南回帰線(上)
ヘンリー・ミラー/大久保康雄訳
[#改ページ]
南回帰線
彼女に
卵巣の市街電車の上で
[#ここから1字下げ]
|わが不幸の物語《ヒストリア・カラミタートム》への序
一般に人間の心は言葉よりもむしろ実例によって動かされ、悲しみもそれによってやわらげられることが多いものである。だから私は、この前お会いしたとき直接いろいろと慰めを申し述べたのにつづいて、今度は私の受けたかずかずの不幸の体験を、はるかに書簡に託してお慰めしたいと思う。こうするのも、きみが自分の不幸を私のそれとひきくらべ、それがじつは不幸ともいえぬほどのものであるか、あるいはほとんど問題とするに足りないものであることをみずから認めて、これまでよりも楽な気持でそれに耐えてくれることを念願するからである。
――ピエール・アベラール(*)
* フランス中世の哲学者、神学者。「わが不幸の物語」は彼の書簡体自伝で、有名な『アベラールとエロイーズの書簡』の第一書簡にあたる。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
息絶えてしまえば、たとえ渾沌《こんとん》のなかにあっても、あらゆることが判然としてくるものである。そもそもの当初から、渾沌以外のなにものもなかった――私をとりまき、私がエラで呼吸していたものは、あいまい模糊《もこ》たる流動物であった。おぼろにかすんだ月が不変の光を投げている下層部は、静穏《せいおん》で肥沃《ひよく》だったが、上層には密林があり、不協和音があった。私はすぐ、あらゆることに矛盾と対立を見、現実と虚構のあいだの諷刺《ふうし》と逆説を感じとった。私自身が私の敵であった。私はなにもしようと思わなかったが、また思ってもできないことばかりであった。なんら不足のない子供のころですら、私は死にたいと思った――苦労することに、なんらの意義も認められなかったので、すべてを放棄したかった。自分で求めもしなかった人間生活をつづけても、なにひとつ得るところがなく、なんらの実証も得られず、プラスにもマイナスにもならないような気がした。私の周囲のものは、ほとんど落伍者《らくごしゃ》であり、落伍者でないやつは、ひどく不愉快な人間ばかりであった。とくに成功者がそうであった。成功者には、じつに閉口させられた。私は過失に対して同情的であったが、私をそうさせたのは同情心ではない。それは、人間の不幸をかいま見ただけで顔を出すある純粋に否定的な性格――弱点――のせいであった。私は役にたつつもりで他人を助けてやったことは一度もなかった。ほかにどうすることもできなかったのである。事態を変えようとするのは、しょせん無益なことのように思われた。心を変えないかぎり、なにごとも変らないと私は確信していた。しかし、人間の心を変えることのできる人がいるだろうか。ときおり友人が改宗したという話を聞くと、私は胸がむかついた。神が私を必要としないように、私もまた神を必要としなかった。もし神が実在するものなら、私は堂々と彼に会って、その顔に唾《つば》を吐《は》きかけてやりたいものだと、しばしば心のなかでつぶやいた。
なによりも私を当惑させたのは、多くの人が私を一見しただけで、きわめて善良で親切で寛大で誠実で信義にあつい人間だと思いこんでしまうことであった。もしかすると私は、それらの美徳を身につけていたのかもしれないが、しかし、たとえそうだとしても、それは私が無関心だったからにすぎない。およそ他人をねたむということをしなかったから、善良にも親切にも寛大にも誠実にもなれたのだ。私は、嫉妬《しっと》に負けたことは、ただの一度もなかった。どんな人間にも、どんなことにも、私は決して羨望《せんぼう》を感じなかった。逆に私は、あらゆる人間に対して、なにかにつけて、つねに憐憫《れんびん》の思いに駆られただけであった。
そもそものはじめから、私は、むやみにものをほしがらないようにしつけられていたらしい。最初から、私は、ひょんなぐあいに独立していたのである。自由になって、気の向くままに行動したかったために、だれの世話にもなろうとしなかった。私は、すこしでも期待されたり命令されたりすると、とたんに、わめきたてた。私の独立は、そんな形態をとったのである。言いかえれば、堕落していたのだ。最初から堕落していたのである。もしかすると、母が私に毒を飲ませたのではないかとも思う――そして、私は、かなり早く乳離《ちばな》れしたものの、その毒は私の体内組織に、いつまでも残っていたのかもしれない。いずれにしろ、母が私を離乳させるときですら、私は、まったく頓着《とんじゃく》しなかったらしい。たいがいの子供は、反抗するか、反抗のまねごとをしてみせるものだが、私は文句ひとつ言わなかった。まだ産着《うぶぎ》をきていたころから、私はすでに哲学者であった。主義をつらぬくために人生に抵抗した。どんな主義かというのか? 無用主義だ。私の周囲のものはすべて、あくせくと苦労を重ねていた。しかし私は、およそ努力したことがなかった。はた目には努力しているように見えるときでも、それはただ他人をよろこばせようとしていたにすぎない――じっさいは、なんの苦労もしていなかった。私は生来いこじなたちで、その性質は、どうしても直らなかったから、こうしろああしろといわれても、すなおに聞きいれることができないのである。生れるとき、私を子宮からひっぱり出すのに、さんざん苦労したという話を、かなり大きくなってから聞いたことがある。しごくもっともだと思う。出ろというほうがむりだ。温かくて居心地のいい場所から――なにもかも無料で提供してくれる快適な隠れ家《が》から――出たがらないのは、当然ではないか。私の最も初期の記憶といえば、寒気と、雨どいの雪や氷、窓ガラスに白く凍《い》てついた霜、しめっぽい緑色の台所の壁の冷たい感触などである。世の中の人は、あやまって温帯《ヽヽ》地方とよばれているこんな野蛮な気候のなかに、なぜ住んでいるのだろう。察するに、世の中の人は、生来薄ばかで、生れつき不精者《ぶしょうもの》で、臆病《おくびょう》であるせいではないのか。私は十歳になるまで、この地上に文字どおり〈温かい〉国々のあることを、まったく知らなかった。それらの土地では、暮しのためにあくせく働く必要がなく、寒さにふるえながら、やせ我慢して気分|爽快《そうかい》な顔をよそおう必要もない。ところが、寒い土地では、人々は、せっせと働き、子供ができると、その子に労働の教義を教える――その実体は、まったくたわいのない、要するに惰性の教義にすぎないものだが。どだい、われわれアメリカ人は非常にゲルマン民族的だ――ということは、つまり、大ばかだということだ。これまで誤って解釈されてきたあらゆる観念が、彼らの頭にしみついている。正義という観念も、むろんそうだが、ほかにも、たとえば清潔という徳目もある。彼らは清潔を保つために大変な努力を重ねている。だが内面には臭気が充満しているのである。彼らは心のドアを決して開こうとしない。決して冒険を試みようとはしない。食事がすむと、すぐ皿を洗って戸棚に入れ、新聞を読み終えると、きちんとたたんで棚にあげ、衣服は洗濯《せんたく》してから、ていねいにアイロンをかけて、たんすにしまう。すべて明日《あす》のためなのだが、しかし、その明日は決してやってこない。現在は一つの橋にすぎず、彼らは、その橋の上で、世界じゅうの人々が苦悶《くもん》しているかのような調子で、苦悶しつづける。どんな酔狂者も、その橋を吹き飛ばしてしまうことを考えつかないのだ。
しばしば私は、自分自身を非難するために、彼らを非難すべき理由を探《さが》した。なぜなら、私は多くの点で彼らに似ているからだ。私は世俗からのがれたつもりでいたが、時をへるにしたがって、私の状態は、いっこうよくなっていないことに――いや、むしろ悪くなっていることに気づいた。なぜなら、私は彼らよりも明晰《めいせき》にものを見ることができるのに、自己の人生を変えるという点では、依然として無力だからである。過去の生涯をふりかえってみると、私は、なにごとも自分の自由意思でやったことがなく、つねに他人に強制されて動いていたような気がする。私を冒険好きな人間だと見る人もいるようだが、これほど事実とかけはなれたことはあるまい。私の冒険は、つねに偶発的なものであった。押しつけられたものであった。みずから企てたのではなくして、むり強《じ》いされたものであった。高慢なゲルマン人種は、冒険の意味を、いささかも解さず、ただむやみやたらに地球上をかけめぐり、土を掘りかえして遺跡や遺物を探しあてたものだが、私も本質的には彼らと同じだといえよう。じっとしていられない性質だが、決して冒険的な人間ではない。現状に満足できずに悩んでいるにすぎない。私をふくめて、彼らはみな度《ど》しがたい臆病者なのである。なぜなら、この世には、ただ一つの偉大な冒険しかありえないし、しかもそれは、自我を志向した内包的なものであり、それに対しては、時間も空間も、行動すらも関与しないからである。
数年に一度ほど、そのことを発見しかけたが、私は、そのたびに、ある独得な流儀で、その結論を避けてしまった。あえて口実をもうけようとするなら、それは私の環境、私の知っている街々、そこに住む人々のせいだという以外にない。じっさいアメリカには、人間を自我の発見へみちびくことのできる街もないし、そうした街をつくりあげている人間もいないようである。私は世界を歩き、無数の街を知っているが、アメリカの街ほど堕落した屈辱的な感じをうけるところは、二つとはないようだ。アメリカの街を全部あつめたら、巨大な汚物だめができあがるにちがいない。あらゆるものが、そこに投げこまれ、とめどもない小便となって排出されるような魂の汚物だめが……。その汚物だめの上で、仕事の精が魔法の杖《つえ》をふると、壮大な建物や工場が、きびすを接して湧《わ》いてくる――軍需工場、製鉄所、化学工場、サナトリウム、刑務所、精神病院など。北アメリカ大陸は、いまや最大多数の最大不幸を生産しつつある悪夢の国と化しているのである。私は富と幸福(むろん統計学的な富と幸福であるけれども)の大|饗宴《きょうえん》のなかの孤独な客であったが、そこで、ほんとうに富裕な幸福な人間と出会ったことは、ただの一度もなかった。すくなくとも私は不幸であり、富をもたず、のけものであり異端者であることはたしかであった。それがわかったことが、せめてものなぐさめであった。とはいうものの、それで満足できるはずもない。むしろ私は、おおっぴらに叛旗《はんき》をひるがえして、そのために刑務所へぶちこまれ、そこで消衰して、のたれ死にしたほうが、心の平和と精神の充足を得るためには、かえってよかったかもしれない。あの狂人ツォルゴッツがマッキンレー大統領を殺したように、だれにも善をあたえない、顕職にある、名門出身のだれかを射殺したほうが、すっきりしたかもしれない。なぜなら、私の心の底には、ある奇妙な犯意がわだかまっているからである。私はアメリカが根こそぎひっくりかえるのを見たかった。純粋な復讐心《ふくしゅうしん》から、そうなるのを見たかったのである。憎悪《ぞうお》と反抗と正当な血の欲求を、声をはりあげて訴えることができなかった私自身や、その他の人々に対して行われた弾圧のむくいを、見たかったのである。
私は悪の土壌の生んだ悪の産物であった。もし自我が不滅でなかったら、ここに書いている『私』なるものは、とうの昔に滅び去ったであろう。一部の人には、つくりごとのように見えるかもしれないが、しかし、すくなくとも私のことについては、すべてが私の想像どおりになったのである。もちろん私はアメリカの歴史に、なんらの役割も演じていないので、歴史はそれを否定するかもしれない。しかし、たとえ私の言うことがことごとくまちがっていて、偏見と悪意と邪心にゆがめられているとしても――たとえ私が嘘《うそ》つきで悪人であるとしても――それはあくまで真理であり、かならず容認されるにちがいない。
では、それを語ろう。
あらゆる出来事は、もしそれが意味をもつとすれば、それは矛盾をふくんでいるからである。私は、この書を捧《ささ》げるべき人物があらわれるまで、あらゆる問題の解決は、外側に、いわゆる人生にあると考えていた。したがって、彼女とめぐりあったときは、あたかも人生を把握《はあく》したかのような、なにかがっちり取組むべき対象をつかんだかのような錯覚をいだいたものである。だが、私は逆に人生から完全に手をはなしてしまったのだ。私は、なにかにとりすがろうとして模索した――だが、なにも発見できなかった。しかし、そうしてあがいているうちに、時勢にとり残されはしたものの、求めてもいなかったあるもの――私自身――を発見したのである。もし他の人々の行動が生活といわれるならば、私が生涯求めていたものは、生きることではなくて、私自身を表現することであったのだ。私は、生きることには、なんの関心ももっていなかったことを知った。私の関心は、現在の自分の行動にしかなかったのだ。それは、人生に対応したあるものであり、同時に人生に即し、しかもそれを超越したものなのである。いわゆる事実も、現実すらも、ほとんど私の関心事ではなかった。私の関心をひいたのは、私が想像したもの、あるいは、生きるために毎日|抑《おさ》えつけていたものだけであった。今日死ぬか、明日死ぬかということは、私にとっては全然重要なことでなかったし、現在もそうだが、しかし苦しい年月をへてきた今日ですら、自分の考えていること、感じていることを語れないのは、非常に悲しい。胸をかきむしられる思いである。私は幼少のころから、そうした才能、能力を身につけたいとねがい、ほかには、なにも楽しみをもたずに、一途《いちず》にそう思いつめてきた。それと無関係な私の言動は――それは私の生涯の大半を占めていたのだが――すべて虚偽であった。
私は、いわゆる二重人格者である。謹厳実直な人間だと思われたり、陽気で向うみずな男だと思われたりする。事実ときには私は誠実で勤勉であり、ときには、手におえないほどのんきで、怠惰である。しかも私は、それらを全部いっしょにして、なおそのうえに、だれも気づかない――とりわけ私自身ではまったく気づいていない――他の性格をもっているわけである。五つか六つの子供のころ、私はよく祖父の仕事用のベンチに腰かけて、祖父が縫いものをしているあいだ本を読んでやったことがある。コートの縫い目をアイロンでおさえながら、手を重ねて立ったまま、窓の外を夢みるように眺《なが》めていたときの祖父の姿が、いまもはっきりと目にうかぶ。そのとき私が読んでいた本の内容や、私たちのかわした会話や、私が通りで遊んだ遊戯などよりも、そうして夢を見ながら立っていたときの祖父の表情のほうが、ずっと鮮明な記憶となって残っている。祖父は、なにを夢みているのだろう、なにをぼんやり考えているのだろう、といつも私はいぶかってみたものである。そのころはまだ目を開いたまま夢を見る方法など知らなかった。私自身は、そんなときには、いつも、頭のすみずみまで冴《さ》えわたっていた。祖父の白昼夢が私を魅了した。そして、そのときの祖父は、自分のしている仕事とはなんの関係ももっていないこと、私たちのことなどすこしも頭にないこと、ただひとりでいること、ひとりでいるために祖父は自由であること、などがわかった。私はひとりになったことがなかった。とりわけ、自分ひとりでいるときには、そうでなかった。つねにだれかといっしょにいるような気がした。そう思いきめてしまったわけではないが、私は世界という大きなチーズのごく微小な一片のようなものであった。むろん私は隔絶されて生きていたわけではないし、私自身を大きなチーズだと考えたこともなかった。したがって、なにか悲しむべきことがあったり、不満を言いたかったり、泣きたかったりするときには、ある一般的な、普遍的な悲しみに関与しているような錯覚を招いた。私が泣いているときには、全世界の人が泣いているのだ――と空想した。もっとも私は、めったに泣かなかった。たいがいは幸福で、大声で笑い、たのしく暮していた。前にも述べたとおり、私は、なにごとがあっても、くよくよしたり、こざかしく立ちまわったりしなかったから、おかげでたのしく暮せたのである。なにか都合の悪いことが起きると、どこでもそんなことが起きているのだと確信していた。ものごとは、あまり気にすると、かえってうまくゆかないものだ……。私の人生の初期には、こうした考え方が私を支配していた。たとえば、幼な友だちのジャック・ローソンについて、こんな思い出がある。彼は、まる一年間、病床にふせったまま苦しみつづけた。私は彼とは大の仲よしだった――すくなくとも世間の人はそう言っていた。だから、たぶん私も最初は彼をかわいそうだと思ったのだろう、ときどき彼の家へ見舞いに行った。しかし、二ヵ月ばかりたつうちに、だんだん彼の苦しみに対する同情がうすれ、冷淡になった。あんなやつは、早く死んでしまえばいい、とひとりごとを言うようになり、その考えにしたがって行動した。つまり、彼を見はなし、彼のことを、さっぱりと忘れたわけである。彼の葬式の情景もおぼえている――いかにもみっともない情景であった。親族や友人たちが全部棺のまわりに集まり、一人のこらず、まるで病気になった猿《さる》のように泣きわめいていた。とくに彼の母親にいたっては、まったく見るに耐えなかった。彼女は、まれに見る聖霊の信徒で、たしかクリスチャン・サイエンスの信者であったと思う。したがって、病気というものを、いっさい信じない――、死も信じないはずなのに、まるでキリスト自身がびっくりして墓から飛び出してきはしまいかと思われるほどの狂態を演じていた。しかし、彼女のいとしいジャックは、生きかえるはずもなかった。ジャックはそこに氷のように冷たく硬直して横たわっていたから、手まねきされても動ける道理がなかった。彼は死んでしまったのだし、そこへ行く道は一方交通なのである。私はそれを知っていた。そして、ほっとした。そんなことにむだな涙を流すようなことはしなかった。また、結局『彼』という存在は消滅してしまったのだから、彼が前よりも安楽になったともいえなかった。彼は、これまで耐えてきた苦しみと、知らずに他人におしつけていた苦しみとを背負って、去って行ったのである。アーメン! 私はそうひとりごとを言い、それと同時に、多少気が立っていたせいか、大きなおならを一発もらしてしまった――棺のすぐそばで。
この、あまりものごとを気にしてはいけないという考え方は、私がはじめて恋をしたころまではつづいていたように思う。その初恋のときも、たいして私は気にしなかった。もし私が本当にそれに熱をあげていたら、いまここでこんなことを書いてはいなかっただろう。失恋の悲しみに耐えかねて死ぬか、あるいは相手を殺して自分も絞首刑になっていただろう。いずれにしろ悪い経験であった。なぜなら、それは偽りの生活のしかたを私に教えたからである。笑いたくないのに笑ったり、働くのはばかばかしいと思いながら働いたり、生きながらえるべき理由のないのに生きながらえたりすることを。私は、彼女をすっかり忘れ去ってからも、自分の納得のいかぬことをするこつだけは身につけていた。
前述したとおり、最初から、すべてが渾沌《こんとん》としていた。しかし、ときおり私は、その混乱の中心部に、あまりにも焦点のすぐそばへ、近づきすぎた。私の周囲の事態が紛糾《ふんきゅう》しなかったのは、むしろふしぎというべきであったろう。
なにもかも戦争のせいにするのが、当代のならわしである。私は、戦争などは私と――私の人生と――なんの関係もなかったと言いたい。他の人たちが、それぞれ安楽な職業についていたとき、私は、みじめな職を転々とし、その日の暮しに事欠くありさまであった。やとわれたと思うと、それもつかのまで、すぐにまた馘《くび》になった。私は豊かな知性をもっていたが、人々に不信を抱《いだ》かせる傾向があった。行くさきざきで悶着《もんちゃく》をひき起した。それは、私が理想家|肌《はだ》であったためではなくて、あらゆることがらのくだらなさと無益さとを、さながら探照燈で照らし出すように明るみにさらけ出して見せたからである。おまけに私は、とぼけることが下手《へた》だった。そのために、心に思っていることがすぐ態度に出るのではないかと思う。そして、職を求めに行っても、その職にありつこうとありつくまいと、どうでもかまわないと心に思っていることが、たちまち相手に見抜かれたのかもしれない。そんなわけで、たいがい私は失敗した。しかし、しばらくするうちに、そうしてただ職を探しあるくことが、いわば一種の気ばらしになった。私は漫然と出かけて、ほとんどなんでもかまわず仕事を求めた。それは、ひまつぶしにはなったし――私の見るかぎりでは、働くよりもましだった。一国一城の主《あるじ》だし、自分の時間は、ふんだんにある。ただ、他の国の主《あるじ》とちがって、破産状態に甘んじる覚悟だけは必要であったが。私は、株式会社でもなければ信託会社でもなく、州でも連邦でも国連でもなく――あえてたとえるなら神に近かった。
この状態は戦争の半ばごろまでつづいたが、やがて、ある日ついに網にかかった。とうとう私も死にものぐるいで仕事を探さなければならぬ日がやってきたのである。どうしても仕事を見つけなければならなかった。そこで私は、一瞬も躊躇《ちゅうちょ》することなく、この世の最低の仕事を――メッセンジャー・ボーイの仕事を――探すことに決心した。そして、その日の夕方近く、いっさいの準備をととのえて、コズモデモニック・テレグラフ・カンパニー・オブ・ノースアメリカという電信会社の雇用事務所へ乗りこんだ。私はそのとき、公立図書館から出てきたばかりで、経済学や哲学の分厚い本を何冊か小脇《こわき》にかかえていたのだが、そのためか――まったく驚いたことに、私は就職をことわられてしまったのである。
私を拒絶したのは電話の交換台にいた小柄な男であった。私が、とっくの昔に学校を卒業していることは、願書を見れば、おのずから明らかなはずだが、彼は私を大学生だと思ったらしい。願書には、私がコロンビア大学の哲学博士であることさえ明記されていたのである。しかるに、すげなく私を拒絶したその小男は、それを見落したか、あるいは疑わしいと考えたもののようであった。私は憤然とした。一生一度の決意をして行っただけに、私の憤懣《ふんまん》は、はげしかった。のみならず私は、ある奇妙な状態に高まっていた自尊心を、あえて抑えていたのである。私の妻は、もちろん、いつものとおり私をあざけって、さげすむように横目でにらんだ。もっと本気になって職を探したらどうなの、と言った。私は憤懣やるかたないままに、その晩ベッドに入ってからも、そのことを考えつづけた。夜がふけるにつれて怒りはますますつのるばかりであった。女房と子供を養わなければならないという事実は、たいして気にならなかった。世間は、扶養すべき家族があるからといって職をあたえるわけではないことを、私は、よく承知していたからである。私が憤慨したのは、そのためではなくて、有能かつ卓抜な人物である私、ヘンリ・V・ミラーが、この世の最低の職を求めたというのに、彼らがそれを拒絶したということである。それが、しゃくにさわったのだ。私は、どうしても気がおさまらなかった。それで、翌朝早く、いきおいよくはね起きると、ひげを剃《そ》り、一張羅《いっちょうら》の服を着て、そそくさと地下鉄に乗った。そして、まっすぐに電信会社の本社へ向い――社長室や副社長室のある二十五階のあたりまでのぼって行って、社長に面会を求めた。むろん社長は町へ出ているとか多忙だとかで会えないということであったが、私は副社長でも、その秘書でもかまわないから、会わしてもらいたい、とねばった。結局、副社長の秘書だという、利口そうな、思いやりのありそうな男をつかまえて、私は、しゃべりまくった。あまり激烈な調子にならなぬように心をくばりながら、私がそう簡単に拒絶されるべき人間ではないことを、その男によく納得させようと努力した。
彼が受話器を手にとって総務課長を呼んだときには、こういうふうにして、つぎつぎと私の相手を変えて、しまいに私がしゃべり疲れてあきらめてしまうのを待つつもりなのだろう、と思った。しかし、彼の話しぶりを聞いて、私は、いっぺんにその意見を変えた。山の手の他のビルにある総務課長の事務所へ行ってみると、彼らは私を待ちうけていた。私は坐り心地のいい革《かわ》の椅子をすすめられ、さし出された大きな葉巻を手にとった。総務課長なる人物は、私の話に即座にひどく関心をひかれたらしく、くわしく一部始終を説明してもらいたいと言い、私の説明の片言隻句《へんげんせきく》にまで、大きな毛むくじゃらな耳をかたむけながら、頭のなかでそれをまとめ、そこからなんらかの確証を得ようとしているふうであった。私は、どうしたわけか彼の期待にこたえようと懸命になっていることに、途中で気づいた。たえず彼の機嫌《きげん》をうかがいながら彼の気に入るように話をすすめているのであった。また、そうすることによって、彼がますます私に同情を寄せてくるのを感じた。やっと、多少でも私に信頼を寄せてくれる人間が見つかったのである。私は、ここぞとばかり得意の熱弁をふるった。なぜなら、過去数年間の職あさりによって、私は、こんな場合にはどうしたらよいかをじつによく心得ていたからである。言ってはならぬことばかりでなく、意味ありげな言い方も知っていたし、あてこするような言い方も知っていた。まもなく、課長補佐が呼ばれて、私の話を聞くようにと言われた。そのころには、私にも、ほぼ内情がわかってきた。そのハイミーという課長補佐は(総務課長は彼を『あのユダヤ野郎』と呼んでいたが)、すでに雇用主任として対応する資格をうしなっていたらしい。つまりハイミーは役員の特権を剥奪《はくだつ》されたばかりだったのである。ハイミーはユダヤ人であったが、総務課長も、総務課長が頭のあがらない副社長のツィルガー氏も、ふたりともユダヤ人ぎらいらしかった。
配達人要員中にユダヤ人の占める率が高かったのは、おそらくこの『ユダヤ野郎』のせいだったのだろう。彼らがサンセット・プレイスと呼ぶこの雇用事務所で、要員の雇い入れの仕事の采配《さいはい》を直接ふるっていたのは、ハイミーだったからである。総務課長のクランシー氏が私に語ったところによれば、そのバーンズ氏なる人物は、三十年間も雇用主任の椅子に坐りつづけていて、すでにその仕事にあきがきているのだ、ということであった。クランシー氏にとっては、この事件が彼を平社員に格下げする絶好の機会になったわけでもあろう。
会談は数時間もつづけられた。それが終る前に、クランシー氏は私を別室へ呼んで、私を主任に採用するつもりだと告げた。しかし、私を入社させる前に、特別にはからって、私に仕事を習得させるため一種の見習期間をおき、特殊な配達人として働いてもらう。その期間も、雇用主任としての給料は払うが、それは別個の勘定になる、ということであった。つまり、私は各事務所を転々としながら、それぞれの仕事の内容を見習うことになるわけである。しかも、そのたびごとに各事務所の仕事ぶりを報告し、ときには、内密に彼の家を訪ねて、ニューヨーク市に一〇一もある各支局の状態について、情報を提供しなければならなかった。早い話が、二、三ヵ月スパイをやって、それから社の要職につくというわけである。しかも、やがていつかは総務課長か副社長になれるかもしれないというのだ。かなりいかがわしい仕事ではあるが、まず結構な申し出であった。私はイエスと答えた。
二、三ヵ月後に、私はサンセット・プレイスの椅子につき、さながら悪魔のように人を雇い入れたり首を切ったりしはじめた。そこは、まさに屠殺場《とさつば》であった。やることが非常識をきわめていた。人的資源と労力の浪費にすぎなかった。汗と悲嘆を背景にした、むごたらしい茶番劇であった。しかし、私はスパイの役を引きうけたときと同様に、人を雇ったり首を切ったりする仕事や、それに付随したことを、すべて引きうけた。こうしろと言われれば、なんでも、はい、と答えた。不具者を採用すべからずという副社長の達しが出ると、私は不具者をいっさい採用しなかった。また、もし副社長が四十五歳以上の配達人を全部予告なしに馘《くび》にしろといえば、私は彼らを、なんの予告もせずに馘にした。私は、なにごとも彼らの指示どおりにやったが、おかげで彼らは、その尻《しり》ぬぐいをさせられる格好になった。そして、ストライキが起きたときには、私はただ腕をこまねいて騒ぎの静まるのを待っていた。しかし、ストライキが高価なものであることを実際に見て知ったのは、そのときがはじめてであった。仕事の組織全体がすっかり腐敗し、非人間的になり、不潔になり、救いようのないほど頽廃《たいはい》し、複雑化しているために、それに、なんらかの意味あるいは秩序をもたせるためには、おそらく大天才を必要としたに相違ない。人間的な親切心や配慮などというものは、まさに論外であった。私は、両端の腐りきったアメリカの全労働機構に直面させられたかたちになった。私は、いわば車の五番目の車輪であって、私を搾取《さくしゅ》する以外には、どちらの側にとっても利用価値のない存在であった。いや、私だけでなく、あらゆる人間が搾取されていたのである――社長やその仲間は、見えない力によって搾取されているし、雇用者たちは上司に搾取されるといったぐあいに。私はサンセット・プレイスという小さなとまり木から、アメリカの社会全体を鳥瞰《ちょうかん》してみた。それは電話帳の一ページを見ているようなものであった。アルファベット的に、数字的に、そして統計的には、それも意味をなしている。しかし、いったんそれに目を近づけ、各ページを個々に調べ、あるいは各項目を個々に調べ、そのなかのただひとりの個人を拾って、その個人を構成している要素を調べ、彼が呼吸している空気や、彼のたどった人生や、彼の賭《か》けたチャンスがいかなるものであったかを調べてみたなら、かならず、不潔な、恥ずべき、下劣な、悲しむべき、救いようのない、愚劣きわまりないことが、つぎつぎと目の前にあらわれて、まるで火山の火口をのぞきこんだような慄然《りつぜん》たる思いにおそわれるにちがいない。そこから私は全アメリカ人の生活を見ることができた――経済的にも政治的にも、道徳的にも宗教的にも、芸術的にも、統計学的にも、病理学的にも。それは、さながら老いさらばえた陰茎にとりついた悪性の硬性|下疳《げかん》の様相を呈していた。いや、実際はそれよりもひどかった――なぜなら、もはやそこでは陰茎の形すらも、とどめていなかったからである。たぶん、そのしろものも、過去には生命をもち、なにかを生産し、すくなくとも一瞬の快楽を、一瞬のスリルを味わわせてくれたことであろう。しかし、私が坐っている場所から見ると、それは虫食いだらけのチーズよりも、もっとひどく腐りはてていた。彼らが、その臭気をただよわせて歩かないのが、ふしぎなくらいであった……。私は過去の時制で書いているが、もちろん現在も同様である。いや、現在では、もうすこし悪化しているかもしれない。なぜなら、いまやその臭気は巷《ちまた》に満ちあふれているからである。
ヴァレスカが登場するころまでに、私は数個師団の兵力に匹敵する電報配達人を雇い入れた。サンセット・プレイスの私の事務所は、露天掘りの下水溝《げすいこう》を思わせた。また、そのような臭《にお》いもした。私が最初の溝《みぞ》に飛びこむやいなや、あらゆる方向から、その臭気がどっとおし寄せてきたのである。まず、私が入社してから二、三週間後に馘にした一人の男が、悲嘆のあまりその場で死んでしまった。彼は、私がはっとして話をやめるあいだだけ空をつかんでいたかと思うと、つぎの瞬間には、もう息が絶えていた。まったく、あっという間の出来事で、私は罪悪感を感じるひまさえなかった。私が事務所につく瞬間から、修羅場《しゅらじょう》さながらの状態が、とめどなくつづくのであった。私が出勤する一時間前から(私はいつも遅刻していたので)、すでに志願者がぎっしりつめかけていた。したがって、私は事務所の階段をのぼるのに、文字どおり人の波をかきわけて行かなければならなかった。ハイミーなどは、バリケードにかこまれてしまって動きがとれず、私よりもいっそうひどい目にあっていた。私はそれから帽子をぬぐひまもなく、しばらくは電話の応答に忙殺される。私の机の上には電話が三台あったが、それが全部同時に鳴り出すのだからたまらない。しかも、待ちかねた志願者たちは、私が腰をおろして仕事にかかる前に、口やかましくわめきたてるのである。こうして、午後の五時か六時まで、小用をたす時間すらなかった。ハイミーなどは、一日じゅう交換台に坐りづめで、私よりも、もっとひどい目にあっていた。朝の八時から夕方の六時まで、ひっきりなしに遊軍のやりくりに忙殺されていたのである。遊軍とは、各支局が相互のあいだで一日か半日だけ融通しあう配達人のことである。一〇一もある各支局のどの一つも、十分な人員をかかえていなかった。したがって、私はその間隙《かんげき》を埋めるために躍起となって人を雇い入れ、一方ハイミーは、遊軍の駒《こま》をチェスのように動かしていなければならなかったのだ。奇蹟《きせき》的に、一日だけは、なんとかすべての間隙を埋めることができても、翌朝は、まったく前と同じ状態か、もっと悪い状態になっているのを発見するのであった。おそらく、配達人要員のうちで固定しているのは二割くらいなもので、あとはみな浮草であった。固定要員たちは、新参者を追い払った。彼らは週に平均して四十ドルないし五十ドル稼《かせ》ぎ、ときには六十ドルか六十五ドルないしは百ドル近くの収入があった。つまり、普通の平社員よりもはるかに多くの収入をあげていて、しばしば彼らの監督の給料をしのぐ場合すらあったのである。ところが、新参者になると、週に十ドル稼ぐのもむつかしかった。なかには、一時間働いただけで仕事に見切りをつけ、電報の束を屑箱《くずばこ》やどぶに捨てて、やめてしまうものもいた。しかも彼らは、やめるとすぐ給料を払ってくれと要求するのである。しかし、それはむりだった。なぜなら、この仕事の経理は、はなはだ複雑な仕組みになっていて、一人の配達人がどれだけ稼いだかは、すくなくとも十日たたなければ判然としなかったからである。私は最初のうちは、志願者をそばに坐らせて、仕事の内容を懇切丁寧に説明してやった。声がかれるまでそれをつづけた。だが、まもなくその労力を節約して、きびしい訊問《じんもん》にふり向けなければならぬことを知った。彼らは、揃《そろ》いもそろって、悪辣《あくらつ》なペテン師とまではいかなくとも、生来の嘘《うそ》つきばかりであった。その大部分は、何度も雇われては馘《くび》になった経歴の持主であり、なかには、他の職を探すための絶好の足がかりと心得てくるものさえあった。電報配達人をしていれば、普通なら立ち入る機会のないようなさまざまな会社や事務所を訪ねることが多いからである。さいわい、志願用紙をくばる役をしていた守衛のマックガヴァーン老人が、信頼のおける男で、しかもカメラのような目をもっていた。それに、私の背後には何冊かの大きな原簿があり、それには、いままでにここで採用された志願者の記録が残らず保存されていた。それは、警察の犯罪記録書とよく似ていて、あれやこれやの犯罪を表示する赤インクの記号でうずまっている感じがした。私はその証拠書類を一目見て、たいへんなところへ勤めたものだと思った。ほとんど、どの名前を見ても、窃盗《せっとう》だの、詐欺《さぎ》だの、狂暴性ありだの、痴呆《ちほう》性、変態、白痴などの文字が見られた。なかには、『要注意――癲癇《てんかん》をおこす癖あり!』『採用すべからず――黒人なり!』『警戒を要す――ダネモラかシン・シン刑務所に服役せることあり』などという注意書もあった。
もし私が礼儀作法などにこだわる人間であったら、採用されることもなかったであろう。私は、すばやく仕事のこつをおぼえなければならなかった。しかもそれは、それらの記録や周囲のものに教わるのではなく、経験によって会得すべき性質のものであった。志願者を判断する基礎材料は無数にあった。私は、それらを一目見て、すばやく決定しなければならないわけだが――たとえジャック・ロビンソンほど手早くやれたとしても、わずか一日で採用できる数は、たかが知れていた。しかも、いくらたくさん雇い入れても、それで足りるということが全然なかった。翌日には、また同じことがくりかえされた。たった一日しかつづかないことがわかっているものでも、雇わないわけにはいかなかった。そもそもこの機構そのものがまちがっていたのだが、そんな機構などを批評するのは、私の柄ではなかった。私はただ雇ったり馘にしたりする役目しかもっていないのだから。私は、非常な速度で回転している円盤の中心にいた。中心以外では、どんなものも、それにへばりついていられないわけである。それは修理工を必要としていたが、しかし、上役たちの理論によれば、その機械組織には、なんら悪いところはなく、たまに調子の狂うことがあるだけで、それ以外はすべての点で申しぶんがなかった。たまに調子が狂うと、癇癪や窃盗や暴力主義者や性倒錯者、黒人、ユダヤ人、淫売婦《いんばいふ》その他もろもろのろくでなしどもを招き入れることになり――ときにはストライキやロックアウト騒ぎを起すこともあった。しかしながら、彼らの理論によれば、そんなときには、でっかい箒《ほうき》を振りまわして大掃除《おおそうじ》してしまうか、警棒や銃を持ち出して、機構そのものが根本的にまちがっているのだという幻想に悩まされている哀れな白痴どもに、やきを入れてやれば、それでOKなのであった。また、ときには神に関する説教を聞かせたり、会衆一同で合唱したりするのもよかろうし、あるいは、たまにボーナスをやることも望ましい――ただし、それは説得ぐらいではおさまりそうもないほど事態が悪化しかけたときのことである。しかし、概して重要なことは、たえず雇い入れ、首を切りつづけることであった。人的資源と弾薬のあるかぎり、われわれは、そうして溝《みぞ》をうめながら前進しなければならなかった。話は変るが、ハイミーは、しょっちゅう下痢どめの錠剤をのんでいた――糞《くそ》がたまっているのなら、もういいかげんに出てもよさそうなものだが、全然出なかった。まるで小便をしているようなのだ、というのである。便器に汚《よご》れを流しているような妄想《もうそう》にとりつかれていた。事実、彼は一種の催眠状態にあった。彼が面倒をみなければならぬ支局は百を越えており、それぞれの支局に、仮説的とはいわなくとも、たぶんに架空的な配達要員がいて、彼らが実在するものであろうと架空のものであろうと、雲をつかむようなものであろうとなかろうと、私が穴埋めをしているあいだ、ハイミーは朝から晩まで彼らを動かしていなければならなかった。これもまた、まったく空想的な仕事であった。なぜなら、新参者を急用でどこかの事務所へ派遣しても、はたして今日つくか明日つくか、あるいは永遠につかないか、まったくわからなかったからである。あるものは、地下鉄のなかで消え、あるものは摩天楼の迷路のなかで行方《ゆくえ》不明になった。またあるものは日がな一日エレベーターに乗って遊んでいた。制服を着ていれば自由にエレベーターに乗れるわけだし、おそらく彼らはそれまでエレベーターに乗って一日を遊び暮したことなどなかったのであろう。なかには、ステイテン島(ニューヨーク湾内の島)へ出かけて、ついでにはるばるカナリーズ(西インド諸島)まで足をのばすやつもいたし、また昏睡《こんすい》状態になって警官につれもどされてくるやつもいた。また、なかには、自分の住家を忘れて完全に姿を消してしまうものもいた。ニューヨークの要員として雇ったやつが、一ヵ月後には、けろりとしてフィラデルフィアの支社にあらわれることもあった。また、目的地へ向って出かけたものの、途中で新聞売りのほうが割がいいように思えて、そちらへ鞍《くら》がえして、会社から支給された制服を着たまま新聞を売っていたものもいる。また、あるものは、なにか奇妙な自己防衛本能にかられて、まっすぐ留置場へ行ってしまった。
ハイミーは、朝、事務所へつくと、まず鉛筆をけずる。どんなに電話がかかってきても、彼は頑《がん》としてそれを無視して、念入りに鉛筆をけずり立てる。後日、彼が説明したところによると、なによりもさきに鉛筆をとがらしておかないと、それっきりけずるひまがなくなるのだという。つぎに彼は、窓の外をちらと眺《なが》めて、その日の天気の模様を見る。それから、いつもそばにおいてある石板の上端に、けずったばかりの鉛筆で小さな四角を書き、そのなかに天候報告を書きこむ。これは、しばしば有力な弁解の資料になるのだと彼は説明した。もし雪が一フィートもつもったり、みぞれで地面がべとべとに濡《ぬ》れていたりしたら、これ以上敏速に遊軍を配置することができないといって弁解できるし、雇用主任も、そんな日には、完全に配達要員を補充できなくても許されるのではなかろうか、というのである。しかし、彼が鉛筆をけずってからすぐ電話交換台にとじこもる前に、なぜ小用をたしに行かないのか、私には、ふしぎでならなかった。その理由についても、彼は後日私に説明してくれた。要するに、一日のあいだには、きまって、さまざまな悶着《もんちゃく》が起きたり、苦情が出たり、便秘状態や空隙《くうげき》ができたりして、仕事が中断されるわけである。事務所の一日は、まず、とてつもなく音がでかくて臭気の強い放屁《ほうひ》や、くさい息や、過敏な神経や、癲癇《てんかん》や、脳膜炎や、低賃金や、未払いになっている給料や、破れた靴や、たこや底豆、扁平足《へんぺいそく》やガニ股《また》、落すか盗まれるかした万年筆、どこかへおき忘れた手帳、どぶに浮んでいた電報、豪雨で切られた電信線、能率的な新方式、廃棄された旧方式、いつかは暮しが楽になるだろうという希望、いつまでたっても出ないボーナスに対するうらみがましい祈りなどからはじまる。新米の配達人どもは、勇ましく塹壕《ざんごう》からとび出して突撃し、機関銃で撃ち倒され、古参者どもは、大きなチーズのかたまりに食らいついたネズミのように、下へ下へともぐる。満足しているものは一人もいず、とくに一般市民の不満はひどかった。サンフランシスコから送信されるのに十分もかからない電報が、名宛人《なあてにん》にとどくまでには、一年かかるかもしれないし――へたをすると全然とどかないかもしれないのだ。
アメリカのいたるところで、働く少年の風紀の改善につとめているYMCAが、昼休みの時間に集会を催すことになったが、私は、その席で特別講演するというウィリアム・カーネギー・アスタービルト・ジュニアの五分間ばかりの説教を聞かせるために、おかしな格好をした社の少年たちを、わざわざ出席させる気になれなかった。また、福祉連盟のマローリ氏は、仮出獄している模範囚のうち、電報配達人でも、他のどんな仕事でもいいから使ってもらいたいという希望をもっているものについて、私と相談したいから、時間をさいて会ってほしいと申しこんできた。また、ユダヤ人救済会のグーゲンホッファー女史は、家族に病弱者や不具者や廃疾者がいるために苦境におちいっている貧困家庭を援助してもらえないだろうかと言ってきた。家出少年の救済事業をしているハガーティ氏は、この仕事に向いた少年が何人かいるから使ってほしい、と言ってきた。それらの少年はみな継父や継母にいじめられて家を飛び出したのだそうである。人物については絶対保証するから、よろしく面倒をみてやってほしいというニューヨーク市長の紹介状をもって一人の男がやってきたことがある――だが、なぜ市長自身その紹介状の持参者に仕事をあたえないのか、私はふしぎでならなかった。私の肩の上に上体を乗り出させて、男は、たったいま、なにやら書きしるした紙片を黙って私に手渡した――『ぼくは、なんでもわかるのですが、耳がきこえないのです』ルーサー・ウィンフレッドと名乗る男が、ぼろぼろのコートの前を安全ピンで合わせて、彼の横に立っていた。ルーサーは七分の二は純粋のインディアンで、あとの七分の五がドイツ系アメリカ人だという。同じインディアンでも、彼の場合はモンタナ州のクロー族である。彼がそれまでやっていたのは、窓に日除《ひよ》けをとりつける仕事であったが、いま持っているズボンはみな尻《しり》がぬけているので、ご婦人の前でハシゴにのぼるのが恥ずかしいのだ、と言い、昨日さる病院を出たばかりで、まだすこし足腰がふらつくけれども、電報を配達するくらいのことはやれると思う、とも言った。
それからフェルディナンド・ミッシという男――私がこの男を忘れるはずはなかった。彼は私とひとこと言葉をかわすために、午前中ずっとならんで待っていたのである。私は、彼が何度も送ってよこした手紙に全然返事を出していなかった。私はまちがっていたのでしょうか?――と彼は丁重な口ぶりでたずねた。もちろん、まちがっている、と私は答えた。私は、彼が看護人をしていたグランド・コンコースの犬猫病院から私に送った最後の手紙を、ぼんやり思い出していた。彼は、その職をやめたことを後悔している、と言い、『しかしそれは、私の父が口やかましくて、私に、なんの娯楽も、戸外の慰安もあたえてくれなかったからです』と言った。さらに『私はもう二十五歳です。もはや父といっしょに寝るべきではないと考えます。あなたは、たいへん立派な人だとうけたまわっておりますし、私も、独立する以上、あなたのご厚情によって――』信頼すべきマックガヴァーン老人が、フェルディナンドの横に立って、私が合図するのを待っていた。彼はフェルディナンドを追い帰そうとしていたのである――なぜなら、いまから五年前にフェルディナンドが制服を着たまま本社の前の歩道の上にひっくりかえり、癲癇《てんかん》の発作を起したことを、マックガヴァーン老人は、よくおぼえていたからである。いや、ことわるわけにはいかない。私は、この哀れな男に、チャンスをあたえてやるつもりになった。比較的仕事のひまな中国人町へやることにしよう、と考えた。こうして、フェルディナンドが奥の部屋で制服に着替えているあいだ、私は、『この会社の成功発展のために尽力したい』という天涯の孤児の弁舌を聞かされていた。もし私を雇ってくれるなら、私は、毎週日曜日、教会へ行ったときに、あなたのために祈ってあげたいと思う――ただし、執行猶予中なので、係官に報告に行かなければならない日曜日は、かんべんしてもらいたい、というのであった。彼は、べつに悪いことをしたわけではなさそうである。仲間の少年をちょっと押したところが、相手がよろけて倒れたひょうしに頭を打って死んでしまったものらしい。つぎは――ジブラルタルの元領事である。きれいな字を書く男である。あまりにきれいすぎる。私はこの男に、夕方もう一度きてほしい、と言った。――どこか、くわせものみたいな感じがした。そうこうするうちに、フェルディナンドが着替え室で発作を起した。きわどいところで助かったわけである。もし地下鉄などで発作を起したら、私は、たちまち馘《くび》になるところであった。つぎは――腕の一本しかない男だ。マックガヴァーンが出口を指さして見せたものだから、まっ赤になって怒っていた。「ばかやろう! おれは、体《からだ》はぴんぴんしてるし、力だって強いんだぞ!」彼はそうわめきたてたかと思うと、それを証明するために、たくましい片腕で椅子を持ちあげて、こなごなに打ち砕いてしまった。私が机へもどると、私あての電報が一通、その上にのっていた。開いてみると、SW支社の元電報配達人ジョージ・ブラシューからのものであった。「こんなに早くやめなければならなくなったことは、はなはだ残念ですが、この仕事は怠惰な私の性格に合いませんし、私も労働と質素倹約の熱烈な礼讃《らいさん》者ではありますが、しかしながら人間というものは自分の自尊心を抑制しえなくなるときが、しばしばあるものです」くそったれめ!
