A・A・ミルン/古賀照一訳
赤い館の秘密
目 次
一 ミセス・スティーヴンズおびえる
二 ギリンガム途中下車
三 屍体をめぐるふたりの男
四 オーストラリアから兄帰る
五 ギリンガムの新職業
六 外側か内側か?
七 ある紳士の横顔
八 「ついてくるかね、ワトスン君?」
九 クロケーの箱の謎
十  ギリンガムたわごとを述べる
十一 アッシャー牧師
十二 壁にうつる影
十三 ひらいた窓
十四  ベヴァリーの名演技
十五  ノーベリー未亡人うち明ける
十六  その夜のための準備
十七  ベヴァリーの潜水夫
十八  推理
十九  検屍審問
二十  ベヴァリーの才気
二十一 ケイリーの手紙
二十二 ベヴァリーの追求
解説
登場人物
マーク・アブレット……『赤い館』の主人
ロバート・アブレット……放蕩者。マークの兄
マシュウ・ケイリー……マークの従弟で秘書役
アントニイ・ギリンガム……しろうと探偵
ビル・ベヴァリー……アントニイの片腕
ベティ・キャラダイン……ビルの恋人
ミセス・ノーベリー……近所に住む未亡人
アンジェラ……その娘
バーチ……警部
ミス・ルース・ノリス……舞台女優
オードリー・スティーヴンズ……小間使
エルジー……小間使
ミセス・スティーヴンズ……オードリーの伯母。『赤い館』のコック兼家政婦
ランボルド……陸軍少佐。『赤い館』の客
父上さま
世の心から善良な人々と同じように、あなたも推理小説がたいへんお好きで、これだけ多くのものがあっても、まだたりないと思っていらっしゃいます。そこでせめてものご恩返しに、ひとつ書いてみました。この小説がそれです。紙面に表現しつくし得ないほどの愛と尊敬とをもって、父上に捧げます。
A・A・M
数年前のことだが、私の出版|代行人《エージェント》に、推理小説を書くつもりだと、私は言った。予期したとおり、相手は一瞬驚きをみせたが、すぐに冷静に戻り、私を説得にかかった、著名な『ポンチのユーモア作家』である私に、わが国が求めているものは、ユーモア小説以外のなにものでもないというのである。〔のちになって、この代行人は、編集者や出版業者たちから、つぎつぎに同じ説得をうけた〕
しかし、私は犯罪の世界をとりあげる決心をした。それから二年たって、私が童謡の本を執筆中だと言うと、出版代行人も出版業者も、口をそろえて、今日の英語国民がもっとも望んでいるのは、新しい推理小説であることを確信すると言った。また、二年たった。大衆の嗜好《しこう》はもう一度変化した。児童向きの本が要望されている現実に直面しながら、推理小説を、あえて書くことが悪趣味であることは明白である。そこで、私は『赤い館の秘密』の版を重ねるにあたって、序文をつけくわえるにとどめる。
私は推理小説を熱愛している。ビール党にいわせれば、ビールである以上、悪かろうはずはないが、銘柄《めいがら》によって、優劣があるという。同じ精神において〔酒《スピリット》の意味も含むこの言葉を使うことが許されれば〕私は推理小説に接する。とはいえ、無批判というわけではない。むしろ反対に、私は奇妙な嗜好がある。作者がさまざまな事件で満足させてくれなければ、讚辞を呈するわけにはいかない。一例をあげれば、推理小説は正確な言葉で書かれるべきであると私は主張する。前に、ひじょうに面白い殺人事件を扱ったものを読んだことがある。どんな方法で、犯人が被害者の書斎に忍びこんだかに、推理の問題があった。ところがその探偵は〔作者の言うのには〕『犯人がどんなふうに逃走したか、その探求により興味を持っていた』のだった。たいていの推理小説では、犯人は逃走したと簡単に言いうる場合、脱出を遂行したとしばしば表現されるのが、私には遺憾《いかん》である。探偵《たんてい》、主人公、多くの容疑者にいたるまで、すべての人物が、不可解な言葉を用いている。正しい人間が殺される当然の興奮や、無罪の罪をきせられた容疑者が追跡される緊張感が画かれていたとしても、難解な言葉の濫用《らんよう》が許されていいはずはない。
恋愛という大問題では、賛否両論に別れるだろうが、私自身はないほうがいいと思う。マフィンの白い粉は砒素《ひそ》か白粉《おしろい》か、と読者の興味をかきたてる一方、ローランドに、アンジェラの手を『世間の習慣より長く』握らせているのでは、読者は読みつづけてはくれない。
そんな暇《ひま》に、靴跡を残させるなり、発見させるなり、煙草の吸いがらをひろって、封筒に入れさせるなり、適当に話を進行させることが起こったほうがいいと思う。ある作品全部をローランドにやる気があれば、作中、なんでも、好きなことをやらせておけばいい。だが、推理小説に登場した以上は、仕事に専心してもらわねばならぬ。
探偵自体はと言えば、まずだいいちにしろうとであってもらいたい。実生活において、もっとも優秀な探偵は職業警察官であり、完璧《かんぺき》な犯人は常習的犯罪者であろう。だが最高級の推理小説では、悪人はわれわれ同様普通の生活者であり、被害者の応接間で、われわれと肩をふれあっている。身元調査書も、同業者規約索引も、指紋分類表も、役にたたない。こういう犯罪者を、冷徹な帰納的《きのうてき》知能の力と厳正な証拠事実による論理であばきだすことができるのは、しろうと探偵以外にはないのである。
実際、こうした能力と論理が、われわれがしろうと探偵に要求することのすべてである。科学的探偵だとか、顕微鏡所持の男などは消えてしまうがいい! 著名な大学教授が、殺人犯人の遺留した埃《ほこり》を分析し、犯人はビール工場と製粉工場の間に住んでいると推論する。そんなことで、読者や私を満足させられるというのだろうか? 失踪《しっそう》した男のハンカチの血痕《けっこん》から最近その男がラクダに咬《か》まれたことが証明されても、どれだけスリルがあるだろう? 私なら、まるで感じない。作者にとっては、たいへん安易な方法だろうが、読者は大迷惑である。
こうして、検討した結果は次のようになる。探偵は、一般読者以上の特別の知識があってはいけない。冷徹な帰納的推理能力と、厳正な証拠事実による論理を働かせれば〔幸いにも、われわれにも可能である〕読者にも犯罪を究明できると思わせるようでなければならない。屍体の傍の探偵に対してと同じような価値を、書斎の読者にうけとらせるように、手がかりを設定することは、作者にもむろん不可能である。登場人物のひとりの鼻の傷に、探偵がなんの意味も発見していない場合、作者がその事実をはっきり書けば、ただちにその顔が、必要以上に読者の注意をひくことになる。もし、作者がそれを心得ていて、他の登場人物の鼻にも、さりげなく描写の筆をふれれば、読者は驚いたり、憤慨したりしないものだ。われわれ読者にすれば、作者と探偵が顕微鏡を家へ置いてきてくれれば、文句はない。
さて、ワトスン役はどうだろう? ワトスン役はあったほうがいいだろうか? あったほうがいいと思う。解決を最後の章まで伏せておいて、他のすべての章を、たった五分間の最後の章のドラマのプロローグのように、書きあげる作者など、くたばってしまえ。こんなやり方は、小説家がすることではないのだ。探偵がどう考えているかは、章を追って書いてもらいたい。そのために、ワトスン役を入れるか、自問自答形式にしなければならない。前者は後者を対話形式にしただけだが、ずっと読みやすくなる。したがって、ワトスン形式は必要になるが、ワトスン役はなにも阿呆《あほう》にするには及ばない。われわれ同様、いささか頭のめぐりは悪いが、友情に溢れ、人間味のゆたかな、好感の持てる人物であればいいのだ……
『赤い館の秘密』がどんなふうにして書かれたかは、これでおわかりだろう。書きたいから書くというのが、さしあたって、私が持っている唯一《ゆいいつ》の口実である。だから、たとえ電話帳一冊でも、それが|愛情をこめて《ユン・アモーレ》の仕事なら、私は誇りにするが、無韻詩《むいんし》の悲劇であっても、人の命令で作るとなれば潔《いさぎよ》しとしない。
この本を書かなければよかった、とこれまでに、なん度思ったかしれない。ある推理小説マニアには、理想に近い推理小説であると思うからだ。その男に会ったことはないが、私には、その男のことがよくわかる。彼がこの小説に、なにを書き入れたがり、なにを除きたがっているかも知っている。あらゆる段階で、私は、彼の要求や嗜好を考慮に入れた……そうして書きあがったこの小説が、いまはその男が読むことのできない、世界で唯一の推理小説であると思うと、感慨に耐えないものがある。
A・A・M
一九二六年四月
一 ミセス・スティーヴンズおびえる
けだるく暑い夏の午後、『赤い館』は午睡《ごすい》のさなかだった。庭の花壇では、蜜蜂のものういうなりが、楡《にれ》の梢では、のどかな鳩《はと》の鳴き声がきこえる。遠くの芝生からは、芝刈機の、あの田園のもの音のなかでは、いちばんのんびりしたブーッ、ブーッ、という音がひびいてきた。ひとが働いている時間に、昼寝をしているという気持がそののどけさを、ひとしお深いものにした。
それは、他人に仕えるのを仕事としている者にも、いくらか息ぬきのできる時間だった。女中部屋では、美人の小間使のオードリー・スティーヴンズが、とっときの帽子の飾りをつけ代えながら、伯母《おば》と無駄話のさいちゅうだった。この伯母は、この館の独身の主人マーク・アブレット氏のコック兼家政婦をつとめている。
「ジョウに見せるのかい?」帽子に目をやって、ミセス・スティーヴンズはのんびり言った。
オードリーはうなずいた。口にくわえたピンを抜き、適当なところにさしてから、こう言った。
「あのひと、わりあいピンクが好きなのよ」
「わたしだって、ピンクは好きなほうさ。ピンクが気に入ってるのは、なにもジョウ・ターナーだけじゃないよ」と、伯母は答えた。
「でも、ピンクはだれにでもむくっていう色じゃないわ」
オードリーは、帽子を持った手をのばして、しみじみと眺めながら、
「なかなかいい恰好《かっこう》でしょう?」と、伯母に言った。
「ああ、あんたにはぴったりだよ。わたしだって、あんたの年頃なら似合うんだろうけどね。いまのわたしには、ちょっと派手すぎるようだよ。他の連中にくらべれば、着こなしは自信があるけど、自分のがらじゃないものは、ごめんだからね。五十五なら、五十五になりきる……そういうことさ」
「五十八よ。そうでしょう? おばさん」
「たとえばの話じゃないか」ミセス・スティーヴンズは、大いに威厳をみせてたしなめた。
オードリーは、針に糸をとおすと、その手を目の前にかざし、ちらっと爪《つめ》に目をやってから縫いはじめた。
「マークさまのお兄さまの話って、おかしいのね。十五年も兄弟に会わないでいたなんて、考えられて? かりに、あたしが、十五年もジョウに会わないとしたら、どうなるかわかりはしないわ」てれくさそうに、オードリーはしのび笑いをした。
「けさ話したとおりさ。わたしは、ここに五年いるけど、ご兄弟のことはきいたおぼえがないってことを、誓ってもいいよ。わたしがここにいる間に、ご兄弟が見えたなんてことは、まるでないんだよ」
「けさ、お食事のとき、マークさまがお兄さまの話をなさるのをきいて、すっかり、驚かされちゃったわ。もっとも、あたしが部屋にはいる前は、どんなお話だったか知らないけど。あたしがいったときには、皆さんでお兄さまの話をなさってたわ──あのとき、なにをしにいったのかしら──ホット・ミルクを持っていったのかしら、それともトーストだったかしら。──とにかく、皆で話してらしたのよ。マークさまがふりむいて、──いつもみたいな調子で──『スティーヴンズ、午後に兄が訪ねてくるんだ。三時頃だと思うよ。事務室へ通しておくれ』って、おっしゃったの。『はい、かしこまりました』って、なにげなくお返事したけど、あんなに驚いたことってなかったわ。あのかたにお兄さまがあるなんて、まるで知らなかったんですもの。──『兄はオーストラリアからくるんだ』っておっしゃるのよ。そうそう、それをすっかり忘れてたわ。オーストラリアからいらっしゃるのよ」
「それなら、オーストラリアでお暮しだったのかもしれないね」と、ミセス・スティーヴンズは、考えこむようなようすで答えた。「わたしが、あの国のことを知ってるわけじゃないのだから、なんとも言えないけどさ。だが、いずれにしろ、その方が、ここにみえたことがないのは、たしかだよ。わたしが、このお邸にご奉公してこのかた、五年というものはね」
「そりゃあ、だって、伯母さん、その方は、お邸へは十五年も、いらっしゃってないんですもの。マークさまがケイリーさまに、『十五年さ』って、おっしゃったのをきいたわ。ケイリーさまは、お兄さまはいつ頃、イギリスをおたちになったのか、っておききになったのよ。あのかたは、お兄さまをご存じなのよ。ベヴァリーさまに、そうおっしゃってたもの。でも、なん年前に、イギリスを離れられたかは、ご存じなかったのね。そうでしょう? だから、マークさまに、お訊《き》きになったんだわ」
「わたしは、十五年も前のことなんか、知らないけどね。オードリー、ただ、自分の知ってるかぎりのことは、つまり五年間のことは、はっきり言えるのさ。そのかたは、このお邸に、この五年のあいだは、おみえにならなかった、ということだよ。ところで、おまえのいうとおり、そのかたがいままで、オーストラリアにずっとおいでになったのなら、それ相当の事情がおありになったんだろうね」
「事情って、なにかしら」オードリーは、率直に訊いた。
「どんな事情だって、いいじゃないか。おまえのかわいそうなおかあさんが死んでからは、わたしが母親代りだから、言っておくけど、れっきとしたおかたが、オーストラリアくんだりまで出かけるってのは、よほどわけがあってのことだろうよ。だから、だんなさまの言うとおり、十五年も──わたしだって、この五年のことは承知だけどね──そのかたがオーストラリアに、おいでだったとしたら、そのかたなりのご事情がおありになったのさ。育ちのいい娘というものは、そんなわけを、せんさくしたりしちゃいけないよ」
「きっと、めんどうな事があったのだと思うわ」オードリーは、おかまいなしに言った。「朝のお食事のとき、皆さんが、あの男はやくざな男だって、おっしゃってたわ。借金のことよ。ジョウがそんなふうにじゃなくて、さいわいだわ。あのひと、十五ポンドも郵便貯金があるのよ。このこと、話したかしら?」
しかし、その午後、ジョウ・ターナーの話は、それでおしまいになった。ベルが鳴って、オードリーは腰をあげた。──もう、オードリーとしてではなく、小間使のスティーヴンズになりきって。鏡の前に立って、オードリーは、キャップを直した。
「ほら、玄関のベルだわ。あのかたよ。だんなさまが、『事務室へ通しておくれ』って、おっしゃったっけ。他のお客さまに、会わせたくないらしいわ。いずれにしろ、皆さん、ゴルフに出かけて、おるすだけど──そのかた、ずっとお泊《とま》りになるのかしら──オーストラリアで、たくさん儲《もう》けていらっしゃったのかもしれないわ。──あちらのお話を伺えるかもしれないわね。オーストラリアでだれでも、お金儲けができるとすれば、ジョウとあたしも──」
「さあ、さあ、おいきよ、オードリー」
「いま、いくところよ、伯母さん」オードリーは出ていった。
八月の陽《ひ》をあびて、車寄せを歩いてきたばかりの者には、あけ放した玄関のドアから覗かれるホールが、いかにも涼しげだった。天井は低く、がっちりした樫材《かしざい》を梁《はり》にした大きなホールで、壁はクリーム色に塗られ、菱形《ひしがた》にガラスを切った窓には、青いカーテンが垂れている。
ホールの左右に、他の部屋に通じるドアがある。玄関のさっきのドアの両側が窓で、そこから小じんまりした芝生の庭が見える。あけ放した窓から窓へ、ひっそりと微風が流れた。右手の壁ぎわには、幅の広いゆるやかな階段が二階へ通じている。のぼりきって、左へ折れ、回廊をホールの間口だけすすむと、そこが客の寝室になっている。もっとも、客に宿泊の意思があればの話である。ロバート・アブレット氏の意向はまだわかっていない。
ホールを通りかかったオードリーは、ケイリー氏が正面の窓ぎわに腰かけて、つつましやかに、読書しているのを見て、ちょっとびっくりした。彼がそこにいてわるい理由はない。たしかに、こんなに暑い日には、そこはゴルフ場なんかより、よっぽど涼しかった。だが、お客がみんな外へ出ているか、でなければ──おそらくいちばん賢明なところで、──つまり二階の寝室で昼寝している、といった気配だったので、主人の従弟《いとこ》のケイリー氏に、オードリーは驚かされたのだった。思わず、ふっと声をあげてしまい、オードリーは赤くなった。
「あら、失礼しました……気がつかなかったものですから」
オードリーが言うと、ケイリー氏は本から顔をあげて、にっこりした。大きな醜《みにく》い顔なのに、その微笑には人を惹きつけるものがあった。
〔なんて、いいかたかしら、ケイリーさまって……〕いきすぎながら、オードリーはひそかにそう思った。このかたがいなければ、だんなさまは、お困りになるかもしれない。もし、あのお兄さまをオーストラリアへ追い返すことになれば、その役目をなさるのは、ケイリーさまだもの。
〔やっぱり、このかたがロバートさまだわ〕
オードリーは、客の前に立って、そう思った。が、実際は意外だったのだ。
あとで、オードリーはあのかたならどこで会っても、マークさまのお兄さまだと判ると言ったが、そんな言いかたは、彼女の場合毎度のことだった。同じ兄弟とはいえ、弟のマークのほうは、小ざっぱりした男で、あごひげをとがらせ、口ひげも細心にカールしている。友人の集りでは、臨機応変の冗談をとばしては、だれか笑ってくれないかと、一座の者たちの顔を見まわしたり、口をはさむ機会を待つときには、自分を期待していてくれる者がありはしないかと、敏捷《びんしょう》に視線を走らせたりする男だった。つまり、彼は、いま下品な目つきで、オードリーをみつめている、みすぼらしく粗野な植民地帰りの男とは、まるで違うのだ。
「マーク・アブレットさんに会いたいんだ」と、その男はどなった。その声からして、すっかり脅迫《きょうはく》じみている。
オードリーは気をとりなおして、微笑した。彼女は、だれにでも微笑してみせるのだった。
「はい、お待ちかねでございます。どうぞ、お通りくださいまし」
「おや、わたしのことを知ってるのかね」
「ロバート・アブレットさまで?」
「ああ、そのとおりだ。それで、あれはわたしを待ちかねているかね。え? わたしに会えるのがうれしそうかな?」
「どうぞ、こちらへ」気どって言い、オードリーは左側の二番めのドアへいって、開いた。
「あの、ロバートさまが──」言いかけて、彼女は、ふっと口をつぐんだ。部屋はからっぽだった。オードリーは、背後の客をふりむいた。
「こちらで、どうぞお待ちくださいまし。すぐ、だんなさまをお迎えにいってまいります。午後に、あなたさまがお見えになるから、とおっしゃっていましたから、だんなさまはお邸においでのはずでございます」
「ほう。ところで、この部屋はなんだい? え?」客は部屋を見まわした。
「事務室でございます」
「事務室だって?」
「だんなさまが、お仕事をなさる部屋でございます」
「仕事部屋だって? 初耳だね。あいつが仕事をしたなんてことは、きいたことがないよ」
「書きものをなさるんですの」オードリーは、もったいぶって言った。なんだか知らないが、とにかく主人が『お書きになる』ということを、女中部屋では誇りにしていた。
「客間に通すには、身なりがお粗末すぎるってわけかね?」
「あたくし、だんなさまをお呼びしてまいります」オードリーは、きっぱりと言い、客をそこにおいて、ドアをしめた。
さあ、伯母さんに知らせなけりゃ! さっそく、客と話しあったことを、あたまのなかで、そっくり、くり返してみた。〔ひとめ見たとき、こう思ったの──〕オードリーをびっくりさせるのには、ほんの小さなことで充分だった。実際、くだらないことで、彼女は悩んだりするのだった。
だが、主人を探しだすのが、さしあたっての仕事だった。広間を通りぬけ、書斎へ行って、なかを覗きこみ、ちょっと心細い気持でひっ返してくると、ケイリーの前に立った。
「おそれいりますが、だんなさまがどちらにおいでか、ご存じでしょうか。ロバートさまがおみえになっているのです」オードリーは低い敬意のこもった声で言った。
「なんですって? だれです?」ケイリーは、本から目をあげて言った。
オードリーは、もう一度同じ質問をくり返した。
「知らないなあ。事務室にはいないの? 昼食をすますと、聖堂《テンプル》へいきましたよ。それからは、みかけないようだなあ」
「ありがとうございました。聖堂《テンプル》へいってみますわ」
ケイリーは、本に目を戻した。
聖堂《テンプル》というのはレンガづくりの『あずまや』で、母屋《おもや》から約三百ヤード離れた裏庭にあった。マークは事務室で執筆する前に、そこでときどき想を練るのだった。その想たるや、たいしたものではなく、たいていが、食卓のよもやま話のうちに四散してしまい、たまたま原稿になったとしても、そのまま、印刷されないですむことが多かった。とはいえ、『赤い館』の主人は、お客がこの聖堂《テンプル》を、煙草を吸ったり、恋愛遊戯に使ったりの目的で建てたのだと軽視したりすると、いささか気を悪くしないではいられない。あるときは、こんなことがあった。二人の客がファイヴズ〔球戯〕をここでやっているのがみつかった。マークは、そのときは、いつもより控えめに「なにも、ここでやることはないだろう」と言っただけだったが、それ以来、この無作法者は、『赤い館』に決して招かれなくなった。
オードリーは、ゆっくりした足どりで、聖堂《テンプル》まで行き、なかを覗きこんでから、またゆっくり戻って来た。むだ足をしただけだった。だんなさまは、お二階かもしれないわ。『身なりがお粗末で、客間には通せないのかい?』だって。そうよ。伯母さん。あなただって、赤いハンカチを頸《くび》にまきつけて、うす汚れたばかでかい長靴を履いた男を、客間に通す気になれて? それから──あら、どなたかウサギを射ったわ。伯母さんったら、上等のウサギの肉に、オニオン・ソースをかけたのが大好きなんだから。なんて、暑いんだろう。できれば、オードリーはお茶を一杯飲みたかった。そうそう、もうひとつあるわ。ロバートさまは、お泊りにならないのよ。だって、お荷物がないもの。むろん、だんなさまは、いろんなものをお貸しになれるわ。着るものを、六人前も持っていらっしゃるんだから。なにしろ、お顔だけは、ひとめ見て、ご兄弟ってわかるのよ。
オードリーは邸にはいった。ホールへいこうとして、女中部屋の前にさしかかると、ふいにドアがあいたかと思うと、おびえたような顔が、こちらをうかがった。
「まあ、あんたなの」それは女中のエルジーだった。彼女はなかをふりかえって、「オードリーよ」と言った。
「はいっておいでよ、オードリー」と、ミセス・スティーヴンズがなかから声をかけた。
「どうかしたの?」オードリーは、ドアのところから、なかを覗きこんだ。
「まあ、あきれた。ひとを心配させといて。いったい、どこにいってたんだい?」
「聖堂《テンプル》よ」
「なにか、きかなかったかい?」
「なんの音?」
「ズドーンっていう、おそろしい音さ」
「ああ、あれなの」オードリーは、むしろほっとしたようなようすで言った。「あれは、だれかがウサギを射ったのよ。あたし、こっちへ来ながら、こう思ったわ。伯母さんはウサギ料理が大好きだったなあって。だから、平気だったわ」
「ウサギだって?」伯母は鼻の先で笑った。「あれは、うちのなかだったんですよ。おまえ」
「まちがいないわ」エルジーが言った。エルジーも女中のひとりだった。「あたしも、スティーヴンズさんに言ったのよ。そうでしょ? スティーヴンズさん。あの音はうちのなかだって」
オードリーは、伯母とエルジーの顔を交互に見くらべて、「あのひと、ピストルを持ってたと思う?」と声をひそめた。
「だれのこと?」エルジーも興奮したようすで言った。
「だんなさまのお兄さまよ。オーストラリアからきた。あたし、ひとめみて、『このひと、悪者だわ!』って思ったの。そのひとが、なんにも言わないうちによ。無頼漢《ぶらいかん》なのよ!」
オードリーは伯母のほうを向いて、
「ぜったい、ほんとよ」と、うけあった。
「だから、言っただろう。オーストラリア帰りの人間に、かかわりあっちゃいけないって」ミセス・スティーヴンズは、息をはあはあさせて、椅子に倒れこんだ。
「わたしは、もう、この部屋から出ないことにしたよ。十万ドルくれたって、おことわりだね」
「まあ、スティーヴンズさんったら!」新しい靴が買いたくて、五シリング欲しがっているエルジーが言った。「あたしは、そうまでは考えないけど。だけど──」
「しッ!」伯母はぎくりとして、腰をうかせた。
みんなは不安におびえて、耳をすませた。そして、若いふたりは、思わず、年よりのほうへ体を寄せた。
どこかで、ドアをゆすったり、蹴ったり、がたがたさせている音がした。
「ほら!」
オードリーとエルジーは、おびえた目を見あわせた。
怒りをふくんだ男の大声がきこえた。
「あけろ! ドアをあけろ! あけろって言ってるんだ!」と、その声は叫んだ。
「あけるんじゃないよ!」ミセス・スティーヴンズは、まるで、自分たちの部屋が襲われているように、ふるえあがって叫んだ。「オードリー! エルジー! 入れるんじゃないよ。あの男を!」
「どうして、あけないんだ!」また、声がきこえた。
「わたしたち、ここでみな殺しにされちまうよ」ミセス・スティーヴンズは、ふるえ声をだした。おびえきった若い娘ふたりは互いによりそい、ふたりをしっかり抱いた彼女は、じっと坐りこんで息をひそめた。
二 ギリンガム途中下車
マーク・アブレットが、『うるさ型』かどうかは、見かたによるが、いまだかつて、生《お》いたち物語で、周囲を悩ませたことはない。が、噂《うわさ》はなんとはなしに広まるもので、そんなことにくわしいものは、いつの場合も、どこかにいるものだ。彼の父が田舎《いなか》牧師だったことは周知の事実で、とにかく、彼自身も、認めていた。噂では、マークは少年時代に、近所の金持の老嬢に認められて、援助してもらい、大学までの学費いっさいを出してもらったということである。ケンブリッジ大学を卒業するまぎわに、父が死んで、遺族の気持をひきしめるわずかの借金と短い説教に練達していたという評判を後継牧師への手本として遺しただけだったが、結局のところは借金の訓戒も説教のお手本も、実際の効果はあがらなかったようだった。マークはロンドンへ、例のパトロンの仕送りで出かけたが、おつきあいの相手は金貸したちだった。パトロンや他の連中には『著作』にふけっていることにしてあったが、彼の書いたものは、借金の支払期日をのばしてもらうための手紙以外には、ろくなものはなかった。それでいて、劇場や演奏会には、きまって現われたが、──それというのも、『スペクテイター』誌に、イギリス劇場の衰退について、しかつめらしい一文を掲載したい一心からだった。
幸運にも〔マークの立場からだが〕彼がロンドンに出て三年目に、パトロンが死んで、望みどおりの全財産がころがりこんだ。それいらい、彼の経歴は、あいまい模糊《もこ》とした伝説的性格から脱却して、明確な歴史的事実になってくる。金貸し連中との関係を清算して、いわば自分の放蕩《ほうとう》のあと始末に人の手を借りた形ではあったが、こんどは、自分がパトロンの役にまわった。学問、芸術のパトロンになったのである。マーク・アブレットが、金のために書くのではないということが、高利貸し以外の連中にもわかった。雑誌の編集者たちは、遠慮なしに昼食をおごられ、稿料なしの原稿を頂戴し、出版者たちは、全費用著者負担のうえ、印税もいらないという条件で、ときたま薄っぺらな著書の出版契約を結んだ。将来性のある画家や詩人と食事をし、劇場の地方巡業に加わって、金主になったり、主役を演じたりして、気前よく金をつかった。
彼は、いわゆる俗物ではなかった。俗物というものは、言ってみれば貴族趣味、もう少しくわしく言えば、くだらないものを、意味もなく愛する人間ということになる。──第一の定義があたっているとすれば、貴族諸氏には、いささかお気の毒ということだが。たしかに、マークにも虚栄心はあった。だが、彼は、伯爵と会見するよりは、俳優マネージャーと会いたがり、侯爵との交際よりは、──むろん、言ってみればのことだが──ダンテとのつきあいを吹聴したいほうだった。彼を俗物と言いたければ、言ってもいいが、最低の俗物ではない。彼のとりまきは、社交界のそれではなく、芸術の女神の足もとに集まるものたちである。同じ登るにしても、ヘイ・ヒルよりも、パルナサスあたりへ登ろうとする者であった。
彼の庇護《ひご》は、学芸の世界にとどまらなかった。それは、十三歳の幼い従弟《いとこ》のマシュウ・ケイリーにまで及んだ。ケイリーは、かつて、マーク自身がパトロンの世話をうけていた頃と同じように、逼迫《ひっぱく》した境遇にあった。彼はケイリーを学校にいれてやり、ケンブリッジ大学までやった。最初は欲得ずくの気持からでなかったことは、確かである。かつて、自分がさんざん他人の世話になったおかげで、記録係の天使の帳簿にのっている借りを返しておく、つまりは天国に財宝を預けておくぐらいの気持だった。ケイリーが成長するにしたがって、自分の利益と従弟の利益を同じはかりにかけて、将来のことを考えてみた。すると、ひとかどの教育をうけた二十三歳のマシュウ・ケイリーが、自分のような立場の男、つまり、くだらないことに夢中になって、実務の時間をなくす者には、このうえなく有用な私有物に思われてきた。
こんなわけで、ケイリーは、二十三歳という年で、従兄の実務をひきうけたのである。当時すでに、マークは、『|赤い館《レッド・ハウス》』と、それに付随する広大な土地を買いこんでいた。そのための必要人員を、ケイリーは監督した。彼の仕事は、実に多岐《たき》にわたった。たんなる秘書でもなければ、土地管理人でもなく、実業顧問でもないし、友人でもない、その四つをすべて兼ねたようなものだった。マークは、彼を頼りにして、マシュウというよそいきの名を使うのを避け、『ケイ』と親しく呼んでいた。マークが、とりわけ、痛感していたのは、がっちりした体つきの大男で、頑丈な顎《あご》を持ったケイのたのもしさであった。よけいな無駄口をたたかないこの男は、自分だけがしゃべっていたいマークのような男には、まったく願ってもない相手だったのである。
そのケイリーも、いまは二十八歳になっているが、見たところは、彼の庇護者と同じように、四十歳にみえた。『|赤い館《レッド・ハウス》』では、ときどきふと思いたったように客を招いたが、マークの好みで、──好意ととろうと、虚栄ととろうと、各自の自由だが──客は、招待のお返しのできない境遇の連中だった。すでに、小間使のスティーヴンズの話から、その一端を知らされたが、その朝食事をともにした客たちの顔ぶれを一見することにしよう。
まず、最初に食堂へあらわれたのは、陸軍少佐のランボルド氏だった。長身の、髪も口ひげも白くなった無口な人物である。ノーフォーク・コートにグレイのフラノのズボンを着用している。恩給で生計をたて、新聞に博物史に関して書いていた。彼はサイド・テーブルの料理を、よくみたうえで、ケジャリー〔インド料理〕にきめ、食べはじめた。彼がソーセージの皿に移る頃、やっと次の人物が姿をみせた。白フラノのズボンに、ブレザーコートの、快活な青年ビル・ベヴァリーだった。
「やあ、少佐。痛風《つうふう》のぐあいはいかがですか?」彼ははいってくるなり、声をかけた。
「痛風じゃないさ」少佐は、声を荒らげて言った。
「はあ、なんでも結構ですが」
少佐はぶつぶつつぶやいた。
「ぼくは、朝食の席では、礼儀をまもることにしてます」ビルは、ポリッジをたっぷり皿にとりながら言った。「たいていの連中が無作法ですからね。いま、おたずねしたのも、そんなわけなんです。秘密でしたら、おっしゃらないでいいんです。コーヒーは?」自分にも一杯つぎながら、彼はきいた。
「いらんよ。食事がすまないうちは飲まん」
「なるほど、少佐。作法どおりですね」青年は、少佐と向いあって腰かけた。「ところで、きょうはゴルフ日和《びより》にあたりましたね。ぐんぐん暑くなりそうだが、ベティやぼくには、もってこいなんです。あなたにはやりきれないですね、五番グリーンで、四三年の国境の戦闘でうけた古傷が傷《いた》みはじめてね。八番グリーンでは、長年のカレー料理にやられた肝臓がひきちぎれそうになり、十二番グリーンとなれば──」
「おい、やめないか!」
「ええ、ご注意申しあげてるだけです。やあ、ノリスさん、おはよう。いま、少佐に、あなたや少佐のきょうの予想を話してたとこなんです。お手つだいしましょうか? それとも、朝食は、ご自分で選ぶほうがお気に召しますか?」
「どうぞ、おかまいなく。自分でいたしますわ。おはようございます。少佐」ミス・ノリスは言って、少佐に、にこやかに微笑した。
少佐は会釈《えしゃく》した。
「おはよう。暑くなりますぞ」
「いまも少佐に話してたところなんですが」ビルが口をきった。「そのほうが、ぼくたちには──やあ、いらっしゃい。ベティさん。おはよう、ケイリー君」
ベティ・キャラダインとケイリーが肩を並べてはいってきた。ベティは十八になる娘で、母親は亡くなったジョン・キャラダイン画伯の未亡人だった。ミセス・キャラダインは、マークに頼まれて、その集まりのホステス役をひきうけていた。
ルース・ノリスは、ふだん、女優をもって任じていたが、休暇になると、大真面目《おおまじめ》でゴルファだと自ら信じこんでしまう。たしかに、双方に、相当な素質を持っていた。舞台度胸は申し分ないし、野外サンドイッチにも健啖《けんたん》ぶりを発揮するのだった。
「ところで、車は十時半に、こちらへまわってきます」ケイリーは読んでいた手紙から顔をあげて言った。「昼食はあちらですませ、あとは、まっすぐお帰りいただく。どうでしょう、これで?」
「二ラウンドやってもいいんでしょうね」
ベヴァリーが希望をこめて言った。
「午後は、ものすごい暑さになるぞ。戻ってお茶にしたほうが快適だよ」と少佐が言った。
マークがやってきた。彼はいつも、最後だった。一同に挨拶してから、マークは紅茶とトーストを選んで席についた。朝食には、食事らしい食事はとらない。他の連中が雑談に身をいれているあいだに、マークは手紙に目をとおした。
「こりゃ、たいへんだ!」とつぜん、彼が声をあげた。
みんなは、いっせいに、マークのほうをふりむいた。
「失礼しました、ノリスさん。失敬ね、ベティ」
ミス・ノリスは、いいえというように微笑した。彼女自身もよく、そんなお詫《わ》びの言葉を言いたくなることがあった。とくに、舞台稽古のときは、そうだった。
「おい、ケイ! この手紙、だれから来たと思うかい?」
マークは、思いまどい、困惑《こんわく》しきった顔つきで、眉をひそめて、一通の手紙を振ってみせた。
テーブルの端の席にいたケイリーは肩をすくめた。わかるはずがない。
「ロバートからなのさ」と、マークが言った。
「ロバートさんですか。それで?」ケイリーを驚かすのは、大仕事だ。
「それで? なんて言ってる場合じゃないんだ。きょうの午後、ここへやってくるんだ」と、マークはいらいらしながら言った。
「オーストラリアかどこかにおられたんでしたね」
「もちろん、そうだろうと思いますがね」マークは、声をかけたランボルドのほうをふりむいた。「ご兄弟がおありですか。少佐」
「いや」
「ご忠告申しあげますが、兄弟なんか、お持ちにならないことです」
「この年になっては、持てそうにもないですな」と、少佐は言った。
ベヴァリーが声をあげて笑った。丁寧《ていねい》な口調でミス・ノリスがきいた。
「でも、アブレットさん、あなただって、ご兄弟はおありにならないのでしょう?」
「ひとり、います」と、マークはにがい顔で言った。「予定どおり、ゴルフからお戻りになれば、午後に、おひきあわせできます。五ポンド貸せなんて言うかもしれませんが、貸してはだめですよ」
その場の空気が、ちょっと白けた。
「わたしにも、ひとりいますが、わたしがたかるほうですよ」ベヴァリーが、とりなすように口を出した。
「ロバートみたいにね」とマークが言った。
「ロバートさんは、いつ頃、イギリスをたたれたんですか?」とケイリーが訊ねた。
「十五年ぐらいになるかな。むろん、君はまだ子供だった」
「その頃、一度おめにかかったのを覚えています。その後、こちらへお戻りになったかどうかは存じませんが」
「いや、ぼくの知るかぎりでは戻っていない」マークはまだ興奮がさめきらないようすで、手紙に目を戻した。
「ぼく個人としては」と、ベヴァリーが言った。「親類なんて、ろくなことはないですよ」
「でも、家庭の秘密もあったほうが、ちょっと面白くなくって?」ベティが思いきったように言葉をはさんだ。
マークは眉をしかめて、目をあげた。
「面白いとお思いなら、ロバートをおまかせしますよ。ベティ。あの男が昔のままで、たまによこす手紙どおりだとすれば──そう、そのことは、ケイが知ってますよ」
ケイリーはぶつぶつ不平を言った。
「あのひとのことを、きく人さえなかったということしか、ぼくは知りませんよ」
ケイリーは、ただ事実を言っただけだった。が、その言葉もせんさく好きなお客には、よけいな質問をひかえるように、主人のマークにはつまらぬおしゃべりはしないようにという忠告としてうけとられるものでもあった。
しかし、話題はそこで変り、もっと興味のある、午後行われるフォーサム〔ゴルフ競技〕に移った。キャラダイン夫人はゴルフ場の近くに住んでいる旧友と昼食の約束があって、ゴルフ仲間の車に便乗した。マークとケイリーは用事があるので、邸にのこった。『用事』というのは、放蕩者の兄のことも、含まれているようだった。が、他の連中のフォーサムの興趣をそぐというほどのことではなかった。
ゴルフ場では、あの陸軍少佐が十六番グリーンで、〔理由はなんであれ〕ティー・ショットを失敗し、『|赤い館《レッド・ハウス》』ではマークが従弟と仕事をしていた。ちょうどその頃、ウッダム駅に、アントニイ・ギリンガムという魅力的なひとりの紳士が下車して、駅員に切符を渡しながら、村へ行く道をきいていた。
方角を教えてもらうと、彼はカバンを駅長にあずけて、ぶらぶら出かけた。この男は、本篇で重要な役割をうけもつ人物であるから、その活躍に先だって、その素姓を多少なりと、心得ておくのもいいだろう。まず、丘の頂上で、なんとか口実をつけて、彼をつかまえ、観察することにしようではないか。
まず最初に気づくのは、観察されているのは彼より、われわれのほうではないかということである。短く刈りこんだ髪と、きれいに剃りあげた顔は、海軍将校を連想させるが、その顔に光る灰色の眼だけは、相手の肚《はら》のうちをすっかり、見とおすようである。初対面のものはどきりとするが、彼の心がまったくよそにあることがしだいにわかってくる。言わば、目を見張り番にたてておき、あたまはべつの想念を追いつづけているのだ。むろん、こんなことをやれる人間は多勢いる。たとえば、人と話しながら、べつの相手に耳を傾けている場合がそうだが、そんなときでも、目をみれば、簡単に見破ることができる。が、アントニイの目だけは、そうはいかなかった。
彼は船乗りではなかったが、その目で世界じゅうを、くまなく見てきた。二十一歳のとき、母親の遺産の年金が四百ポンドはいることになった。『牧畜業報』を読んでいた父が、顔をあげ、今後どうするつもりか、と彼にきいた。
「世界を見てきます」とアントニイは答えた。
「そうか。アメリカからでもどこからでも、行く先々から便りをよこすんだな」
「わかりました」
ギリンガム老人は新聞に目を戻した。アントニイは次男だった。父親は、彼に対して、よその一族の、例えばチャンピオン・バーケットの次男以下の子供たちに抱いてるだけの関心もなかった。チャンピオン・バーケットというのは、彼が飼育した牛のなかでも、もっとも優秀なヘレンフォード種の牡牛《おうし》のことである。
だが、アントニイは、ロンドンより遠いところへ行く気持はなかった。世界を見て歩こうという思いつきも、土地よりも、人間についてのことだったのである。それも、できるかぎり多くの面から見たかった。観察の方法さえのみこんでいれば、ロンドンには、あらゆる種類の人間がいた。そこで、アントニイはそれぞれの人間を──巷《ちまた》の片隅のさまざまなところから、召使、新聞記者、給仕、店員といった立場にたって観察した。四百ポンドという働かないでも暮せる金があったので、仕事も大いに愉しかった。転々と職を変え、やめるときには雇い主にむかって〔世間なみな主従関係とは逆に〕、彼に対する感想をのべてやめた。新しい仕事をみつけるのは、難かしいことではなかった。経験だとか推薦状だとかいうことより、自分の個性や、男一匹の意気を買ってもらうことにした。最初の月給はもらわない──が、主人の気にいったなら、ふた月めの月給は倍額請求するということにした。その倍額の給料を、彼はいつも手にいれていた。
彼も、いまは三十歳になっていた。ウッダムで一日を過ごすことになったのは、駅のたたずまいが気に入ったからだった。切符はもっと先まで行けるのだが、気まぐれは毎度のことだった。ウッダムに心を惹かれ、旅行カバンも持ってれば、ふところには金がある。とあっては、下車しないほうがおかしいではないか?
『ジョージ旅館』のおかみは、彼の宿泊を大いによろこんで、午後になったら、駅まで彼の荷物をとりにやる、と約束した。
「お昼ご飯はおあがりになりますね?」
「ああ、もらう。だが特別なにかするひつようはないよ。ありあわせでよろしい」
「牛肉はいかがでしょうか」たくさんの種類の肉の手もちがあって、そのなかの選りぬきの肉をだすようなおかみの口ぶりだった。
「ありがたいね。ついでにビールを一本」
昼飯がおわる頃、亭主が顔を出して、荷物のことをきいた。ギリンガムは、ビールのお代りを注文して、亭主を相手に世間話をはじめた。
「田舎旅館をやっているのも、けっこう面白いだろうね」彼は、自分もそろそろ商売変えのときだと思いながら言った。
「面白いかどうか、まあ、どうやら暮してゆけるってとこでさ」
「あんたもたまには、骨休めするんだな」ギリンガムは、亭主の顔をしげしげと眺めて言った。
「妙ですね」亭主はにっこりして言った。「きのうも『赤い館』からみえただんなに、同じことを言われましたよ。おれが代ってやろうかってね」彼はカラカラと声をあげて笑った。
「『赤い館』だって? スタントンの『赤い館』のことかい?」
「へい、そうですよ、だんな。スタントンはウッダムの次の駅ですが、ここから『赤い館』まではまあ一マイルってとこです。──アブレットさまのお邸でしてね」
アントニイは、ポケットから一通の手紙をとりだした。差出人の住所は『スタントン・赤い館』で、『ビル』と署名がしてある。
「ベヴァリーのやつ、あいかわらずだろうな」と、彼はつぶやいた。
アントニイは、二年前、ある煙草屋の店先で、ベヴァリーに会った。店員と客として、勘定台をはさんで顔をあわせたのである。ベヴァリーの、いかにも青年らしい溌剌《はつらつ》とした印象が、彼の気持を魅惑《みわく》したのかもしれない。ベヴァリーが煙草を注文し、届け先の名を言った。すると、アントニイは、前に、田舎の本邸で、ベヴァリーの伯母にあたる人に会ったのを思いだした。それから少したった頃、二人は、あるレストラントで再会した。ふたりとも、夜会服を着ていたが、ナプキンに関して立場が違った。つまり、アントニイはナプキンを並べて礼をつくすほうであり、ベヴァリーはそれをうける側だった。それでも、彼がベヴァリーに好意を抱いていることに変りはなかった。そこで、彼はその仕事をやめたとき、暇を利用して、共通の友人の紹介で、ベヴァリーと会うことにした。ベヴァリーは前に、二度顔をあわせたときのことをきかされると、ちょっと驚いたようだったが、すぐに気まずさは消えて、ふたりは急速に親しくなった。しかし、ベヴァリーは、アントニイに手紙をよこすとなると、きまって、『我が親愛なるキ印君』と書くのを忘れなかった。
アントニイは、昼食をすませてから、散歩がてら、『赤い館』を訪問して、この友人をたずねることにした。寝室をみせてもらうと、小説に出てくるような、ラヴェンダーの匂いの漂う田舎宿の寝室とはまるで違ったが、けっこう清潔で、快適だった。彼は出かけ、田や畑をこえていった。
車よせにつづく道を通って、古びた赤煉瓦《あかれんが》の邸の玄関に近づくと、庭の花壇から蜜蜂のもうもういううなりがきこえ、楡《にれ》の梢からは、鳩のやさしい鳴き声がきこえた。はるかな芝生からは、ブーン、ブーンという芝刈機の響が流れてきた。この音は、田舎の音のなかでも、いちばん、のどかなものだった……
そして、ホールでは、ひとりの男が、「ドアをあけなさい。あけなさいったら!」と叫びながら、鍵のかかったドアを叩《たた》いていた。
「もし、もし!」
アントニイは驚いて声をかけた。
三 屍体をめぐるふたりの男
ケイリーは、声のしたほうへ、ふっと、ふりむいた。
「お手つだいしましょうか?」アントニイは、ていねいにきいた。
「なにか、起こったらしいんです」とケイリーは答えた。彼は息をはずませていた。「銃声をきいたんです──銃声みたいでした。──ぼくは、書斎にいたんです。大きなダーンという音が──なんだかわからないんですよ。それに、ドアに鍵がかかってるんです」
彼はまた、ドアの把手《とって》をガチャガチャいわせてゆすった。
「ドアをあけなさい!」彼は叫んだ。「マークさん、いったい、どうしたんです? あけてください!」
「わざと、鍵をかけたんですよ。だから、あけろって言ったって、あけやしませんよ」とアントニイに言った。
ケイリーは、困惑しきって、アントニイを見た。それから、また、ドアに向かった。
「突き破ってはいるよりしかたがありません。手を貸してください」言いながら、彼はドアに肩をかけた。
「窓はないんですか?」
ケイリーは、まのぬけたようすで、ふりかえった。
「窓? 窓ですって?」
「窓をこわすほうがらくですよ」アントニイは微笑をうかべて言った。
ホールにはいりこんで、ステッキによりかかっている彼は、ひどく冷静で落ちついてみえた。つまらないことでさわぎたててるんだな、と思っているのはたしかである。もっとも、彼は、あの銃声をきいていなかった。
「窓──たしかにそうだ! なんて、うかつなんだ」
ケイリーは、アントニイを押しのけて、車よせへとびだしていった。アントニイが、あとにつづいた。ふたりは、邸の表側に沿って駈《か》けだした。それから左に折れて小路を駈け、また左へまがって、芝生へ出た。ケイリーが先にたち、アントニイがそれにつづいた。とつぜんケイリーはふりかえって、立ちどまった。
「ここです」とケイリーは言った。
ふたりは、鍵のかかったさっきの部屋の窓のところへ来ていた。それは、邸の裏側に面したフランス窓で、いまは閉まっていた。ケイリーのまねをして、自分も窓ガラスに顔をよせたアントニイは、興奮で胸がたかなるのを、おさえることができなかった。この謎《なぞ》めいた部屋のようすなら、ことによると、ほんとうに、さっきだれかがピストルを発射したのかもしれない、と、はじめて彼はそう思った。さっき、あのドアの外に立っていたときは、すべてがばかばかしく、芝居じみてみえた。が、一発めが発射されたのなら、二発、三発めを射たないといえるだろうか?──とすると、窓ガラスに鼻を押しつけ、どうぞと言わんばかりのふたりに、狙《ねら》いをつけたこないものでもないだろう。
「おや、あれが見えますか?」ケイリーがふるえ声で言った。「ほら、下のほうです。ごらんなさい!」
つぎの瞬間、アントニイにも、それが見えた。部屋の向うのすみに、こちらへ背を向けて、男がひとり倒れている。生きているのか? あるいは、すでに屍体《したい》となっているのか?
