼女は、全然考えずにもっと大胆な方法をとった。後ろの方から進み出て、こっそりと椅子轎に近づくと、ガラスの扉の前に不意に立った。
彼女は驚きの叫びをあげて、後ろにとびのいた。扉の前の横木が取り去られ、扉はあいていて、深々としたクッションの上にベティ・ハーロウがもたれかかっていたのである。彼女はアンが姿を現わして驚きの叫びをあげてからも、彫像のようにじっと動かなかった。しかし彼女は眠っているわけではなかった。彼女の大きな眼は、椅子轎の暗がりの中でギラギラともえ、アンに奇妙な衝撃をあたえた。
「私ずっとあなたを見ていたのよ」ベティはゆっくりといった。たとえばベティの心が和らぐ機会があったとしても、その機会はいまや永久に失われてしまったのである。秘密の通路から出てきたベティは、アンが思いなやんでいた疑問を解こうとして、鏡の前で時計をいじくり、もう少しで――もうほんの少しで解きかけているのをみつけてしまったのだ! アンは「私ずっとあなたを見ていたのよ」という言葉で、死の宣告をきいた。そしてその言葉が現わしている脅迫の意味を理解することができなかったが、そのおちつきはらった口調の中には、少しばかり彼女の気力を失わせる何ものかがあった。
「ベティ」彼女は叫ぶようにいった。「私、あなたの意見がききたいの」
ベティは椅子轎の中から外に出ると、アンの手から匿名の手紙をうけ取った。
「私、行かなきゃいけないかしら?」アン・アプコットはたずねた。
「私には何ともいえないわ」ベティは答えた。「だけど、私だったら行くわ。しりごみなんかしたりしないわ。あなたに嫌疑がかかっているなんて、だれもまだ知らないんだから」
アンは一応反対してみた。喪中のこの家の者がいったりするのは、礼儀にはずれているように見えないだろうか?
「あなたは別に親類でも何でもないわ」ベティは主張した。「こっそりと、はじまるすぐ前に行けばいいじゃない。きっと手はずはうまく整えられるわ。だけど、もちろん、私がどうこういう筋あいのものじゃないわ」
「一体、どういうわけで『鞭』は私を助けようとするのかしら?」
「間接的にならどうだか知らないけど、彼が助けたりするとは思えないわ」ベティは自分の意見をいった。「彼はほかの人を攻撃するために、あなたを利用しているのだと思うわ」彼女はもう一度手紙を終りまで読んでみた。「彼のいうことはいつもまちがっていなかったわね? だから、私がもしあなただったら、そうしてみようと思うだけだわ。だけど、何も干渉するつもりないわ」
アンはかかとでぐるりと回ってみせた。
「わかったわ。行くことにするわ」
「では、この手紙は破いてしまうわよ」ベティは今にもそれを破ろうとした。
「だめよ」アンはそう叫ぶと、手紙の方に手をのばした。「私、ル・ヴェイ夫人のお邸ってどこにあるかよく知らないの。その手紙がなかったらすぐ道に迷ってしまうわ。是非それをもって行かなくちゃ」
ベティは同意して、アンに手紙を返した。
「こっそり行かなくちゃね」ベティはそういうと、必要な準備に熱心にとりかかった。
彼女はフランシーヌ・ロラールに一日ひまを出し、自分は風変りなピカピカ光るフロックをアンが着るのを手伝うことにした。そして、ル・ヴェイ夫人の次男で、ベティの熱烈な崇拝者の一人である、ミシェル・ル・ヴェイに手紙を書いた。幸いにもミシェル・ル・ヴェイは、手紙をとっておいたので、共犯者にはならないですんだ。ベティはジム・フロビッシャーを説得したのと同じ論法を彼にも使ったのだった。彼女はアン・アプコットに嫌疑が集っていて、アンが人に知られぬようににげ出さなければならないことを、率直に手紙に書いた。
「ミシェル、一切の計画は整いました」ベティは書いた。「アンは時間ぎりぎりに行くはずです。彼女は小図書室で、逃亡を助ける友人たちとあうことになっていますが、その人たちのことはなるたけせんさくなさらない方がいいと思います。しばらくの間、廊下に人がこないようにして下されば、その人たちは図書室のドアから庭に出て、翌日の朝にはパリにつくことができるのです」
ベティはその手紙をアンには見せないで、封をしてから、いった。「ミシェルにじかに渡すようにいって、明日の朝使いの者にもたせてやるわ。ところで、あなたはどうやって行ったらいいかしら?」
その点について、二人の少女は少しばかり議論をかわした。大型のリムジーンをこさせたりすれば、アノーが干渉してくるだろう。それよりも彼は、アンが逃亡を企て、ベティがそれを助けたのだと考えるにちがいない。そんなふうではこの計画は台なしになってしまう。
「いい考えがあるわ」ベティは叫んだ。「ジャンヌ・ルクレルクを迎えにこさせればいい。あなたはいつでもこっそり抜け出せるようにしておくのよ。ジャンヌは門の外でちょっと車をとめる。あたりはすっかり暗いんだから、すぐ出て行けるわ」
「ジャンヌ・ルクレルクですって!」アンは思わず身を引いて叫んだ。
自分自身の化粧や身なりには恐ろしく鋭敏で気むずかしいのに、派手で品のない友だちばかりを選ぶベティに、アンはいつも当惑をおぼえてきた。しかしベティは、自分と同等の人々とつきあうよりも、自分より下の人々の中で女王になっている方が好きなのだろう。ベティの遠慮がちな態度の底には、人に認められたいという飽くことを知らない欲望がひそんでいたのである。人から機嫌をとられ、崇拝され、指導者として親分として尊敬されたいという欲望が、彼女の心の中ではげしくもえさかっていたのだ。ジャンヌ・ルクレルクは、そういう取り巻きのうちの一人だった――柄の大きい、赤い髪の毛の、身ぶりの大げさな女だったが、必ずしも器量がよくないといいかねるところがあり、ディジョンのまちの社交界では結構人気をもっていた。アン・アプコットは彼女が好きでないばかりでなく、彼女を信用していなかった。ジャンヌにはどことなく邪悪なところがある、アンはそんな感じをもっていた。
「アン、あの人は私のためならどんなことでもしてくれるのよ」ベティはいった。「だから、あの人の名前をあげたんだわ。それにあの人がル・ヴェイ夫人のダンスパーティに行くこともわかってるし」
アン・アプコットはベティの意見に折れ、もう一通の手紙がジャンヌ・ルクレルクに宛てて書かれた。その第二の手紙は、次の日の朝早くグルネル荘にくるよう頼んだものだった。ジャンヌ・ルクレルクはやってきて、九時から十時までの一時間、ベティと密談した。このようにして、一切の準備は整った。
話がそこまできた時、フロビッシャーはアノーの説明をさえぎった。
「まだエスピノーザ兄弟のことがのこっているじゃありませんか」
「アンさんは今、宝物室でかすかな物音をきき、ベティ・ハーロウが椅子轎の中に坐っているを見たといいました」アノーは答えた。「ベティ・ハーロウはその時、ブレビザール館からもどってきたところでした。そしてエスピノーザは、あの日の晩日が暮れてから、つまりグルネル荘の夕食が終った頃に、ブレビザール館に出かけたのです。そしてブレビザール館からガンベッタ通りに行き、ジャン・クラデルの帰宅を待ったのです。あの男にとっては全く忙しい晩でした。『警察』という老獪な狼がドアの下で鼻をならしながら匂いをかいでいたんですからね。それを耳にした彼らは一刻も時間を無駄にすることができなかったのです!」
次の日の夜がやってきた。ジムの記憶によると、その日の夕食はひどくおそかった。それはベティがアンの身支度を手伝い、フランシーヌがひまをとっていたからである。ジムとベティは二人だけで夕食を食べた。そして彼らが食事をしている間に、アン・アプコットは白貂《しろてん》のマントで美しいドレスをかくして、そっと階下におりていった。彼女は玄関のドアを少しばかりあけておき、ジャンヌ・ルクレルクの車が門の前にとまるやいなや、さっと庭を横切っていった。ジャンヌの車はドアがあけてあった。車はとまるかとまらないうちに、ふたたび動き出した。ジムは話をききながら、夕食の間ベティが気を取られていてうわの空だったこと、玄関のドアが静かにしまって、車がシャルル・ロベール通りから走り去っていった時、彼女がすっかり安心した様子をみせたことなどを、ありありと思い出した。アン・アプコットはグルネル荘から永遠に立ち去っていったのだ。もはや彼女は、ベティ・ハーロウの邪魔をするようなことはあるまい。
ジャンヌ・ルクレルクとアン・アプコットは、十一時少しすぎにル・ヴェイ夫人の邸に到着した。ミシェル・ル・ヴェイが二人を出迎えに現われた。
「お嬢さん、本当によくきて下さいました」彼はアンに向かっていった。「でも、おそくおなりでしたね。母は舞踏室のドアのところにいたのですが、今席をはずしてしまいました。あとで一しょにさがすことにしましょう」
彼は二人を携帯品預かり所に案内した。そしてそこを出ると、エスピノーザと顔をあわせた。
