ザッヘル・マゾッホ/小野武雄訳
毛皮を着たヴィーナス
目 次
毛皮を着たヴィーナス
美しいモデル嬢の復讐
マゾッホ略伝
マゾッホの文学について
毛皮を着たヴィーナス
一
そのとき、ヴーナス夫人はとても色っぽかった。
ルネサンス風のどっしりとした暖炉のそばの肘掛椅子に腰掛けていたが、彼女は、ヴィーナスという匿名で、競争相手のクレオパトラ嬢などにいどみかかる世間なみの気まぐれな女性などとはまったく違っていて、愛の女神そのものであった 。
暖炉の火が音をたてて燃えあがるにつれて、その反射は赤い焔となって、彼女の青白い顔のうえを走った。彼女があたためようとしてさしのべた脚にも、赤々と照りはえた。
彼女の目は動かず顔は無表情であったが、すばらしく美しかった。豪華な毛皮のなかに大理石のような肌の五体をすっぽりとつつんで、猫のようにふるえながらじっとうずくまっていた。
「どうも僕にはわからない」
とわたしはつぶやいてから、
「この二週間ばかり、陽気はすっかり春めいてきたのに、あなたは寒いなんて、ちょっと神経質すぎるんじゃないですか?」
「ご親切さま」
彼女は石のようにかたく低い声で答えてから、二度ばかり、女神のようなしぐさで、くしゃみをした。それから、
「わたし、こんな土地にはもう、がまんできないわ。それに、わたしにも様子がわかってしまったから……」
「なにがですか?」
「わたし、信じられないようなことが信じられはじめたので、それでわからないようなことが、わかりはじめたのよ。つまり、ドイツ人の婦徳とか、哲学とかが、急にわかってきましたのよ。あなたのような北国の人が恋の仕方をご存じなくても、わたし、もうおどろかないわよ」
わたしは内心、ちょっとむっとして、
「あなたから、そんなふうにいわれるとは――」
「まあ!」
女神のような彼女は、三度目のくしゃみをして、それから、いともしとやかに肩をすくめて笑ってから、
「それだからこそ、わたし、いつもあなたのために、つくしてあげてきたのよ。こんな毛皮を着ていても、風邪ばかりひいているけど、ちょいちょい会いにきてあげているではないの。はじめてお会いしたときのことを、おぼえていらっしゃる?」
「忘れてなんかいるものですか。あなたは髪の毛を鳶《とび》色のカールにして、鳶色の目と紅の唇をしていました。リスの毛皮で縁どった紫がかった青いビロードのジャケットを着ていました」
「あなたは、わたしの衣装に恋したのね。ですからあなたって人は、わたしにはとても扱いやすかったわ」
「それであなたは、ボクに恋愛がどんなものかを教えてくれたのですね」
「わたしがあなたにつくしてあげた誠実は、なにものにもくらべようがなかったほどよ」
「それが誠実というものであったのなら」
「まァひどい、恩知らずの義理知らず」
「いや、ボクはあなたを責めているわけではありません。あなたはわたしの女神です。しかし女はやはり女ですから、恋愛には残酷ですね」
「その残酷というのはね……」
と彼女は熱意をこめて、
「女性の愛情の根源で、女性のもって生まれた性質なのよ。愛する者には、自分の全部をあたえるし、喜ばしてくれるのもなら、なんでも愛するという自然の要素なのよ」
「愛する女性が不実、これ以上、男性にとって残酷なことはありません」
「わたしたちは、愛しているかぎりは決して心変わりなんかしないわ、それなのに男って変よ。愛していないのに女には貞節を要求するし、なんの喜びもあたえてくれないのに、身を捧げろ、身体を許せとおっしゃるのですもの。これではどちらが残酷でしょうか。女のほう、それとも男のほう? 北国のかたは恋をするのにもかた苦しく考えすぎるわね。たのしみだけを問題にしていればいいのに、すぐに義務がどうの、こうのというのね」
「それは、わたしたちの愛情が尊敬すべきもので、誠実なもので、わたしたちの関係が永遠のものだからですよ」
「そのくせいつも満足しないで、異教の裸像であるわたしを慕っていらっしゃるのね。神様の純粋な恋の最高の喜びは、反省の子供のような近代人のものではないわね。喜びの恋愛は、あなた方の心のなかでは、悪徳にだけ結びついているのだわね。あなた方の世界ではわたし、こごえてしまいますわ」
美しい大理石の彼女は軽い咳をしてから、黒|貂《てん》の毛皮を肩から首のまわりに引き寄せた。
「しかし男と女とは……」 とわたしは答えて、
「あなた方の明朗な太陽の輝く世界でも、ボクたちの霧が立ちこめる世界でも、仇同士ですよ。これだけは、いくらあなたでも否定できないでしょう。ほんの短い間だけならば、恋愛のなかで男と女は融合してひとつの人格ともなり、ひとつの思想、ひとつの感覚、ひとつの意志にもなれますが、そのあとでは前よりずっと遠くへ離れてしまいます。どちらかが相手を服従させそこなうと、たちまち足で首根っこをふみつけられます。それだからこそ、ボクは幻想なんか抱かないのです」
するとヴィーナス夫人は傲然《ごうぜん》としたあざけりの調子で叫んだ。
「するとあなたは、なんの幻想も抱かないで、わたしの奴隷になっているわけね。いいわ、それならその意味で、これからはわたしは、容赦なくわたしの足の重みをあなたに十分感じさせてあげるわね」
「そんなバカなこと!」
「そうよ、わたし残酷よ、あなたはこの言葉をとても好んで喜んでいらっしゃいますからね。……どういうふうにして男を征服し、奴隷にし、おもちゃにし、笑いながら裏切ってやるか、それを知らない女性は利口じゃないわね」
「それは、あなただけの考えでしょう」
「何千年もの経験の結果よ」
彼女は白い指で暗色の毛皮をもてあそびながら、皮肉にいった。そして言葉をつづけて、
「女が献身的になればなるほど、男はいよいよ落ちついて権威をふるうけど、女が残酷になって薄情になり、不実になって、手ひどく男を扱い、勝手気ままにほかの男たちとたわむれれば、それだけ男の欲望をそそり、男から愛され、崇拝されるものよ」
「たしかに」
とわたしはいった。
「このうえもなく男をひきつけるのは、美しく情熱的で残酷で暴虐な女でしょう。移り気で平気で男をかえて気ままな恋をする女で……」
「そのうえ豪奢な毛皮を着ている女」
「それはどういう意味ですか?」
「あなたのお好みよ」
「あなたは、この前にあったときにくらべて、ずいぶん魅力的になりましたね」
「どこが?」
「あなたの白い肌のからだをひきたてるには、黒い毛皮以上に効果的なものはありません。それから……」
わたしの言葉をさえぎって、女神のような彼女はホホホと笑ってから、叫ぶように、
「あなたは、夢を見ていらっしゃるのよ。さあ、お目をさまして!」
といって、白い手でわたしの腕をぎゅっとつかみ、
「さあ、お目をさまして!」
と低音のしゃがれ声でくり返した。
わたしはハッとしてその手をみた。すると、それは白い手ではなくて赤銅色のゴツい手であった。耳に響いたのは、コサック生まれの酒のみの下男のドラ声であった。六尺豊かな大男の彼が、わたしの前にぬっくと立っているのだった。
「おきてくだせえ、旦那さま、みっともねえですよ」
「なにが?」
「外出着のまま、本をほうり出してねむっているなんて!」
彼はローソクの芯《しん》を切り、わたしの手からすべり落ちた本をひろいあげた。そして本の題名を読んで、
「哲学者ヘーゲルの本か。それはとにかく、もうゼフェリンさまのお宅へ出かけねばならない時刻です。お茶の用意をして待っておられるそうですから」
「奇妙な夢ですなァ」
ゼフェリンは、わたしの話を聞き終わると、膝の上に両肘をのせ、美しい血管のすいて見える手で頬杖をついて、深く考え込んでしまった。
彼はガリシアの貴族で地主で、まだ三十を過ぎていなかったが、おどろくほどの節制とまじめさと、学者ぶりを身につけていた。そして自分の考えを時計のように正確に組み立てた哲学的で実際的な方法で、寒暖計か晴雨計のように生活してきた。しかしときどき彼は不意に激情の発作におそわれて、まったく無茶な振舞いをしてきた。
彼が考え込んでいる間に、暖炉の煙突のなかでは火焔がうなり、大きな由緒深い湯わかしが蒸気の歌声をあげていた。わたしは葉巻をくゆらせながら、古い揺り椅子に腰かけていた。古い壁のなかではコオロギが鳴きつづけていた。 部屋の中には、珍しい道具や動物の骨格や鳥の剥製や地球儀や石膏の模型が、ところ狭く置いてあった。それらを見ていくうちに、わたしの目は一枚の絵に吸い寄せられてしまった。
それはこれまでにも何度か見た絵だが、今日はいつもとは違って、暖炉の赤い火焔の反射で、わたしの心に異様な印象をあたえた。その絵の図柄は――
一人の美しい女性がはればれしい表情でほほえみを浮かべ、豊かな髪の毛を古典的にたばね、白霜のような化粧用の髪粉をまぶし、寝椅子に左腕をかけてからだを支えてくつろいでいる。黒い毛皮を背景にして裸体である。右手では一本のムチをもてあそび、足もとに奴隷か犬のように身を横たえている男のからだのうえに片足を無造作にのせている。男のととのった顔には憂鬱の影と情熱と献身の色があらわれている。彼は殉教者のように法悦に燃える目つきで、じっと彼女を見あげている。その容姿は十年くらい前のゼフェリンの姿そっくりである。
毛皮につつまれているヴィーナス! わたしはその絵を指さして、そう叫ぶとともに、
「ボクが夢のなかでみた彼女も、あんなふうでしたよ」
と、そばのゼフェリンに言葉をかけた。すると彼も、
「そう、ぼくも見たのだ」
と即座に応じてから、
「ただ君と違うのは、ぼくは目を開いたままあの夢を見たのさ」
「ほんとうですか?」
「そう、でもぼくのは、つまらない話さ」
「しかし、とにかくこの絵はボクの見た夢を暗示しているようだ。その絵の意味を説明してくれませんか。おそらく君の生涯で、あるひとつの大きな役割を演じていたんじゃないかね。決定的な役割をね?」
「それなら、こちらの複製画をみてくれ」
彼はわたしの質問にはまったく注意を払わないかのように、別の絵を指さした。
それはドレスデン画廊にある有名な画家ティチアーノの「鏡のヴィーナス」と呼ばれる絵の写しであった。ゼフェリンは身を起こして、指先でその絵の愛の女神のからだに着せてある毛皮を示しながら、
「これも毛皮を着たヴィーナスさ」
といって、かすかに笑った。
「ティチアーノは単に貴族のメサリーナの肖像を描いただけのことだろう」
とわたしはいった。そして言葉をつづけて、
「ただ、うまい思いつきで、キューピッドに鏡を持たせ、その中に彼女の威厳ある魅力をうつして冷静な満足ぶりを示しているのだ。その絵には阿諛《あゆ》があるよ。美しいモデルが風邪をひくのをおそれて毛皮をまとっていたのだろうが、この暴君のような毛皮が、いまでは女性の本質と美になっている暴虐と残酷のシンボルにされているにすぎない」
「もういい。いまではその絵は、われわれの愛欲に対する辛辣な諷刺さ。北国のヴィーナスは、風邪をひかないために大きな黒い毛皮のなかにつつまれねばならないのさ」
ゼフェリンは笑いながら、葉巻に火をつけた。
そのときドアが開いて、魅力たっぷりの小肥りの金髪の乙女がはいってきた。利口で親切そうな目つきをしていて、黒い絹の服を着ていた。そして冷肉と卵を盛った皿にお茶をそえて、わたしたちの前に出した。ゼフェリンは卵をひとつ取ってナイフで切ると、いきなり猛烈な調子で、
「卵はもっとやわらかく煮るものだと、いっておいたじゃないか!」
と、どなりつけた。
金髪の乙女はふるえあがった。
「でもゼフチュさまが………」
「あいつがなんといおうと、どうでもいい。おまえは、いいつけられたとおりにすればいいのだ。わかったか!」
彼は壁にかけてある刀のそばの長いムチを、ぐいとひっぱってはずし取るとびゅんと振った。 金髪の乙女はおじけづいて、牝鹿のような早さでさっと身をひるがえして部屋から逃げ出した。
「まて! ひっとらえてやる!」
「ゼフェリン君、まてよ。なんだって君は、あんな可憐な娘をそんなにいじめつけるんだい」
わたしは彼の腕を押さえた。すると彼はおどけた調子で、
「甘やかしておくと、おれの首のまわりに愛の輪縄をなげかけてくるにきまっているんだ。おれがこの長いムチできびしく仕込んでいるからこそ、おれをあがめているのさ」
「バカバカしい!」
「君だって、女を馴らすにはこれよりほかにないよ」
「そうかね。君がそのつもりならそれでもいいが、ボクにまでその理屈を押しつけるのはごめんだね」
「どうして? ゲーテもいっているじゃないか、ハンマーにならなければ、カナシキになるってね。男と女の関係はそんなものだ。君が夢に見たヴィーナス夫人も、そのとおりだと証言してくれなかったかね? 女は男の情欲のなかに自分の足場を持っているのだよ。男がそれを承知していないと、女はかならずその力をふるいだすからね。男は女にたいしては、暴君になるか、奴隷になるか、ふたつにひとつだ。男が服従すれば首にクビキをかけられ、ムチをふるわれるばかりさ」
「奇妙な原理だね」
「原理ではなくて経験さ。ぼくはそのムチの威力を味わって知っている。いまでは、もうそうではなくなっているがね。しかし、知りたければ教えてやるよ」
彼はそういって、大机の引出しから一束の原稿をとり出し、わたしの前にずしんと置いて、
「これを読んでみたまえ」
そして彼は暖炉のそばに行って椅子に腰をおろすと、瞑想にふけった。
わたしは原稿をめくりはじめた……。
二
――ある官能のすぐれた男の告白
ロシアの小説家ゴーゴリは、どこかでのべている。
真の喜劇の精神は、笑いの仮面の下で涙を流している!
うまいことをいったものだ。
この告白を書こうとして、ぼくはいま実に妙な気持ちになっている。刺激の強い花の匂いに満ちあふれた雰囲気に圧倒されて、頭痛がする。暖炉の煙はただよい集まって凝り固まり、白いひげの小妖精になってぼくをあざ笑っている。下ぶくれの頬っぺたをしたキューピッドはぼくの膝のうえや、椅子の腕のうえに乗っている。ぼくはいま、恋の冒険談を書きながら、ひとりでほほえんだり、声をたてて笑ったりしている。しかしこのインキは、ぼくの心臓からほとばしり出たまっ赤な血汐だ。心臓の傷口は鼓動するたびに、ぼくに苦痛をあたえている。紙のうえに、ときどき涙の粒が落ちる……
さて、このカーペイシアン山脈の中の保養地では、毎日がのろのろと過ぎている。ぼく以外にはだれもいない。自然の風景、田園の情景なんか書くのは退屈だ。できるなら、十分の暇を得て画廊いっぱいの大きな絵を描いたり、一シーズンの間劇場をにぎわす新作ドラマを書いたり、十数人の音楽家を養成して世間へ送り出したいものだ。しかしいまのぼくは、せいぜい画布をひろげ、楽弓をみがき、楽譜の線をひく程度だ。要するにぼくは、人生芸術のデレッタント〔お道楽者〕にすぎない。
ぼくはいま、窓際で横になってくつろいでいる。この小さな町はぼくをひどく失望させているが、詩にあふれた町のように見える。高い山脈の青い壁面には太陽の金色の光が織り込まれていて、素晴らしい景観だ。
ぼくがいま泊まっている家は公園の一隅にあるとも見えるし、森林のなかに建っているとも見える。見る人の気持ちしだいだ。ここに住んでいるのは、レンベルグ市から来た未亡人と宿の女主人タルタコフスカ夫人とぼくだけだ。
宿の女主人は年寄りで、日が経つにつれだんだん小さくなっていく。
未亡人はなかなかの美人だ。まだ二十四、五にはなっていまい。すごい金持ちらしい。宿の二階に住んでいる。彼女の部屋はぼくの部屋のまうえで、いつも緑のブラインドがおろしてあり、緑のつる草のからまったバルコニーがある。
階下のぼくの領分には、気持ちのいい忍冬亭《にんとうてい》がある。ぼくはここで本を読み、原稿を書き、絵筆をもてあそび、小鳥のように歌ったりする。そして二階のバルコニーを仰ぐと、緑の草の網目からから白い上衣がチラチラ見える。
この美しい未亡人は、しかし、ぼくの心をそれほど強くはひきつけない。というのは、ぼくにはほかの恋人がいるからだ。
それは、実は大理石のヴィーナスなのだ。その点、ぼくはこのうえもなく不幸だ。このヴィーナス像は、この宿の大きな屋敷内の美しい牧場のなかにある。今までに見たこともないほど美しい女像である。
この女像は美しいといえば、もうそれで十分だ。それ以上いうことはない。ぼくは病的なはげしさで情熱的に彼女を恋している。永遠にかわらず、静かで、石の無言の微笑のほかはなにひとつぼくの恋に答えてくれない。ぼくにできるのは、この女像に恋するだけだ。そんなもの狂おしさでぼくは彼女をあがめ、その前にひざまずいている。
太陽が森のうえから光をそそぐとき、ぼくはモミの木の葉の下で横たわって本を読む。夜中に出かけていって、この冷酷で残酷な愛人を訪れる。そして彼女の足もとの台座に顔を押しあてて祈ると、ぼくの気持ちは彼女の脚から腹、そして胸へのぼっていく。そういうときに月がのぼってくると、いうにいわれない感動をおぼえる。月光は木々の間でためらいながら、牧場ぜんたいを銀の光のなかに溺れさせてしまう。すると、たちまち女神はやわらかい月光のなかで沐浴しているように見えてくる。
ある夜、ぼくが恋の祈願をこめてから散歩道をたどってもどってくると、月光の下の一列の木々のむこう側に、大理石のように白い女性の姿がちらりと目にうつった。ぼくははっとした。大理石の彼女がぼくに同情して、生きた姿になって来てくれたかのように思ったからだ。が、ぼくは名状しがたい恐怖にとらわれて、心臓ははげしい鼓動で張り裂けんばかりだった。
ぼくは恐怖のあまり、ものすごい早さで逃げ出してしまった。
その夜、ぼくは偶然にもあるユダヤ人の美術商からティチアーノの「鏡のヴィーナス」の複製画を入手した。彼女が美しい裸体を毛皮でつつんでいる図だ。ぼくはそれに魅せられて空想にふけった。
翌朝は満月であった。月は屋敷の低い囲いになっているツゲの樹の梢《こずえ》越しにこちらをのぞきこんでいた。ぼくはじっとしていられなくなった。体内の不思議な衝動と呼び声にうながされて、もう一度上衣をまとって戸外に出た。そして目に見えない力にひかれて、牧場の彼女、神で恋人であるヴィーナス像のほうへふらふらと歩いていった。
夜の空気は冷え冷えとしていた。少し寒けがした。あたりは花の香りや森の気でどっしりしていた。ぼくはそれに酔った。なんたる荘厳、なんたる妙音、小夜《さよ》鳴き鳥がむせび泣く。星は青緑の魔法の美しさで、かすかにまたたく。牧場は鏡面のようになめらかだ。ヴィーナスの女像は月光のなかに尊く輝いていた。ところがふと気がつくと、ぼくはあっとおどろいた。女神ヴィーナスの両肩から踵まで、大きな黒い毛皮が垂れさがっているではないか。
ぼくはびっくりして、ものすごい恐怖に襲われて、大急ぎで逃げだしてしまった。そして草の生えた小道へまがって行こうとすると、目の前の石のベンチに、ヴィーナスが腰かけていた。しかもそれは体内に温かい血が流れ、心臓が鼓動している生きた愛の女神だ。髪は大理石のようだ。白い上衣は月光に輝いている。肩からは黒い毛皮が垂れている。唇は紅く、頬には血の色がさしている。目からは悪魔的な光が放射された。彼女はにこやかに笑いだした。
その笑いは神秘的だった。ぼくはいよいよびっくりして、また逃げだした。彼女の嘲笑は暗い茂みの間を通り、ヤブを抜けて、どこまでも追いかけてきた。ぼくの額から冷や汗が流れた。頭のなかは混乱した。さまよい歩きながら、わけのわからぬ独白をした。
バカな奴め!
ぼくは自分で自分を罵倒した。すると、この言葉が不思議な魔力でぼくをなにものかから解放してくれた。ぼくは平静にもどった。
バカ者め!