「だれです?」アントニイがきいた。
「わかりませんね」と、相手はつぶやいた。
「よろしい、はいってみましょう」アントニイは、ちょっとのあいだ、窓を調べていた。「このあわせ目のところに、体重をかけて押せば、うまくいきますよ。でなけりゃ、ガラスを蹴破ってはいるんですね」
ケイリーはなにも言わずに、体の重みをかけて押した。窓があき、ふたりはなかにはいった。ケイリーは急いで屍体にかけより、床に膝をついた。ちょっと、彼はためらっているようだった。が、思いきって屍体に手をかけ、こっちを向かせた。
「ありがたい!」そうつぶやいて、ケイリーは屍体から手を離した。
「誰です?」アントニイがきいた。
「ロバート・アブレットです」
「おや?」と彼は声にだした。「マークっていうんじゃなかったのかな」アントニイは、相手にというより、自分に言いきかせるように言った。
「ええ、ここに住んでるのはマーク・アブレットです。ロバートは兄さんなんです」ケイリーは身ぶるいして言った。「ぼくは、マークじゃないかと不安だったんです」
「マークさんも、この部屋にいたんですか?」
「ええ」と、ケイリーは、うっかり答え、見知らない男に、あれこれきかれるのが、急に気になって、「あなたは、どなたです?」ときいた。
だが、アントニイは、あの鍵のかかったドアのところへいって、把手《とって》をいじっていた。「ぼくは、鍵はあの男のポケットにあるんだと思いますよ」屍体のそばに戻って、彼は言った。
「だれのことです?」
アントニイは、肩をすくめた。
「だれでも、こんなことをしたやつですよ」彼は、床の上の男を指さして言った。「死んでますか?」
「手を貸してください?」ケイリーは、一言、言った。
ふたりは屍体をあおむけにし、勇気をふるって、顔をのぞきこんだ。ロバート・アブレットは、眉間《みけん》を撃ちぬかれていた。愉快なながめではなかった。アントニイは、ぞっとしながらも、自分の傍に横たわったこの男をあわれむ気持が、とつぜんおこってくるのを感じて、さっきから、自分がいいかげんな態度できたのを、後悔した。だが、人間というものはだれでも、他人はともかく、自分の身に、こんなことは起こらないものだと、思いこんでいる。起こったとしても、最初は、なかなか信じられないものである。
「あなたは、この男を、よくご存じだったのですか?」アントニイはおだやかに言った。「この男に好意を持っていたか?」という意味をふくめていた。
「まったく知らない、と言っていいくらいです。マークは、わたしの従兄です。マークのほうは、よく知っているっていう意味ですが」
「あなたの従兄ですって?」
「ええ」ケイリーはためらっていたが、「死んでますか? 死んでるようですね。あのう──どうすればいいんですか──こんなときにすることは? 水を持ってきたほうがいいですね」
この部屋には、鍵のかかったさっきのドアの反対側に、もうひとつドアがあった。あとで、アントニイが、直接、自分自身で発見することになるが、そのドアをあけると、廊下になっていて、別の二つの部屋へ行ける。ケイリーは廊下へ出て、右手のドアをあけてみた。ケイリーが出ていった事務室のドアは、あけっぱなしである。小廊下のはずれのドアはしまっていた。アントニイは、屍体の傍に膝をついたまま、ケイリーの動きを、目で追っていた。ケイリーが姿を消したあとは、空虚な廊下の壁に、目をやっていた。が、彼は壁を眺めていたわけではない。心は、あの男に同情する気持で、いっぱいだった。
〔死人に、水がなんの役にたつんだ。なすべき術《すべ》がないことがわかっていても、なにかやってれば気やすめになるんだな〕彼は、そんなことを思った。
ケイリーが事務室に戻ってきた。彼は、海綿とハンカチを、それぞれの手に持っていた。ケイリーはアントニイに目をやった。アントニイはうなずいた。ケイリーは、なにか口のなかで言いながら、死人の顔を拭くためにひざまずいた。それから、その顔にハンカチをかぶせた。アントニイは、ほっと溜息《ためいき》をついた。安堵《あんど》の溜息を。
ふたりは立ちあがり、顔を見あわせた。
「ぼくにできることがあれば、させてください」と、アントニイは言った。
「ご親切にどうも。するべきことは、いろいろあるでしょう。警官を呼ぶとか、医者のことだとか、ほかにも──。しかし、これ以上、ご親切にあまえるわけにはまいりません。すっかり、ご迷惑をかけてしまいましたから」
「ぼくは、ベヴァリー君に会いにきたんです。古い友だちでしてね」
「ゴルフに出かけてます。じき、戻ってくるでしょう」それから、ふっと気づいたように、「皆さんも、すぐ帰ってきます」
「お手つだいがてら、待たせていただきます」
「どうぞ。ごらんのように女ばかりで、哀れなくらいです。あなたが、そうしてくだされば──」彼は口ごもり、大柄で、自信たっぷりなようすにも似合わない、妙に哀れっぽい、おずおずした微笑を、アントニイに向けた。「わかっていただけると思いますが、いてくださるだけで、心丈夫なのです」
「当然のことです」アントニイは、微笑で答え、快活に言った。「さて、それでは、警察へ電話なさることにしていただきましょうか」
「警察? そ、そうでしたね」ケイリーは、疑惑のこもった目で、相手を見た。「ぼくはこう思うんですが、あのう──」
アントニイは、あけすけな言いかたで、
「ところで、あなたは、ええと──」
「ケイリーです。マーク・アブレットの従弟です。この邸に一緒に暮してます」
「ぼくはアントニイ・ギリンガムと申します。申しおくれて失礼しました。ところで、ケイリーさん、体裁をとりつくろってもしかたがありませんね。げんに、ひとりの男が、ここで撃たれている──だれか、撃った者がいるということですからな」
「自分でやったのかもしれませんよ」ケイリーは、ほそぼそと言った。
「そうですね。そうかもしれません。しかし、違う。あるいは、そうだったとしても、そのとき、この部屋に、だれかが居あわせたはずです。その、だれかが、いまはここにいない。しかも、そのなにものかは、ピストルを持って姿を消した。まあ、警察はそのことをききたがるでしょうね。そうじゃないですか?」
ケイリーは、うつむいたまま、だまりこんでいた。
「あなたのお気持は、わかりますよ。大いに同情申しあげてることは、信じていただきたい。かといって、子供だましの真似はゆるされません。あなたの従兄さんの、マーク・アブレットさんが、この部屋で、この男と一緒に」──彼は、屍体を指して──「この男とです。それから──」
「あのひとがここにいたと、だれが言ったんです?」
ふいに、ケイリーは、アントニイのほうへ、顔をむけて言った。
「あなたですよ」
「ぼくは書斎にいたのです。マークは、この部屋にはいりました──出ていったかもしれないんですよ──ぼくには、わかりません。だれか、ほかに、はいってきたかもしれませんしね」
「そうです、そうです」アントニイは、幼い子供をあやすように、がまんして言った。「あなたは従兄さんをよく知っていらっしゃる。だが、ぼくは知らない。まあ、そのかたは、関係がないとしましょう。しかし、この男が撃たれたとき、だれかがここにいた。そして──そうです、警察は、そのことを追求しなければなりません。そうじゃないですか?──」アントニイは、電話機に目をやった。
「なんなら、ぼくがかけましょうか?」
ケイリーは肩をすくめ、電話機に近づいた。
「ええと──、ちょっと、調べさせていただいていいですか?」アントニイは、あけっぱなしのドアを、あごでさした。
「ええ、そうしてください。よろしいですとも」ケイリーは腰をおろし、電話機をひきよせた。
「ギリンガムさん、ぼくのことは、かんべんしていただきたいですよ。おわかりでしょうが、マークとは、たいへん長いつきあいですからね。しかし、もちろん、まったく、あなたのおっしゃるとおりです。ぼくときたら、へまばかりやる人間でしてね」
彼は、受話器をとりあげた。
ここで、この『事務室』をよく知っておくために、まず、ホールからはいってくると仮定してみよう。当然、そのドアには鍵がかかっているわけだが、いまは、便宜上、不思議なことに鍵がかかっていなかった、ということにする。ドアをあけてはいると、部屋は左右に長く伸びている。もっと、正確にいうなら、右手のほうに、ぐっと細長くのびていて、左手は、すぐに壁につきあたる。そのドアの向かい側、部屋の幅〔十五フィートばかり〕をへだてて、もうひとつドアがある。さっき、ケイリーが出入りしたドアだ。右手〔三十フィートいったところ〕が、フランス窓である。部屋をつっきって、向かい側のドアから出たところが、廊下になっていて、べつの二つの部屋につづいている。さっき、ケイリーがはいっていった右側の部屋は、奥行が事務室の半分もない小さな部屋である。以前は寝室として使われていたらしく、そんなようすがはっきり残っている。ベッドはとり片づけてしまってあるが、部屋の隅には、湯と水の蛇口のついた洗面台がある。椅子、食器棚がひとつふたつ、それにタンスが一棹《ひとさお》おいてある。窓は、隣室のフランス窓と同じ向きについている。しかし、この窓から外を覗いてみても、右方は外壁にふさがれているので、展望がきかない。隣りの事務室が、この部屋よりも十五フィートも多く奥行があって、その分が芝生につきだし、外壁になっているからである。
この部屋の、事務室とは反対側の部屋がバス・ルームである。この三つの部屋が実際には一組になっている。前の持ち主の頃には、おそらく、階段の上り下りのできない病人が使っていたものだろう。マークの代になってからは、事務室以外の二部屋は使っていない。すくなくとも、マークは階下で眠る習慣はなかった。
アントニイは浴室を一瞥《いちべつ》すると、さっき、ケイリーがはいった寝室へ、ぶらぶら足をふみいれた。窓が開いているので、彼は足もとの手入れのゆきとどいた芝生や、その向うにいかにものどかに広がる庭を眺めた。そして、こうしたいっさいのものの持ち主が、いま、この不気味な事件の渦にあるのを思うと、ひどく哀れに思われるのだった。
〔ケイリーは、マークがやったのだと思っている〕と、アントニイは考えた。〔これは確かだ。ケイリーが、ドアを叩いて、時間を稼《かせ》いでいた理由は、そいつなんだ。窓をつき破るほうがよっぽど簡単なのに、ドアの鍵をこわそうと、苦心することは、ないじゃないか? そりゃあ、すっかり慌てて、あたまへきてたのかもしれない。だが、こうも考えられる。彼は──つまり、彼は、従兄を、そのあいだに、遠くへ逃がしてやろうとしたんじゃないか、とね。警察を呼ぼうとしたときだって同じだ。それから──そうだ。おかしいことが、たくさんある。例えば、窓へいくのに、どういうわけで、ぐるっと邸のまわりを、まわっていったのだろう? ホールを通りぬけて出る裏路があるに違いないんだ。あとで、そいつを調べなけりゃならないな〕
これから、話が進行するに従ってわかるが、アントニイは、少しも落ちつきを失っていなかった。
部屋の外の廊下で足音がしたので、ふりかえってみると、ケイリーがドアのところに立っていた。アントニイは、ちょっとのあいだ、彼を見つめたまま、心中ひそかに、疑問を起こしていた。妙な疑問だった。どういうわけで、ドアがあいていたのだろう、といぶかっていたのである。
いや、なぜドアがあいていたか、ということではない。そんなことなら簡単に説明できる。だが、なぜ、ドアはしまっていた、と思いこんでいたのか。アントニイは、ドアを閉めたおぼえはなかった。それなのに、いま、ドアがあいていて、そこからケイリーが室内にはいってくるのを見て、ぎくりとしたのである。脳裡で潜在意識的に、なにかが働き、驚かされたのだ。なぜだろうか。
アントニイは、さしあたって、そのことは、頭の片隅に押しこんでおくことにした。いずれ、そのうち、解答はでるだろう。彼は卓越した記憶力を持っていた。見聞したものは、すべて、それ相応の印象を、脳裡にやきつけておける。しかも、無意識のうちに、そうなっていることが多く、写真のように鮮明な映像が、必要に応じて、いつでも現像できるようになっていた。
ケイリーは窓ぎわにきて、彼と並んだ。
「電話してきました」と、ケイリーは言った。「ミドルストンから、警部かなにかがやってくるそうです。スタントンからは、警官と医者がきます。とうとう、ぬきさしならなくなりましたね」
彼は肩をすくめた。
「ミドルストンまで、どのくらいあるんです?」その町は、その朝、つい六時間ばかり前に、彼がそこまでの切符を買ったばかりの町だった。いま考えてみると、実際ばかげてみえる。
「二十マイルくらいです。そろそろ、皆さんが帰ってくるでしょう」
「ベヴァリー君たちですか?」
「そうです。皆さん、大急ぎで逃げだしたくなると思いますよ」
「かえって、ありがたいですね」
「そうですね」ケイリーは、ちょっと黙りこんでから、口をひらいた。
「あなたは、この近くに、泊っておいでですか?」
「ウッダムの『ジョージ旅館』です」
「もし、おひとりでしたら、こちらへお泊り願えませんか」ケイリーは言いにくそうに言葉をつづけた。「あなたもおわかりになっているでしょうが、こちらへ泊っていただくことになるでしょう。その──検屍や、それから、──その、いろいろとあることですしね。もし、この邸の主人の好意を、お受けいただけるようでしたら──つまり、あのかたはその──あのかたが、もし、ほんとうに──」
アントニイは、あわてて、相手の言葉をさえぎり、礼を言って、ありがたく、厚意をうけた。
「感謝します。ベヴァリーさんも、お友だちがご一緒なら、たぶん、お泊りになるでしょう。あのかたは、いいかたですからね」
アントニイは、ケイリーの言葉や、逡巡《しゅんじゅん》するような言いかたから、マークが兄の最後の時に、いあわせたに違いない、と思った。だからといって、マーク・アブレットを犯人だと断定できることにはならなかった。ピストルは暴発することもある。そして、暴発の現場にいあわせた人間は、疑われることを怖れて、あわてて逃げてしまう。が、そうなると、偶然であろうと、故意であろうと、逃走した人物の行方を追求したくなるものである。
「ぼくは、こっちへ逃げたんだと思うな」アントニイは、窓から首を出し、声にだした。
「だれがです?」ケイリーは、頑強にねばって訊いた。
「そう、だれにしろ」腹のなかで笑いながら、アントニイは言った。「犯人がです。というより、ロバート・アブレットが殺されてから、ドアに鍵をかけた男と言ってもよろしい」
「それは、おかしいな」
「では、他に、どんな方法で逃げられたというんです? 事務室の窓からは出ていませんよ。閉まっていましたからね」
「それにしても、へんじゃないですか」
「ぼくも、最初は、妙だと思いましたよ。しかし、──」アントニイは、右手に突きだしている外壁を指さした。「ほら、あの壁があるもので、ここから出ても、だれにもみつからないんですよ。それに灌木《かんぼく》の茂みにかくれられますからね。もし、あのフランス窓から出るとすると、ずっと、見つかりやすいと思いますよ。邸のどの部分も──」彼は右手をあげて──「西側、そう、ほぼ北西の、あの台所の部分──ほら、あそこからなら、ここはみえませんね。あッ、わかった! だれだか知らないが、そいつは、この邸を知りぬいているんだ。その男が、この窓から出たことは、当然だったんだ。それから、そのまま、そいつは、灌木の茂みにかくれたんですよ」
ケイリーは、なにかじっと考えこむようなようすで、アントニイをみた。
「ギリンガムさん、はじめて、この邸へお見えになったにしては、邸のようすを、ずいぶん、よくご存じですね」
アントニイは、声をあげて笑った。
「いやあ、ぼくは、なんでも、よく気がつくんです。生れつき注意深いんですね。しかし、犯人が、どういうわけで、ここから逃走したか、については、ぼくはあたっていると思いますよ。そうじゃ、ありませんか?」
「ええ、そうですね」ケイリーは、灌木の茂みのほうへ、視線を投げ、「すぐ、あそこを、調べてごらんになりますか」と、あごで茂みをさした。
「そいつは、警官にまかせたほうがよさそうですね」アントニイは、おだやかに言った。「そうですよ。急ぐことはないんですから」
ケイリーは、ほっと吐息《といき》を洩らした。まるで、アントニイの出かたに、息を殺していたのを、救われた、というようだった。
「ギリンガムさん、ありがとう」と、彼は言った。
四 オーストラリアから兄帰る
『赤い館』の客は、筋のとおったことなら、なんでも好きなことをやってよかった。──もっとも、筋がとおる、とおらないは、マークの気持しだいだったが──。しかし、いったん、したいことを、客が〔あるいはマークが〕決めた以上は、そのプランはやりとおすことになっていた。館の主人の、そういう病癖《びょうへき》を知りぬいているミセス・キャラダインは、午後に、もう一ラウンドやり、お茶を飲んでから、さっぱりした気分で帰ろうというベヴァリーの提案に反対した。ほかの連中は大賛成なのに、ミセス・キャラダインは、そんなことは、アブレットさまがお好みにならないなどと、あからさまな言いかたこそしなかったが、四時に帰ることにした以上、四時に帰るべきだと主張した。
「マークさんが、われわれをお待ちかねだとは思えませんな」と、少佐が言った。午前中成績が悪かったので、午後、もっとましなプレイをしてみせる意気ごみでいた。
「訪ねてみえるお兄さんと一緒だから、われわれがお邪魔しないほうが、あのかたはありがたいですよ」
「そうですとも、少佐」こう言ったのは、ベヴァリーである。「あなただって、やりたいですよ、ね? ノリスさん」
ミス・ノリスは、どっちつかずなようすで、ホステスに目をやった。
「もちろん、あなたがお帰りになりたいというのに、おひきとめはしませんわ。ゴルフをなさらないあなたには、とっても退屈なことですものね」
「九ホールだけよ。おかあさま」ベティが懇願《こんがん》した。
「車でお帰りくださってけっこうです。ぼくたちは、もう一ラウンドやっていくって、邸のかたにおっしゃっていただけませんかね。それから、車を迎えによこしてください」ベヴァリーは、てきぱきと言った。
「ここは、あんがい、涼しいじゃないか」少佐が口をはさんだ。
ミセス・キャラダインはついに陥落した。ゴルフ・ハウスの外は、すばらしく涼しかったし、マークだって、水いらずのほうがうれしいに違いない。そこで、夫人は九ホールに同意した。競技の結果は双方ひき分けに終った。各自は午前中より好成績で、一同は大いに満足して、『赤い館』にひきあげた。
「やあ、アントニイじゃないか?」邸に近づいたとき、ベヴァリーは、思わず口に出した。
アントニイは、邸の前に立って、皆を待ちうけていた。ベヴァリーが手をふった。アントニイもそれに応えた。自動車がとまると、運転手と並んで前の席にいたベヴァリーはとびおりて、熱意をこめて、アントニイを迎えた。
「やあ、キ印君、よくきたね。それとも、なにか──」彼は、ふと、あることを思いついた。「まさか、キミが、マークさんの、あのオーストラリア帰りのお兄さんっていうんじゃないだろうな。そうだと言われれば、信じないわけじゃないけどね」ベヴァリーは、朗かに笑った。
「しばらくだ、ベヴァリー君」アントニイは静かに言った。「皆さんに紹介していただきたいな。あいにく、悪い知らせがあるんだ」
その言葉を聞いて、緊張したベヴァリーは、彼を皆に紹介した。少佐とミセス・キャラダインは車のすぐ近くにいたので、アントニイは低い声で、ふたりにこう言った。
「びっくりなさらないでいただきたいのですが、マーク・アブレットさんのお兄さんのロバート・アブレットがたったいま、殺されたのです」彼は親指で背後を指さした。「この邸のなかでです」
「けしからん!」少佐が声をあげた。
「自殺なさった、っていうことですの? たったいま?」ミセス・キャラダインがきいた。
「二時間ばかり前です。ぼくは、ひょっこり来あわせたんです」──アントニイは、半ばベヴァリーのほうへ向き直って、説明した──「ぼくは、君に会いに来たんだ、ビル。ここへ着いたのが、その──その殺人の直後だった。ケイリーさんとぼくが屍体を発見してね。ケイリーさんは、いま、忙しいまっさいちゅうなんだ──警察だの、医者だのが来てるし、その他、いろんなことでね──ケイリーさんが、ぼくから皆さんに申しあげてくれ、というんだ。こういう悲惨な事件が起こっては、集まりもおひらきになるだろう、そうとなれば、早々に退散なさりたいだろう、とケイリーさんが言ってる」アントニイは、明るい弁解めいたかすかな微笑をうかべて、つづけた。「ぼくは話が下手で、つまり、あのひとの言っていることは、もちろん、皆さん、ご自身のお気持どおり、ご自由になさってくださいということなんです。適当な汽車に間にあうように、車をお命じになるなりして。ご希望だったら、夕方、出る汽車が、たしかひとつあるはずです」
ベヴァリーは、口をあけて、アントニイを呆然《ぼうぜん》とみつめていた。さっき、少佐が「けしからん!」と言ったのだが、彼は、自分の気持を表現するのに、それ以外の言葉を持ちあわせていなかった。
ベティは、ミス・ノリスのほうへ、体をのりだすようにして、「殺されたのは、どなたなの?」と、ふるえ声できいた。
ミス・ノリスは、舞台で、登場人物のだれかの死を知らせる使者の口上をきくときの悲痛な表情に、おのずとなり、言うべき言葉を求めて、ちょっとのあいだ沈黙していた。
ミセス・キャラダインは、少しも動揺をみせなかった。
「あたくしどもが、足手まといになることはよく、わかっておりますわ。でも、なにか怖ろしいことが起こったからって、踵《きびす》を返して逃げだすなんてことはできません。あたくし、マークさんに、ぜひ、お目にかからなくちゃ。そうすれば、どうすればいいかがきまりますわ。あのかたに、あたくしどもが、どんなにご同情申しあげているか、お知らせしなくては。たぶん、あたくしたち──」
言いかけて、夫人はためらった。
「少佐とぼくは、とにかく、役に立つだろう、そうおっしゃりたいんじゃないんですか? キャラダインさん」と、ベヴァリーが言った。
「マークさんは、どこにいるんです?」とつぜん、少佐がきびしい目を、アントニイに向けた。
アントニイは、泰然《たいぜん》として、視線を返した──が、なにも言わなかった。
「わたしは、こう考えますよ」少佐は、ミセス・キャラダインにむかって、優しく声をかけた。「ベティさんを連れて、今夜、ロンドンへ帰られたほうがいいんじゃないかとね」
「ほんとに、そうですわ」夫人は、おだやかに同意した。「あなたもご一緒にいかが? ルース」
「ぼくが、ロンドンまでお送りしますよ」ベヴァリーが優しい声で言った。彼は、なにごとが起こったのか、まるきり、わからなかった。が、『赤い館』には、あと一週間、滞在する予定である。ロンドンで行くあてはないが、皆が行くのなら、行ってみてもいい。あとで、ちょっとでも、ふたりきりになれたら、アントニイは、きっと話してくれるだろうと思っている。
「ビル、ケイリーは、あなたに残ってもらいたいのよ。いずれにしても、あなたはお立ちになるのでしたわね、あしたですの? ランボルド少佐」
「そう、わたしは、あんたと一緒ですよ。キャラダインさん」
「ケイリーさんは、こんなことも、皆さんに申しあげてくれと、おっしゃると思いますが、車なり、電話なり、電報のことで、こうして欲しいというご注文がおありになったら、ご遠慮なく申し出てください」アントニイは、もう一度微笑して、こう言いたした。「どうか、さしでがましいところは、お許しください。たまたま、ケイリーさんの代役をうけもつ羽目になったものですから」彼は一同にあたまを下げ、邸のなかにはいっていった。
「やれ、やれ!」ミス・ルース・ノリスが芝居気たっぷりで言った。
アントニイが、ホールに戻ってきたとき、ミドルストンからきた警部が、ケイリーといっしょに、書斎へ行こうとしているところだった。ケイリーは足をとめて、アントニイをあごで示した。
「ちょっと、お待ちください。警部さん。ギリンガムさんが見えましたよ。あのかたにも、ご一緒に来ていただいたほうがいいでしょう」それから、アントニイにむかって、「このかたはバーチ警部です」
バーチ警部は、探るような目で、ふたりをこもごも見た。
「ギリンガムさんとぼくが、一緒に、屍体を発見したのです」と、ケイリーが説明した。
「ほう! なるほど。では、ご一緒に、おいでください。いろいろな事実を、少し整理してみましょう。わたしの立場を知りたいですからな。ギリンガムさん」
「われわれは、よくわかってます」
「ほほう!」警部は、面白そうに、アントニイに目をやった。「この事件で、あんたがどんな立場におかれたか、おわかりですか?」
「ぼくが、これからどうなるかっていうことは、わかってます」
「どうなりますか?」
「バーチ警部に尋問されます」アントニイは微笑して言った。
警部は、愉快そうに笑い声をあげた。
「よろしい、大急ぎで切りあげて、放免してあげましょう。では、ご一緒に」
二人は書斎へはいっていった。警部は書物机の前に腰をおろし、ケイリーはその傍の椅子に腰かけた。アントニイはアームチェアにゆったりと腰かけ、なりゆき如何《いか》にと、おもしろそうに、控えていた。
「まず、被害者について、はじめるとしましょう。ロバート・アブレット、でしたね?」警部はそう言って、手帳をとりだした。
「そうです。この邸の主人、マーク・アブレットの兄です」
「ははあ!」警部は鉛筆を削りはじめた。「ここに、ずっといたのですか?」
「いや、そうじゃありません」
ケイリーは、ロバートについて知っていることを、すっかり、話すのに、アントニイは注意深く耳を傾けていた。いまのことは、彼には初耳だった。
「なるほど。一族のつらよごしというわけで、国外へ追放されたのですね。なにをしたんです?」
「よく知りません。その頃、ぼくは十二ぐらいでしたから。あれこれきくのを許されない年頃ですからね」
「具合の悪い質問は、ですか?」
「たしかにそうです」
「では、そのひとが、たんなる乱暴者にすぎなかったのか、あるいは──あるいは悪党だったのか、あなたは、ほんとうに、ご存じないのですね?」
「知りません。父親のアブレットさんは牧師でした」ケイリーは言いたした。「世間の人には、ただの乱暴者にすぎない者も、牧師の目には悪党に見えたのかもしれませんね」
「そうだというなら、ケイリーさん」警部はにっこりした。「いずれにしろ、オーストラリアへ行ってもらって、大いにありがたかったというわけですな?」
「そうですね」
「マーク・アブレットは、兄さんの話をしたことがないのですか?」
「ほとんど、しません。兄さんのことを、ひどく恥じていました──そうですね。オーストラリアにいることを、よろこんでいました」
「ときどき、便りがありましたか?」
「ほんのたまに、です。たぶん、この五年間に三回か四回です」
「金送れ、ですか?」
「まあ、そういった類《たぐ》いです。マークがいつも返事をだしていた、とは思えません。ぼくの知るかぎりでは、金を送っていませんね」
「ところで、あなたの率直なご意見ですがね、ケイリーさん。マークさんは、お兄さんに対して、ずるかったと、思われますか? ひどく冷酷だったというようなことは?」
「子供の頃から、仲は悪かったのです。ふたりのあいだには、愛情というものがなかったのですね。どちらのせいだったのかは、ぼくにはわかりません。──もし、どちらかに責任があったとすればですが」
「それでも、マークは、援助の手をさしのべるべきでしたね?」
「ぼくには、ロバートは生涯、人からの援助を願って過ごす人間だということが、わかっていました」と、ケイリーは言った。
警部はうなずいた。
「よくあるやつですよ。では、さて、けさのことに移りましょう。マークがうけとったその手紙は──ごらんになりましたか?」
「そのときではありません。あとで、マークが見せてくれました」
「差出人の住所は?」
「ありませんでした。うす汚れた紙の半きれだったのです」
「いま、どこにありますか?」
「知りません。マークのポケットだと思います」
「ほう!」警部は、あごひげをひっぱった。「さて、そのことについて。なんて書いてあったか、覚えていますか?」
「記憶しているかぎりでは、こんなふうでした。『マーク、なつかしい君の兄貴が、はるばるオーストラリアから、あした、会いに行く。驚かれてもいけないので、あらかじめ、お知らせする。よろこんでもらいたい。到着は三時か、その前後になる』」
「ほほう!」警部は、注意深く、その文句を書きとった。「消印に気づかれましたか?」
「ロンドンでした」
「で、マークのようすはどうでした?」
「迷惑そうに、不機嫌で──」ケイリーは言いしぶった。
「気がかりそうなところは?」
「い、いいえ、必らずしも、そんなふうではありませんでした。むしろ、会うこと自体が不愉快で、その不快な結果を心配しているようではなかったのです」
「と、おっしゃるのは、暴力とか恐喝《きょうかつ》とか、そういったたぐいのことは、怖れていなかったということですか?」
「いなかったようです」
「よろしい……さて、それから、その男が着いたのは、三時でしたね?」
「ええ、その頃です」
「それで、邸にはだれがいました?」
「マークとぼくと、召使が何人か。だれがいたかわかりません。もちろん、ご自分で直接おききくだされば、わかります」
「では、そうさせていただくとして。お客はいなかったんですね?」
「皆さん、ゴルフに出かけていました」と言いかけて、「ところで」と彼は言葉をはさんだ。「ちょっと伺いますが、いったい、皆さんに、お会いになるおつもりでしょうか。こんな不愉快なことになったので、こちらから提案しまして──」と、アントニイをふりかえると、彼はうなずき返した。「皆さん、今夜、ロンドンへお帰りになるおつもりだろうと思います。おひきとめすることはない、と思いますが?」
「あとで、連絡したいときの用意に、名前と住所を控えさせてもらえますね?」
「もちろんです。おひとりはずっと逗留なさいますから、あとでお会いになれます。なにぶん、皆さん、われわれがホールを通っているとき、戻られたばかりですので」
「わかってます、ケイリーさん。それでは、三時に話を戻しましょう。ロバートが着いたとき、あなたはどこにいたのですか?」
ケイリーは、ホールに腰かけていたこと、女中のオードリーから、主人の居場所をきかれたこと、最後に見かけたのは、聖堂《テンプル》に行くところだったと答えたことなどを、くわしく説明した。
「女中が行ってしまうと、ぼくは本を読みつづけました。階段で靴音がしたので、見ると、マークが降りてくるところでした。マークは事務所にはいったので、ぼくはまた、読書をつづけました。参考にする本をとりに書斎へ、ちょっと行ったのですが、そのとき、そこで、ピストルの音をきいたのです。とにかく、バーンという大きな音でした。ピストルの音かどうか、はっきりわかりませんが。立ちあがって、耳をすませました。それから、そっと、ドアのところへ行って、外を覗きました。つぎに、また書斎のなかへ戻って、しばらくためらった結果、決心して、事務所まで行ってみました。確かめようとしたのです。ドアの把手《とって》をまわしてみました。すると、鍵がかかってるんです。それで、びっくりして、ドアを叩きました。それからどなったんです。そして、ええと、そうです、そのとき、ギリンガムさんがやってきたのです」彼はどんなふうにして、屍体を発見したかを、つづけて説明した。
警部は、微笑をうかべて、彼を眺めていた。
「そうですか、なるほど。また、あとでこまかいことを伺うことにして、ケイリーさん。こんどは、マークさんのことです。あなたは、そのかたが聖堂《テンプル》にいると思っておられた。その気になれば、邸にはいってきて、あなたの目をかすめて、二階の自室へあがるということが可能なのですか?」
「裏階段があります。もちろん、ふだん、マークが使うことがありません。しかし、ぼくは、午後ずっと、広間にいたわけじゃないですからね。ぼくに気づかれないで、二階へ戻るのは、簡単なことですよ」
「それで、そのかたが二階から降りてくるのを見ても、驚かなかったんですね?」
「ええ、ちょっとも」
「で、そのとき、あのかたは、なにか言ったんですか?」
「『ロバートが来たのか?』とか、なんとか、言いました。ぼくはベルをきいたんだと思ったんです。でなけりゃ、ホールの話し声をね」
「そのかたの寝室は、どっちに面してるんですか? 見ようと思えば、ロバートさんが、車よせの道をくるのを、見られたのですか?」
「見られたでしょうね。ええ」
「で?」
「で、『見えてます』と申しますと、肩をすくめてみせました。それから、『用事があるかもしれないから、遠くへ行かないように』と言って、はいってゆかれたのです」
「その言葉の意味を、あなたはどんなふうに、うけとられました?」
「まあ、いろいろと、相談なさるんですよ、ね。ぼくは、まあ、あのかたの私設弁護士みたいなものなのです」
「すると、兄弟の会見というより、むしろ事務的な面談だったんですか?」
「ええ、そうです。あのかたは、たしかに、そう見ていたと思います」
「なるほど、どのくらいたってから、ピストルの音をきいたのですか?」
「すぐでした。たぶん、二分ぐらいです」
警部はメモをとり終った。それから、なにか考えごとをするようすで、ケイリーを見ていたが、だしぬけに、きいた。
「ロバートの死について、あなたのご意見は?」
ケイリーは、肩をすくめてみせた。
「おそらく、あなたのほうが、よく観察していらっしゃいますよ。ご商売ですからね。ぼくはしろうととして──マークの友人として言えるだけのことです」
「それで?」
「つまり、まあ、ロバートは一騒動起こすつもりで、ピストルを持ってきたのだ、と思いますね。すぐに実行に移って、マークがそれをとりあげようとしたのです。たぶん、小ぜりあいがあったでしょうね。それで、ピストルが暴発した。マークはかっとのぼせました。気がついてみると、自分はピストルを持っていて、足もとに、死骸が横たわっている。逃げることだけで、あたまはいっぱいです。ほとんど無意識でドアに鍵をかけ、ぼくがドアを叩きはじめた音をきいて、窓からとびだしたのです」
「そうですか。なるほどね。なかなか筋がとおったご意見ですな。ギリンガムさんは、どう説明なさいますか?」
「あわてているときの判断は『筋が通っている』とは、言えないでしょうね」アントニイは、椅子から立ちあがり、ふたりのほうへやってきながら言った。
「わたしが、そう言った意味はおわかりでしょうな。いまのお話で、いろいろなことが、解明されています」
「ええ、そうです。ほかの説明では、事実をいっそう複雑にするでしょうからね」
「なにか、違った説がおありですかな」
「ありませんね」
「ケイリーさんのご説を、改めたいと思われる点はないですか?──あなたが、ここへ見えてからのことで、ケイリーさんがなにか、言い忘れているということなんか?」
「いや、ないですね。たいへん、的確に、お話しになりましたよ」
「ほう! さて、では、あなたご自身についてです。あなたは、この邸にご逗留なさってないようですね?」
アントニイは、それまでの自分の行動を話した。
「なるほど。ピストルの音はおききになりましたか?」
アントニイは、じっと耳をすますように、首をかしげた。
「ええ、ちょうど、邸が見えはじめたときでした。あのときは、特別、気になったわけじゃなかったのですが、いま、思いだしましたよ」
「では、どこで聞いたのですか?」
「車よせの道を歩いてました。ちょうど、邸が見えたときでした」
「銃声のあとで、だれも玄関から出て行きませんでしたか?」
「だれも」と、彼は答えた。「ええ」
「たしかですか?」
「ぜったい、たしかです」
アントニイは、念を押されたことに、むしろ驚いて言った。
「ご苦労さまでした。『ジョージ旅館』でしたね。もし、おめにかかるとしたら」
「ギリンガムさんは、調査が終るまで、ここにご滞在になります」と、ケイリーが言った。
「それは、ありがたい。さて、こんどは女中さんたちですな」
五 ギリンガムの新職業
ケイリーがベルを押しにいくと、アントニイは立ちあがって、ドアのほうへ行きかけた。
「ところで、警部さん、ぼくの役目はすんだんでしょうね」
「ええ、ご苦労さまでした。ギリンガムさん。むろん、この近くにおいでなんでしょうな」
「だいじょうぶですよ」
警部はためらって、
「ケイリーさん、使用人のかたたちには、わたしひとりで会ったほうがいいと思います。まわりに人間がいればいるほど、気を使う連中ですからね。ひとりのほうが、ほんとのところ、聞きだせると思うんですよ」
「まったく、そうですね。じつは、ぼくのほうで、失礼したいと思って、申しあげようとしていたところなんです。お客さまがたを、放っておけないと思いましてね。ギリンガムさんが、たいへんご親切に──」ケイリーは、ドアのところで待っているアントニイに微笑してみせると、そのまま、あとの言葉は口にしなかった。
「ああ、それで思いだしましたが」と警部は言った。「お客さまのなかに、ベヴァリーさんというかたがおられるとか言われましたな? ギリンガムさんのご友人で、滞在なさっているとか?」
「ええ、おいでです。お会いになりたいですか?」
「のちほど、そう願えれば」
「そう伝えておきましょう。ぼくは二階の自分の部屋におりますから、ご用の節はどうぞ。二階に仕事部屋があるんです──召使がだれかご案内しますよ。ああ、スティーヴンズ、バーチ警部が、お前におききになりたいことが、二、三、おありだそうだよ」
「はい」オードリーは、とりすまして答えたものの、胸がどきどきした。
女中部屋でも、このときすでに、事件の一半を耳にしていた。オードリーは、自分とあの男との言葉のやりとりを、仲間に説明するのに忙しかった。こまかいことは、よくわからなかったが、すくなくとも、次のことはたしかだった。つまり、主人の兄が自殺して、主人のマークは、神隠しにあったように、姿をかくしてしまったこと。兄という人は、オードリーが、初めて顔を見た瞬間に、看破したとおりの種類の人間だったということである。オードリーは、このことを、ミセス・スティーヴンズに、ちょっと話してあった。彼女はまた、──いいかね、オードリー、──と例のように言い、人は、よっぽどの理由がないかぎり、オーストラリアくんだりまで、行きはしないものなのだ、と言うのだった。エルジーは、ふたりに賛成だったが、彼女には彼女なりの資料があった。エルジーは、主人のマークが、事務室で兄をおどしつけているのを、その耳できいているのである。
「ロバートさまのことでしょ」もうひとりの小間使が言った。彼女は自分の部屋で、ちょっとうたたねをしていたのだが、あの凄《すご》い音をきいていた。じつは、その音で目がさめたのだ。それはなにかが爆発する音にそっくりだった。
「あれは、だんなさまのお声だったわ」エルジーは毅然《きぜん》として言った。
「かんべんしてくれって、頼んでいたのね」好奇心に目を輝かせた下働きの女中が、仲間入りをしたがって、ドアから顔をだした。が、すぐに他の連中に追い返された。こんなことなら、知らん顔で立聞きしていればよかったと思ったが、あとの祭だった。日ごろ読みなれた三文小説などから、こんな事件のなりゆきが想像できるだけに、黙っていられなかったのである。
「あの娘には、お説教しとかなくちゃ」と、ミセス・スティーヴンズは言った。「で、それから? エルジー」
「だんなさまは、おっしゃったわ。あたし、この耳できいたのよ。『こんどは、ぼくの番だぞ』って、勝ち誇ったように、おっしゃったのを」
「ふうん。だが、あんたがそれを、脅《おど》し文句と、とるのは、ちと酷じゃないかね。お前さん」
だが、そのエルジーの言葉を、いま、こうしてバーチ警部の前に立ったいま、オードリーは思いうかべるのだった。なん度か同じ言葉をくり返した人の、なだらかさで、彼女は証言をした。警部は、『君があの男になんて言ったかは、きかなくてもいいんだ』と言いたくてたまらなかったが、あの男の言ったことをききだすには、それより手がなかったので、我慢して傾聴した。オードリーも、警部の言葉や表情になれて、警部はききだすべきことを訊きだしていた。結局、概括的な意味で、彼女の証言は、既定の事実に、即しているように思われた。
「それで、マークさんには、ぜんぜん会わなかったんだね?」
「ええ、きっと、もうその前に、お邸におはいりになって、ご自分のお部屋におあがりになったのですわ。あるいは、あたくしが裏をまわっているあいだに、玄関からおはいりになったのかもしれませんわ」
「よし。けっこうだ。わたしのききたいのは、そのくらいだ。どうも、ご苦労さん。で、ほかの女中さんたちは、どうだろう?」
「エルジーが、だんなさまとロバートさまのお話をたちぎきしましたの」オードリーは、夢中になって言った。「あのかたが、こうおっしゃって──あのかたって、マークさまのことですけど──」
「ああ! よし、エルジーから、じかに聞いたほうがいい。ところで、エルジーって、いうのは?」
「仲働きの女中のひとりですわ。エルジーを、よこしましょうか?」
「そうしてください」
その伝言をきかされても、エルジーはいやな気持にならなかった。おかげで、午後、自分がしでかした失敗についての、ミセス・スティーヴンズのお叱言《こごと》を、すっかり聞かないですんだからである。〔エルジーの気持としては〕警部に会うほうが、まだましだった。ミセス・スティーヴンズに言わせれば、その日の午後、事務所で起こった犯罪さえ、運わるくエルジーがやった大失策にくらべれば、とるにたりないものだというのである。
エルジーは、その日の午後、ホールにいたことを、隠しておけばよかったのだが、気づいたときは、あとの祭だった。うまれつき、隠しごとが下手なところへもってきて、ミセス・スティーヴンズは訊きだし上手ときている。エルジーは、自分に、正面階段を降りてくる用事がなかったことは、百も承知していた。それでその階段のとっつきのミス・ノリスの部屋から出て来たことを、言わざるを得なかった。ホールにだれもいなかったからというようなことが、理由にならないことも知っている。
では、とにかくそのとき、エルジーはミス・ノリスの部屋でなにをしていたのだろうか?
雑誌を返しにいった? ミス・ノリスにお断りして借りたのかい? あのう、借りたわけでもありませんの。おや、エルジー、ほんと! このりっぱなお邸で、なんてことなの! あたしの好きな作家の名前が、崖《がけ》から墜落する悪漢の絵と一緒に、広告してあったものだから、と、いくらエルジーが弁解しても無駄だった。
「気をつけないと、あんたが崖から落っこちるんだよ。お前さん」ミセス・スティーヴンズが、きっぱりと言った。
だが、むろん、バーチ警部に、この罪をすっかり、白状するには及ばなかった。彼が関心を持ってるのは、ホールを通りかかったとき、事務室からきこえた話し声だけなのだ。
「盗み聞きするつもりで、立ちどまったのかね?」
「とんでもありませんわ」だれひとり、自分を、ほんとには理解してくれないと思いながら、エルジーはもったいぶって答えた。「あたし、ホールを通りかかっただけです。警部さんだって、そういうことがありますわ。それに、あのかたたちが秘密の話をなさってるなんて思いませんでしたもの、耳をふさいだりしませんでしたわ。あのとき、あたし、耳をふさいでいれば、よかったんですね」エルジーは、ちょっと鼻をすすった。
「まあ、まあ、わたしはなにも、そんな意味で言ったんじゃあ──」警部はなだめて言った。
「皆さん、あたしにつらくあたるんですわ」エルジーはすすりあげながら言った。「かわいそうに、あそこに、人が死んでますけど、あたしが、もし、あんなふうになったら、きょう、皆さんでつらくあたったりなさったのを、気の毒なことをしたって、後悔なさいますわ」
「ばかなことを言いなさんな。君は偉かったと、言うようになるつもりだよ。だから、あんたの証言がどんなに重要なものであっても、わたしは驚かないね。さて、どんなことを聞いたのかな? その言葉をそのまま、思いだしてみてくれたまえ」
航海中、船賃がわりに、船で働いていたなどという言葉を、エルジーは思いだした。
「そうか、それで、だれがそう言ったんだね?」
「ロバートさまです」
「ロバートさんだって、どうしてわかるのかな? 前に、声をきいたことがあったのかい?」
「あたし、ロバートさまを存じあげているわけではありませんから、たしかにそうだと、申しあげているんじゃないんです。でも、マークさまでもなければ、ケイリーさまでもないし、他のかたでもありません。それに、オードリーが、ロバートさまを事務室にご案内して、五分もたっていなかったのですから──」
「たしかに、そうだね」警部は気ぜわしく言った。「ロバートさんだ。まちがいなく。船賃代りに働いてたって?」
「そんなふうに聞こえましたわ」
「ふむ。船賃代りに、ずっと船で働いていたというんだな?」
「そうですわ、警部さん。あのかた、ずっと、船賃代りに、船で働いていらしたんです」と、エルジーは、勢いこんで言った。
「それで?」
「すると、こんどはだんなさまが大きな声で、──勝ち誇ったような口ぶりでした──『さあ、こんどはぼくの番だぞ、待ってろ』って」
「勝ち誇ったようにだね」
「いよいよ、自分の番がきたっていうみたいでした」
「で、それだけかね、あんたが聞いたのは?」
「これで、すっかりですわ、警部さん。いつもそうしているように立ち聞きしたわけではなく、ホールを通っているとき、耳にはいっただけですから」
「わかった。よろしい。たいへん重要なことを聞かしてもらったよ、エルジー。ご苦労さん」
エルジーは、警部に微笑してみせてから、台所へ、さっさと戻っていった。いまはもう、ミセス・スティーヴンズだろうが、誰だろうが、へいきだった。
そのあいだに、アントニイのほうは、勝手に調査をはじめていた。どう考えても、わけのわからない点が、ひとつあった。アントニイはホールをぬけて、玄関へ出ると、あけ放しのドアのところに立って、車寄せの道を見渡した。さっき彼とケイリーは、左へ邸をぐるっとまわったのだった。が、右まわりのほうが、たしかに、近いのではないだろうか? 玄関は邸の中央にあるわけではなく、端のほうによっている。まちがいなく、ふたりは、いちばん遠まわりをしたのだった。だが、右手にまわったら、たぶん、なにか障害物があったのだろう──たとえば壁が。
アントニイは、右手の小路に沿って、ぶらぶら歩き、事務所の窓の見えるところへ出た。障害など、まったくなにもなかった。距離も左まわりの半分である。彼は、少し歩を進めて、さっき押し入った窓の向うの戸口に出た。そのドアは簡単にあいた。なかは廊下だった。廊下のつきあたりに、もうひとつドアがあった。それをあけてみたら、またホールへ戻っていた。
〔すると、当然、三つのうちで、これが最短距離なのだ〕とアントニイは思った。〔ホールを通りぬけて、裏口へ出る。それから左へまわれば、あのフランス窓のところだ。にもかかわらず、いちばん遠まわりを選んだ。なぜだろうか? マークを逃がす時間をかせいだのだろうか? それなら、──なぜ、駈けたのか? それに、逃げようとしている男がマークだと、ケイリーはどうして知っていたのだろう。どちらかが、相手を射ったと憶測したのなら──憶測ではなく、むしろ危惧《きぐ》であったが──ロバートがマークを射ったと考えるほうがより妥当である。げんにケイリーも、そう思ったと、認めた。屍体を仰向けにしたとき、まず、ケイリーの口をついて出たのは、「よかった! マークじゃないかと思ってたんだ」という言葉だった。
しかし、なぜ、ロバートになんか逃げる余裕をあたえたのだろう? それから、またもとに戻るが、──逃げる余裕をあたえながら、どうして走ったのだろうか?〕
アントニイは、ふたたび邸の裏手の芝生へ出て、事務所の見えるベンチに腰かけた。
〔さて、ひとつ、ケイリーの心理を克明に追ってみよう。そうすれば、なにかがわかるだろう〕と、彼は思った。
ロバートが事務所に案内されたとき、ケイリーはホールにいた。女中がマークを探しにいってしまったあと、ケイリーは読書をつづける。マークが階段を降りてきて、用事があるかもしれないから待っていろ、とケイリーに言っておいて、兄に会いにいく。ケイリーは、どんな用事を想定したか? 用事なんかあるものか、と思ったかもしれない。また、なにか面倒なこと、たとえば、ロバートの借金を払うとか、オーストラリアへ船で送り返すことになって、呼ばれるかもしれないと、考えたかもしれない。おそらく、乱暴者のロバートを邸から追いだすには、自分が必要だろうとも考えただろう。
さて、ケイリーは、ちょっとのあいだ、そこにいて、書斎へはいっていく。いってわるいわけはないだろう。いざというときには、そこなら大丈夫だ。とつぜん、銃声がきこえる。こんな田舎の邸で、銃声をきくなんて、思いもよらないことだ。だから、そのとき、なんの音かまるで見当もつかないのは、当然である。彼は耳をすます。だが、もう、なにもきこえない。おそらく、あれは銃声ではなかったのだ。が、とにかく、書斎の戸口に、もう一度いってみる。森閑とした静寂に、かえって、彼は不安になる。銃声だったのかな? まさか! だが、なにか口実をつけて、事務室へいってみても、わるくはないだろう。ほんの気休めに。そこで、彼はドアへいった。──すると、鍵がかかっているではないか!
そのときの気持は、どうだったろう? 驚き、半信半疑になる。なにかがあったのだ。信じられないような気がするが、あれは銃声だったに違いない。そこで、ドアをドンドンと叩いて、マークを呼んでみるが、返事はない。まったく、驚いたことだ。だが、だれの安全を心配しての焦燥《しょうそう》だろう? マークであることは、はっきりしている。ロバートは他人だが、マークは親身の友人だ。ロバートは、その朝、一通の手紙をよこした。その手紙は、彼が物騒な気質の男であることを語っている。ロバートは乱暴者だが、マークは高い教養のある紳士である。もし、ふたりのあいだに争いが起こったとすれば、ロバートがマークを射ったのだ。ケイリーは、またドンドンとドアを叩いた。
そんな場面に、いきなりぶつかったアントニイには、ケイリーのふるまいは、むろんこっけいだった。しかし、そのとき、その瞬間は、ケイリーは逆上していたのだ。だれだって、そんなときは、そうなるものだ。しかし、アントニイが窓からはいろうと提案すると、ケイリーはただちに、そうすべきだと判断した。そして、先にたって、窓へ駈けつける──それも、一番遠まわりな道を。
なぜか? 殺人犯に、逃走の余裕をあたえるためか? あのとき、彼が、マークこそ犯人だと思っていたのなら、おそらく、そうだろう。しかし、ケイリーは、犯人はロバートだと思っていたのである。彼がなにも隠しごとをしていないのなら、そう考えるのはあたりまえだ。また、実際、屍体を見たとき、そんな意味の言葉を洩らしている。「マークじゃないかと、心配してたんだ」と、殺されたのがロバートだとわかったときに、ケイリーは言っている。とすると、時間を稼ぐためという根拠はないことになる。それどころか、本能的に、一刻も早く、その部屋にとびこんで、その悪党ロバートを捕えようとするはずだ。それなのに、いちばん遠まわりをしている。なぜか? それでいて、走ったのはなぜだろう? 〔そこが問題なのだ〕アントニイは、パイプに煙草をつめながら考えた。〔それがわかったら、たいしたもんだ。むろん、ケイリーは、ただの臆病者なのだ、とも考えられる。ロバートのピストルが怖くて、のろのろしながら、一方では、誠心一途に駈けつけているところを、みせたかったのかもしれない。それで、一応の説明はつくが、それは、ケイリーを臆病者ときめこんでの話である。彼は臆病者だろうか? とにかく、あの男は、きわめて大胆に、顔を窓に押しつけていたのだ。そうだ、もっと的確な解釈があると思う〕
アントニイは、火の消えたパイプを手にして、そこに坐りこんだまま、考えつづけた。あたまのすみに、未解決のことが二、三、検討されるのを待っていた。が、彼はそのままにしておいた。いずれ、必要なときに、きっとまた、あたまにうかんでくるだろう。
とつぜん、彼は笑いだした。それから、パイプに火をつけた。
〔新しい仕事を探してたとこだが、とうとう見つけたぞ。われらの私立探偵アントニイ・ギリンガム。きょうから開業だ〕と、アントニイは思った。
この新たな職業につくにあたって、アントニイ・ギリンガムの他の資格はさておき、なにはともあれ、彼は明晰《めいせき》、俊敏な頭脳の持ち主であった。しかも、このときこの明晰な頭脳は、この邸で、だれに気兼ねすることもなく、真相を究明できるのは、自分ひとりであることを、すでに見ぬいていた。警部が到着したのは、一人の男が死に、一人の男が失踪《しっそう》したことが発見されてからである。失踪した男が、死んだ男を撃ったということは、むろん、大いにあり得ることである。この大いに可能性のありそうな解釈が唯一の解釈であるとして、警部が他の推理を、偏見をすてて、とりあげてみる気構えが乏しくなっていることは、いっそうあり得ることである。他の連中皆について言うならケイリー、客、召使たちだが、──彼らもまた偏見にとらわれている。皆は、マークに、あるいはお互い同士のあいだで、好意、または悪意を持っているだろうし、その朝、ロバートという人間について聞かされたことから、すでに先入観を抱いていた。こんどの事件に対して、公平な考察のできる者は、だれひとりいないのだ。
だが、アントニイには、それができた。マークについても、ロバートについても、彼はまったく知識がない。屍体を見てから、それがだれであるかを、聞かされたのである。この惨劇にいきなりぶつかってから、だれかが失踪していることを知った始末である。こういう決定的に重要な最初の印象は、あるがままにうけとられていた。そして、それは、純然たる自分自身の五感に基づくもので、自分の感情、あるいは他人の感覚にたよったものではなかった。事件の真相究明のためには、彼は警部にくらべて、ずっと優位な立場にあったわけである。
こう考えてしまうのは、バーチ警部に対して、不公平であるとも言える。たしかに、警部はマークが兄を射ったと信じこむような態勢にあったのだ。ロバートは事務室に案内された〔オードリーの証言〕。マークはロバートのところへ出かけた〔ケイリーの証言〕。マークとロバートの話し声を聞いた〔エルジーの証言〕。銃声がきこえた〔一同の証言〕。部屋にはいると、ロバートの屍体が発見された。〔ケイリーとアントニイ・ギリンガムの証言〕そして、マークは失踪中である。
こんなふうに考察してくると、ケイリーの信じるように過失であるが、エルジーが示唆《しさ》するように故意であるか、いずれにしろ、マークが兄を殺したことは明白である。欠点のない簡潔な解答があるというのに、わざわざより複雑な解答を求める論拠はない。しかし、同時に、バーチ警部は、より名をあげるという単純な理由から、わざわざ複雑な解答をとりあげたいかもしれないのである。
田舎を駆け巡って、マーク・アブレットの陳腐な追跡を試みるより、邸内で意外な犯人をあげる、センセーショナルな逮捕《たいほ》のほうが、警部にとっては、いっそう張りあいがあるというものだ。マークは犯人であろうがなかろうが、必らず捕まるに違いない。しかし、そこには、他の可能性もあった。
アントニイが、こうして、偏見にとらわれた警部より、自分のほうがむしろ有利であると、いい気持になっているそのとき、警部は警部で、アントニイ・ギリンガム氏に関しての、事件の発展性について、じっと深刻な思いをこらしていると知ったら、彼はさぞ痛快がったであろう。
あんなふうに、ギリンガム氏が、ひょっこり、現場に来あわせたのは、たんなる偶然の一致だろうか? それに、ベヴァリー氏に、彼の友人ギリンガム氏の経歴をたずねてみたときの、奇妙な答えはどうだろう。煙草屋の店員だとか、給仕だとか! たしかに、ギリンガム氏は妙な男だ。うっかり目を離すわけには、いかないぞ。
六 外側か内側か?