「これからダンスにいらっしゃいますか?」ミシェル・ル・ヴェイはたずねた。「えっ、まだいらっしゃらない? では、エスピノーザさん、ビュッフェの方に案内してあげて下さい。私はほかのお客さまのお相手をしていますから」
彼はそういうと、バンドの音楽とそうぞうしい話し声が入りまじっている舞踏室の方にいそぎ足で去っていった。エスピノーザは二人の女性をビュッフェに案内した。その部屋には、ほとんど人かげは見当らなかった。
「まだ早すぎるのね」ジャンヌ・ルクレルクは低い声でいった。「コーヒーでも頂かない?」
しかしアンはコーヒーなど飲みたくはなかった。彼女の眼はドアのあたりにさまよい、足はぐらぐらゆれるような気がし、手もおちつかずじっとしていられなかった。あの手紙は単なるいたずらにすぎなかったのだろうか? 本当にこれから数分以内に真相を知ることができるのだろうか? アンは希望をもってみたり失望してみたりした。
「お嬢さん、コーヒーがさめますよ」エスピノーザがせきたてるようにいった。「おいしいコーヒーです」
「そうでしょうね」アンはそういうと、ジャンヌ・ルクレルクの方に顔を向けた。「私の家に送って下さらない? 私、待ってなんかいられないわ――あとで」
「もちろんですとも」ジャンヌ・ルクレルクは承知してみせた。「全部準備は整っています。運転手にもよくいってあります。さあ、コーヒーをおあがりなさい」
しかしアンは、まだ飲む気になれなかった。
「私、何もほしくないんです」彼女ははっきりといった。「私、もう行きます」彼女は、ジャンヌ・ルクレルクとエスピノーザの二人が、すばやく奇妙な目くばせをしたのに気がついたが、それが何を意味しているのかまで考える気にはなれなかった。アンの目の前に置かれているコーヒーには、エスピノーザがビュッフェから一同の坐っている小さなテーブルにもってくる時、何か薬――それはアンを半ば麻酔させて扱いやすくするためのものだったと思われる――をこっそりと入れておいたものにちがいない。しかしアンは飲もうとしなかったので、何の異常もなく立ちあがった。
「マントを取ってきます」彼女はそういうと、二人のつれをのこして、マントを取りにいった。そしてそのままビュッフェにはもどってこなかった。
大きな中央の広間の遠くはなれた側に、一本の長い廊下がのびていた。廊下の入口では、ミシェル・ル・ヴェイが立って見張っていた。彼が合図をしたので、アンはそばによっていった。
「右に曲って翼の方にお入りなさい」彼は低い声でいった。「そうすれば、小図書室の前に出ます」
アンは彼のわきをそっと通り抜けた。彼女は人気のない静まり返った翼の中に入っていった。やがて彼女は、その建物のはずれにある一枚のしまったドアの前にやってきた。彼女はそれを静かにあけた。部屋の中はまっくらだった。しかし廊下からさしこんでいる光で、壁のところにならんでいる高い本棚や、家具の置いてある位置や、端の方にある黒ずんだ重そうなカーテンなどを識別することができた。してみると、このあう約束をした場所にきたのは、彼女が一番先だったのだ。彼女はドアをしめると、両手を前にのばしながら、ゆっくりと用心深く、カーテンにさわるまで進んでいった。そしてカーテンの間を通り抜け、庭に面した大きな張り出し窓のくぼみに身をかくした。するとその時、一つの奇妙なきしるような物音がしたので、彼女は思わずはっとした。
すでにだれかがこの部屋にいて、灯りのついている廊下から彼女の入ってくるのをこっそりと見ていたのである。その物音はさらに大きくなってきた。アンはふるえる手でカーテンをかきわけ、そこからのぞくと、彼女の後ろからカーテンのすき間を通して、ぼんやりしたかすかな光が部屋の中にながれこんできた。ドアのそばの向こう側のすみにある高い本棚の上の方に、何かがくっついていた――それは今おりてこようとしていた。それがだれであるにしろ、どっしりしたマホガニーの本棚の一番上の飾りのかげにかくれていた者が、今棚を梯子の代りにしておりてきたのだ。
アンはすっかり狼狽してしまった。すすり泣きが喉からもれてきた。彼女はドアに向かって走っていった。しかし時はすでにおそかった。一つの黒い人影が本棚から床にとびおりて、アンがドアに手をのばそうとした時、スカーフを彼女の口に巻きつけて、叫び声がもれないようにした。彼女はぐいと部屋の中にひきもどされたが、指がドアのわきにある電燈のスイッチにさわったので、つまずいて倒れた時、部屋の中が明るくなった。襲撃者は息をはあはあさせながら、彼女におそいかかり、スカーフを後頭部でしっかりと結んだ。アンは起きあがろうとした時、からだの重みとつき出したひざで自分をおさえつけている襲撃者がフランシーヌ・ロラールであることに気がつき、驚愕のあえぎをもらした。アンの狼狽は、怒りとはげしい屈辱感に変った。彼女はそのしなやかな体で必死になって戦った。しかし口に巻きつけられているスカーフのために息がつまり、力も弱ってきた。そしてだんだんに恐ろしくなり、この岩乗な田舎娘にはとても勝てないと思うようになった。背はアンの方が高かったが、背の高いことは何の役にも立たなかった。彼女は山猫を相手にした子供のようなものだった。フランシーヌの手は鋼鉄のようだった。フランシーヌは、アンがうつぶせになって、胸をはげしく波打たせ、高なる動悸で今にも心臓が破裂しそうな思いをしている時、彼女の両手を後にねじあげ、手首をしばった。やがてアンが抵抗しなくなったので、フランシーヌは彼女を仰向きにして足首をしばった。
それがすむとフランシーヌはすぐさま立ちあがった。彼女はドアにかけよると、少しばかりあけて手招きした。それから彼女はアンを寝椅子の上にひきずりあげたが、その時ジャンヌ・ルクレルクとエスピノーザがそっと部屋の中に忍びこんできた。
「終ったか?」エスピノーザがいった。
フランシーヌは笑った。
「ええ、だけど大分抵抗したわ。このかわいい赤ちゃんはね! コーヒーを飲ませておけばよかったんだわ。そうすれば、私たちと一しょに歩いて行けたのに。だけど、こんなふうじゃかついで行くより仕方がないわ。本当にやっかいな子よ」
ジャンヌ・ルクレルクはアンの口をおおってある猿ぐつわをかくすために、彼女の顔にレースのスカーフを巻きつけた。そしてフランシーヌがアンの体を抱き起こしている間に、肩に白いマントをかけ、前でボタンをとめた。それがすむと、エスピノーザは電燈を消しカーテンを引いた。その部屋は邸の裏の方にあたっていた。窓の前には庭がひろがっていたが、それは、フランスの地方の大邸宅によくみられる、家畜が窓のそばまで草を食べにきて、正面のテラスのあたりの細長い場所だけが、遊び場と美しい芝生にあてられているような庭だった。エスピノーザが外を見ると、こんもりと木々が茂っている草地で、夏の夜のうす明りの中を牛が幽霊のようにぼんやりと動いているのが眼に入ってきた。彼が窓をあけると、舞踏室の方から音楽のひびきが一同の耳にかすかにきこえてきた。
「ぐずぐずしているわけには行かない」エスピノーザがいった。
彼は体の自由のきかなくなった少女を腕に抱きあげると、庭の中に進んでいった。一同は背後にある窓をあけたままにしておき、まわりをかこむようにしてアンをはこんでいった。できるだけ木の暗がりをえらんで草地を横切り、建物と門の途中の車道で車の待っているところをめざして進んでいったのである。テラスやその前にある装飾庭園からもれてくるぼんやりした灯影が、少しはなれた左手の方を明るくしていたが、こちら側はどこもかしこも暗い闇だった。一度か二度彼らは立ち止り、アンを立たせたまま休息した。
「あとほんの少しだ」エスピノーザがそうささやくと、のろいの言葉をおさえつけてもう一度立ちどまった。一同は今車道の端のあたりにいたのだったが、彼はすぐ眼の前に、一つの白いドレスがかすかに光り、そのすぐそばで煙草の火が赤くもえているのを見た。彼はすばやくアンをふたたび腕からおろして、一本の木にもたせかけた。ジャンヌ・ルクレルクはアンの前に立つと、舞踏室から抜け出してきた人々が近づいてきた時、さかんに陽気な話をしている人のように、うなずきながら彼女に話しかけ出した。エスピノーザの心臓は、男のいっている言葉をきいて一瞬とまりそうになった。
「おや、ここにだれかいるようだ! おかしいな。見てみようか?」
ところが、男が車道を横切ろうとした時、白いドレスを着た少女が男の腕をつかんだ。
「気のきかないことをするもんじゃないわ」彼女は笑いながらいった。「おたがいさまじゃないの」そういうと二人はぶらぶらいってしまった。
エスピノーザは二人が姿を消すまで待っていた。「さあ、いそいで行こう!」彼はふるえる声でささやいた。
さらに数ヤード前に進むと、車道に通じている細い道にエスピノーザの車がかくしてあるのを一同はみつけた。彼らはアンを車の中に押しこんだ。ジャンヌ・ルクレルクは彼女のとなりに坐り、エスピノーザはハンドルをにぎった。彼らがテルゾンの谷に向かって出発した時、遠くの時計が十一時を告げた。車の中でジャンヌ・ルクレルクはアン・アプコットの口から猿ぐつわをはずした。そして頭から彼女に袋をかぶせ、足もとでそれを結びつけた。わかれ道のところでは、エスピノーザの弟がサイドカーのついたオートバイにのって待っていた。
