園遊会
マンスフィールド/江上照彦訳
目 次
湾のほとり
園遊会
故大佐の娘たち
鳩氏と鳩夫人
若い娘
パーカーおばあちゃんの暮し
ア・ラ・モオドの結婚
船の旅
ブリル嬢
最初の舞踏会
声楽の授業
見知らぬ人
公休日
理想的な家庭
小間使い
解説
[#改ページ]
湾のほとり
昧爽《まいそう》。まだ日の出前である、新月湾《クレセント・ベイ》はただ一面に白い海の霧《きり》の下に隠れていた。その背後にある茂みに覆《おお》われた大きな丘また丘も霧に包まれていた。丘がどの辺《あた》りまで統くのか、牧場の囲い地やバンガロー建ての屋並がどこから始まるのか、わからない。砂地の路は消え失せ、その向う側の牧場の囲い地やバンガローも見えない。そのまた向うの赤味がかった草に覆われた白い砂丘もなかった。どれが汀《なぎさ》で、どこが海かを示すものもなかった。露《つゆ》がしとどにおりていた。草は青かった。大きな露の玉が茂みにかかったまま、落ちようともしなかった。銀色のふんわりとけば立ったトイトイの花は、その長い茎の先でぐんにゃりしており、また、バンガローの庭にあるきんせん花や石竹は濡《ぬ》れそぼって、土に頭を垂れていた。ツリウキソウも冷たく濡れ、真珠のような露の玉が金蓮花《きんれんか》の平たな葉に宿っていた。あたかも、海が闇にまぎれてそっと打ち上げて来たかのような、一つの大きな波がひたひたと寄せて来たかのような光景だった、ひたひたと――はたしてどの辺りまで? おそらく、もし深夜|目醒《めざ》めたら、窓辺に、大きな魚がつと泳ぎ寄って、また去ってしまうのが見られたのかもしれない……
ざーざあ! 睡《ねむ》げな波の音。そうして、森の中からはせせらぎの響が聞えて来た、淀《よど》みなく、軽《かろ》やかに、なめらかな石の間を抜け、シダの茂ったくぼみに注いではまた出てゆく流れの音が。そうして、大きな葉に大粒の露が滴ってはねる音、それから別の何か――あれは何だろう?――かすかな揺らぎとわななき、小枝のポキンと折れる音、次いで、誰かじっと耳を澄ませて聴き入っている者でもいるかのような静寂。
新月湾の角の方を回って、くずれた岩のかたまりが堆《うずたか》い間を、一群の羊がぱたぱた足音をたててやって来た。羊たちは押し合いへし合いしながら、激しく揺れる小さな羊毛のかたまりになって、その細い棒切れのような脚は、まるで冷たさと静けさとに脅《おび》えでもしたかのように、素早くとことこと進むのだった。羊群のうしろから、一匹の年老いた牧羊犬が、びしょ濡れの足を砂まみれにして、鼻を地面すれすれに、しかし何か別のことでも考えているふうに無頓着《むとんちゃく》な様子《ようす》で、走って来た。次いで、岩の関門のあたりに羊飼いその人が姿を現わした。彼は痩《や》せた姿勢のよい老人で、細かな露の玉をちりばめた粗ラシャの上衣《うわぎ》を着、天鵞絨《ビロード》のずぼんを膝《ひざ》の下でくくって、畳んだ青いハンケチをつばのぐるりに巻いた中折帽をかぶっていた。一方の手を帯革《ベルト》の下に差しこみ、他方の手には、美しいまでにすべっこい黄色い杖を握っていた。そうして、ゆっくりゆっくりと、歩みながら、とても柔かな軽い口笛を吹き続けた、悲しげに、また優しく響く、淡い、遙かな調べだった。老犬は一、二度活気のないふざけ方をして、それから自分のはしたなさを恥じるように、急に近づいて、主人のそばを数歩|威儀《いぎ》を正した歩調で歩いた。羊たちはぱたぱたと小刻みな足取りで進んで行った。彼らは啼《な》きはじめた。すると、海の底の方から、幻影の羊群がそれに呼応《こた》えた。「メエ! メエー!」しばらくのあいだ、羊たちはおんなじ場所にいるように見えた。その行くてには、浅い水溜りのある砂地の路が延びていた。両側に同じ濡れた森が見え、同じ影のような柵があった。次いで、何か巨大なものが見えて来た、双手《もろて》をひろげ髪をふり乱した巨人である。それはスタッブス夫人の店の外にあるゴムの巨木だった。そうして、そこを通る彼らに、ユーカリ樹の強い香りがぷんと匂った。さらに今、霧の中に、光が点々ときらめき渡った。羊飼いは口笛をやめた。彼は湿った袖《そで》で、赤い鼻と濡れた顎鬚《あごひげ》をこすり、眼をあげて海の方を眺めた。日が昇っていた。霧はうすれ、飛び去り、浅い平地から溶け、森から巻きあがって、まるで逃げる者のように急いで消えてゆく、そのいかにも早いのが奇妙であった。銀色の光が広く射渡るにつれて、よじれたり渦《うず》を巻いたりした霧の大きなかたまりが、お互に押し合いへし合いするのだった。遙《はる》かな空――明るいすきとおるような青さの――は水溜りに映り、電信柱をつらねる露の玉は、点々と光りきらめいていた。いま、躍《おど》り輝く海は、あまりにも燦然《さんぜん》として、眼が痛くなるほどだった。羊飼いは、火皿がどんぐりほどの小さなパイプを、胸のポケットからぬき出して、何やかや混じった刻み煙草《たばこ》を一つまみして、ちょっとくずを除いてから火皿につめた。彼は壮重なととのった顔の老人だった。火をつけると、青い煙は彼の頭の辺りに渦を巻く、それを見守る犬は、主人を誇り顔に見るのであった。
「メエ! メエー!」羊は扇形にひろがった。彼らはいま、別荘地をすぎるところだった、まだ誰も、寝返りをうって、睡げな頭をもたげる者も無い前に。羊の啼き声は小さな子供たちの夢の中にひびいた……眠りの中の可愛い、小さな、毛むくじゃらの子羊を、引張りおろして抱きしめようと、子供たちは手をあげた。次いで、最初のこの地の住人が姿をあらわした。それはバーネル家の猫のフロリーで、門柱の上に乗っかって、例の通りもうずっと前から、乳しぼりの娘を待っているのだ。猫は羊飼いの老犬を見ると、やにわに飛び上って、背中を丸め、ぶちの頭を引っこめて、ちょっと気むずかしげに嚇《おど》してみせるふうだった。「ウウー、なんて下等な、いやらしい奴《やつ》!」フロリーはいった。しかし老いた牧羊犬は、見上げようともしないで、脚を左右に踏み出しながら、尾を振り振り通って行った。ただその片方の耳がぴくぴくと動いて、猫にはちゃんと気づいていて、馬鹿な小娘だと思っていることを示していた。
森の中から朝の微風が立って、木の葉と湿った黒土の匂いが、鋭い海の香りとまじり合った。無数の小鳥が唱いだした。鶸《ひわ》が羊飼いの頭の上を飛んで行って、小枝の先にとまると、太陽の方に向って、その小ちゃな胸毛をさか立てた。今や羊群は漁師の小屋をすぎ、牛乳しぼりの娘のリーラが年寄りのお祖母さんと暮している焦《こ》げたみたいなあばら家をすぎた。羊は黄色い湿地をさまよい、牧羊犬のワッグはその後に従って、羊たちをまとめて、もっと険《けわ》しく狭い岩の小径《こみち》の方ヘむかわせるのであった。径はそこから新月湾を離れて、|光が浦《デイライト・コープ》へ通じていた。「メエ! メエー!」どんどん乾いてゆく路を、揺れ動いて行くにつれて、啼き声はかすかになってきた。羊飼いは口からパイプを外《はず》して、小さな火皿が首をのぞかすような工合に、胸ポケットにおさめた。
と、すぐにまた、例の柔かい爽《さわ》やかな口笛がはじまった。ワッグは、何かにおう物を追って、岩棚に沿って走って行ったが、それもいやになった様子で引き返して来た。羊たちは、それから、押し合い、突き合い、せかせかしながら曲りみちを廻ってゆき、羊飼いもその後について、とうとう見えなくなってしまった。
二
それからほんのしばらくたってから、バンガローの一つの裏木戸が開いて、太い縞《しま》模様の水着姿が、牧場の囲い地を駆《か》け下り、柵段を跳び越え、叢《くさむら》を抜けて窪地《くぼち》に入り、砂丘をよろめきのぼり、そうして、大きな孔《あな》だらけの石の上を、冷たい濡れた小石の上を、懸命に走りぬいて、油のように艶《つや》やかな硬い砂浜に出た。ボチャン! ボチャン! スタンレイ・バーネルが嬉々《きき》として水を分けて進むと、水は彼の脚のあたりに泡立った。いつもの通りの一番乗り! また見事みんなを負かしてやった。で、彼はどぶんともぐって、頭と頸とを水にひたした。
「いよう、これは兄上! ようこそ、お出でなされました!」水の上を柔かな低音がひびいてきた。
おや、おや! なんていまいましい! スタンレイは顔をあげて、遙か遠くに黒い頭が揺れ動きながら、片手をあげているのを見た。ジョナサン・トラウトだ――ちゃんと彼の先まわりをして! 「すてきな朝ですね!」晴々とした声だった。
「そう、すばらしい!」スタンレイは、ぽつんといった。いったいぜんたいなぜ、あいつは、自分の領分の海にいないんだろう? なぜ、よりによってここまで出しゃばってくるんだろう? スタンレイは一蹴《ひとけ》りして、ざぶっと突込んでから、抜手を切って泳ぎだした。でもジョナサンも負けてはいなかった。彼は近づいて来た。黒い髪が額につやつやしており、短い顎鬚もつややかだった。
「昨晩おかしな夢をみましたよ!」と彼は叫んだ。この男は、どうかしてるんじゃないかしら? この気違いじみた話好きは、名状し難いまでにスタンレイをいら立たせた。しかも、いつも同じことだ――いつも、自分のみた夢についてのたわごとか、あるいはとんでもない思いつき、でなければ、読んでいるくだらぬ本の話。スタンレイはあおむけになって、両脚を蹴って、ついには生きた噴水さながらに、しぶきをあげはじめた。しかし、そうしていてさえ……「夢で、ぼくはぞっとするほど高い断崖《だんがい》にぶらさがっていて、下のほうの誰かにどなっていたんですよ」そう願いたいもんだ! とスタンレイは思った。もう彼は我慢《がまん》がならなかった。彼はばちゃばちゃやるのをやめた。「あのね、トラウト」彼はいった、「今朝はちと急がしいんだよ」
「あなたが何ですって?」ジョナサンは驚いて――もしくは驚いたふりをして水にもぐると、息を吹きながら、また顔を出した。
「というのは」スタンレイはいった、「暇がないってことさ――のらくらしてる。これもさっさと切り上げたいんだ。気がせくんだよ。今朝は仕事があるから――分ったかい?」
スタンレイがまだいい終らないうちに、ジョナサンは見えなくなってしまった。「ではどうぞ!」低音《バス》の声はおとなしくそういって、彼は、さざなみ一つ立てず、水の中をくぐり去ったのである……だが、なんていまいましい奴! スタンレイの泳ぎを台無しにしてしまった。あの男は、何という現実離れのした馬鹿者なのか! スタンレイはふたたび沖《おき》に向って泳ぎ出し、それからまた同じ速さで引返して来て、いっさんに浜辺を駆け去った。うまくのがれた感じだった。
ジョナサンは、なお少し水の中に残っていた。両手をひれのようにゆるやかに動かして、その長いやせた身体を波のもてあそぶがままにまかせながら、浮んでいた。どうも奇妙なことであった、何がどうあっても、彼はスタンレイ・バーネルが好きだった。なるほど、時たまスタンレイをからかってみたい、なぶってみたい悪魔的な欲望にかられることはあったが、でも心の底では気の毒に思っているのだった。何でもかでもひたむきに考えるスタンレイの心構えには、何かいたましいものがあった。いつかは不運に見舞われて、どんなひどい失敗をしはしないか、と思わずにはいられなかった! その瞬間、大きな波がジョナサンをもたげ、彼を乗り越え、愉《たの》しい音をたてて汀にくだけた。なんという美しさ! とまた、次の波が寄せて来た。これこそ生きて行き方だ――無鉄砲に、向う見ずに、自らを費《ついや》してゆく。彼は足で立って、浜の方へ歩きだした、固い、しわの寄った砂に、強く爪立つようにして。物事を気楽に考えること、人生の潮の満干にさからわないで、それに身をまかせておくこと――それが肝要《かんよう》なのだ。とかく悪いのは、この緊張である。生きる――生きること! そうして、かくも新鮮で美しい完璧《かんぺき》の朝は、満面に日を浴びながら、それ自身の美に歓喜するもののように、こうささやくようだった、「いいじゃないか!」
しかし、さて水から出ると、ジョナサンは寒さで真青になった。身体じゅうが痛かった。彼の血を搾《しぼ》り取る者でもいるかのような感じだった。そうして、汀を大股《おおまた》に歩いてゆきながらも、どの筋肉も固くひきつって、ぶるぶる震えるしまつなので、彼もまた彼の水浴は台無しになったと思った。あんまり長く水の中にいすぎたのだ。
三
スタンレイが青いサージの服を着、固いカラーに水玉模様のネクタイをつけて現われたとき、居間にはベリルだけしかいなかった。見たところ、彼はほとんど薄気味悪いほど身ぎれいで、服にはよくブラッシをかけているようだった。彼は町に今日の勤めに出かけるところだった。椅子《いす》にどっかと腰をおろすと、彼は時計を取り出して、自分の皿のかたわらに置いた。
「もう二十五分しかない」と彼はいった、「行って、ポリッジができてるかどうか、見てくれないか、ベリル?」
「母さんが取りに行ってるわ」ベリルはいった。彼女はテーブルに坐って、彼のお茶をついだ。
「ありがとう!」スタンレイは一すすりした。「おや!」彼は頓狂《とんきょう》な声で、「砂糖を忘れてるじゃないか」
「あら、ご免なさいね!」だが、それでもベリルは手をかそうとはしなかった、砂糖壺を押しやっただけだった。いったいこれはどういうことなんだ? スタンレイは自分の手で入れながらその青い眼を見開いた、眼はふるえているようだった。彼は素早く彼の義妹を一瞥《いちべつ》して、うしろへよりかかった。
「どうかしたの?」彼は、カラーをいじりながら、何気ないふうに尋ねた。
ベリルはうなだれた、彼女は指で自分の皿を回した。
「いいえ、何にも」と明るい声。それから彼女も顔をあげて、スタンレイにほほえみかけた。「何にもあるわけがないでしょう?」
「そう! ぼくの知ってるかぎりでは何にもない。ただ君の様子がね――」
その時ドアが開いて、三人の少女が現われた。各自がポリッジの皿をもっている。彼女らは一様に、青のジャケツに半ずぼんといういでたちだった。日焼けした褐色の脚をむき出しにして、めいめいが髪を編んで、通称馬の尻尾《しっぽ》というかたちにピンでとめていた。そのあとから、フェアフィールド夫人が盆をもって入って来た。
「みんな用心するんですよ」彼女は注意をうながした。しかし、彼女らはすでに最大限の注意を払っていたのだ。物を運ばせてもらえるのが嬉しかったのである。「お父さまにお早よういったの?」
「はい、おばあちゃま」彼女たちは、スタンレイとベリルの向う側の腰かけにならんで坐った。
「お早う、スタンレイ!」フェアフィールド老夫人は、彼に皿を渡した。
「お早うございます、お母さん! 坊はどうです?」
「とてもいい子! 昨晩一度目を覚ましただけよ。何てすばらしい朝なんだろうね!」老夫人はちょっと息をついて、パンの山に手をかけたまま、開け放った扉から庭に見入っていた。海の音が聞えていた。広くいっぱいに開いた窓からは、日の光がそそいで、黄色いニスを塗《ぬ》った壁や裸《はだか》のままの床《ゆか》に射していた。テーブルの上の何もかも光り輝いていた。真中には、黄、赤の金蓮花をいっぱいに活《い》けた古いサラダ・ボールがあった。夫人は微笑した、深い満足をこめた眼差《まなざ》しが、彼女の眼に輝いた。
「そのパンを一きれ切ってくれませんか、お母さん」スタンレイがいった。「乗合馬車がくるまでに、たった十二分半。誰かぼくの靴を女中に渡しといてくれましたかしら?」
「ええ、靴の用意はできてるわ」フェアフィールド夫人は悠然と構えていた。
「あら、キザイア! なぜそんなにお行儀が悪いの!」愛想もつき果てるという調子のベリルの叫び。
「あたし? ベリル叔母さま」キザイアは彼女をじっと見つめた。いったい、いま彼女が何をしたというのだろう? 彼女はただ、自分のポリッジの真中に河を掘り抜いて、それをふさぎ、そうして岸のほうから食べている、というにすぎない。しかし、それは毎朝やっていることで、今までは誰も何ともいわなかったのだ。
「イザベルやロティみたいに、なぜ食物をちゃんと食べれないの?」大人って、どうしてこうも不公平なんだろう!
「でもロティはいつも浮島を作ってるわ、ねえ、ロティ?」
「あたしは違うわよ」イザベルはきっぱりといった、「あたしは、砂糖をふりかけて、牛乳を入れて、食べちまうの。食物で遊ぶのは、赤ちゃんたちだけだわ」
スタンレイは椅子をうしろに押しやって立ち上った。
「お母さん、靴を出して頂けませんか? それから、ベリル、ご飯がすんだのなら、門まで一走りして、乗合馬車をとめて欲しいな。イザベル、お前はお母さんのところへ駆けて行って、どこにぼくの山高帽がしまってあるかきいてくるんだ。ちょっと待った――お前たちは、お父さんのステッキで遊んだんじゃないか?」
「いいえ、お父さま」
「だって、わたしはここに置いたんだからね」とスタンレイはどなりはじめた、「この隅のところに置いたのを、はっきり覚えてるんだ。さあ、誰がしたんだい? ぐずぐずしてる暇が無いんだよ。よく探してみてくれ! ぜひステッキを見つけなくては」
女中のアリスまでが、この探し物に巻きこまれてしまった。「何かの拍手《ひょうし》で、台所の火でも突っつくのに使いはしなかったかい?」
スタンレイは、リンダが寝ている寝室に飛びこんだ。「奇怪しごくだ。何一つ自分のものがちゃんともってはいられないんだから。今度は、ステッキをやられちゃった!」
「ステッキですの? どんなステッキ?」こうした際のリンダのうかつさ加減は、正気の沙汰《さた》とも思えない、とスタンレイは考えた。誰も自分に同情してくれる者はいないのか?
「馬車よ! 馬車、スタンレイ!」門の方からベリルの叫ぶ声。
スタンレイはリンダに手を振った。「さよならをいう暇もないよ!」と彼は叫んだ。そうして、彼のつもりでは、それが彼女への面当《つらあ》てであった。
彼は山高帽をひっ掴《つか》んで、家から駆け出し、庭の小径《こみち》を突進して行った。なるほど、乗合馬車が待っていて、ベリルが、開いた門にもたれながら、別段のことも無かったふうに、誰彼と笑いさんざめいているところだった。女たちの酷薄さ! ステッキが無くならないように心遣いする、その労をさえ惜しむというのに、彼女らのため汗水たらして出かけて行くのは、しごく当然と心得ているそのやり口。ケリーは馬の尻のあたりに鞭《むち》を飛ばした。
「行ってらっしゃい、スタンレイ」ベリルが、優しく明るく声をかけた。行ってらっしゃいというくらいは雑作《ぞうさ》もないことだ! そうして彼女は、眼に片手をかざしながら、のんびりと立っている。もっとも癪《しゃく》にさわるのは、スタンレイもまた、お体裁《ていさい》にしろ、さよならと叫ばないではいられないことだった。それから彼が見たのは、彼女がくるりと向きをかえて、ぴょんと一跳ねして、家に走りこむすがたであった。彼を送り出して、せいせいしているのだ!
その通り、彼女はやれやれというところだった。居間に駆けこみざま、彼女は「行っちゃったわ!」と大声で伝えた。リンダが部屋から叫んだ、「ベリル! スタンレイ行ったの?」フェアフィールド老夫人が、フランネルの小ちゃなベビー服の坊やを抱いて、姿を現わした。
「行っちゃったの?」
「行ったわ!」
ああ、ほっと一息、家から男を送り出したあとのあの気持の違い。彼女たちがお互いに呼びかわす声までが変っていた、温かで、愛情に満ちて、一つの秘密を分ち合うかのように響いた。ベリルは食卓のところへ行った。「もう一杯お茶を召しあがれ、お母さま。まだ熱いわよ」女たちが好きなように振舞えることを、彼女はどうにかしてお祝いしたいのだ。彼女たちの気持を掻《か》き乱す男はいなかった、終日が彼女たちのものだったのである。
「いいえ、もういいのよ」フェアフィールド老夫人はいった、が、ちょうどその時抱いている坊やを揺り上げ、「ガア、ガア、鵞鳥《がちょう》!」とあやす様子から、彼女もおんなじ気持だということが、読めるのだ。小娘たちは、鳥小屋から放たれたひよ子のように、牧場の囲い地へ走って行った。
女中のアリスは、台所で皿を洗っているのだが、彼女でさえ、これまた同じ気分に染って、大切なタンクの水を、むやみと粗末に使い流しているのだった。
「ああ、あんな男たちは!」といって、彼女は茶瓶《ティーポット》を洗い桶《おけ》にざぶっと突っこんで、ぶくぶく泡を吹かなくなってもなお水につけたままにしておいた、あたかもこの茶瓶《ティーポット》までが男の片割れで、水に溺《おぼ》れるのはいい気味、とでもいった工合に。
四
「待ってて、イザベル! キザイア、待っててよ!」
かわいそうに小さなロティは、またしても置いてけぼり。とうてい自分では柵段が越せないことが分ったからである。最初の段に立つと、もう膝《ひざ》がぐらつきはじめた。彼女は棒ぐいにつかまった。それから、片足を乗り越えなくてはならなかった。でも、どっちの脚? 彼女は決めかねた。そうして、ようやく一方の脚を、決死の一歩というふうに、越えたとき――その際の怖ろしい気持といったら。彼女はまだ半分は囲い地の中におり、半分は叢《くさむら》の中にいた。彼女は懸命に棒ぐいをつかんで、声をあげた。「待ってて!」
「いやよ、待ってはだめよ、キザイア!」イザベルがいった。「ロティは馬鹿なちびなんだもの。しょっちゅう騒いでばかしいて。いらっしゃいよ!」そうして、彼女はキザイアのジャケツを引っぱった。「あたしと一緒に来たら、あたしのバケツ使わしてあげるわ」と彼女は親切げにいって、「あんたのより大きいわよ」でも、キザイアは、ロティをひとりきり置いてけぼりにはできなかった。彼女はロティのところへ駆けもどった。こうしているまに、ロティの顔は真赤になり、苦しげに息をついていた。
「さあ、もう一方の脚を出すのよ」キザイアはいった。
「どこに?」
ロティはキザイアを見おろした、まるで高い山から下を見るように。
「ここ、あたしの手のあるところ」キザイアはそこを手で叩いた。
「ああ、|そこ《ヽヽ》なの?」ロティは深い溜息をついて、次の足を渡した。
「さあ――ぐるりと回るようにして、そして坐って、すべるのよ」とキザイアがいった。
「でも腰かけるものなんかないわ」とロティはいった。
とうとう、どうやらやりおおせて、いったんそれができたとなると、身体をゆすって、にこにこしはじめた。
「柵段を越えるの、あたし上手になったでしょう、ねえ、キザイア?」
ロティはしごく頼もしい性質だった。
桃色と青の麦稈帽《むぎわらぼう》が、イザベルの真赤な麦稈帽のあとについて、滑《すべ》っこいつるつるした丘をのぼって行った。頂までのぼりきると、彼女らは立ち止って、さてこれからどこへ行ったものかを決め、また、先に来ているのは誰かを見きわめようとするのだった。うしろから見たところ、くっきりと天涯《てんがい》に浮んで、大仰にスコップを打ち振っている姿は、まるで途方に暮れた小探険家たちというふうに見えた。
そこにはサミュエル・ジョーゼフ一家もすでに来ていた、家政婦と一緒に。彼女は折たたみ椅子に腰をすえて、頸に結んだ笛と小さな鞭《むち》でちゃんちゃんときまりをつけた。鞭は、子供たちのすることを指図するのに用いるのだ。サミュエル・ジョーゼフ家の子らは、決して自分たちだけで遊んだり、ゲームをやったりはしなかった。万一そうしたとなると、男の子らは女の子の頸すじに水をつぎこみ、女の子らは男の子のポケットに黒い小蟹《こがに》をしのばせる、というようなのがおちだった。そこで、S・ジョーゼフ夫人と気の毒な家政婦とは、子供たちを「堪能《たんのう》させて|わるさ《ヽヽヽ》をさせない」ようにするために、家政婦のいわゆる「|ブ《ヽ》ログラム」を毎朝つくった。それはすべて競技、競争、あるいは輪を作って遊ぶのたぐいだった。万事が家政婦の吹く鋭い笛の音と共に始まり、また笛の音と共に終った。賞品までが出た――大きな、汚れ気味の紙包みで、家政婦はしぶしぶほほえみながら、それをふくれ上った編み袋から取り出すのであった。サミュエル・ジョーゼフ家の子らは賞品をもらおうとたいへんな争いをやった、ごまかしをやったり、腕をつねり合ったりして――みんな、つねることは名人だった。たった一度、バーネル家の子供たちが、彼らと一緒に遊んだとき、キザイアが賞品をとった。そこで、三重にくるんだ紙をほぐしてみると、ごく小さなさびたホックが入っていた。どうして彼らがあんな大騒ぎをするのか、彼女には呑みこめなかった……
しかし今ではサミュエル・ジョーゼフの子供たちとは決して遊ばなかったし、そのパーティに出かけることもなかった。サミュエル・ジョーゼフ家では、いつも「湾」でパーティを開いたが、食物はつねに同じだった。大きな手水鉢《ちょうずばち》に入れた茶色のフルーツ・サラダ、四つに切った菓子パン、それに家政婦のいうところの「リモネーディア」がいっぱい入った水さし。そうして夕方帰るときには、上着の襞飾《ひだかざ》りは半分はとれているし、透かし織のエプロンの前のほうは、何かがこぼれてすっかり汚れている。あとにはサミュエル・ジョーゼフの子たちが、うちの芝生《しばふ》の上を野蛮人のように跳ねまわっているだけ。いやだ! あの子たちはあんまりだ。
もう一方の浜辺、汀にずっと近いところに、二人の小さな男の子が、半ずぼんをまくりあげて、蜘蛛《くも》のように光っていた。一人は砂を掘っており、もう一人はぱちゃぱちゃ水に入ったり出たりして、小さなバケツを満たしていた。二人はトラウトの子供のピップとラグズ。でもピップは掘るのに忙しく、ラグズはその手伝いに忙しかったので、彼らの小さないとこたちがほんのそばに来るまで気づかなかった。
「ほら!」とピップがいった、「ぼくが見つけたんだよ」彼は濡れて、古ぼけて、ぐちゃぐちゃになった深靴を見せた。三人の小さな女の子たちは眼を見はった。
「これをどうするつもりなの?」とキザイアがたずねた。
「もちろん、とっとくんさ」ピップはさも相手を馬鹿にしたふうだった、「見つけ物だよ――ね?」
そう、キザイアはよく見てみた。それにしても……
「砂の中には、いろんな物が埋まってるんだよ」とピップが説明した。「難破船から放り出されるんだよ。宝物だ。そうとも――君だって見つけられるのに――」
「でもなぜラグズは水を入れてるの?」とロティがいった。
「ああ、湿すためさ」ピップはいった、「仕事を少しやり易くしようというんだよ。続けてやるんだ、ラグズ」
で、お人好しの小さなラグズは、走って行きつ戻りつしながら、しきりと水を注ぎこむのだが、水はココアのように赤くにごった。
「ねえ、きのう見つけたものを見せてあげようか?」ピップは神秘的ないい方をして、砂にスコップを突きさした。「誰にもいわないって約束するんだよ」
女の子たちは約束した。
「こういうんだ、わが胸に切る十字にかけて」
女の子たちはそういった。
ピップはポケットから何かを取り出して、ジャケツの前のほうで長いことこすってから、息を吹きかけて、またこするのだった。
「さあ、こっち向いて」彼は命令した。
女の子たちは向きを変えた。
「みんな同じようにして見るんだよ! 静かにして! さあ」
かくて彼の手が開いた。彼は何かを光にかざしたが、それはきらきらと閃《ひらめ》き輝いて、とても美しい緑色だった。
「ネメラルなんだぜ」おごそかにピップがいった。
「ほんとう、ピップ?」イザベルまでが感心した。
その美しい緑色のものは、ピップの指の間で踊《おど》っているように見えた。ベリル叔母さんも指輪にネメラルをはめていた、しかしそれは小さなものだった。
これはといえば、星のように大きく、もっと遙かに美しい。
五
ひる近くなるにつれて、あらゆる人の群れが砂丘の上に現われて、それから泳ぐために汀のほうへ降りて来た。十一時には別荘地の女・子供たちで海を占領してしまう、というわけだった。まず女たちが脱衣し、水着をつけ、スポンジ袋のようなぶざまな帽子をかぶった。次に子供たちがボタンをはずしてもらった。浜一面にまき散らしたように、着物と靴の小さな山ができた。大きな夏帽子には石を載せて、風で吹き飛ばされないようにしてあったが、それが巨大な貝殻《かいがら》のように見えた。こうした躍り跳ね、笑いさんざめく人々が波に駆けこむときには、ふしぎにも、海までが何か違った調子に響くのだった。薄紫《うすむらさき》の木綿《もめん》の服を着て、黒い帽子を顎《あご》の下にゆわえつけたフェアフィールド老夫人は、ちび連中を集めて、水に入る用意をしてやった。トラウトの男の子たちは、シャツを頭からかなぐり捨てるようにしてぬぎ、五人がさーっと駆け去った、あとに残ったお祖母《ばあ》さんは、坐る際にはもう片手を編物袋に入れており、子供たちが無事に水に入ったのを見とどけると、早速毛糸の玉を取り出した。
肉付きの締った女の子らは、やさしい、ひ弱そうに見える男の子たちの半分ほども、いくじが無かった。ピップとラグズは、さすがにふるえながら、かがみこみ、水をぱちゃぱちゃやっていたが、決してためらいはしなかった。十二掻きほど泳げるイザベルと、それにやっと八掻きがせいぜいのキザイアは、お互いに水をひっかけないという堅い約束をして、ついて行くだけだった。ロティはと見れば、彼女にはついて行く気配はこれっぱかしもなかった。彼女は勝手気ままに放っておかれたかったのだ。で、それは、波打ぎわに坐りこんで、脚を真直ぐにのばして、膝をきちんとくっつけて、沖のほうへぷかぷか浮んで行くのを待っているかのように、両腕を何ともつかぬふうに動かすことだった。しかし、たまに大きな波が、老人の頬ひげのようなそれが、彼女を目がけて崩《くず》れかかって来ると、彼女はひどくおびえた顔をしてあやうく立ち上り、また汀に駆け戻った。
「ねえ、お母さん、あたしの物預って下さる?」
二つの指輪ときゃしゃな金の鎖がフェアフィールド夫人の膝のあたりに落ちた。
「いいわよ。でも、ここで泳ぐんでしょう?」
「いいーえ」とベリルは精のない返事をした。あいまいな響きだった。「ずっと向うで脱衣するのよ。ハリイ・ケンバーの奥さんと一緒に泳ぐつもりなの」
「いいともさ」でもフェアフィールド夫人は、きっと唇《くちびる》を噛みしめた。彼女はハリイ・ケンバー夫人には賛成できなかったのだ。ベリルはそれを知っていた。
かわいそうなお母さん、石の上をぴょんぴょんとんで行きながら、彼女は微笑した。かわいそうなお母さん! すっかり老いこんで! ああ、何という喜び! 若いとは何という大きな幸福なのだろう……
「とても嬉しそうだわね」ハリイ・ケンバー夫人がいった。彼女は石の上に背を丸くして坐っていた、膝を抱えこんで、煙草をふかしながら。
「こんなにいい日和《ひより》なんですもの」ベリルは上から彼女にほほえみかけながらいった。
「おやまあ」ハリイ・ケンバー夫人の声の響きには、それだけじゃないんでしょう、といったような余韻《よいん》がこもっていた。とにかく彼女の声には、あんたのことはあんた以上に知ってるわよ、というふうの調子があるのだった。彼女は手足の貧しい、ひょろ長い、奇妙な風采の女であった。顔もまた細長くて、疲れきったよう。ブロンドの巻いた前髪までが、燃えきって、しなびたように見えた。「湾」で煙草を吸う女性は彼女ただ一人きりで、不断に煙草をふかしており、話すときも、シガレットを口にくわえたままで、ただ、灰が長くなって落ちないのがふしぎなくらいにまでなって、ようやく口から離すという始末だった。ブリッジをやっていないときには――ブリッジ遊びは彼女の毎日の仕事だったが――烈日の照りつける中に寝ころがって時間をつぶすのだった。それがどんなに長くても平気だった、飽きるということがなかった。それほどまでにしても、彼女は温まらないようだった。焦《こ》がれ、しなびて、冷たく、彼女は石の上に延びていた、打ちあげられた一本の流木のように。「湾」の婦人たちは、彼女をおよそ身持ちの悪い女と考えていた。彼女の不躾《ぶしつけ》、彼女の使う俗語、男たちと付合ってまるで自分もその一人ででもあるかのような態度、家のことをちっともかまわないで、女中のグラディスを「色目《グラッド・アイズ》」と呼ぶ事実など、およそ恥ずべきである。ヴェランダの踏段の上に立って、ケンバー夫人は、そのなげやりな疲れた声で、「ちょっとグラッド・アイズ、あたしのハンケチがあったらとってくれない?」と呼ぶのだった。と、帽子の代りに赤い蝶々《ちょうちょう》を頭に結んで、白靴をはいたグラッド・アイズが、小なまいきな微笑を浮べて走って来た。恥知らずもいいところだ! なるほど、彼女には子供がなかった、それに夫というのは……ここでいつも噂《うわさ》をする人声が高くなり、熱をおびるのである。どうして彼女と結婚したのかしら? どうして、どうして? 金のために違いない、もちろん、でも、それにしても!
ケンバー夫人の夫は、少くとも十年は彼女より若かった、世にも稀《まれ》な美男で、人間というよりは、仮面もしくはアメリカの小説の插絵《さしえ》の人物そっくりだった。黒い髪、黒味がちの青い眼、紅い唇、ゆっくりと睡げな微笑、上手なテニスのプレイヤー、ダンスの名手、かてて加えてそれに神秘なものがまつわっていた。ハリイ・ケンバーは、夢の中を歩んでいるような男だった。男たちにとっては全くかなわない存在だった、一言口をきかせることもできなかったのだ。彼は妻を無視した、妻が彼を無視したように。彼はどうして暮しているのだろう? もちろん、いろんな噂《うわさ》が立っていた、が、その噂は! およそ話すのも、はばかられることばかりだった。彼と一緒にいたという女たち、彼を見かけたという場所場所……しかし、何にもはっきりはしなかった、これという確かなことはなかった。「湾」の女たちの中には、いつかは彼が人殺しでもやるだろうと、ひそかに思っている者もあった。彼らはケンバー夫人に話しかけ、彼女が身につけている衣裳《いしょう》のけばけばしい色の取り合わせにたまげるのであるが、そう、そういうときですら、彼女は浜辺に長々と寝そべっているのだった。冷然と、残忍に、やはり口の端に紙巻をくわえて。
ケンバー夫人は立上り、あくびをし、ベルトの留め金をはずして、ブラウスの|平打ち紐《テープ》を引っぱった。と、ベリルはスカートから歩み出て、ジャケツをぬいだ。そうして、短い白いペティコートと、肩のところに結びリボンのついた下着だけで立っていた。
「まあ! なんてべっぴんさん!」ハリイ・ケンバー夫人がいった。
「いやだわ!」ベリルは、そっといった。だが、一つ一つストッキングをぬぎながら、自分の美しさを感じた。
「おやまあ――かまわないわね?」ハリイ・ケンバー夫人は自分のペティコートを踏みながらいった。じっさい――彼女の下着といったら! 青い木綿のブルマーと何か枕カバーを思わせるリンネルの胸衣……「で、あんたはコルセットをつけてないのね?」彼女はベリルの腰にさわった、と、ベリルは小さなわざとらしい叫び声をあげて飛びのいた。そうして、「いけないわ!」ときつくいった。
「いいわねえ」ケンバー夫人は自分のコルセットをはずしながら溜息をついた。
ベリルはくるりと背を向けて、着物をぬぐと同時に水着を下から引上げようとする、あの複雑な動作を始めた。
「まあ、あんた――あたしを気にしないでよ」ハリイ・ケンバー夫人はいった。「はずかしがることないんじゃない? あんたを取って喰いはしないわよ。あの馬鹿な連中と違って、あたしはどぎまぎはしないから」そうして、馬のいななくような、おかしな笑い声をたてて、彼女は他の女たちのほうに渋面を作って見せた。
でもべリルは恥しかった。彼女は人前で着物をぬいだことが無かった。それは愚かなことだろうか? ハリイ・ケンバー夫人は、それが愚かなことはもちろん、何か恥ずべきことのようにさえ思わせた。ほんとうに、はずかしがることなんかないんだわ! 彼女はちらとその友を一瞥《いちべつ》した、夫人は破れたシュミーズのまま臆《おく》する色もなく立っていて、新しいシガレットに火をつけた。と、ベリルの胸に、やにわに、大胆な邪悪な気持が湧いてきた。むやみに笑いながら、彼女はまだよく乾いていない水着――ぐんにゃりして、砂でざらざらしてるのを身につけて、ねじれたボタンをとめた。
「そのほうがいいわよ」とハリイ・ケンバー夫人がいった。二人は一緒に浜を降りて行った。「全くのところ、あんたが着物をきるなんて気がきかないわ。誰かいつかあんたにそういわなくてはいけないわね」
水はとても温かだった。それはふしぎなほどすき透った青さで、点々と銀色にきらめき、底の砂は金色に見えた。足先で蹴《け》ると、金粉の小さな煙が立った。もう波は、彼女の胸のあたりまで来た。彼女は両手を拡げ、遠くを眺めやりながら、立っていた。そうして、波が寄せてくるたびごとに、ほんのちょっと飛び上った、で、波そのものが彼女をかくも優しくもたげるかのように思えるのだった。
「きれいな女の子が面白い目にあうのはいいことだと思うわ」とハリイ・ケンバー夫人はいった。「それでいいんじゃない? 間違えちゃだめよ。大いに愉しむこと」と、突然彼女はひっくりかえって、見えなくなって、それからどんどんまるで鼠のように泳ぎ去った。が、また彼女はひょいと身をひるがえして、こちらへ泳ぎ戻ってきはじめた。彼女は何か別のことをいおうとしていた。この冷やかな女から教えられるのは、碌《ろく》でもないことだとは感じていたが、でも聞いてみたいのだった。しかし、ああ、なんて奇妙な、なんて怖ろしい! ハリイ・ケンバー夫人がこちらに近づいて来ながら、黒い防水の海水帽をかぶり、睡げな顔を波の上に浮べて、顎が水にふれるくらいにしているところを見ると、まるで彼女の夫の怖るべき戯画のように見えるのだった。
六
前面の芝生のまんなかにはえたマヌカ樹の下、デッキチェアに横たわって、リンダ・バーネルは夢みるようにして午前を過した。何にもしなかった。マヌカ樹の暗い、密生した、乾いた葉を眺め、葉と葉のあいだの青いすき間を見ていた。時々小ちゃな黄ばんだ花が彼女の上に舞い落ちて来た。美しい――そう、もし掌《てのひら》に花の一つをのせて、よく見てみると、それは実に微細なものだ。白味がかった黄色い花びらの一つ一つが、入念に思いをこめた手で作られたもののように、光り輝いていた。まんなかに小さな舌が出ているのが、鐘《かね》を想わせる形であった。それを裏返してみると、外側は沈んだ青銅色である。しかしこの花は咲くや否やに、落ち散りしくのであった。人と話しながらも、服からそれを払わなくてはならない。この小さな物は、いまいましいことに、髪にもひっかかるのだ。では、いったいなぜ花が? このやたらに棄て去られる物を作る苦労――あるいは愉悦《ゆえつ》――を、誰が味わうのか……薄気味悪いことだ。
彼女のかたわらの芝生の上に、二つの枕に挾むようにして、坊やが寝かせてあった。頭を、彼女のほうから向うへむけて、坊やはぐっすり眠っていた。その細い黒い髪は、本物の髪というより、むしろ影のように見えた。しかし、耳は明るい、濃《こ》い珊瑚色《さんごいろ》だった。リンダは両手を頭の上に組み、足を重ねていた。あたりのバンガローがみんな留守で、一人のこらず浜に出かけていて、姿も見えず、声もしない、というのが愉しい気持だった。彼女一人きりの庭だった、彼女のほか誰もいなかった。
オランダ石竹は、まぶしいほど白く輝いていた。金色の眼をもつマリゴールドはきらめいていた、金蓮花はヴェランダの柱にからんで、緑と金の炎のようだ。もしこうした花を観る十分の時間が、新奇と物珍らしい感じに打ち勝つだけの時間が、花々を知るだけの時間があったなら! しかし、ではさて、花びらを引き離し、葉の裏側を見てみるや否やに、「生活」がやって来て、それに吹き払われてしまう。そうして、リンダは藤椅子《とういす》に横たわりながら、身が軽くなった感じだった、化して一枚の葉になった気持だった。「生活」が風のようにやって来て、彼女はそれにとらえられ、ゆすぶられた。彼女は行かなくてはならなかった。やれやれ、いつもこんな工合なのかしら? のがれる術《すべ》は無いのかしら?