ぼくはもう一度くり返した。いっさいのものがはっきりとぼくの目にうつってきた。泉、ツゲの森のなかの小道、ぼくの宿、忍冬亭。だが、またもさきほどの白衣の女性が追ってきた。ぼくはいよいよおそれて家の中へ飛び込んでしまった。
一夜が明けて、蒸し暑い朝がきた。ぼくは忍冬亭で古代の叙事詩オデュッセイアを読んだ。美しい魔女が愛人を獣の姿にかえてしまう一節。不思議な恋の絵図だと思った。そのとき小枝と青葉の間にやわらかい音がした。つづいてテラスにやわらかいきぬずれの音がした。美しい女性、階上の未亡人の姿だった。
彼女は白いガウンをまとって、ぼくのほうへじっと目をそそいでいる。ほっそりとした姿は詩と優雅に満ちている。大きすぎもせず、小さすぎもしない、頭髪は魅力的で、小気味がいい、なんという悩殺的なやわらかさ、なんという剽軽な魅力が彼女の口辺に浮かんでいることか。彼女の皮膚は繊細で、青い静脈がすいて見える。薄布をとおして腕や胸の肌が見える。
彼女はいたずらっぽく笑った。
ぼくは立ちあがってお辞儀した。彼女は近寄ってきて、まるで子供のように高声で笑いくずれた。ぼくはあわてて、胸がどきどきした。
三
こうしてぼくと彼女のつきあいははじまったのである。
彼女の名はヴァンダ・フォン・ジュナウ。昨夜の生けるヴィーナスである。ぼくはいった。
「あなたは、何であんな仕草《しぐさ》を考えついたのですか?」
「あなたのご本のひとつに、小さい絵がはいっていましたからよ」
「ぼくはすっかり忘れていました」
「あの絵のうらに妙なことが書いてありましたわね」
「妙って?」
「わたし、いつも本当の夢想家というものにあってみたいと思っていましたのよ。ちょっと気まぐれにね。そうしたら、あなたが目についたのよ」
「……」
ぼくはすつかり口ごもって、顔をまっ赤にしないではいられなかった。
「昨夜は、あなたはひどくわたしをこわがりましたわね」
「そうです。まァ、どうぞ、おかけになって」
彼女は椅子に腰をおろして、ぼくの当惑ぶりをおもしろがった。ぼくはいま、真昼の光の満ちあふれたなかにおりながら、昨夜よりいっそうおもしろく感じた。彼女はそれを見て、唇のあたりに喜ばしげな軽蔑の色をはっきり浮かべて、
「あなたは恋愛や女性について、ほかの男のかたとは全く違った、敵対的なものをお考えになっているらしいですわね。あなたには、恋愛や女性はたのしい苦痛、刺激の強い残酷、そんな気持ちを抱かせるもの、そんなふうに考えていらっしゃるのね。それが近代的とでもいうのでしょうが……」
「あなたはそうは思わないのですか?」
「そうよ」
彼女は決然とした態度で首を横にふった。そして髪の毛をまっ赤な焔のように逆立てて、
「わたしの理想は、むかしのギリシャ人のような静かな感覚的な考え方、苦痛のない快楽よ。キリスト教が唱道する恋愛なんか、わたし信じていないわよ。わたしは邪教の信者よ、わたしには、
神々と女神たちが恋をした
という詩の一節にあるように、古代の英雄時代の恋があるだけよ。そのころには、
ひと目見たあと、すぐに身体を求め
求めたあとに、たのしみがあった
のよ。それ以外のことは、みんな不自然な作りもので、ウソよ。理性と感覚との戦い、それが近代人の奉じている信条ね。でも、わたしはちがうわ」
「あなたには、ギリシャのオリンポスの山がいちばん適しているでしょう。ボクたち近代人には、恋愛の場合には、そんな古代の静寂なんか支持できません。ほかの男といっしょに女を共有するなんて、たとえそれが有名な遊女であっても、ボクたちにはたえられません。思うだけで胸が悪くなります。ボクたちは古代の神さまたちと同じように嫉妬します。ヴィーナスがどんなにこうごうしくても、今日はアンキセスを愛し、あすはアドニースを愛するというのだったら、ボクはそれを悪魔的な残酷だと見なします」
「あなたもやっぱり女性観については、気狂いじみた近代的な考えをなさるおひとりね。毎日泣いたり笑ったりして、キリスト教信者のつとめを破って、脅したり脅されたり、相手を探してえらび出しては、じきに棄て去っている。これでは、自分も幸福になれないでしょうし、相手にも幸福をあたえないわね。ギリシャのヘレンやアスパシアがやったように愛し合って、いっしょに暮らしたいと素直に打ち明けてしまえばいいものを、あなたたちはいたずらに運命をそしってばかりいるのよ。男と女の関係はね、そういつまでもながつづきなんかしないわ。第一、自然が許しませんものね」
「しかし、あなたは……」
「まァ、終わりまで聞いてちょうだい。女性をたいせつな宝のようにするのはいいけど、自分の懐中にしまい込んでしまおうなんてのは、男性のエゴイズムよ。恋愛に永続性を見いだそうといくら努力したって、そりゃァ無理よ。この変わりやすい人生で、恋愛くらい変わりやすいものはないのですから、法律上の義務づけや宣言などはなんの効き目もありませんわ」
「しかし……」
「あなたは、こうおっしゃりたいのでしょう――正義人道に反する人は、社会から追放され、こらしめられるとね。いまの世の中では、たぶんそうよ。でもわたしは、そういう危険を喜んでおかすつもりよ。わたしの主義は異端よ。自分でたのしい生活だと思ったら、そういう生活を送るつもりよ。偽善的な人たちの偉そうな言い分などにはかまわないで、わたしはわたしなりやってのけるつもり。その日その日が幸福のほうがいいですものね。永遠に生きようなどとは思わないわ。わたしを喜ばしてくれれば、わたしだれでも愛するわ。わたしを愛してくれれば、だれでもわたし幸福をさしあげるわよ。それが醜いことかしら? そうじゃないと思うわ。相手の人がわたしの美しさに刺激されて苦しんでいるのを見ながら、わたし自身が残酷にたのしんでいたり、わたしに恋いこがれている人を目の前にしながら、わたしがもの固くことわりつづけるよりは、喜びには喜びを、愛には愛をさしあげるほうが、ずっと美しいことよ。わたしはお金もあるし、まだ若くて美しいのだから、喜びとたのしみのために心のまま生きていくつもりよ」
彼女の両眼はふざけるように輝いた。わたしは彼女の手を握りしめたが、すぐにまた急いではなしてしまった。
「あなたの素直さはうれしいです。それだけでなく……」
「とおっしゃると?」
「いや、どうもすみません。あなたのお話のじゃまをして」
「どうして?」
「……」
しばらく沈黙をつづけたが、わたしは気の弱い大バカ者で、とうとう思いきって、
「あなたは、どうしてそんなふうにお考えになるようになったのですか?」
「それはなんでもないことよ。わたしは幼いころから古典や古代の美術品などの間で育ったのですもの。ほかの子どもたちがシンデレラ姫のお話に夢中になっているころに、わたしはヴィーナスやアポロに夢中になっていましたの。そして大きくなって結婚してからは、わたしの夫は腹の底まで明るい光が差し込んでいるような明朗な人で、結婚後まもなく不治の病にとりつかれてからも、顔を曇らせることなんか一度もなかったわ。夫は亡くなる日の前夜、わたしを抱いてくれましたが、それまでの数カ月は、病人用の車椅子に横たわって生きる望みもなく暮らしておりながら、ときどき、冗談めかして、
――もう好きな人が見つかったかね?
と、いうのよ。わたし恥ずかしくて、顔を赤くしてしまいましたわ。そうしたら夫は、
――ぼくには隠さなくてもいいよ。隠されると、かえっていやな気がする。君は美しい愛人を選ぶのがいいのだ。一人だけではなく数人をね。君はすばらしい美人だけど、やっぱり半分は子供みたいなものだから、おもちゃがいるよ。……
そういってたわ。しかし夫の存命中のことなんか、ここでお話しする必要はありませんわね。わたしがいまのように、古代ギリシャの女のようになったのは、みな亡くなった夫のおかげよ」
「ギリシャの女神のように」
「どの女神?」
と反問して、彼女は微笑した。
「ヴィーナスさ」
わたしの叫びに彼女は細い眉をひそめて、指先でわたしをおどすまねをして、
「きっと毛皮を着たヴィーナスとおっしゃるのでしょう。いいわ。ご用心遊ばせ。わたしはとても大きな毛皮を持っているのですから。それであなたをすっぽりかぶせて、捕らえてしまいますからね」
「あなたのような方法は、今日のように文明が進んだ時代でも実際に通用するでしょうか? ヴィーナスが裸のままの美しさと奔放ぶりをあまさず発揮しながら、繁華な大通りを無事に歩いていけますか?」
「もちろん、毛皮を着てよ」
彼女はまた微笑した。
四
それから毎日、わたしは彼女といっしょに暮らしている。
階下の忍冬亭でいっしょに朝食をとり、二階の彼女の居間でお茶を飲む。そしてときどき彼女の美しい姿をありのままに絵に描いてみたく思う。
昨夜は彼女のためにゲーテのローマ非歌を読んでやった。即興詩も作ってやった。彼女は喜んでわたしの詩の言葉に夢中になって、ふくらんだ胸を大きく波打たせた。雨は憂鬱に窓ガラスを打っていた。暖炉の火は心地よい音をたてて燃えていた。彼女にたいするわたしのこれまでの心のへだたりは取りのぞかれ、わたしは恐怖心をすっかり忘れて、彼女の白い手に熱烈に接吻した。そして彼女の足もとにすわって、詩を読みあげた。
君の足を、君の奴隷わたしのうえに置き
ああ、君はなかばは地獄、なかばは夢の人
暗く沈む影のなかに、しなやかに
伸ばした君のからだは輝やく……
今日、ふとこんなことをいった。
「あなたは、わたしに興味を起こさせてくれますわね。たいていの男のかたは平凡で、感激も詩も持っていないのが普通ですけど、あなたの熱中ぶりや真剣味には、なかなか深みと雅量がありますわ。それがわたしを喜ばしてくれますの。わたし、これからつとめてあなたを愛するようにしてあげますわ」
猛烈な驟雨《しゅうう》のあと、わたしは彼女と連れ立って、牧場のヴィーナスの像のところへ歩いていった。地面からは水蒸気が立ち、もやが湧いていた。それが香料の煙の雲のようになって大空へのぼっていく。虹がまだ空の一角に残っていた。木々の梢からは、まだしずくが落ちている。雀やウソが枝から枝へ飛びかい、陽気にさえずっている。すべてが新鮮な香気に満ちあふれていた。
牧場は日の光のなかで小池の水面のように見えた。愛の女神ヴィーナスの像は、その水面の波間から起きあがっているようだ。女神の頭のまわりには昆虫の一群が舞っている。それが尊い円光のように見えた。
わたしの愛する未亡人ヴァンダはこの景観を楽しんだ。わたしの腕に身をよせて、もたれかかった。軽い疲れが全身にしみわたったのであろう。なかば目をとじていた。熱っぽい息づかいがわたしの頬をなでた。わたしはがまんができなくなって、彼女の腕をしっかとつかみ、せつせつの語気で訴えた。
「わたしを愛してくれませんか」
「愛せないなんてことありませんわ」
彼女は、澄んだ瞳でじっとわたしを見つめた。つぎの瞬間、わたしは彼女の前にひざまずいて、燃えたつ顔を彼女のかぐわしい衣のはしに押しつけた。
「ゼフェリン、そんなことをなすってはいけないわ」
しかしわたしは、彼女のかわいい足をつかんで接吻した。
「あなたはだんだん悪くなるばかり!」
彼女はさっと身をひいて、宿の二階へ逃げ去ってしまった。しかしわたしの手のなかには、彼女の愛らしいスリッパの片方が残っていた。
その日の夕方、日も暮れて、わたしがひとりで忍冬亭でぼんやりと椅子に腰かけていると、バルコニーの青葉のかげから彼女の顔があらわれて、
「どうして二階へいらっしゃらないの?」
と、じれったそうにわたしをとがめた。
わたしは、待ってましたとばかりの勢いで階段をかけのぼった。すると、彼女は早くも部屋のドアを開けて、
「わたしのスリッパは?」
「部屋においてあります。あれはボクにください」
「いいえ、持ってきてちょうだい。そしたら、いっしょにお茶をのみながら、お話でもしましょう」
わたしがスリッパを取りに行ってもどってくると、彼女はお茶を入れていた。わたしはうやうやしくスリッパをテーブルの上に置いて、こらしめを待つ子供のようにおそるおそる立っていった。彼女は唇のあたりに冷酷と優越の表情を浮かべて、
「あなたは、ほんとうにわたしを愛していらっしゃるのね」
と、ほがらかに笑いだした。
「そうです。そのためにわたしは、あなたの想像以上に苦しんでいます」
「苦しんで? オホホホ 」
彼女の嘲笑に、わたしは憎悪をおぼえ、屈辱を感じ、打ちのめされたような気持ちになった。
「わたしも、心からあなたが好きなのよ」
彼女は手をさしのべて、親しげにわたしを見つめた。わたしもじっと見かえし、
「では、ボクの妻になってくださいますか?」
「どうして急に、そんなに勇気がでてきましたの?」
「勇気が?」
「そうよ。女性にむかって妻になってくれるかどうかってきけるのは勇気よ。わけてもわたしにむかって、ホホホ、冗談はぬきにして、ほんとに、わたしと結婚したいと思っていらっしゃるの?」
「そうですとも!」
「おお、ゼフェリン! それはよく考えねばならない問題よ。わたしは、あなたの愛を信じているわよ。あなたを深く心にかけていますわ。わたしたちの間には、すぐに退屈になるような危険はありませんわね。でもわたしは、もともと浮気っぽいのよ。それだからこそわたしは、結婚をいっそう厳粛に考えていますの。義務を引き受けるからには、それをはたすことができるようにしたいと思っているのですもの。でも気がかりよ、きっと、あなたに……」
「どうぞ率直におっしゃってください」
「それなら、いうわ。わたしには一人の男の人をそういつまでも愛しつづけそうもないのよ。せいぜい……」
「一年くらいですか?」
「きっと、一カ月くらい」
「それっぽっち!」
「じゃあ、二カ月くらい」
「たった二カ月!」
「二カ月といえば、ずいぶん長いわよ」
「あなたは、ギリシャの神さまたちよりひどい!」
「それごらんなさい。あなたは事実を知れば、たえられなくなるじゃありませんか」
彼女は暖炉に背をむけて、わたしのほうをじっと見つめて、
「これからなにをして遊びましょうか?」
と話題をそらせた。
「なんでも、あなたを喜ばすことができることならば」
「それは理屈に合わないわよ」
と彼女は叫ぶようにいった。
「さっき、あなたはわたしに妻になって欲しいとおっしゃったでしょう。ところがこんどは、わたしの慰みものになってもいいとおっしゃるのね」
「ヴァンダ! ボクはあなたを愛しているのです」
わたしは彼女の足もとに身を投げ出した。
「後生ですから、それだけはおやめになってください!」
彼女の嘲笑の言葉に、わたしは起きあがらないではいられなかった。すると彼女は、
「それでは、あなたがわたしにうち勝つための期間として、一年間の余裕を上げるわ。わたしたち二人が似つかわしい夫婦で、いっしょに暮らすことができるということを、わたしに信じさせるために。もしもあなたが成功したら、わたし、あなたの奥さんなってあげますわよ。忠実な奥さんにね」
わたしは全身の血が逆流するかのように感じた。彼女の目にも恋の焔が燃え立った。
「そうしたら、二人でいっしょに暮らしましょう」
と彼女はつづけた。
「毎日の生活を二人で分担して。わたしたちがほんとうに似つかわしい夫婦になれるかどうかを知ることができるようになったら、わたし、あなたに夫として、恋人として、友達としてのすべての権利を許してあげるわよ。そんならいいでしょう」
「承知しました。」
「ではお約束の握手を!」
五
わたしはこれまで十日間、夜以外はいつも彼女といっしょに暮らしてきた。わたしの恋は底しれない深淵で、わたしはその中へ、ますます深く沈んでいくように感じられた。わたしはもうその中から自分を救い出すことはできなくなっていた。
今日の午後、わたしと彼女とは、またも牧場のヴィーナスの下で休んだ。わたしが花をつんで彼女の膝のうえに投げてやると、彼女はそれで女神に飾る花輪をあんだ。
とつぜん、彼女が異様に色っぽい目つきでわたしのほうを見た。わたしは理性を失い、欲情が大きな焔となってわたしの全身をかけめぐった。暴れ狂う欲情にたえかね、わたしは両腕で彼女を抱きすくめて、彼女の唇を求めた。彼女も激しく波動する胸にわたしをしっかりと抱きよせた。
「怒っているの?」
「自然のことに怒りなんか」
と彼女はあえぐようにいった。
「でも、あなたのほうが苦しくはないかと、心配になって……」
「ああ、ボクは苦しい!」
「お気の毒なおかた!」
彼女は、わたしの乱れた頭髪をていねいにうしろへなでつけながら、
「わたしが悪かったら、ごめん遊ばしてね」
「いえ、そうじゃないです。あなたにたいするわたしの愛情が、すっかり気狂いじみてきたので、あなたを失いはしないか心配になって……」
「でも、あなたはまだわたしをほんとうに所有していらっしゃらないわよ」
彼女はもう一度、魅惑的で恍惚とさせるまなざしでわたしをじっと見つめた。そして立ちあがって、すき透ったかわいい白い手で青いアネモネの花輪をヴィーナスの石像の頭にかぶせた。わたしは彼女のからだを両腕で抱きしめた。
「ああ、ボクはもう、あなたなしには生きていられない! あなたに去られたら、ボクの生命はメチャメチャになってしまいそうだ!」
「そんなこと、おっしゃる必要はないわよ。わたしはあなたを愛しているんですもの」
彼女は白い手でわたしのあごをおさえて、
「おバカさんね」
となまめかしくたしなめた。
「しかしあなたがボクのものになっているのは、ボクが無条件であなたのいうなりになっている間だけのことでしょう」
「それはあまりお利口さんな言葉じゃないわよ、ゼフェリン」
彼女はびっくりしたようにいった。そして、
「あなたには、まだわたしの気持ちがのみこめないのね。もしもあなたがあんまり無条件にわたしに身をまかせてしまうと、わたし、きっと傲慢な女になってよ」
「いいです。傲慢にも、専横にもなってください。ボクは、ただあなたが、ボクだけのものになってくださればそれでいいのです、永久にわたしのものに!」
わたしは夢中に叫びながら、彼女の足もとに身を投げて、彼女の膝を抱いた。
「そんなふうだと、きっと最後にはよくない結果になるわよ。あなた」
彼女は冷静にいった。
「最後になんかなるものか」
わたしは興奮のあまり乱暴に叫んだ。
「ボクたちは死ななければ別れない。あなたのすべてがボクのものになれば、ボクはあなたの奴隷になってつかえます。どんなことをされても、ボクはがまんします。ボクを追い出しさえしなければ!」
「落ちついてちょうだい」
と、彼女はわたしの額に接吻して、
「わたし、ほんとうにあなたが好き。でもそんなふうな振舞いは、わたしに打ち勝つ方法ではないわ」
「あなたを失わないためなら、ボクはどんなことでもします。失うかもしれないと思うと、ボクはたえきれない」
「立ってちょうだい」
わたしは磁石にひかれたようにぴょこんと立った。
「あなたって不思議な人ね。どんな代価を払っても、わたしを所有したいとおっしゃるのね」
「そうですとも!」
「でも、どれだけの値打ちがあるかしら?」
彼女は不気味な色を目のなかに浮かべて、
「もしもわたしがあなたを愛していなかったら、だれかほかの人のものになったとしたら?」
わたしは鋭いおどろきの衝動が体内をつっ走るのを感じて、思わず彼女をうち眺めた。
彼女は自信深げにわたしの前に厳然と立って、冷たい光を目に浮かべて、
「やっぱり、おどろくのね」
と微笑で顔を輝かした。
「ボクは、ボクの愛にこたえてくれる女性が、かりにもほかの男に身を捧げてボクを忘れるとしたら、そう思うだけでボクは恐怖で身震いします。そういう女性に気の狂うまで恋していたら、ボクは虚勢を張って彼女に背をむけるでしょうか、それとも自分の手で頭へ弾丸を撃ち込むでしょうか? もしもどうしてもボクが愛の幸福を十分に楽しむことが許されないなら、愛の苦しみと悩みを一滴もあまさず味わいたいと思います。愛する女性から虐待され、裏切られたいです。残酷にやっつけてもらいたい。これだって、ボクにはやっぱり贅沢のひとつです」
「それ、正気でおっしゃっていますの?」
「ボクは全精神をこめてあなたを愛しているのです。ボクが生きていくには、あなたの存在とあなたの人格が必要です。あなたの夫になるか、奴隷になるか、ふたつにひとつです。どちらでもいいから、えらんでください!」
「わかったわ」
と彼女は小弓のような眉をひそめて、
「あなたのようにわたしを愛してくださる人を完全に支配したら、おもしろいでしょうね。慰みがひとつふえるわ。わたし、えらんであげるわよ。奴隷になってちょうだい。おもちゃにしてあげるわ」
「どうぞ、どうぞ」
とわたしは、戦慄と狂喜にふるえて叫んだ。 そして、
「結婚は共通の立場と同意によって成り立つものですが、奴隷となると違います。立場は反対になり、敵対的にさえなります。ボクの恋は、一部は憎しみ、一部は恐れになります。あなたがハンマーならボクはカナシキになります。ボクが恋する女性を見くだすようになったら、ボクは決して幸福ではありません。ボクは女性を崇拝したいのです。女性がボクにたいして残忍であればあるほど、ボクは女性を崇拝できるのです」
「でもゼフェリン。そんなにわたしを愛し、わたしのほうでも愛しているあなたを、どうして虐待できますか」
と彼女はまるで怒ったように叫んだ。
「できないことはありません。虐待されればされるほど、ボクはあなたを崇拝します」
「すると、ほかの男性のいやがることが、あなたには魅力がありますのね?」
「そうです」
「でも、あなたの熱情だって、それほど不思議なものではないと思うわ。美しい毛皮はだれからも愛されるし、性欲と残酷とがどんなに深い関係にあるかも、みんな知っているわ」
わたしと彼女は、甘美な夏の夜、彼女の小さいバルコニーに腰をかけていた。緑の木の葉の天井のうえに、もう一つ無数の星をまき散らした円天井の大空があった。恋猫が相手を呼ぶ低い鳴き声が聞こえてきた。わたしは神々しい彼女の足もとの足台に腰かけて、幼時の思い出をはなした。
「そんな幼いころから、そういう不思議な傾向がありましたの?」
「そうです。ボクは乳母の健康な乳房を軽蔑したので、山羊の乳で育てられました。幼いころから女性の前では神秘的に内気で、はにかみ屋で、しかも女性にたいして非常な関心をもっていたのです。そしてひそかに父の書斎にしのび込んで、石膏のヴィーナスを眺めて秘密の喜びを味わいました。その前にひざまずいてお祈りをしました。彼女の冷たい足に熱烈に接吻しました。抵抗しがたい思慕の情にかられて、彼女の美しいからだを抱きしめて、冷たい唇に接吻しました。そしてはげしい戦慄におそわれて逃げだしました。
十四歳のころのことでした。母は、若くて魅惑的な花の蕾《つぼみ》のような少女を寝室付きの女中として召し使っていました。
ある日、ボクが自分の部屋で詩人タキトゥスの文章を読んでいると、その少女が掃除にやってきました。そしてとつぜん、箒をもったまま、ボクのからだのうえに身をかがめて、新鮮で熟した愛らしい唇をボクの唇のうえに押しつけました。ボクは不思議な懐かしさにからだをうちふるわせましたが、同時にこの誘惑者にたいして本をふりあげて抵抗してぷんぷん怒りながら、部屋から飛び出してしまいました……」
