東方見聞録
マルコ・ポーロ/青木富太郎訳
目 次
序説
[#1字下げ、折り返して5字下げ]第一章 小アルメニアから上都開平府のフビライ・ハーンの宮廷にいたる旅行中に見聞した諸国のこと
1 アルメニア
2 ジョルジアとその王
3 バグダード
4 タブリズ
5 ペルシア
6 キルマン王国
7 カマディ市、カラオナスの盗賊
8 ホルムズ市
9 コビナン市と大砂漠
10 山の老人
11 バルフ
12 バダフシャン
13 カシュガル王国
14 サマルカンド市
15 天山南路のオアシス都市
16 タングート地方
17 カムル
18 チンギンタラス
19 粛州と甘州
20 ハラホルム
21 チンギス・ハーン
22 タタール人の風習
23 タタール人の神
24 タタール人の戦闘ぶり
25 タタール人の裁判
26 ハラホルム北方の曠野
27 涼州・寧夏
28 テンドゥク
29 チャガン・ノール
30 上都
[#1字下げ、折り返して5字下げ]第二章 フビライ・ハーン、その宮廷と首都
1 フビライ・ハーン
2 ナヤンの乱
3 将士に対する恩賞
4 大ハーンと王子
5 大ハーンの宮殿
6 ハンバリク市(一)
7 親衛隊
8 宮中の大饗宴
9 大ハーンの誕生日の祝い
10 新年の祝賀
11 大ハーンの狩猟
12 大ハーンの一年の行事
13 ハンバリク市(二)
14 アフマットの暴虐
15 紙幣
16 政務を見る十二人の貴族
17 駅伝制度
18 救済事業
19 公道の並木
20 カタイの酒、燃える石
21 飢饉対策
22 大ハーンの慈善事業
23 ハンバリクの天文家
24 カタイ人の宗教・風習
[#1字下げ、折り返して5字下げ]第三章 カタイの西部および西南部への旅
1 プリサンギン川
2 ジュジュ
3 太原府
4 カイチュの城砦
5 黄河と河中府
6 京兆府
7 クンカン地方
8 成都
9 チベット地方
10 |※[#「工+卩」、unicode536d]都《きょうと》
11 カラジャン
12 ザルダンダン地方
13 ビルマ
14 ベンガル
15 カウジグ
16 アニンとソロマン
17 貴州
[#1字下げ、折り返して5字下げ]第四章 カタイの南部とマンジへの旅
1 河間府と滄州
2 チナンリとタディンフ
3 リンジュと|※[#「丕+おおざと」、unicode90b3]州《ひしゅう》
4 カラモレン
5 マンジの征服
6 淮安《わいあん》・宝応・高郵
7 泰州・通州・揚州
8 安慶と襄陽府
9 真州と揚子江
10 爪州
11 鎮江府と常州
12 蘇州
13 全マンジの首都キンサイ
14 タンビジュ
15 福州
16 ザイトン
[#1字下げ、折り返して5字下げ]第五章 日本、南海諸島、南インド、インド洋の沿岸及び諸島
1 マンジの商船とインド洋で使用される船
2 チパング島
3 チャンパの国
4 ジャヴァ島
5 マライ半島地方
6 小ジャヴァ島
7 セイラン島
8 マアバル地方
9 ムトフィリ国
10 ラル地方
11 カイルの町
12 コイルム王国とコマリ地方
13 エリ王国
14 メリバル王国
15 ゴジェラト王国
16 タナ王国
17 カムバエトとセメナート
18 ケスマコラン王国
19 男島と女島
20 スコトラ島
21 マディガスカル島
22 ザンジバル島
23 アバシュ地方
24 アデン
25 エシェル市
26 デュファル市
27 カラトゥ市
28 ホルムズ市
[#1字下げ、折り返して5字下げ]第六章 タタールの君主の間の戦争と北方諸国のこと
1 大トルコの王ハイドゥ
2 ハイドゥとフビライとの戦争
3 ハイドゥの王女の武勇
4 アルゴンとアコマットの争い
5 アルゴン、ハーンとなる
6 カサン、ハーンとなる
7 極北地方の王コンチ
8 暗黒な地方
9 ロシアとキプチャク・ハーン
10 フラグとバルカの戦い
11 トクタイとノガイの戦い
12 結末
解説
一 マルコ・ポーロの生涯
二 旅行記の成立
三 旅行記の内容
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序説
マルコ・ポーロの父ニコロとその弟マフェオの二人が商品をたずさえて、ヴェネチア(ヴェニス)からコンスタンチノープルに到着したのは一二六〇年であった。二人は賢明な人物だったので、黒海をこえて商売に出かけようと相談し、宝石類を買いこみ、ここから海をこえ、ソルダイア〔クリミヤ半島南端〕にむかった。
ソルダイア滞在中に、もっと先へ行った方がよいと考え、ここを出発し、タタール人〔本書にいうタタール人とは蒙古人のこと〕の王バルカ・ハーン〔キプチャク・ハーンのベルケ〕の宮廷におもむいた。彼はサライやブルガルにすみ、タタール人中、もっとも自由主義的な君主とされていた。二人の到着を歓迎し、彼らも持参した宝石すべてをおくった。バルカも非常に満足し、少なくとも価格の二倍をあたえた。一年間この宮廷に滞在したが、そのとき、バルカとレバントの王フラグ〔初代イル・ハーン〕との間に大戦争がおこり、互いに多くの兵士が殺され、結局バルカの敗北となった。
この戦争のため、捕虜となる危険をおかさぬかぎり、きた道を帰ることはできなくなったが、先へ進むには故障はなかったので、ブルガルを出発し、バルカの国のはずれにある町ウカカヘ行き、ティグリス河〔ヴォルガ河〕を渡り、砂漠をこえた。この砂漠の横断には十七日もかかり、その間、町も村もなく、ただタタール人が家畜の群をつれ、テントをはっているのを見ただけであった。
砂漠をすぎて立派な大都市ブハラについた。ボラクという王の所領たる同名の州にある、ペルシア全土でもっともよい町である。ここで進むことも帰ることもできなくなり、三年間滞在した。滞在中にレバントの王フラグから世界中のタタール人の王、大ハーンの宮廷に行く使節一行がここについた。一行は故国でラテン人を見たことがなかったので、兄弟に興味を感じ、「もし相談にのれば、名誉も利益もえられるのだが」ときりだした。一体何の話かとたずねたところ、「実は大ハーンはラテン人を見たことがない。だから我々とともに彼の宮殿にゆけば、あなた方を見て非常によろこび、大きな名誉と恩賜の品々を下さることは期待してよいし、いっしょに行けは旅行は安全だ」とといた。
そこで兄弟は準備をととのえ、使節とともに出発し、一年間の旅行をした。道ははじめ北に向かい、ついに大ハーンの宮廷についた。途中、種々さまざまの驚くべきことを見たが、同じものを見たマルコ・ポーロが本書のあとの方ですべて話すから、ここではふれない。
宮廷につくと、大ハーンは大いに優遇し、かずかずの質問をあびせた。まずヨーロッパの皇帝、王、諸侯、権力者たちの品位をたもつ方法、領内で行なう裁判の方法、軍事行動などをたずね、またローマ法王や教会、ローマでなされているすべてのこと、ラテン人の習慣についてもきいた。兄弟は知識が豊富だったので、順序正しく、事こまかに事実をものがたった。すでにタタール語を十分に話せたので、こんなことができたのである。
皇帝の名はフビライ・ハーンといい、あまねく地上にひろがっているタタール人の君主であり、広大な国土と所領をもつ君主であるが、ラテン人のことをいろいろ聞いて非常によろこび、法王のもとへ使節として彼らをつかわそうと考えついた。彼は一人の貴族をつれていってくれとたのみ、彼らもよろこんで御命令をうけますと答えた。こうして貴族コガタルが御前によびだされ、兄弟とともにローマ法王のもとへ行けと命ぜられた。
大ハーンはタタール語で法王あての書翰をかかせ、これを兄弟とコガタルにもたせ、さらに口頭で申し伝うべきことを彼らに託した。手紙の内容は、「キリスト教の教理に精通した有名の人を派遣してもらいたい。その人たちは七つの学芸に精通し、大ハーンの領土内にいる学者たちに、公明正大な論議で、キリスト教の信仰が、他のいかなる信仰よりもすぐれ、しかも明白な真理の上に立つものであり、タタール人の神々や、家庭で礼拝される偶像は悪霊以外の何ものでもなく、これらを神として信仰するのはあやまりだ、と釈明できるだけの人物がほしい」というのである。そして最後に、大ハーンはエルサレムにあるキリストの墓の前にもえている灯火の油を少しもち帰るよう命じた。
任務をさずけおわって大ハーンは、彼らに金|牌《はい》を与えよと命じた。この牌面には、三人の使節が旅行の途中、どこででも馬なり、護衛なり、要するに必要品は何でも供給される権利のあることがしるされている。準備がおわって、三人は大ハーンに別れをつげて出発した。
何日後か知らないが、旅行の途中、コガタルは病気にかかり、馬にのれなくなり、ある町に滞在した。兄弟は使命遂行のためには彼をのこして出発すべきだと判断し、病人もこれに同意したので、二人だけで旅をつづけた。彼らはどこででも必要品を十分に供給されたが、これも大ハーンから賜わった金牌のおかげであった。
三年ほどかかってアルメニアのラヤス〔今のアイアス〕に到着したが、これほど長くかかったのは、雪にふられたり、大雨にあったり、のりこえられぬ障害にぶつかったりして、ときどき長逗留したからである。
ラヤスからアクル〔現イスラエルのアッコ〕についたのは一二六九年四月で、ここで法王クレメンス四世の逝去《せいきょ》を知った。やむなく賢明の評判の高いエジプト駐在の法王の全権使節ピアケンツァのテオバルドのもとに行き、託された使命の話をした。彼はこの話を全キリスト教徒にとって名誉な、しかも有利なことだと考え、新法王のえらばれるまで待て、といった。彼らもこれに賛成し、法王の選挙のおわるまでの期間を利用してヴェネチアに帰り、家族にもあいたいとのべて、アクルをたち、ネグロポンドをへてヴェネチアにもどった。
ついて見ると、ニコロの妻はなくなっており、十五歳の息子マルコがのこされていた。これが本書の主人公である。兄弟はヴェネチアで二年間も新法王の選出をまったが、えらばれないので、大ハーンのもとへ帰るのをこれ以上まてぬと考えた。そこでマルコをつれて出発し、アクルにゆき、前にのべた全権使節とあった。使命について話しあったのち、エルサレムに行き、キリストの墓の前の灯火の油を少しもってくる許可を全権にもとめ、こころよく許された。エルサレムでこの油を手に入れ、再びアクルに帰り、全権から大ハーンあての「兄弟は忠実に使命の達成につとめたが、あいにく法王がいないので遂行できなかった」という趣旨の手紙をもらった。
かくて三人はアクルからラヤスに行ったが、ここで全権使節が法王にえらばれ、グレゴリウス十世になったことを知った。新法王は彼らをアクルによびもどした。伝道団からえらばれた二人の僧が兄弟とともに大ハーンのもとに行くことを命ぜられた。二人の僧は当時この地方にいた学識のある牧師で、一人はヴィケンザのニコラス、他はトリポリのウイリアムといった。法王は二人に正式の信任状と大ハーンヘの返書をあたえ、司祭・僧正を任命し、また法王と同じように罪をゆるす資格などを与え、大ハーンヘの贈物として多くの水晶の器を委託した。こうして一行は法王の祝福をうけてアクルを出発した。
ラヤスについたとき、バビロニア〔当時エジプトをバビロニアといった〕のスルタン、ブンドクダルが大軍をひきいてアルメニアに侵入し、各地を荒しまわっているとの報道をきいた。僧侶たちは全くふるえあがり、信任状も手紙もニコロとマフェオにわたし、聖堂騎士団の人々とひきかえしてしまった。
マルコをつれたポーロ家の兄弟は、夏も冬もあるきつづけ、ついに大ハーンのもとについた。彼は開平府〔上都〕とよばれる富裕な都市に滞在していた。この旅は悪天候と酷寒のため、三年半もかかった。大ハーンはニコロとマフェオが帰ってくるときいて、四十日行程もさきへ人をやって、出迎えさせた。
彼らは開平府につくなり、ただちに宮廷に伺候したが、大ハーンは多くの貴族をしたがえて待ちかまえていた。彼らが三拝九拝の礼をすると、大ハーンは立ち上がらせ、歓迎の言葉をのべ、道中は無事であったか、健康はどうだったかとたずねた。彼らはローマ法王から託された信任状と贈物、キリストの墓前の油を捧呈した。大ハーンは油を近くの倉におさめさせたのち、すでに立派な青年になっていたマルコに目をつけ、あれは誰か、とたずねた。「陛下、あれは私の息子でございます」とニコロが答えた。「よく来た」と大ハーンは叫んだ。宮廷では彼らの帰還が祝われ、他の貴族とともに宮廷に滞在することになった。
マルコ・ポーロは短期間にタタール人の習慣や言語、戦闘方法をのみこみ、タタール語のよみ書きのほか、諸国語を話し、四ヶ国語を書くことができるようになった。彼は何事にも慎重だったから、大ハーンも高く評価していたが、才能もあり、実務の腕もたしかだと知ると、片道六ヶ月もかかる遠い地方に派遣した。彼は慎重に手ぎわよく任務を遂行してきた。使者が各地から帰ってきて、さずけられた任務のことだけしか話せないようだと、フビライ皇帝はきまって「用むきについての報告よりも、お前の見てきた各地のめずらしいものや状況などをきく方がよっぽどましだ」というのを、彼はすでに知っていた。大ハーンは未知の国々の話をきくのがすきだったのである。そこでマルコは往復の途中、非常な苦心をして、訪れた国々のいろいろなことを、すべて大ハーンに話せるように集めた。
都に帰ると、さっそく御前にまかりでて、使命について報告し、つづいて気持のよい聡明な態度で、見聞した珍しいことを一つのこらず申しあげた。聞いたものは誰でもびっくりして、この男が大きくなったら、きっと有能な人物になるにちがいないと話しあった。これ以来、彼はマルコ・ポーロ殿とよばれるようになった。
彼はこうして十七年間も大ハーンに仕え、使節となって国内をまわり、ときには私用で旅行もした。皇帝の寵愛はさらに深くなり、ついにはもっとも重要な任務や、もっとも遠いところにまで彼をつかわすようになった。皇帝があまりにも優遇し、いつもそばから離さなかったので、のちには一部の貴族からねたまれさえした。まず、ざっとこんなわけで各地を訪問したり、知識をもっていたりする点では、誰にもひけをとらぬくらいになった。そうなると、もっと大ハーンに報告したいと、余計に力をいれて見聞をひろめた。
さてポーロ家の三人は多年フビライに仕えたので、高価な宝石や黄金で財産をたくわえることもでき、故郷に帰りたいとの考えが強くなった。帰国の旅が長いとか苦しいとかいうのではなく、皇帝がすでに老年で、皇帝が出発前に死んだら帰国できなくなるかも知れなかったからである。出発させて下さいと何度も彼らは願いでたが、大ハーンは彼らをひどく寵愛していたので、許可されなかった。
そのころ、ペルシアのタタール人のアルゴン〔イル・ハーンのアルグン〕の王妃ボルガナがなくなったが、その遺言で、王妃として自分のあとをつぐものは故郷カタイにある家族のものにしてほしいとのべた。そこでアルゴンは三人の貴族ウラタイ、アプスカ、コージャを使者とし、王妃ボルガナの家族のうちから花嫁をむかえてくるように、大ハーンのもとへ派遣した。彼らが到着して使命を申しあげると、フビライは大いに歓待し、ボルガナの家族のうちからコガチンをえらんだ。彼女は十七歳、魅力のある美人で、彼女が宮廷につき、これがおもとめの方ですと紹介されると、三人の貴族は非常によろこんだ。
そのころ、マルコ・ポーロは大ハーンの使節としてインドから帰り、例によって旅行中に見た珍しいことや海などについての報告を書いていた。三人の貴族はポーロ家の三人にあって、話しあっているうちに、長く苦しい陸路をゆくかわりに、ポーロ家の三人を仲間にいれて、海路帰国しては、と考えついた。しかも途中の諸国やイン洋についても十分の知識と経験のあることを知って、ますますその気持が強くなった。それで大ハーンの御前にでて、海路を通って帰国したいから、三人のラテン人をわれわれ一行のうちに加えてほしいと願いでた。大ハーンは非常にいやがったが、結局、ポーロ家の人々の同行をゆるした。
出発準備がととのうと、フビライ・ハーンはポーロ家の三人を御前にめし、金牌を二つ下賜された。それは大ハーンの領土内いたるところ、自由かつ安全に旅行させ、彼ら及びその随員に必要品を供給させるものであった。さらにフランス、イギリス、スペイン等のキリスト教国の王にあてた手紙を託した。船は十三隻で、いずれも四本マスト、十二の帆をはれるものが用意された。そのうちには乗組員二百五、六十人のものが少なくとも四、五隻はあった。船についてはまたあとでのべる。
支度ができると、三人の貴族とコガチン姫、ポーロ家の三人は大ハーンに別れをつげ、多数の随員とともにのりこんだ。船には大ハーンの命令で、二年分以上の必要品をつみこんであった。出帆後約三ヶ月で南方のジャヴァ島につき、ここからペルシアにつくまで、十八ヶ月以上もインド洋を航海した。上陸した彼らは、アルゴン王がすでになくなられていることを知り、コガチン姫を王の息子のカサン〔イル・ハーンのガザン〕にわたすことにした。乗船したとき、一行は船員をのぞいて約六百人だったが、途中でほとんど死亡し、生きのこっていたのはわずか八人だった。
彼らがついたとき、キアカトゥ〔イル・ハーンのガイハトゥ〕が摂政をしていたので、これにコガチン姫をわたし、すべての職責をはたした。こうして大ハーンからたのまれた任務をおわり、ふたたび故郷への旅にのぼったが、その前にキアカトゥは四つの金牌を与えた。うち二つは鷹のえがかれている海青牌、一つは虎頭金牌、一つは何のしるしもないもので、どれにも、国内各地で王公同様の待遇を持参者にあたえるべきこと、馬その他の必要品を何でも供給すべきこと、がしるされていた。事実はまったくその通りで、国内旅行中、必要品はすべて十分にあたえられた。多くの場合、騎兵二百名が護衛につけられた。キアカトゥは正当な君主でなく、それだけに民衆の反抗するおそれがあるので、このような処置が必要だったのである。
これら三人の使者の名誉のために、もう一つつけ加えておく。大ハーンは彼らを信頼し寵愛していたので、ゴカチン姫のほかにマンジの王女をもアルゴンのもとへつれてゆくようにたのんだ。三人は二人の姫をペルンアに送りこむまでよく世話し、自分の娘のようによくまもった。若く美しい姫たちも三人を父のように慕い、従順であった。今や王となったカサンと、皇后となったコガチンとはポーロ家の三人に非常に感謝し、彼らが故郷にむけて出発するため、別れをつげると、新皇后は悲しみに泣きくずれた。
キアカトゥのもとをたってトレビゾンドにつき、それよりコンスタンチノープル、ネグロポンドをへて、ヴェネチアへは一二九五年についた。
さて、これで私がきいた前書きもおわったから、本論にはいって、マルコ・ポーロが旅行中にであったかずかずのことを物語ることとする。
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第一章 小アルメニアから上都開平府のフビライ・ハーンの宮廷にいたる旅行中に見聞した諸国のこと
1 アルメニア
アルメニアは大小にわかれ、小アルメニアは正しい政治をおこなう国王に支配されているが、彼はタタール人に臣属している。領内には多くの町村があり、物資はゆたかで、狩猟に適する鳥獣が多い。この国の貴族は昔は勇敢だったというが、今では酒ばかりのみ、卑屈な、とるにたらぬ連中ばかりである。海岸にラヤスという貿易の盛んな町がある。香料・錦襴の織物など、高価な商品が奥地からここに運はれ、ヴェネチア、ジェノアの商人はここで取引をしている。
大アルメニアの入口にはアルジンガという町があり、最良の硬麻布《バックラム》を産する。町のどこを掘っても温泉がでる。住民はアルメニア人で、タタール人に支配されている。国内の町村のうち、もっとも立派なのはアルジンガ、アルジロン、アルジジなどである。全くひろい国で、夏になるとイル・ハーン国内のすべてのタタール人が、牧草をもとめて、ここを訪れる。しかし冬は物すごく寒いので、もっと暖かい地方にうつる。
ノアの箱船が大きな山の頂上にあるのもこのアルメニアで、その頂上では決して雪がとけない。この雪どけ水で十分の湿気ができるので、夏になると、遠いところから家畜がこの辺につれてこられるが、牧草の不足することはない。
この国の南方に接してモスール王国がある。住民はキリスト教のヤコブ派とネストリウス派を信じている。北方のジョルジア人〔グルジア人〕の国との国境の近くに一時に百隻の船につめるほどたくさんの油〔石油のこと〕を噴出している泉がある。この油は燃料となり、また駱駝の皮膚病にきく。付近には油がないので、周囲の国々から多くの人がこの油をもとめにやってくる。
2 ジョルジアとその王
ジョルジア人の国すなわちジョルジアナ〔グルジア〕にはダビド・メリクという王がいるが、彼もタタール人に従属している。むかしからこの国の王は生まれたとき、誰でも右肩に鷲のしるしがあった。住民は美貌で、弓矢にひいでた武人である。ギリシア教会派のキリスト教徒で、修道僧のように髪を短く刈りこんでいる。
昔、アレクサンドロス大王が西の方の地方に行くとき、ここを通ろうとしたが、片方は海、片方は馬でもこせない高山で、道がせまく危険で、越しなかったところである。こんな道が十二マイルも続いているので、少数の人で世界を相手に守ることができる。大王は侵略者をふせぐため、ここに堅固な塔をきずかせたが、それは鉄門とよばれた。アレクサンドロス大王物語に、彼がタタール人を二つの山の間にとじこめたと書かれている場所があるが、これは実はコマン人をさすもので、その頃、タタール人などはいなかったのだ。
この地方の森はつげの樹ばかりである。多くの町村があり、多量の絹を産する。金糸で織られた布やあらゆる種類の美しい絹布ができる。アヴィジという世界最大の鷹もいる。住民は商業と手工業で生活している。山が多く、道はせまく、要塞が多いので、さすがのタタール人も、全国を征服できないでいる。
この国の聖レオナルド尼僧院について、すばらしい奇蹟のあったことを聞いた。この聖堂の近く、山の麓に大きな湖があるが、そこでは四旬節までは大小をとわず、全く魚がいない。四旬節の最初の日になると、立派な魚がたくさん姿をみせ、復活祭の夕ベまで、この状態がつづき、これを最後に全然いなくなり、これが毎年くりかえされる。実にすばらしい奇蹟である。
湖は山のそばにあり、ゲルまたはゲラン海〔今のカスピ海〕とよばれ、周囲七百マイル。他の海からは二十日行程はなれ、大河ユーフラテスその他が流入し、まわりに山をめぐらしている。近ごろジェノアの商人が船をもってきて航海をはじめた。この海には多くの魚、とくに蝶鮫《ちょうざめ》などの大きな魚を産し、沿岸地方ではジュレという絹もできる。
3 バグダード
バグダードは大都会で、イスラム教のカリフがすんでいた。町の中を大河が流れ、これにそって行けばインド洋にでる。河にそって別にバスラの町がある。周囲は林にとりまかれ、世界最良の棗椰子《なつめやし》を産する。バグダードはこの地方でもっとも立派な都会で、ナシシ、ナタ、クラモイジィといったような絹布と錦襴、また鳥獣羽毛の良質の薄い織物を産する。
一二五五年のある日、現在の大ハーンの弟で、後にイル・ハーンとなったフラグは、有力な軍隊をあつめてバグダードに進み、強襲によって占領した。これはまったく冒険だった。バグダードには歩兵のほかに、十万以上の騎兵がいたのだ。占領したとき、カリフ所有の塔が発見されたが、なかは金銀その他の宝物で一ぱいで、たった一ヶ所にあったものとしては、未曽有の蓄積であった。山のような財宝をみて、フラグはカリフを面前にひきだし、「何故こんなにたくさんの財宝を集めたのか。どうするつもりなのか。敵の大軍が攻撃するのを知らなかったのか。知っていたら、自分と都とを守るために、なぜこの財宝で将士をやとわなかったのか」ときいた。カリフは一言も発しなかった。フラグはさらにいった。「カリフが財宝を愛していることはよくわかった。では、これをやるからたべろ」。そして彼を財宝の塔にとじこめ、食物ものみ物もやるなと命じ、「財宝がすきなら、思う存分たべるがよい。それ以外には何もやらないぞ」といった。
カリフは四日間とじこめられ、犬のように死んだ。これ以後、新しいカリフはバグダードにも他の土地にも現われなくなった。
次にバグダードとモスールの間におこった不思議なことについて語ろう。
バグダードにキリスト教徒を極度ににくむカリフがいた。彼らをどうしたら改宗させられるか、どうしたら皆殺しにできるかと、日夜心をくだき、イスラム教徒や布教師らと相談していた。いずれもキリスト教徒に悪意をいだいていたからである。
さてカリフは布教師たちとともに、福音書の中に、「もし芥子種《からしだね》のごとき信あらば、この山に、ここよりかしこに移れと命ずるとも、必ず移らん」という一節を見つけた。これは全く事実である。彼らは大いに喜んだ。これで全キリトス教徒を改宗させるか、または死刑にすることができるかである。カリフは莫大な数にのぼる領内の全キリスト教徒をよび集め、福音書のこの箇条をまず読みあげさせた。よみおわると、カリフはそれは事実かとたずねた。真実ですとの答えをきいて、「よろしい。これほど多くのキリスト教徒のうちには、たしかに聖書の中にあるような少しばかりの信仰をもっているものもいるはずだ。あの山を移すか、それともむごたらしい死か、どちらかをえらべ。死ぬのがいやならイスラム教を信仰せよ。今から十日間の猶予をあたえる」といって、近くの山を指さした。こうしていったんキリスト教徒を帰らせ、苦境をどうきりぬけるかを考えさせた。
キリスト教徒はカリフの言葉におそれおののいたが、創造者たる神はかならず危機を救ってくれると、のぞみをつないでいた。彼らのうちの賢者は相談したが、カリフの魔手からのがれることを神にいのる以外には、手だてはなかった。彼らはいっしょになって八日八晩いのりつづけた。熱心な信者であったある主教の幻のなかに、ついに天使があらわれ、「キリストの教えを信ずる片目の靴屋をさがし、神に祈ってもらえ。神は彼の清らかな生活に免じて、願いのすじをききとどけるであろう」との啓示をあたえた。
この靴屋はきわめて正しい真心のもち主で、断食もし、毎日教会ヘミサをききに行き、パンを神にささげていた人物であった。ある日一人の婦人が店へきて靴を注文し、大きさをはかるために足を見せた。非常に美しい足をしていたので、彼は自分がいやらしい考えをいだいたのに気がついた。彼は聖書の中に、「もし汝の眼おのれをつまずかさば、ぬきだしてこれをすてよ。両眼ありて地獄の火に投げいれられんよりは、一眼にして生命《いのち》に入るはよきなり」という文句のあるのを知っていた。それで婦人が立ちさるや否や、靴を縫うのにつかう錐《きり》で眼球をえぐりだした。これが片目になった理由である。
さて主教は前にのべた幻を数回見たので、信徒に話し、彼を呼びだし、いっしょに「どうか神に祈ってもらいたい。神はあなたが祈ればききとどけると約束したのだ」とたのんだ。彼は、自分はそれほどの人物ではない、と辞退したが、哀願されてついに承諾した。
定められた日がきた。十万以上の信徒は、老若男女をとわず、朝早く教会にゆき、ミサをおこない、そして隊伍をととのえ、先頭に十字架をおしたてて山の前の広場へ、歌声たかく、そして泣きながら進んだ。広場にはカリフが武装した大軍をひきつれてきていた。神がそのような恩寵をしめすなどとは思いもしなかったのである。主教の祝祷《しゅくとう》をうけて、靴屋は十字架の前にひざまずき、腕を天にさしのべて祈った。「祝福されたる全能の神よ。汝の民の滅びざるよう、信仰のすてられざるよう、辱しめられざるよう、善意をもって恩寵を下したまわらんことを。汝の罪ふかき下僕の願いを聞きとどけられんことを」
祈りがおわると、カリフやイスラム教徒やいあわせた人々の見ている前で、山が立ちあがり、カリフの指定した場所へ移動した。神の示したこの驚くべき奇蹟を見せられて、多数のイスラム教徒がキリスト教に改宗した。カリフでさえ洗礼をうけたが、秘密にしておいた。しかしその死後、頸に小さな十字架をつるしていたことが発見された。イスラム教徒がその遺骸を他のカリフとは別なところに葬ったのもこのためである。キリスト教徒はこの奇蹟に非常によろこび、家にかえって、このような恩寵をしめされた創造者に感謝した。奇蹟がなぜおこったか、これでおわかりになったと思う。
4 タブリズ
イラクには町や村が多いが、中でもタブリズは立派な大都市で、金糸銀糸で織った高価な布を産し、住民は商業と手工業で生活している。バグダード、インド、熱帯地方から商品がはこばれ、ラテン商人、とくにジェノア人がきて商品を仕入れるし、とくに宝石類の大集散地である。しかし住民は貧しく、アルメニア人、ジョルジア人、ネストリウス派やヤコブ派の人など、種々雑多だが、地元の連中はたちが悪い。町の周囲はいろいろの果樹をうえた庭園でかこまれている。
タブリズの国境線に近く、聖バルサモの寺院がある。そこにはカルメル派のような僧衣をきた修道僧と大修道院長とがおり、いつも羊毛の帯をつくっている。礼拝式にはこれを聖バルサモに捧げ、托鉢に行くときは、これを友人や貴族にあたえる。肉体的苦痛をのぞくききめがあるといわれ、これをほしがらないものはない。
5 ペルシア
ペルシアは大国で、昔は武力も強かったが、今はタタール人のために破壊され、荒廃している。サバという町は、キリスト降誕のときにきたヤスパル、メルキオール、バルタザールという三人のマギ〔ペルシアのゾロアスター教の司祭〕の出発したところで、三人はこの地に埋葬され、大きな記念碑が立てられている。遺骸は今も完全で、髪とひげがついている。マルコ・ポーロはこれについていろいろとたずねたが、昔ここに埋められた三人の王だという以外、何もききだせなかった。しかしここから三日ほど行ったカラ・アタベリスタンという村で次のような話をきいた。この名は拝火教〔ゾロアスター教〕徒の城という意味だが、まさしくその通りで、住民は火を崇拝している。
昔この国の三人の王が、新しく生まれた予言者キリストを崇めるためにでかけたが、三つのささげもの、黄金、乳香、没薬《もつやく》を、たずさえて行った。これは予言者が神か、地上の王か、医者かを知るためで、もし彼が黄金をとれば地上の王、香料をとれば神、没薬をとれば医者なのである。
さて、生まれた子供のところについて、まずもっとも若い王が礼拝したところ、子供が自分くらいの年ごろに見え、びっくりして外へでた。ついで中年の王がお目にかかったが、やはり自分と同じ年ごろに見える。最後に老年の王がみると、他の二人と同じようなことがおこった。三人はたがいに印象を語りあっておどろき、今度は三人いっしょに礼拝すると、生後十三日の赤ん坊にしか見えなかった。それで黄金、香料、没薬を献上したところ、赤ん坊はふたのしまった小箱をあたえた。
三人の王は故郷にむけて出発したが、数日後、キリストが何をくれたか、見たい、というので、小箱をあけたところ、中に一つの石があった。彼らは赤ん坊が三つの贈物をうけとるのを見て、彼こそ真の神、真の王、真の医者だと思ったのだが、石の贈物は、このようにして芽ばえた信仰が岩のように固くあるべきだとの意味であった。しかし三人はこの意味がわからず、井戸の中へ投げこんだ。すると直ちに天から井戸の中へ火がおりてきた。これを見た三人は、はじめて神聖な意味をさとり、石を投げこんだのをくやんだ。それで火の一部を故郷にもちかえり、立派な寺院に安置した。人々はこれをもやしっづけ、今も神としてあがめ、犠牲をささげている。火が消えると、周囲の同じ信仰をもつ都市へいって火をもらってくる。これがこの国の人が火を崇拝する理由で、火をもらうために、しばしば十日も旅行する。
以上がマルコ・ポーロのきいた話で、すべて事実で、三人の王のうちの一人は、今なお火の崇拝されているこの城の生まれである。
ペルシアは八王国に分れている。最もヨーロッパに近いカスヴィン、はるか南のクルディスタン、ロル、スオルスタン、イスタニト、セラジイ、ソンカラ、ペルシアの東のはずれのトゥノカインである。トゥノカインは「孤独の樹」の地方に近い。これらの王国では立派な馬を多く産し、インドに輸出する。値も高い、優秀な驢馬もいて、そのあるものは非常に大きく、足も早く、重い荷物もはこべる。商人はこれらをインド洋岸のキシとクルモサの町にはこび、インドへ輸出する商人に売る。
国内には残酷な連中や人殺しが多く、一日として人殺しのない日はない。イル・ハーンの政府があるからこそ、商人にも大きな危害が加えられないのだが、それでもしばしば危難にあっている。十分に武装しないかぎり、商人は虐殺、少なくとも掠奪の危険を覚悟しなけれはならない。十分用心しなかったため、全滅されたこともある。都会には商人や労働者、金糸絹糸で布をおる工匠がいる。国内には多量の綿、小麦、大麦、粟、ひえ、葡萄酒、果物を産する。
6 キルマン王国
キルマンもペルシアの領内で、以前は世襲の国王がいたが、タタール人はこれを征服して、別な支配者を派遣している。トルコ玉を多く産するが、これは山の岩石の中から発見される。鉄の鉱脈もある。住民は武具をつくるのが上手で、馬勒《ばろく》、鞍、拍車、剣、箭筒《やづつ》など、いろいろの武具が、この地方の様式でつくられている。婦人たちも金糸絹糸の織物の上に色彩ゆかたに鳥獣、花木をたくみに刺繍する。山中には世界最良の鷹を産する。われわれの国のものより小型で、胸、頚《くび》の下、両脚の間が赤い。非常に速いので、いかなる鳥ものがれられない。
この町をでて七日間は、いつも町や村、小ぎれいな家が見え、気もちのよい旅であるが、狩猟もたのしめる。七日間の平野の旅ののち、大きな山にさしかかり、峠につくと、約二日もかかる長い下り坂を見おろすことができる。下り坂の両側には果樹が多い。人口は少なく、家畜を飼っている人がすこし見られるだけだ。キルマンからこの下り坂までの間は寒さがきびしく、着物を何枚かさねても、しのげない。
7 カマディ市、カラオナスの盗賊
坂をおりきると、広い平原につく。入口にあるのがカマディで、昔は立派だったというが、今はつまらぬところだ。タタール人が何度も荒したからである。この平原はきわめて暑く、棗《なつめ》椰子、ピスタチオ、りんごなど、寒いわれわれの国にないものができる。豊富な果物にひかれてきた山鳩もいるし、羽根が白黒まだらで、脚と嘴の赤いフランコリンという鳥もいる。牛は大型で白い。暑いため毛は短くなめらかで、角は短く太く、先はとがってない。肩の間に手のひら二つばかりの高さのまるいこぶがある。荷をつむときは駱駝のようにすわらしてつむ。力が強いので、多くの荷をつめる。驢馬ほどの大きさの羊もいる。大きな幅の広い尾をもち、ふとっていて、肉はうまい。
この平野には聚落が多く、カラオナスという盗賊をふせぐために、いずれも厚い土壁をめぐらしている。カラオナス人とはタタール人を父とし、インド人を母とする連中で、掠奪にでかけるときには、呪術をつかって日中を暗黒にし、そばにいる仲間さえ見えないようにする。この暗黒を七日行程の広さにまでおよぼすことができる。彼らは地理をよく心得ており、一万人も肩をならべ、くっつきあって馬にのって行くこともある。こうして全平原を横行し、手あたり次第に人を捕える。老人は殺され、若い男女は他国へ奴隷に売られる。そしてこの地方は荒廃し、無人境となった。
この無頼漢どもの王をネゴダールといい、かつて大ハーンの兄弟チャガタイの宮廷に一万の騎兵をひきいて行った。チャガタイは彼の伯父だったからだ。そこに滞在中、大きな悪事を働いた。当時大アルメニアにあった伯父のもとから、凶悪な騎兵集団をひきいて出発し、バダフシャン、パシャイ=ディルをすぎ、カシュミールにはいったが、道が悪いので、多くの人馬を失った。これらの地方を征服後、インドのデリヴァル地方に入り、王アセディン・スルタンの領土をうばい、ここにとどまった。そして何ものもおそれることなく、周囲のタタール人を相手に戦っている。実をいえはマルコ・ポーロも、前にのべたような暗黒の中で無頼漢にとらわれたが、神の恵みでのがれ、近くのカノサルミ村に逃げこんだ。しかしいっしょに逃げた七人の仲間のほかは、全部つかまえられ、売られたり、殺されたりした。
8 ホルムズ市
平原は南へ五日行程の間つづき、その先に約二十マイルの下り坂がある。道がわるく、盗賊が出没する。坂をおりきると、美しいフォルモサ平野である。通過するのに二日かかり、途中に美しい流れや、棗椰子などの果樹がある。きれいな鳥やフランコリン、おうむ、さてはわれわれの国では見られない鳥などもいる。二日後に海岸にでるが、そこにホルムズという港町がある。インド商人はここへ香料、宝石、真珠、金糸絹糸の織物、象牙などを船につんできて、ホルムズの商人に売り、ここから世界中に売りさばかれる。実に大きな商業都市であるが、首都でもあり、多くの町村を管轄している。王の名をルオメダム・アホメットといい、キルマン王の臣下である。ホルムズは非常に不健康な土地で、日ざしが強い。外国商人がここで死ぬと、財産は王が没収する。
香料入りの棗椰子の酒ができるが、なかなかうまい。なれぬ人がのむとひどく酔うし、すごい下痢をおこす。しかし間もなくうまいと感ずるようになり、ふとる。住民は肉や小麦のパンは、病気のとき以外たべない。健康なときにたべると病気になる。常食は棗、塩漬けの魚〔まぐろ〕、玉ねぎで、健康をたもつためにこんなものをたべるのだ。
彼らの船はひどいもので、よく難破する。鉄の留金具をつかわず、インド胡桃《くるみ》の皮でつくったより糸でぬい合わせるだけだからである。この皮を馬の毛のようになるまでたたき、これで作ったより糸で船板をぬいあわせる。永もちするし、海水で腐りもしないが、嵐にはたえられない。防腐用に魚油をぬる。船にはマスト、帆、舵がおのおの一つしかなく、甲板もない。荷物をつむと、上に生皮をかぶせ、その上にインドヘ輸出する馬をつむ。釘をつくる鉄がないので、造船用に木釘をつかい、前述の方法でぬいあわせるのだ。インド洋にはしばしばすさまじい嵐があるので、こんな船で航海するのは危険だし、事実、多くの船が遭難している。
住民は色が黒く、イスラム教徒である。夏の暑さは人が死ぬほどきびしいので、町にすまず、水流の多い田舎の庭園にでかける。夏には平野の周囲の砂漠から風がふきこみ、それがおそろしく暑いのである。この風がくるのを知ると、人は水の中にとびこんで首だけだし、やむまでそのままにしている。これは全く事実である。これを証明するため、マルコ・ポーロは次のような体験談を話してくれた。ホルムズの支配者がキルマン国王に貢物をさしださなかったので、国王は市民が町をはなれているときに取り立てようと考え、千六百の騎兵と五千の歩兵に準備を命じ、奇襲戦法をとって、レオバルレズ経由の道から派遣した。ある日、案内者が道をまちがえ、予定の宿泊地に到着できず、ホルムズから遠くない荒野に野営した。翌朝行進しはじめたが、この風にやられ、全員窒息し、悲報を知らせるものすら残らなかった。ホルムズの住民は伝染病の発生をおそれ、死骸を埋めにいったが、穴の中へ入れようと腕をひっぱると、身体からぬけてしまう。恐るべき熱で「焼きあげられ」ていたのだ。やむなくそれぞれの死体のそばに穴を掘って、なげこんだ。
小麦、大麦その他の穀類は十一月に種をまき、三月に収穫する。棗は五月まで集めないでおく。その他の時期には何も青いものはない。恐ろしい熱がすべてを乾燥させるのだ。人が死ぬと、喪が大変だ。婦人は四年間喪にふくする。服喪《ふくも》中は親戚、知人、近所の人が日に一回はあつまって、大々的に泣いたり悲しんだりする。泣き女を職業にしているものもある。
ホルムズからキルマンへ行く道には、美しい平野や温泉がならび、温泉は疥癬《かいせん》などによくきく。食料品は安く豊富で、棗などの果物もある。水がにがいためか、小麦のパンもにがく、なれない人にはたべられない。
9 コビナン市と大砂漠
キルマンからの七日間の旅は実に退屈である。はじめ三日間は水がなく、たとえあってもにがく緑色で、塩分が多いので、のめたものではない。一滴でものんだら、少なくとも十回は下痢をする。この水からとった塩も同様で、誰も塩をつくろうとしない。それで三日分の水を必ず持参しなけれはならない。家畜用の水まではもって行けず、仕方なくのむが、ひどい下痢をおこし、時には死ぬ。三日の間、一軒の家もなく、まったくの砂漠で、カラカラにひあがっている。それで野生の獣もいない。三日の後、新鮮な流れが地下をながれているのにあう。流れにそってあちこちに穴があいており、そこから見える。水量も多く、苦しい砂漠の旅につかれた人々はここで休み、人も家畜も生気をとりもどす。
ここから、こえるのに四日かかる砂漠にはいる。前の砂漠とまったく同じだが、野生の驢馬がいる。この四日の旅でキルマン王国もおわり、コビナンの町につく。
コビナンは大きな町で、住民はイスラム教徒である。多量の鉄と鋼《はがね》とオンダニクを産し、鉄製の鏡がつくられる。眼病の薬になる亜鉛華やスポディウムもつくられる。製法はまずこれに適した土を、火のもえている炉の中にいれる。炉の上には鉄の火床がすえられる。土の塊からのぼる煙と蒸気が火床に付着して、亜鉛華ができる。もえのこりがスポディウムである。
コビナンからまた八日間砂漠をゆくが、ひどく乾燥している。果物も樹木も見えず、水はあってもにがく、水と食物は持参しなければならない。八日後トゥノカイン地方につく。ここはペルシアの最北部にあって、立派な町や村が多い。キリスト教徒がかわいた樹とよぶ「孤独の樹」の生えている平野もある。この樹はふとく高く、樹皮の一方は緑色で、一方は白い。栗のいがのようなものがみのるが、中には何もはいっていない。材質はつげのように黄色で、強い。この樹の周囲百マイル以内には樹ははえず、ただ一方だけは約十マイルのところに樹がはえている。伝説によると、ここでアレクサンドロス大王とダリウス王との間に戦争がおこなわれたという。町や村には産物があふれている。気候が暑からず、寒からず、きわめて快適だからである。住民はイスラム教徒で、顔かたちがよく、とくに婦人はきわめて美しい。
10 山の老人
ムラヒダ地方には、むかし山の老人がすんでいた。ムラヒダとは異端のすみかという意味である。マルコ・ポーロは土地の人からその話をきいたから、くわしく話しておこう。
山の老人はアロアディンといったが、彼は山の谷間をかこいこんで、今までなかったほどの大きく美しい庭園とし、いろいろの果樹をうえた。なかには想像もできないようなきれいな楼閣と宮殿をたてた。すべて金箔をはり、あざやかな色をぬった。いくつかの川には葡萄酒、牛乳、蜂蜜、水がそれぞれあふれるように流れていた。妙齢の美女が楽器をかきならし、上手にうたい、見事に踊っていた。マホメットは楽園について、そこには葡萄酒や牛乳、蜂蜜、水のながれる暗渠がはしっており、入園者を喜ばすために多くの美女がいる、とのべているが、山の老人はこれをもとにして庭園をつくったのだ。この地方のイスラム教徒はこれこそ楽園だと信じこんでいた。
彼はアシシン〔刺客〕に仕立てるはずの人を除いては、誰も庭園にいれなかった。入口には世界を相手にできるほど強固な要塞があり、ほかに入口はなかった。彼の宮廷には、この辺の十二歳から二十歳までの武術のすきな少年を多くおいてあった。彼らは老人からマホメットのいう楽園のことを話される。そのあと一回に四人、六人、または十人ずつ庭園に入れるのだが、まず一服もって深い眠りにおとしたうえで、はこびこむ。目がさめると庭園内にいたということになる。彼らは周囲のすばらしい光景を見て、これこそ楽園だと信じこむ。美女たちは満足のゆくまで接待し、青春のよろこびをみたし、彼らはここから出たいなどとは考えなくなる。
山の老人とよばれている君主は、宮廷を豪華にし、素朴な住民に、彼こそ偉大な予言者だと信じこませている。彼が何かの目的でアシシンを送ろうとするときは、前と同じように、庭園内にいる青年の一人に一服もってねむらせ、宮廷にはこびこむ。目をさました青年は、自分が城にいるのに気づき、面白くないと思う。老人は彼をよびだし、どこから来たかと聞く。彼が楽園から来ました、そこはマホメットがのべている楽園にそっくりです、と答えるのは当然である。そこで老人は「これこれの人物を殺してこい。帰ってきたら、天使がお前を楽園につれて行くだろう。たとえ死んでも天使が楽園へつれて行くという。青年は楽園に帰りたいとの希望から、死の危険をもおかして、この命令を遂行することになる。こうして山の老人は意のままに誰でも殺すことができた。またこれによってすべての君主たちの恐怖心をかきたてたので、老人に平和な態度をとってもらいたいばかりに、彼らはその臣下となった。山の老人は何人かの部下をもち、彼らはこのやり方をまね、全く同じことをやっていた。その一人はダマスクス領内に、一人はクルディスタンに派遣されていた。
一二五二年、後にイル・ハーンとなったフラグは、山の老人の数々の悪業をきき、彼を滅ぼそうと決心した。貴族の一人に大軍をさずけ、この城の攻撃を命じた。大軍は包囲したが、非常に堅固で、占領できなかった。たしかに食糧さえ十分あれば、陥落しなかったのだが、三年目の終りに食糧が欠乏して陥落した。老人と部下は死刑にされ、城と庭園はこわされ、こうして彼の悪事も終りをつげた。ふたたび旅行談にもどろう。
11 バルフ
この城を出発すると、道は美しい平野や谷間、丘のほとりをはしるが、そこにはよい牧草や多くの果物がある。途中、ときに五十マイルから六十マイルにおよぶ砂漠もあるが、六日の後、サブルガン〔今のバルフの西九十マイルのシブルガン〕の町につく。物資がゆたかで、とくに世界最良のメロンがある。これをうすく螺旋状にきって乾かしたものは蜂蜜よりあまい。
バルフは立派な大都市である。昔はもっと大きかったが、タタールなどの異民族に略奪され、こわされてしまったのだ。昔の宮殿や大理石の建物は、今は廃墟となっている。アレクサンドロス大王がダリウス王の娘と結婚したのはここだという伝説がある。イル・ハーンの領土はここまでである。
この町を出発すると、道は十二日間東北へ向かってゆき、その間人家はない。住民は盗賊や軍隊をおそれて、山の中の要塞ににげこんでいるからである。路傍には水も十分あり、狩猟の獲物になる獣も多く、ライオンさえいる。
十二日後に大きな穀物市場のあるタイカンにつく。きれいな町で、南に見える山はすべて岩塩でできている。付近三十日行程以内の住民は塩を掘りにやってくる。この塩は世界最良のもので、質はかたく、鉄製のつるはしでなければ掘れない。量は非常に多く、全世界が永久に使えるくらいある。他の山には巴旦杏とピスタチオがあり、値段は安い。
この町をあとに東北東へ三日行くと、葡萄などの果物のたくさんある地方につく。住民も多く、物価も安い。住民はイスラム教徒で、たちが悪く、血にうえている。酒もうまく、彼ら自身大酒のみなので、酒屋にいりびたっている。彼らは頭のまわりに二メートルほどの紐をまきつけ、着衣には狩猟でえた獣皮だけを用いる。獣皮からは衣類と靴をつくり、誰でもその処理方法を知っている。
三日後にある貴族の支配するカセムという町につく。町の中をかなり大きい川が流れている。この地方には大きな山あらしが多い。犬をけしかけると何匹かが密集し、針で犬をさし、ひどい傷をおわせる。この町は同名の大きな地方にあって、住民は固有の言葉を話す。牧畜を業とする連中は山中にすみ洞窟を住み家にしているが、美しく、広々としている。山が土でできているので、作りやすい。