……いま、彼女はタスマニアの実家のヴェランダに坐っていて、父の膝にもたれていた。と、父が約束するのだ、「お前もわたしも頃あいの年配になったら、さっそく、どこかへ出て行ってしまおうね、リニー、逃げるんだよ。男の子らも一緒に。支那の川でも、船でのぼってみたいね」リンダにはその川が見えた、とても広くて、小さな筏《いかだ》や舟がいっぱいに浮んでいる。船頭たちの黄色い帽子が見え、彼らが呼び交わす高いかすかな声が聞えた……
「いいわねえ、パパ」
しかしちょうどそのとき、明るい赤味がかった髪の、がっちりした身体つきの青年が、彼らの家の前をゆっくりと歩んで行き、なお、ゆっくりと、むしろもったいぶってると思えるくらいに、帽子をぬいだ。リンダの父は、いつもの通り、からかうように彼女の耳を引張った。
「リニーのいい人だぜ」父はささやいた。
「あら、パパ、スタンレイ・バーネルと結婚するなんて、とても!」
ところで、リンダは彼と結婚した。それどころか、彼を愛していたのだ。誰でもが見るスタンレイ、毎日のスタンレイではなくて、毎晩お祈りをいうためにひざまずき、善良たらんことを祈願する小心で、感じやすく、無邪気なスタンレイだった。スタンレイは単純だった。もし人を信ずるとなると――例えば彼女を信ずるように――芯《しん》からそうするのだった。彼には人を裏切ることはできなかった、嘘はつけなかった。それで、もし誰か――彼女――が真直ぐでない、彼に誠実でないと思ったりする折には、どんなに悩み苦しんだことだろう! 「ぼくには、どうにも解《げ》せないね!」彼は吐き出すようにいったが、しかし、彼のありのままの、びくびくして取り乱している顔付は、罠《わな》にかかった獣のそれに似ていた。
しかし、困ったことは――ここでリンダは笑い出しそうになった、もっとも誓ってそれは笑いごとではないのだが――彼女が、|好きな《ヽヽヽ》スタンレイにめったに会わないことだった。おだやかな彼は、ほんの束の間、かいま見られるにすぎなくて、大半の時間は、火事を出す癖を癒《なお》せない家、あるいは毎日難破する船の中に住んでいるようなものだった。そうして、もっとも危険に瀕《ひん》しているのが、つねにスタンレイだった。彼女はありったけの時間を捧げて、彼を救い、彼を回復させ、彼を鎮《しず》め、彼の話に耳を傾けるのだった。そうして、あとに残った時間の全部は、子供を生む恐怖に費《ついや》されるのであった。
リンダは眉《まゆ》をひそめた、彼女はデッキチェアに起き直って、くるぶしをつかんだ。そう、それが彼女の人生に対する恨《うら》みであった。それは彼女の納得《なっとく》できないことだった。幾度も幾度も尋《たず》ねて、しかも答の得られない疑問であった。子供を生むのは、女の当り前の仕事だというのは、しごくもっともなことである。それは真理とはいえない。少くとも彼女自身は、その間違いを証明できる。子供を生んだために、彼女は傷《いた》められ、衰え、気力も失せてしまった。おまけに、二重に耐え難い思いをするのは、彼女には自分の子供たちが可愛くないことだった。そうでない振りをしても無益であった。たとえ彼女にその力があったとしても、小さい女の子たちの世話をしたり、一緒に遊んだりしようとはしなかったであろう。いやなこと、あの怖ろしいお産のたびごとに、冷たい息がすっかり彼女を凍《こお》らせてしまったよう。子供たちに与えてやる温かみなんか残ってはいなかった。男の赤ん坊はというと――さて、有難いことに、お母さんが引き受けてくれた。坊やはお母さんっ子、ベリルの子、あるいは坊やを欲しがる誰の子でもかまわない。彼女は坊やをほとんど抱いたことがなかった。坊やについては無関心なので、そこに寝ていても……リンダはちらと、そちらを見おろした。
坊やは寝がえりをうった。彼はリンダの方へ顔を向けて、もう眠ってはいなかった。濃い青の赤ん坊の眼は開いていた。母親をのぞいて見ているようだった。と、突然その顔にえくぼが浮んで顔いっぱいの歯の無い笑いになった、でも、それは無性に明るい。
「ぼくここだよ!」その幸福な微笑はそういってるようだ、「なぜぼくを好きでないの?」そのほほえみには、何か変った、思いがけないものがあったので、リンダ自身が微笑した。だが彼女は、はっと思いとまって、坊やに冷たくいった、「あたし、赤ちゃんは嫌いなのよ」
「赤ちゃんが嫌いだって?」坊やは彼女のいうことが信じられなかった、「|ぼく《ヽヽ》が嫌いなの?」坊やは、母親に向って、馬鹿みたいに両手を振った。
リンダは椅子から芝生へずり落ちた。
「なぜ、いつまでも笑ってるの?」彼女はきつい調子でいった、「あたしの思ってることが分ったら、笑わないでしょうにね」
しかし、坊やはただ、いたずらっぽく眼を細めただけで、頭を枕の上でしきりに振り動かしていた。彼は彼女のいったことを一言も信じなかった。
「ぼくたち、そのことならよく知ってるよ!」と、坊やは笑っていた。
リンダは、この幼い者の自身たっぷりなのに驚いてしまった……ああ、いけない、自らに忠実なれ。彼女の感じたのは、そうではなかった。何かずっと違ったこと、何かとても新しいこと、とても……彼女の両眼に涙が溢《あふ》れてきた、そっとささやくように彼女は坊やにいった、「ねえ、坊や、ひょうきんなのね!」
しかし、坊やはもう母親のことは忘れてしまっていた。彼はふたたびまじめな顔をしていた。何か桃色のもの、何か柔かいものが、彼の眼の前にゆれていた。それをつかもうとすると、すぐに消えてしまった。だが、うしろへ背を反らすと、もう一つ、前のようなのが現われた。今度はそれをつかまえようと思った。彼はせいいっぱい頑張って、くるりと反転した。
七
引潮であった。汀には人影もなく、温かい海はものうく岸を打っていた。太陽は烈しく照りつけ、こまかな砂の上に熱く燃えるように照りつけて、灰色、青、黒また白い縞《しま》の入った小石をこがしていた。それはまた、巻いた貝殻のくぼみに溜ったほんの涙ほどの水滴を吸いとってしまった。さらに砂丘を隈無《くまな》く縫《ぬ》う桃色の昼顔を白くさらした。小さな砂蚤《すなのみ》のほか何にも動くものはない。ぴょん、ぴょん、ぴょん! 砂蚤は決してじっとはしていなかった。
向うの、海草の垂れた岩は、干潮の折には、水を飲みにやって来た毛むくじゃらの獣のように見えるのだが、その上の小さな溜り水の一つ一つに、日光が射して、銀貨のようにくるめいて見えた。それは躍り、ふるえ、さざなみが孔の多い磯辺《いそべ》を洗うのだった。身をかがめて見おろすと、どの水溜りも、岸辺に桃色や青い家々が群がっている湖のようだった。そうして、ああ、その家々の背後は広々とした山国だ――山峡《やまかい》、峠《とうげ》、危かしい谷川、それに水《み》ぎわに続く怖ろしい小路。水の下には海の森がなびいていた――桃色の糸のような樹、ビロードのいそぎんちゃく、そうしてオレンジ色の実が点々とついた海草。いま、底にある石が動き、揺れて、黒い触手がちらと見える。と思うと、糸みたいな生物《いきもの》がゆらめき通って、見えなくなった。桃色のなよぎ揺れる樹々に何事かが起っている。それは冷たい月光のような青さに変ってゆく。そうして今、ごくかすかな「ぷくぷく」いう音が響いた。何の音かしら? 下のほうで何が起っているのだろう? それに、暑い日の下で、何という強い、何という湿っぽい海草の匂い……
避暑地のバンガローでは、緑色の窓掛が引かれていた。ヴェランダ一面に、牧場の囲い地の上に平らに、あるいは垣根にひっかけて、いかにも疲れきったように見える水着と荒い縞模様のタオルがほしてあった。うしろの窓には、どれにも洩《も》れなく、サンダルが一足ずつ敷居の上にのっており、石くれやバケツやパワ貝を集めたのが置いてあるようだった。灌木は熱気の中でわなないていた。砂地の路は、通るものもなく、ただトラウト家の犬のスヌーカーが、そのまんなかに延びているだけ。青い眼をむいて、脚をにょきっと横に突き出し、時々息も絶え絶えに喘《あえ》いだ、あたかも、もうこうしてはいられないと心に決めて、ただ親切な車でも通りかかってくれるのを待っている、といわんばかりだった。
「おばあちゃま、何見てらっしゃるの? なぜじっとして、壁なんか眺めてるの?」
キザイアと祖母は、一緒に昼寝をしているところだった。女の子は、短かいズロースと下胸衣だけをつけて、手足はむき出しのまま、おばあちゃんのベッドのふくらました枕の上に寝ていた。そうして、襟《えり》に襞《ひだ》のついた白い部屋着のお婆さんは、膝に桃色の長い編物をおいて、窓ぎわの揺り椅子にかけていた。二人のものになっているこの部屋は、バンガローの他の部屋同様に、明るい色のワニスをかけた木造りで、床《ゆか》には何にも敷いてなかった。家具はおよそお粗末、簡単しごくなものだった。例えば、化粧台は小枝模様のモスリンのペティコートにくるんだ荷箱で、その上にある鏡はきわめて奇妙なものだった、まるで稲妻《いなづま》のひとかけらをそこにとじこめたように見えて。テーブルの上には、壺《つぼ》に「はまかんざし」が插《さ》してあって、それが余りにぎっしりと固まっているので、むしろビロードの針差しのように見えた。それから、キザイアがピン皿だといっておばあちゃんに上げた特別の貝殻と、それにもっと特別なのがあったが、それは懐中時計をくさりごと入れておくのにしごく恰好《かっこう》な場所になると、彼女は思っていた。
「どうしたの、おばあちゃん」キザイアがいった。
お婆さんは溜息をついて、毛糸を親指に二廻り巻いて、それから骨の編み棒を通した。彼女は編み始めていた。
「お前のおじさまのウィリアムのことを考えてたんだよ」と彼女は静かにいった。
「オーストラリアのウィリアムおじさま?」とキザイア。彼女にはもう一人のおじがいたのだ。
「ええ、もちろん」
「あたしの会ったことのないおじさま?」
「そう、そのおじさまよ」
「では、そのおじさまがどうしたの?」キザイアはすっかり知っているのだ、しかしあらためて聞かせてもらいたいのである。
「おじさまは鉱山へ行ってね、そうして日射病にかかって亡くなったのだよ」フェアフィールド老夫人はいった。
キザイアは目をしばたたいて、またその情景を思い描いた……小さな男が、大きな暗い穴のかたわらに、鉛《なまり》の兵隊みたいに、倒れかかるところを。
「おじさまのことを考えると悲しくなるの、おばあちゃん?」
おばあちゃんが悲しがるのが、彼女はいやだった。
今度はお婆さんが考えこむ番だった。それが悲しいのかしら? 昔をふり返り、またふり返る。キザイアが彼女の仕ぐさを見ていたように、年々歳々をかえりみる。女がするように、歳月を眺めやる、遙かに消え去った後までも。それが悲しいのかしら? いや、そうではない、人生とはそんなものなのだ。
「いいえ、キザイア」
「でも、なぜ?」とキザイアは尋ねた。彼女はむきだしの片手をあげて、空《くう》に何かを描き始めた。「ウィリアムおじさまは、なぜ死ななくちゃあいけなかった? まだ若かったんでしょう」
フェアフィールド夫人は編み目を三つずつ算え始めた。「そうなっちまったよ」彼女の声は編物に気をとられているふうだった。
「誰でも死ななくてはならないの?」キザイアは尋ねた。
「誰でもよ!」
「あたしも?」キザイアの声は怖ろし気ながら信じられないというふうに響いた。
「いつかはね」
「でも、おばあちゃん」キザイアは左の脚をゆすって、爪先を振り動かした。砂でザラザラしている気持がした。「もしあたしが死にたくなかったら?」
お婆さんはまた溜息をついて、毛糸の玉から長い糸を一本引き出した。
「好き嫌いをきいてくれはしないんだよ、キザイア」彼女は悲しげにいった、「おそかれ早かれ、みんな死ぬことになるのよ」
キザイアは寝たまま、まだこのことを繰り返し考えこんでいた。彼女は死にたくなかった。死ぬとは、ここを離れ、あらゆるところを離れ、永遠に、離れ去る――おばあちゃんからも離れてゆくということだった。彼女はくるりと向きを変えた。
「おばあちゃん」彼女はびっくりしたような声でいった。
「なあに!」
「おばあちゃん、死んじゃいやよ」キザイアはきっぱりといった。
「まあ、キザイア」――彼女の祖母は目を上げて、ほほえんで、頭を振った――「そんなお話やめにしましょうね」
「でも、おばあちゃん、いやよ。あたしを置いてっちゃいや。行っちまっちゃいけないわ」これは怖ろしいことだった。「決してそうしないって約束してね」とキザイアは頼むのだった。
お婆さんは編みつづけた。
「約束して! 決して死なないって!」
しかし彼女のおばあちゃんはなお黙っていた。
キザイアはベッドからまろび出た。もうそうしてはいられない気持だった、そうして、おばあちゃんの膝の上にぴょんととび乗って、お婆さんののどに手をからませて、顎《あご》の下、耳のうしろにキスし始め、頸《くび》のあたりをふっと吹いた。
「決して死なないっていって……いって……いって――」彼女はキスしながらも、喘《あえ》ぎ喘《あえ》ぎいった。それから、軽くそっと、おばあちゃんをくすぐり始めた。
「キザイア!」お婆さんは編物を落して、揺り椅子をうしろに傾けた。彼女はキザイアをくすぐり始めた。「死なないっていって、決して、決して」キザイアはのどを鳴らすようにしていい、二人は抱き合って笑っていた。「さあ、もういいの、栗鼠《りす》さん! もういいのよ、やんちゃな小馬さん!」フェアフィールド老夫人は、帽子を真直ぐになおしながらいった。「あたしの編物を取ってちょうだい」
二人とも、「決して」とは何のことだったか、すっかり忘れてしまっていた。
八
太陽はまだ庭いっぱいに照っていたが、おりからバーネル宅の裏戸がぱたんと締って、とてもはなやかな人影が門に至る小径を歩んで行った。それは女中のアリスで、午後の外出に着飾ったところだ。彼女は赤い玉模様の木綿の服を着ていたが、その水玉の大きいこと多いこと、まことにぞっとするような代物《しろもの》だったし、白い靴、それにけしの花飾りがついてへりのそり返った麦稈帽。もちろん手袋をはめていた、白い手袋で、留め金のところが鉄錆色《てつさびいろ》に染めてあり、そうして片手にえらくけばけばしい日傘を携《たずさ》えていたが、彼女のいわゆる「ペリシャル」とは、これを指すのであった。
窓に坐って、洗ったばっかりの髪をあおいでいたベリルは、あんな変てこなの、見たことがないと思った。もしアリスが、外に出かける前に、眉墨《まゆずみ》で顔を黒く塗ったくってさえくれたら、まず申し分ない風情《ふぜい》であったろう。それに、こうした土地柄なのに、あんな娘が、いったいどこへ行くつもりなんだろう? さも軽蔑《けいべつ》したように、ハート形をしたフィージ扇が、その美しい明るい髪を打った。アリスは、どこにもざらにいる類《たぐ》いの与太者を拾って、二人で森の茂みの中にしけこむのだろう、と彼女は思ってみた。あんなに派手《はで》に飾り立てるとは拙《まず》いこと、満艦飾《まんかんしょく》のアリスと一緒に隠れるのは、さぞご苦労なことだろう。
だが違っていた、ベリルは見当はずれだった。アリスはスタッブスさん宅のお茶によばれて行くところだった。スタッブス夫人は注文取りの小僧に頼んで彼女を招待したというわけ。スタッブスさんを虫が好くようになったのは、最初、蚊《か》に喰われたあとにつける薬を買いに、その店に入って以来のことだった。
「まあ!」スタッブスさんは、手でぽんと脇腹をたたいた、「こんなに喰われたの見たことがないわ。人喰いにやられたみたいじゃないの」
それにしても、路にちっとは人の気配があって欲しかった。うしろに誰もいないというのは、妙な気持がするものだった。背骨が頼りないような感じがした。誰か彼女を見ている者がいないとは思えなかった。といって、うしろをふり返って見るのも馬鹿げてる。人に心の中を見すかされてしまう。彼女は手袋をきゅっと引張って、一人で鼻唄をうたい、遙か彼方のゴムの樹に話しかけた、「もう遠くはないんだわよ」しかしゴムの樹相手というのは、ちと無理だ。
スタッブスさんの店というのは、道からはずれた小さな丘の上に、ちょこんと坐っているというかたちだった。二つの大きな窓が眼、広いヴェランダが帽子、そうして「|スタッブス商店《ミセス・スタッブス》」と、書きなぐった屋根の看板は、帽子の山にちょっとさしたハイカラなカードのようだった。 ヴェランダには、長い紐《ひも》に水着がやたらにぶらさがって、一緒くたにくっつき合っている様子は、これから海へ入るのを待っているというより、やっと海から救い上げたばっかりという感じだった。そのそばに、サンダルをたばにして吊《つる》してあったが、それが全く、ごちゃまぜになっているので、そのうち一足を取るには、少くとも五十くらいを掻きわけて、遮二無二《しゃにむに》引っ張り出すようにしなくてはならない。そうしたところで、左右ぴったり合うのを見つけるのは容易ではなかった。そこで多くは、すっかりしびれを切らして、片方だけでも合えば、もう一方は大きすぎても、それを穿《は》いて出かけてしまう……スタッブスさんは、何でもかでも無いものはないというのが得意だった。二つの窓には、危かしいピラミッド型にぎっしりと物をおし込んで、ひじょうな高さに積んであるので、手品師ででもなければ、それがぐらぐらくずれ落ちない保証はできない、と思えるくらいだった。一つの窓の左手の隅には、菱形《ひしがた》のゼラチン紙四つで窓ガラスに貼った告示があった――いつ頃からあったのか分らない古いものだ。
紛失物! きれいな金のブローチ
純金
浜かその近辺
謝礼をいたします
アリスは扉を押し開いた。鈴《すず》がじゃんじゃん鳴り、赤いサージのカーテンが開いて、スタッブスさんが出てきた。満面に笑みをたたえ、手に長いべーコンナイフをもっているところは、お人好しの山賊《さんぞく》といった感じだった。芯から暖かい歓迎ぶりなので、アリスは、自分の「お作法」をどんなふうに守ったものか分らないくらいであった。で、やたらに咳《せき》をしたり、えへん、えへんいったり、さては手袋を引っ張り、スカートをたくし上げるのだが、おかしなことに、自分の前に何があるのか、自分にどういわれたのか、よく分らない始末であった。
お茶は居間のテーブルの上においてあった――ハム、サーディン、バターまるまる一ポンド、それに、どこかのふくらし粉の広告にあるような、とても大きなパン菓子。しかしプライマス・ストーヴが、ごうごう唸《うな》りながら燃えているので、それ以上に声を張りあげて話そうとしてもだめだった。アリスは柳枝の椅子に腰かけたが、そのかたわらスタッブスさんはますますストーヴの火を大きくした。突然スタッブスさんは椅子からクッションを取りのけて、大きな茶色の紙包みを出して見せた。
「あたしねえ、新しい写真を撮《と》らせたのよ」と、彼女は嬉しげにアリスにいった、「どうだか、あんたに見てもらいたいわ」
およそしとやかでお上品に、アリスはまず指を湿すと、最初の写真の薄紙をめくった。まあ! 何てたくさん! 少くとも三ダースはあった。彼女は手にもった写真を光のほうにかざした。
スタッブスさんは肘掛椅子《ひじかけいす》に腰かけて、ひどく一方によりかかって写っていた。彼女の大きな顔に軽い驚きの表情が浮んでいたが、それももっともなことだった。というのは、肘掛椅子は絨毯《じゅうたん》の上にあったが、その左手には、絨毯の端に境を接して、不思議や滝がほとばしり落ちていたからである。彼女の右手にはギリシャ風の柱が立っており、その両側には巨大な羊歯《しだ》が生えていて、その背景には蒼白《あおじろ》い雪をかぶった突兀《とつこつ》たる山がそびえ立っていた。
「どう、いい姿でしょう?」とスタッブスさんは叫んだ。とアリスも「すてきだわ」と疳高《かんだか》い声で相槌《あいづち》を打ったが、ちょうどその折、プライマス・ストーヴの轟音《ごうおん》が急に細って、しゅうと絶えてしまった。で、薄気味の悪いような静けさの中で、彼女は「きれいね」といった。
「椅子をもっとお寄せなさいよ、ねえ」とスタッブスさんはお茶をつぎながらいった。「そうね」お茶を手渡しながら、彼女は思案顔にいうのだった、「でも、あたし、この大きさは好かないのよ。引伸しを頼んでるところなの。みんなクリスマス・カードには、もってこいなんですけれどね。あたしは小型の写真向きじゃないわね。小ちゃいので、これはというの無いんだもの。本当をいうと、げっそりしちゃうのよ」
アリスは彼女の言い分はもっともしごくだと思った。
「大きいの」スタッブスさんはいった、「大きいのがいいわ。亡くなったあたしの夫が、いつもいってたのがそれ。小さい物には我慢ができなかったのよ。ぞっとするほど嫌いだったんだわ。それでAちょっと変かもしれないけど」――ここでスタッブスさんはきいきい声になって、思い出に身体をふくらませるように見えた――「最後にあの人のいのち取りになったのは水腫《すいしゅ》だったの。病院では幾度も幾度も、一パイント半も抜いたのよ……天罰《てんばつ》みたいなものだったわ」
彼から抜いたものがいったい何だったのか、アリスはどうしてもそれがはっきりと知りたかった。で、思いきって、「それ水だったんでしょう」といった。
しかしスタッブスさんは、じっとアリスに眼を注いで、曰《いわ》くありげに答えた、「ねえ、それは液《ヽ》だったのよ」
液! アリスはその言葉から猫のように飛びのいたが、やがて鼻でかぎ、用心しいしい、そのほうに戻って行った。
「あれが主人なの!」とスタッブスさんはいって、たくましい男の写真の等身大の頭と肩のあたりを芝居がかった身振りで指さすのだった、彼の上着のボタン穴には、冷えた羊肉のちぢれた脂肪みたいな、ぐんにゃりしおれた白バラがさしてあった。すぐその下のところには、赤いボール紙の地に銀色の文字で、「われなり、懼《おそ》るな」と記してあった。
「とても立派な顔をしていらっしゃるわ」と、アリスはかすかにいった。
スタッブスさんのちぢれた金髪のてっぺんにつけた薄青い蝶りぼんがふるえた。彼女は猪首《いくび》を丸くした。何という頸《くび》なんだろう! はじめは明るい桃色で、それから温かい杏色《あんずいろ》に変り、それが茶がかった卵色に、次いで濃いクリーム色に薄らいでいった。
「だけれども、ねえ」彼女はびっくりしたように、「自由が最上だわよ!」彼女の柔かな太り肉《じし》のふくみ笑いが、ごろごろと喉を鳴らすように響いた。「自由が最上だわよ!」と、またスタッブスさんはいった。
自由! アリスは声高な、馬鹿みたいな、くすくす笑いをした。彼女はぎこちない気がした。彼女の心は、自分の台所のほうヘ飛んで行った。何て奇妙なのだろう! 彼女はまた台所へ舞い戻りたくなったのだ。
九
お茶の後、バーネル家の洗濯場に珍妙な一団が集っていた。テーブルの周りに、牡牛、雄鶏《おんどり》、自分が驢馬《ろば》であることをいつも忘れている驢馬、羊、蜜蜂《みつばち》などが坐っていた。洗濯小屋は、こうした集りにはこよない場所だった、というのは、彼らがいくらがたがた騒いだところで、誰も邪魔《じゃま》するものはいなかったからである。それは、バンガローから離れたトタン葺《ぶき》の小屋だった。壁には底の深い水槽《すいそう》が立てかけてあり、隅には洗濯釜《せんたくがま》があって、その上には洗濯挾みを入れたかごがのっていた。いっぱいに蜘蛛の巣の張った小窓の埃《ほこり》だらけのしきいの上に、蝋燭《ろうそく》一本と鼠おとしがあった。頭の上には十文字に着物をかける紐《ひも》が張ってあり、壁の掛け釘には、とても大きな、巨大な、錆《さ》びた馬蹄《ばてい》がかけてあった。テーブルは中央に位し、その両側に長椅子があった。
「あんたは蜂にはなれないわ、キザイア。蜜蜂は動物じゃないのよ。クンチョウよ」
「でも、あたし、とっても蜜蜂になりたいの」とキザイアは泣声……身体じゅう黄色い毛が生えていて、縞の入った脚をもった小ちゃな蜜蜂。彼女は両脚を身体の下に引っこめて、テーブルに寄りかかった。彼女は蜜蜂になった気持だった。
「クンチョウは動物に違いないわ!」と、彼女はきっぱり言い放った。「音をたてるでしょう。魚なんかと違うわよ」
「ぼくは牡牛だ、ぼくは牡牛だよ」ピップが叫んだ。そうして、すさまじい唸り声をたてたので――どうしたら、あんな声が出るんだろう?――ロティはすっかりおびえたふうに見えた。
「ぼくは羊になるんだよ」と小さいラグズがいった、「今朝羊がいっぱい通って行ったんだ」
「どうして分るの?」
「パパが声を聞いたんだよ。メエーって!」あとに取りのこされて、よちよちしていて、誰かに抱いていってもらうのを待っている子羊の声に、それは似ていた。
「コケコッコー!」イザベルが金切り声をあげた。頬が赤く、眼が生々としているので、彼女は雄鶏のようだった。
「あたし何になるの?」ロティはみんなに尋ねて、にこにこしながら坐りこんで、きめてもらうのを待っていた。何か易《やさ》しいものでなくてはいけなかった。
「驢馬《ろば》になったらいいわ、ロティ」キザイアの提案だった。「ヒーホーだよ! 忘れちゃだめだよ」
「ヒーホー!」ロティはまじめくさっていった。「いついったらいいの?」
「ぼくが教えてやるよ、ぼくが教えてやるよ」牡牛がいった。トランプの札を持っているのは彼だった。彼は札を頭の上でふった。「みんな静かに! 聞くんだよ!」で、彼は一同が静かになるのを待った。「ほら、ロティ」彼は札をめくった。「点が二つあるだろう――ね? でさ、君がその札をまん中において、そして、誰か別の人がやはり点が二つある札をとったら、君ヒーホーっていうのさ、するとその札は君のものになるんだよ」
「あたしのものに?」ロティは眼を丸くした、「もらってしまうの?」
「馬鹿いってらあ。ゲームのあいだだけさ、いいかい? 遊んでるあいだだけなんだよ」牡牛はすっかり癇《かん》に触っていた。
「まあ、ロティ、あんた馬鹿ねえ」誇り顔の雄鶏がいった。
ロティはじっと二人を見た。それから、うなだれた、彼女の唇がふるえていた。「あたしゲームしたくないわ」彼女はそっというのだった。他の二人は、共謀者のように、眼と眼を見合せた。みんなには、それがどんなことになるものかが分っていた。ロティは行ってしまって、どこか、片隅とか、壁に寄りかかるとか、あるいは椅子のうしろとかに、エプロンをすっぽり頭にかぶって立っている、というようなことになるだろう。
「いいの、おやりなさいよ、ロティ。とってもやさしいのよ」キザイアがいった。
それに、イザベルが、すっかり後悔して、大人みたいにしっかりした口調で、「あたしを見てるのよ、ロティ。したら、すぐに分るから」
「元気出すんだよ、ロット」ピップがいった、「ねえ、いいことがあるよ。最初の札をあげるよ。ほんとうは、ぼくんだけど、君にあげようね。ほうら」で、彼はロティの前に札をぱたんとおいた。
ロティはそれで元気づいた。しかし、また一つ不都合《ふつごう》が起っていた。「あたしハンケチを持ってないのよ」彼女はいった、「とっても欲しいんだけど」
「ほうら、ロティ、ぼくのを貸してやろう」ラグズは水兵服の上着をまさぐって、きゅっと結んでぐっしょり濡れたようなハンケチを取り出した。「よく気をつけるんだよ」彼は注意した、「端《はし》だけ使うようにして。ほどいてはいけないよ。中に小ちゃなヒトデが入ってるんだから、ぼく、馴らしてみようと思ってるんだ」
「さあ、みんな」牡牛がいった、「いいかい――自分の札を見ちゃいけないよ。ぼくが『よし』っていうまで、手をテーブルの下においといて」
ぴしゃっ、ぴしゃっと、テーブルに札がくばられた。彼らは懸命になって見ようとしたが、ピップの手が素早いので、見ることができなかった。洗濯小屋にそうして坐っているのは、わくわくするような気持だった。ピップがくばり終るまで、じっとこらえて、動物同士の合唱を始めないでいるのは、やっとのことだった。
「さあ、ロティ、始めた」
ロティはおずおずと手を差しのべて、自分の札のいちばん上のを取った、それをよく見て――彼女が点を算えているのはわかっていた――それから下においた。
「違うよ、ロティ、そうするんじゃないんだよ。最初に見ちゃいけないよ。ひっくり返さなくちゃだめなんだ」
「でも、そうすると、あたしと一緒にみんなが見ちゃうんだもの」とロティはいった。
ゲームは進んでいった。モオオ、オオウ! 牡牛はどうもうだった。彼はテーブルの上に突進して、札を喰ってしまいそうに見えた。
ブーン、ブン! 蜜蜂がうなった。
コケコッコー! イザベルは興奮して立ち上って、両|肘《ひじ》を翼のように動かした。
メエー! 小さなラグズはダイヤの王さまをおき、そうして、ロティは彼らが「スペインの王さま」といってる札をおいた。彼女はもうほとんど札を持っていなかった。
「なぜ啼《な》かないの、ロティ?」
「あたしが何だか忘れちゃったわ」と驢馬は悲しげにいった。
「では、変ればいい! 代りに犬になったらいいや! ワン、ワン!」
「ええ、そうだわ。それ、ずっとやさしいわ」ロティはまた微笑した。だが、ロティとキザイアが二人ともポイントを持ったとき、キザイアはわざと待っていた。ほかの連中はロティに合図して指さした。ロティは真赤になった、どぎまぎしてるようだった、そうしてやっといった、「ヒーホー! キザイア」
「シッ! ちょっと待って!」勝負の最中というのに、牡牛が、手を上げてみんなを制した。「あれは何? あの音はなんだい?」
「どんな音なの? なんのことをいってるの?」と雄鶏がたずねた。
「シッ! だまって! 聴いてごらん!」彼らはしーんと静かになった。「何だかいま――戸を叩くような音がした気がするんだけど」と牡牛がいった。
「どんなだったの?」羊が細い声できいた。
何の返事もない。
蜜蜂はぞっとして身をふるわせた。「どうして戸を締めちゃったの?」彼女はそっときいた。ああ、なぜ戸を締めてしまったのだろう。
彼らが遊んでいるまに、日が暮れてきた。夕焼はけんらんと燃えて、色あせてしまった。そうして今、海の上に、砂丘に、牧場の囲い地に、くらやみが足早に寄せてきた。洗濯小屋の隅々をのぞくと気味が悪いが、でも一生懸命にのぞいてみないわけにはいかない。そうしてどこか、遙か彼方で、おばあちゃんがランプをともしていた。窓覆いがおろされて、台所の火がマントルピースの上の金具に映りゆらめいていた。
「とても恐いだろうなあ」と牡牛がいった、「もし蜘蛛《くも》が天井《てんじょう》からテーブルに落ちてきたら、ねえ」
「蜘蛛は天井からなぞ落ちてきやしないわよ」
「落ちてくるともさ。うちの料理人がいったんだよ、お皿みたいに大きくて、グーズベリーみたいに長い毛が生えてるのを見たって」
急に、小さな頭がみんな、ぐっと上向いた、小さな身体を寄り添い、くっつき合った。
「どうして誰かきて、呼んでくれないのかしら?」と雄鶏が叫んだ。
ああ、ランプの光に包まれて坐って、茶碗《ちゃわん》でお茶を飲みながら、のんびり笑っているあの大人たち! 彼らは子供たちのことなんか忘れているのだ。いや、芯から忘れているのではない。彼らの微笑がそれを示している。子供たちの好きなように放っておこうというつもりだったのだ。
突然ロティが刺すように鋭く叫んだので、みんなが腰掛から飛びあがり、みんながまた叫び声をあげた。「顔――顔が見てるの」ロティは金切り声でいった。
それはほんとうだった。嘘ではなかった。窓にくっついて、蒼白い顔、黒い眼、黒い髯《ひげ》。
「おばあちゃま! お母さま! 誰かきて!」
だが、彼らがこけつまろびつして、まだ戸口まで行かないうちに、その戸が開いて、ジョナサンおじさんが現われた。男の子二人を連れに帰りにきたのだった。
一〇
ジョナサンは、もっと早くそこへくるつもりだった。が、前庭で、リンダに出会ったのだ、彼女は芝生を行ったり来たり、立ち止って枯れた石竹を摘んだり、頭の重いカーネーションに支柱のようなものをしてやったり、何かのにおいを胸深く吸い込んだり、それからまた、やや超然とした様子で、歩き続けるのであった。白い上着の上に、支那人の店で買った黄色い、桃色に縁取《ふちど》ったショールを羽織《はお》っていた。
「まあ、ジョナサン!」リンダが呼びかけた。と、ジョナサンは古ぼけたパナマ帽をぱっと取って胸に押し当て、片膝をついて、リンダの手に接吻《せっぷん》した。
「ご機嫌《きげん》よう、わがあでびと! ご機嫌よう、わが麗《うるわ》しの桃の花よ!」と低い声が柔かに響いた。「他の淑女《しゅくじょ》がたはいずこへ?」
「ベリルはブリッジをしに行ってるし、母は赤ちゃんにお湯を使わせてますのよ……何か借りにいらしったの?」
トラウト家では、しょっちゅう何かしらに事欠いて、そのどたん場になって、バーネル家に無心をいってくるのだ。
だが「些少《さしょう》のお慈悲《じひ》、些少のご親切」、ジョナサンはそう答えただけで、義理の姉と並んで歩きだした。
リンダはマヌカ樹の下のベリルのハンモックに腰を埋め、ジョナサンはかたわらの芝生に横たわって、長い草の茎を抜いて、それをしゃぶり始めた。お互いによく知り合った二人だった。子供たちの声が、よその庭から聞えてきた。漁夫の小さな荷車が、ことことと砂地の道をゆれて行き、遙か遠くで、犬がほえていた。犬の頭に袋をかぶせたような、こもった声だった。もし耳を澄ますならば、折からの満潮の、小石を洗う柔かな海の音も聞こえよう。日は沈みかかっていた。
「で、月曜日には事務所にお帰りになるんでしょう、ジョナサン?」とリンダがきいた。
「月曜日には檻《おり》の戸が開いて、ガチャンと締って、そこで次の十一か月と一週間、虜囚《りょしゅう》の身となるわけ」ジョナサンは答えた。
リンダは少しばかり身をゆすった。「たいへんだわね」彼女はゆっくりといった。
「笑えとや、わが麗しの姉君? 嘆けとや?」
リンダはジョナサンの話し振りには馴れっこになっていたので、べつに気にも留めなかった。
「あたし思うんだけど」彼女はあいまいにいう、「慣れるのよ。何につけ、人は慣れるものなのよ」
「そうですかね? フム!」その「フム」は底が深くて、地下から響いてくるようだった。「どうすれば、そうなるのかなあ」ジョナサンはじっと考えこんだ、「ぼくには決してそうはできないんですよ」
そこに寝そべっている彼を見て、リンダはまた、何て魅力的な人と思うのだった。彼が一介の事務員にすぎなくて、スタンレイが彼の二倍も給金を取るとは、思えばふしぎであった。ジョナサンは、いったいどこがいけないのかしら? 彼には野心というものがない、それこそ、と彼女は思うのだった。とはいっても、彼は天賦《てんぷ》の才に恵まれ、人なみすぐれた感じだった。彼は無性に音楽が好きだった。少しでも金の余裕があれば本を買った。彼はふだんに、新しい考え、企図、計画に満ちていた。しかし、それから何にも生れてはこなかった。新しい火がジョナサンのうちに燃えている。彼が新しいことを縷々《るる》説明し、敷衍《ふえん》するとき、火が低くうなっているのが聞えるようだ。しかし一瞬ののちには、火は落ちてしまって、残るものはただ灰だけ、そうして、ジョナサンは、その黒い瞳《ひとみ》に飢餓《きが》に似た色を浮べて歩き廻っている。こうしたときには、彼は例の突拍子もない話し振りを一層大げさにやるし、また、彼は教会で唱《うた》うのだ――彼はコーラスの音頭取りだった――それが、とても劇的に力《りき》んでやるので、てんでつまらない讃美歌までが、神聖ならざる光彩をおびるのだった。
「月曜日には事務所に行かなくてはならないなんて、全くの愚劣、全くの地獄、てな気分ですね」とジョナサン、「常なりしごとくに、かつ、常ならんごとくに。生涯の最良の時期を、九時から五時まで腰掛に坐って、誰かの台帳に書き込みをして過すとは! 人の……唯一無二の人生のおくり方としては妙じゃありませんかね? それとも、ぼくは好んで夢をみてるのかしら?」彼は芝生の上に寝返りをうって、リンダのほうを見上げた。「ねえ、どうなんです、ぼくの生活と一般の囚人の生活と、いったいどれほどの差があるんでしょう。ぼくに分る相違は、ぼくみずからが自分を牢獄にぶち込んで、誰もそこから出してやろうとはしてくれない、ということです。囚人より、もっと耐え難い境遇ですよ。というのは、もしぼくが――押し込められ、それもむりやりに――ばたばたしてみたところで――いったん扉に錠《じょう》をかけられたとなると、あるいは、ともかくも五年かそこらたったとすると、ぼくはその事実を受け入れて、蠅《はえ》の飛ぶさまに興味を覚えたり、廊下を歩く看守の足音を算えて、その歩み方の変化に特別の注意を払ったりなぞするでしょう。ところで事実は、みずから進んで部屋に飛び込んだ虫みたいなぼくなんです。壁にぶつかり、窓にぶつかり、天井にバタバタするなぞ、事実、ありとあらゆることをやってはみるものの、決して二度と外へ飛び出しはしないのです。しかも、そうしながらもふだんに、あの蛾《が》や、あの蝶や何かのように、『たまゆらの命! たまゆらの命!』と思い続けているのです。ぼくにあるのはただ一夜、ただ一日のみ、しかもこの茫漠《ぼうばく》とした危ない庭が、秘められ探られないままに、外に待っているのです」
「でも、そんなふうにお感じなら、なぜ――」リンダは性急にいいだした。
「ああ」ジョナサンは叫んだ。そうして、その「ああ」には、何かこう、悦に入ったような気味があった。「そこなんです、なぜ? いったい、なぜに? そこにこそ気も狂うような、神秘な疑問があるんです。なぜまた外へ飛び出さないのか? ぼくが入り込んできた窓なり、扉なり、何なりがあるんです。それが固く閉されて、どうにも仕様がないというんじゃありません――ねえ? なぜ、ぼくはそれを見つけて、飛び去らないのか? それを教えて下さい、お姉さん」そうはいうものの、彼は彼女に答えるだけの余裕を与えなかった。
「ぼくはここでも全く例の虫とおんなじです。どうしたわけか」――ジョナサンはちょっと話を区切って――「許されていないんです、禁じられているんです、虫のおきてにそむくんです、ぶっつかること、バタバタやること、窓硝子に這《は》い上ること、一瞬でもそうしたことをやめるのは。なぜ勤めなんかやめてしまわないのか? なぜ、今が今、真剣に考えてはみないのか、例えば、ぼくを退かせないようにしているものは何かを? ぼくはがんじがらめに縛《しば》りつけられているというのでもありません。養わねばならぬ二人の男の子がいても、しょせん彼らはまだ子供にすぎない。ひと思いに海へ出てしまうこともできるし、あるいは奥地で仕事にありつけないこともない、それとも――」急に彼はリンダにほほえみかけ、まるで秘密を打ち明けるかのように、声の調子を変えて、「弱い……弱いんですよ。根気がないんです。錨《いかり》がないんですね。指導原理を欠く、とでもいいましょうか」ところで、次いで、暗い柔かな声がまろび出てきた――
聞き給えかしこの物語
筋のあやなし運ぶがままに
そうして二人は黙ってしまった。
日は沈んだ。西の空にはくずれたバラ色の雲の大きな塊《かたま》りがあった。光芒《こうぼう》は、雲をつらぬき、雲を越えて、空いっぱいに照り渡っていた。頭上の青さは色あせていった。それは薄い金色に変り、それを背にしてくっきりと浮び出た森は黒ずみながらも光を放って、金属のようにきらめいていた。折々そうした光の矢が空に見えるとき、それは森厳《しんげん》をきわめる。それを見ると、あそこにはエホバ、ねたむ神、全能の神が鎮座《ちんざ》ましまして、御眼は常に油断《ゆだん》なく、決して倦《う》むことなく、人の上に向けられていると心づくのである。神来るときには全世界が震動して、一個の荒涼たる墓場に化してしまうかとも思われる。冷然として光り輝く天使たちが、人をここかしこと追い廻し、いともたやすく説明できることも、説明する時の余裕がないだろう……しかし今夜は、あの銀色の光芒には何か限りなく愉しく愛すべきものがあるように、リンダの眼には映るのだった。今はもう海の響きも聞えなかった。海は、その胸に、あのやさしい、悦びに満ちた美を吸い込もうとするかのように、静かに息づいていた。
「何もかも悪い、一切が不工合だ」ジョナサンの陰にこもった声が聞えてきた。「場《シーン》にもなってない、道具立てにもしようがない……三つの腰掛、三つの机、三つのインク壺《つぼ》、それから金網の窓覆いときては」
彼が決して境遇を変える気づかいがないことは、リンダは心得ていたが、でも「もう遅いの、今からでは」といった。
「年配になったんですね――年配に、私は」ジョナサンは節《ふし》をつけていった。彼はリンダのほうに身をかがめて、自分の頭の上に手をやった。「ごらんなさい!」彼の黒い髪はいちめんに銀をまじえていた、黒い鶏の胸毛のように。
リンダはびっくりした。彼に白髪があるなんて思いがけなかった。そうしてなお、彼女のそばに立ち上って、溜息をつき、身体をのばしている彼に、リンダははじめて果断とか、婦人に親切とか、不注意とかいうのではなくて、すでに老年と隣り合っている彼を見たのであった。暗くなりかかった芝生の上の彼は、ひじょうに高く見えた。「まるで雑草みたい」ふと、そうした思いが、彼女の心をかすめた。
ジョナサンはまた身をかがめて、彼女の指に接吻した。
「御身の優しき忍耐に、天の恵みあらんことを、わが淑女よ」彼はささやいた、「わが名と財とを継ぐべき嗣子《しし》らはいずこ、いで探し求むべし」彼は立ち去った。
一一
灯《ひ》はバンガローの窓々に輝いていた。二つの四角な金色の灯影が、石竹と尖った金盞花《きんせんか》の上に落ちた。猫のフロリーはヴェランダのほうへやってきて、いちばん上の踏段に坐った、白い足をくっつけ、尻尾をくるりと巻いている。まるて一日じゅうこの瞬間だけを待ちあぐんでいたかのように、満足げに見えた。
「ありがたい、夜がふけてゆく」とフロリーはいった、「ありがたい、長い一日が終った」彼女のあんず色の眼が大きく開いた。
やがて、乗合馬車の轍《わだち》の音、ケリーの鞭の唸《うな》りが聞えて、町から帰ってくる連中が、声高《こわだか》に話し合っているのが聞えるまでに近づいてきた。馬車がバーネル家の門前にとまった。小径を半ば行ったところで、スタンレイはリンダの姿を見た。「君だったの?」
「そうよ、スタンレイ」
彼は花壇を飛びこえて、彼女を腕にしっかりと抱き締めた。いつもの、熱っぽい、強い抱擁《ほうよう》に身を包まれる彼女だった。
「許して、ねえ、許してくれ給え」どもるようにいって、スタンレイは手を彼女の顎の下にあてがって、その顔を自分のほうに上げるのだった。
「許すんですって?」リンダはほほえんで、「でも何を許すんでしょう?」
「とんでもない! 君が忘れてるはずはないよ」スタンレイ・バーネルは叫んだ。「終日そればっかり考えてたんだよ。一日じゅうみじめだった。外へ飛び出して電報を打とうと決心したんだけど、考えてみると電報はぼくより遅れそうだものね。全く地獄《じごく》だったよ、リンダ」
「でも、スタンレイ」とリンダ、「何のために、あなたを許すんですの?」
「リンダ!」――スタンレイはひどく気分をそこねた――「分らないのかい――分ってるはずなんだが――今朝君に挨拶なしで出掛けてしまったろう? どうしてあんなことができたのか分らないんだ。もちろん、ぼくのいまいましい気性のせいだよ。でも――さて」――そこで、彼は溜息をついて、また腕に彼女を抱いた――「おかげで一日じゅう苦しかったよ」
「手に持っていらっしゃるのは何かしら?」リンダは尋ねた。「新しい手袋? ちょっと見せて」
「うん、安物の革手袋さ」とスタンレイは卑下していった。「今朝、馬車の中でベルがはめてるのを見てね、で、店先を通るときに、飛び込んで買ってきたのさ。何をにやにやしてるんだい? いけなかったなんて思わないだろう?」
「およそ正反対だわ」リンダはいった、「よく気がついて下すったと思ってるの」
彼女は大きな色の薄い手袋の片方を、自分の手にはめて、裏おもてと返してみながら、つくづく眺めていた。彼女はまだにこにこしていた。「買うあいだ、しょっちゅう君のことを考えていたんだよ」と、こうスタンレイはいいたかった。それは本当のことだったが、どういうわけか、そういえなかった。「うちへ入ろうよ」と彼はいった。
一二
夜になると、なぜこうも違った気持になるのだろう? みんなが眠っているとき、ひとり目を覚していると、なぜこうも心がたかぶるのだろう? 夜もふけて――とても遅い時刻! しかも刻々に眼が冴《さ》えてゆく、ほとんど息をするたびごとに眼がさめて、新奇な、昼間よりは遙《はる》かに心のわななきおどる世界へ入ってゆくようだ。自分を陰謀者だと感じるこの奇妙な感じは何かしら? そっと、足音をしのばせて、部屋の中を歩きまわる。化粧台から何かを取り上げて、また、音のしないようにこっそりとそれを置く。そうして、何もかも、ベッドの柱までもが、自分を知り、自分に応《こた》え、自分の秘密にあずかっている……
日中は、あまり自分の部屋が好きではない。部屋のことなぞ考えてもみない。出たり入ったり、扉が開いたりぱたんと締まったり、食器棚がきしんだりする。ベッドのわきに腰かけて、靴を換え、また勢いよく立ち上る。鏡に飛びついて、髪にピンを二本さし、鼻に粉白粉《こなおしろい》を刷《は》いて、またそれを落す。だが、いま――突然に、それは親しみ深いものとなる。懐しい、小さな、心愉しい部屋である。それは自分のもの。ああ、物をもつというのは、何という喜び! あたしのもの――あたし自身のもの!
「永久にぼくのものになってくれる?」
「ええ」彼らの唇が合った。
いいえ、もちろん、それは何の関係もないことである。みんな意味もない馬鹿げたことだ。でも、そうは思うものの、ベリルには、彼女の部屋のまん中に二人の人間が立っているのが、はっきりと見えるのだった。女の腕は、男の首にからんでいる。男は女を抱いた。と、彼はささやいた、「ぼくの可愛いい人、美しい人!」彼女はベッドを飛びおりて、窓のところへ駈け寄って、窓しきいに肘《ひじ》をかけながら、窓辺の腰掛に膝まずいた。しかし美しい夜、庭、あらゆる茂み、あらゆる葉、白い柵や星までが、ひとしく陰謀に加わっていた。月は皓々《こうこう》と照り渡っているので、花々は昼間のように輝いていた。金蓮花の影が、優雅な百合《ゆり》に似た葉や大きく開いた花の影が、銀色のヴェランダの上に映っていた。マヌカの樹は、南からの風にしないながら、片脚で立って、一つの翼をひろげている鳥のようだった。
しかし、べリルは森を眺めてみて、森は悲しげだと思うのだった。
「私たちは物いわぬ樹々、夜中に伸びてゆくのです、何を願うともわからないままに」愁《うれ》いに満ちた森はそういった。
確かに、ひとりきりになって、人生を考えると、いつも悲しくなる。あの興奮といったようなものすべては、にわかに自分から離れ去ってしまい、静寂《しじま》のうちに、誰かが自分の名を呼ぶかのような、しかもはじめて自分の名を聞くかのような心地がするのである。「ベリル!」
「はい、ここですわ。あたしベリルです。呼んでらっしゃるのはどなた?」
「ベリル!」
「いま行きますわ」
ひとりきり生きてゆくのは淋しい。もちろん、親類とか友達とかは、くさるほどある。だが、それは彼女の思っているものとは違う。彼らの誰もが知らない「ベリル」を見つけてくれ、いつもそういうベリルであることを待ちのぞんでくれるような人が欲しいのである。彼女は恋人が欲しいのである。
「こうした人たちのあいだから、あたしを連れ出して。遠いところへ行きましょう。はじめから、すべてが新しく、すべてがあたしたちの、二人の暮しをいたしましょう。火を起しましょう。坐って一緒に食べましょう。夜には長いお話をしましょうね」
そうして、その想いは、「あたしを助けて、恋人よ、あたしを助けて!」ともいわぬばかりであった。
……「まあ、馬鹿いわないでよ! 淑女ぶったって、だめよ。若いうちに愉しむことだわね。それがあたしの忠告よ」白痴《はくち》じみた笑いの爆発が、ハリイ・ケンバー夫人の声高な傍若無人《ぼうじゃくぶじん》のいななきに加わった。
そう、相手がないとは、全く困ったことである。物事のなすがままになってしまう。自分をむき出しにもできない。そうして、いつも、湾のほとりの他のまぬけたち同様に未熟で固苦しく見えはしないかということが怖ろしいのだ。それに――また、自分は人々以上のものだということを知るのは、魅惑的《みわくてき》だ。そう、それは確かに魅惑的……
ああ、なぜ、ああ、なぜに、「彼」が早く現われないのか?
もしここにずっと住んでいたら、あたしに何事が起ってくるのかもしれない、とベリルは思った。
「でも、そういう人がやってくると、いったいどうしてわかるの?」彼女のうちの小さな声が、あざけるのだ。
だがベリルはその声を追い払った。自分が取りのこされるなんてことはありえない。他の人は知らず、自分はそうではない。ベリル・フェアフィールドが、あの愛らしい魅力的な少女が、結婚しないで終るなんて、およそ考えられないことである。
「ベリル・フェアフィールドを覚えてるかい?」
「覚えてるかいって! まるで彼女を、ぼくが忘れられるとでもいうようだね! 彼女に逢《あ》ったのは、ある夏の日、湾のほとりだった。彼女は青い」――いや、ピンクの――「モスリンの上着をきて、大きなクリーム色の」――いや、黒い――「麦稈帽《むぎわらぼう》をつかんでいた。しかしもう何年も前のことだがね」
「あの人はいつもきれいだよ。むしろもっときれいになっている」
ベリルはほほえんで、唇をかみ、庭先を見つめた。見つめていると、誰か、男が、道をそれて、牧場の囲い地を柵に沿って歩んでいるのが見え、それがまるでまっすぐに彼女のほうへやってくるようだった。彼女は胸がどきどきした。誰だろう? 誰なのかしら? 盗賊というはずはない、確かに盗賊ではない、なぜなら男は煙草をふかし、軽やかに歩いているのだから。ベリルはぎくりとした。心臓がひっくり返って、とまってしまうような気がした。男が誰であるかがわかった。
「今晩は、ベリルさん」やさしい声だった。
「今晩は」
「ちょっと散歩に出ませんか?」と、ものうげな声。
散歩に出る――夜のこんな時刻に!「だめですわ。みんな床に入ってるんですもの。みんな、眠ってるんですのよ」
「ああ」という声は軽く、かぐわしい煙がぷんと彼女の鼻をうった。「みんながどうしていようと、かまうものですか? お出でなさい。すてきな夜ですよ。誰一人いやしません」
ベリルはかぶりをふった。しかし、すでに何かが彼女のうちにうごめき、何かがその頭をもたげた。
「恐いの?」その声はいった。「いくじなしのお嬢さん!」それはあざけるのだ。
「ちっとも恐くないわ」彼女はいった。
そういっている折柄、彼女のうちの、あの弱いものが解けて、突然にむやみに強くなってきたような気がした。彼女は出てゆきたくなった!
すると、それを相手はすっかり呑み込んでいるかのように、声は、やさしく柔かに、しかしきっぱりと、「さあいらっしゃい!」といった。
ベリルは低い窓を乗り越えて、ヴェランダをよぎり、芝生を走って門のところへ行った。彼は、彼女の前にいた。
「よし来た」声はささやいて、そうしてなぶるように、「恐くはないでしょう? 恐くはないんでしょうね?」
彼女は恐いのだ。ここまで出て来て、怖ろしくなった、あらゆるものが変って見えるのである。月光はまともに照って、きらめいている。物の影は鉄の棒のようだった。彼女の手が握られた。
「ちっとも恐くはないわ」彼女は軽くいった、「恐いわけがないでしょう?」
男は彼女の手をそっと引き、ぐっとたぐった。彼女は身を退《ひ》いた。
「いいえ、あたしこれ以上は行かないわ」とベリルはいった。
「馬鹿をいわないて!」ハリイ・ケンバーは、てんで耳をかそうとはしなかった。「さあ、いらっしゃい! あのツリウキソウの茂みまで行きましょう。いらっしゃい!」
ツリウキソウは丈が高かった。それは柵の上にしだれていた。その下は、濃い闇になっていた。
「いいえ、ほんとうに、あたしいやだわ」ベリルはいった。
しばらくハリイ・ケンバーはだまっていた。それから、そばに寄って来て、彼女の方を向き、にっこり笑って口早にいった、「馬鹿いうんじゃありません! 馬鹿をいわないで!」
彼の微笑は彼女がかつて見たことのないようなものだった。酔払ってるのかしら? その派手な、底の知れない、気味の悪い微笑の怖ろしさに、彼女は身が凍るような気がした。自分は何をしているのかしら? どうしてここまで出て来たのだろう? 庭が険しい顔をして彼女にこう問い詰めた折柄、門をさっと押しあけて、猫のように素早くハリイ・ケンバーが入って来て、彼女をぐっと引きよせた。
「冷たい人だ! 冷たい人だ!」いまいましげな声だった。
しかしベリルは強かった。彼女はするりと抜けて、身をかがめ、しゃにむに脱れ去った。
「あなたって、いやらしい人」彼女はいった。
「なら、いったい、なぜここへ出て来たの?」ハリイ・ケンバーはどもるようにいった。
誰も彼に答える者はいなかった。
小さな穏《おだ》やかな雲が月をかすめて流れた。月が陰った折に、深く遠い潮騒《しおさい》が響いてきた。と、やがて、雲は月をよぎって、海の音は漠としたささめきになった、あたかも暗い夢からさめたかのように。すべてが静かだった。
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園遊会
で、つまり、天気は理想的だった。たとえ注文してみたところで、これより園遊会向きの日は手に入らなかったであろう。風はなく、暖かで、空には一点の雲もない。ただ、その蒼《あお》さを初夏におりおり見かけるように、淡い金色の靄《もや》がおおっていた。夜明けから庭師が立ち現われて、芝生《しばふ》を刈り、掃き、もう、芝草から、さきごろまでひな菊の植わっていた黒ずんだ花床までが、磨《みが》いたようになった。薔薇《ばら》はといえば、薔薇こそ園遊会で人の心をとらえる唯一の花、誰一人知らぬ者とてない唯一の花だと、ちゃんとみずから心得ている風情《ふぜい》だった。何百の、文字通り何百の薔薇が、一夜にして咲き出でたので、まるで天使の群《むれ》が舞い降りて来たかのように、緑の茂みはうなだれた。
朝食もすまない前から、もう人夫たちが天幕を張りにやって来た。
「お母さま、どこに天幕を張りましょう?」
「あのね、わたしにきかなくてもいいのよ。今年は万事あなたたち子供に計らってもらうつもりなの。お母さまだということを忘れて。お客さま待遇にお願いよ」
でもメッグには、出て行って、人夫たちの指図はできそうもなかった。彼女は、朝食の前に髪を洗っていたので、緑色のターバンを頭にまき、黒い濡《ぬ》れた巻毛を両頬にぺったりくっつけたままにして、コーヒーを飲んでいた。ジョーズは蝶々《ちょうちょう》のように、いつも、絹のペティコートに、キモノ風のジャケツを羽織って下に降りて来るのだから仕様が無い。
「ローラ、あなた行ってね。あなたうまいんだから」
ローラは飛んで行った、バタつきパンの切れを手にしたまま。外でものを食べる口実ができたのは有難いし、それに、彼女は物事のお膳立《ぜんだ》てをするのが好きだった。誰よりも上手にやれると、いつもそんな気でいた。
シャツ一枚になった四人の男が、庭の小径に集っていた。彼らは帆布《ほぬの》にくるんだ棒杭《ぼうぐい》をもち、そうして大きな道具袋を肩にかけていた。ゆゆしげな様子だった。で、ローラは、例のバタつきパンをもって来なければよかったと思ったが、それをどこにおきようもなく、といって、放り棄てるわけにもいかなかった。男たちの傍に歩み寄りながら、顔を赤らめ、つとめていかめしい顔つきをして、少し近眼のようにさえよそおった。
「おはよう」と、彼女は母親の声を真似ていった。ところが、それがとてつもなく気取ったふうに響いたので、彼女はすっかり恥かしくなってしまって、幼い女の子のようにどもった、「あ――あの――あんたたち来たのは天幕のことでしょう?」
「そうです、お嬢さん」なかでもいちばん背の高い、ひょろひょろの、そばかす顔の男がそういって、道具袋をずらし、麦わら帽をちょいとうしろにはねて、彼女を見おろしながら笑った、「まあ、そんなところです」彼の微笑は、気易く、人なつこいので、ローラも元気が出た。何ていい眼をしてるんだろう、小さいが、芯《しん》から濃い碧《みどり》! 次いでほかの連中を見てみたが、彼らもまた笑っているのだった。「さあ、朗らかになさい。噛みつきはしませんよ」と、いっているような彼らの笑いだった。職人て何て素敵なんだろう! それに、何て美しい朝! 朝がどうなぞいってはいられない、事務的にならなくてはいけないのだ。天幕は。
「ねえ、百合《ゆり》のある芝生のあたりはどうかしら? いけないかしら?」
といって、彼女は、バタつきパンをもっていないほうの手で、百合の芝生の彼方を指さした。彼らはふり向いて、その方角をじいっと眺めた。小柄の太った男は下唇を突き出した、のっぽの男は顔をしかめた。
「うまくありませんな」と、彼はいった、「あんまり目立ちませんぜ。天幕みたいなもんではね」――彼は持前の気易な様子でローラのほうを向いて――「あっしの言葉でいえば、お嬢さんは、どこかそれが眼にがあんとぶつかってくる所に建てたいんですね」
ローラの育ちからすると、「眼にがあんとぶつかる」なんていいぐさは、婦人に対して失礼ではないかとも、ちらと思わされたのであったが、彼のいう意味はよくわかった。
「テニス・コートの隅は」と彼女は思いつきをいって、「でも、どの隅にかバンドがくることになってるのよ」
「へえ、バンドをよぶんですか?」ちがった職人がいった。彼は青白い顔をしていた。暗い眼でじいっとテニス・コートを見渡しているその顔つきは、憔悴《しょうすい》して見えた。何を考えているのだろう?
「ほんの、ちっぽけなバンドなのよ」ローラはおだやかにいった。バンドがちっぽけだからといって、おそらく彼は大して気にもとめないであろう。だがその時、背の高い男が口をはさんだ。
「ほれ、お嬢さん、あそこですよ。あの木立をうしろにして。向うのほう。あそこなら申し分ありませんな」
カラカの木の前のところ。するとカラカの木が隠れてしまう。広い葉は艶やかに光っており、黄金色《こがねいろ》の実が鈴なりになっていて、とてもいいのに。誇らかに、一本きり、太陽に向って葉と実をさし伸べながら、しいんとしたままに光彩を放っている何かそんな無人島に生えているとも想われるような木だった。なのに天幕で隠さなくてはいけないのかしら?
その通り。もう人夫たちは棒杭をかついでそこへ向っていた。ただ背の高い男だけが残った。彼は身をこごめ、ラヴェンダーの小枝を摘み切って、親指と人差指を鼻にあてがって匂いをかいだ。ローラはそのしぐさを見て、そんなものに――ラヴェンダーの匂いなんかに心をひかれる彼の不思議さに、カラカの木のことなんかすっかり忘れてしまった。彼女の知っている男たちの中で、果して幾人がこんなことをするだろう。ほんとうに、職人って、何て途方もなく素敵なのかしら、と彼女は思った。いっしょにダンスを踊ったり日曜日の晩餐《ばんさん》にやってきたりする馬鹿な男の子たちなんかより、むしろどうしてこういう職人を友達にはできないのだろう? こうした人たちとなら、もっとずっと面白くやってゆけるだろうに。
背の高い男が、封筒の裏に何か、輪にくくったり、そのまま垂らしておくようにしたりする仕様なぞ描いているかたわら、彼女は、それはすべて馬鹿げた階級的差別の罪だと、心に決めてしまった。
さて、彼女としてみれば、そんな差別は感じなかった。少しも、露《つゆ》ほども……と、今コンコンいう木槌《きづち》の音が聞えて来た。口笛を吹く者がおり、「そこんとこ、いいかい、合棒」と叫ぶ者がいた。「合棒!」その親しみ易さ、どういおう、その――あのう――自分がどんなに仕合せかを証《あか》すために、どんなに分け隔てない気持でおり、どんなに愚にもつかない因襲《いんしゅう》を軽蔑《けいべつ》しているかを、そののっぽに示すために、小さな絵図をのぞきながら、彼女は、バタつきパンをパクリと大口にかじった女工になりきったような彼女の心持だったのである。
「ローラ、ローラ、どこ? 電話よ、ローラ!」家の中から呼ぶ声。
「行くわよお!」彼女は小走りに、芝生をよぎり、小径を伝い、階段を昇り、ヴェランダを通って、玄関に入った。ホールでは、父とローリイとが帽子にブラッシをかけているところで、ちょうど会社に出かけるばかりだった。
「ねえ、ローラ」とローリイは早口に、「この午後までに、ぼくの上着をちょっと見ておいてくれない、プレスしたものかどうか」
「いいわ」彼女はいった。不意にそのままではいられない気になって、ローリイのそばに駈け寄って、ひょいと抱きついて、「あたしね、パーティ大好きなの、お兄さまは?」とローラは息をはずませた。
「そうともさ」とローリイの温い子供っぽい声、彼もまた妹を抱きしめ、それから、そっと彼女を押しやって、「電話だよ、早く」
電話。「はい、はい。そうよ、キティ? おはよう。昼御飯に来ない? いらっしゃいよ。もちろん、うれしいわ。ほんの有り合せの料理だけど――サンドウィッチを作ったあとの切れはしと壊れた卵菓子《メレンゲ》のかわ、残り物ばっかり。ええ、いい朝でしょう? あなたの白い服? あたしはきっと。ちょっと待ってちょうだい――切らないどいてね。母が呼んでるの」ローラはふり向いた。「お母さま、なあに? 聞えないわ」
シェリダン夫人の声が、階段の上から伝わって来た。「この前の日曜日の、あの可愛らしい帽子を、かぶっていらっしゃるようにおっしゃいよ」
「母がね、あなたがこの前の日曜日にかぶっていらしった可愛いい帽子でいらっしゃいって。いいわ。一時ね。さよなら」
ローラは受話器をおき、両腕をさっと頭の上のほうに伸ばし、深く一息ついてから、上げた手をおろした。「ふーっ」彼女は溜息をついた、が溜息をつくや否やに彼女は素早く立ち上った。彼女はじいっと聞き耳を立てていた。家じゅうの扉という扉が開いているように思えた。家は、低いせわしげな足音と響き渡る声で活気づいていた。台所の区劃に通ずる緑色の粗羅紗《ペイズ》を張った扉が、やにわに開いたが、またにぶい音をたてて閉った。と今度は、長い、くすくす笑うような、ひょうげた音が聞えて来た。それは堅い脚車で、重たいピアノを動かしているのだった。そんなことより、この空気! もし気をつけてみたら、空気はいつもこんなかしら? かすかな微風が、窓の上の辺りや、扉の外のところで、追いかけっこをしているのだった。そうして日光の落した小さな点が二つ、一つはインク壺に、一つは銀の写真|枠《わく》に、やはり戯《たわむ》れていた。可愛らしい小さな点。殊にインク壺のふたの上のそれ。それはとても温かだ。温かな小さい銀の星。接吻《せっぷん》してみたくなるのだった。
表の扉のベルがけたたましく鳴って、階段に、セイディの更紗《さらさ》のスカートのさらさらという衣《きぬ》ずれの音がした。何かぶつぶついってる男の声。セイディは、ぶっきらぼうに答えた、「あたしは知りません。待って下さい。奥さまにきいてきますから」
「なあに、セイディ?」ローラはホールに出てきた。
「花屋さんですわ、ローラ嬢さま」
事実そうだった。扉を入ったばかりのとこに、ピンクの百合の鉢をいっぱいに載せた、大きな、浅い盆がおいてあった。それ一種だけ。百合ばっかり――カンナ百合で、大きなピンクいろの花、大きく開いて、輝くばかり、艶《つや》やかな真紅の茎の上におそろしいくらいに生々としていた。
「まあ、セイディ!」とローラはいった、その声はいささか呻《うめ》くようであった。百合の炎で身を煖《あたた》めるかのように、彼女はそこにかがみこんだ。百合の花が、指の間に、唇の上に、あるように、彼女の胸の中に生えているように感じた。
「何か間違いよ」彼女はおずおずといった。「こんなにたくさん、誰も注文しやしないわ。セイディ、お母さまを見つけて来て下さいな」
しかし、ちょうどその時、シェリダン夫人が現われた。
「いいのよ」彼女は落ち着いていった。「そうなの、あたしが注文したの。きれいでしょう?」彼女はローラの腕をおさえた。「きのう、花屋さんの前を通りかかって、これが窓の中にあるのを見たの。そしたらふと、生涯にたった一度でいいから、思いっきりカンナ百合を買ってみたい気になったのよ。園遊会はそのいい口実になるわね」
「でもお母さまは、何にもお構いにならないおつもりだったのでしょう」とローラはいった。セイディは立ち去った。花屋の男は、まだ外の荷馬車のそばに立っていた。彼女は腕を母親の頸《くび》に巻いて、そっと、ほんとうにそっと、母の耳たぶを噛んだ。
「ねえ、あなたは杓子定規《しゃくしじょうぎ》なお母さんなんて好きじゃないでしょう。そんなことしちゃいけませんよ。花屋さんがいるじゃないの」
花屋はまだまだ百合を運んで来た、また盆いっぱいも。
「花はね、扉の内側に、玄関の両側に積んどいて下さいな」シェリダン夫人はいった、「どうかしら、ローラ?」
「ええ、いいわ、お母さま」
応接間では、メッグとジョーズ、それにお人好しの小男のハンスが、とうとうピアノの移動をやってのけた。
「ところで、このチェスターフィールド〔一種のソファ〕を壁ぎわに押しやって、椅子《いす》のほかはみんな部屋から出してしまったらどうかしら?」
「そうだわね」
「ハンス、ここのテーブルを喫煙室に運び込んで、それから掃除器《スウィーパー》を持って来て埃《ほこり》を取ってちょうだい――ちょっと待って、ハンス」ジョーズは召使に指図するのが好きだったし、召使のほうはよろこんでその指図に従った。いつも彼女は、召使たちに、何か劇中の一役を演じているような気持を起させるのであった。「お母さまとローラさんに、すぐここへいらしってて」
「かしこまりました、ジョーズさま」
彼女はメッグのほうを向いた。「ピアノの調子、どんな工合だか聴いてみたいわ。もしひるから歌を唱ってなんていわれたら困るんだもの。ちょっと『この世は侘《わ》びし』をやってみましょうよ」
ポーン! タ、タ、タ、テ、タ! ピアノがひどく情熱的に鳴り出したので、ジョーズの顔つきが変った。彼女は手を握りしめた。母とローラが入って来た時、彼女は憂《うれ》わしげに謎《なぞ》のように二人を見た。
この世は侘びし
涙――溜息
愛はうつろう
この世は侘びし
涙――溜息
愛はうつろう
いざ……さらば!
