心は孤独な狩人
カースン・マッカラーズ/河野一郎訳
目 次
第一部
第二部
第三部
解説
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リーヴズ・マッカラーズならびにマーガリート・スミス、レイマー・スミスに捧《ささ》げる
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第一部
町にはふたりの唖《おし》がいた。ふたりはいつもいっしょだった。毎日朝早く家を出ると、腕を組んで町の通りを働きに出かけた。しかし友人同士とはいえ、まるで違ったふたりだった。舵《かじ》取り役は、でぶでぼんやりとしたギリシア人だった。夏になると、彼は黄色か緑のポロシャツの前をぞんざいにズボンにたくしこみ、うしろはだらりと垂《た》らしたまま家から出て来た。陽気が寒くなると、その上に不恰好な灰色のセーターを着こんだ。てかてか光る丸顔の男で、目をなかば閉じ、口もとは間のぬけた穏やかな微笑にゆがんでいた。相棒のほうは背が高かった。目にも機敏で聡明《そうめい》な表情があった。いつもきちんとしていて、いたって地味な身なりだった。
毎朝、ふたりの友人は押し黙ったまま、つれだって町の本通りまで歩いて行く。やがて、くだものや菓子を売る、とある店の前まで来ると、ふたりはおもての歩道にちょっと立ちどまる。ギリシア人のスピロス・アントナープロスは、このくだもの屋の持主である従兄《いとこ》の手伝いをしていたのだ。菓子を作ったり、くだものの箱をあけたり、店の掃除をしたりするのが彼の仕事だった。やせたほうの唖のジョン・シンガーは、相棒と別れる前、たいていきまって片手を相手の腕にかけ、ちょっと顔を見つめた。この別れがすむと、シンガーは通りを横切り、銀製品の彫刻師として働いている宝石店へ、ひとりで歩いてゆくのだ。
夕刻になると、ふたりはまた落合った。シンガーはくだもの屋までやって来て、アントナープロスの仕事がひけるのを待った。ギリシア人は桃やメロンの箱をものうげにあけたり、菓子を作る店の奥の台所で漫画新聞を眺《なが》めたりしている。つれだって帰る前に、アントナープロスはきまっていつも、昼間台所の棚《たな》に隠しておいた紙袋の口をあける。袋の中には、くだものやキャンデーの見本、レバーソーセージの切れはしなど、彼の集めておいたさまざまな食べ物がはいっていた。たいてい店を出る前に、アントナープロスは肉やチーズの入れてある店頭のガラス・ケースのところへそっと歩み寄る。そしてケースのうしろをあけると、肥《ふと》った手をさしこみ、前々から目をつけていたおいしい食べ物を、さもいとしげに手さぐりするのだ。ときには、店のあるじである従兄の見ていないこともあった。しかし気がつくと、従兄は青ざめたきつい顔に警告の表情を浮かべてにらみつけた。アントナープロスは悲しげに、目的の食べ物をケースの隅《すみ》から隅へと移すのだった。そのあいだ、シンガーは両手をポケットに入れてまっすぐに立ち、そっぽを向いていた。ふたりのギリシア人のあいだの、この小さいいさかいを見るに耐えなかったのだ。酒を飲むことと、ひそかな自分ひとりの楽しみをのぞくと、アントナープロスのこの世での楽しみは、もっぱら食べることにあったからだ。
たそがれた中を、ふたりの唖はゆっくりと家路をたどった。家の中でしじゅう語りかけるのは、シンガーのほうだった。彼の両手がすばやく動き、さまざまな形を描き言葉を形づくった。真剣な顔に、灰色がかった緑色の目がキラキラ輝いた。やせた力強い手で、彼はアントナープロスに、その日起こった出来事を残らず語って聞かせるのだった。
アントナープロスはものうげに椅子にもたれかかり、シンガーを見つめた。彼はめったに、両手を動かし話しかけようとしない――話しかけるのは、何か食べたいか飲みたいか寝たいかを伝えるときだけだった。その三つを、彼はいつも同じ、はっきりとしない、ぎこちない手つきで伝えた。夜になり、あまり酔っていないときは、彼はベッドの前にひざまずき、しばらくのあいだお祈りを捧《ささ》げるのが常だった。彼のむっくりとした両手が、「聖なるイエス」とか、「神様」とか、「聖母マリア様」などの言葉を描いた。アントナープロスの話す言葉は、それでぜんぶだった。せっかく自分の語ったことが、はたしてどれだけ友人に理解されているのか、シンガーにはまったくわからなかった。しかし、それはどうでもいいことだった。
ふたりは、町の商店街に近い小さな家の二階に住んでいた。二部屋の下宿だった。台所の石油ストーブの上で、アントナープロスはふたり分の煮炊《にた》きをやった。台所には、シンガーの使っている背のまっすぐな粗末な台所用椅子と、アントナープロス専用の厚い詰め物をしたソファが置かれ、寝室には、大柄なギリシア人用の羽根ぶとんのかかった大きなダブルベッドと、シンガーの狭い鉄製ベッドが置かれていた。
夕食はいつも長い時間かかった。食い道楽のアントナープロスが、食べるのにひどく手間どったからだ。すっかり食べ終わると、大柄なギリシア人は自分のソファに寝そべり、一種の身だしなみか、食事の味わいをなつかしんでいるのか、舌先で歯を一つ一つゆっくりとなめまわした――そのあいだ、シンガーは皿洗いに忙しかった。
夕食後、ふたりはチェスをさすこともあった。むかしからチェスの大好きなシンガーは、何年か前、アントナープロスにもさし方を教えようとした。はじめのうちアントナープロスは、さまざまな駒《こま》を盤上で動かすことに興味を持たなかった。そこでシンガーは、上等な酒の瓶《びん》を机の下にしまっておき、一レッスンすむごとにそれを取出すことにした。ギリシア人には、奇妙な動きをするナイトや、盤上を広く動きまわれるクイーンなどがのみこめなかったが、やがて最初の何手か定石どおりの駒の動かし方を覚えた。彼は白い駒が好きで、黒い駒がくるとゲームをやろうとしなかった。最初の何手かをさしたあとは、シンガーが自分ひとりでゲームをすすめ、相手はそれを眠そうな目で眺めていた。シンガーが白駒で自分の駒を果敢に攻撃し、ついには黒のキングを倒してしまうと、アントナープロスはしごくご機嫌《きげん》で得意そうだった。
ほかに友人のなかったふたりの唖は、働きに出ているときのほかはいつもふたりきりだった。くる日もくる日も、似たような日のくり返しだった――ふたりだけですごすことが多かったため、じゃまのはいることもなかったのだ。週に一度は図書館へ出かけ、シンガーが推理小説を借り出し、金曜の夜には映画を見に行った。そして給料日には、きまって陸海軍購買組合売店の上にある十セント写真館へ行き、アントナープロスは写真をとってもらった。彼らの行きつけの場所はこれだけだった。町にはふたりの見たこともない場所が、まだたくさんあった。
最南部のまん中に位置した町だった。夏は長く、寒い冬の季節はごくみじかかった。ほとんどいつも、空はガラスのように青く輝き、太陽はどぎついまばゆさで地上を焦がした。やがて十一月の冷たい霧雨《きりさめ》の訪れとなり、つづいて霜がおり、みじかい寒さの季節となる。変りやすい冬の空模様にくらべ、夏は常に灼《や》けつくような暑さだった。町はかなり大きかった。目抜き通りには、二、三階建ての店や事務所が数区画にわたって並んでいる。だが、町でいちばん大きな建物は工場であり、町の人間の大半が雇われていた。こうした紡績工場は規模も大きく栄えていたが、町に住む工員たちは大部分がきわめて貧しかった。通りを行く人びとの顔には、しばしば飢えと寂しさのせっぱつまった表情が見られた。
だが、ふたりの唖はすこしも寂しさを感じていなかった。家でくつろぐふたりは飲み食いに満足し、シンガーは両手を使い、考えていることを残らず友人に熱をこめて物語った。こうして月日は平穏のうちにすぎ、やがてシンガーも三十二歳、アントナープロスとこの町に暮らすようになって十年の歳月がたった。
そうしたある日、アントナープロスは病気になってしまった。彼は両手を肥《ふと》った腹にあててベッドの上に起き上がり、大粒の涙が油の垂れるように頬《ほお》を伝った。シンガーはくだもの屋をやっている従兄に会いに行き、自分の店からも休暇をもらうことにした。医者は食養生の指示を与え、酒を禁じた。シンガーは厳格に医師の指示を守った。一日じゅう友人のそばにすわり、時間が早くたつようできるだけのことをしたが、アントナープロスは怒ったように横目で彼をにらみつけ、心なぐさまぬようであった。
ギリシア人はいたって気むずかしくなり、シンガーの作ってくれるくだものジュースや食べ物に、いちいち難くせをつけた。お祈りをしたいと言っては、ベッドからおりるのにしじゅう相棒の手を借りた。床にひざまずくと、彼の大きな尻《しり》はぽっちゃりした両足の上にだらしなく垂れ下がる。彼は両手をもぞもぞ動かして「聖母マリア様」ととなえ、きたない紐《ひも》で首からぶら下げた小さな真鍮《しんちゅう》の十字架に手を持ってゆく。その大きな目は、おののきの表情をこめて天井を仰いだ。お祈りのあとはひどく不機嫌になり、相棒が話しかけるのも許さなかった。
シンガーは辛抱強く、できるかぎりのことをしてやった。ちょっとした絵心のあった彼は、あるとき友人を慰めるため、その肖像画を描いてやった。ところがせっかくの肖像画は、アントナープロスの気持ちを傷つけてしまい、シンガーが顔をうんと若く美男子に、髪の毛をまばゆい金髪に、目をまっ青《さお》に描き変えるまで、つむじを曲げたままだった。描きなおしたあとも、彼はうれしそうなようすを見せようとしなかった。
シンガーの献身的な看病のおかげで、一週間もするとアントナープロスはまた仕事に戻れるようになった。だがそれ以来、ふたりの生活は変ってしまった。困った事態が訪れたのだ。
病気は癒《い》えたが、アントナープロスの人柄は変ってしまった。かんしゃく持ちになり、もうこれまでのように、家で静かに夜をすごすことに満足しなくなった。彼が外出したがると、シンガーはそのすぐあとからつけて行った。レストランにはいると、アントナープロスはテーブルについているあいだに、こっそり角砂糖や胡椒《こしょう》入れや銀の食器をポケットに入れてしまうのだ。盗んだものはシンガーがいつも代金を支払ったので、面倒は起らなかった。家に帰ると、シンガーは彼を叱《しか》りつけたが、大柄のギリシア人はただにやりとして見返すだけだった。
月日はたったが、アントナープロスの悪癖はつのる一方だった。ある日の昼どき、従兄のくだもの屋からこっそり抜け出た彼は、通り向うの第一ナショナル銀行の壁に向い、人中で立小便をやってのけた。通りですれ違った人びとの顔が気に入らないと、わざとぶつかり、肘《ひじ》や腹でぐいぐい押したりもした。ある日、一軒の店へはいってゆき、金も払わずにフロア・スタンドを持ち出したこともあれば、飾り窓の模型電気機関車を盗《と》ろうとしたこともあった。
シンガーにとっては、大きな悩みの時期であった。昼食どきには年じゅうアントナープロスを裁判所まで引きずってゆき、こうした違反行為のけりをつけねばならなかった。おかげで裁判所の手つづきにはすっかりくわしくなったが、心の安まるひまはなかった。それまで銀行に貯《た》めておいた金も、保釈金や罰金に使われてしまった。努力も金も、窃盗や軽犯罪法違反や暴行などの罪状で、刑務所にぶちこまれそうな友人を救うために注《つ》ぎこまれた。
アントナープロスの働いている店の店主である従兄は、こうした面倒な事件にはいっさい立ち入らなかった。チャールズ・パーカーは(これが従兄の通り名だった)、アントナープロスをつづけて店におくことはおいたが、いつも青いきびしい顔で見張るばかりで、いっこうに助けの手をさしのべようとしなかった。シンガーはチャールズ・パーカーにうちとけず、いつか彼をきらいはじめていた。
シンガーには、絶え間のない動揺と気苦労の生活がつづいた。しかしアントナープロスは相変わらず手ごたえがなく、何が起ろうと、穏やかでしまりのない微笑を浮かべつづけていた。これまで長年のあいだ、友人のこの微笑には何か非常に神秘的で思慮深いものがあるような気がしていた。いったいアントナープロスが何を考え、どの程度理解しているのか、シンガーにはついぞわからなかった。しかしいま見るこの大柄な友人の表情には、何か狡猾《こうかつ》でからかうようなものがあるように思えた。シンガーは相手の両肩をつかみ、くたびれはてるまでゆさぶり、両手を使って何度も何度も説明をくり返した。だが、何の効果もなかった。
シンガーのたくわえは底をつき、勤め先の宝石店から借金をしなければならなかった。あるときはとうとう保釈金が払えなくなり、アントナープロスは一夜を留置所ですごす羽目になった。翌日シンガーがもらい受けに行くと、彼はひどく不機嫌だった。留置所を出たくないというのだ。塩漬《しおづ》けの豚肉と、シロップをたっぷりかけたトウモロコシパンの夕食が、すっかり気に入っていたのだ。目新しい寝台設備や、留置所の仲間も気に入ってしまっていた。
まるでふたりきりの生活をつづけていたため、いま困りはてたシンガーに助けの手をさしのべてくれるものもなかった。アントナープロスはいっこう苦にするふうもなく、悪癖をあらためるようすもなかった。家では、ときどき留置所で食べた新しい料理を作ったりしたが、いったん町へ出たが最後、彼は何をしでかすかわからなかった。
そしてやがて、とどめの不幸がシンガーを訪れた。
ある日の午後、くだもの屋までアントナープロスを迎えに行くと、彼はチャールズ・パーカーから一通の手紙を渡された。手紙には、二百マイルばかり離れた州立精神病院に従弟《いとこ》を入れてもらう手つづきをとった、と記《しる》されていた。町の有力者であるチャールズ・パーカーはその顔をきかせ、もうすっかりくわしい段取りまでできていたのだ。アントナープロスはその翌週、町を出て精神病院に入れられることになっていた。
シンガーは何度か手紙を読みかえしたが、しばらくのあいだ何を考えることもできなかった。チャールズ・パーカーがカウンターごしに何か話しかけていたが、その唇《くちびる》の動きを読んで理解しようともしなかった。やっとシンガーは、いつもポケットに入れて持ち歩いている小さなメモ用紙に、こう書きつけた――
それはいけない。アントナープロスはわたしのところにいなくてはいけない。
チャールズ・パーカーははげしくかぶりを振った。アメリカ語のあまりできない彼は、「おまえの知ったことじゃない」を何度も何度もくり返した。
すべての終ったことがシンガーにもわかった。ギリシア人のチャールズ・パーカーは、いつか自分が従弟の面倒を見なければならなくなるのを心配していたのだ。アメリカ語はよく知らないが、アメリカ・ドルのことはよく承知していた彼は、金と顔に物をいわせ、さっさと従弟を精神病院へ入れてしまうことにしたのだ。
シンガーには、もうどうしようもなかった。
翌週になると、彼は憑《つ》かれたように活動をはじめた。話しに話しつづけた。両手を休む間もなく動かしつづけたが、それでも言いたいことはとうてい言いつくせなかった。これまで心に浮かんだこと、頭で考えたことを、残らずアントナープロスに話したいと思ったが、もうその時間はなかった。彼の灰色の目は輝き、悟りの早い聡明《そうめい》な顔には、はげしい緊張の色が浮かんでいた。アントナープロスは、そんな彼をとろんとした面持《おももち》で見守るばかりで、いったいどこまでほんとうにわかってくれているのか、シンガーには見当もつかなかった。
やがて、アントナープロスの出発の日がきた。シンガーは自分のスーツケースを取出し、ふたりが共同で使っていた物の中からいちばんよい品を選び、念入りにつめてやった。アントナープロスは、旅の途中で食べる弁当を自分で作った。午後も遅くなってから、ふたりは腕を組み、最後の散歩に出かけた。十一月も終りに近いうすら寒い午後で、ふたりの前には、吐く息が小さなかたまりになって見えた。
チャールズ・パーカーが従弟についてゆくことになっていたが、彼はバス乗り場でもふたりから離れて立っていた。アントナープロスは大きな図体《ずうたい》をバスに押しこみ、念入りに身のまわりをととのえてから、いちばん前の座席にすわりこんだ。シンガーは窓の外からじっと彼を見守り、両手はけんめいに友人との最後の対話をはじめていた。だがアントナープロスは、弁当箱につめこんださまざまな品をしらべるのに夢中で、しばらくは注意も向けなかった。ようやくバスが動きだす前になって、やっとシンガーのほうを向いたが、その微笑はまるで気が抜けたようでよそよそしかった――もうすでにふたりのあいだには、何マイルもの距離ができてしまったようだった。
それからの何週間かは、とても現実とも思えなかった。一日じゅう、シンガーは宝石店の奥の仕事台に向って働き、夜になるとただひとりで下宿へ帰った。何より彼は眠りがほしかった。仕事から帰るとすぐベッドに横になり、しばらくでもうたたねをしようとした。うつうつとまどろむ彼に、さまざまな夢が訪れた。どの夢の中にもアントナープロスの姿があった。シンガーは両手をせわしなく動かしていた――夢の中でしきりと友人に話しかけていたのだ。
シンガーは、まだアントナープロスと知り合う前のことを思い出そうとしてみた。まだ自分の若かったころの出来事を思い浮かべてみようとしてみた。だが、思い出はどれも一つとして現実にあったこととは思えなかった。
どうでもいいようなことだったが、一つだけはっきりと覚えていることがあった。つんぼは小さな子ども時分からだったが、必ずしもまるきりの唖《おし》ではなかったことを思い出したのだ。ごく小さなころ孤児になった彼は、聾唖《ろうあ》学校へ入れられ、両手を使って話すことと読むことを学んだ。まだ九つにもならぬうちに、アメリカ流に片手で話すことができたし――またヨーロッパ流に両手を使うこともできた。話し手の唇の動きを読み、話の内容を理解する術《すべ》も学んでいた。いちばん最後に学んだのは、口で話すことだった。
学校では、非常に頭のいい生徒という評判だった。ほかの連中のぐずぐずしているあいだに、どの学課も覚えてしまったのだ。しかし、唇を使って話すことだけはなじめなかった。どうにも不自然で、舌はまるで口の中にはいった鯨のような感じだった。こうして彼が話しかけるとき、人びとの顔に浮ぶうつろな表情から、彼は自分の声はきっと何かの動物の声のようか、それとも話し方に何かいやなところでもあるにちがいないと思った。口を使ってなんとか話そうとするのはきつかったが、手のほうはいつでも話したい言葉を形づくることができた。二十二の齢《とし》でシカゴからこの南部の町へやってきた彼は、すぐにアントナープロスと知り合い、そのとき以来ぴたりと口で話すことをやめてしまった。この友人といるかぎり、その必要はなかったからだ。
アントナープロスとの十年の歳月をのぞくと、他のものは何一つ現実の出来事とは思えなかった。夢うつつの中にはっきりと友人の姿が見え、やがて目ざめると、うずくような寂しさがはげしくこみ上げてくるのだった。ときたまアントナープロス宛《あて》に小包を送ってやったりもしたが、一度も返事はこなかった。こうして月日は、夢見をつづけるうちにむなしくすぎていった。
やがて春になると、シンガーの身に変化が起った。夜も眠れず、身体《からだ》じゅうが落ち着かないのだ。夕暮れどきになると、これまでに覚えたことのない活力をもてあまし、部屋の中をやたらと歩きまわった。眠ったとしても、夜明けの前のほんの数時間で、朝の光が三日月刀のようにいきなり瞼《まぶた》の下へ切りこんでくるまで、鈍い眠りをまどろむにすぎなかった。
彼は町をほっつきまわって夜をすごすようになった。アントナープロスの住んでいた部屋にいつづけることはがまんできなくなり、町の中心からさほど遠くない、軒の傾いた下宿屋に部屋を借りた。
食事は、通り二つほど先の食堂ですませた。長い目抜き通りのどんづまりにあるレストランで、ニューヨーク・カフェという名の店だった。最初の日、彼はメニューをすばやく眺《なが》めわたし、みじかな書きつけをしたため、それを店の主人に手渡した。
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朝食には卵、トースト、コーヒー……十五セント
昼食にはスープ(どんな種類でも可)、肉入りサンドイッチ、牛乳……二十五セント
夕食には野菜を三種(キャベツ以外なら何でも可)、魚または肉、ビール一杯……三十五セント
以上を毎日おねがいします。
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店の主人は書きつけを読み、鋭い如才のない視線をちらと投げた。中背のたくましい男で、黒ぐろとした濃いひげのため、顔の下半分は鉄さびにおおわれているように見えた。たいていいつも、レジのある店の隅《すみ》に腕組みをして立ち、まわりでおこっていることを静かに見守っていた。日に三度もこの店のテーブルで食事をしたシンガーは、主人の顔をよく覚えてしまった。
毎夜、唖はただひとり、何時間も町の通りを歩きつづけた。ときには、肌《はだ》を刺す雨もよいの、三月の風の吹く冷たい夜もあれば、はげしい降りのときもあった。しかし、シンガーにとっては問題ではなかった。いつも両手をズボンのポケットにつっこみ、いらだたしげに足をいそがせた。やがて何週かすぎるうちに、陽気もしだいにけだるい暖かさをましてきた。シンガーのいらだちもいつしか疲労に変り、深い安らぎのようすが見られるようになった。その顔には、悲しみに沈んだ人びとや悟りすました人びとにしばしば見られる、瞑想《めいそう》的な平和の表情があらわれた。しかし依然として、ただひとり黙りこくって町の通りをさまよい歩くことはやめなかった。
初夏の、とある蒸し暑く暗い夜、ビフ・ブラノンはニューヨーク・カフェのレジのうしろに立っていた。真夜中の十二時だった。外ではすでに街灯も消え、この店の明りだけが、歩道にくっきりと黄色い長方形を描いていた。通りに人影はなかったが、店の中では五、六人の客がビールや、サンタ・ルチア産ぶどう酒や、ウイスキーなどを飲んでいた。ビフはカウンターに肘《ひじ》をつき、親指を大きな鼻の頭に押しつけながら、むっつりとした面持《おももち》で待っていた。油断のない目つきだった。その目はもっぱら、すでに酔いつぶれわめきちらしている、作業服を着た小柄でずんぐりした男を見守っていた。ときたま彼の視線は、まん中のテーブルにたったひとりですわっている唖《おし》や、カウンターの前に陣どった他の客のほうにも移った。だが、最後にはまた作業服の酔いどれのほうに戻ってくるのだ。夜もしだいにふけたが、ビフはカウンターのうしろで黙って待ちつづけた。やがて店の中を最後にもう一度見まわすと、彼は二階の寝室に通じている奥のドアへ歩み寄った。
彼は足音をしのばせ、階段をのぼりきったところの部屋にはいった。部屋の中は暗く、彼は気をくばって歩いた。何歩か歩くと、爪先《つまさき》が何か堅いものにぶつかった。彼はかがみこみ、床の上に置かれたスーツケースの把手《とって》を手さぐりで捜した。ほんのしばらく部屋にいただけで出て行こうとしかけると、明りがついた。
妻のアリスが寝乱れたベッドに起き上がり、彼を見つめている。「そのスーツケースをどうしようっていうの? さんざんただ飲みしたんだもの、|かた《ヽヽ》をとっといて追い出しちまったらどうなの、あんな気違い」
「それじゃ起きて、自分で下へ行ったらどうだ。おまわりを呼んで引っくくらせ、トウモロコシパンと豆の刑務所暮しをさせてやるんだな。さあ、どんどんやりゃいいじゃないか、奥さん」
「あすになってもまだ下にいるようならやってやるわ。ともかく、その鞄《かばん》は置いときなさいってのに。もうあの居候《いそうろう》のものじゃないんだから」
「居候は何人も知ってるが、ブラウントは違う。おれだって――自分のことはよくわからんが。ともかくおれは、他人様《ひとさま》のものに手をつけるような男じゃないんだ」
部屋の外の階段の上に、ビフは静かにスーツケースを置いた。部屋の中の空気は、階下ほど蒸し暑くよどんでいなかった。彼はもうしばらく二階にいて、冷たい水で顔を洗ってからおりて行くことに決めた。
「今夜かぎりで追い出さなきゃあたしにも覚悟があるって、言っておいたでしょう。なにしろあの男ときた日には、昼間は裏でごろ寝、夜になるとあんたから夕食だのビールだのふるまってもらってさ。もうまる一週間、ただの一セントも払ってないんだから。それにあんな乱暴な口のききようや騒々しいさわぎをされちゃ、どんな堅気な商売だって台なしだわ」
「おまえにはわかっちゃいないんだ、人間も、ほんとの商売ってものも。あいつは十二日前、よそ者としてはじめてやって来た。そして最初の週、二十ドルがとこ商売をさせてくれた。少なく見積って二十ドルだぜ」
「だけど、それからは|つけ《ヽヽ》じゃないの。五日もつけで飲み食いされ、あげくにああ酔っぱらわれちゃ、看板にだって傷がつくし。それになによ、あの男、ただの変り者のルンペンじゃないのよ」
「おれは変り者が好きなんだ」
「でしょうとも! あんたなら当然だわ、ブラノンさん――自分がとんだ変り者だものね」
彼は青味がかった顎《あご》をなで、妻の言葉を受け流した。結婚して最初の十五年間は、互いにビフ、アリスと呼びあっていたものだった。ところが、あるとき夫婦げんかのおり、他人行儀に「さん」づけで呼んだのがはじまりで、それ以来夫婦仲のこじれがとれぬまま、「さん」づけはいまもつづいていたのだ。
「言っとくけど、あしたあたしが下へおりて行ったとき、消えていなくなってたほうがあの男の身のためよ」
ビフは浴室にはいり、ひとまず顔を洗ったが、ついでにひげを剃《そ》る時間もありそうだった。まるでもう三日も剃っていないように、むさくるしく黒ぐろと伸びていた。彼は鏡の前に立ち、考えこんだように頬《ほお》をなでた。アリスと口をきいたのがくやまれた。あの女が相手のときは、黙っているほうがいいのだ。アリスのそばにいると、きまって彼はほんとうの自分と違ってしまった。彼女なみに片意地でみみっちく、下品になってしまうのだ。冷たく見すえるビフの目は、冷笑的に垂れさがった瞼《まぶた》になかば隠されていた。たこになった手の小指には、結婚指輪がはまっている。うしろのドアがあいていたため、ベッドに寝ているアリスの姿が鏡に映って見えた。
「いいか、おまえのいかんのは、ほんとの親切心というものを持っとらんことだ。おれの知っている女で、いま言うほんとの親切心を持ってたのは、たったひとりだ」
「どうせあんたって人は、まるで自慢にもなりゃしないことをやらかす人だもんね。たとえばさ――」
「それとも、好奇心が足りんと言ったほうがいいかもしれん。おまえというやつは、どんな大事なことが起きていてもわからんし、見ようともせん。だいたいじっくり観察したり、考えたり、思案したりせん女だ。まあそこらへんが、おまえとおれのいちばん大きな違いだろう」
アリスはまた寝入りかけていた。鏡に映った妻の姿を、彼は距離をおいた目で見つめた。いまさら見とれるようなところはどこにもなかった。彼の視線は薄茶色の髪から、掛けぶとんにおおわれたずんぐりとした足の輪郭へすべっていった。やわらかな顔の線が、腰と腿《もも》の丸味へとつづいている。妻から離れてみると、何一つとして心に浮ぶ特徴はなく、記憶に残っているのは全体としての、切り離せぬ姿だった。
「だいたいおまえは、ものを見て感動するということを知らんやつだ」
うんざりしたようなアリスの声だった――「下にいるあの男はそりゃ見ものだわよ、おかしなやつだったらありゃしない。だけどあたしは、もうあの男にがまんならないの」
「ふん、おれだってあんな男はどうなったってかまやしないんだ。親戚《しんせき》でも仲間でもないしな。だけどおまえは、こまかなことを積み上げて、それから何か真実をつかむということを知らんやつだ」ビフはお湯の栓《せん》をひねり、いそいでひげを剃りはじめた。
そのとおり、あれは五月十五日の朝だった――ジェイク・ブラウントのやって来たのは。ビフはすぐさまその姿に気がつき、じっと見守っていた。梁《はり》のようにがっしりした肩幅の、背の低い男だった。もしゃもしゃのちょびひげを生《は》やし、ひげの下では、下唇《したくちびる》が雀蜂《すずめばち》に刺されたようにはれ上がっていた。ちぐはぐに見えるところの多い男だった。ばかに大きくりっぱな形の頭にくらべ、まるで少年のような細いなよなよした首をしている。口ひげも、仮装舞踏会の扮装《ふんそう》に貼《は》りつけたつけひげのようで、あまり早口でしゃべるとはがれてしまいそうに見える。口ひげのおかげで中年男のように見えるが、つやのいい広い額と大きな目の顔は若々しかった。きたないごつごつした大きな手をし、安っぽい白リネンの服を着ている。なんとなくおかしくてならない男なのだが、また同時に、人を笑わせない雰囲気《ふんいき》があった。
男は一パイントの酒を注文し、三十分かけて生《き》のままで干してしまった。それからボックス席の一つにすわって、たっぷり量のあるチキン・ディナーを食べた。食事のあとは本を読み、ビールを飲んだ。それがはじまりだった。はじめから特に気をつけて見守っていたビフも、のちにあのような気違い沙汰《ざた》が起ろうとは夢にも思わなかった。十二日のあいだに、あれほどたびたび変る男は見たこともなかった。またこれほど大酒をくらう男も、これほどいつまでも酔っていられる男もはじめてだった。
ビフは親指で鼻先を押し上げ、上唇のところを剃った。剃り終った顔は涼しげに見えた。階下へ行こうと寝室を通り抜けたとき、アリスは寝入っていた。
スーツケースは重かった。彼はそれを店の入口に近い、毎晩自分の立つレジのかげへ運んだ。念入りに店の中を見まわしてみる。数人の客が出て行ったあとでそれほど込んでいなかったが、店の中のようすは同じだった。つんぼで唖の男は相変わらずまん中のテーブルにすわり、ひとりでコーヒーを飲んでいる。酔いどれは依然としてしゃべりつづけている。特にまわりのだれに話しかけているというわけでもなく、まただれも聞いてはいなかった。今夜店に現われた彼は、これまで十二日間着づめだったきたならしいリネンの背広のかわりに、青い作業服を着ていた。靴下はどこかへぬいでしまい、くるぶしには掻《か》き傷《きず》があり、泥がついていた。
男の独白の断片を、ビフは注意深くひろい上げた。男はまたしても、奇妙な政治談議をやっているらしかった。前の晩は、これまでいた土地の話だった――テキサスや、オクラホマや、南北カロライナなど。話はやがて淫売宿《いんばいやど》におよび、そのあと冗談があまりにも露骨になったため、ビールで黙らせてしまわねばならなかった。しかし話の大半は、何を言っているのか、だれにもよくわからなかった。ただやみくもにしゃべりつづけ、しゃべりまくるのだ。言葉はまるで滝のように喉《のど》からほとばしり出た。それに問題は、使う言葉の訛《なま》りがしじゅう変り、使う言葉の種類が目まぐるしく変ることだ。職人のような口をきくかと思うと、大学教授のような口ぶりになる。一フィートほども長い単語を使うかと思うと、文法上の誤りをやらかす。どのような身内がいるのか、どの地方の出なのかもわからない。目まぐるしく変る男だからだ。ビフは思案げに鼻の頭をなでまわした。まるで一貫性のない男だ。一貫性のあるということは、だいたい頭のたしかさを示すものだ。この男の頭はどうやらたしかだ。ところがまるで理由もなく、あれからこれへと話題を変化させる。何かのはずみで、軌道からふり飛ばされた男のようだった。
ビフはカウンターにもたれかかり、夕刊を読みはじめた。見出しは、市議会が四カ月におよぶ審議の末、町の危険な交差点に設置予定の交通信号機は、予算ではまかなえぬ旨、決定したと報じている。左側の欄では、東洋での戦争が報じられている。ビフは両方の記事を同じように注意して読んだ。目は活字を追いながらも、他の感覚はまわりで起るさまざまな動揺を油断なく警戒していた。記事を読み終っても、目をなかば閉じたまま、しばらく新聞を見つめていた。落着かない気持ちだった。あの男が問題なのだ。朝までになんとか片をつけておかなくてはならない。それになぜか、今夜は重大な事件が起りそうな気がした。あの男をいつまでも、ああしておくわけにはゆかない。
だれかが店の入口に立っているのに気づき、ビフはすばやく目を上げた。亜麻色《あまいろ》の髪をしたひょろ長い十二歳ばかりの少女が、入口に立って店の中をのぞきこんでいる。カーキ色の半ズボンに青いワイシャツを着て、テニスシューズをはいている――そのため、ちょっと見たところは小さな男の子のようだ。少女の姿をみとめたビフは新聞をわきへ押しやり、近づいてくる少女に微笑した。
「やあ、ミック。ガール・スカウトへ行ってたんかい?」
「ううん。ガール・スカウトになんかはいってないもん」
ビフは横目で、酔いどれが拳《こぶし》を固めてテーブルを叩《たた》き、それまで話しかけていた男連中に背を向けるのを見た。目の前へ来た少女に話しかけるビフの声は荒くなった。
「真夜中すぎに出歩いていること、うちの人は知ってるのかい?」
「へいちゃら。こんばんは、うちの近所でみんな遅くまであそんでるの」
ビフはこの子が、同じ年ごろの子どもと店へやって来たのを見たことがなかった。何年か前には、年じゅう兄貴のうしろにくっついていたものだ。この子の家族、ケリー一家は相当な大家族だった。最近は、はなをたらした赤ん坊をふたり、よく乳母車《うばぐるま》にのせて引っぱって来た。だが、赤ん坊のお守《も》りもなく、年上のきょうだいのあとを追ってもいないときは、いつもひとりだった。いま少女は、何がほしいのか心を決めかねるようすで立っていた。ぬれた白っぽい金髪を、しきりと手のひらでなで上げている。
「タバコを一箱ちょうだい。いちばん安いの」
ビフは話しかけようとしてちょっとためらい、カウンターの内側に手を伸ばした。ミックはハンカチを取出し、小銭をくるんである隅《すみ》の結び目をほどきにかかった。結び目をぐいと引っぱった拍子に、小銭は床の上へ散らばり、立ったままひとりごとをつぶやいているブラウントのほうへころがった。ブラウントはしばらく、茫然《ぼうぜん》としたように小銭を見つめていたが、少女が追いかけてくるより先にやっとのことでしゃがみこみ、小銭をひろい上げた。そしてカウンターのところへのろのろものうげに歩み寄り、手にのせた二枚の銅貨と五セント白銅、十セント銀貨をころがしながら立った。
「タバコは十七セントかい?」
ビフの待っているあいだ、ミックはふたりのおとなを見くらべた。酔いどれは依然、その大きなきたない手でかばうようにしながら、カウンターの上に小銭を小さな山に積み上げた。やがて彼は、一セント銅貨をゆっくりつまみ上げ、下へはじき落とした。
「タバコの葉っぱを栽培した貧乏野郎に五ミル(一ミルは十分の一セント)、そいつをシガレットに巻いたとんちき野郎に五ミル、そしてビフさんには一セントくれてやらあ」そう言ったあと彼は目をこらし、五セント玉と十セント玉に刻まれた標語を読もうとした。そしてしばらくひねくりまわしていたが、やがて小銭を押しやった。「それからいまのは、自由へのささやかな敬意のしるしだ。民主主義と専制。自由と略奪へのお賽銭《さいせん》だ」
ビフは動じたようすもなく小銭をひろい上げ、レジの中へガチャンとしまいこんだ。ミックはもうしばらく、店の中にいたいようだった。酔っぱらいを長い間しげしげと見やっていてから、少女はただひとり店のまん中でテーブルにすわっている唖《おし》のほうへ目を移した。しばらくすると、ブラウントも時たま同じ方向を見やった。唖は、マッチの燃えさしでテーブルの上にとりとめもない絵を描きながら、ビールのグラスを黙って傾けていた。
ジェイク・ブラウントがまず最初に沈黙を破った。「おかしな話よ、おれはこのところ三晩か四晩、あいつの夢ばっかし見つづけた。おれにつきまとって離れねえんだ。おめえも気がついたかどうか知らねえが、まるきりうんともすんとも言わねえ男みてえだな」
客の噂《うわさ》を別の客とすることのめったになかったビフは、あいまいな返事をした――「まあそうだな」
「けったいな野郎だ」
ミックは体重を片方の足から別の足に移しかえ、タバコの箱を半ズボンのポケットに入れた。
「あの人のこと、ちっとでも知っていたら、おかしくないわよ。シンガーさんはあたしのうちに住んでるの。うちに間借りしているの」
「そうかい。驚いたね――そいつは知らなかった」とビフは言った。
ミックは出口のほうへ行きながら、振返りもせずに答えた――「そうなのよ。うちへ来てもう三月《みつき》になるわ」
ビフはまくり上げたワイシャツの袖《そで》をおろし、またそれを念入りにまくり上げた。彼は店を出てゆく少女から目を離さなかった。少女が立ち去り何分かたっても、まだワイシャツの袖口をいじくり、人影のない出口を見つめていた。やがて腕組みをすると、ふたたび酔っぱらいのほうに向きなおった。
ブラウントはぐったりカウンターに寄りかかっていた。茶色の目はうるみ、茫然とした表情に大きく見開かれている。よほど長く風呂にはいっていないのか、山羊《やぎ》のようなひどい悪臭だ。汗ばんだ首筋にはきたない汗の粒が光り、顔には油のしみがついている。唇は分厚く赤く、茶色の髪の毛が額にもつれている。作業服があまりにみじかすぎるため、しじゅう股《また》のところを引っぱっている。
「なあきみ、もすこしなんとかならんかね」と、ビフはとうとう口に出した――「そんな格好で歩きまわったりしちゃいかん。まったく、浮浪罪でつかまらなかったのがふしぎなくらいだよ。ともかく酔いをさますんだな。風呂にはいらなきゃいかんし、髪の毛もひどい伸びようだ。いやはや! それじゃ人中も歩けないじゃないか」
ブラウントは顔をしかめ、下唇を噛《か》んだ。
「それじゃな、腹を立ててちゃいけないぜ。おれの言うとおりにするといい。調理場へ行って、ニグロの若いのにたのんでお湯を大鍋《おおなべ》に一杯もらうんだ。やつにタオルと石鹸《せっけん》をたっぷりもらって、よく身体《からだ》を洗うこと。それからミルク・トーストでも食って、スーツケースをあけ、きれいなワイシャツと身体に合うズボンを出してはくこと。そうすりゃさっそくあしたから、何でもしたいことがはじめられ、どこで働くつもりにせよ働きはじめられるし、万事うまく運ぶってもんだ」
ブラウントはろれつのまわらぬ舌で言った――「うるせえやい。おめえにできるのはな……」
「わかったよ。だけど、そうはいかないんだ。さあ、しっかりしてくれ」と、ビフは落着きはらって言った。
ビフはカウンターの端まで行き、生ビールのグラスを二つ持って戻ってきた。酔いどれがいかにも不器用にグラスを取り上げたため、ビールは手にこぼれ、カウンターにあふれた。ビフは自分の分のビールを、とっくりと味わいながら口にふくみ、なかば閉じた目でじっとブラウントを見守った。ブラウントは、初対面のものには一見奇形のような印象を与えたが、実際はそうではなかった。何かどこかが片輪のような気がするのだが、よく見てみると、どの部分もまともで、何の異常もなかった。したがって、この違和感が身体上のものでないとすれば、精神的なものだったにちがいない。刑務所暮しをした男とも、ハーヴァード大学出の男とも、長いあいだ南米で外国人にまじって暮していた男ともとれた。他の人間が行きそうもない土地にいたか、世間の人間がしそうもないことをやらかした男のようだった。
ビフはちょっと首をかしげてきいた――「どこの出身だね?」
「どこでもねえさ」
「おいおい、生れ故郷がないって話はないぜ。ノースカロライナ――テネシー――アラバマ――と、どこかあるだろう」
ブラウントの目は夢見るようで、焦点が定まらなかった。「カロライナさ」
「だいぶあちこちにいたことがあるようだな」と、ビフは遠まわしにほのめかした。
だが酔っぱらいは聞いていなかった。彼はカウンターから離れ、人影のない暗い通りをみつめていた。しばらくすると、心もとない足どりで出口のほうへ歩み寄った。
「|あばよ《アディオス》」と、戸口から声をかけてきた。
ふたたびひとりになったビフは、店の中をすばやくひとわたり見まわした。すでに午前一時をまわっており、店には四、五人の客が残っているばかりだった。唖は、まだまん中のテーブルにひとりですわっていた。ビフはぼんやりと唖を見つめ、グラスの底にほんのすこし残ったビールを揺り動かした。そしてゆっくりと一息で飲み干すと、カウンターにひろげた新聞にもう一度目をやった。
だが今度は、どうしても目の前の活字に集中できなかった。ミックのことが思い出された。タバコを売ってやってよかったかどうか、子どもがタバコを吸うのはほんとうに害があるのだろうか、と考えつづけていた。目を細め、手のひらで前髪をなで上げるミックのしぐさを思いかえしていた。男の子のようにしゃがれた声や、カーキ色の半ズボンをぐいとたくし上げ、映画に出てくるカウボーイのようにいばって歩くさまも思い出された。やさしい気持ちがこみ上げてきた。気がかりな気分だった。
落着かぬ気持で、ビフはシンガーのほうに注意を向けた。唖はポケットに両手をつっこんですわり、目の前に置いた半分飲みかけのビールはすでに生ぬるくよどんでいた。ビフはいつもシンガーの引き上げる前、ウイスキーを一杯おごってやるのが常だった。妻のアリスに言った言葉は事実だった――彼は変り者が好きだったのだ。彼は病人や不具者に対し、特別な好意を持っていた。兎唇《みつくち》や肺病やみが店へやって来ると、ビールをおごってしまう。それがせむしやひどい不具者だと、ウイスキーのただおごりとなる。ボイラーの爆発事故でペニスと左脚《ひだりあし》を吹っ飛ばされてしまった男がいたが、この男が町へやって来るときは、いつでも一パイントのただ酒が待っていた。もしシンガーが酒に目のない男だったなら、飲みたいときはいつでも半額で飲ましてもらえたはずだ。ビフはひとりうなずき、きちんと新聞を折りたたみ、他のいくつかの品といっしょにカウンターの下にしまった。週末になると、それらをぜんぶ調理場の奥にある物置に運びこむのだ。物置には、二十一年前からの夕刊がすっかり、一日の欠けもなく綴《と》じこまれ、しまいこまれていた。
二時になると、ブラウントがまた店へ戻って来た。背の高いニグロに黒い鞄《かばん》を運ばせている。酔いどれのブラウントは、ニグロをカウンターのところまでつれてゆき一杯飲ませようとしたが、相手は店の中へ誘われた理由を察するが早いか、さっさと外へ出てしまった。ビフにはこのニグロが、思い出せるかぎりむかしから町で開業しているニグロの医者だとわかった。奥の調理場で働いているウィリーとは、血つづきの男だった。店を出てゆく前に、男が憎しみにふるえるまなざしをブラウントに向けたのをビフは見てとった。
酔いどれはぼんやりつっ立ったままだった。
「白人の飲む店へ、黒公をつれこんじゃならねえのを知らんのか?」と声をかけたものがあった。
ビフはこの出来事を遠くから見守っていた。ブラウントはすっかり腹を立てており、相当に酔いのまわっているのがだれの目にもわかった。
「おれにだってな、ニグロの血がまじってるんだ」と、ブラウントは挑《いど》みかかるようにどなった。
ビフは油断なくブラウントに目を注ぎ、店の中は静まりかえった。肉の厚い鼻やギョロリとむく白目を見ると、ブラウントの言葉はあながち嘘《うそ》でもなさそうに思えた。
「おれにはな、ニグロとイタ公とハンガリー野郎とチャンコロの血がまじってるんだ。みんなまぜあわせてあるんだ」
笑い声が上がった。
「おれはな、オランダ人でトルコ人でニッポン人でアメリカ人なんだ」ブラウントは、唖がすわってコーヒーを飲んでいるテーブルのまわりをジグザグに歩きまわった。ばかでかい、かすれた声だった。「おれは何でも知ってるぞ。おれは知らない国に迷いこんだよそ者なんだ」
「おい、静かにしたらどうだ」とビフが言った。
ブラウントの関心は唖にしかなかった。ふたりは互いに見合っていた。猫のように冷やかで柔和な唖の目だった。彼は身体《からだ》じゅうで聞き耳を立てているように見えた。酔いどれはすっかりのぼせ上がっていた。
「おれの言うことをわかってくれるのは、この町でおまえだけなんだ。ここ二日ばかり、おれは心の中でおまえに話しかけてきた。きっとおれの言いたいことをわかってくれると思ったからだ」
酔いどれが話し相手に、うっかり唖でつんぼの男を選んでしまったのを、ボックス席に陣どった客の何人かは笑った。ビフはときおり鋭い視線を投げてふたりの男を見守り、聞き耳を立てた。
ブラウントはテーブルの前にすわり、シンガーのほうに身体を乗り出した。「世の中には、わかってる人間とわからねえ人間がある。わからねえ人間一万に対して、わかってる人間はほんの一人だ。まったくこいつは奇蹟《きせき》じゃないか――何百万もの人間が何でもたくさん知っていながら、このことを知らねえってのは。まあ言ってみりゃ、十五世紀のころみたいなもんだ、みんなが地球は平べったいと信じていたとき、コロンブスとそのほか何人かだけが真理を知っていたような。だが違うのは、地球が丸いということを考えつくには才能がいるという点だ。ところが、おれの言う真理はだれの目にも明らかだってのに、世間のやつらにはわからねえ。こいつは開闢《かいびゃく》以来の奇蹟だ。なあわかるだろう」
ビフはカウンターに両肘《りょうひじ》をつき、好奇心を持ってブラウントをみつめた。「わかるわからないって、何をだね?」とビフはきいた。
「やつの言うことなんかほっときゃいい。あんな偏平足《へんぺいそく》の、顎《あご》の青い、おせっかい野郎は気にせんことだ。いいかね、われわれわかってる人間同士がこうして出会うというのは、たいへんなことなんだ。これはそうめったに起ることじゃない。お互い出会いながら、相手がわかってる人間だと気がつかんこともある。まったくもって残念な話だ。おれもそんな経験を何度したかわからん。ともかく、わかってる人間というのはごくわずかしかいねえからな」
「フリー・メイソンのことかね?」とビフはきいた。
「うるせえ! 黙ってねえと腕をひっこ抜いて、そいつであざだらけにぶっ叩《たた》いてやるからな」ブラウントはどなりちらした。彼は唖のすぐそばまでかがみ、ささやくように酔いのまわった声を低めた。「それにしても、なぜこうなのか? なぜこうした無知が奇蹟的につづいてきたのか? そのわけは一つ。陰謀だ。大規模な油断ならぬ陰謀だ。反啓蒙《はんけいもう》主義だ」
ボックス席の客たちは、酔いどれが唖と話しあおうとしているのをまだ笑っていた。ただビフだけが真剣だった。彼は唖が話の内容をほんとうに理解しているのかどうか、確かめたかったのだ。唖はしきりとうなずき、その顔は黙考にふけっているように見えた。彼の反応は遅かった――気になるのはそれだけだった。ブラウントはわかっている人間についての話の合い間に、冗談口をたたきはじめた。唖はおかしな話を聞いても、聞き終って何秒かたつまでけっして笑わず、そのあと話が湿っぽい話になっても、しばらくは微笑が消えずに残っていた。まったくもって無気味な男だった。この男には何か変った点があると気づく前から、人びとはみな彼から目が話せないのを感じていた。彼の目を見た者は、彼がだれにも聞こえないものを聞き、だれも考えたことのないものを知っていることを感じた。いわば人間離れがしていたのだ。
ジェイク・ブラウントはテーブルごしにかがみこみ、その口からはあたかもダムがくずれたように言葉がほとばしり出た。ビフにはもう彼の言葉が理解できなかった。酔いですっかり舌がもつれているばかりか、とてつもない早口でしゃべりまくるので、個々の発音もぜんぶいっしょくただった。アリスにここから追い出されたら、いったいこの男はどこへ行くのだろう、とビフは考えた。ともかく朝になれば、アリスのことだ、きっと言ったとおりにやってのけるにちがいない。
ビフは力のないあくびをし、ふたたび顎を閉じるまで、大きくあけた口もとを指先で叩いた。時刻はほぼ三時――昼日中にせよ夜半にせよ、もっともよどんだ時刻だ。
唖は辛抱強かった。もうかれこれ一時間も、ブラウントの話に耳を傾けているのだ。ようやく彼も、ときおり掛け時計のほうを見やるようになった。ブラウントはいっこうに気づかず、小止《こや》みなく話しつづける。やっとタバコを巻くため間《ま》をおいたところで、唖は時計のほうをうなずいて見せ、いつものひっそりとした微笑を浮かべてテーブルから立ち上がった。両手は依然ポケットにつっこんだままだった。彼は足早に店を出た。
すっかり酔いのまわっているブラウントには、何が起ったかもわからなかった。唖がひとことも返事をしなかったという事実にすら、気づいていなかった。彼はあんぐりと口をあけ、泥酔した目をキョロキョロさせながら店の中を見まわしはじめた。額には赤い血管が浮き出し、握りしめた拳《こぶし》で腹立たしげにテーブルを叩きはじめた。だがその発作も、今度は長くはつづかなかった。
「こっちへこんかね。友だちは帰っちまったよ」と、ビフはやさしく声をかけた。
相手はまだシンガーを捜し求めていた。これほど酔った彼を見るのもめずらしかった。顔の表情までが醜くゆがんでいる。
「あんたにあげたいものがあるし、ちょっと話もしたいんだ」と、ビフはなだめすかすように言った。
ブラウントはテーブルからやっとのことで立ち上がり、大股《おおまた》でよろけながらまた表の通りへ出て行った。
ビフは壁に寄りかかった。出たりはいったり――出たりはいったり、か。なんといっても、彼の知ったことではなかった。店の中はひどくがらんとして静まりかえっていた。時もたゆたい、遅々としてすぎない。疲れきったビフは首を前にうなだれた。あらゆる動きがゆっくりと店から出て行くように思えた。カウンターも、客の顔も、ボックス席も、テーブルも、隅《すみ》のラジオも、天井でうなりつづける扇風機も――すべてが静まり、かすかに消えてゆくように思えた。
うとうとしていたにちがいなかった。だれかの手が肘をゆすぶっている。ゆっくりと我に返ったビフは、何事かと見上げた。調理場で働いているニグロの少年のウィリーが、コック帽をかぶり長い白エプロンをかけて目の前に立っている。何を言いたいのか、ひどく興奮し言葉もどもりがちだ。
「そんであのひと、あそこの煉瓦《れんが》のへ、へ、塀《へい》をげんこで、た、た、たたいてなさるだ」
「何だって?」
「に、に、二軒先の露地んとこです」
ビフは力を抜いていた両肩をまっすぐ起し、ネクタイをなおした。「なに?」
「みんなしてここへつれて来る言うとったから、もうすぐここへ来《く》っかもしんねえ――」
「ウィリー、最初っからよくわかるように話してくれ」と、ビフは忍耐強く言った。
「うちにいたひ、ひ、ひげを生《は》やしてる背のひくい白人のことですだ」
「ブラウントさんだろ。うん」
「そんでおれ――事のはじまりは知らねえんだけど、裏口に立っとったら、えらいさわぎが聞えたもんでよ。露地で大げんかでもおっぱじまったか思うて、そんでおれ、か、か、かけてってみただ。そしたらあの白人が、もうめっためたの大あばれ。煉瓦塀に頭をぶつけて、げんこで叩いてなさるだ。白人があんなに大あばれして悪態つくの、おれも見たことねえ。なんせ煉瓦塀が相手だもんな。あれじゃ頭を割っちまうだ。そのさわぎを聞いた白人がふたりやって来て、まわりに立って見物をはじめたら――」
「そしたらどうした?」
「そしたら――ここにおった唖の――そら、両手をポケットにつっこんでここんとこにおったお客さんが――」
「シンガーさんだ」
「あの人がやって来て、何事かと立って見とっただ。それを、ブ、ブ、ブラウントさんがめっけて、話しかけようとどなりはじめたはいいけど、いきなり地べたにぶったおれちまっただ。ひょっとすっと、ほんとに頭をぶち割っちまったんかもしれねえ。そんでポ、ポ、ポ、ポリ公がやって来たとき、だれかがブラウントさんはここに泊ってるって教えちまいましただ」
ビフは首を垂れ、いま聞いた話をきちんと整理してみた。鼻先を一こすりして、しばらくのあいだ考えこんだ。
「もうすぐここへ来《く》っかもしんねえ」ウィリーは戸口まで行き、通りを先のほうまで眺《なが》めた。
「や、来た来た。引きずって来ましただ」
十数人のやじ馬とおまわりがひとり、店の中へいっせいになだれこもうとした。町の女もふたり、店の外に立ち、表の窓から中をのぞきこんでいる。何かすこしでも変ったことが起るたびに、どこからともなく集まるおおぜいの人間には、いつものことながら驚かされる。
「必要以上にさわぎたてて何になるってんです」とビフは言い、酔いどれをかかえている巡査を見やった――「用のない連中は出てってもらいたいな」
巡査は酔いどれを椅子にすわらせ、集まったやじ馬を通りへ追い出した。それからビフに向って言った――「あんたんとこの店に住んでると聞いたもんでね」
「いや。だけどまあ、住んでるようなもんですが」
「署のほうへつれて行きますかな?」
ビフは思案した。「今夜のところは、もうこれ以上面倒も起さんでしょう。むろん、わたしが責任を持つことはできんが――しかし、こうしてたほうが落着くと思いますよ」
「よろしい。それじゃ勤務あけ前に、も一度寄ってみるからね」
ビフ、シンガー、そしてジェイク・ブラウントの三人だけが残された。つれてこられた酔いどれに、ビフははじめて注意を向けた。ブラウントは顎《あご》にひどいけがをしているようだった。大きな手を口に当てがい、前後に身体《からだ》をゆすりながら、テーブルにうつ伏している。頭部には大きく深い傷があり、こめかみからは血が流れている。手の節ぶしもすりむけ、全身のきたなさはまるで襟首《えりくび》をつかまれ、どぶから引きずり出されたようだった。身体じゅうの体液がすっかり噴《ふ》き出してしまったように、完全にまいっていた。唖《おし》はそのすべてを灰色の目におさめながら、テーブルの向い側にすわっていた。
やがてビフは、ブラウントが顎にべつだんけがをしていないことに気づいた。手を口もとに当てがっているのは、唇がわなないているからだった。涙がそのよごれた顔を伝いはじめた。おりおり彼は、泣き顔を見られた腹立ちをこめ、横目でビフとシンガーを見やった。たしかにいたたまれない光景だった。ビフは唖に向って肩をすくめて見せ、「どうしたらいいんだろう?」という表情で眉《まゆ》を上げた。シンガーも頭をかしげた。
ビフは困惑しきっていた。いったいこの場をどう処理したものか考えあぐねていたのだ。ビフのまだ腹の決まらぬうちに、唖はメニューを裏返し、それに書きはじめた――
[#ここから1字下げ]
もしこの人に行き場所がないなら、わたしがつれて帰ってもいいです。とりあえず、スープとコーヒーでもあげたらいいと思います。
[#ここで字下げ終わり]
ほっとしたように、ビフは元気よくうなずいた。
ビフはテーブルの上に、前夜の特別料理を三皿と、スープを二杯、それにコーヒーとデザートを並べた。しかし、ブラウントは食べようとしない。まるで唇が、むき出しにされた身体の極秘の部分であるかのように、口もとに当てがった手を取ろうとしないのだ。呼吸もしゃくり上げるようなすすり泣きとなり、大きな肩口が神経質にふるえている。シンガーは一つずつ皿を指さしたが、ブラウントは手を口に当てたまま、かぶりを振るばかりだった。
ビフは唖にも読みとれるよう、ゆっくりとうちとけた調子で言った――「えらい|かん《ヽヽ》のたかぶりようだ」
スープから立ちのぼる湯気がブラウントの顔にかかり、しばらくすると、彼はふるえる手をスプーンのほうに伸ばした。彼はスープを飲み、デザートをすこしばかり口にした。分厚い唇のふるえは依然とまらず、皿の上におおいかぶさるように頭を垂《た》れている。
ビフはそのことに目をとめた。彼は考えていた……だいたいどんな人間にも、いつもかばっている特別な身体の部分があるものだ……唖の場合は手だ……少女のミックは、近ごろふくらみはじめたやわらかな乳首がこすれないよう、ブラウスの胸をつまんでばかりいる……妻のアリスは髪の毛だ。髪油を塗った彼とは、けっしていっしょに寝ようとしなかった……それでおれ自身はどうだろう?
ビフはゆっくりと、小指にはめた指輪をまわした。ともかく自分の場合、何がもう弱点でないかはわかっていた。そうなのだ。すでに克服してしまったのだ。鋭い皺《しわ》が顔に刻まれた。ポケットにつっこんだ手が、神経質に股間《こかん》へ伸びた。彼は口笛を吹きはじめ、テーブルから立ち上がった。おかしなことだ、他人の場合はどうしてこういろいろ欠点がわかるのだろう。
ふたりは手を貸し、ブラウントを立ち上がらせた。ブラウントは力なくよろめいた。もう泣いてはいなかったが、何か恥ずかしい陰気なことでも考えているようだった。彼は手をとられ引いて行かれるままになっていた。ビフはカウンターのかげからスーツケースを取出し、唖にそのことを説明した。シンガーはもう何を聞いても驚かないように見えた。
ビフはふたりについて出口まで行った。「元気を出すんだな。あまり妙なところへ首をつっこまんことだ」
黒ぐろとした夜空もようやく明るみはじめ、新しく迎える朝を間近にして濃紺に変りかけていた。ほんの四つ五つ、弱々しい銀色の星がまたたいている。町の通りは人影もなく静まり、冷えびえとした感じだった。シンガーは左手にスーツケースを下げ、あいたほうの手でブラウントをささえた。こっくりうなずいてビフに別れを告げると、ふたりはつれだって通りを歩きはじめた。ビフは立ったままふたりを見送った。半区画ほど行くと、もうふたりの姿は青い闇《やみ》に溶けこむ黒い影になってしまった。しゃんと上体を起し毅然《きぜん》とした唖に、肩幅の広いブラウントがよろめく足どりで、すがってゆく。ふたりの姿がすっかり見えなくなったあとも、ビフはしばらく店の外に立ち、空のたたずまいを眺めた。底知れぬ空のひろがりが彼を魅惑し、重苦しくした。彼は額をなで、まばゆく明りのついた店の中に戻った。
レジのうしろに立ち、今夜の出来事を思いかえそうとする彼の顔はこわばり、きびしい表情になった。何かを自分に説明して聞かせたい気分だった。事件を退屈なこまごました詳細にいたるまで思いかえしてみたが、依然として困惑はとけなかった。
入口の扉が数回あいたりしまったりして、にわかに客がやって来はじめた。夜は終ったのだ。ウィリーは椅子の一部をテーブルの上へ積み上げ、床をモップでふきはじめた。夜勤あけの彼は歌をうたっている。なかなかのなまけ者だった。調理場にいても、年じゅう仕事の手を休めては、いつも持ち歩いているハーモニカを吹きにかかる。いま彼は眠たげに床掃除のモップを動かし、絶え間なく悲しげなニグロの歌を口ずさんでいた。
店はまだ込んではいなかった――一晩じゅう起きていた夜勤の連中が、目ざめたばかりで、これから一日をはじめようという連中と出会う時刻だった。眠い目の給仕女が、ビールとコーヒーをいっしょに運んでいる。物音も話し声も聞えない。だれもがめいめいひとりぼっちのようだった。起きたての連中と、長かった夜を終えようとしている連中のあいだには、お互いに不信のようなものがあり、それがだれにもよそよそしい気持を与えていた。
通り向うの銀行の建物が、夜明けの光の中に青白く見える。やがてその白い煉瓦壁が、しだいにはっきりとしてきた。朝日の最初の光がようやく街路を明るく照らし出すと、ビフは店の中をもう一度見まわし、二階へ上がって行った。
寝室にはいるとき、彼はアリスが目をさますよう、ドアの把手《とって》をうるさくガチャガチャまわした。「やれやれ! なんてえ夜だ!」
アリスは用心深く目をさました。不機嫌《ふきげん》な猫のように、寝乱れたベッドの上に寝そべり、伸びをした。新鮮な暑い朝日を浴びた部屋は、いかにもくすんだ感じで、絹靴下が一足、窓の日除《ひよ》けの紐《ひも》からぐったりしおれたようにぶら下がっている。
「あの酔いどれの阿呆《あほう》は、まだ下にうろついてるの?」と、彼女は問いただした。
ビフはワイシャツをぬぎ、もう一度着られるくらいきれいかどうか、襟《えり》のところをしらべた。
「下へ行って、自分の目で見てくりゃいいだろう。やつを追い出そうっていうおまえのじゃまをするのは、だれもいないって言っただろ」
眠そうな目でアリスは手を伸ばし、ベッドのそばの床の上から聖書と、書きこみのできるメニューと、日曜学校の教科書を取り上げた。聖書の薄いページをめくっていた彼女は、ある章までくると、一つ一つの言葉に精一杯気をくばりながら、声を出して読みはじめた。日曜日だったため、彼女が受持っている教会の青少年部クラスの準備をしていたのだ。「イエス、ガリラヤの海にそいて歩みゆき、シモンとその兄弟アンドレとが、海に網打ちおるを見たもう。かれらは漁人《すなどりびと》なり。イエス言いたもう、『われに従いきたれ、汝《なんじ》らをして人を漁《すなど》る者とならしめん』彼らただちに網をすてて従えり」(新約マルコ伝第一章)
ビフは身体《からだ》を洗うため浴室へはいった。音読しているアリスのやわらかな小声がつづいている。彼は聞き耳を立てた。「……朝まだき暗きほどに、イエス起き出《い》でて、寂しきところにゆき、そこに祈りいたもう。シモンおよびこれとともにおる者ども、その跡を慕いゆき、イエスに遇《あ》いて言う、『人みな汝を尋ぬ』」(マルコ伝第一章)
音読はやっと終った。ビフはいま聞いた言葉を、そっともう一度胸の中でくり返してみた。なんとか聖書の言葉だけを、それを読んだアリスの声から分離させようとした。まだ子どもだったころ、彼の母親がいつも読んでくれた章句を思い出したいと思った。こみ上げてくるなつかしい思いに、彼は小指にはめている、かつては母親のものだった結婚指輪に目を落した。こうして自分が教会も信仰も捨ててしまったことを、いったい母親がいたならどう思うだろう、とまたしても考えてみた。
「きょうは、使徒たちの集まりについて勉強しましょう」とアリスは、下準備のひとりごとを言っていた――「聖句は『人みな汝を尋ぬ』です」
ビフはにわかに物思いからさめ、水道栓《すいどうせん》をいっぱいにひねった。そして肌着《はだぎ》をぬぐと、身体を洗いにかかった。彼はいつもバンドから上を念入りにきれいにしていた。毎朝、胸と両腕と首と足に石鹸《せっけん》をつけて洗うのだ――風呂にはいるのは一季節に二度ばかり、そのときは身体じゅうをすっかり洗うことにしていた。
ビフはベッドのわきに立ち、アリスの起き上がるのをもどかしげに待っていた。窓の外を見ると、風のない灼《や》けつくような一日になりそうだった。アリスはすでにその教える個所を読み終っていた。彼が待っていることを知りながら、まだだらしなくベッドに寝そべっている。ビフの胸の中に、むっつりとした静かな怒りがこみ上げてきた。彼は皮肉っぽく笑い、苦々しげに言った――「なんなら、その辺にすわってしばらく新聞を読んでもいいがね。しかし、そろそろ眠らせてもらいたいな」
アリスは身づくろいをはじめ、ビフはベッドをなおした。上に掛けていたのを下に、表にしていたのを裏返しに、上下を逆にと、あらゆる方法で器用にシーツを敷きなおした。ベッドがきちんと作りなおされると、彼はアリスが部屋を出て行くのを待ち、それからズボンをぬぎベッドにもぐりこんだ。両足は掛けぶとんの下からつき出し、針金のようにこわい胸毛の生《は》えた胸もとが、枕《まくら》を背に黒ぐろと見える。ゆうべのあの酔いどれ男に起ったことを、アリスに話さないでよかったという気がした。しかし、あのことはだれかに話したかった――事実を洗いざらい声に出して話してしまえば、頭を悩ましている点もはっきりしてくるにちがいない。ただひたすら話しつづけるが、だれひとり理解してくれる者のないあわれな酔いどれ男。おそらくは、自分でも自分がよくわかっていないのだろう。だがそれにしても、唖《おし》に引寄せられ、唖を相手に選び、自分の胸中のすべてを与えようとしたあのけんめいなしぐさ。
いったいなぜだろう?
個人的なものはすべて、発酵《はっこう》し毒と変らぬうちいつかは放棄し、他の人間なり思想なりに投げ与えねばおさまらぬ人びとがあるからであろう。どうしてもそうせずにはいられないのだ。人によっては、そうせずにはおさまらないのだ――「人みな汝を尋ぬ」と聖句にあるとおりなのだ。おそらくはそれゆえ――たぶんあの男は、おれはシナ人だなどと言ったのだろう。黒ん坊でイタ公でユダヤ人だなどと。自分でそう堅く信じているからには、あるいはほんとうにそうなのかもしれない。おれはあらゆる人間、あらゆるものだとあの男は言っていた……
ビフは両腕を左右にひろげて伸ばし、足先を組み合わせた。皺《しわ》の寄った瞼《まぶた》を閉じ、頬《ほお》や顎《あご》を鉄のような濃いひげにおおわれた顔は、朝日に照らされていつもより老《ふ》けて見えた。やがて口もともほぐれゆるんできた。きびしい黄色い日射《ひざ》しが窓からさしこみ、部屋は明るく暑かった。ビフはけだるげに寝返りを打ち、両手で目をおおった。これがほかならぬバーソロミューであり――両の拳《こぶし》と即妙な舌が自慢のビフであり――ブラノン氏の姿だったのだ。
前の晩ひどく遅くまで外に出ていたにもかかわらず、ミックは朝の日射《ひざ》しに早く目ざめてしまった。朝食にコーヒーを飲む気もしないほど暑かったので、シロップを入れた氷水を飲み、冷たくなった焼きパンを食べた。しばらく台所でぶらぶらしていてから、新聞の漫画を読むため玄関先まで出てみた。きっとシンガーさんも、いつもの日曜日の朝の習慣どおり、ポーチに出て新聞を読んでいるにちがいないと思っていた。ところが、シンガーさんの姿はなく、のちほどパパから聞いた話では、シンガーさんは昨夜とても帰りが遅く、部屋には客が来ているという。ミックは長いあいだシンガーさんを待っていた。ほかの下宿人はみなおりて来たが、シンガーさんだけは姿を見せない。あきらめたミックは台所に戻り、赤ん坊のラルフを高い椅子からおろし、清潔な服を着せ顔をふいてやった。やがて弟のババーが日曜学校から帰って来るのを待って、子どもたちを外へつれ出すことにした。熱く灼《や》けた歩道を歩くと足が焼けるので、ミックははだしのババーもラルフといっしょに荷車に乗せてやった。八区画ほど荷車を引いて行くと、建築中の大きな家の前に出た。屋根のへりにはまだ梯子《はしご》が立てかけてあった。ミックは勇気をふるいおこし、梯子をのぼりはじめた。
「おまえはラルフに気をつけといで」と、ミックはババーに声をかけた――「ブヨが目にとまんないよう、見張ってんだよ」
五分後、ミックは屋根の上にすっくと立ち上がった。両腕を翼のようにひろげてみたりもした。だれもがのぼりたがっている場所だった。いちばんのてっぺんなのだ。だが、子どもならだれでもできるというものではなかった。たいていは怖気《おじけ》をふるってしまった。もし手を放し、端からころがり落ちればそれっきりだからだ。まわりじゅう見渡すかぎり、家々の屋根と緑の梢《こずえ》がつづいている。町の反対側には、教会の尖塔《せんとう》と工場の煙突がいくつも見える。空は抜けるように青く、火のように暑かった。太陽が地上のあらゆるものを、目もくらむような白か黒に変えている。
ミックは歌をうたいたくなった。知っている歌が一度に喉《のど》もとまでこみ上げてきたが、音はともなわなかった。先週、屋根のいちばんてっぺんまでのぼった年上の男の子は喚声をあげたあと、高校で習ったマーク・アントニーの演説をやりはじめた――「友よ、ローマ市民よ、同胞よ、耳を貸されたい!」いちばん頂上をきわめると何かとてつもない気分になり、喚声をあげるか、うたいだすか、さもなければ両腕を上げて飛び出したくなるのだ。
はいているテニスシューズの底がすべるのを感じたミックは、しゃがみこみ、屋根の背にまたがった。家はもうほとんどでき上がっていた。この近所ではいちばん大きな建物の一つになるだろう――とても天井の高い二階家で、これまで見たこともないくらい急な勾配《こうばい》の屋根だ。まもなく工事もすっかり終るだろう。大工たちも去り、子どもたちはまた別の遊び場を捜さねばならないだろう。
ミックはただひとりきりだった。まわりにはだれの姿もなく、静かで、しばらく考えごとをすることができた。彼女は半ズボンのポケットから、前の晩買ったタバコの箱を取出し、ゆっくりと煙を吸いこんだ。タバコのおかげで酔ったような気分になり、肩に乗った頭も重くふらついたが、どうしても吸い終えねば気がすまなかった。
M・K――と、十七歳になり有名になったときには、彼女はすべてにこうサインするつもりだった。この頭文字《かしらもじ》をドアに書きこんだ赤と白のパッカード車に乗って、故郷に錦《にしき》を飾るのだ。ハンカチや肌着《はだぎ》にも、ぜんぶ赤でM・Kと書きこもう。たぶん末は大発明家になるのだ。グリンピースくらいの大きさで、だれもが持って歩け耳に入れて聞けるような、ちっちゃなラジオを発明するのだ。それから、リュックみたいに背中にくくりつけて、ビューンと世界じゅうを飛びまわれる飛行機械もだ。そのあとは、地球をぶち抜いてシナまで行ける大きなトンネルを人に先がけて作り、人びとが大きな気球に乗っておりて行けるようにする。まずこういったものを発明するのだ。もう計画はちゃんとできているのだ。
タバコは半分まで吸い終えたところで、もみ消し、屋根の斜面に投げ捨てた。それから前かがみになって顎《あご》を両腕にもたせかけ、鼻歌をうたいはじめた。
奇妙なことだった――どういうわけか彼女の心の奥では、いつも何かピアノ曲かその他の音楽が鳴りひびいているのだ。何をしていようが、何を考えていようが、たいていいつも聞えているのだ。下宿人のひとりであるミス・ブラウンの部屋にはラジオがあったので、去年は冬のあいだじゅう、毎週日曜の午後になると階段に腰をかけ、ラジオ番組を聞いたものだ。クラシック音楽らしかったが、ミックはそれらをいちばんよく覚えていた。中でもだれの曲か、聞くたびに胸をしめつけられるようになる曲があった。その作曲家の音楽は、ときには小さな色つき氷砂糖キャンデーのようでもあり、またときには、このうえなくやさしくもの悲しいものに思えた。
とつぜん、泣き声が聞えてきた。ミックははっと起き上がり、聞き耳を立てた。風が額の生《は》えぎわの髪をかき乱し、まばゆい太陽に白んだ顔が汗ばむ。泣き声はやまない。ミックは四つんばいの姿勢で、急勾配の屋根をそろそろ伝いはじめた。屋根の端まで行くと、腹ばいのまま身体《からだ》を乗り出し、頭だけをつき出して下の地面を見ることができた。
子どもたちは、先ほどと同じところにいた。ババーは何に見とれているのか地面にしゃがみこみ、そのそばに黒いいじけた影法師を作っている。ラルフは依然荷車にくくりつけられている。やっと自分ですわっていられるようになったばかりだが、荷車のへりにつかまり、帽子をずらして泣いている。
「ババー!」とミックは声をかけた――「ラルフのこと見てやって。何をほしがってんのか見てやってちょうだい」
ババーは立ち上がり、しげしげと赤ん坊の顔をのぞきこんだ。「なんにもほしがっちゃいないよ」
「そいじゃ、よくゆすぶっておやり」
ミックは、先ほどすわっていた場所までまたよじのぼった。二、三の人たちのことをじっくりと考え、歌でも口ずさみ、いろいろ計画を立てたかったのだ。ところがラルフはまだ泣きわめきつづけ、とても落着いた気分にはなれそうもなかった。
勇を鼓《こ》し、ミックは屋根のふちに立てかけた梯子のほうへおりはじめた。傾斜はおそろしく急で、職人が足場に使う木片が、ひどく飛びとびにいくつか釘《くぎ》で打ちつけてあるだけだった。思わず目がくらみ、やたらに胸がどきどきして、身体じゅうがふるえた。彼女は命令口調で、声に出して自分に言い聞かせた――「両手でしっかりここへつかまるんだよ。それから右足があすこの足場へつくまですべりおりて、ぴったりひっついたまま左側へにじり寄るの。度胸だよ、ミック、度胸の見せどころだよ」
どこへのぼるにせよ、いちばんの難関はおりて来るときだ。梯子に足がかかり、ほっとするまでに長い時間がかかった。やっとのことで地上におり立つと、前よりも急に背が低く小さくなったように思え、脚《あし》もへなへなに折れてしまいそうな気がした。ミックは半ズボンを引っぱり上げ、バンドを一穴分きつくしめた。ラルフはまだ泣いていたが、ミックは泣き声を気にもとめず、新築の空家《あきや》の中へはいって行った。
先月この家の前には、「子どもはいるべからず」の立て札が出された。ある晩、悪童連が家の中を走りまわっていたところ、目の悪い女の子が床板のはっていない部屋へ駆けこみ、下へ落ちて脚を折ってしまったからだ。その子はまだギプスをはめられ、入院中だった。さらにまたあるときは、何人かのわんぱく小僧たちが壁一面に小便をひっかけ、下品な言葉の落書きをしたりした。だが、どれほどたくさん「立入禁止」の札を出そうと、すっかりペンキを塗り上げ、家ができ上がり、住む人たちが引っ越して来るまでは、子どもたちを追いはらうことはできなかった。
どの部屋も新しい木の香《かお》りがし、ミックが歩くとテニスシューズの底がペタペタ音を立て、それが家じゅうにこだました。暑い空気はよどんで動かない。ミックはしばらくとっつきの部屋のまん中にじっと立っていたが、ふとあることを思いついた。ポケットの中を捜し、チョークのかけを二つ取出した――一つは緑、一つは赤だった。
ミックは木版文字風の大きな字をゆっくりと書きはじめた。まず壁のいちばん上には「エジソン」、その下には「ディック・トレイシー」「ムッソリーニ」と書いた。それからそれぞれ四|隅《すみ》には、ずば抜けて大きな字でM・Kと自分の頭文字を緑色で書き、その輪郭を赤で囲った。それがすむと、今度は反対側の壁のところへ行き、「オマンコ」と思い切り下品な言葉を書き、その下にも頭文字をそえた。
がらんとした部屋のまん中に立った彼女は、書き上げた落書きをじっとみつめた。手にはまだチョークを握っていたが、どうももうひとつ満足できなかった。去年の冬、ラジオで聞いたあの音楽の作曲家の名前を思い出そうとした。家にピアノがあって音楽を習っている学校友だちにきいたところ、その子が自分の先生にきいてくれたのだ。なんでもずっとむかし、ヨーロッパのどこかの国に住んでいた作曲家で、ほんの子どもだったそうだ。しかし子どもだったにしろ、あんなに美しいピアノ曲やヴァイオリン曲や管弦楽曲まで書き上げたのだ。これまでに聞いたこの作曲家の曲の中で、六つくらいは節まわしを覚えていた。速いテンポの、鈴を打ちふるようなメロディーもあれば、春の雨あがりのような匂《にお》いを持つ調べもあった。しかしどの曲を聞いても、どういうわけか寂しい気持になり、同時に心をゆさぶられるのだった。ミックはそのメロディーの一つを口ずさんだが、やがてがらんとした暑い部屋にたったひとりでいると、目に涙があふれてきた。喉《のど》もこわばり苦しくなってきて、うたいつづけられなくなった。彼女は手早く、落書きのいちばん上にその作曲家の名を書きしるした――「モーツァルト」。
ラルフは置き去りにされたときのまま、荷車にくくりつけられていた。おとなしくちょこんとすわり、肥《ふと》った小さな手で荷車のへりをつかんでいる。黒い前髪をおかっぱにし、黒い目をしているので、かわいいシナ人の赤ちゃんのようだ。太陽がまともに顔にあたっている。さっき泣いていたのはそのためだったのだ。ババーの姿はその辺に見えない。ミックがやって来るのを見ると、ラルフはまたあらためて泣きはじめた。ミックは荷車を新築の家のわきの日陰へ引いて行き、ワイシャツのポケットから青いゼリービンズを取出し、赤ん坊の暖かくやわらかい口の中へ押しこんでやった。
「よく考えていい子にすんだよ」と言い聞かせたが、ある意味ではむだなことだった――まだ幼すぎるラルフには、キャンデーのほんとうのおいしい味はわからなかったからだ。きれいな小石を与えたところで同じなのだ。ただ、このばかチビはのみこんでしまうだろうから困るだけの話だ。話をしたところでわからないように、味もわかりっこないのだ。おまえを引っぱり歩くのなんかもうあきあきだよ、ひと思いに川へほうりこんでやりたいくらいだ、と言ってやったところで、このチビにはいい子いい子と言ってもらっているのと変りはないのだ。何であろうが、この子にはたいした違いはないのだ。この子を引っぱりまわるのがこれほどうんざりなのも、そのためなのだ。
ミックはくぼませた両手をしっかり組み合せ、親指のあいだの隙間《すきま》から息を吹いた。頬《ほお》を精一杯ふくらませているが、最初は拳《こぶし》のあいだからもれる息の音しか聞えなかった。が、やがて甲高く鋭い笛のような音がひびき、数秒後にはババーが家の角《かど》から姿を現わした。
ミックはババーの髪の毛についたおが屑《くず》を払ってやり、ラルフの帽子をまっすぐにしてやった。ラルフの持物の中では、いちばん上等なのがこの帽子だった。レース製で、ぜんぶ刺繍《ししゅう》がはいっているのだ。顎の下のリボンは片側が青、もう片側が白で、耳の上には大きなばら飾りがついている。もう頭のほうが帽子より大きくなってしまい、刺繍もすりきれていたが、外へつれ出すときミックはいつもこれをかぶせることにしていた。ラルフは世間の赤ん坊がたいてい持っているような乳母車《うばぐるま》も、夏の毛糸編み靴も持っていなかった。そのため、三年前のクリスマスにミックがもらった古ぼけたみすぼらしい荷車に乗せて、あちこち引っぱってやらねばならなかった。しかし、りっぱな帽子のおかげで、面目はつぶさずにすんだ。
日曜の朝も昼近く、ひどく暑かったためか、町の通りに人影はなかった。荷車はきしり、ガタガタ音を立てた。はだしのババーは、歩道が熱く灼《や》けているため、足を焦がしそうになった。緑色の樫《かし》の木立が、涼しげな黒い影を地上に作っていたが、十分な日陰とはいえなかった。
「荷車にお乗りよ」と、彼女はババーに言った――「乗っかって、ラルフをだっこしておやり」
「だいじょうぶ、歩けるよ」
長い夏のあいだに、きまってババーは腹痛を起した。シャツを着ていないので、あばら骨がくっきりと白く浮き出て見える。太陽はその肌《はだ》をこげ茶に焼くかわり、青白く見せている。小さな乳首は、胸にのった青い干ぶどうのようだ。
「引っぱるのはなんでもないのよ。お乗り」
「うん」
いそいで家に帰ることもなかったので、ミックはゆっくり荷車を引いた。引きながら弟たちに話しかけた。しかし、それは話しかけるというより、ひとりごとのようなものだった。
「とてもおかしいの――このごろ見る夢って。まるで泳いでるみたいで。でも水の中じゃなくて、たいへんな人込みの中を抜き手を切ってくの。土曜の午後のクレスの店よりか、百倍もたいへんな人込みよ。世界一の人込み。それであたしは、ときどき何やら叫びながら人込みの中を泳いでくの、行く先ざきでだれでもみな倒しちまいながら……そうかと思や、こんどは地べたに寝ころんでて、みんながあたしの上を踏みつけてくもんだから、はらわたが歩道にはみ出ちまうの。こんなの、ただの夢じゃなくて悪夢だわね――」
いつもの日曜日は、下宿人のところに客が来るので、家じゅう人でいっぱいだった。新聞をめくる音、葉巻のけむり、ひきもきらぬ階段の足音。
「とうぜんだれにだって、ないしょにしときたいことはあるわ。うしろめたいことだからじゃなくて、ただないしょにしときたいから。あたしも二つや三つ、あんたたちにも知られたくないことがあんの」
町角まで来ると、ババーは荷車からおり、車を縁石《ふちいし》の下におろし、またつぎの歩道にのせるのを手伝った。
「一つだけ、どんなことをしても手に入れたいものがあるの。それはピアノ。もしピアノがあったら、毎晩毎晩練習して、世界じゅうの曲をみんなおぼえちまうんだけどな。ほかの何よりほしいのはそれなの」
彼らはすでに家の近所まで来ていた。家はもう二、三軒先だった。この町の北部でいちばん大きな家の一つで、三階建てだった。だが、十四人という大家族だった。ケリー家の血つづきが十四人も住みついているわけではなかった――しかし、一人あたり五ドルで寝泊りし食事をしている下宿人なので、家族の数に入れてもよかった。シンガーさんは勘定にはいっていなかった。ただ部屋を借りているだけで、あとはぜんぶ自分でやっていたからだ。
狭苦しい家で、もう長年ペンキの塗りかえもしてなかった。三階もある家にしては、作りが頑丈《がんじょう》でないようだった。片側にかしいでいるのだ。
ミックは、くくりつけてあったラルフをほどいてやり、荷車からおろしてやった。いそいで玄関を駆け抜ける――横目で見ると、居間は下宿人でいっぱいだ。パパもいた。ママはきっと台所だろう。みんな昼食を待ってぶらぶらしているのだ。
ミックは家族で使っている三部屋の、いちばん手前の部屋へはいった。パパとママのベッドにラルフをおろし、おもちゃがわりに数珠玉《じゅずだま》をあてがった。隣の部屋のしまったドアの奥から話し声が聞える。ミックは中へはいってみることにした。
姉のヘイゼルとエッタは、ミックの姿に話をやめた。エッタは窓ぎわの椅子にすわり、足の爪《つめ》に紅《あか》い爪磨《つめみが》きを塗っている。髪の毛を鉄製のカール・クリップで巻き、顎の下のにきびの出てきたところには、白いクリームが塗りつけてある。ヘイゼルはいつものように、だらしなくベッドに寝そべっている。
「何をペチャペチャやってたのよ?」
「あんたなんかの知ったことじゃないの。だまって、よけいな口出しはしないどいて」とエッタ。
「ここは姉さんたちだけの部屋じゃないのよ。あたしだって、おんなじだけ使う権利があんだから」ミックは部屋の隅から隅までくまなく、そっくりかえって歩きまわった。「なにもけんかをしようてんじゃないの。ただ自分の権利を主張したかっただけ」
ミックは手のひらで、ほつれた前髪をなで上げた。あまりしじゅうくり返すので、額の上の髪の毛が一並びさかだっていた。彼女は鼻をひくつかせ、鏡に映った自分の顔にあかんべえをしてみせた。それから、また部屋の中を歩きまわりはじめた。
ヘイゼルとエッタは、姉としてはまあまあだった。しかしエッタは、いろいろ悩みごとでいっぱいのようだった。考えるのは映画スターのことと、スターになることばかりだった。あるとき、女優のジャネット・マクドナルドにファンレターを出したところ、ハリウッドへ来ることがあったらどうぞ立ち寄ってうちのプールで泳いでください、というタイプで打った返事が届いた。それ以来、エッタの心はプールのことでいっぱいだった。バス賃をかき集めしだいハリウッドへ行き、秘書の仕事にありつき、ジャネット・マクドナルドと仲よしになって、自分も銀幕入りする――考えるのはそのことばかりだった。
つまりは日がな一日、おしゃれにうつつをぬかすことになった。あわれなのはそこだった。エッタは生まれつき、ヘイゼルのように器量よしではなかった。まず何よりも、顎というものがなかったのだ。顎のあたりを引っぱったり、映画の本で読んだ顎の運動をしきりにやってみたりもした。年じゅう鏡に映した横顔を眺《なが》めては、なんとか口もとを見場《みば》よく見せようとしていた。だが何の効果もなかった。ときには容貌《ようぼう》のことを苦にし、夜中に両手で顔をおおって泣くこともあった。
ヘイゼルはまったくなまけ者だった。器量はよいが頭のほうは鈍かった。十八歳で、兄のビルについで子どもたちの中では年かさだった。おそらく、問題はそこにあった。何であろうとまっ先に、いちばん大きな分け前をもらったからだ――新しい服でも、何か特別なご馳走《ちそう》でもいちばん大きなところは、みんなヘイゼル行きだった。物をひったくったりしなくていいためか、いたっておっとりしていた。
「一日じゅう部屋の中を歩きまわってるつもり? そんな男の子みたいな変な格好はよしてよ、気分が悪くなるわ。だれかに押えつけられて、お行儀をしこんでもらわなきゃだめなようね、ミック」とエッタは言った。
「うるさいわね。あたしが半ズボンをはくのはね、姉さんのおさがりなんか着たくないからよ。姉さんたちみたいになりたくないし、姉さんみたいな格好だってまっぴら。そうよ。だから半ズボンをはくの。いますぐ男の子になりたいくらい。ビル兄さんの部屋に引っ越しできないかしら」
ミックはベッドの下をはいまわり、大きな帽子箱を取出した。それを戸口に運んで行くあとから、ふたりの姉は声をかけた――「出てってくれて、せいせい!」
ビルは、家族の中でいちばんいい部屋をもらっていた。ババーが出入りするほかは、彼がひとり占めにしている密室だった。壁には雑誌から切り抜いた写真が貼《は》りつけてある。大部分は美人の顔だったが、もう片方の隅には、去年ミックが無料の絵画講習会で描いてきた絵が数枚貼ってある。家具はベッドと机だけだった。
彼は背を丸くして机に向い、『ポピュラー・メカニック』誌を読んでいた。ミックはうしろから近づき、兄の肩に両腕で抱きついた。「よう、兄貴」
ビルはそれまでのように妹との取っ組み合いをはじめなかった。「よう」と言って、ちょっと肩をゆすっただけだった。
「しばらくこの部屋にいてもかまわない?」
「いいとも――いたけりゃいたっていいよ」
ミックは床にひざまずき、大きな帽子箱の紐《ひも》をといた。蓋《ふた》のふちまで手が行きかけたが、どういうわけか、なかなかあけるだけの決心がつかなかった。
「考えてみると、ずいぶんこれに手をかけてきたけど。うまく鳴ってくれるかしら、だめかしら」
ビルは雑誌を読みつづけている。ミックは依然、箱を前にひざまずいたまま、蓋を取らない。彼女は、背を向けてすわっている兄のほうを見やった。雑誌を読みながらも、彼は大きな片方の足でもう一方を踏みつけている。おかげで靴はすりへっている。いつだったかパパに、おまえの食べる昼めしはぜんぶ足に、朝めしは片方の耳、夕めしはもう片方の耳に行っちまうんじゃないか、とからかわれたことがあった。冗談にしては少々すぎたようだったが、彼はひと月もそのことで不機嫌《ふきげん》だった。しかしほんとうにおかしかった。耳はとび出ているうえまっ赤《か》だったし、高校を出たばかりだというのに、サイズ十三のばかでかい靴をはいていたからだ。立ち上がるときには、片方の足をもう一方のうしろにこすりつけ隠そうとしたが、そのためかえっておかしさが目立った。
ミックは箱をほんのちょっとあけ、またしめてしまった。胸がどきどきして、すぐには中をのぞけない気分だった。まず立ち上がり、いくらか落着くまで部屋の中を歩きまわることにした。何分か歩きまわったあと、ミックは去年の冬、学校生徒のための無料絵画教室で描いた絵の前で立ちどまった。一枚の絵は海の嵐《あらし》を描いたもので、鴎《かもめ》が一羽、風にあおられ吹き飛ばされていた。『嵐に傷ついた鴎』と題されていた。先生が最初の二、三回の授業で海の話をしてくれたので、大部分の生徒がまず海の絵を描きはじめたのだ。しかし生徒の大半はミックと同様、自分の目で海を見たことはなかった。
ミックの描いた最初の絵だったが、ビルはそれを自室の壁に貼りつけてくれた。その他の絵は、どれも人間でいっぱいだった。嵐の海の絵は、はじめのうちほかにも何枚か描いていた――一つは飛行機が墜落し、乗客があわてふためきながら飛び出している絵、もう一つは、大西洋航路の客船が沈みかけ、たった一隻の小さな救命艇に、乗客ぜんぶが押し合いへし合い乗り移ろうとしている絵だった。
ミックは兄の部屋の押入れにはいり、あの絵画教室で描いたその他の絵も持ち出した――鉛筆画と水彩画が何枚かずつ、それに油絵も一枚あった。どれにも人物がいっぱい描かれていた。町のブロード通りで大火事が起った場合を想像し、そのありさまを描いた絵もあった。炎はあざやかな緑とオレンジ色で、焼け残っているのはブラノンさんのレストランと第一ナショナル銀行だけぐらいだ。通りには焼死体がころがり、生き残った人びとは必死に逃げまどっている。寝巻姿の男がいるかと思えば、バナナを一|房《ふさ》かかえた女もいる。もう一枚の絵には、『工場のボイラー爆発』と題がつき、男たちが窓から飛び出しのがれている一方では、父親に持ってきた弁当入れを手にした作業服の子どもたちが一かたまり、身動きもできずに立っている。油絵は、ブロード通りで町じゅうの人たちが戦争をしている図だった。どうしてこんな絵を描いたのか自分でもわからず、この絵にふさわしい題名を思いつかなかった。火事もなければ嵐もなく、どうしてこんな戦争が起っているのかも画面からはわからない。しかし、他のどの絵より多くの人物が描かれ、動きがあった。絵としてはいちばんよかったにかかわらず、うってつけの題名が思いつかないのは残念だった。しかし心の奥のどこかでは、はっきり題名もわかっているような気がした。
ミックはその絵を押入れの棚《たな》の上に戻した。どれ一つとして、特にうまいという絵はない。人物には指がついておらず、脚より長い腕があったりする。だが、あの絵画教室はおもしろかった。ミックは何であろうと、わけもなく頭に浮んだものを片端から描いたのだ――しかし絵は、音楽のような感動を心に与えてくれなかった。音楽ほどすばらしいものはないのだ。
ミックは床にひざまずき、手早く大きな帽子箱の蓋を持ち上げた。中には、ヴァイオリンの弦を二本、ギターとバンジョーの弦を一本ずつ張った、ひび割れたウクレレがはいっていた。ウクレレの裏にはいったひび割れは、絆創膏《ばんそうこう》でていねいに修理してあり、まん中にあいた丸い穴は木片でおおってある。ヴァイオリンの駒《こま》が端のところで弦をささえ、両側にひびき穴があけてある。ミックは自分でヴァイオリンをこしらえていたのだ。彼女は膝《ひざ》の上へヴァイオリンをのせた。こうやってしげしげと眺《なが》めるのは、いまはじめてのような気がした。しばらく前、タバコの箱にゴム輪を張り、ババーに小さなおもちゃのマンドリンを作ってやったことから思いついたのだ。それ以来、あちこち捜しまわっては部品を集め、毎日すこしずつつけ加えていった。頭を使う以外は、あらゆる手だてをつくしたような気がした。
「ねえビル、これ本物のヴァイオリンとちっとも似てないみたいなんだけど」
彼はまだ雑誌に夢中だった。「ん、何だって――?」
「これじゃだめみたいなのよ。なんだか、これじゃ……」
糸巻きをねじり、その日のうちにも弦の調子を合わせるつもりだったのだ。しかし、苦心の作の出来ぐあいがとつぜんわかってみると、もう見る気もしなかった。ミックはゆっくりと、弦を一つずつはじいてみた。どの弦も、まったく同じうつろな、かぼそいひびきを立てただけだった。
「弓はどうやったら手にはいるかしら? 馬の毛で作らなきゃいけないって、ほんと?」
「そうさ」と、ビルはいらだたしげに言った。
「よくしなう棒きれに、細い針金か人間の髪の毛を張ってもだめ?」
彼は両足をこすり合せ、答えなかった。
くやしさが玉の汗になって額に噴《ふ》き出した。声もしわがれてひびいた。「こんなの、けちなヴァイオリンとも呼べやしない。マンドリンとウクレレのあいの子だわ。こんなの大きらい。何よこんなの……」
ビルは振返った。
「まるきり失敗だわ。こんなのじゃだめ。ぜんぜん役にも立ちゃしない」
「うるさいな。おもちゃにしてた古いこわれたウクレレのことで、大さわぎかい? そんなこと、はじめからわかってたんだ、ヴァイオリンを作れるなんて思うのがおかしいんだ。ヴァイオリンなんてものは、さあこれから作りましょうって作れるもんじゃない――買うものさ。そんなことくらい、言わなくてもわかってるだろうと思ってたんだがな。自分で気がつくのも薬になるだろうと思ってさ」
ときどき、ミックは世界じゅうのだれよりビルがきらいになった。これまでの兄とはすっかり変ってしまっていた。ヴァイオリンを床に叩《たた》きつけ、足で踏みつけようとしたが、思いなおし、帽子の箱の中へ乱暴に投げこんだ。涙が目の中で火のように熱かった。箱を一|蹴《け》りすると、彼女は兄のほうを見向きもせず、部屋を飛び出した。
裏庭へ出ようと廊下を駆け出したミックは、ママと鉢合《はちあ》わせしてしまった。
「どうしたのよ? 何が起ったっていうの?」
身を振りほどこうとしたが、ママにしっかり腕をつかまれていた。ミックはむっつりとして、手の甲で涙をぬぐった。それまで台所にいたママは、エプロンをかけ、部屋ばきをはいていた。いつもながら、気にかかる心配ごとがたくさんあって、それ以上聞いているひまがないようなようすだ。
「ジャクソンさんが妹さんをふたり、お昼につれてらしてね、椅子が足りないから、きょうはババーと台所で食べてちょうだい」
「うん、いいわ」
ママはようやく放してくれ、エプロンをはずしに立ち去った。食堂からは昼食の合図の鈴の音が聞え、楽しそうな話し声がにわかにはじまった。パパの声がしゃべっているのが聞える――腰骨を折ったとき、ちょうどそれまでかけていた傷害保険がきれていたため、どんなに損をしたかという話だ。パパはそういう話を忘れられなかったのだ――儲《もう》かるところを儲けそこなったというような話は。お皿のカチャカチャいう音が聞え、しばらくすると話し声はやんだ。
ミックは階段の手すりに寄りかかった。しゃくり上げるようにとつぜん泣けてきたのだ。先月のことを思い出してみると、ヴァイオリンがうまく鳴ってくれるとは、自分でも思っていなかったような気がする。ただ胸の中で、自分にそう思いこませてきたのだ。いまでも、いくらかは信じないではいられなかった。すっかり疲れきった気分だった。兄のビルも、いまでは何のたよりにもならなかった。これまでは、兄こそ、この世の中でいちばんすばらしい人間だと思っていたのだ。兄の行くところ、どこへでもついて行ったものだ――森の中の釣りへも、兄が仲間の少年たちと建てたクラブ会館へも、ブラノンさんがレストランの奥に置いているパチンコへも――それこそどこへでも。兄も、こんなふうに彼女を落胆させるつもりはなかったのかもしれない。しかしともかく、ふたりはもう二度と仲よい相棒にはなれないだろう。
廊下には、タバコと日曜日の正餐《せいさん》の匂《にお》いが漂っていた。ミックは深く息を吸いこみ、台所のほうへ引返した。食べ物のよい匂いがしだすと、にわかに空腹がこみ上げてきた。ババーに話しかけているポーシャの声が聞えた。何か歌のようにうたっているか、ババーにお話でも聞かせているようだった。
「そいだから、あたいはほかのニグロの娘よりずっとしあわせだっていうの」と、ポーシャはドアをあけながら言った。
「なぜ?」とミックはきいた。
ポーシャとババーは、台所のテーブルにすわり、昼食をたべていた。濃い褐色《かっしょく》の肌にまとったポーシャの緑色のプリント服が、いかにも涼しげに見える。ポーシャは緑色の耳飾りをつけ、髪の毛をぺったりきれいになでつけていた。
「お嬢ちゃんにも困ったもんだ、ひとの言葉尻《ことばじり》をつかまえちゃ、ぜんぶ聞かんと承知しねえんだもん」ポーシャは立ち上がり、熱い調理用ストーブの上にかがみこみ、ミックの皿に料理をよそってくれた。「ババーとあたいはね、オールド・サーディス・ロードにあるあたいのおじいちゃんの家のことを話してたんよ。おじいちゃんやおじさんたちがさ、ひろい農場を持ってるって話をしてたん。十五エーカー半もあんのよ。そのうち四エーカーにはいつも綿《わた》を植えんだけど、年によっちゃ豆にかえることもあんの、土がこえるもんね。そいから、丘の上にある一エーカーは桃ばっかし。騾馬《らば》や種豚もおるし、いつだって二十羽から二十五羽くらいのにわとりは飼ってんの。野菜畑もありゃ、ピカーンの木が二本に、いちじくやすももや苺《いちご》はどっさりあんの。ほんとよ。白人の農場だってさ、うちのおじいちゃんみたいにうまくやってるとこって、そうたんとはないよ」
ミックは食卓に両肘《りょうひじ》をつき、皿の上に顔を持っていった。ポーシャは夫や弟の話をのぞくと、むかしから農場の話が何より好きだった。彼女の話を聞いていると、ニグロの農場がまるでホワイト・ハウスのように思えてくる。
「家もさいしょはちっちゃな一間きりだったんよ。それが何年もたつうちだんだん建てましして、いまじゃおじいちゃんに、四人の息子《むすこ》夫婦と子ども、それにあたいの兄さんのハミルトンの部屋まであんの。客間にはほんとのオルガンや蓄音機まであんのよ。壁には組合の服を着たおじいちゃんのでっかい写真がかかっててさ。なにしろ、くだものや野菜はみんなかんづめにしちまうからね、冬がどない寒うて雨つづきだろうと、食べ物だけはいつだってたっぷりあんのよ」
「そいじゃ、なぜその人たちといっしょに暮さないの?」とミックはきいた。
ポーシャはじゃがいもの皮をむくのをやめ、言葉に合わせ、長い褐色の指先でテーブルをコツコツ叩いた。「それはさ、こういうことなんよ。そら――みんなめいめい、じぶんの家族をいれる部屋を作ったいうたでしょ。みんな何年も、いっしょけんめい働いてきたんよ。それにさ、いまどきは暮らしだって楽じゃないし。なんてったって、そら――あたいがおじいちゃんとこにいたのは、まだちっちゃな子どものころだもんね。それっきりで、なんの働きをしたわけでもないもんね。そりゃ、あたいやウィリーやハイボーイが困ったときには、いつだって帰れるけどさ」
「おとうさんは部屋をこしらえなかったの?」
ポーシャは噛《か》むのをやめた。「だれのとうさん? あたいの?」
「もちろんよ」とミック。
「あたいのとうさんがこの町でお医者をやってるってのは、よう知ってなさるだろ?」
前にポーシャがそう言っていたのは聞いたことがあったが、どうせ嘘《うそ》だろうと思っていたのだ。ニグロが医者なんかになれるはずがないではないか?
