フィガロの結婚
ボーマルシェ/辰野隆訳
目 次
第一幕
第二幕
第三幕
第四幕
第五幕
[解説]鬼才ボーマルシェ
年譜
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登場人物
アルマヴィヴァ伯爵……アンダルシアの大法官
伯爵夫人……その妻
フィガロ……伯爵の部屋付きの下僕。館《やかた》の門番
シュザンヌ……伯爵夫人の第一侍女。フィガロの許嫁《いいなずけ》
マルスリーヌ……調度係りの老女
アントニオ……館《やかた》の庭師、シュザンヌの伯父、ファンシェットの父
ファンシェット……アントニオの娘
シェリュバン……伯爵の第一小姓
バルトロ……セヴィラの医師
バジル……伯爵の洋琴《クラヴサン》の教師
ドン・ギュスマン・ブリドワゾン……伯爵部下の判事
ドゥウブル・マン……ブリドワゾンの執達吏兼書記
法廷の廷丁
グリップ・ソレイユ……牧童
羊飼いの娘
ペドリーユ……伯爵の馬丁兼調馬師
その他無言の人物
一群の召使
一群の百姓女
一群の百姓
この劇はセヴィラより三里離れたるアグアス・フレスカスの館《やかた》において終始す。
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フィガロの結婚――または「狂おしき一日」
第一幕
〔舞台は半ば家具をならべた部屋、中央には大きな安楽椅子。フィガロは手にトアアズ(約二メートルの棒)を持って床《ゆか》の広さを計っている。シュザンヌは姿鏡《すがたみ》の前で、花嫁帽子と呼ばれる小さな花束を頭にさしている〕
第一場
〔フイガロ、シュザンヌ〕
【フィガロ】 二十六|歩《ぽ》に十九|歩《ほ》と。
【シュザンヌ】 ちょいとフィガロ、これがわたしの花かんざしだよ。こういう風にすると引き立つだろう?
【フィガロ】 〔シュザンヌの両手をとって〕無類だ、かわいいやつめ。まったくなあ! その清浄無垢な綺麗な花束がかわいい女の頭にさされりゃあ、それも祝言の朝だ、相手の男のとろけそうな目から見ればいいともなんとも……!
【シュザンヌ】 〔退いて〕何の寸法をとってるんだい、この人は?
【フィガロ】 おれはね、シュザンヌ、伯爵様から拝領の結構な寝台《ねだい》が、この部屋にうまくうつるかどうか、眺めてるんだ。
【シュザンヌ】 このお部屋にかい?
【フィガロ】 この部屋をおれたちに下さるのだ。
【シュザンヌ】 ところが、あたしゃいやだね。
【フィガロ】 なぜだい?
【シュザンヌ】 いやなんだよ。
【フィガロ】 なにかわけが?
【シュザンヌ】 お部屋が気に入らないんだよ。
【フィガロ】 わけを言うものだ。
【シュザンヌ】 それが言いたくなかったら?
【フィガロ】 それがさ! お互いに気をゆるした仲じゃねえか!
【シュザンヌ】 ごもっともだという事をはっきりさせるとごもっともでなくなるんだよ。わたしの言う事をきくのかい、きかないのかい?
【フィガロ】 お邸《やしき》中で一番便利な、それもふたつのお部屋の真ん中にある部屋がしゃくの種なんだな。夜になって奥方が御気分でも悪ければ、そちらで呼鈴《よびりん》をお鳴らしになる。そら来た、一二《ひいふう》と二《ふた》またぎで、お前は奥方のお部屋に伺候《しこう》する。殿様が何か御用がおありになれば、御自分のをお鳴らしになる。がちゃりと扉《と》をあけて、ぴょんぴょんぴょんと三度飛んでおれも御前《ごぜん》にまかり出る。
【シュザンヌ】 結構だがね! それにしても、殿様が、朝、曰《いわ》くつきの長い御用事で呼鈴をお鳴らしになる。そら来た、二またぎで、もう私の部屋の戸口だよ。がちゃりと扉《と》があくと、ぴょん、ぴょん、ぴょんと三度お飛びになって……
【フィガロ】 その言葉にわけがあるのか?
【シュザンヌ】 まあ落ちついておききよ。
【フィガロ】 どうしたんだ、いったい? 驚いたな!
【シュザンヌ】 ねえ、こういう話なんだよ。アルマヴィヴァ伯爵様はね、この近辺の別嬪《べっぴん》さんにおからかいになるのにもお飽きになって、お邸《やしき》にお帰りになりたいんだが、それが奥方のところではなく、目をおつけになったのがお前の許嫁《いいなずけ》なんだよ、わかったかい、そのお眼でごらんになると、このお部屋がおあつらえ向きなのさ。ところで、あの忠義だてをするバジル、殿様の御道楽ならなんでもお先棒をかつぐバジル、わたしの唱歌《うた》の先生様のバジルめが毎日毎日、唱歌《うた》の稽古にかこつけて、そのことをくりかえすのさ。
【フィガロ】 バジルが! 畜生め、生木《なまき》で背骨を叩きのめして、あの野郎の背筋をうまい具合に直せたらなあ……
【シュザンヌ】 お前も、人がいいね、下しおかれるこのお部屋はお前の手柄のためだと思っていたのかい?
【フィガロ】 そう思ってもいいだけの仕事はしたからな。
【シュザンヌ】 りこうな男も馬鹿な者だね!
【フィガロ】 世間じゃそんな事を言うなあ。
【シュザンヌ】 口じゃあ言っても本気にゃなれまい。
【フィガロ】 痛《い》てえところだ。
【シュザンヌ】 殿様はこの下されもので、内々わたしに水入らずで十五分ばかり御用をおさせになるおつもりなのだよ。例の古めかしい初夜のみつぎっていうものさ、わかったかい……知ってのとおり、いけ好かないひとだからね!
【フィガロ】 知ってるとも、もし伯爵様が、御婚礼をなすった時に、あのけがらわしいみつぎをお廃《はい》しにならなかったら、おれはこの御領内でお前と縁組みをしようとは思わなかったろうよ。
【シュザンヌ】 ところがね、それをお廃しになったものの、今じゃあ後悔していらっしゃるのさ。で、それを今日になってから、お前の許嫁で内々とりかえしをなさろうという寸法だよ。
【フィガロ】 〔頭をこすりながら〕びっくり仰天して頭がへなへなにならあ、それに知恵沢山なこの額までも……
【シュザンヌ】 そんなに頭をこするもんじゃないよ!
【フィガロ】 命《いのち》にかかわるか?
【シュザンヌ】 〔笑いながら〕もしちょっと腫物《おでき》でも吹き出ると、かつぎ屋さんたちがね……
【フィガロ】 笑ってるな、お茶っぴいめ! ああ、なんとかして、あの女たらしの大将をとっちめて、まんまと罠《わな》にかけて、やつのお金《たから》を捲きあげられねえものかなあ!
【シュザンヌ】 策略《やりくり》とお金《かね》の才覚なら、お前の畑のものじゃないか。
【フィガロ】 それを控えているのはなにも気がひけるからじゃないんだ。
【シュザンヌ】 こわいからかい?
【フィガロ】 危い仕事に手を染めるのはなんでもないが、そいつをうまくはこんで、危きを逃れるのが一仕事だ。考えてもみろ、夜《よる》よなか人の家《うち》へもぐりこんで、女房を寝取った|とが《ヽヽ》で百ばかりなぐられるなら造作もない話だ。世間のやつらは誰も彼もやってることだ、だがね……〔奥で呼鈴が鳴る〕
【シュザンヌ】 そら奥方のお目ざめだ。わたしの祝言の朝、まっさきにわたしがお話しするようにとかたいお言いつけなんだよ。
【フィガロ】 それにもなにかわけがあるのか?
【シュザンヌ】 あの羊飼いが言うには、そうすると、つれなくされた女房がしあわせになるのだとさ、それじゃ、さよなら、かわいいわたしのフィ、フィ、フィガロのがらがらさん、せいぜい祝言のことでも考えておいで。
【フィガロ】 いい知恵が出るように、ちょっと接吻をしてくれねえか。
【シュザンヌ】 今日のわたしの恋人にかい? 明日《あした》の亭主がなんて言うだろうねえ?〔フィガロは彼女に接吻する〕
【シュザンヌ】 どうしようっていうのさ!
【フィガロ】 おれの恋しさがお前にゃわからねえからよ。
【シュザンヌ】 〔振りはなして〕一体、いつになったらよすんだい、うるさい人だね、朝から晩まで、恋だ恋だとしゃべりちらして。
【フィガロ】 〔意味ありげに〕晩から朝までその証拠がつかめればね。〔二度目の呼鈴が鳴る〕
【シュザンヌ】 〔遠方から指を合わせて口にあてながら〕これがお返しの接吻さ、先生、これから先はごめんだよ。
【フィガロ】 〔彼女のあとを追って〕人を! おれはそんなつれない接吻はしなかったぞ。
第二場
〔フィガロ〔ひとり〕〕
【フィガロ】 かわいいやつだなあ! いつもいつも、にこにこして、若々しくって、陽気で、気がきいていて、色気があって、うまみもあるし! おまけに利発ときてやがる!〔揉《も》み手をしながら勢いよく歩きまわって〕いや! 伯爵様! 親愛なる伯爵閣下! 貴殿は拙者にあの女をお恵み下さる……とはまっかな偽り! それだからこそ、なぜあなた様がわたしを門番に御任命になって、大使館にまでもお連れ下され、通信係りにお取立て下さるかと、われとわが胸にたずねてみたのです。わかりましたよ伯爵様、栄転がいちどきに三組ですな、あなたは大使閣下、手前はくたびれもうけの小役人、して、シュゾン〔シュザンヌの愛称〕の儀は成り上がりの奥方、お手軽な大使夫人、それから先は、うまくやってやがる! 手前がこちらで駆けずり廻っている間に、そちらでは、手前のかわいい女にとんでもない真似をおさせになる! お家柄の御名誉のためにこちとらを泥だらけにして、へとへとにしておいて、あなたはあえてそれがしのありがたからぬ光栄をつのらすおつもり! しかし、殿様、それじゃあ御勝手がすぎますぜ。ロンドンで、同時に、御主君の御用と召使の用向きとをお勤めになって! 外国の宮廷で国王とわたしとをいちどきに代表なさる、そりゃ、あんまり欲が深すぎますよ、あんまり。――やい、こんどは貴様だぞ、バジル、へちゃむくれの、兄弟分、お前《めえ》さんには、ちんばの面前でびっこをひかせてえものだ、なろう事なら……いや、やつらが相手なら、一人一人やっつけるには万事内緒内緒、今日一日の御用心だ、ねえフィガロ先生! まず、間違いなく祝言をすませるためには、例の余興の時間をすすませること、お前に首ったけのマルスリーヌを遠ざけること、お金《たから》と進物とを捲きあげること、伯爵閣下の横恋慕をうまくそらすこと、あのバジル先生を存分ひどい目にあわすことだ、さてそれから……
第三場
〔マルスリーヌ、バルトロ、フィガロ〕
【フィガロ】 〔独語を中止して〕おっと、あぶねえ! でぶの医者めがやって来やがった。余興もこいつが来りゃ申し分がねえや。あいや! 先生、お懐かしゅうございます! わたしとシュゾンとの祝言で、このお邸におみあしが向きましたな?
【バルトロ】 〔軽蔑したように〕いや! これはめずらしい、断じてさにあらず。
【フィガロ】 もし祝言ゆえならまことに御親切で!
【バルトロ】 ごもっともだが、そうなら人がよすぎよう。
【フィガロ】 そういうわたしが、昔、あなたの御結婚の邪魔をいたしましたからね。
【バルトロ】 何かほかの話をしたらどうだ?
【フィガロ】 誰があなたの雌ロバの心配なんかするものですか!
【バルトロ】 〔怒って〕べらべらと口のへらぬやつめが、余計なお世話じゃ!
【フィガロ】 御立腹ですかね、先生? お医者様って手合いはめっぽう残忍ですな! あわれな四つ足にも情け容赦がなく……まったくの話が……どうやら人間でも扱うようですぜ! さよなら、マルスリーヌ、お前さんはあいもかわらずわしの讒訴《ざんそ》がしたいのだろう? 惚れるがこわさににらめっこか? おっと、この話は先生にまかせよう。
【バルトロ】 なんだ、それは?
【フィガロ】 話のつづきはその女《ひと》がするでしょうよ。〔フィガロ退場〕
第四場
〔マルスリーヌ、バルトロ〕
【バルトロ】 〔フィガロの去りゆくのを見送りながら〕あいかわらずへんちきりんなやつだなあ! 今から言っておくが生きながら皮をひんむいてやらぬかぎり、あいつの面《つら》にくさは死ぬまでなおるまいて……
【マルスリーヌ】 〔バルトロを自分の方に向けなおして〕結局あなただって、変りばえのしない竹庵《ちくあん》〔薮医者のこと〕先生ですよ! いつもいつも、かたくるしくって、四角四面で、病人もあなたのお手当てを待ちながら死んでしまいますよ、ちょうど、昔、誰かさんがあなたの御用心を出しぬいてお嫁に行ってしまったようにね。
【バルトロ】 あいかわらずの皮肉屋で、喧嘩腰だな! ところで、どなたがわしをぜひともお邸にお呼び寄せになったのかな? 伯爵様に何事かおこったかな?
【マルスリーヌ】 そうでもございません。
【バルトロ】 では、真心のない伯爵夫人ラ・ロジーヌがなにか御不快かな? さても迷惑な。
【マルスリーヌ】 どうも奥方様は御気分がすぐれませんよ。
【バルトロ】 そりゃまたどうして?
【マルスリーヌ】 殿様がつれなくあそばしますので。
【バルトロ】 〔よろこんで〕なるほど――この妻にしてこの夫あり、伯爵がわしの仇を討って下さるわい!
【マルスリーヌ】 伯爵様という方をなんと申し上げてよいやら。御嫉妬深くって、お身持ちが悪くって。
【バルトロ】 倦怠によって放縦、嫉妬は虚栄にもとづく、申すまでもないことだ。
【マルスリーヌ】 早い話が、今日も今日とて、殿様は例のシュザンヌをあのフィガロにおめあわせになって、ごひいきの程をたっぷりお見せになり……
【バルトロ】 その祝言を、閣下が無理に押しつけられたのだろう?
【マルスリーヌ】 そうともきめかねます。が、その祝言につけこんで、殿様は花嫁とひそかにお戯れになろうと……
【バルトロ】 フィガロの花嫁とかね? フィガロとならそのくらいの取引はあって然るべしだな。
【マルスリーヌ】 バジルは、さようなことはないと申していますよ。
【バルトロ】 あのならずものまで当館《こちら》に住み込んだか? まるで化物屋敷じゃな、ところでやつはここでなにをしているかね?
【マルスリーヌ】 あの男にできます悪い事ならなんでも。それにしても、一番よからぬことはあれが久しく私にいまわしい想いをかけていることで。
【バルトロ】 もしわしがあの男につけまわされたのなら、何度でも逃げて見せるが。
【マルスリーヌ】 どういう手段《てだて》で?
【バルトロ】 あの男と結婚するのさ。
【マルスリーヌ】 面白くもない、意地の悪い冗談をおっしゃる人ね、そのくらいなら、あなたこそなぜわたしと結婚して厄ばらいをなさらないんです? なさる義務がおありでしょう? 昔の約束を覚えておいでですか? あのかわいいエマニュエルの思い出はどうなったことやら? わたしたち両人を夫婦《みょうと》にするはずだった、あの恋の忘れ形見のエマニュエル。
【バルトロ】 〔帽をぬいで〕そんな|らち《ヽヽ》もない話をきかすためにわざわざわしをセヴィラから呼んだのかね? それにまた、結婚病がえらい勢いで再発したな……
【マルスリーヌ】 それでは、この話はお預けにしましょう。が、もしわたしと正式に結婚するのがおいやなら、せめてわたしが他の男と一緒になるように御助力下さいな。
【バルトロ】 ああ! いいとも、お話に乗りましょう。だが、天からも女どもからも見放されたその男とはそも何者だね?……
【マルスリーヌ】 されば、その相手と申すのが、先生、ほかならぬ、あの美男で、気さくで、人好きのするフィガロでなくて誰でしょう?
【バルトロ】 あの猪口才《ちょこざい》か?
【マルスリーヌ】 怒ったこともなく、いつも上機嫌で、現在をよろこび、未来をわずらいとせざること過去を悔《くや》まざるがごとく、|いなせ《ヽヽヽ》で、気前がよく、その気前のいいことと申したら……
【バルトロ】 盗人のごとく。
【マルスリーヌ】 お大名のようで。まず一口に申せば、本当にすごい男で!
【バルトロ】 ところで、シュザンヌは?
【マルスリーヌ】 ねえ先生、わたしがフィガロとの約束を利用するのをお助け下さるなら、フィガロをあんなすれっからし女に渡すものですか。
【バルトロ】 祝言の当日でもかね?
【マルスリーヌ】 日限が進めば進むほど事件はこわしやすうござんすよ、それに、わたしが思いきって女のちょっとした秘密をもらせばね!……
【バルトロ】 人の体《からだ》をあつかう医者にわからぬ女の秘密があるかね?
【マルスリーヌ】 そりゃあ、もう御承知のとおり、あなたに対してはわたしはなんにも秘密はござんせんがね。女と申すものは熱は高いが、気が弱く、心をひかれながらも楽しみまでは道が遠く、どんな跳ね返り女でも心の中では『なれるものなら美人にもなれ、風向き次第では、貞女にもなれ、ただ体面をけがすまいぞよ、体面だけは』という声がきこえるように思います。そこで、せめて体面だけは保たなければなりませんし、どんな女でもそれが大切だということは気がついておりますから、まず手始めに、殿様があの女をごひいきにあそばすという噂をまきちらして、シュザンヌをこわがらせて見ましょう。
【バルトロ】 そうしたら、どうなるのだ?
【マルスリーヌ】 そうすれば、シュザンヌは恥かしさにさいなまれて、いつまでも伯爵様をはねつけましょうし、伯爵様はその仕返しに、わたしをお助けになってフィガロとシュザンヌとの結婚に御反対あそばします、そうなればわたしとフィガロとの縁組がかためられましょう。
【バルトロ】 これは道理じゃ。いやはや! わしの老女と、その昔、わしのかわいい女を奪って人に渡した悪党とを夫婦にする、こりゃ面白い芸当じゃ。
【マルスリーヌ】 〔失つぎばやに〕わたしののぞみをたぶらかしてよろこんでいるあのフィガロと一緒になれるとは。
【バルトロ】 〔矢つぎばやに〕いつぞやわしのへそ繰り百エキュを盗みおったあの野郎となあ。
【マルスリーヌ】 ああ! なんてうれしいことだろう!……
【バルトロ】 あの悪人をこらしめるのはなあ!……
【マルスリーヌ】 夫婦になるのがですよ、先生、夫婦になるのが。
第五場
〔マルスリーヌ、バルトロ、シュザンヌ〕
【シュザンヌ】 〔幅びろのリボンのついた女の頭巾を手に持ち、女のローブを腕にかけて〕夫婦になる、夫婦になる? いったい、だれと? わたしのフィガロと?
【マルスリーヌ】 それがなぜいけないの? あなたがあの人と晴れて夫婦になるのですもの。
【バルトロ】 〔笑いながら〕いかにも冠をまげた女の言い草らしいわい! なあ別嬪さん、お前のような女をわがものにする男は果報者だと今、話していたところだ。
【マルスリーヌ】 伯爵様は別としてね、大きな声では言えませんけど。
【シュザンヌ】 〔お辞儀をして〕恐れ入ります、マダム、あなたのお言葉にはいつもなんだか毒がございますね。
【マルスリーヌ】 〔お辞儀をして〕恐れ入りますマダム、どこに毒が? 御家来におさずけになるおたのしみを粋な伯爵様がすこしぐらいお相伴あそばすのは当然でしょう?
【シュザンヌ】 おさずけになる?
【マルスリーヌ】 はい、さようで、マダム。
【シュザンヌ】 ありがたいことにはあなたのお嫉妬はあなたのお腕がフィガロにききめがないと同様に知れわたっておりますからね。
【マルスリーヌ】 その腕もあなたのようなお手並みでかためれば、いっそう強くもなりましょうにねえ。
【シュザンヌ】 でも、そうした手並みは、マダム、わけしり女のお手のものでございますわねえ。
【マルスリーヌ】 ですから、うら若い女では、そうはまいりませんわねえ! おいぼれ判事のように無邪気な女ではねえ!
【バルトロ】 〔マルスリーヌを引っぱりながら〕では、さよなら、フィガロの花嫁御。
【マルスリーヌ】 〔お辞儀をして〕殿様の内縁の奥方様、では、さよなら。
【シュザンヌ】 〔お辞儀をして〕そういうこちらでは、あなたをお偉らああいかたと思っておりますよ、マダム。
【マルスリーヌ】 〔お辞儀をして〕そうおっしゃるあなたも、もうすこしわたしにやさしくしていただけませんでしょうか、マダム?
【シュザンヌ】 〔お辞儀をして〕そのことなら御心配にはおよびませんでございます。マダム。
【マルスリーヌ】 〔お辞儀をして〕ほんとにお美しい方でいらっしゃること! マダム。
【シュザンヌ】 さようでございますとも! あなた様のお頭痛の種になるほどねえ。マダム。
【マルスリーヌ】 〔お辞儀をして〕特にお身持ちがおよろしいこと!
【シュザンヌ】 〔お辞儀をして〕老女風情は身持ちをよくいたしませんではね。
【マルスリーヌ】 〔侮辱されて〕老女風情! 老女風情ですって!
【バルトロ】 〔マルスリーヌを制して〕これ、マルスリーヌ!
【マルスリーヌ】 さあまいりましょう、先生、もうがまんがなりませんからね、では失礼、マダム。
第六場
〔シュザンヌ〔ひとり〕〕
【シュザンヌ】 あんたなんかに用はありませんようううだ! なんだい、物しり顔をして! あんたの小細工なんかこわくもなければ、恥をかかされたって平気の平左ですよううだ。なんて性悪な婆さんだろう! ちっとばかり学問をして、奥様のお若い時分にいじめたもんだから、今でもお邸の采配をふるうつもりなんだよ、〔持ったロオブを椅子の上に投げ出して〕一体、わたしはなにを取りに来たんだっけ。
第七場
〔シュザンヌ、シェリュバン〕
【シェリュバン】 〔駆けよってきて〕ああ、シュゾン、あたしはもう二時間も前から、お前がひとりのときをねらってたんだ。情けないや! お前はお嫁にゆくし、あたしは旅に出るし。
【シュザンヌ】 わたしがお嫁にゆくのがなぜ殿様の一番小姓がお邸から離れることになるの?
【シェリュバン】 〔情けなさそうに〕シュザンヌ、殿様からおひまをいただいたんだよ。
【シュザンヌ】 〔シェリュバンの真似をして〕シェリュバン、なにか馬鹿な真似をしたんだね!
【シェリュバン】 きのうの夕方、お前の従妹《いとこ》のファンシェットのところで殿様に見つかってしまったんだ、今夜の余興にと、あの娘《こ》におぼこ娘の役を稽古させていたところをね。殿様はあたしをごらんになると大層な御立腹で、『この小僧め、出て行けっ!』ておっしゃるんだ、あたしは女の前であんな乱暴な言葉を使う気にはなれないや、『出て行けっ、明日《あす》からは邸にとまることは相成らんぞ』ってね。もし奥様が、あの美しいお代母様《なづけのおや》が、殿様をなだめにおいで下さらなかったら、それっきりだったんだよ、シュゾン、お前に会うたのしみもなくなるところさ。
【シュザンヌ】 わたしに会う! わたしに? わたしにお鉢が廻って来たね! それじゃあ、お前さんが内々想いをこがしているのは、もう、奥様じゃないんだね?
【シェリュバン】 ねえ! シュゾン、奥様はなんて気高くって、お美しいんだろう、それにしてもなんて御威厳がおありになるんだろう!
【シュザンヌ】 つまり、わたしには威厳がないから、手が出せる……
【シェリュバン】 意地悪《いじわる》女っ、あたしが手が出せないことを知ってるくせに。でもお前はしあわせだなあ! いつもいつも奥様にお目にかかって、お話をして、朝は衣装をお着《き》せして、夜は留め針をたどって、衣装をおぬがせしてさ! ああ! シュゾン、あたしは命を投げ出しても……ところで、その手に持ってるのは何だい?
【シュザンヌ】 〔嘲弄して〕お気の毒だがね! これこそ、夜になると、あのお綺麗なお代母様《なづけのおや》のお髪《ぐし》をつつむ果報な頭巾と冥加《みょうが》なリボンさ……
【シェリュバン】 お夜伽《よとぎ》のリボンだって! あたしにおくれよ、いい娘《こ》だからさ!
【シュザンヌ】 〔リボンを引っ込めて〕ええ! とんでもない!――いい娘《こ》だなんて! なんて慣れなれしい児だろう! これがらちもない小僧でなかったら。〔シェリュバンはリボンを奪いとる〕あっ! リボンが!
【シェリュバン】 〔安楽椅子の周囲を廻りながら〕どうも見当りませぬ、いたんでもおりましたし、なくなってしまいました、と申し上げるんだよ。口から出まかせに言えばいいや。
【シュザンヌ】 〔椅子を廻ってシェリュバンを追いかけながら〕これっ! 今から言っておくがね、もう三年か四年もたつと、お前はとんでもないならずものになるよ! リボンを返さないかい?〔取りもどそうとする〕
【シェリュバン】 〔衣嚢《かくし》から|恋の歌《ロマンス》を引出して〕おくれよ、ねえ、シュゾン、これをおくれね、お前には私の|恋の歌《ロマンス》を上げるからね、あのお美しい奥様を想い出すといつもいつも涙の種だろうが、お前を想い出す時だけはやっぱり歓びの光となってあたしの心を慰めてくれるだろうよ。
【シュザンヌ】 〔恋の歌を引ったくって〕お前の心を慰める、なまいきな小僧め! まるであのファンシェットにでも物をいう気になってらあ。誰かさんがファンシェットのところでお前をお見つけになる、が、お前は奥様を慕っている、おまけにわたしをつかまえておのろけを言う!
【シェリュバン】 〔昂奮して〕それはそうだよ、まったく! あたしは自分で自分がわからなくなったんだ。この頃は胸がわくわくして、女を見ただけでも心臓がどきどきするんだよ。恋だとか楽しみなんて言葉を聞くと、いても立ってもいられなくなって、胸苦しくなっちまうんだ。しまいには、誰かに≪恋しゅうて恋しゅうて≫と言ってみたくってみたくってたまらないもんだから、たったひとりで言ってみたり、お庭をかけまわりながら、奥様にも、お前にも、林にも、雲にも、風にも言ってみるんだけれど、風はそんなとりとめもない言葉なんか吹き飛ばしてしまうんだもの! ところで、昨日マルスリーヌに会ったよ。
【シュザンヌ】 〔笑いながら〕はっ! はっ! はっ! はっ!
【シェリュバン】 なぜ、マルスリーヌではいけないんだい? あれだって女だぜ、娘だぜ! 老嬢一匹だ! つまり女だ! 女だとか、娘だとか、ほんとにいい言葉だなあ! なんて面白味があるんだろう!
【シュザンヌ】 まるで気ちがいだよ!
【シェリュバン】 ファンシェットはやさしいや、あたしの言うことだけはきいてくれる、が、お前はやさしくないよ、お前は!
【シュザンヌ】 お気の毒様、だからさ、人の言うことをおききなさいよっ!〔彼女はリボンを奪いかえそうとする〕
【シェリュバン】 〔椅子を廻って逃げながら〕おっと、どっこい! これを奪《と》るなら、いいか、おれの命と一緒だぞ、でも、もし、お前がその恋の歌ではものたりないなら、景物に、うんと接吻をしてあげるよ。〔こんどはシェリュバンが彼女を追いかける〕
【シュザンヌ】 〔椅子を廻り逃げながら〕そばに来たら、ぶってぶって、ぶちのめしてやるから、奥様に言いつけるよ、お前のお詫びどころか、殿様に申上げるつもりだよ、いい気味でございます、殿様、どうぞあのいたずら小僧においとまを願います。不らちな御家来を親元にお帰し願います。あいつめは奥方様に想いをかけるような風をして、手の裏をかえすように、いつもわたしに接吻しようといたしますって。
【シェリュバン】 〔伯爵がはいって来るのを見て、おびえて、安楽椅子のうしろに急ぎかくれる〕南無三!
【シュザンヌ】 なによう、そのこわがりかたは!
第八場
〔シュザンヌ、伯爵、シェリュバン(かくれている)〕
【シュザンヌ】 〔伯爵を見つけて〕あらっ!……〔彼女は椅子に近づいてシェリュバンをかばう〕
【伯爵】 〔進み寄って〕なにか感動しているな、シュゾン! ひとりごとを言っていたじゃないか、お前のかわいい胸がどうやらときめいているようだね……とにかく、無理もないさ、今日のような際《さい》にはな。
【シュザンヌ】 〔こまって〕殿様、なんの御用でございます? わたくしと御一緒のところを誰かに見られましたら……
【伯爵】 それはわしだって、不意打ちをくらえばこまるよ。しかし、わしがお前に目をかけていることは知ってのとおりだ。バジルがお前にわしの想いを伝えてくれたはずだ。わしがここに会いに来たわけを手みじかに話すから、まあおきき。
【シュザンヌ】 伺《うかが》いたくございません。
【伯爵】 〔彼女の手をにぎって〕ほんのひとことだ。知っているだろうが、国王陛下がわしをロンドンの大使に御任命になったのだ。わしはフィガロを連れて行く、あれにはいい地位を与えるが、それで、女房は夫についてゆくのがつとめだからな……
【シュザンヌ】 あのう! わたくしから申上げましても!
【伯爵】 〔また彼女に近寄って〕さあさあ、言ってごらん、かわいいやつめ、今日こそはぜひとも、わしからお前へのみつぎを取り立ててくれてもよいぞ。
【シュザンヌ】 〔おそれて〕そのようなこと、いやでございます、殿様、いやでございますわ、どうぞ、お帰りあそばして。
【伯爵】 まあ、言いたいことを言ってみたら。
【シュザンヌ】 〔怒って〕何を申上げようといたしましたのやら忘れてしまいました。
【伯爵】 女房のつとめの話さ。
【シュザンヌ】 では申上げますが、殿様があのお医者様のところから今の奥様をお連れ出しになって御結婚あそばしました時も時、とくに奥様のために例のいまわしい初夜のみつぎとやらをお廃しになりまして……
【伯爵】 〔陽気に〕娘たちの苦労の種だったみつぎものでな! いや! シュゾン、結構なみつぎものさ! 今日、日の暮れに、その相談で庭まで来てくれぬか、来てくれれば、その些細な好意にはじゅうぶんに褒美をとらせるが……
【バジル】 〔部屋の外で話す〕閣下はお居間にはお見えにならぬが。
【伯爵】 〔立ち上がって〕あの声はなんだ?
【シュザンヌ】 なんて間が悪いんだろう!
【伯爵】 誰もはいって来ないように、お前が出ておいで。
【シュザンヌ】 〔こまって〕殿様をこちらにお置き申して?
【バジル】 〔外で大声で〕閣下は今まで奥様のところにおいでになったのだが、そこからもお出かけになった。どりゃ、おさがしして。
【伯爵】 ところで、この部屋にはかくれ場所が一つもないな! ああ! この椅子のうしろが……あまり感服しないが、とにかく、あいつを早く追いはらえよ。〔シュザンヌは伯爵を通すまいとする、伯爵は彼女をかるく押す、彼女は後退して、伯爵と小姓との間に身をおく。しかし伯爵が身をかがめて自らの場所をとる間にシェリュバンは椅子を廻って、おびえながら椅子に這い上がってから、その中にもぐりこんでしまう。シュザンヌは持って来たロオブをとって、小姓をおおいかくし、自ら椅子の前に立ちはだかる〕
第九場
〔伯爵、かくれているシェリュバン、シュザンヌ、バジル〕
【バジル】 もしや殿様をお見かけしなかったかね、シュザンヌさん。
【シュザンヌ】 〔そっけなく〕まあ! わたしがお見かけするはずがないじゃありませんか。知りませんよ。
【バジル】 〔近寄って〕もうすこし考えてくれれば、わしがたずねたことにも不思議はないはずだがね、フィガロが殿様をさがしているのだよ。
【シュザンヌ】 では、フィガロはあなたの次に一番ためにならない人をさがしているんですか?
【伯爵】 〔傍白で〕こやつの勤めぶりを見てやろう。
【バジル】 女房のため善かれと願うことは夫のため悪しかれと望むことかね?
【シュザンヌ】 ええ、そうですよ、あなたの腹黒いたくらみではね、けがらわしいことならなんでもお先棒をかつぐ人ねえ!
【バジル】 お前さんが他人《ひと》に施せないことをわしがしてくれと頼んだかね? うれしい祝言のおかげで昨日までとめられていたことも明日からはゆるされるのではないか。
【シュザンヌ】 なんて破廉恥な!
【バジル】 およそくそ真面目な事柄の中で、結婚ぐらいふざけた真似はないので、わしは日頃考えていたが……
【シュザンヌ】 〔いらだって〕いやらしいことをね! いったい誰のお許しでここにはいって来たんです?
【バジル】 それ、それ! それが意地悪というものだ! まあおこり給うな! どうせ、お前さんの思うようにしかならないのだからね。かたがたわしはフィガロ殿《どん》を殿様の目の上のこぶとにらんでいるわけではないから、そのつもりでな。ただ、あの小姓だけは別だが……
【シュザンヌ】 〔遠慮がちに〕ドン・シェリュバンのこと?
【バジル】 〔彼女の口真似をして〕恋の奴《やっこ》のケルビノさ、あいつめ、のべつ幕なしにお前さんをつけまわして、今朝もまた、わしがお前さんと別れてから、奴さんこの部屋にはいろうとしてうろついていたぜ。それが嘘だというのかね?
【シュザンヌ】 そんなぺてんにはのりませんよ! さっさと帰ってちょうだい、たちの悪い人ね!
【バジル】 性悪だからこそ、にらみがきくのだ。あの小姓が人知れず持っていた恋の歌はお前にもくれたろう?
【シュザンヌ】 ええ! そうですよ、わたしにね!