当初のうちは、上からは頭をおさえられ、下からは足かせをはめられながらも、とにかく熱狂的に仕事をした。私は理想をもって、副社長がよろこぼうとよろこぶまいと、それを実行に移した。ほとんど十日ごとに叱《しか》られ、『あまりに大胆すぎる』という理由で説教をくった。私は自分のポケットには金をもっていなかったが、他人の金を自由に使うことができた。社の雇用主任だということで信用があったのだ。私は平気で人に金をくれてやった。洋服でも、下着でも、本でも、余分なものは、ことごとく人にあたえた。もし私がその実権を握っていたら、寄ってたかって私にせがむ貧乏な亡者どもに、会社までそっくりくれてやったことだろう。私は十セントくれといわれると五十セントやり、一ドルほしいといわれると五ドル渡した。どんなに多額の金でも、気前よくあたえた。なぜなら、貧しい悪魔どもにことわるより、よそから借りて渡すほうが気が楽だったからである。私は貧しい自分の生涯中に、これほど悲惨な人間どもの集団を見たことがなかった。したがって私はそれを二度と見たくなかったのである。人間はあらゆる点で貧しかった――過去もつねにそうであったし、将来もつねにそうであるだろう。しかし、その底には目に見えないほど小さな焔《ほのお》が燃えていた。そして、その火をかきたてる勇気さえあれば、炎々と燃えあがらせることもできるのである。私は、思いやりをかけすぎるな、感傷的になりすぎるな、と絶えず戒められた。きびしく、冷酷にやれ! 彼らは私にそう注意した。くそくらえだ! おれは、あくまで寛大に、思いやり深く、すなおに、慈悲と寛容とまごころをつくそう、と私は心ひそかに反駁《はんばく》した。そして、当初のうちは、一人一人の話に、終始熱心に耳をかたむけた。もしその男に職をあたえることができず、しかも私が金を持っていない場合には、タバコをやるか勇気をつけてやるかした。とにかく、あたえることに専心した! こうして私は、じつに瞠目《どうもく》すべき結果を得た。親切な行為、ないし誠意のある言葉の効果は、まことにはかり知れないものがあった。私は、それと交換に、大きな感謝と、好意と、かずかずの招待と、感傷的ながら心のこもった、ささやかな贈りものとを受けたのである。もし私が荷馬車の第五の車輪ではなくて、強大な実力を有していたなら、およそ成しとげえないことはなかっただろうと思う。コズモデモニック電信会社を、人類を神へ送りとどけるための基地にすることもできただろうし、北アメリカや南アメリカやカナダを同じように変革することもできたにちがいない。私はその秘訣《ひけつ》を知っていた。それは、親切であること、寛大であること、忍耐強いことである。私は五人ぶん働き、三年のあいだ、ほとんど眠らなかった。また私は、満足な下着一枚もっていなかった。朝出がけに電車賃がなく、かといって妻に借りるのもいやだし、子供の貯金をくすねるのもおとなげない気がしたので、地下鉄の駅の盲目の新聞売りの男をだましたこともある。方々から、あまり借金しすぎたので、もしそのまま二十年も働いていたら、おそらく返済しきれないほどの額になったにちがいない。私は、金をもっている人たちからとって、困っている人たちにわけてやった。それは正しいことであったし、もし私が、ずっと同じ地位にいたなら、なんべんでも、同じことをくりかえしたにちがいない。
私はまた、前述した労務者のすさまじい変動をぴたりととめるという奇蹟《きせき》をすらやってのけた。これはだれしも望んでさえみなかったことであった。だが、経営者たちは、私の努力を支援するどころか、陰《いん》にこもった手段で、それを妨害した。彼らの理論によれば、賃金が高すぎたから労務者の変動がなくなったのだ、ということになるらしい。だから彼らは賃金をへらした。それはまるでバケツの底をぶち抜いたようなものであった。全組織が、いっぺんにくずれて、私の頭上にのしかかってきたのである。しかし彼らは、なにくわぬ顔で、ただちにその穴うめをするように、と私に命令した。そして、彼らの受けた打撃を、いくぶんでも緩和するためには、ユダヤ人の比率を増加させてもいいし、ときには、どうにか仕事のできる程度の不具者なら採用してもかまわないとか――その他、これまで厳禁していたことをすべて許す、と言いだしたのである。私は腹立ちまぎれに、なんでもかまわず手当り次第に採用しはじめた。もし、電報を配達するために必要なわずかばかりの知能を野馬やゴリラに授けることができるなら、たぶん私は野馬でもゴリラでも採用したことだろう。数日前までは、締切時間には、わずか五人か六人の欠員しかなかった。ところがいまは、三百人から五百人ぐらいの欠員ができた――配達員たちは、まるで砂が穴から漏れるようにどんどんやめて行ったからである。それは、まったく信じられないほどであった。私は椅子にふんぞりかえったまま、一言も質問せずに、志望者を束にして採用した。黒人、ユダヤ人、中風《ちゅうぶ》病み、不具者、前科者、男娼《だんしょう》、狂人、変質者、白痴、その他、二本の足で立って片手に電報を持てるものなら、どんないかさま野郎でも採用した。そのため、一〇一もある各支局の支局長たちは、震えあがってしまった。私は一日じゅう笑いつづけた。自分の手で生みつつあるてんやわんやの結果を想像すると、おかしくて、笑いがとまらなかった。予想どおり、各方面から、いっせいに苦情が舞いこんできた。配達業務は遅滞し、半身不随になり、麻痺《まひ》してしまった。私が雇い入れた白痴どものなかには、常識では考えられないほど足のおそい連中が、かなりいたのである。
新時代の長所は、婦人配達員の採用という形となってあらわれた。これは社内の雰囲気《ふんいき》を一変した。わけてもハイミーにとっては、じつに思いがけない神の賜物であったらしい。彼は配達員の配置表をいじくりまわしているときにも私のほうがよく見えるように交換台の位置を移動した。仕事がふえたにもかかわらず、彼は嬉々《きき》として働いた。笑顔で出勤し、一日じゅうにこにこしていた。彼はまさに天国にいるようであった。一日の仕事が終るころには、一応くどいてみる価値のある女が、たいがい五、六人は見つかった。それらの女に、職場をあたえるという約束をし、うまく口車に乗せて目的をはたすわけである。女たちを夜中に事務所へひきずりこんで化粧室のトタン張りのテーブルの上でことをすませるためには、たいがい、ただ餌《えさ》を食わせるだけで十分だった。ときたま、相手がこぢんまりとしたアパートの一室を持っている場合には、ベッドのなかで取引をすませた。酒の好きな女の場合には、ハイミーは酒壜《さかびん》をかかえて行った。そして、相手が親切にしてくれ、しかも実際に金に困っているときには、ハイミーは景気よく札ビラをきり、そのときの情況に応じて、五ドルか十ドルくらい握らせてやった。私は、彼がいつもポケットに用意しているその札ビラのことを思うと、うらやましくてならなかった。彼がそれをどこで手に入れたのか、私には、まったく見当がつかなかった。なぜなら彼は社内で最も給料が安かったからである。しかし彼は、いつも札束をポケットに入れていて、私が頼むと、いくらでも貸してくれた。しかも、ある日、予期しないボーナスが入ったので、私が彼から借りていた金を残らず返済すると、彼はすっかり恐縮して、その晩、私をデルモニコに招待し、気前よく散財した。そればかりか、翌日は私に帽子とシャツと手袋を買って贈りたいといってきかなかった。あげくのはてに、女房はいま子宮炎をわずらっているが、もしよかったら貸してあげるから、家へ遊びにきてもらいたい、と言いだす始末であった。
ハイミーとマックガヴァーンのほかに、二人の美しい金髪女が私の助手に加わっていて、私たちは彼女たちを夕食に誘うことが多かった。それに、フィリピンから帰ってきたばかりの私の古い友人オマラ――私は彼を主任助手にしていたのである。このほかに、用心棒としてスチーブ・ロメロという豪傑がいたし、またオラークという会社の探偵が、いつも夕方になってから報告にあらわれ、それから仕事にとりかかった。最後に、これらの社員のほかに、もう一人、クロンスキという若い医学生が加わっていた。彼は、われわれの職場にふんだんに見られる病理学上の実験対象に、悪魔的な関心を抱《いだ》いている男であった。とにかく、われわれは、なんとかして会社側の目をごまかして甘い汁を吸おうという欲望で結びついた愉快な仲間であった。会社側の目をごまかしながら、私たちは片っぱしから女に手をつけた。ただし、オラークだけは例外であった――彼は威厳を保つ必要があったし、おまけに性器の一部に故障があって、女をくどくことには、まったく興味をうしなっていたからである。しかし、この男は、なかなかの聖君子で、底ぬけに寛大だった。われわれを、たびたび夕食に招いてくれたのも、また、なにかいざこざが起きたときにわれわれの相談にのってくれるのも、オラークであった。
以上が、二年ばかり後のサンセット・プレイスの概況である。私はそのあいだ、多種多様な人間性にふれ、多彩な経験をつんだ。そして、いつかその体験を記録する機会がきたときに使うつもりで、気分の落ちついたときに、その覚え書きをつくっておいた。それからまもなく、私が、ある気まぐれな怠慢行為について注意を受けていた際に、副社長が、ふと、ちょっと気になる言葉を洩《も》らした。「電報配達人を題材にして、だれかホレーショ・アルジャーばりの小説を書いたらおもしろいだろうと思っているのだが、きみ、ひとつ書いてみたらどうかね」というのである。私は、彼という人間の愚劣さかげんに、いささか腹がたっていたが、心中ひそかに思うところがあって、内心ほくそえんだ。待て、待て。もうすこしたったら、おれが思うぞんぶん書きまくってやる! いかにもホレーショ・アルジャーばりにな! それまで待っていてくれ! 彼の部屋を去るとき、私の頭のなかを、いろいろな想念が、めまぐるしくかけめぐっていた。大勢の老若男女が、私の手のあいだを通りすぎながら、泣きわめき、嘆き訴え、呪《のろ》い、罵《ののし》っているのが見えた。彼らがハイウェイに残していったわだちの跡、床の上に横倒しになった貨物列車、ぼろをまとった親たち、空《から》っぽの石炭箱、水のあふれている流し、汗をかいた壁、その冷たい汗のしずくのあいまをぬって狂ったように駆けまわっている油虫なども……。彼らが体のねじけた小鬼のような格好で、びっこをひきながら歩いて行く姿や、癲癇《てんかん》の発作を起して、ゆがめた口のあいだから、だらだらよだれを流し、手足をひきつらせながら、うしろへひっくりかえる姿が見えた。壁がぱっくり割れて、害虫の群れが、まるで翼のある流動物のように湧《わ》き出してくる。しかも連中は、確固たる理論にもとづいて超然と構え、それが過ぎ去るのを待っている。口に大きな葉巻をくわえ、机に足をのせて、ものごとというものは、たまには調子が狂うことがあるものさ、などとうそぶきながら、いささかも動ぜず、すべてが無事におさまるのを、のほほんと待ちつづけているのが、私の目には、ありありと見えた。病めるアメリカの夢であるホレーショ・アルジャーの小説の主人公が、つぎつぎに出世し、電報配達人をふり出しに、電話交換手から主任になり、課長、局長、副社長、社長に昇進し、さらには実業界の大立者《おおだてもの》になり大御所になり、それから全アメリカの支配者になり、金力の神になり、神のなかの神、人のなかの人になり、高遠な無に、小数点以下九万七千個のゼロのつづく状態へと近づいて行くのが、私には、手にとるように見えた。私はこうひとりごちた――ばかやろう。そんなにおれの小説が読みたければ、十二人のまったくゼロにひとしい人間が、いくら踏みつぶそうとしてもつぶれない十二匹のウジ虫が、きさまの腐った会社の土台に穴をあけてゆくありさまを、綿密に描いてお目にかけようじゃないか。すべての汚濁と臭気の払い清められた黙示の翌日のホレーショ・アルジャーの姿を、とっくりとお目にかけようじゃないか。
世界のあらゆる国の人間が、救いを求めて私のもとへやってきた。未開の蛮族をのぞけば、その群団に加わっていない民族は一つもないといってよかった。アイヌ人、マオリ人、パプア人、ヴェダ人、ラプランド人、ズールー人、パタゴニア人、イゴロート人、ホッテントット人、トアラ人などをのぞき、また、いまは滅亡してしまっているタスマニア人、グリマルディ人、アトランタ人などをのぞけば、地上のあらゆる種族の代表者がきていた。いまだに太陽を崇拝している二人の兄弟は、古代アッシリア帝国にその源を発するネストリウス派の後継者であった。また、マルタ島生まれのマルタ人の双児《ふたご》や、ユカタン生れのマヤ人の末裔《まつえい》もいた。フィリピン生れの私たちの褐色《かっしょく》の同胞も数名いたし、アビシニア帝国のエチオピア人も何人かいた。アルゼンチンの大草原育ちの男もいたし、モンタナで食いはぐったカウボーイもいた。ならべたてればきりがないが、ざっと挙《あ》げると、ギリシア人、レット人、ポーランド人、クロート人、スロヴェニア人、ルーシニア人、チェック人、スペイン人、ウェールズ人、フィンランド人、スウェーデン人、ロシア人、デンマーク人、メキシコ人、プエルト・リコ人、キューバ人、ブラジル人、オーストラリア人、ペルシア人、日本人、中国人、ジャワ人、エジプト人、アフリカの黄金海岸と象牙《ぞうげ》海岸に住むアフリカ土人、ヒンズー人、アルメニア人、トルコ人、アラブ人、ドイツ人、アイルランド人、イギリス人、カナダ人――その他無数のイタリア人とユダヤ人などがいた。私の記憶にあるかぎりでは、フランス人は一人しかいず、その一人も、わずか三時間しかつづかなかった。アメリカ・インディアンも数人いた(大半はチェロキー族だった)が、さすがにチベット人やエスキモー人は一人もいなかった。また私は、いまだかつて夢想だにしなかったような名前や、楔形《せっけい》文字はもちろんのこと、ややこしくも美しく鮮《あざ》やかに書かれた漢字にいたるまで、かずかずの筆跡をみることができた。さらに私のもとに職を求めてきた男たちの前歴も種々さまざまで、エジプト学者、植物学者、外科医、金鉱探し、東洋語の教授、音楽家、技師、内科医、数学者、天文学者、人類学者、化学者、もろもろの都市の市長や各州の州知事、刑務所の看守、カウボーイ、木材切出人、船員、皿洗い、荷揚げ人足、リベット工、歯科医、画家、彫刻家、鉛管工、建築師、麻薬密売者、堕胎師、白人奴隷商、潜水夫、とび職、百姓、紳士服のセールスマン、罠《わな》専門の猟師、灯台守り、私娼窟《ししょうくつ》のぽんびき、市会議員、上院議員、その他、白日の下に行われるあらゆる殺伐なことが彼らの生業となっていた。彼らは、あとからあとからひきもきらずに押しかけてきた――仕事を、タバコ代を、車代を、チャンスを求めて。おねがいです、神さま、もう一度チャンスをめぐんでください! もしこの世に聖者がいるとするなら、これこそ聖者というものだろうと思えるような人間にも何度か会った。いかにも食べすぎらしい学者や食い足りないらしい学者にも数多く会って、話をかわした。また、内奥に神火を抱《いだ》き、もう一度チャンスをあたえられる価値はあるが、コズモデモニック電信会社の副社長になる価値はないことを、全能の神に確信させることのできる人たちの話にも、私は、たびたび耳をかたむけた。私は自分の机に釘《くぎ》づけにされながら、電光のごとき速度で世界じゅうを旅行してまわった。そして、どこへ行っても同じように、飢えや屈辱、無知、悪徳、貪欲《どんよく》、搾取《さくしゅ》、陰謀、拷問《ごうもん》、独裁、人間が人間に加える残虐行為、手かせ足かせ、鞭《むち》、拍車のあることを知った。人間は、才知がとぼしければ乏しいほど、世の風当りが強いようだ。彼らは、あのぶざまな屈辱的な最低の制服をまとって、ニューヨークの市中を歩きまわった。海雀《うみすずめ》か、ペンギンか、去勢牛か、飼いならされたアザラシか、狂ったゴリラか、辛抱強い雌《めす》ロバか、図体《ずうたい》のでっかい雄《おす》ロバか、釣《つ》り餌《えさ》でごまかされている素直な狂人か、ワルツを踊っている二十日ネズミか、てんじくネズミか、リスかウサギのように歩きまわっていた。しかも、彼らのなかのじつに多くが、世界を支配するにふさわしい人間であり、他に類のない偉大な本を書くにふさわしい人間であった。私の知っている何人かのペルシャ人やヒンズー人やアラブ人について考え、彼らの性格や資質、優雅さ、聡明《そうめい》さ、高潔さを思いあわせてみるとき、私は堕落したイギリス人や強情なドイツ人や狡猾《こうかつ》で独善的なフランス人など、世界の征服者である白人に、はげしい侮蔑《ぶべつ》感をおぼえた。そもそも地球は、一個の大きな有情の存在であり、人間の飽充した天体であり、ためらいながら訥々《とつとつ》として自己を表現する生きた天体なのだ、それは、白色人種の住家でもなく、黒色人種、あるいは黄色人種、あるいは所属不明の灰色人種の住家でもなくて、人間の住家なのである。人間は神の前では平等であり、たとえいまはそうでないとしても、これから百万年後には、そうなるはずのものなのだ。フィリピンの褐色《かっしょく》の同胞も、いつかはふたたび繁栄するであろうし、殺戮《さつりく》された南北アメリカのインディアンも、いま各大都市が煤煙と悪疫を噴きあげている大平原を、ふたたび馬に乗って疾駆する日がくるであろう。最終の決定権を握っているのはだれか? 人間だ! 地球は人間のものなのだ。なぜなら、人間は地球であり、その火であり、水であり、空気であり、その鉱物質および植物質であり、また、広大無辺にして不朽不滅であるあらゆる天体の精神に通じる精神、人間を介して変容し、無限の表象と表示とによって変容する精神であるからだ。待て、電信会社の俗物ども、鉛管の修理工事の終るのを待っている天上の悪魔ども、待て、きさまらの鬼畜の蹄《ひづめ》と、機械と武器と病菌とで地球を汚《けが》しまわったけがらわしい白人の征服者ども、豪奢《ごうしゃ》な椅子に安閑と坐って銭勘定ばかりしているばか者どもよ、待て、話はまだ終っていないのだ。この物語が終る前に、最後の人間に心ゆくばかり語らせようではないか。最後の有情の分子にいたるまで、公平に扱われるべきだし、また扱われるだろう。だれもが、わけても北アメリカの俗物どもは、すべて公平な裁《さば》きを受けるはずである。
やっと私が休暇をとれるときがきたとき――私はそれまで、会社の繁栄のためにつくすのに熱心なあまり三年間に一度も休暇をとらなかったのであるが――思いきって三週間の休暇をとり、十二人の男に関する本を書きはじめた。一日五、六千語、ときには八千語も書きまくった。私は、いやしくも作家たるべきものは、一日にすくなくとも五千語は書かなければならないと考えていた。一瞬にして――一冊のなかで――すべてを言いつくし、しかる後に斃《たお》れる底《てい》の覚悟が必要だと考えていた。文章作法などは、まったく知らなかった。心細いかぎりであった。だが私は、北アメリカ人的意識からホレーショ・アルジャーを拭《ぬぐ》い去る決心だけはしていた。おそらくそれは古今|未曾有《みぞう》の悪書であったろう。原稿は厖大《ぼうだい》な枚数にのぼり、はじめから終りまで、まちがいだらけであった。しかし、それは私の処女作であり、私はそれに惚《ほ》れこんでいた。ジッドが言ったように、もし私が金をもっていたなら、自費で出版しただろう。ホイットマンが言ったような勇気を、もし私がもっていたなら、私はそれを戸ごと売りあるいただろう。私が原稿を見せた人はみな口をそろえて、ひどいことを書くものだと批評した。本を書くなどというだいそれた考えは捨てたまえと忠告した。人は一人前の署名ができるまでに自分の名前を何万べんも書かなければならないと言ったバルザックの言葉が、いまさらのごとく思い出された。書きはじめてから間もなく、本を書くためには、すべてを断念し、書く以外のことを、なにもしてはならないこと、そして、たとえ世界じゅうの人間がそれに反対しても、たとえだれひとり自分を信じなくても、書いて書いて書きまくらなければならないことを、思い知らなければならなかった。たぶんだれも自分を信じないからこそ書くのかもしれない。ありていにいえば、人々を信じさせたいために書くのであろう。その本が、彼らの言うように妥当性を欠き、まちがいだらけで、へたくそで、まことに恐るべきものであったとしても、それは当然である。私は天才が最後にとりあげそうな問題に最初から取り組もうとしたのだ。最後の言葉を最初に言おうとしたのだ。それは、はなはだ不合理な試みであり、あまりにも感傷的すぎたようである。そして、無慚《むざん》な失敗に終ったが、しかしながら、それは私のバックボーンに筋金を入れ、私の血に硫黄《いおう》を入れてくれた。すくなくとも私は失敗がいかなるものであるかを知った。大きな試みがいかなるものであるかを知った。いま、あの本を書いた当時の事情を考え、私がその作品のなかに組み入れようとした圧倒的な素材を考え、私がそのなかに包含させようとした問題を思うとき、ひそかに私は得意の念を禁じえない。私は、あのようなみじめな失敗をしたことを誇りに思う。もし私が成功していたなら、私は人間ではなくて怪物になっていただろう。ときおり古い手帳を開き、私が書こうと思っていた人物の名前を見るたびに、私は、はげしい目まいを感じる。その一人一人の人物が、各自の世界を背負って私の前に立ちあらわれるのである。私の前へやってきては、その荷物を私の机の上にどさりとおろすのだ。彼らは、私が彼らに代ってその荷物を背負ってやることを期待していた。私は自分の世界をつくるひまがなかった。ただアトラスの神のように、天の重みに耐えてじっとしていなければならなかった。象の背の上で両足を踏みしめて……。その象は亀《かめ》の背の上に立っていた。その亀が、なんの上に立っていたかをせんさくするのは、気ちがい沙汰《ざた》というべきであった。
当時私は、〈事実〉以外のことは、なにも考えようとしなかった。事実の底に達するためには、芸術家になる必要があるわけだが、人間は一夜で芸術家になれるわけのものではない。それにはまず徹底的にうちのめされ、自分の思想の相剋《そうこく》に苦しまなければならない。個体としてふたたび生れ変るためには、まず自分を滅ぼさなければならぬ。自我の公分母から浮びあがるためには、自分を炭化し鉱物化しなければならぬ。人間存在の根源でものを感じるためには憐憫の感情を越えなければならぬ。〈事実〉では、新しい天国も地球も創《つく》ることができない。大体、そういくつも〈事実〉があるわけではなくて――強《し》いていえば、世界じゅうのあらゆる場所のあらゆる人間が各自のさだまった道を歩いているという唯一の事実があるだけなのである。あるものは遠い道を行き、あるものは近道を行く。そして、すべての人間が、めいめい思い思いの方法で運命を切りひらいているわけであり、我慢強く親切で寛大になる以外に、だれも他人を助けてやることができないのである。私は熱情にうかされていたために、いまでは明らかなことでも、当時は、なにか不可解なことのように思われた場合が多かった。たとえば私が選んだ十二人の男の一人、カーナハンの場合もそうである。彼は、配達人のなかでは、いわゆる模範生であった。著名な大学の卒業生であり、健全な知識人であり、典型的な人格者であった。彼は毎日十八時間ないし二十時間働き、配達人のなかでは最高の稼《かせ》ぎ高をあげていた。彼が担当した顧客たちは、彼に対する最大の讃辞《さんじ》を書きつらねた手紙を送ってよこした。そこで、しばしば彼は、幹部社員に抜擢《ばってき》しようという申し出を受けたのであるが、さまざまな理由をつけて、その申し出をことわった。彼は他の都市に住んでいる妻と子供たちに給料の大半を仕送りして、自分は、つつましく暮していた。ただ、この男には欠点が二つあった――酒と出世欲である。彼は、一年じゅう一滴の酒も飲まずに暮すことができたが、一滴でものむと正体をうしなうのであった。ウォール街で二度も莫大《ばくだい》な金を握ったことがあるのだが、職を求めて私のところへやってくる前には、すっかり落ちぶれて、どこか小さな町の教会の寺男になりさがっていた。そして、聖餐《せいさん》用のブドウ酒をしこたま飲んで一晩じゅう鐘を鳴らしたために、その職場から追い出された。だが彼は、まじめで、誠実で、熱心であった。私は彼に全幅の信頼を寄せ、その信頼は、なんの汚点もない彼の勤務記録によって報いられた。ところが彼は、残酷にも、自分の妻子を射《う》ち、その拳銃で自分の命を絶とうとしたのであった。さいわい彼らは、だれも死ななかった。一家そろって病院に運ばれ、みんな全快した。彼が刑務所に移されたあとで、私は彼の妻に会いに行き、なんとか彼を助ける方法を講じてほしいと頼んだ。しかし彼女は頑《がん》として私の依頼を拒絶した。あんな卑劣な残酷なけだものは、死刑になったほうがいい――わたしは彼が首をくくられるのを見てやりたい、というのである。私は二日間ぶっつづけに彼女に懇願したが、彼女は、てんで受けつけてくれなかった。私は刑務所へ行き、金網をへだてて彼と話をした。そして、彼がずっと以前から権威筋と親しくしていて、すでにある種の特典をあたえられていることを知った。だから彼は、いささかも意気|銷沈《しょうちん》していなかった。それどころか、獄中のひまな時間を大いに活用して販売術に関する研究をするつもりだとはりきっていた。出所したら、アメリカ一のセールスマンになるつもりだと言った。幸福そのもののようであった。なんとか自分の道を切りひらいて行くから心配はいらないと言った。みんなが自分に好意を寄せているから、なんの不便もない、とも言った。私は半ば茫然《ぼうぜん》としながら彼と別れた。近くの海岸へ行って、めちゃくちゃに泳いでみたくなった。新しい目がひらけたような気がした。この男に関する考察に没頭しすぎて家へ帰るのを忘れてしまった。彼の身にふりかかったあらゆる禍《わざわ》いが福に転じないと、だれが断言できよう。もしかしたら彼はセールスマンになる代りに一人前の福音伝道者となって刑務所を出るかもしれない。彼がなにをやるかは、だれも予測できないのだ。そしてまた、だれも彼を助けることができなかったのである。なぜなら彼は、彼独自の方法で自分の運命を切りひらいて行こうとしていたのだから。
ほかに、グプタルというヒンズー人がいた。この男は、品行方正の見本であったばかりでなく――聖人そのものであった。彼はフルートが大好きで、みすぼらしい小さなアパートの一室にとじこもって、フルートを吹いていることが多かった。ある日、彼が裸のまま咽喉《のど》を耳の下まで切りえぐられて息絶えているのが発見された。枕《まくら》もとにフルートがころがっていた。彼の葬式のときには、彼を殺したアパートの管理人の妻をふくめて多くの女性が熱い涙をしぼった。私がこれまで会ったなかで最も真摯《しんし》な、最も高潔な青年、だれの感情を害したこともなく、だれからも、なに一つ盗んだことがないのだが、平和と愛をひろめるためにアメリカへ渡ってくるという基本的な過《あやま》ちをおかしたこの青年について、ゆうに私は一冊の本を書くことができた。
さらに、もう一人の誠実な、仕事以外のことはなにも考えないほど勤勉な配達人、デイヴ・オリンスキがいた。彼は一つだけ致命的な欠点をもっていた――それは饒舌《じょうぜつ》だったことである。彼は私のところへくるまでに、世界を七回もまわり、そのあいだ生きる糧《かて》を得るためにやったことを、すべて話のたねにした。自分の言語学的な才能を、かなり鼻にかけていた。彼は、なんでも気持よく引きうけて熱心にやる人のよさが破滅の原因となる人間の一人であった。あらゆる人に手をさしのべて助けてやりたがり、あらゆる人に成功の道を説いて聞かせたがった。また彼は、われわれの手がまわらないほど仕事をほしがった――仕事の虫であった。私は彼をイースト・サイドの支局へやるとき、暗黒街で働くのだから、気をつけるようにと警告してやるべきだったかもしれないが、彼は、十分心得ているような態度で、ぜひその地区で働かせてもらいたいとせがむので(彼の言語学的才能を理由に)、私はなにも言わなかった。言わずとも、そこへ行けばすぐ、いやというほど思い知らされるだろうと考えていたのだ。予想どおり、彼は、たちまち災厄に出会った。ある日、近所のユダヤ人の青年がやってきて、頼信紙をくれと言った。配達人のデイヴは、そのとき受付のそばにいたが、その青年の横柄な態度が気にさわって、もうすこし丁寧な言い方をしたらどうか、と注意した。とたんに横っ面《つら》を一発張られた。彼は、いきりたって、持前の饒舌ぶりを発揮したのだが、それがかえっていけなかった。たちどころに鉄拳《てっけん》のあらしに見舞われ、彼の歯は数本咽喉の奥に飛びこみ、顎《あご》の骨が三ヵ所ほど砕けた。だが彼は、それでもこりず、愚かにも警察へ訴えたものである。それから一週間後に、彼がベンチに坐って居眠りしていると、愚連隊の一味が闖入《ちんにゅう》してきて、あっという間に彼を打ちのめしてしまった。彼の頭は、めちゃくちゃに叩《たた》きつぶされ、脳味噌《のうみそ》が、まるでオムレツを砕いたようにはみ出した。あげくのはてに彼らは、金庫の中身を、きれいにかっぱらい、金庫をひっくり返して引きあげた。デイヴは病院へ運ばれる途中で死んだ。聞くところによれば、彼は靴下のつまさきに、大枚五百ドルを大事にかくしていたそうである……。
そのほかに、クラウゼンとその妻レナの例もある。彼は家族同伴で応募してきた。レナが乳《ち》のみ子を抱き、彼は小さな二人の子供の手をひいていた。職業安定所からまわされてきたのであった。私は、彼が固定給をもらえるように、夜勤の配達人として雇ってやることにした。それから数日して、仮出獄中のため、監視官のところへ出頭しなければならないので、休ませてもらいたい、というあまり感服しない手紙を彼から受けとった。さらに、しばらくして、また私に手紙をよこした。それは、女房がこれ以上子供をつくりたくないからといって、いっしょに寝るのをこばむので、恐縮だが一度女房に会って、いっしょに寝るように説得してもらえまいか、という手紙であった……。私は彼のところへ行ってみた――イタリア人街の地下の穴倉のような部屋で、さながら瘋癲《ふうてん》病院の一室を見るような感じであった。レナはまた妊娠して、すでに七ヵ月もたち、白痴的状態にあった。彼女は、地下はむし暑いし、また彼とはもう二度と関係したくないので、屋上で寝るようにしているのだと言った。いまさら関係しようとしまいと同じことではないかと私がいうと、彼女は上目づかいに私を見やって、しらじらしく笑った。クラウゼンは戦争に出たことがあるから、ひょっとしたら毒ガスのために多少頭脳をおかされていたのかもしれない――とにかくこの男は、やたらに口から泡《あわ》を吹いた。そして、もし女房が屋上へ行くのをやめなかったら、彼女の脳味噌を叩きつぶしてやるとわめいた。そして、女房が屋上で寝たがるのは、屋根裏に住んいでる炭坑夫と姦通《かんつう》するためだという意味をほのめかした。レナは、それに対して、また、ヒキガエルのようなしらじらしい微笑を返した。クラウゼンは、かっとなって、いきなり彼女の尻《しり》を蹴《け》とばした。彼女は憤然として子供をつれて家をとび出した。彼は大声で、出て行けとどなりつけてから、箪笥《たんす》をあけて大きなコルト銃をとり出した。いつかこれが必要になるだろうと思ってしまっておいたのだと私に説明した。それからまた、ナイフを四、五本と、自分でつくったブラックジャックみたいなものを私に見せ、さめざめと泣きながら、女房はおれをだましていたのだ、と言った。近所じゅうの男と相手かまわず寝るような女房のために、あくせく働くのがいやになった、とも言った。彼は、たとえ子供をつくりたくても、つくる機会がなかったのだから、レナの子は、いずれも彼の子ではなかったらしい。その翌日、レナが買物に出かけたあとで、彼は子供たちを屋上につれ出し、私に見せたブラックジャックみたいなもので子供たちの脳味噌を叩きつぶし、自分もまっさかさまに屋上から身を投げた。レナは帰ってきて事件を知ったとたんに気が狂ってしまった。警官たちは彼女に狂人用の拘束服を着せて救急車を呼ばなければならなかった……。
また、シュールディヒという、犯しもしない罪のために、二十年間も刑務所で暮した薄ばかがいた。彼は自白する前に死ぬほど殴《なぐ》りつけられ、それから、ひとり隔離された部屋に監禁され、飢餓と拷問《ごうもん》と変態行為と麻薬に苦しめられ、やっと釈放されたときには、もはや人間ではなくなっていた。彼は、ある晩、監獄ですごした最後の三十日間の模様や、悶々《もんもん》として、ただひたすらに釈放されることを待ちつづける苦しみについて、私に語ったことがある。私にとっては夢にも考えられないような話ばかりであった。およそ人間がそのような苦悶に耐えうるとは、とうてい思えなかった。こうして釈放されたものの、彼は、むりに罪を犯させられて、また刑務所にぶちこまれるのではないかという不安と恐怖にとりつかれていた。そして、おれはいつも尾行され、監視され、永久に追われているのだ、と嘆いた。〈やつら〉は、おれを使嗾《しそう》して、なにかおれのしようとも思っていないことをさせようとしているのだ、というのである。〈やつら〉というのは、彼を尾行し、ふたたび彼を刑務所へつれ戻すためにやとわれている刑事たちのことである。夜、彼が眠っていると、彼らは、たえず彼の耳もとでささやくのであった。しょっぱなに彼らから催眠術をかけられていたために、彼は彼らに対しては、まったく無力であった。ときどき彼らは彼の枕《まくら》の下に麻薬をおいて行った。それといっしょに拳銃やナイフをおいて行くこともあった。そんなふうにして彼に、だれか罪のない人間を殺させ、今度こそ確証を握って彼を逮捕しようとねらっていたのである。彼は日ましに耐えきれなくなった。そして、ある晩、電報を一束ポケットに入れたまま数時間さまよい歩いた末、交番にかけこんで、拘留してくれと頼んだ。自分の名前も、住所も、自分の勤めている会社すら思い出せなかった。自分がだれであるのか、さっぱりわからなくなっていた。そして、ただうわごとのように、こうくりかえすだけであった――「おれは、なにも悪いことなんぞしてやしねえんだ……なにも悪いことなんぞ……」彼らは、また彼を拷問にかけた。やがて彼は、とつぜん飛びあがり、気ちがいのように叫んだ――「白状します。白状します!」――そして、つぎからつぎと、さまざまな罪状を告白しはじめた。三時間ぶっつづけにしゃべった。それから、ある悲惨な事件の告白のまっ最中に、突如として、しゃべるのをやめ、まるでとつぜん目がさめたように、あたりをきょろきょろ見まわしていたかと思うと、狂人のみがもつ速度と勢いで猛然と部屋を突っ走り、石の壁に頭をぶっつけた……。
私は、これらの出来事をただ私の心をかすめるままに、簡単に、あわただしく書きつらねているにすぎない。私の記憶には、さらに多くの、無数の詳細な出来事や、顔や、そぶりや、逸話や、告白が、さながらヒンズー教の寺院の精密な細工をほどこした巨大な外貌《がいぼう》のように錯綜《さくそう》しているのである――石でつくったものではなくて、人間の肉体の体験の所産であるあの寺院、すべて現実によって建立《こんりゅう》された巨大な夢の殿堂でありながら、現実そのものではなくて、人間存在の謎《なぞ》を汲《く》み入れた器にすぎないあの寺院のように。私は、無知と善意から、何人かの青年たちをいやしてやるためにつれて行った療養所の情景を、いまでもまざまざと思い起すことができる。あの場所の雰囲気をつたえるためには、魔術師が生きた神経を抜こうとしている歯医者のそぶりをまねて狂気の伝達者として描かれているヒエロニムス・ボッシュ(フランドルの画家。一四五〇?―一五一六、妖怪変化を扱ったその絵はシュールレアリストたちに影響を与えている)の絵を思いうかべてもらうのが、最も効果的だと思う。わが国の科学的な開業医なるもののあらゆるいかさま療法やまやかしごとが、法律の全面的な賛助と黙認を得てあの診療所を営んでいる柔和なサディスト的人物に神格化されているのである。彼は、例の落第生徒のかぶるとんがり帽をかぶっていないだけで、あとはカリガリ博士(ドイツ映画 Das Kabinett des Dr. Caligari に登場する精神病理学者。一九一九年作の表現派映画で、精神病院の患者の奇怪な妄想を描いたもの)と瓜《うり》二つであった。彼は分泌腺《ぶんぴせん》の秘密の調節を心得、中世の封建君主の権力をあたえられ、患者にあたえる苦痛の度合いを知悉《ちしつ》し、医学的知識以外のことは、なにも知らないふうをよそおいながら、あたかも鉛管工が下水管の修理をはじめるようなぐあいに人間の器官の修繕にとりかかるのであった。そして、患者の組織に投入する毒薬に加えて、必要な場合には、自分の拳骨《げんこつ》や膝《ひざ》にまで頼った。あらゆることが〈反応〉を正当化した。被害者が昏睡《こんすい》状態におちいっている場合には、彼は相手をどなりつけ、顔を殴りつけ、腕をつねり、ところかまわず打《ぶ》ったり蹴ったりした。反対に、被害者があまり活動的な場合にも、力を倍増させるだけで、やはり同じ方法を用いた。患者の感情などは全然問題ではなかった。彼が、いかなる反応を得ることに成功したにしろ、それはただ内分泌腺の機能を調節する法則のあらわれであり、その実証にすぎなかった。彼の治療法の目的は患者を社会に適合させることにあった。だが、いかに彼が早く処理しようと、また彼がいかに成功しようと失敗しようと、社会は急速に、よりいっそう適合しないものへと変化して行くのである。一部の患者は、信じがたいほど順応性をうしなっていたために、彼が定評のある反応を得ようとして彼らの頬《ほお》をこっぴどく殴りつけたりすると、逆にアッパーカットをくわせたり、きんたまを蹴あげたりして反応を示した。
たしかに、彼の患者の多くは、彼が診断したとおり、第一期の犯罪者であった。全大陸が地すべりを起していたのだ――いまでもそうだが――そして、修理の必要なのは内分泌腺ばかりではなくて、ボールベアリングも、防護器官も、骨骼《こっかく》も、大脳も小脳も、尾てい骨、膵臓《すいぞう》、肝臓、大腸、小腸、心臓、腎臓《じんぞう》、睾丸《こうがん》、子宮、ラッパ管その他、呪《のろ》われた五体のあらゆる部分が、そうだったのである。国全体が無法状態にあり、暴力的で、険悪で、悪魔的になっていたのだ。空気そのものにも、気候にも、壮大な風景にも、地平線に横たわる岩石の森にも、渓谷の岩を咬《か》んで流れる奔流にも、理解を越えた距離にも、天上の乾《かわ》ききった荒地にも、青々と茂った作物にも、途方もなく大きな果物《くだもの》にも、ドン・キホーテ的血統の混合物にも、宗派や分派や信条の雑然たる堆積《たいせき》にも、法規と言語の対当関係にも、気質や主義や要求や必要条件の自家|撞着《どうちゃく》にも、すべてそれがあらわれていたのである。大陸は、かくれた暴力や、太古の怪物の骨や、滅亡した民族や、闇《やみ》に包まれた神秘に満ちていた。大気は、しばしば強烈な電気をおびるために、霊魂が肉体から遊離させられ、血迷って暴れ狂った。すべては、雨のように、過剰に降りかかってくるか――まったく降らないかであった。全大陸は巨大な火山であり、その噴火口は、ときたま、夢と恐怖と絶望の、動くパノラマによって隠蔽《いんぺい》された。アラスカからユカタンまで、おなじ様相を呈していた。自然が支配し、自然が征服しているのだ。いたるところに殺戮《さつりく》と掠奪《りゃくだつ》の基本的な衝動がうごめいていた。外見は立派な高邁《こうまい》な人間に見える住民たち――健康で楽天的で勇敢な彼らも、内部には、ウジ虫が充満していた。ちょっとしたはずみで彼らは発狂するのだ。
ロシアで起きたように、突如として一人の男が、すごい剣幕で躍《おど》りこんでくるといったことが、しばしば起った。彼らは、まるで季節風に刺激されたかのように、だしぬけに怒り狂ってくるのであった。十中八、九まで、彼らは善良な男であり、だれからも好かれている人間であった。しかし、いったん怒りたつと、手のつけようがなかった。目かくしされた馬のようなものであった。したがって、そんな男を処理する最善の方法は、その場で射殺することであった。平和を愛するものにかぎって、そんなふうになるものだ。とつぜん発狂してしまうのである。アメリカでは、毎日いろんな人間が発狂している。彼らの必要としているのは、精力のはけ口であり、血の欲望のはけ口なのだ。ヨーロッパは定期的に戦争によって血をしぼりとられてきた。アメリカは平穏無事で、共食いをつねとしてきた。外見は、雄蜂《おすばち》がせわしげに群れかさなりながらうごめいている平和な蜜蜂《みつばち》の巣のように見える。だが、その内部をのぞけば、住民がたがいに隣人を殺しあい、その骨の髄から体液を吸いあっている精神病院なのである。表面的には線の太い男らしい世界のように見える。だが実際は、原住民の子孫が主人役をつとめ、凶悪な異国人が肉を売りながら、女たちによって営まれている淫売屋《いんばいや》なのだ。だれひとり、どっかと腰をすえ、満ち足りた気持を味わうことを知らない。そんなことは、すべてが――地獄の火までが――たくみにでっちあげられた映画のなかでしか起らないのである。全大陸は、健《すこ》やかな眠りのなかにあり、その眠りのなかで、ある壮大な悪夢がはじまりつつあるのだ。
その悪夢のまっただなかで、私よりもやすらかに眠れたものは他にはいないだろうと思う。戦争がはじまっても、それはただ私の車が一種のかすかな騒音をたてただけであった。私の同国人と同様、私も、平和愛好者にして、かつ共食いをつねとしていた。大量|殺戮《さつりく》の場に送られる何百万の人間が、さながらアズテック民族の滅び去ったときのように、あるいはインカ民族やレッド・インディアンや野牛《バッファロー》のそれのように、雲のかなたへ消え去っていった。人々は深刻な感動を受けたふりをよそおっていたが、事実はそうではなかった。眠りながら、ただ発作的に寝がえりをうっただけであった。だれひとり食欲をうしなわなかったし、飛び起きて警鐘を鳴らしたものもいなかった。戦争があったことに、はじめて私が気づいたのは、休戦後六ヵ月ほどたってから、十四番街の横断線の電車のなかでだった。われらの英雄の一人である胸に勲章をならべたテキサス人が、その電車のなかから、たまたま歩道を歩いている一人の士官を目にとめると、にわかに怒りだした。彼自身は軍曹《ぐんそう》だったから、たぶん怒るべき理由があったのだろう。とにかく、その士官の姿を見て憤然とした彼は、席を蹴《け》って立ちあがり、政府を、軍隊を、一般人を、車中の乗客を、あらゆる人、あらゆるものを罵倒《ばとう》しはじめた。万一また戦争が起っても、おれは絶対に二十歳の阿呆《あほう》どもといっしょに戦争にひっぱり出されるようなことはしないぞ。二度と戦争へ行くくらいなら、世の中のろくでなしどもを、みな殺しにしてやったほうがましだ、などとどなりたてた。こんな勲章なんぞにだまされてたまるものかと言い、ほんとうにそう考えていることを示すために、勲章を全部むしりとって窓から外へ投げすてた。もしまた塹壕《ざんごう》のなかへ将校といっしょに入るようなことになったら、おれは野良犬《のらいぬ》を射つみたいに奴らを背後から射ち殺してやる。相手がパーシング元帥であろうと、ほかの元帥であろうと、同じことだ。彼はさらに口から出放題に、ながながと罵詈雑言《ばりぞうごん》をならべたてたが、それに反駁《はんばく》しようとして口を開くものは一人もいなかった。そして、彼の怒号が終ったとき、私は、はじめて戦争があったことを知り、私が耳をかたむけて聞いていた相手の男は戦争に行っていたらしいこと、勇敢に戦ったにもかかわらず、戦争は彼を臆病者《おくびょうもの》にしたこと、もし彼がふたたび人を殺す場合には、細心の注意を払って、しかも冷酷|無慚《むざん》な殺しかたをするだろうし、また、いかなる人も彼を電気椅子へ送る勇気は持ちえないだろうということを感じた。なぜなら彼は、自分の神聖な本能を抹殺《まっさつ》しなければならぬという同胞に対する義務を遂行した人間であり、かつまた、神と祖国と人道の名によって、一つの犯罪が他の犯罪を浄化するものとすれば、すべてが公明正大であったということになるからである。
私が二度目に戦争の実感を味わったのは、夜勤の配達人で元軍曹のグリスウォルドが、ある日怒り狂って、ある停車場の近くの支局を、めちゃくちゃに叩《たた》きこわしてしまったときである。会社の首脳部は彼を追い出すべく、私のもとへまわしてよこしたが、私は彼を馘《くび》にする気になれなかった。彼があまりにも見事に破壊工作をなしとげたので、私は、むしろ彼を抱きしめ、手をとりあってよろこびたかった。彼が、あのビルの二十五階か六階か、とにかく社長室と副社長室のある階へのぼって行って、残忍非道なあの一味を掃討してくれることをキリストに祈るばかりであった。だが、処罰という名目を立てるうえからも、またその事件が度のすぎた笑劇であるという見解に賛同するためにも、私が、なんらかの方法で彼を罰しなければ、私自身がそのために罰せられる羽目におちいったので、他にうまい思案もうかばぬままに、それまで歩合制だった彼の賃金を固定給制に引き下げることにした。彼は、私が彼に味方していることに気づかず、ひどく私を恨んで、すぐさま手紙をよこした。一両日中に、きさまの家へ行くが、こっぴどく叩きのめしてやるから、そのつもりでいろ。会社を終えてから行くことになるが、もし恐《こわ》かったら、腕っぷしの強い男を何人か頼んで、護衛してもらったらどうか、といったような文面であった。私は彼が決してでたらめを言わない男であることを知っていたので、いささか慄然《りつぜん》たる思いでその手紙をおいた。しかしながら、護衛を頼むなどということは、よりいっそう卑怯《ひきょう》な気がしたので、ただ一人で彼を待っていた。それは、なんとも奇妙な体験であった。たとえ私が彼の手紙のなかで名づけられていたように悪党で鼻もちならぬ偽善者であるにしても、彼自身、あまり感服しないことをやらかした人間であってみれば、ああする以外に私の立つ瀬がなかったことを、彼は私を一目見た瞬間わかったようであった。そしてまた、私たちは結局おなじ運命にあり、軌を一にし、ともども弱い立場に立っていることをさとったらしかった。彼が外見は依然として憤りに燃え、口から泡《あわ》を吹きながらも、内面的には、気力が衰え、やわらぎ、うち萎《な》えた状態で、私のほうへつかつかと進んできたとき、私は、ふとそんなことを感じた。私自身についていえば、彼が入ってくるのを見た瞬間、私の抱《いだ》いていた恐怖は、あとかたもなく消えてしまった。私がたったひとりで静かに待っていたことと、私が非力で、とうてい防禦《ぼうぎょ》できないことが、彼の虚を突く結果となった。いや、彼の虚を突くつもりでいたわけではないが、結果的には、そんな格好になり、したがって当然私はそれを利用した。彼は腰をおろした瞬間、ゼリーのようにやわらいでしまった。もはや、たくましい男ではなくて、大きな子供にすぎなかった。機関銃をもたせれば、いささかもひるまずに敵の大軍と応戦し、敵を壊滅させることができるが、いったん後方陣地に退いて、武器をもたず、明確な目に見える敵がいなくなると、まるで蟻《あり》のように無力になってしまう大きな子供が、おそらく戦場には何百万もいたにちがいない。すべては食物の問題の周囲を回転していたのだ。食物と家賃――それが戦いとるべき目標のすべてなのだが、しかしそれをかちとるための明確な方法、目に見える道は、まったくなかった。それはあたかも、優秀な装備をした強力な軍隊が、目に見える敵なら、いかなる大軍でも壊滅させるだけの力をもちながら、作戦上の必要から、陣地をうしない、武器をうしない、糧秣《りょうまつ》や弾薬をうしない、睡眠も勇気もうしない、ついには生命までもうしなうことがわかっていても、毎日、毎日、退却につぐ退却を余儀なくされているのを見るのに似ていた。
食物と家賃を手に入れるために戦う人間がいるところでは、かならず、濃霧をくぐり、暗闇《くらやみ》をついて、この退却がつづけられているのだ。作戦上やむをえないというだけの理由によって。それが彼を悩ませ、思いつめさせていたのである。戦うのはやさしいが、食物と家賃のために戦うのは、幽霊の軍隊と戦うようなものである。退却するよりほかに手がないのである。しかも、退却して行くうちに、味方の人間が、つぎつぎ斃《たお》れて、濃霧のなかへ、暗闇のなかへ、無言のまま謎《なぞ》のように消えて行くのを見守りながら、どうすることもできないのだ。彼は、すっかり当惑し、混乱し、絶望にうちひしがれ、頭をかかえて私の机の上にわっと泣きくずれた。こうして彼が涙にむせんでいるあいだに、とつぜん電話のベルが鳴った。副社長室からだった――しかし、副社長自身は決して電話に出なかった。いつも副社長室からという電話ばかりだった――それは、グリスウォルドという例の男を即刻馘にせよという命令だった。私は、はい、承知しました、と答えて電話を切った。それから、そのことについては、なにも言わずに、彼の家へ行き、彼の妻や子供たちといっしょに夕食を食べた。そして彼と別れるとき、私は、もしどうしても彼をやめさせなければならないことになったら、だれかにその仕返しをしてやろうと、ひそかに心にきめた。そしてまず、あの命令が、どこから、どういう理由で出されたのかを、つきとめようと考えた。翌朝、私は不機嫌《ふきげん》な顔で、まっすぐに副社長室へ行き、副社長に直接会いたいと申し出た。そして、あの命令を出したのは、あなたですか、なぜ彼を馘にしなければいけないのですか、と問いつめた。そして、それを否定するひまも、その理由を説明するひまもあたえずに、また副社長がそういうことを好みもしないし承服もしないことを承知のうえで、まっこうから喧嘩《けんか》口調で述べたてた――ウィル・トゥイリディリガーさん、もし私の言うことが気にくわないのなら、私の仕事も彼の仕事もとりあげて、即刻お払い箱になさっても、一向かまいませんよ――そう言って、茫然《ぼうぜん》と見送る副社長を尻目《しりめ》にその部屋を出た。それから私は瘋癲《ふうてん》病院へ帰って、いつものように仕事をはじめた。むろん私は、その日のうちに解雇通知を受けることを覚悟していた。だが、そのような通知は、ついにこなかった。いや、それよりも驚いたことには、総務課長が電話をかけてよこして――そうむきにならんでもいいじゃないか、まあ、落ちつきなさい、この問題は、私がよく調べて、なんとかうまくまとめるから、まかしておいてくれ――と、懸命に私をなだめたのであった。たぶんあの問題は、いまでも調査中なのだろう。なぜなら、グリスウォルドは、あいかわらず彼らのもとで働いているし、彼らは彼を事務員に抜擢《ばってき》したくらいだから。もっともそれは少々卑劣な取引だった。というのは、彼の場合は、事務員になると配達人のときよりも給料が減るからである。だが、とにかくそれは彼の自尊心を満足させたばかりでなく、彼の気勢をそぐのに、かなり役立ったことも、たしかだった。しかしながら、これは、ある男が眠っているとき、ふとしたはずみで英雄になったために起った出来事なのである。もしその悪夢が私たちの目をさますほど強烈でなかったなら、私たちは、まっすぐに退却をつづけて、結局はベンチの上で終るか、副社長として終るか、そのいずれかになるであろう。いずれにしても、それは最初から終りまで殺伐な詐欺策謀の地獄であり、あくどい茶番狂言の連続であった。私は途中で目がさめたので、私もまたそのなかにいることに気がついた。そして、目がさめるとすぐ、そこを見すてて立ち去った。入って行ったときと同じドアから愴惶《そうこう》として立ち去ったのである――失礼しますとも言わないで。
ものごとは瞬間的に発生するが、その瞬間に到達するまでには長い経過があるものである。なにかが起ったときに直接感じられるのは、ただ爆発の事実そのものだけで、その寸前には火花しか感じられない。だが、あらゆるものごとは、法則にしたがって――また全宇宙の全面的同意と協力とを得て――発生するのである。私が起《た》ちあがって、あの爆弾を投げつけるまでには、的確に準備をととのえ、導火線を正しくつけなければならなかった。悪者どもを吹き飛ばすために準備をすすめているあいだに、私は自分の立っていた慢心の座からひきずりおろされ、フットボールのように足蹴《あしげ》にされ、踏みつけられ、つぶされ、侮辱され、足かせ手かせをはめられて、くらげのように無力にされなければならなかった。私はこれまでの生涯で、友人を求めたことは一度もなかったが、この特定の時期には、友人が、まるで雨後のたけのこのように、私の周囲にむらがり湧《わ》いた。私は一瞬も自分の時間をもてなかった。すこし休息したいと思って、夜分家へ帰っても、だれかが、そこで私を待っていた。ときには、客が群れをなして待っていて、家へ帰っても帰らなくても、たいしてちがいのないようなこともあった。私のつくった友人たちは、それぞれたがいに仲間のものを軽蔑しあった。たとえばスタンリーは他の友人たちを全部軽蔑していた。ウルリックも、他の連中を蔑視《べっし》する傾向があった。彼は数年ほどアメリカをはなれていて、そのころヨーロッパから帰ってきたばかりだった。少年時代以後は、たがいにあまり会う機会もなかったが、ある日、偶然に街で出会った。その日は、私に新しい世界を――夢みることは多かったが、現実に見ることができようとは思ってもいなかった世界を見せてくれたという意味で、私の生涯の重要な日であった。私たちが、たそがれどきの六番通りと四十九番街の交差点に立っていたことを、いまでも、はっきりおぼえている。なぜおぼえているかというと、エトナ山やヴェスヴィアス山やカプリー島やポンペイやモロッコやパリの話を、マンハッタンの六番通りと四十九番街の交差点で耳をかたむけて聞くというのが、はなはだ似つかわしくない感じがしたからである。彼はその話をしながら、これからさきどんなことが彼を待ち受けているかを見きわめることはできないながらも、アメリカへ帰ってきたのは、おそろしいまちがいだったかもしれないと漠然《ばくぜん》と感じているような目で、あたりを見まわしていた。その目は、たえずこう言っているようであった――くだらん、全然くだらん、と。彼は、そんなことは口にしなかったが、しかし何度も、こうくりかえした。「きみは、この土地が好きなんだろうね。たしかに、きみに似合いの場所だよ!」彼が立ち去って行くのを、私は茫然と眺《なが》めた。すばやく追いかけて、また彼をつかまえたかったが、できなかった。彼から、その話をもっと何度も何度も詳しく聞きたかったのだが。ヨーロッパについて書かれたものを読んで得た私の知識はすべて、その友人自身の口で語られた輝かしい説明と、まったくくいちがっているように思われた。私たち二人が同じ環境に育ったということが、なにか信じられない気持だった。彼は金持の友人をもっていたし、しかも金の貯《た》めかたを知っていたから、それができたのである。私は金持とも、外遊した人間とも、銀行に金を貯めている人間とも、まったく縁がなかった。私の友だちはみな私同様その日暮しで、将来のことなど考えてもみない連中ばかりだった。そう、オマラだけは、いくらか旅行していた――世界のほとんどいたるところへ行っていた――だが、彼の場合は浮浪者としてか、あるいは浮浪者よりも、いっそう程度の悪い兵隊として行ったのにすぎなかった。ほんとうに旅行したといえる人間と私が会ったのは、友人のウルリックが最初だった。しかも彼は自分の体験を語る方法を知っていた。