「こういうわけなんよ。とうさんといっしょになるまえ、あたいのかあさんてのはそりゃもう、親切しか知らん人だったの。おじいちゃんてのが、親切のかたまりみたいな人だったもんでさ。だけどとうさんは、おじいちゃんとは昼と夜ほどの大ちがい」
「けちだったの?」とミック。
「ううん、けちってんじゃないの」と、ポーシャはゆっくりと話しつづけた――「たださ、ちいと変ったとこがあんのよ。ほかのニグロとはちがってんの。説明すんのはむずかしいんだけどさ。うちのとうさんてのは、いつも自分ひとりで勉強する人でさ。むかしっから、家族ってのはこうなきゃいかんて考えをもってんの。家ん中のどんなちいちゃいことにもうるそう言うて、夜は夜であたいらにいろんなお説教して聞かせんの」
「そんなに悪いこととも思えないけど」とミックは言った。
「だまって聞いててよ。ともかくさ、ふだんはとってもおとなしいとうさんだったのに、それがときどき夜になると、急に発作みたいなのをおこすの。あんな気違いみたいになる人もねえもんだわさ。とうさんを知っている人はみんな、ありゃほんものの気違いだって言うもんね。あんまりひどいめちゃめちゃをやったもんだから、とうとうかあさんは出てっちもうたの。あたいが十歳のときだった。あたいら子どもたちはかあさんにつれられて、おじいちゃんの農場へ行って、そこでそだてられたってわけ。とうさんはみんなにもどってもらいたがってた。だけど、かあさんが死んだときも、あたいらはもどらなかった。そんだから、とうさんはいまでもひとり暮らしなんよ」
ミックは調理ストーブのところへ行き、おかわりをしてきた。ポーシャの声は歌のように高くなり低くなりをつづけ、とどめようもなかった。
「あたいもとうさんにはあまり会わんけど――週に一回ぐらいかねえ――とうさんのことはよう考えんの。ほんとにあんなかわいそうな人もねえもんだよ。町のどんな白人にもまけんくらい本も読んどるし。人よりかよけい本を読んで、苦労も人一倍多かったってわけ。本の山、苦労の山だわ。神さまを見失っちまい、宗教にも背を向けちまってさ。あんまし苦労したもんだから、とうとそこまでいっちもうたんよ」
ポーシャは興奮していた。神様や、弟のウィリーや、夫のハイボーイのことを話しだすと、きまっていつも興奮しだすのだ。
「あたいはさ、わめきちらしたりする派じゃないよ。あたいは長老教会派だからさ、あんな床をころげまわったり、がなりたてたりすんのはまっぴら。あたいらは、毎週清めてもろうてごろごろころげまわったりはせんよ。あたいらの教会じゃ、讃美歌をうとうて、牧師さんにお説教してもらうだけ。はっきり言うとさ、ミックお嬢ちゃんも、ちいと讃美歌をうとうて、ちいとお説教を聞くのもいいもんじゃないかねえ。弟だって日曜学校へつれていかんとならんし、あんたももう礼拝に出ていい年ごろだもん。このごろときたらえばりくさって、なんだかもう片あし地獄へつっこんでるみたいだよ」
「ばか言わないで」とミック。
「うちのハイボーイも、結婚前はホーリネス派でさ。日曜ごとに聖霊をいただいて、わめいて身を清めんのが好きな人だったけど、いっしょになってからあたいが改宗させちまったん。わめきたがってこまることもあるけど、うちの人なりにようやってると思うわ」
「あたしはサンタ・クロースも神さまも信じてないの」とミックは言った。
「ちょい待って! そんだから、ときどきお嬢ちゃんて、あたいのとうさんにえらい似てるみたいに思えんのね」
「このあたしが? あたしがポーシャのとうさんに似てるって?」
「顔やかっこうが似てるってんでないの。魂の形や色合いのことを言うてんの」
ババーはすわったまま、ふたりを見くらべていた。ナプキンを首に巻き、手にはからのスプーンを握って、「神さまはなにを食べんの?」ときく。
ミックは食卓から立ち上がり、出て行こうとして戸口に立った。ポーシャをからかうのも、たまにはおもしろかった。いつも同じ調子を持ち出し、飽きずに何度も同じことをくり返すからだ――まるで一つ覚えのように。
「お嬢ちゃんやあたいのとうさんみたいに教会へゆかん連中に、やすらぎはねえってこと。そら、あたいをごらんよ――あたいには信仰があるから、やすらぎがあんの。ババーだってそう、あの子にだって、あたいのハイボーイやウィリーにだってあるわさ。それからここのシンガーさん、あのひとだってひと目見ただけで、やすらぎをもってることわかるでないの。はじめて会うたときからそう感じたわ」
「気のすむように思ってりゃいいわ。とうさんどころか、おまえみたいな気違い見たことないわ」
「だけどお嬢ちゃんは、神さまどころか人間だって愛したことねえんだもん。牛の革《かわ》なみに強情でがんこなんだから。でも、あたいにはお嬢ちゃんがようわかってんの。きっときょうは、家じゅううろつきまわんじゃないかね、どうせ気のすむはずはねえけど。なんか落し物でもさがすみたいに、ほっつき歩くと思うよ。だんだん自分でかっかしちもうてさ。胸がどきどきして死にそうになるにちがいないよ。愛情も知らん、心のやすらぎも知らんてんだもん。そのうちきっとはじけちもうて、一巻の終りってこと。もうそないなったら、どうしようもねえだわ」
「ねえったら、ポーシャ、神さまはどんなもの食べんの?」とババーがきいた。
ミックは笑い、足音高く食堂から出て行った。
午後になると、ミックは案のじょう家の中を歩きまわった。どうにも気持が落着かなかったのだ。こんなふうな日がときたまあるのだ。一つには、あのヴァイオリンが心にかかっていた。とても本物のように作れるはずもなかったのだ――ああして何週間も計画をめぐらしたあげく、やっとそのことに気づいたかと思うと、気がめいってしまった。だがそれにしても、あれでうまくゆくと、よくも確信が持てたものだ。よくもあれほどばかになれたものだ。あるいはあれほど一つのことに夢中になると、だれでも熱望のあまり、すこしでも希望の持てそうなものにすがるのかもしれない。
ミックは、家族のいる部屋へは戻りたくなかった。下宿人と話をしなければならないのもいやだった。となれば、行き先は町の通りしかなかった――しかし、外では太陽が焦げつくように燃えていた。彼女はもつれた髪の毛を手のひらでなでつけながら、あてもなく廊下を行きつ戻りつしつづけた。「ちぇっ」と、ミックは大声でひとりごとを言った――「ほんもののピアノのつぎには、なんてったってやっぱし、自分ひとりでいられる場所がほしいわ」
ニグロ特有の、一種気違いじみたところはあったものの、ポーシャはいい人間だった。ニグロ娘がやるように、こっそり隠れてババーやラルフにいじわるをするようなことはけっしてなかった。しかしそのポーシャに、あんたはだれも愛したことがないと言われた。ミックは歩くのをやめ、拳《こぶし》で頭のてっぺんをこすりながらじっと立ちどまった。もしほんとうのことを知ったなら、ポーシャはどう思うだろう? いったいどう思うだろう?
もともと何でも自分の胸に秘めておくミックだった。それだけはたしかな事実だった。
ミックはゆっくりと階段をのぼった。最初の踊り場を通り、つぎの踊り場へ足を進めた。風を入れるため、あけ放しになった部屋の入口もあり、家の中にはさまざまな物音がまじっていた。最後の階段のところで足をとめ、腰をおろした。ブラウンさんがラジオをつけてくれれば、音楽が聞けるのだが。いずれいい番組でもはじまるだろう。
ミックは膝小僧《ひざこぞう》に顎《あご》をのせ、テニスシューズの紐《ひも》をむすんだ。愛する相手はつぎからつぎへ、これまで絶えたことがなかったのを知ったなら、ポーシャは何と言うだろう? そしてそのたびに、身体《からだ》のどこかが粉ごなに吹っ飛びそうな思いをしたということを?
だが、いつも自分だけの秘密にしておいたので、だれひとり知る者はなかった。
ミックは長いあいだ階段に腰をおろしていた。ブラウンさんはラジオをかけてくれず、聞えるのは下宿人たちの立てる物音ばかりだった。腿《もも》のあたりを拳で叩きながら、彼女は長いあいだ考えこんでいた。顔じゅうがばらばらに砕けたような感じで、とてもまともな顔をしていられなかった。空腹感とはくらべものにならない空虚さだったが、それに近い気持だった。わたしはほしい……ほしい……ほしい……考えられるのはそれだけだったが、ほんとうに何がほしいのかは自分でもわからなかった。
一時間ばかりすると、上の踊り場でドアの把手《とって》をまわす音がした。はっとして見上げると、シンガーさんだった。彼はちょっとのあいだ廊下に立っていたが、その顔は悲しげに落着いていた。彼の姿は浴室に消えた。つれの男は出て来なかった。ミックのすわっているところから部屋の一部が見え、つれの男が敷布をかぶりベッドに寝ているのがわかった。彼女はシンガーさんが浴室から出て来るのを待った。頬《ほお》がひどくほてるので、ミックは両手で頬にふれてみた。ときたま階段をここまでのぼって来るのは、下の階のブラウンさんのラジオを聞くいっぽう、シンガーさんに会いたいというのが本音だった。あの人は、耳で聞えないどんな音楽を心で聞いているのだろう。それはだれにもわからなかった。もし口がきけたなら、あの人はどんなことを話すだろう。それもだれにもわからなかった。
ミックは、待ちつづけた。しばらくすると、彼はまた廊下に姿を現わした。こっちを見おろし、にっこりしてくれないだろうか、とミックは思った。ところが自室のドアのところまで来ると、シンガーさんはほんとうにこちらを見おろし、うなずいてくれたのだ。ミックも大きな微笑を返したが、口もとはわなないていた。彼は自室にはいり、ドアをしめてしまった。ひょっとすると、あたしを中へ招じ入れてくれるつもりだったのかもしれない。ミックは急に彼の部屋にはいってみたくなった。そのうちいつかおつれのいないとき、ほんとに中へはいってシンガーさんに会うことにしよう。きっとそうするのだ。
暑い午後が遅い足どりですぎていったが、ミックは依然、階段にひとりきりですわっていた。あのモーツァルトという男の曲が、また胸に浮んできた。おかしなことに、シンガーさんというとあの曲が思い出された。大きな声で口ずさめるところがあればいいのに、と思った。人でいっぱいの家の中では、とうていうたう気になれない自分だけの音楽があるものだ。人であふれそうな家の中で、これほど寂しい気持になれるというのもふしぎだった。ひとりになって思いのままこの音楽のことを考えられる、人にじゃまされない場所はないかと考えてみた。長いあいだいろいろ考えてはみたが、そんないい場所のないことは最初からわかっていた。
午後も遅くなって、ジェイク・ブラウントは寝足りた気分で目をさました。寝ていたのは小さなこざっぱりとした部屋で、戸棚《とだな》とテーブル、ベッドのほか、椅子がいくつか置かれていた。戸棚の上では、扇風機が壁から壁へゆっくり首を振りつづけ、そよ風が顔をよぎるたびに、ジェイクは冷たい水のことを考えた。窓ぎわにはひとりの男がテーブルを前にしてすわり、目の前に置いたチェス盤をじっと見つめている。昼の光の中で見るこの部屋は、ジェイクに見覚えはなかったが、男の顔はすぐに見分けがつき、あたかも昔からの知合いのような気がした。
さまざまな記憶が、ジェイクの心の中で混乱していた。彼は目を見開き、両手の手のひらを上に向け、身動きもせずに横たわっていた。並はずれて大きな手で、白い敷布にのっているためかひどく褐色《かっしょく》に見える。顔のそばまで持ち上げてみると、手は掻《か》き傷《きず》と青あざだらけになっている――血管も、長いあいだ何かを強く握りしめていたようにふくれ上がっている。くたびれ取乱した顔だった。茶色の髪は額に垂《た》れ、口ひげもゆがんでいる。|へ《ヽ》の字形の眉《まゆ》も、もつれ乱れている。横になったまま唇《くちびる》が一、二度動き、口ひげが神経質にふるえた。
しばらくするとジェイクは起き上がり、気を引立てようとするように大きな拳《こぶし》で側頭部を叩《たた》いた。身動きの気配に、チェスをさしていた男はちらと目を上げ、にこりとした。
「ちきしょう、喉《のど》がからからだ。まるでロシアの大軍が、靴をぬいで口ん中を行進しやがったみたいな気分だ」とジェイクは言った。
男は微笑をつづけながら彼を見つめていたが、ふと急にテーブルの反対側に手を伸ばし、白く霜のついた氷水の水差しとコップを取り上げた。首をのけぞらせ、片手を固く拳に握りしめながら、部屋のまん中になかば裸で立ったジェイクは、ごくごくあえぐように飲み干した。四杯目を飲み終えると、大きく息をつき、ようやくちょっとくつろいだ。
にわかに記憶がいくつかよみがえってきた。この男といっしょに帰って来た覚えはなかったが、そのあとに起ったことはかなりはっきりしてきた。気がついたときは冷たい水を入れた風呂桶《ふろおけ》につかっており、そのあとふたりでコーヒーを飲み、話をした覚えがある。胸にわだかまっていたことを存分にぶちまけ、男はそれを聞いてくれた。声のかれるまでしゃべりつづけ、相手の顔に浮んだ表情はよく覚えていたが、返事のほうはまるで思い出せない。ふたりは朝方になってから、明りがさしこまぬよう日除《ひよ》けをおろして床についたのだ。床についてしばらくは、しきりと悪夢にうなされて目がさめ、そのたびに電灯をつけて気を落着けねばならなかった。明りをつけると相手の男も目をさましてしまったが、ひとことも苦情をもらさなかった。
「どうしてゆうべ、おれを追い出さなかった?」
男はまた微笑を見せただけだった。どうしてこう無口なんだろう、とジェイクはいぶかった。服を捜して見まわすと、ベッドのそばの床に自分のスーツケースが置かれている。飲みしろの借りがあるあのレストランから、どうやってこれを取戻してきたのか、どうしても思い出せない。何冊かの本も、白い背広やワイシャツも、ぜんぶ彼がつめたときのままちゃんとはいっている。彼はいそいで服を着はじめた。
着終ったころ、テーブルの上では電気コーヒーわかしが沸いていた。男は、椅子の背にかかったチョッキのポケットに手を入れた。取出した名刺を、ジェイクはいぶかしげに手に取った。男の名――ジョン・シンガーがまん中に銅版で印刷され、その下には活字と同じくらい念入りなきちんとした書体で、みじかい文句がインキに書きつけてあった――
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わたしは唖《おし》でつんぼですが、唇を読み話の内容はわかります。どうか大声は出さないでください。
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驚きのため、ジェイクはめまいを覚え茫然《ぼうぜん》としていた。彼とジョン・シンガーとは、互いに顔を見合せた。
「言われなきゃ、いつまでもわからなかったろうな」とジェイクは言った。
こちらの話すとき、シンガーは唇を注意深く見つめた――そのことには前から気づいていたのだが。だが唖だったとは!
ふたりはテーブルにつき、青い茶碗《ちゃわん》からコーヒーを飲んだ。部屋の中は涼しく、なかばおろした日除けのため、窓から強い日射《ひざ》しはやわらいでいる。シンガーは戸棚から、パンやみかんやチーズのはいったブリキ罐《かん》を持ち出した。彼自身はあまり食べず、片手をポケットへ入れたまま椅子に寄りかかっている。ジェイクは飢えたように食べた。すぐにもここを出て、よく考えてみなければならない。こうして行きづまっていたのではしかたがない、すぐにも仕事を捜さねばならない。この静かな部屋は、心配事をするにはあまりにものんびりとして居心地《いごこち》がよすぎる――外へ出て、しばらくひとりで歩いてこよう。
「ここには、ほかにも唖の連中がいるのかい? 友だちはたくさんいるのかい?」と彼はきいた。
シンガーは相変わらず微笑している。最初は言葉がわからなかったようすなので、ジェイクはもう一度くり返さねばならなかった。シンガーははっきりと引かれた黒い眉を上げ、かぶりを振った。
「寂しくはないかい?」
相手は、肯定とも否定ともとれる首の振り方をした。ふたりはそのまましばらく黙ってすわっていたが、やがてジェイクは別れを告げようと立ち上がった。まちがいなく相手に伝わるように注意深く唇を動かして、彼は一夜の宿の礼をシンガーにくり返した。唖はもう一度微笑し、肩をすくめただけだった。二、三日のあいだ、スーツケースをベッドの下に置いておいてもらえないだろうかときくと、唖はどうぞとうなずいた。
そのあと、シンガーはポケットから両手を出し、銀色の鉛筆でメモ用紙に何かを念入りに書きつけ、メモをジェイクのほうへ押しやった。
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床の上へマットレスを置きますから、住むところの見つかるまでここにいてはどうですか? わたしはほとんど一日じゅう外へ出ています。何のめいわくでもありません。
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ジェイクはこみ上げてくる感謝の気持に、唇のふるえるのを感じた。しかし受入れるわけにはゆかなかった。「ありがとう。住むところはあるんだ」と彼は言った。
いよいよ出て行こうとすると、唖は彼に固く巻いた青い作業服と、七十五セントを手渡した。きたない作業服だった。それが自分のものだとわかると、前の週の記憶がにわかに渦巻くようによみがえってきた。金は服のポケットにはいっていたものだ、と、むりやりシンガーに言いふくめられた。
「|じゃあな《アディオス》、いつかまた来るぜ」とジェイクは言った。
唖はまた両手をポケットに、かすかな笑いを浮べながら戸口に立って彼を見送った。階段を何段かおりたところで彼は振返り、手を振った。唖も手を振り、ドアをしめた。
外へ出たとたん、まばゆい日射しが鋭く目を射た。すっかり目がくらみ、目の前がはっきり見えなかった彼は、家の前の歩道にしばらく立ちつくした。女の子がひとり、家の手すりに腰をかけている。見覚えのある顔だった。はいている男の子の半ズボンや、目を細めて見る目つきにも見覚えがあった。
ジェイクは、丸めたきたない作業服をさし上げた。「こいつを捨てたいんだがね。ごみ箱はどっかにないかい?」
女の子は手すりから跳《と》びおりた。「裏庭にあるわ。おしえたげる」
彼は少女のあとについて、家の横の狭い、じめじめした露地を抜けた。裏庭へ出てみると、ニグロの男がふたり、裏の階段にすわっているのが目についた。ふたりとも白い服に白い靴をはいている。ひとりはひどく背が高く、ネクタイも靴下もあざやかな緑色だった。つれのほうは並みの背丈《せたけ》で、やや色の白い白黒の混血だった。ブリキのハーモニカを膝《ひざ》にこすりつけている。背の高い相棒とは対照的に、まっ赤《か》な靴下とネクタイをつけている。
少女は裏の柵《さく》のそばに置かれたごみ箱を指さし、それから台所の窓に向って叫んだ――「ポーシャ! ハイボーイとウィリーが来て待ってるわよ」
やわらかな声が台所から返ってきた。「なんでそないどならんとならんの。来てることくらい知っとるわ。いま帽子をかぶってんのよ」
ジェイクは捨てる前に、作業服をひろげてみた。泥でごわごわしている。片方の脚《あし》は裂け、前には血のしみがいくつかついている。彼はそれをごみ箱の中に捨てた。ニグロの娘が家の中から現われ、階段にすわった白い服の男たちに加わった。半ズボンをはいた少女が、しげしげとこちらを見つめているのにジェイクは気づいた。身体《からだ》の重心を片方の足からもう片方に移し変え、興奮しているようだ。
「おじさん、シンガーさんの親戚《しんせき》?」と少女はきいた。
「いんや」
「仲のいいお友だち?」
「一晩とめてもらうぐらいの仲さ」
「あたし、ひょっとして……」
「本通りはどっちだい?」
少女は右のほうを指さした。「この道を通り二つ行ったとこ」
ジェイクは指先で口ひげをなでつけ、歩きだした。手の中で七十五セントをじゃらじゃらいわせ、赤くまだらになるほどきつく下唇を噛《か》みしめた。三人のニグロは互いに話し合いながら、ゆっくり彼の前を歩いていた。なじみのない町へ来て孤独だった彼は、聞き耳を立てながら三人のすぐうしろからついて行った。娘は男ふたりの腕を取っている。緑色の服に、赤い帽子と靴といういでたちだった。男たちは娘に寄りそうようにして歩いて行く。
「こんやはどんな予定なのさ?」と娘がきいた。
「そいつはおまえしだいよ。ウィリーとおれのほうにゃ、なにもとくべつな予定はねえんだ」と、背の高いほうが言った。
娘はふたりを見くらべた。「あんたたちできめてくんなきゃ」
「そうだな」と赤い靴下の、背の低いほうが言った――「ハイボーイとおれはさ、三人して教会へでも行こうかと思うとったんよ」
娘は声の調子を三通りに変え、うたうように答えた。「い、い、わよ。そんでさ、礼拝がおわったらとうさんとこへ行って、ちいとばかしいてやろう思うんだけど――ほんのちいとでいいからさ」三人は最初の曲《まが》り角《かど》を折れた。ジェイクはちょと立ちどまってそのうしろ姿を見送ってから、また歩きつづけた。
本通りは静かで暑く、ほとんど人の気配もなかった。彼はそのときまで、きょうが日曜だということに気づかなかった――気づくとともに、がっくりと気落ちを覚えた。表戸を閉ざした店々の日除けはかかげられ、明るい陽《ひ》の光を浴びた建物はむき出しの感じがした。彼はニューヨーク・カフェの前を通った。表戸はあいていたが、中はがらんとして暗かった。朝がた、はこうと思った靴下がなかったため、熱い舗道は薄い靴底を通して灼《や》けついてきた。太陽は灼熱《しゃくねつ》した鉄塊のように、頭の上にのしかかっている。これまでに見たどんな町よりも寂しい町に見えた。通りの静けさが無気味だった。彼が酔っていたとき、この町は荒々しく騒々しく思えた。ところがいまは、すべてがとつぜんぴたりと静止したかに見える。
彼は新聞を買うため、くだものや菓子を売る店へはいった。新聞の求人欄はごくみじかかった。自動車を持った二十五歳から四十歳までの男子を求む、というさまざまな商品の歩合セールスの口がいくつかのっていた。彼はいそいでそこを読みとばした。トラック運転手を求めている広告には、しばらく見入っていた。しかしもっとも興味を覚えたのは、いちばん下に出ていた記事だった――
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求む――機械熟練工。サニー・ディキシー・ショー。問合せはウィーヴァーズ小路《こうじ》と十五番通りの角まで。
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いつの間にか気づかぬうち、彼はここ二週間ほどねぐらにしていたレストランの入口まで戻って来ていた。店をしめていないのは、この界隈《かいわい》ではこことくだもの屋だけだった。ジェイクはふと、立ち寄ってビフ・ブラノンに会おうと心を決めた。
明るい外からはいって来ると、店の中はまるでまっ暗だった。記憶にあるよりも、すべてがうすぎたなく、ひっそりとして見える。ブラノンは腕組みをして、相変らずレジのうしろに立っていた。ぽっちゃりとしたこぎれいな細君は、カウンターの反対側にすわり、爪《つめ》にやすりをかけている。彼がはいって行くと、ふたりはちらと目を見合せた。
「やあ」とブラノンは言った。
ジェイクは奇妙な雰囲気《ふんいき》を感じた。こいつめ、おれが酔っぱらってたときの出来事を思い出して笑っているにちがいない。ジェイクは憤然とした思いで、ぎごちなく立っていた。「ターゲットを一箱」言われたタバコを取ろうと、ブラノンがカウンターの下へ手を伸ばしたのを見て、ジェイクは笑われていたのではなかったのを知った。昼間見るブラノンの顔は、夜見たときのようなけわしさを持っていなかった。ろくに眠っていないように顔色も青ざめ、目には疲れた禿鷹《はげたか》のような表情があった。
「はっきり言ってくれないか。借りはいくらだね?」とジェイクは言った。
ブラノンは引出しをあけ、中学生用のノートをカウンターの上にのせた。彼がゆっくりとページをめくるのを、ジェイクはじっと見守っていた。毎日の収支をつけておく帳簿というより、個人的な雑記帳のような感じだった。足したり、割ったり、引いたりしてある長い数字の列のほかに、小さないたずら書きもある。あるページまでくるとブラノンの手がとまり、ジェイクは自分の名が隅《すみ》に書いてあるのを見た。数字は書きこまれておらず、ただ小さなレ印や×印だけが記《しる》されている。そして小さな丸いすわった猫の絵が、ページ一面に描かれている。尻尾《しっぽ》のつもりか、曲線が長々と引いてある。ジェイクはまじまじと見つめた。小さな猫の顔は、ぜんぶ人間の、それも女の顔になっていた。小さな猫の顔は、ブラノンの細君の顔だったのだ。
「このレ印はビール、×印は食事、横棒はウィスキーなんだがな。こうっと……」ブラノンは鼻をこすり、目を伏せたが、やがて雑記帳を閉じた。「およそ二十ドルってとこだな」
「いつになるかわからんが、勘定はすませるつもりだ」とジェイクは言った。
「いそぐことはないさ」
ジェイクはカウンターに寄りかかった。「ところで、この町はいったいどんなとこだね?」
「ありきたりなとこさ。これくらいの大きさの町なら、どことも似たようなもんだろう」
「人口は?」
「三万て見当だ」
ジェイクはタバコの箱をあけ、自分でタバコを一本巻いた。その手がふるえている。「工場働きが大部分なんだろう?」
「そのとおり。大きな綿織工場が四つ――主なのはその四つで、あとは下着の製造工場が一つに、綿繰り機の工場や製材所がいくつかってとこだ」
「賃金はどのていどかね?」
「ならして言や、週に十ドルから十一ドルてとこだろう――だけどむろん、一時帰休もときどきあるしな。どうしてそういろいろきくんだね? 工場で働こうってのかい?」
ジェイクは拳《こぶし》を目に押しつけ、眠たげにこすった。「さあな。どうなるかまだわからねえんだ」彼は新聞をカウンターの上に置き、読んだばかりの広告を指さした。「ともかく、この口でもひとつあたってみようと思うんだ」
ブラノンは広告を読み、しばらく考えこんでから言った――「うん、このショーなら見たことがあるがな。メリーゴーラウンドにぶらんこが二つ三つあるだけで、たいしたもんじゃない。ニグロや職工や子どもを相手に、町の空地《あきち》をあっちこっち移動してやってる連中だ」
「道を教えてくれないか」
ブラノンは彼といっしょに出口まで行き、方角を指さした。「けさはシンガーの下宿まで行ったのかい?」
ジェイクはうなずいた。
「あの男をどう思うね?」
ジェイクは唇《くちびる》を噛んだ。唖《おし》の顔ははっきりと胸に焼きついていた。ずっとむかしから知っている友人の顔のような気がする。じつは下宿部屋を出て以来、ずっとあの男のことを考えつづけていたのだ。「唖だってことも知らなかったんだ」と、彼はやっと言った。
ジェイクはふたたび、人気《ひとけ》のない灼《や》けつくような通りを歩きはじめた。見知らぬ町にまよいこんだよそ者のような歩き方ではなかった。だれかを捜しているように見えた。やがてはいりこんだのは、川沿いの工場地帯だった。通りも狭く未舗装になり、人の動きも目立ってきた。うすぎたない、ひもじそうな顔をした子どもたちが大声で呼び合い、遊びに余念がない。どれも似通った二間の掘立て小屋は、朽ちかかりペンキも塗ってない。食べ物と下水の臭《にお》いが、あたりに舞う埃《ほこり》とまじり合う。川上にある滝が、かすかな水音を伝えている。町の人びとは黙って戸口に立ったり、階段にもたれかかったりしている。通りかかるジェイクを、黄ばんだ無表情な顔つきで見つめた。ジェイクは、大きな茶色の目で彼らを見返した。ぎくしゃくした歩き方で歩きつづける彼は、ときたま毛深い手の甲で口をぬぐった。
ウィーヴァーズ小路のはずれに、空地になった一画があった。以前、ポンコツ車の捨て場に使われていた場所で、いまでも錆《さ》びた機械の部品やチューブの切れはしなどが散らばっていた。空地の片隅にはトレーラーがとめてあり、その近くには、一部分だけ帆布のおおいをかけたメリーゴーラウンドがあった。
ジェイクはゆっくりと近づいた。作業服を着た若者がふたり、メリーゴーラウンドの前に立っている。すぐそばでは、箱の上に腰をかけたニグロの男が、両膝《りょうひざ》を力なく重ねて倒し、夕日を浴びてうつらうつらしている。片手には溶けたチョコレートの袋を持っている。ジェイクは男がねちねちした袋に指をつっこみ、それをゆっくりしゃぶるのを見つめていた。
「ここの支配人はだれだね?」
ニグロは二本の甘い指を口をつっこみ、舌でなめまわした。「赤毛の男ですだ。それしか知らねえですだ、だんな」と、しゃぶり終えた男は言った。
「いまどこにいる?」
「あすこのいっとうでけえ車のかげですだ」
ジェイクは草地を横切りながらネクタイを抜き取り、ポケットにつっこんだ。太陽は西に沈みはじめていた。黒ぐろとした屋根の綿の上に、空は暖かな朱色に染まっている。ショーの持主は、ただひとりタバコを吸いながら立っていた。赤毛が頭の上にふわふわのカステラケーキのようにつっ立っている。彼は灰色の気力のない目でジェイクを見つめた。
「あんたが支配人かね?」
「ああ。パターソンってのがおれの名だ」
「この朝刊に出てた働き口のことで来たんだがね」
「ふむ。新米はいらねえぜ。ほしいのは熟練工だ」
「経験ならたっぷりあるがね」
「どんな経験がある?」
「織工《おりこう》も織機の修理工もやったし、自動車の修理工場や組立て工場で働いたこともある。およそ何でもやったね」
パターソンは、一部分だけおおいのかかったメリーゴーラウンドのほうへ、彼を案内した。夕暮れに近い日射《ひざ》しの中で、じっと動かぬ木馬の列は異様な眺《なが》めだった。鈍い金塗りの横木に串刺《くしざ》しされた馬たちは、跳《と》び上がった姿勢で静止している。ジェイクにいちばん近い馬は、うすぎたない尻《しり》にギザギザのひびわ割れをこしらえ、ペンキのはげた目は狂気じみた白目をむいている。じっとして動かぬメリーゴーラウンドは、ジェイクには酔いどれた夢に現われるまぼろしのように見えた。
「こいつを運転して、ちゃんといつも動くようにしといてもらえる機械の熟練者がほしいんだ」とパターソンは言った。
「そんなら十分できるよ」
「かけもちの仕事てえわけだ」とパターソンは説明した――「見世物ぜんたいのめんどうをみてもらうことになる。機械の監督をしながら、客の整理もやらなきゃならん。乗る客がちゃんと切符を持ってるかどうか、まずたしかめる。ちゃんとした切符かどうか、どこぞの古いダンスホールの切符じゃねえか、その点をしっかりとな。なにしろ馬に乗りてえやつらばかしだ、銭を持たねえ黒んぼ連中がどんなずるをやりやがるか、こいつあ知ってびっくりよ。年じゅう目玉を三つあけて見張ってねえとならねえんだ」
パターソンは彼を、木馬が円周状に並んだ内側の機械のところへ案内し、いろいろな部分を指《さ》し示した。レバーをいじると、かすれたような騒がしい機械的な音楽がはじまった。まわりの木馬の行列は、ふたりを残りの世界から切り離しているように思えた。やがて木馬がとまると、ジェイクはいくつか質問をし、今度は自分で機械を動かしてみた。
「前に雇ってたやつがやめちまいやがって」とパターソンは、ふたたび空地まで来ると言った――「新入りを仕込むのは好かねえんだが」
「いつから働きはじめよう?」
「あすの午後からやってくれ。週に六日、六晩の興行なんだ――四時にはじめて、看板は十二時だ。三時ごろに来て、準備を手つだってくれ。ショーが終って店じまいをすんのに、また一時間くらいかかるだろう」
「で、給料は?」
「十二ドルだ」
ジェイクはうなずき、パターソンは爪のきたない、やけに青白くぐにゃぐにゃした手をさし出した。
空地を出たときは、もう遅くなっていた。どぎついほど青かった空も色あせ、東の空には白い月がかかっていた。たそがれが、通りにそった家々の輪郭をやわらげている。ジェイクは、ウィーヴァーズ小路を抜けてすぐには帰らず、そのあたりをあてもなく歩きまわった。さまざまな匂《にお》いや、遠くから聞えるさまざまな声に、彼はおりおり埃っぽい道ばたに立ちどまった。目的もなくあちらからこちらへと、でたらめに歩きつづけた。まるで薄いガラスでできているように、頭がとても軽く感じられた。彼の体内では化学変化が起りつつあった。たえず体内に蓄積してきたビールやウイスキーが、いま反応を起しはじめたのだ。酔いに横なぐりされている感じだった。先ほどまるで死んだように見えた通りが、いまは生気にあふれていた。通りのふちにそって雑草が一列に生《は》えており、歩いて行くジェイクの顔近くに、地面がそれだけせり上がってくるように思えた。彼は草の端にすわり、電柱にもたれかかった。あぐらを組んで楽にすわり、口ひげの先をなでた。言葉が自然と口もとに浮び、彼は夢見るように声に出してひとりごとを言った――「敵意は貧困の咲かせるもっとも尊い花、か。まさにそのとおりだ」
しゃべるのはよい気分だった。自分の声のひびきがうれしかった。音声はこだまし、宙にかかるように思え、そのため言葉の一つ一つが二度ずつひびいて聞えた。彼はもう一度物を言おうと、唾《つば》をのみ、口をしめらせた。だがふと急に、あの唖の静かな部屋へ戻り、胸の思いをすっかり話して聞かせたくなった。唖でつんぼの男と話をしたくなるとは、おかしなことだった。だが彼は寂しかったのだ。
目の前の通りも、しのび寄る夕暮れにかすみはじめていた。ときたま男たちが、狭い通りを単調な調子で話しながら、彼のすぐそばを通りすぎた。踏む足ごとに土埃が舞い上がる。つれだって通る娘たちもあれば、肩に子どもをのせて通る母親もある。ジェイクはしばらくのあいだ、気抜けしたようにすわっていたが、やがて立ち上がって歩きつづけた。
ウィーヴァーズ小路は暗かった。灯油ランプが玄関口や窓辺に、黄色いおののく光の模様を作っている。いくつかの家はまったくの暗闇《くらやみ》で、家族たちは近所の家から明りだけをたよりに、入口の階段にすわっていた。窓から乗り出したひとりの女が、桶《おけ》にはいった汚水を通りにぶちまけた。そのしぶきがジェイクの顔にもひっかかった。甲高い腹立ちの声が、何軒かの家の奥から聞える。ゆっくりと揺り椅子をゆすっている平和な物音の聞える家もある。
ジェイクは、三人の男が入口の階段にすわっている家の前で立ちどまった。家の内部からの淡く黄色い光が、三人を照らしている。男ふたりは作業服を着ているが、ワイシャツもつけず、靴もはいていない。その中のひとりは背が高く、身体《からだ》にしまりがない。もうひとりはちびで、口のはたの傷口から膿《うみ》を出している。三人目の男はきちんとワイシャツをつけ、ズボンをはいている。膝の上には麦わら帽をのせていた。
「やあ」とジェイクは言った。
三人の男は、工場働きらしい土色の無表情な顔で彼を見つめた。何かぶつぶつつぶやいたが、動こうともしない。ジェイクはポケットからターゲットの箱を取出し、それを三人にまわした。そしていちばん下の段に腰をおろすと、靴をぬいだ。ひんやりと湿っぽい地面が、足にこころよかった。
「いまは働いてるんかね?」
「ああ、だいたいはな」と、麦わら帽を持った男が答えた。
ジェイクは足指のあいだをほじった。「おれは福音を持ってるんだがな。だれかに話したくてならねえのさ」
男たちはにやりとした。狭い通りの向うから、女の歌声が聞える。タバコから立ちのぼる煙が、風のない空気の中で男たちの身のまわりにまつわる。通りを行く小さな男の子が立ちどまり、立小便をするためズボンの前をあけた。
「かどを曲ったとこにテントがあって、きょうは日曜だからな。そこへ行って、好きなだけ福音を説いてくりゃいい」やっと口を切ったのは、小柄な男だった。
「そんな福音じゃねえんだ。もっといいもんだ。真理なんだ」
「どんな真理だね?」
ジェイクは口ひげをひとなめしたが、答えなかった。やがてしばらくしてから、「ここじゃストライキをやったことはあるかい?」
「一度だけな」と、背の高い男が答えた――「六年ほど前に、ストとやらをやったぜ」
「どんなことが起きたんだ?」
口もとにただれのある男は足をこすり合せ、タバコの吸いがらを地面に捨てた。「つまりな――一時間あたり二十セントを要求して、仕事をやめちまったんだ。三百人は加わったな。いちんちじゅう、ただ町ん中をうろついてやがった。そしたら工場のほうじゃトラックをくり出してよ、一週間もすると、町じゅう職捜しにやってきたよそもんでうじゃうじゃよ」
ジェイクは向きなおり、三人の男と向いあった。男たちは二段上にすわっていたため、じっと相手の目を見ようとすると、上を振仰がねばならなかった。「そんなことされて、頭にはこなかったんかい?」
「どういうことだい――頭にくるってのは?」
ジェイクの額の筋が赤くふくれ上がった。「冗談言いっこなしにしようぜ! 頭にこなかったかってんだよ――ア・タ・マにさ」彼は男たちのけげんそうな、土色の顔をにらみつけた。男たちのうしろのあけ放された玄関口から、家の内部がのぞいて見えた。手前の部屋にはベッドが三つと、洗面台が見える。奥の部屋では、はだしの女が椅子にすわって眠りこけている。どこか近所のまっ暗なポーチから、ギターの調べが聞えてきた。
「おれはな、トラックに乗ってやってきた口よ」と、背の高い男が言った。
「だからって、何の違いもねえさ。おれの言いたいのは簡単|明瞭《めいりょう》なことだ。ここいらの工場を持ってる野郎どもは、百万長者だぜ。それにひきかえ、毛すきやら糸巻の交換やら、機械のうしろで紡いだり織ったりの連中ときた日にゃ、すきっ腹の虫もおさえられねえありさまだ。わかるかい? そんだから、通りを歩いててもそんなことを考えたり、腹をすかしてぐったりの人間やら、くる病で脚《あし》のへなへなした子どもたちを見たりしたら、頭にこないかってんだ? ええ、どうだね?」
ジェイクの顔は不機嫌《ふきげん》に赤らみ、唇はふるえた。三人の男は、用心深く彼を見つめた。やがて麦わら帽の男が笑いだした。
「笑いたきゃ笑え、そこにすわって、横っ腹の裂けるまで笑っているがいい」
男たちは三対一の強味から、気楽にのんびりと笑った。ジェイクは足の裏から泥を払い落し、靴をはいた。拳《こぶし》をしっかりと握りしめ、口は腹立ちの冷笑にひきつっていた。「笑うがいい――どうせおまえらにはそれくらいしかできねえんだ。そこへすわって、くたばるまでへらへら笑いをしているがいい!」ぎごちなく通りを歩きだしたジェイクのあとから、男たちのせせら笑いは追ってきた。
本通りには明るく灯が輝いていた。ジェイクはポケットにはいった小銭をもてあそびながら、町角をぶらついた。頭がずきずきうずき、暑い夜だというのに寒気が身体を走り抜けた。唖のことが思い出され、どうしても彼のところへ戻り、しばらくいっしょにいたい気がした。昼間新聞を買ったくだものとキャンデーを売る店で、彼はセロファンに包んだくだもの籠《かご》を買った。カウンターのうしろで店番のギリシア人に、値段は六十セントだと言われ、それだけを払ってしまうと、あとには五セント玉一つしか残らなかった。店を出たとたん、健康な人間のところに届けるには、おかしな贈物だという気がした。幾粒かのぶどうがセロファンの下から垂《た》れていた。彼はそれを飢えたようにつまんだ。
訪《たず》ねて行くと、ちょうどシンガーは家にいた。テーブルの上にチェス盤をひろげ、窓ぎわにすわっていた。扇風機がまわり、テーブルのわきには氷水の水差しが置いてあり、部屋のようすはジェイクが出て行ったときと変らなかった。ベッドの上にパナマ帽と紙包みがのっているところを見ると、唖はたったいま帰って来たところらしかった。唖は、向い側の椅子のほうをうなずいて見せ、チェス盤を片側に押しやり、両手をポケットに入れて椅子に寄りかかったが、その顔はジェイクに、ここを出て行ってからどんなことがあったのかききたげに見えた。
ジェイクはくだものをテーブルの上にのせた。「きょうの昼間のモットーは、≪外へ出て蛸《たこ》を捜し、靴下をかぶせよ≫だったよ」〔厄介で手に負えない午後だった、の意〕
唖はにっこりしたが、はたしていまの言葉が通じたかどうか、ジェイクにはわからなかった。唖はびっくりした表情でくだものを眺め、セロファン紙の包装をはがした。くだものを手に取った彼の顔には、何か奇妙な表情があった。ジェイクはこの表情を理解しようとして、途方に暮れた。やがて、シンガーは明るい微笑を見せた。
「ショーみたいなところで働き口が見つかったよ。メリーゴーラウンドを動かす仕事なんだ」
唖はまるで驚いたようすもない。戸棚《とだな》からぶどう酒の瓶《びん》と、グラスを二つ持ち出してきた。ふたりは黙ったまま飲んだ。ジェイクは、こんな静かな部屋にはいったのははじめてのような気がした。頭の上の明りが、目の前に持った輝くグラスに、彼自身のおかしな姿を映している――水差しや錫《すず》の手付き茶碗《ぢゃわん》の彎曲《わんきょく》した表面に、これまで何度となく見たのと同じ戯画化された自分の姿だった。顔は卵型にずんぐりとゆがみ、口ひげは耳もとまで伸びている。彼の向い側では、唖が両手でグラスをかかえていた。ぶどう酒が血管をはげしくめぐりはじめ、ジェイクはふたたび万華鏡《まんげきょう》のような酔い心地《ごこち》の世界にはいりこみつつあるのを感じた。興奮のため、口ひげがぴくぴくとふるえた。彼は両肘《りょうひじ》を膝の上について前に乗り出し、大きく見開いた目で探るようにシンガーを見つめた。
「どうもこの町で腹を立ててるのは、おれひとりらしいな――本気でかんかんになって腹を立ててるのはさ。それも、もう十年もの長いあいだだ。ほんのついさっきも、もすこしでけんかになるところだった。ときどき、ひょっとするとおれは気が狂ってるんじゃないかと思えてくることもある。自分でもわからないんだ」
シンガーは、ぶどう酒を客のほうへ押しやった。ジェイクは瓶からラッパ飲みにし、頭のてっぺんをこすった。
「つまり、おれはふたりの人間みたいなんだ。ひとりのおれは教育のある男だ。この国でいちばんでかい図書館にも、いくつか行ったことがある。おれはよく本を読んだ。年じゅう本ばかし読んでいた。嘘《うそ》いつわりのない純粋な真理を物語っている本を読んだ。あのスーツケースの中には、カール・マルクスやソースタイン・ヴェブレン(アメリカの社会科学者)や、そういった連中の本がはいっている。おれはそういう本をくり返しくり返し読んだが、勉強すればするほどますます腹が立ってきた。どのページに印刷されたどんな言葉でも覚えてしまった。だいたい、おれは言葉が好きなんだ。弁証法的唯物論……詭弁的遁辞《きべんてきとんじ》……目的論的性癖……」ジェイクはそうした言葉を、その重々しいひびきをいつくしむように口でころがした。
唖はきちんと折りたたんだハンカチで、額をぬぐった。
「しかし、おれの言いたいのは――物のわかった人間が、ほかの連中にどうしてもわからせることができない場合、どうしたらいいかってことだ」
シンガーはグラスに手を伸ばし、ふちまでぶどう酒を注《つ》ぐと、あざだらけになったジェイクの手にしっかりと押しつけだ。「酔っぱらえってのか、ええ?」そう言うなり腕を引いたため、ぶどう酒が白いズボンの上にこぼれた。「ともかく聞いてくれ! どこを見ても卑劣さと腐敗だらけじゃないか。この部屋も、このぶどう酒も、籠にはいったこのくだものも、みんな利得と損失の産物なんだ。卑劣さを唯々《いい》として受入れなければ、人間は生きてゆけないんだ。おれたちの食う一口ごと、身にまとう一枚ごとに、だれかが精魂すりへらしてるんだ――だのにだれもわからんらしい。どいつもこいつもめくらで、唖で、頭の鈍いやつらばかしだ――ばかで卑劣なやつらばかしだ」
ジェイクは、両の拳をこめかみに押しつけた。考えがいくつもの方向に散り、自分でどうすることもできなかった。思いきりあばれてみたかった。おもてへ飛び出し、人込みの町のなかで、だれかと大げんかをやってみたかった。
相変わらず辛抱強い興味をもってジェイクを見守りながら、唖は銀色の鉛筆を取出した。彼は紙きれに、「あなたは民主党ですか、共和党ですか?」と念入りに書き、テーブルごしにその紙を渡した。ジェイクはそれを手の中でくしゃくしゃにしてしまった。部屋がまたしても目の前でまわりだし、読むこともできなかったのだ。
ジェイクはふらつきをとめようと、唖の顔に目をすえた。部屋の中で動かぬものは、シンガーの目だけだった。琥珀色《こはくいろ》や灰色やくすんだ褐色《かっしょく》がまだらになった、複雑な色合いの瞳《ひとみ》だった。あまり長く見つめていたためか、自分で催眠術にかかったようになった。あばれまわりたい衝動もいつか消え、ふたたび穏やかな気分になった。唖の目は、こちらの言いたかったことをすべて承知し、何か伝えたいメッセージを秘めているように見えた。やがて、部屋はもとのように落着きを取戻した。
「おまえにはわかるんだ。おれの言いたいことをわかってくれてるんだ」と、彼はぼんやりとした声で言った。
はるか遠くから、やわらかな銀のような教会の鐘の音が聞えてきた。月の光が隣家の屋根に白く降り、夜空は穏やかな夏の青さだった。言葉での約束はなかったが、どこかに部屋の見つかるまで数日のあいだ、ジェイクはシンガーのところに泊めてもらうことになった。ぶどう酒がからになると、唖はベッドのそばの床にマットを敷いた。服もぬがずそのまま横になるなり、ジェイクはたちまち寝入ってしまった。
本通りから遠く離れた黒人居住地区では、ベネディクト・メイディ・コープランド医師がただひとり、暗い台所にすわっていた。夜も九時をまわり、日曜の教会の鐘もいまは静まっていた。暑い夜だったが、薪炭用のだるまストーブには小さな火が燃えていた。コープランド医師はストーブの火のそばに、長くほっそりした両手に顎《あご》をかかえ、背のまっすぐな台所椅子に前かがみになってすわっていた。ストーブの隙間《すきま》からもれる赤いほてりが彼の顔に輝いている――その光で見ると、厚い唇《くちびる》は黒い肌《はだ》を背景にほとんど紫色に近く、羊毛製の帽子のようにぴったり頭蓋《ずがい》に貼《は》りついた白髪も、青味をおびて見える。彼はこの姿勢のまま、長いあいだ身動きもせずにすわっていた。銀ぶち眼鏡の奥から見つめる目さえ、じっとそそぐ暗い凝視を変えなかった。やがて彼ははげしく咳《せき》ばらいをして、椅子のそばの床から一冊の本を取り上げた。まわりじゅう部屋の中はまっ暗で、活字を読みとるには本をストーブのすぐそばへ持って行かねばならなかった。今夜彼の読んでいたのは、スピノザだった。さまざまにもつれあった観念や複雑な字句は、必ずしもぜんぶは理解できなかったが、読んでゆくうち言葉のかげにひそむ力強い、真の意図が感じられ、おおよそは理解しえたような気になった。
しばしば夜中に、玄関のベルがけたたましく鳴りひびき、静かにくつろいでいる医師をはっとさせることもあった。出てみると、おもての部屋には骨を折ったとか、剃刀《かみそり》で切ったとかいう患者が来ているのだ。しかし今夜は、何のじゃまもはいらなかった。そして、暗い台所にすわり何時間か孤独な時間をすごすうち、彼はいつしかゆっくり身体《からだ》を左右に揺らしはじめ、喉《のど》からうたうようなうなり声をもらしていた。こうしてうなっているところへ、ポーシャがはいって来た。
娘のやって来るのは、あらかじめコープランド医師にはわかっていた。外の通りから、ブルースを吹くハーモニカの調べが聞えてきた。吹いているのは、息子《むすこ》のウィリーだとわかった。明りもつけず、彼は廊下を抜けて入口の扉をあけ、ポーチには出ずに、網戸のうしろの暗闇《くらやみ》に立った。まばゆいほどの月明かりで、ポーシャとウィリーとハイボーイの影が、埃《ほこり》っぽい道にはっきり黒ぐろと映っていた。近所の家はいずれもみじめなしろものだった。コープランド医師の家だけは、そのあたりのどの建物とも違っていた。煉瓦《れんが》と化粧しっくいの、がっしりした造りだった。小さな前庭のまわりには、杭垣《くいがき》がめぐらされていた。ポーシャは門のところで夫と弟に別れを告げ、網戸を叩《たた》いた。
「なんでまた、こんな暗いとこにすわってんの?」
ふたりはつれだって暗い廊下を通り、台所へ戻った。
「りっぱな電灯があんのに。とうさんもけったいな人だねえ、いつもこんな暗がりにばかしすわっとって」
コープランド医師はテーブルの上にぶら下がった電球をひねり、部屋はにわかに明るくなった。
「わしには暗いのがむいとるでな」と彼は言った。
部屋は清潔で、がらんとしていた。台所用テーブルの片側には、何冊かの本やインクスタンドが、その反対側にはフォーク、スプーン、そして皿がのっている。コープランド医師は長い脚《あし》を組み、棒のようにつっぱった姿勢をくずさず、ポーシャも最初は身をこわばらせてすわっていた。互いによく似たところのある父と娘だった――どちらもそっくりの幅の広い平べったい鼻と、口もとと額をしている。ただ肌の色だけは、父親にくらべるとポーシャのほうがずっと白かった。
「暑くてこげつきそう。料理をするときのほか、火なんか消しちまったらええのに」とポーシャは言った。
「なんなら診療室へ行くか」
「ううん、かまわん。あたいはどっちだってええわ」
コープランド医師は銀ぶちの眼鏡をかけなおし、膝《ひざ》のところで両手を組んだ。「その後どんな調子だね? おまえも、亭主も――それから弟も?」
ポーシャは緊張をとき、ハイヒールをぬいだ。「ハイボーイも、ウィリーも、あたいも、みんな元気にやっとるわ」
「ウィリーは、まだおまえんとこに下宿しとるんか?」
「そうよ。うちじゃさ、うちら流の暮し方とやり方があんのよ。ハイボーイは家賃をはらうだろ。あたいはたべるもんをぜんぶ自分の金で買うの。そいからウィリー――あの子は教会関係の出費やら、保険やら、組合費やら、土曜の夜の費用やらをみてくれんの。三人てんでにやりたいことがあってさ、めいめいてんでに自分のことをやるってわけ」
コープランド医師は、長い指を引っぱって、関節をぜんぶポキポキ鳴らしながら、首をうなだれてすわっていた。清潔な袖口《そでぐち》は手首の先まで垂《た》れ――その下に出ているやせた手は、身体のほかの部分より色も浅く、手のひらは淡い黄色をしていた。まるでブラシでごしごしこすり、長いあいだ水の中につけていたように、いつ見ても清潔そのものでひからびた感じの手だった。
「あんれま、せっかく持って来たもの忘れるとこだった。夕飯はもうたべたの?」
いつも念入りな口のききようをする医師の言葉は、その一つ一つが、厚ぼったいむっつりとした唇のあいだから漉《こ》されて出てくるように思えた。「いんや、まだ食っちゃおらん」
ポーシャは、先ほど台所テーブルの上に置いた紙袋をあけた。「とってもいいキャベツを買《こ》うたから、いっしょに夕飯をたべよう思うて。お肉も買うてあるんよ。野菜の味つけにいいもん。キャベツをお肉と煮てもかまわん?」
「かまわんよ」
「お肉はいまでもたべないの?」
「ああ。わしはわしなりの理由から菜食主義だがな、おまえが肉を入れて野菜を煮たきゃ、そうしてかまわんよ」
まだ靴をぬいだまま、ポーシャはテーブルに向って立ち、念入りに野菜をよりわけはじめた。
「ほんと、床がはだしの足にいい気持。このままはだしでおってもええかしらん、ハイヒールはきつうて痛うて」
「ああ、かまわんよ」
「そいじゃ――このおいしいキャベツと、とうもろこしパンと、コーヒーで夕飯にしようね。あたいはこの白身の肉を二、三きれ切って、自分でフライにするわ」
コープランド医師は、ポーシャの動きを目で追った。ポーシャは靴をぬいだまま部屋の中をゆっくりと歩きまわり、壁にかかったよく磨《みが》かれた鍋《なべ》をおろしたり、火をおこしたり、キャベツの泥を洗ったりした。彼は一度話しかけようとしたが、また唇を閉じてしまった。
「そいじゃ、おまえと亭主と弟で、共同して何かやろうってのかい?」と、彼はやっとのことで言った。
「そうよ」
コープランド医師は指を引っぱり、また関節を鳴らそうとした。「赤ちゃんのほうの計画も立ててるかね?」
ポーシャは父親のほうを見なかった。怒ったように、彼女はキャベツを入れた鍋の水を流した。
「世の中にはさ、神さまのお気持一つってもんがあるもんよ」
ふたりはそれ以上口をきかなかった。ポーシャは料理用ストーブの上へ鍋を置き、長い手を膝のあいだにだらりと垂らし、黙ってすわりつづけた。コープランド医師は、うたたねでもしているように首を胸までうなだれていた、だが、ほんとうに眠っているのではなかった。ときたま、神経質なひきつりが顔面を走ったからだ。そのたびに彼は深く息をつき、ふたたび顔を平静に戻した。夕食の匂《にお》いが、むっとする部屋を満たしはじめた。静けさの中で、食器|戸棚《とだな》の上にのった時計の音がやけに大きくひびいた。いましがた交《か》わした会話のせいか、時を刻む単調な時計のひびきまでが、「アカ・チャン、アカ・チャン」と、くり返しくり返し言っているようだ。
床の上を裸ではいまわっているのやら、おはじきをしているのやら、暗い通りで女の子を抱いているのやら――子どもといえば、彼は明け暮れ子どもたちと顔を合わせていた。ベネディクト・コープランド――男の子たちはみなそう名づけられていた。女の子にだけは、ベニー・メイとか、メイディベンとか、ベネディーン・メイディーンなどの名がついていた。いつだったか数えてみたところ、彼の名を与えた子どもは一ダースではきかなかった。
彼は生涯を通じ、言い聞かせ、説明し、熱心に説いてきた。こんなことをしてはいかん、と彼は言ったものだ。五番目だの、六番目だの、九番目だのという子どもは生んじゃいかん、と彼は言い聞かせた。われわれに必要なのはこれ以上たくさんの子どもではなく、すでにこの世に生れているものに、より多くの機会を与えてやることだ。ニグロ人種のための優生学的見地からの計画出産――彼が熱心に説くのはそれだった。わかりやすい言葉で、いつも同じように説いてやるのだが、歳月のたつにつれ、それはむかしからそらんじている一種の怒りの詩のようになってしまった。
彼は計画出産の新しい学説を残らず研究し、知りつくしており、身銭を切って患者たちに器具を買い与えた。そのようなことを考えた医者は、町でも彼が最初だった。器具を与えて説明し、与えては説き聞かせるのだった。そして、週に四十回もの分娩《ぶんべん》に立ち会うのだ。メイディベンやら、ベニー・メイやらの誕生となるわけだ。
それも一つの問題にすぎなかった。問題の一つにすぎなかったのだ。
一生を通じ、自分の仕事にはりっぱな理由のあることを彼は知っていた。人びとを教化すべき運命にあることを知っていた。日がな一日、往診鞄《おうしんかばん》をさげて家から家をまわり、あらゆることについて話してやるのだ。
長い一日が終ると、重い疲労に襲われるのが常だった。しかし、夜になっておもての門をあけると、疲れは消えてしまった。ハミルトンや、カール・マルクス、ポーシャ、そしてウィリーたちがやって来たからだ。デイジーもやって来た。
ポーシャは、ストーブにかけた鍋の蓋《ふた》を取り、フォークでキャベツをかきまわした。「とうさん……」と、しばらく間をおいてから言った。
コープランド医師は咳《せき》ばらいをして、ハンカチに唾《つば》を吐いた。苦々しげな、そっけない声だった。「何だ?」
「こやってけんかすんのはやめようよ」
「けんかなんぞしとらん」
「けんかってったって、言葉がいるわけじゃないもん。こやってほんとに静かにすわってたって、あたいたち、なんだか年じゅう言い合いしているみたいに思えんの。あたいがそう感じるだけかもしんないけどさ。ほんと言うと――あたいとうさんに会いにくるたんび、へとへとになっちまうんよ。だからもう、けんかはせんでおこうよ」
「わしだって、けんかなんぞしたくありゃせん。おまえがそんな気持を持ったとすりゃ、すまんだな」
ポーシャはコーヒーを入れ、砂糖を入れないのを父親に手渡した。自分のカップには、スプーンに何|匙《さじ》かの砂糖を入れた。「腹ぺこだから、きっとおいしいわ。コーヒー飲んでるあいだに、つい先だっておこったことを話すわ。すんじまってみりゃ、なんやらおかしい気もするけど、あんまし笑えない理由もたんとあんの」
「どんな話だね」とコープランド医師は言った。
「うん――すこし前のことだけどさ、えらいええ格好の、めかしこんだニグロがこの町へやって来たの。B・F・メイソンって名のってさ、首府のワシントンからやって来たっての。毎日、きれいな色ワイシャツなんか着て、ステッキを振り振り、通りを行ったり来たりしたもんだわさ。夜になると、ソサエティー酒場《カフェ》へ出かけてさ。町のだれよりかご馳走《ちそう》を食っとったわ。毎晩、夕食にジンを一|瓶《びん》と、ポークチョップを二つ注文すんの。いつでもだれにでもにこにこして、女の子にゃお辞儀するし、戸口じゃドアをおさえて出はいりさしてくれるしさ。一週間ぐらい、行く先々でそりゃもうお愛想《あいそ》をふりまきほうだい。そのうち、この金持のB・F・メイソンさんてのは何者だろうって、噂《うわさ》が立ちはじめたわ。そしてさ、顔が売れたと思うたら、商売にとっかかりはじめたちゅうわけ」
ポーシャは唇をつき出し、コーヒーをあけた皿を吹いた。「とうさんも新聞で、老人のための政府の積立金て話を読んだろ?」
コープランド医師はうなずいた。「年金のことだろう」
「うん――あの男はそいつに関係しとっただ。政府のお役所から来たっての。ワシントンの大統領の命令でさ、みんなを政府の年金に加入させるために来たっての。一軒一軒歩きまわって説明してったわ――はじめに加入金を一ドル、あとは毎週二十五セントずつ払ってきゃ、四十五歳になると政府から毎月、死ぬまで月に五十ドルもらえるって。あたいの知っとる連中なんか、みんなもう夢中よ。加入するとみんなにただで、サイン入りの大統領の写真までくれんだもん。六ヶ月たつと、会員ぜんぶにただの制服がもらえるっての。黒人年金大連盟なんて名前がついててさ、二ヶ月たちゃ、その頭文字《かしらもじ》のはいったオレンジ色のリボンがみんなにもらえるはずだったん。そら、政府からようそんなの来るじゃない。ちっちゃな帳簿を持って一軒ずつまわって歩くから、みんなわれもわれもって加入だわ。名前を書きとって、金をとってさ。毎週土曜が集金日だったけど、三週間もすると、もうあんましたくさん集まりすぎて、土曜一日じゃまわりきれなくなっちもうてさ。とうとうあるバイトをやとって、三、四区画ずつ集金をたのむってさわぎだわさ。あたいも毎週土曜日の朝早く、うちの近所をまわって二十五セントずつ集金して歩いたもんだわ。ウィリーがさ、自分とハイボーイとあたいのために、まっ先に加入しちもうたもんだから」
「わしも大統領の写真は、おまえのうちの近所でたびたび見かけたし、メイソンて名前も聞いたおぼえがある」とコープランド医師は言った――「あの男はどろぼうだったのかい?」
「そうだったん。だれかにB・F・メイソンて男の正体を見やぶられて、警察につかまっちもうたわ。アトランタの町から来たちゅうだけで、ワシントンどころか大統領の匂《にお》いもかいだことねえ男だったん。金はぜんぶ隠すか使っちまうかしちまったんだと。ウィリーは七ドル五十セント捨てちもうた勘定だわ」
コープランド医師は興奮していた。「わしに言わせりゃ、まさに――」
「あんな男、きっとそのうち焼けた三つ叉《また》でもつき刺されて、おっちんじまうにきまっとるわ。だけどすっかり片がついてみると、なんだかちっとおかしいみたい。そりゃあたいたち、大笑いできた|ぎり《ヽヽ》じゃないけどさ」
「ニグロ人種はな、金曜日ごとに自分から十字架にのぼるのだよ」とコープランド医師は言った。
ポーシャの手がふるえ、持っていた受け皿からコーヒーがこぼれ落ちた。彼女は腕にこぼれたコーヒーをなめた。「それ、どういうこと?」
「わしはな、いつも人材を捜しとるんだ。たった十人でいい――十人のニグロが見つからんかと思うとるんだ――気骨と頭と勇気がそなわっておって、自分の持っとるものを何もかも喜んで投げ出せるようなニグロがな」
ポーシャはコーヒーを下に置いた。「あたいたち、そんな話をしてたんと違うわ」
「四人でもいい。ハミルトンと、カール・マルクスと、ウィリーと、おまえをあわせただけでもな。ほんとの素質と気骨さえ持っとりゃ、ただの四人のニグロでもいい……」
「気骨なら、ウィリーだってハイボーイだってあたいだって持っとるわ」と、ポーシャは腹立たしげに言った。「暮しにくい世の中だけど、あたいら三人、ようやってる思うもん」
しばらくのあいだ、ふたりは黙っていた。コープランド医師は眼鏡をテーブルの上に置き、しなびた指先を目に押しつけた。
「とうさんは年じゅう≪ニグロ≫って言葉を使うけどさ、その言葉を聞いて気を悪くする人もいるんよ。むかしからある≪くろんぼ≫のほうが、まだいいくらい。だけどていねいな人は、どのくらいの黒さだろうと、≪有色≫って言葉を使うよ」
コープランド医師は答えなかった。
「あたいとウィリーを見てごらんよ。あたいら、そんなまっ黒じゃないもん。かあさんはめっぽう白かったし、あたいらには白人の血がたんとまじってるもん。それにハイボーイは、インディアンだし。あの人にゃ、インディアンの血がたっぷりはいってんの。まじりっけのないニグロなんてひとりもおらんのにさ、とうさんたらいつもニグロ、ニグロって――聞いた人が気を悪くするじゃない」
「言いのがれに興味は持っとらん。わしにはな、ほんとの真実のほか興味はないんだ」
「そいじゃ、ほんとのとこを聞かしたげるわ。みんながね、とうさんのことこわがってんのよ。ハミルトンだって、バディだって、ウィリーだって、うちのハイボーイだって、あたいみたいにこやってここへ来て、とうさんのそばにすわるにゃ、景気づけのジンをしこたましこんどかなきゃなんないんだから。ウィリーが言うとるわ、まだちっこい子どもだったころ、自分の父親がおっかなかったのをまだいまでも覚えとるって」
コープランド医師ははげしく咳《せき》ばらいをした。
「だれにだって感情てものがあるわ――だれだろうとさ――やな思いをするにきまっとるとこへ、どこのだれがやって来るもんかね。とうさんだっておなじじゃないのさ。白人に何度もやな思いをさせられてんのをあたいも見てるもん、それくらいわかってんじゃない」
「いや、わしがいやな思いをしているのを見たことなどないはずだ」
「そりゃあたいにだってようわかっとるわ――ウィリーだってうちのハイボーイだってあたいだって、学者じゃないのはさ。だけど、ハイボーイもウィリーも、ふたりともめっぽう人はいいんだよ。ただとうさんとは違うってだけの話でさ」
「そうだ」とコープランド医師。
「ハミルトンも、バディも、ウィリーもあたいも――だれもとうさんみたいな口のききようをしたいとは思っとらん。うちらはさ、かあさんやらかあさんの身内やらご先祖さまやらみたいな口をきくだけの話。とうさんは何でも頭ん中で考えるだろ。うちらは長いこと胸ん中にしまっといたことから話すの。そこが違いの一つだね」
「そうだ」
「自分の子どもだからってつまみ上げてさ、自分の好き勝手のほうへ押しこめたりしちゃいけないだろ。子どもたちを傷つけようと傷つけまいと。正しかろうとまちがいだろうと。とうさんは、そりゃきびしくしつけたもんな。そんだもんでいまじゃ、こやってここへ話しにくんのは、あたいひとりだけじゃないのさ」
明りはコープランド医師の目にまぶしく、ポーシャの声は大きくきびしかった。医師は咳ばらいをし、顔じゅうが咳にふるえた。冷えたコーヒー茶碗《ぢゃわん》を取り上げようとしたが、しっかりと手に持っていることができなかった。目に涙があふれ出し、それを隠そうとして眼鏡に手を伸ばした。
涙に気づいたポーシャは、いそいで父親のところへ駆け寄った。両腕で父親の首に抱きつくと、額に頬《ほお》を押しつけた。「とうさんの気を悪くしてしもうたね」とやさしく言った。
父親の声はきびしかった。「いや。気を悪くしたのなんのといつまでもくり返しているのは、子どもっぽいばかげたことだ」
涙はゆっくりと彼の頬を伝い落ち、ストーブの火に青と緑と赤に染められた。「ほんとにごめんね」とポーシャは言った。
コープランド医師は、木綿のハンカチで顔をふいた。「いいんだよ」
「もうけんかはなしにしようよ。親子げんかなんか大きらい。顔をあわすたんび、なんだかとっても悪いことが起るみたいな気がすんの。もうこんなけんか、二度とせんでおこうよ」
「ああそうしよう。二度とせんことだ」
ポーシャは泣きじゃくり、手の甲で鼻をこすった。しばらくのあいだ、父親の首筋に抱きついたまま立っていたが、やがて意を決したように涙をぬぐい、ストーブにかかった野菜の鍋のところへ行った。
「もうそろそろやわらかくなるころだわ」と、ポーシャはほがらかに言った――「そいじゃ、いっしょに食べるおいしいとうもろこしパンでも作りはじめようかな」
ポーシャは靴をぬいだまま台所をゆっくり歩きまわり、父親はそれを目で追った。またしばらくのあいだ、ふたりは黙りこくった。
涙にぬれた目で見ると、物の輪郭はほやけて見えるが、ポーシャはまったく母親にそっくりだった。何年も前、母親のデイジーもやはりあのように、台所を忙しそうに黙々と歩きまわったものだ。デイジーは彼のように色も黒くなく、濃い蜂蜜《はちみつ》のような美しい肌《はだ》をしていた。いつもいたってもの静かで、やさしい女性だったが、その穏やかなやさしさの下には、何か強情なものがひそんでいた。どれほどけんめいに解き明かそうとしても、彼にもこのやさしい片意地さだけはどうしても理解できなかった。
彼はしきりと妻を問いつめ、また胸の中の考えをすっかり話して聞かせたが、それでも彼女の穏やかさは変らなかった。そして依然として夫の言うことは聞かず、自分の思いどおりにしてしまうのだった。
やがて、ハミルトンにカール・マルクスにウィリーにポーシャが生れた。子どもたちにとって何が真の使命かを強く感じていた彼は、一つ一つ何がどうあるべきかを心得ていた。ハミルトンは偉大な科学者に、カール・マルクスはニグロの教師に、ウィリーは不正と戦う弁護士に、ポーシャは婦人科小児科の医者にするつもりだった。
彼は子どもたちがまだ赤ん坊のころから、彼らが首から押しのけねばならぬ軛《くびき》――服従と怠慢という軛について話して聞かせた。子どもたちがすこし大きくなると、神などというものは存在せぬこと、人間の生命は神聖で、人間ひとりひとりにこの真の目的が用意されていること、などを強く説き聞かせた。その話を何度も何度もくり返し聞かせる父親から、子どもたちは遠く離れかたまってすわり、ニグロの子ども特有の大きな目で母親を見守るのだった。母親のデイジーは話には耳を貸さず、穏やかにかたくなにすわっていた。
ハミルトン、カール・マルクス、ウィリー、ポーシャの四人の子どもたちに与えられた真の使命という意識から、彼はこまごました点までいちいちどうすべきかを承知していた。毎年秋になると、子どもたちをみな町へつれて行き、上等の黒靴と黒靴下を買い与えた。ポーシャには、黒いウールの服地と、襟《えり》と袖口《そでぐち》につける白いリネンを買ってやった。男の子たちには、ズボンにする黒いウール地と、ワイシャツ用の上等な白リネンだった。子どもたちにはでな色の、薄い生地の服を着せるのはきらったのだ。だが、学校へ行きはじめた子どもたちの着たがったのは、そういう服だった。子どもたちは恥ずかしがっているのに、あんたも酷な父親だ、とデイジーは言った。家庭がどうあるべきか、彼には理想の姿があったのだ。はでなところはいっさいあってはならなかった――けばけばしいカレンダーも、レースのクッションも、装飾的な置物もいけなかった――家の中のものはすべて黒っぽく質素で、勤労と真の使命を示すものでなくてはならなかったのだ。
ある晩、彼はデイジーが娘のポーシャの耳たぶに、イヤリングを通すための穴をあけたのに気づいた。家に帰ってみると、暖炉飾りの上に羽毛のスカートをつけたキューピー人形がのっており、穏やかなデイジーがかたくなに、どうしてもそれをのけようとしないこともあった。デイジーが子どもたちに、温順さを礼賛《らいさん》し教えこんでいることも知っていた。天国や地獄の話もして聞かせていた。お化けや、幽霊屋敷の話を信じこませたりもしている。彼女は日曜ごとに礼拝に行っては、悲しげに夫のことを牧師に訴えた。いつもの頑固《がんこ》さで、かならず子どもたちを教会へつれて行き、子どもたちもお説教に耳を傾けた。
町じゅうのニグロに病気がはやり、医者の彼は一日じゅう、ときには真夜中まで忙しいこともあった。長い一日が終ると重い疲れを覚えたが、わが家の表門をあけると疲労は消えてしまった。だが、家の中へはいると、ウィリーはちり紙にくるんだ櫛《くし》を吹き鳴らし、ハミルトンとカール・マルクスは昼食代かせぎにクラップばくちをやり、ポーシャは母親と笑い合っていた。
父親としては、ふたたび最初からしつけのやりなおしだったが、さすがにやり方は変えることにした。子どもたちの日課を持ち出し、話し合うことにしたのだ。だが子どもたちはくっつき合ってすわり、母親のほうを見るばかりだった。彼がいくら話しつづけても、だれひとりわかろうとする者はいなかった。
彼の胸には、ニグロ特有のけわしくおそろしい気持がこみ上げてきた。そんなとき彼は診察室にすわり、気持が落着きふたたび出なおせるまで、本を読んだり黙想にふけったりした。明るい灯と本と黙想にだけひたるため、部屋の日除《ひよ》けをおろしたりもした。だがときには、この安らぎの訪れぬこともあった。彼はまだ若く、あのはげしい気持は、勉強で消えるものではなかったからだ。
ハミルトンも、カール・マルクスも、ウィリーも、みな父親をこわがり、母親のほうばかりを見やった――そのことに気づくと、またしてもあのけわしい気持が彼を支配し、何をしでかすかわからなくなってしまうのだった。
おそろしい仕打ちをどうにも抑《おさ》えようがなく、あとから考えてみると、自分でも理解できないことがあった……
「ほんと、お夕飯がいい匂《にお》い」とポーシャが言った――「あたいたち、先にたべはじめてようか、ハイボーイとウィリーももうじきやって来るもん」
コープランド医師は眼鏡をかけなおし、椅子をテーブルのそばに引寄せた。「ご亭主とウィリーはどこにいるんだね?」
「蹄鉄投《ていてつな》げをやって遊んどるわ。レイモンド・ジョーンズさんちの裏庭に蹄鉄投げ場があんの。あすこじゃ、レイモンドと妹のラヴ・ジョーンズとで毎晩やってんの。ラヴはえらいみっともない娘だから、ハイボーイやウィリーが遊びに行きたきゃ、いつ行ったってあたいは平気だけどさ。でも十時十五分前には迎えに来る言うとったから、もうじき来るんじゃない」
「忘れんうちにきいときたいと思っとったが――ハミルトンやカール・マルクスからは、たびたび便《たよ》りがあるかね」
「うん、ハミルトンからはね。おじいちゃんとこの仕事は、ほとんどあの子が引受けてやっているんだと。バディはモビールの町だけど――むかしっから手紙書きは得意じゃない子だし。でもさ、とっても人ずきのする子だから、ぜんぜん心配しとらんの。どこへ行ったかてうまくやってく子だわ」
ふたりは夕食をのせたテーブルを前に、黙ってすわった。ポーシャは食器棚の上の時計を見上げつづけた。そろそろ、ハイボーイとウィリーのやって来る時刻だったからだ。コープランド医師は皿の上にうつむきこんだ。重い物でも手にしたようにフォークを握りしめ、指先がふるえている。食べ物にはほんのちょっと口をつけるだけで、一口ごとにやっとの思いで飲みこんでいる。こわばった雰囲気《ふんいき》で、ふたりともなんとか話を絶やすまいとしているようだった。
コープランド医師は、どうやって話を切り出していいかわからなかった。むかしあまり子どもたちに話しすぎ、しかもまるで理解してもらえなかったため、いまはもう何も話すことはないような気もした。ややあってから彼はハンカチで口もとをぬぐい、自信なげな声で言った。
「おまえ自身のことは、ろくに何も話してくれなかったな。仕事のことや、近ごろどうしているかなど聞かせてくれんか」
「もちろん、まだケリーさんとこにいるわ。だけどさ、ほんと言うて、もういつまであすこにいられるかわかんないの。仕事はえらいし、いつだって片づけに長いことかかんだもん。けど、それはかまわんの。気になんのはお給金のこと。週に三ドルもらう約束なんだけど――ケリーの奥さん、ときどきあたいに払う中から一ドルか五十セント借りちまうことがあんの。そりゃいつだって、お金ができるとすぐ返してくださるけど。そんでもあたいのほうはピンチで大弱り」
「それはよくないな。なんでがまんしとるんだね?」
「だって奥さんが悪いんじゃないもん。奥さんだってどうしようもないんよ。あすこのうちにいる下宿人の半分は間代を払わんし、あれだけのうちをやってくのはたいへんな費用だもん。ほんと言うて――ケリーさんとこは、もうちょいとで差しおさえってとこまできてんの。とっても苦しいのよ」
「何か別の仕事でもありそうなもんじゃないか」
「わかっとるわ。だけどケリーさんて、働かしてもらうにはそりゃりっぱな白人だもん。あたいすっかり気に入ってんの。三人のちっちゃい子どもも、あたいの身内みないな気がするし。ババーと赤ちゃんなんか、あたいが自分で育てたみたいな気がすんの。ミックとは年じゅうけんかみたいなことやるけど、あの子のこともかわいくてなんないの」
「それより、おまえ自身のことも考えたらどうだ」
「だけどあのミックって子――あの子はほんと変っとるわ。どう扱うていいか、だれにもわからんし。あんななまいきで強情な子もねえもんだわ。年じゅうなにやら心の中で起っとるみたいで。あの子にはなんだか妙な気がすんの。そのうちいつか、みんなをあっと言わすみたいなこと、やらかしそうな気がすんの。いいことでか悪いことでか、そいつはわからんけど。ほんと、あの子にはときどき首をかしげちまうわ。それでもやっぱしかわいくてならんけど」
「それよかまず、おまえ自身の生計の道を考えんといかんな」
「さっきも言ったように、なにも奥さんが悪いからと違うの。あのでかいぼろ家をやってくのはたんと金がかかるし、家賃のほうは|とんと《ヽヽヽ》はいらんのだもん。間代をきちんきちん払《はろ》うてんのは、あの家でたったひとりきりよ。あすこへ来てまだ間《ま》もない人だけどさ。唖《おし》でつんぼなの。ああいう人をそばで見るのははじめてだけど――とってもりっぱな白人だよ」
「やせて背の高い、灰緑色の目をした男じゃないか?」と、コープランド医師がいきなり口をはさんだ。「いつもだれにでも丁重で、いい身なりの? この町の人間とは違うようで――北部から来た人間か、ユダヤ人みたいな?」
「そう、その人よ」
熱心さがコープランド医師の顔に現われた。とうもろこしパンを皿のキャベツ汁にくずして入れると、にわかに食欲がわいてきたように食べはじめた。「わしのとこにもひとり、唖でつんぼの患者がおるよ」
「シンガーさんとはどうして知りあったん?」とポーシャはきいた。
コープランド医師は咳《せき》をし、ハンカチで口をおさえた。「いや、何度か会っただけだが」
「そろそろ片づけようかな。もうウィリーやハイボーイが迎えに来るころだもん。こんなりっぱな流し台と水道がありゃ、ちっちゃな皿くらいあっというまに洗えちまうわ」
白人たちの無言の尊大さは、彼が長年のあいだ、なんとか気にすまいとつとめてきたことだった。腹立ちを覚えるたびに、彼は物思いにふけり勉強に打ちこむのだった。町に出て白人たちとまじわらねばならないときは、威厳を顔に、いつも沈黙を守ることにしていた。まだ若かったころには、「小僧」と呼びつけられ、いまは「おやじ」と呼ばれるようになっていた。「おやじ、あすこのガソリンスタンドまでひとっ走りして、修理工をよこしてくれ」――つい先ごろも、車の中から白人にこう呼びつけられたばかりだった。「おい小僧、ちょっと手を貸してこれをしてくれ」……「おいおやじ、あれをしろ」というぐあいなのだ。彼はまるで耳を貸さず、威厳たっぷりに黙りこくったまま歩きつづけるのだった。
数日前の夜、酔っぱらったひとりの白人が近寄って来て、彼をぐいぐい引いて歩きだしたことがあった。ちょうど往診鞄《おうしんかばん》を持っていたので、だれかけが人でも出たにちがいないと思った。しかし、酔っぱらいは彼を白人のレストランへつれこみ、案のじょうカウンターにすわった白人客たちから罵声《ばせい》を浴びせられた。彼は酔っぱらいにからかわれていることを知った。だがそのときでさえ、彼は威厳だけは保ちつづけた。
ところが、灰緑色の目をした、このやせて背の高い白人が相手の場合、これまでどんな白人とのつきあいでも起ったことのなかった何かが起ったのだ。
数週間前の、とある暗い雨の夜のことだった。妊婦の患家《かんか》から出て来た彼は、雨の中を町角《まちかど》に立っていた。タバコに火をつけようとしたが、すれどもすれどもマッチの火は消えてしまった。火のつかぬタバコをくわえたまま立っていると、近寄ってきた白人が火のついたマッチをさし出してくれたのだ。炎を中にはさみ、暗闇《くらやみ》の中でふたりはお互いの顔を見ることができた。白人はにっこりとし、タバコに火をつけてくれた。コープランド医師は、何と言っていいかわからなかった。こんなことは、これまで一度も起ったことがなかったからだ。
ふたりはしばらくのあいだ、町角に並んで立っていたが、やがて白人は彼に名刺をくれた。彼はこの白人に話しかけ、いろいろきいてみたかったが、はたして相手がほんとうに理解してくれるかどうか自信が持てなかった。白人全体の傲慢《ごうまん》さゆえに、親しさにまぎれて威厳を失うことを彼はおそれたのだ。
だが、その白人はタバコに火をつけてくれて微笑し、彼といっしょにいたがっているように見えた。そのとき以来、コープランド医師はこの出来事を何度も思い起すのだった。
「わしのとこにも唖でつんぼの患者がおるよ」と。彼はポーシャに言った――「五つになる男の子だが。あの子が片輪になったのは、どうもわしに責任があるような気がしてならんのだ。あの子を取り上げたのはわしだが、産後二度診察したきり、子どものことはすっかり忘れてしまっていた。子どもは耳をわずらっておったが、母親は耳から出ているうみを放っておき、わしのところへもつれて来なかった。ようようわしが気づいたときには、もう手遅れだった。むろん何も聞えんから、したがって口もきけない。しかしよく見ておると、もし片輪でなければ、とても利口な子だったろうと思うよ」
「とうさんはむかしっから、ちっちゃい子どもには目がないもんな。おとなより子どものほうがずっとだいじなんやない?」
「小さな子どもには、おとなより希望があるからな。ところであのつんぼの子だが――あちこち問い合わして、引き取ってくれる施設でもないか捜してみるつもりだ」
「シンガーさんにきいてみるとええわ。とても親切な白人でさ、ちっともえらぶったとこのない人だよ」
「どうしたもんだろうな――わしも一、二度、あの人に手紙を書いて、何か教えてもらおうと思ったことはあるが」
「あたいだったら、そうするわ。とうさんは手紙を書くのがうまいから、書いたらあたいがシンガーさんのとこへ持ってったげる。あの人、二、三週間前にワイシャツを持って台所へおりて来て、洗ってくれって言いなさった。それがまるで洗礼者の聖ヨハネが着てたみたいに、よごれなんかてんでついておらんの。あたいはただお湯につけて、カラーのとこをちいとこすって、アイロンをかけたらそんでおしまい。だのにその晩、できたワイシャツを五枚部屋まで持ってくと、あたいにいくらくだすったと思う?」
「わからんな」
「いつものようににっこりして、一ドルくだすったんよ。たったワイシャツ五枚に一ドルもよ。あんな親切で気持のええ白人て、いるもんでないわ。あの人になら、何きいたってこわくねえし。あたいが、自分で手紙を書いてもええくらい。とうさん、書くんなら早くお書きよ」
「そうだね、そうするか」とコープランド医師は言った。
ポーシャは急にしゃんとすわり、髪油でぺったりなでつけた髪をなおしはじめた。ハーモニカの音色がかすかに聞え、やがてその調べはしだいに大きくなってきた。「ウィリーとハイボーイだわ。迎えに出てってやんなきゃ。そんじゃ、とうさんもからだに気をつけてね。何でもあたいに用があったら、ひとこと言うて来て。いっしょにお夕飯たべて、話ができて楽しかったわ」
ハーモニカの音楽ははっきり聞えてきた。表の門のところで待っているウィリーが吹いているのだ。
「ちょっとお待ち。おまえといっしょのとこを二度ばかし見かけただけで、おまえのご亭主にはまだ正式に会ったことはなかったな。それにウィリーにも、もう三年ほど会っとらん。ちょっと寄るように言ってやったらどうかね?」
ポーシャは髪の毛や耳飾りをいじくりながら、戸口に立っている。
「このまえウィリーがここへ来たとき、とうさんはあの子を怒らしちまったでないのさ。とうさんにはわかんねえんだよ……」
「そんならいいよ。呼んでやったらと、ちょっと思っただけだ」
「待って。あたいが呼んで来る。いますぐここへ呼んで来るよ」
コープランド医師はタバコに火をつけ、部屋の中を行きつ戻りつ歩きまわった。眼鏡をどうしてもぐあいよくかけておくことができず、手先がふるえている。前庭からは低い話し声が聞えてきた。やがて重い足音が廊下にひびき、ポーシャとウィリーとハイボーイが台所にはいって来た。
「来たわよ。ハイボーイ、あんたまだうちのとうさんに正式に紹介されとらんかったね。おたがいにだれだかは知っとるやろうけど」
コープランド医師はふたりと握手をした。ウィリーはてれくさそうに壁にへばりついたが、ハイボーイは進み出て、固苦しいお辞儀をした。「お噂《うわさ》はかねがねうかがっとりましただ。お目にかかれてうれしゅう思っとります」
ポーシャとコープランド医師は廊下から椅子を運びこみ、四人はストーブを囲んですわった。四人とも黙りこくり、気まずい空気になった。ウィリーは落ちつかなげに部屋の中を見まわし――食卓に積んだ本や、流し台や、壁に寄せた寝台や、父親を見やった。ハイボーイはにこにこし、ネクタイをいじくっている。コープランド医師は何か話しかけそうにしたが、唇《くちびる》をなめ、まだ黙ったままだった。
「ウィリー、おまえのハモニカもだいぶうまくなったでないの」と、やっとポーシャが口を切った。「ハイボーイとふたりで、どっかでジンでも飲んできたみたいだけど」
「そんなことありませんて」と、ハイボーイはあらたまった口調で言った――「土曜からこっち、何も飲んじゃおらんもん。蹄鉄《ていてつ》投げをやって遊んどっただけだよ」
コープランド医師は、それでもまだ黙りこくっている。三人はいちように彼のほうを見やり、言葉を待ち受けた。風通しの悪い部屋で、静けさのためかえって落着かなかった。
「この連中に着せるもんで、あたいはつらいことつらいこと。毎週土曜にはふたり分の白服を洗濯《せんたく》してさ、週に二回はアイロンかけだもん。そんだのに、どう、見てやって。仕事から帰ってからしか着ねえってのに、ふつかもたちゃ、もうまっくろけだもんね。そのズボンだって、ゆうべアイロンかけたばかしだってのに、もう折り目なんてどこにもありゃしない」
コープランド医師の沈黙はとけなかった。じっと息子《むすこ》の顔に目をそそいでいる。父親の視線に気づくと、ウィリーはがさがさしたぶこつな指先を噛《か》み、足もとに目を落した。コープランド医師は、手首やこめかみで脈がはげしく叩《たた》くのを覚えた。彼は咳《せき》きこみ、拳《こぶし》を胸に押しあてた。息子に話しかけたいと思いながらも、何一つ言うべき言葉が浮んでこない。むかしの苦々しい気持がこみ上げてきたが、よく考え押しこらえる余裕もなかった。高まる胸の動悸《どうき》に、すっかりうろたえていた。しかし三人に見つめられ、重苦しい沈黙にのしかかられると、どうしても口を開かざるをえなかった。
彼の声は甲高く、とても自分の口から出た声のように思えなかった。「ウィリーや、子どものじぶんおとうさんから聞かされたことを、おまえどのていど覚えているね?」
「ど、ど、ど、どないなことかわかんねえけど」とウィリーは答えた。
自分でも何を言いたいかわからぬうちに、言葉がコープランド医師の口から出た――「つまりな、おまえやハミルトンやカール・マルクスに、おとうさんは自分の持っているものをぜんぶくれてやったということだ。わしはな、信頼と希望のすべてをおまえたちにゆだねた。ところがわしに返ってきたのは、まったくの誤解と怠慢と無関心だけだった。わしのつぎこんだもので、残ったものは何一つなかった。何もかも取り上げられてしまったのだ。わしの野心はすべて……」
「しいっ」とポーシャが言った――「とうさん、もうけんかはせんと約束したでないのさ。そんだのに、またばかみたいなことを言いはじめてからに。あたいたち、けんかなんぞしとるひまはないんだから」
ポーシャは立ち上がり、玄関のほうへ歩きだした。ウィリーとハイボーイも、いそぎ足であとにつづいた。コープランド医師はしんがりになった。
四人は玄関の手前の暗闇に立った。コープランド医師は何か言おうとしたが、声は身体《からだ》の奥のどこかへ消えてしまったように思えた。ウィリーとポーシャとハイボーイの三人は、かたまって立っていた。
片腕で夫と弟を抱きかかえながら、ポーシャはもう一方の手をコープランド医師のほうにさしのべた。「別れる前に、みんなで仲なおりしようでないの。親子げんかなんて、あたいにはがまんならんもの。もうけんかは二度とせんことにしようよ」
黙ったまま、コープランド医師はまたひとりひとりと握手をかわした。「すまんかったな」
「おれは仲なおりして、ちっともかまわんですけど」と、ハイボーイはあらたまった口調で言った。
「おれもちっともかまわんけど」と、ウィリーも口の中でつぶやいた。
ポーシャは全員の手をいっしょに握った。「あたいたち、けんかなんぞしとるひまはないんよ」
一行は別れを告げ、コープランド医師は通りを遠ざかって行く三人を、暗い玄関のポーチから見送った。遠ざかってゆく足音には寂しげなひびきがあり、彼は疲れと力のおとろえを感じた。通りを二つほど遠ざかると、ウィリーはまたハーモニカを吹きだした。悲しげでうつろなひびきだった。三人の姿も声もすっかり消えるまで、医師はポーチから去らなかった。
彼は家の中の明りを消し、暗闇の中でストーブの前にすわった。だが心の安らぎは得られなかった。ハミルトンやカール・マルクスやウィリーを、なんとか心の中から払いのけたかった。ポーシャに言われた言葉の一つ一つが、声高にきびしくよみがえってきた。彼はとつぜん立ち上がると、明りをつけた。スピノザやシェイクスピア、マルクスなどの本を持ってテーブルに向った。スピノザを声に出して読むと、その言葉には豊かな、だが暗いひびきがあった。
彼は、ポーシャと話題にしたあの白人のことを考えた。もしあの白人から、つんぼの患者のオーガスタス・ベネディクト・メイディ・ルーイスのことで、助けが得られればありがたいのだが。かりにそうした理由や、ききたいことがなくても、あの白人に手紙を書いてみるのがいいかもしれない。頭をかかえたコープランド医師の喉《のど》から、うたうようなうなり声に似た奇妙な声がもれた。あの雨の晩、黄色いマッチの炎の向うで微笑していた、あの白人の顔が思い出され――彼はようやく心の安らぎを覚えた。
夏もなかばになると、シンガーのところには他の下宿人のところよりも多くの客が訪れるようになった。彼の部屋からは、夜になるとたいていいつも話し声が聞えた。ニューヨーク・カフェでの夕食のあと、シャワーを浴び、洗濯《せんたく》のきく涼しい服に着がえると、それ以後はたいていもう外に出なかった。部屋は涼しく、ここちよかった。押入れの中の冷蔵庫には、冷えたビールやくだものジュースが入れてあった。彼はけっしてあくせくすることも、あわてることもなかった。いつも歓迎の微笑を浮べ、戸口に客を迎えた。