【バジル】 奥方に宛てて書いたものでなければね! そう言えば、小姓め、食卓でお給仕をする時に、変な目つきで奥方をながめるという噂だが……ちょっ! あまりふざけまいぞ! 殿様はそうしたことにかけては、むごいことをなさる方だからな。
【シュザンヌ】 〔いらだって〕おまけに、あなたのような悪漢《わるもの》がそういう噂をまきららして殿様の御|勘気《かんき》をこうむったあの子を追い出そうとするのですからね。
【バジル】 わしの作り話かね? みなが噂をしているから、言ったまでさ。
【伯爵】 〔立ち上がって〕みながなんと噂をしておる?
【シュザンヌ】 ああ、びっくりした!
【バジル】 やっ! これは、これは!
【伯爵】 大至急だ、バジル、あの小姓めにひまをとらせろ。
【バジル】 いやはや! とんだお邪魔を!
【シュザンヌ】 〔こまって〕ほんとに! どうしたらいいだろう!
【伯爵】 〔バジルに〕これの様子が変だぞ、椅子に坐らせよう。
【シュザンヌ】 〔強く押しかえして〕坐りたくはございません。〔バジルに〕人の部屋にこんなに勝手にはいって来るなんて、失礼じゃありませんか!
【伯爵】 お前に男が二人も付き添っているのだから、ねえ、もうすこしも危険はないよ。
【バジル】 小姓のことで騒ぎすぎまして面目次第もございませんが、とにかく、閣下が椅子のかげでおききになりましたとおりで。少々やりすぎましたのも、この女《ひと》の心持ちをさぐるためで、実はその……
【伯爵】 金子五十ピストオルと馬一頭を仕立てて、小姓めを親元に送りかえすように。
【バジル】 閣下、わずか、これほどのいたずらででございますか?
【伯爵】 わしは昨日もあの不義《いたずら》小僧が庭師の娘と一緒にいるところを見つけたのだ。
【バジル】 あのファンシェットと?
【伯爵】 それも娘の部屋でなあ。
【シュザンヌ】 〔むっとして〕そのお部屋に殿様も、きっと、御用がおありになったのでございましょうよ!
【伯爵】 〔陽気に〕そのにらみはいささか気に入った。
【バジル】 そのにらみこそさいさきがよろしゅうございますなあ。
【伯爵】 〔陽気に〕いや、別に用事もなかったのだが、お前の伯父、あの酔っぱらいの庭師をさがしに行ったのだ、ちょっと言いつけておくことがあってね。戸を叩いたが、なかなかあけに来ない。お前の従妹《いとこ》はばつが悪そうな顔をしていた。おかしいぞ、と思ったので、あの娘《こ》に話しかけ、話しながら、様子をうかがっていた。戸口の扉のうしろに、幕のような、衣桁《いげた》のような、なにやら衣裳を掛けたものがあった。わしはさりげなくよそおって、そろり、そろりとその幕を持ち上げて、〔しぐさに合わせて、伯爵は安楽椅子からロオブを持ち上げる〕、見ると……〔小姓を見つけて〕おやあ!……
【バジル】 やっ! これは、これは!
【伯爵】 今日の狂言もゆうべのに劣らぬわい。
【バジル】 昨夜のよりも上出来で。
【伯爵】 〔シュザンヌに〕大芝居だな、シュザンヌ、花嫁になるやならずで、すこし手まわしがよすぎはせぬか? わしの小姓を引っぱりこむためにひとりでいたかったのだな?〔小姓に〕それから、その方は、代母《なづけのはは》の名誉をけがして、その第一の腰元でもあり、その方の同輩フィガロの妻でもある女にまで言いよるとは! しかもわしがかねて、重んじてもおり、いつくしんでもおるフィガロのような人物がこんなたばかりのいけにえになることは我慢がならん。おい、バジル、こやつはお前と一緒に来たのか?
【シュザンヌ】 〔むっとして〕ごまかした者もごまかされた者もございません。殿様がお話しあそばしていらしった間、この子はここにおりました。
【伯爵】 〔怒って〕嘘をつくのもいいかげんにしろ! この小僧を目の敵にする奴でも、それほどまでこやつを不敵な悪人とは思うまい。
【シュザンヌ】 この子はあなた様にお詫びをいたすよう奥様にお願いしてくれとわたくしに頼んでいたのでございます。あなた様のおいでで、この子は途方にくれて、この椅子のかげにかくれたのでございます。
【伯爵】 〔激怒して〕その手に乗るものか! わしははいって来て、そこに腰をかけたではないか。
【シェリュバン】 ああ! 殿様、そのときは椅子のうしろでふるえておりました。
【伯爵】 またごまかすな! わしも椅子のうしろにかくれたではないか。
【シェリュバン】 ではございますが、その時には椅子の中にもぐりこんでおりました。
【伯爵】 〔いよいよ傷つけられて〕では小さな……蛇だと思った小僧は実は青大将だったのだな! こやつめ、わしらの話をきいていたな!
【シェリュバン】 どういたしまして、御前様《ごぜんさま》、お話を伺うまいと懸命につとめておりました。
【伯爵】 恥知らずめ! 〔シュザンヌに〕フィガロとの結婚は相成らんぞ。
【バジル】 まずまず御勘弁を、誰かがまいります。
【伯爵】 〔シェリュバンを椅子から引きおろして、直立させて〕こやつは、みなへの見せしめのために、ここに立たせておけ!
第十場
〔シェリュバン、シュザンヌ、フィガロ、伯爵夫人、伯爵、ファンシェット、バジル、その他多くの家来、白き服をまとえる百姓女、百姓〕
【フィガロ】 〔白い羽、白いリボンを飾った女用の縁無し帽子を手に持った彼は伯爵夫人に語る〕奥様、あなた様だけがわたくしどもに例の恩典をお与え下さるでございましょう。
【夫人】 ごらんあそばせ、あなた、この人たちはわたしにはもはや無い力がまだあると思っているのでございます、でも、この人たちの願いの筋も無理ではございませんから……
【伯爵】 〔当惑して〕その願いがひどく無理ならかえってよかろうに。
【フィガロ】 〔低声《こごえ》でシュザンヌに〕加勢を頼むぜ、おれは一生懸命だ。
【シュザンヌ】 〔低声でフィガロに〕骨折り損だろうよ。
【フィガロ】 〔低声で〕とにかく、やってみてくれ。
【伯爵】 〔フィガロに〕なにか用か?
【フィガロ】 御前様、御家来一同は御前様が奥方様への御愛情ゆえに例のいまわしきみつぎをお廃しなされました事に、深く感動いたしまして……
【伯爵】 いや、あのみつぎは既に廃してしまったのだ。それで、どうしようというのだね?
【フィガロ】 されば、かかる名君のお徳はじゅうぶん発揚されねばならぬ時でございます。そのお徳が今日こそわたくしにはひとしおの冥利と申すのも、実はこの祝言に際しまして、わたくしこそ、そのお徳をことほぐ最初の者となりとうございますからで。
【伯爵】 〔いよいよ当惑して〕冗談を申すな、フィガロ、恥ずべきみつぎの廃止は君子の道に対する勤めを果したにすぎぬのだ。いやしくもイスパニヤの武士《もののふ》は数々の心づくしによって佳人を手折ることは許されても、その最初の、最美の勤めを奴隷の支払うべきものとして強いるのは、そもそも、蛮族《ヴァンダアル》の暴虐で、カスティリアの貴族の是認せらるべき権利ではない。
【フィガロ】 〔シュザンヌの手をとって〕さればこそ、御前様の御賢徳によって女子の誇りをまっとうし得ましたこのうらわかき女《もの》は、御前様のお手ずから、清浄《きよ》きお思召しの徴《しるし》として、白き羽とリボンにて飾られたる乙女帽子をさずけらるるよう、かつは又、この事を今後もすべての婚姻の儀式として御採用あそばすようお願い申上げ、のみならず、合唱の四行詩がこれを記念として幾久しく……
【伯爵】 〔当惑して〕恋人にして詩人、かつ伶人を兼ねるのがあらゆる乱行御免の三位一体だということをわしが知っていなければなあ……
【フィガロ】 兄弟分、おれと一緒にお願い申してくれよ。
【一同一緒に】 殿様お願い申上げます。
【シュザンヌ】 〔伯爵に〕これほど御前様にふさわしい祝辞をなぜお逃げになるのでございます?
【伯爵】 〔傍白で〕太い女《あま》め!
【フィガロ】 殿様この女をごらん下さいまし、あなた様の偉大なる御犠牲をあらわすにこの美しい許嫁ほどふさわしき者はございますまい。
【シュザンヌ】 わたしの顔のことなんか言うのはおよしよ、御前様のお徳をほめ立てるんだよ。
【伯爵】 〔傍白で〕何から何まで|からくり《ヽヽヽヽ》だな。
【夫人】 わたしもみなの者と同じ心でございます。このたびの祝言も元はうれしい御愛情ゆえでございますから、今後も末ながくこの式を懐かしく思うことでございましょう。
【伯爵】 わしの心も昔と変らないさ。それでは、その情愛のために万事聞きとどけよう。
【一同一緒に】 万歳!
【伯爵】 〔傍白で〕一杯くわされたか。〔正白で〕めでたい式がいささか、はなやかになるように、せめて午後に延ばすことにいたしたいな、〔傍白で〕急いでマルスリーヌを呼びにやろう。
【フィガロ】 〔シェリュバンに〕おいどうしたいたずら小僧、万歳を申上げないのか?
【シュザンヌ】 この子はしょげてるんだよ、殿様がお暇をお出しになったの。
【夫人】 まあ! どうぞこの子もおゆるし下さいますように。
【伯爵】 こやつにはゆるされる資格がない。
【夫人】 かわいそうに――歳もゆかないのに!
【伯爵】 それほど幼なくはないて。
【シェリュバン】 わたくしまでも寛大におゆるしを受けますことと、奥方様との御結婚によって初夜のみつぎをお廃しになりましたこととは別でございましょう。
【夫人】 殿様はみなの者を苦しめる事はなにによらずお廃しになるのよ。
【シュザンヌ】 御前様は大赦をおききとどけになりましても、初夜の何とかの方は内々お取戻しになりたいのでございますわねえ。
【伯爵】 〔当惑して〕まずそんなところさ。
【夫人】 なぜそのようなものをお取戻しに?
【シェリュバン】 〔伯爵に〕御前様、わたくしは、まさに、かるはずみなことをいたしました。それにしても、口だけはじゅうぶんにつつしんでおりました。
【伯爵】 〔当惑して〕それなら、それでよし、よし!
【フィガロ】 小僧め、なにか聞き込んだな?
【伯爵】 〔急いで〕もうよし、わかった。誰も彼も赦免を求めるわい。よろしい、ゆるす。しかもそれ以上に、わしはこの少年にわが軍の一中隊を与えよう。
【一同】 〔一緒に〕万歳!
【伯爵】 しかし、条件として、カタロニアの軍隊に加わるように即刻出発せい。
【フィガロ】 そりゃ、あんまりな、殿様、明日では。
【伯爵】 〔強く主張して〕わしの意志じゃ。
【シェリュバン】 お受けいたします。
【伯爵】 では御代母《なづけのおや》にお挨拶を申上げて、今後もよろしくとお願いするがよいぞ。
〔シェリュバンは地上にひざまずいて伯爵夫人に対するが、言葉が口から出ない〕
【夫人】 〔胸がつまって〕今日一日さえも留めてはおけないとおっしゃるのだから、お発《た》ちなさいね。初めてのお役につくのだよ、立派にお勤めを果すのよ。御恩ある方のお名を恥かしめないようにね。幼い時分からやさしくされたこの邸《うち》を忘れないように。命令《いいつけ》を守って、正しく強くね、わたしたちもお前の出世を祈っていますよ。〔シェリュバンは立ち上がって自分の地位につく〕
【伯爵】 お前、ひどく感動しているね。
【夫人】 それをかくしはいたしません。あぶない職につかせられる子供の行く先々はどうなりますことやら? この子はわたしの両親とはつながる縁もございますし、その上、この子はわたしの名づけ子でございますもの。
【伯爵】 〔傍白で〕故あるかなバジルのことばか。〔正白で〕若人《わこうど》よ、シュザンヌに接吻をするがよい……これが別れだ。
【フィガロ】 そりゃまた、どうしてでございます。御前様? こいつは毎冬の休暇《やすみ》には帰ってまいりますよ、だからおれだけに接吻してくれ、兵隊さん!〔フィガロはシェリュバンに接吻する〕これでお別れだ、小僧さん。これからは今までの暮し方とは勝手がちがうぜ。お気の毒だな! もう、日がな一日お局《つぼね》のあたりをうろつきまわることはできねえぞ、軽焼きもクリーム入りのおやつにもおさらばだし、掌打《ひっぱたき》とも目隠しともお別れだ。押しもおされもしねえ兵隊さんだ、やり切れねえなあ――陽に焼けて、みじめな服を着てさ、でっかい、重い鉄砲をかついで、右向け、左向け、前へ進んで功名手柄だ、途中でつまずくなよ、急所を一発、ずどんと食らやあしかたがねえが……
【シュザンヌ】 ああいやだ、縁起でもない!
【夫人】 なんていやな辻占だろう!
【伯爵】 マルスリーヌはどこにいるのかな? みなと一緒におらぬのはおかしいではないか!
【ファンシェット】 御前様、あの女《ひと》は畑の小径を通って街の方へまいりました。
【伯爵】 して、帰って来るのは?……
【バジル】 それは神様の恩召し次第で。
【フィガロ】 もしやその恩召しにかなわなかったら……
【ファンシェット】 バルトロ先生があの女《ひと》に腕をかしておいででございました。
【伯爵】 〔勢いこんで〕あの医者も来ておるのか?
【バジル】 医者はあの女が早々とりこにしてしまいまして……
【伯爵】 〔傍白で〕あの医者もとんでもない時に来たものだ。
【ファンシェット】 あの女《ひと》は大変のぼせたような顔をして、歩きながら大きな声で話をしているかと思うと、やがて立ちどまって、こんな風に両腕をひろげて……、するとお医者様はあの女《ひと》をなだめて、こんな手つきをして。あの女《ひと》は大変怒っているような様子でございました! わたくしの従兄《いとこ》のフィガロの名を申しておりましたわ。
【伯爵】 〔ファンシェットのあごを摘まんで〕従兄は従兄だが……未来のな。
【ファンシェット】 〔シェリュバンを指しながら〕御前様、昨晩のことで、わたくしたちもおゆるし下さいますか?
【伯爵】 〔皆まで言わせずに〕さあ、お帰り、お帰り、ファンシェット。
【フィガロ】 小娘までしゃらくせえ色恋沙汰でいい気になっていやがる。小娘《あいつ》までおれの祝いの邪魔をするかも知れねえぞ。
【伯爵】 〔傍白で〕邪魔をするだろうよ、それは請け合う。〔正白で〕さあ、さあ、奥さんうちへはいろう。おい、バジル、わしの部屋に寄ってくれ。
【シュザンヌ】 〔フィガロに〕お前さん、わたしのところに来てくれるだろうね?
【フィガロ】 〔低声でシュザンヌに〕どうだ、うまく大将をやっつけたろう。
【シュザンヌ】 〔低声で〕いい男《ひと》だよ、お前さん!
〔彼等一同退場〕
第十一場
〔シェリュバン、フィガロ、バジル〕
〔一同|退《さ》りゆく間に、フィガロはシェリュバンとバジルを押しとめて、二人を舞台に連れもどす〕
【フィガロ】 こまるなあ、二人とも去っちまっちゃあ! おれの祝言の式が許されりゃあ、あとは今夜の余興だから、せいぜい助け合わなくっちゃいけねえぜ、劇評家の眼がめっぽう光ってるときにかぎってへまな芸当をやらかす俳優《やくしゃ》の真似はしまいぞ。おれたちは明日はとりかえしがつくというわけには行かないんだよ、おれたちは。陽のあるうちにめいめいの役を覚えこむことだ。
【バジル】 〔意地悪く〕おれの役はお前が思っているよりむつかしいのだぜ。
【フィガロ】 〔バジルに見えぬようになぐる振りを見せて〕お前さんには自分のためになる上首尾ってことがまるっきりわかっていないね。
【シェリュバン】 ねえ、お前はあたしが旅に出ることを忘れてるよ。
【フィガロ】 ところが、お前はお邸にいてえんだろう!
【シェリュバン】 ほんとに! ここにおられりゃなあ!
【フィガロ】 そこをうまくごまかすのよ。旅立ちの事をぐずぐず言うな、旅のマントを肩にかけて、おおっぴらに荷袋をまとめて、これ見よがしに馬を鉄柵につないでおけ。それから、小作畑まで一走り駆けさしてから、徒歩《てく》で裏の方から帰って来るんだ。殿様はお前が発《た》ったと思いこんでおしまいになる、お前はただ、人目につかないようにしろ、余興の後で、殿様をなだめるのはおれが引き受けた。
【シェリュバン】 だってファンシェットはまだ役を覚えていないんだよ。
【バジル】 いったい、なにをあの娘《こ》に教えていたんだ、一週間このかた、あの娘にばかりへばりついていた癖に?
【フィガロ】 お前さんは今日はなにも仕事がないのだから、お頼みだ、あの娘に稽古をつけてやってくれよ。
【バジル】 気をつけろよ、お若いの、気をつけろよ! おやじさんはぶつくさ言ってるし、娘はなぐられるし、その娘はお前と一緒に稽古もしないし、シェリュバン! シェリュバン! あの娘《こ》につらい目を見せることになるぞよ、甕《かめ》と水でもたびたび会えば!
【フィガロ】 なんだ! 古めかしい諺《ことわざ》を持ち出す阿呆もねえもんだ! 物しり顔もすさまじい、お国柄《くにがら》の諺のわけがわかっているのか? なんぼ甕でもたびたび汲《く》めば、しまいにゃ……
【バジル】 甕のお腹《なか》がふくれ出す。
【フィガロ】 〔退場しながら〕まんざら阿呆でもねえぞ、こいつは、まんざら阿呆でも!
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第二幕
〔舞台は堂々たる寝室、アルコオヴ式の大なる寝台、その前に台がおいてある。開閉する戸口が舞台の右手の第三の通路に設けてある。化粧部屋の戸口は舞台の左手、 第一の通路に設けてある。舞台奥にも戸口、女部屋に通じている。舞台右手に窓一つ〕
第一場
〔シュザンヌ、伯爵夫人(二人とも右手の戸口より入って来る)〕
【夫人】 〔安楽椅子にぐったりと腰をおろして〕戸をしめてよ、シュザンヌ、それから、なにもかもくわしく話しておくれ。
【シュザンヌ】 奥様にかくしだてなんぞいたすものでございますか。
【夫人】 どうしたの! 旦那様がお前を手なずけようとあそばしたの?
【シュザンヌ】 どういたしまして! 殿様が下婢《めしつかい》相手にそんなごめんどうをおかけになるものですか、売りものあつかいでございますよ。
【夫人】 それで、あの小姓もその場にいたの?
【シュザンヌ】 その場と申しても大きな椅子のかげにね。あの児はわたくしに頼みにまいりまして、殿様からのおゆるしを奥様にお願いしてくれと申しましたのでございます。
【夫人】 でもなぜじかにわたしに言って来ないんでしょう? わたしだってことわりもしないだろうにねえ、シュゾン?
【シュザンヌ】 わたくしもそう申したのでございますよ。でも、旅立ちのお名残り惜しさ、ことに奥様とのお別れが!≪ねえ、シュゾン、奥様はなんて気高くってお美しいんだろう。それにしてもなんて御威厳がおありになるんだろう!≫なんて申しまして。
【夫人】 わたしがそんな風に見えて、シュゾン? いつでもあの児《こ》をかばっているのに。
【シュザンヌ】 それから、わたくしが持っておりました奥様の夜のおリボンが目にとまりますと、あの児はリボンに飛びつきまして……
【夫人】 〔微笑しながら〕わたしのリボンに?……まるで子供ね!
【シュザンヌ】 わたくしはリボンをとりかえそうと存じましたが、奥様、あの児は獅子のような勢いで、眼を光らせまして……とりかえすなら命ももろともだぞ、なんて、あのやさしい、かぼそい、かわいい声を張りあげて申すのでございますよ。
【夫人】 〔夢みごこちで〕それからどうしたの、シュゾン?
【シュザンヌ】 そこで、奥様、あんな始末におえない子供がございましょうか? こちらにはお代母様《なづけおや》、そちらには誰かさんがいればいい、なんて申しまして、そして奥様のお召物《めし》にさえ接吻できませんものでございますから、あの児はいつもいつもわたくしに接吻しようというのでございますよ、このわたくしに。
【夫人】 もう沢山……そんなみだらな話、もう沢山よ……それで結局、旦那様はお前にお打ち明けになったの?……
【シュザンヌ】 もしわたくしが殿様のおっしゃることをいやと申せば、殿様はマルスリーヌに御加勢あそばすそうでございます。
【夫人】 〔立ち上がって、歩きながら、しきりに扇子を使う〕もうわたしなんかかわいがっては下さらないのね。
【シュザンヌ】 では、あのひどいおやきもちは?
【夫人】 夫というものは皆そうよ、シュゾン、ただただ夫の沽券《こけん》からなのよ、ああ! わたしはあの方を想いすぎたのね! わたしの愛情にお飽きになったのね、わたしの情けでおつかれになったのね。お慕いしたことがたったひとつのわたしの罪なの。こんな正直な打ち明け話で、お前の気を悪くするつもりではないのよ、お前はフィガロと一緒になるのだからね。フィガロだけがわたしたちの力になってくれるのだもの。来てくれるかしらん?
【シュザンヌ】 猟《かり》のお出ましをお送りいたしましたらすぐにもまいりましょう。
【夫人】 〔扇子を使いながら〕庭向きの窓をすこし開けて、この部屋は熱いのね!……
【シュザンヌ】 あんまり奥様が勢いよくお話しあそばしたり、お歩きになるからでございますわ。〔彼女は窓を開けにゆく〕
【夫人】 〔長い間夢みごこちで〕いつもいつもわたしから逃げよう逃げようとなさらなければねえ……殿方って罪の深いものね!
【シュザンヌ】 〔窓のところから叫ぶ〕まあ! 殿様がお馬に召して、野菜畑を乗り切っておいでになりますよ。お後からペドリーユがおともをして、それから猟犬が二匹、三匹、四匹。
【夫人】 わたしたちにはまだじゅうぶん時間があるわね。〔彼女は椅子にかける〕誰か戸をたたいてよ、シュゾン?
【シュザンヌ】 〔歌を唄いながら戸口を開けにゆく〕ああ! わがフィガロ――ああ! わがフィガロ!
第二場
〔フィガロ、シュザンヌ、伯爵夫人(腰をかけている)〕
【シュザンヌ】 お前さん、さあおはいり! 奥方様がお待ちかねだよ!……
【フィガロ】 そういうお前はどうなんだ、シュザンヌ? 奥方様がお待ちかねとは受けとれねえ。ところで、どういう御用だい? みじめな御用だろう。伯爵様がこちとらの女房がお気に召して色女になさろうという寸法だろう。ありそうなことだ。
【シュザンヌ】 ありそうなこと?
【フィガロ】 そこでおれを通信係りに御任命になって、シュザンヌは大使|館《やかた》の相談役と来る。ただのいたずらじゃねえや。
【シュザンヌ】 いいかげんにおしよ。
【フィガロ】 ところがおれの許嫁のシュザンヌは辞令を受けつけねえものだから、殿様はマルスリーヌの|もくろみ《ヽヽヽヽ》を御援助なさろうとする。これほどわかりきったことがあろうか? おれたちの計画《からくり》の邪魔する相手に意趣ばらしをして、相手の計画をひっくりかえすのは誰でもやってのけるし、おれ達もこれからやるところだ。どうだい、それだけの話よ。
【夫人】 わたしたち皆の幸福《しあわせ》にかかわるような計略をそんなに軽々しくあつかってもいいの?
【フィガロ】 誰がそんなことを申しました?
【シュザンヌ】 わたしたちの心配事でお前にまで心配をかけるかもしれないからね……
【フィガロ】 そのことならわたくしがお引き受けいたしませば大丈夫でございましょう? そこで、伯爵様と御同様に細工はりゅうりゅうとやりますにはまず、伯爵様のお持ちものをおびやかしまして、こちらの所有《もの》をお望みになるお熱をさまさねばなりません。
【夫人】 それは道理だけれど、その手立ては?
【フィガロ】 お膳立てはできております。奥様のことで、あらぬ噂を立てさせまして……
【夫人】 わたしのことで? 気でも狂ったのかい!
【フィガロ】 どっこい、狂っておいでなのは殿様で。
【夫人】 あれほど嫉妬深い方がもし!……
【フィガロ】 なお結構で。ああいう御性質の方をまるめるにはおじらせ申すにかぎります、そこは御夫人様方の方がよく御承知で! ところで、相手をかんかんに怒らせておいて、ちょっとした計略を使えば、相手はこっちの望み次第、鼻づらを引きまわしてグワダルクィヴィイルの河の中までも連れ出せましょう。わたくしは差出人のわからぬ手紙をバジルに渡させますが、その手紙で殿様はさる好《す》き者が今日仮装会のひまに奥様にお目にかかりに来るということを御承知になります。
【夫人】 それでお前は正しい女の身の上のことで、ありもしない事柄をふれまわるのね!
【フィガロ】 奥様、あらぬ噂をたててもかまわぬ御夫人なぞはめったにございませんよ、うっかりするとまぐれ当りになりがちでございますからな。
【夫人】 とにかく、お礼を言わなければなるまいね!
【フィガロ】 それにしても、殿様が奥様のあとをつけて、うろついたり、どなったりなされて、こらとらの女房とたのしむおつもりの時間を無駄にしてしまう、という風に殿様の一日のお仕事を切りこまざいてしまうのは、面白いじゃございませんか? 殿様は早やもう目がくらんで、こっちの女を追いまわすのやら? あっちの女の番をなさるのやら? お気の狂った証拠には、それそれ、あのとおり、野原をかけまわって逃げ路《みち》を失った兎を追いまわしていらっしゃる。その間も、祝言の時刻はどんどん迫ってまいりますし、殿様も祝言に御反対はなさらず、ことに奥様の前では御反対はなさりますまい。
【シュザンヌ】 そりゃ、なさらないよ、でも、マルスリーヌという才女先生は反対しかねないね、あの女は。
【フィガロ】 いけねえ! そいつはまったく気にかかるなあ! お前は誰かに頼んで殿様に申上げるんだ、夕刻、お庭にまいりますって。
【シュザンヌ】 それほど殿様を信用しているのかい?
【フィガロ】 冗談を! まあきくがいい。何もしたがらない手合いは何をしてもはかどらないから何をしてもなんにもならない。これがおれのせりふだよ。
【シュザンヌ】 いい男まえでございましょう!
【夫人】 頭脳《あたま》の働きもね、それでお前はシュザンヌがお庭に行くのを承知するつもりなの?
【フィガロ】 とんでもない。わたくしはシュザンヌの着物をだれかにかぶせましょう。で、あいびきの現場をわたくしたちから見とがめられれば、伯爵様も、わしは知らぬとは仰せられますまい?
【シュザンヌ】 誰にわたしの着物をきせるの?
【フィガロ】 シェリュバンさ。
【夫人】 でも、あの子はたってしまったし。
【フィガロ】 わたくしの都合でたたせませんでございました。一つ、わたくしにおまかせ下さいますまいか?
【シュザンヌ】 計略をめぐらすにはこの人は頼りになる男でございますよ。
【フィガロ】 それも、二つ三つ四つ、一時《いっとき》にな、こんぐらかって、面倒なやつでも。おれは宮仕えの人間に生れついているんだ。
【シュザンヌ】 なかなかむつかしい職業《しょうばい》だってね!
【フィガロ】 受取って、物にして、ねだる、この三つの言葉が極意だあ。
【夫人】 この男《ひと》があんまり安心しているのでわたしまでその気になってしまったよ。
【フィガロ】 それがわたくしの寸法なので。
【シュザンヌ】 お前さん、今、なんて言ったけね?
【フィガロ】 つまり、殿様のお留守中にお前のところにシェリュバンをよこすから、娘風に髮を結って着物をかぶせてやってくれ。おれはおれであいつをかくまって、知恵をつけてやらあ、それから先は伯爵閣下、踊りでも踊られまするよう。〔フィガロ退場〕
第三場
〔シュザンヌ、伯爵夫人(腰をかけている)〕
【夫人】 〔化粧箱を手に持ちながら〕まあ、シュゾン、このあたしの風体《なり》!……あの児がもう来るのに!……
【シュザンヌ】 奥様はあの児が助かるのはおいやではございますまい?
【夫人】 あたしが? 見ていてごらん、叱ってやるから。
【シュザンヌ】 それよりも、あの児に|恋の歌《ロマンス》を歌わせましたら。〔彼女は伯爵夫人にロマンスを渡す〕
【夫人】 それにしても、わたしの髪が乱れていること……
【シュザンヌ】 では鬢《びん》のおぐしを持ってまいりましょう、きっとお叱りぶりも引立ちますでございましょう。
【夫人】 〔はっとわれに返って〕お前、今、なんて言ったの?
第四場
〔シェリュバン(恥ずかしそうな顔)、シュザンヌ、伯爵夫人(腰をかけている)〕
【シュザンヌ】 おはいりなさい、士官さん、お目にかかれますよ。
【シェリュバン】 〔おずおず進み寄って〕ああ! 奥様、その士官という名がうらめしゅうございます! その名ゆえにこの土地とも……奥様……おやさしい奥様ともお別れかと思いますと!
【シュザンヌ】 お綺麗な奥様ともねえ!
【シェリュバン】 〔ため息をついて〕ああ! ほんとに。
【シュザンヌ】 〔真似をしながら〕ああ! ほんとに。ねえちょいと、お若いの! その切れの長い目がくせものだよ。さあさあ、色男、奥様にロマンスを唄っておきかせするのよ。
【夫人】 〔ロマンスの紙をひろげる〕これ誰からのロマンスなの?
【シュザンヌ】 覚えある身のはじ紅葉《もみじ》って、それともこの児は頬紅《ほおべに》をつけすぎたの?
【シェリュバン】 おなつかしく思っては……どうしていけないの?……
【シュザンヌ】 〔シェリュバンの鼻先に拳を突きつけて〕何もかも言ってしまうよ。ずうずうしい小僧さんだね。
【夫人】 もういいのよ、……この児《ひと》、唄うの?
【シェリュバン】 それでも奥様、からだがふるえて!……
【シュザンヌ】 いやじゃいやじゃが聞いてあきれるよ。それも奥様がお望みならねえ、御謙遜の作者さん! さあ、わたしが伴奏を弾いてあげるよ。
【夫人】 では、わたしのギターをね。〔坐せる伯爵夫人はロマンスを手に持って読む構え。シュザンヌは夫人の椅子の背後にあって、夫人の肩ごしに楽譜を見ながらプレリュードを弾きはじめる。小姓は眼を伏せて夫人の前に立つ。この場合はヴァン・ロオの原画による美しい、「エスパニヤ振りの団欒《まどい》」と呼ばるる古版画に酷似している〕
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ロマンス
〔節は『マルブルウ公出征』の歌に従う〕
一
泉のほとり
(嘆くよこころ)
善き女《ひと》しのび
涙ながる
涙ながる
二
美《う》まし小舎人《ことねり》
(嘆くよこころ)
涙に濡るる
眼《まみ》ぬぐわめ
眼《まみ》ぬぐわめ
三
あわれ善き女《ひと》
(嘆くよこころ)
忘るべしやは
名づけの母
〔この歌八節あるが舞台にては適当に取捨するから、意訳して右の三節に限った〕
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【夫人】 ういういしくって情もこもっているのね。
【シュザンヌ】 〔ギターを椅子の上におきにゆきながら〕それはもう、情の方は、一人前の若い衆で……ああ、そうそう、ねえ士官さん、今日の夜会の余興があるから、ためしに、あたしの着物がお前にうまく合うかどうか、ねえ?
【夫人】 合えばいいけれど。
【シュザンヌ】 〔シェリュバンと背くらべをしながら〕わたしと背は同じくらい。さあマントをおぬぎよ。〔彼女は彼のマントをぬがせる〕
【夫人】 もし誰かはいって来たら?
【シュザンヌ】 わたくしたちが何かうしろぐらいことでもいたしているのでございましょうか? でも、扉をしめてまいりましょうね。〔戸口に駆けよりながら〕この子に帽子が欲しゅうございますね。
【夫人】 わたしの化粧台の上に帽子があるわ。
〔シュザンヌは戸口が舞台の一隅にある小室の中に入る〕
第五場
〔シェリュバン、伯爵夫人は腰をかけたまま〕
【夫人】 仮装会の時までは、殿様はお前がまだ館《うち》にいるとはお気づきになるまいよ。後でわたしたちから殿様に、お前の辞令を出す手間がかかったのでつい出発もおくれた、とかなんとか申し上げて……
【シェリュバン】 〔辞令を夫人に見せて〕情けないことに、辞令はここに持っております! バジルがあたしに手渡してくれました。
【夫人】 もう渡したの? 一刻もおくれないようにねえ。〔夫人は辞令を読む〕あんまり大急ぎだったので、印を捺《お》すのを忘れているのよ。〔夫人は辞令をシェリュバンに返す〕
第六場
〔シェリュバン、伯爵夫人、シュザンヌ〕
【シュザンヌ】 〔大型の頭巾を持ってはいって来ながら〕印て、なんの印でございます?
【夫人】 この児《ひと》の辞令の。
【シュザンヌ】 もう、辞令を?
【夫人】 わたしもそのことを言ってたの。それがわたしの帽子?
【シュザンヌ】 〔夫人の傍に腰をかけて〕一番きれいなお帽子で。〔彼女は口に留針をふくんで歌う〕
こっちをお向きなさいってば
惚れ惚れするよなジャン・ド・リラ。
〔シェリュバンはひざまずく。シュザンヌは彼に女帽子をかぶせる〕奥様、この児、かわいいじゃございませんか!
【夫人】 襟《えり》をもうすこし女らしくつくってごらん。
【シュザンヌ】 〔うまく直しながら〕まあ! ごらんあそばせよ、この小僧さんを、娘につくりますとなんてきれいなんでございましょう! やけるよ、あたしゃ!〔彼女はシェリュバンの顎《あご》をつまんで〕ねえ、そんなにきれいにならないでおくれよ、ね?
【夫人】 どうかしているのね、この女《ひと》は! 袖をまくり上げないと、アマディス型は引立たないよ……〔彼女はシェリュバンの袖をまくり上げる〕腕にまいてあるのはなあに? あら、リボン!