しかし、この「さらば」という言葉のところで、ピアノはことさらに絶望的に響いたのであったが、彼女の顔はほころびて、輝やかしい、音にはおよそそぐわない微笑が浮んだのであった。
「いい声でしょう、母《かあ》さま」彼女はにっこり笑った。
この世は侘びし
望みむなしく
夢か――うつつか
ところがそこヘセイディが入って来た。「なあに、セイディ?」
「ごめん下さい、奥さま、料理番が、サンドウィッチにつける旗はお持ちでしょうかと申しておりますが?」
「サンドウィッチにつける旗だって?」シェリダン夫人は、何か夢みるようにおうむ返しにいった。ところが子供たちには、母がそれをもっていないことが、その顔つきでわかった。「えーと」そうして彼女はセイディにきっぱりといった、「十分たったら届けるって料理番にいっとくれ」
セイディは出て行った。
「さあ、ローラ」彼女の母は口早に、「あたしといっしょに喫煙室に来てくれない。封筒の裏がわかどこかにサンドウィッチの名前を書きつけておいたはずだから。あんたはそれを書いてくれるわね。メッグは今すぐ二階へ行って、濡れた物を頭から取っていらっしゃい。ジョーズはね、さっさと着がえをしに行くんですよ。みんな、わかったの? でないと、晩にお父さまがお帰りになった時、いってあげますよ。それから――っと、ジョーズ、もし台所へ行ったら、料理人をよろしくね。今朝はあたし、彼女がおっかないんだから」
封筒は、食堂の時計のうしろにあるのがやっと見つかった、どうしてそんな所に入りこんだものか、シェリダン夫人には見当がつかなかったのであるが。
「あんたたち誰か、あたしのバッグから取り出したんでしょう、あたしははっきり覚えてるんだから――クリーム・チーズにレモン・カード〔カードは凝乳、牛乳を凝固させたもの、チーズの原料〕。それは書いちまったの?」
「ええ」
「卵と――」シェリダン夫人は、封筒を眼から遠く離して見ながら、「鼠というふうに読めるけど。鼠なんてはずはないわねえ?」
「オリーブよ」ローラは肩越しに見ながらいった。
「そう、もちろん、オリーブだわね。鼠だったら、えらい組合せになるわね。卵にオリーブ」
彼女らは、とうとうその仕事を終えて、ローラはそれを台所にもって行った。と、ジョーズが料理人をなだめているところだったが、その当人はちっともおっかなくは見えなかったのである。
「こんな素敵なサンドウィッチ見たことがないわ」と、ジョーズの有頂天の声、「いく種類あるんだったかしら? 十五種類?」
「十五種ですわ、ジョーズさま」
「そう、ほんとうに有難いわ」
料理人は、長いサンドウィッチ用の庖丁《ほうちょう》で、パンの殻を掃き集め、遠慮なくほほえんだ。
「ゴッドバー商店が来ました」セイディが食器室から飛び出して来ていった。彼が窓ぎわを通るのを見たのである。
クリームパフ〔シュークリーム〕が届いたというわけだ。ゴッドバーは、クリームパフで名前を売っている店だった。これを、自分の家で作ろうなぞ、誰も思うものはなかった。
「それ、こちらへもって来て、テーブルの上において下さいね」と、料理人がいいつけた。
セイディは、運び入れると、また扉のほうへひき返した。もちろん、ローラとジョーズは、もうすっかり大きくなっているので、そうした物を、芯から欲しがりはしなかった。とはいうものの、クリームがとてもおいしそうに見えることは、否みようがなかった。ほんとうにおいしそう。料理人は、余計な砂糖衣を振り払いながら、それを揃えはじめた。
「クリームパフには、みんな自分のパーティを思い出しはしないかしら?」ローラがいった。
「そうだと思うわ」およそ実際的で、思い出なぞ大嫌いなジョーズがいった。「きれいにふんわりと羽みたいだわ、ほんとうに」
「嬢さまたち、一つずつ召しあがれよ」料理人は愉しげな声でいった、「お母さまに、わかりっこありませんわ」
まあ、そんなこととても。朝食のすぐあとでクリームパフだなんて。思っただけでも身ぶるいがする。だというのに、二分後には、ジョーズとローラは指をしゃぶっていた、泡立ったクリームを食べる時だけに見られる、あのうっとりとした気もそぞろな面ざしをして。
「庭へ行きましょうよ、裏手から出て」ローラがさそった、「人夫たちが天幕をどうしてるか見てみたいのよ。あの人たち、とっても素敵なのよ」
しかし、裏口には、料理人、セイディ、ゴッドバーの店員、それにハンスが、立ちふさがっていた。
何か起ったのだ。
「コッ、コッ、コッ」料理人は興奮して雌鶏《めんどり》のような声を出した。セイディは、歯でも痛むかのように、頬に手をぴたっと当てていた。ハンスの顔は、懸命に事をききだそうとして、ゆがんでいた。ただゴッドバーの店員だけが心愉しげに見えた、それは彼から出た話だったのである。
「どうしたの? 何か起ったの?」
「えらいことになりましたわ」料理人がいった、「人が殺されたんです」
「人殺し! どこで? どうして? いつ?」
だが、ゴッドバーの店員は、せっかくもって来た話を、自分の眼の前で、他人に横取りされたくはなかった。
「お嬢さま、このすぐ真下のあのごたごたした小屋をご存知ですか?」ご存知ですかって。もちろん、彼女は知っていた。「ええ、あそこに、スコットという名前の、馬車屋をやってる若い男が住んでるんです。今朝ホーク通りの角で、奴の馬が牽引車におどろいて跳びのいて、奴はあおむけに放り出されて頭を打ったんです。それっきりでさあ」
「死んだの!」ローラは、ゴッドバーの店員を見つめた。
「引き起した時には死んでました」ゴッドバーの店員は面白そうにいった。「私がここへおうかがいする頃、死体を家へ運んでいました」そうして彼は料理人に向っていった、「遺族はおかみさんと小っちゃいのが五人」
「ジョーズ、来てちょうだい」ローラは姉の袖《そで》を握って、台所を通って、緑の粗羅紗《ペイズ》の扉のきわまで、引張って行った。そこで彼女は立ち止まって、扉に寄りかかった。
「ジョーズ!」彼女はいった、すっかりおびえて、「どうしたら、一切《いっさい》取りやめにできるかしら?」
「一切取りやめるって、ローラ!」ジョーズはびっくりして叫んだ。「いったいどういうつもりなの!」
「園遊会をやめるのよ、もちろん」なぜジョーズは空とぼけるのだろう?
だがジョーズは、いよいよもってたまげたふうだった。「園遊会を中止するって? まあ、ローラ、とんでもないこといわないでよ。もちろん、そんなことできるわけがないわ。だれだって、そんなの思いもかけないでしょう。あんまり無茶をいわないでね」
「でも、表門の鼻先に、人死にがあったというのに、園遊会なんてとてもできないわ」
それこそ全く無茶である、というのは、この家に至るけわしい坂の、ほんのその下の、袋小路に、例の部落はあったのだから。大きな道路が両者を隔ててはいたが、実際、それはあまりに近過ぎた。この上もなく目ざわりで、この近辺にあるべき代物ではない。それはチョコレート色に塗った小さな貧しげな屋並だった。庭には、キャベツの株と病気の鶏とトマトと空罐《あきかん》よりほかは見えなかった。煙突から出て来る煙までが、貧苦にやつれ果てていた。シェリダン家の煙突から立ち昇る太い銀色の煙とはおよそ似もつかぬ、細々としたくすぶりよう。その小路には洗濯女《せんたくおんな》たちが住んでいた、そのほか煙突掃除夫、靴直し、家の表に小さな鳥籠《とりかご》をやたらにぶら下げている男、そうした面々が住んでいた。子供たちがうようよしていた。シェリダン家の子供らは、まだ小さかった頃、そこに足を踏み入れてはいけないといましめられていた。言葉が乱暴だし、何を覚えてくるかわからないからであった。しかし、大きくなってしまってからは、ローラとローリイは、たまには足の向くままに、そこを通り抜けることもあった。いやらしい、うす穢《ぎたな》いところだった。二人はおじけをふるって、出てくるのだった。でもやはり、人はどこへでも行かねばならぬ、何でも見ておかねばならぬ。というわけで、そこを通った。
「それに考えてごらんなさい、その気の毒な女の人に、バンドの音楽が、どんなに響くかを」ローラがいった。
「まあ、ローラ!」ジョーズは芯から弱り果てた、「誰かに事故があるたびに、バンドの演奏を取りやめるとしたら、一生たいへんなご精進《しょうじん》なのね。あたしだって、あんた同様、ほんとうに気の毒に思ってるわ。同じように同情はしてるのよ」彼女の眼はきつくなった。彼女たちが、まだ幼くて、いっしょに喧嘩《けんか》をしていた頃、よくそうしたように、彼女は妹をじっと見た。「あんたが、いくら感傷的になったって、酔払った労働者を、よみがえらせることはできないわ」彼女は静かにいった。
「酔払いって! 酔払ってたとは誰がいったの?」ローラは、ジョーズに向って喰ってかかった。そうした場合の彼女たちの口癖で、彼女は「あたしお母さまのところへ行って、いってくるわ」といった。
「それがいいわ」ジョーズは鳩《はと》みたいな含み声でいった。
「お母さま、あたし入ってもいい?」ローラは、大きなガラスの握りを廻した。
「いいわよ。まあ、どうしたの? 何て顔色をしてるの?」で、シェリダン夫人は、化粧台から向き直った。彼女は新しい帽子をかぶってみているところだった。
「お母さま、男の人が死んだんですわ」ローラは話しはじめた。
「まさか、庭で、じゃないでしょうね?」と母は口をはさんだ。
「違うわ!」
「なんてひとをびっくりさせるんでしょう!」シェリダン夫人は、ほっと吐息して、大きな帽子をぬいで、膝の上においた。
「でも、お母さま、こうなの」ローラはいった。息詰るようにして、彼女は怖ろしい話を物語った。「もちろん、パーティなんてやれませんわね」と、嘆願するように、「バンドも、お客さまも、みんなやって来ますわ。お母さま、聞こえちまいますわよ。目と鼻の先ですもの!」
ローラが驚いたことには、母の態度もジョーズとおんなじだった。面白そうにしている気振りさえ見えたので、いよいよ我慢がならなかった。ローラのいうことを、まじめに取り上げようとはしなかったのである。
「でもねえ、お前、常識で考えてごらん。それがわかったのは、ほんの偶然なんでしょう。もしあそこで誰かがごく普通に死んだのなら――あんな狭苦しい穴ぐらみたいなところで、どうやって生きていけるのか、あたしにはわからないわ――うちではやっぱり、パーティをやるでしょうね?」
ローラは、それに「はい」というほかはなかった。しかし、それは間違いである、という感じだった。彼女は母のソファに腰をおろして、クッションのふち飾りをつまんでいた。
「お母さま、だったら、あたしたちとっても不人情ということにはなりません?」彼女はたずねた。
「ねえ、ローラ!」シェリダン夫人は立ち上って、帽子をもったまま、彼女のところへ近づいて来た。ローラがさえぎるひまもなく、母は彼女にひょいと帽子をかぶせた。
「ほうら」母はいった、「あなたの帽子よ。あつらえたみたいね。あたしには派手すぎるわ。あなたがそんなにきれいなの、見たことがないわね。自分で見てごらん!」で、母は、彼女の手鏡を取り上げた。
「でも、お母さま」ローラは、またはじめた。自分を映してみる気なぞしなかった、彼女はわきを向いてしまった。
今度は、ちょうどジョーズの場合と同様、シェリダン夫人も我慢しきれなくなった。
「あなたって、とってもおかしな人ね、ローラ」彼女は冷然といった。「あんな人たちが、あたしたちに犠牲を払わせるつもりでなんかいるものですか。それに、あなたみたいにして、みんなの愉しみを台無しにするなんて、決して芯から同情してることにはならないわ」
「わからないわ」ローラはそういって、自分の寝室へさっさと歩み去った。と、そこで、全く偶然に、最初に彼女の眼に止ったのは、金色のひな菊と長い黒|天鵞絨《ビロード》のリボンで飾った黒い帽子をかぶっている、鏡の中のこの美しい少女であった。自分がこんなに見えようとは、それまで思いもよらなかった。お母さまのおっしゃることが、ほんとうかしら? と、彼女は思った。そうして今では、そうであってくれればいいと希《ねが》うのであった。あたしの考えは、突飛《とっぴ》なのかしら? おそらく突飛だったのだろう。そのときふと、哀れな女と、小さな子供たちと、家の中に運びこまれる死体とが、もう一度ちらりと眼の前に浮んだ。しかしそのすべてが、何か新聞写真のように、おぼろげに、非現実的に思えるのだった。園遊会がすんだら、また考え直してみよう、と彼女は心にきめた。と、どういうわけか、それが最上のプランのように思えてくるのだった……
昼食は一時半までに終った。二時半までには、すっかり大騒ぎの用意もできた。緑衣をまとったバンドの一行もやって来て、テニスコートの隅に陣取った。
「まあ!」キティ・メイトランドはさえずるような声で、「バンドの連中は蛙《かえる》そっくりじゃない? いっそ、みんな池のぐるりに並べて、指揮者をまんなかの葉っぱの上においたらよかったのに」
ローリイが帰って来て、着がえに行きながら、妹たちに声をかけた。彼を見ると、ローラはまた例の事件を思い出した。彼にそれを話したくなった。もしローリイもみんなと同じ意見なら、それで間違いないということになる。で、彼女は彼のあとを追ってホールヘ進んで行った。
「ローリイ!」
「いよう!」彼は階段を半ば昇りかけていたが、振り返ってローラを見ると、突然頬をふくらませ、眼をぐるぐる廻した。
「おやおや、ローラ! 素敵に見えるぜ」といい、「えらくずば抜けた帽子だね!」
ローラはかすかに「そう」といって、ローリイを見上げてほほえみはしたが、ついに何もいわないでしまった。
それからまもなく、人々がぞろぞろやって来た。バンドが演奏をはじめた。臨時|傭《やと》いの給仕人達が、家から天幕のほうへ駆けて行った。見える限りここかしこに、男女うち連れた客がぞろぞろ歩いていて、花に身をかがめ、挨拶《あいさつ》を交わし、芝生の上を動いているのだった。彼らは、たまたまこの午後、どこか――遠くへ飛んで行く途中、シェリダン家の庭園に降り立った一群の愉しげな小鳥のようだった。ああ、みんな仕合せな人々と一緒にいて、手を握り合い、頬ずりをし、眼と眼でほほえみを交すのは、なんて愉しいことだろう。
「ローラさん、なんてお元気そうなんでしょう!」
「よくお似合いの帽子ですわね!」
「ローラ、まるでスペイン人みたいね。あんたがこんなにすばらしく見えるって、今まで知らなかったわ」
と、ローラは上気しながら、やさしくこたえた、「お茶召しあがりましたの? アイスクリームはいかがでしょう? とけいそうの実が入ったアイスクリームは特製なんですのよ」彼女は父のところへ走って行ってたのんだ、「ねえ、お父様、バンドの人たちに、何か飲物をあげてはいけないかしら?」
こうして、このすてきな午後は、ゆるやかに花開き、ゆるやかに色褪《いろあ》せ、ゆるやかにその花びらを閉ざした。
「こんな愉しい園遊会ははじめてですわ……」「大成功……」「全くこれまでにない」
ローラは、客を送り出す母の手助けをした。すっかりそれが終ってしまうまで、二人は玄関にならんで立っていた。
「やれやれ、おかげですんだわ」とシェリダン夫人はいった。「みんなを集めて頂戴《ちょうだい》、ローラ。行って、コーヒーを飲みましょう。あたし、すっかりつかれたわ。ほんとうに、とてもうまくいったわね。でも、こんなパーティ、こんなパーティは、たいへんだわね! お前たち子供は、どうしてパーティをやろうってせがむのでしょうね!」で、みんなは、人のいなくなった天幕の中に腰をおろした。
「お父さま、サンドウィッチ召しあがれよ。あたし旗を書いたんですわ」
「ありがとう」シェリダン氏は一口頬ばったが、するともうサンドウィッチは消えていた。彼はもう一つつまんだ。「今日起ったとてもいやな事を、聞いてはいないだろうね?」と彼はいった。
「あなた」とシェリダン夫人は片手を上げて、「知ってますわよ。あやうく園遊会がだめになるところでしたわ。ローラが延期しようって頑張るんですもの」
「まあ、お母さま!」ローラは、そのことでからかわれるのはいやだった。
「とにかく、怖しい事だ」シェリダン氏はいった。「おまけに独り者じゃないんだよ。すぐ下の小路に住んでいて、あとには妻君と半ダースもの子供がのこった、というんだがね」
ちょっと、ぎこちない沈黙が、続いた。シェリダン夫人は、茶碗《ちゃわん》を手に、もじもじしていた。ほんとうに、お父さまは気が利《き》かない……
ふいに夫人は顔を上げた。そこのテーブルの上には、サンドウィッチやケーキやクリームパフが手をつけないままのっていた。みんな無駄になってしまうのだ。彼女は、一つ、うまいことを思いついた。
「いいことがあるわ」と彼女はいった、「バスケットをこさえましょうよ。かわいそうな人に、このおいしい食物を贈ってあげましょう。とにかく、小さい子供たちには、この上もないご馳走《ちそう》だわ。どう? それにきっと、近所の人たちがたくさんお悔《くや》みに来るんでしょう。そのとき、ちゃんと接待の用意ができてるなんて、とても好都合じゃないの。ローラ!」ローラは飛び上った。「階段のところの戸棚から、大きなバスケットを持っていらっしゃい」
「でも、お母さま、ほんとうにいい考えだとお思いになりまして?」とローラはいった。ここでもまた、奇妙にも、彼女はみんなとは違っているように思われた。園遊会のあまり物を持ってゆくなんて。その気の毒な女の人に反《かえ》って悪くはないかしら?
「もちろん、そうよ! お前、今日はどうかしてるんじゃない? 一時間か二時間前には、私たちに思いやりがなくてはいけないって、あんなにしきりにいってたくせに」
ええ、いいわ! ローラは走ってバスケットを取りに行った。母の手で、それにご馳走をどっさりと詰めこんだ。
「お前が持って行くんですよ」と母はいった。「大急ぎで走って行っていらっしゃい。あの、ちょっと待って、このアラム百合も一緒にね。あの階級の人たちには、百合の花はとても珍らしいんだから」
「百合の茎で、レースの上衣《うわぎ》が台なしになるわ」と実際的なジョーズがいった。
そうかも知れない。さきに気がついてよかった。「ではバスケットだけね。そして、ローラ!」――母は、追っかけるように、天幕から出て来て――「あの、どんなことがあっても――」
「なあに、お母さま?」
いや、こういう考えは、子供の頭に入れないほうがいい! 「なんでもないわ! 走っていらっしゃい」
ローラが、うちの庭木戸を締めて外へ出たのは、ちょうどもうほの暗くなる頃であった。大きな犬が、影のように過ぎて行った。道路はほんのりと光を漂よわせ、下のほうの窪地《くぼち》には、小さな屋なみが、深い影に包まれていた。あの賑やかだった午後のあと、それがなんと静かに見えるのだろう。いま、彼女はこの坂を下って、どこか一人の男が死んで横たわっている家に行こうとしているのだ。が、それが現実とは思えなかった。なぜ、そうなのだろう? 彼女はちょっと立ち止った。すると、先刻の、接吻、人声、澄んだ匙《さじ》の音、笑いさざめき、踏みにじられた草の匂いなどが、なんとなく、まだ自分の身体のうちに残っているような気がするのだった。他のことを考える余裕はなかった。なんて奇妙な! 彼女は蒼白い空を見上げた、そうして、ただ、「そう、今日のパーティは大成功だったわ」と考えるだけだった。
やがて広い道が岐《わか》れるところへ来た。小路に入るところ、煙っぽくて暗い。肩掛けを羽織った女や、ツイード地の鳥打帽をかぶった男が、急ぎ足に通って行った。男たちが柵にもたれていた。子供たちが戸口で遊んでいた。むさくるしい小屋から、低い人声が聞えてきた。ある家には灯火《ともしび》がゆらめき、影、蟹《かに》のような影が、窓をよぎった。ローラはうなだれて、みちを急いだ。上衣を着てきたらよかった、と彼女は思った。なんてドレスがけばけばしいんだろう! おまけに、びろうどの長いリボンのついた大きな帽子――これが違った帽子だったらよかったのに! 人々が自分を見てはいないかしら? そうに違いない。ここへ来たのは間違いだった。間違いだとは、始めからわかっていた。今からでも引き返したほうがよくはないか?
いや、もう遅すぎる。これが目ざす家だ。そうに違いない。外に、黒山のように人が群れていた。戸口のあたりに、ひどく老いこんだ婆さんが、松葉杖を手に、椅子に腰かけて、見張っていた。婆さんは、新聞紙を敷いて、その上に足をのせていた。ローラが近づくと、人声がやんだ。群れている人々がわかれた。彼女を待っていたようでもあり、彼女がここに来るのを知っていたようでもあった。
ローラはすっかりおびえてしまった。びろうどのリボンを肩の上でうち振りながら、彼女は、そばに立っている女に、「スコットさん宅はこちらでしょうか?」といった。と、その女は、妙な微笑を浮べて、「そうですよ、娘さん」といった。
ああ、こんなのいや! 小さな径《みち》をゆき、扉をノックしながら、「神さま、お助け下さい」と、実際彼女はいったのだ。あのみんなの凝視《ぎょうし》からのがれたい。あの女の人たちのショールの一つでもよい、何かで身を包みかくしたい。ただ、バスケットを置くだけで、早速行ってしまおう、と彼女は決心した。バスケットをあけるまでも待ってもいられない。
折から扉が開かれた。黒衣をまとった小柄な女が、暗がりから現われた。
ローラはいった、「スコットさんの奥さまでいらっしゃいますか?」ところで、彼女がぞっとしたのは、その女は、「どうぞ、お入りになって」と答えて、彼女を廊下に締め込んでしまったことだった。
「いいえ」ローラはいった、「ここで失礼させて頂きますわ。ほんのこのバスケットをお届けに来ただけです。母が差上げるようにって――」
廊下の暗がりに立ったその小さな女の人は、彼女のいうことが聞えないような様子だった。
「どうぞ、お嬢さん、こちらへ」彼女はなめらかな声でいった、で、ローラは彼女のあとについて行った。
彼女はうす穢《ぎたな》い小さな低い台所に案内された、すすけたランプがともっていた。炉《ろ》の前に、女が一人かがみこんでいた。
「エム」と、彼女を導いて来た小柄な女はいった。「エム! お嬢さんだよ」彼女はローラのほうを振り向いた。そうして、意味ありげに、「あたしの姉なんですよ、お嬢さん。この人の失礼許して下さいね」
「まあ、でも、そんなこと!」ローラはいった。「どうぞ、そのままになさって。あたし――あたしはただお届けに――」
ところが、ちょうどそのとき、炉の前の女がこちらを向いた。ふくれ面《つら》が赤く、眼と唇がはれぼったく、ひどい顔をしていた。ローラがそこにいるわけが分らないというふうに見えた。これはどうしたことだろう? この見知らぬ人間は、なぜバスケットをもって台所に立っているのだろう? 何が何だかさっぱり分らない? とでも思ってか、その哀れな顔は、またしてもゆがむのであった。
「あんたは、いいわよ」と、もう一人のほうがいった、「あたしからお嬢さんにお礼をいっとくから」
それからまた彼女は、「この人の失礼は許して下さるでしょうね、お嬢さん」と、そういって、これもまたはれぼったい顔に、わざとらしい微笑を浮べるのだった。
ローラは、ただもう、ここから出たい、のがれたい、とのみ思うのだった。彼女は廊下にもどった。扉が開いた。彼女は、死人が横たわっている寝室に、まっすぐに入ってしまった。
「ちょっと見てやって頂けますか?」エムの妹は、そういって、ローラのそばをすり抜けて、ベッドに歩み寄った。「恐くなんかありませんよ、お嬢さん」と、そういう声は、今、甘ったるく、ひょうきんに響くのだった。そうして、彼女は、やさしい手つきで、掛けた布を取った――「絵のような顔ですわ。べつだん変ったところも見えないんですものね。さあ、どうぞ、こちらへ」
ローラは進み出た。
そこには若い男が横たわっていた、ぐっすりと眠って――あまりにも安らかに、深く、眠り入っているので、そこにいる二人からは、遙か遙かな彼方にいるようだった。ああ、いとも遠い、いとも静かな。彼を眠りから覚してはいけない。彼は、頭を枕に埋め、眼を閉じていた。閉じたまぶたの下の眼は盲《めしい》である。彼は、その夢にひたりきっている。園遊会や、バスケットや、レースのついた服《フロック》など、いったい彼に何のかかわりがあろう。彼はそうしたものすべてから、遠く離れ去ったのだ。彼は素晴しい、美しい。みんなが笑いさざめいているとき、バンドが音楽をかなでているとき、この驚異が小路に起っていたのだ。幸福……幸福……すべてよし、とその眠っている顔はいっていた。こうなるようになっていたのだ。ぼくは満足している、と。
とはいうものの、泣くのが人情である。彼に何にもいわないで、部屋を出ていくことは、彼女にはできなかった。ローラは、小さな子供のように、すすりあげて泣いた。
「あたしの帽子、ご免なさいね」彼女はいった。
そうして今度は、エムの妹という人を待たなかった。彼女は自分で戸口を出て、小径を歩き、例の黒々とした人だかりを通りすぎた。小路の角までくると、ローリイに出会った。彼は暗がりから出て来た。「ローラかい?」
「そうよ」
「お母さまが心配してらっしゃったよ。うまくいったの?」
「ええ、大丈夫。ああ、ローリイ!」彼女は彼の腕にすがるように身を寄せた。
「おや、まさか泣いてるんじゃあるまいね?」と兄は尋ねた。
ローラは首を振った。が、泣いていたのだ。
ローリイは腕を彼女の肩に廻した。「泣いちゃ駄目だよ」と彼は、その温いやさしい声でいった。「恐かったの?」
「いいえ」とローラはすすり泣いた、「ただ不思議だったの。でも、ローリイ――」彼女は立ち止った、彼女は兄を見あげた。「人生って」と、切り出してはみたが口ごもって、「人生というのは――」しかし人生がどうというのか、彼女には説明できなかった。それで結構。ローリイには、すっかり納得《なっとく》できた。
「そういうもの、じゃないかい、ねえ?」とローリイはいった。
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故大佐の娘たち
一
その後の一週間は、彼女たちの生涯でも、最もいそがしいものの一つだった。ベッドに入ったときでさえ、横になって休んでいるのは身体だけだった。心のほうは引き続き動いていて、あれこれと思いめぐらし、話し合い、案じたり、きめたり、どこだったかと思い出そうとしたり……
コンスタンシアは彫像のように横たわっていた、両手を脇に、足を組み重ね、掛布を顎《あご》まで引き上げて。彼女はじっと天井《てんじょう》を眺めていた。
「あのシルクハットを、門番にやったら、お父さまに悪いかしら?」
「門番に?」ジョゼフィンは、どなるようにいった、「なぜ門番になんかやるの? なんと途方もないことを考えるんでしょう!」
「でもねえ」コンスタンシアはゆっくりといった、「ちょいちょいお葬《とむら》いに行かなくてはならないでしょう。あたし気づいたのよ――墓地でね、門番が山高帽だけしかもってないことに」そこで、一息ついて、「そのとき、シルクハットをやったら、どんなに有難がるかと思ったの。あの人にも、何かあげなくちゃいけないでしょう。いつもお父さまに、とても好くしてくれたんですものね」
「でも」と、ジョゼフィンは、枕の上で身もだえながら、くらがりをすかしてコンスタンシアのほうをにらんで、「お父さまのおつむのものよ!」と叫んだ。と突然、その気づまりな一瞬に、彼女はくすくす笑いだしそうになった。もちろん、ちっとも笑いたいような気持ではなかったのに。それは癖だったに違いない。これが幾年か前だったら、夜二人が目を覚して話している際には、ただもうベッドがうねるほどに笑ったものだった。いま、門番の頭が、父の帽子の下で、消えかかり、やがて蝋燭《ろうそく》のように、ふっと消えうせた……ますます、おかしくなってきた。手を握り締め、懸命にそれを抑えた。闇に向って恐い顔をして、ひどく険しい調子で、「それを考えてみて」といった。
「あす、きめてもいいわね」と彼女はいった。
コンスタンシアは何にも気づかなかった。彼女は溜息をついた。
「あたしたち、部屋着も染めなくちゃいけないかしら?」
「黒に?」ジョゼフィンは金切声に近い。
「そうよ、ほかにどんな色がある?」とコンスタンシア。「あたし考えてたのよ――外で、それから礼服のときだけ、黒い物を着て、うちにいるときには――というのは、どうも、あんまり誠心がこもっていないような気がするのよ」
「でも、誰も見やしないでしょう」ジョゼフィンがいった。彼女は掛ぶとんを、ぐいと引っぱったので両足とも外へ出てしまった、で、また足をちゃんとふとんの下へ入れるために、枕のほうへずり上らなくてはならなかった。
「ケートが見るわ」とコンスタンシアはいった、「それに郵便屋だって、ずいぶん見そうね」
ジョゼフィンは、自分の部屋着によくうつる濃《こ》い赤のスリッパを、また、コンスタンシアのそれと似合いの彼女のお気に入りの緑がかったスリッパを考えた。黒? 二つの黒い部屋着と二足の毛織《ウール》のスリッパが、黒猫のように、浴室のほうへそっと忍び寄って行く。
「絶対にそうしなくてはならないとは思わないわ」と彼女はいった。
沈黙。それからコンスタンシアがいった、「あすは、セイロン行の便に間に合うように、死亡通知をのせた新聞を出さなくちゃいけないわ……今まで、どれくらい手紙をもらったかしら?」
「二十三通よ」
ジョゼフィンは、その全部に返事を書いた、そうして、「亡き父を心から懐しく思います」というところまでくるたびに、二十三度、泣き出して、ハンケチを使わなくてはならなかった。で、中には、吸取り紙の端で薄青くにじんだ涙を、ぬぐわねばならないのもあった。奇妙なこと! そんなふりができるはずもない――なのに、二十三たびも。とはいえ今でさえ、自分に「亡き父を心から懐しく思います」としんみりいってみると、なんなら泣くこともできそうだった。
「切手は十分間に合ってるの?」と、コンスタンシアの問い。
「知らないわよ」ジョゼフィンは不機嫌《ふきげん》に言った、「今ごろ、そんなこときいてどうするの?」
「ちょっと気|懸《がか》りだったの」コンスタンシアはおとなしくいった。
また沈黙。かすかに、かさこそいう音、ちょこちょこ走る音、ぴょんと跳ぶ音。
「鼠《ねずみ》」コンスタンシアがいった。
「鼠のはずないわ、パン屑みたいなもの、何にもないんだもの」とジョゼフィン。
「でも、無いとは、鼠は知らないでしょう」とコンスタンシアがいった。
ふと、憐憫《れんびん》の情が彼女の心をとらえた。かわいそうに! 化粧台の上に、一かけらのビスケットでも置いておけばよかったのに。鼠に何にも見つからないと思うと、心が痛むのだった。どうするつもりなんだろう?
「どうやって生きていけるんでしょうね、ふしぎだわ」彼女はゆっくりといった。
「誰のこと?」ジョゼフィンがきいた。
と、コンスタンシアは、思わずも大きな声で、「鼠」といった。
ジョゼフィンは、かっと腹を立てた。「まあ、馬鹿いわないでよ、コン!」といい、「鼠に何の関係があるの? あんた、眠ってるんでしょう」
「じゃないと思うわ」とコンスタンシアはいった。彼女はそれを確かめてみようと、眼を閉じた。彼女は眠っていた。
ジョゼフィンは背中をまげ、膝《ひざ》を引き、拳《こぶし》が両耳の下にくるように腕を組み合せて、枕に頬を押しつけた。
二
事を、こんがらからしたもう一つは、看護婦のアンドルーズが、なおその週、彼女たちの家に滞在することだった。それは彼女たちが悪かったのだ、こちらが頼んだのである。ジョゼフィンの思いつきだった。朝――そう、医者が帰った最後の日の朝、ジョゼフィンがコンスタンシアにいったのだ、「看護婦のアンドルーズさんに、一週間だけお客さまになっていて下さいって頼んだら、いいんじゃないかしら?」
「とてもいいわ」コンスタンシアはいった。
「あたし思ったんだけど」ジョゼフィンは性急《せっかち》に、「この午後、あの人に支払いをすましたあとで、『看護婦さん、いろいろお世話になりましたわね、で、ここで区切りをつけて、一週間だけあたしたちのお客さまになっていて頂けたら、あたしも妹もとても嬉しいんですけど』といってみたらどうかって。お客さまになってもらうんだってこと、よくいっておかなくちゃいけないわね、さもないと――」
「まさかお金をもらおうなんて思いはしないでしょうね!」とコンスタンシアが叫んだ。
「どうかしら」ジョゼフィンは、さかしげにいった。
看護婦のアンドルーズは、案のじょう、この申出にとびついた。しかし、それは面倒なことになったのだ。きまった時間に、きちんと坐って食事をとらねばならぬことになった、ところで、もし姉妹二人きりだとすれば、ケートに頼んで、どこへでも自分たちのいるところへ、遠慮なく盆を運んでもらえるのだ。で、気がゆるんでしまった今、こうした食事の時間は、災難みたいな感じだった。
看護婦のアンドルーズは、バターについては、ただもうやたらにうるさかった。少くともバターに関しては、彼女は二人の親切をいいことにしているという感じがしてならなかった。で、彼女は、自分の皿にあるバターを始末するためもう一きれパンを欲しがり、それからまた、その最後の一頬張りに、ぼんやりしたふうに――もちろん、実はぼんやりしてはいないのだ――またバターが要《い》るという、とんでもない癖をもっていた。ジョゼフィンは、このしぐさに出あうと、真赤になって、その小さな南京玉のような眼を、じっとテーブル・クロースの上に落していた、何か珍らしい小ちゃな昆虫《こんちゅう》でも、その布地の上を這《は》っているかのように。しかし、コンスタンシアの長い蒼白い顔は一層長くのびてじっと静止し、遙か――遙かなほうを見やっていた――遠い砂漠の彼方《かなた》、列を作ったらくだの群が、一すじの毛糸のようにほぐれて行く……
「あたしが、チュークス夫人のお宅にいましたときに」看護婦のアンドルーズはいった、「とっても気の利いた小さなバター入れの仕掛けがありましてね。銀のキューピッドが立ってるんですが――それが、ガラス鉢の縁《ふち》んところに、ちいさいフォークをもって、釣合をとってましてね。バターが欲しいときには、ただその足を押せばいいんですわよ、するとキューピッドがかがんで、バターを一個突いてくれるんです。面白いのなんの、全く」
ジョゼフィンは、これにはほとほと閉口した。彼女はやっとのことで、「そんなのとても贅沢《ぜいたく》ですわね」とだけいった。
「でも、なぜです?」と看護婦のアンドルーズは眼鏡の奥でほほえみながら、「誰もね、きっと、バターは自分の欲しいだけしか取りやしないでしょうよ――ねえ?」
「呼鈴を、コン」ジョゼフィンが叫んだ。彼女は返事をする気もしなかったのである。
と、高ぶった若いケート、魔法にかけられた王女さま、が、さて今度は老嬢たちが何をいいつけるのかというふうに入ってきた。彼女は、まがい物の皿をひったくるようにして下げると、びっくりして青くなってるブラマーンジを、ばたんと放りだした。
「ケート、ジャムを頂戴《ちょうだい》な」ジョゼフィンは、丁寧《ていねい》にいった。
ケートはしゃがんで、さっと食器棚の戸を開け、ジャムを容《い》れた壺《つぼ》のふたをあけてみて、それがからだと知ったのだが、そのままテーブルの上において、さっさと行ってしまった。
「ジャムはないんでしょうね」一瞬たって看護婦のアンドルーズがいった。
「まあ困っちまうわ!」ジョゼフィンがいった。彼女は唇を噛んだ。「どうしたら、いいんでしょうね?」
コンスタンシアは、心をきめかねているようすだった。
「またケートに頼んだりしてはいけないわね」と彼女はおとなしくいった。
看護婦のアンドルーズは、ほほえんで二人を見ながら待っていた。眼をきょろきょろさせて、眼鏡の奥のほうから、万事を探索しているのだ。
コンスタンシアは、がっかりして、また眼をもとに戻して、例のらくだの列を見やっているのだった。ジョゼフィンはひどく渋い顔をして――一心に思いふけっていた。この愚かな女さえいなければ、彼女とコンは、もちろん、ジャムなしでブラマーンジをたべるのに。ふと考えが浮んだ。
「そうだわ」と彼女はいった、「マーマレイド。食器棚にマーマレイドがあるわよ。それを出してくれない、コン」
「あの、あたし」と看護婦のアンドルーズが笑って――ところで、彼女の笑い方は薬のコップに、匙《さじ》がかちんかちん当るようだった――「あんまり、しょっぱくないマーマレイドだと、いいんですけどね」
三
しかし、しょせん、もうそんなに長いことではないし、やがて、彼女は永久におさらばということになるだろう。それに、彼女が父にずいぶん親切にしてくれたという事実は否《いな》みようもない。父が息を引きとるまで、昼となく夜となく、彼女は看病してくれたのだ。実のところ、コンスタンシアもジョゼフィンもひそかに感じていたのは、いよいよ臨終というときに、彼女が父のそばをはずしてくれなかったのは、いささかやりすぎだということだった。つまり、二人がお別れに入って行ったときも、看護婦のアンドルーズは始終ベッドの脇に坐っていて、父の手を取り、自分の時計をじっと見ているふりをしていたのだから。そんなことをする甲斐《かい》もなかったろう。それにまた、気のきかないしぐさである。もし父に何か――二人にだけ聞かせたいことがあったとしたら。もっとも、父にはいいのこすこともなかった。およそ、それどころではなかったのだ! 彼は、紫色《むらさきいろ》をして、顔を暗い怖ろしい紫色にして横たわっており、彼女たちが入って行っても見ようともしなかった。と、そのとき、二人がどうしていいかわからないで立ちすくんでいると、父は突然片方の眼を開いた。ああ、もし父が両眼を開いてさえくれたのだったら、どんなにかもっと違った感じであり、彼女たちの思い出にのこる彼もどんなにか違っており、人に話すにもどれほど気易かったろう! ところが、そうではない――片方の眼だけだもの。それが一瞬二人をにらむようにして、そうして……こときれたのであった。
四
聖ヨハネ教会のファロールズ氏が、その日の午後訪ねてきた折には、そのため、二人はとても気まずい思いをしなければならなかった。
「ご臨終は、きっと、お静かでしたろうね?」というのが、暗い応接間を通って、彼女たちのほうへ歩みよりながら、彼が発した最初の言葉であった。
「ええ、まあ」ジョゼフィンは、か細い声でいった。二人とも、うなだれてしまった。あの眼は決しておだやかなものではなかった、というのが二人の感じだった。
「どうぞお坐り下さいまし」とジョゼフィンはいった。
「ありがとう、ミス・ピナー」ファロールズ氏は丁重にいった。彼はコートの尻《しり》を端折《はしょ》って、父の肘掛椅子《ひじかけいす》に腰かけようとしたが、それに尻がふれたとたんに、ほとんど跳びあがるようにして、隣の椅子のほうに移った。
彼は咳《せき》ばらいをした。ジョゼフィンは手を握り合せた、コンスタンシアはぼんやりしている風情《ふぜい》だった。
「ミス・ピナーと、あなたミス・コンスタンシア、じつは私は」とファロールズ氏は、「何かあなたがたのお役に立ちたいという私の気持を知って頂きたいんです。もしお差し支えなければ、お二人のお役に立ちたいのです。今こそ」とファロールズ氏は、ひたむきに、かつ熱心に、「われわれお互いが助け合うことが神の思召《おぼしめし》である、そうした時なのです」
「ファロールズさん、ありがとうございます」とジョゼフィンとコンスタンシアがいった。
「いえいえ、ちっとも」ファロールズ氏はおだやかにいった。彼は指からキッドの手袋をぬいで、身体を前に乗り出した。「で、お二人のうち、どちらさんでも、もしちょっとした聖餐式《せいさんしき》をお望みのようでしたら、お一人でも、お二人ご一緒でも、今すぐここでというのでも、私にただそういって下さればいいんです。小さな聖餐式は、よく、ひじょうな助け――大きな慰めになるんです」と、こう彼は言葉やさしくつけ加えた。
しかし、この小さな聖餐式というのには、彼女たちは思っただけでぞっとした。何ということだろう! 応接間で、彼女らだけで――ほかに何にも――祭壇やなぞもなくて! ピアノでは、あんまり高すぎるだろう、ファロールズさんは聖餐杯をもって、とてもその上にかがみこむわけにはいくまい、とコンスタンシアは考えた。また、ジョゼフィンは、きっとケートが飛びこんできて、みんなの邪魔をするに違いないと思った。それに、もしも中途でベルが鳴ったらどうしよう? それが大事なお客であるかもしれない――弔問《ちょうもん》にきてくれたような。うやうやしく立ち上って出て行くものか、それともじっと待っていなくてはいけないのか……やきもきしながら?
「あとで、そういうお気持におなりでしたら、ケートさんにでも手紙をもたして寄越して下さい」とファロールズ氏はいった。
「かしこまりました、ありがとうございます!」二人は口を揃えていった。
ファロールズ氏は立ち上って、丸テーブルから黒い麦稈帽《むぎわらぼう》を取った。
「で、お葬式《そうしき》は」と彼は静かに、「私がお世話してもいいんですよ――お父さまの、それからあなたたち、ミス・ピナーとミス・コンスタンシアの旧い友達として」
ジョゼフィンとコンスタンシアもまた立ち上った。
「ごく簡素にいたしたいと思いますわ」ジョゼフィンははっきりいった、「そうして、あんまりお金のかからないように。同時に、あたしの希望は――」
「永くのこるような良いものを」と夢みがちなコンスタンシアは思った、まるでジョゼフィンが寝間着でも買おうとしているかのように。しかし、もちろん、ジョゼフィンはそうはいわなかった。「父の身分にふさわしいのを」彼女はなかなか細心であった。
「では急いで友達のナイトさんのところへ寄ってみましょう」とファロールズ氏はなだめるようにいった、「あの人に頼んで、あなたたちのところへ相談にきてもらいましょう。彼ならきっととてもお役に立ちますよ」
五
さて、とにかく、式事万端はとどこおりなく終った、が二人には、父が二度と帰らない旅に出て行ったとは、どうしても思えなかった。墓地で、棺《かん》が穴におろされているとき、自分とコンスタンシアは父の許しも得ないでこうしたことをしてしまったのだと思って、芯から怖ろしくなった一瞬があった。父が見つけたら、果たしてどういったろう。遅かれ早かれ、彼は見つけるにきまっているのだから、いつもそうだったのだ。「埋められた。お前たち二人の娘が、わしを埋めさせたのだ!」彼女は、父のステッキの唸《うな》りを聞いた。ああ、どういったらいいのだろう? いったい、どんな言訳ができるだろう? それは途方もなく無情なしぐさのように思えた。たまたま、人が全く無力だからというので、それにつけこんだ意地の悪いやり口だった。ほかの人々は、それをしごく当り前のことのように扱っていた。彼らは父を知らないのだ、父は、およそこんな目には遭《あ》いそうもない人間だったということを、彼らに分ってもらえるはずがない。いや、一切の非難は彼女とコンスタンシアに向けられるだろう。それから出費のこと、と彼女は、きっちりと幌《ほろ》のボタンをとめた馬車に乗りこみながら、思った。父に勘定書を見せなくてはいけないとき。そのとき、父はどういうだろうか?