「ホホホ!」
と彼女は大声で笑いだして、
「ほんとに、あなたみたいな人っていないわね。でも、お話をつづけてちょうだい」
「やはり、そのころのことです――」
とわたしは話をつづけた――
「遠縁にあたる伯母のゾボル伯爵夫人が、両親のところへたずねてきました。美しい威厳のある伯母でしたが、ボクは大嫌いでしたから、この伯母にたいしてできるかぎり乱暴をはたらきました。
ある日、両親が州の都へ出かけた留守に、伯母は毛皮のチョッキに身をかためて、コックと炊事女中と、あの寝室付きの猫娘をつれて、ボクの部屋を襲いました。そして有無をいわせずボクをつかまえると、暴れるボクをおさえつけて、ヒモで手足を縛ってから、伯母は、悪意に満ちて笑顔で袖をまくりあげて、強くて丈夫なムチでボクをしたたかに打ちはじめました。その打ち方があまりにひどかったので、ボクの肌から血が流れ出しました。ボクは、とうとう悲鳴をあげて、涙を流して、慈悲を請いました。すると伯母はわたしを解きはなしてくれましたので、わたしはその場にひざまずいて謝罪し、伯母の手に接吻しなければなりませんでした。
これで、ボクがどんなに超官能のおろか者であるかが、あなたにもよくおわかりになったでしょう。ボクの感覚は、美しい女性のムメのもとで、はじめて女性の意味をさとりました。毛皮のジャケットを着た叔母が、ボクには激怒した女王のように思われました。
ボクが大学に進んでからのことでした。ゾボル伯母の家をたずねていきました。伯母は心をこめて親しげにボクを迎え、歓待のキッスをしてくれました。そのため、ボクの理性はたちまち混乱してしまいました。伯母は、たぶん四十歳くらいでしたが、世界中でもっともよく若さをたもっていて、今でも非常に魅惑的でした。いつものように毛皮のふちのついたジャケットを着て、茶色の貂の毛のついた緑色のビロードの上着をまとっていました。かつてわたしを喜ばしたきびしさはまったく影をひそめていましたが、残忍さがまったくないでもなかったので、ボクはますます伯母を慕うようになったのです。
ボクは伯母の前にひざまずいて身を投げ出し、その手に接吻しました。なんと喜ばしいことだったでしょう! 美しい格好で、繊細で、丸く肉付いていて、白くて、なんと不思議な手であったことでしょう! ボクは実際、伯母の手に恋しました。その手と遊び、黒い毛皮の中に沈めたり、出したり、光にかざしてみたり、あかず眺めました」
わたしの言葉に、ヴァンダ未亡人はふと自分の手の上に視線を落として微笑した。
六
その晩の真夜中であった。わたしがひとりで自分の部屋のベッドで寝ていると、窓の戸を叩く音がしたので、起きあがって戸を開けてみて、びっくりした。
戸外に、毛皮を着たヴィーナスが立っているではないか。
「さきほどのあなたの話で、わたしの心は混乱してしまったわ。いままで、ベッドで伏せっていたのですが、寝つかれないで、寝返りばかりうっていたわ。さあ、わたしの部屋へ来てちょうだい」
「はい、すぐ行きます!」
わたしは急いで身支度をして二階へ行った。そして彼女の部屋へはいってみると、彼女は火を少し燃やした暖炉のそばにうずくまっていた。
「秋がくるわね」
と彼女は言った。それから、
「夜分はほんとうに冷えるようになったわ。部屋が十分にあたたまるまで、毛皮が脱げませんのよ」
「けっこうです」
わたしは彼女のからだを抱擁して接吻した。
「あなたは、どうしてそんなに毛皮がお好きなのかしら?」
と彼女はいぶかった。
「ボクは毛皮を着て生まれたのも同然です」
とわたしは答えた。
「子供のときから、自分の毛皮を持っていましてね、毛皮は、すべての高級な素質を持った人たちには、とても刺激的だということを知っていました。猫が高級な知識人にたいして魔法的影響をあたえるのは、その毛皮のせいです……」
「すると、毛皮を着た婦人は大きな猫ね、電磁石にすぎないというわけ?」
「そうです。あのすぐれた画家のティチアーノがバラ色の女体のためにみいだしたのも、黒い毛皮でした」
そしてわたしは、性のなかにはなにか神聖なものがあること、それだけが神聖なものであること、女性とその美のなかにはなにか神聖なものがあること、女性は自然、つまり受胎の神アイシスの人格化であり、男性はその司祭であり、奴隷であること、それゆえ女性は男性にとってザンコクであり、しかもなお官能的な狂気であることを、とうとうとまくしたした。
「あなた気が変になったのじゃなくて?」
と彼女は言葉をさしはさんだ。
「たぶんね」
とわたしは、軽くうなずいてから、
「ボクはそのころもう十分に熱情が発達していたので、極端な残酷さが描写されている物語をたくさん読みました。そしてこれまで王位についていた、あらゆる血を好む暴君たちや、異教徒を虐殺した宗教裁判官たちや、好色で美しい凶暴な婦人たちは、みな貂の毛皮で縁取られた外套を着ていました」
「それでいま、毛皮があなたに、不思議な空想を起こさせているわけね……」
彼女はそういって、素晴らしい毛皮の外套をなまめかしくからだのまわりに引きよせて、身じまいをととのえはじめた。黒々と輝く貂の毛皮が、彼女の胸や腕のあたりでうるわしく揺れた。
「もしいま、あなたが――」
と彼女はつづけた。
「車にしばられて、なかば圧しつぶされようとしたら、どうお感じになる?」
彼女は刺すように鋭い緑の目にあざけりの満足の色を浮かべ、わたしをじっと見つめた。その瞬間、わたしは欲望に圧倒され、彼女の前に身を投げ出して、両腕で彼女の太ももを抱いた。
「あ、あなたは、ボクに最愛の夢を呼び起こしてくれました。ボクの体内に長い間眠っていた夢を……」
「それで、あなたは……」
と彼女は、わたしの首に白い手を置いた。
わたしは、そのあたたかい小さな手となかば閉じられた瞼のなかからやさしく放射されるまなざしの下で、甘美な陶酔境にさまよいながら、
「ボクは、女性の奴隷になります。ボクの恋い慕う、崇拝する、うるわしい女性の奴隷に!」
「そしてあなたを虐待する婦人の奴隷に……」
「そのとおり、ボクに足かせをかけてボクをムチ打ち、美しい足でボクをふみつけながら、しかも美しい肉体をほかの男性にあたえるような婦人の奴隷に!」
「その女性は、奴隷のあなたを愛する男へ贈り物にするかもしれないわね。そうしたら、あなたは嫉妬のために気が狂って、その男にいどみかかるわね、だけどあなたはうちのめされてしまうことよ。そんな結末はあなたを喜ばせないでしょう」
わたしはびっくりして、彼女を見上げ、
「それは、ボクの夢よりも優秀だ!」
「そうよ、女性にはすぐれた発明力がありますものね。ご用心遊ばせ、あなたが理想の女性を発見したと思ったときには、その女性は、きっとあなたの予想以上に手ひどくあなたを虐待しますわよ」
「それです、それです、それでいいのです」
わたしは叫びながら、彼女のふくよかな膝の間に顔をうずめた。
七
今日、彼女は帽子をかぶり、ショールを手にして買い物に出かけた。わたしもいっしょに行った。彼女はある店先で一本のムチに目をとめた。握りの部分が短い、先が長いムチだ。犬を慣らすためのものである。
「こんなのはいかがでしょうか?」
店の主人がいった。
「ダメよ。小さすぎるわ」
彼女は横目でわたしのほうをちらとみて、
「もっと大きいのが欲しいのよ」
「それでは、ブルドックにでもお使いになさいますので?」
「そうよ、ロシアの貴族が強情な奴隷たちに使うようなムチ……」
彼女はたくさんのムチのなかから、すばらしい一本をえらんだ。わたしはそれをひと目見ただけで、異様な喜びの興奮が体内を走るのをおぼえた。
「ではゼフェリン、さようなら。わたしはまだほかに買い物があるの。あなたは来てはダメよ」
「はあ――」
わたしは彼女と別れて、そこらあたりをぶらついて帰りかけようとすると、彼女がある毛皮商の店から出てきて、わたしを手まねきした。
「よくお考えになってね。……あなたみたいなまじめなかたが、わたしの力のままになって、わたしの足もとに身を投げ出すのをみたら、わたしほんとうに嬉しさに興奮しますけど、でも、ね、その魅力がいつまでつづくかしら? 女は男を愛するわ、でも奴隷だと、さんざん虐待して、しまいには足で蹴飛ばして、すててしまうわよ、そうなってもいいこと?」
「けっこうです、わたしを蹴飛ばしてください」
「危険な気持ちがわたしの心のなかにひそんでいるわよ。あなたがそれを呼び起こしても、けっきょくあなたのためにならないわ。昔話にもあるでしょう。ある王様が、鉄の牡牛を発明した男をその鉄牛の腹の中に入れてむし焼きにして、その泣き叫ぶ声がほんとうの牡牛のほえ声に似ているかどうかをたしかめたいという話、わたしその王様のようになるかもしれなくってよ」
「そうあってください!」
その日はそれで別れたが、翌朝、わたしが自分の部屋のベッドで目をさましてみると、彼女から一通の手紙が届いていた。
愛するお方に
わたし、今日はお会いしないつもり。
たぶん、明日もダメ、明後日の夕方まで。
その時が過ぎたら、あなたは
|わたしの奴隷として《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
あなたの女主人ヴァンダから
わたしは何度もくり返して読んだ。そしてロバに鞍をおいて、それに乗って山のなかにはいっていった。カーペシアン山脈の雄大な景観で、わたしのいらだつ願望や恋慕の情を押ししずめようと思ったからだ。二日経って、夕方、わたしはへとへとに疲れながらも、さらにいっそう恋情をつのらせながら帰宅し、手早く服を着替えると、すぐに二階へあがって、彼女の部屋のドアをノックした。
「おはいり」
声に応じて、はいってみると、彼女は白|繻子《しゅす》の服をまとって、部屋の中央に立っていた。その姿は光り輝くようであった。そして貂の毛皮で豊かに縁取った深紅のジャケットをつけ、髪粉をふりかけた白雪のような頭髪のうえには、ダイヤをちりばめた王冠をかぶっていた。彼女は両腕を乳房のうえに組み、眉をひそめていた。
「ヴァンダ!」
わたしは走りよって、彼女に抱きついて接吻しようとした。瞬間、彼女はさっと一歩さがって、わたしを頭のてっぺんから足もとまでじろりと吟味した。
「奴隷!」
「ご主人さま!」
わたしはその場にひざまずいて、彼女の服のすそに接吻した。
「それが当然!」
「おお、なんと美しいお姿!」
「喜んでいただけて?」
彼女は鏡の前に立って、その姿をうつして誇らかに満足そうに眺め入った。
「ボクは気が狂いそうだ!」
わたしの叫びに、彼女は下唇を嘲笑的にぴくぴく動かし、なかば閉じた瞼の間から、愚弄するような目つきでわたしを見おろした。
「ムチで打ってください!」
「ダメよ、そのままじっとしていらっしゃい」
彼女は暖炉のほうへ歩いていって、その上からムチを取った。そして微笑しながら、わたしを眺めて、そのムチを空中でビュービューとうち鳴らした。それから、ゆっくりと毛皮のジャケットの袖をまくりあげた。
「すばらしい女性!」
「おだまり、奴隷!」
彼女は、さっと顔をしかめて嫌悪な表情になると、ムチをあげてぴしりっとわたしの背中を打ちすえた。が、すぐにやさしくわたしのからだに手をかけて、同情するかのように、
「わたし、あなたを傷つけたくはないのよ。大丈夫?」
と恥じらいながら、たずねた。
「いいや、平気。……たとえ傷ついても、あなたから受ける苦しみならば、わたしは最大の喜びです。もう一度」
「でもわたしには、たのしみではないわ」
「打ってください、情け容赦なく!」
わたしは不思議な陶酔のなかで叫んだ。
彼女は、またムチをふるって、わたしを打ちすえた。
「これで、満足?」
「まだ、まだ」
「足りないの?」
「もっと、もっと。ボクには、それが喜びなんですから」
「こんな獣みたいな遊び、わたし、気が進まないのにはじめちゃったのね。もしもわたしがほんとうに自分の奴隷をムチ打つような女だったら、あなたはきっとおじけづいてしまったでしょうね?」
「そんなことはありません! ボクはあなたをわが身以上に愛しているのです。ボクのからだは、生きようと死のうと、あなたに捧げてあるのです。ですからあなただって、ほんとうに望むままにわたしにたいして振舞っていただきたいですね」
「ゼフェリン!」
「その足でわたしをふみつけてください!」
わたしは、彼女の足もとの床に顔を押しつけて、ふみつけられるのを待った。
「わたし、こんなお芝居なんか、きらいだわ」
「それなら、まじめな気持ちで、ボクを虐待してください」
薄気味わるい沈黙が起こった。その沈黙を破るかのように彼女は、
「これが最後よ」
と叫んだ。
「もしあなたがわたしを愛しておられるなら、もっともっと残酷に!」
「もしもあなたがわたしを愛するなら……」
と彼女は、わたしの口まねをして、一歩あとへさがり、陰気な微笑を浮かべて、
「それでは、わたしの奴隷になりなさい! そして女性の手のなかへはいったということがどんなことだか、よくおぼえてらっしゃい!」
といいも終わらぬうち、ぽんとわたしのからだを蹴飛ばした。
「おまえは、こんなにまでされて、それでいい気持ちなの。奴隷!」
それからまた、彼女はムチを振り回して、
「立て!」
と叫んだ。
わたしは両脚で立ちあがろうとした。
「そうじゃない、膝で!」
彼女ははげしくわたしを乱打した。ムチはわたしの背に腕に、荒々しくふりそそがれた。一打ち一打ちが肉に食い込んで、焼き裂いた。その苦痛はわたしを恍惚とさせた。やがて彼女は、ムチの手を止めて、
「わたし、おもしろくなりはじめたわ。でも今日は、これでおしまい。おまえのからだがどこまで苦痛にたえられるかみたくなったわ。悪魔的好奇心よ。これからは、わたし残忍な喜びを味わわせていただくわ。おまえが泣いて叫んで慈悲を乞うまで、感覚を失ってしまうまで、容赦なくムチを打つわよ。さあ、お立ち!」
わたしは立ちあがって、彼女の手に接吻した。
「なんという不謹慎!」
彼女は足でわたしを蹴飛ばして、
「さっさと出て行け、この奴隷!」
八
悪夢に満ち、熱にうかされた一夜がすぎた。わたしは幸福のなかで目をさました。
彼女は二階のバルコニーからわたしを呼んだ。わたしが急いで階段をのぼっていくと、彼女は入り口のところでわたしをむかえて、
「わたし、自分で自分が恥ずかしくなったわ」
「なぜですか?」
「きのうの、あんなひどい面のことは忘れてしまってくださいな」
と、彼女はふるえ声でいった。そして、
「あなたのお望みはかなえてあげたんですから、理性にかえって幸福に愛し合って暮らしましょうよ。一年以内には、きっとあなたの奥さんになってあげるわ」
「ご主人様、ボクはあなたの奴隷です」
「奴隷とか、残酷とか、ムチとかではなしに、別の言葉はないかしら? そんな言葉は、もう許しません。ただ、わたしが毛皮のジャケットを着ることだけは別よ。さあ、こっちへはいって毛皮を着るのをてつだって!」
こうして一日を楽しいおしゃべりのうちにすごし、やがて暖炉のうえの、キューピッドが弓に矢をつがえて引きしぼった姿の置き時計が、真夜中の時刻を示した。
「さあ、帰ります」
わたしが立ちかけると、彼女は有無をいわせずわたしを抱擁して、長椅子のうえに引きもどした。そしてわたしの唇に接吻の雨をふらせた。その沈黙の言葉は、すべてを暗示してくれた。わたしの腕のなかに身をまかせきった彼女の五体には、ものうい色がみなぎった。なかばとじた瞼のたそがれのなかに、白雪の髪粉をまぶした赤っぽい毛の洪水のなかに、赤と白の繻子の服のなかに、いい香りのする貂の毛皮のなかに、なんともいえないほど強くやわらかく欲情をそそるものがあった。
「お願いです……」
とわたしはいいよどんだ。
「なんでも、お好きなように」
彼女は色っぽくささやいた。
「わたしをムチ打ってください。そうでないと、ボクは気が狂いそうです!」
「それは、もう禁制よ」
と彼女はいって、わたしのぐうたらをきびしくたしなめた。
「ボクは、あなたを死ぬほど恋慕しているのです」
わたしは彼女のふくよかな膝の間に顔を埋めた。
「あなたの狂気ぶりは、悪魔にとりつかれて満足を知らない欲情のしわざよ。あなたが、節操のない男だったら、もっと立派に正気でいられたでしょうに」
「それなら、ボクを正気にさせてください」
わたしは彼女の長い髪の毛の間に手を入れて、ふるえながら毛皮の一端をもてあそんだ。その毛皮は乳首のうえで高くもりあがって、月光の流れのように上下に揺れ動いていた。わたしは彼女を抱きしめて接吻した。いや、彼女がわたしをせめ殺しでもするかのように野蛮に、無慈悲に、強烈に接吻した。わたしは息がつまりそうになったので、身を引こうとした。
「どうしたの?」
「苦しくて死にそうです!」
「苦しんでいらっしゃるの?」
彼女は、にわかにたのしそうに高笑いした。
「笑っているのですね」
「そうよ」
彼女は厳粛な表情になって、両手でわたしの頭を起こすと、乱暴な身ぶりでわたしのからだをしっかりと抱いて、胸のあたりに引きつけた。
「ヴァンダ! ああ……」
「あなたは苦痛をたのしんでいるのね。ちょっと待ってらっしゃい。じきに正気にしてあげるから」
彼女は殺人をも犯しかねない残酷な唇で、ものすごくわたしの唇を吸った。わたしは彼女の貂の毛皮を左右にひらいた。彼女の玉の肌の胸、美しい乳房がわたしの胸のうえで、大きく波打った。
わたしは理性を失った。気がついてみると、わたしの手から血汐がたれていた。
「あなた、わたしをひっかいたのね?」
「いいや、ボクはたしかに、あなたのどこかを噛んだはずです」
こうした状態になってから、わたしと彼女とはすばらしい日々を送るようになった。山や湖を訪れ、いっしょに本を読み、わたしは彼女の肖像を描いた。彼女の微笑した顔はなんと美しかったことか!
だがそれもつかの間で、彼女の親友のひとりがこの山荘へたずねてきたので、事情は一変してしまった。その女は彼女よりもいくらか年上で、夫と別居して、彼女といっしょに住むようになったからだ。
わたしと彼女がこれまでのように水入らずになれず、しかも彼女とその女とが数名の男たちの一団に取りまかれるようになっては、わたしにはたえきれない抑圧になった。彼女はわたしを、まるでよそ者のように扱いはじめた。
今日も散歩の途中、彼女はふとわたしをかえりみて、
「わたしのお友達のあの方はね、わたしがあなたを愛している理由がわからないというのよ。 男前がいいわけでもないし、特別に魅力があるわけでもないのにと、思っているらしいわ。そして朝から晩まで、都会のはなやかな生活の魔力、すばらしい社交界のことなどをほのめかしているのよ。でも、あなたを愛しているわたしにとって、そんなものは、一体なにになるのかしら?」
わたしは一瞬、息がとまる思いがした。
「ボクは、あなたの幸福の邪魔をしようなどとは思っていません、ヴァンダ!」
その散歩の帰り道、わたしがまた彼女のそばに寄ると、彼女はそっとわたしの手を握った。彼女のまなざしが晴れやかで、幸福の期待に満ちていたので、わたしはたちまち日ごろの苦しみを忘れてしまった。
九
二週間あまりして、彼女の女友達たちは去っていった。わたしと彼女との間には、また水入らずの夜が来た。
彼女は、この夜のために、これまで隠されていたすべての愛をたくわえておいたかのようにわたしにしがみついた。わたしの唇を彼女の唇に合わせ、彼女の両腕のなかに死んだように身を投げ入れるのは、なんと幸福なことであろう! 彼女の顔はわたしの胸に埋まり、完全にわたしのものになった。二人の目は歓喜に酔った。
彼女は眠っているかのように身動きひとつせず、目を軽く閉じたまま、
「あのひとは、ひとつの点で正しいわ」
とつぶやいた。
「だれのこと?」
「……」
「君のあのお友達?」
彼女は軽くうなずいた。そして、
「あのひとは正しいわ」
とくり返してから、
「あなたは男じゃなくて夢想家ね。淑女の踊りの相手よ。きっと、奴隷としてもすばらしい奴隷ね。わたし、あなたを夫としては考えられないわ」
わたしはびっくりして、ふるえた。
「あら、ふるえていらっしゃるの?」
「ボクは、あなたを失いそうで……」
「それでは、あなたは前よりは幸せではなくなったとでもおっしゃるの? もしも誰かがあなたと同時に、わたしから幸福をうけたら、それだけであなたのたのしみが減るとでもおっしゃるの?」
「ヴァンダ!」
「そう考えればいいのよ。そうすれば、あなたは決してわたしを失いはしないわ。わたしはあなたを深く愛しているわ。いつもあなたといっしょに暮らしたいと思うわ。ただ、わたしの気持ちで、あなた以外にもだれか男を……」
「なんということを! あなたはボクの胸を恐怖でいっぱいにする」
「それで、わたしを愛する気持ちが、いくらか減ってきて?」
「そんなことはありません」
やがて彼女は、左手で身体を起こしながら、
「男の人をいつも変わらずに手に入れておくためには、その人にたいして忠実であること、それがほんとうにたいせつだと、わたしは信じているわ」
「もしもボクの最愛の女性が、不貞をはたらいたら、それこそボクには、苦痛に満ちた刺激です。最高の恍惚です」
「もしもわたしが、あなたにそのたのしみをさしあげたとしたら、どう?」
「ボクは、きっと恐るべき苦悩をうけます。しかし同時に、ボクはいっそうあなたを崇拝します。でも、あなたはけっしてボクをあざむかないでしょう」
「わたし、だますことなんか大嫌いよ。正直よ。でも、真実という重荷をほんとうに背負いきっている人がいるかしら? あのギリシャのむかしの静かな官能的な生活がわたしの理想だといったら、あなたはそれにたえられるかしら?」
「大丈夫。あなたを失わないためなら、なんにでもたえます」
「でも、ゼフェリン」
「そうなのです。それだから……」
「それだから?……なりたいんでしょう?」
「そうです、あなたの奴隷に!」
とわたしは叫ぶようにいった。
「あなたが人生の盃をたっぷりのみほす間、ボクはあなたの召使いになって、あなたに靴をはかせたり、ぬがせたりしてあげたいのです」
「わたしの奴隷になって、わたしがほかの男を愛するのをみて、がまんできるなんて! 奴隷制度のないところでは、そんな享楽の自由なんかないわ。でもわたし奴隷が欲しいわ」
「ボクがあなたの奴隷じゃないですか」
「そこで、よく聞いてちょうだい――」
と彼女は興奮しながら、わたしの手をぎゅっと握って、
「わたし、あなたを愛している間は、あなたのものでありたいわ」
「一カ月ぐらい?」
「二カ月でも」
「それからは?」
「わたしの奴隷になるの」
「そしてあなたは?」
「わたしは女神よ。オリンビアの山の上から、ときどきあなたのところへ降りてきてあげるわ。静かに、こっそり……」
彼女はそういってアゴを両手のうえにのせて、遠くのほうをうっとりと見つめる様子をして、
「実現できそうもない金色の空想だわ」
とつぶやいた。
「どうして、できないのです?」
「奴隷制度がないからよ」
「それでは、二人でどこか奴隷制度のある国へ行きましょう。アラビアか、トルコかへ」
「ほんとうにあなたは、そうするつもり?」
と彼女は目を輝かした。