ここを出発して三日間は、一軒の人家もなく、食物も飲物もえられないから、必要品は持参しなけれはならない。三日後にバダフシャンにつく。
12 バダフシャン
バタフシャンの住民はイスラム教徒で、固有の言葉をもっている。大きな王国で、王位は世襲である。王族はいずれもアレクサンドロス大王とダリウスの娘との間の子孫で、すべての王はサラセン語でズルカルニアインと称しているが、これはアレクサンドロス大王と同じ意味で、大王をしのんでこうよぶのである。
高価な宝石バラス・ルビーが発見されるのはこの地方である。山中の岩の間にあるが、人々は地下に坑道をほって、これを探す。この特別な山はたった一つで、シギナンという。宝石は王の利益のために採掘されるだけで、誰も国外にもちださない。王はこれを全部しまっておいて、貢物や贈物にだけ使う。売却することもある。こうしてバラス・ルビーの価格を維持しているので、産額はきわめて少ない。
この地方には瑠璃《るり》を産する山もある。 これも品質がよく、銀のように鉱脈の中で発見される。さらに大きな銀山もあって、この国は非常に富んでいる。しかし非常に寒いともいわれている。有名な速い馬も産する。いつも山の多い地方や悪路でつかわれているが、決して蹄鉄をうたない。ほかの馬なら早駆けもせず、また、できもしないようなけわしい下り坂でも、この馬なら大股で走る。マルコ・ポーロは次のような話をきいた。この地方には、そう遠くない昔にプケファルスというアレクサンドロス大王の馬の子孫がいたが、どれも生まれたときから額に特別なしるしがあった。王の叔父がこの品種の馬をすべて所有していたが、王が少しよこせといったのをことわったため、殺された。その夫人はおこって、この品種の馬を全部殺したので、プケファルスの子孫は絶滅した。
この辺の山中には、よく飛ぶセーカー鷹やランナー鷹が多い。鳥獣も多い。良質の小麦、はだか麦もそだっている。オリーブ油はなく、胡麻や胡桃から油をとる。山には多くの野生の羊がおり、一群で四百頭、五百頭、六百頭のもいる。ずいぶん捕獲されるのだが、少しもへらないようだ。
これらの山は非常に高く、一日で頂上をきわめるは無理だ。頂上には樹や草の多い高原がひろがり、多くの泉からは清水があふれでて、岩間や峡谷を流れ下り、川にはマスなどの風味のよい魚がいる。大気は清澄で、健康によいので、町や渓谷、平野の住民で、熱病などの病気になったものは、すぐ山にでかける。二、三日すごすと健康をとりもどす。マルコ・ポーロもこの地方で一年ばかり病気になり、山に行ったらよかろうといわれて、そうしたところ、たちまちなおってしまった。
国内には陸路やけわしい峠が多く、攻撃しにくいので、住民は侵略をおそれていない。町や村も高い丘の上にあって、要害堅固だ。住民はすばらしい弓手で、狩猟が上手だ。したがって衣料品は大部分獣皮で、織物は大変たかい。
バダフシャンの南、十日行程のところにパシャイ〔現インドのペシャワル〕がある。住民は褐色の皮膚をもち、言葉は固有のものを話す。偶像を崇拝し、魔法と悪魔の術にたけている。男は宝石や真珠をちりばめた金銀の頸飾りやプローチを身につけている。食物は肉と米で、この辺の気候は非常にあつい。
この国の東南七日行程のところにカシュミールがある。この地方の住民も偶像を崇拝し、固有の言葉を話す。魔術にすばらしい腕をもち、見たことのない人は信じないだろうが、偶像に口をきかせ、天気をかえ、太陽を暗くさえする。男はやせて褐色だが、女は浅黒く、非常に美しい。常食は肉、牛乳、米である。気候は快適だ。要害や砂漠、けわしい峠が多いので、外敵侵入のおそれがなく、王は正しい政治を行なっている。
この地方の流儀にしたがった隠者もおり、飲食には厳重な禁忌《タブー》を実行し、きびしく純潔をたもち、戒律をまもっているので、民衆から聖者とみられている。偶像崇拝教の寺院も多い。住民は動物を殺さず、血を流すのもきらうので、肉をたべるときはイスラム教徒に屠殺をたのむ。
この方面の諸国についての話はこれくらいにしておこう。こんな話をつづけていると、インドにはいってしまうし、インドのことはあとでのべるからである。
バダフシャンを後に十二日間、東北東へ川をさかのぼって行く。この川の貫流する地方はバダフシヤン王の兄弟の国で、人家も多い。住民はイスラム教徒で、勇敢だ。十二日後に、どちらへ行っても三日で国境へついてしまうような小国ヴォハンにつく。住民はイスラム教徒で、固有の言葉をもち、勇敢な武人で、ノネとよばれる隊長がいる。ノネとは諸侯の意味だ。バタフシャン王の支配下にある。この地方にはあらゆる種類の野獣が多い。
この小国をあとに、東北へ山を登ってゆくと、世界最高といわれる高原につく。そこには二つの山の間に大きな湖〔カラ・クル湖〕があり、そこから流れでる川は美しい牧草におおわれた中をゆく。そこに放たれた家畜は、十日でまるまるとふとる。野獣も非常に多く、そのうち大型の野生羊の角はたっぷり一メートル以上はある。羊飼いはこの角で大きな食器を作ったり、夜間、家畜小屋をとざすのに使う。狼が多数いて、野生羊をくい殺すので、その角や骨がたくさんにあり、雪がふったときの道しるべに、道ばたにこれで大きな塚がつくられている。
この高原はパミールとよばれ、越すのに十二日かかる。人家も青いものもない砂漠があるだけで、旅行者は必需品を全部持参しなければならない。土地は非常に高く、寒いので、空をとぶ鳥の影さえない。寒さがきびしいので、火もあかあかとは燃えないし、それほどの熱をもたず、料理もよくできない。
これより道は東北東へむかうが、四十日間というもの、山や丘をこえ、谷をぬけ、多くの川や荒地をわたる旅がつづく。この地方をボロルといい、住民は山の高処にすみ、野蛮な偶像崇拝教徒で、狩猟を業とし、まったくたちが悪い。
13 カシュガル王国
カシュガルは昔は王国であったが、今は大ハーンに属している。多くの聚落があるが、最大のものはカシュガル自体である。住民はイスラム教徒で、手工業と商業で生活し、うつくしい庭園と葡萄園、畑をもち、大量の木綿が栽培されている。ここから多くの商人が世界各地に行商にでかけている。人々はけちんぼうで、飲食の時にも行儀がわるい。ネストリウス派の信徒が多く、独自の教会をもっている。この領内の通過には五日かかる。
14 サマルカンド市
サマルカンドは道路から西北の方向にある美しい大都会で、キリスト教徒とイスラム教徒がすみ、大ハーンの甥ハイドゥ〔実は蒙古の太宗の孫〕の所領である。彼は大ハーンとは仲がわるい。次にこの町でおこったおどろくべきことを物語ろう。さして遠くない昔、当時の大ハーンの兄チャガタイがキリスト教徒になった。キリスト教徒は大いによろこび、市内に大きな教会をたて、聖ヨハネ・バブティスト寺院と名づけた。そのとき彼らはイスラム教徒のもとから美しい石をもってきて、教会の中央で屋根をささえている円柱の礎石とした。間もなくチャガタイが死んだ。イスラム教徒は自分たちの石がキリスト教会の中で用いられているのを非常にうらんでいたが、王が死んだので、石をとりかえす時がきたと話しあった。教徒の数は十倍もあったので、数をたのみ、いっしょに教会におしかけ、石をかえせと要求した。キリスト教徒も石が彼らのものだということを承認し、高く買いとって解決しようと申し込んだ。しかし相手は、どんなものをもらっても、とりかえるのはいやだと頑張った。噂が高くなって国王の耳にいり、王はキリスト教徒に対し、相手を満足させる協定をむすぶか、石をかえすか、いずれかにせよと命じ、返答に三日の猶予をあたえた。
イスラム教徒はどうしても石をかえせと要求した。これは怨恨からでたもので、もし石を動かせば、教会堂が崩壊することを十分に知っていたのだ。キリスト教徒は非常に困惑し、どうしたらよいかわからず、キリストにこの事件を考慮して下さるよう、教会堂が崩壊しないよう、守護神ヨハネの名の汚されぬように、と祈った。王が定めたその日、彼らは朝早く教会へ行った。見よ、石は円柱の下から動きだしているではないか。円柱は宙にういてはいるが、今まで通りしっかりと屋根を支えている。円柱の下端と大地との間には約六十センチのすき間があったのだ。イスラム教徒は石をはこんだが、はなはだ面白くなかった。全くかがやかしい奇蹟だった。今でも円柱はそのままにたっている。
15 天山南路のオアシス都市
ヤルカンドは五日行程だけつづく地方である。木綿を多く産する。イスラム教徒もいるが、ネストリウス派やヤコブ派のキリスト教徒もいる。いずれも工匠だが、大部分は足がはれている。飲料水によるものらしい。
ホータンは越すのに八日かかる。住民はイスラム教徒で、大ハーンに属する。多くの聚落があるが、首都ホータンが最も立派である。どんな物資も豊富にあり、木綿、亜麻、大麻、小麦、葡萄酒なども同様である。商業、手工業がさかんだが、兵士はいない。
ペイン〔今のケリヤ〕は越すのに五日かかる地方で、イスラム教が行なわれ、大ハーンに属する。聚落が多いが、首都ペインが最も立派だ。いくつかの川では玉髄や碧玉が発見される。木綿をはじめ、あらゆるものができる。住民は商業、手工業でくらしているが、奇妙な習慣があり、夫が旅にでて二十日以上家を留守にすると、妻は他の男と結婚でき、夫もすきな女と結婚できることになっている。
カシュガル、ヤルカンド、ホータン、ペイン、さらにロブの町までは大トルコに属する。
チェルチェンも大トルコの一地方で、住民はイスラム教を奉ずる。多くの聚落があり、最大の町が同名のチェルチェンである。この辺の川も玉髄や碧玉を産し、それらはカタイ〔中国北部のこと〕にはこばれる。国内全部が砂地で、水は悪く、にがい。軍隊がこの地方を通ると、住民は妻子や家畜をつれ、二、三日行程はなれた、荒れた砂地ににげこむ。水場を知っているので、生きていけるのだ。しかもその足跡はすぐ風がふきけしてしまうので、彼らの居所を発見するのは不可能だ。
ここをでて五日間砂地をゆくが、この間、にがい水以外には何も見つけられない。五日後によい水のある場所につく。ここがロブの地方で、同名の大きな町もある。大砂漠の入口にあって、旅人は大砂漠にふみこむ前に、ここで家畜とともに一週間の休養をとる。人間と家畜のための一月分の必要品をととのえてから出発する。
ロブ砂漠は非常に広く、はしからはしまで行くには一年またはそれ以上かかるといわれる。しかしここでは幅がせまく、一ヶ月で横断できる。すべて砂の山と砂の谷ばかりで、食物は何もない。しかし一日一晩行くと水場があり、百人までの一行の人馬を満足させるだけの水はある。水場は合計二十八ヶ所、別に四ヶ所、黒ずんだ水のでる所がある。
食物がないので獣類はまったくいない。この砂漠については驚くべき話がある。旅人が夜間前進しているとき、誰かが一行におくれたり、ねむりこんでとりのこされ、急いで追いつこうとすると、悪霊が話しかけ、仲間であるかのように思いこませる。あるときは、その人の名をよぶ。彼はこうしてまちがった道に迷いこみ、仲間を見つけられなくなる。こうして多数の人が死んでいる。またあるときは道に迷った旅人が、隊商の足音や騒音が、ほんとうの道から聞こえてくるように思うこともある。これこそ仲間だと思って音の方へ行き、夜があけて初めて、自分があざむかれたことに気づく。そのためここを横断するときは、旅人は仲間からはなれないよう、くっつきあって行く習慣になっている。家畜も全部頸に鈴をつけて、簡単には道に迷わないようにする。ねるときには、次に行く方向に目じるしをつけておく。
まずこのようにして砂漠をわたるのだ。
16 タングート地方
一ヵ月かかって砂漠をこえたのち、沙州〔今の敦煌〕につく。大ハーンの領土で、タングート地方にある。住民の大部分は偶像崇拝教徒で、若干のネストリウス派とイスラム教徒がいる。偶像崇拝教徒は固有の言葉を許し、農業に従事している。彼らは多くの寺院と修道院をもち、その中に安置した偶像を崇拝し、そなえものをする。子供が生まれると、羊一頭をふとらせ、新年またはお祭りの日に子供とこの羊をつれて偶像の前にゆき、お祭りをする。そのあと羊を屠殺して料理し、肉を偶像にそなえ、子供の幸福を祈る。儀式がおわると、肉を家にもち帰り、親戚をよびあつめ、宴会をひらく。僧侶は羊肉の一部と頭、内臓、皮をもらう。たべおわると残った骨をあつめ、小箱にしまいこむ。
偶像崇拝教徒は火葬をおこなう。埋葬に行くとき、親戚のものは途中に木造家屋をたて、金糸絹糸の布でおおい、この家に一時棺をとどめ、食物をそなえる。この儀式で死者はあの世に迎えられると信じているからだ。町中の楽士は遺骸の前で奏楽し、遺骸が火葬場につくと、人、馬、駱駝、銭などの形に切った紙を、親戚が遺骸とともに焼く。あの世では焼かれた紙の数だけの奴隷、家畜、金をもつと考えられているのだ。火葬の前にはかならず占い師をよび、死んだものの生年月日、時間までつげる。彼は死者が二十八宿のどこで生まれたか、どんなしるしをもっていたかを調べたのち、星まわりに従って葬儀の日取りをきめる。そのため、半年も葬儀をのばすこともある。
遺骸を家に安置するには次のようにする。厚さの十分ある板をあわせて棺をつくり、接合し、きれいに塗る。中には防腐用に樟脳や香料をつめ、つぎ目にはピッチと石灰をつめ、外側をきれいな布でおおう。遺骸の安置されている間は、毎日その前の壇に食物をそなえる。これを毎日くりかえす。時には占い師が、遺骸を戸口から出すのはよくない、ということがあるが、そのときには壁に穴針あけて出さなけれはならない。これはこの辺のすべての偶像崇拝教徒の間の習慣である。
17 カムル
カムル〔今のハミ、哈密〕地方は以前は王国であった。この地方は二つの砂漠にはさまれ、一つは前述の大ロブ砂漠、一つは三日で越せるほどの小さい砂漠である。住民は偶像を崇拝し、固有の言葉を話す。土地でとれるもので生活し、物資が豊富だ。彼らは娯楽をこのみ、遊び、歌い、愉快に時をすごすこと以外、何も考えない。
見知らぬ人がこの地方の人に宿を借りると、主人は非常によろこび、妻をその人が自由にするようにあてがって、屋外に出てしまい、旅人が立ちさるまで、決して帰宅しない。旅人はすきなだけ滞在し、妻の接待をうけられる。主人はこれを恥とするどころか、名誉とさえ心得ている。だからこの地方の男は妻の不貞を黙認しているのだ。婦人は美しいが、尻が軽い。
さて次のようなことがおこった。マング・ハーン〔憲宗〕のとき、大ハーンはこの習慣をきいて、今後このような行為をしてはならぬ、旅人のためには公共の宿舎を設けよ、と命じた。住民は非常になげいたが、命令通りにした。しかし三年後、この地方が不毛になり、不幸なことが多くおこるのに気づいた。彼らは会議をひらき、高価な贈物を大ハーンにおくり、祖先伝来の習慣だから、そのまま保持させてもらいたいと懇願した。理由は自分たちの神が、もっているものすべてをわれわれに与えて下さるのは、この習慣あるがためであり、そうしなければわれわれは生きて行かれない、というのである。これをきいた大ハーンは「恥辱をもちつづけたいというなら、そうしたらよかろう」といって、その通りにさせた。以後彼らはこの習慣をもちつづけている。
次に同じく大ハーンの領土の、北北西の地方について語ろう。
18 チンギンタラス
チンギンタラス地方も砂漠のそばにある。十六日行程の広さをもち、大ハーンの領土で、聚落が多く、偶像崇拝教徒、イスラム教徒、ネストリウス派信徒がいる。地方の北端には良質の鋼とオンダニクとの鉱山がある。同じ山中にはサラマンダー〔火蛇、実は石綿のこと〕の鉱脈がある。サラマンダーとは我々の国で伝えられているような獣類ではない。少しくこれについて話そう。
すべての動物は地水火風の四元素でできているから、火の中では生きていられない。マルコ・ポーロの知人にズルフィカルというトルコ人がいたが、なかなかの物識りだった。彼は次のようにのべた。自分は大ハーンの命令で三年間この地方にとどまり、サラマンダーを掘った。坑道をほって鉱脈を見つけ、鉱石をとってくだくと、羊毛のより糸のように分れ、これを乾燥させる。乾いたより糸を銅の大臼でつき、洗う。泥がとれ、より糸のようなものだけのこる。これを織ってナプキンにする。初めはそれほど白くないが、火中に投ずると雪のように白くなる。また汚くなったら火の中に投じて白くする。大ハーンがキリストの肖像を包むようにといって、法王におくったこの織物のナプキンが、ローマにあることをつけ加えておこう。
19 粛州と甘州
沙州から無人地帯をゆくこと十日間で粛州につく。大ハーンの領土で、多くの聚落があり、首都は粛州といい、住民はキリスト教徒と偶像崇拝教徒である。この地方のどの山にも大黄がたくさん生えており、商人はこれを買って世界各地へもって行く。旅人がこの山中へ行くときは、土地の家畜以外はつれて行かない。家畜が食うと蹄を失う有毒植物が生えているが、土地の家畜ならそれを見わけて、たべないのだ。住民は褐色の皮膚をし、農耕に従い、商人は少ない。この地方は健康によい。
前述の沙州、チンギンタラス、そしてこの粛州の三地方は、もっと大きなタングートという地方に属している。
甘州はタングートの首府で、大きく立派だ。住民には偶像崇拝教徒、イスラム教従およびキリスト教徒がおり、キリスト教は市内に三つの立派な教会をもち、偶像崇拝教徒は彼らの様式にしたがってたてた修道院や寺院をもっている。その内部には大小さまざまの偶像があり、高さ十メートルもあるものがあるし、木製、泥製、石づくりのものもある。いずれもピカピカにみがかれ、金でおおわれている。前述の大きな像は横にねており、周囲に大小の像がならんで礼拝している。
偶像崇拝教の僧侶は、俗人より厳格な戒律をまもり、色欲から遠ざかってはいるが、これを死に値する罪悪とは考えていない。しかし自然に反した罪をおかすと死に処せられる。彼らにもわれわれと同じように宗教的な祭りがあり、月に五日の宗教的な日がある。その日には殺生をせず、殺したものの肉もたべない。またこの日には特にきびしい禁欲を行なう。
住民の間には富と身分におうじて妻を多く娶る習慣がある。三十人前後の妻をもつものもあるが、最初の妻に最高の地位があたえられる。妻をもらうときには、財力におうじて家畜、奴隷、金銭を支払う。妻の一人が気にいらなくなると、他のものを家にいれる。いとこや亡父の寡婦(ただし各人の生母は除くが)でも妻とし、これを重大な罪悪とは考えてない。
マフェオ・ポーロとマルコ・ポーロはこの町にまる一年間も滞在した。
さてこの地の話はこれくらいにして、北にある地方について話そう。一行はその地方へ六十日間の旅をしたのである。
20 ハラホルム
甘州から十二日の旅でエチナの町につく。荒れはてた砂漠の北端に近く、同じくタングートに属する。住民は偶像を崇拝し、多くの駱駝と家畜をもち、農業と牧畜で生活している。この地にはセーカーやランナーなどの優秀な鷹がいる。ここを出発するにあたっては、四十日分の食糧を用意する必要がある。北方へ四十日行程の間、砂漠がひろがり、途中、人家も宿泊所もないからである。実際、夏でも全く人にあわないし、冬には寒さがきわめてきびしいのだ。途中、少しばかりの小さなやせた樹木があちこちにあり、それによって生きている野生の獣類と野生驢馬がいる。四十日の砂漠の旅ののち、ハラホルムにつく。
ハラホルムの町は周囲五キロ、堅固な土壁をめぐらしている。石がないのだ。付近の大きな城の中に支配者のすむ立派な宮殿がある。ここはタタール人が故郷からでてきて、最初につくった町である。次に、タタール人がいかにして領土を獲得し、世界にひろがったかをのべよう。
はじめ彼らは女真人の国の北にすんでいたが、そこは大平原の一つで、大きな川と水が十分にある豊かな牧草地帯であった。支配者はなく、彼らの言葉でワン・ハンという有力な君主に租税として貢物をおさめていた。ワン・ハンとはヨーロッパでいうプレスター・ジョンのことで、彼が大領土をもっていたことは誰でも知っている。貢物は家畜十頭につき一頭の割合で、つまり財産の十分の一を支払っていたのである。
やがてタタールの人口が猛烈にふえてきたので、プレスター・ジョンは心配の種になることをおそれ、荒廃した砂漠の各地に分散させようと計画し、一人の貴族を派遣した。これを知ったタタール人は、そんなことをされては困ると考え、満場一致で、この地をあとにすることにきめ、砂漠を横ぎり、プレスター・ジョンが苦しめることのできない遠い北の地方へ去った。かくて彼の権力に反抗し、貢物を送らなくなり、この状態がしばらくつづいた。
21 チンギス・ハーン
一一八七年、タタール人はチンギス・ハーンを王に推戴した。彼は勇敢、賢明、かつ有能な人物であった。彼が王にえらばれたとのニュースがひろがると、全世界のタタール人がかけつけ、彼を君主にいただき、君主の地位は確実になった。集まった多数のタタール人に、彼は槍、弓矢などの武器をあたえ、四方に征服軍をだし、ついに八つの地方を征服した。彼は一地方を征服すると、住民や財産の安全を保証し、単に人口におうじて部下を駐屯させ、残りをひきいて他の地方の征服にむかった。征服された地方の人々は彼が自分たちを苦しめることなく、外敵から守り、非常な名君であるのを知って、やがて彼に信服し、忠実な部下となった。
かくて大地をおおうほど部下が多くなった。一二〇〇年、彼は使者をプレスター・ジョンのもとにつかわし、その娘を妻にもらいたいと申し入れた。ジョンは大いにおこり、「わしの娘を嫁にくれなどと、何というあつかましい男だ。あいつはわしの家来ではないか。ただちに帰って、娘をやるくらいなら、火の中へ投げこんだ方がましだ、そんな反逆者はわしの手で殺してやる、と伝えろ。二度と来るな」と使者にいった。使者はこの言葉をのこらずハーンに申しあげた。
この侮辱にみちた伝言をきいて、チンギス・ハーンは激怒した。自負心の強い人物だったからである。ついに彼は口をきった。そばにいるもの全部にきこえるほどの大声だった。「プレスター・ジョンの侮辱にみちた伝言に復讐しないようなものは、もはや君主たりえない。このような侮辱が高いものにつくことを思い知らせてやる」
彼はすべての将兵をあつめ、未曽有の大軍を編成し、別にプレスター・ジョンに使者をおくり、防備したらよかろうと伝えた。ジョンはハーンが実際に大軍をひきいて出発したとの知らせをきいても、まだ、彼らは戦士ではない、あんなものは見せかけだけだ、といいはっていた。とはいいながら将兵に武装を命じ、人民をあつめ、ハーンがきたら、ひっとらえて殺してやる、と十分準備をととのえた。実際彼がこれほどの大軍を雑多な民族から集めたのは驚異であった。
かくて両者の戦闘準備がととのった。チンギス・ハーンは大軍をひきいて、ジョンの領土の広い牧草ゆたかなテンドゥク平野に到着し、陣をはった。この場所は戦場として十分余裕のあるほどの広さがあり、彼はここで相手のくるのをまった。ジョンも敵の来襲をきき、迎えうつために進軍し、同じテンドゥク平野に到着し、敵陣から三十キロはなれたところに陣をしき、三日間の休養をとった。
両軍があい対したとき、ハーンはキリスト教徒やイスラム教徒の占い師をまねいて、どちらが勝つか、占わせた。イスラム教徒の占い師は正しい答えをえられなかったが、キりスト教徒の方は正しい答えをあたえ、結果を予知した。まず竹をたてに割り、一本をこちら側に、一本をあちら側にたて、手をふれないように命じ、一本をハーン、一本をジョンとした。そして「さあ見て下さい。どちらが勝つかがわかります。上にのっかった竹が勝利をうるのです」と申し上げた。ハーンは、さあ始めろ、といった。占い師は詩篇の中の詩をよみ、ついで他の呪文をとなえた。するとどうだ。すべての人の注視している前で、ハーンの名をあたえられた竹が、誰も手をふれないのに、ジョンの名をあたえられた竹に向ってすすみ、その先端の上にのってしまった。ハーンは非常によろこび、キリスト教徒が真実をのべたというので、以後彼らに敬意をはらい、信用するようになった。
二日間の休養後、両軍ははげしく戦った。まことに未曽有の大戦争であった。戦死者はどちらにも多かったが、ついにハーンが勝利をえ、プレスター・ジョンは戦死した。これ以来、彼の領土はハーンによって日に日に奪いとられ、間もなく全部征服された。
この戦争ののち、チンギス・ハーンは六年間、国を支配していたが、いつも征服にしたがい、多くの地方や町、城を占領した。六年後に河州という城を攻めたが、そのとき膝を矢で射られ、この傷がもとで死んだ。彼のような勇敢、賢明な人物の死はまことに大きな損失であった。
チンギス・ハーンの次に帝位についたのはクイ・ハーン、第三代はバトゥ・ハーン、第四代はアラク・ハーン、第五代はモング・ハーン〔憲宗〕、そして第六代が現在のフビライ・ハーンで、歴代のハーンより偉大な人物である。事実、前の五人のハーンを束にしても、フビライ・ハーンの力にはかなわないであろう。いな、世界のすべてのキリスト教徒とイスラム教徒の王や皇帝たちでも、彼ほどの力はもってないだろうし、彼ほどの業績はあげられないだろう。彼こそは全タタール人の君主である。〔ここにあげられた歴代ハーンの名には大分あやまりがある〕
すべての大ハーンやチンギス・ハーンの子孫は、死ぬとすべてアルタイ山に埋葬される。君主はどこで死んでも、この山の先祖の墓のそばにはこばれる。死んだ場所がここから百日行程はなれていても、必ずここへはこんでくる。
もう一つ奇妙な習慣は皇帝の遺骸を墓所へはこぶ途中、誰かにあうと、護衛のものは彼らすべてを剣でつき殺し、「さあ行け、あの世でわが君に仕えよ」という。こうして殺されたものは、あの世で君主につかえる、と信じられているのだ。馬についても同様で、皇帝が死ぬと、そのもっとも優秀な馬を殺す。これもあの世で君主がのりまわす、と考えられているからだ。モング・ハーンが死んだとき、こうして殺された人の数は二万以上になったとのことである。
22 タタール人の風習
タタール人の習慣では、冬は家畜によい牧草のある、あたたかい草原ですごし、夏は山や谷間の、水や樹木や牧草のある涼しい場所に移動する。
家は円形で、棒で組立て、上をフェルトでおおう。この家は彼らの行くところへ、どこへでもはこばれる。棒はしっかり結びあわされて骨組みとなるもので、非常に軽い。扉はいつも南向きである。別にフェルトでおおった車もあるが、このおおいはきわめて完全で、雨もりしない。車をひくのは牛と駱駝で、婦人と子供はこれにのって旅行する。婦人はものの売買もするし、夫や家族のために必要な仕事は何でもする。男は紳士的な生活をおくっていて、狩猟や鷹狩り用の鷹の世話や軍事関係の仕事以外は何もしない。
彼らは家畜からえられる乳と酒、狩猟の獲物などを常食としている。肉なら何でもたべ、馬、犬、それにこの辺の平原の穴の中にすんでいるファラオ鼠〔タルバガン〕の肉でさえたべる。飲物は馬乳である。
彼らはたがいに他人の妻に関係しないようにつとめている。婦人も夫に対して善良かつ忠実で、その上、すばらしい主婦である。彼らが十人、二十人といっしょにすんでいても、間がらは平和で、一言の悪口もきかれない。
タタール人の結婚の習慣は次のようなものである。養う力があれは、男は百人でも妻をもつことができる。地位は最初の妻が一番高く、正夫人とされ、その子が嫡子とされる。夫たるべき人は、嫁の母に代償としての金を支払うが、嫁は夫のもとへ何ももってこない。彼らは多くの妻をもっているので、他の民族よりも多くの子供をもっている。いとこ同士でも結婚し、父が死ねば、息子はその母たちを自分の嫁にする。ただし実母は別だ。これは長男だけのことで、次男以下はそんなことはできない。死んだ兄弟の嫁をもらうこともある。結婚式はなかなか盛大である。
23 タタール人の神
次に彼らの宗教についてのべよう。彼らは最高の天の神がいると考え、毎日香炉に香をたいて礼拝するが、祈るのは心身の健康だけだ。別にナティガイという神があり、これは地の神で、子供や家畜、穀物を保護すると考えられている。非常に崇拝され、すべての人が家の中に、フェルトと布地でつくったこの像をおき、その妻や子の像をも同じように作っておく。妻の像は地の神の像の左手に、子の像は右手におく。食事どきには肉を少し、この三つの像の口にぬりつける。ついで肉汁を家の扉の前にそそぐ。神とその一家が食事の取り分をとったと考えるのだ。
飲物は馬乳からつくられ、われわれが白葡萄酒を造るのと同じようにつくられる。クミズとよばれ、まったく結構な飲物である。
富裕なタタール人の衣類は大部分金糸絹糸の布地で、裏に黒|貂《てん》、貂《てん》、りす、狐などの高価な毛皮をつける。すこぶる豪華だ。
23 タタール人の戦闘ぶり
彼らの武器はいずれも優秀で、弓矢や剣、棍棒などだが、彼らはすばらしい射手なので、弓がもっともよい。背中には水牛などの皮でつくった非常に丈夫な鎖をつける。彼らはすぐれた兵士で、戦いのときには勇敢である。他の民族よりも困苦にたえ、必要とあれば、ひと月でも食糧をもたずに走りつづけ、ただ乗馬の乳と狩猟の獲物だけでくらすこともしばしばある。彼らの馬は草原の草だけで十分生きてゆけるので、大麦、藁、燕麦などをもってゆく必要はない。しかもきわめて扱いやすい。彼らは必要なときには夜も武装のまま、馬からおりず、馬も主人をのせたまま、始終草をはんでいる。
タタール人の君主が戦いにでかけるときには、十万の騎兵をひきいて行く。まず彼は将校として十人長、百人長、千人長、万人長を任命する。従って君主の命令は十人に伝達され、伝達された十人のおのおのが、十人の部下に命令し、こうして命令が下にゆきわたり、十人以上のものに命令することはない。その代り各人は自分のすぐ上の将校に責任をおうだけである。十万人の集団をトゥクといい、一万人の集団をトゥメン、百人の集団をグズという。彼が行動するときは、前方二日行程のところに、二百騎のすぐれた偵察隊が先行する。同様のものが後方と側面に派遣され、どの方向からも奇襲をうけないようになっている。遠征の際には、乳をいれる皮袋二つ、肉を料理するための小さな素焼の壷、雨を防ぐための小さなテント以外、道具は何ももってゆかない。緊急なときには火ももやさず、食事もとらず、連続十日間騎行する。そんな時には馬の血だけでうえをしのぐ。まず血管をきり開き、血を自分の口中にほとばしらせ、満腹するまでのんで、血止めをしておく。
彼らはミルクを糊のように乾かし、これを携帯する。作り方はミルクを煮て、表面に浮かんだ栄養分のある上皮をまずすくいとり、これでバターをつくる(上皮をとらないと固まらないのだ)。そのあとミルクを太陽で乾燥させる。遠征の際には各自乾燥ミルクを十ポンドくらいもって行く。朝方にこれを半ポンド皮袋にいれ、すきなだけ水を加えておく。騎行している間に乾燥ミルクはとけてパン粥《がゆ》のようになり、これを昼食にする。
敵と戦うときには、まず故意に敵のまわりをあちこち乗りまわしつつ、矢を放つ。退却を恥とは考えないので、あるときは偽って退却し、退却しながら馬上で後向きに矢を放ち、敵に大損害をあたえておく。彼らの馬は犬のようにすばやくあちこちに向けられるように訓練されている。まったく驚くべきことだ。退却中の彼らの一斉射撃の矢は、勝ったと思って安心している追撃軍の頭上にふりそそぐのだ。しかも敵の人馬が大量に殺傷されたと見てとると、くるりと向きをかえ、完全な秩序を保ちつつ、大声をあげて攻撃を開始する。たちまちのうちに敵は全滅する。彼らが退却したのを見た敵軍は、自分は勝ったと考えるが、実は負けているのだ。こんな方法でタタール人は多くの戦いに勝ったのである。たしかに彼らは頑強で勇敢な兵士であり、戦闘になれている。
以上にのべたような純粋のタタール人の風習は、すべて事実である。しかし現在では大いに堕落していることも、つけ加える必要がある。カタイにすむタタール人は偶像崇拝教徒のやり方をとりいれて、固有の制度をすててしまったし、イル・ハーン国のタタール人はイスラム教徒の習慣を採用している。
25 タタール人の裁判
彼らは次のように裁判を行なう。小さいものを盗むと、当局の命令で、棒で七回うたれる。打つ数はおかした罪の軽重におうじて、十七、二十七、三十七、四十七、と十ずつまし、上は百七まである。うたれているうちに死ぬものもある。馬泥棒その他の重罪だと、剣で真二つに斬られる。盗んだものの九倍の代償を支払うことができれば、釈放される。家畜を所有する君主などは、その馬や駱駝、牛などの大家畜に、特別の烙印をおし、見張りをつけずに草原に放牧する。家畜は入りまじってしまうが、烙印があるので、必ず所有者のもとにもどされる。羊と山羊には見張りをつける。家畜はいずれも美しく、大きく、良好な状態にある。
彼らの間には次のような習慣もある。婚約中の男女が二人とも死ぬと、二人の親たちは死んだ二人の結婚式を盛大におこない、正式に結婚させる。婚姻の証書ができ上がると、あの世にいる二人がこれを知って、互いに妻とよび夫とよぶように、証書を火にくべる。それ以後は二人が生きているかのように、親たちはたがいに親戚と考える。さらに持参物としてあたえることになっていた品物の画を紙にかき、これも火中に投ずる。この品物を死者があの世で受け取ると考えられているのだ。
26 ハラホルム北方の曠野
ハラホルムと、タタールの君主の墓のあるアルタイ山をあとに、北へ四十日ゆくと、バルグ曠野〔バイカル湖畔?〕につく。住民はメクリトとよばれ、ひどい未開民族で、牧畜を業とするが、家畜の大部分は鹿〔実はトナカイ〕で、騎乗用に使う。風習はタタール人に似ており、大ハーンに服属している。穀類も酒もなく、鳥をとってたべている。湖沼が多く、渡り鳥が多くくるが、ちょうど羽根の生えかわる時期にあたり、羽根がなくて飛べないので、手づかみにできる。彼らは魚もたべる。
この曠野をこえて四十日間進むと、大海に達する。付近の山にはべリグリン鷹が巣をつくっている。非常に寒いので、山中には人も鳥獣もおらず、ただ鷹が餌食《えじき》にしているバルゲルラクという鳥がいるだけだ。この鳥はシャコほどの大きさで、オウムのような脚、燕のような尾があり、飛ぶ力がきわめて強い。ペリグリン鷹の雛がほしくなると、大ハーンは使者をおくって、とってこさせる。隼のいるのもこの海中の島である。ここは極北の地で、北極星が南方、やや後方に見える。この辺には隼が多く、大ハーンはほしいだけとれる。しかしキリスト教徒がタタール領内にもって行く隼は、イル・ハーンのところへはこばれる。間違えてはならない。
ここから北には、もう土地はない。それで立ちもどって、大ハーンのもとへの旅の途中の国々についてのべよう。
27 涼州・寧夏
甘州をたち、夜間に多くの精霊の話し声のきこえる地方を、東へ五日間ゆくと、エルグイウル〔涼州〕につく。タングート地方を構成する一王国である。住民にはネストリウス派信徒、偶像崇拝教徒、イスラム教徒がいる。町が多いが、エルグイウルが首都である。ここから東南、カタイ地方に向かうと、まず西寧の町につく。まだタングート地方で、住民は偶像崇拝教徒とイスラム教徒だが、若干のキリスト教徒もいる。この辺には象ほども大きい野獣〔ヤク〕がいる。背中以外は長さ六十センチ以上のあらい毛でおおわれ、白いのも黒いのもいる。体毛はきわめて美しく、絹以上だ。珍しいので、マルコ・ポーロもヴェネチアに少しもち帰ったが、見た人はいずれも同感の意を表した。馴らされたものも多く、住民は普通の牛と交配させるが、生まれた動物もすばらしく、他の家畜よりよく働く。駄用、一般用、耕作用につかわれ、耕作につかうと、他の動物の二倍の仕事をする。
この地方には最良の麝香《じゃこう》を産する。それがどうして作られるかをのべよう。カモシカに似た動物がいるが、脚と尾はカモシカに似、雄の毛は粗いが、角はない。上下二本ずつ、あわせて四本の細い牙があるが、いずれも七センチもあって、一対は上を、一対は下をむく。美しい動物で、臍のところの皮と肉との間に、血の一ぱいつまったできもののようなものがある。これを切りとり、皮をはぐ。このできものの中の血が、あの高い香気をはなつ麝香なのである。この辺には麝香鹿が多い。肉はうまい。マルコ・ポーロはこの鹿の乾燥させた頭と脚をヴェネチアへもちかえった。
住民は商人と工匠で、穀類を多く産する。地方の広さは横断に二十日を要するほどだ。この辺の雉《きじ》は孔雀《くじゃく》ほどもあり、一メートル半から二メートルの尾をもっている。住民は偶像を崇拝し、身体はふとっているが、鼻は小さく、髪は黒く、口の上に少しひげがあるが、あごひげはない。婦人はなめらかな白い肌をし、すべての点で美しい。男は多情で、多くの妻をめとるが宗教もこれを禁じていない。婦人は血統がいやしくても、美しけれは貴族の妻になれる。男は美しさに応じて婦人の値をつりあげ、大金を両親に支払って結婚する。
話をもとへもどして、エルグイウルから東へ八日間ゆくと、タングートの一部たるエグリガイア〔寧夏〕地方につく。首都はカラチャン〔寧夏の町の西四十キロの定遠営〕という。住民はおもに偶像崇拝教徒であるが、ネストリウス派の壮麗な寺院もある。この町では駱駝の毛で美しい呉絽《ゴロ》(駝毛布)が作られ、純白のものが最優秀品である。商人はこれを世界中に売り出している。
28 テンドゥク
テンドゥク〔唐代の天徳のなまったもの〕は東の方の地方で、首都をテンドゥク〔今のフフホト?〕という。ここの王はプレスター・ジョンの子孫で〔実は無関係〕、名をゲオルギスといい、大ハーンの支配下に領土をたもっている。しかしジョンの旧領全部を支配しているのではない。ジョンの系統の諸王は、いつも大ハーンの娘か、その一族の公女を妻にむかえることになっている。
この辺には碧玉の原石を産する。地中の鉱脈からえられ、良質だ。また駱駝の毛で、美しい色の呉絽をつくるのが盛んである。住民は牧畜、農耕、商業、手工業をいとなんでいる。この地方の統治権はキリスト教徒の掌中にあるが、偶像崇拝教徒やイスラム教徒もいる。テンドゥクの偶像崇拝教徒とイスラム教徒の混血で、アルゴンとよばれる種族がいるが、美貌で、才能もすぐれ、すぐれた商人でもあり、権力をにぎるようになった。
プレスター・ジョンがタタール人を支配していたとき、彼はこのテンドゥクを居所としていたのであり、後継者は今なおここにすんでいる。ゲオルギス王は彼の六代目の子孫である。
この地方を通って七日間東へゆくと、カタイの近くへ着く。途中、町と村が多く、住民はイスラム教徒だが、偶像崇拝教徒やネストリウス派もいる。いずれも商業と手工業で生活し、いろいろの綿布のほか、ナシク及びナクとよばれる金糸の布地を織っている。やがて宣徳州〔今の宣化〕につくが、ここは工芸が盛んで、大ハーンの軍隊に供給する武器もつくられる。山中には良質の鉄鉱があり、多量の銀もえられる。狩猟の対象になる鳥獣が多い。
29 チャガン・ノール
さらに三日行くと、チャガン・ノール(白い湖という意味だ)の町につく。大ハーンの壮大な宮殿があり、彼は好んでここに滞在する。付近の湖や川が白鳥などの棲息地になっているし、隣接する草原にも鶴、雉、シャコなどの鳥が群をなしており、ここで鷹狩がたのしめるからである。この辺には鶴が五種類いる。第一のものは大型で、鳥のように全身真黒である。第二のものは全身純白で、最も大型、つばさは孔雀の尾紋のような円い、金色の羽毛でいろどられ、頭は白地に赤と黒のいろどりがある。第三のものはヨーロッパのと同じものである。第四は小型で、耳の辺に赤と黒の長い羽毛がたれ下がっている。第五は全身灰色で、大型、可愛らしい赤と黒の頭部をもっている。
町の近くの谷に、大ハーンのたてた数軒の小屋があるが、その中の檻《おり》には、われわれが大シャクとよぶカトールがたくさんいる。人がいてこれを世話し、大ハーンが訪問すると、ほしいだけ供給されることになっている。
30 上都
チャガン・ノールから北北東へ三日ゆくと、現在の大ハーン、フビライによってたてられた上都につく。ここには非常に立派な大理石の宮殿があり、その各部屋にはびっくりするほど上手に人物、鳥獣、花、樹木が色とりどりにえがかれている。
宮殿の周囲には延長二十五キロの城壁がつくられ、内側の庭園には泉や小川、美しい芝生があり、いろいろな野獣、猛獣さえいる。これは同じ場所の檻で飼われている鷹や大鷹の食糧として大ハーンが手にいれ、もってきたものである。ここには鷹のほか、大鷹だけでも二百羽以上はいる。彼は毎週、檻の中の鳥を見まわり、時には豹を馬の尻にのせて庭を通る。そして気にいった獣をみつけると、これに向かって豹をはなし、えものは檻の中の鷹にあたえる。これは彼の娯楽なのだ。
さらに庭園内の樹木の美しい場所に竹の御殿があるが、全部金でぬられ、内部も荘厳に仕上げられている。金色や漆でぬられた円柱で支えられ、円柱の上には金色の竜があり、尾は円柱にまきつき、頭は軒縁をささえ、左右にのばされた手も軒縁をささえている。屋根も竹でできており、ワニスが手ぎわよく厚くぬってあるので、雨はもらない。これらの竹は周囲六十センチ、長さ九から十三メートルはある。節《ふし》のところで輪切りにし、真二つにわって円瓦のようにし、これで屋根をふく。風にとばされないように一枚ごとに釘でとめてある。要するに全宮殿は竹でつくられているわけで、分解のときも、組立てのときも、迅速にできるように工夫されているので、大ハーンの意のままに分解、移動させることができる。組立てられたときは、風で吹きたおされないように、二百本以上の絹の綱でささえられている。
大ハーンは一年のうち、六、七、八の三ヶ月間、この庭園に滞在し、あるときは大理石の宮殿に、あるときは竹の御殿にとまる。この地は決して暑くないので、この滞在を好んでいるのだ。全く涼しい場所だ。八月二十八日になると出発し、竹の御殿も分解される。次にこの日に行なわれる行事を話そう。
大ハーンは一万頭以上の馬の大群をもっている。いずれも斑点一つない純白の馬であるこの群の牝馬の乳は、彼とその家族及びこれを飲む特権をもつ大部族の長だけが飲み、他のものは飲むのをゆるされない。この特権は昔チンギス・ハーンのとき、この部族が皇帝を助けて戦いを勝利にみちびいた功によってあたえられたもので、その部族の名はオイラートである。
この馬群の通行中に、これにであったものは、たとえその地方の支配者でも、馬群の通りすぎるまで、その場でとどまるか、急ぐときは半日行程迂回するかしなければならない。近づいてはならないのである。さて八月二十八日に大ハーンの出発するときには、これらの牝馬からしぼられた乳が地上にふりまかれる。偶像崇拝教徒とその僧侶の進言にもとづいて行なわれるもので、この日に乳を地上にふりまくと、土地や大気、またこれに類する神々、さらに大気や土地にすむ生霊たちもその分け前をうけとることになり、彼らはハーンやその妻子、一族ならびにその財産、家畜などを守護し、祝福するようになる、とのことである。こうして皇帝は出発する。
ここでつけ加えておくことがある。毎年この地に皇帝が滞在する三ヶ月の間に、天気が悪くなると、従者のうちの魔法や呪術にたけた占い師が、宮殿の上を雲や嵐の通るのをふせぐ。この魔法使いはチベットとかカシュミールとかよばれるが、これは偶像を崇拝する二つの民族の名である。彼らが魔法をつかうのは、実は悪魔のたすけをかりるのだが、自分たちが神聖なためと、神助によるものだと思いこませている。彼らはいつもきたならしい下品な様子をし、自分にたいしても他人に対しても尊敬とか礼節とかを知らず、顔も洗わず、むさ苦しい生活をしている。死刑にされたものがあると、彼らは死骸を料理して食う。しかし自然に死んだ人の死骸はくわない。
以上のような魔法をおこなうバクシ〔蒙古語で先生、貴下の意。中国語の博士のなまった語〕たちについては、次のような話もある。大ハーンが首都の宮殿にいるときは、八キュビット〔一キュビットは四五〜五六センチ〕くらいの高い台の上のテーブルにつくが、彼の盃は約十メートルもはなれた広間の中央の食器棚の上におかれ、いつも用いる酒または香料入りの酒をこれにみたす。大ハーンが飲もうと思うと、魔法使いは魔術をつかい、誰も手をふれないのに盃が動きだし、大ハーンの前に行く。一万の人が見ている前でも、この術をつかう。これはうそではない。魔術を知っているヨーロッパの賢人でも、これはできるといっている。
偶像の祭りの日が近づくと、バクシたちは大ハーンに申しあげる。「陛下、これこれの偶像の、祭りがせまりました。この神は供えものしませんと、悪天候をもたらし、四季の運行をそこないます。何とぞ、これこれの数の黒い頭の羊を御下賜ねがいます。またわれわれの偶像のために厳粛な法事を行ない、犠牲をささげることができるように、偶像が我々と我々の財産を守るのをいのるために、香料をいくら、何々をいくら、御下賜願います」。バクシはこれらのことを大ハーン側近の重臣にいい、重臣から大ハーンに申しあげ、そして大ハーンは重臣に、バクシの要求したものをあたえよ、と命ずる。下賜されると、バクシは偶像のために盛大な祭りを行ない、供え物をささげ、いろいろの香をたき、料理した肉をそなえ、肉汁をあちこちにふりまく。こうすると偶像が満腹するのだとのことだ。祭りはこうして行なわれるが、偶像はそれぞれ名前をもち、キリスト教の聖者と同じように、偶像も祭日をもっている。
バクシたちは大きな寺院や修道院をもち、そのあるものは小さな町ほどもあり、千人以上の僧侶のいる修道院もある。これらの僧侶の衣服は、他の連中より上品で、頭髪もひげもそっている。バクシの中には、宗規によって妻帯を認められ、たくさん子供のあるものもいる。
別に先生〔元代には道教の僧のこと〕という、ものすごく禁欲を行ない、難行苦行の生活をおくる人々もいる。一生、糠《むか》を湯がいたものだけしかたべない。だからものすごい難行苦行だというのだ。大きい偶像をたくさんもち、時には火も崇拝する。他の偶像崇拝教徒はこれらの偶像を崇拝しておらず、彼らを異端とよんでいる。「先生」はどんな事情があっても妻帯せず、黒と青の麻の衣服をまとい、むしろの上にねる。彼らの禁欲ぶりには全くおどろくべきものがある。彼らの偶像は全部女性で、女の名前をもっている。
こんな話はこれくらいにして、君主のうちの大君主の大国家と、そのすばらしさについてのべよう。その大君主とはタタール人の支配者で、その名をフビライという。もっとも気高い、もっとも強力な君主である。
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第二章 フビライ・ハーン、その宮廷と首都
1 フビライ・ハーン
さてこれから、現在この国をおさめているフビライ・ハーンの偉大なことを語ろう。ハーンとは「君主のうちの大君主」、また皇帝を意味する。たしかに彼こそ、この尊称をうける権利が十分にある。軍隊の数、領土のひろさ、所有する財宝などにおいて、彼は世界はじまって以来のあらゆる帝王をたしかにしのいでいるからである。それはこれから明らかにされるが、そうすれは誰でも彼が過去および現在において、最も偉大な君主であることを、よろこんでみとめるにちがいない。
彼は全タタール人の初代君主であったチンギス・ハーンの嫡流《ちゃくりゅう》で、第六代目の後継者である。一二五六年に即位し、その能力と剛勇と偉大さによって帝国を手にいれた。即位の際、弟や親戚の間に帝位を争うものがいたが、彼は絶倫な勇気で帝位を保持した。即位以来、今年すなわち一二九八年にいたるまで四十二年、そして彼は八十五歳であるから、即位したのは四十三歳のときであった。彼はそれ以前からしばしば出陣し、自らすばらしい戦士であり、すぐれた司令官であることを証明した。即位後は出征しなくなったが、例外がただ一回ある。一二八六年におこったことで、次にこれをのべよう。