ミックは、シンガーさんの部屋へ上がって行くのが好きだった。たとえ唖《おし》でつんぼでも、ミックの言うことはひとこと残らず理解してくれた。シンガーさんとの話合いは、ゲームのようなものだった。ただ、どんなゲームよりもはるかにおもしろかった。音楽から新しい発見をするようなものだった。ほかのだれにも話すつもりのないさまざまな計画も、彼にだけは物語った。かわいい小さなチェスの駒《こま》もいじらせてもらった。いつだったか、夢中になったあげく、シャツブラウスの裾《すそ》を扇風機に巻きこまれたときなど、ほんとにやさしくしてくれたので、ミックはすこしも恥ずかしい思いをしなかった。パパをのぞけば、シンガーさんがいちばんいい人だった。
オーガスタス・ベネディクト・メイディ・ルーイスのことで、ジョン・シンガーに宛《あ》てて出したコープランド医師の手紙には丁重な返事が届き、いつでも都合のよいとき訪《たず》ねていただきたい、と招待がしたためられていた。コープランド医師は下宿屋の裏口へ行き、しばらく台所にポーシャとすわっていた。やがて、医師は白人の部屋へ上がって行った。まったくあの白人にだけは、無言の傲慢《ごうまん》さがなかった。いっしょにレモネードを飲みながら、唖は彼の知りたいと思っていたいろいろな問題の答えを書いてくれた。これまでコープランド医師の出会ったどの白人とも違っていた。帰ってからも、医師は長いあいだ、この白人のことを考えつづけた。その後、ふたたび心のこもった招待を受けた彼は、もう一度シンガーを訪ねてみた。
ジェイク・ブラウントは毎週のように訪ねて来た。彼がシンガーの部屋へ上がって行くと、階段全体ががたがた揺れ動いた。たいてい彼は紙袋にビールを入れて持っていた。その腹立たしげな胴間声《どうまごえ》が、よく部屋からもれてきたものだ。しかし帰るころまでには、その声もしだいに静まった。階段をおりて来るときはビールの紙袋を持たず、どこへ行くつもりか自分でもわからぬようすで、考えこんだように立ち去るのだった。
ある晩には、ビフ・ブラノンまでが唖の部屋を訪れた。しかし、レストランを長く放っておくわけにはゆかぬため、半時間ばかりで帰って行った。
シンガーは、いつもだれにでも同じようにふるまった。両手をしっかりとポケットにつっこみ、窓ぎわに置いた背のまっすぐな椅子にすわり、理解していることを客に示すため、うなずいたり、微笑したりした。
訪問客のないときには、シンガーは夜おそい回の映画を見に行った。椅子の背にもたれ、俳優たちがスクリーンの上で話したり歩いたりするのを見守るのが好きだったのだ。映画館へはいる前に、映画の題名を見たこともなく、どんな映画をやっていようが、一つ一つのシーンを同じような興味をもって見守った。
七月のある日、シンガーはとつぜん何の予告もなく、町から消えてしまった。部屋のドアをあけ放しにし、テーブルの上にのせたケリー夫人宛の封筒には、前の週の部屋代である四ドルがはいっていた。わずかばかりの粗末な持物も消え、部屋はきれいに掃除されがらんとしていた。彼を訪ねて来た客たちは、このがらんとした部屋を見て驚き、気を悪くして帰って行った。なぜこんな出て行き方をしたのか、だれにも想像できなかった。
シンガーは夏の休暇をすべて、アントナープロスが精神病院に入れられている町ですごしたのだ。何ヶ月も前からこの旅行の計画を立て、ふたりですごす一瞬一瞬を頭に描いていたのだ。出発の二週間前、すでにホテルの予約もとり、封筒に入れた汽車の切符を長いあいだポケットに入れて持ち歩いていた。
アントナープロスはまるで変っていなかった。シンガーが部屋にはいって行くと、彼は友人を迎えに、のっそり落着いた態度でやって来た。前よりもいっそう肥《ふと》っていたが、ぼんやりとした顔の微笑は変らなかった。シンガーは両腕にいくつか包みをかかえていたが、大柄なアントナープロスがまっ先に目をつけたのはそれだった。みやげに持って来たのは、まっ赤《か》なナイトガウンと、やわらかな寝室用のスリッパ、それに二枚のイニシャル入りの寝巻だった。アントナープロスは、箱の中の薄紙の下をたんねんに捜しまわった。おいしい食べ物が何も隠されていないのを知ると、彼は贈物をさも軽蔑《けいべつ》したように寝台の上へ投げ捨て、あとは見向きもしなかった。
大きな、日当たりのいい部屋だった。あいだをあけて、いくつかのベッドが一列に並んでいる。片隅《かたすみ》では、三人の老人がトランプでスラップジャックをやっている。老人たちは、シンガーにもアントナープロスにも気づかなかった。ふたりは部屋の反対側に、ふたりきりですわった。
シンガーには、ふたりがいっしょだったとき以来、もう何年もの歳月が流れたように思えた。語りたいことがありすぎ、動かす両手がまどろこしかった。緑の瞳《ひとみ》が燃え、汗が額に光った。楽しさと幸福に満ちていたむかしの気持が、ふたたびまざまざと胸によみがえり、どうにも抑《おさ》えようがなかった。
アントナープロスは、とろんとした黒い目を友人に向けたまま、身動きしなかった。両手がものうげに、ズボンの股《また》のあたりをいじくっている。つもるさまざまな話の中でも特に、シンガーは自分を訪ねて来る客のことを物語った。客のおかげで寂しさを忘れることができる、と彼は話した。風変りな、よくしゃべる客たちだが、来てくれるのはうれしい――などとも話した。彼はジェイク・ブラウントと、ミックと、コープランド医師の似顔画を手早く描いてみせた。しかし、アントナープロスがいっこう興味を持たないのを見てとると、シンガーはすぐさまスケッチをくしゃくしゃに丸め、それきり絵のことは忘れてしまった。やがて、看護人が面会時間の終ったことを告げに来たとき、シンガーはまだ話したかったことの半分も話し終えていなかった。しかし部屋を出た彼は、ぐったりと疲れ、しあわせな気分だった。
患者は、木曜と日曜だけに面会が許されていた。アントナープロスとすごせない日には、シンガーはホテルの部屋の中を行きつ戻りつ歩きまわった。
二度目の面会も、最初のときと変らなかった。ただ今度は同室の老人たちもトランプ遊びをせず、ものうげにふたりのようすを見守っていた。
いろいろ骨を折ったあげく、シンガーは数時間だけアントナープロスをつれ出す許可を得た。彼はこのささやかな外出を、あらかじめ事こまかに計画していた。ふたりはタクシーで郊外へ出かけ、四時半にはホテルの食堂へ戻った。アントナープロスは、この特別のご馳走《ちそう》に大喜びで、メニューにのっている料理を半分ほど注文し、飢えたようにがつがつ頬《ほお》ばった。すっかり食べ終っても、立ち上がろうとしない。テーブルにへばりついているのだ。シンガーはなんとかなだめすかし、タクシーの運転手は力ずくでつれて行こうとした。アントナープロスは頑強《がんきょう》にすわりつづけ、ふたりがあまりそばまで近づくと、卑猥《ひわい》な身ぶりで追いはらった。とうとう、シンガーはホテルのマネージャーからウイスキーを一|瓶《びん》買い、それを餌《えさ》にタクシーの中へ誘いこんだ。シンガーが車の窓から、まだ口もあけていない瓶を投げ捨てると、アントナープロスは失望と腹立ちにおいおい泣きだした。せっかくの遠出の始末に、シンガーはたまらない悲しさを覚えた。
そのつぎの訪問が、最後の訪問となった。二週間の休暇も、ほとんど終りかけていたからだ。アントナープロスは、前に起ったことをすっかり忘れてしまっていた。ふたりは、いつもと同じ部屋の隅にすわった。時はまたたく間にすぎていった。シンガーの両手は必死に語りつづけ、細い顔に血の気はなかった。とうとう別れるときが来た。以前、毎日勤めの前に別れたときのように、彼は友人の腕を取り、じっと顔を見つめた。アントナープロスはぼんやりと彼を見返し、身動きもしなかった。シンガーは、両手をしっかりとポケットにつっこんで部屋を出た。
シンガーが下宿部屋に帰るとすぐ、ミックやジェイク・ブラウントやコープランド医師がまた訪ねて来はじめた。だれもが、どこへ行っていたのか、なぜその計画を打明けてくれなかったのかを知りたがった。しかしシンガーは、彼らの問いがわからなかったようなふりをし、謎《なぞ》めいた微笑を見せるばかりだった。
ひとりひとり、彼らはシンガーの部屋を訪れ、夕食後のひとときをすごしていった。唖はいつも思いやりが深く、落着いていた。その多彩で穏やかな目は、魔術師の目のように落着いていた。ミック・ケリーやジェイク・ブラウントやコープランド医師は、この静かな部屋へやって来ては話しこんでいった――こちらの言いたいことは何でも、唖が理解してくれるような気がしたのだ。いや、理解してくれるという以上だったかもしれない。
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第二部
今年の夏は、ミックの覚えているこれまでのどの夏とも違っていた。考えたり、あるいは言葉で表現できるような大事件が起ったわけではなかった――しかし、何か変化が起きたような気がした。明け暮れ胸がわくわくしていた。朝は、ベッドから飛び起き一日をはじめるのが待ちきれなかった。夜には、また眠らねばならないのがくやしくてならなかった。
朝食がすむとすぐ、ミックは子どもたちを外につれ出し、食事のとき以外ほとんど一日じゅう外に出ていた。たいていは、ババーをうしろにしたがえ、ラルフの乗った荷車を引っぱって、町の通りをうろつきまわるだけだった。ミックの頭は、さまざまな考えや計画でいつもいっぱいだった。ときには、ふと目を上げてみると、見分けのつかぬ町の妙なところまで来てしまっていることもあった。また一、二度は、通りでビルに出くわしながら考えごとに夢中で、ビルに腕をつかまれむりやり振向かされて、やっと気がついたこともあった。
朝早くにはまだいくらか涼しく、子どもたちの影は行く手の歩道に長く伸びた。しかし真昼になると、空はきまって燃えるような暑さになった。あまりのまぶしさに、目をあけているのもきつかった。これから起るはずのさまざまなミックの夢には、おおむね雪と氷がまざり合っていた。ときにはスイスに来ていて、山々はすっかり雪におおわれ、彼女は冷たい緑色がかった氷の上でスケートをしていた。シンガーさんもいっしょにすべっている。キャロル・ロンバードや、ラジオで演奏していたアルトゥーロ・トスカニーニもいるようだ。みんないっしょにすべっているうち、シンガーさんは氷の割れ目から落ちてしまい、彼女は身の危険もかえりみず氷の下を泳ぎ、彼の命を助ける……いつも胸に描く計画の一つはそれだった。
たいていいつもしばらく歩くと、ミックはババーとラルフを日陰にとめてやった。ババーは出来のいい子で、ミックにじゅうぶん仕込まれていた。ラルフのところから、大声で呼んでも聞えないほど遠くへ行ってはいけないと言いつけると、二つ三つ先の通りで悪童連とおはじき玉をしているというようなことはなかった。荷車の近くでひとりで遊んでいるので、ふたりだけを置いておいても心配の必要なはなかったのだ。ミックは図書館へ行って『ナショナル・ジオグラフィック』誌を眺《なが》めるか、そのあたりを歩きまわって考えごとをしたりした。すこしでもお金のあるときは、ブラノンさんの店でコカ・コーラかミルキーウェイ・チョコを買った。ブラノンさんは、子どもには安くしてくれたのだ。五セントの品を三セントで売ってくれたのだ。
しかし年じゅう――何をしていようと――音楽が聞えていた。ときには歩きながら鼻歌をうたうときもあれば、また心の中の調べに静かに聞き入ることもあった。彼女の思いの中には、さまざまな音楽がはいっていた。ラジオで聞いた音楽もあれば、どこで聞いたという覚えもないが、すでに心にしみこんでいる調べもあった。
夜になり、弟たちが寝てしまうと、ミックは自由になった。一日でいちばん大事な時だった。自分ひとりになれる夕暮れどきになると、さまざまなことが起った。夕食がすむとすぐ、彼女はまた家を飛び出した。夜の活動については、だれにも話すことはできなかった。ママにきかれたときには、もっともらしく聞えるでまかせを言ってごまかしてしまった。しかしたいていは、だれかに呼ばれても聞えないふりをして逃げ出してしまった。パパに対するときのほか、だれにでもそうだった。パパの声には、やたらに逃げ出せない何かがあったのだ。パパは、町じゅうでいちばん身体《からだ》も大きく、背の高い人だった。しかし、声のほうはとても穏やかでやさしかったので、パパが口を開くとみんなびっくりした。どんなにいそいでいるときでも、パパに呼ばれると、ミックはいつでも立ちどまらないわけにはゆかなかった。
この夏、ミックはこれまで知らなかったパパの一面を知ることになった。それまで彼女は一度として、パパを自分とは別の人間として考えたことはなかった。いつもパパは何度となく彼女を呼んだ。呼ばれたミックは、パパが仕事をしているおもての部屋へ行き、二、三分パパのそばに立った――だが、パパの話を聞きながらも、心はいつもあらぬほうにあった。ところがある晩、とつぜんパパのことがわかってきたのだ。なにもその晩変ったことが起ったわけでもなく、なぜにわかにわかるようになったのかもわからなかった。ただその後、ミックは急に年をとったように感じ、パパのことならだれのことよりよくわかっているような気になった。
八月も終りのある晩、ミックはひどくいそいでいた。九時までにはどうしてもあの家へ行っていなければならなかったのだ――どんなことがあっても。パパに呼ばれ、彼女はおもての部屋へはいって行った。パパは仕事台におおいかぶさるようにすわっていた。どういうわけか、パパが仕事台に向っている姿は、どうしても|さま《ヽヽ》にならなかった。去年事故にあうまでは、ペンキ屋と大工をしていたパパだった。毎朝日の出前に、作業服を来て家を出かけては、一日じゅう帰って来なかった。そして夜にはときどき、アルバイトがてら時計いじりをしたりした。これまでにもたびたび、宝石店に働き口を見つけようと努力していた。時計職人なら、きれいな白いワイシャツとネクタイをつけ、一日じゅうデスクにひとりですわっていられるからだ。もはや大工仕事のできなくなったいま、彼は家の前に、「時計格安修理」の看板を出した。しかし、どうしてもいわゆる宝石屋には見えなかった――下町の宝石屋は、小柄で浅黒く抜け目のないユダヤ人ばかりだった。ミックのパパは仕事台には背が高すぎ、太い骨がぐらぐらのまま組み合わさっている感じだった。
パパはただじっと彼女を見つめた。なにもわざわざ呼ぶ理由のなかったことは、ミックにもわかった。ただ、無性に娘に話しかけたかっただけなのだ。彼はしきりと話のきっかけを考えていた。茶色の目は、やせた面長《おもなが》の顔には大きすぎ、髪の毛が一本もなくなっているため、青白く禿《は》げ上がった顔からはむき出しの感じを受けた。依然何も言わず、ただじっとミックを見つめている――ミックはじりじりしていた。九時きっかりには、あの家へ行っていなければならないのだ。もうぐずぐずしてはいられなかった。パパはミックのせっついているのに気づき、咳《せき》ばらいをした。
「おまえにあげるものがあるんだ。たくさんじゃないが、何かほしいものでもお買い」
寂しくて話しかけたいからといって、なにも五セント玉や十セント玉をくれなくてもよさそうなものだ。稼《かせ》ぎの中から、彼は週に二度ばかりビールの飲めるだけをへそくっていた。いまも椅子のそばの床の上に、一本はから、もう一本はあけたばかりのビール瓶《びん》が二本、置いてあった。ビールを飲むと、彼はきまってだれかに話しかけたくなった。バンドをいじくりはじめたパパを見て、ミックは顔をそむけた。今年の夏、パパはへそくりの小銭を隠すのに、まるで子どもなみの細工をした。靴の中へ隠すこともあれば、またときには、バンドに作った小さな穴へしまいこむこともあった。十セント玉はそれほどほしくなかったが、パパにさし出されると、手は自然と開いて待ち受けてしまった。
「いやあ仕事がありすぎて、どこからとっかかっていいかわからんよ」とパパは言った。
しかし、それは事実とはまるで逆なことを、本人もミックもともによく知っていた。修理の時計がたくさんあったことは一度もなく、それを片づけてしまうと、彼は家の中をあちこち歩きまわり、何やかやと雑仕事に手を出した。夜になると仕事台に向ってすわり、古いぜんまいや歯車を磨《みが》いたりしながら、寝る時刻まで仕事を引伸ばそうとした。腰を痛め、持続的な仕事ができなくなってからというもの、年じゅうなにかしら手にしていなくてはいられなくなっていた。
「今夜はいろいろと考えごとをしとったんだ」と言って、彼はビールをつぎ、手の甲にすこしばかり塩をのせた。そして塩をなめると、グラスからぐいと一口あおった。
気のせいていたミックは、もうじっとしていられないくらいだった。パパもそのことに気がついた。何か言おうとしたが――もともと何か言いたいことがあって呼んだわけではなかった。ただほんのしばらく、娘と話がしたかっただけなのだ。彼は何か言いかけて、のみこんでしまった。ふたりは互いに見合っているばかりだった。沈黙は長びき、ふたりはどちらも何も言いだせなかった。
パパの気持がはっきりとわかったのは、そのときだった。新しい事実を学んだという気分ではなかった――頭で理解するのははじめてだったが、それ以外にはすべての点で、前からわかっていたからだった。いまとつぜん、ミックはパパの気持を知っているということを知ったのだ。パパは年寄りで、寂しかったのだ。子どもたちがだれひとり寄りついてくれず、それに稼ぎもあまりないので、家族から切り離されひとりぼっちのような気がしていたのだ。寂しさのあまり、子どもたちのだれかのそばにいたかったのだ――だが、子どもたちはみな忙しく、そのことに気づかなかった。それで、もう自分は誰の役にもたいして立っていないと思いこんでいたのだ。
互いに顔を見合わせているあいだに、ミックはこのことを理解したのだった。複雑な気持だった。パパは時計のぜんまいを取上げ、ガソリンにひたしたブラシでそれを掃除した。
「おまえ、いそいでるんだろ。ちょっと声をかけただけなんだよ」
「ううん、いそいでなんかいないわ。ほんと」
その晩、ミックはパパの仕事台のわきの椅子にすわり、しばらくふたりで話をした。パパは家計のことやら、出費のことやら、もし違ったやり方をしていたなら、事情がどうなっていただろうというようなことを話した。パパはビールを飲み、一度は目に涙を浮べ、ワイシャツの袖口《そでぐち》で鼻をこすった。その晩、ミックはひどくいそいでいるのも忘れ、ずいぶん長いあいだパパのそばにいた。だがそれでも、どうしてか心に秘めていることだけは話す気になれなかった――あの暑く、暗い夜のことだけは。
あの夜ごとのひとときだけは秘密だった――夏のうちでも、いちばん大切なひとときだった。暗闇《くらやみ》の中をたったひとり、まるで町じゅうに自分ひとりしかいないような気分で歩きまわるのだ。どの通りも、闇の中では自分の家の近所のように、勝手知ったように見えてきた。見知らぬ町を暗くなって通るのをこわがる子どもたちもあったが、ミックはおそれなかった。少女たちは、どこからともなく男が現われ、夫婦になったみたいに、すりこぎみたいなのをつっこまれるのではないかとびくついていた。だいたい、女の子というのはばかなものだ。もしボクサーのジョー・ルイスか、レスラーの山男ディーンみたいな大男がとびかかって来たら、逃げるよりしかたがない。だけど、こっちよりせいぜい二十ポンドぐらい目方のある相手だったら、急所に一発くらわせて逃げてしまえばいい。
夜はすばらしく、おそろしいなどと考えているひまはなかった。暗闇の中では、ミックはいつも音楽のことを考えた。町の通りを歩くときは、いつも歌を口ずさんだ。すると町じゅうが、ミック・ケリーがうたっているとも知らず、聞き耳を立てているような気がした。
こうして自由に飛びまわった夏の夜に、ミックは音楽のことをたくさん学んだ。お金持ちの住む界隈《かいわい》を歩くと、どの家にもラジオがあった。窓がみなあけ放してあるので、すばらしい音楽を聞くことができた。しばらくするうち、ミックはどの邸《やしき》が自分の聞きたい番組をかけてくれるかを知るようになった。中でも一軒、いいオーケストラを必ずかけてくれる家があった。夜になると、ミックはその邸へ行き、暗い庭へしのびこみ、音楽に耳を傾けた。邸のまわりにはきれいな植込みがあり、ミックはいつも窓のそばの繁《しげ》みのかげにすわった。音楽がすっかり終っても、両手をポケットにつっこんだまま暗い庭にたたずみ、長いあいだ物思いにふけった。ラジオの音楽に聞き入り、いろいろと考えること――それが夏のあいだのいちばんすばらしい瞬間だった。
「|戸をしめてください《シエルラ・ラ・プエルタ》、セニョール」とミックが言う。
ババーは茨《いばら》のように鋭い子だった。「|どうぞそうしてください《アーガメ・ウステー・エル・ファボール》、セニョリータ」と、すぐさま言いかえしてくる。
実業学校でスペイン語を学ぶのはすてきだった。外国語で話をすると、なんだか急に世なれたおとなのような気がした。学校がはじまって以来、毎日午後家へ帰ってから、習ったばかりのスペイン語の単語や文章を使うのが楽しくてならなかった。最初のうちババーはあっけにとられており、スペイン語をしゃべりながらその顔を見ているとおかしかった。だが、またたく間に彼は要領をのみこみ、やがてミックの言うことを残らず真似《まね》できるようになった。学んだ単語をよく覚えてもいた。もちろん、文章がどんな意味なのかは知らなかったが、どのみちミックのほうでも、まともな意味どおり使っているわけではなかった。しばらくするうち、あまりババーの覚え方が早いため、ミックのほうでスペイン語が種切れになってしまい、あとはでたらめに作り上げた言葉を早口にしゃべるだけになった。だが、それもまもなく見破られてしまった――どうにもババー・ケリーだけは、だれも容易にだませなかった。
「あたし、この家にいるのはじめてみたいな格好してみるわね。そしたら、飾りつけがよく見えるかどうかわかるもの」とミックは言った。
ミックは玄関先のポーチへ出ると、また戻って来て、廊下に立った。ババーやポーシャやパパたちといっしょに、一日じゅうパーティのために、玄関の広間と食堂の飾りつけをしていたのだ。飾りは秋の紅葉と蔦《つた》と、それに赤いちりめん紙だった。食堂の暖炉飾りの上や帽子かけのうしろには、明るい黄色の葉がさしてあった。また壁や、ポンチの大鉢《おおばち》を置くはずのテーブルの上には、蔦をはわせた。赤いちりめん紙は炉棚《ろだな》から長く垂《た》らし、椅子の背にも巻きつけた。装飾は十分だった。準備はととのっていた。
ミックは額をこすり、目を細めてみた。ババーはそのそばに立ち、姉のしぐさをいちいち真似てみる。「ほんと、このパーティがうまくいってくれるといいんだけど」
これはミックの催すはじめてのパーティだった。パーティには、招かれたことも四、五回しかなかった。去年の夏には、プロムナード・パーティに行ってみたが、男の子はだれひとり散歩《プロムナード》にもダンスにも誘ってくれず、お茶菓子のすっかりなくなるまでポンチの鉢のそばに立っていて、家へ帰って来てしまった。今度のは、けっしてあんなパーティにはしないつもりだった。あと数時間もすると、招いた連中が続々来はじめ、騒ぎがはじまるだろう。
このパーティを開く気になったきっかけは、どうしても思い出せなかった。実業学校へ行きはじめてまもなく、思いついたことはたしかだ。実業学校はすてきだった。何から何まで、初等中学とは違っていた。ヘイゼルやエッタみたいに速記のコースを取らされたなら、それほど好きにはなれなかっただろう――しかしミックは特別の許可をもらって、男の子のように機械整備のコースを取った。機械整備と代数とスペイン語はすばらしかった。英語はやけにむずかしかった。英語の担当はミス・ミンナーだった。ミンナー先生は、脳みそを一万ドルで有名な医者に売ってあり、死んだあと医者が解剖して、なぜあんなに利口なのかを調べるらしい、というのがもっぱらの噂《うわさ》だった。筆記試験では、「ドクター・ジョンソンと同時代の著名な作家を八人あげよ」とか、「『ウェイクフィールドの牧師』の中から十行を引用せよ」といった難問を出した。アルファベット順にみんなに当て、授業のあいだじゅうえんま帳を開いておくのだ。頭はいいかもしれないが、陰気くさいひねくれ婆さんだった。スペイン語の先生は、一度だけヨーロッパ旅行をして来たことのある人だった。なんでもフランスでは、みんなパンを包まずむき出しのまま家へ持って帰るそうだ。通りで立ち話なんかをしながら、街灯柱をパンで叩《たた》いたりするそうだ。またフランスには水がなくて、ぶどう酒しかないという話だ。
ほとんどあらゆる点で、実業学校はすばらしかった。生徒たちは、授業の合い間には廊下を行ったり来たりし、また昼休みには体育館のあたりをうろついた。ところが、やがて気になることが起ってきた。廊下をつれだって歩いている連中は、どうやらみな何か特別のグループに属しているらしいのだ。はじまって一、二週間もすると、廊下やクラスで会う連中の顔も覚え、話しかけるようになったが――しかしそれだけのことだった。ミックはどのグループにもはいっていなかったのだ。初等中学では、仲間入りしたければ、どのグループだろうが行きさえすればよかった。しかし、ここではようすが違っていた。
第一週目、ミックはただひとり廊下を行きつ戻りつしながら、このことを考えていた。音楽のことを考えるのと同じくらい、どこかのグループに入れてもらうことをあれこれ考えつづけた。いつも頭から離れないのは、その二つだった。そしてとうとう、パーティを開くことを思いついたのだ。
招待の人選はきびしかった。初等中学の生徒や、十二歳以下はいっさいお断わり。十三歳から十四歳までと限ることにした。招いた連中は、みな廊下で話しかけているていどに知っていた――名前のわからない場合は、聞いて確かめることにした。電話のある連中には電話で、その他には学校で声をかけた。
電話口で、ミックは同じせりふをくり返した。ババーが聞き耳を立て、電話に耳を寄せてくるのも許してやった。「あたし、ミック・ケリーですけど」と彼女は言った。相手が名前を聞いてもわからないと、わかるまでくり返した。「土曜の晩八時に、プロムナード・パーティを開きますから、いらしてくださいな。四番通りの一〇三番地、アパートメントAですの」「アパートメントAですの」は、電話口ではすてきにひびいた。喜んでうかがうという返事が大部分だった。しかし二、三人のしたたかな男の子だけは利口ぶろうとして、何度も何度も彼女の名前をききかえした。その中のひとりは、いいところを見せようとしてか、「きみのことは知らないんだけどな」とうそぶいた。ミックはすかさず、「なら、くたばっちまったら!」とやり返した。そういうきいたふうなのをのぞくと、ぜんぶで男十人、女十人がそろい、それだけは全員来てくれるはずだった。これこそ本格的な、これまでミックが招かれたり噂に聞いたりしたどんなパーティとも違う、どれよりもりっぱなパーティになるはずだった。
ミックはもう一度最後に、廊下と食堂のようすを見た。帽子かけのそばで立ちどまり、≪きたない顔のおじいちゃん≫の肖像を見上げた。それはママのおじいさんの写真だった。むかし南北戦争で戦死した、陸軍少佐だった人だ。子どものだれかが、その上に眼鏡と口ひげを書き入れてしまい、のちに鉛筆のいたずら書きを消したあとも、顔はすっかりきたなくなってしまった。そのためミックは、「きたない顔のおじいちゃん」と呼んでいた。その写真は、三枚そろった写真のまん中にあった。両側には、彼の息子《むすこ》の写真がかかっていた。ババーくらいの年ごろだ。制服を着て、びっくりしたような顔をしている。彼らも戦死してしまった。遠いむかしの話だ。
「パーティのときだけ、これおろしておくわね。なんだかやぼくさいもの。そう思わない?」
「わかんないや。ぼくらもやぼくさいの、ミック?」とババーが言った。
「あたしは違うわよ」
ミックは写真を帽子かけの下に置いた。飾りつけは終っていた。シンガーさんも帰って来て喜ぶだろう。どの部屋もがらんとして、静まりかえっている。食卓には夕食の用意ができていた。夕食がすむと、いよいよパーティの時間となる。ミックはお茶菓子のようすを見に、台所へ行ってみた。
「みんなうまくゆくかしら?」と、ポーシャにきいた。
ポーシャはマフィンを焼いていた。お茶菓子は、調理ストーブの上にのっていた。ピーナツバターとゼリーのサンドイッチに、チョコレート・クッキーとポンチだ。サンドイッチにはぬれぶきんがかぶせてある。ミックはふきんの下をのぞいてみたが、つまみ食いはしなかった。
「みんなうまくゆくって、四十ぺんは言うたでしょうが。あたいんちの晩ごはんの支度《したく》がすんだら、すぐあの白いエプロンかけて、あんじょうご馳走《ちそう》を出したげるから。けど、九時半には帰らしていただくわ。きょうは土曜だもん、ハイボーイやウィリーやあたいにもいろいろ計画があんの」
「いいわよ」とミックは言った――「パーティがこう、うまくすべり出すまでおまえに手伝ってもらいたいのよ」
彼女は誘惑に負け、サンドイッチを一つつまんだ。そしてババーをポーシャのところに残し、自分の部屋へ行った。今夜着ることになっているドレスが、ベッドの上にひろげてあった。このパーティには出なくていい姉のヘイゼルとエッタが、自分たちの服の中でいちばんいいのを親切に貸してくれたのだ。エッタの水色の長いクレープ・デシンの夜会服に、白いパンプス、それに模造ダイヤの髪飾りがそろえてあった。ほんとうに豪華な衣装《いしょう》だった。これを着た自分の姿は、とても想像もできなかった。
すでに日暮れが訪れ、夕陽《ゆうひ》が長く黄色く窓から射《さ》しこんでいた。パーティの身支度に二時間かかるとすれば、もうそろそろはじめなくてはならない。すてきな衣装をつけることを考えると、もうじっとすわって待っていられない気持だった。ゆっくりと浴室にはいったミックは、着古したショーツとシャツをぬぎ捨て、お湯の栓《せん》をひねり、踵《かかと》や膝《ひざ》や特に肘《ひじ》のざらざらしたところをこすった。長い時間をかけた風呂だった。
ミックは裸で自室へ駆け戻り、服を着はじめた。まず絹のコンビネーション下着をつけ、ついで絹靴下をはいた。ついでのことに、エッタのブラジャーまでつけてみた。そしてごわごわしたドレスを着こみ、パンプスをはいてみた。夜会服を着るのはこれがはじめてだった。彼女は長いあいだ、鏡の前に立っていた。あまりに背が高すぎ、ドレスはくるぶしの二、三インチ上までしかない――靴も小さすぎて痛かった。ミックは長いあいだ鏡の前に立ちつくし、けっきょく自分はまぬけに見えるか、それともたいへん美人に見えるかのどちらかだと思った。そのどちらかなのだ。
髪の型も六通りにいろいろ変えてみた。さかだった立ち毛には少々手こずり、切り下げにした前髪をぬらして、カールを三つ作ってみた。最後に模造ダイヤを髪にとめ、口紅と頬紅《ほおべに》をこってりと塗った。すっかり支度が終ると、映画スターのように顎《あご》をちょっとそらし、目をなかば閉じてみた。そしてゆっくりと、顔を右から左へまわしてみた。美しかった――じつに美しかった。
とうていこれが自分とも思えなかった。まるでミック・ケリーとは違っただれかだった。パーティのはじまるまでまだ二時間はあり、こんなに早々とめかしこんでしまったのを、家族のだれかに見られるのが恥ずかしかった。ミックはまた浴室にはいり、鍵《かぎ》をかけた。すわってドレスがくしゃくしゃになっては困るので、床のまん中に立っていることにした。狭い浴室の壁が、興奮をはらんで迫ってくるように思えた。先ほどまでのミック・ケリーとはすっかり別人のような気がし、これこそ――このパーティこそ――生涯で何よりもすばらしいものになるだろうと思った。
「わあい! ポンチだ!」
「まあきれいなドレス――」
「おい! あの三角形の問題解いてくれよ――」
「ちょいと通してってば! ちょっとどいてよ!」
つぎつぎとやって来る客に、玄関の戸はひっきりなしにバタンバタンと鳴った。甲高い声、低い声がいっしょにまざり合い、やがてはワーンという一つの騒音になった。女の子たちは、裾《すそ》の長いすばらしい夜会服を着てかたまって立ち、男の子たちはこざっぱりしたズックのズボンや、予備役の軍服や、仕立ておろしの地味な秋の背広を着て歩きまわっている。あまりのさわがしさに、ミックはどの顔もどの人間も見分けがつかなかった。彼女は帽子かけのそばに立ち、ただ全体に見まわすばかりだった。
「みなさん、散歩《プロム》のカードを取って、パートナーのサインをもらってくださいな」
最初のうち部屋の中は騒々しすぎ、だれにも聞えずだれも注意を払わなかった。男の子たちはポンチの鉢《はち》のまわりにむらがり、テーブルも飾りつけの蔦《つた》もまるで見えない。ただパパの顔だけが、男の子たちの頭の上につき出し、笑顔《えがお》でポンチを小さな紙コップについでやっている。ミックのそばにある帽子かけの台座には、キャンデーの瓶《びん》と、ハンカチが二枚置いてあった。きょうがミックの誕生日かと思ったふたりの女の子からの贈物だった。まだあと八ヵ月たたなければ十四歳にならないことは言わず、ミックはお礼を言って贈物をあけた。だれも彼も、ミックに負けず身ぎれいにこざっぱりとし、めかしこんでいる。匂《にお》いもよかった。男の子たちは、髪の毛をぺったりなでつけ光らせている。それぞれ違った色どりの長いドレスを着て一つところに立っている女の子たちは、明るい一束の花束のようだった。すばらしいすべり出しだった。ともかく、パーティのはじまりだけは順調だった。
「あたしにはいろんな血がまじってるの、スコットランド系アイルランド人とフランス人と――」
「ぼくはドイツ系なんだ――」
食堂へ行ってみる前、ミックはもう一度大声で、パートナー選びのカードのことをふれてまわった。まもなく、お客はどやどやと廊下からはいって来た。めいめいがカードを取り、食堂の壁を背にして並んだ。いよいよ本式にはじまるのだ。
ところがにわかにどうしたことか――ひっそりと静まりかえってしまったのだ。男の子たちは部屋の一方の側に、女の子たちは向い側に立っていた。どういうわけか、だれもが急になりをひそめてしまった。男の子たちはカードを手に女の子たちを見つめ、部屋の中はしんとしてしまった。男の子はだれひとり、しきたりどおりの散歩《プロム》の申込みをはじめない。気まずい静けさはしだいにひどくなるばかりだが、あまりいくつものパーティに出たことのないミックは、どうしていいかわからなかった。やがて男の子たちは、お互い同士ボクシングごっこやおしゃべりをはじめた。女の子たちはくすくす笑っている――しかし男連中のほうに背は向いていても、はたして自分に申込みがたくさん来るかどうかで夢中なことはすぐにわかった。いたたまれないような静けさはようやく消えたが、それでも部屋の中には、何か落着かぬ空気が漂っていた。
やがてそのうち、ひとりの男の子が、ダローレス・ブラウンという女の子のところへ歩み寄った。彼が約束をとりサインをもらって来ると、ほかの男の子もみな争ってダローレスのところへ殺到しはじめた。ダローレスのカードがいっぱいになると、今度はメアリという女の子の番だった。そしてそのあと、すべてはまたはたと止ってしまった。ひとり、ふたり、他の女の子も二つほど申込みを受け――このパーティの主催者に敬意を表してか、ミックのところへも三人の男の子がやって来た。それでおしまいだった。
客は食堂と廊下をぶらぶら歩きまわるばかりだった。男の子たちはほとんどがポンチの鉢のまわりに集まり、いいとことを見せようとさわぎ合っている。女の子たちは一かたまりにかたまり、楽しくてならないふりをして笑いころげている。男の子は女の子のことを考え、女の子は男の子のことを考えていた。ところが、気まずい空気しか生れてこないのだ。
ミックが、ハリー・マイノウィッツに気づいたのは、そのときだった。小さいころから知っている、隣の家の男の子だ。彼のほうが二つ年上だが、ミックのほうが早く大きくなってしまい、夏にはよく通りのそばの芝生《しばふ》ですもうを取ったり、けんかしたりしたものだった。ハリーはユダヤ人の少年だったが、見たところはユダヤ系に見えなかった。薄茶色のまっすぐな髪の毛だった。今夜はとてもきちんとした身なりをし、玄関からはいって来たときには、羽のついたおとな用のパナマ帽を帽子かけにかけた。
彼に気づいたのは、その服装のせいではなかった。いつもかけているつのぶち眼鏡をはずしているので、顔がどこか変って見えたからだ。片方の目に赤い物もらいをこしらえ、物を見るには首を小鳥のようにかしげなくてはならなかった。そこが痛むのか、細く長い指先でしじゅう物もらいのまわりをさわっている。ポンチをもらうときには、紙コップをミックのパパの鼻先へつきつけてきた。眼鏡がなくてはどうにもならないのだ。ひどくそわそわして、しきりと人にぶつかっている。散歩《プロム》もミックに申込んだだけだった――ミックの催したパーティだったからだ。
ポンチはすっかりからになってしまった。娘が恥をかくことをおそれたパパは、レモネードを用意しにママと台所へ行っていた。客の何人かは、おもてのポーチや歩道に出ていた。ミックも、涼しい夜の空気の中に出られたのがうれしかった。人いきれの明るい屋内から外へ出ると、暗闇の中に初秋の匂いが漂っていた。
ところが、ミックは思いがけないものを目にした。道端や暗い通りに、近所の子どもたちがたむろしているのだ。ピートやサッカー・ウェルズやベイビーやスペアリブズ――ババーより下の年齢からはじまり、十二を越えたあたりまでの連中だ。どこからかパーティを嗅《かぎ》ぎつけてやって来た、ミックのまるで知らない顔もまじってうろうろしている。ミックに何かいじわるをしたか、ミックのほうでいじわるをしたかで、今度のパーティには招かなかった同じ年ごろか、すこし年上の子たちもまじっている。粗末な半ズボンや、裾《すそ》を引きずりそうなゆるいズボンをはき、古ぼけたふだん着を着た、そろいもそろってきたない連中だった。パーティを見ようと、ただ暗闇の中をうろつきまわっているのだ。この子たちを見たとき、ミックは二通りの感じを持った――一つは悲しみであり、もう一つは一種の警戒心だった。
「この散歩《プロム》はきみとだったな」ハリー・マイノウィッツはカードに書いてあるのを読んでいるように言ったが、カードには何も書かれていなかった。パパがポーチまで出て来て、最初の散歩のはじまる合図の笛を吹いた。
「いいわ、出かけましょう」とミックは言った。
ふたりは家の近くをひとまわりしに出かけた。長いドレスを着て、ミックはまだ豪勢な気分にひたっていた。「や、ミック・ケリーだぜ!」と、だれか子どもが暗闇の中で叫んだ。「すげえ!」ミックは聞えなかったふりをして歩きつづけたが、あれはスペアリブズの声だった、そのうちいつかとっつかまえてやろう。ミックとハリーは暗い歩道を足早にいそぎ、通りのはずれまで来ると、また別の通りへ折れた。
「ミック、きみはいまいくつ?――十三かい?」
「十四になるとこよ」
彼の考えていることはわかっていた。前々から悩みの種だったのだ。まだ十三歳だというのに、彼女は身長五フィート六インチ、体重も百三ポンドあったのだ。パーティにやって来た子どもたちは、ミックと並ぶとだれもみな小人みたいだった。かろうじてハリーだけが、二、三インチ低いだけだった。自分よりうんと背の高い女の子と、散歩《プロム》に出たがる男の子はだれもいなかった。たぶんタバコでも吸えば、これ以上大きくならずにすむだろうか。
「去年だけで、三インチと四分の一伸びちまったの」と彼女は言った。
「いつだったか共進会で、八フィート半もある女の人を見たよ。だけど、きみはあんな大きくはならないだろう」
ハリーは、黒いさるすべりの繁《しげみ》のそばで立ちどまった。あたりに人影はなかった。彼はポケットから何かを取出し、それをいじりはじめた。ミックは何だろうとかがみこんでみた――それは眼鏡だった。眼鏡をハンカチでふいているのだ。
「やあごめん」と言って彼は眼鏡をかけ、大きく溜息《ためいき》をつくのが聞えた。
「いつもかけてなきゃいけないんでしょ」
「うん」
「どうしてはずすの?」
「うん、どうしてだかな……」
とても静かで暗い夜だった。通りを横切るとき、ハリーは彼女の腕を取ってくれた。
「パーティに来てたお嬢さんで、若い男が眼鏡なんかかけるとめめしく見えるって言う人がいたもんだから。その人っていうのは――うん、ひょっとするとぼくは……」
彼は言い終えなかった。いきなり身体《からだ》を伸ばしたかと思うと、何歩か駆けてゆき、四フィートほど頭の上の木の葉に跳《と》びついた。ミックには闇の中にその高い木の葉だけが見えた。ばねをきかして跳び上がったハリーは、一度で木の葉をむしり取った。そして木の葉を口にくわえると、闇の中で二、三回ボクシングのパンチをふるう真似をした。ミックはやっとあとから追いついた。
いつものように、歌が心に浮んでいた。ミックは鼻歌をうたっていた。
「何て歌だい?」
「これはね、モーツァルトって人の作った歌」
ハリーはいい気分だった。すばやいボクサーのように、横っとびにはねつづけている。「ドイツ人の名前みたいだな」
「だと思うわ」
「ファシストかい?」
「何ていったの?」
「そのモーツァルトってのは、ファシストかナチスかってきいたんだよ」
ミックはちょっと考えていた。「ううん。そういうのは最近のことでしょ。モーツァルトって人は、もう死んでからだいぶになるはずよ。」
「そんならよかった」ハリーは、ふたたび闇の中でボクシングをはじめた。ミックにどうしてときいてもらいたかったのだ。
「そんならよかった」と、彼はもう一度くり返した。
「どうして?」
「ファシストはきらいだからさ。通りを歩いているファシストに出会ったら殺してやるよ」
彼女はハリーを見つめた。街灯に照らされた木の葉が、ちらちらまだらの影を彼の顔に投げている。ハリーは興奮していた。
「どうしてなのよ」とミックはきいた。
「おどろいたな! 新聞を読んだことないのかい? いいかい、こういうことなんだよ――」
ふたりは町の一角をまわり、またもとのところへ戻って来ていた。ミックの家では騒ぎが持ち上がっていた。人びとが叫び声を上げ、歩道を走りまわっている。重苦しいむかつきが胸にこみ上げてきた。
「もう一まわり散歩してこなきゃ、とても説明しきれないよ。ぼくがどうしてファシストがきらいかは、話したってかまわない。ぜひ話してあげたいな」
こうした考えをだれかにしゃべるのは、彼にとってはじめてだったのだろう。だが、ミックは聞いているひまがなかった。家の前の出来事を見るのに夢中だったのだ。「そいじゃ、またあとでね」散歩《プロム》は終ったのだ。騒ぎをよく眺《なが》め、考えることもできるのだ。
外へ出ているあいだに何が起こったのだろう? ミックが家を出たとき、晴着姿の客たちはまわりに立ち、すばらしいパーティだった。それが――わずか五分ほどたったいま――家はまるで気違い屋敷だった。ミックのいないあいだに、あの腕白連が暗がりから現われ、パーティに押しこんで来たのだ。なんという厚かましさだろう! ピート・ウェルズがポンチの紙コップを手に、ドタドタ玄関から飛び出して来た。わめきちらし、駆けまわり、すっかり招待客にまざってしまっていたのだ――古ぼけただぶだぶのズボンをはき、ふだん着のままの悪童たちは。
ベイビー・ウィルソンはポーチのところでうろうろしている――まだ四つにしかならない子だというのに。だれが見たって、もういまごろは家に帰って寝ていなきゃならないはずだ――ババーと同じように。ポンチを頭の上に高くさし上げながら、ベイビーは階段を一段ずつおりて来た。なんでこんな子がここへ来たのだろう。ブラノンさんが叔父《おじ》さんなんだから、キャンデーや飲み物は叔父さんの店で、ほしければいつでもただでもらえるはずなのだ。歩道まで出たベイビーを、ミックはすぐさま腕をつかんでとらえた。「さっさとうちへお帰り。さあ、お行きってば」さんざんになったパーティを元通りにするにはほかにどうすればよいかと、ミックはまわりを見まわした。彼女はサッカー・ウェルズのところへ歩み寄った。彼は紙コップを手に、通る人をぼんやり眺めながら、すこし離れた歩道の暗がりに立っていた。七歳になる男の子で、半ズボンをはいていた。靴もはかず、上半身も裸だった。彼が騒ぎを起こしたわけではなかったが、ミックは無性に腹が立っていた。
彼女はサッカーの両肩をつかむと、乱暴にゆさぶりはじめた。はじめのうち彼は顎《あご》に力を入れていたが、それもおよばず、歯がガタガタ鳴りだした。「とっととお帰りよ。よばれもしないのにうろつきまわんのはおやめ」やっと放してもらうと、サッカーは尻尾《しっぽ》を巻き、すごすご通りを立ち去った。しかし、そのまま家へ帰ったわけではなかった。町角《まちかど》まで来ると、縁石《ふちいし》のところにすわりこみ、もうミックに見つかるまいと思ってか、パーティのようすをうかがっている。
ミックはしばらくのあいだ、サッカーをおどしつけてやったことでいい気分だった。しかしそのあとすぐ、かわいそうなことをしたと気がとがめ、また彼を呼び戻しに行った。パーティを台なしにしたのは、大きな子たちなのだ。まったくどうしようもない悪童たちだ。それにあんな図々しさは見たこともない。お茶菓子をすっかり平らげ、せっかくのパーティを大混乱にしてしまった。彼らは玄関のドアをバタンバタンやって出入りし、大声でわめき、互いにぶつかり合っていた。ミックはピート・ウェルズのところへつめ寄った。彼がいちばん|わる《ヽヽ》だったからだ。ピートはフットボール用のヘルメットをかぶり、だれ彼かまわずつっかかっていた。もうまちがいなく十四歳になるはずなのだが、まだ七年級にとめおかれていた。さてそばまで行ってはみたものの、ピートは大きすぎ、とてもサッカーのようにゆさぶるわけにはゆかなかった。帰ってちょうだいと言うと、シミー踊りのように腰をゆすり、ミックにつっかかってくる真似をした。
「ぼくはさ、六つの違った州にいたことがあるんだ。フロリダとアラバマと……」
「銀色の生地で、ベルトがついてるの……」
もうパーティはめちゃくちゃだった。だれもが同時にしゃべっていた。実業学校から招いた客が、近所の腕白連中とごちゃまぜになっている。しかし、男の子と女の子のグループはいぜん別々に離れ――だれも散歩《プロム》に出るものはない。レモネードももうあらかたなくなっていた。大鉢の底に、レモンの皮の浮んだ水がちょっとばかりたまっているだけだった。パパは、いつも子どもたちにやさしすぎるほどだった。コップをさし出されると、だれにでもポンチをついでやった。食堂へ行ってみると、ポーシャがサンドイッチをすすめていた。五分もすると、それはきれいになくなってしまった。ミックはピンク色のしみ出たゼリーを、一つ取っただけだった。
ポーシャは食堂に残り、パーティを眺めた。「とても楽しゅうて帰れんわ。ハイボーイとウィリーに言うてやったの、今夜はあたいぬきでやっとくれって。だってこの興奮ぶりだもん、ぜひおしまいまで見とどけんと」
興奮ぶり――まさにその言葉どおりだった。部屋の中でもポーチでも歩道でも、いたるところでそれが感じられた。ミック自身もわくわく胸が躍《おど》っていた。それはただ着ている美しい服や、帽子かけの鏡の前を通るとき映って見える、頬紅《ほおべに》や模造ダイヤの髪飾りをつけた自分の美しさのためではなかった。おそらく部屋の飾りつけや、押し合いへし合いしている実業学校から招いたお客や、近所の子どもたちのためだったのだ。
「ごらんよ、あの子の駆けっぷり!」
「あ痛《い》た! やめてってば――」
「いい歳《とし》をして子どもみたい!」
一群の少女たちがドレスの裾《すそ》を持ち上げ、髪の毛をなびかせながら、通りを駆けて行った。糸蘭《いとらん》の繁《しげ》みから、長いとがった剣《つるぎ》状の枝を折り取った何人かの男の子が、枝を振りまわしながらそのあとを追いかけている。プロムナード・パーティのため盛装をして来た実業学校の一年生も、まるで小さな子どもたちのようだ。棒を持った男の子が近寄って来たので、ミックもまた駆け出した。
パーティなど、もうすっかりどこかへ消えてしまっていた。こうなればもう、ただの外でのはしゃぎまわりにすぎなかった。それにしても、これまでに見たこともないような羽目のはずれた夜だった。あの悪童連中が原因なのだ。伝染病みたいな連中で、パーティになだれこんで来たとたん、客はみなハイスクールの生徒だということも、もういい齢のおとなだということも忘れてしまったのだ。たとえてみれば、午後になって風呂にはいる前、あとで浴槽《よくそう》につかるときのこころよい気分が楽しみで、わざと裏庭をころげまわり、思いきり泥んこになって来るようなものだった。だれも彼も羽目をはずした子どもにかえり、土曜の夜を遊びほうけていた――中でもミックは、自分がいちばん羽目をはずしているような気がした。
ミックは喚声を上げ、押し進み、率先していろんな芸当をやってのけた。あんまり騒々しく、あんまりせかせか飛びまわったため、ほかの連中が何をしているかも目にはいらなかった。だが思いきりあばれてみたくても、肝心の呼吸が追いつかなかった。
「溝《みぞ》んとこへ行こうよ! 溝んとこがいいわ!」
ミックはまっ先に駆け出した。通り一つほど先に、新しい鉄管を埋めるため、ひどく深い溝が掘られていた。溝のふちにそって置かれたたいまつが、暗闇《くらやみ》の中に赤く明るかった。ふちを伝っておりるのはもどかしかった。ちらちら揺れる小さな炎のところまで駆けて行くと、彼女はいきなり溝の中へ飛びこんだ。
テニスシューズをはいていれば、猫のように着地していただろう――だがハイヒールのおかげで足がすべり、みぞおちのあたりを鉄管にぶっつけた。一瞬、呼吸がとまった。ミックは目を閉じ、身動きせずに横たわっていた。
パーティ――どんなパーティになるだろう、実業学校の新しい友人たちはどんな連中だろう、と長いあいだいろいろ思いめぐらしたことが思い出された。そして、仲間に入れてほしいと毎日のように思っていたグループのことも。これでもう、廊下で会ってもいままでとは違った気分になれるだろう、あの連中だって特別な人間ではなく、ほかの子どもたちと同じことがわかったからだ。パーティはめちゃくちゃになってしまったが、かまうことはない。ともかく、もうすんでしまったのだ。これで終ったのだ。
ミックは溝をはい上がった。何人かの子どもたちが、小さなかがり火のまわりで遊んでいた。炎は赤く光り、長い影がせわしなく動いている。男の子のひとりはいつの間にか家に帰り、|万聖節の宵祭《ハロイーン》のために買ってあったお面をかぶって来ていた。ミックをのぞけば、パーティのようすは何一つ変っていなかった。
ミックはゆっくりと家へ歩いて帰った。子どもたちとすれ違っても、話しかけも見向きもしなかった。廊下の飾りつけは引きちぎられ、客がみな外へ出てしまったため、家の中はひどくがらんとして見えた。浴室へはいり、ミックは青い夜会服をぬいだ。裾が裂けているので、ほつれた個所が見えないように折りたたんだ。模造ダイヤの髪飾りは、どこかでなくしてしまっていた。古ぼけた半ズボンとワイシャツが、床にぬぎ捨てたままになっていた。彼女は半ズボンをはいた。もうこんな年ごろになって半ズボンもないだろう。今夜かぎりで半ズボンはよそう。もうこんなものとはさようならだ。
ミックはポーチのところに立った。頬紅を落した顔はひどく青ざめて見えた。両手を口の前でメガホンのように丸め、深く息を吸いこんだ。「みなさん、もうお帰りください! ドアをしめます! パーティは終わりました!」
静かなひそやかな夜の中で、ミックはふたたび自分ひとりになった。まだ夜もふけてはいなかった――通りにそった家々の窓に、黄色い四角の光が見えている。ミックは両手をポケットに、首をちょっとかしげながら、ゆっくり歩きつづけた。どちらへ向っているとも気づかず、そうして長いあいだ歩きつづけていた。
やがて家と家のあいだが間遠になり、大きな木や黒い潅木《かんぼく》のある庭があらわれだした。まわりを見まわすと、夏のあいだ何度も足を運んだあの邸《やしき》の近くまで来ていた。自分でも気づかぬうちに、足にここまで運ばれて来たのだ。邸の前までくると、だれにも見つかるおそれのなくなるまで待った。そして横手の庭を横切った。
いつものようにラジオが鳴っていた。ミックはちょっと窓辺《まどべ》で足をとめ、邸の中の人たちを見守った。頭の禿《は》げた男と白髪の婦人が、テーブルに向ってトランプをしていた。ミックは地べたにすわりこんだ。人目につかない、とてもいい場所だった。すぐまわりをよく茂ったヒマラヤ杉が取囲んでいるので、彼女の姿はすっかり隠されていた。今夜のラジオはまるでおもしろくなかった――だれかが流行歌をうたっているのだが、どれもこれも同じような終わり方をする。聞いているこちらのほうが、からっぽになった感じがする。ミックはポケットに手を入れ、手さぐりしてみた。干ぶどうがいくつかと、とちの木の実と数珠球《じゅずだま》――それにマッチとタバコが一本はいっていた。彼女はタバコに火をつけ、両腕で膝《ひざ》をかかえこんだ。身体じゅうがごっそり空洞《くうどう》になり、何の感情も何の思考もなくなったような感じだった。
番組はつぎからつぎへと変ったが、いずれもくだらぬものばかりだった。しかし特に気にもならなかった。ミックはタバコをふかし、草の葉を一つかみ引きちぎった。しばらくすると、別の声のアナウンサーがしゃべりはじめた。ベートーヴェンの紹介だ。ベートーヴェンのことは図書館で読んだことがあった――名前の綴《つづ》りにはeが二つはいっているが、読むときはaと発音するのだ。モーツァルトと同じドイツ人だった。生存中は外国語を話し、外国に住んでいた――ミックの望んでいたように。これから彼の第三交響曲を放送します、とアナウンサーは言っていた。もすこし散歩がしたくて、放送にそれほど興味もなかった彼女は、なかばぼんやりと聞き流していた。やがて音楽がはじまった。ミックは顔を上げ、握りしめた手を思わず喉《のど》のところへ持っていっていた。
どうしたというのだろう? 音楽はためらうように、うなりながらはじまった。散策か行進のように。夜の世界を歩む神のように。ミックの外の世界はにわかに凍りつき、音楽のあのすべり出しの部分だけが、胸の中で赤く燃えていた。そのあとの音楽は耳にもはいらず、彼女はただ拳《こぶし》を固く握りしめ、凍りついたようにすわったまま待ち受けていた。しばらくすると、音楽はふたたびはげしく、声高にうたいだした。もはや神とは何の関係もなかった。これこそミックであり、昼日中を歩むミック、夜をただひとり歩くミック・ケリーだった。暑い日射《ひざ》しの中を、そして夜の闇の中を、さまざまな計画と感情をいだいて歩くミック。この音楽は彼女であり――ほんとうの、ありのままのミック自身だった。
曲のぜんぶは、はっきりとは聞きとれなかった。音楽は彼女の中でわきたっていた。どちらがいいのだろう? いくつかのすばらしい楽節にすがりつき、あとあとまでも忘れないようじっくりと考えるのがいいのか――それとも、気持を楽にし、考えたり覚えたりしようとせず、流れ出すそれぞれの部分に聞き入るのがいいだろうか? なんということだ! 全世界がこの音楽だった。とてもじっと聞き入っていられなくなった。やがてまた導入部の調べがくり返され、さまざまな異なった楽器がいっしょになって、固く握りしめた拳のように彼女の胸に打ってかかった。そして最初の部分は終った。
この音楽は、長くもみじかくもなかった。時間の経過とはまるで無関係だったのだ。ミックは両腕でしっかりと脚《あし》を抱きかかえ、塩辛《しおから》い味のする膝小僧を噛《か》みながらすわっていた。音楽に聞きほれていたのは五分間だったかも、夜の半分だったかもしれなかった。第二楽章は黒ずんだ色合いで――ゆったりとした行進曲だった。悲しい調べではないが、全世界が死に絶え暗黒となり、かつての姿をしのぶよすがもないという感じの曲だった。ホルンのような楽器の一つが、寂しい銀色の調べをうたっている。やがて音楽は、底に興奮を秘め、怒ったように高まった。そして最後に、また暗黒の行進曲がはじまった。
しかしこの交響曲では、最後の部分がいちばんミックの気に入ったようだった――いかにも喜ばしげで、世界じゅうの偉大な人たちが、けんめいにのびのびと駆けまわり、跳《と》びはねているようだった。このようなすばらしい音楽は、およそ考えうる最悪の苦痛だった。全世界がこの交響曲であり、それに聞き入る彼女はあまりにも卑小な感じがした。
音楽は終り、彼女は両腕で膝を抱えながら、こわばった姿勢ですわっていた。ラジオではまた別の番組がはじまったが、ミックは指先で耳をふさいでしまった。あの音楽は、彼女の心に深い傷とうつろさだけを残していた。あの交響曲のどの部分も、おしまいの旋律でさえ思い出せなかった。なんとか思い出そうとしてみたが、音の一つとして浮んでこない。曲の終ったいま、残されたのは兎《うさぎ》のようにおびえた心と、おそろしいほどの心の痛みだけだった。
ラジオと窓の明りは消された。あとはまっ暗な夜だった。とつぜん、ミックは拳で腿《もも》を打ちはじめた。あらんかぎりの力をこめ同じ筋肉を打ちすえるうち、涙が頬を伝いはじめた。だが、痛みは感じなかった。草むらの下に落ちている石ころは鋭かった。その石ころを一つかみ手に取ると、ミックは先ほどと同じ個所を、血だらけになるまでかきこすった。そして地面に仰向けに倒れると、夜空を見上げた。ひりひりする膝の痛みがこころよかった。夜露にぬれた草の上にぐったりと横になっているうち、呼吸もゆるやかに楽になってきた。
どうして探検家たちは、空を仰ぎ見ることで地球の丸いことに気づかなかったのだろう? 空は巨大なガラス球の内部のように彎曲《わんきょく》し、まばゆい星をちりばめて濃紺に染まっていた。夜は静かだった。あたたかい杉の匂《にお》い。考えようとしていなかったあの音楽がよみがえってきた。導入の部分だけが、演奏されたときのまま心に浮んできたのだ。ミックは静かにゆっくりと耳を傾け、しっかり覚えこめるよう、幾何の問題のように音のことを考えた。音の形がはっきりと目に見え、もうこれで忘れることはあるまいという気がした。
気分もよくなっていた。ミックは声に出してつぶやいた――「主よ、われをゆるしたまえ。何をなすべきか知らざればなり」どうしてこんな文句を思いついたのだろう? ほんとうの神様などいないことは、最近ではだれでも知っていることだ。いわゆる神様のことを考えるとき、頭に浮かんでくるのは長く白いシーツに身体を巻いたシンガーさんだけだった。神様は無言だった――おそらくそれで、シンガーさんのことを思い出したのだろう。ミックはもう一度、シンガーさんに話しかけるように、その言葉をくり返した――「主よ、われを許したまえ、何をなすべきか知らざればなり」
その部分の音楽は、澄みきっていて美しかった。いまはもういつでも、それをうたうことができた。いずれ先になって、ふと朝目をさましたときなどに、もっとたくさん思い出せるだろう。あの交響曲をもう一度聞く機会があれば、すでに覚えている部分に別の部分をつけ加えることもできるだろう。そして、たぶんあと四回も聞くことができたなら、そう、あとちょうど四回で、ぜんぶ覚えてしまえるだろう。たぶん。
もう一度、ミックは曲の最初の部分に聞き入った。やがて調べがゆるやかに静まってゆくにつれ、自分までが暗い大地にゆっくりと沈みこんでゆくような気がした。
ミックははっとして目をさました。いつの間にか空気は冷え、眠りからさめるとき、ちょうどエッタが掛けぶとんをぜんぶはぎ取ってしまった夢を見ていた。「こっちにも毛布をちょうだいよう――」と言おうとしていた。そこで目がさめたのだ。空はまっ暗で、星もすっかり消えていた。草は夜露にぬれていた。ミックはあわてて立ち上がった――パパが心配しているだろうからだ。またあの音楽が思い出された。いったい時刻は真夜中なのか、朝の三時ごろなのか、見当もつかなかった。ミックはいそいで家路をたどりはじめた。夜の空気には秋のような匂いがあった。音楽は速いテンポで高らかに心の中で鳴りひびき、ミックはわが家への道を夢中で駆けていた。
十月にもなると、青く澄んだ涼しい日がつづくようになった。ビフ・ブラノンは、薄地の麻のズボンから紺サージのズボンにはきかえた。店のカウンターの中には、熱いチョコレートを作る機械を据えつけた。熱いチョコレートの大好きなミックは、週に三、四回飲みにやって来た。ビフは十セントのところ、五セントしかとらなかったが、ほんとうはただで飲ませてやりたかった。カウンターに立つミックを見守る彼の気持は乱れ、悲しかった。手をさしのべ、日焼けしもつれた髪にふれてやりたかった――だが、これまで他の女にふれたようなふれ方ではなく。彼には不安がつきまとい、ミックに話しかけるとき、荒っぽい不自然なひびきの声になってしまった。
ビフの心には数多くの気苦労がのしかかっていた。一つには、妻のアリスのぐあいが悪かったのだ。彼女はいつものように、朝の七時から夜の十時まで階下で働いてはいたが、のろのろと足を引きずるように歩き、目の下に茶色の隈《くま》ができていた。加減の悪いことがいちばんはっきりと現われたのは、仕事の面でだった。ある日曜日、その日の献立表をタイプで打っていたとき、彼女はチキン・アラカルト付き特別定食を、五十セントのところ二十セントと打ちあやまり、何人かの客が定食を注文し金を払おうとするまでまちがいに気づかなかった。また別のおりには、十ドルの釣銭に五ドル札を二枚と、一ドル札を三枚も出してしまった。ビフは目をなかば閉じ、思案げに鼻をこすりながら、じっと長いあいだそういう彼女を見守るのだった。
ふたりはこのことを話し合わなかった。夜、妻の寝ているあいだ彼は階下で働き、午前中は彼女がひとりで店をとりしきった。いっしょに働くときには、ビフはレジのうしろにひかえ、調理場やテーブルの監督をするのがしきたりになっていた。商売上の話以外は話し合うこともなかったが、ビフは当惑した面持《おももち》でじっと彼女を見つめるのが常だった。
十月八日の午後のことだった――ふたりの使っている寝室から、とつぜん悲鳴が聞えた。ビフはいそいで二階へ駆け上がった。一時間とたたぬうちに、アリスは病院へ運ばれ、生れたばかりの赤ん坊くらいの大きさのある腫瘍《しゅよう》が、医者の手で体内から取出された。そして、さらに一時間とたたぬうち、アリスは息を引取った。
ビフは茫然《ぼうぜん》と、病院のベッドのそばにすわっていた。妻が息を引取ったとき、彼はそばにつきそっていた。麻酔にかけられかすんでいたアリスの目が、ガラスのようにこわばった。医者と看護婦は部屋を出て行った。ビフは妻の死顔を見つめつづけた。青味がかかった蒼白《そうはく》な顔色をのぞけば、ほとんど何の変化もなかった。ともに暮した二十一年間、毎日顔を見ていなかったかのように、彼は妻の顔をしげしげと見つめた。そうしてすわっているうち、彼の思いはしだいに、それまで長いあいだ心の奥底にしまわれていた光景に向けられた。
冷たい緑の海、そして熱く灼《や》けた金色の砂漠。絹をひろげたような泡《あわ》のふちで遊びたわむれている子どもたち。しっかりした身体《からだ》つきの日焼けした少女や、やせた小さな裸の少年たち、走りまわり、甲高い楽しげな声で呼びかわし合う、なかばおとなになりかけの子どもたち。ビフの顔見知りの子どもたちもいた――ミックと彼の姪《めい》のベイビー、それにだれも見かけたことのない見なれぬ若い顔もあった。ビフは頭を垂《た》れた。
長い時間がたって、ビフはようやく椅子から立ち上がり、部屋のまん中に立った。義妹のルシールが、病室の外の廊下を行ったり来たりしているのが聞えた。肥《ふと》った蜜蜂《みつばち》が一匹、戸棚の上をはっている。ビフはそれをうまくつかまえ、あいた窓から外へ出してやった。彼はもう一度死顔を眺《なが》め、やもめ男の冷静さで、廊下へ出るドアをあけた。
翌日の朝おそく、ビフは二階の部屋にすわって縫い物をしていた。どうしてだろう? 真に愛し合っている者同士で、あとに残されたものが愛するもののあとを追い、自らの命を絶つことのさほど多くないのはどうしてだろう? 生き残ったものが、死者を葬らねばならないからだろうか? 人の死後、取行わねばならぬきちんとした儀式のためだろうか? あとに残ったものが、いわばひととき舞台にのぼり、毎秒毎秒を無限のように感じながら、多くの目の注視を浴びねばならないからだろうか? ぜひやりとげねばならぬ務めがあるためだろうか? それともあるいは、愛のきずなに結ばれているとき、残されたものは愛するものの復活のため残らねばならないのだろうか?――去ったものはほんとうに死に絶えたのではなく、生きているものの魂の中にふたたび創《つく》り出され、成長をつづけるのであろうか? いったいなぜなのだろう?
ビフは縫い物の上にかがみ、さまざまなことを思いめぐらした。縫う手つきは器用で、指先のたこがすっかり固くなっているため、布地に針を通すのに指ぬきはいらなかった。すでにグレーの背広二着の腕に紋章を縫いつけ終り、ちょうどもう一着のにかかっているところだった。
日はまばゆく暑く、すでに秋の最初の落葉が歩道をこすっていた。ビフは早い目に家を出た。毎分毎分のたつのがきわめて遅かった。彼の前には、限りない自由な時間があった。店の入口には鍵《かぎ》をかけ、ドアの外に白い百合《ゆり》の花輪をかけておいた。そしてまず葬儀社へおもむき、並んでいるさまざまな棺をたんねんに見てまわった。裏張りの材料にも手をふれ、枠《わく》の丈夫さまでためしてみた。
「このクレープは何という名前だね――ジョーゼットかい?」
葬儀屋はお世辞たらたらの声で答えた。
「で、火葬にする割合はどれくらいのものだね?」
ふたたび通りに出たビフは、あらたまった乱れぬ足どりで歩いて行った。西のほうからは暖かな風が吹き、陽《ひ》はまばゆいほどだった。時計が動かなくなっていたので、最近ウィルバー・ケリーが時計修理の看板を出した通りのほうへ折れた。ケリーはつぎの当った部屋着を着て、仕事台にすわっていた。店は寝室もかねており、ミックがいつも荷車に乗せて引いてまわっている赤ん坊が、床に敷いた寝台がわりの毛布の上におとなしくすわっていた。時のたつのが遅く、考えこんだりいろいろきいたりする時間はたっぷりとあった。彼はケリーに、時計に使われている宝石の用途を説明してくれと頼んだ。時計職人の使うルーペごしに、ケリーの右目がゆがんで見える。ふたりはしばらくのあいだ、英国の首相チェンバレンやミュンヘンのことを話し合った。それでもまだ時刻は早かったので、ビフは唖《おし》の部屋へ行ってみることにした。
シンガーは仕事に行くため着がえをしていた。前の晩、彼からはお悔み状が届けられた。シンガーは棺の付添い人になってくれるはずだった。ビフは寝台にすわり、ふたりはタバコをふかした。シンガーはときたま、その注意深い緑色の目でビフを見つめた。彼はコーヒーをすすめた。ビフは何もしゃべらなかった。唖は立ちどまって軽く彼の肩を叩《たた》き、ちょっと顔をのぞきこんだ。シンガーの支度《したく》が終ると、ふたりはつれだって外へ出た。
ビフは店で黒い喪章を買い、アリスの所属している教会の牧師に面会した。すっかり手はずがととのうと、彼は家へ帰った。まずあと片づけを――気になっているのはそのことだった。義妹のルシールにやるため、アリスの服や持物をまとめ、包みにした。たんすの引出しも、すっかりきれいに整理した。階下の調理場の棚まで整理しなおし、扇風機についたはでな色のリボンを取りはらった。それがすむと、浴槽《よくそう》につかって全身を洗った。そして、ようやく朝は終った。
ビフは糸を噛《か》み切り、服の袖《そで》に巻いた黒い喪章の皺《しわ》を伸ばした。そろそろルシールが待っているところだった。ルシールとベイビーと彼の三人で、葬儀車に乗ることになっていたのだ。彼は裁縫箱を片づけ、喪章のついた服に注意深く手を通した。そしてふたたび外へ出るに先立ち、万事手落ちがないことを確かめるように、すばやく部屋の中を見まわした。
一時間後、彼はルシールの台所にすわっていた。脚を組み、ナプキンを腿《もも》の上にのせ、紅茶を飲んでいた。ルシールとアリスはすべての点であまりにも違っていたため、姉妹であることが逆にすぐわかった。やせた髪の黒いルシールだったが、きょうは上から下まで黒ずくめだった。彼女はベイビーの髪をととのえてやっていた。小さなベイビーは膝《ひざ》の上で両手を組み、母親に髪をよくしてもらいながら、台所のテーブルの上でおとなしく待っていた。やわらかく穏やかな陽光が部屋にあふれていた。
「ねえ、バーソロミュー――」とルシールが言った。
「何だい?」
「むかしのことを考えることはない?」
「ないね」とビフは答えた。
「なんだかあたしなんか、わき見をしたりむかしのことを考えたりしないように、年じゅう目隠しをされてるみたいだわ。あたしに考えるのが許されてるのは、毎日働きに行くことと、食事の支度をすることと、ベイビーの将来のことだけよ」
「それだけでいいんだ」
「いままではこの子に、店で指ウエーブをかけてやってたんだけど、すぐとれてしまうでしょ、だからこんどはパーマをかけてやろうと思ってるの。あたしが自分でやってやるのもたいへんだから――美容師の大会に行くときアトランタまでつれてって、あちらでかけさせてやろうと思うの」
「たまげたな! まだ四つの子じゃないか。きっとこわがるのが関の山だ。それに、パーマをかけすぎちゃ、髪の毛がごわごわになっちまうよ」
ルシールは水を入れたコップの中へ櫛《くし》をつけ、それでベイビーの耳の上のカールをなでつけた。
「そんなことはないわ。それに、この子もかけてもらいたがってるし。まだ小さいけど、あたしに負けないくらいたいへんな野心家。ほんと、たいへんな子よ」
ビフは手のひらで爪《つめ》を磨きながら、首を振った。
「いっしょに映画を見に行くでしょ、そいでいい役をもらってやってる子役を見ると、あたしと同じことを考えるらしいの。ほんとよ、バーソロミュー。あとでお夕食も食べないくらい」
「まったく驚いたな」とビフ。
「ダンスや発音のお稽古《けいこ》もとてもよくやってるの。来年はピアノでもやらせてみるつもり。ちょっとでもピアノが弾《ひ》けたら役に立つと思うし。ダンスの先生は、こんど夜会でソロをやらせてくださるって。母親のほうでも、できるだけあと押ししてやらなきゃと思うの。スターとして世に出るのは、早ければ早いほどお互いにいいことですもの」
「まったくたまげたな!」
「あなたにはわからないのよ。才能のある子どもはね、ふつうの子たちのように扱うわけにゆかないの。一つにはそれだから、ベイビーをこの俗っぽい環境からつれ出したいの。ここいらあたりのがき大将みたいな卑しい言葉づかいをされたり、あばれまわりようはしてもらいたくないの」
「おれもこの近所の子どもたちは知ってるが、みんないい子だよ。通り向うのケリーさんとこの子たちだって――クレインさんとこの坊やだって……」
「だけど、うちのベイビーにかなう子はひとりもいないのはよく知ってるはずだわ」
ルシールは、ベイビーの髪に最後のウエーブをこしらえた。そして頬にもうすこし赤味をつけるためか、小さな頬をつねり上げ、やっとテーブルからかかえおろした。きょうの葬儀のため、ベイビーはかわいいまっ白な服を着せられ、靴も靴下も小さな手袋まで白ずくめだった。人に見られているとき、ベイビーには妙に首をかしげる癖があり、いまもそんなふうに首を曲げていた。
三人は黙ったまま、狭くて暑い台所にしばらくすわっていた。やがてルシールは泣きだした。
「なにもあたしたち、姉妹《きょうだい》として特に親密だったわけでもないわ。いろいろ性格やなんかも違ったし、あまりお互い顔を合わすこともなかったし。あたしが年下すぎたからでしょうけど。でも肉親にはやっぱり何かあるのね、それでこんなようなことが起ると――」
ビフは慰めるように軽く舌打ちした。
「おふたりのあいだがどうだったかは知ってるわ。そりゃ、楽しいいいことばかりじゃなかったようだけど。いまになってみると、きっとそういうことがいっそうつらいでしょうね」
ビフはベイビーを脇《わき》の下からかかえ上げ、自分の肩にのせた。以前よりもだいぶ重くなっていた。注意深く肩にのせたまま、彼は居間にはいって行った。肩にしっかりしがみついているので暖かい。小さな絹地のスカートが、彼の黒っぽい上着を背景にまっ白い。ベイビーは小さな手で、彼の片耳をしっかりとつかんでいた。
「ビフおじちゃん! スプリットってすわり方すんの見てて」
ビフはそっと彼女をおろしてやった。少女は頭の上に両腕で輪を作ると、ワックスをかけた黄色い床の上で、両足をゆっくり反対方向へすべらせた。たちまち少女は、片脚をまっすぐ前に、もう片方をうしろへ伸ばしてすわっていた。そして両腕を気どった角度に曲げたまま、悲しげな表情で壁のほうを向き、ポーズをとった。
ベイビーはそそくさと起き上がった。「こんどはとんぼ返りをみて。こんどはとんぼ……」
「もすこし静かにおし」と言って、ルシールはビフと並んでフラシテンのソファに腰をかけた。
「この子を見てると、あの人のこと思い出さない?――目だとか顔の作りが」
「いや、ぜんぜん。ベイビーとルロイ・ウィルソンじゃまるで似てないよ」
ルシールは齢《とし》のわりにはあまりにもやせ、やつれて見えた。黒い喪服のせいもあり、泣いていたせいもあったかもしれない。「でも、ベイビーの父親はあの人ですもの」
「あの男のことを忘れられないのかい?」
「どうだか。あたしって、前から二つのことにはだらしがないの。ルロイとベイビーの二つには」
新しく伸びかけたひげが、ビフの青白い顔に青く浮き、彼の声はいかにも疲れきっていた。「一つのことをつきつめて考えて、何が起ったか、その結果がどうなるかまで見さだめるってことはやってみないのかい? 理づめで物を考えてみることはないのかい?――これこれの事実があれば、結果はこうなるはずだ、というような」
「あの人に関してはだめね」
ビフは疲れはてたような声で話し、目はほとんど閉じていた。「おまえは十七の齢であの男と結婚した。ところが、その後はもめごとの連続だった。とうとうおまえは男を離婚した。ところが二年後、また同じ男と|より《ヽヽ》を戻した。そしていま、男は家を飛び出してしまい、どこにいるのかまるでわからない。こういう事実はただ一つのことを示している――おまえたちふたりは相性が悪いってことだ。それも個人的な問題は別にしてだ――どうせああいう男はろくなもんじゃないが」
「あたしには最初っからわかってたの、あの男がろくでなしだってことは。もう二度とこの家の玄関を叩《たた》いてもらいたくないって気持」
「そうら、ベイビー」と、ビフはあわてて言った。指先を組み合せ、両手をさし上げてみせている。「これは教会、これは教会の塔だよ。戸をあけると、そら神さまの信者でいっぱい」
ルシールはかぶりを振った。「ベイビーのことは心配してくれなくていいの。何でも話してあるから。あたしたち夫婦のごたごたも、一から十まで知ってるの」
「そいじゃ、もしあの男が戻って来たら、ここにいさせて好きなだけたからせてやるつもりなのかい?――また前みたいに」
「そう。たぶんそうね。玄関のベルや電話が鳴ったりするたび、だれかがポーチへやって来るたびに、あたしの心の奥にある何かがあの男のことを考えさせてしまうの」
ビフは両手をひろげてみせた。「そうら」
時計が二時を打った。部屋はむっとして暑い。ベイビーはまたとんぼ返りをし、もう一度ワックスのかかった床の上へ、脚を開いてすわってみせた。ビフは彼女をかかえ上げ、膝《ひざ》にのせた。小さな両足が彼の脛《すね》にぶつかる。ベイビーは彼のチョッキのボタンをはずし、胸に顔を埋めてきた。
「ねえ、あたしが質問をしたら、ほんとうのことを答えてもらえるかしら?」とルシールが言った。
「ああ」
「たとえばどんなことでも?」
ビフはベイビーのやわらかな金髪に手をふれ、小さな頭の横にそっと手を置いた。「ああ、もちろん」
「七年くらい前のことなの。あたしたちが一回目の結婚をして、まもなくのことだったわ。ある晩、あの人はあなたのお店から、顔じゅうこぶだらけにして帰って来て言うの。あなたに襟首《えりくび》をつかまれて壁に顔をぶつけられたって。なぜそんな目に会ったのか言いわけを言っていたけど、あたしほんとのわけを聞かせてほしいの」
ビフは指にはまった結婚指輪をまわしていた。「もともとルロイのやつは好かなかったんで、けんかになったんだ。あのころは、おれもいまとは違っとったからな」
「そうじゃないの。あれには何かはっきりしたわけがあったはずだわ。お互いに長いおつきあいですもの、あなたのすることには、どんなことにも十分な理由があるってことがわかってるの。あなたの心は、欲求でなく理屈で動くんだから。さあ、どんなわけがあったのか話すって約束だったでしょ、ぜひ知りたいの」
「いまさら聞いたってしかたないだろう」
「どうしても知りたいの」
「よし、わかった。やつはあの晩店へやって来て飲みはじめた。そして酔っぱらうと、おまえのことをぼろくそにけなしはじめたんだ。家に帰るのは月に一度ぐらいだとか、女房のことをいやというほど殴《なぐ》りつけてやるが、おまえはおとなしく殴られてるとか。殴られたあとおまえは廊下へ出て二、三回大声で笑うんで、アパートの住人は、夫婦でふざけ合っていて冗談だったのかと思うって話だ。そういうことがあったんだ。さあ、もう忘れてしまうことだ」
ルシールはまっすぐにすわりなおした。両頬が赤く染まっている。「わかるでしょ、バーソロミュー、だからあたし、年じゅう目隠しされた馬みたいでいなきゃならないのよ。すぎたことやほかのことを考えたりしないようにね。あたしが考えてもいいのは、毎日働きに出ることと、三度の食事の支度をすることと、それからベイビーの将来のことだけ」
「うむ」
「あなたもそうするといいのよ――すぎたことは考えたりしないこと」
ビフは胸もとまで首をうなだれ、目を閉じた。長い一日のあいだじゅう、アリスのことを考えることができずにいたのだ。アリスの顔を思い出そうとしてみたが、妙に心はうつろだった。たった一つはっきりと心に焼きついているのは、彼女の足だった――ずんぐりとした、とてもやわらかな白い足で、ふっくらした小さな指がついていた。足の裏は桜色で、左の踵《かかと》の近くには小さな茶色のほくろがあった。結婚の夜、ビフは彼女の靴をぬがせ、靴下をぬがせ、あの足に口づけた。しかし考えてみると、それも十分意味のあることだった――ニッポン人は、女性の身体《からだ》の中で足がいちばんすばらしいと信じているそうだからだ……
ビフは身動きし、時計をちらと見やった。もうまもなく、葬儀の行われる教会へ出かけねばならない。胸の中で、彼は葬儀の段どりをひととおりさらってみた。教会へ――ルシールとベイビーとともに、霊柩車《れいきゅうしゃ》のうしろにしたがい、葬送の速さで行く車――九月の日射《ひざ》しの中に、首をうなだれ立っている人びと。白い墓石に、しおれた花束に、新しく掘られた墓の上に張られた天幕に、そそぎかかる太陽。そしてふたたびわが家へ――そして何が待ち受けているのか?
「どんなにけんかをしたって、血をわけたきょうだいには何かあるわ」とルシールが言った。
ビフは顔を上げた。「再婚でもしたらどうだね? おまえとベイビーを大事にしてくれる、初婚の若いいい男でも見つけて。ルロイのことさえ忘れてしまえば、りっぱな男性のいい女房になれるだろう」
ルシールは返事に手間どっていたが、やがてやっとのことで答えた――「あたしたちの夫婦仲はご存じでしょ――だいたいいつもよく理解し合っていて、波風も立たなかったわ。も一度結婚するにしても、あれくらいしっくりした相手でないと」
「それはそうだ」
三十分ばかりすると、戸口にノックが聞えた。葬儀に向う車が、家の前まで来ていた。ビフとルシールはゆっくり立ち上がった。白い絹服を着たベイビーをすこし先に、三人は厳粛な外の静けさの中へ出た。
翌日も、ビフはレストランをしめていた。夕刻になると、しおれた百合の花輪を入口から取りはずし、商売をはじめるため店をあけた。古くからの客たちは悲しげな顔つきではいって来て、食事の注文をする前に何分か、レジの前でビフと言葉をかわした。いつもの面々がそろっていた――シンガー、ブラウント、それに通りに面した店や川ぶちの工場で働いているさまざまな男たち。夕食後ミック・ケリーが弟をつれて姿を現わし、パチンコ機械に五セント玉を一枚入れた。最初の一枚をすってしまうと、ミックは両手の拳《こぶし》でパチンコ台をどんどん叩き、何も出て来なかったことを確かめようとするように、受け口を何度もあけてみた。ついでにもう一枚を入れると、今度は大当りに近かった。小銭がジャラジャラ飛び出し、床の上をころがった。少女と弟は、自分たちの拾う前に、ほかの客が小銭の上に足でものせてしまわぬよう、油断なくあたりを見まわしながら拾い集めにかかった。唖《おし》は夕食を前に置き、レストランのまん中のテーブルにすわっていた。その向い側には、日曜の晴着を着たジェイク・ブラウントがすわり、ビールを飲みながらしゃべっている。何一つこれまでと変ったところはなかった。しばらくすると、空気はタバコの煙に灰色になり、騒音もひときわ大きくなった。ビフは気を配って見守り、どんな物音もどんな動きものがさなかった。
「おれはあちこち歩きまわるんだ」と言って、ブラウントは勢いこんでテーブルごしに乗り出し、じっと唖の顔を見つめた。「あちこち歩きまわって、みんなに言って聞かせようとする。ところがやつらは笑うだけだ。おれには何一つわからせることができない。何を話そうと、おれにはどうも真理を悟らせることができないようなんだ」
シンガーはうなずき、ナプキンで口をふいた。食べようとして下を向くことができないので、夕食は冷たくなってしまっていた。だが礼儀正しい彼は、ブラウントに話しつづけさせた。
パチンコ台にとりついたふたりの子どもの声は、男たちのがさつな声を背景に、はっきり甲高く聞えた。ミックは、五セント玉をまた機械に順に入れていた。たびたびまん中のテーブルを振返って見るが、背を向けてすわっている唖には見えなかった。
「シンガーさんたら鶏《とり》の空揚《からあ》げをとったくせに、まだ一切れもたべてないよ」と少年は言った。
ミックは、パチンコ機械のハンドルをゆっくりと引っぱった。「よけいなこと言わないの」
「だって姉さんたら、いつもシンガーさんの部屋やなんか、あの人のいるってわかってるとこばかし行くじゃないか」
「おだまりって言ってんの」
「姉さんこそうるさいや」
ミックは歯がガタガタいうほど弟をこづき、戸口のほうに向かせた。「うちへ帰って寝といで。おまえとラルフの世話は、昼間だけでたくさんて言っただろ。夜までぺったりひっついててほしくないの。夜くらい自由にしといてよ」
ババーはきたならしい小さな手をさし出した。「なら、五セントおくれよ」五セント玉をもらってワイシャツのポケットに入れると、彼は家へ帰って行った。
ビフは服の皺《しわ》を伸ばし、髪をうしろへなでつけた。ネクタイはまっ黒で、灰色の背広の袖《そで》には喪章が縫いつけてあった。パチンコ台のところへ行きミックと話したかったが、何かが彼を思いとどまらせた。彼は強く息を吸いこみ、コップに一杯の水を飲んだ。舞踏曲の管弦楽がラジオではじまったが、聞く気はしなかった。ここ十年ばかりの曲は、どれを聞いてもみな同じで、どれがどれだか彼には区別がつかなかった。一九二八年以来、音楽を楽しんだことはなかった。しかし、彼も若いころにはマンドリンを弾《ひ》き、流行歌は一つ残らず歌詞もメロディーも知っていたものだ。
ビフは鼻のわきに指を当てがい、首をかしげた。去年一年でミックはすっかり大きくなってしまった。いずれすぐ、ビフより背が高くなるだろう。学校がはじまって以来毎日着ている赤いセーターを着こみ、プリーツのはいった青いスカートをはいているが、すでにプリーツもとれ、つき出てとがった膝小僧のあたりに裾《すそ》をだらしなく引きずっている。女の子というより、背丈《せたけ》の伸びすぎた男の子のようにも見える年ごろだった。それにしても、きわめて賢明な人びとまでが、たいていこの点を見のがしているのはどういうわけだろう? もともと、すべての人間は両性をそなえているのだ。したがって、結婚やベッドがけっしてすべてではないのだ。証拠? 青年と老年を考えてみるがよい。老いた男の声はしばしば甲高く細くなり、気どった女のような歩き方をするではないか。また老いた女は肥満し、太く荒い声となり、黒い小さなひげが生《は》えてきたりするではないか。ビフ自身がそれを証明していた――ときどき心の一部では、自分がミックやベイビーの母親だったらよかったと思うことがあったからだ。とつぜん、ビフはレジのほうに背を向けた。
新聞はとり散らかっていた。ここ二週間、一枚も綴《と》じこんでいなかったからだ。彼はカウンターの下から新聞の山を持ち上げた。馴《な》れた目で、彼は新聞のいちばん上の欄から下までを眺《なが》めた。あしたは、奥の部屋に積んである新聞の山を調べ、綴じこみの方法を変えることを考えてみよう。棚《たな》を作り、罐詰《かんづめ》を送ってきた頑丈《がんじょう》な箱を引出しに使うとにしよう。一九一八年十月二十七日から現在まで、年代順に並べるのだ。書類|挟《ばさ》みを使い、歴史的出来事の概略を書いた見出しをつけるとしよう。概略は三部とし、第一部は第一次大戦休戦の日にはじまりミュンヘン条約にいたるまでの国際問題、第二部は国内問題、第三部ではレスター市長がカントリークラブで妻を射殺したときからハドソン工場の火事まで、地元の情報を網羅《もうら》するのだ。過去二十年間の出来事は何もかも、概要をつけあますところなく記入されるのだ。ビフは顎《あご》をなでながら、手のかげでひそかににやりとした。だがアリスは、ここを婦人用便所に改造したいから新聞を引きずり出してくれ、と言っていた。やいやいうるさく言っていたが、あのときばかりははねつけてしまった。あのとき一度だけだった。
ビフは落着いて、目の前の新聞をくわしく読みにかかった。夢中になって読みふけってはいたが、いわば彼の別の部分は、習慣からまわりの出来事に注意を配っていた。ジェイク・ブラウントはまだしゃべりつづけ、しきりに拳《こぶし》でテーブルを叩いている。唖はビールを飲んでいる。ミックはラジオのまわりをそわそわ歩きまわり、客たちを見つめている。ビフは一枚目の新聞を一字残らず読み終え、余白に心覚えを書きとめた。
と、とつぜん、彼は驚いた表情で顔を上げた。あくびをしかけて開いた口も、ぴたりと閉じてしまった。彼とアリスの婚約時代にはやった古い歌が、ラジオから流れ出たのだ――『夕暮れの子どものねがい』ある日曜日、ふたりは市電でオールド・サーディス湖まで行き、ボートを借りた。日が沈み、彼がマンドリンを奏《かな》でるとアリスはうたった。アリスはセーラー帽をかぶっていた。彼が腰に手をまわすと、彼女は……アリスは……
遠い日の思いをたぐり寄せる曳《ひ》き網《あみ》。ビフは新聞を折りたたみ、カウンターの下にしまいこんだ。片足ずつ重心を移しかえて立っていたが、そのうち意を決したように、部屋の向う隅《すみ》にいるミックに呼びかけた。「聞いてないんだろ、ええ?」
ミックはラジオを消した。「うん。今夜は何もやってないもの」
思い出はみな忘れ去ることだ。何かほかのことに心を集中するのだ。ビフはカウンターに寄りかかり、客の顔をひとりひとり見つめた。ようやく最後に、彼の視線はまん中のテーブルにすわった唖にとまった。ミックがにじり寄るように彼のそばへ近づき、彼のすすめですわるのが見えた。シンガーがメニューにのった何かを指さすと、ウェイトレスはミックにコカ・コーラを持って来た。世間から切り離された唖でつんぼの不具者でもないかぎり、男同士で飲んでいるテーブルへ、若い小娘をすわれとすすめることはあるまい。ブラウントとミックは、ふたりともシンガーから目を離さない。ふたりが話をはじめると、じっと見つめる唖の表情が変った。おかしなことだった。その理由は――ふたりのほうにあったのだろうか、それとも唖にあったのだろうか? 両手をポケットに入れたまま、彼は身動きもせずにすわっている。口をきかないために、ひときわすぐれた人間のように見えた。いったい何を考え、何を理解しているのだろう? いったい何を知っているのだろう?