彼女は、父がやたらにどなり散らす声を聞くように思った。「でお前は、お前たちの、このつまらん遠足の費用を、わしに払わせるつもりなのか?」
「ああ」と、可哀そうなジョゼフィンは大きくうめくように、「あたしたち、こんなことするんじゃなかったわ、コン!」
と、黒一色に身を包んで、レモンのように蒼ざめたコンスタンシアは、おびえた声でそっと、「どうしたというの、ジャグ?」
「お父さまを、あんなふうに、う、うめてしまうこと」と、ジョゼフィンはそういって、むせび泣き、新しい、奇妙な匂いのする喪服用のハンケチを顔にあてた。
「だって、ほかにどうしようもないじゃないの?」コンスタンシアは、いぶかしげにきいた、「お父さまを、そのままにしてはおけないでしょう、ジャグ――埋めないではいられないわ。とにかく、あの手狭なアパートではね」
ジョゼフィンは洟《はな》をかんだ、馬車はひどく息苦しかった。
「わからないわ」彼女は侘《わ》びしげにいった、「何もかも、あんまりだわね。あたしね、しばらくだけでも、そうするようにしたらよかったのじゃないか、という気がするの。十分得心できるように。ただ一つだけ確かなことがあるわ」――と、また、涙が溢れてきた――「お父さまは、このことでは、決してあたしたちを許しては下さらないわ――決して!」
六
父は決して彼女たちを許しはしないだろう。それは、それから二日たって、父の物を調べてみるために、二人が彼の部屋に入って行った折、ひとしお強く感じたことだった。彼女たちは、落ち着いてその相談をしておいた。それは、ジョゼフィンの仕事の予定表にも、ちゃんと載《の》っているくらいだ。「父の遺品を調べて始末すること」しかし、朝食後にいったことは、それとはだいぶ違っていた。
「ところで、あんた用意はいいの、コン?」
「ええ、ジャグ――姉さまがいいのなら」
「じゃあ、これを始末してしまったほうがいいと思うわ」
ホールの辺《あた》りは暗かった。どんなことが起っても、朝、父の部屋に入らないことが、永年のおきてみたいなものになっていた。それなのに今、二人は、ノックさえしないで、ドアをあけようとしているのだ……そう思うと、コンスタンシアの眼は大きくなった、ジョゼフィンは膝頭のあたりがなえた感じだった。
「あんた――あんたがさきに入るのよ」彼女はコンスタンシアを押しながら、あえぐようにいった。
しかしコンスタンシアは、そうした場合いつもいうように、「いやよ、ジャグ、それ不公平だわ。姉さまが年上でしょう」といった。
ジョゼフィンは、こういおうと思った――ほかの際なら、断じて口にはしないこと――彼女が最後の武器として、とっておいたこと――「でも、あんたのほうが背が高いんだもの」と、そのとき、台所のドアがあいて、そこにケートがつっ立っていることに、二人は気づいた……
「とても固いわよ」ジョゼフィンは、ドアの把手《とって》をつかんで、懸命にそれを廻そうとしながら、いった。何かそんなことで、ケートをごまかそうとするように。
そうしないではいられないのである。あの娘は……次いでドアが、うしろで締った、だが――だが、二人は父の部屋に入ったのではなかった。彼女らは突然に誤って壁を突き抜けて、まるで違ったアパートに入りこんだのかも知れなかった。ドアは、彼女らの真うしろにあるのかしら? あんまり恐くて、見ることもできなかった。もしそうなら、ドアはきっちり締っているということを、ジョゼフィンは知っていた。コンスタンシアは、それには、夢の中のドアのように、把手なんか無いんだという気がした。ぞっとしたのは、部屋の冷たさのせいだった。それともその白さか――そのどちらなのか? 何もかも蔽《おお》いがしてあった。|窓覆い《ブラインド》が引いてあり、鏡には布がかかっており、ベッドには掛布がかぶせてあった、白い紙で作った大きなうちわが煖炉《だんろ》をふさいでいた。コンスタンシアは、おずおずと手をさし出した、降ってくる雪のひらを、その手に受けようとでもするかのようだった。ジョゼフィンは、鼻の中が妙にひりひりするような感じだった、鼻が凍《こお》りかかっているかのように。と、やがて、下のほうで、砂利道をコトコト走って行く馬車の音が聞えたので、その静けさもゆらいで、小さく砕《くだ》け散った。
「窓覆いをあげたほうがいいわね」ジョゼフィンは勇敢にいった。
「ええ、そうだわ」コンスタンシアがささやいた。
二人は、ほんのそっと窓覆いにふれただけだった、が、それはさっと上り、紐がそれを追い、窓覆いの棒はくるくる廻り、そうして小さな房《ふさ》は、あたかも自由を求めるかのように、ぱたぱたと鳴った。コンスタンシアは、とうてい、こらえきれなくなった。
「そうしない――ね、そうしないこと、またいつかに延ばしましょうよ?」彼女はささやいた。
「なぜよ?」とジョゼフィンは、突けんどんにいった、コンスタンシアが恐がっていることは間違いないと知って、例の通り、大いに気を好くしながら。「これ、しなくちゃいけないの。でも、その蚊《か》の鳴くような声でいうのよしてよ、コン」
「知らなかったわ、あたしの声が細いこと」と、やはり細い声でいうコンスタンシア。
「それで、なぜベッドばっかり見てるの?」ジョゼフィンは、まるで喧嘩《けんか》ごしに、声を荒らげて、「ベッドの上に、何もありゃしないじゃないの」
「まあ、ジャグ、そういわないでよ!」かわいそうにコニーはそういった、「とにかく、そんな大きな声を出さないで頂戴」
ジョゼフィンは、だいぶ行き過ぎたと思った。彼女は、ずっとたんすのほうへ廻って行って、手を出したが、また、やにわにそれを引っこめた。
「コニー!」あえぐような声だった、そうして、彼女はくるりと身体の向きを変えて、たんすに背をもたせた。
「まあ、ジャグ――何なの?」
ジョゼフィンは、ただ眼をぎらぎらさせているだけだった。ただもう、むやみに怖ろしいものから、やっとのがれたというような、異常きわまる感じがした。しかし、たんすの中に父がいる、なんて、どうしてコンスタンシアに説明できよう? 父は、一番上のひきだしに自分のハンケチやネクタイと一緒にいる、それとも、二番目のひきだしにシャツやパジャマと、あるいは、一番下のひきだしに洋服と、こみになっているのだ。父は、じっと見つめている――あのドアの把手のうしろに隠れて――今にも飛びかかりそうに身構えて。
彼女は、コンスタンシアに向って、昔泣き出す折にしたような、おかしな旧式な顔をした。
「あたし、開けられないわ」彼女はほとんど泣き声だった。
「そう、開けないでね、ジャグ」コンスタンシアは、力をこめて、ささやいた、「開けないほうが、ずっといいわ。何にも開けちゃいやよ。とにかく、当分は」
「でも――でも、何だか弱虫みたいね」ジョゼフィンは、がっかりしたようにいった。
「でも、一度くらい弱虫だっていいじゃない、ジャグ?」小さい声ながら、烈《はげ》しい調子で、コンスタンシアはいい張った。「たとえそれが弱虫というのであっても」それから、彼女の蒼ざめた凝視《ぎょうし》は、鍵をおろした文机――とても、がっちりしている――から、巨大な燦然《さんぜん》とした衣裳《いしょう》だんすに移り、そうして、奇妙なあえぐような工合に息づき始めた。「あたしたちの一生に、一度くらい弱虫になったって、いいじゃないこと、ジャグ? 言訳は立派にたつわ。弱虫になりましょう――弱虫に、ジャグ。強いのより、弱いほうが、ずっといいわ」
そういって彼女は、生れてこのかた二度ほどしたことのある、あの驚くべく大胆なことをやってのけたのだ。彼女は衣裳だんすのほうに、ぐんぐん進んで行って、鍵を廻して、そして、それを錠から抜き去った。それを錠から抜き去って、ジョゼフィンのほうに差し出した。そうして、異様な笑みをうかべて、彼女が自分の仕業《しわざ》をちゃんと知っており――衣装だんすの中の外套《がいとう》のかげにひそんでいる父にあえて手出しをしたのだということを、ジョゼフィンに示したのであった。
かりに巨大な衣装だんすが前によろめいて、コンスタンシアの上にくずれかかったとしても、ジョゼフィンは怪《あや》しまなかったであろう。それどころか、それこそ、この際にふさわしい唯一のことと思ったであろう。しかし何事も起らなかった。ただ、部屋がいちだんと静かになったようだった、そうして、冷々とした空気のかけらが、なおさらに大きく、ジョゼフィンの肩や膝に落ちかかってきた。彼女はふるえ始めた。
「行きましょうよ、ジャグ」コンスタンシアはいった、依然、例のすさまじい無感覚な微笑を浮べて。ジョゼフィンはあとについて出た、前にコンスタンシアがペニーを円い池に突っ込んだときとおなじように。
七
二人が食堂にひきあげてからも、さっきの緊張は尾をひいていた。彼女たちは、がたがたふるえながら、腰をおろして、お互いに眼を見合せた。
「何にも手につかないようね」ジョゼフィンはいった、「何か口にしないと。お湯を二杯、ケートに頼んでもいいかしら?」
「いけないって法はないわ」コンスタンシアは慎重《しんちょう》にいった。彼女はもと通り平静になっていた。「ベルは鳴らさないわよ。あたし、台所に行って、頼んでくるわ」
「ええ、そうして」ジョゼフィンは、椅子に身体を埋めながらいった、「二杯だけっていってね、コン、ほかには何にもいらないのよ――お盆にのせて」
「お盆に、水さしはいらないでしょう?」水さしをのせたら、ケートが文句をいうにきまっている、というかのようなコンスタンシアの口ぶり。
「いらないわ、きまってるわよ! 水さしなんか、ちっとも。やかんから、じかに注いでくれていいのよ」とジョゼフィンは叫んだ、そうすれば手間がはぶけて結構と思いながら。
彼女たちの冷たい唇は、コップの緑がかったふちのあたりでふるえた。ジョゼフィンは、小さな赤い両手でコップをくるんだ、コンスタンシアは立ち上って、ゆらめき上る湯気を吹くのだった、あちこちとそれをなびかせながら。
「ベニーといったら」とジョゼフィンがいった。
で、ベニーが話題になっていたわけではなかったが、コンスタンシアはすぐに、彼の話をしていたような顔つきをした。
「もちろん、あたしたちが、何かお父さまの遺品《かたみ》を送ると思って待ってるわよ。でも、セイロンヘ何を送っていいものやら、見当もつきにくいわね」
「船の中で、くっついたりしないものなんでしょう」コンスタンシアはつぶやいた。
「じゃないわ、なくならないものなの」ジョゼフィンは鋭くいった、「あそこには郵便はないでしょう。ただ走り使いがいるだけ」
二人は、ちょっと息をついて、白いリンネルのパンツをはいた黒い男が、手に大きな茶色の紙包みをもって、おぼろな野原を懸命に駈《か》け抜けて行くさまを、思い描いた。ジョゼフィンの黒い男は小ちゃかった、彼は、蟻《あり》のように黒光りしながら、せかせかと急いだ。しかし、コンスタンシアの背の高い痩せた男には、何か盲《めく》らめっぽうな、ひるむことのないものがあり、それが彼をとても不快な人間にしているのだ、と彼女は判断した……ヴェランダには、白づくめの服装にコルクのヘルメットをかぶって、ベニーが立っていた。彼は右手を上下に振っていた、ちょうど父が焦《じ》れているときやったように。そうして、彼のうしろには、全く無関心のていで、まだ会ったこともない義きょうだいのヒルダが坐っていた。彼女は藤のゆり椅子を動かしながら、ぱっぱっと「タトラー」のページをめくっていた。
「お父さまの懐中時計が、いちばんいいと思うわ」とジョゼフィンがいった。
コンスタンシアは顔を上げた、びっくりした様子だった。
「まあ、金時計を土人に頼もうというの?」
「でも、もちろん、うまく外目をごまかすわよ」とジョゼフィンはいった、「誰もそれが時計だとは気づかないわ」それが何だかとうてい分らないような奇妙な形に、小包を作りあげるという思いつきは、彼女には面白かった。何かに役立てるつもりで、長いあいだ手許にとっておいた細長いコルセット容《い》れのボール函《ばこ》に時計を隠したらと、ちらっと考えてみさえした。それは美しい、しっかりしたボール函だった。しかし、だめ、この際には適当でないかもしれない。それには、こう書き記してある、「中型婦人用28特硬張り骨」それを開けて、中に父の時計を見たら、ベニーにとっては、あまりにも大きな驚き、というもおろかであろう。
「そしたら、もちろん、まるで、時計が動いてる――カチカチいってる、んじゃないみたいね」とコンスタンシアはいった。土人は貴金属が好きということが、まだ彼女の念頭を去らなかった。
「少くとも」と彼女は付け加えた、「長いことたってからも、それがカチカチいってたら、ずいぶん変でしょうね」
八
ジョゼフィンは返事をしなかった。彼女は、ふとあらぬ方へ思いを移した。突然にシリルのことを思い浮べたのであった。ただ一人の孫に、その時計をやるほうが、もっと穏当なのではないかしら? そうすれば可愛いシリルは芯から感謝するだろうし、そうして、若い人には金時計は大変有難いはずだもの。ベニーは、十中八九まで、時計なぞ持つ癖を忘れてしまっているだろう。あの熱帯の土地では、チョッキを着る者もめったには、あるまい。かたわら、ロンドンにいるシリルは、年がら年じゅうそれを着ている。で、彼がお茶にここへやってくるとき、ちゃんと時計をつけてるのが分れば、自分にもコンスタンシアにも、とても、心愉しいことだろう。「あら、おじいさまの時計をつけてるのね、シリル」それは、なんとも満足な気持だろう。
まあ、あの子は! 彼のやさしい、思いやりのある短かい手紙は、全くの不意打ちだった! もちろん、二人には、その気持は分った。とはいえ、それはとても不幸なことだった。
「シリルがいてくれたら、ほんとうにいいのに」とジョゼフィンがいった。
「それに、あの子もさぞ喜んだでしょうにね」と、何をいってるのかよく考えもしないでコンスタンシアがいった。
しかしながら、彼は帰ってくるとすぐに、叔母たちのところへ、お茶をよばれにくるというのだった。シリルをお茶によぶのは、彼女たちの事珍らしいもてなしだった。
「さあ、シリル、あたしたちのお菓子にびっくりしないでよ。コン叔母さんとあたしとで、今朝バスザードの店で買ってきたの。男の食慾は承知の上だから、恥しがらないで、たんと食べてちょうだい」
ジョゼフィンは豪奢《ごうしゃ》な黒味がかった菓子に無雑作《むぞうさ》にナイフを入れた。彼女の冬手袋、あるいは、コンスタンシアの唯一のよそ行きの靴の修繕代《しゅうぜんだい》が、その菓子に代ったのだ。ところが、シリルは食慾の点では、およそ男らしからぬ限りだった。
「あのお、ジョゼフィン叔母さん、もういけませんよ。ぼく、昼御飯をたべたばっかりなんですからね」
「まあ、シリル、そんなはずないわ! 四時すぎよ」ジョゼフィンは疳高《かんだか》い声でいった。コンスタンシアは坐って、チョコレート・ロールの上にナイフを構えていた。
「とおっしゃっても、そうなんです」とシリルはいった、「ぼく、ヴィクトリアで人に会わなくてはいけなかったんです。ところで、それにさんざん待たされて……昼飯をすまして、ここへ駈けつけたのがやっとだったんですよ。そして、その相手がぼくにね――困ったことに」――シリルは額に手をやって――「大盤振舞《おおばんぶるまい》をしてくれたんです」
それはがっかり――今日という日を、よりによって。でも彼だって、そうとは知りようもないわけだ。
「にしても、メラングは食べてくれるでしょう、ねえ、シリル?」とジョゼフィン叔母さんはいった、「このメラングは、特にあんたのためにあつらえたのよ。あんたのお父さまは、とってもこれが好きだったのよ。きっと、あんたもそうだと思ってね」
「ええ、ぼくそうです、ジョゼフィン叔母さん」シリルは強くいった、「はじめに半分食べてかまいませんか?」
「結構よ、でも、それだけでおしまいなんていけないわ」
「あんたのお父さま、今でもメラングが大好きかしら?」コン叔母さんがやさしくきいた。彼女は自分の殻を割って出ながら、かすかに気おくれがした。
「さて、よく分りませんね、コン叔母さん」シリルはきびきびした口調でいった。
そう聞いて、二人は顔をあげた。
「自分のお父さまの、そんなことさえ知らないの、シリル?」
「そうでしょうね」コン叔母はおだやかにいった。
シリルは、それを、笑いにまぎらそうとした。「ええ、どうも」といい、「もうずいぶん時もたってますから」彼は口ごもった、だまってしまった。叔母たちの顔つきに気おされたのだ。
「それはそうでもねえ」とジョゼフィンがいった。
そうしてコン叔母さんが、じっと見た。シリルは茶碗を下においた。「ちょっと待って下さい」と彼は叫んだ、「ちょっと、ジョゼフィン叔母さん。ぼく何を考えてるんでしたっけ?」
彼は顔をあげた。叔母たちの顔が明るくなりはじめた。シリルは膝を打った。
「そうでしたね」彼はいった、「メラングでした。どうして、ぼく忘れたりするんだろう? そうですよ、ジョゼフィン叔母さん、おっしゃる通りです。父は、メラングとなると、むやみに好きでしたよ」
叔母たちは、にこにこするだけではすまなかった、ジョゼフィン叔母は嬉しさのあまり真赤になり、コン叔母は深い深い溜息をついた。
「それでね、シリル、お父さまのところへ行って会ってらっしゃいね」とジョゼフィンがいった、「あんたが、今日くるってこと、知ってらっしゃるんだから」
「承知しました」シリルは芯から、はっきりといった。彼は椅子から立ち上った。突然彼はチラと時計のほうを見た。
「あのね、コン叔母さん、この時計ちょっと遅れてはいませんか? ぼく人に会わなくちゃいけないんです――パディントンで、五時すぎに。お祖父《じい》さまと、あんまり長くはいられないと思うんです」
「まあ、お祖父さまだって、あなたに長くいてもらおうとは、お思いにならないわ」ジョゼフィン叔母さんがいった。
コンスタンシアは、まだじっと時計を見ていた。時計が進んでるのか、遅れてるのか、どうとも見当がつかなかったのである。そのどっちかだろう、それは、まず間違いないという気がする。とにかく、これまではそのどちらかだったのだ。
シリルは、まだぐずついていた。「コン叔母さん、いらっしゃるんでしょう?」
「もちろんよ」とジョゼフィンがいった、「二人とも行くわ。さあ、いらっしゃい、コン」
九
みんなはドアをノックし、シリルは、叔母たちに続いて、祖父のむっとするほど温い、小ぎれいな部屋に入った。
「さあ、おいで」ピナーお祖父さんがいった、「うろうろしないで。何だい? 何か用事かい?」
彼は、杖をしっかと握って、唸《うな》りながら燃えている火の前に坐っていた。膝の上には、厚い毛布をかけていた。その膝には、美しい萌黄色《もえぎいろ》の絹のハンケチがおいてあった。
「シリルですよ、お父さま」ジョゼフィンはおずおずしながらいった。そうして、彼女はシリルの手をとって、前に連れて行った。
「今日は、お祖父さま」シリルは、ジョゼフィン叔母の手から、自分の手を離そうとしながらいった。祖父ピナーは例の名うての目つきで、じろりとシリルを見た。コン叔母さんは、どこにいるのだろう? 彼女はジョゼフィン叔母の向う側に立っていた、長い腕を前にたらして、両手を握り合せていた。彼女の眼はじっと祖父を見まもっていた。
「それで」祖父ピナーはいった、杖をどしんどしん鳴らしはじめながら、「わしに、どんな話があるんだ?」
お祖父さまに話すことといったら、いったい何が、何があるだろう? シリルは、全くの白痴《はくち》のようににやにやしている自分を意識した。部屋までが息苦しかった。
しかしジョゼフィン叔母が助け舟を出してくれた。明るい大きな声で、彼女はいった、「シリルのお父さんは、今でもメラングが大好きだというんですのよ、お父さま」
「なに?」片方の耳の上に、紫色のメラングの皮みたいな手を丸めながら、祖父ピナーはいった。
ジョゼフィンは繰返していった、「シリルのお父さんは、今でもメラングが大好きだといってるんですの」
「聞えない」と老ピナー大佐はいった。そうして、杖を振ってジョゼフィンを追い払って、次いで、その杖でシリルを指《さ》した。「あれが何をいってるのか、教えてくれ」と彼はいった。
(さあ困った!)「いわなくちゃいけない?」シリルは、顔を赤くして、ジョゼフィン叔母さんを見つめながらいった。
「そうなさいよ」彼女はほほえんだ、「お父さまが、お喜びになるから」
「さあ、話すんだ」ピナー大佐は疳《かん》を立てていった、また杖を鳴らしはじめながら。で、シリルは身体を前に乗り出して叫んだ、「お父さんは今でもメラングが大好きなんです」
すると祖父ピナーは、まるで鉄砲玉でも喰ったように、飛び上った。
「どなるな」と彼は叫んだ、「この子は、いったいどうしたんだ、メラングだって! それがどうなんだ?」
「ああ、ジョゼフィン叔母さん、まだ続けて話さなくちゃいけませんか?」シリルは、やるせなげに唸った。
「大丈夫よ」ジョゼフィン叔母はいった、まるで彼と彼女は一緒に歯医者にきているといったようなあんばい。「じきにお分りになるわよ」そうして、彼女はシリルにささやいた、「少しつんぼになってらっしゃるわね」それから、彼女は前に身をかがめて、ピナーお祖父さんに本気になってどなった、「シリルはただこういおうとしてますのよ、シリルのお父さんは今でもメラングが大好きなんですって」
今度はピナー大佐に聞えた、聞えて、じっと考えこんでいた、シリルを頭から足まで眺めながら。
「なんちゅう突飛《とっぴ》な!」ピナーお祖父さんはいった、「わざわざわしに話しにくるとは、なんちゅう突飛な!」
で、シリルは、なるほどそうだ、と思った。
「そうね、あの時計、シリルにやりましょうよ」ジョゼフィンはいった。
「それはとてもいいわ」とコンスタンシアがいった、「この前あの子がきたとき、何だか時間がどうとか、うまくないらしかったようよ」
一〇
二人のところへ、いつもの調子で、やにわにケートが飛びこんできた、壁に何か秘密の羽目板でも見つけたように。
「揚《あ》げましょうか、ゆでましょうか?」無遠慮な声だった。
揚げましょうか、ゆでましょうか? ジョゼフィンもコンスタンシアも、ちょっと戸惑った。何のことか、よく分らなかった。
「揚げるとかゆでるとか、何のこと、ケート?」ジョゼフィンは一心になりながらきいた。
ケートは鼻を鳴らしていった、「魚」
「そう、あんたなぜすぐにそういわないの?」ジョゼフィンは穏やかにたしなめた、「どうにも分りっこないじゃないの、ケート。揚げたりゆでたりするものは、世の中にいっぱいあるでしょう、ねえ」そうして、こうした勇気のあるところを示したのち、彼女はきわめて明るい調子でコンスタンシアにいった、「あんた、どっちがいい、コン?」
「揚げてもらったが、いいと思うわ」とコンスタンシアがいった、「だけど、ゆでた魚も、もちろん、とてもおいしいわね。どっちもおんなじくらい好きだわ……もしお姉さまが……だったら――」
「揚げましょう」とケートはいって、ぱっと跳ぶように、ドアを開けっぱなしにして出て行って、台所の扉をぴしゃりとしめた。
ジョゼフィンは、コンスタンシアの顔をじっと見た、彼女は色の薄い眉を、それがやはり色の薄い髪に触れるまでに上げた。彼女は立ち上った。彼女は、いたけだかな、厳しい口調で、「あたしについて、応接間まできてくれない、コンスタンシア? あんたと相談してみたい、とても大事なことがあるのよ」
ケートのことを話したいときには、応接間にひっこむのが、彼女たちのしきたりであった。
ジョゼフィンはドアを意味ありげに閉《とざ》した。「お坐り、コンスタンシア」彼女は、まだ物々しい口ぶりでいった。コンスタンシアをお客さまにするのは、これがはじめてなのかもしれない。そうして、コンは、はじめてのお客という気持に芯からなっているもののように、ぼんやりとあたりを見まわして椅子を探すのであった。
「そこで問題は、と」ジョゼフィンは前に身をかがめていった、「ケートを傭《やと》っておくかどうかということなの」
「それが問題だわ」コンスタンシアも同じ気持だった。
「で、今度こそは」ジョゼフィンは、きっぱりと、「はっきりした決りをつけなくてはいけないわ」
コンスタンシアは、一瞬、今までのこうした折をのこらず復習してみるような顔つきをしたが、しかし身を引きしめて、「そうね、ジャグ」といった。
「ねえ、コン、万事がすっかり変ってしまったでしょう」とジョゼフィンは説明した。コンスタンシアは、ぐっと顔を上げた。「というのはね」ジョゼフィンは続けた、「あたしたち、今までみたいにケートに頼ることはないんだわ」彼女はわずかに顔を赤らめた。「料理をして差し上げるお父さまがいらっしゃらないんだもの」
「全くそうだわね」コンスタンシアは相槌《あいづち》を打った。「お父さまは、きっと、もうお料理なんか何にもいらないんでしょうからね――」
ジョゼフィンは、やにわにさえぎった、「あんた、眠たいのね、コン」
「眠たいって、ジャグ?」コンスタンシアは眼を丸くした。
「そんなら、もっと真剣に考えてよ」ジョゼフィンは鋭くいって、また本題に戻った。
「どういうことになるかしら、もしあたしたちが」――そうして、これを、ドアのほうを見やりながら、彼女はやっとささやいたのだ――「ケートに通知したら」――彼女はまた声を高めた――「あたしたち、自分の食物は、こさえられるって」
「いったらいいんじゃない?」コンスタンシアは叫んだ。彼女はほほえまないではいられなかった。この思いつきには、心がわくわくする。彼女は両手を握りしめた。「あたしたち、何を食べて暮すの、ジャグ?」
「そうね、卵をいろんなふうにして!」ジャグはまた威張っていった、「そうして、そのほかに、何やかや店屋《てんや》ものがあるわよ」
「でも、あたしいつも聞いてるんだけど」とコンスタンシアがいった、「それは、とても不経済だってはなしね」
「ほどほどに買えば、そうでもないわよ」とジョゼフィンはいった。
だが彼女はこんなふうに脇道にそれて興がっていてはいけないと思い直して、コンスタンシアをも、しゃにむに元へ引き戻した。
「でもねえ、差し当り決めなくてはいけないのは、あたしたちが芯からケートを信用するかどうかということなんだわ」
コンスタンシアは、うしろへ寄りかかった。彼女の唇から、気の抜けた小さな笑いがもれた。
「妙じゃない、ジャグ」と彼女はいった、「この問題にかぎって、あたし決心がしっかりつかないんですものね?」
一一
彼女は実際どうとも決めかねたのだ。全くもってむずかしいのは、何事かを証明することだった。どんな工合にして事を証明するのか、どんな工合にすれば証明できるのか? かりにケートが自分の前に立っていて、わざとしかめ面をしたとしよう。どこか痛くて、自然そんな顔をしたのかもしれない。とにかく、ケートが彼女にしかめ面をしてみせたのかどうか、当人にきいてみるわけにはいかないのではないかしら? もしケートが「違います」と答えたら――そうして、もちろん、彼女は「違います」といいそうだ――立場はいったいどんなものだろう! なんて醜態《しゅうたい》! それからまた、コンスタンシアはうすうす感づいていた、彼女とジョゼフィンが外へ出かけている留守にケートが彼女のたんすのところへやってくることは、ほとんど確実だと思われた、物を盗むためではなくて、そっと調べてみるために。帰ってきてみると、彼女の紫水晶《アメジスト》の十字架が全く思いがけない場所――レースの襟飾りの下とか、イヴニング・ドレスのバーサの上などに見つかることがたびたびだった。一度ならず、ケートをためす罠《わな》もつくった。物を特別の順序に配列してから、ジョゼフィンを呼んで立ち会ってもらった。
「いいこと、ジャグ?」
「なるほどね、コン」
「今度ははっきり見分けられるわね」
ところが、なんということだ、それを見に行ったときには、やっぱり証拠なぞつかんだということには決してならないのである! もし何かの置き場所が変っていたからといって、彼女が引出しをしめるときにそうなったといえようし、がたぴしやったせいにすることもたやすいのだ。
「さあ、ジャグ、決めて頂戴。あたしはとてもだめ。むずかしすぎて」
だが、ためらって、長いこと見つめていたあげくに、ジョゼフィンは溜息をついた、「あんたがあたしの心を迷わしてしまったのよ、コン、ほんとうに、あたしでは分らないわ」
「でもねえ、これ、二度とのばしてはいけないのよ」とジョゼフィンはいった、「たとえ今度はのばすにしてもねえ――」
一二
しかし、ちょうどその時、下の街路で鳴らすバレルオルガンの音が聞えてきた。ジョゼフィンとコンスタンシアは、一緒にぱっと立ち上った。
「走って、コン」ジョゼフィンがいった、「大急ぎで。――の上に六ペンスがあるわ」
といったところで、二人はふと思い出した。それは問題ではなくなったのだ。彼女たちはもうオルガン弾《ひ》きを止める要もないだろう。あのうるさい奴はどこかほかの場所でやらせろといいつけられることは、彼女にもコンスタンシアにも二度とないだろう。二人がぐずぐずしていると父が疳《かん》を立てて、あの大きな奇怪な唸り声をたてることもないだろう。オルガン弾きがたとえ終日そこで鳴らしていても、杖がごつんごつんいうこともあるまい。
もう杖の音はしない
もう杖の音はしない
バレルオルガンはそう鳴っていた。
コンスタンシアは何を考えているのだろう? 彼女は何とも奇妙なほほえみを浮べていた。異様に見えた。泣き出しそうでもなかった。
「ジャグ、ジャグ」コンスタンシアはやさしくいった、両手をきゅっと合せて。「今日何曜日だか知ってる? 土曜日よ、今日で一週間、まる一週間だわね」
父さまが亡くなって一週間
父さまが亡くなって一週間
バレルオルガンが叫んでいた。で、ジョゼフィンもまた実際と分別を忘れてしまった。彼女はかすかに、奇妙にほほえんだ。インド絨毯《じゅうたん》の上には四角な日の光が落ちていた、薄赤く。それは射してきては、消え、消えてはまた射し――じっと留《とどま》り、色の深味を加え――ついには、ほとんど金色に輝いた。
「日が出たわよ」ジョゼフィンがいった、それが真に大問題ででもあるかのように。
まるで泉の湧《わ》くような調べが、バレルオルガンから震え響いてきた、円い、明るい、やたらに飛び散る調べ。
コンスタンシアは、その調べをとらえようとするかのように、大きな冷たい手をあげたが、やがてまたその手を垂れた。彼女はマントルピースのほう、彼女の好きな仏陀《ぶっだ》のほうへ歩んでいった。石の、金をまぶした仏像で、その微笑はいつも彼女に妙な気持、苦痛に近い、しかも愉しい苦痛といったような気持を起させるのだが、今日はただほほえんでいるというだけではすまないように思えた。彼は何かを知っている、隠していることがある。「わたしはお前の知らないことを知っているぞ」彼女の仏陀はいった。ああ、それは何かしら、どんなものかしら? もっとも彼女は常に感じていたのだ、何かが……ある、と。
日光が、しのびやかに窓を透《すか》して射してきて、家具や写真の上に映えていた。ジョゼフィンは、それを見つめていた。母の写真、ピアノの上にある引伸し写真に射す光は、小ちゃな塔《パコダ》のような形をしたイヤリングと黒いボアの襟巻《えりまき》のほかには、ほとんど母の面影《おもかげ》をしのぶよすがもないのを見て、途方に暮れているかのように、揺曳《ようえい》していた。亡くなった人の写真は、なぜあんなに薄れてしまうのだろう、とジョゼフィンはいぶかった。人が死ぬや否や、その写真もまた死ぬのだ。しかし、もちろん、この母のそれはとても古いものだった。それは三十五年もたっていた。椅子の上に立って、コンスタンシアに向って例のボアの襟巻を指さしながら、お母さまはセイロンで蛇《へび》に咬《か》まれて亡くなったのだと教えてやったことを、ジョゼフィンは思い出した……お母さまが亡くならなかったら、万事が様《さま》変っていたかしら? 彼女は、わけが分らなかった。フロレンス叔母が、彼女たちが学校を出るまで、一緒に暮してくれ、三度ほど家を引越し、毎年休暇があった、そうして……そうして、もちろん、召使がなんども変った。
幾羽かの小さな雀《すずめ》が、若い雀が、出窓の上で音をたて、さえずっていた。チュン――チュッ――チュン。しかしジョゼフィンには、それは雀ではなく、出窓の上にいるのでもない、という気がした。彼女の裡《うち》に聞えるのだ、あの妙な小さな鳴き声が。チュン――チュッ――チュン。ああ、何を鳴いているのかしら、あんなにか細く侘《わ》びしげに?
もし母が生きていたら、彼女たちは結婚していたかしら? しかし結婚する相手がなかったのだ。父には、インド在留の英国人の友達が二、三あったが、父は彼らとも喧嘩をしてしまった。その後彼女とコンスタンシアは、牧師以外には、一人の男に会うこともなかった。どんな工合にして男に会うのかしら? よしんば男にめぐり会ったところで、いったいどうしたら単に他人という以上に、男をよく知ることができるだろう? 冒険《ぼうけん》をしたり、男に追っかけられたりする女たちのことは、本に書いてある。ところが、コンスタンシアや彼女を追っかけた男なぞ、かつてない。そうそう、一度はあった、ある年イーストバンヘ行ったとき、彼女たちの寝室の外にあった湯を入れた水差しの上に、同宿の妙な男が手紙をのせていたことがあった。しかし、コニーがそれを見つけた頃には、湯気が浸みて字がぼやけて読めなくなっていた。果して姉妹のどちらに宛《あ》てたものかすら、はっきりしなかった。そうして、彼は次の日発って行った。で、ただそれっきりだった。そのほかは、父を世話することと、同時に父の風当りを避けることだけで明け暮れた。では、今は? では、今は? 忍び入ってくる陽は、やさしくジョゼフィンに触れた。彼女は顔を上げた。柔かな日射しに誘われて、彼女は窓ぎわに近づいていった……
バレルオルガンを弾き終えるまで、コンスタンシアは仏陀の前にたたずんでいた、物を思いながら、がしかし、いつもと違って、ただぼんやりとではなく。いまの思いは、あこがれに似ていた。彼女は思い出した、満月の頃に、よく寝間着のままベッドをぬけ出して、この部屋に入りこみ、まるで十字架にでもかかったように、両腕を伸ばして床《ゆか》の上に横たわっていたことを。なぜかしら? 大きな蒼白い月が、彼女にそうさせたのだ。彫刻をしたついたての踊っている怖ろしい像が、彼女を流し目に見ていたが、でも平気だった。彼女はまた思い出した、姉妹で海辺に行ったときには、彼女ひとりだけ離れて、できるだけ海の近くへ行って、波立つ水を見渡しながら、何かを、勝手に作った何かを、唱《うた》ったものだ。これまでは、それとは違った生活だった――外へ飛び出し、物を袋に入れて家に持ち帰り、見てもらって気に入れば買い、ジャグと議論をし、そうして、さらにもっとたくさん見てもらった上で買おうとして、物をもとへ返し、父の食膳をととのえ、父の機嫌をそこねまいと努めた生活。だが、そうした万事は、何かトンネル内での出来事みたいだった。それはこの世の事とも思われなかった。そのトンネルをぬけ出て、月の光を浴び、海のほとりに立ち、あるいは嵐に打たれるときにのみ、彼女は真の自分を感じることができた。それはどういう意味なのか? 彼女がひごろ望んでいるのは何だろう? それはどういう結末になるのかしら? 今? 今は?
彼女は、例のぼんやりした身のこなしで、仏陀のもとを離れた。彼女は、ジョゼフィンの立っているところへ歩み寄った。ジョゼフィンに何かを、ひどく重要な――将来や何かのことを、話したいと思った。
「たぶん、お姉さま、あのう――」と彼女はいいだした。
しかし、ジョゼフィンは、それをさえぎった。「あたし考えてるのよ、もし今――」と彼女はつぶやいた。二人は黙ってしまった。お互いに相手の言葉を待った。
「おっしゃいよ、コン」ジョゼフィンがいった。
「いいえ、ジャグ、あとにするわ」とコンスタンシア。
「だめよ、話そうとしてたことを話したら。あんたいいだしたでしょう」とジョゼフィン。
「あたし……あたし、お姉さまが話そうとなすったことを、最初に聞きたいわ」とコンスタンシアはいった。
「そんなのおかしいわよ、コン」
「ほんとうに、ジャグ」
「コニー!」
「まあ、ジャグ!」
沈黙。やがてコンスタンシアが、か細い声でいった、「あたしがいおうとしてたこといえないわ、ジャグ、なぜって、それを……いおうとしてたことを、忘れちゃったんですもの」
ジョゼフィンは、ちょっとの間黙っていた。さっきまで太陽のあったあたりの大きな雲を、じっと眺めていた。それから、彼女はぽつりといった、「あたしも忘れちゃったわ」
[#改ページ]
鳩氏と鳩夫人
もちろん彼は知っていた――誰よりもよく――彼にはなんの見込みも望みもないことを。そんなことを思うだけ愚かというものだった。それだけに、彼にはよく納得《なっとく》がいくはずだ、もし彼女の父親が――そう、彼女の父親がたとえどうしようと、彼はそれをそっくり納得するだろう。じっさい、絶望というのでなかったら、これが果てしない旅に出る英国最後の日という事実がなかったら、そこまで追いつめられた気にはならなかったろう。しかも、今でさえ……彼は箪笥《たんす》の中からネクタイを、青とクリームのチェックのネクタイを選びだして、ベッドの脇に腰をおろすのだ。彼女が、「まあ、なんて失礼な!」と答えたとして、いったい彼は驚くだろうか? ちっとも、と彼は思った、ソフト・カラーをあげて、ネクタイの上に折返しながら。彼女は、何かそんなふうのことをいいそうに思えた。事柄をきわめて冷静に考えると、ほかにいいようもないように、思えるのだった。
この俺《おれ》! 鏡の前に立った彼は、神経質に蝶《ちょう》ネクタイを結び、両手で髪をなでつけ、ジャケットのポケットのふたを引張り出した。果樹園で、年に五百ポンドから六百ポンドの金をつくる――所もあろうに――ローデシアで。無資本。金は一文も手に入らない。少くとも四年間は、所得が増す見込みはない。容貌《ようぼう》やなんか、さっぱり勝目がない。すばらしい健康を誇ることさえできないのだ。東アフリカの仕事ですっかり参ってしまって、六か月の休暇をとらねばならなくなったほどだから。彼は、それにひどく顔色が青い――この午後は、いつもよりいっそう悪い、と、かがみこんで鏡をのぞきこみながら、彼は思った。おや、これは! いったいどうしたのだ? 髪が、明るい緑色をしてるみたいに見えた。とんでもない、何はともあれ、緑の髪をしているはずがない。ちょっとおかしなことだ。と、やがて、緑の光が鏡の中でふるえた、それは戸外の樹から、影が射していたのだ。レジーはそこを離れて、シガレット・ケースを取り出したが、母さんが寝室で煙草《たばこ》をすうのを、どんなにきらっているかを思い出して、またそれをしまいこんで、箪笥のほうへぶらぶらと歩いていった。いや、何一つ自分に都合のいい事は考えられない、かたわら彼女は……ああ!……彼はぴたり立ち止って、腕を組み、箪笥にどっかりよりかかった。
そうして彼女の境遇、彼女の父親の富、彼女が一人っ子で、近所界隈でいちばん人気のある娘であるという事実、にかかわらず、彼女の美しさと怜悧《れいり》さにかかわらず――怜悧!――怜悧どころではなかった――彼女にできない事はなかったのだ、もし必要なら、どんな事にも彼女は天才になったろう、と彼は信じこんでいた――彼女の両親は彼女を可愛いがり、彼女も両親を愛していたので、両親はむしろ彼女をそのままにしておきたいのだという事実にかかわらず……およそ考えおよぶ、ありとあらゆる事にかかわらず、彼の愛はあまりにも烈しかったので、望みをもたないではいられなかったのだ。そう、それは望みなのか? それとも、彼女を見まもり、彼女のあらゆる願望をかなえてやり、彼女の身辺にはただ完全なものだけがあるようにする、それを自分の仕事にする機会をつかみたいという、この奇妙な小心な願い――それが果して愛なのか? なんと彼は彼女を愛していることか! 彼は箪笥にきつく身体をおしつけて、それに向ってつぶやいた、「ぼくは彼女が好きだ、ぼくは彼女が好きだ!」そうして、ちょうどその瞬間、彼は彼女と一緒にウムタリ〔ローデシアにある都市〕にゆく途上にあった。夜だった。彼女は隅っこに坐って眠っていた。柔かな顎《あご》を、柔かなカラーの中に埋め、金褐色の睫《まつげ》が頬の上にある。彼女の繊細な小さな鼻、申し分ない唇、赤ん坊のみたいな耳、半ばそれを覆う金褐色の巻毛なぞを、彼はほれぼれと眺める。彼らはジャングルを過ぎていた。むしむしして、暗く、はるかに来た感じ。やがて彼女は目覚めていう、「あたし眠ってたのかしら」彼が答える、「そうだよ。もういいの? さあ、ぼくに――」そうして、彼は身を傾け……彼女の上にかがむ。これは、もはや彼が夢みることのできない至福だった。しかし、そのおかげで勇気が出て、階下に駆けおりて、玄関から麦わら帽をひったくって、表の戸をしめながら、「そう、ぼくの運だめしをするだけだ」ということになったのだ。
しかし、彼の運は、ほとんどすぐさま、控え目にいっても、意地の悪い羽目に陥ったのだ。年とった狆《ちん》のチニーとビディーを連れて、庭園の径《みち》をぶらぶらしてるのが、母さんだった。もちろん、レジナルドは母さんのことは好きだった。彼女――彼女は善意をもっており、またひじょうにしっかりしている、というふうだった。だが、否定できないのは、どちらかというと、彼女が頑固な親だったことだ。で、アリック伯父が死んで、彼に果樹園をのこしてくれる以前にも、寡婦《かふ》の一人っ子になることは、息子としてほとんどこの上ない災難だとつくづく思うようなことが、レジーの生活に、かなり多かったのである。おまけに、なお困ったことには、彼女だけが文字通り彼の唯一の頼りだった。いわば、彼女は両親《ふたおや》であったばかりでなく、レジーが小使銭を稼《かせ》ぐまでになる以前に、自分の親類たちや総督《そうとく》だった父の親類全部と喧嘩してしまっていた。だから、外地にいて、星明りの下、暗いヴェランダに坐って、蓄音器が、「ねえ、恋無くて何が人生」とうたってるのを聞きながら、そぞろに家恋しい気になるとき、心に浮んでくる唯一の面影は、背が高く、太い、チニーとビディーをうしろに従えて、庭の小径《こみち》を歩いてゆく母さんのそれだった……
鋏《はさみ》をひろげて、枯れた草花か何かの頭を切ろうとしていた母さんは、レジーの姿を見て、手をとめた。
「お前出かけるんじゃないだろうね、レジナルド」彼女は、そうと知りながら、尋《たず》ねた。
「お茶には帰ってきますよ、母さん」レジーは、両手を上衣《うわぎ》のポケットに突こみながら、か細い声でいった。
パチン。首が飛んだ。レジーは思わず飛び上るところだった。
「今日は最後の午後だもの、お前、お母さんと一緒にいてくれてもよさそうなものなのに」と、彼女はいった。
沈黙。狆がじっと見ていた、母さんのいう言葉は、なんでもわかるのだ。ビディーは、舌を出して、寝そべっていた。この牝犬は肥え太って艶々《つやつや》しているので、半ば溶けたトフィーのかたまりみたいに見えた。しかし、チニーは、レジナルドのほうに、陶器《とうき》のような、どんより曇った眼を向けており、そうして、鼻をくんくんいわせていた、まるで全世界が一つの不愉快な臭いとでもいうかのように。鋏《はさみ》がまたパチンと鳴った。かわいそうに、草が八つ当りされている!
「それで、聞くけどね、お前いったいどこへ行くの?」と母がきいた。
とうとう、それで終ったわけだが、レジーは、自分の家が見えなくなって、プロクター大佐の家までの道のりの半ばをくるまで、歩速をゆるめなかった。そこまで来てはじめて、彼は、すばらしい午後であることに気づいた。午前中はずっと雨が降っていた、残暑の、烈しい、脚早《あしばや》な雨だった、だが今空は晴れ渡って、わずかに小さな雲が、あひるの子を一列にならべたように、長く尾をひきながら森の上を流れていた。風は、樹々から、最後の露《つゆ》のしたたりを振り落すほどに吹いていた。温かい一滴が、星のように彼の手に落ちてはねた。ポツン!――もう一滴が、彼の帽子を叩いた。人気のない道路はきらきら輝き、生垣《いけがき》は野バラの匂いがし、いなか家《や》ふうの家々の庭では、タチアオイの花が、なんと大きく明るいことか。さあ、プロクター大佐の家――もう、来てしまった。門に手をかけ、肘《ひじ》がウツギの灌木にふれて、花びらや花粉が上着の袖にふりかかった。しかし、ちょっと待て、これはいかにも性急に過ぎる。彼は、もう一度、よく事柄を考え直してみるつもりだった。ここで、落着いて。が、もう彼は、両側に大きなバラの木の植っている小径を歩いていた。こんなふうでは、まずいのだ。しかも彼の手は、もうベルをつかんで、ぐっとそれを引き、まるでこの家の火事を知らせでもするかのように、荒々しく鳴り響かせはじめた。おまけに、女中はホールにいたものらしい。前の扉がさっと開いて、例の途方もないベルがまだ鳴りやまないというのに、早くも誰もいない応接間にとじこめられてしまった。奇妙なことに、鈴の音がやむと、暗い、誰かのパラソルがグランド・ピアノの上においてある、その大きな部屋が、彼を元気づけた――というより、彼の気をたかぶらせた。とても静かだった、しかも一瞬の後には扉が開いて、彼の運命が決するのだ。その気持は、歯医者のところにいるときのそれに似なくもない。彼は、まず捨鉢《すてばち》といったところ。しかし同時に、ひどく驚いたことには、自分が、「主よ、なんじは知りたまう、なんじはわがため多くをなさざりしなり……」といっているのを聞いたのだ。それが彼を押しとどめた、事がいかに重大であるかを、また改めて認めさせたのだ。遅すぎる。ドアのハンドルが回った。アンが入ってきた、二人のあいだの暗がりをよぎってきて、彼に手をさし出し、小さなやさしい声でいった、「ごめんなさいね、父は出かけてますの。それに母は終日町へ出て、帽子探し。お相手するのは、あたしだけよ、レジー」
レジーはあえぎ、自分の帽子を上着のボタンに押しつけ、どもり勝ちにいった、「実のところ、ぼくはただ……さよならをいいにきたんです」
「まあ!」アンは小さく叫んだ――彼女は、彼から一歩身を引き、その灰色の眼が踊った――「なんて短かい滞在なんでしょう!」
それから、彼をじっと見つめ、頸をかしげて、彼女は遠慮なく笑った、長い、やさしいその声音《こわね》、そうして彼を離れてピアノのほうへ歩いて行って、それにもたれて、パラソルの房をいじっていた。
「ごめんなさいね」と彼女はいった、「こんなに笑ったりして。なぜ笑うのか、自分でもわからないの。ほんとにいけないく――くせですわ」そうして突然に、灰色の靴を踏みつけて、白いウールのジャケットからハンケチを取り出した。「この癖を直さなくてはいけないわ。あんまりへんですものね」と彼女はいった。
「とんでもない、アン」レジーが叫んだ、「あなたの笑うのを聞くのが、ぼく大好きなんです! これ以上のことなんて、思いもよらない――」
しかし、ほんとうは、二人とも知ってる通り、アンはいつも笑っているわけではなかった、それはほんとうに癖というのではなかったのだ。二人が会った日から、その最初の瞬間から、たった一度だけ、レジーにはどうにもわからない妙な理由で、アンが彼を笑ったことがあった。なぜ? 彼らがいた場所とか、彼らが話していたこととかには、それは関係がなかった。はじめは、できるだけまじめに、芯からまじめに――とにかく、彼に関するかぎりは――していたのだが、突然に、言葉の中ごろで、彼をちらと見ようとしたアンの顔を、かすかなふるえが、さっとかすめすぎた。その唇が開き、眼がくるめき、彼女は笑いはじめたのだった。
それについてもう一つおかしなことは、彼の感じでは、彼女自身が、なぜ笑ったか、わからないでいるということだった。見ると、彼女は向うへ行って、顔をしかめ、頬をすぼめ、両手を握りしめた。だが、無駄だった。長い、なめらかな声が響いた、「なぜ笑うんだか、あたし、わからないのよ」といいながらも。不思議だった……
いま、彼女はハンケチをしまった。「お掛けになって」と、彼女はいった。「そうして、煙草を召し上ったら? あなたの脇の小さな函《はこ》にシガレットが入ってるわ。あたしも一ついただくわ」彼は彼女にマッチをつけてやった。そうして、彼女が身をかがめるかたわら、彼は、彼女がさしている真珠の指輪に、小ちゃな炎が輝くのを見た。「あすおたちになるのね?」と、アンはいった。
「そう、いつもの通り、あすですよ」レジーはそういって、煙を小さな輪に吹いた。いったい、なぜこうも気弱なのか? 気弱というのは、このさい当らない言葉である。
「これは――全くのところ本当とも思えませんよ」と、彼は付け加えた。
「そう――ですわね」アンはやわらかにいって、前へ身をかがめて、緑色の灰皿に、シガレットの先をぐるぐる回した。あんなにしている彼女の様子は、なんてきれいなんだろう!――ただもう美しい――あの大きな椅子に坐って、いかにも小さい。レジナルドの心は、やさしさに満ちあふれた。が、彼を身ぶるいさせたのは、彼女の声、彼女のやわらかな声だった。「何年もここにいらっしゃったような気がしますわ」と、彼女はいった。
レジナルドは、シガレットを深く吸いこんだ。「いやでたまりませんよ、あっちへ帰ることを思えば」と彼。
「クウ、ルー、クウ、クウ、クウ」静寂から聞えてくる声。
「でも、あっちに行ってらっしゃるの、お好きなんでしょう?」アンがいった。彼女は、真珠の首飾りに指をかけた。「いつだかの夜、父はいってましたわ、好きなような生活がおできになるあなたは、お仕合せだって」そういって、彼女は彼を見上げた。レジナルドの微笑は、むしろ陰気だった。「とても仕合せだなんて思えませんね」彼は軽くいった。
「ルー、クウ、クウ、クウ」と、また聞えてきた。と、アンがつぶやいた、「淋しいってことね」
「いや、淋しいのがどうっていうんじゃありません」レジナルドがいった。そうして、彼は、シガレットを、緑色の灰皿に荒々しくこすりつけた。「どんなに淋しくても、ぼくはがまんできますよ、淋しいのが好きなくらいになってるんです。――を思うと」突然、おどろいたことには、彼は頬の火照《ほて》るのを感じたのだ。
「ルー、クウ、クウ、クウ! ルー、クウ、クウ、クウ!」
アンはやにわに立ち上った。「あたしの鳩《はと》に、さよならをいいにいらしって」と、彼女はいった。
「脇のヴェランダに移してありますのよ。鳩、お好きなんでしょう、レジー?」
「とっても」レジーはいった、それがあんまり熱烈だったので、彼が彼女のためフランス窓を明けて、片方に立つと、彼女は走って行って、レジーに代って鳩に笑いかけたのだった。
あちらこちち、あちらこちらと、鳩舎《きゅうしゃ》の床《ゆか》の細かな赤い砂の上を、二羽の鳩が歩いていた。一羽は、いつも、もう一羽の前にいた。一羽が、小さな叫びをあげて前に走ると、もう一羽が後を追った、もったいぶって幾度もお辞儀《じぎ》しながら。「ねえ」アンが説明した、「前の一羽、あれは鳩夫人なのよ。彼女は鳩氏を見て、ちょっと笑って、前へ走るの。と彼が彼女を追っかける、お辞儀しながら。それがまた彼女を笑わせるのよ。彼女が走り、そしてその後に」と、アンは声高にいって、しゃがみこんだ、「かわいそうな鳩氏がくるわよ、お辞儀しながら……そうして、それがこの一番《ひとつがい》の全生活なんだわ。ほかのことは、なんにもしようとはしないのね」彼女は立ち上って、鳩舎の屋根の上にある袋から、黄色い粒をつかみ出した。「ローデシアで鳩のことを思い出して下すったら、ね、レジー、鳩はやっぱりこうしてるとお思いになって、それにまちがいありませんわ……」
レジーは、鳩を見ることも、言葉をきくことも、そのどちらをしているふうも見えなかった。その間、ただ彼の意識していたことは、自分の秘密をしゃにむにあからさまにして、それをアンに打ち明けようという努力だった。「アン、あなたは、ぼくを好きになってくれますか?」とうとう、やってしまった。事はおわった。そうして、それに続く短い沈黙のあいだに、レジナルドは、いっぱいに光をうけた庭、ふるえている青い空、ヴェランダの柱の上でひるがえっている葉、それから一本の指で掌の上のとうもろこしの粒をころがしているアン、を見た。やがて彼女は、おもむろに手を閉じて、ゆっくりと、「いいえ、そんなふうにじゃないわ」とつぶやくにつれ、新しい世界は色褪《いろあ》せた。しかし、何を感じるひまもなかった。もう、彼女は足早に歩み去り、彼はそのあとを追って石段をおり、庭の小径をすぎ、ピンクのバラのアーチをくぐり、芝生をよぎっていった。ついに、華やかな草花のへりをうしろにして、アンはレジナルドに向い合った。「とってもあなたが好きじゃないって、いうんじゃないことよ」と、彼女はいった。「好きだわ。でも」――彼女は大きく眼を見開いた――「そんなふうにじゃないの」――ふるえが、彼女の顔をかすめた――「ほんとうに好きになるには――」彼女の唇が開いた、彼女は、もう自分がおさえきれなくなった。彼女は笑いはじめた。「ほれ、ねえ、ねえ」と、彼女はいった、「あなたのチェックのネクタイなのよ。芯からまじめになろうと思うこんな時でさえ、あなたのネクタイったら、絵の中の猫がしめてる蝶ネクタイを思い出させてしょうがないんですもの! ねえ、お許しになって、こんな失礼して、どうか!」
レジーは、彼女の小さな温かい手を握った。「あなたを許すなんて、お話にならない」彼は口早にいった。「どうして、そんなことが? それに、ぼくがなぜあなたにはおかしいのか、見当がついてるんです。というのは、あらゆる点で、あなたは、はるかぼくよりりっぱなので、ぼくがなんだか滑稽《こっけい》に見えるんですよ。そうなんですよ、アン。しかし、もしぼくが――」
「いいえ、いいえ」アンは、彼の手を握り締めた。「そうじゃないわ。全然違ってるわ。あたし、ちっともあなたよりりっぱじゃないわ。あなたのほうが、ずっとあたしよりごりっぱよ。あなたは、びっくりするほど利己主義じゃないし、それに……それに親切で素直だわ。あたしには、そんなものが備《そな》わってないの。あなたは、あたしをご存知ないのよ。あたしって、とってもいけない性格なの」と、アンはいった。「もうちょっと、おしゃべりさして下さいね。おまけに、それは肝心《かんじん》なことじゃないわ。肝心な点は」――彼女は頭をふった――「あたしはね、見て笑い出すような相手の方とは、とても結婚できないと思うのよ。それ、きっとおわかりでしょうね。あたしの結婚する人は――」アンはそっと息づいた。そこで言葉が途切れた。彼女は手を引っこめて、レジーを眺めながら、ふしぎに、夢みるように、ほほえんだ。「あたしの結婚する人は――」
と、レジーには、背の高い、美しい、華やかな、見知らぬ男が、彼の前に歩いてきて、彼と取って代るように思われた――アンと彼とが、よく芝居で見たたぐいの男で、どこからともなく舞台に歩み出てきて、一言も物をいわないで、女主人公《ヒロイン》を胸に抱いて、ひとしきりじっと見つめてから、女をどこかへ連れ去ってしまう……
レジーは、この幻影の前にうなだれた。「そう、わかりましたよ」彼はしわがれ声でいった。
「おわかりになって?」アンがいった。「ほんとに、わかって頂きたいわ。あたしね、とっても辛《つら》い気がするからなの。説明しにくいのよ。ねえ、あたし今まで決して――」彼女は口ごもった。レジーは彼女を見た。彼女はほほえんでいた。「なんだかおかしいでしょう?」と、彼女はいった、「あたしは、あなたには、なんでもいえるわ。はじめから、ずっとそうだったの」
彼はほほえもうと、「嬉しい」といおうとした。彼女は言葉を続けた。「あなたくらい好きな人は、あたし、今まで知らないわ。誰と一緒にいても、こんな幸福な感じはしなかったの。でも、きっと、それは、人々のいう、それから本に書いてある、愛というものの意味とは、違っているんでしょう。おわかりになって? ああ、あたしが、どんなに辛い気持でいるか、もし知って頂けたら。でも、あたしたち……あの鳩氏と鳩夫人みたいだったらいいんでしょうにねえ」
それで片づいたのだ。レジナルドには、それは決定的に思われた。しかも、あまりにまぎれない真実なので、ほとんど耐えがたいのであった。「もう、けっこうです」彼はそういって、アンから離れて、芝生の向うのほうを見やった。そこには園丁の住家があり、その脇に黒ずんだヒイラギの木が立っていた。淡い煙の、しめっぽい、青いかたまりが、煙突の上にかかっていた。それは現実のもののようには見えなかった。なんて喉が痛いんだろう! 話すことができるだろうか? 彼は弾《たま》に当ったのだ。「そろそろ帰らなくてはいけません」彼はしゃがれ声でいって、芝生をよぎりはじめた。でも、アンがあとを追って走ってきた。「いけないわ。まだ行ってはいけないわ」彼女は懇願《こんがん》するように、「そんなお気持で、お帰りになっちゃいや」そうして彼女は、眉をひそめ、唇を噛みながら、じっと彼を見上げた。
「いいえ、大丈夫ですよ」レジーは、身体を一振り振って、そういった。「ぼくは……ぼくは――」それから、「あきらめます」といおうとするかのように、片手を大きく振った。
「でも、これではあんまりだわ」と、アンがいった。彼女は両手を握り合せて、彼の前に立った。「あたしたちが結婚したら、どんな悲惨なことになるか、きっとわかって下さるわね?」
「ええ、よく」レジーは、やつれた眼で彼女を見ながら、いった。
「あたしみたいな感じ方は、ずいぶんひどい、意地悪なんでしょうね。ねえ、鳩の夫婦の場合なら、それでけっこうと思うのよ。でも、現実の生活では、と――想像してごらんなさい!」
「全く、その通りですよ」レジーは、そういって、歩き出した。
しかし、またアンが彼をとめた。彼の袖を引っぱったのだが、驚いたのは、今度は、彼女が笑わないで、今にも泣き出そうとしている少女のように見えたことだった。
「もしわかって下さるのなら、ではなぜ、そんなに惨《みじ》めな様子をなさるのかしら?」彼女は泣くようにいった。「なぜそんなに考えこんでいらっしゃるの? なぜそんなに暗い顔をなさるの?」
レジーは、ぐっと息を呑んで、何かを払いのけるように、また手を振った。「どうにも仕様がないんですよ」と、彼はいった、「打撃を受けたんですからね。もし今思い切ったら、ぼくもなんとか――」
「ここで思い切るなんて、どうしてそんなことがおっしゃれるのかしら?」アンはあざけるような調子でいった。彼女は、レジーに向って、足を踏み鳴らした。紅潮した顔だった。「どうして、そんなひどいことが、おできになるのかしら? あたしに結婚申込みをなさる以前と、ちっとも変らない幸福なあなただと、はっきりわかるまでは、あたし、あなたをお帰しできないわ、きっとわかって下さるわね、とても単純なことですもの」
しかし、レジナルドにとっては、ちっとも単純には思えなかった。どうにも、むずかしく思われた。
「たとえあたしが、あなたと結婚できないにしても、あなたがずっと遠いところにいらしって、手紙を書く相手はあのたいへんなお母さまだけ、そうしてあなたは惨めで、それもみんなあたしのせい、と、そう知りながら、どうしてそれが放っておけるでしょう?」
「あなたのせいじゃありませんよ。そう思わないで下さい。運命ですよ」レジーは、袖を握っている彼女の手を離すと、それにキスした。「ぼくを憐《あわ》れに思わないで、ねえ、可愛いいアン」彼はやさしくいった。そうして、今度は、駆けるように歩いて行った、ピンクのアーチの下を、庭の小径づたいに。
「ルー、クウ、クウ、クウ! ルー、クウ、クウ、クウ!」ヴェランダから鳩の声。「レジー、レジー」と、庭さきから。
彼は立ちどまった、引き返した。が、彼のおずおずした、当惑した顔つきを見ると、彼女は小さく笑った。
「戻ってらっしゃい、鳩氏」アンがいった。と、レジナルドは、のろくさと芝生をよぎって、やってきた。
[#改ページ]
若い娘
水色のドレスを着て、ぽっと赤く上気した頬《ほお》、あくまでも青い眼、それに、これがはじめてというように金色の巻毛をピンで留めて――天翔《あまかけ》るおり邪魔にならないようにピンで留めて――ラディク夫人の娘は、輝く空からいま舞い降りてきた、といわぬばかりだった。ラディク夫人の、おずおずした、やや驚いたふうの、しかしほれぼれと眺めている眼つきもまた同じく、そうしたことを信じているかのように見えた。しかし娘は、「カジノ」の階段の上に降りたことを、かくべつ、嬉しがってるふうでもなかった――なにが面白いんだろう? じっさい、彼女は退屈していた――まるで、天国もいたるところカジノだらけで、それもみんな賭博台の監督がうすよごれた年寄り聖人さまで、賭け金といえばクラウン銀貨の小銭ばかり、というふうに退屈していた。
「あなたヘニーを連れてって下さる?」とラディク夫人はいった、「かまわないでしょうね? 自動車があるし、お茶を飲みにいらしったら、あたしたち、この階段のところへ――ちょうどここよ――一時間たったら、戻ってきますわ。この娘《こ》は連れて入りたいんですの。まだ来たことがないんですし、それに、見とくだけのことはありますわ。娘に悪い気がするものですから」
「まあ、お母さま、だまって」うんざりした口ぶりだった、「行きましょうよ。そんなにおしゃべりしないで。それに、お母さまの手さげ、口が開いてますわよ。またお金をすっかりなくしちまいますわ」
「ごめんね」とラディク夫人。
「ねえ、入りましょうよ! わたし、お金をもうけたいのよ」待ちきれないような声、「お母さまはとても愉快そうにしてらっしゃるけど、あたしは文無しよ!」
「ほら――五十フランあげるわ、百フランあげよう!」二人が開閉ドアを通るおり、ラディク夫人が娘の手に紙幣を握らせるのを、私は見た。
ヘニーと私は、ちょっとの間《ま》階段の上に立っていて、人の群れを眺めていた。彼はおおどかな嬉しそうなほほえみを浮べた。
「あのね」と彼は叫んだ、「イギリス種のブルドッグがいるよ。犬を連れて入ってもいいの?」
「いや、いけないんだよ」
「あれ、すばらしいねえ。ぼくも一匹欲しいなあ。とても面白いんだよ。よその人には凄《すご》いんだけど、おとなしいんだ、その――飼われてる人には」突然に彼は私の腕を握った。「ねえ、あのお婆さんをごらんよ。あれ誰かしら? なぜあんなふうをしてるの? あのお婆さん、賭けをやるんかしら?」
年寄ってしなびた婆さんが、緑色のしゅすの服を着て、黒いビロードの外套《がいとう》に紫の羽のついた帽子をかぶって、階段をゆっくりゆっくりと昇って行った、針金ででもひっぱり上げられるように。彼女は自分の前方をじっと見つめていた、けらけら笑い、うなずき、また、むにゃむにゃひとりごとをいうのだった。その醜《みにく》い手には、よごれたずだ袋みたいなものを、しっかと握りしめていた。
だが、ちょうどそのおり、ラディク夫人がまた――彼女――と共に現われ、そうして、もう一人の婦人がうしろのほうで、うろうろしていた。ラディク夫人は、私めがけて突進してきた。ぽおっと火照《ほて》った晴やかな顔をして、人間が違ったようだった。例えていえば、発車までに一分の余裕もないおりから、停車場のプラットフォームで、友達に「さよなら」をいおうとしている女そっくり。
「まあ、まだここにいて下すったのね。よかったわ! 行っちまわなくて。ほんとうに、よかった! えらく、ひどい目にあったのよ。――彼女《あれ》のことで」彼女は娘に手を振って合図をした、娘は、いたって物静かに立っていて、階段の上で片脚をぶらぶらさせながら、傲然《ごうぜん》として遙か彼方を見おろしていた。「あの子を入れてくれないんですよ。まちがいなく二十一歳だっていったんですけどね。でも、信じようとはしないの。男に、あたしの財布も見せてやったわ、取っておきの手ですものね。しかし、それもだめ。鼻であしらわれただけ。……ところで、ニューヨークからいらしったマッキューンの奥さんにぱったり会って、彼女、買切部屋《サル・プリヴェ》で一万三千勝ったばっかりというのよ――で、運のついてるあいだに、あたしに一緒に来いって。あの子を――もちろん、おいてくわけにはいかないでしょう。でも、もし、あなたが――」
と、いったところで、「あの子」は顔を上げた。母親は、ただもう、たじたじとなるばかり。
「なぜ、あたしを、おいてくわけにはいきませんの?」彼女は烈しい調子でいった、「なんて馬鹿馬鹿しい! よくも臆面もなく、こんな騒ぎをなさるのね。これっきりよ、お母さまのおともをして出かけるのは。お話にも、なんにもならないわ」彼女は、母親の頭から爪先まで、眺めるのだった。「落着いて下さいよ」と、派手にいってのけた。
ラディク夫人は必死だった。マッキューン夫人と引き返したくて「夢中」なのだが、同時に……
私は勇気をふるい起した。「いかがでしょう――お茶を飲みにいらしったら! ぼくらと一緒に?」
「そうよ、そうよ、喜びますわ。ちょうど、そうお願いできたらと思ってたとこ、ですわねえ? マッキューンの奥さんが……一時間たったらここへ戻ってきますわ……もっと早く……あたし――」
ラディク夫人は、階段を駈け上って行った。夫人の手さげが、また開いているのを、私は見た。で、われわれ三人が残ったわけだ。といって、それは私の罪ではなかった。ヘニーもまた、ぺちゃんこになってる様子だった。車がくると、彼女は黒い外套《がいとう》に身をくるんだ――汚れに染まないように。その小さな両足までが、階段下の私たちのところへ、彼女を運んでくるのをいさぎよしとしないように見えた。
「どうもいけませんでしたね」車が動き出すと私はつぶやいた。
「いいえ、そうでもありませんわ」彼女はいった、「二十一に見られるなんてご免ですわ。まさか誰が――もし母たちを十七だなんてことにしたら! そんなの」――彼女はかすかに身ぶるいした――「あたしの大嫌いな愚かさ、それに、太っちょの老人たちにじろじろ見られるなんて。いけすかないったら!」
ヘニーは、ちらっと彼女に眼をやったが、また窓から外を見た。
車は、ピンクと白の大理石で築いた大きな宮殿のような建物の前でとまった、扉の外には金と黒との木鉢にオレンジの木が植えてあった。
「入ってみますか?」私はいってみた。
彼女はためらい、ちらと眼をやり、唇を噛んだが、私の言葉に従った。「そうね、ほかに行くところもありませんわね」と彼女はいった、「ヘニー、出るのよ」
私が最初に出た――もちろん、テーブルをとるために――彼女は私についてきた。だが、いちばんいけなかったのは、まだほんの十二にしかならない彼女の弟が一緒だったことである。それは、およそぶち壊しというものだ――子供が彼女のあとにくっついてくるなんて。
あいたテーブルが一つあった。ピンクのカーネーションとピンクの皿がおいてあり、小さな青いナプキンが帆《ほ》に見たてて立ててあった。
「坐りましょうか?」
白い柳を編んだ椅子《いす》の背に、彼女はものうげに片手をおいた。
「それがいいでしょう。ねえ?」と彼女はいった。
ヘニーは彼女を押しのけて、端にある腰掛の上によじ登った。彼はひどく当惑した。彼女は手袋をぬごうともしなかった。眼を伏せて、テーブルをとんとん叩いた。かすかにヴァイオリンの音《ね》がすると、彼女は身をすくめて、また唇を噛んだ。沈黙。
給仕女があらわれた。彼女に、きくのもやっとだった、「お茶――コーヒー? 支那茶――それとも、冷たいレモンティー?」
ほんとうに彼女はどうでもよかったのだ。みんな同じだった。じっさい何も欲しくなかった。ヘニーがささやいた、「チョコレート!」
しかし給仕女が行こうとすると、彼女は無雑作《むぞうさ》にいった、「ちょっと、あたしもチョコレートを頂くわ」
待っているあいだに、彼女はふたに鏡のついてる小さな金のコンパクトを取り出して、小さなパフを、まるでいやらしい物のように振って、美しい鼻を叩くのであった。
「ヘニー、その花をどけて頂戴」と、彼女は手に持ったパフでカーネーションを指した、と私は、彼女がつぶやくのを聞いた、「テーブルに花があるのはいや」花が彼女に強い苦痛を与えていたことは間違いなかった、私が取りのける際には、はっきりと眼をつぶってしまったのだから。
給仕女はチョコレートとお茶をもって引返してきた。大きな泡立った茶碗《ちゃわん》を二人の前におき、澄んだコップを私のほうに押しやった。ヘニーは鼻を突っこんで、また顔をあげたが、ふと見るとたいへん、鼻の先にクリームが一かけら、ぶるぶるふるえながらくっついていた。だが彼は、小紳士を気取って、急いでそれをふきとった。彼女は自分の茶碗を忘れていやしないのか、そういったものかどうか私は迷っていた。彼女はそれに無関心だった――見ようともしなかった――と突然に、全く偶然というふうに、一すすりした。私は心づかいしながら、じっと見ていた、彼女はちょっと身をふるわせた。
「まあ、甘い!」と彼女はいった。
頭が葡萄酒のようで、身体がチョコレート色の小ちゃなボーイが、菓子をのせたお盆をもって廻ってきた――ささやかな気まぐれ、ささやかな即興、ささやかな溶ける夢を、幾列にも積み重ねた菓子。ボーイは、それを彼女にすすめた。「まあ、あたしおなかいっぱいよ。持って行って頂戴」
ボーイはヘニーにすすめた。ヘニーは、ちらと私を見た――それで大丈夫と思ったのだろう――なぜなら、彼はチョコレート・クリーム、コーヒー・エクレア、栗の実をつめたメラング、なおその上に新鮮な苺《いちご》を入れた小ちゃなホーンまで取ったのだから。彼女は弟を見ていられない様子だった。しかし、ボーイが身をひるがえして去ろうとしたおり、彼女は自分の皿を差し出した。
「あの、ちょっと、あたしに一つ」
銀の菓子挟みが、一つ、二つ、三つとおとした――そうして、さくらんぼタートも。「知らないわ、こんなにどっさり置いて」といって、笑いそうになった。「あたし、食べないわよ。食べきれないわ!」
私は大いに愉しい気分になった。私は茶をすすって、うしろにもたれ、おまけに煙草をのんで差し支えないかときいた。すると、フォークを手にしたまま、彼女は食べるのをやめて、眼を大きく見開いて、真実笑った、「もちろんですわ」と彼女はいった、「成人の方は、おのみになるものと、いつもそう思ってますわ」
しかし、ちょうどそのとき、ヘニーに悲劇が起った。菓子のホーンを、あんまり強く刺したので、それが二つに割れて、半分がテーブルの上にころげ落ちた。醜体なこと! 彼は顔を真赤にした。耳までが燃えるように赤くなって、テーブルの上に、おずおずと片手を伸ばして、遙かにころがってる物を取ろうとした。
「なんていやな子!」と彼女はいった。
これは、たいへんだ! 私が助けに乗り出さねばならない。私は性急にいった、「これからも長く外国にいらっしゃるんですか?」
だが彼女は、もうヘニーのことなぞ忘れていた。私もまた忘れられてしまった。彼女は何事かを思い出そうとしていた……彼女は遙か彼方に離れ去っていた。
「あたし――分りませんわ」彼女はゆっくりと、遠いところからいった。
「ロンドンよりお好きなんでしょう。外国のほうが、もっと――もっと――」
私がその先をいわないうちに、彼女は我れに帰って、私を見た、戸惑いしたかのような様子で。「もっと、どうなんですの?」
「|つまり《アンファン》――もっと陽気ですから」煙草をうち振りながら、私はいった。
だが、それを考えてみるのには、お菓子一つを食べ終るほどの時間がかかった。それでまだ、「そうね、それは時と所次第ですわね!」と、しごく間違いのないことをいっただけだった。
ヘニーは食べてしまった。彼はまだ興奮していた。
私は蝶《ちょう》結びのリボンのついたメニューを取り上げた。「あのう――アイスクリームはどう、ヘニー? 蜜柑《みかん》ジンジャーエールは? いや、もっと何か冷たいもの。生のパイナップル・クリームはどうかしら?」
ヘニーは大賛成。女給仕は私たちを見ていた。注文を出したときに、彼女は、食べ残しの菓子から顔を上げた。
「蜜柑ジンジャーエールをおっしゃったの? あたしはジンジャーが好き。一つ下さいね」それから口早に、「あのオーケストラ、あんまり古くさい曲をやらないで欲しいわ。あんなのは、去年のクリスマスに踊った曲ですものね。うんざりしちゃいますわ!」
しかし、それはいい曲だった。そう気がつくと、心がときめくのだった。
「なかなかいいところだね、どう、ヘニー?」と私はいった。
ヘニーはいった、「すてきだなあ!」彼はそっというつもりだったのだが、きいきいいうような高い声になってしまった。
いいところ? ここが? いいところって? 彼女ははじめて周囲を見廻した、何があるかを知ろうとして……彼女はまたたいた、彼女の愛くるしい眼が、いぶかしげだった。ずいぶん美貌の年配の男が、黒いリボンのついた片眼鏡《モノクル》を透して、彼女を見返した。しかし、彼は、彼女の目に入らなかった。彼のいるところの空気に孔《あな》があいていたのだ。彼女はそこから彼の先のほうをずっと見通していた。
とうとう、みんなの小さなスプーンが、ガラスの皿の上にそっと置かれた。ヘニーはすっかり疲れたように見えた、が、彼女はまた白い手袋をはめかけた。ダイヤモンドの腕時計が、邪魔なようだった。それが引っかかったのだ。それを引っぱって――癪《しゃく》な物をはずそうとしたが――どうしてもだめだった。ついには、手袋をその上にかぶせなくてはならなかった。そうしたあとでは、彼女はもうここには一刻もいたたまらないだろう、と私に分るのだ。と、なるほど、彼女はさっと立ち上って、私がお茶の支払いという俗悪なことをすませているうちに、あちらへ歩いていった。
それから、私たちはまた外へ出た。もう夕暮れだった。空には、撒《ま》いたような小さな星。大きな街燈が明るく燃えていた。車がやってくるのを待っているあいだ、彼女は、前と同じように、階段の上に立って、片足をぶらぶらさせながら、下を見ていた。
ヘニーが、はねながら走っていって扉をあけ、彼女は中へ入り、そうして、沈むように、うしろによりかかった――しかも――深い溜息をついて!