路上でめぐり会う機会を得た結果、私たちは、その後数ヵ月にわたって、ひんぱんに会うようになった。たいがい彼が夕食後私を訪ねてきて、いっしょに近くの公園を散歩した。私は飢えていた。他の世界に関する話は、どんなに些細《ささい》なことでも、私を魅了した。いまでも――それから長い年月をへて、私が本にあるようなパリを知っているいまですら、彼の描いたパリの絵が、私の眼前に、あざやかにうかんでくる。タクシーで雨のあとの街を疾走しているときなどに、彼の描いたパリが、ちらと目をかすめることがある。シャイヨー宮殿の前を通っているような気がしたり、モンマルトルやラフィット通りを抜けて残照に映えたサクレ・クールを一瞥《いちべつ》したような思いが、ふっとうかぶのである。おれは結局ブルックリン子さ! 彼は適切に自分を表現できないとき、自嘲《じちょう》的な調子で、そんなふうにいうことがあった。私も、ブルックリン子であった。という意味は、最下等の、最低の人間であるということである。しかしながら、私はこれまで数多くの人間に接してきたが、自分の見たこと感じたことを、彼ほど懇切に、しかも正確に伝えることのできる人間と会う機会は、まれにしかなかった。旧友のウルリックとすごしたプロスペクト公園の幾晩かは、私を今日あらしめた最大の原因となった。彼が私のために描いて見せてくれた場所の多くは、いまなお私の目にやきついてはなれない。その一部は、もはや見ることができないかもしれない。だが、それらは、彼が公園を逍遙《しょうよう》しながら創造したときの、そのままのなまなましい形で、私の心のなかに生きているのである。
他の世界に関する話に織りまぜて、ロレンスの作品の実質や感触について語りあうことも多かった。公園に人影が絶えてしまってからも、長いあいだベンチに坐りつづけて、ロレンスの思想の本質について議論した。いま、それらの議論をふりかえってみると、当時の私が、いかに混乱していたか、ロレンスの言葉の真実の意味をいかに知らなかったかが、よくわかる。もし私がそれをほんとうに理解していたなら、これまでの私の人生は、きっとちがった道をたどっていたにちがいない。われわれアメリカ人の多くは、その人生の大半が水中に沈んでいるのだ。すくなくとも私の場合には、アメリカをはなれて、はじめて表面にうかびあがることができたといえる。たぶんそれは、アメリカ自体とは、なんの関係もないことかもしれないが、しかし、私が偶然パリを発見したとき、はじめて目が広く大きく、はっきりと開いたという事実は残るのである。しかも、おそらくそれは、私がアメリカを捨て、私の過去と絶縁したからだと考える以外にはない。
友人のクロンスキは、いつも私の〈陶酔〉ぶりをあざけっていた。私がひどくはしゃいだりすると、きっと、きみは明日は憂鬱《ゆううつ》な顔をして出てくるぞ、などと、いやみを言った。事実またそのとおりであった。私は絶えず浮かれたり、沈んだりしていたのだ。爆発的な陽気さや、恍惚たる霊感のあとには、きまって憂鬱と落胆の長い時期がつづいた。その中間の状態に安定していたことはなかったように思う。奇妙な言いかたかもしれないが、私は一度も私自身になったことがなかった。まったく無名の人間であるか、あるいは名声|赫々《かつかく》たるヘンリ・ミラーその人であるか、そのいずれかにしかなれなかった。たとえば、後者の気分でいるときには、私は市街電車のなかでハイミーを相手に得々として弁舌をふるった。私をただ善良な雇用係の一主任としか思っていないハイミーを相手に……。ある晩、私がやはり〈陶酔〉状態にあったとき、びっくりしたようにして私を見つめた彼の目が、いまでも思いうかぶ。その晩私たちは、娼婦《しょうふ》が二人待っているグリーンポイントのあるアパートへ行くために、ブルックリン橋で電車に乗った。ハイミーは、いつもの調子で、女房の卵巣の話をはじめた。最初彼は卵巣なるものを正確に知らなかったので、私はそれを露骨な端的な表現で説明してやった。しかし、その説明をしている最中に、ハイミーが卵巣がどういうものであるかを知らないということが、じつに悲劇的な、しかも滑稽《こっけい》なことに思われ、まるでウィスキーを一壜《ひとびん》飲みつくしたような朦朧《もうろう》たる気分におそわれた。文字どおり酔っ払ってしまったのである。病菌におかされた卵巣という想念が、電光のように発生し、熱帯的な成長をとげ、それが、ダンテやシェイクスピアなど、いわば安全に頑強《がんきょう》にかくまっていた雑多な思想の異質的分類をやってのけたのであった。同時に私は、ブルックリン橋のまんなかからはじまり、〈卵巣〉という言葉で中断されてしまった私の思索の糸を、そのときとつぜん思い出した。私は、〈卵巣〉という言葉が出る以前にハイミーの言ったことが、すべて砂のように私の頭からふるい落されるのを感じた。
ブルックリン橋で考えはじめたことは、むかし父の店へ歩いて行きながら何度もくりかえして考えたことであった。白昼夢のように、私の頭のなかで毎日あたためられていた思索であった。簡単にいえば、そんなふうにして私が考えはじめていたのは、時間に関する一冊の本、すなわち、はげしい日常の活動のさなかに感じられる人生の単調さ、退屈さに関する本のことであった。私は何年もむかしから、その本について考え、デランシー街からマレー・ヒルへ通う道すがら、毎日それを書きつづっていたのである。しかしその日は、沈みゆく夕陽《ゆうひ》や燐光《りんこう》を発する死骸《しがい》のように光っている摩天楼を橋の上から眺めながら、過去の思い出にふけっていた。死そのものの職場へ行くために、屍体《したい》置場にひとしい家へ帰るために、その橋を数かぎりなく往復していた過去の思い出。高架鉄道のなかから墓地の穴をのぞき、そのなかへ唾《つば》を吐きかけているファウスト。毎朝プラットフォームで見かける薄ばかの車掌。新聞を読んでいる低能者の群れ。つぎつぎに建てられる新しい摩天楼、そのなかで働きそして死ぬための真新しい墓石。下を通りすぎる船。フォール・リヴァー定期船、アルバニー・デー定期船。おれはなぜ勤めに出かけるのか? 今晩おれは、なまあたたかい女の裸身のかたわらで、いったいなにをしようというのか? この拳骨《げんこつ》を、あの女の鼠蹊部《そけいぶ》にねじこむことができるだろうか? 逃げ出そう。そしてカウボーイになるんだ。アラスカへ行って金鉱でも探《さが》そう! さあ、降りて、ひき返すのだ。まだ死ぬのは早い。もう一日待て。すこしは運が向いてくるかもしれない。河だ。ええ、めんどうくさい、まっさかさまに飛びこむか。首と肩を泥のなかにつっこんで、足をばたばたやっていたら、魚どもがやってきて食ってくれるだろう。いや、明日になれば、新しい人生がはじまるさ。どこで? どこかでさ。しかし、やり直しをしてみたところで、はじまらんぜ。どこへ行ったって同じことなんだ。死、そうだ、死がすべてを解決してくれるさ。いや、しかし死ぬのはまだ早い。一日だけ待て。すこしは運が向いてくるかもしれないから。新しい顔、新しい友人、無数のチャンス。おまえはまだ若すぎる。憂鬱病にとりつかれているのだ。まだ死ぬのは早い。あと一日待て。運が向いてくるさ。とにかく、目をつぶって、この橋を越えて、あのガラス張りの小屋へ入るんだ。みんな一かたまりになって。毛虫も蟻《あり》も、死んだ木から這《は》い出して行くじゃないか。やつらの思いも、みな同じことなんだ……。おそらく私が両岸の中間の高い位置におり、人の往来を眼下に見おろし、生も死も超脱し、しかも両岸には高い墓石が林立し、それらの墓石が落陽に映《は》え、河は悠然《ゆうぜん》として時の流れのように流れていたせいかもしれない――そして、私がその上を通りすぎるたびに、なにものかが私のそでを引き、私をそそのかして、自己を語らせようとしたのかもしれない。いずれにしろ、私は、その高い橋を通りすぎるときには、いつも心底から孤独になり、そうなるたびに、あの本はひとりでに書かれはじめ、私が一度も言わなかったこと、一度も表明しなかった意見、一度もかわしたことのない会話、一度も自認したことのない希望や夢や妄想《もうそう》を、声高らかに絶叫しつづけるのであった。
もしそれが真の自我の声であるなら、これはじつに驚嘆すべきことであった。しかも、もっと驚くべきことに、それは、いつまでたっても変らず、いつも最後の地点から出発して、同じ情緒にひたりながら持続しているように思われた。その情緒は、私が子供のころ、はじめて一人で街に出て、どぶの凍った泥水のなかに猫の死骸を見つけ、生れてはじめて死に当面して息をのんだときに偶然生れた情緒であった。その瞬間から私は孤独の何たるかを知ったのである。あらゆる物体は、生けるものも死せるものも、すべて独立した存在としてそこにあった。私の思想もまた独立した存在なのであった。こうして、私がハイミーを見つめながら、いまや私の語彙《ごい》のなかで最も不可思議な言葉になっている〈卵巣〉という言葉について考えていたとき、とつぜん私は、この寒々しい孤独感におそわれた。そして、そばに腰かけているハイミーが、文字どおり食用ガエルに見えてきた。私は橋からまっさかさまに飛び降り、太古の泥土のなかに首をつっこんで、足からさきにぱっくり食われるのを待ちたくなった――ちょうど、かのサタンが天国から飛び降りて、地の底を突きぬけ、地球の中心にあるまっ暗な灼熱《しゃくねつ》地獄へ落ちて行ったように。ふと気づくと、私はモハベ砂漠を歩いていた。つれの男は、私に躍《おど》りかかって虐殺しようと、日の暮れるのを、いまやおそしと待っていた。それから私はまた夢の国を歩いていた。一人の男が私の頭上に張られた繩《なわ》の上を歩いていた。さらにその上では、もう一人の男が飛行機に乗って空中に煙の文字を書きつづっていた。私の腕にもたれかかっている女は妊娠していた。彼女のお腹《なか》のなかにいるやつは、男性か女性か中性か知らないが、あと六、七年もすれば、その空中に書かれた煙の文字を読めるようになり、それがタバコであることを知り、やがてはタバコを吸うようになるだろう――たぶん一日に一箱も。子宮のなかで、すべての手の指さきや足の指さきに爪が生《は》える。その足の指さきの想像もできないほど小さな爪で、胎児は子宮のなかに踏みとどまっていることができ、それをたしかめようとして、その上にある頭を掻《か》き破ることもできる。子宮という台帳の一方の側には、男の書いたさまざまな物語が載っている。そのなかには、知恵や、たわごとや、真実や虚偽などが、ごちゃまぜになってふくまれているのだが、メトセラのように長生きすると、どれがどうなのか、きっと見分けがつかなくなるにちがいない。また、他の側には、足の爪や髪、歯、血、卵巣といったようなものが無数に書かれているが、これはインクもちがうし、書体も、えたいの知れぬ、判読しかねるようなしろものである。
食用ガエルの目は、冷たい脂肪の塊《かたま》りに突き刺さった二箇のカラー・ボタンのような形で私にそそがれていた。いや、それはまるで太古の沼底の泥土に突き刺さっているようであった。そのどちらのカラー・ボタンも、ニカワのはがれた卵巣であり、深夜の瞑想《めいそう》になんら益するところのない辞書からはぎとられた図解であった。眼球の冷たい黄色の脂肪のなかで、どんよりと光っているそれらのボタン型の卵巣は、言い知れぬ悪感《おかん》をもよおさせた。それは、人間が氷の上で逆立《さかだ》ちして、足を宙にうかせて食われるのを待っている地獄のスケート・リンクを現出させていた。そこではダンテが、彼の幻想の重荷を背負って、つれ添う人もなく、ひとり黙然と歩き、はてしなく円を描きながら、自己の作品によって崇《あが》めたてまつられるべき天国へと、ゆっくり移動していた。またそこでは、眉毛《まゆげ》の薄いシェイクスピアが、優美な四つ折り判の本や諷刺本のなかへ脱出しようとして、底知れぬ詩興の夢にふけっていた。すると、えたいの知れぬ緑灰色の霧が、とつぜん湧《わ》きおこった爆笑に吹き払われてしまった。食用ガエルの瞳孔《どうこう》の中心から、なんとも表現しようのない、まっ白な光芒《こうぼう》が、万華鏡《まんげきょう》のように、めまぐるしく旋回しながら放射されはじめたのである。食用ガエル、ハイミーは、二つの岸にまたがる高架線の上で発生した卵巣の鑿孔機《さくこうき》であった。彼のために摩天楼が建てられ、荒野がひらかれ、インディアンが大量に虐殺され野牛《バッファロー》が絶滅された。彼のために一|対《つい》の都市がブルックリン橋で結ばれ、爆薬箱が埋められ、電線が塔から塔に張られた。彼のために人々が空中に逆立ちして、火と煙の文字を書きつづけていた。彼のために麻酔剤が発明され、目に見えないものを破壊するための高性能の鉗子《かんし》や重砲までがつくられた。彼のために分子が分析され、原子は実質をもたないことが発見された。彼のために空の星は毎晩望遠鏡で眺め渡され、多種多様な宇宙が妊娠中に写真にうつされながら、つぎつぎに生れようとしていた。彼のために時間と空間の限界が無視され、あらゆる行動は、鳥の飛行であれ、天体の回転であれ、すべてが奔放|不羈《ふき》な宇宙の祭司長たちによって、いやおうなしに拡大されるのであった。
かくして、ふたたび私は、橋を渡っている最中や、散歩の途中や、本を読んだり、話したり、女を抱いている最中などに、なにか自分の望んでいたことを一度もやりとげたことがなかったような気持に、ふと襲われるようになった。自分の望んでいたことを一度もしなかったばかりに、私のなかに芽ばえてきたその生物は、珊瑚《さんご》のように根強い強迫観念的な植物となり、生命自体をもふくめたあらゆるものを吸いとってしまい、ついには生命を否定されながらも絶えず自己を主張し、自己を生かしながら同時に殺しているような状態になった。私は、こんな状態が死んだ後までつづくだろうと考える――あたかも死体の髪がのびるように。一般に〈死〉といわれる状態にある場合でも、その髪の毛は、まだ生命のあることを実証しており、したがって、髪や爪や肉体のそうした生命がなくならないかぎり、ほんとうに死んではいないことになるのだ。魂は消えても、死体のなかに、まだなにものかが生きていて、空間を占め、時間を規定し、無限の行動を生む場合があるのだ。われわれは、恋のためにでも、あるいは悲しみのためにでも、あるいはエビ足をもって生れたためにでも、そんな状態になりうる。その原因はどうあろうと、とにかく結果が重大なのだ。|はじめに言葉ありき《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……。|その言葉《ヽヽヽヽ》なるものが、病気であろうと、創造物であろうと、なんであろうと、とにかくそれはまだ猛烈な勢いで突走っていた。それは、どこまでも走りつづけ、時間と空間を越え、女神よりも長生きし、神をひきずり降ろし、宇宙万物を蹴散《けち》らしてしまうかもしれなかった。恋か悲しみか、その他なんらかの原因によって孤立したものにとっては、いかなる言葉も、あらゆる言葉を包含していた。あらゆる言葉のなかにある流れは、うしなわれた起源へさかのぼって行った――もともと起源とか終末などは存在せず、ただはじめと終りという形で表現されただけにすぎないのだから、いくらさかのぼっても起源が発見されるわけもないのだが。そんなわけで、卵巣の電車に乗って河を渡っていた人間と食用ガエルは、いずれもダンテより上等でも下等でもないまったく同じ素材で構成されていたが、しかしこの二者のあいだには非常な相違があった。一方は、いかなることの意味も正確に知らず、他方は、あらゆることの意味をあまりにも正確に知りすぎていた。したがって、二人は、すっかり混乱し、道に迷ったあげく、グリーンポイントのジャワがインディア街のあたりにしけこみ、いわば、よく知られたある腹足動物の変種を思わせるような、妙にぴくぴく動く子宮をもった多情な二人の娼婦《しょうふ》のおかげで、やっと人心地がついたようなていたらくであった。
私の適応性あるいは不適応性を示す好個の事実として、いま私が思いあたるのは、他人の書いていることや話していることは、すべて心から私の関心をひかなかったという事実である。私は事物そのものにしか心をひかれなかった。個別的な、分離された、とるに足らぬ事物にだけ、関心を抱《いだ》いた。それは、たとえば人体の一部分とか、演芸場の階段とか、ときには煙突とか、どぶのなかにあったボタンである場合もあった。いずれにしろ、そうしたものだけが私の胸襟《きょうきん》にふれ、愛着を感じさせ、心をとらえることができたのである。世間や、私の知っている世界を構成している人々に対しては、どうしても愛着を感じなかった。人食い人種が文明社会の埒外《らちがい》にあるのと同様、私も世間の外にいた。私は事物そのものに対する執拗《しつよう》な愛情に満たされていた――それは、哲学的な愛着ではなくて、熱情的な、絶望的にまで熱情的な飢渇であった。あたかも、あらゆる人に無視され、捨ててかえりみられない無価値なもののなかに、私自身の甦生《そせい》の秘密がひそんでいるかのようであった。
新しいものの氾濫《はんらん》している世界のまっただなかに住みながら、私は古いものに愛着を感じた。あらゆる物体のなかに、とくに私の関心をひく微細な部分があった。私は顕微鏡的な目で、私にとっては物体の唯一の美を構成している醜い部分を、欠点を、探《さが》し求めた。ある物体をばらばらにしてしまったもの、それを使用不可能にしてしまったもの、古くしてしまったものは、すべて、いかなるものでも私の興味をそそり、私を魅惑した。ひねくれているといわれるかもしれないが、私は周囲に発生しつつある世界とは無縁な人間なのだから、その点からすれば、むしろ健康であったと思う。まもなく私も、自分の敬愛するそれらの物体のようになりたいと思うようになった――孤立した存在に、社会の無益無能な一員になりたかった。私が古い人間であることは、たしかであった。にもかかわらず、私は人を笑わせることができたし、人に教えることも、人を養うこともできた。だが、心から受けいれられることはできなかった。そうなりたいと願い、そんな焦燥《しょうそう》を感じたとき、私は社会のどの階層かの一人を選び出して、真情を吐露し、私の言葉に耳をかたむけさせることもできたであろう。その気にさえなったら、その勇気がありさえすれば、魔術師か魔法使のように、弁舌によって相手を恍惚《こうこつ》たらしめることもできたであろう。だが、私は他人と相対するたびに、心の奥底で、不信や不安や敵意を感じた。これは本能的なもであるだけに、いやしがたかった。私は道化師《どうけし》になるべきであったかもしれない。そうすれば、自由|闊達《かったつ》な表現ができたであろうから。しかし私はそんな職業を蔑視していた。もし私が道化師か、すくなくとも喜劇役者になっていたら、きっと名声を馳《は》せていたにちがいない。人々は、私の真価を十分認めてくれただろう――なぜなら、彼らには私という人間がわからないはずだからだ。いや、彼らは、私が理解されるべき人間でないということを理解してくれただろう。そのほうが、まだましだったろうと思う。
私は他人と話をしているとき、どうして相手がこんなふうにすぐ怒るのかと、驚き、あきれることが、しばしばあった。あまりたびたびそんなことがあるので、極力ひかえめに話すのだが、それでも私の話は少々常軌を逸しているらしかった。言葉の言いまわし、不幸な形容詞の選択の方法、言葉が私の口からほとばしり出るその流暢《りゅうちょう》さ、禁句になっている事柄に関する婉曲《えんきょく》な話法など――それらのすべてが、私の本心を裏切って、私を無法者に仕立て、社会の敵をよそおわせるのであった。出だしをどんなにうまくやっても、話しているうちに、相手はそれを嗅《か》ぎ出してしまうのである。たとえば、私が、ごくへりくだった、いんぎんな態度をとっていても、やがて私は、あまりにへりくだりすぎ、いんぎんすぎてしまうのである。また、私が、快活に、ざっくばらんに、大胆に話していると、やがては、あまりに率直すぎ、調子に乗りすぎてしまうのである。私は、たまたま話しあうことになった相手と、調子を合わせることが、全然できなかった。たとえそれは死活問題ではないとしても――当時の私には、すべてが死活問題であったのだが――たとえそれは単に、ある知人の家で楽しい一夕をすごす問題にすぎなかったとしても、問題はあくまでも問題である。なにか私は、その場の雰囲気をぶちこわすような波長の音を、陰にこもった音を、発散していたのだ。みんなは、たいがい一晩じゅう私の話に笑い興じ、私は首尾よくみんなに腹をかかえさせて、すべてが吉兆を示すかに見えるのだが、その晩の幕が近くなると、まるで運命がそうさだまってでもいるかのように、かならず、なにかが起った。私の体から、ある種の振動音が飛び出してシャンデリアを鳴動させるか、感覚の鋭敏な人間にはベッドの下の便器を思い出させるかするのだ。そして、まだ笑い声のおさまらぬうちに敵意が顔をのぞかせはじめるのである。「また、おいでになってください」と彼らは言うが、さし出された手は、その言葉とはうらはらに冷たく湿り、力が抜けているのだ。
歓迎されざるもの! 私にはそれが、いま、はっきりとわかる。好むと好まざるとにかかわらず、私は、あたえられたものを受けとり、それを好きになるように努力しなければならなかった。与太者といっしょに暮し、どぶネズミのように泳ぎ、あるいは溺《おぼ》れることを知らなければならなかった。もし、みずから好んで大衆のなかに身を投じたのなら、免疫になっていたかもしれない。大衆に受けいれられ、歓迎されるためには、自己を没却し、大衆から目だたないようにしなければならない。もし夢が自然発生的なものなら、だれしも夢を見るだろう。だが、あなたがもしそういうものとはちがった夢を見ているとすれば、あなたはアメリカにいるのではなく、アメリカ人のアメリカに属する人間ではなくて、アフリカのホッテントット人か、カルマック人か、チンパンジーなのである。あなたは、〈異端者的〉な考えをいだいた瞬間からアメリカ人ではなくなるのだ。そして、あなたは異端者になった瞬間に、アラスカか、イースター島か、アイスランドにいる自分を発見するだろう。
恨みや羨望《せんぼう》や悪意が、私に、こんなことを言わせているのだろうか? たぶん、そうかもしれない。たぶん私はアメリカ人になれないことを悔いているかもしれない。おそらくそうだろう。私はいま、ふたたびアメリカ人的な熱意に燃えて、ある巨大な建築物を、摩天楼をつくり出そうとしている。それは疑いもなく、他の摩天楼がすべて壊滅し去った後も久しく偉容を誇っているだろうが、しかし、それを創造したものが姿を消したとき、それもまた滅びるだろう。アメリカ人のものは、すべて、いつかは、ギリシア人やローマ人やエジプト人のつくったものよりも完全に滅び、姿を消し去るにちがいない。これは、かつてあの野牛《バッファロー》たちが平和のうちに草を食《は》む場所であった暖かい住心地のよい血の河の外へ、私を追いやった思想の一つである。私を非常に悲しませた思想の一つである。なぜなら、永続するものに属しないことは、はかりしれぬ苦悶《くもん》であるからだ。しかしながら、私は野牛ではないし、また野牛になろうとも思っていない。精神的な野牛でさえもない。私は、遠い昔の意識の流れに合流するために、野牛たちの先祖の民族、野牛を生き返らせるであろう民族に合流するために、すでに、その土地から立ち去っていたのである。
あらゆる異端者的なものは、生命のあるものにも生命のないものにも、すべて根絶しがたい特性のある筋金が入っている。私の所有になるものも、異端者的であるから、まず滅びることはないだろう。それは、前にも述べたように摩天楼なのだが、これはアメリカ的な摩天楼とは、わけがちがうのだ。この摩天楼にはエレベーターなど一つもないし、飛び降り自殺をするための七十三階もの窓なども設けられてはいない。もしあなたが登り疲れたら、お気の毒というよりほかはない。正面のロビーには、案内板などはないから、もしだれかを探そうとしたら、苦心|惨憺《さんたん》しなければならないだろう。飲物を飲みたかったら、外へ出なければならないだろう――このビルのなかには、ソーダ・ファウンテンも、タバコ売場も、電話室もないからだ。他の摩天楼は、すべて人々のほしいものを備えている――だが、こいつは、私のほしいもの、私の好きなものしか備えていないのだ。そして、そのビルのどこかに、ヴァレスカが居をかまえていて、私は気が向いたときに、彼女に会いに行くつもりである。ヴァレスカは、ながながと寝そべっているところを見ると、当分大丈夫らしい。たぶんいまごろは、ウジ虫に、きれいに食いつくされていることだろう。彼女が生きていたころにも、ちがった肌色《はだいろ》や、ちがった体臭のあるものに、いささかの敬意も払わない人間のウジ虫によって、きれいに食いつくされてはいたが。
ヴァレスカは、彼女の血管に黒人の血がまじっているという悲しい事実を背負っていた。それは、彼女の周囲のすべてのものを暗い気持にさせていた。彼女は、他人が望むと望まないとにかかわらず、相手がそれに気づくようにしむけた。黒人の血がまじっているばかりか、彼女の母親が娼婦であったという事実までも。もちろん母親は白人であった。父親がだれであるかは、だれひとり、ヴァレスカ自身さえ知らなかった。
それでも、なにごともなくてすんでいたのだが、ある日、副社長の事務所にいるおせっかいなユダヤ人の小僧が、偶然、彼女の事実をかぎつけてしまった。彼はびっくりして、あなたは黒人を秘書に雇っているのですよ、と私に内密に知らせた。まるで彼女が配達人どもにバイ菌をうつすおそれがあると言わんばかりの口ぶりだった。翌日、私は呼び出されて、神聖物|冒涜《ぼうとく》罪でも犯したような叱責《しっせき》を受けた。もちろん私は、そしらぬ顔で、彼女には、べつにこれといって異常な点は見受けられず、ただ、きわめて聡明《そうめい》で、かつまた、きわめて有能であることに気づいていただけだ、と答えた。しまいには、社長自身が間に入り、社長とヴァレスカの二人だけで短時間の会談が行われた。社長は、その会談で、ハバナの支局の、いまよりも待遇のよい地位を彼女にあたえたいと、言葉たくみに申し出た。汚《けが》れた血の話などは、おくびにも出さなかった。ただ、彼女の勤務成績が抜群なので、このさい抜擢《ばってき》してハバナへ栄転させたいのだ、と語った。ヴァレスカは、憤慨して事務所へもどってきた。彼女は怒ると、じつに毅然《きぜん》として勇ましかった。てこでも動くもんかと息まいた。スティーヴ・ロメロとハイミーが、その場に居合せ、私たちはそろって夕食を食べに出かけた。その晩は四人とも、かなり酔った。ヴァレスカは休みなしにしゃべりまくった。会社と一戦をまじえるつもりだが、そんなことをすると、あなたの地位にまで累《るい》を及ぼすだろうかと、私にたずねた。私は静かな口調で、もしきみが馘《くび》になったら、私もやめるだろう、と答えた。彼女は最初、信じられないふうをよそおった。私は、かならずそうすると誓い、自分はどうなってもかまわないのだ、と言った。彼女は、ひどく感激し、私の両手をとって、そっと握りしめた。涙が、とめどなく彼女の頬をつたい落ちた。
それが、そもそものはじまりであった。私が、きみを愛していると書いた紙片をこっそり彼女に渡したのは、たしか、その翌日だったと思う。彼女は私と向いあった席に腰かけて、それを読んだ。そして、読み終えると、まっこうから私を見つめ、信じられない、と言った。しかし、私たちは、その晩も夕食に出かけて、昨夜以上に飲み、そして踊った。踊りながら、彼女は挑発的に私にしなだれかかった。幸か不幸か、ちょうどそのころ、私の妻が、また堕胎手術を受けることになっていた。私は踊っている最中に、そのことをヴァレスカに話した。彼女は家へ帰る途中、だしぬけに、こんなことを言いだした。
「あたし、あなたに百ドル貸してあげたいのだけれど、かまわないかしら?」その翌晩、私は彼女を晩餐《ばんさん》に招待し、彼女の手から百ドルを妻に渡させた。彼女ら二人はすぐむつまじく語らいあって、私をびっくりさせた。そして、その晩のうちに、妻が堕胎手術を受ける日にはヴァレスカが家へきて子供の世話を見てくれることに話がきまった。やがて、その日がくると、私はヴァレスカを午後から休ませた。彼女が出かけてから一時間ばかりたったころ、急に私も、午後から休むことにきめた。そして、十四番街のストリップ劇場へ足を向けた。だが、ものの一区画も行かないうちに、とつぜん気が変った。万一なにか変ったことが起きたら――もし妻が死んだりしたら――そのとき私がストリップ劇場にいたということになると、あまりいい気持がしないにちがいない、という考えが、ふと心にうかんだのである。私は、そのあたりをすこし歩きまわり、安物をならべた仲店通りをぶらついてから、家へ向った。
ものごとは奇妙なことになればなるものである。子供と遊んでよろこばせてやろうとしているうちに、私が子供のときに祖父がやって見せた遊びを思い出した。まず、テーブルの上にドミノ牌《はい》を積み重ねて軍艦をいくつかつくる。それから、その軍艦のうかんでいるテーブル・クロスを静かに引き、艦隊がテーブルの端へきたとき、急にぱっと引っぱって、艦隊を床に落す遊びである。私たちは、三人で、それを何度も何度もくりかえした。そのうちに、子供は眠くなり、あぶなげな足どりで隣の部屋へ行って、眠ってしまった。ドミノ牌は床一面に散乱し、テーブル・クロスも床に落ちていた。やがて、とつぜんヴァレスカの体がテーブルにもたれかかり、彼女の舌が私の口深く吸いこまれ、私の手は彼女の太腿《ふともも》のあいだに入っていた。私が彼女をテーブルの上に仰向けに寝かせると、彼女は両脚《りょうあし》を私にからませた。私はドミノ牌を一枚踏みつけているのを感じた――それは、さっきまで私たちが何度も何度も粉砕した艦隊の残骸《ざんがい》の一部であった。そのときふと木の長椅子に腰かけている私の祖父の姿が心にうかんだ。ある日祖父が、しめしたコートの縫目にアイロンをかけながら、小さいころから子供にあまり本を読ませすぎてはいけないと母に注意していたときの、憂わしげな目が思い出された。それから、私がいつも仕事部屋の長椅子のそばで読んでいた大きな本に書いてあった荒馬騎士隊《ラフ・ライダース》(一八九八年の西米戦争で活躍した独立騎兵隊)のサン・ジャン山奇襲戦の物語、義勇隊の先頭に立って突撃するテディーの勇姿を描いた絵など。また、窓に鉄格子《てつごうし》のはまった小さな部屋の私のベッドの上にうかんでいた戦艦メイン号や、デューイ提督やスライ提督やサムプソン提督(いずれも、西米戦争当時のアメリカ艦隊司令官)の名を思い出した。さらにまた、海軍|工廠《こうしょう》を見学に行くはずだったのに、その日の午後になって、父が急に私を医者へつれて行かなければならないことを思い出したために、それっきり行きそこなってしまったことなども。その医者の家を出たとき、私は、もはや扁桃腺《へんとうせん》も、人間に対する信頼をも、うしなっていた……。玄関のベルが鳴り、妻が屠殺場《とさつば》から戻ってきたとき、私たちは、やっとすんだばかりだった。私はホールを通りながらズボンのボタンをはめて玄関のドアをあけた。妻の顔はメリケン粉のように白かった。もう二度と堕胎手術に耐えられないような顔色だった。私たちはすぐ妻をベッドに寝かせ、それからドミノ牌をかき集め、テーブル・クロスをかけ直した。その翌晩、ある酒場で、便所へ行こうとしたとき、ドミノをしている二人の老人のそばを偶然通りかかった。私は思わず足をとめてドミノの牌を手にとった。その感触が、すぐあの軍艦のことや、それが床に落ちたときのがらがらという音を思い起させた。軍艦とともに、扁桃腺と人間に対する信頼を喪失したことも。それ以来、私は歩いてブルックリン橋を渡り、海軍工廠のほうを見おろすたびに、なにか、すうっと気力が抜けてしまうような感じがした。橋の上にきて、二つの岸の中間に浮いていると、いつも真空のなかを漂っているような感じにおそわれた。私の身辺でこれまでに起ったあらゆる出来事が、まるで嘘《うそ》のような――いや、嘘よりももっと悪い、無益な出来事のように思えた。その橋は、私を人生や人間や人間活動に結びつけるかわりに、それらに対するすべての連関性を断ち切ってしまうかのようであった。向う岸へ渡ろうと、反対の岸へひきかえそうと、なんのちがいもなかった――どちらの道も地獄へ通じているからだ。私は、人間の手と人間の理性がつくり出しつつある世界との関係を、なんとかして断ち切ろうとしていた。たぶん私の祖父の言ったことは正しかったのかもしれない――私は多く読みすぎた書物のために、蕾《つぼみ》のうちにむしばまれてしまったのかもしれない。しかし、私が書物にかぶれていたのは、ずっと昔のことである。私が本を読まなくなってから、ずいぶん久しい。だが、その病癖は、いまでも残っている。いまの私には、世間の人間一人一人が書物なのである。私は、そうした書物を、片っぱしから読み捨てる。つぎからつぎと、むさぼるようにして読む。多く読めば読むほど私はますます貪婪《どんらん》になる。それには限度というものがなかった。終りのあるはずがなかった。結局、こうして際限なく読みふけるうちに、子供のころ絶縁した生命の流れと私とを結びつける橋が、いつのまにか、ふたたび自分のなかに形成されはじめていた。
身の細るようなさびしさ、それが何年間も私におおいかぶさっていた。もし私が星を信ずるとしたら、私は自分が完全にサターン(農業の神、幸福と美徳の国をしろしめすという)の支配下にあることを信じなければならなかった。私の身辺で起った出来事は、すべて、妙に時機を失していたために、私にとっては、たいした意味をもたなかった。私の生れかたからして、そうなのだ。クリスマスより三十分おくれて生れたのである。私はいつも、自分が十二月二十五日に生れた功徳《くどく》をさずかるように運命づけられた人間になるはずだったのではないかという気がしてならなかった。デューイ提督も、この日に生れているし、イエス・キリストもそうだ――よく知らないがクリシュナムルティ(インド神話の神)も、たぶんそうだったらしい。とにかく私はそういう男になるはずであった。ところが、母親が、しまりのいい子宮をもっていて、蛸《たこ》みたいに私をつかんではなさなかったので、私は、ちがった星の下に――言葉を変えていえば、悪い運勢を背負って生れてきたのである。占い師にきくと、私は、だんだん運勢が開けて――じつにすばらしい未来が約束されているというのだが。しかし、未来なんか、私には、どうでもいい。もし私の母親が十二月二十五日の朝に階段から足を踏みはずして首の骨でも折ってくれていたら、たぶん私の運勢は、ずっとよいものになっていただろう。最初から、すばらしいスタートを切っていたことだろう! したがって、私がどうしてこのような運命に見舞われる羽目になったかを、つらつら考えてみるとき、私は、遠くその淵源《えんげん》にさかのぼって誕生の時刻に思いいたらないわけにはいかないのである。口の悪い母が、こんなふうに言っていたところをみると、母ですら、うすうすそれに気づいていたらしい。――「まるで牛の尻尾《しっぽ》みたいだよ、おまえは。なんてのろまな子なんだろうね」しかし、彼女が腹のなかで私を押えつけていたために決定的な時刻がすぎてしまったことが、私の過失になるのだろうか? 運命は私を、これこれの人間にしようと予定していたはずであった。星は正しく交合し、私はその星の下にあって、まさに産声《うぶごえ》をあげようとしていた。だが、不幸にして私は、自分を生み落してくれる母親を選ぶ自由をもっていなかったのである。当時のあらゆる状況を考慮してみると、私が白痴として生れなかったのは、むしろ幸運だったといわなければならないかもしれぬ。しかしながら――これはその二十五日の残り滓《かす》ともいうべきことだが――私は生れつき受難コンプレックスをもっていた。もっと正確にいえば、生れつき狂信者であった。狂信者! 私は幼いころから、この言葉を何度となく浴びせかけられたことを、いまでもよくおぼえている。とくに私の両親が、ことあるごとにそういうのであった。狂信者とは、いかなるものをいうのか。熱狂的に信じ、かつ、その信じることを絶望的に実行するものをいう。たしかに私は、いつもなにかを信じ、そして痛い目にあわされてきた。しかし私は、手をつねられればつねられるほど、ますます固く信じた。私は信じつづけた。――しかも、私の信じることを、他の世界じゅうの人は、だれひとり信じなかった。もしそれが単に迫害に耐えるだけの問題であるなら、最後まで信じつづけることも容易であろう。だが、世間の仕打ちは、もっと陰険なのだ。ただ罰するのではなく、こっそりと私の足もとの土を掘って穴をあけ、足をすくうのである。といっても、それは決して裏切り行為を意味しているわけではない。裏切りなら、それはそれとして納得できるし、反抗もできる。ところがそれは、もっと始末のわるい、裏切り行為よりももっと下等なやりかたなのである。もともと反抗癖というやつは、人を無理に背伸びさせ、失敗させるものである。それは自分の姿勢のバランスをとるために精力を消耗しつづけるだけのことなのだ。一種の精神的めまいにおそわれ、断崖《だんがい》のふちでよろめき、髪が逆立ちながらも、足もとに底知れぬ奈落《ならく》のあることを信じられずにいる状態。これは、人々を抱擁したいという欲望、人々に自分の愛情を示したいという熱情にうかされて、それに熱狂することによって起る現象である。世間に手をさしのべればのべるほど世間はどんどん後退する。だれも真実の愛を、真実の憎悪を望んではいないからだ。だれしも自分の神聖な内臓に手をさし入れられるのをよろこばないからだ――それは聖職者がいけにえを捧《ささ》げるときにだけ許されることなのだ。生きているあいだは、血がまだ熱いあいだは、血などというものはないふりをし、肉の内側に骸骨《がいこつ》などというものはないふりをすることである。他人のことに干渉するな! これが世間の人の生活のモットーなのだ。
長いあいだ奈落のふちで体《からだ》のバランスをとりつづけていると、ついにはそれに熟練してくる。どっちへ押されても、しゃんと立っていられるようになる。こうして、恒常的な均衡状態のなかにいると、おそろしく陽気になる。いわば不自然な明朗快活さを身につけるようになるのだ。現在の世界には、以上の論旨をよく理解している人種が、二つある――ユダヤ人と中国人である。もしあなたが、たまたまそのどちらかの人種に属しているとしたら、あなたは、たぶん奇妙な窮地におちいることがあるにちがいない。あなたは、いつもおかしくないときに笑うくせがある。そのために、あなたは、実際は忍耐強く神経が太いだけにすぎないのだが、非常に残酷な薄情な人間であるかのように思われてしまうのである。かといって、もし他人の笑うときに笑い、他人の泣くときに泣いていたら、結局は、他人の死ぬように死に、他人の生きるように生きなければならなくなるだろう。ということは、自分を正常な人間にしようとして、それに負けることである。生きているあいだ死んでいること、死んだときしか生きられないことを意味する。そのような人間社会のなかでは、世の中はいつも、たとえ最も異常な状態にあっても、正常な様相を帯びる。ものごとはすべて、それ自体正しいわけでも正しくないわけでもなく、ただ考えかたによってそうなるだけの話である。もはや現実を信じないで、人の分別だけを頼ることになる。そして、その袋小路から押し出されるときには、思想もいっしょについて行くが、しかし、そのときには、もはや思想は、なんの役にもたたなくなっている。
ある意味では、ある深い意味でいえば、キリストは、その袋小路から全然押し出されなかった。彼が、よろめきながらふらふらと外へ出ようとした瞬間、その否定の逆流は、まるで大きな反動で巻き返されでもしたように彼の死に待ったをかけたのである。人間の否定的な全衝動が、人間の完全体をつくり出すために凝結して、奇怪な不活溌《ふかっぱつ》なかたまりになり、まとまった一人の人間の姿を生んだものらしい。復活ということも、人間はつねに自己の運命を否定しようとしている事実を認めなければ、説明のつかないことである。地球は回転し、星は回転するが、人類は――世界を構成する人間の総体は――一人の、ただ一人のイメージに集約されているのである。
もし、ある人が、キリストのように十字架にかけられずに生命を保ち、絶望と無能感を超越して生きながらえたならば、まことに奇妙なことが起るにちがいない。つまり、その人間は実際に死んで、しかもまた生きかえったことになるのだ。中国人のように、異常な人生を送ることになるのである。いわば、不自然に快活で、不自然に健康で、不自然に冷淡にならざるをえないだろう。悲劇感は消え、花や岩や木のように生き、自然と戦いながら、しかも同時に、自然とともに生きるようになるのである。たとえ、最も親しい友人が死んでも、その葬式へ行こうとはしないだろうし、目の前でだれかが電車にひかれても、知らぬ顔で行きすぎるだろう。戦争が起きれば、友人たちを戦線へ送り出すことはしても、自分自身は、そんな殺生《せっしょう》なことには、なんら興味をもとうとしないだろう。すべてが、そういうぐあいになるのである。人生は、一種の見世物になってしまうだろう。たまたま、あなたが芸術家であれば、通りすぎて行くそのショーを、記録にとどめるだろう。孤独などというものは、完全に撤廃されるだろう――なぜなら、あなた自身の価値をふくめて、すべての価値が、破壊されてしまっているのだから。同情だけが、はなやかに見せびらかされるが、それも人間的な同情ではなくて、限界のある同情とでもいうか――奇怪な、邪悪なものにすぎない。ほとんど愛情がないだけに、かえって、あらゆる人に対して、あらゆるものに対して、自己を犠牲にすることができる。同時に好奇心が異常な速度で発達する。これはまた懐疑心ともなり、人々はそれによって、なにかの主義に夢中になるばかりでなく、カラー・ボタンにまで凝る結果となる。ものごとには、基本的な、恒常的な区別がなくなる。すべては流転し、移り変り、そして滅びる。人間も、その表皮は、たえず崩《くず》れて消える。だが、その内面は、まるでダイヤモンドのように固まってゆく。たぶん、あなたが、いやおうなく他人をひきつけるのは、あなたの内部にあるこの固い磁性をおびた核のようなもののせいだろう。確実なことは、あなたが死んで、また復活したとき、あなたは大地に属していて、大地のものはすべて、まぎれもなくあなたのものだということである。あなたは自然のある変則的存在になる。影をもたない存在になる。そして、ただ、あなたの周囲の自然現象のように消滅するだけで、二度と死ぬことはないだろう。
私は、いま述べているようなことを、私が大きな変化の渦中にあった当時は、まだまったく知らなかった。私が耐えたあらゆることは、ある晩、私が帽子をかぶって会社を出、それまでの私の個人生活から抜け出し、生きながら死んでいるような状態から私を救い出してくれるべき女性を求めて歩きだしたあの瞬間のための、下準備のようなものであった。ニューヨークの街々をさまよい歩いた夜の散策や、夢のなかで歩きまわって、私が生れた都市を、まるでその蜃気楼《しんきろう》でも見るような思いで眺《なが》めた白夜《はくや》を、私はいま、そのようなものとしてふりかえるのである。ひっそりと寝静まった街を、私とつれ立って歩いているのは、多くの場合、会社の探偵であるオラークであった。たいがい、雪が地面を白くおおい、空気が凍《こご》えるように冷たかった。オラークは、間をおきながら、窃盗《せっとう》や、殺人や、恋や、人間の性格や、神話の黄金時代について語った。彼は、なにか一つの話が潮に乗りはじめると、とつぜん道のまんなかで立ちどまり、私を身動きできなくするために大きな脚を私の脚のあいだへさしこむくせがあった。そうしておいて、私の上着の襟《えり》をつかみながら、ぐっと顔をよせ、一言一言を、まるでネジ釘《くぎ》でもねじこむような調子で、私の目へ吐《は》きかけるのである。そんなふうにして朝の四時の街のまんなかに立っていた私たち二人の姿が、いまもなお、あざやかに思いうかぶ。
風が吠《ほ》え、雪が横なぐりに吹きつけた。オラークは、胸のなかから吐き出さずにはいられない話以外は、すべてを忘れ去っていた。彼がしゃべっているあいだ、私は横目であたりを眺め、ここはヨークヴィルだなとか、アレン街だなとか、ブロードウェイかもしれないなどと思ったりしているだけで、彼の話など、ちっとも聞いていなかった。ありふれた人殺しの話を、人間がつくり出したもののなかでは最も巨大な建築の乱立したなかでしゃべっている彼の熱心さは、どう考えても少々狂気じみていた。彼が指紋の話をしているあいだ、私は彼の黒い帽子のすぐ背後に建っている小さな赤煉瓦《あかれんが》のビルの笠石《かさいし》や蛇腹《じゃばら》などに注意を奪われていた。あの蛇腹は、いつあそこへ取りつけたのだろう? こんなものをデザインした人間は、どんなやつだろう? どうして、こんなみっともないものにしたのだろう? イースト・サイドからハーレムまで、いやハーレムを越え、ニューヨークを越え、ミシシッピー河を越え、大渓谷を越え、モハーヴェ砂漠を越えて、どこまで行っても、アメリカじゅういたるところに、男と女のためのビルが建っているところならどこにでもある、くだらない蛇腹を、なぜまねたのだろう?――などと考えていた。そもそも、一生のあいだ、毎日毎日じっと坐って、他人のありふれた貧乏物語や、病気の話や、恋や死や、あこがれや幻滅に関する話に耳をかたむけていなければならないなんて、あまりにもばかげているような気がした。もし――事実そうだったのだが――毎日最低五十人の男が私の前に押しかけてきて、めいめいが勝手な愚痴をならべたて、私がその一つ一つの話を黙って聞いてやらなければならないとしたら、話の途中で私が耳をふさぎ、薄情な気持になったとしても、むしろ当然ではあるまいか。そんな話は、ほんのちょっぴりでたくさんだった。それでさえ、咀嚼《そしゃく》してのみこむのに、何日も、何週間もかかるのだ。
しかし私は、うんざりしながらも、坐っているよりしかたがなかった。夜になって、そこを出ても、またいくつかそういう話を聞かされた。聞きながら眠り、聞きながら夢を見なければならなかった。彼らは世界のすみずみから殺到してきた。あらゆる階層から構成され、さまざまな弁舌を弄《ろう》し、さまざまな神を崇拝し、さまざまな法律や慣習を守っていた。彼らのなかの最も貧しい人たちの話だけでも、語数からすれば厖大《ぼうだい》な書物になっただろう。しかし、それぞれの話を詳細に書きあげてみたところではじまるまい。いずれもモーゼの十誡《じっかい》の程度に短縮できそうなものばかりであった。祈祷書《きとうしょ》のように、郵便切手の裏にでも記録したほうが早いかもしれない。私は毎日うちのめされ、そのおかげで、皮膚が全世界をおおうほど伸びてしまったかとさえ思われた。そして、一人きりになって、他人の話を聞かなくてもすむときには、私は針のさきほどの大きさに縮みあがった。ひとりで街を歩くこと――人影の絶えた夜の街を歩き、私をつつんでいる静寂にひたるときのよろこびは、たとえようもなかった。何百万という人が横臥《おうが》して口をあんぐりあいたまま正体なく眠り、その口から、いびき以外のなにも飛び出さないとき……。かつて建立《こんりゅう》されたなかで最もばかげた建築のあいだを歩きながら、いったい、なぜ、なんのために、これらの、気ちがい小屋か壮大な宮殿か知らぬが、ともかくなんともえたいの知れぬ建物のなかから、悲惨な身の上話をしゃべりたくてたまらない人間が、毎日大軍をなして吐き出されてくるのだろう、といぶかりつつ……。ひかえめに見つもっても、私は一年に二万五千編の身の上話を聞かされていた。二年間に五万編である。四年間には十万編になる。十年もたったら、私は、たぶん完全に気が狂ってしまうだろう。すでに私は、かなり大きな都市の人口に匹敵する数の人間を知っていた。もし彼らがいっしょに寄り集まったなら、どんな都会ができるだろう! 彼らは摩天楼をほしがるだろうか? 博物館をほしがるだろうか? 図書館をほしがるだろうか? 下水道や橋や線路や工場も建てるだろうか? バタリー公園から黄金湾にいたるまで、どこでもかしこでもまねているあのブリキの軒蛇腹《のきじゃばら》を、彼らもまたつくるだろうか? 私は疑問だと思う。おそらく飢渇の鞭《むち》しか彼らを動かすことはできまい。空腹、すさんだ目つき、恐怖、敗北の恐怖――彼らは、そんなものによってしか動かされないだろう。めいめいが、たがいに自暴自棄になって、飢えの鞭と棒で駆り立てられながら、おそるべき超弩級《ちょうどきゅう》の大摩天楼を建て、極度に細い鉄柱や、おそろしく薄っぺらなレースや、極端にもろいガラス器具をつくることだろう。オラークといっしょに散歩しながら、窃盗や放火や強姦や殺人などの話ばかり聞いているのは、大交響曲のなかの小さな一主題にばかり耳をかたむけているようなものであった。そして、バッハの曲を口笛で吹きながら、頭のなかでは、抱いて寝たいと思う女のことを考えふけることができるように、私はオラークの話を聞きながら、この男は、いつになったら話をやめて、「なにか食べようか?」と言いだすだろうかと思ったりしていた。
どんなに凄惨《せいさん》な殺人事件の話の最中でも、私は、もうすこしさきの店でありつけるはずの豚の腰肉のことを考え、それにどんな野菜がつけられるだろうかとか、そいつを食べてしまったら今度はパイを注文しようか、それともカスタード・プディングにしようかとか、そんなことを考えていた。これは、私がしばしば妻と寝ているときも同様であった。妻が、うわずったうめき声をあげているあいだ、私は、妻がコーヒー・ポットの出しがらをきれいに捨てただろうかなどと、そんなことを考えたりしていた。なぜなら、私の妻は、ものごとを、しかも重要なことをなおざりにするくせがあったからである。私にとって、新鮮なコーヒーは、新鮮な卵とベーコンとともに、すこぶる重要であったのだ。彼女がまた妊娠したら、これははなはだ困ったことであり、ある意味では重要な問題だが、朝の新鮮なコーヒーとベーコン・エッグの匂《にお》いは、それにもまして重要であった。私は、どんなにはげしい失望にも堕胎にも失恋にも耐えられたが、腹のなかになにもつめこまずに平気でいるわけにはいかなかったし、どうせ食べるなら、滋養のある、食欲をそそるようなものを食べたかった。もしキリストが十字架からおろされ、うつし身で死ぬことを許されなかったなら、おそらく彼も痛感したであろうことを、そっくりそのまま私も感じていたにすぎない。磔刑《たっけい》のショックが大きかったために、彼は人間性に対して完全な健忘症におちいったのではあるまいか。傷が癒《い》えたあとでは、もはや人類の試練については一言もふれようとせず、かりに当時そういうものが手に入ったとすれば、一杯の新鮮なコーヒーと一片のトーストとを、ひたすら、むさぼりつづけただろうと思う。
あまりにも偉大な愛のために、悲惨な境遇のうちに死ぬものでも、生れ変るときには、ただ楽しむこと以外には、愛も憎しみも、なにも知らずに生れてくる。そして、この人生のよろこびは、それが不自然に獲得されるために、ついには全世界を腐爛《ふらん》させる毒薬になる。人間の苦役《くえき》の正常な限界を越えてつくり出されたものは、自業自得ともいうべき結果を生じ、みずから崩壊を招く。夜のニューヨークの街は、キリストの磔刑と死を思わせた。雪が地面を埋め、街が極度の静寂につつまれると、ニューヨークの醜怪な各ビルディングから、身のすくむような絶望と破滅の音が洩《も》れてきた。どの石も、愛や尊敬をこめて他の石と組み重なっているのではなかった。どの街もダンスや歓楽のためにあるのではなかった。腹を満たすために、さまざまなものが、つぎからつぎと手あたり次第につめこまれ、かくして街は、空腹と満腹と中途半端につまった腹の匂いをただよわせるのであった。愛とはまったく無関係な飢えの匂い。貪欲《どんよく》な腹の匂い。皆無状態の空《すき》っ腹の創造物の匂い。
この皆無状態のなかで、私はサンドイッチのうまさを知り、カラー・ボタンと戯れることを知った。人間的な苦悩と悲哀の物語に耳をかたむけるふりをしながら、軒蛇腹や笠石をつくづくと眺めては、はげしい好奇心を燃やした。私は、いくつかのビルディングに刻まれていた竣工年月日や、それを設計した人の名前を、いまでもおぼえている。また、ある街角に立っていたときの気温と風速をおぼえている――だが、そのときの話は、きれいに忘れ去って、いまは記憶にない。私はそのとき、他のことを思い出していたのだ。それがどんなことであったか、いまもよくおぼえているが、ここで述べる必要はあるまい。私のなかには、一人の男がいたが、彼は、とっくに死んでしまって、残っているのは、その面影だけだった。いや、もう一人、生きている男がいた。その男は私自身であると思われていたが、しかし彼はただ、木のように、あるいは岩のように、あるいは野獣のように生きているにすぎなかった。人々が見苦しくない死を獲得しようとしてあくせく働いているこの都会そのものが、巨大な墓石になってしまったように、私自身の人生も、死なないうちにみずから建てつつある墓石に似てきたようであった。私は石の森のなかを歩きまわっていた。森の中心部は渾沌《こんとん》としていた。私は、その渾沌の泥沼のなかで、ときどき踊りたわけたり、酔い痴《し》れたり、恋をしたり、だれかにめぐんだり、新たな人生を夢みたりしたが、そこでは、すべてが渾沌としており、すべてが石であり、すべてが絶望的で、昏迷《こんめい》していた。その狂った石の森から私をひきずり出すことのできる強い力にめぐり会うまでは、私には、いかなる人生を開くことも不可能であったし、一ページも意味のあることは書けなかった。たぶん、この本を読んでも、読者は私がまだ渾沌状態にあるような印象を受けるかもしれないが、しかし、これは生きた世界の中心部で書かれているのであり、渾沌としたものは、いわば、いまでも私とまったく無関係な世界の、抹消《まっしょう》的な、瑣末《さまつ》な断片にすぎない。つい二、三ヵ月前に、私はニューヨークの街に立ち、昔と同じようにして、あたりを見まわした。そして、ふたたび周囲の建築物を眺め、角度の狂った目にしか映らない微細な部分を、よく注意して見た。だが、今度は、それがまるで火星から落ちてきたもののように見えた。これはいったいどういう人種がつくったのだろう? なにを意味しているのだろう?――そう私は自問した。そこには、苦悩の影も、どぶのなかに叩《たた》きこまれた人生の影もなく、なにか見知らぬ不可思議な世界を見ているような感じしかなかった。その世界が、あまりにも私とへだたっているので、なにか別の天体に属しているもののような感じを受けたのである。ある晩には、エンパイア・ステート・ビルディングのてっぺんから、いままで私が下で見て知っている都会を眺めた。そこには、かつて私がいっしょに這《は》いずりまわっていた人間の蟻《あり》が、かつて私を苦しめた人間のしらみどもが、たしかな遠近画法で描かれていた。むろん彼らは、めいめい自己の小宇宙的運命に沿って、のろのろと動いていた。彼らが、理由もなく躍起となって建てたこの巨大な建築物は、彼らの誇りでもあり、自慢のたねでもあった。そのマンモス・ビルの最上端の部屋の天井からは、いくつかの鳥籠《かご》が一本の綱でつりさげられ、そのなかに閉じこめられたカナリアたちが、無意味なさえずり声をあげていた。彼らの野望の頂上で、にぎやかにさえずりつづける小動物たち……。あと百年もしたら、彼らはたぶん、きたるべき世界の歌をうたう、陽気な、発狂した、生きた人間どもを檻《おり》に入れてぶらさげることだろう。たぶん彼らは、他人が働いているあいだ、さえずってばかりいる、うるさい人種を、そこで飼育することだろう。それらの檻のなかには、たぶん詩人や音楽家が入れられることになるだろう――下界の生活が、石のなかの生活が、森のなかの生活が、不快な騒音をたてる無価値な渾沌状態が邪魔をされないために。さらに一千年も後には、彼らはすべて――労働者も詩人も――一人残らず発狂してしまい、かつて幾度となくくりかえされたように、あらゆるものが崩壊してしまうだろう。そして、それから一千年たち、五千年たち、あるいは一万年たったころ、ちょうど私がいま立って景色を眺めている場所で、一人の少年が、私たちの知らない言語で書かれた一冊の本を開くだろう。その本に書かれているのは、いま行われている生活であり、その本を書いた人の全然経験しなかった生活であり、すでに終りを告げて、もはやなんの形も余韻もとどめていない生活である。少年は、やがてその本を閉じながら、アメリカ人というのは、なんと偉大な民族であったろう――自分がいま住んでいるこの大陸で、なんというすばらしい生活が行われていたことであろうと、うたた感慨にふけるかもしれない。しかしながら、きたるべき民族は、おそらく盲目の詩人の種族をのぞけば、未来の歴史につづられた騒然たる渾沌状態を想像することすらできないだろう。