「そうです。ほんとうにボクは、あなたの奴隷になりたいのです。ボクを支配するあなたの力が、法律的にも正当化するのを望みます。ボクの生命はあなたの手に握られ、ボクは完全にあなたの意のままになるのだと思うと、ああ、なんという喜びでしょう。そしてときどき、あなたも恵み深くなって、この奴隷に死にもあたる接吻をしてくだされたら、ああ、なんという幸福でしょう」
わたしは燃えたつ額を彼女の膝のなかに埋めた。
「あなたはまるで熱病におかされているみたいね」
彼女はわたしの身体を起こして、胸に抱きしめて、接吻のあらしでわたしをつつみながら、
「あなた、ほんとうにそれをお望みになるの?」
「神かけて誓います。いつでも、どこでも、お望みのままに、あなたの奴隷に!」
「誓うのね?」
「誓います」
「なんだかおもしろくなりだしたわ。空想じゃなくってよ。きっと、わたしの奴隷にすることよ。そしてわたしは、毛皮を着たヴィーナスになるようやってみるわ」
十
今日、ロシアの王子が街の散歩道にはじめて姿を現した。運動家らしい体格と立派な容貌と堂々たる態度をしていたので、人々の注目の的になった。女性たちがどぎもをぬかれて、ぽかんと口をあけて眺めている間を、彼は憂鬱げに歩いていた。
彼には二人の召使いが従っていた。一人は黒人で赤い繻子《しゅす》の盛装をし、もう一人はサルカシア人で、きらきらする制服で身をつつんでいた。
王子は、すれちがいざまヴァンダに目をとめ、冷たい刺すような目つきで、彼女を追った。彼女が通り過ぎてからも、彼は彼女の後ろ姿を見送っていた。
彼女は、晴れやかな緑の目でむさぼるように王子をみた。そして二度目に彼に出会ったときは、たくみな媚態を示して、しだいに彼に近づいた。わたしは窒息するばかりであった。帰途、わたしがそれを指摘すると、彼女は眉をよせて、
「あなたはわたしに、なにを要求なさるの。あの王子は、わたしが好きになれる人よ。わたしを恍惚とさせてしまったんですもの。それにわたしは、あなたとお約束したとおり、自由なのよ」
「それでは、もうボクを愛していないのですか?」
わたしはがく然とした。
「いいえ、愛しているわ。愛しているのはあなただけよ。でも、わたしの機嫌をとってくれるような王子さまが、現れたらしいわね」
「ヴァンダ」
「あなたはわたしの奴隷よ。わたしはヴィーナス、毛皮を着たヴィーナス、そうじゃなくって?」
「……」
わたしは彼女の言葉におしつぶされてしまった。
彼女の冷ややかな態度は鋭い短剣のようにわたしの心を突き刺した。
「すぐにあの王子の名前とお住まいと境遇をしらべておいで」
「しかし……」
「命令をききなさい」
彼女の声は、意外なほどきびしいものであった。
わたしは、午後にならないうちにしらべあげて、彼女に報告した。彼女は肘掛け椅子に身をもたれさせながら、微笑を浮かべて直立不動の姿勢のわたしから報告をきくと、満足そうに軽くうなずいた。
「足台をもってきて」
彼女の命令に従って、わたしは彼女の足もとへ足台を運んできて、ひざまずいたまま、
「結局、どうなるのでしょう?」
と悲しげにたずねた。
「まだなにもはじまってやしないじゃないの」
彼女は、ふざけたように笑いだした。
「あなたは予想以上に無情です」
わたしは不愉快な気持ちをぶちまけた。
「ゼフェリン、まだなんにもやってやしないのよ。それなのに、どうしてそう無情よばわりをなさるの。あなたの理想をかなえてあげて、あなたを足でふみつけ、ムチで打ったら、なにか起きるとおっしゃるの?」
「あなたは、ボクの夢をあまりにもまじめに取りすぎます」
「まじめにとりすぎてどうしていけないの。お芝居や茶番劇なんか、わたし大嫌いよ」
「ヴァンダ、ボクのいうことをよく聞いてください。ボクとあなたは、無限に愛し合って非常に幸福です。それだのにあなたは、出来心のために、二人の未来を犠牲にするのですか?」
「出来心じゃないわ」
「それじゃ、なんですか」
「たぶん、わたしの性質のなかにひそんでいたなにかなのよ。あなたがそれを呼びさましさえしなかったら、けっして表面へはあらわれてこないものよ。でも、今ではもうダメ。力をもった衝動となって、わたしのからだじゅうにあふれてしまっているわ。いまさら、あなたがそれを取り消したいといいだしてもダメよ。あなたはそれでも男なの?」
「ボクの大好きな、かわいいヴァンダ!」
わたしは彼女をなだめすかして接吻した。
「あなたは男じゃなかったの?」
「それなら、あなたは?」
「わたしは強情よ。わたしには空想なんかないわ。実行力もないわ。でもこうときめたら、わたし、やりぬくわよ。もういいから、出て行ってちょうだい!」
「ヴァンダ!」
わたしと彼女は立ちあがって、顔と顔をつき合わせた。
「いまはじめて、あなたには、わたしというものがわかったのね。それなら、もう一度いうわ。わたしは無理じいにあなたを奴隷にするつもりじゃないから、いやならいやといってもいいわ」
「ヴァンダ!」
わたしは興奮のあまり、目に涙をためて、
「ボクがどんなにあなたを愛しているか、あなたは知らないのですか?」
「はっきり、きめてちょうだい。無条件で、奴隷をつづけるの?」
「もしも、ボクがいやといったら?」
「そのときは……」
彼女は冷ややかな態度で、両腕を乳房のうえあたりに組み、邪悪な薄笑いを浮かべて、ぐいと一歩詰め寄ってきた。その様子は暴虐な女性そのものであった。慈愛も親切もなにもない激情の女だった。
「それなら、それでもいいわよ」
「怒っているんですね。わたしを罰するつもりでしょう」
「違うわ。縁を切っていただくだけ。わたし、いつまでもあなたを縛ってなんかおきはしないわ。あなたはもう、自由よ」
「ヴァンダ、ボクがこんなに恋い慕っているのに……」
「そうね、あなたはわたしを崇拝していらっしゃるわね。でもあなたは卑怯者で、ウソつきで、約束を破る人よ、さっさと出ていってちょうだい」
彼女はわたしに軽蔑のまなざしを投げつけた。
「ヴァンダ!」
「悪者」
「……」
わたしは返す言葉も知らず、心臓のなかで血汐が煮えたぎる思いで、彼女の足もとに身を投げ出して泣きふせった。
「その涙もいっしょに出て行っていただくわよ」
彼女は悪魔的に笑いだした。
「ああ、後生ですから、そういわないでください」
わたしは我を忘れて哀願した。そして彼女の膝にすがりついて、彼女の手に接吻した。
「わかったわ。あなたは奴隷になって、わたしのムチの味を味わうのね。あなたは蹴られれば崇拝し、虐待されればされるほど、わたしを尊敬するのよね、犬みたいな性質。こんどは、わたしというものをあなたにわからせてあげるわよ」
そういって彼女は荒々しくわたしを引きよせ抱きしめ、涙のうちに微笑しながら、わたしの両目の涙を唇と舌で吸いとりはじめた。
十一
数日後、わたしと彼女はたのしいドライブに出た。すると途中であのロシアの王子の馬車に出会った。王子はわたしが彼女のそばにいるのを見ておどろき、不愉快そうな顔をしたが、稲妻のような鋭い目つきで、何度も彼女を見つめた。しかし彼女はそしらぬふりをしていた。わたしはそれに気づいて、彼女の前にぬかずいて感謝したいほどであった。彼女は彼を一個の木石のように見なして、無関心な一瞥《いちべつ》をあたえただけで、すぐにわたしのほうをむいて、やさしく微笑した。
その後、わたしが彼女にさよならをいって、部屋を出ようとすると、彼女は急に非常に不機嫌になって、
「行ってしまっては、つまらないわね」
「わたしの苦しみを短くするのも長くするのも、やめるのもやめないのも、あなたの手のうちにあるのです」
「その強制で、わたしもやっぱり、苦しみをうけているのよ、そうは思わないこと?」
「それなら、苦しみをやめてわたしの妻になってください!」
「それはダメよ、ゼフェリン」
「どうしてですか?」
「あなたはね、わたしの夫になれる人じゃないですもの」
わたしは、やむなく部屋を出たが、彼女はわたしを呼び戻そうとはしなかった。
ねむれない一夜。
わたしは、ああも思いこうも考えたが、気持ちがきまらず、一夜を過ごしてしまった。そして朝になってから、わたしたちの関係を解消するという宣言の手紙を書き、封蝋《ふうろう》を溶かして封印した。わたしは、ふるえる手でそれを持って、二階へあがっていくと、彼女の部屋のドアは開いていた。彼女は、髪にカールをつけるための紙でいっぱいになった頭をつき出して、
「あたし、まだ髪をゆってないのよ」
といってから、わたしの持っているものに目をとめて、
「なにを持っていらしたの?」
「手紙です」
「わたしに?」
「そうです」
「わたしと別れようというのね」
「きのう、あなたはボクのことを、あなたの夫になれない人だとおっしゃったではありませんか」
「そうよ、今でも同じよ」
「それなら、それでいいです」
わたしは全身をふるわせながら、その手紙を彼女に渡した。が、彼女は冷ややかにわたしを見つめて、
「いまのままでいいのよ。あなたが男としてわたしを満足させるかどうかは、問題ではないってことを、あなたは忘れているのね。奴隷としてなら、十分にやれるわよ」
そして彼女は、いいようのないひどい軽蔑の身ぶりをして、つーんとして、
「二十四時間以内に、あなたの身の回りをきちんと片づけてちょうだい。明後日、イタリアへ旅立つから、あなたはわたしの召使いとして行くのよ」
「ヴァンダ!」
「親密さは絶対に許しませんわ。わたしがベルを鳴らさないかぎり、わたしの部屋へはいらないこと、話しかけられるまではじっとだまって待っていること、あなたの名前はゼフェリンではなくて、グレゴールよ。わかって?」
わたしは怒りにふるえたが、拒否することができなかった。それどころか、かえって不思議なたのしみと刺激を感じた。
翌日の夜更けであった。わたしは大きなストーブのそばで、夢中になって手紙や書類などを整理していた。秋は急に深くなったいた。とつぜん、ムチの柄で窓の戸をノックする音がした。急いで窓を開けてみると、彼女が貂の毛皮のついたジャケットを着て、カテリーナ女帝好みの貂の毛のコサック帽をかぶって立っていた。
「用意はととのいましたか、グレゴール」
「いえ、まだです、ご主人さま」
「その言葉はいいわね。これからは、いつもわたしをご主人さまと呼ぶのよ。明日の朝は九時に出発よ。それから、わたしたちが鉄道に乗ったら、あなたはわたしの奴隷よ。さあ、窓を閉めて、ドアのほうを開けてちょうだい」
彼女はわたしの部屋にはいるなり、皮肉な調子で、
「わたし、どう見えて? 気に入った?」
「ヴァンダ、あなたは……」
「だれがそんな言葉づかいを許しましたか!」
彼女はムチをふるって、びーんとわたしを打ちすえた。
「非常におきれいでございます。ご主人さま」
彼女はうれしそうにほほえんで、
「ひざまずいて、ここに」
といって、わたしを椅子のそばにひかえさせた。
「わたしの手に接吻を」
わたしは彼女の冷たい手をとって、うやうやしく接吻した。
「口にも」
わたしはたちまち感激して、この残酷な美女の唇や頬や額や腕や胸に灼熱の接吻の雨をふらせた。彼女もうっとりとして、熱情的にわたしのうえに接吻の雨をふらせた。
十二
朝の九時、わたしたちは軽馬車でカーペシアン保養地をあとにした。州の首都について駅までくると、馬車をおりた。彼女は毛皮をぬいで、わたしの腕にかけて、自分で切符を買いに行った。そしてもどってくると、
「これ、おまえの切符、グレコール」
と高慢な淑女そっくりの語調でいいながら、一枚の切符をつきだした。
「へえ、三等切符!」
わたしは唖然《あぜん》とした。
「あたりまえよ。これからわたしのいうことに注意してよ。わたしが車室に落ちついて用事がなくなるまで、おまえは汽車に乗ってはいけません。どこの駅についても、すぐにわたしのところへかけてきて、わたしの命令を待つのよ。忘れてはダメよ。さあ、わたしの毛皮をちょうだい」
あいた車室を探して彼女を落ちつかせると、わたしは彼女の両脚を熊の皮で巻いてやり、湯たんぽのうえに足をのせた。
わたしは列車が駅にとまるたびに三等車からいち早く飛び出して、彼女のそばへかけ寄って命令を待った。コーヒーといえばコーヒーを、水といえば水を、すぐさま持参した。彼女は同じ車室の数名の男たちを近くにひきよせて、機嫌をとらせていた。わたしは嫉妬で死ぬ思いをしながら、身を粉にして彼女のために働いた。
汽車がウィーンに着くと、彼女は贅沢なガウンを買うために途中下車した。わたしは相変わらず彼女の召使いとして、十歩の間隔をおいてうやうやしく従った。
翌日、そこを出発する前に、彼女はわたしの服を全部取りあげてホテルのボーイにくれてやり、わたしには、お仕着せだといって、彼女好みの明るい青地に赤い縁取りの付いた服と、孔雀の羽根の飾りのついた四角な帽子をくれた。 この服が妙にわたしに似合ったとは!
うるわしい女魔王の彼女は、ウィーンからフィレンツェへ。豪華な一等車でふんぞり返っている彼女にひきかえ、わたしは三等車の拷問台のような木製寝台に横たわった。からだがこわれてしまいそうだった。
夜のとばりの くまなくて
かぎりなき 星のまたたき
深きあこがれ いつしかに
夜にしみ入る やわらかく
夢のわだつみ 帆をあげて
わがこころ ひたぶるに
君が胸をば 求むなれ
やすらいの 永久《とわ》のとまりと
わたしはドイツの民謡を口づさみながら、毛皮につつまれて帝王のように満足してねむる彼女の姿を想像するのだった。
フィレンツェに到着。駅前は群衆、叫喚《きょうかん》、うるさくせがむ運搬夫、辻馬車の客引き。彼女は馬車をえらんだ。
「グレゴール、これ、引き替えの切符、さあ荷物をとっておいで」
彼女は毛皮につつまれて、馬車におさまってしまった。わたしは汗水たらして重いトランクをつぎつぎに運んでいった。最後のひとつをおろしそこねて、危く押しつぶされるところだったが、一人の騎銃兵が手を貸してくれたので助かった。彼女は笑いながら眺めていた。わたしは額の汗をぬぐって馭者台にのった。数分ののち、立派なホテルの前に着いた。
「部屋はあって?」
「はい、ございます」
とマネジャーはいんぎんに答えた。
「一等室をふたつ。それはわたしの分よ。それから別に召使いの分をひとつ、みんなストーブ付きで」
「はい、一等室のほうはみなストーブがついておりますが、お召使いさまのほうは?」
「ストーブがなくてもねむれるから、いいわよ」
部屋の検分がすむと、彼女は、
「グレゴール、トランクを運び上げなさい。わたしは、着替えをして食堂へ行ってくるわ。おまえも用事がすんだら、なにか夕食をとりなさい」
といって、さっさと部屋におさまってしまった。
わたしは荷物を運びあげてから、ボーイのてつだいをしてストーブに火をたきつけた。ボーイはわたしを歓待しようとして、ドイツ語でいろいろと苦労話をしながら、食堂へ連れて行ってくれて食事の給仕をしてくれた。わたしは三十六時間ぶりで、はじめて口あけの酒を飲み、あたたかい肉をフォークで口に運んだ。そこへ彼女が入ってきた。わたしは急いで立ちあがった。
「まァ、これはどうしたわけなの。召使いが食事しているようなところへ、わたしを案内するなんて!」
彼女は怒りに燃えて、給仕をどなりつけると、さっと身をひるがえして出て行ってしまった。 わたしは食事を終わって四階にあるわたしの部屋にのぼっていった。そこにはみじめな油ランプがひとつ燃えていた。ストーブもなく、窓もない。通風口がひとつあるだけの屋根裏の部屋であった。わたしがあきれて自嘲的に笑っていると、急にドアが開いて、給仕が芝居がかった身振りで、
「ご主人様が、すぐに来るようにとの仰せでございます」
わたしは大急ぎでかけおりて、彼女の部屋のドアをノックした。
「おはいり」
わたしはなかへはいって、ドアを閉めて、彼女の前に直立不動の姿勢をした。
彼女は心待ちよげに長椅子に腰かけていた。大燭台の黄色い灯火。大鏡の反射。暖炉の赤い焔。毛皮の外套をはおった彼女は冷然とした表情で、
「よくやってくれたわね、グレゴール」
「はい」
わたしはうやうやしく頭を下げた。
「もっと、こっちへお寄り」
「はい」
「もっと、そばへ」
彼女はうつむいて、白い手で毛皮をなでまわしていたが、
「毛皮を着たヴィーナスが、その奴隷を接見するわ。おまえは、夢想家以上の夢想家ね。わたし、そういうのが好きよ。おまえは、むかしの帝国の時代だったら、さしずめ、恋の殉教者よ、フランス革命の時代だったら、断頭台にのぼったジロンド党のひとりというところ。でも、おまえはわたしの奴隷、わたしの、わたしの……」
彼女は急に立ちあがった。毛皮はずり落ちた。彼女はそんなことにはかまわず、わたしの首のまわりにやわらかく両手をまきつけて、
「わたしの愛する奴隷のゼフェリン! いきな男ぶり。今夜は火の気のない部屋で、ひとり寝とは寒いでしょうね。わたしの毛皮を一枚あげましょうか、かわいいあなたに……」
彼女は、すばやく大きな毛皮を一枚取りあげて、わたしの肩にかけて、くるくるとわたしのからだをつつんでしまった。
「まあ、なんてすてき! よく似合うわ。気品がでてきたわ」
彼女はわたしのからだを愛撫して、接吻した。それがすむと、
「あなたは毛皮を着て、ひとりで喜んでいるのね。早くそれをわたしに返してちょうだい。さもないと、わたし、威厳をなくしてしまうから」
わたしは彼女に毛皮をかけてやった。
「今日は、あなたは堂々と役割を演じてくれたわね。わたし、うれしかったわ、でも、わたしのことをひどい人と思わなかったこと? ねえ、なんとか返事してよ。――これ、命令よ」
「どうしても、ボクの気持ちをいわねばならないのですか?」
「そうよ」
「それならいいますが、ボクは虐待されればされるほど、いっそう深くあなたを愛します、崇拝します」
わたしは、彼女を抱き寄せて、彼女のぬれた唇にわたしの唇を合わせた。
「わたしがいくら残酷に振る舞っても、あなたはわたしを愛してくださるのね」
彼女はほっとため息をついてから、
「さあ、お帰り! いつまでもおまえがそばにいると、退屈だわ」
といって、いきなりわたしの耳に平手打ちをくれた。
わたしは目から火が出たように感じ、耳の奥がぐゎーんとした。
「その毛皮を着せてちょうだい、奴隷!」
わたしは命じられるままに手をかし、できるかぎり一生懸命になって、毛皮を着せてやった。
「なんて不器用な!」
彼女はまたもわたしの頬をぴしゃりと叩いた。 わたしの顔は青くなった。
「傷がついて?」
彼女は白い手で、やわらかくわたしの顔をなでまわし、
「不平をいう理由はないわね、あなたがそうしてもらいたがっているんですから。さあ、もう一度、接吻して!」
わたしは、彼女のからだにしっかりと抱きついて、唇を求めた。そして重い大きな毛皮のなかで抱き合ったままころがった。
――メス熊がわたしを抱きかかえている。四肢の爪がわたしの背中の肉に突きささっている。
わたしはそんな幻想にとらわれていたが、まもなく彼女はわたしをつき放して立ちあがった。
十三
その夜わたしは悪魔に襲われどおしだった。大きな白いメス熊に抱かれて、鋭い爪をからだじゅうに突き立てられるように感じて、わたしは絶望の叫びをあげて目をさました。わたしの耳の奥には、彼女の悪魔的な嘲笑がいつまでも残っていた。
朝を迎えるとわたしは、はやばやとベッドを離れて、彼女の部屋のドアの前に立った。
「グレゴール、こちらへきてご飯をおあがり」
「はい」
「ご飯がすんだら、わたしたちは家をさがしに出ましょう。ここのホテルでは困ることが起こるからよ。おまえと一分以上も話していようものなら、すぐに人の噂にのぼってしまうからよ」
わたしたちは、それから半時間後にはホテルを出て、家を探し歩いた。そして彼女が見つけた快適な小さな別荘は、カシタ市のむこう側の、アルノ河の左岸の愛らしい丘の上に立っていた。美しい庭園にかこまれた二階建ての家で、可憐な小道、草地、椿の咲く牧場もあった。古代の彫刻の石膏像をならべた柱廊もあって、そこから大理石造りの浴室に通じていた。
彼女は二階の部屋を自分のものにし、階下の一室をわたしにふり当てた。わたしの部屋には美しい暖炉さえついていた。
その別荘に引き移った日の夕刻であった。女主人からのお呼びですといって、美しい侍女がわたしを迎えにきた。わたしは大理石の階段をのぼり、壮麗なサロンを通りぬけて、彼女の寝室の前に立ってドアをノックした。だがなかからは、なかなか応答がなかった。わたしはまたノックして、じっと待っていた。そのうちのふとドアが開いて、
「おそいわね、どうしたの?」
と彼女は軽くわたしをたしなめた。
「さっきから、たびたびノックしたのですが、お耳にはいらなかったのでしょう」
わたしがおずおずしていると、彼女はわたしの腕をつかんで、ぐいとなかへ引き入れ、ドアを閉め、わたしに抱きついて赤い緞子《どんす》の長椅子のところへ連れて行った。
彼女は、見る人をうっとりとさせる着流し姿であった。白い繻子の服は、すらりとしたからだから、優雅にすべり落ちた。緑色のビロードの裏のついた貂の毛皮の黒い色で無造作につつまれた腕や胸がむき出しになった。赤い髪の毛は背中から臀部のあたりまで垂れさがっていた。
「たしかに、毛皮を着たヴィーナス!」
と、わたしは思わずつぶやいた。
彼女は、ふくよかな、あらわな胸にわたしを抱きよせて、何度も接吻をくり返した。その激しさに、わたしは窒息しそうになった。わたしの心は、想像を絶した幸福の大洋のなかへ押し流された。
「あなたはまだ、わたしを愛していらっしゃる?」
彼女はあだっぽい目つきで、激情をとけ込ませるように、わたしをじーっと見つめながら、甘ったるい口調でたずねた。
「いまさら、そんなことを!」
とわたしは叫んだ。
「あの誓いを、まだおぼえていらっしゃるわね?」
と彼女は誘惑的に微笑を浮かべて、
「さあ、これで準備は万端ととのったわ、わたし、もう一度ききますが、あなたはいまでもほんとうにわたしの奴隷になっていたいと望んでいらっしゃるの?」
「そのつもりでいるではありませんか」
「でも、まだあの書類に署名していなかったわね?」
「書類? なんの書類ですか?」
「いつかの誓約の書類よ。でもいいわ、わかったわよ。あなたは、もうおやめになるつもりないのね。それじゃ、そうしましょう」
「しかしヴァンダ、ボクにはあなたにつかえて、あなたの奴隷になる以上に大きな幸福はないことをご存知でしょう。ボクは、完全にあなたの支配のもとにあれば、どんなものでも支払えます。たとえ死でも!」
「それでわたし、第二の同意書をこしらえてあるのよ」
「書類を見せてください」
彼女は、文庫のなかから二通の書類を取り出した。
第一のものにはこう書いてあった――
ヴァンダ・フォン・ジュナウ夫人とゼフェリン・フォン・クジムスキーとの間の同意書
ゼフェリン・フォン・クジムスキーは今日をもって、ヴァンダ・フォン・ジュナウの婚約者たることを取りやめ、それに関するいっさいの権利を放棄する。今後、彼は一人の男性として、高貴な紳士としての名誉の言葉にかけて、彼女の奴隷となり、彼女が彼を自由にもどすときまで、継続することを誓約する。