【シュザンヌ】 それも奥様のリボン。奥様のお目にとまって、ちょうどようございましたわ。さきほども奥様に言いつけるって申したのでございます。ほんとに! 殿様さえおいでになりませんでしたら、そのリボンは取りかえしましたのに。力くらべなら、この子に負けはいたしませんわ。
【夫人】 あら血がついて!〔彼女はリボンをとる〕
【シェリュバン】 〔恥ずかしそうに〕今朝、旅立とうと思いまして、馬のくつわの鎖をなおしましたら、馬がかぶりをふりましたので、くつわの金具で腕をすりむきました。
【夫人】 きずにリボンなんか使うものじゃないのよ……
【シュザンヌ】 それも、ちょろまかしたリボンでねえ。一体なによ、馬のボセットだの、クウルベットだの、コルネットだの……そんな言葉、ちっともわかりゃしない。まあ! この児の腕の白いこと、まるで女のよう! あたしの腕より白いのね! 奥様ごらんあそばせよ! 〔彼女はシェリュバンと腕をくらべて見る〕
【夫人】 〔たしなめるような口調で〕それよりも、化粧部屋に行って絆創膏を持っておいでよ。〔シュザンヌは笑いながら、シェリュバンの額をつっつくと、シェリュバンは両手を床につく。彼女は舞台の一隅の小室にはいる〕
第七場
〔シェリュバン(ひざまずいている)、伯爵夫人(腰かけたまま)〕
【夫人】 〔リボンを眺めながら、しばし黙っている。シェリュバンはむさぼるように夫人を見詰める〕リボンのことだがね……一番好きな色のリボンだから……なくなしたと思うと、くやしかったの。
第八場
〔シェリュバン(ひざまずいている)、伯爵夫人(腰かけたまま)、シュザンヌ〕
【シュザンヌ】 〔舞台に戻って来て〕それから腕の繃帯も持ってまいりましょうか?〔彼女は伯爵夫人に絆創膏と鋏《はさみ》を渡す〕
【夫人】 お前の着物をとりにゆくついでに、もう一つの頭巾のリボンを持って来てね。〔シュザンヌは小姓のマントを持って奥の戸口から出てゆく〕
第九場
〔シェリュバン(ひざまずいている)、伯爵夫人(腰かけたまま)〕
【シェリュバン】 〔眼を伏せて〕おとりあげになったリボンなら、すぐにもきずはなおりますのに。
【夫人】 リボンにどんなききめがあるの? 〔シェリュバンに絆創膏を見せて〕この方がよくきいてよ。
【シェリュバン】 〔ためらいながら〕一筋のリボンでもどなた様かのお頭《つむ》に巻かれ……玉の膚《はだえ》にふれましたものなら……
【夫人】 〔シェリュバンの言葉を遮《さえぎ》って〕……よその女《ひと》のでしょう! リボンがきずにきくようになったのかしらん? そんな効能は知らなかったわ。ではためしにお前の腕に巻いたのを蔵《と》っておこうね。擦《す》りきずでもしたら……女たちがよ……ためしてみようよ。
【シェリュバン】 〔身にしみて〕奥様はリボンをお蔵《と》りおき下さいますが、このあたくしは出発いたすのでございます!
【夫人】 永の別れでもあるまいし。
【シェリュバン】 でも私はつろうございます!
【夫人】 もう泣いてるのね、このひとは! あの意地悪なフィガロの辻占が気になるわ!
【シェリュバン】 〔興奮して〕ほんとに! フィガロの申した最期が来ればよいのに! 今が今でも死んでお目にかけます! この口から申し上げたいことも……
【夫人】 〔シェリュバンの言葉をとめて、ハンケチで彼の涙を拭いてやりながら〕そんなこというもんじゃないの、ね、そんなこと、子供ねえ! 何をとりとめのないことばかり言うの?〔誰かが戸を叩く、夫人は立ち上がって〕どなた、おいでになったのは?
第十場
〔シェリュバン、伯爵夫人、伯爵(部屋の外から)〕
【伯爵】 〔外から〕どうして鍵をかけたのだね?
【夫人】 〔こまって、立ち上がって〕あら旦那様よ! どうしましょう!〔同じく立ち上がったシェリュバンに〕お前はマントも着ずに、襟も腕もはだけて! わたしと二人きりで! この取り乱した風態《なり》、|恋の歌《ロマンス》まで受取っては、旦那様のおやきもちがねえ!……
【伯爵】 〔外から〕開けないのか?
【夫人】 でも、わたし……ひとりでございますわ。
【伯爵】 〔外から〕ひとりだって! では、誰とはなしていたんだ?
【夫人】 〔言いのがれをしようとして〕……あなたとではございませんか。
【シェリュバン】 〔傍白で〕昨夕《きのう》の騒ぎも、今朝の騒ぎもあるし、あたしはその場でお手討ちだろう!〔彼は化粧部屋の方へ駆けて行って、そこにはいって、戸をしめてしまう〕
第十一場
【夫人】 〔シェリュバンの隠れた部屋の鍵を抜きとってから、いそいで伯爵の方の戸を開けにゆく〕なんという手ちがいだろう! なんという!
第十二場
〔伯爵、伯爵夫人〕
【伯爵】 〔やや厳しい口調で〕お前はいつも鍵はかけないじゃないか!
【夫人】 〔こまって〕わたし……とりちらかして……ええ、シュザンヌ相手にとりちらかしておりまして、彼女《あれ》は今、ちょいと自分の部屋にまいりましたところ。
【伯爵】 〔夫人をじろじろ見ながら〕お前、顔も声もかわっているじゃないか!
【夫人】 そんなこと、ちっとも不思議じゃございませんわ……そんなこと、ちっとも……ねえ、あなた……わたしたち、あなたのことを話しておりましたの……彼女《あれ》は行ってしまいまして、いま申しあげましたわね。
【伯爵】 わしのことを話していたのかね!……わしは心配になったので、帰って来たのだが、馬に乗ろうとすると、わしに手紙を渡した者がある、しかしそんな手紙を信用しもせんが……それでも平気ではいられなかったのだ。
【夫人】 どうしてでございます?……どんなお手紙?
【伯爵】 ことわっておくが、わしか、お前か知らんが、なんだか……悪いやつらにとっつかれているぞ! 今日中に、邸内にはいない誰かが、お前と話をしたがっている、とわしに知らせた者がある。
【夫人】 そんな不躾者があれば、ここまで来るなら来てもらいましょう。わたくしは今日中は部屋から出ないつもりでございますからね。
【伯爵】 今夜の、シュザンヌの結婚にも?
【夫人】 何があろうとも出ません。どうも気分がすぐれませんから。
【伯爵】 さいわい医者も来ておるし〔シェリュバンは化粧部屋の中で椅子を倒す〕なんだ、今の音は?
【夫人】 〔いよいよこまって〕音でございますって?
【伯爵】 誰かが家具をひっくりかえしたのだ。
【夫人】 なんにも聞こえませんでしたわ、わたくし。
【伯爵】 ではなにかよほど心配事があるな!
【夫人】 心配事って! なんでございます?
【伯爵】 その部屋に誰かいるんだな。
【夫人】 まあ……誰がいるとお思いになって?
【伯爵】 そりゃこっちできくことだ。わしはいま来たばかりじゃないか!
【夫人】 それは……シュザンヌが片付けものをしているはずでございますわ。
【伯爵】 でもシュザンヌは自分の部屋に行ったとお前が言ったじゃないか!
【夫人】 部屋にまいりましたか……それとも、その部屋にはいりましたのか、そんなこと存じませんよ。
【伯爵】 相手がシュザンヌなら、なぜそんなにこまったような顔をしているのだ?
【夫人】 高が腰元のことでわたくしがこまることが?
【伯爵】 腰元のことかなんだか知らんが、こまってることは確かじゃないか。
【夫人】 ほんとにシュザンヌのほうがわたくしよりもずっとあなたに御心配をかけておりますわねえ。
【伯爵】 〔怒って〕あいつのことが気にかかるからこそ、すぐにも会いたいのだ。
【夫人】 それはもう、たびたびお会いになりたいのでございましょうよ。でも、わたくしのことでおうたぐりになるわけはございませんわ。……
第十三場
〔伯爵、伯爵夫人、シュザンヌ(衣裳を持って、奥の戸を開ける)〕
【伯爵】 その疑いを晴らすぐらいはなんでもない。〔彼は化粧部屋のほうを見ながら叫ぶ〕出ろ、シュゾン、わしの命令だ!〔シュザンヌは奥の寝台のある場所の傍で立ちどまる〕
【夫人】 彼女《あれ》ははだかも同然でございます、女どもがかくれているところをおいじめになるなんて! 彼女《あれ》につかわす御婚礼の着物が似合うかどうかためしていたところへ、あなたのお声が聞こえたので逃げ出したのでございますよ。
【伯爵】 出て来るのがそれほどいやなら、せめて、話はできるだろう。〔彼は化粧部屋の方を振り向いて〕答えてみろ、シュザンヌ、部屋の中にいるのか?〔シュザンヌは、奥にいたが、この時アルコオヴの中に飛込んで隠れる〕
【夫人】 〔化粧部屋の方を向いて、きっぱりと〕シュゾン、お答えしてはいけませんよ。〔伯爵に〕御無理もいいかげんにあそばせよ!
【伯爵】 〔化粧部屋の方へさらに進んで〕うむ、よし! 口がきけないなら、着物を着ていようが、いまいが、どうしても正体を見とどけるぞ。
【夫人】 〔前に立ちはだかって〕他のところなら、彼女《あれ》をひきとめることもできますまいが、せめてわたくしのところだけでは……
【伯爵】 わしは、わしで、今すぐ、あやしいシュザンヌの正体が知りたいのだ。お前に鍵をよこせと言っても、無駄なことはわかっているが、こんなちゃちな戸を破って中にはいるぐらいは造作ない。おい、こら、誰かおらんか!
【夫人】 家来たちをお呼び寄せになって、つまらないお疑いから人騒がせをして、わたくしどもまで邸の者のもの笑いになさるのでございますか?
【伯爵】 よろしい。それなら、それでいいが、わしはこれから部屋にとりにゆく物がある……〔彼は出てゆこうとして、また戻って〕だがね、それほどいやなら、ここは万事このままにしておいて、じたばたせずに、だまって、わしと一緒に来てくれないかね?……これほどわけないことなら、まさかいやとも言えまい。
【夫人】 〔こまって〕それはもう、あなたに逆らおうなんて、考えてもおりませんわ!
【伯爵】 あ、そうだ! 女たちの部屋へゆく戸口を忘れていた、そいつを閉めておかなければな、じゅうぶん疑いが晴れるようにね。〔彼は奥の戸を閉めに行って鍵を抜きとる〕
【夫人】 〔傍白で〕ああ! なんていう軽はずみだったろう!
【伯爵】 〔夫人のところへ戻って来て〕さてと、戸は閉めたから、一つ腕を組ませてもらいますかな。〔彼は声を張りあげて〕そこで、部屋の中のシュザンヌだが、しばらく待っていてもらおう、わしが戻って来ると、少々迷惑をかけることになるかも……
【夫人】 ほんとに、あなたはいやなことをあそばすのねえ……〔伯爵は夫人を連れ出して、戸口の鍵をかける〕
第十四場
〔シュザンヌ、シェリュバン〕
【シュザンヌ】 〔アルコオヴ(寝台のある場所)から出て化粧部屋の方へ駆け寄り、鍵孔から話しかける〕開けとくれ、シェリュバン、早く開けてよ、わたしだよ、開けて、出ておいでよ。
【シェリュバン】 〔出て来る〕ああ! シュゾン、こわいの、こわくないの!
【シュザンヌ】 さあ、逃げるんだよ。大急ぎだよ。
【シェリュバン】 〔おびえて〕逃げるって、どこから?
【シュザンヌ】 そんなこた知らないよ、とにかくお逃げよ。
【シェリュバン】 逃げ道はないかなあ!
【シュザンヌ】 さっきの事件《こと》もあるし、こんどはひねりつぶされるよ、わたしたちだって、もうおしまいだよ! 急いで、フィガロに話しておいでよ。
【シェリュバン】 庭向きの窓なら、そんなに高くもあるまい。〔彼は窓の方へゆく〕
【シュザンヌ】 〔ふるえあがって〕大変な高さだよ! だめだめ! ほんとに! 奥様がおかわいそうだよ! それにわたしの祝言だって、ああ! どうしようねえ!
【シェリュバン】 〔戻って来て〕窓の下は瓜畑だ、瓜床の一つか二つ、踏みつぶす気なら大丈夫だよ。
【シュザンヌ】 〔彼を押し留めて叫ぶ〕死んだらどうするの!
【シェリュバン】 〔夢中になって〕輝く恋の淵瀬《ふちせ》だ、ねえシュゾン! いいとも、奥様に御迷惑をかけるよりも飛び降りた方がいい。……だから、さいさきのいいように、ちょいと接吻しておくれ。
〔彼はシュザンヌに接吻して、窓から飛び降りようと駆け出す〕
第十五場
【シュザンヌ】 〔ひとり、恐怖の叫び〕ああっ!……〔彼女は一時坐ってしまう。それから、恐る恐る窓から眺めて、戻って来る〕もう遠くへ行っちまった。ほんとに! しようがない小僧さんだねえ! すばやくもあり、かわいくもあり! あれで女ができなかったら……さあ、わたしがあの児の代りを勤めよう、大急ぎ。〔化粧部屋にはいりながら〕さあさあ伯爵様、お気に召したら、戸でも何でもおこわし下さいまし、御返事をする男なんか、もう居ないないばあだ!
第十六場
〔伯爵、伯爵夫人(部屋に戻って来て)〕
【伯爵】 〔手に持った|やっとこ《ヽヽヽヽ》を椅子の上にほうり出す〕よし、万事さっきの通りになっている。お前に言っておくが、わしはこれからこの戸をこわすのだがね、あとの事を考えてくれよ、もう一度言うが、どうだ開けてくれんかね?
【夫人】 まあ! 一体なにがご立腹で、夫婦の間がこんなにまで変になるのでございましょう? かわいさあまってのお腹立ちなら、たとえ御無理でも、我慢いたしますわ、お心根に免じて、くやしさも忘れますわ。酸《す》いも甘いも御承知のあなたがただ虚栄《みえ》からこんなことをあそばそうとは?
【伯爵】 愛情だろうが、虚栄《みえ》だろうが、とにかく、開けてもらおう、開けなきゃあ、わしは、すぐに……
【夫人】 〔伯爵の前に立ちはだかって〕およしあそばせ、とお願いしているではございませんか! 妻の務めを果さぬような女とお思いになって?
【伯爵】 御推量にまかせるが、わしは化粧部屋の中の者に会いたいのだ。
【夫人】 〔おびえながら〕では、どうぞお会い下さいまし。その代り、わたくしの申すことも……落ちついてお聴き下さいましね。
【伯爵】 では、シュザンヌではないのか?
【夫人】 〔臆《おく》しながら〕とにかく、お心配あそばすような……誰でもございません……わたくしどもは余興の稽古をしておりました……それもほんとに罪のない、今夜の催しのことで……わたくしは誓って……
【伯爵】 何を誓うのだ?
【夫人】 あなたのお怒りを買うつもりなどは誓って、わたくしにしろ、相手の者にしろ。
【伯爵】 お前も相手も? そりゃ男か?
【夫人】 ほんの子供でございます。
【伯爵】 なんだって! 誰だそりゃ?
【夫人】 ちょっとでもその名を申し上げたら!
【伯爵】 手討ちじゃ。
【夫人】 とんでもない!
【伯爵】 いいから、話せ!
【夫人】 あの、幼い……シェリュバン……
【伯爵】 シェリュバンか! 不届きな奴め! あやしいとは思っていたが、それで手紙の意味も読めたぞ。
【夫人】 〔両手を組み合わせて〕まあ! そんなことをお疑いにならないで……
【伯爵】 〔じだんだ踏んで、傍白で〕どこへでも出しゃばるいまいましい小姓めが!〔正白で〕さあ、開けろ、もうすっかりわかった。今朝、あいつに暇をとらせたときのお前の感動の仕方、わしの命令一下、あいつは出発しているはずではないか。シュザンヌのことでなにもお前が偽言《うそ》をつくにもあたらぬし、何かやましいことがなければ、念入りにあの小姓めをかくまうにもおよばぬじゃないか。
【夫人】 あの児《こ》はあなたの前に出まして、御機嫌をそこなうのを恐れたのでございます。
【伯爵】 〔われにもあらず、化粧部屋の方を向いて、どなる〕さあ、出て来い、見下げはてた小僧め!
【夫人】 〔伯爵のからだを抱くようにして遠ざけながら〕ああ! あなた、そんなにお怒りになっては、あの児がかわいそうでございます。どうか、あらぬお疑いだけはおよしになって! それにあの児の取り乱した姿をごらんになっても……
【伯爵】 取り乱した!
【夫人】 申しわけございません! 女の風俗《なり》をさせようと存じて、わたしの帽子をかぶせて、胴着だけで、マントも着ずに、襟《えr》もはだけ、腕もあらわになって、これから衣裳をつけて見ようと……
【伯爵】 その癖、お前は部屋に引きこもっていようとしたのだ! 不貞の妻だ! ふん! ながく……引きこもってもらおう、だが、とりあえず、無礼者めを追いはらって、二度と姿を現わさぬようにしてやろう。
【夫人】 〔ひざまずいて、両手を上げて〕あなた、子供でございますから、お助け下さいまし、わたくしゆえ……と思えば諦めかねます。
【伯爵】 そのおびえ方がなおあいつの罪を重くするぞ。
【夫人】 あの児に罪はございません、もう出発いたすところを、わたくしが呼び寄せましたので。
【伯爵】 〔怒って〕立ちあがって、そこどいてくれ……お前もあだし男をかばって、わしに物を言うとはずぶとい女だな!
【夫人】 それではどきましょう、立ちあがりもいたしましょう、化粧部屋の鍵までもお渡しいたしましょう、それにしても、万が一、わたくしを愛して下さいますなら……
【伯爵】 わしの愛情を、不届きな!
【夫人】 〔立ちあがって、鍵を渡しながら〕どうぞ、あの児《こ》をおいじめにならずに暇を出す、とお約束願います。それから後でお気が晴れませんでしたら、どんなにわたくしをお叱りになってもかまいません……
【伯爵】 〔鍵を受取って〕なにも聞きたくない。
【夫人】 〔ハンケチを眼にあてて、肱掛椅子に身を投げかけて〕ああ、どうしたらいいだろう! あの児の命も危ないのに!
【伯爵】 〔戸を開けて、退く〕やっ、シュザンヌだ!
第十七場
〔伯爵夫人、伯爵。シュザンヌ〕
【シュザンヌ】 〔笑いながら出て来る〕手討ちじゃ、手討ちじゃ! どうぞお手討ちに、このいやな小姓めを。
【伯爵】 〔傍白で〕いやはや! なんの真似だ!〔あっけにとられている伯爵夫人を眺めながら〕それに、お前までびっくり仰天の芸当か?……だが、その部屋には、シュザンヌ一人ではなかろう。
第十八場
〔伯爵夫人(腰かけたまま)、シュザンヌ〕
【シュザンヌ】 〔夫人の傍に駆け寄って〕しっかりあそばせよ、もう遠くへ逃げてしまいました、飛び降りまして……
【夫人】 ああ! シュゾン! わたしは生きた心地はなかったよ!
第十九場
〔伯爵夫人(腰かけたまま)、シュザンヌ、伯爵〕
【伯爵】 〔恐縮の面持で化粧部屋から出て来る。しばし無言の後〕誰もいない、わしはあいすまんことをしたな。いや、令夫人……お前もなかなか芝居が上手だな。
【シュザンヌ】 〔陽気に〕殿様、わたくしはいかが?〔伯爵夫人は気分を取り直すために、ハンケチを口にあてて、何も言わぬ〕
【伯爵】 〔夫人に近寄って〕どうしたのだ! 座興だったのかね?
【夫人】 〔やや気分を取り直して〕座興ではいけません?
【伯爵】 わるふざけにも程がある! それもどういうつもりかちょっと伺《うかが》いたいね?……
【夫人】 そうおっしゃるあなたの御乱行がゆるせますか?
【伯爵】 名誉にもかかわることを乱行と言えるかね!
【夫人】 〔だんだん調子が確かになって〕あなたはお勝手につれなさとおやきもちの使い分けをなさいますが、わたくしだけが、いつまでも、妻としてそんな気まぐれに従わなければいけませんの?
【伯爵】 いや! それは、つれない言葉だ。
【シュザンヌ】 奥様がお留めになっても、大きなお声でみんなをお呼びになりましたわねえ。
【伯爵】 そのとおり、こりゃわしがあやまらずばなるまい……このとおりあやまる、少々逆上していた!……
【シュザンヌ】 少々御逆上あそばしただけのことはございましたわねえ。
【伯爵】 〔シュザンヌに〕わしが呼んでもなぜ出て来なかったのだ、不届きな?
【シュザンヌ】 ピンを何本も使いまして、お初《はつ》の衣裳をためしておりましたのでございますもの、それに奥様が≪出て来てはいけないよ≫とおっしゃるのが当然じゃございませんか。
【伯爵】 わしの欠点《あら》ばかり洗い立てずに、すこしは奥方を慰めてくれんか。
【夫人】 いえいえ、こんな辱しめは取返す道はございません。わたくしはユルシュリイヌの尼寺にはいります、もうそういう時なのでございますから。
【伯爵】 なんの未練もなく、そんなことができるのかね?
【シュザンヌ】 わたくしにはわかっております、御出発のその日がお涙に暮れる夜でございましょうよ。
【夫人】 ああ! シュゾン、その門出もいつにしようねえ? 恥をかいて旦那様をおゆるしするよりもお別れして泣いた方がいいねえ、こんなにいじめられて。
【伯爵】 これ、ロジイヌ!……
【夫人】 もうわたくしはロジイヌではございません、昔はあれほどお慕い下すったのにねえ! わたくしは憐れなアルマヴィヴァ伯爵夫人、もう愛してはいただけない、捨てられた、悲しい妻でございます。
【シュザンヌ】 まあ奥様!
【伯爵】 〔懇願して〕ゆるしてくれ!
【夫人】 わたくしをゆるすお心もちは、ちっとも持っていらっしゃらないくせに。
【伯爵】 それにしても、あの手紙で……わしは血迷ったよ!
【夫人】 ですからわたくしはそんな手紙を書いてはいけないと申しましたのに。
【伯爵】 ではお前は、あの手紙のことを知っていたのかね?
【夫人】 それは、あのかるはずみなフィガロが……
【伯爵】 あいつめが?
【夫人】 その手紙をバジルに渡して。
【伯爵】 ところがバジルはさる百姓から手に入れたと申したぞ。うむ、不らちな歌唄いめ、あの内股膏薬《うちまたこうやく》! 思い知らせてやるからそう思え。
【夫人】 あなたは御自分勝手におあやまりになりますけれど、他人はおゆるしになりませんのね、どうせそうでございましょう、殿方は! そこで、この手紙のことであなたのお思いちがいをおゆるし申すぐらいなら、一層、誰も彼も御赦免ということに願いますわ。
【伯爵】 よろしい、承知した。しかし、わしに恥をかかせた始末はどうしてくれる?
【夫人】 恥をかかされたのはお互いじゃございませんか。
【伯爵】 だがね! わしだけに言ってもらいたい! 全体、女というものは、どうしてそんなにすばやく、そんなにうまく、その場その場の顔つきや声色ができるのだろう。お前は赤くなったり、泣いたり、顔までかわってしまって……まったく、今でも、そうだ。
【夫人】 〔無理に笑って〕赤くなりましたとも……あなたのお疑いを受けたのがくやしくって。とにかく、殿方は、身に覚えのない恥のくやしさと、ごもっともなおとがめの恥かしさとの区別がおできになるほどお目がきいておりましょうか?
【伯爵】 〔笑いながら〕それにしても、あの小姓の取りみだした、胴着だけで、はだかも同然な……
【夫人】 〔シュザンヌを指して〕その小姓が前におりますわ。もう一人の小姓よりもこの小姓がいた方がお気に召したでございましょう。いつでも、この小姓にお会いになるのはおいやじゃございませんもの。
【伯爵】 〔さらに勢いよく笑って〕それに、あの拝むような頼み方、あの空|なみだ《ヽヽヽ》が……
【夫人】 笑わせようとなすっても、笑いたくはございませんよ。
【伯爵】 われわれも政治はいささか心得ていると思っていたが、実は子供だな。お前のような夫人こそ、国王はロンドンの大使としてお遣わしになるべきだ! これほどうまくやるには、女というものは表面《うわべ》をつくるにはよほど肝胆《かんたん》をくだくにちがいないなあ!
【夫人】 それは殿方がそうおさせになるのですわ。
【シュザンヌ】 わたくしども女にほんのすこしの自由でもお与え下されば、女でも立派な人間になれますでございましょうよ。
【夫人】 まあこの話はそれだけにいたしましょうね、あなた。わたくしも言いすぎたかも、ね。でも、こんな重大な場合でも、わたくしは大目に見ましたから、あなたも寛大になさらなければ、ねえ。
【伯爵】 それなら、お前も、もう一度ゆるすと言ってくれ。
【夫人】 わたくし、ゆるすなんて言って、シュゾン?
【シュザンヌ】 聞えませんでございましたよ、奥様。
【伯爵】 さあさあ! ゆるすと一言。
【夫人】 その資格がおありになって? ひどい方。
【伯爵】 あるとも、後悔しているじゃないか。
【シュザンヌ】 奥様のお化粧部屋に誰か男がおりはせぬか、なんて、ねえ!
【伯爵】 ひどいお小言をちょうだいしたじゃないか!
【シュザンヌ】 奥様が腰元だと言っていらっしゃるのに、お信じにならないなんて!
【伯爵】 ロジイヌ、ではどうしてもゆるしてくれないのかね?
【夫人】 ほんとに! シュゾン、わたしは弱いのね! 悪いお手本ね〔伯爵に手をさしのべて〕女が怒っても、誰も本気にいたしますまいよ。
【シュザンヌ】 ほんとに、ねえ、奥様、殿方相手ではいつもこんなことになるのでございましょうか?
〔伯爵は熱意をこめて夫人の手に接吻する〕
第二十場
〔シュザンヌ、フィガロ、伯爵夫人、伯爵〕
【フィガロ】 〔息せききって駆けつけて〕奥様が御気分がお悪いそうで。大急ぎでまいりましたが……何事もございませんのがなによりで。
【伯爵】 〔そっけなく〕いやに用意周到だな。
【フィガロ】 さ、それがわたくしの務めで。そこで、何事もございませんのをさいわい、ちょうど若い御家来どもが、男も女も、ヴァイオリンと袋笛を持ちまして、お許しのあり次第、わたくしが許嫁《いいなずけ》を連れてまいりますのを階下《した》で待ちながら、一緒に乗り込もうというわけで……
【伯爵】 では邸《やしき》では誰がわしの家内を見守ってくれるのだ?
【フィガロ】 奥様のお守りを! もう御病気ではございませんよ。
【伯爵】 病気ではないがね。しかし、もう邸にはいないあやしいやつが、家内に相談があるはずだろう?
【フィガロ】 お邸におりませぬ男と申しますと?
【伯爵】 お前がバジルに渡した手紙の主《ぬし》だ。
【フィガロ】 誰がそんなことを申しました?
【伯爵】 不届き者め! わしがそれを知らずとも、お前の顔にすでに嘘つきと書いてあるのが証拠だ。
【フィガロ】 そうときまれば、嘘をついたのはわたくしではなくて、顔でございますね。
【シュザンヌ】 いいかげんにおしよフィガロ、物言えば唇寒し負け軍《いくさ》だとさ。あたし達がみな言っちまったんだよ。
【フィガロ】 何を言ったんだ? バジルと一緒にされちゃたまらねえ!
【シュザンヌ】 殿様がお帰りになると、そのお化粧部屋には小姓がもぐりこんでいるってことを殿様がおわかりになるようにさっきお前が手紙を書いたってことさ、ところがそのお部屋にはわたしが隠れていたんだよ。
【伯爵】 何か言うことがあるのか?
【夫人】 もうなにもかくすことはないのよ、フィガロ、いたずらはすんでしまったの。
【フィガロ】 〔意味を読もうとつとめて〕いたずらは……すみました、と?
【伯爵】 うん、すんだのだ。何か言いたいことがあるのか?
【フィガロ】 わたくしは、と! つまり、その……わたくしの祝言のお話ぐらいあってもよさそうなものだと申し上げたいので、で、その事をお命じ下さいますれば……
【伯爵】 では結局、手紙の一件はお前も認めるのだね?
【フィガロ】 奥様の御意で、シュザンヌの望みで、殿様までもそう思し召すものなら、わたくしも認めましょう、でございますが、もしわたくしが殿様でしたら、こんならちもないことは一言も本気にはいたしませんね。
【伯爵】 証拠があってもまだ嘘を申すのか? そうなると、おれも怒るぞ。
【夫人】 〔笑いながら〕まあね! どうせこんな男でございますよ! 一度だって、本当のことを言うとお思いになって?
【フィガロ】 〔低声《こごえ》で、シュザンヌに〕あの児にあぶないと知らせなけりゃなるまい、おれも男だ、やれるだけはやってやろう。
【シュザンヌ】 〔低声で〕お前、あの児に会ったのかい?
【フィガロ】 〔低声で〕今でもふるえあがってらあ。
【シュザンヌ】 〔低声で〕ほんとに! かわいそうだね!
【夫人】 さあ、あなた、この二人は一緒になりたくってたまらないのでございますから、待ち切れないのも無理はございませんわ! 帰って、式にいたしましょう。
【伯爵】 〔傍白で〕それにしてもマルスリーヌは、マルスリーヌ……〔正白で〕わしも、せめて着物でも着更えよう。
【夫人】 家来の式のために! わたくしまでも着更えますの?
第二十一場
〔フィガロ、シュザンヌ、伯爵夫人、伯爵、アントニオ〕
【アントニオ】 〔生酔いで、ニオイアラセイトウの破損した鉢を持って〕御前様! 御前様!
【伯爵】 なんだ、アントニオ?
【アントニオ】 わたくしの受持の畑の上の窓に、ぜひとも格子をおはめになって下さいまし。窓からなんでもかんでも投げ出しますんで、今しがたも、人間を一匹ほうり出しましてね。
【伯爵】 あの窓からか?
【アントニオ】 ごらん下さいまし、草花がこんなになってしまいました。
【シュザンヌ】 あぶない、フィガロ、あぶないよ!
【フィガロ】 殿様、こいつは朝っぱらから≪へべれけ≫でございますよ。
【アントニオ】 お前《めえ》の知ったこっちゃねえや。二日酔いがちょっぴり残ってるんだ。このとおり、人間てやつはお先まっくらな……見当をつけます次第で。
【伯爵】 〔熱心に〕窓から降って来たその男! そやつはどこにいる?
【アントニオ】 どこに?
【伯爵】 どこにだ。
【アントニオ】 そこをわたくしは伺ってるんでございますよ。そいつに早く会いたいんで。わたくしは殿様の下男で、お庭の世話を一切いたしておりますのに、そこに人間が降ってまいるようでは、わたくしの評判に≪けち≫がつくわけでございましょう。
【シュザンヌ】 〔低声《こごえ》で、フィガロに〕ごまかしておしまいよ、ごまかして!
【フィガロ】 お前なんざあ、年がら年じゅう酔っぱらっているんだろう。
【アントニオ】 酒でも飲まなきゃ、気が狂わあ。
【夫人】 でも、そんなに、欲しくもないのに飲んでは……
【アントニオ】 欲しくもないのに酒を食らい、年がら年じゅう色三昧てのが、ねえ奥様、これすなわち、人間と畜生との≪けじめ≫でござい。
【伯爵】 〔強く〕なんとか答えないと、暇をとらせるぞ。
【アントニオ】 ではお暇が出るのでございますかね?
【伯爵】 なにが不思議だ?
【アントニオ】 〔自分の額に指を当てながら〕そりゃもう、殿様がこんな良い下男をお邸において下さらなくっても、わたくしはこんないい殿様を叩き出すほど間抜けじゃございませんよ。
【伯爵】 〔怒って、庭師をこづいて〕とにかく、あの窓から人間をほうりだしたのだろう、なあ?
【アントニオ】 さようでございますとも、殿様、たった今しがた、白い胴着を着たやつでね、いやまったく、一目散に逃げ出しまして。
【伯爵】 〔持ち切れずに〕それから、どうした?
【アントニオ】 それから追っかけようといたしましたがな、鉄格子にいやってほど手をぶっつけましたので、この指の後足も前足も動かなくなっちまいまして。〔手をあげて見せる〕
【伯爵】 せめて、どんな男だったぐらいはわかったろう?
【アントニオ】 そりゃ、もうそうで……もし相手を見ますればね。
【シュザンヌ】 〔低声で、フィガロに〕見えなかったんだよ。
【フィガロ】 たった一鉢の草花で大騒ぎをするぜ! 泣き上戸め! そんな花なんかいくらかかるんだ? 殿様、下手人をおさがしになっても無駄な話で、窓から飛び降りたのはわたくしでございますよ。
【伯爵】 何、お前か!
【アントニオ】 泣き上戸め、いくらかかるって? じゃあ、お前《めえ》さんの≪からだ≫は飛び降りてからいやに寸が伸びたんだな、おれの見たのはもっと小さくって細っそりしたやつだったがね。
【フィガロ】 当りめえよ、誰だって飛び降りる時にゃ≪からだ≫をちぢめらあ……
【アントニオ】 おれの見たのは、どうやら……あのやせっぽちの小姓のようだったが。
【伯爵】 シェリュバンだというのか?
【フィガロ】 違げえねえ、セヴィラの門から、わざわざ馬に乗って帰って来て、今頃はまたセヴィラに着いているだろう。
【アントニオ】 おれはなにもそんなこと言ってるんじゃねえよ、そんなこと。馬から飛び降りたところを見たんじゃねえよ、見たら見たと言わあ。
【伯爵】 じりじりして来るわい!