「お嬢さん、私に少しだけつけたさせて下さい」彼女の話が終ると、アノーが口を切った。「第一は、ミシェル・ル・ヴェイが、あとで小図書室にやってきて、あなたが無事パリに出発したものと思いこみ、窓に閂をかけたこと。そして第二は、エスピノーザとジャンヌ・ルクレルクがル・ヴェイ夫人のダンスパーティにもどったところを逮捕されたことです」
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二十五 二十七日の夜に起こったこと
「まだ話が全部終ったわけではありません」アノーは、アン・アプコットが家の中に入ったあとも、フロビッシャーと一しょにしばらく芝生にのこっていた。「もっとも、終りに近いことはたしかですが、まだ解かなければならない疑問がのこっています。『あの晩、アン・アプコットが暗闇の中を階下におりてきた時、ハーロウ夫人の寝室と宝物室の境のドアはどうしてあいていたのか?』その疑問が解ければ、どうしてフランシーヌ・ロラールとベティ・ハーロウがハーロウ夫人を殺したかがわかるでしょう」
「では、フランシーヌ・ロラールもあの殺人に関係していたと思っているんですね?」ジムはたずねた。
「その通りです」アノーは答えた。「あの夜のことを再現した実験をしたのをおぼえていますね? ベティ・ハーロウが夫人の役を演じてベッドに横になり、フランシーヌが『これでいい』とささやいたのを?」
「ええ」
アノーは煙草に火をつけると、微笑をうかべた。
「フランシーヌ・ロラールはどうしてもベッドのわきに立とうとはしなかったのです。絶対にね! 彼女はベッドの下の方に立って、あの短いがぞっとするような言葉をささやいたのです。しかしそこよりほかの場所に行こうとはしませんでした。そのことは大いに意味があるのです。彼女は犯行が演じられた時、自分がいた場所に立つ気にはどうしてもなれなかったのです」彼は静かな口調でつけ加えた。「フランシーヌ・ロラールには大きな期待をかけています。数日間独房にほうりこんでおけば、あの野性の山猫もきっと口を割るでしょう」
「では、ワベルスキーはこの事件でどんな役割を演じているんでしょうか?」ジムは大きな声で叫んだ。
アノーは笑い声をあげると、椅子から立ちあがった。
「ワベルスキーですって? あの男は、この事件には全然何の関係もありません。彼は自分で信じてもいない告訴をして、それが偶然にも事実だったのです。それだけの話ですよ」彼は、一、二歩いったが、またもどってきた。「しかしそういってしまっては正しくない。それだけだとはいえない。ワベルスキーはこの事件の中で、たしかにある役割りを果たしています。なぜなら、自分の告訴を正当なものにしないわけに行かなくなり、ともかくもそれに対する口実をさがし出す必要に迫られた時、幸運にも、ジャン・クラデルの店の近くのガンベッタ通りで、ベティ・ハーロウを見た朝のことを思い出したからです。そしてそのことから私たちに真相をみつける糸口をあたえてくれたのです。そうです、私たちはあのボリス・ワベルスキーというけだものに色々お世話になっているのです。フロビッシャーさん、私たちはみんな機会の女神のしもべにすぎないと、いつかあなたにいったことがあったでしょう?」
アノーは庭から立ち去っていったが、それから三日間というもの、ジム・フロビッシャーは彼の姿を見ることができなかった。しかしベクス氏が心配しアノーが期待していたように事態が進展していったので、三日目にアノーはジムを署の彼の部屋によびよせた。
アノーはジムのメモを手にもっていた。
「あなたは自分の書いたものをおぼえていますか?」彼はたずねた。「さあ、見てごらんなさい!」彼はメモをジムの前に押しやると、その一節を指さした。
しかし、夫人の死体から毒物が検出されなかったところから見て、次の二つのことがないかぎり、犯人をあげることは困難であろう。
(a)自白
(b)同じような犯罪がふたたび行なわれること。アノーの説によれば、一度毒殺をした者は、それをくり返すようになる。
フロビッシャーはそれに終りまで眼を通した。
「全くあなたの書いていた通りです」アノーはいった。「私は今までこんな厄介な事件に出くわしたことはありません。一歩一歩失敗の連続だったのです。もう少しでジャン・クラデルに指がふれかけたと思えば、五分の差でだめになってしまう。パリにある商会から役に立つ証拠が入りそうだと思うと、その商会は十年も前になくなっている。いつも空振りばかりだ。そこで私は危険を冒さなければならなくなったのです――そうです、大変な危険をね。どんな危険だか教えましょうか? 私はアンさんがル・ヴェイ夫人の邸でダンスパーティがあった夜、ブレビザール館に生きたままつれてこられるだろうと思っていたのです。彼女がつれもどされることには確信がありました。一つ理由をあげれば、あそこの台所の石畳の下ほど、彼女にとって安全な休息の場所はなかったからです。また一つの理由をあげれば、サイドカーに旅行鞄がつんであったことです。その旅行鞄は軽そうには見えなかった、私の部下は、エスピノーザの弟が約束の場所に出発する前に、旅行鞄がサイドカーにつみこまれるのを見ていたのです。私はその鞄がアンさんと同じ重さだと信じていたのです」
「ぼくにはあの旅行鞄の意味が全然わかりませんでした」フロビッシャーが口をはさんだ。
「それはタイミングの問題です。テルゾンの谷とブレビザール館の間は、小さな急カーヴが一ぱいある二十五キロのひどい道です。そうすると、からのサイドカーをつけたオートバイは曲り角を全速力で走ることのできる、荷物をつんだサイドカーをつけたオートバイより、その距離を行くのにいくらか時間が長くかかるでしょう。彼らはアン・アプコットをサイドカーにのせて走る正確な時間を知りたがっていたのです。そうすれば、オートバイのくるのを待っているために、無駄な時間をつぶさないですみますからね。しかし彼らは少しばかり念が入りすぎていました。あのボリス先生はなかなかうがったことをいっていたじゃありませんか。ある種の犯罪は、アリバイが不自然なほど完全であるために、かえって発覚してしまう、とね。彼らがアンさんをつれもどそうと思っていたのはたしかです! だが、もし殺してからつれもどすとしたら! いや、そんなはずはない! 矢の毒で殺した方がずっと簡単だ。抵抗することもなければ、血も出ないし、全然手数がかからないからです。私は彼らがル・ヴェイ夫人のダンスパーティで彼女に麻酔薬を飲ませ、半ば意識を失わせてつれもどすにちがいないと思っていましたが、実際、彼らはそうするつもりだったのです。しかしあの晩、私は自分の冒した危険にずっとふるえ通しでした。そして回廊の暗がりの中に立っていた時、オートバイのエンジンがとまりましたが、あの時はもうだめかと思いましたよ」
彼はその時の危険がまだすぎ去らないかのように、不快そうに肩をふるわせた。
「ともかくも、私は危険を冒しました」彼は言葉をつづけた。「そしてそれによって、あなたの条件のうちの(b)をみたすことができたのです。同じ種類の犯行がもう一度行なわれること、もっともこの場合は未遂に終りましたが」
フロビッシャーはうなずいてみせた。
「しかし今では」アノーは体を前にのり出しながらいった。「あなたの条件の(a)の方もみたすことができたのです――つまり自白ですが。私たちはフランシーヌ・ロラールからはっきりした完全な自白を得ることができたのです。それからエスピノーザやジャンヌ・ルクレルクやモーリス・テヴネなどの自認、それらも結局は自白のうちに入るでしょう。私たちはそれらを全部まとめあげてみました。その結果、あなたやベクス氏が処理しなければならない事件の新たな局面が展開してきたのです――単なる殺人未遂ではなく、殺人の告訴――ハーロウ夫人殺人事件の告訴です」
ジム・フロビッシャーは口をはさもうとしたが、思いとどまった。
「先をつづけて下さい!」彼はそういうだけで自分をおさえた。
