ヴェニスに死す
トーマス・マン作/植田敏郎訳
目 次
ヴェニスに死す
解説
年譜
[#改ページ]
ヴェニスに死す
一
グスターフ・アッシェンバッハ……あるいは、その五十回目の誕生日このかた、公《おおやけ》によばれているとおりにいえば、フォン・アッシェンバッハは、一九××年……この年は、何か月もの間わたしたちの大陸にとって実に危険な様相をあらわした年であったが……の春のある午後、ミュンヘンのプリンツレゲンテン街の自宅から、ひとりでかなり遠方まで散歩に出かけた。
ややこしく、極度の慎重さと周到さを必要とする危険な仕事の、精神を集中して細密にやらなければならない部分にさしかかった午前中の仕事で、ひどく興奮したこの作家は、体の奥にある生産的な連動機の決して止まることのない振動を……キケロ〔前一〇六〜四三、ローマの政治家で雄弁家〕にいわせれば、ほかでもない雄弁の本体であるあの「精神のひっきりなしの動き」を、昼食のあとでも止めることができなかった。また、気分を軽くしてくれる憩《いこ》いが見つからなかった。精力がますますおとろえているアッシェンバッハには日に一度はやらなければならなかったのだが、気分を軽くしてくれる昼寝ができなかった。そこでアッシェンバッハは茶を飲み終えて間もなく、空気と運動が元気をとりもどさせ、夕べを有効に過ごせるように助けてくれるかも知れないと望みながら外へ出た。
五月のはじめだった。じめじめとしたうすら寒い何週間かが過ぎたかと思うと、だしぬけに季節はずれの真夏がやってきた。イギリス公園〔ミュンヘンにある広大な自然公園〕の若葉が、ついこのあいだ出はじめたばかりだというのに、まるで八月頃のようにむっとしていて、市のはずれは馬車やそぞろ歩きの人々でいっぱいだった。
だんだんひっそりしていく通りから通りへと歩いていくうちに、料亭アウマイスターの店までくると、アッシェンバッハは、境界に数台の辻馬車や馬車が止まっていて大勢の人々でにぎわっているレストランの庭園をちょっとのあいだ見わたした。そこから沈みかけた夕日をあびて広々とした草原を通って公園の外の道を帰路につき、疲れたような気もしたし、フェーリングの上空に夕立がきそうなけはいでもあったので、北の墓地の停留所で、まっすぐ市中へ帰ることのできる市電を待っていた。
たまたま停留所にも、そのまわりにも、人っ子ひとり見えなかった。レールがさびしく光って、シュワービングへのびている舖装《ほそう》したウンゲラー通りにも、フェーリンガー国道にも、乗り物ひとつ見えなかった。石屋の生け垣の向こうに、売り物の十字架や、記念の額《がく》や記念碑などが見え、第二の、まだ人を葬っていない仮墓地を形作っているのだが、そこにも、何ひとつ動くものはなかった。あちら側の斎場のビザンチン風の建物も、暮れようとする夕ばえの中にだまりこくっていた。
ギリシア風の十字架と、明るい色どりの司祭の絵でかざられた斎場の正面は、均整をとって配列された金文字の銘を見せている。たとえば、
「かれら神の住まいに入る」とか、
「永遠の光かれらを照らす」
といったような、あの世に関することばをえらんだものであった。
電車を待っているアッシェンバッハは、二、三分の間このきまり文句を読みとって、精神の目をその半透明な神秘の中にただよわせるというまじめな気ばらしをしていたが、夢見ごこちからはっとわれにかえると、建物の前側から戸外へ通じている階段を見はっている二匹の黙示録の動物の上の柱廊に、ひとりの男を見かけた。その男のまったくただならぬ姿が、考えを今までとすっかり違った方向に向けた。
その男が斎場の内側から青銅のとびらを通って出てきたものか、それとも、外から思いがけなくやってきて登ったものか、たしかではなかった。アッシェンバッハは特別この問題に深入りしないで、はじめの仮定のほうに傾いた。男はごくふつうの背の高さで、やせて、ひげはなく、すごいしし鼻で、赤毛のタイプで、そのタイプにありがちな乳色でそばかすのある肌をしていた。地元のバイエルン系〔六世紀にゲルマン人の一部族のバユヴァーレンがバーメンからバイエルンに移動してきた。バユヴァーレンのタイプをバイエルン系という〕の人間でないことはたしかだった。少なくとも頭を被《おお》っている巾の広い、平らな|つば《ヽヽ》のついた経木《きょうぎ》帽子がその風体に、よその国のもの、それとも遠くからきたものという特色を与えていた。
もちろん男はありきたりのリュックサックをしめ金で肩にとめていて、見たところ粗毛織《あらけお》りの黄色っぽい、ベルトつきの服を着、わき腹にあてた左うでには灰色の雨ずきんをかけ、右手には鉄の石づきのついた杖をもって、それをななめに地面につっぱり、両足を組み合わせて杖の柄に腰をささえかけていた。ゆったりしたスポーツシャツからつき出たやせた首にのどぼとけがくっきりとむき出しでとび出すほど、頭を高く上げて……赤いまつ毛の下の色のない両眼の間にはちょっと上を向いた鼻と奇妙にぴったり合った二本の垂直な、太い皺《しわ》があったが……、その姿勢でするどくうかがうように遠方を見つめていた。
こうして……ひょっとするとその男が見上げるような高い位置にいたせいもあって、そういう印象を与えたのかもしれないが……男の態度にはいくらかおうへいに見くだすような、大胆な、それ以上になにか荒っぽいものがあった。男がまばゆさに夕日に向かってしかめつらをしたものか、それとも、ふだんもそういうゆがんだ表情をしているのかはわからないが、唇は短すぎるようで、歯ぐきからめくれあがり、その間から歯が白く長く、むき出すほどぐっと出ていた。
アッシェンバッハは半分放心したように、そして半分さぐるように見知らぬ人をじろじろ見ながら、敬意をはらうことを忘れていたのかも知れなかった。というのは、急に男が自分の視線のほうを見返したが、ひどく挑戦的にこちらの目をのぞきこんで、物事をとことんまでやって相手が目をそらすようにむりにでもさせようとでもはっきりもくろんでいるのをみとめたからであった。そこでアッシェンバッハは気まずい思いで顔をそむけ、これ以上あの男には注意すまいととっさに決心して、垣根にそって歩きはじめた。そして、すぐに男のことは忘れていた。
けれども、あの見知らぬ人のようすの中の放浪者めいた姿が想像力をうごかしたのか、それともほかの何か肉体的か心理的な影響もあずかったのか、ともかく心の中のものがびっくりするほど大きくひろがっていくのを感じた。一種のさまようような不安、遠くへの若者らしい渇望《かつぼう》、この感じがひどく生き生きと、ひどく新しくひろがり、おまけにそれはとっくの昔に忘れていたものであったので、アッシェンバッハはこの感じの正体と目的をしらべようとして手を背に組み、大地を見つめて立ち止まった。
それは、旅行欲であった。それだけだった。けれども、それはほんとに発作としてあらわれてきて、情熱的なものに、いや、それどころかまぼろしに見るまでになった。その欲望は目に見えるようになった。その想像力は仕事をしていたときから静まっていなかったので、いちどきに心に描こうと努力したさまざまな地球の奇蹟という奇蹟、恐怖という恐怖の一つの例まで描いた。
つまり、アッシェンバッハは見たのである。一つの風景を、濃いもやの空の下の、しめっぽい、うっそうとしたものすごく大きな熱帯の沼沢地方を、また島やどろ沼やどろを運んでいく水路からなる一種の原始世界の荒地を見たのだ。……さかんに茂るしだの茂みや、ふっくらとふくらんだ珍奇な花をつけた植物の群生から、毛の生えた|しゅろ《ヽヽヽ》の幹があちらこちらに高くのびようと努めているのを見た。空中から奇妙に不格好《ぶかっこう》な木が、よどんだ、みどりの影をうつしている満々とした水にその根を沈めているのを見た。そこではミルク色の、皿のように大きく水に浮かぶ花の間に、肩をいからせて、かっこうの悪いくちばしをした風がわりな鳥が浅瀬に立って、じっとわきを見ていた。ふしの多い竹と竹の幹の間にうずくまっている虎の目が、ぎらぎら光るのを見た。そして心臓がおどろきとなぞめいた欲求のためにどきどきするのを感じた。それからこの幻覚は消えた。アッシェンバッハはかぶりをふると、墓石屋の垣根にそって、またぶらぶら歩きだした。
世界の交通の有利さを好きなままに味わうことのできるほど金まわりがよくなってからというもの、アッシェンバッハは旅行というものを、気持ちや好みにさからってときどきやらなければならない健康上の処置としかみなさなかった。自分自身とヨーロッパ的な精神に課せられた課題があまりにいそがしく、創作の義務の重荷をおいすぎていたので、色とりどりな外界の愛好家にふさわしい気ばらしを嫌い、だれもが自分の範囲からあまり動かないままで地球の表面から手に入れられるような観察だけですっかり満足していて、ヨーロッパを去るという誘惑など一度も感じさえしなかった。ことに生涯もだんだん終わりに近づきはじめてからは、完成しないのではあるまいかという芸術家としての恐れ……自分のつとめをなしとげて自分をすっかり出し終えるよりさきに命がなくなってしまうのではあるまいかという懸念《けねん》が、もう気まぐれとして退けられなくなってからというもの、外的生活は、ほとんどもっぱら、自分には故郷となった美しい市と、山の中に建てて雨の多い夏を過ごしていた殺風景《さっぷうけい》な別荘にかぎられていた。
また実際、おくればせながら急にアッシェンバッハをおそった気まぐれも、ごく間もなく、理性とまた若いころから練習していた克己でおさえられもしたし、かたづけられもした。自分の命をかけていた作品を、田舎《いなか》にうつる前にある点までは進めておくつもりだったので、何か月も仕事ができなくなる世界漫遊の考えなどあまりにも軽はずみで、計画に反するように思われ、まじめにとりあげる問題ではなかった。しかも、この誘惑がどうしてこんなに突然あらわれたかということもわかりすぎるほどわかっていた。アッシェンバッハが自分でそれをみとめたように、この遠いものと新しいものへのあこがれ、この解放されたい、重荷をおろしたい、忘れ去りたい、という熱望、それは逃亡への衝動だったのである……つまり仕事から、片意地《かたいじ》で冷たく、情熱的な奉仕を強いられるふだんの場所から離れたいという衝動だった。
なるほどアッシェンバッハはこの奉仕を愛してはいた。またアッシェンバッハのねばり強くてほこらかで、既にたびたびためされた意志と、だんだん増していく疲労との間の……この疲労はだれにも知られてはならないし、またどんなことがあろうと作品が気力のなさや心のゆるみの兆候を漏《も》らしてはならないのであるが……衰弱させるような、毎日のように繰り返し行なわれる戦いさえ愛していたといってもよい。けれども、ものごとの度をこさないで、それほど力強くわきあがる欲求を、かたくなにおさえつけることは賢明ではないような気がした。
かれは、自分の仕事のことを考えた。きょうもまたきのうのように筆をおかなければならない、がまん強く手を入れようとしても、すばやくかたづけようとしても、思うようになりそうもないような個所のことを考えた。あらためてその個所を吟味《ぎんみ》し、そのじゃまをしているものをつき破るか、ときほぐすかしてみようとこころみたあげく、うんざりして身ぶるいしながら手をひいた。そこには特別むずかしいことはなくて、ただ自分の手をとめさせていたものは、もうどんなことも満足できない、不満となってあらわれた気の向かないためのためらいであった。
もちろん、既に青年時代にこの作家は、不満は才能の本質であり、もっとも奥ふかい性質だということをみとめていたし、またこの不満のために、感情をおさえもし、冷ましもしたのだ。それは、その感情は気楽ないいかげんさと半ぱな完成で満足する傾向のあることを知っていたからである。
それでは今、おさえつけられていた感情が自分を見すてることで自分のこれからの芸術を支えたり、力づけたりすることをこばんで、形式と表現に対するあらゆる快感やよろこびをうばい去ることでこの作家にしかえしをするというのだろうか。アッシェンバッハがくだらないものを作ったというのではない。いつどんなときにも、自分のうまさをびくともしないでたしかに感じることぐらいは、年の功でできた。けれどもかれ自身は、国民がかれのうまさを尊敬していたのにそれを喜びもしなかった。自分の作品には、深い内容や重要な長所にもまして、味わう人々の世界に歓喜をよび起こす、あの激しくたわむれる気まぐれの兆候、それこそが歓喜の産物なのだが、それが欠けているように思えた。
アッシェンバッハは田舎の夏をおそれ、食事のしたくをする女中とそれを運んでくる下男とだけで小さい家にいた。またまた不満な、はかどらない筆をよそながら眺めるであろう山のいただきと、山はだのなじみぶかい顔をおそれた。だから、夏をしのぎやすい実りのあるものにするためには、実際、さしはさむもの、つまり何か即興的な暮らし、のらくらの暮らし、遠方の空気、新しい血を入れることが必要であった。
だからこそ旅行が必要なのだ、……アッシェンバッハはそれに満足だった。そんなに遠くでなく、必ずしも虎のいるところまでいかなくてもよかった。寝台車での一晩と、愛すべき南国のだれでも知っているどこかの保養地での三週間か四週間の昼寝で……
電車の騒音がウンゲラー通りをこちらへ近づいてくる間に、そんなことを考えて、電車に乗りながら今夜中かかって地図と時刻表をしらべようと決心した。
乗降口で、経木帽子をかぶった男を、どっちにしてもこの成果のある散歩の仲間を見まわそうとふと思いついた。けれども、さっき男のいた場所にも、もっと遠い停留所にも、車の中にも男の姿は見当たらなかったので、そのゆくえはわからなかった。
二
プロイセンのフリードリヒ大王〔一七一二〜八六、プロイセン国王。ポツダム近郊にサンスーシー城をきずいて啓蒙的専制主義の代表として才知ゆたかな人々をまわりに集めた。フランスの啓蒙哲学者ヴォルテールもその中にいた〕の生涯の、平明な力強い散文叙事詩の作者であり、大ぜいの人物が現われ、色とりどりの人間の運命をある理念の影の中に集めている「マーヤ」という小説の絨毯《じゅうたん》を長い間かかってこつこつと織りなした根気づよい芸術家であり、「あわれな人」という題で、感謝の心のある若者たちすべてに、深い認識の向こうに道徳的な決心の可能性のあることを示したあの力強い物語を作った人であり、最後に(これでかれの円熟した時代の作品を手みじかにあげることになるのだが)、その秩序づける力と対比的な雄弁がまじめな批評家にシラーの「素朴文学と有情《うじょう》文学について」の論究とならべることを可能とさせた「精神と芸術」に関する情熱的な論文を書いた人であるグスターフ・アッシェンバッハは、シュレージェン州の地方庁のある市に、高等司法官の息子として生まれた。
先祖は将校や、裁判官や、行政公務員など、国王や国家につかえて、厳しく、まじめにも質素な生涯を送った男たちであった。もっと誠実な知性は牧師の姿でこれらの人の間にあらわれたことが一度ある。またもっと激しいもっと官能的な血がこの家族に、ボヘミアの楽長の娘であるこの作家の母によって前の世代に入れられた。外見の異国風な特徴はこの母からきたものである。勤務上のきまじめな誠実と、はっきりしない激しい衝動との結びつきが、ひとりの芸術家を、この特別な芸術家を生み出したのである。
この人の人がら全体が名声をめざしていたので、もともと早熟ではなかったが、めりはりがはっきりしていることと、個性的な手堅さのために早くから世の中に対して準備ができていたし、おまけに如才《じょさい》なかった。まだ高校生のころからその名はある程度知られていた。十年たつと、自分の書物机に座ったままで世間への体面をたもち、名声を維持し、簡略にしなければならなかった手紙の文句で(というのはこの成功した人、信頼に価する人にたくさんの要求が殺到するので)親切で重厚にみせるすべを学んだ。四十代のこの人は本来の仕事のつらさと出来不出来にくたくたになって、毎日あらゆる人々の国々の切手をはった郵便物をかたづけなければならなかった。
ありきたりのものからも、極端なものからも同じくらい遠ざかって、この人の才能は広い読者の信仰と、よりごのみする人たちの賛嘆と要求をもった関心を、同時に手に入れられるようにできていた。こうして既に青年のころにあらゆる方面から、業績への……しかも非凡な業績への……義務をいやおうなしにおわされていたので、これまで一度も怠けることや、若者らしいのんきな軽はずみをすることなど知りはしなかった。
三十五歳のころ、ウィーンで病気になったとき、かれをこまかく観察していたある人が集まりの席でこの人のことを話した。
「ねえ、アッシェンバッハという人は、昔からこんなふうにしか暮らさなかったんですよ」……そして語り手は左手の指をしっかりとにぎってこぶしにした……「決してこうではないのです」……それから開いた手をだらりといすのひじかけからたらした。
これはそのとおりだった。その暮らし方の勇敢で道徳的なところは、アッシェンバッハの性質が決してたくましくなく、ひっきりなしの緊張を責務としていただけで、本来はそう生まれついてはいなかったところにあった。
医者の配慮があって、少年は学校に通うことをさせられず、家庭教育をうけなければならなかった。ひとりぼっちで、友だちもなく成長した。そして自分が才能ではなくて、才能を実現するために必要な肉体的な基礎がないような種類のひとりであることを……若いうちにその最善のものを出してしまうのがふつうで、能力がたまにしか長つづきしないような種類のひとりであることを、やっぱり早くからみとめないわけにはいかなかった。
けれども、アッシェンバッハのすきなことばは、
「終わりまでもちこたえる」
ことで、かれはフリードリヒ大王を書いた小説の中で、苦しみながら活動する美徳の真髄《しんずい》と思われた、この命令のことばの賛美以外の何ものをも見ていなかった。また、この人は年をとることをとても望んでいた。というのは、昔から人間的なもののどの段階でも特質を示すだけのみのりをあげるように生まれついている芸術家のみが、ほんとうに偉大で、包括的で、いえ、ほんとうに尊敬するにあたいすると名づけられるべきだと思っていたからである。
だから、自分の才能によっておわされた使命をかよわい肩に背負って遠くへいこうと思ったので、たいへんな規律が必要だった。……そしてその規律は実際に、幸い父方の遺産の分けまえとして生まれながらもっていた。他の人たちがむだづかいしたり、夢中になったり、大きな計画の実行を平気でのばしたりするような年頃からかれが既に実行していたように、四十歳でも、五十歳でも、アッシェンバッハは早めに冷水を胸と肩にかけて日課をはじめ、銀の燭台に立てた一対の長いろうそくを原稿の上において、眠ってたくわえた力を、朝の二、三時間、真心こめて、良心的に芸術のために捧げた。
事情を知らない人が、マーヤの世界を、またフリードリヒ大王の英雄的生涯が展開するあの叔事詩的大作品を、密度の高い集中力と、一つの長い呼吸とが作り出したものであると考えたのは無理からぬことだった。いや、それは本当にかれの道徳性の勝利を意味するものであった。しかしそれらは、毎日のこまかい仕事の中で何百もの一つ一つの霊感を、こつこつと大きなものに積みあげた結果で、またそのために、どの点をとっても優れていた。それはその作者が、自分の故郷の州を征服したフリードリヒと似た意志の持続とねばり強さで、何年にもわたって同一の作品を緊張のもとにもちこたえ、本来の製作にもっぱら精力を傾ける、尊敬すべき時間をついやしたからであった。
有数な精神的産物がたちまち広く深い影響をおよぼすようになるためには、著作者の個人的な運命と、同じ時代の人の一般的な運命との間にひそかな類似が、いや、一致がなければならない。人々はどうして自分たちが一つの芸術作品を賞めそやすかを知らない。その人たちは専門的知識とは縁遠く、その作品にたくさんの長所を見出すと信じて、自分たちの多くの関心を弁護している。けれどももともとその人たちの賛成の理由は、何かはかり知れないもの、つまり共感である。
アッシェンバッハは一度あまり目立たない箇所で、存在しているほとんどすべての偉大なものは「それにもかかわらず」として存在するものであり、苦悩、貧困、孤独、虚弱、悪徳、情熱、そのほか千もの障害にもかかわらず生まれたものだと直接にいったことがあった。これは見解以上のものであった。それは一つの経験であり、この人の生活と名声とを示す公式であり、この人の作品をとく鍵であった。だから、それがまたアッシェンバッハの描く独特な人物たちの道徳的性格であり、外面的な態度であったとしても何のふしぎがあったろう。
この著者の好きな、新しい、多様な個性をもった姿をとってくり返しくり返しあらわれてくる主人公のタイプについては、ある賢明な分析者がつぎのように書いたことがある。その主人公のタイプは、
「剣と槍が体をつき通っているのに、ほこらしげに恥じらって歯をくいしばり、平然と立っている知的で若々しい男らしさ」の着想だ、と。
その分析は見たところあまりにも控え目な印象にもかかわらず、見事で気がきいて、また正確であった。なぜかというと、運命の中での態度、苦悩の中での優美はただがまんだけを意味するものではないからである。それは一つの積極的な業蹟、一つの積極的な勝利のよろこびであって、セバスチァン〔名画に数多く描かれた殉教者〕の姿は芸術一般ではないにしても、少なくとも今問題になっている芸術のもっとも美しい象徴である。
この物語られた世界をのぞきこむと、つぎのことが見られた。つまり最後の瞬間にいたるまで心の中の空洞と生物学的なおとろえを世間の目の前からかくしているあのエレガントな自制が。ぶすぶすとくすぶっている欲情をあおって清らかな炎にすることのできる、いえ、美の国を支配するまでに躍進《やくしん》することのできる、感能的に不利なみにくさが。精神の焼けてあつくなった深みから、おごったやから全部を十字架のもとに、自分の足もとにひれふさせることのできる力をえる、青白い無力が。むなしく、そしてきびしく形式に奉仕する優美な態度が。生まれながらのうそつきの、あざむきの、危険な生活がたちまち元気をそがれる憧れと芸術が。
こうしたすべての運命と、さらにまた同じようなものを観察すると、弱さの英雄精神以外に他の英雄精神というものが一般にあるということが疑われるかも知れなかった。
いずれにしても、いったいどんな英雄精神がこの英雄精神以上に時勢にかなっているというのだろうか。グスターフ・アッシェンバッハは、あらゆる衰弱の限界で働いている人、重荷をおいすぎる人、もう精魂つきはてた人、それでもなおきっとして立っている人、体つきが弱々しく、金もとぼしく、意志の歓喜と賢明な管理とで少なくともちょっとの間は偉大さの印象をむりに手に入れるような、業績の上での道徳家を描く作家であった。そういう人たちは大勢いて、その人たちは時代の英雄である。そして、その人たちはアッシェンバッハの作品の中に自分の姿をみとめ、自分が裏書きされ、歌われているのを見出し、この人に感謝し、この人の名を宣伝した。
アッシェンバッハもかつてはその時代とともに若くて乱暴であった。時代に悪い助言を与えられて周知のごとくつまずき、あやまちをおかし、弱点をさらけ出し、ことばでも行ないでも礼儀や分別にさからうことをやってのけた。けれども品位だけは獲得した。この人の主張によれば、偉大な才能のある人はだれでも、品位を獲得しようという自然の衝動と刺激が生まれながらにそなわっているのである。いや、その人の発展のすべては、意識的な、また反抗的な、あらゆる疑いとイロニーのさまたげも追いこす品位に向かっての向上であった。
表現が生き生きとしている、精神的に束縛《そくばく》しないわかりやすさが、市民大衆をよろこばせるけれど、情熱的に無制約な若者はただ問題性のあるものに心をとらえられる。そしてアッシェンバッハは、どの若者にもないほどの問題性をもっており、無制約であった。この人は精神に支配され、認識によって濫作《らんさく》し、穀物の種をひいて粉にし、秘密をもらし、才能を疑い、芸術を裏切った、……いえ、アッシェンバッハの創った作品がつつましく鑑賞する人を楽しませ、高め、元気を与えている一方、この芸術家は二十代の若者を芸術と芸術家そのもののあやしい本質についてのしんらつなあざけりで息をとめさせた。
けれども、高貴で有能な精神は、どんな刺激に対してよりもっと早く、もっと徹底的に認識のもつ鋭く苦しい刺激に対して鈍感になるものらしい。青年時代の憂うつなまでに良心的な徹底性も、大家になったこの男の深い決心にくらべたら、それは浅はかさを意味することはたしかである。その決心は、知識が意志や行ないや感情、そして情熱さえをほんの少しでも麻痺させたり、元気をなくさせたり、恥ずかしめたりする傾向をもっている限り、知識を否定し、拒絶し、頭を上げて無視しようという決心である。
あの「あわれな男」という有名な小説も、時代の下劣な心理主義に対する嘔吐《おうと》の発作としてよりほかに、どう解釈しようがあろう? 自分の妻を、無気力と不品行と倫理的な気まぐれから、若僧の腕の中へ追いこんで、それでも深刻さからなら卑劣なことをしてもかまわないと信じて一つの運命をこっそり手に入れるという、あの弱々しい、とんまな、半分やくざの姿をしてあらわれた心理主義なのである。ここで非難しなければならないものを非難していることばの勢いは、あらゆる道徳的懐疑心から離れ、深淵のあらゆる共感から離れることを伝えていて、何もかもを理解するとは何もかもをゆるすことだという、同情の公理のだらしなさからはなれることを伝えた。
そしてここで準備され、いえ、もう実行されたものは、少したってからこの著者の対話の中ではっきりと、またなぞめいたところがないでもないが強調して述べられた「再生した率直の奇蹟」であった。めずらしい結びつきである!
同じ頃に、アッシェンバッハの美的感覚がほとんど過度に強められたのは、つまり、それからのこの人の作品に巧妙さと古典性の目立った、いや、わざとらしい刻印を与えた、あの構成のけだかい純粋さと、均整がみとめられたのは、この「再生」の精神的な結果だったのだろうか。けれども、知識の彼岸にある、解消させ阻止する認識の彼岸にある、道徳的決意、……それはまたまた世界と精神との一つの単純化を、一つの倫理的な簡素化を、だからまた悪への、禁ぜられたものへの倫理的に不可能なものへの、一つの強化を意味するのではなかろうか? 形式は二とおりの顔をもってはいないだろうか? 形式は倫理的で、同時に非倫理的ではないのか、……つまり、しつけの結果と表現では倫理的であるが、形式がもともと道徳的な無関心さを含んでいて、いや、道徳的なものを自分のほこらかな、また絶対的な支配のもとに屈させようと努力するかぎり、それは非道徳的であり、反道徳的ですらあるのではないだろうか?