【フィガロ】 実はわたくしはお局《つぼね》におりました、白い胴着だけ着まして、暑うございましたので! お局で、わたくしはかわいいシュザンヌを待っておりますと、その時、にわかに殿様のお声と騒がしい物音が聞えたのでございます! あの手紙のことを考えますと、なんだが急にこわくなってしまいまして、今から思えば馬鹿な話でございますが、前後不覚で畑の上に飛び降りましたので、右の足まで少々踏み違えましてね。〔足をこすって見せる〕
【アントニオ】 お前《めえ》さんが飛び降りたのなら、この紙片《かみきれ》はお前さんに返さなくちゃならねえ、飛び降りたとたんに胴着から落ちたんだからね。
【伯爵】 〔その紙片に飛びついて〕こっちによこせ。〔紙片をひらいてみてから、ふたたび畳む〕
【フィガロ】 〔傍白で〕しまった。
【伯爵】 〔フィガロに〕いくらこわがってもこの紙片になにが書いてあるか、これがどうして≪かくし≫に入れてあったかぐらい、まさか忘れはしまいな?
【フィガロ】 〔こまって、≪かくし≫の中をさぐってさまざまな書類を抽き出す〕忘れるどころか……しかし、たくさん持っておりますので、なにからなにまでぴったり合わせるとなると……〔一枚の紙片を眺めながら〕これは、と? こいつはマルスリーヌからの恋文で、四頁ばかり、いい手紙でございますよ!……こっちの方は只今入牢しておりまする例の密猟者の請願書でございますかな?……いや、これだ……別の≪かくし≫には御別邸の家具の勘定書があったんでございますがね。〔伯爵は手に持っている紙片をまたひらく〕
【夫人】 〔低声で、シュザンヌに〕あら! たいへん! シュゾン、シェリュバンの辞令よ。
【シュザンヌ】 〔低声で、フィガロに〕お前なくなしたんだろ、あの辞令だよ。
【伯爵】 〔紙片をたたんで〕どうだ! 策略《やりくり》先生、この紙片がわからんかね?
【アントニオ】 〔フィガロに近寄って〕殿様がな、これがわからないか? ってよ。
【フィガロ】 〔アントニオを押し返して〕うるせえな、この野郎、面《つら》を突き出して、つべこべと!
【伯爵】 この書類がなんだか忘れたかね?
【フィガロ】 あっはっははあ! 大失敗《おおしくじり》、あの小僧っ子の辞令でござんしょう、あいつから受け取って、返すのを忘れましてね。おっほっほほお! うっかりしておりました! 辞令を持たずに、あいつはどうするつもりでございましょう? これから大急ぎで……
【伯爵】 どういうわけで、あいつは辞令をお前に渡したのだ?
【フィガロ】 〔こまって〕それは、あいつが……ちょっとした手続きをしてもらいたいと申しまして。
【伯爵】 〔紙片を眺めて〕手続きに不足はないが。
【夫人】 〔低声に、シュザンヌに〕封印が。
【シュザンヌ】 〔低声にフィガロに〕封印がないんだよ。
【伯爵】 〔フィガロに〕答えられないのか?
【フィガロ】 それは……結局、ちょっとしたことが欠けておりますので、きゃつが掟《きま》りは掟《きま》りだから、と申しまして。
【伯爵】 掟《きま》り! 掟《きま》り? なんの掟りだ?
【フィガロ】 書類に御紋所の御印形を押しますので、もっともそれも、どうでもよろしいようなものの。
【伯爵】 〔紙片をまたひらいてみてから、怒って紙片をもみくちゃにして〕そうか、わしにはなにもわからんように仕組んであるのだな。〔傍白で〕フィガロがみなをあやつっているのだ。今に敵《かたき》をとってやるからそう思え。〔伯爵は憤然として出て行こうとする〕
【フィガロ】 〔伯爵を押し停めて〕わたくしどもの祝言のお許しもお与え下さらずに御退出でございますか。
第二十二場
〔バジル、バルトロ、マルスリーヌ、フィガロ、伯爵、グリップ・ソレイユ、伯爵夫人、シュザンヌ、アントニオ、伯爵の召使、家臣達〕
【マルスリーヌ】 〔伯爵に〕殿様、そのお許可《ゆるし》はお控え願います! フィガロにその恩典をお与えになる前に、まず御裁判を願わなければなりません。フィガロとわたしの間には数々の約束事がございます。
【伯爵】 〔傍白で〕仇討の味方が来たぞ。
【フィガロ】 数々の約束事? どういう筋ですかね? |わけ《ヽヽ》を言ってもらいましょう。
【マルスリーヌ】 ええ、ええ申しますとも、嘘言者《うそつき》!〔伯爵夫人は肱掛椅子に坐り、シュザンヌはそのうしろに控える〕
【伯爵】 どういう事件なのかね、マルスリーヌ?
【マルスリーヌ】 夫婦の約束でございます。
【フィガロ】 高が証文一札で、それも借金の証文でございますよ。
【マルスリーヌ】 〔伯爵に〕わたしと夫婦になるという条件付の借金でございます。殿様はお身分の高いお方でいらっしゃいますし、この郷一《くにいち》の判官でもいらっしゃいますし……
【伯爵】 法廷に出頭するがよかろう、すべての者の黒白を正すが職務だからな。
【バジル】 〔マルスリーヌを指して〕そういうことになりますれば、閣下はわたくしがマルスリーヌに求婚を致すこともお認め下さいましょうか?
【伯爵】 〔傍白で〕こんどは手紙の下手人が出て来たな。
【フィガロ】 同じ穴のきちがいがまた一匹か!
【伯爵】 〔怒って、バジルに〕お前の権利! 求婚の権利とは! よくもわしの前で大きな口がきけるな、たわけ者め!
【アントニオ】 〔手をたたきながら〕しょっぱなからうめえ名をもらったもんだ。たわけ先生にちげえねえ。
【伯爵】 マルスリーヌ。お前の権限を審判するまではすべての事件を中止することとしよう。裁判は評定の広間で公開することにする。ところで信頼すべき君子バジル、お前は街に行って法廷の係りの者どもを連れて来い。
【バジル】 フィガロの事件でございますか。
【伯爵】 のみならず、お前に手紙を渡した百姓も連れて来い。
【バジル】 わたくしがさような者を存じておりましょうか?
【伯爵】 口答えするのか?
【バジル】 わたくしは雑用をいたすためにお邸に御奉公いたしたわけではございません。
【伯爵】 では何のためだ?
【バジル】 村の教会の歴《れき》としたオルガン演奏者として、奥様にはクラヴサンを、腰元たちには歌を、小姓どもにはマンドリンを教え、特にわたくしの受持といたしましては、殿の御意次第、ギターを弾じてお客人をお慰めいたすことでございます。
【グリップ・ソレイユ】 〔進み出て〕殿様、わたくしでよろしければ、行ってまいりましょう。
【伯爵】 お前の名前と役目は?
【グリップ・ソレイユ】 名はグリップ・ソレイユ、山羊の番人も勤めますし、花火の方の係りでもございます、今日はお邸うちのお祝いもございますし、やたらにしゃべる裁判官たちの住所《すまい》も知っております。
【伯爵】 その忠勤振りが気に入った。では行け。〔バジルに向って〕だがお前、ギターを弾きながらグリップ・ソレイユの伴をして、道々歌を唄ってなぐさめてやれ。この小僧はわしの客人だ。
【グリップ・ソレイユ】 〔喜んで〕いやあ! このおれがお客……?〔シュザンヌは手でグリップ・ソレイユを制して、伯爵夫人の前であることを知らせる〕
【バジル】 〔驚いて〕わたくしが弾きながらグリップ・ソレイユのお伴とは……?
【伯爵】 それが役目ではないか。行け、いやなら、暇をつかわすぞ。〔伯爵退出〕
第二十三場
〔前場の役者一同、ただ、伯爵を除く〕
【バジル】 〔独語して〕やれやれ! 鉄《かね》の壺とは喧嘩もできまい、おれなんかはどうせ……
【フィガロ】 〔傍白で〕どろの瓶《かめ》だからな。
【バジル】 〔傍白で〕奴等の婚礼を助ける奴があるものか、おれはおれでマルスリーヌとの縁組をかためるとしよう。〔フィガロに〕おい、結論をいそいで、おれがもう帰って来ないなどとは思うなよ。〔彼は奥の椅子の上にあるギターをとりにゆく〕
【フィガロ】 〔バジルの後をつけながら〕結論が聞いてあきれらあ! もう二度と帰って来られなくなっても、びくびくするなよ……あんまり歌を唄いたそうな面構えでもないぞ、おれが皮切りに唄ってやろうか?……いいか、やるぞ、許嫁のために景気よく、高らかになあ。〔彼は次のようなエスパニヤの短い歌を唄いながら踊り、後じさりに退出する、バジルが伴奏し、他の者どもがバジルに従う〕
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宝の山よりシュゾンの分別
貰《もら》いたいのがこっちの所存
ぞん ぞん ぞん
ぞん ぞん ぞん
ぞん ぞん ぞん
ぞん ぞん ぞん
惚れた女子《おなご》の可愛いさに
知恵を借すのが男の一存
ぞん ぞん ぞん
ぞん ぞん ぞん
ぞん ぞん ぞん
ぞん ぞん ぞん[#ここで字下げ終わり]
〔音が遠ざかり、後は聞えなくなる〕
第二十四場
〔シュザンヌ、伯爵夫人〕
【夫人】 〔肘掛椅子に坐って〕それごらん、シュザンヌ、お前のフィガロのかるはずみであんな手紙を書くものだから、とんでもない騒動になってしまったのね。
【シュザンヌ】 ほんとに奥様、わたくしがお化粧部屋からお居間にはいってまいりました時のお顔を鏡でごらんになりましたら! にわかにまっさおにおなりになりますと、その蒼《あお》さが雲のように消えて、こんどはだんだん、まっ赤に、まっ赤に、まっ赤におなりになって!
【夫人】 それで、あの児は窓から飛び降りたの?
【シュザンヌ】 思いきりよく、いい子でございますね! ひらりとばかりに……蜜蜂のように!
【夫人】 ほんに! あのいやな庭師がねえ! あんまり胸がどきどきして考えがまとめられなかったの。
【シュザンヌ】 まあ! そうは思えませんでございますよ。あれでわたくしは、上つ方の御流儀が立派な奥様方に、ああも楽々と底を割らずに嘘をつかせるものだということがわかりました。
【夫人】 旦那様がその手に乗る方だと思って? もしあの児を邸内でおさがし出しになったら!
【シュザンヌ】 よくあの児をかくまうように頼んでまいりましょう……
【夫人】 あの児は発《た》った方がいいよ。もう、こうなってからは、お前の代りにあの児をお庭にやる気になれないじゃないか。
【シュザンヌ】 わたくしだって、もうまいりませんよ。そうなればわたくしの祝言もまた変なことに……
【夫人】 〔立ちあがって〕それでは……あの児やお前の代りに、わたしが自分で行ってみたら!
【シュザンヌ】 奥様が?
【夫人】 そうすれば、誰にも迷惑はかけまいし……旦那様だって御乱行の弁解はできないでしょう……あのおやきもちにお灸をすえて、お不実振りを思い知らせれば、それこそ……ねえ、そうしようよ、手始めの首尾がよかったので、二度目をやってみる勇気が出たわ。でも、これだけは誰にも内緒……
【シュザンヌ】 では! フィガロだけに。
【夫人】 駄目、駄目、自己流を出したがるから……あの露台《テラス》で、とっくり考えてみるから、ビロードの仮面《マスク》と杖を持って来てね。〔シュザンヌは化粧部屋に退く〕
第二十五場
〔伯爵夫人《ただひとり》〕
【夫人】 わたしの≪もくろみ≫もずいぶん大胆だこと! 〔振りかえって〕あら! リボン! わたしのよいリボンね! お前を忘れていたのよ!〔肱掛椅子の上にあるリボンを手にとって〕もうどこにもいっちゃ、いやよ……お前を見るとさっきの騒動を思い出してよ、あの児、かわいそうだったわねえ……ほんとに伯爵様、あなたは、なんということをあそばしましたの? でも、そういうわたしは、今はなにをしているのでしょう?
第二十六場
〔伯爵夫人、シュザンヌ(伯爵夫人はそれとなく、リボンを胴着の中にかくす)〕
【シュザンヌ】 では、お杖と仮面《マスク》。
【夫人】 いいかい、この事は一言もフィガロに言ってはいけませんよ。
【シュザンヌ】 〔上機嫌で〕奥様のお≪もくろみ≫はほんとに面白うございますわ! わたくしも今考えてみまして、何から何まで、かたがついて、けりがついて、まとまりがついて、もうどんなことがおこりましても、わたくしの祝言は大丈夫でございますねえ。〔シュザンヌは夫人の手に接吻する。両人退出〕
〔幕間に、召使たちは評定の間をしつらえる。弁護士用の背付の腰掛二脚を舞台の両側において、うしろは人の通れるようにする。舞台の中央には踏段二つある台を据《す》える、その台の後方に伯爵の大椅子をおく。舞台前面の横に書記用のテーブルと腰掛、伯爵の台の両側にはブリドワゾン及びその他の裁判官たちの席を設ける〕
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第三幕
〔舞台は玉座の間とよばれる広間となり、評定の間に使用される。広間の一方には天蓋があって、その下に国王の肖像〕
第一場
〔伯爵、ペドリーユ(詰襟《つめえり》の上衣を着け、長靴を穿き、一通の封書を持っている)〕
【伯爵】 〔急ぐ口調で〕わかったか?
【ペドリーユ】 はっ、承知いたしました。
第二場
【伯爵】 〔ただひとり、叫ぶ〕ペドリーユ!
第三場
〔伯爵、ペドリーユ(ふたたび戻って来て)〕
【ペドリーユ】 閣下、御用は?
【伯爵】 誰にも見つからなかったか?
【ペドリーユ】 誰にも。
【伯爵】 野馬に乗って行けよ。
【ペドリーユ】 鞍をおきまして、野菜畑の鉄格子につないでございます。
【伯爵】 しっかりやれ、一息でセヴィラまで飛ばすのだ。
【ペドリーユ】 せいぜい三里で、道もよろしゅうございます。
【伯爵】 宿に着いたら、小姓が来たかどうかをさぐることだ。
【ペドリーユ】 いつもの宿でございますか?
【伯爵】 そうだ、特にいつから来ているかをさぐれよ。
【ペドリーユ】 よろしゅうございます。
【伯爵】 あいつに辞令を渡したら、すぐ帰って来い。
【ペドリーユ】 もしまいっておりませんでしたら。
【伯爵】 なお急いで帰って来て、報告しろ。行け。
第四場
【伯爵】 〔何か考えながら歩く〕バジルを遠ざけたのはいかにもまずかったな!……短気は損気だ。――バジルからあの手紙を受取ったが、それには伯爵夫人の身の上になにか事が起こると知らせてあった。わしが帰った時には、腰元が化粧部屋に閉じこめられていた。妻はおびえていた、嘘か本当かわからんが。ある男が窓から飛び降りた。すると、もう一人の男が、後から、飛び降りたのは自分だというが、それが自白とも……強弁《いいわけ》ともとれるし、……そこで考えの手づるが切れてしまう。そこになにかあやしいことがあるぞ……家来どもの勝手気儘はなにほどのことがあろう、取るに足らぬ者どもだ。だが、万一、伯爵夫人に、無礼なやつが手でも出したら……わしは血迷っているのかな? いやまったく、神経が興奮すると、日頃は立派な思考力も夢のように他愛がなくなるものだなあ! 妻は慰み事をしていたが、あの苦しそうな叫び声、あのかくしきれぬよろこび! あれが女のたしなみなのか、ところで、わしの名誉を……どうしてくれるのだ! それはそれとして、このわしはどうしたことだ? あのシュザンヌのお茶っぴいめがわしの秘密をしゃべったのかな?……フィガロはまだあいつの亭主ではないのだからな……全体、どうしてこの浮気がやめられないのだろう? もう幾度も諦めようとは思ったのだが……どっちつかずの心持は変なものだなあ! もし文句なしにあの女が思いどおりになるなら、これほど執心もしないだろうに。――フィガロのやつ、いやに待たせるなあ! うまくあいつにさぐりを入れて〔フィガロは舞台奥に現われて、立ちどまる〕それから、話し合っているうちに、わしがシュザンヌを想っていることをあいつが知っているかどうか、それとなくわかるようにつとめてみよう。
第五場
〔伯爵、フィガロ〕
【フィガロ】 〔傍白で〕ふふん、なあるほど。
【伯爵】 ……万一、フィガロが、例の一件で、シュザンヌから一言でも聞いていたら……
【フィガロ】 〔傍白で〕そんなことではないかと思っていましたよ。
【伯爵】 ……フィガロにはマルスリーヌ婆あをめあわせてやろう。
【フィガロ】 〔傍白で〕そりゃバジル先生の色恋沙汰でござんしょう?
【伯爵】 ……そうしておいてから、若い女を始末することとしよう。
【フィガロ】 〔傍白で〕へえ! わたしの女房をですかい、何分よろしく。
【伯爵】 〔ふりかえって〕えっ! 何! どうしたのだ?
【フィガロ】 〔進み出て〕わたくしでございますが、なにか御用で。
【伯爵】 なんだかぶつぶつ言っていたなあ?……
【フィガロ】 別に何とも申しませんが。
【伯爵】 〔フィガロの言葉をくりかえして〕わたしの女房? 何分よろしく、とは。
【フィガロ】 それは……わたくしの返事のしまいの文句で、何分よろしく、おれの女房に言ってくれ、と申しましたので。
【伯爵】 〔歩きながら〕あいつの女房か!……わしがお前に来てもらいたいのに、なにをぐずぐずしていたのだ?
【フィガロ】 〔衣紋をひきつくろう≪ふり≫をして〕あの苗床に飛び降りまして、泥だらけになりましたので、着更えておりました。
【伯爵】 一時間もかかるのかね?
【フィガロ】 相当にかかるもんでございますよ。
【伯爵】 ここの邸《やしき》では召使の方が……主人よりも着物を着更えるのに手間がかかるなあ!
【フィガロ】 そりゃ、召使には助けてくれる小者がおりませんでございますからね。
【伯爵】 ……どうもわしには、お前が無用な危険をおかしてまで、飛び降りなければならなかったのか、わけがわからんのだが。
【フィガロ】 危険どころか! あやうく生き埋めになるところでございましたよ……
【伯爵】 たぶらかされるふりをしながら、このわしをたぶらかそうとするのだな。ずるいやつめ! わしの気にかかるのは、危険ではなくて、飛び降りたわけだということはよく知っているくせに。
【フィガロ】 間違った知らせをお信じになって、えらい御立腹でお駆けつけになり、モレナ河の早瀬のように、なんでもかんでもお倒しになって、一人の男を理が非でもおさがしになるか、それとも、戸口をこわして中仕切りをおやぶりになるか! というところにたまたまわたくしが居合わせましたので、あんまりはげしい御立腹でございましたから、どうなることかと……
【伯爵】 階段から逃げられたじゃないか。
【フィガロ】 そうなれば、殿様はわたくしを廊下でおつかまえになります。
【伯爵】 廊下だと! 〔傍白で〕どうもわしは怒るので、さぐりたいこともうまくいかない。
【フィガロ】 〔傍白で〕まあ、相手の出方を見て、それから、こっちも白兵戦と行こうか。
【伯爵】 〔心持をやわらげて〕そんなことをいうつもりでもなかったのだ、それはどうでもよいことだが。実はわしはな……お前を急場の通信係りとしてロンドンに連れて行きたいと思ったのだ……しかし、よく考えてみると……
【フィガロ】 御意見がかわりましたか?
【伯爵】 まず第一にお前は英語を知らんからな。
【フィガロ】 ≪|こん畜生め!(ゴッダム)≫という英語を知っておりますがね。
【伯爵】 わからんね。
【フィガロ】 ≪ゴッダム!≫てのを知っておりますと申し上げましたので。
【伯爵】 それがどうしたのだ?
【フィガロ】 いや、どうも! 英語と申すものは結構な言葉で、ほんのわずかでじゅうぶん用が足ります。≪ゴッダム!≫だけで、イギリスなら、どこへまいりましても、不自由はいたしません。――あぶらの乗ったうまい牝鶏を召上りたかったら、居酒屋におはいりになって、店のボーイに、ちょいとこんな仕草で〔串をまわす身振り〕≪ゴッダム!≫とおっしゃると、塩漬の牛の脚を、パンを添えずに持ってまいります。すばらしいじゃございませんか。もし、殿様がとびきり上等のブルゴーニュの赤か白かを一杯召上りたくば、たった、これだけで〔壜の栓を抜く身振り〕≪ゴッダム!≫とね。持ってまいりますのがビールで、見事な錫の壺、縁《ふち》に泡が立っております。恐悦至極《きょうえつしごく》でござんしょう! さてはまた、小股にきざんで、目を伏せて、肱《ひじ》をうしろに張って、ちょいと腰をひねって歩いて来る別嬪《べっぴん》にぱったりお会いになりましたら、五本の指をそろえて愛嬌作ってお口に当てて、≪いよう! ゴッダム!≫と言ってごろうじろ、女は土方のような力で、殿様の横面を張り飛ばしますが、それがつまり万事承知という証拠でございます。そりゃ、イギリス人も、本当は、会話をいたします時には、あちら、こちらに他の言葉も付け加えますが、しかし、まず≪ゴッダム!≫が英語の根本であることは昭々《しょうしょう》としてあきらかでございます。さればこそ、もし殿様が、このわたしをエスパニヤにお残しになる特別の御所存がございませんなら、なにとぞ……
【伯爵】 〔傍白で〕ロンドンに来たがっているな、シュザンヌはなにも話していないのだ。
【フィガロ】 〔傍白で〕やっこさん、まだおれが何も知らないと思ってるな、では、そのつもりで、もうすこしこづいてやろう。
【伯爵】 一体、どういうわけで妻はあんな狂言をやってみたのだろう?
【フィガロ】 それはもう、殿様の方がわたくしよりもよく御承知のはずで。
【伯爵】 わしは何事につけても、彼女《あれ》をまっさきにして、ほしいものは何でも与えているがね。
【フィガロ】 お与えにはなりましょうが、お身持ちがよろしゅうございません。無くてかなわぬものを下さらぬのに、余計なものを下さる方をありがたいと思えましょうか?
【伯爵】 ……昔はお前は何事でもうちあけてくれたものだが……
【フィガロ】 ところが、今ではなにもかくしだてはいたしません。
【伯爵】 お前のめでたい祝言に、妻はどれほど出資《だし》たかね?
【フィガロ】 では、奥様を例のお医者様から横取りなさるために、殿様はわたくしにいかほどお払いになりましたかね? ねえ、殿様、御奉公大事にいたす召使をあまりおさげすみになりますと、悪い御家来にならぬともかぎりません。
【伯爵】 お前のすることには、どうしていつも、ひねくれたところがあるのだろう?
【フィガロ】 ≪あら≫をさがせばどこにでもございますよ。
【伯爵】 どうも評判がよくないぞ!
【フィガロ】 では、もし評判よりはましでしたら? 殿様ぐらい人をぼろくそにおっしゃる方はたんとはござんすまい?
【伯爵】 お前が幸運を目がけて行ったのも幾度かわからんが、一度でも、まっすぐには行かなかったな。
【フィガロ】 しかたがないじゃござんせんか? 世の中は込み合っておりますからね? どいつも、こいつも駆け出したがって、せっついたり、押したり、肱で突いたり、倒したり、強い者勝ちで味噌っ粕《かす》は踏みつぶされてしまいます。こうしたわけで、相場はきまっておりますから、わたくしは匙《さじ》を投げました。
【伯爵】 幸運の匙を?〔傍白で〕こりゃ初耳だ。
【フィガロ】 〔傍白で〕さあ、こんどはこっちのせめる番だ。〔正白で〕あなたさまはわたくしをお邸の玄関番に御採用下されましたが、まことにありがたいしあわせで。本当のところ、たとえ実入《みいり》はあろうとも、重大な事件の通信係りになりたくはございません。ただ、その代り、アンダルシアの片ほとりに、かわいい女房とたのしく……
【伯爵】 では、女房もロンドンに連れて行けばいいではないか?
【フィガロ】 それこそ彼女《あいつ》とも御無沙汰がちになって、やがては、婚礼どこの沙汰ではござんすまい。
【伯爵】 ……その気性と才気があれば役人としても相当にやれるだろう。
【フィガロ】 立身出世に才気がいりますでしょうか? 殿様はわたくしの才気などはせせら笑っていらっしゃるのに。なんの取柄もなく、権門にこびるだけでなんにでもなれましょう。
【伯爵】 ……わしの手元で多少政治を研究すればよいのだ。
【フィガロ】 政治なら心得ております。
【伯爵】 言語の基本たる英語のように、なあ!
【フィガロ】 しかり、あれでも自慢の種になりますればね。とにかく、知ってることも知らぬふりをして、知らぬことも知ってるふりをする、わからぬこともわかったふり、聞こえることも聞こえぬふり、特に力以上の事もできるふりをして、往々、何でもないことでも重大な秘密のようにかくし、さては、垂れこめて鵞《が》ペンをけずり、がらがらのすっぽんぽんのくせに深刻|面《づら》をよそおい、どうにか、こうにか、ひとかどの人物らしくふるまって、探偵を放ち、悪人を養い、封印をとかして、密書を読み取り、目的の重さを口術にして手段のいやしさを高尚に見せかけること、これすなわち、政治でございます、そうでなかったら、お目にかかりません!
【伯爵】 お前の言っているのは権謀術策だ!
【フィガロ】 政治でも、権謀でも、結構、わたくしは両方とも親類だと存じますから、お好みなら、御勝手に願います! わたくしは気さくな王様の、歌の文句にあるように、≪はて、あの娘《こ》が可愛ゆてなりませぬ≫
【伯爵】 〔傍白で〕こっちにいたいのだ。わかった……シュザンヌがしゃべったな。
【フィガロ】 〔傍白で〕思う壺《つぼ》だ、損をするのはそちらさまだあ。
【伯爵】 すると、お前はマルスリーヌとの訴訟では勝つつもりだな?
【フィガロ】 あなたさまは御勝手に娘どもを横取りあそばすのに、わたくしがたった一人の老嬢をことわれば、罪にお問いになるのでございますね!
【伯爵】 〔あざわらって〕いやしくも法廷においては、法官たる者は、私見をはさまずに、只ただ法令によるほかはない。
【フィガロ】 上つ方には寛大に、下々にはきびしく……
【伯爵】 わしがふざけていると思うのか?
【フィガロ】 そいつは! 殿様、天機《てんき》漏らすべからずでございましょう? イタリヤの諺にも、≪時の神は苦労人≫と申します。時の神はいつも本当のことを申しますよ。誰がわたくしにむごいか親切か、までも教えてくれるのでございます。
【伯爵】 〔傍白で〕こやつはなにからなにまで聞いているわい。いまに見ろ、老女と一緒にしてやるから。
【フィガロ】 〔傍白で〕このおれを相手になかなか味をやるな、大将、何か聞き込んだな?
第六場
〔伯爵、下僕、フィガロ〕
【下僕】 〔取り次いで〕ドン・ギュスマン・ブリドワゾン殿がおいででございます。
【伯爵】 ブリドワゾンかね?
【フィガロ】 はい! そのとおりで。吉例の判事、お邸付きの法官、お手の者の判官様でございます。
【伯爵】 待たしておけ
第七場
〔伯爵、フィガロ〕
【フィガロ】 〔伯爵がなにか考えているのをしばし眺めてから〕……こうした思召《おぼしめ》しだったのでございますか?
【伯爵】 〔われに返って〕わしかね?……わしはこの部屋を公開の法廷にするように命じておいたのだが。
【フィガロ】 そりゃ! もう、なにからなにまでそろっております。あなたさまには大型の椅子、法官たちには相当な椅子で、書記には≪けち≫な腰かけ、弁護士どもにはベンチ、傍聴人は只の板敷で、下司下郎はその後ろで床《ゆか》をこすりますから、蝋引人足はもう御用はござんすまい。〔フィガロ退出〕
第八場
【伯爵】 〔ひとり〕悪党め、さんざん手こずらせたな! どうも、議論をすると、やつに分《ぶ》がある、つめよって来て、人を言いくるめるのだ……よし! そろいもそろった雌雄《めすおす》め、共謀《ぐる》になってわしをもてあそぶのだな! 仲よしにも、相惚れにも、何にでも勝手になるがよかろう、文句はない、がしかし、どっこい、夫婦には、断じて……
第九場
〔シュザンヌ、伯爵〕
【シュザンヌ】 〔息せき切って〕殿様……ごめんあそばせ、殿様。
【伯爵】 〔不横嫌な様子で〕どうしたのだ?
【シュザンヌ】 なにか御立腹でございますか。
【伯爵】 何か用があると見えるな?
【シュザンヌ】 〔ためらいながら〕実は奥様がいつもの血の道で。殿様のエーテルの壜《びん》を拝借にかけつけましてございます。すぐにお返しにまいりますから。
【伯爵】 〔壜をわたして〕いやいやお前がしまっておくがいい。いずれお前にも入用になるだろうよ。
【シュザンヌ】 では、わたくしのようなひとりものでも、血の道がおこるのでございましょうか? それは御寝室《おねま》でだけかかります特別な病でございますよ。
【伯爵】 のぼせすぎて、未来の夫を手放すような女の……
【シュザンヌ】 わたくしにお約束のお嫁資《たから》でマルスリーヌを買収あそばしてね……
【伯爵】 お前に約束した? わしが?
【シュザンヌ】 〔目をふせて〕そううかがったように存じます。
【伯爵】 うむ、そりゃお前が≪しん≫からわしの言うことをきいてくれればね。
【シュザンヌ】 〔伏目になって〕御前様《ごぜんさま》の思召しに従いますのがわたくしのつとめではございませんか?
【伯爵】 なら、なぜ早くそう言ってくれないのだ? つれない女だな。
【シュザンヌ】 本当のことを申し上げますのに、おそすぎることはございますまい?
【伯爵】 日の暮れに庭に来てくれるか?
【シュザンヌ】 お庭なら、毎晩そぞろ歩きをいたしているではございませんか?
【伯爵】 それにしても、今朝のつれない仕打ちがなあ!
【シュザンヌ】 けさ?――でも、お小姓が椅子のかげにおりましたでございましょう?
【伯爵】 こりゃもっともだ、こっちがうっかりしていた。だが、わしの方から頼んだバジルをなぜあのように頑固にこばんだのかね?……
【シュザンヌ】 お互いの間になんでバジルなどが?
【伯爵】 これももっともだ。だがな、あのフィガロというやつだが、あいつがお前になんでも話すのだろう!
【シュザンヌ】 それは、もう! わたくしだって、なんでも申しますわ……申していけないことは申しませんが。
【伯爵】 〔笑って〕どうも! かわいいやつだ! では庭のことは約束してくれるな! もし、嘘をついたら、いいかね、おい、会いに来なければ、嫁入りの金員《かね》も、嫁入りも、水の泡だぞ。
【シュザンヌ】 〔お辞儀をして〕それにしても、お嫁入りができませねば、初夜のみつぎとやらもなくなりましょう、ねえ、御前様《ごぜんさま》。
【伯爵】 どこでそんな口説《くぜつ》をおぼえた? どうあっても、かわいがってやるぞ! だが、奥様が壜を待っているのだ……
【シュザンヌ】 〔笑いながら壜を返して〕壜にかこつけませんでも、お話ができましたのにねえ?
【伯爵】 〔彼女を抱こうとして〕なんとかわいいやつだろう!
【シュザンヌ】 〔すり抜けて〕誰かまいりますよ。
【伯爵】 〔傍白で〕もうわしのものだ。〔伯爵は逃げる〕
【シュザンヌ】 さあ、いそいで奥様に言いつけて来よう。
第十場
〔シュザンヌ、フィガロ〕
【フィガロ】 シュザンヌ、シュザンヌ! 殿様とお別れして、大急ぎでどこへ駆けつけるんだい?
【シュザンヌ】 お前さんは、せいぜい、訴訟の方をうまくやるんだよ。その方はもう勝ったようなものだよ。〔彼女は逃げてゆく〕
【フィガロ】 〔女の後を追って〕そうか! だが、ちょっと用が……
第十一場
【伯爵】 〔ひとり戻ってきて〕訴訟は勝ったようなものだと! わしはあぶなくだまされるところだった! 不届きなやつらだ! 罰を食わせてやるぞ……見事な、正しい判決でな……しかし、もし、あいつが老女に借金を払ったら……が、どの金で? だが、万一払ったら……ええい! こちらにはきかぬ気のアントニオがついている、あの頼もしい強情なら、フィガロを自分の姪《めい》の夫とは認めまい? あの癖をおだててな……なにが悪かろう? 存分に術策を使う場合には何事も準備が肝要だ、愚直なやつのうぬぼれさえもな。〔彼を呼ばわる〕アント……〔彼は去る。彼はマルスリーヌ、その他の者が来るのを見る〕
第十二場
〔バルトロ、マルスリーヌ、ブリドワゾン〕
【マルスリーヌ】 〔ブリドワゾンに〕まあ、先生、わたしの事件をおきき下さいまし。
【ブリドワゾン】 〔法服を着ている、すこしどもりながら〕しからば! こ、こ、口頭で、お、お話ししましょう。
【バルトロ】 婚姻の契約なのですがな。
【マルスリーヌ】 それに借金の件もくっついておりますので。
【ブリドワゾン】 い、いかにも、その他、あれや、これやな。
【マルスリーヌ】 いいえ、先生、あれやこれやはございません。
【ブリドワゾン】 い、いかにも、で、あなたは返済の金子はご、御所持なのじゃな。
【マルスリーヌ】 いいえ、先生、わたしがお金を貸した方で。
【ブリドワゾン】 い、い、いかにも、で、その金子の督促をなさるのじゃな?
【マルスリーヌ】 いいえ、先生、相手に結婚を申し込みますので。
【ブリドワゾン】 ははあ! なるほど、い、い、いかにも、い、いかにも。そこで、相手も結婚を望んでいるのじゃな?
【マルスリーヌ】 いいえ、先生、そこが訴訟なのでございますよ!
【ブリドワゾン】 それがしがそのくらいのことをわからんとお思いか、そ、訴訟を?
【マルスリーヌ】 そんなことは、先生。〔バルトロに〕なにがなんだかわかりませんね? 〔ブリドワゾンに〕ほんとに! 先生が裁判をなさるのでございますか?
【ブリドワゾン】 他の仕事をするために、こ、この職業を買ったと、お、お思いかね?
【マルスリーヌ】 〔溜息をついて〕そういう職務が売買《うりかい》されるとは、ひどいこと!
【ブリドワゾン】 さようさ、それはただで職業に、あ、ありつけた方が、よ、よろしいな。で、訴訟の相手方は誰じゃね?