渾沌! 騒然たる渾沌! 特別の日にかぎらない。当時の私の毎日が、そのとおりであった。私の毎日の生活、私のささやかな小宇宙的な生活は、外部の渾沌状態の反映であった。当時をふりかえってみよう……。七時半にサイレンが鳴る。私は飛び起きようとしなかった。ベッドに八時まで横になって、もうすこし眠ろうとした。しかし、眠れるはずもなかった。心の隅《すみ》に、すでに出勤していなければならないはずの会社の幻影がうかんで、それが眠りをさまたげるのである。八時きっかりに出社するハイミー、すでに救援を求めてうるさく鳴りつづける電話交換台、広い木の階段をどやどやとのぼってくる求職者の群れ、着替え室から流れてくる樟脳《しょうのう》の強い臭気。やれやれ、今日もまた起き出して、昨日の歌と踊りをくりかえさなければならないのか……。私が雇う端《はし》からやめてゆく人たち。身をすりへらして働き、しかも清潔なシャツ一枚すらない私。月曜日には妻から電車代と昼食代を渡される。私は、いつも彼女に借金があり、彼女は彼女で、食料品屋や肉屋、家主その他に借金があった。めんどうくさくて、ひげをそる気にもなれなかった――もっとも、その時間もなかった。すりきれたシャツを着て、朝食をかっこみ、地下鉄代として五セント銅貨を一枚借りる。妻が不機嫌《ふきげん》なときには、地下鉄の駅の新聞売りから金をごまかした。息せききって会社についたときには、一時間も遅刻していて、求職者と面談する前に、電話を十通話以上もかけなければならなかった。しかも、私が一つの電話をかけているあいだ、三つの電話が私の出るのを待っているのである。私は同時に二つの電話を使った。交換台は、絶えず鳴りつづけていた。ハイミーは電話の合い間に鉛筆をけずった。玄関番のマックガヴァーンは、私の横に立っていて、求職者の一人について、なにか私に忠告しようと待機している。たとえば名前をいつわってもぐりこもうとしている札付者《ふだつきもの》などについて。私の背後には、カードや名簿があり、それには、いままでにこの機関を通過した人間の名前が全部のっている。要注意者は赤インクで星印がつけられてあり、そのなかの何人かは、名前のあとに五つも六つも変名がならんでいる。やがて部屋は蜂《はち》の巣をつっついたような状態になる。汗や泥靴や、古い制服、樟脳、リゾール、悪臭をふくんだ息などの臭気が部屋に充満する。彼らの半数は、あきらめて、ひき返してゆく――われわれが彼らを必要としないからではなくて、どん底にある彼らでも、やる気がなくなってしまうからである。
私の机の前の手すりのそばに立っている、中風《ちゅうぶう》で手がきかなくなった目のかすんだ男は、もとニューヨーク市長である。七十歳の老人で、どんな仕事でもいいからやらせてくれという。立派な推薦状をもっている。しかし、われわれは、四十五歳以上のものを採用するわけにはいかない。ニューヨークでは四十五歳が限界になっているのだ。電話が鳴る。YMCAの口さきのうまい秘書からだ。感化院に一年ばかりいた少年が、いま彼の事務所へやってきたのだが、特別に雇ってもらえないだろうか、という電話である。いったい、その少年は、なにをしでかしたのですか? それが、じつは自分の妹を強姦《ごうかん》しようとしたのだそうです。むろん、イタリア人だった。私の助手のオマラは、一人の求職者を拷問《ごうもん》にかけていた。そいつを癲癇《てんかん》だとにらんだからである。結局その拷問が成功し、うまいぐあいに、その男は、その場で発作を起した。女の求職者の一人が気絶した。豪華な毛皮を首に巻いた美人が、私をくどいて雇い入れさせようとする。これが、れっきとした淫売婦《いんばいふ》なのである。うっかり誘いの手に乗ろうものなら、目の玉が飛び出るほどしぼられたことだろう。彼女は、山の手にある事務所で働きたいという――理由は家に近いからだそうである。昼食どき近くになると、友人が二、三人、訪ねてくる。彼らは、そこらに腰かけて、まるで寄席《よせ》か喜劇でも見るような目で、私の仕事ぶりを見物している。医学生のクロンスキがやってきて、私がたったいま雇ったばかりの少年の一人が、パーキンソン氏病にかかっていると報告する。私は仕事に追われて便所へ行くひまもない。オラークの話では、会社の電信技師や支配人たちは、みな痔《じ》をわずらっているそうだ。オラークは二年間も電気マッサージをつづけたが、一向に効果がなかったということだ。
昼食どきになる。われわれは、一行六人で、そろってテーブルをかこむ。例によって、だれかが私の分を払わせられることになる。あわただしく昼食を腹につめこんで駆けもどる。また方々へ電話をかけ、求職者との面談がはじまる。副社長は、われわれがなぜ所要人員を確保することができないのかと、口ぎたなくののしりわめいた。ニューヨーク市にある全新聞はもとより、二十マイルもはなれた都市の地方紙にまで、求人広告が、でかでかとのっているし、あらゆる学校に、非常勤の配達人募集の案内が出されていた。あらゆる慈善団体や更正施設にも呼びかけていた。配達人たちは、蠅《はえ》のように、どこかへ消えて行った。ものの一時間とつづかないものさえいた。会社は、さながら人間の粉末製造工場であった。しかも、悲しいことは、それがなんの必要性もないことである。しかし私は、そんなことは意に介しなかった。キップリングが言ったように、私は、あたえられた仕事をするか、さもなければ死ぬかする以外になかった。私は、つぎからつぎと犠牲者と掘り出し、電話は狂ったように鳴りつづけ、現場の悪臭はますます烈《はげ》しさを増し、穴は次第に大きくなって行った。彼らの一人一人が、一片のパンを求めている人間なのである。私も彼らと、身長も体重も肌《はだ》の色も宗教も教育も経験も、その他なんでも、ほとんど同じである。あらゆるデータが名簿に組み入れられ、アルファベット順に配列され、さらに年代順に整理される。氏名と日付。時間があれば指紋も。なんのために? アメリカ国民が人知のおよぶかぎり最も速い通信方法を享有し利用できるようにするためだ。彼らが、それぞれの商品を、より迅速に売りさばくことができるようにするためだ。あなたが街頭で頓死《とんし》したとき、ただちに――ということは、その電報を託された配達人が、仕事を放棄する決心をして、電報の束をゴミ箱に捨ててしまわないかぎり、一時間以内に――その知らせをあなたの親類縁者にとどけるためにだ。クリスマスには、コズモデモニック電信会社の重役や社長や副社長から、一律に、楽しいクリスマスと、おめでたい新年を祝った電報が、二千万通も配達される。したがって〈ハハキトク、スグコイ〉という電報があっても、係員は、忙しさにまぎれて、その電信を見落すことがあるかもしれない。だが、かりにあなたが損害――精神的損害――賠償を要求したところで、会社には、そのような場合ただちに応急策を講じるように訓練された法律部なるものがあるから、あなたはお母さんが死ぬであろうことを確実に知ることができ、そして楽しいクリスマスも、おめでたい新年も、心おきなく迎えることができるわけである。もちろん、その係員は馘《くび》になるだろう。そして、一ヵ月かそこらたった後、彼は配達人の職場に舞いもどり、だれにも気づかれないように、埠頭《ふとう》の近くの支局の夜勤にまわされ、そして彼の細君は、餓鬼どもをひきつれて総務課長に会いに行き、あるいは、じかに副社長のもとへ参上し、あたたかい配慮の礼を述べることになるだろう。それからいくばくもなく、ある日、上述の配達人が社の現金を横領して逃げたという知らせに、みんなは、あっと驚くだろう。もしその金額が一万ドルなら、オラークが、さっそく夜行でクリーヴランドかデトロイトに向って彼を追跡するよう命令されるだろう。さらに副社長は、以後ユダヤ人を雇うことはいっさいまかりならぬという命令を出すだろう。だが、それから四、五日もたつと、副社長は多少後退を余儀なくされるだろう。ユダヤ人以外に、こんな職を求めてくるものはいないからだ。
事態が悪化し、材料が払底してくると、つい私は、あるサーカスの小人をさえ雇う気になったものである。もし彼が、かくしきれなくなって、じつは彼女《ヽヽ》であることを自白しなかったなら、私は、おそらくその小人を雇っていただろう。この事件は、それだけですまず、さらに始末の悪いことになった。ヴァレスカが、その晩その〈中性〉をこっそり家へつれこみ、同情するふりをして、その〈中性〉の体をすみずみまで調べ、あげくのはては、右手を働かせて、ひめられた場所をしらべあげてしまったのである。その小人は、すっかり欲情し、最後には、はなはだしく嫉妬《しっと》深くなった。その日は、まったく多事多難な日で、私は家へ帰る途中、ある友人の妹に出会った。彼女は、むりやり私を夕食に誘った。夕食がすむと、私たちは映画へ行き、暗がりのなかで、たがいに戯れはじめ、とうとう、それがある限界にまで到達したので、ふたりで映画館を飛び出して、事務所へひき返した。そして私は着替え室のトタン張りのテーブルの上に彼女を横に寝かせた。それから、十二時すこしすぎに家へ帰ると、まもなくヴァレスカから電話がかかってきた。緊急の重大事件が起きたから、すぐ地下鉄に飛び乗って彼女の家まできてくれという電話だ。電車だけでも一時間はかかるし、私は疲労|困憊《こんぱい》していたが、緊急の用件だというので、出かけることにした。行ってみると、彼女の従妹《いとこ》だという、かなり魅力的な若い女がいっしょにいた。その女の語るところによれば、彼女は処女でいるのがつまらなくなったので、ついさっき見も知らぬ男と関係したのだそうである。しかし、べつにそう騒ぎたてるほどのことでは……。いや、じつは、彼女は、それに熱中するあまり、通例の予防策を講じるのを、うっかり忘れてしまったから、もしかすると、いまごろは妊娠しているかもしれないと思うのだけれど、どんなものだろうか? そう言って彼女たちは、私に、どうすべきかとたずねた。私は「処置ないね」と答えた。するとヴァレスカは、私を部屋の隅《すみ》へ呼んで、従妹があんなことを二度とくりかえさないように、今晩は彼女といっしょに寝てやってくれないだろうか――はっきりいえば、彼女にしこんでやってくれないだろうか――と小声で頼むのであった。
まったく、ばかげた話であった。私たちは腹をかかえて笑いころげ、それから酒を飲みはじめた――といっても、彼女の家にはキュンメルしかなかったから、私たちを酔いつぶすまでにはいたらなかった。それから、ことのなりゆきは、ますますばかげたものとなった。彼女ら二人は、私をひっぱりあって、たがいに相手になにもさせないようにしてしまったからである。結局私は二人を裸にしてベッドへ押しこめた。二人は仲よく抱きあって眠ってしまった。もう朝の五時ごろだった。私は外へ出てから、ポケットに一セントもないことに気づき、通りかかったタクシーの運転手にたかって五セント銅貨を一枚せしめようとしたが、全然らちがあかないので、最後には毛皮|襟《えり》のオーバーをぬぎ、それを彼に渡した――五セント銅貨と引きかえに。家へ帰ると、目をさました妻が、私の帰りがおそいので、すさまじい剣幕で怒りだした。いきおい、口論がはじまり、そのうちに私は、かっとなって、妻を殴《なぐ》りつけてやった。妻は床の上に倒れて、わっと泣きだした。そうこうするうちに、娘が目をさまし、妻の泣きわめく声にびっくりして、火のついたような悲鳴をあげた。二階の女が、なにごとが起ったのかと思って、駆けおりてきた。彼女は日本の着物を着て、髪を長くうしろへ垂らしていた。そして、部屋へ飛びこんでくるなり、興奮して私にぴったり体《からだ》を寄せてきた。ふたりとも、そのつもりはなかったのだが、妙なはずみで艶《つや》ごとがはじまった。私たちはふたりで妻をベッドに寝かせ、濡《ぬ》れタオルを額にのせると、二階の女が妻の上にかぶさるようにして腰を曲げているあいだに、私は彼女の背後に立って、うしろからちょっといたずらをしてみた。彼女は妻をなぐさめるようなたわごとを口ばしりながら、長いあいだ、そのままでいた。やがて私はベッドにもぐりこんで、妻といっしょに寝た。すると、まったくおどろいたことには、妻が私のほうへ体をすり寄せてきたのである。そして、私たちは無言のまま、なんとなくまさぐりあい、それが明け方までつづいた。当然私は、くたくたに疲れきって、泥のように眠るべきはずだが、不思議と目がさえて眠れなかった。そして、妻のそばに臥《ふせ》りながら、今日は会社を休んで、午前中に面談することになっているあの豪華な毛皮の娼婦《しょうふ》を訪ねようと、その計画をねりはじめた。それから、いつも私を冷淡だとうらみごとを言っていたある友人の妻のことを考えた。それから、私がさまざまな理由で絶交した相手を、あれこれと思いうかべているうちに、いつのまにか、ぐっすりと眠りこんでしまった。不快な夢を見た。やがて七時半に、いつものようにサイレンが鳴り、私は、いつものように椅子の背にかかっているすり切れたシャツを見やり、口のなかで、ばかばかしい、とつぶやいて、寝がえりをうった。八時に電話のベルが鳴った。出てみると、ハイミーからで、ストライキがはじまったから、すぐこいというのであった……。毎日毎日が、ざっとそんなぐあいに明け暮れた。どうして、そんなふうになったのか、あえて理由をあげるなら、アメリカ全体がゆがんでいたからだとでもいう以外にない。私が述べたのとほぼ同様なことが、程度の差こそあれ、すべてが渾沌として無意味であったがために、アメリカじゅういたるところでくりかえされていたのである。
まる五年のあいだ、くる日も、くる日も、そんな生活がつづいた。アメリカ大陸そのものが、台風や、たつまき、津波、洪水《こうずい》、旱魃《かんばつ》、大吹雪《おおふぶき》、暑熱、ペスト、ストライキ、ピストル強盗、暗殺、自殺、あるいは絶え間ない熱病、拷問、爆発、人の渦などによって、たえず破壊されつづけていた。私は、さながら燈台|守《もり》のようなものだった――足下には、怒濤《どとう》が岩を咬《か》み、暗礁《あんしょう》や難破船の残骸《ざんがい》が散在していた。私は危険信号を発することはできたが、惨事を防ぐ力は、まったくなかった。私は危険と惨事を呼吸していた。ときには、その感動があまりにはげしかったために、私の呼気は火となって鼻孔《びこう》から吐き出された。私はそんなことから逃《のが》れたいと思いながら、抗しがたい力によって、それに引きよせられていた。私は狂暴であると同時に無気力であった。燈台そのものであった――荒れ狂った海のまっただなかに安住していた。私の下には摩天楼のそびえ立っている岩棚《いわだな》と同じ岩礁《がんしょう》があった。私の下部は地中深く食い入り、私の体の補強材は熱いリベットを打ちこんだ石碑でできていた。要するに私は一つの目であった。はるか遠く、すみずみまで、皎々《こうこう》と照らし、休みなく冷酷に回りつづける巨大な探照燈であった。この目が、あまりにも冴《さ》えすぎるために、私の他の機能は、全部眠っていたかのようであった。世界のドラマをのぞき見るために、私は全力を傾注していたのである。
もし私が破滅を求めていたとしても、それはただ、その目が光をうしなってもらいたかったからにすぎない。私は大地震かなにか、その燈台を海中にたたきこんでくれるような天変地異の起ることを期待した。とつぜん変身して、魚か、海獣か、なにか強大な破壊力をもった怪物になりたいと思った。大地がぱっと裂けて、あらゆるものを丸のみにしてくれるようにと祈った。ニューヨークの町が海底深く沈んで行くのを見たかった。私は、洞窟《どうくつ》のなかに坐って、ロウソクの光で本を読んでいたかった。私自身の体や、自分の欲望を知る契機をつかむために、失明することを望んだ。見たこと聞いたことをふりかえってみるために――そして、それを忘れ去るために、何万年もひとりでいたかった。人間の作為によらない大自然のなにかを、すでにあきあきしている人間的なるものとは完全に絶縁したなにかを求めていた。純粋に大地のものを、観念を脱した生《なま》のものを求めていた。よしんば死を招くとしても血が逆流する感じを味わいたかった。私の体内から石と光をふるい落したかった。自然の謎《なぞ》の生産力を、子宮の深い井戸を、静寂か、さもなければ暗冥《あんめい》の死の海の潮騒《しおさい》を、ひたすら求めた。非情な目に照らし出されたあの暗闇《くらやみ》に――星屑《ほしくず》や尾を引いて流れる彗星《すいせい》をちりばめた漆黒《しっこく》の闇になりたかった。ぞっとするほど静まりかえった、じつに不可解であると同時に、きわめて能弁でもある暗闇になりたいと思った。もはや、話すことも、聞くことも、考えることも、いっさいしたくなかった。なにかに没頭させられ、包含され、そしてまた包含し、没却したかった。同情も、憐《あわ》れみも、もうほしくはなかった。草木や虫や小川のように、ただ地上のものとしての人間でありたかった。分解して、光と石をとり除かれ、分子のように変りやすく、原子のように耐久力があり、地球そのもののように無情になりたかった。
私がマーラに出会ったのは、ヴァレスカが自殺する一週間ほど前であった。その事件の前の一週間ないし二週間は、まさに悪夢の連続であった。とつぜんの死と、女との奇妙な邂逅《かいこう》とが、あいついで起った。しょっぱなに出会ったのは、ポーリン・ジャノウスキという、家も友人も身寄りもない、十六、七のダヤ人の少女であった。彼女が職を求めて事務所へやってきたのは、閉店まぎわだったし、かといって私は彼女をそのままつきかえすほどの冷酷さをもちあわしていなかった。彼女を家へつれて帰って夕食をご馳走《ちそう》し、できたら妻を説得して、しばらく彼女を泊めてやろうかという気持になった。私が彼女にひかれたのは、バルザックに対する彼女の情熱のせいであった。彼女は家へつくまで、『幻滅』(バルザックの小説)について語りつづけた。電車は混雑していて、私たちは四方から押しつけられたまま身動きもできなかったが、たがいの心にある思いは同じだったので、なにをしゃべろうと問題ではなかった。妻は、私が美しい若い女とならんで玄関に立っているのを見ると、むろん愕然《がくぜん》とした。そして、冷やかにとりすましながら、礼儀正しく応対していたが、すぐさま私は、この少女を家に泊めてやってくれと頼んでも無駄だということを見てとった。妻は、私たち二人といっしょに食事をすませるのが精いっぱいだったらしい。食事がすむやいなや、妻は、ぷいと映画へ出かけてしまった。少女は、しくしくと泣きだした。しばらく私たちは、汚《よご》れた皿が山と積まれたテーブルを前にして坐っていた。それから私は彼女のそばへ行って、その肩をそっと抱いた。彼女に対して心から同情してはいたものの、どうしたらいいかわからず、とまどっていた。すると彼女は、だしぬけに私の首に腕をからませて、はげしく接吻した。こうして私たちは、かなり長いあいだ抱き合いながら立っていたが、やがて私は、いけない、こんなことをするのは罪だと、みずから戒めて体をはなした。おまけに、妻は映画へ行くと言ったが、もしかすると全然行く気がなかったのかもしれないし、もうすぐ駆けもどってくるかもしれなかった。私は少女をはげまし、いっしょに電車でどこかへ行ってみようと誘った。煖炉棚《だんろだな》に娘の貯金箱があるのを見つけ、便所へ持って行って、こっそり全部あけた。約七十五セントしか入っていなかった。それから私たちは市街電車に乗って海岸へ行った。しばらくして、人気《ひとけ》のない場所を見つけ、砂の上に横になった。彼女は、むやみに狂熱的だったし、ほかにすることもなかったので、結局、性の交わりをした。そのあとで、たぶん彼女は私を非難するにちがいないと思ったが、なにも言わなかった。そのまましばらく横になっているうちに、彼女は、またバルザックを論じはじめた。どうやら彼女は作家になる野心を抱《いだ》いているらしかった。これからどうするつもりかとたずねると、まったくなんのあてもないと答えた。やがて、立ちあがって、ぶらぶら歩きだしたとき、彼女は、クリーヴランドかどこかへ行こうと思うから国道へ案内してほしい、と言った。とあるガソリン・スタンドの前にぼんやり立っている彼女と別れたのは真夜中すぎだった。彼女はハンドバッグに三十五セントぐらいしかもっていなかった。私は家に向って歩きながら妻を呪《のろ》った。どこへ行くあてもなく国道に立たせたまま別れてきた女が妻であってくれればいいと、キリストに祈った。私が家へ帰っても、妻はあの少女の名前を口にしようとさえしないであろうことを、私は知っていた。
家へ帰ってみると、妻は寝ずに待っていた。私は、妻がまた私をやりこめるつもりでいるのではないかと思ったが、そうではなかった。彼女が寝ずに待っていたのは、オラークから重要な伝言を受けていたからであった。家へ帰り次第すぐ電話してほしいという伝言であった。しかし、私は電話する気になれず、すっぽかすつもりで、服をぬぎ、ベッドにはいった。ぬくぬくと毛布にくるまって、さて一眠りしようという矢先に、電話のベルが鳴った。オラークからの電話である。事務所へ私あての電報がきているが、あけて読んであげたいと思う、というのである。そうしてくれと私は答えた。その電報には、モニカと署名されていた。発信地はシカゴで、明朝彼女の母の遺体とともにグランド・セントラル駅に着くという電文であった。私は彼に礼をのべてベッドにもどった。妻は、なにも聞きたださなかった。私は横になりながら、どうすべきかを考えつづけた。もし私が彼女の要求に応じたなら、また彼女との関係をぶりかえすことになるだろう。私はモニカとの縁が切れたことを、運命の星に感謝していた。ところが、彼女はいま、母親の遺体とともに帰ってくるという。涙と仲直り。いや、そんなわずらわしいことは、ごめんこうむりたい。もしおれが迎えに出なかったら、どうなるだろう? 遺骸《いがい》もいっしょなら、特別な事情でもないかぎり、だれか付添人がついているにちがいない。ことに遺族が、まばゆいような青い目をした美しい若い金髪娘なのだから……。彼女はまたあのレストランに勤めるつもりだろうかと私は考えてみた。あのとき、もし彼女がギリシア語やラテン語を知らなかったら、私は彼女と深い仲になることもなかったにちがいない。だが、私は好奇心に負けた。おまけに、彼女がひどく貧しかったことも、私がまいる原因となった。しかし、もし彼女の手が、あれほど脂《あぶら》くさくなかったなら、それほどいやな思い出とはならなかったにちがいない。あの脂っこい手は、まったく玉にきずであった。私は、はじめて彼女と逢《あ》って公園を散歩した夜のことを、いまでもおぼえている。彼女は、見た目には、たいへん魅惑的で、しかも利口な女であった。ちょうどショート・スカートが流行していたころで、それがまた彼女の姿態を一段と引きたてて見せた。私は、毎晩のように、そのレストランに通った。彼女が動きまわるのを見まもり、彼女が客に給仕するために上体をかがめたり、フォークを拾うためにしゃがんだりするのを眺めるのを、たのしみにしていた。そして、その美しい脚《あし》と妖艶《ようえん》な目に対しては、ホメーロスの歌ったすばらしい詩の一節を口ずさみ、ポークとサウアークラウトには、サフォーの詩や、ラテン語の祝詞やピンダー(ギリシアの抒情詩人)の頌詩《しょうし》を口ずさみ、デザートには、ルバイヤット(ペルシアの詩人オマル・ハイヤームの代表作)を口ずさんだ。だが、あの脂じみた手と、市場の向う側にある彼女の下宿屋の汗くさいベッドには閉口した――思い出してもぞっとする! こうして、私が彼女を避ければ避けるほど、彼女は、ますます執拗《しつよう》にまつわりついてくるようになった。『ツァラトゥストラはかく語りぬ』(ドイツの哲学者、詩人であるニーチェの著名な四部作)に関する注釈づきで恋について縷々《るる》と書きつづられたあの十ページにわたる長い手紙。それから急に音沙汰《おとさた》がなくなり、私はほっと胸をなでおろしたのであった。よそう、明朝グランド・セントラル駅へ迎えに行くなんて、とんでもないことだ。私は何度も寝返りをうつうちに眠りに落ちた。翌朝、私は妻に言いつけて会社へ電話をかけさせ、病気で寝ていると告げさせた。もう一週間以上も病気にならなかったから、そろそろ病気になってもいいころではあった。
昼ごろ出かけて行き、事務所の前で待っているクロンスキに会った。彼は私を昼食に誘った。エジプト人の女を紹介したいのだ、という。その女は私にもユダヤ人であることがわかったが、しかし、生れはエジプトだし、たしかにエジプト人らしく見えた。なかなかの情熱家なので、私たちは、即座に彼女のために一肌《ひとはだ》ぬぐことにきめた。それから、私は病気で寝ていることになっていたので、会社へはもどらず、イースト・サイドあたりを散歩することにした。クロンスキは私の尻《しり》ぬぐいをするために会社へひきかえすことになり、たがいにその女と握手して、それぞれの方向へ別れた。私は、別れるとすぐに女のことなど忘れて、涼しい河のほうへ向って行った。そして、埠頭《ふとう》の端に腰をおろし、両脚を舫《もや》い綱の上でぶらぶら動かしながら、河景色を眺めた。一隻の平底船が赤い煉瓦《れんが》を積んで通りすぎた。モニカの顔が、ふと心にうかんだ。モニカが今朝、母親の遺骸《いがい》とともにグランド・セントラル駅に着くはずだったことも。客車便ニューヨーク駅渡しの死骸か! それがなんとなく滑稽《こっけい》に思われ、私は大声で笑った。彼女はその死骸をどうしただろう? 荷物預け所へあずけただろうか? それとも、線路の上にほうり捨ててしまっただろうか? いずれにしろ、彼女は私をどこまでも追いまわすにちがいなかった。私が舫《もや》い綱の上で脚をぶらぶら動かしながら埠頭に腰かけていることを、もし彼女が想像しえたなら、どう思うだろう? 風が河を渡ってそよいでいたが、かなりむし暑かった。私は居眠りをはじめた。うとうとしかけたころ、ポーリンのことが心をかすめた。手をふりながら国道をとぼとぼ歩いている彼女を想像した。たしかに勇敢な少女ではあった。けろりとして、子をはらませられることなど、すこしも気にとめていない様子であった。たぶん、まるでやけくそになっていて、そんなことは、どうでもよかったのだろう。それでいて、バルザックのことは気にかかっていたらしい! まったく奇妙きてれつな話だ。バルザックなんか、どうでもいいじゃないか。しかし、まあ彼女には彼女なりの考えもあるだろう。いずれにしろ、なんとか食いつないでいるうちには、また別の男に出会うだろう。それにしても、あんな少女が作家になることを夢みているとは! いや、べつに不思議じゃないさ。人間だれしも、それぞれの夢をもっているものなのだから。モニカも作家になりたがっていた。みんなが作家になりつつあった。作家! ああ、作家なんて、まったくくだらないものに思えてきた。
いつのまにか居眠りしていた……。そして、ふと目をさましたとき、私ははげしく欲情しているのに気づいた。どうやら太陽が直射して、ほどよく熱していたためらしい。依然として、むし暑かった。アスファルトはお粥《かゆ》のように柔らかくなり、蠅《はえ》はうるさく飛びまわり、捨てられた食物の屑《くず》がどぶのなかで腐臭を放っていた。私は手押し車のあいだをぶらぶら歩きながら、うつろな目で周囲のものを眺めまわした。そのあいだ、なにかとりとめのない圧迫感をおぼえていたが、これという理由も思いつかなかった。やがて、とつぜん昼食時に会ったあのエジプト的ユダヤ女のことを思い出したのは、二番|通り《アベニュー》へひきかえしたときであった。彼女が十二番街の近くのロシア料理店の階上に住んでいると言っていたことも思い出した。だが、そのときはまだ、どうしようという考えもなかった。ただ、時間つぶしに、ぶらついていたにすぎない。しかし、私の足は、北の方角へ――十四番街へ――私を運んだ。ロシア料理店の前までくると、私は、ちょっと立ちどまってから、階段を一気に駆けのぼった。ホールのドアは開いていた。私は各部屋の名札を横目で流し見ながら、さらに階段を二つのぼった。彼女の部屋は一番上にあり、名札には、彼女の名前の下に、男の名前が書いてあった。私はそっとノックした。返事がない。もう一度、やや強くノックした。こんどはだれかが部屋を歩いているらしい物音がきこえた。やがて、ドアのすぐ近くで、どなた? という声がしたかと思うと、把手《とって》がまわった。私はドアを押し開き、まっ暗な部屋のなかへよろめき入った。よろめいて、彼女の腕のなかへ飛びこんだ瞬間、彼女が前の開いた着物の下に、なにもまとっていないのを感じとった。彼女は、ぐっすり眠っているところを叩《たた》き起され、寝ぼけまなこで出てきたものらしく、しばらくは、自分がだれの腕に抱かれているのか、はっきりわからずにいたようであった。それが私であることに気づくと、彼女は、あわてて体《からだ》を離そうとした。だが、私は彼女をしっかと抱きしめ、狂熱的に相手の唇《くちびる》を求めながら、同時に、窓際《まどぎわ》の長椅子のほうへ彼女を押しもどそうとした。彼女は、ドアがあけっぱなしになっているのを口実にして身を離そうとしたが、私はそんな口実にはのらなかった。私は、かるく反転して彼女をすこしずつドアのほうへ押しつけ、彼女の尻でそれをしめさせた。それから私は、あいているほうの手で錠をおろすと、彼女を部屋の中央へ運び、片手でボタンをはずしはじめた……。彼女はまだ半分寝ぼけている状態なので、なにか自動人形でもいじくっているような感じがした。一方、彼女はまた、うとうとしているところを犯されるという妄想《もうそう》をたのしんでいるようでもあった。だが、遺憾《いかん》ながら、私が体を躍動させるごとに、彼女はだんだん目がさめてきた。そして、意識がはっきりしてくると、こんどは逆におじけづいてきた。ふたたび彼女を眠らせて、首尾よく目的をはたすことは、もはや至難の業《わざ》に近かった。私はしずかに彼女を長椅子の上に移した。やがて彼女は火の玉のようになり、ウナギのように体をくねらせた。私がせまったときから、彼女は一度も目を開かなかったように思う。私は心のなかで、「こんちきしょうめ、このエジプトの売女《ばいた》め!」とつぶやきつづけ、すぐ降参しないように、モニカがグランド・セントラル駅へ運んできた死骸のことや、国道でポーリンに別れるときに渡した三十五セントのことなどを、わざと考えはじめた。
そうこうするうちに、とつぜん、ドン! という、おそろしくでっかいノックの音がした。彼女は、ぱっと目をあけ、びっくりして私を見た。私は、すばやく離れようとしたが、おどろいたことに、彼女は、しっかと私を押えた。「ね、じっとしてて!」と私の耳にささやく。やがて、またあらあらしいノックの音がひびいたかと思うと、つづいてクロンスキの声がきこえてきた。「おい、ぼくだよ、テルマ……ぼくだよ、イジーだよ」私は、それを聞いたとたんに、ふき出しそうになった。そして、私たちはまた自然な雰囲気にもどり、彼女がしずかに目を閉じると、私は彼女の夢を破らぬように、しずかに行動した。それは私の生涯のうちでもっともすばらしい思い出の一つであった。はてしなく、まるで永遠につづけられそうな気さえした。爆発の危険を感じるたびに、私は気分転換に、ほかのことを考えた――たとえば、もし休暇をとれたら、どこへ行こうかとか、整理|箪笥《だんす》のなかにあるシャツのこととか、ベッドの下のじゅうたんをつぎはぎした布のことなど。クロンスキはまだ部屋の外に立っていた――ときどき足の位置を変える音がきこえた。私は、それに気づくたびに、意味ありげに軽く彼女を小突き、彼女もまた、夢心地のうちに、あたかも私の暗黙の言葉を了解したかのように、おもしろそうに小突きかえした。私は、彼女が考えていそうなことは考えまいとした。そうしないと、どうにもならないのだ。ときどき、すれすれのところまで追いつめられたが、そのたびに、モニカとグランド・セントラル駅の死骸が、いつも救い手になった。それを考えることは、つまりその滑稽さは、氷水をぶっかけるくらいのききめがあった。
やがて万事が終ると、彼女は大きく目を開き、まるで相手が私であることをはじめて知ったかのように、まじまじと私を見つめた。私は、なにも、言うべき言葉がなかった。私の頭にある考えは、ただ、できるだけ早くここから逃げ出そうということだけであった。私たちが後始末をしていたとき、ドアの下に書置きがあるのに気づいた。クロンスキが投げ入れて行ったものであった。彼の妻が、いましがた入院したこと――至急彼女に会いたいので、病院へきてほしいというようなことが書かれてあった。私は、ほっとした。これで、へたな言訳をせずに逃げ出すことができるというものだ。
翌日、私はクロンスキから電話連絡を受けた。彼の細君は手術台の上で死んだらしい。その晩、私が家へ帰り、夕食をしている最中に、玄関のベルが鳴った。出てみるとクロンスキがしょんぼりと立っていた。だいたい私はお悔みを述べることが不得手だった。ましてや相手が彼では、まったく不可能に近かった。それで、妻が陳腐な同情の言葉をくどくどとならべたてるのを黙って聞いていたが、そうしていると、妻に対する嫌悪《けんお》感が、いままでになく強くなってきた。「ちょっと外へ行こう」私は、たまりかねて彼を誘った。
私たちは、しばらく黙りこくったまま歩いた。公園のなかへ入り、森のほうへ向った。霧が濃く、一ヤードさきも見えなかった。その霧のなかを泳いで行くうちに、ふいに彼は泣きだした。私は立ちどまって顔をそむけていた。そして、彼が泣きやんだと思われるころ、ふりかえって彼を見た。彼は奇妙な微笑をうかべて私を見つめていた。「おかしなことだが……ぼくは死なんて信じられないんだ」と彼は言った。私は、やっと微笑して、彼の肩に手をおいた。「さあ、話をつづけろよ。胸のなかにあるものを、みんなぶちあけるんだ。すっとするぜ」私たちは、また歩きだした。森の道を行くと、まるで、海の底を歩いているようであった。霧がますます濃くなり、彼の目鼻さえ、ほとんど見わけがつかないほどになった。静かに、しかも熱にうかされたような口ぶりで、彼は語りつづけた。「こうなることは、わかっていたよ。あまり美しすぎたからね、長つづきするはずはなかったんだ」細君が病気になる前の晩、彼は夢を見たそうだ。自分自身の識別がつかなくなってしまった夢だ。「ぼくは、自分の名前を呼びながら、暗闇《くらやみ》のなかを、ほっつき歩いていた。そうするうちに、橋の上へやってきて、ふと河を見おろすと、ぼくが溺《おぼ》れているんだ。ぼくは橋の上からざんぶと飛びこんだんだ。だが、水の上に浮きあがって、あたりを見まわすと、イエッタが橋の下をぷかぷか流れている。死んでいたんだ」それから彼は、だしぬけに、つけ加えた。「昨日ぼくがあの部屋をノックしたとき、あんたは、なかにいたんだろう? ぼくは、あんたがそこにいるのを知っていながら、すぐには帰れなかった。イエッタが死にかけていることも知っていたし、そばにいてやりたいのはやまやまだったが、ひとりで行くのが恐ろしかったんだ」私は、なにも言わなかった。彼は訥々《とつとつ》と語りつづけた。「ぼくの初恋の女も、やはり同じようにして死んだ。ぼくは、まだ子供だったから、あきらめきれなくて、毎晩、共同墓地へ行っては、その女の墓の前に坐っていたものだ。近所の人たちは、ぼくを気が狂ったと思ったらしい。いや、たしかにぼくは気が狂っていたのだ。昨日、あの部屋の前に立っていたとき、ふとそれを思い出したのだよ。ぼくはトレントンへもどって、あの墓の前にいた。ぼくが恋していた女の妹が、ぼくのそばに坐っていた。そして、その妹が、いつまでもこんなことをつづけていたら、あんたは気が狂ってしまうだろう、というんだ。ぼくは、自分でもほんとうに気が狂っているような気がしてきた。それで、それをたしかめるために、なにか気ちがいじみたことをやってみようと決心して、その妹に、おれが愛していたのは、きみの姉さんではなくて、きみだったのだと言って、彼女を引き倒して、横になったまま、たがいに接吻しあった。恋人の墓のまん前でだ。それからは二度とそこへ行かなくなったし、恋人のことも考えなくなったので、すっかり卒業したと思っていたんだ――昨日、ぼくがあの部屋の前に立つまではね。昨日は、もしぼくがあんたをつかまえたら、きっとしめ殺していただろうと思うよ。どういうわけで、そう感じたのかは知らないが、まるで、あんたが墓をあばいて、ぼくが愛していた女の死体を犯しているような感じがしたのだ。まったく正気じゃないよね。しかも、なぜ今夜こうしてあんたに会いにきたのだろう。ことによると、あんたが、ぼくに対して、全然無関心だからかもしれない……。あんたがユダヤ人でないために、あんたと話ができるからかもしれない……。また、あんたが決して怒らないし、あんたのいうことは、いつも正しいからかもしれない……。あんたはアナトール・フランスの『神々の怒り』を読んだことがあるかね?」
私たちは、ちょうどそのとき公園を一周している自転車道路に出た。街燈の光が霧のなかにただよっていた。私は、のぞきこむようにして彼の顔を見た。彼は、なにごとか考えにふけっているようであった。私は、この男を笑わすことができるだろうか、と考えてみた。しかし、いったん笑いだしたら、彼は笑いがとまらなくなりそうな気がしたので、とりとめのない話をはじめた。まず、アナトール・フランスの話からはじまって、つぎつぎと、いろいろな作家について語った。それから、彼が私の話にあきてきたのを見てとると、突如としてイヴォルギン将軍の話に切りかえた。たちまち彼は笑いだした。いや、笑うというよりも、まるで首をしめられた雄鶏《おんどり》のような薄気味の悪い鳴き声をあげたのである。あまり笑いすぎたため、しまいには、腹をかかえたまま道ばたにしゃがみこんでしまった。そして、涙をぽろぽろ流し、けっけっという笑い声の合い間に、血を吐《は》くような凄惨《せいさん》な嗚咽《おえつ》を挿入《そうにゅう》した。それから、やがてその嗚咽が静まったかと思うと、彼は、だしぬけに言った。「たぶんあんたは、ぼくを笑わせてくれるだろうと思っていたよ。いつも言ってるように、あんたという人は、まったくおかしな男だね……。気ちがいだ。ユダヤの雑種だよ。あんた自身は気がついていないだろうけれどね……。ところで、昨日はどうしたんだい? とうとうやっちゃったのかい? ぼくが、彼女は立派なレディーだからと、あれほど言っておいたのに。彼女がだれといっしょに住んでいるのか、あんたは知っているのかい? つかまらなくて仕合せだったよ。彼女の亭主はロシア人の詩人なんだ――あんたも、その男を知ってるはずだ。一度カフェー・ロイヤルで、ぼくが紹介したことがある。とにかく、奴《やつ》に気づかれないように注意したほうがいいぜ。奴のことだから、即座にあんたの頭を叩《たた》きつぶすにちがいないよ――そして、それを一編の美しい詩に書いて、バラの花束を添えて彼女に送るにちがいない。奴のことは、ステルトンにいたころ、無政府主義者のクラブに出入りしていた当時から、ぼくは、よく知っているんだ。奴のおやじは虚無主義者だった。一家そろって気が狂っていたよ。ところで、一つ注意しておきたいことがある……。いつか言おうと思っていたんだが、あんたが、こうまで手が早いとは思わなかったもんだから、つい言いおくれてしまったわけだ――じつはね、彼女は梅毒にかかっているかもしれないんだ。いや、ぼくは決してあんたをおどかすつもりじゃないよ。あんたのためを思って言っているんだ……」
こういう爆弾を投げつけると、彼は、いかにも気分がすっとしたらしい。こんどは、私を好いているということを、ユダヤ人的な、まわりくどい言いかたで語ろうとした。そうするためには、私の周囲のあらゆるものを――妻も、仕事も、友人も、〈黒ん坊のパン助〉と彼が言っているヴァレスカも、その他ありとあらゆるものを、まず最初に、くそみそにこきおろさなければならなかった。「ぼくは、あんたはきっと将来偉大な作家になるだろうと思っているんだ。しかしだね――」と彼は意地悪くつけ加えた。「その前に、あんたは、もうすこし苦しむ必要がある。ほんとうの意味の苦しみをね――あんたは、苦しみという言葉の意味を、まだよくわかっていないようだ。あんたはただ苦しんだことがあると思っているにすぎないのだよ。それには、最初にまず恋をすることだ。あの黒ん坊のパン助だが――あんたはまさか彼女に恋しているとは思ってないだろうね? あんたは、あいつの尻《しり》の穴を、よく見たことがあるかね――穴が、どれほど大きくなっているかを? あと五年もたったら彼女はばあさんになっちまうぜ。まあ、黒ん坊の餓鬼どもをぞろぞろ引きつれて歩くつもりなら、格好な相手かもしれないけどね。しかし、そんならむしろユダヤ人の娘と結婚したほうがましだと思うな。もちろんあんたはユダヤ女なんか気に入らないだろうけれど、しかし、あんたのためにはなるぜ。あんたには自分を落ちつかせるものが必要なんだ。精力を浪費しすぎてるよ。なぜあんなくだらない売女《ばいた》どもの尻を追っかけまわしているのかね。悪玉《あくだま》に手をつけることにかけちゃ天才らしいけれど――あまり感心しないぜ。もっと有益なことに身を入れたらどうかな。だいたいあんたは、あんな職場でくすぶっているべき人間じゃないよ。もったいないよ。その気になれば、どこか別の方面で大成できると思うんだ。たとえば労働者の指導者とか――もっとも、ぼくは、その方面のことは、よく知らんけどね。まあ、それはそれとして、まずなによりもさきに、あの狐《きつね》づらをした細君と別れるべきだな。ちぇっ! あんたんとこの女房を見ると、まったく顔につばを吐きかけたくなるよ。あんたみたいな男が、どうしてあんな悪魔と結婚したのか、理解に苦しむね。あれはいったいなんだい――気の早いあれにすぎないじゃないか。しかし、あんたにとっては、それがいいのかもしれないね――あんたは、セックスのこと以外は、なんにも頭にないんだから。いやいや、これは冗談だよ。あんたは理性もあるし、情熱も志操もある……にもかかわらず、自分のなすこと、身辺のことに、まったく無頓着《むとんじゃく》でいられるらしい。立派だね。もしあんたが、そういうロマンチックな男でなければ、ぼくは、あんたをユダヤ人だと断言できただろうと思うよ。そこが、ぼくとちがうところでもあるわけだがね――ぼくは嘱望《しょくぼう》されるようなものを、なにも持っていないからね。しかし、あんたには、それがある――あんたはただ、ぐうたらすぎるために、それが実現しないだけの話なんだ。ぼくは、ときどきあんたの話を聞くたびに、こう思うんだ――もしこの男が、それを書いて発表しさえすれば、えらいことになるだろうにな、とね。あんたなら、ドライザーみたいな作家でも頭をさげるような本が、きっと書けると思うよ。あんたは、ぼくが知ってるアメリカ人とはちがうんだ。けたはずれなところがある。そこが、なんともいえず、すばらしいところなんだ。あんたはまた多少狂っている――たぶんこれは、あんた自身も気づいていると思うがね。ただし、それはいい意味でだ。さっき、もしだれかほかの人間が、あんなことをぼくにしゃべったとしたら、ぼくは、そいつを殺してしまっただろうと思う。あんたは、ぼくに、いささかも同情しようとしなかった。だから、ぼくは、ますますあんたが好きになったんだ。ぼくは、あんたの同情を期待するほどばかじゃないよ。もしあんたが今夜、一言でも嘘《うそ》を言ったら、ぼくは、ほんとに気が狂っていたかもしれないな。気が立っていたからね。あんたがイヴォルギン提督の話をはじめたときには、もうだめだと思ったくらいだ。ところが、あの話を聞いて、ぼくは感心してしまったよ。あんたは、なにかすばらしいものをもっていると感じたんだ。まったく痛快な話だったよ。しかしね、あえて言わせてもらうと――もしあんたが、いまのうちに決心を固めないと、あんたは、ほんとに気が変になっちまうぜ。あんたの内部にあるものが、あんたを食いつくしてしまうだろうと思うんだ。それが、なんであるか、ぼくは知らないし、またぼくがそれについてとやかく意見を述べてもはじまらないことかもしれない。あんた自身で考えなければならないことなんだから。ぼくは、あんたという人間を、よく知っている。あんたは、なにかにとらわれているんだ。それは、あんたの細君でもないし、仕事でもない。また、あんたが恋していると思っているあの黒ん坊のパン助でもない。ぼくは、ときどき、あんたは悪いときに生れあわせたと思うことがある。ぼくは、べつにあんたを偶像視しているわけじゃない。ぼくのいうことから、なにかを汲《く》みとってもらいたいと思って、しゃべってるにすぎないのだけれど……。もしあんたが、もうすこし自信をもってやりだしたら、おそらく現代の世界のなかで最も偉大な人物になれると思うよ。あえて作家になる必要さえないだろう。ぼくの見るところでは、あんたはきっと現代のイエス・キリストになる。笑っちゃいけないよ――ほんとなんだ。あんたは、自分自身の可能性を見きわめるということを、ちっともしない男だ。自分の欲望以外のことには、まったく盲目なんだ。自分が、なにを望んでいるのかも、知らずにいる。静かに考えてみないからだよ。他人のことに精力を使いはたしているんだ。ばかだよ。ぼくがもし、あんたの十分の一の才能をもっていたら、世界をひっくり返すことができるだろうと思うよ。と言っても、あんたは狂人のたわごとだと思うだろうけれど、まあ、聞いてくれ……。ぼくは、過去の生涯のあいだで、今夜ほど正気になったことはないと思う。ぼくは、今夜あんたに会いに行ったとき、いっそのこと自殺してしまおうかと考えていたんだ。ぼくが自殺しようとしまいと、たいした問題ではないけどさ。だけど、とにかく、いま自殺してみたところではじまらないからね――やめることにしたよ。彼女が、ぼくの手にかえってくるわけじゃなし……。ぼくは不運に生れついた男なんだ。どこへ行っても、不幸な目にばかり会っているんだ。でも、ぼくはまだ悲観したくない――死ぬ前に、なにか立派なことをやりたいんだ。あんたには、たわごとのようにきこえるかもしれないが、これはぼくの本心なんだよ。なにか他人のためになることをしたいんだ、ぼくは……」
彼は急に話をやめて、またあの奇妙な暗い微笑をうかべながら私を見つめた。それは、絶望におちいったユダヤ人の顔であった。これはユダヤ民族に共通した事実なのだが、生活本能が非常に強いために、まったく希望が絶たれても、彼らはみずから死ぬことができないのである。そういう絶望のしかたは、私には、まったく不可解であった。身代りになってやれたら――と、私はひそかに思った。おれなら、どんなくだらないことのためにでも自殺できるのに! しかも、なににもまして私を驚かせたのは、彼が葬式を楽しもうとさえしていないらしいことであった――自分の女房の葬式だというのに! 神さまもごぞんじのように、葬式というものは、たしかに悲しい行事ではあるが、いつもそのあとでは多少の酒と肴《さかな》が出るし、卑猥《ひわい》な駄洒落《だじゃれ》も屈託のない笑い声も聞かれるのである。私はまだ幼なすぎたために、彼らが大声で泣きわめくさまを目の前に見ても、その悲しい情景を十分理解できなかったのかもしれない。だが、それは、いずれにしろ、私にとっては、たいした問題ではなかった。なぜなら、葬式がすむと、みんなは墓地のすぐ隣のビヤ・ガーデンにおしかけ、黒い喪服や喪章や花輪をよそ目に、にぎやかな雰囲気のうちに飲み食いするのが常であったからだ。当時まだ子供だった私は、彼らが、なにか死んだ人と話をかわすまじないでもしているのではあるまいかと、いぶかったものである。いまふりかえってみると、いかにも、エジプト人のやりそうなことのように思われる。かなり昔のことだが、私は彼らを偽善者の集まりだと考えたこともある。しかし、じつはそうではなかった。彼らはただ、生活欲に満ちあふれた、愚鈍な、健康なゲルマン人にすぎなかったのである。彼らのいうことを真《ま》に受けて、それによって考えるならば、死は彼らの思想の大半を占めているはずなのだが、ふしぎなことに、それは彼らの視野の外にあった。彼らはそれを全然理解していなかったのである――たとえばユダヤ人的な理解のしかたですら、それを理解していなかったのだ。彼らは死後の世界について語ることを好んだが、決してそれを信じてはいなかった。そして、もしだれかが死を悼《いた》むあまりやせ細ったりすると、彼らは、まるで狂人でも見るような目で、その人間を見た。歓喜にも限界があるように、悲しみにも限界がある――ということが彼らから受けた印象であった。その両極限には、つねに、満たされるのを待っている胃袋があった――それは、リムバージア・サンドイッチや、ビールや、キュンメルや、もしあれば七面鳥の足などを要求した。彼らはビールを飲みながら子供みたいに泣きじゃくった。かと思うと、つぎの瞬間には、故人の奇癖奇行を話題にして、笑いころげた。彼らが過去形をつくってしゃべることさえ、なにか奇妙な感じを私にあたえた。墓穴に埋められてから一時間もたたない故人について、「いや、まったく温厚な、いい人だったよ」などと、まるで一千年も昔に死んだ人を、歴史上の人物を、あるいはニーベルンゲンの歌にある人物を思い出していうような言いかたをした。要するに、死んだものは永遠にかえらぬ人であり、生きている彼らは、もはや永久に故人と絶縁し、昨日と同様に今日も洗濯《せんたく》をし、夕食の支度をして、生き抜かなければならず、そしてまただれかが死ねば、棺を選んだり、遺言書で一悶着《ひともんちゃく》を起さなければならないのだが、それらは、いわば日課のようなもので、すべては神の――もし神なるものが存在するとすればの話だが――摂理なのであって、われわれがとやかくいう筋合いのものではないのだから、いやしくも悲嘆に暮れてむだな時をすごすことは許されない、ということなのである。
よろこびや悲しみの、さだめられた限界を越えることは、罪悪とされ、発狂することは大罪になるのだ。彼らはじつに恐るべき、動物的な正義感を有していた。いや、それがもし真に動物的であれば、まだ驚嘆してもいられようが、じつは無知|蒙昧《もうまい》なゲルマン民族の鈍重な感覚の所産にすぎないと知ったならば、だれしも愕然《がくぜん》とせざるをえないであろう。もっとも私は、どちらかといえば、かの九頭の蛇《へび》的なユダヤ人の悲しみかたよりは、むしろその食欲旺盛な胃袋のほうを好むものではあるが。そんなわけで私は心からクロンスキに同情するわけにはいかなかった――というよりも、彼の種族全体に憐《あわ》れみを感じないわけにはいかなかった。彼の細君の死は、彼の受難の歴史上の些末《さまつ》な一事件にすぎない。みずから言っているように、彼は不運な星の下に生れた。やること、なすことが、まずくゆくように生れついたのだ――なぜなら、過去五千年ものあいだ、彼らの民族の血の通ったものは、すべて悪化の一路をたどっているからである。彼らは、あの沈んだ絶望的な目をもってこの世に生れ、同じ目で周囲を流し見ながらこの世を去るのである。あとに、言いようのない悪臭を、毒気を、悲嘆の吐瀉物《としゃぶつ》を残して。彼らが、この世から嗅《か》ぎ出そうとしている臭気は、彼ら自身がこの世に持ってきた臭気なのだ。私は彼の話を聞きながら、そんなことを思っていた。やがて彼と別れて、とある裏街へ入ると、私は、がぜん爽快《そうかい》な気分になって、口笛を吹いたり鼻歌を歌ったりしはじめた。それから、ひどく咽喉《のど》がかわいたので、得意のアイルランド訛《なま》りで――「それじゃ、いっぺえ飲むとすべえかの」――と、ひとりごとをつぶやきながら穴蔵のなかへ飛びこんで、生ビールの大ジョッキと、玉葱《たまねぎ》のたくさん入った厚いハンバーグ・サンドイッチを注文した。それから、ビールをもう一杯飲み、さらにブランデーを少量口に流しこみながら、いかにも私らしい冷淡な考えを追った――もし、あの哀れなばかものが、自分の女房の葬式を楽しむだけの才覚すらもないのなら、おれが代って楽しんでやることにするか、などと。
そんな考えを追えば追うほど、ますます愉快になった。もし、そのあいだに、いささかの不満あるいは羨望《せんぼう》を感じていたとすれば、それは、私がかの哀れなユダヤの女亡者《おんなもうじゃ》の身代りになることができないという事実のせいにすぎなかった。なぜなら、死は私のような愚か者の理解を越えたものであったからである。それを知りつくしている彼らの仲間に同情を寄せるのは無駄なことだし、だいたい彼らは、そんなものを必要としなかった。私は死の想念にすっかり酔ってしまい、もうろうとした頭のなかで、「おれを今夜殺してくれ。殺せ。そして、死とはいかなるものであるかを、おれに教えてくれ」と神にささやきかけていた。全身全霊を集中して、死なるものを、さまざまに想像してみたが、なんの甲斐《かい》もなかった。やっとのことで、死にぎわに咽喉が鳴る音をまねすることができたものの、しまいには息がつまりそうになり、おそろしくなって、あやうく小便をもらしそうになった。いずれにしろ、それは死ではなく、単なる窒息状態にすぎなかった。死は、むしろ私たちが公園を歩いていたあのときの状態に近かったようだ。二人の男が、ぴったり寄り添って、霧にかすんだ木の幹や藪《やぶ》につき当りながら、一言もいわずに歩いている状態。死とは、その名称よりも空虚な、それでいてじつに正確で、平和で、いわば威厳のあるものであった。それは生命の持続ではなくて、生きて帰れる可能性のまったくない冒険であった。それはそれでいいんだ、美しいんだ、帰ろうと思う奴《やつ》もいないだろうから――と、私はひとりごちた。生にしろ、死にしろ、それを一度味わうことは、永劫《えいごう》に味わうことを意味する。しかし、銭占いが丁半《ちょうはん》いずれに出ようと、賭《か》けていないかぎりは、どちらでもかまわないわけである。たしかに自分の首を絞めるのは苦しいし、これ以上不快なこともあるまい。しかし、かならずしも首をくくらなくても死ぬことはできるはずである。眠ったまま子羊のように平和に静かに死ぬ人もある。よくいわれるように、神がやってきて、そっとつれ去ってくれるかもしれない。いずれにしろ、私たちは呼吸をとめるのだ。それにしても、人間はなぜ永久に呼吸をつづけたいと思うのだろう? なにごとでも、際限なくくりかえさなければならないとしたら、それは拷問《ごうもん》にひとしいものとなるだろう。哀れむべき愚かなわれわれ人類は、だれかがこうした死にかたを発明してくれたことを深く感謝すべきである。われわれは、眠ることについては、あまりうるさく言わず、人生の三分の一を、酔いどれのように眠りすごしてしまうのだが……。それはいったいどうしたわけなのだろう? 悲劇的なことなのだろうか? ついでに三分の三を酔いどれのように眠ってしまったらどうなのか? そう、多少とも、ものの道理をわきまえている人間なら、それを考えついた瞬間、歓声をあげて踊りだすことだろう。われわれは、薬品を利用するだけの才覚さえあれば、明日にでも、ベッドのなかで、なんの苦痛も感じることなく死ねるのである。ところが、われわれは死にたがらない。そこに問題がある。そこから、神だの、暗黒街の気ちがいじみた射《う》ち合いなどが発生するのだ。イヴォルギン将軍! その話をするとクロンスキは雄鶏の鳴き声に似た奇声を発し、乾《かわ》いた嗚咽《おえつ》に二度三度むせんだ。私はリンバーガー・チーズの話でもすべきだったかもしれない。だが、イヴォルギン将軍は、彼にとって、ある意味をもっていた――途方もないことを意味していた。リンバーガー・チーズでは、あまりに陳腐すぎ、穏当すぎただろう。しかしながら、あの憐れむべき飲んだくれのイヴォルギン将軍も、せんじつめれば、リンバーガー・チーズなのである。イヴォルギン将軍は、ドストエフスキーが自分のリンバーガー・チーズに手を加え、彼独自の品種につくりあげたものなのである。ということはつまり、独特の香りがあり、特殊なラベルがついていることを意味する。したがって、その匂《にお》いを嗅ぎ、味見《あじみ》をすれば、すぐにそれとわかるはずである。だが、このイヴォルギン将軍をリンバーガー・チーズにしてしまったものは、いったいなんだろう? いや、リンバーガー・チーズをつくったものはなんであるかといえば、それはXであり、不可知なものである。とすると? つまり、あとは所詮《しょせん》わからんということだ。そこで終止符をうつか、さもなければ、冒険を試みて二度と帰らないか、いずれかを選ぶよりほかはあるまい……。