客たちは、各自の流儀に応じて、ケイリーに別れの言葉をのべた。少佐は無愛想で簡単である、「用事があったら、言ってください。なんなりとやります。──失礼」。ベティは、おびえきって口もきけず、大きな目に、さまざまの感慨をこめて、無言のまま、同情するばかりだった。ミセス・キャラダインは、なんと申しあげていいのか、と言いながら、たいへんな饒舌《じょうぜつ》ぶりである。そして、ミス・ノリスは、絶望の演技を、たっぷりしてみせた。おかげで、だれにも同じように、「ありがとうございます」と述べてきたケイリーの挨拶も、このときだけは、芸術的な余興への讚辞にきこえたといってもいい。
ベヴァリーは客の一行を、車まで送り、別れを告げた〔ベティには、特に手を強く握って〕。それから、ぶらぶら庭へ行って、ベンチのアントニイに近づいた。
「ところで、おかしな事件がおこったもんだな」ベヴァリーは腰をおろしながら言った。
「まったくのところ、そうだな」と、アントニイは答えた。
「となると、君こそぼくの求める男だ。こんどの事件で、いろんな噂《うわさ》や、不思議なことがあるんだ。ところがあの警部の野郎、いくら殺人について、──そう言えるかどうかはわからないがね、なにかきいても、ぬらりくらりと体をかわすばかりだ。そのくせ、君にはじめてあったのはどこだとか、なんとか、面白くもないことばかり訊くんだ。で、ほんとのとこは、なにが起こったのかい?」
アントニイは、さっき警部に話したことを、要点をかいつまんで話した。ビル・ベヴァリーはききながら、ところどころで、「ほほう」と適当に、あいの手をいれたり、口笛をふいたりした。
「いささか、ことが面倒になったわけだな。そうだろ? いったい、ぼくの立場はどうなんだ?」
「どういう意味かね?」
「つまり、ぼく以外の連中は、皆帰ってしまった。そこで、ぼくは、警部から洗いたてられる。まるで、ぼくが、こんどの事件について、なにもかも知ってるみたいにね。──いったい、どういうことだろうね」
アントニイは、ベヴァリーを見て、にっこりした。
「なにも、君、心配することはないさ。警部が君たちのだれかに会いたがるのは、あたりまえなんだ。君たちが一日じゅう、なにをしていたか、知りたいためにね。ケイリーは、ぼくたちの間がらを知って、君に残るように、気をきかしてくれたんだ。それから──そうだ。それだけのことさ」
「君はここに滞在するんだね、この邸に?」ベヴァリーは、膝をのりだして言った。「そいつはいいや。すばらしいぞ」
「それで、別れてもあきらめはつくんだな、──あのひととさ」
ベヴァリーは赤くなった。
「ああ、いいんだ。いずれ、来週会うことになってる」彼は口のなかで、つぶやいた。
「おめでとう。ぼくは、あのひとの顔だちは好きだよ。あのグレイの服もね。好感の持てる女性だ──」
「そそっかしいな。それは母親のほうだよ」
「そいつは失敬。だが、ビル、とにかく、現在君にいてもらいたいのは、あのひとより、ぼくのほうなんだ。だから、がまんして、手つだってくれよ」
「本気で言ってるのかい?」ベヴァリーは得意になって言った。彼はアントニイを尊敬していた。だから、彼に好意を持たれるのが、大いに得意だったのである。
「そうさ。これからこの邸で、じきに、いろんなことが起こってくるよ、君」
「尋問だとか、そんなことかい?」
「ああ、その前に、たぶん、なにかあるよ。やあ、ケイリーが来た」
ケイリーは、ふたりのほうへむかって、芝生を横切ってくる。大柄な、がっちり肩幅の広い男で、剃《そ》りあとはきれいだが、いかつい、お世辞にも十人並とは言えない醜貌《しゅうぼう》の持ち主だった。
「ケイリーにとっては不運だね。お悔みかなんか、言うべきかな? それもおかしいような気もするけど」と、ベヴァリーが言った。
「いいようにしたまえ」と、アントニイは答えた。
ケイリーは、ふたりのところへくると、軽く会釈して、ちょっとのあいだ、そこに立っていた。
「どうぞ、おかけください」ベヴァリーは立ちあがりながら言った。
「ありがとう。どうぞおかまいなく。ちょっと一言、申しあげに来たのですから」彼はアントニイに向かって、言葉をつづけた。「仕方がないことですが、料理場のほうが落ちつかなくて、夕食は八時半になると思います。もちろん、服装のほうは、お好きなようになさってください。それから、お荷物はどうなさいますか?」
「これから、ビルとふたりで、散歩がてら、宿屋へ出かけて、なんとかしようと思っていました」
「車が駅から戻りしだい、とりにいかせてもよろしいです」
「ご親切はありがたいですが、とにかく自分で行くことにしましょう。荷物をまとめたり、勘定を払ったりしなければなりませんから。それに、散歩にはもってこいの夜ですしね。ビル、君はどう?」
「そうしたいね」
「では、カバンはそのままにしておいてください。あとで、車をまわします」
「ありがとう」
言うべきことを言ってしまったケイリーは、戻ろうか、もう少しそこにいようかと、迷っているように、ぎこちないようすでしばらく、そこにたたずんでいた。
ケイリーが、午後の出来事について話したがっているのか、避けたがっているのか、アントニイにはよくわからなかった。黙っているのもへんなので、彼はそれとなく、警部は帰ったのかと訊いた。ケイリーはうなずいた。それから、険しい口調で言った。「警部はマークの逮捕状をとる気らしいです」
ベヴァリーは、いかにも同情に耐えないというような声を洩らし、アントニイは肩をすくめて言った。
「なるほど、警部としては、そうすべきじゃないですか? だからといって──どうというわけでもないですよ。シロだろうとクロだろうと、あの連中が、あなたの従兄さんを逮捕したいと思うのは当然ですからね」
「ギリンガムさん、あのかたはどっちだとお思いですか?」ケイリーは、アントニイを、きっと見すえて言った。
「マークがですか? 話にならん」ビル・ベヴァリーが、猛烈な勢いで言った。
「ビルは誠実ですからね、ケイリーさん」
「特定のどなたかに、誠実をしめす義務は、おありにならないわけですね?」
「たしかに、ないです。だから、遠慮はいらないということでしょう」
ビル・ベヴァリーが芝生に坐りこむと、ケイリーは、ゆずられた席に、ぐったりと腰をおろし、膝に両肘《りょうひじ》をついて、両手にあごをのせ、足もとを、じっとみつめた。
「まったく遠慮のないところで、お願いしたいのですが」ケイリーは、やっと口を開いて、「マークに関しては、ぼくは自然、身びいきになってしまうので、ぼくの考えを、忌憚《きたん》なく──いずれにしても、偏見のないあなたがたに、やっつけていただきたいのです」
「あなたのお考えというと?」
「ぼくの見解はこうなんです。もし、マークが兄さんを殺したなら、まったく偶発的な出来事だと思うのです。──警部さんにも話したのですが」
ベヴァリーが興味ありげに、顔をあげた。
「ロバートが脅迫《きょうはく》した。そこで格闘が起こった。そして、ピストルが暴発する。マークは逆上して逃げだした、とあなたはおっしゃる。──そういうところですね?」と、彼は言った。
「たしかに、そのとおりです」
「なるほど、ちゃんと筋が通っているようですね」彼はアントニイに向きなおった。「おかしなところは、まるでないだろう? マークを知ってる人間には、最も自然な考えかただよ」
アントニイは、パイプをすった。
「ぼくもそう思う」彼はのんびりと言った。「が、一か所だけ腑《ふ》に落ちない点があるな」
「どんなこと?」ベヴァリーとケイリーが、異口同音《いくどうおん》に質問した。
「鍵だよ」
「鍵?」と、ベヴァリーが言った。
ケイリーは顔をあげて、アントニイを見た。「鍵がどうかしたんですか?」と、彼はきいた。
「いや、なんでもないのかもしれません。ただ、ぼくには不可解なんだ。あなたのおっしゃるとおり、ロバートは殺されましたね。そして、マークは逆上して、だれにも見つからないうちに逃げることだけを考えていたんですね。なるほど、ドアに鍵をかけて、ポケットにしまいこむことは、大いにあり得ることです。無意識のうちに、少しでも時を稼ごうとしてそうしたのです」
「そうです。ぼくが言うのもそのことです」
「当然だろうね。だれでも、無意識のうちにやることだよ。一方、逃げのびる公算も大になるんだからね」と、ベヴァリーが言った。
「そうだ。そのとおりなんだよ。鍵があるとすればね。しかし、なかったとしたら、どうなる?」
その提議は、鍵がなかったことが、既定の事実であるかのように、持ちだされて、ふたりを驚かした。ふたりはけげんそうに、アントニイを見つめた。
「どういう意味ですか?」と、ケイリーが言った。
「つまり、われわれは、ふだん、鍵をどこに置くかという問題なのです。だれでも寝室にいて、片方だけ靴下をはいて、ズボンつりだけなんていうときには、たぶん、鍵をかけますね。それが、あたりまえです。どこの家でも、たいてい寝室は二階にあって、すぐ手のとどくところに鍵があって、自分で簡単にかけられるようになっています。しかし、階下の部屋では、なかから鍵はかけません。ぜったいにかけないと言っていいでしょう。たとえば、ビルにしたって、食堂でシェリー酒を盗み飲みするのに、なかから鍵をかけたりはしないでしょう。また、ご婦人連、ことに女中たちは、強盗をとても怖がります。で、もし窓から強盗に押し入られたとしても、被害をその部屋だけに、とどめたがります。だから、鍵は部屋の外において、寝るときになって、ドアに外から鍵をかけます」アントニイは、パイプの灰を叩き落として、こう言いたした。「すくなくとも、ぼくの母は、そういう習慣でした」
「ということは」ベヴァリーは興奮して言った。「マークが部屋にはいったとき、鍵はドアの外にあったというんだね?」
「ああ、そうじゃないかと思ったんだ」
「ほかの部屋をお調べになったのですか?──撞球《たまつき》室だとか、書斎だとか、他の部屋なんかも」と、ケイリーが訊いた。
「ここに腰かけていて、ただ、そう考えただけです。あなたはこの邸にお住まいになってる──ほかの部屋のことにお気づきになりませんでしたか?」
ケイリーは、頸《くび》をかしげ、じっと考えこんだ。
「ばかげたことですが、気づいていたとは申しあげられませんね」彼はベヴァリーに向き直って、「あなたは、いかがです?」
「まるで、だめです。そんなことは、考えてもみませんからね」
「君なら、そうだろうよ」アントニイは声をあげて笑った。「あとで調べてみれば、わかります。もし、他の部屋の鍵が外にあれば、あの部屋の鍵も外にあったという可能性があるわけです。そうなれば──いよいよ、興味津々になりますね」
ケイリーは、なにも言わなかった。ベヴァリーは、草を噛んでいたが、「そんなことで、そんなに違ってくるのかね?」と言った。
「鍵が部屋の外にあったとすれば、その部屋で起こったことを解明するのが、もっと困難になるんだ。君の過失説をとりあげて、どうなるか考えてみたまえ。そうなれば、無意識で鍵をかけたなんてことは言えなくなる。鍵をとるために、ドアをあける。ドアをあけることは、ホールのだれかに顔をみられることだ。たとえば、つい今しがた別れたばかりの従弟にね。マークは、屍体と一緒に発見されるのが、死ぬほどいやで、そんなばかげた真似をする男だろうか?」
「マークは、ぼくを怖れる必要はなかったんですよ」と、ケイリーは言った。
「それなら、なぜ、あなたを呼ばなかったんです? 近くにいるのを知ってたんですよ。あなたは、あのひとに、知恵が貸せたんですからね。たしかに、あなたの知恵を借りたかったはずですよ。だが、マークの逃走は、あなたや、ほかの人たちを怖れていたことを立証しています。なんとか、自分自身で逃げることしか、考えていなかったのです。あなたや女中たちが、部屋にはいってくるのを防いでです。もし、鍵がなかにあったら、ドアに鍵をかけたと考えられます。が、外にあったのなら、きっと、かけなかったに違いありませんよ」
「そうだ、君の言うとおりだと思うよ」ベヴァリーは、考えこんで言った。「もっとも、鍵を持ってはいっていれば、すぐに鍵をかけただろうけどね」
「たしかにそうだ。だが、そうなると、もう一度、あらためて、新しく考え直さなければならない」
「つまり、もっと計画的であったことになるというのか?」
「そうだ。たしかにそうなんだ。だが、そうなると、マークは、まぬけの大バカ者ということになる。まあ、ちょっと、あなたがたの知らない、ある緊迫した理由で、マークが兄貴をやっつけたいと思っている、と想定してみてくれたまえ。そのとき、彼は、こんどの事件のようなやりかたをするだろうか? ただ殺しておいて、逃走するだけのね? それでは、まるで自殺行為だ──精神異常の発作的自殺だ。もし、好ましくない兄弟を、ほんとうに片づけてしまおうとするなら、もっと気のきいたやりかたをするものだ。疑われないように、まず仲のいいつきあいをしておく。そして、殺してしまったら、過失か自殺、あるいは他の人間のしわざに見せかけるために努力する。そうじゃないですか?」
「つまり、採算のとれるようにするという意味かい?」
「そうだよ。そういうことなんだ。最初から計画的にやるくらいなら──殺す前に鍵をかけておくというのさ」
ケイリーは、あきらかに、新しい考えを思いついているらしかったが、黙っていた。やがて、目を伏せたまま、口をきった。
「ぼくは、やっぱり、この事件はあくまで過失で起こったというぼくの考えかたを支持します。マークは気が転倒して、逃走したのです。鍵が外にあったことが、はっきりしているわけではありません。階下の部屋の鍵は、いつもドアの外にあるという、ギリンガムさんのお説に、すっかり賛成はしかねます。たしかに、ときにはそうでしょう。しかし、部屋のなかにあることだって、あり得ると思うのです」
「なるほど。鍵が部屋のなかにあれば、あなたのご意見は、もちろん正しいでしょうね。たいてい、鍵は部屋の外で見かけるので、ただ、ここでも、そうじゃないかと思ったまでです。あなたも、腹を割ったところを聞かせろとおっしゃいましたね。で、ぼくの考えをお話したのです。しかし、たしかに、あなたのご意見は正しい。おっしゃるとおり、鍵は部屋のなかにあるでしょう」
「たとえ、鍵が外にあったとしても」ケイリーは言い張った。「ぼくはやはり、事件は過失で起こったのだと思います。あのかたはお兄さんに会うことが、不快なものになるのを予想していたので、人がはいってこないように、鍵を持ってはいったのかもしれません」
「しかし、なにかの時のために、近くにいるように、あなたに言いましたね。それなのに、どういうわけで、鍵をかけて、あなたを入れないようにしたんですか? 兇悪な縁故者と面倒な会談をするのに、二人きりで部屋に閉じこもるなんてことは、断じてないでしょう。全部のドアを、すっかりあけ放って、『出ていけ!』と言いたかったところでしょうよ」
ケイリーは黙っていた。が、口もとには、えこじなものがうかんでいた。
アントニイは、軽くなだめるような笑いを洩らして、立ちあがった。
「さあ、いこうか、ビル。そろそろ出かけなければね」彼はそう言って手をさしだし、友だちをひっぱり起こした。それから、ケイリーに向かって、言葉をつづけた。「お先っぱしりを、どうかゆるしてください。言うまでもないことですが、まったくの第三者として、この事件を考察してみたかったのです。つまり、どなたの幸福にも無関係なひとつの課題としてですが」
「けっこうですよ。ギリンガムさん」ケイリーも立ちあがりながら言った。「ぼくのほうこそ、おゆるしいただかねばなりません。おゆるし願えますね。これから、旅館へカバンをとりにいらっしゃるんですか?」
「そうです」彼は太陽を見あげ、邸をとりまく広大な庭園に視線を移し、「さて、旅館はこの方角でしたね?」と南の方角を指した。「あの道をいけば、村へ出られますか? それとも、街道沿いにいかなければだめですか?」
「ぼくが教えてやるよ、君」と、ベヴァリーが口をだした。
「ビルがお教えするそうです。この庭園はずっと村までつづいているのです。それから、三十分ばかりしたら、車をまわします」
「いろいろ、ありがとう」
ケイリーは軽く会釈して、踵《きびす》を返し、邸へ去っていった。アントニイはベヴァリーの腕をとって、反対の方向へ歩み去った。
七 ある紳士の横顔
邸や庭が背後に遠ざかるまで、ふたりはしばらく無言で歩いた。ふたりの前方と右手には、大庭園がゆるやかに起伏し、視野をさえぎっていた。左手に深い木立がつづき、ふたりを本道からへだてていた。
「ここへ来たことがあるかい?」
いきなり、アントニイが訊いた。
「あるどころか、しょっちゅうさ」
「ぼくが言っているのは、ちょうどここ──ぼくたちが、今歩いているところだよ。君なんか、うちのなかで、一日じゅう、球《たま》をついているんだろう?」
「ばか言うな!」
「では、テニスやなんかだな。見事な庭園を持っている連中にかぎって、役にたてないんだ。その傍の埃《ほこり》っぽい道を通る貧乏人は、こんな庭園の持ち主はどんなに幸福だろうと思って、なかでは、いろんな愉しいことをやってるのだろうと、想像するのさ」彼は右手を指して、「あそこへは、いったことがあるかい?」
ベヴァリーは、ちょっと、てれたように、声をあげて笑った。
「うん、そうしょっちゅうは、いかないね。ここへは、よくくるがね。もちろん、村へいくのに近道だからだが」
「ははあ、……そうか。ところで、マークのことを、なにかきかしてくれないか」
「どんなことだい?」
「彼の客だとか、紳士の体面だとか、そんなことは、考慮にいれないでもらいたいんだ。儀礼上のことはぬきにして、君がマークをどう思うか。この館で彼と一緒にいるのは快適か、今週、君たちのパーティで、何度、バカ騒ぎをやったか。君とケイリーはどうなのか、そのほか、いろんなことさ」
ベヴァリーは、穴のあくほどアントニイを見つめた。
「なんだ、もうすっかり探偵になりすましたのかい?」
「そうさ。新しい仕事を探してたんだ」相手は、にっこり笑った。
「そいつは愉快だ!──つまり」ベヴァリーは弁解するように、自分の言葉を訂正した。「この邸で、人が死んだというのに、愉快だなんて、言うべきじゃないさ。それに、招いてくれたその人は──」彼は、ちょっとあいまいな感じで、口をとじた。それから、話をそらせて、こう言った。
「まったく、奇妙な出来事だなあ。やれやれ!」
「それで? つづけろよ。マークの話を」と、アントニイが言った。
「ぼくが、彼をどう思うか、かい?」
「そうだよ」
ベヴァリーは黙っていた。いままで、はっきり考えもしなかったことなので、どんなふうに表現すればいいのかわからなかった。ベヴァリーは、マークをどう思っていたのだろう? 彼がためらっているのを見て、アントニイが口を出した。
「言っておくけど、なにも探訪記者に書かれるわけじゃないんだから、文法や言葉に気を使うことはないんだ。君が気にいっていることや、どうして気にいっているのか、っていうことを、話してくれないか。では、ぼくが話の糸口をつけるよ。君は、週末をこの邸で過ごすのと、バーリントン家で過ごすのと、どっちが愉しめるのかい?」
「それは、もちろん、場合によるけど──」
「どっちにも、あの女性がおいでになるとしてだよ」
「ばかだね」ベヴァリーは、アントニイの脇腹を肱でつついた。「どっちとも言えないな」と、彼は言葉をつづけた。「この邸の待遇は実にいいからね」
「ほう?」
「そうだよ。いろんなことが、この邸くらい快適なところはないと思うね。部屋──食物──飲物──煙草──すべての点でゆきとどいているのさ。あらゆることがね。実によく気を配っているんだ」
「そうかね?」
「そうさ」ベヴァリーは、その言葉を、ひとり言のように、くり返した。そうすることで、新たな想念がうかんだようだった。「実に面倒がいいんだな。マークがそういう男なんだ。それがあのひとの癖なんだね。偏執的なくらいだよ。他人の世話をやくことでね」
「あらゆる点に、ゆきとどいているんだね?」
「そうだ。たしかに快適な邸だ。退屈しないんだよ。ありとあらゆるゲームやスポーツの設備が整っていてね。それに、ものすごく居心地がいいんだから。しかしだ、トニイ、かすかにこんな気がしないでもない。つまり、総出の舞台で踊らされているような感じだ。命令どおり、動かなけりゃならないんだな」
「というのは?」
「マークは、なんでも、自分できめるのが好きなんだ。一度自分がきめると、お客は皆賛成だと思いこむんだ。たとえば、いつかも、ベティ──ミス・キャラダインのことさ──とぼくが、お茶の前に、試合をしようとしたんだ。テニスだよ。彼女ときたらテニスの鬼でね。ぼくを自分ぐらいの腕前にしようと、内心ひそかに賭《か》けていたのさ。ぼくもご存じのとおり、変り者だからね。ふたりがラケットを抱えて出かけるのを、マークが見かけて、なにをしに行くのか、と訊くんだ。というのは、その前に、彼は、お茶のあとで、ちょっとしたトーナメントをするように準備していたんだ。ハンディもすっかり彼がきめて、なにもかも、赤と黒のインキできちんと書きだしてあってね。賞品まですっかりだ。この賞品は相当なものだった。きれいに刈りこんだ芝生もあったし、ラインもひいてあった。もちろん、ベティとぼくはコートをだめにしないようにするし、お茶のあとでもまた、よろこんでやるつもりだった──ただし、彼のきめたハンディにしたがってだが──しかし、どういうものか──」ベヴァリーは口をつぐんで、肩をすくめた。
「だめだっていうのか?」
「そうだ。彼が予定したトーナメントが面白くなくなるんだ。思うに、彼は興をそがれたんだな。そんなわけで、ぼくたちは試合をしなかった」彼は声をあげて笑い、こうつけくわえた。「だが、結果はやったのと同じになったんだ」
「この邸には、もう招かれたくないという意味かね?」
「できればね。まあ、わからないが。いずれにしろ、ここ当分は、招待されないよ」
「ほんとうかね、ビル?」
「ほんとだとも! マークはものすごい怒りん坊なんだからね。あのミス・ノリスだって──会ったかい? あのひともやったんだ。彼女が、ぜったい二度と、この邸にあらわれないことは、賭けてもいいぜ」
「どういうわけだ?」
ベヴァリーは、思いだし笑いをした。
「実は、ぼくたち皆、仲間だったんだ。──すくなくとも、ベティとぼくはね。この邸は幽霊にとり憑《つ》かれているという噂があるんだ。レディ・アン・パットンだ。噂をきいたことがあるかい?」
「ないな」
「ある晩、晩餐《ばんさん》のときに、マークが、ぼくたちにその婦人の話をしたんだ。この邸に幽霊がいるっていうことが、むしろ、お気に召してたんだな。自分では、幽霊など信じちゃいないんだが。ぼくたちに、その存在を信じさせたかったんだと思うよ。そのくせ、ベティと母親が、幽霊をすっかり信じこんでしまうと、困ってしまったんだ。あきれた奴さ。そこで、ミス・ノリスが──あのひとは女優なんだ。そうとうな女優だよ──幽霊の扮装《ふんそう》をして、ちょっとからかったんだ。気の毒に、マークのやつ、とびあがって驚いたよ。ほんの瞬間だったがね」
「ほかの連中はどうだったんだ?」
「そうだね。ぼくとベティは知っていた。げんに、ぼくは彼女に──ミス・ノリスのことだが──そんなバカな真似はよせ、って言ってやったよ。マークって男をよく知ってたからだ。ミセス・キャラダインはいなかった──ベティが遠ざけといたんだ。少佐はといえば、あのひとが、なにかに驚くなんてことは考えられないことだ」
「幽霊はどこに出たんだ?」
「球戯をやる芝生のそばさ。そのあたりに、出没するという噂なんだ。幽霊のおでましを待ちうけるという口実で、ぼくたちは皆、月光を浴びて、そこに坐りこんでいた。球戯場を知ってるかい?」
「いや」
「夕食がすんだら、案内するよ」
「そうして、もらいたいね……あとで、マークはものすごく怒ったかい?」
「怒ったね、まったく。一日じゅう、ふくれっ面《つら》さ。もっとも、彼はそんな男なんだがね」
「君たち皆に腹をたてたのかい?」
「そうだとも──ふくれっ面《つら》でね」
「けさは?」
「いや、違う。けさは機嫌が直っていた──いつもそうなんだ。まるで子供みたいさ。ほんとに、そうだよ、トニイ。あのひとは、どこか子供じみたところがあるんだな。実際、けさなんか、いつもに似合わず元気がよかった。きのうもね」
「きのうも?」
「そうだとも。こんなことは、はじめてだねって、皆で話しあったんだ」
「いつもそうなの?」
「まともにつきあえば、まったくいい男だよ。多少見栄っぱりで、子供っぽいけどね──そう、いま話したとおりだ──それに、うぬぼれ屋だ。だが、それなりに面白いところもあるし──」ふと、ベヴァリーは口をつぐんで、「君、お客が主人のことを、こんなふうに、とやかく言うのは、きっと、このへんが限界だぜ」
「招待されてることは、考えないでくれたまえ。逮捕状の出ている殺人容疑者だと思えよ」
「ばかばかしい」
「事実そうだよ、ビル」
「ああ、ぼくは、彼がやったんじゃないって言ってるんだ。あの男は、人殺しなんかやれないさ。おかしな表現だが、それほど度胸はないんだ。われわれ同様、奇妙なところもあるが、殺人なんかできるわけじゃない」
「子供っぽい癇癪《かんしゃく》を起こして、人を殺すこともあり得るからね」
ベヴァリーは、しぶしぶ、うなずいたが、マークに対する先入見はすてきれなかった。
「やっぱり、そんなことは信じられないね。あの男が、計画的に、そんなことをやることが、という意味だが」と、彼は言った。
「ケイリーの言うように、過失だったと考えてみて、あの男はびっくり仰天して、逃げだすかね?」
ベヴァリーは、ちょっと、考えこんだ。
「うん、逃げたかもしれない、とぼくは思うね。幽霊が出たときだって、逃げだしそうだったよ。むろん、問題は多少違うが」
「さあ、どうかな。どっちも、理性より本能に従うということで、同じ問題だからな」
ふたりは、館の領地を出ると、境界の木立のあいだの小路にはいった。並んでは、歩きにくいので、アントニイがあとになった。そこで、境の生垣の向うへ出るまで、ふたりの会話はとぎれた。それから、街道を歩いた。その道は、ウッダム村──赤い屋根の田舎家や、教会の灰色の塔が、緑の樹々の上に見える──へなだらかな傾斜のくだり坂になっていた。
「さあ、こんどは、ケイリーのことをきこうかな?」アントニイは歩調を早めて言った。
「というのは、どういう意味?」
「彼をよく知りたいのさ。おかげで、マークのことは、完全にわかったからね、ビル。なかなかうまかった。さて、こんどはケイリーの性格をたのむよ。彼の内面的性格さ」
ベヴァリーは、てれながらも、うれしそうに笑って、流行作家じゃあるまいし、と抗議した。
「それに」と、彼は言葉をついで「マークは単純だ。が、ケイリーは、肚《はら》のよめない、陰気で無口な男だ。マークは底が知れてる……が、ケイリーのほうは醜男《ぶおとこ》で、いかつい顎の獣ってとこじゃないか?」
「ああいう醜男のタイプが好きな女性もいるさ」
「うん、ほんとだよ。ここだけの話だが、そんな女がここにもひとりいるんだ。ジャランズにいる、どっちかと言えば美人にはいる女さ」ベヴァリーは、手をあげて、左のほうを指さした。「あの道をくだっていったところだ」
「ジャランズっていうと?」
「いずれ、前は、ジャランズっていう野郎が持ってた農園だったんだろうが、いまは、ノーベリーっていう未亡人の別荘なんだ。マークとケイリーは、よく連れだってそこへ出かけてたよ。ミス・ノーベリー──その娘だが──は二、三度、この邸へテニスをしに来たことがある。われわれより、ケイリーのほうに、気があったように見えたね。しかし、むろん、あの男は、そんなことをしてる暇はないさ」
「そんなことって、なんだい?」
「美人と散歩したり、最近なにか芝居をごらんになりましたか、なんて申しあげることさ。あの男は、だいたい、いつも、なにか仕事があったからね」
「マークがそうするのか?」
「マークは、ケイリーに、なにかさせてなきゃ、落ちつかないようだ。ケイリーがいないと、途方にくれて、手も足も出ないんだ。が、うまくしたもので、ケイリーのほうも、マークがいないと困るんだね」
「ケイリーは、マークが好きだったのかい?」
「まあ、そう言えるね。ある意味では、マークを庇護《ひご》していたんだ。むろん──彼の虚栄心、うぬぼれ、道楽、その他、そういったものを承知の上でだ。それに、マークの操縦法を心得ていた」
「なるほど……で、客にはどうだった? 君や、ミス・ノリスや、その他の連中にさ」
「いんぎんで、どっちかと言えば無口だね。人と交際しない。われわれだって、食事のとき以外には、めったに顔をあわさないんだ。ぼくらは、ここへ遊びに来てるんだが、あのひとは立場が違う」
「幽霊を出したときには、その場にいあわせなかったのかい?」
「いなかった。マークが邸に戻って、ケイリーを呼んでいるのがきこえたよ。たぶん、ケイリーが、あの男をなだめて、女はやっぱり女に過ぎない、なんて言ってたんだと思うね……ほら、ついたよ」
ふたりは宿屋へはいっていった。ベヴァリーがおかみを相手に、面白おかしく油を売っているあいだに、アントニイは二階の自分の部屋にへいった。が、結局、荷造りというほどのこともなかった。カバンにブラシを入れて、部屋を見わたしたところ、忘れものもなさそうなので、階下へ降りて、勘定をすませた。部屋は、あと数日、借りておくことにした。にわかに客がひきあげ、宿の主人夫婦を失望させたくないという気持が半ばはあったが、半ばは、『赤い館』の居心地があまりよくない場合の用意からだった。というのは、アントニイは、探偵としての自分に、きびしかったからだ。実際、彼は、いままで、どんな仕事についても、〔できるかぎり愉しみもしたが〕真剣にやってきた。それに、これからベヴァリーの友人として、『赤い館』の客となり、──尋問でもすめば──どっちが招待者になるかはわからないが、マークなりケイリーなりの歓待《かんたい》を受けることになる。そのとき、あの午後の事件に関して、中立公平な態度を失わずにいられなくなる時がくるかもしれない、と考えたのだ。現在は、証人としての要望があって滞在しているのにすぎない。滞在している以上は、彼がなにかと観察してまわるのに、ケイリーは異議を唱えることはできない。しかし、尋問が終ったあとで、なお彼が公平でしかも、鋭い目を働かす必要があるとしたら、調査に際して、邸の主人の賛意を得るか、他の家に居を移して、そこから行動するほかはないのだ。例えば『ジョージ旅館』のような、この事件にまったく無関係なところからである。
というのも、アントニイには、確信するひとつのことがあったからだ。ケイリーは、告白していない事実を、まだ胸に秘めている。そのことだ。それは、ケイリーが握っている事実で、他人に感づかれるのを怖れていることがある、ということなのだ。アントニイは、その『他人』のひとりである。だから、ケイリーの胸にあるそのことを、あばき出そうとしてみても、彼がその努力に応じてくれることは、ほとんど期待できなかった。そこで、尋問のあとでは、『ジョージ旅館』が必要になってくる。
真相はどうか? なにかを隠しているということぐらいで、ケイリーに嫌疑はかけられない。あのときの彼に、詰問《きつもん》できることは、事務室へはいるのに、いちばん遠まわりをしていったこと、そして、そのことは、警部の尋問に答えた内容と一致しない、ということぐらいである。しかし、その事実は、彼が事後従犯で、〔急ぐとみせかけ〕実は、マークに逃亡の時間を与えようとしたという論理とは、一致する。これが真相というわけではないかもしれないが、すくなくとも、手がかりのひとつではある。ケイリーが警部に述べたことは、事実ではないのだ。
しかし、尋問までには、一両日の余裕がある。アントニイは、『赤い館』に泊りこんで、この問題を考察できるのだ。
車が玄関に到着した。アントニイはベヴァリーと乗りこんだ。宿の主人がカバンを前のシートの運転手の傍におくと、車は邸へ戻っていった。
八 「ついてくるかね、ワトスン君?」
アントニイの寝室からは、邸の裏手の庭園が見渡せた。晩餐のために、服を着替えているとき、窓のブラインドは、まだ、おろしてなかったので、アントニイは、着ているものを脱ぐたびに、ちょっと休み、窓の外に目をやった。そして、その日、見聞した奇妙なことを、すべて、心に思いうかべながら、ひそかにほほ笑んだり、顔をしかめたりした。
シャツとズボンのままで、ベッドに腰かけ、濃い黒い髪に、ぼんやり、ブラッシをかけていると、ドアの向うから、
「やあ!」と声をかけながら、ベヴァリーがはいってきた。
「おい、君。元気を出せよ。ぼくは腹ぺこなんだ」と、彼は言った。
アントニイは、ブラッシをかける手をとめて、なにか考えこむように、ベヴァリーを見た。
「マークはどこにいるんだい?」と、彼は訊いた。
「マーク? ケイリーのことだね」
アントニイは、ちょっと笑って言いなおした。
「そうだよ、ケイリーのことだ。階下《した》かい? よし、すぐ支度する」彼は、ベッドから立ちあがり、急いで服を着はじめた。
「ところで君」かわりに腰かけながら、ベヴァリーが話しかけた。「例の鍵だが、やっぱり、君の思い違いだったよ」
「ほう。どうしてだ?」
「いま階下《した》へいって、見てきたんだ。来たとき、すぐ見ればよかったんだが、ぼんやりしてたからね。書斎の鍵は外側だが、他のは皆、中側にあるぜ」
「うん、そうだろう」
「なんだ、こいつ。知ってたのかい?」
「知ってたさ、ビル」アントニイは、すまなそうに言った。
「チェッ! 忘れてると思ってたのに。まあ、これで、君の意見も誤りが証明されたわけだな?」
「意見なんかないさ。他の部屋の鍵が外側にあるとすれば、事務室の鍵も外側にあることになる。そして、そうなれば、ケイリーの見方は、間違いだということになる、と言ったまでだ」
「だが、そうじゃない。なにがなんだか、さっぱりわからん。鍵は外側にあるのも、内側にあるのもある。なんてことだ! てんで、駄目だな。芝生で君の話をきいたときは、たしかに鍵は外側にあって、マークが持ってはいったんだ、と思ったがね」
「その見解は、けっこう面白くなるさ」
アントニイは、黒い上着のポケットに煙草とパイプをつっこみながら、おだやかに言った。「さあ、食堂へいこう。支度ができたよ」
ケイリーは、ホールでふたりを待っていた。彼は、邸が快適かどうか、丁寧《ていねい》な口調で、訊ねた。それから、三人は、『赤い館』を中心に、世間の邸の噂など、とりとめない話に移っていった。
「鍵については、あなたのご意見どおりでしたよ」と、ベヴァリーが話のあいまに言った。彼は、他のふたりのように、三人の胸にある、いちばん重要なあの問題に、ふれずにいることができなかった。ふたりにくらべて、若いせいかもしれなかった。
「鍵?」ケイリーは、放心したように、訊き返した、
「鍵が内側にあるか、外側にあるか、ぼくたちで問題にしましたね」
「ええ、ええ! そうでした!」ケイリーは、ホールのあちこちのドアを、のろのろと見まわした。それから、親しげに、アントニイに微笑した。「ぼくたちは、どっちも正しかったようですよ、ギリンガムさん。だから、この話は、もう打切りましょう」
アントニイは肩をすくめた。「ええ、ぼくはただ、どっちかな、と思っただけです。とりあげてみてもいい問題だと、考えましてね」
「それはそうでしょう。ただ、納得《なっとく》のいかない点がありましてね。エルジーの証言もそうだったんですが」
「エルジー?」ベヴァリーが、せきこんで言った。アントニイは、エルジーとはなに者だろうと、いかぶりながら、問いたげなようすで、ケイリーを見た。
「女中のひとりなのです」と、ケイリーは説明した。「あの娘が警部に話したことを、お聞きになりませんでしたか? バーチさんにも言いましたが、ああいう娘たちは作り話をするものです。しかし、警部は、あの娘は嘘をつかなかったと思っているようでしたよ」
「どんなことだったんです?」と、ベヴァリーが訊いた。
ケイリーは、午後にエルジーが事務所のドアごしに、耳にしたことを、ふたりに話した。
「むろん、そのとき、あなたは書斎にいたんでしたね」アントニイは、ふたりにというより、自分に言いきかせるように言った。「とすると、その娘は、あなたに気づかれないで、ホールを通りぬけたわけですね」
「ええ、あの女中がホールを通っていて、話し声をきいたというのは、事実だと思います。たぶん、その言葉がそのまま、耳にはいったのでしょう。しかし──」ケイリーは、ふと口をつぐんだが、いかにもいらだたしそうに言葉をついだ。「偶然です。たしかに偶然ですよ。マークが犯人であるかのように、言ってみたところで、なにになりますか?」
そのとき、晩餐の用意ができたことを告げに来た。三人で食堂へいきながら、ケイリーは話をつづけた。
「女中の話がほんとうだとしても、いまさら、とやかく言ったところで、どうなりますか?」
「まったく、そうですね」と、アントニイは答えた。それから、食事のあいだずっと、本や政治の話になったので、ベヴァリーは大いに失望した。
食事が終って、煙草に火をつけると、すぐにケイリーは、失礼を詫《わ》びて席をたった。当然のことだが、彼には仕事があったのだ。ベヴァリーが、友人の相手をすることになった。彼にとっては、大いに望むところだった。球を突こうか、トランプをやらないか、月夜の庭を案内しようか、あるいは、他に君のしたいことがあればそれでもいい、などと提案して、ベヴァリーは、アントニイを閉口させた。
「君が来てくれて大いに助かったよ。ひとりじゃ、やりきれないな」と、ベヴァリーは、神妙に言った。
「外へ出ないか。まったくむし暑い。どこか、邸から離れたところで、落ちつける場所がいいね。話があるんだ」と、アントニイが誘った。
「いいね。球戯場の芝生はどうだい?」
「そいつを見せてくれることになっていたんだね? 盗み聞きされる心配はないかね?」
「ないさ。理想的な場所だよ。さあ、いこう」
ふたりは玄関から出て、車寄せの道を左へいった。午後、ウッダムから来たとき、アントニイはいまとは反対の方角から、邸に近づいたわけである。いま、ふたりが歩いている道は、やがて、庭園のはずれに出て、三マイルばかり先の田舎町スタントンへいく街道に通じるはずだった。ふたりは門と庭番の小屋の傍を通りぬけた。ここが、周旋業者のいわゆる『私有緑地帯』の境で、その先には、庭園が広々と広がっている。
「道をまちがえなかっただろうね?」と、アントニイが訊いた。
車道の両側には、月明のなかに庭園が、ひっそりと静まり、行手には、ふたりが進むにつれて遠のく静寂の妖しげな気配が漂っていた。
「へんなところだろう? 球戯場には向かない場所だが、いつも、このあたりで、やってたようだよ」とベヴァリーが言った。
「で、どのへんだい? ゴルフには狭いだろうね。だが──おや?」
ふたりは、すでに、その場所へ来ていたのだった。道は、右に迂回《うかい》している。が、草におおわれた広い道が、二十ヤードばかり、まっすぐにつづいていた。その道をいくと、目の前が芝生だった。幅十フィート深さ六フィートの水のない濠《ほり》が芝生をとりまいていた。一か所だけ、通路のところが切れている。草の茂った階段を、ニ、三段降りると、球戯場で、見物用に、長い木のベンチが置いてあった。
「うん、ここならうまく隠れているな。球はどこにしまっておくのかい?」と、アントニイが言った。
「サマー・ハウスみたいなものがあるんだ。その先だよ」
ふたりは芝生の縁を歩いて、その小屋へいった。濠の壁をくりぬいて作った、低い木造の物置棚のようなものだった。
「フン、こりゃ愉快だな」
ベヴァリーも、声に出して笑って、
「坐れやしないよ。道具を雨ざらしにしないだけだね」
ふたりは、芝生を一まわりしてから、ベンチに腰をおろした。
「濠のなかに、だれかいるとまずいから、まわったんだ」と、アントニイが言った。
「さあ、ふたりだけだぞ。話したまえ」と、ベヴァリーが言った。
アントニイは、しばらく、考えごとをしながら、煙草をふかした。それから、パイプを口から離すと、ベヴァリーのほうへ向きなおった。
「ワトスンになりきる覚悟はできているかい?」と、彼は訊いた。
「ワトスンだって?」
「ついてくるかね、ワトスン君、ホームズもののきまり文句のあれさ。わかりきったことを、わざわざ説明してもらったり、愚にもつかない質問をしたり、さんざん、ぼくからやっつけられたり、ぼくがすでに発見したことを、二、三日たって発見して得意になる──そんなことをやってみる気があるかい? やってくれれば、こっちは大助かりなんだが」
「なあんだ、トニイ、相手がほしいのか?」
ベヴァリーは、うれしそうに言った。アントニイが黙っているので、彼はたのしそうに、ひとりでしゃべりはじめた。
「君のワイシャツに、イチゴのしみがついていれば、こいつ食後にイチゴを食べたな、と、ぼくは感づくね。ホームズさん、驚かしますね。チェッ、ぼくのやり方を知ってるくせに。煙草はどこかな? ペルシャ絹のスリッパの中だよ。一週間、患者を放っておけるかね? おけるさ。こんな具合にやるんだろ?」
アントニイは微笑して、煙草をくゆらしつづけた。ちょっとのあいだ、ベヴァリーは相手がなにかを言うのを待っていたが、やがて、きっぱりした口調で言った。
「ところで、ホームズ君、君の推理を、ぜひうかがいたいね。いったい、だれに嫌疑をかけているんだ?」
アントニイは話しはじめた。
「おぼえているかい? ベイカー街の下宿の階段の数のことで、ワトスンがホームズにしてやられるのを? 情けないことに、ワトスンはその階段を何回となく昇り降りしてるくせに、数えようなんて、思ってもみないんだ。むろん、ホームズのほうじゃ数えずみで、十七段あるのを知ってたのさ。そこが注意、不注意の違いだよ。ワトスンはまた、してやられて、ホームズの優秀さに、あっけにとられたってわけだ。そんな、つまらないことを、頭に叩きこんで、なんになるんだ。知りたけりゃ、下宿のおかみさんを呼んで、きけばいいんだ。ぼくだって、クラブの階段を、なん回となく昇り降りしているが、そんなことを訊かれたって、答えられないかもしれないからね。君はどうだい?」
「ぼくだって、だめにきまってるさ」と、ベヴァリーが答えた。
「だが、君がほんとうに知りたいなら」アントニイはさりげなく言ったが、声の調子が急に変っていた。「なにも、クラブの給仕を呼ばなくたって教えられるさ」
ベヴァリーは、どういうわけで、クラブの階段が問題になるのか、さっぱりのみこめなかった。が、とにかく、いくつあるのか訊く責任があるような気がした。
「よし、あててみせよう」と、アントニイは言った。
彼は、しっかり目を閉じて、
「ぼくは、いま、セント・ジェームス街を歩いている」と、ゆっくり言った。「さあ、クラブへついたぞ。そこで喫煙室の窓ぎわを通りぬける。一、二、三、四歩だ。さあ、階段だぞ。階段のほうを向いて昇りはじめる。一、二、三、四、五、六段だ。ここは幅の広い階段だ。六、七、八、九段、ここも広い。九、十、十一段。十一段で、ぼくは室内にはいる。お早よう、ロジャース。きょうも、いい天気だね」
はっと、われに返ると、彼は現実に戻って、ベヴァリーに笑いかけた。
「十一段だよ。こんどいったら数えてみたまえ。十一段だ。さあ、こんどは、こいつを忘れなけりゃ」
ベヴァリーは、ひどく興味をそそられた。
「まったく、驚いたな。説明してくれないか」
「それが、実際、目で覚えるのか、あたまで記憶するのか、あるいは別のことか、どれとも言えないんだ。が、へんな習慣があって、なんでも無意識のうちに、覚えこんでしまうんだ。こまごましたものをのっけたお盆を三分間見ておいて、あとで当てる遊びがあるね。あれだって、完全に言おうとすれば、並の人間には、たいへんな精神統一が必要だが、ぼくは、そんなことはまるきりしないで、できるんだ。つまり、あたまで覚えこもうとしないで、見てればいいんだ。かりに、君とゴルフの話をしながら、お盆を見てても、ちゃんと言いあてられるのさ」
「しろうと探偵には、有効な才能だな。もっと早く、この仕事をはじめるんだったね」
「うん、たしかに役にたつね。知らない人は驚くよ。これで、ケイリーを驚かしてみようじゃないか?」
「どうやって?」
「まあ、こう言ってみる──」アントニイは、ふっと口をつぐんで、おどけたようすで、ベヴァリーを見た。「事務室の鍵を、どうするつもりですか、とでも訊いてみるか」
ベヴァリーは、すぐにはのみこめなかった。
「事務室の鍵だって?」ベヴァリーは、ぼんやり訊いた。「まさか、トニイ! いったい、どういうことなんだ? こいつは、たいへんだぞ! 君は、ケイリーが──すると、マークはどうなんだ?」
「マークの行方はわからないさ──知りたいことだがね──。だが、事務室の鍵を持って逃げていないことはたしかだ。持っているのは、ケイリーだからね」
「ほんとかい?」
「ほんとだ」
ベヴァリーは、あやしむように、アントニイを見た。
「君」彼は訴えるような口調になった。「まさか、君は人のポケットやなんかまで、見とおせるんじゃないだろうね」
アントニイは声をあげて笑い、愉快そうに否定した。
「じゃ、どうしてわかるんだ?」
「ビル、君はいまやワトスンそのものだね。申し分ないよ。本来なら、最後になって種明《たねあか》しするところだが、それは、きれいなやりかたじゃない、とぼくは日頃から思ってるんだ。だから、いま説明する。むろん、見たわけじゃないが、わかっているんだ。きょうの午後、ぼくが来あわせたとき、ドアに鍵をかけて、そいつをポケットにしまうところだったのがわかった」
「つまり、そのとき、君はそれを見た。そのことをただ思いだすだけじゃなくて、再構成してみた。──いま、しゃべってるみたいにね」
「いや、見てないさ。が、あるものを、ちゃんと見た。撞球室の鍵を見たんだ」
「どこで?」
「撞球室のドアの外側だよ」
「外側だって? だが、ぼくたちが見たときは、内側にあったじゃないか」
「そのとおりだ」
「だれが、そこへ置いたんだい?」
「ケイリーにきまってるさ」
「だが──」
「午後に起こったことを、もう一度考えてみよう。あのとき、撞球室の鍵に注意した記憶はないから、無意識で見たんだろう。ケイリーがドアを叩いているものだから、隣りの部屋の鍵じゃあわないのかな、と、無意識で目をやったのかもしれない。そんなことだよ、きっと。君がくる前に、あの芝生のベンチに腰かけて、午後のことをすっかり思いだしていると、撞球室の外側にあった鍵が、ふと目にうかんだんだ。すると、事務室の鍵も、外側にあったんじゃないかという気がしてきた。そこへ、ケイリーがやってきたので、そのことを話したんだ。君たちはふたりとも興味を持ってくれた。ところが、ケイリーの興味の持ちかたは、ただごとじゃなかった。たぶん、君は気がつかなかっただろうが、ふつうじゃなかったよ」
「そうだったのか!」
「むろん、そのことが直接、どうだってことはない。鍵の問題だって、それでなにかを証明できるってわけでもないしね。マークが自分の部屋の鍵を、内側からかけることだってあるかもしれない。部屋の鍵のあり場所なんかどっちだって、かまわないんだ。だが、ぼくは、その鍵の問題を、とほうもなく重大なことのように誇張して、事件の様相も一変したかのように見せかけた。そうやって、ケイリーをやきもきさせておいて、ぼくたちは、一、二時間出かけてこなけりゃならないから、その事については、邸で、おひとりでご自由に、なんなりとなさってくださいって、言ってやったのさ。案のじょう、ケイリーは誘惑に勝てなかった。鍵の位置を変え、馬脚をあらわしたのさ」
「しかし、書斎の鍵は、あい変らず外にある。どうして、あの男は、その鍵の位置を変えなかったんだろう?」
「ただ者じゃないからさ。警部が書斎にはいったとき、気づいたかもしれないと思ったことが、ひとつの理由だが、もうひとつは──」アントニイは、そこでためらった。
ベヴァリーは、相手の言葉を待っていたが、やがて、
「なんだい?」と、うながした。
「これは想像にすぎないんだがね。ケイリーは鍵の問題で、あわてたんだと思うんだ。あのとき、うっかりしてて、鍵のことを考えてみる余裕がなかったことに、とつぜん気がついたのさ。そこで、鍵が外側か内側かという問題で、追いこまれるのはまずいと思ったから、あいまいにしておくことにした。いちばん無難だからね」
「なるほどね」と、ベヴァリーは、活気のない返事をした。
彼は、ほかのことを考えていた。とつぜん、ケイリーという人物に、疑惑がおこったのである。彼にとって、いままで、ケイリーは、自分同様、ごく平凡な男だった。ときには、冗談口をたたきあうこともある。もっとも、冗談が上手というわけではなかったが、食卓でソーセージをとってやったり、テニスにつきあったりしたこともある。煙草やゴルフのクラブを、貸し借りすることもあった。そのケイリーを、いま、アントニイは、したたか者だというのだ。──いったい、なに者なのだ? まあ、いずれにしたって、ふつうの男ではないらしい。胸の奥に秘密を抱いた男なのだ。もしかしたら──殺人犯かもしれない。いや、殺人犯じゃない。ケイリーじゃないのだ。とにかく、ばかげたことだ。みんなでテニスをやったくらいじゃないか。
「ところで、ワトスン君」だしぬけに、アントニイが言った。「こんどは、君が意見を言うばんだよ」
「ねえ、トニイ、本気で言っているのかい?」
「なんのことだい?」
「ケイリーのことさ」
「話したとおりだよ、ビル。それだけのことだがね」
「すると、どういうことになるんだ?」
「午後、ロバート・アブレットが事務室で死んだ。たしかに、ケイリーは、その間の事情を知っている。一口に言えば、そういうことだ。そして、それだけのことさ。ケイリーが殺したと、言ってるわけじゃないよ」
ベヴァリーが、ほっと、安堵の溜息を洩らした。
「そうだとも。むろん、ケイリーが殺したことにはならないさ。あのひとは、マークをかばっているだけだ。そうだろう?」
「さあ、どうかな」
「そう考えるのが、いちばん抵抗のない考えかたじゃないかい?」
「ケイリーに、友情を感じてたり、あの男に寛大でありたいと願っている連中には、いちばん抵抗がない考えかたさ。だが、あいにく、ぼくは違うんだ」
「じゃあ、どういうわけで、いちばん妥当な考え方じゃないのかね?」
「まあ、君の意見をきかせろよ。そのあとで、もっと、すっきりした説をご披露するから。さあ、はじめて。ちょっと、待て──鍵は外側にあるんだってことを忘れないように」
「いいとも。心配ないよ。マークは、兄に会うために、部屋にはいった。そこで、争いが起こった。以下、ご存じのとおりのことになる。そこまでは、ケリイーの証言どおりだね。ケイリーは銃声をききつけ、マークに逃走の時間をあたえるために、ドアに鍵をかける。その鍵をポケットにしまいこんで、マークがなかから鍵をかけたので、はいれないんだ、といった具合にみせかける。これで、どうだい?」
「だめだね、ワトスン君。むだだよ」
「どうしてだ?」
「窓へまわって、覗いて見て、ロバートがマークに射たれたのだとわかったのに、どうして、そのとき、マークだって、わかってたんだい?」
「そうか!」ベヴァリーでははひどくあわてたが、一瞬のうちに、なにか思いついて、「そう、それでいいんだ。ケイリーは、まず、部屋にはいって、ロバートが床に倒れているのを、見たとする」
「で?」
「それからは、わかるじゃないか」
「で、彼はマークになんていっただろう? いいお天気ですね、ハンカチをお貸ししましょうか、って言うのか? それとも、いったい、どうしたんです? って、訊くかな?」
「そりゃあ、もちろん、どうしたんだって訊くだろうさ」ベヴァリーは、気のりのしないようすで答えた。
「で、マークはなんて答える?」
「とっくみあいになって、ピストルが暴発したんだ、と説明するさ」
「そこで、ケイリーはマークをかばう──どうやって、かばうかな、ビル? さあ、お逃げなさいと、自白同様の、バカでも思いつく、いちばんまぬけな方法をすすめるかね」
「そいつはすこし変だな」
ベヴァリーは、また、考えこんで、
「じゃあ、マークが兄さんを殺したと、白状したとしたら?」と、気のりのしない口調で言った。
「そのほうが、ましだろうね、ビル。思いきって、過失説にこだわらないことにしろよ。すると、君のこんどの説は、こうだな。マークは、ケイリーに、故意に兄を射殺したと告白する。ケイリーは、偽証罪に問われ、困難に直面するのを覚悟で、マークを逃亡させる決心をする。これでいいね?」
ベヴァリーは、うなずいた。
「ところで、君に、二つ訊きたいことがある。まず、晩餐の前にも言ったが、こんなばかげた殺人をする人間がいるだろうか、ということだ。まるで、自分の頸《くび》をしめるような犯行じゃないか? つぎは、ケイリーがマークのために、偽証罪に問われる覚悟をきめているなら〔いずれは、そういうことになるが〕自分もずっと事務室にいた、ロバートの死は、偶発的事故だと主張したほうが、ずっとことが簡単にすむのじゃないか、ということなんだ」
ベヴァリーは、じっと考えこんでいたが、もう一度、無気力にうなずいた。
「もっとも明快なぼくの推理も、ついにだめか。では、こんどは君の番だ」
アントニイは答えなかった。すでに、彼の想念は、まったく別個のことの上に、働きはじめていたのだった。
九 クロケーの箱の謎
「どうしたんだ?」鋭い口調で、ベヴァリーが、声をかけた。
アントニイは、眉をあげて、視線を彼に向けた。
「急に、考えこんでしまったじゃないか。なにを考えてるんだ」
アントニイは笑いだして、
「ワトスン君、君はそう気をまわさなくて、いいことになってるんだぜ」
「ごま化すなよ!」
「そんなつもりはないさ……さっき聞いた幽霊のことを考えてたんだ、ビル。ぼくには、あの幽霊が──」
「なんだ、あれか!」ベヴァリーは、ひどく、がっかりした。「あれと事件と、どんな関係があるのかね?」
「さあ、わからないな」アントニイは、弁解めいた口調になった。「なにが、どう関係があるのかわからないがね。ただ、へんだと思ったのさ。ここへ連れてこられれば、幽霊のことが、あたまにうかぶのは当然だろう。ここに、幽霊が出たんだね?」
「ああ、そうだ」この件に関しては、ベヴァリーは、あきらかに、そっけなかった。
「どんなふうにだい?」
「え?」
「どんなふうにだったのか、訊いてるんだ」
「どんなふうに? 幽霊がどんなふうに出たかっていうのかい? 知らないね。ただ、出ただけさ」
「四、五百ヤードもある原っぱに?」
「うん、だが、出るにはここしかないよ。おきまりの場所だからね──レディ・アンの幽霊もここを、うろつくことになってるんだ」
「レディ・アンなんか関係ないよ! ほんものの幽霊は、なんだってやれるんだ。だが、ミス・ノリスは、どんなぐあいに、とび出したんだろう──五百ヤードもある、見通しのきく原っぱなのにね」
ベヴァリーは、ぽかんと口をあけて、アントニイを見た。
「ぼ、ぼくは知らないよ。だれも、そんなことを、かんがえてもみなかったな」彼は、へどもどした。
「いま来た道からなら、ずっと手前で気がつくだろう?」
「むろん、そうだろうね」
「それでは、せっかくの幽霊がだいなしだ。歩いてくるのを、見られちゃってはね」
ベヴァリーは、興味を持ちだした。
「ほんとに、おかしいね、トニイ。だれひとり、そのことに気がつかなかったんだ」
「ミス・ノリスが、だれにも見つからずに、庭をつっきってこられるはずがない。それはたしかだろ?」
「まったくだよ。ベティとぼくは待ってたんだ。出たら、庭をうしろ向きにして、ゲームを続けさせなきゃならないから、きょろきょろ、あたりを見まわしてたのさ」
「君と、ミス・キャラダインが組んでたんだね?」
「おそれ入ったね。だが、どうしてわかるんだ?」
「見事な推理力のおかげさ、で、幽霊はいきなり目の前にあらわれたのかい?」
「そうだよ。芝生のあのあたりを歩いていた」ベヴァリーは、反対側の、邸よりの方角を指さした。
「溝に隠れてたんじゃないのかな? ところで、あれは濠っていってるの?」
「マークはね。ぼくらは違う。が、そこには隠れられなかったよ。ベティとぼくは先に来て、一応見まわったんだ。いれば見つけたはずだ」
「それじゃ、きっと、あの小屋だな。サマー・ハウスって言ってるの?」
「そこだって、ボールをとりにいってるんだ。かくれられないよ」
「ほう!」
「なるほど、変だな」ちょっと考えてから、ベヴァリーが言った。「だが、たいした事じゃないな? ロバートとは関係がないし」
「関係がないかね?」
「あるのかい?」ベヴァリーは、また興奮してきた。
「わからないね。あるか、ないか、ぼくたちにはわからない。が、ミス・ノリスにはあるんだ。そして、ミス・ノリスは──」アントニイは、ふっと、口をつぐんだ。
「あのひとが、どうだって?」
「まあ、ある意味では、君たち皆に関係があるんだ。一、二日前に、なにか不可解なことが、君たちのなかのひとりに起こった。それから、邸全体に、同じようなことがあった。とすれば、なかなか面白いぞ」意味ありげな言葉だった。が、アントニイは、それ以上説明するようすはなかった。
「なるほど。で?」
アントニイはパイプを叩いて、灰を落すと、ゆっくり立ちあがった。
「さあ、これから、ミス・ノリスが邸から来た道を探そう」
ベヴァリーも、誘いこまれて、元気よく腰をあげた。
「驚いたよ! 秘密の抜け道でもあるっていうのかい?」
「人目につかない道が、とにかくあるよ。あるに違いないんだ」
「面白いぞ! ぼくは、秘密の抜け道が好きなんだ。うまい、うまい、昼間は、そこらの商人みたいにゴルフをやってたのになあ! 人生は愉快だ! 秘密の抜け道と来たからね!」
ふたりは、溝《みぞ》へ降りた。もし、邸への抜け道があるなら、入口は球戯場の邸よりのところで、溝の外側にあるはずである。まず最初に調べるべき場所は、ボールを保管してある小屋であることは、クロケーの道具がはいった箱がふたつあったが、ひとつはボールやマレットやフープを、最近使ったらしく、あけっぱなしだった。他に、ボールが一箱、小型芝刈機、ローラーなどがある。奥には雨に降られたとき休息できるように、長い椅子があった。
その奥の壁を、アントニイは叩いてみた。
「このあたりに、抜け道の入口があるはずだ。穴があいているような音は、まるでしないね?」
「なにも、ここである必要はないだろう?」ベヴァリーは背を曲げて、別の壁を叩きにいった。小屋の天井が低いので、まっすぐに立っていられないのだ。
「ここにあるべき根拠があるんだ。それは、ここにあれば、他を探しまわる手間が省けるっていうことだ。たしか、マークはこの芝生で、クロケーをさせなかっただろう?」彼はクロケーの道具を指さした。
「ひところは、あまり気のりしていなかったが、ことしはむしろ熱心だったね。実際のところ、ほかにやる場所もないしさ。ぼく個人としても、このゲームは嫌いなんだ。マークは球戯は好きじゃないが、球戯場があるってことで、ひとを驚かしたかったんだろう」
アントニイは笑った。
「君のマーク論はなかなかいいぜ。とても面白いよ」彼はポケットから、パイプと煙草を出そうとして、ふと手をとめ、聞き耳をたてた。ベヴァリーに聞くように、指をあげてみせ、頸を傾け、立ったまま、アントニイはちょっとのあいだ耳を澄ませた。
「なんだ?」ベヴァリーが小声で言った。
アントニイは、静かにするように、と手をふり、じっと耳を傾けた。そして、こっそり膝まずくと、また聞き耳をたてた。それから、耳を床にあてた。こんどは立ちあがり、急いで埃を払うと、ベヴァリーに近づいて、耳もとで囁《ささや》いた。
「靴音だ。だれかがくる。うまく調子を合わせてくれ」
ベヴァリーはうなずいた。アントニイは彼の背中を叩いて励まし、高らかに口笛を吹きながら、ボール箱のところへ、しっかりした足どりでいった。そして、ボールをとりだすと、ひとつを床に叩きつけ、大きな音をさせて、「しまった!」と声をあげた。
それから、言葉をつづけて、
「ビル、やっぱり、こんなゲームは嫌いだよ」
「じゃあ、なぜやるなんて言ったんだ?」ベヴァリーは不平を言った。
アントニイは、ありがたいというように、ちらっと微笑してみせた。
「あのときはやりたかったんだが、もう嫌になったのさ」
「じゃあ、なにがしたいんだ」
「話をしよう」
「いいとも!」ベヴァリーは、大いに賛成した。
「芝生に腰かけがあったね、さっき見たんだ。また、やりたくなるかもしれないから、道具は運んでおこう」
「いいとも!」
ベヴァリーは、もう一度同じ返事をした。そう言っているのが、安全だと思ったからだった。どう言えばいいのかわかるまで、言葉尻を捕えられたくない。
ふたりは芝生の向う側へ渡った。アントニイはボールを投げだし、パイプを取りだした。
「マッチ持ってるかい?」アントニイは大声で言った。
マッチの火に顔をよせて、
「だれか盗み聞きしている。君は、ケイリー説に賛成の役をやれ」と、アントニイは小声で言い、こんどはふつうの声に戻って話しつづけた。
「ビル、君のマッチは、ろくなものじゃないね」アントニイは、もう一度べつのマッチを、シュッとすった。
ふたりは腰かけへいって、腰をおろした。
「なんて、ステキな夜だ!」と、アントニイは言った。
「ステキだ」
「かわいそうに、マークは、いまごろ、どこにいるんだろう」
「まったく不思議だねえ」
「君はケイリーに賛成するかい?──過失だとういう説に」
「うん。だって、ぼくはマークって人間を知ってるからね」
「フム」アントニイは紙と鉛筆をとりだすと、膝のうえで、なにか書きだした。が、そのあいだもずっと、しゃべりつづけた。怒りにかられたマークが兄を射殺したが、どういうわけかそれを知ったケイリーが、従兄を逃亡させようとしたのだと思う、といったようなことを、アントニイは口にした。
「いいかね。ぼくは、ケイリーは間違っていないと思う。ぼくたちだって、その立場にたてば、そうすると思うよ。だが、マークは本気で兄を射ったのだと考えられるような、ちょっとした材料が、二つ、三つ、あるんだ──つまり、過失説とは反対のね。むろん、人前ですっぱぬく気はないが」
「計画的に殺したというのかい?」
「まあ、とにかく、殺人だね。見当違いかもしれないが。いずれにしろ、ぼくには関係のないことだ」
「だが、どういうわけで、そう考えるんだい? 鍵が根拠か?」
「いや、鍵の問題は失敗だったよ。だが、ぼくの着眼はすばらしかっただろう? 鍵が皆外側にあったら、ぼくの勝利だったんだがね」
アントニイは、なにかを書き終ると、紙片をベヴァリーに渡した。明るい月光に照らされて、丹念に書いた印刷体の文字は、らくに読むことができた。
『ぼくが、ここで聞いているみたいに、ひとりで、しゃべり続けてくれたまえ。一、二分たったら、君の背後の芝生に、ぼくが坐っている、といった具合に、そっちへ向きなおって話すこと』
ベヴァリーが、それを読んでいるあいだ、アントニイは話しつづけた。
「君が、ぼくの説に賛成じゃないことはわかってるよ。だが、いまに正しいことがわかるさ」
ベヴァリーは顔をあげ、強くうなずいた。最近の彼の身辺のこと、ゴルフもベティも、そのほかいっさいのことを、ベヴァリーは忘れ去っていた。これこそ、現実である。人生なのだ。彼は慎重に口をひらいた。
「ところで、ぼくがマークの人柄を知っているということが重大なのだ。さて、マークは──」
だが、すでに、アントニイは腰かけから離れ、溝にそっと体をすべりこませていた。彼の意図は、溝をぐるりとまわって、あの小屋の見えるところまで行くことだった。さっき聞こえた靴音は、小屋の下から聞こえたようである。床に揚げ蓋《ぶた》かなにかがあることは、まず確かだ。靴音の主がだれだろうと、ふたりの声を耳にすれば、ひとつ話を盗み聞きしてやろうという気になるに違いない。その男は、揚げ蓋《ぶた》をちょっと押しあげ、体を隠したまま、立ち聞きしていることはほぼ確実である。そうだとすれば、アントニイは、抜け道の入口を、難なく見つけられる。だが、ベヴァリーが向きを変え、うしろ向きに話すことになれば、盗み聞きしている人間は、首をだすことになる。おかげで、アントニイは、その男の正体をつかむことができる。というわけだ。
そのうえ、その男が大胆にも隠れ場所から抜けだし、溝の縁から覗いてみたとしても、うしろ向きに話しているベヴァリーの恰好を見れば、アントニイもそこで、背後の芝生に坐りこみ、溝の縁に足をぶらぶらさせていると思いこむに違いなかった。
アントニイは、急ぎながら、しかも靴音を忍ばせて、球戯場の縦の距離の半ばまで進んだ。最初の角を、注意深くまがり、こんどは球戯場の横幅の距離を、いっそうあたりに気を配って、二番目の曲がり角まで前進した。
そのあいだも、ベヴァリーがマークの性格に基づいて、こうなれば、ああなるに違いないなどと論じているのが、アントニイに聞こえる。アントニイは、うれしくなって、思わずにっこりした。ビルのやつ、すばらしい相棒だ──ワトスン百人分の値うちはあるぞ。
二番目の曲がり角に近づくと、アントニイは速度を落し、角まであと四、五ヤードというところで腹ばいになった。そして、四つんばいになって、頭からじりじりと角をまわった。
小屋は左手二、三ヤード先の溝の外壁にあった。彼が腹ばいになっているところから、内部がまる見えだった。すっかり、ふたりがはいったときのままのようだった。ボールの箱も、芝刈機も、ローラーも、あけっぱなしのクロケーの箱も──。
〔おや! こいつはうまいぞ!〕アントニイは、心ちゅうひそかに声をあげた。
もうひとつのクロケーの箱も、蓋があいているのだ。
ベヴァリーは、ちょうど、うしろに向きなおったところだった。声は、ますます聞きとりにくくなった。彼はしゃべりつづけている。
「つまり、ぼくは、もしケイリーが──」
すると、ふたつめのクロケーの箱から、ケイリーの頭が、黒い影になってあらわれた。
アントニイは、思いきり歓声をあげたくなった。うまくいったぞ。すてきにうまくいった。いかにも劇的に、箱からあらわれたすばらしい新型のクロケー・ボールに一瞬、彼はじっとみいり、うっとりした気持になった。が、やがて名残り惜しげに、ずるずると後退した。それ以上そこにいても、危険なばかりで、収穫はなかった。というのは、ベヴァリーのほうも、そろそろ種切れになってきたからである。
大急ぎで溝をまわり、アントニイは腰かけのうしろへ行って坐った。
それから、欠伸《あくび》をしながら立ちあがると、伸びをして、のんびりと言った。
「まあ、そう気にかけるなよ。ビル、おそらく君の言うことは正しいさ。君はマークを知っているが、ぼくは知らない。そこから違ってるんだ。ひと勝負やるかい? それとも寝るか?」
ベヴァリーはその言葉の真意を探るように、アントニイを見まもり、それに気づくと、
「よし、ひと勝負やろう。どうだい?」とうけた。
「いいだろう」と、アントニイは答えた。
だが、ベヴァリーは興奮のあまり、勝負に身がはいらなかった。いっぽう、アントニイも、ボールにすっかり、気をとられているように見えた。彼は、十分間だけ、ひどく慎重に勝負をやったあとで、帰って寝ると言いだした。ベヴァリーが、不安そうに、アントニイを見ると、
「もういいんだ」と、アントニイは笑った。「なにを話してもいいよ。だが、道具を片づけてからにしよう」
ふたりは、例の小屋まで降りた。そして、ベヴァリーがボールをしまっているあいだに、アントニイはしまっているクロケーの箱の蓋を調べてみた。想像どおり、鍵がかかっていた。
「ところで、さっきから知りたくてたまらなかったんだが、だれだった?」
邸へ戻る道で、ベヴァリーが訊いた。
「ケイリーさ」
「え? どこにいたんだ?」
「クロケーの箱のなかだ」
「まさか」
「ほんとだよ、ビル」アントニイは、見たとおりのこと話した。
「だが、そいつを調べなかったじゃないか」
ベヴァリーは、ひどく失望していた。「これから探検に出かけようよ。どうだい?」
「あしただ。なにもかも、あしただよ。いまに、向こうから、ケイリーがやってくるぞ。ぼくとしては、できれば抜け道のもうひとつの口からはいってみたいんだ。もっとも、みつからずに、うまくやれるかどうか、大いに疑わしいがね。……ほら、ケイリーがきた」
ケイリーが、車寄せに通じる道を、こっちへ向ってやってくるのが見えた。少し接近してから手をふると、ケイリーもそれに答えて手をふった。
「どちらにおいでかと思っていました」ふたりに近づいて、ケイリーが声をかけた。「こちらかもしれないと思ってはいましたが。もう、おやすみになってはいかがですか?」
「ええ、寝ます」と、アントニイは答えた。
「ボールで運動してたんです。それから、話しこんだり、それから、ええと、それから、ボールあそびをやって──。すばらしい夜じゃないですか?」ベヴァリーが、つづけた。
三人は、ぶらぶら散歩しながら邸へ戻った。そのあいだ、ベヴァリーはケイリーとの会話をアントニイにまかせっぱなしだった。彼は、考えたいことがあったのだ。いまとなっては、ケイリーが悪党であることは、疑う余地がないようである。いままで、ベヴァリーは、悪党と友だちづきあいをしたことは、ただの一度だってない。だが、なんとなく、ケイリーは正直者には見えないのだ。それどころか、彼は仲間を利用している。世間には奇妙な人間が多いものだ──胸に秘密を抱いたおかしな人間が。トニイを見るがいい。あの男とは、初対面が煙草屋の店先だ。だれだって、ただの煙草屋の店員だと思ったに違いない。つぎにケイリーはどうだ。だれが見たって、ごく平凡な温厚な人物である。それから、マークだ。勝手にしやがれ! 人間なんて、めったに信用できるもんじゃないな。だがロバートは違う。あの男は影のある男だと、みんなが、しょっちゅう噂していた……
それにしても、ミス・ノリスはこんどの事件と、いったい、どんな関係があるのだろう?