第十三場
〔バルトロ、マルスリーヌ、ブリドワゾン、フィガロ(彼はもみ手をしながら、いそいそと入って来る)〕
【マルスリーヌ】 〔フィガロを指して〕先生、この悪党が相手でございますよ。
【フィガロ】 〔すこぶる上機嫌で、マルスリーヌに〕どうやらこのおれが気に入らないんだな――判事様、殿様も、もうじきにおいでになりますよ。
【ブリドワゾン】 わしはこの、お、お、男にどこかで会ったことがある。
【フィガロ】 セヴィラで、お宅の奧様に御奉公いたしておりましたよ。
【ブリドワゾン】 い、い、いつ頃だね?
【フィガロ】 末の坊っちゃんがお生れになる、ざっと一年ばかり前で、かわいい赤ちゃんでね、わたしはあの赤ちゃんが自慢だったんでさあ。
【ブリドワゾン】 いやまったく、あれが一番、よ、よ、よい児でした。ところで、お、お前さんはこちらで家《うち》を持つのだそうだな?
【フィガロ】 おことばで恐れ入ります。みじめな話でござんすよ。
【ブリドワゾン】 婚姻の、や、約束だろう! いや、はや! き、気がきかぬ男だ。
【フィガロ】 いや、どうも……
【ブリドワゾン】 して、お前さんはわしの秘書に会ったかね?
【フィガロ】 あの、書記のドゥウブル・マンでござんしょう?
【ブリドワゾン】 秘書と書記の掛持ちで食っているのでな。
【フィガロ】 食ってるどころか、食いあらしておりまさあ。そりゃ、もう! あの男に会って、とにかく、仕来たりの戸籍抄本や抄本の付録のことで話しましたよ。
【ブリドワゾン】 形式は、と、ととのえねばならぬからな。
【フィガロ】 そりゃ、そのとおりで。訴訟の内容《なかみ》が訴訟人のものなら、訴訟の形式は裁判所の飯の種でござんすからね。
【ブリドワゾン】 どうもこのお、お、男は始めに思ったほどあ、あ、阿呆でもないわい。そこでじゃ、お前さんがなかなか≪ものわかり≫がよいから、わ、わ、わしらもせいぜい面倒をみましょう。
【フィガロ】 ねえ先生、たとえあなたがこのいかさま国の裁判官ではござんしょうとも、わたしはあなたの公正な御判断におまかせしますよ。
【ブリドワゾン】 なんじゃ?……そりゃ、わしは、さ、さ、裁判官じゃ。ところで、もしお前が金を借りているのなら、な、な、なぜ払わんのじゃね?
【フィガロ】 ところが、先生はわたしが借りなかったように思って下さる。
【ブリドワゾン】 いや、ご、ごもっとも――ええ、な、なに? この男は、な、何を言ってるのかな?
第十四場
〔バルトロ、マルスリーヌ、伯爵、ブリドワゾン、フィガロ、廷丁《ていてい》一人〕
【廷丁】 〔伯爵を案内して、叫ぶ〕伯爵閣下の御出廷!
【伯爵】 ブリドワゾン殿、法服でおいで下さったか! 至極内輪の事件でな、よそゆきの服装《なり》では恐縮する。
【ブリドワゾン】 おことばで、い、い、痛み入ります、閣下。法服を着けずには決して、が、が、外出、い、いたしません。何事も、け、け、形式でございますからな、御承知でもござろうが、け、け、形式でな! 平服の判事を笑うやつでも、法服の検事を一目みればふるえあがるものでな。け、形式、け、形式ですぞ!
【伯爵】 〔廷丁に〕傍聴人を入れてよろしい。
【廷丁】 〔金切り声をあげて扉を開きにゆく〕開廷いたしまああす。
第十五場
〔前場の人々、アントニオ、邸の家臣ども、晴着を着た百姓の男女、大型の椅子に坐す伯爵、側面の椅子にはブリドワゾン、テーブルのうしろの腰掛には書記、他の判事や弁護士の面々はベンチに、マルスリーヌはバルトロの傍に、フィガロは別のベンチに、百姓や家臣どもは後列に立っている〕
【ブリドワゾン】 〔書記ドゥウブル・マンに〕ドゥウブル・マン、訴訟の趣旨を読み上げて。
【ドゥウブル・マン】 〔書類を読み上げる〕≪貴く、いや貴き、かぎりなく貴き、貴族にしてかつロス・アルトスならびに、フィエロス山地ならびに他の山地の男爵、ドン・ペドロ・ジョルジュの若き劇作者アロンゾ・カルデロンに対する訴訟。駄作喜劇に関して、当事者互いに著作権を否認して相手方に当該権利を転嫁せんとする件。≫
【伯爵】 双方に理由がある。裁判におよばず。よろしく両人力をあわせて、他の一作を著わし、貴族は名を貸し、詩人は才能を振《ふる》って、上流社会をして真価を認めしむるようにはかるがよい。
【ドゥウブル・マン】 〔他の書類を読み上げる〕≪農夫アンドレ・ペトリュッチオの当県収税吏に対する訴訟。違法強制取立てに関する件≫
【伯爵】 その事件はわしの管轄ではない。わしはでき得る限り、国王のために家臣を保護するをもって任としたい。その次。
【ドゥウブル・マン】 〔第三の書類を取上げる。バルトロとフィガロが起立する〕≪颯爽たる成年未婚女子バルブ・アガアル・ラアブ・マドレエヌ・ニコオル・マルスリーヌの、〔マルスリーヌは起立して一礼する〕フィガロ……に対する訴訟。洗礼の名は空白であります。≫
【フィガロ】 名無しの権兵衛。
【ブリドワゾン】 名無しの権現! そ、そのような氏神があるかな?
【フィガロ】 それがわたしの氏神でござい。
【ドゥウブル・マン】 名無しの権現フィガロに対する訴訟。身分は?
【フィガロ】 貴族。
【伯爵】 お前が貴族?〔書記は書きとめる〕
【フィガロ】 そりゃ神様の思召し次第では王侯の嫡流となったかも知れません。
【伯爵】 〔書記に〕続きを読んで。
【廷丁】 〔金切り声で〕お静かに願いまああす!
【ドゥウブル・マン】 〔読む〕≪……前掲颯爽婦人によって、当該フィガロの結婚に対し、異議の申し立てをなすことを目的とする件。国手バルトロは原告たる婦人のために弁護し、しかして当該フィガロは、もし法廷の許可あらば、本裁判所判例の慣習に反するも、フィガロみずから弁護するものとす。≫
【フィガロ】 ドゥウブル・マン先生に申し上げますが、慣習というものは往々濫用されるのです。目前《めさき》の見える訴訟当事者はなまなかな弁護士たちよりも自分の事件をはっきりと心得ていますよ。弁護士たちは、冷汗をかいて、どなりたてて、物しりの癖に事件そのものは御存じなく、訴訟人が訴訟に負けようが、傍聴人があくびをしようが、裁判官諸公を眠らせようが馬耳東風なのです。しかも、後ではキケロの『ムレナ弁護』でも作成したようにふくれあがってね。わたしなら至極手みじかに事件を話せますがね。さて、皆様……
【ドゥウブル・マン】 それが無用の冗説ですぞ、あなたは原告ではないから、ただ答弁なさるだけです。バルトロ国手、前へお出になって、契約書をお読み下さい。
【フィガロ】 なるほど、契約書か!
【バルトロ】 〔眼鏡をかけて〕契約書は正確じゃ。
【ブリドワゾン】 と、と、とにかく、お読みなさい。〔聴衆笑う〕
【ドゥウブル・マン】 お静かに、皆さん!
【廷丁】 〔金切り声で〕お静かに願いまああす!
【バルトロ】 〔読む〕≪小生は署名して、姓名中略……颯爽たるマルスリーヌより、当アグアス・フレスカスの邸において正金二千ピアストルの金額を受領したる事を認め侯、しかも該金額は請求あり次第、当邸において返済し、しかのみならず、感謝の標式《しるし》として彼女と結婚仕るべく侯、云々。単にフィガロと署名。≫そこで、わたしの結論は、金子の支払いと、訴訟費用をふくむ婚姻契約の履行ということになるのです。〔弁論を始める〕さて、みなさん……かくのごとき興味津々たる事件は未だかつて法廷の裁判にかけられたことはございません。しかして、かの歴山大王が佳人タレストリスと婚姻の約を締結してよりこのかた……
【伯爵】 〔バルトロの言をさえぎって〕弁護人はなにもそれほど昔にさかのぼらずとも、証書が有効であることは認めるのだね?
【ブリドワゾン】 〔フィガロに〕な、な、なにか……今の朗読に、ふ、ふ、不服がありますかね?
【フィガロ】 皆さん、今の文書の読み方には、悪意があり、錯誤か手落ちがあります。なぜならその書類には、「当該金額を彼女に返済仕るべく、≪しかのみならず≫、彼女と結婚仕るべく候」とは言っていないので、「当該金額を彼女に返済仕るべく、≪しからずんば≫、彼女と結婚仕るべく候」とあるのです。それは大きな違いですよ。
【伯爵】 書面には、≪しかのみならず≫とあるのか、それとも、≪しからずんば≫か?
【バルトロ】 ≪しかのみならず≫とございます。
【フィガロ】 ≪しからずんば≫でございますよ。
【ブリドワゾン】 ドゥウブル・マン、貴公自身で、よ、読んでみるがよい。
【ドゥウブル・マン】 〔書類を手にとって〕それが最も確かで。当事者は時々、読みながら、ごまかしますからな。〔読む〕え、え、えと、≪颯爽、え、え、えと、嬢え、え、えと、あっ! これこれ! 当該金額を請求あり次第、彼女に当邸において、返済仕るべく……しかのみならず……しからずんば……しかのみならず……しからずんば……≫、どうも、文字の書き方が悪いので……インキの染《しみ》ですかな?
【ブリドワゾン】 染《しみ》がある? わしには、わ、わかっとる。
【バルトロ】 〔弁論を続けて〕わたしは主張します、それは結合的接続詞≪しかのみならず≫でありまして、文句の相関的各部分を連絡するものであります。≪令嬢に返済仕るべく、しかのみならず、彼女と結婚仕るべく候≫であります。
【フィガロ】 〔弁論して〕わたしも主張いたしますよ。それは問題の相関的各部分を分離する択一的接続詞≪しからずんば≫です、≪娘御に返済仕るべく、しからずんば、彼女と結婚仕るべく侯≫なのです。物識面《ものしりづら》には物識面以上で向いますよ。そちらがラテン語を話すなら、こちらはギリシャ語で相手になって、退治してしまうんでさあ。
【伯爵】 こういう問題はどう裁いたものかな?
【バルトロ】 しからば、皆さん、一刀両断して、ただの一字のことで冗言をついやすのはやめましょう、そこで、≪しからずんば≫としておきましょう。
【フィガロ】 書式に願いますよ。
【バルトロ】 そう致すことにしよう。こんな悪辣な遁辞は悪人を救うものではない。では、そういう意味で書面を一応しらべましょう。〔読む〕≪当該金額を彼女に返済仕るべく、然る所にて、彼女と結婚仕るべく候≫こういう意味でしょう、皆さん≪この寝台にて出血療法をなさるべく、然る所にて、あたたかくおやすみなさるべく候≫その場所において、です。≪大黄《だいおう》の二柆を服用せらるべく、然る所に少量の羅望子《らぼうし》を加えらるべく候≫つまり、≪当邸、然る所にて彼女と結婚仕るべく候≫皆さん、正に、≪当邸、然る場所において……≫ですぞ。
【フィガロ】 とんでもないことです。書面の文句はこういう意味ですよ、≪あなたを殺すものは病であろう、しからずんば医者であろう≫さにあらずんば医者なるべし。疑いありません。別の例なら、≪あなたが面白いものを書けなければ、阿呆もあなたをけなすだろう≫しからずんば阿呆もまたです、意味は明瞭です。なぜなら、その場合には、へぼ作者か、しからずんば阿呆か、が支配的な名詞なのです。バルトロ先生はわたしが文章法を忘れたとでも思っておられるのですかね? それ故、≪当邸において彼女に返済仕るべく、[コンマ]然らずんば、彼女と結婚仕るべく……≫
【バルトロ】 〔急いで〕[コンマ]はありません。
【フィガロ】 〔急いで〕[コンマ]があるのです。皆さん[コンマ]があって、その後が、≪左にあらずんば、彼女と結婚仕るべく候≫
【バルトロ】 〔書面を見ながら急いで〕[コンマ]はありませんぞ、皆さん。
【フィガロ】 それは、あったのですよ、皆さん。とにもかくにも、結婚した上に借金を払う奴がありますか?
【バルトロ】 〔急いで〕そうとも、われわれは結婚しても会計は別々じゃ。
【フィガロ】 〔急いで〕結婚が借金払いにならなければ、わたしたちは別居しますよ。〔裁判官たちは立ちあがって、低声《こごえ》に話し合う〕
【バルトロ】 おかしな借金払いだな!
【ドゥウブル・マン】 お静かに、皆さん。
【廷丁】 〔金切り声で〕お静かに願いまああす。
【バルトロ】 この悪童にしてこの借金払いあり。
【フィガロ】 あなたは自分自身の訴訟で弁論しておいでですかね?
【バルトロ】 わしはこの女《ひと》を弁護しているのさ。
【フィガロ】 でたらめをならべるのも結構ですが、中傷はいいかげんに願いましょう。訴訟当事者の激昂《げっこう》を慮《おもんぱ》って、裁判所が第三者を頼むのを許したのは、なにも穏当な弁護人が勝手にずぶとい特権者になるのを承知したわけではありませんぜ。そういうのは、最も貴い制度を堕落させることです。〔裁判官たちは、低声で話しつづけている〕
【アントニオ】 〔裁判官たちを指しながら、マルスリーヌに〕あの人たちはなにをぶつくさ言ってるんだね?
【マルスリーヌ】 誰かが大法官を買収すると、大法官がまた他の判官を買収するのさ、だから、わたしの訴訟は負けだよ。
【バルトロ】 〔低声で、陰気な調子で〕なんだか、心配になって来たわい。
【フィガロ】 〔陽気に〕しっかり、マルスリーヌ!
【ドゥウブル・マン】 〔立ちあがって、マルスリーヌに〕これは! 聞きずてできません! わしはあなたを告発する、しかも、裁判所の名誉のために、他の事件をただす前に、あなたの失言の判決が下されねばなりませんぞ!
【伯爵】 〔腰かけたまま〕いや、書記に言っておくが、わしは自分個人に対する中傷については発言せぬ、いやしくもエスパニヤの法官たる者はアジアの法廷にふさわしい越権をおかしてはなるまい、問題外の弊害はあずかっておこう。わしの判決の理由をのべて、フィガロの事件を裁定しよう、この事をこばむいかなる法官も法の大敵であるぞ。原告たる婦人は、そもそも何を請求するのかね? 借金の支払いなきゆえの結婚ではないか? その二つは両立しうるだろう。
【ドゥウブル・マン】 お静かに、皆さん。
【廷丁】 〔金切り声で〕お静かに願いまああす!
【伯爵】 被告の答えは? 今までどおりの身分を保有したければ、それは許される。
【フィガロ】 〔よろこんで〕勝ちだ!
【伯爵】 しかし、本文には、≪当該金額を、彼女の請求あり次第、返済仕るべく、しからずんば、結婚仕るべく候云々……≫当法廷は、原告たる婦人に対し、被告が現金二千ピアストルを支払うべきことを申し渡し、もし支払わざれば、今日中に結婚すべきである。〔伯爵は立ちあがる〕
【フィガロ】 〔愕然として〕負けだ。
【アントニオ】 〔欣然《きんぜん》として〕立派なお裁きでござんしょうな?
【フィガロ】 なにが立派だ?
【アントニオ】 もうお前なんかおれの甥にならずにすむからさ。御前様、ありがとうございます。
【廷丁】 〔金切り声で〕御退出を願いまああす。
〔聴衆退出〕
【アントニオ】 さあ、シュザンヌにすっかり、話してやろう。〔退出〕
第十六場
〔伯爵(そちこち歩きながら)、マルスリーヌ、バルトロ、フィガロ、ブリドワゾン〕
【マルスリーヌ】 〔腰をかけて〕やれ、やれ! これで、ほっとした!
【フィガロ】 こっちは息がとまらあ。
【伯爵】 〔傍白で〕とにかく、敵《かたき》は討った。いい心持ちだ。
【フィガロ】 〔傍白で〕バジルがいれば、マルスリーヌの結婚には反対したにちがいないのだがなあ、何をしていやがるんだろう、あいつめ!――〔去ろうとする伯爵に〕殿様、もうお引きあげでござんすか?
【伯爵】 裁判はすんだからな。
【フィガロ】 〔ブリドワゾンに〕それも、これもこのだんぶくろの裁判官が……
【ブリドワゾン】 わしが、だ、だ、だん袋!
【フィガロ】 そんなところでさあ。わたしはあんな女と夫婦になるもんか、これでも、貴族ですからね。〔伯爵は立ちどまる〕
【バルトロ】 夫婦になるのさ。
【フィガロ】 歴とした両親の承諾がなくとも?
【バルトロ】 両親の名を言うがいい、会いたいものだ。
【フィガロ】 すこし待ってもらいましょう、もうじきにめぐりあうことになってるんです、十五年もたずねているんですからね。
【バルトロ】 おめでたいやつじゃ! 捨児《すてご》のくせに!
【フィガロ】 行方不明の児ですぜ、先生、人さらいにさらわれた児なんですよ。
【伯爵】 〔戻って来て〕さらわれた? 行方不明? その証拠は? そうでないとでもわしらが言ったようにどなるなあ。
【フィガロ】 ねえ、殿様、わたしの身についたひだかざりの産衣《うぶぎ》や縫取りのある敷物や金細工が悪漢《わるもの》の手に渡ったからには、わたしのいやしからぬ生れもおわかりでございましょう。それに、わたしの≪からだ≫にはっきりとしたしるしを付けておいてくれた心づかいは、わたしが貴重な児だったことの証拠じゃござんせんか、どうです、この腕の綾文字《あやもじ》は……〔彼は右の腕をまくろうとする〕
【マルスリーヌ】 〔勢いよく立ちあがって〕右腕の刀《メス》の痕?
【フィガロ】 その痕のあるのをまたどうして知って?
【マルスリーヌ】 まああ! あの子だ!
【フィガロ】 ええ、わたしはわたしですがね。
【バルトロ】 〔マルスリーヌに〕あの子とは! 誰のことだ?
【マルスリーヌ】 〔勢いよく〕エンマニュエルですよ。
【バルトロ】 〔フィガロに〕お前はならず者にさらわれたのか?
【フィガロ】 〔興奮して〕お城のすぐ傍です。ねえ先生、このわたしを貴族のわが家に連れ帰って下されば、その御尽力には、どんなお礼でもね、黄金の山でも歴とした両親は惜しみますまいよ。
【バルトロ】 〔マルスリーヌを指して〕これがお前の母親だ。
【フィガロ】 ……乳母《うば》でしょう?
【バルトロ】 生みの母だ
【伯爵】 これのお袋か!
【フィガロ】 わけを言って下さいよ。
【マルスリーヌ】 〔バルトロを指して〕これが父親《てておや》だよ。
【フィガロ】 〔情けなくなって〕うわああ! 目も当てられねえ!
【マルスリーヌ】 親子だもの、幾度も幾度も虫が知らせたろう?
【フィガロ】 どういたしまして。
【伯爵】 〔傍白で〕母親か!
【ブリドワゾン】 こ、これでは当然、結婚はできませんわい
【バルトロ】 わしも結婚は御免こうむる。
【マルスリーヌ】 あなたまでも? ではこの子をどうなさるおつもり? お約束がありますよ……
【バルトロ】 わしが阿呆だったのさ。そんな思い出にこだわっていたら、誰とでも夫婦にならずばなるまい。
【ブリドワゾン】 そ、それは、よくよく相手を調べてみれば、だ、誰でも、だ、誰とも、結婚は、で、できませぬ。
【バルトロ】 誰知らぬ者のないあやまちだらけの女とはな! 若い時分にも身持ちはよくなかった女だからな。
【マルスリーヌ】 〔ようやく興奮して〕そりゃ、もう、不身持ちは御想像以上でね! かずかずのあやまちもいまさら隠そうとは思いません、今日こそ、そのいいみせしめです! それにしても、三十年の、面白くもない生涯の末に罪ほろぼしをするなんて、あまりつろうございますよ! わたしだって、恥かしからぬ女になるつもりで生れついていましたし、すこしは物の道理がわかるようになってからは、まじめにもなりました。それでも、ぼうっとなる年頃には、経験もたらず、暮らしも貧しく、不如意にさいなまれる間も誘惑《いざな》う男たちにつけまわされ、かぼそい女の身で、むらがる狼にどうして立ち向かえましょう? いま、わたしたちをきびしく裁く殿方はたぶん今までに大勢の女を堕落させたことでしょうよ!
【フィガロ】 罪の深いやつらにかぎって、因業なものさ、それがおきまりですよ。
【マルスリーヌ】 虫のよすぎる殿方に申し上げます、情け容赦もなく、女たちを情欲のおもちゃにしたり、いけにえにしたり、ひどい目にお会わせになる殿方様! 若い女どものあやまちはあなたがたの罪でございますよ。あなたがたや判官がたこそ、いい気になって女どもを裁いて、とんでもない疎漏《そろう》から、わたしたちのくらしの正しい手段《てだて》さえお取上げになるのです。あわれな女どもにたった一つの職業でもございますか? 女の化粧は、女の生れながらの資格なのに、男の職人たちが寄ってたかって、女の仕事をいたしておりますよ。
【フィガロ】 〔憤慨して〕兵隊にまで縫取りをさせやがる!
【マルスリーヌ】 〔興奮して〕上流社会にしたところで、男から女へはお粗末なお志だけです、うわべのうやうやしさに釣られても、実は奴隷のありさまで、財産については未成者《こども》扱い、あやまちについては成年者《おとな》扱い! ほんとに! どこから見ても、殿方の女扱いは恐ろしいやら情けないやら!
【フィガロ】 もっともだ!
【伯爵】 〔傍白で〕ごもっともすぎる!
【ブリドワゾン】 いやはや、ご、ごもっとも。
【マルスリーヌ】 ねえ、倅《せがれ》や、〔バルトロを指して〕こんなろくでなしに袖にされたとて、それがなんだろう? 元来た道をふりかえらずに、ゆく手を眺めることだよ、それだけがかんじんだよ。二《ふた》月か三《み》月もすれば、お前の許嫁は自由の身になるし、わたしが請合ってお前の言うことをきかせるからね。女房とやさしい母親から存分かわいがられて暮らすんだよ。わたしたちには親切にして、お前はしあわせになっておくれ、ねえお前、陽気で、こだわらずに、誰でもあたたかい気持ちになってくれれば、それでわたしは何不足もないよ。
【フィガロ】 お母《っか》さん、ありがたいことを言って下さる、御意見しかと身に付けます。人間て奴はおめでたいもんだ! 地球は何千年となく、ぐるぐる廻って、その歳月《としつき》の大海原に、なんの因果か、二度とは帰って来ないみじめな三十年をさずかったが、それを誰からさずかったかを思い悩んで、もっと苦しむところでしたよ! そんなことでくよくよしても始まらない。喧嘩口論で暮らすのは、たえず首枷の重みをますようなもので、まるで牽船《ひきぶね》の馬でさあ、とまる時でも休まずに、歩かないでも引っぱりつづけるんですからね。なにはともあれ待つことです。
【伯爵】 馬鹿らしい事件が邪魔だ!
【ブリドワゾン】 〔フィガロに〕と、ところで、例の貴族やお邸は、ど、どうした? お前さんは法律に、そ、そむいたな。
【フィガロ】 その法律こそ、わたしにとんでもない真似をさせるところだったんですぜ、その法律が! しゃくの種の百エキュのために幾度もこの老人を危くやっつけそうになったが、それが今じゃわたしの父親《てておや》だ! だがね、わたしの徳義が天から救われた以上、ねえお父っつあん、重々お詫びを申し上げますよ……それからお母《っか》さん、接吻して下さいよ、……母親としてこれ以上はないというほど、〔マルスリーヌはフィガロの首に飛びつく〕
第十七場
〔バルトロ、フィガロ、マルスリーヌ、ブリドワゾン、シュザンヌ、アントニオ、伯爵〕
【シュザンヌ】 〔財布を手に持って駆けつける〕殿様、おとめ下さいまし、その人たちが一緒になりませんように、奥様からいただいたお嫁資《かね》をこの女《ひと》に払いにまいりました。
【伯爵】 〔傍白で〕けしからん女房だ! 何事もわしには不利だ……〔去る〕
第十八場
〔バルトロ、アントニオ、シュザンヌ、フィガロ、マルスリーヌ、ブリドワゾン〕
【アントニオ】 〔フィガロが母親と抱擁しているのを見て、シュザンヌに言う〕ああ! そうかい、払うのかい! まあ、ごらんよ。
【シュザンヌ】 〔くるりと背を向けて〕見たとも、帰ろう伯父さん。
【フィガロ】 〔シュザンヌを引きとめて〕頼む、帰らないでおくれ、見たって、なにをさ?
【シュザンヌ】 わたしのおめでたさとお前のだらしなさをさ。
【フィガロ】 どっちも眼鏡《めがね》ちがいだ。
【シュザンヌ】 勝手に一緒になるがいいや、撫でたりさすったり。
【フィガロ】 〔陽気に〕撫でもさすりもしようが、一緒にゃならねえ。〔シュザンヌが去ろうとするのをフィガロが引きとめる〕
【シュザンヌ】 〔フィガロの横面を張りとばして〕よくもずうずうしく引きとめられるね!
【フィガロ】 〔一同に向かって〕恋とはこんなもんでござい! 去《い》く前に、頼むから、このなつかしい女《ひと》をようくみてくれ。
【シュザンヌ】 拝見しているよ。
【フィガロ】 どう思う?……
【シュザンヌ】 ひどい御面相だこと。
【フィガロ】 その悋気《りんき》がうれしいぞ! この娘はあんたでも容赦しませんや。
【マルスリーヌ】 〔両手をひろげて〕お母《っか》さんに抱きついておくれ、かわいいシュザネット、お前にからかう憎い男はわたしの倅なんだよ。
【シュザンヌ】 〔マルスリーヌの方へ駆け寄って〕あなたが、この人のお母さん!〔二人は互いにしばらく抱擁している〕
【アントニオ】 親子の出来たてか?
【フィガロ】 知れたことだ。
【マルスリーヌ】 〔興奮して〕やっぱり、この子にひかれたのは、ほんの勘ちがいで、母子《おやこ》の血筋が物を言ったのだねえ。
【フィガロ】 わたしの方でお思召しをはねつけたのは、ねえ、お母さん、分別が本能の代りに物を言ったんですよ。お母さんをきらうどころか、懐かしいからこそお金も借りたんで……
【マルスリーヌ】 〔フィガロに書類を渡して〕これはお前のものだよ。さあ証文をおさめておくれ、お祝言のお嫁資《かね》だよ。
【シュザンヌ】 〔フィガロに財布を投げてやって〕ついでにこれも取っといておくれ。
【フィガロ】 ありがたい。
【マルスリーヌ】 〔ますます興奮して〕ふしあわせな独り身になって、あやうく目も当てられない女となるところを、今じゃ、世界一果報な母親になったよ。さあ、抱きついておくれ、二人とも、勢いっぱい可愛がってあげるよ。こんなうれしいことはない、ああ! どんなに二人を可愛がることやら!
【フィガロ】 〔ほろりとして、勢いよく〕もうよして、お母さん! よして下さいよ! 生れて初めての涙に濡れたこの目がとけてなくなっちまうのが見たいんですか? だが、こりゃうれし涙ですぜ。それにしても、なんという馬鹿らしいこった! あぶなく赤恥をかくところでしたよ。ごらんなさい、両手にまで涙が流れているような気がしまさあ。〔両手を開いて見せて〕この冷汗の涙を馬鹿正直にも、握りつぶしていたんだ! こんな恥は消えてなくなれい! わたしはいちどきに笑いたくって、泣きたいんだ、こんな心持は二度たあ味わえませんよ。〔彼は一方には母親を、他方にはシュザンヌを抱く〕
【マルスリーヌ】 お前ばかりが!
【シュザンヌ】 お前さんばかりだよ!
【ブリドワゾン】 〔ハンケチで目を拭きながら〕いや、まったく! わ、わしまで、お、おめでたいかな?
【フィガロ】 〔興奮して〕どんな苦労でも、もう物ともしねえぞ! 万が一、この二人の大切な女を傷つける気なら、おれが相手になってやるぞ。
【アントニオ】 〔フィガロに〕ごてごてと、ぬかすなよ、頼むぜ。家と家との間の縁組じゃあ、両親《ふたおや》の承知が先だからな。お前さんにゃ、ちゃんとした両親《ふたおや》があるのかね?
【バルトロ】 わしが承知するって! こんな変り者のお袋の手を握るぐらいなら、手なんか、ひからびて落ちてしまった方がいいわい!
【アントニオ】 〔バルトロに〕それじゃ、あんまり邪慳なおやじじゃないかな?〔フィガロに〕そうなれば、ねえ色男、お話はおしまいだぜ。
【シュザンヌ】 まあ! 伯父さん……
【アントニオ】 誰の子供でもない奴に、わしの妹の娘がやれるものかね?
【ブリドワゾン】 だ、誰の子供でないやつが、あ、あるものか? 馬鹿め、誰でも、い、いずれ、だ、誰かの、こ、子供じゃよ。
【アントニオ】 馬鹿らしい!……こんな男にわしの姪がやれるものか。
第十九場
〔バルトロ、シュザンヌ、フィガロ、マルスリーヌ、ブリドワゾン〕
【バルトロ】 〔フィガロに〕それでは、これから、お前を養子にする親をさがしにいくんだね。〔去ろうとする〕
【マルスリーヌ】 〔駆けて、バルトロを抱くようにして連れ戻して〕待って下さい、先生、帰っちゃいけませんよ。
【フィガロ】 〔傍白で〕いけねえ、アンダルシアの馬鹿野郎どもは、総攻撃でおれの祝言の邪魔をしやがるな。
【シュザンヌ】 〔バルトロに〕お父さん、あなたの倅ですよ。
【マルスリーヌ】 〔バルトロに〕知恵と言い、腕と言い、顔立ちと言い、そっくり。
【フィガロ】 一文も御迷惑かけなかった倅でさあ。
【バルトロ】 で、あの百エキュの着服は?
【マルスリーヌ】 〔バルトロを愛撫しながら〕皆でせいぜいやさしくして上げますよ、父さん!
【シュザンヌ】 〔バルトロを愛撫しながら〕皆で、せいぜい可愛がって上げますよ、お父ちゃん!
【バルトロ】 〔ほろりとなって〕父さん! お父さん! お父ちゃん! これじゃわしの方がこの先生よりおめでたいわい。〔ブリドワゾンを指して〕まるで子供のように意気地がない。〔マルスリーヌとシュザンヌは彼を抱擁する〕いやいや! わしはまだ≪うん!≫とは言わぬぞ。〔振りかえって〕はて、殿様はどうなされたのだろう?
【フィガロ】 さあ、皆の衆、殿様のところへいそごう。そうして、ぎりぎりの御返答を伺おう。またなにか、からくりをおやりになると、始めからやり直しになるからなあ。
【一同】 さあ大急ぎ、大急ぎ。〔一同、バルトロを連れ出す〕
第二十場
【ブリドワゾン】 〔ひとり〕この先生よりも、お、おめでたい! そ、そんなことは、こ、こっそり言うことじゃ、いやはや……、こ、ここでは、ど、どいつも、こ、こいつも、れ、礼儀をわきまえぬなあ。〔去場〕
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第四幕
〔舞台は広間となり、飾り燭台、釣り灯《あかり》台はともされ、花や花輪に飾られ、祝事がおこなわれるばかりになっている。前面右手には文具をそなえたテーブル、その後には椅子〕
第一場
〔フィガロ、シュザンヌ〕
【フィガロ】 〔シュザンヌを抱きしめて〕どうだい! かわいいやつめ、うれしいか? お袋のなんとも言えないいい言葉で、さすがのお医者さんも改心したぜ! お医者さんもいやいやながらお袋をもらうし、お前の頑固伯父さんもとりしずめられたんだ、おむずかりあそばすのは殿様ばかりだ、それもその筈だ、おれたちの祝言はあちら様の御祝言の御褒美だからな。この上首尾でちったあ笑ってくれねえか。
【シュザンヌ】 なんだか様子が変だと思わなかったかい?
【フィガロ】 こんな面白いこともないと思った。おれたちは殿様からお嫁資《かね》をまきあげようと思っていたが、そこからは流れ出ないお嫁資《かね》が二口も手にはいった。お前は執念ぶかい恋敵につけねらわれていたが、その性悪婆にこのおれが悩まされてもいたんだ、それががらりと引っくり返って、おれたちのためには世にもやさしい母親になったんだぜ。昨日《きのう》までは、おれは、世の中に、たったひとりぼっちだったが、今じゃ両親《ふたおや》がそろっちまった。おれが勝手に位をつけたほど立派な代物でもないが、金持の見栄を持っていないおれたちには、まずまず結構な両親だ。
【シュザンヌ】 だが、お前が仕組んで、二人で楽しみにしていたことはまだどうにもならないじゃないか!
【フィガロ】 運というやつがおれたち以上に働いてくれたじゃないか。世の中はとかくこうしたもんだ、こっちはこっちで、働いて、もくろんで、お膳立をすると、うまいめぐりあわせが向うから仕上げてくれる。世界を一飲みにしようとする意地のきたねえ野郎から飼犬にひかれるおとなしい盲目《めくら》にいたるまで、どいつもこいつも運命のおもちゃだ。それにしても、取巻き沢山の豪勢な盲目《めくら》よりも犬にひかれる盲目の方が、よっぽど路もたしかで、見当も間違えねえや。――恋というかわいい盲目《めくら》のためならなあ……〔フィガロはさらにやさしくシュザンヌを抱く〕
【シュザンヌ】 ほんとに! それだけが身にしみるよ!
【フィガロ】 だからさ、おれは犬になって、恋の奴《やっこ》の座頭《ざとう》めをかわいい女の門口に連れて行って、そこで生涯暮らすのだ。
【シュザンヌ】 〔笑いながら〕惚れた女とお前とかい?
【フィガロ】 このおれと惚れた女だ。
【シュザンヌ】 よその住家《すみか》にゃ行かないね?
【フィガロ】 もしおれがそんな男だったら、百万人の色男がお前のとこに行ってもいい……
【シュザンヌ】 話が大げさだよ。本当のことをお言いよ。
【フィガロ】 本当も本当も一番本当のところだ!