それはどうでもよろしい! 発展というものは運命である。そして広い世間の関心と群衆の信頼にともなわれた発展と、名声の輝きや拘束力にともなわれない発展とが、どうしてちがったふうに経過しないわけがあろうか? 一つの偉大な才能が勝手気ままな|さなぎ《ヽヽヽ》の状態を終えて、精神の品位を意味ぶかくみとめることに慣れ、助言も与えてもらえない、がんこに独立した苦しみと戦いにみちた、人々の間で権力と名誉を手に入れた孤独という宮中のならわしを身につけたとき、それをたいくつと考えたり、あざけったりしがちになるのはただ永遠のジプシーかたぎだけである。
それはそうと、才能の自己形成の中にはなんとたくさんの戯れと、反抗と、享楽があることだろう! しだいにグスターフ・アッシェンバッハの提示するものの中には官職的に教育的なものが入ってきて、後年には文体は直接的な大胆なところや、こまやかで新しい陰影がなくなり、模範的に固定したもの、みがきのかかった伝統的なもの、保存的なもの、形式的なもの、型どおりのものにさえ変わっていった。そして、伝説がルイ十四世〔フランスの国王、太陽王〕について知っていると主張しているように、この中年の男は、この人のことばの使い方からどんな下品なことばも追放したのであった。当時、教育官庁がこの人のえりぬきの何ページかを規定の教科書にとりあげたことがあった。それはこの人の心にかなったことであったし、ドイツの君主がちょうど即位して、この「フリードリヒ大王」の作者にその五十歳の誕生日に際して貴族の称号を与えたときにも、それを辞退しはしなかった。
何年かの落ちつきのない年月のあと、あちらこちらに試みに滞在したあとで、アッシェンバッハは早めにミュンヘンを永住の地として選び、そこで特別な、よくよくの場合にしか人物に授けられない名誉市民の地位について暮らしていた。若い頃、学者の一族の出の娘と結婚したが、その結婚はみじかいしあわせな期間のあと、妻の死によってたち切られた。そして女の子がひとり、もう今は人妻だが、残された。むすこはひとりももったことがなかった。
グスターフ・フォン・アッシェンバッハは、中背というよりいくらか低く、ブリュネットで、ひげは生やしていなかった。きゃしゃともいえる姿にくらべて、頭は少し大きいように見えた。なで上げた髪は頭のてっぺんでうすくなっていて、こめかみのところでは密生してひどく白くなり、秀《ひい》でた、しわのある、傷あとがあるようなひたいをとりかこんでいた。ふちなしの金めがねのブリッジは、ずんぐりした、品よく曲がった鼻の根にくいこんでいた。口は大きくて、ときどきはしまりなく、ときどきは急にきゅっとひきしまっていた。頬《ほほ》のあたりはこけて、しわがあり、形のととのったあごにはやわらかい裂けめがあった。このたいてい悩ましげにかしげた頭の上を、重大な運命がすぎ去っていったように見えた。しかもそれは、ふつうは困難な、波かぜの荒い生涯がしあげるものであるあの人相学上の仕上げは、この場合は芸術によって行なわれたのである。
このひたいの奥で、ヴォルテールと大王との戦争についての、火花を散らすような対話の写しが生まれたのである。疲れたように、めがねの奥ふかくから眺めているこの目は、七年戦争の野戦病院の地獄を見た。個人的に見ても、たしかに芸術は高められた生活である。芸術は深い幸福を与え、早くおとろえさせる。芸術はそれに奉仕する者の顔に、想像の上で精神的な冒険のあとかたをきざみつけ、外的生活が僧院のようにひっそりしていてさえ、長い間にはふしだらな情熱と享楽にみちた生活でも生み出すことのできない神経の放逸、過度の繊細化、倦怠、好奇心を生み出すことができるのである。
三
世間的な、また文学上のいくつかの用意が、この旅をしたがっている人を、あの散歩のあと、まだほぼ二週間ばかりミュンヘンにひきとめた。とうとう、別荘を一か月以内に移れるように整えておくようにいいつけて、五月下旬のある日、夜汽車でトリエストへと旅立つと、そこでたった二十四時間滞在しただけで、翌朝ポーラへいく船に乗りこんだ。
求めていたのは異国風なところ、その場かぎりで、しかも手っとりばやく行きつけるところであった。そこでアドリア海の、この数年名の知れてきた島に滞在した。その島はイストリアの海岸のそばにあって、色とりどりのぼろぼろの服を着た、まるきり耳なれないことばで話す田舎の人たちがいて、海がひらけているところには美しく、ぎざぎざした岩礁《がんしょう》があった。
けれども、雨と重々しい空気と、小市民的で閉鎖的なオーストリアのホテルの同宿者と、ただなだらかな砂浜の与えてくれるあの落ちついて親しみのある海への関係のないことが不愉快にし、その場所が自分のきめたことにかなったところだという考えを起こさせなかった。どこへいこうということが自分にははっきりしないで、その心の傾向が落ちつかせなかった。船の連絡をしらべ、さがしまわってきょろきょろした。
するとだしぬけに、思いがけなくもあったし同時にあたりまえでもあったが、目ざすところが目の前にあった。一夜にしてくらべようのないところ、童話めいて異常なところへいきつこうと望むなら、いったいどこへいったろうか? が、それははっきりわかっていた。ここに何の用があったろう? 道をまちがえた。あそこへ旅行しようと思っていたのだ。かれは、このまちがった滞在をきりあげるのをためらわなかった。この島へついてから一週間半たって、快速のモーターボートがアッシェンバッハとその荷物を乗せて霧の深い朝、トリエスト軍港へつれもどした。すぐに桟橋《さんばし》をわたって、ヴェニス行きの出帆の準備のできている船のしめった甲板へ歩をはこぶためにだけ上陸した。
それはイタリア国籍の、古ぼけて、すすけた、陰気な船であった。アッシェンバッハが船に足をふみ入れるとすぐに、猫背のきたならしい船員がにやにやしながらも丁重に、ほら穴みたいな、人工照明の船腹内の船室にかれを案内した。机のうしろには帽子をななめにまぶかにかぶり、口のすみにすいさしの煙草《たばこ》をくわえた、古くさいサーカス団長みたいな顔つきの、やぎひげのある男がすわっていて、しかめっつらで軽快な事務的なしぐさで旅行者たちの名前や身分を書きとり、その人たちに切符をわたしていた。
「ヴェニス行き!」
と、男は腕をのばして、ななめに傾けたインクつぼの、おかゆのような残りかすの中にペンをつっこみながら、アッシェンバッハのたのみをくり返した。
「ヴェニス行き、一等! かしこまりました、だんな!」
そして、男は大きなかなくぎ流の字を書いて、箱から青い砂を字の上にふりかけ、それを陶器の皿の中にそそぐと、黄色いふしくれだった指で紙片を折りたたんでから、あらためて書いた。男は、その間もしゃべりとおした。
「じょうずにお選びになった旅の目的地でございます!
ああ、ヴェニス! すばらしい町ですよ! 教養のある方には、たまらなく魅力のある町です、その歴史からいっても、その現在の魅力からいいましてもね!」
男の身のこなしの如才《じょさい》ないすばしこさと、それにともなう中味のないおしゃべりには、何か人をぼうっとさせるもの、人の気持ちを変えさせるものがあった。まるで、この旅行者がヴェニス行きの決心をぐらつかせはしないだろうかと、それを心配してでもいるようでもあった。それから、手早く金を受けとると、賭博場の世話人みたいな器用《きよう》さで、しみのあるテーブルかけの布の上におつりを落とした。
「うんとお楽しみくださいよ、だんな!」
と、男は俳優みたいなおじぎをしながらいった。
「ご乗船くださいましてありがとうございます……みなさん!」
と、もうだれもサービスしてくれという人はなかったのに、まるで事務がどんどん進んででもいるように腕を上げて大声でいった。アッシェンバッハは、甲板へひきかえした。
欄干《らんかん》に片腕をもたせて、アッシェンバッハは船の出帆のときにいあわせようとして波止場をぶらぶらしているのんびりした人たちや、船の上の乗客たちを眺めていた。二等船客は、男も女も箱や荷物を椅子《いす》がわりに使って、前甲板にうずくまっていた。若者たちのグループが第一甲板の旅行団体を形成していた。イタリアへの小旅行としゃれこんで集まったポーラ市の店員らしかった。この人たちは、自分たちのことや、自分たちのくわだてのことを少々得意になって、しゃべったり、笑ったり、自分の身ぶりをうぬぼれて楽しんでいた。書類かばんをかかえて、仕事のために港通りにそって歩いていった同僚たちが、この仕事を休んでいる人たちをステッキでおどすと、この人たちは欄干から身をのり出して嘲《あざけ》りのことばを投げかけた。
うす黄色の、とびきりモダーンな型の夏服に赤いネクタイをしめ、思いきりめくれあがったパナマ帽をかぶったひとりの男が、ほかのみんなよりかん高い声で、目立ってはしゃいでいた。けれども、アッシェンバッハはかれをよく見たとたんに、それが本物の若者でないことに気がついて、一種のおどろきをおぼえた。
その男は老人だったのだ。疑いの余地はなかった。目と口のまわりがしわだらけだった。ほおのぼんやりしたえんじは頬紅で、色リボンを巻いた麦《むぎ》わらぼうしの下の褐色の毛は、かつらであった。首はげっそりしてすじばっていて、手入れした鼻下のひげと、あごと下くちびるの間のひげは染められていた。笑いながらのぞかせた黄色い、完全にそろった歯なみは安ものの入れ歯で、両手の人さし指に印形付きの指輪をはめた手は、老人の手であった。
ぞっとした気持ちになってアッシェンバッハは、老人と若者たちとのやりとりを見ていた。かれが年よりであること、不当にも若者たち同様におしゃれな、目もあざやかな服を着て、あつかましくも仲間のひとりであるようなふりをしていることをだれも知らないのだろうか、気がつかないのだろうか? いつものことでなれっこになっているように見えたが、若者は老人が自分たちの仲間になっているのをいやがりもせずに仲間あつかいして、わき腹をこづけばいやな顔もしないでまたこづきかえしているらしかった。
どうしてそうなったのだろう? アッシェンバッハはひたいを手でおさえて目をつぶった。目は寝不足でほてっていた。何もかもがまったく普通でないような、世界が夢のように日常から離れ、歪《ゆが》みはじめて、奇妙なものにぐんぐん変わりはじめたような気がした。この離れたり歪んだりする現象は、自分の視覚を少しさえぎってからもう一度あたりを眺めなおせば、ひょっとしたら制止することができるのかも知れなかった。
だが、この瞬間、水泳をしているような感じがした。そして、わけもなく驚いて目を上げると、重々しい陰気な船体が、そろそろと岸壁から離れていくのに気がついた。前に後にと機関が動いていくにつれて、波止場と船腹の間のきたなくきらきら光っている水のすじが、一インチ、また一インチと広がっていって、汽船はそののろのろとした操作がすむと船首の斜檣《しゃしょう》を沖へ向けた。アッシェンバッハは右舷の方へうつっていった。そこには猫背の船員が客のために寝いすをしつらえていて、しみだらけの燕尾服を着たひとりの給仕が、ご用はありませんかとたずねた。
空は灰色で、風はじめじめしていた。港や島々がうしろに残って、陸という陸がもやのかかった視界からたちまち消え去った。石炭のこまかいちりが湿気をふくんで、かわきそうもない洗われた甲板に落ちた。一時間後にもう雨が降りだしたので、帆布《はんぷ》の雨よけが張られた。
オーバーにくるまり、ひざの上に本をのせて、この旅行者は休んでいたが、意外に時間がたっていた。雨がやんだ。リネンの屋根がとりのけられた。水平線はすっかり見えていた。天の曇った丸天井の下に、荒涼とした海の、ものすごく大きな円盤がぐるりと広がっていた。けれども、何ひとつない、区別のつけられない空間の中では、われわれの感覚は時間の尺度がなくなり、われわれは測り知れないものの中で夢うつつになるものである。影のようにふしぎな人物、……あの年とったしゃれ者や、船の奥にいるやぎひげなどが、何ともいえない動作をし、わけのわからないことをぶつぶついいながら、この休息している人の頭の中をかすめていった。そのうち、寝こんだ。
正午ごろ、軽い食事のために廊下みたいな食堂へおりていくように、しきりにすすめられた。そこへは寝室になっている各船室のドアで連絡していた。アッシェンバッハは上席にすわって食事をしたが、長い食卓のはずれに、あの老人もふくめた店員たちが、十時からずっと陽気な船長といっしょにしたたか飲んでいた。食事はみすぼらしかった。アッシェンバッハはさっさと切りあげた。ヴェニスの上空は晴れそうなのかと、空を見に甲板へのぼっていきたくなった。
てっきり晴れるにちがいない、と考えた。それは、この市はいつでも自分を光り輝きながらむかえたからである。それなのに、空も、海も、どんよりと鉛色をしたままで、ときどき霧雨《きりさめ》まで降った。そこで、水路をとって、これまで陸路をとって近づいて目にしたのとはちがったヴェニスに着くのだとさとった。
アッシェンバッハは、遠くを眺めながら、陸地の見えるのをあてにして前檣《ぜんしょう》のところに立っていた。このうしおの中から円屋根や鐘楼がうかびあがったのを夢のなかで見た、ゆううつで、熱狂的な詩人を思い出した。あの頃、この格調の高い歌によせた畏敬と、幸福と、悲しみのいくつかをこっそりくりかえした。そして、早くも形になった感情にたやすく動かされて、新しい感激と混乱とが、おそまきながらの感情の冒険が、旅行中の不精者にもひょっとするとまだとっておかれているのではないだろうかと、自分のまじめな、くたびれ果てた心を吟味した。
すると、右手に平らな海岸が浮かびあがった。漁船が海をにぎわわせ、海水浴場のある島があらわれた。汽船はこの島を左手に残して、速度をゆるめながら、この島と同じ名のついたせまい港をぬけ、検疫《けんえき》のはしけをまたなければならなかったので、色とりどりな、みすぼらしい家々に面して、入江の中ですっかり停止した。
はしけが姿を見せるまで一時間かかった。すでに到着しているのに、いまだ到着してはいないというわけだった。別に急ぎはしなくても、やっぱりいらいらさせられた。若いポーラ市民たちは、公園のあたりから水の上をわたって聞こえてきた軍隊ラッパの合図に愛国心をひかれたようで、甲板に出るとアスチぶどう酒で元気づいて、向こうで教練しているイタリアの狙撃《そげき》兵にばんざいを送った。
けれども、不快なのは、あのおしゃれの老人がまちがって若者とつきあったあげくの果てにおちいった状態を見ることであった。年とった脳は、ワインに強い元気な若者の脳のようにアルコールに対処できないので、きのどくなほどべろべろに酔っていた。ばかみたいな目つきをし、ふるえる指にたばこをはさんで、やっとこさ平均をとりながら、一つところで酔いのために前へゆらゆらゆれていた。一歩でも歩けば倒れるかも知れないので、思い切ってその場から動きはしなかったが、それでも痛ましい陽気さで、そばにくる人たちのだれかれのボタンをしっかりつかんだり、舌たらずにしゃべったり、ウインクしたり、くすくす笑いをしたり、指輪をはめたしわだらけの人さし指をばかげたからかいのために上げてみたり、いやらしく、いかがわしいやり方で舌の先で口のまわりをなめまわしたりしていた。
アッシェンバッハは、眉《まゆ》をひそめてじっと老人を見つめた。そして、またまた世界が奇妙なもの、奇怪なものにみにくく変わっていく、かすかだが、しかも防ぎようのない傾向を見せているという、混迷の感情におそわれるのであった。こういう感情にふけることなど、もちろん事情がゆるさなかった。ちょうど今、機関のどしんどしんというような活動があらためてはじまり、船が目的地の近くでとめられた進行を、サン・マルコ運河を通ってまたつづけたからである。
こうしてかれは、ふたたびあの驚嘆するような上陸地を目にしたのである。それは共和国が、近づく航海者たちのうやうやしいまなざしにこたえて示す、空想的な建物の目をくらませるような構成であった。宮殿の軽快なすばらしさと、溜息橋《ためいきばし》〔罪人が法廷から牢獄に移されるときに渡った橋〕を、岸のライオンと聖者のついた柱を、童話に出てくるような寺院〔サン・マルコ聖堂〕のはなやかにつき出ている側面を、門道と大時計への見通す眺めを。
見上げながらアッシェンバッハは、陸を通ってヴェニスの停車場に着くのは宮殿に裏門から入るのと同じことで、今自分がするように、船で沖から、世にもふしぎなこの市にはいきつくべきものだと、つくづく考えた。
機関はとまり、ゴンドラがおしよせてきた。タラップがおろされ、税関吏《ぜいかんり》が船にのぼって、大ざっぱに仕事を片づけた。もう上陸をはじめてよかった。アッシェンバッハは、自分と荷物を、市とリドの間を通う汽船の発着所まで運ぶゴンドラがほしいと注文した。海辺に宿をとりたいと思ったからである。
アッシェンバッハの希望は聞き入れられ、ゴンドラの船頭たちがたがいに方言でいい争っている水面に向かって、その願いが大声でどなられた。まだおりていけない。はしごのような階段をたった今ひきずりおろされ、ひっぱられているかれのトランクがじゃまをしたのである。そこで、数分間はあのぞっとするような老人のあつかましさからのがれられないと思う。老人は、酔っぱらってふらふらになったあまり、知りもしないアッシェンバッハにさよならをする気になる。
「この上ない幸福なご滞在を、お祈りいたします」
と、右足をひきずってうしろにひいておじぎをしながら、ふるえ声でいう。
「どうか、お見知りおきを。Au revoir, excusez(さようなら、失礼いたします) bon jour《ごきげんよう》、閣下!」
口からよだれをたらし、目をつぶり、口のまわりをなめ、顎《あご》と年よりじみた下くちびるの間の染めたひげはさか立っている。
「どうぞよろしく」
と、指先を二本口にあてがって、まわらない舌でいう。
「どうぞよろしく、かわいい人に、いちばんかわいい人に、いちばんきれいなかわいい人に」
すると急に、上側の入れ歯があごからはずれて、下くちびるの上に落ちる。
アッシェンバッハは、のがれることができた。
「かわいい人に、きれいな、かわいい人に」
と、その男がロープの手すりにつかまってタラップをおりながら、ささやくような、うつろな、ひっかかったような声でいうのを背中に聞いた。はじめてのとき、それとも長いあいだ乗らないでいて、ヴェニスのゴンドラに乗る必要があるときに覚えるかすかな戦慄《せんりつ》、ひそかな恐れと不安と戦わないでよかった人があるだろうか。物語詩ふうな時代からまったく変わらず伝わっていて、あらゆるほかのものの中では、ただ棺《ひつぎ》だけがそうであるような、独特の黒い、奇妙な乗り物、……それは波のぴちゃぴちゃいう闇の中での、音をたてない犯罪の冒険を思い出させる。それ以上に死そのものを、棺と陰気な葬式と、最後の、沈黙した行路を思い出させる。そして、そういう小舟の座席、この棺のように黒くぬった、黒ずんだクッションのついたひじかけ椅子が、世にも柔らかく、贅沢《ぜいたく》で、人を無気力にする座席だということに気がついたであろうか。
アッシェンバッハは、船首にきちんとまとめてある自分の荷物と向き合って、ゴンドラの船頭の足もとにすわったとき、それに気がついた。船頭たちは、まだあいかわらず争っていた。乱暴に、聞きとれないことばで、おどすような身ぶりで。けれども、水の都特有の静けさは、この人たちの声をやんわりとうけ入れて、形のないものにし、潮の上にまき散らすように見えた。この港の中は暖かであった。
シロッコ〔地中海地方の南から南東までの山から吹きおろすフェーン性の暖かい風〕のいぶきになまぬるくなでられながら、思うままになる水の上で、クッションにもたれ、この旅人はなじみのない、甘ったるけだるさを味わって目をとじた。船路は短いだろうな、いつまでも続けばいいのに、とかれは考えた。かすかにゆれながら、雑踏と入り乱れた声からすべって遠ざかっていくのを感じた。あたりがなんとひっそりと、前よりもひっそりしたことだろう! 櫂《かい》を漕《こ》ぐばしゃばしゃいう音、急傾斜に黒くほこ槍のように武装されて水の上につき出ている小舟の船首にぶつかる波のにぶい音、そしてまた人の声、つぶやき、……それは船頭が歯の間でとぎれとぎれに、腕の仕事につれておし出された声でひとりごとをいうつぶやきであった。
アッシェンバッハは目を上げると、まわりに入江が広がり、舟の進みが沖に向かっていることに気づいた。したがって、あんまりのんびり休んでいないで、自分の意志の実行に少しは気をくばらなければならないように思えたのである。
「では汽船の発着所へだよ」
と、半分うしろを向いていった。つぶやきがやんだ。返事はもらえなかった。
「では汽船の発着所へだよ!」
と、くるりとうしろを向いて、ゴンドラの船頭の顔を見上げながら、もう一度いった。船頭は、かれのうしろの一段高いふなべりに立って、灰色の空を背にそびえ立っていた。ぶあいそうな、野性的な顔つきの男で、水夫らしい青い服を着て、黄色い飾りひもを巻き、編み目がほどけかけているぶかっこうな麦わら帽子を、やけに斜めに頭にのっけていた。目鼻立ちも、短くそりぎみの鼻の下に生やしたブロンドのちぢれた口ひげも、この人を全然イタリア系に見せていなかった。体つきはどっちかといえばやせぎすなので、この人の職業には特にふさわしくないように思われたかも知れないのに、この人は一かきごとに全身をうちこんで、大きなエネルギーを使って櫂をあやつっていた。二、三回、緊張のあまりきゅっと唇をうしろにひいて、白い歯をむき出した。赤っぽい眉を八の字によせて、はっきりとした、ほとんど乱暴な調子で、
「だんなは、リドまでおいでなんですぜ」
と答えながら、客ごしに向こうの方を見た。
アッシェンバッハはそれに対していった。
「もちろんさ。しかしぼくは、ただサン・マルコまで渡してもらうためにだけゴンドラをたのんだんだ。ぼくは、小蒸気船を使っていきたいんだよ」
「小蒸気船を使うこたあできませんぜ、だんな」
「どうしてできないんだね?」
「小蒸気船は荷物を運んじゃくれませんから」
そのとおりであった。アッシェンバッハは思い出して口を閉じた。が、このそっけない、なまいきな、外国人に対してあまりにもこの土地の者らしくない男の態度には、がまんできない気がした。そこでいった。
「よけいなおせわだ。荷物はあずけたっていいんだから。きみ、ひき返してくれるだろうな」
むっつりのままであった。櫂がぴちゃぴちゃいって、水がにぶくへさきを打った。人声とつぶやきがまたはじまった。ゴンドラの船頭が歯の間でひとりごとをいっていたのである。
どうしたらよかったのか? けれども、潮の上で、変にいうことをきかない、不気味なほどがんとした人間とだけいて、この旅行者は自分の意志をつらぬく手段がわからなかった。ところで、この男がさからいさえしなかったら、どんなにゆったりと休むことができたろうか! この航路が長くて、いつまでも続けばいいと、アッシェンバッハは望んでいたのではなかったか!