ミス・ノリスと事件を結ぶものはなんだ? この疑問は、その日の午後、すでに、アントニイが抱いたものだった。そして、いま、その解答が与えられたように思われる。その夜、アントニイはベッドに身を横たえて、さまざまな想念をまとめ、その夜の出来事とてらしあわせて、くまなく考えてみた。
あの惨劇が発見された直後、ケイリーが客を追い払いたいと思ったのは、むろん、当然のことである。自身の都合もあったが、客への配慮もあってのことだった。だが、その意向をそれとなく客に提案し、実行に移させるのが、いくらか性急すぎた。客は荷物をまとめると、さっそく追いたてられた。出発も滞在もケイリーの一存にまかせてもらいたいという、あの提案も、客の都合にまかせていいはずである。だが、実際は、客に選択権は与えられなかったのだ。ミス・ノリスなどは、この事件で、眼光|炯々《けいけい》とした刑事に、劇的な反対尋問をうけてみたいという希望を、はっきり持っていた。そこで、晩餐がすんでから、乗換駅から乗車することにしたいと申し出たのだった。が、ケイリーの如才ない、それでいて断固とした勧めにあって、他の連中と一緒に、早い汽車に乗せられてしまったのだ。
とつぜん、この邸に降りかかった惨劇の渦中にあって、ケイリーは、ミス・ノリスが出発しようと残ろうと、いずれにしても無関心であるべきだと、アントニイは考えた。だが、ケイリーは違う。そして、そのことから、ケイリーはミス・ノリスがいては困ると考えたのだと、アントニイは判断した。
なぜか?
この疑問に、即座に答えはできなかった。が、アントニイに、ミス・ノリスへの興味を起こさせるのには充分だった。だからこそ、彼は、ミス・ノリスが幽霊の扮装《ふんそう》をしたと、ベヴァリーがなにげなく洩らした言葉を、ぬけ目なく追求したのだった。ミス・ノリスについては、もう少し知りたいと、彼は考えた。それに彼女が、『赤い館』の集まりで、どんな役割を演じたかも知りたかった。そして、彼にとっては、幸運としか言いようのないことから、この疑問の解答に、めぐり逢ったのだった。
ミス・ノリスは、秘密の抜け道を知っているために、早々に追いたてられたのだ。
とすれば、あの通路は、ロバートの死の謎《なぞ》と、なにか関連を持っている。ミス・ノリスは、幽霊の出現を、より劇的に演じるために、あの抜け道を使ったのだ。彼女はその道を、自分で発見したとも考えられるが、のちのち、そんな悪意で使われると思ってもみないマークが、いつかこっそり教えたとも考えられる。あるいは、ケイリーが幽霊の芝居に一役買わされ、球戯場から現われることにしたら、いっそう神秘的で、幻想的な効果がだせると、彼女にその抜け道を教えたのかもしれない。いずれにしろ、彼女は秘密の抜け道を知っていたのだ。だから、早々に追い払われたに違いない。
なぜか? 邸に残って、おしゃべりをすれば、なにかのはずみに、うっかり口をすべらすかも知れないのだ。そして、ケイリーは、それを怖れた。
くり返していうが、それはなぜだろう? 抜け道そのものが、あるいはその存在を知っているだけでも、手掛りを与える怖れがあることが明白だからである。
〔マークは、あそこに隠れているのかもしれない〕とアントニイは考え、やがて、眠りに落ちた。
十 ギリンガムたわごとを述べる
翌朝、アントニイが上機嫌で朝食に降りていくと、主人役のケイリーが前の席に着いていた。ケイリーは手紙から顔をあげ、軽く会釈した。
「アブレットさんの──マーク・アブレットさんのご消息がなにか?」コーヒーを注ぎながら、アントニイは訊いた。
「ありませんね。警部は午後から湖をさらってみると言っています」
「ほう! 湖があるんですか?」
ケイリーの顔に、ふっと微笑がうかんだが、すぐに消えた。
「実は池なのですが、湖と言っているのです」と、彼は答えた。
〔マークが、そう言ってたのだな〕とアントニイは思った。
「なにを捜そうというんですか?」彼は声に出して言った。
「あの連中は、マークが──」ケイリーは、そこで口をつぐんで、肩をすくめた。
「とても逃げられないと観念して、身を投げた、とでもいうのですか? 逃走しようとしたことが、かえって嫌疑を招いたと気づいてですか?」
「ええ、まあ、そうでしょう」ケイリーは、ものうそうに答えた。
「ぼくはまた、あのかたは、自分がかけた元はとり返すだろうと思っていました。なにしろ、ピストルがありますからね。逃げのびる気があれば、かならず、できたはずです。警察に知れる前にロンドン行きの列車に乗ることもできたでしょうしね?」
「なんとか乗れたでしょう。列車はありました。ウッダム駅に警察の手が伸びていても、スタントン駅からなら、どうにか乗れたはずです。あそこなら、顔見しりも当然ありませんからね。警部が捜査していますが、姿を見かけた者はないようです」
「目撃者は、後になればかならず出てくるものです。失踪者が出ると、自分が見たと名のりでる人間が、きっと十人ぐらいはあります。同じ時刻に見かけながら、場所はバラバラですよ」
ケイリーは、にっこりした。
「そうです。ほんとにそうです。とにかく、警部は、まず湖をさらってみる、と言っています」そして、そっけなく、つけ加えた。「推理小説を読んでみても、警部というものは、たいてい、まず最初に、池をさらってみたがるものですね」
「深いんですか?」
「そうとう、深いですね」席を立ちながら、ケイリーは答えた。それから、ドアへ向かい、途中で足をとめて、アントニイをふり返った。
「おひきとめして、申しわけありませんが、あしたまでには、なんとかなるでしょう。検屍は、あすの午後です。それまで、どうぞご自由に。ベヴァリーさんがお相手くださるでしょう」
「ありがとう。ぼくのことはご心配なく」
アントニイは、また朝食を食べはじめた。警部が池をさらいたがっているのは、たぶん、間違いないだろうが、問題はケイリーが気をもむか、無関心でいるか? ということである。いまのところ、気をもんでいるようすは見えない。が、彼はあのいかつい、がっちりした顔の下に、完全に感情を隠すことができる。しっぽをつかまれることは、めったにない。ときには、ふっと、感情の高まりを見せることもあるが、けさなんか、まったくなにも読みとれなかった。おそらく、彼は池に秘密などないことを、知っているのだろう。とかく、警部というものは、池をさらったりしたがるものだ。
騒々しく音をたてて、ベヴァリーがはいってきた。
ベヴァリーの顔は、開きっぱなしの本みたいなものだ。いま、その頁には、興奮しています、といっぱいに書いてある。
彼は食卓につくなり、勢いこんで言った。
「さて、けさは、なにをするんだい?」
「ひとつあるんだ。が、そんなに大声でしゃべるなよ」と、アントニイは答えた。
ベヴァリーは、心配そうに、あたりを見まわした。ケイリーがテーブルの下に隠れてでもいるのだろうか? ゆうべみたいなことをする男だから、なにをするか知れやしない。
「ええと、そのう──」彼は、眉をつりあげて言いかけた。
「いや、なにも、しゃべるなというわけじゃないんだ。親愛なるウィリアム君、腹に力を入れて、静かに息をしながら、声をととのえるんだよ。そうすれば、腹のなかをぶちまけちゃうような胴間声《どうまごえ》を出さないでもすむさ。ということは、実はトーストをとってくれ、ということなんだ」
「けさは、ばかに元気がいいね」
「そうだ。すごく調子がいい。ケイリーも気がついて、こんなことを言ったよ。『われ暇あらば、汝《なんじ》とともに、木の実拾いに行かなん。喜び勇み、桑の茂みめぐり、小高き丘にのぼるべし。されど、かのヨルダンの流れ、われをかこむところ、警部バーチは、小エビ捕えんと小さき網もて、われを待つなり。やがて、わが友ウィリアム・ベヴァリー汝をもてなしにまいるべし。さらば、さらば、いざさらば、かくして、ケイリー中央ドアより退場、ベヴァリー登場』」
「君、朝食のときは、たいてい、こんなふうなのかい?」
「つねに、かくの如《ごと》し、かの男、口いっぱいに頬ばりて言うなり。ベヴァリー退場」
「頭へきたらしいね」ベヴァリーは、悲しげに首をふった。
「太陽、月、星の群、こぞりて空《うつ》ろなる胃袋をおそうべし。汝、星につきて知りたもうや、ベヴァリー殿。オリオン星座につきて知りたもうか? なにゆえ、ベヴァリー星座のなきや? あるいは、小説という名の星座のなきは、なにゆえ? と、かの男、口をモグモグさせて言うなり。ベヴァリー揚げ蓋より、ふたたび登場」
「揚げ蓋と言えば──」
「しゃべるな」アントニイは、腰をあげながら言った。「アレクサンドルにつきて話すもよし。ヘラクレスにつきて話すもよし。されど、なんびとも、──揚げ蓋はラテン語でなんて言うんだい? メンサはテーブルだし。これでわかるだろうね。ところで、ベヴァリー君」アントニイは、通りすがりに彼の肩を、気さくに叩いて、
「あとで会おう。ケイリーは、君がぼくを愉しませてくれると言うが、まだ一度だって、笑わせてもらってないよ。朝食がすんだら、大いに笑わせてもらいたいね。だが、あわてるなよ。いまは上顎の運動をしたまえ」こう言うと、ギリンガム氏は広い食堂から、たち去った。
ベヴァリーは、いささかめんくらったようすで、食事をつづけた。彼は背後の窓のむこうで、ケイリーが煙草をくゆらしているのに、気がつかなかった。なにも盗み聞きする気でもないだろうし、また聞こえてくるわけでもなかったろうが、アントニイの姿の見えるところにいた。だから、アントニイは危険を避けようとしたのだった。
そんなわけで、ベヴァリーは、アントニイって、妙な男だな、などと考えながら食事をしていた。ひょっとしたら、とほうもないきのうの出来事は、すべて夢だったのかもしれないと、彼は思った。
アントニイは、パイプをとりに、自分の部屋へあがっていった。すると、女中が掃除をしていたので、お邪魔ですね、と丁寧に断った。そのとき、ふと思い出して、
「君がエルジー?」と、人なつっこい微笑をうかべて訊いてみた。
「はい、そうですわ」彼女は、はにかみながらも、誇らしげに答えた。なぜ、こんなに人の注目を集めるのか、自分でもよく承知していた。
「きのう、マークさんの話し声を聞いたのは君だね? 警部さんが親切だったらよかったが」
「ええ、おかげさまで」
「『こんどは、ぼくの番だ。待ってるがいい』と言ったんだね」アントニイは、ひとり言のように、つぶやいた。
「ええ。とってもいやらしい口ぶりでしたわ。いよいよチャンスがまわって来たぞって、いうような」
「ほんとうかな?」
「でも、そう聞こえたんです。ほんとうに」
アントニイは、なにか考えこむようなようすで、エルジーをみつめていたが、やがてうなずいた。
「そうかね。おかしいな。なぜだろう」
「なにがでしょうか?」
「いろんなことがだよ。エルジー……あのとき、君が通りかかったのは、まったくの偶然かね?」
エルジーは赤くなった。ミセス・スティーヴンズに叱言《こごと》を言われたのを、忘れてはいなかった。
「はい、そうですわ。ふだんは、べつの階段を使っていますから」
「そうだろうね」
パイプが見つかったので、階下へ戻ろうとすると、女中がひきとめた。
「あのう、ちょっと伺いますが、検屍はあるのでしょうか?」
「ああ、あるよ。あしただと思った」
「あたしも証言しなければなりませんの?」
「もちろんさ。こわがることはないよ」
「たしかに、そう聞こえたんですわ。ほんとに」
「そりゃあ、そうだろう。嘘だなんて、だれも言ってやしないさ」
「ほかのかたたちがですわ──ミセス・スティーヴンズや皆さんが」
「なあに、やきもちをやいてるんだろう」アントニイは、にっこりして言った。
エルジーと話してみてよかった、と彼は思った。彼女の証言の重要性が、一度ではっきりしたからである。警部にとって、この証言は、マークが兄に対して脅迫的な言動があったという点で、重大だったのにすぎない。が、アントニイには、もっとずっと重要な意味があった。それは、マークがその日の午後、ずっと事務所にいたことを証拠だてる、唯一の信頼できる証言だった。
なぜなら、マークが事務所にはいるところを、だれが目撃したというのか? ケイリーひとりである。もしケイリーが鍵の件で真相を隠しているのなら、マークが事務所にはいったという、このことでも隠していないとは言えない。
ケイリーの証言など、なんの役にもたたないことは明白である。なかには、真実がないとも言えないが、それも虚実ないまぜて、ある目的を達するのだ。なにが目的か、アントニイにはまだわかっていない。マークを庇《かば》うためか。自分を護るためか。それとも、マークを欺こうとしてか──その、いずれであるとも言えよう。だが、彼の証言に、個人的な目的があれば、あのエルジーの場合のように、公平で信頼できる第三者の証言として、うけとるわけにはいかない。
エルジーの証言は、事件のポイントを決定的にしたようである。マークは兄に会いに事務所にはいった。ふたりが話しているのを、エルジーが聞いた。それから、アントニイとケイリーがロバートの屍体を発見した。……そして、警部は池をさらう積りでいる。
しかし、エルジーの証言も、マークが部屋のなかにいたことを証明するにすぎない。『こんどはぼくの番だ。待っていろ』という言葉も、そのまま脅迫とはならないのだ。将来に対しての脅迫である。この言葉の直後に、マークが兄を射ったとしても、それは、あの『いやらしいような』調子の声に刺激されて、格闘したあげくの事故であるに違いない。いま射とうとしている相手に、だれも『待っていろ』などと言いはしないのだ。『待っていろ』ということは、『いまに、なにが起こるか待っていろ』という意味である。『赤い館』の主人マークは、いままでさんざん兄の食いものになり、脅迫されてきた。こんどこそ、マークが少しばかり、腹をたてる番だ。ロバートめ、待っていろ、思い知らせてやる。エルジーが聞いた言葉も、こんな意味のものだろう。このことは殺人を意味するものではない。とにかく、マークがロバートを殺したことにはならないのだ。
〔おかしなことだ〕とアントニイは思った。〔簡単な解決というものは容易であればあるほど、誤っている。あたまのなかには、沢山の材料があるのだが、うまくぴったり合わない。午後には、また材料がひとつぐらいはふえそうだ。気をつけていることにしよう〕
ホールにベヴァリーがいたので、アントニイは散歩に誘った。ベヴァリーのほうでは、願ったりかなったりである。
「どこかへいくかい?」と、彼は訊いた。
「どこでもいいんだ。庭園を案内してくれ」
「よしきた」
ふたりは、そろって邸を出た。
邸を出たかと思うと、アントニイが口を開いた。
「ねえ、ワトスン君。邸のなかで、あんなに大声でしゃべっちゃいかん。すぐうしろの窓の外に、ずっと例の紳士がいたんだ」
ベヴァリーの頬が、淡く染まった。
「そうか。まったく申しわけない。それで、あんなふざけた事をしゃべっていたんだな」
「それもそうだが、けさは気分がすばらしく良かったせいもある。きょうは、きっと忙しいぞ」
「ほんとかい? なにがあるんだ?」
「連中が池を──おっと湖をさらうのさ。湖はどこにあるんだい?」
「この道でいいんだ。行ってみるならね」
「見ておいたほうがいいだろう。ふだん、よく行くのかい?」
「まず行くことはないな。あそこでは、なんにもできないからね」
「泳げないのかね?」
「とても、そんな気にはなれない。すごく汚いんだ」
「なるほど……この道は、きのう来たね。そうだろ? 村へ行く道かな?」
「そうだ。少し行くと、右へまがる道があるんだ。なんのために、池をさらうんだい?」
「マークさ」
「なんだ、ふざけた話だな」ベヴァリーは、ぞっとしたように言った。しばらく、黙りこんでいたが、急に、熱のこもった調子でしゃべりだした。これから胸が躍るような時がくることを、ふと思いだして、さっきの不愉快な思いも忘れ果てたようだった。
「ところで君、あの抜け道は、いつ探検するんだ?」
「ケイリーが邸にいるあいだは、とてもだめだね」
「きょうの午後、皆が池をさらっているあいだはどうだ? ケイリーもきっと立ち会うぜ」
アントニイは首をふった。
「午後はするべき事があるんだ。もっとも、両方やれないこともないがね」と、彼は言った。
「そのことで、ケイリーも邸の外に出なけりゃならないのか?」
「ああ、そうだと思うね」
「で、それも、胸がドキドキするようなことかい?」
「わからないな。これから先どうなるか、そのことに興味があるというべきだろう。いつでもいいんだが、一応三時にきめてある。それまで愉しみにしておくんだ」
「面白そうだぞ! ぼくの出番はあるだろうね?」
「もちろん、あるさ。ただし、ビル──邸のなかでは口外するなよ。ぼくが口を切るまではね。ワトスンらしいワトスンを頼むぜ」
「しゃべるもんか。ぜったい、しゃべらないよ」
ふたりは池へ来ていた──マークにとっては湖だが──。黙りこんだまま、ふたりは池のまわりを歩いた。一周してから、アントニイは草に腰をおろし、パイプに火をつけた。ベヴァリーが、そのとおりに真似をした。
「ところで、マークの屍体は、この池にないね」アントニイが言った。
「そうかね。どうしてわかるんだか、ぼくには見当もつかないが」と、ベヴァリーは答えた。
「わかったわけじゃない。想像しただけだよ」
アントニイは早口で説明した。
「投身自殺よりは、ピストル自殺のほうがずっとらくなんだ。マークが死体を発見されないように、水中でピストル自殺をはかったなら、ポケットに大きな石を入れたはずだ。大きな石は水際にだけあるんだ。どければ跡が残る。が、跡はない。だから、マークは自殺したんじゃないということになる。まあ、ひとつ池で大騒ぎをやったらいい。午後にはすっかりわかるんだ。ところで、ビル、秘密の抜け道の入口はどこだろうね?」
「それを捜すわけなんだろう?」
「そうさ。で、ぼくはこう考えるんだが」
アントニイは、秘密の抜け道がロバートの死の謎に、なにかの形で関係があると睨《にら》んだ理を説明して、こんなふうに言った。
「ぼくの考えでは、マークがあの抜け道を発見したのは、一年ばかり前──クロケーに熱中しはじめた頃だと思うんだ。抜け道の出口は、あの小屋の床にある。もっと完全に隠蔽《いんぺい》するために、揚げ蓋にクロケーの箱をのせたのは、おそらくケイリーの発案だろう。いったん秘密を発見すると、だれか他の者も知っているんじゃないかと思うのが、人情なんだ。マークがこのささやかな秘密を自分だけで──むろん、ケイリーもだが、ひそかに愉しんでいた気持はわかるね。ケイリーなら大丈夫だからね──ふたりは、クロケーの箱を揚げ蓋にのせて、人目につかないようにすることが、面白くてたまらなかったに違いない。そこへ、ミス・ノリスが扮装することになって、ケイリーは秘密を洩らしたんだ。おそらく、ふつうに、球戯場へくれば、かならず人にみつかるが、ひとつうまい方法があるとでも言ったのだろう。そこで、あの女はうまく秘密を訊きだしたのだろうと思うよ」
「だが、幽霊の話は、ロバートがやってくる二、三日前なんだが」
「たしかにそうだ。ぼくは、あの抜け道に、まず第一に不吉な因縁があるのだと、言ってるわけじゃない。三日前のマークには、ロマンスと冒険のひそかな愉しみにしかすぎなかったのだ。ロバートが来ることさえ、思ってもいなかったのだからね。だが、それ以後は、なにかロバートに関係のあることに使われている。たぶん、マークはそこから逃げたんだろう。そこに隠れているのかもしれない。もし、そうだとすれば、マークを窮地に追いこむ者は、ミス・ノリスひとりだ。彼女はなんの気なしに──あの抜け道が事件に関係があると、夢にも知らずに──秘密を洩らさぬものでもないからね」
「だから、さっさと追い返したんだな?」
「そうだよ」
「しかしだね、トニイ、それなら、なぜ入り口ばかり探しているんだい? 球戯場の口からなら、いつだってはいれるんだぜ」
「わかってるさ。だが、それじゃあ、こっちの肚《はら》を見すかされるからね。あの箱をこじあければ、ぼくたちの仕業《しわざ》だと、ケイリーに感づかれるよ。ビル、一両日のうちに、ぼくたちの手でなにかを発見できなければ、いままでの収穫をすっかり警察に渡すことになる。そこで警察は抜け道の捜査をすることになるんだ。だが、まだ、そんなことは願い下げだね」
「そりゃあ、そうだな」
「だから、もうしばらく、秘密に事を運びたいんだ。それしか、手がないからね」アントニイは、にっこり笑って、「そのほうが、ずっと面白いさ」と言った。
「そうだとも!」ベヴァリーも悦にいっていた。
「いいね。ところで、抜け道の入口はどこだろう?」
十一 アッシャー牧師
「ここで、さっそく、あたまに入れて置くべきことが、ひとつあるんだ」と、アントニイが言った。「いま簡単にみつからなければ、この先見つかるあてはないということだ」
「つまり、時間がないっていうことかい?」
「時間もなければ、チャンスもないのさ。ぼくみたいな怠け者には、かえって気らくだがね」
「よほど手ぎわよく探さないと、いよいよ発見が困難になるな」
「発見するのは困難だが、捜査は簡単にやるんだ。例えば、入口はケイリーの寝室にあるかもしれない。が、ないことにしてしまうんだ」
「そんなばかなことがあるもんか」ベヴァリーは抗議した。
「捜査の目的上、わかっていることにするのさ。ケイリーの寝室に踏みこんで、衣裳ダンスをトントン叩いてみるわけにもいかないしね。だから、捜査にかかる前に、そこにはないんだ、ときめてかからねばならないのさ」
「うん、なるほど」ベヴァリーは草の葉を噛みながら、じっと考えこんでいたが、
「どっちみち、二階に入口があるわけはないからな。そうだろう?」
「まあ、そんなところだね。さあ、調子が出て来たぞ」
ベヴァリーはまた考えこんだ。それから、
「料理場なんかもとばしていいね。あそこには、はいれないからな」と、言った。
「いいさ。地下室もだ。あればの話だが」
「すると、あといくらもない」
「ないね。むろん、発見の可能性は百にひとつだ。だが、安全に探せる場所はいくらもない。そのなかで、もっともありそうなところを狙いたいんだ」
「階下の居間、食堂、書斎、ホール、撞球室、それから事務室がある。それでぜんぶだ」
「そうだ、それだけだね」
「事務室が、いちばんくさいんじゃないか?」
「うん。ひとつ疑問があるがね」
「なんだい?」
「事務室は邸の裏手にあるんだ。だれでも、抜け道の入口は、近いところにあると思うよ。邸の下をわざわざくぐらせて、遠くへつけるはずはないだろう?」
「うん、そのとおりだね。それじゃあ、食堂か書斎かい?」
「そうだね。どっちかにするなら書斎だね。つまり、ぼくたちが選ぶとすればだ。食堂へは、女中たちが始終いくからね。あそこを捜査する適当なチャンスは、なかなかないよ。それに、もうひとつ考慮すべき点がある。マークは一年間、それを秘密にしていたんだ。食堂で、秘密が保てるだろうか? ミス・ノリスが、晩餐のすぐあとで、食堂へ戻ってきて、だれにも見つからずに秘密の口からはいれただろうか? ずいぶん、きわどい芸当だからね」
ベヴァリーは勢いこんで立ちあがった。
「きたまえ、書斎をまず調べてみよう。ケイリーが来たら、本を探してるふりをすればいいんだ」
アントニイはのんびり腰をあげると、彼と腕をくんで、一緒に邸へ戻っていった。
抜け道があろうとなかろうと、書斎は、いってみる価値があった。アントニイは、他人の書棚を覗きたいという誘惑に勝ったためしがなかった。部屋にはいったかと思うと、もう書棚を覗き、持ち主がどんな本を読んだか、あるいは読まずに〔このほうが多いが〕その邸の装飾にしているか、見てまわるのだった。マークは蔵書を自慢にしていた。いろいろな種類の本があった。父やパトロンから送られたもの、自分が興味をもって買った本、また本には興味がないが、著者を、援助したい好意から買いこんだ本、書棚で目だち、書斎に典雅《てんが》な色彩をそえるためや、知識人として欠かせないという理由で、注文した豪華本、旧版、新版、高価本、廉価版、──どんな嗜好《しこう》の人でも、気に入った本を必らず見つけだせる書斎であった。
「ところで、特に気に入った本はどれだい? ビル?」アントニイは、棚から棚へ目を動かしながら話しかけた。
「それとも、しょっちゅう、球ばかり撞いているのかね?」
「たまに、『バドミントン』の本を読むね。あっちの隅にあるよ」ベヴァリーは、そっちをゆびさした。
「こっちのほうかい?」そこへ行きながら、アントニイは答えた。
「そうだよ」と言いかけて、ベヴァリーは慌てて、訂正した。「いや、違う。そっちじゃない。いまは、右側の向うになっている。一年ばかり前に、マークは蔵書の大整理をしたんだ。一週間以上かかったって、言ってたよ。なにしろ、ものすごい数だからね」
「面白い話だな」アントニイは腰をおろして、パイプを詰め代えた。
実際、驚くほど本があった。四方の壁は、無教養とはいえ、その存在を主張するドアと窓だけを除いて、床から天井まで、びっしり本が並んでいた。ベヴァリーには、この部屋に、秘密の入口があろうとは、とても思えなかった。
「捜査の満足を味わうには、この罰《ばち》あたりの本を、すっかり下ろさなければだめだろうね」
「とにかく、一冊ずつとりだしていれば、だれもぼくたちの策謀に感づきはしないさ。だれだって、書斎へは、本をとりにくるんだろう?」と、アントニイが言った。
「だが、たいへんな数だぜ」
アントニイのパイプは快適に煙を吐いていた。彼は立ちあがって、ドアと反対側の壁のほうへ、ぶらぶら歩いていった。
「では、拝見するか。そんなにものすごいか、どうかもね。おい、君の愛読する『バドミントン』の本があるぜ。君は、ときどき読むんだったね?」
「なにかを読むとすればさ」
「そうか」アントニイは、本棚を下から上まで眺め渡して、「主に、スポーツと流行の本だな。ぼくは旅行記は好きだね。君はどうだい?」
「一般に、つまらんものが多いね」
「だが、こいつがひどく好きな連中がいるんだ」アントニイは、そうたしなめて、次の棚へ移った。
「こんどは戯曲だな。王政復古時代の戯曲家のものか。ほとんどの作品があるね。君も言ってるが、こういうものを好むと称する連中は多いね。ショウ、ワイルド、ロバートソン──ぼくは芝居を読むのは好きだよ。そういう人間はあまり多くないが、好きとなると熱烈なんだ。次へいこう」
「君、あまり時間がないぜ」ベヴァリーはそわそわしていた。
「ないさ。だから、時間を無駄にしないんだ。詩か。いまどき、だれが詩なんか読むんだろうね? ビル、最近、君が『失楽園』を読んだのはいつだい?」
「一度も読んだことがないね」
「そうだろうと思ったよ。ミス・キャラダインが、君に『旅路』を朗読してくれたのはいつかね?」
「実はね、ミス・キャラダイン──ベティが熟読しているのは──あの妙な男の名前はなんだったっけ?」
「名前なんかどうでもいいさ。無理するな。次だ」
アントニイは次の棚へいった。
「ここは伝記だね。じつにたくさんあるな。ぼくは伝記を愛読してるんだ。君はジョンソン・クラブの会員かい? マークはきっとそうだね。『歴史回想記』──ミセス・キャラダインは、きっと、これを読むね。とにかく伝記は、面白さの点で、たいていの小説に負けないね。といって、ぐずぐずしてはいられない。次へいこう」アントニイは次の棚へいったが、とつぜん、口笛を吹いた。
「君、ちょっと!」
「どうしたんだ?」ベヴァリーは、ぷんぷんして答えた。
「そこに立って、見はっててくれ、ビル。いよいよ敵陣だ。たしかに説教集がある。説教集だ。マークの父親は牧師だったのかな? それとも、マークが好きで集めたのかな?」
「マークの父親は、たしか牧師さんだったと思うよ。そうだ、牧師だよ」
「それじゃあ、これは親爺さんの本だね。『永遠なる神との三十分』──こいつは、帰るとき、借りていくことにする。『迷える羊』『三位一体説のジョーンズ』『使徒パウロの書解説』──いいかね、ビル、ぼくたちは敵陣にいるんだ。『せまき道、テオドル・アッシャー師説教集』──こいつだ!」
「どうしたんだ?」
「ウィリアム君、インスピレーションが湧《わ》いたんだ。手を貸してくれないか」アントニイは、アッシャー牧師の高尚なる著書をぬきだすと、しばらくうれしそうに眺め、ベヴァリーに渡した。「ほら、ちょっと、アッシャー先生を持ってくれ」
ベヴァリーは、すなおにそれを受けとった。
「いや、やっぱり、返してもらおう。君はホールへいって、そのへんに、ケイリーがいないか、みてきてくれ。もし、みかけたら『やあ』って大きな声を出してくれたまえ」
ベヴァリーは急いで出ていき、あたりの気配をうかがって、戻ってきた。
「大丈夫だよ」
「よし」アントニイは、本を棚からもう一度とり出した。
「さあ、アッシャー君を持ちたまえ。左手でね──そうだ。右手で、利き腕のほうさ、この棚をしっかりつかむんだ──そう。では、ぼくが『ひっぱれ』と言ったら、そっとひっぱってくれ、いいね?」
ベヴァリーは、顔を興奮でほてらせて、うなずいた。
「よし」アントニイは、分厚いアッシャー師の本を脱き出したあとに手をつっこみ、書棚の背に指をかけた。
「ひっぱれ」と、アントニイが声をかけた。
ベヴァリーはひっぱった。
「さあ、その調子でひっぱり続けるんだ。いまぼくも、まっすぐ、うしろから押すからね。そっと、だが力は入れながらだよ」アントニイの指は、またせわしなく働きだした。
すると、いきなり、その書棚の下からてっぺんまでそっくりそのまま、ふたりのほうへ静かに、ゆらりと開いてきた。
「あれッ!」ベヴァリーは、胆《きも》をつぶして声をあげ、棚から手を離した。
アントニイは書棚を押して、もとへ戻し、ベヴァリーの手から、アッシャー師をひったくると、もとの位置へさしこんだ。それから、ベヴァリーの腕をとって、長椅子へ連れていき、腰かけさせ、前に立つと、おごそかに頭を下げた。
「子供だましだよ、ワトスン君。子供だましだ」と、アントニイは言った。
「いったい、ぜんたい──」
アントニイは愉快そうに、声をあげて笑い、ソファに並んで腰をおろした。
「まさか本気で、説明してもらいたがっているのじゃないだろうね」彼はベヴァリーの膝をポンと叩いた。「ワトスンぶっているんだな。実にうまいね。大いに認めるよ」
「いや、ほんとに訊いているんだよ、トニイ」
「なんだって、ビル君!」アントニイは、しばらく黙りこんでパイプをふかしていたが、やがて話しはじめた。
「さっきも言ったとおりさ──秘密というものは、発見されるまでが秘密なんだ。発見したとたんに、他の連中がどうして発見できないのか、いままでどうして秘密が保たれていたのか、不思議な気がするものだよ。この抜け道は、なん年も前からあったんだ。入口は書斎とあの小屋にある。そのうちに、それをマークが発見した。そして、すぐに、だれかが発見するに違いないと思ったんだ。そこで、小屋のほうの入口は、見つからないように、クロケーの箱で蓋をした。それから、こっちの入口は──」アントニイは言葉を切って、相手に目をやった。
「どうやって隠したんだろう? ビル」
ところが、ビルはワトスンそのものだった。
「どうやってだろうね?」
「あきらかに、本の並べ方を変えるという手を使っている。マークは『ネルソン伝』か『ボートの三人男』か、なにかを、偶然とりだしたんだね。そのちょっとした偶然から、秘密を発見したんだ。したがって、彼は、だれか他の人間が『ネルソン伝』や『ボートの三人男』をとりださないものでもないと考えた。そこで、秘密を保つためには、その棚に、だれも手をふれないようにすればいい、と思ったのだ。一年前に、本を並べ変えたことを君からきいて、──クロケーの箱をかぶせたのもその頃だろう──ぼくには想像がついた。そこで、なるべくつまらない本、読み手がない本を探してみた。いうまでもないが、中期ヴィクトリア朝の坊主の説教集を並べたのが、ぼくの求める棚だったのだ」
「うん、なるほど。だが、どういうわけで、あの場所だとわかったんだ?」
「あの男は、そこに、なにか特定の本を置いて目印にする必要があった。通路の入口に『狭き道』という本を置くなんていう洒落《しゃれ》は、あの男の気に入りそうなことだと思ったんだ。みごとに、あたったよ」
ベヴァリーは、いかにも感動したように、なん度もうなずいた。
「実に鮮やかだね。まったく、あたまのいい奴だよ、トニイ」
アントニイは、声をあげて笑いだした。
「そう言ってもらうと、励みになるよ。いい気になっちゃいけないが、たしかに悪い気持じゃないな」
「では、出かけるんだ」ベヴァリーは立ちあがって、手をさしのべた。
「出かけるって、どこへだい?」
「むろん、抜け道の探検にだよ」
アントニイは首をふった。
「なぜいけないんだ?」
「そこで、君はなにを探すつもりかね?」
「わからないさ。だが、手がかりになるものが、みつかると思わないか?」
「マークを発見するとしたら?」アントニイは、静かな口調で言った。
「君は本気で、マークがいると思っているのかね?」
「いるとしたら?」
「おあつらえ向きだね」
アントニイは暖炉に近づき、パイプの灰を叩きだして、ベヴァリーのほうに向き直った。彼は無言のまま、きびしい表情でベヴァリーをみつめた。
「で、君はマークになんていうつもりだね?」やがて、彼はこう訊ねた。
「ということは?」
「逮捕するつもりかね、それとも逃亡を助けてやるつもりかい?」
「ぼくは──ぼくは──ええと、むろん、ぼくは──わからないなあ」ベヴァリーはへどもどしはじめ、結局腰くだけになってしまった。
「本音だろうね。やるとなれば、肚をすえてかからなけりゃだめだ。そうじゃないか?」
ベヴァリーは、返事もしなかった。すっかり混乱して、眉をひそめたり、いま発見したドアの前に足をとめて、奥に潜んでいるものの正体を見きわめようとするように、そのドアをじっとみつめたりして、そわそわと部屋のなかを歩きまわった。どっちかひとつを選ぶとなれば、どっちにつくか──マーク側か警察側か?