【シュザンヌ】 いいかげんにおしよ、意地悪! 本当がそんなにたくさんあるのかい?
【フィガロ】 そりゃあ、あるとも! 時がたてば、乱痴気も分別くさくなったり、昔の些細な根もない嘘がとんでもねえ本当になったり、本当も色々さまざまだ。口には出さぬが心で知ってる本当もある、うっかりしゃべれない本当だ。本気にもならずに振りまわす本当もある、うっかり乗れない本当だ。それから、のぼせあがった恋の約束、母親《おふくろ》の小言《こごと》、酒飲みの誓言、お役人の宣言、商人の請合い、それからそれときりがねえや。ただシュゾンに惚れたおれの心こそ無垢《むく》の本当だ。
【シュザンヌ】 そのうれしさが狂いじみてて、気に入ったよ。ほんとに仕合せそうだよ。そこで、殿様とあいびきの相談だがね。
【フィガロ】 そんな話なら御免こうむろう、あぶなくシュザンヌをしてやられるところだったからな。
【シュザンヌ】 じゃあ、もう、あいびきは御免なんだね?
【フィガロ】 このおれを本当に好きなら、ねえシュゾン、そこん所をはっきり言ってくれよ、やっこさんなんか待ちくたびれるがいいや、それが刑罰だ。
【シュザンヌ】 あいびきをことわるよりも約束した苦しさの方がひどかったよ。それも、もうおしまいさ。
【フィガロ】 本当か?
【シュザンヌ】 わたしゃお前さんたちのような物しりじゃないからね! 本当はたった一つだよ。
【フィガロ】 じゃ、ちったあ惚れてくれたか?
【シュザンヌ】 たんとだよ。
【フィガロ】 それだけじゃ足りねえ。
【シュザンヌ】 どうしてさ?
【フィガロ】 好いた仲なら、ねえおい、過ぎてもまだ足りねえ。
【シュザンヌ】 そんなしゃれたことはわたしにゃわからないんだよ、好きなのは亭主ばかりさ。
【フィガロ】 その言葉を忘れるなよ、そうなら、世間にたった一つの別格だ。〔フィガロはシュザンヌに接吻しようとする〕
第二場
〔フィガロ、シュザンヌ、伯爵夫人〕
【夫人】 そうれ! だから言わないこっちゃない、どこへ行っても、二人が一緒にいないことはないんだからね。さあさあ、フィガロ、そんなに内緒話ばかりしていると、先の見込みがなくなって、祝言も、お前の身の上も台無しになるよ。皆がお前を今か今かと待ちかねているのよ。
【フィガロ】 いや、まったく、うっかりしておりました。これから行って、言いわけをしてまいりましょう。〔彼はシュザンヌを連れて行こうとする〕
【夫人】 〔シュザンヌを抑えて〕この女《ひと》はまたついてゆく。
第三場
〔シュザンヌ、伯爵夫人〕
【夫人】 着物をとりかえっこする支度はできているの?
【シュザンヌ】 もうその支度はいりませんでございます、奥様、例のあいびきもいたさなくなりましたし。
【夫人】 まあ! 意見が変ったの?
【シュザンヌ】 フィガロの意見が。
【夫人】 わたしをだましたのね。
【シュザンヌ】 とんでもない!
【夫人】 フィガロはお嫁資《かね》をのがすような男じゃないよ。
【シュザンヌ】 まあ、奥様! なにをお考えになってそんな?
【夫人】 結局、お前は伯爵と申し合わせたものだから、あいびきの計略をわたしに打ちあけたのを後悔しているのでしょう。お前の心もちはわかってるの。勝手におし。〔夫人は去ろうとする〕
【シュザンヌ】 〔ひざまずいて〕どうぞ奥様、おなさけを! わたしがどんなに苦しみますことかおわかりになりますまい! これほどおかわいがり下さいまして、お嫁資《かね》までもいただきしましたのに!……
【夫人】 〔シュザンヌを助けおこして〕まあ……わたしはなにを言ったのだろうね! お庭に行く役をわたしにゆずってくれたのだから、お前は行くにはおよばないのね、お前は夫との約束を守って、わたしが旦那様を取返すのを助けてくれるのね。
【シュザンヌ】 わたくしほんとに悲しゅうございましたわ!
【夫人】 わたしがかるはずみだったのよ。〔夫人はシュザンヌの額に接吻する〕それで、あいびきの場所はどこ?
【シュザンヌ】 〔夫人の手に接吻して〕ただ、お庭と伺いましただけで。
【夫人】 〔テーブルを指して〕あのペンをとってちょうだい、場所をきめておこうね。
【シュザンヌ】 わたしが旦那様にお手紙を!
【夫人】 書かなければね。
【シュザンヌ】 奥様! それだけは御自分で……
【夫人】 万事わたしが引受けてよ、〔シュザンヌは腰をかけて、夫人の言うことを書く〕≪今宵晴れなば、栗の木の、木《こ》の下闇《したやみ》は……今……宵晴れなば……≫
【シュザンヌ】 〔書く〕≪栗の……木の……木の下闇は……≫それから?
【夫人】 それだけで旦都様がおわかりにならないと思って?
【シュザンヌ】 〔読みかえして〕ほんに、そうでございますね。〔シュザンヌは書面をたたんで〕なんで封をいたしましょう?
【夫人】 留針《ピン》で、いそいでね! その留針《ピン》がお返事の代りになるの。裹に、≪封じ目の留針《ピン》をお返し下されたく≫と書いてね。
【シュザンヌ】 〔笑いながら書く〕ほんとに! 封じ目の留針《ピン》! これこそ辞令の封印よりよっぽど面白うございますね。
【夫人】 〔シェリュバンのことを思い出して悲しげに〕ああ、ほんとにね!
【シュザンヌ】 〔身のまわりをさがしながら〕今、留針《ピン》がございませんが!
【夫人】 〔上衣をぬいで〕この上衣の留針《ピン》をね。〔シェリュバンのリボンが胸から落ちる〕あっ! わたしのリボン!
【シュザンヌ】 〔リボンを拾って〕あのかわいい盗人のリボン! かわいそうに、お取返しになって……
【夫人】 あの児の腕にまいておいた方が? よかったね! じゃやっておくれ!
【シュザンヌ】 あの児の血のついたリボンなんぞ、奥様には向きませんでございましょう。
【夫人】 〔また取返して〕ファンシェットにはおあつらえ向きね……あの娘《こ》が花束を持って来次第、与《や》ろうよ……
第四場
〔羊飼の娘、小娘の装いをしたシェリュバン、ファンシェットならびに彼女と同じ服装の娘大勢、いずれも花束を持っている。伯爵夫人、シュザンヌ〕
【ファンシェット】 奥様、街の乙女たちが奥様に花をさしあげにまいりました。
【夫人】 〔いそいでリボンを握りしめて〕かわいい娘《ひと》たちだこと。皆を知らなくってもゆるしてちょうだいね。〔シェリュバンを指して〕その、おとなしそうな、可愛らしい娘《ひと》はだあれ?
【羊飼の娘】 わたくしの従妹《いとこ》でございます。今日のお祝いだけにまいりましたのでございます。
【夫人】 綺麗な娘《ひと》ね。一度に二十も花束は持てないから、遠くから来た娘《ひと》のをもらいましょうね。〔夫人はシェリュバンの花束を受取って、シェリュバンの額に接吻する〕ねえシュゾン……この娘《ひと》、誰かに似ているでしょう!
【シュザンヌ】 ほんとに、間違えるほど似て。
【シェリュバン】 〔傍白で、両手を胸に当てて〕ああ! この接吻が待ち遠しかった!
第五場
〔娘たち、その仲間にシェリュバンも交わる。ファンシェット、アントニオ、伯爵、伯爵夫人、シュザンヌ〕
【アントニオ】 御前《ごぜん》様に申しあげます、あいつがこの仲間にまぎれこんでおりますんで、わたくしの娘のとこであいつに着物を着せましてね、あいつの着物は娘のとこにございます、これこのとおり、こいつの軍帽を包みの中から見つけてまいりましたんで。〔アントニオは進み寄って娘たちを眺めてから、シェリュバンを認めて、女頭巾をとると、長い入毛が落ちる。アントニオはシェリュバンの頭に軍帽をのせながら言う〕それ見たことか、ごらんのとおり、軍人さんで!
【夫人】 〔後しざりして〕あら!
【シュザンヌ】 いたずらっ子め!
【アントニオ】 こいつに違げえねえと言ったとおりでござんしょう!……
【伯爵】 〔怒って〕おい令夫人、これはなんの真似だ?
【夫人】 それがどうしたのでございます! あなたよりもわたしの方がびっくりしておりますよ、とにかくあなたとおんなじように怒っておりますわ。
【伯爵】 それにしても、先刻の、今朝のこともあるじゃないか?
【夫人】 それはもう、これ以上隠しだてをいたしましたら罪が深こうございますから、申しあげましょう。実は、この児はわたしの部屋にまいっておりました。この娘《むすめ》たちが座興にこの児に女の着物を着せましたのも、手始めはわたしたちがいたしました。ちょうどこの児に衣裳をつけております時に、不意にあなたがおいでになりまして、あんまりお立腹なので、この児は逃げますし、わたしは困ってしまいました。それでなにもかも恐ろしくなって、あのような始末になってしまったのでございますわ。
【伯爵】 〔くやしそうにシェリュバンに〕お前はなぜ出発しなかったのだ?
【シェリュバン】 〔にわかに軍帽をぬいで〕殿様……
【伯爵】 お前の違背を罰するから、そう思え。
【ファンシェット】 〔おちゃっぴいらしく〕殿様、わたしの申すこともおきき願います! いつも殿様がおいでになってわたくしに接吻あそばす時は、きっとおっしゃいますわね、≪ファンシェットや、接吻してくれるなら、なんでも好きなものをやるぞ≫って。
【伯爵】 〔赤面して〕わしが! そんなことを言ったかね?
【ファンシェット】 おっしゃいましたとも、シェリュバンをお罰しになるくらいなら、わたしの夫としていただきとうございます。そうなりませば、狂うばかりに殿様をお慕い申しあげますわ。
【伯爵】 〔傍白で〕小姓風情にまでしてやられるのか!
【夫人】 とうとうお倉に火がつきましたねえ! わたしと同じように潔白なこの娘《こ》の申し分には本当のことが二つございますわ。つまり、わたしの方では知らずしらずに御心配をおかけいたしましたのに、あなたはたちの悪いことばかりあそばしますから、わたしの当然の心配がますばかり。
【アントニオ】 御前様でもやっぱり? 驚きましたな! とにかく、この娘《こ》は死んだお袋と同じようにわたしがとっちめてやりましょう……もっともありがちのことじゃござんすがね、小娘だって、年頃になりゃ……それは奥様もおぼえがござんしょう……
【伯爵】 〔当惑して、傍白で〕どうも、わしを目のかたきにする悪霊が邸中をぐるぐるまわっているな!
第六場
〔娘たち、シェリュバン、アントニオ、フィガロ、伯爵、伯爵夫人、シュザンヌ〕
【フィガロ】 殿様、あまり娘たちをお引きとめになりますと、祝言もダンスもはじめかねますが。
【伯爵】 お前が踊る! 気をつけて物を言えよ、けさ窓から飛び降りて右の足をくじいたじゃないか!
【フィガロ】 〔脚を動かしてみて〕まだ少々痛みますが、なんでもございません。〔娘たちに〕さあ、さあ、娘子《むすめっこ》軍、さあ行こう!
【伯爵】 〔行こうとするフィガロをとめて〕畑の土がやわらかだったのは何よりしあわせだったなあ!
【フィガロ】 もっけの幸いで、おっしゃるとおり、やわらかくございませんでしたら……
【アントニオ】 〔行こうとするフィガロをとめて〕それから、下まで飛び降りながら、からだをちぢめたっけね。
【フィガロ】 もうちっと気がきいた奴なら、ねえおい、宙でとまったかも知れねえだろう?〔娘たちに〕行こうぜ、娘さんたち!
【アントニオ】 〔またフィガロをとめて〕そこで、飛んだりちぢんだりしている間に、児小姓《こごしょう》はセヴィラめざして馬の早打ちか?
【フィガロ】 早打ちやら、のこのこ歩きやら……
【伯爵】 〔またフィガロをとめて〕ところで、小姓の辞令はお前のかくしの中にあったっけな?
【フィガロ】 〔すこし驚いた風で〕まさにそのとおり、それにしてもなんという御詮議でござんしょう?〔娘たちに〕さあ行こう、娘さんたち!
【アントニオ】 〔シェリュバンの腕を引っぱりながら〕先きざきわしの甥になる男は嘘つきだ、とこの小娘が言ってるぜ。
【フィガロ】 〔びっくりして〕シェリュバンか!……〔傍白で〕へまをやりやがる、このおっちょこちょいめ!
【アントニオ】 おい気はたしかかい?
【フィガロ】 〔その意味をさぐろうとして〕たしかだ……たしかだとも……なにをつべこべ言ってやがるんだ?
【伯爵】 〔そっけなく〕アントニオはなにもつべこべしゃべってはおらん、ニオイアラセイトウの上に飛び降りたのはシェリュバンだと申しておるのだ。
【フィガロ】 へえ! この男がそう申しますなら……そうかも知れません、わたしの存ぜぬことで議論はいたしません。
【伯爵】 してみると、お前もこの児も、飛び降りたのか?……
【フィガロ】 二人でいけないわけもございますまい? 飛び降り病はうつりますからな、パニュルジュの羊の群で御案内のとおり、特に殿様御立腹のみぎりは、誰も彼もわれ勝ちに、命がけで……
【伯爵】 なに、二人一時にか?
【フィガロ】 二人はおろか二ダースでも飛び降りましたでしょう。ねえ殿様、怪我人さえ出さねばそれで結構じゃございませんか?〔娘たちに〕こまるなあ、一緒に来るのか、来ねえのか?
【伯爵】 〔激して〕茶番もいいかげんにせんか?〔軍楽のプレリュードが聞える〕
【フィガロ】 さあ行進の合図だ、娘さんたち、めいめい受持ちの場所につくんだぜ、受持ちの場所に! さあ! シュザンヌ、腕を組もう。
〔一同退散、シェリュバンひとり、頭をうなだれて舞台にのこる〕
第七場
〔シェリュバン、伯爵、伯爵夫人〕
【伯爵】 〔フィガロの去りゆくのを見送りながら〕あのくらいずうずうしい奴がいるかね?〔小姓に〕ところでお前のことだが、けがらわしい真似ばかりする悪童だな、早く着物を着かえろ、もはや今宵の祝言には顔を出すことあいならんぞ。
【夫人】 この児はさぞふさぐことでございましょう。
【シェリュバン】 〔前後の考えもなく〕たとい牢獄《ひとや》の百年にかけても、額に受けたさいわいをいただいてまいります。〔彼は軍帽をかぶって、走り去る〕
第八場
〔伯爵、伯爵夫人〕
〔伯爵夫人はだまってしきりに扇を使う〕
【伯爵】 あいつの額になにかうれしいしるしでもあるのかね?
【夫人】 〔当惑して〕あの……初めての軍帽……のことでございましょうよ、子供にはなんでも玩具でございますからね。〔夫人は去ろうとする〕
【伯爵】 お前はここにいてくれないのか!
【夫人】 わたしが気分のすぐれませんのは御承知じゃございませんか。
【伯爵】 お前の腰元のためにしばらく待ってもらいたいね、さもないと、お前が怒っているとしか思えないからな。
【夫人】 ああ、二た組の婚礼の行列がまいりましたよ、ここで腰をかけて迎えてやりましょう
【伯爵】 〔傍白で〕婚礼か! 留めて留らぬことなら、許すほかはあるまい。〔伯爵と夫人は広間の一方へしりぞいて腰をかける〕
第九場
〔伯爵と伯爵夫人(腰をかけている)、エスパニヤ振りの仮装舞踏の行進曲が奏でられる。
銃を担う密猟監視兵の一隊。
警察官一名、裁判官数名、ブリドワゾン、晴れ着を着た百姓の男女たち。
二人の娘は白い羽毛を飾った乙女頭巾を手に持っている。
他の二人の娘は白いヴェールを、他の二人の娘は手袋と花束とを別々に持つ。
アントニオは花嫁をフィガロに嫁がせる者としてシュザンヌの手をとる。
他の娘たちは、マルスリーヌのために、前例にならって、それぞれ乙女頭巾、ヴェール、白い花束を持っている。
フィガロはバルトロ国手《こくしゅ》に花嫁を戻す者として、マルスリーヌの手をとる、国手は小脇に大なる花束をかかえて、行列のしんがりをつとめる。娘たちは伯爵の前を通りながら、シュザンヌとマルスリーヌに与えらるべきすべての装飾物を家臣たちに渡す。百姓の男女の群は広間の両側に二列にならぶ、踊子は、カスタニェットを鳴らして、エスパニヤ舞踊の一くさりを舞う。次に、二部合唱の|前後を綾どる曲《リトゥルネル》が弾でられ、その間、アントニオはシュザンヌを伯爵の前に連れてゆく、シュザンヌはそこにひざまずく。
伯爵が彼女に乙女頭巾を頂かせ、ヴェールをかぶせ、花束を与える間、二人の娘は次の二部合唱を歌う。
乙女につらき因襲《ならわし》を
浄めたまいしわが君の
正しき徳をことほがん
高き勲《いさお》を謳《うた》わなん(意訳)
シュザンヌは、ひざまずきながら、二部合唱の最後の数句が歌われる間に、伯爵のマントの裾を引っぱって、手に持っている手紙をちらりと見せる、次いで彼女は観客席の方に向う手を頭上に加え、伯爵は彼女の乙女頭巾をととのえる振りをすると、彼女は伯爵に手紙を渡す。
伯爵はさりげなく、手紙を胸にかくす。二部合唱は終り、花嫁は立ち上がって、伯爵に最敬礼をする。フィガロは彼女を伯爵の手から受取り、彼女とともに、広間の一方の側、マルスリーヌの傍にしりぞく。(この間、踊子はまたエスパニヤ舞踊の一くさりを踊る)
伯爵は、いそいで、受け取った手紙を読もうとして舞台の端まで進み出て、胸から手紙を取り出すが、取り出しながら、ひどく指を刺された男のような身振りをして、指を振ったり押したり、吸ったりしてから、留針《ピン》で封じてある手紙を眺めながら言う〕
【伯爵】 〔彼がしゃべる間も、フィガロがしゃベる間も、オルケストルは静寂《ピアニシモ》に弾でられる〕女というものは実に厄介だ、やたらに留針《ピン》を使うのでなあ。〔彼はピンを捨てて、手紙を読んで、手紙に接吻する〕
【フィガロ】 〔伯爵の様子を逐一《ちくいち》見とどけて、母とシュザンヌに言う〕誰か娘っ子が通りすがりに手渡した恋文ですぜ。ピンで封じてあったもんだから、とびあがるほどちくりとね。〔ダンスがまた始まる。手紙を読んだ伯爵は裏を返して見ると、返事の代りにピンを返してくれという意向を知って、地面の上をさがす。ようやく見つけて、そのピンを袖に着ける〕
【フィガロ】 〔シュザンヌとマルスリーヌに〕かわいい相手から来たものなら、なんでも大切だ。そら、やっこさんピンを拾ったぞ。まったく! 変り者だな!〔この間、シュザンヌと伯爵夫人は互いにうなずき合う。ダンスは終り、さらにリトゥウルネルの二部合唱が始まる。フィガロは、マルスリーヌを伯爵の前に連れて行って、前のシュザンヌの例にならう、あたかも伯爵が乙女帽を手に持ち、二部合唱が始まろうとした時、次のような叫び声で式が中断される〕
【廷丁】 〔戸口で叫ぶ〕はいって来てはいけません、皆さん! そうみんなは、はいれませんよ……兵隊さん助けてくれよ! 兵隊さん!
〔兵士数名戸口へいそぐ〕
【伯爵】 〔立ちあがって〕なんだね?
【廷丁】 閣下、バジル殿が歌いながら歩きますので、村中の者が追《つ》いてまいりました。
【伯爵】 バジル一人だけはいるがよい。
【夫人】 わたしはこれでごめんこうむります。
【伯爵】 いや、御苦労だったね。
【夫人】 シュザンヌ!〔伯爵に〕シュザンヌはすぐに帰ってまいりますからね。〔傍白でシュザンヌに〕さあ、これから着物を取り代えるのよ。
【マルスリーヌ】 あの男が来て、ろくなことはありはしない。
【フィガロ】 よし来た! わたしが凹ましてやりまさあ。
第十場
〔伯爵夫人とシュザンヌを除いて、前場と同じ登場人物、バジル〔ギターを携えている〕、グリップ・ソレイユ
バジルは第五幕末段のヴォドヴィルの節《ふし》で次の唄をうたいながらはいって来る。
惚れた弱味はせんもなや
移りやすいが恋ごころ
りんきの虫を封じませ
浮気の鳥は飛ぶばかり
心変りが罪かいな
恋にゃ翼《つばさ》があるものを
恋にゃ翼があるものを
恋にゃ翼があるものを〕
【フィガロ】 〔バジルの方へ進みよって〕まったくだ、さればこそキュピッドの背中には羽が生え候だ、ねえ大将、その唄の心は?
【バジル】 〔グリップ・ソレイユを指しながら〕つまり、殿様の客人となったこの男をなぐさめて、殿への服従を証拠だてた上からは、このたびはわしの方からお裁きを求めてもよかろうということだ。
【グリップ・ソレイユ】 とんでもない! 殿様、この人のみすぼらしい唄なんか面白くもなんともございません……
【伯爵】 で、結局お前の願いの筋は?
【バジル】 わたくしのものを、つまりマルスリーヌを申し受けたいのでございます、そこで不服を申し立てたく存じまするのは……
【フィガロ】 〔近寄って〕しばらく、貴殿の恋の狂乱にもお目にかからなかったが?
【バジル】 お前も、いつまで人を。
【フィガロ】 わたしの目が立派な鏡になるから、わたしの予言が当ったかどうか、鏡にかけてみて下さいよ。万一、この婦人に指一本でも指そうとしたら……
【バルトロ】 〔笑いながら〕なぜだ? 言いたい事は言わせるがいい。
【ブリドワゾン】 〔フィガロとバジルの間に進み出て〕と、と、友だち同士で、あ、あ、争うのかね?
【フィガロ】 わたしたちが、友だち?
【バジル】 とんだ間違いだ!
【フィガロ】 〔矢つぎばやに〕この人が抹香《まっこう》くさい歌を作るからですかね?
【バジル】 〔矢つぎばやに〕この男が三面記事のような詩を書くからかね?
【フィガロ】 〔同じく〕どぶろく屋の音楽師が……
【バジル】 〔同じく〕乞食記者めが!
【フィガロ】 〔同じく〕へぼ音楽坊主が!
【バジル】 〔同じく〕外交官の下廻りが!
【伯爵】 〔腰をかけたまま〕両人とも無礼であるぞ!
【バジル】 何かにつけてわたくしをこきおろしますので。
【フィガロ】 そううまくいけば結構だが!
【バジル】 至るところでわたくしをうつけ者と言いふらしまして。
【フィガロ】 してみると、わたしは反響《こだま》かね?
【バジル】 わしの手にかからずに名をあげた歌い手が一人でもあるのかね?
【フィガロ】 調子っぱずれの名があがらあ。
【バジル】 また、つべこべと!
【フィガロ】 本当の事なら、言ってもよかろう? お前さんはぺこぺこ、ちやほやされる上つ方かね? ねえ、ちんぴらさん、嘘つきをかい殺しにする力がなけりゃ、本当のことはそのまま承服するもんだ。おれたちから本当のことを言われるのがいやなら、なぜ祝言の邪魔をしに来るのだ?
【バジル】 〔マルスリーヌに〕お前さんは、わしに約束したか、しないか、もし四年たっても、相手ができなかったら、わしに一番槍をつけさせると言ったじゃないか?
【マルスリーヌ】 どういう条件でお約束しましたかね?
【バジル】 行方不明の息子にめぐり会って、わしがその子をよろこんでもらってやればな。
【一同一緒に】 その児が見つかった。
【バジル】 それがどうした!
【一同一緒に】 〔フィガロを指して〕それがこの児でござい。
【バジル】 〔おびえて後へしりぞいて〕こんな化物《ばけもの》を!
【ブリドワゾン】 〔バジルに〕こうなっては、あ、あ、あなたもこの人の母親を、も、も、もらわぬじゃろうな?
【バジル】 こんなならず者の父親《てておや》だと思うほどみじめなことがあろうか?
【フィガロ】 こんなやつのせがれだと思うようなね、冗談じゃねえや!
【バジル】 〔フィガロを指して〕この男がここで幅をきかせるなら、わしはもう用はないわい。〔バジル退去〕
第十一場
〔前記と同じ面々、バジルを除く〕
【バルトロ】 〔笑って〕ハッハッハッハッ!
【フィガロ】 〔こおどりして〕そこでめでたく女房がもらえるというものだ!
【伯爵】 〔傍白で〕わしも女が手にはいる!
【ブリドワゾン】 〔マルスリーヌに〕これで、い、い、一同、ま、満足じゃな。
【伯爵】 婚姻契約書を二通作るがよいぞ、署名いたそう。
【一同一緒に】 万歳!〔一同退出〕
【伯爵】 わしもしばらく退出することにしよう。
〔他の者どもと共に去ろうとする〕
第十二場
〔グリップ・ソレイユ、フィガロ、マルスリーヌ、伯爵〕
【グリップ・ソレイユ】 〔フィガロに〕じゃ、さっき言いつけられたとおり、おれはこれから、大きな栗の木の下で、花火を仕掛ける加勢をしよう。
【伯爵】 〔駆けて戻って来て〕どこの阿呆がそんなことを言いつけたのだ?
【フィガロ】 なにか不都合なことがございますか?
【伯爵】 〔強く〕それに、妻は気分がすぐれぬし、どこで花火が見えるのだ? 妻の部屋の真向いの築山にかぎるよ。
【フィガロ】 わかったか、グリップ・ソレイユ、築山だぞ。
【伯爵】 大きな栗の木の下なんて! とんでもない考えだ!〔去りながら、傍白で〕あやうく、わしのあいびきを照らされるところだった!
第十三場
〔フィガロ、マルスリーヌ〕
【フィガロ】 殿様はひどく奥方を気になさいますなあ!〔去ろうとする〕
【マルスリーヌ】 〔フィガロをとどめて〕倅や、ちょっとひとこと言っておくがね、何もかも言って、さっぱりしたいのだよ。わたしの感ちがいから、かわいいお前の女房にもすまないことをしてしまったの。バジルからは、あの女《こ》がいつも殿様をはねつけているとは聞いていたけれど、やっぱりあの女《こ》が殿様と示し合わせていると思ったものだからね。
【フィガロ】 高が女の出来心でこのわたしがぐらつくなんて思われちゃ、倅を見そこなったというもんですぜ。わたしをたぶらかすような、どんなすれっからしでも、びくともするんじゃありませんや。
【マルスリーヌ】 いつもそう思っていられりゃ仕合せだがね、ねえお前、それにしてもやきもちというものはねえ……
【フィガロ】 うぬぼれから生れる不肖の子でさあ、でなけりゃ、狂人《きちがい》の病ですよ。なんの! おっ母さん、わたしゃここに〔胸を指して〕安心立命の……哲学ってやつを持ってますからね、万一にも、いつか、シュザンヌがわたしをたぶらかすことがあろうとも、先手を打ってゆるしてやりますよ、わたしにやかせるには骨が折れますぜ。〔フィガロはふり返って、ファンシェットがここかしこ何かさがしているのを見つける〕
第十四場
〔フィガロ、ファンシェット、マルスリーヌ〕
【フィガロ】 あぶねえ!……小娘の立聞きだ!
【ファンシェット】 まあひどい! 立聞きなんかしやしないわ、そんなことは悪いことだって。
【フィガロ】 そりゃそうだ、だが、悪いことが役に立つから、世間じゃ悪《あく》と役《やく》とを道連れにさせるのだ。
【ファンシェット】 わたしゃあの人がここにいるのじゃないかと思ってさがしてたの。
【フィガロ】 もうごまかしていやがる、お茶っぴいめ! あいつがここにいないことは知ってやがる癖に。
【ファンシェット】 そりゃ誰のこと?
【フィガロ】 シェリュバンよ。
【ファンシェット】 さがしてるのはシェリュバンじゃないの、あの児ならどこにいるか知っててよ、シュザンヌ姉ちゃんをさがしてるのよ。
【フィガロ】 お前、シュザンヌになんの用があるんだ?
【ファンシェット】 ねえ兄さん、あんただけに言ってあげるわ。――実はね……わたし、シュザンヌ姉ちゃんにピンを返しにゆくところなの。
【フィガロ】 〔強く〕ピン! ピンだって!……どこからの使いだ、ええファンシェット? お前の歳で、もう|ほ《ヽ》の字遊びたあ……〔彼は自制して、おだやかな調子に返って〕ねえ、ファンシェット、お前のやってることは結構な仕事だ、まったくお前は親切な娘《こ》だからね……
【ファンシェット】 じゃなぜ怒ったの? あたしもう帰るわ。
【フィガロ】 〔押しとどめて〕怒るものか、冗談だよ。ねえ、そのピンは殿様がシュザンヌに返して来いとおっしゃったんだろう、殿様が持っていらしった手紙の封をしたあのピンだろう、おれの言うとおりだろう。
【ファンシェット】 それほどよくわかってるならなぜきくの?
【フィガロ】 〔さぐるように〕そりゃ殿様が御用をお言いつけになるのに、どういう風になさるかを見分けるのが面白いからさ。
【ファンシェット】 それは、あんたたちが言うことと同じよ。≪ねえ、かわいいファンシェットや、このピンをお前の美しい従姉《いとこ》に返して、このピンは大きな栗の木の封印だよ、とただそれだけ言っておくれ≫って。
【フィガロ】 大きな?……
【ファンシェット】 く・り・の・木。それから、こんなこともおっしゃったの、≪誰にも見つからないように用心おしよ≫って……
【フィガロ】 なんでもお言いつけに従うことだ。さいわい誰にも見つからなかったからな。立派に御用を果してシュザンヌにも殿様のおっしゃったことだけしか言うんじゃないよ。
【ファンシェット】 どうして他のことなんか言えて? 殿様はわたしなんか小娘《ねんね》だと思っていらっしゃるのよ。〔ファンシェットは駆けて去る〕
第十五場
〔フィガロ、マルスリーヌ〕
【フィガロ】 こりゃ一体どうしたというんだ?
【マルスリーヌ】 どうしたんだろうね?
【フィガロ】 〔息もつけずに〕人もあろうに、あん畜生に!……これにゃなにかわけがあるぞ!……
【マルスリーヌ】 わけがあるって! じゃ、どんなわけがさ?
【フィガロ】 〔双手を胸に当てて〕今きいたことが、〔胸を示して〕ここんとこに、鉛のようにねえ。
【マルスリーヌ】 すっかり安心していた胸は、やっぱり風船玉だったのかねえ? ピン一本で気が抜けてしまうんだね!
【フィガロ】 〔怒気をみなぎらせて〕ところが、そのピンというのがね、おっ母さん、あいつが拾ったピンなんですぜ!
【マルスリーヌ】 〔フィガロの言ったことを思い出させて〕やきもちなんて! なんだ! わたしゃここに、ねえ、おっ母さん、安心立命の……哲学を持っていまさあ、もし、シュゾンがいつかわたしをたぶらかしても、ゆるしてやりますよ……なんて。
【フィガロ】 〔勢いよく〕まあ、まあおっ母さん! 人間は感じたとおりを言うもんですよ。どんな裁判官でも自分の事件の弁論をさせて、法律の説明をさせてごらんなさい! 恋にかけては、裁判官がどんなに血迷ってもわたしゃ驚きませんね!――そこで、ピンの使い分けをするかわいい女のことですが、あの栗の木通信では、まだあいびきをする気にはなっていないでしょうね! わたしが祝言をする以上、女房のことで怒るのが当り前だとしても、だからと言って、他の女と一緒にあいつを捨ててしまう気にはなれませんぜ……
【マルスリーヌ】 見事な結論だね。そういうのを疑心暗鬼って言うんだよ。あの女《こ》がもてあそんでいるのは殿様ではなくって、お前だということがはっきりわかっているのかい? わけもきかずにあの女《こ》を悪く思うほど新しい種があがったのかい? たとえあの女《こ》が栗の木の下に出かけるにしろ、どういうつもりで行くのか、なにを言うのか、なにをするのか、お前にわかっているのかい? お前の≪めがね≫はもうすこし確かだと思ったがね!
【フィガロ】 〔感激して母の手に接吻して〕ごもっともだ、おっ母さん、そのとおり、そのとおり、まったくそのとおりですよ! しかし、自然にやきもちをやくのも無理はない、雨降って地固まる、でね。おっしゃるとおり、咎《とが》めたり騒いだりする前に様子をさぐりましょう。あいびきの場所はわかってるんだ。さよなら、おっ母さん。〔退出〕
第十六場
【マルスリーヌ】 〔ひとり〕さよなら、その場所ならわたしだって知ってるよ。それを突きとめておいてから、シュザンヌのやり方を観てもいようし、忠告さえもしましょう。なんて好いたらしい嫁だろう! ほんとに! わたしたち女が、自分勝手な角突き合いをしなければ、女をいじめる男たちを向うにまわしても、お互いに身が守れるのにねえ。あの男たち、威張りくさった、恐ろしい男たち……〔笑いながら〕そのくせ、なんとなくおめでたい男たち。
[#改ページ]
第五幕
〔舞台は庭園内の栗の木立の下、左右にはあずまやがある。これは一名キオクス或いは庭のお宮とも呼ぶ。舞台の奥には手入れをした空地、前面には芝を植えた腰掛。舞台は暗い〕
第一場
【ファンシェット】 〔ひとり、片方の手には二枚のビスケットと、オレンジ一つを持ち、他方の手には火をともした提灯を持って〕左の方のあずまやだって言うんだけど。あ、これだ。――でも、相役をつとめてくれるお小姓さんが来てくれなかったらこまるわ!……あの執事部屋の小父さんたち、いやなやつぞろい、たったオレンジ一つでも、ビスケット二枚でもくれたがらないのよ! 娘《ねえ》ちゃん誰に与《や》るんだい、だって。――いいじゃないの、誰かさんに上げるのよ――ふん! おれたちにゃわかってるんだ――じゃ、いつ持って行けばいいの? 殿様の前に出られないあの児《ひと》を干乾《ひぼし》にはできないわよ、って言ってやったの。――それでも、押し問答しているうち、頬ぺたに接吻されちゃったわ、ずうずうしいやつ!……ほんとに、どうなることやら? 殿様はあの児《ひと》を返して下さるのかしら。〔彼女を手さぐりに来るフィガロに気がついて、叫び声をあげる〕ああっ!……〔彼女は逃げだして、左手のあずまやの中に入る〕
第二場
〔フィガロ(肩に長いマントを引っかけ、底の浅い、つば広の帽子をかぶっている)、バジル、アントニオ、バルトロ、ブリドワゾン、グリップ・ソレイユ、その他召使や役夫の一群〕
【フィガロ】 〔最後はひとり〕ファンシェットだな!〔彼は人々が登場するに従って、一瞥を与えながらつっけんどんな口調で〕今日は、みなさん、今晩は、皆、そろってるかね?