「いって頂戴」彼女はいった、「できるだけ早く走るように」
ヘニーは仲良しの運転手に、にやりと笑って見せた。「|早く走って《アリ・ヴィート》!」と彼はいった。それから心を落着けて、私たちとさし向いの小さな席に坐った。
金のコンパクトがまた現われた。また、小さなパフが振られた、また、彼女と鏡とのあいだに、あのす早い、ひどく秘密たっぷりな眼《まな》ざし。
車は、ちょうど鋏《はさみ》で錦《にしき》を裁《た》つように、黒と金色との町を切り裂いた。ヘニーは、何かに取りすがっているようには見せまいとして、えらい苦労をしていた。
そうして、私たちは「カジノ」に着いたのだが、もちろん、ラディク夫人はいなかった。階段には、夫人の影も形も見えなかった――何のしるしも。
「ぼくが行って見てきますから、車の中にいらっしゃるでしょう?」
しかし、だめだ――彼女はそうしようとはしないだろう。はて困った、だめ! ヘニーなら待ってられるだろう。彼女は、とても車の中に坐ってはいられまい。階段の上ならいいだろうが。
「でも、あなたを置いてゆきたくはありませんね」私はつぶやいた、「あなたをここに置き去りにするなんて、いかにも」
それを聞くと、彼女は外套をパッとうしろへ返して、こちらを向いて、私と顔を合わせた。彼女は唇を開いた。「まあ――なぜ! あたし――あたし、ちっともかまいませんわ。あたし――あたし待ってるの好き」と突然に彼女の頬が赤く染った、彼女の眼が曇った――瞬間、私は彼女が泣き出すのかと思った。
「ま、まってますわ」彼女は、熱した声で、よどみ勝ちにいった。「好きなんですの。待ってるの大好き! ほんとうよ――ほんとうに、そうなんですの! あたし、いつでも待ってるんですわ――いろんな場所で……」
彼女の黒い外套は開いて落ちた、そうして彼女の白い喉《のど》が――青いドレスを着た柔かな若い身体が――ちょうどいま黒い蕾《つぼみ》から開きかかっている花のようだった。
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パーカーおばあちゃんの暮し
その朝、文士は、パーカーおばあちゃんにドアをあけてやると、お孫さんはどう、と尋《たず》ねた。毎木曜日おばあちゃんは、彼の部屋の掃除に出かけて来ることになっていたのである。パーカーおばあちゃんは、暗い小さな玄関の内側の靴ぬぐいの上に立って、その問いに答える前に手を伸ばして、ご主人がドアを締めるのを手伝ってから、「昨日|埋葬《まいそう》いたしました」と静かにいった。
「ええっ、そうかい! それはどうもお気の毒」と、文士は、驚いた調子でいった。彼は朝食なかばであった。ひどくみすぼらしい部屋着をきて、片手にくしゃくしゃになった新聞紙を握っていた。だが、彼は困った感じだった。何か――もっと何か、いわなくては、暖かい居間にひき返してはすまない気がした。そこで、こうした人たちには、葬式は大切な儀式なのだと考えて、「お葬式はうまくすんだのだね」と、やさしくいった。
「あの、なんとおっしゃいましたか?」パーカーおばあちゃんは、しゃがれた声でいった。
かわいそうな婆さん! 彼女はすっかり力を落した様子だった。「お葬式は、しゅ――しゅ――しゅびよくいったろうね」と彼はいった。パーカーおばあちゃんは、何も返事をしなかった。うなだれて、びっこをひきながら台所へ行き、彼女の掃除道具が入っている古い網袋とエプロンとフェルトの靴を、手に取った。文士は眉《まゆ》をあげてあきれ果て、またその朝食をたべはじめた。
「精根|尽《つ》きたんだろう」彼はマーマレードを取りながら声高にいった。
パーカーおばあちゃんは、帽子から二本のピンを抜いて、ドアのうしろに掛けた。くたびれたジャケツのホックをはずすと、それも掛けた。それから、エプロンを身につけて、深靴をぬごうとして腰をおろした。深靴をぬいだり、はいたりすることは、彼女にはとても苦になった。それも数年来の苦しみだった。事実、彼女はその苦痛に慣れ親しんでいたので、靴の紐《ひも》もまだ解かないうちから、いち速く痛さを覚悟《かくご》して、顔をひきつらせ、ゆがめているのだった。やっとそれもすんだ、彼女はほっと吐息をついて、うしろに寄りかかり、そっと膝《ひざ》をなでるのだった……
「ばあちゃん! ばあちゃん!」彼女の幼い孫息子は、ボタン留めの深靴をはいたまま、彼女の膝の上に、つっ立っていた。街路の遊びから帰って来たばかりだった。
「ほれ、ご覧、おばあちゃんのスカートが台無しになるじゃないの――いけない子だね!」
でも、孫は、その腕を、おばあちゃんの首に巻きつけて、頬を頬にこすりつけた。
「ばあちゃん、一ペニーおくれよ!」と、ねだるのだった。
「さあ、あっちへ行ってな。ばあちゃんには、お金なんかないんだからね」
「違うよ、持ってるよ!」
「持っちゃいないよ」
「違うよ、持ってるよ。一ペニーおくれよ!」
ところでもう彼女は、古ぼけた、ぐにゃぐにゃの、黒い革の財布を、まさぐっているのだった。
「じゃあ、お前、ばあちゃんには何をくれるんだい?」
孫は、ちょっと照れくさそうに笑って、一層くっついてくるのだ。孫の瞼《まぶた》が、彼女の頬をくすぐるような気持だった。「何にも持ってないもの」孫は小ちゃな声でいった……
さて、と老婆は飛び上がって、ガス・ストーブから鉄瓶《てつびん》を取って、流しのほうへ持って行った。鉄瓶の中でしゅんしゅんいってる湯の音が、彼女の苦痛をやわらげてくれるように思えた。手桶《ておけ》、すすぎ桶、どちちにも湯をいっぱいに満した。
その台所の模様を書くとしたら、まず本一冊にはなるだろう。この一週間、文士は、自分ひとりで「やってきた」のだ。つまり、彼は茶殻《ちゃがら》を次々と、特にそのためにおいてあるジャムの壺《つぼ》にあけ、また、きれいなフォークがなくなると、一、二本を環状タオル〔高いローラにつるしたタオルでぐるぐる回して新しい箇所を見つけて用いる〕でぬぐって使った。その他の点でも、みずから友達に説明したように、彼の「方式」というのは、きわめて簡単で、なぜ世間では家事にあんな大騒ぎをするのか、腑《ふ》に落ちないのであった。
「あるものを、全部よごすだけだよ、一週間に一度、婆さんに来てもらって掃除をしてもらう、それで片づくというわけさ」
あげくは、巨大なごみ溜めというていたらくであった。床にまで、パン屑《くず》や封筒や煙草《たばこ》が散らかっていた。でも、パーカーおばあちゃんは、彼を恨《うら》みはしなかった。誰も身の廻りの世話をしてやる者もいない、この若い紳士《しんし》を気の毒に思っていた。小さな煤《すす》けた窓からは、悲しげに見える空の果てない広がりが見える、そうして、雲があるときには、それは、端しがすり切れ、ところどころ孔があいていたり、お茶のような黒いしみがついていたりして、すっかりぼろぼろに古びた雲のように見えた。
湯がたぎりたつ間に、パーカーおばあちゃんは床の掃除を始めた。「そう」箒《ほうき》がぶっつかると彼女は考えた、「あれやこれやと何かにつけて、あたしも苦労をしてきた。辛い暮しだった」
近所の人たちも、彼女については、そういっていた。網袋を持って、びっこをひきながら家に帰る折、町角にたたずんだり、地下室への入口の鉄柵にもたれたりしながら、みんながお互いに、こういっているのを聞いたのも、決して稀れなことではなかった、「辛い暮しをしてきたね、パーカーおばあちゃんは」たしかにその通りで、彼女はちっともそれを自慢しているわけではなかった。あたかも、彼女は二十七番地の地下室の奥に住んでいる、というのとおんなじだった。辛い暮し!……
彼女は十六歳のときストラットフォードを去って、ロンドンに上って、下働きの女中になった。そう、彼女はストラットフォード・オン・エイヴォン〔英国中部エイヴォン河畔の街、シェイクスピアの生地〕で生れたのだ。シェイクスピアですって? いいえ、知りません。人々はいつも彼女にシェイクスピアのことをきいた。しかし、芝居に行ってみるまでは、彼女はシェイクスピアの名前を聞いたことがなかった。
ストラットフォードについて、彼女の記憶にのこっているものといえば、「夕方|煖炉《だんろ》のところに坐ってると、煙突を通して星が見えたんですよ」とか、「おふくろさんは、いつも天井《てんじょう》から、脇肉のベーコンを、ぶらさげてましたっけ」のたぐいにすぎなかった。それから、戸口の辺に、何というのか――灌木《かんぼく》があって――それがとてもいい匂いだった。しかし、その灌木のことは漠としていた。ただ、いつだったか病気にかかって入院したとき、一、二度思い出したにすぎなかった。
それは怖ろしい所だった――彼女が最初住みこんだうちは。絶対に外に出してもらえないのであった。朝晩お祈りをしに行くほかは、決して二階へ行かなかった。まさしく穴ぐらだった。それに料理人というのが、邪慳《じゃけん》な女だった。彼女の家から来た手紙を、読まない前にひったくって、かまどに抛《ほう》りこんでしまうのだったが、そのわけは、彼女が里心つくからというのだった……それに油虫! 信じてもらえるかしら?――ロンドンに出て来るまでは、彼女は油虫を見たことが無かったのだ。さて、ここんとこで、おばあちゃんは、いつもちょっと笑うのである――油虫を見たことがないなんて、まるで、自分の足を見たことがない、というのもおんなじだと心得て。
その家が競売になるはめになったので、彼女は医者のところへ「手助け」に行った、そうして、そこで二年間、朝から晩までばたばた働きとおしたあとで、彼女は夫と結婚した。彼はパン屋であった。
「パン屋のパーカー夫人!」と文士はいうのであった。時々は彼も、彼の部厚な書物を脇において、この「人生」の化身ともいうべき人間の物語に、耳をかすほどのことはしたのである。
「パン屋の嫁《よめ》さんになるなんて、なかなかしゃれてるじゃないか!」
パーカーおばあちゃんは、それほどにも思っていないようだった。
「大いにきれいな商売だからね」と文士はいった。
パーカーおばあちゃんは、納得《なっとく》のゆかぬ様子だった。
「できたてのパンを、お客さんに渡すのは気持がよかったろうね?」
「そうですねえ」パーカー夫人はいった、「あたしは、そうそう店には出なかったんです。子供が十三人も生れて、そのうち七人が死んだんですから。もし病院だといっていけなければ、施療診療所《せりょうしんりょうじょ》みたいな工合でしたよ!」
「そうだろうねえ、全く!」紳士は、ぞっとして、そういって、またペンを取り上げた。
そう、七人が死んでしまった、しかも、六人の子がまだ小さいのに、彼女の夫は肺病にとりつかれた。小麦粉が肺に入ったのだと、そのとき医者がいった……夫はベッドの上に起き直って、頭の上までシャツをたくし上げた、と、医者は、その背中に指で円を描いた。
「それで奥さん、もしここんところを切開してみたら、肺に白い粉がいっぱい詰ってるのが分りますよ」と医者はいって、「さあ、ひとつ息をしてごらん!」そのとき、かわいそうな夫の口から、白い大きな粉煙がぱっと吹き出てくるのを、現に見たのか、見たように錯覚したのか、彼女にはどうとも確信がもてなかった……
それにしても、六人のいとけない子供をそだて、人に頼らないでやって行くのは、全くたいへんなことだった! それから、子供たちがようやく学校に通うようになった頃、夫の妹がやって来て、家事の手伝いをしてくれることになった、が、二か月たつかたたぬうちに、階段からころがり落ちて、脊骨を痛めてしまった。そうして、五か年のあいだ、パーカーおばあちゃんは、もう一人の赤ん坊――ひどく泣虫の赤ん坊――の世話をせねばならなかった。次いで若いモーディが身を誤り、そのため妹のアリスを彼女の手許に引き取った。二人の男の子は移民になって出て行った、そうして若いジムは兵隊に入ってインドに行き、末っ子のエセルは何の取柄もない小男の給仕人と結婚した、が、男の子のレニーが生れた年に、彼は潰瘍《かいよう》にかかって死んだ。で、今、小さなレニー――あたしの孫息子……
よごれたコップ、よごれた皿の山を洗いあげて乾かした。真黒になっていたナイフを、馬鈴薯《じゃがいも》の切れできれいにして、コルクのかけらで磨《みが》きあげた。テーブルをこすり、それから調理台、それから、鰯《いわし》の尻尾の泳いでいる流し……
レニーは、決して丈夫な子ではなかった! 生れたときから。誰でもが女の子と見まちがうようなきれいな赤ん坊だった。銀色がかったきれいな巻毛、青い目、それに鼻の脇のダイヤモンドのような小ちゃなそばかす。この子を育てるための彼女とエセルの苦心といったら! 新聞で読んだいろんなことを、二人は赤ん坊に試みてもみたのだ! 毎日曜日の朝、パーカーおばあちゃんが洗濯《せんたく》をしているかたわらで、エセルは声を出して読むのだった。
「拝啓――ちょっとお知らせいたします。私の子供のマートルは、死ぬばかりの容態のところ……四びん呑みますと……九週間に八ポンドほど目方がふえ、今もなおぐんぐんふえています」
そこでインキを容《い》れたゆで卵のカップを調理台から取り出して、手紙を書くということになり、そうして、あくる朝、おばあちゃんは働きに行く途中で、郵便|為替《かわせ》を組んでもらった。しかし、それも無駄だった。何をやってみても、レニーの身につかなかった。墓地へ連れて行ってやっても、ちっとも血色はよくならなかったし、ほどよくバスにゆられても食慾が進みはしなかった。
しかし、彼ははじめから、おばあちゃん子だった……
「お前は誰の子だい?」パーカーおばあちゃんは、ストーヴのところから身を起して、煤《すす》けた窓のほうへ歩み寄りながらいってみた。と、小ちゃな声、とても温かで、とても親しげなのが、彼女を半ば息詰るような気持にし――なんだか、それは彼女の胸の中、心臓の下にあるようだった――それから笑いだして、こういった、「ぼくは、おばあちゃんの子供だよ!」
ちょうどそのとき、足音が聞えて来て、散歩姿で、文士が現われた。
「パーカーさん、わたしは出かけるよ」
「どうぞ、はい」
「あんたの給金の半クラウンは、インクスタンドの皿の中にあるからね」
「ありがとうございます」
「ところで、ついでだが、パーカーさん」文士はせかせかといった、「あんた、この前ここへ来たとき、ココアを捨ててしまいはしなかったろうね?」
「とんでもありません」
「おかしいなあ。たしかに、わたしは、罐《かん》の中に、ココア一さじほどをのこしておいたんだが」彼は、ここで口をつぐんだ。彼はおだやかに、きっぱりといった、「物を捨てるときには、いつもちゃんとそういってくれるんだよ――いいかい、パーカーさん」こういっておけば、見たところはぼんやりしてても、実は女のように細心だということを、パーカーおばあちゃんに如実《にょじつ》に示しえたと考えて、彼は大いに得々として歩み出たのであった。
バタンと戸の締まる音がした。彼女は、ブラッシと布切れを持って、寝室へ入って行った。しかし、ベッドを、のばしたり、ひっぱったり、叩いたりして、作りはじめたとき、レニーのことが頭に浮んできて仕様がなかった。あの子は、どうしてあんな辛い目にあわねばならなかったのだろう? それは、どうにも彼女の納得のいかないことだった。なぜ小さな天使のような子供が、息苦しさにあえぎあえぎしなければならないのだろう? 小さな子を、あんなふうに、苦しませるのは、おはなしにもならない。
……レニーの小さな胸郭《きょうかく》からは、何かが煮えているような音が響いていた。彼の胸には、自分では取りのぞけない何か大きなかたまりが、ぶくぶく泡立っているのだった。咳《せき》をすると、額《ひたい》に汗がにじみ出た。眼が飛び出し、手をもがいて、例の大きなかたまりは、鍋《なべ》の中で馬鈴薯をいためるような音をたてるのであった。しかし、何より怖ろしかったのは、咳をしないときのレニーは、枕によりかかって、話しも返事もしない上に、こちらのいうことが聞える様子さえ見せなかった。ただ怒ったような顔つきをしているだけだった。
「決してお前のおばあちゃんのせいではないんだよ、坊や」パーカーおばあちゃんは、彼の真赤に火照《ほて》った耳のあたりにこびりついた湿った髪を、かき上げてやりながらいった。でも、レニーは頭を振って、少し身を引くのだった。彼女に、無性に腹を立てているようで――いかめしく見えた。彼は頭をかしげて、斜めに彼女を見た、まるで、おばあちゃんのいうことには、信用がおけないというふうに。
だが、臨終《りんじゅう》には……パーカーおばあちゃんは、ベッドに掛けぶとんをかけた。いや、あのことだけは思い出すにしのびない。あれは、あんまりだった――彼女の生涯には、耐えられないようなこともずいぶん多かった。今まではじっと我慢をしてきた、誰にも愚痴《ぐち》をこぼさなかった、一度だって泣いているところを他人に見られたことはなかった。どんな人にも。彼女自身の子供たちでさえ、母親が泣きくずれるさまを、見たことはなかった。彼女はいつも気丈な顔をしていた。しかし今度は! レニーは死んでしまった――彼女に何があるのだろう? 何にもありはしなかった。レニーは、この世でかけがえのないものだった、が、それも奪い去られた。どうして、こんな目にばかりあわねばならないのだろう、と彼女はいぶかしく思うのであった。「いったい、あたしが何をしたというんだろう?」パーカーおばあちゃんはいった、「いったい、あたしが何をしたというんだろう?」
そういいながら、彼女はふとブラッシを落してしまった。彼女は台所に来ていた。あまりの惨めな思いに、たまらなくなって、彼女は帽子をかぶってピンで留め、ジャケツを羽織り、夢遊病者のように、その部屋から出て行った。自分が何をしているのか、彼女にはわからなかった。身にふりかかった出来事の怖ろしさに茫然《ぼうぜん》として、歩む――どこへでも、まるで歩むことによって悪運から免れることができるとでもいうかのように歩む、そんなふうな人間を、彼女は彷彿《ほうふつ》たらしめた。
街は寒かった。氷のような風が吹いていた。人々は、飛ぶように、とても足早に通っていた。男たちは鋏《はさみ》のような恰好《かっこう》で歩み、女たちは猫のような足どりだった。そうして、誰も知ってはくれないし――気に留めてもくれなかった。たとえ彼女が泣きくずれたところで……こうした永い歳月を送ったのち、ついに彼女が泣き出すはめになったところで、たぶん、ひとりきり部屋に押込められているといったようなことだろう。
ところで、いざ泣こうと思うと、小さなレニーが、おばあちゃんの腕の中に飛びこんできたような心地だった。ああ、あたしの望むのは、それなんだよ、ね、坊や。おばあちゃんは泣きたい。今ここで泣いてしまえたら、長いあいだ泣いていられたら、これまでの何やかに。最初奉公したところとあのむごい料理人から始まって、医者の家にゆき、それから七人の小さな子供たち、夫の死、子供たちは離れ去ってしまい、そうして、こうした惨めな永い年月が過ぎて行ったあげくはレニー。みんなこうしたことに存分に泣くとしたら、長い時間がかかるだろう。ではあっても、そうする時がやって来たのだ。そうしなくてはいけない。もう先に延ばすわけにはいかない。もう待つわけにはいかない……どこへ行ったら、いいだろう?
「辛い暮しをしてきたね、パーカーおばあちゃんは」そう、辛い暮し、じっさい! 彼女の顎《あご》がふるえはじめた。もうぐずぐずするひまはなかった。でも、どこへ? どこへ?
家には帰れない。エセルがいるからだ。エセルはびっくりして、気を失うだろう。どこかの腰掛に坐っているわけにもいかぬ、人がやって来て何やかや訊《き》くだろう。文士の住家へ帰るのも、たぶん、いけないはず、他人の家で泣く権利はないからだ。もしどこかの階段に腰をおろしていたら、お巡りさんが話しかけてくるだろう。
ああ、どこかに、彼女が隠れて、たった一人きりになって、好きなだけじっとしていて、誰の邪魔にもならず、また、誰も彼女の邪魔をしないところが、ないものだろうか? どこか、この世に、彼女が声をあげて――最後に、泣けるところはないものだろうか?
パーカーおばあちゃんは立ちどまって、あちこちを眺めた。氷みたいな風が吹いて来て、彼女のエプロンを風船玉のようにふくらました。おまけに、いま雨が降りだした。どこへ行きようもなかった。
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ア・ラ・モオドの結婚
駅への途中、ウィリアムは、子供たちに何もおみやげが無いことに気づいて、いまさらがっかりした気持だった。かわいそうに! 子供たちには、辛いことだ。彼を迎えに走り寄りながら、彼らが最初にいう言葉は、きまって「父さん、おみやげなあに?」であるが、ところで、彼は何にも持ってはいないのである。駅で何か菓子でも買わずばなるまいが、土曜ごと四度も続けて、その手を用いたのだ。この前、例の同じ函《はこ》を差し出すと、子供たちの顔には、失望の色が浮んだのであった。
で、パディーがいった、「この前ぼくのは、赤いリボンがついてたよ!」
すると、ジョニーがいった、「ぼくのはいつもピンクだよ。ピンクは大嫌いさ」
ところで、ウィリアムはどうしたらいいだろう? なかなか簡単にはおさまらない問題だ。むかしなら、もちろん、彼はタクシーを拾って、どこか気の利いたおもちゃ屋に行って、五分間ほどで何かを選んだことだろう。ところが、今では、子供たちは、ロシアのおもちゃ、フランスのおもちゃ、セルビアのおもちゃ――どこから来たとも分りかねるおもちゃ、をもっていた。「ひどくセンチメンタル」で、「赤ん坊の形に対する感覚にむやみに悪い」というような理由で、イザベルが、遊び古した驢馬《ろば》や機関車なんかを捨ててしまったのは、一年あまり前のことだった。
「大切なことなんですわ」新しいイザベルは説明して、「はじめから正しいものを好むようにしなくてはいけませんわ。あとになって、ずいぶん得ですから。ほんとうに、もし小さい連中が、幼い頃を、こうした怖ろしい物を見て過ごすとしたら、大きくなって、王立美術院に連れて行って欲しいなんていいだすにきまってますわよ」。
で、王立美術院に行くことは、誰にとっても即座に死を意味するのだというふうな、彼女の話し振りであった。
「ああ、ぼくには分らないね」ウィリアムは、のろのろといった。「ぼくが連中の年頃には、古タオルに結び目をこしらえてもらったのを持って、寝床に入ったものさ」
新しいイザベルは、目を細め、唇を開いて、彼を見た。
「まあ、ウィリアム! あなたなら、きっとそうだったのね!」彼女は新しい笑い方をした。
ところでやはり、菓子のほか仕様があるまいと、タクシーに払う小銭をポケットの中にまさぐりながら、ウィリアムは気重に思うのだった。そうして、子供たちが函を持ち廻るさまが目に浮んで来た――ひどく気前のいい子供たちだ――かたわら、イザベルの大切な友達連中は、遠慮なくそれをつまむというわけである……
果物はどうだろう? ウィリアムは駅内取付きの売店の前を、うろうろした。めいめいにメロンをやったら、どんなもんだろう? それでもなお、連中に分けてやらねばならないだろうか? それとも、パディーにはパイナップル、そうして、ジョニーにはメロン、にしてはどうだ? いかなイザベルの友達だって、子供らがご飯を食べるときに、子供部屋にしのび込むはずもなかろう。そうは思ってはみたものの、メロンを買った折、イザベルの友達の若い詩人の一人が、どうしたことか、子供部屋のドアのかげで、一きれをしゃぶっているいやらしい光景が、想い画かれるのであった。
やに、ぶかっこうな包み二つをかかえて、彼は汽車のほうへ大股に歩いて行った。プラットフォームは人で混雑しており、汽車は入っていた。扉がパタンパタン開いたり締まったりした。機関車からシュッシュッという大きな音が響いて来るので、人々は仰天《ぎょうてん》したふうに、あちこちに小走りするのだった。ウィリアムは一等の喫煙車にまっすぐに進んで行って、スーツケースと包みを片付け、内ポケットから嵩《かさ》ばった書類たばを取り出すと、隅のほうにどっかり腰をおろして読み始めた。
「依頼人はきわめて強硬なるをもって……尚《なお》一応考慮|致度《いたした》く……の暁《あかつき》は――」ああ、このほうがましだ。ウィリアムは、ぺったりした髪をうしろに撫《な》でつけて、車の床《ゆか》に脚をのばした。いつもの胸のつかえが、おさまった。「当方決定に付ては――」彼は青鉛筆《あおえんぴつ》を取り出して、ゆっくりと一節を記した。
二人の男が入って来て、彼のそばをよぎって、なお奥のほうへ進んで行った。若い男が、ゴルフのクラブを網棚に放りあげて、さし向いに席を占めた。
汽車は軽く一揺れして、動き出した。ウィリアムは目を上げて、暑い、明るい駅が後退して行くさまを、一瞥《いちべつ》した。紅潮した顔の娘が車について走って来た、手をふり叫んでいるさまには、何かひどく緊張した、ほとんど絶望的とも見えるものがあった。「ヒステリーだな!」と、ウィリアムはぼんやり考えた。それから、プラットフォームの端のところでは、脂《あぶら》ぎった黒い顔をした労働者が、走り過ぎる汽車を見て、にっと笑った。と、ウィリアムは、「薄穢《うすぎたな》い人生だ!」と思ったが、また、書類に目を戻した。
ふたたび目をあげたときには、野原になっていて、こんもりした木蔭には家畜の群れが憩《いこ》っていた。裸の子供たちが浅瀬でしぶきを上げているひろびろした川が、視界に入ってき、また去って行った。空は蒼白に輝いていて、高く舞う一羽の鳥は、宝石の中の黒点のようだった。
「依頼人の来信|綴《つづ》りを調査したるところ……」彼が読んだ最後の文句が、心に反響するのであった、「依頼人の……」ウィリアムは、その文句になんとかしがみつこうとしたが、だめだった。それは中途でぽつんと切れて、野原、空、飛んでゆく鳥、水、すべてが「イザベル」というのである。毎土曜日の午後ごとに、同じことが起った。イザベルに会いにゆく途中になると、その出会いの場面を、きりも無く想像しだすのだ。彼女は駅に来ていて、他のたれかれよりちょっとばかり離れて立っている、彼女は駅の外の幌《ほろ》なしのタクシーの中に坐っている、彼女は庭園の戸口の辺りにいる、乾ききった草の上を歩いている、ドアのところ、それとも玄関を入ったばかりの内側に。
そうして、彼女の澄んだ明るい声がいった、「ウィリアムね」とか、「まあ、ウィリアム!」とか、「ウィリアム、来たのね!」とか。彼は、彼女のひんやりした手、ひんやりした頬にふれた気持にさえなるのだ。
イザベルのいうにいわれぬみずみずしさ! 幼かった頃の彼は、ざーっと来た雨上りの庭に走り出て、彼の背より高いバラの木を揺するのが楽しみだった。イザベルはあのバラの木だ、花びらは柔かで、きらきらときらめきながら、涼しくもある。そうして、彼は今なおあの少年なのだ。しかしもう、庭に駆け出ること、笑いながら木を揺すぶることはない。にぶい、しつこい胸苦しさが、また始まった。彼は脚をひっこめて、書類を脇に置いて、眼をつぶった。
「これ何だい、イザベル? 何だい?」彼は優しくいった。二人は新しい家の新しい寝室にいた。イザベルは化粧台の前の塗った腰掛に坐っていた、化粧台には小さな黒や緑の小函《こばこ》が散らばっていた。
「何ってなあに、ウィリアム?」前にこごんだ彼女の頬には、あざやかなブロンドの髪が垂れかかった。
「だってお前!」彼は見なれぬ部屋のまん中に立って、とてもこれが自分の家とは思えぬ感じだった、すると、イザベルは、やにわに向きなおって、彼と顔を合せた。
「まあ、ウィリアム!」彼女は頼みこむように叫んで、ヘア・ブラッシを挙げた。「どうか! どうか、そんなひどくむっつりした――悲愴《ひそう》な顔をしないでね。あなたはいつも、あたしが変ったっておっしゃったり、そんな顔つきをなすったり、ほのめかしたりなさるのね。芯から気心の合った人たちと、あたしが付き合って、外出も多くなり、ひどく熱中――何やかやに熱中するようになったからといって、まるであたしが」――イザベルは髪をうしろに、さっと揺って「あたしたちの愛情かなんぞを、殺してしまったみたいな様子をなさるのね。とっても馬鹿げてるわ」――彼女は唇を噛んだ――「ずいぶん、おかしなはなしね、ウィリアム。この新しい家も、召使も、あなたのお気に召さないんでしょう」
「イザベル!」
「そうよ、そうよ、ある意味ではそうですわ」イザベルは性急にいった。「家も召使もまた縁起《えんぎ》でもないと思ってらっしゃるんでしょう。あたし、分ってますわ」と、声を落して、「いつもあなたが二階に上っていらっしゃるときに、そう感じますのよ。でも、あたしたち、あの狭苦しい穴倉みたいなところに、住んでゆけようはずがないじゃありませんか。少しは、実際的になって下さいな! あれじゃ、子供たちのいる場所も、ろくに無かったんですもの」
そう、それはたしかだった。毎朝、彼が弁護士事務所から帰って来ると、奥の応接間に子供たちはイザベルと一緒にいるのだった。彼らはソファの背に掛けた豹《ひょう》の皮に馬乗りになったり、イザベルの机を勘定台にみなして商売ごっこをしたり、パッドが炉辺の敷物に坐りこんで小さな真鍮《しんちゅう》の十能《じゅうのう》を橈《かい》にして懸命に漕《こ》いでいるかたわら、ジョニーのほうは火挟みで海賊を射っている、というていたらくであった。毎晩、子供二人は、太っちょのナニー婆さんのところへゆくのに、めいめいおんぶされて、狭い階段を昇るのであった。
なるほど、狭苦しい小屋だとは、彼も思っていた。青いカーテンをかけ、窓ぎわに箱に植えたペチューニアの置いてある小さな白い家だった。ウィリアムは、「うちのペチューニア見たかい。ロンドンとしては、大したできだろう、どうだい?」との挨拶で、戸口に友人を迎えたのである。
それにしても、イザベルが彼同様に仕合せではなかったということに、これっぱかしも思い至らなかったのは、うかつというか、全くとんでもないことだった。えいっ、何という目の見えなさ! 彼女が芯からあの不便な小さな家を嫌っていたこと、太っちょのナニーが子供たちを損《そこな》っているものと彼女が考えていたこと、彼女がやるせない淋しさをかこち、新しい人間、新しい音楽と絵画等々に恋いこがれていたこと、には当時彼はちっとも気づかなかったのである。モイラ・モリソン宅のアトリエのパーティに、もし二人が行かなかったならば――帰りしなに、もしモイラ・モリソンが「あたし、あなたの奥さんを救い出してあげようと思ってますのよ、あなたは身勝手な方ですもの。奥さんのきれいなこと、妖精《ようせい》の女王といったところですわ」といわなかったら――もしイザベルがモイラと一緒にパリに行かなかったら――もし――もし……
汽車はまた駅にとまった。ベティングフォード。おや、おや! もう十分で到着だ。ウィリアムは、書類をポケットに押し込んだ。向い側の若い男は、もうとっくにいなくなっていた。今度は例の二人も出ていった。午《ひる》下りの太陽が、綿《めん》の上着を羽織った女たち、日やけして素足でいる子供たち、を照らしていた。それは、岩ばかりの土手いっぱいにざらざらした葉をのばしている絹のような黄いろい花にも、燃えるように照っていた。窓を吹く風には、海の匂いがした。イザベルは、この週末も、おんなじやからと一緒にいるのかしら、とウィリアムは思うのだった。
なお彼は、かつて過した休暇を思い出した、一家四人、それに子供たちの世話をするローズという田舎娘。イザベルはジャージーを着ており、髪を編んでおさげにしていた、見たところ十四かそこらだった。ああ! 何と彼の鼻はいつも皮がむけたことか! よく食べたし、またよく眠った、あの大きな羽根ぶとんのベッドに、二人の脚を組み合せて……彼の感傷をすっかり知ったとしたら、イザベルはどんなにおどろくことかと、そう思うと、ウィリアムは苦笑を禁じえなかったのである。
「まあ、ウィリアム!」やはり彼女は駅に来ていた。彼が想像した通り、他の群れから離れたところに、立っていて――ウィリアムの胸がおどったのは――彼女が一人でいることだった。
「やあ、イザベル!」ウィリアムは目をこらした。彼女があまり美しく見えるので、何とかいわねばならぬ気がするのだった。「とっても涼しそうだね」
「そう?」とイザベルはいった。「あんまり涼しい気はしないわ。いらっしゃいな、あなたの、あの汽車遅れたのよ。タクシーが外に待ってるわ」改札口を通る頃、彼女は彼の肩に軽く手をかけた。「みんなあなたをお迎えに来たのよ」と、彼女はいった。「でもボビー・ケーンはお菓子屋へのこしてきたの、呼んでやらなくてはいけないわ」
「ああ、そう!」ウィリアムはいった。その瞬間、彼にいえたことはそれだった。
ぎらぎら照りつける中にタクシーが待っており、その片側には、顔が隠れるほどに帽子を傾けて、ビル・ハントとデニス・グリーンが寝そべっていた。もう一方の側には、モイラ・モリソンが、大きな苺《いちご》のようなボンネットをかむって、跳《は》ね廻っていた。
「氷がないわ! 氷がないわ! 氷がないわ!」えらく陽気に彼女は叫んだ。
するとデニスが、帽子の下から、相槌《あいづち》を打った。「魚屋で手に入れるよりほかないね」
今度はビル・ハントが口を出して「魚もみんなそのお相伴にして」
「まあ、何てくだらない!」イザベルが悲鳴をあげた。そうして彼女がウィリアムに説明したところでは、彼女が彼を待っているあいだ、彼らは町じゅう氷を見つけてまわっていたのだという。「バターをはじめ、もう何もかも溶けちまって、どんどん海へ流れて行く始末なの」
「バターを塗って身を浄《きよ》めるということでしょうよ」とデニスがいった。「ウィリアム、汝《なんじ》の頭に膏《あぶら》を絶さしむることなかれ」
「ねえ」ウィリアムがいった、「どういうふうに坐ろうかしら? ぼくは運転手の横にしよう」
「いいえ、運転手の横はボビー・ケーンに坐らせるの」とイザベル。「あなたはモイラとあたしのあいだにおかけになるのよ」タクシーは動きだした。「その面白そうな包みに、何が入ってるんです?」
「ちょん――ぎった――くび!」帽子の下で震えてみせながら、ビル・ハントがいった。
「あ、果物ね!」とても嬉しそうなイザベルの声、「ウィリアム、さすがだわ! メロンとパイナップルでしょう。何てすてき!」
「いや、ちょっと待った」微笑しながらウィリアムがいった。だが、正直のところ、気になって「子供たちに買ってきたんだよ」
「あら、まあ!」イザベルは笑って、手を彼の脇下にすべらした。「もし子供たちに食べさせたら、腹痛《はらいた》を起してたいへんよ、いけませんわ」――彼女は彼の手を軽く叩いた――「次のときに何か別の物をお願いするわ。あたし、このパイナップルと別れる気がしないの」
「ひどいイザベル! その匂いをかがしてよ!」モイラがいった。モイラはねだるように、ウィリアムの前の方から両手を差しだした。「あら!」苺のボンネットが前に傾いて、彼女は小さく叫んだ。
「パイナップルに恋する淑女」とデニスがいった、折柄タクシーは縞《しま》の日覆いをした小さな店の前にとまった。ボビー・ケーンが出て来た、小さな包みを手いっぱいに抱えて。
「いいだろうと思うんだよ。色がいいんで買ったんだけど。丸くて、とってもきれいなのがあってね。ちょっと、このヌガーを見てごらん」と有頂天《うちょうてん》に叫んで、なお「ちょっと、見てごらん! 小さなバレーというところだ!」
だが、その時、店員が現われた。「ああ、忘れてた。金を払ってないんだよ」弱りきった顔をしてボビーがいった。イザベルは店員に紙幣を渡した、と、ボビーはまた陽気になった。「やあ、ウィリアム! ぼく運転手の横に坐るよ」無帽、白服、袖を肩までたくしあげた彼は、その席におどり込んだ。「アヴァンティ!」と彼は叫んだ……
お茶がすんだあと、みんな泳ぎに出かけてくれたおかげで、ウィリアムは家で、子供たちとくつろぐことができた。しかし、ジョニーとパディーは眠ってしまい、夕焼の紅バラのような輝きも色あせて、蝙蝠《こうもり》が飛び廻っていたが、泳ぎに行った連中はまだ帰って来なかった。ウィリアムがぶらぶら下へ降りて行くと、女中がランプを持ってホールをよぎるところだった。そのあとを追うようにして彼は居間に入って行った。それは黄色に塗った細長い部屋だった。ウィリアムに向い合った壁には、誰だかが、若い男を描いていた、実物大以上の大きさで、ひどく不安定な脚つきで、若い女に、いっぱいに開いたヒナギクの花を捧げている、女の片方の手はとても短かく、もう一方はとても長く細かった。椅子やソファには、こわれた卵みたいな大きな斑《まだら》を一面に書き散らした何やら黒い細長いものが幾つも下っていて、それに、ここかしこに煙草の吸殻だらけの灰皿が見えるという工合であった。ウィリアムは肘掛椅子《ひじかけいす》の一つに腰をおろした。今日この頃は、椅子の脇に片手を垂らしてさぐってみても、脚が三本の羊とか、角《つの》を一本なくした牛とか、ノアの方舟《はこぶね》の肥えふくれた鳩《はと》とか、にふれることはなくて、ろくでもない詩なぞを印刷した小さな紙装の本が出てくる……彼はポケットの中の書類束のことを思い出したが、あまりに腹がへり、疲れすぎていて、読む気がしなかった。ドアは開いていた、台所から物音が聞えてきた。召使たちは、まるで家にいるのは自分たちだけ、というふうに無遠慮に話していた。突然、かん高い大きな笑声と、それに劣らず大きな「シッ!」という声が聞えてきた。彼の所在を思い出したのだ。ウィリアムは身を起して、フランス窓から庭に出て行った。そうして、蔭に立っているところへ、泳ぎに行った連中が砂地の路を上ってくるのが聞えた。しんとした中に、彼らの声が響いてくるのであった。
「モイラが、その手練手管《てれんてくだ》を使う頃合いだと思うね」
モイラの発する芝居がかった悲しげなうめき声。
「週末の休みには、例の『山の乙女』をやった蓄音機《ちくおんき》が欲しいわね」
「いけないわ! いけないわ!」イザベルの叫ぶ声。「ウィリアムに悪いわよ。みんな、彼にやさしくしてね! 明月の夕方までしかいないんだもの」
「わしにまかしときなよ」ボビー・ケーンが叫んだ。「人の世話する名人なんだから」
門がパタンと開いて、また締った。ウィリアムはテラスの上に進んだ。みんなが、彼を見つけていた。「やあ、ウィリアム!」ボビー・ケーンは、タオルを振りながら、焼けた芝生の上で、はねて、向きを変えた。「こないで残念、ウィリアム。海はすてきでしたぜ。あとで、みんなで小さな酒屋へ行って、ジンをやったんです」
あとの連中も家に入って来た。「ねえ、イザベル」とボビーが呼びかけた、「今晩ぼくニジンスキーふうの着つけをしたら、どうかしら?」
「だめよ」とイザベル、「誰も着がえはしないのよ。あたしたちお腹がぺこぺこでしょう。ウィリアムも、お腹がすいてるわ。さあ、いらっしゃいな、|みなさん《メザミー》、鰯《サーディン》から始めましょう」
「鰯《サーディン》なら、見つけといたわ」モイラはそういって、函《はこ》を高くかざしながら、ホールに駆けて行った。
「鰯の函をもつ淑女」もったいぶってデニスがいった。
「ところで、ウィリアム、ロンドンの模様は?」ウィスキーの壜《びん》のコルクを抜きながら、ビル・ハントがたずねた。
「ああ、ロンドンは、これということもないね」ウィリアムは答えた。
「なつかしのロンドン」とボビーが鰯をつつきながら、元気にいった。
しかし、それもしばしで、たちまちにウィリアムは忘れられてしまった。モイラ・モリソンは、水の中では脚がどんな色に見えるかというようなことをいいだした。
「あたしのはね、この上もなく薄青い、きのこのような色なの」
ビルとデニスは、たらふく食べた。そうして、イザベルは、酒をつぎ、皿を換え、マッチを見つけてやりながらも、にこにことしごく満悦のてい。ふと、彼女はいった、「ビル、描《か》いてみたらいいわ」
「描くって、何をです?」パンを頬張りながら、ビルは声高にいった。
「あたしたちを」と、イザベル、「テーブルを囲んでるところを。二十年もたったら、とっても面白いものになるわよ」
ビルは、眼をつり上げて、くちゃくちゃ噛んでいた。「光線がまずいな」彼はぶっきらぼうにいった、「あんまり黄色すぎて」そして、なお食べつづけた。それが、また、イザベルには魅力的だったのだ。
しかし、夕食がすむと、彼らはみんな疲れてしまって、寝床に引きあげる頃あいまで、ただあくびばかりしていた……
ウィリアムが、イザベルと二人きりになれたのは、やっとあくる日の午後、タクシーを待っている時だった。彼がスーツケースをホールまで運びおろした折、イザベルは連中から離れて、彼のほうへやって来た。彼女はかがんで、スーツケースを持ちあげた。「えらく重たいのね!」といって、彼女はちょっと取ってつけたような笑い声をたてた。「持って行くわ! 門まで」
「いいんだよ、君にそんなことを」ウィリアムはいった。「いけないったら。ぼくにお寄こし」
「いいえ、お願いだからあたしに運ばして」とイザベルがいった。「ほんとうに、そうしたいの」
二人は黙って一緒に歩いて行った。ウィリアムは、今さら何もいうことは無いような感じだった。
「さあ」得意げにイザベルはいって、スーツケースを下におくと、気づかわしげに砂地の路を見渡すのであった。「今度はほとんどお会いしたような気がしないわ」と彼女は息をきらしながらいった。「あんまり短いんですものね。今いらしったばっかしみたいな感じなのに。次の時は――」タクシーが見えて来た。「ロンドンで、ご不自由がなければいいと思うわ。子供たちが終日いなくて悪いんですけど、ニール嬢がそんなふうに運んじまったんですの。帰って来たら、淋しがるでしょう。ロンドンへ帰るのおかわいそうね、ウィリアム」タクシーが回った。「さようなら!」彼女は急いで彼に軽いキスをして、行ってしまった。
野原、樹々、生垣が流れ過ぎた。車は揺れながら、がらんとしてうつろな小さな町を通り抜け、けわしい坂をのぼって駅に着いた。汽車は入っていた。ウィリアムは一等の喫煙車にまっすぐに進んで行って、隅のほうにどっかり腰をおろした、が、しかし今度は書類を取り出そうとはしなかった。彼は腕を組んで、例のにぶい、しつこい胸苦しさとたたかっていた、そうして、心の中で、イザベルに手紙を書きはじめた。
郵便は例の通り遅かった。一同は、色どりも鮮やかなパラソルの下に、長い椅子《いす》を持ち出して坐っていた。ただボビー・ケーンだけが、イザベルの足もとのあたりの芝生に横たわっていた。どんより曇って息苦しく、旗のように重く垂れた日だった。
「天国にも月躍日ってのが、あるかしら?」ボビーが子供っぽく尋ねた、と、デニスがつぶやいた、「天国は一つの長い月曜日だろうさ」
しかし、イザベルは、昨晩みんなで食ベた鮭はどうなったかしら、と考えないではいられなかった。昼食にはフィッシュ・マヨネーズにするつもりだった、そうして……
モイラは眠っていた。睡眠は彼女の最近の発見だった。「とてもすてきだわ。ただ、眼をとじるだけ、それでいいの。いい気持」
年寄りの赤ら顔の郵便配達夫が、三輪車をがらがら鳴しながら砂地の路をやって来た、ハンドルを橈《かい》に見立てたい恰好《かっこう》だった。
ビル・ハントが本を下に置いた。「手紙だ」と彼は悦に入っていい、みんな待っていた。だが、心無き郵便屋よ――ああ、性悪の世の中! 手紙はたった一通、イザベルに宛てた厚いのだけ。新聞一つ来やしない。
「あたしのなら、ウィリアムからよりほかないわ」イザベルは面白くもないようにいった。
「ウィリアムから――もう?」
「おだやかな警告というところで、結婚証明書を送り返して来たんだろう」
「結婚証明書って、誰でも持ってるものなんかい? 僕婢《ぼくひ》の類《たぐい》に限って入用のものかと、思ってたんだが」
「幾枚も幾枚も。彼女を見るべし! 手紙を読む女」とデニスがいった。
「可愛いイザベル」幾枚も幾枚も書いてあった。読んで行くうちに、イザベルの驚きは、息づまるような感じに変って行った。いったい、ウィリアムはどんな気持から……? 何て突拍子《とっぴょうし》もない……全く、何が彼をこんなに……? 彼女は面喰って、だんだん興奮し、恐くさえなった。いかにもウィリアムらしい。じゃないかしら? 馬鹿げている、もちろん馬鹿げていて、こっけいというほかはない。「ハ、ハ、ハア! まあ!」彼女はどうすればいいのだろう? イザベルは、椅子にそりかえって、とめどなく笑い続けた。
「どういうの、教えて」みんながいった。「ぜひ頼む」
「あたし、そのつもりよ」というイザベルの含み声。彼女は坐り直して、手紙を取りまとめて、それを彼らに振って見せた。「ぐるりに寄って」彼女はいった。「聴いて、とっても素晴しいんだから、ラブレターなのよ!」
「ラブレターとは! さても冥加《みょうが》な!」|可愛いイザベル《ヽヽヽヽヽヽヽ》。でも、彼女が読み始めるや否や、みんなの笑いが爆発して、それを遮ってしまった。「先を、先を、イザベル、申し分なしだよ」
「とても大した掘り出し物だ」
「さあ、先を読んで、イザベル!」
|可愛い人よ《ヽヽヽヽヽ》、|神かけて《ヽヽヽヽ》、|私は君の幸福を妨げるようなことはしない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
「いよう! いよう! いよう!」
「シッ! シッ! シッ!」
イザベルはなお読み続けた。終りまで読み終った際には、一同はヒステリーの症状を起していた。ボビーは芝生の上をころげ廻って、ほとんどすすり泣いているように見えた。
「ぼくの新しい本に、そっくりそのまま使わしてもらいたいな」デニスは、えらくきっぱりといった、「一章全部を当てることになるだろう」
「ああ、イザベル」モイラがうめくように、「腕にあんたを抱くというところの素晴しさ」
「離婚訴訟でお目にかかるような手紙は作文だとばかし、いつも思ってたが、そんなのも、これの前では顔色無しだね」
「貸してごらん。読ましてよ、ぼく自身で」とボビー・ケーンがいった。
だが、みんなが驚いたことには、イザベルは手紙を手の中でくしゃくしゃにしてしまった。もう笑ってはいなかった。ちらっと彼らを見渡した。彼女は疲れきった様子だった。「いいえ、今はいけないの。今はいけないの」彼女はどもりながらいった。
そうして、みんながまだ平静にもどらないうちに、彼女は家の中に駆けこんで、ホールを抜け、階段を上って、寝室に入ってしまった。彼女はベッドの片側に腰をおろした。「何ていやな、いけすかない、いまわしい下品な連中」イザベルはつぶやいた。手の甲で眼を押さえて、彼女は身体をゆすぶった。するとまた、彼らの姿が眼に浮んで来た、が、四人ではなく、四十人もの者が、彼女にウィリアムの手紙を読ませるかたわら、笑い、あざけり、ひやかし、手を拡げているのであった。ああ、何というひどいことをしたんだろう。どうして、自分はあんなことをしでかしたんだろう! |可愛い人よ《ヽヽヽヽヽ》、|神かけて《ヽヽヽヽ》、|私は君の幸福を妨げるようなことはしない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。ウィリアム! イザベルは顔を枕に押しあてた。しかし、この沈鬱《ちんうつ》な寝室ですらが、彼女の人柄を知っているかのような気がした、浅はかで、おしゃべりで、みえ坊の……
ほどなく、下の庭から声が聞えて来た。
「イザベル、みんな泳ぎに行くわよ。おいでなさい!」
「来れ、汝《なんじ》ウィリアムの妻よ!」
「去る前にまた一たび呼び給うべし、また一たび」
イザベルは身を起した。さあ、今こそ心をきめなくてはならない時だ。彼らと一緒に出かけるか、それとも残ってウィリアムに手紙を書くか。どちらに、そのどちらにしたらいいのか? 「私は決心しなくてはいけない」ああ、迷うことなんかありはしない。もちろん、家にいて、書くのだ。
「タイタニア!」モイラの調子の高い声がした。
「イザーべール?」
だめ、それはとてもむずかしい。「あたしは――あたしは、みんなと出かけよう、そうして、あとでウィリアムに手紙を書こう。別な折に。あとで。今ではなく。でも、|必ず《ヽヽ》書くことにするわ」イザベルは急いで考えた。
そうして、例の新しい笑い方をしながら、階段を駆け降りて行った。
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船の旅
ピクトン航路の船は、十一時半に出帆《しゅっぱん》の予定だった。美しいおだやかな星月夜だった、ただ、彼女たちが馬車を降りて、港の中に突き出している「旧|埠頭《ふとう》」を歩みはじめたとき、水の上を吹き渡ってくる微風がフェネラの帽子をあふったので、彼女は手をあげてそれをおさえた。「旧埠頭」の上は暗かった、まっ暗だった。羊毛倉庫、家畜運搬車、高くそびえている起重機、小さなずんぐりした機関車、すべてが固い闇を刻んだもののように見えた。あちこちの丸い木の杭《くい》は、巨大な黒い茸《きのこ》の茎のようだったが、それに角燈《ランターン》がつるしてあった。しかし角燈は、あたり一面の闇に、そのおずおずした震える明りを広げるのを、恐がっている様子だった、それは、ただ自分のために、というふうに静かに燃えていた。
フェネラの父は、気ぜわしげに大股で進んで行った。父のそばには、ごわごわいう長|外套《がいとう》を羽織《はお》った祖母が、せかせかと歩んでいた。二人の歩き振りが、あんまり早いので、それに遅れないために、時々|見栄《みえ》をかまわず小走りせねばならなかった。自分の手荷物を、革紐《かわひも》できゅっとソーセージぶりに結わえたののほか、フェネラは祖母の傘を抱いていた、と、白鳥の頭を型どったその柄《え》までが、彼女をせきたてるかのように、肩の辺をコツコツ突ついているのだった……帽子を目深にかぶり、襟《えり》を立てた男たちが威勢よく歩いて行った。すっぽりと頭を包んだ女が二、三人、急ぎ足に過ぎて行った。それから、小ちゃな男の子が、ただその小さな黒い腕と脚だけを真白な毛のショールからのぞかせて、父と母とに手をとられて、荒っぽくひっぱられていった。その子は、クリームの中に落ちた蠅《はえ》の子供みたいだった。
すると突然、フェネラとお祖母さんの二人とも飛び上ったほど突然に、いちばん大きな羊毛倉庫――その上の辺りに一条の煙がただよっていた――のうしろのほうから、大きな音が鳴り響いた、ボ、ボ、ボーオー!