「マークに会って、『やあ、こんちは!』なんて言えないしね」ベヴァリーの意中を見すかして、アントニイは出鼻をくじいた。
ベヴァリーは、ぎょっとして、彼を見た。アントニイはつづけて、
「『こちらは、お邸にお世話になっておりますギリンガムさんです。ぼくたちはボール遊びをしに行くとこでございます』とも言えまい」
「なるほど、ひどく厄介なものだな。なんて挨拶していいかわからないよ。マークのことは忘れていたんでね」
ベヴァリーは窓に近づいて、外の芝生に目をやった。園丁が、芝生の縁を刈りこんでいた。邸の主人が行方不明だからといって、芝生を、伸び放題にしておいていいわけでもあるまい。きょうもまた、暑くなりそうだ。畜生! マークのことを忘れていたなんて。彼が逃亡中の殺人犯で、法網をくぐる犯罪者だなんて、どうして考えられるだろうか。わずか二十四時間前までは、すべてがきのうと同じように進行し、われわれが皆でゴルフに出かけた時のように、いまも太陽は輝いているじゃないか? これが正真正銘の悲劇だなんて、どうしたって思えない、自分とアントニイがやってる愉しい探偵ごっことしか考えられないね。
彼は、相棒をふりむいた。
「とはいうものの、君は抜け道を見つけたいと思い、いま、それを発見したんだ。なかにはいってみたいとは、まるで思わないのかい?」
アントニイは、彼の腕をとった。
「外へ出よう。どっちみち、いまははいれない。ケイリーが傍にいては危険すぎるからね。ビル、ぼくも君同様──ちょっとビクビクしてるんだ。なにがこわいんだか、よくわからないがね。とにかく、君は探検をつづける気なんだろう?」
「そうさ。つづけるべきだよ」ベヴァリーは、きっぱりと言いきった。
「では、チャンスがあったら、午後、抜け道を探検してみよう。だめだったら、夜だ」
ふたりはホールをつっきり、外へ出て、ふたたび陽光を浴びた。
「君は本気であそこに、マークが隠れてるかもしれないと、思っているのか?」と、ベヴァリーが訊いた。
「ありそうなことだよ。マークか、あるいは──」アントニイは、ふっと口をつぐみ、あとはひとり言のように、
「いや、そう考えるのはよくないな──いずれにしろ、まだ早いんだ。実に怖ろしいことだ」
十二 壁にうつる影
二十時間ばかりの余裕を利用して、バーチ警部は大わらわで活動した。ロンドンへ打電して、最後に着用していたとみられる褐色《かっしょく》フラノの背広姿のマークの詳細な人相を通知した。ついで、スタントン駅に、この人相に該当する男が四時二十分発の列車に乗りこまなかったかどうか照会した。それまでに集まった情報は、決定的なものとは言えないまでも、ことによるとマークがその列車に乗りこみ、当局の先手を打ってロンドンに到着するという可能性があることが判明した。しかし、当日はスタントンに市《いち》のたつ日で、ふだんより人出が多くにぎわっていた。だから、マークが四時二十分の列車で出発しようと、二時十分の列車で、その前にロバートが到着しようと、人目を引くことは少なかったわけである。しかし、朝がた、アントニイがケイリーに言ったように、警察が捜索する人物の行動の詳細を知らせてくる者は、いつもいるものだ。
ロバートが二時十分の列車で来たことは、ほぼ確実と思われる。彼に関して、検屍の尋問にまにあう調査は、それ以上は困難だろう。ロバートとマークが少年時代を送った村での調査は、ケイリーの陳述とすっかり一致した。ロバートは村にいるあいだも、不満の多い男で、オーストラリアへ追放されて以来、いちども村へ姿を見せたことはなかった。この兄弟のあいだの争いの実質的な根拠は、弟のほうが故国にいて裕福であるのに較べて、兄のほうは貧しく放浪の身であること以外に、あろうとは思えなかった。警部の見解では、マークが逮捕でもされないかぎり、それ以上のことは探り出せそうにもなかった。マークの発見が最大の急務であった。池を浚《さら》ってみたところで、役に立とうとも思えないが、あすの検屍に際して、バーチ警部が職務に熱心であるという印象を与えることは確実である。そして、犯行に使われたピストルだけでも明るみに出せたら、警部の労苦も充分報われるだろうが。『バーチ警部、兇器を発見す』という大見出しが、地方新聞の紙面を飾るというものだ。
彼が池へ向かって、上機嫌で歩いているのは、そのせいだった。そこには、部下たちが待ち構えていたが、気分が晴れ晴れしていたので、ギリンガム氏や彼の友人であるベヴァリー氏とも、ちょっと話してみたくなった。
彼はふたりに、「こんにちは」とにこやかに声をかけ、そのうえ、笑顔までみせて、
「お手つだいに、おいで下さったのですか」と言いたした。
「まさか手つだいが、お入り用でもないでしょう」アントニイも微笑を返して答えた。
「よかったら、一緒にどうぞ」
アントニイは、ちょっと身ぶるいしてみせた。
「なにかみつかったら、あとでお知らせください。ところで、『ジョージ旅館』の亭主は、ぼくをいい人間だとほめてくれたでしょうね」
警部は、ちらっと、アントニイに目をやった。
「いったい、どういうわけで、そのことをご存じなんですか?」
アントニイは、うやうやしく警部に頭を下げた。
「あなたが、警察でも腕ききらしいと睨《にら》んだからですよ」
警部は笑いだした。
「あなたがごりっぱであることが判明しましたよ、ギリンガムさん。潔白だと証明されたわけです。しかし、一応は調査しませんとね」
「もちろんです。ご成功を祈りますよ。しかし、池では、そう収穫があるとは思えませんな。逃走経路をはずれているんじゃないですか? だれかが邸から逃亡するには」
「ケイリーさんから、池を浚うようにすすめられたとき、わたしも、そう申しあげたんです。しかし、調べたからといって、だれが迷惑するわけでもありませんしね。とかく、こうした事件では、予想外の事実があらわれるものです」
「おっしゃるとおりです、警部さん。さて、あまりお邪魔してもいけません。失礼します」アントニイは、警部に愛想のいい微笑をみせた。
「失礼」
「さようなら」と、ベヴァリーも声をかけた。
アントニイは、警部が大股《おおまた》に立ち去るうしろ姿を目で追いながら、立ちつくしていた。あまり長いあいだ黙りこんでいるので、ベヴァリーはとうとう彼の腕をゆすり、どうしたんだ、と怒ったように訊いた。
アントニイは、ものうそうに、大きく首を振った。
「わからないな。まるで、わからない。ぼくは実に怖ろしいことを考えているんだ。あの男が、そこまで冷酷であるはずはないんだが」
「だれが?」
アントニイは、それには答えず、先に立って、きのう腰をおろした、庭椅子へいった。腰をおろすと、彼は頭を抱えた。
「なにか見つけるといいなあ。みつけてもらいたいなあ」と、アントニイはつぶやいた。
「池でかい?」
「そうだ」
「なにをだ?」
「なにかだよ。ビル。なんでもいいんだ」
ベヴァリーは気を悪くした。
「困るね、トニイ。そう、わけのわからないことばかり言ってちゃね。急に、どうしたんだ?」
アントニイは、驚いて顔をあげた。
「警部の言ったことをきかなかったのかい?」
「特別に、なにか言ったかい?」
「池を浚うのはケイリーの思いつきだということだ」
「ああ、そうだった。で、君は、ケイリーが池になにか隠したって言うんだね? 警察の手で発見してもらいたい、なにか偽《にせ》の手がかりでも?」ベヴァリーは、また興奮しはじめた。
「そうだといいんだが、しかし、不安なのは──」アントニイは、熱心に言いかけたが、ふっとまた口をつぐんだ。
「なにが不安なんだ」
「ケイリーは、池になにも隠していないんじゃないかと思うんだ。そして──」
「で?」
「非常に大事なものを隠す、いちばん安全な場所はどこだろう?」
「だれも探そうとしない場所だ」
「もっといい所があるさ」
「どんなところかい?」
「すでに、皆が探してしまったところだ」
「あ、なるほど! 池浚いがすんだとたんに、ケイリーはそこへなにか隠すというんだな?」
「そうだ。それが心配なんだ」
「だが、なぜ心配なんだい?」
「なにかひどく大事なもんで、他の場所へは簡単に隠せないようなものだと思うからさ」
「なんだろう?」ベヴァリーはのりだした。
アントニイは首を振った。
「まだ、なんとも言えない。警部が発見するまで待つんだ。警部はなにか発見するかもしれない──なんだかわからないがね──発見してもらうために、ケイリーが沈めたものだ。しかし、警部がなにもみつけられなければ、そのことは、こん夜、ケイリーがなにか隠そうとしていることを意味するんだ」
「なんだろうね?」
「こん夜わかるよ、ビル。ぼくたちも池へ出かけるんだから」
「ケイリーを監視するのか?」
「そうだ。警部がなにも発見しなければの話だが」
「たのしみだね」と、ベヴァリーは言った。
ケイリーに味方するか、警察を支持するかという問題ならば、どっちを選ぶかはベヴァリーにも肚がきまっている。きのうのあの惨劇が発生するまでは、特に親しくつきあいはしないまでも、従兄弟《いとこ》同士のあのふたりと、けっこううまくやってきたのだ。このふたりのうちなら、お天気やのマークより、無口でしっかり者のケイリーのほうが好きだと言えるかもしれない。ベヴァリーの見たところでは、ケイリーの性質はいかにも控えめである。たとえ、その長所が、彼が持っているかもしれない欠点を露呈しないということであっても、頻繁《ひんぱん》にその邸を訪れる客の相手へ〔あるいは、相手の主人側と言ってもいい〕としては、ありがたい性質だった。いっぽうマークの欠点は、だれの目にも明瞭で、ベヴァリーもたびたび見てきたところである。
だが、午前中はマークに対してどんな態度をとるか迷っていたベヴァリーも、ケイリーが相手となれば、なんのためらいもなく、警察側につく気になった。結局のところ、マークからは、なんの被害もうけなかったが、ケイリーは許しがたい非礼を犯したのだ。自分とアントニイのごく個人的な会話を、ケイリーはこっそり盗み聞きしたのだった。法律が求めるならば、ケイリーなんか、絞首刑にすればいい。
アントニイは、自分の時計をのぞいて、腰をあげた。
「出かけようか、さっき話した仕事の時間だよ」と、彼は声をかけた。
「抜け道のことか?」ベヴァリーは、夢中になって答えた。
「違う。午後するべきことがあるって言ったあのことだよ」
「ああ、むろん、そうだろう。で、なんだったっけ?」
なんとも答えずに、アントニイはどんどん先にたって邸へはいり、事務室へいった。
三時だった。きのう、アントニイとケイリーが屍体を発見したのも三時である。三時をわずかに過ぎた頃、アントニイは隣室の窓から外を眺めていたのだが、ドアがあいているのに、ふと気づくと、ケイリーがうしろに立っていて、ぎくりとさせられたのだった。そのとき、なぜ、ドアがしまっていたものと思いこんでいたのか、アントニイは漠然《ばくぜん》と疑問に思ったが、解明する時間がなかった。あとで暇をみて検討してみるつもりで懸案にしておいたのだ。なんの意味もなかったのかもしれない。だが、なにか意味があったとすれば、朝、事務室をのぞいてみることで、疑問は解決できたのだろうが。しかし、彼は、どうせやるなら、きのうと同じ条件で実験してみたほうが、あの時の印象をつかみやすいだろうと考えたのだ。そこで、午後の三時に、もう一度、事務室の現場をのぞくことにきめていたのだった。
ベヴァリーを従えて、事務室にはいったアントニイは、二つのドアのあいだにあったロバートの屍体がなくなっていたので、衝撃《ショック》をうけたといっていいくらい驚いた。だが、屍体の頭のあったあたりに、黒っぽい汚点《しみ》があったので、二十四時間前と同じように、そこへひざまずいた。
「もう一度、あのとおりにやってみたいんだ。君がケイリーになるんだぞ。ケイリーは水を持ってくると言った。ぼくは、死人に水なんかなんの役にたつものか、こいつ、気休めにやってるんだな、と思ったのを覚えてるよ。ケイリーは、水をしました海綿とハンカチを持って戻ってきた。ハンカチはタンスの抽出《ひきだ》しから出してきたんだろうね。ちょっと待ってくれ」
アントニイは立ちあがって、隣りの部屋へいった。室内を見まわして、抽出しをひとつふたつあけてみた。それから、全部のドアをしめて、事務室へ戻ってきた。
「海綿があったよ。ハンカチは右の抽出しのいちばん上だ。では、ビル、ケイリーの真似をしてみてくれ。水をどうとかこうとか言って、立ちあがるんだ」
アントニイのそばにひざまずいていたベヴァリーは、あまりいい気持ではなかったが、立ちあがって出ていった。アントニイは、前の日と同じように、そのうしろ姿を見送った。ベヴァリーは右側の部屋にはいり、抽出しをあけて、ハンカチをとりだし、海綿に水をふくませて戻ってきた。
「これでいい?」半信半疑で、ベヴァリーは問いかけた。
アントニイは、首をふった。
「まるで違うよ。だいいち、君はものすごい音をたてたが、ケイリーはことりともさせなかった」
「たぶん、君は、ケイリーがはいっていったとき、聞いてなかったんだろう?」
「聞き耳はたてていなかったさ。だが、音がすればきこえたはずだ。それに、あとで思いだせるだろうしね」
「それじゃあ、ケイリーはあの部屋へはいって、ドアをしめちゃったんだろう」
「待った!」
アントニイは片手で目をおさえて、考えこんだ。問題なのはきこえたものではなくて、この目で見たものなのだ。彼は、それをもう一度目の前に画こうとして懸命になった……ケイリーが立ちあがる。事務室のドアをあけて小廊下へ出る。そのドアはあけっぱなしだ。それから右側のドアへいき、あけてなかへはいる。それから──それから、なにを見たのだろう? それさえ思いだせれば! とつぜん、彼は顔を輝かせてとびあがった。
「ビル、わかった!」アントニイは声をあげた。
「なにがだい?」
「壁にさした影だ! 壁の影を見たんだ。チェッ、なんてばかだったんだ!」
ベヴァリーはけげんそうに、アントニイを眺めた。アントニイはベヴァリーの腕をつかんで、小廊下の壁を指さした。
「あの壁に日光がさしているのを見たまえ。あれは、君があの部屋のドアをあけっぱなしにしてきたからだ。日光は窓から、まっすぐに射しこんでいるんだ。さて、こんどは、ぼくがドアをしめてみる。いいか! ほら、どんなふうに、影が動いていくかい? ぼくが見たのはこれだったんだ──ケイリーがはいったあと、ドアがしまるにつれて、壁にさす日光がかげっていったんだ。ビル、あの部屋にはいって、ドアをしめてみてくれ──ごく自然にね。早く!」
ベヴァリーは出ていった。アントニイはひざまずいて、熱心に見まもった。
「思ったとおりだ! そんなはずはないと思ってたんだ」と、彼は大声で言った。
「どうだった?」戻ってきながら、ベヴァリーが声をかけた。
「だれもが考えるとおりさ。壁に日光がさした。それから、もとどおり壁はかげった。──すっと一時にね」
「きのうはどうだったんだい?」
「壁にさした日光は、はじめそのままだった。それから、ばかにゆっくり、かげっていった。ドアがしまる音はきこえなかったよ」
ベヴァリーは、驚いたように大きく目をみはって、アントニイをみつめた。
「そいつは驚いた! ケイリーが、あとでドアをしめたっていうんだね──ふと、気づいたように──音もたてずにね。君に気どられないようにか?」
アントニイはうなずいた。
「ぼくがあとで隣りの部屋にいってみて、うしろのドアがあいたままなのを見て驚いたんだが、それでわかったよ。ほら、スプリングで、ひとりでにしまるドアがあるだろう?」
「老人連がすきま風をふせぐのに使うやつだね?」
「そうだ。あの種のドアはあけると、はじめそのままになっていて、あとで、ゆっくりゆっくり、ふわりとしまるんだ。──日光もそんなふうに、かげっていったのさ。それで、ぼくはドアの動きかたから、無意識のうちに、スプリングのドアを連想してしまったのさ。やれやれ!」アントニイは立ちあがって膝の埃《ほこり》を払った。
「さあ、ビル、念のために、あの部屋へはいって、ケイリーがやったように、ドアをしめてくれないか。あとで、ふっと気づいたようにね。ごく静かに、ことりとも音をたてずに頼むよ」
ベヴァリーは注文どおりにしてみせた。それから、結果はどうだったかをきこうとして、顔をのぞかせた。
「あのとおりだったよ。きのう、ぼくが見たとおりだ」
アントニイは強い確信をもって言いきると、事務室を出て、ベヴァリーのいる小部屋へはいっていった。
「こうなったからには、ケイリー君がきのうここで何をしたか、友人であるギリンガム氏の耳にはいらないように、ああまで用心深かったのはなぜか、を探りだしてみようじゃないか」と、アントニイはベヴァリーに言った。
十三 ひらいた窓
まず、アントニイが考えたことは、ケイリーがなにかを隠したということだった。そのなにかは、たぶん、屍体の傍で彼が発見したものだろう。だが、その考えはばかげていた。あのときの時間では、抽出しに隠すのがやっとのはずである。それに、そんなことをするより、自分のポケットにしまったほうが、アントニイの目をごま化しやすかっただろう。いずれにしても、いまは、それを持ちだして別の場所へ隠してしまったはずである。それに、抽出しに隠すだけのことで、なぜ、わざわざドアをしめたりしたのだろうか?
ベヴァリーは抽出しをあけて、なかを覗いてみた。
「ここにあるものを、ひととおり調べてみたほうがいいと思うかね?」と、ベヴァリーは訊いた。
アントニイも、ベヴァリーの肩ごしにのぞいてみた。
「どうして、こんなところに、服なんかしまっておくのだろう? マークは、ここで服を着替えるのかい?」
「アントニイ君、あの男ほどの衣裳持ちは、ちょっと珍しいくらいなんだぜ。ここに置いておけば、役に立つこともあるだろうと思って置いてあるんだろうな。ぼくたちがロンドンから田舎へ出かけるときには、着替えを持っていくね。マークはそんなことは、ぜったいしないんだ。ロンドンの家には、ここのとすっかり同じものが、ひと揃いある。趣味なんだね。衣裳を作るのが。家が六軒あるとすれば、ぜんぶに、街着やカントリー・ウェアの完璧なひと揃いが置いてあるというわけさ」
「なるほどね」
「むろん、時には役に立つこともあるだろう。隣りの部屋で仕事が忙しくて、ハンカチや着やすい上着をとりに二階へいかねばならないときは、ここのでまにあうからね」
「そういうものかね」アントニイは部屋のなかを歩きまわりながら、そう答え、洗面台の傍の汚れ物を入れる籠の蓋をあけて覗いた。
「最近、ここでカラーをとり替えたらしいな」
ベヴァリーも覗きこんだ。籠の底に、カラーがひとつあった。
「うん、そうらしいね」と、ベヴァリーは同意して、「自分がつけていたカラーが具合がよくなかったか、ちょっと汚れてたかしたんだろうね。ひどく気難かしいからね」
アントニイはかがみこんで、カラーをひろいあげた。
「このカラーの場合は、堅すぎて具合が悪かったんだな。清潔な点じゃ、申し分ないからね」アントニイは丁寧に調べてから、そう言った。それから、それを籠に戻して、
「とにかく、マークはときどきここへ来たんだな」
「ああ、よく来ていたよ」
「なるほど、だがケイリーはあんなにこそこそ、なにをしていたんだろう?」
「どうして、ドアをしめたんだろうね。どうもわからないな。とにかく、あの男の姿は見えなかったんだね」と、ベヴァリーが言った。
「見えなかった。当然、音もきこえなかったというわけだ。あの男は、ぼくに音をきかれては困ることを、なにかやっていたんだな」
「そうだ、それだよ!」ベヴァリーは勢いこんだ。
「そうさ。だが、なんだろう?」
ベヴァリーは、顔をしかめて、一生懸命考えこんだが、インスピレーションは湧いてこなかった。
「まあ、とにかく、新鮮な空気でもいれよう」知恵をしぼるのに疲れ、ベヴァリーは窓をあけて、外をのぞいた。そのうち、ふと、なにかを思いつくと、アントニイをふりむいた。
「まだ、あの連中がいるかどうか、池へいって確かめてきたほうが、いいと思わないかい? なぜかっていうと──」ベヴァリーは、アントニイの顔つきを見て、あわてて口をつぐんだ。
「このばか野郎! 大ばか野郎! 自分こそ、特製上出来のワトスンさまだったんだ! えい、お人よしのまぬけめ! ギリンガムめ! 貴様こそ、世界無類の大ばか野郎なんだ!」アントニイは大声でどなった。
「いったい、ぜんたい──」
「窓だ、窓だ!」アントニイは窓を指さして大声をあげつづけた。
ベヴァリーは、なにごとかと思って、窓をふり返った。なにも変ったようすはなかったので、またアントニイへ視線を戻した。
「窓をあけていたんだ!」アントニイはどなった。
「だれがさ」
「もちろん、ケイリーじゃないか」ひどく落ちついた、静かな口調になって、アントニイは説明した。
「ケイリーは、窓をあけにこの部屋に来たんだ。ドアをしめたのは、窓をあける音をきかれないためさ。あの男は窓をあけた。ぼくはこの部屋にはいってきて、窓があいているのに気がついた。で、ぼくはこう言ったんだ。『窓があいていますよ。犯人はこの窓から逃げたに違いないです。ぼくの驚くべき分析力でわかります』ケイリーのやつ、眉をつりあげて、『ははあ、なるほど』と答えやがった。それから『ええ、あなたのおっしゃるとおりでしょう』って言うんだ。ぼくは得意になって言ったんだ。『もちろんです。窓があいてるんですからねえ』お話にならない大ばか者さ!」
いまこそ、謎はとけた。いままで、頭を悩ました問題がはっきり証明されたのだ。
彼はケイリーの立場に身をおいてみた。アントニイが最初に会ったとき、ケイリーは『入れてください!』と叫びながら、ドアを叩いていた。事務室の中で、何が起こったか、だれがロバートを殺したか、なにもかもケイリーにはわかっていたのだ。マークがなかにいなかったこと、窓から逃げたのでないことも、知っていたのだ。だが、ケイリーの計画では──ふたりの共謀なら、マークの計画としても──マークが逃走したように見せかける必要があった。そのとき、ケイリーは鍵のかかったドアを叩いていて、〔鍵はポケットにははいっていた〕ふと、失策をやったことに気がついて驚いた。窓があけてないじゃないか!
はじめは、たぶん怖ろしい疑念だけだったろう。事務室の窓はあいていたかな? きっと、あいている!……どうだったろう? いますぐ鍵をあけて、こっそりはいり、フランス窓をあけて、また出てくる余裕があるだろうか? いや、いつ女中がやってくるかもしれない。危険すぎる。見つかったら、それっきりだ。だが、女中なんてばかばかりだ。あの連中が屍体のまわりで、がやがや騒いでいるうちに、うまく窓をあけられるだろう。気がつくものか。なんとかやってみるんだ。
そこへ降って湧いたようなアントニイの出現だ! ことは面倒になった。おまけに、アントニイは窓からはいろうと提案するではないか! あろうことか、その窓こそ、ケイリーが不安を感じているものだ。はじめ、ケイリーが茫然《ぼうぜん》としていたのも、むりはなかった。
そう考えてくると、ふたりがいちばん遠まわりをして、しかも駈けた理由がわかる。あれは、ケイリーにとって、アントニイの機先を制する唯一のチャンスだったのだ。先に窓について、アントニイのこないうちにあけておきたかった。確かめるだけでもよかったのだ。たぶん、あいているだろう。なんとかして、アントニイから離れ、窓を見なければならない。もし、しまっていれば、そして、手の打ちようもなければ、隙をみて他の手段を考え、とつぜん迫った破滅の危機から逃れねばならない。
それで、彼は駈けたのだ。しかし、アントニイも負けずに走った。ふたりは一緒に窓をこじあけて、事務室へ駈けこんだ。だが、まだ希望はある。化粧室の窓だ! 静かに、静かに、アントニイに音をきかれぬようにやるんだ。
そして、アントニイの耳にはいらずに済んだ。事実、彼は、ケイリーに見事にしてやられたのだ。しかも、あいている窓について、ケイリーの注意を促したばかりか、なぜ、マークは事務室の窓よりこの部屋の窓を選んだか、その理由まで説明してやると言う周到さである。そして、ケイリーも、その説明に同感した。ケイリーは、ひそかに、ほくそ笑んだに違いない。だが、まだ、多少の懸念があった。アントニイが灌木林を調べはしないかと、怖れたのだ。なぜだろう? あきらかに、ひとがその灌木林を通り抜けた形跡がないからだ。あとで、ケイリーがそれらしい形跡を作り警部が発見するのを待ちうけたことは疑いもない。靴跡を作ることまでしたのではないか──マークの靴を履いて。だが、灌木林の土は堅すぎた。靴跡の必要は、たぶん、ないだろう。大男のケイリーが、小柄でしゃれ者のマークの靴をむりやり履こうとしている光景を想像して、アントニイは、にやりとした。靴跡の必要がなくて、ケイリーはよろこんでいるに違いない。
そうだ、窓をあけておくだけで充分だ。窓があいていて、小枝が一、二本折れていればいい。だが、静かに、そっとだ。アントニイに聴かれてはならないのだ。そして、アントニイの耳には、はいらなかった……が、壁にさした影が、アントニイの目に映った。
ベヴァリーとアントニイのふたりは、また、芝生に出てきた。ベヴァリーのほうは、口をぽかんとあけたまま、前日の出来事についての友人の説明に耳を傾けていた。その解説は一筋縄が通っている。細かな点も解明された。だが、これまでのところから、一歩も進んでいない。解くべき謎がひとつ増えたにすぎないのだ。
「問題はなんだろうね?」と、アントニイが言った。
「マークさ。マークはどこにいるんだ? あのとき、事務室に一度もはいらなかったとしたら、現在どこにいるんだ?」
「事務室に一度もはいらなかったなんて言ってないさ。事実、はいったに違いないんだ。エルジーが立ちぎきしてるんだからね」アントニイは口をつぐんだ。それから、ゆっくり、くり返した。
「女中が立ちぎきしてるんだ──すくなくとも、きいたと言っている。だが、もし、マークが事務室にいたなら、ドアから出てくるわけだ」
「なるほどね。すると、どういうことになるんだ?」
「マークはどこへ行ったかだ。抜け道だよ」
「いまも、ずっと、そこに隠れてると言うのか?」
アントニイは黙っていた。そこで、ベヴァリーは、もう一度同じ質問をくり返した。なにか考えこんでいたアントニイは、ふっと、われにかえって、返事をした。
「どうだか、わからないね。だが、まあききたまえ。可能な解釈がひとつあるんだ。あたっているかどうかはわからない──そこまではわからないよ、ビル。ぼくは多少こわいような気がする。いままで、起こったこと、これから先起こることを考えるとね。とにかく説明する。おかしな点は指摘したまえ」
アントニイは、脚を伸ばし、手をポケットにつっこんで、腰かけに背をもたせかけた。そして、青い夏の空に目をやりながら、まるで、きのうの出来事がそこに再現されているのを見るように、あの事件の経過を、ベヴァリーに、ゆっくり話して聞かせるのだった。
「マークがロバートを撃ったところから始めよう。過失ということにしてだ。たぶん、過失だったろうしね。いずれにしろ、マークはそう言うだろう。当然、マークは狼狽した。だが、鍵をかけて逃げだすなんてことはしなかった。鍵が外にあったことがひとつの理由だが、もうひとつの理由は、それほどばかじゃないことだ。しかし、彼は怖るべき危地に追いこまれた。兄と不仲になっていることは、だれでも知っている。いま、ばかげた脅迫の言葉を吐いたが、立ちぎきされたかもしれないのだ。では、どうすればいいんだ? 当然のことだが、こんなとき、だれもがやるようなことをやるまでだ。マークはケイリーに相談した。貴重な存在、欠くことのできない存在、ケイリーに。
ケイリーは、ドアのすぐ向うにいる。彼は銃声をきいたに違いない。どうすればいいか教えてくれるだろう。マークはドアをあけた。なにごとかと、ケイリーがやってくるところだった。彼は大急ぎで事情を説明した。『どうしよう、ケイ? どうすればいいんだ。過失なんだ。誓って言うが、過失なんだよ。兄貴が脅迫したんだ。ぼくが撃たなかったら、兄貴が撃っていただろう。なんとかしてくれ。大急ぎだ!』
ケイリーは、あることを思いついた。『ぼくがひきうけます。お逃げなさい。なんなら、ぼくがやったことにして。あとしまつは、ぼくがします。行きなさい。隠れるんです。あなたが事務室へはいるところは、だれも見ていません。抜け道へはいって! 早く! ぼくもあとから大急ぎで行きます』と、彼はせきたてた。
なんてりっぱなケイリーだ。忠実なケイリー! マークは勇気をとり戻した。ケイリーは、なにもかもうまくやるだろう。ケイリーは、女中たちに、偶然事故が起きたんだと告げるだろう。彼は警察へ電話する。だれだって、ケイリーがやったとは思わない。──ケイリーはロバートと争ったことがないのだから、それから、ケイリーは抜け道へ行って、すっかり片づいたことを、マークに報告する。マークは球戯場のほうの口から出て、邸へ悠然と戻ってくる。女中が事件を報告にくる。ロバートが誤って撃たれたって? それは大変だ?
そこで、すっかり安心して、マークは書斎へはいる。そして、ケイリーは事務室のドアのほうへ行く……ドアに鍵をかける。彼はドアをどんどん叩いて『あけてください!』と大声でどなる。
アントニイは口をつぐんだ。ベヴァリーは彼をみつめ、首をふった。
「なるほどね、トニイ。だが、話の筋が通らないよ。ケイリーは、どういうわけでドアを叩いたりしたんだ?」
アントニイは返辞のかわりに、肩をすくめた。
「それで、その後、マークはどうなったんだ?」
アントニイは、もう一度、肩をすくめた。
「とにかく、ぼくたちも早いとこ抜け道へ行ったほうがいいよ」と、ベヴァリーは言った。
「覚悟はいいかい?」
「いいとも」ベヴァリーは意外そうだった。
「なにを見ても驚かないかね?」
「まったくわけのわからないことばかり言う奴だなあ」
「承知してるんだ」アントニイは、ちょっと笑って、つづけた。「たぶん、ぼくはまぬけ野郎だよ。いやに感傷的なまぬけ野郎だがね。いっそのこと、そう願いたいくらいだよ」彼は時計に目をやった。
「いまなら大丈夫だろう? あの連中は池を浚ってるさいちゅうだね?」
「確かめたほうがいいさ。警察犬になってくれないか、ビル──まるで音もたてずに這って行くあの犬さ。つまり、ケイリーがまだ池にいるかどうか、確かめてこられるかっていうことなんだ。ケイリーに嗅《か》ぎつけられずにね」
「できまさ。待っていたまえ」ベヴァリーは、勢いこんで立ちあがった。
とつぜん、アントニイが顔をあげ、
「おや、マークもそう言ったんだっけ」と、大声で言った。
「マークが?」
「うん、エルジーがきいたのさ」
「ああ、あれか」
「そうだ……エルジーがきき違えするはずはないんだろうね、ビル? あの娘はたしかにきいたんだろうな?」
「君がいうのが声のことなら、きき違えるはずはないよ」
「そうかね?」
「マークの声は、ものすごく個性的だからね」
「そうか?」
「ちょっと甲高《かんだか》くてね。それで──ええと──どう言えばいいのかなあ──」
「どんなふうなんだい?」
「こんなふうな声だ。もう少し甲高いかもしれないが」ベヴァリーは、マークの真似をして甲高い声で早口にしゃべって笑った。それから、地声に戻って、
「いまのは、わりとうまかったぜ」
アントニイは軽くうなずいた。
「そういう声か?」
「ま違いない」
「よし」アントニイは立ちあがり、力をこめてベヴァリーの腕をつかんだ。
「さあ、ケイリーを見てきてくれ。それから仕事にかかるんだ。ぼくは書斎にいるからね」
「わかった」
ベヴァリーはうなずいて、池のほうへ歩いていった。すばらしく痛快な仕事だ。これこそ人生だ。これからやる計画は、これ以上面白くできないくらいだ。まず、こっそり、ケイリーの傍へ忍びよるんだ。池から約百ヤード離れて、池を見おろす高さの小高いところに雑木林《ぞうきばやし》がある。背後から、この林にもぐりこみ、枝を折らないように気をつけながら、はずれまで腹ばいで進み、下の光景をのぞいてみよう。小説の登場人物は、よくこんな真似をするもんだ。いままで、そういう連中に絶望的な嫉妬《しっと》を感じてきたが、いまこそ、この自分がやるんだ。なんて痛快なんだ!
そして、だれにも見つからずに邸へ戻って、アントニイに報告する。それから、ふたりは抜け道の探検だ! こいつも面白いぞ! 宝物の探検じゃないのは、運が悪いが、手がかりが隠されてるかもしれないんだ。かりに、なにも発見できなかったとしても、なにしろ、秘密の抜け道だ。なにが起こるか知れやしない。しかも、それで、この胸躍る一日が終るというわけじゃないんだ。夜になれば、池を偵察に、ふたりで出かけるんだからね。月光に照らされて、ケイリーを見張りにいくんだ。ひっそり静寂に包まれた池に、ケイリーが投げこむのを見張るんだ──それはなにか? ピストル? まあいい、とにかく、ふたりは偵察に出かけるんだからね。じつに愉快だぞ!
しかし、彼よりも年長で、自分たちにどれほど危険が迫っているか、よく知っているアントニイにとっては、面白いどころではなかった。が、驚くほど興味のあることには違いなかった。いままで、かなりたくさん観察してきたが、皆、焦点からはずれている。それは、オパールを眺めながら、一瞬ごとに変化する色と光の反射をみるだけで、オパールそのものを見ていないのと同様だ。接近しすぎているのか、離れすぎているのか。凝視《ぎょうし》したり、目を細めたりした。が、だめだった。彼の頭脳の能力では、その実態を捕えることはできなかった。
しかし、つかみ得たと思った瞬間もあった……が、すぐに消えた。彼はベヴァリーよりも世間を知っている。が、殺人事件に出あったのは、まったく、はじめてだった。現在心を悩ませ、それに関することに耳をふさぎたいような思いでいるその事件は、だれでも理性を失えばやりかねない、逆上しての殺人ではないのだ。あまりの恐ろしさに、現実とは思えない。あらためて、真相を追究してみよう。彼は、もう一度、観察した。──やっぱり、焦点が合わない。
「もう、考えるのはやめだ」邸のほうへ歩きはじめて、アントニイは大声で、ひとり言を言った。
「とにかく、いまのところは、考えないことにしよう」
これからは事実と印象を、集中していくことにした。求めずに、自ずとあらわれたひとつの事実が、おそらく、すべてを明らかにするのではないか。
十四 ベヴァリーの名演技
ベヴァリーは息をはずませて戻ってくると、ケイリーがまだ池にいることを報告した。
「泥ばかりで、なにもみつからないようだね。探検に時間をとろうと思って、ほとんど駈けつづけできたんだ」
アントニイはうなずいた。
「では出かけよう。急げば急ぐほど、はかがいく」
ふたりは説教集の棚の前に立った。アントニイが、テオドル・アッシャー師のかの有名な著書をぬきとり、棚の裏側のばねを押した。ベヴァリーがひっぱった。棚はふたりのほうへ、ゆらりと開いた。
「やあ、こいつは細い通路だな」と、ベヴァリーが言った。
約一ヤード平方の穴が、ふたりの前に口を開いていた。まるで、レンガ製の暖炉のようなもので、地上から二フィートばかり突き出している。だが、そのレンガも、穴の床の部分は、手前に一列だけ並んでいるだけで、あとは穴がぽっかりあいているだけである。アントニイはポケットから懐中電燈をとりだして、暗闇を照らしてみた。
「見たまえ」アントニイは、勢いこんでいるベヴァリーに小声で言った。「あそこに階段がある。六フィートも下だ」
彼はまた懐中電燈の光をあげた。目の前のレンガに、大きな鉄の輪かぎのような、てがかりがついている。
「あれにぶら下って、降りるんだな。君ならやれると思うが、ミス・ノリスが、そんなことを、よくやれたもんだな」と、ベヴァリーが言った。
「ケイリーが手つだったのさ。そうとしか……だが、おかしいね」
「ぼくが先にいこうか」いかにも待ちかねたように、ベヴァリーは訊いた。
アントニイは、微笑して、首をふった。
「お許し願えれば、ぼくが先になりたいね、ビル。もしもの場合の用心にね」
「どんな場合かい?」
「ええと──もしもさ」
ベヴァリーはそれ以上訊くわけにもいかなかった。が、興奮している彼には、アントニイの言葉をふり返ってみる余裕がなかった。
「よし、では行け」と、ベヴァリーは言った。
「まず、戻れるかどうか、たしかめておこう。ぼくたちが、余生をこの地下に埋れて過ごすことになったら、警部どのに申しわけがたたないからね。あの男は、マークの捜査だけでお手あげなんだ。おまけに君や僕まで探すとなったら──」
「向こう側の口なら、いつだって出られるぞ」
「まだ、確かめてないよ。ためしに降りて、すぐあがってくることだ。出しぬかないと約束する」
アントニイは、レンガの出っぱりに腰かけ、足をたらしてぶらぶらさせながら、しばらく、そのままの姿勢でいた。彼は、もう一度、暗闇を懐中電燈で照らしてみて、どこから階段がはじまっているのか、確かめてみた。そして、懐中電燈をポケットにしまうと、目の前の輪かぎを握って、穴の中に、ふわりと身を躍らせた。足が下の階段にふれたので、アントニイは手を離した。
「大丈夫か?」ベヴァリーが心配そうに声をかけた。
「大丈夫。階段の下まで、ちょっと降りて、戻ってくる。そこにいてくれ」
懐中電燈の光が、アントニイの足もとを照らした。彼の体が暗闇にすいこまれていった。穴の口に、首をのばして覗きこんでいたベヴァリーにも、しばらくは、そのまま光が見え、靴音がきこえるような気がしていたが、やがて、ひとりとり残された……
いや、まったくひとりというわけではなかった。とつぜん、ドアの向うのホールで人声がしたのだ。
「あっ! ケイリーだ!」ベヴァリーは驚いてふりむいた。
頭の回転の速さは、アントニイにかなわなかったが、動作の点では負けなかった。いまは、頭なんかどうでもいいのだ。秘密のドアを、安全に、音をたてずにしめること。本が正しい位置にあるかどうか確かめること。ほかの棚に立って、『バドミントン』でも『旅行案内』でもなんでも、救いの神が与えた本を読んでいるように見せかけること。──困難なのは、どうしたらいいか決心することではなく、五、六秒のうちに、すべてをやってしまうことだった。
「こちらに、おいででしたか」ケイリーがドアのところで声をかけた。
「やあ!」ベヴァリーは、いかにも驚いたように、『サミュエル・ティラー・コールリッジの生涯と作品』の第四巻から頭をあげた。
「もう、すっかりおすみですか?」
「なんのことでしょうか?」
「池ですよ」ベヴァリーは、こんなにお天気のいい日に、コールリッジなんか読んでいる理由を、どうこじつけようかと迷いながら答えた。なにかうまい理由を見つけようと、内心必死だった。……引用句を確かめているんです──アントニイと議論になりましてね──うん、これでいい。だが、その引用句はなんにする?
「いいえ、まだです。警部さんたちはまだやっています。ギリンガムさんはどちらですか?」
『老水夫行』にするか。──水よ、水よ、いずこにもあれば──他に、なにがあるかな? ギリンガムはどこかって? 水よ、水よ、いずこにもあれど──
「トニイですか? ええ、あいつは、どこかそのへんにいますよ。ぼくたちは、村へ行こうと思ってたところなんです。池では、なにも見つからないのですか?」
「ええ、ですが、まだやってみたいのでしょうね。やってみれば、気がすむのでしょうから」
本に夢中になっているふりをしていたベヴァリーは、顔をあげて、「そうですね」と答え、また、本に目を戻した。うまく、その個所にぶつかりそうなところだった。
「なにをお読みですか?」ケイリーが近づきながら訊いた。そのとき、横目で、ちらっと、説教集の棚を見たようだ。ベヴァリーはその視線に気づいて、不安になった。なにか、手ぬかりがあったのだろうか?
「ちょっと、引用句を調べていましてね。トニイと賭けたもんですから。ご存じのものですよ──ええと、水よ、水よ、いずこにもあれど、それから──ええと──飲むべき一滴の水もあらじ」
ベヴァリーは、ものうげに気どって言った。〔いったい、どこに賭けたんだ? と、彼は自問した〕
「正しく言えば〔飲むべき水、一滴もなし〕です」
ベヴァリーは驚いて顔をあげた。それからうれしそうな微笑をうかべた。
「たしかですか」
「むろんです」
「おかげで、手間が省けましたよ。そのことで賭けてたんです」ベヴァリーは、ぴしゃりと本を閉じて、棚へ戻すと、ポケットのパイプと煙草をまさぐった。
「トニイなんかと賭けて、ばかをみましたよ。あの男は、こんなことにはくわしいんですからね」
ここまでは、うまくいった。だが、まだケイリーはここにいるし、アントニイは抜け道にいる。なにも疑念を持たずにいるのだ。アントニイが戻ってきて、入り口がしまっているのを見ても、驚きはしないだろう。抜け道にはいった目的が、内側からも簡単にドアがあくかどうかを試してみることなのだから。したがって、いつなんどき、本棚がゆらりと動いて、隙間からアントニイの頭が覗くかもしれないのだ。そのときのケイリーの驚きようは、どんなだろう!
「ぼくたちと一緒に来ませんか?」マッチをすりながら、ベヴァリーはなにげなく言ってしまった。もし同意されたら大変だと思うと、返事を待つまも、不安を隠すために、マッチの火を、ばかに強く、パイプに吸いつけた。
「あいにく、スタントンへ行く用事がありましてね」
ベヴァリーは安堵の溜息を一緒に、もうもうと煙を吐いた。
「それは残念。車でいらっしゃるんでしょうね?」
「そうです。まもなく車がきますが、その前に手紙を一通書いておかねばなりません」
ケイリーは書物机に向かい、便箋を一枚とりだした。
彼は秘密のドアのほうに向いている。もしドアがあけばすぐ目にはいるだろう。いつなんどき、あくかもしれないのだ。
ベヴァリーは、ぐったり椅子に体を沈めて、考えこんだ。アントニイに警告せねばならない。わかりきったことだ。だが、どうやってやるんだ? どんな合図をすればいいか? 信号だ。モールス信号だ。アントニイはあれを知ってるだろうか? そんなことを言えば、自分だってあれを知ってるかな? ベヴァリーは、軍隊でちょっとかじっている。もっとも、まとまった通信文なんか打てやしなかったが。しかし、いずれにしたって、通信文なんて不可能なんだ。叩いているのを、ケイリーが感づいてしまう。一字以上はだめだ。どんな字を知っているだろう。アントニイに知らせるにはどんな字がいいのかな?……ベヴァリーはパイプを吸いこみ、ケイリーから、書棚のテオドア・アッシャー師に視線を移した。どんな字がいいんだ?
ケイリーのC。アントニイに通じるだろうか? たぶんだめだ。が、やってみるだけのことはあるだろう。Cはどう打つんだっけ。長く、短く、長く、短く。ツー、トン、ツー、トン。これでいいのかな? C、そうだ、Cがいい。これなら、あいつも確かにわかる。C、ツー、トン、ツー、トン。
両手をポケットにつっこんで立ちあがると、ベヴァリーは、ハミングであやふやになにか歌いながら、部屋のなかを歩きだした。それは、まるでだれかが〔友人のギリンガムだろうが〕散歩かなにかに連れだしにくるのを待っているような恰好だった。
ベヴァリーは、ケイリーの背後の書棚の、本の背文字を眺めながら、なんの気なしにやっているように、棚を叩きはじめた。ツー、トン、ツー、トン最初はそんなふうにうまくいかない。調子がとれないのだ……。
ツー、トン、ツー、トン、少しはいいぞ。ベヴァリーは、こんどはサミュエル・ティラー・コールリッジの前へいった。もうじき、アントニイの耳にとどくだろう。ツー、トン、ツー、トン、芝生で読むのになにがいいか迷って無意識に本棚を叩いている、そんな恰好だった。アントニイにきこえたかな? アパートでは、隣室で、パイプを叩いている音がよくきこえるものだ。アントニイはわかるだろうか? ツー、トン、ツー、トン。C、ケイリーのCだよ、アントニイ。ケイリーがここにいるんだ。お願いだから、顔を出さないでくれ。
「こりゃ驚いた。説教集か!」ベヴァリーは大声で笑いだした。〔ツー、トン、ツー、トン〕
「読んだことがあるんですか、ケイリーさん?」
「なんです?」ケイリーは、ひょいと顔をあげた。
ベヴァリーは、のろのろと棚に背を向けたまま動いた。歩きながらも、指はトントンと棚を叩いていた。
「ええと──、読んでませんね」ケイリーはかすかに声をだして笑った。妙にぎこちない、不愉快な笑いかたのように、ベヴァリーには思われた。
「ぼくもです」彼は説教集の前を通りすぎ──つまり秘密のドアの前を通りすぎたのだが、いぜんとして、指で叩きつづけた。
「お願いですから、おかけください」ケイリーが、だしぬけに言った。「散歩なさりたいんでしたら、外でどうぞ」
ベヴァリーは驚いて向き直った。
「おや、どうしたんです?」
ケイリーは感情に走ったことを、ちょっと恥じて、
「すみませんね、ビル」とあやまった。「いらいらしたもんですから。あなたがずっとトントン叩いたり、せかせか歩きまわったりなさるので──」
「トントン叩いたんですって?」
ベヴァリーは、ひどく驚いたようなふりをして言い返した。
「棚をトントンやったり、鼻歌を歌ったり。すみません。神経がいらいらしちゃって」
「それはそれは。こちらこそたいへん失礼申しあげました。ぼくはホールへ行くことにしましょう」
「かまいません」ケイリーは、手紙を書きつづけた。
ベヴァリーは、また椅子に戻った。アントニイには通じたかな? とにかく、いまはケイリーが出て行くのを待つより手がない。〔ぼくに言わせて貰えるなら、ぼくは舞台に立つべきなんだ。舞台こそ、ぼくが生きるべき所だ。申し分のない役者だからね〕ベヴァリーは、いい気持で、内心そんなことを考えていた。
一分、二分、三分、……五分たった。もう安心だ。アントニイに通じたのだ。
「車はきてますか?」手紙に封をしながら、ケイリーが訊いた。
ベヴァリーはさっさとホールへ出てみて、「きてます」とケイリーに声をかけ、外へ出て、運転手と話しはじめた。
ケイリーが来た。三人は、しばらく立ち話をした。
「やあ」背後で、元気のいい声がした。三人がふり返ってみると、アントニイだった。
「待たせてすまなかったね、ビル」
ベヴァリーは、必死になって、感情をしずめ、「なに、いいさ」というような言葉を思いついて口に出した。
「では、出かけなければなりませんから」と、ケイリーは言った。「おふたりは村へいらっしゃるんでしたね」
「そのつもりです」
「すみませんが、この手紙を、ジャランズへお届けいただけませんか」
「いいですとも」
「ありがとう。では、のちほどお目にかかります」
ケイリーは軽く会釈して、車に乗りこんだ。
ふたりきりになったとたん、ベヴァリーはアントニイのほうへのりだした。
「どうだった?」気負いたって、彼は訊いた。
「書斎へこいよ」
ふたりは書斎へ行った。アントニイは椅子にぐったり腰をおろした。
「ちょっと待ってくれ。駈けつづけだったんだ」アントニイは喘《あえ》いだ。
「走って来たって?」
「ああ、もちろんだ。ぼくがどうやって戻って来たと思ってるんだい?」
「ぼくがトントンやったのがきこえたのか?」
「きこえたとも。ビル、君は天才だ」
ベヴァリーは、まっ赤になった。
「君には通じると思っていた。ケイリーだっていうことがわかったかい?」
「わかったさ。君に名演技をさせておいて、ぼくのほうは、合図を理解することしかできなかったんだ。ずいぶん、はらはらしただろうね」
「はらはらしたかって? まあ、そうだろうね」
「そのときのようすを話してくれ」
そこで、ベヴァリーはなるべく謙遜《けんそん》しながらも、自分に役者として価値のあるゆえんを説明した。
「えらいもんだ。君は本物以上のいちばんりっぱなワトスンだよ。ビル、ぼくの弟よ」ベヴァリーの話をきき終ると、アントニイはそう言い、芝居気たっぷりに立ちあがり、相手の手を両手で包んだ。
「君とぼくと組んでやる気になれば、やれないことはなにもないね」
「ばか言うなよ」
「こっちが真面目なときは、君はいつもそう言うんだね。とにかく、大いに感謝するよ。こんどは、まったく君のおかげで助かったんだ」
「戻ろうとしていたのかい?」
「そうだ。少なくとも、そうするつもりでいた。君がトントン叩いているのをきいて、ちょっと迷った。ドアがしまっていたのも多少は驚いたね。むろん、なかへはいった目的は、内側からも簡単にあくかどうか試してみることだったが、最後の瞬間まで──君がぼくが戻ってきたのを確認するまで、しめないだろうと思っていたからね。そのとき、君が叩くのがきこえたので、なにかあったに違いないと思って、じっとしていた。そのうち、Cばかりがつづくので『ケイリーがいるんだな』と思ったんだ──どうだい、頭がいいだろう? そこで、ぼくは向う側の口まで、全力をあげて駈けた。それから駈け戻ったんだ。君が厄介な説明をするのに、手を焼いてると思ったからさ。ぼくがどこへ行ったか、とかそんなことでね」
「じゃあ、マークに会わなかったんだね?」
「会わなかった。会いもしないし、彼の──、いや、なにもみなかったよ」
「彼の、なんだって?」
アントニイは、ちょっと、口をつぐんでいたが、
「なにも見なかったよ、ビル。まあなにかを見たっていえば、壁にドアがあるのを見たね。戸棚だよ。鍵がかかっていた。ぼくたちが見たいものがあるとすれば、あのなかだ」
「そこに、マークが隠れられるのかい?」
「鍵穴から声をかけて見たんだ──小声でね──『マーク、いますか?』ってね。──向うにすれば、ケイリーの声だと思っただろう。返事はなかった」
「では、もう一度、いってみよう。ふたりなら、戸をあけられるかもしれない」
アントニイは首をふった。
「ぼくは行っちゃだめなのか?」ベヴァリーはひどく失望した。
アントニイは口をひらいたが、べつの質問をするためだった。
「ケイリーは車を運転できるのか?」
「むろん、できるさ。なぜだい?」
「では、運転手を家に下ろして、スタントンでもどこでも行くのは、朝めし前だね?」
「だと思うね。──その気になればね」
「そうか」アントニイは腰をあげた。「ところで、君、ぼくたちは村へ行くといったし、手紙もとどけると約束したのだから、そうしたほうがいいと思うよ」
「ああ、……ああ、たいへん結構だね」
「ジャランズか。なんか、君が話してくれたね? あ、そうだ。ノーベリー未亡人のことだったな」
「それだよ。ケイリーはその娘に夢中なんだ。この手紙は娘宛だよ」
「そうか、では持っていこう。大事をとってね」
「ぼくは、あの秘密の抜け道には、ついに入れてもらえないのか?」ベヴァリーは、やきもきして訊いた。
「事実、見るべきものはないんだ、誓うよ」
「君はひどく隠したがるね。なんで、そんなにそわそわしてるんだ? たしかに君は、抜け道でなにかを見たんだ」
「見たさ、話したとおりだ」
「いや、話してなんかいないさ。君は、壁にあったドアのことしか話してないんだ」
「そのとおりだよ、ビル。鍵がかかってたんだ。そのなかに、なにがあるのかと思うとこわくなるよ」
「だが、行って調べてみなければ、なにがあるかわかるもんか」
「こん夜わかるよ」
アントニイは、ベヴァリーの腕をとって、ホールへ連れだしながら言った。「われらの親愛なる友人ケイリー君が、池に投げこむのを見ていればね」
十五 ノーベリー未亡人うち明ける
ふたりは街道から、草原の小径《こみち》へ出た。草原はなだらかな傾斜を画いて、ジャランズへ向かっている。アントニイは黙っていた。ベヴァリーも、そんな相手に、いつまでも話しかけているわけにはいかないので、やがて黙りこんだ。さらに適切に表現すれば、彼はひとりいい気持で鼻歌を歌ったり、草に混った薊《あざみ》をステッキで叩いたり、不愉快な音をたてて、パイプを吸ったりしていたのだ。だが、彼は、仲間がいま来た径《みち》を、なにかのために記憶にとどめておこうとするように、肩ごしにたえずふり返っているのに気づいていた。その径は決して覚えにくい径ではなかった。街道は、ずっと見えていた。それに、邸の敷地をかこむ長い塀をこして、並木の列が空を背景に鮮やかに伸びている。
たったいま、うしろをふり返ったばかりのアントニイは、微笑をうかべて向き直った。
「なんの真似かね?」ベヴァリーは、うちとけた感じがうれしかった。
「ケイリーさ。見なかったかい?」
「なにをだ?」
「車さ。向うの街道を通っていった」
「それで、きょろきょろしていたのか。君の目は実にいいね、二度しか見てない車を、こんなに遠くから見わけられるんだからね」
「ああ、目がいいんだ」
「あいつ、スタントンへ行ったとばかり思っていたよ」
「そこが狙いさ──明らかにね」
「それじゃあ、どこへ行くのだろう?」
「書斎だろう、たぶんね。われらの友、アッシャー君に相談しにさ。ベヴァリーとギリンガムのやつが、言ったとおりにジャランズへ行ったかどうか、たしかめたうえでね」
ベヴァリーは、とつぜん、径のまんなかで立ちどまった。
「君、ほんとにそう思うかね?」
アントニイは肩をすくめた。
「そうだとしても、ぼくは驚かないね。ぼくたちが邸にへばりついているのが、大いに迷惑なんだよ。ふたりが確実に留守だという時間が少しでもあれば、その時間は、あいつにとっては有効に使える時間なんだ」
「有効にって、なんにだい?」
「まあ、少くとも、気だけは休まるね。あの男が、今度の事件に関係しているのを、ぼくたちは感づいてる。ひとつふたつ秘密があるらしいこともね。ぼくたちが、あいつを監視していることに気づいていないとしても、なんかのことで、いつ嗅ぎつけられるかわからないと心配してるんだ」
ベヴァリーは、鼻を鳴らしてうなずいた。ふたりはまた、のんびり歩いた。
「今夜はどうなんだ?」パイプを長々と吹いてから、ベヴァリーは言った。
「この草でやってみろよ」草を渡しながら、アントニイが言った。
ベヴァリーは、草をパイプの吸口からさしこみ、もう一度吹いた。
「よくなったよ」彼はパイプをポケットに入れた。
「ケイリーの目をかすめて、邸を出るにはどうすればいいんだ?」
「そいつは、よく考えなければね。難かしいだろうね。ぼくたちが旅館にいるのなら簡単だがなあ……おや、あれはミス・ノーベリーじゃないのか?」
ベヴァリーは、あわてて顔をあげた。ふたりはジャランズの近くまできていた。なん世紀もの眠りからさめ、周囲の変化にあわせて、建物の両翼を建て増した古めかしい草ぶきの農家だった。建て増した部分も配慮が行きとどいているので、本来の趣きは失っていない。浴室ひとつにしても、ジャランズは昔のままのジャランズだった。ともあれ、外観だけは変りなかった。内部には、もっとはっきり、ミセス・ノーベリーの好みが出ていた。
「ああ、あれはアンジェラ・ノーベリーだ。ちょっと悪くないだろう?」ベヴァリーが囁いた。ベヴァリーにすれば、最上級の讚辞は、他の娘のためにしまっておきたいのだ。彼はベティ・キャラダインを美の基準にして、その娘を鑑定し、価値を判断しているのだ。そんな比較の基準にわずらわされないアントニイには、その娘はただ美しく見えただけである。
握手と紹介が一応すむと、ベヴァリーは、
「ケイリーさんに頼まれて手紙を持ってきたんです。これですが」と、言った。
「こんどのことで、どんなにお気の毒に思っているか、ケイリーさんにお悔みを申しあげてくださいませ。なんて申しあげたらいいのか、それに信じられないことですわ。噂が真実だといたしましてもね」
ベヴァリーは、きのうの出来事を簡単に説明した。
「そうでしたの……で、アブレットさんの行方はまだわかりませんの?」
「わからないんです」
アンジェラは悲痛な表情で首をふった。
「ほかの方のような気がしますわ。見ず知らずの方の」そこで、彼女はふっと静かな微笑を、かわるがわるふたりに向けた。「でも、およりになって、お茶でもおあがり下さいましね」
「大へんありがたいのですが。しかし、ぼくたちは──ええと──」ベヴァリーはぎこちない口調で答えた。
「よろしいでしょう?」アンジェラは、アントニイに話しかけた。
「お言葉にあまえます」
ミセス・ノーベリーは、ふたりに会って喜んだ。夫人は自分の邸に適当な紳士なら、だれでも喜んで迎えた。彼女の生涯の仕事は娘の婿《むこ》選びだった。それが『故ジョン・ノーベリー氏の令嬢アンジェラは某氏とのあいだに婚約成立し、近く挙式の予定……』こうした華麗な言葉で結ばれれば、あの荘厳なシメオンの聖歌を唱え、平和のうちに旅立つのだ──あの世へと。だが、夫人にとっては、天国よりも、新婚のあの世にまさる家庭へ行くほうがのぞましかった。そこで『適任』という言葉が、たんに、夫として『適任』という意味ばかりではないことが、はっきりする。
しかし、いま、『赤い館』からの来訪者が、熱烈な歓迎をうけているのは、『適任』であるからではなかった。彼女が『可能性のある者』に特別の微笑をうかべていたとしても、それは根拠があるものではなく、むしろ、本能的にうかべているのにすぎなかった。
いま、彼女がのぞんでいるのはニューズ──マークについてのニューズだけだった。なぜなら、彼女の仕事は完成直前にあったのだ。もし、『モーニング・ポストの』婚約欄に、死亡欄同様、危篤《きとく》を報知する欄があって、婚約予告が載ったとしたら、きのうのそれは、世間を湧かせたに違いない。すくなくとも『故ジョン・ノーベリー氏の一人娘アンジェラ嬢は『赤い館』の主人マーク・アブレット氏と近日〔ノーベリー夫人の尽力により〕挙式と確定した』という記事に関心を持つ連中のあいだでは、ま違いないだろう。
ベヴァリーにしたって、スポーツ欄に目を移しながら、ふとその記事に目をとめたら、必らず驚かされただろう。というのは、彼女に相手がきまっていれば、それはケイリーだと思いこんでいたからである。
当の娘は、どちらにも関心がなかった。アンジェラは、母のそうしたやり方を、ときには面白がり、ときには恥ずかしがったりしていた、また悩まされることもあった。マーク・アブレットの場合は、マークが母と共謀で対抗してくるので、とりわけ、悩まされたようだった。ほかにも、母親が微笑で迎える候補者たちがあったが、マークの敢闘ぶりには困惑させられた。マークはこのことを、大いに自負するところの個性同様、頼りにしていたのだった。彼は母親と力をあわせて、アンジェラを説得した。そうなると、適任ということではのぞみのないケイリーが、彼女には気持のいい相手になった。
だが、悲しいかな! ケイリーは誤解した。ケイリーが自分を愛していることなど、思ってもみないことだった。──そのことを知って、あきらめてもらおうとした時には遅かった。それは四日前の事だった。それ以来、アンジェラはケイリーに会っていなかった。そして、いま、この手紙がとどいたのだ。封を切るのが怖しかった。客がいるあいだは、封を切らずにすませるのが、彼女にとってはせめてもの救いだった。
ミセス・ノーベリーは、ふたりの客のなかで、アントニイのほうが自分の話を同情的に聴いてくれる相手だと、即座に見ぬいた。お茶がすむと、ベヴァリーとアンジェラは、そんな事に馴れきっているように、要領よく機敏に庭へ出てしまったので、自然アントニイは夫人と並んで、さまざまの話をきかされる羽目に追いこまれた。
「ほんとに、なんてまあ、怖しいことでしょう。しかもアブレットさんともあろうお方が──」
と、夫人は言った。
アントニイは適当に相槌《あいづち》をうった。
「あなたご自身。アブレットさんをご存じでしょう。ご親切で、お優しい方ですのに──」
アントニイは、アブレットには一度も会ったことがないことを説明した。
「おや、そうでしたわ。あたくしすっかり忘れておりまして。でも、ギリンガムさん。あたくしをお信じあそばせ。こういう事では、女の直感は信頼できますからね」
アントニイは同感だとうなずいてみせた。
「母親としての気持ちをお察しくださいまし」
アントニイは、ミス・ノーベリーの気持を考えていた。一面識もない人間を相手に、母親が自分の問題について論じているのを知ったら、どんな気がするだろうか。とはいえ、アントニイは傾聴しているより手がないのだ。なにか手がかりになることが聴けはしないかと、そのことに期待をかけてだが。マークは婚約していたのか。婚約しようとしていたのか! それは、きのうの事件と関係があるのだろうか? ミセス・ノーベリーは婚約者の母として、家族の嫌われ者の兄ロバートをどう考えているか?