「どういうわけでベティ・ハーロウは匿名の手紙など書くようになったのか? ボリス先生がそれとなくいっていたように、地方のまちに住む美しく情熱的な若い少女にとって、人生が単調だからでしょうか? 刺激を求めたためでしょうか? 生れつき邪悪な、アブノーマルなものが彼女の心の一部にあり、彼女が生長して行くにつれてだんだんに表に現われてきたからでしょうか? 夫人の看護が大変だったからでしょうか? 多分、これらの要素が一しょになって、彼女にそんなことを思いつかせたのでしょう。そして突然そのことが彼女にとって容易に実行できることになったのです。彼女はハーロウ夫人の寝室にある箱の中で、一枚の領収書をみつけました。それはパリのバチニョール通りの建築業者、シャプロン商会から十年前に出された領収書でした。ところであなたも宝物室の暖炉の灰の中で燃えのこった領収書を見ましたね。その領収書が宝物室とブレビザール館との間にある秘密の通路の存在を彼女に知らせたのです。なぜならそれは、サイモン・ハーロウの注文によってそれを修理した建築業者の領収書だったからです。サイモン・ハーロウの所有物だった古いタイプライターとブレビザール館の完全な秘密性が、この遊戯を完全かつ容易なものにしたのでした。しかし機会がふえれば、それだけ欲望の方も強くなるものです。ベティ・ハーロウは権力の味をおぼえるようになりました。彼女は何人かの者に秘密を打ち明けたのです――女中のフランシーヌ、モーリス・テヴネ、ジャンヌ・ルクレルク、そしてこの上もなく有用な人物であるジャン・クラデル――そして一度仕事がはじまると、一味の数はふえ、恐喝ということになってきたのです。ベティ・ハーロウの恐喝、あなたはよくおわかりのことと思います! 小さな女王である彼女は、今やみじめな奴隷になったのです。テヴネには情婦を、エスピノーザには車と家を、ジャンヌ・ルクレルクには贅沢な品物をあてがってやらなければならない。そんなわけで匿名の手紙は当然のことながら恐喝状に変っていったのです。モーリス・テヴネはディジョンとその近隣の警察の事情をよく知っています。ジャンヌ・ルクレルクは保険会社の重役を友人――とでもいっておきましょうか?――にしていました。実際、恐喝をする者にとって――つまりお客の――資産状態を正確に知ることより重要なことはないのです。このようにこの遊戯は、金が足りなくなりどこからも集められなくなるまでは、楽しくつづいて行きました。ベティ・ハーロウはディジョン中を見回したが、さしあたり恐喝できそうな相手が一人も見当らなかったのです。ところが、一人だけいたのです! ベティ・ハーロウを正当に取り扱うため、その提案はあの前途有望な新人、モーリス・テヴネの口から出たものであると信じることにしましょう! フロビッシャーさん、その一人とはだれだったと思いますか?」
アノーの説明でだんだんに真相に導かれていったにもかかわらず、ジム・フロビッシャーは今もって推測することができなかった。
「そうです。他ならぬハーロウ夫人です」アノーの言葉をきいて、ジム・フロビッシャーはとても信じられなかったが、思わずぞっとして後ろにとびのいた。アノーはさらに言葉をつづけた。「そうです、実際その通りなんです! ハーロウ夫人は、ド・プイアック邸でダンスパーティがひらかれた夜、アン・アプコットと同じように夕食の時間に手紙をうけ取ったのです。夫人がその日の夕食をベッドの中でとったことは、あなたもおぼえているでしょう。看護婦のジャンヌ・ボーディーヌもその手紙を読まされて、それをよくおぼえているのです。その手紙は多額の金を要求していて、ハーロウ夫人が世間に知られるのを好まない何通かのラブレターのことにふれていました――あなたにもわかると思いますが、あまり露骨にではなく、しかしラヴィアール夫人とサイモン・ハーロウの密通も『鞭』にはよくわかっているのだということを、よくわからせる程度にね。フロビッシャーさん、まだあなたを驚かせることがあります。その手紙はジャンヌ・ボーディーヌだけではなく、お休みなさいをいいにきたついでに新調した銀の紗のダンス用フロックと銀色の上靴を見せようと思って入ってきた、ベティ・ハーロウにも見せられているのです。いつか図書室で罠にかけるつもりで、ベティ・ハーロウがダンスパーティに出かけたあと、夫人がジャンヌ・ボーディーヌに何といったかという供述書を読みたくないようなふりをした時、ベティ・ハーロウが少しばかり度を失ったのも無理からぬことです。私には、それがひどく不愉快な罠だとはどうしても思えないんですがね!」
「だが、ちょっと待って下さい!」フロビッシャーは口をはさんだ。「ハーロウ夫人がその手紙を先ずジャンヌ・ボーディーヌに見せ、そのあとジャンヌ・ボーディーヌのいる前でベティ・ハーロウに見せたのなら、ワベルスキーが告訴した時、ジャンヌ・ボーディーヌはどうしてすぐそのことを予審判事にいわなかったんですか? 彼女は何もいわなかったじゃありませんか! そうです、彼女は何もいわなかったじゃありませんか!」
「どうして彼女はいわなくてはいけないんです!」アノーは答えた。「ジャンヌ・ボーディーヌは善良で控え目な娘です。彼女にとって、ハーロウ夫人の死んだのは、睡眠中の自然死、あらかじめ予期されていた死に方としか思えなかったのです。ジャンヌ・ボーディーヌは、ワベルスキーの告訴など信じていませんでした。彼女にとって、古いスキャンダルをあばきたてる必要などどこにあるのでしょう? 彼女自身、匿名の手紙のことは何もいわないでくれと、ベティ・ハーロウに申し出ているんですからね」
ジム・フロビッシャーはその話をよく考えたあげく、「ええ、彼女の考え方はわかります」といってその話を認めた。そこでアノーは話をつづけた。
「ところで、ベティ・ハーロウはテイエール通りのダンスパーティに出かけました。アン・アプコットは自分の居間にいます。ジャンヌ・ボーディーヌはその夜の看護を終えました。ハーロウ夫人は一人きりになったのです。そこで夫人は何をしたでしょう? 酒を飲んだでしょうか? いや――その晩は飲まなかったのです。彼女は腰をおろして考えてみました。自分がサイモン・ハーロウと結婚する前に、彼とやりとりした手紙の一部は、まだのこっているのだろうか? 自分では全部焼き捨てたつもりだったが。しかし彼女も女だから、そのうちのいくつかは取ってあるかも知れない。もし取ってあるとすれば、どこに置いてあるだろう? そうだ、あの秘密の通路の向こうにある例の邸だ。そんな考えが彼女の頭をかすめすぎたに相違ありません。彼女はベッドから立ちあがると、化粧着と靴をひっかけ、宝物室に通じている境のドアの鍵をあけると、秘密の通路を通って、だれもいないブレビザール館に出かけたのです。フロビッシャーさん、彼女はそこで何をみつけたと思います? 毎日使われている部屋、帝政時代風の書き物机の一番上の引出しの中にきちんと入れてある彼女の手紙の束、そしてその机の上には、サイモン・ハーロウの所有物であったコロナ・タイプライターと、匿名の手紙に使用した便箋や封筒が置かれていたのです。その部屋にはいれる者はたった一人しかいないはずです。それは、彼女がこれまで庇護者をもって任じてきた少女、きびしく接しながらも、深い愛情をそそいできた少女だったのです。その夜の十一時頃、フランシーヌ・ロラールは、自分の寝室にハーロウ夫人の入ってきたのを見て、すっかり驚いてしまいました。しばらくの間、フランシーヌは夫人が酒に酔っているのではないかと思いました。しかし彼女はすぐさま事情を察したのです。彼女は、起きてベティ・ハーロウのかえってくるのに気をつけ、かえってきたらすぐ夫人の寝室につれてくるようにいいつけられたのです。一時に、フランシーヌ・ロラールは暗い玄関の広間で待っていました。ベティがパーティからもどってくると、フランシーヌ・ロラールは、夫人からの伝言を彼女に告げたのです。二人ともまだ、自分たちの悪事がどのくらい発覚したのかわかっていませんでした。だが、ともかくも何かが発覚したにちがいない。ベティ・ハーロウはその場にフランシーヌを待たせると、足音をしのばせて自分の部屋にかけあがりました。ベティは発覚した時の用意を整えたのです。彼女は火あそびこそしていましたが、火傷などするつもりはなかったのです。彼女は矢の毒の用意をしました――そうです、自分自身に使う用意をね。注射器に液を満たし、手袋の内側にかくして、自分の恩人に対決しに出かけたのです。
自分のロマンスと悲劇を利用され、侮辱されたこの女性が、フランシーヌ・ロラールの前ではげしい怒りをぶちまけた光景は、あなたにも想像することができるでしょう。身ぐるみはがれるのはワベルスキーではありませんでした――それは美しい銀のフロックと銀色の靴を身につけた少女だったのです。そしてさんざんあしざまにいわれて、自分の意図を変えた少女のことも、あなたは想像できるでしょう。伯母を殺すことによって――財産も自由も地位も一切のものを手に入れることができるのに、どうして矢の毒で自殺などする必要があるのでしょうか? ただ彼女はぐずぐずしているわけには行きませんでした。夫人の声は狂暴になり、ますます高まって行きます。昔風の厚い壁のついているこの家の中でさえも、ジャンヌ・ボーディーヌかだれかが、そのそうぞうしい声で眼をさますかも知れない。そこで一瞬のうちに残酷きわまりない犯行が行なわれたのです。ハーロウ夫人はベッドの上に投げ倒される。フランシーヌ・ロラールによって、夫人の口はしっかりとふさがれ、注射器が射しこまれる。『これでいい』という言葉が、ベティ・ハーロウの口からささやかれる。ところがまっくらな宝物室のドアのところにアン・アプコットが立っていて、その声をきいた。彼女には、私とあなたがジャン・クラデルの家の窓からささやかれた声がだれの声だかわからなかったように、そのささやきがだれの口からもれたものだかわからなかったが、その恐ろしい言葉は彼女の記憶に深くきざみこまれたのです。そして犯人たちはどちらもそのことを知らなかったのです。