「最初の汽笛だ」父がぽつりといった、ちょうどその折、ピクトン通いの船が眼に入った。暗い波止場《はとば》に横づけになって、まん丸い金色の明りがじゅずつなぎに、南京玉《なんきんだま》を連ねたよう。ピクトン行の船は、冷たい海に乗り出すというより、星の群れのあいだを縫《ぬ》って行こうとしているようだ。人々は、ぞろぞろ渡り板を登って行った。最初に祖母が、次いで父が、それからフェネラが続いた。デッキに降りるところに高い踏段があった、と、そのそばに立っていたセーターを着た老水夫が、乾いてごつごつした手をかしてくれた。三人がその場で、せわしげに急ぐ人たちの邪魔にならないように、上甲板に通ずる鉄の階段の下に立って、サヨナラをいいはじめた。
「さあ、お母さん、あなたの荷物です!」とフェネラの父が、祖母に、もう一つ革紐で締めあげたソーセージを渡しながらいった。
「ありがとう、フランク」
「それから、船室の切符は、ちゃんと持ってますね?」
「ええ、持ってるよ」
「ほかの切符は?」
祖母は手袋の中を手さぐってみて、切符のはしのほうを見せた。
「結構です」
彼はきびしい口調でいった、しかし、じっと見ていたフェネラには、父が大儀《たいぎ》そうに悲しげに思えた。ボ、ボ、ボーオー! 第二の汽笛は、ちょうど彼らの頭の上のあたりに鳴り響いた、そうして叫ぶような声がした、「もう降りる人はありませんか?」
「お父さんによろしく」父の唇がそういうのを、フェネラは見た。と、祖母が、無性に昂《たか》ぶって、答えた、「もちろんですとも。さあ、もう。間に合わなくなりますよ。さあ、さあ、フランク、もうお行き」
「大丈夫ですよ、お母さん。まだ三分ほどありますよ」フェネラが驚いたことには、父は帽子をぬいだ。彼は祖母を腕にしっかと抱きしめた。「ご機嫌よう、お母さん!」という彼の声が聞えた。
すると祖母は、薬指のところに穴のあいてる黒い擦《す》り切れた手袋の手を、父の頬に当てて、すすり泣くように、「お前も元気でね!」
フェネラはこれを見かねる気持になって、父と祖母にくるりと背を向けて、一度、二度涙を呑みこんで、しかめ面で、マストのてっぺんの小さな緑色の星を眺めていた。
「さようなら、フェネラ。おとなしくしてるんだよ」父の冷たい湿っぽい口ひげが、彼女の頬を撫でた。でもフェネラは、父の上着の襟《えり》をとらえて離さなかった。
「あたし、どれくらい長く滞在するのかしら?」心配気に彼女はささやいた。父は彼女を見ようともしなかった。彼女をそっとひき離して、やさしくいった、「そんな心配はしないでいいんだよ。さあ! 手をお出し」父は彼女の掌に何かを握らせた。「一シリングあげよう、要《い》るときにお使い」
一シリング! 自分は永久に行ってしまうのに違いない! 「お父さん!」フェネラは叫んだ。だが父は立ち去った。いちばんおしまいに船を降りたのだ。水夫たちが、肩を、渡り板にあてがった。黒いロープの大きな輪が宙を飛んで、桟橋《さんばし》の上に「バサッ」と落ちた。鐘が鳴った、汽笛が鋭く響いた。静かに暗い桟橋が、ずれ、すべり、少しずつ離れて行った。いまや、船と桟橋とのあいだに水がほとばしっていた。フェネラは一生懸命に見ようとした。「こちらへ向いてるのがお父さんかしら?――それとも、手を振ってるのが?――ぽつんと立ってるのが――ひとりで歩んで行くのが?」水幅がだんだん広く、暗くなってきた。もうピクトン行きの船は、外海を指して、ぐんぐん進みだした。これ以上見たって無駄だ。二、三の灯火と、空中にかかっている町の大時計の面《おもて》と、暗い丘の上になお点々と灯《ひ》があるほかは何も見えなかった。
勢いを増した風が、フェネラのスカートを強くひっぱった。彼女は祖母のところへ戻った。ほっとしたことには、お祖母さんはもう悲しそうには見えなかった。ソーセージの恰好《かっこう》をした荷物二つを重ねて、祖母はその上に腰をおろしていた、手を組み合せ、頭を少し片方にかしげて。彼女は、何かに熱中したような明るい顔つきをしていた。と、やがて、彼女の唇が動いているのが眼に映ったので、お祈りをしているのだと、フェネラは思った。しかしお祖母さんは、お祈りはもうおしまいといわぬばかりに、フェネラに明るくうなずいてみせた。彼女は手をほどき、溜息をつき、また手を組み合せ、前のほうにかがんで、最後に身体を静かにゆすった。
「で、もう、ねえ」彼女はボンネットの紐の結び目をいじりながら、「船室のほうを見てみたらと思うんだけど。あたしに、しっかりくっついて、滑《すべ》らないように気をつけるんだよ」
「はい、お祖母さん!」
「そうして、傘を階段の手すりにひっかけないように注意してね。こちらへくる途中で、立派な傘を、そんなふうにしてま二つに折ってしまったのを見たからね」
「はい、お祖母さん」
暗いいくつかの人影が、手すりにもたれていた。彼らのふかすパイプの火がぽっと光る中に、鼻、帽子のひさし、あるいはびっくりしたような一対の眉《まゆ》が照らし出された。フェネラは、ちらっと見上げた。ずっと高いところに、小さな人影が、短いジャケットのポケットに両手を突っこんで、じっと海上をにらんで立っていた。船はほんの少し揺れていたので、星までが揺れているように、彼女は思った。すると、リンネルの上着をきた色の蒼《あお》い給仕が、掌にお盆を高くささげて、灯をともした戸口から出てきて、彼女たちのそばをすれすれに通って行った。二人はその戸口を通った。注意しながら、高い、真鍮《しんちゅう》のへりをつけた階段を越えると、ゴムマットを敷いたところへ出て、それから、おそろしく急な階段を下ることになったので、祖母は一段一段と両足を揃えなければならず、フェネラはしっとりと冷たい真鍮の手すりを握りしめ、白鳥の首の傘のことなどすっかり忘れてしまった。
底に行きつくと祖母は立ち止った。お祖母さんはまたお祈りをするつもりなのかと、フェネラは懸念した。しかし、そうではなかった、ただ船室の切符を出すためだった。二人は社交室《サルーン》に入った。そこは、まばゆいばかりに明るく、むんむんしていて、空気は、ペンキと、骨つきの肉のこげたのと、インドゴムのにおいがした。フェネラは、お祖母さんがずんずん行ってくれればいいと思った、しかし、お年寄りをせきたてるわけにもいかなかった。ハム・サンドウィッチをいれたとても大きなバスケットが祖母の眼をとらえた。彼女は近づいていって、いちばん上にあるのを、指でそっと触れてみた。
「サンドウィッチはいくらです?」
「二ペンス!」粗野な給仕がどなった、ナイフとフォークを、ばたんと放り投げながら。
祖母には、それがほとんど信じられなかった。
「一つが、二ペンスなの?」と彼女は尋ねた。
「その通り」給仕はそういって、自分の仲間に眼くばせをした。
祖母は気弱なびっくりした顔をした。それから、澄ましてフェネラにささやいた、「何て意地わるなんだろうね!」そうして、二人はもったいぶって奥の扉から出て、両側に船室のある廊下を歩いて行った。とてもすてきな女給仕が、二人のところへやってきた。すっかり青一色の身なりで、襟《カラー》と袖《カフス》は真鍮のボタンで留めてあった。彼女は祖母をよく知っているように見えた。
「まあ、クレーン夫人」と彼女は、洗面台の錠《じょう》をあけながらいった。「この船でまたお帰りなんですのね。船室をおとりになるのは、珍らしいことですわ」
「そうなのよ」と祖母はいった、「だけど、こんどは息子が心配してくれましてね――」
「あのお――」と女給仕はいいだしたが、そこで、くるりと向きを変えて、祖母の黒い衣裳、フェネラの黒い上着とスカート、黒いブラウス、それから喪章の薔薇《ばら》のついた帽子などを、じっといたましげに眺めた。
祖母はうなずいた。「神さまの思召《おぼしめ》しですよ」彼女はいった。
女給仕は口をつぐんで、深く息を吸いこんだので、身体がふくれるかと思われた。
「あたしがいつもいってることは」それが彼女自身の発見ででもあるかのような口ぶりで、「おそかれ早かれ、誰しも死ななければならないんですね、それはちゃんと決まってるんです」彼女は黙ってしまった。「さて、何かおもちしましょうか、クレーン夫人? お茶でもいっぱい? 何か寒さをしのぐような温いものを差し上げてもいいんですけど、おすすめするのもいけないと思いまして」
祖母は頭を振った。「いいえ、結構です。ワイン入りビスケットが少しありますし、フェネラは上等のバナナをもってますから」
「では、のちほどまた」女給仕はそういって、扉をしめて、出ていった。
何て小さな船室だろう! お祖母さんと一緒に箱の中にとじこめられたみたい。洗面台の上の暗く丸い眼は、ものうげに二人のほうに微光を放っていた。フェネラは恐くなった。彼女は扉を背にして、まだ荷物と傘とを握ったまま、立っていた。あたしたちは、ここで着物をぬぐのかしら? もうお祖母さんはボンネットをぬいで、それを掛ける前に、二本の紐を巻いて、一つずつピンで帽子の裏地にとめた。彼女の白髪は絹のように輝いた。頭のうしろに小さく束ねた髪には、黒いネットがかけてあった。フェネラは、頭に何もかぶっていない祖母をほとんど見たことがなかった。妙なふうに見えた。
「お前のお母さんがね、あたしに編んでくれた頭巾《ずきん》をつけようね」祖母はそういって、例のソーセージをほどいて、頭巾を取り出すと、頭に巻いた。フェネラに、にんまりと、そして悲しげにほほえみかける祖母の眉のあたりに、灰色の縁飾《ふちかざ》りが小波《さざなみ》のように揺れて動いた。それから、胸衣をぬぎ、その下のもの、またその下のものをとった。それから、もうちょっとどうにかしようと力んでいるらしく、祖母の顔にほのかな赤味がさした。ポツン! パチン! 彼女はコルセットをはずしたのだ。ほっと一息ついて、フラシ天の長椅子に腰をおろすと、ゆっくりと用心して深ゴム靴をぬいで、それを並べておいた。
フェネラが上着とスカートをぬいで、フランネルの部屋着をつけた頃には、祖母はすっかり用意ができていた。
「靴をぬがなくてはいけませんの、お祖母さん? 編上げなんだけど」
祖母はちょっと考えこんでいた。「ぬぐと、とても楽になるよ」と彼女はいった。彼女はフェネラに接吻《せっぷん》した。「お祈りをするのを、忘れてはいけませんよ。神さまはね、あたしたちが陸にいるときよりも、海では、もっともっと守っていて下さるのだから。そうして、あたしは旅には慣れてるからね」祖母は威勢よくいった、「上のほうの寝台にするわ」
「でも、お祖母さん、どうしてあそこへ昇るの?」
フェネラに見えるのは、三脚台みたいな梯子《はしご》が三段だけだった。年寄りはくすくす笑って、機敏に梯子を上って、高い寝床から首をのぞかして、びっくりしているフェネラを見た。
「こんなこと、お祖母さんにできるとは思わなかったろうね?」と彼女はいった。といって、その身体をもとに返しながら、また軽く笑う声をフェネラは聞いた。
真四角な茶色の石鹸《せっけん》は泡立ちが悪く、そうして壺《つぼ》の中の水は青いジェリーみたいだった。それにまた、ごわごわしたシーツのめくりにくいこと! しゃにむに中に割り込むほかはなかった。こんな場合でなかったら、フェネラはくすくす笑ったのかもしれない……とうとう中へ入れた、そうして、まだ息をはずませながら横たわっていると、上のほうから長いひそやかなささやきが聞えてきた、誰かがこっそりと薄紙の中をかきわけて何かを探しているというふうな音。祖母がお祈りをつぶやいているのだった……
長い時がたった。すると例の女給仕が入ってきた、彼女はそっと歩いてきて、祖母の寝台に片手をもたせた。
「ちょうど海峡《かいきょう》にかかるところですわ」と彼女はいった。
「まあ!」
「いい夜ですわ、でも、積荷が少いんですのよ。少し揺れるかもしれません」
すると、ちょうどそのとき、ピクトン行きの船はぐんぐん高くなってゆき、しばらく宙にかかっていて、ぶるっと一ふるいすると、また、ぐーっと下っていって、船ばたを打つ重い水の音がするのだった。フェネラは、あの白鳥の首のついた傘を小さな寝椅子の上に立てかけておいたのを思い出した。もし倒れたら、こわれはしないかしら? しかし祖母も、同時にそれを思い出した。
「すみませんが、給仕さん、私の傘を横にしておいてくれませんか」と彼女はささやいた。
「ええ、承知しました、クレーン夫人」そうして女給仕は、また祖母のところへ戻ってきて、声をひそめて、「お孫さん、とても可愛いい顔をして眠ってらっしゃいますわ」
「それはいい工合ですこと!」と祖母はいった。
「おかわいそうに、お母さんのいらっしゃらないお子さん!」と女給仕はいった。そして祖母は、フェネラが眠りにおちたあとも、起ったことをあれこれと女給仕に語り続けるのであった。
しかし、眠って夢をみるほどのひまもなく、フェネラはまた眼を覚ましたが、ふと見ると、彼女の頭の上の空《くう》に何かが揺れ動いていた。何だろう? いったい、何かしら? それは小さな灰色の足だった。また、もう一つが加わった。二つの足は何かを探っているようだった。溜息が聞えた。
「あたし、目を覚ましてるわよ、お祖母さん」フェネラはいった。
「おや、そう、近くに梯子はないかねえ?」と祖母は、「この端《は》しのところだと思ってたんだけど」
「違うわ、お祖母さん、別のほうよ。あたし、足をのっけてあげるわね。もう着いたのかしら?」フェネラは尋ねた。
「港に入ったのよ」祖母はいった、「起きなくちゃ、ね。前にビスケットを食べて、身体をしゃんとさせとくほうがいいよ」
しかしフェネラは寝台から跳び出た。ランプはまだ燃えていたが、夜は明けていて、寒かった。例の丸い眼からのぞいてみると、遙か彼方にいくらかの岩が見えた。その上に波しぶきがあがり、鴎《かもめ》が一羽、そのそばをすーっと飛びすぎた。そうしてもう、ほんとうの陸地が長く続いて見えてきた。
「陸よ、お祖母さん」フェネラは、驚いたようにいった、まるで何週間も一緒に海に出ていたかのように。彼女は自分の身体を抱きしめた、片方の脚で立って、もう一方の足の爪先で、それをこすった。彼女はぶるぶるふるえていた。ああ、このところずーっと悲しいことばっかしだった。これからは、それも変るのかしら? しかし祖母がいったのは、「さあ急いでね。お前のいいバナナ、もし食べないんなら、給仕さんに置いていこうね」とだけ。で、フェネラは、また黒い衣裳を着た、手袋のボタンが一つちぎれて、手の届かないところへころがりこんでしまった。
二人は甲板に出て行った。
だが、もし船室が寒いというのなら、甲板の上は氷のよう、といえるくらいだった。日はまだ昇っていなかった。が、星の光は薄れて、冷たい蒼白《あおじろ》い空は、冷たい蒼白い海と同じ色をしていた。陸の上には、白い霧《きり》が高く低く揺曵《ようえい》していた。もう、暗い茂みがとてもはっきりとしてきた。傘|羊歯《しだ》の形まで見えてき、骸骨《がいこつ》のような、異様な、銀色の、しなびた樹々……やがて浮桟橋、それに、これもまた蒼白い、小さな家々が、箱のふたの上に並べた貝殻《かいがら》のように、一ところにかたまっているのが、眼に見えてきた。他の船客たちはあちこち歩いていたが、昨夜よりはゆっくりとしていて、憂鬱そうに見えた。
ところでもう、浮桟橋が迎えにやってきた。ゆっくりとピクトン行きの船のほうへ漂い寄ってきた、ロープの輪をもった男、小さなうなだれた馬をつけた荷馬車、荷馬車の踏み段に腰かけているもう一人の男、そうしたものも一緒に。
「ペンレディさんだよ、フェネラ、迎えにきて下さったんだよ」と祖母がいった。嬉しそうな声の響きだった。彼女の白い蝋《ろう》のような頬は寒さに青ざめ、顎はかちかちふるえていて、たえず眼と小さな赤らんだ鼻を拭《ぬぐ》わなくてはならなかった。
「持ってるね、私の――」
「大丈夫よ、お祖母さん」フェネラは傘を祖母に示した。
ロープが宙を飛んできて、甲板の上に「ばさっ」と落ちた。渡り板が下された。ふたたびフェネラは祖母のうしろにくっついて桟橋におり、小さな馬車のところへ歩んでいって、一瞬後にはがらがらと走り出していた。
小さな馬のひずめの音は、木を敷いた上では太鼓《たいこ》を打つように鳴り渡り、それから砂地の道になるとひっそりと静かになった。人影一つ見えなかった、羽ほどの煙さえなかった。霧は高く低く、そうして海は、ゆっくりと岸に寄せては返しながら、まだ眠っているように響いていた。
「昨日クレーンの旦那《だんな》にお会いしやした」ペンレディさんはいった、「その折は、もう、いつもとお変りありませなんだ。前の週、女房が焼パンを一かま作って差し上げましたっけ」
小さな馬は、今はもう、例の貝殻に似た家の一つの前にとまった。二人は馬車を降りた。フェネラは門に手をかけた。と、大きな、ゆらゆらしている露の玉が、手袋の先に浸みとおってきた。まだ眠りながら濡《ぬ》れそぼつ花々を両側に見ながら、白い玉砂利を敷いた小径《こみち》を、二人は上っていった。祖母の植えた、か弱な白石竹は、しとどに露に打たれて倒れていたが、その匂いが、冷たい朝をかぐわしいものにしていた。その小さな家の窓掛はおりていた。二人は、ヴェランダに出る階段を昇って行った。古い半長靴が一足、扉の片側においてあり、もう一方の側には、大きな赤い如雨露《じょうろ》があった。
「しっ! しようがないわね、お前のお祖父さんは」と祖母は言った。彼女は把手を廻した。何の物音もしなかった。「ウォルター!」と彼女は呼んだ。と、すぐに、半ば息の詰ったような太い声が呼び返した、「メリーかい?」
「待っててね」と祖母はいった、「そこへ入っといで」彼女はフェネラをそっと押して、小さな陰気な居間に入れた。
テーブルの上には、らくだのように身体を丸くした白猫がいたが、やがて起き上って伸びをし、あくびをしてから、足先で跳び上った。フェネラは片方の冷たい小さな手を、白い温かな毛の中に埋めて、撫でてやり、また、祖母のやさしい声と祖父の鳴り響くような口調を聴きながら、内気なほほえみをもらした。
扉がきしんだ。「お入り、ね」お祖母さんが手招きしたので、フェネラはそれについていった。大きなベッドの片側に寄って、祖父が寝ていた。一房の白髪のある頭、艶々したバラ色の顔、それに長い銀色の顎《あご》ひげが掛ぶとんの上にはみ出ていた。ひどく年をとった鳥が、大きく眼を見開いている、というふうだった。
「やあ、お前だね!」と祖父はいった、「接吻しておくれ!」フェネラは祖父に接吻した。「うえっ!」と祖父はいった、「この子の小ちゃな鼻はボタンみたいに冷たいぜ。手に持ってるのは何だい? お祖母さんの傘かい?」
フェネラは、またにっこり笑って、白鳥の首の柄をベッドの枠《わく》にかけた。ベッドの上のほうには、筆太く格言を書いて、真黒い枠にはめたのが、かかっていた。
六十のダイヤモンドの分《ふん》もて
組み成せし
黄金のひとときは失われぬ!
償《つぐな》わむとすれど詮《せん》なし
そはとわに去りたれば
「あれは、お前のお祖母さんが書いたんだよ」と祖父はいった。そうして、彼は頭の白髪をもみくちゃにして、しごく陽気な顔つきでフェネラを見たので、彼女は祖父が自分にウィンクしたのではないかと思ったほどだった。
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ブリル嬢
明るく晴れ渡った天気だったが――蒼空《あおぞら》は金粉を撒《ま》いたよう、公園《ジャルダン・ピュブリク》の上には光が白|葡萄酒《ぶどうしゅ》の飛沫《ひまつ》のようにほとばしって――ブリル嬢は毛皮の襟巻《えりまき》をつけてきてよかったと思った。空気はしいんと静かだったが、口を開くと、かすかな冷気が感じられた、アイス・ウォーターを飲む際にそのコップから伝わるそれにも似て。そうして時々木の葉が舞い落ちてきた――どこからともなく、空から。ブリル嬢は手を上げて、毛皮に触れた。愛すべき物! また、これにさわってみるのはすてきだ。被女は、その日の午後|函《はこ》から取り出して、虫よけの粉をふるい落し、よくブラッシをかけ、くすんだ小さな眼をこすって、つややかによみがえらしたのだ。「いったい私の身の上に何が起ったんでしょう?」と、その悲しげな眼がいった。ああ、その眼が赤い綿毛の中から、また、彼女ににくまれ口をたたくのを見るのは、何て愉しいんだろう!……しかし鼻、何かの黒い練り物でできてる鼻は、しっかりしてはいない。何かの拍子《ひょうし》に、ぶつかったに違いない。心配することはない――いざとなったら、黒い封蝋《ふうろう》を一塗り――どうしても必要というときに……小さないたずらっ子! そう、彼女は襟巻に芯からそんな感じをもっていた、小さないたずらっ子は、ちょうど彼女の左の耳のあたりで、自分の尻尾《しっぽ》を噛んでいる。襟巻をはずして、膝の上に置き、それを撫でてみたかった。手や腕がうずうずする気持だった、が、歩いてきたせいでそうなのかと、彼女は思った。そうして息をすると、何か軽やかな、悲しい――いや、的確には悲しいというのではない――何かやさしいものが、彼女の胸の中に揺れ動くように思われた。
この午後はたくさんの人々が出ていた、前の日曜日よりも遙かに多い。そうして、バンドも、ずっと賑やかに陽気に演奏していた。季節《シーズン》の始まりというわけである。年じゅう日曜日にはバンドの演奏があったが、季節はずれではこんな工合ではなかった。誰かが、家族の者に聴かせるために、やっているというふうだった。そこに他人がいたとしても、べつだん演奏の仕方に気をくばることもなかった。指揮者も、新しい服を着ているのではないかしら? 確かに新しい服のようだ。彼はしきりに足をこすって、まさにときをつくろうとする雄鶏《おんどり》のように両手をふった。緑色の音楽堂に座をしめた楽団の連中は頬をふくらまして、譜本《ふほん》に眼を注いでいた。さて、ちょっと「笛《ふえ》らしい」音《ね》が流れた――とても美しい――一連の輝く水滴のように。きっと繰り返して、と彼女は思った。その通りだった、彼女は顔をあげて、ほほえんだ。
彼女の「特別」席には、他に二人だけしか坐っていなかった。ビロードの服を着た上品な老人で、両手で、大きな彫りのあるステッキの頭を握りしめていたし、それから大柄の老婦人が、しゃんとした姿勢で坐っていて、刺繍《ししゅう》をしたエプロンの上に一巻きの編物をのせていた。彼らは無言のままだった。これにはがっかりした、というのは、ブリル嬢はいつも会話を聴くのが愉しみで、それを心待ちにしているのだから。聴いていないようなふりをして盗み聴くこと、ほんのちょっとの間ではあるが彼女のまわりで話している人々の生活に割りこむこと、には全く妙を得ていると自分で思っていた。
彼女は、横目で、老夫婦を一瞥《いちべつ》した。たぶん二人はすぐに行ってしまうだろう。この前の日曜日も、いつものようには面白くなかった。イギリス人の男とその奥さんだったが、男はひどいパナマ帽をかぶり、女はボタン留めの深靴をはいていた。そうして、女のいうことといえば、始めから終りまで、どういう工合だから眼鏡をかけなくてはいけないか、ということをくどくどと話すのだった。眼鏡の必要なことは分っている、でも、買っても仕様がない、きっとこわれるだろうし、決してながくはもたないだろう、と。ところで、男のほうは大した我慢強さだった。あれこれと――金銭や、耳のところがくるりと曲っているのや、ブリッジの内側に小さな|当て物《パッド》のついているのを、いちいち、どうだろうときいてみた。だめ、どれもこれも彼女の気に入らなかった。「きっと、あたしの鼻からずり落ちてしまいますわ!」ブリル嬢は、その細君を、思い切りゆすぶってやりたいような気がした。
老人たちはベンチにかけたまま、彫像のように動かなかった。心配御無用、人はいっぱいいるのだから、眺めるのに事欠く懸念《けねん》は常にない。あちらこちら、花壇《かだん》や音楽堂の前のあたりを、二人連れや組になった連中が練り歩き、立ち止っては話し、挨拶し、柵に盆をのせている老人の乞食《こじき》から一束の花を買ったりしている。その人混みの中を、やにわに飛びかかったり笑ったりしながら、子供たちが走りまわっていた、男の子は、顎《あご》の下に白い絹の蝶《ちょう》ネクタイをつけ、女の子は、レースで飾ったビロードの服を着てフランス人形さながらだった。それに時々、樹の下から広い所へ、ふいに赤ん坊がよちよち出てきて、立ち止って、眼を丸くしていたが、またふいに「どしん」と尻餅をつく、と見るより、気の小さな母親が若い牝鶏《めんどり》のように大胯《おおまた》で駈けつけて、叱《しか》りつけながら助け起すのだ。ほかの連中はベンチや緑色の椅子に腰かけているが、彼らはいつもほとんど同じ様子だ、来る日曜日も来る日曜日も――ブリル嬢はよく気づくのだが――彼らのほとんど全部に、何か変てこなところがあるのである。彼らは奇妙で、だまりこくっていて、たいていが年寄りで、そうして、じっと眼を据えているその様子を見ると、どこか暗い小さな部屋から、いや、戸棚の中からでも、出てきたばっかりというふうに見えるのだった!
音楽堂のうしろには、細っそりとした樹が、黄色い葉をたらしていて、その葉陰を透して一すじの海が見え、その向うには、金糸で縫った雲の浮んでいる青い空。
プカプカ、ドンドン! プカプカ! ドンドン! 楽隊が鳴っていた。
赤い服の二人の若い娘が通りかかると、青い服の二人の若い兵士がこれを迎えて、笑って、それから男女二人ずつになって、腕を組んで立ち去った。おかしな麦稈帽《むぎわらぼう》をかぶった二人の百姓女が、美しい、煙のような色合の驢馬《ろば》をひいて、物々しい顔をして通りすぎた。冷然とした、蒼白《あおじろ》い尼僧が足早に歩み去った。きれいな女がやってきて、すみれの花束を落した、と、男の子がそれを、渡そうとしてあとを追った。女は受け取ったが、汚れたとでもいうふうにそれを投げ捨てた。まあ! ブリル嬢は、そのしぐさをほめたものか、くさしたものか、戸惑《とまど》ってしまった! さて今度は貂《てん》のトーク帽と、グレーの服の紳士《しんし》が、ちょうど彼女のまん前で出会った。男は背が高く、しゃちこばって、いかめしい感じだったが、女は、まだその髪が黄色だった頃買った、貂のトーク帽をかぶっているのだ。今では何もかも、彼女の髪、彼女の顔、彼女の眼までが、使い古した貂と同じ色をしており、そうして、唇をおさえようとして上げた手には、洗濯《せんたく》した手袋をはめていたが、それはいかにも小ちゃな黄ばんだ手だった。ああ、彼女は男に会えて嬉しいのだ――芯《しん》から愉しそう! その午《ひる》さがりのあいびきか、とも彼女は考えてみた。女は、かつて行ったことのある場所――ここ、かしこ、海辺のありとあらゆる場所を、洗いざらいに述べたてた。うっとりするような良い日だし――彼もその気になりそうなものだが? たぶん、承知するのではないかしら?……ところが彼はかぶりをふって、巻煙草《まきたばこ》に火をつけ、深く吸い込んだ煙をゆっくりと彼女の顔のほうに吹いて、まだ女が話したり笑ったりしているのもおかまいなしに、マッチをはね飛ばして、すたすたと歩み去った。貂《てん》のトーク帽は一人になった。彼女は一層明るくほほえんだ。でも、バンドまでが、彼女の気持を察したかのように、いちだんと柔かに、やさしくかなで、そうしてドラムは「ひどい人! ひどい人!」とくりかえし鳴り響いた。彼女はどうしようというのだろう? これから、どんなことになるのだろう? しかし、ブリル嬢がいぶかっているまに、貂のトーク帽はくるりと向きを変え、他に誰か、もっとずっとましな人間を見つけたとでもいうふうに、手を上げて、パタパタと走って行った。と、バンドの調子もまた変って、今度は前よりも性急に、陽気になり、ブリル嬢と同席していた老夫婦は立ち上って、繰り出して行った。長い頬髯《ほおひげ》の何とも奇妙な老人が、音楽を聴きのがしてはたいへんと、ひょこひょこ危なげな足取りでやってきて、並んで歩いている四人の少女にぶつかって、ひっくり返りそうになった。
ああ、何て面白いんだろう! 何て楽しいんだろう! ここに坐って、眺めている心愉しさ! まるで芝居のよう。全く芝居のようである。背景をなしている空も、書割《かきわり》そっくりというほかはない。ところが、何がこんなに場面をわくわくするくらい面白くするか、ブリル嬢にそのわけが分ったのは、そこヘ小さな茶色の犬がもったいぶってやってきて、それからまたゆっくりと走り去ったが、それが小ちゃな「芝居の」犬そっくり、糸で引っ張ってる小犬といった恰好《かっこう》だったからである。すべてが舞台の上にあるのだ。みんなが観客で、観ているばかりでなく、演技をやっているのである。彼女ですらが一役かって、毎日曜日やってくるのだ。もし彼女がそこへ現われなかったら、きっと誰かそれに気づく者がいるだろう、つまるところ、彼女も芸事の一部というわけ。以前そんなふうなことに考え及ばなかったのは、何とうかつだったのだろう! しかも、彼女が毎週かならずきまった時刻に――出演におくれないように――家を出るわけもそれで分るのだし、また、彼女が英語を教えている生徒たちに、日曜日の午後を自分がどんなふうにして過すかを話すときに奇妙な恥ずかしさを感じるのも、つまりそのせいなのだ。道理で! ブリル嬢は大声を出して笑いそうになった。彼女は舞台の上にいるのだ。彼女は、一週間に四度、午後に、新聞を読んでやることになっている病気の老紳土のことを思い出した。彼は聞きながら眠ってしまうのである。木綿の枕の上の脆《もろ》そうな頭《あたま》、落ちくぼんだ眼、ぽかんと開いた口、高く尖った鼻、そんなものにはすっかり慣れっこになっていた。もし老人が死んでしまったとしても、彼女は何週間もそれに気づかなかったかもしれない。てんで気にも留めなかったろう。ところが、老人はといえば、自分が女優に新聞を読んでもらっていることを、ふと知るのだ! 「女優!」老いた頭をもたげ、老いた眼には二つの光の点がふるえる。「女優さんですか――あなたは?」と、ブリル嬢は、彼女の持役の台本かなんぞのように新聞紙の折目をのばして、やさしくいうのだ、「ええ、あたし長いこと女優をしてますのよ」
バンドは一休みしていた。だが今、また演奏をはじめた。曲目は暖かく、明るいものだったが、でもかすかにひんやりとした冷たさがあった――何か、あれは何かしら?――悲哀ではない――いいえ、悲哀ではない――何か人を唱い出したくなるようにするものだ。調べはいちだんと高まって、光が輝きわたっていた。次の瞬間には、彼らのすべて、群れつどうものみんなが、唱いだすように、ブリル嬢には思われた。若い者たち、一緒に歩きながら笑いさんざめいている連中、彼らが口火を切るだろう、次いで男の声、歯切れのよい雄々しい声がそれに和《わ》すだろう。それから彼女も、彼女も、そうしてベンチにいる他の人々も――伴奏のような工合になって加わって――低い、ほとんど高低のない、何かとても美しい――人の心をゆり動かすもの……ブリル嬢は眼にいっぱい涙を溜めて、そこにつどう人々の一人一人にほほえみかけた。そう、この心はみんなに通《かよ》っている、と彼女は思った――何が通っているのか、それは彼女にはっきりしなかったのであるが。
ちょうどそのとき、少年と少女がやってきて、さっきまで老夫婦のいたところに腰かけた。二人とも身ぎれいにしていた、愛人同士なのだ。この主人公と女主人公は、いうまでもなく、少年の父のヨットから出てきたばっかりなのだ。で、まだ心の中で唱いながら、まだあのうちふるえる微笑をたたえながら、ブリル嬢は彼らの話を聴こうと耳を傾むけた。
「いやよ、今はだめ」少女がいった、「ここではだめだわ」
「でもなぜなの。端に、あの老いぼれ婆さんが掛けてるからなの?」と少年が尋ねた。「あいつ、なんだって、ここへくるんだろう――仕様もないのに? どうしてあの馬鹿面《ばかづら》を家にひっこめとかないんだろう?」
「珍妙なのは、あの毛皮の襟巻だわ」少女はくすくす笑った、「鱈《たら》のフライそっくりだわね」
「ちえっ、行っちまえ!」少年はひそひそ声ながら怒気を含んでいった。それから、「ねえ、いってよ、|可愛い人《マ・プチト・シエル》――」
「だめよ、ここでは」少女はいった、「あとでね」
家への帰途、彼女はいつもパン屋で蜂蜜《はちみつ》入りのケーキを一切れ買うことにしていた。それは彼女の日曜日のおごちそうだった。彼女の一切れに巴旦杏《はたんきょう》が入っていることがあり、入ってないこともあった。あるなしでは、たいへんな違いだった。巴旦杏が入っているときには、まるでちょっとしたプレゼント――思いがけない贈物――何か、ないのが当り前といったようなものを持って帰る心地《ここち》だった。巴旦杏に当った日曜日には、彼女はいそいそと戻って、素早く湯わかしのマッチをするのだった。
だが今日は、彼女はパン屋の店先をす通りして、階段をよじ、小さな暗い部屋――戸棚のような彼女の部屋――に入るなり、赤い綿毛の襟巻をつけたまま坐りこんでしまった。彼女は長いあいだ坐っていた。毛皮の襟巻を出した函はベッドの上にあった。彼女は素早く襟巻の釦金《とめがね》をはずした。素早く、見もしないで、それを中にしまいこんだ。しかし、その蓋《ふた》をするときに、彼女は何か泣声のようなものを聞いた気がした。
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最初の舞踏会
さて、いよいよ舞踏会がはじまるとなったら、リーラはどういっていいのか分らなくなってしまうだろう。最初の相手《パートナー》は、たぶん、馬車だったのかもしれない。シェリダン家の娘たちやその兄と同じ馬車に乗ったのは、かまうことではない。彼女は隅っこの席に、深く小さく掛けていた。彼女の手を置いたクッションは、見知らぬ若い男の夜会服の袖のように感じられた。そうして、馬車は滑《すべ》るように走って行った、ワルツを踊《おど》っているような街燈の柱、家、垣根、樹々を、はたに見すごしながら。
「ほんとうに舞踏会ははじめてなの、リーラ? でも、何だか変ねえ――」シェリダン家の娘たちが大きな声でいった。
「うちにいちばん近いお隣りが十五マイルも離れてるんですもの」リーラは、そっと扇《おうぎ》を拡げたり閉じたりしながら、おとなしくいった。
ああ、ほかのみなさんみたいに、平気な顔をしてるなんて、とてもできっこない! あんまりにやにやしないように努めてみた、気にしないようにも心懸けた。だが、どれ一つとして、目新しくて心を躍らせないものはないのだもの……メッグの髪は月下香《げっかこう》を型どり、ジョーズの髪は琥珀色《こはくいろ》の長い輪をつくっている、雪をぬきんでた花のように、白い毛皮の襟巻《えりまき》からのぞくローラの小さな頭の黒い髪。いつまでも忘れないだろう。いとこのローリイが、新しい手袋の留め金から簿紙をはぎとって、くしゃくしゃにひねって棄《す》ててしまうのを見たときには、それすらが彼女に、胸のうずく思いをさせるのだった。彼女にしてみれば、そうした紙きれを、思い出のよすがとして、記念として、取っておきたかったのだ。ローリイは前に身体を乗り出して、ローラの膝に手をおいた。
「ほおら、ね」と彼はいった、「いつもの通り三番目と九番目だよ、わかった?」
ああ、兄さんがいるというのは、何てすばらしいんだろう! もしゆっくりと時間があったら、もしそれがどうにもならないことでなかったら、自分は一人っ子で「わかった?」ときいてくれる兄もいないのだと、泣き出さずにはいられまいにと、リーラは昂《たか》ぶる心に思った。また、あの際メッグがジョーズにいったように、「あなたの髪、今晩ほどうまくゆえたの、見たことがないわ!」と、そういってくれる姉もないのである。
しかし、もちろん、そんな愚痴《ぐち》をこぼしているひまもない。すでに会場の前にきてしまった。前もうしろも馬車また馬車の行列であった。道は両側ともに扇形に拡がった灯のゆらめく中に明るく照し出され、鋪道の上には華やかなみなりの二人連れが、ふわふわと空《くう》に漂って行くかのように見えた。小さな繻子《しゅす》の靴が、まるで小鳥の群れのように、お互いに先を競って進んだ。
「あたしにつかまってらっしゃい、リーラ。迷い子になるわよ」ローラがいった。
「さあ、みんな、急ぐんだよ」とローリイがいった。
リーラは二本の指をローラの桃色のビロードの外套《がいとう》にかけ、そうして、そのまま二人は何だか身体をすーっともち上げられて、大きな金色の提灯《ちょうちん》のそばを通り、廊下を運ばれて行って、やがて「婦人」と記《しる》された小さな部屋に押しこめられた感じだった。ここの混雑はたいへんで、着てきた物をぬぐ場所さえないくらい。つんぼになりそうな騒々しさだ。両側のベンチには、襟巻外套の類がうずたかく積んであった。白いエプロンをかけた老女が二人、あちこち走り廻って、腕いっぱいに抱えた物を、次々と重ねていった。そうして、誰も彼もが、遙か端のほうにある小さな化粧台と鏡のきわへ行こうとして、押し合いへし合いながら進んでいた。
大きなガス燈のゆらめきが、婦人室を照らしていた。その光自体がもう待ちきれないで、踊っているようだ。扉が、また開いて、ホールのほうから、ひときわ強く楽の音《ね》が流れてくると、光は天井《てんじょう》に届くまでに躍り上った。
黒髪の少女、金髪の少女、いずれも軽く髪を撫《な》で、リボンを結び直し、服の胸にハンケチをしまい、大理石みたいに白い手袋を伸《の》すのであった。そうして、誰も彼も笑っているので、リーラには、みんながきれいに見えた。
「人目につかないヘアピンというのはないかしら?」と、ある声が叫んだ、「おかしなことね! 見えないヘアピンなんて、一本もないんだもの」
「あたしの背中に白粉をはたいてちょうだいな」これもまた大きな声。
「だって針と糸が欲しいのよ。襞飾《ひだかざ》りのところが、ひどくほころびちまったの」と、さらに別の泣き声。
それから、「これを、ずっとお廻しになって、お廻しになって下さい!」と呼ぶ声。プログラムを入れた麦稈《むぎわら》のバスケットが、手から手へ渡された。桃色の鉛筆とふんわりふくらんだ総《ふさ》のついた可愛い小さなピンクと銀色のプログラム。バスケットから、その一つを取るとき、リーラの指はふるえた。「あたしも一つ取ることになってるのかしら?」彼女は誰かにきいてみたかった。だが、「ワルツ三、二人でカヌーに乗って。ポルカ四、不意打ちにびっくり」とまで読んだときに、「リーラ、用意はいいの?」とメッグが声をかけた。二人は廊下の人混みにもみくちゃにされながら、ホールの大きな二重扉のほうへ進んでいった。
ダンスはまだ始まってはいなくて、バンドは演奏を休んでいたが、たいへんな騒がしさだったので、たとえまた演奏を始めたところで、とても聞えたものではあるまいと思われた。リーラは、メッグにくっついて、メッグの肩越しに見てみると、天井に懸《か》け渡した小さな色とりどりの旗のひらひらしているのまでが、何やらおしゃべりをしているような感じだった。彼女はもう恐いのも、すっかり忘れてしまった、うちで着つけをしているさなかに、片方には靴をはき、片方にははかないままベッドに坐りこんで、母に頼んで、いとこたちに電話して、やはり行けない、といってもらおうとしたことなぞ忘れてしまった。奥まった一軒屋の自分の家のヴェランダに腰をおろして、月明りの中で、梟《ふくろう》の子が「ホー、ホー」と鳴いているのを聴いていたいというひたすらな希《ねが》いが、あまりにも甘美な歓喜のほとばしりに変ってしまったので、とてもひとりでは耐えきれない気持だった。彼女はしっかりと扇を握りしめ、そうして、きらめき渡る金色の床《ゆか》、ツツジの花、提灯、片方の端に赤い絨緞《じゅうたん》を敷き、金をまぶした椅子《いす》をおいた舞台、片隅に陣どったバンド、などを眺めやりながら、「何てすてき、全く何てすてき!」と、息も詰るように感じ入った。
少女たちはみな入口の片側にかたまり、男のほうはもう一つの側に集まっていた。黒い服の付添いの婦人連は、少し薄のろじみた笑いをうかべながら、舞台のほうへ、磨《みが》きあげた床の上をおずおずと小またに歩んでいった。
「これ、田舎のいとこのリーラですのよ。やさしくしてね。相手《パートナー》をさがしてやって下さいな。あたしが、みてやってるんですから」メッグは友達に次々と、そういって廻った。
見知らぬ顔また顔が、リーラにほほえみかけた――やさしげに、あいまいに。聞き慣れぬ声が答えた、「ええ、もちろんよ」ところが、ほんとうのところは、少女たちは、リーラのことなど眼中にないという気がするのだった。彼女らは、男たちのほうへ眼を注いでいた。男の人たち、なぜ始めないのかしら? 何を待ってるのかしら? 彼らは手袋をのばしたり、艶々した髪を撫でたり、またお互いに笑い興じたりしながら、かなたに立っていた。おりから、全く不意に、こうすべきだと、やっと決心がついたといった工合に、男たちが寄木細工の床を滑るようにしてやってきた。少女たちの間には、嬉しげなざわめきが起った。背の高い金髪の男が、メッグのそばに走り寄って、彼女のプログラムを手にとって、何かを急いで書きこんだ。メッグは、彼をリーラのほうへ廻した。「どうぞ、よろしく」彼は、ぴょこんとかがんで、ほほえんだ。片眼鏡をかけた色の黒い男がやってきた。それから、いとこのローリイが友達を連れてき、ローラがネクタイのゆがんでいる、そばかすのある小男と一緒にきた。その次には、ずいぶん年嵩《としかさ》の男――太って、頭に大きな禿《はげ》のある――が、彼女のプログラムを手に取って、「ええと、ええと!」とつぶやいた。そうして、名前のいっぱい書きこんである自分のプログラムと、彼女のそれとを、長いあいだ見くらべていた。それが、とてもたいへんそうに見えたので、リーラは気恥かしくなった。「あの、決してご心配なく」と、彼女は力をこめていった。だが、太った男はそれに答えないで、何かを書きつけて、彼女をまたちらと見た。「この明るい可愛い顔に、見覚えがあるかしらん?」と、彼は静かにいった。「むかしのわたしが知ってる顔かな?」そのおり、バンドが演奏をはじめた、太った男は見えなくなった。光り輝く床の上を寄せてきて、人の群れを一組ずつに分け、彼らを散らせ、ぐるぐる廻らせる、大きな音楽の波に翻弄《ほんろう》されて……
リーラは寄宿学校でダンスを習ったことがあった。毎土曜日の午後、寄宿生たちは、(ロンドンの)ミス・エクルズが彼女の「特選」クラスを開いている小さなナマコ板造りのミッション・ホールへ、せきたてられて行ったものである。しかし、あの埃《ほこり》くさいホール――壁には聖書の句を縫い取りしたキャラコがかかっており、茶色のビロードのトーク帽をかぶり、兎のような耳をした小柄な女が、おずおずしながら、冷たいピアノを叩いているかたわら、ミス・エクルズが長い白い杖で少女たちの足を突ついた――と、これとでは、天と地の差があるので、もし相手《パートナー》がきてくれないままに、あのすばらしい音楽を聴き、ほかの人々が金色の床をするすると滑って行くのを、ただじっと見ていなくてはならないとしたら、いっそ死んでしまいたい、それとも気を失うか、あるいは両手をあげて、どれかあの星のまたたく暗い窓の一つから飛び出してしまったほうがいいと思うのであった。
「私たちの番ですね――」誰かがお辞儀《じぎ》をし、にっこり笑って、彼女に手を差し延べた、つまり、彼女は死なずにすんだのだ。相手の手に腰を押されながら、彼女は池に投げられた花のように漂って行った。
「とてもいい床ですね?」彼女の耳近く、かすかに、ゆるやかに、声がした。
「とてもよく滑りますわ」リーラがいった。
「何ですって?」かすかな声は驚いたように聞えた。リーラは繰り返していった。と、ちょっと間《ま》をおいてから、「全くですね!」という声が響いて、彼女はまたぐるりと身を廻した。
あざやかなリードの仕方だった。男相手と、女同士で踊るのとは、大した違いだと、リーラはつくづく思った。女同士では、お互いにぶつかり、足を踏んづけ合う、男になる女はいつもひどい掴《つか》み方をする。
ツツジの花は、もはや一つ一つ別の花ではなくなった、花々が桃色と白に染んだ旗になって流れて行った。
「先週ベルさんとこの舞踏会にいらっしゃいましたか?」また声が聞えた。疲れたような調子だった。休みましょうかと、きいてみるのがいいのかと思った。
「いいえ、あたし、これが始めての舞踏会なんですの」彼女はいった。
相手は、ちょっとあえぐような笑い方をした。「えっ、まさか」彼はまともには受けなかった。
「そうなんですのよ! ほんとうに、舞踏会にきたの、これが最初ですわ」リーラは躍起《やっき》になっていた。誰かに話ができるというのは、全く心の慰さむことだった。「生れてこのかた、ずっと田舎にいたんですもの……」
ちょうどその折、音楽がやんだので、二人は壁のきわの二つの椅子に腰をおろした。リーラはピンクの繻子《しゅす》の足をひっこめて、扇を使いながら、組になった男女が次々と開閉ドアを通って消えて行くさまを、無性に愉しい気持で眺めやっていた。
「どう、面白い、リーラ」ジョーズが金髪の頭をかしげながらきいた。
ローラは行きずりに、それと分らないようなウィンクをしてみせた、そのしぐさのせいで、ほんの一瞬ではあるが、リーテは、もうすっかり成人《おとな》になってしまったのかしら、と思ったりした。確かに彼女の相手《パートナー》はあまり口をきかなかった。彼は咳《せき》をし、ハンケチをしまい込み、チョッキを引張りおろし、袖の小さな糸くずを取るのであった。しかし、それはどうでもいいことだった。そうこうするうちにバンドが始まって、まるで天から降ってきたように、彼女の第二の相手《パートナー》が現われた。
「床は悪くありませんね」新しい声が、そういった。床のことから話を始めるのが、しきたりというものかしら? それから、「火曜日にはニーヴさんとこの舞踏会にいらっしゃいましたか?」で、またリーラは説明した。彼女の相手《パートナー》たちが、彼女の話に、もっともっと興味をもたないのが、少しふしぎに思えた。なぜって、こんなに、ぞくぞくするのだもの。彼女の最初の舞踏会! 彼女にとっては、あらゆる事がいよいよこれから始まろうとする、ちょうどそうした折なのだ。夜がいったいどういうものなのか、彼女は、今までまるきり知らなかったような気がした。今までは、夜というものは、暗く、静かで、美しいこともずいぶん多かった――ほんとうに――でも、なぜか物悲しかった。厳《おごそ》かだった。それがもう、二度とあんなふうにはなるまいと思われる――まばゆいばかりに華やかな夜が開いたのだ。
「アイスクリームはいかがです?」と相手がいった。そうして二人は、開閉ドアを通り、廊下を過ぎて、食堂へ入った。彼女の頬は燃えるように火照《ほて》って、ひどくのどがかわいていた。ガラスの小皿にのっているアイスクリームのおいしそうなこと、冷えて霜《しも》をふいたスプーンが、また、なんてひんやりしてるのだろう! そうして、二人がホールに引きかえすと、扉のわきに、例の太った男が彼女を待っていた。すっかり年寄りの彼を見ると、彼女はあらためてぎくりとした。お父さんお母さんたちの席にいるのが、彼にはふさわしい。それに、彼を他の相手《パートナー》たちとくらべてみると、ずいぶんみすぼらしかった。彼のチョッキはしわくちゃであり、手袋のボタンが一つとれていて、上着は滑石《チャコ》でよごれているように見えた。
「さあ、いらっしゃい、お嬢さん」太った男はいった。彼は遠慮なく彼女を抱いて、いかにもそろそろと動いて行ったので、踊っているというより、むしろ歩くに近かった。だが、彼は床のことなぞ、一言もいわなかった。「舞踏会ははじめてなんですね?」彼はつぶやいた。
「どうして、ご存知ですの?」
「ああ」と太った男はいった、「それは年功というものですよ!」
彼は、ぎごちない一組をよけるように彼女をリードしながら、息切れ気味の声で、そっといった。「わたしは、ねえ、こうした事を、もう三十年もやってきたんですよ」
「三十年ですって?」と、リーラは叫んだ。彼女の誕生より十年も以前である!