フォン・ジュナウ夫人の奴隷として彼はグレゴールの名を持ち、無条件で彼女の要求のいっさいに応じ、彼女の命令いっさいに従うべきこと、彼はつねに主人に従順であり、主人の恩恵のいっさいの指示を絶大な慈悲と考えるべきこと。
フォン・ジュナウ夫人は、その奴隷のもっとも軽微な怠慢、または過失にたいしてすら、彼女自身が最善と考えるところに従って、罰する資格があるばかりでなく、彼女自身の気分の動くままに、または単にときを過ごす手段として彼を拷問にかける権利を有する。彼女が望むかぎりは、いつでも好むままに、彼を殺してもさしつかえない。要するに、彼は彼女の制約なき財産である。
フォン・ジュナウ夫人が、今後その奴隷に自由をあたえるときは、ゼフェリン・フォン・クジムスキーは、彼女の奴隷として経験し、こうむったいっさいのものをすべて忘れることに同意し、いかなる事情のもとでも、けっして復讐、または報復を考えないことを約束する。
フォン・ジュナウ夫人は、その利益のために、女主人としてできるかぎり、しばしば毛皮を着て、彼の前にあらわれることに同意する。彼女の奴隷にたいしてなんらかの残虐を加えようと思う場合には、特にしかりである。
第二の書類には――
わたしは長年にわたって生存と幻影に飽きてきたので、自分の無価値の生命に、みずから終末をあたえる意志の自由を有する。
わたしは読み終わって慄然《りつぜん》とした。まだ取り消す時間の余裕はあったのだが、情熱による狂気と、わたしの肩にしなだれかかっている美しい女性ヴァンダを見ては、夢中になって同意するばかりであった。わたしは彼女の強力な魔術的なまなざしによって、自由自在にひきまわされるかのように、ふるえる手でペンを握って、それに署名してしまった。
「それでは、あなたの旅券とお金を全部、お出し!」
わたしは命じられるままに財布と旅券を渡して、彼女の前にひざまずいて、その胸に顔を押しあてて甘美な陶酔にふけった。
するととつぜん、彼女は足でわたしを払いのけてさっさと立ちあがり、ベルの紐を引いた。その音に応じて三人の若い黒人女が、手に綱をもってうやうやしくはいってきた。わたしは床から起きあがろうとすると、たちまち三人の黒人女たちの手で押し倒され、手足をきりきりと縛りあげられてしまった。
「ムチをちょうだい、ハイデェ」
ヴァンダはいとももの静かな調子で命じた。黒人女はひざまずいて、うやうやしくムチを捧げた。ヴァンダは黒人女たちに手伝わせて、重い毛皮を脱いでジャケットを着てから、
「この男を、そこの柱にくくりつけるのよ」と命じた。
わたしはイタリア風のベッドの大きな柱のひとつに、うしろむきにくくりつけられた。黒人女たちは、さっさと姿を消してしまった。
ヴァンダは左手を腰にあてがい、右手にムチを握ってわたしの前に立ち、背後からあでやかな嘲笑の声をたててから、冷酷な調子で、
「さァ、これで今までの遊び事は終わったのよ。これからは、死のまじめさで新しく始まるのよ。おバカさん。わたしはおまえを笑ってあげるわ、軽蔑してやる。わたしのような移り気の女に狂って、わたしの玩具になってしまった愚かなおまえは、わたしの愛する男ではなくて、奴隷なんだよ。今度こそ、このわたしというものを真剣に知らせてやる。まずムチの味を!」
荒々しい優美さで、彼女は貂の毛皮の袖をまくりあげると、白い肌の腕を上げてぴゅーんとムチをふって、わたしの背中をめがけてはっしとうちおろした。
わたしは歯ぎしりしてちぢみあがった。ムチがナイフのように背の肉に食い込んだからだ。
「どう? いい気持ち?」
「……」
「それなら、こんどは、きっと犬みたいにあわれっぽい音をださせてあげるから!」
彼女は威嚇の言葉と共に、わたしを打ちはじめた。恐ろしい力で、つづけざまにわたしの背や腕や首にムチ打ちの雨をふらせた。わたしは歯を食いしばってたえた。彼女はわたしの頬をねらい打ちした。なまあたたかい鮮血がたらたらと流れ落ちた。彼女は笑いながら、わたしを打ちつづけた。
「今になって、やっとおまえというものかがわかった!」
彼女はあえぎながら叫んだ――
「こんなに完全に、わたしの力で支配できる人間を持つことは、たしかにひとつの喜びだわ。おまえはまだ、わたしを愛しているの? 違う? ええっ! 打てば打つほど、わたしの喜びは大きくなる! おまえのからだをずたずたに切り裂いてやる! そら、芋虫みたいに身をねじれ! 悲鳴を上げろ、泣きだせ! まだか! 畜生! わたしには慈悲も情けもないってことが、わかったか!」
彼女は疲れたらしく、ムチを放り出して、長椅子のうえに横になって、ほーっと長い呼吸をすると、またベルの紐を引いた。
黒人女たちがはいってきた。
「といておやり」
黒人たちはニヤリとして白い歯を見せながら、わたしの縄目をといて、そそくさとその場を去ったが、わたしはしばらく床にうえに倒れたままであった。
「ここへおいで、グレゴール」
ヴァンダの魅力的な美しい声にひきつられて、わたしははうようにして彼女のそばへ近寄った。
「さあ、ひざまずいて、わたしの足に接吻して」
わたしは、白繻子の衣のすそから出された美しい素足に熱烈な接吻をした。
「グレゴール」
と彼女は、急におごそかな口調で、
「これからまる一カ月は、おまえはわたしを見ることはなりません。おまえは庭で園丁として働いて、静かにわたしの命令を待っておいで。さあ、出て行け! 奴隷!」
十四
憂鬱な愛の飢えと重労働の一カ月がすぎた。わたしがじりじりした気分でいると、彼女からつぎのような命令書がきた。
――奴隷グレゴールは今後は主人の身辺の用向きに従うべきこと。 ヴァンダ
翌朝早く、わたしは胸をどきどきさせながら、緞子のカーテンをかきわけて彼女のベッドの近くの暖炉にたき木を入れた。そこにはまだ快いほの暗さがただよっていた。ベッドはたれ絹のむこう側に隠れていた。
「グレゴール、おまえなの?」
と彼女の声。
「いま、何時ころ?」
「九時をまわりました」
「では、朝の食事を」
わたしは急いで食事を盆にのせてはこんできた。彼女は垂れ絹を引いて、裸の肩に黒い毛皮をひっかけた豊麗な半身をあらわにした。その魅力にわたしの頭は狂いそうだった。盆を支えたわたしの手は、わなわなふるえた。
「だらしがないわね、奴隷!」
彼女はそばの化粧台のうえのムチに手をかけた。わたしは懸命になってふるえをとめようとした。
食事がすんでしばらくして、わたしがつぎの間でひかえていると、ベルが鳴った。
「この手紙をコルシニ王子さまのもとへ届けてちょうだい」
わたしは急いで町に行って、王子にその手紙を渡した。王子は黒い目をした美貌の青年であった。わたしは嫉妬に燃え、憔悴しきった様子で、彼女に返事をとりついだ。
「とても顔色が悪いわね。どうしたの?」
と彼女は意地悪さをおさえて、わたしをからかった。昼の食事は、王子と彼女のさしむかいで、わたしは給仕を命じられた。二人の愉快そうな軽口のかわし合いに、わたしは目がくらんでしまった。王子の酒杯にボルドー酒をそそぐとき、思わず手がふるえて、彼女のガウンのうえにまでブドウ酒をこぼしてしまった。
「なんて不作法な!」
彼女はわたしの顔をぴしゃりと打った。
昼食後、彼女は馬車を駆ってカシヌへ行った。馬車への乗り降りのとき、彼女はわたしの腕に軽くもたれかかった。それだけの接触でもわたしのからだには電流が走るような衝撃が感じられた。
午後六時の正餐には、彼女は数名の男女を招待した。わたしは給仕役であった。晩餐後は、パーゴラ劇場へ観劇に出かけ、夜中近くに帰宅した。
数日後、わたしは、コーヒー盆を捧げて彼女のベッドのそばにひざまずいた。すると、彼女はとつぜん、わたしの肩に手をかけて、深々とわたしの目のなかをのぞきながら、
「なんと美しい目をしているのでしょう」
とやさしくささやいて、
「いまは特別に美しいわね、でも、おまえは非常に不しあわせだと思っている?」
「……」
わたしは黙ってうなずいた。
「ゼフェリン、まだわたしを愛していて?」
彼女は急に情熱的になって、はげしくわたしをひきよせた。コーヒー盆はひっくりかえり、壺やコップが床のうえにころがった。
「ヴァンダ! ヴァンダ! ヴァンダ!」
わたしは熱狂的に彼女に抱きついて、彼女の口といわず、頬といわず、ノドといわず、胸といわず噛みつくように接吻した。乳首をもぎとってやりたいほどだった。
「あなたがボクを手ひどく扱えば扱うほど、ボクを裏切れば裏切るほど、ボクはますます狂いたって、あなたを恋し、嫉妬し、苦しみ悶えて死ぬかもしれません」
「わたしがあなたを裏切った? そんなこと一度もないわ。わたしは絶対にあなたに忠実だったわ。誤解しないでね。わたしの大好きな美しい奴隷さん! 今日はあなたをゼフェリンにもどしてあげるわね。わたしの愛するただ一人のゼフェリンさんにね。あなたの服は、実はたいせつにタンスの奥にしまってあるのよ。さァ、行って着がえてらっしゃい。いままでに起きたかずかずの事件は、みんな忘れてね。きっと忘れてくれるわね。あなたの悲しみは、わたしの接吻で、みんな吹き飛ばしてあげる!」
彼女は若い日のカテリーナ二世のように、部屋の中央に立って、ダイヤの王冠を頭にのせた。それから二人で長い間、長椅子にならんで腰かけて、恋を語り合った。彼女は、いまはまったく立派な淑女であり、わたしの優しい愛人になっていた。
「あなた、幸福?」
「いや、まだ……」
「そーお、では」
彼女は柔らかいクッションによりかかって、仰向けになり、静かにジャケットのホックをはずして、半裸になって、貂の毛皮でふんわりと胸を隠しながら、
「いらっしゃいナ」
わたしは彼女の胸に抱かれた。彼女は蛇のような舌でわたしの唇の中までキッスした。
「幸福?」
「かぎりなく!」
「ホホホ!」
彼女は高らかに笑った。
わたしは長椅子のうえから彼女の足もとにおりて、両膝の間に身を沈めた。
翌日、わたしがまた奴隷として、彼女の晩餐を給仕していると、
「もう一組、食器をもってらっしゃい。今日は、いっしょに食べてもらうわ」
といって、彼女は上機嫌でわたしを彼女の隣にすわらせ、フォークで肉をさしてわたしの口に入れてくれたり、子猫のようにわたしにたわむれかかったりした。
わたしのかわりに給仕役を勤めた黒人女ハイデェは、上品で黒大理石で彫刻された美女のようなすばらしい胸をしていた。わたしがそれに気がついて、ちょっとうっとりしていると、この黒い悪魔は白い歯をむき出して、ほがらかに笑った。
それを横目で見ていたヴァンダは、黒人女が部屋から出て行くと、にわかに激高してわたしに飛びかかって、
「どうして、おまえはわたしの目の前で、ほかの女をじろじろ見るの! わたしをさしおいてあんな黒い悪魔を!」
と叫んで、悪罵《あくば》のかぎりをわたしに投げつけた。
わたしはびっくりした。彼女は唇までまっ青にしてぶるぶるふるえている。激しい嫉妬だ!
彼女は壁の掛け釘からムチを取ると、いきなりわたしの顔面をぴしりと打ちすえた。それから黒人女たちを呼んで、わたしを縛りあげて、暗い地下室にほうり込んだ。鍵がかけられ、鉄のカンヌキがかけられ、また鍵がかけられて、わたしは完全に囚人になってしまった。
何時間、何日経ったか、わたしにはわからなかった。飲まず食わず、両腕を背中に縛られたまま、カビ臭いわらのうえにころがされていた。餓死か、凍死か、わたしは悪寒《おかん》でふるえた。
「憎いヴァンダ!」
わたしはたしかに彼女を憎みはじめた。
ふと気がつくと、血汐のように赤い一筋が床を横切って流れた。押し開かれたドアから射し込む灯火の光であった。
彼女は貂の毛皮をまとい、たいまつの灯火を手にしてあらわれた。
「まだ生きているの?」
「ボクを殺しにきたのですか?」
わたしは低いしわがれ声でうめいた。
彼女は二足、三足、大股でわたしのそばへ歩みよると、しめった床に膝をついて、股の間にわたしの頭を抱え、
「病気になったの? あんたの目は病気みたいに光るわよ。まだわたしを愛していてくださるの? わたし、わたし、わたしは、愛してもらいたいのよ」
彼女は懐中から短剣を出して鞘を払った。鋭い刃《やいば》が赤い灯にぎらりと光った。わたしはおどろいて飛びあがった。
――殺される? ?
だが彼女は、わたしを縛っている綱をブツブツと切って、
「ホホホ!」
とあやしく笑った。
十五
今朝早くわたしはひとりでメディチのヴィーナス像をたずねた。
美術館のなかの小さな八角形の部屋は、神殿の内部のように燈明が光っていた。わたしは、深く沈黙したヴィーナスの裸像の前に立って崇厳の念をこめて拝んだ。
回廊には人影ひとつなかった。わたしは身をかがめてひざまずき、この女神像の愛らしいすらりとしたからだ、ふくらみかけた胸、処女らしい、だが豊満な顔、小さな角でも隠しているように見える、匂うような巻き髪をじっと見あげた。
深い祈りをこめてから、帰宅して、しばらくすると正午であった。
ヴァンダはまだ両腕を首の下に組んでベッドのなかに横たわっていた。わたしを呼ぶベルが鳴った。
「わたし水浴びをしたいわ。おまえそばにいてちょうだい。ドアに鍵をかけて!」
わたしは命じられたとおりにして、彼女の寝室から浴室へ通じる曲がり階段をおりた。鉄のてすりにつかまって身を支えながら一段ずつおりていって、途中いくつかのドアに鍵がかかっているかどうかをよくたしかめてもどってくると、彼女はベッドのうえで髪をほぐしていた。緑のビロードのついた毛皮の下は白い素肌であることが、わたしには直感された。悩ましかった。
「ここへ来て、グレゴール。わたしをだいていって!」
わたしは絞首台を見てふるえている死刑囚のようにわなわなしながら、彼女に近づいて毛皮ごと彼女のからだを抱いた。彼女の両腕はわたしの首のまわりにからみついた。一歩一歩、慎重に階段をおりるたびに、彼女の乱れ髪はゆれて、わたしの頬を打った。
浴室は赤いガラスの円天井の室で柔らかに光が射し込んでいた。二本の棕櫚の木がビロードのクッションのあるベッドのうえに、大きな広い葉をさしのべていた。わたしがベッドに彼女のからだをおろすと、
「階段うえの、わたしの化粧台に緑のリボンがあるから持ってきておくれ、それにムチも」と命じた。
わたしは階段をかけあがって、それらを持ってきてから、彼女の水浴の用意にかかったが、彼女のすばらしい玉の肌のあちこちが毛皮の下から見えて光るのに気をとられて、どうにも手足がうまく動かず、ドジばかりふんでいた。
そしてようやくのことで水槽に水が満たされると、彼女はさっと毛皮を脱ぎすてて全裸になって、わたしの目の前に立った。
わたしはそのこうごうしさに目がくらむばかりでだった。神聖、清純、そして豊艶、わたしは思わずその場に伏して彼女の足に接吻した。彼女は一瞬のためらいもなく、静かな足どりで水槽に近づくと、水晶のような水のなかへさっと飛び込んだ。美しい小波が彼女の肌のまわりにたわむれているようであった。
水からあがった彼女のつやつやした肌から銀色の水滴がしたたり、バラ色の光が放射された。わたしは言葉もなく歓喜した。そして乾いたリネンの白布で、彼女の輝かしいからだをぐるぐると巻いて水をぬぐい去ってやった。
やがて彼女は大きなビロードの外衣にくるまってクッションのうえにゆったりと横たわって休み、清潔なかわいい手で無頓着そうにムチをもてあそんでいた。その様子は、黒い貂の毛皮を背景にして白馬がくつろいでいる姿に似ていた。
わたしはその情景をほれぼれと眺めていたが、ふと振り向いて反対側の壁を見ると、思わずあっとおどろいた。そこには金色の額縁の大鏡のなかに、わたしと彼女の姿が豪華な絵のようにうつっていたからである。それがあまりにも美しく、あまりに空想的な絵画に思われ、しかもいつ消えてしまうかもしれないみごとな情景だったので、わたしはにわかに深い悲しみに襲われて顔をしかめた。
「どうしたの?」
と彼女はたずねた。
「あれですよ、生きた絵ですね」
わたしは鏡のなかを指さした。
「ほんと、美しいわねえ。この瞬間の情景をとらえて、永遠の画面に残すことのできる絵かきさんがいたらいいんだけど、残念だわね」
「できないはずはありません。もしあなたが画家に思うぞんぶん絵筆をふるわせるようにしたら、あなたの美しい姿は永遠不滅のものとして残ります。あなたの美は死を超えて、永遠に勝ち残ります」
「そうね」
と彼女は微笑して、
「でもいまのイタリアには、ティチアーノとかラファエルとかいうほどの天才画家がいないので、残念よ。天才のいない穴埋めは、恋の心がやってくれる。そうかもしれないわ。あのドイツ人の画家だったら、それができるかしら?」
「あの画家ならば、たしかに、愛の神が絵具をまぜるのをやってくれます」
これがきっかけで若い画家が呼ばれて、彼女の別荘の一隅に画室を設けて、赤い髪と緑の目をしたマドンナ像の制作にとりかかった。
画室のなかでモデルとして横たわった彼女は、横柄な音楽的な笑い声を盛んにたてた。開け放しの窓の下に身をよせて、わたしは猛烈に嫉妬しながら、じっと耳をすませて一言一句も聞きもらすまいとした。
彼女は嬌声《きょうせい》をあげていった――
「絵かきさん、あなた気でも狂ったんじゃないの、わたしを救世主の母マリアのモデルにするなんて! おかしいわよ。ちょっと待ってね、わたしの絵をお見せするわ。わたしが描いたものよ。それを模写していただきたいわ」
彼女は窓から首を出した。太陽の強烈な光にあたって、頭の毛が焔のように輝いた。
「グレゴール! 用事よ!」
呼ばれてわたしは、大急ぎで階段をのぼって柱廊を通り抜けて、画室にはいった。
「この絵かきさんを浴室へ案内して」
わたしが命じられたとおりに画家を案内して行く間に、彼女はちょっと姿を消したが、数分後に浴室に現れたときには、玉の素肌に貂の毛皮だけをはおって、ムチをもてあそびながらビロードのクッションのうえに横たわり、片足で床に身を投げ出したわたしのからだを、ぐっとふみつけた。
「あれを見てちょうだい、どう? お気に召して?」
と彼女は大鏡のなかを指さして、画家をかえりみた。
画家は驚きのあまり顔を真っ青にして、唇をわなわなとふるわせて、
「わたしも、あんなふうにあなた様を描きたいと思っていたのですが……」
と答えたが、あとは痛切な呻《うめ》きになってしまった。
十六
やがて木炭で下図が描けた。頭と肉体の部分には色が塗ってあった。彼女の残忍な顔は大胆な筆致で描かれていた。緑の目には鋭い生命がひらめいていた。
彼女は傲慢な態度で両腕を胸に組んで、その下図の前に立った。画家は死のように青ざめた表情で、おずおずした口調で、
「この絵は、ヴェネチア派の画家たちの絵と同じように、肖像を描くと同時に、物語をも表現しているつもりです」
「それで、なんという題なの?」
「……」
「どうかしましたの? 顔色が悪いけど、からだの具合でも悪いの?」
「どうも、そうらしいです」
と答えてから、画家は消耗しきったような目つきで、貂の毛皮を着たうるわしい彼女の顔をじっと見つめながら、
「この絵の物語をお話ししましょう」
といった。
「どんなお話?」
「ボクの想像では、愛の女神はある人間のためにオリンポスの山から降りてきたのです。しかし近代の世界はいつも寒いので、女神は大きな豪華な毛皮のなかにその崇高なからだをつつみ、その足を愛人の膝のうえに置くのです。この美しい女神は、お気に入りの愛人に接吻するのに飽きてしまうと、愛する奴隷をムチ打つのです。奴隷は女神の足で踏みつけられればつけられるほど、いっそう情熱を高めて、気狂いのようになって、女神を恋い慕います。ですから、ぼくはこの絵を、毛皮を着たヴィーナスと呼ぼうと思います」
「そうね」
と彼女は満足そうにうなずいた。
画家の絵筆の動きは遅かったが、彼の情熱はますます高まっていった。わたしは見ていて、このままでは、彼が自殺してしまうのではないかと気づかいはじめた。彼女は画家をもてあそび、つぎからつぎへと解きがたい謎を提出するので、画家はそれにとまどって、そのたびに血液が凝固してしまいそうであった。しかし彼女は、それをおもしろがった。
彼女は、モデルとしてポーズを作っている間でも、砂糖菓子をしゃぶり、その包み紙をくるくると丸めて画家にぶつけてたのしんだ。画家は閉口して、
「ご機嫌のよいのはぼくにも嬉しいことですが、お顔からこの絵に必要な表情が欠けるのをおそれます」
「その絵に必要な表情とおっしゃると? ちょっと待ってね――」
彼女は微笑しながら起きあがって、とつぜん猛烈な勢いでムチをふるって、足もとのわたしを打ちすえた。
画家はあっけにとられ、茫然として彼女のふるまいを眺めた。彼の表情には驚きと嫌悪と尊敬の色がごっちゃにまじってあらわれた。
彼女の顔は、わたしをむち打っているうちに、しだいに強く残忍と軽蔑の色をあらわした。それは、わたしがこれまでに何度か見て恍惚となった顔つきであった。
「あなたの絵に必要なのは、この表情?」
彼女の鋭い叫びに画家はびっくりして、彼女の冷たい眼光から顔をそむけて、うつむいてしまった。
「その表情です。しかし……ぼくには、もう描けません」
と画家は悲しげに口ごもった。
「どうして?」
「ぼくも、そのムチで打っていただかないと!」
と画家は狂気のように叫んだ。
「そーお、いいわ、わたし喜んで打ってあげるわよ」
彼女は肩をすくめて笑いながら、言葉をつづけた――
「でも、わたしがあなたをムチ打つとすれば、真剣に打つわよ」
「死ぬまで打ちすえてください!」
「縛ってもいいこと?」
「どうぞ!」
画家はうめき声で答えた。
「オホホホ、おみごとね」
彼女は嬌声を立てて部屋を出て行ったかと思うと、まもなく一本の綱をもってもどってきた。
「ほんとうにご承諾ね。この毛皮を着たヴィーナスは美しい暴君よ。あなたはこの暴君の手の内に身を投げ入れるのよ、いいこと? 結果がよいか悪いか、わたし知らないわよ、それでもよくって?」
「縛ってください!」
画家は、早くもなかば失神したように鈍く叫んだ。
彼女は画家の両腕を背後にまわして縛り、さらにからだじゅうに綱をぐるぐると巻きつけ、綱の一端を窓の横木にくくりつけた。準備がととのうと、彼女は毛皮の袖をまくりあげて、ムチをつかんで、ずいと彼の前に立ちふさがった。そして微笑を浮かべながら、身構えをして、ムチをぴゅーっとうち振って、みじんの容赦もなくぴしっと画家の肩口を打った。
画家は痛さにたえかねてひるんだ。
しかし彼女は、なかば口をあけて、赤い唇の間から白い歯を光らせて、一打ち、二打ち、三打ちと続けざまにムチの雨を降らせた。そのたびに彼は歯ぎしりして、からだをくねらせてがまんしていたが、ついに青い目に憐れみを乞う色を示した。
次の日、彼女は画家の前で椅子に腰掛けていた。画家は画布に向かって、彼女の頭の半分を描いていた。わたしは控えの間のカーテンの蔭に身を隠して彼女の指図を待っていたから、彼女と彼との姿をのぞき見することさえできなかった。わたしの神経は針のようにとがって、空想をたくましくした。
――彼女はいま、いったいなにをくわだてているのだろうか? 画家を警戒しているのだろうか? 彼を追いつめて、ほんとうに気狂いにするのだろうか? それとも、わたしにたいして、新しい苦痛をあたえようとたくらんでいるのだろうか?