2 ナヤンの乱
タタール人の大支配者にナヤンという人がいた。三十歳の若者で、多くの地方を支配し、フビライは叔父にあたる。彼は自分が権力をもっていると自覚すると、その有する力と若さの故に、高慢になった。事実、彼は騎兵三十万を戦場に派遣できたにかかわらず、いつも甥としてフビライ・ハーンの臣下だった。自分の力を自覚するとともに、大ハーンの臣下たることに、いや気がさしてきたのである。できれは帝国を奪おうとさえ考えた。そこでナヤンはタタール皇族の一人で、同じく大支配者であったハィドゥに使者をおくった。ハィドゥも大ハーンの甥にあたり、法的にはこれも臣下であったが、フビライに反抗し、はげしい敵意をいだいていた。ナヤンの送った書信の内容は次のようなものであった。……自分は全軍をひきいて大ハーンを攻撃する準備ができているが、ハィドゥも同様にして、別な方面から攻撃する。こうして両方から攻めれは、フビライの領土を奪いとることができよう。この手紙をうけとって、ハィドゥは大いによろこび、ついに目的を達するときがきたと考えた。ただちに返事をかき、申しこまれた通りにしようといい、騎兵十万以上にのぼる大軍を準備した。
この計画を知ったとき、フビライ・ハーンは、正義に反する計画などは少しもおそれぬ人のように、きわめて冷静に準備をした。指揮能力と手腕には自信があったので、少しもあわてず、この二人を悲惨な死に処さないならば、二度と王冠をかぶるまいとちかった。準備は迅速かつ秘密に行なわれたので、枢密院以外のものは知らず、しかも十日ないし十二日で完了した。このとき集められたのは騎兵三十六万、歩兵十万であったが、彼にとってはわずかな数で、近傍にいたものを集めただけだった。三十六万の騎兵は鷹匠たちと宮中の近衛兵だけだった。残りの莫大な数の軍隊は、諸国征服のために派遣されており、急場の間にあわなかったのである。準備がおわったとき、大ハーンは占い師に戦いの勝敗を占わせた。占い師は「ハーンは敵を征服し、勝利をうる。大胆に行動せられよ」と奉答し、ハーンは非常によろこんだ。
彼は軍をひきいて前進を開始し、二十日後、ナヤンが約四十万騎の大軍とともに陣をしいている大平原に到着した。宮廷から三十日行程以上の距離なのだが、決戦をいそいだので、これを二十日で突破したのだ。大ハーンの軍はきわめて迅速に、しかも突然あらわれたので、敵側は全然気がつかなかった。大ハーンが各方面に斥候を派遣し、出あったものはすべて捕えるようにきびしく監視させたからである。夜があけて見ると、ハーンは全軍をひきいて平原を見おろす丘の上に陣どり、ナヤンは平原のテントの中で、愛姫の腕のなかでねむりこけていた。自分を害するものがそこへ現われようなどとは、夢にも知らなかった。それほど安心していたので、前や後に斥候も出さなかった。大ハーンによって、こちらへやってくるものはすべて捕われてしまったので、敵の大軍の到着を少しも知らなかった。
大ハーンは十分馴らした四頭の象の上につくられた木製の櫓《やぐら》に上り、その上には大ハーンの所在をしめす旗がはためいていたが、これは四方から見えた。彼の軍は戦闘の際には三万人ずつにわかれ、騎兵の大部分には歩兵がつき、この歩兵は槍をもち、馬の尻のところにのせられていた。歩兵はいつもそうすることになっている。大ハーンの軍はこのような戦闘配置についた。
ナヤンとその部下はこれに気がついて、一時混乱したが、それでもどうやら武装し、陣容をととのえた。両軍の準備がととのい、戦闘をはじめるばかりになると、多くの鳴り物と全員の歌声が高らかになりひびいた。戦いをまじえる前にいっしょに歌い、一種の二弦の楽器をならすのはタタール人の習慣で、耳に快いものであった。こうしながら司令官のナカラ〔大きな太鼓の一種〕のなりひびくのを待つ。それまでは誰もあえて戦端をひらかないことになっている。
やがて大ハーンの大ナカラがひびき、ナヤンのナカラもひびきはじめた。直ちに戦闘の騒音があちらからもこちらからもきこえ始めた。兵士は勇ましく弓や鎚矛《つちほこ》、槍や剣、弩《おおゆみ》をもって突進した。敵からも味方からも盛んに矢が放たれ、矢は天をおおい、雨のようにふりそそいだ。あちらでもこちらでもおびただしい騎士や戦士がたおれ、野原は彼らの死体でおおわれるかと思えた。負傷者のうめき声で、何もきこえないほどであった。まことに驚くべき光景であった。
この戦いは我々の時代におこった最もはげしい戦闘であった。これほど多数の軍、とくに騎兵が戦場にいたことはなかった。両軍あわせて七十六万以下ではなかった。しかもこれは騎兵の数だけで、歩兵は数えてないのだ。戦闘は朝から正午までつづき、勝敗はなかなかわからなかった。しかし大ハーンは神のめぐみによって勝利をえ、ナヤンは完全に敗北した。ナヤンの軍はもちこたえられなくなり、後をむいて逃走したが、ついに彼は部下の貴族とともに捕われ、武器をひきわたし、降伏した。
さてナヤンは洗礼をうけたキリスト教徒で、旗に十字架をつけていた。信仰も彼には役立たなかったわけだ。
ナヤンが捕われたときいて、大ハーンは大いによろこんだが、やはり一族なのであわれをもよおし、ゆるしてしまうようなことがあってはならぬと思い、秘密裡に殺せと命じた。死刑は次のように行なわれた。敷物の中にまきこまれ、ひどくふりまわされて死んだのである。これは皇族のものの血が流されたり、天の神の目にふれたり、太陽に照らされたりしないためである。ナヤンの領土内の貴族と住民は大ハーンに再び忠誠をちかった。ナヤンの支配下にあった地方は女真、高麗、バルスコル、シキンテンの四つであった。
ナヤンが征服されたあと、その場にいた他の教徒、すなわちイスラム教徒、偶像崇拝教徒、ユダヤ人などは、ナヤンが旗に十字架をつけていたことや、それが役にたたなかったことをひやかして、キリスト教徒にいった。「お前たちの十字架は、キリストの崇拝者であり、その教えの信徒だったナヤンにどんなすばらしい援助をあたえたかね」。これをきいた大ハーンは嘲弄したものをきびしく叱責し、キリスト教徒をなぐさめて、「たとえ十字架が何の助けをも与えなかったにしろ、それはそれで正しい。ナヤンは君主に対して不忠の臣であり、その身にふりかかった不幸に値する人物であって。それ故、十字架が正義に反してまで彼を助けなかったのは、まことに正しいのだ」といった。大変な大声だった。キリスト教徒は奉答した。「陛下はいみじくも真理を申されました。十字架は悪い行為には、何の援助もできないことになっています。これがナヤンを助けなかった理由です。彼は罪ふかき不忠の人物だったのです」。以後、キリスト教徒に対する嘲弄はもはや聞かれなくなった。
以上のようにしてナヤンをうち破ったのち、大ハーンは首都ハンバリク〔ハーンの城の意味。今の北京〕にかえり、宴会をひらいた。かのハィドゥはナヤンの敗北と死をきいて非常に心配し、戦争の準備をととのえたが、ナヤンのように処理されるのをおそれていた。
3 将士に対する恩賞
ナヤンの話はこれくらいにして、大ハーンの偉大な国家のことにはいろう。まず彼が帰還後、戦功のあった貴族にたいして行なったところをのべる。
彼は功労や以前の階級におうじて、さきに百人長であったものは千人長に昇進させ、千人長であったものは万人長に昇進させた。別に美しい銀板や銀器をあたえ、以前もっていたものより高い権力をしめす牌符《はいふ》をあたえ、金銀の装飾品、真珠、宝石なども賜わった。賞賜されたものは、いずれも大した戦功をたてたもので、莫大な恩賞をうける資格は十分にあった。
いまのべた牌符には次のような種類がある。百人長は銀製の牌符をもち、千人長は黄金製または金メッキした銀製の牌符をもち、万人長のはもっと重くなっている。牌符の表面には「偉大なる神の力と、神がわれらの皇帝に下したまえる恩寵とによって、皇帝の御名に祝福あれ。皇帝に従わざるものは、すべて殺され、滅ぼされよ」とかかれている。これらの牌符の持主は、いずれも彼らの特権をかいた副書をもっている。
十万の軍をひきいるものや、大軍の司令官のもっている牌符の表面には、前述の文句の下にライオンの像〔実は虎〕、またその下には日月が彫刻されている。これらは所有者の地位、指揮権、権力を保証し、この牌符の所持者は外出に際し、棒の先につけた天蓋をその指揮権の表徴として、頭上にかざす権限を与えられているし、すわるときには、銀の椅子をもちいる。
非常に地位の高い貴族には、大鷹を彫刻した牌符が与えられる。最高の貴族にあたえられるだけで、大ハーンと同様の権力が与えられる。従ってこれをもっているものから派遣された使者は、誰の馬でも、たとえ相手が王であっても、その馬を徴発できるし、道具類を勝手にとりあげることもできる。
4 大ハーンと王子
つぎに君主の中の君主、フビライ・ハーンの風采について語ろう。中背《ちゅうぜい》で、肉付きはよく、手足のつりあいがよくとれている。顔色は白く、またあかく、目は黒く美しく、鼻はよい恰好で、位置もよい。正式な妻として四人の皇后をもち、その四人から生まれた王子のうちの最年長者が、次の皇帝となる権利をもっている。皇后はおのおの固有の名をもっている。またそれぞれ別に宏大な宮殿をもち、三百人以上の美しい侍女がそれぞれにいる。さらに数多くの小姓や宦官もいるし、従者もたくさんいる。だから皇后はいずれも一万を下らぬ人を召し使っているのだ。
皇帝が皇后の一人にお伽をさせたいときには、自分の部屋によびつけるが、時には皇后の部屋へ行く。別に妾が多くいるが、それを手にいれる方法をのべよう。
タタール人の中にオンギラート族という、美人で有名な種族がある。毎年この種族から百人の美しい娘が大ハーンのもとにおくられ、彼はその選択を宮廷の貴婦人たちにまかせる。貴婦人たちは娘たちといっしょにねて、呼吸がくさくないか、いびきをかかないか、四肢が健全かどうかを調ペる。すべて満点だと保証されたものは、順番に皇帝にはべることになる。かくて六人の娘が三日交代でおそばにあがり、昼も夜もどんなサーヴィスにもおうじ、命令とあれば何でもする。
大ハーンは四人の皇后に合計二十二人の男子を生ませた。最年長者の名は初代の大ハーン、チンギスの名にちなんでチンキンとつけられた。彼は父の死後、帝位をつぐことになっていたが、すでに死んだ。そしてその一子テムルがフビライの死後に即位することになっている。このテムルも勇敢かつ有能である。
大ハーンはさらに妾との間に二十五人の息子をもうけたが、彼らもなかなか勇敢で、いずれも重臣となっている。四人の皇后から生まれた王子のうち七人は、大きな王国または領土の王となり、それを巧みに支配していて、十分期待できる人物になっていることをつけ加えておこう。フビライの息子である以上、これは当然であろう。
5 大ハーンの宮殿
一年のうち、十二月、一月、二月の三ヶ月間、大ハーンはカタイの首都ハンバリクに滞在する。ハンバリクはカタイの東北のはしにある。この町に彼の大宮殿がたっているが、次にこの宮殿について語ろう。
この町は長方形で、大きな城壁にかこまれ、その一辺は一マイルの長さがあるから、延長六キロ半の城壁である。非常にあつく、高さは十メートルもあり、全部白色にぬられ、どこにも銃眼がついている。城壁の角には美しく立派な楼閣がたてられ、弓、箭筒《やづつ》、鞍、馬勒、弓弦などの武器がおさめられている。楼閣と楼閣の中間にも同じようなものがあって、合計八つの楼閣がある。第一の楼閣には弓、第二の楼閣には鞍、第三のには馬勒というように、一つの楼閣には一種類の武器しかおさめてない。
南側の城壁には門が五つある。中央の門は大きく、大ハーンの出入りの場合以外、決してあけられない。その両側、それにほど近く、もっと小さな門がある。他の人々の通行する門である。一般民衆は角の近くの大きな門から出入りする。
この城壁の内側に、幅より高さが少し高い第二の城壁がある。これにも外側のものと同様、八つの楼閣があり、武器がおさめられている。外側の城壁と対応して南側に門が五つあり、他の三面にも、外側のと同様、門が一つずつある。そして南側の城壁の内側に大ハーンの宮殿がある。
この宮殿は世界で今までたてられた宮殿のうち、最大のものである。その北側は外壁につらなり、南側には貴族や軍人の往来している広場がある。二階作りではないが、平坦な床があり、周囲の地面より約二メートル高く、舗装された土地の上にたてられた大理石の壁につらなっている。壁の幅は二メートルで宮殿の基礎より先ヘバルコニーのように突出し、それを通って建物の周囲を一周でき、外からも見えるようになっている。壁の外縁にそって、柱のならぶ美しい勾欄があり、民衆はここまではいれる。屋根は非常に高く、宮殿の壁は金銀でおおわれ、金メッキされた浮彫りの竜や、鳥獣、騎士、偶像など、さまざまの絵画でかざられている。天井も金銀や色彩にみちている。四隅には大理石の大階段があり、これを上って宮殿にはいる。
宮殿内の広間は六千の人が食事できるくらい大きく、側に多くの部屋がある。建物も大きく壮麗で、屋根は赤、青、黄、緑などの色でぬられ、水晶のかがやくような釉薬《ゆうやく》がかけられ、はるか遠方からも宮殿のかがやくのが見える。しかもこの屋根はながくもつように、非常に丈夫につくられている。宮殿の奥まったところに、広間や部屋の多い建物があるが、皇帝の私有物、たとえば金銀の器物、宝石、真珠、黄金の板などがおかれ、貴婦人や妾もここにいる。大ハーンの私生活の場所である。
今のべた内外の城壁の間には、樹木のうえられた庭園がある。白鹿、ファロー鹿、かもしか、のろ、諸種の栗鼠《りす》、麝香のとれる動物などがたくさんおり、動物で一ぱいである。庭園は草でおおわれ、ここを横ぎる道路はすべて舗装され、二キュビットだけ高くなっているので、泥濘になったり、雨水がたまったりすることなく、雨水は土をこやし、草をはやさせている。庭の西北隅には美しい湖がある。いろいろの魚が数多くはなされ、皇帝はそれを勝手にとれる。川が一つ流れこみ、そして出て行くが、そこには鉄または真鍮の格子がはめられ魚がにげられないようにしてある。
宮殿の北側、約一|箭《せん》程〔矢の有効射程〕のところに、湖をほったときの土でつくった丘がある。高さ百メートル余、周囲約一キロ半である。丘はすべて常緑樹でおおわれ、一年中緑色だ。どこにでも美しい樹があると、皇帝は根も土もつけたまま根こそぎ掘りおこし、ここへはこびこませてしまう。どんなに大きくてもかまわない。象にのせてはこんでしまう。こうして最も美しい樹の蒐集《コレクション》をつくったのだ。しかも大ハーンは丘全体を深緑の碧玉でしきつめた。そのためこの丘は緑の丘とよばれている。丘の頂上には大宮殿があるが、内も外も全部緑一色である。それで丘と樹木と宮殿とがあいまって、魅惑的な景観をつくりだしている。
大ハーンは大宮殿のかたわらに、自分の宮殿とそっくりのものをたてさせた。自分の死後、皇太子が位をつぐ日にそなえて、皇太子のためにたてたものである。全く同じ形式、同じ大きさにできているので、すべて大ハーンと同じようにとり行なうことができる。湖をへだてて大ハーンの宮殿と相対し、湖には橋がかけてある。太子は現在すでに皇帝の玉璽《ぎょくじ》をもっているが、大ハーン生存中は、彼ほどの完全な権力はもってない。
6 ハンバリク市(一)
ここには昔、立派な大都市ハンバリクがあった。皇帝の町という意味である。しかしハーンは占い師から、この都市は謀反し、皇帝の権威を傷つけるといわれ、川一つへだてたところに現在の町をつくらせた。そして住民をここに移し、大都と名づけた。新都市は周囲三十八キロ、各辺は十キロの長さをもち、四角形だ。周囲は土壁でかこまれ、土壁は底部の厚さ十メートル余、高さもそれくらいあるが、厚さは上へゆくほど薄く、頂上の厚さはわずか三メートルである。すべて銃眼つきの鋸壁《きょへき》になっており、すべて白色にぬられている。
城壁には十二の門があり、門の上および城壁の角にはいずれも立派な楼閣がある。楼閣には大広間があり、都市の守備兵用の武器が保管されている。
街路は真直で、ひろいから、はしからはしまで見通すことができる。街路の至るところにどれも立派な宮殿や大旅館、邸宅がある。邸宅の敷地は四角形で、その中には広い宮殿建築とこれに応じた広さの庭園がある。全市は碁盤の目のように設計されている。町の中央には大きな時計(といっても鐘だが)があり、夜には時を報ずる。これが鳴ったあとは、出産、急病人の場合以外、何人も街路へ出られない。このような用事で外出するものは、燈火をたずさえることになっている。各城門の守備兵は一千人いるが、奇襲にそなえたものではなく、君主の名誉のためと、市内の防犯とのためにおかれたものである。
7 親衛隊
大ハーンは護衛として一万二千の騎兵をもっている。ケシクテンとよばれるが、君主に忠実な騎士という意味だ。しかし実は威厳をたもつためのものだ。一万二千の軍には四人の長がおり、おのおの三千人をひきい、三日交代で宮殿の警衛にあたり、食事もそこでする。したがっていつも三千のものが警備していることになる。
8 宮中の大饗宴
宮廷で大きな催しがあって大ハーンが席につくときには、次のように行なわれる。彼のテーブルは他よりはるかに高い場所に設けられ、大広間の北端の南向きの椅子につき、第一皇后はその左にならぶ。右手には彼の王子、甥、皇族がならぶが、その席は彼らの頭がハーンの足と同じ位の高さになる。他の貴族のテーブルはもっと低い。婦人も同様にして左側、低いテーブルにつく。出席者がいくら多くても、大ハーンははしまで見渡すことができる。しかし全員がテーブルにつけるのではなく、将兵の大部分は広間の敷物の上にすわって食事をする。大広間の外側には四万人以上の人がすわる。というのは、献上品をもってきた人や、外国から珍しいものを持参した人で、そこは非常に混雑しているからだ。
大ハーンのテーブルの近くに、すばらしい細工の箱型の器具がおいてある。各側面は約三メートルあって、動物の姿が彫刻され、金メッキがしてある。内部には百四十ガロンもはいる純金の容器がおさめられ、そのまわりに容量四分の一バレルほどの小さい容器がおかれ、大きな容器から小さい方へ葡萄酒や高価な香料入りの飲物がながれこむようになっている。箱の上には大ハーンの酒器が全部おかれているが、中には純金の盃もある。八人前から十人前の飲物がいれられるくらい大きい。これらの酒器は金のひしゃく一組とともに、二人の間に一つあて、おかれる。人々はひしゃくでこれらの黄金の盃から飲物をすくいとる。このひしゃくと盃の値段は莫大なもので、ハーンは他にも数多く金銀製の高価な器具をもっているのだ。
とくに任命された若干の貴族が、宮廷の習慣を知らぬ外国人に、席次におうじた席をすすめたりしている。彼らはいつもあちこち動きまわり、着席しているものにほしいものを尋ね、給仕に葡萄酒、肉、乳などをすすめさせたりしている。大広間の入口には大男が二人ずつ、棒を持って立っている。彼らの任務は入場者が閾《しきい》をふまないように監視することで、ふんだものがあると、着衣をはぎとる。その人は罰金をはらって取り返さねばならない。着衣をはぎとる代わりに、棒で一定の回数だけたたくこともある。この習慣を知らなかった外国人には、貴族が案内し、規則を説明することになっている。誰かが閾をふむと、不幸がくると信じているからである。しかし出てゆくときはこの規則を固執しない。酔って足もとを注意できないものもあるからだ。
大ハーンに給仕するものも貴族の中からえらばれ、口と鼻をマスクでおおい、口臭が飲食物の中にはいらないようにしている。皇帝がのむときには全楽器が奏楽をはじめ、彼が盃を手にすると、出席者一同はひざまずいて最敬礼をし、皇帝はそれからのむ。皇帝がのむときはこの儀式がくりかえされる。料理は非常にたくさんある。いつでも貴族や騎士はこのようなテーブルで食事をし、その妻も他の婦人たちとともにそこで食事をする。食事がおわり、テーブルが片づけられると、役者や奇術師が大勢あらわれ、さまざまの珍しい芸を披露し、観客をよろこばせる。演技がおわると、人々はそれぞれ帰途につく。
9 大ハーンの誕生日の祝い
タタール人は誕生日に宴会をひらく。ハーンは九月二十八日に生まれたので、この日には後にのべる新年宴会をのぞいては最大の宴会が宮廷でひらかれる。
この日、大ハーンはもっとも立派な、金糸で織った衣裳をきる。一万二千以上の貴族も、それほど高価ではないが、これと同じ衣裳をつけて、宮廷に参上する。色は同じだが、材料は金糸と絹糸なのである。その上に金の帯をしめるが、いずれも御下賜品である。衣裳のうちには真珠や宝石をちりばめたものもあるが、これ一着でビザンチン金貨一万ベザントの値打ちは十分ある。
このような衣裳は数組ある。ハーンは年に十三回も貴族にこれらの衣裳を下賜する。それぞれの宴会には別の色が定められ、彼らはいつもハーンと同じ色の衣裳をつけなければならない。実に大変なことで、こんな習慣を維持できるのは世界で彼だけだ。
大ハーンの誕生日には全世界のタタール人や、彼に忠誠をいたすすべての地方や政府は、能力に応じ、またきめられた量の贈物を献上する。彼から職を与えてもらうために、多くの人が贈物をもってくる。彼は十二人の貴族をえらんで、嘆願者によい返事をする任務にあたらせている。偶像崇拝教徒、イスラム教徒、キリスト教徒など、すべての宗派の人々は、この日、歌をうたい、灯をともし、香をたいて祈祷式を行ない、彼に長命と健康と幸福をあたえられんことをいのる。
10 新年の祝賀
彼らの新年は二月で、このとき大ハーンとその臣下は次のような祭りをする。
この祭りには、大ハーンも臣下もすべて白い衣裳をつけるので、白一色となる。この一年間が幸福であるように、との意味で、彼らは白い衣裳は幸運なものと考えている。この日、ハーンに忠誠をちかっている国や地方から、彼への贈物として金銀、宝石、真珠、立派な織物がもってこられる。人々も互いに白いものをつけた贈物をし、新年おめでとうと祝いの言葉をかわす。ハーンヘの贈物の中には立派にかざった白馬が十万頭以上もはいっている。能力があれば九の九倍の数のものを贈る習慣である。たとえは馬なら八十一頭といった工合である。
この日にはハーン所有の五千頭以上の象が、鳥獣羽毛を刺繍した鞍褥《あんじょく》〔鞍の下に敷く敷物〕におおわれ、背にきれいな箱を二つのせて行進する。箱の中には宮廷の新年の祭りに使う高価な器具がはいっている。象につづいて立派な鞍褥をつけ、同じく祭りの器具をつんだ駱駝が行く。これらはうちそろって大ハーンの御前を行進する。
当日の朝には、王公、貴族、騎士、占い師、儒官、医官、鷹匠、官吏など、すべてのものは大広間に参入し、大ハーンの御前にまかりでる。参賀者は前から第一に王子、甥、皇族の諸公子、第二に諸王、つづいて公、さらに他のものが官等におうじて順序よくならぶ。定めの席に全員が着席すると、高位の聖職者が立って、大声で「叩頭《こうとう》拝礼」という。全員大ハーンに向かい、頭が床につくまで最敬礼を行なう。これを四回くりかえした後、ハーンの名をかいた赤い板と美しい黄金の香炉のおかれた高い祭壇の前に行く。その前でうやうやしく香をたき、自分の席へもどる。式典がおわると贈物が献上され、続いてテーブルがならべられ、宴会となる。そのあとは前述の通りだ。
さて大ハーンはその軍隊のうち、一万二千人をケシクテンとよんで区別しているが、この一万二千の貴族はそれぞれ十三着の衣裳を下賜されている。一つ一つ色がちがい、十三の色があることになるが、宝石、真珠などをちりばめてあって、すこぶる金のかかるものだ。衣裳のほかに一万二千の貴族全部に、すばらしく立派な金の帯と、銀糸で細工されたカムートという靴が下賜される。年に十三回行なわれる儀式には、それぞれどの衣裳をつけるか定められている。大ハーンも貴族と同じ色の衣裳を十三種もっているが、もっと立派で、装飾も多い。だから祝宴用衣裳の費用は(合計すると十五万六千着になる!)計算できぬほどの巨額になり、しかも別に帯や靴の費用もかかるのだ。
ここで話し忘れたことをつけ加えておこう。祭りの日には大きなライオンが一頭、大ハーンの前にひきだされる。大ハーンを見ると、これが君主だと知っているかのように、その前にうずくまって尊敬の態度をしめす。ライオンは鎖につながれてないのだ。見ない人には、とても信じられない話だろう。
11 大ハーンの狩猟
十二月、一月、二月の三ヶ月間は、首都から四十日行程以内の地域では、狩猟が行なわれる定めで、大きな獲物、野猪、かもしか、鹿、ライオン、熊などは大部分宮廷に送られる。獲物は内臓をとりだし、二十日ないし三十日行程以内の地域の住民はすべてこの規定にしたがうが、送られる量はおびただしいものだ。もっと遠い地域の人々は毛皮をなめして送るだけだが、これは軍隊の武装用品をつくるに用いられる。
大ハーンは野猪、熊、野生驢馬、鹿など、大きな野獣をとらえるように訓練された豹や山猫を飼っている。エジプトのより大きいライオンも飼っているが、全身に黒、赤、白の縞のある美しい毛皮の動物である。ライオンが獲物をおいかけるのは、まことにすばらしい眺めである。これを狩猟につれてゆくときは、覆いのついた車にのせ、小犬を一匹ずつつけ、風下から獲物に近づく。そうしないとライオンの接近をかぎつけて、獲物はにげてしまう。多くの鷲も飼われているが、狼、狐、鹿、野生山羊を捕えるように訓練されている。とくに狼狩り用のものは非常に大型で、力もつよく、どんな狼ものがれられない。
貴族のうちにはバヤン、ミンガンという二人兄弟がおり、タタール語でチヌチとよばれている。犬の管理者の意味である。いずれも一万人の部下をもち、一方は赤い服を、他方は青い服を制服とし、大ハーンの狩猟には、目立つようにこの制服をきてお供する。以上のほかに、一人で一匹またはそれ以上の犬を世話する人がそれぞれ二千人いるから、合わせると大した数になる。大ハーンの狩猟には、一人の貴族は部下一万と犬五千匹をつれて左方をすすみ、他の一人は同じように右方を進む。彼らは並行して進み、幅は一日行程以上になり、どんな動物ものがれられない。このときの犬と狩猟官の活躍は実にめざましい。ハーンは放鷹しながら、平原を騎馬で横ぎり、大きな犬が突進し、一群は熊のあとを、一群は鹿をおう。こちらで獲物がつかまったかと思うと、あちらでもつかまる。全くすばらしいスポーツである。
この二人の貴族は、十月から三月までの間に、獲物一千頭を供給することになっている。獲物は鳥と獣だが、うずらは数えない。またできるだけ多くの魚も供給しなければならないが、三人前分の魚を獲物一頭に換算する。
大ハーンは十二月、一月、二月を大都ですごし、三月一日に出発し、南方三日行程の大海の方へ旅行する。一万以上の鷹匠をつれて行くが、ペリグリン鷹、セーカー鷹のほか、五百羽以上の大鷹、河畔での狩猟用のゴスホーク鷹ももって行く。これらの鷹はここに百羽、かしこに二百羽と、適当に分散される。前進中も狩猟をし、彼が狩りをしながら進んでいるときには、二人ずつならんで進む一万以上のものが随行している。これらの人はトスカオルとよばれ、監視者という意味だが、任務をよくあらわした言葉だ。彼らは二人一組になって各地点で立番をする。鷹をよぶ笛と鷹にかぶせる頭巾をもっていて、鷹をよんだり、手につかまえたりできる。これらの人が監視しているので、ハーンが鷹をはなしても、あとをおう必要はない。
大ハーンや貴族の鷹の脚には、所有者と鷹匠の名のかかれた小さな札がつけてあり、鷹がつかまえられると、すぐ身許がわかり、所有者にかえされる。身許のわからないときは、ブラルグチとよばれる貴族にわたされる。失われた財産の管理者という意味である。所有者不明のものがあると、馬でも剣でも鷹でも、彼にひきわたす。拾得物の届出をおこたると、彼が罰する。遺失した人は彼のところへ行くことになっている。このブラルグチは幕営地のもっとも高い場所にいて、旗印をたてておく。だから遺失者や拾得者は、たやすく彼のところへかけつけられるのだ。
大ハーンは四頭の象をならべ、その上に木造の部屋をつくり、この部屋にはいって旅行する。部屋は金箔で内張りをし、外側にはライオンの毛皮をはった立派なものである。彼は痛風になやまされているので、遠く鷹狩りにゆくときは、こうして旅行する。そばには大鷹を十二羽おき、乗馬の貴族数人が随行する。前進中に時々、随行の一人が「陛下、鶴がとんでおります」とさけぶことがある。直ちに部屋の上部をあけさせ、鶴をみとめると、好みの大鷹をはなち、ときには目の前で獲物がしとめられる。彼は部屋にすわったまま、またはベッドに横になって、絶妙なスポーツと娯楽をたのしみ、随行の貴族もたのしめる。
こうした旅行をつづけて、カチャル・モドゥンという場所につく。そこには王子、貴族、貴婦人のテントがはられ、その数は一万以上、いずれも美しく、立派だ。大ハーンの宮廷にあてられるテントは大きく、一千人を収容できる。入口は南側にあり、貴族や騎士がひかえているが、ハーンはその西隣のテントに滞留する。ハーンの大きな寝室は大テントの背後にある。大テントから少しはなれて多くのテントや部屋がある。二つの広間と寝室のつくりは次のようになっている。広間には三本の柱があるが、いずれも香木で、黒、赤、白の縞のライオンの毛皮でおおわれ、広間と寝室の外側も同じライオンの毛皮でおおわれている。部屋の内側には貂《てん》と黒貂の毛皮がはってある。黒貂は北極猫ぐらいの大きさで、毛皮は一人分の衣裳でビザンチン金貨二千ベザント、少なくとも一千ベザントもするもので、タタール人は毛皮の王とよんでいる。ライオンと黒貂の毛皮だけをみても、これらのテントが、いかに金のかかったものであるかがわかろう。どこの王でもとても買えないものだ。
これらのテントの周囲には、ハーンの夫人や王公貴族、将校のテント、またその次には鷹匠用のテントがあって、この野原のテントの数は大したものになる。毎日あちこちにむらがる人々を見ていると、大都市にいる感じがする。医者も占い師も、鷹匠もその他の従者も数多くいるし、しかもいずれも全家族をつれてきている。これが彼らの習慣なのだ。
大ハーンは春までこのテントに滞在し、その間、この地方に多い湖や川のほとりの叢《くさむら》や、平野で、鶴、白鳥などの鳥を鷹で狩り、ほかのことは何もしない。他の人々も同じで、毎日を狩猟にすごす。
ここから二十日行程の範囲では、一般人は狩猟も鷹狩りも禁じられている。また三月から十月まで、全領土にわたって野兎、牝鹿、牡鹿、のろの四種は狩猟を禁ぜられている。住民は命令によく従い、たとえこれらの動物が路傍でねていても、決して手をふれない。狩猟の獲物になる鳥獣はこのように保護されているので、国内におびただしく繁殖する。なお三月から十月まで以外なら、誰でもこれらの動物をとってよいことになっている。
五月の半ばになると、大ハーンは多くの随員をしたがえて出発し、ゆくゆく鷹狩りをたのしみつつ、首都ハンバリクに帰る。
12 大ハーンの一年の行事
ハンバリクにつくと、宮殿に三晩とまり、大宴会を宮中でひらき、陽気にさわぐ。ついでここを出発し、上都におもむく。気候が非常に涼しいので、ここで夏をすごす。八月まで滞在して出発し、ハンバリクに帰る。ここで翌年の二月までをすごし、二月に新年の祭りが行なわれる。ついで大海のほとりに向かい、狩猟や鷹狩りを行なう。
それ故、大ハーンは一年を次のようにわけてくらすことになる。九月から二月までの六ヶ月間は首都ハンバリクの大宮殿に滞在する。三月から五月までは海の方へ狩猟のための大旅行をする。つづいてハンバリクの宮殿で三日間をすごす。それより六月、七月、八月は上都に滞在する。ついでハンバリクに帰る。こうして一年をすごすのだが、大ハーンがあちこち旅行する分はのぞいてある。
13 ハンバリク市(二)
ハンバリク市内には非常に多くの人家があり、膨大な人口は想像を絶するが、十二の城門の外側にはそれぞれ郊外の町があり、どれも非常に大きく、その全人口は市内より多い。一つの城門に接する郊外の町は隣りの郊外の町と接し、奥行は四ないし六キロもあるからである。この町には外国商人や旅行者が宿泊する。彼らは献上品をもってきたもの、宮廷へものを売りにきたもの、市へ商品を売りにきたものなどで、ここはいつもにぎわつている。どの町でも市から一キロ半のところに多くの立派な旅館があり、世界各地の商人がとまっている。そして一民族ごとに一つの旅館がある。また貴族所有の邸宅や、立派な家が市の内外にある。
都市の内部では火葬することは禁じられ、偶像崇拝教徒の遺骸は郊外からさらに遠くはなれた場所で火葬にされる。キリスト教、イスラム教など、土葬が習慣の宗教の信者の遺骸は、郊外からさらにはなれた墓地に葬る。市内にはあやしげな女はおらず、郊外にすむが、外国人用のこの種の女は驚くほど多く、二万以上いるというのは事実だ。
夜警は三十人または四十人が一組となって、時間外、すなわち大きな鐘が三度なった後に外出しているものはないかと、毎晩市内を巡視する。見つかった違反者はただちに投獄され、翌朝係りのものが取り調べる。何か罪を犯していることがわかれば、規定の数だけ、棒でうつ。処刑中に死ぬものもあるが、流血をさけるためにこの方法がとられている。彼らのバクシが人の血を流すのは悪いことだといっているからだ。
世界の他の都市とくらべ、この都市へは、はるかに高価な珍奇の品が、はるかに多量にもちこまれる。その理由は世界各地の人がいろいろな品物を君主や宮廷へ、この大都市へ、貴族のもとへ、あるいは周囲に駐屯する多数の軍隊へ、もってくるからである。そのため、宮廷と都市との間には物資の列がいつも続いている。たとえば絹だけをつんだ車が、毎日一千台はこの都市にはいる。これは驚くにはあたらない。この付近では亜麻がとれず、何でも絹でつくるのだ。たしかに国内に木綿と大麻の産地はあるが、生産額は需要をみたしてはいない。といって、これは大したことでもない。絹は多量にあるし、値も安く、亜麻や大麻より価値があるからである。
ハンバリクの周囲には約二百の都市があり、商人はそこから商品を売りにきたり、買っていったりしている。それで市内では商売が非常に繁昌している。
14 アフマットの暴虐
あとでくわしくのべるが、土地、官職などを自由に処理する権限をもつものが十二人任命されていた。その中にアフマットというイスラム教徒がいた。機敏で、才能もあり、大ハーンを動かす力もつよかった。ハーンが信任していたので、何でも思う通りにできた。あとでわかったのだが、魔法で大ハーンを迷わしていたのだ。
彼はすべての官職を自由にし、正しいにせよ、正しくないにせよ、憎い奴を死刑にしたいと思うと、御前に出て「この者は陛下に対し、しかじかのことをいたしましたから、死刑にあたいします」と申し上げる。皇帝は必ず、お前の正しいと思うようにせよ、といい、彼は早速処刑してしまう。彼の権力が絶大で、大ハーンの信任が重いのを知って、人は何ごとにも彼にさからわなくなった。どんな高位のものも権力家も、彼をおそれぬものはなかった。死罪にあたるとして、彼によつて大ハーンに弾劾されたものは、自分を弁護しようにも、無実の証拠を提出できなかった。弁護をひきうけるものがいなかったのだ。こうしてアフマットは多くのものを無実の罪におとしいれた。
それどころか、彼が思いをかけた女は、必ず手に入れてしまった。未婚者は妻にし、既婚者は無理に自分の意にしたがわせた。美しい娘がいると、部下の無頼漢がでかけて、その父に「お前さんとこには美しい娘がいるね。アフマット閣下《バイロ》のところに嫁にやらんかね。承知なら、お前さんに三年間これこれの官職をあたえることを閣下に約束させるがね」という。その人は喜んで娘をやる。そこでアフマットは御前に出て「これこれの官職が欠員になっています(これこれの日に欠員になります、ということもある)。何某がこの職に適当です」と申しあげる。ハーンは必ず「よきにはからえ」と答え、娘の父はその職につくことになる。こうして両親の野心か、恐怖心によって、美しい娘は彼の妻や妾になった。彼には息子が二十五人いて、重職についているが、父と同じようなことをしていた。こうしてアフマットは莫大な財産をたくわえた。官職のほしいものが莫大な賄賂をおくったからである。
こうして彼は二十五年をすごした。ついにカタイの人々は彼の乱行と不正にたえきれなくなり、政府転覆の陰謀さえたくらまれた。その人々のうちにチェンチュという千人長がいた。母も妻も娘も彼によって汚されていたのだ。チェンチュは宰相暗殺の陰謀をカタイ人で万人長の王著と相談し、決行の時を大ハーンがハンバリクを留守にしている時ときめた。留守中はアフマットが首都のことをあずかり、緊急な用事は上都にある皇帝の命令をあおぐことになっているからである。
二人は計画をカタイ中の有力者に知らせ、すべての人の同意をえて、他の都市の友人らに、我々はこれこれの日に、一発の狼煙《のろし》を合図にひげのあるもの全部を殺すこと、他の都市のものも同じょうな行動の準備をすること、と通知した。カタイ人は普通ひげはなく、タタール人、イスラム教徒、キリスト教徒にはひげがあるからである。大ハーンはタタール人とイスラム教徒を重用してカタイを支配したが、重用された人々はカタイ人を奴隷のように扱い、カタイ人はすべて皇帝を憎んでいたのだ。
予定の日になると、王著とチェンチュは日がくれてから宮殿に入りこみ、王著は椅子に腰かけ、たくさんの灯火を前につけさせた。そして皇太子チンキンの命令といつわって、旧都にすむアフマットをよびだした。皇太子が突然帰還したようにみせかけたのだ。アフマットは皇太子を恐れていたので、急いでかけつけた。城門でタタール人のコガタイにあった。彼は一万二千人の長で、部下をひきいて首都警備にあたっていたが、こんなにおそく、どこへおいでですか、とたずねた。「今ついたばかりの皇太子さまのところへだ」「そんなことはない。私が知らないうちに御帰還できるものですか」。そこでコガタイは一部の兵士をひきい、宰相について行った。さてカタイ人たちは、宰相さえ殺してしまえば、あとは恐れるものはない、と考えていたので、アフマットがまばゆいばかりの灯火で王著を皇太子と誤認し、その前に頭をさげるや、チェンチュは手にしていた刀で、すっぱりその首を切りおとした。入口に立ち止まっていたコガタイはこれを見るや、謀反だ、とどなり、直ちに矢をはなち、椅子に腰かけていた王著を射殺し、チェンチュを部下に捕縛させ、全市に、道路上にうろつくものは誰でも殺す、と布告した。カタイ人たちは陰謀の発覚したことを知り、家から出られず、合図の狼煙もあげられなくなった。コガタイは急使を派遣して皇帝に事件の勃発を報告した。ハーンは慎重な捜査と犯人の処刑を命じた。翌朝コガタイはすべてのカタイ人を訊問し、陰謀の首謀者を発見し、死刑にし、他の都市で発見した共謀者を処刑した。
ハンバリクに帰ったのち、ハーンは事件の原因をしらべ、アフマットとその息子たちの果てしない乱行によることを知った。彼と七人の息子(息子全部が悪人だったのではない)が暴力でうばったもののほかに、無数の婦人を妻にしたこともわかった。そこで皇帝は彼が旧都の邸宅にたくわえていた財宝を没収したが、その額は膨大なものであった。また彼の死体を掘りだして道にすてさせ、犬に食わせよ、息子は火あぶりの刑にせよと命じた。
これ以後、ハーンはイスラム教の教義に注意するようになった。この教えでは、教徒以外のものに対してはどんなことをしても、人を殺しても、罪にはならない。アフマットがこれほどのことをしながら、少しも罪と考えなかったのは、この教えのためだとさとって、ハーンはイスラム教がきらいになった。そこでこの教えの命ずるいろいろのことを禁じた。たとえば結婚についてはタタール人の法を守れと命じ、動物の屠殺にあたっては、のどを切らずに、タタール式に腹を切れ、と命じた。アフマットの事件はマルコ・ポーロがこの地にいたときにおこったものである。
15 紙幣
次に同じ首都内で紙幣をつくっている造幣局についてのべよう。
紙幣はある種の樹木、実は桑のことだが、その皮からつくる。葉を蚕の飼料にするあの桑だ。桑はこの地方に非常に多いが、紙幣につかうのはその白い内皮で、これでヨーロッパの紙に似たものを作るのだが、色は黒い。この紙をいろいろの大きさに切断する。一番小さいのは半トルネセルの価格のもの、も少し大きいのは一トルネセル、もっと大きいのがヴェネチア銀貨で半グロートにあたるもの、さらに一グロート、二グロート、五グロート、十グロートのもの、ビザンチン金貨で一ベザント、三ベザントから十ベザントにあたるものまである。その一枚ごとに特に任命された官吏が署名捺印し、さらに主任官が朱の玉璽をおし、これででき上がる。偽造者は死刑に処せられる。ハーンは毎年この紙幣を巨額に発行し、その額は世界中のすべての財宝に匹敵するが、費用は少しもかからない。
この紙きれで大ハーンはすべての支払いをすまし、ひろく国内および勢力範囲内に通用させている。受け取るのをこばめば死刑に処せられる。大ハーンの領土内ではどこでも、純金の貨幣と全く同種に、これで品物が売買できるし、非常に軽くて便利だ。
なおインドなどの国から、金銀、宝石、真珠などをもってきた商人は、品物を大ハーン以外に売ることを禁じられている。彼はその評価に熟練した十二人のものを任命し、彼らは品物を評価し、代金はこの紙きれで支払われる。商人は大喜びだ。第一、ほかへもって行ってもこれほどよい値段では買ってくれないし、第二に、すぐ支払ってくれるからだ。しかも紙幣は国内どこででも通用するし、軽くて携帯に便利だ。商人は一年に数回、四十万ベザントの品物をもちはこぶが、大ハーンはこれらすべてを紙幣で支払う。従って毎年貴重品を買いこみ、財宝は無限にふえるが、少しも金はかからない。さらに一年に数回、金銀、宝石、真珠を所持するものは、造幣局に持参すれば、よい値段で買い上げる、との布告が市内にまわされる。所持者はよろこんでこの布告にしたがう。これほどよい値段で買ってくれるものは、ほかにないからである。大体こうして国内の高価なものは、ほとんど全部大ハーンのものになってしまう。
紙幣の質はそれほど悪くないが、よごれると造幣局に持参し、三パーセントの手数料を支払って、新品と交換する。貴族でも誰でも、宝石、真珠を必要とするときは、造幣局へ行って買うことができる。以上が、大ハーンが世界中で一番多くの財産をもつことができ、またもっている理由とその方法とである。
16 政務を見る十二人の貴族
大ハーンは十二人の貴族をえらび、これに三十四地方の政務を委任している。彼らはハンバリク市内の立派な楼閣にいるが、どの楼閣にも多くの部屋がある。一地方につき一人の政務官と数名の書記が任命され、貴族の指揮のもとに受持ち地方のすべての事務をとる。しかし重大事項については貴族が参内し、ハーンの決裁をあおぐ。十二人の貴族の権力はすこぶる大きく、三十四地方のそれぞれの行政長官を選任し、大ハーンはこれを確認し、官等に応じた黄金の牌符をさずける。またこれらの貴族は思いのままに軍隊の移動、派遣すべき兵力を決定できる。これらはハーンの認証が必要なのだが、命令は彼らの責任で発せられる。彼らはシェン〔宰相の相か〕とよばれるが、上級審議会の意味だ。彼らのいる楼閣は省〔中書省〕とよばれ、大ハーンの最高権力機関を形成する。
17 駅伝制度
ハンバリクから多くの道路と公道がいろいろの地方に通じ、各道路には行先の地方の名がついているが、なかなかうまいやり方だ。大ハーンの使者が市を出発すると、どの道をとっても四十キロごとにジャム(站)とよばれる駅舎にであう。使者が利用するこれらの駅舎には宿泊用の大きく立派な建物があり、そこには寝台と絹製の調度品とのついた部屋があり、ほしいものは何でも支給される。王が泊ってもはずかしくないほどだ。ある駅では二百頭、ある駅では四百頭の馬が使者のために用意されているが、必要度に応じてそのように規定されているのだ。地方行政官庁所在地に通じる道路には四十キロか五十キロごとに駅があるが、大ハーンの領土内の主要な地方では、どこでも同じだ。使者が道も家もない地方を通行する場合でも、必ず駅がある。ただ間隔がやや長く、七十二キロになることもある。いずれにしろ大ハーンの使者は、どこからきても必要品を用意されているのだ。
これほど大規模な制度は、従来世界中になかった。これらの各駅にはあわせて三十万頭以上の馬が、使者のために常備されている。しかも立派な設備の建物が一万以上もある。実に驚異的な設備で、古来いかなる皇帝でも、これほどの富を所有したものはなかった。
さらに駅の中間には五キロごとに約四十戸の小さな村が設けられ、そこに大ハーンの飛脚をつとめる人がすんでいる。飛脚は幅のひろい帯をしめ、これに鈴をさげるから、彼らが村から村へ五キロ走るときには鈴の音が遠くからきこえる。次の村につくと、すでに代わりのものが同じ仕度でかけだす用意をしていて、もってきた書状を受け取り、駅舎の書記から一枚の紙をもらって走りだし、次の駅に行く。だから駅から駅へ五キロごとに交代して届けられるのだ。大ハーンは、こうして十日行程はなれた土地から、一昼夜で報告をうけとる。必要とあれば、百日行程はなれた土地のニュースを十昼夜でうけとる。これは重大なことだ。果物の季節に、朝ハンバリクで集められた果物が、翌日の夕方、十日行程はなれた上都の宮殿にとどくことさえあった。駅舎の書記は飛脚の到着と出発の時刻を記録し、また各駅を巡視する官吏がいて、仕事を怠った飛脚を処罰する。これらの飛脚は税を免除され、俸給をもらっている。
駅にはまた同じく腰に鈴をさげたものがいるが、地方長官あての緊急通達、貴族が反乱をおこした通知、緊急事態の通報などの送達にあてられている急飛脚で、一日か一晩のうちに二百四十ないし三百二十キロは軽く走る。彼らは駅で鞍もおかれて準備のととのった馬のうち、最良のものをひきだし、これにのって全速力で走らせる。次の駅では鈴の音をきいて、別の馬と急飛脚を用意し、書状または持参品をうけとると、直ちに全速力で次の駅に飛ばす。こうして通信は駅から駅へ、馬と飛脚をかえつつ、ものすごいスピードで伝えられていく。しかし夜は日中ほど早く走れない。灯火をもった徒歩のものをつれていくのだが、人間の足なので、馬ほど早くないのだ。彼らはあつい恩賞をもらっているが、腹、胸、頭をバンドでしっかりしめない限り、走らない。そして急飛脚のしるしとして大鷹のついた牌符を持参する。従って馬が倒れたり、災難にあったりすると、誰でも途上にであった人の馬をとり上げる権利をもっている。だから彼らはいつもつかれていない馬で走れるのだ。
駅伝用の馬の数は多いが、皇帝の負担にならない。駅の近くの都市や村落の住民の人口がまず調査され、それをもとに供出すべき馬の数が定められている。しかし住民のいない地方では、大ハーンの費用で供給される。しかしこの馬全部がいつも駅にいるのではない。半分ずつ一ヶ月交代で任務につき、用のないものは放牧されて順番をまつ。駅伝のルートに川や湖があると、付近の都市は常に三隻か四隻の船を常備する義務をおわされている。
18 救済事業
大ハーンは毎年使者を国内各地に派遣して、不順な天候、暴風雨、蝗《いなご》害などで、作物に被害がなかったかを視察させる。被害があると、その年の租税を免除し、さらにお手もと金から食糧と種子をあたえる。冬になると、疫病や災害で家畜をうしなった人々について調査し、租税を免除したり、家畜をあたえたりする。一つ大ハーンの奇癖《きへき》を紹介しよう。