「思いもよらない気がするでしょうね?」太った男は物憂げにいった。リーラは彼の禿げた頭を見た、と、とても彼が気の毒に思えるのだった。
「まだお続けになってるのは結構だと思いますわ」彼女はやさしくいった。
「やさしいお嬢さん」太った男はそういって、心もち彼女を引きよせて、ワルツの一節を口ずさんだ。
「もちろん」と、彼はいった、「何でも、そんなに長く続けるわけにはいきませんがね。そうはゆかない」太った男はいった、「その遙か以前に、あなたは、立派なビロードの服を着て、あの桟敷《さじき》の上に坐って跳めている、というようなことになりますよ。そうして、このきれいな腕も、短くずんぐりとなってしまって、拍子をとるにも今とは違った種類の扇を使うでしょう――黒い骨の扇」太った男は、身震いしたようだった。「そうして、あなたは、あそこにいるお年寄り連中のように、遠くからほほえみかけ、自分の娘を指さして、降りに坐っている老婦人に、クラブの舞踏会でいけすかない男が娘にキスしようとした模様なぞ話してみたりするでしょう。しかも、あなたの心は、うずき痛む」――太った男は、なお一層身近に彼女を抱き寄せた、その痛む心を芯《しん》から哀れむかのように――「というわけは、もう誰もあなたにキスしようとはしませんからね。そうして、磨きあげた床の歩きにくさ、危なっかしさを、しきりにこぼすようになる。ねえ、踊りの好きな|お嬢さん《マドモアゼル》?」と太った男は低くいった。
リーラはほんのちょっと笑ったが、実は笑いたいような気持ではなかった。いま聞いたことは――いったい、ほんとうなのかしら? まるでほんとうらしく聞えるのだが。してみれば、この最初の舞踏会というのは、しょせん、最後の舞踏会の始まりにすぎないのかしら? と思うと、音楽までが変るように思えた。それは悲しげに響いた、悲しげに、大きな溜息に乗ってくるようだった。ああ、何という事の移り変りの早さ! なぜ仕合せは永久に続かないのだろう。永久では、ちと長すぎるということもないのに。
「あたし、休みたいんですの」彼女は息切れのした声でいった。太った男は、彼女を扉のほうへ導いて行った。
「いいえ」と彼女は、「外へ出たくはありませんわ。坐りたくもありません。ただ、ここに立っていたいんですのよ」彼女は壁によりかかり、足で軽く床を打ちながら、手袋をたくし上げ、ほほえもうとした。しかし、彼女の裡《うち》の奥深いところで、小さな女の子がエプロンを頭にかぶって、すすり泣いていた。どういうつもりで、あの人は、何もかも台無しにしてしまったのかしら?
「あの、もし」と太った男がいった、「わたしのいったこと、本気にとってはいけませんよ、お嬢さん」
「そんなこと!」とリーラはいって、小さな黒い髪の頭をあげ、下唇を噛んだ……
また、組になった男女が、ぞろぞろ歩《あゆ》んで行った。開閉ドアが開いては、またしまった。いま、バンドの指揮者が、新しい曲目を知らせた。しかし、リーラはもう踊りたい気がしなかった。彼女は家へ帰りたくなった、帰って、ヴェランダに腰をおろして、梟《ふくろう》の子の鳴声を聴いていたかった。暗い窓を通して、星の群れを見てみると、それは翼のように長い光芒《こうぼう》を放っていた……
だが、ほどなく、柔かな、溶《と》けるような、うっとりとするような曲が始まった、そうして、巻毛の若い男が彼女の前にきてお辞儀をした。礼儀からいっても、踊らないわけにはいかない、メッグが見つかるまでは。とても固苦しい姿勢で、彼女はまん中に歩を運んでいった。えらくつんと澄ましこんで、相手の袖に手をおいた。しかし、一分たち、一回りすると、彼女の足はなめらかに滑りだした。明り、ツツジの花、衣裳《いしょう》、赤らんだ顔、ビロードの椅子、そうしたものすべてが、一つの美しい飛びめぐる輪になった。そして、たまたま、例の太った男に、彼女の相手《パートナー》が彼女をぶつけると、「|ご免なさい《パルドン》」と太った男はいったのだが、その折彼女は今までにない晴々とした顔で彼にほほえみかけた。彼女はもう二度と、彼のことなぞ心に留めもしなかった。
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声楽の授業
絶望――冷たい鋭い絶望――を、よこしまなナイフのように胸深くに秘めて、メドウズ嬢は、帽子をかぶり、ガウンをまとい、小さなタクトをもって、音楽室に続く寒い廊下を歩んでいった。いろんな年齢の少女たちが、外気に当ったバラ色の顔をし、晴れた秋の朝走って登校するさいの、あの楽しい興奮に湧き立ちながら、大急ぎで、ぴょんぴょん跳ね、バタバタと通っていった。がらんとした教室から、せわしく打つ太鼓《たいこ》のような声が聞えてきた、ベルが鳴った。小鳥のような声が、「ミューリエル」と叫んだ。そうして階段のほうから、ドタン、バタンとすさまじい音が聞えた。鉄亜鈴《てつあれい》を落した者がいるのだ。
科学の女教師がメドウズ嬢を呼びとめた。
「お早よう」と、彼女は甘い気取った口ぶりで叫んだ。「寒いわね。冬みたいだわ」
メドウズ嬢は、例のナイフを胸に、科学の女教師を憎い気持でにらんだ。彼女の何もかもが、甘く、青白く、蜂蜜《はちみつ》みたいだ。あの黄いろい髪のもつれた中に、蜜蜂がひっかかるのを見ても、格別驚くには当らないと思われるくらいだった。
「肌を刺すようね」メドウズ嬢は突けんどんにいった。
相手は甘ったるい笑い方をした。
「あなた凍ってるみたいだわ」と、彼女はいった、彼女は青い眼を大きく見開いた。眼ざしに、揶揄《やゆ》するような光が見えた。(彼女は何か気づいているのかしら?)
「いいえ、そんなでもないわ」メドウズ嬢はそういって、科学の女教師の微笑と引き換えに、急に渋面をつくって、歩みすぎた……
四、五、それに六学級が音楽室に集った。騒ぎは耳がつんぼになるくらい。教壇の上、ピアノの横に、メドウズ嬢のお気に入りのメアリイ・ビーズレイが立っていた、伴奏をするのである。彼女は音楽|椅子《いす》を回していた。メドウズ嬢の姿を見ると、彼女は大きな声で、「シーッ、みなさん!」と注意した。と、メドウズ嬢は、タクトを腕の下にはさみ、両手を袖《そで》に突っこんで、中央の通路をどんどん歩んできて、踏段をのぼり、くるりと向き直り、真鍮《しんちゅう》の楽譜台をつかむと、それを自分の前にすえて、タクトを、二度ほど鋭く鳴らして、静かにするよう合図した。
「静かにして! すぐに!」そうして誰を見るのでもなく、彼女の眼ざしは、フランネルのブラウスの色とりどりの広がりに、桃色の頭や手が浮き、蝶《ちょう》のような髪のリボンがゆれ、音譜がひろがるさまを見渡した。彼女は、みんながどう考えているか、よくわかった。「メドさん、怒ってる」なら、かってにそう思うがいい! 彼女のまぶたがふるえた。みんなにいどむように、きっと首を上げた。あんな手紙で、心臓まで、心臓まで刺し貫ぬかれて、血を流して死のうとしている者に、この連中がどう思おうと、かまいはしない――
……「ぼくたちの結婚は、うまくゆかないだろうという気が、だんだん強くなります。ぼくがあなたを愛してないというのではありません。ぼくはこの上もなくあなたを愛しています。しかし、実をいうと、ぼくは結婚すべき男ではないという結論に達しました。落着くことを考えただけでも、ぼくの心には、ただ――」そうして、「嫌悪」という字があっさり消してあって、その上のほうに「悔恨《かいこん》」と書いてあった。
バジル! メドウズ嬢はピアノヘ歩みよった。と、この瞬間を待ちかまえていたメアリイ・ビーズレイが、前に身をかがめた。「お早ようございます、メドウズ先生」と彼女がささやくと、その頬に巻毛がかかった。そうして彼女は、美しい黄菊を、先生に、身ぶりで合図するようにして手渡した。このささやかな花の儀式は、ずいぶん長いあいだ、一学期半ものあいだ続けられてきたものだった。それはピアノのふたをあけると同じぐらいに、たいせつな授業の一部になっていた。いつもの彼女なら、菊を受け取って、メアリイのほうへ身をかがめて、それをベルトにさしながら、「ありがとう、メアリイさん。なんて素敵! さあ三十二頁をあけて下さい」というのだったが、しかし今朝は、メアリイが恐くなったことには、メドウズ嬢は完全に菊を無視し、彼女の挨拶に答えもしないで、氷のような声でいったのだった、「十四頁をあけて下さい。アクセントによく注意して」
呆然《ぼうぜん》とした瞬間! メアリイの顔が真赤になり、ついには眼に涙がたまってきたが、メドウズ嬢は楽譜台へ戻ってしまった。彼女の声は音楽室じゅうに響き渡った。
「十四頁。十四頁からはじめますよ。『悲歌』さあ、みなさん、もう今までに覚えてなきゃいけなかった歌ですよ。全部やってみましょう、部分部分でなく、全体を。そうして表情《エクスプレッション》を抜いて。唱って、でも、ごくさらりとね、左手で拍子をとって」
彼女はタクトをあげた、二度ほどそれで楽譜台を叩いた。まずメアリイの最初の和声が響いた、みんなの左手が空を打った、そうして若い悲しげな声が、同じ調子に和した、
ああ、つかのまに
喜びのバラは色あせ
秋はいつしか物憂き冬に
すぎゆくは愉しき調べ
たまゆらに消えてかいなし
まあなんと、この悲歌ほど悲痛なものが、この世にあろうか! どの調子も、一つ一つが溜息、すすり泣き、恐ろしい悲哀のうめきであった。メドウズ嬢はゆるやかなガウンの下の腕をあげて、両手で指揮しはじめた。「……ぼくたちの結婚は、うまくゆかないだろうという気が、だんだん強くなります……」彼女は打つ。と、唱声は、〈すぎゆくは!…〉なんだって、あんな手紙を書く気になったのかしら! いったい、なんのせいだろう! なんということもないのだ。彼のこの前の手紙は、「われわれの」本を入れるために買ったという、いぶした樫《かし》の本箱と「こぎれいな玄関のついたて」を見たというようなことばっかりで、「とてもすっきりしたもので、腕木のところに彫物のふくろがついており、その爪は帽子のブラッシが三つかかるようになっています」なぞ書いてあった。それを見て、彼女はにっこり笑ったのに! 帽子のブラッシが三つもいるなんて思うのは、いかにも男らしい! 〈たまゆらに消えてかいなし〉と、みんなが唱った。
「もう一度」メドウズ嬢はいった、「しかし今度は部分部分を。やはり表情を抜いて」〈ああ、つかのまに〉最低女声音《コントラルト》の暗さが加わって、身ぶるいしないではいられないような感じ。〈喜びのバラは色あせ〉この前会いにきたときには、バジルはボタンの孔にバラをさしていた。明るい青のスーツに、あの真紅のバラをつけた姿の、なんてきれいだったこと! そうして、彼もちゃんとそれを知っていた。意識せずにはいられないのだ。まず頭の髪を撫で、それから口髭《くちひげ》を撫でた。彼が笑うと、歯が白く光って見えた。
「校長さんの奥さんが、晩御飯を食べにくるようにって、そういってしようがないんだよ。まったく閉口。あそこでは一晩だってゆっくりできやしない」
「でも、ことわれないの?」
「うん、でもね、ぼくみたいな境遇の人間には、評判をおとすのは、うまくないからね」
〈たのしき調べ〉悲嘆するような歌声。高く、狭い窓の外の柳の木々が、風のまにゆらいでいた。もう、その葉はなかば落ちていた。まだくっついてる小さな葉は、釣糸にかかった魚のように、身をくねらせていた。「……ぼくは結婚すべき男ではない……」歌声がやんで、ピアノが待っていた。
「たいへん結構」メドウズ嬢はいった。しかし、その声には、やはり若い少女がほんとうに恐れを感じるような、何かよそよそしい冷たい響きがあった。「でも、もうわかったでしょうから、表情を加えてみましょうね。できるだけ表情を入れて。いいですか、言葉の意味を考えるんですよ。想像を働かせて。〈ああ、つかのまに〉メドウズ嬢は唱った。「そこは急に出るんですよ――大きく、強いフォルテ――悲しみ。それから次の行の〈物憂き冬〉この〈物憂き〉を、ちょうど寒風がそれに吹き渡るように唱うんですよ。〈物―憂き!〉」という調子があんまり物凄《ものすご》いので、メアリイ・ビーズレイは、腰掛けの上で、背すじをもじもじさせた。「三行目はクレセンドにしなくてはいけません。〈すぎゆくは愉しき調べ〉最後の行のいっとうはじめの言葉で、ぐっと出て、〈たまゆらに〉それから次の言葉、〈消えて〉で、ずっと落して……だんだん弱く……〈かいなし〉は、ほんのかすかなささやきみたいにね……最後の行のあたりでは、できるだけゆっくり唱っていいんですよ、さあ、いいですか」
また二つほど叩く音、彼女はまた腕をあげた。〈ああ、つかのまに〉「……落着くことを考えただけでも、ぼくの心には、ただ嫌悪ばかりがいっぱいに――」嫌悪というのが、彼が書いた文字だった。それは、二人の婚約がはっきり破棄されたというのも同然だった。破棄! 二人の婚約! 彼女が婚約したことが、十分世間を驚かせた。科学の教師は、最初それを信用しなかった。しかし、誰よりも彼女自身がいちばん驚いたのだ。彼女は三十だった。バジルは二十五だった。あの真暗な夜、二人で教会から歩いて帰る途中で、「ねえ、どういうんだろう、ぼく、あなたが好きなんだ」と、彼がそういうのを聞いたのは、奇蹟《きせき》だった、奇蹟というほかはなかった。そうして彼は、彼女の駝鳥《だちょう》の羽の襟巻の端しをつかんだのだった。〈たまゆらに消えてかいなし〉
「繰り返して! 繰り返して!」メドウズ嬢がいった。「もっと表情を加味してね! もう一度!」
〈ああ、つかのまに〉上級の生徒たちは顔を真赤にしていた。下級生の中には泣きだすものもいた。大粒の雨が窓を打っていた。柳の木が、こうささやいていた、「……ぼくがあなたを愛してないというのではありません……」
「でも、あなたが、あたしを愛して下さるというのなら」とメドウズ嬢は考えた、「どれくらいだってかまわないの。愛してね、たとえほんの少しでも」しかし、彼女は、彼が自分を愛してないことを知っていた。その証拠には、「嫌悪」という字を、彼女に読めないように消してしまうほどの注意さえ払ってはいないのだ!〈秋はいつしか物憂き冬に〉彼女は学校もやめなくてはならなくなる。それが評判になってしまった後では、科学の教師や生徒たちに合せる顔もない。どこかに姿を消してしまうより仕様がないのだ。〈消えてかいなし〉歌声は低く、弱く、ささやくように……消えていった……
突然ドアが開いた。青い服の少女が、頭をたれ、唇をかみ、赤い小さな手首にはめた銀の腕輪をねじりながら、通路をせかせかと歩いてきた。彼女は階段を上ってきて、メドウズ嬢の前に立った。
「あら、モニカ、何なの?」
「あのう、メドウズ先生」少女は息をはずませながら、「ワイヤット先生が、お部屋でお会いしたいんですって」
「そうなの」メドヴズ嬢はいった。そこで彼女は生徒たちに向っていった、「あたしがいないあいだ、あんまり騒がないようにね」しかし、生徒たちはすっかりしょげきっているばかりで、ほかに何をする元気もなかった。たいていの者が、鼻をかんでいた。
廊下はしいんと静かで寒かった。メドウズ嬢の足音がこだました。校長は机に向っていた。ちょっとのま、彼女は顔をあげなかった。いつものように、レースのネクタイにひっかかった鼻眼鏡の紐をほどいていた。「メドウズさん、お掛けになって」校長はいともやさしくいった。それから吸取具のところから、桃色の封筒を取りあげた。「あなたに、この電報が来たので、お呼びしたのです」
「あたしに電報ですって、ワイヤット先生?」
バジル! 自殺をはかったのだ、メドウズ嬢はきめてしまった。彼女はさっと手をのばしたが、ワイヤット先生はちょっと電報を引っこめた。「悪いしらせでないといいんですけどね」彼女は親切一途にいった。で、メドウズ嬢はそれを破って開いた。
「テガミキニスルナ、ドウカシテイタ、キョウボウシカケカッタ、バジル」という電文だった。彼女は電報から眼が離せなかった。
「何か重大なことじゃないんでしょうね」ワイヤット先生は身体を乗り出しながらいった。
「いいえ。ありがとうございます、ワイヤット先生」メドウズ嬢は頬を染めた。「ちっとも悪いことじゃありませんわ。それは」――そういって、申訳するようにちょっと笑って――「婚約者《フィアンセ》から来たんですの……あの、こういうんです――」しばらく黙っていた。「ああ、そう」ワイヤット先生はいった。そうして、また沈黙。それから――「まだ授業時間が十五分ほどありますね、メドウズさん?」
「はい、ワイヤット先生」彼女は立ち上った。彼女は半ば走るようにドアに進んでいった。
「あの、ちょっとメドウズさん」とワイヤット先生がいった。「いっときますけどね、授業時間中に先生あて電報をよこすのは、よくありませんね。よっぽど悪い知らせででもないかぎりは、たとえば死亡といったような」とワイヤット先生は説明するのだった、「それともひじょうな事故とか、何かそんなふうな事とか。いいニューズはね、メドウズさん、ゆっくりで結構なものなんですよ」
希望と、愛と、喜びの翼《つばさ》に乗って、メドウズ嬢は飛ぶように音楽室に戻って、通路を過ぎ、階段を昇り、ピアノへ向って行った。
「メアリイさん、三十二頁」と彼女はいった、「三十二頁ですよ」そうして、黄菊を摘みあげて、唇に近づけて、その微笑を隠した。やがて生徒たちのほうを向いて、タクトでコツコツ叩いて、「みなさん、三十二頁。三十二頁ですよ」
われら今はここに来れり
花をつみ
木の実を盛り
リボンを添えて
この喜びを祝わんがため……
「やめ! やめて!」メドウズ嬢は叫んだ。「まるで駄目。なってないわ」そういって、彼女は生徒たちにほほえみかけた。「あなたたち、みんなどうしたの? 何を唱ってるか、ねえ、それをよく考えるんですよ。想像を働かせて下さいよ。〈花をつみ、木の実を盛り、リボンを添えて〉そうして、〈この喜びを〉」メドウズ嬢の言葉が途切れた。「みなさん、そんなに陰気にならないで。温かく、喜びと熱に溢れるようにするんですよ。〈この喜びを〉もう一度。さあ、いっしょに、それ!」
そうして、今度は、メドウズ嬢の声が、みんなの声の上に響き渡った――強く、深く、表情たっぷリに輝いて。
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見知らぬ人
桟橋《さんばし》の上にいる一群れの人々には、船は二度と動きそうにも見えなかった。鈍色《にびいろ》の小波《さざなみ》立った水の上に、大きく、動かないまま横たわっていて、その上に煙の輪が漂い、おびただしい鴎《かもめ》の群れが、炊事室から船尾に捨てる物を狙《ねら》って、鳴いてはまた舞い降りていた。男女が組んで、そぞろ歩いている姿が小さく見えた――灰色の皺《しわ》がよったテーブル・クロースの上の皿を、あちこち歩いている小さな蠅《はえ》といったところ。他の蠅は、皿の端しのほうに、むらがりたかっていた。今、下甲板の上に白くきらめくものがあった――たぶん料理人のエプロンか女給仕だろう。また、小ちゃな黒い蜘蛛《くも》が、船橋《ブリッジ》へ続く梯子《はしご》をす早く登っていった。
群れている人々の前を、いかにも強そうな、中年の男が、とても大した身なりで、グレーの着心地の良さそうな外套《がいとう》をまとい、グレーの絹のスカーフ、厚い手袋、黒ずんだフェルトの帽子というわけ、それが折り畳んだこうもり傘《がさ》をふりながら、行ったり来たりしていた。彼は桟橋にいる一群の指導者格で、同時にまた、みんなを一つにまとめているふうに見えた。何やら、羊犬と羊飼いのどちらつかずといったところだ。
しかし、なんて馬鹿なんだろう――なんて馬鹿な、望遠鏡をもってこないとは! こんなに大勢いるのに、誰一人望遠鏡を持ってはいないのだ。
「妙ですね、スコットさん、われわれのうち誰も望遠鏡を思いつかなかったのは。あれがあれば、船の上の連中をちょいと煽《あお》ることができるし、簡単な信号を送れるんですがね。『躊躇《ちゅうちょ》ナク上陸セヨ。土人ハ無害ナリ』とか『歓迎ス、スベテヲ許ス』といった工合に。どうですか? ええ?」
ハモンド氏の性急な熱をおびた眼は、ひどく神経質でありながら、しかも人なつこく打ちとけていて、桟橋の上にいるあらゆる人をとらえ、渡り板にだらしなくもたれかかっている人夫たちまでのがさなかった。彼らの、誰も彼もが、ハモンド夫人があの船に乗っていることを知っていた、ところで、彼は途方もなく興奮していたので、この素晴しい事実が、彼らにもまた何か意味がないではすまないような気がして仕方がなかった。そのため、連中に対しても、温かな気持が湧くのだった。彼らは、ここにいる一群の人々同様立派なのだ、と彼は心にうなずいた――渡り板のそばにいる人夫たちだって――すてきな、しっかりした男衆だ。何というたくましい胸――全く! で、彼は自分の胸を四角に張って、厚い手袋をはめた両手をポケットに突込み、踵《かかと》、爪先と順繰りに身体を前後にゆするのだった。
「そうなんです、家内はこの十か月間ほどヨーロッパへ行ってたんです。去年結婚したいちばん上の娘を訪ねたんですよ。行くときは、このクローフォードまで、わざわざ送ってきてやりました。それで、思ったんです、ここへきて連れて帰ったほうがよかろうと。ええ、そう、ええ」
すばしこい灰色の眼がふたたび細くなって、気づかわしげに性急に、動かない定期船をうかがうのだった。また外套のボタンがはずれていた。薄手のバターのような黄色の懐中時計が現われ出て、二十――五十――いな百度目の計算をした。
「ええと、さて。検疫のランチが出かけていったのが二時十五分だった。二時十五分と。今はちょうど四時過ぎ二十八分。つまり、医者はもう二時間と十三分も行ってるわけだ。二時間と十三分! ひょうーっ!」半ば口笛のような奇妙な声をだして、また時計をぱちんと閉じた。「でも、もし船で何か起ったのだとしたら、そう知らせてくれるはずですね、ゲーヴンさん!」
「そうですよ、ハモンドさん! 何か――何か心配するような事が起ってるとは思えませんね」ゲーヴン氏は、パイプを靴の踵《かかと》で叩きながらいった、「それと同時に――」
「なるほど! 全くだ!」ハモンド氏は叫んだ、「べらぼうに心配させやがる!」彼はせかせかとあちこち歩き廻ってからまた、スコット夫妻とゲーヴン氏のあいだの自分の位置に戻った。「おまけに真暗になってくる」そういって彼は折り畳んだ傘をふった、夕闇にも少しの間そのおとずれを遠慮するだけのたしなみがあって欲しい、といわぬばかりに。しかし夕闇は徐々に押し迫ってきた、水の上にゆっくりと拡がるしみのように。小さなジーン・スコットは母親の手をひっぱった。
「お茶が飲みたい、ママ!」と彼女は泣き声を出した。
「そうだろうとも」ハモンド氏はいった、「ご婦人がたは、みなさんお茶が欲しいにきまってる」そうして、やさしい、哀れっぽいとも見える眼エしで、また、みんなをちらと一瞥《いちべつ》した。ジェニーは船のサロンで最後のお茶でも飲んでいるのかと考えてみた。ならば結構だが、そうとは思えなかった。いつもの調子で、甲板に出たきりでいるのかもしれない。そうした場合には、たぶん、甲板給仕がお茶を運んでくるだろう。もし、一緒にいたら、自分が取ってきてやるのだが――どうにかして。と、一瞬彼は甲板の上にいて、彼女のそばに立ちながら、彼女が、例のような工合に、小さな手で碗《カップ》を包むようにして船の名残りのお茶を飲んでいるさまを眺めているのだ……だがもう、彼はもとへ戻っていた、それにしても、いったいいつまで船長は船を沖《おき》にとめておくつもりなのか。彼はまたぐるりと廻って、行ったり来たり、行ったり来たり。彼は馬車溜りまで歩いていって、彼の馭者《ぎょしゃ》がいなくなってはいないことを、確かめた。引き返してまた例の群れがバナナかごのかげにかたまっているところへ舞い戻った。小さなジーン・スコットは、まだお茶を欲しがっていた。かわいそうに! ひときれのチョコレートでも持っていればと、彼は残念に思った。
「ほおら、ジーン!」と彼はいった、「高いところ好きかい!」そうして、いとも安々と、そっと少女を抱き上げて、高い樽《たる》の上においた。彼女を抱き、彼女を支えている仕ぐさが、ふしぎに彼の心を軽くした。
「つかまってるんだよ」彼女の身体に片手を廻したまま、彼はいった。
「まあ、ジーンなんか放っておいて下さいまし、ハモンドさん!」スコット夫人がいった。
「いや、いいんですよ、スコットの奥さん。平気です。面白いんです。ジーンはわたしの仲よしだね、ジーン?」
「そうよ、ハモンドさん」とジーンはいって、指を、彼のフェルトの帽子のくぼんだところへさし入れた。
しかし突然、彼女は彼の耳をつまんで、金切り声をはりあげた。
「ほおーら、ハモンドさん! 船が動いてるわよ! ほら、こちらへ入ってくるわ!」
全くだ! 船が動いている。ついに! ゆっくり、ゆっくりと、向きを変えているのだった。鐘が水の上に鳴り渡って、蒸気が威勢よく空中に噴《ふ》き出た。鴎《かもめ》の群れが、舞い上った白い紙きれのように散って行った。どきどきしているのは、汽船の機関《エンジン》なのか、それとも自分の心臓なのか、ハモンド氏には、どうともいえなかった。それがどうでも、彼は元気をふるいおこして、それに耐えねばならなかった。折しも、港務部長をやってるジョンソン老が、革鞄を小脇にかかえて、桟橋を大胯《おおまた》に歩いてきた。
「ジーンは結構ですよ」とスコット氏がいった、「わたしが支えてやりますから」ちょうどいいところだった。ジーンのことは、もうハモンド氏の念頭になかったからだ。彼は飛び出して行って、ジョンソン老に挨拶した。
「やあ、部長さん」ひたむきな、興奮した声がまた響き渡った、「とうとう、われわれに憐《あわれ》れを催してくれましたね」
「わたしをお責めになっちゃいけませんよ、ハモンドさん」ジョンソン老は、定期船のほうを眺めながら、ぜいぜいいう声でいった、「奥さんが船に乗っておいでなんでしょう?」
「そう、そうなんです!」といって、ハモンドは港務部長の横に立った、「ハモンド夫人が乗ってるんです。おーい! もうすぐだぞ!」
船内電話がりんりん鳴り、スクリューの音を空にとどろかせて、巨大な定期船が、黒い水を鋭く切るにつれて、その両側に大きな白いかんな屑《くず》のような波をうねらしながら、彼らのほうに押し迫ってきた。ハモンドと港務部長は、他の連中の前に立っていた。ハモンドは帽子を取った。彼は甲板から甲板を眺めまわした――どの甲板も船客でいっぱいだった、彼は水の彼方に向って、帽子をふって、頓狂《とんきょう》な大声をはりあげた、「おーい」それから振り向いて、わーっと笑いだし、そうしてジョンソン老に何事か――意味もない事――をいった。
「奥さん見つかりましたか?」港務部長は尋ねた。
「いいえ、まだなんです。気を落ち着けて――もうちょっと!」そうして突然、二人の図体の大きなもさっとした間抜けな奴のあいだに――彼は例の傘をふって、「さあ、そこのいた!」という合図をした――一つの手があがるのが見えた――ハンケチをふっている白い手袋。もう一瞬、と――ありがたい、ありがたい!――彼女だ。ジェニーだ。ハモンド夫人があそこに、そう、そう、そうだ――手すりの横に立って、ほほえみ、うなずき、ハンケチをふっている。
「やあ、あれは第一等だ――飛びっきりだ! よし、よし、よし!」彼は確信に満ちて足を踏み鳴らした。稲妻のようなす早さで葉巻のケースをひき出して、ジョンソン老にさし出した。「葉巻を一つ、部長さん! なかなかいいもんです。二本お取りなさい! さあ」――彼はケースの中のありったけの葉巻を港務部長に押しつけた――「わたしはホテルに二箱も持ってますからね」
「これはありがとう、ハモンドさん!」とジョンソン老のぜいぜいいう声。ハモンドは葉巻入れを、もとのところへ押し込んだ。彼の手はふるえていたが、しかしまた気を取り直した。ジェニーと顔を合せることができるのだ。彼女はあそこに、手すりに寄りかかって、誰やら女の人と話しながら、また同時に彼のほうを眺め、彼を待ちもうけている。隔てる水幅がせばまるにつれて、巨大な船の上の彼女の姿の小ささが、彼には印象的だった。こみ上げてくる思いに、ぐっと胸をしめつけられるようで、危うく叫び出しそうだった。ひとりきりで、はるばる遠くへ旅をして、また帰ってはきたが、何と、か細げなあの姿! でもやはり、彼女らしい。いかにも彼女らしい。彼女には勇気がある、というのは――と、今、船員たちが進み出てきて、船客の群れを区切った、渡り板をかけるために手すりをおろした。
岸の声、船の声が、呼び交わし挨拶をした。
「変りない?」
「ええ、無事よ」
「お母さんはどう?」
「ずっといいほう」
「やあ、ジーン!」
「わーあ、エミリーおばちゃま!」
「船はよかった?」
「すてきだったよ!」
「もうじきだよ!」
「間もなくね」
機関がとまった。ゆるゆると船は、桟橋のきわににじり寄った。
「そこどいた――どいた――どいた!」波止場人夫《はとばにんぷ》たちが、すさまじい早さで、渡り板を持ちだした。ハモンドはジェニーに、そのまま立っているように合図した。老港務部長は歩み出た、彼はその後に従った。「ご婦人を先に」とか何とか、くだらないことは、彼の念頭に浮かばなかった。
「どうぞお先に、部長さん!」彼は愛想よくいった。そうして、老人に踵《きびす》を接して、渡り板を登って甲板に出ると、まっしぐらにジェニーに歩み寄り、ジェニーを両手でしっかりと抱きしめた。
「さあ、さあ、さあ! そう、そう! とうとう、一緒になったね!」彼はどもりがちだった。それだけいうのが、やっとだった。と、ジェニーが彼の胸から顔をもたげて、落ち着いた小さな声――彼にとっては、この世で唯一の声――が響いた、「あなた! ずいぶんお待ちになったの?」
いや、ずいぶんではない。でなくても、とにかく、そんなことは問題ではない。もう過ぎ去ったことだ。今大切なのは、埠頭《ふとう》の端しに馬車を待たせているということ。すぐおりる用意ができてるのかしら? 手荷物はまとめてあるのか? もしそうならば、船室の荷物だけ持ってさっさと降りてしまって、あとの物は明日まで放っておけばいい。彼は彼女の上に身をかがめ、彼女は、例のなつかしい笑みともつかない笑みを浮べて、顔をあげた。全くおんなじ彼女だった。一日の違いも見られない。ふだん知っていた彼女そのままだ。彼女は、その小さな手を彼の袖にかけた。
「子供たちはどう、ジョン?」彼女は尋ねた。
(ちえっ、子供のことなんて!)「大丈夫。今までになく元気だよ」
「あたしに手紙をことずけなかったかしら?」
「そう、ことずけたよ――もちろん! 君があとでゆっくり読むように、ホテルにおいてきたよ」
「そんなに早くは行けないのよ」と彼女はいった、「さよならをいいたい人たちがいるし――それに、船長さんにも」彼ががっかりした顔つきをすると、その気持を心得たふうに、彼の腕をちょっと握って、「もし船長さんが船橋を離れてこられたら、家内がたいへんお世話になりましたって、お礼をおっしゃって頂きたいの」よろしい、彼女は自分の手のうちにあるのだ。彼女がもう十分間の余裕が欲しいというのなら――やむなく彼女の希いを容《い》れると、たちまち彼女は取りかこまれた。一等船客の全部が、ジェニーにさよならをいいたげだった。
「さよなら、ハモンドの奥さん! で、この次シドニーにおいでのときには、お寄りになって下さいね」
「ハモンドさん! 忘れないでお手紙下さいね、いいこと?」
「では、ハモンド夫人、あたたがいらっしゃらなかったら、この船旅はどんなだったでしょう!」
彼女がこれまで、船中でもっとも人気のある女性だったことは、火を見るより明らかだ。そうして、彼女はそのすべてを受けいれた――いつもの通りに。全く落ち着きはらって。まさに、小柄な彼女自身――まさに、頭のてっぺんから爪先までジェニーだ、ヴェールをうしろに返して立っているのは。ハモンドは今まで妻が着ている物を、気をつけて見たことはなかった。何を着ていようと、彼にはおんなじだった。しかし、今日彼が気づいたのは、彼女が「コスチューム」――女たちはこう呼ぶのではなかろうか?――を着ていることだった、白いひだ飾り、つけ飾りとおぼしい物が首と袖のところについている。こうしたあいだ、ジェニーは彼をひきまわしていた。
「ジョン、ねえ!」それから、「ご紹介いたしますが――」
ついに二人は、みんなからのがれた、彼女は先に立って、自分の一等船室へ案内した。彼女はもうすっかり慣れきっているが――彼には物珍らしい廊下を、彼女について行くこと、彼女に続いて緑色のカーテンを分けて、彼女のものであった船室に歩み入ること、そうしたことが、なんとも名状しがたい幸福を彼に味わわせた。しかし――こん畜生《ちくしょう》め!――ちょうど女給仕が居合せて、床の上で、毛布を革帯でくるんでいるところだった。
「あれでおしまいです、ハモンド夫人」女給仕は立ち上って、袖をおろしながらいった。
彼はまた紹介された、それから、ジェニーと女給仕は廊下に姿を消した。ささやく声が、彼に聞えた。チップをやっているところだな、と彼は想像した。彼は縞《しま》模様の安楽|椅子《いす》に腰をおろして、帽子をぬいだ。彼女が携えて行った毛布があった。それは新品同様に立派だった。彼女の手荷物すべてが新鮮で申し分なく見えた。貼札《はりふだ》は、彼女の美しい小さなはっきりした字で――「ミセズ・ジョン・ハモンド」と書いてあった。
「ミセズ・ジョン・ハモンド!」彼は満ち足りた長い吐息をついて、腕を組みながら、うしろに寄りかかった。緊張は過ぎ去った。ほっとした気持――あの、彼の心をもみくちゃにした苦しみからやっとのがれた安堵《あんど》を、いつまでもいつまでも吐息していられるような感じだった。危険は去った。それが今の気持だった。二人はまた陸地にいるのだ。
しかし、ちょうどそのとき、ジェニーの顔が隅のほうに見えた。
「あなた――かまわないでしょう? 船医さんのところへ行って、お別れだけしてきたいんですけど」。
ハモンドはさっと席を立った。「わたしも行くよ」
「いいえ、いいえ」と彼女はいった、「心配なさらないで。そうしたくないわ。ほんの一分ほどですもの」
そうして、彼がなんというひまもないまに、彼女は行ってしまった。あとを追いかけたいと思ったが、そうもできなくて、彼はまた腰をおろした。
ほんとうに、じきに帰ってくるんだろうな? もう何時かしらん? 時計が現われた。眼には何にも映らなかった。ジェニーはどうやらおかしいのじゃないか? 女給仕にそういって、代りに挨拶をさせては、なぜいけないのだ? なぜ、わざわざ船医を追いかけねばならない? たとえ急な用事があったとしても、ホテルから手紙を届けることもできように。急な、とは? それは――あるいは航海中病気をしていたということなのかしら――彼女は何か自分に隠している? そうだ! 彼は帽子をつかんだ。そいつを見つけて、しゃにむにその口からありのままをいわしてやろうと、飛び出しかけた。彼はふと何か気づいた気がした。彼女はちょっぴり冷静すぎる――あまりに落ち着いている。最初の瞬間から――
カーテンに音がした。ジェニーが帰ってきた。彼は跳ぶように立ち上った。
「ジェニー、この航海中病気をしたの? そうだね!」
「病気?」彼女のさわやかな小さな声は、彼を揶揄《やゆ》するようだった。ジェニーは毛布をまたいで、そばに近より、彼の胸にふれながら彼を見上げた。
「あなた」と彼女はいった、「びっくりさせないで。もちろん、あたし、じゃなかったわ! いったいどういうわけで、病気をしたなんてお思いになったの? 病気みたいに見えて?」
しかしハモンドは彼女を見なかった。ただ、彼女が彼を見つめていることを、そうして、なんにも心配するようなことはないということを、感じるだけだった。ここには、彼女が心づかいせねばならぬことが、何やかやとあるのだ。それでいいのだ。万事が。
そっと押す彼女の手に、いかにも心の静まるのを覚えたので、その手をそのままにしておきたくて、彼はそれに自分の手を重ねた。と彼女はいった。
「じっとしていてね。あなたのお顔を見たいのよ。まだ見なかったわ。髯《ひげ》をきれいに刈っていらっしゃるのね、なんだか――若くおなりになったみたい、それに確かにお痩せになったわ! 独身《ひとり》暮しが性に合うのね」
「性に合うって!」いとしさのあまり、彼はうなるようにいって、彼女をまた強く抱きしめた。と、また、いつものように、自分のもの――決して自分のものにはなりきれない何かを抱いている心地がした。何か、あまりに繊細で、あまりに貴重なので、一度手放したら、飛んで行ってしまいそうなものを。
「後生だから、二人きりになれるように、ホテルヘ行こうよ!」そうして彼は、誰かに手荷物のことをよく頼んでおこうとして、強くベルを鳴らした。
桟橋を一緒に歩いて行きながら、彼女は彼の腕をとった。彼はまたその腕に彼女を支えたのだ。そうして、ひとり暮しとの違いは、ジェニーの後から馬車に乗り込み――赤と黄の縞《しま》の毛布を二人のまわりにかけ二人ともお茶はまだなのだから、急いでやってくれと馭者《ぎょしゃ》にいう、というふう。お茶なしですましたり、自分でお茶を注いだりすることとも、もうおさらばだ。彼女が帰ってきたのである。彼は彼女のほうに向き直って、その手を握りしめ、そっと、ねだるように、彼女にだけ「取っておき」の声で、いった、「また、うちに帰って嬉しいかい、どう?」彼女はほほえんだ、別に返事をしようともしないで、折から明るい街にさしかかると、そっと彼の手を脇へそらせた。
「ホテルで最上等の部屋をとったんだよ」と彼はいった、「ほかの人間に邪魔されたくはないからね。それから、もし君が寒がるといけないと思って、煖炉の火を少し入れとくように女中に頼んでおいた。いい、気の利く娘だよ。で、せっかく、ここへきたんだから、明日うちに帰ろうなんて思わないで、一日あちこち見て廻って、あさっての朝|発《た》てばいいんだよ。どうだい? 別に急ぐことはないだろう? 子供たちだって、すぐ君に会えるんだし……一日の名所見物は、長旅に、もってこいの息抜きだよ――ねえ、ジェニー?」
「あさっての切符をお買いになったの?」と彼女は尋ねた。
「うん、まあそうなんだよ!」彼は外套のボタンをはずして、ふくらんだ札入れを取り出した。
「ここにある! ソールズベリ行一等車を取ったんだよ。ほら――『ジョン・ハモンド夫妻』と書いてある。二人だけでくつろげるほうがいいと思ったし、それに他人に割込まれるのはいやだろう? でも、も少しここに滞在したいというのなら――?」
「いいえ、決して!」ジェニーはあわてていった、「絶対にそうじゃないわ! では、あさってね。そうして、子供たちは――」
だが、二人はホテルに到着した。広々として、きらびやかに灯をともした車寄せに、支配人が立っていた。彼は二人を迎えに降りてきた。ポーターがホールから荷物を運びに走ってきた。
「やあ、アーノルドさん、とうとう家内が着きましたよ!」
支配人は二人を案内してホールを過ぎ、エレべーターのベルを押した。ハモンドは、彼の商売仲間が、ホテルの小さなテーブルに席を占めて、夕飯前の一杯をやっているのを知っていた。しかし、彼はそれに声をかけたりしようとはしなかった。彼は脇目をふらなかった、好きなように思ってもらって結構なのだ。もし、お察しがつかないのなら、それだけ彼らが馬鹿というものだ――で、彼はエレベーターを踏み出て、部屋の扉の鍵をあけ、ジェニーを導き入れた。扉がしまった。今、ついに、二人きりになれたのだ。彼は灯をともした。カーテンをひき、火は燃えていた。彼は大きなベッドの上に帽子を放り出して、彼女のほうへ進んで行った。
しかし――あろうことか!――また邪魔が入った。今度は手荷物を運んできたポーターだった。ポーターは二《ふた》往復した、そのあいだドアを開けっ放しにして、のろのろと、廊下を行く際には息の洩《も》れる口笛を吹いていた。ハモンドは部屋を行ったり来たりしながら、手袋を、やがてスカーフを、かなぐりすてた。最後に外套をベッドの横に放り投げた。
とうとう馬鹿者はいなくなった。ドアはぴったりとしまった。今度こそ二人きり。ハモンドがいった、「君を、わたしだけのものには決してできないような気になるよ。いまいましい奴らだ! ジェニー」――そういって、彼は上気した熱をおびた凝視《ぎょうし》を彼女に向けた――「夕飯はここで食べよう。食堂へ降りて行くと邪魔が入るだろうし、おまけに音楽がやかましいから」(そういう音楽を、昨晩はあんなにもほめそやし、あんなにも派手に喝采《かっさい》したのに!)「お互いに話す声も聞こえないだろう。何か持ってこさせて、火の前で食べよう。お茶というには、もう遅すぎるし。ちょっとした夕食を頼もうかね? どうだい?」
「そうして下さいな」と、ジェニーはいった、「で、あなたがいらっしゃらないうちに――子供たちの手紙を」
「ああ、あとでいいだろう!」ハモンドはいった。
「でも、それまでには終っちまうでしょう」とジェニー、「で、まず最初に――」
「いや、わたしは下へ行く必要はないんだよ!」ハモンドは説明した、「ちょっと呼鈴を鳴らして注文すればいいんだ……まさか、わたしに部屋を出てもらいたいんじゃあるまいね?」
ジェニーは頭をふってほほえんだ。
「しかし、君は何か別なことを考えてる。何かが気がかりなんだ」とハモンドはいった、「なんだい? ここへきて、お坐りよ――ここへきて、炉の前の私の膝の上にお坐り」
「ちょっと帽子をとるわ」といってジェニーは化粧台のほうへ歩み寄った。「あら!」彼女は小さく叫んだ。
「なんだい?」
「なんでもないのよ、子供たちの手紙が見つかったわ。まあ、いいこと! 腐るもんじゃないから。急ぐことはないわね!」彼女は手紙をつかんで、彼のほうを向いた。それを襞飾《ひだかざ》りのある、ブラウスにしまい込んだ。彼女は口早に浮々と叫んだ、「この化粧台は、なんてあなたらしいんでしょう!」
「なぜだい? いったい、どうしたの?」とハモンドはいった。
「もしこれに、あの世でお目にかかるとしても、『ジョン!』っていうわよ、あたし」とジェニーは笑った、ヘアトニックの大壜《おおびん》や、柳細工をかぶせたオードコロンの壜や、二本のヘアブラッシ、桃色のテープで一まとめにした一ダースの新しいカラーなど、を眺めながら。「これみんなあなたの荷物でしょう?」
「わたしの荷物のことなんか、いいじゃないか!」ハモンドはいった、とはいいながらも、ジェニーにからかわれるのは、悪い気はしなかった。「話そうよ。落ち着いてもっとちゃんとしたことに掛かろうじゃないか。いってごらん」――ジェニーが、彼の膝にちょこんと腰かけると、彼はうしろへ身をひいて、深い不恰好《ぶかっこう》な椅子に彼女をひき入れた――「いってごらん、帰ってきてほんとうに嬉しいかい、ジェニー」
「ええ、そう、嬉しいわ」と彼女はいった。
しかし、被女を抱いてみると、その彼女がどこかへ飛んで行ってしまいそうな感じがした、それでハモンドには分らなかった――彼女が果たして彼同様に喜んでいるものか、どうにもはっきりしなかった。どうしたら分かるだろう? いまに分かるだろうか? この切ない望みを――どうにかして、ジェニーをなるたけ自分と一心同体にして、かりにも逃げ失せたりなぞしないようにしたいという、この飢《う》えのような苦悶《くもん》を、いつまでも持ち続けるのであろうか? 彼は、あらゆる人間、あらゆる物を抹殺《まっさつ》したかった。明りを消してしまいたくなった。そうすれば、彼女がもっと近しいものになるかもしれない。と思う折柄、子供たちからの手紙が、彼女のブラウスの中で、がさがさ音をたてた。彼は、それを、火の中にくべてしまいたい気がした。
「ジェニー」彼はささやいた。
「なあに、あなた?」彼女は彼の胸にもたれた、でも、それは、いかにも軽く、いかにも遙かに隔たった感じだった。高く低い息づかいも一緒だった。
「ジェニー!」
「なあに?」
「わたしのほうをお向き」と彼はささやいた。彼の額《ひたい》が、徐々に紅く上気してきた。「キスしておくれ、ジェニー! わたしにキスして!」
ほんのちょっと間《ま》があったろうか――しかし、彼には、それでもう苦しむに十分だった――彼女の唇が、彼のそれに、強く、軽くふれるまでには――いつもとおんなじようなキスをしながら、それが、あたかも――どういったらいいだろう?――二人の言葉のやりとりを確証し、契約に署名するかのよう。でも、それは彼の求めたものではなかった、およそ彼の渇望したものとは違っていた。突然に、彼はひどく疲れを覚えた。
「もし君に分かったらね」彼は眼を開きながらいった、「それがどんなだったか――今日待ってた気持さ。船はもう決して入ってこないような気がしたよ。あそこで、わたしたちは、うろうろしてたんだ。なんであんなに遅れたんだろう?」
彼女は返事をしなかった。彼から顔をそらして、火を眺めていた。焔はあわただしく――あわただしく石炭の上にゆらいで、すっと衰えた。
「眠ってるんじゃないかい?」ハモンドはそういって、彼女を上下にゆすった。
「いいえ」彼女はいった。それから、「そうしないでね。違うの、あたし考えてたの。実をいうと」と彼女はいった、「昨晩船客が一人死んだのよ――男の人。それで、あたしたち動けなかったの。屍体《したい》を運んできたのよ――海で水葬にはしなかったわけね。ですから、もちろん、船医と港のお医者と――」
「なんだって?」ハモンドは不愉快そうに尋ねた。死んだことなんか聞きたくはなかった。何か妙なふうにして、彼とジェニーとが、ホテルにくる途中で、葬式にぶつかったような気持だった。
「あのね、ちっとも伝染病だなんてことはないのよ!」とジェニーはいった。ほとんど息を吐いてるだけといった低い話し方だった。「心臓だったの」沈黙。「かわいそうに」と彼女はいった。「とても若いのに」そうして、彼女は、火がゆらめき燃え、また衰えるのを、じっと見ていた。
「彼はあたしの腕の中で亡くなったの」とジェニーはいった。
あまりにも突然に、思わぬ一撃を受けて、ハモンドは気を失いそうに思った。動くことも、息をすることも、覚束《おぼつか》なかった。自分の力がすっかりぬけ出て――大きな薄黒い椅子に流れ込み、その大きな薄黒い椅子がしっかと彼を抑え、つかみ、身動きできなくしているような感じだった。
「なに」彼は重苦しくいった、「なんていってるの?」
「臨終はとても穏やかでしたわ」と小さな声。「彼は最後に」――ハモンドは彼女がやさしい手をあげるのを見た――「息を吐いて、それと一緒に命も失せてしまいましたわ」と、彼女の手がおりた。
「誰か――ほかに人がいたの?」ハモンドは、やっと、そうきいた。
「誰も。あたしだけが、そばにいたのよ」
ああ、なんたることだ、なんという彼女の言い草だ! なんということを、このわたしにしでかそうとしているのだ! これでは、わたしが死んでしまう! なのに、そのあいだ、彼女は話し続けた。
「様子が変ってきたので、女給仕に頼んでお医者を呼んでもらったんですけど、お医者がまに合わなくて。どうにも、手のほどこしようもなかったわ」
「それにしても――なぜ君が、なぜ君が?」ハモンドはうめいた。
と聞くと、ジェニーは急にふり向いて、す早く彼の顔色を読んだ。
「ご心配じゃないんでしょう、ジョン、ねえ?」と彼女はきいた、「そうでしょう――あなたとあたしには関係ないんですもの」
どうにかこうにか、彼女に、微笑らしいものを作って見せた。やっとのことで、どもりながら。「そうだね――先を、先を! 話をききたいね」
「でも、ジョン――」
「おはなし、ジェニー!」
「話すことって、何もないわ」思案顔に彼女はいった、「その人は一等船客だったのよ。船に乗り込んだときから、とても工合が悪そうな様子でね……、しかし、昨日までは、ずいぶん元気になったように見えてたの。午後になって、ひどい発作《ほっさ》が起って――興奮して――港に着くというので神経過敏になったんでしょうね。そうして、その後は、もうだめだったんですのよ」
「しかし、なぜ女給仕が――」
「まあ、あなた――女給仕ですって!」とジェニーはいった、「あの人どう思ったでしょう? それに……何かいいのこしたいことが、あったかも知れないし……誰かに」
「しなかったの?」ハモンドはつぶやいた、「何かいいはしなかったの?」
「いいえ、ほんの一言も!」彼女は静かに頭をふった。「あたしがついていたあいだじゅう、もうすっかり弱っていて……弱り果てていて、指一つ動かすことはできなかったんです……」
ジェニーは黙ってしまった。だが、彼女の言葉は、軽く、柔かく、冷たくて、雪のように空に舞い、彼の胸に降ってくるかのようだった。
火は赤くなっていた。今、かさという音をたてて消え、部屋はいちだんと寒くなってきた。寒さが、彼の手先から這《は》い上ってきた。部屋はがらんのようにだだっ広く、明りだけが煌々《こうこう》と照っていた。心の隅々まで冷え冷えとしてきた。なんにも知らない大きなベッドには放り出した外套がぐんにゃりと横にのびて、なんだか首の無い男がお祈りをいっているといったかたち。また運んでゆくばっかりになってる手荷物があった、どこと定めず、汽車に放り込まれ、船に送られて。
……「もうすっかり弱っていて。弱り果てて、指一つ動かせなかったんです」しかも、その男はジェニーの腕の中で死んだのだ。彼女――かつて決して――これまでの長い年月一度も――ほんのただの一度も、なかったことなのに――
いやいや、そんなことを考えるのはいけない。考えてると、気が狂いそう。いやだ、それに面と向かうのはいやだ。我慢ができない。とうてい、こらえきれない!