わたしの膝はガクガクしてきた。
彼女と彼とは、なにかひそひそと話している。その声はあまりに低かったので、わたしにはなにひとつ聞きとれなかった。二人の間には、なにか約束でもかわされたのではあるまいか? わたしの胸はいらだつばかりであった。わたしはおどろくほど恐ろしい苦痛を味わった。わたしの心臓ははり裂けそうだった。
二人の話し声がいくらか大きくなってきた。彼は彼女の前にひざまずいて彼女のからだを抱きしめ、彼の頭を彼女のふくよかな乳房のあたりに押しつけた。彼女は嬌声をたてて笑った。
「ああ、そうなの! あなたは、もう一度、わたしにムチをふるって欲しいとおっしゃるのね」
「ああ、ヴィーナスさま、ヴァンダさま、あなたはお情けをお持ちではないのですか。わたしを愛することはできないのですか? 愛するとはなにを意味するか、恋慕と情熱で身の細る思いをするというのは、どういうことなのか、あなたはご存知ないのですか? ボクのこの気持ち、苦しんでいる気持ちがわかっていただけないですか、ボクをふびんだと思っていただけないですか?」
「別に、思わないわね」
と彼女は高圧的に、冷笑的に、吐き出すようにいってから、
「でも、わたしムチは持っているわよ」
というが早いか、毛皮の外套のポケットからムチを取りだして、その柄でこつんと彼の顔をこづいた。
彼は思わず立ちあがって、彼女から二三歩身を引いた。
「もう一度苦しむご用意はできていて?」
「……」
彼はうらめしそうに彼女を一瞥すると、黙って画架の前へ行って、絵筆とパレットを手にして作業をつづけた。
その絵は驚異的な成功を収めた。色彩の鮮明なことは神技に近く、悪魔的でさえあった。おそらく彼は彼女からうけた苦痛と、彼女への崇拝の情感のすべてを、そして彼女への呪いのすべてをこの絵のなかに盛り込んだのであろう。そんな情感がなまなましくにじみ出ている。
ほどなく、わたしの姿をその絵のなかに描き込むことになった。わたしと彼とは毎日数時間ずつ二人だけになった。
ある日、彼はふとわたしをふり返って、ふるえる声でいった。
「君はこの女性を愛しているのですか?」
「そうですよ」
「ボクもやっぱり、愛しているのだ」
彼の目は涙でおおわれた。そしてしばらく黙って考え込んでいたが、また絵筆を動かして、
「故郷のドイツには山がある。彼女のすむ山が。……彼女というのは、悪鬼のことさ……」
と彼はひとりごとのようにつぶやいた。
数日後に絵はできあがった。
彼女は女王らしい態度で、画料を支払おうといった。しかし彼は苦悶をふくんだ笑顔をして、
「いいえ、けっこうでございます。もう、お支払いずみでございます」
と頭を下げた。
彼はこの別荘に別れをつげる前に、わたしをそばへ呼んで、折り鞄をひらいてなかを見せた。
「あっ!」
とわたしはおどろきの声をはなった。
そこには彼女の生き写しの顔があったからだ。鏡のなかからこちらを見ているときのような目つきで、わたしのほうを見ていた。
「ぼくはこれを持っていく。これはぼくのものだからね。いくら彼女でも、ぼくからこれを取りあげるわけにはいかない。ぼくは心の血汐でこれを手に入れたのだからね。さようなら!」
彼が去ったあとで、彼女はわたしにいった。
「かわいそうに、あの画家は。なんだか気の毒したみたいね」
「……」
「わたしのように操《みさお》を守るのも、バカげているわね。そう思わない?」
「……」
「あ、わたし、奴隷と話していたのね、忘れていたわ。わたし、少し外の空気にあたりたくなったわ。気分を転換してなにもかも忘れたい。馬車の用意をして!」
十七
彼女は馭者台にのって、みずから手綱をとった。わたしはその後ろに腰をおろした。彼女ははげしくムチをふるった。馬は狂ったように疾走した。
カシヌの町をがむしゃらに走って行くと、とつぜん、黒い馬に乗った若い美男子が全速力で近づいてきた。彼は彼女の姿を認めると、急に馬をとめて静かな歩調にした。彼女は通りすがりに彼と視線を合わせた。雌ライオンと雄ライオンの出会い。彼女は、彼の魔力的な視線からのがれることはできなかった。
彼女は彼の美しい風釆に驚嘆し、恍惚となって、むさぼるように眺め入った。
彼は黒い大長靴をはき、白皮のズボンをつけ、イタリアの騎兵将校のような美麗な服を着て、黒い毛皮の外套をまとっていた。美貌で放恣《ほうし》なエロスの化身!
わたしはこれまでに、わたしの愛する雌ライオンがこんなにも興奮して見入ったのを見たことがない。ドライブからもどってきて馬車から降りたときには、彼女の頬は情熱で燃えあがっていた。彼女は傲然たる態度で、
「ついておいで!」
とわたしに命じて、すたすたと二階の部屋へ急いだ。
そして興奮がおさまらない様子で、室内を行ったりきたりしながら、せき込んで、
「カシヌであったあの黒い馬の若者の身もとをしらべておいで。どこにお住まいで、なんというお名前だか、きかせてちょうだい!」
「まったくいい男ぶりで……」
「あんまり好すぎて、わたし、びっくりしちゃった」
「あの若者があなたにどんな印象をあたえたか、ボクにもわかります」
「あの方がわたしの愛人になり、おまえにムチをあたえる! おまえにとってのたのしみは、あのかたからムチの罰をうけること、いいわね。さあ、早く行って身もとをしらべておいで!」
わたしはあたふたと身元調査にかけ走った。夕方になる前に必要な事項をしらべあげた。そしてヴァンダの部屋へもどってくると、彼女はまだ前の服装のままで長椅子にもたれかかって、白い手で美しい苦悶の顔をおおっていた。赤い髪はライオンのたてがみのように荒々しくもつれていた。
「あのお方の名前は?」
彼女は激情をおさえた薄気味悪い声で、静かにいった。
「アレキシス・パパドポリスといいます」
「ギリシャ人ね?」
「そうです」
「お年は、若いわね?」
「あなたと、どっちつかずくらいでしょう。パリで教育をうけて、無神論者だということです。カンディアでは回教徒と戦い、異人種にたいする憎悪と残酷と勇敢さで名をあらわしたといわれています」
「つまり立派な男性だということね!」
彼女は火花のほとばしるような目つきで叫んだ。
「現在はフィレンツェに住んでおります。非常なお金持ちだそうで……」
「そんなこと聞いてやしないわ!」
彼女は鋭くわたしの言葉をさえぎって、
「あの方は危険な男だわ。おまえは怖くはないの? わたしは怖いわ。奥様があるのかしら?」
「ございません」
「愛人は?」
「ありません」
「どこの劇場へ行くのかしら?」
「今夜はニコリニ劇場だそうです。あそこでは、ヴァージニア・マリニとサルヴィニが出演しております。彼らは、ヨーロッパでも現在の役者のうちで、最大級の役者たちです」
「座席をとってちょうだい。急いで!」
「でも、ご主人さま……」
「ムチの味が恋しいというの?」
彼女はきらりと目を光らせた。
その夜彼女は、青い波紋模様の服を着、むき出しの肩のあたりに大きな貂の毛皮の外套をひっかけて、座席にでんとおさまった。あの美青年は反対側の席についていた。二人は互いに目で相手をむさぼるように見入っていた。舞台のうえの演技などは、二人の眼中にはなかった。わたしの眼中にも、あるのは彼女と彼との行動だけであった。
翌日彼女は、ギリシャ大使館の舞踏会に出席した。エメラルド色のドレスで女神のようなからだをつつんでいた。胸と腕には素肌の肌の匂いがただよっていた。髪には白い睡蓮の花飾りがひとつ。彼女の態度には、もはや興奮のあともなかった。ふるえおののく熱狂の影も見えなかった。静かであった。清寂で豊麗な女神! それを見て、わたしの血汐は凝固し、わたしの心臓はこごえて止まりそうであった。
彼女はゆったりした足取りで大理石の階段をのぼっていった。そしてのぼりきると、その高価な毛皮の外套をわたしの手のうえにすべり落として、わたしには一瞥もくれないでホールへ入っていってしまった。そこには百を数えるほどのローソクの焔が立っていた。それの燃える煙が銀色のもやとなってただよっていた。
わたしは茫然自失して彼女の後ろ姿を見送っていたが、やがて気がつくと、わたしの手に残った彼女の外套には、まだ彼女の肩の肌のあたたか味と匂いが残っていた。わたしはやるせない気持ちでそこに接吻した。わたしの目は涙で曇った。
ほどなく彼が到着した。彼は貂の毛皮でぜいたくに飾りつけたビロードの外套を着ていた。美しい傲慢な暴君のような態度で控え室のまんなかに立つと、誇らかにあたりを見まわした。
――不愉快な奴だ!
とわたしは思った。
――この男なら、きっと彼女を鎖にかけ、彼女の魂を奪い去り、彼女を征服してしまうかもしれない。
わたしは自分のみじめさを痛感し、羨望と嫉妬で胸の中がむしゃくしゃした。
彼はわたしに目をつけて、貴族らしいおうような会釈をしてわたしを呼びつけた。わたしは自分の意志に反して、魔力にひきつけられたかのようにつつっと彼の前に出た。
「ボクの毛皮の外套もぬがせてくれたまえ!」
わたしの全身は憤慨でふるえたが、どうにもならず、命じられるままにわたしは本物の奴隷のように卑屈になって、彼の外套を脱がせてやった。
舞踏会が終わるまでの時間は、わたしには長い長い不安焦燥の時間であった。
ホールには人影がまばらになったが、彼女は容易に帰り気配を示さなかった。窓の鎧戸からは早くも朝の光がのぞいていた。ようやく彼女が、緑の波のようにひきずった重いガウンのきぬずれの音をたてて、こちらへやってきた。彼女は彼と親しげに言葉をかわしている。わたしはもう彼女の眼中にはなかった。
「ご婦人に外套をかけてやりたまえ」
彼は貴族が奴隷に命令するように、わたしに命じた。
わたしが彼女に毛皮の外套を着せてやっている間、彼はそばに立って腕を組んで眺めていた。
そしてわたしがひざまずいて彼女の足に毛皮のオーバー・シューズをはかせてやろうとすると、彼女は彼の肩にやさしく手をかけて軽く身を支えながら、彼の顔に近々と顔をよせて、
「そしてその雌ライオンはどうしましたの?」
と話のつづきをうながした。
「雌ライオンがえらんでいっしょに住んでいた雄ライオンは、別のライオンから攻撃をうけたのさ」
「それで?」
「雌ライオンは静かに身をふせて、その戦闘を見まもっていたのさ。彼女の配偶者が負かされたときでも、彼女は助けに行こうとはしなかったし、彼が敵の前足に踏みつけられて血を流して死んでも、彼女は冷然と眺めていた。強くて勝ったほうに従う、それが雌の性質さ」
「……」
彼女は軽くうなずいて、ちょっとわきをむいて、奇妙な目つきでわたしをちらりと見た。
わたしは全身にぞーっと悪寒を感じた。
十八
帰宅しても彼女はベッドへははいらず、舞踏服を脱ぎすてて髪をといた。それからわたしに暖炉に火を入れるよう命じ、わたしが火をたくと、彼女は炉ばたに腰をおろして、じっと焔を見つめてもの思いにふけっていた。
「まだご用がございましょうか? ご主人さま」
彼女は首を横にふった。
わたしはその部屋を出て柱廊を抜け、庭園へ通じる石段をおりいって、途中で腰をおろした。北風がアルノ河のほうから新鮮な冷気を運んできた。緑の丘はバラ色のモヤにつつまれて遠くまでひろがっていた。街のうえには金色の霧がただよっていた。
薄青い空には星が二つ三つ残っていた。
わたしは燃えたつ額を冷たい大理石に押しあてた。いままでの出来事はすべて子供だましのようなものだった。
――今こそ、ほんとうに、真剣なことが、恐ろしいまでに真剣なことがわき起こってきたのだ!
わたしは彼女との関係が近いうちに破局に達するであろうと予測した。がわたしには、それに対決する勇気が欠けていた。
わたしはただ恐ろしくてたまらなかった。熱狂的に愛しつづけてきた彼女が、わたしの手もとから失われていきそうだ。そう思うだけで、わたしは泣けてしようがなかった。
日中、彼女は部屋に錠をおろしてとじこもり、わたしを遠ざけて黒人女をはべらせた。夕空に星が輝きはじめるころ、彼女は庭園を横切って歩いて行った。わたしは探偵のように注意深い足どりで尾行した。彼女は庭の一隅のヴィーナスの神堂のなかへはいって、ドアを閉めた。わたしは忍び足で近づいて、扉の隙間からそっとのぞき込んだ。わたしの目は燃えていた。
彼女は女神の像の前に立つと、手を組み合わせてなにごとかを真剣に祈っていた。
夜ふけてからであった。
わたしは廊下の一隅の聖人像の下に掛けてあった小さな赤いランプに火をつけて、片手でその光をおおい隠しながら、彼女の寝室へしのび入った。ドアの鍵はかけ忘れていた。わたしは彼女のベッドに近づいた。
彼女は神経的に疲れ切ってしまったのであろう。仰向けになって、胸のあたりに両手を組んで、祈るような格好で熟睡していた。わたしは静かにランプの光で彼女のすばらしい美貌を照らし出した。
それからわたしはランプをそっと床のうえに置き、ベッドのそばに身をかがめて、わたしの頬を彼女のふくよかなあたたかい腕に押しあてた。
彼女はかすかに動いた。
わたしは石にでも化したかのように、いつまでもいつまでも、そうしていた。が、ついに激しい戦慄がわたしを襲ってきたので、わたしは泣き出してしまった。わたしの熱い涙が彼女の腕のうえにポタポタと落ちた。
彼女は目をさました。
「ゼフェリン!」
彼女はおどろきの叫びをあげた。
「……」
「ゼフェリン」
彼女は今度はやさしい口調でいった――
「どうしたの? 病気なの?」
その声には無限の愛情が満ちあふれていた。わたしは胸に赤熱の鉄棒を突きさされたように、声をあげて泣き叫んだ。
「わたしの気の毒な、不幸なゼフェリン」
彼女はそういって、いっそうやさしくわたしの髪の毛をなでながら、
「すまないわね。とってもすまないと思っているのよ、わたし。でも、あなたのお力になることができないのよ。どんなに善意をもって考えても、わたしにはあなたをお救いする方法がわからないのよ」
「ああ、ヴァンダ、そうでしょうか……」
わたしは苦悶のうちにうめいた。
「なあに?」
「あなたはもう、わたしを愛していないのですか? ほんのわずかの憐れみもかけていただけないのですか? あの美しい外国人が、あなたの心を完全にとらえてしまったのでしょうか!」
「そうね、わたし、嘘はつけないわ」
彼女はそういってから、ちょっとためらうように間をおいて――
「ああ、あの人は獅子のような男性で、強くて、美しくて、優しくて、わたしたち北国の人間のように野蛮じゃないわ。あなたにはすまないけれど、わたしどうしてもあの人をわたしのものにしなければならないわ。わたし自身をあの人にさしあげねばならないわ、あの人がもらってくだされば……」
「でもヴァンダ、世間の評判を考えてください!」
「もちろん考えているわ。でも、わたしはあの人の妻になりたいの、もしあの人がもらってくださるならば……」
「ヴァンダ、ボクを追い出さないでください。あの人はあなたを愛してなんかいやしない!」
「だれがそんなことをいうの?」
彼女はかっとなって、鋭い声で叫んだ。
「彼はあなたを愛してなんかいない!」
わたしはそうくり返して衷情《ちゅうじょう》を吐露《とろ》し、わたしのものになって欲しいと哀願した。
しかし彼女は冷酷無情な表情と邪悪な嘲笑をわたしに投げかけて、
「あなたはいま、あの人がわたしを愛してなんかいないといったわね。いいわよ、そんならそれで、あなたは勝手にどんな気休めな空想でもするがいいわ」
と叫ぶが早いか、ぷいとむこうをむいてしまった。
「後生です。ヴァンダ、あなたは血肉をもった女性ではないのですか。ボクと同じように人間の心臓をもってはいないのですか!」
「わたしは石像の女よ。あなたの理想とする毛皮を着たヴィーナスよ。そこにひざまずいて、祈りでも捧げるといいわ」
「ヴァンダ、お慈悲だから!」
「ホホホ!」
彼女は嘲笑的に笑いだした。
わたしは彼女の枕に顔をおしあてて涙を流した。
長い沈黙がつづいた。
彼女はためいきをついて、静かに身を起こすと、
「じれったい人ね!」
「ヴァンダ!」
「うるさいね。わたし疲れたわ。ねむらしてちょうだい」
「後生ですから」
「わたしはねむりたいの!」
「そうですか!」
わたしはカッとなって飛びあがると、ベッドのそばにつるしてあった短刀をつかむと、さっと鞘を払って、わたしの胸にあてて、
「ここで自殺します!」
と叫んだ。
「どうぞ、ご勝手に」
彼女はまったく気にもとめず、大きなあくびをして、
「わたし、とってもねむいのよ」
とくり返した。
わたしはどぎもを抜かれて、短刀を胸に突き刺す勇気をくじかれてしまった。
「ヴァンダ、ほんのちょっとの間でいいから、ボクのいうことを聞いてください」
「ねむいんだってば! このわからずや!」
彼女は売女《ばいた》のように叫んで、ベッドから飛びおりて、わたしを足げにして、
「わたしがおまえの主人だってこと、忘れたの!」
といって、ムチをふるって、わたしを打ちすえた。
わたしは拳を握りしめて、彼女を見かえしてさっさと彼女の寝室から飛び出した。
彼女はムチをほうり出して、ヒステリックに高笑いしていたが、それがかえって、彼女から離れようとするわたしの決意をいっそう強めた。
十九
わたしは自分の部屋にもどると、二、三の持ち物をひとまとめにして荷造りし、彼女にあてて、つぎのような手紙を書いた。
親愛なる淑女よ
わたしはこれまで気が狂うほどあなたを愛し、これまでに例がないほど献身的にあなたにつくしてきました。それなのに、あなたはわたしの神聖な熱情を無意味にし、わたしを相手に、恥知らずで不謹慎な遊戯をやってきました。あなたが残忍で無慈悲だけであったならば、わたしにはまだまだあなたを愛しつづけることができたはずです。しかし今では、あなたが蹴ったり、ムチ打ったりできる奴隷ではありません。あなた自身がわたしを自由の身にしてくれました。わたしは、ただ嫌悪し、軽蔑している婦人にすぎないあなたから、永遠に別れ去ります。
ゼフェリン・クジムスキー
わたしはこの手紙を黒人女に託してその場を去り、息をきらして停車場へ急いだ。
しかしわたしは心の苦痛で足をとめないではいられなかった。わたしの足は急に鉛の塊よりも重くなってしまった。
――逃げようと願っても、できない。恥ずかしい。引き返す? どこへ? 嫌悪しながらも崇拝している彼女のもとへ?