【バジル】 お前がぜひ来てくれと頼んだ者たちは来たよ。
【フィガロ】 もう何時ごろだろう?
【アントニオ】 〔空を眺めながら〕もう、月も出る頃だ。
【バルトロ】 いよう! えらい黒装束だな! まるで謀叛人といった風体だ!
【フィガロ】 〔そわそわしながら〕ちょっと伺っておきますがね、皆さんは祝言のためにお邸に来てくれたんでしょうね?
【ブリドワゾン】 も、もちろん。
【アントニオ】 わしら、これからお庭の方へ行って、お祝いの始まる合図を待つつもりだ。
【フィガロ】 皆の衆、あんまり遠くに行ってくれるなよ、ここの栗の木の下で、わたしが貰う立派な花嫁と嫁《かしず》け給うあっぱれな殿様とをことほぐんだぜ。
【バジル】 〔その朝からの始末を思い出して〕ははあ! なるほど。事の次第は読めたぞ。悪いことは言わない、この場をはずそうよ。あいびきがあるのだ、今すぐ、わけを話してやるからな。
【ブリドワゾン】 〔フィガロに〕では、わしらはま、また来るよ。
【フィガロ】 わたしが呼ぶのが聞えたら、皆、駆けつけて下さいよ、万一おもしろい芝居をお目にかけられなかったら、お叱り下さるべく候。
【バルトロ】 忘れるなよ、分別のある者は上つ方とは争わぬことじゃ。
【フィガロ】 心得ておきますよ。
【バルトロ】 御身分からして、われわれよりもずんと上の方々だからな。
【フィガロ】 知恵才覚が上ではないってことをあなた忘れていらっしゃる。しかしね、人間も意気地なしと思われると、悪党どもから勝手な真似をされるってことも覚えていて下さいよ。
【バルトロ】 しかと心得た。
【フィガロ】 ついでに、わたしが母方の歴とした先祖の、≪颯爽≫という名を持っていることもですよ。
【バルトロ】 どうかしているぜ、この男は。
【ブリドワゾン】 ま、ま、まったく。
【バジル】 〔傍白で〕伯爵とシュザンヌはわしを出しぬいて、仕事をはこんだな、ひょんな≪はめ≫になろうとも、わしの知ったことかい。
【フィガロ】 〔召使たちに〕お前《めえ》さんたちに言っとくがな、わしが言いつけたとおり、この近所を灯火《あかり》で照らすんだぜ、もし間違ったら、手当り次第に腕をひっつかんで噛み殺すぞ……〔彼はグリップ・ソレイユの腕をこづきまわす〕
【グリップ・ソレイユ】 〔叫んで、泣きながら逃げ出す〕あいた、た、た、あ! フィガロの畜生め!
【バジル】 〔退出しながら〕花婿殿、ひどくごきげんだな!〔一同退場〕
第三場
【フィガロ】 〔ただひとり、暗闇の中を行ったり来たりしながら、きわめて沈痛な口調で独語する〕ああ、女! 女! 女! 弱《よわ》ああい、あてにならねえ代物《しろもの》だなあ! およそ生きとし生けるものは本能にしばられるが、手前の本能は男をだまかすことか?……
おれが伯爵夫人の目の前で、あいつとの祝言をせかせているのを依怙地《いこじ》にしりぞけたあげく、いざ祝言となった式の最中、あいつが誓いのことばをのべている時にも……伯爵は、あいびきの文を読みながらわらっていやがった、悪党め! このおれこそいいつらの皮だ! そりゃ、いけませんよ、伯爵閣下、彼女《あいつ》ばかりは渡せません……渡してたまるものか。あなたは豪勢な殿様というところから、御自分ではえらい人物だと思っていらっしゃる! 貴族、財産、勲等、位階、それやこれやで鼻高々と! だが、それほどの宝を獲《と》られるにつけて、あなたはそもそもなにをなされた? 生れるだけの手間をかけた、ただそれだけじゃありませんか。おまけに、人間としても根っから平々凡々。それに引き代え、このわたしのざまは、くそいまいましい! さもしい餓鬼道にうずもれて、ただ生きてゆくだけでも、百年このかた、エスパニヤ全土を統治《おさ》めるぐらいの知恵才覚はしぼりつくしたのです。ところであなたはこのわたしと勝負をなさるおつもりですな。誰か来た……彼女《あいつ》だ……誰でもないのか……いやに真暗な夜だなあ。おれはこうして間抜けな亭主の役を勤めてはいるものの、実はまだ半端な亭主にて候だ!〔彼はベンチに腰をおろす〕
全体、おれの身の上ほど珍妙なものがまたとあろうか。倅は倅だが親がわからず、悪漢《わるもの》にさらわれ、うしろぐらいやつらの仁義沙汰で育てられたが、それがつくづくいやになって、せめて恥ずかしからぬ仕事にありつきたいとおもうには思ったが、さて、どこへ行っても相手にされず! 学んだ知識は化学、薬学、外科治療、しかもさる貴族のおかげをもって、からくも手にはいった職はけだものの針医と来やがった! 病みわずらった四足《よつあし》どもをちくちく刺すのもいや気がさして、なにか陽気な商売もがなと、めくら滅法にとびこんだのが芝居道だ。が、それも首っ玉に石を結びつけて身投げのていたらくだ! が、とにもかくにも、おれは脚本にトルコ後宮の淫風を書きなぐった。あっぱれエスパニヤの作者となりすまして、思う存分マホメットに≪けち≫をつけてやろう、と思うとたんに、どこからとも知れぬ使いの者が現われて、その御注進によれば、荘厳御門の名も高きトルコ帝国を始めとして、お次がペルシャにインドの一角、エジプト全土をひっくるめて、バルカ、トリポリ、チュニス、アルジェリア、モロッコの諸王国のおえらがたがおれの台詞《せりふ》でお冠を曲げたとおっしゃる。そこで、おれの喜劇はまんまと失敗、よろこんだのは回々《フイフイ》教徒の王族どもだ。しかもそれが一人のこらず無学文盲《あきめくら》と見たはこっちのひがめか、あまつさえおれの肩先をみみずばれにして、キリスト教徒の犬畜生とまでぬかしやがった――堕落を肯《がえん》ぜざれば虐待に甘んぜよ、という復讐だな――おれの頬はげっそりとこけて家賃《たなちん》の切れ目が店だての期限かとはるか彼方をながめて見ると、はや、こわい執達吏の小父さんが、法官のかつら、耳に鵞ペンをはさんで、のそりのそりと御入来だ。こっちはひたすら恐縮して、ただもうじたばたするばかり。当時世上の問題は、富の性質如何にとどめを刺した。富を論ずるに富を所有する必要もなかったから、おれは赤貧とはいうものの、貨幣の価値とその利潤について論文を書きなぐったが、書いたと思うそばからおれはもう泥棒馬車で運ばれ、馬車の中からながめると監獄の吊橋が渡れとばかりおろされ、そこにはいるや否や、希望も自由もおさらばという始末だ。〔彼は立ちあがる〕
人を監獄にぶち込むなんざあ朝飯前の、三日天下の長官どもをなんとかとっちめてやりたいものだなあ。免職がやつらの慢心を払いのけた暁に、おれは言ってきかせてやりたい。愚劣なる印刷物は発行禁止の国にあらざれば権威なく、誹謗の自由なくんば追従の賛辞もなく、かつまた、些細の記事をおそるるは唯小人あるのみ、と。〔彼はふたたび腰をおろす〕
監獄のお客にしておくのも飽きがきたとみえて、ある日、おれは往来にほうり出された。監獄は出ても飯を食わずにはいられぬから、またまた鵞ペンをけずりなおして、問題ござんなれと会う人ごとに訊ねてみたら、おれの官費隠退の間に、マドリッドにおいては、物産交易の自由が制定せられて、それが出版刊行物にもおよんだとの噂だ。そこで、主権、信仰、政治、道徳、顕官、金融組合、オペラその他の興行、相当の顔役、ざっとこの辺に筆《ペン》先の饒舌がふれぬかぎり、数名の検閲官の監督の下なら、おれは自由に出版ができると承《うけたま》わった。寛大至極なこの自由を利用して、おれは定期刊行物を御披露におよび、人真似小真似も気がきかぬから、敢てみずから「がらくた新報」と名づけた。
いまいましい! 今度もおれを目のかたきにする三文記者がうじゃうじゃと湧いて出て新聞はたちまち発行禁止、またもや元の無職渡世となりさがった! いよいよおれも運の尽きというところへ就職口《くち》を心配するやつが現われたが、悪いことには、その口がぴったりおれにはまり役だった。ところで、会計係御入用の折から、その口にありついたのが舞踊《ダンス》の先生で、おれの口は泥棒のほかには無くなった。破れかぶれで始めたのがファラオンばくちの胴元だが、さて、どんなもんです。善男善女よ! たちまち料理屋で食事をする身分に成り上り、紳士貴顕もおれに門戸を開いたものだが、その代りに利益《あがり》の四分の三はあいつらにせしめられた。うまい汁を吸うには、知識よりも権謀《やりくり》がましだとおれもそろそろさとれたから、浮び上ろうと思えば浮び上れもしたろうが、どいつもこいつも、おれには正義を強いながら、やつらは勝手に盗み放題で、こっちはいよいよ没落の体だ。こんどこそは、二十|尋《ひろ》もあろうという深い淵瀬に身を投げて、娑婆にも暇乞いというところへ、助ける神もあって、おれはまたまた振出しの理髪稼業、道具袋と皮砥《かわと》に二度の勤めだ。それからというものは、らちもない名誉は、欲しがる阿呆にお預けとして、恥や外聞はてくてく歩きの男には邪魔ものゆえ、往来のまん中に投げ捨てて、町から町へ顔剃り商売、結局のんきな貧乏身過ぎに立ちもどった。
ところが、さる貴いお方がセヴィラお通りのみぎり、某《それがし》に一顧《いっこ》を垂れ給うたから、こっちはこっちで婚姻の斡旋《とりもち》、おれの力で奥方が出来上ったその返礼に、先方ではおれの女房を横取りという寸法だ。そこで暗闘が始まり嵐がおこる。あやうく母親をめとって世間に顔向けもならぬ羽目になろうとするところに、両親の正体が一時《いちどき》にあらわれ、〔彼は興奮して立ちあがる〕いやはや、それからが議論口論、貴様らだ、あいつだ、おれだ、おれたちじゃない、それならいったい誰が誰だ。〔彼はまた腰をおろす〕
いやまったく、不思議な事件の珠数つなぎだなあ! どうしてこんなことになったのだ? なぜこんなことになって、他のことにはならなかったのだ? こんな運命《さだめ》を誰がおれにさずけたのだ? 理由《わけ》もわからずに浮世の旅に追われたあげく、理由《わけ》もわからずに、おさらばとあいなることか。陽気な性分にまかせて路《みち》のほとりにまきちらした人生《いのち》の花の数々、それも持って生れた陽気な性分とは言うものの、他の持ちものと同じくおれの持ちものなのか。さては、持てあましているこのおれ自身がそもそも何者だ。えたいも知れぬがらくたの、とりとめもない寄せ集めだ。かてて加えて、阿呆らしい≪けち≫な野郎だ。取るにも足らぬふざけたけだもの、道楽ならなんでもござれの、快楽《たのしみ》には目のない若者、その日暮らしの万屋《よろずや》商売、こちらでは先生、あちらで下郎、出たとこ勝負の風来坊、虚栄ゆえの野心満々、必要ゆえの刻苦勉励、だが、怠けることは……無二の好物! 今日主義の演説使い、くたびれ休めの詩人にもなれば、風向き次第の音楽家、気まぐれの色男にもなりつくして、なにからなにまで、目にもみ、手にもかけたが、結局、骨折り損のくたびれもうけか。とうとう、夢も望みも破れてくだけて幻滅の男となりはてた……幻滅の男と! シュゾン、シュゾン、シュゾン! これほどまでにおれに苦労をさせるのか! あしおとが聞える……誰か来た。これからが乗るかそるかのわかれ目だぞ。〔彼は右手の通路に姿をかくす〕
第四場
〔フィガロ、伯爵夫人(シュザンヌの着物を着て)、シュザンヌ(伯爵夫人の着物を着て)、マルスリーヌ〕
【シュザンヌ】 〔低声《こごえ》で、伯爵夫人に〕そうでございますよ、フィガロもここにまいるだろうとマルスリーヌが申しておりました。
【マルスリーヌ】 たしかに、来ているのよ、小さな声でね。
【シュザンヌ】 そうなると、一人がわたしたちの言うことを立ち聞きしていると、もう一人がわたしとあいびきをしに来るのね。
【マルスリーヌ】 一言もききもらさないように、わたしはあのあずまやの中にかくれようよ。〔彼女はファンシェットがはいったあずまやの中にかくれる〕
第五場
〔フィガロ、伯爵夫人、シュザンヌ〕
【シュザンヌ】 〔聞こえよがしに〕奥様おふるえになっていらっしゃいますよ! お寒いのでございましょうか?
【夫人】 〔同じく聞こえよがしに〕しめっぽい夜ね、わたし、館《うち》にはいるわ。
【シュザンヌ】 〔同じく〕もう御用がなければ、わたしはこの木の下でしばらく涼んでまいります。
【夫人】 〔同じく〕夜露に濡れるよ。
【シュザンヌ】 そのつもりで支度してまいりましたから。
【フィガロ】 〔傍白で〕ふむ、なるほど、夜露か!〔シュザンヌはフィガロと反対側の通路の近くにしりぞく〕
第六場
〔フィガロ、シェリュバン、伯爵、伯爵婦人、シュザンヌ(フィガロとシュザンヌは舞台前面にしりぞいている)〕
【シェリュバン】 〔士官の服を着て、|恋の歌《ロマンス》の一節を陽気に歌いながら登場する〕
ラ・ラ・ラ
忘るべしやは
名づけの母
【夫人】 〔傍白で〕あの児だわ!
【シェリュバン】 〔立ちどまって〕ここは散歩するところだから、いそいで隠れ家に帰ろう、帰ればファンシェットが……あれでも女だからな!
【夫人】 〔きき耳を立てて〕まあ、あきれた!
【シェリュバン】 〔遠くを見るように腰をかがめて〕見そこないかな? 暗い、向うの方に、羽毛《はね》のある頭巾が見えるが、シュザンヌらしいぞ。
【夫人】 〔傍白で〕もし伯爵がいらしったら!……〔伯爵は舞台の奥に現われる〕
【シェリュバン】 〔伯爵夫人に近寄って、その手をにぎろうとする、夫人はそうさせまいとする〕そうだ、これがシュザンヌというかわいい娘《こ》なんだ。まったく! このやわらかいお手《てて》がなによりの証拠じゃないか、はっと驚くこのお手《てて》のふるえがねえ、とりわけ、あたしの胸の動悸がねえ!〔彼は夫人の手の甲を自分の胸に当てようとする、夫人は手を引く〕
【夫人】 〔低声で〕あっちへいってよ!
【シェリュバン】 お庭のここまで、わざわざ訪ねてくれたのはなさけぶかいね、さっきからあたしは隠れていたんだもの……
【夫人】 フィガロが来るよ。
【伯爵】 〔進み出て、傍白で〕あすこに見えるのはシュザンヌではないかな?
【シェリュバン】 〔夫人に〕フィガロのことなんか心配しやしないよ、だって、お前はフィガロを待ってるんじゃないもの。
【夫人】 じゃ、誰を?
【伯爵】 〔傍白で〕シュザンヌは誰か相手があるな。
【シェリュバン】 殿様を待ってるんじゃないか、いたずら女め、今朝、あたしが椅子のうしろにいた時、殿様があいびきにおいで、とおっしゃったじゃないか。
【伯爵】 〔傍白で、立腹して〕また、あのけしからん小姓めが!
【フィガロ】 〔傍白で〕諺《ことわざ》にいわく、立ちぎきすべからずか!
【シュザンヌ】 〔傍白で〕おしゃべり小僧!
【夫人】 〔小姓に〕わたしもう帰らしてね。
【シェリュバン】 言うことをきいてやる御褒美をくれなければ帰さないよ。
【夫人】 〔恐れて〕どうしても、帰してくれないの?……
【シェリュバン】 〔熱心に〕まず、お前の分として、接吻二十遍、お美しい奥様の分が百遍さ。
【夫人】 どうあってもかい?……
【シェリュバン】 そりゃ! そうだとも、どうあっても。お前は殿様のために奥様の代りを勤めるんだし、あたしはお前のために殿様の代りになるんだもの、一番馬鹿をみるのはフィガロさ。
【フィガロ】 〔傍白で〕ふてえ餓鬼め!
【シュザンヌ】 〔傍白で〕小姓にしてはすご腕だこと。〔シェリュバンは伯爵夫人に接吻しようとする。伯爵はシェリュバンと夫人との間にはいり込んで、その接吻を受ける〕
【夫人】 〔身を引いて〕ああ! びっくりした!
【フィガロ】 〔傍白で、接吻の音をききながら〕おれや、とんでもない女と夫婦になるところだった!〔彼はきき耳を立てる〕
【シェリュバン】 〔伯爵の上衣を手でさわってみて、傍白で〕殿様だ!〔彼は逃げ出してファンシェットとマルスリーヌのはいったあずまやの中にかくれる〕
第七場
〔フィガロ、伯爵、伯爵夫人、シュザンヌ〕
【フィガロ】 〔近寄って〕もう我慢が……
【伯爵】 〔小姓に物を言っているつもりで〕二度と接吻でもしてみろ……〔相手は小姓と思って張りとばす〕
【フィガロ】 〔伯爵の手のとどく所にいたので、その張り手を食う〕あ痛た、た!
【伯爵】 ……初めの接吻、なぐられ損たあ、このことだ。
【フィガロ】 〔傍白で、頬を擦《さす》りながら退却して〕立ちぎき必ずしも役得ならず、か。
【シュザンヌ】 〔反対側で声高く笑う〕はっ、はっ、はっ、はっ!
【伯爵】 〔伯爵夫人をシュザンヌと思いこんで〕あの小姓ぐらい、わけのわからん奴があるかね? いやというほどなぐられて、笑いながら逃げ出すなんて。
【フィガロ】 〔傍白で〕おれがなぐられて小姓が痛かったら不思議だあ!
【伯爵】 どうしたことだ! 一歩歩いても小姓にぶつかる……〔夫人をあくまでシュザンヌと信じながら〕しかし、そんな変なことはどうでもいい、せっかく、お前とここで会う楽しみの邪魔になるからな。
【夫人】 〔シュザンヌの口調をまねて〕楽しみにしていらっしゃいまして?
【伯爵】 あの味のある文《ふみ》をもらってはなあ!〔夫人の手をにぎって〕ふるえてるね?
【夫人】 こわかったのでございますもの。
【伯爵】 手紙はもらったが、接吻は禁物というわけでもなかろう。〔彼は夫人の額に接吻する〕
【夫人】 お浮気ばっかり!
【フィガロ】 〔傍白で〕この女《あま》め!
【シュザンヌ】 〔傍白で〕御愛嬌たっぷり!
【伯爵】 〔夫人の手をにぎりながら〕いやどうも、きめがこまかくて、やわらかい手だね、伯爵夫人の手はこんなによくはないよ!
【夫人】 〔傍白で〕まあ! ひどいことを!
【伯爵】 こんなにしまっていて、むっちりしている腕! うま味があって、いたずら好きな、こんな綺麗な指が夫人《あれ》にあるだろうか?
【夫人】 〔シュザンヌの声色で〕これが恋と申すもの?
【伯爵】 恋というものが……心の語り草なら、快楽《たのしみ》は恋の実録だね、実録なればこそ、お前の膝に引寄せられる。
【夫人】 では、もう奥様はおいとしいとは思召しません?
【伯爵】 それは、いとしくは思うがね、だが、三年も一緒にいると、夫婦の間も興ざめてくるものさ!
【夫人】 では奥様になんの御不足が?
【伯爵】 〔彼女を愛撫しながら〕お前の持っているものがさ、愛《う》い奴だ……
【夫人】 はっきりおっしゃって。
【伯爵】 ……なんと言うか、もっと紋切形でないもの、ふるまいに、もっとぴりっとしたところをね。なんとなく味のある、たまには言うことをきかない、とでもいうか? 女というものは、われわれを愛しさえすれば、勤めを果したと思っている。そうきまってしまうと、愛して、愛して愛しつづけて、あんまり機嫌をとりすぎ、ねちねちと世話を焼きすぎて、それが年じゅうで、休みなしときた日には、誰だって、いつかは、日ごろ求めていた幸福《しあわせ》もうんざりするものだということがわかるよ。
【夫人】 〔傍白で〕まあ! なんという教訓《みせしめ》だろう!
【伯爵】 いやまったく、シュゾン、わしは考えたよ、世の常の女房からは消え失せた楽しみを他に求めるのは、女たちがわれわれ男の興味をつなぐ術をきわめないからだ、取り替え、引っ替え恋の新味を見せて、いわば、変ったものの面白さで女を手折る面白さを引き立たす術をきわめないからさ。
【夫人】 〔つんとして〕ではなにからなにまで女が至らないのでございましょうか?……
【伯爵】 〔笑いながら〕そこで男には責任なしかね? それが男女の自然なら、変えるわけにもいくまい? われわれ男の勤めは女どもを手に入れることで、女の勤めは……
【夫人】 女の勤めは?……
【伯爵】 われわれ男を手放さぬようにすることだが、得て忘れがちだ。
【夫人】 それはわたしのことではございません。
【伯爵】 こちらでもない。
【フィガロ】 〔傍白で〕こちらでも。
【シュザンヌ】 〔傍白で〕こちらでも。
【伯爵】 〔夫人の手をにぎって〕こだまにひびくね、低声《こごえ》で話そう。お前はなにもそんなことを考えるにはおよばない、恋に勇み恋に美しくなるようにできた女だ! ちょっと浮気心もあって、なかなか気をもませる情婦《いろ》だよ!〔彼は夫人の額に接吻して〕なあシュザンヌ、カスティラの武士《もののふ》に二言はない。この金子はお前が恵んでくれたうれしい機会《とき》にな、二度とかえらぬ貢《みつぎ》を買い戻そうためさ。それにしても、お前の好《す》いたらしさが飛び切りなので、このダイヤも景物にするからわしを慕うしるしに身につけておくれ。
【夫人】 〔お辞儀をして〕シュザンヌめはありがたく頂戴いたします。
【フィガロ】 〔傍白で〕このくれえずぶてえ女《あま》は見たことがねえや。
【シュザンヌ】 〔傍白で〕結構なものがいただける。
【伯爵】 〔傍白で〕こいつ、欲にもからんでいるな、願ったりかなったりだ!
【夫人】 〔奥をながめて〕あら、松明《たいまつ》が。
【伯爵】 お前の祝言の支度だよ。しばらくあずまやにかくれて、あの連中を通りすごさせようか?
【夫人】 あかりもつけませずに?
【伯爵】 〔やさしく夫人を誘って〕そんなものがいるものかね? 本を読むんじゃあるまいし。
【フィガロ】 〔傍白で〕彼女奴《あいつめ》行きやがるな、うむ! そんなことだろうと思っていたんだ。〔彼は進み出る〕
【伯爵】 〔ふりかえって、高声に〕そこを通るのは誰だ?
【フィガロ】 〔憤然として〕通るとは! 心あってまかり出で候。
【伯爵】 〔低声で、夫人に〕フィガロだ!〔彼は逃げる〕
【夫人】 お一緒にまいりますわ。〔夫人は右のあずまやにかくれる、その間に伯爵は奥の林の中に身をかくす〕
第八場
〔フィガロ、シュザンヌ(暗闇の中)〕
【フィガロ】 〔伯爵と彼があくまでシュザンヌと思いこんでいる伯爵夫人の行方を見とどけようとして〕もうなにも聞こえない。二人ともはいりやがったな、このおれのざまはどうだ。〔声も変ってしまって〕ねえ、皆さん、まぬけな旦那様方、銭を払って探偵をやしなって、幾月も幾月も悋気《りんき》のまわりをぐるぐるまわって、虫封じもできないあなたがたに申し上げますがね、どうしてわたしの真似をなさらないんです? わたしなんざあ、夫婦始めの日から女房の後《あと》をつけて、きき耳を立ててちょっと手をかざせば楽屋はまるみえですよ、面白いもんです、もう一点の疑いもありません、肚《はら》はきまってるんです。〔勢いよく歩いて〕さいわいに、こっちは平気の平左で、嬶の不義密通なんか痛くもかゆくもありませんや。姦夫姦婦の種はもうあがってるんです!
【シュザンヌ】 〔暗闇の中を静かに近寄って来て、傍白で〕さんざんうたぐってから後悔するだろうよ。〔彼女は伯爵夫人の声色を使って〕そこにいるのはだあれ?
【フィガロ】 〔悪くふざけて〕誰ぞと仰せらるるや? おぎゃあと生れたその時に、ペストにでもかかって往生すればよかったと、つくづく思っております野郎で……
【シュザンヌ】 〔伯爵夫人の声調で〕おや! やっぱり、フィガロだね!
【フィガロ】 〔眺めて、勢いよく〕伯爵夫人でございましたか!
【シュザンヌ】 小さな声でね。
【フィガロ】 〔急いで〕ああ! 奥様、よいところにおいで下さいました! 殿様がどこにおいでになるか、御承知でございますか?
【シュザンヌ】 つれない方なんか、どうでもいいじゃないか? あのねえ……
【フィガロ】 〔いっそう急いで〕それに、花嫁のシュザンヌがどこにいるとお思いになります?
【シュザンヌ】 小さな声でお話しってば!
【フィガロ】 〔ひどく急いで〕身持ちのよい、彼女《あいつ》だけは別ものと思いましたあのシュゾンが! 二人であすこにかくれたんでございます。呼んでやりましょう。
【シュザンヌ】 〔手でフィガロの口をふさごうとして、声色を使うのを忘れる〕呼ぶんじゃないよ!
【フィガロ】 〔傍白で〕なんだ、シュゾンか! ゴッダム!
【シュザンヌ】 〔伯爵夫人の声調で〕なんだか心配の様子ね。
【フィガロ】 〔傍白で〕とんでもない女だ! このおれを驚かそうなんて!
【シュザンヌ】 敵《かたき》を討つのよ、フィガロ。
【フィガロ】 それほど御執心でございますか?
【シュザンヌ】 敵討なんて、女らしくないかね! でも、男にはいろいろな討ち方があるのにねえ。
【フィガロ】 〔心底を打ちあけるように〕奥様、ここでは水入らずでございます。女の敵にも、……男と同じように、いろいろございますよ。
【シュザンヌ】 〔傍白で〕いやってほど打《ぶ》ってやるから!
【フィガロ】 〔傍白で〕祝言の前にはこんな真似もおもしれえ……
【シュザンヌ】 こんな敵討も恋にからまなければなんにもならないだろう?
【フィガロ】 どこにも恋ごころがないとおっしゃるのは、敬う心が恋をかくすからでございます。
【シュザンヌ】 〔むっとして〕まじめに思っているのか知らん、しみじみと言ってくれないのね。
【フィガロ】 〔滑稽な熱意をこめ、ひざまずいて〕ああ! 奥様、お慕い申しております。お考え願います。この時、この場所、このいきさつ、それに、わたくしのお願いにみやびはなくとも、殿様へのお恨みが軽くなれば。
【シュザンヌ】 〔傍白で〕ぶって、ぶって、ぶちのめしてやりたい!
【フィガロ】 〔傍白で〕うれしくって、どきどきしやがる。
【シュザンヌ】 それにしても、考えての上だろうね?……
【フィガロ】 そりゃ、もう奥様、そりゃ、考えぬいた末でございます。
【シュザンヌ】 ……御|勘気《かんき》に代えても、シュザンヌの恋に代えてもね……
【フィガロ】 ……もう一刻も延ばせません、奥様お手を。
【シュザンヌ】 〔自分の自然の声で、フィガロを張りとばす〕手はこれだよ。
【フィガロ】 いや! 御|無体《むたい》な! なんたる御|打擲《ちょうちゃく》!
【シュザンヌ】 なんたる御打擲だって? じゃ、これは!〔また打つ〕
【フィガロ】 いったいどうしたんだ? 冗談じゃねえ! 今日はなぐられ日か?
【シュザンヌ】 〔一句ごとにフィガロを打って〕ほんとに――シュザンヌはどうかしているよ、これがお前の疑心《うたがい》、これがお前の敵討、これがお前の裏ぎり、策略、中傷《わるくち》、魂胆。これがお前の恋なのかい! 今朝言った恋なのかい?
【フィガロ】 〔笑って立ちあがりながら〕荒女神、荒女神! そうさ、これこそ恋だ。なんたる果報! なんたるうれしさだ! ひっぱたいてくれ、おれの色女、休まずにひっぱたけ。だが、おれの≪からだ≫を打撲傷《うちきず》で染め分けてから、ねえシュゾン、女からさんざんなぐられた天下一のしあわせ者を、やさしく眺めてくれよ。
【シュザンヌ】 天下一のしあわせ者だとさ! 浮気者、やっぱりお前はその口車で奥様をまよわせたんだよ、だからわたしまで、ほんとに、うっかりして奥様の代りにたぶらかされたんだね。
【フィガロ】 そのいい声の音色《ねいろ》でおれがばかされるかい?
【シュザンヌ】 〔笑いながら〕わたしだってことがわかったのかい? ほんとに! どうしたら敵が討てるかねえ?
【フィガロ】 さんざんひっぱたいておいて、相手を怨むなんざあ、あんまり女すぎるぜ! それはそれとして、お前は殿様と一緒だと思っていたのに、どうしてここにいたんだ、結局罪もないお前が、そんな着物を着て、どうしておれをたぶらかしたんだ……
【シュザンヌ】 でもね! もう一人の方《かた》にかけたわなに自分からひっかかる奴がよっぽど罪がないよ! 狐を一匹とっちめようとしたのに、二匹つかまえたって、こっちのせいかねえ?
【フィガロ】 誰がもう一匹をつかまえるんだい?
【シュザンヌ】 奥様がだよ。
【フィガロ】 奥様が?
【シュザンヌ】 奥様さ。
【フィガロ】 〔狂喜して〕やい! フィガロ! 首でもくくれ! これがわからなかったんだからなあ。――奥様がねえ! いやはや! なんと奇略縦横の≪めす≫どもだ!――それで、木の下のあの接吻は?……
【シュザンヌ】 奥様が頂戴あそばしたのさ。
【フィガロ】 して小姓の接吻は?
【シュザンヌ】 〔笑いながら〕殿様へ。
【フィガロ】 それも今朝のように、椅子のうしろには?
【シュザンヌ】 相手がいないよ。
【フィガロ】 そりゃ確かか?
【シュザンヌ】 〔笑いながら〕また平手の雨が降るよ、フィガロ。
【フィガロ】 〔彼女の手に接吻して〕お前の打擲は宝だが、殿様からいただいたのはお刑罰《しおき》だったな。
【シュザンヌ】 あんなもの、平気で、我慢おしよ!
【フィガロ】 〔自分の言うとおりのしぐさをして〕こりゃもっともだ。お膝をついて、前にかがんで、三拝九拝、腹《はら》んばいだあ。
【シュザンヌ】 〔笑いながら〕まったくね? かわいそうなは殿御でござい! さんざん御苦労のあげくのはてに……
【フィガロ】 〔起きあがってひざまずき〕……物にしたのは奥方様か!
第九場
〔伯爵(舞台の奥から出て来て、いきなり右手のあずまやの方へ行く)、フィガロ、シュザンヌ〕
【伯爵】 〔独語して〕シュザンヌは林の中にはおらん、ここにはいったのかも知れんぞ。
【シュザンヌ】 〔フィガロに低声で〕やっこさんだよ。
【伯爵】 〔あずまやの戸を開けて〕シュゾン、そこにいるのか?
【フィガロ】 〔低声で〕贋《にせ》の奥様をさがしてね、ところで、おれも勘ちがいをして……
【シュザンヌ】 〔低声で〕やっこさんにはまだそれがわからないんだよ。
【フィガロ】 どうだ、そろそろとっちめてやろうか?〔彼は彼女の手に接吻する〕
【伯爵】 〔ふりかえって〕妻の足元に誰かいるな!……しまった! おれは無手だ。〔彼は進みよる〕
【フィガロ】 〔決然と立ちあがって、声を変えて〕恐れ入ります、奥様、このかりそめのお目もじで、深いお情けをこうむろうとは思いもよりませんでございました。
【伯爵】 〔傍白で〕今朝、化粧部屋の中にいた奴だな。〔額をたたいて、さてはという身振り〕
【フィガロ】 〔擬態をつづけて〕あのようなおろかしい邪魔ものゆえに、奥様との快楽《たのしみ》がこれほどおくれようとは思いもよりませんでございました。
【伯爵】 〔傍白で〕殺されても、死のうとも、かくまでの地獄の責苦があろうか!
【フィガロ】 〔彼女をあずまやの方に連れて行って、低声に〕わめいてるぜ。〔正白で〕さあ、奥様、急ぎましょう、して、今朝窓から飛び降りました時にいじめられました、あの敵討をいたしましょう。
【伯爵】 〔傍白で〕よろしい! 万事明々白々だ。
【シュザンヌ】 〔左手のあずまやの傍で〕はいる前に、誰かつけて来ないか、見ておくれ。〔フィガロは彼女の額に接吻する〕
【伯爵】 〔叫んで〕思い知れ!〔シュザンヌはファンシェットやマルスリーヌやシェリュバンがはいったあずまやの中に逃げこむ〕
第十場
〔伯爵、フィガロ(伯爵はフィガロの腕をつかむ)〕
【フィガロ】 〔大げさな恐怖をよそおって〕やっ、御主人様だ!