「あたくしは、あの方は好きになれませんわ。けっして!」
「好きになれない?」アントニイは、当惑して訊き返した。
「あの方の従弟の──ケイリーさんですわ」
「ほほう!」
「ギリンガムさん、うかかがいますけど、このあたくしは、たったひとりのお兄さんを撃つような方に、かわいい娘をやるような女に見えまして?」
「まさか、そんなことは。奥さん」
「もし、ほんとにそんなことがあったら、だれか他の人間がやったことですわ」
アントニイは、不思議そうに夫人を眺めた。
「あたくし、ケイリーさんは好きませんわ。けっして」ミセス・ノーベリーは、きっぱりと言いきった。
アントニイは、ひそかにこう思った。だからといって、ケイリーを犯人だときめるわけにはいかないじゃないか。
「お嬢さんと、ケイリーさんとはどういうおつきあいなのですか」彼は慎重に口をきいた。
「おつきあいなんて、まるでございませんわ。まるっきり、どんなにだって、はっきり申しあげられますわ」ミス・ノーベリーの母親は、ばかに力をこめて答えた。
「それは失礼。けっして、そんな意味で──」
「まるっきり、おつきあいはありません。アンジェラに代って、はっきり申しあげられますわ。あちらが言いよったかどうかは──」彼女は肉付きのいい肩をすくめて、口をつぐんだ。
アントニイは緊張して相手を待った。
「ふたりが顔を合わすのは、あたりまえですわ。そんなときにでも、たぶんあちらが──よくはわかりませんけど。でも、母親としての、あたくしの義務もございますものね、ギリンガムさん」
そこで、ギリンガム氏のほうは、はげますように、派手に相槌をうった。
「あたくし、あの方にあけすけに申しましたんですよ──なんと申せばよろしいのでしょう──あまり度をこしていると申したんです。婉曲《えんきょく》にですわ、もちろん。でも率直にですの」
「というのは、つまり」アントニイは、つとめておだやかな口調で言った。「あの方に言われたんですね。アブレットさんとお嬢さんはそのうち──」
「そうですわ。ギリンガムさん。母親としての義務でございますものね」
「ごもっともです。あなたの義務としてなら、できないことはなにもありませんからね。しかし、いやなお役目でしたでしょうね。なにもはっきりは──」
「あの方は、娘に惹かれていましたわ、ギリンガムさん。たしかに惹かれてました」
「お嬢さんなら、だれでも心を惹かれますからね。ケイリーさんは、かなりのショックをうけたでしょうな」愛嬌《あいきょう》のいい微笑をうかべて、アントニイは言った。
「言ってしまって、気がらくになりましたわ。あたくし、そのとき、一刻も早く話しておくことだったと、思いました」
「そのあとでお会いになったとき、ずいぶん気まずい思いをなさったでしょうね」アントニイはさりげなく言った。
「当然、あの方、あたくしどもへは、お見えになりませんの。おそかれ早かれ、ふたりは『赤い館』で顔をあわせることになりましょうけど」
「ほう、では、ごく最近のことですね?」
「先週ですよ、ギリンガムさん。いい時に申しあげましたわ」
「そうか!」アントニイはつぶやいた。これこそ待っていた言葉なのだ。
もう、ここにいる必要はない。早く帰って、ひとりで新しい情勢について考えてみるか、夫人の代りにベヴァリーと、しばらくしゃべってみたい。ミス・ノーベリーは、母親のように、一面識もない男に打ち明け話はしないだろうが、話をきけば、なにかのたしになるかもしれない。いったい、アンジェラはどっちが好きなのだろう、ケイリーと、マークでは? ほんとうに、マークと結婚するつもりだろうか? アンジェラはマークを愛しているのか? あるいはケイリーか? それとも、どちらも愛していないのか? 夫人の行動や考えは、いまの話だけで信用できる。必要な事柄もすっかり知ることができた。次には娘しか話せないことをききたいのだ。が、夫人の話はまだつづいている。
「若い娘というものは世間知らずですからね、ギリンガムさん。幸い母親がいろいろ教えてやるからいいようなものですが。アブレットさまが、うちの娘にふさわしいということは、はじめからわかっておりましたわ。あの方をご存じないんですの?」
アントニイは、マーク・アブレットに会ったことがないと、もう一度答えた。
「たいへん、紳士でいらっしゃいましたわ。お見かけもごりっぱですわ、芸術家ふうで。あのヴェラスケス──いいえ、ヴァン・ダイクふうの方ですの。アンジェラは、あごひげのある方とは結婚しないなんて申しますの。まるで、とても重大なことのように──」彼女が口をつぐんでしまったので、アントニイが代って先をつづけた。
「『赤い館』はたしかに魅力がありますね」
「魅力がある……ほんとに魅力がありますわ。あの邸には、アブレットさまのようなごりっぱな方に、不似合いなところは少しもございませんのね。まったく、よくお似合いですわ。そうお思いになりません?」
ここでまた、アントニイはマーク・アブレットに会っていないのが残念だと言うことになった。
「そうですわ。それに、文壇や画壇の中心においででしたものね。どこからみても、望ましいお方ですの」
夫人は深い溜息をつき、しばらく、もの思いに沈んでいた。アントニイが、それを機会に腰をあげかけたとき、ミセス・ノーベリーはまた話しはじめた。
「それに、あの方にはやくざなお兄さんがいらっしゃることもわかってますの。あの方はあたくしに、なんでも打ち明けてくださいましたのよ、ギリンガムさん。このお兄さんのことも話してくださいました。で、あたくし、そんなことで娘の気が変るようなことはありませんと申しあげましたの……なにしろ、オーストラリアにおいでの方ですものね」
「それはいつですか? きのうですか?」
そのことを、マークが『赤い館』へ訊ねてくるという兄の手紙を受けとったあとで打ちあけたとすれば、その行為のかげには深い策謀がありそうだと、アントニイは思った。
「きのうのはずはございませんよ、ギリンガムさん。きのうは──」
夫人は身震いして、首をふった。
「午前中にこちらへこられたのかもしれないと考えたんです」
「いいえ! ギリンガムさん。ひたむきな恋人はいるものですわ。朝から訪ねてくるような。でも、午前中ではありませんの。あたくしもあの方も、アンジェラが──いいえ、そんなことは。ええ、あれはおとといでしたわ。お茶をあがりにおよりになったときですの」
夫人の話は、マークとアンジェラがすでに婚約をすませたという話からしだいに遠のいてしまった、とアントニイは思った。夫人も、アンジェラの気持が動きもしないし、この結婚話に乗り気でないことを、いまは認めないわけにはいかなかった。
「おとといです。そのとき、アンジェラはるすでしたの、べつに大したことじゃございません。あの方は、ミドルストンへ車でいらっしゃるところでしたわ。娘がいたとしても、お茶一杯召しあがる時間もございませんでしたものね──」
アントニイは、うわのそらでうなずいた。これは新しい手がかりだ。おととい、マークはどういうわけで、ミドルストンへ行ったのだろうか。行ってはいけないわけは少しもないが。ロバートとは関係なしに出かける理由はいくらだってあるのだ。
彼は暇をつげるために、腰をあげた。ひとりになりたかったのだ──ひとりに。少なくともビルとふたりだけになりたかった。ミセス・ノーベリーは考慮すべき多くの資料を提供してくれた。そのなかでも、特別彼の気を惹く事実があった。ケイリーにはマークを憎む理由があったということである。ミセス・ノーベリーは、その理由を教えてくれた。憎悪? とにかく嫉妬《しっと》はしている。それだけで充分ではないか。
「ねえ、君」邸へ戻る途中で、アントニイはベヴァリーに言った。
「ケイリーがこの事実で、自分を危険にさらしてまで、あえて偽証罪を犯していることを、ぼくたちは知っている。それもふたつの理由のなかのひとつのために違いないということもね。マークを救うか、陥《おとしい》れるか。言いかえれば、心から彼の味方か、心から敵かということだ。いま、ぼくたちにわかったことは、彼が敵であること、歴然とした敵だということだ」
「しかし、君、だれでも必ず恋敵《こいがたき》を陥れるとは限らないぜ」ベヴァリーが抗議した。
「そうかね?」
アントニイはにっこりして、ふりむいた。
ベヴァリーは赤くなった。
「そりゃあ、もちろん、人にもよるさ、だがぼくのいうのは──」
「君なら陥れたりしないかもしれないね、ビル。だが、君だって、恋敵が自分勝手に面倒をひき起こしたのを、偽証罪を犯してまで、救う気持はないだろう」
「そりゃあ、そうだよ」
「だから、ふたつにひとつの理由なら、ケイリーはマークの敵だというほうが当っているんじゃないか」
最後の畠の門のところまで、ふたりは来ていた。その畠の向うに街道がある。その門をくぐると、ふたりはふり返り、門によりかかってひと息いれながら、いままでいた邸を見おろした。
「小じんまりした、しゃれた邸じゃないか?」と、ベヴァリーが言った。
「そのとおりだな。だが、奇妙だね」
「どんなところがかね?」
「玄関はどこにあるんだろう?」
「玄関? うむ、いま出てきたばかりじゃないか」
「しかし、車寄せがないぜ。道も、他のものもさ」
ベヴァリーは笑いだした。
「ないさ。そのほうが、すばらしいと思う連中もいるんだ。それに、そのおかげで値が安くて、ノーベリー家が買うことができたんだ。あまり裕福じゃなさそうだからね」
「だが大きな荷物を運んだりするときは、どうするんだろう?」
「荷馬車の通った跡があるよ。だが自動車は道路から先ははいれないね」ベヴァリーはふり返って、指さした。
「あそこまでだ。だから、週末にくるような金持には向かないのさ。あの連中なら、すくなくとも道や車庫なんかは、作るだろうな。住むとすればね」
「なるほど」
アントニイは、なんとなく相槌をうった。それからふたりは向きを変えて、街道のほうへ歩きだした。
だが、あとになって、このときのなにげない会話を思いだし、アントニイは重要な意味があったことに気づいたのだった。
十六 その夜のための準備
その晩、ケイリーが池に沈めようとしているのはなにか? アントニイは、すでにそれがなにかわかっているような気がした。マークの屍体だ。
はじめから、この答えが出てくるのがわかっていたが、アントニイはあえて否定していた。もし、マークまでが殺されたとすれば、きわめて計画的な殺人事件と考えなければならないからだ。ケイリーにそんなことができるだろうか? ベヴァリーなら『否』と答えるだろう。ケイリーとは朝昼晩食事を共にし、ふざけあい、ゲームを一緒にする間柄だからである。ほかにも、ベヴァリーが『否』と答える理由はある。彼自身冷酷な殺人を犯せる人間ではないし、自分がそうなら他人もそうだと思いこんでいるからだ。だが、アントニイには、そんな夢は画けなかった。殺人事件はいくらでも起こる。ここでも起こっている。その証拠に、ロバートの屍体がある。次の殺人が行われないと言えるだろうか?
きのうの午後、たしかに、マークは事務室にいたのだろうか? 唯一の証拠は〔他にケイリーがいるが、いれないことにして〕エルジーの証言である。エルジーはマークの声をきいたと断言した。だが、ベヴァリーはマークの声は非常に個性的だと言っている──だから簡単に真似のできる声だ。ベヴァリーがうまく真似られるなら、ケイリーだってやれないわけはない。
だが、結局、これはそれほど計画的な殺人ではないかもしれない。ケイリーとマークは、ふたりが求婚している娘をめぐって、きのうの午後、口論したのではないだろうか。とつぜん殺意を起こしてやったのか、なぐるつもりの過失でやったのか、とにかく、ケイリーはマークを殺してしまった。この事が抜け道で起こったと考えてみよう。二時頃である。ケイリーがマークを誘いこんだのか、マークのほうで、抜け道へ行かないかとさりげなく言ったのか、それはどちらでもいい。〔マークがふだん秘密の抜け道を楽しんでいたことからこれは想像できる〕ケイリーは足もとの屍体と抜け道にいる。首に繩を巻きつけられたような気持だ。なんとか逃れる手段はないかと、あれこれ思いわずらううちに、ロバートがその日の午後三時にくることを、ふと思いだした。──無意識に自分の時計を覗いていた──あと三十分だ……
三十分しかない、急いで、なんとか方法を考えねばならない。急いで。抜け道にマークの屍体を埋めて、マークは兄の来訪を怖れて失踪したと見せかけてはどうだろう? だが、それでは、朝食の席で、マークが言ったことが証拠に残る。あの時、マークは厄介者の帰国に困惑してはいたが、怖れてはいなかった。だめだ、それでは動機が薄弱すぎる。だが、マークが実際兄に会い、争闘が起こったことにしてはどうだろう。それなら、ロバートがマークを殺したように見せかけられる。──
アントニイは、抜け道のなかで、従兄の屍体を足下にして、計画をめぐらしているケイリーを想像してみた。ロバートが生きていて否定したら、どうして、ロバートを犯人らしく見せかけられるだろうか? だが、ロバートも死んだとしたらどうだろう?
ケイリーはまた時計をのぞいた。〔あと二十五分しかない〕ロバートも死んだことにしては? ロバートは事務室で死に、マークは抜け道で死ぬ──それがなんになるんだ? 正気とは思えない! だが、なんとかして、屍体を一緒にして……ロバートの死を自殺に見せかけては?……そんなことが可能だろうか?
これも正気とは思えない。難かしすぎる。〔あとたった二十分だ〕二十分で、そんなことはできやしない。自殺に見せかけることはできない。あまりにも困難だ。……あと十九分……。
そのとき、とつぜん、霊感がひらめく! ロバートは事務室で死に、マークの屍体は抜け道に隠してある。──ロバートを殺人犯に仕立てるのはむりだ。が、マークなら簡単じゃないか! ロバートが死に、マークが失踪する。これなら、一挙に片づく。マークはロバートを殺す──過失で。そうだ、これならうまい──そして逃走する。急に恐怖におそわれて……〔ケイリーはまた時計をのぞく。十五分。だが、もう時間は充分だ。あとは成り行きにまかせていい〕
果して、これが真相だろうか、アントニイは疑問に思った。これなら、いままでに判明した事実と符合するようである。だが、その朝、ベヴァリーに話したもうひとつの説も、これまでの事実とぴったりあうのだ。
「もうひとつの説?」と、ベヴァリーが言った。
ふたりはすでにジャランズから邸の領地に戻り、猟園を通って、池の見おろせる雑木林の影に腰をおろしていた。池には、警部も池浚いの人足も姿が見えなかった。
ベヴァリーは口をあいて、アントニイの話をきいている。ときどき『ほう!』と声をたてる他は、黙って耳を傾けていた。
「ぬけめのない奴だな、ケイリーって男は」
聴き終って一言、ベヴァリーが口に出した意見だった。
「他の説っていうのはどれだい?」
「マークが誤ってロバートを殺して、ケイリーに救いを求めた。ケイリーはマークを抜け道に隠れさせ、事務室のドアに外から鍵をかけて、どんどん叩いたという説さ」
「そうか、だが、君はあの説では、ばかに思わせぶりな言い方をしたぜ。要点をきいても、ろくに返事をしなかったじゃないか」ベヴァリーは、ちょっと考えこんだ。それから、また、話をつづけた。
「君の言うのは、ケイリーがマークを策略にかけて、マークが犯人のように見せかけようとしたってことだな?」
「生きているか死んでいるか、とにかくマークと抜け道で出会うということを、君に警告したかったんだ」
「で、今はそう思っていないのか?」
「屍体になっている、と今は思っている」
「あとで、ケイリーが降りていって、殺したというのかい? 君や警部が来てからさ」
「そう考えるのは願いさげというところだがね、ビル。あんまり残忍すぎるよ、ケイリーならやりかねないが、そう思いたくはないね」
「だが、そうは言っても、君のもうひとつの説だって、結構残忍だぜ。君の説では、彼は事務室へいって、喧嘩《けんか》したわけでもないのに、十五年も会ったことのない男を撃ったんだからね!」
「そうだ。だが、それは自分を救うためにやったんだからね。事情が違うよ。ぼくの説はね、ケイリーはマークと娘のことで争って、激情にかられて、つい殺してしまった、ということなんだ。それからあとに起こったことは、すべて自己防衛のためだからね。許すわけにはいかない。だが、気持はわかるよ。マークの屍体はいまも抜け道にある、とぼくはにらんでいる。たぶん、きのうの午後の二時半からそこにあるんだろう。そして今夜、ケイリーはそれを池に隠そうとしているのさ」
ベヴァリーは傍の苔《こけ》をむしり取り、一、二度遠くへ投げてから、ゆっくりした口調で言った。
「君の言うとおりかもしれない。だが、ぜんぶ想像だからね」
アントニイは笑いだした。
「おやおや、もちろん、お説のとおりですよ。今夜、それがあたってるかどうか、わかりますがね」
ベヴァリーはとたんに勢いづいた。
「今夜か。そいつは面白くなるぞ。ぼくたちはどんなふうに活躍するんだい?」
アントニイは、しばらく黙っていた。が、やがて、
「当然、警察に知らせるべきだろう。そうすれば、あの連中が来て、池を見張ってくれるだろうからね」と、言った。
「もちろんだろうさ」ベヴァリーはにやにや笑った。
「だが、ぼくたちの説を警察に話すのは、ちょっと早いんじゃないかと思うよ」
「ぼくも、そうだろうと思うね」ベヴァリーが、もっともらしい口調で応じた。
アントニイは、ふっと微笑をうかべて、ベヴァリーを見あげた。
「ビル、君も案外心得てるね」
「今夜はわれわれの見せ場だからね。少しは愉しませていただいて、かまわないだろうさ」
「ぼくもそう思うね。よし、では今夜は警察ぬきでやろう」
「あの連中がいないのは心細いが、そのほうがよさそうだ」ベヴァリーは悲しそうな顔つきで言った。
さしあたって、ふたつの問題があった。ひとつは、ケイリーの目をかすめて、邸を抜けだすこと。もうひとつは、ケイリーが投げこんだものを、なんであろうとひきあげることだった。
「さて、ケイリーの立場に立って考えてみようか」と、アントニイが言った。「現在、ケイリーは、ぼくたちに監視されているのに気づいていない。だが、警戒していることはま違いない。もちろん邸内の者、皆を警戒しているだろうが、とりわけわれわれを警戒している。他の連中より、たぶん、頭がいいだろうからね」
アントニイは、ちょっと言葉を休めて、パイプに火をつけた。そこで、ベヴァリーは料理人のミセス・スティーヴンズより利口に見えるように、表情をあらためた。
「ところで、今夜、ケイリーはなにか隠さねばならない。で、ぼくたちに見られないように用心するだろう。だが、どんな方法をとるだろう?」
「仕事にかかる前に、まず、ぼくたちが寝たかどうかたしかめるよ」
「そうか。やってきて、ぼくたちが毛布にくるまって、寝心地がいいところを見ていくんだな」
「そいつはまずいな。だが、ドアに鍵をかければいい。そうすれば、ぼくたちがいないとは思わないだろう」
「いままで、鍵をかけていたのかい?」
「いや、かけたことはないね」
「では、だめだよ。ケイリーは気がつくにきまっている。彼がドアを叩く。答えがない。そうなれば、ケイリーはどう思うかね?」
ベヴァリーは黙りこんだ。まいったのだ。
「どうすればいいか、ぼくにはわからんな」かなり考えこんでから、彼は言った。「仕事にかかる前に覗きにくることはわかっている。とすると、先まわりして、池へいく時間はないね」
「彼の側になって考えてみよう」アントニイは、ゆっくりパイプをくゆらしながら言った。「ケイリーは屍体かなにかを、抜け道に隠している。それを抱えて二階へあがり、ぼくたちを覗きにくるようなことはしないだろう。まず、ぼくたちのほうを確かめておいて、屍体をとりに行くことは確実だ。そうなら、いくらか余裕がある」
「そうかなあ」ベヴァリーは疑わしそうな口ぶりだった。「やれるとしても、かなり忙しいね」
「だが、待ちたまえ。彼は抜け道へ行く。屍体をとりだす。次にはなにをするだろうか?」
「外へ出るさ」ベヴァリーは助太刀《すけだち》のつもりだった。
「そうだ。だが、どっちの口かね?」
ベヴァリーは驚いて腰をうかした。
「やれやれ、君は、遠いほうの球戯場の口から出るというんだね?」
「そう思わないかね? 考えてもみたまえ。真夜なかに、屍体を抱えて、邸からまる見えの芝生をつっきっていけるだろうか。だれか眠れない人間が窓から首を出して、外を眺めやしないかと、びくびくしているあの男の気持を思ってみろよ。すばらしい月夜なんだぜ、ビル。これだけの窓の注目のうちに、屍体を抱えて、月夜の猟園を歩いていくのだろうか。他に方法がないわけじゃない。球戯場のほうから出さえすれば、邸からはまったく姿を見られずに、池へ行けるんだ」
「なるほどね。それなら、ぼくたちにも時間ができるわけだな。よし。次は?」
「つぎは、ケイリーが投げこんだ場所を、正確に見きわめておくことだ。なにを投げこむにしてもね」
「ぼくたちが釣りあげるときのためにだな」
「投げこんだものがわかれば、ぼくたちがやらなくてもいい。あしたでも、警察がやればいいんだ。だが、遠くてはっきり見定められないときには、ぼくたちがひきあげねばならない。警察に話すだけの値うちのものかどうか見るためにね」
「な、なるほどね」ベヴァリーは顔にしわをよせた。「水はどこもかしこも同じで、投げこんだ場所をみつけるのは大仕事だぜ。君はそこまで考えたかどうか知らないが」
アントニイは微笑した。
「考えたさ。さあ、行って見てみよう」
ふたりは雑木林のはずれへ行った。そして、そこに寝ころんで、無言のまま、眼下の池を眺めた。
「見たかい?」やがてアントニイが言った。
「なにをだ?」
「向う側の柵《さく》さ」
「あれがどうかしたのかい?」
「あれが役に立つってことだ。それだけさ」
「と、シャーロック・ホームズは謎のように言った」と、ベヴァリーがあとをうけた。「次の瞬間、友人ワトスンは、彼を池に放りこんだ」
アントニイは笑いだした。
「せっかくホームズ張りでやってるのに、君がうまくあわせてくれなきゃ、台なしだよ」
「どういうわけで、あの柵が役にたつのかね? ホームズ君?」ベヴァリーはあっさり訊いた。
「あれで位置がみ定められるからさ。つまり──」
「わかった。位置の講釈ならごめんだね」
「そうじゃない。だが、君は」──アントニイは上を見た──「この松の木の下に寝転んでいる。ケイリーは古ぼけたボートに乗ってきて、包みを投げこむ。君はここからボートまで直線をひく。それを向うの柵まで伸ばして目印をきめる。端から十五本目だとするね。では、つぎに、ぼくの樹からやる──その木はいま見つけるがね──それが柵の二十本目に行きつくとする。君のとぼくのとふたつの線が結ぶ所が、鷲《わし》がむらがるところだ。証明終り。それから、もう少しで忘れるところだったが、背の高いほうのベヴァリーっていう鷲が評判のダイビングをやってみせるんだ。毎晩サーカスでやってるようなやつをね」
ベヴァリーは頼りなさそうに、相手に目をやった。
「ほんとかね? すごく汚い水だぜ」
「そうらしいね、ビル。ヤッシェルの本に、そう書いてあるよ」
「もちろん、どっちかがやらねばならないのは承知してる。だが、ぼくは──まあ、いいや。夜も暑いだろうからね」
「水浴にはもってこいの夜だね」アントニイは立ちあがりながら、うなずいた。「では、ぼくの木を、さがしておこうか」
ふたりは池の縁までおりて、うしろをふり返った。ベヴァリーの木は周囲の樹々より五十フィート近くも高く夕空に伸び、はっきり見わけられる。そして、もう一本それほど高くはないが、やはり一目で見わけのつく木が、雑木林の別のはずれにあった。
「ぼくは、あれにしよう」アントニイはその木を指さして言った。「ところで、頼むから柵を数えま違えないように願いますよ」
「ご注意感謝します。だが、なにしろ自分のことだからね。ぼくだって、一晩中もぐってるのはごめんだよ」
「君の位置と、水のはねた場所をまっすぐ結んで、その線を延長した先の杙《くい》を、柵の端から数えるんだぜ」
「わかってるよ、君。まかしときたまえ。そのくらいの事なら、やれるさ」
「その調子で、あとも頼むよ」アントニイは微笑しながら言った。
彼は時計を覗いた。晩餐の着替えの時刻が迫っていた。ふたりは肩を並べて帰途についた。
「気になることが、ひとつあるんだがね」と、アントニイが言った。「ケイリーはどこで寝るんだろう?」
「ぼくの隣の部屋さ。どうしてだい?」
「池から戻って、もう一度、ぼくたちの部屋を覗くこともあり得るからね。起こしたりはしまいが、通りがかりに覗くぐらいはすると思うね」
「ぼくはお留守だぜ。池の底で泥水をチュウチュウお吸いになってるからね」
「そうだね。……君のベッドになにか入れて、暗闇ならなんとなく君にみえるっていうわけにはいかないかな? 枕にパジャマを着せて、袖を片っぽう毛布の外に出しておく。それに、靴下かなんか、枕もとにおいたら、どうだろう。それでいいかね。それなら、ケイリーは君が平和に眠ってると思って安心するんじゃないかな」
ベヴァリーはひとりでくすくす笑った。
「大丈夫だとも。お手のものさ。うまく信じこませるよ。だが、君はどうする?」
「ぼくの部屋は、はずれだからね。二回も見にはこないだろう。最初に来たときに、ぐっすり眠っているところを、お目にかけるよ。大事をとっておくことにするさ」
ふたりは邸へはいっていった。ケイリーはホールにいた。彼は軽く会釈し、時計をとりだして、
「着替えのお時間ですね?」と、声をかけた。
「ええ、ちょうど」と、ベヴァリーが答えた。
「手紙はお届け願えましたか?」
「届けました。実は、あのお宅でお茶をご馳走になりましてね」
「それは!」彼は目をそらせて、なにげなく言った。「で、皆さん、いかがでした?」
「あなたに同情なさって、お悔みを言っていました──いろいろと」
「そうでしたか」
ベヴァリーは、相手の言葉がつづくのを待った。が、彼はなにも言わなかった。で、ベヴァリーは「いこう、トニイ」と声をかけ、先に立って二階へあがっていった。
「すっかり、いいんだね?」ベヴァリーは、階段を上りきったところで言った。
「いいと思う。食堂へおりる前に来て見てくれ」
「わかった」
アントニイは寝室へはいると、ドアをしめ、窓ぎわへいった。それから窓を開いて、外をのぞいた。彼の寝室は、邸の裏手の戸口の上にある。事務室の横側の壁は芝生へ、邸の他の部分より、ずっとつきだしていて、寝室の左手にあたっていた。戸口の上におりれば、簡単に地上へとびおりることができる。戻るのは、そう簡単にはいかないだろうが。うまい具合に水道のパイプがついているから、それを利用できるだろう。
アントニイが着替えを終ったところへ、ベヴァリーがはいってきた。
「最後の指示をきいておこうか?」ベヴァリーはベッドに腰をおろしながら訊いた。「ところで、晩餐のあとは、なにをして遊ぶかい? すぐあとのことだよ」
「球つきはどうだい?」
「いいね。君がやりたければ、なんでもいい」
「そう大きな声を出すなよ」アントニイは声をひそめて言った。「このへんの部屋はいずれにしろホールの上にあるんだ。下にはケイリーがいるかもしれないんだぜ」それから彼はベヴァリーを窓ぎわへ連れていった。
「いいか、今夜ここから出るんだ。階段をおりて出るのは危険すぎるからね。ここなららくだ。テニス靴を履くといいな」
「わかった。もうふたりだけになれそうもないから訊くが、ケイリーがようすを見に来たとき、どうすればいいんだい?」
「簡単には言えないな。できるだけ自然にやるんだ。つまり、軽くノックして覗きこんだら、眠ってるふりをする。いびきも派手にかいちゃだめだ。だが、もし大きな音をたてたら、目をさまして、目をこするんだ。ひとの寝室にはいってきたりして、いったい、なにをしてるんだというような恰好でね。わかってるだろうね」
「わかってる。それから替玉人形のことだ。部屋に戻ったら、すぐ作って、ベッドに隠しておくよ」
「そうしてくれ……ぼくたちは、一応ちゃんとベッドにはいったほうがいいね。もう一度、服を着替えるのに、そう時間はとらないだろう。それに、抜け道で、あの男がゆっくり仕事ができるからね。それから、ぼくの部屋へ来てくれないか」
「わかった。支度はできたかい?」
「できたよ」
ふたりは連れだって、階下へおりた。
十七 ベヴァリーの潜水夫
ケイリーはその晩、ふたりに対して、ばかに愛嬌がよかった。晩餐がすむと、散歩に出ないかと、彼が提案した。三人は邸の正面の砂利道をいったり来たりぶらぶら歩いたが、ほとんど口もきかないので、ベヴァリーがとうとう音《ね》をあげた。最後の二十回は、これでいよいよ邸へ帰れるのかと、その度に歩をゆるめたが、他のふたりは知らん顔で、また向こうへ歩きだすのだった。しまいには、ベヴァリーも肚をきめた。
「すこし、球でもつこうじゃないか?」ふたりから離れながら、ベヴァリーは言った。
「やりますか?」アントニイはケイリーに訊いた。
「拝見します」ケイリーはそう答えた。そして、ふたりが一勝負すませ、もう一勝負するのを、傍から、じっと見まもっていた。
それから、三人はホールへ行き、酒にした。
「さあ、これで寝ることにしますか」ベヴァリーはグラスをおきながら言った。「君はどうする?」
「そうしよう」アントニイもグラスをおいてケイリーを見た。
「ぼくは、二、三、こまかな仕事がありますから、あとからやすむことにしましょう」と、ケイリーは答えた。
「それでは、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
「おやすみ」ベヴァリーは階段に半分足をかけて、声をかけた。「おやすみ、トニイ」
「おやすみ」
ベヴァリーは時計を覗いた。十一時半だった。あと一時間ぐらいは、なにも起こらないだろう。衣裳ダンスの抽出しをあけて探検にはなにを着ようかと迷った。グレイのフランネルのズボンに、フランネルのシャツ、それと黒っぽい上着じゃどうかな。雑木林にしばらく寝転ぶかもしれないから、たぶんスェーターがいるだろうな。それから──思いついてよかった──タオルだ。そいつは、あとになって必要なんだ。それまで、腹に巻いておこう……テニス靴か……あった! これですっかり準備ができたな。さて、それから身替りの人形だぞ……
ベヴァリーは、ベッドにはいる前に、もう一度時計を覗いた。十二時十五分だ。あと、どのくらいで、ケイリーのやつ、現われるかな? それから灯を消し、パジャマのまま、ドアの傍に立った。そして目が暗闇に馴れるのを、じっと待った。……部屋の隅のベッドが、どうやら見わけがついてきた。ケイリーがドアから覗いただけで、ベッドの様子を知りたければ、もうすこし明るくしてもらいたいところだろう。ベヴァリーは、ちょっとカーテンをあけた。これで、だいたいいいんじゃないか。替玉人形をベッドに入れてから、もう一度調べてみればいい……
あと、どのくらいで、ケイリーはやってくるかな? ケイリーはなにも仕事に出かける前に、ふたりの友人ベヴァリー君とギリンガム君が眠りこんでいればいいと、思っているわけじゃないだろう。ふたりがなにごともなく、寝室に落ちついているのを見れば、きっと気がすむのだ。ケイリーの仕事は、邸内にうるさい連中がいるかぎり、そのなかでもいちばん目ざとい者の注意をひかないように、音をたてたり、目につくことを避けることだ。だが、彼が客に関するかぎり安心したければ、確かめに覗いて見たくらいでは目をさまさないほど深い眠りに落ちるのを、待たねばならない。事実、結果は同じことだ。彼はふたりが眠るまで待つだろう……ふたりが眠るまでだ。……眠るまで……。
うとうとしながら、もの思いにふけっているうちに襲ってくる睡魔を、彼はたいへんな努力で追いはらい、やっと目をさました。こんなんじゃだめだ。もし、眠ってしまったら、すっかりおじゃんだ……もし、眠りこんだら……眠りこんじゃったら……そして、急に、はっきり目がさめた。くる気なんかはじめからケイリーにないとしたら!
ケイリーが、ふたりに疑惑を抱かずに、ふたりが二階へあがったとたん、抜け道にもぐりこんで仕事にかかったとしたらどうだろう。すでにいま、池で秘密のものを投げこんでいるとしたらどうだ。しまった、なんてまぬけなんだ! アントニイめ、どうしてこんな綱渡りをやる気になったんだ? ケイリーの立場にたってみろ、なんて言ったくせに。だが、そんなことができるもんか? ふたりともケイリーじゃないんだ。ケイリーは、いま、池にいる。池に投げこんだものがなにか、ふたりには、もうぜったいわからなくなる。
おや、待てよ!……ドアのところに、誰かいるぞ。眠ったふりだ。さあ、もっと自然にやれ。もう、ちょっと寝息をたてたほうがいいだろうな。ぼくは眠ってるところだ……ドアがあきだしたぞ。背後でその気配がする……まてよ、ケイリーがほんとに人殺しだとしたらどうだ! いまにも、ここで兇行を演じるかもしれない──ばかな、そんなことを考えるやつがあるか。そんなに気になるなら、寝返りをうってみればいい。寝返りなんかうてやしない。ぼくは眠ってるんだ。すやすやと眠ってるんだ。だが、どうしてドアをしめないんだろう? ケイリーはどこにいるんだ? ぼくのまうしろか? そして、彼の手には──ばかなそんなことを考えちゃいかん。ぼくは眠ってるんだ。だが、どうして、ドアはしまらないんだ?
ドアがしまっていく。ベッドに寝ている者が溜息を洩らした。思わずふっと洩らした安堵の溜息である。だが、それはきわめて自然な感じだった。──ぐっすり眠っている者の口から洩れる深い息づいかいのように。いっそう自然に見せるために、もう一回息をついた。ドアがしまった……。
ベヴァリーは、ゆっくり百かぞえてから、起きあがった。そして、暗闇のなかで、できるだけす早く、音をたてずに服を着替えた。それから替玉人形をベッドにおいて、それらしく自然に見えるように、着るものをあしらい、ドアの傍に立って眺めた。なにげなく、ちらっと覗くだけなら、このくらい明るくても大丈夫だ。ベヴァリーは、静かに、ゆっくりドアをあけた。あたりは変化がなく静かだった。ケイリーの部屋のドアの下から、光が洩れていない。
静かに、注意深く、ベヴァリーは廊下を忍び足で、アントニイの部屋へいき、ドアをあけて、はいった。
アントニイはまだベッドにいた。起こそうとして近づき、ベヴァリーは思わず立ちすくんだ。胸が波うち、心臓が高鳴った。だれか、ほかの人間が部屋にいるのだ。
「大丈夫だ、ビル」囁くような声がきこえ、アントニイがカーテンの蔭から姿を見せた。
ベヴァリーは、口もきけずに、じっと見まもるばかりだった。
「どうだ、うまいだろう?」近づきながら、アントニイは言い、ベッドを指さした。「さあ、出かけよう。早いほどいい」
彼は先にたって、窓から出た。むっつり黙りこんだベヴァリーがあとにつづいた。ふたりは音もたてずに無事に、地上におりると、急いで芝生を横ぎり、柵を越えて猟園に出た。邸が見えなくなると、安心して、はじめてベヴァリーは口を開いた。
「てっきり、君が寝ているんだと思ったよ」
「そこが狙いさ。ケイリーがもう一度来てくれなけりゃ、がっかりするな。骨折損のくたびれもうけだからね」
「さっき来たときはどうだった?」
「うまくいったさ。君のほうは?」
ベヴァリーは、そのときの気持を、身ぶり手ぶりで鮮やかに説明して見せた。
「君なんか殺したって、なんにもなりはしない。危険がますばかりだ」アントニイは気がなさそうに答えた。
「なんだ! ぼくを殺さなかったのは、好意を持っているせいだと思っていたのにな」と、ベヴァリーは言った。
アントニイは笑いだした。
「そいつは疑わしいね……君は着替えをするとき、明りを消したかい?」
「むろんさ! 消したとも。それとも、つけてもらいたかったのかい?」
アントニイは、また笑いだして、ベヴァリーの腕をとった。
「君は相棒にはもってこいだよ、ビル。君とぼくなら、やれないことはなにもないね」
池は月明に照らされ、いっそう荘厳な気配のうちに、ふたりを待っていた。対岸のなだらかな斜面に繁る樹々は、不気味な静寂につつまれている。この世に自分たちただふたりきりしかいないように思われた。
ほとんど無意識のうちに、アントニイは声をひそめていた。
「あれが君の木、こっちがぼくのだ。君が動きさえしなければ、みつかる気配はない。やつがいってしまっても、ぼくが動きだすまで、動いちゃいけないぜ。あと十五分ぐらいは、あいつもここへこないだろう。あまりあわてないことだ」
「承知した」ベヴァリーも小声で答えた。
アントニイはうなずき、微笑してみせた。それから、ふたりはそれぞれの位置についた。
ゆっくり時がすぎてゆく。木の根もとの下生えに身を隠して横たわるアントニイの脳裡に、新たな疑問がうかんだ。今夜、ケイリーのここでの仕事が、一度で済まないとしたら? 彼はひっ返してきて、ボートのふたりに気づくかもしれない。ひとりは水のなかだ。ふたりが、ケイリーがひっ返してくる場合を考えて、隠れたままでいたら、ふたりの作業の時間は、あまり少なくなりすぎる。邸の玄関に戻って、ケイリーが帰ってくるのをたしかめ、寝室に明りがつくのを見とどけてから、池での作業にかかるほうが、おそらく、無事ではないか。これは難かしい問題だ。
こうしたことを考えながらも、アントニイの視線は、ボートに注がれていた。すると、思いがけなく、まるで降って湧いたかのように、ケイリーがボートの傍に立っているのが目にはいった。手に小さな茶色のカバンを提げていた。ケイリーは、そのカバンをボートにおいて、のりこむと、オールを棹《さお》のようにあつかって、ボートを静かに押しだした。それから、静かに、池の中心に向かって漕いでいった……
彼はボートをとめた。オールを水面に休め、足のあいだからカバンをとりあげると、舳先《へさき》からのりだして、しばらく、軽々と水面に支えていた。それから、彼は手を離した。カバンはゆっくり沈んでいった。それを見まもりながら、ケイリーは沈みきるのを、じっと待っていた。おそらく、それがまた浮かびあがるのを怖れたのだ。
アントニイが数えはじめた……
そして、いま、ケイリーはボートを出した拠点へ戻っていった。ボートをつなぎ、なにか手がかりを残しはしないかと、注意深くあたりを見まわしてから、ケイリーは視線を池へ戻した。彼はしばらくそこにたたずんでいた。月光を浴びたケイリーのその姿は、巨大で、おそろしく静かだった。それを見まもる者にとっては、かなり長い時間のように思われた。やっと、彼は満足したようにみえた。秘密のものがなんであろうと、ケイリーはそれを隠し終えたのだ。彼は静かな溜息をついた。それが耳にきこえたような錯覚をアントニイは感じた。ケイリーは踵《きびす》を返し、静かにもと来た道へ姿を消した。
アントニイは三分間待って、木立の蔭から離れ、ベヴァリーがくるのを待った。
「六本目だ」とベヴァリーが囁いた。
アントニイはうなずいた。
「ぼくは邸の玄関へまわる。君は君の木に戻って見張れ。ケイリーがもう一度くるといけない。君の寝室は左手の端だな。ケイリーのは端から二番目だね。まちがいないか?」
ベヴァリーはうなずいた。
「よし。ぼくが戻ってくるまで、隠れて待ってろ。どのくらいかかるかわからない。が、辛抱するんだ。待つ身には時間は長いものだ」アントニイは、ベヴァリーの肩を叩き、笑顔を見せ、うなずいて、そこから立ち去った。
カバンの中味はなんだろうか? 鍵やピストルのほかに、ケイリーが隠そうとするものはなんだろう? 鍵やピストルはそのままでも沈むはずだ。だいいち、カバンに入れる必要もない。カバンの中には、なにがはいっていたのか? それ自体では沈まないなにかだ。石を入れなければ、泥のなかに安全に隠せないなにかである。
まあ、いずれはわかる。いまから、とやかく考えることもないだろう。ベヴァリーは、夜陰に乗じて汚い仕事を、目前に控えている。だが、アントニイが、あんなに自信をもって期待した屍体はどこにあるのだ。もし、屍体はないのだとしたら、マークはどこにいるのだ?
しかし、目前の問題は、ケイリーがどこにいくかということだ。アントニイは大急ぎで邸の正面にかけつけ、芝生の境の灌木の茂みにひそんで、ケイリーの窓に明りがつくのを待ちかまえた。もし、ベヴァリーの窓が明るくなれば、すべては発覚してしまう。そのことは、ケイリーがベヴァリーの部屋を覗いて、ベッドの替玉人形に疑惑を抱き、たしかめるために、明りをつけたということになる。そのときは、一戦を交えることになる。だが、もし、ケイリーの部屋に灯がつけば──。
灯がついた。アントニイは、とつぜん湧きあがる興奮で身ぶるいを感じた。ベヴァリーの部屋だ。戦いだな!