彼のはなった矢が家畜の群にあたると、その群に対し、向う三年間、十分の一税を免除する。矢が舟にあたると、その積荷への課税は免除される。他人の物に矢があたるのは不吉の兆と考えられているのだ。
19 公道の並木
大ハーンは使節や人民の通る公道には二、三十メートルおきに大木をうえるように命じた。こうすれば、はるか先まで樹木が見え、道に迷わない。無人の地をゆく道路にも並木があって、旅行者のよいなぐさめになる。とにかく樹木のそだつところは、すべてうえることになっている。占い師が樹木をうえるものは長生きをする、といったからだ。樹木のそだたぬところには指導標、柱、石などをおいて、道がわかるようにしてある。
20 カタイの酒、燃える石
カタイ人の大部分は一種の酒をのむ。米をかもし、香料を加えたもので、よく澄んでいて、うまい。非常に強く、早く酔いがまわる。
カタイ全土の山中には一種の黒い石(石炭)が鉱床をなして存在し、これを掘りとって薪のように使う。夜、火の中にくべると、朝まで赤い。こんなよい燃料があるので、ほかのものを使わない。国内には樹木があるが、この方が値段も安いので、使わないのだ。人口が多いうえに、ひんぱんに入浴する。誰でも週に三回は入浴するし、冬にはできれば毎日はいる。だから燃料にする樹木が不足なのだ。
21 飢饉対策
大ハーンは穀物が安く、大量にあると、これを買いあつめ、各地の穀物倉庫にたくわえ、三年から五年は保つようにする。そしてそれが民間に少なくなると市場に出す。同じ穀物を同じ金額で四倍は買えるようにして、値段はどうだろうと、とにかく物価を安くすることにつとめるのだ。この処置によって人民は飢饉にくるしむことはない。
22 大ハーンの慈善事業
次に大ハーンがハンバリクにすむ貧民にほどこした慈善についてかたろう。彼は市内から貧困な家庭をえらばせ、毎年一年分以上の小麦などの穀物をめぐむ。その世帯数は多いが、毎年かかしたことはない。宮廷へ毎日パンをもらいにゆくものは、やきたての大きな塊をもらい、決してことわられない。年がら年中毎日、約三万人のものがパンをもらいに行く。まことに大きな慈善事業で、貧民はハーンを神のように崇拝している。
大ハーンは貧民に衣類をも施与する。衣類の材料になるものに、現物で十分の一税を課し、これを織らせる。すべての職人は毎週一日、この布地で貧民にあたえる衣類を仕立てることになっている。衣類には冬用、夏用がある。軍隊にも衣類を下賜し、前述の十分の一税でまかなっている。むかしタタール人は、施しは一切しなかったのだが、偶像崇拝教のバクシのすすめで、このようなことをするようになったのだ。
23 ハンバリクの天文家
ハンバリク市内のキリスト教徒、イスラム教徒、カタイ人の間には、五千人ほどの天文家と占い師がいる。大ハーンは彼らにも衣食を下賜している。彼らのもつ観測儀には、惑星のしるし、一年中の時刻と臨界点がしるされている。毎年これらの天文家はこの観測儀によって、毎月の月の経路にしたがって、一年の月日と配列を見守っている。惑星の運行、天界の状況などによって、天候がどうなるか、何月にどんな特別なことがおこるかなどの発見につとめる。たとえば、何月には雷雨と嵐、何月には疫病、戦争、混乱、謀反がおこる、という工合にである。しかし神の御心次第で、多少の変化はある、といつもつけ加えておく。彼らの観測の結果を一年分まとめてパンフレットにかきこみ、これをタクイン〔アラブ語で暦の一種〕と名づけて、一グロートで売る。適中率の多いものほど、その道の大家として名声を獲得する。
何か大事業を計画し、または商業その他のことで長途の旅行をしたいものが、結果を予知したいときは、天文家のところへ行って、「これこれの仕事をしたいが、あなたの本をひらいて、天界の状況を見てもらいたい」という。天文家は彼の生年月日、時刻までたずね、生まれたときの星まわりと、現在の星辰の座相とを比較し研究して、天界の状況にしたがって吉か凶かを予言する。
タタール人は十二年を一期として年を計算する。この十二年には、第一年は、ライオン、第二年は牛、第三年は竜、第四年は犬、というように、それぞれ名がつけられている〔十二支のこと〕。従って生年をきかれると、彼らはライオンの年の某月某日の何時何分だと答える。子供の父は、いつも注意ぶかくこれらのことを記録しておく。
24 カタイ人の宗教・風習
カタイ人は偶像崇拝教徒で、彼らは部屋の中の壁の高いところに木の札をかけ、これに最高の天の神を意味する昊天上《こうてんじょう》帝などの文字をかきつけ、その前で毎日礼拝する。まず香炉に香をたき、手を高くさしあげ、三度歯ぎしりして、健康な心身を与え給えといのる。ほかには何ももとめない。木の札の下の床にはナティガイという偶像がおいてあるが、これは地の神で、妻子がつき従っており、同じように礼拝される。この神にはよい天候、地の果実、子供のことなどが祈願される。
霊魂の不滅については次のように信じている。人が死ぬと、霊魂は直ちに他の肉体にはいるが、生前の行為の善悪におうじて、もっとよい肉体にはいることもあり、劣等な肉体にはいることもある。たとえば貧しい人でも悪事をせず、おだやかにくらせば、貴婦人の胎内から出て、紳士になるし、その次には王女の腰から出て王子になるであろう。しかし悪いことをすれば、紳士の息子でも、次には農民の息子に生まれ、さらに犬になり、だんだんとおちて行く。
彼らの話しぶりは礼儀正しい。微笑をうかべ、上品にあいさつする。行儀がよく、食事のときも端麗である。よく両親を尊敬し、不孝者がいると、役人が処罰する。
牢につながれている罪人は、大ハーンの定めた時期〔三年目ごとにある〕に大赦で釈放されるが、その時、頬に烙印をおされる。
この地方は世界でもっとも賭博と詐欺がさかんだったが、大ハーンは「朕はお前たちを武力で征服した。お前たちのものは朕のものだ。お前たちが賭けをするのは、朕のものを賭けていることになる」といって、すべて禁止した。
貴族が大ハーンの御前にでるときには、まず半マイルのところに近づくと、静粛にし、広間にいるときには、唾は携帯用のたん壷にはき、ふたをして傍におく。白皮の半長靴をもって行き、広間の入口について、お召しがあると、これにはきかえ、ぬいだ方は従者にもたせておく。金色の敷物をよごさぬためである。
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第三章 カタイの西部および西南部への旅
1 プリサンギン川
大ハーンはマルコ・ポーロを西部の地方へ使者として派遣した。四ヶ月以上かかったその往復の途上で見たすべてのことを語ろう。ハンバリクをたって十六キロ行くと大きな川につく。ブリサンギン〔蘆溝〕といい、大河にそそいでいるので、商品をたずさえた商人が海からのぼってくる。
きわめて美しい石橋がかかっている。長さ二百七十メートル、十頭の馬がならんで通れるくらいだから、幅は七メートル以上はあるだろう。二十四のアーチと橋脚があるが、美しい大理石で堅固につくられている。両側に大理石製の手すりと柱があり、その根もとに大理石製のライオンがある。柱の頂上にもライオンがおかれ、いずれも立派な彫刻だ。手すりは灰色の大理石である。
2 ジュジュ
橋をわたって西へ行くと、途中、豪華な旅館や美しい葡萄園、平野や庭、泉があり、五十キロでジュジュという大都市につく。偶像教の寺院が多く、住民は商業と手工業で生活し、金糸や絹の布地、美しい琥珀織《タフタ》などを織っている。旅館もたくさんある。
さらに一・六キロ行くと、道は二つに分かれ、西に行くものはカタイを通り、東南に走るものはマンジ〔蛮子。もとの南宋人〕の地方に向かう。西のカタイを通る道を進み、十日間というもの、繁華な都市や村、美しい田畑や葡萄園、都会的な住民の家などに連続的にであうが、どこも商工業が盛んである。
3 太原府
ジュジュから十日で太原府地方につく。首都も太原府といい、美しい大都市だ。さらに五日行くとアク・バリクという立派な大都市があるという。そこまでが大ハーンの御猟区になっていて、大ハーンと貴族および鷹匠の長官の名簿に名前ののっているもの以外は、猟はできない。御猟区以外だと、相当な身分のものなら、誰でも狩りができる。大ハーンはこの地方へあまり狩猟にでかけなかったので、狩猟獣とくに野兎がものすごく繁殖し、作物をあらした。これをきいた大ハーンは廷臣全部をつれてでかけ、その時しとめた獲物の数は大変なものだったとのことである。
太原府では商工業がさかんで、軍隊の装備品が多量につくられている。葡萄畑も多く、葡萄酒がつくられ、カタイ地方唯一の産地で、ここからひろく国内に供給される。住民は多くの桑を栽培し、蚕をかい、絹の産額も多い。
太原府を出発し、商工業のさかんな町のある地方をぬけて、七日間西にすすむ。この辺からは少なからぬ数の商人が、インドなどの外国にでかけて行く。七日後、平陽府につく。要衝の地で、商工業で生活しているものが多く、絹も大量に産する。
4 カイチュの城砦
平陽府から二日西へ行くと、カイチュ〔不明〕の立派な城砦につく。むかし金の皇帝がきずいたものといわれ、城内の立派な大宮殿の大広間には、この国の諸帝の肖像が金などの美しい色でえがかれ、比類ない美観を呈していたという。いずれも在位中に自分の肖像をえがかせたのである。金の皇帝はここに滞在中はいつも美女のみを侍らせ、このような美女がたくさんいた。彼が城内を散歩するときは、彼ののった車を美女が曳いたが、小さな車だったので、曳くのはやさしかった。彼女らは皇帝をよろこばせ、その用をたすために働いていたのである。
この城砦にすむ人々の間には、金の皇帝とプレスター・ジョンとの間に次のような事があったという伝説がある。皇帝は非常に堅固な場所にいたので、ジョンはこれをどうすることもできず、おこっていた。そこへ廷臣たる十七人の武士が御前に参上し、おのぞみなら、金の皇帝を生きたままでつれてくることができます、と申しあげた。ジョンは、そんなうまい話がもし成功したら、重賞を与えよう、といった。彼らはうちそろって金の皇帝のもとへ行き、自分たちは外国からきたものですが、家来にしていただきたい、と申しあげた。彼らが悪だくみをもっているとはつゆ知らず、皇帝は、よくぞ参った、家来にしてやろう、といった。彼らは皇帝につかえて仕事にはげみ、とくに目をかけられるようになり、早くも二年をすごした。
ある日、皇帝のお供をして遊びにでかけた。他の従者は非常に少なかった。さて城砦から約一キロはなれた川を渡ったとき、川のこちら側には彼らと皇帝だけだったので、今こそ目的を達するときと考え、直ちに刀をぬいて、「手むかいせずにいっしょに行け、さもなければ殺すぞ」とせまった。皇帝は驚き、「どうしたんだ。どこへ行けというのだ」といい、われわれの王プレスター・ジョンさまのところへ行くのだ、ときいて死ぬほど悲しみ、「神よ、我をあわれみ給え。朕はお前たちを優遇したではないか。お前たちは朕を敵の手に渡そうとしている。これは大なる悪行、大なる不忠だぞ」といったが、ついにジョンのもとへつれてゆかれた。
ジョンは大いによろこび、外へ出して家畜の世話をさせよ、よく監視せよ、と命じた。十七人の武士は皇帝をつれだし、家畜の番をさせた。彼を軽蔑し、はずかしめ、自分がつまらぬ人物であることをさとらせるためである。二年間このような生活をおくらせたのち、皇帝をよびだした。「帝よ、あなたは決して朕に対抗できぬことをさとったか」「わが主君よ、私は自分が決してあなたに対抗できないことを十分に知りました」「朕はもう何も要求しない。いや十二分に名誉ある待遇をあたえよう」こういってプレスター・ジョンは馬や馬具をあたえ、立派な従者をつけて、故国に送りかえした。以来、皇帝はジョンと親密な関係を維持した。
金の皇帝の話はこれくらいにしておこう。
5 黄河と河中府
カイチュをあとに、西へ三十二キロ行くと、カラモレンという河〔黄河〕につく。橋もかけられないほど幅が広く、水も深く、世界をとりかこむ大海にそそいでいる。河畔には多くの都市と、城壁をめぐらした町があり、沿岸地方は商業がさかんで、商人が多くすんでいる。この辺には多量の生姜《しょうが》、絹を産し、鳥類も多く、ヴェネチア銀貨一グロートで雉が三羽も買える。この河に接する地方には大きな竹がたくさん生えているが、なかには直径十五センチのものもあり、いろいろに利用されている。
河をこえ、二日間西へ進むと、河中府につく。住民はすべて偶像崇拝教徒だ。そこで申しあげておくが、カタイの住民はすべて偶像崇拝教徒なのだ。この町は商業が盛んで、金糸の織物その他の手工業も行なわれている。
6 京兆府
河中府をたって八日間西へ行く。商業、手工業のさかんな都市や町、美しい樹木や庭園、桑をうえた平野にであう。鳥獣もいて、狩猟がたのしめる。
八日後に京兆府〔西安〕につく。王国の首都である。その昔ここにあつた王国は版図も広く、富強で、多くの偉大な王がいた。しかし現在ここにいる王はマンガラという皇族で、大ハーンの息子にあたる。この都市では商工業が盛大に行なわれ、絹の産額も多く、これで金糸絹糸の織物もつくっているし、別に武装用品もつくられ、日用品も非常にやすい。ここはカタイの西部にあって、住民は偶像を崇拝している。
郊外にはマンガラ皇子の宮殿がある。広大で美しく、湖と川と泉の多い平野にたてられている。周囲にめぐらされた高い城壁は延長八キロ、がっちりとつくられ、鋸壁がついている。その内側に壮麗な宮殿がある。立派な大広間と部屋が数多くあり、いずれも色彩がゆたかで、金箔をはったりしてある。マンガラは領内は公正な態度で支配しており、住民から愛されている。宮殿の周囲には軍隊が駐屯し、狩猟をたのしんでいる。
7 クンカン地方
クンカン〔今の漢中〕は山の多い地方である。京兆府から三日間西へ行く。その間、都市や町、平野がある。住民は商業と手工業でくらしており、生糸を多く産する。三日後、大きな山と谷の間にはいるが、ここはすでにクンカン地方である。この地方には大森林が多く、ライオン、熊、山猫、斑《まだら》鹿、鹿など、さまざまの野獣がおり、住民はこれを捕えて大いにもうけている。山をこえ、谷をわたって行く間、町や村や多くの大旅館が、広い森の中に点在しているのが見える。
クンカンの山岳地帯を二十日間すすむと、アクバレク・マンジ〔漢中府〕地方につく。平坦で、町村も多く、大ハーンの領土である。住民は偶像を崇拝し、商業と手工業が盛んだ。生姜の産額が多く、カタイ全体に輸出され、小麦や米などの穀物も多量にでき、値段もやすい。首都をアクバレク・マンジというが、マンジ国境の白い都市という意味である。
この美しい平野は二日行程の広さがあり、聚落も多い。二日後、再び山岳地帯にはいり、大森林をぬけて行く。鳥獣が多く、麝香のとれる動物もおり、住民は狩猟のほか、農業や牧畜で生計をたてている。
8 成都
山岳地帯を通って二十日間西へ行くと、成都府管下の平野につく。ここはマンジの域内で、首都を成都という。昔は堂々たる都市であり、支配していた王も偉大であった。王には息子が三人いたが、晩年、死期のせまったのをさとって、三人に一部ずつあたえた。それで三つの部分は城壁でわけられているが、都市全体も城壁でかこまれている。三人はそれぞれ王と称し、都市の一部と王国の一部を領し、いずれも富強をほこっていた。しかし大ハーンは三王国を征服し、所領をとりあげてしまった。
町の中央を大きな川がながれ、多くの魚がとれる。川幅は一キロ以上、しかも非常に深く、大海までの長さは八十日ないし百日行程ある。川の名を江水という。川を上下する船の数は、信じられぬくらい多い。またこの川を利用してはこばれる商品の量も非常に多い。
市内ではこの川に橋がかかっている。石でできており、幅六メートル、長さ約一キロもある〔今の万里橋〕。橋の両側には大理石の柱がならび、屋根を支えている。橋全体が彩色された木製の屋根でおおわれているのだ。橋の上の家では商売や手工業が盛大に行なわれている。もっともこれらの家は単に柱だけで、朝くみたてられ、夕方には解体される。また橋の上には大ハーンのコメルクがある。コメルクとは税関のことで、ここで橋銭と税金をとりたてる。この税金は大ハーンに一日に一千個の金塊にあたる収入をもたらす。
成都をたって五日間、平野や谷間を行くが、途中に聚落が多く、農業が行なわれている。野獣も多い。五日後にチベットという大変荒れはてた地方につく。
9 チベット地方
チベットはモング・ハーンのおこした戦争で非常に荒らされた。町も村もあるのだが、いずれも破壊され、荒廃している。
この辺には周囲六十センチ以上、長さ十三メートル、節と節との間が六十センチくらいもある竹がたくさんある。通行する商人や旅行者は、夜になると、いつもこれらの竹をあつめて火をつける。もえるときに大音響を発するので、ライオン、熊などの野獣は一目散ににげてしまう。これ以外に野獣を火のそばに近づけない方法はないのだ。この地方が荒廃して、二度と人がすまなくなったのは、野獣が大変ふえたからである。
たくさんの青竹をきって、束ごと火中に投ずると、しばらくもえたのち、真二つにわれ、そのとき二十キロ四方にとどろくくらいの大音響を発するのだが、ききなれないものが突然きいたら、簡単に気絶するか驚死するだろう。しかしなれたものは平気だ。なれてないものは耳に綿をつめ、ありったけの布で顔や頭をおおい、これをなれるまでくりかえす。馬も同じことで、なれないと、非常にびっくりして、手綱やしばってある綱をたちきって逃げ出す。多くの人はこうして家畜を失った。失うまいとすると、注意ぶかく四肢をしばり、その綱をしっかり杭にむすびつけ、頭、目、耳もしばっておく。しかし何回もこの音をきくと馬も気にかけなくなる。しかしそれでもなお野獣が時おり襲撃して被害をあたえる。
二十日すすむ間、人家は一軒もないから、旅行者は食糧全部をもって行かねばならない。しかも危険な野獣にたびたびあう。こうしてやっと町と村の多い地方につく。この辺の町の住民は結婚に関し、次のような奇習がある。
男は決して処女と結婚しようとしない。男になれていない女は価値がない、というのだ。そんなところに原因があるのだろうが、旅行者がくると、まちうけていた老年の婦人が自分の娘か親戚の娘をつれてきて、彼に、滞在中いっしょにいてくれとたのむ。旅行者は娘をうけとり、すきなようにする。出発のとき、娘は老婦人にかえされる。旅行者がつれてゆくことはできない。だからこの地方を旅する人は、人家のあるところへつくと、二十人か三十人の娘を自由にできる。身体に力のある限り、たくさんの娘を手に入れることができる。旅行者は夜をともにした娘に指輪など小さなものをあたえて、将来その娘が結婚するとき、彼女にかつて愛人のあったしるしとする。どの娘も結婚前に少なくとも二十個の証拠品を習得しなければならない。証拠品を最も多くもち、男に最も多くおいまわされた証拠をしめしうる娘は、最も価値があり、結婚に適すると考えられている。しかし結婚後は、男は妻を大切にし、男が他人の妻にふれることは罪悪と考えている。従って妻は結婚後は品行方正となる。
住民は狩猟や牧畜、農業でくらし、偶像崇拝教徒で、少しも信用できない。盗賊や残酷な行ないを少しも罪悪と考えない。実際、世界最大の山賊団だ。この地方には麝香のとれる、タタール語でグッデリという動物がたくさんいる。無頼漢どもは大きな犬を多数飼っているが、グッデリ狩りに非常に役にたち、多量の麝香をえている。大ハーンの貨幣のかわりに塩がつかわれ、服装はみすぼらしい。獣皮、帆布、硬麻布しかつかわないからだ。
チベットはマンジその他の国々と隣接し、境域は非常に広く、中に八つの王国と、多くの都市や村がある。各地に川と湖があり、砂金を多量に産する。この辺では珊瑚の需要が多く、従って高価である。住民が婦人や偶像の頭のまわりにこれを下げさせるのがすきだからである。毛織物も多くつくられ、ヨーロッパにない香料もある。
住民の中には非常にすぐれた魔術師や天文家もいる。しかし一般人はだらしがない。驢馬くらいの犬がいて、狩猟、とくに野牛狩りに役立つ。この野牛をベヤミニ〔ヤクのこと〕といい、大きく、たけだけしい動物だ。他にいろいろの猟犬やランナー鷹、セーカー鷹もいる。鷹はよく訓練されている。
注意しておくが、チベットは大ハーンの領土である。この書のはじめの方でのべた諸地方はアルゴンの子の領土であるが、それ以外は大ハーンの領土である。
以上で、簡単ながらチベットの話をおわったから、|※[#「工+卩」、unicode536d]都《きょうと》地方に行こう。
10 |※[#「工+卩」、unicode536d]都《きょうと》
※[#「工+卩」、unicode536d]都〔建昌、今の四川省西昌県〕地方は西の方にあって、王は一人だけだ。大ハーンに属し、町と村が多い。首都も※[#「工+卩」、unicode536d]都といい、この地方の北端にある。湖が一つあって、白いが丸くない真珠を産する。しかしハーンは採取を禁じている。発見されたもの全部をとると供給量が過大となり、価値がなくなるからだ。ただハーンがほしくなったときだけ採取し、勝手にとったものは死刑にされる。トルコ玉を産する山もあるが、これも大ハーンの特別の許可なしには、採掘できない。
この地方には次のような習慣がある。外国人や他人が自分の妻や娘、姉妹、さては一族の婦人を汚しても、名誉をきずつけられたとは考えず、それどころか、幸運のきざしと考えている。これは神の祝福をえ、現実の利益を増大させるものとしているのだ。彼らの家へ見知らぬ人が一夜の宿をたのみにくると、彼らは喜んでむかえ、席につくと、家の主人は、どうぞ御自由に、といいのこして外へで、見知らぬ人が出発するまで帰宅しない。旅人はこの家に三晩でも四晩でもとまって、主人の妻、娘、その他誰でもすきなものと勝手なふるまいをする。泊まっている間は、帽子か小さな品を扉のところにかけて、客が滞在中だということを知らせ、これがでている間、主人は家にはいれない。
彼らの使用する通貨は、次のようにして作られる。黄金を延べ棒にし、重量におうじて価格をきめる。小額通貨は食塩で、下が扁平、上が凸円状に型でしあげ、一つの重さ約半ポンド、これが八十個で純金一サッギオにあたる。この地方にはライオン、熊、狼、鹿が多く、とくに麝香獣は住民に大きな利益をもたらしている。小麦と米で醸造し、香料を加えた酒があるが、なかなかいける。丁子《ちょうじ》も繁茂している。この樹は小さく、葉は月桂樹に似ているが、もっと細長く、花は白く小さい。生姜、肉桂その他の香料もできる。
※[#「工+卩」、unicode536d]都から十日間で金沙江につく。これが※[#「工+卩」、unicode536d]都地方の境で、川では砂金がとれるし、沿岸には肉桂の樹が多い。
11 カラジャン
金沙江をこえるとひろいカラジャン地方〔今の雲南〕で、王国が七つある。大ハーンの領土で、住民は偶像崇拝教徒である。大ハーンの子エセン・ティムルが王として支配しているが、賢明勇敢な人物で、正義をもって領内を支配している。
金沙江をあとに西へ五日間ゆくと、途中聚落が多い。名馬を産し、住民は牧畜と農耕にしたがっている。固有の言葉をはなすが、理解は困難だ。五日後に首都ヤチ〔雲南府〕につく。立派な都市で、住民はイスラム教徒、偶像崇拝教徒のほか、ネストリウス派信徒も少しはいる。この地方には小麦と米が多くできるが、有害だといって小麦のパンはたべない。米を常食とし、米で酒をつくるが、澄んだうまいものである。
通貨には海に産する白い子安貝をつかう。例の犬の頸に時々つけているあれである。子安貝は十個がちょうどヴェネチア銀貨一グロートすなわち二十四ピッコリに相当する。この地方には塩井があり、ここからとった塩を食用にし、王もこの塩で巨額の収入をえている。周囲百五十キロ以上もある大きな湖〔昆明湖〕もある。世界一うまい魚がとれるが、なかなか大きいのがいる。
この辺の人は妻が他人と関係しても、もし女の方からもちかけたのなら、罪悪とは考えない。また、羊であろうと、牛であろうと、水牛、鳥その他何でも、肉はなまでたべる。貧しい人は屠殺場へ行って、死体から切りとった生《なま》の肝臓をもってきて、細くきざみ、香料を加えた塩水につけておき、それをたべる。それ以外の肉も、生でたべる。
ヤチから西へ十日間すすむと、同じカラジャン地方の別の首都カラジャン〔大理〕につく。住民は偶像崇拝教徒である。ここも大ハーンの領土で、大ハーンの子コガチンが王となっている。この辺の川や湖では砂金がたくさんとれるし、山では金塊が掘り出され、金があまりに多いので、値も安く、六倍の重さの銀にしか交換してもらえない。小額通貨としては前述の子安貝がつかわれている。
この地方には蛇が多く、見るだにおそろしい格好をしている〔実はワニ〕。ある蛇は長さ十メートル、太さは大きな樽ほどもあり、二メートルに達するものがある。頭の近くに二本の前肢がはえているが、先には鷹やライオンのような爪が一本あるきりだ。頸はすこぶる大きく、眼は大きなパンの塊よりまだ大きい。口は人間を丸呑みにできるほど大きく、大きなとがった歯がはえている。もっとも、長さ七メートルから一メートルくらいの小さな奴もいる。
これを捕えるには次のようにする。昼間は大変あついので、奴らは地下にもぐり、夜になると食物をもとめて出あるき、動物を捕えてむさぼり食い、川や湖、泉にいって水をロむ。身体が非常に重いので、夜間、泥の上に尾で、大きな材木をひきずっスような溝をつくる。猟師はこの溝を丹念にしらべ、まず杭を深くうちこみ、その上にかみそりか槍先のように作った鋼製の鋭い刃を固定させ、蛇にわからぬように砂をかけてしまう。このような仕掛けをあちこちに作っておく。やってきた蛇は非常な力でこの鉄の刃にぶつかり、そのため刃は胸にささり、臍のところまでさいてしまい、蛇はその場で死んでしまう。鳥は怪物が死んだのを見てさわぎはじめ、これで猟師は蛇の死んだのを知り、さがしにでかける。猟師は死体から胆嚢をとりだし、高い値段で売る。高貴薬の材料になるのだ。狂犬にかまれたとき、この薬を二十分の一オンスくらいあたえると、ケロリとなおるし、妊娠の陣痛がはじまったとき、同じくらいのませるとたちまちち分娩してしまう。ほんの少量でも、腫れ物や発疹のなおりが早くなる。だからこそ高価なのだ。肉もうまいので売れる。さて、この蛇は空腹にたえかねると、ライオン、熊などの猛獣の巣をさがし、その仔をたべてしまう。親もふせげない。大きな獣を捕えて、たべることもある。こやつには全く抵抗できないのだ。
この地方では大きな優秀な馬が飼われ、インドに輸出される。住民はその馬の尾を二関節か三関節きりすててしまう。乗り手を尾でうつのを不体裁だと考えているからだ。彼らはフランス人のようなのり方をし、皮をゆでてつくった甲胃を着、槍と盾と弩《いしゆみ》をもつ。矢は鏃《やじり》に毒がぬってある。聞くところによると、多くの人、とくに悪事をたくらんでいるものは、いつもこの毒を携帯し、もし捕われ、拷問にかけられた場合には、苦しみをのがれるために毒をのみ下し、直ちに死んでしまう。しかし諸侯も心得たもので、犬の糞を用意しておき、直ちに罪人にのませ、毒をはかせ、まんまと悪人を治療する。
この地方の住民は、立派な人、生まれのよい人、才能のある人などが、たまたまこの地方に泊まると毒などで殺してしまった。物をとるためではなく、殺された人の幸運や才能や名声がその家にのこると信じていたからだ。こうして昔は多くの人が殺されたが、今から三十五年前に、大ハーンがこの地方を征服してからは、これらの罪悪は一般に行なわれなくなった。ハーンはこれを許さず、犯人を厳罰に処したからである。
12 ザルダンダン地方
カラジャンをあとに五日間西へゆくと、ザルダンダン〔ペルシア語で金の歯。金歯蛮〕の地方につく。住民は偶像崇拝教徒で、大ハーンに属し、首都をヴォチャン〔永昌〕という。
住民はいずれも金メッキした歯をもっているというが、実は黄金のうすい板で、上下の歯全部をピッタリおおっているのだ。それは男だけで、女はしない。また男は手足に環のように黒い入墨をしているが、その方法は、まず五本の針をたばにして、血がでるまで肉につきさし、そこへ黒色の顔料をぬりこめば、永久に消えない。入墨は装飾であり、名誉の象徴と考えられている。男は彼らなりに紳士であり、戦争、狩猟、鷹狩り以外はなにもせず、女が、戦争でえた奴隷をつかって、すべての用事をしている。妻は赤ん坊をうみ、赤ん坊がうぶ湯をつかって着物をきせられると、直ちにおきて家事をはじめる。代わりに夫が赤ん坊に添い寝をして、四十日間をすごす。彼らの話によると、女にとってお産は苦しい仕事だから、男が苦しみをわかつのは当然だとのことである。
住民の常食は肉と米である。米をかもし、香料を加えてつくった酒が飲物だが、味はよい。黄金を通貨とし、小額通貨には貝をつかう。黄金はわずか五倍の重さの銀と交換される。ここから五ヶ月行程以内の地に銀山がないからで、商人は銀をもってきて金と交換するが、五倍の重さの銀しかわたさず、大きな利益をえている。
住民の間には偶像も教会もなく、ただ先祖を崇拝するだけである。字を書くことも知らないが、この地方たるや、常に荒涼としていて、入りこむのも大変だし、通過不能の森や山が多く、夏の空気は不健康で、身体にわるいから(旅人がそこへ迷いこんだら、死ぬのはたしかだ)、怪しむにたりない。彼らの間で貸借関係がむすばれると、四角か円い棒を二つに割り、両方のものが一本ずつ持ち、そのいずれにも二つまたは三つの刻み目をつける。借金がかえされると、貸していた方が、半分の棒を借り手にかえす。
ヤチ、ヴォチャン、カラジャンの三地方には医者がおらず、病気にかかると魔法使いか、偶像につかえる巫《みこ》をよんでくる。巫はどこが痛むかきいて、楽器をならしておいのりをはじめ、歌い、かつ踊る。そのとき悪魔が巫にのりうつるのだ。巫の仲間が病気について質問する。「この男はこれこれの精霊をおこらすようなことをしたので、そのたたりでこうなっているのだ」。「おゆるし下さい。もし元のからだにして下さるなら、病人の血でも財産でもさし上げます」。こういのると、病人の体内にひそんでいる悪霊は再びいう。「病人は他の精霊の怨みを買っているので、とてもゆるしてはもらえまい」。この答えは回復の見込みのないときのもので、見込のあるときは、二頭または三頭の羊をもってこい、高い香料をふんだんに使った飲物を十本か二十本つくれ、と答える。さらに羊は頭の黒いものでなければいけない、などということもある。やがて多くの巫や婦人が集められ、儀式は大勢の歌声とたくさんの燈火と、たちこめる香煙のうちではじまる。親族のものが命令されたものを持参し、そなえ、巫がいのりつづけれは、病人はなおる、との答えがあたえられる。
彼らは悪霊の怒りをしずめるため、指定通りの色の羊をつれてきて殺し、指定された場所にその血をふりまく。準備万端ととのうと、悪霊のために歌い、笑いさざめき、おどりまわる。多くの燈火をつけ、肉汁、飲物、なますを、あるきながらあちこちにふりまく。肉までふりまく。これがしばらくつづくと巫の一人がバッタリたおれ、口から泡をふいてころげまわる。他の巫が、悪霊はまだ病人をゆるさないかとたずねる。ゆるすと答えることもあり、ゆるさぬというときもある。ゆるさぬという答えのときは、どうしたらなおるかときいて、その通りにし、再び大変な儀式となる。最後に巫は、病人はゆるされた、間もなくなおるだろう、という。この答えをきくと、一同は病人がゆるされた、といって、のんだり食ったりの大宴会がはじまり、死んだようにたおれていた巫までおき上がって、これに加わる。宴会がおわると一同は帰宅し、ほどなく病人も快癒する。
ばかばかしい話はこれくらいにしておこう。
この地方のヴォチャンで行なわれた有名な戦争のことを忘れていた。これはどうしても話しておく必要がある。
一二七二年、大ハーンはカラジャン王国及びヴォチャンに大軍を派遣した。ハーンがその孫センテムルをここの王にしたのはもっと後のことである。その頃、緬《ミエン》〔今のビルマ〕とベンガルを支配していた王は偉大な人物だったが、ハーンの軍がヴォチャンについたときくと、これを撃滅しようと考え、大軍をひきいて出征することにした。大きな象を二千頭用意した。象の背には骨組のがっしりした木のやぐらがのせられ、十二人から十六人の完全武装した兵士をはこべるようにした。別に六万の歩兵、騎兵を動員した。要するに偉大な君主にふさわしい軍を用意したのである。準備がととのうと、ためらわずに前進し、ヴォチャンにあった大ハーンの軍から三日行程以内のところに到着し、ここにテントをはって、部下に休養をあたえた。
緬及びベンガルの王が大軍をひきいて攻めてきた、というニュースをきいたタタール軍司令官ナスル・ヴッディンは、手もとに一万二千の騎兵しかもっていなかったので、次第に不安になった。しかし彼は勇敢で才能があり、戦いの経験もゆたかであったし、部下も精鋭であった。彼は全軍に詳しい作戦命令と注意をあたえた。全タタール軍はヴォチャン平野で敵を迎えうつためにすすみ、そこでまちかまえた。これは優秀な司令官のすばらしい状況判断のもとに行なわれたもので、平野のすぐそばには密生した大森林があった。
一方、緬王は軍に十分の休養をとらせたのち、再び前進し、タタール軍のまちうけるヴォチャン平野にやってきた。敵から一キロ半とはなれぬところへくると、象の背の上の兵士には戦闘準備を、戦士には戦闘配置につけと命じ、きわめてたくみに騎兵と歩兵を配置した。用意がおわると前進し、戦端をひらいた。タタール軍の馬は、いざ戦いというときに、象を見て胆をつぶし、敵の方を向くことができず、それたり、向きをかえたりした。その間にも緬王の軍と象とは、依然としてせまってくる。
不利な状況を見てタタール人は非常にあせったが、どうしたらよいかわからなかった。しかしこれを予期していた司令官は賢明な行動をとった。全軍すべて下馬し、すぐそばの樹に馬をつなぎ、弓をとれ、と命じた。弓こそはタタール人のすばらしい武器なのだ。命ぜられた通りにしたタタール人は、勇敢に弓をひきつづけ、進んでくる象には矢が雨のようにふりそそいだ。たちまちのうちに大部分の象も、その上にのっていた人も、あるいは負傷し、あるいは殺された。もちろん、敵もタタール人めがけて矢をはなったが、タタール人の方が腕もよいし、弓もよかった。ふりそそぐ矢に傷つき、苦しがった象は、くびすをかえして逃げだした。象にもう一度向きをかえさせ、タタール人の方へはしらせうるものはいなかった。物凄いさわぎとともに象がはしりまわるのは、この世の終りかと思われた。象はついに森の中へつっこみ、走りまわり、やぐらを樹木にうちつけ、戦士の甲胃を粉砕し、やぐらの上にあるものはことごとくぶちこわされた。
象はもはや戦場に出てこないと見ると、タタール軍は直ちに馬にのり、敵に突進し、剣と鎚矛との白兵戦がすさまじく展開された。両軍は真正面から衝突し、死闘が演ぜられた。剣と鎚矛がはげしくうちあい、騎士や馬や、武器を手にしたものがうちたおされ、手足は飛散し、首はふっとんだ。たおれた死体のそばには負傷者がいるが、もはやおき上がれない。ひどい騒音があちこちからおこり、雷が鳴ってもきこえないくらいだった。混乱はますますひどく、戦いはますます凄惨をきわめる。しかしタタール人は勝った。
戦いは正午までつづいたが、緬王の軍はすでにタタール軍をささえられなくなった。緬軍は向きをかえてにげだした。直ちにタタール軍は追撃し、斬って斬ってきりまくり、見るも凄惨な光景となった。しかし、しばらく追撃しただけで中止し、森にもどり、さきに逃げた象を捕えにかかった。大木をきりたおし、道路をふさいだが、結局、捕虜にした敵兵の援助をえなけれは、つかまえきれなかった。これらの捕虜はタタール人よりはるかに象をあつかいなれていた。こうして二千頭にのぼる象をとらえた。大ハーンがたくさんの象をもつようになったのは、この時からだ。
13 ビルマ
ザルダンダンをはなれると、長い下り坂となり、二日半も下って行く。時には大きな市場のたつ広場が見られるが、ここでは、この辺の人が週に三回、定められた日に集まり、市がたつ。彼らは金をたくさんもっているので、これを五倍の重さの銀と交換する。各地の商人はここへ銀をもってやってきて、住民の金と交換して大きな利益をえている。住民は金が高価なものだとは知らないのだ。彼らの住地は険阻なところにあるので、誰もそこへ行けないし、彼らも住地を知られないようにしているのだ。
二日半、長い坂を下って行くと、インドに近い緬《ミエン》という地方にはいる。これより人跡がまれで、象、犀などの獣のおびただしくいる地方を十五日間すすむ。この旅はまことに苦しい。人家がなく、食料は持参しなければならない。こうして緬の首都アミエン〔パガン、即ちタガウン〕につく。立派な都市で、住民は偶像を崇拝し、固有の言葉を話し、大ハーンに臣属している。
この町には実に立派なものがある。昔ここに偉大な王がいたが、臨終にあたり、自分の墓の西側に一つは金、一つは銀の二つの塔を次のようにたてるよう命じた。塔は石造で、一つの塔は指の長さほどの厚さの金でおおい、中まで純金に見えるようにし、他の塔は銀で同じようにする。各塔の高さは十メートル、壁もこれに準ずる。塔の上部は円く、まわり一面に鈴を吊し、塔の頂上にも金銀メッキの鈴を下げ、風がふくとリンリン鳴るようにする。墓も同じように一部は金、一部は銀をかぶせておく。王がこの塔をたてさせたのは、一つには自分の偉大さを示し、一つにはその霊魂のためであった。たしかにこれらの塔は世界にも比類のない光景を呈しており、太陽の光をうけると、最もよくかがやき、はるか遠方からも見える。
大ハーンはこの地方を次のようにして征服した。ある日彼は、宮廷にいる吟遊詩人や奇術師に、緬国を征服したらどうだ、司令官も援軍もつけてやろう、といった。彼らはよろこんで引き受けた。大ハーンはすぐれた司令官と、十分に武装した一団の兵士を援軍としてあたえた。かくて彼らは出発し、緬の全国を征服した。この都市で金銀二つの塔を見つけたとき、大変びっくりし、ハーンに、いかがいたしましょうと伺いをたてた。ハーンは、これらの塔がかの王の霊魂のため、また記念のためにたてられたときいて、あるがままにのこしておけ、と命じた。タタール人は死者に関するすべてのことを尊敬する習慣があるのである。
なお、この地方には多くの象と野牛がいる。狩猟のえものになる大鹿、小鹿なども多い。
14 ベンガル
ベンガルは南方の国で、マルコ・ポーロが大ハーンの宮廷にいた一二九〇年までには、まだ征服されていなかった。インドに近く、固有の言葉が話され、住民は偶像崇拝教徒である。多くの去勢者がおり、貴族の召使になっている。去勢者や奴隷はインド人商人に売られ、外国に輸出される。住民の常食は肉とミルクと米である。綿を多量に産し、甘松《かんしょう》香、生姜などの香辛料のほか、砂糖もとれる。象ほど背の高い牛もいる。
15 カウジグ
カウジグ〔ラオス〕はさらに東の地方で、王がいる。住民は偶像を崇拝し、固有の言葉をもっている。大ハーンに属し、毎年貢物をおくっている。王には三百人以上の妻がいる。国内に美しい女がいるときくと、必ずつれてきて、妻にしてしまうのだ。国内には金と香料が多量に産するが、海に遠くて輸送できず、値段は安い。狩猟のえものになる獣も多い。常食は肉、ミルク、米で、米と香料とで酒がつくられる。住民の大半はライオン、竜、鳥の絵を身体中、いたるところに入墨している。優美だと考えているのであり、たくさん入墨しているものは称賛のまとになっている。
16 アニンとソロマン
アニン〔雲南省阿迷〕も東の方にあって、大ハーンに属し、住民は偶像を崇拝し、農耕と牧畜にしたがい、固有の言葉を話す。婦人は手足に金銀の環をはめ、男はもっと高価な環を用いている。すばらしい牧場があり、馬、牛、水牛が多く、馬をインド人に売っている。物資もゆたかだ。アニンとカウジグの間は約二十五日の距離で、カヴジグからベンガルまでは三十日行程である。
アニンの東、約八日のところにあるソロマン〔貴州省の蛮族の名?〕も大ハーンの領土で、住民は偶像を崇拝し、背が高く、皮膚は褐色で、優秀な兵士だ。山中や要害の地には多くの町と村がある。人が死ぬと火葬にし、骨を木の箱につめ、高い山の洞窟内につるしておく。人も野獣も気づかないからだ。多量の金を産するが、小額通貨にはベンガル、カウジグ、アニンなどと同様、子安貝をつかう。常食は肉、ミルク、米で、米と香料で酒をつくっている。
17 貴州
ソロマンをたって十二日間、川にそって行くと、フングル〔貴州省普安?〕の町につく。大ハーンの領土で、住民は偶像を崇拝し、商業と手工業でくらしをたてている。樹の皮で布地を織っているが、夏用の衣服によい。通貨は紙幣で、ここから大ハーンの発行する紙幣の通用する地域にはいるのだ。
この辺にはライオンが多く、住民は夜、決して屋外ではねない。川を航行する船も、夜間には岸の近くに宿泊しない。ライオンは川にとびこみ、船におよぎついて人間をおそうからだ。力の強いライオンが多いので、住民の助けを借りない限り、この地方を旅行することはできない。
この地方では大型の犬をかっているが、性質が荒く、二匹でライオン一頭をたおすことができる。旅にでる人は犬を二匹つれてゆき、ライオンにであうと、犬はとびかかってゆく。ライオンもとびかかるが、犬はたくみにかわし、あとを追い、吠えつづけ、尻や脚など、どこへでもかみつく機会を狙う。ライオンは森の中に逃げこみ、樹をうしろにして身がまえる。これをまっていた旅行者は矢を連統的にはなって、殺す。彼らは熟練した弓手なのだ。こうして旅行者は難をのがれる。
ここから道は川にそってゆくが、住民は偶像を崇拝し、紙幣を使用し、商業と手工業で生活している。十二日の後、成郡につく。
成都から七十日でジュジュにつくが、途中のことはすでにくわしくのべた。ジュジュから南へ行くと、多くの町と村があるが、住民は商人と工匠で、偶像を崇拝し、紙幣を使用している。四日目に河間府につく。ここはすでにカタイである。
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第四章 カタイの南部とマンジへの旅
1 河間府と滄州
河間府は大都市で、商人と職人がおり、偶像を崇拝し、火葬の習慣がある。多量の生糸を産し、金糸絹糸の生地や薄絹を織っている。キリスト教徒もいて、教会が一つある。ここは都市の多い重要な地方の入口で、大きな川が貫流し、多量の商品がこの川を利用してハンバリクにはこばれる。ハンバリクとは多くの運河や水路で連絡されている。
ここから南へ三日で滄州につく。カタイ地方の美しい都市である。製塩が盛んだ。この辺には塩分をふくむ土があるので、これを掘りだし、山のようにつみあげ、上から水をそそぐと、塩分をとかして下にしたたりおちる。この水を大釜にいれて煮つめ、さますと微細な粒の美しい純白の塩が沈澱する。住民はこの塩を付近の地方にはこんで売りさばく。
ここから五日でチナンリという都市につく。
2 チナンリとタディンフ
チナンリ〔済南?〕の市内には大河が流れ、綿織物、香料など、高価な商品が水運を利用しておびただしくうごいている。ここから道は南に向かい、五日後にタディンフ〔大定府?〕につく。
タディンフは大都市で、昔は王国の首都であった。それで大商人もいるし、絹の産額も多く、美しい果樹園もある。十一の都市がこの都市の管理下にあるが、いずれも綿の産地が多く、その取引きで大きな利潤をあげている。
一二七三年、ハーンはこの地方とこの都市に将軍李壇に八万の騎兵をさずけて、駐屯させた。ところが駐屯しているうちに、彼は反意をいだくようになり、この地方の重要人物を扇動し、反乱をおこさせた。反軍は李壇を首領にまつりあげた。ハーンは直ちにアグィルとモンゴタイという二人の貴族に十万の歩兵と騎兵をさずけて派遣した。しかし事態は重大で、李壇も十万以上の歩兵と騎兵を集めて対抗した。しかし結局李壇とその一味は徹底的な敗北を喫した。このニュースが伝えられたとき、大ハーンは非常によろこび、反乱をおこした首領や、扇動した重要人物をすべて残酷な死刑にせよ、ただしそれほど重要でないものは赦してやれ、と命じ、その通りに行なわれた。それ以来、この地方の住民は君主に忠実になっている。
3 リンジュと|※[#「丕+おおざと」、unicode90b3]州《ひしゅう》
タディンフをでて、町や村をぬけて南へ行く。この辺は商業も手工業も盛んだ。三日後にシンジュ・マトゥ〔不明〕の町につく。商工業が盛大である。ここには大きな川がある〔大運河のこと〕。南から流れてくるが、この町で二つに分れ、一つは東の方のマンジに、一つは西のカタイに向かう。この都市に集まる船はおびただしいが、話したところで、見たことのない人は信じないだろう。船につまれてマンジやカタイにはこばれる商品の数もおびただしいが、それらの船は帰りにも商品をつんでくる。だから川を往来する商品は大した量になる。
シンジュ・マトゥから道は南に向かう。途中、商工業で栄えている町や村が見える。同じく紙幣がつかわれ、火葬が行なわれている。八日後、リンジュ〔臨城?〕の町につく。同名の地方の首都である。住民は戦争につよいが、商工業も盛大だ。鳥獣も多いし、生活用品も豊富だ。町はさきにのべた川〔大運河〕のほとりにあるが、ここの船はもっと大きい。
リンジュから南へ、多くの富裕な町村の間を三日すすむと|※[#「丕+おおざと」、unicode90b3]州《ひしゅう》につく。立派な大都市で、商工業がさかえ、絹の産額が多い。ここはマンジの入口で、多くの商人がすみ、彼らは多くの商品を二輪馬車につんで、マンジの各都市にはこぶ、そのため大ハーンはこの地から莫大な収入をえている。
4 カラモレン
道は|※[#「丕+おおざと」、unicode90b3]州《ひしゅう》から豊沃な地方をぬけて南に向かうが、この辺には鳥獣も多い。二日後、立派な都市シジュ〔江蘇省宿遷〕につく。商工業が繁昌し、偶像が崇拝され、火葬の習慣があり、紙幣が通用する。平野は広く、小麦がとれる。シジュから馬で南に行くと、美しい聚落と、よくたがやされた田畑がひらけている。小麦などの穀物も多いし、鳥獣はとくに多い。
三日後にカラモレン〔黄河〕という大河につく。プレスター・ジョンの領内から流れてくるものだ。幅は一キロ半以上、しかもきわめて深いので、大きな船も航行できる。魚も多く、中にはすごく大きいのがいる。河には一万五千以上の船がうかんでいるが、すべて大ハーンのもので、必要な場合にはインド諸島へ軍隊をはこぶ用意ができている。海までわずか一日行程にすぎないからである。これらの船には乗組員として水夫二十人が必要だが、馬十五頭とその騎手、それに必要な食糧、装備品がはこべるようになっている。河の両岸には町が向かいあい、一つは淮安《わいあん》州、一つはカイジュ〔不明〕といい、後者は小さいものだ。ここをこえるとマンジ地方なので、ここで大ハーンがマンジを征服した次第をのべよう。
5 マンジの征服
広大なマンジの地方を支配していた君主はファクフル〔ぺルシア人、アラブ人が中国皇帝をさしていった呼称〕とよばれた。莫大な富といい、国民の多いことといい、領土の大きいことといい、大ハーンを除いては世界第一であった。しかし人民は武勇にすぐれているとはいえなかった。彼らが関心をもっていたのは女のことだけで、第一、皇帝自身もそうであった。国内には馬というものは全くおらず、住民は戦闘になれていなかった。マンジ地方は自然によつて要害化されており、すべての都市は深い水をめぐらし、それは考てもとどかぬほどの幅をもっていた。だから住民が兵士にならなくても、征服される心配はなかった。しかしそれは明らかに誤算だった。