私はパンツをぬぐとき、とつぜん奴の言ったことを思い出した。そして、よくたしかめてみたが、ペニスは、いつもと変りなく清純な顔をしていた。「梅毒がうつったなんて、つまらんことをいうなよ」私は、そうつぶやきながら、それを握って、うみが出るかどうかをためすために、軽くしぼってみた。いや、まかりまちがっても、梅毒が私にうつることは考えられなかった。私は、そのような星の下には生れついていないはずだった。淋病《りんびょう》なら、ことによると、うつる可能性があるかもしれない。だれでも、ふとしたはずみに淋病に感染することはある。しかし、梅毒となると話がちがう! 奴が私をこらしめるために、梅毒にかかるようにと祈っていたことは私も知っていた。しかし、奴には気の毒だが、私がそうやすやすと梅毒にかかるわけはなかった。私は、その方面では、わりに悪運強い男に生れついていたからである……。私は、あくびをした。梅毒かどうか知らないが、まったく舌のとろけるようなリンバーガー・チーズだった――と、ひそかに思った――もし彼女が梅毒をもっているなら、もう一度つまみ食いして、それで終りとしよう。しかし、どう考えても彼女が梅毒にかかっているとは思えなかった。あのとき、彼女は自発的に受身になった。だから、私はただ、パントマイムで体《からだ》をぶつけた。そして、精神感応術によって彼女にその意志を伝えただけなのだ。すると、ふしぎなことに、彼女は寝ぼけていたにもかかわらず、その意志を感じとったらしい。なぜなら、私のそれは、いともやすやすとあの堅固な扉《とびら》をあけたし、おまけに、彼女が言いしれぬよろこびを顔にあらわしていたことは、あえて彼女の顔を見るまでもなくわかったからである。私が彼女に決定打をあたえて試合の幕を閉じたとき、私は、ひそかにひとりごとを言ったものだ――「やれやれ、たっぷりとリンバーガー・チーズも食ったし、これから一眠りするか……」
この死とセックスの歌は永遠につづきそうに思われた。翌日の午後、妻が事務所へ電話をかけてよこし、妻の友人のアーリンが、いましがた精神病院へ運ばれた、と言った。彼女たちは、カナダのある修道院付属の女学校時代からの友だちで、そこでいっしょに音楽や手淫《しゅいん》の技巧を習った仲であった。私はこれまで、いろいろな機会に、彼女たちの級友のほとんど全部に会っていた。そのなかの一人アントリナ修道尼は、脱腸帯をはめていて、いかにもオナニズム宗の高僧らしかった。彼女たちは、みな、一度や二度は、そのアントリナ修道尼と相愛の契《ちぎ》りを結んだ経験をもっていた。しかも、そのグループのなかで精神病院に入ったのは、チョコレート・エクレアみたいなご面相のアーリンが最初ではなかった。私は、彼女たちを発狂させた原因は、自慰行為にあるというわけではないが、修道院の雰囲気が、それになんらかの関係をもっていたことは、いなめないだろうと思う。彼女たちはみな卵のうちに腐ってしまったのである。
午後の仕事が終る前に、私の古い友人であるマグレガーが訪《たず》ねてきた。いつものように、うかぬ顔で入ってくるなり、まだ三十を越えたばかりなのに、年をとった、とぼやきはじめた。しかし、私がアーリンの話をすると、急に生気をとりもどし、顔を輝かして、前々から彼女はどこか変だと思っていた、と言った。どうしてだ、ときくと――ある晩、彼が彼女を手ごめにしようとすると、彼女は、わんわん泣きだした。いや、泣いたことは、さほどおかしくないにしても、問題は、彼女がこう言ったことにある。わたしは聖堂をけがす罪をおかしたので、これからは禁欲生活を送らなければならなくなったのよ――彼女はそう言って、嘆き悲しんだというのである。彼はその出来事を思い出して、例によって陰気な笑い声を殺しながら、「だから、おれは、こう言ってやったんだ。きみがなにもしたくないんなら、しなくてもいいから、そのかわり、ちょっとこれをみてくれとね。おれは、そう言ってから、こいつは気が狂っちまったんじゃないかと思ったよ。あなたはわたしの純潔を汚《けが》そうとしているのね、というが早いか、いきなりおれに手で乱暴をしやがるんだ。泣きじゃくりながらね。こっちは、あぶなく気絶するところだったよ。おまけに、聖霊だの、純潔だのと、いつまでもわめきたてるんだ。おれは、きみがいつか、おれにしゃべったことを、ふと思い出してね、ためしに、そいつの横っ面《つら》を一発張りとばしてやったんだ。そしたら、てきめんにきいたよ。めそめそするのをやめて、おとなしくなり、それから、いよいよ本番に入ったわけなんだが、それがまた傑作なんだ。ねえ、きみは気ちがいの女をこころみたことがあるかね? なかなか味なもんだぜ。とたんに泣きだしやがるんだからね。なんて言ったらいいか……、つまり、こっちの気分なんか、てんで知っちゃいねえという調子なのさ。たとえば、きみは、あの最中に、女に林檎《りんご》を食わせたことがあるかどうか知らないけれど、まあ、どんな感じかは想像できるだろう? あいつの場合は、もっとひでえんだ。頭へきちゃったよ、まったくの話。おれ自身の頭の調子が少々狂ってるんじゃないかと思ったりしてね……。しかも、それからがまた傑作なんだ。あいつが、あとで、なんと言ったと思う? おれの首に抱きついてだよ、ありがとうって、そういうのさ……。いや、それだけじゃないんだ。それから、奴《やつ》はベッドから降りると、床にひざまずいて、おれのために祈祷《きとう》をはじめたんだ。『主よ、マックを、よりよきクリスチャンにならせたまえ』と言ってね。おれは寝たままそれを聞いていたが、そうすると、あれまでげんなりしてしまっていたよ。悪夢にうなされているような気持だったね。『マックをよりよきクリスチャンにならせたまえ』か。まったく恐れ入ったよ」
それから、彼は快活に、「今晩は、なにか予定があるか?」ときいた。
「いや、別に」と私は答えた。
「じゃ、おれにつきあえよ。女を紹介してやる――ポーラというんだ。四、五日前の晩に、ローズランドで知りあった女でね、気ちがいじゃないが、ちょっとした淫乱症《いんらんしょう》なんだ。だから、きみが彼女と踊るのを見たいと思ってね。おもしろいだろうな……。彼女が腰をふりだしたときに、きみが欲情しなかったらおなぐさみだよ。さあ、早いとこ店じまいして行こうじゃないか。こんなところでぐずぐずしていたってつまらんよ」
ローズランドへ行く前に、かなりひまつぶしをしなければならなかったので、七番通りの近くの小さな酒場に入った。戦前はフランス料理店だったが、いまはイタリア移民が二人で経営している怪しげな酒場になっていた。入口の近くに、ちっぽけなバーがあり、その奥の床におがくずを敷いた小部屋には、ジューク・ボックスがおいてあった。私たちは、そこで二、三杯飲んで、それから食事にするつもりだった。それは、はっきりしていたが、しかし私は、彼という人間をよく知っていたので、彼が本当にローズランドへ行くつもりなのかどうか、判断に苦しまないわけにはいかなかった。もし彼の浮気心をそそるような女があらわれたなら――それには、かならずしもその女が美しくなくても、唖《おし》でも、びっこでもいいわけなのだが――彼は、おそらく私を見殺しにして行方《ゆくえ》をくらましてしまうにちがいなかった。彼に誘われてそこへ入ったときの私の唯一の関心事は、彼が飲み代を払うだけの金をもっているかどうかを前もってたしかめておくことと、むろん飲み代を払うまで彼から目を放さないようにすることであった。
最初の一杯ないし二杯は、いつものように彼を回想にふけらせた。もちろん、もろもろの相手のもちものに関する回想である。そのときの彼の思い出話は、前に一度聞かされたことがあるが、まことに下劣きわまるものであった。あるスコットランド人が臨終の際に、なにか言おうとしてあがいていた。それを見た細君が、顔をよせて、やさしくたずねた――「なあに、ジョック、なにを言おうとしているの?」するとジョックは、最後の力をふりしぼって、むっくり体を起し、せつなげに言った。「あそこを、ちょっと……あそこを……あそこを……」
これはつねに、マグレガーの先行主題であり、また最終主題でもあった。話はいつもそこへ落ちた。そして、その対偶主題は、病気であった。彼は女と遊ぶと、そのあと、いつも病気のことで頭をなやましていたからである――はっきりいえば自分のペニスの安否を、むやみに気づかっていたからである。彼に言わせると、それは至極当然なことで、「ちょっと二階へこいよ。おれのやつを見てくれないか」と、血相を変えて私を呼んだことも、一度や二度ではなかった。彼は日に何度も、それをつまみ出しては、しげしげと眺《なが》め、洗い、丹念にこすった。だから、彼のそれは、いつ見ても赤く腫《は》れあがっていた。また彼は、ひっきりなしに医者へ行って治療してもらっていた。もっとも、医者は、ただ彼を安心させるために、膏薬《こうやく》をあたえ、あまり酒を飲まぬようにと注意していただけであったらしい。これは、いつも私たちの論争のたねになった。「もし膏薬がきくものなら、なにも酒をやめる必要はないじゃないか」とか、「酒をやめても膏薬を塗る必要があるというのかね?」といって食ってかかる始末であった。むろん私がどう忠告しようと、馬耳東風にひとしかった。彼は、いわゆる心配症で、絶えずなにか心配のたねをもっていなければならない人間だし、たしかにペニスは、その好材料でもあったわけである。あるときには、ひどく自分の頭を気にすることもあった。ふけが出るというのである。だれだって、ふけが出るにきまっているのだが、彼はペニスの調子がいいときには、すっかりそっちのほうは忘れて、頭のほうばかり心配していた。かと思うと、こんどは胸を心配しだした。胸のことを考えると、とたんに咳《せき》が出てきた。しかも、その咳のしかたが、ただごとではなかった! まるで末期の肺病患者のようであった。また彼は、女の尻《しり》を追うときには、猫のように神経過敏になった。それが邪魔をして、すばやく女をたらしこむことができなかったばかりでなく、ものにした瞬間から、いかにしてその女と手を切るかを思いわずらった。女という女がすべて、どこかに欠点をもっていて――たいがいは、とるにたらぬことなのだが――それが彼の食欲を減退させたのである。
うす暗い奥の部屋で、彼は、そんな話を、ながながとくりかえした。二杯目を飲みほすと、いつものように便所へ行くために腰をあげ、途中でジューク・ボックスに銅貨を入れ、それが騒がしく鳴りだすと、急に元気になって、テーブルの上のグラスを指さしながら、「おい、もう一杯注文してくれ!」とどなった。それから、やがて、やけに満足げな顔つきでもどってきた。膀胱《ぼうこう》がさっぱりしたせいなのか、それとも通路で女と出っくわしたためなのか、いずれとも知れなかった。ともかく彼は、席にもどると、こんどは、やけにとりすまして、哲学者のような厳粛な態度で、これまでとは趣の変った話をはじめた。「ねえ、ヘンリ、おれたちも、そろそろなんとかしなくちゃならん年だぜ。いつまでも、こうしてぼやぼやしてはいられないぞ。もし、なにかになるつもりなら、もう、それに向って踏み切っていなければならぬときだと思うんだがね……」私は、このセリフを、もう何年も前から、たびたび聞かされていたし、その結論が、どういうことになるかも、ほぼ心得ていた。それは単なる挿入句《そうにゅうく》にすぎず、彼は、そんなことを言いながら、きょろきょろと部屋を見まわし、最も飲んだくれらしくない人物を見さだめるのであった。われわれ人生のみじめな敗者について論じながらも、彼の足は踊り、目は次第に輝きをましてきた。彼が、つぎのようなくだりを述べるころになったら、いつものことがはじまるにちがいないのだ――「ええと、たとえばだね、あのウッドラフを見るがいい。あいつは生れつき卑しいコソ泥みたいな男だから、全然進歩しねえんだ――」――ここまできた瞬間、テーブルのそばを通りすぎようとするほろ酔い機嫌《きげん》の若い女が、彼の目をとらえた。すると彼は、間髪《かんはつ》を入れず、その話をうち切って女に声をかける。「やあ、いかがですか、こちらへきていっしょに飲みませんか」もちろん、こういうところで酔っぱらっているような女が、ひとりできているわけはない。かならず連れがあるにきまっているから、「ええ、ありがとう。お友だちがいっしょなんだけど、つれてきてもいいかしら?」と答える。マグレガーは、世界じゅうで最も紳士的な男であるかのようにふるまい、すかさずこういう。「もちろん結構ですとも。どうぞおつれください。ところで、そのおつれの男のかたのお名前は?」それから彼は、私のそでを引きながら、上体をかがめて私に耳うちするのである。「いいか、ぬかるなよ。やつらに一杯飲ましておいて、とんずらをきめるんだ。わかったね」
こうして、いつものように、一杯が二杯になり、三杯になって、勘定がみるみるうちに高くなってくると、彼は、そっと私にいうのである。こんな飲んだくれどもに、むだな金を使うのは、ばかばかしいから、ヘンリ、きみがまず薬を買いに行くふりをして出て行け。おれは、そのあとから、すぐ出るから……。だが、かならず待っていてくれよ。このあいだみたいに、おいてきぼりをくわせたら、承知しないぞ……。私は、いつものように、外へ出ると、できるだけ早足で、そこを立ち去る。笑いをかみ殺しながら、そして、やすやすと彼をまいてしまうことのできた私の幸運の星に感謝しつつ……。酒は、たらふく飲んだし、あとは足の向くままに歩いて行くだけだ。ブロードウェイの灯が、いつもと変りなく狂気のように燃え、人ごみは糖蜜《とうみつ》のように濃く、ゆっくりと流れている。そのなかへ、蟻《あり》のように身を投げ入れ、押し流されて行く。それぞれの目的をもって、あるいは、なんの目的ももたずに、みんながそうしていた。押し合い、へし合うことが、行動と成功と前進とを表現しているかのように。足をとめて、靴や、いきなシャツや今年流行のオーバーコートや、九十八セント也《なり》の結婚指輪を見る。一軒おきに飲食店が立ちならんでいる。
こうした夕食どきの飲み逃げに成功するたびに、ある熱っぽい期待が、私の胸をときめかせるのであった。タイムズ・スクエアから五十番街までは、わずか数区画の長さしかない。したがって、ブロードウェイという名称にいつわりはないにしても、実体は猫のひたいみたいなところで、しかもその猫のひたいがじつに不潔きわまるのである。だが、夜の七時になり、みんなが夕食のテーブルへ殺到するころともなれば、このかいわいの空気のなかには電気の火花の音のようなものがこもってくる。そして、私たちの髪の毛はアンテナのようにつっ立ち、感受性の鋭い人だったら、あらゆる衝撃音や閃光《せんこう》をキャッチできるばかりでなく、銀河を構成している星屑《ほしくず》のようにひしめき合い、ぶつけ合う、連鎖関係にある細胞原形質のような莫大《ばくだい》な量の人体の渾然《こんぜん》一体となった統計学的欲望を捕捉《ほそく》することもできるにちがいない。もっとも、そこは銀河《ミルキーウェイ》ではなく、|陽気な白人の道《ゲイ・ホワイト・ウェイ》であり、上空には天井がなくて広々としているし、足もとには穴もひび割れもないから、足をとられて、あっと叫ぶ必要もない……。この街路の完全な没個性的様相が、人を極度の精神錯乱状態におとしいれる。だから人々は馬車馬のように駆けだしたり、妄念《もうねん》に駆られて耳をひくめかせたりするのである。すべての人間が完全に自己を喪失しているために、人々は、機械的に全人類の化身となり、何万人もの人間の手に握手し、幾万もの異なった舌でしゃべり、呪《のろ》い、賞讃《しょうさん》し、やじり、歌を口ずさみ、独白し、演説し、身ぶりをそえて語り、甘言を弄《ろう》し、たらしこみ、泣きごとをならべ、客を引き、さかりのついた声で言い寄る。すべてがモーゼの教えに則《のっと》って生活している人間であり、そしてまた帽子か鳥籠《とりかご》か、あるいはネズミ取りを買っている女でもある。十四カラットの金の指輪のように、ショーウィンドーでじっと待っていることもできるし、あるいは人間の蠅《はえ》みたいにビルの横壁を這《は》いあがることもできるが、しかし、いかなるものも、その行列をとめることはできない――たとえ、コウモリ傘が稲妻《いなずま》のように飛んできても、あるいはまた装甲の厚いセイウチ(アザラシの一種)の群れが|カキ《ヽヽ》の床に向ってぞろぞろと行進してきても。
私が二十五年前に見、そして現在見るようなブロードウェイは、聖トーマス・アキナスがまだ子宮のなかにいたころに計画されたもので、もともとは、ただ蛇《へび》やトカゲや、角のはえたヒキガエルや、赤いサギだけが使うためにあったのだが、スペインの無敵艦隊が撃沈されたとき、人類が船から這い出し、こぼれ落ち、恥も外聞もなくのたうちまわったために、南はバッテリーから、マンハッタン島の荒涼とした、虫しか住まぬ中央部をぶちぬいて、北はゴルフ・リンクにいたるまで、女陰の形をした亀裂が生じたのである。かくして、聖トーマス・アキナスが彼の生涯の最大の傑作のなかに入れることを忘れたタイムズ・スクエアから五十番街にいたる区域が、そこにふくまれることになり、それにともなって、もろもろの事物が発生した――たとえば、ハンバーグ・サンドイッチ、カラー・ボタン、プードル犬、自動販売機、灰色の山高帽、タイプライターのインクリボン、オレンジ・ジュース、公衆便所、月経綿、ハッカ入りのナツメゼリー、撞球場《どうきゅうじょう》、きざみ玉葱《たまねぎ》、マンホール、チューインガム、サイドカー、酸性飲料、セロファン、コール天の帽子、磁気発電機、馬の整毛剤、咳《せき》どめドロップ、それに、股《また》のあいだの砲身を短く切りつめてソーダ・ファウンテンへやってくるヒステリックな男娼《だんしょう》どもの、あの猫のような嬌態《きょうたい》。夕食前の雰囲気、ピチョリ油の混合物、温い瀝青《れきせい》ウラン鉱、冷房、糖分をふくんだ汗、粉末になった尿など、すべてが人の心を熱病的な妄想《もうそう》に似た期待へと駆り立てるのだ。キリストは、もはや二度と地上へ降りてこないだろうし、立法者もあらわれないだろう。殺人も強盗も強姦も、やむことはないであろうが、しかし、それでも人々は、なにかを期待しつづけるのである――なにか奇想天外なことを。たとえば、マヨネーズをつけた冷たい伊勢エビを無料で食わせるとか、電燈やテレビジョンに類した発明で、なにか荒唐無稽《こうとうむけい》な、胆《きも》をつぶすようなもの、あるいは、身ぶるいするほどの静寂と虚無をもたらすような発明――ただし死の静寂と虚無ではなく、かつて修道僧たちの夢みた人生の静寂と虚無、いまなおヒマラヤ山中や、チベットや、ラオールや、アリューシャン群島や、ポリネシアや、イースター島などで夢みられている静寂と虚無をもたらすような発明を。穴居人《けっきょじん》や人食い人種たちの夢、雌雄同体で尻尾《しっぽ》の短い動物の夢、気ちがいだといわれ、気ちがいでないものよりもはるかに数が多いために自己防衛の手段をもっていない人たちの夢をもたらすような発明を。狡猾《こうかつ》な獣どもによって仕掛けられ、ロケット弾のように爆発する冷たいエネルギー。ある場合は光のために、ある場合は権力のために、ある場合は活動のために、力とスピードの幻想をあたえるように複雑に組み合わされた歯車。狂人によって発信され、完全な義歯のように、美しくよそおわれながら、ライ病患者のように不快な言葉。快楽のため、物々交換のため、犯罪のため、そしてまたセックスのために、壁のあいだや壁をつらぬいて縦横無尽にはねまわる無意味な愛想のいい動き。きっちりと口を閉じた女の性器を通して、没個人的に受けいれられ、一般化され、拡充された、すべての光と行動と力は、野蛮人や田舎者や異国人を、瞠目《どうもく》させ畏怖《いふ》させるためのものであった。
しかし、だれも瞠目せず、畏怖するものもいなかった。飢えたものも、好色家も、どいつもこいつも、みんな似たり寄ったりで、野蛮人や田舎者や異国人と選ぶところがなく、異なっているのは、がらくたや、骨董品《こっとうひん》や、思想の泡沫《ほうまつ》や、精神のおが屑《くず》だけであった。こうした女のような割れ目――罠《わな》が仕掛けられてはいるが、幻惑されることのない割れ目を、何万人もの人が、私の前方に、ならんで歩いていた。そのなかに、のちに月世界へ飛んで行ったブレーズ・サンドラール(スイス生れの現代フランス詩人。立体派の手法を詩にもちこみ、コスモポリタン的生活をおくる)なる人物がいた。彼は、その後また地球へ舞いもどり、狂人に化けてオリノコ山に隠遁《いんとん》したが、しかし実際は身心ともに健全で、いつまでもすこやかに生きながらえ、すばらしい長い詩を不眠症の群島へ献呈した。熱病にうかされて孵化《ふか》した人間たちのあいだにあって、私自身は、また卵のなかにとじこもっていた。しかし卵の殻をとおして外界を見る力がそなわっていたので、はてしない流浪生活の倦怠感《けんたいかん》を、ひしひしと感じていた。夕食どきになると、空の光の縞《しま》が灰白色のドームのなかに静かに浸透し、青く縁どられた核で胞子が形成されている移ろいやすい半球は次第に凝固し、分裂して、ある籠《かご》のなかでは伊勢エビになり、他の籠のなかでは防腐剤によって個性化されて、絶対化された世界の萌芽《ほうが》に変る。地下の生活で顔青ざめた未来の世の人たちが、小便をこらえながらマンホールから出てくる。冷房装置がネズミのように彼らを腐食し、日は沈み、涼しいどぶの暗がりのような闇《やみ》がやってくる。まだ孵化しない私は、過度に熱しられたセックスからはみ出てしまったもののように、二、三度、未練がましく身をくねらせてみるのだが、夕食にはまだ間があり、結腸の上部や、下腹部や、へそや、松果腺《しょうかせん》の前葉の部分が、狂ったように蠕動《ぜんどう》しつづけているために、じっと静かにしていることもならず、かといって満足してそのまま昇天するわけにもいかない。生きたまま煮られた伊勢エビたちは、救いを呼ぼうともせず、また、たがいに救おうともせずに、氷のなかで、氷水にひたされた死の倦怠のなかで黙然と動く気配も見せない。荒涼たるショーウィンドーのそばを押し流されて行く生命。プトマインにむしばまれた痛ましい壊血病。とぎすまされたジャックナイフの刃のように鋭利な、ウィンドーの凍りついたガラス。
ショーウィンドーのそばを押し流されて行く生命……私もまた、伊勢エビや、十四カラットの指輪や、馬の塗擦剤《とさつざい》と同じように、生命の一部だとはいうものの、生命が値札つきの商品であることは事実であり、私の食うものが食う私よりもはるかに値うちがあり、たがいに食いあい、食うことが支配者になることだという事実を確証するのは、きわめて困難であった。食うという行為のなかで、聖体は冒涜《ぼうとく》され、一時的に正義は敗北する。皿や、その上にあるものは、腸器官の強奪的な力によって関心を引き、まず催眠術にかけ、それからゆっくりと口に入れ、咀嚼《そしゃく》し、吸収するといった経過をたどって、精神を一様化する。生命の精神的部分は、水あかのように遊離し、あとになんの痕跡《こんせき》も証拠も残さずに脱出し、数学的な方法を用いれば宇宙のなかのある一つの微粒子よりも完全に消滅してしまう。明日またぶりかえすかもしれない熱病の生命に対する関係は、寒暖計のなかの水銀と熱との関係に似ている。熱病は生命そのものを熱しはしない――ということは、かつては証明を要したことであるが、その結果ミート・ボールやスパゲティが捧《ささ》げられるようになったのだ。噛《か》むということは――噛むという殺害行為にほかならない行動を何万べんもくりかえすことは――必然的に社会的階層を生む。あなたはそこから窓ごしに外を眺《なが》め、人類が正義の旗の下に殺戮《さつりく》され、あるいは不具にされ、あるいは餓死させられ、あるいは拷問にかけられているのを見る。なぜなら、噛《か》みつづけているあいだ、服を着て椅子に腰かけ、ナプキンで口を拭《ふ》くという些細《ささい》な優越性が、最高の賢者すら理解しえなかったこと――すなわち、そうする以外に生きる道がないということを――あなたに理解させてくれるからである。いわゆる賢者たちは、しばしば、椅子に腰かけることや、洋服やナプキンを使うことを軽蔑したものである。かくして、人々は毎日あるさだまった時刻に、ブロードウェイと呼ばれる街路、女のような裂け目を、急ぎ足で歩き、あれやこれやを探し求め、数学者や論理学者、物理学者、天文学者、その他同様な学者たちとそっくりな方法で、あれやこれやを確証しようと血まなこになる。彼らのあげる証拠は事実にもとづくものであるが、その事実なるものは、事実を確証したものによってあたえられた意味以外には、なんの意味もないのである。
ミート・ボールを平らげ、紙のナプキンを注意深く床に投げ、ちょっとげっぷを吐きながら、私は、わけもなく二十四カラットの火花のなかへ出て、劇場の林に足を踏み入れる。それからこんどは、アコーディオンをもった盲人のあとについて、歩道をぶらつく。ときどき、玄関前の石段に腰をおろして、アリアに耳をかたむける。オペラ劇場で聞く音楽は、まるで無意味だが、街のなかで聞くその音楽には、狂気じみた感触があり、それが聞くものの胸をえぐる。その盲人につき添っている女はブリキ罐《かん》を手にもっている。それもまた生命の一部なのだ。ブリキ罐も、ヴェルディの音楽も、そしてメトロポリタン歌劇場も。あらゆる人が、そしてあらゆるものが生命の一部であるのに、それらがいっしょになると、どうして生命でなくなるのだろう。生命であったものが、なぜそうでなくなるのだろう――と、私は自問した。やがて盲人はさまよい行き、私は石段に腰かけたまま、あとに残った。ミート・ボールは腐り、コーヒーは味が変り、バターは悪臭を放っていた。私の見るすべてのものが、腐り、味が変り、悪臭を放っていた。通りには不快な口臭が満ちていた。つぎの通りにも、そのつぎの通りにも、同じ悪臭が漂っていた。ふと見ると、さっきの盲人がまた街角に立ちどまって、『ふるさとの山へ』を演奏しはじめた。私はポケットのなかに残っていたチューインガムを見つけて、それを噛んだ。ただ噛まんがために噛んだのであった。なにか決意すべきことでもあるならともかく、そんなことはありえないとすれば、そんなふうにでもしている以上にましなことは、まったく考えられなかった。石段は坐り心地がよく、邪魔をするものもいなかった。私は、いわゆる世界の一部であり、生命の一部であり、それに属していながら、しかも、それから逸脱していた。
一時間前後、石段の上で、ぼんやりとすごした。たまにひとりになって考えるときいつも到達する結論と同じ結論に到達した。すぐに家へ帰って、せっせと書きはじめるか、さもなければ、どこかへ逃げだして、まったく新しい生活をはじめるか、いずれかを選ぶよりほかはないのだ。しかし、本を書きはじめることなど、考えただけでも、ぞっとする。語るべきことが、あまりにも多くて、どこから、どのようにして書きはじめたらよいか、まるで見当がつかないのだ。逃げだして新規まき直しをするということも、同様に、考えただけでもぞっとする。それは、身心ともに生きながらえるために、黒人のように働きつづけることを意味する。こんな世の中で、私みたいな性格の男に、希望も解決も救いもあろうはずはない。たとえ私が思いどおりの本を書くことができたとしても、だれも見向きもしないだろう。私は、自分の同国人を、知りすぎるほど知っている。たとえ私が新規に出直したところで、なんの役にたとう。私は根本的に、働く意欲を全然もたないし、社会の有益な一員になろうという意欲もないのだから……。私は、そこに坐ったまま、通りの向う側の家を見つめていた。それは、その通りの他の家と同様、醜怪で愚劣であるばかりでなく、丹念に眺《なが》めていると、とつぜん、まったく理屈に合わないもののように思われてきた。こんな特殊な通りに住む場所をつくるとは、どう考えても気ちがい沙汰《ざた》である。いや、ニューヨークそのものが、極度の狂気の産物であり、そこにあるすべてのものが――下水道、エレベーター、自動販売機、新聞、電話、警官、ドアの把手《とって》、簡易宿泊所、スクリーン・ドア、トイレット・ペーパーその他あらゆるものが気ちがいじみているように思われた。あらゆるものが無用の長物であるばかりでなく、むしろ、ないほうが豊かになれそうな気がした。私は通りすぎる人々を眺めながら、あのなかに私の意見に同意してくれる人間がいるだろうかと考えた。もし私が彼らの一人を呼びとめて、だしぬけに、こうたずねたら、どうなるだろう? 「あなたは、なぜ、いまのような生活をつづけるのですか?」おそらく、その人は警官を呼ぶだろう。私は、みずからに問うた――だれか私と同じように考えてみた人がいるだろうか? 私の考えは、どこかまちがっているのだろうか? こうして、私が到達しえた唯一の結論は、おれという人間はすこし変っているのだ、ということであった。これは、人がどう思おうと、私にとっては、はなはだ重大な問題であった。私は石段からゆっくり腰をあげ、背のびをし、ズボンのほこりを払い、ガムを吐き捨てながら、ひとりごとを言った――ヘンリ、おまえは、まだ若いんだ。まだ、ひよこなんだ。おまえは奴《やつ》らよりもましな人間なのに、奴らの言いなりになるなんて、ばかばかしいとは思わないのか。まず、人間性に関するおまえのまちがった概念を切り捨てることだ。ヘンリ、おまえが交際している相手は、みな殺し屋だの人食い人種ばかりなんだぞ。奴らは、きれいに着飾り、ひげを剃《そ》り、香水をつけているが、要するに殺し屋か人食い人種にすぎないんだ。だから、これからおまえのなすべき最善のことは、クリーム・チョコレートを食べに行き、店に入ったら用心深く構えて、人間の運命など忘れてしまうことだ。なぜなら、おまえは、これからまだ、いい仕事を見つけることができるだろうからだ。いい仕事にありつけば、きんたまの掃除《そうじ》もできるだろうし、うまいものも、たんまり食えるというものだ。もっとも、うまいものを食ったところで、結局は胃病だの、頭のふけだの、不快な口臭だの、脳膜炎などをもちこむのが落ちだろうけれど……。私がそんな気やすめを言っていると、一人の男が近づいてきて、十セント銀貨を一枚ねだった。私は気前よく二十五セント銀貨を渡してから、こんなことになるのなら、あんなまずいミート・ボールなどを食わずに、上等のポーク・チョップを食えばよかったと後悔したが、どうせ腹のなかへ入ってしまえば、いずれも同じ食物だし、結局その食物がエネルギーとなり、そのエネルギーが世界を動かすことになるのだ、とこじつけてあきらめた。そして、クリーム・チョコレートを食べるのをやめて歩きつづけているうちに、まもなく、私がさっきから行こうと思っていた場所――ローズランドのチケット売場の前に――立っていた。さて、ヘンリ――と私は自分に話しかけた――もし運がよければ、おまえのポン友マグレガーが、ここにいるだろう。彼はまず、おれをまいて逃げてしまうとはなにごとだ、とおまえをどなりつけることだろう。それから彼は、おまえに五ドルほど貸してくれるにちがいない。おまけに、おまえが息を殺して階段をのぼって行けば、例の淫乱症《いんらんしょう》の女にも会えるだろうし、そしたら、ちょっとしたいたずらくらいはできるだろう。さあ、ヘンリ、そっと入るんだ、用心してな! 私はその指図にしたがって、足音を忍ばせて中へ入り、帽子を預け、当然のことながら、ちょっと小便をしてから、またゆっくりと階段を降り、全身が透けて見えるようなイヴニング・ドレスを着て、厚化粧をし、香水を塗りたて、見かけはみずみずしく活溌《かっぱつ》そうに見えるが、たぶん疲れきって脚《あし》が重いにちがいないダンサーどもを片っぱしからつかまえて踊った。踊りながら、その一人一人と、空想上の交合を営んだ。そのキャバレーは女のあれと痴態とが壁をうずめていた。私がポン友のマグレガーをここで見つけることができそうだと判断したのも、そのためだった。ありがたいことに私は、もはや世界の情勢なんぞ考えようともしなくなっていた。というのは、ある女の微妙な尻《しり》に見とれているうちに、邪淫の病がぶりかえしてきたからである。恍惚《こうこつ》状態の一歩手前まで行ったところで、あわてて頭を切りかえた。おれは、こんなところでぼやぼやしていないで、さっさと家へ帰って原稿を書かなければいけないのだ、と考えた。ぞっとした! かつて私は、椅子に坐ったまま徹夜し、しまいには、なにも見えなくなり、耳もきこえなくなってしまったことがある。一夜に一冊の本を書きあげたような気持だった。腰をおろさないほうがいい。ぐるぐるまわっているにかぎる。ヘンリ、いつか金をたんまり持ってここへきて、そいつを使いはたすのに、どれだけ時間がかかるかを試《ため》してみるんだな。つまり百ドルか二百ドル持ってきて、そいつを湯水のように使い、はいはいと女の言いなりになってやるのさ……。あの均整のとれた体《からだ》つきの、傲慢《ごうまん》な顔つきの女。あいつの掌が、もし脂《あぶら》ぎっていたら、きっと、ウナギみたいにからみついてきやがるだろう。あいつがもし、二十ドルよ、と言ったら、おまえは、オーケーと答える。それから、ざっとこんな調子で話しかけるんだな――ねえ、階下に車をおいてあるんだけど、二、三日アトランティック・シティへ遠出してみないか? おい、ヘンリ、なにをねぼけているんだ! 車なんかあるわけがないじゃないか。二十ドルさえ持ってないんだぜ、おまえは。腰をおろさないことだ――動きつづけるのだ。
フロアをかこむ柵《さく》に寄りかかって、踊りまわる人たちを眺めていた。それはもはや無害なレクリエーションではなく、厳粛な仕事であった。フロアの両端に、『卑猥《ひわい》な踊りかたを禁止します』と書いた立札が立っていた。ごもっともなことである。フロアの両端に立札をおくことは、一向にさしつかえあるまい。ポンペイの町なら、たぶん男根の模像をぶらさげておくにちがいない。こっちはアメリカ方式だ。どっちも同じ意味である。いや、ポンペイのことなど考えてはいけない。うっかりすると、また腰をおろして原稿を書くようなことになるぞ。動くんだ、ヘンリ。音楽に心を集中するんだ……。私は、もしチケットを一連買えるだけの金をもっていたら、どんなに楽しめるかを、さまざまに想像しようと努力したが、努力すればするほど、そんな空想からは遠のいてゆくのであった。ついに私は、熔岩《ようがん》の流れのなかに膝《ひざ》まで没して、ガスで窒息しそうになっている自分を想像しはじめた。ポンペイの市民を殺したのは、熔岩ではなくて、噴火を促した有毒なガスが原因だった。だからこそ熔岩は、あのような、パンツをぬいだままの、あられもない姿の彼らをとらえたのである。もし全ニューヨークが突如として熔岩にとらえられたら――まさに一大博物館を飾るにふさわしい逸品が、ぞくぞく掘り出されることであろう! 洗面器の前に立ってペニスをごしごし洗っているわが友マグレガー……手を真っ赤に血で染めたイースト・サイドの堕胎業者たち……ベッドで、たがいに手なぐさみをやりあっている修道尼たち……目ざまし時計を手にした競売人……電話交換台に坐っている女の交換手……便器に坐って丹念に後始末をしているJ・P・モルガナナ……最後のきわどい姿態をとりつつあるストリッパーなど……
膝《ひざ》まで熔岩につかりながら立っていると、私の目は精液でかすんでくる。J・P・モルガナナが丹念に後始末をしているあいだに、電話交換手の女たちは、せっせと交換台に栓《せん》をさしこみ、刑事どもはゴムホースで拷問をはじめ、わがポン友のマグレガーはペニスから黴菌《ばいきん》をしぼり出し、それを消毒して、顕微鏡で検査をする。あらゆる人間がパンツをぬいでいる。そのなかには、ノー・パンツで、口ひげも、あごひげもなく、ちらほら見える小さな陰部に小さな布切れをあてただけのストリッパーたちもまじっている。アントリナ尼は、脱腸帯をはめて修道院のベッドに横たわり、手を腰にあてて、キリストの復活と、脱腸や性交や罪や悪のない人生を待望しながら、ときおり油っこいクラッカーや、ピメントや、奇妙なオリーヴの実や、豚《ぶた》のチーズなどをつまみ食いしている。イースト・サイドやハーレム、ブロンクス、カーナージー、ブロンヴィルなどのユダヤ人たちは、さきを争って事務所へ押しかけ、あやしげな機械をいじり、小便をこらえながら金のために死物狂いで働き、そうかと思うと、尻《しり》をまくって、あっという間にやめてゆく。おれのポケットには、チケットが千百枚も入っているし、階下にはロールス・ロイスをとめてあり、そしておれは精根つきはてるまで豪遊できるのだ――年齢も性別も人種も宗教も国籍も生れも育ちも一切無視して、片っぱしから女どもをひっかけてやることもできるのだ。おれはこういう人間だし、そして、こんな世の中なのだから、おれみたいな男は、まったくどうにも救いようがないらしい。
世界は三つの部分にわけられる――ミート・ボールと、スパゲティと、もう一つは梅毒性の巨大な軟性|下疳《げかん》と。体《からだ》の均整のとれたあの傲慢な顔つきの女は、れっきとした娼婦《しょうふ》らしい。金箔《きんぱく》と錫箔《すずはく》のうろこの生《は》えた夜の女といった感じだ。絶望と幻滅のかなたには、事態の悪化もなく、倦怠《けんたい》の報酬もない。機械万能時代の機械的な目にかなった華《はなや》かな歓楽のさなかにいることほど、味気なく、わびしいことはないだろう。まっ暗な箱のなかで化膿《かのう》した生命。酸につけられて、つかのまの無の影像をうつしだした陰画フィルム。そのつかのまの無の境界の最前端に、わがポン友マグレガーが到着した。そして、やがて私のそばに立った。ポーラという淫乱症の女もいっしょだった。彼女は、粗野な気どった踊り方をし、男女両性の自尊心をもち、あらゆる動作を鼠蹊部《そけいぶ》から放射し、つねに体の均衡をたもっていて、いつ、いかなる場合にも、飛んだり、くねったり、体をねじったり、すがりついたりすることが自由自在にできた。目は時計の振子のように動き、たえず靴のさきを振り動かし、筋肉はあたかも微風に軽く波立つ湖のように小さく波うっていた。それは性の幻想の具現であり、狂人の胸のなかで身もだえる海のニンフであった。私は二人が、わずかずつ断続的に動きながらフロアをまわるのを見まもっていた。二人とも発情した章魚《たこ》のように動いていた。ぶらぶらゆれる触手のあいだを、音楽が、きらびやかに流れた。やがて、それが精液とバラ色の水の滝のなかで砕けたかと思うと、ふたたび油ぎった水柱になり、宙に浮いたその太い水柱が、やがてまたチョークのようにぽっきりと折れ、燐光《りんこう》性の脚の上部だけが、あとに残るのであった。一方の足は縞《しま》になり、他の足は、やわらかく融《と》けて、まるで黄金色のマシマロの池のなかに立った縞馬《しまうま》のようであった。ゴムの骨と、ふやけた吸盤をもった、黄金色のマシマロ状の章魚。欲望が満たされずに身もだえる章魚。この海底では、両顎《りょうあご》がひっついて離れなくなった牡蠣《かき》や、膝《ひざ》の関節が二重になった牡蠣どもが、聖ヴィナス・ダンスを踊っているのだ。音楽は、猫いらずや、ガラガラ蛇《へび》の毒液や、クチナシの花のむかつくような匂《にお》いや、おびえたヤクの唾《つば》や、ジャコウ猫の汗や、癲癇《てんかん》患者の甘い郷愁などで、まぶされていた。それは、下痢であり、油虫や老いさらばえた馬の小便でよどんだガソリンの湖であった。そのたわけた音調は、癲癇患者の口からふきだされる泡《あわ》とよだれであり、ユダヤ人に誘惑されて姦通《かんつう》している黒人女の寝汗を思わせた。全アメリカが、トロンボーンの滑奏法に風靡《ふうび》され、それはいまや、ポント・ロマや、ポータケット、ケープ・ハッテラス、ラブラドール、カナージー、あるいはその中間の各駅で降される壊疽《えそ》病みの海牛の、しわがれた啼《な》き声をすら弱めていた。章魚《たこ》は、ゴムの性器のように、くにゃくにゃと踊っていた――スピチン・デイヴィル作曲のルンバを。淫乱症のローラは欲情をさらけ出して、雌牛《めうし》の尻尾《しっぽ》のように体をくねらせながら、ルンバを踊っていた。トロンボーンのどてっ腹には、アメリカ魂が宿っていて、満足げに屁《へ》をひっていた。
いささかのむだもなかった――屁の一発すら、むだには放たなかった。この黄金色のマシマロの幸福の夢のなかで――小便とガソリンでびしょ濡《ぬ》れになったダンスのなかで――偉大なるアメリカ魂が章魚のように疾駆し、帆はすべて解かれ、ハッチは閉められ、エンジンは発電機のように回転した。カメラの目のカチッというまばたきのうちにとらえられた偉大なる動的な魂。魚のように冷血で、粘液のようにとらえがたく、狡猾《こうかつ》な、発情した心に宿る魂。あこがれの目を輝かせ、欲情になやまされながら、海底で種族混合する人々の魂。土曜の夜のダンス、ゴミ箱のなかで腐りかけたメロンの踊り、青っ洟《ぱな》と、局所に塗るどろりとした音楽のダンス。自動販売機と、それを発明した怪物のダンス。拳銃と、それを使う低能野郎のダンス。ブラックジャケットと、それで脳みそを叩《たた》きつぶす悪党どものダンス。磁力発電の世界のダンス、火花の出ないスパーク、完全無欠な機械装置が発する静かな唸《うな》り声、回転盤上のスピード・レース、平価のドル、ずたずたに切りさいなまれた森。うつろな魂が踊りあかす土曜日の夜――とりとめもなく跳《と》んだりはねたりするその一挙一動が、拳闘《けんとう》気ちがいの夢に適合した聖ヴィナスのダンスの有機的な一単位になる。淫乱症のローラは、愛らしいバラの花びらのような唇《くちびる》をボールベアリング装置のついた連動機に咬《か》まれ、尻にソケットをはめられたまま、躍起となって腰をふる。彼らは、一インチずつ、一ミリずつ、結合した死体をずり動かす。やがて、ガシャンというすさまじい炸裂音《さくれつおん》だ。まるでスイッチをひねったように、音楽がぴたりとやみ、同時に踊り手たちの体が離れ、腕や脚が、あたかも紅茶の葉がコップの底へ沈んで行くように、もとの形にもどる。やがて、空気が卑猥《ひわい》な言葉でにごり、鉄板の上で焼かれる魚のような音をたてる。うつろな魂の戯《ざ》れ言《ごと》が、木のてっぺんの枝にむらがった猿《さる》のさざめきのようにわき起る。卑猥な言葉でにごった空気は、換気|孔《こう》から脱け出し、眠ったまま波型の通風筒と煙突から舞いもどり、カモシカのように飛びまわり、縞馬のような縞にいろどられ、やがて軟体動物のように静かに横たわりながら火を吹きはじめる。淫乱症のローラは、彫像のように冷たくなり、体の各部が食い荒され、髪は音楽に恍惚としている。眠りかけたローラの言葉が、靄《もや》のなかの花粉のように落ち、彼女は口を結んで立ちあがる。ペトラルカ派のローラは、タクシーに乗る。人声が現金登録器の奥から鳴りひびき、やがてそれが弱まり、ぼやけてしまう。全身ことごとく石綿でつくられた怪蛇《バジリスク》ローラは、口いっぱいガムをほおばりながら火刑場へ歩いてゆく。すてきだったわ、という言葉が、彼女の唇《くちびる》から洩《も》れる。海の貝の厚くつぼんだ唇。ローラの唇。うしなわれたヴィナスの恋の唇。すべてが、斜めに降りかかってくる霧のなかを、影へ向って流れてゆく。海の貝の唇から、かすかに洩れる最後のつぶやきは、ラブラドールの海岸を越えて、泥の潮とともに東へ流れ出し、速度のゆるやかな流れのなかを星へ向って走る。堕落女ローラ、ペトラルカ派の最後の人ローラは、次第に眠りの淵《ふち》に落ちてゆく。灰色ではないが、色情の欠けた世界、かりそめの純潔を夢みる軽《かろ》やかな竹の眠り。
そして、この放心の谷間の暗い狂躁《きょうそう》的な恋の夢は、死による生命との甘美な袂別《べいべつ》という少女的な空想にすぎない浅薄な絶望とは異なった、ある飽和的な幻滅感を、あとに残す。生命は、この恍惚境《こうこつきょう》のてっぺんから、ふたたび散文的な摩天楼のてっぺんへのぼり、荒漠《こうばく》として空虚な歓喜にひたる私の髪と歯をつかんで、私をひきずりあげようとする。そして、未来の死の蛆《うじ》の胎児は、私が糜爛《びらん》し腐敗するのを待ちながら、うごめいているのである。
日曜日の朝、電話のベルの音に目をさました。友人のマキシー・シュナーディグからの電話で、私たちの共通の友人ルーク・ローストンが死んだという知らせだった。心から悲しんでいるようなマキシーの口ぶりなので、私は、いささかめんくらった。ルークはじつにいい男だったというのである。生前のルークは、ただ無難な男にすぎず、それをいい男というのは、かなり無理があった。彼は生れつき同性愛の常習者で、私は彼と親しくなってから、尻がひどく痛んで弱ったことがある。電話でマキシーにそのことを話すと、少々気分を害したらしいことが、その応答ぶりからうかがわれた。ルークはいつもきみに親切だったではないかと彼はいうのである。それはたしかにそのとおりだが、しかし、そうとばかりはいえないところもあったのだ。じつのところ、私は、ルークがいいときにくたばってくれたと、内心ほくほくしていたのである。というのは、彼から借りた百五十ドルが気になっていたからである。だから私は受話器をおくと、こおどりしてよろこんだ。借金を返さずにすむのだ! ルークの死そのものは、なんの感慨もそそらなかった。いや、そのおかげで、彼の妹を訪ねることができるというものだ。私はこれまで、なんとかして一度彼女をものにしてやろうと思っていたのだが、その機会がなかった。しかし、いまなら昼日中に訪ねて行って、彼女にお悔みをいうことができる。彼女の夫は勤めに出ているだろうから、邪魔者はいないはずだ。彼女の尻に手をやって、なぐさめてやろう。悲嘆にくれている女をまるめこむほどたやすいことはあるまい。私の腕に抱かれて長椅子へつれて行かれるときの彼女のつぶらな目が見えるようだ――あの美しい、大きな、灰色の目。彼女は、音楽やその他高尚な趣味の話をしているふうをよそおいながら、それとなく秋波を送る種類の女だった。いわば、あからさまな事実、露骨なことを好まなかった。同時にまた、長椅子にしみがつかないように、そっとタオルを敷くだけの冷静さも、もちあわせているようであった。私は彼女をすっかり知りつくしていた。彼女をものにするには、いまが最善のときだということ、兄が死んだために多少感傷的になっているいまが絶好の潮時だということを、私は知りぬいていた――もっとも彼女はルークをあまり頼りにしていなかったようだが。しかし、不幸にしてその日は日曜日だったので、彼女の夫が家にいるにちがいなかった。私はまたベッドにもぐりこんで、まずルークのことを考え、彼が私のためにつくしてくれたかずかずの思い出をたどってから、やがて彼の妹のロッティのことを考えはじめた。ロッティ・サマーズという名前だった――それは私にはいつも非常に美しい名前に思われた。いかにも彼女に似つかわしかった。兄のルークは、体が豚《ぶた》のようにごつくて、顔が骨ばっていて、しかも万事にそつがなさすぎて、つきあいにくかった。ロッティの容姿は、まさにその正反対であった。しかも静かに、愛想よく気どっていて、いつも自分の言葉をいたわるように話し、ものごしはおだやかで、目を効果的に使った。二人を兄妹《きょうだい》とは思えないほどだった。ロッティのことを、あまり考えすぎたために、つい私はたまらなくなって女房に組みついた。ところが、清教徒的コンプレックスをもつ出来そこないの女房は、さもびっくりしたように体をすくめた。彼女はルークが好きだった。ロッティとちがって、彼は、それほど容姿のととのった男ではなかったけれども、義理がたくて、誠実な、いい友だちだった、というのだ。おれには、義理がたくて、誠実な、いい友だちなど、掃《は》いて捨てるほどたくさんいるから、そんなものは馬の小便ほどの意味もないよ、と私は応酬した。そんなぐあいで、とうとうしまいには喧嘩《けんか》になり、女房はヒステリーの発作をおこして、しくしく泣きだした――ベッドのなかで。それが私に空腹を感じさせた。朝食前に泣くというのは、どう考えても、異常である。私は階下へ行って、豪勢な朝食をこしらえ、それをたいらげてから、ルークのことや、彼が急に死んだおかげで払わずにすんだ百五十ドルのことや、ロッティのことや、あの瞬間に彼女がどんな目で私を見るだろうかといったことなどを考えて、ひとりで笑った。それから最後に、ルークの誠実な友人であるマキシー・シュナーディグが、大きな花束をもって墓の前に立ち、棺が地中におろされて行くとき、一握りの土をその上に投げかける光景を想像してみた。それは、なんとなく、たいへんばかげたことのような気がした。なぜ、ばかげているのかは知らないが、そんな気がした。マキシーは、もともと、あまり利口な男ではなかった。私はただ、ときたまつきあう相手としては無難な男なので、大目に見てやっていたにすぎない。それは妹のリタのせいもあった。私は、頭が変な彼の弟に関心をもっているようなふりをして、ときたま彼の家へ押しかけて行った。おいしいご馳走《ちそう》は出るし、白痴の弟も、からかって遊べば結構おもしろかった。弟は顔がチンパンジーに似ているだけでなく、話しぶりもチンパンジーそっくりだった。マキシーは単純な男だから、私が自分の気慰めに弟を相手にしているとはつゆ知らず、心から彼の弟に関心をもっているものと思っていた。
その日は、からりと晴れわたった日曜日だったが、いつものように私のポケットには二十五セントしかなかった。私は、どこへ行って金を借りようかと考えながら歩いて行った。いや、少々の金策をするくらいは、さしてむずかしくはなかったが、金を借りたらすぐ、はいさよならと逃げ出せるかどうかが問題だった。ひとことも文句を言わずに貸してくれそうな男が、近くに何人かいたが、そのあとで、ながながと会話がつづきそうだった――芸術だの、宗教だの、政治などの話が。もう一つの方法は、これまでピンチに追いこまれたとき再三用いた手だが、会社の各支局を訪ね、調査のためにちょっと立ち寄ったような体裁をつくろってから、帰りがけに、明日まで一ドルか二ドル貸してくれないかときり出す手である。しかし、これは、かなり時間がかかるし、もっと退屈な話もしなければならなかった。私は、それらの方法を冷静に勘案した末、ハーレムの友人カーリーに白羽の矢を立てた。万一カーリーが金をもっていなくても、たぶん彼は母親の財布からちょろまかして渡してくれるだろう。彼が頼りになる男であることは十分知っていた。もちろん彼は私についてこようとするだろうが、途中でまいてしまうのは簡単だった。彼は、まだほんの子供だから、私は、さほど気を使う必要がなかった。
カーリーについて私が好きな点は、彼がまだ十七歳の少年なのに、道徳意識や遠慮や羞恥心《しゅうちしん》などを、まったくもっていないことだった。彼は十四歳のときに、電報配達人の職を求めて私のところへやってきた。当時南米にいた両親は、彼に教育をうけさせるためにニューヨークの叔母のもとへ送ったが、その叔母が、まもなく彼を誘惑した。彼は、たえず両親が旅をしていたので、全然学校へ行けなかった。両親は、彼の言によれば、ドサまわりの演芸団で馬の脚《あし》や木戸係をしているのだそうである。父親は何度か刑務所に入ったこともあるという。もっとも、その男は彼のほんとうの父親ではないらしい。とにかく彼は、まだほんの子供の時分に、救いを求め、なによりもまず友を求めて私のところへやってきたのであった。私は最初、彼のために一肌《ひとはだ》ぬいでやろうと思った。彼は、だれにも好かれるたちだった――とくに女たちに受けがよかった。だから、すぐに彼は会社の愛玩物《あいがんぶつ》になった。だが、まもなく私は、彼が救いがたい人間であることを知った。取柄《とりえ》といえば巧妙な犯罪者の素質をもっていることくらいなものであった。しかし、私は彼が好きだったから、あいかわらず彼の面倒を見つづけてはいたものの、私が見ていないあいだの彼には全然信頼をおかなかった。とくに私が好きだったのは、彼が名誉心というものを、いささかももち合せていない点であった。彼は私のために、どんなことでもしてくれたが、同時に私を裏切ることもした。私は、それを責める気になれなかった――いや、むしろ、おもしろかった。彼が堂々とそんなことをやってのけるので、いっそう興味が深くなった。彼にしてみれば、しかたなしにそうしただけのことなのだろうが……。たとえば、叔母のソフィーとの一件にしても、かなりふるっていた。彼は、叔母が彼を誘惑したのだと言った。事実そうだったのかもしれないが、二人がいっしょに聖書を読んでいる最中に、その誘惑に身をまかせたというのだから、変っている。どうやら彼は、子供のくせに、叔母のソフィーがそうした方面で彼を必要としていたことを、十分承知していたようである。こうして、(彼に言わせれば)叔母の誘惑に乗ったわけだが、やがて私と知りあってからしばらくすると、ソフィー叔母を私にゆずりたいと申し出た。彼はまた平気で叔母を恐喝《きょうかつ》した。金に困ると、叔母のところへ行って、二人の秘密をばらすぞとおどかしては、金をまきあげていた。おそらく彼のことだから天真|爛漫《らんまん》な顔つきでやったことであろう。たしかに彼は天使そのもののような顔をしていた。大きな、うるんだ目は、いささかの嘘《うそ》いつわりも知らぬげに見えた。まるで忠実な犬のように、まごころこめて仕えてくれそうに見えた。ところが、いったん相手の好意をかちとると、少々の悪事をはたらいても相手が気にしないように、じつに巧妙に立ちまわった。その点は、まったく天才的だった。狐《きつね》のように狡猾《こうかつ》な才能をもち――しかも、ジャッカルのような冷酷さをもっていた。
したがって、その日の午後、彼がヴァレスカと乳くりあっていたことを知っても、私は、べつに驚かなかった。ヴァレスカのつぎに、彼は、すでに花をつみとられて一生を託すべき配偶者を探《さが》し求めていた彼女のいとこに手をつけた。それから今度は、ヴァレスカの家に小さな美しい巣をつくっていた小人の女に鞍《くら》がえした。その小人の女が彼の興味をそそったのは、彼女が小人のくせに完全に正常な性器をもっていたからだという。彼の説明にしたがえば、彼女は同性愛の悪癖のある女だから、手を出すつもりは、まったくなかったのだが、ある日、偶然、彼女が入浴しているところへ行きあわせたために、つい関係ができてしまったのだそうだ。しかし、彼女ら三人が、あまりしつこく彼の尻《しり》を追いまわすので、少々やりきれなくなってきた、と彼は告白した。三人のなかでは、ヴァレスカのいとこをいちばん愛していた――彼女は小金をもっていて、しかも金の使い方が、おおようだったからである。ヴァレスカは、こすっからいうえに、ちょっと体臭が強すぎるのだそうだ。というのも、彼は、そろそろ女にあきてきたのである。それもこれも、みなソフィー叔母の罪だ、と彼は言った。叔母が自分の出発をあやまらせたのだ……。彼は、そんなごたくをならべているあいだも、せわしく箪笥《たんす》のなかをかきまわしていた。しばらく探しても、めぼしいものが見あたらないと、彼は、いまいましげにつぶやいた――あんな親父《おやじ》、くたばったほうがましだ。そして、真珠の柄のついた拳銃を私に見せ、どうです、いいものでしょう、と自慢した。あんなもうろく親父に拳銃を使うのはもったいない――いっそダイナマイトで吹っ飛ばしてやりたい、と言った。彼が、なぜ父親をこうまで憎んでいるのかを、いろいろ考えた結果、私は、男の子は母親に愛着を感じるものなのだという結論に達した。彼は、親父がおふくろを抱いて寝るということを思っただけでも、いたたまらない気持になるのだそうだ。きみは、まさか親父を嫉妬《しっと》しているんじゃないだろうね、と私はたずねた。そりゃ、嫉妬していますよ。はっきりいえば、ぼくは、おふくろを抱いて寝てもかまわないと思っているんです。おふくろを抱いて寝たって、悪いことはないでしょう? 叔母のソフィーの誘惑に乗ったのも、じつは、そのためなんです――あのあいだ、ずっとぼくは、おふくろのことを考えていたんです。しかしきみは、おふくろの財布から金をくすねたりして、悪いと思わないのかい。すると彼は、けらけらと笑った。あれは、おふくろの金じゃなくて、ぼくの金なんですよ。だいたい、ぼくの親は、ぼくのために、なにをしてくれたというんです。まるでぼくをよそへ預けっぱなしでしたよ。ぼくが最初に親から教わったことは、人をだまして物をとることだったんですからね。そんな子供の育てかたってありますかね……!