二人はおちつきはらって手紙をさがしはじめました。しかし手紙はみつからなかったのです。なぜなら夫人は、古い領収書や書類を入れる貴重品箱の中に押しこんでいたからです。二人はもとのようにベッドを直すと、夫人を眠っているようにベッドに横たえ、宝物室に入っていったのですが、後ろのドアに錠をおろすのを忘れてしまったのです。恐らく二人はブレビザール館にいったものにちがいありません。ベティ・ハーロウは矢の毒ののこりと注射器をどこか安全な場所にしまわなければなりません。だがほかにどこか安全な場所があるでしょうか? そして最後に、次の日の朝、『人殺し!』という叫びをあげさせる、一片の証拠ものこさないように、一切のことに気をくばると、ベティはアン・アプコットが眠っているかどうかをたしかめるために、こっそりと階段をのぼっていったのです。そしてアン・アプコットは眼をさまし、手をのばしてベティの顔にさわったのです」
「フロビッシャーさん」アノーはそういうと立ちあがった。「これが、あなた方の刑事事件といっているものです。あなたとベクス氏の受けもたなければならない事件です」
ジム・フロビッシャーは、この会見のはじめにいいかけたことを口に出そうと心にきめた。
「あなたからうかがったことは、そのままベクス氏にいっておきましょう。ぼく個人としてもぼくの事務所にしても、ベクス氏にはあらゆる助力を惜しまないつもりです。しかし被告側との正式な関係はもうなくなっているのです」
アノーは当惑したようにフロビッシャーの方を見た。
「何のことだかよくわかりませんね。今、依頼人をほうり出す時だとは思えませんが」
「ぼくもほうり出すべきだとは思いません」フロビッシャーはいった。「ほうり出したのは向こうです。ベクスさんからきいたのですが、とても――何といったらいいでしょうか?」
アノーはかすかに唇をひきつらせながら、彼の言葉を補った。
「とてもはっきりと」
「ベクス氏の言葉によると、ベティは二度とぼくにあいたくないそうです」
アノーは窓のところに歩いていった。フロビッシャーの声や表情にはっきりと現われている屈辱感が、アノーの心を動かした。アノーはひどくやさしい口調でいった。「私には彼女の気持が理解できます。あなたには理解できませんか? 彼女はこの一週間の間、大きな賭のためにずっと戦ってきたのです。自由、財産、名声――それからあなたという人のために。ええ、そうなのです」フロビッシャーはテーブルのところで身動きをしたが、アノーは言葉をつづけた。「では、率直にいいましょう。フロビッシャーさん、それはあなたのためでもあったのです! あなたは彼女の友人たちとは少しばかりちがっています。彼女は最初からあなたに強くひかれていたのです。私がグルネル荘にいった最初の朝のことをおぼえていますか? あなたはアン・アプコットに泊ると約束しましたが、それはベティ・ハーロウの同じさそいをことわったすぐあとのことでした。その時、嫉妬のはげしい怒りが彼女の眼の中にもえあがったのを見て、私はやむを得ず彼女の秘密を知ってしまったことに気づかれないように、ステッキを大きな音をたてて広間の床に落さなければならなかったのです。ところで、この賭のために戦って負けたのですから、彼女はあなたにあいたくはないでしょう。しかもあなたは、彼女が手錠をかけられ、羊のように両足をしばられたところを見ているんですからね。彼女の気持はよく理解できます」
ジム・フロビッシャーは、アノーがブレビザール館の部屋にとびこんでからというもの、一度も彼の顔を見ようとしなかったことを思い出した。ジムは椅子から立ちあがると、帽子とステッキを手に取った。
「ベクスさんに今の話をしたら、すぐロンドンの共同経営者のところにもどって報告しなければなりません」彼はいった。「そこでぼくはその報告を完全なものにしたいのです。あなたは一体いつからベティを犯人だとにらんでいたのですか?」
アノーはうなずいてみせた。
「そのこともちゃんとお話ししますよ。いや、お礼なんかいう必要はありません! もし巡回裁判でどんな判決が下されるか確信をもっていなかったら、こんな打ち明け話を進んでするかどうかは疑問です。まだばらばらになっている筋道をあなたのために一つにまとめてみましょう。だが今、ここでではありません」
アノーは自分の時計に眼をやった。
「ごらんなさい、もう正午をすぎています! もう一度二人で、フィリップ・ルボンの展望塔にのぼってみましょう。フランスの同盟国全部にまたがっているモンブランの山を見ることもできるでしょう。さあ! あなたのメモをもってそこに行きましょう」
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二十六 ノートル・ダムの正面
またしても彼らは幸運にめぐまれた。もはや雲もない日で、そびえたつ銀色の峰々が、不思議な魅力をもって青い空にくっきりと輪郭を描いていた。アノーは黒い煙草に火をつけると、いやいやながら山々から眼をはなした。
「この事件には、二つの大きな失策があったのです」アノーはいった。「そのうちの一つはごく最初の頃、ベティ・ハーロウが、もう一つは終末に近い頃私がやったものです。そしてその二つの中では、私のものの方がより弁解の余地の少ないものでした。そんなわけですから、先ず事件の発端からはじめてみましょう。ハーロウ夫人が自然死をとげ、埋葬される。ベティ・ハーロウはハーロウ家の財産を相続する。ボリス・ワベルスキーが彼女に金を要求し、彼女はそれを無視する。金をやる理由など何もないからです。ところが彼女は、それを無視したことを一週間あとにはひどく後悔したにちがいありません! ワベルスキーが突然爆弾を投げつけたからです。ハーロウ夫人は姪のベティに毒殺されたという爆弾を。それをきいた時のベティの気持を想像してみて下さい! その告訴は途方もないばかげたものでした。たしかにその通りです! しかしそれはまた真実でもあったのです。ほんの一瞬前まで、彼女は安全でした。彼女に危害を加えるものは何一つなかったのです。それが突然危険にさらされるようになったのです。彼女はおびえてしまいました。彼女は予審判事のところで尋問されたのです。予審判事は彼女にとって不利なことは何一つさぐり出すことはできなかった。ここで彼女が失策をしでかさなかったら、一切のことはうまくいったことでしょう。しかし彼女が失策をする機会は充分にありました。ともかくも彼女は人を殺しているんですからね。彼女にとって危険なのは、ワベルスキーの証言などではなく、実は他ならぬ彼女自身だったのです。二日ばかりして、彼女は前よりも一そうおびえ出しました。アノーがパリからよばれてやってくるというニュースをきいたからです。そこで彼女は失策をしでかしました。ロンドンのあなたに宛てて電報を打ってしまったのです」
「どうしてそれが失策だったのです?」フロビッシャーは即座にたずねた。
「なぜなら、私がすぐ次のように自問し出したからです――『アノーが呼ばれていることを、ベティ・ハーロウはどうして知ったのだろう?』と。そうです、たしかに私は、パリの警視庁で、ディジョンの警察の連中の裏切りにすっかりうろたえてしまったのです。しかし私は、その電報を一言も信じませんでした。そうです、私はすぐさまベティ・ハーロウという人物に好奇心をもちました。それだけでした。今でも私は彼女に好奇心を抱いています。ところで、私たちはディジョンにやってきました。するとあなたが、あの電報を私に見せたと彼女にいったのです」
「そうです」ジムはその事実を認めた。「あなたのいわれる通りです。それからぼくはおぼえています」彼はゆっくりとつけ加えた。「彼女は窓枠の上に片手を置いていました――そうです、まるで体をささえるようにね」