一二六八年、フビライ・ハーンは将軍バヤンを派遣した。バヤンとは百の眼という意味であった。マンジの王はかつて占いの本の中で、この国は百個の眼をもった人でなけれは滅ぼすことはできない、と書いてあるのを読んだが、そんな人間がいるなどとは考えられなかったので、安心していた。バヤンは歩兵と騎兵の大軍をひきいてマンジに侵入したが、別に馬と食糧をはこぶ船も多数もっていった。この淮安州につくと、住民をよび出し、降伏をすすめた。住民はきっぱりとことわった。そこで彼は他の町へ行き、同様の勧告をしたが、結果は同じだったので、さらに先へ進んだ。大ハーンがこのあと、さらに大軍をくりだしているのを知っていたからである。
こうして五つの都市をこえてすすんで行った。これらの都市を彼は包囲しようとしなかったし、相手も降伏しようとしなかった。しかし第六番目の都市は強襲して陥落させ、続いて十二の都市を攻め落とし、キンサイ〔杭州〕という首都を攻めた。これこそ南宋の皇帝と皇后のすむところである。
バヤンがおしよせてきたのを見た皇帝は周章狼狽し、重臣とともに一千艘の船にのって大海の中の島にのがれた。皇后はキンサイにのこり、勇敢に全力をあげて防衛につとめた。この頃、皇后は敵の司令官の名がバヤンだということをはじめて知った。彼女はさきに天文家が、百の眼をもった人がこの国を奪うだろうと予言したことを思い出し、敵対しても無駄だとさとり、バヤンに降服し、全領土を引き渡した。引き渡しにあたって何らの抵抗もなく、全くすばらしい征服だった。なおこの皇帝が消費した金額は莫大なもので、その例をあげておこう。
この国には生まれたばかりの赤ン坊をすてる習慣があった。もちろん育てる力のない貧民がすることだが、皇帝はこれらの遺児を全部ひろいあげ、特長や生年を記録させ、国内至るところに立てた孤児院に収容させた。子供のない金持が皇帝に請願すると、ほしいだけの子供をもらうことができた。子供が成長すると、孤児同士で結婚させ、お手もと金をだして家庭をもたせた。こうして毎年二万の子供を世話していた。
例をもう一つ紹介しよう。皇帝は市内巡回中に、たまたま立派な建物の間にはさまっている貧弱な家屋をみつけると、理由をきく。貧しくて大きくすることができないのだと聞くと、自分で費用を出してやる。こうして首都キンサイでは、どこをさがしても、美しい家しかないようになった。
皇帝は立派な服装の若い貴人や貴婦人、一千人以上にかしずかれていた。公正に国内を支配していたので、罪人というものはいなかった。市内は全く安全だったので、夜間、戸口をとざす家はなく、商品をうず高くつみあげた商店でも同様であった。
大ハーンのもとへつれてゆかれた皇后は、礼をあつくして迎えられ、皇后としての威厳をたもちうるだけの礼遇をうけた。しかしその夫の皇帝は、逃げこんだ島から終生一歩もでず、そこで死んだ。
6 淮安《わいあん》・宝応・高郵
淮安州は大ハーンの領内で、住民は偶像を崇拝し、火葬の習慣がある。カラモレンの岸にあるので、他の都市の産物が多量にはこびこまれ、また他の都市に輸出される。塩の産額が多く、約四十の都市がここから供給をうけ、ここからあがる大ハーンの収入も多い。
淮安州から一日の間、立派な敷石のある土手道が東南につづいて、マンジ地方へみちびくようになっている。道路の両側は広々とした湖である。一日で宝応につく。多量の生糸を産し、種々のきれいな織物ができる。商工業も盛んで、生活必需品も豊富だ。宝応から東南へ一日で高郵につく。住民は偶像崇拝教徒だが、その他の教徒も少しいる。商工業で生活し、生活必需品も多く、しかも魚が多い。鳥獣も多く、ヴェネチア銀貨一グロートで立派な雉が三羽も買える。
7 泰州・通州・揚州
高郵を馬でたち、村や田畑や美しい農園をぬけて行くこと一日で、泰州につく。大して大きな町ではないが、物資は豊富だ。商業が盛んで、船も多い。この東、三日行程のところに大海がある。大海とこの町の間では塩を産する。そこには通州という都会があり、この地方全部の需要をみたすほどの塩を産し、大ハーンはこの塩から信じられぬほどの収入をえている。住民は泰州と同じく偶像を崇拝する。
泰州から東南へ行くこと一日で、大都会揚州につく。二十七の富裕な都市を管轄している。十二の省の一つなので、大ハーンの十二人の高官の一人が駐在している。住民は偶像崇拝教徒で、紙幣をつかっている。マルコ・ポーロも大ハーンの命令で、三年以上もこの都市を治めた。おびただしい軍用装備品がつくられるので、住民は商工業でくらしをたてている。この付近には多数の軍隊が駐屯している。
8 安慶と襄陽府
次にここより西にあるマンジの二つの大きな地方についてのべたい。
まず第一の安慶は商工業がさかんで、多量の絹を産し、これで美しい織物がつくられる。この辺は豊沃で、穀物などの食料品がやすい。鳥獣も多く、ライオンもいる。大商人が多く、大ハーンは彼らの売買する商品に課税し、大きな収入をえている。
次に襄陽府《じょうようふ》は十二の都市を管轄する宏壮な都市で、商工業がさかえている。生糸の産額が多く、これで美しい生地をおっている。鳥獣も多い。大都会に必要なものは何でもある。
この都市はマンジの他の都市が降伏したのちも、大ハーンの軍の攻撃に対し、三年間ももちこたえた。大ハーンの軍はたえ間なく攻撃したが成功しなかった。この都市の三面が幅の広い川でとりまかれ、北側以外からは接近できなかったからである。
攻撃軍は非常にあせってきた。そこで陣中から使者が大ハーンのもとに派遣され、自分らには包囲できぬ水路から、糧食が続々とはこびこまれているので、襄陽府は封鎖によっては陥落いたしませぬ、と申し上げた。大ハーンは、どうしても占領しなけれはならぬが、方法はないか、と廷臣一同にたずねた。そこでニコロ・ポーロ、マフェオ・ポーロ、マルコ・ポーロの三人は、「われわれはこの町を早く陥落させる方法を存じております」といった。攻撃軍の人々はその方法を知りたがった。そこで三人は、「陛下、われわれの従者のうちには、投石機を組み立てられるものがおります。この投石機は大きな石をなげとばすことができ、これには敵も対抗できませぬ。それどころか、投石機が石を町の中へなげこみはじめたら、降伏するでしょう」と申しあげた。
大ハーンは、できるだけ早くそのような投石機をつくれ、と命じた。ポーロ家の三人は十分に材料を集めさせ、仕事にとりかかった。彼らの従者のうちには、ドイツ人とネストリウス派信徒とがいたが、この二人に命じて重さ三百ポンドの石を投げられる投石機を三台作らせた。でき上がると大ハーンや重臣は大いによろこび、面前で数回石をなげさせ、びっくりもし、また喜びもした。そして早速、襄陽府包囲軍に送れと命じた。
機械が陣中に到着すると、直ちにタタール人の賛嘆の声のうちに、動かすことになった。やがて射撃がはじまり、三つの機械からそれぞれ一個の石が町の中へ投げこまれた。石は大音響とともに、地ひびきをたてて建物に落下し、すべてを粉砕しさった。町の住民はこの新しい奇妙なものを目撃して、まったく仰天し、どうしてよいかわからなかった。額を集めて相談したが、いくら相談しても、投石機からとんでくる石をのがれる方法は見つからなかった。魔法としか思われなかったからだ。のがれる方法がないとすれは、町民はみな死ぬであろう、ということになり、できる限りよい条件で降伏することにきめた。そしてただちに、他の都市と同じ条件で降伏し、大ハーンの臣下となる用意がある旨を、相手の軍司令官に申し伝えた。司令官はこれに同意した。
こうして襄陽の市民は降伏し、和約がむすばれた。これはすべてニコロ、マフェォ、マルコの三ポーロの尽力によるものであり、小さなことではなかった。この都市とこの地方は、大ハーンの領内でももっともゆたかな地方の一つであり、そこからの収入は巨大なものだったからである。
9 真州と揚子江
揚州をたって東南へ二十四キロ行くと、真州につく。大きな町ではないが、船が多く停泊し、かつ商業が盛んである。この町は江〔揚子江のこと〕という世界最大の川のほとりにある。幅はところによって十六キロ、十三キロ、十キロと、いろいろだが、水源から海にそそぐまで百日行程以上の長さがある。この川では始終商品がはこばれ、世界各地と往来がある。ためにこの町も富裕で、商業がさかえ、大ハーンはここから大きな収入をえている。
この長い川の両岸には、多くの国と都市があるので、上下する船の数や、財宝や商品は、キリスト教世界のすべての川と海にうかんでいるものをあわせても、これにはかなわないであろう。実際、川というより海である。マルコ・ポーロはかつてこの町で、一時に二万五千艘の船をみた。さして大きくもないこの町でもこれほどの船があるのだから、川全体でどれくらいの数になるか、想像もつかない。何しろ南岸には十六以上の地方と二百以上の都市があり、どれも船をもっているのだ。
この川で微税にあたっている官吏からマルコ・ポーロがきいた話によると、遡航する船だけで年間二十万艘にのぼるという。水路の長さ、流入する航行可能な河川の数などを考えると、各地にはこばれる商品の数量と価格とは、とても計算できない。しかし主要な商品は塩で、この本流および支流によって、沿岸の各都市にはこばれ、そこから奥地に分散される。この川の船には甲板があり、マストは一本しかないが、積載量は大きく、四十万キロから百二十万キロも運ぶものがある。川岸には丘や岩があちこちにあるが、その上には偶像をまつった寺院などがたち、両岸には聚落がきれ目なくつづいている。
ちょっと、話し忘れた点をおぎなっておこう。この川に浮かぶ船は、遡航のときは曳《ひ》き船しなければならない。流れが強いので、他の方法では前進できないのだ。長さ三十メートルもある曳き綱は竹でつくられるのだが、長さ約十二メートルの太い竹をたてに細く割り、麻縄をなうように、これを所要の長さによりあわせる。こうしてつくった綱は大麻製のものより強い。
10 爪州
爪州は東南方にある小さな町で、江のほとりにあって、ハンバリクに送って宮廷の御用に供される穀物や米が、いったん集められる場所である。大ハーンはこの町からハンバリクまでの水路として、広く深い運河をほらせた。この運河は川と川、湖と湖をつなぎ、大きな船も航行できるほどの大きな川をなしている。こうして荷をつんだ大きな船も、直接ハンバリクヘ行けるようになった。陸路もあるが、これは運河を掘ったときに、その土を両側につみあげて、土手道としたものである。
爪州の前面、江の中流に、岩ばかりでできている島があり、大きな寺院があって、偶像崇拝教の僧侶二百人がすみ、多くの偶像も安置されている。キリスト教の大司教のいる場所と同じように、この寺院は多くの寺院の本山となっている。
ここから江をわたり、鎮江府にゆく。
11 鎮江府と常州
鎮江府はマンジの都市で、住民は偶像を崇拝し、紙幣をつかい、商工業がさかんだ。絹を多量に産し、さまざまな織物をつくつている。大商人が多く、食糧も豊富である。ここにはネストリウス派キリスト教の教会が二つある。一二七八年にたてられたもので、この年、大ハーンは三年間鎮江府をおさむべき行政長官として、ネストリウス派の信徒マール・サルギスという高官を派遣した。その任期中に彼はこの二つのキリスト教会を建設し、それが今日まで存続しているのである。彼以前、ここには教会はもちろん、キリスト教徒もいなかったのだ。
鎮江府をあとに、東南にむかって、活気のある町や村をぬけてゆくと、三日で宏大な常州に到着する。住民は偶像を崇拝し、紙幣を使用し、商工業で生活している。絹の産額も多いし、土地が肥沃なので、鳥獣も多いし、食糧も豊富だ。
かつてこの地では、住民の手で残虐な行為が行なわれ、そして返報をうけた話がある。
マンジ地方征服の際、司令官バヤンはキリスト教徒のアラン人の一部を派遣して、常州を占領させた。彼らはたちまち占領したが、入城したとき、良質の酒をみつけ、大いによろこんだ。酔いつぶれるまでのみ、とうとう豚のように横になってねこんでしまった。夜になって町の人々は彼らがまったくよいつぶれているのを発見し、おそいかかって、一人のこらず虐殺してしまった。これをきいた大ハーンは他の将軍に大軍をさずけて派遣し、この町を強襲させ、住民を一人のこらず斬殺した。一人もにげられなかった。
12 蘇州
蘇州は宏壮な美しい都市で、絹の産額が多く、これで錦織その他の生地をつくっている。商工業も盛んだ。町の周囲は約十キロもあり、大金持の商人と数えきれないほどの住民がいる。まったくこの都市や他のマンジの住民が軍人的精神をもっていたら、世界を征服できたであろうが、彼らは結局軍人でなく、熟練した商人であり、腕のよい職人であった。ここには多くの哲学者、医者、勤勉な自然の探究者もいる。
市内には橋が六千もあり、すべて石造で、そのうちの一つは非常に高く、一隻か二隻のガレー船が下を通れるくらいだ。この都市の管轄下に十六の商業都市がある。蘇州という名は地を意味し、のちにのべるキンサイは天を意味している。これらの名は両都市が宏壮であるためにつけられたのだ。
蘇州から一日で湖州につく。商工業の盛んな都市である。大して語るべきこともない。次の呉江は絹の産地で、商工業か繁昌している。ここから松江に行く。ここも富裕な都市で、種々の薄絹が生産され、付近には鳥獣が多い。
13 全マンジの首都キンサイ
松江をたって、美しい田園や町や村をすぎ、三日の後、もっとも豪華なキンサイ〔行在または京師の音訳。今の杭州〕につく。このすばらしい都市については、詳細に話そう。美しさといい、豪華なことといい、世界の他の都市よりはるかにすぐれているから、くわしく話すだけの値打ちはある。さきにマンジの皇后は、このすぐれた都市を保護してもらいたい、またこれを破壊したり、損傷したりしないように行動してもらいたい、という意味の手紙を書き、これを大ハーンに伝達するよう、攻撃軍司令官バヤンに送ったが、この手紙を基礎にして話をすすめよう。
まずこの手紙は、キンサイの町は大変大きく、周囲は百六十キロあるといっている。市内には一万二千の石造の橋があり、大部分は大船団が下を通りぬけられるくらい、高くできている。全市は水中に立っているようなもので水路にとりまかれ、往来を自由にするためには、非常に多くの橋が必要なのだ。また、橋が水面から高くても、道路の傾斜をゆるくしてあるので、二輪車も馬も楽々と通行できる。
手紙はさらに次のように書かれている。この都市には職人組合が十二あり、各組合には、同じ仕事にたずさわっている家内工場が一万二千ずつ加入している。家内工場には十二人から四十人の職人がいるが、全部が親方なのではなく、親方の下で働く職工もふくまれている。職人は毎日忙しくはたらいている。他の都市の必要品がここから供給されているからである。
手紙はさらにつづく。商人の数と富、また彼らがあつかう商品の量は非常に多いので、正確には計算できない。工場を経営する親方もその妻も、自分らは決して働かず、王や王妃のように、上品優美な生活をしている。彼らの妻はまったく優美で、天使のようだ。また皇帝の発布した法令で、誰でも、たとえ十万べザントもっていても、父の職業をつがねばならぬことになっていた。
市内には周囲約五十キロの湖〔西湖〕があり、そのまわりに貴人たちの美しい宮殿や邸宅がたてられているが、その宏壮華麗なことは想像もできない。岸には寺院も多い。湖の中央には二つの島があり、どちらにも立派な大建築物があって、皇帝の宮殿のような調度品がそなえつけてある。市民が結婚式をあげるとか、大宴会をひらく場合には、これらの建物ですることになっている。金の食器、皿、ナプキン、テーブル・クロースなど、必要なものは何でもそろっている。これらは皇帝が人民をよろこばすために設備したものである。時には一時に百組もの会合がひらかれることもあるが、互いに邪魔にならぬように、うまくできている。
市内の家屋には石造の高い塔がつくってあり、火災にかからぬように、高価な品物をしまっておく。家屋の大部分が木造で、火災が多いからだ。住民は偶像を崇拝し、紙幣を使用している。男女とも顔立ちがよく、多くは絹の衣服を着ている。絹の生地がこの辺からも他の地方からも大量に集められるからだ。彼らは種々の肉をたべる。中にはキリスト教徒なら絶対にたべない犬の肉などもはいっている。
大ハーンは占鎖後、騒動や反乱などの陰謀がおこるのにそなえて、一万二千の橋に、それぞれ十人の衛兵をおくことにきめた。衛兵は板木《ばんぎ》と銅鑼《どら》をわたされ、衛所には昼夜の時刻をはかる時計がそなえてある。日がくれてから一時間たつと、歩哨は板木と銅鑼を一つずつならし、全市民は日没から一時間たったことを知る。二時間目には二度ずつならす。こうして鳴らす数を一つずつまし、いつも注意深く警戒している。朝、夜があけると、また一つずつならしはじめ、一時間ごとに数をますのは、夜間と同様である。
衛兵の一部は受持区域内を巡回して、規定の時刻以後になっても点灯していたり、火をおこしているものがないか、と見てあるく。反則者を見つけると、その家の戸にしるしをつけておき、翌朝、戸主を司法官のもとによびだす。正当な弁護ができないと罰せられる。また規定時間以外は往来をあるいているものをみつけると、逮捕し、朝になってから司法官のもとに連行する。昼間の巡回中に、不具で、生活のために働けないものをみつけると、病院につれてゆく。この病院はたくさんあるが、すべて昔の皇帝の設立したもので、恩賜の基金からあがる大きな収入によって経営されている。もしその不具者が働けるときは、強制的に商業にたずさわらせる。どこかに火事がおこったのを見つけると、ただちに板木をたたいて警報をつたえ、他の橋にいる衛兵をよぶ。かけつけた衛兵は消火に尽力し、商品を前述の石造の塔にはこびこんだり、ボートにつみこんで湖中の島にはこんだりする。市民がかけつけないのは、夜は家から出てはならないからである。ただ財産の所有者と衛兵だけが集まるのだが、この衛兵の数は少なくとも一千から二千に達する。
市内には土をもりあげて高くした場所があり、そこにある塔の頂上には板木がつるしてある。火事その他警報を伝えるときには、立番しているものが、手にした槌で板木をたたくが、その音は遠距離まできこえる。だから一たび板木がならされると、すべてのものが火事がおこったのか、事件がおこったのかと注意する。
大ハーンはこの町に特別な関心をもっている。それはこの町が全マンジの首都であるばかりでなく、この地方からあがる営業税によって莫大な収入をえているからである。
街路はマンジを通ずるすべての公道と同様に、石や煉瓦で舗装されている。この地方は標高が低く、平坦なので、雨のあとの道路は泥濘《でいねい》膝を没する有様になるから、舗装されてなかったら、とても旅行はできない。しかし大ハーンの急飛脚は、馬の蹄をいためるので、舗装道路の上をかけるわけにゆかず、そのため道路の片側だけは舗装してない。この市内の道路は両側を十メートルだけ舗装し、中央は小砂利をしき、その下に雨水を運河に流しこむ排水渠があるので、雨がふってもすぐ乾いてしまう。
市内には浴場が約三千もある。水は泉から供給されている。いずれも温浴場で、住民は入浴を好み、月に数回は入浴する。浴場はきわめて美しく、そして大きく、百人くらいは一度にはいれる。
この町から二十五マイルのところに海があり、そこに|※[#「さんずい+敢」、unicode6f89]浦《カンポ》という町がある。優秀な港で、インドなどの諸国との間の輸送に従う船がおびただしく集まり、この町を富ませている。キンサイからは大きな川が通じ、船はさかのぼってキンサイまでくる。
大ハーンはマンジ全体を九つに区画し、それぞれを王国とした。王国には王を任命し、王は毎年大蔵省に王国の報告を提出することになっている。キンサイにも一人の王がおり、百四十の富裕な大都市を管轄している。何しろマンジには無数の町村をのぞいて、富裕な大都市が千二百もあるのだ。これら千二百の都市には大ハーンの守備隊がおかれ、その最小のものでも一隊で千人もいる。中には一万から三万の隊まであるから、守備隊全部の数はほとんど計算できない。守備隊員はタタール人ではなく、カタイ生まれのものばかりで、しかも優秀な兵士である。騎兵ばかりではなく、都市の事情におうじて歩兵をおいているところが多い。
この地方の住民は子供が生まれるとすぐ、生まれた年まわりと月日を記録し、誰でも自分の生年月日を知っている。旅行しようと思う人は天文家のところへ行き、旅行がうまくゆくかどうかを知るために、生年月月をのべる。ある場合には否《ノー》という答えがでるが、そのときは天文家がよかろうという日まで、旅行をのばす。天文家は熟練していて、予言はしばしばあたり、住民は信用している。
彼らは死体を火葬にする。人が死ぬと、親戚友人は非常にかなしみ、麻の衣服をつけ、楽器をならし、偶像への賛歌をうたいつつ遺骸の後に従う。火葬場へつくと、紙でつくった馬、男女の奴隷、駱駝、錦繍《きんしゅう》、銭をたくさん遺骸とともに焼く。これらは次の世にほんものになって、死者の自由になるのだ、と説明されている。
マンジのもとの皇帝の宮殿も市内にあるが、あとでくわしくのべるように世界最大の宮殿である。敷地は周囲十六キロもあり、鋸歯状の銃眼のついた城壁でとりまかれている。城壁の内部は心もはればれするような美しい庭園で、美しい果樹にみち、泉や、魚のたくさんいる池もある。宮殿の中央には華麗な大建築物があり、きれいな大広間が二十もあるが、その一つでは非常に多数の人がいっしょに食事できるようになっている。内部は金色にぬられ、鳥獣、貴人と貴婦人その他の絵が描かれている。壁も天井もすき間なく金色でえがかれ、実にすばらしい。大広間とは別に、さらに一千以上の大きな部屋があり、いずれも金色や種々の色彩にぬられている。
この町には百六十トマンの火、言葉をかえていえは百六十トマンの家がある。トマンとはタタール語で一万を意味し、百六十万戸あるということになる。中にはすばらしい邸宅もふくまれている。しかし教会は一つしかなく、それはネストリウス派のものだ。
この都市ではどの家でも、主人、妻、子、さらに奴隷、同居人などそれぞれの名、飼っている動物の数まで門口にかいておく習慣がある。こうして支配者は正確に都市の人口を知りうる。そしてこれはカタイでもマンジでも実行されている。旅館の主人は宿泊者の氏名と到着出発の月日を宿帳に記入することになっている。支配者はこれで誰がこの地にきたか、去ったかを知ることができる。たしかに賢明な方法だ。
町の一方の側には美しい湖があるが、他の側には大きな川がある。この川の水は市内を走っている多くの運河をみたし、汚物を流しさり、湖にそそぎ、すばらしい環境をつくっている。この運河と街路で市内のどこへでもゆける。この都市の反対側は、長さ五十キロ、幅も相当広い溝渠によってとざされている。前述の大川から水が流れこんでいる。この地方の昔の王が掘ったもので、川の水があふれて堤をこえそうなときに、余水を流すためのものである。防衛にも役立っているが、掘りあげた土は内側につまれ、町をとりまく丘陵のようになっている。
この区域内には主要な市場が十もあるが、市内の他の区域にも別に多くの市場がある。区域の市場は一辺が約一キロの四角な広場をなし、前面には幅四十メートルの大道路が市のはしからはしまで貫通していて、わたりやすいように傾斜をゆるくとった橋が、途中にたくさんある。この道路には六キロごとに、周囲六キロの広場(前にのべものだ)がある。この大通りに平行して、市場の背後を通って大きな運河がある。その堤防の上、広場の近くには石造の大建築物があり、インドなどからきた商人が、商品をここにしまいこんでいる。各広場では一週間に三日、市がひらかれ、四万から五万の人があつまる。彼らは日用品を売るためにくるもので、この市ではいつも、肉類、鳥獣(たとえば各種の鹿、野兎、兎、しゃこ、雉、うずら、鶏、あひる、鵞鳥)などがおびただしく売られている。湖でたくさんに飼われているので、ヴェネチア銀貨一グロートで鵞鳥二羽とあひるが四羽も買える。屠殺場もあって犢《こうし》、牛、仔羊などが屠殺されている。しかしこの肉は富豪や大官連中の口にはいるだけだ。
市場には毎日いろいろの野菜と果物があらわれている。果物の中には、とくに大きな梨がある。一個の重さ十ポンド、中はやわらかで白く、菓子のような香気をもっている。季節になると挑もあらわれるが、白いのと黄色いのとがあり、いずれも味がよい。
葡萄も葡萄酒もここには産しないが、良質の乾葡萄と葡萄酒が他の地方からくる。しかし土地の人は米と香料でつくった酒を常用している。海からは毎日、川を四十キロも遡って、大量の魚が供給され、湖でとれる魚も多く、湖には漁業で生活しているものもいる。魚は季節によってかわるが種類が多く、湖水に流れこむ町の汚水のために、大変ふとっていて、風味もよい。市場にもちこまれる魚を見たものは、こんなに多量ではとても売りきれまいと思うだろうが、わずか二、三時間できれいに売れてしまう。高級な生活をしている人が非常に多く、彼らは一度の食事に魚と肉とをたべる。
市場になっている十の広場のまわりには、高い建物がならんでおり、一階ではいろいろなものがつくられ、売られ、香料、宝石、真珠まで売られている。酒ばかりの専門店もあり、いつも米と香料で酒をつくり、安く売っている。ある通りには街の女ばかりがいる。市場のひらかれる広場の付近(ここが指定区域なのだ)だけでなく、市内いたるところにいる。彼女たちは美々しく着かざり、香水をプンプンさせ、侍女にかしずかれて、立派な部屋にすんでいる。いずれも諸芸に達し、媚《こび》をうる技術にたけている。その媚態を経験した他国人はすっかり魅惑され、技巧に迷わされ、印象がわすれられなくなる。そして帰国すると、キンサイすなわち「天の都」に行ったといい、彼らの望みはキンサイヘ行くことだという結果になる。
医者と天文家ばかりのすむ通りもある。彼らは読み書きの教師でもある。どの広場にも、向かいあった二つの大きな建物があるが、ここには商人やこの区域の住民の間におこった紛争を解決する役人がいる。橋の衛兵が定められた場所にいるかどうかを監視し、もし留守にしたものがあれは処罰するのも、彼らの毎日の任務である。
前述の、町を貫通する大通りにそって、両側には邸宅や大建築物や、その庭園などがあり、その間には、いろいろな職種の職人の家がある。種々の用事で往来するおびただしい人が、この大通りにたえないから、それを見ると、これだけの人口を養う食糧を供給するのは不可能ではないかと思うが、市のひらかれる日には、広場は船や車ではこんできた物資で一ぱいになるが、それでも全部売れてしまうのを見ては、なるほどと思うだろう。市民が消費する食糧、たとえば肉、酒、雑穀類の量がどんなにおびただしいか評価する方法として、例を胡椒にとって説明しよう。マルコ・ポーロが税務署の役人にきいた話によると、キンサイヘの一日の入荷量は四十三荷で、一荷は二百二十三ポンドである。
市民の住宅は建物自体も立派で、仕上げも豪華である。装飾や色彩、建て方についての彼らの好みは、なかなか金のかかるものだ。
キンサイの市民は平和を好んでいるが、これはそのような教育をうけているためでもあるし、皇帝がその模範をしめしたからでもある。彼らは武器を所蔵してもいないし、使い方も知らない。彼らの間にはいかなる不和、反目、口論さえおこらない。商取引においても、品物の製造においても、彼らは実に正直で、信用できるし、男も女も善意にみち、人づきあいもよいので、同じ町内にすむ人々は一家族のように見える。
家庭内では、彼らは大いに妻を尊敬し、決して嫉妬したり、疑ったりしない。既婚の婦人に下品な言葉を使ったものは、野卑な人物と見なされる。外国人が商用で来ると、愛想よく親切にとりあつかい、いろいろ援助もするし、助言もする。しかし兵士は、これを見るのも嫌い、大ハーンの守備兵を見ても、自分らの皇帝や貴族を奪った元凶だと考えている。
大きな湖には遊覧船がたくさんうかんでいる。十人乗り、十五人乗り、二十人乗り、あるいはそれ以上のものもあり、長さは十二ないし十八メートル、平底で幅もゆったりしているので、転覆のおそれはない。女と遊ぼうとか、男だけで騒ごうという連中は、椅子、テーブルをはじめ、宴会に必要なものがいつもそろっているこれらの船をやとう。屋根は平たい甲板をなし、その上にたった船頭は、のぞみの場所へ船をさおでおしてゆく。湖は探さが二メートルしかないのだ。船内はきれいな色にぬられ、窓は自由に開閉でき、テーブルについたままで、うつりゆく周囲の風光をたのしむことができる。湖上周遊のたのしみは、いかなる陸上のたのしみにもまさっている。湖はキンサイ市の一側面にそっているから、船中からは美しい邸宅、寺院、水際にしげる大樹老木などが、一望のうちに眺められる。キンサイの市民は、一日の仕事がおわると、妻や妾その他のものと、船を湖上にうかべて楽しくあそぶか、馬車にのって市内をドライブすることに、午後の時間をついやすのが大すきだ。
馬車で市内をドライヴするのは、湖に船をうかべるのとともに、市民のよい気ばらしの一つとなっている。大通りには、これらの馬車がたえずあちこち走りまわっている。この馬車はやや長い形をし、屋根があり、内側にはカーテンとクッションがあり、六人までのれる。男女ともに行楽にでかけるときには、この馬車をやとう。彼らの目的地の一つはある庭園で、ここには所有者によってそのような目的にあうようにつくられた建物があり、彼らはつれてきた婦人と一日中、ここで遊び、夕方になって馬車で帰宅する。
次にファクフルのいた宮殿についてのべよう。宮殿の敷地は三つに区画されている。中央の区画は大きな門からはいるが、両側には大きな建物がならび、屋根は金碧にぬられ、しかも絵のかかれた円柱で支えられている。入口に向かいあって一番大きな建物がある。同じようにぬられ、円柱には金がはりつけてあり、天井は金色燦然たる彫刻でおおわれ、壁には前王朝の諸帝の功績をしめした画が、精妙にえがかれている。
ファクフルは一定の祭りの日に、ここで重臣、大官、キンサイの富裕な産業人を召して大宴会をひらいた。そのときにはここで一万以上の人が一時に食卓についた。宴会は十日または十二日間もつづき、列席者は錦繍をまとい、宝石をつけ、その美しさ、すばらしさは想像を絶した。いずれも境遇のゆるすかぎり美しく豪華に見せようとしたからである。入口に向かいあったこの建物のうしろには城壁があって、内廷と外廷とを区別し、間には通路が一つしかない。これをはいると、柱が前面についた、廻廊形式の大建築物がある。廻廊に面して入口をあけたたくさんの部屋は、城壁外の建物と同様に、豪華な装飾でみたされているが、これらは皇帝と皇后の使用に供されていたものである。屋根のある幅五十メートルの長い渡り廊下が廻廊から湖岸に達している。渡り廊下の両側には、列柱をめぐらした長方形の廻廊の形をした十の建物があり、各建物には、それぞれ庭園のついた五十の部屋がある。これらの部屋には、皇帝につかえる若い一千人の侍女がいた。皇帝はしばしば皇后や侍女をつれて、絹の天蓋でおおわれた船にのって、湖上で気ばらしをしたり、寺院をおとずれたりした。
他の二つの区画には林、池、美しい果樹園があり、かもしか、鹿、野兎、兎など、さまざまの動物がかわれていた。皇帝は婦人たちとともに、馬車または騎馬でここに遊んだ。そのようなときは男子禁制であるが、婦人たちに犬をつかって猟をすることを習わせてあった。これにあきると、池にのぞむ林の中にいって、衣類をぬぎ、はだかになって池にとびこみ、あちこちおよぎまわる。皇帝はこれをながめて悦にいっている。時々皇帝は高い樹のしげっている林の中へ食事をもちこみ、美女の給仕をうける。彼はこのように婦人と遊びほうけていたので、軍事にはまったく無知であった。こんな生活をおくっていたので、あっけなく大ハーンに領土を奪われたのだ。
以上のようなかずかずのことを、マルコ・ポーロはキンサイにいたときに、ある大商人からきいた。彼は老人でファクフルと非常に親しく、その一生をよく知っており、宮殿の昔の様子もよく知っていたので、マルコを熱心に案内してくれた。現在は大ハーンの任命した王がここに住んでおり、入口近くの宮殿は使用されているので、旧態をたもっているが、侍女のすんでいた部屋はすべて荒廃し、基礎がのこっているにすぎない。林や庭園をかこむ城壁もくずれ、もはやうつそうたる樹木もないし、動物もいない。
次にキンサイとその管轄地域(これはマンジの九省の一つである)から、大ハーンが毎年うけとる巨額の収入についてのべよう。
第一は食塩で、これは大きな収入をもたらす。課税額は毎年大体黄金八十トマンである。一トマンは金七万サッギオだから八十トマンは黄金五百六十万サッギオとなり、一サッギオは黄金一フロリンまたは一ダカット〔イタリアの銀貨。約三シリング六ペンス〕である。実に莫大な額である。この地方は大海にのぞみ、沿岸には鹹《かん》湖や鹹水の沼沢が多く、それらは夏季にひあがり、この地方のみならず、マンジの他の五省の需要をみたすほどの食塩がとれるのだ。
この地方の他の八省と同様、キンサイとその管轄区域内では、砂糖の産額が多い。世界がたばになっても、この地方の産額にはおよばないとのことだ。しかもこの砂糖が大ハーンに大きな収入をもたらすのだ。しかし個々のものの税金の話はやめて、全体がどうなっているかをのべよう。すべて香料は価格の三パーセント三分の一をおさめる。すべての商品に対しても同じく三パーセント三分の一、インドなど遠い国からの舶来品は十パーセントの税率である。酒や、この国にたくさんある燃える石〔石炭〕からも大きな利潤があるし、前述の千二百の店をもつ十二の同業組合も同様である。つくった品物のおのおのについて税をおさめるからである。多量に産する絹も莫大な利潤をもたらす。その税率は十パーセントである。
この話をしたマルコ・ポーロは、数回ハーンから派遣されて、マンジ九省の関税と収入を監査し、さきにのべた塩税収入をのぞき、総計が金で二百十トマンすなわち千四百七十万サッギオにのぼることを発見した。まことに莫大な収入だ。全国でどのくらいになるか、想像できよう。しかしほんとうのことをいえば、マンジは最大の、またもっとも産物の多い地方なのである。ハーンはこの地方から莫大な収入があるので、ここは彼のお気にいりの省であり、人民に不平がないように、よく気をつけている。
14 タンビジュ
キンサイをたって東南にむかい、人家や美しい農園のある肥沃な地方をすぎ、一日でタンビジュ〔紹興府か宝陽〕につく。キンサイ管轄下の美しい都市である。住民は紙幣を使用し、偶像をあがめ、火葬の習慣があり、商工業に従事している。日用品が豊富で安い。
ここから三日行程のところに|※[#「(矛+攵)/女」、unicode5a7a]《ぼう》州〔今の金華〕がある。ここもキンサイの管轄下で、商工業が行なわれている。同じ町のつづきかと思われるように連続した町と村をぬけて、二日間東南にゆくと、同じくキンサイ管轄下の衢《く》州という都市につく。絹を産し、商工業が行なわれ、必需品が多量にある。この町には大きく長い竹があるが、マンジのどこにもあるもので、周囲二十センチ以上、長さは十三メートル以上ある。
衢《く》州をたって東南へ、多くの町村のある地方をすぎる。鳥獣も多く、大きなライオンもいる。、四日後にチヤン・シャン〔江山か遂昌〕の町につく。ここから商工業者のすむ町や村の多い地方をぬけて行く。その間、鳥獣が多く、狩猟がたのしめる。三日でチュジュ〔処州?〕につく。商工業が盛んで、キンサイ管内最後の都市である。これからはいる福州はキンサイと同様、マンジ九省の一つである。
15 福州
チュジュをあとに福州管内にはいり、六日間は山中をすすむが、途中、食糧や鳥獣の多い町や村がある。この辺にはライオンも多いが、生姜もたくさんとれ、香気のつよい生姜がヴェネチア銀貨一グロートで八十ポンドも買えるほど安い。サフランによく似たものがあり、サフランのように使われている。
住民は不潔な肉をくう習慣があり、人間の肉でも病死者のものでない限りたべる。それで刑死したものの死体をもとめ、その肉をたべるが、味がいいといっている。彼らが戦場にでるときは、前額部の頭髪をそり、真青な色にぬる。隊長をのぞいては徒歩でゆき、槍と剣をもち、やたらに人をきり殺し、血をすすり、肉をたべる。まったく野蛮だ。
三日後、建寧府につく。大きな町で、市内には美しい石造の橋が三つある。長さ百歩、幅八歩〔一歩は約三フィート〕以上で、立派な大理石の柱でかざられている。住民は商工業で生活し、絹の産額が多く、これでいろいろの織物をおり、また生姜も多く産する。染めた糸で綿布をおり、マンジ全体に供給している。婦人はとくに美しい。この辺には全身真黒で、羽毛はなく、猫の毛のような頭髪のはえている鶏がいる。普通の鶏のように卵をうむが、非常においしい。
建寧府から三日で砂糖の産地ウンケン〔※[#「門<虫」、unicode95a9]清?〕の町につく。ハーンの宮廷用の砂糖はこの町から送られるのだが、その額を貨幣に換算すると大した額になる。町がハーンの支配下にはいるまでは、住民は砂糖の精製法を知らず、ただ煮て、その汁をすくいとり、さめて黒い糊状になったものを使っていた。征服後、宮廷にきていたバビロニア人数名がこの地へやってきて、ある樹木の灰を用いて精製する方法をおしえたのである。
ウンケンから二十四キロ行くと、福州の町につく。マンジ九省の一つたるチョンカ〔福建行省〕地方の首都で、商工業が盛大に行なわれ、住民は偶像崇拝教徒であるが、わずかな挑発をうけても反乱をおこしやすい性格なので、大軍が駐屯している。町そのものはすこぶる美しく、整然としており、日用品は何でもあって、しかもやすい。
町の中央を幅一・六キロの大きな川が流れ、多くの船がここでつくられ、川を走っている。砂糖を多量に産し、真珠や宝石類の取引きも多い。インド諸島で買いこまれた商品をつんだインド船がたくさん入港する。ここはザイトン〔泉州〕の港に近い。ザイトンにはインドの船がひんぱんにおとずれ、そこから今のべた川を経由して福州へやってくる。こうしてインド産の貴重品が福州へくるのだ。
16 ザイトン
福州を出発し、川をわたり、五日間東南にゆく。その間、ゆたかな町や村が続いている。山をこえ、谷をわたり、平野をすぎて行くが、時にであう大森林には樟脳のとれる樹が多い。付近には鳥獣も多く、狩猟がたのしめる。五日の旅をおわると、同じく福州の管下にある立派な大都市ザイトン〔泉州〕に到着する。
ザイトンの港には、インドの船が香料などの高価な商品をつんで頻繁にやってくる。いろいろな商品や宝石、真珠の類が輸入されるので、マンジの商人も買いにきている。この港に輸入される胡椒の量にくらべたら、キリスト教諸国の需要におうずるために、アレクサンドリアに輸入される量のごときは、まことに微々たるもので、その百分の一にも及ばないであろう。実にザイトンは世界最大の二つの商港のうちの一つである。
宝石や真珠をふくめて、すべての輸入品に十パーセント課税されるから、大ハーンはこの町と港から巨額の収入をえている。そのほかさらに船につんできたこまかな商品に対しては三十パーセント、胡椒には四十四パーセント、沈香、白檀などの大きな品物については四十パーセントの税がかかる。したがって運賃と税金とで、もってきた品物の半分は十分きえてしまう。しかしその半面、大きな利益がえられるので、また新しい商品を仕込んでやってくる。
ここには生活必需品が、なんでも豊富にある。しかも魅力のある土地で、住民はものしずかで、平和な生活をこのんでいる。ここへはインドの奥地から多くの人が入墨をしてもらいにくる。ここにはその熟練家がたくさんいるのだ。
この地方にはチュンジュ〔江西省饒州?〕という町があり、大小さまざまの美しい陶器を産する。陶器ができるのはこの町だけで、ここから世界各地に輸出される。多量にできるので値もやすく、ヴェネチア銀貨一グロートで美しい皿が三枚も買える。
ザイトンの町には特別な方言が行なわれている。マンジ地方には、一種類の言語と一種類の文字とが通用するだけだが、地方によって方言に相違がある。ちょうどジェノア人、ミラノ人、フィレンツェ人、ナポリ人のそれぞれに方言の差があるようなもので、ことなった方言はつかっているが、相手にはわかる。
大ハーンはチョンカ地方から、キンサイ地方からと同様に、多くの租税と収入をえている。
以上でマンジ九省のうち、揚州、キンサイ、チョンカの三省についてのべおわった。他の六省についても話すべきことはあるが、あまり話が長くなるので、ここでとどめておこう。
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第五章 日本、南海諸島、南インド、インド洋の沿岸及び諸島
1 マンジの商船とインド洋で使用される船
これからインドのいろいろのことと、めずらしいこととを述べよう。
まず第一にインド洋を航海する商船についてのべよう。これらの船はもみの木でつくられ、甲坂は一つだが、船室は五、六十あって、商人はおのおの一室を占有して、気ままにふるまえるようになっている。舵は一つだが、マストは四本あり、たてたりたおしたりできる補助マストの二本あるものもある。
大きな船になると、厚板をはめこんだ仕切りまたは隔壁が内部に十三もあるが、これは岩に衝突したり、腹のへった鯨がとびついたりして、船内に浸水するのにそなえたものである。よくあることなのだが、夜間、船が航行しているとき、後方にさざ波をたてると、鯨はその泡を見てなにか食物がうかんでいるのかと思って突進し、船のどこかに穴をあけるのだ。こんなときには浸水した水は、かねて用意の、あいた船底に流しこみ、乗組員は損傷箇所をたしかめ、荷物を別なところへうつしかえる。仕切りが上手にできているので、水は別の船倉には浸入しない。そして漏水をとめ、荷物をもとへもどす。
とめ金は全部良質の鉄釘をもちい、舷側は板が二重になっており、板と板との間には充填物がつめてある。船板には瀝青はぬらないが、これは瀝青がないからで、別なものをもちいるが、この方がよいとのことだ。石灰と細くきった大麻に、ある樹脂をまぜ、臼でつく。軟膏のようになるが、膠《にかわ》のように粘着力があり、これを船にぬるのだ。
大きな船には二、三百人の乗組員がおり、非常に大きいから、一艘で五、六千俵の胡椒をはこべるし、しかも今の船は昔のより小型になっているのだ。航行中に風がなくなると、長|櫂《かい》をつかうが、これは一本に四人の水夫が必要である。大きな船は数隻の伝馬船をのせているが、伝馬船もなかなか大きく、胡椒を千俵つむことができ、五、六十人、ときには百人の水夫がのりこめる。これはオールでこぐもので、本船が長櫂でこいでいるときには、伝馬船が曳漕《えいそう》するが、本船が帆走しているときは、帆をあげて曳くこともある。風が船尾にまともにふきつけるときには、本船の帆にさえぎられて、風が伝馬船の帆にあたらないので、こうはしない。数隻の伝馬船のうち、一つはとくに大きい。本船の雑用、すなわちいかりを投じたり、魚をとったり、荷物をはこんだりするために、小船が別に十隻ばかりつみこまれている。本船航行中は、小船は舷側につり下げておく。伝馬船にも小船が付属している。
こういう船が一年間航海して、修理の必要が生ずると、船板の上にさらに船板をうちつけ、つめものをし、一年ごとにこれをくりかえす。そして船板が六枚になるまでくりかえし、六枚になると沿岸航海用に回し、それでも使えなくなるとはじめて廃棄する。
次にインドの興味ある話にはいりたいが、まず東方大海中にある島々についてといておこう。この話はチパング〔日本〕から姶まる。
2 チパング島
チパングは東海にある大きな島で、大陸から二千四百キロの距離にある。住民は色が白く、文化的で、物資にめぐまれている。偶像を崇拝し、どこにも属せす、独立している。黄金は無尽蔵にあるが、国王は輸出を禁じている。しかも大陸から非常に遠いので、商人もこの国をあまりおとずれず、そのため黄金が想像できぬほど豊富なのだ。
この島の支配者の豪華な宮殿についてのべよう。ヨーロッパの教会堂の屋根が鉛でふかれているように、宮殿の屋根はすべて黄金でふかれており、その価格はとても評価できない。宮殿内の道路や部屋の床は、板石のように、四センチの厚さの純金の板をしきつめている。窓さえ黄金でできているのだから、この宮殿の豪華さは、まったく想像の範囲をこえているのだ。
バラ色の真珠も多量に産する。美しく、大きく、円く、白真珠と同様、高価なものである。この国では死体は土葬にされることもあるし、火葬にされることもある。土葬にするときは真珠を口の中にいれる習慣になっている。その他の宝石も多い。
現在の大ハーンのフビライは、この島がきわめて富裕なのを聞いて、占領する計画をたてた。そのため大艦隊と歩兵・騎兵の大軍をさずけて、アラハンと范文虎という二人の貴族を派遣した。二人とも才幹のある有能な将軍で、軍をひきいてザイトンおよびキンサイの港を出帆し、海にでた。チパングの島について上陸し、平坦な地方と村を占領したが、都市や城砦は占領することはできなかった。そうしているうちに、次にのべるような災難がふりかかってきた。
二人の貴族は仲がわるく、たがいに助けあわなかった。たまたま北風が猛烈にはげしく吹いて、この島の海岸地方に大損害をあたえた。そこには港がなく、大ハーンの艦隊は、これをさけることができなかった。これを見た司令官は、艦隊がそのままでいては危険だと考え、一兵も残さず乗船させ、島からはなれ、海上にでた。六キロも航行しないうちに、風はさらにはげしくなってきた。大艦隊は密集していたために、たがいに衝突し、多くの船が難破した。分散して航行していた船だけが難をまぬがれた。ちょうど近くに小島があった。はげしい風でこの島の岸辺にうちつけられ、難破した船もあった。艦隊の大部分は難破し、軍の大部分が遭難し、この小島にたどりついた約三万人だけが助かった。
嵐がおさまると、二人の貴族は、海上にあって難破をまぬがれた船をひきいて、この島により、身分のあるものだけを収容した。そのほかの兵士までは収容しきれなかった。やがて船は島をはなれ、故国に向かっていった。
この島は無人島で、のこされた兵士以外には生物はいなかった。約三万の兵士には死ぬ以外に方法がなかった。島からにげだす方法はなかったからである。彼らは悲嘆と絶望にくれ、どうしたらよいかわからなかった。
本島の王は遠征軍の一部が小島に上陸し、他の一部は四散して逃げたときいて、大いによろこび、海が静かになると、国中の船をあつめ、これをひきいて小島に向かい、軍隊を上陸させた。彼らが到着し、船に見張りのものもおかず上陸したのを見たタタール軍は、賢明にも逃走するように見せかけた。島の中央は非常に高くなっていたが、敵が一方の道から急いでおいかけてくるので、彼らは他の道を迂回して、敵軍の船のあるところにつき、これにのりこんだ。何の抵抗にもあわなかったので、これはたやすいことだった。
船にのりこんだ彼らはただちに本島に向かい、その国の王の旗をひるがえして上陸し、首都にむかった小首都の守備隊は、自分たちの王の旗が前進してくるのを見て、味方が帰ってきたのだと思い、少しも疑わずに首都にはいるのをゆるした。市内にはいったタタール人は全部の堡塁を占領し、接待させるために美しい婦人だけのこして、住民全部をおいだしてしまった。