灯はついていた。風が吹きだし、月が雲間にかくれた。邸の他の部分が影に沈んだので、いっそう、こうこうと輝いている。ベヴァリーはカーテンをおろしていなかったのだ。なんという不注意だ。彼の第一の失策である。だが──
雲まから月がまた、姿を見せた……アントニイは茂みのかげで、ひとりで笑いだした。ケイリーの部屋の向うに、もうひとつ窓があった。そこには灯がついていないのだ。宣戦布告は延期である。
アントニイは、茂みにひそんでケイリーがベッドにはいるのを見まもった。見まもるということは、結局、さっきケイリーが憂慮《ゆうりょ》していたことへの丁重な返礼というわけだ。彼がぬくぬくとベッドにおさまるのを見きわめたうえで、池へ出かけるのが、礼儀というものだ。
そのあいだに、ベヴァリーのほうが待ちくたびれてきた。彼の主な心配は『六番目』という数を忘れて、すべてをだめにしはしまいかということだった。六番目の杙《くい》だ。六番目。彼は小枝をとって、六つに折った。その六本を目の前の地面に並べた。六だ。池に目をやり、六本目の杙を数えた。それから『六番目』と、つぶやくように、ひとり言を言った。それから、小枝に目を落した。一、二、三、四、五、六、七、七つだ! あれは七本目だったのかな? それとも七つ目のやつは、偶然、地面に落ちてたんじゃないかな? ほんとは六つなんだ。アントニイには『六本目』と言ったっけ? だったら、アントニイが覚えているだろう。それでいいんだ。六だ。彼は七つめの小枝を投げすて、あとの六つを集めた。ポケットにいれたから、たぶん無事だろう。六だ。背の高い男の身長──つまり、自分の身長じゃないか。六フィート。そうだ。そうやって覚えてればいい。数の問題が一段落つくと、カバンのことが気になってきた。アントニイはカバンのことを、なんて言うのだろう。池の深さはどのくらいか。底の泥の具合は? そんなことも気にかかる。
「いよいよ、面白くなってきたぞ!」あれこれ考えながら、ひとり言を言っていると、アントニイの姿が、またあらわれた。
ベヴァリーは起きあがり、斜面をくだって、彼のところへいった。
「六本目だ。端から六番目だよ」と、彼はきっぱり言いきった。
「よし」アントニイはにっこりした。「ぼくのは十八本目だ──そこから、ちょっとはずれたところだ」
「なにしにいってきたんだい?」
「ケイリーがベッドにはいるのを見とどけにさ」
「うまくいったかい?」
「うん。六本目の杙《くい》に、上着をかけておきたまえ。そのほうがはっきりするからね。ぼくは十八本目にかけておくよ。服はここで脱ぐかい? それともボートにするかな?」
「ここで少し脱いで、あとはボートにするよ。君は、ほんとに水にもぐるのがいやなのか?」
「まったく、ごめんだね」
ふたりは、池の向う側へまわった。柵の六番目の杙のところで、ベヴァリーは上着を脱いで、ひっかけた。彼が服を脱いでいるあいだに、アントニイは十八番目の杙に、目印をつけにいった。
すっかり支度ができたので、ふたりはボートに乗りこみ、アントニイがオールを握った。
「さあ、ビル。このボートが君の木と杙を結ぶ線上にきたら知らせたまえ」
アントニイは、池の中心に向って、静かに漕いでいった。
「このへんだ」やがて、ベヴァリーが言った。
アントニイは手を休め、あたりを眺めた。
「そうだね。このへんでよさそうだ」彼はボートの舳先を、さっきベヴァリーが寝転んでいた松の木の方向へ向けた。「ぼくの木と上着が見えるかい?」
「ああ」と、ベヴァリーは答えた。
「よし、では、この線に沿って静かに漕いでいく。ぼくの木と上着を結ぶ線のところへ来たら知らせてくれ。できるだけ正確に頼むよ──君のためだからね」
「とめて!」ベヴァリーが注意した。「少しうしろへ……もう、ちょっとだ……もう少し前だ。……よし」
アントニイはオールを離し、そのへんを眺めた。見たところでは、ボートはお互いの目印の線が正確に交叉するところへ来ているようだった。
「では、ビル、潜れよ」
ベヴァリーはシャツとズボンを脱いで立ちあがった。
「ボートからとびこまないでくれよ、君。位置が狂うからな。静かにすべりこむんだ」アントニイが早口で言った。
ベヴァリーは、艫《とも》からすべりこみ、アントニイの前へ、ゆっくり泳いでまわってきた。
「水はどうだい?」と、アントニイが言った。
「つめたい。では、いくよ」
ベヴァリーは、いきなり水を蹴ったかと思うと、一瞬のうちに水中に消えた。
アントニイはボートをそのままとめて、もう一度目印を眺めた。
ベヴァリーが背後にうきあがるのと同時に、荒い息を吐いた。
「すごい泥だよ」と、彼は文句を言った。
「藻《も》は?」
「おかげで、なかったよ」
「では、もう一度頼む」
ベヴァリーは、また水を蹴って、水中に消えた。
アントニイがかじをあやつって、ボートの位置を直していると、ベヴァリーが、こんどは前のほうに浮きあがってきた。
「鰯《いわし》でも投げてやりたいね。君なら見事に口でうけとめるね」アントニイはにやにやしながら、声をかけた。
「そんな所で冗談言ってりゃらくさ。いつまで潜らせるんだい?」
アントニイは時計を覗いた。
「三時間ばかりさ。夜があける前に、ひきあげねばならないからね。だが、急いでやってくれ。ここに坐ってると寒くてかなわん」
アントニイめがけ水を片手ではねとばし、ベヴァリーはまた、水中に潜った。こんどは一分近く潜っていた。ふたたび水面にうかびあがったときは、にやにや歯を見せて笑っていた。
「見つけたよ。もちあげるのがおそろしく大変なんだ。ぼくには重すぎてだめなようだよ」
「大丈夫さ」アントニイはポケットから太い紐《ひも》を一巻《ひとまき》とりだした。「こいつを、握りに通してみてくれ。ふたりならひき揚げられるよ」
「うまいね」ベヴァリーは水を掻《か》いて、ボートの縁に近づき、紐の端を握ると、また戻っていった。「では、やってみる」
二分後には、カバンは無事にボートにひきあげられた。ベヴァリーがつづいて這《は》いあがり、アントニイが岸へ漕いでいった。
「よくやったよ、ワトスン」岸にあがって、アントニイは優しく言った。
彼はふたりの上着をとってきて、カバンを提げたまま、ベヴァリーが体を拭いて服を着るのを待っていた。ベヴァリーの身支度がすむとアントニイは彼の腕をとって、雑木林へ連れこんだ。彼はカバンをおき、ポケットをまさぐった。
「開けるまえに、パイプをふかしたいんだ。君はどう?」と、アントニイは言った。
「いいね」
あたりに充分気をくばりながら、ふたりはパイプに火をつけた。ベヴァリーの手が小さくふるえている。アントニイはそれに気づいて、安心させるように微笑をみせた。
「もう、いいか?」
「いい」
ふたりは坐りこんで、カバンを膝の間においた。アントニイが留金を押して、口をあけた。
「服だ!」ベヴァリーが声をあげた。
アントニイは、いちばん上の服を出して、ふるった。水に濡れた茶色のフランネルの上着だった。
「だれのだか、わかるかい?」アントニイが訊いた。
「マークのフランネルの茶の背広だ」
「逃走していたとき着てたって、広告してあったやつだね?」
「うん、そうらしいな。むろん、あの男は、ものすごく服を持ってはいるがね」
アントニイは、その服の胸のポケットに手をつっこんで、なん通かの手紙をとりだした。それを手にして、彼は疑わしそうに、しばらく考えこんだ。
「これは読んでおいたほうがいいと思うね。つまり、ただ目を通すだけで──」どうだろう、とでも言うように、アントニイはベヴァリーに目をやった。ベヴァリーはうなずいた。そこで、アントニイは懐中電燈の灯をつけ、す早く目を通した。ベヴァリーは不安な表情で待っていた。
「そうだ。マーク……しめた!」
「なんだい?」
「ケイリーが警部に話した例の手紙だよ。ロバートからの。『マーク、君の兄が会いに行く──』これは、しまっておいたほうがいい。たしかに、マークの上着だ。あとのも出してみようか」彼はカバンから残りの服を出して広げた。
「これで全部だ」と、ベヴァリーが言った。「シャツ、ネクタイ、靴下、下着、靴、──そうだ、これでみんなだ」
「彼がきのう着ていたものはこれでみんなか?」
「そうだよ」
「これをどう思う?」
ベヴァリーは首を振って、別の質問をした。
「君が期待していたものは、これかい?」
アントニイは、急に笑いだした。
「まったく、ばかばかしいよ。ぼくが期待していたものは──そうだ。なんだかわかってるはずだ。屍体さ。この服を着た屍体なんだ。べつべつに隠したほうが安全だと思ったんだね。服はここに、屍体は地下の抜け道に、そうすれば、発覚しないと思ったのだろう。そして、ばかに手間をかけて服をここに隠した。屍体のほうは放っといてね」アントニイは頭をふった。「ぼくには、ちょっと見当がつかないがね、ビル。だが、事実はごらんのとおりだ」
「ほかになにもないか?」
アントニイはカバンのなかを探った。
「石と──うん、なにかある」彼はそれをとり出してかかげてみた。「これだよ、ビル」
事務室の鍵だった。
「まったく、君の言ったとおりだな」
アントニイはもう一度カバンのなかを探った。それから、さかさにして、そっと草の上でふるった。大きな石が十個以上も転げ落ちた──それから、他にもなにかあった。彼は懐中電燈で照らしてみた。
「もうひとつ鍵があった」アントニイは声をあげた。ふたつの鍵をポケットにしまい、草の上に坐りこんで、黙ったままアントニイは長いあいだじっと考えこんだ。彼の思索の邪魔をしないように、ベヴァリーも口をきかなかった。がやがて、
「これを、カバンに戻しておこうか?」と言った。
アントニイは、驚いて顔をあげた。
「なんだって? ああ、そうか。いや、ぼくがしまおう。懐中電燈で照らしてくれないか」
ゆっくり、慎重に、彼は衣服をカバンに戻した。ひとつとりあげる度に考え、カバンにいれる彼の手もとに目をやりながら、自分がよみとれないなにかを、アントニイはよみとっているのだと思った。すっかり、しまってからも、彼は膝をついたまま、考えこんでいた。
「それで全部だ」と、ベヴァリーは声をかけた。
アントニイはうなずいた。
「うん、全部だ。だがおかしいね。ほんとに、全部だと思うかい?」
「どういう意味?」
「ちょっと、懐中電燈を貸してくれ」彼は懐中電燈をうけとると、ふたりのあいだの地面を照らした。「そうだ、全部だな。だが、おかしい」彼はカバンを持ったまま、立ちあがった。「さあ、これを隠す場所をみつけよう。それから──」
アントニイはそのまま、なにも言わず、木立を縫って歩きだした。ベヴァリーも、おとなしくあとにつづいた。
カバンを隠しおわって、雑木林を出たとたんに、アントニイの口が軽くなった。彼はポケットから、ふたつの鍵をとりだした。
「ひとつは事務室の鍵だと思う。もうひとつは抜け道の戸棚の鍵だ。たぶん、これであければ戸棚をのぞいてみられると思うよ」
「ほんとに、戸棚の鍵だと思うのか?」
「他の鍵であるはずがないからね」
「だが、どうして捨てる気になったんだ?」
「もう、用がすんだからさ。どんな用にしろね。抜け道とは手を切りたいんだろう。できれば、抜け道なんか、捨ててしまいたいところだろうね。いずれにしても、抜け道はもう重要じゃないんだ。あの戸棚のなかにだって、たいしたものはないようだ。だが、見ておかねばならないものだと思う」
「マークの屍体がはいっていると、まだ思ってるのか?」
「いや。だが、他にどこがあるんだ? ぼくの思いちがいで、ケイリーがマークを殺さなかったなら別だが」
彼の説に口を出そうかどうか、ベヴァリーはためらっていた。
「君がぼくをばかだと思うのは、わかってるんだが──」
「おい、ビル、ぼくのほうがよっぽどばかだ。そうきけば、仲間ができてうれしいくらいだがね」
「では言おう。マークはロバートを殺し、ケイリーはマークの逃走を助けた。最初にぼくたちが考えたとおりにね。君はあとで、この推理に可能性がないことを証明したね。だがいまの事実が、ぼくたちの知らない方法や理由で起こったとしたらどうだろう。つまり、この事件自体、奇妙な事が多すぎるっていうことなんだが──いままでだって、なにが起こってるかしれやしないんだ」
「そのとおりだよ。で?」
「で、こんどは衣類の問題だ。これが、マーク逃亡説の証明にはならないかね? マークの茶色の服は、警察に知られているんだ。ケイリーは、逃亡を助けるために抜け道に、別の服を運んでやったんじゃないか? だから、茶色の服が、あとに残ったんだ。とすれば、それを池に沈めるのが、もっとも安全な方法になるからね」
「なるほどね」アントニイは考えこんだ。それから「その先は?」とうながした。
ベヴァリーは乗りだして、先をつづけた。
「そう考えると、すべてがぴったり合うんだ。君の最初の説が正しいことになるんだがね──マークが誤って殺し、ケイリーが逃亡を助けたという説だ。むろん、ケイリーが良心的になるなら、怖れることなにもないと、マークを励ましただろう。が、彼は良心的に動かなかった。ケイリーは、女の問題があるので、マークを追っぱらおうとしたんだ。いい機会だからね。そこで、マークをできるだけおびえさせ。逃亡以外に手段はないと言いきかせたのだ。当然、ケイリーはマークを逃がすために、あらゆる手を打った。もし、マークが捕まれば、ケイリーの裏切りは、すっかり明るみにさらけ出されるからね」
「なるほど。だが、服装を変えるのに、下着や他のものまで着替えさせたのは、手がこみすぎてないかね? 時間だけでも、ずいぶん無駄じゃないか」
ベヴァリーは足をとめて、「そうか!」と、ひどく落胆して言った。
「いや、その考えも、まんざら悪くはないよ」アントニイは微笑をうかべて言った。「下着のことも説明がつかないわけじゃない。だが、現状では難かしい。なぜ、マークは茶の服を青い服に──色はなんでもいいが──着替える必要があったか。茶色の服を着ているのを見たのは、ケイリーひとりだというのにね」
「警察の人相書に、茶の背広って書いてあるからさ」
「ケイリーが警察に、そう報告したんだ。昼食の時、マークは茶色の背広だったとする。女中たちがそれに気づいていたとする。だが、ケイリーは、マークが昼食の後で、青い背広に着替えたと言えば、それでとおるんだ。あとで、マークを見かけたのは、ケイリーだけなんだからね。だから、ケイリーが警部に、マークは青い服を着ていたと言っておけば、服を着替えるまでもなく、茶色の服のままでまったく気らくに逃げられるんだ」
「やつは、そのとおりにやったんだ」ベヴァリーは、意気揚々と声をあげた。「ぼくたちは、なんてばかなんだ!」
アントニイは、驚いて、彼に目をやり、首をふった。
「そうだ、そうなんだ!」ベヴァリーは、どこまでも強気だった。「もちろんだ! わからないかい? マークは食後に服を着替えた。彼に逃亡の機会を与えるために、茶色の服を着ていたと嘘をついた。女中たちが茶の背広のマークを見ているからね。だが、ケイリーは、警察がマークの衣類を調べて、衣裳ダンスの茶色の背広を発見するのを怖れた。そこで、それをかくしたんだ。あとで、池に沈めた」
ベヴァリーは、勢いこんで仲間をふりむいた。が、アントニイはなにも言わなかった。ベヴァリーが、また口を開こうとすると、いきなり手をふって、それをとめた。
「もう、なにもしゃべるなよ、君。おかげで、考えることが、たっぷりできた。今夜はこれだけにしよう。ちょっと、戸棚をのぞいてから、寝ることにしないか」
だが、その晩、戸棚のなかには、ろくなものはなかった。古い壜《びん》が二、三本転がっているだけだった。
「まあ、こんなもんさ」と、ベヴァリーが言った。
しかし、アントニイは、懐中電燈を持って膝をついたまま、しきりになにかを探していた。
「なにを探してるんだ?」しまいに、ベヴァリーが訊いた。
「ここにない、あるものさ」アントニイは立ちあがり、ズボンの埃をはらいながら言った。そして、彼はまたドアに鍵をかけた。
十八 推理
検屍審問は三時である。それが済めば、アントニイには、『赤い館』で歓待《かんたい》をうける理由がなくなる。そこで、十時には旅行カバンをつめてしまって、『ジョージ旅館』へ移る準備をすませた。ゆっくり朝食をとって、二階へあがってきたベヴァリーは、早朝のこの騒ぎに、ちょっと驚かされた。
「そんなに急ぐのは、どういうわけなの?」と、彼は訊いた。
「理由はないさ。だが、検屍が終ったら、ここに戻ってきたくないんだ。君も早く支度をしろよ。午前中は、ふたりきりで過ごそうじゃないか」
「よしきた」ベヴァリーは自分の部屋へ行こうとして、また戻ってきた。「これからは、『ジョージ旅館』に泊るっていうことを、ケイリーに話しておこうじゃないか」
「君は『ジョージ旅館』に行くわけじゃないんだよ、ビル。表向きはロンドンへ帰ることになっている」
「ほう!」
「そうさ。荷物をスタントンまで運んでもらうように、ケイリーに頼んでおけよ。検屍が済んでから、君がのりこむ列車にまにあうようにね。ケイリーには、英国教会のロンドン主教に、急いで会う用事があると言うんだ。堅信礼《けんしんれい》を施してもらいにロンドンへ急いで帰ったことにして、君が出発したらすぐぼくは『ジョージ旅館』に移る。この事件で邪魔がはいった閑静なひとり暮しをまたやり直す。それでみんな自然に見えるだろう」
「すると、ぼくは今夜はどこで泊るんだい?」
「表むきはロンドン主教の公邸にする。実際は、『ジョージ旅館』へ来て、部屋がなければ、ぼくの部屋で寝ればいい。ぼくのカバンに、君のための、堅信礼の礼服がいれてある──つまり、パジャマや歯ブラシやいろんなもののことだがね。ほかになにかききたいことがあるかい? ない? じゃあ、行って支度したまえ。十時半に、あの枯れた樫《かし》の木の下か、ホールかどこかで会おう。しゃべって、しゃべって、大いにしゃべりぬきたいんだが、ワトスン君に頼みたいこともあるんだ」
「よし」ベヴァリーは、自分の部屋へ出かけた。
それから一時間たって、表向きの計画をケイリーの耳に入れておいてから、ふたりはそろって、猟園へ出かけた。
「それで?」手頃の木蔭に腰をおろすと、ベヴァリーは口をきった。「話をきこうか」
「けさ、風呂《ふろ》にはいっていたら、すばらしい思いつきがいろいろあってね」アントニイは話しはじめた。
「なかでも、いちばんすばらしいのは、ぼくたちがあきれるほど間ぬけだということだ。これまで、見当違いのことばかりやってたんだからね」
「うん、いい思いつきだったね」
「むろん、探偵になるのはたいへんなことだ。捜査の方法も知らなければ、人知れず捜査をしたり、反対尋問をするわけにもいかない。本格的な調査をするエネルギーも手段もない。要するに、根っからのしろうとの、でたらめな方法でやってるんではね」
「しろうととしては、ぼくたちはそんなに悪いばかりでもないと思うな」ベヴァリーは抗議した。
「うん、しろうととしてならね。だが、本職の警官だったら、べつの方向からはじめていたと確信するね。ロバートのほうさ。ぼくたちは、ずっと、マークとケイリーのことばかり考えていた。ロバートのことも少し、考えてみようじゃないか」
「あの男のことは、ほんの少ししかわかっていないからな」
「わかっていることを、考えてみよう。まず第一に、漠然とではあるが、あの男が悪党であることがわかっている。──兄だなんて、人前では言いにくい|てあい《ヽヽヽ》だ」
「そうだな」
「マークに不愉快な手紙をよこして、訪問を知らせてよこした。その手紙はぼくのポケットにある」
「うん」
「それから、かなり奇妙なことがわかっている。マークが君たち皆に、嫌われ者が帰ってくると教えたことだ。どういうわけだね、皆に発表したのは?」
ベヴァリーは、ちょっと考えこんだ。
「こうだと思うよ」彼はのろのろと口をきいた。「どうせ、ぼくたちと会うのはわかってる。それなら、率直に話したほうがいい。そう考えたんだ」
「君たちに会うときまっていたのかね? 君たちは皆、ゴルフに出かけていたんだ」
「あの男が泊れば、夜、顔をあわせただろうね」
「それはそれでいい。ひとつ発見があったわけだ。マークには、その晩、ロバートが泊ることがわかっていた。あるいは、こういう言いかたをしようか──ロバートをすぐには追いかえせないことが、マークにはわかっていた」
ベヴァリーは、仲間を熱心にみまもった。
「それから? 面白くなってきたぞ」
アントニイはつづけた。
「マークには、ほかにもわかってることがあったんだ。ロバートは、君たちと顔を合わせたとたんに、本性をさらけだすに違いないことを見ぬいていた。植民地帰りの、ちょっと訛《なま》りのある兄、というところではすませないことがわかっていたのさ。マークはすぐに公表しないわけにいかなかった。ロバートがならず者だということが、まもなく、わかることだったからね」
「なるほど、そんなところだろうな」
「そこでだが、マークがこれだけのことを、そんなに手まわしよく決心したのに驚かないかい?」
「どういうことだ?」
「マークは、この手紙を朝食のときうけとった。で、それを読んだ。読んだかと思うと、皆に発表した。言ってみれば、一秒ぐらいのあいだに、なにもかも考えて、決断をくだしたことになる──ふたつの決断をね。君たちが帰ってくるまでに、ロバートを追い返すことはできないだろうかと考えて、不可能だと判断した事。それから、ロバートが皆の前で普通の温厚な人間のように、ふるまえるかについて考えた。これも、とてもだめだと思ったのだ。手紙を読みながら、即座に、このふたつのことを決めたんだ。早業《はやわざ》すぎると思わないかい?」
「うん、で、どう説明するんだね?」
アントニイは、パイプに煙草をつめ、火をつけてから話しだした。
「どう説明するか? それは、しばらく、そっとしておいて、あの兄弟をべつの方向から観察してみようじゃないか。こんどは、ミセス・ノーベリーとの関連の面からだ」
「ミセス・ノーベリーだって?」ベヴァリーは驚いて言った。
「そうだよ。マークはミス・ノーベリーと結婚したがっていたんだからね。もし、ロバートが、ほんとうに家名を汚す男だったら、マークがしようとすることは、ふたつにひとつだ。ノーベリー母娘《おやこ》にそのことを隠しぬくか、人の口からそのことが伝わる前に、自分で打ちあけてしまうことだ。そこで、マークは打ちあけたんだ。しかし、ロバートの手紙がくる前の日に打ちあけたのはおかしいね。ロバートはやってきた。そして、殺された。おととい──火曜日だな。マークが、ミセス・ノーベリーに打ちあけたのは、月曜日だ。君、これをどう考える?」
「偶然そうなったんだろう」ベヴァリーは慎重に考えたあげく、そう答えた。「マークは、日頃から、打ちあけようと思ってたのさ。求婚もうまくいって、話がまとまりかけたから、打ちあけたんだ。それが月曜日だ。火曜日に、ロバートの手紙をうけとった。打ちあけたあとで、気はらくだったね」
「そうも考えられるね。だが、ずいぶん、おかしな偶然じゃないか。それに、あることを考えあわせると、もっと奇妙な気がしてくるんだ。けさ、風呂のなかで、考えついたばかりだがね。いい考えがうかぶところだね、風呂っていうのは。で、それは──打ちあけたのが、月曜日の午前中、車でミドルストンへ出かける途中だということなんだ」
「それから?」
「それだけだ」
「すまん、トニイ。けさは、頭がぼんやりしてるんだ」
「自動車で出かけたんだよ、ビル。車はジャランズ農園からどのくらいの所まで近づけるんだろう?」
「六百ヤードぐらいだね」
「そうか。マークは用事かなにかがあって、ミドルストンへ行く途中で車をとめ、六百ヤードの道をジャランズまで、徒歩でくだった。それから『ところで、奥さん、まだお話してなかったと思いますが、ぼくにはロバートというよくない兄がおります』と、打ち明けて、また六百ヤードの路をてくてく戻り、車にのりこんで、出発した。そういうわけだろうか?」
ベヴァリーは眉を寄せた。
「なるほどね。だが、君がなにを考えているのか、ぼくにはよくわからないね。そういうわけだろうと、なかろうと、あの男が打ち明けたことは、たしかだからな」
「もちろん、それはたしかだ。問題は、ミセス・ノーベリーに、あわてて打ち明けねばならない事情があったことなんだ。その事情というのは、その朝──火曜日ではなく、月曜日の朝だ──すでに、ロバートが訪ねてくることを知っていたことだと、ぼくは推察している。あの男は、その報告をしに、まっ先にとんでいかざるを得なかったんだよ」
「だが──しかし──」
「それに、そのことから別の事情も説明がつく。朝食のとき、兄のことを君たちに話す決心がああまで早かったということの説明だ。早かったわけじゃないんだ。ロバートがくることを、月曜日には知ってたのさ。君たちに知らせる肚もきまっていたのだ」
「では、手紙の件はどうなんだ?」
「まあ、拝見してみようじゃないか」
アントニイはポケットから手紙をとりだして、ふたりのあいだの草の上にひろげた。
『マーク、あしたオーストラリアから、君の兄がはるばる訪ねてゆく。驚かしては気の毒なので、前もって知らせる。よろしく笑顔をみせてくれ。三時頃到着の予定』
「ごらんのとおり、日付ははいっていない。ただ『あした』とあるだけだ」と、アントニイが言った。
「だが、マークがこの手紙をうけとったのは火曜日だぜ」
「そうかな?」
「うん。火曜日に、ぼくたちに読んできかせたのだ」
「そうだった! 君たちに読んできかせたんだったな」
ベヴァリーは、その手紙をもう一度読み返した。それから裏を返してみた。が、裏にはなにも書かれていない。
「消印はどうなんだ?」と、彼は訊いた。
「運悪く、封筒がないんだ」
「で、きみは、あの男が、月曜日に、この手紙をうけとったと思うんだね」
「そんな気がするのさ、ビル。とにかく、ぼくはこう考えるのさ。だいたい、ま違いないと思ってるがね。つまり、あの男は兄がくるのを、月曜日には知っていた、とね」
「そのことが、事件の解決に役だつのかね」
「いや。ますます解決は困難になる。この事件は、ぜんたいに不気味なところがあるんだ。そこのところが、よくわからないんだな」
アントニイは、しばらく黙っていた。それから、「検屍審問だって、ぼくらの役にたつかどうか、あやしいもんだ」と言った。
「ゆうべはどうなの? ゆうべのことを、君がどう考えてるか、ききたかったんだ。すっかり、考察済みかい?」
「ゆうべは」アントニイは、じっと考えこんだ。「そうだ。ゆうべのことを少し説明しなければね」
ベヴァリーは、彼の解説を期待して、待ちかまえた。例えば、アントニイが例の戸棚でなにを見たか、ということなどだ。
「ぼくは、こう思うんだ」アントニイは、ゆっくり話しはじめた。「昨夜以来、マークが殺されたという考えかたは、すてるべきだとぼくたちは考えている。ケイリーに殺《や》られたという意味でだが。屍体の始末に困っている人間が、死人の服を隠すのに、あんな面倒なことをするものじゃないんだ。屍体のほうが、ずっと重要だからね。だから、ケイリーは服を隠すだけでよったんだと、考えていいと思う」
「だが、抜け道に隠しておけばいいじゃないか?」
「抜け道じゃ不安だったんだ。ミス・ノリスが知ってるからね」
「それなら、自分の寝室はどうだい? マークの寝室でもいいが。君やぼくにしたって、あるいは他の人間だって、マークは茶の背広を二着持っていたと思うだろうさ。実際、持っていた、と思うね」
「だろうね。かと言って、ケイリーが安心できるかどうか疑わしいね。茶色の背広に秘密があった。だから、隠しておかねばならなかったんだ。いちばん安全な隠し場所は、いちばん人目につくところだ、ということはだれでも知っている。だが、いざ実行に移すとなると、そんな度胸のある人間はめったにいないものなんだ」
ベヴァリーは、ひどく落胆したようにみえた。
「それじゃあ、話はもとへ戻ってしまったわけだな」と、彼はぶつぶつ愚痴《ぐち》をこぼした。「マークが兄を殺した。ケイリーが手を貸して、抜け道から逃がした。彼に嫌疑をかけさせるためか、他に方法がなかったからか、いずれにしろ逃がしてやった。そして、茶色の背広のことで嘘をついて、マークの片棒をかついでやったというわけか」
アントニイは、心から愉快そうに、ベヴァリーに笑いかけた。
「お気の毒だったな、ビル」彼は同情をみせて言った。「結局、殺人はたった一度だ。まったく同情に耐えないね。あんなふうに言ったのは、ぼくの失策で、──」
「だまれ、そういう意味で言ったんじゃないのは、わかってるはずだ」
「だが、ひどく、あてがはずれたような顔つきだからね」
ベヴァリーは、しばらく口をきかなかった。それから、とつぜん、声をあげて笑いだして、
「きのうは、まったく興奮したなあ」と、てれかくしに言った。「いまにも解決しそうにみえたし、いろいろすばらしい発見もできそうだった。だが、いまとなっては──」
「いまとなっては?」
「ああ、あまりにも平凡だということさ」
こんどは、アントニイが大笑いした。
「平凡!」と、彼は大声をあげた。「平凡か! まったく恐れいったね! 平凡とはね! たったひとつでも、わかりきったことが起こりさえすれば、なんとかなるんだ。ところが、起こることは奇妙なことばかりなのさ」
ベヴァリーは、また、顔を輝かせた。
「奇妙だって? なにが?」
「なにもかもだよ。ゆうべみつけた、あの奇妙な衣類のことを考えてみてもね。茶色の背広は説明がつく。が下着はどうなんだ? それを説明するためには、ばかげた理由をこじつけねばならない。マークは、オーストラリアからの客に面会するときは下着を代える習慣だとかね。しかし、そうだとしても、ワトスン君、カラーを代えなかったのはなぜかね?」
「カラーだって?」ベヴァリーは、驚いて声をあげた。
「カラーだよ。ワトスン」
「わからないね」
「ごく、平凡なことですよ」アントニイは、ベヴァリーをからかった。
「失敬、トニイ、そんなつもりじゃなかったんだ。カラーのことを説明してくれよ」
「なんていうことはないんだ。ゆうべ、カバンの中に、カラーがなかったまでの話さ。シャツ、靴下、ネクタイ──カラー以外のものは、なんでもあるというのにね。なぜだろうな?」
「戸棚の中で、君が探してたのは、それだったのかい?」ベヴァリーは夢中になって訊いた。
「もちろんさ。なぜ、カラーがないんだ? と、ぼくは訊いてるんだ。なにか理由があって、ケイリーは、マークの服をすっかり隠す必要があると考えた。服ばかりでなく、マークがロバートを殺すとき着ていたもの、あるいは着ていたと思われるもの全部だ。しかし、カラーは隠さなかった。なぜだろう? 隠し忘れたのだろうか? そこで、ぼくは戸棚の中を調べた。なかったんだ。なにか目的があって、カラーをのこしたのか? だとしたら、なんのためだろうか?──それなら、いま、どこにあるのだ? 自然に、こんなことが、ぼくのあたまにうかんだ『どこかで、最近カラーを見たな? カラーだけを』ぼくは思いだしたよ。どこだと思う、ビル?」
ベヴァリーはひどく気むずかしい顔つきで頭をふった。
「きいたって無理だよ、トニイ。わかるはずがないよ──あッ!」言いかけて、彼は、はっと顔をあげた。「事務室の隣の部屋の籠の中だ!」
「そのとおりさ」
「だが、あれが、そのカラーなのか?」
「あの衣類といっしょであるはずのものか、というのか? それはわからないね。あのカラーがありそうな所が他にあるかい? だが、あれが例のカラーだとしても、なぜ、あれだけを、さりげなく洗濯物用の籠に、捨てるという、平凡な方法を選んだのか。他のものは全部、あんな厄介な方法で隠したのにね。なぜ、なぜ、なぜなんだ!」
ベヴァリーはパイプをきゅっと噛んだ。が、言うべきことは、なにひとつ思いつかなかった。
「とにかく」アントニイは、そわそわして腰をあげた。「ただひとつのことだけは明確だ。マークは、ロバートがやってくることを、月曜日には知っていたことだ」
十九 検屍審問
検屍官は、その日の午後、彼らが調査すべき惨劇の、怖るべき本質について、常套的《じょうとうてき》な文句を、二言三言のべた。それから、陪審員《ばいしんいん》に、検屍審問の概略を説明した。
まず、屍体が『赤い館』の当主マーク・アブレットの兄ロバート・アブレットであることが、証人によって証明される。つづいて、ロバートは生涯の大半をオーストラリアで過ごしたならず者と言っていい人物であること、当日の午後、邸を訪問する意向を、脅迫状とも言える手紙で知らせてきたこと、などが明らかにされる。ロバートが邸に到着して、惨劇の現場──『赤い館』で、ふだん事務室と呼ばれている部屋──に案内されたこと、その部屋に弟がはいったことが証明される。陪審員はそこで起こったことについて、各自の見解をまとめねばならない。ところが、その事件たるもの、とっさの間に起こったのである。やがて、証人が証言するように、マーク・アブレットが部屋にはいって二分とたたないうちに銃声がきこえた。それから、部屋に押しいり、床にのびているロバートの屍体が発見されたのは、おそらく五分後である。
マーク・アブレットについて言うなら、彼がその部屋にはいった瞬間以降、だれひとり見かけていない。しかし、国内のどこにでも逃亡できるだけの金を所持していたこと、人相書どおりの人物が三時五十五分ロンドン行の列車をスタントン駅で待っているのを見かけたという証言をする者が呼びだされることになっているとのべた。陪審員も自ら知るだろうが、後者の証言は常に、あてにならないものだ。同時刻に失踪者を見かけたというものは、所々方々にあらわれる。ともあれ、さしあたって、マーク・アブレットの逃亡だけは、疑問の余地はない。
「しっかりした男のようだね」アントニイはベヴァリーの耳に囁いた。「よけいなことは、しゃべらない」
アントニイは、こうした証言に、新たな収穫を期待してはいなかった。──この事件の内容を充分知っていたからである──。だが、バーチ警部が新たな推論を展開してみせるのではないかという期待は抱いていた。もし、そうであれば、検屍官の審問に、それがあらわれるだろう。なぜなら、検屍官は証人からひきだすべき重要な事実について、警察から、あらかじめきいていると思われるからだ。
まず最初に、ベヴァリーの証言が求められた。
「さて、ベヴァリーさん、この手紙ですが、すっかり、ごらんになりましたか?」
主な証言がすんでから、ベヴァリーはこんな質問をうけた。
「実際の文面は読んでいません。裏から見たのです。マークさんは、お兄さんの話をするとき、その手紙をかかげていたのです」
「では、内容はご承知ないわけですな」
ベヴァリーはどきりとした。その朝、手紙を読んだばかりだからだ。内容はよくわかっている。しかし、白状するわけにはいかない。そんなわけで、まさに偽証を犯そうとしたとき、ふっとあることを思いだした。ケイリーが警部に話しているのを、アントニイがきいたということである。
「あとになって知りました。ひとからきいたのです。だが朝食のとき、マークが読みあげたわけではありません」
「それなのに、それが敬遠される手紙だと推測なさったのですか?」
「ええ、そうですとも!」
「マークはおびえていたようでしたか?」
「おびえてなんかいませんでしたよ。なにか、悲痛なような──あきらめているような感じでした。おや、まただ! っていうような──」
あちこちで、くすくす笑う声がきこえた。検屍官もにやりとしかけた。が、あやうくおさえた。
「ご苦労でした、ベヴァリーさん」
アンドリュー・エイモス、と、次の証人が名を呼ばれた。アントニイは、どんな男だろう、と興味を抱いて眺めた。
「あれは、猟園の番小屋にいる男だよ」ベヴァリーがアントニイに囁いた。
エイモスが陳述したことは、その午後三時少し前に、見かけたことのない男が、彼の小屋の傍を通りかかり、話しかけたという事だけだった。
彼は屍体を見て、その男であることを認めていた。
「その男は、なんと言ったのだね?」
「『赤い館』に行くのはこの道でいいのか、といったようなことで」
「で、なんと答えたんだね?」
「『ここが赤い館だが、どなたに会いなさるのかね』と申しましたんで。あのとおり、がさつな感じの男だもんで、なに用で来たのか、あっしにはわかりませなんだからね」
「それで?」
「はあ『マーク・アブレットはいるかね?』とききましたです。そんなふうに言ったようだが、どんな口のききかただったか、気にかけなかったです。そこで、あっしは、あの男の前に立ちはだかって、『用事はなにかね、ええ?』ときいてやったんです。すると、くすくす笑いやがって、『弟のマークに会いたいのさ』と言いくさるんです。で、近よってよく見ると、どうやら、兄さんらしくもありますんで、『この道にそって行けば出られるんだ。だが、アブレットさまがご在宅かどうかは、わからんね』と、こう申しましたんです。すると、また、そいつはいやらしい笑い声をあげ、『マーク・アブレット先生も、りっぱな邸を手に入れたもんだな。たいした金だろうね、ええ?』と、申しましてね。あっしは、もう一度、ねめつけてやりましたですよ。りっぱな殿方はそんなことをいうもんじゃないし、この男、ほんとに、旦那の兄さんかね──だが、どうとも判断がつかねえうちに、大声で笑って行っちまいましただ。申しあげる事は、これだけでさ」
アンドリュー・エイモスは証人席から降りて、部屋のうしろの方へ行った。アントニイはその後姿をじっと見送り、エイモスが審問のすむまで、そこにいそうだと見定めてから、目を離した。
「いま、エイモスと、話しているのはだれだい?」彼は、ベヴァリーに小声できいた。
「パースンズだよ。園丁のひとりだ。スタントン街道の、邸外の小屋にいるのさ。今日は、あの連中は皆来てるよ。休みをもらったみたいなもんだな」
〔あの男も証言するんじゃないかな〕と、アントニイは思った。
そのとおりだった。エイモスのつぎが彼だった。彼は邸の正面の芝生で仕事をしていたのだ。すると、そこへロバート・アブレットがやって来たのだった。銃声はきかなかった──気がつかなかったのだ。耳が少し遠い。ロバートが来てから、五分ばかりたって、ひとりの紳士が来たのを、目撃している。
「この審問廷に、その人がいるかね?」と、検屍官が訊いた。
パースンズは、ゆっくりあたりを見まわした。アントニイは、彼と視線があうと、にっこり笑った。
「あの方です」パースンズはアントニイを指さして、そう答えた。
皆がアントニイに視線を向けた。
「五分ばかりあとだね?」
「だいたいそうです」
「この方が来られる前に、邸から出ていった者はないかね?」
「ありませんです。見かけなかったと言うわけですが」
スティーヴンズが、その次だった。警部に報告したのと同じで、新しい証言はしなかった。つづいて、エルジーの番になった。新聞記者たちは、立ち聞きの話になると、その午後はじめて、『場内騒然』とただし書をくわえた。
「その言葉がきこえてから、どのくらいたって銃声がしたのかね?」検屍官が質問した。
「ほとんどすぐでした」
「一分ぐらいかね?」
「正確なところはわかりません。でも、ほんとに、すぐでした」
「あんたは、まだホールにいたのかな?」
「まあ、いいえ。ちょうど、ミセス・スティーヴンズの部屋の前まで来たときです。女中頭《じょちゅうがしら》の方です」
「なにが起こったのか、ホールへ戻って、たしかめてみようとは思わなかったのかい?」
「ええ、思いませんでした。すぐにミセス・スティーヴンズの部屋にはいりますと、『あれはなんだい?』とおびえたみたいに言うんです。『邸の中だわ、スティーヴンズさん。なにか、爆発するみたいな音だったわ』と、あたし答えたんです」
「ご苦労さん」と、検屍官は言った。
ケイリーが証人席につくと、部屋のなかに、またざわめきが起こった。『場内騒然』というわけではなかったが、今度は熱心で同情的な関心がよせられているように、アントニイには思われた。いまや、審問劇は、クライマックスに達したのだ。
ケイリーは、慎重で冷静に証言した。虚偽の証言を、真実同様に、じっくり考えながら申し立てた。
アントニイは、そのようすをじっと見守った。この男の周囲に、人を魅惑するような雰囲気《ふんいき》があるのは、どういうわけだろうか、と彼は不思議に思った。彼が嘘をついているのが、マークのためではなく、自分自身のために嘘をついているのが、わかっていながら、皆と同じように同情的な気持にさせられるのが不思議だった。
「マークは、いつもピストルを所持していましたか」と、検屍官は質問した。
「ぼくの知るかぎりでは持っていませんでした。持っていれば、ぼくにわからないはずはないと思います」
「その日の午前中、あなたとマークは、ずっとふたりきりでいたのですね。マークはロバートが来訪することについて、なにか話しましたか?」
「午前中は、そう顔を合わせなかったのです。ぼくは自室にひきこもって仕事をしたり、戸外へ出たりなんかしていましたからね。昼食を一緒にして、そのとき、ほんの少し、そのことについて話しました」
「どんな態度でした?」
「さあ──」彼は口ごもったが、また、あとをつづけた。「いらいらしていた、と申しあげる他に、適当な表現が見あたりませんね。ときどき、こんな事を申してました。『あの男はどんな用事でくると思うかね』とか、『なぜ、今までの所にいないんだ?』とか『手紙の調子が気にくわない。厄介な問題でくると思うかい?』といったような具合にしゃべっておりました」
「まさか、イギリスにこようとは思わなかった、とは言ってませんでしたか?」
「いつか、ふらっと帰って来やしないかと、いつも、不安な思いでいたようでした」
「なるほど……兄弟が事務室にいたときの会話をききませんでしたか?」
「ききませんでした。マークがはいってすぐ、書斎に用事を思いたってはいりました。ずっと、書斎にいたのです」
「書斎のドアは、あいていましたか?」
「ええ、そうです」
「先刻の証人、エルジーを見かけるとか、声をきいたとかいうことはありましたか?」
「ありませんでした」
「あなたが書斎にいる間に、だれかが事務室から出たとすれば、気配でわかったでしょうね?」
「わかったと思います。ことさら音を忍ばせたりしないかぎりは」
「なるほど……マークは怒りっぽい性格の人間でしたか?」
ケイリーは慎重に考えてから答えた。
「怒りっぽい性格ですね、たしかに。だが粗暴というわけではありません」
「なかなかの運動好きでしたか? 溌剌《はつらつ》としていて敏捷といったように?」
「たしかに、元気がよくて敏捷でした。とくに強靭《きょうじん》というわけではありませんが」
「そうですか。では、もうひとつ質問を。マークは日頃、相当な金を持ち歩く習慣がありましたか?」
「ありました。百ポンド紙幣を一枚、いつも持っていました。たぶん、十ポンドか二十ポンドの紙幣も同様に持っていたでしょう」
「ご苦労様でした。ケイリーさん」
ケイリーは、重い足どりで、自分の席へ戻った。
「畜生、どうして、ぼくはあんな奴に好意を持つのだろう?」アントニイは胸中ひそかにつぶやいた。
「アントニイ・ギリンガム!」
ふたたび、室内に強い関心が起こった。
この事件に、わけのわからない関係を持っている見知らぬこの男は、いったい何者だろうか?
アントニイは、ベヴァリーに、にっこり笑ってみせてから、証言をしに出ていった。
彼は、ウッダムの『ジョージ旅館』に泊ることになったいきさつや、近所に『赤い館』があることを知ったいきさつ、友人ベヴァリーに会いに、歩いてやってきたこと、惨劇の直後に到着したこと、などを陳述した。あとになって考えてみると、たしかに銃声をきいたような気がするが、そのときは、気にもとめなかったと述べた。ウッダムの方角から、邸に来たので、自分より数分早く到着したロバート・アブレットの姿は、当然見かけなかったとも陳述した。
このあたりからの彼の証言は、ケイリーの証言と一致した。
「あなたと、前回の証人とは一緒にフランス窓に駈けつけ、窓がしまっているのを発見したのですね?」
「そうです」
「あなたがたは、窓から押し入り、屍体に駈けよった。むろん、だれの屍体かという事は、頭になかったのですか?」
「ありませんでした」
「ケイリーさんが、なにか言いませんでしたか?」
「顔を見るために、ケイリーさんは屍体を仰向けにしました。顔を見たとき『よかった』と言われました」
ふたたび、新聞記者たちは『場内騒然』と、書きこんだ。
「その言葉がどういう意味か、わかりましたか?」
「屍体は誰なのか、とぼくは訊ねました。すると、ロバート・アブレットだと答えたのです。それから、邸に一緒に暮らしている従兄ではないかと思って、最初は不安だったと言いました。マークのことです」
「なるほど。そのとき、あわてているようでしたか?」
「はじめは、大変あわてていましたね。屍体がマークではないとわかってからは、落ちついてきましたが」
部屋のうしろのほうに集まった人たちのなかで、神経質な紳士がとつぜん、くすくす笑いだした。検屍官は眼鏡をとりあげ、そっちの方を睨みつけた。その紳士はあわててしゃがみこみ、靴の紐を結びはじめた。検屍官は眼鏡をはずして、先をつづけた。
「あなたが車寄せの道を歩いてくるとき、誰か邸から出ていった者はありませんでしたか?」
「ありませんでした」
「ご苦労でした。ギリンガムさん」
彼のつぎは、バーチ警部だった。この午後こそ晴れの舞台で、世間の注目の的《まと》であることを一心に意識した警部は、邸の図面を提示して、各部屋の状況を説明した。図面はそのあとで、陪審員に手渡された。
バーチ警部が公開の席上陳述したところでは、問題の午後、四時四十二分に、彼は『赤い館』に到着したのだった。マシュウ・ケイリー氏の出迎えをうけた。ケイリー氏がかいつまんで事件を説明してくれたので、彼はただちに、犯罪現場の調査にとりかかった。フランス窓は外部から押し破られている。ホールに通じるドアは鍵がかかっていた。室内は洩れなく捜査させたが、ついにそのドアの鍵は発見されなかった。事務室につづく小部屋にはいってみて、窓があいているのを発見した。窓に痕跡があったわけではないが、低い窓なので、実験してみればわかるとおり、靴跡を残すことなく容易に越えられる。窓から数ヤードのところから灌木の茂みになっている。窓の外に、新しい痕跡はなかった。雨が降らないので、地面が固まっているためである。だが、最近折られたらしい小枝が何本か、灌木の茂みに落ちていた。その他の証拠とあわせて判断すれば、何者かが、そこをむりに通り抜けたことがわかる。
警部は関係者全部を集めてきいてみたが、最近その茂みに足を踏み入れた者は、ひとりもなかった。この茂みを通り抜ければ、邸の者に姿を見られずに、建物を迂回して、猟園のはずれから、スタントン方面へ行ける。
被害者についても、警部はいろいろ調査した。被害者は郷里で金銭上の紛争《ふんそう》をおこし、十五年ばかり前に、オーストラリアへ渡っている。彼とその弟の出身地の村では、被害者の評判はよくない。被害者と弟の関係は、常時険悪だったが、その後、マーク・アブレットが資産を得たことで、いっそう不和になった。ロバートがオーストラリアへ出かけたのは、その後まもなくである。
警部はスタントン駅も調査した。その日は市《いち》のたつ日で、駅は平時よりも混雑していた。ロバート・アブレットが到着したことに気づいた者はいない。ロバートがロンドンから乗車したと、ほぼ決定される午後二時二十分着の列車からは多勢の乗客が下車した。
しかし、午後三時五十三分に、マーク・アブレットらしい男が、同駅にあらわれ、三時五十五分発上りの列車に乗りこんだのを見かけたという者がいて、証言をすることになっている。
『赤い館』の敷地内に池がある。警部はその池を浚《さら》ってみたが、なんの収穫もなかった……アントニイは漫然と警部の話に耳を傾けていたが、そのあいだずっと、自分の想念にとらわれていた。つづいて、検察医の証言があったが、得るところはなかった。アントニイのほうが、真相に接近している。今後、いつか、なに事かが起こって、彼の頭脳に、ひとつの小さな暗示をあたえないとも限らない。バーチ警部は、ありきたりの事件を追うだけである。この事件が、他のどんなものであっても、平凡な事件ではないとだけは言える。なにか不気味なものが漂っているのだ。
ジョン・ボーデンという男が証言をしていた。この男は、火曜日の午後、駅の上りのホームに三時五十五分の列車に乗る友人を見送りに来ていた。そのとき、上衣の襟を立て、顎までスカーフを巻いている男に気づいた。こんな暑い日におかしなことだと、彼は不思議に思った。その男は周囲の視線を避けるようにしている。列車がはいってくると、その男はあわてて客車に乗りこんだ。と、いうようなことだった。
「どんな殺人事件にも、必らずジョン・ボーデンみたいな男がいる」と、アントニイは思った。
「あなたは、マーク・アブレットに見おぼえがあるのですか?」
「一度か二度見かけています」
「その男は、マークでしたか?」
「実際のところは、よく見えなかったのです。襟を立て、スカーフを巻きつけていましたからね。だが、この悲しむべき事件と、アブレットさんが失踪した事件をきくと、私はすぐに、妻に、こう申しました。『駅で見かけたひとが、アブレットさんじゃないかな?』そこで、私たちはよく話しあった結果、バーチ警部に報告すべきだということになったのです。背の高さが、アブレットさんそっくりでした」
アントニイは、自分の想念を追いつづけていた……
検屍官は各証人の陳述を要約した。陪審員はすっかり証言をきき終ったのだから、あの部屋で、兄弟の間に、なに事が起こったのか、決定せねばならない、と、検屍官は申し渡した。被害者は、いかにして死に至ったか? 射撃による頭部の傷が死因であるという検察医の証言が、それを決定し得るだろう。だれがピストルを射ったのか? ロバート・アブレット自身であれば、陪審員は自殺という決定をすることになる。が、この説をとるとすれば、射撃に使ったピストルはどこにあるのか。また、マーク・アブレットはどうなったのだろう。もし、自殺説をとらぬとすれば、なにがあるか? 過失死、正当防衛行為、殺人がある。被害者が過失で殺されるということがあり得ただろうか? 可能だとする。だが、マーク・アブレットは失踪してしまった。マークが犯行現場から逃走したという証拠は明確である。彼の従弟に、事務室にはいるところを目撃されている。女中のエルジーは、室内で、彼が兄と口論しているのを立ちぎきした。ドアは内側から鍵がかかっていた。ごく最近なに者かが、窓から灌木の茂みを突き抜けた形跡がある。マークでなければ、だれが? もし、マークが兄の死に関して潔白であるなら、彼は逃走しただろうか。これは、陪審員たちの考慮を要することである。むろん、正直な人間が、時には分別を失うこともある。仮りに、マークが兄を射ったことが、後になって明らかにされたとしても、その行為が是認されることもある。また、兄の屍体を放棄し逃亡したにしても、実際は警察の手を怖れることはなんらないのかもしれない。このことに関連して、この審理が最終のものでなく、かりにマーク・アブレットを殺人罪で起訴したとしても、彼が逮捕されたときの公判に、影響を及ぼすものではないということを、検屍官が陪審員に注意する必要は、ほとんどなかった……陪審員は評決に際して大いに考慮した。
陪審員は充分考えをねり、被害者の死因はピストルの傷であり、射撃したのは弟マーク・アブレットであると宣言した。
ベヴァリーは、隣のアントニイをふりむいた。が、彼の姿はなかった。そこで、部屋の向うに視線をやると、アンドリュー・エイモスとパースンズが肩を並べてドアのほうへ行くのが目にはいった。そして、ふたりのあいだにはアントニイがいた。
二十 ベヴァリーの才気
この検屍審はスタントンの『小羊旅館』で開かれたのだが、翌日やはりスタントンで、ロバート・アブレットの屍体が埋葬されることになっていた。
ベヴァリーは、アントニイめ、どこへ行ったんだろうな、と思いながら、外で、彼が戻ってくるのを待っていた。そのうち、ケイリーが出てきて、車に乗りこむことに気がついた。そのとき、別れの挨拶を交わすことになるのは、ちょっと迷惑だと思った。そこで、彼はぶらぶら旅館の裏庭にまわり、煙草に火をつけた。それから、そこにたたずんで、ところどころ破れ、雨風にさらされたポスターが厩《うまや》の壁に貼《は》ってあるのを眺めた。『演劇大公演』と大きな字で書いてあり、『十二月、水曜日』と書きこんである。ベヴァリーはそれを見て、ひとりでにやりと笑った。おしゃべりな郵便配達夫ジョーの役を、そのポスターにも残っているように、『ウィリアム・B・ベヴァリー』が演じたからである。そのとき、せりふをすっかり忘れ、作者の意図とは違って、無口な郵便配達になってしまったが、それがお客の大喝采《だいかっさい》をはくしたのだった。が、その微笑はふっと消えた。『赤い館』ではもう、あんな愉しみは味わえなくなるだろう。
「失敬、待たせたね」
背後で、アントニイの声がした。
「わが友エイモスとパースンズが一杯おごると言ってきかないんだ」
彼はベヴァリーの腕に手をすべりこませると、うれしそうに笑いかけた。
「なんで、あのふたりに夢中になってるんだい? いったい、どこへ行ったのか見当もつかなかったよ」
アントニイは返事をしなかった。じっと、例のポスターをみつめていた。
「いつ、やったんだい?」と、アントニイは訊いた。
「なんのことかい?」
アントニイはポスターをさした。
「ああ、あれか。去年のクリスマスだ。なかなか面白かったんだ」
アントニイは思わず笑いだした。
「うまくやれたかい?」
「だめさ。ぼくは役者には向かないね」
「マークはうまかったかね?」
「ああ、実にうまかった。あの男は好きなんだよ」
「ヘンリー・スタッターズ牧師──マシュウ・ケイ扮す」アントニイは声に出して「例のケイリー君か?」と訊いた。
「そうだよ」
「うまかったかい?」
「ああ、思ったよりはね。あんまり熱心じゃないが、マークに仕込まれたんだ」
「ミス・ノリスは出なかったんだね」
「おい、トニイ、彼女は本物だぜ。むろん出ないさ」
アントニイはまた声をあげて笑った。
「大成功だね?」
「もちろんだよ!」
「ぼくはバカだよ。大バカ野郎だ」アントニイはくそ真面目な口調で言った。「まったく、大バカ野郎だよ」
アントニイは口のなかで、そうくり返しながら、ベヴァリーをポスターの前からひきたてて、裏庭を抜け、街道へ出た。
「まったくのバカだね。いまだって──」彼はふと口をつぐむと、「マークは歯痛で苦しんだことがあるかい?」と訊いた。
「歯医者へよく通ってたよ。だが、いったい──」
アントニイはまた声をあげて笑った。
「運がいいぞ!」彼はにこにこした。「だが、どうして知ってるんだい?」
「歯医者が同じなんだ。マークがぼくに推薦したのさ。ウィンポール街のカートライトだ」
「ウィンポール街のカートライト」アントニイは、なにか考えこみながら、そうくり返した。「よし、おぼえたぞ。ウィンポール街のカートライトだね。ケイリーもそこへ行くのか?」
「だろうね。ああ、そうだケイリーも行ったよ。だが、いったい──」
「ふだん、マークの健康状態はどうなんだい? よく医者にかかるのか?」
「まあ、かかったことがないね。朝早く、うんと体操をするんだ。朝食のとき、元気で機嫌がいいのは、そのせいだと、皆に言ってるよ。なにも体操のおかげで快適なわけじゃないだろうが、健康にはよさそうだね。トニイ、君も──」
アントニイは手をあげて、相手の話をさえぎった。
「もうひとつ、最後の質問だ。マークは水泳が好きかい?」
「いや、大嫌いさ。泳げるとは思えないね。トニイ、気でも狂ったかね。それとも、ぼくがおかしいのかな? でなけりゃ、新開発のゲームかね?」
アントニイは、ベヴァリーの腕をぎゅっとしめつけた。
「ビル、ゲームだよ。すばらしいゲームさ! 答えはウィンポール街のカートライトだ」
ふたりは、ウッダムへの街道を、半マイルばかり黙りこんで歩いた。二、三度、ベヴァリーは話しかけようとした。が、アントニイは返事のかわりに、ぶつぶつつぶやいただけだった。ベヴァリーが、また話しかけようとしたとき、アントニイはとつぜん足をとめ、心配そうに、ベヴァリーをふりむいた。
「君にやってもらいたいことがあるんだがね」顔色を覗きこみながら、アントニイは話しかけた。
「どんなことだい?」
「実に重大なことなんだ。いま、ぼくが望んでいる唯一のことだよ」
ベヴァリーはまた、急に勢いづいた。
「ついに解決したのか?」
アントニイはうなずいた。
「少なくとも、峠《とうげ》はこしたね、ビル。ただ希望がひとつあるんだ。君に、スタントンへひっ返して貰いたいのさ。そう、遠くは来ていないよ。時間もたいしてかからない。どうかね?」
「親愛なるホームズ殿、ご用はなんでも、相勤めますよ」
アントニイは、にっこり笑いかけ、ちょっとのあいだ黙って考えこんでいた。
「スタントンには、ほかにまだ旅館があるかい? 駅に近いところで」
「『鋤馬《すきうま》旅館』がある。駅へ行く道の角だ。君の言うのは、そういう旅館のことだろう?」
「そこでいいだろう。君は飲めるんだったね?」
「飲めるとも!」ベヴァリーはにやりと笑った。
「よし。では『鋤馬旅館』で一杯やってくれ。お望みなら二杯でもね。宿の主人か女将《おかみ》か、君の相手になるだれでもいいから話しかけるんだ。月曜日の晩、だれかが泊りに来たか、探ってもらいたいのさ」
「ロバートかい?」ベヴァリーはのりだした。
「ロバートだなんて言ってないよ」アントニイはにこにこして答えた。「ただ、月曜日の夜、泊った客があったかどうか、訊きだして貰いたいだけだ。土地の人間じゃない奴だ。もしいたら、こっちの気持を亭主に感づかれないように、そいつの特徴を訊いてもらって──」
「任してくれ」ベヴァリーが彼の言葉をさえぎった。「君の望むところはわかってる」
「そいつはロバートだなんて思いこむなよ。──他のだれだって同じだが。相手に自由にしゃべらせるんだ。背が高いとか低いとか、とにかくそんな事を、君のほうから口だしして、無意識に相手に影響を与えるのはよくない。勝手にしゃべらせるんだ。相手が亭主なら、一、二杯おごるといいね」
「わかった」ベヴァリーの答えは自信たっぷりだった。「で、どこで会おうか?」
「たぶん、『ジョージ旅館』になるだろう。もし、君のほうが先についたら、夕飯は八時に頼んでおいてくれたまえ。君が遅れても、とにかく、八時には会えるよ」
「よし」ベヴァリーはアントニイにうなずいてみせ、スタントンに向って、すたすたとひっ返していった。
アントニイは友人のそうした熱意を、軽い微笑をうかべて見送りながら、そこにたたずんでいた。そのうち、なにかを探しでもするように、ゆっくりあたりを見まわした。ふと、求めるものが、彼の目にはいった。二十ヤードほど先で、街道から小道が左に岐《わか》れている。その小道を少し行くと、左側に小さな門がある。アントニイは、パイプに煙草をつめながら、そこまで歩いていった。それから、門の前に腰をおろし、パイプに火をつけ、両手で頭を抱えこんだ。
「さて、はじめから考えてみるとしようか」
アントニイはひとりつぶやいた。
迷探偵ウィリアム・ベヴァリー氏が『ジョージ旅館』に着いたのは、八時に近い頃だった。埃《ほこり》にまみれ、くたくたに疲れていた。見ると、玄関のところで、帽子をとって、こざっぱりしたアントニイが爽《さわ》やかな顔つきで待っている。
「夕飯はできてるかい?」ベヴァリーはまずそう訊いた。
「できてるさ」
「では、ちょっと手を洗ってくる。まったく、へとへとだよ」
「頼まなけりゃよかったね」恐縮して、アントニイはあやまった。
「どういたしまして。すぐくるよ」階段を半ばのぼってから、ベヴァリーはアントニイをふり返った。「ぼくも、君といっしょの部屋かい?」
「そうだよ。わかるかい?」
「ああ、食事をはじめていてくれ。ビールをうんと注文してさ」
階段を上りきってまがり、ベヴァリーの姿は見えなくなった。
アントニイは、落ちついた足どりで、食堂へはいっていった。
最初の猛烈な食欲が治まり、食物を口へ運ぶあいまに、少しゆとりができると、ベヴァリーはその日の冒険物語をはじめた。
『鋤馬《すきうま》旅館』の亭主は頑固者だった。徹底した頑固者で、はじめのうちは、ベヴァリーも、まったくのお手あげだったのだ。だが、そこはベヴァリーも如才がない。なんと、そつなくやったことだろう!