その晩、ビフは二度ばかりまん中のテーブルへ行こうとしかけたが、そのたびに思いとどまった。彼らが立ち去ったあとも、ビフはまだあの唖はどうしたのだろうと考えていた――そしてまだ夜の明けぬうちから、ベッドに横になったまま心の中でその問いをくり返したが、満足な解答は得られなかった。謎《なぞ》は彼の中に根をおろしてしまった。それは心の奥底にひっかかり、彼を不安な気持にさせた。何かがまちがっているのだ。
コープランド医師は、何度もシンガーさんと話をした。たしかに、ほかの白人とは違っていた。博識な人で、ほかの白人にはとうていできないようなやり方で、力強い真の目的をわかってくれた。じっと聞き入るその顔には、何かやさしいユダヤ的なもの、圧迫された民族に特有の理解があった。一度彼は、シンガーさんをいつもの往診につれて行ったことがあった。汚物や病気や揚げた魚の臭《にお》いのする、冷たく暗い露地を案内したのだ。ひどい火傷《やけど》を負った婦人患者の顔に施して成功した、植皮手術のあとも見せた。梅毒にかかった子どもを治療し、手のひらにできた鱗《うろこ》のような湿疹《しっしん》や、鈍くにごった目や、ねじ曲った上側の門歯を見せたりもした。十二人から十四人もの家族のはいった、二部屋の小屋を訪《たず》ねたりもした。暖炉でオレンジ色の火がとろく燃えている部屋では、肺炎で息もたえだえの老人を、だれもどうにもできないでいた。シンガーさんは彼のあとについて歩き、じっと見守り、すべてを理解した。子どもたちには五セント玉を与え、そのもの静かさと礼儀正しい態度のため、他の訪問客のように病人のさまたげにはならなかった。
冷えびえとした、変りやすい空模様の日々がつづいた。町では流感がはやり、コープランド医師は昼も夜も忙しさに追われた。もう九年も使っている屋根の高いダッジに乗り、町の黒人地区を走りまわった。隙間風《すきまかぜ》のはいるのをふせぐため、車の窓には雲母《うんも》の仕切り板をとめ、首のまわりにはグレーの毛のショールを巻きつけた。このところ、ポーシャやウィリーやハイボーイには会っていなかったが、彼らのことを思い出すことは多かった。一度、彼の留守のあいだにポーシャがやって来て、置き手紙を残し、とうもろこし粉を袋に半分借りていったことがあった。
ある晩、あまりにも疲れきってしまった彼は、まだ何軒か往診が残っていたが、熱いミルクを飲んで床についてしまった。寒けがして熱っぽく、最初はどうしても寝つけなかった。やがてようやくうとうとしかけたかと思うと、彼を呼ぶ声が聞える。彼は疲れた身体《からだ》を起し、長いフランネルの夜着のまま玄関をあけた。ポーシャだった。
「えらいことになっちまったよ、とうさん」
コープランド医師は、夜着を腰のまわりにしっかり巻きつけ、ふるえながら立っていた。片手を喉《のど》もとにあてがい、ポーシャを見つめながら、つぎの言葉を待った。
「うちのウィリーのことだけど。しょうがねえったら、えらい厄介なことしちもうただよ。あたいらでなんとかしてやんなきゃ」
コープランド医師は、重々しい足どりで玄関から寝室へ行き、部屋着と肩かけと部屋ばきを取って台所へ戻った。ポーシャは台所で待っていた。台所は冷えびえとして生気がなかった。
「うん、それで。何をしたというんだね? どんな話なんだ?」
「ちいと待ってよ。ちと待ってもらわんと、よう考えてはっきり話すこともでけんわ」
医師は暖炉に置いてあった新聞紙を何枚か丸め、つけ木を取り上げた。
「火ならあたいが起すわ。とうさんはそこにすわっててくれりゃええの。ストーブが熱うなったら、コーヒーを入れるわ。そうすりゃ、いくらか元気も出るやろうし」
「コーヒーはもうないんだ。きのう残っていたのをみんな使ってしもうた」
医師がこう言うと、ポーシャは泣きだした。彼女は紙と薪《まき》を荒々しくストーブの中へつっこむと、ふるえる手つきで火をつけた。「事件てのはさ、ウィリーとハイボーイのふたりが、こんばん用もないとこをほっつき歩いとったん。あたいがあのふたりをいつも手もとにおいときたい気持は、とうさんもわかってくれるやろ? ほんとにあたいさえいりゃ、こんなことにならなんだやろうけど。あたいは教会の婦人会に行ってたんよ、そしたらあのふたりは退屈しちもうてさ。マダム・リーバの≪悦楽御殿≫へ行っちもうたってわけ。あすこはさ、とうさん、悪所も悪所、とんでもねえとこなんだよ。賭《か》け札《ふだ》を売る男もいりゃ、気どった、尻《しり》を振って歩くいやらしいニグロ女もおるし、赤い繻子《しゅす》のカーテンなんかがかかっとって……」
「わかった、わかった」と、コープランド医師はいらだたしそうに言って、こめかみを両手でおさえた。「その場所はわしも知っとる。で、要するにどうだったんだ?」
「ラヴ・ジョーンズがそこにいたんだよ――身持ちの悪いニグロ女でさ。そんでウィリーは酒飲んで、あの女と踊ってるうち、気がついたらけんかをやらかしとったってわけ。ジューンバッグて名の男とさ――ラヴを張りあって。しばらくは拳固《げんこ》で殴りあっとったけど、そのうちジューンバッグのやつが短刀《どす》を取出してさ。ウィリーは|どす《ヽヽ》なんか持ってねえもんだから、大声でわめきながら部屋の中を逃げまわったん。そのうちとうと、ハイボーイが剃刀《かみそり》を捜してきてウィリーに加勢してさ、もちっとでジューンバッグの首を切り落すとこだったての」
コープランド医師は肩かけをかき寄せた。「相手は死んだのか?」
「あんないやらしいやつが死ぬもんか。病院にはいっとるけど、どうせそのうちまた出て来てわるさするにきまっとるわ」
「それでウィリーは?」
「警察がやって来て、犯人護送車にのっけて留置場へつれてっちもうたわ。まだ入れられたまんまだよ」
「それで、けがはしなかったのか?」
「うん、目んとこ殴られて、お尻をちっとばかし切られたけど。でも、そんなんでへこたれる子じゃねえもん。あたいにわからんのは、なんであの子が、ラヴみたいな女とふざける気になったかってこと。なにしろあたいなんかより、十倍もまっ黒けだし、あんな不器量なニグロって見たことねえくらい。歩き方ときたら、脚《あし》のあいだに卵でもはさんで、こわさずに歩こうとするみたいでさ。それに、身ぎれいってんでもねえんだよ。だのに、ウィリーときた日にゃ、そんな女のことであんな男を切っちまうんだもんな」
コープランド医師は、ストーブに近くかがみこみ、うめき声をもらした。咳《せ》きこみ、顔がこわばった。紙のハンカチを口に当てがうと、ハンカチは血の斑点《はんてん》に染まった。黒い顔色が、緑がかった蒼白《あおじろ》さに変っている。
「もちろん、ハイボーイがすぐすっとんで来て報告してくれたん。よくって、あたいのハイボーイはさ、ああいう悪い女どもとは何のかかりあいもなかったんよ。あの人はウィリーのおつき合いをしとっただけ。ウィリーのことが心配で、留置場の前の道ばたにまだずっとすわりっきりだわ」炎の色を映した涙が、ポーシャの頬《ほお》を伝って落ちた。「あたいら三人がどない仲よく暮してきたか、とうさんも知っとるやろ。あたいらにはあたいらのやり方があってさ、これまでうまくゆかなんだことなんかなかったんよ。お金のことで困ったことさえなかったってのに。ハイボーイが間代を出す、あたいが食べ物を買う――そんで土曜の夜の計画はウィリーって、きまっとったん。あたいら、ずっと三つ子みたいにやってきたってのに」
とうとう朝になってしまった。工場の汽笛が、第一回目の勤務交代を告げた。陽《ひ》がのぼり、料理ストーブの上の壁にかかったきれいな鍋《なべ》をまばゆく照らし出した。ふたりは長いあいだすわりつづけていた。ポーシャは耳飾りを引っぱりつづけ、しまいには耳たぶがただれ、赤紫色になってしまった。コープランド医師は、まだ両手で頭をかかえていた。
「あたい思うんだけど」と、ポーシャはやっとのことで言った――「もしたくさんの白人に頼んで、ウィリー弁護の手紙を書いてもろうたら、いくらか力になるんじゃねえかって。もうブラノンさんには会って来たの。あたいの頼んだとおりの手紙を書いてくだすったわ。あの事件のあったあと、いつもみたい店におったから。だからあたい店へはいってって、事件の説明をしたん。手紙はうちへ持って帰ったわ。なくしたりきたなくしたりせんよう、聖書のあいだへはさんであんの」
「手紙にはどう書いてあるんだ?」
「ブラノンさん、あたいの頼んだとおり書いてくだすったん。ウィリーがもう三年も、ブラノンさんとこで働いていることや、ウィリーがりっぱな、まっ正直なニグロ少年で、これまで面倒を起したことは一度もねえってことや、ほかのニグロと違うて、店の物をとろうと思やいくらもその機会はあったのにとらなんだってことや、そいから……」
「あきれたもんだ! そんなものが役に立つもんか」
「だけど、ただじっとすわって待ってなんかいられんもん。ウィリーが留置場につながれてるってのに。今夜はよくねえことしてくれたけど、あんないい子のウィリーがさ。ただじっとすわって待ってなんかいられんもん」
「待つよりしかたがない。わしらにできるのはそれだけだ」
「ううん、あたいはそんなことできん」
ポーシャは椅子から立ち上がった。何かを捜しているように、ぼんやり部屋の中を見まわしている。と、とつぜん、彼女は玄関のほうへ行きかけた。
「ちょっとお待ち。どこへ行こうというんだ?」
「働かなきゃならんもん。お払い箱になっちもうたら困るもん。ケリーさんとこにいて、毎週お給金をいただかなきゃ」
「わしは留置場へ行ってこようと思う。たぶんウィリーに会えるだろう」
「あたいも、勤めに行く途中で寄ってみる。ハイボーイも勤めにやんなきゃならんし――でなきゃあの人、ウィリーのこと心配して、昼まででもあすこにすわってっかもしんない」
コープランド医師はいそいで服に着がえ、玄関で待っているポーシャといっしょに、青く晴れたひんやりとする秋の朝の中へ出た。留置場の係官はみな不親切で、ほとんど何もきき出せなかった。コープランド医師は、以前に交渉のあった弁護士のところへ相談に行った。それからの毎日は長く、心労に満ちていた。三週目の終りになって、ウィリーの公判が開かれ、凶器による暴行の罪で有罪となった。九カ月の重労働が宣告され、ウィリーはただちに、州の北にある刑務所へ送られた。
力強い真の目的はいまもなお胸にあったが、コープランド医師にはそれを考えているひまがなかった。患家《かんか》から患家を往診してまわり、仕事にきりはなかった。朝早くから車で出かけ、十一時には患者たちが診察室につめかけていた。身にしみる秋の戸外の空気を吸ったあと、家に帰るとむっとするよどんだ臭《にお》いが待っていて、彼を咳きこませた。玄関の間に並べたベンチは、いつも診療を待つ忍耐強いニグロの病人でふさがり、ときにはポーチや寝室まで、患者でいっぱいになることもあった。昼間は一日、そして夜もしばしば仕事は夜半までつづいた。あまりの疲労に、ときには床の上に倒れ、拳《こぶし》を叩《たた》きつけ泣き叫びたくなることもあった。休息さえとれれば、身体もよくなるだろう。彼は肺結核にかかっており、日に四回熱を計り、月に一度はレントゲン写真を撮《と》っていた。しかし、どうしても休んでいることはできなかった。疲労よりも大きいものがあったからだ――それは強い真の決意だった。
昼から夜にかけての長い一日の仕事のあと、彼はこの決意のことを考えるのだが、すっかり気抜けしたようになり、一瞬どんな決意だったか思い出せないこともあった。やがてまた思い出すと、彼は新しい仕事に取組む意欲に燃え、落着かぬ気持を覚えた。しかし言葉はしばしば口の中で引っかかり、声もしわがれて、むかしのような大声は出なかった。彼は同胞であるニグロたちの、忍耐強い病みほうけた顔に向って言葉を押し出した。
彼はよくシンガーさんに話しかけた。シンガーさんに化学の話や、宇宙の謎《なぞ》について話をした。極微の精子と成熟した卵子の分裂について、細胞の複雑な百万倍もの分割について、生物体の神秘と死の単純さについて、あるいはまた、人種について語りつづけた。
「わたしの同胞は大平原や、暗い緑のジャングルからつれてこられたんです」と、彼はシンガーさんに言ったことがあった。「鎖につながれ、長い道のりを海岸までつれてこられるあいだに、何千何万という数が死にました。強いものだけが生き残ったのです。そしてアメリカへつれてこられるきたない船の中でも、鎖につながれたままさらに死にました。意志の強い、強壮なニグロだけが生きのびられました。叩かれ、鎖をかけられ、せりにかけて売られして、その強い連中の中でもいちばん弱いのは、またしても死んでゆきました。そして苦しい年月の末、わたしの同胞のいちばん強かったのが、いまもまだ生きているんです。その息子《むすこ》や娘や、孫やひ孫が」
「ちっと借りたいもんと、おねがいがあって来たの」とポーシャが言った。
ポーシャが玄関の間を通り戸口へ立ってこう言ったとき、コープランド医師は台所にひとりきりだった。ウィリーが州刑務所へ送られてから二週間がたっていた。ポーシャはすっかり変ってしまっていた。髪に油っ気はなく、櫛《くし》でとかしたあともなく、強い酒でも飲んだように目が血走っている。頬もこけ、悲しげな蜂蜜色《はちみついろ》の顔をしたところは、死んだ母親に生き写しだった。
「とうさんとこに、白い上等なお皿と茶碗《ちゃわん》があったね」
「おまえにやるから、持ってって使っとりゃいい」
「ううん、借りるだけでええの。そいから、一つおねがいもあんの」
「ああ、何でも言いなさい」と、コープランド医師は答えた。
ポーシャはテーブルをはさんで、父親と向い合せにすわった。「まず説明からしとくわ。きのうじいちゃんとこから手紙が来て、あしたみんなで出て来て、あしたの晩から日曜まであたいんとこに泊ってくって。みんなウィリーのことじゃえろう心配してて、じいちゃんはみんなしてまたいっしょに暮したらええだろうって。ほんと、そのとおりだわ。あたいも身内のみんなに会いたいし。あたい、ウィリーがいなくなってから、えろううちが恋しゅうてならんの」
「皿でも何でも、その辺にあるものは何でも持ってお行き。だけどおまえ、もっと肩を張らにゃいかんな。姿勢が悪いぞ」
「ほんとの一族再会になるわ。だってさ、じいちゃんが町へ出て来て泊るいうのは、もう二十年ぶりのこったもん。なにしろ一生に二度しか、外で泊ったことのねえ人だもん。なんせ寝つきの悪い人でさ。夜中じゅう水を飲みに起きてったり、子どもがちゃんとふとんをかけてっか見てまわったり。せっかくうちへ来てもろうても、居心地《いごこち》ええかどうか、ちょっぴり心配だわ」
「わしのとこにあるもので、必要なものがあったら何でも……」
「もちろん、町まではリー・ジャクソンが運んで来るはずやけど。リー・ジャクソンじゃ、ここまで来んのに一日かかるかもしんない。夕飯どきくらいまで着きっこねえわ。どうせじいちゃんはリー・ジャクソンに甘いから、ちっとだっていそがすことはせんだろうし」
「驚いたな! あのおいぼれ馬がまだ生きとるのか? もう十八歳にはなっとるだろうに」
「もっとになるかもしんない。じいちゃんはもう二十年からあの馬を使うとるもん。あんまし長いあいだ使うとるもんで、身内みたいなもんだちゅうて。まるで自分の孫みたいにようわかってかわいがっとるわ。じいちゃんくらい動物の考えてることのようわかる人間て、見たことないわ。歩いたり食べたりするもんは、何でも仲間みたいな気になっちまうんだわ」
「二十年も使ったとはな」
「ほんとよ。もうあの馬もだいぶ弱ってきたけど。だけどじいちゃんはほんとよう面倒みるわ。炎天で畑をたがやすときなんか、じいちゃんと同じでっかい麦わら帽をかぶしてもろうてさ――耳の出るところだけ穴があいてんの。ほんと、おかしいったらねえけど、馬も馬でさ、野良《のら》へ行くときあの帽子をかぶっとらんと一歩も動かんの」
コープランド医師は棚《たな》から白い陶器の皿をおろし、新聞紙にくるみはじめた。「みんなの食事を作るだけの鍋《なべ》や釜《かま》はあるのかね?」
「たっぷりあるわ。どうせあたい、特別なことをするつもりはないの。それにじいちゃんは気のつく屋さんだもん――みんなで食べに来るときは、いつも何かたしになるもん持って来てくれるわ。あたいはただ、とうもろこし粉とキャベツをたっぷりと、おいしい魚を二ポンドばかし用意しときゃええの」
「そりゃけっこうだ」
ポーシャは、神経質そうな黄色い指先を組み合せた。「一つだけ、まだとうさんに話してなかったことがあんの。びっくりするやろうけど――バディもハミルトンといっしょにここへ来るんよ。バディはモービルから戻ったばかしで、いま畑の手伝いしとるって」
「カール・マルクスにはもう五年も会っとらんな」
「そんだからおねがいに来たんよ。さっき玄関へはいって来たとき、あたい、借りたいもんとおねがいがあるって言うたやろ?」
コープランド医師は指の関節を鳴らした。「ああ」
「そんで、あたい、あしたの寄り合いに、とうさんにも来てもらえんかと思うて来たん。ウィリーのほか、子どもはぜんぶ集まることになんの。とうさんにもぜひ来てもらいてえんだけど。来てもらえりゃ、あたいもどないうれしいか」
ハミルトンにカール・マルクスにポーシャ――そしてウィリー。コープランド医師は眼鏡をはずし、指先で瞼《まぶた》をおさえた。一瞬、四人の子どもたちの姿が、ずっとむかしのままの姿で彼の胸によみがえった。彼は顔を上げると、眼鏡を鼻の上へきちんとかけなおした。「ありがとう。行くとしよう」
その夜、彼はただひとり暗い部屋のストーブのそばにすわり、思い出にふけった。思い出は少年時分にさかのぼった。彼の母親は奴隷として生れ、自由の身になってからは洗濯女《せんたくおんな》をしていた。父親は、奴隷解放論者ジョン・ブラウンとも親交のあった牧師だった。両親は彼を教育し、週に二、三ドルの稼《かせ》ぎの中からたくわえをし、彼が十七になると、靴の中に八十ドルを隠して北部へ送り出した。彼は鍛冶屋《かじや》で働いたり、給仕をしたり、ホテルのボーイをしたりしながら、せっせと本を読み、勉強をし、学校へ通った。やがて父親は死に、夫に先立たれた母親も長生きはしなかった。その後十年間の苦学の末、彼は医師となったが、自分の使命を感じ、ふたたび南部へ戻って来た。
彼は結婚し、世帯《しょたい》をかまえた。家から家へ果てしない往診をつづけ、使命と真理を説いた。同胞のどうしようもない苦悩が、彼を狂気に駆りたて、荒々しく凶悪な破壊感情へと誘った。ときには強い酒を飲み、床に頭を打ちつけたりもした。彼の心には残酷なほどのはげしさがあり、あるとき暖炉の火掻《ひか》き棒《ぼう》をつかんだかと思うと、それで妻を叩《たた》きのめしてしまった。彼女はハミルトン、カール・マルクス、ウィリー、ポーシャの四人の子どもをつれて、実家へ帰ってしまった。彼は自分の気持とたたかい、邪悪な心の動きに打克《うちか》った。しかし妻のデイジーは帰らなかった。八年後、彼女が死んだとき、息子たちはもう子どもではなかったが、彼らも帰って来なかった。年老いた彼はただひとり、がらんとした家に取り残されたのだ。
翌日の午後、五時ちょうどに、彼はポーシャとハイボーイの住んでいる家に着いた。ふたりの住んでいるのは、シュガーヒルと呼ばれる町の一角で、ポーチと二部屋だけの小さな家だった。家の中からは、何人もの入りまじった声が聞えてきた。コープランド医師はこわばった足どりで近づき、みすぼらしいフェルト帽を手に戸口にたたずんだ。
部屋の中は人でいっぱいで、はじめのうち彼の姿に気づく者はなかった。彼はカール・マルクスとハミルトンの顔を捜し求めた。ふたりのそばにはじいさんと、床にすわっている子どもがふたりいた。なおも息子たちの顔を見つめていると、ポーシャが戸口に立っている父親に気づいた。
「そら、とうさんだわ」とポーシャは言った。
話し声ははたとやんだ。じいさんは椅子にすわったまま振向いた。やせて腰も曲り、皺《しわ》だらけの顔だった。三十年前、娘の結婚式に着ていたのと同じ、緑色がかった黒い服を着ている。チョッキの上には、変色した真鍮《しんちゅう》の時計鎖がさがっている。カール・マルクスとハミルトンは顔を見合せ、床に目を落し、やっと父親のほうを見た。
「ベネディクト・メイディ――ひさしぶりだったのう。ほんにひさしぶりだった」と老人は言った。
「ほんとだよ!」とポーシャ。「一族再会なんて、もう何年ぶりだか。ハイボーイ、台所から椅子を持って来て。とうさん、バディとハミルトンよ」
コープランド医師は息子たちと握手をかわした。背が高く、がっしりとした青年たちで、ぎこちなさそうにしている。青いワイシャツと仕事着から、ポーシャと同じ濃い褐色《かっしょく》の肌《はだ》がのぞいている。ふたりは父親の目をまともに見なかった。青年たちの顔には、愛も憎しみの表情もなかった。
「セーラおばさんやジムやなんか、みんなが集まれなかったのはほんとに残念だけど。でも、ほんとにすばらしいことだよ」とハイボーイが言った。
「馬車がいっぱいだったもん。おらたち、うんと歩かされちまっただよ、馬車が満員でさ」と、子どもたちの一人が言った。
じいさんはマッチ棒で耳をかいた。「だれかがうちに残らにゃなんねえしな」
ポーシャは落着かなげに、分厚く色の濃い唇をなめた。「あたいの考えてんのはウィリーのことなの。あの子はむかしから、パーティやらお祭り騒ぎやらの大好きな子だもん。あたいはどうしてもウィリーのことが忘れられんの」
部屋じゅうに、同意の低いささやきが起った。老人は椅子に寄りかかり、首をこっくりこっくりした。「なあポーシャや、ちいと何か読んでくれんかな。苦しいときにゃ、神さまのことばがいちばんじゃて」
ポーシャは、部屋のまん中のテーブルから聖書を取り上げた。「どこんとこが聞きたいの、じいちゃん?」
「どこちゅうて、ぜんぶが神さまの本じゃもんな。おまえの目のとまったとこどこでもええわ」
ポーシャはルカ伝を読んだ。長いしなやかな指先で文字をたどりながら、ゆっくりと読んでいった。部屋の中は静まりかえった。コープランド医師は指の関節を鳴らし、目をあちこちきょろきょろさせながら、みんなの端にすわっていた。とても狭い部屋で、空気はむっとするようによどんでいた。まわりの壁には、カレンダーや雑誌から切り抜いた毒々しい広告がやたらと貼《は》ってある。炉棚《ろだな》の上には、赤い紙のばらをさした花瓶《かびん》がのっている。暖炉の火はちょろちょろと燃え、石油ランプのゆらめく炎が壁の上に灯影《ほかげ》を作っている。読み手のきわめてゆったりとしたリズムに、言葉はコープランド医師の耳の中で眠りこけ、彼を夢心地《ゆめごこち》に誘った。カール・マルクスは、子どもたちと並んで床の上に寝そべっている。ハミルトンとハイボーイはうたたねをしている。ただ老人ひとりだけが、言葉の意味を噛《か》みしめているように見えた。
ポーシャはその章を読み終え、本を閉じた。
「わしはな、このことをなんべんも考えてみたがな」とじいさんは言った。
部屋じゅうの人間がうたたねからさめた。「このことって?」
「こういうことじゃ。おまえたちも、イエスさまが死者を起《た》たせ、病人をなおしたちゅうくだりは覚えとるじゃろ?」
「そりゃ覚えとります」と、ハイボーイはうやうやしく言った。
「わしはな、畑をたがやしたり仕事をしたりしながら何日も何日も、イエスさまがまたこの世へ降りてきてなさるときのことをとっくり考えてみた。何せむかしっからのねがいじゃけんのう、わしの生きとるうちにありそうな気がするんじゃ。そんでな、わしはこないな計画を立ててみた。わしは子どもらや、孫や、ひ孫や、親戚《しんせき》や、友だちみんなを引きつれて、イエスさまの前に立って言うつもりじゃ――『イエス・キリストさま、わしらは悲しい黒んぼめでござります』そしたらイエスさまは、尊いお手をわしらの頭の上へおかれる。するとな、たちまちわしらは綿みたいまっ白になっちまう。それがな、わしの胸になんべんも浮んでくる考えちゅうわけだ」
部屋じゅうが静まりかえった。コープランド医師はワイシャツの袖口《そでぐち》を引っぱり、咳《せき》ばらいをした。脈が速くなり、喉《のど》もしめつけられるようだった。部屋の隅《すみ》にすわった彼は、ひとりだけのけ者になったような気がし、腹立ちと寂しさを覚えた。
「おまえたちの中に、天からの奇蹟《きせき》のしるしを受けたもんはおるかな?」とじいさんはきいた。
「ありますよ」とハイボーイが答えた――「いつだったか、肺炎で寝とったとき、神さまの顔が暖炉の中からこっちを見てなすっただ。白いひげを生《は》やして、青い目の、でっかい白人の顔だっただ」
「おら、お化け見たど」と、子どものひとり、小さな女の子が言った。
「おれだって、いつだったか……」と、男の子も負けていない。
じいさんは手を上げて制した。「子どもらは黙っとれ。シーリアも――そいからホイットマンもな――口出しなんぞせず聞いとんなさい。わしが奇蹟のしるしを見たのは一度だけじゃが。こんなふうだったわい。去年の夏のことじゃった、暑い日でな。わしは豚小屋のそばの、でっけえ樫《かし》の根っこを掘り起こしとっただ。かがみこんだとたん、うずきちゅうか痛みが急に腰んとこにきよってな。腰をのばしたところが、まわりじゅうがまっ暗になっちもうた。背中に手をあてがって空を見上げると、そこへ急にちっちゃな天使が見えたちゅうわけだ。ちっちゃな白い女の天使でな――えんどう豆くれえの大きさに見えたが、金髪で白い服を着てな、おてんとうさまのそばを飛びまわっとった。わしはうちへ帰ってお祈りをした。それきり三日間は野良《のら》に出ねえで、夢中で聖書を読みつづけた」
コープランド医師は、またしてもかつてのいまわしい怒りを胸に感じた。脈略のない言葉が喉《のど》もとまでこみ上げてきたが、口に出すことはできなかった。老人にみな耳を貸すのだ。だが理性的な言葉には、だれも耳を傾けようとしない。こういうのが自分の身内なのだ、と自分に言い聞かせようとしたが――黙っていたのでは、この考えも何の役にも立たなかった。彼は身体《からだ》をこわばらせ、不機嫌《ふきげん》にすわっていた。
「まったく妙な話よ」と、じいさんは藪《やぶ》から棒《ぼう》に言った――「ベネディクト・メイディ、おまえはりっぱなお医者だったな。いったいどないなわけじゃろうな、ちいと土を掘ったり種をまいたりすっと、腰のあたりがひどうキリキリするちゅうのは? なんであないな痛みがあるんじゃろう?」
「いまおいくつでしたかね?」
「七十から八十のどっかあいだだったかの」
薬だの治療だの好きな老人だった。むかしは家族を引きつれデイジーに会いにやって来るたびに、きまって診察を受け、家族全員のため、内服薬だの塗り薬だのを持って帰ったものだ。しかしデイジーが里に帰って来てしまってからは、老人の足も途絶え、もっぱら新聞に広告の出ている下剤や腎臓薬《じんぞうやく》で満足していなければならなくなった。老人はいま、おずおずとした熱心な目つきで彼を見つめている。
「たくさん水を飲むんですな。そして、できるだけたくさん休息をとること」とコープランド医師は言った。
ポーシャは、夕食の支度《したく》に台所へ行った。暖かい匂いが部屋を満たしはじめた。とりとめもない静かな話し声が聞えたが、コープランド医師は聞こうとも話そうともしなかった。ときおり彼はカール・マルクスやハミルトンのほうを見やった。カール・マルクスはジョー・ルイスのことを話していた。ハミルトンはもっぱら、作物を台なしにした雹《ひょう》のことを話している。父親と視線が合うと、ふたりはにやりとし、床の上で足をがさがさいわせた。医師は、腹立たしいみじめな気持で息子たちを見つめつづけた。
彼は固く歯を食いしばった。これまでハミルトンや、カール・マルクスや、ウィリーや、ポーシャのことを考えつづけ、彼らのための強い真の決意をけんめいに考えてきただけに、こうして面と向って子どもたちの顔を見ると、暗澹《あんたん》とした気持が胸にふくれ上がってくるのだった。もし彼らにすべてを、遠いむかしの発端から今夜までのいきさつを話してやることができれば、話すことで胸のはげしいうずきも癒《いや》されただろう。だが、どのみち聞いてくれもせず、理解してくれる気づかいもなかった。
すっかり心をかたくなにしていたためか、身体じゅうの筋肉までが固くこわばった感じだった。彼は話にも耳を傾けず、まわりのものを見ようともしなかった。唖《おし》でめくらの男のように、じっと片隅にすわっていた。まもなく一同は夕食のテーブルにつき、老人が食前の祈りを捧《ささ》げた。しかし、コープランド医師は食べなかった。ハイボーイがジンの一パイント瓶《びん》を持ち出し、笑い声とともに口から口へまわし飲みをしたときも、彼は辞退した。かたくなに黙りこくったまますわっていた彼は、やがて帽子を取ると、挨拶《あいさつ》もせずにさっさと家を出た。あの真理についてすっかり話すことが許されないなら、ほかに言いたいことは何もなかったからだ。
彼はまんじりともせぬ緊張した一夜をすごした。あくる日は日曜日だった。五、六軒患家をまわってから、彼は午前のなかばごろシンガーさんの部屋を訪《たず》ねてみた。訪ねたおかげで孤独な気持も薄らぎ、別れを告げたときには、ふたたび心の安らぎを取戻していた。
ところがシンガーさんの下宿を出る前に、この安らぎは消えてしまった。予期せぬ出来事が起ったのだ。階段をおりかかったとき、大きな紙袋をかかえた白人が下からやって来たので、彼はすれ違えるよう手すりのようへ身を寄せた。ところが相手の白人は、上も見ず階段を一つおきに駆け上がって来たため、ふたりはひどい勢いでぶつかってしまい、コープランド医師は一瞬息もつけず、胸苦しさを味わった。
「いけねえ! 見えなかったぜ」
コープランド医師は、相手をじっと見つめたが返事をしなかった。前に一度見かけたことのある白人だった。いじけた感じの、けもののような身体つきや、大きなぶざまな手に見覚えがあった。ふと臨床的な興味を覚えた医師は、じっと白人の顔を観察した。その目には奇妙にすわった、内向的な狂気の表情があったからである。
「すまんかったな」と白人は言った。
コープランド医師は手すりに手をかけ、階段をおりつづけた。
「あれはだれだ? いまここから出ていった、背の高いやせたニグロは?」とジェイク・ブラウントはきいた。
小さな部屋はきちんとしていた。陽《ひ》の光が、テーブルにのった紫色のぶどうの鉢《はち》を照らしている。シンガーは両手をポケットにつっこみ、椅子を傾けてすわり、窓の外を眺《なが》めている。
「階段でぶつかったところが、じろりと見やがった――まったく、あんなやな目つきで見られたのははじめてだぜ」
ジェイクは、ビールの紙包みをテーブルの上へ置いた。彼はシンガーが、自分の来たのに気づいていないのを知ってぎくりとした。彼は窓ぎわへ歩み寄ると、シンガーの肩にふれた。
「なにもわざとぶつかったんじゃねえんだ。あんな態度を示されることはねえよな」
ジェイクは身ぶるいをした。陽はよく照っていたが、部屋の中はひんやりとした。シンガーは人差し指を立ててちょっと合図し、廊下へ出て行った。やがて、石炭入れと焚《た》きつけを持って戻って来た。ジェイクは、彼が暖炉の前にひざまずくのを見守っていた。シンガーは焚きつけを膝《ひざ》に当てて器用に折り、紙を丸めた上に並べ、その上に方式どおり石炭をのせた。最初のうち、火はなかなか燃えつかなかった。炎は弱々しくゆらぎ、黒い煙に巻かれかき消されてしまった。シンガーは火床を、二つ折りの新聞紙でおおった。風通しがよくなり、火は新しい生命を得た。ごうごうと燃える音が部屋じゅうにあふれた。新聞紙は赤く輝き、奥のほうへ吸いこまれた。パチパチはねるオレンジ色の炎が火床にあふれた。
朝いちばんに飲むビールは、ことのほか口当りがよかった。ジェイクは一気に自分のグラスを飲み干し、手の甲で口をぬぐって話しはじめた――
「ずっとむかし、おれの知っていた女の人がいたがな。おまえを見ていると、あの人のことを思い出すぜ。ミス・クララってたが。テキサスに小さな農場を持ってて、アーモンド菓子を作っちゃ町で売ってた。背が高くて大柄な美人だった。長いだぶだぶのセーターを着て、どた靴に男物の帽子をかぶってた。おれと知り合ったとき、ご亭主はもう死んでいた。ともかくおれの言いたいのは――彼女に出会ってなけりゃ、おれは何も知らずにいたろうということだ。何も知らんほかの何百万もの人間と同じように、人生をすごしてたろう。説教師か、織物工か、セールスマンにでもなっていたろう。おれの一生はむだになっていたかもしれんのだ」
ジェイクはふしぎそうにかぶりを振った。
「よくわかってもらうためには、その前のいきさつから話さなきゃならん。おれは、がきのころはガストニアに住んでたんだ。わに足のちび公で、ちっちゃすぎて工場へもはいれなかった。しょうことなしに、ボーリング場のピン係をやって、給料のかわりに食わしてもらっていた。そのうちあまり遠くないとこで、手先の器用な子なら日に三十セントは稼《かせ》げるっていう、タバコの葉をたばねる仕事のあることを聞いたもんで、さっそく行って日に三十セントを稼いだ。おれが十歳のときのことだった。うちは飛び出しちまってた。手紙も書かなかった。うちでもおれがいなくなったんで大よろこびだった。まあよくあることだ。それに、うちじゃ妹のほかだれも手紙を読めねえんだから」
彼は顔から何かを払おうとするかのように、宙で片手を振った。「ともかく、おれの言いたいのはこうなんだ。おれが最初に信じたのはキリストだった。おれといっしょの小屋で働いている男がいた。そいつはテント小屋を持っていて、毎晩説教をやっていた。そこへ行って聞いているうち、信じるようになってしまった。もう一日じゅう、キリストのことばかり考えるようになった。ひまさえあれば、聖書を読んで祈った。あげくにある晩、金槌《かなづち》を取って、片手をテーブルの上においた。怒りにまかせ、釘《くぎ》を手にぐっさり打ちこんでしまったんだ。手はテーブルに釘づけになり、しばらく眺《なが》めていると、指先はふるえまっ青になってきた。
ジェイクは手のひらをさし出し、まん中に残ったひきつった青白い傷跡を指さした。
「おれは福音伝道者になりたかった。国じゅうを旅してまわり、主の復活を説き、伝道集会を催すつもりだった。そのあいだにもおれはあちこち移り歩き、はたちのころにはテキサスまで来ていた。ピカーンの森で働いていたが、その近くにミス・クララが住んでいたんだ。おれはクララさんと知合いになり、夜なんかときどき訪《たず》ねて行った。クララさんはいろいろ話をしてくれた。いいかい、なにもおれは一度にぜんぶきき出したわけじゃない。だれだって、そうはゆくもんじゃない。だんだんにだ。おれは本を読みはじめた。働いたのは、しばらく仕事をせんで勉強できるだけの金をためるためだった。言ってみりゃ、新しく生れ変るみたいなもんだった。それがどんなもんかは、知ってるもんでなきゃわかりゃせん。ともかく目があいて、はっきり物が見えたって感じだった。どっかうんと遠いとこからやって来た人間みたいな気分だった」
シンガーも同意した。わが家のような感じがして居心地《いごこち》のいい部屋だった。シンガーは押入れから、クラッカーやくだものやチーズのはいったブリキ箱を取出した。そしてみかんを一つ選び、ゆっくりと皮をむいた。筋まですっかり取去られたみかんは、陽に照らされて透き通って見えた。彼はみかんを割り、ふたりで房《ふさ》をわけた。ジェイクは一度に二袋を口に入れ、ペッと大きな音を立てて種子《たね》を火の中へ吐き出した。シンガーは自分の分け前をゆっくりと食べ、種子はきちんと片方の手に取った。ふたりは、さらに二本ビールをあけた。
「それでだ、この国にはおれたちみたいな人間があとどれだけいるだろう? 一万か、ひょっとすると二万か。いや、もっとかもしれん。おれはいろんな土地へ行ってみたが、ほんの数人にしか出会わなかった。だが、たとえばほんとに物のわかった人間がいたとしたらどうだろう? さしずめ世界をあるがままに眺め、それから何千年もむかしを振返り、どうしてこういう世界になったかを知ろうとするだろう。資本と権力がしだいに癒着《ゆちゃく》するさまが目《ま》のあたり見え、極点にまで達した今日の姿が見えるだろう。気違い邸のようなアメリカが見える。生きんがためには、兄弟から奪わねばならない人間たちが見える。飢えている子どもたち、食わんがため週に六十時間も働く女たちが見える。おびただしい失業者の群れが見える一方では、何十億ドルという金、何千マイル平方もの土地が浪費されている。戦争の近づいているのも見える。苦しみのあまり、人びとが卑しく、醜くなり、心の中の何かが消えてゆくのが見える。だが、見えるものの中で何よりも重要なのは、世界じゅうのからくり全部が嘘《うそ》の上に築かれているということだ。そんなことは、まばゆいお日様くらいはっきりした事実だというのに――あんまり長く嘘と暮してきたんで、物のわからぬ人間には見えないんだ」
ジェイクの額の赤い血管が、怒りのあまりふくれ上がった。彼は暖炉の石炭入れをつかむと、火の上へ石炭をがらがらぶちまけた。すっかりしびれていた片足を、床が揺れるほど強く踏みつけた。
「ここの町はくまなく歩きまわった。歩きまわり、しゃべりまわった。なんとかみんなに説明してやろうとした。しかし、そんなことしたところで何になるってんだ。くそっ!」
彼はじっと火を見つめた。ビールと暖炉のほてりに顔の赤らみがましている。ずきずきする足のしびれは、脚《あし》の上までひろがってきた。彼はうとうとしながら、緑や青や黄に燃える炎の色合いに見とれていた。「わかってくれるのはおまえだけだ。たったひとりきりだ」と、彼は夢見心地で言った。
彼はもやはよそ者ではなかった。すでにこの町のぶざまにひろがったスラム街のあらゆる通り、あらゆる露地、あらゆる塀《へい》を知っていた。いまでもまだサニー・ディキシーで働いていた。ショーはこの年の秋、空地《あきち》から空地へと町の境界すれすれのところを移動し、とうとう町を一まわりしてしまっていた。場所は変ったが、環境は似たようなものだった――まわりに朽ちはてた小屋の立ち並ぶ荒地で、たいてい近所には製粉所か、綿織り機か、瓶詰《びんづめ》工場があった。集まる客だねも同じで、職工やニグロが大部分だった。夜になると、ショーにはけばけばしい色電球がともった。メリーゴーラウンドの木馬が、機械的に音楽に合わせて円内をまわりはじめる。ぶらんこは揺れ、銅貨投げゲームのまわりの手すりは、いつもたいへんな人だかりだ。二軒ある屋台では、飲み物や、血のしたたるハンバーガーや綿菓子を売っている。
最初は機械係として雇われたが、その後彼の仕事の範囲はしだいにひろがっていた。騒音の中にしわがれた声をはり上げながら、彼はたえず場内をあちこち歩きまわった。額に汗を光らせ、口ひげはしばしばビールにぬれていた。土曜日の仕事は群衆の整理だった。彼のずんぐりした頑強《がんきょう》な身体《からだ》が、荒っぽいほどの勢いで人込みをかき分けた。ただ目だけが、彼の他の部分の乱暴さを持たなかった。けわしい表情の広い額の下で大きく見開かれた目には、内向的な狂おしい表情があった。
宿へ帰るのは、真夜中の十二時から一時ごろだった。一軒の家を四部屋に仕切った下宿で、部屋代はひとりにつき一ドル半だった。奥に便所があり、玄関口には消火栓《しょうかせん》があった。彼の部屋の壁や床は、湿っぽく酸《す》っぱい臭《にお》いがした。窓には、すすけた安っぽいレースのカーテンがかかっている。彼はいい背広は鞄《かばん》にしまい、作業服を掛け釘にぶら下げていた。部屋の中には火の気も電気もなかった。しかし、窓の外に輝いている街灯のおかげで、部屋の中は薄青く照らされていた。ベッドのそばの石油ランプは、本を読みたいとき以外ともしたことがなかった。冷たい部屋に立ちこめる石油の燃えるいがらっぽい臭いを嗅《か》ぐと、胸がむかついたからだ。
下宿にいると、彼は落着きなく床の上を歩きまわった。寝乱れたベッドの端にすわり、きたない割れた爪《つめ》を乱暴に噛《か》んだりもした。口の中には、爪の垢《あか》の強烈な味がいつまでも残った。孤独のあまり、彼は恐怖感に満たされた。たいてい彼は密造の安ウイスキーを手もとにおいていた。それを生《き》のままあおると、夜明けごろには身体も暖まり、気持もほぐれてくるのだ。五時になると、一番交代を告げる工場の汽笛が鳴った。汽笛は消え入るような無気味なこだまとなり、彼はそれを聞いてしまうまではどうしても寝つけなかった。
しかし、たいてい彼は下宿にいなかった。人通りのない狭い通りへ出かけて行くのだ。夜明け前の空は黒く、星が明るくくっきりとまたたいている。ときには、工場が操業をはじめており、黄色く明りのついた建物から、機械の騒音がもれてきた。彼は出口のところで早番の交代を待った。セーターやプリント模様の服を着た若い娘たちが、暗い通りへ出て来る。男たちは弁当箱を下げて出て来る。中には家へ帰る前に、きまってコカ・コーラかコーヒーを飲みに、市電を改造した軽食堂へ行く連中があり、ジェイクもいっしょについて行った。騒がしい工場内では、一語一語はっきり聞き取れた男たちが、外へ出ると最初の一時間ばかりはつんぼ同然だった。
軽食堂で、ジェイクはウイスキーを入れたコカ・コーラを飲んだ。そして話した。冬の夜明けはしらじらと煙り、寒かった。彼は酔いのまわったひたむきな目つきで、男たちの黄ばみ引きゆがんだ顔をのぞきこんだ。よくあざけり笑われたが、そんなとき彼はいじけた身体をまっすぐに伸ばし、むずかしい言葉を使い、さも人を見下したような口をきいた。コップを持った手の小指をピンとつき出し、横柄に口ひげをひねったりもした。それでもまだあざけりがつづくと、けんかをはじめることもあった。日焼けした大きな拳固《げんこ》を狂ったように振りまわし、おいおい声を上げてすすり泣くのだ。
こうした朝のあと、ショーへ戻るとほっとした気分になった。集まった人込みをかけ分けて行くと気が安まった。騒音や、むっとくる悪臭、肩にふれる人間の身体の感触は、彼のいらだった神経を慰めてくれたのだ。
町の厳格な条例のおかけで、ショーは安息日には休みだった。日曜になると彼は早起きをし、スーツケースからサージの背広を取出した。そして本通りへ出かけた。まずニューヨーク・カフェへ立ち寄り、ビールを一包み買い求める。それからシンガーの下宿へ行くのだ。名前や顔を知っている町の連中はおおぜいいたが、唖《おし》だけがただひとりの友人だった。ふたりは静かな部屋でぼんやり時をすごし、ビールを飲むのが常だった。彼の話す言葉は、町の通りや下宿部屋でただひとりすごした暗い朝から、自然に生れたものだった。言葉を組み上げ、口にすると、ほっとした気分だった。
暖炉の火は燃えつきていた。シンガーはテーブルに向って、トランプのひとり遊びをしていた。ジェイクはうたたねをしていたが、やがてぎくりと身ぶるいをして目をさました。頭をもたげ、シンガーのほうに向き、「そうなんだ」と、出しぬけの問いに答えでもするように言った――「何人かは共産党員だ。しかしぜんぶじゃない。たとえばおれだが、おれは党員じゃない。なにしろ、党員だってひとりしか知らんしな。何年もほっつき歩いたところで、党員には会わんもんだ。ここいらには、仲間入りさしてくれと言いに行く事務所もないしな――あったところで、おれは聞いたことがねえや。わざわざニューヨークまで出かけてって、入党するばかもいねえだろうしな。いまも言ったとおり、おれの知っている党員はひとりっきりだ――臭い息をしやがるけちな禁酒主義者だった。おれとけんかをしたもんだ。なにも共産党にさからうつもりで言ってるんじゃない。要するに、スターリンやロシアのことはそう買ってねえってことなんだ。おれはどこの国だろうが政府だろうが、みんなきらいだ。しかしやっぱり、共産党に入党することになるかもしれん。どうころぶか、まだ自分でもわからねえんだ。おまえはどう思う?」
シンガーは顔に皺《しわ》を寄せ、考えこんでいた。やがて銀色の鉛筆に手を伸ばし、はぎ取り便箋《びんせん》にわかりませんと書いた。
「しかしな、こういうことも考えなきゃならん。つまり、物事は知っただけで安心しちまってはいかん、行動に移さなきゃならんということだ。中には気違いみたいになるやつもある。やることが多すぎて、どこから取っかかっていいかわからんからだ。かっと頭にきちまうのも当然さ。おれだって――いま振返ってみりゃ、ばかなこともしたもんだ。一度なんか、自分で組織を作ったこともある。二十人の職工を選び出し、やつらがほんとうにわかったと思うまで説得してやった。おれたちの標語はただひとこと――≪行動≫だった。ふん! 暴動をおっぱじめるつもりだったんだ――できるだけでかい騒ぎをな。おれたちの究極の目的は自由にあった――それも本物の自由、人間の魂を持つ正義感によってのみ可能な、偉大な自由にあった。おれたちの標語の≪行動≫とは、資本主義の破壊を意味した。網領の中には(おれが書いたものだが)、われわれの仕事が終りしだい、≪行動≫を≪自由≫に変えるという条項も設けてあった」
ジェイクはマッチ棒の先をとがらせ、厄介な虫歯の穴をほじった。やや間をおいてから、彼はまた話しつづけた――
「網領がすっかりでき上がり、最初の党員たちの結成もうまくいったところで、おれは結社の構成単位を組織するため、ヒッチハイクの旅に出た。三カ月とたたぬうちに戻って来てみると、どんな事態になっていたと思うね? 最初の英雄的行動とは何だったんだ? やつらの正義の怒りが計画どおりの行動を圧倒し、おれを待たずにやってしまったのか? それが破壊であり、謀殺であり、革命だったのか?」
ジェイクは、椅子にすわったまま上体を乗り出した。ややあってから、彼は暗い調子で話しはじめた――
「いいかい、やつらは基金から五十七ドル三十セントを盗み出し、そろいの帽子を買い、土曜の晩めしをただで食っちまったんだ。おれはやつらが会議のテーブルを囲み、帽子を頭にのせ、ハムとジンを手のとどくところへ置いて、さいころを投げてる現場をとっつかまえたんだ」
ジェイクの大笑いにつづいて、シンガーも弱々しい微笑を見せた。やがてシンガーの微笑はこわばり、消えてしまった。ジェイクはまだ笑っている。額の血管がふくれ上がり、顔色も赤黒い。笑い声はいつまでもやまなかった。
シンガーは掛け時計を見上げ、時刻を示した――十二時半だった。彼は懐中時計と、銀色の鉛筆と、メモと、タバコとマッチを暖炉の上から取り、それぞれをポケットにしまいこんだ。もう食事どきだったのだ。
しかし、ジェイクはまだ笑っている。その笑い声には、何か気違いじみたものがあった。彼はポケットの小銭をじゃらつかせながら、部屋の中を歩きまわった。長くたくましい両腕をぴんと伸ばし、ぎごちなく振りまわしている。やがて、これから昼食に何を食べるか、料理をいちいち並べはじめた。食べ物の話をはじめると、彼の顔は熱をおびおそろしいほどになった。ひとことごとに、がつがつ飢えた獣のように上唇《うわくちびる》をむき、歯をむき出すのだ。
「たれのかかったロースト・ビーフ。ライス。キャベツに軽いパン。それに分厚いアップル・パイだ。おれは飢えてるんだ。『おう、ジョニー、北軍《ヤンキー》どもがやって来るぞ』ときたか。ところで食い物といや、クラーク・パターソンさんの話はしたっけな、サニー・ディキシー・ショーの持主の。なにしろあんまり肥《ふと》ってるもんで、もう二十年から自分のちんぽこは見たことがねえって男だ。一日じゅうトレーラーの中にすわって。トランプのひとり遊びをしたり、麻薬タバコを吸ったりって生活だ。食い物は近所の店から取寄せ、毎日朝食には……」
ジェイクはシンガーが部屋を出られるよう、うしろへ下がった。唖といっしょのとき、彼はいつも戸口で先を譲った。いつもシンガーを先に立たせ、自分はあとからついて行ったのだ。階段をおりながらも、彼は神経質にせっせとしゃべりつづけた。その茶色の大きな目は、じっとシンガーの顔を見つづけている。
穏やかな暖かい午後だった。ふたりは、午後からも下宿にいることにした。ウイスキーのクオート瓶《びん》を持ち帰ったジェイクは、ベッドの裾《すそ》に黙りこくり考えこみながらすわり、ときたま身体を乗り出しては、床の上に置いた瓶からウイスキーをグラスについだ。シンガーは窓ぎわのテーブルにすわり、チェスをさしていた。ジェイクはいくらか落着いてきていた。友人のゲームを見守り、穏やかで静かな午後が、夕闇《ゆうやみ》に溶けてゆくのを感じていた。暖炉の火が部屋の壁に、ひそやかな暗い波を映している。
だが夜になると、ふたたび緊張感が戻ってきた。シンガーはチェス盤を片づけ、ふたりは向い合ってすわった。神経の高ぶりにジェイクの唇はひきつり、気持を静めるために彼は酒を口に運んだ。気ぜわしさと欲望の余波が、彼を押しつつみ圧倒した。彼はウイスキーをあおり、またシンガーに話しはじめた。言葉は彼の体内にわき上がり、口からほとばしり出た。彼は窓辺からベッドへ、そしてまた窓辺へと、何度も何度も行きつ戻りつした。そしてついに、ふくれ上がった言葉の洪水ははっきりとした形を結び、彼は唖を相手に、酔いのまわった力をこめて話しはじめた――
「まったく、やつらの仕打ちときた日にはな! 真理を嘘に変えちまいやがった。理想を汚し、墜落させちまいやがった。キリストを考えてみるがいい。キリストはおれたちの同志だった。彼は知っていた。富める者の神の国に入るより、らくだが針の孔《あな》を通るほうがむずかしい〔ジェイクはマタイ伝の引用を言い違えている〕、と言ったキリストは、まさにそのとおりをほんとうに考えていた。ところが過去二千年のあいだに、教会はキリストに何をしたか。やつらはキリストをどう利用したか。キリストの口にした言葉の一つ一つを、やつらの低劣な目的のため、どんなにゆがめてしまったか。もし今日生きていたなら、きっとキリストはぬれぎぬを着せられ、刑務所へ叩《たた》きこまれてしまうだろう。キリストこそ、ほんとうに知っている人間だろう。おれとキリストとはテーブルをはさんですわり、おれは彼を、彼はおれを見やり、互いに相手が知っている人間だということを理解し合う。おれとキリストとカール・マルクスの三人でテーブルを囲むことだってできるんだ……出ばった狆《ちん》ころじゃねえように、独立戦争を戦った連中は愛国婦人団体の奥さま連と違うんだ。自由を叫んだ彼らは真剣だった。真の革命のために戦ったんだ。この国を、だれもが自由で平等な国にすべく戦った。まったくだよ! 大自然の目から見て、だれもが平等――平等な機会を持つってことだったんだ。それはけっして、二割の人間が、残り八割の人間から生きる手段を勝手に奪ってもいいってことじゃなかった。ひとりの金持がもっと金持になるため、一万の貧乏人から膏血《こうけつ》をしぼり取っていいってことじゃなかった。何百万ていう人間が、ただ三度のまともな食い物とねぐらにありつくため、それこそどんなことでも――詐欺だろうが、嘘だろうが、右腕を切り落すことだろうが――やってのけるような苦境に、暴君がこの国を勝手に陥《おとしい》れていいってことじゃなかった。やつらは、自由という言葉を冒涜《ぼうとく》に変えてしまった。わかるかね? 自由って言葉を、わけ知りの人間にはスカンクみたいに臭《にお》うものにしちまったんだ」
ジェイクの額の血管が、はげしく脈打った。口がひきつったように動く。シンガーは驚いて、きちんとすわりなおした。ジェイクはまた話しつづけようとしたが、言葉が口の中でつかえてしまった。身体中をふるえが走った。彼は椅子にすわり、わななく口もとを手でおさえた。やがて、彼はしわがれた声で言った――
「つまり、シンガー、こういうことなんだ。かっかとしたとこで、どうにもならん。おれたちがどうあがいたとこで、何のためにもならん。どうもおれにはそんな気がするんだ。おれたちにできるのは、せいぜい真理を説いてまわることくらいだ。そのうち、道理を知らねえ連中がおおぜいこの真理に気づいてくれりゃ、そのときはもう闘う必要もねえってことだ。たった一つおれたちにできるのは、やつらに知らせるということ。必要なのはそれだけだ。だが、それをどうやってやるか? ええ、どうやってやりゃいい?」
火の影が周囲の壁をなめずった。暗い影の波は高まり、部屋じゅうが揺れ動きはじめた。部屋は浮き上がり、落ちこみ、すっかり平衡を失った。ジェイクはただひとり下へ下へ、波のような動きにゆっくりと巻きこまれ、暗い海の中へと沈んでゆくのを感じた。無力感と恐怖とに彼は目をこらしたが、見えるのは飢えたようにごうごうと渦巻く暗紅色の波ばかりだった。やがて、やっと捜していた物の姿が見分けられた。唖の顔が、かすかはるか遠くに見えたのだ。ジェイクは目を閉じた。
その翌朝、彼はかなり遅く目をさました。シンガーはもう何時間も前に家を出ていた。テーブルの上には、パンとチーズとみかんとコーヒーわかしがのせてあった。朝食をすませると、もう仕事に出かける時刻だった。彼はうつ向き、暗い顔つきで、自分の下宿のほうへ町を歩いて行った。下宿の近くへさしかかったとき、片側が煙ですすけた煉瓦造《れんがづく》りの倉庫になっている狭い露地を通りすぎた。この建物の壁には、なんとなく気になるものがあった。歩きつづけようとして、彼はにわかに注意を惹《ひ》きつけられた。壁にはつぎのような文句が、まっ赤《か》なチョークを使い、太い奇妙な字体で書きつけてあった――
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汝《なんじ》ら権力者の肉をくらい、地上の王者の血をすすらん。
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ジェイクはこの文句を二度読みなおし、気がかりそうに通りを見まわした。人影はなかった。しばらく考えこんでいた彼は、ポケットから太い赤鉛筆を取出し、その文句の下に念入りに書きつけた――
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これを書いた人に、あす正午ここで会いたし。十一月二十九日、水曜。またはその翌日。
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あくる日の十二時、彼は壁の前で待っていた。ときおり町角まで行ってみては、通りをいらいらした気持で眺《なが》めてみた。だれもやって来なかった。一時間もすると、仕事に行く時間になってしまった。
その翌日も彼は待った。
やがて金曜になると、冬の長雨がしとしと降りはじめた。壁は雨にぬれ、書かれた文句も流れて一字も読めなくなった。雨は灰色に、わびしく冷たく降りつづいた。
「ミック、こいじゃみんなおぼれちまうよ」とババーが言った。
たしかに、雨はいっかな降りやみそうもなかった。学校の行き帰りは、ウェルズのおばさんが車で送ってくれた。毎日、午後は玄関先のポーチか家の中にいなければならなかった。ミックとババーは居間の絨毯《じゅうたん》の上で、すごろくやババ抜きやおはじき玉をして遊んだ。そろそろクリスマスの季節も近く、ババーは小さなイエス様のことや、サンタ・クロースに持って来てもらいたい赤い自転車のことなどを話しはじめた。雨はガラスに銀色に光り、空は灰色に冷たくぬれていた。河の水かさも異常に増し、工場に働く人びとの中には、家を捨て避難しなければならない人たちも出た。このまま永遠に降りつづくのではないかと思えたとき、雨はにわかに降りやんだ。ある朝目をさましてみると、まばゆい太陽が輝いていた。昼ごろになると、まるで夏のように暖かい天気になった。ミックが学校から遅くなって帰ってみると、ババーとラルフとスペアリブズはおもての歩道で遊んでいた。子どもたちはいかにも汗ばんで暑そうに見え、着ている冬服は酸《す》っぱい臭《にお》いがした。ババーは手にパチンコを持ち、ポケットを石でいっぱいにふくらませている。荷車の中にすわったラルフは、かぶった帽子が曲っているせいかむずかっている。スペアリブズは新しいライフル銃を持っている。空はすばらしい青さだった。
「ねえちゃんのこと、ずいぶん待ってたんだよ。どこへ行ってたん?」とババーがきいた。
ミックは入口の階段を一度に三段ずつ跳《と》び上がり、セーターを帽子かけのほうへ投げた。「体育館でピアノのおけいこしてたんよ」
毎日放課後、ミックは一時間あとに残ってピアノの練習をした。女子チームがバスケットボールの試合をしていたので、体育館は込んでいて騒がしかった。きょうなどは、二度もボールが頭に当った。しかしどんなじゃまがはいろうがボールが当ろうが、ピアノの前にすわれることにはかえられなかった。自分の望みの音が得られるまで、ミックはいくつもの音をいっしょに出してみた。それは思ったよりやさしかった。最初の二、三時間もすると、右手の弾《ひ》く主調音にうまく合う低音部の和音を見つけることができた。いまでは聞き覚えのどんな曲でも弾けるようになった。それどころか、新しい曲を作ったりもした。作るほうが、知っている調べをただ真似《まね》るより楽しかった。両手がこうした美しい新しい音を探り出すとき、ミックはこれまで味わったことのないすばらしい気分にひたった。
彼女は、すでに書かれている楽譜の読み方も習いたかった。ダローレス・ブラウンは、もう五年も前から音楽のレッスンを受けていた。ミックは昼食代にもらう五十セントを毎週ダローレスに払い、レッスンをしてもらうことにした。おかげで一日じゅうひもじくてならなかった。ダローレスはテンポの速い曲をいろいろたくさん弾いてくれた――しかしミックが知りたいと思った質問には、ぜんぶ答えられなかった。いろんな音階とか、長調や短調の和音とか、音符の長さとか、そんなふうなごく初歩的な規則しか教えてくれなかった。
ミックは、台所の調理ストーブの戸をパタンとしめた。「食べ物、これっきり?」
「お嬢ちゃん、これっきりって、そいでがまんしといてもらわんと」とポーシャは答えた。
マーガリンを塗ったとうもろこしパンだけだった。それをかじりながら、水を飲んで流しこんだ。
「そんながつがつすることないよ。だれもひったくったりせんもの」
子どもたちはまだ家の前で遊んでいた。ババーはパチンコをポケットにしまい、ライフル銃をいじっていた。スペアリブズは十歳、父親がひと月前に死に、これは父親の銃だった。小さな子どもたちは、みなそのライフル銃をいじりたがった。ババーは数分ごとに銃を肩に持っていった。ねらいを定め、ズドーンと大きな声を上げた。
「引き金をいじっちゃだめだよ。たまをこめてあんだから」とスペアリブズが言った。
ミックはとうもろこしパンを食べ終え、何かすることはないかとまわりを見まわした。ハリー・マイノウィッツが自宅のポーチの手すりに、新聞を手にしてすわっていた。ミックはハリーの姿にうれしくなった。冗談半分片手をあげると、「ばんざぁーい!」と彼に呼びかけた。
だがハリーは、それを冗談ととらなかった。玄関へ引っこむと、そのままドアをしめてしまった。すぐに気を悪くしてしまうのだ。彼女は残念だった、このところハリーとはとても仲がよかったからだ。子どものころはいつもいっしょに遊んだものだが、三年前から彼は実業学校へ行き、ミックはまだ初等中学に通っていた。それに、彼はアルバイトもしていた。急におとなびてしまい、小さな子どもたちと前庭や裏庭で遊ぶこともしなくなった。ときどき寝室で新聞を読んだり、夜おそく服をぬいでいる彼を見かけることはあった。数学と歴史では、彼は実業学校随一の秀才だった。ミックもいまでは実業学校へ行くようになったので、ふたりはよく帰り道いっしょになり、つれだって帰ることが多くなった。機械のクラスもいっしょで、いつだったかモーター組立てのとき、先生はふたりを組にしてくれた。彼は熱心に本を読み、毎日かかさず新聞を読んでいた。世界の政治がいつも彼の頭にあったのだ。ゆったりとした話し方をし、何かに熱中すると額に汗がにじみ出た。その彼をいまミックは怒らせてしまったのだ。
「ハリーはまだ金貨を持ってっかなあ」とスペアリブズが言った。
「金貨って何よ?」
「ユダヤ人て、男の子が生れると銀行に金貨をあずけるんだろ。ユダヤ人はみんなそうすんだってさ」
「ばかだね。みんないっしょくたにしちまって。おまえの言ってんのはね、それはカトリック。カトリック教徒は赤ん坊が生れると、すぐその子にピストルを買うの。いつかそのうち、カトリックの連中は戦争をおっぱじめて、手あたりしだい人殺しをするつもりかもね」
「尼さんて、見てるとへんな気持。道なんかであうと、こわくってしょうがないよ」
ミックは階段にすわり、両膝《りょうひざ》に顔をのせた。彼女は内側の部屋へはいって行った。ミックには≪奥の部屋≫と≪外の部屋≫の二つの場所があるようだった。学校や家族や毎日起ることなどは、≪外の部屋≫での出来事だった。シンガーさんは両方の部屋にいた。外国やさまざまな計画や音楽は、≪奥の部屋≫の中にあった。彼女の考える歌はそこにあった。そして交響曲も。この≪奥の部屋≫にただひとりきりでいると、あの晩パーティのあとで聞いた音楽がよみがえってくるのだ。その交響曲は大輪《たいりん》の花のように、彼女の心の中でゆっくりと開いた。ときには昼日中、あるいは朝目がさめたときなど、交響曲の新しい部分がふと心に浮んできた。そんなとき、ミックは≪奥の部屋≫へはいりこみ、何度もその調べに耳を傾け、すでに記憶している部分につけ加えようとした。≪奥の部屋≫は、ごく秘密の場所だった。人でいっぱいの家の中にいても、自分ひとり鍵《かぎ》のかかった部屋に閉じこもっているような気がした。
スペアリブズは、ミックの目の前にきたない手をつき出した。ミックがぼんやり宙を見つめていたからだ。彼女はその手を叩《たた》いた。
「尼さんて何よ?」とババーがきいた。
「カトリックの女の人だよ。頭の上までくる大きな黒い服を着た、カトリックの女の人のことさ」とスペアリブズ。
ミックは、子どもたちとつきあっているのが退屈になってきた。図書館へ行って『ナショナル・ジオグラフィック』誌の写真でも見てこよう。世界じゅうの、いろんな外国の写真でも。フランスのパリとか。大きな氷河とか。それに、アフリカのすごいジャングルだとか。
「あんたたち、ラルフが通りへ出ないよう気をつけててよ」と彼女は言った。
ババーは大きなライフルを肩にかついだ。「お話の本借りて来てよ」
まるで本の読み方を心得て生れてきたような子だった。まだ小学校二年生だが、自分で物語を読むのが好きな子で、人に読んでくれと頼んだりしたことは一度もなかった。「こんどはどんな本がいいの?」
「何かたべるものの出てくるお話をさがして来てよ。ドイツの子どもたちが森の中へ行ったら、いろんなキャンデーでできた家があって魔法使いがいたっての、大好きさ。何かたべものが出てくるのって好きなんだ」
「いいわ、さがして来たげる」
「でもさ、キャンデーにはちょっとあきてきたからさ、バーベキュー・サンドイッチか何かの出てくるお話がないかさがしてみて、そんなのがなきゃ、カウボーイのお話でもいいよ」
出かけようとして、ミックはふと足をとめ、まじまじと目を見張った。子どもたちも目を見張った。みんなが息をひそめて、通り向うの家の階段をおりて来るベイビー・ウィルソンの姿を眺《なが》めた。
「ベイビーってきれいだな」と、ババーが小声で言った。
雨降りが何週間もつづいたあと、急にぱっと陽《ひ》の出た暑い日だったためだろうか。あるいは、まだ着こんでいる黒っぽい冬服が、こんな日の午後には子ども心に不恰好に見えたためかもしれない。ともかくベイビーは、映画に出てくる妖精《ようせい》か何かのように見えた。彼女は、去年の夜会のときの服を着ていた――みじか目にぴんと張ったピンクの薄いスカート、ピンクの胴着、ピンクのダンス靴、それにハンドバッグまでがピンク色だった。髪の毛が金髪なので、ピンクと白と金色ずくめに見える――それにとても小さくこぎれいなので、見るも痛々しいくらいだった。彼女は気どって通りを横切って来たが、こちらへはついに顔を向けようとしなかった。
「こっちへおいでよ。そのちっちゃなピンクのハンドバッグ、見せとくれよ」とババーは声をかけた。
ベイビーは顔をそむけたまま、道のはじにそってすたすた通りすぎた。この連中には話しかけまいと心に決めていたのだ。
歩道と通りのあいだに細長い芝生《しばふ》の植込みがあり、ベイビーはそこまで来るとちょっと立ちどまり、とんぼ返りを一つした。
「あんなやつほっときゃいい。いつだって見せびらかすんだ。どうせブラノンさんの店へキャンデーをもらいに行くんだろ。伯父《おじ》さんだから、ただでもらってくんのさ」とスペアリブズが言った。
ババーは、ライフル銃の台尻《だいじり》を地面におろした。大きな銃で、彼には重すぎたのだ。通りを遠ざかってゆくベイビーを見送りながら、彼はもつれた前髪を引っぱりつづけて言った――「ほんとにあれ、かわいいピンクのハンドバッグだな」
「あの子のかあさんいつも言ってるぜ、うちの子にはとても才能があるって。映画入りさせるつもりだってさ」とスペアリブズ。
『ナショナル・ジオグラフィック』誌を見に行くにはもう遅すぎた。もうすぐ夕飯だった。ラルフが泣きだしたため、ミックは荷車からかかえておろしてやった。いまは十二月だったが、ババーの年ごろの子どもにとっては、それは夏からずいぶん長い時がたったように思えた。夏のあいだじゅう、ベイビーはあのピンクの夜会服を着て外へあらわれ、通りのまん中で踊りまわったものだ。はじめのうち、子どもたちもベイビーを取囲んで眺めていたが、やがてすぐあきてしまった。外へ踊りに出て来る彼女を見守るのは、そのうちババーだけになってしまった。彼は縁石《ふちいし》に腰をおろし、自動車がやって来ると大声で彼女に注意をした。夜会のダンスをするベイビーの姿は百度も見ていたが――しかし夏も終って三カ月もたったいまでは、何かまた新しいものを見るような気がした。
「ぼくにも衣装《いしょう》があるといいんだけどな」とババーは言った。
「どんな衣装がほしいの?」
「ほんとにいかすやつがさ。いろんな違った色でできた、ほんとにきれいなのがいいんだ。蝶《ちょう》ちょみたいなの。クリスマスにほしいな。それと自転車と!」
「女みたい」とスペアリブズ。
ババーは大きなライフル銃をまた肩に当てがい、通り向うの家にねらいをつけた。「衣装があったら、そいつを着ておどってまわるんだ。学校へだって毎日着て行くしさ」
ミックは入口の階段にすわり、ラルフから目を離さなかった。ババーは、スペアリブズの言う女みたいな弱虫ではなかった。きれいなものが好きな子だったのだ。このまま、スペアリブズに勝ち名のりを上げさせておくという手はない。
「人間はさ、どんなものでも努力して手に入れなきゃなんないの」と、ミックはゆっくりとした口調で言った――「これまでたくさん例を見て知ってるけど、あとから生れてくる子のほうがほんとに出来がいいもんよ。いちばん末っ子が、どこでもいちばんしっかりしてるの。あたしがかなり強いのも、上にきょうだいがたくさんいたから。ババーはね、見かけは病人みたいで、きれいなものが好きだけど、芯《しん》はしっかりしているのよ。もしそういうのがほんとなら、歩きまわれるくらいになったら、ラルフはほんとすごい力持ちになると思うわ。まだ十八カ月にしかならないけど、もうこの子の顔には強そうでしっかりしたとこが見えるもの」
ラルフは自分のことが話題になっているとわかったらしく、まわりを見まわした。スペアリブズは地面にすわり、ラルフの帽子をひったくり、からかうつもりかそれを目の前で振ってみせた。
「いいかい! この子を泣かしたりしたら、承知しないからね。気をつけたほうがいいよ」とミックは言った。
すべてが静かだった。太陽は家々の屋根のかげに沈み、西の空は紫がかった紅色に染まっていた。通り一つ向うでは、スケートで遊んでいる子どもたちのざわめきが聞える。ババーは木にもたれ、何かを夢見ているようだった。家からは夕食の匂《にお》いが漂い、もうまもなく食事になるはずだった。
「ごらんよ。またベイビーがやって来るから。ピンクの服着ると、ほんとにきれいだなあ」と、ババーが出しぬけに言った。
ベイビーはゆっくりとこちらへ近づいて来た。おまけ入りポップコーン・キャンデーの箱をもらい、おまけを取出そうと箱の中へ手をつっこんでいる。相変わらず、乙にすました気どった歩き方だ。みんなの視線を集めていることは、じゅうぶん承知のようすだった。
「おねがいだからさ、ベイビー……そのちっちゃなピンクのハンドバッグをみせとくれよ、そのピンクの服にもさわらしとくれよ」とババーは、そばを通りすぎようとした彼女に言った。
ベイビーは鼻歌をうたいはじめたが、そ知らぬ顔だった。ババーにふざけるチャンスを与えず通りすぎてしまった。ただちょっと頭をかがめ、にこっとしてみせただけだった。
ババーは、また大きなライフル銃を肩に当てがっていた。彼はバーンと大きな声を上げ、撃ったような真似《まね》をした。それからもう一度ベイビーに呼びかけた。小猫でも呼ぶような、やさしい悲しげな声だった。「おねがいだよ、ベイビー――こっちへ来ておくれったら、ベイビー……」
ミックがとめるひまもなかった。ババーの手が引き金にかかったのを見たかと思うと、ズドーンとおそろしい発射音が聞えた。ベイビーは歩道にくずれた。階段に釘《くぎ》づけになり、身動きも叫ぶこともできないようだった。スペアリブズは片手を頭の上に上げたままだった。
ババーだけが気づいていなかった。「お起きよ、ベイビー。きみのことおこっちゃいないからさ」と、彼は大声で呼びかけた。
ほんの一瞬の出来事だった。三人は、同時にベイビーのところへ駆け寄った。ベイビーはきたない歩道にくずれおれ、横たわっていた。スカートは頭の上までまくれ、ピンクのパンティと小さな白い脚《あし》がまる見えだった。開いた両手の片方にはキャンデーのおまけが、もう片方にはハンドバッグが握られていた。髪のリボンや、金髪の巻毛は血まみれになっている。頭を撃たれた彼女は、うつ伏せに倒れていた。
一瞬のあいだに起ったことだった。ババーは悲鳴を上げ、銃を取落して駆け出した。ミックも両手を顔に当てがい、悲鳴を上げた。人もたくさん集まって来た。まっ先に駆けつけて来たのはパパだった。パパはベイビーを家の中へ運びこんだ。
「死んじまったよ。目のあいだを撃たれたもん。おれ見たもん」とスペアリブズは言った。
ミックは、歩道を行きつ戻りつ歩きつづけた。ベイビーは死んだのかときこうと思ったが、舌がこわばって動かなかった。ベイビーの母親のウィルソン夫人も、勤め先の美容院から駆けて戻って来た。夫人は家の中へはいり、また外へ出て来た。おろおろ泣きじゃくり、指輪を抜いたりはめたりしながら、通りを行ったり来たりしつづけた。やがて救急車が到着し、医者がベイビーのいる部屋へはいって行った。ミックも医者のあとからついてはいった。ベイビーは、とっつきの部屋のベッドに横になっていた。家の中は教会のように静まりかえっている。
ベイビーは、ベッドに寝かされた小さなかわいいお人形のように見えた。血さえなければ、けがをしているようには見えない。医者はかがみこみ、頭をしらべた。しらべ終ると、ベイビーは担架にのせて運び出された。ウィルソン夫人とパパも、いっしょに救急車に乗りこんだ。
家の中はまだ静まっていた。ババーのことは、もうだれも忘れてしまっていた。彼の姿はどこにもなかった。一時間がたった。ママもヘイゼルもエッタも下宿人たちも、みなとっつきの部屋で待っていた。シンガーさんは戸口に立っている。ずいぶんたってから、パパが戻って来た。死ぬ気づかいはないが、頭蓋骨《ずがいこつ》にひびがはいっているという。パパはババーのことをたずねた。だれも彼の居所を知らなかった。外は暗かった。みんなは裏庭や通りに出て、ババーを呼んだ。スペアリブズやほかの男の子たちも何人か、外へ捜しにやられた。どうやらババーは、この近所からすっかり姿を消してしまったようだった。ハリーは、ババーの行っていそうな家をのぞきに行った。
パパは玄関前のポーチを行ったり来たりしながら、くり返し言っていた――「おれはこれまで一度も、うちの子どもをせっかんしたことはない。せっかんなどしてもだめだと思っとったからだ。しかし今度だけは、つかまえしだい、あいつをうんとこらしめてやる」
ミックは手すりに腰をかけ、暗い通りをじっと見つめていた。「あの子なら、あたしにまかしといて。帰って来たら、あたしがなんとか面倒をみてやれそう」
「おまえ、ひとつ捜しに行っとくれ。おまえが行ったほうが、ほかのだれより見つかりやすいだろう」
パパからそう言われるなり、ミックはふとババーの居場所を思いついた。裏庭の大きな樫《かし》の木があり、この夏子どもたちでその上に小屋を作ったのだ。大きな箱が上まで引っぱり上げてあり、ババーはその木の家にひとりですわっているのが好きだった。ミックはポーチにいる家族や下宿人たちから離れ、露地を抜けて暗い庭のほうへまわった。
木のそばまで来て、ミックはちょっと立ちどまった。「ババー――お姉ちゃんよ」と、彼女は小声で声をかけた。
答えはなかったが、木の上にいるのはわかっていた。いわば匂《にお》いでわかったのだ。彼女はいちばん下の枝に跳《と》びつき、ゆっくりと登りはじめた。ババーには芯《しん》から腹が立ち、思いきりとっちめてやらねばすまない気持だった。木の家にたどりついた彼女はもう一度声をかけた――だが、依然として返事はない。ミックは大きな箱の中へはいりこみ、箱の隅《すみ》ずみを手さぐりしてみた。やっとババーの身体《からだ》に手がふれた。ババーは片隅にちぢこまり、脚がふるえていた。それまで息をころしていたのが、ミックの手がふれたとたん、すすり泣きと吐息が一度にせきを切った。
「ぼ――ぼく、ベイビーを撃つつもりじゃなかったんだよ。だけどあんまりちっちゃくてかわいかったもんだから――どうしても一発ねらってみたくなっちまったんだ」
ミックは木の家の床にすわった。「ベイビーは死んじまったよ。みんなしておまえを捜してるわ」
ババーは泣きやみ、物も言わず静まりかえった。
「うちでパパが何をしていると思う?」
じっと聞き耳を立てているババーの気配が、聞きとれるような気がした。
「ローズ刑務所長って知ってんでしょ――ラジオで聞いたことあるから。それから、シン・シン刑務所のことも。パパはね、ローズ所長に手紙を書いてんの、おまえがつかまって、シン・シンへ送られたとき、ちっとは手心を加えてくれるようにって」
暗闇《くらやみ》の中にひびくその言葉はいかにもおそろしく、ミックは身ぶるいをした。ババーのふるえているのが感じられた。
「シン・シンにはちっちゃな電気椅子があるの――おまえにぴったりの大きさの。そこへ電気を流すと、黒こげのベーコンみたいに焼けちまうのよ。そして地獄行きってこと」
ババーは隅にぺったりへばりつき、こそとも音を立てなかった。ミックは下へおりるため、箱のふちを乗りこえた。「おまえはここにいたほうがいいわ、おまわりさんが庭を見張ってるから。何日かしたら、何か食べ物を持って来たげる」
ミックは樫の木の幹に寄りかかった。これでババーもこりただろう。もともとあの子はよく手なずけていたし、あの子のことは他のだれよりもよく知っていた。一、二年前のこと、あの子はいつも草むらに隠れてはおしっこをし、そのあとしばらくいじりまわしたがった。ミックはすぐさまそのことに気づいた。見つけるたびにうんと叩《たた》いてやったおかげで、三日もすると悪癖はなおってしまった。薬が利《き》きすぎ、その後ほかの子のようにふつうのおしっこができなくなってしまったくらいだ――両手をうしろにやってするのだ。むかしからいつもババーの子守《こも》り役《やく》だったから、言いなりに動かすことができたのだ。しばらくしたら、もう一度木の家へ行き、あの子をつれ戻してこよう。こんなことがあれば、もう二度と銃を持ちたいとは思わないだろう。
家の中には、先ほどと同じ重苦しさが漂っていた。下宿人たちもみなポーチに出てすわっているが、話をするものも、椅子をゆすっているものもない。パパもママも、とっつきの部屋にいた。パパはビールを瓶《びん》からラッパ飲みしながら、部屋の中をあちこち歩きまわっている。ベイビーは命に別条ないようだから、みんなの心配はそれではなかった。それにだれひとり、ババーのことを心配しているようすもない。心配は何か別のことなのだ。
「ババーったら!」とエッタが言った。
「こんなことがあると、恥ずかしくて外へも出られやしないわ」とヘイゼル。
エッタとヘイゼルはまん中の部屋にはいり、ドアをしめてしまった。ビルは裏手の部屋にいた。ミックはだれとも口をききたくなかった。
パパの足音がとまった。「あれはわざとだった。銃をいじっていて、偶然暴発したというんじゃない。見ていた連中はみな、わざとねらいをつけて撃ったと言ってる」
「ウィルソンの奥さんから、そろそろ何か言ってくるかしら」とママが言った。
「ああ、いやというほど言われるとも!」
「でしょうねえ」
陽《ひ》が沈むと、夜は十一月のように冷えこんだ。みんなポーチから引き上げ居間にすわった――だが、だれも暖炉の火をつけなかった。帽子かけにぶら下がっていたセーターを引っかけ、寒いのでミックは背を丸くして立った。彼女は、寒いまっ暗な木の家にすわっているババーのことを考えた。あの子は、さっき彼女の言ったことをひとこと残らず信じこんでしまった。しかし、すこしはやきもきしたほうが薬になるだろう。ベイビーを、もうすこしで殺してしまうところだったのだから。
「ミック、おまえ、ババーのいそうなところを知らないか?」とパパがきいた。
「たぶん近所にいると思うけど」
パパはからになったビール瓶を手にしたまま、ひっきりなしに歩きまわった。まるでめくらのような歩き方で、顔には汗がにじんでいた。「かわいそうに、あの子はこわくて家へ帰って来れんのだ。あの子が見つかれば、すこしは気が楽になるんだが。ババーには、これまで一度も手をかけたことはない。おれをこわがることはないはずだが」
あと一時間半ばかり待ってみよう。そのころには、あの子も自分の非をじゅうぶん悔いているだろう。むかしからあの子には何でも言うことを聞かせ、いろいろ教えこんでやったものだ。
しばらくすると、家の中がだいぶ騒がしくなった。パパはベイビーの容態をきくため、また病院に電話をした。二、三分すると、ウィルソン夫人のほうから電話がかかった。お話があるので、うかがいたいというのだ。
パパはめくらのように、まだとっつきの部屋の中を歩きまわっていた。また三本、ビールを飲み干した。「えらいことになっちまって、訴えられたらズボンまではぎ取られかねない。どうせ取ろうったって、抵当にはいってない家だけだが。しかし事件が事件だけに、こっちは口答え一つできんしな」
ふと、ミックはあることを考えた。たぶんあの人たちは、ほんとうにババーを裁判にかけ、少年刑務所に送ろうとするかもしれない。たぶんウィルソン夫人は、あの子を感化院へやるだろう。たぶんおとなたちは、ほんとうに何かおそろしいことをババーにするかもしれない。ミックはいますぐ木の家へ行き、ババーの横にすわり、心配しないよう言ってやりたかった。むかしからとてもやせて、小さくて、利口な子だった。あの子をうちから追い出そうとするようなやつは、だれでも殺してやる。あの子にキスし、噛《か》んでやりたかった――とてもあの子のことがかわいくてならなかったからだ。
だが、何一つ聞きのがしてはならなかった。ウィルソン夫人がいまにもやって来るだろうし、ミックとしては成行きを知らなくてはならなかった。それがわかったらすぐにも駆けて行って、さっき話したことはみんな嘘《うそ》だったとババーに言ってやろう。そうすればあの子も、自分の招いたむくいを身にしみて学んだことになるだろう。
一台の十セント・タクシーが歩道に横づけになった。だれもが鳴りをひそめ、おびえながら、玄関先のポーチで待ち受けた。ウィルソン夫人が、ブラノンさんといっしょにタクシーからおりて来た。階段をのぼって来るふたりの姿に、パパがいらだたしげに歯ぎしりしているのがミックに聞えた。おとなたちはとっつきの部屋にはいって行った。ミックはそのあとからつけて行き、戸口の外に立った。エッタやヘイゼルやビルや下宿人たちは近づかなかった。
「このたびのことについて、すっかりお話ししたいと思ってまいりました」とウィルソン夫人は言った。
とっつきの部屋は、うすよごれてみすぼらしかった。ブラノンさんがすべてを見てとるのがミックにはわかった。つぶれたセルロイドの人形や、数珠玉《じゅずだま》や、がらくたなど、ラルフの遊び道具が床の上に散らかっている。パパの仕事台の上にはビールがのっており、パパとママの寝るベッドの枕《まくら》は、まるでねずみ色だった。
ウィルソン夫人は、指にはめた結婚指輪を取ったりはめたりしつづけた。その横にひかえたブラノンさんは、いとも落着きはらっている。両脚を組んですわっているのだが、顎《あご》のあたりが青黒く、映画に出てくるギャングみたいに見える。前からミックに対しては、含むところがあるいみたいなのだ。ほかの人たちに話すときとは違った、荒っぽい声で話しかけてくる。前にミックとババーが、カウンターからチューインガムを一箱くすねたときのことを、まだ覚えているからだろうか? やな人だったらありゃしない。
「けっきょく、こういうことになりますわね――おたくのお子さんは、うちのベイビーの頭をわざとねらって撃ったということに」とウィルソン夫人は言った。
ミックは部屋のまん中へ進み出て言った――「そんなの嘘です。あたし、あのときそばにいたんです。ババーはあの鉄砲で、あたしやらラルフやら、まわりじゅうのものを片端からねらってました。それがちょうどベイビーをねらったときに、指先がすべったんです。あたし、そばにいて見てました」
ブラノンさんは鼻先をこすり、悲しそうにミックを見つめた。ほんとにいやな人だ。
「みなさんのお気持はよくわかります――ですから、さっそく要点にはいらせていただきます」
ミックのママは鍵束《かぎたば》をガチャガチャいわせ、パパは大きな手を膝《ひざ》に垂《た》らし、身動きもせずにすわっていた。
「ババーは、そんなことするつもりはなかったんです。ただ……」とミックは言った。
ウィルソン夫人は、指輪を取ったりはめたりしつづけた。「ちょっと待ってちょうだい。いきさつはぜんぶわかってます。裁判にかければ、おたくから最後の一セントまでいただくことだってできるんですから」
パパの顔には何の表情も浮ばなかった。「おことわりしておきますが、訴えていただいても、ろくに取っていただくものもありませんでね。うちにあるものといや……」
「だまってお聞きくださいな」とウィルソン夫人は言った――「おたくを訴えるつもりで、弁護士をつれて来てるわけでもありませんし。バーソロミューさん――つまり、ブラノンさんとあたしとで、ここへくる途中よく話し合って、主《おも》な点で意見が一致しましたの。まず第一に、あたしどもとしては、公明正大な処置をとりたいということ――第二には、まだあの年ごろですから、ベイビーの名を裁判|沙汰《ざた》に巻きこみたくないということですの」
物音一つなく、部屋の中ではだれもがぎごちなく椅子にすわっていた。ブラノンさんだけがミックに中途はんぱな笑顔《えがお》を見せたが、彼女はかたくなに、細めた目で相手を見返した。
ウィルソン夫人はひどく興奮し、タバコに火をつける手がふるえていた。「おたくを訴えるとか何とか、そんなことはしたくありません。あたしはただ、公正な態度をおねがいしたいだけですの。眠り薬をもらってやっと寝つくまで、あの子がさんざん苦しみ泣き叫んだその償いをしてくれとは申しておりません。いくらお金をもらったところで、償いのつくものではありませんし。それに、こんどのこの事件があの子の将来や、あたしどもの計画に与える損害に対しても、償いを求めてはおりません。きっと何カ月かは包帯を巻いてなきゃならないし、夜会のダンスにも行けないし――ひょっとすると、頭に小さな禿《はげ》だって残るかもしれませんけど」
ウィルソン夫人とパパは、催眠術にでもかかったように、互いに見つめ合った。やがてウィルソン夫人は、ハンドバッグに手を伸ばし、中から一枚の紙切れを取出した。
「おたくに払っていただきたいのは、直接あたしどもにかかってくる費用だけです。退院できるまでの病院の個室と、付添い看護婦の費用。それに手術料と医者への支払い――お医者さまへは、こんどはすぐにお払いしようと思ってますの。それから、病院で髪の毛をすっかり剃《そ》られてしまったので、わざわざアトランタまでつれて行ってかけさせたパーマ代も出していただかなくては――髪がもとどおりになったら、もう一度かけてやらなきゃなりませんし。それと、服代とか、そのほかこまごました雑費。わかりしだい、ぜんぶ書き出しておきますわ。ともかく、あたしのほうでもできるかぎり公明正大にしますから、請求書をお届けしましたら、全額を払っていただきたいと思います」
ママは服の皺《しわ》を膝の上でのばし、すばやく小さな溜息《ためいき》をついた。「個室より、共同の子ども部屋のほうがずっといいんじゃないでしょうか。うちのミックが肺炎にかかったときも……」
「うちは個室ですの」
ブラノンさんは白いずんぐりとした両手をさし出し、天秤《てんびん》にでもかけたようにバランスを取った。「まあ一日ふつかすれば、ベイビーもほかのお子さんとのふたり部屋に移れるでしょう」
ウィルソン夫人は、かたくなな口調をくずさなかった。「何度も申しましたでしょ。おたくのお子さんがうちのベイビーをお撃ちになったんですからね。なおるまではできるだけのことをしていただくのが当然ですわ」
「おっしゃるとおりです」とパパが言った――「いまのところまったくの文なしですが――なんとかかき集めてみましょう。わたしどもの弱味につけこむようなおつもりのないことを伺って、ありがたく思っとります。わたしどもも、できるだけのことをいたします」
ミックはおとなたちの話を最後まで聞いていたかったが、ババーのことが気になった。あの子がまっ暗な冷たい木の家にすわり、シン・シン刑務所のことを考えていると思うと、じっとしていられなかった。彼女は部屋を出ると、廊下を通って裏口のほうへ行った。風が吹いており、庭は台所からもれる黄色い四角の灯影《ほかげ》のほかまっ暗だった。振返ってみると、やせた長い手を顔に、ポーシャが身動きもせずテーブルの前にすわっている。庭は寂しく、風がおびえたような影をちらつかせ、暗闇《くらやみ》に哀《かな》しげな物音をひびかせていた。
ミックは樫《かし》の木の下に立った。最初の大枝に手をかけようとしたとき、おそろしい考えが頭に浮んだ。ババーがもういないのではないかという気が、にわかにしてきたのだ。彼の名を呼んでみたが、返事はなかった。ミックは猫のようにすばやく、物音を立てず木に登った。
「ババー! いるの!」
箱の中を探ってみるまでもなく、ババーのいないのがわかった。それでも念のため箱の中にもぐりこみ、隅《すみ》ずみを探ってみた。ババーはいなかった。先ほどミックが帰ったあと、すぐに木からおりたにちがいない。いまごろはきっと、一目散に逃げているところだ。利口な子だけに、どこまで行けばつかまえられるか見当もつかない。
ミックは大いそぎで木からおり、玄関先へ駆けつけた。ウィルソン夫人が帰るところで、全員がおもての階段のところまで見送りに出て来ていた。
「パパ!」とミックは言った――「ババーのこと、なんとかしなきゃ。逃げてしまったの。きっともうこの近所にはいないわ。みんなですぐ捜しに出なきゃだめよ」
どこへ捜しに行けばいいか、どこから手をつければいいのか、だれひとり知らなかった。パパは露地を片端からのぞきこみ、通りを行ったり来たりしている。ブラノンさんは、ウィルソン夫人を乗せるタクシーを電話で呼び、そのあと捜索に手を貸すために残った。シンガーさんはポーチの手すりにすわっていたが、落着いているのは彼ひとりだった。みんなが、ババーを捜すにいちばんいい場所を考え出すミックの意見を待っていた。だが町は広く、相手はとてもすばしこい子だった。ミックもどうしていいかわからなかった。
ひょっとすると、シュガー・ヒルのポーシャの家へ行ったことも考えられる。ミックはポーシャが両手で顔をかかえ、テーブルに向ってすわっている台所へ戻った。
「ひょっとしてあの子、おまえの家へ行ったんじゃないかって気がすんだけど。捜すの手つだってよ」
「あたいもうかつだったこと! そりゃきっと、びくびくしてからに、あたいんちに隠れとるにちがいないわ」
ブラノンさんが車を借りて来た。ブラノンさんとシンガーさんとパパが、ミックやポーシャといっしょに車に乗りこんだ。ババーの気持は、ミックのほかだれも知らなかった。あの子がほんとうに命がけで逃げ出したことは、だれひとり知らないのだ。
ポーシャの家は、床の上に格子縞《こうしじま》の月の光りがさしこんでいるだけで、まっ暗だった。中へ一歩はいったとたん、二部屋の家にだれもいないのがわかった。ポーシャは入口の明りをつけた。部屋には黒人特有の匂《にお》いがあり、壁一面に貼《は》られた切り抜きの絵や、レースのテーブルかけや、ベッドにのったレースの枕やらで雑然としていた。ババーはいなかった。
「あの子、ここへ来たよ」と、ポーシャは出しぬけに言った――「だれかが来たのはたしかだよ」
シンガーさんが、台所のテーブルにのった鉛筆と紙きれを見つけた。シンガーさんが大いそぎで読んだあと、みんなもそれを眺めた。丸っこい不ぞろいな字体だが、頭のいいババーだけに、綴《つづ》りの誤りも一カ所だけだった。書き置きにはこう記《しる》されていた――
[#ここから1字下げ]
ポーシャどの
ぼくはフロラダへいきます。みんなにもつたえてください。草々
ババー・ケリー
[#ここで字下げ終わり]
だれもが驚き、途方に暮れて立ちつくした。パパは戸口から外のほうを眺め、気がかりそうに親指で鼻をほじった。みんないますぐにも車にとび乗り、南へ通じるハイウェーに向って走り出そうとしていた。
「ちょっと待って」とミックは言った――「まだ七つだけど、本気で逃げる気なら、ほんとの行き先を言わないくらいの知恵はあると思うの。フロリダっていうのはごまかしだわ」
「ごまかし?」とパパが言った。
「そうよ。ババーがよく知っているとこって、二つしかないもの。一つはフロリダで、も一つはアトランタ。あたしとババーとラルフとで、よくアトランタ街道まで出たことがあるの。街道まで出る道は知ってるから、きっとそっちへ向ったと思うわ。アトランタへ行けたらこんなことをするんだなんて、いつも言ってたから」
一行は、また車のところまで出て行った。うしろの席に乗りこもうとしたとき、ポーシャがミックの肘《ひじ》をつねった。「ババーが何をしたと思う?」と、ポーシャは声を落して言った――「だれにも言うたらあかんよ。あの子あたいの鏡台から、金の耳飾りを持ってっちもうたの。うちのババーが、あたいにそんなことするなんて思わなんだわ」
ブラノンさんが車を出した。ババーを捜して通りを右に左に見やりながら、一行はゆっくりと車を走らせ、アトランタ街道のほうへ向った。
ババーにかたくなな、扱いにくいところのあったのは事実だった。だがきょうの彼のやり口は、これまでとまるで違っている。これまでのあの子は、けっしてひきょうな真似《まね》などしたことのないおとなしい子だった。だれかが気を悪くすると、あの子はいつも申しわけなさそうにおどおどした。それがどうして、きょうのような仕打ちができたのだろう?
一行はひどくゆっくり車を走らせ、アトランタ街道へ出た。やがて家並がとぎれ、暗い野原と森に出た。途中あちこちで車をとめては、だれかババーを見かけたものはないかきいてまわった。
「コール天の半ズボンをはいた、はだしのちっちゃな子を、このへんで見かけませんでしたか?」だが、十マイルばかり行っても、ババーの姿を見かけたり、彼に気づいたものはなかった。車のあいた窓から、冷たい風が強く吹きこみ、もう夜もふけていた。
さらにもうすこし先まで車を進めたあと、一行はまた町のほうへ引返した。パパとブラノンさんは、二年級の生徒のところをぜんぶ当ってみようとしたが、ミックの意見で車をまわし、もう一度アトランタ街道へ戻ってみることになった。そのあいだにも、彼女の胸にはババーに言った言葉がよみがえってきた。ベイビーが死んでしまったとか、シン・シン刑務所とか、ローズ刑務所長だとか。ちょうどババーの身体《からだ》にぴったりの小さな電気椅子とか、地獄とか。暗闇《くらやみ》の中では、ひときわおそろしくひびいたものだ。
町から半マイルほどゆっくり車を進めたとき、とつぜんババーの姿が目にはいった。車のライトが、彼の姿を真正面からはっきりと照らし出した。奇妙なことだった。道の端を歩きながら、親指をつき出してヒッチハイクを求めているのだ。腰のバンドには、ポーシャの肉切り庖丁《ぼうちょう》をつきさしている。ひろびろとした暗い街道に立った彼は、いかにもちっぽけに見え、七歳とは思えず五歳ぐらいの感じだった。
車がとまると、ババーは乗ろうとして駆けて来た。中に乗っているのがだれか、わからなかったらしい。いつもおはじき玉のねらいをつけるときのように目を細めている。パパが襟首《えりくび》をとっつかまえた。ババーは拳《こぶし》を振りわまし、足で蹴《け》った。あげくに肉切り庖丁を手に握った。パパはあやうくそれをひったくった。まるで罠《わな》にかかった小さな虎《とら》のようなあばれ方だったが、とうとう車の中へ押しこまれた。家までの帰り道、パパは彼を膝《ひざ》にのせてかかえていた。ババーはどこにも寄りかからず、こわばった姿勢をくずさなかった。
家の中へは、みんなで引きずりこまねばならなかった。近所の人たちや下宿人も総出で、この騒ぎを見に集まった。おとなたちはババーをとっつきの部屋へ引きずりこんだが、部屋にはいると彼は隅っこへ引っこみ、これから全員を相手に戦おうとでもいうように、両手の拳を固く握り、細めた目でひとりひとりを順ににらみつけた。
家の中にはいってから、ひとことも口をきかなかったババーが、にわかに叫びはじめた――
「ミックがやったんだよォ! ぼくじゃないってば。ミックがやったんだってば!」
こんな悲鳴は聞いたこともなかった。首の青筋を立て、拳を小石のように固くかためている。
「つかまるもんか! つかまってたまるもんか!」と、彼は叫びつづけた。
ミックは彼の肩をゆさぶった。前に話したことは作り話なんだ、と言ってやった。ババーもやっと姉の言葉を理解したが、それでもまだわめきやめようとしない。何をもってしても、その泣き叫びをやめさせることはできないようだった。
「みんなきらいだ! みんな大きらいだよ!」
だれもまわりを囲んでいるばかりだった。ブラノンさんは鼻をこすり、床に目を落した。そのうち、そっと足音をしのばせて出て行ってしまった。ただシンガーさんひとりだけが、事の次第をすっかり知っているように見えた。あのすさまじい悲鳴が聞えなかったためかもしれない。いつものように穏やかな顔だ。その顔を見るたびに、ババーは落着いてくるようだった。シンガーさんはほかのだれとも違っていた。こんなときには、みんなもいっそシンガーさんにまかせてしまったほうがいいかもしれない。分別もたっぷりだし、ふつうの人が知らないようなことも知っていたからだ。ただじっと見つめているだけだったが、しばらくするとババーはすっかり落着き、パパにつれられて床についた。
床についても、ババーはうつ伏せになって泣きつづけた。長く大きくしゃくり上げて泣くので、身体じゅうがわなないた。一時間も泣きつづけたので、三つの部屋にいるものはだれも寝つけなかった。ビルは居間のソファへ行き、ミックはババーのベッドに寝てやった。彼はミックが手をふれようとしても、抱き寄せようとしてもはねつけた。だがやがて、一時間ほどすすり泣きしゃくり上げたあげく、いつか寝ついてしまった。
ミックは、長いあいだ目をさましていた。暗がりの中で、彼女はババーに両腕をまわし、しっかりと抱きしめた。身体じゅうにさわり、やたらと口づけをした。とても小さなやわらかな身体で、男の子らしい塩っからい匂いがした。おさえようもないはげしい愛情がこみ上げ、両腕がだるくなるまで抱きしめずにはいられなかった。心の中で、彼女はババーと音楽とをいっしょに考えていた。ババーには、どんなによくしてやってもしたりないような気がした。もう二度と、叩いたりからかったりはすまい。ミックは一晩じゅう、ババーの頭を抱いて寝た。朝目をさましたとき、ババーの姿はなかった。
その夜以来、ババーをからかう機会はほとんどなくなってしまった――ミックにとっても、他のだれにとっても。ベイビーを撃ってからというもの、もはやあのかわいいババーではなくなってしまったのだ。いつも口を固く閉じ、だれともふざけまわったりしなくなった。たいていは裏庭か、石炭小屋にただひとりですわっていた。クリスマスの時期も、しだいに近づいてきた。ミックはほんとうはピアノがほしかったが、むろんそんなことは何も口にしなかった。みんなには、ミッキー・マウス時計がほしいと言ってあった。みんながババーに、サンタクロースから何をもらいたいときいても、彼は何もほしくないと答えた。彼はおはじき玉やジャック・ナイフを隠してしまい、お話の本もだれにもさわらせなかった。
あの夜以来、もうだれも彼のことをババーと呼ばなくなった。近所の大きな子どもたちは、≪ベイビー殺しのケリー≫と呼びはじめた。だが、彼はだれともほとんど口をきかなかったし、何事にもあまり気にならないようだった。家族のものは、彼をジョージと本名で呼んでいた。はじめのうち、ミックはババーという名が捨てられず、捨てる気もなかった。しかし、おかしなことに一週間もすると、彼女もほかの連中と同じように、ジョージとごく自然に呼んでいた。だがそれはもう別な子だった――ジョージは。いつもずっと年上の子のように自分ひとりで行動し、だれも、ミックですら、その本心は測りかねた。
クリスマスの前の晩には、彼といっしょに寝てやった。彼は物を言わず、暗闇の中に横たわっていた。「あんまり依怙地《えこじ》になるのはおよし。三人の賢者の話や、オランダの子どもたちは靴下をぶら下げるかわりに、木靴を出しておくなんてお話をしようよ」
ジョージは答えなかった。彼はそのまま眠ってしまった。
翌朝、ミックは四時に起き、家族ぜんぶを起こしてまわった。パパがとっつきの部屋に火を起し、それからみんなでクリスマス・ツリーのところまで、各自の贈物を見に集まった。ジョージはインディアンの衣装《いしょう》、ラルフはゴムの人形。ほかの連中は、全員衣料品だった。ミックは靴下をぜんぶひっくりかえし、ミッキー・マウス時計を捜してみたが、そんなものははいっていなかった。彼女への贈物は、茶色の靴と、桜んぼキャンデーの箱だった。まだ暗いうちに、ミックとジョージは通りに出てくるみの実を割り、爆竹を鳴らし、二段につまった桜んぼキャンデーをぜんぶ食べてしまった。まわりが明るくなるころには、ふたりともすっかり胃がもたれ、ふらふらになっていた。ミックはソファにのびてしまった。彼女は目を閉じ、あの≪奥の部屋≫へはいって行った。
朝の八時、コープランド医師はデスクに向い、窓からさしこむさむざむとした朝の光をたよりに、一束の書類に目を通していた。そのそばには、葉のこんもりとしたヒマラヤ杉が、緑も濃く天井まで伸びている。医者を開業した最初の年から、彼は例年クリスマスの当日にはパーティを催すことにしており、今年も準備はもうすっかりととのっていた。何列もの椅子やベンチが、とっつきの部屋の壁ぞいに並んでいた。家じゅうに、焼きたてのケーキと湯気を立てているコーヒーの、甘く香ばしい匂《にお》いが漂っている。父親の診察室にはいったポーシャは、壁に寄せたベンチにすわり、両手で顎《あご》をささえて、身体《からだ》をほとんど二つ折りにしていた。
「とうさん、五時からそやって机にしがみつきとおしでないの。べつに起きてなくたっていいんだもん。パーティがはじまるまで、寝てたらどう」
コープランド医師は、分厚い唇《くちびる》を舌でしめした。気にかかることばかりで、ポーシャに注意を払っていられなかった。娘がそこにいるだけで、彼はじりじりしてきた。
とうとう、彼はいらだたしげに娘のほうを向いた。「何でしょげてるんだね?」
「心配ごとがいろいろあんの。一つには、ウィリーのことが心配で」
「ウィリーが?」
「だってさ、あの子は毎週日曜ごとに便《たよ》りをくれてたんよ。月曜か火曜には手紙がついたんよ。だのに、先週は便りがないの。そりゃまだ本気で心配しているわけではないけど。なんせ、気だてのええやさしい子だから、あんじょうやってくれてるとは思うけど。刑務所から屋外作業組に移されて、どっかアトランタの北のほうへ労働に行くというとったわ。二週間前にこの手紙をよこしてさ、クリスマスには教会の礼拝に出たいから、背広と赤いネクタイを送ってくれって」
「ウィリーが言ってきたのはそれだけか?」
「B・F・メイソンさんもおんなじ刑務所にいるって。そいから、バスター・ジョンソンにもぐうぜん会《お》うたって――ちっちゃいときの友だちの。そいから、おねがいだからハモニカを送ってくれっていうてきたわ、ハモニカがねえと寂しゅうてならんて。そらもう、何から何まで送ってやったわ。チェスだって、砂糖のかかったお菓子だってさ。ほんと、あと二、三日のうちに便りがありゃええんだけど」
コープランド医師の目は、熱のために輝いていた。しかし彼は手を休めなかった。「それじゃ、そのことはまたあとで相談しよう。もう遅うなってきた。これを片づけてしまわんとならんからな。おまえは台所へ行って、準備がぜんぶできているか見てきておくれ」
ポーシャは立ち上がり、明るく楽しそうな顔を見せようとつとめた。「あの五ドルの懸賞の結果はもうきまったの?」
「いやまだ、どういう選び方をするのがいいばんいいか、きめかねているんだ」と、医師は注意深く言った。
彼の友人でニグロの薬剤師が、毎年、与えられた課題でいちばん秀《すぐ》れた論文を書いたハイスクールの生徒に、五ドルの賞金を出していたのだ。審査はもっぱらコープランド医師ひとりにまかされ、受賞者はクリスマス・パーティの席上発表されることになっていた。今年の課題は、『黒人の社会的地位向上へのわたしの抱負』だった。考慮に値する論文は、一つしかなかった。だが、それもあまりに幼稚で底が浅いため、それに賞をあたえることは当を得ていないようだった。コープランド医師は眼鏡をかけ、注意を集中してもう一度論文を読みなおしてみた――
[#ここから1字下げ]
わたしの抱負はこうだ。まずわたしは、タスキーギ大学にはいりたいが、ブッカー・ワシントンやカーヴァー博士のような人になりたいとは思わない。やがてじゅうぶん教育を修めたあとは、スコッツボロ兄弟を弁護した弁護士のような、りっぱな弁護士になる修業をはじめたい。わたしは、白人を相手に訴える黒人の事件だけを手がけるつもりだ。わが黒人種は、あらゆる点あらゆる方法で毎日のように、いかに劣っているかを見せつけられている。だが、それは間違いなのだ。われわれは新進の民族なのだ。白人の重圧の下に、いつまでも汗しているわけにはゆかない。いつまでも、他人に実りを刈り取らせるため種をまいてはいられないのだ。
イスラエルの子たちを率い、圧制者の国から出たモーゼのように、わたしはなりたい。わたしは≪黒人指導者と学者の秘密組織≫を作りたい。すべての黒人は、こうしたえりぬきの指導者のもとに結集し、革命の準備をするのだ。わが民族の苦難に同情し、あるいは合衆国の分裂をねがう世界の他の国ぐには、われわれに援助の手をさしのべるであろう。すべての黒人の結集によって革命が起り、最後に黒人種は、ミシシッピ河以東とポトマック河以南の領域を獲得するであろう。わたしは「黒人指導者と学者の組織」の支配の下に、強力な国家を打建てるつもりだ。白人にはいっさい旅券を許さず――領域内に侵入した白人には、法律的権利は認められない。
わたしは全白人種を憎み、黒人種がその苦難のすべてに対し復讐《ふくしゅう》をなしとげられるよう、常に努力するつもりだ。これがわたしの抱負である。
[#ここで字下げ終わり]
コープランド医師は、熱気《ねつけ》が血管内を熱く走るのを感じた。デスクにのった置時計の時を刻む音が大きすぎ、神経がいらだった。こんな突拍子もない考えを持った少年に、どうして賞を与えられよう? いったいどう決心したものだろう?