「しかし彼女はすぐに自分をとりもどしたのです」アノーは感心したようにうなずきながら答えた。「ベティはあの電報について説明しなければならなくなったのです。モーリス・テヴネがいそいで知らせてきたのだと私にいうわけにはいきませんでした。絶対にね! そこで私が、例の匿名の手紙――それがディジョンにおける私の本来の仕事であったことを思い出して下さい――をうけ取ったことがあるかとたずねた時、彼女は即座に、『ええ、日曜の朝一通うけ取りました。そしてそれには、私を片づけるために、アノーさんがパリからくることになっていると書いてありました』といったのです。ずい分早いじゃありませんか。しかし私はそれがうそだということを知っていました。なぜなら、私が呼ばれるという話は日曜の夜までは全然もちあがらなかったからです。そこでベティは苦しい立場に追いこまれました。私は彼女にその手紙を見せてほしいといいました。彼女はそれを破りすてたというわけには行きません。もしそんなことをいえば、手紙など全然うけ取っていないとすぐ信じこまれてしまいますからね。そこで彼女はそんなことはいわず、封印がとられる前にそれを書き、ブレビザール館からもって行けばいいと考え、手紙は封印のはられている宝物室の中にあるといったのです。しかし手紙が宝物室にあるといった以上、それは日曜の朝うけ取ったことになります。宝物室に封印のはられたのは日曜の朝だったのですからね。彼女は私を呼ぶ話が最初いつもちあがったのか、全然知らなかったのです。彼女がいいかげんなでたらめをいったので、私は彼女がうそをついているのを知り、ベティ・ハーロウという少女に前よりも一そう好奇心を抱くようになったのです」
彼はそこで言葉を切った。なぜなら、ジム・フロビッシャーが眼に恐怖の表情をうかべて、じっとみつめていたからだった。
「すると、彼女をあやしいと思わせたのは、このぼくだったんですね?――彼女を弁護するためにやってきたこのぼくが!」ジムは叫んだ。「あの電報をあなたに見せたのは、このぼくなんですから」
「いいですか、フロビッシャーさん、あなたが信じていたように、もしベティ・ハーロウが潔白だったら、そんなことは何の問題にもならなかったでしょう」アノーが重々しい調子でいったので、フロビッシャーは口をつぐんでしまった。
「そこで私は、ベティと最初にあったあと、あなたと彼女が図書室で話をしている間、邸の中を調べて回ったのです!」
「なるほど」ジムはいった。
「そしてアンさんの居間で、一目見て興味をおぼえた一つのものをみつけたのです。さあ、何だかあててごらんなさい!」アノーは、この判じものがジムの自責の念を取り去ることを願いながら、彼の方に頭を向けた。そしてその試みはある程度までうまくいったようだった。
「それならぼくにも当てられます」フロビッシャーはかすかに微笑して答えた。「ストロファントスの論文ですね」
「その通りです! 矢の毒! 何の跡ものこさない毒薬! フロビッシャーさん、あの毒薬は私にとって全く悪夢のようなものでした。あれを最初に使う毒殺者とは、一体だれなのだろう? どうやってその人間と互角に戦い、砒素や、青酸と同じように安全ではないということを証明することができるのだろう? これらの問いが私をおびやかしつづけてきたのです。すると心臓衰弱で人の死んだ家の中で、突然思いがけず、その毒に関する無味乾燥な論文が、若い女性の居間の雑誌の山の下にかくしてあるのをみつけたのです。私は本当に驚いてしまいました。どうしてこんなものがあるのか? どうやってここにもってこられたのか? 私は表紙の上に、ある頁を示している覚え書きが書かれているのをみつけたのです。私はその頁をあけてみました。すると、そこには、私の顔をにらむように、サイモン・ハーロウ氏所有の毒矢とそっくり同じもののことが書いてあるではありませんか。匿名の手紙ですって? そんなものはすぐ忘れてしまいました。もしあのろくでなしのワベルスキーが何も知らないのに実は正しく、ハーロウ夫人がグルネル荘で殺されたのだとしたら、どうだろう? 私はそれをみつけ出さなければならない。私はその論文を背中のチョッキの下に押しこむと、いくつかの問いを自分に向かって発しながら、ふたたび階下におりて行きました。アンさんは、ストロファントス・ヒスピドスのようなことに興味をもっているのだろうか? それとも、ハーロウ夫人の死から何かを期待しているのだろうか? あるいは、自分の部屋の雑誌の山の下に、あの論文のあったことなど、全然知らないのではないだろうか? 私にはわかりませんでした。私の頭の中は多少混乱していたのです。私はそんな時、アンをみつめているベティ・ハーロウの邪悪な眼つきに気がつきました――フロビッシャーさん、正体を現わしているその眼つきにね。私は、無邪気で真面目なごく普通のお嬢さんを相手にしていたのではなかったのです。そうです、私はベティ・ハーロウという少女に、前よりも一そう強い好奇心をおぼえながら、グルネル荘を立ち去ったのです」
ジム・フロビッシャーはすばやくアノーのそばに腰をおろした。
「本当にそうなんですか?」彼はうたがわしげにたずねた。
「その通りです」アノーは不思議そうな顔をして答えた。
「あなたは忘れていらっしゃるんですね? あの日グルネル荘を出ていったすぐあと、あなたは門のところから警官を立ちのかせたじゃありませんか」
「いや、忘れてなんかいません」アノーは平然として答えた。「白いズボンをはいた警官なんて、全くばかげています――それどころではありません。実際、邪魔なものです。見張られているのを知っている人間を見張ったところで、ほとんど役に立ちますまい。そこで私は警官を立ちのかせた方が、グルネル荘のお嬢さんたちをよく見張ることができると考えたのです。そしてあの日の午後、フロビッシャーさんがホテルから荷物をうつしている間に散歩に出かけたベティ・ハーロウを、ニコラ・モローに慎重にあとをつけさせたのです――ところが彼は見失ってしまいました。私はニコラを責めるつもりはありません。彼女のすぐ近くまで近よるわけには行かなかったんですから。彼女はその時、ブレビザール館のそばの例の小道にいたのです。彼女が姿を消したのは、それから数日後私たちが通り抜けた塀についている小さな裏門からだったにちがいありません。彼女はうけ取ったという匿名の手紙を書いて、宝物室の封印が取り去られる時、私に渡せるようにしておかなければならなかったのです。しかしその時はまだ私にはわかっていなかったのです。全くね! 私にわかったことといっては、ベティ・ハーロウが散歩に出かけて姿を消し、一時間たってから別の通りに姿を現わした、ということだけでした。一方私は、二人のお嬢さんの生活と友人についてできるだけ調べて、その日の午後をすごしたのです。その調査は必ずしも収穫の多いものとは思われなかったが、全く無駄だったわけではありません。なぜなら、私はベティ・ハーロウのグループに変った友人のいるのをみつけたからです。ところで、フロビッシャーさん、ここのところをよく考えてみて下さい! 社会的にしろ、政治的にしろ、文学的にしろ、そのいずれにしろ、進歩的な思想をもった少女だったら――変った友人がいたところで別におかしくはありません! むしろそういう友人のいる方があたり前でしょう。しかしどう見てもその階級にふさわしい普通の生活を送っている少女の場合は、また話がちがってきます。彼女の場合は、変った友人は――やはりおかしいのです。エスピノーザ兄弟、モーリス・テヴネ、ジャンヌ・ルクレルク――いずれも安っぽい俗悪な連中ばかりです――そんな連中を優美な陶磁器のようなベティ・ハーロウの友人だと、どうやって説明したらいいのでしょう?」
ジム・フロビッシャーはうなずいた。彼もまた、エスピノーザとベティ・ハーロウの親しさに少しばかり困惑をおぼえていたのである。
「あなたがお嬢さんたちと涼しい庭の中でこの上もなく楽しい時間をすごしていた夜」アノーは言葉をつづけた。「私はエディンバラ大学教授の論文を読んでいたのです。そして私は、ちょっとした罠をかけてみようと思いました。そうです、そして次の日の朝早くグルネル荘に出かけて、その罠をかけてみたのです。つまり、毒矢の本を本棚の眼につきやすい場所に入れておいたのです」
アノーは例の青い包みからもう一本黒い煙草を引き抜き、ジムにもすすめる間、話を休んだ。
「それからあのろくでなしのワベルスキーとあうことになり、彼の口から、ジャン・クラデルの店の近くにあるガンベッタ通りでの、ベティ・ハーロウに関する奇妙な話をきいたわけです。彼のいっているのはうそであるかも知れない。あるいは本当であるかも知れないが、そうだとすれば彼の見たことは偶然のことではないだろうか。そうだ! しかしまた、それは今考えているハーロウ夫人の他殺説にも適合する。もしあの毒が使われたとすれば、だれか薬の調合を知っている者によって、矢に塗りつけてある毒から溶液が作られたにちがいないからです。そこで私は、前よりも一そうベティ・ハーロウに好奇心をおぼえるようになったのです! そこでワベルスキーが出て行くや否や、早速罠をばねではねかえらせ、予期以上の大成功を収めたのです。私はエディンバラ大学の教授の論文を指さしました。昨日はここになかったが、今日はちゃんとある。では、一体だれがその論文を本棚にもどしたのか? そんなふうに質問してみたのですが、アンさんは何のことだかさっぱりわからない様子でした。彼女はその論文のことを全然知らなかったのです。それはあの空にそびえているモンブランのようにはっきりしていました。一方ベティ・ハーロウの方は、その本をだれがもどしたのかすぐに気がつき、あてこすりという実に愚かな衝動にかられて、自分がそれを知っていることを私に知らせてしまったのです。私がそれを昨日みつけ、調べたあげく本棚にもどしておいたことを、ベティは知っていたのです。そんなわけで彼女は少しも驚きませんでした。そうです。彼女は私がどこでそれをみつけたのかも知っていたのですから。私はアン・アプコットの部屋の雑誌の下にそれをつっこんだのは彼女であることを、ワベルスキーと同じように頭ではわからないながら心では充分に了解したのです。ベティ・ハーロウは、万一嫌疑がかけられた場合、それをアン・アプコットに転嫁する準備をしていたのです。だが、もし潔白な人間だったら、絶対にそんなことはしないはずです。