ものごとをなりゆきまかせにするのがいちばんかしこいし、それはまたおおむね何よりも最高に快かった。後ろにいる身勝手なゴンドラの船頭の櫂の動きにやわらかくゆられながら、座席から、この低くて黒いクッションのついたひじかけいすから、ものぐさの魔力がわき出るように思えた。悪人の手の中におちたという考えが、夢のようにアッシェンバッハの心をかすめた、……自分の考えを生き生きとした防御《ぼうぎょ》にふるいたたせることもできないで。
船頭の応対が、ただ|ゆすり《ヽヽヽ》をめざしているらしいことで、いっそう腹立たしく思われた。一種の義務感、それとも誇り、いわば予防しなければならないという思いつきが、もう一度気力をふるい立たせることができた。アッシェンバッハは聞いた。
「船で連れていったら、何がほしいのかい?」
かれの頭ごしに向こうを見て、船頭は答えた。
「払っていただきます」
このことばに何といい返したらいいか、それははっきりきまっていた。アッシェンバッハは機械的にいった。「もしきみがぼくを、ぼくのいきたくもないところへ連れていったら、何も払わないよ、全然、何も払わないよ」
「リドまでいくつもりでしょう」
「しかし、きみに連れていってもらわないよ」
「だんなをうまく連れていってあげますよ」
ほんとだ、とアッシェンバッハは考えて、ぐったりした。それはほんとうだ、きみはぼくをうまく運ぶ。たとえきみがぼくの現金をねらって、後ろから櫂の一撃でぼくをあの世へ送ったとしても、きみはやっぱりうまくぼくを運んだことになる。
けれども、そんなことは何も起こらなかった。それどころか、道づれの小船があらわれた。音楽による追いはぎ、つまり男女の歌い手がきたのだ。男女はギターやマンドリンに合わせて歌い、あつかましくもゴンドラすれすれにふなべりをつけて進み、水の上の静けさをこの人たちのものほしげな外国の詩歌でいっぱいにした。アッシェンバッハは、さし出した帽子の中へ金を投げた。その人たちは、だまっていってしまった。そして、ちょくちょくとぎれとぎれにひとりごとをいうゴンドラの船頭のつぶやきが、また聞こえるようになった。
こうして、市の方へいく汽船の残した波にゆられて、ゴンドラはやはり到着した。市の役人がふたり、両手を背にまわして、入江に顔を向けたまま、岸をいったりきたりしていた。アッシェンバッハは、ヴェニスの上陸地ではどこでもかならずかぎ竿《ざお》を持って待っている老人にささえられながら、桟橋《さんばし》をわたってゴンドラを去った。
小銭がなかったので、そこで両替えして船頭に自分の思うままの賃金を払うために汽船の桟橋の隣にあるホテルへ入った。玄関で用事をすませてもどってくると、波止場の手押し車の上に荷物がのせてあった。ゴンドラとゴンドラの船頭は消え去っていた。
「やっこさん、逃げたんですよ」
と、かぎ竿をもった老人がいった。「悪い男でさあ。免許をもっていないんですよ、だんな。やつが免許なしのたったひとりのゴンドラ船頭ですよ。ほかの船頭がここへ電話をかけてよこしましてね。やっこさんが待ちぶせされてるのがわかったんですよ。それで逃げだしたんです」
アッシェンバッハは肩をすぼめた。
「だんなは、ただで乗りなさった」
と、老人はいって、帽子をさし出した。アッシェンバッハは小銭を投げこんだ。荷物を海水浴ホテルへ運ぶようにいいつけてから、白い花の咲いている並木道を手押し車についていった。道は居酒屋や、市場や、下宿屋を両側にして、島を横切って海岸までのびている。
アッシェンバッハは広いホテルの裏側の、庭のテラスから足をふみ入れた。そして、大きいホールと玄関を通りぬけて帳場へいった。通知しておいたので、まめまめしいのみこみ顔でむかえられた。
マネジャー、黒い口ひげのある、フランス型のフロックコートを着た、小がらな、もの静かでこびるようにていねいな男が、エレベーターで三階に案内して、部屋を見せた。快い桜材の家具がそなえつけられてあった。室内は強い香りの花で飾られ、高い窓から沖を見わたせた。マネジャーがひきさがってから、アッシェンバッハは窓の一つへ歩いていった。うしろで荷物が運びこまれ、部屋の中にかたづけられている間に、午後らしく人気の少ない海岸と、満潮時で低くて長い波を静かな単調さで岸の方へ送っている、日のかげった海を眺めていた。
孤独で無口な人間のする観察や、出会う事件というものは、社交的な人のそれよりもぼんやりしてもいるし、同時にまた印象的なものでもあり、その考えはいっそう重く、いっそうふうがわりで、ほのかな悲しみがないではない。ちらっと見たり、ひと笑いしたり、意見を交換しただけであっさり片づくような表象や知覚が、過度にアッシェンバッハの心をとらえ、沈黙のうちに深刻なものとなり、重大となり、それが体験に、冒険に、感情になる。孤独は独創的なものを、思いきって異様なほど美しいものを、詩を、成熟させる。けれども、また孤独は不条理なものを、均斉のとれないものを、不合理なもの、許されないものを成熟させもする。
こうして、ここへくる旅で出会ったこと、「かわいい人」のたわごとをいったぞっとするような年とったしゃれ者や、営業を禁じられているあの貸金をもらいそこねたゴンドラの船頭のことが、今でもまだ旅人の心を悩ませた。それらはかれの理性を困惑させるわけではないし、思索することに素材を与えもしないのに、それにもかかわらずそれらは奇妙なものに思われ、その矛盾がこの人を不安にしたのであろう。
その合間に、目で海にあいさつして、ヴェニスがこんなに楽にいきつけるほど近くにあることに喜びをおぼえた。とうとう向きをかえて、顔を洗い、部屋つきのメードにこの快さをもっと完全なものにするために二つ三つさしずを与え、エレベーターを操作する緑色の服を着たスイス人に、一階までおろしてもらった。
海に面したテラスで紅茶を飲んで、それから下へおりて、海辺の散歩道をかなり遠くまでエクセルシオール・ホテルの方へとたどった。帰ってくるともう夕食のために着替えをする時間らしかった。着替えを丁寧にする習慣がついていたので、自分のやり方でゆっくり、きちんとやった。それでもまだ少し早めにホールにあらわれた。そこでは、ホテルの客の大部分がたがいに知りもしないので、わざとよそよそしくふるまいながら、それでも同じように食事を待ちながら集まっているのを見てとった。
テーブルから新聞の一つをとりあげると、革張りの椅子に腰かけて、最初の滞在地の連中とは自分には好ましくちがっている人たちを観察した。
広々として、たくさんのものを包みこんでいる水平線がひらけたわけだ。いろんな国々のことばが、おさえられてまじり合っていた。世界的に通用する夜会服、礼節の制服が、人間の違いを、外面的に上品な統一にまとめていた。アメリカ人のそっけない顔つきや、大勢ひきつれたロシア人の家族や、イギリスの婦人たちや、フランス人の保母のついたドイツの子どもたちが見えた。スラブ系の構成要素がまさっているように見える。すぐそばでは、ポーランド語が話されていた。
まだおとなになりきっていない一つのグループが、家庭教師か、それとも話相手の女の人に監督されながら、藤の小さいテーブルのまわりに集まっていた。十五歳から十七歳までらしい少女が三人と、十四歳ぐらいの髪の長い少年であった。アッシェンバッハは、その少年の非のうちどころのない美しさを見てびっくりした。青白く、上品で、うちとけにくい顔は蜂蜜《はちみつ》色の髪にとりかこまれ、まっすぐに通った鼻すじと、かわいらしい口と、やさしくこうごうしい、まじめさのある少年の顔は、いちばん高貴な時代のギリシアの彫刻を思わせた。そしてそれは形式的に純粋に完成しており、くらべものにならない個性的な魅力をそなえていたので、アッシェンバッハは、自然の中にも造形美術の中にも、これほど巧みに完成されたものには出会ったことがないと思ったのだった。
そのほかに注意をひいたのは、その姉弟の服装や、一般にしつけのよりどころにされているらしい教育上の見地が、姉たちと少年との間で、明らかに根本的な対照をなしている点であった。
いちばん年上のは大人とみなしてもよかったが、三人の少女たちの身ごしらえは、ぶかっこうに見えるほどしぶくて、ひかえめであった。一様に修道院ふうの服装、つまり青みがかった灰色で、あまり長くなく、平凡で、わざと型が体に合わない仕立てで、ただ一つ明るく見せている白い折りカラーで、どんな姿の魅力もおさえつけ、さまたげていた。すんなりと、きっちり頭になでつけられた髪が、顔を尼僧のように、うつろに、無表情に見せていた。たしかにここで采配《さいはい》をふるっているのは母であった。しかもこの母は、娘に必要だろうと思った教育的なきびしさを、少年にもあてはめようなどとは思いもしなかったのである。
柔和と甘やかしとが、明らかに少年の生活を定めていた。美しい髪にはさみを入れることが遠慮されていた。彫刻の「とげをぬく少年」みたいに髪はひたいに、耳に、またもっと深く首すじまでたれていた。イギリスふうのセーラー服は、ふくらみのある袖が先の方で細くなり、少年のまだ子どもっぽくはあるがしなやかな手をきっちり包んでいるが、服のモールや、あみ目や、ししゅうなどが、きゃしゃな姿に何か豊かなもの、ぜいたくなものを与えていた。
少年はじっと見つめているアッシェンバッハに横顔を見せて、黒いエナメル靴をはいた足を前後にし、片方のひじを藤いすのひじかけにもたせ、握った手を頬によせて、なおざりな姿勢で、姉たちのもうなれっこになっているらしい堅苦しさなどてんで見せもしないですわっていた。少年は病気だったのだろうか? 顔の皮膚が、まわりをふちどっている巻き毛の金色の黒っぽさに対して、まるで象牙のように白くきわだっていたのだ。それとも、ただかたよった気まぐれな愛情のおかげで、かわいがりすぎてわがままにされた秘蔵っ子にすぎなかったのだろうか。
アッシェンバッハはそう信じたかった。どんな芸術家かたぎの人間にも、美を創造する不公平をみとめ、貴族的な優遇に共感と敬意をささげるという、強烈でかくしおおせない傾向が、生まれつきあるものである。
ひとりのボーイが歩きまわって、食事の用意のできたことを英語で知らせた。みんなはガラス戸を通って次々に食堂へ消えていった。おくれた客が入口の間やエレベーターからやってきて通りすぎていった。食堂では給仕がはじめられたが、若いポーランド人たちは藤の小卓のまわりにじっとしていた。アッシェンバッハは深い安楽椅子《あんらくいす》に快く身をあずけ、さらに美少年を目の前にして、その人たちといっしょに待っていた。
背の低い、太った、赤ら顔の淑女まがいの家庭教師が、やっと立ち上がる合図をした。灰白色の服を着た、やたらに真珠で飾りたてた大がらな婦人がホールに入ると、家庭教師は眉をあげ、椅子をうしろへひいて頭を下げた。入ってきた婦人の態度は冷ややかで、慎重だった。うっすらと髪粉をふった髪のととのえ方といい、服の仕立て方といい、信心深さが気品の要素とみなされているところでは、どこでも趣味のよさを規定するあの質素さがあらわれていた。婦人はドイツの高官夫人で通ったことであろう。ただその装飾品のせいで、婦人の外観は、何かとほうもなく贅沢《ぜいたく》なものになっていた。イヤリングと、さくらんぼの大きさほどの、やわらかく輝く三連の長いネックレスの真珠は、とても値ぶみもできないくらいだった。
姉弟はさっと立ち上がり、母の手にキスするために身をかがめた。母親は、手入れはゆきとどいているが、それでもいくらかつかれを見せた、とんがり鼻の顔にひかえめなほほえみをたたえながら、子どもたちの頭ごしに向こうを見て、二言三言《ふたことみこと》、家庭教師にフランス語で話しかけた。それから、ガラス戸の方へ歩いていった。姉弟がそれにつづいた。娘たちは年の順に、そのうしろに家庭教師が、最後が少年であった。何かわけがあったのか、少年はしきいをまたぐ前にふりかえった。けれども、ホールにはほかにだれも残っていなかったので、少年の独特のうす暗い灰色のまなざしが、新聞をひざにおいてじっと見とれて一行を見送っていたアッシェンバッハの目と会った。
アッシェンバッハの見たものは、その一つ一つは特別に人目をひくものではなかった。母より先には食卓にいかないで、母を待ち、うやうやしくあいさつし、食堂に入るときもありきたりのマナーを守ったのにすぎない。それにしても何もかもが、行儀正しさと、義務と、自尊心のアクセントをつけてはっきりと現われたので、アッシェンバッハは何かふしぎに心をうたれたような気がした。
アッシェンバッハはそれからまだしばらくためらった後、自分もやはり食堂へ入って、小さいテーブルをおしえてもらった。確かめると、ちょっとがっかりさせられたのだが、あのポーランドの家族のテーブルとはずっと遠くはなれていた。
つかれてはいたが、それでも精神的には生き生きとして、長くつづく食事の間じゅう抽象的な、いや超越的なことを楽しみながら、人間の美がなりたつために法則的なものが個性的なものと交わらなければならない神秘的なつながりについてよくよく考え、そこから形式と芸術の一般的な問題へといき、最後には、自分の考えや思いつきは、目をさまして考えればまったくばかげた、役に立たないものにすぎないのに、あのうわべはすばらしい夢の天啓のようなものだということに気がついた。
食後、夕方らしい香りのする庭でたばこをすったり、すわったり、ぶらぶら歩いたりしてから、早めにベッドにいって、その夜を深い眠りですごしたが、夢の中に実にさまざまなことが去来した。
つぎの日も天気はよくなりそうになかった。陸風が吹いていた。灰色に曇った空の下に、海はどんよりとひっそりして、いわばちぢこまって味けなく、ま近に水平線を見せ、いくすじもの長い砂州をあらわすほど海岸からずっと遠くひいていた。アッシェンバッハが窓をあけると、入江のくさったようなにおいがするような気がした。
アッシェンバッハは不きげんになった。もうこの瞬間、出発を考えた。一度、数年前にここで楽しい春の数週間をすごしたあとでこういう天候に悩まされて健康をひどくそこねたので、ヴェニスを逃亡者のように去らないではいられなかったことがあった。あのときの熱っぽい不快が、こめかみの圧迫、まぶたの重さが、またまた起こってきはしないだろうか?
もう一度滞在地を変えるのはめんどうではあったろう。しかし風の向きが変わらないかぎり、もうここにはいられなかった。万一のために荷物をすっかり開きはしなかった。九時に、食事のためにあけてあったホールと食堂の間にある小じんまりした軽食堂で朝食をとった。この部屋には、一流のホテルの名誉心にはつきものの、おごそかな静けさがみなぎっていた。給仕をするボーイたちが足音をしのばせて行き来していた。茶器のかちゃかちゃいう音と、半分ささやくようなことば、聞こえるものはそれだけであった。ドアに対して斜めに向いた一隅の、自分のテーブルから二つはなれたところに、ポーランド人の少女が家庭教師といっしょにいるのをアッシェンバッハは見かけた。灰色がかった金髪をとかし直して、赤い目をし、小さな白い折りカラーとカフスのついたごわごわの青いリネンの服を着て、少女たちは姿勢正しくそこにすわり、ビンづめをたがいにまわしていた。ほとんど朝食はおえていた。少年の姿は見えなかった。
アッシェンバッハはにっこりした。やあ、ちびっこのプァイアケー〔古代ギリシアの伝説の民。「安楽な民」とされた〕め! きみはこのおねえさんたちとちがって、かってにじゅうぶんに眠る特権をもっているようだな、と思った。そして、急にほがらかになって、ひとりで詩句を口ずさんだ。
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たびたび変えた装飾品と、湯あみと、眠り。
〔「オデュセイア」に出てくるプァイアケーの王の言葉〕
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ゆっくり朝食をとり、金モールのついた帽子をぬいでホールへ入ってきた門衛の手から、回送された数通の郵便を受けとって、たばこをすいながら手紙を二、三通開いた。だから、向こうの席で待ちうけられていたねぼすけの少年が入ってきたときにも、まだそこにいあわせることになった。
少年はガラス戸から入って、ひっそりした中を斜めに部屋を横切って姉たちのテーブルへ歩いていった。歩き方はその上体の姿勢といい、ひざの動きといい、白い靴をはいた足のふみ出し方といい、異常に優美で、ひどく軽やかで、同時にしなやかで、気品があり、途中で二度ホールの方へ頭を向けながら目をあげたりさげたりしたときの子どもっぽいはにかみのために、いっそう美しくなった。
少年は、にっこりしながら、やわらかくてはっきりしないポーランド語の低いことばで何やらいいながら、席についた。そして今、とりわけ少年はじっと見ている人の方へ正確な横顔を向けたので、この見ている人はあらためてびっくりした、いえ、人の子の神にも似たその美しさにびっくりしたのである。少年は、きょうは青と白の縞《しま》もようの麻の、軽快なセーラー服を着ていた。胸に赤い絹のあみ目をあしらい、首はひとえの白いカラーでしめられている。服のスタイルとは優雅にはつりあいそうもないこのカラーの上には、くらべものもないような愛くるしさで、頭という花がのっかっていた……それはパロスの大理石の、黄色っぽい光沢をおびたエロスの神の頭であって、細くきまじめな眉をして、こめかみと耳は直角に曲がっている巻き毛で黒っぽく、やわらかくおおわれていた。
けっこう、けっこう! とアッシェンバッハは、芸術家がときどき傑作に向かって歓喜と魅惑をかくすときの、あのくろうとらしい冷静な是認《ぜにん》をして考えた。そして、またこうも考えた、たしかに海と海岸はぼくを待ちうけてはいなかった、でも、ぼくはきみがいるかぎりここにいる!
少年は従業員たちに見まもられながら、ホールをぬけて、広いテラスへおりると、まっすぐ板橋をわたってホテル客用の仕切られた海辺へ出ていった。リネンのズボンをはき、セーラー服に麦わら帽すがたで、下で水泳場係りとして働いていたはだしの老人に、海辺の貸し小屋をわりあててもらうと、砂だらけの板ばりの台にテーブルと椅子を出させた。少年は寝椅子を自分でもっと海のそばの蝋黄色の砂のところまで引きずっていくと、気持ちよくそれに身をのばした。
海辺の光景、水のほとりでのんきに、官能的に楽しんでいる人々の眺めは、今までになくかれを楽しませ、喜ばせた。灰色の浅瀬は、水の中を歩きまわる子どもや、泳ぐ人や、頭の下に腕を組んで砂浜に寝そべっている色とりどりの人々でにぎわっていた。小さな赤や青にペンキをぬった竜骨《りゅうこつ》のないボートをこぎ、また笑いながらひっくり返している人がいる。長くのびた海水小屋の列の前の張り出し台の上に、小さなベランダにいるようにすわっている人もいた。遊びたわむれる動きとものぐさに身をのばした安息と、訪問と、おしゃべりと、この場所の自由を大胆に快適に享楽している裸とならんで、念入りな朝のよそおいをした人もみられた。
前のしめった固い砂の上に、白い海浜マントを着たり、ゆったりした、濃い色のシャツを着た数人が、そぞろ歩きをしていた。子どもがこしらえた右手のさまざまな砂の城に、色とりどりの小さい国旗が、ぐるりとさしてあった。貝がらや、ケーキや、果物を売る人が、うずくまって商品をひろげていた。
左手に、ほかの小屋とは斜めに、浜辺に向かってならんでいる小屋があった。その側で浜辺がおしまいになる一軒の前で、ロシア人の一家族がキャンプをしていた。ひげを生やし、大きな歯の男たち、くたくたになった気力のない女たち、画架に向かってすわりながら絶望の叫び声をあげて海を描いていたバルト海岸系の少女、気立てのよさそうな二人のみっともない子どもたち、頭に布をかぶってやさしくへりくだった奴隷のようにふるまう老女中が。この人たちは感謝して楽しみながら、そこで日を送っていた。いうことをきかないで走りまわる子どもたちの名前をひっきりなしに大声でよんだり、砂糖菓子を売り歩くおどけた老人と、わずかなイタリア語でじょうだんをいったり、たがいの頬にキスし合い、自分たちの人間らしい団らんをだれに見られようと平気であった。
だから、ぼくは滞在しよう、とアッシェンバッハは考えた。ここよりほかに、どんないい場所があろう? ひざに手を組んで、目を遠くの海にさまよわせ、荒涼とした空間の単調なもやの中にまなざしをすべり落とさせ、かすませ、屈折させた。アッシェンバッハは海を、深い理由から愛していた。それは、現象の気むずかしい多様から単純なもの、巨大なものの胸の中に身をかくそうとする、つらい仕事をする芸術家の安息の欲求からであった。また、禁ぜられた、自分の使命とはまったく反する、それだからこそまた誘惑的な、組織のないもの、際限のないもの、永遠なもの、無への愛着からである。完全なものに憩《いこ》うことは、すばらしいもののために努力する人の憧れである。無は完全なものの一つの形ではないのか?
ところがこうしてアッシェンバッハが今、こんなに深く虚無を夢見ていたとき、急に岸のふちの水平線を一つの人影が横切った。まなざしを制限のないものからとりもどして集中したとき、そこにあの美しい少年がいた。少年は左からきてかれの前の砂地を通りすぎた。水の中を歩く用意をして、ほっそりした足をひざの上までむき出しにし、はだしで、ゆっくりではあったが、靴をはかずに動くのにはまったく慣れているとでもいうように、軽快に、また堂々として歩いた。そして、斜めに立っている小屋をふり返った。
けれども、その小屋で感謝のうちにむつまじく自分たちの本領を発揮しているロシア人の家族を見るか見ないうちに、怒ったようなあなどりの表情が少年の顔にみなぎった。ひたいは曇り、口はつり上がり、唇から一方へかけて立腹したひきつりが頬を引きさいた。眉はとてもひどくひきよせられたので、その力で目がくぼみ、意地悪く、陰気に、にくしみの色を現わしていた。少年は目をふせ、もう一度おどすようにふり返った。それから、肩で激しく投げ落とすような、身をひるがえすようなしぐさをして、敵をあとにした。
一種の思いやりか、それともおどろきか、尊敬と恥ずかしさのようなものを感じて、アッシェンバッハは何も見なかったかのようによそを向いた。あの情熱をたまたま見てしまったこのまじめな観察者には、自分の知覚したことをただ自分のためにさえ使うことに抵抗を感じたからである。けれども、晴れやかになり、同時に感動させられた、つまりうれしかったのである。善良な人生の一部分に向けられたこの子どもっぽい熱狂、……これは神的に無意味なものを人間的な関係の中に置き、ただ目の保養にしかすぎなかった優れた自然の彫刻を、いっそう深い関心に値するように見せた。そして熱狂は、それでなくてもその美しさのために貴重な存在であるこの少年に、年令以上にまじめにとりあつかってもよいという箔《はく》をつけたのである。
まだわきを向いたままアッシェンバッハは、少年の声、かん高いがいくらか弱々しい声に耳をすませた。その声で少年は、遠くから砂の城のまわりでいそがしく動きまわっている遊び友だちに、自分がやってきたことを知らせようとした。少年の名か、それとも少年の愛称を、みんなは何度か呼びかけてこの少年に答えた。アッシェンバッハは好奇心にかられてその声に耳をすませた。呼びかけるために語尾のUの音を長くのばした「アドジオ」とか、また「アドジュ」とも聞こえるような調子のいい二つのつづり以外には、はっきりしたことはつかめなかったけれど。
アッシェンバッハは、このひびきを喜んだ。そのひびきが耳に快くて、あの対照にふさわしいと思ったので、こっそりくり返すと、満足して手紙と原稿に向かった。
小さい旅行用の紙ばさみをひざにのせて、万年筆であれこれの手紙の仕事を片づけはしめた。けれども、十五分もするともう、この状態、自分の知っているもののうちでいちばん楽しみがいのある今の状態を、こんなふうに忘れて、どうでもいい仕事のためにとりにがすなんて残念だと思った。そこで筆記道具をわきへおいて海へもどった。そして、間もなく砂の建物のそばの子どもの声に心をひかれ、頭を気持ちよく椅子のよりかかりにもたせたまま、すばらしいアドジオのふるまいをもう一度さがしだそうとして右に向けた。
最初の一瞥《いちべつ》で、もう少年は見つかった。胸の赤いあみ目はすぐそれとわかった。ほかの子どもたちといっしょに古い板を橋にして砂の城のしめった堀の上にわたしながら、少年は大声をあげたり、首で合図したりしてこの仕事を指図していた。少年といっしょに、ほぼ十人の仲間、少年とおない年か、また何人かのもっと年の少ない男の子や女の子がいた。仲間はいろいろな国語、ポーランド語や、フランス語や、あるいはバルカンの方言で、がやがやしゃべっていた。
けれども、少年の名前がいちばんたびたび響いてきた。どうやら慕《した》われ、仲よくしてくれといわれ、賛美されているらしかった。ことに少年と同じポーランド人のひとりで、「ヤシュ」とかよばれている、黒い、ポマードをつけた髪の、リネンのベルトつきの服を着たがっしりした少年は、少年のいちばん身近の家来であり、友だちでもあったらしい。砂の建築の仕事がひとまずおわると、ふたりは抱き合うようにして海岸ぞいに歩いていった。そして、「ヤシュ」とよばれている少年が、あの美少年にキスした。
アッシェンバッハは、その少年を指でおどしてやりたいような気持ちになった。
「だが、きみに忠告するがね、クリトブーロス〔ソクラテスの弟子クリトンの息子で、美少年に接吻したことでソクラテスが次の忠告を与えた〕」と、ほほえみながら考えた。「一年間、旅にいくがいい! 回復〔美少年にキスしたことで受けた心の痛手の回復〕のためには少なくともそれだけの時間が必要だもの」
それから、かれは朝食に、商人から買った大きな、よく熟したいちごを食べた。太陽は空のもやの層をつき破れないのに、とても暑くなってきた。感覚は凪《なぎ》のしびれるような楽しみを味わっているのに、怠惰《たいだ》が精神をしばりつけた。ほぼ「アドジオ」と聞こえる名はどういう名前だろうかと、それをおしはかり、調べることが、このまじめな男にとってはふさわしい、完全に果たすべき使命であり、仕事であるように見えた。そして、覚えているいくつかのポーランド語をたよりに、とうとう「タデウシュ」の略語で、よびかけでは「タドジウ」と聞こえる「タドジオ」にちがいないとつきとめた。
タドジオは海水浴をしていた。その姿を見失っていたアッシェンバッハは、少年の頭と、漕《こ》ぐようにふりまわす腕を遠くの海の中に見つけた。海がずっと遠くまで浅いようだったから。けれども、もうタドジオは気づかわれているらしく、少年をよぶ女の声が小屋から聞こえて、またまたあの名がさけばれた。名前はほとんど合言葉のように海辺を支配し、やわらかい子音と、そのおしまいの長くひっぱったUがあるので、何となく甘い、それでいて荒っぽいものをもっていた。「タドジウ! タドジウ!」と。
少年はもどってきた。さからう水を足でけって泡立たせ、頭をぐっとうしろにそらせて潮の中を走った。その生き生きとした姿が、一人前になる前のやさしさと不愛想さで、巻毛《まきげ》から水をしたたらせ、神のように美しく空と海との深みからあらわれて、水からあがり、走り出した。この眺め、神話的な表象を暗示したこの眺めは、原始時代についての、形式の起原についての、神々の誕生についての詩人の報告であった。アッシェンバッハは目をとじて、自分の内にひびきはじめる歌に耳を傾けた。そして、またしてもここはいい、ここに滞在しようと考えた。
あとで、タドジオは水泳をひと休みして、右の肩の下に通した白いバスタオルに包まれ、頭をむき出しの腕にのせて砂に横たわっていた。アッシェンバッハは少年をじっと見ないで本を二、三ページ読んでいたが、少年がそこに寝ていること、すばらしいものを見るにはちょっと頭を右へ向けさえすればいいのだということを、決して忘れはしなかった。なんだか自分がこの休息している人を守るためにここにすわっているような気がした、……いくつかの自分の仕事をやりながらも、やっばり右手の方のあまり遠くないところにいる高貴な人の姿にたえず注意をした。
すると、自分を犠牲にして、精神の中で美しいものを作りだす者が、美しさをもっている者に寄せる父親のような愛情、その感動的な偏愛《へんあい》がかれの心をみたし、動かした。
昼すぎに、アッシェンバッハは海岸を去ってホテルへもどり、部屋の前までエレベーターで運んでもらった。部屋の中で、かなり長いこと鏡の前にとどまって、灰色の髪と、疲れたきつい顔をじっと見ていた。この瞬間、自分の名声を考えた。大勢の人が自分の優美にしあげられた文章のために自分を知っていて、通りすがりにうやうやしく自分を眺めることを考えた、……心にうかぶかぎりの自分の才能のすべての外面上の成功を思いうかべた。そしてそれどころか、自分が貴族に列せられたことをも考えた。
それから、昼食をとるために食堂へいって、自分の小さいテーブルで食べた。食事がすんでエレべーターに乗ると、やはり昼食をおえた若い人たちがうしろからこの浮かぶ小さい部屋につめかけた。タドジオも入ってきた。そしてアッシェンバッハのすぐそばに立った。はじめてそんなに近くに立っていたので、アッシェンバッハは少年を彫像を見るのにふさわしい距離からでなく、正確にその人間らしさのひとつひとつまでつくづく眺めた。
少年はだれかに話しかけられたが、なんともいえない愛くるしさでほほえみながら答えている間に、二階につくともうあとずさりしながら伏し目がちに出ていった。美しさは恥ずかしがりやにする、とアッシェンバッハは考えて、なぜだろうかとつっこんで考えてみた。けれども、タドジオの歯はあまり好ましいものではないことに気がついた。いくらかぎざぎざで青白く、健康そうなつやがなく、ときどき萎黄病《いおうびょう》患者に見られる独特のもろさと透明さをもっていた。少年はとてもきゃしゃだ、病身なのだな、とアッシェンバッハは考えた。どうやら長生きはしないらしい。そして、こういう考えにともなっていた満足や安心の感情を深く追求しようとは思わなかった。