ほかの論文は、いずれもしっかりした芯《しん》にかけていた。若者たちはものを考えようとしないのだ。ただそれぞれの抱負について述べただけで、社会的地位向上の部分ははぶいてしまってある。ただ一つだけ、重要な点が目についた。ぜんぶで二十五編の論文のうち九編が、「わたしは召使にはなりたくない」という文章ではじまっているのだ。そのあとは、飛行機の操縦がしたいとか、プロのボクサーになりたいとか、牧師やダンサーになりたいとか、だった。ある少女の唯一の抱負は、貧しい人たちにやさしくすること、だった。
医師を当惑させた論文を書いたのは、ランシー・デイヴィスだった。最後の紙をめくり、署名を見るまでもなく、書き手がだれかはわかっていた。ランシーには、前に世話を焼かされたことがあったからだ。ランシーの姉は十一歳で女中奉公に出たが、奉公先の中年をすぎた白人の主人に犯されてしまった。それから一年ばかりのち、ランシーを診《み》てもらいたいという緊急の呼出しがあった。
コープランド医師は、患者全員の記録がしまってある、寝室の整理箱のところへ行った。医師は「ダン・デイヴィス夫人ならびにその家族」と記《しる》されたカルテを取出し、いろいろな書きこみをずっと見てゆき、ランシーの名のところまできた。日づけは四年前になっていた。ランシーについての書きこみは他のものよりていねいで、しかもインクで書いてあった――「十三歳、思春期をすぐ。自己去勢、失敗。性意識過多、甲状腺《こうじょうせん》肥大。二度の往診中はげしく泣く。痛みは少ない。口達者――話し好きなれど偏執病の気味。環境、一つの例外をのぞき、可。ルーシー・デイヴィスの欄参照。母親、洗濯婦《せんたくふ》。聡明《そうめい》にして、監視ならびにあらゆる助力の価値あり。接触を保つこと。診療費一ドル(?)」
「今年の決定はむずかしいよ。しかし賞は、やはりランシー・デイヴィスにやらねばならんだろう」と、彼はポーシャに言った。
「そっちのほうがきまったら――こっちへ来て、プレゼントのことを教えてもらわんと」
パーティでみんなにくばるプレゼントが、台所にそろえてあった。食料品や衣料品のはいった紙包みが並び、どれもみな赤いクリスマス・カードがついていた。来たいものはだれでもパーティに招かれたが、出席予定者はあらかじめここへ寄って、廊下のテーブルに置いてある来客名簿に名前を書き入れるか、友人に頼んで書いてもらっていた。紙包みは床の上に積み重なっていた。ぜんぶで四十個ほどの包みがあったが、受取り手の必要に応じて、包みの大きさもまちまちだった。くるみか干ぶどうの小さな箱だけのプレゼントもあれば、男でも持ち上げられないくらい重い箱もあった。台所はいろいろないい品でいっぱいだった。コープランド医師は戸口に立ち、得意そうに鼻をうごめかした。
「今年はたいしたもんじゃない! みんなも気前ええこと」
「とてもとても! これでは必要な数の百分の一にもならんよ」
「そうら、またはじまった! とうさんがうれしゅうてならんことくらい、ようわかっとるわ。ただ、うれしいとこを人に見せたくねえってだけで。なんぞ文句の種を見つけねえではいられん人だもん。ともかく、豆が二斗ばかしと、メリケン粉が二十|袋《たい》、豚肉に|ぼら《ヽヽ》が十五ポンドばかし、卵が六ダース、荒ひきとうもろこしがたくさんに、トマトと桃が瓶《びん》にたんとあるわ。それからりんごに、みかんが二ダース。服もあるし。敷ぶとんが二枚に毛布が四枚。ほんと豪勢なもんだわ!」
「バケツに落した一滴にすぎんさ」
ポーシャは、部屋の隅《すみ》の大きな箱を指さした。「あすこの――あれはどないするつもり?」
箱の中はがらくたばかりだった――首のとれた人形とか、きたないレースとか、兎《うさぎ》の毛皮とか。コープランド医師は、その一つ一つをしげしげと眺《なが》めた。「捨ててはいかんよ。何にでも使い道はあるもんだ。こうしたものしか持ってこれなかったお客からの贈物だ。いずれ何とか使い道を考えるからな」
「そいじゃ、とうさんがここの箱やら袋やらを調べてくれりゃ、あたいが紐《ひも》でくくりはじめるんだけど。これじゃ、台所じゅう足の踏み場もねえもん。もうそろそろ、みんなお茶にやって来るころだし。このプレゼントは、裏の階段と裏庭に置いとくわ」
すでに朝日がのぼっていた。よく晴れた寒い日になりそうだった。台所には、いい匂《にお》いがいっぱいにあふれていた。コーヒー鍋《なべ》はストーブの上にかかり、戸棚には砂糖ごろものかかったケーキがぎっしりつまっていた。
「白人からきた贈物は一つもねえんだね。黒人からのばかしか」
「いや、そうとばかりは言えんよ。石炭代に使ってくれと言って、シンガーさんが十二ドルの小切手をくだすったからな。きょう来ていただくよう、招待しておいたが」
「ひゃあ! 十二ドルもだって!」
「およびするのが当然だと思うたもんでね。あの人は、ほかの白人とは違うからな」
「そうよ。だけど、あたい、ウィリーのことが気になってならんわ。きょうのこのパーティにこれたら、どんなにええか思うて。せめて便りでもあればなあ。それだけがもう、気になって。でも、こうはしてられねえ! こんな話はやめて、準備をはじめんと。もうそろそろお客の来るころだわ」
時間はまだたっぷりあった。コープランド医師は顔を洗い、念入りに着がえをした。そしてしばらくのあいだ、客がぜんぶそろったときの挨拶の練習をしようとした。だが、期待感と気ぜわしさのため、集中することができなかった。やがて十時になると、最初の客が現われ、三十分とたたぬうちにぜんぶの客が集まった。
「クリスマスおめでとう!」と、郵便配達夫のジョン・ロバーツが言った。彼は片方の肩をそびやかし、白い絹のハンカチで顔をぬぐいながら、さもうれしそうに込みあった部屋の中を歩きまわっている。
「クリスマスおめでとう!」
家の前はたいへんな人だかりだった。玄関がいっぱいではいれないため、ポーチや庭のあちこちにもかたまっている。押したり乱暴なまねをするものはなく、行儀のいい混乱だった。友人たちは互いに呼び合い、新しい顔ぶれは紹介され、手を握り合った。子どもたちや若い連中は一団となり、台所のほうへ移動した。
「クリスマスおめでとう!」
コープランド医師は、とっつきの部屋のまん中に置いたクリスマス・ツリーのそばに立っていた。彼はめまいを覚えた。まごつきうろたえながら握手をし、挨拶を返した。きれいにリボンをかけたのや、ただ新聞紙にくるんだのや、個人的な贈物が彼の手に押しこまれた。しかし、置き場所がなかった。空気はよどみ、人声はしだいに高まった。さまざまな顔がまわりを渦巻き、どの顔も見分けられなかった。だがすこしずつ、落着きが戻ってきた。両腕にかかえたプレゼントを置く場所も見つかった。めまいも遠のき、部屋のようすもはっきりとしてきた。彼は眼鏡をかけなおし、まわりを見まわしはじめた。
「メリー・クリスマス! メリー・クリスマス!」
燕尾服《えんびふく》を着た薬剤師のマーシャル・ニコルズは、ごみトラックで働いている娘のつれあいと話し合っている。ホーリー・アセンション教会の牧師も来ている。他の教会からも、執事がふたり来ていた。はでな格子縞《こうしじま》の背広を着たハイボーイは、愛想よく人込みの中を歩きまわっている。大柄でダンディーな若者たちが、明るい色合いの長いドレスを着た娘たちに会釈している。子どもづれの母親も来ていれば、けばけばしい色のハンカチに唾《つば》を吐く、落着いた老人たちもいる。部屋は暖かく、ざわついていた。
シンガーさんが戸口に立った。おおぜいがまじまじと彼を見つめた。コープランド医師は、はたして彼に歓迎の挨拶をしたかどうか、思い出せなかった。唖《おし》はただひとり離れて立っている。その顔は、どこかスピノザの絵に似ていた。ユダヤ人特有の顔。彼が来てくれたのはうれしかった。
ドアも窓もあけ放たれていた。風が部屋を吹き抜け、暖炉の火がごうごう音を立てた。ざわめきも静まった。椅子席はぜんぶふさがり、若い連中は床の上に何列にもすわっていた。廊下もポーチも庭までも、静かな客でいっぱいだった。彼の挨拶をする時が来たのだ――だが、何を話すつもりだったのだろう? うろたえが喉《のど》もとをしめつけた。部屋じゅうが待っていた。ジョン・ロバーツの合図で、あらゆる物音が静まった。
「みなさん」と、コープランド医師は気乗りせぬ口調で話しはじめ、ちょっと間をおいた。とたんに、堰《せき》を切ったように言葉があふれ出てきた――
「クリスマスを祝うため、この部屋にこうして集まっていただくようになって、今年は十九年目になります。われわれ同胞が、はじめてイエス・キリスト誕生について聞いたとき、それは暗黒の時代でありました。わが同胞は、この町の裁判所前広場で、奴隷として売られていたのです。そのとき以来、われわれは数えきれぬほどたびたび、キリストの生涯に関する物語を聞き、話してきました。そこできょうは、これまでとは違ったお話をすることにします。
いまから百二十年前、キリストとは別な人が、ドイツと呼ばれる国で生れました――大西洋の向うの、ずっと遠い国であります。この人は、キリストと同じように物事をよく理解していました。しかし彼の考えは、天国とか死んだのちの世界とは関係ありませんでした。彼の使命は、生きている人たちを救うことにあったのです。死ぬ日まで、働き苦しみ働きつづける無数の人間が対象でした。他人《ひと》さまの洗濯を引き受け、料理人として働き、綿をつみ、工場の熱い染色桶《せんしょくおけ》の前で働く人たちが目標でした。つまり、われわれが彼の使命だったわけです。その人の名はカール・マルクスといいました。
カール・マルクスは賢い人でした。勉強し、働きして、自分を取巻く世界を理解しました。世界は二つの階級に、貧乏人と金持の二つに分れている、と彼は言いました。金持ひとりについて、この金持をもっと金持にするため働いている千人の貧乏人がいるのです。彼は世界を、ニグロとか白人とかシナ人とかに分けませんでした――カール・マルクスにとっては、何百何千万という貧乏人のひとりであるか、少数の金持のひとりであるかが、人間にとって皮膚の色などよりもっと大切に思えたのです。カール・マルクスの一生を賭《か》けての使命は、全人類を平等にし、貧乏人も金持もなく、だれもがそれぞれの分け前にあずかれるよう、世界じゅうの莫大《ばくだい》な富を分けることでした。カール・マルクスの残したおきての一つは、こう教えています――『能力に応じてめいめいから、必要に応じてめいめいに』」
皺《しわ》の寄った黄ばんだ手が、廊下からおずおずと上がった。「そりゃ、聖書に出てるマルクスのことかね?」
コープランド医師は説明した。彼は二つの名を書き、時代の違いを説明した。「ほかに質問はありませんか? どうかどなたでも自由に討論をはじめ、討議に加わっていただきたいと思います」
「マルクス氏は、キリスト教教会委員だったんでしょうな?」ときいたのは牧師だった。
「人間の魂の神聖さを信じていました」
「白人だったかね?」
「そうです。しかし、自分を白人とは思っていませんでした。彼は、『人間的なるもので、わたしと相容《あいい》れぬものは何一つとしてない』と言っております。彼は自分を、すべての人間のきょうだいと考えていました」
コープランド医師は、先ほどよりもやや長い間をおいた。彼を囲んだたくさんの顔は待っていた。
「いったいある物の価値、われわれが店で買う商品の価値とは何でしょう? 価値はただ一つのことにかかっています――つまり、それを作り栽培するに要した労力です。煉瓦造《れんがづく》りの家がキャベツより高いのはなぜか? それは、一軒の煉瓦家を作るには、多くの人間の労力を要しているからです。煉瓦やモルタルを作った人たちもいれば、床板を作るための木を切った人たちもいます。煉瓦の家の建築を、かげながら応援した人たちもいます。家の立つ敷地へ、資材を運搬した人たちがそうです。その資材を運ぶ手押し車や、トラックを作った人たちがそうです。そして最後に、実際に家を建てた職人たち。煉瓦の家一軒建てるには、じつにじつにおおぜいの人手を要するのです――ところがキャベツならば、だれでも自分の家の裏庭に栽培することができます。つまり煉瓦の家は、作る手間がたいへんなので、それだけキャベツより高いというわけです。したがってこの煉瓦の家を買う人は、それを作るにかかった労力に対し金を支払っていることになります。だが、その代金を受取るのはだれでしょう?――利益を受取るのは? それは実際に働いたおおぜいの職人たちではなく、彼らをとりしきっているボスたちです。この関係をもっと先まで調べてゆくと、そのボスたちの上にはさらにボスがおり、そのまた上にはもっとえらいボスのいることがわかるでしょう――そんなわけで、金になる物ならば何でも作り出すこのからくりぜんたいを実際に管理する人間、その数はごく少ないのです。ここまでのところはわかってもらえますか?
「ようわかるとも!」
だが、ほんとうにわかってくれたのだろうか? 彼はもう一度最初に戻り、いま言ったことをくり返した。今度はいくつかの質問が出た。
「だけんど、煉瓦をこさえる粘土にゃ金がかからねえやね? だのに、土地を借りて作物を作るにゃ金がかかるっちゅうのは、どないわけだかね?」
「それはいい質問です」とコープランド医師は言った――「土地、土、森林――こういったものは天然資源と呼ばれています。人間には天然資源は作れない、人間はただそれらを開発し、仕事に役立てるだけです。したがって、こういったものを、だれか特定の人間なり一群の人びとが所有すべきでしょうか? 収穫を得るための土地や空間や日光や雨を、ひとりじめにしていいでしょうか? こうしたものを、『これはおれのものだ』と言って、他人に使わせないようなことをしていいでしょうか? したがってカール・マルクスは言っています、こうした天然資源は万人のものであり、小さく区分けすることなく、それぞれの働く能力に応じみんなで使うべきものだと。つまり、こういうことです。たとえばひとりの男が死に、四人の息子《むすこ》に騾馬《らば》を一頭残したとします。息子たちは、騾馬を四等分して、それぞれ四分の一ずつもらおうとは思わないでしょう。騾馬を共有し、いっしょに使おうとするでしょう。マルクスの言っている、すべての天然資源はひとかたまりの金持によってではなく、世界じゅうの労働者によって所有さるべきである、というのはまさにこのことなのです。
この部屋に集まったわれわれは、私有財産など持っておりません。ひとりやふたりは持ち家に住み、一、二ドルのたくわえがあるかもしれませんが――みな生きてゆくことに直接役立たないようなものは何も持っていません。われわれの持っているのは、自分たちのこの身体《からだ》だけです。そしてこの身体を、生きてゆく日ごとに売っているのです。毎朝仕事に出かけるとき、終日働きつづけるとき、われわれは身体を売っているのです。売らざるをえなくされているのです。どんな値であり、どんな時であれ、どんな目的のためであれ、食べそして生きてゆくためには、どうしても身体を売らなくてはならないのです。しかもそれに対し支払われる報酬は、他人の利益のためさらに労働をつづけるのにやっとのものでしかありません。今日、われわれは裁判所前の広場で壇上にのせられ、売買されることはなくなりました。しかし、生きているあいだじゅう、われわれの力を、時間を、魂を、売らざるをえなくされているのです。奴隷の状態から解放されたのも束《つか》の間《ま》、またまた別の奴隷状態に引きこまれたのです。これが自由でしょうか? これでもまだ自由人でしょうか?」
前庭から、太い声が叫んだ。「まったくそのとおりだ!」
「世の中はそうなっとるわ!」
「しかも、この奴隷状態にあるのはわれわれだけではありません。世界じゅうにまだ何百万というさまざまな色、人種、信条のこのような人たちがいます。このことを、われわれは忘れてはなりません。われわれの中には、貧乏な白人たちをきらうものが多く、また先方でもわれわれをきらっております。この町で言えば、河ぞいに住んでいる工場労働者たちです。われわれとほとんど同じくらい、貧困を味わっている人たちです。この憎しみは大きな悪であり、そこからはいかなる善も生れてきません。われわれはカール・マルクスの言葉を思い出し、その教えにしたがって真理を見いださねばなりません。貧困という不公平によってわれわれは結集し、切り離されてはならないのです。われわれは地上のあらゆるものを、労働によって価値あらしめていることを忘れてはなりません。こうしたカール・マルクスの説く重要な真理を、われわれは常に心にとどめ、忘れてはならないのです。
ですが、みなさん! いまこの部屋につどうわれわれ――われわれニグロには、われわれだけの使命があります。われわれの中には力強い真の目的があり、もしこの目的をしくじるならば、永遠に取返しはつかないでしょう。それでは、この特別な使命とはどんなものか、それを考えてみましょう」
コープランド医師は、ワイシャツの襟《えり》をゆるめた。喉《のど》もとをしめられるような気がしたのだ。悲痛なまでの愛《いと》おしさが胸いっぱいにあふれ、こらえきれないくらいだった。彼は、しんと静まった客たちを見まわした。彼らは待っていた。庭にいる客もポーチの客も、部屋の中の客と同様、鳴りをひそめて聞き入っている。つんぼの老人は両手を耳に当てがい、身体を乗り出している。むずかる赤ん坊におしゃぶりをくわえさせ、黙らせている母親もいる。シンガーさんは、熱心なようすで戸口に立っていた。若い連中は、大部分床にすわっていた。その中にはランシー・デイヴィスもまじっていた。少年の唇は青ざめ、神経質にぴくついた。両腕でしっかりと膝《ひざ》を抱き、若い顔が不機嫌《ふきげん》な表情を浮かべている。部屋じゅうの目が見守り、一同の視線には真理への飢えが感じられた。
「本日は、「黒人の社会的地位向上へのわたしの抱負」という課題で、もっとも秀《すぐ》れた論文を書いたハイスクール生徒に、五ドルの賞金を授与いたします。本年度の賞金は、ランシー・デイヴィス君に贈られることになりました」コープランド医師は、ポケットから封筒を取出した。「申すまでもないことですが、この賞の価値は賞金の額にだけあるものではなく――賞にこめられた尊い期待と信頼にあります」
ランシーはぎこちなく立ち上がった。不機嫌そうな口もとがふるえている。彼は一礼をして、賞を受取った。「論文を読みますか?」
「いや。ただ今週中に、いつか話しに来てくれたまえ」とコープランド医師は言った。
「はい」部屋はまた静まった。
「『わたしは召使にはなりたくない!』この願いを、わたしは何度もくり返し、今年の論文の中に読み取りました。召使だって? 召使なんて、千人のうちひとりくらいしかなれないじゃないか。どうせおれたちは働きゃしない! だから奉公もしてない!」
部屋の中に起った笑い声には、不安なひびきがあった。
「しかし、よく聞いてください! われわれ五人のうちひとりは、道路建設や町の衛生設備の管理に従事するなり、製材所や農場で働くなりしています。同じ五人の中のもうひとりは、何の仕事も得られないでいます。しかし残りの三人――われわれ同胞の大部分はどうでしょう? 自分の食べる物も調理できない人たちのために、料理をしてやっている人も多いでしょう。たったひとりかふたりの人間の楽しみのために、花壇の世話を一生つづける人も多いでしょう。りっぱなお屋敷のすべすべした蝋引《ろうび》きの床を、せっせと磨《みが》く人も多いはずです。あるいは、自分で運転もできないほど怠惰なお金持のために、自動車を運転したりもします。つまりわれわれは、だれの役にも立たない何千という仕事をして、一生をすごしているのです。せっせと働き、その労力はぜんぶむだになってしまうのです。それが奉仕でしょうか? いや、それは奴隷の仕事です。
われわれは働く、だがわれわれの労力はむだに消えてしまう。われわれは奉仕することを許されていないのです。けさここに来ておられる生徒諸君は、わが民族の恵まれた少数を代表しておられます。われわれの大部分は、学校へ行くことすら許されていないのです。諸君ひとりひとりごとに、自分の名前も満足に書けない若者が十何人といるのです。われわれには、学問と知恵の尊厳が与えられていないのです。
『能力に応じてめいめいから、必要に応じてめいめいに』ここに集まったわたしたちはみな、真の困窮の苦しみを知っています。それはたいへんな不公平です。ですが、それよりもさらに苦い不公平があります――能力に応じて働く権利を認められないということです。一生を無益に働きつづけるということです。奉仕にする機会を認められないということです。財布《さいふ》から儲《もう》けを奪われるほうが、心や魂の富を盗まれるよりもどんなにいいかわかりません。
けさここに来られた若い諸君の中には、教師や看護婦やニグロ民族の指導者となる必要を感じている人もあるでしょう。しかし、大多数のものにはそれが許されていないのです。生きてゆかんがためには、無益な目的のためみずからを身売りせねばならないのです。諸君はつっ返され、敗れ去るでしょう。若い科学者が綿つみをせねばなりません。若い作家は本を読み学ぶことができず、教師がアイロンかけなど、無益な苦役に服すこともあるでしょう。われわれは代表を政府に出していません。選挙権もありません。この偉大な国じゅうで、われわれはもっとも圧迫された民族なのです。われわれは声を大きくすることもできません。われわれの舌は、あまりに使わぬため口の中で腐りはて、心臓もうつろとなり、目的達成の意欲を失っています。
ニグロ民族のみなさん! わたしたちは、人間としての心と魂の富をすっかりそなえているのです。わたしたちは、あらゆる天与の才能の中でもっとも貴重なものをさし出します。ところがわたしたちの捧《ささ》げ物は、嘲弄《ちょうろう》と軽蔑をもって受取られるのです。わたしたちの才能は泥の中に踏みつけられ、役立たずにされてしまう。獣たちのわざよりさらに無益な労力を強《し》いられるのです。ニグロの同胞たち! われわれは立ち上がり、もう一度まったきものとならねばなりません! 自由を取戻さねばなりません!」
部屋の中にはざわめきが起った。興奮が高まった。コープランド医師は息をつまらせ、拳《こぶし》を握りしめた。まるで巨人のような大きさに、身体がふくれ上がったような気がした。秘めた愛情が胸を発電機に変え、町じゅうにひびきわたるほど大声で叫びたかった。床に倒れ伏し、割れんばかりの声で呼ばわりたかった。部屋には呻《うめ》き声や叫び声が満ちていた。
「われを救いたまえ!」
「偉大なる神よ! われをこの死の荒野より救い出したまえ!」
「ハレルヤ! 主よ、われらを救いたまえ」
彼は、なんとか自制を取戻そうとけんめいになった。けんめいの努力の末、ようやく落着きが戻ってきた。こみ上げてくる叫びを押しこらえ、力強い真実の声を求めて呼ばわった――
「ご清聴をねがいます! われわれはみずから自分たちを救うのです。それも悲嘆の祈りによってではありません。怠惰や強い酒、肉体の快楽や無知、服従や卑下によってではありません。誇りにより、威厳により、たくましく強くなることによってです。真の目的のため、われわれは力を築き上げねばなりません」
彼は急に言葉を切り、しゃんと身体を伸ばした。「毎年このクリスマスどき、わたしたちはささやかながら、カール・マルクスの第一の戒律を実践しております。ここへ集まられたみなさんは、前もってめいめいになにかしらプレゼントを持ち寄られました。他人の困窮を救わんがため、みなさんの多くがみずからの楽しみを断念されたのです。お返しにもらうプレゼントの値打ちを考えることなく、めいめいができるかぎりのものを持ち寄られました。わたしたちが互いに分ち合うのは、ごく当然なことです。受くるより与うるがさいわいなることは、すでに以前から認めてきたところであります。カール・マルクスの言葉は、常にわたしたちの心の中で知られてきたのです――『能力に応じてめいめいから、必要に応じてめいめいに』」
コープランド医師は、話がすっかり終ったかのように、長いあいだ黙りこくった。が、やがてまた話しはじめた――
「われわれの使命は、屈辱の日々にもめげず、力と尊厳をもって歩むことにあります。誇りは高くあらねばなりません。わたしたちは人間の心と魂の価値を知っているからです。われわれは子どもたちを教えねばなりません。子どもたちが勉学と知恵の尊厳を身につけるべく、犠牲も忍ばねばなりません。その日は必ずややって来るからであります。われわれの持つ心の富が、嘲弄と軽蔑をもって受取られなくなる日……われわれが他人に奉仕することのできる日……われわれの働きがむだにならなくなる日……その日は必ずやって来るでしょう。われわれの使命は、その日を力と信念をもって待ち受けることにあります」
話は終った。手が叩《たた》かれ、足は床を踏み鳴らし、外の凍《い》てついた冬の地面を踏みつけた。濃い熱いコーヒーの香《かお》りが、台所から漂ってきた。ジョン・ロバーツがプレゼント係を引受け、カードに記《しる》された名前を読み上げた。ポーシャがストーブにかかった鍋《なべ》からコーヒーをひしゃくでくむと、マーシャル・ニコルズが切ったケーキをまわした。コープランド医師は客のあいだを歩きまわったが、彼のまわりにはいつも小さな人垣《ひとがき》ができていた。
だれかが彼の肘《ひじ》をつついた――「先生んとこのぼっちゃんの名は、その人にちなんでつけたんかね?」彼はそのとおりだと答えた。ランシー・デイヴィスがあとからついて来て、いろんな質問をした。彼はどの質問にも、そのとおりと答えた。喜びのあまり、酔いのまわったような気分だった。教え、訓戒し、説明し――そして同胞に理解させる。それは何にもましてすばらしいことだった。真理を説き、聞き入ってもらえることは。
「ほんに楽しいパーティをやっていただきましただ」
彼は玄関口に立ち、客に別れを告げた。何度も何度も握手をかわした。壁にぐったりともたれかかり、目だけが動いていた。すっかり疲れきっていたのだ。
「ほんに感謝しますよ」
シンガーさんは最後になった。ほんとにいい人だった。知性と真の見識をそなえた白人だった。いやらしい傲慢《ごうまん》さなど、まるでない人だった。他の客がみな引き上げたあと、彼はおしまいまで残っていた。去りがてに、何か最後の言葉を待ち受けているようだった。
喉もとに痛みを覚えたコープランド医師は、首に手を持ってゆき、しわがれた声で言った。
「教師――これですよ、われわれがいちばん必要としているのは。指導者です。われわれをまとめ、導いてくれる人間です」
にぎやかなパーティのあと、どの部屋もがらんとし荒れはてて見えた。家はさむざむとしていた。ポーシャは、台所で茶碗《ちゃわん》を洗っている。クリスマス・ツリーにのっていた銀の雪は床の上に散らされ、飾りが二つこわれている。
疲れてはいたが、喜びと熱気《ねつけ》のため休む気になれなかった。寝室からはじめて、彼は家じゅうの片づけにかかった。書類箱の上に、一枚のカルテがのっていた――ランシー・デイヴィスについての覚え書だった。ランシーに言ってやる言葉が心に浮びはじめたが、いますぐ言ってやれないのがじれったかった。少年の不機嫌《ふきげん》な、だが、真情にあふれた顔が、心にまといついてぬぐい去れなかった。彼はいちばん上の引出しをあけ、カルテを戻した。A、B、C……と、彼は神経質に見出しの文字をめくっていった。やがて彼の視線は、自分の名前にとまった――ベネディクト・メイディ・コープランド。
紙ばさみの中には、数枚の胸部レントゲン写真とみじかい病歴がはいっていた。彼は、一枚のレントゲン写真を明りのほうにすかしてみた。左上部の肺には、石灰化した星のような明るい個所があった。そして下のほうには、大きな曇った部分があり、それとそっくり同じ曇りは右肺のずっと上にもあった。コープランド医師は、いそいでレントゲン写真を紙ばさみにしまった。ただ、自分の病歴を記《しる》したみじかい覚え書だけがまだ手にあった。大きななぐり書きの文字で書かれているので、読むのもひと苦労だった。「一九二〇年――リンパ腺《せん》の石灰質沈着――肺門の顕著なる肥大。病巣の進行阻止さる――勤務再開。一九三七年――病巣ふたたび活発化。レントゲン写真の所見によれば……」書きこみは読めなかった。最初は言葉が判読できなかったが、はっきり読みとってみると、今度は意味がとれなかった。いちばんおしまいのところにはこう記されていた――「予断、不明」
ふたたびむかしの、険悪なはげしい気持がよみがえってきた。彼はかがみこみ、箱のいちばん下の引出しをこじあけた。寄せ集めの手紙の束。黒人向上協会からの通知。デイジーからの黄ばんだ手紙。ハミルトンからの、一ドル半を無心してきたみじかい便り。いったい何を捜していたのだろう? 彼は両手で引出しの中をかきまわしていたが、やがてぎごちなく立ち上がった。
むなしく費やされた時。すぎ去った過去。
ポーシャは台所のテーブルで、じゃがいもをむいている。前のめりに両肩を落し、悲しげな顔をしている。
「肩を張んなさい」と、彼は腹立たしげに言った――「ふさぎこむのはやめることだ。そんなにふさぎこみ、たわごとを並べられちゃ、おまえの顔を見るのもいやになるじゃないか」
「あたいはただ、ウィリーのことを考えてたんよ。そりゃ、便りはまだ三日しか遅れちゃおらんけど。あたいをこないに心配させるなんてひどいよ。そんな子じゃねえはずだもん。だから、なんだか不安な気がして」
「そういらいらせんことだ」
「うん、あたいもそう思うけど」
「わしは何軒か往診して来なくちゃならんが、じきに帰るからな」
「うん、わかったわ」
「万事うまく運ぶさ」
昼どきのひやりとする明るい日射《ひざ》しの中へ出ると、喜びもあらかた消えてしまった。患者のさまざまな病が、心に散らばっていた。腎臓膿瘍《じんぞうのうよう》。脊髄膜炎《せきずいまくえん》。脊椎《せきつい》カリエス。彼は、後部座席からクランク棒を取出した。いつもは通りがかりのニグロを呼び、クランクで始動してもらうことにしていた。みんな喜んで手を貸し、力になってくれた。しかしきょうは、彼自身でクランク棒をさしこみ、勢いよくまわした。外套《がいとう》の袖《そで》で顔の汗をぬぐうと、いそいでハンドルを握り車を出した。
きょう話したことは、どのていど理解されただろう? どのていど価値があっただろう? 自分の使った言葉を思いかえしてみると、色あせ力を失って見えた。言い残した言葉は、よりいっそう重く心に残り、口もとまでこみ上げてきて唇をふるわせた。苦難を背負った同胞の顔また顔が、目の前にもり上がり揺れ動いている。ゆっくりと車を走らせながらも、彼の心はこの腹立たしい、落着かぬ愛情に身もだえた。
これほど寒い冬は、町にとっても何年ぶりかだった。霜は窓ガラスに貼《は》りつき、家々の屋根を白く染めた。冬の午後は、薄もやのかかったレモン色の光に輝き、影も淡い青だった。通りの水たまりには薄い氷が張り、クリスマスの翌日になると、北へわずか十マイル行ったところでは小雪が降った、と取り沙汰《ざた》された。
シンガーには変化が訪れた。アントナープロスがいなくなった当初のように、しばしば彼は長い散歩に出るようになった。こうした散歩の範囲は、あらゆる方向に何マイルにもわたり、町ぜんたいにおよんでいた。工場がこの冬は不況に見舞われているため、これまで以上にうすぎたなく見える河ぞいのたてこんだ界隈《かいわい》も、歩きまわった。多くの人びとの目には、沈んだ孤独の表情があった。むりやり帰休制をとらされているため、一種の不安が感じられた。新興宗教が、にわかに花盛りとなった。工場で染料桶《せんりょうおけ》の係をしていたひとりの若者は、聖なる偉大な力が自分に宿った、ととつぜん言いだした。神からの新しい戒律を伝えることが自分の任務である、と言いだしたのだ。若者は天幕を張り、毎晩何百人という人びとがやって来ては地面をころがり、互いに身体《からだ》をゆさぶり合った。何か人間以上の存在の前に出ていると信じていたのだ。殺人事件も起った。稼《かせ》ぎが少なく、食うに事欠いていたひとりの女は、職工長に上前《うわまえ》をはねられていると思いこみ、彼の喉首《のどくび》を刺してしまった。あるいは、ニグロの一家が陰気な通りのはずれの家に引っ越して来たところ、隣近所の憤激を買い、家に火がつけられ、当の黒人は袋叩《ふくろだた》きにされるという事件もあった。しかし、こうしたことはささいな出来事にすぎなかった。ほんとうに変ったものは何一つなかった。ささやかれているストライキも、団結が得られずいっこうに実現しなかった。すべては以前と変らなかった。どんな寒い晩にも、サニー・ディキシー・ショーは開かれた。人びとは相変わらず夢を見、けんかし、そして眠りこけた。いつしか習慣となり、あすより先の闇《やみ》の中へはさまよいこまぬよう、考えもみじかく切りつめるようになっていた。
シンガーは、ニグロたちのたむろする、臭い町のあちこちを歩きまわった。そこには、他では見られぬはなやかさと暴力があった。露地には、しばしばジンの鋭い匂いが漂っていた。暖かい眠たげな暖炉の火が、家々の窓をいろどっている。教会では、毎晩のように集会が開かれていた。赤茶けた芝生に区切られた、住み心地《ごこち》のよさそうな小住宅――シンガーはそういう場所へも行ってみた。そこでは、子どもたちもほかにくらべて元気そうで、見知らぬ人間にも人なつっこかった。金持の住む界隈も歩きまわってみた。白い柱があり、入り組んだ鉄柵《てつさく》をめぐらした。古めかしい宏壮《こうそう》な屋敷もあった。車寄せでは自動車の警笛が聞え、いくつもの煙突からけむりがゆらゆらと立ちのぼっている大きな煉瓦造りの屋敷の前を通りすぎたあとは、町からの道が、土曜の夜ごとに農夫たちが集まりストーブを囲んですわる雑貨店まで通じている、街道のはずれへ出た。彼はよく、四区画にわたって明るく電灯のついた商店街をぶらぶら歩き、そのうしろ手の暗くて人気《ひとけ》のない露地を通り抜けた。町じゅうで、シンガーの知らないところはなかった。彼は、何千もの窓が作る黄色い四角の光をじっと見つめた。冬の夜は美しかった。夜空は冷たい藍色《あいいろ》で、星もまばゆかった。
こうした散歩の途中、彼はいまではたびたび呼びとめられ、声をかけられるようになった。さまざまな人たちが彼と顔なじみになった。話しかけてきた人間が初対面の場合には、シンガーは名刺を取出し、口のきけないことをわかってもらった。彼は町じゅうに知られるようになった。肩を張って歩き、両手はいつもポケットにつっこんでいた。灰色の目は、まわりじゅうのいっさいを見のがさぬように見え、その顔には依然として、賢者や悲嘆にくれた人びとによく見られる安らぎの表情があった。彼はいつも喜んで足をとめ、だれとでもつきあった。なんといってもただ散歩をしているだけで、どこへ行こうというあてはなかったからだ。
町ではようやく、この唖《おし》についてさまざまな噂《うわさ》が立ちはじめた。まだアントナープロスのいた時分、ふたりは仕事の行き帰りにつれだって歩いたものだが、それ以外はいつも下宿の部屋に閉じこもりきりだった。あの時分は、だれもふたりに気をとめなかった――たとえ注意をして見るものがあったにしても、目につくのは大柄なギリシア人のほうだった。あのころのシンガーは、まるで忘れられた存在だった。
唖についての噂は、さまざまで豊富だった。ユダヤ人たちは、あれはユダヤ人だと言った。本通りの商人たちは、あれは莫大《ばくだい》な遺産を相続した大金持だと主張した。またある紡積組合では、あの唖はC・I・O(産業別労働組合会議)のオルグだとささやかれた。かと思えば、もう何年も前この町へ流れこみ、リネン製品を売る小さな店をやりながら、しがない暮しをしている孤独なトルコ人は、あの唖はトルコ人だと興奮した面持《おももち》で妻に言い聞かせた。トルコ語を話したところ、唖はわかってくれたというのだ。そう話しているうちにもトルコ人の声は熱をおび、子どもたちとの言い争いも忘れ、これからのさまざまな計画や活動に夢中のていだった。また近在から出て来たひとりの老人は、あの唖は自分の里の近くの出で、父親は州きってのタバコの収穫を上げていると言う。唖をめぐる噂に際限はなかった。
アントナープロス! シンガーの胸には、いつも友人の思い出が宿っていた。夜になり目を閉じると、ギリシア人の友人の顔が暗闇に浮んでくるのだ――つやのよい丸顔が、分別くさい微笑を浮べて。夢の中では、ふたりはいつもいっしょだった。
アントナープロスが去ってから、すでに一年以上たっていた。この一年は、長くもみじかくもなかった。いわば、ふつうの時間の感覚から切り離された一年だった――酔い心地《ごこち》か、夢見心地にあるときのように。どの時間のかげにも、常に友人の姿があった。アントナープロスとのこのいわば埋もれた生活にも、シンガーの身辺の出来事と同じように、変化があり進展があった。最初の数ヶ月は、もっぱらアントナープロスがつれて行かれる前のおそろしい何週間かのこと――彼の病気のあとの苦労や、逮捕の呼出しや、友人の気まぐれをなんとか抑えさせようとしたときのみじめさなどを思い出した。自分とアントナープロスとが不幸だった時期のことも思い出された。思い出の中に一つ、何度かよみがえってくるずっとむかしの出来事があった……
ふたりにはほかに友人はなかった。ときには、ほかの唖に会うこともあった――十年間に三人の唖と知り合ったが、きまっていつも何か問題が起きてしまった。その中のひとりは、彼らと知り合った翌週、別の州へ引っ越してしまった。もうひとりは世帯持ちで、六人の子どもがおり、手を使って話をしなかった。だが、友人の去ったあとシンガーの思い出すのは、三人目の唖との関係だった。
その唖の名はカールといった。工場で働いている、血色の悪い若者だった。薄黄色い目の男で、すき透《とお》りそうなもろい歯も薄黄色く見えた。骨ばった貧弱な身体をだぶだぶの青い作業服に包んでいるところは、青と黄の布人形のように見えた。
ふたりはこの男を夕食に招待し、アントナープロスの働いている店で落合う段どりにした。シンガーと男が店へ行ってみると、アントナープロスはまだ仕事に追われていた。店の奥の調理室で、一かまど分のキャラメル菓子《ファッジ》の仕上げをしていた。大理石張りの長いテーブルの上に、つやつや金色に光る菓子が並んでいる。甘い香《かお》りに、空気までがとろりと暖かい。アントナープロスは暖かい菓子に庖丁《ほうちょう》を入れ四角に切りながら、カールに見られているのがうれしそうだった。彼は油だらけの庖丁の先に、お菓子の切れはしをのせて新しい友人にすすめ、好かれたいと思う相手にはいつもやってみせる芸当を披露におよんだ。まずストーブにかかった煮えたぎるシロップの鍋《なべ》を指さし、それがどんなに熱いかを示すため、顔をあおいだり目を細めたりしてみせた。それから片手を冷たい水につけたかと思うと、いきなり煮えたぎるシロップの中につっこみ、またいそいで水の中へ戻した。彼は苦悶《くもん》の表情よろしく、目をむき舌をつき出した。あげくに手を絞り、片足でピョンピョン跳《と》んで見せまでしたので、店じゅうがガタガタ揺れた。と、急ににっこりし、いまのは冗談だったというしるしに片手を出し、カールの肩を叩いた。
ほの暗い冬の夕べだった。腕を組み合って通りを行く三人の呼吸が、冷たい夜気の中で白くなった。シンガーがまん中で、途中二度ほどふたりを歩道に待たせて買物に行った。カールとアントナープロスは食料品の袋をかかえ、シンガーはふたりの腕をしっかりと取り、下宿へ帰りつくまでにこにこしていた。下宿の部屋は居心地がよく、シンガーはカールと話し合いながら、楽しそうに部屋の中を動きまわった。食事のあと、ふたりがなおも話し合っているのを、アントナープロスは退屈そうな微笑を浮かべて見守っていた。彼はたびたび押入れまで行っては、ジンをついで来た。カールは窓ぎわにすわり、アントナープロスにグラスを鼻先へつきつけられたときだけ、深刻な顔つきですこしずつなめるようにした。アントナープロスが初対面の客にこれほど愛想よくするのを見たことがなかったシンガーは、今後カールがたびたび訪《たず》ねて来てくれるときのことを、楽しい気持であれこれ考えていた。
やがて真夜中をすぎたころ、せっかくのパーティがめちゃめちゃになる事件が持ち上がった。押入れまで行ったり来たりしていたアントナープロスが、おそろしい顔で戻って来た。自分のベッドにすわった彼は、さもうんざりしたような腹立たしい表情を浮べ、何度も新しい友人をにらみつけた。シンガーはこの奇妙なふるまいを隠そうと、しきりに話をはずませようとしたが、ギリシア人は態度を変えない。カールは、大柄なギリシア人の渋面に当惑しすくみ上がり、骨ばった膝《ひざ》をなでながら椅子にちぢこまっていた。顔をまっ赤《か》にし、おそるおそる唾《つば》をのみこんでいる。シンガーもこれ以上黙っているわけにゆかず、意を決してアントナープロスに、胃でも痛いのか、それとも気分が悪くて休みたいのかときいてみた。アントナープロスは首を振った。彼はカールを指さし、知っているかぎりのみだらな身ぶりをして見せはじめた。見るもおそろしい嫌悪《けんお》の表情を浮かべている。カールは恐怖に小さくなっている。とうとう大柄なギリシア人は、歯ぎしりしながら椅子から立ち上がった。カールはあわてて帽子を取り上げ、部屋から逃げ出した。シンガーは階段の下までついて行った。だがこのはじめての客に、友人のことをどう説明していいのかわからなかった。カールはひさしのある帽子を目深《まぶか》にかぶり、背を曲げてぐったりしたように戸口に立っていた。ふたりは握手をかわし、カールは立ち去った。
あの客はおれたちの知らぬ間に押入れにはいり、ジンをぜんぶ飲んでしまった――とアントナープロスはしきりに訴えた。瓶《びん》をからにしたのはおまえなのだと、どんなに説得してみても彼は納得しなかった。ベッドに起き上がった彼の丸顔は、陰気で非難がましかった。大粒の涙が、ゆっくりとシャツの襟首《えりくび》まで伝い落ち、どうにも慰めようがなかった。やっと彼は寝入ったが、シンガーは長いあいだ暗がりで目をさましていた。その後、カールの姿は二度と見かけなかった。
それから何年かのち、アントナープロスは暖炉飾りの上にのった花瓶から下宿代を持ち出し、ぜんぶスロット・マシンに使ってしまった。また、新聞を取りにすっ裸で階下へおりて行くので往生した夏の午後。夏の暑さは彼にこたえたのだ。ふたりは月賦で電気冷蔵庫を買い、アントナープロスはしじゅう氷のかけらをしゃぶっていたが、口に入れたまま眠りこけ、かたまりがいくつかベッドの中で溶けてしまうこともあった。かと思えば、すっかり酔っぱらった彼に、マカロニの皿を顔にぶっつけられたこともあった。
こうした醜い思い出は、絨毯《じゅうたん》に通った悪い糸のように、最初の数カ月のあいだシンガーの思いを織りなしていた。だが、やがてそれも消えてしまった。ふたりが不幸だったときのことは、すっかり忘れてしまった。時のたつにつれ、友人の記憶は螺旋状《らせんじょう》に深くはいりこみ、あげくには彼のみの知るアントナープロスだけが心に残るようになった。
それは、心にあるものをすべて打明けられる友人だった。それは、彼以外だれも賢さに気づかないアントナープロスだった。年月のたつにつれ、友人の姿はシンガーの心の中でしだいに大きくなり、夜の闇《やみ》の中からその顔が荘重に、神秘的にのぞいて見えるようになった。友人の思い出は心の中で変貌《へんぼう》し、いまでは誤ったこと愚かしかったことは何一つ思い出せず――よいこと賢明だったことしか記憶になかった。
シンガーには、目の前の大きな椅子にすわっているアントナープロスが目のあたりに見えた。静かに身じろぎもせずにすわっている。その丸顔の表情は、不可解でつかめない。利口そうな口もとが微笑している。そして、深みのある目。彼は、話しかけられる言葉の内容をじっと見守っていた。そして知恵の力でそれを理解した。
これが、いまでは常にシンガーの心から去らぬアントナープロスの姿だった。これが、さまざまな出来事をすっかり話して聞かせたい友人だった。この年、彼の身には大きな変化が起きたからだ。彼は見知らぬ土地に取残されたのだ。ただひとりで。ふと目をあけてみると、まわりじゅう理解できないことばかりだった。彼は途方に暮れてしまっていた。
彼は、人びとの唇に浮ぶ言葉を見守っていた……
≪わたしたちニグロは、ついに自由となる機会を求めています。自由とは、他に貢献できる権利のことです。わたしたちは奉仕し、分ちあい、労働し、そしてその代償として、当然受ける権利のあるものを消費したい。ですが、わたしたち同胞のこの切実な要求を理解してくれた白人は、あなたひとりです……≫
≪ねえ、シンガーさん。あたしって、年じゅうこの音楽が頭にあるの。ほんとの音楽家になってみたくって。いまは何もわからないけど、はたちになればいろいろわかると思うの。ね、シンガーさん。そしたらあたし、雪のふる外国を旅行してみるつもりよ……≫
≪この瓶をあけちまおうや。おれは少ないほうでいい。ところで、おれたちは自由のことを考えていた。自由って言葉は、まるでうじ虫みたいにおれの脳味噌《のうみそ》にくらいこんでいやがる。イエスか? ノーか? どのくらい多く? どのくらい少なく? 海賊行為の、窃盗の、狡猾《こうかつ》さのきっかけともなる言葉だ。おれたちが自由になる――するといちばん目端《めはし》のきくやつは、また別のやつらを奴隷にできる。しかしだ! しかし、この言葉にはまた別の意味もある。あらゆる言葉の中で、これくらい危険な言葉はない。おれたち物のわかった人間は、よほど気をつけなきゃならん。じつにいい気分になれる言葉だ――まったく、自由といや、偉大なる理想だ。だがこの理想をたてに、蜘蛛《くも》のやつらはいやらしい巣を張りめぐらそうとしやがる……≫
もうひとりは、しじゅう鼻をこする男だった。あまりやって来ないし、あまり口数も多くない。いろいろ質問をする男だった。
この四人が下宿を訪ねて来るようになって、もう七カ月以上になった。四人いっしょにやって来ることはなかった――いつもひとりずつなのだ。シンガーはいつも愛想のよい笑顔《えがお》で、彼らを戸口に迎えた。アントナープロスにいてほしいという気持は(彼が去ったあとの最初の数カ月と同じように)変らなかったが、長くひとりきりでいるよりは、だれかといっしょのほうがよかった。ちょうど何年も前、アントナープロスに誓いを立てたときのようだった(それを紙に書き、ベッドの上の壁に貼《は》りつけたものだ)――まる一カ月間、タバコもビールも肉もやめるという誓いだった。最初の何日かがとてもつらかった。休むことも、じっとしていることもできなかった。あまりたびたびくだもの屋までアントナープロスを訪ねたので、チャールズ・パーカーの不興を買ってしまった。手もとの彫刻をぜんぶ彫り終えると、時計屋の主人や女店員と店の前をぶらついたり、軽喫茶店までコカ・コーラを飲みに出たりした。あのときも、ひとりでタバコやビールや肉のことをくよくよ考えているよりは、他人のそばにでもいるほうがよかった。
最初のうち、シンガーには四人の言うことがまるでわからなかった。彼らはただやたらと話し、月日のたつにつれ、ますます雄弁にしゃべるようになった。彼らの唇の動きにはすっかり馴《な》れたので、一語一語まで理解できた。さらにしばらくすると、話しだす前からめいめいの言うことがわかってしまった。話の内容はいつも同じだったからだ。
手は、彼にとっては苦痛の種だった。じっとしていようとしないのだ。眠っていてもぴくつき、ときには目をさましてみると、夢の中で話した言葉を目の前で形づくっていることもあった。自分の手を眺《なが》めることも、手のことを考えることも、うとましくなってきた。褐色《かっしょく》でほっそりとした、力強い手だった。何年も前には、念入りに手入れをしたこともあった。冬には、あかぎれのできぬようオイルをすりこみ、甘皮を押し下げ、また爪《つめ》も指先と同じ格好にやすりをかけたものだ。手を洗い、手入れをするのは好きだった。ところがいまでは、日に二回ブラシでこするだけで、またポケットへつっこんでしまった。
部屋の中をあちこち歩きまわるとき、彼は指の関節をポキポキ鳴らしたり、痛みを覚えるほど指を引っぱったりした。あるいは片方の手のひらを、もう一方の拳《こぶし》で叩いたりもした。自分ひとりでいて、思わず友だちのことを考えてしまうときなど、彼の両手はいつの間にか言葉を形づくりはじめていた。それに気づくと、彼は大声でひとりごとを言っているところを見つかったような気分になった。何か道徳的に悪いことでもしたような気がしたのだ。恥ずかしさと悲しさのまざった気持で、彼は両手を拳に握り、うしろへまわした。だが、それでも彼はまだ落着かなかった。
シンガーは、以前アントナープロスと住んでいた家の前の通りに立った。夕暮れは灰色にけむっていた。西の空は、さむざむとした黄色とばら色の縞《しま》になっている。みすぼらしい一羽の冬雀《ふゆすずめ》が、けむった空を背景にジグザグ模様を描いて飛び、やがてその家の破風《はふ》にとまった。通りに人影はなかった。
彼の目は、二階の右側の窓に釘《くぎ》づけになった。あの窓がとっつきの部屋で、その奥に、アントナープロスがふたりの食事を料理した大きな台所があるのだ。明りのついた窓の向うで、ひとりの女が部屋の中を行ったり来たりしているのが見えた。明りを背にしているので、エプロンをかけたその姿は大きくぼんやりとしている。夕刊を手にした男がすわっている。一切れのパンを持った子どもが窓ぎわへやって来て、窓ガラスに鼻を押しつけた。シンガーは、自分が出たときのあの部屋を目のあたり思い浮べた――アントナープロスのための大きなベッド、彼自身の鉄の寝台、厚い詰め物ですっかり包まれた大きなソファ、折りたたみ椅子。灰皿に使っていたこわれた砂糖|壷《つぼ》、雨もりでできた天井のしみ、片隅《かたすみ》の洗濯物《せんたくもの》入れ。きょうのような夕刻には、台所には電灯をつけず、大きな料理用ストーブの石油バーナーの明りだけだった。アントナープロスはいつもバーナーの芯《しん》を小さくし、金色と青のギザギザした炎の先だけが見えるようにした。部屋は暖かく、夕食のいい匂《にお》いが満ちていた。アントナープロスは木のスプーンで料理の味見をし、ふたりで赤ぶどう酒を飲んだ。ストーブの前のリノリウムの敷物には、バーナーの炎が明るい光を投げていた――五つの小さな金色のカンテラのように。ミルク色のたそがれがしだいに濃くなるにつれ、その小さなカンテラはますます明るさをまし、ついに夜の闇《やみ》がすっぽりとおりると、あざやかに澄んだ色合いで燃えた。そのころにはもう夕食もでき上がり、ふたりは電灯をつけ、テーブルに椅子を引寄せるのだった。
シンガーは、暗いおもての入口を眺めやった。毎朝つれだってそこから出かけ、夜またそこへ帰って来たことを思い出していた。舗道にはいつだったかアントナープロスがつまずき、肘《ひじ》にけがをした穴があった。毎月、電力会社から請求書の届いた郵便箱。シンガーには、友人の腕の暖かい感触が指先に感じられた。
通りはもう暗くなっていた。もう一度空を見上げてみると、見知らぬ女と男と子どもは一つにかたまっていた。うつろな気分が彼の心にひろがった。すべてはすぎ去った。アントナープロスはいないのだ。ここにいてむかしをしのぶこともできないのだ。あの男の思いは、どこか別なところにあるのだ。シンガーは目を閉じ、あの精神病院や、今夜アントナープロスのいるはずの部屋のことを考えようとしてみた。彼は幅の狭い白いベッドや、隅でトランプをやっていた老人たちを思い出した。目を堅く閉じてみたが、どうしてもあの部屋ははっきり心に浮んでこなかった。うつろさは根深かった。やがて、彼はもう一度窓を振仰ぎ、かつてふたりで何度となく歩いた暗い歩道を歩きはじめた。
土曜の夜だった。本通りは人でごった返していた。作業服を着たニグロたちはふるえながら、十セント・ストアの飾り窓の前をぶらついている。映画館の切符売場の前には、家族づれが列を作り、若者や娘たちは外に貼《は》り出されたポスターに見入っている。自動車の行き来が危険で、彼は道を横切るのに長いあいだ待たねばならなかった。
彼はくだもの屋の店先を通りすぎた。飾り窓のくだものは美しかった――バナナ、オレンジ、梨《なし》、あざやかな色の小さなきんかん、そしてパイナップルまでいくつか並んでいる。チャールズ・パーカーは、店の中で客の応対をしていた。その顔は、シンガーにはとても醜悪に思えた。前に何度か、チャールズのいないときに店の中へはいり、長いあいだ店にいたこともあった。アントナープロスが菓子を作っている奥の調理場へも行ってみた。しかしチャールズが中にいるあいだは、けっして店の中へははいらなかった。アントナープロスがバスで去って以来、ふたりは互いに相手を避けるよう気をくばっていた。通りで出会っても、きまって会釈もせずそっぽを向いてしまった。友人に好物の瓶《びん》入り糖蜜《とうみつ》を送ってやりたく思ったときも、顔を合わさずにすむよう、手紙でチャールズ・パーカーに注文したものだ。
シンガーは飾り窓の前に立ち、友人の従兄《いとこ》が何人かの客を応対するのを見守っていた。土曜の夜は、いつでも客でにぎわった。アントナープロスも、ときには夜の十時まで働かなければならなかった。大きな自動ポップコーン製造機が、入口の扉近くにあった。売子が固い粒を一すくいほうりこむと、とうもろこしはケースの中で大きな雪片のようにくるくるまわった。店から漂い出る匂いは暖かく、なつかしかった。床の上では、落花生の殻が踏みつけられていた。
シンガーは通りを先へ歩きつづけた。人にぶつかられないよう、雑踏の中を気をくばって縫って歩かねばならなかった。クリスマス休暇のため、通りには赤や緑の電灯がぶら下がっている。人びとは互いに抱きかかえられるようにしながら、何人かずつかたまり、笑いさんざめいている。若い父親が、寒さに泣きじゃくっている赤ん坊を肩にのせ、あやしている。町角《まちかど》では、赤と青のボンネットをかぶった救世軍の少女が鈴を鳴らしていた。少女と視線の合ったシンガーは、そばに置かれた鍋《なべ》の中に、小銭を投げこまずにいられない気持になった。ニグロや白人の乞食《こじき》もいて、帽子やかさかさの手をさし出してきた。ネオン広告が、群衆の顔にオレンジ色の輝きを投げている。
ある八月の午後、アントナープロスとふたりで狂犬を見かけた町角まで来た。そして、陸海軍購売組合売店の上にある写真屋の前を通りすぎる。アントナープロスが、給料日ごとに写真をとったところだ。あの写真は、いまでもたくさんポケットに入れて持ち歩いていた。彼は河に向って、町角を西に折れた。いつだったか、ふたりでピクニック用の弁当を持ち、橋を渡り、河向うの野原で食べたこともあった。
シンガーは一時間ばかり、本通りを歩きつづけた。この群衆の中で、ただ自分ひとりだけが孤独なような気がした。彼はとうとう時計を取出し、下宿のほうへ引返した。ひょっとすると今夜あたり、あの四人のうちのだれかが訪ねて来てくれるかもしれない。彼はそれを望んでいた。
彼はクリスマスに、大きなプレゼントの箱をアントナープロス宛《あて》に送った。さらに四人の友人とケリーの奥さんにも、それぞれプレゼントを贈った。そして、みんなのためにラジオを一台買い、窓ぎわのテーブルにのせた。コープランド医師はラジオに気づかなかった。ビフ・ブラノンはすぐに気づき、おやというように眉《まゆ》を上げた。ジェイク・ブラウントは、訪問のあいだじゅう同じ局をかけっ放し、音楽に負けまいとするように、額に青筋を立てて大声で叫んだ。ミック・ケリーは、ラジオを見ても信じられないようだった。顔をまっ赤《か》にし、これはほんとにあなたのものか、聞いてもかまわないか、と何度も何度もくり返してたずねた。そして数分のあいだダイヤルをまわし、やっと自分の気に入ったところに合わせた。両手を膝《ひざ》にのせ、椅子から乗り出すようにしてすわり、口をあけ、こめかみをはげしく脈打たせていた。何を聞いているにせよ、何一つのがさず聞き入っているようだった。昼からずっとすわったきりで、一度彼のほうににっこり笑ってみせたとき、目は涙にぬれていた。彼女は拳《こぶし》で目をこすった。あなたがお勤めに行っていないときでも、ときどき部屋へはいって聞いてもいいかときく。シンガーは、いいともと言うようにうなずいた。その後何日かは、彼が部屋のドアをあけると、いつもミックがラジオのそばにいた。みじかいもつれた髪を手でかき分けながら聞き入っている顔には、彼がこれまで見たことのない表情が浮んでいた。
クリスマスが終ってすぐのある晩、四人の客がたまたま同時に訪ねて来た。これまではなかったことだった。シンガーは、笑顔《えがお》を浮べ茶菓子を持って部屋の中を歩きまわり、客たちをくつろがせようとできるだけ愛想よくふるまった。しかし、何か気まずい空気があった。
コープランド医師は、どうしてもすわろうとしない。帽子を手に戸口に立ち、他の客によそよそしいお辞儀をしただけだった。他の客のほうでも、なぜこんな男がここへ来たのだろうというように、彼を見つめている。ジェイク・ブラウントは自分で持って来たビールをあけ、泡《あわ》をワイシャツの胸にこぼしてしまった。ミック・ケリーは、ラジオの音楽に聞き入っている。ビフ・ブラノンは脚《あし》を組んでベッドに腰をかけていたが、目の前の連中をじろりと見まわしたあと、目を細めじっと動かなくなってしまった。
シンガーは当惑した。いつもは、あれほど言いたいことをたくさん持った連中なのだ。ところがいっしょになると黙りこんでしまう。四人がはいって来たとき、彼は何か爆発的なことでも起るのではないかと思っていた。なんとなく、これで何かが終りになるのではないかと思っていたのだ。ところが部屋の中には、こわばった雰囲気があるばかりだ。空気中から目に見えぬ糸をたぐり、それを結びつけようとでもするように、彼の両手は神経質に動いた。
ジェイク・ブラウントはコープランド医師のそばに立った。「あんたの顔には見覚えがあるよ。いつだったか前に、ぶつかったからな――外の階段で」
コープランド医師は、言葉を一つ一つ鋏《はさみ》で切って出すように、正確に舌を動かした。「前にお目にかかったとは存じませんでした」そう言ったあと、医師のこわばった身体は小さくちぢみ上がるように見えた。彼は後ずさりし、部屋の敷居の外まで出てしまった。
ビフ・ブラノンは、落着いてタバコをふかしていた。けむりはいくつもの薄青い層になって、部屋の中によどんだ。彼はミックのほうを向いていたが、彼女を見たとたん顔がまっ赤になった。彼は目をなかば閉じた。するとたちまち、またもとのように顔から血の気がひいた。「それで、その後ようすはどうなんだね?」
「ようすって?」と、ミックはあやしんでききかえした。
「暮らしのようすだよ。学校とか、何とか」
「なんてこともないわ」
めいめいが、何かを待ち受けるようにシンガーを見つめた。彼は途方に暮れていた。茶菓子をすすめて微笑した。
ジェイクは手のひらで唇をこすった。彼はコープランド医師と話をするのをやめ、ビフと並んでベッドに腰をおろした。「あんた、紡積工場のまわりの塀《へい》やら壁に、赤チョークで血なまぐさい警告の文句を書いて行くのがだれか知ってるかね?」
「いいや。血なまぐさい文句って何だね?」
「たいていは旧約聖書からとった文句なんだ。前から気になってるんだが」
だれもが主として唖《おし》に話しかけた。車輪の輻《や》がまん中のこしきにつづいているように、みんなの考えが一つに集まってゆくようだった。
「このところの寒さときた日には、まったく異常ですな」と、やっとビフが言った。「こないだ古い記録を調べていたところ、一九一九年には寒暖計が華氏十度(零下約十二度)まで下がったらしいですよ。けさは十六度(零下約九度)だから、あの年の大寒波以来の寒さってことですな」
「けさは、石炭小屋の屋根からつららがさがってたわ」とミック。
「先週は、給料が払えるほどの稼《かせ》ぎもなかったよ」とジェイク。
彼らは、もうしばらく天気の話をし合った。めいめいが互いに相手の出て行くのを待っているようだった。と、そのうち、衝《つ》かれたように全員がいっせいに立ち上がった。コープランド医師がまずまっ先に立ち、他の三人もすぐそのあとにつづいた。客が帰ってしまうと、シンガーはただひとり部屋に立ちつくした。さっぱり事情がわからず、もうこのことは忘れてしまいたいと思った。彼はその晩、アントナープロスに便《たよ》りを出そうと決心した。
アントナープロスは字が読めなかったが、それでもシンガーは便りを出すことにした。友人が紙に書いた文字の意味を解せないことは前々から知っていたが、それでも月日がたつにつれ、あれはひょっとるすと自分の思い違いで、アントナープロスは文字の知識をだれからも隠しているのではないか、と思いはじめたのだ。それに病院には、手紙が読めてその内容を説明してくれる唖がいるかもしれない。シンガーは、手紙を書く弁明の理由をいくつか考え出した――途方に暮れたり、悲しかったりするときは、いつも友人に手紙を書かないではいられなかっスからだ。だが、いったん書き終えてしまうと、それきりで投函《とうかん》はしなかった。彼は新聞の朝刊や夕刊から漫画を切り抜き、それを日曜ごとに友人に送ってやった。また毎月、郵便|為替《かわせ》も送ってやっていた。だが、アントナープロスに宛てた長い手紙はポケットの中にたまり、やがて捨てられてしまった。
四人の客が帰ってしまうと、シンガーは暖かいグレーの外套《がいとう》とグレーの中折れ帽をかぶって部屋を出た。手紙はいつも店で書くことにしていたのだ。それに、翌朝届ける約束の仕事が一つあったので、遅れる心配のないよう今夜のうちにやり上げておきたかった。霜のおりた、寒気のきびしい夜だった。満月が金色の光にふちどられている。星空を背景に、家々の屋根が黒ぐろとして見える。歩きながら、彼は手紙の書出しの文句を考えていた。しかし、最初の文句がはっきり浮ぶ前に、もう店に着いてしまった。彼は自分の鍵《かぎ》で暗い店の中へはいり、おもての明りをつけた。
彼の仕事場は、店のいちばん奥にあった。布地のカーテンで店の他の部分とは仕切られているので、小さな個室のような感じだった。仕事台と椅子のほかに、隅には重い金庫が置かれ、緑色をおびた鏡のかかった洗面台と、箱やこわれた時計などのいっぱいつまった棚《たな》がついている。シンガーは仕事台の蓋《ふた》を巻き上げ、フェルトのケースから仕上げておく約束の銀の大皿を取出した。店の中は寒かったが、彼は上着をぬぎ、じゃまにならぬよう青縞《あおじま》のワイシャツの袖口《そでぐち》をまくり上げた。
彼は長い時間、大皿のまん中に彫りつける組み合せ文字と取組んだ。慎重に、全神経を集中して、のみを銀器の上に進めた。仕事を進める彼の目には、奇妙に鋭い飢えたような表情があった。彼はアントナープロスに宛てて書く手紙のことを考えていた。仕事が終ったときには、すでに真夜中もすぎていた。大皿を片づけると、額は興奮で汗ばんでいた。彼は仕事台の上を片づけ、手紙を書きはじめた。彼はペンで紙の上に言葉を書きつけるのが好きだった。まるで便箋《びんせん》が銀の大皿であるかのように、念入りに文字を刻みつけた。
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ただひとりの友へ――
雑誌の記事で見ると、聾唖者《ろうあしゃ》協会は今年はメイコンで大会を開くそうです。講演があり、四品ぐらいの料理も出るでしょう。これは想像ですが。われわれもいつか大会に出てみたいと思いながら、とうとうはたせませんでしたね。行けたらよかったのにとくやんでいます。今年のこの大会に行けたらなと思い、行ったときのようすなどいろいろ想像しています。もちろん、きみをおいてひとりで行くことなどできませんが。みんなあちこちの州からやって来て、話したいことや長いあいだの夢でいっぱいだろうと思います。教会では特別礼拝なんかもあり、金メダルの賞が出るコンテストのようなものもあるでしょう。これはみんなぼくの想像です。いろいろ想像をしたり、しなかったりの毎日です。両手もあまり長いあいだ使わないので、どうやって指話をやったか思い出せないくらいです。大会のことを考えるとき、参加者はみなきみのような人たちだろうか、などと思ったりします。
先日、ぼくらのむかしの家の前まで行ってみました。いまでは別の人たちが住んでいます。家の前にあった、大きな樫《かし》の木をおぼえていますか? 電話線に引っかからないよう枝を切り落したら、木は枯れてしまいました。大枝もくさり、幹には|うろ《ヽヽ》ができています。それから、店にいた猫は(きみがいつもなでてかわいがっていた猫です)、何か悪いものを食べて、死んでしまいました。かわいそうなことをしました。
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シンガーは、便箋の上でペンを休めた。そのまま手紙の先をつづけず、長いあいだこわばった姿勢ですわりつづけていた。やがて立ち上がった彼は、タバコに火をつけた。部屋は冷たく、酸《す》っぱいようなかびくさい臭《にお》いが漂っていた――石油や銀の磨《みが》き粉《こ》やタバコの入りまじった臭いだった。彼は外套とマフラーを着こみ、ふたたびやっと決心をして書きはじめた。
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この前そちらへうかがったとき話した、四人の人たちのことをおぼえていますか? 似顔絵を描きましたね――黒人と、若い女の子と、口ひげのある男と、ニューヨーク・カフェの主人と。その人たちのことで話したいことがあるのですが、どう言葉であらわしていいか、よくわかりません。
みんなとても忙しい人たちです。ほんとにひどく忙しくて、きみにはとても想像もできないくらいです。といっても、べつに昼も夜も働きづめというわけではなく、いつも気にかかっていることがたくさんあって、心の休まるひまがないからなのです。みんなぼくの部屋へ話しにやって来るのですが、よくもあんなあきもせず、口をあけたり閉じたりできるものだと感心してしまいます。(でも、ニューヨーク・カフェの主人だけは違います――ほかの三人と違うのです。物をよく見る人です。ほかの三人は、みんな何かに憎しみを持っています。それにまた、食べたり寝たりや、酒や友だちづきあい以上に好きなものを何か持っています。それだから、いつもとても忙しいのです)
ひげのある男は、気違いじゃないかと思います。ときどきは、むかし学校で習った先生みたいに、とてもはっきり言葉をしゃべります。かと思うと、ぼくにはとてもついてゆけないような言葉でしゃべることもあります。地味な背広を着ていることもあれば、仕事のときの作業服姿で、まっ黒になりひどい臭いをさせていることもあるというふうです。拳《こぶし》を振りまわし、きみには知らせたくないようなきたない、酔っぱらいの言葉を口にすることもあります。そして、ぼくとふたりで何か秘密を分っていると思っているのですが、何のことやらぼくにはわかりません。ひとつ、とても信じられないようなことを書いてみましょう。その人はハッピーデイズ・ウイスキーを三パイント(約一・四リットル)も飲んでも、まだ平気で話したり歩いたりできるし、寝たいとも言わないのです。信じられないでしょうが、ほんとうです。
ぼくはその女の子の母親から、月十六ドルで部屋を借りています。その子は、前には男の子みたいな半ズボンをはいていましたが、このごろは青いスカートにブラウスを着ています。でもまだ一人前の女ではありません。せっせと会いに来てくれるのはうれしいことです。ぼくがみんなのためにラジオを買ったので、いまではいつもやって来ます。音楽の好きな子なのです。あの子の聞いている音楽がわかったらと思います。ぼくがつんぼだということは知っているくせ、ぼくには音楽がわかると思っているのです。
ニグロの男は胸をわずらっていますが、黒人であるため、いい病院にはどこもはいれません。医者ですが、あんなによく働く人は見たことありません。黒人みたいな話し方もしません。ほかの黒人は、舌をよく動かさないでしゃべるので、ぼくにはよくわからないのです。この黒人には、ときどきびっくりさせられます。目も熱をおびて輝いています。パーティに招いてくれたので、行ってみました。本をたくさん持っています。しかし、ミステリーものは持っていません。酒も飲まず、肉も食べず、映画にも行かない人です。
何が自由だ、略奪者め。何が資本だ、民主党員だ……と、口ひげのある醜い男は言います。そしてそのあと、自由はすべての理想の中で最高のものだ、と矛盾したことを言うのです。あたし、なんとかあたしの胸のこの音楽を書き上げて、音楽家になりたいの。どうしてもその機会がほしいの、と少女は言います。われわれは奉仕することを許されていない、それがわが同胞の聖なる要求です、と黒人の医者は言います。ふうん、なあるほど、とニューヨーク・カフェの主人は言います。彼は考え深い人です。
みんなぼくの部屋へやって来ると、こんなぐあいにしゃべるのです。こんな言葉がいっぱい胸につまっていて落着かないものだから、いつもそわそわしているのです。この人たちがいっしょに顔をそろえたら、今週メイコンの大会に集まる協会の連中みたいに大さわぎだろうと思うでしょう。ところが、そうではないのです。きょう四人は、同時にぼくの下宿へやって来ました。そして、まるでみんな別々の町からやって来た他人同士みたいにすわっているのです。無作法なふるまいさえしました。ぼくがいつも言っているように、無作法で他人の感情に気をくばらないというのは悪いことです。ともかく、そんな調子でした。ぼくにはわけがわからないので、きみに報告します。きみならわかってくれるでしょう。まったく狐《きつね》につままれたような気分です。ですが、もうこのことはこれくらいにします。きみも退屈したでしょうから。ぼくも退屈してきました。
きょうで五カ月と二十一日目です。この長いあいだじゅう、ぼくはきみなしでひとりきりでした。いったい、いつまたきみといっしょになれるだろう、ぼくの考えるのはそのことばかりです。もしいますぐにも会えなければ、どんなことになるか自分でもわかりません。
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シンガーは仕事台に頭をのせ、しばらく休んだ。頬《ほお》に感じるなめらかな木部の香《かお》りと感触は、小学校時代を思い出させた。彼は目を閉じ、気のめいるのを覚えた。心に浮ぶのはアントナープロスの顔ばかりであり、友人をなつかしむせつない気持に息もつまるほどだった。しばらくしてシンガーは身体《からだ》を起し、ペンを手に取った。
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きみのために注文しておいた贈物は、クリスマスの小包に間に合いませんでした。もうまもなく届くでしょう。きっと気に入って、楽しんでもらえると思います。明け暮れぼくらふたりのことを考え、何もかも覚えています。きみがいつも作ってくれた食事がなつかしくてなりません。ニューヨーク・カフェの食事は、以前よりだいぶ悪くなりました。こないだも、スープの中に煮えた蝿《はえ》がはいっていました。野菜や、アルファベット文字みたいなそうめんといっしょにまざって。でも、そんなことは何でもありません。とても耐えられない寂しさゆえ、どうしてもきみが必要なのです。そのうちまた会いに行きます。あと六カ月は休暇がとれませんが、その前になんとかできると思います。そうせずにはいられないでしょう。ぼくは理解してくれるきみなしでは、とてもひとりではいられません。
いつもきみの友である
ジョン・シンガー
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彼が下宿へ帰ったのは、朝の二時をまわっていた。たくさんの下宿人をかかえた大きな家は暗闇《くらやみ》に包まれていたが、彼は用心深く三つの階段を手さぐりでのぼり、つまずかずに部屋にたどりついた。ポケットから、持ち歩いている名刺や時計や万年筆を取出した。そして椅子の背へ、ぬいだ服をきちんとたたんでかけた。灰色のフランネルのパジャマは、暖かくやわらかだった。毛布を顎《あご》のところまで引っぱり上げると、たちまち寝入ってしまった。
暗闇の眠りの中から、一つの夢が現われた。鈍い黄色の角燈《カンテラ》が、暗い石の階段を照らしている。アントナープロスが、その階段のいちばん上にひざまずいている。彼は裸で、頭の上にかざした何かをまさぐりながら、祈りでも捧《ささ》げるようにそれを見つめている。シンガー自身は、階段の半分ほど下にひざまずいている。彼も裸で寒かったが、アントナープロスと彼が手にかざしているものから目が離せなかった。うしろの地面の上には、口ひげの男と、あの少女と、黒人と、もうひとりのいるのがわかった。彼らも裸でひざまずき、じっとこちらに目をそそいでいるのがわかる。そしてそのまたうしろには、無数の群衆が闇の中にひざまづいている。彼の両手は巨大な風車になっていた。彼は魅せられたように、アントナープロスの握ったふしぎな物を見つめていた。黄色い角燈が暗闇の中で揺れている以外は、すべて静止している。と、とつぜん、わきかえるような騒動が起った。大変動のさ中に階段はくずれ落ち、彼は下へ下へと転落してゆくのを感じた。彼はぎくりとして目をさました。夜明けの光が窓を白く染めている。彼はおそろしくなった。
別れて以来ずいぶん時がたっていた。友人の身の上に、どんなことが起っていないともかぎらなかった。アントナープロスは便りをよこさないので、知りようがなかった。ひょっとすると、ころげ落ちてけがでもしているかもしれない。どうしてもも一度会わずにいられない気持を覚えた彼は、むりにも手はずをととのえることにした――それもすぐさま。
その日の朝、郵便局へ行ってみると、小包が届いているという通知が彼の郵便箱にはいっていた。クリスマス用に注文しておいたのに、間に合わなかったプレゼントだ。たいへんりっぱなプレゼントだった。二年間の月賦払いで買ったものだ。それは家庭用の映写機で、ミッキー・マウスやポパイなど、アントナープロスの好きな漫画のフィルムが半ダースもついていた。
シンガーはその日の朝、いちばん遅く勤め先の宝石店に顔を出した。彼は雇い主に、金曜と土曜の二日間休暇をいただきたいという、きちんと書式どおりに書いた届けを手渡した。その週は結婚式の予定が四つもあったが、宝石商はうなずいて許可を与えてくれた。
彼は前もって旅行のことはだれにも知らせず、出がけにドアのところに、数日出張で留守になりますと書き置きを貼《は》りつけた。彼は夜行で出かけ、列車が目的地に着いたときには、ちょうど冬の夜が赤く明けかかっていた。
その日の午後、面会時間のすこし前に、彼は精神病院を訪れた。映写機の部品と、見舞いに持って来たくだもの籠《かご》とで、両手はいっぱいだった。彼はさっそく、前にアントナープロスを訪《たず》ねた病室へ行ってみた。
廊下も、ドアも、ベッドの列も、この前の記憶にあるとおりだった。彼は入口の敷居に立ち、熱心に友人の姿を捜した。しかし、どの椅子もふさがっているが、アントナープロスのいないことはすぐにわかった。
シンガーは手荷物をおろし、名刺の下に書きつけた――「スピロス・アントナープロスはどこにいますか?」ちょうど病院にはいって来た看護婦をつかまえ、彼は名刺を渡した。その看護婦にはわからなかった。かぶりを振り、肩をすくめてみせた。シンガーは廊下へ出て、会う人ごとに名刺を渡した。だれも知らなかった。すっかりうろたえた彼は、両手をさかんに動かしはじめた。やっと、白い服を着たインターンに出くわした。彼はインターンの肘《ひじ》をつかまえ、名刺を手渡した。インターンはそれを念入りに読むと、廊下をいくつか抜けて彼を案内した。ふたりは、若い女性が書類を前にしてデスクに向っている小さな部屋へ来た。彼女は名刺を読み、引出しの中の綴《と》じこみをしらべてくれた。
不安と恐怖の涙が、シンガーの目にあふれ出た。若い婦人は便箋《びんせん》にゆっくりと書きはじめた。友人について何が書かれているのか、すぐにも知りたい気持で、彼は身体をねじ曲げのぞきこんでみずにはいられなかった。
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アントナープロスさんは病棟《びょうとう》に移されました。腎炎《じんえん》です。だれか案内役をおつけします。
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廊下を抜けて行く途中、彼は置いておいた包みを取るため、病室の戸口で立ちどまった。くだもの籠は盗まれてしまったが、ほかの箱はそのまま残っていた。彼はインターンについて建物を出、芝生を横切って病棟のほうへ行った。
アントナープロス! 病室に着くと、シンガーは一目で彼を見つけた。彼のベッドは部屋のまん中に置かれ、彼は枕を背に当てがって起き上がっていた。まっ赤《か》な部屋着と緑色の絹のパジャマを着た彼は、トルコ玉の指輪をはめていた。肌色《はだいろ》は薄黄色く、目もぼんやりとにごっている。黒い髪のこめかみのところには、銀色の白髪が見えていた。彼は編物をしていた。太い指先が、長い象牙の編棒をゆっくりと動かしている。はじめのうち、彼は友人に気づかなかった。やがてシンガーが目の前に立つと、驚いたようすもなくにやりと笑い、宝石をはめた手をさし出した。
シンガーは、これまでに味わったことのない恥ずかしさと気がねを覚えた。彼はベッドのそばにすわり、掛けぶとんの端のところで手を組んだ。友人の顔から目を離さなかったが、彼自身は死人のように青ざめていた。友人の服装のはなやかさにぎょっとしてしまったのだ。どれもみな彼が、さまざまな機会に一つずつ送ってやったものばかりだったが、そのぜんぶを寄せ集めたならどうなるかは想像もしてみなかった。アントナープロスは、記憶にあるよりもずっと大きかった。絹のパジャマの下から、ぶよぶよした下腹の大きなたるみが見えた。白い枕にのった頭が、ばかでかく見える。平然と落着きはらった顔の表情からすると、シンガーの来ていることに気づいているようにも見えない。
シンガーはおずおず両手を上げ、話しはじめた。その熟練した強い指先が、愛情にあふれた正確さでさまざまな符牒《ふちょう》を形づくった。彼は寒さのこと、たったひとりですごした長い月日のことを話した。むかしの思い出や、死んだ猫のこと、店のこと、いまの下宿のことなども物語った。話の切れ目ごとに、アントナープロスは丁重にうなずいた。シンガーは四人の人たちのことや、彼らが下宿を長々と訪れて来ることなどを話した。友人の目はうるんで暗く、その瞳《ひとみ》にはこれまで何度となく見た、小さな長方形の自分の姿が映って見えた。暖かい血がまた顔に戻り、手の動きが速くなった。彼はニグロの男のこと、ぴんとはねた口ひげの男、そして少女のことを事こまかに物語った。アントナープロスは、重々しくこっくりこっくりうなずいている。シンガーは夢中で身体を乗り出し、深く長い溜息《ためいき》をつき、目にはキラキラと涙が光っていた。
と、だしぬけに、アントナープロスは肥《ふと》った人差し指で空中にゆっくりと輪を描いた。指はぐるぐるしだいにシンガーに近づき、あげくにその指で彼のみぞおちをつついた。大柄なアントナープロスの笑いは顔じゅうにひろがり、分厚い桃色の舌をつき出した。シンガーも笑い、両手は狂ったような速さで言葉を作り出した。笑いに両肩をふるわせ、顔をうしろへのけぞらせた。どうして笑いだしたのか、自分でもわからなかった。アントナープロスは目をくるくるまわした。シンガーは息が切れ、指先がふるえるまで、騒々しく笑いつづけた。彼は友人の腕をつかみ、自分を落着かせようとした。笑いはしだいにおさまり、しゃっくりのように苦しそうになった。
アントナープロスのほうがまず落着いた。肥った小さな足が、ベッドのすその布団カバーはねのけていた。微笑は消え、さも憎々しげに毛布を蹴とばした。シンガーはあわてて布団をなおそうとしたが、アントナープロスは顔をしかめ、いばりくさって指を立て、ちょうど病室を通りかかった看護婦を呼び寄せた。看護婦が彼の気に入るようベッドをなおすと、大柄なギリシア人はわざとらしく頭を下げてみせた。そのしぐさはただ礼を言ったというより、祝祷《しゅくとう》のようだった。そのあと、彼はまた重々しく友人のほうを向いた。
語りつづけるシンガーは、時の立つのも気づかなかった。看護婦が、アントナープロスの夕食を盆にのせて持って来たときはじめて、彼は時刻の遅いのに気づいた。病棟には明りがつき、窓の外はもうほとんど暗かった。ほかの患者たちも、夕食の盆を前に置いていた。みなそれぞれの手仕事をやめ(籠《かご》を編むもの、革細工《かわざいく》をやるもの、編物をするものなどさまざまだったが)、大儀そうに食べている。アントナープロスと並ぶと、だれもみな青ざめ、ぐあいも悪そうに見えた。大半は髪も伸び放題で、うしろの切れこんだみすぼらしい灰色の夜着を着ていた。みんなふたりの唖《おし》を、あっけにとられて見つめている。
アントナープロスは皿のおおいを取り、注意深く食べ物を点検した。魚と少々の野菜がついていた。彼は魚をつまみ上げ、手のひらにのせて明りのほうにかざし、念入りにあらためた。それから、さもうまそうに口に入れた。食事をしながら、彼は同室の連中を指さしはじめた。まず部屋の隅《すみ》の男を指さし、うんざりしたというようなしかめ面《づら》をしてみせた。相手の男は、彼に向ってうなり声を上げた。そのあとは年若い少年を指さし、にっこりしてうなずき、肥った手を振ってみせた。シンガーはしあわせのあまり、恥ずかしさも忘れていた。彼は友人の注意を惹《ひ》くため、床の上に置いた包みを取上げ、ベッドの上にのせた。アントナープロスは包み紙をはがしたが、機械にはまるで興味を持たなかった。また食事のほうに向いてしまった。
シンガーは、映画のことを説明したメモを看護婦に渡した。看護婦はインターンを呼び、ふたりは医師をつれて来た。三人は相談をしながら、ふしぎそうにシンガーを見た。知らせは他の患者たちにも伝わり、みな興奮の面持《おももち》で肘《ひじ》をついて起き上がった。ただひとり、アントナープロスだけは平然としている。
シンガーは、段どりをすでに練習してあった。彼はぜんぶの患者が見られるよう、スクリーンを立てた。それから映写機とフィルムをセットした。看護婦は夕食の盆を下げ、病室の電灯が消された。ミッキー・マウスの漫画がスクリーンに照らし出された。
シンガーは友人を見守った。アントナープロスは最初びっくりしていた。もっとよく見ようと伸び上がり、看護婦が押えなければ、ベッドから立ち上がっていたところだった。そのうち、相好《そうごう》をくずして画面に見入った。他の患者たちが互いに声をかけ合い、笑い声を立てているのがシンガーにはわかった。看護婦たちや付添い人たちも廊下からはいって来て、病室じゅうがざわついた。ミッキー・マウスが終ると、今度はポパイのフィルムを入れた。それも映し終えると、第一回目の余興としてはこれで十分だろうと思い、シンガーは明りをつけた。病室はまた静まった。インターンが機械をベッドの下へしまうとき、これは自分のものだということをみんなに認めさせるように、アントナープロスはずる賢い目つきで病室じゅうをじろりと見まわした。
シンガーは、また両手を使って話しはじめた。もうすぐ退室を求められることはわかっていたが、つもりにつもった思いはあまりにも多く、とても短時間に吐き出してしまえるものではなかった。彼は狂気じみた速さで話した。病室には、中風でしじゅう首を振り、弱々しい手つきで眉毛《まゆげ》を引っぱっているひとりの老人がいた。彼は、毎日をアントナープロスといっしょに暮せるこの老人をうらやんだ。喜んで老人と入れ替りたいくらいだった。
友人は、胸にかかった何かをまさぐっていた。いつも身につけている、小さな真鍮《しんちゅう》の十字架だった。きたなくなった紐《ひも》は、赤いリボンと取換えてあった。シンガーは夢のことを思い出し、そのことも友人に物語った。気のせくあまり、符牒もときどきあいまいになり、そのたびに両手を振って、もう一度やりなおさねばならなかった。アントナープロスは、とろんとした暗い目で見つめている。はででりっぱな服をまとい、身動きもせずにすわっている姿は、伝説に出てくる賢い王様のように見えた。
病室受持のインターンは、面会時間を一時間延長してくれた。しかしとうとうインターンも、やせた毛深い手首をつき出し、時計を示した。患者たちは寝についていた。シンガーの手はためらった。彼は友人の腕をつかむと、毎朝勤めに出かけたとき別れぎわにしたように、相手の目をじっと見つめた。そして、やっと後ずさりに部屋を出た。戸口で中途半端な別れの合図を送ったあと、彼は両手を固く拳《こぶし》に握りしめた。
一月の月明かりの夜ごとに、シンガーは仕事のないかぎり、町の通りをあちこち歩きまわった。彼についての噂《うわさ》は、しだいにとてつもないものになっていった。ひとりのニグロの老婆は、あの人は死者の霊を呼び出す術《すべ》を知っているとおおぜいに吹聴《ふいちょう》してまわった。かと思えば、この州の別の工場であの唖《おし》といっしょに働いていたことがある、と言い張る請負い労務者も現われ――その話は奇想天外なものだった。金持は彼を金持と思い、貧乏人は自分たちと同じ貧乏人と思いこんだ。こうした噂を否定するものが何もなかったため、噂はますますふしぎさを加え、真実味をおびていった。めいめいが、それぞれ自分の好き勝手な姿に仕立て上げ、唖の噂をしていたのだ。
なぜだろう?
その問いは、血管を流れる血液のように、常にビフの中を流れつづけた。人びとのこと、目的のこと、さまざまなもくろみのことを考えつづける彼は、その問いからのがれられなかった。真夜中も、暗い朝も、昼も。ヒットラーと戦争の噂《うわさ》。豚の腰肉の値段と、ビールにもかかりはじめた税。中でも、彼はあの唖《おし》にまつわる謎について考えた。たとえば、なぜシンガーは汽車に乗って出かけ、どこへ行って来たのかときかれると、問いがわからぬようなふりをするのだろう? なぜだれもがあの唖を、自分たちの望むような人間だと思いこもうとするのだろう?――実際はおおむね奇妙な誤解にすぎないというのに。シンガーは日に三度、食堂中央のテーブルにすわる。目の前に出されたものを何でも食べる――牡蠣《かき》とキャベツのほかは。たいへんな騒々しさの中で、彼ひとりだけが黙りこくっている。いちばんの好物は、小さい柔らかいバターいための豆で、それをフォークの上にきれいに山積みにする。そして肉汁《グレービー》はパンをひたして食べてしまう。
ビフはまた死のことも考えた。奇妙な出来事が起ったのだ。ある日、浴室の戸棚をかきまわしていたとき、アグア・フロリダ香水の瓶《びん》が見つかった。死んだアリスの化粧品の残りをルシールのところへ持って行ったとき、見落としていたものだ。思いにふけりながら、彼は香水瓶を手に取った。アリスが死んでからもう四カ月になった――そのひと月ひと月が、まるで一年のように長く、ひまに満ちているように思えた。しかし、彼はめったに妻のことを考えなかった。
ビフは瓶の蓋《ふた》を取った。鏡の前に、上半身裸で立っていた彼は、その香水をすこしばかり、黒ぐろとした毛深い腋《わき》の下につけてみた。その強い匂《にお》いに、彼は、麻痺《まひ》したようになった。彼は鏡に映った自分と、思いつめたひそかな視線をかわした。香水の匂いが運んできたさまざまな思い出に、彼は茫然《ぼうぜん》としていた。思い出の鮮明さのためではなく、思い出が長い歳月を一つに集め、完全だったからだ。ビフは鼻をこすり、横目で自分の姿を見つめた。死の境界。彼はアリスと暮した一刻一刻を自分の中に感じた。ふたりでともにすごした人生は、過去のみが完全でありうるように、いまは完全な姿に見えた。ビフはにわかに顔をそむけた。
寝室はその後改造された。いまはすっかり彼のものだった。以前は見苦しく、けばけばしく、さえない部屋だった。いつでも穴のあいた靴下や桃色のレーヨンのパンティーが、部屋に張った干物紐《ほしものひも》からぶら下がっていた。鉄製のベッドは塗料がまだらになり錆《さび》つき、よごれたレースの枕がのっていた。階下からやって来た骨ばった猫が背を丸め、悲しげに汚水桶《おすいおけ》に背をこすりつけた。
こうしたすべてを、彼はすっかり模様がえしてしまった。鉄製のベッドは長椅子と取換えた。床には分厚い赤い絨毯を敷き、壁のひび割れのいちばんひどい個所には、きれいな青い生地を買って来て掛けた。ふさいであった暖炉もあけ、松の丸太を積み上げた。暖炉飾りの上には、ベイビーの小さな写真と、両手でボールをかかえビロードの服を着た少年のカラー写真をのせた。隅《すみ》のガラス箱には、蝶《ちょう》の標本や、めずらしい鏃《やじり》、人間の横顔のようなおもしろい形の石など、彼がこれまでに集めた骨董品《こっとうひん》がおさめてあった。長椅子の上には青絹のクッションを置き、ルシールのミシンを借りて、窓にかける深紅のカーテンも作った。彼はこの部屋が気に入っていた。豪華でしかも落着きがあった。テーブルの上には、小さな日本の五重の塔がのせてあり、風の吹くたび、ガラスの垂《た》れ飾《かざ》りが耳にこころよいふしぎな音を立てて鳴った。
この部屋には、妻を思い出せるものは何もなかった。しかし彼はたムたびアグア・フロリダの瓶をあけ、栓《せん》を耳たぶや手首につけてみた。その匂いは、彼の緩慢な黙考とまざり合った。過去の感覚が彼の中にひろがった。記憶が、ほとんど建築のような秩序をもって組み上げられた。形見の品をしまってある箱の中から、結婚前に撮《と》った古い写真が見つかった。ひな菊の野原にすわっているアリス。彼といっしょに川でカヌーに乗っているアリス。形見の品々の中には、彼の母親のものだった大きな象牙のヘアピンもあった。子どものころ、彼は母親が長い黒髪に櫛《くし》を入れ、結い上げるのを見守るのが好きだった。ヘアピンは女の人形をかたどって曲げられていると思った彼は、ピンを人形がわりに遊んだこともあった。あのころ、彼は端切《はぎ》れをいっぱい入れた葉巻の箱を持っていた。美しい布の手ざわりや色が好きで、端切れを相手に、台所のテーブルの下で何時間も遊んだものだった。しかし六つになったとき、母親に端切れを取上げられてしまった。まるで男のような義務感を持った、背の高いしっかりした母親だった。彼のことをいちばんかわいがってくれていた。いまでも、彼はときどき母親の夢を見た。そして母親のすりへった金の結婚指輪は、いつも彼の指にはまっていた。
アグア・フロリダといっしょに、アリスがいつも洗髪に使っていたレモン・リンスの瓶が戸棚にはいっていた。ある日、彼はそれを自分でも使ってみた。レモンは、白髪《しらが》のまじった黒い髪をふっくらと濃く見せた。彼は気にいってしまった。それまで使っていた抜け毛予防のオイルをやめ、せっせとこのレモン洗髪料で髪をゆすぐようになった。アリスのことを笑っていた気まぐれが、自分のものになってしまったのだ。なぜだろう?
毎朝、階下で働いているニグロの少年ルーイが、ベッドで飲むコーヒーを上まで持って来てくれた。起きて着がえをするまで、一時間も枕に寄りかかってすわっていることも多かった。彼は葉巻をふかし、壁に映った陽《ひ》の光の模様を眺《なが》めていた。深い物思いに沈みながら、人差し指で長い曲った足指のあいだをいじっていることもあった。むかしの思い出をたどっていたのだ。
正午から翌朝の五時まで、彼は階下で働いた。日曜は終日だった。商売は左前だった。ひまなときのほうが多かった。それでも、食事どきになると店はたいていいっぱいで、毎日何百人という顔なじみの客を見ながら、彼はレジのうしろに立っていた。
「年じゅうそこに立って、何を考えてんだい?」とジェイク・ブラウントがきいた――「ドイツにいるユダヤ人みてえだな」
「おれの八分の一はユダヤ人だからな。おふくろのじいさんていうのが、アムステルダムから来たユダヤ人だった。だけどおれの知ってるそのほかの親類は、みんなスコットランド系アイルランド人だ」とビフは答えた。
日曜の朝だった。どの客もテーブルに寄りかかり、タバコの匂いと新聞をめくる音が食堂内に満ちている。隅のボックス席では、何人かの男がサイコロを振っているが、勝負ごとにしては静かだった。
「シンガーはどこだね?」とビフがきいた――「けさは下宿へ行ってみないのかい?」
ブラウントの顔は暗く不機嫌《ふきげん》になった。彼は顔を前につき出した。シンガーとけんかでもしてきたのだろうか?――だが、唖にけんかができるだろうか? いや、けんかではあるまい、こんなことは前にもあったからだ。ときどきブラウントはあたりをほっつきまわり、自分を相手に議論をやっているようにふるまうことがあった。今度もそのうち出て行くだろう――いつものように――そして、またシンガーをつれてやって来るだろう、さかんにしゃべりながら。
「結構なもんだな。レジのうしろに立ってりゃいいんだから。ボサッと立ってりゃすむってんだから」
ビフは腹も立てなかった。両肘に重みをかけ、目を細めた。「ひとつ、まじめな話をしよう。いったい何が不足なんだね?」
ブラウントは両手をカウンターに打ちおろした。がっしりとして肉づきのいい、暖かそうな手だった。「ビールだ。それと、中にビーナッツバターのはいった、ちっちゃなチーズ・クラッカーが一袋だ」
「そういうことをきいたんじゃないんだ。だがまあ、その話はあとでしよう」とビフは答えた。
この男は謎だった。年じゅう変化をしていた。相変らず、狂ったうわばみのような酒の飲みっぷりだったが、他の連中のように酔いつぶれることはなかった。しじゅう目のふちを赤くし、ぎくりとしたように肩ごしにうしろを振返ってみる神経質な癖があった。大きくて重い頭が、細い首の上にのっている。子どもたちがあざ笑い、犬も噛《か》みつきたくなるような男だった。だが、嘲笑《ちょうしょう》は彼の骨身にこたえた――まるで道化か何かのように、騒々しくわめきちらし荒れ狂った。そして年じゅう、だれかに笑われているのではないかと気をまわしていた。
ビフは、思いやりをこめてかぶりを振った。「なあ、いったい何だって、あんなショーにひっついてるんだ? もっとましな働き口がありそうなもんじゃないか。パートタイムでよけりゃ、うちの店で働いてもらったっていいしな」
「ばか言っちゃいけねえや! その銭箱《ぜにばこ》のうしろへすわりこむなんてまっぴらだ、たとえこのやぼな店をそっくりぜんぶくれるったってな」
こんな調子なのだ。腹立たしかった。友人もできなければ、人とうまくつき合ってゆくこともできない男なのだ。
「分別を持てよ。まじめな話なんだぜ」とビフ。
客がひとり、伝票を持ってやって来たので、彼は釣銭を出した。店の中はまだ静かだった。ブラウントは落着かなかった。出て行きそうな気配だった。ビフは彼を引きとめたかった。カウンターのうしろの棚《たな》にのったA―1印葉巻を二本取ると、ブラウントにすすめた。心の中で慎重に一つ一つ質問を捨てたあげく、ようやく最後にこうきいた――
「もし歴史上の好きな時代に住めるとしたら、どの時代を選ぶね?」
ブラウントは、大きなぬれた舌で口ひげをなめた。「二度とよけいなことをきかねえのと、死人《ほとけ》になるのと、どっちを選ぶね?」
「わかったよ。まあ考えてみるんだな」
ビフは首をかしげ、自分の長い鼻筋に目をやった。彼はこの問題を、ほかの連中が論じ合うのを聞くのが好きだった。彼は古代ギリシアを選びたかった。サンダルをはき、青いエーゲ海のほとりをそぞろ歩く……腰で結んだ、ゆったりとした衣装……子どもたち……大理石の風呂と、神殿での瞑想《めいそう》……
「おれはインカ族と暮してみるか。ペルーで」
ビフの目はブラウントを裸にし、彼の全身を見まわしていた。みごとな赤銅色に日焼けし、ひげのないつるんとした顔で、金と宝石の腕輪をしたブラウントを想像してみた。目を閉じると、ブラウントはりっぱなインカ人だった。だが、ふたたび目をあけてみると、その図はかき消えてしまった――顔に似合わぬ神経質な口ひげ、肩をぴくつかせるしぐさ、やせた首の喉仏《のどぼとけ》、だぶだぶしたズボンなどのせいだった。しかし、理由はそれだけではなかった。
「それとも、一七七五年ぐらいがいいかな」
「暮すにはいい時代だったろうな」と、ビフは同意した。
ブラウントは、内気に足をすり合わせた。すさんだ、晴れやらぬ顔だった。いまにも出て行きそうだった。ビフは目ざとく気づいて引きとめた。「ところでだ――いったいどうして、この町へ来ることになったんだね?」きいたとたん、当を得た問いではなかったのに気づき、ビフは自分にいや気がさした。だがそれにしても、この男がこんな土地に流れついたというのもおかしなことだ。
「それはおれにもまるっきりわからねんだ」
ふたりはカウンターにもたれ、しばらく黙ったまま立っていた。隅でやっていたサイコロ勝負も終っていた。昼食の最初の注文は、ロング・アイランド風|鴨《かも》の特別ランチで、A&Pマーケットを経営している男に出された。ラジオからは、教会の説教とスイング・バンドがまざって聞えてくる。
ブラウントはいきなり身体を乗り出し、ビフの顔の匂《にお》いを嗅《か》いだ。
「香水かね?」
「ひげ剃《そ》りローションだよ」と、ビフは落着いて答えた。
もうそれ以上、ブラウントを引きとめておけなかった。もういまにも出て行こうとしている。いずれあとでまた、シンガーとつれだってやって来るだろう。いつもそんな調子なのだ。うまく誘いをかけ、すっかりブラウントの腹の底まで探ってみたかった。そうすれば、ブラウントにまつわるいくつかの疑問も解けるだろう。しかしブラウントは、けっして口を割ろうとしない――あの唖《おし》にしか話さないのだ。まったくもって奇妙な話だ。
「葉巻をありがとうよ。そいじゃ失敬するぜ」
「じゃな」
ビフはブラウントが身体を揺らし、船乗りのような歩き方で出口へ行くのを見送った。それから目の前の仕事にとりかかった。まずウインドーの陳列品を見やった。きょうの献立表がガラス窓に貼《は》りつけてあり、つけあわせもぜんぶそえた特別ランチが、客の目を惹《ひ》くよう並べてある。いかにもさえなかった。なんともきたならしいのだ。鴨の|たれ《ヽヽ》がクランベリー・ソースに流れこみ、デザートには蝿《はえ》が一匹とまっている。
「おうい、ルーイ!」と彼は呼ばわった――「こいつをウインドーから下げてくれ。それから、あの赤い陶器の鉢《はち》と、くだものをすこし持って来てくれ」
ビフは、色合いと格好を考えてくだものを並べた。あれこれ動かしたあげく、飾りつけはやっと気に入った。それから台所を見に行き、コックと話をした。鍋《なべ》の蓋《ふた》を取り、中の料理の匂いを嗅いだりしたが、まるで気は乗らなかった。これはいつもアリスの役だったのだ。彼は苦手だった。食べ物の屑《くず》が底にたまった、脂《あぶら》でギラギラする流し台を見ただけで、鼻にむっときた。彼は翌日の献立表と注文書を書きつけた。台所を出て、またレジのうしろに戻るのがうれしかった。
ルシールとベイビーが、日曜のランチを食べにやって来た。ベイビーはまだすっかり癒《なお》りきっていなかった。頭にはまだ包帯が巻いてあり、来月までは取れないという医者の話だった。金髪の巻毛のかわりに巻かれた包帯のおかげで、頭はむき出しのように見えた。
「ビフおじさんに、こんにちはって」と、ルシールがうながした。
ベイビーはいらだたしげにそりかえり、生意気な口をきいた――「ビフおじさんにこんにちはだって」
母親が日曜の晴着をぬがせようとすると、じたばた大あばれをした。「さあさ、おとなにするのよ。いまぬいどかないと、おんもに出たとき肺炎になりますからね。さあさ、いい子だからね」とルシールは何度もくり返した。
ビフがその場の処置を引受けた。彼はキャンデー・ガムの玉で機嫌《きげん》をとり、ベイビーの肩から外套をぬがせた。母親を相手にむずかっているうち、服の着付けはだらしなくなってしまっていた。彼は襟肩《えりかた》がまっすぐになるようになおしてやった。ベルトも締めなおし、指でリボンもいい格好になおしてやった。そして、ベイビーの小さなお尻《しり》を軽く叩《たた》いて言った――「きょうは苺《いちご》のアイスクリームがあるんだよ」
「バーソロミュー、あなたいいお母さんになれそうね」
「そりゃどうも。ほめていただいて」
「この子と、日曜学校と教会へ行って来たの。さあベイビー、ビフおじさんに、きょう習った聖句を聞かしておあげ」
ベイビーはいやいやをし、口をとがらせた。「イエス、泣きたもう」とだけ、やっとのことで言った。さもさげすんだような口ぶりで言うので、とてもおそろしい事実のように聞えた。
「ルーイに会いたいかい? 調理場にいるよ」とビフ。
「ウィリーに会いたいのよォ。ウィリーのハモニカが聞きたいのよォ」
「さあさ、ベイビー、わからないこと言うんじゃないのよ」と、ルシールはいらだたしげに言った。「よく知っているじゃないの、ウィリーがここにいないのは。ウィリーは刑務所へやられてしまったのよ」
「ルーイだってハモニカは吹けるよ。アイスクリームの用意をして、ハモニカを吹いてくれって頼んでおいで」
片方の踵《かかと》を引きずりながら、ベイビーは台所のほうへ行った。ルシールは帽子をカウンターの上に置いた。その目には涙が浮んでいた。「あたしね、いつもこう言ってたの――子どもはよく面倒を見て、こざっぱりきれいにしておきゃ、いい子で頭もいい。だけど、きたなくってみっともないと、たいした期待はできないって。あたしの言いたいのはね、あの子は髪の毛がなくなって、ああやって頭に包帯を巻いてるもんだから、それをとっても恥ずかしがって、年じゅう反抗してるみたいなの。朗読のお稽古《けいこ》もしなきゃ、まるで何一つしようとしないの。とにかく機嫌が悪くて、手のつけようがないのよ」
「そうやいのやいの言わなきゃ、あの子だっていい子になるだろうよ」
ビフは母娘《おやこ》を、やっと窓ぎわのボックス席にすわらせた。ルシールは特別ランチを注文し、ベイビーは薄く切った鴨の胸肉に、ホワイトソース、にんじんをとった。ベイビーは料理をもてあそび、小さな服の上にミルクをこぼした。ビフは客で込みはじめるまで、母娘といっしょにすわっていたが、やがて店の采配《さいはい》をふるため、立ち上がらねばならなかった。
食べつづける客たち。食物の押しこまれる大きくあいた口。あれは何といったっけ? つい先ごろ読んだ文句だ。人生とは摂取と栄養と生殖にすぎない、とか。店は込んできた。ラジオはスイング・バンドの演奏を流している。
やがて、ビフの待っていたふたりがはいって来た。まず、仕立ておろしの日曜の晴着を着ていきな格好のシンガーが、胸を張ってはいって来た。ブラウントはそのすぐそばにつきそっている。ふたりの歩き方を見ていると、何か思いあたることがあった。ふたりはいつものテーブルにすわり、シンガーはさかんにしゃべり食べつづけるブラウントを行儀よく見守っていた。食事が終ると、ふたりはレジのところへ立ち寄った。つれだって店を出て行くふたりを見送っていると、ビフはまたしても思案せずにはいられなかった。いったい何だったろう? 記憶の蓋《ふた》が心の奥深いところでにわかに開き、彼はその唐突さにぎくりとした。勤めに行くとき、よくシンガーがつれだって歩いていた、大柄で唖でつんぼの薄ばかだ。チャールズ・パーカーの店でキャンデーを作っていた、だらしないギリシア人だ。いつもあのギリシア人が先に立ち、シンガーはあとからついて歩いていた。あのふたりで店へ来たことは一度もなかったので、あまり気をつけて観察したことはなかった。だがそれにしても、どうしてこのことを思い出さなかったのだろう? 年じゅう唖のことはあれこれ考えながら、そちらのほうはすっかり見落としていたのだ。景色の中のすべてを見てとりながら、ワルツを踊る三頭の象を見のがしていたのだ。しかし、そんなことはどうでもいいのではなかろうか?