本島の王とその軍とは艦隊も首都も敵の手におちたときいて、非常に落胆したが、のりにげされずにすんだ船だけは本島にもちかえった。王はただちに全軍をあつめ、首都を攻め、誰も出入りできないように、厳重に包囲してしまった。タタール軍は六ヶ月間もちこたえ、その間、大ハーンに手紙を送ろうと、あらゆる方法を試みたが、すべて水泡にきした。何のしらせも送れなかつた。もはやもちこたえられないと知ったとき、生命だけは助けられ、この島から逃げださない、という条件で降伏した。これは一二七九年におこったことである。大ハーンはにげかえった将軍の首をはねよと命じた。しかもその後、小島にのこされたもう一人の司令官を死刑にせよと命じた。軍人としてあるまじき行為をしたから、というのである。
いい忘れたが、次のような驚くべきこともおこった。
はじめ大ハーンの軍が本島に上陸し、都市を占領したが、そのとき彼らは一つの塔を強襲し、そこにたてこもった人々が降伏をがえんじなかったので、八人をのこして、全部の首をはねた。あとにのこった八人は、どんなことをしても傷さえあたえることができなかったのだ。これは外からは全く見えないように、上手に腕の皮膚と肉との間にうめこんだ、ある石の力なのである。この石の魔力によって、これを体内にもっているものは、刀でいくら切っても傷がつかない。これを知った将軍は、棒でなぐれと命じた。彼らが殺されると、その石をえぐりだしたが、非常な貴重品として取りあつかわれた。
チパング島の住民はマンジやカタイの住民と同じ偶像崇拝教の信徒である。崇拝している偶像も同じだが、これら偶像のうちのあるものは、牛の頭をしているものもあるし、豚、犬、羊などの頭をしたのもある。頭は四つ、またはそれ以上あるものもあり、それが肩の上にのっかっているものもある。手も四本のものとか、十本のものとか、千本のものさえある。千本の手をもっている方が、よけいに信仰されている。キリスト教徒が、偶像はどうしてこんなにいろいろの姿をしているのかと尋ねると、「私たちより前の人々がこのように伝えてきたので、そのままで後代に伝えるのです」と答える。こうして永久に伝えてゆくつもりなのだ。偶像の前で行なわれる儀式たるや、実に悪魔的で、とても紹介することはできない。
チパングでは(ほかのインド諸島でも同様だが)敵を捕虜にしたとき、身代金が支払われないと、自宅に親戚や知人をよびあつめ、捕虜を殺して肉をたべてしまう。世界にこれほどうまい肉はないといっている。チパング関係のことはこれくらいにしておこう。
これらの島がある海を「チンの海」とよぶが、これは「マンジの海」という意味で、チンとはマンジのことである。この辺をしばしば訪れ、十分経験をつんだ水先案内や船員たちのいうところによると、チンの海の東部には七千四百五十九の島があり、船がしばしばそこを訪れるということだ。これらの島はどれも沈香などの高価な香木や、種々の香料を産する。たとえば黒胡椒を大量に産するほかに、雪のように白い胡椒もある。たしかにこれらの諸島では、黄金や宝石、種々の香料などの資源がゆたかなのだが、大陸からあまりにはなれすぎているので、運ぶことができないのだ。したがってザイトンやキンサイの船が危険をおかしても、とにかくそこへ行きさえすれは、大した利益をあげられる。この航海は普通、冬にでかけ、夏に帰ってくるので、一年かかる。風の方向が二つしかなく、一つは冬に大陸から諸島にふき、一つは夏に諸島から大陸にふくからである。これらの地域はインドからは非常に遠く、航海もながくかかる。この海はチンの海とよばれているが、やはり大海の一部である。
これらの諸島は、航路からはずれた非常に遠いところにあって、マルコ・ポーロも行かなかったのだから、話はこれくらいにしておこう。話をザイトンにもどそう。
3 チャンパの国
ザイトンの港を出帆して、西南西の方向へ二千四百キロ航行すると、チャンパ〔インドシナの一部〕という富裕な王国につく。住民は偶像崇拝教徒で、毎年大ハーンに象だけを貢物として献上する。どうしてそうなったかをのべよう。
一二七八年、大ハーンはサガツという将軍に歩兵、騎兵の大軍をさずけて、チャンパ征服に派遣し、サガツは大規模な戦争を開始した。チャンパのアッカンバルという王は老齢で、対抗する力がなく、敵軍が国内を荒すのをみて、非常に心をいためた。彼は使節をハーンのもとに送り、次のように伝えた。「大ハーンの藩王としてチャンパの支配者たる王よりうやうやしく申しあげます。私は長らく平和のうちに国土を統治するようつとめてきました。今私は陛下の臣下となり、毎年お望みの数の象を貢物として送りたいと考えております。何とぞ将軍が私の国土を荒すのをやめ、国外に退去するよう、御命令あらんことをお願い申しあげます。今後私の国は陛下のものであり、私も陛下のために、この国土を維持いたします」
この言葉をきいて大ハーンは大いに同情し、将軍にチャンパから全軍を撤退させ、他の地方を征服するよう命じた。こうして国王は大ハーンの臣下となり、国内でもっとも大きく美しい象が二十頭あて、毎年貢物として送られることになったのだ。
この国の婦人は王に謁見してからでないと、結婚をゆるされない。謁見のとき、王の気にいると妻にされてしまう。気にいらないと、王は資金をあたえ、結婚できるようにしてやる。一二八五年、マルコ・ポーロはこの国に滞在していたが、当時、王は男女あわせて三百二十六人も子供をもつていた。そのうち少なくとも百五十人は優秀な武人であった。国内には武人が多い。沈香も多量に産し、黒檀の大森林もあり、これで将棋の駒やペン入れをつくる。
4 ジャヴァ島
チャンパから東と南東の間の方向へ二千四百キロ航行すると、ジャヴァという大きな島につく。この辺の事情に精通している船乗りの話によると、この島は世界一大きく、周囲四千八百キロあるという。大王がいて、どこにも貢物を送っていない。黒胡椒、にくずく、甘松《かんしょう》香、生姜、畢澄茄《ひっちょうか》、丁子などの香料を産し、物資が豊富である。
この島には船も多くくるが、商人も多くおとずれ、高価な品物を売買し、多くの利益をえている。全くこの島の富はすばらしいので、話しきれない。非常に距離が遠く、遠征軍をおくるには大した費用がかかるので、さすがの大ハーンも領有することができなかった。ザイトンやマンジの商人は毎年この島から巨額の利益をえている。
5 マライ半島地方
チャンパから南と南東の間の方向へ千百キロ航行すると、ソンドゥル、コンドゥルという二つの島がある。ソンドゥル島の先へ八百キロ行くとロカク〔今のタイ国?〕という国につく。大陸にある、なかなか富裕な国で、王が支配している。住民は偶像崇拝教徒で、固有の言葉をもち、どこにも貢物をおさめていない。位置が位置だけに、外国の侵略をうけないのだが、もし攻撃をうける地にあったら、大ハーンは必ず征服していたろう。
われわれが染料の原料木として使っているブラジル樹がたくさん生えており、黄金、象、鳥獣も多い。この辺の地方で小額貨幣として用いられている子安貝も、この国にたくさん集められている。
ロカタを出帆し、南へ八百キロ行くと、非常に未開なペンタム島〔今のビンタン島〕につく。生えている樹は全部香木である。ここから二つの島の間を九十六キロすすむ。この間、水深わずか四メートルなので、大きな船は舵をとりさっておかねばならない。さらに五十キロ行くと、マライユル王国のある島につく。一人の王がおり、固有の言葉が話されている。町は上品で、商取引が盛んである。種々の香料や日用品が、何でもある。
6 小ジャヴァ島
ペンタムから百六十キロ行くと小ジャヴァ島〔今のスマトラ島〕につく。小ジャヴァとはいうがそんな小さな島ではなく、周囲三千キロ以上もある。島内には国が八つもあり、それぞれに王がいる。住民はいずれも偶像を崇拝しているが、それぞれ別の言葉を使っている。資源は豊富で、各種の香料、染料になる蘇方樹、その他の薬種があるが、ヨーロッパには輸入されていない。
さて、これから八つの王国についてのべたいと思うが、その前にのべておくべきことがある。それはこの島があまりに南方に位置しているので、北極星がまったく見えないということである。
第一はフェルレク王国で、ここにはイスラム教徒の商人が頻繁におとずれるので、住民はイスラム教に改宗している。といっても、それは町の住民だけで、山岳地帯の住民は野獣のような生活をし、人間の肉でも、不潔な肉でも、何でもくう。また朝、目をさまして最初に見たものを一日中崇拝するので、いろんなものを崇拝する。
第二のバスマ王国〔北海岸のパセム〕はフェルレク王国の隣りの独立国で、住民は固有の言葉をもち、法律も宗教もなく、まったく野獣のように生活している。大ハーンの臣下だと自称しているが貢物はおさめてない。遠くて、大ハーンの官吏もそこへ行けないのだ。実はこの島の住民はすべて大ハーンの臣下だと自称し、時には珍奇なものを贈ることもある。この地方には野生の象やすばらしく大きい犀《さい》がいる。この犀は毛は水牛に似、脚は象のようで黒くてすこぶる太い角が一本、額の中央にはえている。しかし角で危害を加えることはなく、危険なのはその舌だ。長くこわいとげで全面がおおわれ、おこると相手を膝でおさえ、この舌でこそげる。頭は猪に似ていて、いつも地面に近くさげている。ぬかるみの中にすむのがすきだ。全くみにくい動物で、ヨーロッパで乙女に捕えられるという伝鋭のある一角獣とは少しも似ていない。この島には猿も多いが、その種類も多い。真黒なゴシャウク鷹もいる。非常に大型で鷹狩にはもってこいである。
インドからもってきたといって、侏儒《こびと》がよくヨーロッパにもってこられるが、あれはみんなデタラメだ。あの侏儒はこの島で次のようにして作られるのだ。ここには非常に小さく、顔がよく人間に似た猿がいる。そのあごひげとか胸毛だけのこして、全身の毛をそりおとし、乾燥し、人間らしく見えるように彩色し、それを勿体をつけて木箱につめ、貿易商にうる。まったく詐欺だ、世界のどこにも、こんな小さな侏儒はいないのだ。
第三はサマラ王国〔パセムに近いアムダラ〕で、マルコ・ポーロは天候の加減で、この国に五ヶ月も滞在した。風向きが逆だったからだ。ここからは北極星も北斗七星も見えない。住民は偶像を崇拝し、強力な国王が支配し、大ハーンの臣下だといっている。五ヶ月間の滞在中、マルコ・ポーロは二千人の仲間とともに上陸していたが、宿営地をかこんで、陸側に深い濠をほり、その両端は海に達するようにした。この辺には木材が豊富なので、内部に木柵つきの堡塁をつくった。食人種の害を免れるためである。島の人々も彼の仲間を信用し、食糧その他の必需品を供給してくれた。この辺は魚類が豊富で、味もよい。小麦はなく、住民は米を常食にしている。
この辺の飲物はある種の樹からとるもので、その樹の枝を切り、切口の下に大きな容器をうけておく。したたった樹液は一昼夜で容器に一ぱいになる。この酒はなかなかよいもので、白と赤の両種がある。すばらしい薬効があり、水腫、脾臓の病気などに特効がある。樹は小さな棗椰子に似ている。枝を切っても樹液がでなくなると、根もとに水をかける。すると間もなく再び樹液が出るようになる。インド胡桃〔椰子のこと〕も多い。実《み》は人の頭ほどの大きさで、新鮮なものは美味で、あまく、香りもよくミルクのように白い。新鮮な水のような液体でみたされているが、酒などの飲物よりはるかに美味で、デリケートな味がする。
サマラ王国の隣りは、ダグロイアン王国〔今のペジル付近〕である。住民は固有の言葉をもち、未開だが、大ハーンの属国だと称している。彼らには次のような悪習がある。
病人がでると、魔法使いをよんできて、回復するかどうかをたずね、なおるといわれると、よくなるまで病人を一人でおいておく。なおらぬと予言されると、病人を殺すための職人をよぶ。この職人は病人の口の上にたくさんの布をおいて、窒息させてしまう。病人が死ぬと、その肉を料理し、親戚をあつめていっしょにたべてしまう。少しの髄ものこらぬように、骨もしゃぶってしまう。たべられるところが残っていると、岨《うじ》がわき、やがて岨は死ぬだろうが、岨の死は死者に重い罰を課することになる、と信じているからだ。たべおわると、骨をあつめ、きれいな箱につめ、どんな野獣にもあらされないような山中の穴の中にうめる。さらに彼らは、捕虜にした他国人が身代金をはらわないと、ただちに殺してたべてしまう。全くあきれた習慣である。
ダグロイアンの隣りはランブリ王国〔スマトラ西北端〕で、住民は偶像を崇拝し、大ハーンの臣下と自称している。樟脳などの薬種を豊富に産する。ブラジル樹も多く、住民はその種子をまき、小さな芽が出ると移植し、三年間そのままにしておき、その後、根こそぎにして染料をつくる。マルコ・ポーロも種子をもちかえり、ヴェネチアでまいたが、気候が寒すぎたためか、一つも発芽しなかった。この国内には尾のある人間がいる。尾の長さは二十センチで、犬の尾に似ているが、毛ははえてない。山中にすみ、野蛮人の一種である。犀も多いし、狩猟に適する鳥獣も多い。
第六のファンスル王国〔今のバロス地方〕の住民も偶像を崇拝し、大ハーンの臣下と自称している。樟脳の一種で、すこぶる良質のものを産し、黄金と同じ重量で売られる。小麦はとれず、住民の常食は米、ミルク、肉で、前述の樹からとった酒をのんでいる。ここには優秀な穀粉のとれる樹がある〔サゴ椰子〕。非常にたけの高い樹だが、樹皮はうすく、内部にぎっしり穀粉がつまっている。マルコ・ポーロもその眼で見たのだが、彼も仲間とともにこれでパンをつくり、いいパンができた、と語っていた。
以上、この島にある八王国のうち、ヨーロッパに近い方の六国についてのべた。向こう側の二国にはマルコ・ポーロは行かなかったので、のべないことにする。
小ジャヴァのランブリをたって、二百四十キロで二つの島につく。一つをネクヴェランという。ここには王も酋長もなく、住民は野獣のような生活をしている。男女とも裸体だ。偶像を崇拝している。高価な樹木、たとえは赤いサンダル樹、インド胡桃、丁子、ブラジル樹や、諸種の香料を産する。
アンガマン島〔アンダマン島〕はなかなか大きい島で、国王はおらず、住民は偶像を崇拝し、その生活は野獣以上ではない。頭も目も歯も犬にそっくりだ。ことに顔ときたら、マスチフ犬そっくりの大きさだ。香料を多く産するが、住民の性質はもっとも残忍で、他国人を見つけると、すぐ捕えてくってしまう。常食は肉、米、ミルクで、ヨーロッパとはちがった果物が多い。
7 セイラン島
アンガマン島を出帆して、西微南方へ千六百キロ行くとセイラン島〔セイロン島〕へつく。このくらいの大きさの島としては、世界でもっともよい島だ。周囲三千八百キロあるが、昔はもっと大きく、昔の船乗りの地図には、五千七百キロもあった、と記されている。小さくなったのは、北風がきわめて強く、海が島の大部分を沈めてしまったからだ。北風が直接ふきつける方面では、島は非常に低く平坦で、船でこの島へ近づいても、到着するまで土地が見えないくらいである。
センデメインという王がおり、どこにも属していない。住民は偶像を崇拝し、まったく裸体でくらしているが、腰にだけ布をまいている。小麦はなく、米と胡麻があり、胡麻から油をしぼる。常食には肉、ミルクも使われ、飲物は前述の樹液でつくった酒である。世界最良のブラジル樹もある。住民は兵士には適しない。気力もなく、臆病なので、必要なときには他の国からイスラム教徒をやとう。
世界でも最も高価な産物の話をしよう。この島にはルビーが出るが、最も良質だ。さらにサファイヤや黄玉、紫水晶などの高価な宝石もある。島の王は、世界でもっとも美しく大きいルビーを所有している。長さ二十センチ、厚さは人の腕ほどある。光輝燦然として全く疵がなく、火のようにあかい。値段は金銭では評価できないとのことだ。大ハーンはわざわざ使者をつかわし、このルビーをゆずってくれれは、代償として一都市をあたえてもよいし、のぞみのものでもやる、といったが、王は、どうしても売らない、祖先伝来の品だから、といってことわったとのことである。
島内には高い山があるが、非常にけわしくて誰ものぼれず、とりつけられた大きな鉄の鎖にすがって、頂上に達する。登った人の話によると、頂上には人類の祖先アダムの墓があるというが、そういっているのはイスラム教徒で、偶像崇拝教徒は、サガモニ・ボルハン〔釈迦〕の墓だといっている。サガモニは偉大な聖者で、偶像がつくられたのは、彼のものが最初だ、とその教徒は主張している。
伝説によると、彼は富裕な王の息子であったが、浄らかな性質で、俗世間のことを習おうともしなかったし、王になろうとも思わなかった。父王はこれをきいて嘆き悲しみ、まず彼に王冠をいただかせようとしたが、息子はうけいれなかった。一人息子だったので、父王の憂いも一しおであった。熟考の末、大宮殿をたてて王子をそこにうつし、美しい娘を数多く彼にかしずかせ、昼も夜もその側で歌ったり踊ったりして、王子の心を楽しませ、俗的な楽しみに夢中にならせようとした。しかしすべて無駄で、王子はこれらの娘を見向きもしなかった。彼は宮殿から一歩もでず、そのため死者を見たこともなかったし、不健康な人にであったこともなかった。ある日、王子は遠乗りにでたが、路傍に死者を見た。見たことがなかったので、そばにいた人に、あれは何だときき、それが死んだ人であることを知った。誰でも死ぬのだ、と知った王子はもはや一言もいわず、うち沈んで馬を走らせつづけた。しばらくして今度は、歯もなく、よぼよぼで、一歩もあるけなくなった老人にであった。王子の質問に対し、おつきの人は「年をとったので、あるくこともできなくなり、歯もぬけてしまったのです」と答えた。死者や老人というものについて知った王子は、まっすぐ宮殿にひきかえし、もうこんな、いやな世の中にいるのはやめよう、不死の人、自分に生をあたえた人をさがしに行こう、と決心した。
そこである晩、宮殿をぬけだし、道もない高山におもむき、禁欲生活をし、苦しい、きよらかな生活をおくった。実際彼は、わが主イエス・キリストにも似た、きよらかな生活をおくった人物であった。死後にいたって、人々はようやく彼を発見し、遺骸を父王のもとにはこんだ。可愛がっていた王子の遺骸を目の前にみた王は、悲しみのあまり、気も狂わんばかりであった。王は金や宝石で王子の像をつくらせ、人民にこれを礼拝するように命じた。人民は王子を神だと断言し、今でもそういっている。
彼は八十四回死んだともつたえられている。すなわち最初は人間として死に、牛として生まれ、続いて牛として死んで、馬に生まれかわった。こうして八十四回死んだが、いつも動物に生まれかわった。しかし八十四回目に死んだとき、神になったという。人民はサガモニをすべての神のうち、最も偉大だといっている。なお前述した彼の像こそは、偶像崇拝教に偶像の生まれた最初で、以後、多くの偶像がつくられるようになった、とのことで、これらはすべてセイラン島内のできごとであった。
偶像崇拝教徒は信心のために、非常に遠いところからここへ巡礼にくる。この山上にある記念物は今のべた王子のもので、そこにのこる歯や頭髪、皿などはサガモニ・ボルハン、またはサガモニ仏という名の、あの王子の身についていたものだ、と彼らは主張している。同じようにイスラム教徒もそこへ行くが、彼らは、あれはアダムの墓で、歯や頭髪、皿は彼の遺品だ、と主張している。誰のものか、それは「神のみぞ知る」だが、我々の教会の記録では、アダムの墓がこのような場所にあるはずはない。
フビライ・ハーンはアダムの墓や彼の遺品の話をきいて、少しでもそれを所有したいと考え、一二八四年、大使節団を派遣した。セイラン島の王は使節の要求通り、大きな奥歯二個と頭髪若干、食事に使っていたという美しい緑色斑岩でつくった皿をあたえ、使節はよろこんで帰国した。大ハーンも喜んで、アダムの遺品のはいっている箱を出迎えるよう、すべての聖職者に命じた。
実際、ハンバリクの全市民が出迎えに行った。聖職者たちは遺品をうけとり、大ハーンのもとにはこんだ。聖職者たちは古い記録の中で、この皿に一人前の食物をのせると、五人が十分たべられるくらいになる奇蹟をあらわす、と書いてあるのを発見したが、大ハーンは自分でやってみて、それは事実だと断言している。
8 マアバル地方
セイラン島を出帆して、約百キロ西へ行くと、マアバルという大きな地方〔インド半島東南海岸地方〕につく。大インドともよばれ、大陸にあって、インドでも最もよい地方である。五人の王がいて支配しているが、兄弟である。この地方の西側を支配しているのはソンデル・バンディ・ダヴァルという王で、この王国では実に美しい大真珠を産する。それをとる方法を話そう。
セイラン島と大陸との間は湾になっているが、湾内の水深はどこも十ないし二十|尋《ひろ》以上はなく、あるところは二尋くらいである。真珠のとれるのは四月初めから五月半ばまでで、真珠とりは大小さまざまの船でベッテラルというところにまず行き、ここから百キロばかりの湾内にこぎだし、いかりをおろし、小さなボートにのりうつる。多くの商人はいくつかの団体をつくり、各団体は四月から五月までの契約で、多くの真珠とりを雇いいれる。収入のうち一割は現金として、国王におさめる。この湾には巨大な魚がすんでいて、しばしば真珠とりに害をあたえる。これをふせぐために、商人はアブライアマン〔ブラフマン即ちバラモン〕という魔法使いをいっしょにつれて行くが、この魔法使いは術をつかって魚を酔ったようにし、害を加えられなくする。真珠の採取は昼間だけなので、夕方になると魔法をとく、これは夜間の密漁をふせぐことにもなるのだ。この魔法使いにも謝礼として収入の二十分の一をあたえる。真珠とりはボートから海にとびこみ、四尋から十尋までの海底に下り、真珠を含んでいる貝をさがし、これを腰にさげた網の袋にいれ、海面に浮かんで呼吸をし、またもぐる。これを一日中くりかえす。この貝の形は牡蠣《かき》に似ており、中の肉の間に大小さまざまの真珠がはさまっている。
多くの真珠はこうしてえられ、ここから世界中に売られて行く。この国の王は真珠採取事業にかけた税で、莫大な収入をえている。五月も半ばをすぎると、真珠貝は姿をかくし、五百キロはなれた地点に現われる。しかしそれは九月と、十月の前半とだけである。
マアバル地方には裁断したり縫ったりする裁縫師がいない。みんな裸でくらしているからだ。礼儀上やむをえない部分にだけ、布のきれっぱしをつけているだけで、その点は男も女も、貧乏人も金持も、さらに国王も同じことだ。
国王は腰に美しい布をまとい、頸にはルビー、サファイヤ、エメラルドなど、種々の宝石でつくった頸飾りをさげているだけで(もっとも、この頸飾りだけで大した値うちだが)、あとは他の連中と同じく、裸ででかける。頸飾りのほかに、頭から胸へ、絹糸に通した百四個の大粒の真珠と、大変な値段になるルビーをぶらさげている。真珠やルビーを百四個さげる理由は毎日朝晩、偶像に百四回祈祷しなけれはならないからで、これが宗教のおきてであり、習慣となっている。歴代の国王が昔からそうしており、真珠とルビーの環が伝えられるのも、そのようにせよとの意味をもつものである。毎日あげる祈祷はパカウタ、パカウタ、パカウタと百四回くり返すものだ。
国王は高価な真珠をちりばめた黄金の腕環を三個腕につけ、同じようなものを足にもはめ、足指にもつけている。したがって国王の身につけた黄金と真珠、宝石だけで、一都市が買えるくらいの値段になる。王はこんな装飾品はたくさん貯えているし、国内でもまだ発見されるから、少しも不思議ではない。この国では半サッギオ以上の真珠は輸出禁止である。この禁令は王がそれらのものを手もとにおきたくてだされたもので、彼の所有量はとても数えきれない。なお高価な真珠や宝石の所有者は、それを王のもとに持参せよ、原価の二倍で買い上げる、との布告が年数回、国内にだされる。誰でもよろこんで王に売りはらうので、王はすばらしいものを全部手にいれてしまう。
国王は妻を五百人以上もっている。美人がいるのをきくと、早速妻にしてしまうからである。これについては香ばしくない話もある。王の兄弟が美しい妻をもっていたが、王は力ずくで自分の妻にしてしまった。兄弟は思慮のある人物だったので、沈黙し、少しもさわぎたてなかった。王には多くの子供がいる。
王には多くの近侍がいる。馬にのるときも王といっしょで、いつもそばにおり、国内で大変な権力をもち、「王の忠実な臣下」とよばれている。しかし王が死んで火葬にするときには、彼らも火中にとびこみ、遺骸をとりまいて立ち、生きながら灰になってしまう。この世で側近に奉仕していたのだから、あの世でもそうすべきだ、と考えているからだ。
王が死んで、子があとをついでも、新王は決して父の宝石に手をふれない。父がこれほどの富を集めたのだから、われわれもそれくらいの富を集めなけれはならない、というのである。こうしてこの国にはすばらしい富がたくわえられるにいたった。
この国には馬を産しないので、これを買うために、国富の大部分がついやされている。キスやホルムズ、ドファル、ソエル、アデンなどの商人は軍馬その他の馬をあつめ、この国やその兄弟(同じく国王である)の領地へもってくる。ここでは一頭金百サッギオ、すなわち銀で百マルクにも売れ、しかも需要が多い。実はこの王もその兄弟も、毎年二千頭以上は買いたいのだ。二千頭買いこんでも、年末にはみんな死んでしまって、百頭くらいしか生きのこらないからである。これは管理がわるいからで、この地方の住民は馬の扱いかたを全く知らない。獣医さえここにはいない。馬商人は蹄鉄工をつれてくるどころか、彼らがここへくるのを邪魔している。毎年巨大な利益をもたらす商売を、少しでも妨げないように気をくばっているのだ。なお、馬は船にのせ、海路ではこばれる。
この国には次のような奇習がある。罪をおかして死刑を宣告されたものは必ず、ある僧侶のために自分を犠牲にしたい、という。政府もそれを許す。親戚や友人は彼を車にのせ、十二本のナイフをあたえ、町中を行進させる。みちみち大声で「この勇敢な人がこれこれの偶像をたっとぶ熱意から、自分を殺すところだ」と叫ぶ。刑場にくると、彼はナイフを取り上げ、腕につきさして「私はこれこれの神のために身を殺すのだ」と叫ぶ。続いて他のナイフを他の腕につきさし、第三のナイフで腰をつき、こうして完全に死ぬまで続ける。囚人がこときれると、親戚たちは勝ちほこったように遺骸を火葬にする。囚人の妻は夫の死体が火葬用の柴の上におかれると、同じくその火の中にとびこんで死んでしまう。このようなことをする婦人は、人々から大いに賞賛される。
住民は偶像を崇拝し、大部分のものは、すぐれた動物だからといって牛を崇拝する。どんなことがあっても牛肉はたべないし、牛は殺さない。ゴヴィ部族の人だけはよろこんで牛肉をくうが、自分では牛を殺さない。しかし病気などで死んだ牛は誰でもたべる。この国では牛の糞を住宅に一面に塗りたくる。すべての人は、老若をとわず、王まで、直接地面にすわる。土の上にすわるのは最もたっとぶべき方法で、人間は大地から生まれ、大地にかえらなければならないからである。だから大地をいかにあがめても、あがめきれるものではない、とのことである。
聖トーマスの墓はマアバル地方の一都市にあるが、ゴヴィ部族のものをこの墓の付近へおしいれる力は誰にもない。たとえ二十人、三十人のものがいっしょになって一人のゴヴィ族を、このキリストの使徒の墓所までつれていって、とどまらせようとしても、それは不可能だ。これは聖者の超自然力のなすところで、この聖者を殺したものこそ、ゴヴィ族のものだったからだ。その話はあとでしよう。
この国に小麦はできず、米ばかりである。また馬は繁殖しない。何度やってもだめなのだ。純血種の馬同士をかけあわせても、生まれるのは足のまがった、騎乗にたえない痩せ馬ばかりであった。住民が戦場にのぞむときは、槍と盾とだけをもって、裸でゆくが、まことに役にたたない兵隊である。鳥獣どころか、生あるものは決して殺そうとしない。肉をたべるときは、イスラム教など別な宗教を奉ずるものにたのんで屠殺してもらうのである。
男女ともに一日二回、水で全身を洗うことになっている。行なわないものは異端者と見なされる。食事には必ず右手だけをもちい、左手では決して食物にさわらない。清潔なことや繊細な世事には必ず右手をつかい、不潔なことや身体の不潔な部分をあらう場合などには左手をつかう。液体を口にするときは必ず特別な容器をもちい、各人が自分用のをもっていて、他人のを使わない。飲むときも、容器を口につけず、頭の上にあげて、口に流しこむ。容器をもってないと、酒などでもその手にそそぐから、手をコップにしてのまなけれはならない。
犯罪者には厳罰が科せられ、厳重な禁酒が行なわれている。酒のみと船乗りは証人になれないという規則までつくられている。船乗りなどは全くのならずもので、そのようなものの証言は役にたたないというのだ。そのくせ、好色的な行為は罪にならない。
債務については次のような習慣がある。債権者が何度請求しても、債務者が嘘の約束ばかりして、ひきのばしている場合には、もし債権者が債務者にであったときに、そのまわりに円を描くことができれは、債務者は要求を満足させるか、支払いのために抵当物をさしだすかしない限り、円からでられないことになっている。あえてこの円を突破したものは、正義と法律の違反者として死刑に処せられる。マルコ・ポーロもある日帰宅の途中、このような事件を目撃した。王はある外国商人から金をかりていた、何度要求されても、約束ばかりで、なかなか返さなかった。ある日、王は馬にのって市内を通行中、商人は王と乗馬の周囲に円をえがいてしまった。王はこれに気がつくと、馬をとどめ、商人が満足するまで、そこを動かなかった。見物していた人々は、正義のおきてにしたがったのだから、王こそもっとも正義の人だといって、非常に感嘆した。
気候はやたらにあつい。雨は六月から八月までの三ヶ月間しかふらない。大地を生きかえらせ、大地をひやすこの三ヶ月の雨がふらなかったら、旱魃《かんばつ》がひどくて、誰も生存できないであろう。
骨相学の大家がたくさんいて、人の性格や善悪を見わける。特定の鳥や獣にであうと、その意味を知ることもできる。そのような前兆の意味がわかるのだ。道をあるいているとき、クシャミの音をきいて、それがよい前兆と考えれば、そのまま行くし、そうでないと一寸立ち止まるか、向きをかえて帰ってしまう。また、子供が生まれると、生年月日、時刻、月齢まで記録しておく。どんな小さいことでもすべて星と関係があると考え、天文家のもとへ相談にゆくときの用意のためである。天文家は魔法にも、土占いその他の魔法の技にも通じている。
男子が十三歳になると、両親は家から出し、それ以上親のすねをかじらせない。二十ないし二十四グロートばかりの金をあたえ、それを資本に何か商売すれば、生きてゆけるはずだと考えている。子供はこちらで買ったものをあちらで売るというふうに、一日中走りまわり、真珠の採取期になると、海岸にでかけ、漁師から資本におうじて五つか六つ真珠を買いとり、暑さのために屋内にひきこもっている商人のもとへ行き、「この真珠はこれだけの値で買いました。適当と思う利益を見こんで買って下さい」という。商人はいくらか利益があがる値段で買いとる。こうしていろいろの品物をあきない、後にはすばらしい商人になる。そして毎日食料品をもって帰宅し、母に料理してもらってたべ、父からは一文の食費ももらわない。
この国だけでなく、インド全体を通じて、鳥も獣もわれわれの国にいるものとはちがう。例外は鶉《うずら》だけだ。この地方のこうもりは大鷹ほども大きい。また大鷹は烏のように真黒で、はるかに大きく、すばしこい。もう一つ奇妙なのは、煮た米や煮た肉、料理した飼料を馬にあたえていることで、馬が全部死んでしまう理由の一つはここにある。
男女の神々を祭った寺院があるが、ここには多くの若い女がささげられている。両親がその信仰する偶像にささげたもので、僧侶がその祭りをしたいと思うと、ささげられた娘はすべて集まり、歌ったり踊ったりする。彼女らはまた偶像に供える食物をはこぶ。供えものは偶像の前にしばらくおき、神が食事をおわるまでの間、歌ったり踊ったりして興をそえる。そのあと、供え物を下げ、みんなで楽しくたべる。このような祭りをするのは、僧侶の話によると、男神が女神に対して機嫌をわるくし、交渉をもとうともしないときだ。両者が不和になると世の中が悪くなり、神もわれわれに恩恵をあたえなくなる。そこで若い娘たちを集めて、男女の神の前で全く裸になって歌ったり踊ったりさせるのだという。人の話では、男神が女神といっしょに楽しまれることもしばしばあるという。
住民ははなはだ軽い籐《とう》製の寝台をもっているが、なかなか巧妙にできていて、中にはいってねるときには、紐をひくと、天井近くまでつりあげられ、一晩中、そのままでねる。かまれると非常にいたむフクログモや、蚤などの害虫からのがれ、さらに、この国の酷暑をさけて、通風をよくするためである。もっとも、こんなことができるのは貴族か金持だけで、他のものは街路でねている。
使徒聖トーマスの遺骸は、マアバル地方の人の少ない小さな町におかれている。そこは産物もゆたかでなく、不便なところなので、商人もあまり行かない。しかしキリスト教徒もイスラム教徒も大分参拝にゆく。イスラム教徒が行くのは、彼をイスラム教の大予言者と考えているからで、彼をアヴァリアンすなわち聖者とよんでいる。巡礼にでかけたキリスト教徒は、聖者が殺された場所から土をとってきて、三日熱や隔日熱の患者に少しのませる。すると神と聖トーマスの力ですぐになおる。その土の色は赤い。一二八八年におこったすばらしい奇蹟の話をしよう。
この年、ある貴族が大量の米を収穫し、それを全部しまうだけの倉庫がないので、聖トーマス教会所有の建物におさめ、そのまわりにまでつみ上げた。教会の管理にあたっていた人々は、米を家につめこまれて苦しみ、巡礼たちは宿舎をうしなってしまった。そこで異教徒の貴族にむかって、米をうつしてくれとたのんだが、貴族はおうじなかった。ある晩、聖者は三叉の鉾を手にして貴族の夢枕に立ち、これをのどにあてがい、「私の家をあけ渡せ。巡礼に宿舎をあたえよ。さもなけれは悲惨な死にざまをするぞ」といったので、貴族は殺されるかと思った。朝になると、貴族は米をはこびださせ、夢の中で聖トーマスがどんなことをしたかを公表した。キリスト教徒はこの奇蹟に大いによろこび、神と聖トーマスに感謝のいのりをささげた。そのほか、病人や不具者がなおったりするような奇蹟が、ここではしばしばおこっている。
聖トーマス教会の管理者はたくさんのインド胡桃〔椰子〕を栽培し、これで生活しており、一本につき、毎月、王の兄弟の一人に六グロートの税をおさめている。彼の話によると、この聖者の死んだときの有様はつぎのようである。ある日聖トーマスは隠遁所をでて、森の中で祈祷をしていた。そのまわりには孔雀がたくさん群がっていた。この地方には孔雀が多いのだ。前述のゴヴィ族の偶像崇拝教徒が弓をもって通りかかり、聖者の姿が見えないのを幸いに、矢を孔雀にはなったが、それは聖者の右脇腹にあたり、傷のため、彼は霊魂を神に託したのであった。彼はここにくる前、ヌビアにすみ、多くの人をキリストの信仰に改宗させた。
この地方の子供は生まれたときから相当黒いが、もっと黒くなるようにと、両親が毎週胡麻油を身体にぬるので、悪魔のように真黒だ。それどころか、彼らは神の像を黒く、悪魔の像を白くする習慣があり、聖者の像はすべて真黒にぬる。
住民は牛を崇拝し、これを聖なるものとしているので、戦争にでかけるときには、野牛の毛を乗馬の頸につけ、徒歩で行くときには盾にぶら下げる。この毛をもたずには戦場に出かけないので、とても高価になっている。これをもっていれは、戦場で傷つかないと信じているのだ。
9 ムトフィリ国
マアバルから北へ千六百キロ行くと、ムトフィリ王国〔今のゴルゴンダ国〕につく。むかしは王が支配していたが、約四十年前に死んだあとは、皇后が支配している。皇后は犬を愛していたため、新しい夫をむかえずにすごしているが、思慮のある人物で、四十年間、夫と同じくらい、いやもっと巧みに支配している。独立国で、住民は偶像を崇拝し、常食は肉、米、ミルクである。
ダイアモンドがとれるというのはこの王国のことである。国内に高い山岳地帯があるが、冬の雨期になると、すさまじい豪雨がふり、山からはごうごうと急流が流れくだる。雨もやみ、急流もきえうせると、住民は河床をさがし、多くはダイアモンドを発見する。夏にも山中でたくさん発見されるのだが、太陽の熱が非常に高いし、一滴の水もえられないので、ほとんど山へはいれないのだ。しかもこの山中には多くの害虫のほかに、大蛇がおびただしくいるが、これも温度が高いからである。この蛇の毒はきわめて強いので、絶大な危険を覚悟しなければ行けない。すでに数多くの人が毒蛇のために死んでいる。
さて山中には大きな深い谷があり、その底には誰も近づけない。そこでダイアモンドを取る人々は、なるべく脂肪の少ない肉をもってゆき、谷底へ投げこむ。この辺には白鷲がたくさんいて、山の中で獲物をあさり、蛇をたべているが、肉がなげこまれるのをみつけると、えたりとばかり舞いおりて、つかみあげ、岩の上にはこんでつつきはじめる。見はっていた人は、鷲が岩にとまるのをみつけると、ただちに大声をあげておいはらう。鷲のとびさったあとへかけつけると、のこされた肉には、谷底で一ぱいくっついたダイアモンドが見つかることになる。谷底には多くのダイアモンドがころがっているのだが、誰もそこへ下りてゆけないのだ。たとえ下りて行くことができても、おびただしくすんでいる毒蛇に、たちまちかみつかれてしまう。
ダイアモンドをとるにはまだ別の方法がある。この辺にたくさんある白鷲の巣にしのびよって、糞の中からたくさんのダイアモンドを見つけるのだ。それらは前述のように谷底になげこまれた肉とともにのみこまれたものである。また鷲をつかまえると、その胃の中にダイアモンドがある。
以上のように、ダイアモンドをとる方法は三つあるが、ムトフィリ以外の地方ではダイアモンドは産しない。多量に、しかも大きいのがあるのはここだけで、しかもヨーロッパにもってこれるのは、ほとんど屑みたいなものだ。真珠もそうだが、ダイアモンドなどの宝石のうちのすばらしいものは、大ハーンやこの地方の王公の手にはいってしまう。実際彼らは世界最大の宝物を所有しているのだ。
この国では最上等の硬麻布《バックラム》ができる。値段も最高だが、蜘蛛の巣の糸でおったように見えるくらいすばらしい。これをまとってよろこばない王や皇后はあるまい。世界最大の羊もいるし、日用品もふんだんにある。
10 ラル地方
聖トーマスの遺骸のあるところから西へ進むと、ラル地方〔今のマイソール地方〕につく。世界中にひろがるアブライアマン〔ブラフマン〕の故郷である。
これらのアブライアマンは、世界でもっともすぐれた商人で、信用はあつく、どんなことがあっても嘘をつかない。土地の風習を知らない外国商人が彼らに商品を委託すると、うけおって誠実に販売し、たのんだ人が利益をうるようにし、しかも適当と思われる以上の手数料は決して要求しない。肉もたべず、酒ものまず、清らかな生活をおくり、妻以外の婦人と関係することもない。他人のもち物には手をつけない彼らのおきてがそうするように命じているのだ。なお彼ちは自分の階級を示すしるしに、木綿の紐を肩からかけ、脇の下でむすび、胸と背で十文字になるようにする。
国王は富んでいて権力がつよく、宝石や大きな真珠の蒐集に熱心で、これらのアブライアマン商人をマアバル地方のソリ王国につかわし、それらをできるだけたくさん獲得させ、原価の二倍を支払っている。ソリはインイ第一の立派な地方で最良の真珠を産するところである。アブライアマンは偶像を崇拝し、前兆だとか吉兆だとかにひどく熱心である。一例をあげると一週間中、毎日この種のきざしをあらかじめ定めておく。何か買おうとすると、まず朝おきたとき、自分の影をはかって、自分の影の長さはこれくらいでなけれはならぬとしておくのだ。そして買うときに、影の長さが適当であると買うが、そうでないと決して買わず、きめておいた長さになるまでまつ。影の長さは日によって定まっており、商人も影の長さが適当な日でないと、商売をしない。毎日不吉な時間がきめられており、これをチョイアチとよぶ。たとえば月曜は十時半、火曜は九時、水曜は午後三時などである。
さらに店にはいって買物をしているとき、この地方にたくさんいるフクログモが壁をはっていると、それが吉だと考えられる方向からはっているなら、ただちに買ってしまうが、凶だと考えている方向からきたとなると、いくらすすめても買わない。家をでるとき、クシャミの音をききそれが吉兆だと考えれば、そのままでて行くが、反対だと、その場にすわりこみ、もう十分と思われるまで、そのままでいる。道をあるいていて、燕が吉の方角からとんでくると、あるき続けるが、逆だと引き帰してしまう。彼らの気まぐれときたら、まったく異教徒より始末がわるい。食事については節制をまもるため、彼らは長命である。身体のどこからも決して血を流さない。ある草をかんでいるが、そのため歯は丈夫だし、顔かたちはよくなるし、しかも健康によい。
チューギ〔ヨギのこと〕という別な階級のものがいるが、これこそ本当のアブライアマンで、偶像崇拝の宗教教団をつくっている。大変長生きで、いずれも百五十歳から二百歳までも生きている。少食だが、栄養分の高い米とミルクを主にたべている。彼らは奇妙な飲物をとる。硫黄と水銀をまぜあわせ、毎月二回のむ。これが長寿のもとで、子供のときからのみつづけているのだ、とのことである。
この教団のあるものは、もっとも厳格な禁欲生活をおくっている。真裸でいるのだ。そして牛を崇拝し、大部分は真鍮とか白臘、黄金でつくった牛を前額部にむすびつけている。また牛糞をもやして粉にし、これで軟膏をつくり、キリスト教徒が聖水をつけるように、うやうやしく身体中にぬりたくる。親しい人にあうと、相手の額の中央に、この粉を少しぬりつける。
食事には皿や鉢をもちいず、楽園の林檎の葉など、大きな葉を乾燥したものの上にのせてたべる。緑の薬には霊魂があり、それを用いるのは罪悪だといっている。彼らのおきてによって罪悪とされていることをおかすより、死んだ方がましなのだ。なぜ裸でいてはずかしくないのかとたずねると、「はだかで生まれたから、はだかでいるのだ。この世のものは何一つ身につけたくない。われわれは肉体的罪悪を意識しないから、はだかでいてもはずかしくない。人が手や顔をかくさないのと同じだ。お前たちは肉体の罪悪を意識しているから、はずかしいと思いもし、そしてはだかをかくすのだ」と答える。
彼らは決して動物を殺さない。蝿でも蚤でも虱でも、とにかく生き物は殺さない。いずれも霊魂をもっているから、殺すのは罪悪だ、というのだ。青い野菜もたべない。乾かしてからたべる。ねるときは直接地面の上にねて、下に何もしかないし、上にも何もかけない。それでも死なないで、長生きするのだから驚く。一年中毎日断食を行ない、水だけのむ。新参者がくると、しばらく勝手にさせておき、そのあと自分らの生活方法をならわせる。新参者をためすときには、偶像にささげられた娘の一人をよびだし、これに誘惑させて、自制心をためす。平気でいられれば手もとにおくが、一寸でも感情をうごかすと、教団からおいだす。まことに厳格で、悪魔みたいだ。彼らが死ぬと、死体は焼くが、そうしないと蛆がわき、その死体をたべ、ついには食物がなくなって蛆が死ぬ。蛆の死は死体の罪になるから、火葬にするのだ、とのことである。
11 カイルの町
カイル〔当時マドラス州ティンネヴェリー海岸にあった港〕は立派な都市で、五人兄弟の王のうちの最年長者アシャルの領地である。ホルムズ、キス、アデンその他のアラビア諸港から馬などをつんでくる船が寄港する。そのため周囲の地方からたくさんの人が集まってきて、市内で大きな取引きが行なわれている。王は財宝をおびただしく所有し、立派な宝石を身につけ、国内を公正に支配し、商人や外国人を優遇するので、彼らはよろこんで集まってくる。妻を三百人ももっているが、この辺では妻の多いほど、立派な人物とされているのだ。
マアバル地方を支配する五人の王の母親はまだ生きている。兄弟の間に紛争がおこり、あわや戦争というときには、これをふせぐために、母は両者の間にすわりこみ、それでも兄弟が戦おうとすると、ナイフを手にもち、「兄弟をはぐくんだ乳首をきり、兄弟を生んだ腹をさき、お前たちの目の前で死んでやるぞ」とおどかす。こうして何回となく戦争をやめさせた。しかし彼女が死んだら、必ず殺しあうことになろう。
インドではどこでもそうだが、ここの住民もテムブルの葉〔びんろう樹の葉〕を、いつも口中にふくんでいる。習慣でもあるし、気持がいいからでもあるが、かんでいると唾《つば》がでるので、始終唾をはいている。貴族や国王まで用いていて、その葉に樟脳など芳香のあるもの、あるいは生石灰をまぜている。この習慣は健康によいとのことだ。誰かに重大な侮辱をあたえようと思うと、出あったときに、口にふくんでいるこの葉か、その汁を顔にはきかける。相手はただちに国王の面前にでて、侮辱されたことを申しあげ、決闘の許可をもとめる。王は剣と盾とをあたえ、二人は多くの見物人にとりまかれて、どちらかが殺されるまで闘う。この場合、剣先でつくことは禁じられている。
12 コイルム王国とコマリ地方
マアバルから西南へ八百キロゆくと、コイルム王国〔コモリン岬西北海岸〕につく。住民は偶像崇拝教徒であるが、キリスト教徒とユダヤ人も少しはいる。独立国で、国王がおり、固有の言葉を話す。マンジやアラビア、レヴァント〔地中海東部海岸地方〕などから、商人が船に商品をつんでここにくるが、莫大な利益をえている。
品質のよいブラジル樹を多量に産し、生姜もできるし、胡椒もたくさんとれる。ここでは胡椒は畑に規則正しくうえられ、水もかけられる。実をとるのは五・六・七の三ヶ月である。インド藍《あい》も栽培される。ある種の草からとれるもので、まず草をあつめ、根をとり去り、大きな容器にいれて水をそそぎ、くさらせる。その浸出液をとりだして太陽にあてると、日ざしが強いので煮たち、ついには凝固して、われわれの見るようなものになる。これを各四オンスの塊にわけ、ヨーロッパに輸出する。この地方では太陽の日ざしがものすごく熱く、卵を川になげこむと、遠くへ流れ去らないうちに、太陽の熱だけでゆでられてしまう。
この辺の動物は他の地方とは大分ちがう。たとえば全身まっ黒なライオンがいる。鸚鵡《おうむ》の種類も多く、純白で嘴と脚だけ赤いのや、全身赤いのや、青いのや、緑色のさえもいるし、きわめて小型のもいる。孔雀もヨーロッパのより大型で、種類もちがい、きわめて美しい。要するに何でもヨーロッパのものよりきれいで優秀なのだ。果物でも同じことだが、この相違は、気候がきわめて暑いというところからきている。
穀類は米だけだ。住民のもちいる酒は椰子からとれる砂糖でつくったもので、早く酔いがまわる。生活必需品は何でも豊富で、安い。すぐれた天文家と医師がいる。男女の皮膚の色は黒く、腰のまわりに美しい布をまとっているが、他の部分ははだかである。男女関係は乱れていて、いとこでも結婚するし、兄弟の死後は、その妻を自分の嫁にする。インドではどこでもそうなのだ。