それから私たちは庭に出、アンさんが話をしてくれました。フロビッシャーさん、私はそのすぐあとで、大犯罪を犯した女はみんな名女優ばかりだと、あなたにいいましたね。しかし私は、あの話をきいていたベティ・ハーロウほど、絶妙な演技をした女を見たことがありません。想像して下さい! ひそかに残忍な殺人が行なわれ、突然犯人が、犯罪を調べにきた探偵のいる前で、その事件の真相をきかなければならなくなったのです! そしてその間ずっとすぐそばに一人の女性がいた――その女性は目撃者といってもいい――いや、恐らく本当の目撃者だったかも知れないのです。ベティはその話が全部終るまでは、自分が安全かどうかわからなかったのです。あの心地のよい庭で、その時ベティ・ハーロウがどんな気持でいたか、一つ想像してみて下さい! さまざまな疑問が彼女の胸中をあわただしく走りすぎていたにちがいないのです! アン・アプコットは結局こっそり前に進み出て、明るいドアのところから中をじっとのぞきこんだのだろうか? アンは前から真相を知っていて――アノーとフロビッシャーのいる前で安全に話すことのできるこの瞬間まで、それをかくしていたのではないだろうか? 次の瞬間には『そして私のとなりに坐っているのが犯人です』といい出すのではないだろうか? それはベティ・ハーロウにとって、全く恐ろしい瞬間だったにちがいありません!」
「しかしベティは全然苦しんでいるようなそぶりはみせませんでしたね」フロビッシャーはつけ加えた。
「だが、用心はしていました」アノーはいった。「不意にすばやく家の中に走りこんで行きましたね」
「そうです、あなたがとめようとしたのかと思いましたが」
「たしかにその通りです」アノーは言葉をつづけた。「しかし私は彼女を行かせました。そして彼女はもどってきたのです――」
「ハーロウ夫人の写真をもってね」フロビッシャーが口をはさんだ。
「おお、写真だけではなかったのです」アノーは大声で叫んだ。「彼女はアンさんの方に椅子を向けました。そしてハンカチを手にもって腰をおろし、ハンカチを顔にあてたまま、話に耳を傾けていました――思いやりのあるやさしい友人としてね。ところが、犯行の時間は十時半だというアンさんの言葉をきいた時、彼女は突然気のゆるみをおぼえたのです――気がゆるまないわけには行かなかったのです。そして気のゆるんだ瞬間、彼女はハンカチをおとしたのです。彼女はすぐさまそれを拾いあげました。そうです、しかしハンカチのおちた場所に足をのせ、話が全部終って、私たちが椅子から立ちあがった時、かなりの力をこめてぐるりとかかとで回ったので、よく水のまかれている芝生に穴が一つあいたのです。彼女がハンカチに包んで家の中からもち出してきたもの、そしてハンカチと一しょに下におとしてだれの眼にもふれないように全身の重みをかけて芝生の中に押しこんだもの、それが何であるか私は知りたくて仕方がなかったのです。実をいうと、もどっていって調べるために手袋をわざと置き忘れてきたのです。しかし彼女の方が私よりすばやかった。彼女は私の手袋を自分で取ってきてしまいました。あんな美しいお嬢さんにこのアノーが世話を焼いてもらうなんて全くお恥ずかしい次第です。しかしそのあと、あなたや署長や他の人々が図書室で私を待っていた時、私はそれをみつけました。署であなたにお見せした青酸カリの錠剤がそれです。ベティには、アン・アプコットがどの程度まで真相を明らかにするのか、見当がつかなかったのです。矢の毒の方はブレビザール館にかくしてありました。ところが彼女は、もっとききめの早い――雷にうたれて死ぬように瞬間的に死ねる薬を手もとにもっていたのです。そこで彼女はそれを取りに家の中に走っていったのです。その錠剤を口のそばにもちながら、あそこに坐っているには、どれほど大きな勇気を必要としたことでしょう。彼女の顔はだんだんに蒼白になって行きました。もちろん、それも無理からぬことです。私が心配していたのは、彼女が私たちの眼の前で完全に気を失い、椅子からころげるのではないかということでした。しかし、その心配は無用でした! 彼女は必要に迫られれば、私の手が抑える前に、すばやくその錠剤をのみこもうと手ぐすね引いて待っていたからです。くり返していいましょう。潔白な人間はそんなことをしないものです」
ジムはそれに答える論拠をもっていなかった。
「なるほど」彼は認めないわけには行かなかった。「その錠剤をジャン・クラデルから手に入れることは不可能ではなかったわけですからね」
「その通りです」アノーはふたたび言葉をつづけた。「私たちは昼食を食べるために別れ、午後に封印が取り去られることになりました。その前に、いくつかしておかなければならないことがある。宝物室の置時計をマントルピースの上から寄木細工の飾り棚の上にもってこなくてはならないし、手紙も何通か焼かなければならなかったのです」
「なるほど。しかし一体どういうわけです?」フロビッシャーは熱心にたずねた。
アノーは肩をすくめた。
「手紙はもやされました。だからそれを説明するのは困難です。私としては、サイモン・ハーロウとラヴィアール夫人の間に交わされたそれらの手紙が、しばしば秘密の通路にふれていたからだと思います。しかしそれも推測の域を出ません。昼食の間に、私が確実に知ったのは、秘密の通路があって宝物室からブレビザール館に通じているということでした。今度はニコラ・モローもうまくやったのです。彼はベティをつけてブレビザール館まで行き、私は私で煙突から煙が立ちのぼるのをこの塔から見たのでした。ほら、フロビッシャーさん、あそこです! もっとも今日は煙が出ていませんが」
彼は立ち上ると、モンブランに向かって背を向けた。庭の木々、勾配の急な黄色い模様のある屋根、何本かの煙突、そんなものがまわりの小さな建物の中で際立って見えた。今日は一本の煙突からしか煙が出ていなかったが、それは台所のある建物の一番端にある煙突だった。
「それから私たちは午後になってもどってきました。封印が取り去られ、私たちはハーロウ夫人の寝室に入ったのですが、その時私に説明のつかない一つのことが起こったのです」
「ネックレスがなくなったことですね」フロビッシャーが自信ありげにいうと、アノーは愉快そうににやりと笑った。
「ごらんなさい、罠をかけると、すぐひっかかってしまう!」アノーは叫んだ。「ネックレスですって? 多分そうくるだろうと思っていました。だが、まるっきりちがいます! アンさんに罪をきせようというわけですね。たしかにその通りです! しかし彼女の部屋に毒矢の論文をかくすだけではまだ不充分です。動機という奴も用意しておかなくてはならない。アンさんは貧乏で相続するものもない。だが十万ポンドのネックレスがなくなれば、人はそれぞれ勝手な結論を引き出すにちがいありません。だが、ちょっとした説明のつかないことというのは、またそれとは別なのです。ベティ・ハーロウとお人よしの署長とは、夫人の部屋の叫び声がきこえるかどうかをたしかめるために、ジャンヌ・ボーディーヌの寝室に行きましたね」
「ええ」
「署長の方はもどってきました」
「ええ」
「ところが、もどってきたのは彼一人だけでした。私のいった説明のつかないちょっとしたことというのは、それなのです。ベティ・ハーロウは一体どこにいるのだろうか? 私は宝物室に入る前に彼女はいないかと思っていると、どうでしょう! 私たちのいる所に、ひどくしとやかにこっそりと彼女が知らぬまにきているではありませんか。私はそのことにひどく興味をもち、その説明を手に入れようと、眼を皿のようにしていたのです」
「おぼえています」フロビッシャーはいった。「あなたはドアに手をかけて立ち止り、ベティをさがしていました。ぼくはあなたがどうして立ちどまったりしているのか不審に思っていたのです。彼女のいないことなど、大したことだとは思わなかったのです」
アノーは片手をふった。彼は満足していた。彼は芸術家のような気分にひたっていた。長い緊張と苦労のあとで、仕事はようやく終った。今度はせいぜいほめてもらわなくては!