家のなかには銅貨一枚なかった。カーリーは窮余の一策として、これから私といっしょに彼の勤めている支局の事務所へ出かけ、私が支局長と雑談しているあいだに、ロッカーをかきまわして小銭を集めようと思うがどうかと提案した。もし私に冒険する勇気があるなら、金庫を荒してもいい、とも言った。絶対ばれやしませんよ。前にもやったことがあるのかい、と私はたずねた。もちろんです――もう十回以上やってますよ、それも支局長の鼻っ先でね。それでも、だれも騒ぎださないのかい? もちろん騒ぎだしますよ――おかげで事務員が四、五人|馘《くび》になりましたよ。叔母さんからすこし借りたらどうかね、と私は言った。叔母から借りようと思えば、簡単に借りられるが、ただ、そうすると、ちょっとのあいだだけでも叔母を抱かなければならなくなるのでね――叔母を抱くのは、もうごめんなんですよ。ソフィー叔母は、くさいんです。くさいって、どういう意味なの? 文字どおりの意味ですよ――叔母は、規則正しく体《からだ》を洗わないんです。どうしてだろう? 体でも悪いの? いや、ただ宗教的な理由からなんです。おまけに、ぶくぶく肥《ふと》っていて、脂《あぶら》じみているもんで……。しかし、叔母さんは抱いてもらいたがっているんだろう? そうなんです、最近は、ものすごくしつこいんで、うんざりしてるんですよ。まるで雌豚《めすぶた》を抱いて寝てるみたいなんです。きみのおふくろは、叔母さんをどう思っているのかね? 叔母をですか? 怒ってますよ。おふくろは、ソフィー叔母が親父を誘惑しようとしていると思っているんです。なるほど、あの叔母さんならやりかねないだろうね。いいえ、親父には、べつの女がいるんです。ある晩、ぼくは映画館で、親父が若い女をたらしこんでいる現場をつかまえたことがあるんですけどね。そいつはアスター・ホテルのマニキュア師でした。たぶん親父は、そいつから、いくらか金をまきあげる魂胆なんでしょう。親父が女をつくる理由は、それしかないんですから。まったく見下げはてた男ですよ。あんなやつは、電気椅子に坐らせられて、くたばっちまえばいいんだ! きみだって、気をつけないと、電気椅子に坐らせられるようなことになるかもしれないぜ。えっ、ぼくがですか? とんでもない。ぼくは、それほどばかじゃありませんよ。そう、きみはばかではないが、すこし口が軽すぎるようだ。口をつつしまないと、いけないぜ。オラークだって、そうそう甘くはないからね。彼を怒らせると、めんどうなことになるよ……。へっ、あの人が、それほど腕がいいんなら、ぼくに、なんとか言いそうなもんじゃありませんか。そいつはどうも、なっとくできませんね。
私は、オラークが、できるだけ他人の邪魔をしたくないと考えている人間の一人で、そういう男は世の中に数えるほどしかいないものだ、ということを、ながながと彼に説いて聞かせた。オラークは、自分の周囲で起っていることを知りたくなった場合にだけ、探偵本能を発揮する男なのだ。彼の頭のなかには、周囲の人間の個々の性格が、つねに整然とつめこまれているらしい――あたかも、軍隊の指揮官の頭に敵の陣地の地形がはっきり描かれているように。みんなは、オラークが絶えずスパイをしたり、盗み見をしたりして、会社のために卑劣な仕事をすることに無上のよろこびを味わっているかのように思っているが、そうではない。うまれつきオラークという男は人間の性格探究者なのだ。彼は特殊な目で世間を見ることによって、容易に秘密を嗅《か》ぎ出すことができるのだ。ところで、きみの問題だが――オラークは、きっと、きみのことを、なにからなにまで知りつくしていると思うよ。彼にたしかめてみたわけではないが、ときどき彼が提示する話題から推測して、おそらくそうだろうと思うんだ。たぶん見て見ぬふりをしているのだ。いずれそのうち、街でばったりきみと出っくわしたら、どこかで夕食をつきあってくれと誘うだろう。そして、だしぬけに、こう切りだすにちがいない――カーリー、きみはあの晩、SA支局で働いていたね? おぼえているだろう? 例の若いユダヤ人の事務員が、金をちょろまかしたというんで馘になった晩だよ。あの晩、きみは残業していたね? あれは、ちょっとおもしろい事件だった。あの事務員が、ほんとうに金を盗んだのかどうか、とうとう、はっきりつきとめることができなかった。しかし、もちろん彼は馘になった――職務怠慢という理由でね。というのも、彼が金を盗んだとは、だれにも断言できなかったからだ。おれは、さっきから、その事件を思い出して、考えていたんだ。あの金を盗んだのは、だれなのか、ほぼ察しがついてはいるが、確信できるところまで行っていないのでね……。それから彼は、たぶん、きみをじろりと睨《にら》んで、急に話題を変えるだろう。たぶん、自分は非常に利口で、ドジを踏むようなことは絶対ないとうぬぼれているコソ泥の話を、語って聞かせるだろう。きみが、いたたまれなくなるまで、その話をつづけるだろう。そして、きみが我慢しきれなくなって立ちあがろうとすると、とつぜん彼は、もっとおもしろい事件を思い出したから、もうしばらくつきあってくれと言って、また果物か菓子を注文するだろう。彼は、そんなことを三度か四度くりかえす。そのあいだ、きみのことには全然ふれないが、しかし、じっときみを見つめているだろう。それから、きみがやっと解放されたと思ったとき、つまり、きみが彼と握手して、ほっと一息ついたその瞬間、彼は、すっときみの前に立ちふさがり、きみの股《また》のあいだに足を踏み入れ、胸《むな》ぐらをつかんで、じろりときみを見すえ、静かな、にこやかな声でこう言うだろう――ところで、きみ、もういいかげんに白状してもいいころだと思うが、どうかね? そのとき、もしきみが、彼はただヤマをかけてきみをおどかしているのだと思い、シラを切ってその場をのがれればそれですむと考えたら、大まちがいだ。なぜなら、彼がきみに白状しろというときには、いわばそれは最後|通牒《つうちょう》なんだ。どんな言いのがれを言っても、むだなんだよ。だから、そうなったら、いさぎよく全部白状してしまうことだ。しかし彼は、きみを馘にしろとぼくに要求したり、きみを刑務所へぶちこむとおどかすようなことはしないだろうと思う――ただ、毎週の給料から、すこしずつ削《けず》って、それを彼に渡すようにと、おだやかに提案するだろう。じつに賢明な男さ。たぶん、ぼくにさえ、なにも一言も言わないだろうよ。そういう点は、じつに慎重だからね、あの男は。
「そしたら、ぼくは、あなたにそそのかされて金を盗んだのだと言おうかな。もしそう言ったら、どうなりますかね?」カーリーは、だしぬけにそう言って、ヒステリックに笑った。
「あの男は、そんなことは信じやしないさ」と私は静かに答えた。「もしきみが、それで罪をのがれられると思うんなら、やってみてもかまわないけどね。しかし、そんなことを言ったら、かえって逆効果ではないかと思うよ。オラークは、ぼくという人間をよく知っているからね――ぼくが、きみにそんなまねをさせるような人間ではないということを、よく知っているからね」
「でも、あなたは実際にぼくにやらしたじゃありませんか」
「いや、そんなことをしろと言ったおぼえはないよ。きみは、ぼくに相談もしないでやったのだ。それは、きみ、まるで話がちがうよ。それに、ぼくがきみから金を受けとったということを、証明できるかね? きみに、いまの職場をあたえて、いろいろ面倒をみてやっているぼくを、そんなふうに非難するのは、ちょっと理屈に合わないとは思わないかね。だれも信じやしないさ。すくなくともオラークは信じないよ。まあ、いずれにしろ、彼はまだきみを捕えたわけではないのだから、いまから、そんな心配をする必要もないさ。尻尾《しっぽ》を捕《つか》まえられる前に、あの金を、すこしずつ返す手もあるだろうしね。匿名《とくめい》でやればいい」
カーリーは、そのころには、すっかり意気|銷沈《しょうちん》していた。食器|棚《だな》のなかに、親父が飲み残したオランダ・ジンがすこしあったので、私は、それでも飲んで元気を出そうじゃないか、と提案した。こうして、二人でオランダ・ジンを飲んでいたとき、とつぜん私はマキシーがルークの家へお悔みに行くと言っていたことを思い出した。マキシーにたかるのには、いまがもってこいのチャンスだ。きっと彼は涙もろくなっていることだろうから、月並なつくり話を聞かされても、ころりとまいってしまうにちがいない。さっき私が電話であんな冷たいことを言ったのは、是が非でも工面しなければならない十ドルを、だれに頼んだらいいものかと頭をなやましていたためだった、ということにしよう。おまけに、うまくいけば、ロッティとデイトすることができるかもしれない。私は、そんなことを考えながら、ひそかにほくそえんだ。ルークも、おれを友人にもつとは、まったく因果な男である。この芝居のなかでいちばんむずかしいのは、棺の前へ進んで、悲しげな顔つきでルークを見る場面だ。笑わないようにしなくちゃ!
私はこの計画をカーリーに説明した。彼は笑いころげて、ぽろぽろ涙を流した。それを見て私は、金を借りるまでは、この男を階下で待たせておいたほうが安全だと考えた。
私が、できるだけ悲しげな顔つきで家へ入ったとき、彼らは、ちょうど夕食をしていた。マキシーもそこにいて、私のとつぜんの出現に、目をむいて驚いた。ロッティは、すでに帰っていた。そのことが、悲しい顔つきをつづけなければならないことから私を救ってくれた。私は、しばらくルークと二人きりでいたいと申し出たが、マキシーは私といっしょにいると言ってきかなかった。ほかのものは、午後からずっと棺のそばにつきっきりで哀悼《あいとう》をささげていたので、ほっとしたようであった。それに、彼らは善良なゲルマン民族なので、食事中に立つのを好まなかった。こうして、私が全力をつくして悲しい顔をよそおいながらルークを見ていたとき、マキシーの目が、疑わしげに私のほうへそそがれているのを感じた。私は、ふと顔をあげて、いつもの調子で彼にほほえみかけた。「ねえ、マキシー、ここできみとしゃべっても、ほかの人にはきこえないだろうね?」彼は、まだ多少けげんな、しかも悲嘆にくれた顔をしてはいたが、大きくうなずいた。「じつはね、マキシー、ぼくがここへきたのは、たぶんきみに会えるだろうと思ったからなんだ――少々金を借りたいと思ってね。まったくあつかましい話なんだが、ぼくが、こうまでしてきみに頼まなければならないというのも、困りぬいたあげくのことなんだ――察してくれよ。ぼくを助ける気持があったら、いますぐ十ドル貸してくれないだろうか。ここで、ルークの前で、貸してもらいたいんだ。ぼくは、ほんとはルークが大好きだった。電話でしゃべったことは、みんな嘘《うそ》さ。きみは、まったく悪いときに電話をかけてよこしたもんだ。ちょうど女房とやりあっている最中でね――女房のやつがヒステリーを起しやがってたもんだから。ほんとだよ。なんなら、いっしょに外へ出て、くわしく説明してもいいけど……」マキシーは、予想どおり、私といっしょに外へ出ることができなかった。こんなときに、彼らをおき去りにして行くにしのびないというのである。「じゃ、いますぐ貸してくれ」と、ほとんど威嚇的な調子で私は迫った。「くわしい話は、明日しよう。下町でいっしょに昼食をしながらでもね」
「だけど……ねえ、ヘンリ……」ポケットをさぐっていたマキシーは、札束が手にからみつくような気がするらしく、狼狽《ろうばい》しながら言った。「きみに金を貸すこと自体は、べつに問題じゃないが、しかし、ほかになんとかぼくに連絡する方法がなかったのかね。いや、ルークの前だからというんじゃないよ――そうではなくて、つまり――なんというか――」彼は、なにを言おうとしていたのかわからなくなって、やたらに咳《せき》ばらいをはじめた。
「頼むから、いま、そんなことを議論するのは、よしてくれよ」私は、家のものが入ってきても、私がここへきた本来の目的を疑われないように、一段とルークの上に上体をかがめながら言葉をつづけた。「なにをもたもたしているんだ。早くしろよ。これほど頼んでいるのに、まだわからないのかい」マキシーは、すっかり面《めん》くらってしまって、札束をポケットから出さずに手さぐりで抜きとることができなかった。私は、うやうやしく棺の前で頭を垂れながら、彼のポケットから顔をのぞかせている札束の外側の一枚を抜きとった。それが一ドル紙幣なのか十ドル紙幣なのか、それは判然としなかった。そんなことを調べるのももどかしくて、すばやくポケットにつっこむが早いか、ぱっと立ちあがった。それから、マキシーの腕をとって、家族たちが、おごそかに、しかもたのしげに食事をしている台所へひきかえした。彼らは私をひきとめた。ことわりにくかったが、なんとかうまく口実をもうけて、こみあげてくる笑いのために痙攣《けいれん》する顔をそむけながら、あわてて逃げ出した。
角の街燈の下でカーリーが待っていた。そこまで行ったときには、もはや、こらえきれなくなっていた。カーリーの腕をつかんで、一目散に駆けだしながら、私は大声で笑った。生れてこのかた、めったに笑ったことがなかったかのように、笑いころげた。笑いがとまらなかった。一部始終を説明しようとして口を開くたびに、発作的な笑いにむせんだ。しまいには、おそろしくなった。笑いすぎて死んでしまいそうだった。ようやく笑いがおさまりかけたところ、それまでずっと黙っていたカーリーが、とつぜん話しかけてきた。「うまくいったんですか?」そのひとことが、またひとしきりはげしい発作をさそった。私は道ばたの柵《さく》によりかかって、しばらく腹を押えていなければならなかった――こころよい痛みではあったが、むしょうに腹が痛んだ。
その痛みをなおすのに最も効力があったのは、マキシーからまきあげてきた紙幣の額面をよく見直したことである。なぜなら、それは二十ドル紙幣だったからだ! これで、いっぺんに笑いがおさまった。だが、今度は、すこしばかり腹がたってきた。マキシーみたいな間抜けな男のポケットに、二十ドル紙幣や十ドル紙幣、五ドル紙幣が、まだうなるほどあったことを考えると、しゃくにさわってきたのである。もし彼が私の言うなりにいっしょに外へ出てきて、私があの札束を十分に見ることができたなら、私は奴を殴《なぐ》り倒すことに、なんら良心の呵責《かしゃく》を感じなかったであろう。理由はよくわからないが、とにかく気分がむしゃくしゃした。一刻も早くカーリーを追っぱらって、遊びに行こうという考えが、とっさに頭にうかんだ。五ドルもやれば、彼は、すなおに言うことをきくだろう、と思った。とりわけ、全然気どりのない最下等の淫売《いんばい》女に会ってみたくなった。どこへ行けば、そんな女に会えるだろう? まあ、とにかくまずカーリーを追っぱらうことが先決問題だ……。もちろん、カーリーは、へそを曲げた。彼は私についてくるつもりだったのである。そして、私がさし出した五ドルを、まるでほしくないようなふりをしたが、もっけの幸いとばかり私がとり返そうとすると、彼は、すばやくそれをポケットにしまいこんだ。
ふたたび夜がきた。おそろしく無味乾燥な、冷たい、機械的なニューヨークの夜――そこには、平和も、なぐさめも、深い契《ちぎ》りもなかった。百万の群衆の冷酷な無限大の孤独。冷たい、浪費的なネオンの灯。完成することによって性の未開地を素通りし、電気のように、あるいは男性の中立的なエネルギーのように、あるいは、あてどなくさまよう遊星や、平和綱領や、ラジオの愛のささやきのように、マイナス符号の方向へ、赤字の方向へ行ってしまう女性の完成の途方もない無意味さ。公平な中立的なエネルギーのなかにあって、ポケットに金が入っているということ、白色塗料を塗られた街路のまぶしい輝きのなかを無意味に非生産的に歩きまわるということ、狂気と隣りあわせの孤独のなかで呻吟《しんぎん》するということ、大都会の人間になるということ、世界最大の都会の末期《まっき》を迎えながら、それをすこしも気づいていないということは、自分自身が都会になってしまうことである。生命のない石と、浪費的な光と、不可解な謎《なぞ》と、はかり知れない動きの世界、あらゆるマイナス面がひそかに完備されている世界になることである。夜の雑踏のなかを、金に守られ、金になだめられ、金に呆《ほお》けて歩く。群衆それ自身が金だ。呼吸も金だ。あらゆる場所の、いかなる対象も、金でないものはない。金、金、金……金は、いたるところにあり、しかも、それでいて足りないのだ。金のないもの、すこししか金をもたぬもの、多少もっているもの、たくさんもっているものなど、その態様はさまざまだが、どんな金でも――あるいは金のあるなしにかかわらず――そこではつねに金が問題になるのである。金は金を生む。だが、金に金を生ませるものは、いったい何なのか?
ダンス・ホール、金のリズム、ラジオから流れる愛のささやき、非人格的な、翼をもたぬ大衆の声。靴の底までしみ通る絶望感と倦怠感《けんたいかん》。高度に機械化され完成された世界のなかで、よろこびもなく踊り、絶望的な孤独におそわれ、自分が人間的であるために、かえって非人間的にならざるをえなくなるとき。もし月世界で生活がいとなまれているとしたら、そこには、さらに完全な、よろこびのない生活の確証が、なにかありうるのであろうか。もし太陽から遠ざかることが、月の冷たい白痴状態に近づくことであるとするならば、われわれはすでに目標に到達していることになるだろう――われわれの生活は、太陽光線を反射する月の冷たい白熱光にすぎないのだ。それは、原子の空洞のなかの凍りついた生命の舞踏であり、われわれが踊れば踊るほど、それは冷たさを増してくるのである。
かくして、われわれは、短波と長波の氷結したリズムに合わせて踊る。欲望の一片一片が数ドルの金に匹敵する虚妄《きょもう》のコップのなかでの舞踏。われわれは女の脆弱《ぜいじゃく》さを求めて、つぎつぎに女を変えるが、女はみな月のような固い結塊を思わせるばかりだ。それは、愛の論理の冷たい透明な処女膜となり、退潮期の虚飾となり、絶対的な真空地帯の外辺を形づくっている。そして、この完全性の処女的な論理の外辺で、私は絶望にうちひしがれた灰色の魂の舞踏を踊りつづけるのである。それは狂気に駆られて拳銃の引金をひきつづける、みじめな白人の姿であり、白いグローブをはめて自分の胸を打ちつづけるゴリラの絶望的な姿であった。私は翼の生《は》えはじめたゴリラであり、サテンのような虚空のまんなかで目まいを起したゴリラであった。夜は、あまりにも電気装置じみ、白熱の芽が漆黒の空間に無数にのびさかっていた。私は、それらの芽が苦悶《くもん》の声をあげてのびる夜の暗い空間であり、凍りついた月の滴《しずく》の上を泳ぐ一匹のヒトデであり、新しい狂気の芽であり、知的な言葉によそおわれた狂人であり、魂の傷痕《きずあと》に残ったトゲのように声の埋もれた嗚咽《おえつ》そのものでもあった。私は天使のようなゴリラの健全な美しい踊りを踊りつづけた。不健全で、非天使的なのは、私の同胞たちなのだ。われわれは虚妄のコップのなかで踊っており、ともに血肉をわけた間柄であるのに、いつしか星のようにはなればなれになってしまっていたのである。
一瞬のうちに、私は、これらのすべてを明確にさとった。いくらこうした論理を進めて行っても、なんら救いがないことは明らかだった。この大都会そのものが最高の狂気の形態であり、その有機的な部分、あるいは付帯的な部分は、すべて狂気の表現なのである。私は誇大妄想狂的ではなく、人間の一分子として、飽和状態にまでふくらんだ無力な生命のスポンジとして、不合理ながら謙虚な誇りを感じた。私は、もはや自分の腕に抱かれている女の目を見ず、その肢体《したい》の上を泳ぎながら、女の目の奥に、まだ究《きわ》めつくされていない地帯が――未来の世界が――あること、そして、そこにはなんの論理もなく、あるものはただ昨日も明日も夜となく昼となく発生する出来事の芽だけであることを知った。空間の点を凝視することになれ、いまは時間の点を注視している目である。その目は自由に前や後を見る。だが、自我の目は、もはや存在しないのだ。その没我的な目は、なにひとつ語ろうとはしない。それはただ地平線を休みなく彷徨《ほうこう》する制服姿の旅行者なのである。私は、うしなわれた肉体を支《ささ》えようとして、論理的にはこの大都会のようになり、完全性の組織体のなかの小さな一分子になっていた。自己の死を超越し、精神的な光輝と峻烈《しゅんれつ》さを追っていた。はてしない昨日と、はてしない明日とに自己が分裂し、ただ些細《ささい》な出来事にかまけ、無数の窓のある壁の上に安住していたが、家そのものは、とうに消えうせていたのだ。もし、ふたたび現在に帰ろうとするなら、私は、それらの壁や窓を粉砕し、うしなわれた肉体の最後の一片まで叩《たた》きつぶさなければならないのだ。私が目のなかをのぞくのをやめ、意志の手品によって目や顔や肢体《したい》の上を泳ぎ、彎曲《わんきょく》した視界を探究しはじめたのは、そのためである。私は、私を生んだ母が、かつて時間の四つ角を見まわしたように、私自身を見まわした。また、生れついたときにつくられた壁もぶちこわした。水平線は、へそのようにまるく、つながっていた。そこには、なんの物影も、幻影も、構造物もなく、ただ純然たる狂気が同心円を描いて飛びかっているだけであった。私は夢が実体化した矢であった。それは、飛翔《ひしょう》することによって夢を実証し、やがて地上に落ちて無に帰した。
こうして、私がすべてを知った瞬間が去り、空間をもたない真実の時間が去るとき、私は、すべてを知ることによって、没我的な夢の円天井の下で、ただ茫然《ぼうぜん》自失するのである。
この数瞬のあいだに、生命は、夢の割れ目から立ち直ろうと、むなしい努力を重ねるが、大都会の狂った論理の足場は、なんの支えにもならない。血も肉もないこの大都市をつくるために――その完全性が、あらゆる論理の総和であり、夢にとっては死を意味するこの大都市をつくるために、血と肉をもった個人である私は、毎日うちひしがれていなければならないのだ。私は自分の死が一抹《いちまつ》の泡にすぎない大海のような死に抵抗しつづけた。私が自己の個人的な生命を、その死の海の水面から、わずか一インチ引きあげるためには、キリストよりもさらに偉大な信仰と、最高の舵手《だしゅ》にもまさる深い知恵とをもたなければならなかった。現代の言葉にないものを明確に表現するだけの能力と忍耐力とをもたなければならなかった。なぜなら、いま理解しうるものは、みな無意味だからである。同様に、既知のものの像しか映さない私の目も、なんら役にたたないものであった。私の全身は、持続的な光芒《こうぼう》となって、決して捕えられず、わき目もふらず、うまずたゆまず、超高速度で飛びつづけなければならないのだ。この大都市は癌《がん》のように成長をつづける。したがって私は太陽のように強く大きくなる必要があるのだ。大都市は次第に深く肉に食い入る――それは白ダニのように貪婪《どんらん》であった。だから私は最後には栄養不良で死ぬにちがいない。私は、その白ダニが私を食いつくして餓死するのを待っているのである。ふたたび人間に生れ変るために大都市といっしょに死ぬのだ。そこで私は目を閉じ、口を閉じ、耳をふさぐのだ。
たぶん私は、――すっかり生れ変る前に――人々が休息やひまつぶしにやってくるような公園になるだろう。人々が、どんなことを言い、どんなことをしようと、気にとめる必要はあるまい。どうせ彼らがそこへもちこむのは、疲労と倦怠《けんたい》と絶望くらいのものであろうから。私はまた白ダニと赤血球のあいだの緩衝器になりたい。完全になりえないものを完全にやろうとする努力によって蓄積した毒を排除する通風装置になりたい。また、夢にあらわれるあの自然界に存在するような形の法と秩序にもなりたい。完全主義の悪夢のまっただなかにある自然公園、狂乱的な活動のさなかにあらわれる静かな安定した夢、論理の白い撞球《どうきゅう》テーブルの上で射《う》たれる、でたらめなショット――私は、そんなものになりたい。私は泣くことも弁護することも知らず、つねに黙々としてすべてを甘受し、耐えぬくことだろう。ふたたび人間に生れ変るまで、私は、なにも言わず、ものを維持する努力も破壊する努力もせず、いかなる批評も判断もくださないだろう。持てる人たちは私に感想や意見を求めてくるかもしれない。持たざる人たちは、不節制のため、絶望のため、あるいは救いの真理を知らないために、死んでしまっているにちがいない。いずれにしろ、もしだれかが私に、信心深くならなければいけないと言ったら、いっさい私は返事をしないだろう。淫売婦《いんばいふ》が待っているから、すぐ行ったらどうかと、だれかが私に言っても、私は答えないだろう。また、たとえ革命が起きても、私は黙っているだろう。淫売婦や革命は、そこらの町角で、いつでも見ることができる。私を生んだ母は、数多くの街角を通りながら、だれに声をかけられても一言も答えなかった。しかし、彼女は最後に自分をさらけ出した――私がその答えだったわけである。
はげしい完全主義にとりつかれている以上、だれも自然公園の発達を期待しないだろう。私自身も、べつに期待してはいないが、しかし、どうせ死を待つ身なら、優雅な自然の魅惑に心を奪われて暮したほうが、はるかにましである。生活が死の完全性へ移行しつつあるときは、どんなに小さくても、休息の場所か緑地か池に生れ変ったほうが、ずっといい。そして、人々を黙って迎え、あたたかく包容してやるのだ。彼らは依然として気ちがいのように先を急いでいるのだから、話しかけてくることもないはずである。
ふっといま、ある夏の午後の石合戦のことを思いだした――遠い昔の思い出である。そのころ私はヘル・ゲート運河の近くのカロライン伯母の家に泊っていた。ある日、いとこのジーンといっしょに公園で遊んでいると、少年の一団が私たちをとりかこんで、喧嘩《けんか》をふっかけてきた。私たちは、たがいにかばいあいながら、河の土堤《どて》ぎわに積まれた石の山の上で死にものぐるいで戦った。相手のやつらが、こちらを弱虫だとなめきっているのだから、私たちとしては、人並以上の勇気を示す必要があった。そんなわけで、私たちは、勢いあまって相手の一人を殺してしまったのである。奴《やつ》らが、いっせいにおそいかかってきたちょうどそのとき、ジーンが一団のガキ大将めがけて石を投げつけた。かなり大きな石だったが、それが奴のどてっ腹にみごとに命中した。しかも、ほとんど同時に投げつけた私の石が、奴のこめかみに当った。奴は、その場にばったりと倒れたきり、うんともすんとも言わなくなった。五分後に警官がやってきたときには、その少年は死んでいた。少年は、八つか九つ――私たちと、ほぼ同じ年ごろだった。あのとき、もし警官に捕まっていたら、私たちは、どうなったことだろう。とにかく私たちは、嫌疑《けんぎ》がかからないように、いちはやく家へ帰ってしまった。途中で服の汚《よご》れを払い、乱れた髪を直した。家へ入るときには、出かけるときと同じくらい、きちんと服装をなおしていた。カロライン伯母は、いつものように、新鮮なバターを塗った、すっぱいパンに、砂糖をすこしふりかけて出してくれた。私たちは、台所のテーブルでそれを食べながら、天使のような微笑をうかべて伯母の話に耳をかたむけていた。その日は、すごく暑かったので、伯母は、私たちに、ブラインドをおろした表側の大きな部屋で、近所のジョイ・ケッセルバウムと、おはじきでもして遊ぶように、と言った。ジョイは、すこし知能の発育がおくれていたから、ふだんなら、あっさり負かしてしまうのだが、その日は、私とジーンとのあいだには暗黙の了解がついていたので、わざと、すっからかんに負けてやった。ジョイは、とてもよろこんで、そのあと私たちを自分の家の地下室へつれて行き、妹にドレスをぬがせて、その下にあるものを見せてくれた。ウィージーというその妹は、たちまち私を好きになったようであった。私は同じニューヨークの反対側からやってきたのだが、彼らはそれを非常に遠いところのように感じていた――まるで私が外国からきたかのようであった。しかも、私が彼らとはちがった言葉を話すようにさえ思っているふうだった。したがって、いつもなら、ウィージーにドレスをぬがせると、見る側の子供は金を払うきまりになっていたのだが、私たちの場合は無料だった。好意的に見せてくれたのである。しばらくしてから、私たちはウィージーに言いきかせて、ほかの男の子には絶対にそんなことをしないと誓わせた――私たち二人の恋人になった以上は、ちゃんと貞操を守ってもらいたかったのである。
その夏の終りに、いとこと別れてから、私は、長いあいだ彼と会わなかった。そして、かれこれ二十年ぶりで再会したとき、私はまず、彼がまるで罪を知らぬげな顔つきをしているのに、たいへん驚かされた。しかも、その話をしてみると、彼は、あの少年を殺したのが私たちであったことすら、完全に忘れているのであった。私は、それを知って、ますます驚きを深めた。彼は、あの少年が死んだ事件はおぼえていたが、私たちがそれに関係があったとは思っていないようであった。私がウィージーの名前をあげても、彼は、なかなか思い出せなかった。それじゃ、隣の家の、ジョイ・ケッセルバウムの家の地下室をおぼえてないか……? そうたずねると、やっと一抹《いちまつ》の微笑が彼の顔をかすめた。あんなことをおぼえているなんて、変な男だ、といわんばかりの顔つきだ。彼は、すでに結婚して父親になり、珍しい意匠のパイプケースをつくる工場で働いていた。彼にとっては、遠い過去の出来事をおぼえているというのは、なにか驚嘆すべきことのようであった。
その晩、私は、はげしい失望におそわれながら彼と別れた。あたかも彼は、私の人生のある貴重な部分を根こそぎ破壊し、ついでに彼自身をも抹殺《まっさつ》しようとしていたかのように思われた。彼は、あのすばらしい過去よりも、いま蒐集《しゅうしゅう》している熱帯魚に、はるかに愛着をもっていたようであった。一方、私の心には、あの夏のこと、とくにあの石合戦の日の記憶が、なにもかも鮮明に刻みつけられていた。あの日の午後、彼の母が私に食べさせた大きなすっぱいパンの味が、いま食べている食物の味よりも、はるかに強く舌に感じられることが、たびたびあった。あのとき見たウィージーの小さな乳首《ちくび》のほうが、現在私がときどき手にふれる女のそれよりも、はるかに強烈な刺激をそそることもあった。私たちの投げつけた石ころが命中してばったりと倒れたあの少年の姿は、世界大戦の歴史よりも、もっと印象的であった。あの長い夏が、まるでアーサー物語のなかの田園詩のようにさえ感じられた。なぜあの夏が、とくにこれほど鮮明に記憶に残っているのか、私自身ふしぎに思うことがあった。ちょっと目をとじるだけで、その一日一日が、あざやかによみがえってくるのである。それは、あの少年の死が私を煩悶《はんもん》させたからではなかった――そんなことは一週間もたたぬうちに忘れることができた。地下室のうす暗がりのなかでドレスをぬいだウィージーの姿も、すぐに忘れてしまった。ただ、奇妙なことに、ジーンの母親が毎日おやつにくれたあのすっぱいライ麦のパンだけは、あの夏の他の思い出よりもはるかに強く執拗《しつよう》に記憶に残っているのである。私は、その理由を、何度も考えてみた。たぶんそれは、あのパンを私に手渡してくれたとき、私がそれまで経験しなかったような同情とやさしさが、伯母の態度にあらわれていたせいかもしれない。カロライン伯母は、たいへん不器量な女で、顔はあばた面《づら》だった。しかし、どんなに醜くても、それは魅力のある、親切な顔だった。おそろしく頑丈《がんじょう》な体《からだ》つきに似合わず、声は非常に静かで、やさしかった。私に話しかけるときの伯母の声には、息子に対する以上の思いやりがこもっているように感じられた。私は、いつまでも伯母のそばにいたかった。許されるなら彼女を私の母に選びたかった。母が訪《たず》ねてきたとき、私が新しい生活にすっかり満足しているのを見て、ひどく機嫌《きげん》をそこねたことを、いまもはっきりおぼえている。母は私を恩知らずだと言った――忘れられない言葉だ。なぜなら、私はそのときはじめて恩知らずになるということは非常に大切なことだと感じたからである。いま目をとじて当時を思い出し、あのパンのことなどを考えると、あの家にいたとき、私は叱《しか》られるということを全然知らなかったような気がする。もし伯母に、あの少年を殺したことを知らせ、事件のいきさつをくわしく説明したとすれば、伯母は私を抱きよせて、即座に私を許してくれたにちがいない。あの夏が私にとって忘れられないものになったのは、そんなところに原因があるのかもしれない。あの夏は、暗黙のうちに成立した完全な罪障消滅の夏であった。私がウィージーを忘れることができないのも、そのためである。彼女は、とても気立てのいい子だった。私を愛し、そして全然私を非難するようなことはしなかった。彼女は私が変り者であることを讃美《さんび》してくれた最初の女性でもあった。ウィージー以後は、それが逆になった。私は愛されもしたが、こんなふうな人間であるために憎まれもした。ウィージーは私を理解しようと努力してくれた。私が見知らぬ国からきたということ、私が彼女たちとはちがった言葉を話すということが、彼女が私に心をひかれるようになったそもそもの原因だったらしい。同じ年ごろの友だちに私を紹介するときの彼女の目の輝きは、私が終生忘れることのできないものの一つである。彼女の目は愛と讃美に燃えていた。ときどき私たち三人は、暗くなってから河畔を散歩し、土堤《どて》に腰かけて、世間の子供たちが年長者のいないときに話すようなことを語り合った。当時をふりかえってみると、私たちは親たちよりも健全な、そしてもっと深く突っこんだ話をしたように思う。私たちに毎日厚いパン片《きれ》をあたえるためには、親たちは重い罰を受けなければならないのではないか。そして最悪の罰は私たちと疎遠になることである。なぜなら、親が私たちに一片のパンをあたえるたびに、私たちは親に無関心になるばかりでなく、次第に親よりも立派なものになってゆくからである。恩を忘れるところに私たちの力と美とがあった。私たちは愛情にこだわらないおかげで、あらゆる罪悪を知らずにすんだ。泣き声一つあげずに、ばったりと倒れたまま死んだあの少年の死は――あの少年を殺したことは――なにか健康的な、さっぱりした仕事をしたような感じでさえあった。それに反して、パンのためにあくせく働くのは、なんとなく卑劣な、いやしむべきことのように思われた。そして、私たちは両親のそばにいると、彼らが不潔に思われ、はげしい反撥《はんぱつ》を感じた。毎日おやつに食べるあの厚いライ麦のパンは、正確にいえば、われわれが働いて手に入れたものではなかったがゆえに、たいへんおいしかったのである。もはや二度とあんなにおいしいパンを食べることはできないだろう。あんなふうにパンを食べさせてもらうこともないだろう。殺人の日には、かえって、いつもよりもおいしかった。それは、いままでにない恐怖の味が、ちょっぴり加わっていたからである。しかも、私たちの行為は、カロライン伯母の完全な暗黙の許しを受けていたのである。
ライ麦のパンについて、さらに考察をすすめると、あのパンには、それまでに発見したことと関連して、どことなく爽快《そうかい》な、開放的な、しかも戦慄《せんりつ》的なところがあった。私はいま、もうすこし幼いころ、友だちのスタンリーといっしょに冷蔵庫あらしをやっていた当時に食べたライ麦のパンのことを思いだす。それは盗んだパンであった。だから、愛情をもってあたえられるパンよりも、はるかに味がよかった。しかし、まるで天啓に似たようなことが起ったのは、そのパンをもって歩きながら食べ、食べながら話し合っていたときであった。私たちは、神の恩寵《おんちょう》にめぐまれた、無知な、没我的な状態にあった。このひとときのあいだに頭にひらめいたことを、私は黙って心にしまっておいた。その知識を喪失するおそれは、まったくなかったからである。大げさな言いかたをすれば、そのとき私は、ある真理をつかんだのだ。ライ麦のパンに関する議論のなかで最も重要なのは、それが家を離れたところで行われたという点である。恐れるだけで尊敬していない親の目のとどかないところで議論がたたかわされたという点にある。私たちが二人きりになれば、どんなことを想像しようと、そこには、なんの制限もなかったからである。私たちにとっては、事実は、たいして重要な意味をもたなかった。それよりも、ある主題を拡大し展開する契機をつかむことが、はるかに重要だった。いまふりかえってみて驚くことは、私たちが、たがいに相手をよく理解していたこと――しかも、相手の主要な性格ばかりでなく、他の子供や大人のそれをも見抜く目をもっていたことである。わずか七歳の私たちが、この男は刑務所で死ぬだろうとか、こいつは、こせこせ働く男になるだろうとか、こんな奴《やつ》は、ろくなものにならないだろうといったことを、きわめて正確に判断していたのである。私たちの診断は、両親や教師や、いわゆる心理学者などよりも、はるかに正確だった。アルフィー・ベッチャーは完全にぐうたら野郎になったし、ジョニー・ゲルハルトは刑務所に入った。ボブ・クンストは馬車馬みたいになってしまった。予想が、ぴったり的中したのである。私たちが学校で習ったことは、私たちの想像力を鈍化させるのに役だったにすぎない。学校へ行くようになってからは、ろくなことを教えられなかったばかりか、逆に頭がにぶった。単語と抽象の靄《もや》に目をおおわれてしまったのだ。
すっぱいライ麦のパンのあるところに、本質的な世界、魔法によって支配される原始的な世界、恐怖が最も重要な役割を演ずる世界があった。そこでは、最も大きく恐怖心を起させることのできる少年が指導者であり、彼は、その力を維持できるかぎり尊敬された。ほかにも反逆者どもがいた。彼らも声望を集めてはいたが、指導者にはなれなかった。大多数は恐怖を知らぬ連中で、一部のものは信頼できるが、大部分は信用できない奴ばかりであった。空気はつねに緊迫していて、なにごとも予断を許さなかった。この放埓《ほうらつ》な原始的社会の核心では、たえず強烈な嗜好《しこう》や情緒や好奇心が創造され、なにごとも許容されず、毎日が新しい力の試験を要求し、新しい意味の強さ、あるいは敗退を要求した。したがって、私は九歳か十歳までのあいだは、人生の真実を味わうことができた――私たちは独立していたのである。つまり、私たちは幸運にも両親に甘やかされることなく、自由に夜の街を歩きまわり、自分の目で、いろいろなことを発見することができたのだ。
こうした幼少時代の完全に制約された生活は、逆に無限の宇宙のようなものであった――私は、ある程度の後悔と憧憬《どうけい》とを感じながら、そんなふうに思う。それ以後の生活は、おとなになるにしたがって、次第に領域が狭《せば》まってきた。学校へ入れられた瞬間から、人々は自分を見うしなってしまう。首に繩《なわ》をつけられたような感じがしはじめる。人生の味が消えるにつれて、パンの味までが消えてしまう。パンを得ることが、それを味わうことよりも、ずっと大切になってくる。すべてが計算しつくされ、あらゆるものに値段がつけられるようになる。
私のいとこのジーンは、全然くだらない人間になってしまったし、スタンリーは最低の落伍《らくご》者になった。かつて私の最大の親友であったこの二人のほか、もう一人の友人ジョイは、いま郵便配達人になっている。私は、なにが彼らの人生をそんなものにしたかを考えると、泣けてくるのである。子供のころの彼らはじつに立派だった――もっとも、スタンリーは、かなり気まぐれなところがあったが。往々にして、いきなりめちゃくちゃに怒りだすことがあるので、彼と仲よくつきあうには、その日その日の風向きを考えなければならなかった。しかし、ジョイとジーンは善良そのものだった。彼らは文字どおりの親友だった。私は田舎へ行くと、ときどきジョイのことを思いだす――なぜなら、彼はいわゆる田舎っ子だったからである。という意味は、彼は、われわれの知っている少年たちよりも、はるかに誠実で、まじめで、やさしかったということである。私に会いにくるときのジョイの姿が、いまでも彷彿《ほうふつ》として目にうかぶ。いつも両腕をひろげ、私に抱きつく姿勢をとって走ってきた。そして、私を仲間に加えるように計画されたいろいろな冒険を、息もつかずにしゃべった。また彼は、いつも私を歓待するために、さまざまな贈物を用意していた。ジョイは、まるで昔の殿様が賓客をもてなすように私をもてなした。私の目にとまったものは、ことごとく私のものになった。私たちは、たがいに語りつくせないほどの話題をもっており、しかも一つとして退屈なものはなかった。しかし、私たちの世界は、それぞれ非常にかけはなれていた。私もニューヨークに住んでいたわけだが、それでも、いとこのジーンをたずねたときには、それよりもさらに大きな都市を――私がいくら知ったかぶりをしても追いつかない本当のニューヨークという大都市を、はじめて知らされたような気がした。スタンリーは、遠くへ旅行したことは全然なかったが、彼は海の向うの見知らぬ国、ポーランドの生れなので、私たちのあいだには、つねに海をへだてた国境があった。彼が外国語を話すという事実も、私たちの讃嘆《さんたん》の思いを深める一因となった。こんなふうに、私たちは、それぞれ画然とした自分の領域をもち、神聖にして冒すべからざる独自性をもっていたのである。人生の門をくぐってからは、これらの特異性が次第にうすれ、私たちは、どれもこれも似たりよったりの人間になり、当然、本来の自分とは似ても似つかぬ人間になってしまった。こうした特殊な自我の喪失、平凡ではあったにしろ自己の個性を没却し去ったことを、私は心から悲しく思う。ライ麦のパンが、ひときわ光彩を増すゆえんも、そこにあるのだ。あのすばらしいライ麦のパンは、私たちの個体的自我を形成する上に、すばらしい貢献をしてくれたのである。それは、各自が協同してつくって、しかもそれぞれ自己の特異な嗜好《しこう》にしたがってしか口にしない聖餐《せいさん》のようなものであった。いまも私たちは同じパンを食べているが、それは霊的な親交を深めるためでもなく、またそれぞれの嗜好を満足させるためでもない。ただ単に腹を満たすためだ。私たちの心は冷たく、空虚だ。私たちは個々に分離してはいるが、だれひとり個性をもってはいないのである。
すっぱいライ麦のパンをめぐって、もう一つの思い出がある。それは、私たちがそのパンといっしょに生《なま》の玉葱《たまねぎ》を食べることが多かったことである。よく私は夕方スタンリーといっしょにサンドイッチを手にして家のすぐ向いの獣医の家の前に立っていたことをおぼえている。マッキニー獣医は、雄馬を去勢するのに、なぜか、たいがい夕刻を選んでいたようであった。この手術は公開されていて、いつも小さな人だかりを呼んでいた。真赤に焼かれた鉄の匂《にお》いや、ぶるぶるふるえる馬の脚、マッキニー獣医の山羊《やぎ》ひげ、生の玉葱の味、ガス管の敷設《ふせつ》工事のどぶくさいにおいなどが、いまも私の記憶に残っている。スタンリーと私は、その手術の理由も知らずに、ながながとそれについて議論し、あげくのはては喧嘩《けんか》になることが多かった。マッキニー獣医に対しては、だれも好感をもっていなかった。彼のそばへ行くと、ヨードホルムと馬の小便のにおいがした。ときどき彼の家の前のどぶには血がいっぱいたまり、冬にはその血が凍りついて、まことに異様な観を呈した。また、ときたまおそろしい悪臭をただよわせた大きな無蓋《むがい》の二輪馬車がやってきて、馬の死骸《しがい》を手早く乗せて行くこともあった。死骸は長い鎖で吊《つ》りあげて馬車に積まれるのだが、その鎖は、まるでイカリをおろすような耳ざわりな音をたてた。ぞっとするような馬の死骸の腐臭が、いつも私たちの街には充満していた。また街角のポール・ソアーの店では、生の獣皮や毛を刈りこんだ獣皮を店頭につるしていて、これもおそろしい悪臭を発散した。それから、その家の裏にあるブリキ工場から洩《も》れてくる、すえたにおい――それは、現代文明の進歩そのものの悪臭ででもあるかのように感じられた。馬の死骸は、まったく耐えがたい腐臭を放ったが、それでも化学薬品の焼けつくような臭気にくらべれば、はるかにましだった。また、こめかみに銃弾で穴をあけられた馬が、血溜《ちだま》りのなかに首を横たえ、肛門《こうもん》から最後の発作的な放屁《ほうひ》をやらかしている情景すら、青いエプロンを着た一団の男が、できたてのブリキ罐《かん》を手押車に積んで工場のアーチ型の通路から出てくる光景よりも、まだましだった。私たちにとって幸いだったのは、そのブリキ工場の向う隣にパン屋があって、粗末な裏の格子戸《こうしど》から、いそがしく立ちはたらいている職人たちの姿が見えたし、甘い、たまらなく香ばしいパンやケーキの匂《にお》いを嗅《か》ぐことができたことである。前述したように、ガス管の敷設工事中だったので、もちろん他のにおいも混然として一種異様な臭気をかもし出していた。掘りかえされた土のにおい、腐った鉄管のにおい、どぶのにおい、掘りかえされた土の山に背をもたせかけて食べているイタリア人工夫のサンドイッチの玉葱のにおいなど。もちろん、そのほかにも、弱いにおいが、いくつかあった。たとえば、いつも大量にプレス作業をしているシルバースティン洋服店のにおいだ。これは、やせているくせに彼自身体臭の強いユダヤ人であるシルバースティンが、客のズボンにしみついた屁《へ》のにおいを払いのけている様子をまざまざと思いうかばせるような、妙にほてった悪臭であった。その隣に、信心深い二人の老婆が営んでいる駄菓子屋兼文房具店があった。そこには、タフィーやスペイン・ピーナッツ、ナツメ菓子、センセン、フランスタバコなどの、むせかえるような甘ったるいにおいがこもっていた。文房具売場は美しい洞穴《ほらあな》のようで、いつも涼しく、いつも目を奪うような品がいっぱいならべてあった。ソーダ・ファウンテンのある場所は、厚い大理石板が敷かれ、夏には、それがややすえたようなにおいをただよわせたが、しかし、それにはアイスクリームのグラスに噴射される炭酸水の乾《かわ》いた爽快なにおいがまじっていてかぐわしかった。
おとなになるにつれて嗅覚《きゅうかく》が洗練され、それらのにおいは薄れて、まったくちがった、非常にこころよい、忘れがたいただ一つのにおいが、それらにとってかわるようになった。それは女性独得のにおいである。とくに、女と遊んだあと指に残っている、あのほのかなにおい。なぜなら、それまで気づかずにいてふと嗅いでみると、そのにおいは、過去の時制の芳香をともなっているせいか、そのもの自体のにおいよりもいっそうこころよく感じられるからである。しかし、この成熟期に属するにおいは、子供時代に付属する臭気にくらべると、はなはだしく微弱なようである。しかもそれは、現実的にそうであるように、想像の世界のなかでも、たちまち消散してしまうのだ。愛している女のことは、いろいろと細かな点にわたってよくおぼえているものだが、その女のもののにおいだけは、妙にとりとめがなくて、なかなかおぼえにくいものである。それに反して、女の濡《ぬ》れた髪は、はるかに印象が強く、あとあとまで心に残る。私は、洗髪したあとのテイラー伯母の髪のにおいを、四十年近くたったいまですら、よくおぼえている。いつも彼女は、むし暑いほどにあたたかくした台所で髪を洗った。それも、たいがい土曜日の夕方、つまり舞踏会に出かける前に洗うのだ。したがって、彼女が洗髪すると、もう一つのことが、それに付随して起った――それは、派手な黄縞《きじま》の制服を着た一人の騎兵軍曹《きへいぐんそう》があらわれることである。その男は、私の目にすら、テイラー伯母みたいな低能な女にはもったいないほど知的で、顔かたちが立派で、しかも男らしかった。とにかく彼女は、洗髪を終えると、台所のテーブルのそばの小さな丸椅子に坐って、タオルで髪を拭《ふ》いた。そばに、すすけたランプがおいてあり、その横に、なんとも形容しがたいほどいやな感じのする髪ゴテが二つおいてあった。たいがい伯母はテーブルの上に小さな鏡を立てていた。鼻にできた頭の黒いニキビをしぼりとるときの彼女のしかめっ面《つら》が、いまなお、まざまざと目にうかぶ。ぎすぎすした、醜い、知能の低い女で、二本の大きな前歯が、微笑したときに唇《くちびる》がめくれあがるたびに、彼女を馬のような顔つきにした。彼女は入浴したあとでさえ汗くさかった。しかし、彼女の髪のにおいは、とくに忘れがたい。それは、彼女に対する私の憎しみと軽蔑とに結びついているからである。髪を乾かしているときのにおいは、泥沼の底からわきあがってくる瘴気《しょうき》に似ていた。それには、二つのにおいがまじっていた――一つは濡れた髪のにおい、もう一つは彼女がストーブに髪の毛を投げこむたびに炎をあげて燃えるときに発するにおいである。彼女が髪を梳《す》くと、もつれた髪の毛が何本も櫛《くし》にからみついて抜けた。それには、あぶらとほこりで汚《よご》れた彼女の頭のふけや汗がまじっていた。私はよく伯母のそばに立って、彼女を眺《なが》めながら、この女は、どんな舞踏会に行き、そこでどんなふうにふるまうのであろうかと、いぶかった。彼女は、おめかしがすむと、「どう、きれいになった?」と私にたずねる。私は、もちろんイエスと答えた。だが、そのあと私は、台所のとなりの便所に入ると、窓ぎわにおかれたロウソクのゆらめく光のなかで、まるで気ちがいのように見えるよ、とこっそりひとりごとを言ったものだった。