アッシェンバッハは自分の部屋で二時間過ごし、午後、小蒸気船でくさったにおいのする入江を横切ってヴェニスへいった。サン・マルコ教会のそばでおり、広場で紅茶を飲んでから、ここでの自分のスケジュールによって通りをぶらぶら散歩しはじめた。ところがこの散歩こそ自分の気分と決心に、すっかり急変をもたらしたのであった。
不快なむし暑さが路地にこもっていた。空気はとてもよどんでいたので、住宅や、商店や、飲食店などからあふれるにおい、つまり油の煙だの、香料だの、そのほかたくさんの蒸気が、散らばりもしないで煙となって残っていた。たばこの煙さえひとつところにただよっていて、ゆっくりと消えていった。狭いところの人々の押し合いは、この散歩者を楽しませるどころか、悩ませた。長く歩けば歩くほど、海風がシロッコといっしょになって作りだすこの興奮と無気力のいやな状態に、ますます苦しくとらえられた。あぶら汗が出た。目はかすんで、胸はしめつけられそうであった。熱っぽくなり、血が頭の中でずきんずきん脈うった。
混雑した商店街から、橋をわたって貧しい人たちの住む通りへ逃げた。そこでは乞食になやまされ、運河のいやな蒸気で息をつくのもいやになった。静かな広場で、ヴェニスの中央にあるあの忘れられた、また魔法にかけられたような気持ちにさせる場所の一つで、泉のふちにひと休みしながら、ひたいをぬぐい、この町を出るほかはないな、とさとった。
この町がこの天候では最高に有害であることが、二度目に、また決定的に証明された。強情にがまんすることは不合理だと思えた。風向きが急に変わることはまったく不たしかだった。すばやく決めることが必要であった。今はもう自宅へ帰ることなどできなかった。夏の家も冬の家も自分を受け入れる用意はできていなかったのである。
けれども、海と海辺があるのはここばかりではない。ほかのところには入江や熱気といういやなおまけのつかない海と海辺があった。そこでトリエストからあまり遠くない、とてもいいと聞かされたある小さな海水浴場を思い出した。どうしてそこへいかないのか? しかもまたもや滞在地を変えることがむだにおわらないためにもぐずぐずしないで、である。
決めた、とはっきりひとりごとをいって立ち上がった。すぐ近くのゴンドラの船着場で乗り物をやとうと、運河のにごった迷路を通り、ライオンの像で側面を飾られた大理石のバルコンの下をすぎ、つるつるした壁の角をまがり、ごみの間にゆれている水に大きな商会の看板をうつしている悲しそうな宮殿の正面を通りすぎて、サン・マルコ教会の方へわが身を運ばせた。
そこまでいくのに、骨をおった。レース工場や、ガラス器製造工場と結託しているゴンドラの船頭が、あっちでもこっちでも見物と買い物のためにおろそうとしたからである。そして、ヴェニスを通る奇怪な船路がその魅力をあらわしはじめると、このおちぶれた女王の|すり《ヽヽ》のような商才がまたしても心根をいまいましくも冷静にするという勤めをはたした。
ホテルへもどると、まだ夕食にならないうちに、フロントで、思いがけない事情であすの朝早く出発しなければならないことをはっきりといった。残念がられながら勘定を払った。食事をとってなま暖かい夕べを雑誌を読みながら、裏のテラスの安楽椅子で過ごした。寝る前に出発にそなえて荷物をすっかりまとめた。
迫っている再出発が不安だったので、ぐっすり眠れなかった。朝、窓をあけると空はあいかわらず曇っていたが、空気はもっとさわやかで、またもや後悔しはじめた。あの解約の通告は軽率でまちがってはいなかったか、病的で、普通ではない状態の行為ではなかったか? もしあの通告をもう少しひかえておいたなら、あんなにせっかちに気を落とさないでヴェニスの空気になじんでみようとしたり、天候の回復をなりゆきまかせにしたなら、こんなにあせったり苦労したりすることもなく、きのうと同じように午前を海岸で過ごすことができたのに。手おくれだった。今は、自分がきのう決心したことを実行しようと思いつづけるほかはなかった。服を着ると、八時に朝食をとりに一階へおりた。
小さい食堂に入ったときにはまだ客ひとりいなかった。席について注文したものを待っているうちに、ぼつぼつ人がやってきた。かれは紅茶茶わんを口にあてて、ポーランドの少女がつきそいの婦人といっしょにあらわれるのを見ていた。その人たちは、まじめに、また溌剌《はつらつ》とし、赤い目をして窓ぎわのすみの自分たちのテーブルへ歩いていった。
それから間もなく、ぬいだ帽子を手にして門衛がやってきて、出発をうながした。エクセルシオール・ホテルまで自分とほかの旅行者を送る自動車の準備ができていて、ホテルからモーターボートが組合の私設の運河を通って駅まで送るはずで、もう時間はいっぱいだ、ということであった。……アッシェンバッハは、時間は決してぎりぎりでないと思った。列車の出発までまだ一時間以上あった。出発する人を早めに送り出すというホテルのならわしに腹が立ったので、門衛に、ゆっくり朝食をとりたいのだといった。その男はもじもじしながら引きさがったが、五分するとまたやってきた。もうこれ以上車は待てないといった。そんなら荷物だけのせていってくれ、自分は決められた時間に乗合の小蒸気船でいくから、いつ出発しようと勝手にさせてくれと、アッシェンバッハはむっとして答えた。
従業員はおじぎをした。アッシェンバッハはうるさい催促を追い払ってほっとして軽い食事をゆっくりすませた。いや、それどころかボーイに新聞まで持ってこさせた。やっと立ち上がったときにはもう時間は本当にぎりぎりだった。たまたまこの瞬間に、タドジオがガラス戸から入ってきた。少年は家族のテーブルへいきながら、この出発する人とすれちがった。白髪の、ひたいの広い男の前で、少年はひかえめにいったん目を伏せると、例のかわいらしいやり方でもう一度やわらかく、まともに目を上げて通りすぎた。さよなら、タドジオ、とアッシェンバッハは思った。ほんのちょっとの間しか会わなかったね。
自分の習慣に反して、この思ったことを唇の形であらわしてひとりごとをいいながら、
「ごきげんよう!」
と、つけ加えた。
それから出発した。チップを分け、フランスふうのフロックを着た小がらでもの静かなマネジャーに別れのあいさつをし、きたときと同じように歩いてホテルを出ると、手荷物をもった宿のポーターにつきそわれて白い花の咲く並木道を通り、島を横切って蒸気船の桟橋《さんばし》に向かった。そこに着いて坐を占める。……そしてそのつぎにきたものは、悲しい、さまざまな後悔に苛《さいな》まれる苦難の道であった。
入江を横切り、サン・マルコのそばを通って大運河をのぼる、よく知っている船路であった。アッシェンバッハは手すりに腕をもたせて、手を口の上にかざしながら、へさきの丸いベンチに腰をおろしていた。公園はあとに残り、小広場はもう一度堂々とした優美さで姿をあらわし、去っていった。宮殿の大きな列が見えてきて、水路がカーブすると、リアルト橋のみごとに張りわたされた大理石の弧《こ》があらわれた。
この旅行者はじっと眺めながら胸のはりさける思いであった。この市の雰囲気を、それから逃げだすようにかれをせきたてた海と沼とのかすかにくさったようなにおいを……今それを深く、愛のこもったせつない息づかいで吸いこんだ。このすべてのものに自分の心がどんなに愛着していたかに気づきもせず、考えてもみなかったなどということは、ありえたのだろうか? けさは半分心にひっかかり、自分の行動の正しさについてのかすかな疑いであったものが、今は深い悲しみに、本当の苦痛になり、たびたび涙ぐませ、自分でも予想できなかったとみとめたほどつらい心の苦しみになった。そんなにたえがたく、いえ、ときにはどうしてもたえられないと感じたものは、明らかに、もう二度とヴェニスを見ることはあるまい、これが永久の別れだという考えであった。この市がかれを病気にするということが証明されたのはこれで二度目だし、この市をあわてて逃げ出さずにいられなくなったのも二度目なのだから、これからは自分にとって、ここはたえられなくて、再びおとずれる意味もないような、自分にとっては禁ぜられた滞在地とみなすほかはなかったからである。そのうえに、もし今旅立ってしまえば、二度も肉体的にだめであったこのなつかしい市をいつかもう一度見ることは、羞恥心と反抗心とがじゃまするにちがいないと思った。こうして心の愛着と体の能力との間の争いは、この中年の男にとってはとても重要であり、肉体的に負けることは恥ずかしいことであり、どんな犠牲をはらっても防がなければならないものに思われたので、きのうあまり真剣にたたかいもしないで負けをみとめる決心をした軽はずみなあきらめが、自分にもわからなかった。
そのうちに小蒸気船は駅に近づいて、苦しさと途方にくれた気持ちは困惑にまで高まった。この悩んでいる人には出発は不可能に思われたが、引き返すこともまた不可能であるように思われた。すっかり傷心して停車場に入る。もうとてもおそい。列車に間に合うためには、一瞬もぐずぐずしてはいられないのだ。乗りたくもあるし、乗りたくもない。けれども、時間は迫って、前へとむちうつ。いそいで切符を買い、ホールの雑踏の中にホテル組合から配置されている係り員を見まわす。その人が現われて、大きいトランクはあずけたと告げる。もうあずけてしまったって? はい、ちゃんと……コモあてに。コモだって? せわしげなやりとりがあり、かんかんになった問いとまごついた答えから、荷物はすでにホテル・エキセルシオールの荷物運送係りの手でほかの人の手荷物といっしょに、とんでもない方向へ送り出されたことがわかった。
アッシェンバッハは、こういうなりゆきの中でたった一つもっともだと思われる顔つきをたもとうと努力した。冒険的な喜び、ある信じられない朗らかさが、心のうちから一種の痙攣《けいれん》のように胸をゆさぶった。係り員はトランクの発送を止めようとしてつっ走っていったが、思ったとおり目的をはたさないでもどってきた。
そういうわけでアッシェンバッハは、荷物なしで旅行はしたくないので、ひき返して海水浴場のホテルで荷物の戻るのを待つことに決心した、といいわたした。組合のモーターボートは駅にいるかと聞くと、その男は戸口にいるときっぱりいった。それから、イタリア語で出札係りに向かって雄弁に、買った切符を払いもどすようにさせ、トランクをすぐにとりもどすために電報を打つように費用も手間もおしまずにいたしますと誓った。こういうわけで、この旅行者が駅へ着いて二十分後には、またまた大運河をリドへの帰路についているという、奇妙なことが起こった。
ふしぎに嘘のような、恥ずかしくて滑稽《こっけい》で、夢みたいな冒険。たった今とても悲しんで永久の別れを告げた場所に、運命によって向きを変えられ、ひきもどされ、同じ時間のうちに再会するなんて! へさきに泡を立てて、小さなせっかちな乗り物は、おかしいほどすばやくゴンドラと蒸気船の間をじょうずにすりぬけながら目的地へと突進した。一方そのたったひとりの乗客が腹立たしげにあきらめたふりをしながら、脱走した少年のような陽気な興奮をかくしていた。まだあいかわらず、胸は災難についての笑いに動かされていた。その災難はかれが自分にいったように、幸運児にさえこれほど親切にふりかかることはできなかったろう。これからホテルの従業員に説明しなければならないし、先方のびっくりした顔をがまんしなければならない。……そしたら、何もかもまたよくなる、それがすめば一つの不幸はさけられ、重大なあやまちは正され、あとに残したと思った何もかもが、もう一度自分の前に開かれ、欲するだけの時間がまた自分のものになるのだと、アッシェンバッハは自分にいった……それはそうと、このすごいスピードのために自分が錯覚しているのか、それとも本当に風までがこんなに強く海から吹きつけてきたのか?
波が、島をつらぬいてエクセルシオール・ホテルまで通ずるせまい運河のコンクリートの壁を打った。もう一度帰ってきた人をそこでバスが待っていて、波立つ海の上の道をまっすぐに海水浴ホテルに運んだ。すその長いフロックを着た、小がらの、口ひげを生やしたマネジャーがあいさつをしに、建物の前から外へ通ずる階段をおりてきた。
マネジャーは小声で、おべっかをつかうような調子で、災難を気の毒がり、自分にとってもホテルにとってもきわめて心苦しいことだといったが、荷物の着くのをここで待つというアッシェンバッハの決心にはきっぱりと賛成した。もちろんかれのいた部屋はふさがっていたが、別の、もっといい部屋をすぐに用立てるといった。
「Pas de chance, monsieur(チャンスがありませんでしたねえ、だんなさま)」
と、上にのぼるときにスイス人のエレベーターボーイがほほえみながらいった。こうしてこの逃亡者はもう一度、位置も設備もほとんどまったく前と同程度の部屋に泊められた。
この奇妙な午前のごたごたでくたくたになって、ぼんやりして、ボストンバッグの中味を部屋に分けておくと、開いた窓ぎわの安楽椅子《あんらくいす》に腰をおろした。空はまだ灰色だったが、海はうすみどり色になって、空気は前よりも澄んでもっと清らかに、小屋とボートのある海岸は前より色どりをそえて見えた。
アッシェンバッハは両手をひざに組んで、ふたたびここにいることに満足し、また、自分の気まぐれと自分の望みを知らなさには不満足を感じて、頭をふって外を見た。こうして一時間ばかり、体をやすめ、何も考えないで夢みながらすわっていた。
昼ごろ、タドジオを見かけた。赤いあみ目のある縞《しま》のリネンの服を着て、海岸の柵《さく》を通りぬけ、板ばりの道にそって海からホテルへ帰ってきた。アッシェンバッハは少年の姿がしっかりと目に入らないうちに、この高いところからすぐにそれとわかった。そして、よお、タドジオ、きみもまたそこにいるのかい! と、こんなことを考えようとした。けれどもこの瞬間、このいいかげんなあいさつが自分の心の真実の前にくだけて、だまりこんでしまうのを感じた。……血の感激を、魂の喜びと苦しみを感じた。そしてタドジオのためにあんなに別れがつらくなったのだなと気がついた。
アッシェンバッハはひっそりと、高い場所にだれにも見られないですわって、自分の心の中を見ていた。その表情は生き生きとし、眉は上がり、注意深い、好奇心にみちたほほえみが、口もとをひきしめた。それから、頭を上げ、だらりと安楽椅子のひじかけからさがっていた両うでで、手のひらを前に向けながらゆっくりとまわしたり上げたりする動作をした。まるで腕を開いてひろげるのを示すかのようにである。それは、心からすすんで歓迎することを意味する、ゆったりと受け入れる身ぶりであった。
四
今はくる日もくる日も、天の空間を、熱い頬をした神〔太陽神ヘリオス〕が裸《はだか》で、焔《ほのお》をはき出す四頭立ての馬車を走りまわらせた。神の黄色いちぢれっ毛は、嵐のように吹きはじめる東風の中でひらひらとはためいた。白っぽい絹のような輝きが、だるそうに波立つ海《ポントス》のあたりに横たわり、砂は焼けつくように熱かった。銀色にちかちかする天空の青さの下に、海辺の小屋の前にさび色の帆布《はんぷ》が張られ、そのためにできたくっきりとした影の斑点のなかで、人々は午前の時間をすごした。
けれども、庭の草木がかんばしい香りをはなって、空の星が輪舞のステップをふみ、暗闇にかこまれた海のつぶやきがそっとしのびよって魂と語り合うときには、夕方もまたすばらしかった。そういう夕方は、手ぎわよく準備された閑暇と、けっこうな偶然の無数にぎっしりとならんでいる可能性のある、楽しい休日の保証をふくんでいた。
あんなにつごうのいい災難のおかげでこの地にひきとめられた客は、その荷物をとりもどしたとしても、それがあらためて出発する理由になるとはてんで思わなかった。二日間はいくつかの不自由をがまんしなければならなかったし、大食堂での食事に旅行着のまま姿を現わさなければならなかった。それからやっと迷い子になった荷物がもう一度自分の部屋におろされると、さしあたり無期限の滞在を決心して、海岸での時間は絹の服ですごし、晩餐《ばんさん》のときにはまた礼儀にかなった正装で姿をあらわすことのできるのに満足して、すっかり荷ほどきし、洋服だんすやひきだしに自分のものをつめこんだ。
この生活の快い、同じ調子は、その魔力の中にアッシェンバッハをひきこみ、この生活態度のものやわらかな輝かしいやさしさが、かれをすばやく魅惑した。南国ふうの、ゆきとどいた海水浴生活の魅力と、あのふうがわりですばらしい市に気楽にいつでもいける近さとが結びついている、ここはほんとに何という滞在地であったろうか!
アッシェンバッハは享楽を好まなかった。いつでも、どこでも、何もしないでいたり、休息していたり、気楽に日を過ごしたりすることになると、間もなく……ことに若い頃はそうであったが……不安で苦しくなって、毎日の苦難のただ中ヘ、神聖でまじめな勤めへともどりたくてたまらなくなった。ただこの土地だけが、自分を魔法にかけ、意志の緊張をゆるめ、幸福にしたのだ。
ときどき午前中、自分の小屋の日よけ布のかげで南の海の青さに夢をはせながら、また、なま暖かい夜、長時間ぶらぶらしていたサン・マルコ広場から大きな星空の下をリドへ運んでいくゴンドラのクッションにもたれながら……色とりどりな明かりや、とろかすようなセレナードのひびきをあとにしながら……山の中の別荘を思い出した。雲が低く庭を横切り、おそろしい雷雨が夕方に家の明かりを消し、自分が餌《えさ》を与えていたからすが樅《もみ》のこずえで体をふり動かす、自分の夏の力闘の場所を。すると、自分が極楽の地へ、人間にいちばん楽な生活が与えられている、雪も冬もなければ嵐もなく、滝のように降る雨もなく、いつでもなごやかに涼しくする息吹を大海《オケアノス》が立ちのぼらせ、この上ないしあわせな閑暇を楽しんでいるうちに日々が苦労なく、戦いもなく、ただ太陽とその祝祭にだけ捧げられて過ぎていく地の果てへ連れていかれたような気がした。
ほとんどひっきりなしにアッシェンバッハはタドジオを見かけた。限られた場所、だれでも似たような日程のために、この美少年が短い合間をのぞけば一日中自分の身じかにいるということに当然なった。どこででも少年を見かけ、出会った。つまり、ホテルの一階で、市への涼みの船遊びにいくときやその帰り道で、広場の華やぎの中で、それにまた偶然がおまけをすればたびたび道で、出会うことになった。
幸福な規則正しさで海辺の午前が、少年のやさしい姿に礼拝と研究を捧げる長いチャンスを与えてくれた。そうだ、この幸福との結びつき、この、毎日同じようにふたたびはじまる境遇の恵みこそはアッシェンバッハの心を満足と人生の喜びで満たし、滞在を貴いものにし、晴れた一日を快く長びかせながら、また同じような日々をくりかえさせたものであった。
ふだんなら仕事をしている際、うずうずして早起きをするように、太陽がまだやわらかく、海が白く輝きながら朝の夢を見ているうちに、たいていの人よりも先に海岸にいた。柵《さく》の番人に愛想よくあいさつし、自分のために場所をととのえて褐色《かっしょく》の日よけを張り、小屋の家具を外の台の上にうつしてくれた裸足《はだし》の白ひげの老人にも、なれなれしくあいさつして腰をおろした。それから三時間か四時間は自分の時間であった。その間に太陽は高くのぼり、力強く輝きはじめ、海はますます深く青みをまして、その間はタドジオの姿を見ていられるのであった。
少年は左手から海辺をこちらへやってきたり、あるいはうしろから小屋の間を出てきたりするが、ときには少年のくるのをうっかり見のがしたのに、もうそこにきているのを発見し、突然に、しかも相当うれしいおどろきを覚えたりもした。今は海辺での少年のたった一つの服装である青と白の海水着を着て、太陽と砂の中でいつもの活動を……つまり、あのかわいらしくたわいのない、のんきでめまぐるしい生活をもうはじめているのだ。その生活は、遊び、休息、ぶらぶら歩き、水の中を歩くこと、掘ること、つかまえること、寝そべること、そしてまた台の上の婦人たちに見はられ、よびかけられての水泳であった。婦人たちはかん高い声で「タドジゥ! タドジゥ!」という名をひびかせた。その婦人たちのところへ少年は見たり聞いたりしたことを話しにいき、自分の見つけたりつかまえたりしたもの、つまり貝がらや、タツノオトシゴやクラゲ、横に走る蟹《かに》などを見せようと、しきりに身ぶりをしながら走ってきた。アッシェンバッハには、少年のいったことがひとこともわからなかった。そして、それがごくありきたりのことだったとしても、かれの耳には、ぼんやりとした快い音調と聞こえたのであった。こうして耳なれぬということが少年のことばを音楽にまで高め、非常に陽気な太陽が気まえよく少年の上に輝きかけ、海のけだかい遠景はいつでも少年の姿をひきたたせるものであり、背景であった。
間もなくこの観察者のアッシェンバッハは、これほど高められ、自由にあらわれている肉体のどの線も、どのポーズをも知ってしまい、すでに見なれたどの美しさにもあらためてあいさつを送り、賛嘆とほのかな感覚的な快楽はきわまるところを知らなかった。
少年は、婦人たちが小屋のそばで訪問客をもてなしているとき、あいさつするようにとよばれた。少年は走りよった。びしょぬれで潮からとび出て走っていき、まき毛をうしろへ投げ、手をさしのべながら、片足で身を支え、もう一方の足を爪先立たせて、優美に緊張しながら、かわいらしさからくる恥じらいと、貴族としての務めである媚《こ》びを見せて、チャーミングに体をねじったり曲げたりした。
少年はバスタオルを胸に巻いて、やさしく彫刻されたような腕を砂に支え、あごを手のひらにのせて、のびのびと寝そべっていた。「ヤシュ」とよばれた少年がそのそばにうずくまっておべっかをいった。ずばぬけた人が、劣った人、つまり奉仕する人を見上げるときの目と唇のほほえみほど、魅力的なものはなかった。
また少年は家族からはなれて海辺に、アッシェンバッハのすぐそばに、腕を首に組んで足うらでゆっくり体をゆすりながらまっすぐに立っていた。そして、うちよせる小波が爪先をぬらしている間、じっと青い空を夢見ごこちで眺めていた。蜜蜂《みつばち》色の髪が巻き毛になってこめかみとうなじにまつわりつき、太陽は脊椎《せきつい》の上の方のうぶ毛を光らせ、肋骨《ろっこつ》の美しいりんかくと胸の均斉は胴を包むきっちりとした海水着できわだって見えた。わきの下は彫刻のようになめらかで、ひかがみはきらきらと輝き、青みがかった静脈はその体を透明な材料で作ったもののように見せた。
こののびのびとした、若々しい、申しぶんない体の中に、なんという規律、なんという思想の精密さが表現されていることか! おぼろげながら働いていて、この神的な彫刻を光の中におし出すことのできた、あの厳密で純粋な意志、……それは、この芸術家アッシェンバッハのよく知っている、なじみのあるものではなかったのか? アッシェンバッハが冷静な、胸いっぱいの情熱をいだきながら、ことばの大理石のかたまりからしなやかな形態を解放したとき、自分の中にも同様の純粋な意志が働くのではないだろうか? その形態は、自分が精神の中で見たものであり、それを精神的な美の立像と鏡として、はっきり人に示したものなのだ。
立像と鏡! アッシェンバッハの目はあそこの、青い海のふちに立つ高貴な姿を抱いた。むらがりおこる恍惚感《こうこつかん》をおぼえながら、このまなざしで美しいもの自身を、神の思想としての形式を、精神の中に生きる一つの純粋な完全性を……人の崇拝をうながすために軽やかに、好ましく眼前にたてられていたその像は、完全性によって人間の似姿をとり、比喩《ひゆ》でもあるのだ……把握したと信じた。それは、陶酔であった。そしてこの中年の芸術家はためらわず、いえそれどころかがつがつしてこの陶酔を歓迎した。
アッシェンバッハの精神は陣痛《じんつう》に苦しみ、教養はたぎりはじめた。かれの記憶は、青春時代に読んではいたがこれまで一度も自分の火で活気づけたことのない古い思想〔プラトンのエロスの追求に関する思想〕をよび戻した。太陽はわれわれの注意を知的なものから感覚的なものへと向ける、と書いてありはしなかったか? 太陽は知性と記憶をひどくしびれさせ、魅惑するので、魂は快楽のあまり自分本来の状態をすっかり忘れ、おどろきと敬慕をもって、日光をあびた対象の中の最も美しいものに執着する。そうだ、一つの肉体のたすけによらなければ魂はより高い観察にまで高まることはできない、といっていた。
ほんとうにアモール〔ローマ神話の恋愛の童神。ギリシア神話ではエロス〕は能力のない子どもたちに純粋な形式の具体的な図を見せる数学者と同じことをする。だから神もわれわれに精神的なものを見えるようにするために、わざと人間の青春の姿と色を用いるのであろう。それを神は思い出の道具のために美のあらゆる反映で飾っており、それを眺めるとわれわれは苦しみと希望にもえたつのであろう。
この感激した人は、こういうふうに考えた。そう感じることができたのである。そして、海のざわきめと太陽の輝きの中から、魅力的な一つの姿が自分の目の前に広がった。それはアテネの市壁から遠くないプラタナスの老樹であった。……|水の精《ニンフ》と|河の神《アケロース》に敬意を表して奉納した像と、敬虔《けいけん》な贈り物で飾られたあの神聖で、陰のある、|西洋にんじんぼく《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》の花の香りでいっぱいのところであった。枝を広げた木の根もとのなめらかな小石の上を小川がすみきって流れていた。こおろぎがバイオリンをかなでていた。
ゆるやかに傾斜していたので寝ころんで頭を高くしていられる芝生には、昼のひどい暑さを避けてふたりの人が横たわっていた。つまり、初老の男と若い男、みにくい人と美しい人、賢い人がかわいらしい人のそばにである。そして、ソクラテスはプァイドロス〔プラトンの「プァイドロス」でソクラテスはプァイドロスと美の問題について語っている。以下この「プァイドロス」をもとにして述べている〕に、おせじをいったり、機知に富み人の心をひく冗談をいったりして、憧れと徳について教えたのだ。感ずる人の目が永遠の美の似姿を眺めたときに受ける熱烈なおどろきについて話した。美の似姿を見て美を考えることができず、畏敬することのできない低級で悪質な人間の欲求について話した。神に似た顔、完全な似姿があらわれたときに高貴な人をおそう神聖な不安について、そのときにその人がどんなにふるえ、われを忘れ、そちらを見ることもほとんどできず、美をもっている人を崇拝し、そればかりか人々から笑われることをおそれなければ柱像に対するようにその人に犠牲を捧げるだろう、と話したのだ。なぜなら美というものは、プァイドロスよ、ただ美だけが愛すべきであり、同時に目に見えるからだ、美は、よくお聞き! われわれが感覚的に感じ、感覚的にたえうるたった一つの形式である。もしほかの神的なもの、理性と徳と真理がわれわれに感覚的にあらわれようとしたら、われわれはいったいどうなるだろう! 昔、ゼウスの前でのセメーレがそうなったように、愛のために消え、燃えるのではあるまいか。こうして美は感ずるものの精神に至る道である……ただ道なのだ、一つの手段にすぎないのだ、かわいいプァイドロスよ……それからこの人、この悪がしこい求愛者ソクラテスはもっともぬけ目のないことを述べた。つまり、愛するものの中には神があるが、愛されるものの中には神がないから、愛するものは愛されるものより神に近いのだ、……これはたぶん今までに考えられたうちの、もっとも愛情のこもった、もっとも皮肉な思想であり、憧れというものが持つ一種のずるさと、ひそかな歓楽も、この思想から生まれるのであろう。作家の幸福は全く感情になりきれる思想、まったく思想になりきれる感情である。そうした脈うつ思想、そうした精密な感情は、当時この孤独なアッシェンバッハのものであり、かれの思いのままになっていた。つまり、精神が敬意を表して美の前に身をかがめると、自然は歓びのために身をふるわすというのであった。
アッシェンバッハは、急に書きたくなった。たしかにエロスは無為を愛し、ただ無為にしか作られていないといわれている。けれども、危機のこの点で、エロスにおそわれた人の興奮は創作に向けられていた。きっかけはどうでもよかった。文化と趣味に関するある大きなさしせまった問題について自分の本音をはけという質問と発議とが思想界に発せられて、旅に出かけたアッシェンバッハにもとどいていた。主題はかれのお手のもの、かれ自身の体験であった。主題を自分のことばの光で輝かせたいという欲望は、急にさからいえないものになった。しかも、この人の欲求はタドジオのいるところで仕事をし、書くときにこの少年の姿を手本にし、文体を自分には神のように見えたこの体の線にしたがわせ、いつか鷲《わし》がトロイアの牧童を天空へさらっていったように少年の美しさを精神的なものの中へ連れていくことを目ざしていた。
アッシェンバッハは日よけの下のざらざらしたテーブルに向かって、偶像と面と向かい、その声の音楽を聞きながら、タドジオの美にならって小さな散文を書いた。……たった一ページ半……だがそれを書いたときのあの危険にもすばらしい時間のあいだほど、ことばの快楽を甘く感じたことはなく、また、エロスがことばのうちにいることを意識したこともなかった。その散文の純粋さと、高貴さと、振動するほどの感情の緊張は、短期間に大勢の人の感嘆をひき起こすことになった。
世間が、この美しい作品のみを知っていて、その起源、その成立の条件を知らないのは、たしかにいいことであった。それは芸術家にインスピレーションを与えた源を知ったなら、その知識は世間をしばしばまどわせ、おじけづかせ、こうした優れたものの効果を台無しにしてしまうからである。それを書いている間の奇妙な数時間! 奇妙に神経を疲れさせる努力! 精神と一つの肉体とのふしぎな生産的な交わり!