――いや、どうしたらフィレンツェからのがれることができるだろうか? 懐中には一銭のお金もない。かまわない。歩いていこう。娼婦のような女に養ってもらうよりは、正直な乞食になる方がましではないか。
――いや、彼女は、わたしが名誉にかけた誓約の言葉を握っている。それなら、彼女のもとへもどらねばならない……
わたしはカシヌの町を通り抜けて、アルノ河のほとりに出た。わたしは、二本の柳の根もとで黄色い河波が単調なしぶきをあげているあたりに腰をおろして、最後の思い出の総決算にとりかかった。
わたしは、恐ろしい病気にかかってやせ衰えて死んでいった母のことを思った。青春の花の蕾のうちに死んだ、弟を思った。幼な友だち、学友たちのこと、かつて賞玩した雉子鳩《きじばと》のことを思った。
わたしは狂気したように高笑いして、水のなかへ身をすべらしたが、そのまま黄色い河水のなかに没し去ることはできなかった。水面に垂れ下がっている柳の枝をつかんで、岸辺にあがってしまった……
わたしは、屈辱の思いと発熱で顔をまっ赤にして、とぼとぼと彼女の別荘へ戻ってきた。
――自殺のできない弱虫のわたし。こうなったら、彼女に殺してもらうより仕方がない。
わたしがそう思って柱廊のそばまでくると、彼女が欄干のうえによりかかって、緑の目でわたしのほうをじっと見ていた。
「まだ生きていたの?」
彼女は冷然と言った。
「……」
わたしは黙って頭を下げた。
「短刀を返してちょうだい。自分で自分の命を断つ勇気もないようなあなたには、用はない品物ですから」
「なくしてしまいました」
わたしは悪寒にうちふるえた。
「アルノ河でね、フフフ」
彼女は冷笑して、肩をすくめて、
「どうして、そのままどこかへ行ってしまわなかったの? ああ、お金がなかったんだわね。これを持っておいで」
といって、言葉に絶する侮辱の身ぶりをして、わたしの目の前へ財布をほうり投げた。わたしはひろいあげなかった。
「行く気がないのね――?」
「わたしには、行けません」
わたしは、しばらく園内でぶらぶら暮らしていた。ある日、二羽の雀が種子を争って喧嘩しているのを見ていると、きぬずれの音が聞こえてきた。ふり返ってみると、ヴァンダが地味な黒い絹のガウンを着て近づいてきた。例のギリシャ人の青年もいっしょであった。
二人はなにか、しきりに言い争っていた。彼は憤慨して砂利を蹴って、乗馬用のムチをぴゅーんとうち振った。彼女はびっくりした。
やがて彼は、さっさと立ち去った。彼女がいくら懇願をこめて引きとめようとしても、無駄だった。
彼女は石のベンチに腰をおろして、悲しげに頭をたれて、もの思いにふけった。わたしは彼女のそばによって言葉をかけた。彼女はびっくりしてふるえた。
「ボクは、あなたのしあわせを願って暮らしてきました。よいご主人を持たれたようですね」
「新しい奴隷を持ったのじゃないわ。主人をよ。女には主人がいるわ。女は主人を尊敬するものよ」
「あなたは彼を尊敬しているのですか、あんな野蛮な奴を……」
「尊敬しているわ。愛しているわ。ほかのだれよりも」
「ヴァンダ!」
わたしは両手を握りしめてくやしがった。
「あなたはまだ、わたしの奴隷でいたいの。おもしろいわ。でもあの人が許さないと思うわ」
「彼が……?」
「そうよ。あの人はあなたを即刻解雇しろって、わたしに命じたわ。だからあなたが、だれであるか話したら……」
「彼に話した?」
「そうよ。なにもかもみんな話したわ」
「それで彼が怒ったというわけですね」
彼女は下をむいて黙り込んでしまった。しかしわたしはなおも彼を嫉妬し、彼女をなじって議論をつづけ、しまいには、
「もしあいつと結婚するなら、君を殺すぞ」
とおどかした。すると彼女は急に態度をかえて、
「わたし、そういうふうなあなたが好きよ」
といって媚態を示し、
「あなたと結婚するわ。わたしの好きな、好きなあなたと!」
といって、わたしの接吻に応じた。
翌日、彼女はどこかほかへ移転したいといって、準備を始めた。夕方、彼女が一通の手紙を出してきて欲しいといったので、わたしは馬車を駆って行ってきた。帰ると早々、待ちかねたように黒人女がきて、
「ご主人様がお呼びでございます」
といった。
「だれか来ているのか?」
「いいえ、だれも」
わたしはゆっくりと階段をのぼって、応接間を通り抜けた。彼女の寝室のドアの前に立った。
ドアはすぐに開いた。彼女は長椅子のうえに横たわっていたが、わたしには気づかないふうであった。銀灰色の服を肌にぴったりにきて、ふくよかな胸と腕をあらわにあらわしていた。髪は編み合わせて黒ビロードのリボンを付けていた。釣りランプからはなたれる赤い光が、部屋の調度品をも彼女のからだをも、血汐の色で染めていた。
「ヴァンダ」
わたしは彼女のベッドのそばによって、低い太い声で呼んだ。
「お、ゼフェリン」
彼女は目をあけて、わたしを見るなり嬉しげに叫んだ――
「わたし、待ちくたびたのよ。今日は、とってもとっても、あなたが恋しくて……おわかりでしょう?」
そして彼女はわたしの額のおくれ毛をかきあげて、わたしの目に接吻した。
「わたし、この目をいつも愛してきたの。なんて美しいんでしょう!……それなのに、あなたは冷たいわ。わたしを抱いてくれても、まるで丸太棒みたいだったんですもの。あ、待っていらっしゃい。いまわたしが愛の光でたきつけてあげるから」
彼女は媚びるような目つきでわたしにとびついて、わたしの唇に接吻した。それから、
「わたしは、わたしは、あなたを愛するしるしに、もう一度残酷になってあげるわね。かわいいおバカさん。ムチで打ってあげる……」
「でも……」
「打ってあげたいの!」
「ヴァンダ!」
「こっちへいらっしゃい。わたしに縛らせてちょうだいね。あなたが、わたしをすごく愛してくださっているのを、わたし見たいのよ、ね、わかって? ここに綱があるわ」
彼女は立ちあがると、すぐにわたしの足を縛り、それから両腕をうしろにまわして、囚人みたいに締めあげて縛った。
「どう? 動ける?」
「動けません」
「すてき」
彼女はさらに丈夫なロープでわたしのからだをエビ攻めのように縛り、ロープの一端で柱ひとつにわたしのからだをくくりつけた。
「まるで処刑されるみたいです」
わたしは低い声でうめいた。
「そうよ、徹底的に処刑してあげるの!」
と彼女は悪鬼のように叫んだ。
「毛皮のジャケットを着てください!」
「喜んで着てあげるわよ」
彼女は愛用のロシア・ジャケットを着て、わたしの目前にぬっくと立った。そして両手を組んで、目を細めて、わたしを見おろしながら、
「処刑よ、拷問よ。このわたしに利己心や高慢や残忍を植えつけたのはあなたですから、その最初の犠牲にあなたをえらんであげる。わたしを愛している男を虐待するのはおもしろいわ。それでもまだ、あなたはわたしを愛している?」
「気が狂うほど愛してます!」
「熱烈なほど、いいわ」
「今夜のあなたの目には、本物の残忍さの光がある。しかも不思議に美しい。完全に毛皮を着たヴィーナスだ!」
彼女はそれには答えないで、いきなりわたしの首に両腕をまきつけて、熱烈な接吻をした。わたしの情欲は熱狂的に高まった。
「ムチは、どこに?」
「ほんとうに罰をうけたいのね?」
「そうです!」
「承知したわ」
彼女はさっと一歩身をひいてつんと胸をそらし、なかば顔をベッドのとばりのほうにむけて、
「あなた! この男をムチで打ってちょうだい!」
とあでやかな高声で叫んだ。
声に応じて四柱式寝台の垂れ幕のなかからあらわれたのは、あの美青年のギリシャ人だった。わたしは茫然自失した。彼はビロードのジャケット、白ズボン、乗馬用の長靴といういでたちであった。そしてわたしのほうをじろりと見てから、彼女にむかって、
「君はたしかに残酷だなァ」
「ちょっとどぎつい快楽ね」
と彼女は上機嫌で笑った。
わたしは完全に彼女の快楽と残酷の罠にかかってしまったのだ。怒りがこみあげてきた。
「縄をとけ!」
「いまさら、なにをいっているの。おまえは、わたしの奴隷じゃないの。同意書を見せてあげようか」
「縄をとけ! さもないと……」
わたしは渾身《こんしん》の力をこめて縄からのがれようとした。
「縄がきれるかしら?」
彼女はちょっと不安げに若いギリシャ人をかえりみた。
「大丈夫、心配はいらない」
「人を呼ぶぞ!」
わたしは叫んだ。
「だれにも聞こえやしないわよ」
彼女は、すばやく寄ってきたギリシャ人にムチを渡した。
「やる気か!」
わたしは怒りにふるえながら叫んだ。
「ハハハ、ボクが毛皮を着ておらんものだから、気にいらないらしいな」
ギリシャ人は皮肉に笑いながら、ベッドのうえから短い毛皮の上衣をとって、彼女にてつだわせて着込んだ。
「さあ、ほんとうにこの男をムチ打っていいのかい?」
「お好きなように、どうぞ」
と彼女はうながした。
「けだもの!」
わたしは猛烈な嫉妬と反感をおぼえて、気が遠くなりそうだった。
ギリシャ人は血に飢えた狼のようなものすごい形相でわたしに迫ってきて、恐るべき力でムチをふるってわたしをうちすえた。ひと打ちごとに肉が裂け、骨がくだける思いだった。彼女は冷然と、いや、いかにも愉快そうにゲラゲラ笑って眺めていた。わたしは恥と絶望で狂い死にそうであった。
それからわたしは、ギリシャ神話にあらわれる神々の愛欲の修羅場を夢みた。男は女の裏切りの罠にかかって、奴隷となり不幸な死へ……
夢から覚めたように気がついたときには、わたしの肌から血が流れていた。そしてうつろなわたしの耳に響いてきたのは、ヴァンダの悪魔的な嬌声と笑い声、トランクに鍵をおろす音、階段を下りていく彼女と彼の足音、馬車が走り出す音……
あとは静まりかえってしまった。
ゼフェリンの原稿はここで終わっていた。わたしはそれを机のうえに置き、彼にむかって、
「この話の意味は?」
と静かにたずねた。
「わたしがバカ者だったということさ。……せめて一度でも、あの女をひっぱたいてやればよかったんだが……」
とゼフェリンははき出すようにいった。
美しいモデル嬢の復讐
どんより曇った冬の朝、画家フレデリック・ブリイグは、画室と名付けるにはあまりに小さい飾り付けのない部屋で、画架の前に立って、せっせと画布の下塗りをしていた。だいぶ気がいらだっているらしかった。服装もまったくかまわないで、だらしなかったが、美男子であることはだれにも否定できなかった。
彼は背が高く、非常に印象的な顔をしていたので、見る人の目をひくのに十分であった。ふさふさした顎ひげを生やしていた。頭は薄くなりはじめていた。けれども両眼の瞳にはまだ青春の輝きがあり、なにものかが潜んでいるようであった。その目でじろりと見られると、男たちでさえ、いやおうなしに、いうにいわれぬ強い印象を受ける。女たちなら、ひと目でたちまち、ぼーっとするほどであった。
ドアをノックする音がした。
「お入り」
声に応じて、深々とベールをかぶり、外套に身をつつんだ乙女がはいってきて、画家のそばへ近づいた。
「ちょっと手が離せないので失礼します」
画家は下塗り仕事をつづけていた。
「ブリイグさんでいらっしゃいますのね?」
彼女はちょっと恥ずかしいそうにたずねた。
「ええ、そうですが――どんなご用件ですか?」
「モデルがご入用だろうと思いまして……」
乙女は低い声でいった。
すると、画家ブリイグは、急に向き直って、じっくり彼女をみた。しかしベールや外套のうえからでは、顔や身体の線の具合をはっきり見きわめることはできなかった。
「あなた自身がモデルになりたいというご希望なのですか?」
「ええ、私、決心しましたの」
と乙女は答えた。そして言葉をつづけて、
「最近、お父さんが工場で事故にあったものですから、わたくし、お父さんとお母さんのためになにか働いて、お金をもうけてあげなければなりませんの。そうしないと、一家心中でもしなければおさまらないんですもの。それで、わたくし、絵描きさんのモデルになったほうがいいと思いましたのよ。そうすれば、からだを犠牲にしないで、女としての名誉が保っていけますものね。それに、モデルはお金になるんでしょ。そう聞いておりますから」
「そうですよ。たしかに」
画家はモデル雇い入れの場合の条件を示した。
「でもねェ。わたくしのほうにもおねがいがありますのよ」
と乙女はいった。
「まずねェ、わたくしの顔をあなたの画面に生きうつしに描かないこと。それから、お金は即金でいただきたいですわ」
「よろしい、承知しましょう」
画家はきっぱりと答えた。
「しかし、あなたもすでに聞いて承知しているでしょうが、わたしは、ヴィーナスの絵を描くためにモデルが欲しいと思っているのです。ですから、なにはともあれ、あなたがはたしてヴィーナスに適しているかどうか、調べさせていただかねばなりません」
乙女はベールと外套を脱いで、画家の面前に立った。房々した暗色の髪を編んで、簡単に結んでいた。この髪が彼女のからだを飾っている美しさは完璧であった。画家はそのすばらしさにびっくりして、思わず二、三歩あとずさりした。
「お気にいりまして?」
と乙女はいった。
「うむ、気にいった」
画家は叫ぶようにいった。
「しかしあなたの顔が描かしてもらえないとは残念だ。画家としてじつにみじめだね。あなたは、じつにすばらしく美しいからなァ。……どうしても描かしてくれとせがむのは、罪だろうか?」
乙女は首を横にふった。
「それでは、ひとつ、提案があるんだ」
画家のブリイグは言葉をつづけた。
「つまりだね、あなたの胴体のうえに、別の女のひとの首をのせて描き、あなたの顔を別のモデルの胴体のうえにのせて描く、どうですな?」
「それなら、わたくし、別に異存はありませんわ」
乙女はそういってうなずいてから、
「それで、いつから、おはじめになりますの?」
「いま、すぐに!」
画家はおどろくほどの手早さで、画架と画布を準備した。
「いま、すぐに? まあ!」
乙女は恐怖の色を浮かべて、くり返した。美しい顔がまっ赤になった。
「是非、すぐに、はじめさせてもらいたいなァ。曲げて、お願いする」
画家はそういって、お辞儀した。そしてドアに鍵をかけた。
いっとき、乙女は、石像にでも化したかのように、しばらく立ちすくんだ。けれども、やがて、激情の発作に駆られたかのように、服をさっと脱ぎすて、たちまち全裸になって画家の前に立った。その姿態は、泡立つ海からのぼってきたヴィーナスの麗姿そっくりの美しさであった。けれども彼女は、うぶな乙女らしく両手で顔をおおって、激しくむせび泣いた。
「ふーむ、これは、これは!」
画家は当惑して叫んだ。
「これほどだと予想していたら、こうまで急がずとも……」
「いいわよ。どうせ、こうしなければならないんですもの」
乙女はあえぐようにいった。
「さあ、あなたのお好きなようにポーズをとらせて、描きはじめてください」
画家ブリイグは、さすがに、すぐにはこのモデルの肌に手を触れかねていたが、やがて、勇気をふるいおこして手早く一枚の紙にポーズの輪郭を線書きにして、
「こんなふうにしてもらいたいのだがなァ」
といって、それを渡した。
しばらくのあいだ、彼女はその紙片をじっと眺めていたが、にわかに身体を動かしたかと思うと、ぴたりとポーズを示した。それは画家ブレイグが、彼女にもっともふさわしいだろうと想像したとおりのものであった。その輪郭は、純粋さといい、美しさといい、彼がこれまでひとりで空想していたものよりはるかにすぐれていたので、彼は、思わず全身をひきしめて、歓喜の声をあげそうになったが、かろうじてがまんした。
画家は、木炭を手にとって一気に半時間ほど描きつづけてから、
「今日は、これだけにしておこう」
そういって、窓際のほうへ歩いていって、わざと外をむいた。
そのあいだに乙女は、衣服を身につけ、彼が差し出した金を物もいわずに受け取ると、すばやく画室からでていった。けれども彼女は翌日もやってきた。その次の日も、またその次の日も休まずにやってきた。そうしてふたりの間柄は、しだいに親密の度をくわえていった。
ふたりはどちらも黙ったまま、ひとこともいわなかった。けれども彼が、彼女の顔から目を離すと、彼女はすぐに、この有能な画家の美しい顔に強い視線をそそいでいた。彼は非常に尊敬的な態度で、なかば恥ずかしそうに、なかばやさしいまなざしで、彼女を大事に扱っていたが、彼が熱情に輝かして、食いいるように見つめると、彼女は、つつましく、貞節に、うつむいて、床のうえに視線を落としてしまうのであった。
しかし、ついにくるべき日が来た。画家ブレイグは、絵筆とパレットをかなぐりすてて、モデルの彼女の足もとにひざまずいてじっと仰ぎみた。
「なにをなさいますの?」
彼女はびっくりしてどもった。
「いや、もう、ぼくは、たまらなくなってしまったのだ」
と画家は叫んだ。
「ぼくは、もう、とても自制できない。ああ、君を熱愛している。ぼくの妻になってくれませんか?」
彼女は両手で顔をおおってしまった。恥ずかしさで声もでないほどであった。画家はやむなく立ちあがって画架のうしろへいき、それから、いつものように窓際によって外を眺めた。しばらくのあいだ、画室には音ひとつなく、しーんと静まりかえった。ただ、彼女がドレスを身につける音だけがかすかに聞こえるばかりであった。画家は、これまでに経験したことのないほどの強い感動をおぼえながら、そのきぬずれの音にじっと耳をかたむけていた。これでもう、彼女を永遠に失ってしまうのではあるまいか、彼の胸は、なんとも名状しがたい恐怖の念にかきむしられた。
けれどもきぬずれの音は近づいてきた。彼の肩に彼女のやさしい手がおかれた。
「ほんとうにわたくしを愛していらっしゃるの?」
美しいモデル嬢は恥ずかしげに、やさしくいった。
「ぼくは、もう、あなたなしでは、どうして生きていけるかわからない」
画家はあえぎながら答えた。
「そうすれば、ご満足なさるの?……それなら……わたくし……おまかせするわ」
彼女は、ためらいながらいった。
「そーお? してくださる?……ぼくを嫌わないのですね」
画家は叫ぶようにいった。
「わたくしは、はじめからあなたが好きでしたの」
彼女は涙をためて、ささやいた。
「わたくし、これでどんなにがまんしていたか、わかっていただけるわね」
「ぼくだって、いうにいわれない苦しみをつづけないではいられなかったのですよ」
画家は熱っぽいためいきを吐いた。
「しかし、もう、いっさいが整ったからには、ぼくたちのあいだをひき裂くものはなにもなくなったね」
乙女の名はテレサ・メルク。彼女は貧しい家の娘であったが、心は正直で立派であった。教育もまんざらないわけではなかった。画家ブリイグは、ある程度、社会的地位ができたら、かならず彼女と結婚しようとかたく決意した。ふたりは将来の生活にふさわしい美しい夢の計画を語り合った。けれども、彼女が性急に彼の愛情に身をまかせなければ、ふたりの夢は実現しないであろうか? そんなことはだれにもわかるものではなかった。彼女がまったく彼のものになったときでも、じつは、彼の愛情はたいへんな野望と利己主義に根ざすものであった。
彼は、この美しい妻をモデルにして二枚の絵を描いて、かならず世間の大評判になるものと期待して発表した。けれども実際には、批評家たちからは無視されて、称賛の声はひとつも聞かれず、買い手もあらわれなかった。期待はずれの幻滅感は痛烈であった。
「ぼくが成功しないのは、世間的な力がないからだね」
彼は沈鬱な表情でテレサにいった。
そういわれてみると、彼女は、なるほど不安な気持ちになり、あらためて彼のあまりぱっとしない風采を見直した。
「どんなに才能があっても、世間的に力のある人たちから目をかけられなかったら、なんになる。天分がなんだ。女性であって、芸術の保護者、つまり、芸術家の強壮な手足に特別の好意を寄せてくれるような女性のお目にとまりさえすれば、芸術家として真の才能があろうがなかろうが、そんなことは問題ではないというのが、今の世の中の実情なのだ」
彼はそういってにがにがしげに自嘲した。それにたいして、彼女は、これまで身をも心をも捧げて彼を愛してきたにもかかわらず、彼の希望が敗れ去ったいまでは、哀れにも、毎日ますます苦しい立場に追いつめられていった。世話しなければならない者がたくさんいたので、三度の食事もひからびたパンでがまんしなければならないことがしばしばあった。
彼の気持ちは恐ろしいまでに荒れていった。彼女が全身全魂の愛情を捧げて慰めてやっても、彼のしかめっつらは容易にはなおらなかった。
そんな状態がつづいたある日、彼がなんの当てもなく大通りをぶらついていると、ふと、高貴な淑女とすれ違った。瞬間、その注目をひいた。
彼女はレオンティン・ホルスタイン伯夫人といい、女帝カテリーナの関係者のひとりで、社交界では名流のひとりであった。情熱の純度で相手をはかるような性質ではなく、自分自身の気まぐれと趣味で恋をはかる女性であった。そのうえ、そのころちょうど、敬慕者のひとりをしりぞけて、何となく退屈に感じているところであった。そこへ、たまたま、画家ブリイグがぶつかったというわけである。そこで彼女は気まぐれに心ひかれるままに、彼の身辺のようすをくわしくしらべたうえで、翌日、豊かな香りをふくませた短い手紙をよこして彼を豪壮な邸宅へ招いた。
画家ブリイグはさっそく参上した。目近に接してみると彼女は四十くらいで、豊麗な白肌、金髪、碧眼の淑女で、ふるいつきたくなるほど好ましい容姿をしていた。半時間ほどあれこれと賑やかに談笑しているうちに、彼女は早くも彼をとりこにしてしまい、伯爵夫人としての彼女の肖像を描かせることに決めた。衣装は彼女自身の手で入念に選んだ。黒いビロードのドレスで、襟ぐりがぐっとさがっていたから、乳房の盛り上がった胸の美しさがあらわに見えてなまめかしかった。
画家ブリイグは、その豊麗な姿を描くために毎日彼女の邸宅にかよった。けれども筆の運びはなかなかすすまなかった。彼女のほうから面白おかしくおしゃべりしたり、恋のたわむれを仕掛けたりしていたからである。
あるとき、その画室で伯爵夫人が急に不機嫌になったので、彼はびっくりした。みると、そこにテレサが姿をあらわしたからである。伯爵夫人は眼鏡をかけて、テレサのほうをじっと見つめてから、鼻の頭をつんと立てて、不服顔で彼のほうへ意味深げな流し目を送った。彼はあわてて、テレサにでていってくれと合図した。彼女はひどく不満げにでていった。
「あれはだれなの?」
伯爵夫人はなじるようにたずねた。
「モデルをしている貧しい女です」
と彼は、さりげなさをよそおって答えた。
「そーお。あなたほどの天才ならば、屑みたいな人たちのあいだからモデルを探す必要などないでしょうに……」
と伯爵夫人は、ちょっと嫌味をふくんでいった。そしてすぐに、
「わたくしがよろこんで、あなたのフォルナリアになってあげれば、文句はございませんでしょう?」
画家のブリイグはびっくりして伯爵夫人を見つめた。彼女は言葉をつづけた。
「わたくし、あなたが気にいってしまったのよ。パトロンになってあげますわ。けれどもそれには、古典の名画を勉強して、才能を磨いていただかないと。いっしょに、イタリアへ行きましょう。あなたといっしょによ? でも、そのときには、わたくしを愛さねばだめよ。あなたに、それができますか?」
次の瞬間、画家ブリイグは、彼女の足もとに身を投げだしてひざまずいた。こうした経験の深い伯爵夫人は、得意然として微笑した。それからしばらくして夫人は画室を去ったが、すぐに、テレサがまたはいってきた。彼女は彼にむかって非難の言葉を猛烈にあびせかけた。けれども彼は冷然とさえぎった。
「いまのようなままでは、おれは、絶対に出世しっこないよ」
と落ちつきはらっていった。
「名声と幸福がもうすぐ手のとどくところにきているんだ。おまえなどのために、おれは餓死なんかしてられない。おれは、伯爵夫人といっしょにイタリアへ行くつもりだ。別れよう!」
「あなたのやっていることを、よく考えてごらんなさい」
彼女は死にもの狂いの気持ちをぶちまけた。
「おれは、もう、何度もよく考えたよ」
「フレデリック・ブリイグ! わたくしは、あなたを愛しているのよ。でも、あなたがいまのように悪党ならば……そんなら、いいわよ……わたくし、復讐をとげるまでは、絶対に手をゆるめませんわよ」
不幸な彼女は叫んだ。
画家ブリイグは傍若無人にせせら笑った。彼女はもうたえられなくなって、愛情と憎悪のいりまじった一瞥を彼の顔に投げかけると、ぷっと部屋からとびだしていってしまった。
それから一年ののちである。
画家フレデリック・ブリイグは、ホルスタイン伯爵夫人の寵愛をうけて、宮廷の人気者として王立美術館長の地位へのし上がった。上流社会の紳士淑女は、こぞって彼に肖像を描かせた。皇子は、自分の愛する女性、有名な歌手フロラ・ヘリソンの肖像を描いてもいいという許可を彼にあたえた。
画家ブリイグは、得意になって約束の時間に、この権勢を背負った美しい歌手をその館に訪ねるのを忘れなかった。そのとき、彼女は寝椅子に身を横たえていた。貂の毛の裏の付いた薄紅色の繻子《しゅす》の化粧着をまとっていた。彼がその部屋に一歩踏み入れたとたんに、彼女は皮肉な嬌声をたてて笑った。彼は、はっとして身ぶるいした。
「あたしがわからないのね、ふん?」
「?」
たしかに聞き覚えのある声だ。それを直感して彼は全身をふるえさせた。声の主はテレサ・メルクだったのだ!