コマリ〔コモリン岬〕地方もインドに属し、小ジャヴァでは見えなかった北極星がようやく見える。四十キロばかり海に出ると、水平線上約一キュービット〔四十五〜五十六センチ〕のところに見える。非常に未開の地で、いろいろの獣類がおり、とくに猿には人間と見まちがえるようなのがいる。ガトパウルという獣にもいろいろなのがいるし、熊もライオンも豹もいる。
13 エリ王国
エリ〔マラバルとカナルの中間、デリー山の付近〕はコマリの西五百キロにある王国で、住民は偶像を崇拝し、独立国で、固有の言葉をもっている。ライオンや野獣、さては狩猟によい鳥獣も多い。船のつくような良港はないが、広く深い河口をもった大河が多い。胡椒、生姜などの香辛料を産する。王は財宝を多くもっているが、武力はそれほど強大ではない。この国へ行く道はきわめて険阻なので、誰も攻撃できず、王は何ものをも恐れていない。
外国船が他の港へ行くつもりで、偶然この河口にはいり、いかりをおろすと、住民はこれを捕え、積荷を掠奪する。そして「この船は他の港へゆくことになっていたのに、神がここへつれてきた。だからわれわれは頂戴する権利がある」と強弁し、掠奪は罪悪ではないと考えている。この不届き至極な習慣はインド全体にゆきわたっており、天気の都合で船が予定以外の他の港にやむなくはいると、必ず掠奪されてしまう。しかし当然はいるべき港にはいると、大歓迎をうけ、手あつく保護される。夏にここへくるマンジなどの船は、六日間か八日間で荷あげをすまし、できる限り急いで出帆する。海岸が砂浜ばかりで、しかも港とはいえ、単なる河口の錨地《びょうち》にすぎず、長期の碇泊は危険なのだ。ただマンジの船だけは、他国の船ほどには、これらの錨地をおそれていない。どんな天候にもたえる木製の大錨をもっているからである。
14 メリバル王国
メリバル〔デリー山、マンガロール、南はクィロン港までの間をさす〕は西部にある王国で、住民は偶像を崇拝し、固有の言葉を話し、独立国である。
この国からは北極星が水平線上約二キュービットの辺に見える。メリバル王国や近くのゴジェラト地方からは、毎年百隻以上の海賊船が海へでかけてゆく。彼らは妻子もつれて、一夏を海上にすごす。そのやり方は、まず二、三十隻を一隊とし、海上に哨戒線をつくる。そして各船の間隔を八キロまたは十キロとし、大体百六十キロの間を監視できるようにする。どんな船もこの哨戒線をのがれることはできない。どれかの海賊船が獲物を見つけると、火か煙で次々と合図を伝え、全部が集まって商船を捕え、掠奪する。掠奪がおわると釈放し、「思うところへ行って、また商品をつんでこい。そしてまた俺たちのところへ来るんだな」という。しかし現在では商人も警戒し、乗組員も多く、武器も十分で、船も大型になっているから、彼らは海賊をおそれていない。それでも時折、災厄《さいやく》がおこる。
この国には胡椒、生姜、肉桂《にっけい》、椰子の実の産額が多い。良質の美しい硬麻布《バックラム》もできる。東からくる船は銅を下荷として、錦繍、絹布、紗、金銀塊、丁子、甘松《かんしょう》香など、この地で需要のある商品をもたらし、この地方の産物と交易する。
ここには各地から船がくるが、マンジからのがもっとも多い。粗製の薬種はマンジヘも西方へも輸出される。アデンにもたらされたものはさらにアレクサンドリアに転売されるが、アレクサンドリア方面にゆく船は、東へ行く船の十分の一にもたりない。
15 ゴジェラト王国
ゴジェラト〔グジェラート半島付近〕は大きな独立王国で、住民は偶像を崇拝し、固有の言葉を使う。ここでは北極星はもっとはっきり見え、水平線上約六キュービットのところにある。住民は極悪な海賊で、商船をつかまえると、タマリンディというものを海水にまぜて商人に呑み下させるが、たちまち猛烈な下痢をおこす。危険を感じた商人が高価な宝石や真珠をのみこんでいるのではないかと思われると、こうする。
この地方には胡椒、生姜、インド藍の産額が多い。綿花も多い。ここの綿の樹は六メートル以上ものび、樹齢二十年以上にも達する。樹もこんなに古くなると、その綿花は紡織には適せず、布団綿になるくらいだ。樹齢十二年までは紡織用に適し、それ以上二十年までのものは、品質がおちる。
この国では山羊、牛、水牛、野牛、さらに犀などの皮までなめし、加工しており、その数量はおびただしく、多くの船がこれをアラビアなどへはこんでいる。赤や青に染めた皮に、精巧に鳥獣のかたちをえがき、これに金銀の糸で刺繍した美しい絨毯《じゅうたん》をつくっている。実にきれいなもので、イスラム教徒は好んでその上にねる。金糸で刺繍したクッションも作られるが、これもきれいなもので、一枚で金六マルクもする。なお絨毯の中には十マルクもするものがある。
16 タナ王国
タナ〔ボンベイより二十マイルのサルセット島の町〕はインド西部の独立王国で、大きさといい、資源といい大した国である。住民は偶像崇拝教徒で、この町だけに通ずる言葉を話す。褐色の乳香だけを産する。商取引が盛んで、多数の商船や商人がはげしく出入りしている。品質のよいいろいろの皮革や硬麻布《バックラム》、綿が大量に輸出されるからである。商人はここで需要のある金銀、銅など、いろいろのものをはこんでくる。
多くの海賊船がこの港から商人を掠奪するためにでかけてゆくが、王は黙認している。海賊は王との間に、捕獲した馬は王がとり、他の掠奪品は全部彼らがとるという契約をむすんでいるのだ。王は自分の馬をもっておらず、多くの馬が船でインドへはこばれてくるし、どの船も他の積荷のほかに、必ず馬をのせているので、王はこのようなことをしているのだ。全くあきれたことだ。
17 カムバエトとセメナート
カムバエト〔今のキャムペイ〕ははるか西にある大独立王国で、住民は偶像を崇拝している。北極星は今までよりはっきり見える。商取引が盛んだ。インド藍の産額が多く、硬麻布《バックラム》も品質のよいのができる。綿花の産額も多く、各地に輸出されている。優良ななめし皮もでき、その取引きがさかんである。商人が船や荷車をもってここへくるが、はこんでくるのは主に金銀銅である。この地方には海賊はいない。住民は善良で、商工業で生計をたてている。
セメナート〔今のソムナート〕も西の方にある独立王国で、住民は偶像を崇拝し、まことに厳格な教徒で、固有の言葉をもっている。海賊などはせず、商工業を業とし、商業が盛んである。
18 ケスマコラン王国
ケスマコラン〔ベルチスタンのメクラン州〕も王国で、特別な言葉を使っている。住民のうち偶像を崇拝しているのは一部だけで、大部分はイスラム教徒である。彼らは商工業で生計をたてているが、それというのも、彼らは生まれながらの商人で、海陸両路であらゆる方面から多量の貨物をはこんでくるからだ。常食は米、肉、ミルクで、これらを多量に貯蔵している。
西および西北方へ行くとすれば、ケスマコランはインドで最後の土地である。マアバルからここまでを大インドとよび、全インド中、もっともよい地方である。以上で大インドの王国、地方、主要な都市を紹介したが、海岸ぞいのものばかりで、内陸にあるものについては少しもふれなかった。話が長くなるからである。
19 男島と女島
大陸にあるケスマコラン王国を出帆し、インド洋を八百キロ南に行くと、五十キロの間隔をおいて、男島と女島という二つの島がならんでいる。住民はすべて洗礼をうけたキリスト教徒だが、旧約聖書のみを奉じている。たとえば妻が妊娠すると、お産がすむまで、またはその四十日後までは、男はそのそばへよりつかない。
男島の方には男だけがすみ、妻その他の婦人はここにはいない。毎年三月になると、男子はすべて女島に行き、五月までの三ヶ月間、そこに滞在し、妻といっしょにくらす。三ヶ月がおわると男島に帰り、農耕や商売をしてくらす。この島には良質の竜涎香《りゅうぜんこう》を産する。常食は肉、ミルク、米である。住民は優秀な漁師で、漁獲量は多く、乾燥させておくので、一年中食糧にこまらないし、商人にも十分売るほどある。酋長のかわりに司教がおり、彼は次にのべるスコトラ島駐在の大司教の管轄下にある。言葉は固有のものをもちいている。
生まれた子供が女の子だと母のそばにすむが、男の子は十四歳になるまで母の手もとにおき、その後、父のもとにおくられる。これが両島の習慣で、妻は子供の養育と、島にたくさんある果物の採集以外は何もせず、生活用品は全部夫が供給する。
20 スコトラ島
この二つの島を出帆し、八百キロ南に行くと、スコトラ島〔今のソコトラ島〕につく。住民はすべて洗礼をうけたキリスト教徒で、大司教が駐在している。竜涎香《りゅうぜんこう》、綿布の産が多く、とくに塩蔵魚は量も多く、品質もよい。常食は肉、ミルク、米だが、米しかたべないのは、他の穀物がとれないからだ。他のインドの地方と同じく、はだかでくらしている。
竜涎香は鯨の胃からとれるもので、需要が多く、彼らは「あご」つきの鉄の銛《もり》で鯨をとる方法を案出した。この銛なら、一度つきささると決してぬけない。銛の一端には長い綱をつけ、これにウキをつけておく。鯨が死ぬとウキは海面にうかび、死んでいる場所がわかる。この鯨を海岸にひきあけ、胃から竜涎香を、頭からは油をとる。多くの船が商品をつんであちこちからくるので、取引き高も多い。商人はここで金を買い、大きな利益をうる。アデンに行く船はすべてこの島に寄港する。
ここの大司教はローマ法王には属せず、バウダス〔バグダード〕の大主教の管下にある。海賊もこの島によく寄港し、テントをはって掠奪品を売り、大きな利益をあげる。この島にはすぐれた魔法使いがいる。大司教は魔法をつかうのを禁じているが、さっぱり効果がない。祖先もやっていたのだから、自分たちもしなけれはならないと主張する。彼らは思うがままに風向きをかえ、大嵐や災厄をおこす。順風をうけて船が走っていると、向かい風をおこして、逆もどりさせてしまう。
21 マディガスカル島
マディガスカル島〔マダガスカル島〕はスコトラ島の南千六百キロにある島である。住民はイスラム教徒で、四人のエシェク、すなわち長老がいて、全島を支配しているという。この島はきわめて美しく、世界でも有数の大きな島で、周囲は約五千キロある。住民の生業は商工業である。ザンジバル島とともに象がおびただしくおり、両島から輸出される象牙の量は莫大である。
住民は駱駝以外の獣肉をくわず、毎日屠殺される駱駝の数は非常に多い。彼らの話によると、肉のうち、駱駝が最良で、しかも健康によい、とのことだ。質のよい紫檀《したん》が多く、森はこればかりでできている。竜涎香も多いが、これは近海に鯨が多いからだ。オイル・ヘッドという大きな魚もたくさんとれ、これからも竜涎香がとれる。獣類では豹、熊、ライオンが多い。商人は錦襴の織物などをもってきて、大きな利益をあげている。
この島とザンジバル島の二つ以外の南方の島には、船はかよわない。南流する海流が強くて、帰れなくなるからだ。実際、マアバルの船がこの二つの島へ行くときは速力がでて、この長距離をわずか二十日でいってしまうが、帰りは三ヶ月以上もかかる。それほど強い潮流が一年中ながれている。
この強い潮流にさまたげられて、船の行かれぬ南の島々には、毎年ある季節になると、怪鳥があらわれるとのことだ。これはヨーロッパにも名高いグリフィンとは全くちがう。マルコ・ポーロが土地の人からきいたところによると、鷲に似たすばらしく巨大なもので、両翼をひろげると二十七メートルになり、羽根一本の長さは十メートル、太さも大したものだ。非常に力がつよく、爪で象をつかまえ、空高くまいあがり、そこでおとして粉砕してしまう。このように殺してから舞いおりて、ゆるゆるとその肉をたべる。島の人はこの鳥をルクとよぶ。これはたしかにギリシア神話にでてくるグリフィンではない。
フビライ・ハーンは珍しい話をさぐりだすために、この地方にも使節をおくったが、ルクの話はこの使節からきいたものである。ハーンはさきにこの地方にとらわれたままになっていた使節を釈放させるために、新しい使節をつかわしたが、両使節ともこの鳥の話をした。きくところによると、彼らはルクの羽根を一本もちかえったそうで、長さ約二十メートル、軸の太さは二握りもあった。また彼らのもちかえったもののうちには、野猪の牙もあったが、重さ実に六キロ。この野猪がどんなに大きいか、想像できるだろう。話によると、水牛ほどもある野猪、キリン、野生驢馬などのめずらしい動物も多いとのことだ。
22 ザンジバル島
ザンジバル島も大きな島で、周囲三千キロ、どこにも属せず、住民は偶像を崇拝し、固有の言葉をもち、王が支配している。住民はふとっているが、そのわりに丈は低い。つりあうほど高かったら、巨人のように見えるだろう。体格は頑丈で、力は四人力、食うほうも五人前だ。
皮膚は真黒で、はだかでくらし、腰のところだけ、布でおおっている。頭髪は胡椒のように黒く、しかもこわいので、水でぬらしてもなでつけられない。口は大きく、鼻は天井をむき、唇あつく、目は大きく、殺気だっている。まったく悪魔そっくりで、世界中にこれほどおそろしい顔をしたものはない。婦人の顔もまことに醜悪で、口は大きく、どんぐり眼、大きな鼻があぐらをかいている。乳房は他国の野人の四倍はある。
象はおびただしくいる。ライオンもいるが真黒だ。羊は頭が黒く、身体は純白な種類だけである。キリンも多い。これは美しい動物で、後肢が短く、前肢と頸《くび》がおそろしく長く、短い胴は前部が高くなっている。頭は地上三メートルのところにあるが、小さい。全体に淡色で、赤味がかった白い斑点がある。
住民の常食は米、肉、ミルク、棗椰子《なつめやし》の実で、棗《なつめ》、米、香料、砂糖などで酒をつくっている。商業も盛んで、船も商人もここへ多くやってくる。主要な商品はこの地に多い象牙と、鯨からとれる竜涎香とである。
住民のなかには勇敢な戦士がおり、少しも死をおそれない。馬はないので、駱駝や象にのって行き、象の上には槍、剣などで武装した兵士が十人ないし十六人のれる木製のやぐらをおき、ここから石をなげたりして猛烈に戦う。甲冑《かっちゅう》はつけず、盾、剣、槍だけしかもってないので、戦死するものが多い。象を戦場にだすときには、無理に酒をのませてよっぱらわせる。こうすれば大胆になって、よく働くとのことだ。
もう語ることもつきたから、中部インドのアバシュ地方の話をしたいが、その前にインド一般についてのべる。大インドはマアパルからケスマコランまでひろがり、十三の王国をふくむが、そのうち十王国までのべた。小インドはチャンパからムトフィリにまでひろがり、八つの大きな王国からなる。大インドと小インドは大陸にある。またインド洋には、この辺のことに精通した腕ききの船員の記録や海図によると、無人島までいれて一万二千七百もの島がある。このインド諸島のことを話すにあたって、私は話題を著名な地方や王国のみに限った。全部をのべることなどは、とてもできないからである。
23 アバシュ地方
アバシュ〔アビシニアすなわちエチオピア〕は大きな地方で、中央インドを形成しており、大陸にある。六つの王国があり、その六人の王のうち三人はキリスト教徒、三人はイスラム教徒である。最大の領土をもっているのはキリスト教徒で、他の五人はこれに従属している。キリスト教徒は額から鼻の中央にかけて一つ、両頬に一つずつ、合計三つのしるしを額につけている。このしるしは熱い鉄でつけるもので、洗礼式の際につけるのだが、受洗したことを示すとともに、優美だとも考えている。ユダヤ人もすんでいるが、両頬に一つずつ、しるしをつけている。イスラム教徒のしるしは一つで、額から少し鼻にかかるようにつけている。
大王の領土は国の中央に、またイスラム教徒の王の領土はアデンに近い。使徒聖トーマスはかつてこの地方に布教し、住民を改宗させたのち、マアバル地方に行ったのである。住民はすぐれた兵士であるが、馬がすくないので馬にはのらない。彼らがよく戦うのは、平生、アデンのスルタンの軍や、ヌビア人などと戦っているからである。一二八八年におこった有名な話をしよう。
キリスト教徒たる大王はエルサレムにあるキリストの墓に参拝したいと言明した。しかし貴族たちは危険をおもんぱかって、かわりのものを派遣するようすすめ、王もこれに従って、ある司教をつかわした。彼は長い旅ののち、エルサレムにつき、聖墓に祈りをささげ、王にかわって多くの供えものをした。帰途、アデンでその地のスルタンに捕われ、イスラム教への改宗を強制された。アバシュの大王の使者と知っての上のことであった。しかし司教は、たとえ殺されてもキリストを裏切るつもりはない、といいはなった。憤慨したスルタンは彼に割礼をほどこし、これで大王に恥をかかせたとして、釈放した。
司教は、こんな目にあわされたのも、キリストの教えを固執していたからだ、と考えて満足し、再び長い旅をして大王のもとに帰着した。アデンのスルタンの暴虐をきいた大王は、ただちに、騎兵、歩兵は武装をととのえよ、象もやぐらをつけて集まれ、と命じた。集まった大軍は王にひきいられ、アデン王国に向かった。スルタンも敵軍をふせぐために大軍をひきいて国境にある要害の峠におもむいた。アバシュの王が到着したとき、アデン軍はすでにこの峠を占領していたが、たちまち戦端がひらかれ、どちらも心から相手をにくんでいたので、必死の激戦となった。しかし主イエス・キリストの援助によって、アデン軍は多数の戦死者をだして敗北し、アバシュの王は大軍をひきいてアデン王国内にはいった。イスラム教徒は途中の陸路を守ったが、いつも多数の死者をだして、敗北するだけであった。王は大軍をひきいて敵の国土をさんざんに荒し、破壊をたくましくし、一ヶ月以上もこの地にとどまって、イスラム教徒を虐殺し、これで自分の名をあげたと考えるまで荒してから、帰途につき、大歓声のうちにアバシュに帰着した。
事件の話はこれくらいにして、もう少しこの地方の話をしよう。食糧は豊富で、住民は肉、米、ミルク、胡麻を常食にしている。キリン、熊、豹、ライオンが多く、珍しい獣類もいるし野生驢馬もいる。美しい鶏のほか、鳥類も豊富だ。驢馬のように大きい駝鳥、美しい鸚鵡《おうむ》、いろいろの猿、ひひなど、人間に似た猿もいる。象もいるが、これはインド諸島から輸入したものだ。
商業が盛んで、町や村も多く、商人もたくさんすんでいる。硬麻布《バックラム》、綿布を産する。
24 アデン
アデン地方には、スルタンの称号をもつ王がいる。住民はイスラム教徒で、多くの都市と村がある。アデンは港で、インドからたくさんの商船がくる。商人はここで貨物を小さな船につみかえ、七日間航海して貨物を陸にあげ、駱駝につんで三十日すすんでアレクサンドリア河に達し、この河を船で下ってアレクサンドリアにつく。アレクサンドリアのイスラム教徒はこのルートで胡椒などの香料を入手する。ここへもってくるのには、これほど便利なルートはない。
スルタンはインドへ往来する船に課税し、輸出品にも課税して、莫大な収入をえている。インドヘアラビアの馬がたくさん輸出され、取扱い業者も多大の利益をえている。インドでは一頭が銀百マルクまたはそれ以上にも売れるのだ。その上、この港の管理によってもスルタンは多大の収入をえており、世界最大の金持の一人といわれている。
25 エシェル市
エシェル市はアデンの西北六百四十キロのところにある。アデンのスルタンに従属する王がいるが、彼はさらにその下に多くの町や村を支配している。住民はイスラム教徒である。よい港があり、インドからいろいろの商品が輸入され、優秀な軍馬が輸出されている。多量の白色香料を産し、王はこれを独占的に買い入れ、六倍の値段で商人に売り、大変な利益をえている。
棗《なつめ》の産額が多い。米以外の穀物はできないが、その米も少ない。不足分は輸入する。魚がよくとれ、とくにマグロが多く、ヴェネチア銀貨一グロートで大きなのが二匹も買える。この地の羊には耳がなく、耳のある場所に小さな穴がある。住民の常食は肉、米、魚である。砂糖、米、棗などでうまい酒をつくっている。
なお面白いことに、彼らの家畜たる馬、牛、駱駝などは、小魚だけをたべさせられている。この地方は世界でももっとも乾燥していて、牧草になる草がまったくないのだ。家畜にあたえるのは非常に小さい魚で、三月から五月までの間、びっくりするくらいたくさんとれる。これを乾かして貯蔵し、家畜は年中これをたべさせられる。それどころか、死ぬまで水もあたえられずに、こればかりたべているのだ。
住民はこれ以外のいろいろな大きい魚をやすく手にいれ、これを各一ポンドの切身にし、太陽で乾燥し、貯えておき、ちょうどビスケットのように年中たべている。
26 デュファル市
デュファル〔不明〕はアデン地方の大きな町で、エシェルの西北八百キロにある。住民はイスラム教徒で、アデンのスルタンに従属する君主によって支配されている。海にのぞんでよい港があり、インドとの間を往来する船でにぎわっている。商人はここを通じてアラビア馬を市場にはこび、大変もうけている。
白色の香料もここで多量にとれる。これは樅《もみ》に似た樹からとれるのだが、その幹に数カ所きざみ目をつけると、そこから香料がしみでてくる。ある場合にはきざみ目をつけなくても、しみでる。太陽の熱が強いからである。
27 カラトゥ市
カラトゥ〔ムスカット南方の海岸〕は大きな都会で、カラトゥ湾内にある。立派な町なみをもち、デュファルの西北八百キロの海岸にある。住民はイスラム教徒で、ホルムズに従属している。ホルムズの支配者は自分より強力な王公と戦うとなると、いつもカラトゥの町ににげこむ。ここは地の利をしめ、要害堅固だからである。
穀物はできず、国外から船で輸入している。広い港があり、多くの船がインドの商品を輸入し、ここから国内の町や村へ香料が送りだされる。インドへは馬が輸出される。住民はこの地で多量にとれる棗と塩蔵魚を常食にしているが、貴族はもっとよいものをたべている。
カラトゥの市は湾の入口にあるので、どんな船も、その長官の許可なしには出入りできない。ホルムズのメリクはカラトゥのメリクをかね、ケルマンのスルタンに臣属しているが、スルタンの下にいるのがいやになると、船でホルムズからここへきてしまう。そして湾内に船がはいるのを妨害する。スルタンはインドからくる商人に課税して収入をえているのに、その収入がなくなってしまう。こうして彼はホルムズのメリクの要求に屈伏せざるをえなくなる。
28 ホルムズ市
カラトゥの港を出帆して、西北西へ五百キロ行くと、ホルムズ市につく。海にのぞむ立派な都市である。王ともいうべきメリクがおさめているが、彼はケルマンのスルタンの支配下にある。
ホルムズの管轄下には多くの町村があり、住民はイスラム教徒である。その暑熱はおそろしいほどで、家には風をとり入れるために通風装置がある。これは風のふきつける側にとりつけられ、各部屋に風をみちびくようになっているのだが、それでもたえがたいほどの暑熱である。ここについてはこれくらいにしておこう。
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第六章 タタールの君主の間の戦争と北方諸国のこと
1 大トルコの王ハイドゥ
ホルムズから西北に向かって行くと、大トルコという地方につく。ここにハイドゥという王がいる。彼はフビライ・ハーンの甥にあたり、その兄弟チャガタイの孫である〔ハイドゥは太宗エゲデイの孫で、この系図は誤っている〕。彼もその支配下の住民もタタール人で、しかも優秀な戦士であった。
彼はフビライ・ハーンと仲がわるく、しばしばはげしい戦争をしていた。紛争の原因は領土分配のことで、彼は父が征服した領土を分配せよ、自分にはその権利がある、と主張した。くわしくいうと、カタイとマンジの一部を要求したのである。大ハーンは、自分の息子にも領地を分配したのだから、よろこんで分配するが、その前に大ハーンの臣下として、命令があれば宮廷の会議に出席し、自ら臣下として服従しなければならぬ、と返答した。ハイドゥはすでに数回反乱をおこしていたので、行ったら殺されはしないかとおそれ、行くことを拒絶したが、命令とあれば、ただちにこれに服する用意がある、との返事だけはした。こうして大戦乱がおこり、両者の間に数回大戦闘が行なわれた。大ハーンは国境に年中、大軍を配置し、ハイドゥは相手の領土に対する攻撃を平気でつづけている。
彼は非常に強大なので、そのようなことができるのだ。十分に訓練された十万の騎兵を出動させることもできる。味方には皇族出身者も数人いる。次にハイドゥとフビライとの間に行なわれた戦闘についてのべよう。
2 ハイドゥとフビライとの戦争
一二六六年、ハイドゥといとこのイェスダル王子は、大軍をあつめて大遠征を行ない、チバイ及びチバンという大ハーンの貴族の領土を攻撃した。この二人はハイドゥの一族で、キリスト教徒だったチャガタイの息子である。ハイドゥは六万以上の騎兵をひきい、ほぼ同数の騎兵をひきいた二人の貴族の軍と戦い、勝利をえた。二人の貴族は乗馬がよかったため、ようやくのがれた。ハイドゥは意気揚々と帰還し、その後二年間は攻撃しなかった。
二年後、ハイドゥ王は騎兵の大軍をあつめた。ハラホルムに大ハーンの王子ノモガンとプレスター・ジョンの孫ゲオルギスがいることを知ったからである。やがてハイドゥの軍は国境をこえ、抵抗をうけずに急進し、ハラホルムにせまった。ノモガンもゲオルギスも、かねてその侵入を知っていたので、十万以上の騎兵を擁して、まちかまえていた。ハイドゥ軍の接近をきくや、勇敢にも迎撃し、敵前八、九キロの地点に達して、陣をはり、戦闘準備をした。ほぼ同数の相手も陣をはった。どちらも一万の部隊六つにわかれ、それぞれ有能な指揮官をいただき、剣、鎚矛《つちほこ》、盾、弓矢等で十分武装していた。これはタタールの軍隊としては普通の武装で、弓一つについて矢は六十本もつことになっていた。六十本のうち三十本は軽くて、鏃《やじり》が小さく、とがっていて、遠矢に適し、追撃の際に用い、他の三十本は重く、大きな広い鏃がついていて、近いものを射るのに適し、これで相手の顔や腕に深傷《ふかで》をおわせ、弓弦をきり、大損害をあたえる。矢を使いきると、剣や鎚矛、槍などで戦うが、これを上手に使う。
やがてナカラが敵味方の陣中から高らかになりひびき、猛烈な戦闘がおこった。戦闘は長い間つづいた。両軍とも相手を圧倒しようとしたが、不可能だった。日没とともに両軍は戦場から去り、各々の陣営にもどった。両軍に多数でた負傷者は、いたみにうめき声をあけ、傷つかぬものも泥のようにつかれていた。すべてのものは休息をねがっていたので、その夜はよろこんで休息した。朝が近づいたとき、ハイドゥはスパイから大ハーンが王子に大部隊の増援軍を派遣したのをきき、もう引き揚げる潮時だと考えた。それで全軍に、ただちに鞍をおき、夜あけとともに馬にのって故国に向かうよう、命令した。王子ノモガンとゲオルギスは敵の退却に気づいたものの、全くつかれはてていたので、追撃しなかった。ハイドゥは馬にのりつづけ、領地大トルコに入り、サマルカンドに帰着した。そしてしばらく戦争しなかった。
大ハーンはハイドゥ王の攻撃について、「彼奴が甥でなかったら、悲惨な最期をとげさせてやるのだが」といった。血縁のよしみに妨げられて、あえて彼とその国土とを破滅せしめなかったのである。
3 ハイドゥの王女の武勇
ハイドゥには美しい王女がいた。名をアイジャルクといい、タタール語で「輝く月」という意味である。武勇にすぐれ、領内には彼女に勝つほどの男は一人もいなかった。父は結婚させようとしたが、彼女は辞退した。そして、いろいろの試合で私をうちまかす男があらわれるまでは、結婚しません、それ以外の男とは結婚しません、と誓った。決心のかたいのを知って父は、お前のすきな人と結婚するがよい、との約束の文書をわたした。彼女は背が高く、たくましかったので、巨人のようだった。彼女は次のような挑戦状をくばった。「王女と一勝負しようとするものは、次の条件を承認すること。一、王女が勝った場合は、敗者は馬百頭をさしだすべきこと。二、王女が負けた場合は、これを妻となしうること」。それ以来、多くの立派な青年が試合にきたが、全部まかされてしまった。王女のえた馬は一万頭以上にのぼった。
一二八〇年になって、ある富んだ強国の王子で、体格も立派なら、武勇もすぐれているという立派な青年がやってきた。王女の挑戦状をよみ、試合に勝って彼女を妻にしたいと思った。彼も美青年で、すべての武術にたけ、父の領内で彼にかなうものはいなかった。自信にみちた彼は、負けたときにそなえて千頭の馬をつれてきた。ハイドゥとその妃は王女に、今度は負けてやった方がよいだろう、とひそかにすすめた。婿《むこ》にしたかったのである。しかし王女は、もし負けたら、約束にしたがって、よろこんで妻となりますが、そうでなけれは、決して妻とはなりませぬ、と答えた。
試合の日になると、宮殿にはみんながあつまり、王も王妃とともにあらわれた。すべての人がかたずをのんで見ている前に、まず王女が短い上衣をきてあらわれ、つづいて薄絹の短い上衣をつけた王子があらわれた。二人は広間の中央にすすんで、腕でつかみあい、相撲がはじめられた。勝負はなかなかつかなかった。しかしついに王女は相手を敷石の上に、こっぴどくたたきつけた。相手がのしかかってくるのに気づいた王子の気まずさと失望は大きかった。ただちに立ち上がり、少しもさわがず部下をつれて帰国し、以後誰にも顔をあわさなかった。もちろん一千頭の馬はとられてしまった。ハイドゥも妃も、王子が勝つとばかり思いこんでいたので、全く当惑してしまった。
これ以来、出征には必ず王女をつれて行くことにした。これほど武勇にすぐれたものは一人もいなかったからだ。時には彼女は父のそばをはなれ、敵の大軍に突進し、鷹が獲物にとびかかるように、数人のものを捕え、父のもとへひっぱってきた。そんなことはしばしばあった。
次にイル・ハーンのアバガの子アルゴンとハイドゥとの戦闘についてのべよう。
アバガの領土はアルブル・ソルの方面でハイドゥの領土と接していた。彼は国境監視のため王子アルゴン〔アルグンのこと〕をつかわし、アルブル・ソルとジョン河との中間に駐屯させた。ハイドゥはこれをきいて大軍をあつめ、弟のバラクを司令官にし、アルゴンをうたせた。バラクは出発し、ジョン河まで行き、アルゴンの軍の十六キロ手前に止まって戦備をととのえ、三日の後、大激戦が行なわれたが、バラクの軍はやぶれ、しかも追撃されて、おびただしい死者をだした。
4 アルゴンとアコマットの争い
勝利をえて間もなく、アルゴンは父アバガの訃報をうけとり、深い悲しみに沈んだが、ただちに準備をととのえて、王位を継承するため、出発した。しかし都へつくのに四十日かかった。
アバガの弟にアコマット・スルタンというものがいた。兄の死を知り、その子アルゴンが遠方にいるのを好機とし、政権を奪おうと考えた。ひそかに大軍をあつめ、亡兄の宮廷におもむき、政権をうばい、王位についた。もちろん巨額の財宝をも手にいれたが、彼はこれを貴族や兵士に分配し、味方にひきいれようとした。彼らはたくさんのものをもらって大いに喜び、アコマットこそはもっとも偉大な王だ、とたたえ、すばらしい評判をえた。それでもすべての人は、彼が兄アバガのすべての妻を自分のものにしたことを非難した。
政権をにぎって間もなく、甥アルゴンが大軍をひきいて近づいている、との情報がはいった。アコマットは直ちに貴族と軍隊をあつめ、わずか一週間のうちに大軍を集結し、アルゴンを迎えうつため、勝利の確信にみちて出発したが、その際、アルゴンを捕え殺すにはこれで十分だ、と豪語した。十日ばかり進んだところで、スパイから、敵は前方五日行程のところにあって、兵力は味方と同じ六万ぐらいだ、との情報をえたので、前進をやめ、平野にテントをはり、敵の到着をまつことにした。テントをはりおわると、部下をあつめ、自分がアバガの正統な後継者であることをのべ、部下を激励した。その場にいた貴族も将士も一斉に、決して陛下を裏切らない、と誓った。
アルゴンも、敵の大軍が近づき、テントをはって迎撃の準備をととのえていると知って、将士をあつめて演説し、自分がイル・ハーンの正統な後継者であることを強調し各人が全力をあげてその職分をつくすようにせよ、といった。演説をきいた人々は、戦いに負けるよりは死んだ方がましだと考えた。貴族の一人が立ち上がっていった。「われわれは決して陛下を裏切りませぬ。敗北よりは死をえらびます。われわれは正しく、敵は不正である。われわれは必ず勝つ。さあ、前進しよう」。列席者すべては立ち上がって、ただちに前進しようときおいたった。かくて翌朝、アルゴンとその軍は前進を開始し、敵軍から十六キロはなれたところに整然と陣をしいた。
陣をしくと、アルゴンはただちに信用のおける二人の老人を使者として、叔父アコマットのもとにつかわした。二人はアコマットのもとに行き、王位をアルゴンの手にもどすよう要求したが、叔父は「この国は自分が父とともに征服したものだ。のぞむならアルゴンを諸侯にも副王にもしてやろう。不承知なら殺してやろう」と答えただけであった。この返事をきいたアルゴンは非常に憤慨し、「これほどの侮辱をうけた以上、いのちも領土もいらぬ。復讐あるのみだ」と大声でどなり、夜を徹して戦備をととのえた。
翌朝、両軍ともに前進し、ただちに戦端がひらかれた。雨のようにふりそそぐ矢によって激戦の火ぶたがきられ、筆舌につくせぬ熱闘が展開された。両軍ともに多数の戦死者を出した。アルゴンも自ら奮戦したが、無駄であった。運命の女神は彼に背をむけ、その軍は敗走のやむなきに至り、途中、アルゴンも捕虜となった。
彼をとらえると、アコマットは追撃をやめて、陣営に帰った。アコマットは彼を鎖でつなぎ、厳重な監視をつけたが、もともと享楽ずきな人間だったので、はやく宮廷にかえって美女にとりまかれたい、といいだし、大メリクにあとをまかせ、側近のものとともに国都に急いだ。アルゴンは鎖につながれたままのこされ、悲嘆のあまり、自殺さえ考えた。
5 アルゴン、ハーンとなる
そのころ、老齢のタタール人大貴族がいたが、アルゴンに同情し、自分たちがアルゴンを監禁しているのは不忠な行為ではないか、と反省し、他の貴族たちに自分の気持を話し、彼こそ君主たるべき権利をもっているのだから、釈放し、君主にいただくべきだ、と説いてまわった。貴族たちもこれに賛成し、心をあわせて計画の達成に邁進《まいしん》することになった。かくて首謀者たるボガのほか、エルチダイ、トガン、テガナ、タガチャル、ウラタイ、サマガルなどの貴族は、ひそかにアルゴンの監禁されているテントにしのびこみ、まずボガがいった。「われわれは陛下を獄舎につなぐのは悪いことだと気がつきました。ここへ参りましたのは、陛下を自由の身にし、かつ正当の君主として、われわれの上にいただくがためであります」。アルゴンは、ひやかしにきたと考え、不機嫌にいった。「正当な君主の私を獄舎になげこむという罪をおかしただけで、卿らは十分満足すべきだ。これ以上愚弄するのはやめてくれ」。ボガは、決して愚弄しているのではない、といい、一同は彼を王にいただくことを誓った。アルゴンも彼らの真意を了解し、捕虜にされたことについては、決して彼らを苦しめまい、父と同じように、自分も彼らを寵愛しよう、と誓った。
彼らはアルゴンの鎖をたちきり、ハーンとしてあおいだ。彼は大メリクを殺すために、そのテントに一斉に矢を射よと命じた。言葉におうじて一斉に矢がはなたれ、メリクは死んだ。ついでアルゴンは君主として指揮権をにぎり、すべてのものがその指揮のもとにはいった。こうして全軍は宮廷に向かった。
ちょうどアコマットが大宮殿で盛宴をはっている最中に、使者がかけこんできて申し上げた。「陛下。貴族たちはアルゴンを釈放し、ハーンにいただき、大メリクを殺しました。そして陛下をとらえて殺そうと急進しております。一時アコマットはわれを失ったが、ただちに、このニュースは誰にもいうなと口どめし、信頼できるものにだけ、すみやかに武装をととのえて馬にのれ、と命じ、行先もつげずに出発して、バビロニアのスルタンのもとへ急いだ。そこへ行けば命だけは安全だと考えたのである。
六日後どうしても通らねはならぬ峠についた。峠を守っていた人々は、これがアコマットで、しかも逃走中なのだと気がつき、捕えてしまった。彼はただちに送りかえされ、アルゴンが宮廷を占領した三日後に、そこへ到着した。ちょうどアルゴンが彼の逃亡を知って残念がっているところであった。アルゴンは大いによろこび、彼のかずかずの罪状をならべたて、ただちに軍隊をよびよせ、殺して人目につかぬようにすてろ、と命じ、その通り行なわれた。
これがおわって、アルゴンがイル・ハーンを称し、大宮殿におさまると、父アバガの臣下であった地方貴族たちは参内し、敬意を表し、その命令に服することとなった。権威が確立すると、子のカサン〔ガザンのこと〕に三万騎の大軍をあたえ、国境警備のため、アルブル・ソルの地方に派遣した。アルゴンが位についたのは一二八六年で、アコマットは二年間在位し、アルゴンは六年間、位にあった。六年後に病死したが、毒殺ともいわれている。
6 カサン、ハーンとなる
アルゴンの死後、アバガの弟で、アルゴンには叔父にあたるキアカトゥが位をうばった。父の訃報がとどいたとき、カサンは敵軍侵入のおそれがあって動けなかったが、キアカトゥが位をうばったとのしらせをうけたときは、もっと苦しい状態にあった。それで、ただ復讐を誓うだけであった。キアカトゥは支配をつづけ、カサンといっしょにいたものを除いて、すべてのものは彼に服従した。アルゴンの妃も自分のものにし、後宮の婦人たちと享楽の日々をすごしたが、二年後に毒殺された。
キアカトゥの死後、ハーンとなったのはその叔父でキリスト教徒だったバイドゥで、一二九四年に即位し、カサンといっしょにいたものを除き、すべての人が彼に服従した。これをきいたカサンは非常に憤慨した。とくにキアカトゥに復讐できなかったのがくやしかったのである。そしてバイドゥを一刻もそのままにしてはおけない、ただちに進撃して、息の根をとめてやらなけれはならぬ、と決意し、部下全部をあつめ、首都への進撃を開始した。
バイドゥもこれを知って大軍をあつめ、むかえうつために前進し、十日後、陣営をはってカサンの攻撃をまちかまえた。二日後にはカサンの軍も到着し、戦いはすぐはじまった。しかしバイドゥがカサンに対抗できたのは束の間で、開戦後すぐ、軍隊の大部分は彼を見すてて、カサンの側についてしまった。バイドゥは敗北し、死刑に処せられた。勝ったカサンは首都につき、政権をにぎった。すべての貴族は彼に敬意を表し、服従した。カサンの治世は一二九四年にはじまった。
以上がアバガからカサンにいたるまでの歴史であるが、かのバウダス〔バグダード〕の征服者であり、フビライ・ハーンの弟でもあるフラグこそは後らの先祖である。彼はアバガの父であり、アバガはアルゴンの父。またアルゴンは現在の君主カサンの父である。
さてイル・ハーン国のタタール人の話はこれでうちきって、話をもとへもどそう。
7 極北地方の王コンチ
極北地方〔シベリア地方?〕にはコンチという王がいる。彼も領民もタタール人で、タタール固有の宗教を奉じている。この宗教は幼稚なものだが、チンギス・ハーンや、本来のタタール人と同様に、彼らもあつく信じているのだ。王はチンギス・ハーンの子孫で、フビライの近親であるが、誰にも臣属していない。都会も城ももっておらず、住民とともに広い平野や山岳地帯の谷間にすんでいる。常食は家畜の肉や、ミルクで、穀物は産しない。人民は非常に多いが、王はまったく戦争をせず、きわめて平和にくらしている。駱駝、馬、牛、羊などの家畜が非常に多い。
この地方には身体が全部真白な熊がいる。長さは二メートル以上はある。また黒色の大狐、野生驢馬、多くの黒|貂《てん》などもいる。彼らはこれらの毛皮で一千ベザントもする高価な衣服をつくる。栗鼠《りす》、ファラオ鼠も多く、夏には住民はこの狩猟で生計をたてている。人跡まれなので、野獣が多いのだ。
この王の領内は馬では行かれない。湖や泉、氷やぬかるみが多いからである。この厄介な国は十三日行程の面積をもち、一日行程ごとに、この地方を横断する急飛脚のための駅舎がつくられている。駅舎には驢馬ほども大きい犬が約四十頭そなえつけられ、この犬が急使を一日行程ひっぱって、駅から駅へはこぶ。何しろこの地方は至るところ氷と泥濘《でいねい》だらけで、二つの山の間の大きな谷に、十三日行程にわたってひろがっている。この地方をこすには、馬も馬車も役にたたない。そこで車輪のない乗物、橇《そり》をつくる。これなら氷の上でもぬかるみでも、あまり深く沈まずに走れる。橇の上に毛皮をしき、使者はその上にすわる。この橇を大きな犬六頭でひくのだ。御者はついていないが、犬たちは上手に氷とぬかるみの上を、橇をひいて次の駅舎に走って行く。駅舎の管理人は別の犬橇にのって、最もよい、そして近い道を案内して行く。次の駅舎につくと、新しい橇と犬がすでに準備されている。こうしていつも、犬橇で旅行ができるようになっている。
住民はすばらしい猟師で、多くの小動物を捕え、大きな利益をえている。たとえば黒貂、貂、栗鼠、黒狐などで、これらの毛皮はきわめて高価である。彼らは一度かかったら決してのがれられぬ罠《わな》をつかう。寒気がきわめてきびしいので、住居は地下にもうけられ、住民はいつも地下にすんでいる。
8 暗黒な地方
前述の国からはるか北方に、暗黒界とよばれる地方がある。太陽も月も星も見えないから、この名がついているが、たそがれぐらいのほのぐらさだ。王もおらず、どこにも属せず、住民は野獣のような生活をしている。理解力がにぶく、少々間のぬけた人々である。タタール人は時々この国にくるが、彼らは仔馬をもっている牝馬をえらんでのり、仔馬はあとにのこしておく。十分に掠奪すると、この牝馬の力で帰り道を見つける。牝馬は早く仔馬のところへ帰りたいし、人間より上手に帰り道をみつけるのだ。
住民は高価な毛皮をたくさんもっている。たとえば黒貂、貂、栗鼠、黒狐などである。みんな狩猟を職業としている。太陽のてらしている国境地帯の住民はこの毛皮を全部買いとり、他へ売って莫大な利益をあげている。
この国の人々は背が高く、体格はよいが、顔はあお白い。国境の一端は大ロシアに接している。
9 ロシアとキプチャク・ハーン
ロシアは北方にあるきわめて広い地方で、住民はキリスト教徒であるが、ギリシア正教を奉じている。数人の王がおり、固有の言葉を話している。住民の生活は素朴だが、男女ともに美貌で、皮膚は白色、背は高く、長い立派な頭髪をもっている。国内にはけわしい陸路や峠が多い。どこにも臣属していないが、キプチャク・ハーンのトクタイにほんの少しの貢物をおさめている。黒貂、貂、栗鼠、狐(この毛皮は世界でもっとも美しく、大きい)など、美しい高価な毛皮をたくさんもっているし、猟も大量にあるが、商業は行なわれていない。銀の鉱山も多い。
つぎに大海とその周囲の地方や住民についてのべよう。北と西北の間には、ロシアに接してラク〔今のワラキア〕地方があり、一人の王が支配している。住民は一部はキリスト教徒、一部はイスラム教徒で、いずれも商工業に従事している。良質の毛皮を多量に産し、商人はこれを諸地方に輸出する。
ロシアについて話しわすれたことがある。ここはほかよりはるかに寒い国で、全くたえられないほどだ。面積は非常に広く、大海にまで達している。大海のうちには、大鷹やペリグリン鷹を産する島があり、これらの鷹は各地に輸出されている。ロシアからオロエチ〔ノルウェー?〕までは遠くない。それほど寒くないときなら、すぐ行けるが、寒いと行けない。
西方にすむキプチャク・ハーン国のタタール人の最初の君主はサイン〔ジュチ?〕であった。偉大な王で、ロシア、コマニア〔黒海北岸からカスピ海東方までの地方〕、アラニア〔コーカサス北方山麓〕、ラク、メンジャル〔クマ河付?〕、ジク〔キルカシア〕、ゴーチア〔クリミア南部〕、ガザリア〔クリミアとアゾフ海北岸〕、を征服し、支配した。征服される前、この地方はコマン人〔トルコ民族の一。ポロヴツィともいう〕に臣属していたが、彼らは統一されていなかったため、国土を失い、各地に四散したが、故郷にのこっていた連中はそのままサイン王の臣下となった。サイン王のあとはパトゥ〔トゥバ〕がつぎ、つづいてバルカ〔第三代ベルケ〕、ムングテムル、トタマング、トクタイと順次、位が伝えられた。
つぎにキプチャク・ハーンのバルカとイル・ハーンのフラグとの間の戦争についてのべよう。
10 フラグとバルカの戦い
一二六一年、イル・ハーンとキプチャク・ハーンとの間に大きな紛争がおこった。原因は両国の国境上にある一地方の領有権争いである。いずれも態度は強硬で、ゆずらなかった。事態が急迫してくると、どちらも軍をあつめ、非常な努力をして、六ヶ月後にはおのおの三十万の騎兵をあつめ、十分の武装をととのえた。
武装が完了すると、フラグは大軍をひきいて出撃し、長途の行進ののち、鉄門とサライン海〔カスピ海〕との間にひろがる大平野に到着し、ここに整然たる陣をしいて、敵の来着をまちかまえた。テントのはられた場所は、ちょうど両国の国境線上で、実に立派な大小のテントがならんだ。フラグが出撃したときいて、バルカも出発し、やがて敵軍のまちうけている平野に到着し、敵より十六キロはなれて陣をかまえた。この陣営もフラグのものと同様、立派にかざりたててあり、しかも数はさらに多く、三十五万騎以上はあった。いずれも三日間休養し、その間にフラグもバルカもそれぞれの将士に激励の演説を行なった。
予定の日がきた。フラグは朝早く起床し、全軍を各一万騎よりなる三十集団にわけ、それぞれに優秀な司令官と部将を任命した。すべてがとどこおりなく終わると、全軍に進発の命令が下り、両陣営のほぼ中間まで行って敵をまちかまえた。バルカも全軍を三十五集団にわけ、これをひきいて出発し、敵前半マイルにせまった。ここでしばらく休止し、再び前進して敵より二|箭《せん》程の距離に進出した。いまやこの美しい平原には戦闘体形をとった未曽有の大軍が対峙《たいじ》した。両軍の指揮をとるものは、いずれも名だたる武人であり、しかも同じくチンギス・ハーンの後裔たる同族であった。休止することしばらく、やがてナカラが高らかにひびきわたり、死闘が始まった。
激戦は夕方までつづいたが、バルカの敗色は次第にこくなり、ついに敗走をはじめた。フラグの軍は猛然として追撃し、なさけ容赦もなくきりまくった。しばらく追撃したのち、フラグは軍をよびかえし、陣営にかえって武装をとき、負傷者の手あてをした。彼の命令によって死体は敵味方の区別なく、埋葬された。その後、フラグは将士をひきいて帰還した。
11 トクタイとノガイの戦い
キプチャク・ハーンにムングテムルという人がいたが、位は彼からトロブガに伝えられた。その頃なかなか勢力のあったトタマングという人物が他のタタール王ノガイの援助をえて、トロブガを殺し、代わってハーンとなった。彼も間もなく死亡し、トクタイという有能かつ勇敢な人物がえらばれてその後をついだ。その頃、さきに殺されたトロブガの二人の息子はすでに成人し、ともに有能かつ聡明であった。二人は精鋭な同志をひきつれ、トクタイの宮廷におもむき、謁見して申しあげた。「陛下。私たちはトタマングとノガイに殺されたトロブガの子でございます。トタマングはすでに死にましたから、何もいいますまい。しかしノガイに対しては、父を殺した人物として、正義の刃《やいば》を彼の上に加えたいのです。願わくはノガイを御前に召され、正義のおきてを行なっていただきたいのです」