伯母が出かけてしまうと、髪ゴテを手にとってにおいをかぎ、めちゃくちゃにいじりまわした。それは――蜘蛛《くも》のように――嫌悪《けんお》をもよおさせると同時に、魅惑的でもあった。そもそも、その台所にあるものがすべて私にとっては魅惑的だったのである。その台所は、私にとっては、はなはだなじみの深い場所であったが、しかし私は、そこを征服することができなかった。そこは、あまりにもとつぜん公開され、そして私にとって親しい場所になってしまったのである。ある土曜日、私はそこで、大きなブリキのたらいのなかで、誕生を迎えたのだ。私の三人姉妹は、よくそこで体を洗ったり着飾ったりした。祖父が、流しの前で上半身を洗ってから、私に靴を渡して磨《みが》かせたのも、そこだった。冬には、私はその台所の窓辺《まどべ》に立って、雪が降るのをぼんやり眺めていたこともあった――あたかも私が子宮のなかにいたころ、母が便所に坐っているあいだ、水の流れる音にぼんやり耳をかたむけていたようなぐあいに。秘密な話も、そこでとりかわされた。家族たちは、なにかいまわしい、おそろしい相談ごとでもあると、そのあと、かならず深刻な表情で、あるいは目を泣きはらして、ふたたびそこにあらわれた。なぜ彼らが、ことあるごとに台所に駆けこんだのか、私にはわからない。ともあれ、こうして彼らが、遺言書のことや、どこかの貧しい親戚の世話をやかずにすむ方法などを、こっそり相談している最中に、とつぜん台所のドアが開き、人が訪ねてきて、その場の雰囲気が、がらりと変ってしまうようなことも、たびたびあった。まるで、外部の力が長びいた秘密会談を中断し、その恐怖をやわらげてくれたために、家のものたちが、ほっと胸をなでおろした、といったような変りかただった。ドアが開いて予期しない客の顔がのぞきこんだときのうれしさと、心のたかぶりを、私はいまもあざやかに思い起すことができる。それからまもなく、私は大きなガラスの容器を渡され、街角の酒場まで一走り行ってこい、と命令されるのであった。私は、その酒場の小さな裏口から容器を店のものに渡し、それになみなみとビールがつがれてかえされるのを待っていた。こうして街角までビールを買いに走らされることは、じつに興味しんしんたる探検行であった。まず、家を出るとすぐ、床屋がある。スタンリーの父がその店をやっていた。私は小走りに歩きながら、父親が皮砥《かわと》でスタンリーをひっぱたいているのを見ることがあった。血の煮えたぎるような光景であった。スタンリーは私の最大の親友だし、彼の父親は飲んだくれのポーランド人でしかなかったからだ。しかし、ある晩、私がいつものように容器をもって家から飛び出したとき、もう一人のポーランド人が剃刀《かみそり》をもってスタンリーの父親を追いかけまわしているのを見て、大いに溜飲《りゅういん》のさがる思いをした。スタンリーの父親は、まっ青な顔で、咽喉《のど》から血をしたたらせながら、裏口から逃げ出し、店の前の歩道の上で、ばったり倒れ、うめき、もがいた。私はそれを横目で流し見て、うれしさと満足感にぞくぞくしながら、そのまま歩いて行った。スタンリーは、その乱闘のあいだに、こっそり店からぬけ出して、酒場まで私についてきた。多少おびえてはいたが、しかし、彼もやはりうれしそうだった。もどってみると、救急車が店の前にとまっていて、顔や咽喉を繃帯《ほうたい》でおおわれたスタンリーの父親が、担架に乗せられるところだった。また、私がちょうど家から飛び出したときに、たまたまキャロル神父の秘蔵っ子が家の近くをぶらぶら歩いていることがあった。
これは、きわめて重大な出来事だった。その少年は、私たちのだれよりも年上だが、ゲイ・ボーイにでもなりそうな女みたいな男の子だった。したがって、彼の散歩すら、つねに私たちを不愉快にした。彼が街に姿をあらわすと、そのニュースは、たちまちあらゆる方向にひろまり、いつも彼は街角に行きつかぬうちに、自分よりもずっと小さな子供たちに包囲されてしまった。そして、さんざんののしられ、あざけられて、泣きだすのであった。すると私たちは、まるで狼《おおかみ》の群れのように彼におそいかかり、地べたにひきずり倒して、服をはぎとってしまった。なんとも乱暴なやり方だが、私たちはそれによって大いに気分をよくしたものである。ゲイ・ボーイとは、どんなものか、だれもまだ知らなかったが、なんとなくそれに反感をもっていたようである。同じような意味で、私たちは中国人にも反感をもっていた。街はずれの洗濯屋《せんたくや》に中国人が一人いた。彼は、たびたび私たちの近所を通りすぎるので、キャロル神父の教会の意気地なしと同様に、私たちの挑戦を受けなければならなかった。彼は学校の教科書にのっている苦力《クーリー》の写真とそっくりの顔をしていた。組み紐《ひも》のボタン・ホールのついた黒いアルパカのコートのようなものを着て、かかとのないスリッパをはき、辮髪《べんぱつ》をうしろへ垂らし、たいがい両手を服のなかに入れて歩いた。私の記憶に最も鮮明に残っているその歩きかた――陰険な、妙に気どったような、女性的な歩きかたは、私たちにとっては、まったく異様であり、脅迫的なものであった。彼は私たちの嘲罵《ちょうば》をうけても全然無関心であった。だから、よけい小面憎《こづらにく》くもあったし、不気味でもあった。侮辱されていることに気づかないほど無知なのではなかろうかと、私たちは考えた。ところが、ある日、私たちがその洗濯屋へ押しかけて行くと、彼は、すくなからず私たちのどぎもをぬいた。まず彼は、洗濯の仕上った品を私たちに渡してから、帳場の下へ手をのばして大きな袋からレイシの実をいっぱいつかんで、微笑しながら帳場から出てきて入口のドアをあけた。それから、依然として微笑をうかべたまま、アルフル・ベッチャーをつかまえ、いきなり彼の耳をひっぱった。こうして、つぎつぎに私たちをつかまえては、にやにや笑いながら耳をひっぱってから、急に顔つきを変え、残忍な表情をうかべたかと思うと、猫のようにすばやく帳場のかげへ飛びこんで、長い不細工な格好のナイフをつかみあげると、その切先を、いきなり私たちに向けたのである。私たちは、われさきに店から飛び出した。そして、街角まできて、うしろをふりかえってみると、彼はアイロンを手にして、けろりとした顔で入口に立っていた。それ以後、だれも、その洗濯屋へは行こうとしなくなった。ルイス・ピロッサに、毎週、銀貨を一枚やって、洗濯物をとってきてもらうようにした。ルイスの父は街角で果物屋をやっていた。彼は、友情を示すために、腐ったバナナを、よく私たちにくれた。スタンリーは腐ったバナナが大好物だった。彼の伯母さんが、それを油で揚げてくれるからである。このバナナのフライは、スタンリーの家では、立派なご馳走《ちそう》だと考えられていた。
あるとき、スタンリーの誕生日に、彼の家でパーティが催され、近所じゅうの子供たちが招待された。パーティは和気あいあいのうちに進行し、やがてバナナのフライが出された。これはスタンリーの両親のようなポーランド人にしかなじみのない料理だったから、だれも手を出そうとしなかった。バナナのフライを食べるのは、なにかいけないことのようにだれもが感じていたのである。一同が当惑しているうちに、だれか茶目っ気の多い奴が、ばかのウィリー・メインにバナナのフライを食べさせてやろうじゃないかと言いだした。ウィリー・メインは私たちのうちでは最年長者であったが、口がきけず、ただ「ビジョーク! ビジョーク!」というだけだった。なにを指《さ》しても、そういうのである。だから、バナナの皿が彼の前にまわされたときも、彼は「ビジョーク!」と言って両手をのばした。だが、ちょうどそのとき、隣に坐っていた弟のジョージが、みんなが兄をだまして腐ったバナナを食べさせようとしているのを知って、憤然として近くの奴につかみかかった。ウィリーも、弟が格闘をはじめたのを見て、俄然《がぜん》「ビジョーク! ビジョーク!」と叫びながらあばれだした。そして、他の少年たちばかりでなく、女の子たちまで殴《なぐ》りつけたので、パーティは大混乱におちいってしまった。やがて、スタンリーの父親が、その騒ぎを聞きつけて、皮砥《かわと》をもって店から飛びこんできた。そして、瘋癲《ふうてん》のウィリー・メインの首筋をつかみあげると、皮砥で彼を殴りはじめた。一方、弟のジョージは、そのあいだに、こっそりぬけ出して、父親を呼びに行った。多少酒乱の性癖のあるメイン氏は、シャツの袖《そで》をまくりあげて駆けつけ、かわいそうなウィリーが酔っぱらいの床屋にぶたれているのを見ると、腕をさすりながら、そばへ行って、容赦なくスタンリーの父親を殴りとばした。やっと自由になったウィリーは、そのあいだに四つん這《ば》いになって、床に落ちたバナナのフライを、ぱくつきはじめた。まるで雌山羊《めやぎ》のように、手あたり次第に、すばやく口へつめこんだ。やがて、それを見つけると、彼の父親は、まっ赤になって怒り、皮砥を拾いあげてウィリーを追いまわした。ウィリーは、「ビジョーク! ビジョーク!」とわめきながら逃げまわった。みんながどっと笑いだした。メイン氏も、それに気を抜かれて、追うのをやめた。やがて彼が椅子に腰をおろすと、スタンリーの伯母さんがブドウ酒をもって入ってきた。それから、この騒ぎをききつけて、隣近所の人たちがやってきて、さらにブドウ酒とビールが運ばれ、オランダ・ジンが出され、まもなく、みんなが愉快に歌をどなりだし、口笛を鳴らしはじめた。子供たちまで酔っぱらった。ばかのウィリーは、酔うと、また山羊のように床を這いまわって、「ビジョーク! ビジョーク!」とわめいた。まだ八つになったばかりなのに、へべれけに酔ったアルフル・ベッチャーが、瘋癲のウィリーの尻《しり》に咬《か》みついた。すると、こんどはウィリーがアルフルに咬みつき、しまいには、みんながたがいに相手かまわず咬みつきはじめた。親たちは、それを見て笑いころげ、パーティは俄然にぎやかになった。バナナのフライがもう一度出され、こんどはみんながそれを食べた。それからテーブル・スピーチが行われ、乾杯がくりかえされた。瘋癲小僧のウィリーは、みんなのために歌をうたって聞かせようとしたが、「ビジョーク! ビジョーク!」としか歌えなかった。
かくして、この誕生祝いのパーティは、すばらしい成功をおさめ、それから一週間か二週間ほどは、パーティの話と、スタンリー家の家族がどんなに立派な人たちであるかという話でもちきりだった。バナナのフライも、すこぶる好評を博し、ルイス・ピロッサの父親の店では、それからしばらくのあいだ注文が殺到して、腐ったバナナを手に入れることが困難になった。そうこうするうちに、近隣の人たちをことごとくふるえあがらせる事件が起った。ジョー・ゲルハルトが、ジョイ・シルバースティンにやっつけられた事件である。ジョイは仕立屋のせがれで、年は十五か十六で、おとなしい勤勉な顔立ちの少年だが、ユダヤ人であるため、他の少年たちから仲間はずれにされていた。ある日、ズボンをフィルモア・プレイスへ配達に行く途中、同じ年ごろで、うぬぼれ根性の強いジョー・ゲルハルトにつかまった。言葉のやりとりが行われたのち、ジョー・ゲルハルトは、仕立屋の息子の手から、いきなりズボンをひったくり、それをどぶのなかへ投げこんでしまった。しかし、シルバースティン少年が、このような侮辱に対して、鉄拳《てっけん》をもって応じようとは、だれも予想しないことだった。したがって、彼がジョー・ゲルハルトに肉薄して、猛烈なパンチを顎《あご》に炸裂《さくれつ》させたときは、みんなが腰をぬかすほど驚いた。最も驚いたのは、むろんジョー・ゲルハルト自身であったろう。格闘は二十分間ほどつづき、最後にジョー・ゲルハルトは歩道の上にのびたまま起きあがれなくなった。一方シルバースティン少年は、どぶからズボンを拾いあげ、悠々《ゆうゆう》と誇らしげに父の店へ引きあげて行った。周囲の連中は声をのんで彼を見送った。この事件は、まさに青天の霹靂《へきれき》であった。ユダヤ人が異邦人をぶちのめしたなどということが、いままでにあっただろうか。それは、まことに信じがたいことがらであったが、しかし、衆人の目の前で実際に起ったのである。私たちは夜ごとに、いつもの歩道の端に腰をおろして、あらゆる角度から事態を検討したが、なんの結論も得られなかった。こうして最後に、ジョー・ゲルハルトの弟ジョニーは、とうとうしびれを切らして自分の手で決着をつける決心をした。ジョニーは兄よりも小柄だが、若いピューマのように乱暴で、負けることを知らなかった。このかいわいの街を構成しているアイルランド人の貧民の典型だった。シルバースティン少年に復讐《ふくしゅう》するために考えついた彼の作戦は、夜シルバースティン少年が店から出てくるのを待ち伏せて闇討《やみう》ちにすることだった。そして、その夜、彼は両手に手頃の石ころを二つかくしもって、有利な体勢で待ち伏せ、通りかかったシルバースティンの不意をおそって、二つの石で彼の眉間《みけん》をつづけさまに殴りつけた。ところが驚いたことに、シルバースティンは、まったく抵抗しなかった。ジョニーが立ちあがって、シルバースティンに起きあがる余裕をあたえても、彼は身動き一つしなかった。それを見るとジョニーは、びっくりして逃げ出した。心から恐怖にとりつかれたものらしく、彼はそれっきり家へ帰らなかった。彼の消息は杳《よう》として知れなかったが、しばらくして、彼が西部のどこかで警察につかまり、感化院に送られたという知らせが入った。自堕落で陽気なアイルランド女である彼の母親は、それが当然の報いだと言い、二度とジョニーが自分の目の前にあらわれないようにと神に祈った。シルバースティンは、まもなく傷がなおったが、もとのようにはならなかった。石で殴られたとき、脳に障害をうけて、すこしばかになったという噂《うわさ》だった。それに反して、ジョー・ゲルハルトは、ふたたび頭角をあらわすようになった。彼はシルバースティン少年を病床に訪ねて、心から詫《わ》びたということであるが、これも、いまだかつて例のないことだった。あまりに珍しく、奇特なことだったので、ジョー・ゲルハルトは、まるで武者修行中の騎士でも見るような目で見られた。ジョニーのやりかたには、だれも感心しなかったが、あのとき、シルバースティン少年に会いに行って詫びるということを考えたものは、一人もいなかった。それは、まことに奥ゆかしい、情愛に満ちた行為であった。だから、ジョー・ゲルハルトは、真の紳士――このかいわいで最初の、しかもただ一人の紳士――と見なされるようになった。紳士という、いまだかつて使ったことのない言葉を、私たちは、こぞって口にするようになった。紳士であることは名誉であると考えられた。敗北者であるジョー・ゲルハルトが突如として紳士になったというこの変貌《へんぼう》は、私に大きな感銘をあたえた。
数年後に別の街へ引越して、クロード・ド・ロレーヌというフランス人の少年を知るようになったときには、すでに私は『紳士』なるものを理解し、受け入れる用意ができていた。クロードは、それまでは全然私の注目をひかないようなタイプの少年だった。近所の子供たちから、女みたいな子だと思われていた。それは彼が、あまりにも上品で、正確で、ていねいな言葉づかいをするためであり、また、あまりにも思いやり深く、おとなしく、とくに女にやさしかったためである。さらに、彼と遊んでいるとき、母か父がそばへやってくると、とつぜん彼はフランス語で話しかけるのであったが、これが私たちにショックに近い驚きをあたえたのである。ドイツ語は、私たちも、たびたび聞いていたから、大目に見ることもできたが、それが、こともあろうにフランス語とは! フランス語を話すことはもちろん、それを理解できるということですら、はなはだ異国的な、そして、きわめて貴族的な、腐敗堕落した、特殊な人間であることを意味していた。しかし、クロードは、あらゆる点で私たちと同類だった――むしろ、私たちよりも多少ましな少年であることを、私たちは、ひそかに認めていた。だが、彼には大きな欠点があったのだ――フランス語を話すという欠点が! これは私たちを煩悶《はんもん》させた。彼は私たちの隣人として生活する権利をもたないはずだった。フランス語を話すような奴が、彼のように有能で、男らしいのは、まったく理屈に合わないことだった。いっしょに遊んでいても、おふくろが彼を呼ぶと、私たちは、すぐに彼にさようならを言い、ひたいを集めてロレーヌ家のことをあれこれと論じあった。フランス人なら、私たちとちがった風習をもっているにちがいないので、たとえば、どんなものを食べているのかというようなことも、疑問の一つになった。また、だれもクロード・ド・ロレーヌの家へ足を踏み入れたことがないという事実も、さまざまな疑惑を生んだ。なぜ招待しないのか。あの家族は、なにをかくしているのだろう。しかし、通りですれちがうとき、彼らは、いつも愛想がよく、にこにこしていたし、かならず英語で話しかけてきた。それも、非常に流暢《りゅうちょう》な英語だった。彼らに話しかけられると、なんとなく恥ずかしかった――彼らが高級すぎるように思われたのである。もう一つ、なっとくのいかないことがあった。他の少年たちの場合、率直な質問は、率直な返答を生んだが、クロード・ド・ロレーヌの場合は、決して率直な返事が得られなかった。彼は質問に答える前に、いつも非常に魅力的な微笑をうかべ、落ちつきはらって、私たちの理解できぬような洒落《しゃれ》や諷刺《ふうし》をまじえて答えるのであった。クロード・ド・ロレーヌは、私たちにとっては悩みの種であった。だから、ほどなく彼が遠方へ引越して行ったときには、みんながほっと胸をなでおろした。私自身についていえば、この少年の奇怪な、上品な行動について考えるようになったのは、それから十年ないし十五年後のことであった。そして、そのときはじめて、私は、たいへんな失敗をやらかしたことに気づいた。あるとき、クロード・ド・ロレーヌが、あきらかに私と親交を結ぼうとしてやってきたことがあった。私は、その彼を、すげなくあしらってしまったのである。その出来事を思いうかべたとき、もしかしたらクロードは、私のなかに、なにか特異なものを見つけ、敬意をもって私に友好の手をさしのべたのではなかったろうかという考えが、とつぜん私の心にひらめいた。しかし、当時の私は、仲間に対する体面上、どうしても大勢におもねらないわけにはいかなかったのである。もし私がクロードの親友になったら、ほかの少年たちを裏切ることになっただろう。彼との交友の行手に、どんな利益があろうと、所詮《しょせん》それは私には無縁のことだった。私は近所の仲間の一員であり、クロード・ド・ロレーヌのような少年から遠ざかっていることが、私の義務だった。実をいえば、私は、この出来事を、さらに長い期間をおいてから、もう一度とつぜん思いだした――それは、私が数カ月間フランスに滞在して、『理性的《レーゾナブル》』という言葉のまったく新しい意味を知った後のことである。クロード・ド・ロレーヌは彼の家の前の通りで私に交際を申し出たとき、その言葉を使ったのだった。たぶん理性的になれと私に教えたのではなかったかと思う。その言葉は、当時は私の語彙《ごい》に入れる必要がなかったし、それを口にするようになろうとは思ってもみなかった。それは、紳士という言葉と同様に、めったに使うべきではなく、使うときには非常な慎重さを要する言葉であった。うかつに使えば相手に笑われる恐れのある言葉であった。
そんな言葉は、ほかにも、たくさんあった――たとえば、『|いかにも《リアリー》』という言葉がそれである。私の知っているものは、だれもこの言葉を使わなかった――はじめて聞いたのは、ジャック・ローソンが近所へ引越してきてからである。彼の両親はイギリス人だったので、彼は、よくこの言葉を使った。私たちは、よく彼をからかったものだが、その点は大目に見てやっていた。『いかにも』という言葉で、すぐに思い出されるのは、私の古い住《すま》いの近所にいたカール・ラグナーのことである。カール・ラグナーは、フィルモア・プレイスというやや上品な街に住んでいる政治家の一人息子だった。その街はずれにある小さな赤煉瓦《あかれんが》の彼の家は、いつもきれいに手入れされていた。学校の往《ゆ》き帰りに、私はその家の前を通り、玄関のドアの真鍮《しんちゅう》の把手《とって》が、いつも美しく磨《みが》きあげられているのに目をひかれることが多かったためか、いまでも、その家のことが記憶に残っている。その当時、玄関のドアに真鍮の把手をつけている家は、他になかったのだ。ともあれ、カール・ラグナーは、近所の子供たちと仲間になることを許されない少年の一人だった。事実、彼は、めったに姿を見せなかった。彼が父親といっしょに歩いているのを見かけるのは、たいがい土曜日だった。もしカールの父親が、えらい人物でなかったら、彼は石を投げつけられて殺されていただろう。じっさい、日曜日の盛装を着こんだ彼の姿を見ると、へどが出そうだった。長ズボンにエナメル靴をはいているばかりでなく、ステッキをふり、山高帽を、これ見よがしにかぶっていた。六歳の子供が、そんな服装をして得意になっているからには、おそらくあいつは低能にちがいない――という意見に私たちは一致した。病気なのだというものもいた――あたかもそれが気ちがいじみた服装の証明ででもあるかのような口ぶりで。奇妙なことに、私は彼が話をするのを一度も聞いたことがなかった。彼は非常に高貴で、洗練されているために、公衆の前で話をするのは礼儀作法に反するとでも考えているのではあるまいかとさえ思われた。いずれにしろ、私は彼が父親といっしょに通るのを見るために、日曜日の朝、彼を待ち伏せるようになった。消防車を洗っている消防夫たちの動きを見まもるときのような、はげしい好奇心にかられて、私は彼を見まもっていた。彼は家へ帰るとき、ときどきアイスクリームの小箱をもっていた。食後のデザートに、ちょうど彼の分だけ間にあうといった程度の小さな箱だった。デザートという言葉は、ふとしたことから私たちのあいだで親しまれていた言葉で、主としてカール・ラグナーや彼の家族のような人たちをけなしていうときに使われた。そんな人たちが、デザートに、なにを食べるかという問題について、私たちは、何時間も語りあうことができた。そんな話をしながら、新しく発見されたデザートという言葉をもてあそび、それによってラグナー家の台所をのぞいてみるようなたのしみを味わったのである。
サントズ・デュモン(ブラジルの探検飛行士)が有名になったのも、そのころだったにちがいない。サントズ・デュモンというその名前から、私たちは、なんとなく異様な感じを受けた。彼の探検などは、たいして興味がなく、ただその名前に関心をもったのである。それは、砂糖や、キューバの農園や、隅《すみ》っこに星が一つあるキューバの国旗などを思わせた。フランス製の刻みタバコについている小さなカード――各国の国旗のほかに、有名な女優やボクサーなどの写真が、そこには印刷されていた――あのカードの蒐集家《しゅうしゅうか》たちに高く評価されていた国旗である。したがって、サントズ・デュモンは、中国人の洗濯屋とか、クロード・ド・ロレーヌの気位の高い家族のような、通常の外国の人物や事物とは正反対の、なにか愉快な異国風なものを意味していた。美しい花のような口ひげ、ソンブレロとよばれる例の縁《ふち》のひろいメキシコ帽子、拍車、その他、爽快《そうかい》でユーモラスで空想的なものを想像させる魔法の言葉であった。それは、ときにはコーヒー豆や藁《わら》ゴザの香りをただよわせ、あるいは途方もない空想をよんで、ホッテントット人の生活に関する論議へと私たちを脱線させることもあった。なぜなら、私たちの仲間には、そろそろ本を読みはじめている比較的年の多い少年もいて、彼らは『アイシャ』とか『二つの旗の下に』というような本から拾いあげてきた空想的な物語を、私たちに、くわしく話してくれたからである。私のさまざまな知識には、私が十歳のころ引越した家の近所の街角にあった空地が、心のなかでとけこんで、味を添えている。秋になると、私たちは、そこで焚火《たきび》をかこみ、めいめい小さな罐《かん》に入れてもってきたジャガイモを焼きながら、夜のふけるのを忘れて語りあった。いつも固くるしい話が多かった昔の仲間とはちがって、そこでは新しい型の議論がとりかわされた。だれかが冒険小説か科学の本を読むと、それまで知らなかったことがらが、すぐさま紹介され、街ぜんたいが活気づくのであった。私が日本海流というものがあることを知ったのも、そうした少年の一人が発見して、私たちにくわしく説明してくれたからである。こんなふうにして、私たちは、さまざまなことを学んだ――ジャガイモを焼きながら、塀《へい》にもたれて。そうした知識の断片は深く私の心に根をおろした。後年もっと正確な知識に当面しても、昔の知識を抜き去ることがむずかしいくらい、その根は深かった。ある日、年長の少年が、エジプト人は血液の循環について知っていたということを説明してくれたことがあるが、それが、いかにももっともらしい話しぶりだったので、あとになってからも、血液の循環を最初に発見したのはハーヴェーというイギリス人だという説を、すなおに受け入れることができなかったものである。その当時の話題が、たいがい、中国、ペルー、エジプト、アフリカ、アイスランド、グリーンランドというような僻遠《へきえん》の土地に関するものであったことは、なんら不思議ではないように思う。とにかく話題は豊富だった。幽霊、神、霊魂の転生、地獄、天文学、鳥や魚、宝石の岩層、ゴム栽培園、拷問の方法、アズテク民族とインカ帝国、海洋生活、火山と地震、世界のさまざまな国の葬式や結婚式の風習、各国の言語、アメリカ・インディアンの起源、死滅しつつあるアメリカ野牛、奇病、人食い人種、魔術、月世界旅行、殺人事件や追剥《おいは》ぎ、聖書のなかの奇蹟《きせき》、陶器の製造法、その他、家庭や学校では全然とりあげられない数多くのことがら。私たちは知識に飢えていたし、世界は驚異と神秘に満ちていた。だから、それらの話から私たちは深い感銘をうけた。そしてまた、私たちが心底から語りあわずにいられなくなり、意思の交換の必要を痛感し、それによってよろこびと戦慄《せんりつ》の渦に巻きこまれることができたのは、あの空地でふるえながら立っていたときだけであった。
人生の驚異と神秘! 私たちが社会の責任ある一員となるまで、めいめいの心のなかに抑圧されている人生の驚異と神秘。私たちが社会に働きに出されるまでは、世界は非常に狭く、私たちは、その辺境に――いわば未開拓の地に――とじこめられていた。それは、たしかに小さな、ギリシア的な世界ではあったが、しかし、そこには、あらゆる種類の変化や冒険や考察を生ませるに十分なだけの深さがあった。小さいながらも、無限の可能性を保留するだけの大きさがあった。私は自分の世界の拡大によって、なんら得るところがなかったばかりでなく、逆に多くのものをうしなった。私は、もう一度子供になりたい。反対の方向へ――子供時代に――帰りたい。通常の成長の方向に背を向けて、幼児の国へもどりたいと思う――そこは、気ちがいじみた、混沌《こんとん》とした国にちがいないが、いまの私の周囲の世界のようには気ちがいじみていないはずだ。私は、おとなになり、父親になり、責任ある社会人となった。私は毎日のパンをかせいだ。私は自分のものでない世界に順応してきた。私は、この拡大された世界から脱出して、この陰鬱《いんうつ》な片務的な世界を闇《やみ》のなかへほうむり去ってくれるにちがいない未知の世界へと、ふたたび足を踏み入れたい。私は父親としての責任を回避して、強制されない、籠絡《ろうらく》されることも、買収されることも、中傷されることもない無政府主義的な無責任な状態にかえりたいと思う。私は、漆黒の翼をひろげて過去の美と恐怖とを追いはらってくれるという夜の覆面騎士オベロン(中世伝説。妖精の王、チタニアの夫。シェイクスピアの『真夏の夜の夢』のなかに出てくる)を私の先導者としてつれて行きたい――後悔や良心の呵責《かしゃく》を感じる余地のないほど迅速に、冷酷に、恒久的な黎明《れいめい》に向って、まっしぐらに飛んで行くために。私は地球に災悪をもたらす発明に長《た》けた人間の先《せん》を越して、どんなに強い翼でもその上を横断させることは不可能な深淵《しんえん》の前に、もう一度立ちたい。たとえ私が、怠惰な夢想家どもしか住まない荒涼たる自然の公園になろうとも、責任あるおとなの生活の愚かな秩序のなかにとどまることは許されない。私は自分に約束された生活との比較を絶したある生活を記念するために――屈従した人間たちの相互の承諾によって絞め殺されたある子供の記念のために、そうしなければならないのだ。私は、何代にもわたって先祖たちが創造したものをすべて否定する。私は、古代ギリシアの世界よりも小さな世界へかえりたいと思う。つねに腕をのばせばとどく世界へ、いつでも、この目で見て、認識できる世界へ、かえるのだ。他のいかなる世界も、私にとっては無意味であり、相容《あいい》れない敵である。私は子供のころ知っていた最初の輝かしい世界を、もう一度通りながら、そこで休息しようとは思わない。もっと輝かしい世界へ、私が忘れてしまっているにちがいない世界へ、しゃにむにかえるつもりだ。それが、どんな世界か、私は知らない。はたしてそれを発見できるかどうかもわからないが、しかし、それが私の世界であり、他のなにものも私の目をあざむくことはできないのだ。
その輝かしい新世界を最初に瞥見《べっけん》したのは、いや、はじめてそれに気づいたのは、ロイ・ハミルトンに会ったときである。当時私は二十一歳になっていた。その年は、おそらく私の生涯の最悪の年であったろう。私は絶望のあまり家を出る決心をした。カリフォルニアで新しい生活をはじめる計画をし、カリフォルニアのことだけを考え、人に語っていた。この新たに約束された土地への夢が、あまりにも大きかったために、あとでカリフォルニアから帰ってきたときも、自分の目で見たカリフォルニアのことは、ほとんどおぼえていず、ただ夢で知っていたカリフォルニアのことだけを考え、人に語っていた。私がハミルトンに会ったのは、家出をする直前であった。彼は私の旧友マグレガーの父ちがいの兄弟だといわれていたが、真偽のほどはわからない。二人は、ごく最近知り合ったばかりだった。生涯の大半をカリフォルニアですごしてきたロイは、そのとき以来、自分のほんとうの父親はハミルトン氏であって、マグレガー氏ではないらしいと思うようになった。じつは、彼が東部へきたのは、自分の血統をめぐる謎《なぞ》を解くためであったのだ。ところが、マグレガー家の人たちといっしょに住んでみても、その謎は、いっこうに解明されなかった。むしろ自分の本当の父親であるはずの人間と会ったことが、ますます彼を困惑させる結果になってしまった。彼が、あとで私にうち明けたところによれば、彼自身が考えている彼という人間と似ている点を、ハミルトン氏からもマグレガー氏からも、すこしも発見できなかったために、よけい迷ってしまったものらしい。つまり、彼自身の性格の形成に大きな影響をあたえた人物として、どちらを父親と判定すべきかという厄介な問題に逢着《ほうちゃく》したわけである。私がこんな話をするのは、はじめて彼に紹介された瞬間から、この男は私のまったく知らないタイプの人間だということを直観したからである。もちろん、前もってマグレガーから彼についての説明は聞いていて、このかなり『奇妙な』人物に会う心がまえはできていた。マグレガーは、多少ふざけた意味で『奇妙な』と言ったのだが、会ってみると、たしかに彼は文字どおり奇妙な男だった。しかし、非常に理知的であることが、ひどく私を感動させた。私は生れてはじめて、言葉の意味の背後にあるもの、本質そのものをとらえることのできる人間と語ることができた。なにか、哲学者と語りあっているような気持がした。哲学者といっても、それは書物を通して知っているような哲学者ではなく、たえず哲学的に思索し、それによって得た自分の哲学を生きている人間のことだ。つまり、彼は事物の本質に到達するための理論以外には、なんの理論をももたなかったのである。そして、そんなふうにして自己の人生を生きるための新鮮な啓示の光に照らせば、彼の見いだした真理と、その真理を行動にうつした例証とのあいだには、いささかの食いちがいもあろうはずがなかった。したがって、当然彼の行動は周囲の人の目には奇妙にうつった。だが、彼も言っていたように、彼自身の世界のなかにいる彼を知っている人間にとっては、決して奇妙ではなかった。そこでは、彼は最高の存在であり、すべてのものが深い敬意と畏怖《いふ》の念をさえ抱《いだ》きながら、彼の言葉に耳をかたむけるのであった。
はじめて彼と知り合ったとき、彼は私が何年も後になってはじめて正確にその真意をつかむことのできたある問題の解明に苦悶《くもん》している最中だった。当時私は、彼が自分のほんとうの父親を見つけることを、なぜそれほど重要視しているのか、よくわからなかった。私自身、父親としての役割などは、とるに足らないものだと思っていたし、母親にしても同様にしか考えられなかったので、いつも私は、そうした問題については、ふざけた話しかしなかった。私はロイ・ハミルトンのなかに、すでに超越してまったく必要のなくなった厳密な生物学的連関を、なおも確立しようとしている人間の、皮肉な煩悶を見た。真実の父親をめぐるこの闘争は、逆説的にいえば彼を至高の父親にした。彼は教師であり、手本であった。彼が口をひらくと、私はそれまでその言葉から連想したいかなるものともまったく異なる知恵に耳をかたむけていることに気づかないわけにはいかなかった。彼を神秘主義者だときめつけるのは容易だった。なぜなら彼は疑いもなく神秘主義者だったからである。しかし、足で地面を踏まえて立っていることを知っている神秘主義者と出あったのは、彼がはじめてだった。彼は実用品を発明することを知っている神秘主義者であった。その発明のなかには石油業にとって欠くことのできない必需品となったドリルがあり、のちに彼はそれによって財をなした。だが、彼の奇妙な形而上学《けいじじょうがく》的な論法のために、当時は、だれもその貴重な発明に注意をはらおうとはしなかった。彼のさまざまな気ちがいじみた思いつきの一つとしか考えられていなかったのである。
彼は、しょっちゅう自分自身のことや、彼と周囲の世界との関係について語った。そんなことが、悪質なエゴイストという不幸な印象を生んだ。彼は父親であるマグレガー氏自身のことよりも、マグレガー氏が父親であるという事実のほうに関心をもっていたのではないかとさえ言われたが、たしかにその通りであった。彼は新しく発見された父親に対しては、なんらの愛情ももっていず、ただ、その事実を発見したことに個人的な満足感をいだいたにすぎなかった――持前の自己中心的な考えかたから、その事実の探究につとめただけなのだ。現実のマグレガー氏は、うしなわれた父親の象徴としてのマグレガー氏よりも、はるかに劣っていたわけだろうから、それもやむをえなかったことかもしれない。しかし、マグレガー家の人々は、そんな象徴については、なにも知らなかったし、また、たとえそれを説明されても、理解しようとはしなかったにちがいない。逆に彼らは、長いあいだうしなわれていた息子をあたたかく迎えようと努力し、同時に『長いあいだうしなっていた』息子としてではなく、単に息子としてあしらえるような、理解できるレベルにまで彼をひきずりおろそうとしたのであった。しかし、彼らの息子は、単なる息子ではなく、すでに明確に超越したものを自分の血とし肉としようとして貪婪《どんらん》な努力を重ねている一種の霊的な父、キリストのようなものであったことは、どんな愚か者の目にも明らかであった。
したがって、私がひそかに讃嘆の目をもって見ていたこの奇妙な人物が、私を信頼し、胸襟《きょうきん》をひらいていろいろと話してくれたことに、私は驚き、かつよろこんだ。どちらかといえば、私は、ひどく学究的で、知性的で、悪い意味で世才に長《た》けていた。しかし私は、すぐにそんな性格をかなぐり捨てて、彼の深遠な自然の直観がつくり出すあたたかい直接的な光にひたることにつとめた。彼の前にいると、私は、まるで裸にされたような、いや、むしろ皮をむかれるような気がした。彼は話しかける相手に、裸になること以上のものを要求したからである。彼は私と話をするときには、私がただ漠然《ばくぜん》とその存在を意識していたもう一人の私に――たとえば、読書していながら夢を見ていたことに気づくとき、ふと姿をあらわすあの私に――話しかけているようであった。私を恍惚《こうこつ》とさせるほど力のある本は、それほど多くなかった。知らぬあいだに深遠な理解に達するような、ずばぬけた明晰《めいせき》さによって私を恍惚とさせる本は、ほとんどなかったが、ロイ・ハミルトンの会話は、まさにそのような力を備えていた。それは、かつて経験したことがないほど私を緊張させた。私の夢を破ることなく、ただ異様に緊張させた。言葉をかえていえば、彼は自我の核心に話しかけたのである。裸の個性、総合的な個体に向って話しかけ、そして、自分自身の正しい運命を切り開かせるために私を孤独に追いやったのである。
私たちの話は、秘密な言葉のやりとりのようなもので、ほかの連中は、そのあいだに眠ってしまうか幽霊のように消えてしまった。それはまた私の友人マグレガーを当惑させ憤慨させた。彼は、だれよりも親しく私を知っていたが、私が彼の前にあらわすようになった性格に合致するようなものを、彼は私のなかから一度も発見したことがなかったのだ。彼はロイ・ハミルトンを悪友だと言った。私と彼の腹ちがいの兄弟との予期せざる邂逅《かいこう》が、私たちを離間させるのに、なによりも大きな力となったのだから、たしかにその通りであったろう。ハミルトンは私の目をひらかせ、私に新しい価値を教えてくれた。後年私は、彼が私に授けてくれた想像力をうしなってしまったが、私は二度と世界を、あるいは私の友人たちを、彼が出現する前のような目で見ることができなくなった。ハミルトンは、非常に稀有《けう》な本や珍しい人物、あるいは体験が人間を変えるように、根底から私を変えてしまったのである。私は生涯はじめて真実の友情を体験し、しかも、その体験にとらわれず、執着せずに生きうることを知ったのであった。私は彼と別れて以来、彼と会う必要を、まったく感じなかった。彼は完全に自分をさらけ出し、私は、とらわれることなく彼を占有することができた。それは友情の最も清純で完全な体験であった。世のいかなる友人によっても、それは二度とくりかえされなかった。ハミルトンは、友人であるというよりも、むしろ友情そのものであった。彼は完全無欠な象徴的人間となり、したがって私は、もはや彼を必要としなくなった。彼自身それを十分に理解していた。おそらく彼を自我の探究の道へ追いやったものは、父親をもっていないという事実であったかもしれないが、その最終の過程は、世界の確認と、血縁のきずなの愚かしさの認識につながっていたのだ。そのとき、深い自我の認識のなかにあった彼は、もはや何者をも必要としなかった。とりわけ彼がむなしくマグレガー氏のなかに求めていたような肉親などは必要でなくなっていた。彼が東部へきて実父を探《さが》し出そうとした試みは、彼にとっては最後の実験の意味をもっていたにちがいない。なぜなら、彼がマグレガー氏やハミルトン氏と袂別《べいべつ》したとき、彼は、まるでさっぱりと垢《あか》を洗い落したような表情を見せていたからである。私はそのときの彼ほど孤独な、生気に満ちた、未来に対する確信にあふれた人間を見たことがない。彼がマグレガー家の人たちに別れを告げたとき、彼らにあたえた当惑と誤解は、かつて私が経験したことがないほどはげしいものだった。それはあたかも、彼が彼らの目の前で死に、生きかえり、まったく新たな見知らぬ人間として彼らのもとを去って行ったかのようであった。呆然《ぼうぜん》と家の通路に立ちつくし、呆《ほお》けたように手をふりながら、いまだかつて一度も自分たちのものにしたことがないものを奪い去られたという以外に、なんの理由もなく泣きじゃくっている彼らの姿が、いま、まざまざと私の目にうかぶ。それは、こんなふうに考えられないだろうか。彼らは当惑させられ、放心状態になりながらも、なにか自分たちの力の及ばない、想像を絶したある偉大な機会に逢着《ほうちゃく》していたことを、おぼろげに、ごく漠然と気づいていたのだ。あの呆けたような、力のぬけた手のふりかたが、明らかにそれを物語っていた。見るに耐えられないほど痛ましい身ぶりであった。それは、真理に直面したときの世間一般の人々の狼狽《ろうばい》ぶりをあらわしているように思えた。またそれは精神的な裏づけのない血縁や愛の愚かしさを痛感させた。
私は目を転じて、ふたたびカリフォルニアにいた当時の私自身を見る。私は、ひとりぼっちで、チュラー・ヴィスタ市のオレンジの林のなかで、奴隷のように働いていた。私は、はたして自己をとりもどすことができるのだろうか。いや、できそうもない。私は憐《あわ》れむべき落伍者《らくごしゃ》なのだ。なにもかもうしなってしまったような気がした。はっきり言って、私はもはや人間ではなかった。動物に近かった。荷車を挽《ひ》く二匹のロバのうしろについて終日歩きつづけている私。私には、もはや、なんの思想も夢も欲求もなかった。体《からだ》はすこぶる健康なのだが、頭はからっぽであった。人間の屑《くず》みたいなものだ。生気|溌剌《はつらつ》として健康的でありすぎるために、カリフォルニアの果樹林にぶらさがっているあの甘美な人工的な果物に似てきたらしい。もうすこし太陽の光にあてられたら腐ってしまうかもしれない。熟する前に腐ってしまうのだ。
この輝かしいカリフォルニアの太陽の光のなかで腐りかけているのは、ほんとうに私なのであろうか。この瞬間まで私のものであったすべては妄想《もうそう》なのであろうか。私には、なにも残っていないのであろうか。もうすこし考えてみよう……。そうだ、アリゾナのことがあった。私がはじめてアリゾナの土を踏んだときは、すでに日が暮れていたことをおぼえている。夕闇《ゆうやみ》のなかに消えつつある台地がおぼろに見える程度の光しか残っていなかった。名前は忘れたが、ある小さな町の目抜き通りを、私は歩いていた。こんな町で、こんな通りで、いったい私は、なにをしているのだろう。そうだ、私はアリゾナを愛しているのだ。心のアリゾナを、二つの目で、むなしく探し歩いていたのだ。汽車のなかでは、私がニューヨークから持ってきたアリゾナが、まだ胸のなかにあった――州境を越えたときも、まだそこにあった。ある峡谷にかかっていた橋を見て、びっくりして夢想からさめたことをおぼえている。いままで一度も見たことのないような橋――何千年も昔に、地球の大変動によって、とつぜん自然にできあがったような橋だった。インディアンのような格好をした男が一人、その橋を渡っているのが見えた。彼は、馬にまたがり、あぶみの横に長い旅嚢《りょのう》をさげていた。澄みきった大気のなかで落陽に映《は》えたその千古の橋は、想像しうるかぎり最も新しい、最も若い橋のように見えた。しかも、その非常に堅固な橋の上を、ありがたいことに、一人の男と馬しか通っていなかった。それがアリゾナだったのだ。アリゾナは想像の産物ではなく、想像そのものが馬と騎手の形をとってあらわれたのだ。いや、それは想像以上のものでさえあった。なぜなら、それは夢と夢想者自身が馬の背にまたがっているという歴然たる事実以外のなにものでもなかったからである。やがて汽車が駅に入った。汽車を降りた私は、夢のなかに最初の深い足跡をしるした。しかし、私が訪れたそのアリゾナの町は、列車時刻表にのっている町であり、金のあるものならだれでも訪れることのできる地理上のアリゾナにすぎなかった。私は旅行カバンをさげて目抜き通りを歩き、ハンバーグ・サンドイッチや不動産屋の店舗を見た。幻滅のあまり泣きだした。日はとっぷりと暮れ、そのさきから砂漠《さばく》がはじまる、とある町はずれに立って、私は、ばかみたいに泣きじゃくった。こんなふうに泣いているのは、どちらの私だろう。むろんそれはブルックリンで芽ばえたばかりの新しい私である。しかも、その私は、いま広大な砂漠のまんなかで枯死しようとしているのだ。ああ、ロイ・ハミルトンよ、おれはきみに会いたい。ほんのちょっとでもいいから会いたい。おれは、このまま倒れてしまいそうだ。きみと会いたいのは、おれが自分でやってしまったことを、どう処理していいかわからないからだ。きみはおれに、そんな旅行をする必要はないが、どうしても行きたいというのなら、やむをえないだろう、と言ったっけ。きみは、なぜおれをもっと説得して思いとどまらせてはくれなかったのだ? いや、人を説得するなんて、彼の性に合わないし――それに、私の性分としても、人からの忠告を聞き入れるはずはなかった。こうして私は砂漠のなかで途方にくれていた。現実の橋は私の背後に去り、私は非現実的なものを前にして当惑し、混迷し、このまま地中に沈んで姿を消したいと思った。
私はまたすばやく目を転じて、家族の胸のなかで静かに滅び去ろうとしているもう一人の男――私の父を――見る。もし私が、はるかに遠い過去をふりかえり、モジャー、コンセリー、フンボルトといったような街のことを――とくにフンボルト街のことを――考えるならば、彼の身にどんなことが起ったのかが、よくわかるにちがいない。これらの街は、私たちの街からそう遠く離れてはいなかったが、しかし、私たちの街とはがらりとちがって、もっと華《はな》やかで神秘的だった。私は子供のころ一度だけフンボルト街へ行ったことがある。そこまで遠出した理由は、よくおぼえていないが、おそらくドイツ人の病院に入院していた親戚のものを見舞いに行ったのだろう。しかし、街そのものは、なぜか知らぬが、非常に消えがたい印象を私にあたえた。私が見たうちでは最も神秘的な、最も希望に満ちた街として、記憶に残っている。それは、出かける前に、おとなしく母について行くごほうびとして、母が私に、なにか特別なものを約束してくれたせいかもしれない。もっとも私は、いつも、いろいろなことを約束してもらったが、その多くは全然実現されなかった。したがって、フンボルト街に着いたときには、その新しい世界に驚嘆するあまり、私に約束されたものなど完全に忘れ去り、街そのものがごほうびになってしまったのだとも考えられる。街は非常に広く、両側の家の前には、それまで見たこともないような高い石段があった。そして、それらのふしぎな家々のうち、階下が洋裁店になっている家のショーウィンドーには、首に巻尺をかけたマネキンの胸像があり、私は、その光景に、ひどく心を動かされたことをおぼえている。地上は雪でおおわれていたが、太陽の光は強く、氷のなかにめりこんだ灰樽《はいだる》の底のまわりの雪がとけて小さな水溜《みずたま》りをつくっていた光景も、ありありと目にうかぶ。街《まち》ぜんたいが強烈な冬の陽光のなかで融《と》けているようであった。高い石段の手すりの上に白い美しい綿のように積みかさなった雪が、次第に融けはじめ、形がくずれて、当時流行していた褐色《かっしょく》の積石の粗面を、ところどころあらわに見せていた。正面の窓の片隅《かたすみ》につつましく書かれている医者や歯医者の看板の文字が、真昼の光のなかにまぶしく輝き、それらの医院は、私の知っている拷問部屋とはちがうような感じを受けた。そして、このかいわいの人は、とくにこの街の人たちは、ほかの土地の人よりもずっと親切で、心が広く、むろんはるかに裕福にちがいないと、子供心に想像した。生れてはじめて恐怖から隔絶されているらしい街を見て、私自身の心がふくらむのを感じた。後年ドストエフスキーを読みはじめたころ、私は、その広い、豪奢《ごうしゃ》な、輝かしい、あたたかな街から、セント・ペテルスブルグの雪どけの情景を連想したものだが――まったくそんな感じの街であった。付近の教会の建築様式すら、よそとはかなりちがっていて、どこか東洋風なところがあり、壮大で、しかも、あたたかみがあって、私を畏怖《いふ》させ、同時に魅了した。広い通りの両側の家々は、歩道からかなり奥まったところに、静かな、気品のあるたたずまいを見せてならんでおり、雑多な店や工場や獣医の厩《うまや》など、ごみごみした夾雑物《きょうざつぶつ》によって汚《よご》されてはいなかった。私は、住宅以外になにもない街を見て驚嘆の目をみはった。これらすべてのことを、いまも私はおぼえているし、それが私に大きな影響をあたえたことは疑いないが、しかし、それらはいずれも、フンボルト街という名前を聞くたびに、いまもなお私の胸にひびく奇妙な力と魅惑とには、さほど関連がないようである。数年後のある晩、私は、ふたたびその街を見に行き、最初のときよりも、もっと強い感動をおぼえた。もちろん街の様相は変っていた。しかし、夜は昼間ほど冷酷ではないものだ。私は、街の宏壮《こうそう》なこと、それからその豪華さに、ふたたび心が異様にときめくのを感じた。豪華さは、やや衰えてはいたが、それでも、かつて褐色の石の手すりが雪どけのあいだからわがもの顔に姿を見せていたように、断片的に、その余香をとどめていた。しかし、私をおそった最も強い感情は、ある発見に直面したことによってかきたてられた絶頂感に近い興奮であった。そのとき、とつぜん私の心には母の面影がうかび、母の毛皮のコートの大きなふさふさした袖《そで》の感触がよみがえった。数年前、私を引きずるようにして街を歩いたときの、母のあの無情なあわただしさや、私が目にうつるすべての目新しい珍奇なものに心を奪われて、なかなか歩こうとはしなかったことなどが思いだされた。それから私は、子供時代に親しかった一人の人物を、なんとはなしに思いだした。それはキッキング夫人という奇妙な名前で呼ばれていた女中である。病床の彼女のことは思いだせないが、重態におちいった彼女を見舞いに病院へ行ったことや、その病院がフンボルト街の近くにあったこと、街は死にかけていず、冬の真昼の雪解けのなかに、生気に満ちた姿を見せていたことなどは、かすかにおぼえている。いったいあのとき母は私に何を約束したのだろう。母は、なんでもかまわず手あたり次第に約束できる人間であったが、その日は、たぶん発作的な放心状態にあったために、信じやすい子供心にもなっとくしかねるような、なにか途方もないことを約束したのにちがいない。だが、たとえ母が、お月さまをくれると約束したとしても――むろん、そんなばかげた約束をするわけはないが、しかし――きっと私は、母の約束を、すこしでも信頼しようと努力したにちがいない。私は自分に約束されたものは、どんなものでも、無性にほしかった。そして、思い直してみて、それが明らかに不可能であることに気づいても、なんとかしてそれを実現させる方法を探《さが》し出そうと躍起となって心をくだいた。全然履行する意志がないのに約束できる人間がいるということは、私には想像できなかったのである。私は最もむざんに裏切られたときですら、なおかつ信じようとした。途中で、なにか途方もない、相手の人の力を越えたことが起って、やむなく約束が反故《ほご》になってしまったのにちがいない、と信じた。