彼は、急いでこれまで彼女を冷酷にとりあつかったいいわけをしようとした。彼女は、さっと機先を制して、
「あなたは、わたしの肖像を描くために命令されてここにきているのよ」
彼女は傲然とした態度で軽蔑的にいった。
「さあ、ご用向きだけをさっさとやっていただきましょう」
彼はやむなく描きはじめた。けれども絵筆をふるいながら、彼女を見れば見るほど、彼の胸中には、はげしい後悔の念と愛の情熱が湧きあがってきた。彼女の容姿はふるいつきたいほど魅力的で、愛らしかった。彼はついに狂気のような熱情のとりこになって、彼女の足もとに身を投げ出した。けれども彼女はいよいよ高笑いして、早く絵筆を進めなさいときびしく命令した。
「テレサ!」
彼は泣きだしそうな声でおろおろと言った。
「いまになって、はじめてほんとうに思うのだが、ぼくは、おまえを、おまえだけをほんとうに愛しているのだ。ぼくを追いださないでくれ。ぼくは、おまえなしには生きていけない!」
「ウソおっしゃい!」
「ウソなんかいうものか!」
「ほんとうに? それならわたくしは復讐できたのね」
彼女は悪魔的な歓声をあげた。
「わたくしは、いまでは、もう、あなたなんかを愛していやしないわよ。わたくしが愛しているのは、皇子さまよ。貧乏絵かきの愛なんてなんの役に立ちましょう?」
そういいすてて、彼女は部屋からでていってしまった。
画家ブリイグは絶望のどん底に突き落とされた。そのときから彼の運命はすべて落ち目になった。一番の痛手は皇子の不興を買ったことであった。しきりに伯爵夫人がとりなしてくれたが、なんの効果もなく、彼は高い地位から追われてしまった。テレサは決意と約束を実行したのだ。画家ブリイグは、永年の野望を打ち破られ、ひどい屈辱をうけ、利己的な愛を軽蔑されて、いよいよ気が狂うばかりになった。
このような悲運の種は、じつは魅力的な伯爵夫人の気まぐれな寵愛によって蒔《ま》かれたといっていいだろう。
伯爵夫人は、この敬慕者、画家ブリイグの身の上を哀れに感じた。彼はやがて狂い死にするかもしれない運命にあると見られたからである。彼女は彼をニースへ連れていった。しかしそこで彼をすててしまい、イタリアの侯爵である美青年と手に手を取ってナポリへ去ってしまった。画家ブレイグが恋いに破れて狂い死にするのを目のあたりに見るのにたえなかったからである。
いよいよ臨終も近いという厳粛なときには、彼はひとりぼっちであったが、そういつまでも孤独ではなかった。生きる望みのない沈思のまどろみからゆりおこされてみると、そこには、若くて美しい淑女が立っていた。赤いビロードの外套をまとい、女王然としているのはテレサであった。
「おまえが、ここに……おお、おまえが!」
彼はうめくようにいった。
「おまえは、ついにおれにあわれみを垂れにきてくれたのか?」
「ちがうわよ」
彼女はひややかにきっぱりいった。
「あんたって人がにくくてたまらないから、わたしここへやってきたのよ。あんたが死ぬのを見きわめにきたのよ。あんたなんか、早く死んでしまいなさい! あたしの夫は皇子さまよ。いま、街路の馬車のなかで待ってるわ」
「おれは、まだまだ死にたくはない」
不幸な画家は必死になっていった。
「おれは、おれは、死なない、絶対に……」
テレサは、彼の死のベッドのそばに立って、皮肉にあざけり笑った。その嘲笑の声のなかで彼の息は絶えていった。
彼女は彼の亡骸のうえに身をかがめた。これで彼女の気持ちはいくらかやわらぎ、胸中がおさまるような気がした。けれども彼女の目からは熱い涙が頬を伝わって流れ、彼の死に顔のうえにぽたぽたと落ちた。
マゾッホ略伝
レオポルド・フォン・ザッヘル・マゾッホは一八三六年一月二十七日、オーストリアのレンベルクに生まれ、一八九五年三月ドイツのヘッセンのリンドハイムで死んだ。五十九歳の生涯であった。父はレンベルクの警察署長であったが、マゾッホが十二、三歳のころ、プラハに転任したので、彼もともなわれて移り住み、やがてその地の大学で歴史と法律を学び、一八五七年には青年教師としてグラーツの大学で教壇に立った。在職中に歴史に関するいくつかの著作を発表したが、しだいに小説への関心をたかめ、匿名で小説を書きはじめ、人生を性愛の面から鋭く探究する傾向を強めていった。ヨーロッパで最初に好評を博した作品は告白的小説ともいうべき「毛皮を着たヴィーナス」であった。
一八八二年(四十六歳)から八五年まではライプチヒで国際評論雑誌「アウフ・デル・ヘーエ」の編集に従事した。ついでパリに移り、ブダペストにも移ったが、やはり新聞雑誌に関係し、晩年はマンハイムの新聞の文芸欄を担当していた。
彼の作品には、長短篇ともたくさんあるが、長篇では「毛皮を着たヴィーナス」のほか、「カインの遺言」「にせ白いたちの皮」、短篇集では「毛皮を着た女」「各世紀の恋物語」「ポーランド物語」「ヴィーナスとアドニス」「カテリーナ二世物語そのほか」などが有名である。
夫人の名はアウローラ・フォン・デューメリン。筆名をワンダ・フォン・デュナエウという。一八四五年グラーツで生まれた。陸軍官吏の娘である。小説家としてのマゾッホの名がたかまりはじめたころには、彼女は裁縫学校にかよっていた。彼の小説の内容が、美しい女性によって、男性が征服されて奴隷のようになる恋愛心理をえぐりだしているので、若い女性たちの好奇心をひき、彼女たちのあいだで彼の名が評判になってきた。彼女は女流文士になりたいと望んでいたから、彼の文名を慕って近づいていき、やがて親しく知るようになり、一八七三年結婚した。彼女が二十八歳、彼が三十七歳であった。住居はグラーツからほど遠いガリシアの小さな田舎町に定めた。
ふたりの生活は彼女の回想録に巨細《こさい》に書かれている。それは一九〇六年に公表され、読書界に大センセーションを巻き起こしたので有名であるばかりでなく、彼の作品に描かれた性愛的に異様な恋愛や変態的性格が、単に作者の空想ではなくて、彼自身の家庭生活の体験に根ざすものだということを十分に暗示しているので、人々の興味をそそったのである。
彼女は十数年間の夫婦生活のうちに三人の子どもを生み、あまり豊かでない暮らしをつづけながら育てあげたのだが、彼女にたいする彼の熱烈な愛しかたは、恋愛・性愛心理学者たちの興味をひくに十分なほどの異様な特色をもっていた。
マゾッホといえば「毛皮を着たヴィーナス」の内容が示しているように、豪華な毛皮の外套を着て手にムチをもつ妖しく美しい女性を思わす。毛皮は美と富の象徴、ムチは変態的愛欲の象徴である。それは彼の作品の特色であるばかりでなく、彼の生活そのものの特色でもあった。
彼は彼女を知るようになってから間もなく、褐色の狐の毛皮をつけた黒ビロードの外衣を贈って彼女をよろこばした。結婚のときにも毛皮を贈った。クリスマスのプレゼントも毛皮であった。また、あるときは、彼女に高価な白いたちの毛皮の外套を着せ、白レースのベールをつけさせて貴婦人然とさせて観劇に連れていった。それには人々は目をみはった。彼は得意であった。
けれどもむやみに高価な毛皮や豪華な衣裳を買いこんで、観劇や散策に彼女を連れ歩いていたので、家計はたちまち苦しくなり、借金で首がまわらなくなった。そこで彼女が家計を握り、収入も支出もいっさい見ることになったが、そのときの相談のとりきめかたがおもしろい。
「それにはぼくも大賛成だが、あとになって崩れるといけないから、ふたりのあいだで契約書をつくっておきたいね」
「そうね、それもいいわね」
彼女がなにげなく軽く同意すると、彼は言葉をつづけて、
「しかしだね、君が契約書を書くときには、毛皮の衣裳を着て、ぼくを完全に支配しているのだという気持ちで書いてもらわなくてはいけないよ」
「そーお?」
彼女は、いわれるままに、豪華な毛皮を身につけ、尊大な貴婦人然として、机にむかって契約書を書きはじめた。すると、彼はそばに立って、いかにもおどろきと恐怖に満ちた表情で、じっと眺めていたが、ふたりの署名がすむと、うやうやしくお辞儀して、
「この契約書は大切にしまっておいてください。これで、君はぼくの主人、ぼくは君の奴隷になったというわけだ。これからは、ぼくは、君のことをご主人さまと呼ぶから、君は、なんでも、ぼくに命令するのです。ぼくは、いつでも従順にやりますから……」
これは主客倒錯の心理である。一時のたわむれではなしに、彼は本気なのであった。そこに彼の特異性があった。
結婚後まもなくのことであった。ふたりは女中をひとり使って、たのしい冬の夜を迎えたが、長い夜をすごすつれづれに、彼は追い剥ぎごっこをしようといいだした。夫人と女中のマリーが追い剥ぎ役で、彼の要求どおりに、毛皮の外衣を着て堂々たる貴婦人すがたになって、彼を追いかけた。彼は必死になって部屋から部屋へ逃げた。彼女たちは後を追って、ベッドの下、机の下まで探しまわって、大騒ぎして彼を捕えて、縄でしばった。彼はしばられるだけでは満足せず、縄でたたいてくれと要求した。夫人は女中の手前をはばかり、あきれてこばんだ。
「それなら、マリーにたたいてもらおう」
彼の言葉に、やむを得ず、夫人はたわむれに縄をふるって軽くたたいた。
「もっと強く、きびしく!」彼は顔をゆがめて要求した。夫人はたえきれず隣室へ逃げこんだ。彼は女中に命じて、全身の力をふるって思う存分背中をたたかせた。ぴしっ! ぴしっ! という音が隣室まで聞こえた。夫人は目を閉じて両手で耳をふさいだ。しばらくすると、彼はうれしそうな表情をして夫人の部屋にはいってきて、
「ああ、いい気持ちだった。マリーが思う存分打ってくれたからね。背中はたたいた痕でいっぱいのはずだよ。マリーの腕の力はすごいよ。まるで肉が裂けるようだった」
被虐愛の心理である。
「コロメアのドン・ファン」という小説を発表したときのことである。フランスの読書界ではかなりの反響を呼んだが、ドイツの一批評家が、マゾッホの小説にあらわれる女は、いつもおなじ型の女性だから、単調でおもしろくない。彼は、よろしく、こういう女性を生活のなかからとり去って、小説のなかにあらわれないようにすべきである。といって、彼を非難した。
おなじ型の女とは、男にたいして残酷と征服を好む女のことである。毛皮を着てムチを持つ淑女のことである。この批評を読んで、マゾッホは妻にむかい、
「この批評は大事な点をまちがえている。こういう女性が実際にぼくの生活のなかにいるのなら、けっしてぼくの小説にはあらわれてこないはずだよ。実際にいないからこそ、ぼくは、空想しているのだ。ぼくは、そういう女性を心のなかにいっぱい持っている。だから女性を描こうとすると、たちまち、そういう女性がペンのなかへ流れこんできてしまうのだ。ぼくはいつでも、自分自身の意志に反して書こうとするのだが、いざ書きだすと、酔ったようになって、けっきょく、悪魔的な美しさに書きあげてしまうのだ……」
「でも、こういう非難は、二度と受けないようになさるがいいわよ」彼女は、彼の将来のために深く注意してほしいと懇願した。
「それならやめる!」と彼は決意を示したが、「しかしやめるについては、君からも、ひとつ助けてもらわないとこまる」
「助けるって、なにを――」
「毛皮を着て、ムチをふるって、ぼくに臨んでもらいたいのだ」
「毛皮は着ているではありませんか」
「ムチには、まだ馴れていない。ぼくがひとつの犠牲を払うからには、君にもひとつの犠牲を払ってもらいたい。ぼくは、妻から虐待してもらいたいのだ。それが、ぼくの決楽なのだからね。どうか、ぼくを虐待してください。そうすれば、ぼくは今日かぎり絶対に残酷な女性を書かない」
「約束してくだされば」
その日から彼女は、彼のからだをムチでたたくようになった。はじめのうちは軽くたたくのさえつらかったが、彼から、もっと強くと要求されたので、しだいにきびしくたたくようになった。彼はいろいろなムチを用意した。乗馬用のムチ、サーカスで動物を馴らすときのムチ、鋭いトゲのついたムチもあった。彼の小説にムチのあらわれるのがすくなくなったのは、その翌年あたりからだった。
夫人が用事で旅行しているときには、彼は、熊のように力強い女中に毛皮の外套を着せて、ムチをふるわせた。そして夫人へは、猛烈な恋文をやつぎばやに書き送った。
ムチで背中をたたいて、夫に快感を味わわせるのはいいが、妻として、母としてもっとも息苦しく思ったのは、この妖しい場面を愛児に見られはしないだろうかという心配であった。けれどもマゾッホはそんなことはおかまいなしに、子どもの面前でも、妻にムチ打って欲しいと要求した。
二番目の子どもが生まれたときの話である。妻は産褥でうつらうつらしていた。そこへ若くてきれいな産婆が赤ン坊の世話にきてくれた。
「あなたは力があるでしょうね」マゾッホは産婆のりっぱな体格をつくづく眺めながら尋ねた。
「商売柄、すこしは力がありませんとね」
「ぼくよりもずっと強いでしょうなア」
「そうかもしれませんわ。でも、あなただって、お強そうではございませんか。鍛えてはいらっしゃらないらしいけど」
「どっちが強いか、力くらべしましょうか」
「ええ、ホホホ」若い産婆は笑った。
「ようし、力くらべしよう。ぼくの家内の毛皮の外套を着てください」
「奥様の? まあ、おこられますわ」
「いや、平気です。笑っていますよ。それに、いまちょうど、眠っていますから大丈夫です」
マゾッホは産婆に妻の毛皮の外套を着せて、自分の部屋へ連れていった。そしてドタン、バタンの組みうちをはじめた。その音で隣室の夫人は目をさました。ふたりのあえぐ呼吸、おさえつける笑い声、はね返そうとする苦しい気合い、投げ倒される音、床を蹴る音、椅子を倒す音……何事が起こったのだろうかと怪しんでいると、やがてマゾッホと産婆が頬をまつ赤にし、呼吸をはずませながら、はいってきた。
「どうなすったの」夫人はけげんな顔つきでたずねた。
「やあ、目をさましていたのか」マゾッホは朗らかに笑って、「いま、お産婆さんと角力をとったんだよ。どっちが強いか力くらべをしてみたが、ぼくのほうがおさえつけられてしまった。ハハハ……ぼくだって強いはずなのだが、女と角力をとるのは、案外、むずかしいものだね。女のからだって、実際、つかみどころがないものだね」
「いやな人!」
それでも夫人は、彼のこうした悪癖を深くはとがめようとせず、じっと我慢していた。放恣な小説家の妻の宿命、これもりっぱな作品を書いてもらいたいと願えばこその諦めであった。
やがて夫の要求は、ムチと毛皮だけではなくなった。彼女が三人目の子を宿しているときのことであった。彼は、いきなり、
「君も情夫をこしらえてください!」
「まあ! いくらなんでもいやですわ!」彼女は、唖然《あぜん》として、言下にことわった。すると、その日から、マゾッホのペンはぴたりととまってしまった。一行の原稿も書けなくなった。何週間も、何カ月間もペンがとまって、収入のみちもとだえてしまった。彼女が心がけておいた貯金も使いはたし、生活難がせまってきた。彼女は苦情をいわないではいられなかった。
しかしマゾッホは独善的にこういうのだった。
「君は、ぼくが小説を書くのを靴下を編む仕事くらいにしか考えていないようだね。ぼくが仕事をするのには、どうしても気分と刺激が必要なのだ。こんなことは、君には、もうわかりきっているではないか。君や子どもたちのために、パン代を稼がせようというのなら、君だって、ぼくのために、なんかしてくれてもいいだろう。なにも、とりわけおそろしいことを要求しているわけではない。多くの貴婦人たちがやっていることだし、それに、君自身にとってもたのしみになるではないか」
けれども、彼女は、「待っていました」といえるような女性ではなかった。
夫マゾッホの創作に望みをかければこそ、忍びがたきを忍び、堪えがたきを堪えてきたのに、そのうえ情夫をつくれとは、悲しいきわみであった。いまさら情夫のつくれる女であったら、とうのむかしにつくっていたろうに。そう思うと彼女はかぎりない淋しさにおそわれた。とはいえ、日々を食べて生きていかねばならない。それには夫に原稿を書いてもらわねばならない。そのためには、自分が情夫をつくって、夫の心情を刺激してやらねばいけない。三段論法で押されては、どうにもならなかった。
彼女は夫マゾッホの強引な懇望に抗しがたく、ついに、旅装をととのえて、グラーツ市の盛り場へ情夫探しにでかけることになった。懐中のお金もすくないので、滞在は一週間くらいの予定であった。マゾッホは、出がけに彼女にむかって、毎晩観劇に行くこと、散歩すること、ホテルで網を張っていること、できるだけ美々しく着飾り、貴婦人然としていることなどを巨細に教えた。けれどもそれは彼女には、気の進まない恋の冒険行であったから、意を決して家をでたものの、あとにのこした子どもたちのことが気にかかった。そして途中で気分が悪くなったので、二日目には早くも帰宅してしまった。それを見たマゾッホは、かえってよろこんだ。その二日間、彼の胸のなかは、彼女への愛慕の情とものすごい嫉妬心で荒れくるったからだ。
「ぼくにとっては、君はすべてだ。もしも君が死ぬようなことがあれば、ぼくは、子どもたちを殺して、ぼく自身もピストル自殺をしてしまう!」
これほどに愛した彼女に情夫をつくれとすすめたのがマゾッホであった。自分を不利な境地へ追いこんで、強烈な愛情と苦痛を見いだして、その興奮にひたろうというのであった。利己主義の極地!
子どもが生まれて三日目であった。マゾッホは、行きつけのカフェから急いで帰ってきた。手には一枚の新聞をもっていた。産褥の彼女のそばに立つと、
「とうとう、ギリシャ人が見つかったよ」とよろこばしげに叫んだ。
ギリシャ人とは、情夫という意味であった。「毛皮を着たヴィーナス」のなかにあらわれる情夫がギリシャ人であったから、彼はそういう意味でいっているのである。
彼の説明によると、カフェから持ってきたウィーン日報の広告欄に、「当方容貌美、財産有、体力強壮、小壮紳士、上品若美人と交際求む」とあるから、すぐに返事をだせというのであった。そして有無をいわせず、彼女のからだを起こし、背中に枕をあてて、上体を保たせ、その膝の上に板をのせて応募の返事を書かせた。内容は彼が口述してやった。彼女の署名がすむと、彼は、それを彼女の写真とともに封入して自分で郵便局へ持っていった。
折り返し返事がきた。東洋風の服装をした美男子の写真がはいっていた。彼女は当惑していたが、マゾッホは大喜びであった。そして一日も早く彼女を肥《ひ》だたせようとして、鶏肉そのほか、いろいろな滋養物を買ってきて食べさせた。一時間ごとに牛乳に卵をいれて温めたのを飲ませた。産後十日目に彼女はヴッルツシュラークという町のホテルでその男と会うことになった。
その日は大雪であった。彼女は、毛皮とビロードでつくった長い外套を着、乗馬靴のような長靴をはき、大きなアストラカン帽子をかぶり、手には犬を馴らすムチを持っていた。産後間もないからだでは、その衣裳の重さにたえかねて倒れそうになった。あとにのこしていくかわいい赤ン坊の顔をみると、胸の張りさける思いだった。涙の別れだった。
夫マゾッホは駅まで見送りにきた。汽車は高く積みあげたような雪壁のあいだをあえぐようにのぼっていった。彼の姿が見えなくなると、無理に持たされたムチを、まるで穢《けが》れをすてるように、窓から外の雪のなかへ投げてしまった。やがて目的の停車場に着いた。そこでは、写真の紳士がソリを用意して待っていた。それに相乗りしてホテルにむかった。部屋にはいったが、彼女は悲しみにたえなかった。
「いや、万事、お察ししています」紳士は機先を制して、彼女に深い同情の意をあらわした。
彼女は紳士と食事をともにしながら身の上話をした。話しているうちに、乳が張ってきて、ひどく痛み、どうにも我慢ができなくなった。もう、色事どころではなかった。ふたりは温い握手をしただけで、清く別れた。
帰宅すると、マゾッホは待ちかねて彼女を迎えた。留守中は、ほんとうに死の苦しみを感じたといって、相手の紳士のようすをことこまかに問いただした。彼女は悲哀と苦しみで、べッドに顔を伏せて泣きいった。
これほどにまで彼女を苦しみ悲しませたにもかかわらず、マゾッホは、彼女に情夫をつくらせたいという欲望をすてなかった。機会はいくらでもあるのに、情夫を見いだすことができないのは怠慢だといって彼女を非難した。
仮装舞踏会の晩であった。マゾッホは、しきりに若い学生にすすめて、彼女の相手をさせた。踊っているうちにその学生は彼女に思いを寄せた。そして夜にまぎれて彼女に接吻した。彼女はその学生のしつこい恋にはひどく悩まされたが、マゾッホはひとりよろこんだ。
「あの学生は君に熱中しているね。ぼく以外の男が、君を手にいれようとしているのを知ったときぐらい、ぼくは、君に愛情を感じたことがない!」
やがて彼女はその学生とふたりきりで会うことになった。マゾッホは、女中に子どもたちを托して芝居見物にやってしまい、みずから、せっせと夫人の身仕度をてつだった。
彼女は夫の意見にしたがって白繻子のドレスを着、白生地に黒狐の毛皮のついた外套をまとった。マゾッホは、彼女の足もとにひざまずいて彼女の足に白繻子の靴をはかせた。そして彼女を仰ぎ見て、どうかその足でぼくのからだをふみつけてください、と哀願した。
「ぼくは、君がかわいくてたまらない! しかしこれからよその男と会うというのに、接吻するのは申し訳ない。いまは、もうただこの美しい君の足もとへ地虫のように這い寄るばかりです……」
彼は、そういって、彼女の足と裾に接吻してから、
「ああ、なんという美しい姿だ、まるで花嫁のようにやさしい。ああ、あの学生めが、ねたましい!」
彼は、みずからドアを開けて、彼女を送りだしてやった。
この逢い引きは握手だけではすまなくなった。彼女は苦悩した。あらゆ男性を憎む念におそわれ、子どもたちが病死してくれれば、自分もあとを追って死んでしまいたいと思い乱れた。
マゾッホがライプチヒで雑誌を編集していたときのことである。彼女は夫の用事で旅行にでることになった。家事や子どもや夫の身のまわりのことは、雑誌の仕事に雇われている女に頼んでいった。そして数日後、帰宅してみると、女中の口から、夫とその女との密通事件がくわしく告げられた。彼女は愕然とした。
ムチ打ち、情夫づくり、貧乏、このような嫌な思いを我慢に我慢をして、夫のいうとおりにふるまってきたのも、夫を愛すればこそであったのに、その夫がこともあろうに密通したとは心外であった。夫にも弱味があったろうが、彼女は夫をにくむまえに、女が誘惑したからこそ、夫が負けてしまったにちがいない。そんな女に夫を寝取られてはたまらない。彼女は、そう直感して、嫉妬の青い炎を燃やしてその女をにくんだ。すぐに、その女をサロンに呼びいれ、夫の面前で責めつけ、憤激して悪罵をあびせ、使い馴れたムチで力のかぎり打ちすえた。女は悲鳴をあげてマゾッホに救いを求めた。
ところが、彼は冷然としていた。彼女のムチ打ちをおさえようともせず、まるで石に化したかのように眺めているだけであった。そこには、一片の人情味も見られなかった。もしも彼女自身がこの女のような立場におかれたら、夫は救ってくれないかもしれない。それなら、夫婦の真の心の結ばれは、もう望むべくもない。彼女の魂は凍るようだった。
その夜かぎり、彼女はマゾッホのもとからはなれ去った!
マゾッホは二度目の妻に見取られて一八九五年、五十九歳で死んだ。
マゾッホの文学について
小説家ザッヘル・マゾッホは十九世紀後半の人である。ゲーテが死んでから四年経って生まれたのである。一八五六年彼が二十歳になったとき、有名なクリミヤ戦争がおわった。その年、詩人ハイネは五十九歳で死んだ。運命劇の作家ヘベルは四十三歳で、国民的大叙事詩「ニーベルンゲンの歌」の劇化に着手しようとしていた。哲学者ショーペンハウエルは六十六歳。フランスではバルザックが五十七歳、ユゴーが五十四歳、フローベールが三十五歳。ロシアではツルゲーネフが三十八歳、トルストイはまだ二十八歳にすぎなかった。そのつぎの年にはフランスでボードレールの有名な「悪の華」、フローベールの「ボヴァリー夫人」が出版された。
マゾッホはドイツの文壇で名をあげたいと望んでいたらしいが、書いていくうちに、特殊な狙いがかたまってきて、その作品は、フランスの読書界でより多く迎えられ、それ以来約半世紀のあいだ文学的地位を享受するようになった。一八八三年四十七歳のとき、彼は文学記念祭にのぞんで、フランス政府からレジョン・ド・ヌウルのシベリア人という名称をあたえられた。
作家としての彼は「カインの後裔」という総題目のもとに人生のあらゆる面の様相とその相互関係をしらべ、同時代の生活を全的に描きだそうと計画していた。これはバルザックの人間喜劇からヒントを得たらしく、恋愛、財産、金銭、国家、戦争、死の六部にわけて描きぬくつもりであったらしい。しかし、こと志とちがって、ほぼ実現されたのは、恋愛と財産の二部門だけで、あとは断片的なものになってしまった。「毛皮を着たヴィーナス」は恋愛部門の第五番目のものである。
彼の作品のすぐれた点は、速度のある叙述と性格や場面の絵画的表現と豊富な諧謔である。故郷ガリシアの風土、風俗を扱った短篇は郷土的香りが高く、傑作に数えられるものがたくさんある。彼の随筆は人間観、文明観について一家言をもっていたことを示している。
彼の作品が変態的性愛の文学と見なされるようになったのは、精神病理学者クラスト・エービングが、彼の作品のなかの人物の恋愛の特色を異性から虐待と屈辱をうけて快楽を味わう色情狂のひとつと見なし、これをマゾヒズムと名づけたからである。被虐愛、被虐症、被虐性色情症などと訳される。これは正常の女性たちの心の内にも、多かれ少なかれ潜在している女性的特色であるといわれている。
彼の作品は、正直にいって、性愛の肉感的官能的雰囲気に富むというよりは、むしろ、性愛の心理の一面を深く掘りさげ、「これを顕微鏡下に据えたような誇張と歪曲とのなかに珍奇な超現実的な新詩情」を見いだしたものである。
◆毛皮を着たヴィーナス◆
ザッヘル・マゾッホ/小野武雄訳
二〇〇四年四月二十五日 Ver1