「亭主のやつ、検屍審問のことばかり、しゃべってるんだ。あんなおかしなものはないとか、なんとかさ。女房の里でも、一度検屍審問が開かれたことがあるとかね。得意そうに見えたよ。ぼくのほうは『ずいぶん忙しそうだね。いまちょうど忙しいのかい?』の一点ばりさ。相手は『まあ、いいとこだね』と答えはするが、話はすぐスーザンのことに戻るんだ。検屍審問が開かれた旅館の持ち主だよ。亭主はその話を、のぼせたみたいに夢中でするんだよ。で、こっちは、『景気がよくなさそうだね、え?』なんてことを言ってみる。向うは、相変らず『まあ、いいとこだね』さ。そうするうちに、もう一杯お代りを飲ます具合になったんだ。だが、話のほうは一向にらちがあかない。が、ついに成功した。ぼくが、ジョン・ボーデンを知ってるかい? って訊いたんだ。駅でマークを見かけたって言ってる男さ。さいわい、亭主はボーデンのことをよく知ってたんだよ。ボーデンの女房の里の話までしていたね。その家族のひとりは焼け死んだんだってこともさ。──ビールは君のコップが先だ。ありがとう──そこで、ぼくは、さりげなくこう言ったよ。お客は大勢だから、とても、いちいち覚えていられないだろうねって。亭主も『まあ、難かしいね』と同意した。で、それから──」
「その先を三つだけ推理させてくれ」アントニイは、相手の話をさえぎった。「君は、自分の旅館に来た客は、皆覚えるかどうか、きいたんだね?」
「そうだよ。うまいだろう?」
「お見事さ。で、収穫は?」
「収穫はご婦人だった」
「ご婦人だって?」アントニイはのりだした。
「女なんだよ」ベヴァリーの言葉は感激に溢れていた。「ぼくも、むろん、ロバートの名が出てくるとばかり思ってたんだ。君だって、そうだろう? ところが違った。女だったんだ。月曜日の夜更けに、車で来たんだ。自分で運転してね。翌朝早くたったそうだが」
「亭主は、どんな女か説明してくれたかい?」
「ああ、まあ中ぐらいの女だそうだ。背の高さも中ぐらい。年も中ぐらい。顔色やなんかもね。これじゃあ、だめかね? だが、つまり女なんだ。君の説が、だめになるかい?」
アントニイは頭をふった。
「いや、ビル。べつに変化はないんだ」
「前からわかってたの? 少なくとも、想像はしてたんだね?」
「まあ、あしたのお愉しみだ。あした、すっかり話すよ」
「あしたか!」ベヴァリーはひどくがっかりして言った。
「うん、ひとつだけ、今夜教えてやる。それ以上のことは訊かないと約束すればね。だが、たぶん、君にもわかってることだよ」
「なんだい?」
「マーク・アブレットは兄貴を殺さなかった、っていうことさ」
「じゃあ、ケイリーか?」
「なにも訊かないことだったね、ビル。だが、答えてやるよ。ケイリーでもないんだ」
「では、いったいぜんたい──」
「ビールをもっと飲みたまえ」
アントニイは微笑している。ベヴァリーはそれ以上きくわけにはいかなかった。
ふたりは疲れていたので、その晩早く床についた。ベヴァリーは傍若無人に大イビキをかいて眠った。が、アントニイはあれこれ思い迷い、眠れぬまま、ベッドに身を横たえていた。
いま頃、『赤い館』では、なにが起こっているだろうか? 朝になれば、おそらく彼はそのことを耳にするだろう。そして、たぶん、一通の手紙をうけとることになる。アントニイは最初から話の筋をすっかり追ってみた。──どこかに判断の誤りが起こり得るだろうか? 警察は、これからどんな手を打つだろう? あの連中は真相をあばくだろうか? 自分はそれを警察に報告すべきか? いや、あの連中は自分の手でやればいい。それが任務なのだから。こんどこそ、きっと、まちがっていないぞ。これ以上、あれこれ考えなくてもいいのだ。朝になれば、なにもかもわかる。
翌朝、一通の手紙がアントニイにとどいた。
二十一 ケイリーの手紙
親愛なるギリンガムさま
お手紙|拝誦《はいしょう》いたしました。貴兄がいくつか確実な事実を発見され、警察へ通告なさるのを義務とお考えのこと、結果、殺人犯として、私の逮捕は免れ得ないことなど、了解いたしました。こうした事情の下で、あなたがこうも寛大に、意図を警告してくださった理由が、私にはわかりかねます。とはいえ、私にお寄せ下さる同情のお気持が、まったくないものと思っているわけではありません。ご同情いただけるかどうかは別として、ともかく、あなたはアブレットが死に至った経緯と理由を知りたいとお望みだし、私もお知らせしたいと考えています。もし、あなたが警察に報告すべきだと考えられるなら、私もむしろ、すべてを報告したいと思っています。警察の方たちは、いやあなたでさえ、これを殺人事件と呼ばれるかもしれません。しかし、その時は、私はこの世にいなくなっておりましょう。人には好きなように言わせておくことにいたします。
話は十五年前の夏のある日にさかのぼり、はじめねばなりません。そのとき、私は十三歳の少年、マークは二十五歳の青年でした。今でこそ、いっぱしの慈善家気どりでいますが、あの男の全生涯はすべて虚偽に満たされていたのです。彼は、私の家の狭い客間に腰を落ちつけ、手袋で左手の甲を軽くはじいていました。その彼を見て、お人好しの私の母は、なんて典雅な青年紳士だろうとひそかに感心してしまったのです。弟のフィリップと私は、顔や手を洗うようにせきたてられ、カラーをつけたよそいきの恰好で、彼の前に立たされました。内心、遊びの邪魔をした彼をののしりながら、ふたりは肘でつつきあったり、踵《かかと》で蹴りあったりしていたのです。なぜ、彼が私を選んだかは、私にはわかりません。フィリップは十一歳でした。私よりは二年よけいに手間がかかります。たぶん、そのことが理由だったのでしょう。
こうして、マークは私に教育をうけさせました。私はパブリック・スクールからケンブリッジに進み、彼の秘書になったのです。だが、お友だちのベヴァリーさんから、すでにおきき及びと思いますが、ただ秘書というわけばかりでもありませんでした。土地の管理人であり、財政顧問であり、旅行の随行者であり、それに──これが最も重要な役目だったのですが、相談役でもあったのです。
マークは、孤独な生活ができませんでした。いつも、だれか相談にのってくれる相手が必要だったのです。彼は内心、私が彼の伝記作者になることを期待していたのではないかと思っています。ある日、彼は死後の著作権を私に管理させると言ったことがあります。──哀れな男です。私が邸を離れている時には、愚にもつかない手紙を、ながながと書いてよこすのが常でした。私は一度読んだだけで、破りすててしまいます。むだなことをする男じゃありませんか!
三年前のことですが、フィリップが面倒なことをひき起こしました。フィリップは程度の低いグラマー・スクールへいっただけで、ロンドンのある商社に就職したのです。が、はいってみて、週二ポンドの給料では、そう面白いことはできないことに気づきました。ある日、私は絶望的な手紙を彼からうけとったのです。急いで百ポンドの金を工面しなければ、自分は破滅してしまうという内容でした。そこで、私はマークに、その金の融通を頼みました。おわかりでしょうが、ただ借用を申しこんだだけなのです。マークは私にかなりいい給料をくれていましたので、三か月のうちに、私はその借金を返済できるはずでした。しかし、返事は否《ノー》だったのです。彼にとっては、なんの利益にもならないことだったからだと思います。だれにほめられるわけでもなし、喝采してもらえるわけでもありません。フィリップが感謝するのは、彼ではなく、私なのです。私は懇願し、脅かし、そのあげく、私たちは言い争いさえしました。そして、私たちが言い争っているあいだに、フィリップが拘引《こういん》されてしまったのです。それが原因で、母も亡くなりました。──母は、いつも、弟を愛していたのでした。──だが、マークはあいかわらずで、その出来事にさえ満たされた気持でいたのです。十二年前、フィリップを選ばずに私を選んだことで、人間を見抜く力があると誇っているのでした。
その後、私は、暴言を吐いたことを彼に詫びました。すると、彼は例の調子で、寛大な紳士の役割を演じて見せたのです。しかし、その日以来、表面互いに変りなく見えても、またうぬぼれのおかげで彼には見抜けはしなかったものの、私はあの男の最大の敵になりました。もし、それだけのことでしたら、彼を殺したかどうかわかりません。自分がひそかに憎んでいる人間と、親密な友好関係を維持しているのは、相手にとっては危険なことです。なぜかといえば、あの男は私を感謝に溢れた忠実な手下だと信じ、自分はその恩人だと思いこんでいるのですから。マークは完全に私の手中にあったわけです。私は時期を待ち、機会《チャンス》をつかめばよかったのでした。おそらく、殺すほどのことはなかったのじゃないかと思いますが、私は彼への復讐《ふくしゅう》を誓いました。──そして、哀れなうぬぼれ者の彼は、私の手中にあったのです。急ぐ必要はありません。
二年たって、私は自分の立場をあらためて考えねばならなくなりました。というのは、私の手以外のもので、復讐が行われることになりかかったからです。マークが酒を飲みはじめたのでした。私にその気があれば、やめさせることができたでしょうか? そうは思いません。けれど驚いたことに私はいつのまにか、その悪癖《あくへき》をやめさせようと努力しているのです。本能が理性にうちかったのでしょうか。それとも、冷静に考えてみて、そのまま飲酒をつづけて、彼が死んでしまえば、復讐の機会がなくなると、ひそかに思ったからでしょうか。なんとも言いようがありません。動機はともかく、私は彼の飲酒を、心からとめたい気持になっておりました。いずれにしろ、飲酒癖は怖るべきことです。
結局、やめさせることはできなかったのですが、一定の量に制限させることはできました。おかげで彼の飲酒癖は、私以外の人間には知られずにすんだのです。そうです。表面上、あの男を紳士にしておいたのでした。そして、たぶん、そのときの私は、自分の目的のために、犠牲者を太らせておく人喰《ひとくい》人種のようなものになっていたのかもしれません。いまとなっては、経済上からでも道徳上からでも、自分の意にかなう方法で、彼を破滅させられると思うと、私はたのしくてたまりませんでした。私が手を放せば、それだけで彼は沈んでしまうのです。だが、こんども私はことを急ぎませんでした。
そのうちに、彼は自殺同様の行為にでたのです。あの軽薄な酔漢は、利己心と虚栄心に蝕《むしば》まれ、この世でもっとも誠実純心な女性に、野獣の牙《きば》をのばしたのです。ギリンガムさん、あなたも、彼女にはお会いになったことがあります。が、マーク・アブレットの人間はご存じありません。もし、彼が大酒飲みでなかったとしても、彼と暮すのでは幸福になることはできないのです。数年にわたって、私は彼に接してきていますが、マークはただの一度も、優しい感情に動かされたことのない男です。あのようにひねくれた貧しい心情の男と共に生活することは、彼女にとっては地獄同様の苦しみになります。しかも、彼は酒を飲みはじめたのですから、その地獄の苦しみは数千倍となるわけです。
そこで、彼をどうしても生かしておけなくなりました。彼女を守る者は私ひとりなのです。というのは、彼女の母親が、マークと手を組んで、娘を破滅の淵《ふち》へつき落そうとしていたからです。私は、彼女のためなら、公衆の面前であの男を射殺することも辞さなかったでしょう。が、私自身まで犠牲になる必要はないと考えました。彼は私の手中にあるのです。うまくおだてさえすれば、あの男にさせてできないことはほとんどありませんでした。彼を殺して、過失死にみせかけるのも、確かに、さして難かしいことではなかったのです。
そのころ、私が思いついてはやめた数々の計画を、並べたてて、あなたの時間をつぶす必要はありません。池でボートの事故を起こすことを、数日考えつづけました。泳ぎの下手なマークを、勇敢にも救おうとして、力つき不幸な結果になるといったようにです。そして、そのうちに本人がアイディアを与えてくれました。彼とミス・ノリスの他にはだれにも秘密で、彼自身が私の手中にとびこんできたのです。もし、あなたさえ発見しなければ、だれにも発見される怖れはなかったと言っていいものです。
そのとき、私たちは幽霊の話をしていました。マークはいつにもまして、見栄坊で大げさで、愚劣でした。ミス・ノリスがいらいらしているのが、私にはよくわかりました。晩餐がすむと、彼女が幽霊の扮装をして、マークをおどかそうではないかと言いだしたのです。私は、マークがどんな冗談も根にもつ男だということを説明して、彼女のために義務上警告したのですが、彼女はきき入れませんでした。私はしぶしぶ承知しました。そして、気のりしないままに、通路の秘密を、彼女に教えてやったのです。〔書斎から球戯場へ抜ける地下道があります。ギリンガムさん、あなたの才智を発揮して、探してみてはいかがですか。一年前、マークが偶然見つけたのです。彼にとっては、思いもかけぬ贈りものでした。そこで、彼はだれにも見られずに、ゆっくり飲むことができたのです。しかし、私にはうちあけました。自分の名誉にならないような場合にさえ、あの男は観客が欲しかったのです〕
私がミス・ノリスに教えたのは、マークを完全にふるえあがらせることが、私の計画に必要だったからでした。ひそかに球戯場に近づき、あの男を完全に驚かすのには、抜け道がなくてはやれません。ところが、かねてしくんだとおり、あのひとはまったく見事な現われかたをしたので、マークは私が望んだように、憤りと復讐心に燃えたちました。ミス・ノリスは、ご存じでしょうが、本職の女優です、彼女は、私が面白いいたずら──マークばかりか他の連中もあっと言わせる子供じみたいたずらをする以外に、なんの意図もないと思いこんでいたことは、あらためて申しあげる必要もないでしょう。
その晩、予期したとおり、マークがやってきました。まだ憤りに身をふるわせています。ミス・ノリスを二度と邸に招いてはいかん。特に気をつけてくれ。けっして二度と招いてはならん。不埒《ふらち》なことだ。主人役として、世間の評判を気にしないでいいなら、あした、あの女を叩きだしてやる。世間の評判があるから、あの女もいられるのだ。客への礼儀だからだ。だが、二度とあの女は赤い館へよばないぞ──マークは固く決心していました。私はそのことを心に銘記したのでした。
私はあの男を慰めました。ささくれだった気持をしずめようとしました。たしかに、あの女のやりかたはよくありません。あなたが立腹するのも無理はないのです。だが非難するような態度は見せないほうが賢明です。むろん、二度と邸には招きませんが──わかりきったことでした。
言いかけて、私はとつぜん笑いだしました。するとマークはむっとして、私を見あげました。
「なにがおかしいんだ?」冷酷な言いかたです。
私はまた、静かに笑いました。
「いま、ふっと思いついたのですが、あなたのほうでも、仕返しをなさったら面白いのじゃありませんか」
「仕返し? どういう意味だね?」
「やられただけ、仕返すのです」
「というと、あの女を驚かしてみろというのかい?」
「いや違います。変装して、ちょっとからかってやるだけです。皆の前で、ばかにしてやるのです」私はひとりで声をあげて笑いました。「いい気味でしょうね」
彼は夢中になって、とびあがりました。
「ほほう、ケイ! そんなことができるのか? どうやってだ。考えてみてくれ」
マークの演技力について、ベヴァリーさんがお話ししたかどうか、私は存じません。あの男はあらゆる芸術を少しずつかじっています。そして、貧弱な才能を鼻にかけていましたが、なかでも俳優としての自分を、いちばん買っていたようです。たしかに、舞台ではいくらか才能を持っていたようです。ひとり舞台で、自分をちやほやしてくれる観客の前にかぎってのことですが。職業的な俳優としてなら、どんな端役ものぞめませんが、しろうととしては、主役を演《や》って、地方新聞の劇評にとりあげられるぐらいの腕はあるのです。自分を愚弄《ぐろう》した本職の女優を向うにまわして、こっそり一芝居うつというこの思いつきは、彼の虚栄心と復讐の野望の両方を同時に満足させるものだったのです。もし、彼、マーク・アブレットが、見事な演技をもって、皆の面前で、ルース・ノリスを愚弄し、いっぱいくわせ、あとで皆と一緒に笑いものにできれば、あの男は完全に復讐をとげることになります!
〔子供だましだとお思いになりますか、ギリンガムさん? あなたはマーク・アブレットの人柄をご存じないからです〕
「どうやってやるんだ、ケイ、どうやるんだ?」彼は夢中でした。
「まだ、すっかり考えてあるわけではありません。ただ、ふと思いついただけです」と、私はさからってやりました。
マークは自分で考えはじめました。
「あの女に会いに来た興行師をやろうか──だが、あの女は興行師の顔は皆知ってるだろうね。インタヴュー記者はどうかな?」
「難かしいでしょうね」私は慎重な態度で、そう答えました。「あなたは個性的な顔をしていますからね。それに髭《ひげ》が──」
「髭は落とす」彼は、私の言葉を奪うようにして言いました。
「ほんとですか、マーク!」
あの男は顔をそむけ、
「いずれにしろ、髭はそろうと思っていたんだ。それに、どうせやるなら、徹底的にやろう」とつぶやきました。
「なるほど、あなたは常に芸術家ですからね」讚嘆の目を向けて、私はそう申しました。
彼はいい気持になっています。なにより、芸術家と言われるのがうれしいのです。これで完全に手中に落ちたのを、私は見抜きました。
「あご髭や口髭があろうとなかろうと、どっちみち、わかってしまいますよ。むろん、もし──」
私は口をつぐみました。
「もし、なんだね?」
「ロバートさんになら化けられます」私はまた、ひとりで笑いはじめました。「まったく、この思いつきは悪くないですね。ロバートに化けなさい。ならず者の兄さんにね。そして、ミス・ノリスにいやがらせをする。あのひとから金を借りるとかなんとか」
マークは熱心にうなずきながら、あの明るい小さな目で、私をじっとみつめています。
「ロバートか。よし、どんなふうにやろうか?」と、彼は申しました。
ロバートという男は、実在していたのです。ギリンガムさん、あなたも警部もすでに調査ずみだと信じます。彼は放蕩者《ほうとうもの》だったのです。そして、オーストラリアへ渡りました。しかし、彼は、火曜日の午後『赤い館』へは決して来ていないのです。こられるはずがありません。三年前に死んでしまったのですから〔だれにも惜しまれずに〕。けれど、私とマークのほかは、だれもこのことを知らないのです。昨年マークの姉が亡くなり、マークはただひとりの遺族になりました。その姉もロバートの生死を知っていたかどうかあやしいものです。だれもロバートの噂《うわさ》をする者はありませんでした。
それから二日かかって、マークと私は計画をねりました。私とマークのねらいが同じでないことは、もう、あなたもおわかりでしょう。マークの努力は、その変装を二時間もつづけていればいいのです。が、私の場合は、それを墓場まで持ちこませることでした。彼はミス・ノリスと他の客をあざむくだけでいいのですが、私は世界中をだまさねばなりませんでした。ロバートに変装したマークを、私は殺すつもりだったのです。それで、ロバートが死に、マークが失踪したことになります〔当然のことですが〕。だれでも、マークがロバートを殺したとしか、考えようがないのです。だが、マークが死ぬまぎわの〔つまり最後の〕扮装を充分にすることが、どんなに重要なことか、おわかりでしょう。なま半可のことでは、破滅してしまいます。
あなたは、そんなことは不可能だと、おっしゃるでしょう。あなたは、マークという人間を知らないからだ、と私はもう一度お答えします。彼は自分がいちばんなりたがっていた者になろうとしていました──芸術家です。オセロになっても、マークほど全身まっ黒に塗りたてた者はないでしょう。いずれにしても、髭を落すことにしたのは──おそらくミス・ノーベリーがふと洩らした言葉のせいだったのです。彼女は髭が嫌いでした。が、私にとって重大なことは、死んだ男の手がマニキュアをした紳士の手では困ることです。芸術家としての彼の虚栄心を、五分もくすぐると、手の問題は解決しました。彼は爪を伸ばし、不ぞろいに切ることにしたのです。「ミス・ノリスは、すぐ、あなたの手に気がつきますよ。それに芸術家としては──」と、私は申しました。
こんどは下着です。ズボンは靴下の端が見えたほうがいいなどと、注意する必要はまったくありませんでした。芸術家として、彼はロバート向きのズボンをはくことに、すでにきめていたのです。私は彼のために、ズボンやなにかをロンドンで買いととのえました。メーカー名の商標をとり去るのを、私が忘れたとしても、彼が直感的にやっていたでしょう。オーストラリアの住人として、芸術家として、彼は下着に東ロンドンの名をつけておくことはできなかったのです。そうです、私たちはふたりがかりで、準備を完全にやりました。彼は芸術家として、私は──そう、殺人者としてとおっしゃって結構です。もし、それがお気に召すなら。私はかまいません。
私たちの計画は、準備がととのいました。月曜日に、私はロンドンへ行き、ロバートからの手紙を、マークにあてて書きました。〔これもまた芸術家らしい心づかいです〕それから、ピストルも買いこんだのです。火曜日の朝、朝食の席で、マークはロバートの来訪を報告しました。ロバートはこうして生き返ったのです。──六人の証人が証言します。あの日の午後、ロバートが来ることを、六人の証人が知らされたのです。私たちの計画では、ゴルフに出かけた連中が帰ってくる直前の午後三時に、ロバートがやってくることになっていました。女中がマークを探しに出かけますが、見あたりません。そこで事務室へ戻ります。すると、マークがいないので、私がロバートをもてなしているのを見ます。そこで、私は、マークはどこかへ出かけたに違いないから、自分がお茶の席で、この放蕩者の兄さんを皆さんにご紹介すると言います。マークがいないからといって、だれも怪しみはしません。やくざな兄に会うのを、マークがおそれていたことは、皆なんとなく感づいていましたし、ロバートがそれを暗示することもできます。それからロバートは客たちを、むろん、とりわけミス・ノリスをからかい、度をこしすぎると思うところまでやるのです。
これが私たちがひそかにたてた計画でした。おそらく、マークがたてた計画だというべきでしょう。私自身は違います。
朝食のときの報告は、うまくいきました。ゴルフをやる連中が出かけてしまってから、私たちは午前中いっぱいかけて、準備をしました。私は特に、ロバートの存在を完璧に認めさせることに気を使ったのです。そういう理由で、私は、扮装がすみ次第、秘密の抜け道を通って、球戯場へ出、途中で小屋番と会話を交わすことに留意して、車寄せの道をひっ返してくるように、マークにすすめました。この方法で、私はロバートの来訪を証言するふたりの証人を作りあげることができます。──第一は小屋番。第二は園丁のひとりで、前庭の芝生で働かせておくことにしました。もちろん、マークに異論はありません。小屋番の前で、オーストラリアなまりをやってみることもできます。私の指示どおりに、あの男のほうから、すすんでのってくるのは見ていて、実に愉快でした。犠牲者の手で、これほど周到にしくまれた殺人は類がないでしょう。
彼は事務室の隣の部屋で、ロバートの服に着替えました。それが、ふたりにとって、いちばん安全な方法だったのです。扮装が終ると、マークは私を部屋に呼び入れました。そこで、私は点検しました。彼の扮装ぶりは、実に見事なものでした。それも彼の放蕩のしるしがその顔にあらわれていたためです。いままでは口髭やあご鬚にかくれてめだたなかったのが、きれいに剃りあげたいま、さらけ出されてしまったのです。そうなってみると、彼が扮しようとしている放蕩者にぴったりなのでした。
「こりゃあ、すばらしい」私は声をあげました。
マークはにやりと笑って、私が見落としそうな、芸術家らしいさまざまな心配りを、示してみせたのです。
「まったく見事だ」私は心のなかで、ひそかに、もう一度つぶやきました。「おそらく、だれにも見破られないだろう」
私はホールのようすをうかがってみました。だれもいません。私たちは急いでホールをつっきり、書斎へとびこみました。彼は抜け道にもぐり、姿を消しました。私はあの小部屋にひっ返し、マークが脱ぎすてた衣類をかき集め、ひとまとめにして、抜け道に持っていきました。それからホールに腰をおろし、待ったのです。
あなたは女中のスティーヴンズの証言を、おききになったはずです。彼女が聖堂《テンプル》へマークを探しに出かけるやいなや、私は事務室へとびこみました。手をポケットにつっこんでいましたが、その手はピストルを握っていたのです。
彼はさっそく、ロバートの演技をはじめました。船賃がわりに船内で働きながら、オーストラリアからやってきたという長いせりふをしゃべりはじめたのです。それは、私の指図にしたがっての、いかにもひそかな演技でした。それからミス・ノリスへの復讐の成功を想像して満足らしい笑みをうかべながら、地声に戻り「こんどは俺の番だぞ、待ってるがいい」と大声をあげました。これが、エルジーのきいた言葉だったのです。そこに用事のない人間があらわれたので、なにもかもだめにするかと思いましたが、かえって、幸いしたのでした。その言葉こそ、私ののぞんだ証言になったからです。マークとロバートがあの部屋にいたことを証言する者が、私以外に、もうひとりあらわれたことになりました。
私はなにも言いませんでした。あの部屋で話をして、人にきかれては、危険だと思ったからです。私は哀れな愚か者を、微笑をもって眺めておりました。そして、ピストルをとりだし、射ったのです。それから、書斎へ戻り、待ちました。──私の証言どおりに。
とつぜん、あなたがあらわれたときの、私のうけた衝撃を、考えてもごらんなさい? ギリンガムさん。あらゆる可能性に対して手をうったはずの『殺人犯人』が、とつぜん、思いもかけなかった別個の事態に直面したときの気持はどうでしょう。おわかりになりますか? あなたの出現で、事態はどう変化したのか? 私にはわかりませんでした。おそらく変らなかったかもしれません。あるいは、まるで変ってしまったのかもしれないのです。そして、私は窓をあけるのを忘れていたのでした!
マークを殺した私の計画がうまくできていた、とあなたがお思いになるかどうかは、私にはわからないことです。たぶん、そうお思いにはならないでしょう。ただ、この事件で認めていただく点があるとすれば、それはあなたの思いもかけない出現で、私が絶望的な淵に追いこまれたとき立ち直ったことです。ギリンガムさん、私はあなたの目の前で、窓をあけることができました。その窓は、あなたがご親切に説明してくださった窓として、適当なものでした。それから鍵は──あなたは賢明だったのです。けれど、私はさらに賢明でした。ギリンガムさん、球戯場でのあなたとご友人のベヴァリーさんの会話を立ち聞きしたおかげで、あの鍵のことでは、あなたをだますことができるのを知ったのです。どこで立ちぎきしたのでしょうか? ギリンガムさん、秘密の通路をお探しにならねばなりませんね。
だが、私はなにをお話しているのでしょう。結局、あなたをだませたでしょうか? あなたは、ロバートはマークだという秘密を発見してしまいました。そして、事件はそれがいちばん肝心なことだったのです。どうしておわかりになったのか、いまとなっては、知ることもできません。どこが悪かったのでしょうか? おそらく、あなたはずっと、私を欺しつづけていたのでしょう。たぶん、鍵のこともご存じだったのですね。窓のことも。秘密の抜け道のことさえも。あなたは、ぬけめのないかたですね、ギリンガムさん。
マークの衣類が手もとにありました。抜け道においてあるのです。だが、秘密の抜け道も知られてしまいました。ミス・ノリスが知っています。ミス・ノリスが抜け道を知っていることが、私の計画の弱点でした。そこで、衣類は池に沈めました。警部が親切にも私のために池をさらってくれたあとでです。鍵も二つ一緒に沈めました。ただ、ピストルだけは残したのです。幸い、いま役に立つわけですね、ギリンガムさん?
これ以上申しあげることはないと思います。長い手紙になりました、が、これは私が書く最後のものです。私も自分の幸福な未来を夢みたときがあります。『赤い館』でではなく、ひとりででもありません。おそらく、それも白昼夢にすぎなかったのでしょう。マーク同様、私もあのかたにふさわしい人間ではないからです。だが、私は、あのかたを幸福にすることができたかもしれないのです、ギリンガムさん。神さま、私はどんなに自分の手で、あのかたを幸福にしたかったことか! いまとなっては、それもはかない望みとなりました。殺人犯の手を、あのかたにさしのべるのは、酔いどれの手をさしのべるのと同様いまわしいことでしょう。そのために、マークは死んだのです。けさ、私はあのかたに会いました。あのかたは、とても優美でした。私とは世界の違うひとなのです。
さて、これで、私たちは皆、いなくなります。アブレット家の者もケイリー家の者も。私たちの共通の祖父ケイリーはどう考えるでしょう? 私たちが死んでしまうのは、いいことかもしれません。祖父の妹のサラが悪かったわけではないのです──気性は別として。サラはアブレット家特有の鼻をしていましたが、──べつに、なんていうこともなかったのです。サラに子供がなかったことは、しあわせでした。
さようなら、ギリンガムさん。私たちといっしょに過ごした日が愉しいものでなくて、お気の毒だったと思っております。けれど、私の立場の苦しさは、おわかりいただけると思います。私をあまり悪くおとりにならないよう、ビルにおつたえください。彼はいい男です。よろしくお願いします。ビルは驚くでしょう。若い者はいつも驚いてばかりいるものです。最後に好きなように私に始末させてくださったことを感謝します。少しはご同情くださったのだと考えます。来世でなら、私たちは友だち同士になれるかもしれません。あなたと私、私とあのひとです。あのひとには、お好きなようにお話しください。すっかりお話しくださっても、まったくお話しくださらないでも結構です。最良の方法は、あなたがご存じです。さようなら、ギリンガムさん。
マシュウ・ケイリー
今夜はマークがいなくて、淋しい気がします。おかしなものですね。
二十二 ベヴァリーの追求
「驚いたね!」手紙をおくと、ベヴァリーは言った。
「そういうと思ってた」と、アントニイはつぶやいた。
「トニイ、君はこのことを皆知ってたのか?」
「いくらかは推察していた。むろん、すっかり知ってたわけじゃないさ」
「まったく、驚ろきだね!」ベヴァリーはまた言って、手紙に目を戻した。が、またすぐに顔をあげた。「ケイリーに、なんて書いてだしたんだ? ゆうべだろう? ぼくがスタントンへ出かけたあとでかい?」
「そうだよ」
「なんて書いたんだ? マークがロバートであることがわかったって、書いたのか?」
「そうだ。それだけは書いてやった。あしたの朝、ウィンポール街のカートライトさんに電報をうって、たしかめてみる──」
言いかけたところへ、ベヴァリーが勢いこんで口をはさんだ。
「そうか。では、あれはどういうことだったんだい? 君は、きのう、急にホームズ張りになったじゃないか。ずっと、一緒にやってたのにね。君はなにもかも、ぼくに話したんだ。それが急に、謎めいちゃって、こっそりやって、話すことも謎みたいになったんだ──といってもいいだろう?──歯医者のことや、水泳のことや、それに『鋤馬旅館』のことなんかさ。あれは、なんなんだい? まったく、君がわからなくなったよ。いったい、なんの話だったのか、わからないね」
アントニイは声をあげて笑いながら弁解した。
「すまなかったな、ビル。とつぜん、そういう気持になったんだ。最後の二十分はね。ただ、早く切りあげたくてね。いま、すっかり話すよ。実は話すこともないんだが。わかってみたら、たいしたことじゃないのさ。──わかりきったことでね。ウィンポール街のカートライトさんのことだが、むろん、屍体を確認してもらうだけのことなのだよ」
「それにしても、歯医者っていうのはどういうわけだ?」
「ほかにもっと適当な者がいるかい? 君はやれるか? どうやってやる? 君はマークと泳いだことがない。裸になったのを、見たこともないだろう? あの男は泳げないからね。かかりつけの医者ならやれるだろうか? 特に、手術でもやったんでなけりゃ、たぶんだめだね。ところが、歯医者はやれる。──とにかく、いつでもだ──あの男が歯医者へちょくちょく通っていさえすればだが。そこで、ウィンポール街のカートライト氏が登場するのさ」
ベヴァリーは考えこんでうなずき、手紙にもう一度、視線を戻した。
「なるほどね。で、屍体を確認するために、カートライトに電報を打つと言ってやったんだね」
「そうだ。それでもちろん、彼はお手あげになるんだ。ロバートはマークだっていうことがわかれば、皆、わかるからね」
「どうやって、それがわかったんだ?」
アントニイは朝食の席から離れ、パイプに煙草をつめはじめた。
「うまく説明できるかな、ビル。代数で『Xを求めよ』っていう問題があるのを、知ってるだろう? 計算して、Xを解くんだ。これがひとつの方法だよ。他の方法もある。こいつは、学校では点がもらえないが、推理で答えを出すんだ。かりに答は4だとしておく。解けるかどうか、ためしてみる。否《ノー》だ。では、6でやってみよう。6がだめなら5だ。──そんなふうにやるのさ。警部や検屍官や他の連中が皆で答えを推定して、それでいいらしいと考えた。が、ぼくと君には、実際は違うことがわかっていた。あの連中が推定した答えでは解けない点が、いくつかこの問題にはあったのだ。それで、ぼくたちはその答えがまちがっていることを知った。他の答えを考えねばならない。ぼくたちにわからない点を、ぜんぶ解明してみせる答えだ。で、どうやら正しい答えを推定できた。マッチを持ってるかい?」
ベヴァリーはマッチの箱を渡すと、アントニイはパイプに火をつけた。
「そうか。だが、それだけではうまくいかないだろうね。とつぜん、君のあたまにひらめいたものがあったはずだ。ところで、用ずみなら、マッチは返してもらうよ」
アントニイは声をあげて笑い、マッチをポケットからとりだした。
「失敬、……では、ぼくの考えをもう一度たどってみて、どうして、そう推理したか話すことにしよう。まず第一に衣類だ」
「え?」
「ケイリーにとっては、あの衣類はひどく重要な手がかりなような気がしたんだ。なぜ、そんなふうに考えたか、よくはわからない。が、あの男のような立場にいる者には、些細な手がかりが、ばかに重要な価値を持つようにみえることがあるんだ。なにかの理由があって、ケイリーは、火曜日の朝マークが着ていた服を、ひどく重要なものと思いこんでしまったのだ。服ばかりでなく、下着もいれて、衣類ぜんぶだ。そして、これも理由がわからないが、あの場合、カラーがないのは故意に隠したのではないことは確かだった。とにかく、衣類をかき集めるとき、ケイリーはカラーがないことを見逃してしまったんだ。なぜだろう?」
「洗濯籠にはいっていたやつだね」
「そうだ。あれらしい。なぜ、ケイリーはあれにいれたのか? 明白な答えは、彼がやったのじゃないということだ。マークが入れたんだよ。マークはおしゃれで、服やなんかたくさん持っていたって、君からきいたね。で、マークはカラーを二度使ったりしない男だと思ったのだ」
アントニイは一息ついてから、ベヴァリーに訊いた。「そうだろ? そう思わないかい?」
「まちがいないね」ベヴァリーは確信をもって答えた。
「ぼくも、そう推察した。それから、問題のその部分にあうXを探しはじめた。マークは服を着替えたが、無意識のうちに、いつものように、カラーを洗濯籠に放りこんだ。他の衣類は、ふだんのように、椅子においた。それが目に見えるようだ。ケイリーがあとで衣類をかき集めているのも、まざまざと目にうかぶ。見あたるものはぜんぶ集めたんだ。が、カラーがないことに気がつかなかった」
「それから?」ベヴァリーはのりだした。
「その点は、かなり確実だと思うよ。だが、それについての解明が必要だった。なぜ、マークは寝室で着替えずに、そこで着替えたか? 答えは、着替えた事実を秘密にしておきたかっただけだ。いつ着替えたか? 可能な時間は昼食〔このときは、女中たちに見られている〕と、ロバートが到着するまでのあいだだ。ケイリーが衣類をかき集めたのはいつか? その答えも『ロバートの到着前』だ。そこでもうひとつXを探さねばならない。この三つの条件にかなうものをね」
「そして、その答えは、ロバートの到着前に殺してしまう意図があったということじゃないか?」
「そのとおりだ。手紙をうけとってから、殺人が計画されたとは考えられない。あの手紙の裏に、ぼくたちの気づかない深い意味でもあればべつだが。殺人を計画しておいて、逃走用の服に着替えただけで、ほかに、なんの準備もしてないのもおかしい。あまり、子供だましすぎるよ。ロバートを殺すのに、なぜ彼の存在を、君たち皆に知らせたりしたのだろう。面倒な思いをして、ミセス・ノーベリーにまで知らせているじゃないか? これは皆、どういう意味を持っているのだろうか? ぼくにはわからない。だが、そのうちに、ロバートはたんにつけたりにすぎないのじゃないかという気がしはじめた。彼に兄を殺させるか、兄に彼を殺させるか、マークに対してケイリーのしくんだ計画であるような気がしてきた。ただ、そのことで不可解なのは、マークがその計画に一枚加わっているように見えたことだった」
アントニイは、ちょっと黙りこんでいたが、やがて、まるでひとり言のように「戸棚の中はブランデーの空ビンばかりだった」とつぶやいた。
「そんなことは、ぜんぜん話してくれなかったぜ」ベヴァリーがこぼした。
「あとになって気がついたのだ。ご存じのように、カラーを探していたんだ。あとから、思いあたったのさ。ケイリーがどんな気持でいたのか、ぼくにはわかる。かわいそうな男だ!」
「さあ、その先だ」と、ベヴァリーが言った。
「それから、検屍審問があった。むろん、ぼくは──君もそうだと思うが、奇妙なことに気がついたんだ。ロバートが二番目の小屋で道を訊いたことだ。最初の小屋ではなくてね。そこで、エイモスやパースンズと話してみた。ところが、もっと奇妙なことになった。ロバートは、わざわざ横の道にそれて話しかけてきた。とエイモスが言うのだ。事実、目的どおりに話しかけたのだが。パースンズは、あの男の女房が午後ずっと外にいて、小屋の畑にいたのだが、ロバートの姿は見かけなかった、と言っている。それに、あの男は、午後は玄関の前の芝生を刈るように、ケイリーから言いつかっていたというのだ。そこで、ぼくはまた推理した。ロバートはそれまで、邸のなかにいたことになる。それは、ロバートとケイリーがしくんだたくらみだということなのだ。それにしても、ロバートはどうやって、マークに知られずに、邸の内にいられるのだろうか? 明らかに、マークも承知だ。こういうことすべてに、どんな意味があるのだろう?」
「そいつは、いつ考えたんだ」ベヴァリーが口をはさんだ。「検屍審問のすぐあとだね。もちろん、エイモスとパースンズに会ったあとだろう?」
「うん。あの連中と別れて、ぼくは君を探しに来た。それから、衣類のことを、また考え直してみたんだ。どういうわけでマークは、そんなにこっそり服を着替えたのだろう? 変装かな? だが、顔はどうするつもりだ? 服より重大じゃないか。顔、髭、──髭は落さねばならない──それから──ああ、なんてバカなんだ! 君がポスターを眺めているのを、みつけた。マークは演技がやれる。化粧だってした。マークは変装したんだ。まったく、話にならないまぬけだ! マークがロバートになったんじゃないか……マッチを貸してくれないか」
ベヴァリーはまたマッチを渡してやり、アントニイがパイプに火をつけるのを待った。それから手を伸ばして、マッチをとり返した。あやうく、アントニイがポケットにしまいこむところだった。
「なるほどね」ベヴァリーは考えこんだ。「なるほど。だが、ちょっと待てよ。『鋤馬旅館』の件はどうなるんだい?」
アントニイは、とぼけた目で、相手を見た。
「ビル、許してくれないだろうね。ぼくとは二度と手がかり探しをやってはくれないだろうね」
「なんのことだい?」
アントニイは溜息をついた。
「あれはでたらめだったんだ、ワトスン。君に席をはずしてもらいたかったんだよ。ひとりになりたかったんだ。Xをみつけ、たしかめてみたかったんだ。ぼくたちが発見したいろんな方法や、いろんなものでね。そのためには、とにかく、ひとりになる必要があった。それに──」
アントニイはにっこり笑って、言葉をつないだ。「君も、飲みたい頃だと思ったからね」
「ひどいやつだ」ベヴァリーはアントニイをにらみつけた。「ご婦人があそこに泊っておりましたなんて言わせて、面白がっていたんだな」
「なに、君があれほど苦労したんだから、面白がるのは礼儀だよ」
「こん畜生め! この、ホームズ野郎! それに、ひとのマッチを盗もうとしたりして。よし、先をつづけたまえ」
「あれで全部だよ。ぼくのXはぴったりだった」
「ミス・ノリスのことも、すっかりわかっていたのかい?」
「すっかりじゃないがね。ケイリーがはじめからしくんでいたとは思わなかった──ミス・ノリスに、マークをおどかさせたとはね。機会をうまく利用したのだと思っていたんだ」
ベヴァリーは長いあいだ黙りこんでいた。それから、パイプをふかしながら、ゆっくり言った。
「ケイリーは自殺したかな?」
アントニイは肩をすくめた。
「かわいそうな男だね」と、ベヴァリーは言った。「あの男に機会《チャンス》をあたえたのは、さすがに君だ。よくやってくれたね」
「あの男には好意を持たないではいられなかったんだ」
「あたまのいい男だったね。君がやったように、あばきださなかったら、永久にわからなかったかもしれなかったな」
「どうだろう。巧妙だったが、巧妙な計画ほど露見しやすいものだ。ケイリーの場合の弱味は、失踪したマークが、本人も屍体も永久にみつからないという点にあるんだ。失踪した人間に、そんなことはあり得ないのさ。しまいには、必ずみつかるものだ。殺し屋ならともかく、ケイリーなんかしろうとだからね。どうやってマークを殺したか、その方法は永遠の秘密ということになっても、彼がマークを殺したことは、早晩、明るみに出ると思うね」
「なるほど、そういうものなんだな……あ、ひとつ訊きたいことがあった。なぜ、マークは、死んでしまった兄のことを、ミセス・ノーベリーに話したんだろう?」
「そいつには、ぼくも悩まされたんだ、ビル。あれは、オセロをやったとき、体をまっ黒に塗りたくらないと気がすまない、あれと同じ心理じゃないかな。つまり、ロバートに扮すれば、ロバートそっくりになり、自分もロバートが生きているみたいな気がしてきて、ひとにもそんなふうに話したりするのさ。邸で、君たちみんなに話してしまったから、ミセス・ノーベリーにもうち明けておいたほうがいいと思ったのかもしれない。このほうが真実に近いかもしれない。君たちのなかのだれかに会えば知れることなんだしね。『あら、あのかたにお兄さまなんかいらっしゃいませんわよ。おありなら、あたくしに話すはずですわ』なんてやられては、せっかくの冗談も台なしだからね。たぶん、ケイリーもそうすすめたんだろう。ケイリーが、なるたけ多くの人間に、ロバートの存在を信じこませようとしていたのは、明らかなのだから」
「警察に報告するつもりかい?」
「そうだね。知らせるべきだと思うよ。ケイリーがもう一通。告白の手紙を書き残しているかもしれないしね。ぼくのことが書いてないといいんだが。ぼくは、ゆうべまでは従犯みたいなもんだったからな。それから、ミス・ノーベリーに会いに行かなければ」
「ぼくが質問したのは、なんて言っていいかわからないからさ──ベティにだよ」と、ベヴァリーは説明した。「ミス・キャラダインだ。あのひとは質問するにきまってるんだ」
「たぶん君は、あのひとには今後ずっと、長いあいだ、会わないだろうよ」と、アントニイは悲しそうに言った。
「実をいうと、あのひとがバーリントン家へ行くことが偶然わかったんだ。それで、あした、ぼくも行くことにするよ」
「それなら、話したほうがいいだろう。君が話したくてむずむずしてるのは、わかりきってるんだ。ただ、一日か二日は、なにもしゃべらないように言っておくんだな。いずれ、手紙を書くよ」
「頼んだぞ!」
アントニイはパイプの灰を叩き落して、立ちあがった。
「バーリントン家のパーティはにぎやかだろうね?」
「かなり、だと思うな」
アントニイは親友に笑いかけた。
「そうだ。だれかが殺されるようなことが起こったら、ぼくを呼びに来てくれ。いまのところ、油がのっているんでね」(完)
解説
今にして思えば、この国の数すくない推理小説評論集『幻影城』〔昭和二十六年、岩谷書店〕の著者が指摘したように、おおよそ、一九一五年代から三十五年に及ぶ約二十年間は、本格長編推理小説の全盛時代でもあった。もっとも、この間に、コリンズやディケンズといった長編作家が現われたとはいえ、ポーやドイルやチェスタートンに代って、真に長編形式の中に推理小説が生き始めたのは、まさに第一次大戦後からであったといっていい。
『トレント最後の事件』〔ベントリー〕、『アクロイド殺人事件』〔クリスティ〕、『僧正殺人事件』〔ヴァン・ダイン〕、『樽』〔クロフツ〕、『赤毛のレッドメーン家』〔フィルポッツ〕、『Yの悲劇』〔クイン〕……。思いだすままに、勝手に数えあげてみても、たしかにこの第一次大戦後からの二十年間からは、今では推理小説界の古典となっている諸名作を十二分にとりあげることができる。
そして、アラン・アレグザンダー・ミルン〔Alan Alexander Milne〕の唯一の長編推理小説『赤い館の秘密』〔The Red House Mystery, 1922〕もまた、この長編の黄金時代に颯爽《さっそう》と登場した、最も貴重な作品の一つである。
この作品が如何に世評の高いものであるか。くどくどと、諸家の批評なり感想を語るよりも、もっと簡便な方法として、私は二人の秀れた推理小説家の推奨を信じたい。ヴァン・ダインとエラリー・クイン。前者は、一九二八年に発表した英国推理小説九選において、『赤い館』を第九位におし、後者は、一九三四年の『ミステリ・リーグ』誌上によせた名作二十選において、実にその第八位の椅子を与えているのだ。読者は、みだりに批評家という凡庸なる人種の言葉に耳を傾けたりしてはいけない。作者の眼を信ずべきだ。ミルンの評価もまた、ヴァン・ダインとクインを信じていいだろう。
わが国にあっても、江戸川乱歩氏は、再三、その推理小説ベスト・テンにおいて推奨されているし、また、『不連続殺人事件』の名品を残した故坂口安吾も愛読したらしい。『不連続殺人事件』のなかで巧みに用いられている心理的手法には、決して『赤い館』の影響がないとはいえない。
かつて、ハードボイルド派の巨匠チャンドラーは、『赤い館の秘密』をもって、「旧式推理小説の見本」ときめつけたことがある。しかし、これはあくまでも、ハメットの申し子であるチャンドラーの一つの見解であって、決してミルンの力倆を傷つけるものではあるまい。文学派のチャンドラーは、推理小説の特殊性を認めず、ひたすら「文学」について語っているにすぎない。
ところで、A・A・ミルンとはどのような作家なのか。この、わずか一冊の推理小説しか発表しなかったのに、あれほどまでに推理小説界で名声を博した作家は。わが国においては、大人の世界とは別のところで、『熊のプーさん』や『プー横町に立った家』の童話作家として、子供たちに親しまれている作家は。
こころみに、岩波版の『西洋人名辞典』〔一九五六〕をひいてみよう。
ミルン〔一八八二〜〕。現代イギリスの劇作家、随筆家。「パンチ」誌の副主筆となり、軽妙な随筆を同誌に載せた〔一九〇六〜一四〕。第一次大戦に参加〔一五〜一九〕。戦後は劇作に力を注ぎ『ビム氏御通行』〔一九一九〕、『ドーヴァー街道』〔一九二二〕などユーモアに富んだ作品を発表した。自分の小さな息子に鼓吹されて童謡集『私たちが小さかった時』〔一九二四〕のような童謡や童話を多く書いた。随筆集には「If I May, 1920」「The Sunny Side, 1922」などがある。
ここには『赤い館の秘密』のことは一行も書かれていない。しかし、これは決して辞典の片手落ちではない。ミルンの人と作品を知るためには、これだけでも充分だろう。もともとミルンは、推理小説の愛好家ではあったが、推理作家ではなかったのだから。それだけに、かれの推理小説はユニークなものといえようか。
ただ、以上の辞典の項目に、多少のつけ加えをするならば、ミルンは一九五六年に七十四歳の高齢をもって死亡していること、初期の重要なエッセイの一つに「Not That It Matters, 1919」があり、少年ものとして、通称『クリストファ・ロビンもの』と呼ばれている四冊の童話があることだろう。そしてさらに、『赤い館の秘密』の作者としてのミルンの姿を、より明確にするならば、推理劇『第四の壁』〔一九三二〕と、短編『十一時の殺人』〔一九五〇〕をあげておけばよいだろう。
ミルンの推理小説についての考えは──これはとりもなおさず、『赤い館の秘密』を書いた動機でもあり、その創作方法上の問題としていることだが──新版発表の際に記した自序にくわしい。かれはそこで、推理小説に対するかれの「特殊な好み」を要領よく述べる。作品は、平易な分り易い言葉で語られるべきこと。あらずもがなの、「読者に待ちぼうけをくわせるような」恋愛問題は避けるべきこと。いわゆる推理小説につきものの、天才型探偵にとって代る、平凡なしろうと探偵出現の意味と、さらには、読者の理解を助けるための、人間味にあふれ、親しみ易いワトスン型副人物の重要さを。
こうして、けだるく暑い夏のある昼さがりに、まどろんでいるような「赤い館」の事件は起こる。簡潔な文体。虚飾のない文章。推理とユーモアとが巧みに織りなしているミルン独自の世界……。そこには、童話作家としてのミルンが、ユーモアリストとしてのミルンが、いま一人の推理作家のミルンとともに、何等の不都合さもなく共存している。
解説は、もうこれ以上のことを必要としないだろう。私は蛇足をつけ加えることを怖れる。読者は、何等の先入観もなしに「赤い館」に入っていくがよい。作者は決して読者をあきさせないだろう。ミルンは、『赤い館の秘密』を「書きたいから書いた」というが、そうだとすれば、読者には「読みたいから読む」ことが許されている筈だ。長ったらしい解説などは眼にかけぬがよい。
『赤い館の秘密』が、わが国に初めて訳されたのは、昭和十年に刊行された『世界探偵名作全集』〔柳香書院〕の一巻としてではなかったかと思う。〔妹尾アキ夫氏訳〕そして、その後には、大門一男氏、大西尹明氏の訳〔前者は新庁舎、一九五六年。後者は東京創元社、一九五九年〕がそれぞれ出されている。いずれも、それぞれの時代に、推理小説愛好家たちに愛読され、好訳としてむかえられたものである。
こうした好訳のなかに、このたび古賀照一氏の一書が加わることになった。氏は、シムノンの『オランダの犯罪』や『死んだギャレ氏』〔ともに創元推理文庫〕の手なれた訳者として知られている。氏は巧みな訳文を駆使して、新しい時代のためにミルンの古典的名作を訳された。推理小説を愛好するものたちにとっては、思わぬ喜びといっていいだろう。(窪田般彌)
〔訳者紹介〕
古賀照一《こがしょういち》
一九一九年、福岡県戸畑市生まれ。昭和二〇年東京大学文学部哲学科を卒業して、大学院仏文科に進む。専攻はフランス象徴詩。都立女子専門学校教授を経て、法政大学教授。二八年新潮社よりゾラ「ナナ」を翻訳出版し、以後英仏二十世紀文学の翻訳に努める。その他、アラン「情念について」「音楽家訪問」クリスティ「オリエント急行殺人事件」等の訳書がある。
◆赤い館の秘密◆
A・A・ミルン/古賀照一訳
二〇〇四年一月十五日 Ver1