アッシェンバッハが作品をしまって海岸から立ち去ったとき、ひどく消耗し、たいそう混乱したように感じた。まるで放蕩《ほうとう》したあとのように、良心にやましいところがあるような気がした。
そのよく朝、アッシェンバッハがホテルを出かけようとしていたとき、玄関の前の階段からタドジオがもう海へいく途中で、……しかも、ひとりぼっちで……ちょうど海岸の柵に近よるのを見かけた。このチャンスを利用して、そうとは知らないでたくさんの精神の高揚と感動を自分に与えている少年と、気軽に、朗らかに知り合いになって話しかけ、返事のまなざしを楽しみたいものだという希望、単純な考えがはっきりし、しきりに心にうかんだ。
美少年はぶらぶら歩いていて、追いつけそうだった。アッシェンバッハは足を早め、小屋のうしろの板の橋の上で追いついた。少年の頭に、肩に、手をのせようと思う。そして何かことばが、好意的なフランス語のきまり文句が、口に出かかる。すると、いそいで歩いたせいもあるのかも知れないが、心臓がどきどきしてしまい、こんなに息切れがしていてはただおし出すようなふるえ声でしか話せないような気がする。
ためらい、自分をおさえようとし、あまり長いこと美少年のすぐあとについていくことが急に心配になり、もし少年がたずねるようにふり返りはしないだろうかと心配になって、もう一度スタートをつけるが、思いとどまり、あきらめて、頭をたれたまま通りすぎる。
手おくれだ!この瞬間、思った。でも、手おくれだったろうか? することをあきらめたこの処置、それはもしかしたらかえってよいことに、たやすいこと、楽しいことに役立つ覚醒《かくせい》に導いたかも知れなかった。けれどもこの中年男は覚醒を望まなかった。陶酔の方があまりにも望ましかったためであろう。芸術家かたぎの本質と特徴のなぞを、いったいだれがとけよう! 芸術家かたぎのよりどころである規律と放埓《ほうらつ》との間の深い本能の融合を、だれが理解できよう! というのは、役に立つ覚醒を望みえないということがつまり放埓《ほうらつ》だからである。
アッシェンバッハは、もう自己批判する気などなかった。自分の年齢での趣味や、精神的状態や、自尊心や、円熟や、晩年の単純さが、動機を分析して自分のもくろみを実行させなかったのは良心のせいなのか、だらしなさのせいか、それとも弱さのせいかを決める気を起こさせなかった。どぎまぎして、だれかが、それがたとえ海岸の番人だけだったとしても、自分の走ったことを、自分の失敗したことを見ていはしなかったかとびくびくし、この茶番をひどく不安がった。
それはともかくとして、内心では自分の滑稽《こっけい》で神聖な不安を自分でひやかした。「どぎまぎしたよ」と、アッシェンバッハは思った。「けんかのさいちゅうに不安に翼を下げるにわとりみたいに、まったくどぎまぎしたよ。愛するものを見たとたんにあんなにわれわれの勇気をくじいて、ほこらしい心をあんなにすっかりうちたおしてしまうのは、たしかに神だ……」
たわむれ、空想にふけり、そして、一つの感情をおそれるには、かれはあまりにも高慢すぎた。
アッシェンバッハは、自分自身にゆるした休暇の時期のすぎていくのも監視しなかった。帰郷の考えは心にふれさえしなかった。たっぷり金をとりよせてあった。不安はただ、あのポーランド人の家族がもしかしたら出発しはしないだろうか、ということだけであった。けれどもホテルの床屋で何かのついでに問い合わせて、このお客たちはかれが到着するほんのちょっと前にここにやってきたということを知った。太陽は自分の顔と手を日やけさせ、興奮させる潮風は感情の力を強めた。かつては眠りや栄養や、自然の与えてくれるどんな元気づけも、すぐに一つの作品に投入してしまうことに慣れていたのに、今は太陽と、ひまと、海風が毎日元気をつけるためにもってきてくれたものを、何から何まで鷹揚《おおよう》に、けちけちしないで、陶酔と感覚に振り向けていたのであった。
眠りは浅かった。すばらしくも単調な日々は、幸福な不安にみちた短い夜々で区切られていた。アッシェンバッハは早めにひきあげた。それはタドジオが九時に舞台から消えると、その日はもう終わったような気がしたからである。けれども、夜の明けそめるころには、やわらかくしみとおるような驚きで目をさまし、心が冒険を思いうかべ、もう床の中にじっとしていられなくなって起き上がると、朝早く身ぶるいするのを防ぐためにかるく身を包み、あけっぱなしの窓ぎわにすわって日の出を待った。すばらしい出来事が、眠りによって清められた自分の魂に敬虔《けいけん》な気持ちをみなぎらせた。まだ天も、地も、海も、無気味にガラスのようなうす明かりの青白さの中に広がっていた。消えそうな星が一つ、実体のないものの中に浮かんでいた。風が吹いてきた。それは人間の近づきがたい棲家《すみか》からの活気のある知らせ、暁の女神エオスが夫のそばから身を起こしたという知らせである。そして、創造の具体化されていくきざしのあらわれるいちばん遠い天と海のあたりが、はじめて甘美に赤みをおびはじめた。女神が近づいた。クレイトス〔曙の女神エオスに愛され、さらわれて不死の人となった〕やケパロス〔同じくエオスにさらわれ、二人の間にパエートンが生まれたという伝説がある〕をうばって、オリュンポスのすべての神々のねたみにさからいながら、美しいオリオン〔ボイオーティアの巨人で美男子の狩人。エオスに愛されてデロスにつれていかれた〕の愛を楽しんだ誘惑者の女神が。
あの世界のはてで薔薇《ばら》がまかれはじめた。何ともいえないやさしい輝き。子どものような雲がきらきらとくまなく照らされ、奉仕する愛の童神のように薔薇色で青みがかったもやの中にただよった。真紅色は海に落ち、海は波立ちながら真紅色を前に押し流すかに見えた。金色の槍《やり》が下から空の高みへひらめきのぼり、その輝きは炎となった。音もなく、神々しい巨大な力で、灼熱《しゃくねつ》と、情熱と、めらめらともえあがる炎が舞いあがり、はげしくあがいて、エオスの弟〔太陽神ヘリオス〕の神聖な競走馬が全世界の上にのぼっていった。
神の壮麗さに照らされてこのたったひとり目をさましているアッシェンバッハは、そこにすわったまま、目をとじ、栄光にまぶたをキスさせた。自分の生活のきびしい奉仕の中に死んでしまい、そして今、異様に変容してもどってきた昔の感情、もとの貴重な心の圧迫、……それをアッシェンバッハはうろたえたような、ふしぎそうなほほえみをうかべながらそれとみとめた。かれは考えこみ、夢みた。その唇はゆっくりと一つの名前を形づくって、そしてまだあいかわらずほほえみながら顔をあおむけ、ひざに両手を組み、もう一度安楽椅子でまどろんだ。
それにしてもこんなに熱烈にはなばなしくはじまった日は、全体としてふしぎなほど高められ、神話的に変えられた。突然、そんなにもやわらかく、意味ありげに、神々のひそひそばなしのようにこめかみと耳をなぶったいぶきは、どこからきて、どこに生まれたのであろうか? 白い巻雲が神々の草をたべている羊のように、巾の広い群れをなして空にうかんでいた。いちだんと強い風が起こり、ポセイドン〔海の神〕の駒があと足で立ち上がりながら走ってきた。ほえて走りながら角を下げたのは青い巻き毛のある神のものである雄牛《おうし》であろう。もっと遠くの海岸の岩の砕片の間では、波がはね上がる山羊《やぎ》となってはねていた。牧羊神の生命にみち、神々しくゆがめられた世界が、この魅惑されたアッシェンバッハをつつみこんで、心はやさしい物語を夢みた。
ヴェニスのうしろに日が沈むと、アッシェンバッハは庭園のベンチにすわって、白い服を着、色のついたベルトをしめ、平らにならした砂利を敷いたところでボール遊びを楽しんでいたタドジオを見ていた。ふたりの神に愛されたために死ななければならないヒュアキントス〔美少年ヒュアキントスは、西風の神ゼピュロスに愛されたが、アポロンと仲良くしたので、ゼピュロスは嫉妬のあまりアポロンの投げた円盤を吹きとばして少年を殺した〕を見ているような気がした。そうだ、美少年と遊ぶために神託も弓も竪琴も忘れた恋がたきに対するゼピュロスの苦悩にみちた嫉妬を感じた。むごたらしいねたみにかられてかわいらしい頭に打ちつけられた円盤を見、自分も青白くなってたおれかかった体を受けとめるように感じた。そして、甘い血からもえ出した花には、自分の限りないなげきの刻印があった……
ただおたがいに目で知っている、……毎日、いや毎時間出会って、観察しあい、そのときに礼儀からか、それとも自分の気まぐれかによってあいさつもしなければことばもかわさないで、無関心のよそよそしさを守っているようにむりにさせられている人間の関係ほど、変てこであつかいにくいものはない。それらの人の間には、不安と刺激されすぎた好奇心があり、満たされない、不自然におさえられた認識の欲求と意見交換の欲求のヒステリー、そしてまた、ことに一種の緊張した尊敬がある。それは、人間は人間を判断することができないうちは愛したり、尊敬したりするものであり、憧れは不足した認識の産物だからである。
アッシェンバッハと若いタドジオの間には、何かある関係となじみが、どうしても作られなければならなかった。そして、しみとおるような喜びで中年男のアッシェンバッハは、関心と注意がまるきりむくいられないではないことをはっきりみとめた。たとえば、この美少年が朝、海岸にあらわれるとき、もう決して小屋のうしろ側の板の橋ではなく、今ではもう前の道を、砂地を通ってアッシェンバッハのいるところのそばしか歩かず、しかもときどき不必要にすぐそばを通り、自分のテーブルや椅子すれすれに家族の小屋までぶらぶら歩いていくようにさせたのは何であろう?圧倒的な感情の引力、魅惑が、感じやすくて思考力のない対象に働きかけたというのか? アッシェンバッハは毎日のようにタドジオのあらわれるのを待ちかまえ、それが実現するとときおりいそがしそうにふるまって、うわべは美少年を気にとめないふりをして通りすぎさせた。ときどき、それでも見上げることもあった。すると、ふたりの目が合った。こういうことがあると、ふたりはすごくまじめであった。中年男の教養のある、いかめしい顔つきは、心の中の動揺を何ひとつもらしはしなかった。けれどもタドジオの目の中には、何かさぐるような、何か考えながら質問するようなものがあって、歩き方もためらいがちになり、地面を見、それからまたかわいらしく目を上げた。少年が通りすぎると、その態度の何かが、ただ身についた躾《しつけ》がふりかえることをじゃましている、とでも語っているように見えた。
ところがある夕方、変わったことが起こった。ポーランド人の姉弟と家庭教師が、大食堂での晩餐《ばんさん》に姿を見せなかった、……アッシェンバッハは心配しながらそれに気づいた。食後、この人たちのゆくえがとても気になったので、晩餐の服のまま麦わら帽子をかぶってホテルの前のテラスの下をぶらぶら歩いていくと、突然家庭教師といっしょの尼僧のような姉妹と、四歩うしろのタドジオが、アーク灯の光の中にあらわれるのを見た。どうやらこの人たちは何かわけがあって市で食事をすませ、蒸気船の桟橋《さんばし》からやってきたらしい。
水の上は涼しかったのだろう。タドジオは金ボタンのついた濃いあい色のセーラー服の短い外套を着て、頭にはそれにつきものの帽子をかぶっていた。太陽も潮風も少年を日やけさせず、皮膚《ひふ》は元どおりの、大理石のように黄色いままであった。けれども、涼しさのせいか、それともアーク灯の青白い月のような光のせいか、今日はいつもよりもっと青白く見えた。つり合いのとれた眉はいっそう鋭くきわだって見え、目は深く黒ずんでいた。少年はことばでいいあらわせないほど美しく、アッシェンバッハはいつものことながら、ことばはただ感覚的な美しさをほめたたえられるだけで、それを再現することはできないと、苦しい気持ちで感じた。
アッシェンバッハはこの貴重な出会いを予期しておらず、あまりに思いがけなかったので、平静と品位のある顔つきを固定するだけのひまがなかった。まなざしがこのゆくえの知れなかった人のまなざしにぶつかったとき、喜びとおどろきと感嘆が率直にあらわれたのであろう……この瞬間、タドジオがほほえむということが起こったのである。話すように、親しく、かわいらしくほほえみながらだんだん開いた唇で自分にほほえみかけたのである。それは、自分の姿をうつしている水に身をかがめるナルキッソス〔水に映る自分の姿に恋し、憧れのため死に、水仙となった〕のほほえみであった。ナルキッソスが自分の美しさの映像に腕をさしのべるときにたたえた、あの深い、うっとりさせられた、ひきつけられたほほえみであった。……自分の影のやさしい唇にキスしようとする努力が見込みがないのでゆがめられた……なまめかしく、ものめずらしげに、かすかに苦しそうな、まどわされながらまどわす、ほんのちょっとゆがめられたほほえみであった。
このほほえみを受けた人は、不吉な贈り物をもらいでもしたように、それを抱いて急いでその場を去った。アッシェンバッハはひどくショックを受け、テラスの明かりと前庭の明かりからのがれずにいられなくなり、せかせかした足どりで裏庭の闇を求めていった。
異常に憤慨《ふんがい》した、また愛のこもったいましめが、アッシェンバッハからもれた。
「きみは、あんなふうにほほえんではいけない! ねえ、だれにでもあんなふうにほほえんではいけないよ!」
アッシェンバッハはベンチにどっかりすわると、われを忘れて植物の出す夜の香りを呼吸した。うしろにもたれ、両腕をだらりとたらして、うちひしがれ、いくども身ぶるいにおそわれて、憧れのきまり文句をささやいた、……この場合は考えられないほど滑稽《こっけい》で、それでもこの場合やっぱり神聖で尊敬すべき、「ぼくは、きみを好きだよ」という文句を。
五
リドに滞在して四週間目になると、グスターフ・フォン・アッシェンバッハは外界について二つ、三つ、気味の悪いことに気づいた。まず、これから盛りになるという季節にホテルの客の数がふえるよりもむしろへっていくように、そしてことにドイツ語が自分のまわりから消えていくように見えたので、食卓でも海岸でもしまいには外国語しか聞かれなくなってしまった。それからある日のこと、今ちょいちょいいく床屋で話をしているときに、アッシェンバッハをびっくりさせたあることばを、ふと小耳にはさんだのである。この床屋は、たった今わずかしか滞在しないのにもう出発したドイツ人の一家のことを話し、おしゃべりの途中でおせじのようにつけ加えた。
「あなたは滞在なさいますね、だんな。だんなは病気をこわがりなさらんですな」
アッシェンバッハはじっと床屋を見た。
「病気をだって?」と、くりかえした。おしゃべり屋は口をつぐんで、いそがしそうなふりをし、この質問を聞きながした。そして、もっとせまった質問が出されると、床屋は何も知らないとはっきりいって、困ったようにことばたくみに話をそらそうとした。
それは昼頃であった。午後、アッシェンバッハは凪《なぎ》と重くるしい太陽の暑さの中をヴェニスへ向かった。それは、家庭教師といっしょに蒸気船の桟橋《さんばし》へいく道をとって進むのを見かけたポーランド人の姉弟に、ついていきたいという熱にかられたからであった。アッシェンバッハはその偶像を、サン・マルコでは見かけなかった。けれども、広場の日かげの側にある鉄の小さな丸テーブルにすわってお茶を飲んでいると、突然、空中に独特なにおいをかぎつけた。そのにおいは、今ではもう数日来、かれの意識の中に入りこみはしなくても感覚にふれていたもののように思えた、……悲惨と、傷と、いかがわしい清潔とを思い出させる甘い薬用のにおいである。
アッシェンバッハは、そのにおいを考えぶかく調べ、その正体をつきとめると、軽い食事をすませて広場を寺院と反対側から去った。せまいところで、においはいっそう強くなった。町かどに印刷したビラがはってあった。このビラで住民はこの天候のために起こりがちなある胃系統の病気にそなえて、牡蠣《かき》と貝は食べないように、また運河の水も飲まないようにと、市当局に警告されていた。この布告のいいつくろった性質ははっきりしていた。人の群れが、だまって橋の上や広場に集まって立っていた。そして、この外国人はかれらをじろじろ見ながら、また考えこみながら、群れにまじって立っていた。
ひもに通された珊瑚《さんご》とにせものの紫水晶の装身具の間にはさまって、自分の店の戸口によりかかっている店の主人に、不快なにおいについて教えてくれとたのんだ。その男はどんよりした目でアッシェンバッハをじろじろ見ると、あわてて目をさました。
「なあに、予防処置でさあ、だんな!」
と、男は身ぶりをしながら答えた。「みとめないわけにゃいかない警察の処置でさあ。天候は体にこたえますし、シロッコは体によくありませんからねえ。つまり、おわかりでしょう、……もしかすると、大げさな用心かも知れません……」
アッシェンバッハは礼をのべて先へ進んだ。リドへもどる蒸気船の中でも、今は消毒剤のにおいがするように感じた。ホテルへもどり、すぐにホールの新聞の置いてあるテーブルへいって、新聞を調べた。外国語の新聞に、そのことは何も出ていなかった。ドイツの新聞はそのうわさをのせ、それぞれちがった数字をあげ、当局の否定をのせて、その信憑《しんぴょう》性を疑っていた。これでドイツとオーストリアの人たちが去っていったわけがはっきりした。他の国の人たちはたしかに何も知らないし、感づきもしないので、まだ不安に陥《おちい》ってはいなかった。
「だまっていなくては!」と、アッシェンバッハは新聞をテーブルに投げもどしながら、興奮して考えた。「だまっていなくては!」
けれども、同時に心は、外界が陥ろうとしている冒険についての、満足感でいっぱいになった。それは、情熱にとっては犯罪にとってと同じように、日常の安泰な秩序と安寧《あんねい》とはありがたいものではなくて、どんな市民的な組織のゆるみでも、どんな世間の混乱と災難でも、それに乗じて情熱がその利益を発見すると漠然とであるが期待できるので、歓迎すべきものだからである。
こうしてアッシェンバッハは、ヴェニスのきたない小路の中の当局にとりつくろわれている出来事に、ぼんやりとした満足を感じた。……この市の悪質な秘密が、かれ自身の心の奥の秘密ととけあって、それを守ることが自分にもとても大切であったからだ。というのも、この恋する男はタドジオが出発するかも知れないということのほかは何も心配しないし、また、もしそうなったら自分はもう生きていけないだろうということを、いくらか愕然《がくぜん》としながら認めたからであった。
近頃では、アッシェンバッハは美少年のそばにいたり、眺めたりすることを、日々のきまりと幸運に負うだけでは満足しなかった。少年のあとをつけ、少年を待ちぶせした。たとえば、日曜日にポーランド人一家は一度も海岸に姿を見せなかった。その人たちがサン・マルコのミサにいくことを推量し、そこへいそいでいって、広場の灼熱から聖殿の金色のうすくらがりの中へ足をふみ入れながら、見つからなくて困っていた人が祈祷机《きとうづくえ》に身をかがめて礼拝しているのを見つけた。
するとアッシェンバッハは、うしろの方のさけ目のできたモザイクの床で、ひざまずいたり、つぶやいたり、十字を切ったりしている人たちのまん中に立った。東洋風の寺院の圧縮されたはなやかさが、その感覚にずっしりとのしかかってきた。前の方では、重々しく着飾った僧侶がしずしずと歩き、たち働き、歌をうたい、香の煙がたちのぼって祭壇のろうそくの弱い炎のまわりをもやで包み、この息苦しく甘い犠牲の香りにかすかに他のにおいがまじるように見えた。つまり、病気の市のにおいが。けれども、煙ときらめきの間から、アッシェンバッハは美少年が頭をふり向けて自分をさがし、自分をみとめたことがわかった。それから大勢の人が、開けてある玄関から鳩のたくさんいる広場へどっと出ると、この惑わされたアッシェンバッハは入口に身をかくして、待ちぶせた。ポーランド人たちが教会を立ち去るのが見えた。姉弟がもったいぶったやり方で母と別れを告げ、帰ろうとして小さい広場へ向かうのを見た。
アッシェンバッハは美少年と修道女みたいな姉たちと家庭教師が道を右へまがって時計塔の門をくぐり、商店街へ入るのを見とどけると、その人たちを少し先にいかせてから、あとをつけていき、ヴェニスの通りを散歩する一行をこっそり追った。その人たちが立ちどまれば、自分も立ちどまらなければならなかったし、ひきかえすかれらをやりすごすために飲食店や中庭へ逃げこまなければならなかった。その人たちを見失って、興奮し、へとへとになって橋を渡ったり、きたない袋小路に入ったりしてさがし、今にも死にそうな苦しみの何分かをがまんしていると、急にさけようもない狭い通路を自分の方へ歩いてくるのだ。それでもアッシェンバッハが悩んだとはいえない。頭と心は酔っていたし、かれの歩みは人間の理性と品位をふみにじることを喜ぶ魔のさしずに従っていたのだ。
タドジオとその家族は、どこかでゴンドラをやとうこともあった。するとアッシェンバッハはその人たちが乗りこむ間、建物のつき出たところや噴水のかげにかくれていて、その人たちが岸をはなれるとすぐあとで同じことをした。たっぷりチップをやる約束をして、船頭に、ちょうどあの角をまがったゴンドラを目立たないようにいくらか距離をおいてつけるようにと指図したとき、せっかちに、声をころしてものをいった。そして、その男がとりもち役の悪者みたいに、まかしとけとばかりに同じ口調で、いたします、良心的にいたしますとうけあうと、アッシェンバッハは体じゅうがぞくぞくした。
こうしてこの人は、やわらかい黒いクッションにもたれて、黒い、くちばしのような船首のある小船のあとをつけてすべり、ゆれていった。かれの情熱は、その小船の航跡にしばりつけられているのだ。ときどきゴンドラが姿を消した。するとこの人は心配し、不安になった。けれども、船頭はそういう命令にはすっかり慣れているとでもいうように、いつでもずるいやり方ですばやく横切ったり、近道したりして、望んでいるものをもう一度目の前にもってくることを心得ていた。
大気はおだやかでにおいをふくみ、太陽は重々しく空をスレート色にそめる靄《もや》の間から燃えていた。水はひたひたと木材や石を打った。半分は警告、半分はあいさつのゴンドラの船頭のよび声は、遠くの迷路の静けさの中から奇妙に応じて答えられた。高いところにある小さな庭から、白と紫の|はたんきょう《ヽヽヽヽヽヽ》の香りのする花の房が、くずれた壁にそってたれ下がっていた。アラビアふうの窓わくが濁《にご》った水にうつっていた。教会の大理石の階段が水の中までおりていた。乞食がひとり、その上に身をかがめて、自分のみじめさをおおげさに訴えながら、帽子をさし出して、まるで盲人ででもあるように白眼を見せていた。