トクタイはこれをきき、それが正しいと考え、ノガイのもとに二人の使者をつかわし、トロブガ王の死に関し、その息子と対決するため宮廷に出頭を命じた。ノガイはあざ笑って、出頭しないと返事した。トクタイはこの返事に大いにいかり、ノガイがここへきて二人の息子の要求をいれるか、私が全軍をひきいて攻めいり、彼を殺すか、どちらかだ、と大声でどなり、再び使者をおくり、「殿下。トクタイ陛下はさきにトロブガ王の死に関し、彼の子と対決するため、ただちに宮廷に出頭するよう申しいれ、もし出頭しなけれは、大軍をひきいて攻撃し、殿下を殺し、財産を没収すると申しあげたはずでございます。どの道をとるか、御決心のほどをお伝え願います」と伝えさせた。ノガイは怒った。「使者殿。私は彼の敵意など少しもおそれていない。もし彼が大軍をひきいてくるというなら、国境でおまち申しあげよう、これが使者殿にたのむ伝言だ」。使者からこの言葉をきいたトクタイは領内各地に使者をつかわし、将兵はただちに武装して、自分とともにノガイ征伐におもむけ、と命じ、大軍はたちまち集まってきた。これをきいたノガイもただちに軍を集めにかかったが、それほど強大ではなかったので、トクタイほどの大軍は集まらなかった。
準備がおわると、トクタイは二十万騎の大軍をひきいて進発し、広大なネルギー平野につき、ここに陣をはった。トロブガの二子も部下をひきつれて参加した。ノガイも十五万騎をひきいて出発した。数こそ少なかったが、若い勇敢なものばかりで、相手より精鋭であった。彼らはトクタイの陣どる平野に二日おくれて到着し、十六キロはなれて陣をしいた。
翌日、両軍は戦闘準備をおわった。トクタイは軍を二十集団にわけ、ノガイの軍は十五集団にわけられた。激戦はながく続いた。トクタイもノガイも、またトロブガの息子も勇敢に戦ったが、トクタイの軍は完全に敗北し、大損害をこうむって、戦場からおわれた。ノガイの軍は少数だったが、はるかに精鋭だったのである。死者はあわせて六万以上に達したが、トクタイもトロブガの二子も戦死をまぬかれて、逃走した。
12 結末
さて、これでタタール人及びイスラム教徒と、その風俗習慣、ならびにわれわれが見聞した各地のもろもろのことはのべおわった。ただ地中海とその周囲の諸国については、十分知ってはいるのだが、毎日人々が往来している場所をのべるのは無駄だと思ったから、のべなかった。ヴェネチア人、ジェノア人、ピサ人など、いつもこの海を航海している人はきわめて多いし、彼らも十分知っている。
われわれがフビライ・ハーンの宮廷を出発したときのことは、本書の冒頭でのべておいた。その箇所でマフェオ、ニコロ、マルコの三人が大ハーンから出発の許可をうるのに非常な苦心をしたことも、出発できるようになった好機についてものべておいた。この好機がなかったら、われわれがいかに苦心したところで、出発できなかったであろうし、帰国もできなかったであろう。われわれが帰国でき、かつ、世界のいろいろのことを世に知らせることができたのは、神の恵みだと私は信じている。本書の序説でのべたように、キリスト教徒にしろ、イスラム教徒にしろ、はたまたタタール人たると異教徒たるとを問わず、ヴェネチアの高名な市民、ニコロ・ポーロの子息マルコ・ポーロほどに、ひろく世界を旅行した人はないからである。
神に感謝せよ。アーメン。アーメン。(完)
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解説
日本をジパングまたはチパングの名で、ヨーロッパにはじめて紹介したのはマルコ・ポーロであった。その意味で彼の名はわれわれの間によく知られている。しかし彼がはじめてヨーロッパに紹介したのは日本ばかりでなく、アジア全部といってよかった。極東についてほとんど何も知らなかった中世のヨーロッパ人に、アジアのいろいろな知識を豊富にあたえた彼の功績は、まことに偉大なものであった。彼の東方旅行記は、旅行記というよりは見聞録、あるいは地理書であり、これがヨーロッパ人のアジアへの眼をひらかせたのだ、といってよい。
彼の生涯、旅行記の成立、内容などをのべるに先だって、今まであまり注意されなかった点を、まずのべておきたい。
第一は、マルコ・ポーロはもともと商人であり、この書は商人の書いた見聞談だということである。どのような商品を専門にとりあつかっていたか、くわしいことはわからないが、おそらくは主として宝石、真珠、黄金など、量が少なくて高価な物品を取り扱い、ほかに時におうじて香料、薬種、織物、毛皮なども売買したらしい。彼の父および叔父も同様で、二人はこのような品物をたずさえて、コンスタンチノープル、今のイスタンブールからキプチャク・ハーンのもとへ旅行し、偶然の事件から、そのまま極東の元朝の大ハーン、フビライ皇帝のもとへきた、そしてこの地での商取引が非常に有望なことに着目するとともに、このときすでに多大の利益をあげていたと思われる。
そのため再度来朝の際には、ニコロの一人息子マルコをもつれて、まっすぐ中国へやってきた。しかしそれ以後この二人が何をしていたかは、この書のなかにはしるされていない。マルコ・ポーロだけは大ハーンに寵愛され、宮廷で活躍したり、使節として各地に派遣されたりしたことはたしかであるが、それも滞在の全期間を通じてそうであったとは断言できない。彼ら三人は帰国のとき、巨額の財産を宝石などにかえてもちかえったというから、ニコロとマフェオの二人は滞在中、商人として活躍し、マルコの手引きもあって、そのような富をつかんだのであろう。またマルコも、父や叔父の指導のもとに商人としての目をこやし、腕をみがいたことだろう。本書の中には、各地の産物が実に詳細にしるされ、とくに宝石、真珠、金銀についてくわしいのは、この間の事情を物語るものであろう。
当時イタリア諸都市の商人は、地中海を中心に、世界各地に活躍していた。現在記録はのこっていないが、マルコ・ポーロ家の三人以外にも、極東の地をふんだイタリア商人は相当あったらしい。元朝側の記録には時おり、「発蘭」の使節が元に朝貢したということが見える。発蘭とはフランクの音訳で、イスラム教徒がヨーロッパ人をさした言葉であり、それがいわゆる色目人によって中国に伝えられたのであろう。従って発蘭の使節がきたというのは、当時のヨーロッパの商業の中心イタリアの商人が商売のため、中国にきたことを意味するものと考えられる。中国では古来、外国を対等にとりあつかわず、貿易にも朝貢の形式を強制したので、外国商人は多くは国王の使節という名目で来朝し、持参の品物を中国皇帝に献上し、皇帝は返礼として、それに数倍する価格のものを賜わる習慣になっていた。また、持参した品物のうち、一部の珍品だけを献上し、その他の品物の売却をゆるされることもあった。
第二に知っておかねばならぬことは、ポーロ家のものは、元朝のフビライ・ハーンの使節としてヨーロッパに派遣された、ということである。第一回はローマ法王のもとへおもむき、第二回はフランス、イギリス、スペイン等のキリスト教国の王のもとに派遣された。チンギス・ハーンのたてた蒙古大帝国は、フビライのときにいたって完全に分裂した。エゲデイ・ハーンたるハイドゥはキプチャク、チャガタイ両ハーンの支持をえて、大帝国の主権を要求してフビライとあらそい、フビライはペルシアに君臨するイル・ハーンの支持をえて、これに対抗したが、ハイドゥ派の強力な攻勢は、ともすればフビライを苦境におとしいれた。本書第六章にも、ハイドゥの活躍がえがかれている。
当時ヨーロッパのキリスト教徒は、聖地回復のため、しばしば十字軍を派遣して、イスラム教徒と抗争していたので、キリスト教に好意をよせるイル・ハーンと同盟する希望を持ち、これと親交をむすぶにいたったが、この企図はまだ実現していなかった。イスラム教徒の側では、エジプトのアイユーブ王朝およびマムリュク王朝は東地中海沿岸を領有して、東方貿易独占の意図をもっていたので、イスラム教徒であり、しかもイル・ハーンと争っていたキプチャク・ハーンのベルケと同盟しようとし、しばしば使節をつかわして親交をつよめつつあった。ベルケはバトゥなどとはちがって熱心なイスラム教徒で、フラグがバクダードのアッバース朝をほろぼしたことに憤慨しており、しかも良好な牧野に富むアゼルバイジャンの領有権をめぐっても、フラグと抗争し、それが戦争にまで発展していたのである。本書第六章に見えるベルケとフラグとの戦争の記事はこれをさすものであり、さらにニコロとマフェオの二人が、最初キプチャク・ハーンのもとにおもむいて、コンスタンチノープルに帰れなくなり、やむなく東方に迂回しようとしたのも、この戦争のためであった。ベルケとの戦争が長くつづいたため、イル・ハーンは敵を牽制するため、ヨーロッパのキリスト教徒と結んで、地中海沿岸への進出をはかり、ヨーロッパ諸国にしばしば使節を派遣していた。
フビライは現在知られている限りにおいて、前後三回ヨーロッパへ使節を派遣している。彼は景教徒〔ネストリウス派キリスト教徒〕であった母の影響をうけて、ヨーロッパのキリスト教世界に関心をもち、彼の宮廷にニコロとマフェオが現われ、ヨーロッパの事情を伝えたとき、彼らを親善使節として派遣することを思いたった。ローマ法王に宣教師百名の派遣をもとめたのである。これは本書の序説にのべられている通りである。しかし二人がヨーロッパについたとき法王は空位であった。新法王の選挙されるまでの間、二人は故郷ヴェネチアでまっていた。ようやく新法王がえらばれたが、彼らはマルコ・ポーロをつれてすでに中国への旅に出発していたので、法王は事をいそぎ、わずか二名の宣教師を派遣したにとどまり、しかもこの二人もアルメニアからひきかえしてしまった。ポーロ家の三人がフビライのもとについたのは一二七四年頃と推定されるが、当時フビライは六八年にはじまったハイドゥの乱の対策に苦心しており、新しく彼らからきいたヨーロッパ情勢を利用し、イル・ハーンとの同盟をさらに拡大し、ヨーロッパのキリスト教諸国を加え、蒙古、中国、ペルシア、ヨーロッパをつらね、ハイドゥの勢力下にある中央アジア、ロシアを包囲する態勢をつくりあげようとした。
この意図を実現するため、第一段階として、七五年頃、ソーマとマルコスという二人のウイグル人景教僧をヨーロッパに派遣した。これが第二回の遣使である。二人は戦乱のあいまをぬって陸路ペルシアに入り、しばらくここに滞在したが、偶然のことからマルコスは一二八一年、第五十八代の景教々主にえらばれ、マール・ヤバラハ(またはヤハブアラハ三世)となって、動けなくなり、ソーマのみ八七年ローマ法王のもとにおもむいた。このときも法王は空位で、いつえらばれるか不明だったので、パリに赴いてフランス王フィリップ四世と謁し、ガスコーニュでイギリス王エドワード一世に謁し、翌八八年ローマにもどり、新法王ニコラウス四世に謁した。この使節も親書と宣教師派遣要請が目的で、その結果として八九年モンテ・コルヴィノらの修道僧の中国への派遣が実現し、中国および内蒙古にはじめてカトリックの布教をみることとなった。しかしソーマは戦乱のためペルシアから帰国できず、コルヴィノらの中国到着もフビライの死の直後であったため、皇帝は第二回の遣使の結果を知ることはできなかった。
第三回の使節としてえらばれたのは帰国を希望していたニコロ、マフェオ、マルコの三ポーロであった。本書の序説にもあるように、フビライはフランス、イギリス、スペイン等のキリスト教国の君主への親書を託した。ローマ法王に託していた希望がなかなか意のごとくならないので、今回はこれら諸君主によびかけることになったのであろう。しかし彼ら三人のヨーロッパ到着前にフビライは没し、それをイル・ハーンの領内で知った三人が、はたしてその使命を遂行したかどうかは不明である。要するに、フビライの遠大な計画はついに実現しなかったが、歴史上におけるポーロ家の三人の役割がこのようなものであったことは、十分注目されてよい。
一 マルコ・ポーロの生涯
「ヴェネチア人は水中に生活し、世界でヴェネチア人以上に海との闘争に適した国民はない」とは、十一世紀のイギリスの年代記作者の言である。ヴェネチアのような「島」の状態は、中世ではたぐいなき優越性をもっていた。それ故にこそ、中世におけるヴェネチアの商業活動はめざましかったのである。ほぼ南北に細長いアドリア海は、南方のみを地中海にひらき、ヴェネチアはその最も奥にくらいする都市であったため、完全に時化《しけ》の影響をまぬがれていた。背後地への交通はブレンタ河によって行なわれ、しかもこの河をさかのぼれば、道はアルプスをこえて北ヨーロッパに通じている。したがってヴェネチアはヨーロッパ中北部と地中海沿岸諸国との自然の仲介者の地位をしめている。しかも多くの船はこの町から出帆して、近東および北ヨーロッパの諸国にむかっていた。
五世紀ごろまで、ヴェネチアの地は漁師がすんでいるだけの島にすぎなかった。五世紀中頃、フン族が一時北イタリアに侵入したが、これをおそれた付近の富豪や上流階級のものが、この島に避難した。これが発達のはじめであった。その後この地はローマ帝国のゲルマン人傭兵長オドアケル、東ゴート王国、東ローマ、と度々その支配者をかえたが、その間、ゲルマンの一支族ロンバルド人の北イタリア侵入の際、アクィリアの司教やヴェローナの富家たちがこの地にのがれた。これはヴェネチアの地位をかため、発展をうながした。しかし発展の基礎となったのは、この地が交通の要地であったこと、ならびに付近の海岸の森林が造船業に十分の資材を提供したことであった。
この頃から商業都市として発展しはじめ、まず東ローマとイタリアの間の商品の運搬をおこない、産業としては製塩業がおこって巨利をはくした。住民もようやく増加し、富も増加し、ヴェネチアの勢力は北イタリアでも有数のものとなってきた。やがて東ローマが衰えてくると、他のイタリア諸都市と同様、ヴェネチアも独立の姿勢をしめし、六九七年にはドージすなわち市長がえらばれ、独立性を強めてゆき、チャールス大帝がイタリアに勢力をのばすや、これと交渉して独立を承諾された。商業活動も活発となった。
産業として造船業はとくに有名であった。これが基礎になって他の都市よりはるかにすぐれた大海軍をもつにいたったが、この大海軍こそはその後のヴェネチアの繁栄をまもり、かつその発展に貢献した。ヴェネチアがサラセン人に対抗できたのも、商業上の競争者ラヴェンナ市にうち勝ったのも、この海軍があったからであった。九世紀末にはヴェネチア人は西フランク領内の河川の通行権ならびに免税の特権をえ、十世紀にはダルマチア、クロアチア方面に進出していた。十一世紀には東ローマと連合して、アドリア海西部に侵入したノルマンをやぶり、さらにこれが契機となって東ローマはヴェネチア人に国内のあらゆる港に上陸することをゆるし、輸出品を免税とし、首都コンスタンチノープルその他の重要都市に土地をあたえ、倉庫を設けさせ、東西貿易に有利な地位をあたえた。
この頃、イタリアの著名な都市国家としては、ヴェネチアのほかに、ジェノア、ピサなどがあったが、これら諸都市の発展をさらに促進したのは、十数回にわたる十字軍の遠征であった。そしてついにイタリア諸都市は、これまで東ローマ帝国がもっていた東西貿易の商権を奪ってしまった。イタリア諸都市の海上活動は、十字軍時代には東部地中海沿岸に及ぶようになり、さらにエジプト方面にも活躍が見られるようになった。このエジプト貿易は一二〇二年から一二〇四年にわたって行なわれた第四回十字軍を契機に発展したもので、この十字軍の目的地をエジプトからコンスタンチノープルに変更させたのはヴェネチアであり、しかもその結果、東ローマ帝国を一時的ながら占領しえたことにより、ヴェネチアの勢力が増大したが、一方エジプトも目的地変更の功労者としてヴェネチアに感謝し、ためにエジプト貿易において、これ以後、ヴェネチアが優勢をしめすこととなった。
十二世紀はじめから中頃にかけては、イタリアの商業都市のうち、ヴェネチアとジェノアがもっとも繁栄をきわめていたが、ヴェネチアの方がいくぶん優勢と見られていた。競争者の地位にあったジェノアは相手の勢力をそごうとして、シリアおよび黒海方面ではげしい競争をはじめ、五六年には武力闘争にまで発展したが、ヴェネチアの王座はゆるがなかった。しかしその後ニケーの皇帝ミカエル・パレオロゴスがラテン王国を滅ぼし、旧東ローマ帝国を復興しようとしたとき、ジェノアはこれを利用して、コンスタンチノープルにおけるヴェネチアの地位をくつがえそうと考え、これと同盟した。ローマ法王はこれに反対し、ジェノアを破門するという事件にまで発展したが、ジェノアはこれをおしきり、その海軍は一二六一年ラテン王国をたおし、パレオロゴスは東ローマ帝国を回復した。功によってジェノアはコンスタンチノープルに土地をえ、勢力をかため、国内のあらゆる港の出入り権をえ、黒海方面ではクリミア半島のカファに植民地をつくるなど、非常に発展し、ヴェネチアは一時コンスタンチノープル及び黒海方面の商業から除外されることとなった。これ以後、東地中海におけるヴェネチアの勢力はようやく衰えはじめる。
ニコロ・ポーロ、マフェオ・ポーロ、そして本書の主人公たるマルコ・ポーロなどは、以上のような情勢のうちに東方世界への旅行をこころみたのである。もっとくわしくいえば、ヴェネチアがその敵手たるジェノアのために、東ローマ方面および黒海方面の勢力をうばわれようとしているときに、ニコロとマフェオの旅行が行なわれた。この二人がキプチャク・ハーンのいるサライから、はるか東方のフビライの宮殿まで、偶然とはいいながら、とにかく長い旅行を行なったのも、東ローマおよび黒海方面の商業が、ヴェネチアにとって面白くなくなりつりあったことから見て、一つはその方向転換、またあたらしい市場の発見のため、という理由もあったと考えなくてはならないであろう。サライから中央アジアのブハラヘ、さらにアジアの東端にあるフビライの宮殿まで足をのばしたのは、戦乱で帰国できなかったという理由だけでは、どうしても説明できないほどの長距離の旅行なのである。
彼らはフビライの支配する東アジアに商業上の処女地を発見した。この地方の富と、この地方との通商による利益は彼らを狂喜させた。彼らはこの利益を自分たちの手に独占すべく、その後継者をつれて必ずやふたたびこの地にあらわれるはずであった。この後継者が、ニコロの子マルコ・ポーロであった。
ポーロ家の家系はよくわかっていない。マルコ・ポーロが東洋への長い旅をおえて帰ったのち、彼の話が大評判となり、それは彼の死後もつづいていたため、彼に関する伝説的な話が相当に作りあげられ、家系についても種々とり沙汰されたが、結局のところ、信用するにたりないものが多い。ポーロ家は十一世紀にダルマチアのセベニコからヴェネチアにきたといわれているが、これも信用できない。マルコ・ポーロの確実な祖先は、十三世紀のはじめに生存していた彼の祖父からはじまっているにすぎない。ポーロ家には二つの分家があった。一つはサンジェミアにすみ、一つはサン・フェリスにすんでいたが、サン・フェリスのポーロ家のアンドレア・ポーロには、マルコ、ニコロ、マフェオの三子があり、次男のニコロこそ、本書の主人公マルコ・ポーロの父であった。この家が貴族であったかどうかについてははっきりしなかったが、近年、マルコ・ポーロが個人としては貴族と自称していたことを認定する証拠が、ヴェネチア市の評議会の法律関係の記録の中で発見された。
アンドレアの息子三人はいずれも商業にたずさわり、しかも共同で行ない、ニコロとマフェオが長く東洋におもむいていた留守の間にも、この共同事業は良好にたもたれていた。従ってニコロとマフェオは安心して再び東洋に赴くことができた。
ヴェネチアに帰着して二年後、ニコロとマフェオはニコロの子マルコ・ポーロをあらたにともなってフビライの宮廷にむかった。自分らの発見した商業上の処女地を他人にうばわれたくなかったのが最大の理由であったろう。これより以後のことは、本書の序説にくわしいので、ここでは省略する。
三人はフビライ・ハーンのもとから、一二九五年のある時期にヴェネチアに帰着した。彼らがヴェネチアに着いて、土地の人々にいかにむかえられたかについては、イタリアのジョン・バプティスト・ラムージオ(一四八五〜一五五七)の書いたものが最もくわしい。ラムージオは地理学に関する造詣がふかく、ヴェネチアにいまだマルコ・ポーロについての伝説がさかんに行なわれていた時代に、マルコの書「東方見聞録」のイタリア語訳をこころみ、一五〇〇年以前にヴェネチアを訪れ、ポーロ家の最後の人々から直接マルコ・ポーロの話をきいた老人にあって、いろいろと尋ねたといわれる。マルコ・ポーロら三人の帰還の際のことをラムージオはつぎのように伝えている。これももちろん伝説かも知れないが、しかし伝説にしても、あまりにもうるわしい伝説である。しかもこれ以外には、帰還の際の情景を伝えたものは、なにもない。
「彼らはその生まれた町から非常に長い年月の間はなれていたため、親戚のものは、だれ一人として彼らを識別できるものはなかった。親戚のものはいずれも、彼らがはるか以前に死んだものと、かたく信じ、事実、その死亡が報告されていた。その旅行が長期にわたり、かつ困難であったことや、たえしのんできた苦悩と不安とのために、彼らの容貌はまったく変わってしまったし、態度も調子もタタール人そっくりの味をもっていて、ヴェネチア人の言葉など、すっかり忘れていた。彼らの着衣もまた粗末なみすぼらしいもので、タタール風のものであった。
到着するや、彼らはこの都市のサン・ジョヴァンニ・グリソストモにあるその家にむかった。この邸宅は今ものこっている。この家は当時では立派な御殿であったが、今では私(ラムージオ)が後にのべるような理由で、『百万御殿』の名で知られている。そこについた彼らは、屋敷が親戚のあるものに占領されているのを知った。そして、自分たちが何者であるかを理解させるのに、すこぶる苦心したというのも、これら善良な紳士たちは、第一、容貌が昔とちがっていたし、着衣はみすぼらしかったし、しかもはるか以前に死んだものの列に、はいったと考えられていたのであるから、これがあのポーロ家の紳士たちであるとみとめることを、親戚たらは断然拒絶した。そこで三人の紳士は――この話を私は少年時代にしばしば、非常に高齢の紳士ガスパロ・マルピエロ氏からきかされた。この紳士の家はサンタ・マリナ運河のほとり、ちょうどリオ・ディ・サン・ジョヴァンニ・グリソストモの入口にのぞむ角のところにあり、百万御殿の建物の間の中途にあった。彼はこの話をその父や祖父、また近所の老人たちからきいたとのことである――そこでこの三人の紳士は、ただちに、親戚たちからまさしく彼らであると認められ、かつ全市のすばらしい注目のまとになるような計画をめぐらした。
彼らは多くの親戚を宴会にまねき、彼らの家をとくに豪華に準備した。着席の時間がくると、三人は、当時の人々が室内で着るような、床まで達する長い、深紅のしゅすの衣服をきて、部屋にあらわれた。手をあらう水が出され、宴会がはじまると、これらの衣類をぬぎすて、深紅のダマスク織りのものを着し、最初のものはきりさいて、召使たちにあたえるように命じた。料理がいく皿か出されたあと、彼らはいったん部屋のそとへ出て、深紅のビロードの服を着てもどったが、着席するや、第二番目の衣類は前と同様にわけあたえてしまった。食事がおわると、同席の人々が着ているのと同様の、普通のスタイルの服をつけ、ビロードの服を同様に処分した。これらの経過は来客の間に非常な驚異をまきおこした。しかし食事がとりかたづけられ、召使が全部食堂から退出を命ぜられたとき、三人のうちの最年少者として、マルコ氏がテーブルからたちあがり、別の部屋にいって、ヴェネチアに到着したときの、粗末な毛織りの衣服を三着もちだしてきた。彼らはただちに鋭いナイフで、ぬい目やつぎ目をきりさき、そのなかから、ルビー、サファイヤ、紅玉、ダイアモンド、エメラルドのような高価な宝石をおびただしくとりだしはじめた。それらはすべて、考えもおよばないような巧妙な方法で、これらの衣服の中にぬいこまれていたのである。フビライ・ハーンのもとを辞するにあたって、それまでに貯えたすべての富を黄金にかえるだけでは、あのきわめて長い、かつ困苦にみちた旅行をのりきってはこぶには、それがあまりにも巨額で、ほとんど不可能なのを知っていたので、すべてをルビー、エメラルドその他の宝石にかえたからである。
眼の前のテーブルの上にひろげられた宝石のすばらしさは、来客をあたらしい驚嘆のうちに投げこみ、彼らはまったく頭が混乱し、茫然自失したようであった。そしていま彼らは、以前の疑惑をすっかりすてて、三人の主張するとおり、これこそあの有名なポーロ家の尊敬すべき紳士たちであるとみとめ、すべての人々は彼らに最大の敬意をはらうにいたった。
この話がヴェネチア市内につたわると、ただちに全市は貴賎上下をとわず、あらんかぎりの親愛の情と尊敬の意をしめして、彼らをとりまき、むらがった。最年長者たるマフェオ氏〔ラムージオは誤ってマフェオをニコロの兄と考えていた〕にたいしては、当時では大きな威厳をもっていた名誉ある地位がさずけられ、一方若い人々は毎日マルコ氏のもとにやってきて、いつも丁寧な彼と話しあい、カタイおよび大ハーンについて質問し、これに対しマルコ氏は、すべて親切丁寧にこたえた。そして彼がいつもくりかえすことを求められた話の中で、大ハーンのすばらしさについて、その収入を黄金一千万とか、一千五百万とか、大きな数でかぞえたり、同じくこれらの地域における大きな富の他の例についても、百万なる語を常にもちいるということから、人々は彼に『百万のマルコ殿』というあだ名をつけた。この名は、私自身も、ヴェネチア共和国の、彼についてのべられている公文書のうちに見いだした。サン・ジョヴァンニ・グリソストモにある彼の邸宅もまた、その時以来、ひろく『百万御殿』として知られるにいたった」
マルコ・ポーロたちは、ヴェネチアを留守にすること足かけ二十六年、すなわち一二七一年末にこの地を出発し、七四年ごろ上都に到着して、それより九〇年まで足かけ十七年間フビライにつかえ、九〇年にザイトンすなわち泉州を出帆して帰路につき、九五年に帰着したわけである。この二十六年の間に、彼の家族にも一族にも、多くの変化があったであろうが、くわしいことはわからない。そしてこれ以後のマルコ・ポーロの生涯も、くわしいことは知られていない。しかし彼ら三人が東洋からもちかえった莫大な数の宝石を、あるいは売却して巨利をえ、あるいはこれを資本にして、ふたたび商人としての活動をはじめるにいたったことは疑いない。
彼の帰国に先立つこと四年、一二九一年にエジプトのマムリュク王朝は東部地中海沿岸に手をのばし、アクル、シドン、チルスなどの諸都市を陥落させ、フランク人は放逐され、これに伴ってヴェネチアの東部地中海貿易は大打撃をうけた。いきおいヴェネチアはエジプト貿易においてジェノアをおさえることに力をいれなけれはならなくなっていた。そしてヴェネチアとジェノアの関係も悪化し、交戦状態がつづいた。九四年春にはギリシア沖でヴェネチア艦隊はジェノアの船三隻を捕えたが、つづいておこったアヤス湾内の海戦では、三隻をのぞくヴェネチアの全艦隊がジェノア艦隊に捕われ、両者のもえあがる敵愾心は絶頂に達した。法王ボニファティウス八世の調停の努力も無駄におわり、これより数年間、両者の間の小ぜりあいが連続的におこなわれた。
ポーロ家の三人のものがヴェネチアにかえったのは、ちょうどこの頃であった。そして九八年、ヴェネチアとジェノアの両海軍のクルツォラ沖の海戦がおこり、ヴェネチア側は敗北し、マルコ・ポーロも捕虜となった。クルツォラ島はアドリア海の中央に近いダルマチア沿岸にあり、海戦はその東方で行なわれた。当時、軍艦は都市の有力な貿易商が、自分のぞくする都市や商船を敵からまもるために、自分らで武装し、かつその維持費をも負担する習慣であった。ポーロ家でもこのような軍艦を一隻、ヴェネチア艦隊のうちに加えていた。マルコ・ポーロは軍艦の紳士指揮官であったというが、紳士指揮官とは艦長のかたわらにあって、必要におうじてその相談相手になるもので、おそらく彼はポーロ家の握供していた軍艦にのっていたのであろう。このときジェノア側に捕えられた捕虜の数は約七千と伝えられているが、その処置については、同情心をもって待遇されたともいうし、大部分餓死したともいい、記録はまちまちである。待遇がどうであったにしろ、マルコ・ポーロはこれら数千の捕虜の一人として、ジェノアの獄舎につながれる身になった。そしてこの獄中でピサの物語作者ルスティケロといっしょになり、それが「東方見聞録」の世に出る機縁となった。
一二九九年五月、ヴェネチアとジェノアはミラノ市で平和条約に署名した。この条約は対等の立場で結ばれているが、これはクルツォラ沖の海戦後、ジェノアがヴェネチアに決定的打撃を与えなかったためである。この条約により捕虜は釈放されることになり、八月末以前にマルコ・ポーロはヴェネチアの自宅にかえることができたらしい。すなわち約一ヶ年の捕虜生活を送ったことになる。
捕虜生活をおえてヴェネチアに帰ったのちの彼の伝記は、とぎれとぎれにしかわからない。父ニコロがこのとき生きていたかどうかはわからないが、少なくとも、一年後の一三〇〇年八月には、もはや生きていなかった。叔父のマフェオはたしかに生きていた。その死は一三一五年から二〇年までの間におこったようである。
マルコ・ポーロが『百万』というあだ名を当時の人々からもらったことは、前にもふれたが、あだ名の由来については、ラムージオの説明が正しいようである。これによると、彼がフビライ・ハーンの宮廷のすばらしい富およびその偉大さについての観念をあたえるために、当時としては普通でないように見える言葉、とくに単位をしばしば用いたために、ヴェネチアの若い才人たちが彼につけたあだ名である。しかしこのあだ名たるや、愉快にも一三〇五年のヴェネチア共和国の評議員会の議事録のうちに、ある葡萄酒密売者の処罰にたいする証人の一人として「マルコ・ポーロ、百万」としるされて、百万の名を公文書にさえとどめている。
しかしこの百万のあだ名は、もちろん、心からの尊敬から生まれたものではない。彼の死んだはるか後に、ヴェネチアの仮面劇のうちには、『百万』のマルコの性格をうつした特定の人物がつねにおり、民衆をよろこばすために、大ぼらをふいたといわれている。これは真実らしく、こんなのがその郷党の間における大旅行家にたいする尊敬であった。一時はマルコ・ポーロといえば単なる大ぼらふきを意味する言葉となり、それははるか英国の地にさえおよび、シェイクスピアの戯曲のうちには、マルコ・ポーロなる語が大ぼらふきとして取り扱われているほどである。
マルコ・ポーロがいつ結婚したか、はっきりはわからないが、それは十四世紀のはじめだったらしい。妻の名はロレダノといったらしく、その洗礼名はドナタである。そして一三二四年には彼はすでに未婚の娘一人のほかに、既婚の娘が二人あった。
一三二四年のはじめ、彼はすでに病床にあって苦しみ、身体は日一日と衰弱していた。同年一月九日、彼は神父をよんで遺言し、遺言状をしたためた。内容は主として財産の処分に関することであった。その後どのくらい生存していたかは、はっきりしない。死亡の日付はわからないが、それが一三二五年六月より前であったことは確実である。かれはその希望によってサン・ロレンゾの教会内に葬られたはずであるが、サン・ソビノだとの説もある。現在では、彼の墓の所在地さえ不明なのだ。墓所ばかりでなく、彼の肖像も確実なものはない。本書にかかげた写真も、実は確実なものでなく、後世のものである。
二 旅行記の成立
マルコ・ポーロが捕われの身となって、ジェノアの獄舎にあったとき、同じ捕虜仲間にピサの物語作家ルスティケロなる人物がいた。われわれはこのルスティケロに感謝しなければならない。彼がいなかったら、そして彼が捕虜としてマルコ・ポーロとともにこの獄にいなかったら、今日、彼の旅行記に接することはできなかったにちがいないからである。
十三世紀後半、地中海貿易に活躍したイタリア諸都市のうち、第一流のものはジェノアとヴェネチアであり、ピサは第二流であったが、位置の関係上、ピサはジェノアと長く敵対関係にあった。一二八四年七月、メロリア沖の海戦でピサ側は大敗北を喫し、九千人以上の捕虜がジェノアにおくられた。八八年、両者の間に平和条約が結ばれたが、捕虜は釈放されなかった。そして九八年、クルツォラ沖で捕われたヴェネチア人捕虜がジェノアの獄になげこまれたとき、ピサの捕虜が、数は少なくなっていたが、そこにのこっており、ルスティケロもそのうちの一人として、マルコ・ポーロと出あったわけである。
ルスティケロについてはよくわかっていない。しかし英国の有名な伝説「円卓騎士の物語」をロマンスとして書き、さらにトリスタン物語やその他多くのロマンスを書いて、フランス文学史上、ルスティシエン・ド・ピーズの名で知られている。彼は筆が非常に早く、いろいろの冒険談が何の連絡もなくかかれていることからおして、活動的な、頭の簡単な人物であったらしい。
マルコ・ポーロは捕われの身であったとはいえ、ヴェネチアの名士として知られていたので、きわめて寛大な取り扱いをうけ、自由に人々と会見することもできたし、ジェノアの人も彼の東方旅行の話をきくために、獄中にかれをおとずれることが多かった。彼は同じ獄中のルスティケロと知りあいになり、物語作者たる彼は、おそらく根ほり葉ほり旅行談をきいたらしい。そしてこれを一書にまとめあげる気になり、マルコもこれに応じて、ヴェネチアの父のもとに手紙をおくり、もち帰ったノートやおぼえ書きを送ってもらい、これを基礎にルスティケロは旅行記をまとめあげた。それは非常に短い期間にできたものらしい。ある刊本の序には一二九八年、すなわち捕虜になった年のうちにできた、とのべている。この最初に書かれた原本は、きわめて粗野拙劣なフランス語でかかれ、その点はルスティケロの他の作品と同様であった。なお彼は決してマルコの口述をそのまま筆記したのではなく、ノートやおぼえ書きにもとづき、自分の文体を駆使してつくりあげたのである。
ルスティケロがこの書を書きあげて間もなく、マルコ・ポーロは自由の身となり、つづいてルスティケロも休戦条約にもとづいて釈放された。しかしルスティケロのその後のことはわからない。
マルコ・ポーロの見聞を録したこの書は、わが国では、「東方見聞録」とか、『東方紀行』とか、『マルコ・ポーロ旅行記』とか称されているが、外国でも題名はまちまちである。もともとヴェネチアでもジェノアでも、マルコから直接見聞談をきき、それを記録しておいた人も相当あったらしく、ルスティケロの書以外の彼の見聞録がかなりひろまっていたらしい。またルスティケロのものをうつす場合に、自分が直接彼からきいたところをつけ加えた人もあったと想像され、すでに彼の生存中に、内容のことなったものがいくつかあったらしい。そして内容のみならず、題名もまちまちで、それが今日におよんだ。現在この書に、内容のことなった写本や刊本がかなりあるのもそのためである。
三 旅行記の内容
この書の内容は大体二部にわけられる。第一部は序説で、マルコ・ポーロの個人的な談話の形式でかかれ、旅行そのものの概要といってよい。まずニコロとマフェオの二人がコンスタンチノープルを出発して、キプチャク・ハーンの都サライにおもむき、さらに偶然の連続によってフビライの宮廷におもむいた事情、二人がローマ法王への特使としてヨーロッパにもどった事情、マルコをともなって行った二回目の旅行、またいかにして帰国の許可をえて、ペルシアに帰ったかの事情をのべている。この部分は旅行事情を知るには興味深いが、叙述はあまりに簡単で、ものたりない。
第二部すなわち本書の第一章以下は、地理書としての内容をもち、ポーロ家の人々の旅行中の見聞を、大体旅行の順序にしたがってしるしたもので、ニコロとマフェオの第一回の旅行中の見聞もはいっており、各地についての非常に長短の差のある記述が、多くあつまっている。その内容はまず小アルメニアからはじまり、ペルシア、中央アジアをへて、上都にあったフビライのもとに到達するまでの途中の見聞があらわれ、つづいてフビライ・ハーン、その豪奢な宮廷生活、蒙古人の風俗や習慣、ナヤンに対する戦争、行政、さらに首都ハンバリクの情景などが描写されている。これにつづくのは中国各地、すなわち彼のいうカタイとマンジの地方の注目すべき景色、めずらしい風俗、揚子江を上下するおどろくべき数の船、辺境地方の蛮族の生活ぶり、大運河、おどろくべき事件、キンサイすなわち杭州の繁栄ぶりなどが、画のようにうかびあがる。つづいて彼ら一行がザイトン(泉州)を出帆して、ペルシアのホルムズにつくまでの途中の見聞がしるされている。そして最後に、冗長かつ単調な調子で、十三世紀後半に蒙古諸ハーンの間におこった雑多な戦争、たとえはハイドゥとフビライとの戦争、イル・ハーン家の内紛、フラグとベルケとの戦争、キプチャク・ハーン家の内紛などを取り扱っている。
第二部でとくに注意されることは、旅行のコースがはっきりしめされてないことである。みずからの目で見たところと、単に伝聞によってしるしたところの区別がまったくしめされていない。たとえば彼はバクダードのことをしるしているが、これが伝聞か、それともこの地を通ったのか、はっきりしないし、パミールにかかる前に、バダフシャンからペシャワール、カシュミール地方に行ったかのごとく、その伝聞をしるしているし、カシュガルの条ではサマルカンドのことをしるし、沙州ではハミやバルクル地方(サラマンダーを産することをのべている)についてのべ、甘州の条ではエチナやハラホルム、シベリアについてしるしている。帰路にあたっては、まず日本のことを紹介し、ケスマコランからホルムズまでの間に、ソコトラ、マダガスカル、ザンジバル、アフリカのエチオピア、アラビアではアデン等の港に行ったかのごとき記事をのこしている。これらはいずれも伝聞をしるしたものであるが、しかし別な航海でおもむいたジャヴァ、インド半島東岸のマアバル以北の諸港の記事もはいっている。
なおここで日本関係の記事について一言しておこう。彼は日本の事情と、フビライのつかわした日本遠征軍が失敗した経過をしるしている。これも伝聞によったもので、そのため、当時の日本の状態、遠征の経過などを知っているわれわれにとっては、彼の記事はあまりにもあいまいで、あやまりも多いように見られ、大した価値はないが、別な意味では、これは重要である。それは第一に、日本のことがヨーロッパに伝えられたのはこれが最初であること、第二は、日本がおびただしく黄金と真珠とを産出する富裕な国としてえがかれ、それが動機となって、後年のヨーロッパ人の東洋進出時代に、黄金島としての日本が、彼ら、とくにスペイン人の航海者の間でさがしもとめられた、ということである。
彼は日本をチパング、ジパングなどの名でよんでいる。中国語で発音した「日本国」の名のなまったものである。その富についての記述は、第一に、黄金を多量に産するが、もちだしが禁ぜられ、かつ非常に遠いので行くものが少なく、流出量も少ないこと、第二、王の宮殿にはおびただしく黄金がもちいられ、屋根、床などには、すべて黄金をもちいていること、第三、赤と白との真珠が無限に多く、死体を土葬にするとき、その口に真珠をふくませることなどをのべている。当時の日本では鎌倉幕府が武家政治をしき、京都を中心とする公家社会が武家に圧倒されていた時代である。彼がのべているような黄金の存在、豊富に黄金をもちいた宮殿の存在は、いかなる文献によっても証明できない。彼が何によってこの記事をかいたかわからないが、しいて想像すれは、古来中国に存在する「東方海中に神仙のすむ島がある」という伝説をもとにして、その地の王者の富を、フビライの豪華な宮殿を念頭において、想像的に語ったものがあり、彼はこれをきいてしるしたのではなかろうか。「宋史」の日本伝には、日本は黄金をおびただしく産すると伝えており、当時の中国人がそのように考えていたので、日本の国王の宮殿に黄金がおびただしく使用されているとの噂もできたのであろうが、もちろん彼は中国語を知らなかったし、蓬莱山《ほうらいさん》式な伝説が古くからあることも知らなかったので、これらの噂を無批判に信じたのであろう。
以上のように彼は、自分の見たところと伝聞によるものとを、何らの区別なくのべている。そのため、彼の旅行のコースが不明となった場合が多い。しかも、そこに見える地名が現在のどこであるかわからないものもあって、さらにコースがはっきりしない。しかしこの書を地理書としてみれば、それらは大した欠点とはならない。それどころか、伝聞を多くとりいれたことが、その後のヨーロッパにおける地理学の発展に非常な貢献をしたのである。
この書のうちに、誇張した数字や叙述があることは事実である。このような誇張がマルコ・ポーロ自身に原因があることはもちろんである。しかしこの書をまとめあげたルスティケロにも原因があったと思われる。通説によれば、彼はあまり批判力のない、活動的な人物であった。著述ぶりは非常に早かったらしい。要するにいくぶん意識のひくい職業的文士であったことは事実である。このような人物の手を通した以上、この書は、事実の内容をしるす点では、筆が早かったことから、割合に原資料に忠実であったと考えられるが、表現の点では、意識の低い職業的文士の常として、大衆性を獲得するために、かなりの誇張が行なわれたことと考えられる。しかし問題は、それがどの程度に行なわれ、原資料にすでにあった誇張とどんな関係にあったかということである。とはいえ現在、この間題の解決は困難である。われわれはただ、この書に見える誇張の責任は、マルコ・ポーロとルスティケロの両者がおうべきものだ、という以上のことはのべられない。
マルコ・ポーロはアジアを横断して、ペルシアから上都、大都までの長い道を踏破し、自らの目で見、耳できいた王国を、つぎつぎにその名をのべ、記事をのこした最初の旅行家であった。ペルシアの砂漠、高山植物のさきみだれたバタフシャンの高原と荒涼たる峡谷、気圧のひくいパミール高原、宝石のでるホータンの河、その付近に点々とつらなるオアシス、悪霊のささやくタクラマカン砂漠、ヨーロッパ人に大きな脅威をあたえた武力の発生地たる蒙古ステップ、上都とハンバリクにたてられた豪壮な宮殿などである。彼はまた、中国について、そのすべての富とおどろくべき広さ、黄河・楊子江などの巨大な河川、大きな都市、あふれるばかりの住民、海洋と内河とをいそがしく走りまわる無数の船を知らせた最初の旅行家であった。中国の辺境にすむ住民を、その珍しい風俗習慣、宗教などとともに、ヨーロッパに知らせた最初の旅行家であった。チベットの奇習、ビルマでは黄金のパゴダ、日本については金色さんらんたる宮殿をつたえた最初の旅行家である。ヨーロッパに古くから姿をあらわしながら、産地の知られなかったさまざまの香料を産する赤道付近のもろもろの島、美と驚異にみちたインド諸島は、彼によってはじめてヨーロッパに紹介された。北部スマトラの多くの王国、その山岳地帯にすむ食人種、つづいて宝石の島セイロンにある聖山とアダムの墓、これも彼によってはじめて知られたものである。アレクサンドロス大王伝説によって夢の国として紹介されたインドは、彼によって現実の国として取り扱われ、きたない苦行者、おびただしいダイアモンド、マアバルの真珠のとれる海床、彼はヨーロッパ人としてはじめてこれを見た。
以上のような彼の発見の大体の目録だけを見ても、彼がいかに偉大な知識の所有者であったかがわかる。かれは故郷の人々、いな全ヨーロッパの人々が理解できなかったくらい偉大な知識の所有者であった。彼のもつ未知の世界についての知識の量は、ヨーロッパ人の想像できないほど、おびただしかった。それは理解の限度をこえた量であり、そのため、彼は単なる大ぼらふきとして、人々に理解されるにとどまった。「百万」という軽蔑的なあだ名があたえられ、マルコ・ポーロの名は大ぼらふきを意味するものとして使われた。しかし彼ののこした旅行記の内容の大部分は、決して大ぼらではなく、事実であった。この書の真価がみとめられるまでには数世紀の長い年月が必要であった。たとえは中央アジアについて見ても、彼の記事の正確さは、ようやく十九世紀末から今世紀のはじめにかけてわかってきたにすぎない。中央アジア探検家として有名なスタインやスヴェン・ヘディンなどは、探検の際、かならずこの書を持参し、踏査の結果をこの書と比較したが、彼の記事が十三世紀のものとしては、非常に正確なのにおどろいている。
マルコ・ポーロの旅行記の版本には実にいろいろなものがあり、その数は多い。それらのうち、学術的に内容について研究しているのは、英国のユールの訳注に、フランスのコルディエが補注をくわえた、いわゆるユール・コルディエ本(The Book of Sir Marco Polo, The Venetian concerning the kingdoms and marvels of the east,translated and edited,with notes by Colonel Sir Henry Yule,third edition,revised throughout in the light of recent discoveries by Henri Cordier,London,1921)であり、精密な考証と注釈は他に類がない。他にポーティエ本系統の諸本、マースデン本系統の諸本があり、近くはイタリアのリッチ本系統のものがある。この邦訳はユール・コルディエ本を主とし、他の諸本を参考としてできたものである。もちろんこの邦訳は純学術的なものではない。純学術的なものとしては、別に岩村忍氏著『マルコ・ポーロの研究』(筑摩書房刊)があるから、それを見られたい。
原文には反覆が多く、無用の挿入句もしばしば見られる。万事のんびりしていた時代の文章だからであろう。それでこの邦訳では、そのような個所には少し省略をほどこし、つとめて読みやすいようにした。また煩雑と感ぜられるほどに見出しが多い。見出しは相当整理して少なくしたが、内容はそのままのこした。地名・人名についても、マルコ・ポーロの聞き誤り、筆写の際の誤写などから、ゆがめられて書かれているものが多いが、重要でないものは現名または正しい名に書きあらため、ある場合には原名をのこし、注をつけた。また当時ヨーロッパ人は蒙古人をタルタル人とよんでいた。これは間違いではなく、タタール人(蒙古民族の一つで、チンギス・ハーンに滅ぼされ、生存者は戦闘の際、前線にかりだされた。ヨーロッパで捕虜となったタタール人から、蒙古人をタタール人としたのである)の名を故意にもじったものであるが、これもタタール人と改めておいた。中国の地名のうち、ハンバリク、キンサイなど著名なものは、そのまま用いて注をつける方法をとったが、揚州とか、宝応とか、わかりきっているもので、重要でないものは注をはぶいた。ただし同じ地名でも、現在のどこかわからないもの、研究者によりいろいろな土地に推定されているものは、その旨を注するか、?マークをつけた。また、訳者のつけた注は括弧〔 〕を用いて、原文と区別した。要するに、よみものとしての見地から、幾分の訂正、省略をこころみてはあるが、原著の意図するところとか、事実とかには、忠実に訳してあることを諒承されたい。