ビフは目を細めた。それまでのシンガーがどうであろうと、それはたいした問題ではなかった。問題は、ブラウントとミックが、彼をいわば自家製の神のように仕立て上げていることだ。相手が唖であるため、こちらの望みどおりの性質を与えることができたのだ。たしかにそうだ。しかし、どうしてこんなふしぎなことが起ったのだろう。いったいなぜだろう?
片腕しかない男が店にはいって来た。ビフは店のおごりで、ウイスキーをふるまってやった。しかし、だれとも話をする気にならなかった。日曜の昼食は、家族向きの食事時間だった。ふだんの日の夜にはひとりでビールを飲みに来る男たちも、日曜には女房や小さな子どもたちをつれてやって来た。店の奥にしまってある丈《たけ》の高い椅子も、しばしば必要になった。二時半だった。テーブルはまだ大部分ふさがっていたが、食事はほぼ終っていた。すでに四時間立ちづめのビフは、すっかり疲れていた。以前は十四時間から十六時間も立ちづめで、まるで疲れを覚えなかったものだ。もう年をとってしまったのだ。ずいぶんと。それは疑いもない事実だった。それとも、枯れてきたというべきだろうか。老いぼれたというのではない――まだまだ、そこまでは行ってないつもりだ。店の中のざわめきの波は、ビフの耳もとで大きくうねりまた引いて行った。枯れてきたのか。目がちくちく痛み、体内の熱がすべてをあまりにもまばゆく、あざやかにしているようだった。
ビフは、ウェイトレスのひとりに声をかけた――「ちょっと代ってくれないか? 外へ出てくるから」
日曜だったため、通りに人影はなかった。明るく晴ればれとした太陽が輝いているが、暖かくはなかった。ビフは、外套の襟《えり》をしっかりと立てた。たったひとり通りを歩きながら、彼は懐《ふとこ》ろの寂しいような心もとなさを感じた。河から風が冷たく吹きつけてくる。いますぐにも引返し、自分の持場である店へ帰るべきなのだ。いま足を向けているところへ行く用などないのだ。だがここ四週間、日曜日ごとに、彼はこうして出かけて来ていた。ミックに会えそうな近所を歩きまわったのだ。だがその行為には――どこかやましいものがあった。そうなのだ。いけないことなのだ。
ビフは、ミックの住んでいる家の向い側の歩道をゆっくりと歩きつづけた。先週の日曜、ミックは玄関先の階段にすわって、漫画新聞を読んでいた。しかしきょうは、家のほうをすばやく見やっても、ミックの姿はなかった。ビフは、中折れ帽のふちを目深に傾けた。たぶんあとで店へやって来るだろう。日曜の夕食のあと、あの子はよく熱いココアを飲みに立ち寄り、シンガーのすわっているテーブルのところで、しばらく時間つぶしをしてゆく。日曜には、ふだん着ている青いスカートとセーターとは違った格好をして来た。ミックの日曜の晴着は、すすけたレースの襟のついた、ぶどう酒色の絹服だった。いつだったか、長靴下をはいて来たことがあった――伝線病でほつけたやつだった。ビフはいつも、彼女に何かおごってやりたい、何か与えてやりたい気持でいっぱいだった。それもチョコレート・サンデーとか、甘いお菓子だけでなく――何かちゃんとしたものを。それが彼の心ひそかな望みだった――ミックに贈物をしてやるというのが。ビフの口もとがこわばった。何一つ悪いことをしたわけでもないのに、奇妙な罪悪感があった。なぜだろう? それはすべての男の中にある、数えきれず名づけようもない暗いやましさだった。
店への帰り道、ビフは半分ごみに隠れるようにして溝《みぞ》の中に落ちている一セント銅貨を見つけた。もったいないという気持から、彼は銅貨をひろい上げ、ハンカチでぬぐうと、黒い財布の中に入れた。店へ戻ったのは四時だった。仕事のほうはひまだった。店の中に客は一人もいなかった。
五時ごろになると、また店は活気づいてきた。つい先ごろ、パートタイムで雇った少年が、早い目に顔を出した。ハリー・マイノウィッツという名の少年で、ミックやベイビーのすぐ近所に住んでいた。新聞広告には十一人が応募してきたが、ハリーがいちばんよさそうに見えた。齢《とし》のわりには身体も大きく、身じまいもきちんとしていた。面談の際、ビフは少年の歯に気づいた。歯というのは、人柄をよく表わすものなのだ。大きくて、清潔な白い歯だった。眼鏡をかけていたが、仕事のじゃまにはなるまい。母親は、通りの先の洋服屋の下請けをやり、週に十ドルをもらっていた。ハリーはひとりっ子だった。
「なあ、ハリー、うちへ働きに来てくれてもう一週間だが。ここは気に入りそうかね?」とビフはきいた。
「ええ、とても。とても気に入っています」
ビフは、指にはめた指輪をまわした。「それでと。学校のひけるのは何時だった?」
「三時です」
「とすると、勉強して休む時間は二時間あるわけだ。そこからこの店へ来て、六時から十時まで、と。それで、睡眠時間はじゅうぶんあるかね?」
「じゅうぶんです。ぼくは、そんなに眠らなくたって平気ですし」
「いや、きみの年ごろだと、九時間半くらいは必要だな。ぐっすりと健康な眠りがね」
彼はにわかに気恥ずかしさを覚えた。たぶんハリーは、こんなことはおまえなんかの知ったことじゃないと思うだろう。たしかにそのとおりだったのだ。彼は話をそらそうとしかけ、ふとあることを思いついた。
「実業学校へ行ってるんだったね?」
ハリーはうなずき、眼鏡をワイシャツの袖《そで》にこすりつけた。
「そうか。あすこへかよってる子は、男の子も女の子もおおぜい知ってるんだよ。アルヴァ・リチャーズ――あの子のおやじさんはよく知ってる。それからマギー・ヘンリー。それに、ミック・ケリーっていう女の子……」ビフは火がついたように、両耳がまっ赤《か》になるのを感じた。われながら愚かしいこととはわかっていた。背を向け、この場から立ち去ってしまいたかったが、依然として微笑を浮べ、鼻先を親指でおさえながら立ちつづけていた。「あの子は知ってるかい?」と、彼はおずおずときいた。
「ええ、ぼくはすぐ隣に住んでますから。でも学校では、ぼくは四年生だし、あの子は一年なんです」
ビフはこのわずかな情報を、あとでひとりになったときよく考えなおしてみるつもりで、きちんと胸の中へしまいこんだ。「いまからしばらくはひまだろうから。きみにまかせるよ」と、彼はあわてて言った。「もう仕事のやり方はのみこんだろう。ビールを飲んでいる客に気をつけて、あとで客にきいたり、客のいいなりにならんでいいよう、何杯飲んだか覚えているんだよ。釣銭を出すときにはあわてないこと、それから店の中の動きにも気をつけてな」
ビフは、階下にある自分の部屋に閉じこもった。新聞の綴じこみがしまってある部屋だった。横の露地に面した小さな窓が一つあるきりの部屋なので、空気はかび臭くてひんやりとした。新聞の山が天井まで積み重なっている。手製の整理棚が、一方の壁面をふさいでいる。ドアの近くには、古風な揺り椅子と、植木鋏《うえきばさみ》や辞書やマンドリンののった小さなテーブルがある。新聞の山のおかげで、どちらの方向にも二歩以上歩くことは不可能だった。ビフは椅子にすわって揺らしながら、ものうげにマンドリンの弦をつまはじいた。目を閉じ、彼は悲しげな声でうたいはじめた――
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動物博へ行ったなら
鳥やけものが勢ぞろい
老いぼれ狒々《ひひ》が月光浴びて
金茶の毛並みをとかしてた
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最後にかき鳴らした和音は、冷たい空気の中でふるえ静まった。
小さな子どもをふたり、養子にしてみるか。男の子と女の子をひとりずつ。ほんとうの父親のように思ってくれるよう、三、四歳の子がよかろう。うちのパパ。あたしたちのおとうさん。ミックか(それともベイビー)のような、三つ四つの女の子。丸い頬《ほ》っぺたと、灰色の目と、亜麻色の髪。どんな服を作ってやろうか――襟肩《えりかた》と袖口《そでぐち》にきれいなひだ飾りのついた、ピンクのクレープ・デシンの服などどうだろう。絹のソックスに、白い鹿革《しかがわ》の靴。そして冬には、小さな赤いビロードの外套と、帽子と、マフ。男の子のほうは、色の浅黒い髪の黒い子がいい。きっとうしろからついてまわり、こちらのすることを何でも真似《まね》てみるだろう。夏には、三人でメキシコ湾に面した別荘へ出かけ、子どもたちに水着を着せ、浅い緑色の波間へそっと用心深く入れてやろう。こちらが年をとるにつれ、子どもたちはりっぱに花を咲かせるだろう。うちのパパ。子どもたちはいろんな質問をもってやって来るだろう。どの質問にもみんな答えてやろう。
そうしていけないことがあろうか?
ビフは、ふたたびマンドリンを取り上げた。「タム、チ、チム、チ、チー、チ、チー、頬紅《ほおべに》つけたお人形のお嫁入り……」マンドリンが折り返しの部分を真似《まね》た。彼は歌をすっかりうたい終え、片足をゆすって拍子を取った。そのあと、『ケイ、ケイ、ケイ、ケイティー』や、『甘くなつかしい愛の歌』を弾《ひ》いた。思い出を引出すという意味では、こうした歌曲はアグア・フロリダ香水と似ていた。思い出のすべてがよみがえってきた。彼がまだしあわせで、アリスもまたしあわせそうだった最初の年。やがて、ベッドをともにするのが三月に二度となったこと。そのあいだも、どうして五セント玉一枚を倹約しようか、もう一枚余分に十セント玉をしぼり出すにはどうすればいいか、といったことでアリスの頭はいっぱいだったのに彼は気づかなかった。それから、リオやあの家の女たちとの交情。ジップやマデラインやルーといった女たち。そしてそのうち、にわかに男性としての能力を失ってしまったこと。もう女と寝られなくなってしまったのだ。なんてことだ! 最初のうちは、すべてを失ったような気がしたものだ。
ルシールは、いつも何もかもわかってくれていた。アリスがどのような女かも知っていた。彼のこともよく知っていたのかもしれない。たびたびふたりに、離婚をすすめたものだ。それにまた、ふたりのあいだのいざこざをなんとかまとめようと、できるだけのことをしてくれた。
ビフはとつぜんたじろぎを覚えた。マンドリンの弦からふり払うように手をのけたため、音楽もそこでぷっつり切れてしまった。彼はこわばった姿勢ですわっていた。やがて、いきなりくすくすひとりで笑いはじめた。何がきっかけで、こんな状態になったのだろう? ああ、まったくなんという醜態だったろう! あれは彼の二十九歳の誕生日だった。歯医者がすんだらアパートへ立ち寄ってくれ、とルシールに言われていた。彼はおそらく、お誕生日祝いでももらうのだろうと思っていた――桜んぼケーキか上等のワイシャツでも。ルシールは彼を戸口に出迎え、中へはいる前に彼に目隠しをした。そして、すぐに戻って来るからと言う。しんとした部屋の中で、彼はルシールの足音が遠ざかるのを聞いていたが、やがて彼女が台所へはいったのを見すまし、屁《へ》を一つやらかした。目隠しされたまま部屋の中に立ち、大きな音でやってしまったのだ。と、とつぜん、彼は部屋の中にいるのは自分だけでないのを知って愕然《がくぜん》とした。くすくす笑いが起ったかと思うと、やがて耳も聾《ろう》せんばかりの大笑いの渦に包まれた。そのときになって、ルシールが戻って来て目隠しをといてくれた。彼女はカラメル・ケーキを大皿にのせて持っていた。部屋の中は人でいっぱいだった。ルロイやその仲間、それにむろん、アリスもいた。彼は壁にはいのぼってしまいたかった。顔じゅう火がついたようにほてるのを感じながら、むき出しの顔をみんなの前にさらして立っていたのだ。みんなにからかわれ、そのあとの時間は(彼の実感では)母親に死なれたときのようにつらかった。その夜遅く、彼は一クオートばかりのウイスキーをあおった。そして何週間かたったあげく――あのざまなのだ!
ビフは冷たくくすりと笑った。マンドリンでいくつか和音をつまはじくと、今度は陽気なカウボーイの歌をうたいはじめた。声はやわらかで美しいテナーだった。うたいながら彼は目を閉じていた。部屋はもうほとんど暗かった。湿っぽい寒気が骨までしみこみ、両脚《りょうあし》がリューマチでうずきはじめた。
おしまいにはマンドリンをわきへ片づけ、彼は暗がりの中でゆっくりと椅子をゆすった。死。ときには死を、この部屋の中で身近に感じることもあった。彼は椅子にすわり、身体を前後にゆすった。いったいおれは何を理解したのか? 何もない。おれはどこを目ざしているのか? どこでもない。何を望んでいるのか? 知ることをだ。何を? 意味を。なぜ? それは謎だ。
ばらばらの情景が、ばらまかれたはめ絵遊びのように頭の中に散らばっていた。浴槽《よくそう》で石鹸《せっけん》の泡《あわ》だらけになっているアリス。猫のムッソリーニの口もと。荷車に赤ん坊をのせ、引いているミック。陳列された七面鳥の焼肉。ブラウントの口。シンガーの顔。ビフは何かを待っていた。部屋はもうまったくの暗闇だった。調理場から、ルーイのうたっているのが聞えた。
ビフは立ち上がり、揺れをとめるためヨ子の腕に手をふれた。ドアをあけると、外の廊下はとても暖かく、明るかった。たぶんミックの来るだろうことを思い出した。彼は身じまいを正し、髪をなでつけた。暖かさと活気がよみがえってきた。店のほうは大にぎわいだった。ビールもまわり、日曜の夕食がはじまっていた。ビフはハリーに愛想よい微笑を送り、レジのうしろに陣取った。彼は投《な》げ縄《なわ》のように、一目で食堂内のようすを見てとった。店は客で立てこみ、ざわついていた。窓のところに置いたくだものの鉢《はち》は、しゃれて芸術的だった。彼は入口を眺《なが》め、馴《な》れた目つきで店の中を見まわしつづけた。注意深く、熱心に待ち受けていた。やっとシンガーがやって来て、いつもの銀色の鉛筆で、風邪《かぜ》ぎみなのでスープとウイスキーだけをほしいと書きつけた。だが、ミックはとうとう来なかった。
ミックは、もう五セント玉一枚も自由にならなかった。一家はそれほど貧しくなってしまったのだ。何よりも金が問題だった。明けても暮れても、金、金、金だった。ベイビー・ウィルソンの個室の費用、付添い看護婦の費用として、目も飛び出るほどの金額を支払わねばならなかった。それも請求書一枚でそうなのだ。一つを支払い終えるころには、きまってまた何か別な請求が出てくるのだ。いますぐ支払わねばならぬ借金が、もう二百ドルほどになっていた。とうとう家を手放すことになった。パパは家を抵当に入れ、銀行から百ドルの借金をした。さらにそのうえ五十ドルも借り、シンガーさんが保証人になってくれた。その後は、税金のかわりに、毎月家賃のことで頭を痛めなければならなかった。もう工場労務者と同じくらいの貧乏ぶりだった。ただ、だれも一家を見下すものはいなかった。
ビルは瓶詰《びんづめ》工場で働き、週に十ドル稼《かせ》いできた。ヘイゼルは八ドルで、美容院の助手として働いた。エッタは映画館で切符を売り、週五ドルをもらった。めいめいが、稼ぎの半分を生活費として入れた。それに家には、ひとりあたり五ドルで六人の下宿人がいた。そして、いつもきちんと下宿代を払ってくれるシンガーさん。パパの稼ぎを入れると、ぜんぶで月にほぼ二百ドルになった――しかしその中から、六人の下宿人にちゃんとした食事を出し、家族にも食べさせ、家賃を払い、家具の月賦も払わねばならなかった。
ジョージとミックは、もう弁当代ももらえなくなった。音楽のレッスンもやめねばならなかった。ポーシャはふたりが学校から帰って食べれるように、昼食の残りものを取っておいてくれた。ふたりはいつも台所で食事をした。ビルやヘイゼルやエッタが、下宿人といっしょに食事をするか台所で食べるかは、どのくらいの食べ物があるかによった。台所での朝食は、荒ひきとうもろこしにバター、それに脇肉《わきにく》ベーコンとコーヒーだった。夕食も朝と同じで、それに食堂からのおこぼれが何でもそえられた。年かさの子どもたちは、台所で食べなければならないときは、いつも不平をこぼした。ミックとジョージは、ときどき二、三日、ひどくひもじい思いをすることがあった。
だが、こうしたことは≪外の部屋≫での出来事だった。音楽や、外国や、彼女のめぐらすさまざまな計画とは、まるで関係のないことだった。冬の寒さはきびしかった。窓ガラスには霜が貼《は》りついていた。夜になると、居間の火は暖かくはじけた。家族全員が下宿人たちと暖炉のそばにすわったので、ミックはまん中の寝室をひとりじめにできた。彼女はセーターを二枚着こみ、ビルの小さくなったコール天のズボンをはいた。興奮のため、身体《からだ》も暖かだった。彼女はベッドの下から秘密の箱を取出し、床にすわって仕事にとりかかった。
大きな箱の中には、前に無料講習会で描いた絵が入れてあった。ビルの部屋から取って来たのだ。そのほか箱の中には、パパからもらった推理小説本が三冊、コンパクト、時計の部品のはいった小箱、模造ダイヤの首飾り、金槌《かなづち》、それに何冊かのノートがしまってあった。一冊のノートのおもてには、赤いクレヨンで≪秘密。手をふれるべからず≫と書いてあり、ノートは細紐《ほそひも》でしばってあった。
冬のあいだじゅう、このノートを使って、音楽の勉強をしていたのだ。音楽にもっと時間が割《さ》けるよう、夜、学校の勉強をするのもやめてしまった。だいたいは、ちょっとした調べを、歌詞も低音もつけぬまま、書きとめてゆくだけだった。ごくみじかいものばかりだった。しかし、半ページの長さしかない曲でも一つ一つ名前をつけ、曲の下に自分の頭文字《かしらもじ》を書きつけた。れっきとした作曲や作品は一つもなかった。ただ心に浮んだ歌を、忘れないよう書きとめただけだった。それぞれの歌の印象から、『アフリカ』とか、『大いなる戦い』とか、『雪あらし』などと名がつけられていた。
心の中でひびいているようには、とうてい音楽を書きあらわすことはできなかった。うんと間引きをして、ほんのわずかな音符にしなければならなかった。さもないとすっかり混乱してしまい、とても先へ進めないのだ。音楽の書き方については、知らないことがあまりにも多かった。だが、こうした簡単な節まわしを、速くどんどん書く術《すべ》を学びさえすれば、心の中の音楽をすっかり書きつけることもできるだろう。
一月になると、ミックは『わたしの知らぬこの願い』と題する、とてもすばらしい曲を書きはじめた。美しいすてきな歌だった――とてもゆるやかで静かな曲だった。はじめは、その曲にそえる詩も書きはじめたのだが、音楽にぴったりの考えはどうしても思いつかなかった。それに、一行目とうまく韻を踏む三行目の言葉も出て来ない。この新しい歌に、彼女は悲しみと興奮としあわせを一度に覚えた。こんなに美しい音楽は、仕上げるのも容易ではなかった。どんな歌でも書くのはむずかしかった。二分で口ずさめるようなものが、ノートに書きつけるまでにはまる一週間もかかるのだ――音階を考え、拍子を考え、一つ一つの音符をすっかり考えてしまってから。
ともかく曲一つに専念し、何度もうたってみなければならなかった。ミックの声はむかしからしわがれていた。パパに言わせると、赤ん坊のときあまり大声で泣きすぎたからだという。ラルフの年ごろのとき、パパは毎晩起きて、彼女を散歩につれて出なければならなかったそうだ。火掻《ひか》き棒《ぼう》で石炭入れを叩《たた》き、ディキシーの曲をうたって聞かせるのが、彼女を黙らせる唯一の手だったというのがパパの口癖だ。
ミックは、冷たい床に腹ばいになって考えた。やがて大きくなって、はたちになる時分には、あたしは世界的に有名な大作曲家になっているだろう。交響楽団を自分で持ち、自分で作曲した曲をぜんぶ指揮するのだ。満員の聴衆を前にして、指揮台にのぼる。オーケストラを指揮するのには、ほんとの男物の夜会服か、模造ダイヤのついた赤いドレスを着なければなるまい。舞台の幕は赤いビロードで、ミック・ケリーの頭文字が金色でM・Kと書いてある。シンガーさんも来てくれていて、演奏が終ったら、ふたりでチキン・フライを食べに行くのだ。シンガーさんは演奏をほめてくれ、あたしをいちばんの親友だと言ってくれるだろう。ジョージは、大きな花束を舞台へ持って来てくれるだろう。場所はニューヨークか、どこか外国だ。女優のキャロル・ロンバードや、アルトゥーロ・トスカニーニ、バード提督といった有名人が、みなあたしのことを指さし話題にしてくれるのだ。
そうなれば、いつでも好きなときに、ベートーヴェンの交響曲を演奏できるだろう。去年の秋聞いたこの曲については、奇妙なことがあった。この交響曲はいつも心の中にとどまり、すこしずつ成長したのだ。それというのも――交響曲ぜんぶが心の中にはいりこんでいたのだ。そうにちがいなかった。音符の一つ一つを聞きとった結果、心の奥底のどこかには、演奏されたときのままぜんぶの曲がまだ残っていたのだ。ところが、どうしてもそれをふたたび取出せない。ふととつぜん、曲の新しい部分がよみがえってくるのを、手をこまねいて待っているより仕方がないのだ。春先の樫《かし》の木の枝に葉がすこしずつ伸びてくるように、曲が成長するのをひたすら待つばかりだった。
≪奥の部屋≫には、音楽とともにシンガーさんの姿もあった。毎日午後、体育館でピアノを弾《ひ》き終えるとすぐ、ミックは彼の働いている店の前を通り、本通りを帰って来た。おもての飾り窓からは、シンガーさんの姿は見えなかった。店の奥の、カーテンのかげで仕事をしていたからだ。だがミックは、彼のいる店を毎日|眺《なが》め、彼と顔見知りの人たちを見た。夜も毎晩、玄関先のポーチで彼の帰りを待ち受けた。ときには、彼について二階までのぼって行くこともあった。ベッドの上にすわり、彼が帽子をぬぎ、カラーのボタンをはずし、髪にブラシをかけるのをじっと見守っているのだ。どういうわけか、ふたりは秘密を分っているような気持になった。あるいは、まだ話されたことのないさまざまな話題について、互いに話し合う機会を待っているかのようでもあった。
≪奥の部屋≫にはいっているのは、いまはシンガーさんだけだった。しかしずっとむかしは、ほかの人たちもはいっていたのだ。ミックはむかしを思いかえし、シンガーさんの現われる前のことを思い出した。むかし六年級に、セレストという名の女の子がいたのを思い出した。まっすぐな金髪と、そりかえった鼻と、そばかすを持った子だった。白いブラウスに、赤いウールのジャンパーを着ていた。歩くときは内股《うちまた》で歩いた。毎日、みじかい休み時間にみかんを一つ、長い休み時間用に青い弁当箱を持って来た。ほかの子どもたちはみじかい休み時間に弁当を平らげてしまい、あとはひもじさを辛抱しなければならなかったが、セレストだけは別だった。彼女はサンドイッチのまわりを引きちぎり、まん中のやわらかいところだけを食べた。いつも詰め物をした堅ゆで卵を持って来ては、指のあとが残るほど強く親指で黄味を押しつぶした。
セレストはミックに、ミックはセレストに、一度も話しかけなかった。もっとも、それがミックのいちばん望んだことであった。夜になると、彼女は眠れぬまま横になりながら、セレストのことを考えた。ふたりが大の仲よしで、セレストがうちへ夕食を食べに来て、泊っていったりするときのことをいろいろ夢見たりした。だが、それは実現しなかった。セレストにいだいていた気持は、ほかの子に対する気持と違い、どんどん近寄って行って気安く仲よくはなれなかった。一年後、セレストは町の別の地区へ引っ越し、別の学校へ行ってしまった。
それから、バックという名の男の子がいた。にきび面《づら》をした大きな子だった。朝八時半、教室へはいるのに列を作って彼の横に並ぶと、ひどくいやな臭《にお》いがした――ズボンがかび臭く臭ったのだ。バックは一度、校長先生に向ってつっかかってゆき、停学をくらってしまった。笑うときには上唇《うわくちびる》をめくり上げ、身体《からだ》じゅうをゆすった。ミックは彼のことも、セレストの場合と同じように考えた。それから、七面鳥の当る富くじを売っていた女の人。それに、七年級を教えていた女のアングリン先生。そして、映画のキャロル・ロンバード。みんな、ミックの憧《あこが》れの対象だった。
だが、シンガーさんの場合はちょっと違っていた。シンガーさんへの好意はすこしずつ芽生《めば》えてきたものであり、いくら思い出そうとしても、いつからのものかわからなかった。ほかの人たちはみな平凡だったが、シンガーさんだけは違っていた。玄関のベルを鳴らし、貸部屋のことをききに来た最初の日、ミックは長いあいだ彼の顔を見つめていた。ドアをあけたのは彼女で、彼の手渡す名刺を何度も読みかえした。それからママを呼び、台所へ行ってポーシャとババーに彼のことを話した。彼女はふたりのあとについて階段をのぼり、彼がベッドのマットレスを指で突いたり、うまく動くかどうか日除《ひよ》けを巻き上げたりするのをじっと見ていた。シンガーさんが引っ越してきた日には、玄関先のポーチの手すりに腰をかけ、彼が十セント・タクシーから、スーツケースとチェス盤を持っておりてくるのを見ていた。そのあと、彼が部屋の中を歩きまわる重い足音を聞き、いろいろと想像をめぐらした。そのあとのことは徐々に起った。そしていまでは、この秘密の気持がふたりのあいだにかよっていた。ミックはこれまでだれにも話したことがないほど、たくさんのことを彼に物語った。口がきけたなら、彼もいろいろ話してくれたことだろう。彼はえらい先生のようだったが、唖《おし》のため教えないのだ。夜、床についてから、ミックは自分がみなし児で、シンガーさんといっしょに暮す図を想像してみた――冬になると雪の降る、どこか外国の家でのふたりっきりの生活を。氷河がそそり立ち、まわりじゅう山に囲まれた、小さなスイスの町かもしれない。どの家の上にもみな石がのせてあり、屋根が急な傾斜でとがっているような。それとも、みんながお店からパンを包まず持って帰るフランスかもしれない。でなければ、灰色の冬の海に面した、見知らぬノルウェーかもしれない。
朝目をさますと、まず考えるのはシンガーさんのことだった。音楽のことといっしょに。服を着ると、きょうはどこで会えるだろうかと考える。エッタの香水を借りたり、ヴァニラ香料を一滴たらしたりもした。廊下で出会ったとき、いい匂《にお》いがするように。仕事に行くため階段をおりて来るシンガーさんに会えるよう、学校へも遅く出かけた。そして昼も夜も、シンガーさんがうちにいるかぎり、家を出たことはなかった。
シンガーさんに関して学んだ新しい事実の一つ一つが、ミックには大切だった。シンガーさんは歯ブラシと歯みがきをコップに入れ、テーブルにのせていた。そこで彼女も、歯ブラシを浴室の棚《たな》にのせておくのをやめ、コップに入れることにした。シンガーさんはキャベツがきらいだった。ブラノンさんの店でアルバイトをしているハリーが教えてくれたのだ。そう聞くと、彼女もキャベツを食べられなくなってしまった。シンガーさんのことで新しい事実を知ったり、彼に何か話しかけ、銀色の鉛筆で二こと三こと返事を書いてもらったりすると、そのあとひとりきりになって、長いあいだ考えこまずにいられなかった。シンガーさんといっしょにいるときは、あとでそれを再現し思い出せるよう、何もかもたくわえこむことで頭がいっぱいだった。
しかし、音楽がありシンガーさんのいる≪奥の部屋≫だけがすべてではなかった。外側の部屋でも、いろいろなことが起っていた。たとえば、ミックは階段からころげ落ち、前歯を一本折ってしまった。ミンナー先生からは、英語の悪い点を二度ももらってしまった。また空地《あきち》で二十五セント玉をなくし、ジョージとふたりで三日間も捜したが、とうとう見つからなかった。
またこんなこともあった――
ある日の午後、ミックは裏の階段にすわり、英語のテストの勉強をしていた。垣根《かきね》の向う側で、ハリーが薪《まき》を割りはじめたので、彼女は大声で呼びかけた。ハリーはやって来て、いくつかの文章を図解して説明してくれた。角ぶち眼鏡の奥で、彼の目は機敏だった。英語の説明を終えると、彼は立ち上がり、木樵《きこり》の着る作業服のポケットに手をつっこんだり出したりした。いつも精力にあふれ、落着きがなく、しじゅう何か話しているかしているか、寸時もじっとしていられない彼だった。
「いいかい、いまの世の中には二つしかないんだよ」と彼は言った。
彼は人を驚かせるのが好きで、ときにはミックもどう答えていいかわからなかった。
「ほんとなんだ、いまの世の中の行き先には二つしかないんだよ」
「二つって何なの?」
「闘争的民主主義か、ファシズムか」
「共和党は好かないの?」
「やだなあ、そんなこと言ってるんじゃないんだよ」
またある日の午後、彼はファシストについてすっかり説明してくれた。ナチスがユダヤ人の子どもたちを四つんばいにさせ、地面の草を食べさせた話をしてくれた。ヒットラー暗殺の計画も聞かせてくれた。計画はもうすっかりでき上がっていたのだ。ファシズムには正義も自由もなく、しかも新聞はわざと嘘《うそ》ばかりを書くので、人びとは世界で何が起っているかを知らないのだ、という。ナチスはおそろしい――それはだれもが知っていることだ。ミックは彼と共謀し、ヒットラーを殺す計画をねった。暗殺計画には四、五人はいたほうがいい。そうすれば、ひとりが失敗をしても、残りの者で同じようにやっつけられるからだ。それに、たとえ命を落すことがあっても、全員が英雄になれるのだ。英雄になることは、大音楽家になるのとほとんど同じことだった。
「二つのうちのどちらかなんだ。ぼくは戦争はきらいだけど、それでも正しいと思うもののためには戦うつもりだよ」
「あたしだって。ファシストと戦いたいわ。男の子みたいな格好するの、そしたらだれにもわかんないもの。髪の毛をみじかく切ったりしてさ」
よく晴れた冬の午後だった。空は青緑色で、裏庭の樫《かし》の木の枝が、空の色を背景にあらわに黒ぐろとして見える。太陽は暖かかった。ミックは身体《からだ》じゅうに力のあふれるのを感じた。心の中には音楽があった。何かしていないではいられない気持で、大釘《おおくぎ》を一本ひろい上げると、何回か思いきり叩《たた》いてそれを階段へ打ちこんだ。金槌《かなづち》の音を聞きつけたパパが、部屋着のまま出て来てしばらくようすを見ていた。木の下には大工仕事用の鋸《のこ》ひき台が二つあり、小さなラルフは石を片方にのせ、それをまた別の台へ運んでいる。せっせと行ったり来たり。身体の平均を取るため、両手を前につき出して歩いている。がに股《また》で、おしめが膝《ひざ》のあたりまでずり落ちている。ジョージは、おはじき玉をはじいている。髪の毛がのびているため、顔がやせて見える。すでに永久歯が何本か生《は》えてきていたが、黒苺《くろいちご》でも食べていたように青っぽい小さな歯だった。彼は玉をはじき出す線を地面に引き、腹ばいになって最初の穴にねらいをつけた。時計なおしの仕事場へ戻るとき、パパはラルフを抱いてはいった。しばらくすると、ジョージはひとりで露地へ出て行った。ベイビーを撃って以来、彼はだれとも友だちになろうとしなかった。
「もう行かなきゃ。六時には仕事にかかってなきゃいけないんだ」とハリーが言った。
「あの食堂で働くのってどう? おいしいもの、ただで食べさせてもらえるの?」
「もちろんさ。それに、いろんな人がやって来るんだ。いままでにやったアルバイトの中じゃ、いちばん気に入ってんだ。給料もいいし」
「あたし、ブラノンさんてきらい」とミックは言った。たしかに、一度もいやなことを言ったりしたことはないが、いつも荒っぽい、おかしな口のききようをする人だった。きっと、ジョージとふたりで|がめ《ヽヽ》たチューインガムのことを知っているにちがいない。それにしてもなぜ、その後どんなぐあいだね、などときくのだろう?――いつかシンガーさんの部屋でのように。あたしたちきょうだいのことを、盗みの常習犯だと思っているのだろう。そんなことはないのに。誓ってそんなことは。たった一度、十セント・ストアから小さな水彩絵具セットをちょろまかしてきただけだ。それと、ニッケルの鉛筆削りと。
「ブラノンさんにはがまんならないの」
「悪い人じゃないぜ。ときどきは変人みたいなとこもあるけど、つむじ曲りってわけじゃなし――よくつきあってみればさ」
「あたし、前から考えてんだけど。男の子ってそんなふうに、女の子より得ね。だって男の子ならたいてい、学校を休まなくてもよくて、ほかのことをする時間も残るようなアルバイトがあるでしょ。だけど、女の子にはそんな仕事ないもの。女の子が仕事をするとなると、学校をやめてフルタイムで働かなくちゃ。あたしもあなたみたいに、週に二ドルくらい稼ぎたいんだけど、まるで働き口がないの」
ハリーは階段に腰をかけ、靴紐《くつひも》をほどいた。あまり強く引っぱりすぎたため、一本は切れてしまった。「ブラウントさんていう客が店に来るんだよ。ジェイク・ブラウントさんて人だけど。話を聞いているとおもしろいんだ。あの人がビールを飲んだときにしゃべることから、ずいぶん勉強させてもらったな。新しい考えを教わったよ」
「あの人ならよく知ってるわ。毎週日曜うちに来るもの」
ハリーは靴紐を解き、切れた紐を引っぱって同じ長さにそろえ、もう一度|蝶《ちょう》むすびにした。
「いいかい」と、彼は神経質に眼鏡を作業服にこすりつけながら、言った――「いまぼくの言ったこと、あの人に伝える必要はないんだよ。だってさ、ぼくのこと覚えてるかどうかもわからないんだから。それに、ぼくに話したんじゃないんだ。シンガーさんに話してただけなんだ。だから変に思われるかもしれないよ、もしきみが……わかるだろ?」
「わかったわ」言外の意味を読みとった彼女は、ハリーがブラウントさんに夢中になっていることを知り、彼の気持を察した。「言わないでおくわ」
夕闇が忍び寄ってきた。ミルクのように白い月が青い空に現われ、空気はひえこんできた。ラルフとジョージとポーシャの声が台所に聞える。料理用ストーブの火が、台所の窓を暖かいオレンジ色に染めている。煙と夕食の匂いが漂ってきた。
「いままでだれにも話さなかったことなんだけど。自分でも自覚することがいやなんだ」
「なあに?」
「はじめて新聞を読みはじめて、読んだ記事のことをいろいろ考えたときのことを覚えているかい?」
「覚えてるわ」
「ぼくは、以前にはファシストだった。だったと思っていた。こういうわけなんだ。ぼくらの年ごろのヨーロッパの若者たちが、歌をうたい、足並みをそろえて行進している写真を見たことあるだろ? ぼくはそれをすてきだと思ったんだ。互いに誓いをかわし、ただひとりの指導者をいただいた若者たち。同じ理想を持ち、歩調をそろえて行進する若者たち。ぼくはユダヤ系の少数民族がどんな目に会っているかなど、たいして気にもとめなかった。そんなことは考えたくもなかったからさ。それに、そのころは、ぼく自身がユダヤ人だなんて考えたくもなかったし。つまりさ、ぼくにはまだわからなかったんだ。ただ写真を眺《なが》め、下の説明を読み、あとは何もわからなかったんだ。どんなおそろしいことかもまるで知らなかった。自分のことをファシストだと思ってた。もちろん、あとになって、そうでないことを知ったけどさ」
ハリーの声は自責のひびきに重苦しく、おとなの声から少年の声へとしじゅう変りつづけた。
「だって、そのときは気づかなかったんでしょ……」
「おそろしい犯罪だった。道徳的な罪悪だった」
ハリーはいつもこうだった。すべてが絶対に正しいか、絶対に悪いかで――中間はないのだ。二十歳未満の者がビールや酒に手を出したり、タバコを吸ったりするのは悪だった。試験でカンニングをするのはおそろしい罪だが、宿題を写させてもらうのは罪ではなかった。女の子が口紅をつけたり、背中のあいた服を着たりするのは道徳的な罪だった。たとえ五セント玉一枚で買える品でも、ドイツや日本のレッテルのついた物を買うのはおそろしい罪だった。
ミックは、ふたりがまだ小さかった時分のハリーを思い出してみた。いつだったか、目がやぶにらみになって、そのまま一年ばかりなおらなかったことがあった。彼は両手を膝のあいだにはさんで玄関の階段にすわり、じっと外を見つめていた。身動きもせず、やぶにらみの目で。小学校では二学年とび超えて進級し、十一の齢《とし》でもう実業学校へ行くことができた。ところが実業学校で、『アイヴァンホー』のユダヤ人の話を読んだとき、クラスの連中がみな彼を振返って見るので、ハリーは家へ帰って来て泣いた。そこで母親は、彼を休学させてしまった。彼はまる一年、学校を休んでいた。背が高くなり、ひどく肥《ふと》ってもきた。ミックが垣根《かきね》をよじのぼってみるたび、ハリーは台所で何か食べるものを自分で作っていた。ふたりは家の近所で遊びまわり、ときには取っ組み合いをすることもあった。子どものころ、ミックは男の子たちとけんかをするのが好きだった――ほんとうのけんかではなく、ふざけているだけだったが。彼女はジュージツとボクシングの組み合わせを使った。ハリーに組み敷かれることもあれば、彼女のほうが組み敷くこともあった。ハリーは、けっしてだれにも乱暴な態度をとらなかった。おもちゃをこわすと、小さな子どもたちは彼のところへやって来る。すると彼は、いつでもひまを見つけてなおしてやった。彼は何でもなおすことができた。近所の主婦たちは、どこかぐあいが悪くなると、彼に頼んで電灯やミシンをなおしてもらった。やがて十三歳になると、彼はまた実業学校へかよいだし、けんめいに勉強をはじめた。新聞配達をやり、土曜ごとに働き、読書もした。長いあいだ、ミックは彼の姿をほとんど見かけなかった――ついこの前のパーティまでは。彼はすっかり変ってしまっていた。
「それでさ、ぼくも以前はいつも大きな野心を持ってたんだ。大技師か、名医か、弁護士になろうっていう。だけど、いまはもうそんな野心なんかない。いま考えるのは、世界がどうなるだろうってことだけなんだ。ファシズムや、ヨーロッパで起っているおそろしい事件のこと――それと一方では、民主主義のこと。ぼくはこういう世の中のことばかり気になって、自分の将来のことなんか考えられないし、努力する気にもならないんだ。ぼくは毎晩、ヒットラーを暗殺する夢を見る。そして喉《のど》がからからになって、何かにおびえて暗闇の中で目をさましてしまうんだ――何がこわいんだかわからないけど」
彼女はハリーの顔を見た。思いつめた深刻な気持に、ミックは悲しくなった。彼は髪の毛を額に垂《た》らしている。上唇《うわくちびる》は薄く、きっと結ばれていたが、下唇は分厚くわなないている。ハリーは十五歳には見えなかった。夕闇とともに、冷たい風が出てきた。風は界隈《かいわい》の樫《かし》の梢《こずえ》でうたい、日除《ひよ》けを家の横手に打ちつけた。通りの先のほうでは、ウェルズさんの奥さんが、もう帰っておいでとサッカーをうちへ呼びかえしている。暗い夕暮れが、ミックの心の悲しさを重くした。あたしはピアノがほしい……音楽のレッスンを受けてみたい……と、彼女は心の中でつぶやいた。ハリーを見やると、彼は細い指先をいろいろな形に組み合せている。生暖かい、男の子の匂いが漂っている。
どうしてミックは、とつぜんそのようなふるまいに出たのだろう? ふたりの幼な時分を思い出していたからだったかもしれない。それとも、悲しい気分のため気がおかしくなっていたのかもしれない。ともかく、出しぬけにハリーをぐいと押しやったのだ。ハリーは、もうすこしで階段からころげ落ちるところだった。「こんちきしょうのおたんこなす!」と、ミックは罵声《ばせい》を浴びせた。そして駆けだした。けんかをふっかけるときの、近所の子どもたちのきまり文句だった。ハリーは立ち上がり、びっくりしたようだった。眼鏡をかけなおすと、ちょっと彼女の顔を見つめた。やがて、彼も露地へ駆けこんだ。
冷たい風に、ミックはサムソンなみに強くなったような気がした。笑い声を上げると、みじかいこだまがすばやく返ってきた。肩でハリーにつっかかると、ハリーも組みついてきた。ふたりははげしく取っ組み合い、笑い声を上げた。ミックのほうが背は高かったが、腕っぷしはハリーにかなわなかった。しかし彼は本気を出さないので、ミックは地面に組み伏せてしまった。するとふと、彼は身動きをやめてしまい、ミックも動きをとめた。暖かい息をミックの首筋に吐きかけながら、じっとして身動きもしない。馬乗りになったミックは、彼の肋骨《ろっこつ》を膝のところに感じ、荒い息づかいを感じた。ふたりはいっしょに立ち上がった。ふたりとももう笑いは消え、露地はひっそりとしていた。暗い裏庭を横切るとき、どういうわけかミックは変な気がした。変に思う理由もなかったが、急になんとなくそんな気になったのだ。ミックは彼を軽く小突き、彼もミックを小突きかえした。それを機《しお》に、ミックはまた笑い、気分がよくなった。
「じゃあね」とハリーが言った。垣根をよじのぼる齢《とし》ではないので、彼は横の露地を抜けて、自分の家の玄関のほうへ走った。
「うわあ、暑い! 息がつまりそうだわ」とミックは言った。
ポーシャはストーブで、彼女の夕食を暖めていた。ラルフはスプーンで、背の高い子ども椅子の台を叩いている。ジョージのきたない小さな手が、パン切れでひき割りとうもろこしを押し上げ、遠いところを見るように目を細めている。ミックは|たれ《ヽヽ》のかかった白身の肉と、とうもろこしと、干ぶどうをすこし取り、皿の上でいっしょにまぜ合せた。彼女は三皿もおかわりをした。とうもろこしをぜんぶさらえてしまったが、それでも空腹は満たされなかった。
一日じゅうシンガーさんのことを考えていたので、夕食がすむとすぐ、階上へ行ってみた。だが三階まで行ってみると、シンガーさんの部屋の扉はあいており、部屋は暗かった。ミックは、むなしいうつろさを覚えた。
階下へもどっても、じっとすわって英語のテストの勉強をしていられなかった。自分がとても強くなったようで、ほかの連中のように、きちんと部屋の中の椅子に腰かけていられないような気がした。家じゅうの壁を叩きこわし、巨人のように通りをのし歩けそうな気分だった。
とうとう彼女は、ベッドの下から秘密の箱を取出した。腹ばいになって、ノートに目を通した。もう二十曲ほどの歌ができていたが、歌では満足できなかった。交響曲が書けたらなあ! 全オーケストラのための曲――どうすればそのようなものが書けるのだろう? ときには、いくつかの楽器が同じ一つの音を出すこともある。そうなると、譜表はとても大きくなるだろう。彼女は大きなテスト用紙に五本の線を引いた――一インチもの間隔をとって。ヴァイオリンやチェロやフルートのパートには、それぞれの楽器名を書きこもう。ぜんぶの楽器が同じ音を奏する個所では、音符を○で囲むのだ。まず、ページのいちばん上に、大きな字で≪交響曲≫と書きつけた。そしてその下に、ミック・ケリー作曲と書いた。だが、それきり先へ進めなくなってしまう。
音楽のレッスンさえ受けられたら!
本物のピアノが手にはいりさえしたら!
書きはじめるまでに、長い時間がたった。調べは胸の中にあるのだが、どうやって書いていいかわからないのだ。こんなひどい冗談もないように思えた。しかし彼女は、寝にやって来たエッタとヘイゼルに、もう十一時だから明りを消してちょうだいと言われるまで、いろいろ考えつづけていた。
一〇
六週間のあいだ、ポーシャはウィリーからの便《たよ》りを待っていた。毎晩、父親のコープランド医師の家へやって来ては、同じ問いをくり返した――「ウィリーから便りがあったって人に会わなんだ?」だが毎晩、医師は何の知らせもないと答えるよりしかたがなかった。
そのうちとうとう、彼女ももうきかなくなった。玄関まではいって来て、黙ったまま父親を眺《なが》めるだけになった。酒も飲みはじめた。ブラウスのボタンが半分はずれていたり、靴の紐《ひも》がとけていることもしばしばだった。
二月になった。天候は暖かくなり、やがて暑くなった。太陽はどぎつい輝きで照りつけた。小鳥たちは裸木の梢《こずえ》でさえずり、子どもたちは上半身裸になり、はだしで遊びまわった。夜も真夏のように暑かった。だがそれも二、三日で、ふたたび冬が町に舞い戻った。穏やかな空が暗くなった。冷たい雨が降り、空気は湿っぽく肌《はだ》を刺す冷たさとなった。町では、ニグロたちの苦しみがひどかった。燃料のたくわえもすでにつき、どこでも暖を求めて争いが絶えなかった。流行性肺炎が、湿っぽい狭い露地に猛威をふるい、コープランド医師は一週間のあいだ、着のみ着のまま半端《はんぱ》な睡眠をとらねばならなかった。ウィリーからは、いぜん何の便りもなかった。ポーシャは四度、コープランド医師は二度、手紙を出していた。
夜も昼も、医師にはゆっくり考えごとをするひまもなかった。しかしときたま、家に帰ってひと休みする機会はあった。台所のストーブのそばでコーヒーを飲むと、底知れぬ不安がこみ上げてきた。すでに五人の患者が死んでいた。その中の一人は、唖《おし》でつんぼの子どもオーガスタス・ベネディクト・メイディ・ルースだった。葬式の挨拶を頼まれたが、葬式には列席しない主義だったので、招待を受けることはできなかった。五人の患者を死なせたのは、彼の怠慢のせいではなかった。原因は、その背後にある長年の貧困にあった。とうもろこしパンと塩漬《しおづ》け豚肉と糖蜜《とうみつ》の食事、そして一部屋に四、五人という生活。貧困による死。彼はこのことを考え、眠気ざましのコーヒーを飲んだ。彼はたびたび手を顎《あご》に持っていった。最近首の神経に軽い痙攣《けいれん》が起り、疲れると頭がぐらぐらしたのだ。
二月の第四週だった。ポーシャがやって来た。まだ朝の六時で、医師は台所の火のそばにすわり、朝食のミルクを暖めていた。ポーシャはひどく酔っていた。ぷんとくる甘ったるいジンの匂いに、彼はむかつきを覚え鼻をゆがめた。彼女のほうは見向きもせず、医師は朝食の支度《したく》を進めた。パンをちぎって鉢《はち》の中に入れ、その上に熱いミルクをかけた。そしてコーヒーを用意し、食卓をととのえた。
朝食を前にしてすわると、彼はけわしい目つきでポーシャを見つめた。「朝ごはんは食べて来たのか?」
「朝ごはんなんていらん」
「食べなきゃいかんよ。きょうも働きに行くつもりなら」
「だれが働きになんか行くもんか」
彼は不安を覚えた。それ以上、娘を訊問したくはなかった。彼はミルクの鉢に目を落し、あぶなっかしく手に握ったスプーンからミルクを飲んだ。飲み終えると、ポーシャの頭の上の壁に目をやった。「どうした、口がきけないのか?」
「いま話すって。いまに話して聞かせるよ。話せるようになったら、すぐ話すってばさ」
ポーシャは身動きもせず椅子にすわり、目だけをゆっくり壁の隅《すみ》から隅へと動かした。両腕をだらりと垂《た》れ、脚《あし》をだらしなく組んでいる。娘から目をそらすと、彼は一瞬ほっとしたきわどい解放感を覚えたが、それもまもなく砕かれるとわかっていたため、いっそう痛切に感じられた。彼は火をかきたて、手を暖めた。そしてタバコを巻いた。台所は、しみ一つないほどきれいに片づいている。壁にかかったフライパンは、ストーブの火で輝き、一つ一つの鍋《なべ》のうしろには、丸く黒い影ができている。
「ウィリーのことなんよ」
「わかってる」彼は両方の手のひらで、タバコを用心深く巻いた。最後の甘い喜びを得ようとするように、彼の目は落着きなくまわりを見まわした。
「|せん《ヽヽ》にも言うたね、バスター・ジョンソンがウィリーとおんなじ刑務所にいるって話。前から知ってる男だけど。そのバスターが、きのう出所して来たんよ」
「で?」
「バスターは一生片輪になっちまったの」
彼の首はぐらぐらした。手を顎に当てがい、なんとかおさえようとしたが、しつこくつづくふるえは容易におさまらなかった。
「ゆうべ近所の友だちがうちへやって来て言うの、バスターが出所して来て、あたいにウィリーのことで話があるって。そんであたいが駆けていってみると、こんな話なの」
「ふむ」
「ぜんぶで三人いたんだと。ウィリーとバスターともひとり。この三人が仲間でさ。そしたら騒ぎが起ったっての」ポーシャは言葉を切った。舌で指先をなめ、かわいた唇をそれでしめした。
「なんでも、白人の看守に年じゅういじめられたんがもとだったっての。ある日道路工事に出かけたとき、バスターが口答えして、もひとりの子も森ん中へ逃げようとしたっての。三人ともつかまって、キャンプへつれてかれ、氷室《ひむろ》みたいな部屋へ入れられちまったんだと」
医師はもう一度、「ふむ」と言った。しかし首はふるえ、言葉も喉《のど》でがらがら鳴るだけだった。
「六週間くらい前のことだったんだけど。そら、いっときうんと冷えたでないの。ウィリーはほかの連中といっしょに、氷みたいな部屋に入れられちまったんだよ」
ポーシャは低い声で話しつづけた。言葉の途中で間をおくこともせず、悲しみの表情もやわらがなかった。低い歌声のようにひびいた。話しつづけるが、彼には理解できなかった。話し声は耳にはっきりと聞えるが、形も意味も持たなかった。彼の頭は船のへさき、話し声はそれに当って砕け流れ去る波のようだった。思わずうしろを振返り、すでに言い終わった言葉を捜さねばならないような気持だった。
「……みんな足がはれ上がって、大声でわめきながら床にころがったっていうわ。だけどだれも来てくんない。三日三晩わめいてたけど、だれも来てくんないんだと」
「わしは耳が遠うなってしまった。おまえの言うことがわからん」
「うちのウィリーとほかの子が、氷室みたいな部屋へ入れられたっての。天井からロープが一本さがっててさ、三人とも靴をぬがされて、はだしの足をロープにくくりつけられたんだと。足を宙吊《ちゅうづ》りにされ、床に仰向けにころがされたってわけだよ。そのうち足がはれ上がり、みんな床の上をころげまわってわめいたんよ。氷みたい冷たい部屋で、足はすっかり凍っちまった。足ははれ上がり、三日三晩わめきとおしたけど、だれも来てくんなかった」
コープランド医師は両手で首をおさえたが、ふるえはどうしても止らなかった。「おまえの言うとることが何も聞えん」
「そのうちやっと人がやって来て、ウィリーやなんかをすぐ病室へ運びこんだけど、脚はもうすっかりはれ上がり、凍っちもうとった。壊疽《えそ》にかかっちもうたんだよ。ウィリーは両足をのこぎりでひかれちもうたんだよ。バスター・ジョンソンは片足だけなくし、もひとりはぶじ助かったけど。だけどうちのウィリーは――一生片輪になっちもうたん。両足をのこぎりで切られちもうたんだよ」
言い終ると、ポーシャはがっくりうなだれ、テーブルに頭を打ちつけた。泣きも呻《うめ》きもしなかったが、ただよく磨《みが》きこんだテーブルに、何度も何度も頭を打ちつけた。鉢やスプーンがガタガタ音を立てるので、彼は食器類を流し台へ片づけた。ポーシャから聞いた言葉は胸の中に散らばっていたが、それを寄せ集めてみようとはしなかった。彼は鉢とスプーンを湯ですすぎ、ふきんを洗った。床の上に落ちていた何かをひろい上げ、どこかにのせた。
「片輪になった? ウィリーが?」と彼はきいた。
ポーシャがテーブルに頭を打ちつづける音は、ゆっくりと叩くドラムのようなリズムでひびき、いつか彼の胸もそのリズムで高鳴っていた。言葉は静かによみがえり、意味をなし、やっと彼は理解した。
「それで、いつ帰されるんだね?」
ポーシャは、うなだれた頭を腕にのせた。「バスターにきいたけど、知らんて。そのあとすぐ、三人別々にされちもうたんだと。バスターだけ、別のキャンプへやられたん。ウィリーだけはあと二、三カ月刑期があるから、もうじき帰って来るだろう言うとったけど」
ふたりはコーヒーを飲み、互いにじっと顔を見つめながら、長いあいだすわっていた。彼の茶碗は、歯に当ってカタカタ音を立てた。ポーシャはコーヒーを受け皿にあけ、その一部が膝《ひざ》の上へこぼれた。
「ウィリーのやつ……」その名を口にすると、コープランド医師の歯は強く舌に食いこみ、顎を動かすのがきつかった。ふたりは長いあいだすわっていた。ポーシャは彼の手を取った。寒ざむとした朝の光が、空を灰色にしている。外ではまだ雨が降っていた。
「勤めに行くんなら、もうそろそろ行かなくちゃ」とポーシャは言った。
彼はポーシャのあとについて廊下を通り、帽子かけのところで立ちどまった、外套とマフラーをまとった。あけた戸口から、湿った冷たい風がさっと吹きこんだ。ぬれた新聞紙を雨除《あまよ》けに頭からかぶったハイボーイが、舗道の縁石《ふちいし》にすわっていた。歩道にそい、塀《へい》がついている。ポーシャは歩きながら、ときどき塀にもたれかかった。コープランド医師は、彼女の二、三歩あとからついて行ったが、彼もまた身体をささえるため塀の板につかまった。ハイボーイは、いちばんあとに従った。
医師は、夜の闇の中から跳び出す獣でも待ち受けるように、険悪なおそろしい怒りのわき上がるのを待っていた。だが、怒りはわいてこなかった。臓腑《ぞうふ》にずっしりと鉛がつめられたような感じで、道端《みちばた》の塀や、冷たくぬれた建物の壁にもたれながら、ゆっくりと足を運びつづけた。もはやこれ以上落ちこむ先のない深みへの転落。絶望の固い底に足のとどいたあとは、安らぎが得られた。
その中に、彼は力強く神聖な喜びを味わった。迫害されたものの笑い、笞《むち》のもと虐《しいた》げられた魂にうたいかける、黒人奴隷の歌だった。彼の心には歌があった――音楽ではなく、歌の感じにすぎなかったが。ぬれそぼったような安らぎが手肢《てあし》に重くのしかかり、力強い真の目的意識にはげまされ、やっと身体を動かすありさまだった。どうして先へ進むのか? どうしてこの恥辱の底に安らい、しばしの休息をとらないのか?
だが、彼は先へと歩きつづけた。
「おじさん」と、ミックが声をかけた――「熱いコーヒーでも飲んだら、気分がよくならない?」
コープランド医師はじっとミックの顔を見つめたが、聞えたようすはなかった。彼らは町を横切り、やっとケリー家の裏通りまでやって来たのだ。ポーシャが先にはいり、そのあとに医師もつづいた。ハイボーイは、外の階段のところに残った。ミックとふたりの弟は、もう台所に出ていた。ポーシャはウィリーのことを物語った。コープランド医師はその言葉を聞いていなかったが、彼女の声にはリズムがあった――頭と中間と末尾と。話し終えると、また最初からくり返した。ほかの連中も、話を聞きに台所へはいって来た。
コープランド医師は、隅《すみ》の椅子に腰をかけていた。外套とマフラーは、ストーブのそばの椅子の背にかかり、湯気を上げている。彼は帽子を膝の上にのせ、長い黒い手が、すりきれたふちを落着きなくなでている。黄ばんだ手のひらがあまり汗ばむので、ときどきハンカチでぬぐっている。首がふるえるので、ふるえを止めようと、身体じゅうの筋肉をこわばらせている。
シンガーさんが部屋へはいって来た。コープランド医師はそのほうへ顔を上げ、「聞きましたか?」ときいた。シンガーさんはうなずいた。その目には、恐れも憐《あわ》れみも憎しみもなかった。話を聞いた人たちの中で、彼の目だけがこうした反応を示さなかった。彼だけが事態を理解していたからだ。
ミックはポーシャにささやいた、「おとうさんの名前、なんていうの?」
「ベネディクト・メイディ・コープランドっての」
ミックはコープランド医師の身近にかがみこみ、つんぼを相手にしたように、耳もとで大声でどなった。「ベネディクト、熱いコーヒーでも飲んだら、気分がよくなるんじゃない?」
コープランド医師はぎくりとした。
「そないどならんといて。耳はあたりまえに聞えんだから」とポーシャ。
「そうなの」ミックはポットのコーヒーかすをあけ、もう一度わかすためストーブにかけた。
唖《おし》はまだ戸口のあたりにいた。コープランド医師は、また彼の顔をじっと見つめた。「聞きましたか?」
「その看守は、どんな処分を受けるの?」とミックはきいた。
「そないなこと、知らんよ。あたいはなんにも知らんのよ」とポーシャ。
「あたしなら、黙っちゃいないわ。きっと何か仕返ししてやるわ」
「あたいたちが何したって、どうなるもんでもないよ。口をつぐんでんのがいちばんてこと」
「そんなやつら、ウィリーたちにしたと同じ目にあわしてやりゃいい。もっとひどい目だってかまやしない。人を集めて、そいつらを殺してやりたいわ」
「キリスト教徒が、そない口をきくもんじゃないて。あたいらはただ神さまにおまかせして、あいつらが熊手《くまで》でちょん切られ、悪魔に油で煮られちまうのを待ってりゃええの」
「でもウィリーは、まだハモニカは吹けるわね」
「両足を|のこ《ヽヽ》でひかれちゃ、それくらいきりできんわ」
家じゅうがガタガタざわついてきた。台所の上の部屋では、だれかが家具を動かしまわっている。食堂は下宿人でいっぱいだった。ミックのママは、食卓から台所へ、忙しく行き来した。パパは、だぶだぶのズボンに部屋着を羽織り、うろうろしている。ケリー家の小さな子どもたちは、台所でがつがつ朝食をかきこんだ。ドアがあちこちで音を立て、家じゅうで人の声が聞える。
ミックは、薄いミルクをまぜたコーヒーをコープランド医師に渡した。ミルクのおかげで、コーヒーは灰青色の輝きをおびて見える。コーヒーがいくらか受け皿にこぼれていたので、彼はハンカチで皿と茶碗のふちをふいた。コーヒーを飲みたくはなかったのだ。
「あたし、あいつらを殺してやりたい」とミックは言った。
家は静かになった。食堂にいた人たちは勤めに出て行った。ミックとジョージは学校へ行き、赤ん坊は取っつきの部屋に閉じこめられた。ケリー夫人は頭にタオルを巻き、箒《ほうき》を持って二階へ上がった。
唖はまだ戸口に立っていた。コープランド医師は、じっと彼の顔を見上げた。「今度のことを知っとられますか?」と、もう一度きいた。その言葉は――喉でつかえてしまい――声にならなかったが、目がずっとその問いをしかけていた。唖は出て行った。あとはコープランド医師とポーシャだけになった。医師はしばらく隅の椅子にすわっていたが、やがて彼も出て行こうと立ち上がった。
「も一度おすわりよ、とうさん。けさはいっしょにいようよ。魚のフライと、玉子パンと、じゃがいもをおひるに作るからさ。ここにいとくれよ。あったかくておいしいおひるをご馳走《ちそう》するからさ」
「わしには往診があるんでね」
「きょう一日だけだってば。おねがい、とうさん。ほんにもう、胸まで裂けそうな気がすんだよ。それに、とうさんひとりだけ町を歩かしとうないんだよ」
医師はためらい、外套の襟《えり》にさわってみた。ぐっしょりぬれている。「すまんな、ポーシャ。わしには往診があるんでな」
ポーシャは父親のマフラーを、暖かくなるまでストーブの上にかざした。外套のボタンをかけ、首のまわりの襟も立ててやった。彼は咳《せき》をし、いつもポケットに入れ持ち歩いている四角い紙に痰《たん》を吐いた。そして、その紙をストーブの中で燃した。外へ出がけにちょっと立ちどまり、階段に腰をかけたハイボーイに話しかけた。勤め先の許可がとれれば、ポーシャのそばにいてやってくれ、とハイボーイに言い残した。
空気は、肌を突き刺すように冷たかった。低くたれこめた暗黒の空から、小ぬか雨が絶え間なく降りそそいでいる。雨はごみ箱にもしみ入り、露地でぬれた塵芥《じんかい》が臭《にお》っている。黒い目を地面に落し、塀につかまって身体の釣合いをとりながら、医師は歩きつづけた。
どうしても往診の必要な患家《かんか》はすべてまわった。そして正午から二時までは、外来患者の診察をした。診察のあと、彼は拳《こぶし》を固く握りしめ、デスクに向ってすわった。しかし、今度のことを考えようとしてみたがだめだった。
もう二度と、人間の顔を見たくない気持だった。しかし同時に、人気《ひとけ》のない部屋にひとりすわっていることも耐えられなかった。彼は外套を着ると、もう一度、雨の降る冷たい通りへ出た。ポケットの中には、薬局へ届けるはずの処方箋《しょほうせん》がいくつかはいっていた。だが、店主のマーシャル・ニコルズと口をききたくはなかった。彼は店へはいって行くと、処方箋をカウンターの上へ置いた。粉薬を計っていた薬剤師は振向き、両手をさしのべてきた。その分厚い唇が一瞬、黙ったまま動き、やがてまた落着きを取戻した。
「先生」と、彼はあらたまった言い方をした――「わたしをはじめ、同僚、支部会員、教会のメンバー全員、このたびの悲しみをわが心に受けとめ、衷心よりの同情をお伝えしたいと思うとります」
コープランド医師はぷいと背を向け、物も言わずに店を出た。あれではどうにもならない。何かもっと強力なものが必要だ。力強い真の目的意識、正義への意志が。彼は両腕をわきに押しつけ、ぎごちない足どりで本通りのほうへ向った。いろいろ思案してみたが、名案は浮ばなかった。勇敢で正義感にあふれた白人の有力者は、町じゅうでひとりも思いつかなかった。名前を知っている弁護士、裁判官、官吏をひとりひとり考えてみた――だが、どの白人を思い浮かべてみても、苦々しさがこみ上げてくるばかりだった。考えた末、彼は最高裁判所の判事を訪《たず》ねてみることに決めた。裁判所に着くと、彼はためらわず中へはいった。どうしてもその日の午後、判事に会う決心だったのだ。
広い正面のホールは、両側の事務室に通じる出入口でぶらぶらしている何人かをのぞけば、がらんとしていた。判事の部屋がどこにあるかわからなかったので、ドアにかかった名札を見ながら、裁判所内をあてもなく歩きまわった。とうとう彼は狭い廊下に出た。廊下の中ほどで三人の白人が立ち話をしており、通り道をふさいでいた。彼は壁にひっつくようにして通ろうとしたが、振向いた白人のひとりに引きとめられた。
「何の用だね?」
「判事さんのお部屋がどこか、教えていただけませんでしょうか?」
その白人は、親指をぐいとつき出し、廊下の奥のほうを示した。コープランド医師には、それが保安官代理だということがわかった。これまでに何十回となく会っていたのだが、相手は覚えていなかった。白人はニグロにはだれもみな同じに見えたが、ニグロのほうでは、白人を見分けるよう努めていた。いっぽうニグロは白人にはみな同じに見えたが、白人のほうではたいていニグロの顔を覚えようとしなかった。相手の白人は言った、「何の用だね、牧師さん?」
聞きなれたからかいの肩書きに、彼はいらだちを覚えた。「わたしは牧師じゃありません。内科の医者です。ベネディクト・メイディ・コープランドという者ですが、緊急の用で判事さんにお会いしたいんです」
保安官代理も他の白人の例にもれず、こう面と向って宣言されるとむかっ腹を立てた。「そうかね?」とからかうように言い、仲間のほうに目くばせして見せた。「わたしは保安官代理で、ウィルソンという者だが、判事はお忙しいんだ。また別の日に出なおすんだな」
「どうしても判事さんにお会いしなくてはならないんです。待っています」とコープランド医師は言った。
廊下の入口にベンチがあったので、彼はそこに腰をかけた。三人の白人は話をつづけていたが、保安官代理がじっとこちらに目をつけていることはわかっていた。医師はもう梃子《てこ》でも動かないつもりだった。三十分以上がすぎた。何人かの白人が、廊下を気軽に行ったり来たりしている。保安官代理の警戒の目を感じながら、彼は両手を膝《ひざ》のあいだにはさみ、固くなってすわっていた。いまのところはこの辺で引揚げ、いずれ保安官代理がいなくなってから、また夕方にでも戻って来ればいい――と彼の分別は教えていた。これまでの彼は、こうした連中を相手にするときの態度も慎重だった。だがいまは、胸の中の何かが彼をあとへ引かせなかった。
「おい、ちょっとここへ来い!」と、保安官代理はとうとう言った。
首がふるえ、立ち上がると足もとがふらついた。「はい、何でしょうか?」
「判事には何の用で会いたいと言ったね?」
「何もまだ言っとりませんです。ただ、ぜひ緊急にお会いしたいと申しただけで」
「まっすぐにも立てんのだな。酒を飲んで来たな、ええ? 息が酒くさいぞ」
「そんなこと嘘です」と、コープランド医師はゆっくり言った。「わたしは何も……」
保安官代理は顔を殴《なぐ》りつけてきた。医師は壁に倒れこんだ。ふたりの白人も彼の腕をつかみ、階段を下までひきずりおろした。彼は抵抗しなかった。
「これがこの国の癌《がん》なんだ。こういう大きな顔をした黒んぼ連中が」と保安官代理は言った。
医師はひとことも言わず、されるがままになっていた。待っていたおそろしい怒りがわき起るのを感じた。激怒のあまり力が抜け、思わずつまずいたりした。彼は、監視がふたりついた護送車に乗せられた。まず警察署へ送られ、ついで刑務所へ運ばれた。刑務所につれこまれたとき、ようやく怒りは力となって現われた。彼は、つかまれていた手をいきなり振払った。だが片隅《かたすみ》で包囲されてしまった。頭といわず背といわず、棍棒《こんぼう》で殴りつけられた。すばらしい力にあふれた彼は、戦いながらも大声で笑っている自分の声を聞いた。泣きながら同時に笑っていた。狂ったように足で蹴とばした。拳を振りまわし、頭からつっかかって行ったりもした。だが、がっしりと羽交《はが》いじめされ、動けなくなってしまった。そして両足先をつかまれて、刑務所の廊下を引きずってゆかれた。監房の扉はあいていた。だれかにうしろから股座《またぐら》を蹴とばされ、彼は膝をついて床に倒れた。
狭い監房の中には、すでに五人が入れられていた――ニグロが三人、白人が二人だった。白人のひとりはひどい年寄りで、酔っていた。床の上にすわり、身体じゅうを掻《か》いている。もうひとりの白人は、十五歳を越えぬ少年だった。三人のニグロはみな若かった。寝棚《ねだな》に横になり、彼らの顔を見つめていると、その中のひとりの顔には見覚えがあった。
「どうしてこんなとこへ来たんかね? コープランド先生じゃねえのか?」と、その若者がきいた。
彼は、そのとおりだと答えた。
「デアリ・ホワイトって名だけど、先生に去年、妹の扁桃腺《へんとうせん》を取ってもらいましただ」
氷のように冷たい監房には、腐ったような臭いが立ちこめていた。小便でふちまでいっぱいの桶《おけ》が、片隅に置いてある。油虫が壁面を這《は》う。目を閉じると、たちまち寝入ってしまったようだった。ふたたび目を上げたとき、鉄棒のはまった小さな窓は暗く、廊下では明るい電灯が輝いていた。床には錫製《すずせい》の皿が四枚、ころがっている。キャベツととうもろこしパンの夕食が、彼のそばに置いてあった。
彼は寝棚にすわり、数回はげしくくしゃみをした。息をすると、胸の中で痰《たん》がゼロゼロ音を立てた。しばらくすると、白人の少年もくしゃみをはじめた。コープランド医師は四角いちり紙を使いはたし、ポケットの手帳の紙を使わねばならなかった。白人の少年は隅の桶にかがみこみ、鼻水をワイシャツの胸に垂れ流している。目を大きく見開き、白い頬《ほお》が赤らんでいる。寝棚の端にちぢこまり、呻《うめ》き声を上げた。
やがて全員便所につれ出され、戻って来ると寝支度《ねじたく》にかかった。四つの寝棚に六人が寝なければならなかった。老人は床の上にころがり、いびきをかきはじめた。デアリともうひとりの少年は、一つの寝棚におせおせになって寝た。
時間は長かった。廊下の明りが目に焼きつき、監房内の悪臭のため、一呼吸一呼吸が不快そのものだった。身体はどうしても暖まらなかった。歯の根が合わず、ひどい悪寒《おかん》に身体がおののいた。彼はきたない毛布にくるまってすわり、身体をゆすった。二度ほど手を伸ばし、白人の少年の毛布をかけてやった。少年は何やらつぶやき、眠ったまま両腕を投げ出した。両手で頭をかかえ、身体をゆすっていると、医師の喉からはうたうような呻きがもれてきた。ウィリーのことも考えられなかった。もはやあの力強い、真の目的に思いをこらし、そこから力を引出すこともできなかった。ただみじめな思いしか感じられなかった。
やがて、熱が上げ潮のようにさしてきた。暖かみが身体じゅうにひろがった。彼は仰向けに横たわり、暖かく赤い安らぎの淵《ふち》へ沈みこんでゆくような気持を覚えた。
夜が明けると、太陽が顔を出した。異常な南部の冬も終ったのだ。コープランド医師は釈放された。刑務所の外では、小さな人だまりが彼を待っていた。シンガーさんがいた。ポーシャや、ハイボーイ、それにマーシャル・ニコルズも来ていた。どの顔もいっしょくたになり、はっきりと見えなかった。太陽はさんさんと輝いていた。
「とうさん、そないなことしたって、ウィリーを助けることにならんのがわからんの? 白人の裁判所をうろついたりしてさ。あたいらにできるのは、口をつぐんで待っているだけなんよ」
ポーシャの大声も、彼の耳にはうんざりしたようにひびいた。一行は十セント・タクシーに乗りこみ、家へたどりつくと、彼は真新しい白い枕に顔を埋めた。
一一
ミックは夜どおし眠れなかった。エッタが病気なので、彼女は居間で寝なければならなかった。ソファは幅も長さも足りなかった。ウィリーの悪夢に悩まされつづけたのだ。ウィリーがむごい仕打ちを受けた話をポーシャに聞いてから、すでにひと月近くになった――しかし、ミックはまだ忘れられなかった。夜中に二度もウィリーのおそろしい夢を見て、床の上で目をさました。額にこぶができていた。六時に、ビルが台所へ行き、朝食をこしらえる物音が聞えた。夜明けだったが、日除《ひよ》けがおりていたので、部屋の中は薄暗かった。居間で目をさますのは妙な気分だった。どうにも好かなかった。シーツが身体《からだ》に巻きつき、半分はソファに、半分は床に落ちている。枕は部屋のまん中にころがっていた。ミックは立ち上がり、廊下に通じるドアをあけた。階段にはだれもいなかった。彼女は夜着のまま、奥の部屋に駆けこんだ。
「あっちへ寄ってよ、ジョージ」
弟はベッドのまん中に寝ていた。暖かい夜だったので、かけすのようにまる裸になっている。拳《こぶし》を握りしめ、眠りながらも何かむずかしいことをけんめいに考えようとしているように、眉根《まゆね》を寄せている。口をあけているので、枕に小さなしみがついている。ミックは彼を押しのけた。
「待っとくれよ……」と、彼は寝ぼけた声で言った。
「そっち側へ寄って」
「待っとくれったら……この夢ぜんぶ見ちまうから……この夢だけ……」
ミックは弟を片側に押しのけ、そのすぐそばに横になった。ふたたび目をあけたときはもう遅かった。裏の窓から陽《ひ》がさしこんでいた。ジョージの姿はなかった。庭から子どもたちの声が聞え、水の出る気配が聞えた。エッタとヘイゼルは、まん中の部屋で話をしていた。服を着ながら、ミックはふと思いついたことがあった。戸口で聞き耳を立ててみたが、中のふたりの話し声は聞きとれなかった。彼女はふたりを驚かすため、いきなりドアをぐいとあけた。
姉たちは映画雑誌を読んでいた。エッタはまだ寝床の中だった。俳優の写真を半分ほど片手で隠している。「こっちから上は、前にデートしてた男の子と似てるんじゃない?」
「けさの気分はどう、エッタ?」とミックはきいた。ベッドの下をのぞいてみると、彼女の秘密の箱はちゃんと置いたままのところにあった。
「よけいなお世話よ」とエッタ。
「そうすぐけんか腰になんなくたっていいのに」
エッタの顔は病みやつれていた。胃がひどく痛み、卵巣のぐあいも悪かったのだ。ちょうど生理期間中だったこととも関係があった。医者の話では、いますぐにも卵巣を摘出しなければいけないという。しかしパパの意見で、手術は待ってもらうことにした。お金がなかったからだ。
「そいじゃ、あたしにどうしろっていうの?」とミックは言った――「せっかくていねいにきいてあげたと思ったら、食ってかかるんだもの。姉さんが病気で気の毒と思ってるのに、やさしくもしてあげられない。あたしだって、いいかげん腹が立つわ」ミックは前髪を押し上げ、じっと鏡をのぞきこんだ。「うわ! このこぶ見て! きっと頭が割れたんだわ。ゆうべ二度もころがり落ちたとき、ソファのそばのテーブルで打ったみたい。居間でなんか寝られやしない。あのソファ窮屈すぎて、寝ることもできやしないわ」
「そんな大声でわめくのはおよしってば」とヘイゼルが言った。
ミックは床の上に膝をつき、大きな箱を引出した。箱をしばってある紐《ひも》を、念入りにしらべた。
「ねえ、姉さんたち、これをいじらなかった?」
「ばかばかしい! あんたのがらくたなんか、いじって何になるのよ?」とエッタ。
「いじらないほうがいいわよ。あたしの私物をいじろうとしたら、だれだって殺してやるから」
「えらそうな口、聞いた?」とヘイゼル――「よくって、ミック、あんたみたい自分本位の人間もないわよ。ほかの人のことなぞ、これっぽっちだって気にかけちゃいないんだから――」
「いーだ!」ミックはバタンと扉をしめてしまった。ふたりの姉が憎らしかった。そんなこと考えるのはおそろしいことだったが、ほんとうに憎かった。
パパはポーシャと台所にいた。部屋着姿でコーヒーを飲んでいた。白目のところが赤く、コーヒー茶碗が受け皿に当ってカタカタ鳴った。パパは、台所用テーブルのまわりをぐるぐる歩きまわった。
「いま何時? シンガーさんはもうお出かけ?」
「もうとっくに。もうそろそろ十時だもん」とポーシャ。
「十時ですって! うわあ! こんなお寝坊、はじめてだわ」
「持ち歩いてなさるあの大《お》っきな帽子箱には、何がはいってんの?」
ミックは料理用ストーブの中に手をいれ、菓子パンを六つ取出した。「何もききっこなし。きかれなきゃ、嘘《うそ》だってつかずにすむもん。せんさく好きな人間はね、ろくな死に方をしないから」
「ミルクがすこし残ってたら、パンのほぐしたのにかけてもらおうか。ミルク・トーストだ。たぶんそれで、腹の虫はおさまるだろう」とパパが言った。
ミックは菓子パンを半分に割り、揚げた白身の肉をはさんだ。そして裏口の階段に腰をかけ、朝食を齧《かじ》った。よく晴れた暖かい朝だった。スペアリブズとサッカーが、裏庭でジョージと遊んでいる。サッカーは水着だが、あとのふたりはすっかり服をぬぎ、パンツ一枚になっている。水道のホースで水のかけっこだ。ほとばしり出る水が、まばゆく陽に輝く。風がしぶきを霧のように散らし、霧の中に虹《にじ》の色が浮き出た。物干網の干し物が風にはためく――白いシーツ、ラルフの青い服、赤いブラウス、寝巻など、濡《ぬ》れたみずみずしい洗い物が、さまざまな形で吹かれている。まるで夏のような日だった。けばのある小さな雀蜂《すずめばち》が、露地の垣根《かきね》に咲いた忍冬《すいかずら》のまわりをぶんぶん飛びまわっている。
「ホースを頭の上へやるからね、見ててごらん!」とジョージが叫んだ。「水が落ちてくるからね」
ミックは力があふれてきて、じっとすわっていられなくなった。ジョージが粉袋に土をつめ、ボクシング練習用のサンドバッグにしていた。ミックはその袋を殴りはじめた。ポーン! パーン! 目をさましたとき胸に浮んでいた歌に合わせ、袋を叩いた。土とまざってとがった石ころがはいっていたので、関節を傷つけてしまった。
「うわっ! 耳に水がはいっちまったじゃないの。鼓膜が破れちまったわ。何も聞えやしない」
「ぼくに貸して。ぼくにもやらしとくれよ」
水しぶきは彼女の顔にかかり、子どもたちは今度は脚《あし》にねらいをつけてホースの先を向けた。箱の濡れることをおそれ、ミックは箱をかかえて露地を抜け、玄関先のポーチへのがれた。ハリーが自宅の階段にすわり、新聞を読んでいた。ミックは箱をあけ、ノートを取出した。だが、書こうと思う歌に心を集中するのはむずかしかった。ハリーがこちらを眺《なが》めているので、考えることもできなかった。
ハリーとは、このところいろんなことを話し合っていた。ほとんど毎日、ふたりは学校からいっしょに歩いて帰った。神様のことも話し合った。ミックはときどき夜中に目をさまし、ハリーとふたりで話し合ったことを思い出して、身ぶるいすることがあった。ハリーは汎神論者《はんしんろんしゃ》だった。バプティストやカトリック、あるいはユダヤ教と同じように、それも宗教の一つだった。人が死に埋葬されたあとは、木や火や土や雲や水になる――と、ハリーは信じていた。何千年もの歳月が必要だが、やがては世界の一部になるのだ。そのほうが、ただひとりの天使になるよりいい、と彼は言う。ともかく、無になるよりはましだ。
ハリーは新聞を玄関先へ投げ込み、ミックのほうへやって来た。「夏みたいに暑いね。三月だっていうのに」
「ほんと。泳ぎに行ってみたいくらい」
「泳げるところがあったら行ってみようや」
「どこにもないわ。あのカントリー・クラブのプールのほか」
「ほんとに何かしてみたいな――ここを抜け出して、どこかへ行ってみたいんだ」
「あたしもよ。ちょっと待って! いいとこ知ってるわ。十五マイルほど行った田舎《いなか》なの。森の中の、深くて広い川なの。夏場には、ガール・スカウトがキャンプするところ。去年ミセス・ウェルズが、あたしとジョージとピートとサッカーを、泳ぎにつれてってくだすったの」
「行きたかったら、自転車を借りて来るから、あした出かけようか。月に一度は、日曜が休めるからさ」
「自転車で行って、ピクニックのお弁当を食べましょうよ」
「ようし。そいじゃ自転車を借りて来る」
もう彼はアルバイトに行く時間だった。ミックは、通りを遠ざかってゆくハリーを見送った。ハリーは両腕を振りまわしている。通りを半分ほど行ったところに、枝の低く垂《た》れ下がった月桂樹《げっけいじゅ》があった。ハリーは駆けて行って大枝に飛びつき、懸垂をした。ハリーとは大の仲よしだと思うと、ミックの胸にしあわせな気分がわいてきた。それに、彼はハンサムだった。あしたはヘイゼルの青い首飾りを借り、絹の服を着て行こう。そしてお弁当には、ゼリーのサンドイッチと、ニーハイのジュースを持って行くのだ。ハリーは何か変ったお弁当を持って来るだろう、しきたりどおりのユダヤ料理を食べているのだから。ミックは、彼が町角《まちかど》を曲るまで見送っていた。ほんとに、りっぱな若者になってしまったわ。
田舎で見るハリーは、裏口の階段にすわって新聞を読み、ヒットラーのことを考えているハリーとはまるで違っていた。ふたりは朝早く家を出た。彼の借りて来た自転車は男子用で、脚《あし》のあいだに横棒がついていた。ふたりは弁当と水着をフェンダーにくくりつけ、九時前には出発した。日のよく照る暑い朝だった。一時間とたたぬうちに、ふたりは町を遠く離れ、赤い粘土道に出ていた。野原はまばゆい緑で、強い松の香が漂っていた。ハリーは、ひどく興奮した調子でしゃべりつづける。暖かい風が頬《ほお》に吹きつける。ミックはとても喉《のど》がかわき、空腹だった。
「あすこの丘の上の家が見える? ちょっと休んで、お水をもらいましょうよ」
「いや、あとにしたほうがいい。井戸水を飲むとチフスになるよ」
「チフスなら経験ずみだわ。肺炎だって、脚を折ったことだって、足が腫《は》れたことだってあんのよ」
「うん、覚えてる」
「そうなのよ。チフスにかかって、あたしとビルがとっつきの部屋で寝ていると、よくピート・ウェルズが鼻をつまんで、窓を見上げながら、横丁を駆け抜けてったわ。ビルはとてもきまり悪がってたわ。あたしも髪の毛がみんな抜けて、禿坊主《はげぼうず》になってしまったの」
「きっともう、町から十マイルは来たろう。一時間半も走って来たもの――それもスピードを出してさ」
「あたし、喉がからから。おなかもへっちゃったし。そのお弁当入れには何がはいってるの?」
「冷たいレバーのプディングと、チキンサラダのサンドイッチに、パイだよ」
「おいしそうなピクニックのお弁当ね」ミックは自分の持って来たものが恥ずかしかった。「あたしはね、中に詰め物をした堅ゆで卵が二つ。お塩と胡椒《こしょう》も別々の袋に入れて来たわ。それから、バターと黒苺《くろいちご》ゼリーのサンドイッチ。みんな油紙に包んできたわ。紙ナプキンも持って来たの」
「きみは何も持って来なくてよかったのに。うちのママがふたり分の弁当を作ってくれたんだ。だって、ぼくが誘ったんだからさ。もうじき店があるから、そしたら冷たい物でも飲もう」
さらに三十分ほど走ると、ガソリン・スタンドをかねた店についた。ハリーはふたりの自転車を立てかけ、ミックは先に立って店の中へはいった。外のまぶしい光に馴《な》れた目には、店の中は暗かった。棚には白肉の厚切りや、油の罐《かん》、メリケン粉袋などが積まれている。カウンターにのったばら売りキャンデーの大きなぺたぺたする壷《つぼ》の上を、蝿《はえ》が舞い舞いしている。
「飲み物はどんなものがあるの?」とハリーがきいた。
店の主人は名前を列挙しはじめた。ミックは冷蔵庫をあけ、中をのぞいてみた。手が冷たい水にふれるとこころよかった。「ニーハイのチョコレートがほしいんだけど。あるかしら?」
「ぼくもだ。二本もらおう」
「ううん、ちょっと待って。よく冷えたビールがあるわ。あたし、ビールがほしい――高くてもおごってくれる?」
ハリーは、自分の分も一本注文した。二十歳以下の者がビールを飲むのは罪悪と考えていた彼だが、にわかに世なれた男ぶりを見せたくなかったのだろう。最初の一口を飲んで、彼は苦い顔をした。ふたりは店先の階段にすわりこんだ。ミックの脚はすっかりくたびれ、筋肉がふるえていた。彼女は瓶《びん》の口を手でふき、冷たいビールを一気にあおった。道の向う側は、だだっぴろい草原で、そのずっと先には松林がのぞいて見える。松林は明るい黄緑からほとんど黒に近い濃緑まで、濃淡さまざまな緑を見せている。空は強烈な青だ。
「あたし、ビールが好きなの。いつもパパが残したビールの中に、パンをひたして食べるの。手にのせたお塩をなめなめ飲むのが好き。こやって瓶から飲むのはこれで二度目よ」
「最初の一口はいやな味だったけど、だんだんうまくなるね」
店の主人の話では、町から十二マイルのところだという。まだあと四マイルだった。ハリーは支払いをすませ、また暑い日射《ひざ》しの中へ出た。ハリーは大声でしゃべり、わけもなく笑いつづけた。
「うわあ、ビールのあとこの日射しに当っちゃ、目がくらくらする。でもいい気分だよ」
「あたし、早く泳ぎたい」
砂まじりの道になり、思いきりペダルに体重をかけないと、砂の中にめりこみそうだった。ハリーのワイシャツは、汗で背中にひっついている。彼はまだしゃべりつづけている。道は赤粘土に変り、砂地は終った。テンポのゆるやかなニグロの歌が、ミックの胸の中でひびいた――ポーシャの弟が、よくハーモニカで吹いていた歌だ。彼女はその歌に合わせてペダルを踏んだ。
やがて、ふたりはようやく捜していた場所についた。「ここよ! ≪私有地につき立入り禁止≫って書いてある立て札が見える? 鉄条網の垣根《かきね》を乗りこえて、ほら、あすこの道を行くの――わかった?」
森はしんと静まっていた。すべすべした松葉が、地面をおおっている。数分で、ふたりは小川に出た。水は茶色で、流れは速かった。なんという涼しさだろう。小川の流れと、松の梢《こずえ》でうたっているそよ風のほかには、何の物音も聞えない。
「きれいね」
ハリーは笑った。「なんで声をひそめたりするんだい? ほら、聞いといで!」彼は口に手を当てがうと、インディアンのような長い叫び声を上げた。そのこだまが返ってくる。「さあ。水に飛びこんで身体を冷やそう」
「おなかすいてない?」
「ようし。それじゃ、まず食べよう。半分だけいま食べて、あとは上がってきてからに取っておこう」
ミックは、ゼリー・サンドイッチの包みをあけた。食べ終わると、ハリーは包み紙をていねいに丸め、木の切り株の穴に押しこんだ。そして、水泳パンツを持って小道へおりて行った。ミックは藪《やぶ》のかげで服をぬぎ、ヘイゼルの水着にむりやり手足を通した。水着は小さすぎ、股《また》のところがきつかった。
「用意はいいかい?」とハリーが叫んだ。
水に飛びこむ音が聞え、川岸へ行ってみると、ハリーはもう泳いでいた。「まだ飛びこんじゃいけないよ、切り株や浅瀬がないか、ぼくが調べるからね」ミックは、水面に浮き沈みしている頭を眺めているだけだった。どのみち、飛びこむ気はなかったのだ。泳ぐこともできなかったのだ。これまで、泳いだことは数回しかなかった――そのときも、翼型の浮袋をつけるか、背の立たないところへは近づかないようにしていた。しかし、ハリーに打明けるのも、弱虫みたいでいやだった。彼女はどきまぎしていたが、とつぜん作り話をはじめた――
「あたし、飛びこみはもうやらないの。前には年じゅうやっていたのよ。高飛びこみを。だけど、いつだったか頭を割っちまってから、もうできなくなってしまったの」ミックは、そこでちょっと考えた――「あたし、二段のジャックナイフをやってたの。浮び上がってみると、水の中は血だらけ。でもあたし気にしないで、いろんな泳ぎをしはじめたの。だけど、みんながこっちを見てさわいでるでしょ。そのうちやっと、血がどこから出てるかわかったの。それからっていうもの、うまく泳げなくなっちまったのよ」
ハリーは川岸にはい上がった。「へえ! そんな話はじめて聞いたよ」
ミックは何かもうすこしつけ加え、話をもっともらしくさせるつもりだったが、思わずハリーに見とれてしまった。肌《はだ》は明るい褐色《かっしょく》で、水に濡れて輝いている。胸にも脚にも毛が生《は》えている。ぴっちりとしたトランクスをはいた彼は、素裸のように見えた。眼鏡をかけていない顔は、いつもより大きく、もっとハンサムに見えた。目は青くうるんでいる。じっと彼女を見つめていたが、ふたりはにわかに恥ずかしさを覚えた。