ひとりの骨董屋《こっとうや》が、自分のあばらやの前で、通りすぎる人をだまそうとして卑屈な身ぶりで立ちよるようにさそっている。これが、ヴェニスであった。愛嬌《あいきょう》のある、あやしげな美女、……半分はおとぎ話で、半分は外国人をひっかける|わな《ヽヽ》で、そのくさった空気の中で、かつて芸術がほしいままにはびこり、音楽家にゆさぶったりなまめかしく寝かしつけたりする響きを教えたこの市が。
冒険者のアッシェンバッハは、自分の目がそういう奢侈《ごうしゃ》をのみこみ、耳がそういうメロディーにいいよられでもしたような気がした。また、この市が病気で、それを利欲のためにかくしていることも思い出して、もっと放恣《ほうし》に前をただようゴンドラをうかがった。
こうして混乱したアッシェンバッハは、自分を燃えあがらせた相手をひっきりなしにつけまわし、それがいないときには夢に見、恋する人がするようにただその影に愛のこもったことばをかける以外には、何もできもしないし、やろうともしなかったのである。孤独と、異郷と、おそまきの深い陶酔の幸福が、かれを勇気づけ、説きふせて、ひどく奇怪なことも恥じることもなく、顔を赤らめることもなく、かまわずやってのけるようにさせた。そういうわけで、夜おそくヴェニスから帰って、ホテルの二階で美少年の部屋の前に立ち止まり、すっかり陶酔しておでこを少年のドアのちょうつがいにもたせかけ、そんな気ちがいじみた状態でつかまえられはしないかという危険をおかして、長い間そこから離れられなかったというようなことさえあった。
それでもなお、そんな動きをやめて半分正気にもどる瞬間がないわけではなかった。いったいなんという道にいるのだ! と、アッシェンバッハはうろたえ、考えた。いったいなんという道にいるのだ! おのずからの功績によって自身の血統に対する貴族主義的な関心をもたされるだれでものように、アッシェンバッハは自分の生涯の業績や成功に際して祖先のことをしのび、その人たちの賛成と、満足と、どうしても払わなければならない尊敬とを心の中でたしかめる習慣があった。アッシェンバッハは、このように許しがたい体験にまきこまれ、異国ふうの感情の放埒《ほうらつ》にとらえられても、今ここでやはりその人たちのことをしのび、その人たちの人がらの、姿勢をくずさない厳格さ、上品な男らしさをしのんで、憂うつにほほえんだ。
その人たちは何というだろうか? もちろんその人たちは、かれらの生活からは堕落といっていいまでにかけはなれた自分の全生活、この芸術に魅惑されている生活に対して何をいえるであろう! その生活については、いつか自分自身が、祖先と同じ市民的精神でもって、嘲笑《ちょうしょう》的な、青年らしい認識をもらしたこともある。だが、かれの生活も、その祖先たちの生活と根本ではとても似かよったものであったのだ。アッシェンバッハも祖先の多くの人たちと同じように奉仕もし、兵士でもあり、軍人でもあった。芸術は戦争であり、今日では長くは続けられないほど、へとへとにつかれさせる戦いであったからである。それは克己と、「それにもかかわらず」の生活であって、自分がおだやかな、時流にかなった英雄主義の象徴として形づくった、峻厳《しゅんげん》で確固とした、節制のある生活であった。……おそらくアッシェンバッハはその生活を、男らしい、勇敢であるとみなしても妥当であったろう。そして、自分を支配しているエロスはそういう生活にことにふさわしく、また好意をよせているような気がするのだった。
エロスはもっとも勇敢な諸民族にもとりわけうやまわれていたではないか。そうだ、エロスは勇気によってその人らの都市で栄えたというではないか? 昔のおびただしい勇将たちは喜んでエロスの束縛にしたがったのだ。それは、神の定めた屈辱はどんな屈辱であっても問題にならず、もしほかの目的のためになされたとしたら臆病《おくびょう》のしるしだといって非難されるような行ない、つまり平伏や、誓いや、切願や、奴隷めいた態度は、愛するものの恥にはならないで、むしろそのためにほめたたえられたであろうからである。
惑わされたアッシュンバッハの考え方はこのように定められ、このように身を支えようとし、品位をたもとうとした。けれども同時にかれは、ヴェニスの内部の不潔な出来事、かれの心の冒険とぼんやりとけ合ってかれの情熱をあいまいな無法な希望で養っている、あの外界の冒険に、たえず追いまわすような、そして強情な注意を向けていた。病気のようすと進み方についての新しいこと、たしかなことを知りたいという思いにとりつかれて、市のコーヒー店でドイツの新聞をすみからすみまでさがした。ドイツの新聞は、ホテルのホールの読書机からは、もう何日も前から姿を見せていなかったからである。
新聞には、主張や取り消しがかわるがわる出ていた。患者の数、死亡者の数は、二十人、四十人、いえ百人以上になるということであった。そして、伝染病発生の可能性がきっぱり否定されたわけではなく、少なくともごくまれな、外部からもちこまれた症例に原因が帰されていた。警告的な危惧《きぐ》、イタリア当局の危険なくわだてに対しての抗議がはさまれていて、たしかなことはわからなかった。
それでもまだこの孤独なアッシェンバッハは、この秘密に参加する特別な要求権を自覚していて、それにもかかわらず秘密を知っている人たちにたちの悪い質問をしては、だまっていようと同盟をむすんでいた人たちに見えすいたうそをつかせることに、奇怪な満足をおぼえた。
ある日、大食堂での朝食のときに、あいさつしたり監督したりしながら食事をする人たちの間を動きまわる例のマネジャーが、アッシェンバッハの小卓でもちょっとおしゃべりするために足を止めた。フランスふうのフロックを着て、しのび足で歩く小がらな男である。アッシェンバッハはなげやりな、さりげない調子で聞いた。いったいどうしてこの間からヴェニスでは消毒されているのだろう、と。
「それは」
と、しのび足で歩く男は答えた。「むしむし照ったり、またものすごく暑かったりする天候のおかげで、発生するかも知れない市民の健康に害になり、あるいはさまたげになりますいろいろなことを、義務的にちょうどいい時に防ごうと定めております警察の処置でございまして」
「警察はほめられるべきですな」
と、アッシェンバッハはそれに対していった。そして、気象についてふたことみこと意見をかわしてから、マネジャーは立ち去った。
まだその同じ日に、夕方、晩餐《ばんさん》のあとで、市からやってきた辻歌手の小さな一団が、ホテルの別庭で歌を聞かせるということが起こった。この人たち、つまりふたりの男とふたりの女がアーク灯の鉄の柱のところに立って、明かりに白く照らされた顔をテラスに向けていた。そこでは避暑客がコーヒーや清涼飲料を飲みながらこの大衆的な演芸に耳を傾けていた。ホテルの従業員、エレベーターボーイや給仕や帳場の事務員がホールへ通ずるドアのところで聞き耳をたてながら姿を見せていた。
ロシア人の一家は享楽には熱心でぬけめがなく、少しでも芸人の近くにいようとして藤の椅子を庭におろさせ、そこに半円を描いてありがたそうにすわっていた。この人たちのうしろに、ターバンみたいな頭巾《ずきん》をかぶった年とった女奴隷が立っていた。
マンドリン、ギター、アコーディオン、ふるえる音をたてるバイオリンが、この乞食名手の手で鳴らされた。楽器の演奏が歌の番組にいれかわった。いちばん年の若い女が、鋭いきいきい声で、甘ったるいうら声を出すテナーに合わせて熱望する愛の二重唱を歌った。けれどもこのグループの本格的なタレントで、頭《かしら》らしくふるまったのは、たしかに男たちのもう一人であった。この男はギターを持っていて、役がらは一種のバリトン =プォフォ〔オペラの中の滑稽役のバリトン〕で、そのときほとんど声を出さなかったが身ぶりの才能はあり、一見に値する滑稽なエネルギーをもちあわせていた。男は大きな楽器を小わきに抱えて、ほかの人の群れから離れて役を演じながら、たびたび舞台の前の方へ進み出てきた。男の悪ふざけは、ここであおりたてるような大笑いでむくいられた。とりわけロシア人たちは平土間《ひらどま》にいて、こういう南国的な軽快さにむちゅうになったようで、ますます大胆に、また安心してざっくばらんにふるまうようにと、拍手とよびかけではげました。
アッシェンバッハは手すりのそばにすわって、前のグラスの中でルビー色にきらきら輝いているざくろのジュースとソーダをまぜたもので、ときどき唇を冷やした。この人の神経はセンチメンタルな響き、卑俗で思いなやむようなメロディーを、がつがつ受け入れた。それは、情熱はよりごのみする心を麻痺《まひ》させ、冷静な状態のときならおどけて受けいれるか、不満そうにことわるかする魅力に、大まじめにかかわりあうからである。
その顔だちは、道化師の跳躍《ちょうやく》を見ているうちにかたくなってしまい、苦しみを感じさせるほほえみにゆがんだ。だらしなくそこにすわっていたものの、心のうちは極度の注意で緊張していた。自分からわずか六歩のところにタドジオが石の手すりによりかかっていたからである。
少年は、ときどき晩餐のときに着る、白いベルトのついた服を着て、左のひじを手すりにかけ、足を交叉し、支えになっている腰に右手をあてて、かくそうにもかくせない生まれつきの優美さでそこに立ったまま、ほほえみではなくて、ただかすかな好奇心、儀礼的な歓迎にすぎない表情で、大道芸人を見おろしていた。ときどきまっすぐに体を起こして胸をはりながら、両腕を美しく動かして白い上衣を革のベルトの下からひきおろした。
けれども、それをこの中年男のアッシェンバッハは意気ようようとして、また理性のよろめきと、驚きとをもってみとめたのだが、少年はためらいがちに用心ぶかく、あるいは不意うちをくらわせようとでもするように、さっと、だしぬけに頭を左肩ごしに、恋しているアッシェンバッハの席へ向けた。少年の目はその男の目とは出会わなかった。なぜならこの道に迷った男は屈辱的な不安にしいられて、まなざしをこわごわ制するようにしたからである。
テラスのうしろの方には、タドジオを保護する婦人たちがすわっていて、恋するアッシェンバッハは人目をひいて疑われないように注意しなければならないというところまでになっていた。たしかにアッシェンバッハは、何度か海岸や、ホテルのホールや、サン・マルコ広場で、タドジオが自分のそばからよびもどされ、自分のそばから少年を遠ざけようとされていることを一種のぎごちなさをもって認めざるをえなかった。……そして、そのことからひどい侮辱《ぶじょく》を感じずにいられなかった。その侮辱で自分の誇りはまだ知らなかった苦痛にもだえたが、それを退けることは自分の良心がゆるさなかったのである。
そのうちにギターひきは自分の伴奏で独唱をはじめた。数節からなる、ちょうどイタリアじゅうにはやっていた流行歌で、折りかえしでその仲間たちが、そのたびに歌とすべての楽器で調子を合わせ、男はそれを身ぶり入りで、芝居がかりに歌うことを心得ていた。やせぎすな体つきで、顔もやせこけて、仲間から離れたところで、一束の赤い髪が帽子のつばからのぞくようにわざとぼろぼろのフェルト帽をあみだにかぶり、人を食った大胆な態度で砂利の上に立って、弦を鳴らしながら強烈な叙唱調でテラスに向かって冗談を投げかけた。しかしながらひたいの静脈が演出の緊張のあまりふくらんでいた。
この男は地元ヴェニスの芸人タイプではなく、むしろナポリの喜劇役者のたぐいで、半分は売春婦のひもであり、半分は役者であって、荒っぽくて、向こう見ずで、危険で、また愉快な人のようであった。歌の文句からいってもまったくばかげていたが、その男の口で歌われると、表情と、身ぶりと、暗示するように目くばせしたり、みだらに舌を口のすみで動かしたりするやり方で、いかがわしい、何となくみだらなものをおびてきた。
その他の点では、都会ふうの身なりをしていたが、スポーツシャツのソフトカラーから、目立って大きく、むき出しの感じを与えるのどぼとけのあるやせこけた首がつき出ていた。ひげのないその顔つきから男の年を推量することのむずかしい。青白く、だんご鼻の顔は、しかめっつらと悪徳とで鋤《す》き返されたように見え、強情に、おうへいに、ほとんど荒々しく、赤みがかった眉の間にあった二本のしわは、よく動く口のほくそえみには奇妙に似合いそうであった。
孤独なアッシェンバッハの深い注意をその男に向けさせたものは、このいがわしい人物が、その男独特のいかがわしい雰囲気をいっしょにもってきているように見えたことであった。つまり、くり返しがまたはじまると、そのたびに歌い手は茶番をしたりあいさつの手ぶりをしながら、アッシェンバッハの席のすぐ下を通ってグロテスクにぐるりとまわって歩くのだが、そうするたびに服や体から出る強い石炭酸のにおいのもやが、テラスにのぼってきた。
おどけた時事風刺的な歌がすむと、男は金を集めはじめた。まずロシア人のところからとりにかかったが、この人たちが喜んでさし出すのが見えた。それから段をのぼってきた。演奏のときにはとても大胆にふるまったのに、ここではひどくつつましくふるまった。ぺこぺこおじぎをして、テーブルの間をこっそり歩きまわり、ずるそうなおせじ笑いがじょうぶそうな歯をむき出させたが、赤い眉の間にはあいかわらず二本のしわが、おどすようにきざまれていた。
自分の暮らしの糧《かて》を集めているこの異様な人物は、好奇心と、いくらか嫌悪の気持ちでじろじろ眺められ、指先でつまんだ硬貨は男のフェルト帽に投げこまれたが、帽子にさわらないように用心された。役者とかたぎな人との間の心理的でない距離がとりはらわれたら、楽しみはそれだけ大きいのだが、いつでも一種の当惑が生まれるものである。男はそれを感じると、おべっかでつぐないをつけようとした。アッシェンバッハのところへやってきたが、それといっしょに、においもきた。まわりのだれも、このにおいを気にしないように見えた。
「おい!」
と、孤独なアッシェンバッハは声をひそめて、ほとんど機械的にいった。「ヴェニスじゃ消毒されてるな。どうしてだい?」
道化師は、しゃがれた声で答えた。
「警察のいいつけでがす! こいつが規則でがすよ、だんな、こんな暑さとシロッコのときにゃ。シロッコは重苦しいでさあ。こいつは体にゃ毒でしてな……」
男は、よくもそんなことを聞けたもんだとおどろいたようにこういって、どんなにひどくシロッコが重苦しいかを、手真似《てまね》でやって見せた。
「それじゃ、ヴェニスに悪い病気があるわけじゃないんだな」
と、アッシェンバッハはひどく声をひそめてたずねた。……道化師のすじばった顔つきが滑稽な当惑のしかめっつらになった。
「病気ですと? ですが、どんな病気で? ひょっとするとわれわれの警察が病気なんですかい? ご冗談ばっかり! 病気ですと? とんでもない! 予防処置でがすよ、おわかりでがしょう! 重苦しい天候の影響を防ぐのに急にできた規定でさあ……」
男は身ぶりをして見せた。……「いいよ」と、アッシェンバッハはまたあっさり小声でいうと、すばやく、不当に多額のお金を帽子の中に落とした。それから、男にいくように目で合図した。男はにやにやして、ぺこぺこおじぎをしながら、合図にしたがった。
男がまだ階段までいきつかないうちに、ホテルの従業員がふたり、男のそばへ走りよって、顔を男の顔にくっつけるようにしてこそこそ聞きただした。男は肩をすぼめ、誓って事情をもらさなかったと断言しているようすが見てとれた。男は解放されて庭へもどり、アーク灯の下で仲間とちょっとうちあわせをしてから、別れの歌をうたうためにもう一度前へ出た。
それは、この孤独なアッシェンバッハがかつて聞いた覚えのないものであった。わけのわからない方言で、グループ全体が規則正しく声をはりあげて合唱する笑いのリフレインがついている、大胆な流行歌であった。そのときは歌の文句も、楽器の伴秦もやんで、リズムは何か規則的な、それでもすごく自然にとりあつかわれた笑いしか残らなかった。その笑いを、とりわけあの大きな才能のある独唱者が、人をあざむくばかりに生き生きとしたものにすることを心得ていた。
自分とお客との間にまたまたできた人為的なへだたりのために、男はすっかりあつかましさをとりもどした。そして、ずうずうしくも上のテラスに向けられたその作り笑いは、あざけりの大笑いであった。節の音節をわけてはっきり発音する部分の終わり頃になるともう、男はがまんできないくすぐったさと戦っているように見えた。むせび、声は乱れ、手を口におしあて、肩をよじり、そしていよいよという瞬間になるとおさえられない笑いが伝わるように作用し、聞いている人にうつるように真にせまって、急にほとばしり、ほえるように、爆発するように出たので、テラスの上でも何を笑うというのでもない、ただ笑いとしてだけあるほがらかな笑いが広がっていった。
でも、たしかにこれがあの歌い手のはしゃぎようを倍加するように見えた。男はひざをまげ、ももをたたき、わき腹をおさえ、ひっくりかえって笑おうとした。もう笑いはしないで叫んでいたのであった。まるで、テラスの上で笑っている連中より滑稽《こっけい》なものはないとでもいうように、上に向かって指をさした。そして最後には、庭にいるものも、ベランダにいるものも、戸口の給仕、エレベーターボーイ、ポーターにいたるまで、だれもかれもみんな笑いこけた。
アッシェンバッハはもう椅子にくつろいではいなかった。防ぐか、逃げるかしようとしているように身を起こしてすわっていた。けれども、大笑いと、ふき上げてくる病院のにおいと、美少年の近くだということが、たち切りがたく、のがれがたくかれの頭と心をとりまいている一つの夢の魔力に織り合わされた。
みんなが興奮し、心をうばわれている間に、思いきってタドジオの方を見やった。美少年が自分のまなざしにこたえて、同じようにまじめくさっているのをみとめることができた。まるで態度や表情をアッシェンバッハに見ならって、アッシェンバッハがみんなの気分から遠ざかっているので、自分に対してもそんな気分は何の力もないかのようであった。この子どもらしい、意味ありげな従順さは、何か興奮を静めるもの、圧倒するものをもっていたので、白髪のアッシェンバッハは、両手に顔をうずめたくなるのをようやくこらえた。また、タドジオがときどき身を起こしたり息をついたりするのが、ため息や胸をしめつけるような不安をあらわしているような気がした。
「あの子は病身なんだ。たぶん長生きはしないだろう」と、陶酔と憧れがふしぎに自分を解放したときになる、あの客観的な気持ちで、また考えるのであった。
ヴェニスの楽師たちはその間に演芸を終えて、立ち去っていった。喝采《かっさい》がかれらを送り、リーダーは冗談で飾りながらひっこむことをおこたらなかった。右足をひきずりながらうしろに引いておじぎをすると投げキッスをし、みんなが笑うともう一度それをやった。仲間が外に出てしまうと、男はまだうしろ向きのまま、外灯の柱にはげしくぶつかりでもしたようなふりをして、痛みのために体をまげたしぐさで門の方へそっと歩いていった。そこまでいくと、男はとうとう滑稽《こっけい》な不しあわせ者という仮面をぱっとぬぎすて、体をぴんとのばして、いや、ぴょんとはね上がって、テラスの客に向かってあつかましくもぺろりと舌を出し、闇の中にすべりこんだ。
海水浴客は姿を消した。タドジオはもうとっくに手すりのところに立ってはいなかった。けれども、あの孤独なアッシェンバッハは、ボーイがけげんに思ったことには、いつまでもいつまでも、テーブルの上のざくろのジュースの残りのそばにすわっていた。夜がふけ、時間はくずれていった。もう昔のことだが、両親の家に砂時計があった。アッシェンバッハは、あのこわれやすくて大切な器具を、目の前にありでもするように急に目に浮かべた。音もなく、細く、赤さび色にそめられた砂がガラスの細いところを通って流れ落ち、上のくぼみで砂が少なくなってきたので、そこに小さな急速なうずができていた。
翌日の午後に、この強情なアッシェンバッハは外界を調べるための新しい第一歩をふみ出した。しかも今度はありったけの成功をおさめたのである。つまり、サン・マルコ広場から、そこにあるイギリスの旅行案内所に入ると、会計でいくらか金を両替えし、疑いぶかい外国人の顔つきで、サービスしている事務員に向かって例のやっかいな質問をした。事務員はウールの服を着たイギリス人で、まだ若く、髪をまん中から分け、目と目がくっついていた。ずるく、すばしこい南国人の中ではいっぷう変わって、目立つような、落ちついた実直な態度であった。
「ご心配なさるような原因はございません。真剣な意味のある処置ではないのです。暑さとシロッコの健康に害をおよぼす影響を予防するために、たびたびああいうふうに指図されております……」
と、事務員ははじめた。けれども、青い目を見上げながら、いくらかばかにしたように自分の唇に向けられているこの外人のまなざし、疲れた、いくらか悲しげなまなざしにぶつかった。すると、イギリス人はさっと顔を赤らめた。
「それが」と、イギリス人は小声で、いくらか興奮してつづけた。「こう主張することが、ここではいいと考えられている公の説明でして、その背後にまだ何かわけがあるということを申しあげます」
それから、もちまえの実直で気楽なことばで、本当のことをうちあけた。もう数年このかた、インドのコレラが広がりながら移動しているという傾向がはっきりと明らかになった。ガンジス河の三角州の熱い沼地から発生し、竹やぶに虎がうずくまっているという原始世界、うっそうとした、何の役にも立たない、人のよりつかない島の荒地に、悪魔のような息吹《いぶき》とともに立ちのぼって、この伝染病は全ヒンドスタン地方で持続的に、また異常にはげしく荒れ狂い、東はシナ、西はアフガニスタンとペルシァに侵入して、隊商の交通の主要路にそってその恐ろしさをアストラカンまで、いや、モスクワまでさえ運んだ。
けれども、ヨーロッパでその怪物がそこから陸路をやってくるかも知れないとびくびくしている間に、それはシリアの商船の乗組員によって海の上からもちこまれ、ほとんど同時にいくつかの地中海の港にあらわれ、ツーロンでも、マラガでも頭をもたげ、パレルモやナポリでも何度かその顔をあらわし、カラブリアとアプリア地方全体からはもう立ちのこうともしないよう見えた。イタリア半島の北部は無難だった。