と、今、ジェニーは、彼のネクタイに指をふれた。蝶ネクタイの両端を一緒につまんだ。
「あなた、どう――お話しして悪かったんじゃない、ジョン? あなたを陰気にしてしまったかしら? あたしたちの晩を――あたしたちだけの晩を、台無しにしてしまったんでしょうね?」
が、それを聞くと、彼は顔を隠さずにはいられなくなった。顔を彼女の胸に埋め、両手で彼女を抱いた。
二人の晩を台無しに! 二人だけの世界を台無しに! 二人は二度と二人きりということにはなれないだろう。
[#改ページ]
公休日
赤ら顔のがっしりした男は、白のフランネルのズボンをはき、桃色のハンケチをのぞかせた青い上着をき、彼にはひどく小さすぎる麦わら帽子を、あみだにかぶっている。彼はギターをひく。白いカンヴァス・シューズをはき、破れた翼みたいなフェルト帽の下に顔も隠れがちな小男はフルートを吹く。それから、今にも破れそうな、くたびれ果てたボタン留めの深靴をはいた、のっぽのやせた男が、ヴァイオリンからリボンを――長く綾《あや》なしながら流れる音のリボンを引き出す。彼らは、果物屋の向い側の明るい日向《ひなた》に、にやにやするでもなく、といって生《き》まじめでもなくて立っている。淡紅色の蜘蛛《くも》といったふうの手がギターをはじく。トルコ玉入りの真鍮《しんちゅう》の指輪をさした丸まっちい手が鳴りづらいフルートを無理やりに操《あやつ》り、ヴァイオリンひきの腕はヴァイオリンを二つに挽《ひ》き割ろうとする。
人の群れが集まる、オレンジやバナナを食べながら。皮をはぎ、割り、分け合っている。一人の娘は苺《いちご》の籠《かご》さえ持っているが、食べはしない。「それ、値が高いんでしょう!」彼女は、何か恐い物を見るように、小ちゃなとがった果物を、じっと見る。才ーストラリアの兵士は笑う。「さあ、食べたら、ほんの一口だ」しかし、彼もまた、彼女に食べさせたいのではない。彼女のびっくりした可愛い顔と、彼を見上げるどぎまぎした眼を見るのが面白いのである。「それ、値が高いんでしょう!」彼は胸を張り、にやにや笑う。ビロードの胸衣《ボディス》をつけた太った老婆たち――古びた埃《ほこり》だらけの|針差し《ピンクッション》のよう――ふるえるボンネットを頭にのせた、すり切れたこうもり傘《がさ》のようなやせた醜い婆さん連。若い女たちは、モスリンの服を着て、生垣《いけがき》に咲く花みたいな帽子をかぶり、高い尖った靴をはいている。カーキー服の男たち、船乗り連、みすぼらしい店員ども、肩にパッドを入れたりっぱなラシャの服を着た、太いズボンのユダヤ人の青年たち。青い服の「養育院の子供たち」――日光が彼らの姿をはっきりと浮かび出させる――大きなきわだった音楽が、ちょっとのま、彼らを大きく一つに束ねる。若い連中はふざけ散らし、押し合って鋪道を踏みはずし、戻り、身をかわし、肘《ひじ》でこづく。年とった者たちは、おしゃべりをしている、「それでいってやったんだよ、お前医者にみてもらいたいんなら、呼んだらいいだろう、ってね」
「で、料理がおわるまでには、あたしの手のひらにのせるほどもないくらいになってしまうんだよ、それで!」
黙っているのは、ぼろを着た子供たちだけである。彼らは、できるだけ楽隊に近よって、手を背にまわし、大きな眼をして立っている。時々片脚でぴょんと跳ね、片手を振り動かす。よちよち歩きの小ちゃな子は、気おされて、ぐるりと三度回って、神妙に腰をおろし、そしてまた立ちあがる。
「いいわねえ?」女の子が、口を手でおおいながらささやく。
と、楽の音はきれぎれの晴れやかな断片になり、また一つになり、また分れ散り、やがて溶けてしまう。群集が散って、ゆっくりと丘を動いてゆく。
路の片隅に屋台が立ちはじめる。
「くすぐり道具! くすぐり道具が二ペンス! くすぐり道具はいかが? くすぐってごらんよ、男衆」針金の柄に小さな柔かな箒《ほうき》のついたもの、兵士たちが争って買っている。
「お化けはどうだ! お化けが二ペンス」
「跳ねる驢馬《ろば》はどうです! みんな生きてますよ!」
「飛び切りのチューインガム。退屈しのぎに一つ。男のかた、どう」
「バラを召しませ。彼女にバラを、殿方。バラをどうです、御婦人方?」
「ハニ! ハニはいかが!」それは買わずにはいられない。美しい、なびいている羽根、碧緑《へきりょく》の、真紅《しんく》の、明るい青の、カナリヤ色の。赤ん坊たちまでが、羽根を帽子にさしている。
そうして、紙の三角帽をかぶった老婆が叫ぶ、あたかもこれが、別れにのぞんでの最後の忠告であり、人の身を救い、あるいは正気に立ちかえらせる唯一の方法ででもあるかのように。「三角帽をお買いなさい。ねえ、おかぶりなさいよ!」
半ば照り、半ば風の、あわただしい日である。日がかげると、影がさっと走る。また現われると、かっと射渡る。背、胸、腕に火がついたような感じ。身体がふくれあがって、生き生きとしてくる気がする……そこで彼らは、大げさな抱擁《ほうよう》の身ぶりをし、意味もなく腕をあげ、若い女目がけて飛びかかり、わっと哄笑《こうしょう》する。
レモネード! いっぱいそれを入れたタンクが、覆《おお》いをかけたテーブルの上においてある。黄いろい水の中に、レモンが、頭ののっぺりした魚のように、浮いている。厚いコップに入れると、ジェリーのように、固まってるみたいに見える。なぜ、こぼさずには飲めないのかしら? 誰でもがこぼす、そうして、コップを返す前に、最後のしずくを捨てると、それが輪になる。
縞《しま》の入った日よけとピカピカした真鍮《しんちゅう》のふたのついたアイスクリームの車の回りに、子供たちが群がっている。子供たちが舌なめずりをする、クリームを入れたラッパ状の容器のまわりで、四角い屋台のまわりで、舌なめずりする。ふたを上げて、木のスプーンを突っこむ。静かに噛みしめている者は、眼を閉じて、それを味わう。
「さあ、この小鳥たちに、みなさんの運だめしをさせましょう!」彼女は籠のそばに立っている、年の頃もさだかでないしなびたイタリア人で、色の黒い指を握ったり開いたりしている。彼女の顔は、名工の手になる緻密《ちみつ》な彫刻といった感じで、緑と金色のスカーフでくるんでいる。そうして、その檻《おり》の中では、ボタンインコが餌函《えばこ》の中の紙きれを取ろうと羽ばたく。
「あなたはたいへん強い性格をおもちです。あなたは赤い髪の男の人と結婚して、子供が三人できるでしょう。金髪の女に用心なさいよ。ごらん! ごらんなさい! 太った運転手の運転する自動車が、丘を走って降りてきます。中に乗っているのが金髪の女、口を尖《とが》らし、身体を前にかがめて――あなたの人生を貫ぬいて走る――御用心! 御用心!」
「紳士淑女のみなさん、私は本職の競売屋であります。もし万一私がみなさんをだましでもしたら、鑑札《かんさつ》を取り上げられるは必定。重い刑に処せられるでありましょう」彼は胸のあたりに鑑札を出して見せる。顔から汗がだくだく流れ、紙のカラーの内側に入ってゆく。彼の眼はガラス玉のように見える。彼が帽子をとると、額には、怒った筋肉が深いしわをきざむ。誰も時計一つ買いはしない。
も一度見てごらん! 大きな|四人乗りの馬車《バルーシュ》が丘をゆれながらおりてくる、中に成人の赤ん坊が二人乗っている。彼女はレースのパラソルをかざし、彼は藤《とう》のステッキの握りをしゃぶっている。太っちょの成人の赤ん坊たちは、揺籃《ゆりかご》がゆれるにつれて、ころころとまろび、湯気を立てている馬は、ゆるゆる丘を下りながら一筋の糞《ふん》を残してゆく。
木の下に、帽子をかぶりガウンをまとったレナード教授が、旗のそばに立っている。彼は、ロンドン、パリ、ブラッセルの博覧会をへめぐって、「一日だけ」ここへきたもので、人相から運命を判断しようというのだ。そうして彼が立って、微笑で勧誘、は気のきかない歯医者という恰好である。ちょっと前、ふざけ散らして悪態をついていた大きな男たちが、六ペンスを手渡して、彼の前に立つと、突然に大まじめに、黙って、おずおずとして、「教授」のす早い手が印刷したカードに印をつける折には、ほとんど顔を赤くしている。彼らは、禁じられた園で遊んでいるところを、木の後から歩み出た主人につかまった子供たちに似ている。
とうとう丘のてっぺんに出る。なんて暑いんだ! なんて晴れた日だ! 酒店が開いて、群集が押し込む。母親は赤ちゃんを抱いて鋪道のへりに腰をおろす、と、父親が暗褐色のビール一杯を持ってきて、それからまた荒々しく人混みを押し分けてゆく。ビールの匂い、器のかちゃかちゃいう音、人々のざわめき、が酒場からただよってくる。
風が落ち、太陽がいっそう烈しく照りつける。二つの開閉ドアの外側には、甘い飲物の甕《かめ》の口のところに、子供たちが蠅《はえ》みたいに真黒にたかっている。
丘の上へ上へと人々がのぼってくる、手に手にくすぐり道具やお化けやバラや羽根をもって。上へ上へと彼らは、光と熱の中に繰り込んでくる、叫び、笑い、金切声をあげながら、あたかも、はるか下のほうにある何かに押されてでもいるかのように、それから、はるか前方にある太陽に引きあげられて明るい目ばゆい輝きの満ち溢れる中へ……何かに向ってゆくというふうに。
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理想的な家庭
その夕べ、生れてこのかたはじめて、ニーヴ老は、開閉扉《スゥイング・ドア》を抜けて、広い階段を三つおりて鋪道に歩み出たとき、春を迎えるには、自分がもうあまりに年老いたことを感じた。春――温かで、熱っぽく、静心ない――がそこに、金色の光まばゆい中に、彼を待っていた、あらゆる人の前に駆け寄り、風に彼の白い髯《ひげ》をなびかせ、彼の腕をやさしく引っぱろうという構えで。でも、彼は春にはそぐわなかった。もう一度、ご破算にして、若者のように嬉々《きき》として、闊歩《かっぽ》するわけにはいかなかった。彼は疲れていた、そうして、はるか午《ひる》過ぎの太陽がまだ照り渡ってはいたものの、妙に肌寒く、全身がかじかむような感じだった。全く突然に、彼は精気を失ったのだ、この陽気さと明るい動きには、もう耐えられない気持だった、これには途方に暮れるのであった。彼は立ち止ってステッキで払いのけ、「どこへでも行っちまえ!」といいたかった。ふいに、いつものように――ステッキを持った手で、中折帽を傾むけて――彼の知っている人々、友人、知己、店員、郵便配達夫、運転手などに、挨拶するのが、ひどく大儀になった。しかし、あの身のこなしにともなう陽気な眼ざし、「わたしは、どなたのお相手もつとめますよ」とでもいいたげなやさしい眼の輝き――それは、ニーヴ老の、どうにも仕様のないものだった。彼は膝をもち上げるようにして、重苦しい歩を運んで行った、まるで、なぜか氷のように重くよどんでしまった空気の中を、歩んででもいるかのように。家路を急ぐ群衆が過ぎ、電車は轟音《ごうおん》を響かせ、軽い荷車がガタガタ通り、大きな辻馬車が、ただ人が夢にしかみないような、向こう見ずな傍若無人の無頓着さで、大きくゆれながら疾走して行った……
事務所の一日は、ふだんの通りだった。格別変ったことも起らなかった。ハロルドは昼食に出かけたきり、四時近くまで帰って来なかった。どこへ行ってるんだろう? 何をしてるんだろう? 彼は、父には知らせようとしないのである。たまたまニーヴ老が戸口まで、訪問者を見送って行って、さよならをいっているところへ、ハロルドはぶらりと入って来た、全くいつもの通りに冷静に、温和に、女にはとても魅力的に見えるあの独特の漠とした微笑を浮べながら。
ああ、ハロルドはあまりに美しい、度はずれに美しい、それが始終|禍《わざわ》いのもとだったのだ。あのような目、あのような睫《まつげ》、あのような唇をもっている男なんて、あるものじゃない。凄《すご》いほどだった。彼の母親、彼の姉妹、召使いたちはといえば、彼を若い神に仕立て上げているといっても過言ではなかった。彼女らは彼を崇拝《すうはい》し、彼がどんなことをしても大目に見た。彼が十三歳になってから以後は、やむをえず見のがすというようなことも、できて来た。彼は母の財布を盗み、金を抜き取って、空の財布を料理番の寝室にかくしたのだ。ニーヴ老は、鋭くステッキを振って、鋪道のふちを打った。だが、思ってみれば、ハロルドを台無しにしたのは家族ばかりではなかった。誰も彼もが、そうしたのだ。ハロルドはただ見て微笑するだけでよかった、すると、みんなは彼の前に降参してしまった。だから、会社でも事はこのしきたり通りに運ぶものと思っていたとしても、おそらく不思議ではあるまい。ふ、ふーん! だが、そうは問屋が卸《おろ》さない。商売というものはうまくいっている、すでに基礎もしっかりしている、大きな儲《もうか》る事業にしても――決して遊び半分にはできないのだ。それに全身全霊を打ちこまねばならぬ、さもなければ、目の前で、ばらばらにくずれてしまうだろう……
それにまた、シャーロットと娘たちは、いつも彼に、一切をハロルドに譲り渡して、引退し、悠々自適《ゆうゆうじてき》するようにいうのである。悠々自適! ニーヴ老は、庁舎の外にある一群のキャベツ椰子《やし》の老樹の下で、ぴたりと立ち止った。悠々自適! 夕風が暗い葉をゆるがして、かすかなカサカサという葉ずれの音が聞えた。家に坐っていて、手持ちぶさたにぶらぶらして、かたわら、彼の畢生《ひっせい》の事業が、にやにやしているハロルドの、華奢《きゃしゃ》な指のあいだから、抜け落ち、溶け去り、消え失せるのを、みすみす見ているなんて……
「どうしてそんなにわからずやなんでしょうね、お父さま? 事務所にお行きになる必要はちっとも無いのに。お父さまがとても疲れていらっしゃるようだなんて、人にしょっちゅういわれると、ただもう返事に困っちまいますわよ。こんな大きな家も庭もあるんですもの。気晴しに、それを愉しんでいらっしゃれば――きっとお仕合せなんですわ。それとも、何か道楽でもお始めになったら」
と、ちびのローラまでが生意気に調子を合わせて、「男はみんな道楽がなくてはいけないわ。もしそれが無かったら、人生はやりきれないわよ」
よし、よし! ハーコート通りに向う高台を、苦心|惨憺《さんたん》して登りながら、彼は苦笑いしないではいられなかった。もし自分が道楽におぼれてしまったら、ローラとその姉妹やシャーロットは、どこにどうなってしまうのか? 聞きたいものだ。道楽では、町にある邸宅と海浜の別荘、彼らの乗馬、彼らのゴルフ、音楽室にすわっているダンス用の六十ギニーの蓄音器などは、とうていまかなえないだろう。こうしたものを、彼らに与えるのは勿体《もったい》ないというのではない。いいや、娘たちはスマートで美人だし、シャーロットはすぐれた女性である、世間に大きな顔をしていられるのは当然である。じっさいのところ、町で彼らの家ほど人気のあるうちはない、これほど人をもてなすところもないのだ。そうして、ニーヴ老は、喫煙室のテーブルの葉巻の函を客のほうに押しやりながらすすめるような折り、妻や娘、それに彼自身に対してまで、お世辞をいわれることが、ずいぶんとあった。
「お宅は理想的なご家庭ですね、ほんとうに。本で読むか、芝居で観るみたいですよ」
「いや、どうも、君」とニーヴ老は答えるのだった、「どうです一つ、お口に合うはずですが。でも庭のほうでお吸いになるのがいいようなら、たぶん、芝生に娘たちが出てますよ」
娘たちがまだ結婚してないのは、そのせいだ、と人は噂《うわさ》していた。その気があれば、誰とでも結婚できたのだ。しかし家の居心地が、あまり良すぎた。娘たちにシャーロット、みんな一緒で幸福すぎたのである。ふむ、ふむ! よし、よし! おおかた、そうだろう……
この時までに、彼はハーコート通りのめぬきを、端まで歩き通して来ていた、その角の家、自分の家に到着したのだ。馬車門が押し開かれていた、車道には、新しい轍《わだち》のあとがついていた。次いで彼は、白く塗った大きな家の前に出た、広く開け放った窓、薄絹のカーテンは外へふんわりとなびき、広い出窓にはヒヤシンスの青い壺《つぼ》がおいてあった。車寄せの両側には、あじさい――町でも有名なのが――花を開こうとしていた、桃色がかった、青みがかった花のかたまりが、葉の拡がりのあいだに、光のように見えていた。と、どうしたことか、ニーヴ老には、家と花と、それから車道の真新しい轍のあとまでが、こういっているように思われた、「ここに若やいだ生活がある。若い娘たちがいて――」
玄関は、いつものように、槲《かしわ》の箱の上に積み上げた襟巻やパラソルや手袋の類で薄暗いくらいだった。音楽室からは、急調子の、烈しい、いらだたしいようなピアノの音が響いて来た。応接間の扉の狭い隙間から、人声が聞こえた。
「で、アイスクリームは出たの?」というシャーロットの声。それから彼女の|揺り椅子《ロッカー》のきしむ音。
「アイスクリーム!」エセルが叫んだ。「お母さま、あんなアイスクリームってないわ。ほんの二種類きり。それに一つは、ありきたりのストロベリーのクリームで、びしょびしょになってるの」
「たべものは、みんなひどいものだったわ」とマリオンの声。
「でも、アイスクリームをたべるには、まだ早すぎるんじゃない」シャーロットは、さりげなくいった。
「だって、もしたべるとしたら……」とエセルがいい始めた。
「ええ、そうだわね」シャーロットはつぶやいた。
突然に音楽室の扉が開いて、ローラが飛び出して来た。彼女は、ニーヴ老を見ると、おどろいて、声をあげそうになった。
「あら、お父さま! びっくりしたわ! 今帰っていらしったの? なぜチャールズが来て、外套をぬがせてさしあげないのかしら?」
ピアノを弾《ひ》いていたため、彼女の頬は赤く火照《ほて》っており、眼はきらきら光っていて、髪は額に垂れ下っていた。そうして、まるで暗闇を走り抜けて来て、ひどく恐かったかのような彼女の息づかいだった。ニーヴ老は、彼の末の娘をじっと見つめた、彼女をはじめて見たような感じだった。あれがローラか? だが、ローラのほうは、父を忘れているようだった、彼女が待っているのは父ではなかったのだ。今、彼女は、くしゃくしゃにしたハンカチの先を歯で噛みしめて、いら立たしげに引っ張るのであった。電詰が鳴った。わあっ! ローラは、むせび泣くような声をあげると、父のそばを走って行った。電話室の扉がパタンと締まった、と、ちょうどその瞬間に、シャーロットが呼びかけた、「お父さまなの?」
「またお疲れになったのね」シャーロットは、とがめるような調子でいって、揺り椅子をとめて、温かなスモモのような頬を、彼のほうへさし出した。艶やかな髪のエセルが彼の顎髯《あごひげ》にそっと接吻し、マリオンの唇は彼の耳を刷《は》いた。
「歩いていらっしゃったの、お父さま」シャーロットがきいた。
「そう、歩いて帰ったのさ」と、ニーヴ老はいって、応接間の大きな椅子の一つに、身を埋めるように坐った。
「でも、なぜ馬車にお乗りにならなかったの?」エセルがいった、「この時刻なら、馬車はいくらでもいるでしょうに」
「あの、エセル」とマリオンは大きな声で、「もしお父さまが疲れるのがお好きなのなら、あたしたちが差出口をきいても、全く仕様がないわ」
「これこれ、お前たち!」シャーロットがなだめた。
しかしマリオンは、だまろうとはしなかった。「いいえ、お母さま、お母さまがお父さまをいけなくしておしまいになるのよ、それがいけないんだわ。お母さまはもっときびしくなさらなくてはいけないのよ。お父さまはとてもやんちゃなんですもの」彼女は、かたい明るい声で笑って、鏡に映る姿を見ながら、軽くその髪をたたいた。ふしぎなものだ! 少女の頃には、彼女は、柔らかな、ためらい勝ちな声をしていて、どもりさえした。ところが今では、何をいっても――ただ単に「ジャムを下さいな、お父さま」という場合でさえ――まるで舞台にでも立っているかのように大きく響きわたるのであった。
「ハロルドは、あなたより先に、事務所を出ましたの?」シャーロットは、ふたたび椅子を揺りはじめながら、尋ねた。
「よく分からないね」ニーヴ老はいった、「よく分からない。四時過ぎてからは、あれに会わなかったから」
「あの子いってましたのよ――」と、シャーロットはいいはじめた。
しかし、ちょうどその時、新聞か何かの頁をひっくり返していたエセルは、母のそばに駆けて来て、そのそばの椅子に腰をおろした。
「ほうら、ねえ」と彼女は叫んだ、「あたしのいうのはこれなの、母さま。黄色に、銀をあしらったの。いいとお思いにならない?」
「ちょっと見せてごらん」とシャーロットはいった。彼女はべっこう縁《ぶち》の眼鏡を手探りして、それをかけ、太った小さな指で頁を軽くたたいて、口をすぼめた。「とてもいいわね!」彼女はあいまいに小さくいった。彼女は眼鏡ごしにエセルを見た、「でも、裳裾《もすそ》はないほうがいいわ」
「裳裾がないほうがいいって!」エセルは悲しげな声をあげた。「だって裳裾が、かんじんかなめなんですわ」
「なら、お母さま、あたしに決めさして」マリオンはシャーロットから、ふざけた様子で新聞を取りあげた。「あたし、お母さまに賛成よ」彼女は、勝ちほこったように叫んだ。「裳裾は調子があんまり重すぎるわ」
ニーヴ老は、すっかり忘れられてしまって、椅子に奥深く坐りこんで、うとうとしながら、彼女らの話を、まるで夢のように聞いていた。それは間違いなかった、彼は疲れきっていた。手の力が抜けてしまった。シャーロットと娘たちまでが、今晩の彼には手に余った。彼女らは、あまりに……あまりに……しかし、うとうとしている頭で、やっと思えるのは彼には、あまりに立派すぎる。そうして、どこだか、あらゆるもののうしろに、小さな、ひからびた、えらく老いこんだ男が、果てしなく続く階段を、よじ登って行くさまを、彼は見ていた。あれは誰だろう?
「わたしは今夜盛装はしないよ」彼はつぶやいた。
「なんですって、お父さま?」
「え、なに、なんだっけ?」ニーヴ老は、びっくりして目を覚まして、彼女らをじっと見すえるのだった。「わたしはね、今夜、盛装はしないよ」と、彼は繰り返した。
「でもお父さま、ルーシルが来ることになってますし、それにヘンリー・ダヴンポートにテディ・ウォーカーさんも」
「とっても、ちぐはぐに見えるでしょうよ」
「気分がお悪いの、お父さま?」
「何にもご自分ではなさらなくてもいいのよ。チャールズは何のためにいるんです?」
「でも、ほんとうにお工合が悪いんでしたら」シャーロットはためらった。
「いいよ! いいよ!」ニーヴ老は立ち上って、さっきの、階段をよじていた小さな年老いた男と一緒に、彼の着換え室まで、歩いて行った……
そこに若いチャールズが待っていた。注意深く、万事がそれに懸ってでもいるかのように、彼は湯たんぽをタオルでくるんでいた。若いチャールズは、赤い顔をした少年で、この家の暖炉《だんろ》番としておめみえして以来、ずっと主人のお気に入りだった。ニーヴ老は、窓ぎわの藤《とう》の寝椅子に横たわると、脚をのばして、冗談《じょうだん》めかして、「盛装を頼むよ、チャールズ!」といった。と、チャールズは、強く息をつき、それから、眉をひそめるようにして、身をかがめて、主人のネクタイからピンを抜き去るのであった。
ふん、ふん! よし、よし! 開け放った窓ぎわは快適であった、とても快適で美しいおだやかな夕暮だった。下のテニスコートの芝生を、刈っているところだった、草刈り機を操《あやつ》る音が低く聞えて来た。じきにまた、娘たちはテニスの会を始めようというのだろう。そう思うと、どうやらマリオンの声が響き渡るのが聞こえるようだった、「うまいっ……うまいプレイだわ、あんた……とても素敵」折から、シャーロットがヴェランダから呼ぶ声がした、「ハロルド、どこにいるの?」するとエセルが、「ここにはいませんわ、お母さま」と、シャーロットの「あの子はいってたのに……」というぼんやりした声。
ニーヴ老は溜息をつき、立ち上り、片手を顎髯の下にあてがい、チャールズ青年から櫛《くし》を受け取って、入念に白い顎髯を梳《す》き返すのであった。チャールズは彼に、折り畳んだハンケチ、認印《みとめいん》のついた時計、眼鏡のケースを手渡した。
「もういいよ」扉はしまり、彼はうしろへもたれかかった、たった一人だった……
で、さて、例の小さな年老いた男は、果てもない階段を降りて行くのであった、階段は煌々《こうこう》と光り輝く華やかな食堂に続いていた。なんという脚だろう! まるで蜘蛛《くも》のそれのよう――か細く、しなびている。
「お宅は理想的なご家庭ですね、理想的なご家庭で」
では、もしそれがほんとうなら、なぜシャーロットや娘たちは、彼を留めなかったのか? なぜ、彼だけが一人きりで、階段を昇ったり降りたりしているのか? ハロルドはどこにいるのだ? ああ、ハロルドに期待するのは、およそ意味ないことだ。小さな年老いた蜘蛛男は下へ、下へと降りて行って、それから、ニーヴ老が大いに驚いたことには、食堂を通り抜け、車寄せのほうへ進み、暗い車道、馬車門、次いで事務所へ行くのが見えた。あの男をつかまえろ、あの男をつかまえろ、誰かいないか!
ニーヴ老は、はっとして立ち上った。更衣室は暗く、窓は蒼白く光っていた。いったいどれくらい、眠りこんでいたのだろう? 彼は耳を澄ませた、と、大きな、空虚な、暗くなった家の中に、遥かな声、遥かな物音、が漂っているのだった。たぶん、と彼はぼんやり考えた、ずいぶん長く眠っていたのだろう。彼は忘れられているのだ。何もかも、自分に何のかかわりがあろう――この家とシャーロット、娘たちとハロルド――そうしたものの何を、自分は知っているだろう。みんな自分にとっては他人なのだ。人生は、もう彼を置き去りにしてしまった。シャーロットは自分の女房ではない。自分の女房は!
トケイソウの蔓《つる》で半ばおおわれた暗い玄関、その蔓は、彼の心を知るかのように、悲しげに、愁《うれ》わしげに、垂れ下っていた。小さな、温かな腕が、彼の首にからんできた。彼を見上げる小さな、蒼白い顔、そうして、かすかな声だった、「さようなら、いとしい人」
いとしい人! 「さようなら、いとしい人!」いったい、どの誰れがいったのか? どうして、さようならと、いったのだろう? 何かとんでもない間違いがあったのだ。彼女《ヽヽ》は自分の妻だ、あの小さな蒼白い乙女は、そうして、その後の彼の生涯は、すべてただ夢であった。
折りから扉が開いて、チャールズが明るいところに立って、両手を身体の脇にのばし、若い兵士のように叫んだ、「食事の準備ができました!」
「行くよ、行くよ」ニーヴ老はいった。
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小間使い
十一時。ドアをノックする音。
……お邪魔したんでなかったらいいんですけど。眠ってはいらっしゃらなかったんでしょうね? いま奥さまにお茶をさし上げたばっかりで、とてもおいしいのが一杯余りましたので、ふと思いつきまして、たぶん……
……いいえ、ちっとも。あたし、いつもお茶一杯をおしまいにお出ししますの。奥さまはお祈りをおすましになってから、身体を温めるため、ベッドの中でお飲みになるんです。奥さまがおひざまずきになると、あたしは湯わかしをかけて、それに向かっていいますのよ、「さあ、お前はむやみに急いでお祈りをいわなくったっていいんだよ」でも、奥さまのお祈りが半分もすまないうちに、いつも沸いちまうんです。ねえ、うちでは存知あげてる方が、たくさんいらっしゃいますでしょう。その全部のために、お祈りしなくちゃいけないんです――一人のこらず。うちの奥さまは、小ちゃな赤い手帳に、みなさまの名簿をこさえていらっしゃいます。それが、たいへん! 誰か新らしい方がたずねていらっしゃると、あとで奥さまがおっしゃいます、「エレン、あたしの赤い手帳を持ってきて」って。あたし、やっきになりますのよ、ほんとに。「またもう一人」と、思いますの、「天気におかまいなく、奥さまをベッドに入れないようにしておく人が」それにねえ、奥さまはクッションを敷こうとはなさらないでしょう。かたいカーペットの上におひざまずきになって。あたしみたいによく奥さまを知ってると、そんな御様子を見ると、ひどく気がもめて仕方がないんです。奥さまを、ごまかそうとしてみました。羽根ぶとんをひろげておいたのです。ところが、そうした最初のときに――奥さまは私をご覧になって――それがとてもおごそかなお顔つき。「エレンや、主《しゅ》は羽ぶとんをお敷きになったかい?」ですって。でもあの頃はあたしも若かったものですから――こう申し上げたかったんです、「いいえ、しかし主は奥さまほどのお年じゃありませんでしたし、奥さまの腰痛も知ってはいらっしゃらなかったんですもの」いけない性分――でしょうかしら? でも奥さまって、とってもいい方でしょう。今しがた、ふとんを掛けてさしあげて――あおむけに、両手を外にお出しになって、おつむを枕にしてらっしゃるところを見ると――ほんとにおきれいで――「あたしがお棺《かん》に入れてさしあげたときのお母さまそっくり」と思わずにはいられませんでしたの。
……ええ、ええ、みんなあたしにまかされたんです。ほんとに大奥さまはおきれいでしたわ。あたしがお髪《ぐし》をこさえました、ふんわりと、額のあたりをみんな上品な巻毛にして、くびの片方のところに、とてもきれいな三色すみれの束をさしてあげました。その三色すみれのせいで、大奥さまはまるで絵みたいに見えましたわ! あの花は忘れられません。今夜、奥さまを見て、「あの三色すみれさえあったら、どっちがどっちともわからないだろう」と、そう思いました。
……やっと最後の年のことでしたわ。ほんのちょっと、そう――いわば、呆《ぼ》けたようにおなりになってからのことですけど。もちろん、危《あぶ》なっかしいことなんかありませんでした。大奥さまはこの上なくやさしいお方でしたから。しかし、どんなふうだったかというと――何かを無くしたように思ってらしったんですね。じっとしていられない、落ち着いていらっしゃれないんです。一日じゅう行ったり来たりしてらっしゃいました。どこででも出会うんです――階段で、ポーチで、それから台所にもお出でになりました。そうして、人の顔をご覧になると、こうおっしゃるんです――まるで子供みたいに、「なくしたんだよ、なくしたんだよ」「さあ、いらっしゃいませ」とあたしはいうんです、「いらっしゃいませよ。奥さまのため、(トランプの)ペーシェンスの札をならべてさしあげますから」でも、大奥さまはあたしの手をお取りになって――あたしはお気に入りでしたもの――声をひそめて、「見つけておくれよ、エレン。ね、見つけておくれ」とおっしゃるのです。おかわいそうでしょう?
……いいえ、とうとう、よくはおなりになりませんでした。ついに脳溢血《のういっけつ》で。最後におっしゃった言葉は――ごく低く、「中を見て――中を――見て」って。そうして、お亡くなりになりました。
……いいえ、あたしが気づいてなんて、まさか。ほかの女たちは、気づいていたんでしょうけどね。でも、あたしは、まあ、奥さまだけにお仕えしてたようなものですものね。あたしの母は、あたしが四つのとき、肺病で死にました、で、あたしは、髪結いの店を出してた祖父と一緒に住んでいました。あたしはいつも店にいて、テーブルの下で、人形の髪を結っていました――助手たちのまねをしてたんでしょうね。助手たちは、あたしに、とてもやさしくしてくれました。小さなかつらをこさえてくれたりして、色とりどりの、最新流行のものなんかを。そうして、そこにあたしは一日じゅう坐っていました、ほんとにおとなしく――お客さまも、気づかないくらいに。ほんの時々、あたしはテーブル掛の下から、外をのぞくのでした。
……しかしある日、私はどうにかして鋏《はさみ》を手に入れて――全く飛んでもない――あたしの髪をみんな切っちまったんです。それを細く切りきざんで、あたしは小さなお猿《さる》さんみたい。祖父の怒りようったら! 火箸《ひばし》をつかんで――決して忘れはしませんわ――あたしの手をとらえて、指を火箸で挟《はさ》んだのです。「これでこりるだろう!」と祖父はいいました。恐ろしい火傷《やけど》になりました。今ですら、その痕《あと》がのこってます。
……それがねえ、祖父はあたしの髪がたいへん自慢でしたの。お客さまたちがいらっしゃる前に、よく、あたしを帳場の台の上に乗っけて、何か美しい髪形にしてくれました――大きくふんわりとカールして、てっぺんにウェーブをかけたりして。思い出しますわ、ぐるりに助手たちが立っていて、そうしてもらっているあいだ、祖父がくれた一ペニー銅貨を握って、とても神妙にしていたことを……でも、いつもその銅貨は後で取り戻されてしまいました。気の毒なお祖父さん! あたし自身が仕出かしたお化け姿を見て、かっとなったんですね。でも、今度はあたしが祖父におびえてしまいました。あたしがどうしたと、お思いになります? 逃げ出しましたの。ええ、そう、隅から隅へ、出たり入ったり、せいぜい逃げても知れたものですけど。ほんとに、見物《みもの》だったにちがいありません、エプロンで手を巻いて、髪の毛をピンと立てて。見た人たちには、さぞおかしかったことでしょう……
……いいえ、祖父にはどうにもそれが我慢できなかったんです。ぶざまなあたしが見るにたえなかったのです。あたしがそばにいると、御飯さえ食べられない始末。ですから伯母があたしを引き取ってくれました。伯母はびっこで、室内装飾を商売にしていました。とても小さな人で! 椅子の寄り掛りをしつらえるときには、ソファの上に立たないとだめでした。そうして、伯母の仕事を手伝ってたとき、あたしは奥さまにお会いしたのです……
……いいえ、それほどでもありませんでした。あたしは十三をちょっと越えてました。どんな気持でいたことか、おぼえてもいません――そうですね――いわばまあ子供だったということでしょう。ほれ、お仕着せや、何やかや頂くんでしょう。はじめから、奥さまはあたしをそばからお離しになりません。ええそう――一度だけ外へ参りましたわ。あれは――面白いんですの。ざっとまあ、こんな具合でした。二人の姪《めい》ごさんが奥さまのところへ滞在していらしって――当時シェルドンにいましたの――その原っぱに市《いち》が立ったんです。
「さて、エレン。小さな嬢ちゃん二人を驢馬《ろば》に乗せに連れてっておくれ」と、奥さまがおっしゃいました。私たちは出かけました。お二人ともそれは神妙に、それぞれあたしの手をとって。しかし、驢馬のところまでくると、お二人はおっかながって、お乗りになりません。それで私たちは立って、眺めていました。なんてきれいな驢馬だったんでしょう! 荷車を引っ張ってないのを見たのは、あたしはじめてでした――娯楽《ごらく》用とでもいうのでしょうか。驢馬は可愛いい銀鼠いろで、小ちゃな赤い鞍《くら》と青い手綱《たづな》をつけ、耳のところで鈴《すず》がちりんちりん鳴っていました。そうして、とても大きな娘さんたちが――あたしより年上の人たちまでが――それに乗って、たいへんはしゃいでいました。なみたいていのはしゃぎかたではありませんでした。ただ楽しんでるではすまないくらい。そうして、どういうわけか、その小さな足の動き、その眼――とてもやさしい――それからその柔かな耳を見ていると、何をおいても驢馬の背に乗ってみたくなりました!
……もちろん、それはいけませんわ。嬢ちゃんたちをお連れしていましたから。それに、お仕着せの服で乗ったりしたら、いったいどんなふうに見えたでしょう? でも、その日終日あたしの頭を離れなかったのは驢馬――驢馬のことでした。もし誰にも話さないでいたら、胸が張り裂けてしまいそうな気がしました、といって誰に話したものか? しかし、寝床に入ると――あたしは、当時料理人をしていたミセズ・ジェームズの寝室で眠っていました――燈が消えるか消えないかに、あの驢馬たちが現われてきました、ちりんちりん鈴を鳴らし、きれいな小さな脚、悲しげな眼をして。……ところで、どうしたとお思いです、あたしは長いこと待って、眠ったふりをしていました、それから突然起き上って、できるだけ大きな声で、「あたし、驢馬に乗りたいわ。驢馬に乗りたいのよお!」と叫びました。ねえ、あたし、そういわずにはいられなかったんです。そうして、ほかの人たちも、あたしが寝言をいったにすぎないと思えば、笑いはしまいと思ったのです……
……いいえ、今はもう決して。もちろん、一時はそれを考えました。でも、そうなるはずもなかったのですわ。彼は、道に沿って、私たちの住んでた筋向いに、小さな花の店を開いていました。妙でしょう? あたしときたら、花が大好きなんですもの。あたしたちは当時ずいぶんよく会いました、諺《ことわざ》そのままに、あたし、たいていはその店に入りびたり。そうしてハリーとあたし(彼の名はハリーといいました)は、花の陳列《ちんれつ》の仕方で口論するようになりました――それがきっかけでしたわ。花! まあどうでしょう、彼はあたしに花を持ってくるようになりました。とめ度がないほど。鈴蘭《すずらん》を持ってきたことも、一度や二度ではありませんでした、決して誇張でなく! で、もちろん、あたしたちは結婚して、その店に住むつもりでした、そうして事はちょうどそんなふうに運んでいましたし、あたしが窓の飾りつけをすることになっていました……ああ、土曜日の窓飾りを、どんなに工夫をこらしてしたことでしょう! もちろん、現実にでなく、まあ夢想していたというところです。クリスマスの装飾もしてみました――ヒイラギに文句を添えたりなんかして! それから復活祭の百合《ゆり》も工夫してみました、中ごろに黄水仙《きずいせん》をはなやかな星のようにかためて。一心に考えました――でも、この話はもうたくさんですわね。いよいよ彼が、あたしに家具を選ばせる日がやって来ました。あの日が忘れられるでしょうか? それは火曜日でした。奥さまは、その日の午後、ふだんのようではございませんでした。何かおっしゃったというんじゃありません、もちろん。何もおっしゃいませんし、おっしゃるおつもりもないんです。しかし、身体をおくるみになって、今日は寒いかどうかとお尋ねになり――そうして、その小さな鼻が……かじかんで見える、そんな御様子でわかったのでした。あたしは奥さまのそばを離れたくありませんでした。始終気に懸ってしようがないだろうと、思ったのです。とうとう、あたしは、外出を延ばしたほうがいいのでしょうか、とお尋ねしました。「そうじゃないよ、エレン。あたしのことを心配しないでね。あの若い人をがっかりさせてはいけないわ」とおっしゃいました。しかも陽気に、ちっとも自分のことなど気にかけてはいらっしゃらないように。それで、いっそう、私は気が重くなりました。あたしは、どうしたものかと思い煩《わずら》いはじめました……と、奥さまはハンケチをふと取り落して、それを自分でかがんで拾おうとなさるのです……以前には決してなさらなかったことでした。「まあ、なんてことを!」あたしは、それをおとめしようと駆けよって叫びました。「でもねえ」奥さまはほほえみながらおっしゃいました、「そろそろけいこしておかなくてはね」わっと泣き出さないですんだのが、せいぜいでした。あたしは化粧台のところへ歩いて行って、銀の器を磨《みが》くようなふりをしましたが、どうにも自分の気持を抑えきれなくなって、あの、あたし……結婚しないほうがよろしいんでございましょうか、とお尋ねしました。「いいえ、エレン」と奥さまはおっしゃいました――「いいえ、エレン、決してそんなことはないわ!」しかし、そうおっしゃりながらも――あたしは奥さまの鏡に見入っていました、もちろん、あたしに見えていることを、奥さまはご存知ありませんでしたが――奥さまは、ちょうど大奥さまがよくそうなすってたように、心臓のあたりに小さな手をお当てになって、眼をあげていらっしゃるのでした……ああ。
ハリーがやって来たときには、あの人の手紙全部を用意しておきました、指輪も、もらった可愛い小ちゃなブローチも――それは銀の小鳥で、くちばしに鎖がついており、鎖の端には短刀で貫ぬかれたハートがついていました。当時大流行のものでした! あたしは、ハリーのため、扉をあけました。彼に、一言も物をいう余裕を与えませんでした。「さあ」と私はいいました。「みんなお返しするわ。何もかもおしまい。あたしあなたと結婚するつもりはないのよ」そうして、「奥さまから離れられないの」といいました。真っ青! 彼は女のように蒼白い顔になりました。あたしは扉をさっと閉じずにはいられませんでした、閉じたままそこに、ぶるぶるふるえながら立っていました。彼が行ってしまったと知るまで。扉を開けたときには――まあ、どうでしょう――あの人はほんとに行ってしまったのでした! あたしは、そのまま道に駈け出しました、エプロンをかけ、上靴をはいたまま。そうして、道路のまん中にじっと立っていました――まじろぎもしないで。
……おやまあ、たいへん!――あれ、なんでしょう? 時計が打ってる音ですね! すっかりお休みになるお邪魔をして。中途でよすように、そうおっしゃって下すったら、ようございましたのに……おみ足をくるんでさしあげましょうか? いつも奥さまのおみ足をくるむんでございますよ、毎晩、おんなじように。すると奥さまがおっしゃいます、「お休み、エレン。よく眠って早く起きるんだよ!」もし奥さまがそうおっしゃらなかったら、もう、あたしどうしていいかわからないでしょう。
……ほんとに、あたし時々思いますのよ……もし何事か起ったら、あたしどうしたものだろう……しかし、ほれ、考えたってなんの役にも立ちませんわね……そうでしょう? 考えても仕様がありませんわ。そうそう考えるわけではないんです。そうして、もし考えでもすると、あたしはしゃんと気を張って、こういうんですの、「ほうら、エレン。また考えてる――お前おばかさんだね! 考えごとをするより、もっと何かましなことが見つからないなんて……」
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解説
キャサリン・マンスフィールド(Katherine Mansfield)は、一八八八年、ニュージーランドのウェリントンに生れた。ほんとうの名は、キャスリン・マンスフィールド・ビーチャム(Kathleen Mansfield Beauchamp)。父はハロルド・ビーチャムという実業家であった。村の小学校、中学校を経て、私立の女学院に行き、さらにロンドンのハーレイ街のクウィーンズ・カレッジで四か年間の学生生活を送った。一九〇六年にウェリントンに帰ったが、そのまま故郷に落ち着く気にはなれなかった。というのは当時、オスカー・ワイルドらの世紀末的な唯美主義文学が英文壇を風靡《ふうび》していたが、彼女もまたその花々しさに魅せられて、芸術的野心を抱くにいたっていたからである。一九〇八年、彼女はふたたびロンドンヘ作家修業に出発した。しかし、修業は楽でも順調でもなかった。何よりも彼女が必要としたのは経験であった。ところで、はじめ彼女にはそれがわからなかった。絶望の後にやっと自覚したのは、再度故郷を後にした十九の年に、彼女はすでに必要な一部を経験していたということだ。彼女の傑作の素材は、実はニュージーランドにおける生い立ちの生活体験の中にあったからである。
ロンドンヘ来てまもなく、恋愛と妊娠と結婚、それからババリアヘの転地保養から流産という惨めな出来事が続いた。一九一一年に最初の短篇集『ドイツの下宿で』(In A German Pension)が出たが、それは彼女のその頃の自叙伝に近い。ところで、一九一〇年はじめ頃ロンドンヘ帰って来た彼女は、クウィーンズ・カレッジ時代の学友アイダ・ベイカー(Ida Baker)のもとに身を寄せたが、この人こそキャサリン終生の守り神となったのだ。やがて彼女は、また次の情事に乗り出す。しかし、これもいつか泡沫と消えた。彼女の恋愛が実を結んだのは、一九二一年にジョン・ミドルトン・マリー(John Middleton Murry)に会ってからである。このすぐれた批評家と同棲し、それから結婚(一九一八年、旧夫との離婚ができたその年)したいきさつは、彼女の書簡集などにくわしい。彼は、精神的にも実際的にも、キャサリンの文学活動の支柱となり、彼女の創作はようやく軌道に乗って円熟しはじめた。だが、ニュージーランドの回想を基礎にした「序曲」(一九一八年)あたりまでは、まだまだ未完の時代といえるだろう。『序曲』は、後の彼女の全作品に対する規格となり、雛形となったことで注目される。
しかし、これより以前、彼女は病んで、南フランスのバンドルに転地していた。一九一七年暮れまでには、病気は肺結核と診断された。むしばまれた健康の一進一退に従って、ロンドンと大陸の間を往復、居を移しながら書き続けたが、一九二三年ついにフランスのフォンテーヌブロで亡くなった。沈みゆく太陽が一瞬空を彩《いろど》るように、彼女の文学活動も晩年近くに絢爛《けんらん》と開花した。一九二〇年の『完全な幸福、その他』(Bliss and other stories)の出版がその契機となった。一九二〇年から二一年にかけて、南フランスのマントーンヌで六篇が書かれた。『小間使い』『ブリル嬢』『パーカーおばあちゃんの暮し』は、いずれも冷たい世間にひとり生きてゆく女の寂漠《せきばく》がモティーフになっている。『故大佐の娘たち』は、父の死によって存在の理由を失った姉妹の物語である。『若い娘』と『見知らぬ人』が、マントーンヌにおける執筆の締めくくりになった。この後彼女はスイスに移る。一九二一年は生涯でいちばん忙しい年になった。『理想的な家庭』『最初の舞踏会』『船の旅』『湾のほとり』『園遊会』など、キャサリン・マンスフィールドの代表的傑作が次々と生れた。これらはニュージーランドを舞台にして、彼女の育った家と家族の面影を伝えている。彼女は弟の戦死(一九一五年)から受けた衝撃をきっかけとして「帰らぬ時の追求」すなわち「生れ故郷の思い出を書こう」と決心して、つとめて自己の経験を創作に織りこもうとしたのであるが、これらの作品はそうした彼女の独自の傾向を示す典型的なものである。このシリーズの全部とマントーンヌの六篇、それに『鳩氏と鳩夫人』『ア・ラ・モオドの結婚』『公休日』を加えたものが、一九二二年に『園遊会、その他』(The Garden-Party and other stories)として出版された。『園遊会』は、夫マリーに捧げられ、太西洋の両側で絶賛された。しかし遅すぎた。病状は日々に悪化し、死が足早にやってきた。『園遊会』の中に死を主題としたものが多いのも、彼女が「透明な生の下にすでに死を見て」いたからであろう。
彼女の死後、二つの作品集が出た。その一つは『鳩の巣』(The Dove's Nest 一九二三年)で、中心テーマはやはり、彼女が好んでとりあげる孤独の女とニュージーランドの物語である。その二は『子供っぽいこと、その他』(Something Childish and other stories)で、これに含まれるものの多くは、『ドイツの下宿で』と『完全な幸福、その他』刊行の間に書かれたものである。
キャサリン・マンスフィールドはチェーホフに似ているといわれるし、チェーホフのマンスフィールドの作品に対する影響を比較論評した研究も珍らしくない。事実、彼女はチェーホフが好きだったし、チェーホフの短篇小説に学ぼうとしたことは疑いない。しかし、両者の相似がどうであれ、少なくとも修辞と用語の点では、マンスフィールドはチェーホフより、はるかに叙情的であるようだ。彼女の叙述には、叙情詩の特色である統一性、形式美、内包情緒の集中的表現がいちじるしい。彼女自身が「おそらく詩ではない。また散文でもない。たぶん一種独特の散文ともいうべきもの」を心がけていたことはもちろんであって、しかもその困難な課題は見事に果たされたといえるだろう。
ところで、このような繊細《せんさい》な文章を邦訳することは、実は容易でない。ただ達意の訳文というだけでは、原文の微妙な美しさは死ぬだろう。正確に、しかもできるだけ原作の持ち味を生かしたい、とは訳者として誰しも思うことには違いないが、果してそれがいまどれほど達せられたか? ただ、私もまた、そのように微力を尽したとだけしかいいようがない。
この仕事を終るにあたって思い出がある。もう数年以前にもなるだろう。当時マンスフィールド全集の翻訳刊行がもくろまれ、私も「園遊会」を担当したが、その後プランは挫折《ざせつ》した。せっかく執筆しはじめたものを放棄するにしのびず、引き続き訳了したものが本書である。途中|紆余曲折《うよきょくせつ》を経ただけに、この本の誕生は嬉しい。最近の私は、アメリカ文学それもテレビ・ドラマというごく特殊なジャンルに専念している。したがって今後、このような英文学の正統とまともに取り組むようなことは、なかなかありそうにも思われない。それだけに、この訳業は私にとって貴重であり、生涯のひとつの良きモニュメントにもなるであろうかと、特に感慨深いのである。
終りに、このそもそもの機縁を与えて下さった早稲田大学龍口直太郎教授、新潟大学田辺慶治教授に厚くお礼を申上げたい。翻訳については、安藤一郎氏訳『園遊会』(英宝社)その他の邦語文献を参照したことを記して、諸先輩に感謝の意を表する。