「深さは十フィートくらいだよ。向う岸だけは浅いんだ」
「行ってみましょうよ。冷たい水がきっと気持いいわ」
こわくはなかった。とても高い木のてっぺんに引っかかり、なんとかしておりてくるよりしかたがないといった気分だった――しんとして思わず息をのむ気持だった。ミックはそろそろと岸辺を離れ、氷のように冷たい水の中へはいった。木の根につかまっていたが、握った手の中で切れてしまい、とうとう泳ぎだした。一度は息がつまって水の中へ沈んだが、夢中で泳ぎつづけ、面目を失わずにすんだ。なんとか泳いで、川底に足のつく向う岸にたどりついた。無性にいい気分だった。彼女は拳《こぶし》で水面を叩き、意味をなさぬ言葉をわめきちらし、あたりにこだませた。
「見ててごらん!」
ハリーは、細い高い木によじのぼった。幹がしなやかなため、彼がてっぺんまで登ると、木は大きくしなった。彼は水の中へ落ちた。
「こっちもよ! 見てて!」
「それは若木だよ」
ミックは、近所のだれにも負けない木のぼり上手《じょうず》だった。ハリーのやったとおりを真似て、大きな水音を立てて水面に落ちた。もう泳ぐことができた。ちゃんと泳げるようになったのだ。
ふたりは『大将ごっこ』をはじめ、岸を駆け上がり駆けおり、冷たい茶色の水の中に飛びこんだ。大声で叫んだり、跳《と》んだり、よじのぼったりもした。二時間も遊びまわっていただろうか。やがて、ふたりは互いに向き合って岸に立ったが、もう新しい遊びは何もないようだった。出しぬけにミックが言った――
「裸で泳いだことある?」
森はしんと静まり、ハリーはしばらく答えなかった。彼は寒かった。乳首が堅く、紫色になっていた。唇も紫色で、歯がカチカチ鳴っている。「う、ううん、ないよ」
ミックの胸はたかぶり、言うつもりのなかったことを口走ってしまった。「あなたがするんなら、あたしもやるわ。できないでしょ」
ハリーは、黒い濡れた前髪をなで上げた。「ようし」
ふたりは水着をぬいだ。ハリーは彼女に背を向けている。よろめき、耳をまっ赤《か》にしている。やがて、ふたりは互いに向き合った。そうして三十分も立っていただろうか――あるいは、一分もたっていなかったかもしれない。
ハリーは木の葉を一枚むしり取り、それを小さく引き裂いた。「服を着たほうがいいよ」
昼食のあいだじゅう、どちらも口をきかなかった。ふたりは弁当を地面にひろげた。ハリーはすべてを二つに分けた。暑くけだるい、夏の日の午後の感触があった。深い森の中では、川のゆるやかな流れと小鳥の歌のほか、何も物音は聞えなかった。ハリーは詰め物をした卵を手に取り、親指で黄味を押しつぶした。それを見て、彼女が思い出したのは何だっただろう? 彼女には自分の呼吸が聞えた。
やがて、彼はミックの肩から上を見上げた。「ねえ。きみはとてもきれいだよ、ミック。前はそんなふうに思わなかったけど。べつに、醜いと思ってたわけじゃないんだよ――たださ、ぼくの言いたいのは……」
ミックは、松ぼっくりを水の中に投げた。「暗くならないうちに帰るんだったら、そろそろ出かけたほうがいいわ」
「いや。横になろうよ。ほんのしばらく」
彼は松葉や、木の葉や、灰色の苔《こけ》を運んで来た。ミックはかかえた膝小僧《ひざこぞう》に口づけながら、じっと彼を見ていた。拳を固く握り、身体じゅうがこわばっているようだった。
「さあ、ちょっと寝ると、帰りの元気が出るよ」
ふたりはやわらかな寝床に横たわり、青空を背景にした濃緑の松の梢を見上げた。一羽の鳥が、ミックのこれまで聞いたことのない、悲しげな澄んだ歌をうたった。オーボエのような高いひと声――ついで五音下がって、もうひと声鳴いた。その歌は、言葉のない問いのように悲しくひびいた。
「いい鳥だな。もずだろうけど」
「海辺に行ってみたいわ。砂浜にすわって、遠い沖合いの船を眺めるの。あなた、いつだかの夏、海へ行ったでしょ?――どんなだった?」
ハリーの声は、低くてぞんざいだった。「どんなって――波があるんだ。青いときも緑のときもあるけど、明るい陽《ひ》が照るとガラスのように見えるんだ。砂浜では小さな貝殻がひろえるし。葉巻の箱に入れて持って帰ったような、さ。それから、波の上には白い鴎《かもめ》が飛んでるよ。ぼくらはメキシコ湾へ行ったんだけど、しじゅう涼しい風が吹いてて、ここみたいに焦げつくような暑さじゃないんだ。いつだって――」
「雪なの、あたしが見たいのは。映画で見るみたいな、冷たい白い吹きだまりやら、吹雪《ふぶき》やら。ふわふわやわらかく降りつづけ、冬のあいだじゅういつまでも、いつまでも、いつまでも降りつづける白い冷たい雪が見たいの。アラスカで降るみたいな雪」
ふたりは同時に向き合った。互いに堅く抱き合った。ハリーのふるえているのが感じられた。ミックは拳を砕けるほど握りしめていた。「ああ、ミック!」と、彼は何度も何度もくり返した。まるで胴から首が切り離され、投げ捨てられたような気持だった。心の中で何かを数えながら、ミックはまばゆい太陽をまっすぐ見上げていた。こんなことだったのだ。
あれは、こういうことだったのだ。
ふたりはゆっくり自転車を押して行った。ハリーは首をうなだれ、背を曲げている。すでに夕暮れてきていたため、ふたりの影は埃《ほこり》っぽい道に長く黒く伸びた。
「ねえ」と彼は言った。
「なあに」
「ぼくたち、このことをよく考えなくちゃ。そうなんだよ。きみは――わかるかい?」
「わからないわ。どういうことなのか」
「いいかい。ぼくら、なんとかしなくちゃならないんだ。すわろうよ」
ふたりは自転車を置き、道路きわの堀割のそばにすわった。お互いに遠く離れてすわった。夕陽《ゆうひ》がふたりの頭に照りつけ、まわりは茶色の、くずれやすい蟻《あり》の巣でいっぱいだった。
「このことをよく考えなくちゃ」とハリーは言った。
彼は泣いていた。じっとすわっている彼の蒼白《そうはく》の顔を、涙が流れ落ちた。ミックには、彼の泣いているわけがわからなかった。一匹の蟻が、彼女の踝《くるぶし》を刺した。彼女は蟻をつまみ上げ、しげしげと見つめた。
「こうなんだ。ぼくはね、これまで女の子にキスしたこともないんだよ」
「あたしだって。男の子にキスしたことないわ。家族以外には」
「いつも考えてたのは――ある女の子にキスすることだった。授業中もそのことばかり考えてたし、夜もその夢ばかり見ていた。そしたら、一度その子がデートを許してくれたんだ。ぼくにキスさせるつもりだったんだよ。それなのに、暗がりでその子を見るばかりで、とうとうキスできなかった。そのことばかり――その子にキスすることばかり考えていたくせ、いよいよその時がきてみると、できないんだ」
ミックは指先で地面に穴を掘り、殺した蟻を埋めた。
「みんなぼくが悪かったんだ。姦通《かんつう》はどう見たっておそろしい罪だもの。それに、きみはぼくより二つ年下で、まだ子どもなんだから」
「ううん、違うわ。あたしは子どもじゃない。だけどいまは、子どもだったらよかったと思うの」
「いいかい、きみがそうしたほうがいいと思うなら、ぼくたち結婚したっていいんだ――こっそりとでも、何とでもして」
ミックはかぶりを振った。「そんなのいや。あたしはだれとも結婚しないの」
「ぼくも結婚はしないよ。わかってるんだ。口先だけじゃない――ほんとだよ」
ハリーの顔を見て、ミックはおそろしくなった。鼻をぴくつかせ、下唇《したくちびる》を噛《か》んだらしく、口もとが血にまみれまだらになっている。うるんだ目も、けわしく輝いている。それに、こんなに青ざめた顔は、これまで見たこともない。ミックは顔をそらせた。こんな話やめてくれればいいのに。彼女は、ゆっくりとまわりを見まわした――堀割の縞模様《しまもよう》になった赤白の粘土や、こわれたウイスキー瓶《びん》や、郡の保安官募集の広告を貼《は》った道向うの松の木などを眺めた。何も考えず、何も言わず、じっと長いあいだすわっていたい気持だった。
「ぼくは町を出て行くよ。機械整備の腕はあるから、どこかほかの町でも仕事はあると思うんだ。もし家にいたら、お母さんに目の色で知られてしまうもの」
「ねえ。あたしのこと見て、違いがわかる?」
ハリーは、じっと長いあいだ彼女の顔を見ていたが、そうだというようにうなずいた。そして彼は言った――
「それからもう一つ。ひと月かふた月したら、ぼくの住所を知らせるからね、何でもないかどうか、きっと返事をおくれよ」
「それどういうこと?」と、ミックはゆっくりききかえした。
彼は説明して聞かせた。「きみはただ、『O・K』って返事してくれればいいんだ。そしたらぼくはわかるから」
ふたりはまた自転車を押して、家路をたどりはじめた。ふたりの影は大きく路上に伸びた。ハリーは年老いた乞食《こじき》のように前かがみになり、鼻を袖口《そでぐち》にこすりつづけた。太陽が森のかげに沈むに先立ち、ひとときすべてがまばゆい金色の光輝に包まれ、やがてふたりの影も行く手の路上から消えた。ミックはひどく年老いたような気がした。何かが重く心にのしかかっているようだった。もう彼女はおとなになってしまったのだ――望むと望まないとにかかわらず。
ふたりは十六マイルの距離を歩き、わが家の暗い露地へ戻った。台所から黄色い光のもれているのが見える。ハリーの家は暗かった――まだ母親が帰っていないのだ。横丁の洋服屋の店で、下請け仕事をしていたのだ。ときには、日曜日も働いていた。窓からのぞくと、店の奥のミシンにかがみこんだり、厚地の生地に長い針を通したりしている姿が見えた。いくら眺めていても、けっして顔を上げたことはない。そして夜になると、ハリーと自分のため、本式のユダヤ料理をこしらえるのだ。
「ねえ――」と彼は言った。
ミックは暗闇の中で待ったが、彼はそれきり何も言わなかった。ふたりは握手をかわし、ハリーは家のあいだの暗い露地を歩いて行った。歩道のところまで来ると彼は振返り、肩ごしにミックを見た。明りが、蒼白《あおじろ》くこわばった顔を照らし出した。そして彼の姿は消えた。
「なぞなぞなんだよ」とジョージ。
「聞いてますよ」
「ふたりのインディアンが山道をあるいていました。前をあるいているのは、うしろのインディアンの息子《むすこ》ですが、うしろはおとうさんじゃありませんでした。このふたりはどんな関係でしょう?」
「そうだね。まま父」
ジョージは、青っぽい小さな四角の歯をむいて、にやりとポーシャに笑った。
「じゃ、おじさん」
「だめだなあ。お母さんだよ。インディアンが女だって思わないとこでひっかかるんだ」
ミックは部屋の外に立ち、みんなのようすを眺めていた。戸口が台所を、絵のように額縁にはめていた。台所の中は清潔で、気がおけなかった。流し台のそばの明りがついているだけで、部屋の中にはさまざまな影があふれている。ビルとヘイゼルはテーブルで、マッチ棒を賭《か》けてブラック・ジャックをやっている。ヘイゼルは、肉づきのいい桃色の指先でお下げをいじくり、ビルは頬《ほお》をすぼめ、真剣な顔つきでトランプ札をくばっている。流しのところでは、ポーシャが格子模様《こうしもよう》の清潔なふきんで皿をふいている。彼女はやせて見える。肌《はだ》は金色をおびた黄色に光り、油を塗った黒い髪の毛をぺったりなでつけている。ラルフはおとなしく床の上にすわり、ジョージは古いクリスマスの飾りで作った小さな馬具を、弟にくくりつけようとしている。
「ポーシャ、も一つなぞなぞだよ。もし時計の針が二時半を指《さ》したら――」
ミックは部屋にはいって行った。みんなが彼女の姿にたじたじとなり、遠巻きにしてみつめるだろうと覚悟をしていた。だが、みんなちらと一瞥《いちべつ》をくれただけだった。ミックはテーブルの間にすわり、待ち受けた。
「もうみんなお夕飯がすんじまったころに、のこのこ帰っておいでだね。いつまでたったって、お台所が片づきゃしないわ」
だれもミックを見とがめない。ミックは大皿一杯のキャベツと鮭《さけ》を食べ、クリーム菓子をデザートにした。気になるのはママだった。ドアがあき、ママがはいって来て、下宿人のミス・ブラウンが部屋で南京虫《なんきんむし》を見つけたと言っている、とポーシャに話した。ガソリンを出してほしいと言いに来たのだ。
「そんなしかめっつらはおよし、ミック。あんたもそろそろ、すこしはおめかしして、できるだけ見場をよくしなきゃならない年ごろですよ。ちょっとお待ち――お母さんが話をしているのに、そんな乱暴に出てく人がありますか。あのね、ラルフをスポンジでよく洗ってから寝かしてやってちょうだい。鼻と耳をよく洗ってね」
ラルフのやわらかい髪の毛は、オートミールでベタベタしていた。ミックはそれをふきんでふいてやり、手と顔を流しで洗ってやった。ビルとヘイゼルのトランプも終った。ビルの長い爪《つめ》が、マッチ棒を集めるときテーブルを引っかいた。ジョージはラルフを寝床へつれて行った。ミックとポーシャだけが台所に残された。
「ねえ、ポーシャ! あたしを見て。どこか変ったとこある?」
「ありますともさ」
ポーシャは赤い帽子をかぶり、帰り支度の靴にはきかえた。
「どこが――」
「ちっとばかしオイルを顔にすりこむだね。だいぶ、鼻の頭がむけてるもん。日焼けには、オイルがいちばんていうからさ」
ミックはただひとり、暗い裏庭にたたずみ、爪で樫《かし》の樹皮をはがしつづけた。こんな扱いをされては、いっそういたたまれなかった。いっそみんなからじろじろ見られ、はっきり言われたほうが気分はよかっただろう。もし知っているならば。
パパが裏口の階段から呼んだ。「ミック! おうい、ミック!」
「はい」
「電話だよ」
ジョージがくっついて来て、立ち聞きしようとしたが、ミックは彼を押しやった。マイノウィッツ夫人が、興奮を隠しきれぬ大声で話しかけてきた。
「うちのハリーが、もう帰らなきゃならないんですけどね。どこにいるか、ご存じかしら?」
「いいえ」
「あなたとふたりで、自転車に乗って出かけるって言ってましたのよ。いったいどこへ行ったのかしら。どこへ行ったか、ご存じないかしら?」
「いいえ」と、ミックはもう一度くり返した。
一二
ふたたび暑い日の到来とともに、サニー・ディキシー・ショーは連日にぎわった。三月の風もおさまった。木々は萌黄色《もえぎいろ》の若葉でおおわれた。空は雲一つない青空で、日射《ひざ》しはしだいに強くなった。空気は蒸し暑かった。ジェイク・ブラウントはこんな陽気がきらいだった。その先に待っている長い、灼《や》けつくような夏の月日を考えただけでめまいがした。気分がよくなかった。近ごろは、たえず頭痛に悩まされるようになっていた。体重もふえ、少々腹が出てきた。ズボンのいちばん上のボタンは、はずしておかねばならなかった。酒肥《さけぶと》りだということはわかっていたが、相変らず飲みつづけた。酒は頭の痛みをやわらげてくれた。頭痛をやわらげるには、小さなグラス一杯でよかった。しかし近ごろでは、グラス一杯も一クオートも同じだった。彼に活力を与えたのは、そのときどきの酒ではなかった――何カ月にもわたり、血液の中にすっかりしみこんだアルコールの全量に対し、最初の一口が与える反応にすぎなかった。スプーンに一杯のビールでも、頭のうずきを癒《いや》すに十分だったが、一クオークのウイスキーをあおっても、いっこうに酔えなかった。
彼は、酒をすっかり断ってしまった。数日のあいだ、水とオレンジ・スカッシュだけを飲んでいた。頭の中を蛆虫《うじむし》がはうような痛みだった。長い午後から夜にかけて、彼は重い身体《からだ》を引きずって働いた。眠ることもできず、本を読むのも苦痛だった。下宿部屋の湿っぽく酸《す》っぱい臭《にお》いが癇《かん》にさわった。眠れぬままベッドに横たわり、やっと寝入るころにはもう夜が白んでいた。
一つの夢が彼につきまとっていた。はじめて見たのは四カ月前だった。ぎょっとして目をさます――だがふしぎなことに、どんな内容の夢だったかどうしても思い出せない。目をあけたあと残っているのは、おそろしかったという感じだけだった。目をさましたあとの恐怖感がいつもあまりに似ているため、きっと同じ夢を見ているにちがいないという気がした。さまざまな夢には――彼を狂人なみの錯乱状態へと引きこむ、泥酔の果ての怪異な悪夢には――馴《な》れていた。きまって朝の光が、こうしたおそろしい夢の後味を消し去り、何も記憶に残っていなかったからだ。
だが、近ごろの空虚な忍びやかな夢は、これまでの悪夢と性質を異にしていた。目をさますと、何も思い出せない。だが、強迫感だけがいつまでもこびりついてぬぐえない。ある朝、彼はいつもの恐怖感とともに目をさましたが、あとに置いてきた暗闇の記憶がまだかすかに残っていた。彼は群衆の中を歩いている……腕には何かをかかえている……だが、はっきりしているのはそれだけだ。何か盗んできたのだろうか? 何か持物を救おうとしているのだろうか? まわりじゅうの人間に追われているのだろうか? そうは思えなかった。この単純な夢は、考えれば考えるほどますます理解できなくなった。それからのちしばらく、この夢はもう戻ってこなかった。
彼は去年の十一月に見た、チョークで書かれた掲示の書き手に出会った。最初に顔を合わした日から、その老人は悪魔のように彼につきまとった。シムズという名の男で、大道説教師だった。冬の寒いあいだは家にこもっていたが、春になると一日じゅう大道に出て来た。やわらかな白髪を首筋まで伸ばし、チョークやキリストのビラをいっぱいつめた、女物の大きな絹のハンドバッグを持ち歩いていた。キラキラ光る狂気じみた目だった。シムズは彼を改宗させようとした。
「不運の子よ、おまえの息には罪深いビールの臭いがこもっておる。そのうえ、タバコも吸うじゃろう。主イエスが、われわれにタバコを吸うことを望まれたなら、ちゃんと聖書にそう言われたにちがいない。おまえの額にはサタンのしるしが印されておる。はっきりと見えるのだ。悔い改めよ。われ汝《なんじ》に光を示さん」
ジェイクは目をむき、宙でゆっくり十字を切った。そして、油にまみれた手を開いてみせた。
「あんただけに見せてやるぜ」と彼は、低い芝居がかった声で言った。シムズは、手のひらの傷跡を見た。ジェイクはそばまで身体をかがめ、ささやいた――「別のしるしもあるんだぜ。おまえの知ってるしるしもな。生れたときからついているのさ」〔カトリックでいう「聖痕」〕
シムズは塀《へい》のほうへ後ずさりした。女のような動作で、額にかかった銀髪をかき上げうしろへなでつけた。落着かなげに、舌で口のまわりをなめまわしている。ジェイクは笑った。
「罰当《ばちあた》りもの!」とシムズは絶叫した。「神はお見のがしならんぞ。おまえやおまえらの一味をな。神はあざけるものをお忘れにならん。神はわしをお守りくださる。神はすべての人間を守りたもうが、なかんずこのわしをお守りくださるのじゃ。むかしモーゼを守りたもうたようにな。神は夜ごと、わしに語りかけたもうのじゃ。おまえをお見のがしにはなるまいて」
ジェイクはシムズを町角《まちかど》の店へつれて行き、コカ・コーラとピーナツバターのクラッカーをおごってやった。シムズは、またしても彼を説得にかかった。ジェイクが仕事に出かけると、シムズはあとから追いすがって来た。
「今夜七時、この角へ来なされ。主イエスはおまえだけにお告げをくださるじゃろう」
四月にはいって早々は、風の強い暖かい日がつづいた。白い雲が青空にたなびいた。風の中は、河の匂《にお》いや、町はずれの野原のすがすがしい香《かお》りがはいっていた。ショーは毎日、午後の四時から真夜中までにぎわった。群衆は手に負えぬ連中の集まりだった。春の到来とともに、ジェイクはひと騒動ありそうな気配を感じた。
ある晩、ぶらんこ機械の操作をしていた彼は、ののしりあいの声にはっと物思いからさめた。いそいで人込みをかき分けて行くと、ひとりの白人の娘がニグロ娘と、メリーゴーラウンドの切符売場のそばでけんかをしている。彼はふたりをむりやり引離したが、ふたりはなおもつかみかかろうともがいた。群衆は両方の側につき、たいへんな騒ぎだった。白人の娘はせむしだった。手に何かしっかりと握りしめている。
「おら、ちゃんと見ただ。そないな背中のこぶ、はたき落としてやっから」と、ニグロ娘は金切り声をあげた。
「おだまりよ、黒公!」
「なにさ、工場《こうば》のすれっからし! おら、ちゃんと金をはらって乗ろうとしとっただ。白人のだんな、おらの切符、とっかえしとくれよ」
「あばずれ黒公!」
ジェイクは、ふたりの女を交互に見やった。やじ馬がつめかけて来る。あちこちからぶつぶつ、さまざまな意見が出る。
「おれ、ルーリーが切符を落っことして、この白人の女の人がひろうとこ見ただ。ほんとだ」とニグロの少年が言った。
「黒んぼのくせしやがって、白人の娘に手をかけると、ただじゃおかねえぞ……」
「そんなにこづかんどくれよ。いくらおまえの肌が白くったって、殴りかえしてやるだ」
ジェイクは乱暴に群衆の中へはいった。「ようし、もういい! さあ、もう行った、行った! どいつもこいつもだ」彼の拳《こぶし》の大きさに、やじ馬は不承ぶしょう散りはじめた。ジェイクはふたりの娘のほうへ向きなおった。
「こないわけだよ」とニグロの娘は言った――「おら、金曜の夜までいっしょけんめい五十セントためただ。今週はいつもの倍のアイロンかけしてよ。あの女のもっとる切符に、ちゃんと五十セント玉一枚はらっただ。そんだから、おら、乗せてもらわんと」
ジェイクは問題をあっさりと片づけた。せむしの娘には問題の切符を持たせておき、ニグロの娘にもう一枚出してやったのだ。その夜は、もうそれ以上いざこざはなかった。だがジェイクは、群衆の中を油断なく歩きまわった。彼は気がかりで不安だった。
ショーには、彼のほかに五人の従業員がいた――ぶらんこを操縦し切符を売っている男がふたりと、売店をやっている女の子が三人だった。パターソンはその中にはいっていなかった。ショーの持主である彼は、たいていトレーラーの中でトランプのひとり遊びをしていた。瞳《ひとみ》の萎縮《いしゅく》した生気のない目をし、首の皮膚は黄色くやわらかいひだになって垂れていた。ここ数カ月のあいだに、ジェイクは二度も昇給になっていた。真夜中にパターソンのところへ報告に行き、その晩の売上げを手渡すのが彼の仕事だった。ときには彼がトレーラーの中へはいって何分かたっても、パターソンは気づかぬことがあった。放心したように、ぼんやりトランプ札を眺めていることが多かった。トレーラー内の空気は、食べ物とタバコの匂いで重苦しかった。パターソンは何かから身をかばうように、みぞおちのあたりに片手を当てがっている。彼はいつも帳簿を念入りに調べた。
ジェイクとふたりの機械係はいさかいをした。ふたりはもともと、織物工場の梳《す》き工《こう》だった。はじめのうち、ジェイクはこのふたりに話しかけ、真理をわからせようとした。一度は、玉突き場へつれて行き酒を飲ませたこともあった。だが、あまりにも頭の悪い連中で、どうにもならなかった。その後まもなく、ふたりのあいだの話を立ち聞いたことから、いさかいが持ち上がった。夜明けの二時に近い日曜日の朝早く、ジェイクはパターソンと会計をしめていた。トレーラーから出て来ると、場内に人影はなかった。月が明るかった。彼はシンガーのことを考え、つぎの休日のことを考えていた。ぶらんこのところを通りすぎたとき、だれかが彼の名を口にするのが聞えた。ふたりの機械工が仕事を終え、タバコをふかしていた。ジェイクは聞き耳を立てた。
「黒公よりきらいなものがあるとすりゃ、何てったってアカだぜ」
「おれにおべっかつかってやがんの。おれは知らん顔してるけどよ。それに何だい、あのもったいぶった歩きっぷりは。あんなちんちくりんな野郎は見たこともねえや。あいつの背丈《せたけ》はどれくらいあるんだろうな」
「五フィートってとこじゃねえのか。ともかく、だれ彼かまわずとっつかまえて言い聞かせなきゃならんと思ってやがる。あんな野郎、刑務所にぶちこまれりゃいいのよ。刑務所が似合いだぜ。アカのボルシェヴィキなんてのは」
「おれにおべっかなんか使いやがってよ。笑わせちゃいけねえってんだ」
「おれに向って、えらそうなまねをするこたあねえやな」
ジェイクは、ふたりが小道をウィーヴァーズ小路《こうじ》のほうへ行くのを見送っていた。彼はとっさに、飛び出して行って対決してやろうかと思ったが、ためらいを覚え思いとどまった。数日のあいだ、彼は黙ったまま向っ腹を立てていた。やがてある晩、仕事が終ると彼はふたりの男のあとを数区画にわたってつけ、曲り角のところでいきなりふたりの前に立ちはだかった。
「みんな聞いたぞ」と、彼は息せき切って言った――「この前の土曜の晩、きさまらの言っていたことはひとこと残らず聞いたんだ。そうとも、おれはアカさ。少なくとも自分じゃそう思っている。それじゃ、きさまらは何なんだ?」彼らは街灯の下に立っていた。ふたりの男はたじたじとなって後ずさりした。あたりに人気《ひとけ》はなかった。「青びょうたんの、ひょうろく玉の、腰ぬけ鼠《ねずみ》野郎めが! きさまらのへなへな首をひねるくらいは、わきゃねえんだ――片手でひとりずつな。ちびだろうがなかろうが、ここへ平ったくのして、シャベルで掘り起こしてもらわなきゃならんようにしてもらいてえか」
ふたりの男はすくみ上がり、互いに顔を見合せ、そのまま通りすぎようとした。しかし、ジェイクはふたりを通そうとはしなかった。ふたりと歩調を合わせ、憤然とした冷笑を浮べながら、うしろ向きに歩いた。
「これだけは言っておくぜ――今後おれの背丈や、目方、訛《なま》り、ふるまい、イデオロギーについて言いてえことがあった場合は、まっすぐおれんとこへ来ることだ。イデオロギーってったって、しょんべんする道具じゃねえんだぜ。そいつはいずれまた話し合おう」
その後ジェイクは、ふたりの男を腹立ちまぎれの軽蔑をもって扱った。彼らも、かげでジェイクをあざ笑った。あの日の午後、彼はぶらんこのエンジンが故意にこわされているのに気づき、修理に三時間もよけい働かねばならなかった。彼は常にだれかの嘲笑《ちょうしょう》を感じた。若い娘たちが話し合っているのを聞くたびに、彼ははっとしたように身体を起し、何か自分だけの冗談でも思いついたように、ひとり声に出して笑い声を上げた。
メキシコ湾からの暖かい南西の風は、春のさまざまな匂いに重かった。日脚《ひあし》は長くなり、太陽は明るかった。気だるい暖かさに、ジェイクは気のめいるのを覚えた。彼はまた酒を飲みはじめた。仕事が終るとすぐに下宿へ帰り、ベッドに横になった。ときには、何をする気にもならずすっかり服を着たまま、十二、三時間も寝ころんでいることがあった。ほんの数カ月前、彼をすすり泣かせ爪《つめ》を噛《か》ませたあのいらだちは、すでに消え去ったようだった。だが、この無気力さの底に、ジェイクは以前からの緊張感を感じた。これまでに住んださまざまな土地の中でも、この町ほど寂しいところはなかった。もしシンガーがいなければ、そうだったろう。真理を理解しているのは、彼とシンガーだけなのだ。だが理解しながら、わからぬ連中にわからせることが彼にはどうしてもできなかった。まるで暗闇か、熱気か、空気中の悪臭と戦おうとするようなものだった。彼は苦い表情で窓の外を見つめた。煤煙《ばいえん》にすすけ、いじけた町角の木が、黄ばんだ緑の若葉を出している。空はいつも濃い青だった。町のこのあたりを流れている悪臭を放つ川からの蚊が、部屋の中をぶんぶん飛びまわっている。
彼はかゆみに悩まされた。硫黄《いおう》と豚の脂《あぶら》をまぜ合せ、毎朝|身体《からだ》に塗りつけた。爪をたてて思いきりかきむしってもみたが、かゆみはどうにも消えそうになかった。ある晩、彼はとうとう頭にきてしまった。もう何時間も、ただひとりですわっていた。ジンとウイスキーをまぜて飲み、したたかに酔っていた。もう朝に近かった。彼は窓から身体を乗り出し、暗いひっそりとした通りを眺めた。彼は自分のまわりじゅうの人びとのことを考えた。眠りこけている連中。物を知らぬやつら。とつぜん、彼は大声でわきはじめた――「これが真理なんだ! おまえら阿呆《あほう》は何も知らねえんだ。知らねえんだ。何も知らねえんじゃないか!」
町は怒りに目ざめた。明りがつき、眠たげなののしり声が返ってきた。同じ建物に住む人たちは、彼の部屋のドアを腹立ちまぎれに叩いた。通り向うの淫売宿《いんばいやど》の女たちも、窓から顔をつき出した。
「あんたら何よ。ばかたれ、ばか、ばか、ばか、ばか――」
「うるせえ! うるせえってのに!」
廊下までつめかけて来た連中は、ドアをぐいぐい押していた――「酔いどれ牛めが! いまおれたちがとっつかめえて、ちったあ口がきけねえようにしてやらあ」
「おまえら何人いるんだ?」とジェイクはわめいた。彼は空瓶《あきびん》を窓枠《まどわく》に叩きつけた。「さあ、かかってこい。どいつもこいつも、かかってきやがれ。一度に三人ずつ片づけてやるぜ」
「その意気、はでにやんなよ」と淫売が叫んだ。
ドアはいまにもこわれそうだった。ジェイクは窓から跳びおり、横の露地を駆け抜けた。「ヒーホー! ヒーホー!」と、酔いにまかせて叫んだ。彼ははだしで、ワイシャツも着ていなかった。一時間後、彼はシンガーの部屋へよろめくようにころがりこんだ。床に長々と伸び、ひとりで笑いころげて寝こんでしまった。
四月のある朝、彼は殺されたひとりの男の死体を見つけた。若いニグロだった。ショーの敷地から、三十メートルばかり離れた溝《みぞ》にころがっていた。喉首《のどくび》をかき切られており、そのため首が奇妙な角度にねじ曲っている。太陽がその見開かれたガラスのような目に照りつけ、胸を一面におおっているかわいた血の上を、蝿《はえ》が舞い舞いしていた。死んだ男は、ショーのハンバーガー売場で売っているような、ふさ飾りのある赤黄の杖《つえ》を持っていた。ジェイクはしばらく、暗い表情で死体を見つめていた。それから警察を呼んだ。手がかりは何も発見されなかった。二日後、死んだ男の家族が、死体公示所へ死体を引取りに来た。
サニー・ディキシー・ショーでは、しじゅう殴り合いやいさかいがあった。ときには、腕を組んでやって来たふたりづれの友人同士が、笑ったり飲んだりしていたかと思うと、帰りがけには息を荒らげていがみあい、大げんかをしていることもあった。ジェイクは常に警戒をおこたらなかった。ショーのけばけばしい華《はな》やかさや、明るい照明、ものうい笑い声のかげに、彼は何かおそろしく危険なものを感じていた。
こうした茫然《ぼうぜん》とした脈絡もない何週間かのあいだ、シムズ老人は彼の行く先々へうるさくついてまわった。老人は踏台がわりの石鹸箱《せっけんばこ》と聖書を持って現われ、群集のまん中に立って説教するのが好きだった。老人はキリストの再臨を説いた。審判の日は、一九五一年の十月二日だと言った。酔っ払いを指さしては、そのしわがれたがさつな声で絶叫した。興奮すると口の中が唾《つば》でいっぱいになり、そのため言葉はごぼごぼ水気を含んだ音を立てた。ひとたび場内にはいりこみ、演壇をこしらえたが最後、だれが何と言おうと動かなかった。彼はジェイクに、ギデオン聖書を一部贈り、毎晩一時間ひざまずいて祈ること、すすめられたビールもタバコも捨て去ることを説いた。
ふたりは、壁や塀《へい》の上でも争った。ジェイクも負けずに、チョークをポケットに入れて持ち歩くようになった。みじかい文句を書きつけたのだ。通行人が立ちどまり意味を考えるような言葉づかいをした。読んだ人間がいぶかるように。考えこむように。さらにみじかいパンフレットを書き、町の通りでくばったりもした。
もしシンガーがいなければ、とうにこの町から出ていただろうことは、ジェイク自身にもわかっていた。友人のシンガーといっしょにいられる日曜にだけ、彼は心の平和を感じることができた。ときにはふたりで散歩に出たり、チェスをさしたりすることもあったが、たいていは静かにシンガーの部屋で一日をすごすことが多かった。何か話をしたいときには、シンガーはいつでも耳を傾けてくれた。また終日むっつりとすわっていても、唖《おし》は気持を察してくれ、驚くようなことはなかった。いま自分を救えるのはシンガーだけだという気がした。
ある日曜日、彼が階段をのぼって行ってみると、シンガーの部屋のドアがあいたままになっていた。部屋の中にはだれもいなかった。彼は二時間以上、ひとりですわっていた。やっと、シンガーの足音が階段に聞えた。
「心配してたぜ。どこへ行ってたんだね?」
シンガーは微笑した。彼はハンカチで帽子の埃《ほこり》を落し、帽子をしまった。それからおもむろに、ポケットから銀色の鉛筆を取出すと、暖炉飾りの上にかがみこんで何か書きつけた。
「こりゃ、どういうことだい?」唖の書いたものを読むと、ジェイクはきいた――「だれの脚が切り取られたんだって?」
シンガーは紙きれを取戻し、何行かを書き加えた。
「ふん! べつに驚きもせんよ」
ジェイクはしばらく紙きれを見て考えこんでいたが、やがて紙を手の中で丸めてしまった。前月のような大儀さは消え、彼は緊張し落着かなかった。「ふん!」と、彼はもう一度言った。
シンガーはコーヒーわかしをかけ、チェス盤を持ち出した。ジェイクは先ほどの紙を小さく破き、汗ばんだ手のひらで丸めた。
「しかしなんとかできるんじゃないのか。ええどうだい?」と、彼はしばらくして言った。
シンガーは、こころもとなげにうなずいた。
「ひとつその子に会って、話をすっかり聞いてみたいな。いつつれてってもらえる?」
シンガーは考えていた。やがて、彼はメモ用紙に書きつけた――「今夜」
ジェイクは手を口に当てがい、落ちつかなげに部屋の中を歩きはじめた。「なんとかできるはずだ」
一三
ジェイクとシンガーは、玄関先のポーチで待っていた。ベルを押したが、暗い家の中で呼鈴の鳴る音は聞えなかった。ジェイクはじれったそうにノックをし、網戸に鼻を押しつけた。その横では、両頬《りょうほお》を丸く赤く染めたシンガーが、微笑を浮べぎごちなく立っている。ふたりで、ジンの瓶《びん》を一本あけて来たのだ。静かで暗い夜だった。廊下の奥からぼんやりとさしている黄色い明りを、ジェイクはじっと見つめた。やっとポーシャがドアをあけた。
「お待たせしてもうたかしら。あんましたんと人が来るもんで、ベルをはずしといたほうがええだろうと思うて。お帽子をこっちへ――とうさんは、ひどう加減が悪うて」
ジェイクはシンガーのあとにつき、爪先立《つまさきだ》ちで重々しく、何の飾りもない狭い廊下を通り抜けた。台所の敷居まで来ると、彼ははたと立ちどまった。部屋は人でいっぱいで、暑かった。小さな薪《まき》用ストーブで火が燃え、窓はしめきってある。煙が、なんとなくニグロくさい匂いとまざり合っている。部屋の明りはストーブの火だけだった。廊下で聞えたくぐもり声は、もう聞えなかった。
「白人のだんながふたり、とうさんのお見舞いに来てくだすっただ」とポーシャが言った――
「たぶんお目にかかれる思うけど、あたいが先に行って知らしてくっから」
ジェイクは、分厚い下唇を指先でいじった。鼻先には、玄関の網戸に押しつけたときの格子縞《こうしじま》がうつっている。「そうじゃないんだ。弟さんと話しに来たんだ」
部屋の中のニグロはみな立っていた。シンガーは身ぶりで、みんなにすわるよう伝えた。ごま塩頭の老人がふたり、ストーブのそばのベンチにすわっていた。しまりのない身体《からだ》の混血児がひとり、窓にもたれている。隅《すみ》に置いたキャンプ用寝台には、両脚《りょうあし》のない少年がすわっている。切株のような腿《もも》のところで、ズボンの先が折り曲げられ、ピンでとめられている。
「こんばんは」と、ジェイクはぎこちなく言った――「きみはコープランドってのかい?」
少年は脚の切れたところを両手でかばい、壁のほうへちぢこまった。「おいら、ウィリーてんだ」
「さ、心配せんでもええの」とポーシャが言った。「こっちは、とうさんの話してたシンガーさんて方。そいから、こっちの白人のだんなは、ブラウントさんて、シンガーさんのお友だちなんだよ。あたいらが困ってるもんで、わざわざお見舞いに来てくだすったん」ポーシャはジェイクのほうを向き、部屋の中の三人を示した。「窓にもたれてんのもあたいの弟で、バディてんです。そいから、ストーブのそばにいるのはとうさんの親友で、マーシャル・ニコルズさんと、ジョン・ロバーツさん。おなじ部屋にいるもの同士は、知っといてもろうたほうがええやろうから」
「ありがとう」とジェイクは言い、ふたたびウィリーのほうを向いた。「事情がはっきりわかるよう、おじさんにすっかり話してくんないか」
「こうなんだよ」とウィリーは言った――「おれ、まだ足が痛えみたいな気がすんだ。おらの足はひでえことになっちもうただ。そんだのに、痛えのは、あ、あ、足のあったあたりなんだ。いま足がちょん切れてるとこじゃなくてさ。わけわかんねえだ。年じゅう足が痛うてならんくせ、その足がどこにあるかわかんねえんだ。とうと、返してくんねえんだ。ど、ど、どっか、百マイル以上、と、と、遠くにあんだよ」
「おれがきいてるのは、どうやって事件が起こったかってことなんだ」とジェイクは言った。
ウィリーは不安そうに姉を見上げた。「覚えてねえだ――よくは」
「よう覚えてるはずだよ。あたいらに何べんも何べんも話してくれたでないのさ」
「うん――」少年の声は、おずおずとして暗かった。「おらたち、みんなして道に出とったとき、バスターのやつが看守に何か言うただ。そしたら、は、は、白人の看守の野郎、いきなり棒っきれでなぐりかかってきただ。だもんで、もひとりのやつが逃げ出してよ。そんで、おらもあとを追っかけただ。なにしろ急なこってよ。どないなようすだったか思い出せねえだ。そしたらよ、おらたちキャンプへつれ戻されて、そんで――」
「そのあとは知ってる。そのほかのふたりの名前と住所を教えてくれ。それから看守の名前もな」とジェイク。
「白人のだんな。待っとくれよ。だんなはおらを、めんどうな目にあわせようってみたいでねえか」
「めんどうだと!」と、ジェイクは乱暴に言った――「いったいおまえ、いまどんな状態にあると思ってるんだ?」
「まあまあ、そう大声出さんと」と、ポーシャが気がかりそうに口を出した。「こないなわけなんだよ、ブラウントさん。ウィリーは刑期の終らんうち出してもろうたん。だけど、よけいなこと言うなって、きつう言われとんの――あたいらの気持、わかってくださるやろうけど。だもんで、ウィリーはこわがってんの。あたいらみんなして用心してんのも、むりはねえと思うだけど――あたいらにできることって、それしかねえだもん。もうこれだけつらい目に会うとりゃ、じゅうぶんだもん」
「看守はどうなったんだね?」
「か、か、看守の白人はくびになっただ。そういう話だっただ」
「それで、友だちはいまどこにいるんだね?」
「友だちって?」
「そら、ほかのふたりだ」
「あ、あ、あいつら、おらの友だちじゃねえ。おらたち、どえれえけんかしちまっただ」
「そりゃ、どういうことなんだ?」
ポーシャは、耳たぶがゴムのように伸びるくらい耳飾りを引っぱった。「ウィリーはこう言うてんの。つまりさ、ひでえ目に会うたあの三日のあいだに、三人でけんかをはじめたっての。そんでウィリーは、もうあの連中に会いたくねえっての。とうさんとウィリーで、さんざんもう議論したことだけどさ。そのバスターって子は――」
「バスターは木の義足をつけとっただ」と、窓ぎわの少年が言った――「おれ、きょう通りで見たぜ」
「そのバスターって子は身よりがないもんで、うちへつれて来りゃええってのがとうさんの考えでさ。とうさんはそのときの連中を、みんなうちへ呼ぼうっての。どやって食べさしてくつもりだが、あたいにゃまるでわからんわ」
「そんな考えはよくねえだ。それにおらたち、仲よくなんかやってけねえだもん」ウィリーは切られた脚の先を、黒いがっしりとした両手でまさぐった。「ああ、おらのあ、あ、足はどこへ行っちまっただかな。それがいちばん心配でなんねえだ。医者はとうと、おらに足を返してくんなかった。ああ、おらの足はどこへ行っちまっただかな」
ジェイクは、ジンににごったぼうっとした目でまわりを見まわした。すべてがぼんやりと、奇妙に見えた。台所の熱気のため目まいがし、さまざまな人の声が耳の中で反響していた。けむりに息もつまりそうだった。天井からぶら下がった電灯がつけられたが、まぶしさをやわらげるため電球に新聞紙が巻いてあるので、明りの大半は熱いストーブの隙間《すきま》からもれてくる光だった。まわりを取巻く黒い顔は、みな一様に赤く輝いている。彼は不安と孤独を覚えた。シンガーは、ポーシャの父親を見舞うため、部屋を出て行っていなかった。ジェイクはそろそろ引揚げられるよう、シンガーに戻って来てもらいたかった。彼はぎごちないようすで部屋を横切り、マーシャル・ニコルズとジョン・ロバーツのあいだのベンチに腰をかけた。
「ポーシャのおやじさんはどこにいるんだね」と彼はきいた。
「コープランド先生は、とっつきの部屋におられますだ、だんな」とロバーツが答えた。
「医者なのかい?」
「さようで。お医者でらっしゃるだ」
外の階段に引きずって歩く足音が聞え、裏口のドアがあいた。暖かい新鮮な風が、重苦しい部屋の中の空気を軽くした。まず、リネンの背広を着てピカピカの靴をはいた背の高い若者が、小脇《こわき》に袋をかかえてはいって来た。そのあとからついて来たのは、十七くらいの青年だった。
「やあ、ハイボーイ。やあ、ランシー。何を持って来てくれただかね」とウィリーが言った。
ハイボーイは、ジェイクにていねいにおじきをし、砂糖漬《さとうづ》けくだものの瓶《びん》に入れたぶどう酒を二本、テーブルの上に置いた。ランシーはその横に、新しい白いナプキンをかけた皿をのせた。
「このぶどう酒は、協会からの贈物なんだ」とハイボーイが言った――「それから、ランシーのおふくろさんが、桃のシュークリームをくだすっただ」
「ポーシャさん、先生はどうだかね?」とランシーがきいた。
「それがさ、ここんとこ何日か、えろうぐあいが悪うて。めっぽう元気がいいんで気になんのよ。あないな病人が急に元気になるちゅうのは、悪いしるしだもんな」ポーシャはジェイクのほうに向いた。「悪いしるしだって思わんかね、ブラウントさん?」
ジェイクは、ぼんやりとポーシャを見つめた。「わからんね」
ランシーはむっつりとした表情でジェイクをちらりと見やり、みじかくなったワイシャツの袖《そで》を引っぱりおろした。「そいじゃ先生に、うちのもんがよろしく言うとったって伝えとくれ」
「ほんとにありがとうよ」とポーシャが言った――「とうさんも、ついこないだあんたのこと話しとったよ。あんたにやりたい本がある言うとったわ。ちいと待っといとくれ、本を取って来て、おっかさんに返すお皿洗うて来るから。ほんにおっかさんも親切になあ」
マーシャル・ニコルズは、ジェイクのほうへ身体《からだ》をかがめ、話しかけそうに見えた。ニコルズ老人は細い縦縞《たてじま》のズボンをはき、モーニングを着てボタン穴に花をさしていた。老人は咳《せき》ばらいをして言った――「失礼ですが、だんな――今回のこの難儀に関しウィリーとかわしておられたお話の一部を、ついもれうかがいましてな。いわば当然、わたしどもとしましても、最善の策ちゅうものを考えとったわけです」
「あんたは親戚《しんせき》か、教会の牧師さんかね?」
「いや、わたしは薬剤師でして。それから、だんなの左におるのは、政府の郵政局で働いておるジョン・ロバーツと申しまして」
「郵便配達夫ですだ」と、ジョン・ロバーツが口をはさんだ。
「ちょいとごめんを――」マーシャル・ニコルズは、ポケットから黄色い絹のハンカチを取出し、用心深く鼻をかんだ。「むろん、わたしどもはこの問題を、いわば手広く論議いたしました。して、当然のことながら、この自由の国アメリカにおける有色人種の一員として、いわば友好的なる関係の拡張に貢献したく思うとります」
「わしらは、いつも正しいことをしたいと思うとりますだ」とジョン・ロバーツが言った。
「細心の注意をもち、すでに築かれたこの友好的関係を危なくせぬよう努力するてえのが、われの義務でしてな。こうして徐々に、いわばよりよき事態ちゅうものが到来することになりますわい」
ジェイクは相手の顔を見くらべた。「どうもあんた方の言うことはわからん」熱気のため息もつまりそうだった。彼は外へ出たかった。目の玉に薄膜でもおおいかぶさったようで、まわりじゅうの顔がぼんやりかすんで見えた。
部屋の反対側では、ウィリーがハーモニカを吹いていた。バディとハイボーイが聞き入っている。暗くて寂しい曲だった。吹き終ると、ウィリーはワイシャツの胸でハーモニカを磨《みが》いた。
「おら、腹ぺこでのどがかわいてるもんだからよ、口ん中によだれがたまって、曲までぬれちまわあ。その酒をちいと飲みてえなあ。うめえもんでも飲まんと、この悲しい気持は、わ、わ、わすれられねえよ。あ、あ、足がどこいっちまったかわかってよ、それに毎晩ジンをグラスにいっぺえ飲ましてもらや、それほど苦にもならねえだがな」
「そないやきもきすんでないの。いま何か食わしてやるから。ブラウントさん、桃のシュークリームとぶどう酒を一杯いかがです?」とポーシャが言った。
「そりゃ結構だ、もらうとしよう」とジェイクは答えた。
ポーシャはすばやくテーブルにクロスを掛け、皿とフォークを並べた。そして大きなコップにぶどう酒をついだ。「そいじゃ、ここでゆっくりやっていただくわ。あたいは失礼して、ほかの連中のお給仕をしてくっから」
ぶどう酒の瓶は、口から口へとまわされた。ウィリーに瓶をまわす前、ハイボーイはポーシャから口紅を借り、ここまでは飲んでいいという目印の赤い線を引いた。ごくごく飲む音や、笑い声が聞えた。ジェイクはシュークリームを食べ終え、自分のグラスを持って、ふたりの老人のあいだの席に戻った。自家製のぶどう酒は、ブランデーのように強く|こく《ヽヽ》があった。ウィリーはハーモニカで、低い悲しげな曲を吹きはじめた。ポーシャは指を鳴らし、部屋の中をすり足で踊りはじめた。
ジェイクはマーシャル・ニコルズのほうを向いた。「ポーシャのおとっさんは医者だと言ったかね?」
「さようですとも、だんな。腕のいい医者ですわい」
「それで、いまどうかしたのかい?」
ふたりのニグロは、用心深く互いに見かわした。
「事故にあわれましただ」とジョン・ロバーツが答えた。
「どんな事故だね?」
「ひでえ事故でしただ。悲しいこってしただ」
マーシャル・ニコルズは、絹のハンカチを畳《たた》んだりひろげたりした。「先ほども言うとりましたように、こうした友好的関係をいわばそこなうことなく、あらゆる方法で真剣に促進することが重要でしてな。わたしども有色人種の一員は、あらゆる面で、わが同胞の地位向上に努力せにゃならんのです。あちらの部屋におられるコープランド先生は、いろいろと尽力してくだすった。しかしわたしにはどうも、違った人種ならびにその立場のいわば本質的要素ちゅうものを、先生が時として十分に理解しとられなかったように思えましてな」
ジェイクはいらいらしたように、残ったぶどう酒をぐいとあおった。「何だねそりゃ、もっとはっきり言えんのかい、何を言ってんのかさっぱりわからんぜ」
マーシャル・ニコルズとジョン・ロバーツは、気分をこわしたように顔を見合わせた。部屋の向うでは、ウィリーがまだすわってハーモニカを吹いている。その唇がハーモニカの四角い穴の上を、ひだのある丸々としたいも虫のように這《は》いまわった。がっしりとした幅の広い肩だった。ぷっつりと切られた腿《もも》が、音楽に合わせてぎくぎくと動く。バディとポーシャが拍子をとって手を叩くと、ハイボーイはそれに合わせて踊った。
ジェイクは立ち上がった。立ってみると、酔いのまわっているのがわかった。彼はよろめき、憎々しげにまわりを見まわしたが、だれも気づいたようすはなかった。「シンガーはどこだ?」と、彼ははっきりせぬ声でポーシャにきいた。
音楽がやんだ。「あれ、ブラウントさん、シンガーさんの帰ったんは、知ってなさる思うとったけど。テーブルんとこで桃のシュークリームを食べとられたとき、戸口へ来て、もう行かなならんて時計を見せとったでしょうに。そしたら、じっとシンガーさんのほうを見て、首を振りなすったでないの。てっきり知ってなさる思うとったのに」
「きっと、何かほかのことを考えてたんだろう」彼はウィリーのほうを向き、腹立たしげに言った――「おれはな、なんでここへ来たかまだおまえに言ってなかったな。おまえに何かしてくれと頼みに来たんじゃねえんだ。おれのやりたかったのは――おれがやろうと思ったのは、こういうことだ。おまえとほかのふたりの仲間に、事件の証言をしてもらう、それでそのあと、おれがなぜそういうことが起こったかを説明するんだ。|なぜ《ヽヽ》だけが大事なんだ――|何が《ヽヽ》じゃない。おまえらを荷車に乗っけて町じゅう押してまわる、それでおまえらが事件の報告をしたあと、おれが|なぜ《ヽヽ》を説明する。そうすりゃ、いくらか効果はあるかもしれんからな。ひょっとすると――」
彼はみんなに嘲笑されているような気がした。混乱のあまり、せっかく言うつもりだったことも忘れてしまった。部屋には黒い無気味な顔がぎっしりつまり、空気は暑苦しくて息もできなかった。戸口を見つけた彼は、よろめく足取りでそちらのほうへ歩いて行った。はいったのは、薬品の匂いのする暗い押入れだった。押入れの中で、彼はまた別のドアの把手《とって》をまわしていた。
彼は鉄製のベッドと、たんすと、椅子が二つだけの、小さな白塗りの部屋の敷居に立っていた。ベッドには、前にシンガーの下宿の階段で出くわした、あのおそろしいニグロが寝ていた。糊《のり》のきいた白い枕にのった顔は、ひどく黒く見える。黒い目は憎悪《ぞうお》に燃えていたが、青味がかった厚ぼったい唇は落着いていた。一呼吸ごとに、鼻の穴がゆっくり横にひろがるのをのぞけば、顔全体は黒い仮面のように動かなかった。
「出て行ってくれ」とニグロは言った。
「待ってくれ――どうしてそんなことを言うんだ?」とジェイクはどうしようもないといったように言った。
「ここはわしの家だ」
ジェイクは、ニグロのおそろしい顔から目をそらせなかった。「なぜだね?」
「おまえさんは、見ず知らずの白人だからだ」
ジェイクは出て行かなかった。彼はさもわずらわしげに気をくばり、白いまっすぐな椅子に歩み寄ると、そこへすわりこんだ。ニグロは掛け布団の上で両手を動かした。黒い目が、熱のためキラキラ光っている。ジェイクは彼をじっと見つめた。ふたりは待ち受けた。部屋の中には、陰謀か、爆発の前のおそろしい静けさのように緊迫した雰囲気があった。
すでに真夜中をすぎていた。春の早朝の暖かく暗い空気が、部屋にこもった青いけむりの層をかきまわした。床の上には丸めた新聞紙や、半分|空《から》になったジンの瓶などがころがっている。タバコの灰色の灰が、掛け布団の上に散っている。コープランド医師は、頭をしっかりと枕に埋めた。部屋着はぬいでおり、白い木綿《もめん》の夜着の袖《そで》を肘《ひじ》のところまでまくり上げている。ジェイクは椅子にすわったまま、身体を乗り出していた。ネクタイもゆるみ、ワイシャツの襟《えり》は汗でぐんにゃりしている。すでに何時間にもわたり、ふたりのあいだには長い精根を枯らすようなやりとりが行われていた。いまようやく、話がちょっと途切れたところだった。
「いまや時は熟しているんだ――」と、ジェイクはまた口火を切った。
しかし、コープランド医師がさえぎり、しわがれ声で言った、「いまや必要なのは――」ふたりは口をつぐんだ。互いに相手の目を見つめ、相手の言葉を待った。「これは失礼を」とコープランド医師が言った。
「すまん。つづけてくれたまえ」
「いや、あなたのほうから」と医師。
「うむ――いま言いかけていたことは、もうやめよう。そのかわり、南部のことでもうひとこと言わしてもらおう。息の根をとめられた南部、荒れはてた南部、奴隷となった南部についてな」
「そしてニグロについても」
落着くため、ジェイクはそばの床に置いた瓶から、焼けるようなジンを長々あおった。そしてゆっくりとたんすのところへ歩み寄ると、文鎮がわりに使われている小さな安っぽい地球儀を取上げた。彼はゆっくりと、手の中で地球儀をまわした。「おれに言えるのは――世界は卑劣さと悪に満ちているということだけだ。ふん! この地球の四分の三は、戦争をしているか圧制に苦しんでいる。嘘《うそ》つきや悪鬼どもが結託し、わけを知った者たちは孤立し、身を守るすべもない。だが! だがだ、もしこの地球上でもっとも野蛮な場所をさし示せと言われたなら、おれはここをさすぜ――」
「よくごらんになるんですな。それじゃ海へ出てしもうてなさる」とコープランド医師は言った。
ジェイクはもう一度地球儀をまわり、注意深く選び出した地点を垢《あか》じみたみじかく太い親指で押えた。「ここだ。この十三州だ。おれは大まじめなんだぜ。おれは本も読めば、あちこち渡り歩いてもきた。この罰《ばち》あたりな十三州は、残らず歩きまわった。どの州でも働いてきた。それで何でおれがいまみたいな考えを持ってるかと言や、こういうわけだ。おれたちは世界じゅうでいちばん豊かな国に住んでいる。物はありあまるほどふんだんにあり、男も女も子どもも、だれも飢えてる人間はいない。おまけにこの国は、真に偉大な原理となるはずだったもの――自由、平等、各個人の権利といったものの上に築かれている。ふん! あの出発点はどうなったんだ? 何十億ドルって資本を持った会社がある一方じゃ、食うにこと欠いている人間が|ごまん《ヽヽヽ》といる。この十三州における人間搾取はかくのごときありさまだ――ぜひ自分自身の目で確認しなきゃならん。おれもこれまで、なみの人間なら気が狂いそうな事態を目撃してきた。南部人の少なくとも三分の一は、ヨーロッパのファシスト国家の最下等農民と選ぶところない暮しをし、死んでゆく。小作農の平均資金は、年間わずかに七十三ドルだ。いいかね、それが平均なんだ! 小作人の賃金は、一人あたり三十五ドルから九十ドルまでだ。年間三十五ドルってのは、丸一日働いて十セントそこそこにしかならんてことだ。どこを見たって、ペラグラ病に十二指腸虫病に貧血病ばかりだ。そして、まぎれもない飢えがな! しかしだ!」ジェイクはきたない拳《こぶし》の節で、唇をぬぐった。額には汗が浮き出ている。「しかしだ!」と彼はくり返した――「こういったものは、目に見え手に触れる悪だ。そのほかにもっとひどい悪がある。おれの言ってるのは、真理が大衆から隠されているということだ。だがいろいろと吹きこまれている大衆には、真理が見えない。毒のある嘘のために、彼らは知ることも許されてないんだ」
「そして、ニグロたちもです」とコープランド医師は言った――「われわれニグロに何が起っているかを理解していただくためには、ぜひ――」
ジェイクは彼を乱暴にさえぎった。「南部を所有しているのはだれか? 北部の会社が、南部全体の四分の三を握っているんだ。おいぼれ牝牛《めうし》はどこでも草をはむ、っていうがな――南でも西でも北でも東でも。だが、乳をしぼられるのはただ一カ所だけなんだ。乳が張ると、乳房《ちぶさ》の揺れるのもたった一カ所でだ。草はどこでもはむが、乳をしぼれるのはニューヨークなんだ。おれたちの綿工場、パルプ工場、馬具工場、マットレス工場を見てみるがいい。持っているのは北部だ。それでどんなことになるか?」ジェイクの口ひげは怒りにふるえた。「ここにいい例がある。アメリカ産業の偉大なる温情主義制度による工場村、ロカールだ。不在者所有権てやつだ。村にはでかい煉瓦造りの工場が一つ、それに四、五百軒のあばら家がある。とても人間の住めたしろものじゃない。それに、最初っから貧民窟《ひんみんくつ》として建てられたもんだ。二部屋か三部屋に便所がついただけのあばら家で、家畜を入れとく小屋ほどの配慮もなく建てられている。豚小屋のほうが、まだしも入念にできてるくらいだ。こういう制度の下じゃ、豚には価値があり、人間さまにはねえってわけだ。やせたちっぽけな工場働きの子から、ポークチョップやソーセージはとれねえからな。近ごろじゃ、人間の半分は売り物にもならねえからな。ところが豚のほうは――」
「ちょっと待ってください!」とコープランド医師は言った――「どうもあんたの話は、本筋からそれちまったようだ。それにあんたは、ニグロという独立した問題にそっぽを向いとられる。わしは横合いから口を出すこともできん。わしらでこの問題は前にも論じたが、われわれニグロを度外視しては、どうしたって状況を完全につかむことはできんのです」
「話をわれわれの工場村に戻すとだ、若い織物工は、雇ってさえもらえりゃ、週に八ドルから十ドルって初任給になる。やがて世帯《しょたい》を持つ。最初の子が生れると、細君も工場で共かせぎをせんとならん。ふたりで働くと、給料は合わせて、週に十八ドルくらいになる。ふん! ところがこの給料の四分の一は、工場のあてがってくれた掘立て小屋の家賃に消えてしまう。食料や衣類も、会社の持っている店か、会社の息がかかっている店で買い求める。ところがそういう店では、あらゆる品に高い値をつける。三、四人の子どもがいりゃ、鎖につながれたも同様、身動きもできやしない。それが農奴制ってもんだ。ところがこのアメリカでは、おれたちは自由だと言っている。おかしくてならんのは、このことが小作人にも織工《おりこう》にもだれの顔にも、みっちり叩きこまれているもんで、みんな本気で信じてるってことだ。しかし、彼らに知らさずにおくには、ちょっとやそっとの嘘《うそ》じゃ間に合わなかった」
「そこから抜け出せる道はただ一つしかない――」とコープランド医師は言った。
「二つだ。たった二つあるだけだ。かつて、この国が拡張しつつあった時代があった。だれもが、自分にはチャンスがあると思っていた。ふん! だが、そんな時期はすぎ去ってしまった――永遠にな。百たらずの会社が、ほんのわずかの滓《かす》だけを残し、すっかり飲みこんじまった。こうした産業は、すでに人民の血を吸い上げ、骨をぐにゃぐにゃにしてしまった。古い拡張の時代は終ったんだ。資本主義的民主主義の全システムは、腐敗し墜落しきっている。あとに残された道は二つだけだ。一つは――ファシズム。もう一つは――もっと革命的であり永続的な改革だ」
「そしてニグロですな。ニグロを忘れんでください。わたしとわたしの同胞に関するかぎり、南部はいまも、これまでも、ファシストだったんです」
「そうだ」
「ナチスは、ユダヤ人から法的、経済的、文化的生活を奪いました。しかしこの国では、ニグロはいつもこうしたものを奪われてきたのです。かりに金や財産の大規模で劇的な掠奪《りゃくだつ》が、ここでドイツのように起っていないとすれば、それはニグロが最初から蓄財を許されてなかったからです」
「そういう仕組みになってるんだ」とジェイク。
「ユダヤとニグロ」と、コープランド医師は苦々しげに言った――「わがニグロ民族の歴史は、ユダヤ民族の限りなく長い歴史にも匹敵するものです――いや、もっと血なまぐさく、もっと狂暴なものでした。ちょうどある種の鴎《かもめ》のように。一羽をつかまえ、脚に赤い麻ひもを巻きつけてやると、仲間の鳥みんなからつつかれ殺されてしまうという鳥みたいなものです」
コープランド医師は眼鏡をはずし、こわれた蝶番《ちょうつがい》のところへ針金を巻きなおした。そして眼鏡の玉を寝巻で磨《みが》いた。興奮のため手がわなないている。「シンガーさんはユダヤですよ」
「いや、そりゃ思い違いだ」
「いや、わたしには確信があるんです。シンガーって名前からしてそうだ。はじめて会ったときから、わたしには何人種かわかっとった。目の格好から。それに、あの人が自分でもそう言うとられた」
「いや、そんなはずはない」と、ジェイクは言い張った――「見かけからすりゃ、まぎれもないアングロ・サクソン系だ。アイルランドの血のまざったアングロ・サクソンだな」
「しかし――」
「たしかだ。間違いっこない」
「そうですか。言い争いはやめときましょう」とコープランド医師は言った。
外は暗い夜の空気がすっかり冷え、部屋の中にも寒気がしのびこんできていた。すでに夜明けも近かった。夜明けの前の空はつややかな濃紺に染まり、月は銀色から白に変っていた。しんとして何の物音も聞えない。ただ一つ聞えるのは、外の闇《やみ》の中でさえずっている春の鳥の、澄んだ寂しげなさえずりだけだった。かすかな夜風が窓から吹きこんではいたが、部屋の中の空気はすえてむっとした。緊張と疲労の入りまじった気分だった。コープランド医師は、枕から身体《からだ》を起し前かがみになった。目が血走り、両手でしっかりと掛け布団をつかんでいる。寝巻の襟首《えりくび》は、骨ばった肩にすべり落ちている。ジェイクは両足の踵《かかと》を椅子の桟にのせ、大きな手を何か待ち受けている子どものように、膝のあいだで重ねている。目のしたには黒ずんだ隈《くま》がくっきりとでき、髪の毛も乱れている。ふたりはじっと顔を見合せ、待ち受けた。沈黙が長びくにつれ、ふたりのあいだの緊張はいっそうたかまった。
ようやく、コープランド医師は咳《せき》ばらいをして言った――「あんたも、理由もなくここへ来られたわけじゃありますまい。夜通しこうした問題を論じ合ったのも、目的なしだったとは思いたくない。もう何もかも話し合ったが、ただ一つ、いちばん肝心な問題が残っとるようだ――どう抜け出るか、何をすべきかということです」
ふたりはなおも互いに見合い、待ち受けた。いずれの顔にも期待の表情が浮んでいた。コープランド医師は枕をささえに、まっすぐ起き上がっていた。ジェイクは片手で顎《あご》をささえ、前へ身体を乗り出している。沈黙はつづいた。と、やがてためらいがちに、ふたりは同時に話しはじめた。
「失敬。お先にどうぞ」とジェイク。
「いや、そっちからどうぞ。あんたのほうが先だった」
「いやいや、つづけてくれ」
「何をおっしゃる! おつづけください」
ジェイクは、曇った目つきで相手を見つめた。「こういうことなんだ。おれはこんなふうに考えるんだ。ただ一つの解決の道は、大衆が「知る」ことだ。ひとたび真理を知れば、もはや圧迫されることはない。半数の連中が知ってくれれば、戦いは勝ったようなものだ」
「そのとおり、ひとたびこの社会の働きを理解すれば、です。ですが、どうやって彼らに知らせるつもりです?」
「それなんだ。幸運の手紙ってのがあるだろう。ひとりの人間が十人に手紙を出し、その十人がめいめいまた十人に出すってわけだ――わかるかね?」ジェイクはそこで口ごもった――「おれが手紙を書くわけじゃねえが、考え方は同じだ。おれはただ説いてまわるだけだ。もし一つの町で、十人の「知らざる」連中に真理を示してやれれば、善行を施したって気分になれると思うんだ。どうだね?」
コープランド医師は、驚いてジェイクの顔を見つめた。やがて医師は不満そうに鼻を鳴らした。
「そりゃ子どもだましだ。説いてまわるだなんて、そんな。幸運の手紙とはおそれ入りましたな! 知る者と知らざる者ですか!」
ジェイクの唇はふるえ、かっと腹を立てたのか眉《まゆ》を|へ《ヽ》の字に曲げた。「わかったよ! そいじゃ、おまえさんにはどんな考えがあるってんだ?」
「わたしも以前には、この問題についてあんたと似たような気持を持っていたことをまずお話ししときましょう。しかし、そうした態度がどんなに間違っていたかを学びました。半世紀のあいだ、わたしは忍耐こそ賢明だと思ってました」
「おれは忍耐しろなんて言っとらん」
「残酷さに対し、わたしは慎重だった。不正に対し、わたしは抗議をしなかった。仮想上の全体の幸福のため、手もとにあるものを犠牲にした。わたしは拳《こぶし》のかわりに舌を信じました。圧迫に耐えるよろいとして、忍耐と人間の魂に対する信頼を教えました。だがいま、わたしには自分がどんなに間違っていたかがわかるのです。わたしは自分に対しても、また同胞に対しても、裏切り者だった。すべてはたわごとだった。いまこそ行動に、すみやかな行動に移るべきときです。狡猾《こうかつ》には狡猾を、力には力をもって戦うべきときです」
「しかし、どうやって戦うんだね? どうやって?」とジェイクはきいた。
「なあに、出て行ってどんどんやるだけです。群衆を呼び集め、デモをやらせるんです」
「ふん! いまの最後の文句でボロが出ちまうぜ――『デモをやらせる』か。ほんとうにわかってねえ目的に向ってデモをやらしたって、何の役にも立たねえや。それじゃ豚の尻《けつ》っぺたへ物をつめこんでるみたいなもんだ」
「そういう下品な表現は困ります」と、コープランド医師は取りすまして言った。
「何言ってんだい! 困ろうが困るまいが、おれの知ったことじゃねえや」
コープランド医師は片手を上げて制した。「そうむきになるのはやめときましょう。お互いに意見の一致を見るよう努力しましょう」
「けっこう。おれだって、けんかはしたくねえからな」
ふたりは黙りこくった。コープランド医師は、天井の隅から隅へと視線を動かした。何度か唇をしめし、しゃべりだそうとしたが、そのたびに言葉は口の中でなかば出かかるだけで、声にならなかった。ようやく彼は言った――「これはわたしの忠告ですが、自分ひとりで立とうとせんことです」
「しかし――」
「しかしも何もありません。人間にとってもっとも致命的なことは、ひとりで立とうとすることです」と、コープランド医師は教えさとすように言った。
「おまえさんの言おうとしてることはわかるぜ」
コープランド医師は、寝巻の襟を骨ばった肩の上へ引っぱり上げ、しっかりと首のところでかき合せた。「それじゃ、人権のために戦っているわたしたちニグロの戦いを信じていただけるんですな?」
医師の興奮ぶりと、しわがれ声の穏やかな問いに、ジェイクの目にはにわかに涙があふれた。愛情が急に胸いっぱいこみ上げ、彼は思わず布団の上にのった黒い骨ばった手を取り、しっかりと握りしめた。「むろんだとも」
「われわれの極度の貧困も?」
「むろんだ」
「正義の欠如も? 苦い不平等も?」
コープランド医師は咳きこみ、枕の下に置いてある四角い紙に痰《たん》を吐いた。「わたしには計画があります。ごく簡単な、凝縮された計画です。たった一つの目標に焦点を合わせるつもりなのです。今年の八月、わたしはこの郡のニグロを千人以上指揮し、行進させるつもりです。ワシントンへ向けての行進です。全員が打って一丸となって。向うの戸棚の中を見ていただけば、ひとりひとりにくばる予定で今週わたしが書き上げた手紙の山がはいってるはずです」コープランド医師は、狭いベッドの縁をふるえる両手でなで上げ、なでおろした。「先ほどお話ししたことを覚えておいででしょうか? わたしの忠告はただひとつ、自分ひとりで立とうとするな、ということでした」
「わかったよ」とジェイクは言った。
「ともかく、ひとたびはいりこんだなら、それがすべてでなくてはなりません。何ものにも優先して。いま働くことは永遠に働くことです。惜しげなく自分のすべてを与えねばなりません――個人的な報いのあてもなく、休息も休息の望みもなく」
「南部におけるニグロの権利のために」
「南部、それもこの郡のニグロのためです。それも、すべてか無かなのです。イエスかノーかなのです」
コープランド医師は枕に寄りかかった。目だけが生きているように見えた。赤い石炭の火のように燃えていた。熱のため、頬骨《ほおぼね》が無気味な紫色に見える。ジェイクは顔をしかめ、拳の節を、ふるえているやわらかく大きな口に押しつけた。その顔に血の気がさしてきた。外では、すでにしらじらと朝の光がさしていた。天井からぶら下がった電球が、夜明けの薄明かりの中に醜いどぎつさで輝いていた。
ジェイクは立ち上がり、ベッドの足もとにぎごちなく立った。彼はきっぱりと言った――「いや。それは正しい見方とは言えんな。ぜったい正しいとは言えん。まず第一に、おまえさんはとうてい町から出られんだろう。公衆衛生をおびやかすものであるとか何とか、理由をでっち上げて解散させられちまうのが関の山だ。おまえさんは逮捕されて、結局何にもなりゃしないだろう。もしかりに、何かの奇蹟《きせき》でワシントンまで行けたところで、どうにもなるもんじゃねえ。だいたい、おまえさんの考えぜんたいが狂ってるぜ」
コープランド医師の喉《のど》で、痰のごろごろいう音がはっきりと聞えた。その声はきびしかった。
「あんたはすぐ鼻であしらいけなしなさるが、それじゃかわりにどんな考えを持っとられるんです?」
「いや、鼻であしらったわけじゃない。おれはただ、おまえさんの計画が狂ってると言っただけだ。おれは今夜、もっといい考えを持ってやって来た。おれはおまえさんの息子ウィリーを、ほかのふたりといっしょに荷車にのっけ、町じゅう押してまわるつもりだった。まず何が起ったかを三人の口から語らせ、そのあとおれが、どうしてそのようなことになったか説明するつもりだった。つまり、資本主義の論理について一席ぶち、その嘘をあばいてみせるつもりだった。|なぜ《ヽヽ》これら若者たちの脚が切り落されたかを、だれにもわかるよう説明してやり、見た者全員に「知らせ」てやるつもりだった」
「いやはや! 何てことだ!」と、コープランド医師は憤然として言った――「とてもあんたには、良識があるとも思えん。もし笑うとすれば、まさにそれこそ笑ってやらなきゃならん。そんなたわごとをじかに聞いたのは、わたしもこれが生れてはじめてだ」
ふたりは苦い失望と怒りをこめ、互いにじっと見つめ合った。外の通りでは、荷車のガラガラ通って行く音が聞えた。ジェイクは唾《つば》を飲み唇を噛《か》んでから、ようやく言った――「ふん! 狂ってるのはおまえさんだけだ。何もかもさかさまにしてしまったじゃねえか。資本主義下のニグロ問題を解決する唯一の道はな、合衆国全体で千五百万のニグロを、ひとり残らず去勢しちまうことだ」
「そうだったのか、口を開けば正義っていうかげに隠してたのは、そういう考えだったんだな」
「どうしてもそうしろって言ったわけじゃねえ。ただな、おまえさんは木を見てぜんたいの森を見てねえってことを言ったまでよ」ジェイクはゆっくりと、苦痛なほどの念を入れて話した。
「この仕事は、いちばん底からはじめなくてはならん。古い伝統は打砕き、新しい伝統が作られる。世界のため、まったく新しい規範を作り出すのだ。人間をはじめて社会的生物とし、生きんがための不正な行為を強《し》いられずともすむような、整然として統一のとれた社会に住まわせるのだ。そこでの社会的伝統は――」
コープランド医師は、皮肉たっぷりな拍手をした。「なかなか結構ですな。しかし綿布を作る前には、まず綿をつまねばならん。あんたのそのいかれた役立たずの理論ではせいぜい――」
「だまれ! おまえさんや千人ばかしのニグロが、ワシントンなんていう臭い汚水溜《おすいだ》めみたいなところへだらだら出かけてったところで、何になるかってんだ。どんな効果があるってんだ? ほんのひと握りの人間に――黒人やら白人やら、善人やら悪人やら、たかだか数千人の人間に、何ができるってんだ? われわれの社会全体が、悪意に満ちた嘘の上に築かれてるというときにだ」
「何でもです! 何もかも、どんなことでもできますとも!」と、コープランド医師はあえいだ。
「何一つできるもんか!」
「この地上に生きるもっとも卑しく、もっとも邪《よこしま》な人間でも、正義の目から見れば、はるかに価値があるものなのです、あんたのその――」
「うるせえ! たわけたことばかし言いやがって」とジェイクは言った。
「罰《ばち》あたりめ! けがわらしい罰あたりめ!」と、コープランド医師はどなった。
ジェイクは、ベッドの鉄枠《てつわく》をゆすった。額の血管もいまにもはち切れそうにふくれ上がり、怒りに顔をまっ赤《か》にしている。「近視の頑固《がんこ》野郎めが!」
「白い――」とまで言って、コープランド医師の言葉は出なくなってしまった。やっきとなったが、声は出てこない。やっとのことで、喉をしめらせたようなささやき声をしぼり出すことができた――「悪魔め」
明るく黄色い朝が窓辺に来ていた。コープランド医師は、枕に頭を落した。折れたように首をねじ曲げ、口もとからは血泡《ちあわ》を吹き出している。ジェイクははげしくすすり泣きながら、医師をもう一度見やり、大あわてで部屋から飛び出した。
一四
ミックはいまでは、≪奥の部屋≫に閉じこもっていられなくなった。しじゅうだれかのそばにいなくてはならなかった。年じゅう何かしていずにはいられないのだ。自分ひとりでいるときは、数をかぞえたり計算をしたりした。居間の壁紙のばらの花は、ぜんぶかぞえてしまった。家ぜんたいの容積も計算した。裏庭の草の葉の数や、潅木《かんぼく》の葉の数も、一枚一枚かぞえあげた。心を数に向けていないと、おそろしい不安がはいりこんでくるからだ。五月の午後、学校がひけ、うちまで歩いて帰る途中でも、とつぜん、何かをすぐさま考えないではいられなくなる。何かいいこと――とてもいいことを。あわただしいジャズ音楽の一節を考えることもある。でなければ、うちへ帰ったら冷蔵庫にゼリーができているだろう、とか。それとも、石炭小屋のかげでタバコを吸う計画を立てたり。またときには、北国へ行って雪を見るとか、どこか外国を旅行するとか、将来のずっと先のことを考えることもあった。だが、こうした楽しい思いは長つづきしなかった。ゼリーは五分もするとなくなってしまい、タバコもけむりになってしまった。そうなると、あとには何が残るのだろう? 数学は頭の中でからみ合った。雪や外国は、遠い遠い先のことだった。それでは、いったい何があるというのだろう?
あるのはシンガーさんだけだった。ミックはどこへでも、彼のあとをついてまわりたかった。毎朝、仕事に行くためおもての階段をおりて行く彼を見つめ、半区画ほどうしろからついて行ったりした。また午後は午後で、学校が終るとすぐ、彼が働いている店の近くの町角《まちかど》をうろつきまわった。四時になると、シンガーさんはコカ・コーラを飲みに出て来た。ミックは彼が通りを横切り、ドラッグ・ストアにはいって、しばらくしてまた出て来るさまを見守った。仕事場からうちへ帰るところをあとからつけ、ときには、彼が散歩に出るときもついてまわった。いつもずっとうしろのほうからつけていたので、シンガーさんは気づかなかった。
シンガーさんの部屋まで行ってみることもよくあった。まず手と顔を洗い、ドレスの前に少しばかりヴァニラ香料をつけた。あきられては困るので、いまでは週に二回しか訪《たず》ねて行かなかった。ミックがドアをあけてみると、たいてい彼は奇妙なきれいなチェス盤を前にしてすわっていた。そして彼との語らいがはじまった。
「シンガーさん、いままでに、冬になると雪の降るとこに住んだことある?」
彼は椅子を壁にもたせかけ、うなずいた。
「どこか、ここ以外の国にいたことは?――外国に?」
彼はまたうなずき、いつもの銀色の鉛筆で手帳に書きつけた。前にカナダのオンタリオまで旅行したことがあるというのだ――デトロイトから河を越えて。カナダはずいぶんと北にあるので、白い雪が家々の屋根まで吹き寄せられてつもるという。カナダの五つ子というのがいて、セント・ローレンス河のあるところだ。人びとは互いにフランス語で話し合いながら、町の通りを住《ゆ》き来《き》している。そしてずっと北のほうには、深い森があり、エスキモーたちの白い氷の家がある。美しいオーロラの輝く極北の地域。
「シンガーさんがカナダにいたとき、外から降りたての雪を取ってきて、クリームとお砂糖をかけて食べてみた? いつだか、そやって食べるととてもおいしいって書いてあるのを読んだけど」
ミックの言葉がわからなかったため、彼は小首をかしげた。きいたミックのほうでも、にわかに質問がばかばかしく思え、同じ問いをくり返さなかった。ただ彼の顔を見つめ、待つばかりだった。うしろの壁に、彼の頭の大きな黒い影が映っている。扇風機が、よどんだ暑い空気を冷やしている。すべては静まっていた。ふたりとも、これまで一度も話されなかったことを互いに話し合おうとしているようだった。ミックの話さねばならないことは、おそろしくて気がかりだった。だが、彼の答えはきっと真実で、すべてをうまくおさめてくれるだろう。ひょっとするとそれは、話す言葉や書いた言葉では表わせないものかもしれない。ひょっとすると彼は、違った方法でわからせてくれるかもしれない。ミックがシンガーさんにいだいていたのは、そんな気持だった。
「カナダのことをきいてたの――でも、たいしたことじゃないからいいの」
階下の家族の部屋では、いろいろ厄介なことが多かった。エッタの容態がまだひどく悪かったので、一つのベッドに三人おせおせに寝るわけにはゆかなかった。日除《ひよ》けは年じゅうおろされ、暗い部屋には病人くさい臭《にお》いがこもっていた。エッタは職を失ってしまった。つまり、医者への支払いのほかに、週に八ドルずつの減収となったのだ。そのうえ、ある日、台所を歩きまわっていたラルフは、熱い調理用ストーブでやけどをしてしまった。包帯をした手がかゆいらしく、しじゅうだれかが気をつけていないと、手の水ぶくれを破ってしまおうとした。ジョージはお誕生日に、ハンドルのところにベルやバスケットのついた、赤い小さな自転車を買ってもらった。みんなが少しずつ出し合って買ったのだ。ところがエッタが失業すると、支払いができなくなり、月賦の払いが二カ月たまると、店から人が来て自転車を持って行ってしまった。ジョージは、店の人がポーチから自転車を持ち去るのを見ていたが、自分のそばを通ったときうしろのフェンダーに足蹴《あしげ》をくれ、それから石炭小屋へはいって扉をしめてしまった。
明けても暮れても、お金、お金、お金だった。食料品店にも借りがあったし、家具の月賦も最後の支払いがとどこおっていた。そのうえ、すでに家を手放してしまっていたので、そこでもまた借りがあった。六つの下宿部屋はいつでもふさがっていたが、ちゃんと期日に部屋代を払ってくれる下宿人はだれもいなかった。
しばらくのあいだ、パパは毎日職捜しに出かけた。もう大工仕事はできなかった。地上から十フィートも離れると、頭がくらくらしたからだ。いろいろな働き口を当ってみたが、だれひとり彼を雇ってくれようとしない。とうとう彼は一策を案じた。
「万事宣伝だよ、ミック」とパパは言った――「いまのところ、お父さんの時計修理業に必要なのは、まさにこの宣伝だという結論に達したよ。まず自分を売りこまんといかん。世間へ出て、時計修理承り、お安く入念にやりますってことをみんなに知ってもらわんといかん。いいかい、言っておくがね、お父さんはこの商売をいまから建てなおし、一生のあいだ家族のみんなにいい暮しをさせてやるからな。要は宣伝だ」
パパは十何枚かのブリキ板と、赤ペンキを持って帰った。そのつぎの週は大忙しだった。どえらい名案のように思いこんでいたのだ。とっつきの部屋の床の上は、看板でいっぱいだった。四つんばいになり、一字一字を書くのにけんめいだった。手を動かしながらも、口笛を吹き頭を振りつづけた。こんなに陽気でうれしそうなのは、ここ何カ月も絶えてなかったことだ。ときおりいい背広に着がえては、気持を落着かせるため、町角までビールを飲みに出て行ったりもした。看板には、はじめのうち彼はこう書いた――
[#ここから1字下げ]
ウィルバー・ケリー
時計修理
技術入念・奉仕価格
[#ここで字下げ終わり]
「ミック、こいつがパッと目に飛びこんでくるようにしたいんだよ。どこで見てもよく目につくようにね」
ミックはパパの手助けをして、五セント玉を三枚もらった。看板も最初のうちはよかった。ところが、あまり手を加えすぎたため、すっかり台なしになってしまった。パパはあとからあとから、いろんなものを書き加えたがった――四|隅《すみ》にも、上にも、下にも。書き上がるころには、「大勉強」とか、「即刻おいであれ」とか、「どんな時計でも動かしてみせます」など、看板はもう一面の文字だった。
「パパみたいそんなにいっぱい書いたら、だれも読んでくれないわ」とミックは言った。
パパはまた何枚かブリキ板を持ち帰り、デザインはミックにまかせた。うんと大きな活字体の文字を使い、時計の絵を描いて、ごくあっさりした看板にした。まもなく、でき上がった看板が山のように積まれた。パパの知人が自動車で郊外までつれて行ってくれ、立木や垣《かき》の杭《くい》などに看板を打ちつけた。通りの両端にも、ケリー家を黒い手が指している看板を立てた。玄関のドアの上にも、一枚|貼《は》りつけた。
すっかり宣伝を終えた翌日、パパは洗いたてのワイシャツにネクタイをつけ、とっつきの部屋にすわっていた。だが、何も起らなかった。あまった仕事を半額でまわしてくれる宝石商が、置時計を二つよこしただけだった。それっきりだった。パパはすっかりしょげてしまった。もうほかの仕事を捜しに出て行きはしなかったが、一分として家の中でじっとしていられなかった。あちこちのドアをはずして蝶番《ちょうつがい》に油をさした――必要があろうとなかろうと。ポーシャに手を貸してマーガリンをまぜたり、二階の床磨《ゆかみが》きをしたりもした。冷蔵庫からの水が、台所の窓からうまく流れ出るような工夫をしたりもした。ラルフのために、きれいなアルファベット入り積木を作ったり、小さな針の糸通しを考案したりもした。そしてごくわずかな修理時計に、それこそ精根を打ちこんだ。
ミックは、依然シンガーさんのあとをつけまわした。しかし、ほんとうはそうしたくなかったのだ。相手に気づかれずあとをつけまわすことには、何か罪悪感のようなものがともなったからだ。二、三日は学校をさぼり、仕事に行くシンガーさんのあとをつけて行き、一日じゅう彼の店の近くの町角をうろついていたこともある。彼がブラノンさんの食堂で夕食を食べるときには、彼女も店へはいって行き、五セントでピーナツの袋を買ったりした。そして夜になると、暗い通りを長いあいだ散歩する彼のあとをついて歩いた。彼とは反対側の通りを、通り一つほど遅れてついて行くのだ。彼が立ちどまると、こちらも立ちどまる――彼は速く歩くと、遅れまいとして駆けだした。彼の姿が見えていて、彼のそばにいられれば、それでもう十分しあわせだった。だがときにはあの奇妙な気持がこみ上げてきて、何か悪いことをしているような気分になった。そこで、家ではできるだけ忙しくしているように努めた。
ふたりともしじゅう何かしていなければいられないという点では、ミックもパパも似ていた。ミックは家の中や、近所で起ることはぜんぶ心得ていた。スペアリブズの姉さんは、映画ラッキー賞の夕べで、五十ドルを当ててきた。ベイビー・ウィルソンはもう頭の包帯がとれていたが、髪の毛を男の子のようにみじかく刈っていた。今年の夜会では踊れなかったので、母親が見せにだけつれて行くと、ベイビーはダンスの途中で泣き叫びあばれまわった。みんなでベイビーをオペラ劇場からむりやり引きずり出さねばならなかった。そして通りへ出ると、ウィルソン夫人はお行儀よくさせるため、ベイビーを叩《たた》かねばならなかった。そして母娘《おやこ》がいっしょになって泣いた。ジョージはベイビーをきらっていた。ベイビーが家のそばを通ると、彼はいつも鼻をつまみ、耳をふさいだ。ピート・ウェルズは家出をし、三週間も戻らなかった。だがやがて、おなかをすかし、はだしで帰ってきた。はるばるニューオーリンズまで行って来たと、大いばりでふれてまわった。
エッタのおかげで、ミックはまだ居間で寝ていた。丈《たけ》のみじかいソファのおかげで身体がひどくこわばってしまい、足りない睡眠の補いを学校の自習室で取らねばならなかった。一晩おきにビルがかわってくれたので、ミックは弟のジョージといっしょに寝た。やがてそのうち、運のいい事態が持ち上がった。二階の一室を借りていた男が引っ越したのだ。一週間がたっても、新聞広告に応じてくる下宿人がだれも現われないので、ママはビルに、空《あ》いた部屋に移ってもいいと言った。ビルは家族から離れ、自分でひとり占めにできる部屋をもらえたので大喜びだった。ミックはジョージとビルのあとに移った。ジョージはとても静かな寝息を立て、小さな暖かい小猫のように眠った。
ミックはふたたび、夜の時間を知るようになった。だが、去年の夏、ただひとりで暗闇の中を歩きまわり、音楽に耳を傾けさまざまな計画を立てたときとは違っていた。いまでは夜を違ったふうに知っていた。ベッドの中で、彼女は寝つかれず目をあけていた。奇妙なおそろしさが彼女を襲ってきた。まるで天井が、ゆっくり上からおおいかぶさってくるように思えた。もし家がバラバラにくずれたらどうだろう? いつだったかパパが、この家はもう取りこわさなければならないと言っていた。夜みんなが寝ているうちに、壁がひび割れ、家ぜんたいがくずれ落ちるということなのだろうか? しっくいやら、こわれたガラスやら、つぶれた家具の下敷きになってしまうということなのだろうか? 身動きも、呼吸もできないようになって? 寝つけずに目をさましていると、身体じゅうの筋肉がこわばった。夜の闇の中で何かがきしる。だれかが歩いている足音だろうか?――彼女以外に起きているだれかだろうか?――シンガーさんだろうか?