ところが今年の五月半ばに、ヴェニスで、あの恐ろしい螺旋菌《らせんきん》が、船の雑役夫と野菜売りの女のやせこけて黒ずんだ死体から同じ日に発見されたのである。この症例は秘密にされた。けれどもそれから一週間後には症例が十件、二十件、三十件となって、しかもいろいろな地区であらわれた。遊覧のために数日間ヴェニスに滞在したオーストリアの地方からきた男が、故郷の小さい町に帰ってから、はっきり兆候を見せて死んだ。こうしてこの入江の都の災難の最初のうわさが、ドイツの日刊新聞にのせられることになった。
ヴェニス当局は、市の健康状態がこんなにいいことは一度もなかったと答えさせて、防疫《ぼうえき》に欠くことのできない処置をとった。けれども、野菜か、肉か、それとも牛乳のような食糧品がもう汚染していたらしい。否定され、もみ消されながら、死は小路のこみあったところではびこっていたからである。それに、運河の水を生ぬるくあたためた、早くきすぎた夏の暑さは、この蔓延《まんえん》にはことさらもってこいであった。
そうだ、それでこの伝染病は力を新たに活気づけられでもしたように、その病原体のねばり強さと生産力は倍加したように見えた。治癒《ちゆ》の例はたまにしかなかった。病気にかかった人の八〇パーセントが死に、しかもそれはぞっとするような死にざまであった。この病気が極度な荒っぽさであらわれ、しばしばあの「乾生」とよばれているいちばん危険な型を示したからである。
その場合、体は血管から多量に分泌される水分を外へ出すことさえできなかった。ほんの数時間で患者はからからにひからびて、コールタールのようにねばり強くなった血液のために痙攣《けいれん》を起こし、しゃがれた悲嘆の声をあげて息がつまってしまった。これはときどき起こることだが、軽い不快のあとで深い人事不省の形で病気がはじまり、その人事不省からまれにしか目をさまさないか、それとも全く目ざめることがないかであるが、逆にそういう患者は幸福であった。
六月のはじめに、ひそかに市民病院の隔離病棟は満員になって、二つの孤児院も場所がなくなりはじめ、新しい埋立地の岸壁と墓地のある島サン・ミケーレとの間に、恐ろしく盛んな行き来が行なわれた。
けれども、一般的な損害をおそれ、近ごろ開かれた公園での絵画展覧会への顧慮《こりょ》、恐怖と不評判の場合にホテルや商店や、多様な観光事業全部をおびやかす巨大な欠損への顧慮の方が、この市では真実への愛や国際的協定の尊重よりも、もっと力が強いということを証明した。そういうことが当局をして、沈黙と否定の政策を頑固に固持させたのである。
ヴェニスの衛生局長は、功労のあった人だったが、憤慨してその職を退き、こっそりともっとゆうずうのきく人物があとに据えられた。民衆はそのことを知っていた。そして、上層階級の腐敗が、一般的な不安や、歩きまわる死神のために市が追い込まれた非常事態といっしょになって、下層階級のある種の風俗のみだれ、つまり無節制、恥知らず、ふえる一方の犯罪となってあらわれた。光をきらう反社会的な衝動の活発化を生み出したのであった。
今までになく、夜になるとたくさんの酔っぱらいが見うけられた。たちの悪いごろつきが、夜道を不安にしたといわれた。略奪的におそいかかったり、殺人行為さえくりかえされた。というのも伝染病の犠牲になったといわれていた人が、むしろこの人たち自身の親族の手で毒殺されていたという事件が、二度も明らかになっていたからである。そして、当地では今まで見られなかったような営業上の悪徳が、この国の南部か、それとも東洋でしか見られないほどのあつかましい、法外な形をとった。
こうしたことについて、あのイギリス人ははっきりしたことをいった。
「あなたは、あすとおっしゃらず、むしろ、きょうにもおたちになる方がよろしゅうございましょう。交通を止める規定は、もう二、三日と手間どりますまいから」
「どうもありがとう」と、アッシェンバッハはいって、旅行案内所を去った。
広場は、日の照らないむし暑さでむんむんしていた。知らぬがほとけの外国人たちが、カフェの前にすわったり、鳩にとりまかれて教会の前に立ったりして、鳩がより集まって羽ばたきながら、おし合いへし合い、手のくぼみにのせてさし出されたとうもろこしをついばむようすを見入っていた。熱病じみて興奮し、真実を知っていることに勝ちほこって、むかむかする味を舌の上に、空想的な恐れを心に感じて、この孤独なアッシェンバッハは、りっぱな中庭のタイルの上を行ったり来たりした。かれはけがれを清める、まじめな行動のことを考えていた。今夜、晩餐のあとで、真珠で飾った婦人に近づいて、自分が考えぬいたことを、つぎのように告げることもできるのである。
「奥さま、見ず知らずの者があなたに一つの忠告を、この市の利己心があなたにさしひかえている一つの警告をいたしますことをおゆるしください。ご出発なさい、すぐに、タドジオくんとお嬢さまがたとごいっしょに! ヴェニスは伝染病にかかっております」
そういっておいて嘲笑的なエロスの神の道具にされている者の頭の上に、別れぎわに手をおいて、さっと向きをかえ、この泥沼から逃げ出せたのだ。
けれども、同時にアッシェンバッハは、自分がとてもそんな一歩を本気でふみ出そうなどとは、ちっとも思っていないことを感じた。自分はわれに帰るであろう。自分をもう一度われに帰すであろう。が、だれでもわれを忘れてしまったものは、もう一度われに帰っていくことを何よりもきらう。アッシェンバッハは、夕方に輝く、銘のある白い建物のことを思い出した。その銘の半透明の神秘の中に、自分の心の目はしだいに没していったのだが。中年のアッシェンバッハに、遠いところと、外国へあてもなく歩いていく青年らしい憧れをめざめさせたあのふしぎな旅行者の姿を思いうかべた。帰郷や、分別や、冷静や、困難や、老練などがとてもとてもいやだったので、顔は肉体的な気分の悪さをあらわす表情にゆがんだ。
「だまっていなくてはいけない!」
と、はげしい調子でささやいた。「ぼくは、黙っているだろう!」
自分も知っているという意識、同罪の意識が、わずかな量のワインがつかれた脳を酔わせるように、アッシェンバッハを酔わせた。災いに見まわれた、荒れはてた都市の姿が、みじめに自分の精神の前に浮かびながら、自分の中に、とらえることのできない、理性をこえてとほうもなく甘さをもつ希望をもえたたせた。さっき自分が一瞬夢みたあのほのかな幸福は、この期待にくらべたら自分にとって何であったろう。混沌《こんとん》の利益にくらべたら、芸術と徳が自分にとってどんな価値があったろう。アッシェンバッハはだまって踏み止まったのだった。
その夜、アッシェンバッハはぞっとするような夢を見た。……もし肉体的、精神的体験を夢とよぶことができるのなら、その体験はなるほど自分のごく深い眠りの中ですっかり独立し、感覚的な現在の中で自分に出会ったものであった。が、自分が出来事の外にいて空間を歩きまわったり、またその場にいて眺めたというのではなくて、出来事の舞台はむしろその魂そのものであった。そして、出来事は外から中へ入ってきて、自分の抵抗を……深い精神的な抵抗を……暴力的にねじふせ、中を通りぬけ、そして自分の存在を、自分の生命の文化を荒廃させ、破壊したまま残していったのである。
はじめには不安があった。不安と、快感と、これからこようとするものに対する驚きのまじった好奇心があった。夜があたりを支配していて、自分の官能は聞き耳をたてていた。というのは、遠くの方から雑踏、ひっきりなしの轟音《ごうおん》と騒音のまじり合ったものが近づいてきたからである。つまり、がたがたいう音、高らかなひびきと鈍いごろごろいう音、おまけにかん高い歓声と、長く尾をひいて「U」の音のついたあるほえ声、……恥知らずにおしつけがましくはらわたを魅惑させていた、低くささやくような、下品に続くフルートの吹奏を。これらすべての音はまぜられ、この吹奏でふき消されていた。
けれどもアッシェンバッハは、おぼろげながら、やってきたものを特徴づける一つのことばを理解した。「異国の神」ということばであった。煙でもうもうとした灼熱《しゃくねつ》がかすかな光を放ってのぼってきた。すると、自分の夏の別荘のまわりのように、山岳地帯が見えてきた。そしてきれぎれの光の中に、森におおわれた高台から、幹やこけの生えたくずれた岩石の堆積《たいせき》の間をころがり、うずまきながら下へ突進してくるものがあった。人間と動物が一つの群れとなり、荒れ狂う塊《かたまり》となって……山腹は、肉体と炎と混乱とよろめく輪舞で氾濫《はんらん》していた。
女たちは帯からたれさがる長すぎる毛皮の服につまずき、あえぎながら、のけぞらせた頭の上でタンバリンをふったり、火の粉の散るたいまつの火や抜身《ぬきみ》の短刀をふり動かしたり、舌を出す蛇の体のまん中をつかんだり、大声をあげながら両手で乳房を抱えたりしていた。ひたいに角《つの》を生やし、毛皮の前かけをしたけむくじゃらの男たちは、首をまげ、腕と足を高々とあげて青銅の盤をとどろかせ、はげしくティンパニーをたたいた。一方、すべっこい少年たちは、葉のまわりについた木切れで山羊《やぎ》をつついた。その角に少年たちはしがみついて、山羊がはねあがるのに歓呼をあげながらひきずられた。
こうして、こののぼせあがった人たちは、やわらかい子音と、終わりに長くひっぱった「U」の音からできたさけび声を、これまでこんなさけび声は聞いたことがないほど、甘美に、同時に荒あらしくわめいた。……ここでは鹿の妻恋《つまご》いのように空中へひびきわたるかと思うと、むこうではそのさけびをたくさんの声で、無秩序なかちどきでまねて、それでたがいに踊ったり、手足をふりまわすようにけしかけて、さけび声を一度としてとぎらせなかった。
低い、さそうようなフルートの音は何もかもにしみとおり、支配していた。その音はさからいながらも体験しているアッシェンバッハをさえ、恥知らずに、しつこく、この祭ととても大きい極端な犠牲へとさそっていたのでなかったか。アッシェンバッハの嫌悪《けんお》は大きく、恐怖も大きかった。最後まで自分のものを、異国のものから、冷静で威厳のある精神の敵から守りぬこうとする自分の意志は誠実であった。
が、騒音とわめきは、こだまする山の絶壁にあたって数倍となり、ふくれあがり、勢いをまして、幻惑的な狂気に高まった。臭気が感覚を悩ませた。山羊の強いにおい、あえぐ肉体の臭気、くさった水のようなにおい、それにまたほかの嗅ぎなれたにおいなど。つまり、傷と、広がる病気のにおいであった。
ティンパニーをたたくにつれて、アッシェンバッハの心臓はどきどきし、脳はくらくらし、怒りと目まいと、うっとりさせるような快感にとらえられ、魂はあの神の輪舞に加わりたいとむちゅうで望んだ。木で作った巨大な、わいせつなシンボルがおおいをはずされ、高々とかかげられた。するとその人たちはますますはめをはずして、例の合ことばをわめきたてた。口から泡をふいて荒れ狂い、たがいにみだらな身ぶりや、愛を求める手ぶりでそそのかしあい、笑ったりあえいだりしながら、とげのある棒を肉につき刺しあい、手足の血をなめた。
けれども、夢見るアッシェンバッハも今、その人たちといっしょにいて、この異国の神のものになっていた。いや、その人たちがひきさいたり殺したりしながら動物にとびかかり、湯気のたつ肉片をむさぼり食ったとき、掘りかえされた苔《こけ》のあるところで神の犠牲としての果てしない交合がはじまったとき、その人たちはアッシェンバッハ自身であった。そして、自分の魂は没落の淫蕩《いんとう》と狂乱を味わったのである。
この夢におそわれたアッシェンバッハはぐったりし、混乱して、力なく魔神の手におちたまま目をさました。もうみんながじろじろ見るまなざしも平気であった。自分に疑いがかけられようと平気であった。それにその人たちは実際に逃げだして、出発したのだ。たくさんの海岸の小屋はからっぽで、食堂の席もかなり広くあいていたし、市へ出てもまれにしか外国人に会わなかった。本当のことがもれたらしく、利害関係のある者の固い一致団結にもかかわらず、これ以上は恐慌を防げそうになかったようである。
けれども、真珠の飾りをつけた婦人は、それでもまだ家族といっしょにとどまっていた。この人の耳まで噂《うわさ》がとどかなかったのか、それとも、噂に譲歩するにはあまりにも誇りがありすぎ、こわいもの知らずであったのだろうか。もちろん、タドジオも滞在していた。そして、少年のとりこになっているアッシェンバッハは、ときどき、逃亡と死がまわりのじゃま者をひとり残らず遠ざけて、自分だけがあの美少年とこの島に残るかも知れない、という気にさえなった。……午前中、海辺で自分のまなざしが重々しく無責任に、熱望する人をじっと見つめているとき、夕暮れに、いまいましい死がこっそり歩きまわっている小路を、品位のある自分らしくもなく少年をつけまわしているとき、奇怪なことが有望に、道徳の掟《おきて》は儚《はかな》いように思われるのであった。
だれかを恋している人のように、アッシェンバッハは気に入られたいと望み、ひょっとしたらそれはできないかも知れないと、つらい不安を感じた。若々しく、明るく見せるいろいろなものを服につけ、宝石を身につけ、香水を使い、一日に何回となく身だしなみにたっぷり時間をかけ、身を飾って、興奮し、緊張して食卓についた。自分を魅しているかわいい少年の前では、自分の老いぼれかけた肉体がたまらなくいやであった。自分の白髪、きつい顔だちを眺めると、恥ずかしくなり、がっくりさせられた。肉体的に元気をつけて、若がえるようにかりたてられた。ちょいちょいホテルの床屋へいった。理髪用の布をかけて、このおしゃべり床屋の手入れする手にかかりながら、椅子にもたれ、苦しそうな目つきで鏡に映った自分の姿を眺めた。
「白いなあ」
と、口をゆがめていった。
「ほんのちょっぴりですよ」
と、床屋は答えた。「つまり、少しおかまいなさらなかったせいで、名士の方にゃもっともだと思われますが、まあ見かけのことに無関心でおいでのせいでございますよ。それにしても、そういう方は無条件にほめることはできませんなあ。しかも、ほかでもないそういう方は、自然のものか人工のものかのことで偏見を持たれるのがそれだけにいっそうふさわしくありませんからねえ。ある人たちの美容術に対する道徳上のかたくなさを論理的におしていきますと、その人たちの歯にまで及ぶでしょうが、そしたらその歯は少なからず感情を害するでしょうよ。けっきょくわれわれは、われわれの精神や心で感じているだけの年齢なんです。白髪《しらが》にしたところで、事情によってはばかにされている白髪染めが意味するよりももっと本当の嘘を意味することだってありますよ。あなたの場合は、ねえだんな、自然の髪の色になさる権利をもっておいでですよ。わたしに、あなたのものをあっさりとりもどさせてくださいませんか」
「どうやって?」
と、アッシェンバッハは聞いた。すると、このおしゃべりは、客の髪を二とおりの液、透明なのと黒っぽいのとで洗った。髪は若い頃のように黒々とした。それから、床屋はアイロンでやんわりとなであげ、あとずさりして手を加えた頭をじろじろ見た。
「あとはただ」
と、床屋はいった。「お顔の皮膚をいくらか若がえらせればよろしいでしょうな」
そして、まるでやめられない、満足できない人のように、あとからあとから活気づけられた仕事熱心さで、つぎからつぎへ仕事にとりかかっていった。
アッシェンバッハはのんびりと落ちついて、ことわることもできず、やられていることにむしろ楽しい興奮をおぼえながら、鏡の中で自分の眉がくっきりと均斉のとれた弓形になり、目が切れ長になり、目の輝きがまぶたをほのかにそめたことでいっそうひきたつのを見た。もっと下の方では、皮膚が褐色《かっしょく》でかさかさしていたところが、やわらかく色どられ、ほんのりえんじがさされ、たった今まで血の気のなかった唇が木いちごみたいにふっくらし、頬《ほお》と口もとのしわや目じりのしわがクリームと若さのいぶきに出会って消え去るのを見た、……こうしてアッシェンバッハは、胸をときめかせて元気いっぱいの若者の姿を見たのである。
美容師はやっと満足して、そういう人々がよくやるように自分がサービスした人に向かって、いやしいほどへりくだって礼を述べた。
「なあに、とるにたりないご援助をいたしたまでで」
と、床屋はアッシェンバッハの顔かたちに最後の手を加えながらいった。「さあ、これでおためらいなさることなく、色事がおできになれますよ、だんな」
魅惑されたアッシェンバッハは、夢のように幸福な気持ちで、まごつき、おずおずしたようすで立ち去った。ネクタイは赤くて、つばの広い麦わら帽子には色とりどりのリボンが巻きついていた。
生あたたかい暴風がやってきた。雨はたまに、ほんのわずか降った。それでも空気はじめじめして、ねばっこく、くさった蒸気がむんむんしていた。はたはた、ぱたぱた、ざわざわという音が耳をとりまいた。そして化粧した、熱に浮かされているようにふるまうアッシェンバッハには、たちの悪い風の霊がこの罪人の食べ物をかき乱し、かみくだき、汚物でけがす海の醜《みにく》い鳥どもが空中で大あばれしているように思われた。それは、むし暑さが食欲をさまたげ、食べ物が伝染病の菌で毒されているという考えがしきりに浮かんできたからである。
美少年のあとをつけていったアッシェンバッハは、ある午後のこと、病気の市の内部のごたごたしたところへ深く入っていった。迷宮の小路、運河、橋、小さい広場がたがいにとても似ているので、土地勘《とちかん》もきかず、また方角も不たしかで、憧れて追いかけている対象を見失うまいということだけを考え、あさましいほど用心深さを強要されて、壁におしつけられ、前に歩いていく人の背にかくれながら、感情とたえまなく続く緊張で体や心がくたくたになったことも、おとろえたことにも、長い間気づきさえしなかった。
タドジオは家族のうしろからついていって、ふつうせまいところでは家庭教師と尼僧みたいな姉を先にいかせ、ひとりでぶらぶら歩きながら、肩ごしに崇拝者がついてくることをもちまえのほのかに光る灰色の目でたしかめようとして、ときどき頭をまわした。タドジオはアッシェンバッハを見、かれのことを告げ口はしなかった。このことを知るとすっかり感激して、少年の目に前へ前へとおびきよせられ、激情にもてあそばれながらこの恋にむちゅうになっている人は、自分にふさわしくない希望のあとをこっそり歩いていった。……そしてとうとうそれにもかかわらず、その希望の姿をだましとられてしまった。
ポーランド人たちが短く弓なりにそった橋を越え、アーチの高い部分があとをつけてくるアッシェンバッハの視界をさえぎり、かれがその高いところにきたときにはもうあの人たちの姿が見えなかった。アッシェンバッッハは三方を、つまり、まっすぐと、せまくてきたない岸にそってその両側をさがしたがむだであった。弱りとおとろえのために、とうとうさがすことをあきらめざるをえなかった。
頭はかっかし、体はねっとりした汗でおおわれ、ひざはがくがくし、がまんできないほどのどがかわいて自分を苦しめたので、さしあたり気分をさっぱりさせるものは何かないかとさがした。小さい果物屋の前で、果物をいくつか、熟しすぎてやわらかくなったいちごだったが、それを買うと、歩きながら食べた。
人けのない、魔法にかけられたような気のする小さな広場が前にひらけた。この広場には見おぼえがあった。数週間前に、あの絶望にかられて逃げだす計画をたてたのはここであった。広場のまん中の水槽《すいそう》の段にくずおれ、頭を石のふちにもたせた。ひっそりしていて、舗石の間に草が生え、あたりにごみが散らばっていた。まわりの荒れはてた、高さのそろわない家々の中に一軒、先端のとがったアーチ型の窓と小さなライオンのついたバルコンがあって、宮殿ふうに見えた。その内部には空虚《ヽヽ》が住んでいるのだ。もう一つの建物の一階には薬局があった。ときおりあたたかい突風が石炭酸のにおいを運んできた。
アッシェンバッハはそこにすわっていた。この巨匠、威厳をそなえた芸術家、模範的に純粋な形式で放浪生活やにごった澱《よど》みと縁を切り、深淵への共感を拒絶し、非難すべきものをきっぱりと非難した「みじめな男」の著者、自己の知識やあらゆるイロニーを克服して成長し、大衆の信頼にともなう義務に慣れた高所にまで登った人、その名声は公のもので、その名前は貴族に列せられ、その文体は少年たちの教化の拠《よ》り所にさえなったこの人、……この人はそこにすわっていた。
まぶたはとざされていたが、ときどき、あざ笑うような、とほうにくれたようなまなざしが、その下からすばやく見え隠れして、横の方をちらっとのぞいた。そして、美容術でひきたてられた、たるんだ唇は、半分眠っている脳が生みだした異常な夢の論理にもとづいて、ひとつひとつのことばを作りあげた。
「というのは、美というものは、パイドロスよ、よく気をつけたまえ、ただ美だけが神的であり、同時に目に見えるものなのさ。だから、美は実際、感覚的な者の道なのだ。かわいいパイドロスよ、芸術家の精神へ達する道だ。だが、今きみは信じるかい、ねえ、きみ、精神的なものへいくために感覚を通るものが、いつか知と、真の男の品位を手に入れることができるなんて? それとも、きみはむしろ(決定はきみにまかせる)これは危険でもあるが好ましい道であって、必然的に誤りへと導く罪の道だと信ずるかい? だって、きみも知っているにちがいないが、われわれ詩人はエロスがいっしょになって、あつかましくも案内者となるのでなければ、美の道をいくことはできないのだ。そうだ、われわれがわれわれのやり方で英雄だろうが、しつけのいい軍人だろうが、われわれはやっぱり女みたいなものなのだ。それは、情熱がわれわれの高揚であり、われわれの憧れはいつまでも愛にとどまらなければならないからだ、……これはわれわれの喜びであり、恥でもある。
きみはこれで、われわれ詩人はかしこくも、品よくなることもできないということがわかったろう? われわれは必然的に誤りにおちいり、必然的にふしだらになり、またいつまでも感情の冒険家であることが? われわれの文体の巨匠の態度はうそっぱちで、道化で、われわれの名声と名誉の地位は茶番で、大衆のわれわれへの信頼はひどく滑稽《こっけい》で、民衆と青年の芸術による教育は危険で禁ずべきくわだてなのだ。なぜかというと、深淵へ向かって改めることのできない自然の傾向をもって生まれついたものが、どうして教育者として役に立とう?