この信頼の問題、あるいは全然履行されなかった古い約束事は、それが最も必要なときに世を去ってしまった私の父のことを思いださせる。父が病気になるまで、父も母も、まったく宗教的関心を示さなかった。ほかの人が教会へ行くことには反対しなかったけれども、彼ら自身は、結婚していらい一度も教会へ足を向けたことがなかった。あまり熱心に教会に通う人たちのことを、すこし頭がどうかしているのではないか、と考えていたようである。「あの人は信心深いからね」という言いかたには、軽蔑か憐《あわ》れみかがこめられていた。私たち子供のために、とつぜん牧師が訪ねてきたりすると、彼らは一応敬意をはらって儀礼的に迎えはするが、その実、まるで無関係な客ででもあるような、はっきりいえば、ばかとホラ吹きの中間にあたる種族の代表ででもあるかのようなあしらいかたをした。たとえば、私たちに対しては、牧師のことを、いつも「とてもいい人だ」などというのだが、気心の知れた友だちなどがきて、噂話《うわさばなし》に花が咲きはじめると、哄笑《こうしょう》や陰険な忍び笑いをまじえながら、牧師に対して、まったくちがった意見を述べるのであった。
私の父は、あまりにも突如として禁酒した結果、病気で倒れてしまった。父は一生涯だれにも好かれる陽気な人間であった。人柄に似つかわしい布袋腹《ほていばら》、フダン草のように赤くて、まるまるとふくれた頬《ほお》、気さくで頓着《とんちゃく》のない態度。父はクルミのように壮健で、非常な高齢まで生きながらえるにちがいないと思われていた。だが、こうした温和な明るい外観も、裏を返せば、まるっきり険悪な事態に満ちていた。女とのいきさつも、のっぴきならぬところまで追いつめられていたし、借金はふえるばかりで、すでに親しい友人のなかには父を見限るものさえあった。わけても母の態度が最も彼を苦しめたようである。母は、なにごとも陰険に解釈し、しかもそれを決して胸のなかへおさめておこうとはしなかった。ときどきヒステリックに父にあたりちらし、口ぎたなくののしり、皿を投げつけ、家を出ると言っておどかした。すったもんだの末、父は、ある朝起きるとすぐ、いきなり、今日から酒を一滴も飲まない、と宣言した。だれも本気にしなかった。親戚のなかにも、禁酒を宣言したものが何人かいたが、いずれも三日ともたなかった。彼らは何度も禁酒をこころみたが、一人として成功したものはなかった。しかし私の父は別だった。その決意をつらぬく気力が、どこから、どのようにして生れたのかは、知るよしもないが、私から見れば、とうてい信じきれないことである。もし私が父の立場になったら、むしろ、やけくそに酒をあおって死のうとするだろう。しかし父は、そうはしなかった。彼がその全生涯で、なんらかの決意を示したのは、それがはじめてであった。母は非常に驚きながらも、それまでは救いようがないほど弱かった父の意志力をあなどって、愚かにも父をあざけりはじめた。しかし父は決意を変えなかった。父の飲み仲間は、つぎつぎと父から離れてゆき、まもなく父は完全に孤立してしまった。これが痛烈にこたえたらしい。数週間をへぬうちに、重い病におそわれ、医者が駆けつける騒ぎになった。しばらくして、やや元気を回復し、起きあがれるようになったが、しかし容態は依然として思わしくなかった。病因は、はっきりしなかったが、胃癌《いがん》ではないかと考えられた。いずれにしろ、あまりに唐突に禁酒をしたのがいけなかったのだと、みんなが口をそろえて言った。しかし、いまさら節酒生活へ戻ろうとしても、すでに時機を逸していた。父の胃は、すっかり衰えて、一杯のスープすら受けつけなかった。二カ月ほどで父は骸骨《がいこつ》のようになった。急に老《ふ》けた。墓から這《は》いだしたラザロ(腫物がはれただれていると聖書にある乞食)を思わせた。
ある日、母が私をそばへ呼んで、お医者さんのところへ行って父の病状をはっきり聞いてきてほしい、と涙をこぼして頼んだ。数年来、ラウク博士が私の家のかかりつけの医者になっていた。博士は典型的な昔かたぎのドイツ人で、長年の臨床生活に疲れ、腰も曲りかけていたが、それでもまだ患者とのつながりを完全に絶ち切ることができなかった。しかし、比較的に病気の軽い患者に対しては、いかにも頑迷《がんめい》なゲルマン人的なやり口で、相手をおどかして引きさがらせた。強引な理屈をならべて、相手を健康体であることにしてしまおうとした。患者が診察室へ入って行くと、彼は、そのほうは見向きもせずに、書きものや、あるいはなにかやりかけていたことをそのままつづけながら、ぞんざいな侮蔑《ぶべつ》的な態度で気まぐれな質問を浴びせた。あまりにも傲慢《ごうまん》な、しかも疑ぐり深い口のききかたをするので、奇妙な話だが、まるで患者から病気の状態を聞き出そうとするだけでなく、病気の証拠そのものまで示してくれることを期待しているかのようにさえ見えた。彼は患者に、肉体的な疾患があるばかりでなく、精神的な疾患があるように思わせた。「それは、あんたの気のせいだよ」という言葉を、彼はいつも嘲笑的な意地の悪い口ぶりで、好んで用いた。私は、そうした彼の人柄を知っていたし、心からこの医師を嫌《きら》っていたが、とにかく用意をととのえて出かけることにした――彼が証拠物件を要求した場合にそなえて、検便用の大便ばかりでなく、小便までポケットに入れて持って行ったのである。
私が子供のころは、ラウク博士は私にかなり好意を示していたが、その後私が軽い淋病《りんびょう》にかかって診《み》てもらってからというもの、その日からいっぺんに私を信用しなくなり、私が診察室のドアから首をさし入れると、とたんに、いつも不快げに顔をゆがめた。親が親なら息子も息子だというのが、彼の口ぐせだった。したがって、彼が私の要求した診断の結果を教えるかわりに、いきなり私に説教をはじめ、同時に私の父や私の生活のありかたについて批判がましいことを言いだしたときでも、私は全然とりあわなかった。彼は大きな帳面に、なにか無意味な記号を書きつけながら、しかつめらしい、にがりきった顔をそむけたまま、「きみは自然にさからっちゃいかんよ」と言った。私は静かに彼の机のところへ行き、しばらく黙って彼のそばに立っていた。それから、彼が例によって不快げに顔をあげたとき、私は、はじめて口をひらいた。「ぼくはお説教を聞きにきたんじゃありませんよ。それより、おやじがどんな病気なのか、それを教えてください」それを聞くと、彼は急に立ちあがって、おそろしくいかめしい顔を私に向け、鈍感な、野蛮なドイツ人的な口ぶりで言った。「きみのおやじは、全然なおる見こみはないな。半年もしないうちに死ぬだろう」「そうですか。それだけわかれば十分です」私はそう言ってドアのほうへ歩きかけた。すると、彼は、まるで大きな過《あやま》ちをしでかしたと感じたかのように、あわただしく追いかけてきて私の肩をつかみ、さっきの言葉を、あいまいな言葉にすり替えようとした。そして絶対に助からないという意味ではない、というようなことを言いはじめた。私は聞かぬふりをしてドアを開き、待合室にいる患者たちにきこえるように、あらんかぎりの声を出して、ののしった。「あんたみたいな藪《やぶ》医者は、くたばっちまえばいいんだ!」
私は家へ帰ると、医者の返事を多少修正して、父の病態は非常に悪いけれども、十分に養生すればなおるらしい、と言った。これは、父をかなり元気づけたようであった。彼は自分からすすんで牛乳とビスケットを食べた。それが最善の食べものであったかどうかはわからないが、とにかく、害がなかったことだけはたしかであった。こうして彼は、一年近くを半ば廃人のようにしてすごした。時がたつにつれて、次第に内面的なやすらぎを得てきた。どんな事態になろうとも心の平和をかき乱されまい、と思いさだめたようであった。そして、やや容態がよくなると、近くの共同墓地へ毎日散歩に出て、陽《ひ》なたのベンチに腰かけ、墓のまわりをとぼとぼ歩いている老人たちの姿を眺《なが》めた。墓地へ行くことは、父の気分を暗くするどころか、むしろ勇気づけたようであった。それまで明らかに直面することを避けていた終局の死という事実を、諦観《ていかん》するようになったかのようにも見えた。しばしば墓地で摘《つ》んだ草花をもって、静かな、すがすがしい笑顔《えがお》で家へ戻り、肘掛椅子《ひじかけいす》に腰をおろして、たびたび墓地で顔をあわせる病人たちの一人と言葉をかわしたその朝の会話の内容を、語って聞かせた。しばらくするうちに、父がそうした療養生活をたのしんでいることが、目に見えてわかるようになった――いや、たのしむというよりも、母の知能では推しはかることのできないある方法で、その経験から、なにか深いものを汲《く》みとっているようであった。だんだんぼけてきたみたいだと、母は、父のことをそんなふうに言った。ときには、人さし指で自分の頭を叩《たた》いて見せながら、もっと極端な言いかたをすることもあったが、頭が少々おかしい私の妹のことに気をくばってか、よその人の前では、なにも言わなかった。
そうこうするうちに、ある日、毎日欠かさず息子の墓にお詣《まい》りする、母のいわゆる『信心深い』ある老女の好意によって、父は近所の教会の牧師と知り合いになった。これは父の生涯における特筆すべき出来事であった。父は突如として開花したのである。栄養の欠乏から萎縮《いしゅく》しきっていた父の魂のスポンジが、見ちがえるほど大きくふくらみはじめた。父の内面に起ったこの異常な変化の原因となった人物そのものは、べつにどこといって変ったところのない男だった。彼は私たちの街に隣接した小さな教区に所属している地味な組合教会の牧師で、強《し》いていえば、自分の信仰を表面に出さないところが長所であったろう。父は、たちまち子供の偶像崇拝のような状態におちいり、新しく親友となったその牧師のことばかりしゃべるようになった。生涯一度も聖書やそれに関連した本を読んだことがなかった父が、食前に簡単な祈祷《きとう》をささげるのを聞くと、すくなくとも奇異な感じをうけないわけにはいかなかった。そのささやかな儀式は、やりかたもちょっと変っていた。たとえていうならば、まるで強壮剤でも飲むような調子なのだ。もし父が、私に聖書のある一節を読むことをすすめたなら、それからさらに、まじめくさった口調で、父は、こうつけ加えたにちがいない――「それは、おまえにはとてもいい薬になるぞ」たしかに父が発見したものは、いわば新薬であった。これは、たとえ病気でなくても、害にならないことだけはたしかだ、というにすぎない万病にきくと称するいかさま療法のようなものであった。父はその教会でおこなわれるあらゆる儀式や祭典に出席し、その合間には、たとえば散歩に出たときなど、牧師の家を訪ねて、しばらく彼と話しこんでいた。牧師が、いまの大統領は立派な人物だから再選すべきだといえば、父は、あらゆる人に、牧師の言葉をそっくりまねて、大統領を再選させるために投票すべきだとすすめた。牧師のいうことは、すべて正しく、妥当であって、なんぴともそれに反対することは許されなかった。これが、父に対して一つの教育手段になったことは疑いない。牧師が説教のなかでピラミッドの話をすると、父は、たちまちピラミッドに関する知識を求めはじめた。まるで、すべての人間がピラミッドについて詳しく知る義務をもっているといわんばかりの口調で、ピラミッドのことをしゃべりまくった。ピラミッドは人間の最高の栄光の一つであり、したがってピラミッドを知らないことは恥ずべき無知であり、罪悪ですらある、と牧師は言った。さいわいにして牧師は、罪悪の問題については、あまり多く語らなかった。彼は現代風な説教師であった。信徒の良心に訴えるよりも、彼らの好奇心を煽《あお》ることによって説得しようとした。彼の説教は、夜学校の課外授業に似ていたが、それがかえって父を魅惑し、感動させたようである。ときたま、教会の男の信徒たちは小さなパーティに招かれた。これは、立派な牧師というものは、信徒たちと同じ普通の人間であり、ときには、たらふく食べたりビールを飲んだりすることができるのだということを、信徒たちに実証するために催されたのであった。牧師は、その席上で、聖歌ではなく、卑俗なはやり歌さえうたって聞かせた。そのくだけた行状から、この牧師が、ときどき漁色を――もちろん適度に節制しながら――たのしんでいることは、だれにも容易に推測できた。ところで、この『節制』という言葉は、父の病める魂にとって、一つの鎮静剤になった。それは新しい黄道星座の発見にもひとしかった。父は適度の節制生活にもどることすらできないほど体《からだ》が衰えていたが、しかしそれは父の魂に慰めをもたらした。何度も禁酒の誓いを立てては破りつづけていたネッド伯父《おじ》が、ある晩ひょっこり訪《たず》ねてきたとき、父は節制の価値について一くさり伯父に説教した。たまたま伯父は禁酒しているときだったので、自分の言葉に自分で感激した父が、いきなり立ちあがって棚《たな》の上からブドウ酒の瓶《びん》をとり出したときには、みんなが愕然《がくぜん》とした。ネッド伯父が禁酒の誓いを立てているときには、だれも彼に酒をすすめようとはしなかった。絶交を言い渡される危険があったからだ。だが父は、抗しがたい、確信に満ちた態度で、それを実行したのであった。その結果、意外にもネッド伯父は小さなグラスで一杯だけブドウ酒を飲んだだけで、その晩は酒場へ寄って咽喉《のど》の渇《かわ》きをいやすことなく、まっすぐ家へ帰ってしまった。これはまったく珍しい出来事であったので、それから数日間、近所の話題をさらった。じっさいネッド伯父は、その日からやることがすこし変ってきた。翌日、彼は酒屋へ行ってシェリー酒を一本買ってくると、それを卓上瓶にあけた。そして、私の父がしたように、それを棚にあげて、一度に平らげるようなことをせず、彼の言葉をかりれば『ほんのちょっぴりずつ』飲んで、満足した。伯母《おば》は、あまりの変りように、われとわが目を信じきれず、ある日私の家へやってきて、ながながと父と語りあった。話がすすむうちに、伯母は、いつかその牧師さんを家へ招待して、ネッド伯父が彼の慈悲深い教えを受けることができるようにとりはからってもらいたい、と父に頼んだ。こうして、ネッド伯父は、まもなく信徒の一人となり、父と同じように、信仰の恩恵のもとに、すこやかに暮すようになったかに見えた。ピクニックの日までは、すべてが順調に行っていた。その日は不幸にも非常に暑かった。それに、さまざまなゲームに興奮してはしゃぎまわったせいもあって、ネッド伯父は咽喉がかわいてたまらなかったらしい。彼がビール樽《だる》のところへ駆けつける度数の頻繁《ひんぱん》さに、だれかが気づいたときには、すでに彼は、かなり酩酊《めいてい》していた。時すでにおそく、いったんその状態になると、彼は手のつけようがなかった。牧師ですら、彼をどうすることもできなかった。ネッド伯父は、こっそりピクニックからぬけ出し、三日三晩、荒れつづけた。埠頭《ふとう》で喧嘩《けんか》をして格闘したあげく、意識をうしなって倒れているのを夜警に発見されたが、もしそんなことにならなかったら、もっと長いあいだ荒れつづけていたにちがいない。脳震盪《のうしんとう》ということで病院に運ばれたが、ついに意識を回復しなかった。葬式から帰ると、父は、かわいた目で母をふりかえり、こうつぶやいた――「ネッドは節制することを知らなかったんだ。自業自得さ。奴《やつ》もいまは平和に暮せるようになったろうよ……」
それから父は、まるで自分がネッド伯父とは出来がちがうことを牧師に立証しようとするかのように、以前にも増して熱心に教会のつとめにはげむようになった。やがて父は『長老』にすいせんされた。この役職を父は非常な名誉と感じていた。実際、その地位のおかげで、日曜日の礼拝式の最中に寄付金を集める仕事を手伝うことを許されるようになった。集金箱を手にして教会の座席の通路をぬって歩く父の姿を思いうかべ、あるいは、牧師が信徒の喜捨《きしゃ》に対して祝福をあたえているあいだ集金箱をもって祭壇の前にかしこまっている父のことを考えると、あまりにも信じがたくて、私はいうべき言葉を思いつかない。それに反して、私がまだ幼かったころ、土曜日の昼さがりに、渡船場の待合室でよく父と会ったときのことを思いだすのは好きだ。その待合室の玄関の両側に、当時は食堂が三つあって、土曜日の昼どきには、簡単な昼食を食べたり、大ジョッキを一杯ひっかけたりする客で満員だった。まだ三十代の、健康で愛想がよく、だれにでも微笑を投げ、冗談をとばしながら昼食時間をすごしている父。バーの上に片肘《かたひじ》をつき、麦藁《むぎわら》帽子をあみだにかぶり、右手でビールをあおっている父。そのころ、私の背丈《せたけ》は、父のチョッキの胸に横にかかっている重い金鎖の高さしかなかった。いまでも私は、父が真夏に着ていた黒と白の格子縞《こうしじま》の背広をおぼえている。洋服の着こなしのへたな男たちのあいだにまじってバーの前に立っていると、父の姿が、ひときわ目だった。簡易食堂で、父が大きなガラスのどんぶりからブレツル(ビスケットの一種)をいくつかつまんで私に渡し、近くのブルックリン・タイムズ社のウィンドーに出ている野球の速報板を見てきてくれと言いつけることもあった。どちらのチームが勝っているのかを見るために私が食堂から駆け出すと、自転車に乗った男女の群れが一列につらなって、明らかに彼らのために敷かれた歩道のすぐわきの細いアスファルトの上を走って行くのに、よく出会った。それからまた、渡し船がちょうどドックへ入るところで、ちょっと足をとめ、揃《そろ》いの作業服姿の男たちが鎖をつけた大きな木製の水車のそばに集まって行くのを見守るときもあった。舷門《げんもん》が開かれ、渡し板が渡されると、一団の船員が、ぞろぞろ出てきて、近くの街角に軒をならべた食堂のほうへ散って行った。これは、父が『節制』の意味を知っていた当時のことである。父は本当に咽喉がかわいたから飲んだのであり、渡船場の食堂で大ジョッキのビールを一杯飲むことは男の特権でもあった。それは、いみじくもメルヴィル(ハーマン・メルヴィル。一八一九―九一、アメリカの小説家。『白鯨』の作者)が言ったとおりであった。「すべてのものに、それぞれにふさわしい食べものをあたえろ――もしその食べものが手に入るならば。おまえの魂の糧《かて》は光と空間だ。魂に光と空間をあたえるがいい。しかし、肉体の糧はシャンペンと牡蠣《かき》だ。だからシャンペンと牡蠣を食わせろ。そして、できることなら、それによろこびと再生の機会をあたえてやることだ」まさに、そうだ。当時は、私の父の魂は、まだ萎《な》えていず、無限の光と空間に満ちていたし、その肉体は、再生などに頓着する必要がないほど、手に入るかぎりのあらゆる食べものを食わされていた――たとえシャンペンと牡蠣はなくとも、すくなくとも大ジョッキのビールとブレツルがあった。当時は父の肉体にも、生活のしかたにも、信仰心の欠如にも、まだケチがついていなかった。また、貪欲《どんよく》な連中にとりまかれてもいなかった。父の周囲の人間は、みな善良な仲間だった。上も下も見ず、ただまっすぐ前を向き、いつも地平線に目をすえて、その方角の景色に満足していた彼自身と同じような、凡庸な人たちだった。
いまや老いさらばえたこの父が、やっと教会の長老にのしあがり、やがてボーリング場新築の資金となるわずかな献金に牧師が祝福をあたえているあいだ、祭壇の前に背中を曲げ、半白の頭を垂れて立っているのだ。たぶん父にとっては、魂の新生を経験すること、つまりこの組合教会が提供する光と空間とをスポンジのような魂の糧として受け入れることが必要だったのだろう。だが、それにしても、かつては肉体の欲望を満たす糧を享受し、しかもスポンジのような魂を、世俗的ではあるがじつに輝かしい光と空間とにたっぷりとひたしながら、なんら良心の痛みをおぼえなかった父にとって、この光と空間とは、なんとお粗末な代用品であったことか。私は、ふたたび、あの太い金鎖の下にある、見る影もなくへこんでしまった腹のことを思いだす。あの便便たる太鼓腹の消失とともに父の肉体は死滅し、いわばその付属品ともいうべき魂のスポンジだけが生き残ったのだ。思うに、この父を呑《の》みこんだ牧師は、スポンジを常食としている怪物、ないしは人間の頭皮を天幕にぶらさげているインディアンのように、精神の頭皮を集めて軒下にぶらさげている人非人《にんぴにん》ではなかったか。スポンジの悲劇の結末は、なんとあっけないものだったろう。牧師は光と空間とを約束しておきながら、父の生活から脱《ぬ》け出してしまい、それと同時に、父が夢みていた壮大な楼閣は、あえなく崩壊し去ったのである。
その経過は、ごくありきたりのものだった。ある晩、父は、うかぬ顔つきで定例役員会から帰ってきた。その会で牧師は転任することを発表したのである。ニュー・ロッチェルの郡区から、もっとよい地位につくようにと誘いがかかったのだ。牧師は、教区の信徒を見捨てるのはしのびがたい思いだったが、思いきって、この誘いを受けることにした。もちろん、考えぬいたあげくの決心――つまり、あくまで牧師としての義務を果そうとの決心であった。たしかに収入は増すが、そんなことは、これから負うべき重大な責務にくらべれば問題ではなかった。ニュー・ロッチェルの人たちは自分を必要としている。自分はただ良心の呼びかけにしたがうのみだ。父は、いかにも感動的な牧師の口ぶりをそっくりまねて、それらのことを話したが、その実、気を悪くしていることは、すぐにわかった。ニュー・ロッチェルの連中が、なんでほかの牧師を見つけて呼ばないのか、父には大いに不満だったのである。父は、「高い給料で釣《つ》るなんてフェアなやりかたじゃない」とか、「わしらには、あの牧師さんが、どうしても必要なんだ」などと、咽喉《のど》をつまらせて、いかにも残念そうに言った。また、「牧師さんを説得できるものがいるとすれば、それはわしだけだから、ひとつ率直に頼みこんでみよう」とも言った。事実、その後何日も、父は根気よく説得工作にかかったが、結局は牧師に不愉快な思いをさせただけであった。毎日がっかりしたような顔つきで家へ帰ってくる父を見るのは痛ましかった。溺《おぼ》れるものは藁《わら》をもつかむとは、まさにその当時の父の姿だった。牧師は、むろん、頑《がん》として意志をまげなかった。思いつめた父が、目の前でおいおい泣いて頼んでも、一向に考えなおす気配はなかった。これが父にとっても峠だった。その後、父は急激に変って行った。日に日に無愛想で怒りっぽくなってゆくように思われた。食前の祈りを忘れる。それどころか、教会へ行くこと自体やめてしまい、以前と同じく、墓地へ行ってはベンチで陽《ひ》なたぼっこをする癖がはじまった。不機嫌《ふきげん》は憂鬱《ゆううつ》に変り、やがて、悲しみの表情が、父の顔から去らなくなった。それは幻滅と、絶望と、むなしさとにおおわれた悲しみであった。父は二度と牧師の名前を、教会のことを、そして一度は親しくなった長老たちのことを、口にしなくなった。たまたま外で長老たちに会っても、握手をしようともせず、ただ「お早よう」とか「今晩は」というだけだった。新聞だけは端から端まで、黙って丹念に読んだ。広告欄まで、いちいち丁寧に目を通した。まるで、絶えず目の前にある大きな穴をふさごうとしているようなまなざしだった。笑い声は二度と聞かれず、せいぜい、弱々しい微笑らしいものがうかぶだけであった。それも、すぐに消えて、生命をうしなった人間の悲しみを感じさせた。父は屍《しかばね》であった。復活のあらゆる望みを絶たれた完全な死者であった。たとえ胃袋を新しいものととりかえ、腸管を強靱《きょうじん》なものととりかえたところで、ふたたび父に生命をあたえることはできなかったであろう。父は、もはやシャンペンや牡蠣《かき》の誘惑のとどかぬところへ、もはや光や空間の不必要なところへ行ってしまっていたのだ。言ってみれば、自分の首を砂のなかへ突っこみ、尻《しり》の穴から奇妙な音を発するドードー鳥のようなものだった。モリス式の安楽椅子でうたた寝をしているとき、父の下顎《したあご》は、釘《くぎ》の抜けた蝶番《ちょうつがい》のように、だらしなく落ちていた。前からよくいびきをかく人だったが、そのころには、いっそう大きないびきをかくようになっていた。実際、この世におさらばをした人のようないびき――ときたまピーナツ売りの笛みたいに長くて甲高《かんだか》い音がまじるのを除けば、臨終の際の喘鳴《ぜんめい》そっくりのいびきであった。いびきをかいている父は、われわれ後をつぐもののために、一生涯|煖《だん》をとれるだけの薪《まき》を残そうとして全宇宙を斧《おの》で小さく叩《たた》き切っているかのようであった。これまで、あれほどおそろしく、あれほど魅力的ないびきを私は聞いたことがない。高く、大きく、病的で、グロテスクないびきだった。ときには、こわれかかったアコーディオンを、ときには沼地で鳴く蛙《かえる》を思わせる音だった。長い汽笛のような音のあとに、断末魔のうめきのような、ものすごい音がまじることもあったが、あとはまた規則的な起伏がつづいた。この世の気ちがいじみた骨董品の山を前に、もろ肌《はだ》ぬいで斧を持って立ちあがり、空虚な音をたてて薪を切りつづけるのであった。いささか奇妙なのは父のミイラのような顔であった。無表情ななかに厚ぼったい唇だけが生気を保っているのだ。いわば、波の立たぬ洋上で昼寝をしている鮫《さめ》のエラのような唇だった。父は大海の内ぶところに抱《いだ》かれ、夢や疾風になやまされることもなく、癇癪《かんしゃく》を起すこともなく、欲求不満に毒されることもなく、いともやすらかにいびきをかいていた。いったん目を閉じ、体《からだ》の力を抜いてしまうと、世の光は完全に消え去り、父は生れる前の孤独に立ちかえり、宇宙はみずからを寸断しはじめた。
安楽椅子に坐っている父は、鯨《くじら》の腹のなかに坐っているヨナそっくりであった。なにものをも期待せず、なにものをも欲せず、無傷のまま全身|呑《の》まれて、生きながら埋没されたもののように、虚空《こくう》の白い息を吸ったり吐いたりするたびに、厚い唇だけを、ゆっくりと震わせていた。父はノドの国々にあってカインとアベル(聖書。アダムとイヴの間に生れた長男と次男)をたずね求めていたようである。しかし、だれひとり出会うものはいなかった。言葉もきこえなかった。生きた人間のきざしさえ見られなかった。ただ鯨とともに深海にもぐって凍った黒い海底を探っているだけであった。深海動物の毛ばだった頭にみちびかれて、全速力で遊泳をつづけているだけであった。父は、煙突からむくむくと渦巻きのぼる煙、月を曇らせる厚い雲の層、深海のぬめぬめしたリノリウムの床をつくる厚い泥鉱であった。なまじ空虚な生を生きているだけに、かえって死者よりも徹底的に死んでいた。光や空間の限界を越え、真暗な空虚の洞窟《どうくつ》に安住してしまったという意味で、いっさいの復活の可能性をうしなっていた。父は同情すべき人間というよりは、うらやむべき存在であった。なぜなら、父の眠りは仮睡や一時的な休息ではなく、深海のごとき眠りそのものであったからだ。それは常に深まってやまぬ眠り、眠りのうちに、ますます深まる眠り、最も深い眠りの深みにおける眠り、眠りに眠った深みの底、甘い眠りの、最も深い、最も眠りこけた眠りであった。父は眠っていた。父は眠っている。父は眠りつづけるだろう。眠れ。眠れ。父よ、眠ってくれ。私たち目ざめたものは恐怖のなかにあがいているのだから……。
うつろないびきの最後の羽ばたきとともにこの現《うつ》し世《よ》が飛び去ってしまったかと思われたとき、ドアが開いてグローヴァー・ウォトラスが姿をあらわした。彼はエビ足を引きずりながら、「キリストの御栄《みさか》え汝《なんじ》とともにあれ!」と言った。この男も、もう一人前の青年になり、神を見いだしていたのだ。神は、ただひとりしかいない。グローヴァー・ウォトラスは、その神を見いだしていたのである。だから、この男について言うべきことは、もうなにもない。ただ、あらゆることをグローヴァー・ウォトラスの「新しい神のことば」によって言いなおすだけのことだ。神が、とくにグローヴァー・ウォトラスのために創造した、この輝かしいことばは、ひどく私の興味をそそった。ひとつには、私がグローヴァーのことを救いがたい鈍物だと思いこんでいたせいもあるが、ひとつには、せかせかとよく動く彼の指さきからタバコのヤニがすっかり消えているのを見て、おや、と思ったのである。子供のころグローヴァーは、うちのすぐ隣に住んでおり、よく遊びにきては、私と二人でピアノの稽古《けいこ》をしたものである。彼は、まだ十四か五なのに、まるで兵隊のように、さかんにタバコをすった。彼の母親は、それをちっともとがめなかった。グローヴァーは天才であり、天才には多少の自由を認めてやる必要があると思っていたのかもしれない。エビ足という生れながらの不運を背負っているからには、なおさらであった。グローヴァーは泥沼のなかに育ったような天才だった。指にニコチンのしみがついているばかりでなく、爪も黒く汚《よご》れていた。何時間もピアノの練習をしていると、その爪にひびが入った。するとグローヴァーは、夢中になって歯で爪を噛《か》み切った。そして、噛み切った爪を、歯にひっかかったタバコのくずといっしょに口からぷっと吐きだした。それは愉快で刺激的な光景だった。タバコのせいでピアノには焼け焦げができ、また私の母がしょっちゅうこぼしていたように鍵盤《けんばん》の色が曇った。グローヴァーが帰ったあと、客間は土建屋の現場事務所のようなにおいがした。それは、吸い殻と、汗と、汚れた下着のにおい、また、グローヴァーの罰当《ばちあた》りな言葉や、ウェーバー、ベルリオーズ、リストなどの息苦しい調べが残した乾《かわ》いた熱気のにおいだった。それはまた、グローヴァーの耳だれや虫歯のにおい、彼の母親の甘やかしや泣きごとのにおいでもあった。グローヴァー自身の家は、いかにも彼の天才にふさわしく馬小屋であったが、私の家の客間は、まるで葬儀屋の待合室のようであった。根っからだらしのないグローヴァーは、泥足を拭《ふ》きもしないで平気でそこへ入りこんできた。冬になるとグローヴァーは、いつも鼻汁をたらしていたが、音楽に熱中すると鼻を拭《ぬぐ》うことさえ忘れるので、冷たい鼻汁が唇までたれた。すると彼は、非常に長い白い舌で、つるつると口のなかへ吸いこんでしまった。それはウェーバー、ベルリオーズ、リストなどの腹のふくれる音楽に塩っからい味を添え、むなしい音楽家たちを、どうにか口に合うものにしたようである。グローヴァーは、ふたことめには悪罵《あくば》を放った。「くそったれめ、どうもうまくいかねえ!」というのが彼の口癖だった。ときには、ひどくむかっ腹をたてて、気ちがいのようにピアノを殴《なぐ》りつけた。天才が、ゆがんで発揮されたわけである。実際、グローヴァーの母親は、彼のこうした発作的な怒りに非常な意味があると思っていた。とうてい余人の及ばない特性のあらわれだと信じていたのだ。しかし、ほかの連中は、グローヴァーは我慢のならない奴《やつ》だとこきおろした。ただ、エビ足に同情して、たいていのことは大目に見てやった。グローヴァーは要領よくこの足を最大限に利用した。どうしても、なにかほしいというときにかぎって、足の痛みが、奇妙にはげしくなった。ただ、ピアノだけは、この不具に同情してくれないように思えた。だからこそ彼はピアノを呪《のろ》い、蹴《け》っとばし、拳《こぶし》でさんざんに殴ったのだ。逆に調子のいいときには、何時間もたてつづけに弾《ひ》いた。だれが、なんと言おうと、ピアノから離れようとはしなかった。そんなとき、彼の母親は、家の前の草地に立って、近所の人々をつかまえては息子へのお世辞を強要した。息子の〈入神の〉名演奏に聞きほれて、夕食の支度《したく》を忘れることも、しばしばだった。空《す》き腹をかかえて下水工事から帰ってきたグローヴァーの父親は、すっかり機嫌《きげん》をそこねて、ときには、まっすぐ二階の客間へあがって行って、グローヴァーを椅子から引きずりおろすこともあった。この父親自身も、悪態をつく才能にかけては相当なもので、父親が癇癪《かんしゃく》を起しはじめると、グローヴァーは、お株を奪われ、口答えの材料にこまる始末だった。父親に言わせると、グローヴァーは、やたらと騒々しい音をたてるしか能のない、ぐうたらにすぎなかった。彼は、しょっちゅう、こんな糞《くそ》いまいましいピアノなんか窓から放り出してやる、ついでに、おまえも放り出すぞ、とグローヴァーをおどかした。母親がとめだてしようものなら、拳骨《げんこつ》で殴りつけ、おまえなんか引っこんでいろ、とどなりつけた。この父親にも、もちろん機嫌のいいときはあった。そんなときには、グローヴァーに向って、いったいなにをボロンボロンやっているんだ、などと問いかけた。グローヴァーが、たとえば「ソナタ・パテティーク(熱情)だよ」と答えると、わからず屋の父親はいうのであった――「なんのことだい、それは? なんだって、まともな英語の名前をつけねえんだ?」グローヴァーにとって、この無知は、粗暴さ以上に耐えがたいものだった。彼は父親のことを心から軽蔑し、かげではくそみそに非難していた。やや年がいくと、父親があんな下劣な男でなかったら、おれだって、エビ足に生れつくようなことはなかったはずだ、という意味のことを、しきりにいうようになった。あいつが妊娠中のおふくろの腹を蹴《け》とばしたのにちがいない、というのだ。どうやらこの足蹴《あしげ》は、グローヴァーの足ばかりでなく、精神にまで影響を及ぼしたようである。というのも、さっきも言ったように、グローヴァーは一人前の青年になると、いきなり熱狂的な信心家になったからだ。彼の目の前では、鼻をかむのにまで、いちいち神の許しを乞わなければならぬ始末だった。
グローヴァーが回心したのは、私の父の信仰が冷《さ》めた直後であったから、私にはいっそう印象が強い。それまでは何年もウォトラス家の消息を聞かなかったのだが、言ってみれば、ものすごいいびきのまっ最中にグローヴァーが颯爽《さっそう》と飛びこんできて、祝福をまき散らし、腕まくりをして、私たち一家を悪から救うのだと言いながら、神に祈って、その証人になることを求めたというわけである。まず目についたのは、彼の外面的な変化だった。彼は、子羊の血で、きれいに洗いきよめられていた。清純そのもので、芳香がただよってくるかと思われるほどだった。言葉そのものまでが清められていた。乱暴な罵言《ばげん》のかわりに、口をついて出るのは、祝福と祈り以外のなにものでもなかった。彼のは、会話ではなく独白で、そのなかに質問がまじっていても、全部自分で答えてしまった。すすめられるままに椅子に坐ると、彼は雄兎《おうさぎ》のようにきびきびと、神は、われわれが永遠の生命を享受しうるようにとのおぼしめしから、ただひとりの愛する御子《みこ》を賜わったのだ、と言った。われわれは果してこの永遠の生命を欲しているか――それとも、あいかわらず肉のよろこびのなかに溺《おぼ》れて、救いを知らぬまま死んでゆこうとするのか? いい年をした二人の男、しかも、そのうちのひとりは高いびきで眠りこけていたのだが、こういうおとなを相手に「肉のよろこび」などという場ちがいなことをしゃべるおかしさには、むろんグローヴァーは気づいていなかった。彼は、はじめて恵み深い神の恩寵《おんちょう》にめぐまれた感激に酔っていたから、私の妹が頭がすこしおかしいことなど、すっかり忘れていたのにちがいない。なぜなら彼は、妹のその後の様子など聞きもせず、いきなり彼女を相手に、この新発見の霊的体験について長広舌をふるいはじめたからである。妹は、なんの反応も示さなかった。いまも言ったように、妹は頭がすこし変なものだから、神さまの話であろうが、ほうれん草の話であろうが、同じことだった。「肉のよろこび」という言葉にしても、妹には、赤いパラソルをさした美しい日といった程度の意味しかなかったにちがいない。椅子から乗りだすようにしてうなずいている様子から察すると、妹は、グローヴァーがちょっとでも息をついたら、そのすきに割りこんで、牧師が――監督教会の|彼女の《ヽヽヽ》牧師が――ヨーロッパから帰ったばかりであり、その牧師と近いうちに教会の地下室でお祝いをやることになっているのだが、そのときには小さな模擬店を地下室につくって、十セント・ストアから買ってきたナプキンで、きれいに飾るつもりだ、という話をしたがっているらしいことが読みとれた。はたして、グローヴァーの言葉がちょっととぎれるやいなや、妹は滔々《とうとう》としゃべりはじめた――ヴェニスの運河のこと、アルプスの雪のこと、ブリュッセルの二輪馬車のこと、ミュンヘンの美しいレバーソーセージのことなど。この女――私の妹――は、はなはだ宗教的であったばかりでなく、まったく頭のネジが狂っていた。グローヴァーは、なにげなく、新しいやすらぎの港と新しい大地とを見いだしたというような話をはじめた……人生の最初の港や最初の陸地は、もはや過ぎ去ってしまった、と彼は、いわばヒステリックな滑走奏《グリサンド》の調子で語った。要するに、神が彼のためにこの地上にうち建て、彼がそこで、かつての口汚ない罵倒癖《ばとうへき》やエビ足のひがみを捨てて平安と落ちつきとを得られるようになった〈新しきエルサレム〉についての、もったいぶった御託宣をぶちまくろうと思ったのである。「|もは《ヽヽ》|や死はあらず《ヽヽヽヽヽヽ》……」と彼は大声でやりはじめた。そのとき妹は体《からだ》を乗りだして、きわめて無邪気な調子で、牧師さんが、こんど教会の地下に、きれいなボーリング場を新設したのだけれど、やってみる気はない? と誘った。牧師さんは、とてもいい人だし、貧しい人たちに親切だから、あなたが行ったら、きっとよろこぶわよ、といった調子である。グローヴァーは、ボーリングなんて罪悪だし、だいいち教会というものは神を忘れているから、自分は、どんな教会にも属していないのだ、それに自分は神から、より高い使命を受けているから、ピアノを弾くことすらやめてしまったのだ、と答えた。「|おのれに《ヽヽヽヽ》|克つものは世のすべてを嗣ぐものとならん《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》」と彼は言った。「われはその神となり、彼はわが子となるべし」彼はまた口をつぐみ、まっ白なハンカチをとり出して鼻をかんだ。間髪《かんはつ》を入れず、妹は、むかしあんたは、いつも鼻から二本棒を垂らしていたけれど、拭《ふ》いたことなんか、いっぺんだってなかったわね、と言った。グローヴァーは、しかつめらしい顔つきをして、自分は多くの悪癖を神から矯正《きょうせい》していただいた、と言った。ちょうどそのとき、私の父が目をさまし、すぐ横にグローヴァーがどっかり坐りこんでいるのを見て、非常に驚き、しばらくは悪夢か幻覚ではないかと怪しんでいるようであったが、清潔な白いハンカチを見ると急に理性をとりもどした。「おお、あんたか!」と父は頓狂な声をあげた。「ウォトラスんとこの息子じゃないか。いったい、ここへきて、なにをしとるんだね?」
「私は至高至聖なるものの名によって、ここへまいったのです」とグローヴァーは落ちつきはらって答えた。「私はカルバリ(キリストはりつけの地)で流された血によって清められました。あなたが救われて、光と力と栄光のうちに歩みうるようにと、キリストの美しき御名《みな》によって、ここへまいったのです」
父は、めんくらった。「おいおい、どうしたんだ?」と父は、弱々しい、相手をなだめるような微笑をうかべながら言った。母も台所から出てきて、グローヴァーの椅子のうしろに立ちどまった。そして、口もとを奇妙にゆがめて、父に、グローヴァーは頭がおかしいのだ、と伝えようとした。妹までがグローヴァーの異常さに気づいたようであった。愛する牧師が、とくにグローヴァーみたいな若者のためにわざわざつくってくれたボーリング場に行きたくないなんて、正気の沙汰《さた》ではない、と思ったのであろう。
グローヴァーは、どうかしたのだろうか? いや、どうもしたわけではなかった。ただ彼は、しっかりと聖都エルサレムの巨壁の第五の礎石を両の足で踏まえているだけなのだ。第五の礎石、それは全部|赤縞瑪瑙《あかじまめのう》でつくられており、そこに立っている彼は、神の御座《みくら》から流れ出る生命の水の清らかな川を見ることができた。グローヴァーにとって、この生命の川を望み見ることは、下腹を千匹の蚤《のみ》に食われるのと同じようなものだった。地球をすくなくとも七回くらい駆けめぐるまでは悠然《ゆうぜん》と坐って冷静に人々の盲目ぶりや無関心ぶりを見きわめることはできなかったのだ。彼は生気にあふれ、身心ともに浄《きよ》められていた。正気ではあるが、だらしのない連中から見れば、彼は完全にいかれていた。しかしむかしのことを知っている私にとっては、いまのグローヴァーのほうが、比較にならぬほど立派に見えた。彼は人畜無害の疫病《ペスト》であった。じっと我慢して彼の話を聞いていると、なっとくはできないまでも、なにか心が洗われるような気分になった。グローヴァーの新鮮な言葉は、いつも私の横隔膜をとらえ、調子はずれな彼の高笑いは、まともすぎて沈滞してしまった精神の老廃物を、きれいに排除してくれた。彼は、かつてポンセ・デ・レオン(一四六〇ころ―一五二〇のスペインの探検家。回春の泉を尋ね求めて伝説的な島ビミニへ出発したが期待空しく、代りにフロリダ半島を発見した)が望んでいたような生きかたをしていた。それは他にほとんど例のない真実の生きかただ。不自然なほど生気に満ちていた彼は、面と向って嘲笑《ちょうしょう》されても、いや、自分の持ちものをいくつか盗まれても、全然意に介さなかった。生命にあふれておりながら、じつに虚心なのである。それは、あまりにも神性に近いがゆえに、かえって精神の異常を疑わせた。
新しいエルサレムの巨大な城壁に、しっかと足を踏まえたグローヴァーは、常人の想像もつかぬような歓喜を知っていた。彼とても、エビ足に生れついていなかったら、たぶん、この想像を絶したよろこびを味わうことはできなかったであろう。グローヴァーを身ごもった母親の腹を父親が蹴とばしたのは、彼にとって、しあわせなことだったのかもしれない。彼を天に舞いあげ、眠っているあいだも神の言葉を宣《の》べ伝えるほど完全に覚醒《かくせい》させ、生気あふれる人間にしたのは、おそらくその足蹴だったのだろう。彼は、はげしく働けば働くほど疲れを忘れた。彼には、もはや悩みも、悔恨も、にがにがしい思い出もなかった。神に対するもの以外は、なんの義務も責任もみとめなかった。その神は、彼から、なにを期待したのであろうか? なにも期待してはいなかった。なにもだ……ただ神を讃美することを除いては。神はグローヴァー・ウォトラスに、ただみずからを肉において生気あらしめよ、と求めただけなのである。生気を、いっそう、よりいっそう充満せしめよと求めただけなのである。そして、生気|横溢《おういつ》したときのグローヴァーは、ひとつの声となった。その声は奔流となって、あらゆる死者を混沌のなかに押しやり、その混沌はまた世界の口となり、その口のまんなかには動詞 to be《ある》が存在した。太初《はじめ》に言《ことば》ありき、言《ことば》は神《かみ》と偕《とも》にあり、言《ことば》は神《かみ》なりき。つまり神は、存在するもののすべてであるところの、この奇妙な、小さい不定詞にほかならなかったのである――それで十分ではないか。さよう、グローヴァーにとっては十分すぎるものであった。彼にとって、それは一切万有であった。この動詞《ヽヽ》から出発する以上、どの道をたどろうが変りはないはずである。この動詞から離れることは、中心からそれること、むなしいバベルの塔をうち建てることであった。おそらく神は、グローヴァー・ウォトラスを、この中心に、この動詞《ヽヽ》にしばりつけようために、わざと彼を不具にしたのであろう。神は、見えざるきずなによって、グローヴァー・ウォトラスを、この刑柱にしばりつけたのである。そして、この刑柱は世界の中心部を駆けめぐり、グローヴァーはまたそれによって一日も欠かさず金の卵を生む肥えた鵞鳥《がちょう》になったのだ……。
私は、なぜグローヴァー・ウォトラスのことを語るのか? それは、何千人もの友人知己のなかに、グローヴァーほど活気のある人生を生きたものが一人もいないからである。彼らのうちの大多数はグローヴァーよりも知性があった。多くは才気|煥発《かんぱつ》の連中だったし、なかには名士の仲間入りをしたものもいる。だが、グローヴァーのように生気にあふれていながら、グローヴァーのように虚心な人間は、ただの一人もいない。グローヴァーは、汲《く》めどもつきぬ力を持っていた。たとえてみれば、山のなかに埋もれていても巨大なエネルギーを放出する力をうしなわない一塊のラジウムのようなものであった。いわゆるエネルギッシュな連中なら、いくらでもお目にかかったことがある――アメリカは、そんな連中で、いっぱいではないか――だが、無尽蔵なエネルギーの源泉が人間の形をとって私の前にあらわれたのは、前にも後にも彼ひとりだった。この無尽蔵なエネルギー源を創造したものは、なにか? それは、ひとつの照射であった。そうだ、まさしくそれは一瞬のうちにつくられたのである。重要なものは、すべて、かならず一瞬のうちに起るものである。一夜のうちにグローヴァーの古き価値体系は完全に崩壊し去った。まったくとつぜんに彼は他の人間のような動きをとめてしまった。ブレーキをかけ、モーターだけを回転しつづけたのである。彼とても、かつては他の有象無象《うぞうむぞう》のように、どこか目的地へ行きつくことが必要だと考えていたが、いまは、|どこか《ヽヽヽ》というのは、|どこでもいい《ヽヽヽヽヽヽ》のだとさとった。そこで、現在地を目的地とさだめ、動くことをやめようと決心したのである。このまま車をとめ、モーターだけを回転させておけばいい。地球自体がまわっているのだから、自分も、それにつれてまわるのだ。地球が、どこかへ行きつくなどということが、あるだろうか? グローヴァーは、そう自問し、地球はどこへも行きつかない、という答えに満足したのにちがいない。だとすれば、人はどこかに向って進まなければならぬと教えたのは何者だろう? グローヴァーは、あの人この人が、いったいどこへ向って進んでいるのかを調べてみた。すると、奇妙なことに、彼らは、それぞれ目的地をさだめて進んではいるが、だれひとり自分たちの避けられぬ終着点は墓場だということを、とっくりと考えようとはしないことに気づいた。グローヴァーは不審に思った。なぜなら、死は不確実なものだと言って彼をなっとくさせるものは一人もいないのに、だれもが他人に向って自分の目的以外のものは不確実だとなっとくさせようとするからである。死の恐るべき確実性を信じたグローヴァーは、急に圧倒的な生気に満ちあふれるようになった。彼は生れてはじめて、ほんとうの生命をつかんだ。同時にエビ足は完全に彼の意識から脱落した。考えてみれば奇妙な話である。エビ足も死と同じく避けがたい事実なのだから。だが、とにかくエビ足のことは――そして、もっと重要なことは、エビ足にからまるいっさいのものが――彼の心から脱落した。同じように、死を受けいれた彼の心から死もまた脱落した。死という唯一の確実性を把握《はあく》した彼にとって、もはやいっさいの不確実さは消滅してしまった。世間の人々は疑惑のエビ足でびっこをひきひき頼りなく歩いているのに、グローヴァー・ウォトラスだけは、いっさいの障害から解脱《げだつ》していたのだ。グローヴァー・ウォトラスは確実性の権化であり、確信の化身であった。彼は、まちがっていたかもしれない。しかし彼は確信をもっていた。|もし人がエビ足でよたよた歩かねばならぬとしたら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|その信念がいかに正しいものであっても《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|なんの益があろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》? この真実に気づいた人は、きわめてすくない。そして、それに気づいた少数の人たちの名前は、じつに偉大な名前になっているのである。グローヴァー・ウォトラスは、たぶん有名にはならないだろう。だが、やはり彼がすこぶる偉大だという事実に変りはない。私がこうして彼について語っているのも、そんな理由があるからだ――たとえ他人はだれも認めないにしても、私だけはグローヴァーが偉大さをかちえたという事実をみとめるだけの識見をもっている。それを言いたかったのだ。なるほどこの私にしても、当座は彼を無害な狂信者であるとしか思わなかった。私の母親がほのめかしたように、すこしばかり〈いかれている〉としか思わなかった。しかし、確実性の真理を把握した人間は、だれでも、いくらかはいかれているものだ。しかも、世界のために、なにかを達成しえたのは、こういう人たちだけなのである。ほかの人たち、ほかの|偉大な《ヽヽヽ》人たちも、そこここで多少は破壊作業をやっている。しかし、グローヴァー・ウォトラスをふくめたごく少数の人たちは、真理を生かすためには、あらゆるものを徹底的に破壊することができる人たちなのである。こういう人たちは、たいてい、なんらかの障害を、いわばエビ足を、生れながらにしてもっているのだ。ところが、はなはだ皮肉なことに、世間の人々がおぼえているのは、このエビ足のことだけなのである、そして、グローヴァーみたいな人間がエビ足から脱却すると、世間の人は、あいつはものに〈とりつかれた〉などというのだ。これが不確実性の論理であり、そこからは貧しく哀れなものしか生れない。グローヴァーは私が生涯で出会った唯一の真に歓喜に満ちた人間であった。そして、この拙文は、彼の思い出、彼のかがやかしい確信の思い出にささげる、ささやかな記念碑である。グローヴァーがキリストを松葉|杖《づえ》代りに用いなければならなかったことは哀れなことかもしれない。だが、人が真理に行き当り、その真理によって生きている以上、どうやってそこに行き当ったかなどということは、まったく問題ではあるまい。(つづく)
[#改ページ]
◆南回帰線(上)◆
ヘンリー・ミラー/大久保康雄訳
二〇〇四年一月十五日 Ver1