ハリーのことはぜんぜん考えなかった。彼のことは忘れようと決心し、決心どおりに忘れてしまったのだ。彼からは、バーミンガムの町で自動車修理工の働き口を見つけた、という便《たよ》りがあった。ミックはふたりの話し合いどおり、「O・K」とはがきに書いて返事をした。彼は毎週三ドルずつ、母親に仕送りをしてきた。ふたりで森へ行ったときから、ずいぶん長い時がたったような気がした。
日中、彼女は≪外の部屋≫で忙しくしていた。だが夜になり、暗闇の中でひとりきりになると、いろんな計算をしてみるだけではもの足りなかった。だれか相手がほしかった。彼女は弟のジョージを起こしておこうとした。「暗いとこで起きてて、お話しするのって楽しいわよ。しばらくおしゃべりしましょうよ」
ジョージは眠そうな返事をした。
「窓の外のお星さまをごらん。あのちっちゃなお星さまの一つ一つが、地球くらいの大きさの遊星だなんて、ちょっと思えないわね」
「どうしてそんなことわかるの?」
「わかるからわかるの。測る方法があるのよ。それが科学ってもの」
「そんなこと信じられないや」
ミックはジョージをかっかとさせ、目をさまさしておくよう、うまく議論に持ちこもうとした。だが彼はミックに話させるばかりで、いっこう乗ってこない。しばらくすると彼は言った――
「ごらんよ、ミック! あの木の枝が見えるかい? 鉄砲を持って伏せてる清教徒のピルグリム・ファーザーみたいだろ?」
「ほんと。まるでそうだわね。それから、あっちのたんすの上を見てごらん。あの瓶《びん》、帽子をかぶったピエロみたいじゃない?」
「ううん、ぼくにはぜんぜんそんなふうに見えないよ」
ミックは、床の上に置いたコップから水を飲んだ。「お姉さんとゲームをしようよ――名前あてごっこ。ぼくが鬼になってもいいわよ。どっちでも好きなほう選んでいいわ。ぼくがきめて」
ジョージは小さな拳《こぶし》を顔に当てがい、すうすう穏やかな息づかいをしている。眠りかけていたのだ。
「ジョージ、待って! これ、おもしろいのよ。わたしはね、Mではじまるだれかなの、さあ、わたしがだれか当ててください」
ジョージは溜息《ためいき》をつき、その声は疲れきっていた。「ハーポ・マルクス〔喜劇俳優〕かい?」
「違った。わたしは映画に出たことありません」
「わかんないや」
「知ってるはずよ。わたしの名前はMではじまり、イタリアに住んでいます。これはわかるはずよ」
ジョージは自分の側へ寝返りを打ち、身体を丸くした。彼は答えなかった。
「わたしの名前はMではじまりますが、ときにはDではじまる名前で呼ばれることもあります。イタリアって言えばわかるはずよ」
部屋は暗くひっそりとして、ジョージはもう寝入っていた。ミックは彼をつねり、耳をひねったりした。彼はうなったが、目はさまさなかった。ミックは弟に寄りそい、その熱い小さな裸の肩に頭を押しつけた。寝つけぬミックが小数の計算をしているあいだも、ジョージはぐっすり眠りつづけることだろう。
シンガーさんは、二階の部屋で目をさましているのだろうか。天井がギシギシいうのは、シンガーさんが静かに部屋の中を行ったり来たりしているからだろうか? 冷たいオレンジ・スカッシュを飲み、テーブルの上にひろげたチェスの駒《こま》を研究しているのだろうか? シンガーさんも、こんなおそろしさを味わったことがあるのだろうか? いや。あの人は何一つ悪いことをしたことがない。何も悪いことをしていないから、心は夜も平和なのだ。だがそれなのに、あの人は理解してくれている。
もしこのことをシンガーさんに打明けてしまえば、どんなにか気も楽になるだろうに。ミックは、どうやって話しはじめたものかと思案した。シンガーさん、あたしの知ってる女の子でね、あたしと同じくらいの年ごろの子がいるの……シンガーさん、こんなことわかってもらえるかどうかわからないけど……シンガーさん、ねえシンガーさん。ミックは何度も彼の名をくり返した。家族のだれよりも、ジョージやパパよりも、ミックは彼を愛していた。それは違った愛情だった。それは彼女が、これまでの人生では感じたことのないようなものだった。
朝になると、ミックはジョージといっしょに服を着て、いろいろ話をした。ときには、ジョージの身近に寄りそっていてやりたい気持を強く覚えた。彼はとても背が伸び、青白くやせていた。赤みがかったやわらかな髪の毛は、小さな耳の上にもしゃもしゃおおいかぶさっている。鋭い目をいつも細めているので、こわばったような顔つきになっている。そろそろ永久歯が生《は》えてきていたが、乳歯と同じように青白く、歯と歯の隙間《すきま》があいていた。新しく生えかけてきた痛む歯を年じゅう舌先で触れているので、顎《あご》はたいていひん曲っていた。
「ねえ、ジョージ。姉さんのこと愛してる?」とミックはきいた。
「うん。愛してるともさ」
夏休みにはいる前の最後の週の、暑いよく晴れた朝だった。ジョージはすっかり着がえを終え、床に寝そべって算数の宿題をしていた。小さなきたない指で鉛筆を固く握りしめ、芯《しん》を折ってばかりいた。宿題を終えたジョージの両肩をつかみ、ミックはじっと顔をのぞきこんだ。「うんとよ。うんとたくさん愛してくれてるの?」
「離しとくれったら。愛してるにきまってるじゃないのさ。ぼくの姉さんだろ?」
「そりゃわかってるわ。だけど、もしあたしが姉さんでなかったとしたら。それでも愛してくれる?」
ジョージはたじたじとなった。彼はワイシャツがなくなってしまい、頭からかぶるきたないセーターを着ていた。手首は細く、青い血管が浮き出ている。すっかり伸びたセーターの手首がだらりと垂《た》れているため、手がとても小さく見えた。
「姉さんでなきゃ、知り合ってないかもしれないもん。知らなきゃ愛せないよ」
「だけど、もし姉さんのことを知ってて、あたしが姉さんじゃなかったら、よ」
「でもさ、姉さんのこと知ってるって、どうしてわかる? 証明できないだろ」
「いいから、知ってることにしておくのよ」
「そしたら、たぶん好きになると思うけど。でもやっぱし、証明はできないだろ――」
「証明、証明って! その言葉が頭にこびりついてんのね。証明だの、いんちきだの。何でもかんでも、いんちきか、でなきゃ証明しなきゃなんないかのどっちかなんだから。やりきれないったらありゃしない。おまえなんかきらいよ、ジョージ」
「いいよ、いいよ。こっちだって姉さんのこと好かないから」
ジョージは何を捜しているのか、ベッドの下へもぐりこんだ。
「何を捜そうっての? 姉さんの物にさわらないでよ。姉さんの秘密の箱をいじってるとこ見つけたら、おまえの頭を壁にぶつけて叩き割っちまうから。ほんとよ。おまえの脳味噌《のうみそ》をふんづけちまうから」
ジョージはベッドの下から、綴《つづ》り字《じ》の教科書を持って出て来た。彼はきたない小さな手を、おはじき玉を隠してあるマットレスの穴につっこんだ。何を言ってもこたえるような子ではない。彼は長い時間をかけ、ようやく持って行く茶色のおはじき玉を三つ選び出した。「ちぇっ、言いたいこと言ってらあ」と彼はやりかえした。ジョージはまだ小さすぎ、とても手に負えなかった。こんな子を愛したところで仕方がない。世の中のことは、彼女以上に何も知らないのだから。
学校は夏休みにはいり、ミックはどの学科にも合格していた――Aプラスをもらったものもあれば、合格点ぎりぎりのものもあった。毎日は長く、暑かった。やっとまた、彼女は熱心に音楽に打ちこめるようになった。ヴァイオリンとピアノのための小品を書きはじめた。歌曲も書いた。いつでも心には音楽があった。彼女はシンガーさんのラジオを聞き、聞いたばかりの番組のことを考えながら、家の中を歩きまわったりした。
「ミックはどうしたんやろ」とポーシャが言った――「舌をどうしちもうただか。歩きまわるばかしで、ひとことも言わん。前みたいに、食いしんぼでもなくなっちもうたし。ここんとこ、いっぱしのレディーになってきたようだわ」
あたかも何かを待ち受けているようなようすだった――だが、何を待ち受けているのか、ミックにもわからなかった。白熱化した太陽はギラギラ町の通りに照りつけた。昼のあいだ、ミックは一生けんめい音楽に打ちこむか、それとも小さな子どもたちと遊ぶかだった。そして心待ちにした。ときには恐怖感にとらわれ、すばやくあたりを見まわすこともあった。やがて六月の末になって、思いがけぬ重大な出来事が起り、すべてが変ってしまった。
その晩、みんなはポーチに出ていた。やわらかな夕闇《ゆうやみ》があたりににじんでいた。夕食の支度《したく》もほとんどでき、キャベツの匂いがあいた玄関口から漂っていた。まだ勤めから戻らないヘイゼルと、病気で寝たきりのエッタのほかは、全員が集まっていた。パパは椅子に寄りかかり、靴をぬいだ足を手すりにのせている。ビルは階段のところに子どもたちといた。ママは新聞で扇子のようにあおぎながら、ぶらんこ椅子にすわっている。通りの向うでは、この近所へ来たばかりの少女が、片足だけローラースケートをつっかけ、歩道を行ったり来たりしている。この一角の明りはようやくつきはじめたところで、どこか遠くで男の声がだれかを叫んでいた。
そこへヘイゼルが帰って来た。ハイヒールでコツコツ階段をのぼって来ると、ぐったりしたように手すりにもたれかかった。編んだ髪のうしろにやった肉づきのいいやわらかな手が、薄闇の中にとても白く見えた。「エッタがお勤めに出られるといいんだけど。きょういい働き口のことを聞いたのよ」と彼女は言った。
「どんな働き口かね? わしにできるようなことかね、それとも女の子だけかい?」とパパがきいた。
「女の子だけよ。ウールワースのお店で、女店員がひとり、来週結婚するんだって」
「十セント・ストアのね――」とミック。
「あんた、やってみる?」
意外な問いにミックはびっくりした。ミックはその前日、ウールワースで買ったキャンデー袋のことを考えていたのだ。身体じゅうがこわばり、かっかとした。額から前髪をかき上げ、またたきはじめた星を数えた。
パパはタバコを歩道に投げ捨てた。「いや、まだあの年ごろでミックにあまり重い責任を負わせたくない。じゅうぶん成長させてやらなきゃいかん。ともかくおとなになることが先決問題だ」
「あたしも賛成」とヘイゼル――「ミックが常勤で働くのは、まちがいだと思うわ。いけないことだと思うの」
ビルはラルフを膝《ひざ》からおろし、階段のところで足をこすり合せた。「せめて十六歳くらいにならなきゃ、働くのはまちがってるよ。ミックもあと二年は勉強して、実業学校を卒業しなきゃ――もしぼくらでなんとかできればさ」
「そう、たとえこの家をあきらめて、工場町へ引っ越すことになってもね。あたしももうしばらく、ミックをうちにおいといてやりたいわ」とママが言った。
みんなで自分を追いつめ、むりやり働きに出すのではないかと、ミックはしばらくのあいだおびえていた。もしそんなことになれば、家出をすると言っていただろう。しかし、みんなの態度に彼女は胸を打たれた。胸がどきどきしてきた。みんなが自分のことを話しているのだ――それも思いやりたっぷりに。はじめのうちおびえていたのが恥ずかしかった。にわかに家族のみんながいとおしくなり、喉《のど》のあたりがつまってくるのを覚えた。
「それで、どれくらいのお給料になるの?」とミックはきいた。
「十ドルよ」
「週に十ドル?」
「そうよ。月に十ドルだと思ったの?」とヘイゼル。
「ポーシャはそれくらいしかもらってないもの」
「だって。ポーシャは黒人だもの――」とヘイゼルは言った。
ミックは拳《こぶし》を固め、頭のてっぺんをこすった。「ずいぶんなお金ね。たいへんなもんだわ」
「ばかにできない大金だよ。ぼくだって、それだけしかもらってないんだから」とビルは言った。
ミックの舌はかわいた。なんとかしゃべれるだけの唾を集めようと、口の中をなめまわした。
「週に十ドルだと、鶏《とり》の空揚《からあ》げが十五も買えるわ。靴なら五足、服なら五着。ラジオだって月賦で買えるし」ピアノのことも考えたが、それは口には出さなかった。
「そうすりゃ、ここんとこをなんとか乗りきれるけどねえ」とママは言った。「だけど、ミックはやっぱりもう少しうちにおいといてやりたいし。ともかく、エッタが――」
「ちょっと待って!」ミックは、捨鉢《すてばち》な気持にかっかとなっていた。「あたし、その仕事をやってみたい。きっとやっていけるわ。きっと大丈夫」
「ミックがえらそうなこと言うぜ」とビル。
パパはマッチ棒で歯をほじり、手すりから足をおろした。「まあまあ、何もそういそいできめることはない。ミックもゆっくり考えてみたらいい。ミックに働いてもらわんとも、なんとかやってゆけるしな。おれも、時計修理の仕事を六割がたふやそうと思ってるんだ――」
「そうそう、毎年クリスマスにはボーナスも出るんだって」とヘイゼルが言った。
ミックは顔をしかめた。「でもあたし、クリスマスまで働く気はないのよ。学校へ行ってるもの。夏休みのあいだだけ働いて、あとはまた学校へ戻りたいの」
「もちろんよ」と、ヘイゼルはすぐさま言った。
「ともかく、あしたお姉さんといっしょに行って、できたらその仕事をもらってくるわ」
一家から、大きな心配と息苦しさが消え去ったようだった。暗闇の中で、みんなは笑ったり話したりをはじめた。パパはマッチ棒とハンカチで、ジョージのために手品をして見せ、それから彼に五十セントを与えて、夕食後に飲むコカ・コーラを買いに、角の店までやらせた。キャベツの匂いはますます強く廊下に漂い、ポークチョップが揚げられていた。ポーシャが声をかけてきた。下宿人たちは、もう食卓について待っていた。ミックは食堂で夕食を食べた。彼女の皿にのったキャベツの葉は、黄色くてべとべとしており、とても食べられなかった。パンを取ろうと手を伸ばした拍子に、水差しにはいった冷し紅茶をひっくりかえしてしまった。
夕食後、ミックはただひとり玄関先のポーチに出て、シンガーさんの帰りを待った。何としても彼に会いたかった。一時間前の興奮はすでにおさまっていたが、胃のあたりがむかついていた。十セント・ストアで働くことになったというのに、どうしても働く気がしないのだ。わなにでもかかったような気持だった。それに、夏休みのあいだだけというわけにはゆかず――ずっと末長く、先の先まで縛られることになるだろう。いったんそれだけの金に馴《な》れてしまえば、もうそれなしではやってゆけないだろう。物事というのはそうしたものだ。ミックは暗闇の中に立ち、しっかりと手すりにつかまっていた。長い時間がたったが、シンガーさんはまだ帰って来ない。十一時になると、そのあたりにいないかと思い、外まで捜しに行ってみた。だが、暗闇がにわかにおそろしくなり、家まで駆けて帰って来てしまった。
翌朝、ミックは風呂にはいり、念入りに身支度《みじたく》をした。ヘイゼルとエッタが服を貸してくれ、見映《みば》えがするよう飾りたててくれた。彼女はヘイゼルの緑色の絹服に緑色の帽子をかぶり、絹靴下にパンプスをはいた。姉たちは頬紅《ほおべに》や口紅で顔を作ってくれ、眉《まゆ》のむだ毛を引抜いた。すっかり支度がすむと、ミックは少なくとも十六歳には見えた。
もういまさら、前言はひるがえせなかった。すっかり一人前の人間として、自分の食べ料は稼がねばならないのだ。だが、いまからでもパパのところへ行き、自分の気持を打明ければ、もう一年お待ちと言ってくれるだろう。それに、ヘイゼルやエッタやビルやママはいまでも、行かなくてもいいよと言ってくれるだろう。しかし、それはできないことだった。そんなことをして面目をつぶしたくはなかった。彼女はシンガーさんに会いに行った。言葉が一度にどっとあふれ出た――
「あのね――あたし、この仕事がもらえると思うんだけど。シンガーさん、どう思う? いい考えかしら? いま学校をやめて働きだしてもいいかしら? いいことだと思う?」
はじめのうち、彼には何の話かわからなかった。灰色の目をなかば閉じ、両手をポケットの奥深くへつっこんだまま立っていた。また以前のように、これまで話したことのないことを互いに話し合おうと、待機しているような気がしてきた。いま彼女の言いたいことは多くなかった。しかし、彼の返事はきっと正しいにちがいない――もし彼が、よさそうな仕事だねと言ってくれれば、ミックの気持は軽くなるはずだった。彼女はもう一度ゆっくりと言葉をくり返し、返事を待った。
「ねえ、いいかしら?」
シンガーさんは考えこんでいた。やがて、彼はいいというようにうなずいた。
ミックは女店員の職にありついた。支配人はミックとヘイゼルを奥の小さな事務室へつれて行き、話をした。話がすんだあと、ミックは支配人がどんな顔の人だったか、どんな話をされたかも思い出せなかった。とにかく彼女は雇われた。店からの帰り道、彼女はチョコレートを十セント分と、ジョージのために小さな手工用粘土を買った。六月五日から働きはじめることになった。シンガーさんの宝石店の飾り窓のところに、彼女は長いあいだ立ちつくした。それから町角をいつまでもうろついた。
一五
シンガーがまたアントナープロスを訪《たず》ねる時がきた。長い旅だった。距離はせいぜい二百マイルたらずだったが、汽車が遠まわりをしてあちこちへ寄り、夜はいくつかの駅で長い時間停車したからだ。午後に町を出ると、一晩じゅう夜行に揺られ、その翌朝早くつくはずだった。いつものように、彼は早くから準備にかかった。今度の訪問では、まる一週間を友人とすごすつもりだった。服はクリーニングに、帽子も型取りに出し、鞄《かばん》も準備ができていた。手で持って行くみやげ物は、色つきの薄紙に包んであり、そのうえさらに、セロファンで包んだ豪華なくだもの籠《かご》や、とりたての苺《いちご》の箱も用意してあった。出発の日の朝、シンガーは部屋をきれいに掃除した。冷蔵庫の中に、食べ残しの鵞鳥《がちょう》の肝臓《レバー》が少しあったので、近所の猫にやるため露地へ持って行ってやった。部屋のドアには、仕事で数日留守にしますという、前のときと同じ書き置きを鋲《びょう》でとめた。こうした準備のあいだ、彼は頬骨《ほおぼね》のところを赤く染めてゆっくり動きまわった。真剣な顔つきだった。
いよいよ出発の時が近づいた。スーツケースやみやげ物をいっぱいかかえた彼はプラットホームに立ち、汽車がはいって来るのを見守っていた。普通客車に座席を見つけた彼は、荷物を頭の上の網棚《あみだな》にのせた。列車内は、おおむね子どもづれの母親で込み合っていた。緑色のビロード張りの座席は、埃《ほこり》っぽい臭《にお》いがした。窓ガラスもよごれ、先ほどまで乗っていたらしい新婚夫婦に投げられた米が床に散らばっていた。シンガーは相客に愛想よくにっこりとし、座席にもたれかかった。そして目を閉じた。睫毛《まつげ》が頬の窪《くぼ》みの上に、黒い弧を描いた。ポケットに入れている右手が神経質に動いた。
しばらくのあいだ、彼の思いはいまあとにしてきた町にさまよっていた。ミックやコープランド医師、ジェイク・ブラウントやビフ・ブラノンの顔が暗闇から浮び上がって迫り、息がつまりそうだった。彼は、ブラウントとニグロ医師のあいだの争いを思い出した。いったいどういう争いだったのか、彼の胸の中はひどく混乱していた――ともかくあのふたりはめいめい何度か、いない相手のことを攻撃していた。彼はどちらにも賛成をしてやったが、ふたりが何を認めてもらおうとしていたのか、彼にはわからなかった。そしてミック――あの子はせっぱつまった表情で、何やらさかんにしゃべっていたが、彼にはまるで理解できなかった。そして、ニューヨーク・カフェのビフ・ブラノン。黒ずんだ鉄のような顎《あご》と、油断ない目をしたブラノン。さらには、通りであとからついて来て、わけのわからぬ理由で彼を呼びとめる見知らぬ人たち。両手を顔の前まで振上げ、これまで想像したこともないような形の言葉を舌先でぺちゃくちゃしゃべりつづける、リネン製品を売る店のトルコ人。工場の職工長と、黒人の老婆。本通りの実業家。兵隊たちにつきまとい、河ぞいの淫売宿《いんばいやど》へ案内する小僧。シンガーは窮屈そうに肩を動かした。列車は軽快なリズムで揺れている。彼は首を肩にのせ、しばらくのあいだ居眠りをした。
ふたたび目をあけたときには、町はもうはるか後方になっていた。町のことはすでに忘れてしまっていた。きたない車窓の外には、まばゆい真夏の田園がひろがっていた。太陽は強いブロンズ色の光を、新緑の綿畑に斜めから投げかけている。何エーカーものタバコ畑がつづき、何か無気味なジャングルの雑草のように、タバコの葉が緑も濃く密生している。小さな木の枝もたわわに、豊かな実をつけた桃の果樹園。何マイルもつづく牧草地があるかと思えば、よりたくましい雑草のはびこるにまかせた、何十マイルにも及ぶ荒れ野もあった。列車は濃緑の松林を抜けていた。地面はつややかな褐色《かっしょく》の松葉におおわれ、松の梢《こずえ》は空高くすっくと伸び上がっている。さらに町からはるか南へ遠ざかったあたりでは、糸杉の沼地がつづき、節くれだった根が、塩気をふくんだ沼の水の中へ身をくねらせるようにはいりこみ、枝々からほつれたような灰色の苔《こけ》が垂れさがり、熱帯地方の水草が、湿っぽく暗い中に花をひらいていた。やがて列車は、ふたたび太陽と藍色《あいいろ》に開けた空の下へ出た。
シンガーは顔をすっかり窓のほうへ向け、まじめくさったおずおずとした態度ですわっていた。広漠《こうばく》たる空間と、ぎらつく強烈な色彩に目もくらむばかりだった。この万華鏡《まんげきょう》のように移り変る風景、この豊かな繁茂と色彩は、なぜか彼の友人と結びついているような気がした。彼の思いはアントナープロスとともにあった。再会の喜びで、彼は息もできなかった。鼻もつまり、軽くあけた口で小さく気ぜわしく息をした。
アントナープロスはおれに会えて大喜びだろう。くだものやみやげ物も喜んでくれるだろう。もう病室から出られて、映画を見に行ったり、そのあと最初の訪問のとき夕食を食べたホテルへも行けるだろう。シンガーはアントナープロスに宛《あ》てたたくさんの手紙を書いたが、どれも投函《とうかん》しなかった。彼はもっぱら友人への思いに身をまかせた。
この前の面会からの半年間は、長くもみじかくも感じられなかった。目ざめているあいだじゅう、意識のかげにはあの友人の姿があった。アントナープロスとのこの意識下の霊的交渉は、ふたりの肉体が一つであるかのように成長し変化した。彼はアントナープロスのことを、ときには畏敬《いけい》と自分に対する卑下の気持を持ち、またときには誇りを持って考えたが、常に変らぬものは批判にじゃまされず、意志からも解放された愛情だった。夜、夢を見るたび、堂々として、賢明で、そしてやさしい友人の顔がきまって目の前に現われた。そして目ざめているときの思いでは、ふたりは永遠に結ばれていた。
夏の夕暮れがゆっくりとやってきた。太陽は遠くのふぞろいな森の緑のかげに沈み、空は色あせてきた。ものうい柔らかなたそがれが訪れた。白い満月がかかり、地平の上には紫色の雲が低くたなびいている。大地も、森も、ペンキを塗ってない農家も、ゆっくりと暮れてゆく。間をおき、穏やかな夏の稲妻が夕空にふるえた。シンガーはこうした光景をじっと見つめていたが、やがて日はとっぷりと暮れ、彼自身の顔が車窓に映りはじめた。
子どもたちが、紙コップに入れた水をポタポタこぼしながら、よろめく足どりで通路を行ったり来たりしている。シンガーの前にすわった作業服の老人は、ときおりコカ・コーラの瓶《びん》からウイスキーを飲んだ。一口飲んでは、丸めた紙で瓶の口に念入りに栓《せん》をした。右側にすわった少女は、べたべたの赤い飴《あめ》ん棒《ぼう》で髪の毛をとかしている。弁当箱があけられ、食堂車からは夕食の盆が運ばれて来た。しかし、シンガーは食べなかった。彼は椅子に寄りかかり、まわりの出来事をぼんやりと眺めていた。ようやく車内は静かになった。子どもたちは広いビロードの座席に横になって眠り、おとなたちは枕を支《ささ》えに身体を折り曲げ、できるだけ楽にして休んだ。
シンガーは眠らなかった。彼は窓ガラスに顔を押しつけ、目をこらして夜の闇の中を見つめた。ビロードのように濃い闇だった。ときたま月の光がちょっともれたり、沿道の家の窓からカンテラの灯がちらと光ったりした。月の位置から、列車が南に向っていたコースを変え、東に向いはじめたのがわかった。つのる期待感に、鼻はすっかりつまって息もできなくなり、頬もまっ赤《か》になっていた。彼は長い夜旅のあいだじゅう、すすけた冷たい窓ガラスに顔を押しつけてすわっていた。
列車は一時間以上遅れ、目的地に着いたときは、さわやかな明るい夏の朝がすでに明けかかっていた。シンガーは前もって予約してあった上等なホテルへ、すぐさま向った。彼は手荷物をあけ、アントナープロスに持って行く贈物をベッドの上に並べた。ボーイの持って来たメニューから、彼は焼いた小魚に、とうもろこし粥《がゆ》、そしてフレンチ・トーストと熱いコーヒーの豪華な朝食を選んだ。朝食後、彼は下着姿になって、扇風機の前で休んだ。昼になると服を着はじめた。風呂にはいってひげを剃《そ》り、新しい下着といちばん上等な麻服を出した。病院の面会時間は三時だった。七月十八日で火曜日だった。
精神病院につくと、彼はまず、この前アントナープロスの入れられていた病室を捜した。だが、病室の戸口で、早くも友人のいないのがわかった。そこで彼は廊下を抜け、この前つれて行かれた事務室へ行ってみた。ききたいことは、いつも持ち歩いているカードにすでに書いてあった。デスクのうしろにすわっているのは、前にいた男とは違っていた。少年のような若者で、まだあどけなさの残った顔をし、髪の毛をぼさぼさに伸ばしていた。シンガーはカードを手渡し、包みを両手にいっぱいかかえ、体重を踵《かかと》にかけながら、じっと立っていた。
若者は首を振った。彼はデスクにかがむと、便箋《びんせん》に走り書きをした。シンガーは書かれた文字を読んだ。彼の頬からは、たちまち血の気が引いた。彼はうなだれ、横目で長いあいだ書かれたものを見つめていた。アントナープロスの死んだことが書かれていたのだ。
ホテルへの帰り道、彼は持って来たくだものをつぶさぬよう気をつけた。包みを自室へ持って上がったあと、ロビーへおりて行った。棕櫚《しゅろ》の鉢植《はちう》えのかげに、一台のパチンコ台があった。五セント玉を一枚入れてレバーを引っぱろうとすると、機械は動かなかった。彼はこのことで大さわぎをした。係員につめ寄り、形相すさまじく事のいきさつを実演してみせた。顔は死人のように青ざめ、すっかり取乱してしまったため、鼻筋を伝って涙がこぼれ落ちた。両手をふりまわし、細長い格好のいい靴でビロードの絨毯《じゅうたん》を踏みつけさえした。金を返してもらっても満足せず、すぐさま宿を出ると言い張った。鞄《かばん》をつめにかかったが、鞄の口を閉じるのに一汗かかねばならなかった。なぜなら、持って来た物のほかに、タオルを三枚、石鹸《せっけん》を二個、ペンとインク壷《つぼ》、トイレットペーパーを一巻き、それに聖書まで持ち去ったからだ。彼は宿の払いをすませ、停車場まで歩いて行って、手荷物を一時預りにした。列車は夜の九時まで出ないので、まるまる午後の時間があいていた。
彼の住んでいる町よりは小さな町だった。商店街は十字に交差している。商店はいずれも田舎《いなか》じみた感じで、飾り窓の半分には馬具や飼葉袋が並べられていた。シンガーはものうげに歩道を歩いて行った。喉《のど》が腫《は》れ上がった感じで、唾《つば》を飲みこもうとしたが飲みこめなかった。このしめつけられるような気分をまぎらわすため、彼はドラッグ・ストアに立ち寄り、飲物を買った。床屋で時間をつぶしたり、十セント・ストアでつまらぬ物をいくつか買ったりした。だれの顔もまともに見ず、病気の獣のように首を一方にぐったりと垂らしていた。
午後もほとんど終りかけたとき、奇妙な出来事が起った。シンガーは歩道の縁石《ふちいし》ぞいに、ふらつく足どりでゆっくりと歩いていた。曇り空で、空気は湿っぽかった。彼はうなだれたままだったが、玉突き場の前を通りすぎたとき、横目でちらと見たものが気になった。玉突き場を通りすぎてしまってから、道のまん中で足をとめた。ものうげに引き返した彼は、玉突き場のあいた入口の前に立った。中には三人の唖《おし》がおり、手を使ってさかんに話し合っていた。三人とも上着をぬいでいる。山高帽をかぶり、はでなネクタイをしている。三人とも、左手にビールのコップを持っている。三人のあいだには、何か兄弟のように似たものがあった。
シンガーは中へはいって行った。一瞬、彼はポケットから手を出すのに手間取ったが、やがてぎごちなく、挨拶の言葉を形作った。たちまち肩が叩かれ、冷たい飲物が注文された。三人は彼を取囲み、手の指をピストンのようにつき出して質問を浴びせてきた。
彼は自分の名と、住んでいる町の名を告げた。だがそのあとは、何を話していいのか思いつかなかった。だれかスピロス・アントナープロスを知らないか、ときいてみた。だが、だれも知らなかった。シンガーは、両手をだらりと垂れたまま立ちつくした。依然として首をかしげ、横目づかいに見つめている。あまり気乗り薄で冷淡な彼の態度に、山高帽をかぶった三人の唖は、ふしぎそうに彼を見つめた。やがて、三人は彼を会話からのけ者にしてしまった。ビールの代金を払い、そこを出るときになっても、彼らはシンガーを仲間に誘わなかった。
半日のあいだ町の通りをさまよい歩いていたにもかかわらず、汽車にはもう少しで乗り遅れるところだった。どうしてこのようなことになったのか、どのように時間をつぶしたのか、彼は自分でもわからなかった。駅についたのは列車の出る二分前で、手荷物を車内へ運びこみ、座席を捜すのがやっとだった。乗りこんだ車内はほとんどがらあきだった。席に落着くと、彼は苺《いちご》の籠《かご》をあけ、念入りに粒をつまみ出した。大粒の苺で、くるみほどの大きさがあり、十分に熟していた。色どりあざやかな実についた緑色の葉が、小さな花束のようにみえる。シンガーは一粒を口に入れた。水気の多い野生の甘みを持った汁が出て来たが、早くも腐りかけのような味がかすかにした。彼は苺の味で舌が麻痺《まひ》するまで食べつづけ、ふたたび籠を包みなおすと、網棚《あみだな》の上にのせた。真夜中になると、窓の日除《ひよ》けをおろし、座席に横になった。上着を顔から頭にかけて引っかぶり、毬《まり》のように丸くなって寝た。その格好で十二時間ほど、知覚を失ったようにうとうとしつづけた。列車が到着したとき、車掌に揺り起こされねばならなかった。
シンガーは、手荷物を停車場のまん中に置き去りにした。そして店まで歩いて行った。雇い主の宝石商に、大儀そうに手を振って挨拶をした。ふたたび店を出た彼のポケットには、何か重いものがはいっていた。しばらくのあいだ、彼は首をうなだれて通りをさまよい歩いた。だが、まともに照りつけてくるまばゆい太陽と蒸し暑さに気がめいった。彼は腫《は》れた目と痛む頭をかかえて下宿へ戻った。しばらく休んでから、氷を入れたコーヒーを飲み、タバコをふかした。そして灰皿とコップを洗い終えると、ポケットからピストルを取出し、胸に弾丸を撃ちこんだ。
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第三部
一九三九年八月二十一日――朝
「そういそがさんでくれ。放っといてくれんか。しばらく静かにすわらしておいてくれんか」とコープランド医師は言った。
「とうさん、あたいら、なにもせきたてちゃおらんけど、もう出かけんとならんもん」
コープランド医師は、灰色の肩掛けをしっかり肩に巻きつけ、強情に椅子をゆすりつづけた。暖かくさわやかな朝だったが、ストーブでは小さな薪《まき》の火が燃えていた。医師のすわっている椅子のほか、台所には何の家具もなかった。ほかの部屋も、同様にがらんとしていた。大部分の家具はポーシャの家に運ばれ、残りは外に待っている自動車に積みこまれていた。すべて用意はととのい、あとは彼の決心だけだった。だが、自分の考えにはじまりも終りもなく、真理も目的もないまま、どうしてここを出られよう? 彼はふるえる頭をおさえるため手を上げ、きしる椅子をゆっくりゆらしつづけた。
しまったドアのかげで話す何人かの声が聞えた――
「おら、できるだけやってみたけどよ。いよいよ出かける決心がつくまで、すわってるつもりらしいて」
「バディとおらとで、陶器の皿は包んだぜ――」
「露のかわかんうち出て来りゃよかっただが。このぶんじゃ、途中で日が暮れてしもうで」と老人の声。
話し声は静まった。がらんとした廊下に足音がひびき、それきり声は聞えなくなった。そばの床には、コーヒー茶碗と皿が置いてあった。医師はストーブにかかったポットからコーヒーをついだ。椅子をゆらしながらコーヒーを飲み、湯気で手先を暖めた。これで終りになるというはずがない。彼の胸の中では、言葉にならぬさまざまな声が呼んでいた。イエス・キリストの声、ジョン・ブラウンの声。偉大なスピノザの声でもあり、カール・マルクスの声でもあった。使命を果すべく戦い、それを許されたすべての人びとの呼ぶ声だった。彼の同胞たちの悲嘆に打ちひしがれた声。そして死者の声。理解に満ちた正義の白人、唖《おし》のシンガーの声。弱い者、強い者の声。刻々と力を増してくる黒人同胞のうねるような声。力強い真の目的の声。そしてそれらに答えるように、言葉は――人類の全悲哀の根源をなす言葉は――彼の唇にふるえ、彼はもう少しで声に出して言うところだった。「全能の神よ! 宇宙の絶対的力よ! わたしはなすべからざることをなし、なすべきことをなさずしてきました。ですから、これで終りということがあってはならないはずです」
彼がこの家へはじめて来たときは、愛する新妻《にいづま》といっしょだった。妻のデイジーは花嫁衣装を着て、白いレースのベールをかぶっていた。濃い蜂蜜色《はちみついろ》の美しい肌《はだ》で、笑い声が耳にこころよかった。夜になると、彼はひとりで勉強するため、明るい部屋に閉じこもった。彼は思案し、なんとか学問に打ちこもうと努力した。だが身近にデイジーがいると、強い欲望がわき起り、いくら勉強に身を入れても消えなかった。ときにはこうした欲望に身をまかせることもあったが、そのあとはまた唇を噛《か》み、夜どおし書物を相手に黙想にふけった。そしてハミルトンや、カール・マルクス、ウィリアム、ポーシャが生れた。だが、すべて去ってしまった。だれひとり残らなかった。
そして、メイディベンやベニー・メイ。ベネディーン・メイディーンやメイディ・コープランド――彼の名前をいろいろにつけてやった連中。また、彼が熱心に説き聞かせた連中。だが何千という連中の中に、彼が使命を託し、安心して引退できる人間はどこにいるのだろう?
一生のあいだ、彼はそのことを強く感じてきていた。彼は自分が働く理由をはっきりと知り、心には確信を持っていた――自分の前途に何が横たわっているか、毎日知っていたからだ。往診|鞄《かばん》を持って患家《かんか》から患家をまわり、あらゆる話に乗ってやり、忍耐強く説明してやった。そして夜になると、一日が有益にすごせたことにしあわせな気分を味わうのだった。たとえデイジーやハミルトンやカール・マルクス、ウィリアム、ポーシャがいなくても、彼はストーブのそばにひとりですわり、このことを考えて喜びにひたることができた。そんなとき、彼は緑色の酒を飲み、とうもろこしパンを食べた。よい一日だったという深い満足感が、身体《からだ》じゅうにあふれていた。
こうした満足感を味わったことは何千回となくあった。だが、そんなことに何の意味があったろう? 長い歳月を振返ってみて、彼は永続的価値のある仕事を何一つ思い起すことができなかった。
しばらくすると、廊下へ通じているドアがあき、ポーシャがはいって来た。「とうさんのこと、赤ちゃんみたいに着がえさせたげなきゃならんわ。さ、靴と靴下。部屋ばきをぬがして、こっちのはかしたげるからね。もうじきここを出なきゃならんのよ」
「なんでわしにこんなことをするんだね?」と、彼は苦々しげにきいた。
「こんなことするって?」
「わしがここを出たがってないのは、よく知ってるだろう。わしがどっちともきめられない状態のときに、おまえがむりやり承知させてしまったんだ。わしが長年住みなれたここにいたがってることは、おまえも知ってるだろうに」
「またとうさんのぐちがはじまった!」と、ポーシャは腹立たしげに言った――「あんましぐちばかし聞かされるもんで、あたいもうへとへとだわ。とうさんみたい、そないギャアギャア言うたら、こっちが恥ずかしゅうてならんわ」
「ふむ! 何とでも言うがいい。どうせおまえのぐちなど、蚋《ぶよ》にたかられたくらいのもんだ。自分のしたいことはちゃんとわかっとるし、まちがったことはいくらやいやい言われたってやらんぞ」
ポーシャは父親の部屋ばきをぬがせ、洗いたての黒い綿靴下をはかせようとした。「とうさん、議論はやめとこうよ。あたいら、みんなしていちばんええと思うことをやっただけだよ。じいちゃんやハミルトンやバディといっしょに暮すのが、何てったってとうさんにはいちばんええもん。みんなによう世話をしてもらや、病気だってじきようなるし」
「いや、そんなことはない。ここでならなおっただろうがな。わしにはちゃんとわかっとる」
「そんじゃ、この家の家賃はだれに払えんの? あたいらにとうさんが養ってけると思うの? ここにいて、だれに世話してもらえると思うだかね?」
「これまでもなんとかやってきたからな、まだやってゆけるさ」
「強がりばかし言うて」
「ふむ! まったく蚋みたいにうるさいやつだ。おまえの言うことなんぞ聞くものか」
「えらい結構な口のききようもあったもんだわさ、あたいに靴や靴下をはかさしといて」
「悪かったな。許しておくれよ」
「悪かったにきまっとるわ。ふたりとも悪かったってこと。あたいら、けんかなどしてられねえだよ。それにとうさんだって、いったん農場へ落着いたらきっと気に入ると思うわ。そりゃきれいな野菜畑もあるし。考えただけで唾《つば》が出てきそう。鶏もいりゃ、種豚も二頭おるし、桃の木は十八本もあるし。とうさんだって行ってみりゃ、きっと夢中になっちまうにちがいねえだわ。ほんと、あたいがかわりに行ってみたいくらい」
「わしも、おまえが行けたらと思うよ」
「なんでそう、やなことばかし言うの?」
「わしはな、失敗したような気がするんだ」
「失敗したって、何にさ?」
「わしにもわからん。ともかく、わしを放っといてくれんか。しばらく、静かにここへすわらしておいてくれんか」
「いいわよ。だけど、もうじき出かけなきゃなんねえだよ」
しばらく静かにしていよう。静かにすわって椅子をゆらしていれば、そのうち落着きも戻ってくるだろう。頭がふるえ、背骨が痛んだ。
「あたい、ほんとに思うんだけど、あたいが死んだら、シンガーさんときみたいおおぜいの人に来て悲しがってもらいたいな。ほんと、あれくらい悲しいお葬式で、あれくらいおおぜいに来てもらえっかしら――」
「何を言うんだ! おまえは口数が多すぎるぞ」と、コープランド医師は荒々しく言った。
だがあの白人の死とともに、彼の心に暗い悲しみが影を落したことは事実だった。他の白人を相手のときとは違った話し方をし、信頼しきっていたのだ。その相手に謎のような自殺をされて、彼は途方に暮れ、たよれるものを失ってしまった。この悲しみには、はじまりもなく終りもなかった。理解することもできなかった。彼の思いは常に、傲慢《ごうまん》なところなく人をさげすむこともない、公正だったあの白人に戻った。あとに残されたものの魂の中にまだ生きつづけている死者が、どうしてほんとうに死んだと言えよう? しかし、こうしたことは考えてはならないのだ。いまは心から押しのけておかねばならないのだ。
なぜなら、コープランド医師に必要なのは鍛錬だったからだ。ここひと月ばかり、暗くおそろしい感情がこみ上げ、彼の心を悩ましはじめていた。憎悪《ぞうお》が何日にもわたってつづき、彼をほとんど死の領域にまで追いこんだ。真夜中に訪《たず》ねて来たあのブラウントとの口論のあと、彼の心の中には殺意を帯びた暗い気持が宿った。だがいま思い出そうとしてみても、ふたりの論争の原因となった問題点は、はっきりと思い起せなかった。そして、ウィリーの切り取られた脚《あし》を見ると、違った怒りがこみ上げてきた。対立しあう愛と憎しみ――同胞に対する愛情と、圧制者への憎悪――が、彼をすっかり疲れさせ気をめいらせた。
「わしの時計と上着を取ってくれんか、ポーシャ。行くとしよう」と彼は言った。
彼は椅子の腕につかまり、立ち上がった。床は顔から遠いところにあるように見え、長いあいだ寝こんでいたため、脚もひどく弱っていた。一瞬、彼は倒れそうな気がした。ふらつく足でがらんとした部屋を横切ると、戸口にもたれかかった。彼は咳《せ》きこみ、ポケットから四角い紙を取出し口をおさえた。
「はい上着。外はえろう暑いから、いらんと思うけど」
彼は、これが見おさめのがらんとした家の中を歩いた。ブラインドは閉ざされ、暗くなった部屋の中には埃《ほこり》の匂いがした。玄関の間の壁によりかかってから、彼は外へ出た。暖かく、よく晴れた朝だった。前の晩やけさも早くから、おおぜいの友人が別れを告げに来たが、いまは家族のものだけがポーチに集まっていた。馬車と自動車が通りにとまっていた。
「なあ、ベネディクト・メイディ。はじめの二、三日は、ちいと家が恋しゅうなるかもしれねえが、じきに忘れてしまうだろうて」と老人が言った。
「わたしには家はありません。家のないわたしに、家が恋しくなるわけがないでしょうが?」
ポーシャは落着かなげに唇をなめて言った――「身体がようなりしだり、いつでもまた帰ってこれんだよ。バディが喜んで町まで車でつれて来てくれるやろうし。バディは車の運転が大好きだもんな」
自動車には荷物がいっぱい積まれていた。本の箱がステップにくくりつけてある。後部座席は、二つの椅子と書類箱でいっぱいだった。事務机はひっくりかえしに、屋根にしばりつけられている。しかし、自動車が積み荷でいっぱいの反面、馬車のほうはほとんど空《から》だった。騾馬《らば》は、手綱《たづな》に煉瓦を一個結びつけられ、おとなしく待っていた。
「カール・マルクスや、いそいでな、家の中を見て忘れ物がないかたしかめて来てくれんか。床の上へおいてきた茶碗と、揺り椅子も持って来てくれ」とコープランド医師は言った。
「さあ出かけようぜ。夕めしまでには帰りてえもんな」とハミルトンが言った。
やっと出発の用意はできた。ハイボーイが自動車のクランクをまわした。カール・マルクスがハンドルを握り、ポーシャとハイボーイとウィリアムは、うしろの座席にすし詰めになってすわった。
「とうさん、ハイボーイの膝《ひざ》の上にすわったら。あたいらや家具といっしょくたにつめこまれるよか、そのほうが楽かもしないよ」
「いや、ここにはもう乗れん。わしは馬車のほうに乗るからいい」
「だけど、とうさん、馬車には乗りつけてねえもんな。えろうガタガタするし、きっと日の暮れまでかかるでよ」とカール・マルクスが言った。
「そんなことはかまわん。これまでにも、荷馬車には何度も乗ったことがあるからな」
「ハミルトンに、あたいらのほうへ来るように言うてやっとくれ。きっと自動車のほうがええやろうから」
じいさんは前の日、荷馬車で町までやって来たのだ。桃やらキャベツやらかぶらなど、町でハミルトンに売らせるため、馬車にいっぱい積みこんで来た。桃が一袋残っただけで、あとはぜんぶ売れてしまった。
「さあて、ベネディクト・メイディ、とうどわしといっしょに家へけえることになったのう」と老人は言った。
コープランド医師は、荷車のうしろへよじのぼった。身体じゅうの骨が鉛でできているかのように、ぐったり疲れきっていた。頭がふらつき、とつぜんこみ上げてきた吐き気に、彼はごつごつした荷台の上にぐったりと倒れてしまった。
「おまえがけえってくれるんで、わしはうれしゅうてな。おまえも知ってのとおり、わしはむかしっから、学者はえろう尊敬しとるでな。えろう尊敬しとるで。相手が学者だと、いろいろ大目に見ることも忘れることもできるだ。おまえのような学者をまた家族に迎えられて、わしゃとてもうれしいわい」
車輪がギイと鳴った。馬車は動きだした。「しかし、じきにまた帰りますよ。一、二カ月もしたら、帰るつもりです」とコープランド医師は言った。
「ハミルトンな、ありゃなかなかの学者だて。おまえにちいと似とるようだわ。わしのかわりに紙に書いて計算もしてくれりゃ、新聞も読んでくれるんじゃ。それからな、ホイットマン、あの子も学者になりそうだて。いまじゃわしに聖書を読んでくれよる。いろんな仕事も手伝ってくれるしな。まだほんのちっこい子どもだがの。わしはむかしっから、学者はえろう尊敬しとるで」
馬車の動揺が背中にこたえた。彼は頭上の木の梢《こずえ》を見上げ、やがて木陰がなくなると、太陽光線から目をかばうため、ハンカチで顔をおおった。これで終わりだなどということはありえない。これまでいつも、力強い真の目的意識を持ちつづけてきた彼だった。四十年のあいだ、使命は彼の人生であり、人生は彼の使命だった。だが、すべては未完のままであり、何一つ完成されていなかった。
「そうともよ、ベネディクト・メイディ、わしはな、またおまえと暮せるようなって、こないうれしいこたあねえ。おまえが来たら、この右足のおかしな感じのことでききたいと思うとっただ。足がしびれちもうたみてえな、妙な気分でな。六六六印の薬を飲んで、ねり薬もぬってみただが。おまえにええ療法を教えてもらいたい思うてな」
「できるだけのことはやってみます」
「そうよ、おまえが戻ってくりゃ、こんなうれしいこたあねえ。わしはな、身内ちゅうもんはみんな寄り集まるのがええと思うとる――血つづきも、義理のもな。みんなして力を合わして努力し、助け合うことじゃ、そうすりゃ、いつかは天国さ行って報いがあるだろうて」
「ばかばかしい! わたしはこの世での正義を信じてますよ」と、コープランド医師は苦々しげに言った。
「何を信じてると言うた? あんまししわがれ声だもんで、わしには聞えなんだ」
「われわれに対する正義をですよ。われわれニグロに対する正義をです」
「そりゃもっともな話だて」
彼は胸の中に火が燃え上がるのを感じ、じっとしていられなかった。しゃんとすわり、大声でしゃべりたかった――だが、起き上がろうとしてもそれだけの力がなかった。言葉は胸の中で大きくふくれ上がり、どうしても黙ってはいられなかった。しかし、老人はすでに聞いておらず、彼の言葉を聞いてくれるものはだれもいなかった。
「そうれ行け、リー・ジャクソン。どんどん行くだ。道草しとらんと、パカパカ行くだ。道は遠いでな」
――午後
ジェイクはぶざまな足どりで、けんめいに駆けた。ウィーヴァーズ小路《こうじ》を駆け抜け、露地をつっ切り、塀《へい》によじのぼって、先へ先へといそいだ。吐き気がこみ上げ、喉《のど》もとまで嘔吐《おうと》が感じられた。うるさく吠《ほ》える犬が追いすがってきた。彼はちょっと立ちどまり、石をつかんでおどしつけた。目は恐怖に大きく見開き、あけた口もとを手でおさえている。
くそっ! これが結末だったのだ。けんか騒ぎだった。騒動だった。だれもがてんでに取っ組み合っている。こわれた瓶《びん》で切られ、血だらけの顔や目。くそっ! そしてその騒音を圧して聞える、かすれたメリーゴーラウンドの音楽。手から落ちたハンバーガーや綿菓子、金切り声をあげる娘たち。そして、その中にすっかり巻きこまれた彼。埃《ほこり》と陽《ひ》の光に目もあけていられぬ乱闘。彼の拳《こぶし》に食いこんだ、鋭い歯の手ごたえ。そして笑い声。くそっ! そして、体内のとどまるところを知らぬはげしく荒いリズムをほとばしらせた解放感。そして、死んだニグロの黒い顔を間近に見ながら、この茫然《ぼうぜん》とした気持。はたして自分が殺したのかどうかもわからないのだ。だが待てよ。くそっ! だれにだって、あんなのがとめられたはずがない。
ジェイクは歩調をゆるめ、神経質に首をぐいとねじ曲げうしろを見やった。露地に人影はなかった。彼は胃のものを吐き、ワイシャツの袖《そで》で口と額をぬぐった。それからほんのちょっと休み、気を取りなおした。すでに通りを八つほど駆けていた。このあと近道を取っても、まだ半マイルほど行かねばならない。めまいが頭から消えたため、混乱したさまざまな感情の中から事実だけを思い出すことができた。彼はふたたび、今度は落着いた足どりで歩きだした。
だれにせよ。あの騒動はとめられなかっただろう。夏じゅう、彼は騒ぎの火種を踏み消してきたのだ。だが、これだけはどうにもならなかった。今度のけんか騒ぎだけは、だれにもとめられなかっただろう。まるで何もないところから、ぱっと火の手が上がったのだ。ぶらんこ機械を動かしていた彼は、水を一杯飲むために手を休めた。敷地内をつっ切って行くと、ひとりの白人の若者とニグロがからまるように歩いているのに出会った。ふたりとも酔っていた。土曜の午後でもあり、その週はどの工場もフル操業をやっていたため、その日の群衆の半分は酔っていた。暑さと強い日射《ひざ》しは吐き気を催すほどで、空気中には重苦しい臭気がよどんでいた。
彼には、ふたりのけんか相手が互いににじり寄るのが見えた。だが、なにもいまはじめて起ったことではなかった。いずれ大騒動が起るだろうとは、前々から感じていたのだ。ふしぎなのは、こうしたことをいろいろ考える余裕のあったことだ。彼は人だかりの中に割ってはいる前に、五秒ばかり立って眺めていた。その短い時間に、彼はさまざまなことを考えた。彼はシンガーのことを考え、陰気な夏の午後や暑く暗い夜のことを考え、自分の引分けた取っ組みあいや鎮《しず》めたけんかのことを考えた。
と、そのとき、日射しの中にキラリと光る短刀を見た。彼は人だかりを肩で押しわけ、短刀を握っているニグロの背中に飛びついた。ニグロは彼とともに倒れ、いっしょに地面にころがった。彼の肺の中で、ニグロ特有の体臭がもうもうたる埃とまざり合った。だれかに両脚《りょうあし》を踏みつけられ、頭を蹴とばされた。ふたたび立ち上がったときには、すでにいたるところで取っ組み合いがはじまっていた。ニグロは白人と、白人たちはニグロと殴り合った。一瞬一瞬の光景を、彼ははっきりと見てとった。けんかを吹っかけた白人の若者は、大将格とおぼしかった。よくショーへやって来るならず者たちを率いていた。十六歳前後の若者たちで、麻の白ズボンに派手なレーヨンのポロシャツを着ている。ニグロたちは全力をあげて反撃に出た。剃刀《かみそり》を持っているものもいた。
彼は大声で叫びはじめた――取締れ! 助けを呼べ! 警察だ! だが、それはくずれかかったダムに向って叫ぶようなものだった。耳に聞えるのはおそろしい物音だった――人間の声でありながら言葉にならなかったためだ。物音はどよめきとなり耳を聾《ろう》した。彼は頭を殴られた。まわりで何が起っているか、まるで見えなかった。見えるのは目と口と拳ばかりだ――狂気じみた目、なかば閉じた目、濡れてだらしなくあいた口、食いしばった口、黒い拳、白い拳ばかりだ。彼はだれかの手から短刀をもぎ取り、振上げた拳をつかんだ。埃と太陽に目がくらみ、なんとかここをのがれ助けを求める電話をかけなければ、とそれだけをしきりに考えていた。
だが、だれかにおさえられていた。いつの間にか、彼自身も乱闘に巻きこまれていた。両手の拳で打ってかかると、濡れた口がつぶれる柔らかな手ごたえがあった。彼は目を閉じ、頭を低く下げて戦った。喉からは気違いじみた呻《うめ》きがもれた。満身の力をこめて殴りかかり、牡牛《おうし》のように頭からつっかかって行った。無意味な言葉が心に浮び、彼は笑いつづけていた。自分がだれを殴ったのか、だれが自分を殴ったのか、まるでわからなかった。しかし、すでに乱闘の様相が変り、めいめいが勝手に戦っているのがわかった。
ふととつぜん、乱闘は終った。彼は何かにつまずき、うしろ向きに倒れた。ノックアウトをくらった形だった。ふたたび目をあけるまで、一分間くらいたっていたのか、それ以上だったのか、わからなかった。まだ何人かの酔いどれがけんかをつづけていたが、ふたりの私服が大いそぎで引分けていた。彼は何につまずいたかを見た。ニグロの若者の身体《からだ》の上へ、なかば寄りかかり、なかば寄りそうようにして倒れていたのだ。ひと目見ただけで、死んでいることはわかった。首の横に切り傷があったが、どうしてこれほど簡単に死んでしまったのか、わけがわからなかった。顔に見覚えはあったが、どこのだれかは知らなかった。若者は口をあけ、目も驚いたように見開いている。地面には新聞紙や、こわれた瓶や、踏みつけられたハンバーガーがいっぱい散らかっている。木馬の頭が一つもげ、売店がこわされていた。彼は起き上がった。そして私服を見つけあわてて駆けだしたのだ。どうやら彼らをうまくまけたようだった。
あと通りを四つも行けば、安全にかくまってもらえるのだ。恐怖に息がはずみ、息苦しかった。と、とつぜん、彼は歩調をゆるめ、立ちどまった。本通りに近い露地に、彼はただひとりだった。片側は建物の壁になっており、彼は息をあえがせながらそこにもたれかかった。額の血管が赤くふくれ上がっている。すっかりうろたえていた彼は、友人の下宿部屋へ行こうと、町を端から端まで駆け抜けて来たのだ。だが、シンガーはすでに死んでいたのだ。彼は泣きはじめた。声に出してすすり泣き、垂れてくる鼻水に口ひげが濡れた。
壁、階段、行く手に伸びる道。焼けつく太陽は、重い錘《おもり》のようにのしかかっていた。彼はいましがた来た道を引返しはじめた。油だらけのワイシャツの袖《そで》で汗びっしょりの顔をふきながら、今度はゆっくりと足を運んだ。唇のふるえがとまらず、あまり固く噛《か》みしめたため血の味がした。
つぎの町角《まちかど》で、彼はシムズに出くわした。偏屈者の老人は聖書を膝《ひざ》にのせ、箱の上にすわっていた。うしろには丈《たけ》の高い板塀《いたべい》があり、そこに紫色のチョークでこう書きつけてあった――
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主は汝《なんじ》を救わんがため死にたもうた
主イエスの愛と恩寵《おんちょう》の物語を聞け
(毎夕 七時十五分)
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通りに人影はなかった。ジェイクは通りの反対側へ渡ろうとしたが、シムズに腕を取られた。
「来たれ、心傷つき楽しまぬものたちよ。汝らを救わんがため死にたもうた主のみ足のもとに、罪と悩みを投げ出すがよい。いずこへ行くや、兄弟なるブラウントよ?」
「飲みにけえるんだ。飲まずにいられるかってんだ。救い主には何ぞ文句でもおありかね?」と、ジェイクは言い返した。
「罪人めが! 主は汝の罪をすべて覚えておられるぞ。主は今夜、汝のためにお告げを用意しておられるのじゃ」
「それじゃ主は、おれが先週おまえにくれてやった一ドルも覚えておられるかね?」
「イエスは今夜七時十五分、汝にお告げをたまわるのじゃ。時間どおりここへ来て、主のお言葉を聞くがいい」
ジェイクは口ひげをなめた。「毎晩大入り満員だからな、お言葉が聞えるほど近く寄れねえよ」
「あざける者のためにも席はある。それにわしは、遠からず救い主がわしに主の家を建てることを望まれるという。奇蹟《きせき》のしるしを受けておるのじゃ。十八番街と六番通りの角の空地《あきち》にな。五百人がはいれる会堂をだ。そのとき、汝らあざける者たちは思い知るがよい。主はわしの敵どもの前で食卓を用意したまい、わしの頭に聖油をそそいでくださるのじゃ。わしの盃《さかずき》はあふれ――」
「今夜にだって、聴衆をかき集めてやれるぜ」とジェイクは言った。
「どうやってじゃ?」
「きれいなチョークを貸してみろ。きっと大聴衆を集めてみせるぜ」
「おまえのアジ文句は見たわい――『労働者諸君! アメリカは世界でもっとも富める国でありながら、われわれの三分の一は飢えている。われわれはいつ団結し、当然の分け前を要求するのか?』といった調子のな。おまえの書く文句は過激じゃ。わしのチョークなど使わせとうないわ」
「アジ文句を書くつもりはねえさ」
シムズは聖書のページをめくりながら、怪しむように待った。
「結構な聴衆を集めてやるぜ。この街区《ブロック》の両端の舗道に、はだか美人の絵を描いてやるんだ。天然色で、道を示す矢印をつけてな。ふるいつきたいような、ぷりぷりした尻をむき出しにしたやつを――」
「不徳義漢! ソドムの子! 神はこのことを忘れたもうまいぞ」と老人は叫んだ。
ジェイクは向う側の歩道へ渡り、自分の下宿のほうへ歩きだした。「あばよ、じいさん」
「罪人めが! 七時十五分きっかりここへ戻って来るだぞ。主イエスのお告げを聞き信仰を得るのだ。救っていただくのじゃ」
シンガーは死んでしまった。彼が自殺したという知らせをはじめて聞いたときの気持は、悲しみではなかった――腹立ちだった。彼は壁の前に立っていた。シンガーに物語ったあらゆる心の奥底の思いを思い出した。シンガーの死とともに、それらはすべて失われてしまった気がした。いったい、なぜシンガーは命を絶つ気になったのだろう? ひょっとすると、気が狂ったのかもしれない。だがともかく、彼は死んでしまい、もうどこにもいないのだ。見ることも、手で触れることも、話しかけることもできないのだ。ふたりで何時間も話しこんだ部屋は、タイピストをやっている若い娘が借りていた。もうあの部屋へも行けないのだ。彼はひとりぼっちだった。壁、階段、そして行く手に伸びる道。
ジェイクはうしろ手に、自分の部屋の鍵《かぎ》をかけた。ひもじかったが、何も食べる物がなかった。喉《のど》もかわいていたが、テーブルのそばの水差しには二、三滴の生ぬるい水がはいっているだけだった。ベッドも寝乱れ、床には綿ぼこりがつもっていた。紙が部屋じゅうに散らばっている。最近みじかいビラをたくさん書き、町じゅうにばらまいていたからだ。彼はむっつりとした表情で、『T・W・O・Cは諸君のもっともよき友なり』と書かれた紙をちらと眺めた。ビラの中にはほんの一行しか書いてないのもあり、もっと長いのもあった。『わがデモクラシーとファシズムの類似』と題された、一ページに及ぶ声明文もあった。
一カ月のあいだ、彼はこうしたビラ作りに打ちこんだ。勤務中に文句を考え、ニューヨーク・カフェでタイプを叩《たた》き写しを作り、自分の手で配ってまわった。夜も昼も働いた。だが、だれが読んでくれるのだろう? どんな役に立ったというのだ? ひとりの男が事を起すには広すぎる町だった。そして、いま彼はこの町を出て行こうとしていた。
だが、このつぎはどこへ行けばいいのだ? さまざまな町の名が浮んできた――メンフィス、ウィルミントン、ガストニア、ニューオーリンズ。どこかへ行くつもりだった。しかし南部からは出まい。ふたたび、前のような気ぜわしさと飢えがこみ上げてきた。だが、これまでのとは違っていた。もはや、広い空間や自由には憧《あこが》れなかった――それとは反対の気持だった。彼はニグロのコープランド医師が言った言葉を思い出した――「自分ひとりで立とうとしてはいけません」だが、ひとりで立つのがいちばんいいときもあるのだ。
ジェイクはベッドを部屋の反対側へ動かした。これまでベッドに隠れていたところから、スーツケースが一つと、本の山と、きたない衣類が出てきた。彼はせわしなく荷作りにかかった。あのニグロの老医師の顔が心にかかり、ふたりでかわした会話の端ばしがよみがえってきた。コープランドは気違いだった。狂信者なのだから、あの男をつかまえ理を説こうとするほうがどうかしていたのだ。だがそれにしても、あの晩双方で感じたあのおそろしい憤りは、あとで考えてみると理解に苦しんだ。コープランドは「知って」いたのだ。「知って」いる者たちは、武装した歩兵大隊と対峙《たいじ》した一握りの素手の兵隊のようなものだった。そのふたりが何をしたというのだ? ふたりは互いに口げんかをやらかしてしまったのだ。コープランドはまちがっていた――たしかに、あいつは気違いだ。だがいくつかの点では、ふたりは協力もできそうだった。あまりしゃべりすぎなければ、の話だが。もう一度会いに行ってみよう。にわかに、いそぎたい気持がこみ上げてきた。そうするのが結局いちばんいいのかもしれない。ひょっとすると、それこそ奇蹟のしるしであり、彼が長いあいだ待っていた救いの手なのかもしれない。
顔や手のよごれを洗う間も惜しみ、スーツケースに革紐《かわひも》をかけると彼は部屋を出た。外の空気は蒸し暑く、通りにはいやな臭《にお》いが漂っていた。空には雲がかかっている。そよとの風もないため、近所の工場から立ちのぼる煙もまっすぐに、乱れず空へ消えている。歩いてゆくジェイクの膝に、荷厄介なスーツケースがごつごつぶつかり、彼はたびたびうしろを振返った。コープランドは町はずれに住んでいたため、いそがねばならなかった。空の雲はしだいしだいに濃くなり、日暮れまでにはげしい夏の夕立ちのくることを予告していた。
コープランドの住んでいる家まで来てみると、鎧戸《よろいど》がおりていた。彼は裏手へまわり、窓から見捨てられた台所の中をのぞきこんだ。うつろなやり場のない絶望感に、手は汗ばみ、胸の鼓動までがおかしくなった。彼は左側の家へ行ってみたが、そこにもだれもいなかった。あとはケリー家へ行って、ポーシャにきいてみるよりしかたがなかった。
あの家にふたたび近寄りたくはなかった。玄関の帽子掛けや、何度となくのぼった長い階段を見るに忍びなかったのだ。彼はゆっくりとした足どりで町を引返し、露地のほうからケリー家に近づいた。彼は裏口から中へはいった。ポーシャが台所におり、小さな男の子もいっしょだった。
「だめだよ、ブラウントさん」とポーシャは言った――「あんたもシンガーさんの親友やったから、うちのとうさんがあのひとのことどう思うてたかわかってもらえる思うけど。あたいら、けさ、とうさんを田舎《いなか》へつれて行っただよ。どこへつれてったかは、言う必要ねえと思うだ。悪いけど、遠まわしに言わんと、はっきり言わしてもらうけどさ」
「遠まわしに言うことはねえさ。だけど、なぜだね?」とジェイクはきいた。
「あんたが会いに来たあと、とうさんはすっかり具合わるうなってしもうて、もうみんな死ぬかと思うただよ。起き上がれるようになるまで、長いことかかったわ。やっといまはようなったけど、田舎へ行っとりゃ、ずっと丈夫になると思うわ。ともかくさ、あんたにわかってもらえるかどうかわからんけど、とうさんはいまじゃ白人にえろう反感を持っとって、すぐにかっとなっちまうんだよ。それに、はっきり言わしてもらうけどさ、あんた、うちのとうさんに何の用があるっての?」
「何も用はない――おまえにわかるような用はな」
「あたいら黒人にだって、人間なみの感情はあるもんな。あたいは本気で言うとるだよ、ブラウントさん。とうさんは病気の年寄りで、もうえろう苦労をしてきただ。あたいらで面倒みてやらんとならんのよ。それに、とうさんはあんたに会いたがっておらんわ――あたいは知ってんの」
ふたたび通りへ出たジェイクの目には、雲が怒りをこめた紫色に変っているのが映った。よどんだ空気の中には嵐《あらし》の匂いがあった。歩道に沿った並木のあざやかな緑は、大気の中に溶けこんだように見え、通りは奇妙な緑がかった輝きに染まっていた。すべてがしんと鳴りをひそめていた。ジェイクはちょっと足をとめて空気の匂いを嗅《か》ぎ、あたりを見まわした。そしてスーツケースを腋《わき》の下にかかえこむと、本通りに並ぶ商店の日除《ひよ》けを目ざして駆けだした。だが、雨のほうが早かった。金属的な雷鳴が一つ聞えたかと思うと、空気はにわかに冷えてきた。大きな銀の雨粒が舗道にピシピシと叩きつけてきた。なだれのような雨が彼を盲目にした。ニューヨーク・カフェへたどりついたときには、服はぐっしょり濡れて身体にまつわり、靴も水をふくんでギュウギュウ鳴った。
ブラノンは新聞をわきへ押しのけ、カウンターに両肘《りょうひじ》をついた。「よう、奇妙なこともあるもんだな。雨が降りだしたら、すぐあんたがここへ来るみたいな予感がしとったんだ。きっと来る、それも、もちっとのところでずぶ濡れになって来るとわかっとったんだ」彼は親指で、白く平べったくなるまで鼻を押しつけた。「スーツケースも持って来たんかい?」
「スーツケースのように見え、スーツケースのような手ざわりだな。もしスーツケースなるものの実在を信ずるなら、これはたしかにスーツケースってことになるかもしれん」とジェイクは答えた。
「こんなとこにつっ立ってちゃいかん。二階へ行って、濡れた服を投げてよこせよ。ルーイが熱いアイロンをかけてくれるから」
ジェイクは奥のボックス席にすわり、頬杖《ほおづえ》をついた。「いや、かまわんでくれ。ちょっと休んで、息をつきたいだけだ」
「しかし、唇がまっ青《さお》じゃないか。すっかりばてちまったみたいだぜ」
「だいじょうぶだよ。ほしいのは晩めしだけだ」
「夕食はまだあと三十分たたんとできないよ」と、ブラノンは辛抱強く言った。
「どんな古い残り物でもいいんだ。皿にのっけてくれんか。暖めてくれなくたっていい」
うつろな気持に胸が痛んだ。うしろも前も見たくなかった。二本のずんぐりした短い指先に、テーブルの上を歩かせてみたりした。はじめてこのテーブルにすわったときから、すでに一年以上になる。あのときから、はたしてどれだけ進歩したのだろう? まるで何の進歩もない。ひとりの友人ができ、その友人を失ったということ以外、何も起っていない。彼がすべてを与えたシンガーは自殺してしまった。あとに残された彼は、どうしてよいかわからぬ状態に置かれている。そこから抜け出し、ふたたび新しい出発をするのも、自分ひとりでやらねばならないのだ。それを考えると、彼はうろたえを覚えた。すっかり疲れきっていた。彼は頭を壁にもたせかけ、両足を横の椅子にのせた。
「さあ、これで元気が出るだろうよ」
ブラノンはそう言って、コップにはいった熱い飲み物と、チキン・パイの皿を置いた。飲み物は甘くきつい匂いがした。ジェイクは湯気を吸いこみ、目を閉じた。「何がはいっているんだね?」
「レモンの皮を角砂糖にこすりつけたやつに、ラム酒入りの熱湯をかけたもんだ。うまい飲み物だよ」
「借金はいくらあったかな?」
「いますぐには覚えとらんが、帰るまでには計算しておこう」
ジェイクは|飲み物《トデイ》を一口ぐっと口に含み、飲みこむ前に口の中でころがした。「おれの借金はこげつきになるかもしれんぜ。金がねえんだ――あったとしても、どのみち払わんだろうがな」
「おれがやいのやいの催促したかね? 請求書をつきつけて、払ってくれと言ったかね?」
「いんや。あんたはなかなかわかりのいい人だ。考えてみりゃ、じつによくできた人だぜ――個人的な観点からしての話だが」
ブラノンはジェイクの向い側にすわった。彼には考えるところがあった。塩入れをあちこちすべらせながら、髪の毛をなでつけつづけていた。香水の匂いを漂わせ、縞《しま》の青いワイシャツは洗ったばかりで清潔だった。まくり上げた袖《そで》を、古めかしい青いワイシャツ留めでとめていた。
やっと彼は、ためらいがちに咳《せき》ばらいをして言った――「あんたの来るちょっと前、夕刊を読んでたんだが。きょうはだいぶ騒動があったようじゃないか」
「そのとおりだ。何て書いてあったね?」
「待っててくれ。取ってこよう」ブラノンはカウンターから新聞を取り、ボックス席の仕切り壁にもたれかかった。「第一面にこう書いてある――これこれの場所にあるサニー・ディキシー・ショーにおいて大騒動起る。ふたりのニグロ、短刀で刺され重傷。他の三名も軽傷、市民病院へ運ばれ手当中、死者はジミー・メイシーならびにランシー・デイヴィス。負傷者はセントラル・ミル市の白人ジョン・ハムリン、ならびに黒人のヴェリアス・ウィルソンなどなど、と。そのまま読んでみるぜ――『逮捕者も多数にのぼった。今回の騒動は労働者の煽動《せんどう》によるものと見られ、破壊的内容のアジビラが、現場ならびにその付近より発見された。逮捕者は今後さらにふえる見込み』」ブラノンは音をたてて歯を噛《か》み合せた。「この新聞の組み方は日ごとに悪くなるばかりだ。≪破壊的≫が破|懐《ヽ》的となっているし、≪逮捕者≫は逮|補《ヽ》者だからな」
「なかなかやるじゃねえか」と、ジェイクはあざけるように言った――「労働者の煽動によるもの、か。こいつはいいや」
「ともかく、不幸な事件だったな」
ジェイクは口に手を当て、からになった皿を見おろした。
「いまからどうするつもりだね?」
「出て行くよ。きょうにもこの町を出て行くつもりだ」
ブラノンは爪《つめ》を手のひらでこすった。「ふむ、出て行く必要はないが――それもいいかもしれん。しかし、何でそうあわてるんだね? いま時分出てったって仕方がないじゃないか?」
「おれはそうしたいんだ」
「新しい出発はぜひ必要だと思うがね。しかしだ、おれの忠告も聞いたらどうだ? そりゃ、このおれは保守的な人間だ、あんたの考えは過激だと思ってる。だが同時に、物事のあらゆる面を知りたいと思ってる。ともかく、あんたにはしっかりしてもらいたいな。いっそ、いくらかでも自分に似た人間に会えるようなところに行ったらどうなんだ? そして、そこへ落着いたら?」
ジェイクはいらだたしげに皿を押しやった。「どこへ行くかはわからねえよ。放っといてくれ。おれは疲れてるんだ」
ブラノンは肩をすくめ、カウンターのところへ戻った。
ジェイクはほんとうに疲れていた。熱いラム酒と鈍い雨の音に、うとうととしてきた。安全にこのボックス席にすわり、うまいものを腹につめこむというのは、いい気分のものだった。望みならここにうつ伏し、うたたねをすることもできるのだ――ちょっとのあいだでも。すでに頭ははれ上がったようで重く、目を閉じているほうが気持よかった。だが、ほんのわずかしか眠ってはいられなかった。じきにここを出なければならなかったからだ。
「この雨はいつまでつづくね?」
ブラノンの声も眠たげだった。「わからんな――熱帯のどしゃ降り雨ってのは。急にやむかもしれんし――いくらか小降りになって、夜どおし降るかもしれんしな」
ジェイクは、両腕を組んだ上に頭を埋めた。雨の音が潮騒《しおさい》のように聞える。時計のコチコチ言う音や、遠くで皿のガチャガチャいう音が聞える。しだいに両腕から力が抜けてきた。やがて、手のひらを上に、テーブルの上に長く伸びてしまった。
ブラノンが肩をゆすり、顔をのぞきこんでいる。おそろしい夢を見ている最中だった。「起きろよ」とブラノンが言っていた――「悪い夢でも見たんだろう。こっちを見ると、口をあけて、しきりにうなったり、足ずりをしたりじゃないか。あんな苦しそうなうなされ方ははじめてだ」
夢はまだ心に重く残っていた。いつも目ざめのときに襲われる、あの同じおそろしさを感じた。彼はブラノンを押しのけ、立ち上がった。「うなされてなんて教えられるまでもねえや。どんな夢だったか、ちゃんと覚えてるんだ。それに、もう十五回以上おなじ夢を見てるんだ」
今度ははっきりと覚えていた。いつもは目ざめてから、どうしても夢をはっきりと思い出せないのだ。彼は大群衆の中を歩いていた――ショーのように。だがまわりの連中には、何か東洋的なところがあった。おろそしくまばゆい太陽が照りつけ、人びとは半裸体だった。みな黙りこくってのろのろと動き、顔には飢えの表情があった。物音は何一つ聞えない。ただ太陽と、黙りこくった群衆だけなのだ。彼はおおいのかかった大きな籠《かご》を持ち、人びとにまじって歩いていた。その籠をどこかへ持って行くところなのだが、持って行き場が見つからない。群衆の中をどこまでもどこまでもさまよい、いつまでもかかえている重荷をどこへおろせばいいかわからないというのは、夢の中でも奇妙な恐怖感があった。
「何の夢だね? 悪魔にでも追っかけられてたのかい?」とブラノンはきいた。
ジェイクは立ち上がり、カウンターのうしろの鏡のところへ行った。汗にまみれたきたない顔だった。目の下には黒い隈《くま》もできている。彼は蛇口《じゃぐち》でハンカチを濡らし、顔をふいた。それからポケット用の櫛《くし》を取出し、口ひげをきれいにとかしつけた。
「くだらん夢さ。なんでそれほどおそろしい夢だったのか、眠ってみなきゃわからんさ」
時計は五時を指《さ》していた。雨はもうほとんどやんでいた。ジェイクはスーツケースを取上げ、入口まで行った。「じゃあな。ハガキでも出すぜ」
「待てよ。いま出て行くことはないだろう。まだすこし雨も降ってるしな」
「日除《ひよ》けからしたたっているだけさ。日が暮れるまでに町を出たいんだ」
「まあ待たんかい。金は持ってるのかい? 一週間くらいやってけるくらいはあるのかい?」
「金なんかいらねえよ。無一文はこれがはじめてでなし」
ブラノンは封筒を用意していた。中には二十ドル紙幣が二枚入れてあった。ジェイクは紙幣の表裏をあらため、ポケットに入れた。「何でこんなことをしてくれるんだ? 二度とこの礼の顔は拝めねえぜ。まあ礼は言うぜ。忘れねえよ」
「元気でな。便りくらいよこせよ」
「|あばよ《アディオス》」
「そいじゃな」
扉はしまった。通りを一つほど行って振返ると、ブラノンは歩道に立って見送っていた。ジェイクは歩きつづけ、鉄道線路のところに出た。線路の両側には、二間だけのぼろ家がずっと並んでいた。狭い裏庭には、朽ちかけた共同便所があり、すすけたぼろばかりの干し物が洗濯紐《せんたくひも》にぶら下がっている。二マイルばかりのあいだ、快適さや広さや清潔さはどこにも見られなかった。大地そのものが汚らわしく、打捨てられているように見えた。ところどころ、野菜畑を作ろうとしたらしい痕跡《こんせき》が見られたが、いじけたちりめんキャベツがいくつか残っているだけだった。そして何本かの、実のなっていない黒ずんだいちじくの木。子どもたちがこの不潔さの中に群がっており、幼い子たちは丸裸だった。あまりにもむごい絶望的なこの貧困の図に、ジェイクはうなり声を上げ、拳《こぶし》を握りしめた。
町はずれまで来たジェイクは、国道へ折れた。車がつぎつぎに走り抜ける。彼の肩はあまりにがっしりと幅広く、腕も長すぎた。いかにも頑丈《がんじょう》そうで醜かったためか、だれも車に乗せてくれない。だがいずれ、トラックがとまってくれるだろう。夕暮れに近い太陽が、また顔をのぞかせた。日射《ひざ》しのため、濡れた舗道から蒸気が立ちのぼった。ジェイクは着実な足取りで歩いて行った。町がうしろになると、にわかに新しい力がわき起ってきた。だが、これは逃亡なのだろうか、それとも攻撃なのだろうか? ともかくも、いま彼は出て行くのだ。すべては、またの時を期してやりなおしだった。行く手の道は北に向い、いくらか西寄りに伸びていた。しかし、あまり遠くへは行くまい。南部を去るつもりはなかった。それだけははっきりしていた。彼の胸には希望があり、やがてまもなく、旅の輪郭も形を結んで来るだろう。
――夜
はたして何の役に立つのだろう? それがミックの知りたい問題だった。いったい何の役に立つというのだ? これまでめぐらしたすべての計画、そして音楽は。あれから生れたのは、ただこの罠《わな》だけだったのだ――店と、寝に帰る家、そしてまた店へ戻る生活。シンガーさんの働いていた店のおもての時計は、七時を指《さ》していた。ミックはようやく店から帰るところだった。残業があると、きまって支配人はミックに残ってくれと言った。他のどの娘よりも長く立っていられたし、よく働いたからだ。
はげしい雨が上がり、空は穏やかな薄青に染まっていた。夜の闇《やみ》が迫っていた。早くも明りがつきはじめていた。通りでは自動車の警笛がひびき、新聞売りの少年が新聞の見出しを呼ばわっている。ミックは家へ帰りたくなかった。いま家は帰れば、ベッドにうち伏し、うめき声を上げそうだった。それほど疲れきっていたのだ。だがニューヨーク・カフェへ行き、アイスクリームでも食べれば、気分はよくなりそうだった。タバコでもふかし、しばらくひとりきりでいたならば。
食堂の入口のほうは込んでいたので、ミックはいちばん奥の席へ行った。とても疲れているのは、腰と顔だった。勤務先での標語は、≪てきぱきと、にっこりと≫だった。ひとたび店から外へ出ると、顔をまた元どおりにするのに、長いあいだしかめっ面《つら》をしなくてはならなかった。耳まで疲れてしまった。ミックは、耳たぶをはさんでいる緑色のイヤリングを取去った。前の週買ったばかりの耳飾りだった――銀の腕輪といっしょに。最初は炊事器具売場で働いていたのだが、いまは装身具売場に移っていた。
「こんばんは、ミック」とブラノンさんは言った。彼は水のコップの底をナプキンでふき、テーブルの上にのせた。
「チョコレート・サンデーと、五セントのビールをちょうだい」
「両方いっしょにかい?」彼はメニューを置き、婦人用の金の指輪をはめた小指で指しながら言った――「そら、うまいロースト・チキンか、仔牛《こうし》肉のシチューがあるよ。軽い夕食をおれとつきあわんかい?」
「ううん、いいの。ほしいのはサンデーとビールだけ。どっちも、うんと冷たいのをね」
ミックは額から前髪をかき上げた。口をあけているので、両の頬《ほお》がくぼんで見える。彼女にとっても信じられないことが、二つも起っていた。シンガーさんが自殺してしまったこと。そしてもう一つは、彼女自身がおとなになり、ウールワースで働かねばならなくなったことだ。
シンガーさんを見つけたのは彼女だった。みんなはピストルの音を自動車のバックファイヤーの音だと思い、あくる日まで何も知らなかった。ミックはラジオを聞きにはいって行った。首筋は血だらけだった。パパがはいって来て、ミックは部屋から押し出された。彼女は家から外へ走り出た。あまりの衝撃に、じっとしていられなかった。暗闇へ駆けこむと、拳《こぶし》で自分の身体《からだ》じゅうを殴りつけた。翌日の晩、シンガーさんは棺に入れられ、居間に置かれていた。死顔を自然に見せるよう、葬儀屋の手で頬紅と口紅が塗られていた。しかし、すこしも自然には見えなかった。すっかり死に絶えていた。それに花の匂いにまじって、この別な臭《にお》いが漂っていたため、ミックは部屋にいられなかった。だがいまでは、眠るべきときにはちゃんと眠っていた。
ミックは脚《あし》が組めるよう、椅子に腰をかけたまま横向きになった。長靴下が一カ所、ほつれてきていた。働きに行く途中でほころびはじめたので、唾《つば》を塗っておいたのだ。ところがその後、伝線病はひどくなるばかりだったので、ほつれの先端にチューインガムの小さな玉を貼《は》りつけておいた。だが、それでもどうにもならなかった。あとはもう、家へ持って帰ってつくろうより仕方がなかった。いったい靴下をどうすればいいのか、彼女にもわからなかった。なにしろ、すぐさまはきつぶしてしまうからだ。地味で、木綿の靴下をはくような娘ならともかく。
この食堂へなんか、来るのではなかった。靴底もすっかりすり切れていたのだ。靴の半張りに、この二十セントは節約しておくべきだったのだ。もし穴あきの靴をはいて立ちつづけたら、どんなことになるだろう? 足に水ぶくれができるにちがいない。そしたら、焼けた針で突かなくてはならないだろう。仕事を休んで家にいることになり、あげくにはくびだ。くびになったらどんなことになるだろう?
「さあ、お待ちどうさま」とブラノンさんが言った――「こんな妙な取合せは聞いたことないね」
彼はサンデーとビールをテーブルの上に置いた。ミックは爪《つめ》を磨《みが》いているふりをしつづけた。うっかり注意を向けると、話しこまれてしまうからだ。もう恨みは持っていないようだから、ガムのことは忘れてしまったにちがいない。いまでは、年じゅう話しかけてこようとした。しかしミックは、静かにひとりでいたかった。チョコレートやらくるみやら桜んぼやらがいっぱいのったサンデーはおいしかった。それに、ビールは身体《からだ》の疲れが取れた。アイスクリームを食べたあとで飲むと、ほろ苦さがとてもこころよく、陶然とした気分にひたれた。音楽についでいいのはビールだった。
だがその音楽は、このところまるで心に浮んでこなかった。奇妙なことだった。まるで≪奥の部屋≫からしめ出されたようなものだった。ときには、ふっとみじかい調べが浮び消え去ることもあった――だが、もう前のように、音楽に満ちた≪奥の部屋≫へはいることはなかった。あまりにも緊張しすぎていたからだろう。それとも、店に時間と精力のすべてを吸い取られてしまったためかもしれない。ウールワースの店は、学校のようなわけにゆかなかった。前には学校から帰って来ると、いい気分で、すぐにも音楽に取りかかることができたものだ。ところがいまでは、いつもへとへとに疲れていた。家ではただ夕食を食べ、眠り、朝食を食べ、また店へ出かけるだけの毎日だった。二カ月前、こっそりノートに書きはじめた歌は、まだ完成していなかった。なんとか≪奥の部屋≫にいたいのだが、どうすればいられるのか、わからなかった。≪奥の部屋≫はどこか遠いところに、しまいこまれてしまったようだった。とても理解しがたいことだった。
ミックは、欠けた前歯を親指で押した。しかし、彼女にはシンガーさんのラジオがあった。月賦はまだぜんぶ払いきっていなかったので、彼女があとの支払いを引受けたのだ。シンガーさんの持物だった品を手もとに置いておけるのは、すばらしかった。やがてそのうち、中古のピアノを買う資金をすこしずつためられるようになるだろう。週に二ドルくらいずつ。そしたら、自分以外この専用ピアノに手を触れさせないのだ――ジョージにだけは小品を教えてやるが。奥の部屋に据えつけて、毎晩のように弾《ひ》くのだ。日曜には一日じゅう。だが、そのうちいつか、月賦が払えなくなってしまったらどうだろう? そのときは、弟の赤い小さな自転車みたいに、店の人が来て持って行ってしまうのだろうか? もし、どうしても渡さなかったらどうだろう? ピアノを家の下へ隠してしまったら? それとも、玄関で出迎えてやろうか。そして戦うのだ。男をふたり殴り倒してやるのだ。奴らは目のまわりにあざをこしらえ、鼻を折って、玄関の床に伸びてしまうだろう。
ミックは顔をしかめ、拳で勢いよく額をこすった。このところ、すべてはこんな具合なのだ。なんだか年じゅう腹を立てているようだった。それも、子どもがすぐにかんしゃくを起し、またすぐ忘れてしまうようなものではなかった――そんなのとは違った腹立ちだった。ただ、腹を立てるものが何もないのだ。店をのぞけば。しかし店にしても、彼女に働いてくれと頼んだわけではなかった。だから、腹を立てる理由は何もないのだ。だまされたような気分だった。だが、だれからもだまされたわけではないのだ。したがって、腹いせをする相手もなかった。それでもやはり、その気持はぬぐえなかった。だまされたという気持は。
しかし、ピアノの夢は現実となり、うまくゆくだろう。ひょっとすると、まもなくチャンスがつかめるかもしれない。でなければ、いったい何の役に立ったというのだろう――≪奥の部屋≫でいろいろ音楽について考えたことや、めぐらしたさまざまな計画は? 何にせよ、筋の通るものなら何か役に立つはずだ。そう考えれば、あの夢だって、そうだあの夢だって、あの夢だって……。何かの役に立つはずだ。
よしわかった!
それでゆこう!
何かの役に立つはずだ。
――夜
すべては静まっていた。ビフが顔や手をふいていると、テーブルの上にのった日本の小さな五重塔からぶら下がったガラスの垂《た》れ飾《かざ》りを、そよ風がチリチリと鳴らした。彼は仮眠から目をさまし、夜の葉巻をふかしたところだった。彼はブラウントのことを思い、もういまごろは遠くまで行っただろうか、と考えた。浴室の棚にのったアグア・フロリダ香水の瓶《びん》を取り、栓《せん》をこめかみに押しつけた。古い歌を口笛で吹きながら、彼は狭い階段をおりて行った。口笛の調べは、切れぎれのこだまをあとに残した。
ルーイは、カウンターのうしろで店番をしていなければならないはずだった。だがずるけているらしく、店内に人影はなかった。入口のドアは、人気《ひとけ》のない通りにあけ放たれたままになっている。壁の時計は、真夜中に十七分前を指《さ》している。ラジオが鳴っており、ヒットラーが画策したというダンツィッヒの危機について報じている。調理場へ行ってみると、ルーイは椅子にすわったままうたたねをしている。靴をぬぎ、ズボンのボタンもはずしている。首はがっくりとうなだれている。ワイシャツについた長いよだれの跡からすると、かなり長いあいだ眠りこけているらしい。両腕もわきにだらりと垂らし、そのままうつ伏せにころげ落ちなかったのがふしぎなくらいだ。ぐっすり眠りこけており、いまさら起しても仕方なかった。どのみち、今夜は客もなさそうだった。
ビフは爪先立《つまさきだ》ちで調理場を横切り、百日草《ジニア》をいっぱいさした水差しが二つと、オリーヴの籠《かご》がのっている棚のところへ行った。そして花を食堂のおもてへ持って行き、陳列窓からセロファンにくるんだ特別料理の皿をのけた。食べ物は見ただけでうんざりだった。みずみずしい夏の花を飾った飾り窓――それもよかろう。どのように飾ろうかと思案するのに、彼は目を閉じた。まず下には、緑色の涼しげなオリーブをまいてみよう。その上に、あざやかな百日草を盛った赤い陶器の鉢《はち》を置く。それだけで十分だ。ビフは念入りに飾りつけをはじめた。花の中に一本、六枚の花びらがブロンズ色で、二枚が赤い変種がまじっていた。彼はこの珍種をとっくりと眺め、別にとっておくためわきへ置いた。やがて飾りつけが終ると、通りに立って自分の手ぎわを眺めた。ぶざまな茎がちょうど程よく曲り、気の張らぬ落着きを与えている。電灯のおかげであまり見映《みば》えはしなかったが、いずれ日がのぼれば、効果もひとしおだろう。じつに芸術的な出来だった。
星のまたたく暗い夜空は、大地に近く見えた。ビフは歩道をぶらぶら歩いて行き、ちょっと立ちどまってみかんの皮を溝《みぞ》の中へ蹴とばした。つぎの通りのずっと先のほうでは、ふたりの男が腕を組んで立っていたが、遠くから見るとごく小さく、身動きもしていないようだ。この通りでおもて戸をあけ、中に明りをつけている店は彼のところだけだった。
どうしてなのだろう? 町の他のカフェがぜんぶしまっているというのに、彼の店だけ夜通しあけておくというのは、どういうわけだったのだろう? この質問はよく人からもされたが、どうもはっきりした答えは言葉に出てこなかった。金のためではなかった。ときには何人かつれだった客が現われ、ビールや掻《か》き卵《たまご》を注文し、五ドルか十ドルほど使って行ってくれた。しかし、そんなことはまれだった。たいていはひとりずつやって来て、ほんのちょっとだけ注文し、いつまでもねばってゆくのだ。また夜によっては、十二時から朝の五時まで、ひとりの客もないことがあった。終夜営業には何の利益もなかった――それだけは明らかだった。
しかし、彼はどうしても夜間店をしめようとしなかった――この食堂をつづけるかぎり、しめるつもりはなかった。夜はおもしろかった。夜以外にはお目にかかれないような客が現われた。何人かの常連は、週に数回きまってやって来た。しかしそれ以外の連中は、ただ一度だけやって来てコカ・コーラを飲み、それっきり二度と現われなかった。
ビフは腕を組み、さらにゆっくりと歩いた。街灯の丸い光の輪の中で、彼の影は角ばって黒く見えた。夜の平和な静けさが、彼の心にもはいりこんでいた。いまは休息と瞑想《めいそう》の時間だった。彼が廊下にいて眠らないのも、そのためだったのだろう。もう一度すばやく人通りの絶えた街路を見まわしてから、彼は店の中へはいった。
危機をはらんだ声は、まだラジオから流れていた。天井の扇風機が静かにうなっている。調理場からはルーイのいびきが聞えてくる。ビフはふとあわれなウィリーのことを思い出し、そのうちウイスキーを一瓶送ってやろうと心に決めた。彼は新聞のクロスワード・パズルに目を向けた。まん中には、鍵《かぎ》として女の絵が出ていた。女の名がわかった彼は、いちばん上の空所に、モナ・リザと書き入れた。縦の一番は、mではじまり九文字の、乞食《こじき》という意味の語だった。mendicant(物もらい)だ。横の二番は、どこか遠くへ移るという意味の語だ。eではじまる六文字の語でなければならない。elapseだろうか? 彼はいくつか試みに組み合せてみた語を口にしてみた。eloignだ。だが、彼は興味を失ってしまっていた。こんなパズルをやらずとも、世の中に謎はたくさんある。彼は新聞を折り畳み、片づけてしまった。いずれまた、あとでやるとしよう。
彼は、先ほど取っておこうとした百日草をよく眺めた。手のひらにのせ明りのほうへ近づけてみると、それほどの珍種ではなかった。取っておくほどのものではなかった。あざやかな色合いのやわらかい花弁をむしってゆくと、最後の一枚は≪愛≫と出た。だが、だれを愛せよというのか? いま自分はだれを愛しているのだろう? 特定のひとりの相手はいなかった。通りからはいって来て、一時間もすわり、何かを飲んで行くまともな人間ならばだれでもよかったのだ。だが、特定の相手はだれもいなかった。彼にも色恋沙汰《いろこいざた》はあったが、もうみんな終ってしまった。アリス、マデライン、そしてジップ。もう終ってしまったのだ。あの女たちのおかげで、自分は成長したのだろうか、墜落したのだろうか? どちらだろう? それは見方しだいだろう。
そしてミック。ここ何カ月のあいだ、彼の心の中に奇妙に生きつづけてきたあの少女。あの愛も、やはり終ったのだろうか? そのとおり。あれも終ってしまったのだ。宵の口になると、ミックは冷たい飲み物かサンデーを飲みにやって来た。いつのまにかおとなになってしまっていた。これまでのがさつな子どもっぽいところは、ほどんど消えてしまっていた。そしてそのかわりに、どことなく女らしい、こまやかさがそなわっていた。耳飾りや、腕輪の飾り、そして両脚を組み、スカートの裾《すそ》を膝《ひざ》の下まで引っぱりおろす、これまでになかったしぐさ。ビフはそういう彼女を見守ったが、一種の暖かい気持しか感じなかった。これワでの気持は彼の心から消えてしまった。ここ一年のあいだ、奇妙に花を咲かせてきた愛情だった。これまで何百回となく自問し、ついに答えを見いだせなかった愛情だった。ところがいま、九月にしおたれる夏の花のように、その愛は消えてしまったのだ。愛する相手は、もうだれひとりいないのだ。
ビフは人差し指で鼻先を叩いた。ラジオでは外国語の声がしゃべっていた。その声がドイツ語か、フランス語か、スペイン語か、彼にははっきりとわからなかった。ともかく、それは破滅の声のようにひびいた。その声を聞いていると、彼はいたたまれない不安を覚えた。ラジオを消すと、静けさはとぎれなく深かった。彼は店の外の夜を感じた。孤独感が彼をしめつけ、息がせわしなくなった。もうルシールに電話をかけ、ベイビーと話をするには夜も遅すぎた。さりとて、こんな時刻に来る客があるとも思えない。彼は入口まで行き、通りを右から左へと眺めた。人影はなくまっ暗だった。
「ルーイ」と彼は声をかけた――「起きてるんか、ルーイ?」
答えはなかった。彼はカウンターに頬杖《ほおづえ》をついた。濃い口ひげのある顎《あご》をあちこちと動かすうち、額はしだいにけわしさを加えた。
謎。彼の胸に根をおろし、彼を休ませようとしない問い。シンガーやその他の連中にまつわる謎。そもそものはじまりから、はじめて唖《おし》を見かけてから一年以上になるのだ。ミックがその唖のあとをつけてまわりはじめてから、一年以上たつのだ。そしてシンガーが死に葬られてから、いまはもう一カ月になる。だが、謎はまだ胸の中にあり、彼の気持は安らぐことがなかった。何か不自然なものがあった――醜い冗談のようなものが。そのことを考えると、彼は不安を覚え、なぜかおそろしさを感じた。
葬儀は彼が引受けた。みんなが何もかも彼に押しつけてしまったのだ。シンガーの身辺整理はたいへんだった。月賦で買った品の支払いがたまっていたし、生命保険の受取人は故人になっていた。埋葬をすませるのがやっとだった。葬儀は正午に行われた。湿っぽい墓穴のまわりに立った参列者の上に、太陽は遠慮えしゃくなく照りつけた。強い日射《ひざ》しに花もちぢれ、茶色に変ってしまった。ミックはあまりはげしく泣きすぎて息がつまり、父親が背中を叩いてやらねばならなかった。ブラウントは拳を口に当てがい、おそろしい形相で墓穴を見つめていた。あわれなウィリーとは血つづきになるらしい黒人の医者は、会衆のはじに立ち、呻《うめ》き声をもらしつづけていた。だれもこれまで見かけたことも聞いたこともない、見知らぬ連中も来ていた。どこから来たのか、なぜ葬儀に来たのか、だれも知る者はなかった。
店内の静けさは、夜の闇《やみ》と同じように深かった。ビフは瞑想《めいそう》にふけり、化石になったように立ちつくしていた。と、とつぜん、彼は身体の中に胎動を覚えた。めまいを覚えた彼は、カウンターにもたれかかった。一瞬の光明の中に、彼は人間の苦闘と勇気を垣間見《かいまみ》たのだ。無限の時の中を流れてゆく、人間の永遠の営みを。労働する人間の姿、そして――ただのひとことだが――愛する人間の姿を。彼の魂は大きくひろがった。だが、それも一瞬のことだった。彼の心は警告と、恐怖の矢を感じていたからだ。彼は二つの世界のあいだに宙吊《ちゅうづ》りになっていた。彼の目の前のカウンターの鏡に映った自分の顔を、じっと見入っているのに気づいた。こめかみには汗が光り、顔はひきつっていた。片方の目は、もう片方の目よりも大きく見開かれている。左の目は深く過去の中を探ろうとし、大きく見開きおびえた右目は、暗黒と過失と破滅の未来を見つめていた。彼は光明と暗闇の中間に宙吊《ちゅうづ》りされていたのだ。苦い皮肉と信仰のあいだに。彼はにわかに顔をそむけた。
「ルーイ! ルーイ! ルーイ!」と彼は叫んだ。
またしても返事はなかった。いったい全体、おれは分別のある人間なのだろうか? そうではないのだろうか? 何が惹《ひ》き起したかも知らぬこの恐怖感に、なぜこうまで苦しまねばならないのだろう? おれはただおびえたまぬけのように、ここにつっ立っているだけなのだろうか、それとも気を取りなおし、思慮のある行動をしようというのか? つまりは、おれははたして分別のある人間か、そうでないかということだ。ビフは蛇口《じゃぐち》でハンカチを濡らし、ひきつりこわばった顔をはたいた。ふと彼は、おもての日除《ひよ》けをまだ上げていなかったのを思い出した。入口のほうへ歩いて行く彼の足どりはたしかだった。ふたたび店の中へ戻った彼は、気を静め、やがてのぼる朝の太陽を待った。(完)
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解説
マッカラーズ――人と作品
カースン・マッカラーズ(Carson McCullers)は、一九一七年二月十九日、アメリカ南部ジョージア州コロンバスの町に、三人きょうだいの長女として生れた。父親は、この物語に出てくるミック・ケリーのパパのように、田舎町の時計・宝石商だった。
彼女は幼いころから非常な読書家で、町の公立図書館にある文学書は、ほとんどみな読んでしまったといわれる。輝かしい将来を持った天才児として、両親の夢を一身に負わされた彼女は、きょうだいの中でもいちばんかわいがられ、五歳のときには父親からピアノを買い与えられ、数日後には小さな曲を作曲していたという。とても背の高い少女で、ミック・ケリーのように、はじめてのダンス・パーティでも男の子たちはただ彼女を見上げるばかりで、だれもがダンスに誘ってくれず、子どもたちからは「上のほうは涼しいかい?」とからかわれ、おとなたちには、頭の上へ煉瓦をのせておくといいよ、と言われたりした。
家にはニグロの召使がおおぜいいたため、暑い夏の日の午後など、女中たちと台所で長いおしゃべりを楽しみ、そのときの経験がのちに『心は孤独な狩人《かりゅうど》』(The Heart is a Lonely Hunter, 1940)のポーシャや、『結婚式の参列者』(The Member of the Wedding, 1946)のベレニスなど、印象に残るニグロの作中人物を生み出した。また家が綿工場の近くにあったため、工場に出入りする貧しい労働者たちの姿を子どものころから見かけており、それがこの物語や『悲しい酒場の唄』(The Ballad of the Sad Cafe, 1951)に見られるプロレタリア階級への強い同情となってあらわれている。社会主義的関心は、一九三〇年代作家の特徴の一つでもあるが、マッカラーズの場合には、常に冷静で暖かい作者の目を背後に感じないわけにはゆかない。
十二歳のとき、近くの陸軍基地にいた将校の夫人でピアノの名手であったメアリ・タッカー夫人から、正式にピアノのレッスンを受けることになった。まずバッハから教わり、バッハは終生彼女のもっとも好きな作曲家のひとりとなった。コロンバスのハイスクール時代も、毎日四時間はピアノに向い、他の学科はようやく合格点がとれているていどでお茶を濁していた。好きな学科は、音楽と作文だった。
十五の齢《とし》で、彼女ははじめて実験的な創作戯曲を書いてみた。ユージン・オニールに傾倒していたため、幕あきは墓地、最後の場面は霊柩車《れいきゅうしゃ》で終るという、近親|相姦《そうかん》と狂気と殺人をやたらにつめこんだ作品だった。娘の文学的才能に驚いた父親は、今度はすぐにタイプライターを買い与えた。彼女はさっそく、ニーチェとイエス・キリストのふたりを主人公にした短編を書き上げ、D・H・ロレンスの『息子と恋人』をまねた作品をものしたりした。十七歳で書いた『お人良し』(Sucker)という短編は、ずっと後になってサタデイ・イヴニング・ポスト誌にひろわれたが、すでに≪挫折《ざせつ》した愛≫そして≪孤独≫という、後の作品の基調となる二つのテーマが扱われている点で興味が深い。
高校卒業後、タッカー夫人がカリフォルニアへ移ったため、秀《すぐ》れたピアノ教師を失ったカースンは、コンサート・ピアニストをめざして、ニューヨークのジュリアード音楽院に学ぶ決意を固めた。母方の祖母から遺《のこ》されていたダイヤとエメラルド入りの指輪を売り、一応十分な学資も準備ができた。もし音楽がうまくゆかなかった場合は、文学で身を立てるつもりだった。だが一九三五年、一家の期待をになってニューヨークに着いた彼女は、はじめての大都会生活がおそろしく、ほとんど毎日メイシー・デパート内の電話ボックスに入りこんで、何時間も本を読んでいたという。いつも全財産をハンドバッグに入れて持ち歩いていたため、下宿を世話してくれた同郷の友人が、金を預かろうと申し出てくれた。しかし、金を預けた翌晩、その友人は地下鉄の中で、彼女の全財産をそっくりなくしてしまった。≪友人≫の狂言だったかもしれないが、これが計らずも、ひとりの偉大な作家を生むきっかけとなった。授業料と生活費のすべてを失ってしまっては、音楽学校は断念しなければならなかった。コンサート・ピアノストの夢を捨てた彼女は、昼間は働き、夜はコロンビア大学夜間部の創作クラスに出席することにした。タイピスト、ウェイトレス、事務員、ダンス教習所のピアノ弾《ひ》きなど、さまざまな職を転々としたが、何をやってもすぐにくびになってしまった。しかしこの不遇時代にも、トルストイ、ドストエフスキー、プルースト、フローベール、フォークナー等を読みつづけた。たまたま、コロンビア大学の創作クラスを教えていたホイット・バーネットは、一九三〇年代から四〇年代へかけての有力文芸雑誌ストーリー誌の編集長でもあり、彼女の『神童』(Wunderkind)ほか一編の短編を雑誌に採用してくれた。これによって、カースンは作家として立つ自信を与えられた。
一九三七年の夏、故郷の町に帰ってきたカースンは、友人を通じて、若い陸軍下士官ジェイムズ・リーヴズ・マッカラーズに紹介され、たちまち彼と恋におちた。大学教育こそ受けてはいなかったが、やはり彼女と同じ作家志望の好青年だった。そして秋には、除隊したリーヴズと結婚、貧しくはあったが幸福な時期だった。彼女はその後の二カ年を、処女長編作となる『心は孤独な狩人』の完成に専念することにきめ、作品の概要をヒュートン・ミフリン出版社に送ってみた。幸運にも、千五百ドルの創作奨励金を獲得することができた。やがて、同出版社から一九四〇年春に出版されたこの作品は、読書界に絶讃《ぜっさん》をもって迎えられ、二十二歳の若い女性によって書かれたという事実とともに、大きな反響を呼んだ。「若い作家が、よくもこれだけ男や女や子どもの孤独な心について知り得たものだと驚かざるを得ない」(ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙)と、有力新聞は書評し、当時すでに令名の高かった黒人作家リチャード・ライトも、「彼女の描く絶望の質は、独特で個性的なものだ。私には、フォークナーのそれよりも自然で確かなものに思える……この作品で何よりも感動的なのは、南部文学においてはじめて、あたかも自分と同じ民族を描いているかのごとく楽々とそして的確に、白人作家がニグロの登場人物を扱っている、その驚くべき人間性である」と讃辞を贈った。
すでに彼女は、第二作である『金色の目に映った影』(Reflections in a Golden Eye, 1941)の完成をいそいでいた。D・H・ロレンスの短編『プロシャの士官』をモデルに、フォークナーの『サンクチュアリ』の影響下に書かれた、きわめて緊張度の高い現代風ゴシック小説で、平和時の陸軍駐屯地という閉ざされた世界を背景に、同性愛、窃盗、麻薬中毒、殺人をはじめ、自虐淫乱症《じぎゃくいんらんしょう》、観淫倒錯症、狂気など、あらゆる人間心理の暗黒面が克明に描かれた重苦しい中編であるが、一貫して流れるテーマは、やはり第一作と同じく、個人の精神的孤立に焦点がおかれていた。背景となった陸軍基地や、そこでの殺人事件は、かつてのピアノ教師タッカー夫人や、夫リーヴズから聞いた挿話《そうわ》が素材になったようである。象徴的な色彩の濃い作品だけに、批評は賛否の両極端に分かれたが、文学的な密度の高い特異な佳作であると言ってよかろう。
しかしこのころ、カースンはすでに夫に幻滅を覚えはじめていた。人好きのする好ましい男性ではあったが、人間的な深みに欠け、知的な心のふれ合いを求めて得られる相手ではなかったからだ。一九四〇年の暮れ近く、カースンは正式に彼と離婚した。離婚後はニューヨーク郊外の≪二月の家≫と名づけられた下宿へ移り、そこに数年間滞在することになった。英詩人のW・H・オーデンやルイ・マクニース、作曲家のベンジャミン・ブリテン、オペラ歌手のピーター・ピアース、作家のクリストファー・イシャウッド、リチャード・ライト、そしてストリッパーのジプシー・ローズ・リーなども住んだことのある、芸術家のコロニーだった。一九四二年には、短編集『木・岩・雲』(A Tree, A Rock, A Cloud)が出版され、O・ヘンリー賞を授けられた。だが刺激の強すぎる生活に徐々に疲れを覚えはじめた彼女は、この間にはげしい発作に襲われた――幼いころかかったリューマチ熱が原因の心臓発作だった。
一九四三年には、アメリカ文芸家協会から一千ドルの賞を受け、またグッゲンハイム創作奨学金も受けた。この二つの賞に経済的に助けられ、コロンバスに戻ったカースンは五年間を費やし、自伝的色彩の強い『結婚式の参列者』を書き上げた。またこの間に、中編『悲しい酒場の唄』も発表、いずれも好評を博し、前者はテネシー・ウィリアムズのすすめで舞台化され、後には映画化もされた。一九四五年二月には、ヨーロッパ戦線で負傷したかつての夫リーヴズが帰還し、彼と再婚することになった。おそらくは同情心から、一度は離婚した同じ相手とふたたび結ばれたのだ。再婚後はふたりでパリに移り住んだが、その間に彼女の健康はさらに悪化。次作の『針のない時計』(Clock Without Hands)に取りかかっていたが、夫リーヴズは深酒にひたり、麻薬にも耽溺《たんでき》し、あげくには心中を迫るにいたった。身の危険を感じた彼女は、夫をおいて単身ニューヨークへ帰った。数週間後、彼がパリの宿で自殺したという電報が届いた。夫の死後、リーヴズとの生活を題材にした戯曲、『ふしぎの平方根』(The Square Root of Wonderful, 1958)を発表したが、評判は芳しくなかった。一九六一年春には、ニューヨーク近郊のナイアックで、『針のない時計』を完成、これが最後の作品となった。すでに左半身は不随となり、一日一ページの割で、片手でやっとタイプを打ちつづけるという苦しい執筆生活だった。彼女自身の運命を予言するかのような、白血病で余命十五カ月と宣告された薬剤師マローンの物語であるが、「経験の上《うわ》っ面《つら》をなでただけで感動に乏しい作品」(フレデリック・ホフマン)と評された。翌六十二年には乳癌《にゅうがん》の手術や、大腿骨《だいたいこつ》の手術などを受け、その後は病床に伏したきりの生活を余儀なくされていたが、一九六七年九月二十九日、関節炎が昂《こう》じて、この寡作な南部作家は五十歳で世を去った。「数多い南部作家の中で、長く残り得る作家はカースン・マッカラーズであろう」とは、同時代の作家ゴア・ヴィダールの言葉である。
『心は孤独な狩人』について
われわれ読者をはじめ研究家にとってはなはだ幸福なことに、マッカラーズ自身が出版社に送りそして創作奨学金を得た、いわばこの作品の青写真に当るものが残されている。それによると、作者の考えていた最初の題名は『唖《おし》の男たち』(The Mute)だったが、出版社の意向で現在のようになったようである。(なお現在の題名は、フィオナ・マクラウドの詩、『孤独な狩人』の中の、「わたしの心は孤独な狩人、淋《さび》しい丘に狩りをする」から採ったものであろう)作者の計画によると、まず物語の背景となっている時代と場所は――
「いつの時代、どの場所で起ってもかまわぬ物語であるが、おおよそ一九三〇年代のアメリカの南部。町の名は物語中には明示されていないが、アラバマ州に隣接したジョージア州西部で、チャタフーチー河にそった地方。町の人口は約四万人。そのほぼ三分の一はニグロ。典型的な工場町で、商業地区は紡積工場と小さな商店街を中心にかたまっている。労働者は組織化されておらず、貧困が町を支配し、労働者は無気力な状態にある。彼らは貧困と失業の原因を探ろうとせず、自分たちより低い地位にある唯一の社会的グループ――ニグロたちに軽蔑の矛先《ほこさき》を向けている……」
そしてこの町と時代を背景に、それぞれ自分よりも大きな存在との精神的融合を求める、五人の孤独な魂の渇《かわ》きと挫折が、均衡のとれた綿密なプランに従って「体位法的に組み立てられて」いる。ふたたび作者の青写真によれは、「遁走曲《フーガ》におけるそれぞれの声部のように、主《おも》な登場人物は一人ひとりが完全なものであるが――他の人物と対比され、編み合わされて、新しい豊かさを持つ」ように配置されているのだ。各章はそれぞれ主要な登場人物一人ひとりに割り当てられ、そのそれぞれが、主題であるジョン・シンガーの運命とからみ合わされ、変奏として主題のまわりに展開されてゆく。
「町にはふたりの唖がいた。ふたりはいつもいっしょだった。毎日朝早く家を出ると、腕を組んで町の通りを働きに出かけた。しかし友人同士とはいえ、まるで違ったふたりだった……」と、物語は一種の伝説物語のような語り口ではじめられている。特にシンガーにまつわる部分は、寓話《ぐうわ》かたとえ話のような口調になっていることに注目してよいであろう。ピアニストを目ざしていた作家の内的なリズムがあふれ出たのか、文章はこころよい律動に脈打ち、「悲しさ」「寂しさ」「うつろさ」「退屈さ」といった言葉が効果的にくり返されて、われわれはけだるくよどんだ田舎町の昼下がりの時間の中へ、人間存在の孤独という閉ざされた次元のまっただ中へと、引きずり込まれる。
主人公である唖で聾《つんぼ》の男の名がシンガー(歌い手)というのは、多分に逆説的であり、象徴的であると言わねばならない。ユダヤ人の彼は、かつての相棒であるオナニスト(「ひそかな自分ひとりの楽しみをのぞくと……」)アントナープロスに異常なばかりの傾斜を見せるが、その(同性愛的)愛情は報われない。そのシンガーに、多感な少女ミックはほのかな思いを寄せるが、当のシンガーは「(あの子は)ぼくがつんぼだということは知っているくせ、ぼくには音楽がわかると思っているのです」と友人に打ち明け、少女の思慕には気づかない。またそのミックに、ニューヨーク・カフェの主人ビフ・ブラノンは年甲斐《としがい》もなく愛情を感じているが、ミックは彼を気味悪く思うばかりで寄せつけない。また全ニグロ人種の救済を目標にし、自己否定に徹するコープランド医師は、肉親からも同胞からもおそれられ、その努力は実らない……このように、作中人物はそれぞれ≪報われざる愛≫の連鎖関係によって結びつけられている。だが、連鎖の輪の要《かなめ》をなす唖のシンガーは、まわりの連中が彼の中に見ている神のような人格を、実際は持ち合せていない。アントナープロスに宛《あ》てた(投函されない)手紙の中で、彼は意外なことを打ち明ける――「みんなぼくの部屋へ話しにやって来るのですが、よくもあんなにあきもせず、口をあけたり閉じたりできるものだと感心しています……ひげのある男は、気違いじゃないかと思います……ぼくにはわけがわからないので、きみに報告します。きみならわかってくれるでしょう。まったく狐《きつね》につままれたような気分です」
シンガーの中に、あるいはキリストのイメージを見、あるいはドストエフスキーの『白痴』のムイシュキン公爵との類似を考えはじめた読者は、ここでいきなり足をすくわれたような衝撃を味わわされる。報われざる愛の連鎖の輪はついに解けぬまま、シンガーの死とともに凍結されてしまうのだ。革命の夢破れたジェイクは、あらたな夢をつなぐ土地を求めて町をのがれてゆく。ニグロ人種の解放に挫折したコープランド医師は、老いさらばえた駄馬に曳《ひ》かれ、老父の待つ農園へ運び去られる。そして、女流の大作曲家・名指揮者になろうという夢を手作りのヴァイオリンに託していたミックは、≪てきぱきと、にっこりと≫を標語とする十セント・ストアの女店員としてカウンターに立ち、顔の筋肉が元に戻らなくなるまで笑顔を作りつづけなければならない。わずかに、登場人物全員の挫折を見とどけたニューヨーク・カフェのビフ・ブラノンだけが長い夜を終え、「やがてのぼる太陽を待つ」のだが、はたしてきのうと違った朝が明けるのだろうか?
一九七二年一月初旬 横浜にて(訳者)