たしかにわれわれは、深淵というものを否定して品位を与えたいとは思うよ。だが、われわれがどう向きを変えようとも、深淵はわれわれをひきつけるんだ。そこで、たとえば解消させる認識をする。というのは、認識は、ねえパイドロスよ、品位もなければ、いかめしさももっていないだ。認識は、知り、理解し、ゆるし、態度と形式をもっていない。認識は深淵に共感をもつ、それがまさに深淵なんだよ。
だから、この認識をわれわれはきっぱりと否認しよう。そして、これからはわれわれの努力は、ひたすら美に、つまり単純と、偉大さと、新しい厳格さ、第二の率直さと、形式に向けられる。ところが、形式と率直さは、パイドロスよ、陶酔と情欲へ連れていって、けだかい人をたぶんその人自身の美しい厳格さが不名誉として非難するあの恐るべき感情の犯罪へ導き、深淵へ導くのだ。やっぱり深淵へだ。われわれ詩人を、認識は深淵へ連れていく、とぼくはいうがね。それは、われわれはとび上がることができず、ただ道をそれることしかできないからだ。
さあ、ぼくはもういくよ、パイドロス、きみはここにいなさい。そして、ぼくが見えなくなってからきみもいきたまえ」
それから数日後、グスターフ・フォン・アッシェンバッハは、体の具合が悪かったので、ホテルをいつもよりおそい朝の時刻に出た。半分だけしか肉体的でないような目まいの発作と闘かわなければならなかった。目まいの発作にははげしくこみあげる不安と、逃げ道もなく、見こみもないという感じがともなっていた。その感じはそれが外界に関するものか、自分自身の存在に関するものか、はっきりしなくなった。ホテルのホールで、荷造りされたたくさんの荷物を見かけ、門衛に出発するのはだれかとたずね、ひそかに予期していたとおりポーランドの貴族の名を返事として耳にした。その名前を、げっそりとした顔つきを変えもしないで、まるで知る必要もないことをことのついでに知るときによくやるように、ちょっと頭を上げただけで受けとると、かさねてたずねた。
「いつ?」
「昼食後でございます」
こういう返事であった。アッシェンバッハは、うなずいて海へいった。
海辺はさびしかった。海岸を最初の長い砂州とへだてている、広々とした、平らな水の上には、前から後へさざ波を立てるしぶきが走っていた。今まであれほど色とりどりににぎわっていた海岸がもう掃除もされていなかった。秋らしさ、季節が終わったという感じが、見すてられた行楽地に横たわっているようであった。カメラが一台、主もないらしく三脚にのっかったまま海岸に立っていて、かぶせてある黒い布が、冷たい風の中ではたはたとはためいていた。
タドジオは、まだ残っていた三、四人の遊び仲間といっしょに、家族の小屋の右手前で動いていた。アッシェンバッハはひざに毛布をかけて、海と浜辺の小屋の列のまん中あたりにある、例の寝椅子に休息しながら、もう一度タドジオをじっと眺めていた。女の人たちは旅行の仕度にいそがしいらしいので、見張られていない遊びはむちゃくちゃに見え、しかもだんだんひどくなっていった。「ヤシュ」とよばれていた、ベルトのついた服を着て黒いポマードをつけた髪の、あのがっしりした少年は、顔に砂をぶつけられて目がくらみ、かんかんになってタドジオにむりやり取っ組みあいをいどんだ。これはあっというまに力の弱い美少年が倒れてけりがついた。
ところがこの別れのときになって、劣った者のサービスする感情がむごたらしい乱暴に逆転して、長い間の奴隷の境過にうらみをはらそうとでもするように、この勝利者は負けた者を放そうとはしないで、タドジオの背中に乗りかかりって、その顔をいつまでも砂におしつけた。タドジオはそうでなくても戦いで息を切らしていて、今にも窒息《ちっそく》しそうであった。馬乗りになっている者をふり落とそうとするが、その試みも痙攣《けいれん》のような動きでしかなく、しばらくはすっかり動かなくなり、それから、わずかにぴくぴくした動きがくりかえされた。
びっくりしたアッシェンバッハが救いにとび出ようとしたとき、乱暴者はやっとその犠牲者を放した。タドジオはひどく青ざめて、半ば起き上がり、片うでで身を支えて、乱れた髪とうつろな目で、何分間も動かないですわっていた。それからようやく立ち上がり、ゆっくりと遠ざかっていった。はじめは元気よく、それから心配そうに、また懇願《こんがん》するように少年の名がよばれた。少年は耳に入れなかった。自分のやりすぎをすぐ後悔したらしい黒い髪の少年は、タドジオにおいついて、仲直りを求めた。タドジオの肩の一つの動きが、少年をはねつけた。タドジオはななめに水の方へおりていった。はだしのままで、赤い蝶ネクタイのついた、縞《しま》もようの、あのリネンの服を着ていた。
タドジオはなぎさに頭をたれ、片足の爪先でぬれた砂の上に図を描きながらじっとしていたが、やがていちばん深いところでもひざがぬれないほどの浅瀬に入って、だるそうに前へ進みながらそこを横切って砂州までいった。そこに少年は一瞬顔を遠くへ向けて立っていた。それから、あらわになった地面の長くてせまいところを、左へゆっくりと歩み去りはじめた。巾の広い水で大陸からへだてられ、仲間からは気ぐらいの高いむら気のためにへだてられたこの少年は、孤立し、世間からかけ離れた姿を見せて、風に髪をなびかせ、あの向こうの海の中を、霧のように無限なものの前を歩いていった。
もう一度、タドジオは立ち止まって、あたりを見わたした。そして、急に何かを思い出し、そうしないではいられないように、片手を腰にあて基本の姿勢を美しくねじって、肩ごしに岸の方を眺めた。こちらで見つめているアッシェンバッハは、はじめてあの砂州から送られてきた曇った灰色のまなざしが自分のまなざしと出会ったときと同じように、そこにすわっていた。頭は椅子の背にもたれたまま、ゆっくりと向こうを歩いている少年の動きを追っていた。このとき頭は、いわば少年のまなざしにこたえでもするように上がったのである。それからがっくり胸の上にうなだれたので、目は下から見上げているような状況になったが、一方その顔は深い眠りにおちているときの、ゆるんだ、内面的に沈潜した表情を見せていた。
けれども、この人はあの向こうにいる、青白い、かわいらしい魂の導き手が、自分にほほえみかけ、合図しているような気がした。少年が手を腰からはなして、有望な、恐ろしいものを指さしながら、先にたって飛んでいくような気がした。そして今までにもたびたびそうしたように、そのあとについていこうとして起きあがった。
それから数分後に、椅子に横たおしに倒れたアッシェンバッハをたすけに人々がかけつけた。アッシェンバッハは自分の部屋に運ばれた。そして、その日のうちにアッシェンバッハの死の知らせを受けとった世間の人たちは、驚くと同時にうやうやしく、かれの死を悼んだのだった。(完)
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解説
人と文学
パウル・トーマス・マン Paul Thomas Man は一八七五年にリューベック市の穀物商トーマス・ヨーハン・ハインリヒの二男として生まれた。作家ハインリヒ・マンの弟である。
リューベックが栄えると同じにマン家は一七九四年以来、穀物商として繁栄をほこったが、一八九〇年トーマスが十五歳の時、父が死に、商会は廃業し、家族はミュンヘンに移った。
父は北ドイツ系らしい実直な人がらであったが、ブラジル生まれでスペイン系の、いかにも異国風な母のユーリア・ダ・ジルヴァ・ブルーンスは音楽と物語の才があり、マンに後まで大きい影響を与えた。
父の死によってトーマスは死について考えるようになった。これがトーマスを後にショーペンハウアーの形而上学に結びつけるきっかけとなった。
トーマスは残ってリューベックの実科高等学校に通っていたが、一八九三年にミュンヘンに移った。兄のハインリヒと同じように、トーマスも作家になる準備を既にリューベックで始めて、それをミュンヘンでも続けていた。
一八九三年ミュンヘンで一時火災保険会社の見習社員になった。一八九四年に処女作「転落」が発表され、デーメルに認められた。これに勇気づけられて文学に専心することになった。見習社員をやめてミュンヘンの工業大学の聴講生になった。「転落」はトーマスの高く評価したポール・ブールジェの「ディレッタンティズム」の影響によるものである。芸術家とその世の中に対する距離についてはトーマスはニーチェからも学んだ。このテーマは後に「トーニオ・クレーガー」にとりあつかわれた。一八九六年から九八年まで、兄とともにイタリアに滞在し、「ブッデンブローク家の人々」を書きながらトルストイを熟読した。トルストイは人生の享楽と禁欲の教の二律背反としてトーマスに方向を示した。
一八九八年に最初の小説集「小男フリーデマン氏」が出版されたが、これがトーマスを作家として立つことを容易にした。
一九〇〇年から一年志願兵として入隊した間も「ブッデンブローク家の人々。ある家族の没落」の執筆はずっと続けられた。ニーチェとショーペンハウアーとトルストイがこの小説の特徴を与えた。この作が一九〇一年に出版されるとトーマスは一人前の作家として認められた。一九二九年にはこの作品によってノーベル文学賞が授けられたことでこの作品がいかに優秀であったかがわかる。
当時トーマスはトルストイのような作品が書きたく、トルストイに小説構成技術の手本を発見した。トルストイの前にはゴンチャロフがその技術を心得ていることを知った。そこでゴンチャロフの小説も読みふけった。そしてその小説「オブモーロフ」を読むうちに「トーニオ・クレーガー」の企画が知らず知らずの間にできてきた。「トーニオ・クレーガー」は小説集「トリスタン」(一九〇三)に含まれている。
しかしまたトルストイによって、自伝を書く方法で芸術作品を書くことを学んだ。なおトルストイの創作の自伝的教育的要素との連関からメレジコフスキーも知るようになった。「肉」と「精神」との問題はずっと後に「魔の山」(一九二四)や「ヨゼフとその兄弟たち」(一九三三〜四三)を書く時に影響を与えた。
フィレンツェにいた時の思い出と、リューベックを経てオルストゴルトへいった時の思い出は「フィオレンツァ」(一九〇四)と「トーニオ・クレーガー」(一九〇三)となったが、いずれも精神的にはニーチェを読んだ結果である。「大公殿下」(一九〇九)はカーチャ・ブリングスハイムとの結婚(一九〇五)が素材になっている。
そのうちにトーマスはしだいにゲーテの著作ばかりでなく、その人となりと環境についても知識をえようとした。しかし普通書かれていないゲーテの生活の悲劇的側面にも興味をもった。これは「ヴェニスに死す」(一九一二)を書いたことに密接に関係があった。
トーマスは孤独な時代に、素材の探索をしながら「ブッデンブローク家の人々」を越える道をさがそうとしてゲーテに近づいたともいえる。
この頃トーマスは既に「ファウスト」について書く計画をいだいていた。トーマスがあとで描いた主題と形姿は一九〇〇年と一九一四年との間に根ざしている。
いずれにしても「ブッデンブローク家の人々」と「トーニオ・クレーガー」と「ヴェニスに死す」には一つのつながりがある。
トーマスの最後の物語的小説「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」は一九一〇年に、自分の発展を描いた小説「魔の山」は一九一三年に着手された。しかし「フェーリクス・クルル」は一九二二年に、「魔の山」は一九二四年に刊行されたのだから、どちらにも長い年月が経過している。
この辺でまた少しトーマスの生活に話をもどすと、トーマスが一九〇五年にミュンヘンの大学教授の娘カーチャ=ブリングスハイムと結婚したことにはもう触れたが、一九一四年にはミュンヘンのポシンガー街一に別荘風の家を建てて越したこともトーマスの生活には大きい変化であったといえよう。
この年八月に第一次世界大戦が起こった。トーマスはイギリスやフランスが「文明」のために戦うのにドイツは文化のために戦うのだと主張し、評論を書いたり演説をしたりしてそれらをあとでまとめて刊行した。「魔の山」の話を中途で切ったが、この作品には次のような事情がある。
一九二一年に、妻が肺を病んでスイスのダヴォスの療養所に入ったのをトーマスは見舞いにいき、自分も気管支カタルにかかり半年の療養をすすめられ、その時の観察が「魔の山」の材料に用いられたのである。そのために「フェーリクス・クルル」の執筆が一時中断された。しかし「魔の山」も戦争のため中止された。けれども十二年の長い年月をかけたことがこの小説の内容を豊富にし、りっぱな発展小説にした。一九二四年にこれが出版されるとたいへんな反響をまき起こしたのも当然といえよう。
ヒューマニズムに徹するトーマスは一九二二年にムッソリーニが政権をとった時にはすぐにファシズムに反対の意を表明した。しかしヨーロッパのファシズム化はその後だんだんと拡大してきた。
一九三〇年十一月にナチスが国会で驚異的な議席の増加を示した。この時トーマスは「ドイツのあいさつのことば、理性への警告」を講演したが、この講演はナチスによって妨害された。
そればかりか一九三三年一月にヒトラーが宰相になり政権を完全に掌握するまでにいたった。ワーグナーの死後五十年の記念講演に国外にいたトーマスは、ナチスの国へは帰ることができず、そのまま亡命生活に入った。ミュンヘンの家はナチスに接収されたのである。はじめサナリ・シュール・メール、次にチューリヒのそばのキュスナハトにいき、ここに家を見つけて五年住んだ。ドイツの国籍を失い、財産は没収されたので、チェコの国籍を得た。
一九三八年の春「デモクラシーの来るべき勝利」についてアメリカの諸都市を講演してまわった。この間にアメリカへの移住の決心をした。
たえず変化するいやな周囲の事情がトーマスに「ヨゼフとその兄弟たち」をドイツで書きはじめるようにさせた。つまり一九二五年の終わりに既にこの計画ができ、翌年第一章が書かれた。一九三三年から四三年にかけて発刊されたこの四巻の小説はゲーテの「ファウスト」に比較される。ゲーテの自然と精神を包括する知性を尊敬するあまりに書かれたものである。
この作品は旧約聖書「創世記」のヨゼフ物語を拡大し深化しながら、「人類の詩」としてうたいあげたトーマスの最大傑作の一つである。その分量からいってもこの作品以上のものはない。
トーマスは一九三八年にアメリカに移住し、プリンストン大学の客員教授を三年間勤めた。そしてその間一九三九年には第二次世界大戦がはじまった。トーマスは一九四二年にカリフォルニアに住居を作り、ヨーロッパへ帰る一九五二年までここに住んだ。またトーマスはヨーロッパのファシズムに追われて続々と亡命した人々の救護活動の音頭《おんど》をとった。
トーマスは一九三九年に「ワイマルのロッテ」を刊行したが、この作品はゲーテを主人公として、その天才性を明らかにし、ヒトラーの独裁下のドイツとは別に、ゲーテ的なドイツのあることを示した作品で、トーマスが今や若い頃の導きの星であったショーペンハウアー、ニーチェ、ワーグナーをすっかりはなれてきたことをあらわしている。
トーマスが一九四七年に刊行した「ファウスト博士。一友人の物語るドイツの作曲家アードリアン・レヴァーキューンの生涯」は天才的な作曲家が悪魔と結託して没落する悲劇的な物語であるが、ナチズムという非合理主義がドイツに発生した原因や過程をほのめかすものを含んでいる。
「選ばれし人」はアメリカで書かれヨーロッパへ帰る少し前の一九五一年に出版された。「ファウスト博士」は人間性の喪失を描いたが、「選ばれし人」は人間性回復の物語である。
一九四四年の半ばにトーマスはアメリカの国籍を得た。しかしアメリカはついにトーマスの永住の地にはならなかった。トーマスは四度訪問したあとで、一九五二年に故郷に帰ることを決心した。はじめにチューリヒの近郊のエルレンバッハに家を借り、後にキルヒベルクに別荘を買った。そしてキルヒベルクで一九五五年八月十二日他界した。
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作品解説
これまで自叙伝的な作品を書いたマンは、一九一一年にヴェニスへ旅行した時の思い出と美少年を愛した体験をもととすれば、わりあい楽に小説を書けたであろう。しかし「ヴェニスに死す」にはそれまでとはちがう方法を用いようと試みる。それは自分が尊敬し、その作品ばかりか、生活や環境をもしらべていたゲーテを何らかの形でとりあつかおうという意志との関係がある。そしてここには中年を過ぎて、人に尊敬され、もてはやされていながら孤独であったゲーテの姿が現われてくる。
グスターフ・フォン・アッシェンバッハは中年の非常に有名な作家であるが、常に孤独に悩んでいる。近年体力がおとろえて、疲労の発作におそわれる。アッシェンバッハの一生は丈夫でない体に、たえずむち打って、自分にうちかって、がんばり通し、自分の運命を切り開いていくことである。
アッシェンバッハは天才的な青年時代から、今は円熟に達し、広い層から尊敬をうけている。五十歳の誕生日に君主からフォンの称号をもらって貴族に列せられたのもそのためである。しかしここにマンはゲーテの孤独な運命を想像している。アッシェンバッハはミュンヘンに生活していたが、散歩中に急に旅行欲がめざめ、数週間後地中海の島へ出かけようとする。しかし思わしくないので数日後ヴェニスに近いリドに宿を定める。ホテルでポーランド人の家族に会う。真珠を飾った母が、三人の尼僧のような服装をした姉と、十四歳のこれ以上彫刻にも自然の人にもないと思われるほどの美少年と、家庭教師をつれてきているのが目をひく。少年の態度は典雅そのもので、それに自然の優美が結びついているので、神と見まがうばかりの完成に驚く。
アッシェンバッハはひそかにこの美少年を観察して楽しんでいるが、天候がこれ以上ここに滞在することを許さない。出発の決心はするが美少年タドジオから別れることがつらくてならない。いよいよ出発するがホテルの従業員の手ちがいで、荷物があやまってコモへ発送されたことがわかり、もとのホテルへひきかえす。幸い天候も回復してアッシェンバッハはこの美少年の嘆美に没頭する。少年もアッシェンバッハに引かれ、思いがけなくあいさつしたこともあるが、ふたりはたがいに気にかけあいながら知らないふりをしている。アッシェンバッハは海岸で遊ぶ少年をたえず見、少年についてサン・マルコ教会のミサへもいけば、うまずたゆまず少年たちについてヴェニスの小路を歩きまわり、リドへ帰れば少しおくれてゴンドラでもどってくる。
ヴェニスは遊覧客のことを顧慮《こりょ》してひたかくしにかくしているが、小路にも運河にも漂う石炭酸の臭いから、コレラが運びこまれていることをつきとめる。本当のことが知れて外人客は出発するが、アッシェンバッハはヴェニスに残る。愛する美少年のことを思って自分の白髪や皮膚のたるみが気になり、美容師に若返りの方法を講じてもらう。ヴェニスでタドジオを追ううちにその姿を見失い疲れはてて、熟しすぎのくだものを買って食べる。ホテルでポーランド人の家族のせまった出発について聞く。疲労して海岸の寝椅子でアッシェンバッハは、ひとりで砂州を歩くタトジオを見る。自分の前を歩いて、有望で巨大なものの中に入るように見る。アッシェンバッハはタドジオを眺めながら、タドジオに導かれるようにして他界する。
マンは美は死に通ずるものをもっていることを考えていた。「ヴェニスに死す」にもこの思想があらわれている。最も理想とする美のあらわれとしての少年を眺めながら他界するアッシェンバッハは、ある意味では最も幸福な人ではあるまいか。
前にのベたように「ブッデンブローク家の人々。ある家族の没落」と「トーニオ・クレーガー」と「ヴェニスに死す」は自分の分身である作家を中心として、その発展をのべている一つの系統をなしている。
「ブッデンブローク」と「トーニオ・クレーガー」は主な舞台がトーマスの生まれ故郷リューベックである。「トーニオ・クレーガー」ではなおミュンヘンらしいものとデンマークの海岸が出てくる。「ヴェニスに死す」ではミュンヘンとイタリアのヴェニスとリドが舞台である。いずれもトーマスが住んだか、旅行したところばかりしか舞台として現われてこない。この三つの作品では主人公の父が南方系の母と結婚して、それが北方系の父の性格と混じて、ただドイツ的だけでない特徴をもっていることがトーマスの実際と似ている。アッシェンバッハ家にも前の世代に、ボヘミアの楽長の娘であったこの作家の母が入ってきて、異国風な特徴のある作家の特性を形成している。つまりこの三つの作品でトーマスは自分の運命をその通り書いているのである。
ヴェニスとトーマスとの結びつきは深い。まずトーマスよりさきにイタリアヘいっていたハインリヒにすすめられて、一八九六年の十月にイタリアへいくが、この時船でヴェニスを経てアンコナへいき、そこからローマ、ナポリへ達している。しかしヴェニスへいったのはこれが一度だけではない。一九一一年にもいって「ヴェニスに死す」に出る場面の観察をしている。
トーマスはミュンヘンでブールジェを読んで「ディレッタンティズム」の問題を考えるようになったが、イタリアでニーチェの著作を読みながら、イタリアの市民が仕事には熱心ではあるが、精神的方面のことには怠惰《たいだ》であることを見て、作家の喜びと同時に、その重荷について痛感する。これが「ヴェニスに死す」に投影されている。こうしてイタリア旅行がなかったら「ヴェニスに死す」は生まれなかったかも知れない。
以上のべたようにヴェニスとイタリアの体験がこの作品に関係があるが、主人公グスターフ・フォン・アッシェンバッハとトーマスの性格には実によく似たところがある。作中ではアッシェンバッハは自分の死んだ友人だといっている。しかしその友人についてはわれわれは何も知らないから比較はできないので何ともいえないが、これは全くのフィクションであろう。われわれの見るところでは、作中に現われたアッシェンバッハはトーマスにそっくりである。アッシェンバッハの好きなことば「終わりまでもちこたえる」は、実はトーマスの好きなことばである。
トーマスはどの作品を書く時でも、実にくわしいメモをとり、そのメモを中心にして一つの会話、一つの場面にいたるまでくわしく書き、それをまた何度も推敲《すいこう》する作家である。トーマスの作品には短日月の間にたいした努力もしないでできた作品は一つもない。「魔の山」のように十二年もそれ以上も時間をかけることを辞さない。この作中にもアッシェンバッハが「フリードリヒ大王」を書いた小説の中で、「苦しみながら活動する美徳の真髄と思われた、この命令のことばの賛美以外の何ものも見なかった」とあるが、トーマスもフリードリヒ大王のように苦しみながら活動する美徳を高く評価し、その一生はいわばこの実現にほかならなかったのである。なお「それはその作者が、自分の故郷の州を征服したフリードリヒと似た意志の持続とねばり強さで、何年にもわたって同一の作品の緊張のもとにもちこたえて本来の製作にもっぱら元気いっぱいな、とても尊敬すべき時間をついやしたからであった」ということばさえ見える。この意味でアッシェンバッハはトーマスその人をモデルとして描いているといえる。トーマスにもアッシェンバッハと同じように同性愛の体験がある。同性愛は世界中どこでも見られる現象であるが、ソクラテスの昔からヨーロッパには古い歴史がある。トーマスの同性愛についてはここではこれ以上あまり深く立ち入らないことにしよう。いずれにしても作中のアッシェンバッハという作家の形姿は相当こまかい点にいたるまでトーマスその人の似姿であることはたしかである。いや、アッシェンバッハはまったくトーマスをモデルとして描かれている。
しかしアッシェンバッハのある性質だけは、トーマスを越えている他の手本を示している。それは先にものべたようにゲーテである。前の引用文のすぐ続きに「またこの人は年をとることをとても望んでいた。というのは、昔から人間的なもののどの段階でも特質を示すだけのみのりをあげるように生まれついている芸術家のみが、ほんとうに偉大で、包括的で、いえ、ほんとうに尊敬するにあたいすると名づけられるべきだと思っていたからである」というころがある。トーマスは実際にこういう希望を他の場所でもはっきりいっているが、この希望はゲーテとの連関からいわれたもので、エッカーマンの「ゲーテとの対話」の一八三一年二月十七日の会話とも無関係ではない。もう一度くり返せばトーマスはこの作品に「ブッデンブローク家の人々」と「トーニオ・クレーガー」で用いなかった手法を用いたかったのである。
トーマスはほかでものべたように、ゲーテに対して特別の関心を示し、ゲーテの作品をたびたび読み返したばかりでなく、ゲーテの伝記もくわしく研究し、普通の伝記にものっていないようなゲーテの環境についても知っている。そしてゲーテが世の中にもてはやされるほど幸福でなく、むしろ巨匠であるための孤独の苦しみをなめていたことを見ぬいている。こうしてアッシェンバッハが有名人であるために味わう悲劇的側面にゲーテの姿が投影されているのである。
またこの頃トーマスはエロスが死への傾向をおびていることを感じている。トーマスはプラトンが美を論じた「プァイドロス」を相当長く引用して愛についてのべたり、クセノフォンの「ソクラテスの想い出」を引用して美少年の危険を説き、さらに、アポロンとゼピュロスに愛されたが、アポロンとばかり親しんだためにゼピュロスが嫉妬して、アポロンの投げた円盤を吹きとばして少年を殺した話などまでもちだしているのである。
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年譜
一八七五 六月六日リューベック市で、殺物商トーマス・ヨーハン・ハインリヒ・マンの二男として生まれる。父はオランダの領事で、後に都市国家リューベックの政府委員。
一八九二(十七歳) 父(一八四〇年生まれ)が死ぬ。ヨーハン・ズィークムント・マン商会が廃業する。
一八九三(十八歳) 詩や戯曲の試作をし、「春の嵐。芸術、文学、哲学雑誌」の共同出版者になる。リューベックの高等学校を中退。ミュンヘンに移る。
一八九四(十九歳) 火災保険会社の無給見習社員になる。処女作小説「転落」を書き、発表。リヒャルト・デーメルに認められる。
一八九五(二十歳)〜一八九六(二十一歳) ミュンヘンの工業大学に学ぶ。ハインリヒ・マンの出している「二十世紀。ドイツの芸術と福祉のための草紙」に寄稿。
一八九六(二十一歳)〜一八九八(二十三歳) ローマとパレストリアに滞在。一八九七年に「ブッデンブローク家の人々」に着手。
一八九八(二十三歳)〜一八九九(二十四歳) 漫画雑誌「ジンプリチスムス」の編集。一八九八年最初の小説集「小男フリーデマン氏」を刊行。
一九〇〇(二十五歳) 一年志願兵として入隊。
一九〇一(二十六歳) 除隊。「ブッデンブローク家の人々。ある家族の没落」二巻を刊行。これで有名になる。
一九〇三(二十八歳)「トーニオ・クレーガー」をはじめ六つの小説を集めた「トリスタン」を出版。
一九〇四(二十九歳) 戯曲「フィオレンツァ」が完成。
一九〇五(三十歳) ミュンヘン大学教授アルフレート・プリングスハイムの娘カタリーナと結婚。娘エーリカ出生。
一九〇六(三十一歳)「フィオレンツァ」を発表。息子のクラウスが生まれる。
一九〇九(三十四歳)小説「大公殿下」を発表。別荘バート・テルツへ行く。息子ゴーロが生まれる。
一九一〇(三十五歳)「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」に着手。娘モーニカが生まれる。妹カルラ(一八八一年生まれ)自殺。
一九一一(二十六歳) 五月頃ヴュニスに滞在し、「ヴェニスに死す」の構想をいだき、着手。
一九一二(三十七歳)「ヴェニスに死す」を発表。
一九一三(三十八歳)「魔の山」に着手。
一九一四(三十九歳) ミュンヘンのポシンガー街一に家を建てて移る。八月に第一次世界大戦が始まる。
一九一五(四十歳) 論文「フリードリヒ大王と大同盟」発表。
一九一八(四十三歳) 論文集「非政治的人間の考察」出版。娘エリーザベトが生まれる。
一九一九(四十四歳) 小説「主人と犬」、韻文「おさな児の歌」を発表。息子ミヒャエル出生。
一九一二(四十七歳)「詐欺師フェーリクス・クルルの告白、幼年時代」出版。「ドイツ共和国について」講演。ファシズムに対抗する。イタリアでムッソリーニ政権をとる。
一九二三(四十八歳) 母ユーリアナ(旧姓ズィルヴァ・ブルーンス、一八五一年生まれ)死ぬ。スペインへ旅行。
一九二四(四十九歳) 小説「魔の山」を刊行。
一九二五(五十歳) 誕生五十年記念「全集」全十巻刊行。
一九二六(五十一歳) 小説「無秩序と幼い悩み」刊行。「ヨゼフとその兄弟たち」に着手。プロイセン芸術院の文芸部会員になる。
一九二七(五十二歳) レール家にかたづいていた妹ユーリア(一八七七年生まれ)が自殺する。
一九二九(五十四歳) 小説「マーリオと魔術師」を執筆。「ブッデンブローク家の人々」でノーベル文学賞受賞。
一九三〇(五十五歳)「マーリオと魔術飾」、「ドイツのあいさつのことば、理性への警告」刊行。ニッデンの別荘へいく。エジプトとパレスチナを旅行。
一九二二(五十七歳) ゲーテ生誕百年祭にあたり記念講演を行なう。ナチス第一党になる。
一九二二(五十八歳) ヒトラー、ドイツ宰相になる。小説「ヨゼフとその兄弟たち」の第一部「ヤコブ物語」刊行。国外旅行中ナチスにミュンへンの家を接収される。亡命。はじめサナリ・シュール・メール、次にチューリヒのそばのキュスナハトへ行き一九三八年までいる。ドイツの国籍を奪われる。
一九三四(五十九歳)「ヨゼフとその兄弟たち」の第二部「若いヨゼフ」刊行。第一回目のアメリカ旅行。ヒトラー元首となる。
一九三五(六十歳)「ヨーロッパに告ぐ」を発表。
一九三六(六十一歳)「ヨゼフとその兄弟たち」の第三部「エジプトのヨゼフ」刊行。ドイツ国内の財産と国籍を奪われる。チェコの国籍を取る。
一九三八(六十三歳) アメリカに移住。プリンストン大学の客員教授となり、プリンストンに住む。ナチスによるオーストリアの合邦が行なわれる。
一九二九(六十四歳) 第二次世界大戦が始まる。小説「ワイマルのロッテ」刊行。
一九四〇(六十五歳) カリフォルニアに移る。「すげかえられた首……インドの伝説」を刊行。
一九四一(六十六歳) カリフォルニアのパシフィック・パリセーズに自分の家を建てる。この家に一九四二年から一九五二年まで住む。
一九四二(六十七歳) リューベックは空襲で壊滅。「ドイツの聴取者よ! 二十五のドイツへのラジオ放送」を発表。ワシントンの図書館会議のドイツ文学のコンサルタントになる。
一九四三(六十八歳)「ヨゼフとその兄弟たち」の第四部「養う人ヨゼフ」を完成して四部作が完結する。「ファウスト博士」に着手。
一九四四(六十九歳) アメリカの市民権を得る。
一九四五(七十歳)「ドイツとドイツ人。ドイツの聴取者よ! ドイツへの五十五の放送」を講演。ナチスドイツが崩壊し、第二次世界大戦が終わる。
一九四七(七十二歳)「ファウスト博士」を刊行。戦後最初のヨーロッパ旅行。
一九四九(七十四歳)「ファウスト博士の成立」出版。ゲーテ生誕二百年の記念講演をする。弟ヴィクトール(一八九〇年生まれ)が死ぬ。息子クラウスが自殺する。戦後はじめてのドイツ旅行。
一九五〇(七十五歳) シカゴおよびソルボンヌ大学で「わたくしの時代」を講演。兄ハインリヒ(一八七一年生まれ)が死ぬ。
一九五一(七十六歳) 小説「選ばれし人」を出版。
一九五二(七十七歳) ヨーロッパへ帰る。スイスに定住の許可をもらう。チューリヒ近郊のエルンバッハに住む。それ以来毎年のようにドイツを訪問する。
一九五三(七十八歳) 小説「欺かれた女」と評論集「古さと新しさ」を刊行。
一九五四(七十九歳) 小説「詐欺師フェーリクス・クルルの告白、回想録の第一部」を刊行。最後の家をチューリヒ近郊のキルヒベルクに獲得する。
一九五五(八十歳)「シラー試論」というシラー死後百五十年祭の記念講演をする。リューベック市名誉市民となる。八月十二日、心臓症のため、チューリヒの病院で死ぬ。同月十六日キルヒベルクの教会の墓地に葬られる。
〔訳者紹介〕
植田敏郎(うえだとしろう)
ドイツ文学者。一九〇八年広島県に生まれる。東京大学独文科卒業。ドイツ・オーストリア留学、ドクトル・フィロソフィー(ウィーン大学)。日本ペンクラブ、日本独文学会、児童文学会各会員。著書「巷のドイツ語」「涙なしのドイツ語」「ドイツ語・ビール・ドイツ語」など。訳書「グリム童話集」「アルプスの山の少女」「アルト・ハイデルベルク」ベル著「ムルケ博士沈黙集」他多数。