「フロビッシャーさん、その中でも宝物室から得るところが多かったと思います。しかし、ここであなたのメモの中の疑問の一つに答えておきましょう。私は部屋の中に入るとすぐ、ブレビザール館に通じている秘密の通路の入口をさがしました。入口はすぐみつかりました。それは一か所しかない。壁のくぼみに体裁よくすえつけてあるエレガントな椅子轎です。そこで私は毒矢をさがすために、そのクッションの間をのぞきこんだりしないように極力注意をはらいました。匿名の手紙の入っている消印のついた封筒を見せてくれといったりしないように極力注意をはらったようにね。ベティ・ハーロウが古狐のアノーに一ぱいくわせたと思っているのなら――まあ、それも結構です! 彼女にそう思わせておけばいい。そこで私たちは二階にあがって、ひどく私をなやませてきた、どうしてベティ・ハーロウがいなくなったか、という理由を知ったのです」
ジム・フロビッシャーは、アノーの顔をじっとみつめた。
「どうも」ジムはいった。「ぼくにはわかりませんね。ぼくたちはアン・アプコットの居間に入って行きました。ぼくは毒矢の柄でメモを書き、あなたはそれに気がついた。その通りです! しかしベティ・ハーロウがいなくなったことの方は! いや、それは全然わかりません」
「しかしわかっているはずです」アノーは叫んだ。「そのペンなのです! 前の日、私が本をみつけた時は、それはペン皿に入ってはいなかった。そこにはたった一本のペン――若い女の子がよく使っているあのおかしな代物、大きな赤く染めてある鷲ペンが一つあるだけで、ほかには何もなかったのです。矢の柄はそれからあとになって置かれたものにちがいありません。ではいつ置かれたのだろうか? そうです、ついいまし方です。それは明瞭だ。それなら、毒矢の柄はそれまでどこにあったのだろうか? 二つの場所のうちのどちらかです。つまり、宝物室か、ブレビザール館のいずれかです。ベティ・ハーロウは自由に抜け出すことのできたあの時間の間に、それを取ってきたのです。彼女は自分のドレスの中にこっそりとかくして、私たちが一しょにハーロウ夫人の寝室の中に入った時、その機会を利用したのです――首尾は上々!――嫌疑を一そう強力なものにするために、アンさんのペン皿の中にそれがあったというわけです! 私はベクス氏と一しょに外に出ました。そしてベクス氏は真珠の一ぱい入っているマッチ箱を溝の中でさがすべきだという、あっぱれな提案をしたのです。私も賛成しました――おお、そうです、それ以外に方法がありませんからね。ともかくもベクス氏の考え出したものなんですから! また一方、私はグルネル荘とブレビザール館に関する有益な情報を手に入れました。私はその情報を古文書保管所のある博識な男のところにもって行き、次の日の朝には、謹厳なエチエンヌ・ド・グルネルと快活なド・ブレビザール夫人に関する一切を知ったのです。そんなわけで、あなたとベティ・ハーロウがテルゾンの谷でリハーサルをしていた時、私とニコラ・モローとは、ブレビザール館でひどくいそがしい思いをしていたのです――その結果については、あなたもよくご存知のはずです。もっとも一つだけまだ話していませんでしたね。あの真珠のネックレスは書き物机の引出しの中に入っていました」
ジム・フロビッシャーは展望台を横切っていった。そうだ、事件の全貌は今はっきりとわかった――それは邪悪な情熱と虚栄、そして残忍きわまりない方法による、あくことを知らぬ権力渇望の物語だった。しかしこの暗澹たる物語には、一条の希望も光もないのだろうか? ジムは不意にアノーの方をふり向いた。まだ一つだけはっきりしていなかったことを知りたいと思ったのである。
「あなたはさっき弁解の余地のない失策をしたといっていましたね。それは一体何なんです?」
「私はあなたに、ノートル・ダムの正面を見て、アン・アプコットに対する私の評価を知るようにといいました」
「だから、いってみたんです」ジム・フロビッシャーは叫んだ。彼はなおもグルネル荘の方に眼を向けていたが、手を邸の左の方に向けてみせた。その指は、ベティ・ハーロウが車で彼をつれていった、丸屋根と涼み廊下のあるルネサンス式の聖堂を指さしていた。
「あそこです。入口の下のところに、『最後の審判』の恐ろしい浮き彫りがありました」
「たしかにその通りです」アノーは静かな口調でいった。「しかし、あれはサン・ミシェルの聖堂です」
アノーはフロビッシャーの向きを変えさせた。すると、彼とモンブランの間の、彼の足もとの近いところに、宝石細工のように精巧なつくりの、ゴシック式聖堂のほっそりした後陣がそびえていた。
「あれがノートル・ダムです。ここからおりて、正面を見に行きましょう」
アノーはそのすばらしい聖堂にフロビッシャーを導くと、その小壁を指さした。フロビッシャーの眼に入ったのは、半獣半人の悪魔、歯をむき出して笑っている豚男、後ろの方を見ようと首をねじ曲げて苦悶している怪物など、想像力のかぎりをつくした、古代の乱酔と悪徳の恐るべき姿の数々だった。そしてそれらの怪物の中にまじって、一人の少女が、その美しい顔に苦悩の色をうかべながら、両手をかたくにぎりしめて祈っていた。それは、これらの怪物に囚われた者が、通りすぎて行く人々にあわれみと助けを嘆願している、恐怖と信仰の姿だった。
「フロビッシャーさん、私のお見せしたいと思ったのはこれなのです」アノーは重々しい口調でいった。「しかし、あなたはごらんにならなかった」
話しながらアノーの表情は変っていった。その顔は好意とやさしさにみちあふれていた。彼は帽子をあげた。
驚嘆の眼でじっとその小壁をみつめていたジム・フロビッシャーは、後ろの方でアン・アプコットの声がするのに気がついた。
「アノーさん、それでは、この奇妙な浮き彫りをどう解釈なさいますの?」彼女は二人の男の横で立ち止った。
「お嬢さん、その説明はフロビッシャーさんがしてくれるでしょう」
アン・アプコットとジム・フロビッシャーの二人はあわててアノーの方をふり向いた。しかし、アノーの姿はすでにそこにはなかった。(完)
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訳者あとがき
これは、A・E・W・メイスンの代表作の一つである、The House of the Arrow(1924)の翻訳です。
この作品は本格推理小説の代表的名作の一つに数えられています。構成は綿密で、無駄というべきものはほとんどなく、人物も事件も無理がなく自然に描かれています。文章は平明で簡潔でありながら、一種の律動と格調を備え、常に均等化されていて、逸脱するところがありません。
この小説を読んでいて感じることは、一般の人生におけると同様、一見無難で常識的なものが常に誤っており、唐突で突飛のように見えるものが、かえって真実にふれているということです。前者を表わしているのが、好青年のジム・フロビッシャーであり、後者を表わしているのが、芝居がかった、くせの強い、非凡な探偵のアノーということになります。
メイスンは、この他にもアノーが登場するいくつかの推理小説を書いていますが、「薔薇荘にて」(1910)が、この「矢の家」とならんで代表的なものとされています。
なお、テキストには PENGUIN BOOKS を使用しました。