【伯爵】 悪党め! 悪党め、貴様だな! こらっ、誰かおらぬか! 誰か。
第十一場
〔ペドリーユ、伯爵、フィガロ〕
【ペドリーユ】 〔長靴をはいている〕閣下、こちらにおいででございましたか。
【伯爵】 御苦労、ペドリーユだな。お前一人か?
【ペドリーユ】 セヴィラから、早馬で只今帰ってまいりました。
【伯爵】 もっと近くよれ、大きな声でどなれ!
【ペドリーユ】 〔懸命に叫ぶ〕小姓はつかまりません。報告おわり。
【伯爵】 〔ペドリーユを突きとばして〕なにを! ばかめ!
【ペドリーユ】 でも、殿様がどなれと。
【伯爵】 〔依然、フィガロをはなさずに〕人を呼ぶんだ。――こらっ、誰かいないか! 聞こえないのか! 皆出てこい!
【ペドリーユ】 フィガロとわたしと、二人おります、他に誰がまいります?
第十二場
〔前場の人物たち。ブリドワゾン、バルトロ、バジル、アントニオ、グリップ・ソレイユ、祝言の参列者一同〕
【バルトロ】 これ、このとおり、お前の初めの合図で……
【伯爵】 〔左手のあずまやを指して〕ペドリーユ、この戸口はお前にまかせたぞ。〔ペドリーユは戸口にゆく〕
【バジル】 〔低声で、フィガロに〕大将がシュザンヌと一緒にいるところを見つけたのかね?
【伯爵】 〔フィガロを指し〕家来一同、こやつを取り巻いて、生命《いのち》にかけても逃がすなよ。
【バジル】 これは! これは!
【伯爵】 〔怒って〕黙らぬか!〔フィガロに、ひややかな口調で〕おい、色男、わしの問いに答えるか?
【フィガロ】 〔冷静に〕それはもう! わたくしとて御家来の数には漏れますまい? こちらでは万事殿様の御命令次第で、殿様だけは別でございますが。
【伯爵】 〔自制して〕わしだけが別かね?
【アントニオ】 こりゃ、そのとおりだ。
【伯爵】 〔また怒り出して〕違うわい、わしが腹がたって来るのは、こやつがことさら平気な面《つら》をよそおうからだ。
【フィガロ】 わたくしどもは、自分にはわからぬ利害から、殺したり、殺されたりする兵隊でござんしょうか? なぜわたくしが怒らなければならないか、それが知りとうございます。
【伯爵】 〔われを忘れて〕おのれッ!〔自制して〕知らぬふりをする君子に申し上げるがね、はなはだ恐縮だが、現にお前に案内されて、そのあずまやにはいった婦人は誰だか言ってもらおうか!
【フィガロ】 〔意地悪く別のあずまやを指して〕そちらのあずまやでございますか!
【伯爵】 〔急いで〕こちらだ。
【フィガロ】 〔冷静に〕これはお門《かど》ちがい。実は、特別にごひいきにあずかりますお若い御婦人で。
【バジル】 〔驚いて〕これは、これは!
【伯爵】 〔急いで〕皆の者、きいたか?
【バルトロ】 〔驚いて〕一同承っております。
【伯爵】 〔フィガロに〕して、その若い婦人には、妻としての勤めがあることも、お前は知っているだろうな?
【フィガロ】 わたくしの存じておりますのは、さるお大名がしばらく御寵愛になった御婦人でございますが、お大名のほうがお飽きになりましたのか、それとも御夫人がいとしいお方よりもわたくしのほうがお気に召しましたのか、今日も今日、このわたくしにうれしいおぼしめしを。
【伯爵】 〔勢いよく〕おぼし……〔自制して〕馬鹿正直なところもあるな! 皆のものに言っておくがこやつの白状していることを、わしはまさに、相手の口からきいたのだ。
【ブリドワゾン】 〔仰天して〕あ、あ、相手の女!
【伯爵】 〔激怒して〕さて、破簾恥がおおやけになった以上、処罰もおおやけにしなければならんぞ。〔彼は問題のあずまやの中にはいる〕
第十三場
〔前場の登場人物一同(伯爵を除く)〕
【アントニオ】 正しいおさばきだ。
【ブリドワゾン】 ぜ、ぜ、全体、誰が人の、にょ、にょ、女房をとったのだね!
【フィガロ】 〔笑いながら〕誰もそんなうまい汁は吸いませんよ。
第十四場
〔前場の人物一同、伯爵、シェリュバン〕
【伯爵】 〔あずまやの中で話しながら、まだ姿は見えない何者かを引き連れて〕おい令夫人、いくらもがいても無駄な話だ、絶対絶命だ、のっぴきならぬ時が来たのだ!〔相手を見ずに出てきて〕いまわしい野合の種なんか宿されてたまるものか……
【フィガロ】 〔叫ぶ〕シェリュバンだ!
【伯爵】 小姓めか?
【バジル】 これは、これは!
【伯爵】 〔われにもあらず、傍白で〕またしても、けしからん小僧めが!〔シェリュバンに〕そこの中でなにをしておった?
【シェリュバン】 〔おどおどしながら〕仰せにしたがい、かくれておりました。
【ペドリーユ】 それじゃ、馬こそくたびれもうけだ!
【伯爵】 アントニオ、お前がはいって、判官の面前に不貞の妻を連れてこい。
【ブリドワゾン】 お前さんがお、お、奥様をさがしにい、い、いくのかね。
【アントニオ】 すばらしいさずかりものがございますぜ……殿様は郷《くに》じゅうの別嬪をお漁《あさ》りになりましたからな。
【伯爵】 〔激怒して〕はいらんか!〔アントニオはあずまやの中にはいる〕
第十五場
〔前場の人物一同(アントニオを除く)〕
【伯爵】 皆、見ているがよかろう、小姓めがひとりでいたわけではない。
【シェリュバン】 〔おどおどして〕あたしの身の上は、おやさしいお方に慰めていただきませんでしたら、あんまりつらすぎたでございましょう。
第十六場
〔前場の人物一同、アントニオ、ファンシェット〕
【アントニオ】 〔まだ姿は見えぬ誰かの腕をつかんで連れて来る〕さあ、さあ、奥様、出ておいでになるのに、そう世話をお焼かせになっちゃいけません、あなたがお入りになったことは、ちゃんとわかっておりますからな。
【フィガロ】 〔叫ぶ〕この小娘が!
【バジル】 これは、これは!
【伯爵】 ファンシェットか!
【アントニオ】 〔振りかえって、叫ぶ〕ひやあ! 殿様、とんでもねえ話で。こんな騒ぎをおこしたのがわたしの娘だってのを皆さんにお目にかけるのは、御冗談がすぎますなあ!
【伯爵】 〔いらだって〕小娘がはいっていると誰が思うものか。〔彼は去ろうとする〕
【バルトロ】 〔伯爵の前に立って〕あいや、伯爵閣下、こりゃいよいよわけがわかりませんな。わたくしは、びくともいたしません、わたくしは……
【ブリドワゾン】 いや、どうも、こ、こ、こみいった、じ、じ、事件じゃ。
第十七場
〔前場の人物一同、マルスリーヌ〕
【バルトロ】 〔話しながらあずまやにはいって、出て来る〕奥様、御心配にはおよびません、断じて御迷惑はおかけいたしません、大丈夫〔振りかえって叫ぶ〕マルスリーヌだ!
【バジル】 これは、これは!
【フィガロ】 まったく、乱痴気にもほどがあらあ! お袋までも仲間入りか?
【アントニオ】 あとになるほど≪ぼろ≫が出る。
【伯爵】 〔いらだって〕そんなことはどうでもいいわい。伯爵夫人を……
第十八場
〔前場の人物一同、シュザンヌ(扇で顔をかくしている)〕
【伯爵】 ……うむ! とうとう出て来たな。〔彼は女の腕をあらあらしくつかんで〕皆、どう思う、このけしからん女の制裁は……〔シュザンヌはひざまずいて、顔を伏せる。――伯爵は言葉をつづけて〕ならん、ならん!〔フィガロも傍らにひざまずく。――伯爵、さらに語気あらく〕ならん、ならん!〔マルスリーヌも伯爵の前にひざまずく。――伯爵さらにあらあらしく〕ならん、ならん!〔ブリドワゾンを除いて、一同ひざまずく。――伯爵、われを忘れて〕たとえ、百人ひざまずこうとも、ならんぞ!
第十九場(最後の場面)
〔前場の人物一同、伯爵夫人(別のあずまやから出て来る)〕
【夫人】 わたくしでも数に入れていただけましょうか。
【伯爵】 〔夫人とシュザンヌを眺めながら〕やっ! これは、どうしたことだ?
【ブリドワゾン】 〔笑いながら〕いやはや、こ、これこそ、れ、令夫人じゃ。
【伯爵】 〔夫人を助けおこそうとして〕どうしたのだ! お前なのか?〔頼み入るような口調で〕誰も彼もゆるすほかはあるまい……
【夫人】 〔笑いながら〕わたくしの代りに、≪ならん、ならん≫とおっしゃってはいかが? 今日はもう三度目でございますよ、無条件でおゆるしいたしますのは。わたくし。〔彼女は立ちあがる〕
【シュザンヌ】 〔立ちあがって〕あたくしも。
【マルスリーヌ】 〔立ちあがって〕わたくしも。
【フィガロ】 〔立ちあがって〕わたくしも。ここも反響《こだま》にひびきますな!〔一同立ちあがる〕
【伯爵】 反響《こだま》か!――やつらを相手にしてはかりごとを練ったが、やつらにかかってはこっちが子供あつかいだ!
【夫人】 〔笑いながら〕そんなことお悔みにならなくってもねえ、あなた。
【フィガロ】 〔帽子で膝をはらいながら〕芝居もこのくらいにやれますと、立派な大使ができあがりますなあ!
【伯爵】 〔シュザンヌに〕ところで、ピンで封じた、あの手紙は?……
【シュザンヌ】 奥様のお言葉をわたくしが書きまして。
【伯爵】 返事はとどくところへとどいたわけだ。〔彼は夫人の手に接吻する〕
【夫人】 めいめいがもらうものをもらうことでございましょうよ。〔彼女はフィガロには財布を、シュザンヌにはダイヤモンドを与える〕
【シュザンヌ】 〔フィガロに〕またお嫁資《かね》だよ!
【フィガロ】 〔手の中で財布をたたいて〕それも三方からな。こいつが一番手に入れるのに骨が折れた。
【シュザンヌ】 わたしたちの祝言のようにねえ。
【グリップ・ソレイユ】 じゃあ、花嫁の靴下どめのリボンはおれがもらおうか?
【夫人】 〔大切に胸に蔵していたリボンをひき出して、地上に投げて〕そのリボンならシュザンヌの着物に着いていたのよ、さあ、それよ。〔祝言に集まった少年たちがそれを拾おうとする〕
【シュリュバン】 〔すこぶるすばやく、駆けて、リボンを拾って言う〕欲しいやつは腕ずくでとってみろ!
【伯爵】 〔笑いながら、小姓に〕お前のような恐りっぽい奴が、さっき、なぐられたのに、どうして笑ったのだ?
【シェリュバン】 〔一歩しりぞき、剣を半ば抜いて〕あたしがなぐられたと仰せられますか、連隊長殿?
【フィガロ】 〔こっけいな怒りかたで〕こいつへの御|打擲《ちょうちゃく》をわたくしの頬《ほっ》ぺたが受けとめましたので。そういうのが上つ方のお裁きでございます。
【伯爵】 〔笑いながら〕こやつの頬か? はっ、はっ、はっ、いかがでござる伯爵夫人!
【夫人】 〔なにかに気をとられていたが、はっとわれに帰って、情をこめながら、とりとめのない返事をする〕ほんとに! そうでございます、ねえあなた、どんなことがあっても、まったくねえ、それにちがいございませんわ。
【伯爵】 〔判事の肩をたたいて〕そこで、ドン・ブリドワゾン殿、貴公の御意見は?
【ブリドワゾン】 も、も、目前の事件についてでござるかな、伯爵閣下?……さ、さ、さようさ、わ、わたくしとしては、な、なんと申し上げて、よ、よろしいやら、これが、わ、わたくしの考え方でな。
【一同一緒に】 結構なお裁きだ!
【フィガロ】 わたしゃ貧乏でした。誰からも軽蔑されました。すこしばかりの知恵才覚をふるいましたが他人《ひと》の憎しみをますばかりでした。ところが、かわいい女房とお金がたんまり……
【バルトロ】 親切な味方が続々帰って来る。
【フィガロ】 ほんとでしょうか?
【バルトロ】 わしの知っとる味方ばかりじゃ。
【フィガロ】 〔観客に一礼して〕この女房とお宝《たから》は別にしておきまして、満堂のみなさま、わたくしに栄誉《ほこり》と快楽《たのしみ》とをお与え下さるよう、お願いいたします。〔ヴォオドヴィル(俗謡入りの喜劇)の唄の曲が奏でられる〕
ヴォオドヴィル
〔(意訳)本来、十節からなる歌謡であるが、上演に際してはその数節をえらんで唄うのを慣例としているから、ここは次の三節にとどめた〕
【シュザンヌ】
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亭主の浮気は自慢顔
茶飲話の笑い草
女房の浮気はいのちがけ
顔むけならぬ恥さらし、
愚痴も涙も鏖芥《ちりあくた》
それほど女は弱い者
それほど男は強い者[#ここで字下げ終わり]
【フィガロ】
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人の生れは当り不当り
一人は王様一人は牧童
運命《さだめ》の針《はり》は西東
知恵才覚があればこそ
王侯貴人の鼻面を
自由自在に引廻す
大先生はヴォルテエル[#ここで字下げ終わり]
【ブリドワゾン】
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お、お、およそ芝居の性根《しょうねん》は
人心世相を、え、え、描きあげ
ちゅ、ちゅ、中傷|讒誣《ざんぶ》を乗りこえて
よしあし草は、ひ、ひ、人まかせ
き、き、喜怒哀楽のゆきかいを
綴り合わせて、た、た、たのしませ
う、う、唄でおわるが世のならい。
[#ここで字下げ終わり]
〔合唱〕唄でおわるが世のならい。
|Tout fnit par des chansons.《トゥ・フィニ・パアル・デ・シャンソン》
―幕―
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[解説]鬼才ボーマルシェ
「泣くが厭《いや》さに笑い候」……理髪師フィガロ
『セヴィラの理髪師』と『フィガロの結婚』は、一つはロッシーニの、一つはモーツァルトの作曲にかかるオペラとして、日本でも一般に知られているが、原作はいずれもフランス十八世紀の劇作者ボーマルシェの手になる脚本である。この二つの劇はその書きおろし以来、フランス国立第一劇場コメディ・フランセーズにおいても、第二劇場オデオンにおいても、絶えず繰り返して演ぜられ、芝居好きなパリ人士を常に興がらせている。
歴史的に考察すると、この二つの劇はルソーの『社会契約論』やモンテスキューの『法の精神』やヴォルテールその他百科全書派の著作に追随して、フランス革命の近因ともなった傑作として挙げられるものであるが、今日になって現に舞台で演ぜられるのを観ると、両作ともきわめて甘い、全く興味中心のお芝居で、要するに文学的レヴィユの価値を与えらるるにすぎぬだろう。ただ文学的レヴィユとしては、確かに第一流というべく、特に『フィガロの結婚』にいたっては、平俗にしてしかも華やかな恋愛を中心として、貴族の無為、放縦、堕落を伯爵アルマヴィヴァに、庶民の反抗心と機略とをフィガロに配して、警句や機智に充ちた幾多の面白い場面を積み重ね「ものみな唄でおわる」という陽気な唄の結句にいたるまで、徹頭徹尾観客を歓ばすたぐいまれな傑作に相違ない。
おもうに、十九世紀末にエドモン・ロスタンが『シラノ』を描いて、ドレフュス事件以来とみに沈滞した軍国主義に甦生の息を吹き込んで、伝統的な尚武の気風に浪漫的な花を咲かせたが、十八世紀末の『フィガロ』が永年の専制政治からまさに解放されようとする庶民の代弁者として、一世紀後の『シラノ』と対立しているのは偉観である。『シラノ』も『フィガロ』もともにフランス一流のエスプリ・ゴオロワと派手な感傷主義とを充分に利かせた民衆戯曲中の珍品である。
『フィガロ』の作者ボーマルシェ。これがまた桁《けた》はずれの変り種で、フランス革命前のごとき乱脈な世相からでなければ決して生れぬ鬼才中の鬼才であった。彼はほとんど事業狂とも形容すべき仕事師で、生れはパリの時計屋の息子だが、貴族の地位を金で買い、時の政治家や財政家と結んで檜《ひのき》舞台に乗り出し、私設外交官のような役割りを勤めるかと思うと、莫大な身銭《みぜに》を切って『ヴォルテール全集』の出版者となったり、武器の調達者となってアメリカの独立戦争を援《たす》けたりした。金も儲けたが損もした。劇作は空前の当りをとったが、それは彼の波瀾に富んだ一生から観ればむしろ余技の観がある。彼は思想においてはあくまでも民衆の味方であったが、真の革命家となるにはあまりに反語的で懐疑的であった。
「自由がそもいかなる実《み》を結ぶか。この苦《にが》き芽は必ずや賢明なる制裁を伴う法律に接木《つぎき》せられねばならぬ」という彼の晩年の述懐は、大革命の体験からえた苦言としてことに貴いのである。フランス革命の激しさは、彼の漸進的な改革主義をはるかに超えて、血で血を洗う狂気沙汰に燃え上るのを視《み》ては、彼は心から戦慄して、苦悩する市民とともに方針を誤ったと思った。大革命を期として彼の目的は齟齬《そご》し、稀有な鬼才も揮えば揮うほど自らの不利となって面白からぬ晩年を淋しく閉じたのである。
幸い彼は劇作者として数種の作を書き、なかんずく『セヴィラの理髪師』と『フィガロの結婚』を傑作として後世に遺《のこ》すことができたから、我らフランス文学専攻の学徒からも研究の対象とされるが、彼のごときその全生涯を働きとおし暴れぬき、楽しみほうだい楽しんだ男は、後世自分の劇作が研究の題目となるのを墓の中で知ったら、「とんだ暇人《ひまじん》もあるもの哉《かな》」と破顔一笑することだろう。
一七八○年代におけるフランスの社会を顧《かえりみ》るに、もろもろの新思想がむらがり起って、社会の四隅に波のように拡がっていった。いたるところにサロンが開かれ、哲学的論議はおのおののサロンを壟断《ろうだん》していた。その中でも特に著名なのはレスピナス嬢を主人公とするサロンであった。百科全書派の人びとや貴族や外国の名士の群れがこのサロンを訪れて、誰も彼も新思想の代表者のごとくふるまった。客たる資格はただ進歩の説を支持して専制を憎みイギリスを崇拝するだけで足りた。これら貴族ないし有閑階級のサロンにおいては、おおむね百科全書派ならびに、ヴォルテールの影響が支配していたのである。
また一方においては、同じく上層社会の懐疑的な潮笑的な人士から排斥されたにもかかわらず、ルソーの影響が同時に浸みこんでいった。十九世紀浪漫主義の母といわれるスタール夫人の文学的第一歩がジャン・ジャックの讃美によって踏み出されたのは広く知られている。素朴な自然への憧憬や飾らぬ田園情調が人心を強く刺激して、芝居の背景すら伝統的な幾何学的なヴェルサイユ式庭園よりもむしろ英国風の鄙《ひな》びた、自然を歪めぬ風致に近づいたのである。妃マリー・アントワネットさえ、トリアノン宮において羊飼いの娘に扮して、ひたすら田園趣味に耽《ふけ》って楽しんだ。
しかるに一度上層の階級を離れて民衆の中に下ると、世相はさらに真剣味を帯びていた。民衆はすでに自然の感情と戯れてはいなかった。自然感は彼らの心に充《み》ち魂を熱していた。社会の上層においては思想は精神の体操や娯楽にすぎなかったが、下層においては栄養とも希望ともなったのみならず、一転して生存の理由ともなっていた。すなわちヴォルテールの影響のうすれてゆく辺《あたり》にルソーの勢力が著しく濃くなってきたのである。ジャン・ジャックこそ階級的差別観によって虐《しいたげ》られた、昂然たる第三階級の魂の慰安者であった。名もない一青年がパリの街頭に立って、傾聴する群衆に『社会契約論』を解説していた。それが後年のジャン・ポール・マラーであった。ある版画家の娘は日ごろ崇拝するルソーの姿を垣間見んものとプラトリエール街まで出向いたり、夜は部屋に籠《こも》って愛する文豪の著作に読み耽り、ついに身をもって『新エロイーズ』を生活する運命を担うにいたった。それが断頭台上に消えたローラン夫人であった。ミラボー、スタール夫人、マラー、ローラン夫人、この四者には特にジャン・ジャックの感化が強く深いのである。
ヴォルテールの思想とルソーの思想とにさらに代表的百科全書派ディドロの思想が加わって一丸となり、当時なんぴともすでに永続を欲しなかった現在の社会を解体する潮流に溶け入ったのであった。この三大家が植えつけた自然感、すなわち生存欲、知識欲、ならびに現存の専制を嫌ってこれに代る他のものを求めんとする念慮《ねんりょ》がまさに爆発せんとした精神的混乱期に、初めて『フィガロ』が演劇の舞台に現われたのであった。
架空な『フィガロ』がすでに時代の産物である以上にボーマルシェは、それに輪をかけた破格な時代の産物であった。彼は階級制度がまだ存続し、身分の隔てが個人的能力を重く圧していた時代に、驚くべき個性を発揮して社会のあらゆる柵を乗り超え、立身出世の道を拓《ひら》いた不思議な男であった。
彼の本名はピエール・カロン、パリ、サン・ドニ街の時計商の店で生れた(一七三二)。彼は父の業を継いで若き時計製作者として腕を磨いたが、古典的教養を獲得する事も怠らなかった。単なる職人として一生を送るには彼の野心は少々大きすぎた。彼は苦心の結果、指輪に嵌《は》め込むほどの小さな平たい時計を考案して、ポンパドゥル夫人やルイ十五世の姫君に献上し、王家の信用と寵愛とをほしいままにするようになった。加えて、彼は音楽の才が豊かであったので、いつのまにか流行に先んじて竪琴を弾ずる術を巧みに修得して、王の姫君達の音楽教師となった。自由に宮廷に出入りするようになってからは、彼は知名の財政家パリ・デュヴェルネーと結んで相当の資産を作るには抜け目がなかった。金ができると彼は貴族になりたくなった。そこで、王の秘書官と狩猟官の役を買ってまんまと貴族になった。貴族になってみるとピエール・カロンという名では幅が利かないので、最初の妻の所有地ボーマルシェを採って、カロン・ド・ボーマルシェと名乗った。加賀の前田といった具合いである。こんな事は綱紀の紊乱《びんらん》した十八世紀のフランスでは珍しくもなかったらしい。しかし、彼の出世ぶりは生れながらの貴族からは憎まれた。貴族達は、平民あがりの彼をなにかにつけて軽蔑するような態度に出た。しかるに、彼は生得の貴族よりも腕で獲《え》た貴族たる事をむしろ誇りとして、「拙者は地位を買った受け取りを持っている」と公言した。
ある日ヴェルサイユ宮の廊下でさる貴族が成り上りの彼を侮辱するつもりで、辞令だけを恭々《うやうや》しくして、実は懐中時計が破損したから、ちょっと大兄に調べて頂きたいと彼の目の前に時計を突きつけた。すると、彼も恭々しく、私は誠に手先きが不器用で時計の修繕は不得手でございます、と答えたが、相手は、それでもなお執拗に頼むので、彼はやむを得ず時計を手にとった後、故《ことさら》に指の間からそれを床の上に落してしまった。毀《こわ》れた時計を慌てて拾い上げた相手を顧みて、不敵な彼は、それだから申さぬ事ではない、某は手先きがいたって不器用だと、な、と言い放って、後も見ずに去ったそうである。
彼の名声は年を経《ふ》るに従って増大した。ことに彼の名をフランスの国外までも響かせたのは、一七六四年のクラヴィホ事件であった。クラヴィホはスペインの文学者で、ボーマルシェの妹の許婚者《いいなずけ》であったが、結婚のまぎわになって破約した。妹の名誉を理由なく、釈明もせずに傷つけられて、ボーマルシェは単身マドリッドに乗り込んだ。彼はこの破約事件をスペインの社会問題にまで煽《あお》りたて、クラヴィホをして破約を取り消させたのである。しかるに、クラヴィホは表むきには和解を装いながら、陰にまわってひそかにボーマルシェ投獄の狡計《こうけい》をめぐらしていた。ここにおいてボーマルシェは異常な勇気と術策とをふるって、敵地に在りながらただ独りでスペインの大臣大官を初め多くの敵を相手にして問題の重大性を誇張し、スペイン王宮にまで入り込んで説得し、ついにクラヴィホの社会的地位を粉砕してしまった。
一七七〇年、パリ・デュヴェルネーの相続者たるド・ラ・ブラーシュ伯との間に一大訴訟問題が起こって、彼は十三万九千リーヴルの金額を請求された。この訴訟は、控訴院では彼の勝訴となったが大審院では敗訴の宣告を受けた。彼は一方にド・ラ・ブラーシュ伯と争うかたわら、その事件の主任判事たるゴエスマンとの間にも訴訟を起こし、判事夫人に貸し金があると主張した。これらの訴訟事件を彼は四巻の『回顧録』に綴って、その縦横|無碍《むげ》の才筆に一世を驚嘆せしめたばかりでなく、ゴエスマン排撃の輿論を醸《かも》し出すと同時に、ついにゴエスマンとともに当時のモオプウ内閣不信任の機運まで作ってしまった。名作『セヴィラの理髪師』はかかる闘争の片手間に書かれ、上演されたのであった(一七七五)。
常に野心に燃え、驚異的な事業に餓《う》えていたボーマルシェは劇作の成功ぐらいではとうてい満足してはいられなかった。彼は間もなく、ヨーロッパの諸国を訪れて、ルイ十六世やマリー・アントワネットに対する中傷を鎮撫する私設外交官のような役目を引き受けて東奔西走したが、時あたかもアメリカ独立戦争が勃発した。ボーマルシェがかかる絶好の機会を見逃がすはずがない。彼は機運に乗じてフランスの国威を発揚すると同時に、自分もたらふく儲けてやろうとただちに肚《はら》を決めて、政府の内諾のもとに十数隻の船を仕立てて、大量の武器を独立軍に輸送した。もし彼の目算どおり独立軍が金を支払ってくれたら、一躍大金持になるところであったが、この大事業で彼の得たものは無鉄砲な名声と莫大な損失であった。しかも三面六臂の彼は外国の戦争に手を貸しながら、国内においては劇作者の利益を擁護する運動を唱道して、今日の劇作家協会の基礎を築くと同時に、損失を忘れてヴォルテール全集の上梓に尽力した。もちろんその全集は今日からみれば完璧をもって許すことはできぬにしても、すでに外国に散逸した文豪の文献までも丹念に蒐集して余力を剰《あま》さなかった点は、当時として最善の努力を傾注したものというべきであった。その他、彼は国家の財政問題にも関与し、蒸気ポンプを利用してセーヌ河の水をパリ市内に供給するごとき公益事業にも携わりながら、自分の享楽主義を充分に満足させることも決して忘れなかった。かくて一七八四年、物議に物議を重ねた末ようやく上演の運びにいたった『フィガロの結婚』の大成功は、彼の全生涯における得意の絶頂であった。
やがて、フランスの天地が暗くなってきた。彼の賑やかな反語は、ようやく時代の空気と相容れなくなった。ついに大革命がきたのである。彼が贅《ぜい》を尽くして新築した邸宅がバスチーユ監獄の正面であったのが運が悪かった。当時のバスチーユは民衆の呪誼の象徴であった。狂える民衆の眼にはボーマルシェの壮麗な家もバスチーユの延長と見えたのであろう。当時ミラボーに敵視された事も一因となって、彼はいかに良市民の資格《シヴィスム》を弁疏しても甲斐がなかった。彼は疑われ、監視せられたあげく、武器|隠匿《いんとく》の名のもとに私財を掠奪されるにいたった。間もなく彼は革命政府から銃の購入のためオランダ派遣を命ぜられたにもかかわらず、理由のない嫌疑によって一時アベイの獄に投ぜられた。アベイの獄から釈放されると彼はさらに革命政府の海外商務官としてオランダに赴き、銃の購入に尽力したが、政府の命令が一途《いっと》に出でず、彼の信用も旧のごとくではなかったから、南船北馬の骨折りも結局甲斐がなかった。やがて、彼の名は亡命者の名簿に記入せられ、三年の間彼はオランダやベルギーやドイツの各地を放浪してつぶさに窮乏を嘗《な》めた。
革命後、執政官政府の時に彼はようやくパリに帰来することができて、久しぶりで離散した妻や娘達とささやかな家庭生活を営むことができるようになった。当時、彼はすでに老境に入って耳は全く聞えなくなり、生活にも余裕が乏しくなったが、意気は毫《ごう》も衰えず、常に快濶《かいかつ》で、書を読み、文を売り、一七九二年には前述の二作と併せて三部作を形づくる『罪の母』を書いてのこんの闘志を発揮し、彼の最後の仇敵たりし弁護士ベルガスを槍玉にあげたが、老いはいよいよ迫ってきてついに十八世紀の最後の年に、稀に見る風雲児も波瀾|重畳《ちょうじょう》の幕を閉じた。
この奇智警句|湧《わ》くがごとき快楽児、いかに困難な事業――文芸、政治、外交、商業、工業――にも真向からぶつかって、いたるところで問題をひきおこし、訴訟の種を蒔き、巨額な富を得たかと思うと莫大な借金を背負いこみ、自ら楽しむと同時に人をも楽しましめたボーマルシェはまことに十八世紀末の最も複雑な人物であった。彼は生涯を通じて多くの敵と多くの味方との間を華やかに賑やかに、絶えず鳴り物入りで送り続けた。あらゆる権謀術数を弄して敵を破り敵からも傷つけられたが、彼は断じて陰険な男ではなかった。もし陰険に対して陽険という形容詞があり得るなら、彼は正に陽険な怪男児であった。彼のごとき人物こそ、旧時代が終り新時代が始まらんとするめまぐるしいばかりの混乱期の代表的存在といってよかろう。
『セヴィラの理髪師』の筋はここに精《くわ》しく述べるまでもない。若きアルマヴィヴァ伯爵は佳人ロジーヌに恋しているが、ロジーヌの後見人バルトロ医師が厳重に監督している。それというのも、バルトロ自身が年甲斐もなく、ひそかにロジーヌを妻にしたいからであった。そこで、伯爵は機略に富んだ理髪師フィガロの策と術とに頼って、バルトロの横恋慕を出し抜き、めでたくロジーヌと結婚する。
『セヴィラの理髪師』においてボーマルシェが操った題材はすでにモリエールが『女大学』で描いた題材と同工異曲にして、圧制的な権力で身を鎧《よろ》う老年に対抗して青春を擁護する思想に特に新味があるわけではない。しかし、この劇によって、十八世紀の通弊でもあったサロンの滑稽趣味は、久しぶりで再び街頭に出て自由な空気を呼吸したと言えよう。加えて、舞台をパリに採らずスペインに求めたのも、当時として多少の新しさを伴っていたろうが、それ以上に注目に値いするのは、作者がフィガロという人物に異常な重味を与えている点である。フィガロは一個の下僕にすぎぬが、それはすでにモリエール喜劇に出てくるスカパンやマスカリイルの同類ではない。フィガロは社会における下僕の地位を自覚している。彼は下僕の不満と反抗心とを体《たい》し、下僕が世に処して生活を完うするには、いかなる哲理によりいかなる手段に訴えて上流の搾取に備えなければならぬか。そこにフィガロの使命と闘争とがあり、そこにやがて来らんとする時代の平等と自由とが――おそらく夢として――横たわっているのである。
『セヴィラの理髪師』に次ぐ『フィガロの結婚』が始めて上演を許されたのは一七八四年であったが、この劇が公許を得るにいたるまでには、すったもんだの論議が何度も重ねられた。旧制度《アンシャン・レジーム》に対する反抗、揶揄《やゆ》の露《あら》わなこの劇が、国王からも官権からも忌避されるのはむしろ当然であった。しかるに明敏な作者は、新奇を好み、快楽を追い、スキャンダルを求めてやまぬパリっ児の心理を見抜いて巧みに観衆の好奇心を煽《あお》り、結局王侯も官権も、その上演を許さざるを得ぬように四囲の情況を有利に導くほどの凄腕を揮《ふる》った。この劇は、最初は、特殊のサロンにおいて、三百人の貴顕の面前で試演せられ、ついでフランス座において公開されたのである。実に華々しい成功で、新作を観んものとフランス座に押し寄せた群衆の熱狂ぶりは空前であった。劇場の入口では、押すな押すなの騒ぎで、踏み殺されたり負傷した観客も数名に及んだと伝えられている。
『セヴィラの理髪師』では、アルマヴィヴァ伯爵とロジーヌとの結婚が主となっているが、『フィガロの結婚』においては、用人フィガロと腰元シュザンヌとの結婚が主になっている。かつてフィガロの策略によって首尾よくロジーヌを妻として迎えることができた伯爵は、ようやく夫婦生活に倦怠を覚えてシュザンヌに食指を動かし、一度廃棄した「初夜の権」を悔《くや》みはじめる。そこでフィガロは愛するシュザンヌと夫婦になるために、あらゆる知恵を搾って伯爵夫人や侍童シェリュバンを巧みに操縦しつつ、伯爵のみだらな野心を退治してシュザンヌと結婚する。
この劇においては、フィガロはすでに恋する男女に仕える脇師《ワキ》ではない。下僕ではあるが彼自身が恋の仕手《シテ》である。下僕はあくまで主人と対等の地位に立って一人の女性を争うのである。しかも下僕は智謀においても、戦術においても、勇気においても主人を遥かに凌駕している。
ボーマルシェはこの劇において、アンシャン・レジームを曲庇《きょくひ》する堕落貴族、不正の法律、不正の権力、不正の政策に極力反抗して、思索の自由、言論、著作の自由を擁護せんとした。彼は明らかに社会の一方に無能と享楽とがあり、他の一方に才能と貧困とが厳存するのを指摘している。それはすでに作者一人の思想ではなく、十八世紀哲学や百科全書派によって唱道せられ、民衆に支持せられて、フランス全土に弥漫《びまん》した社会常識でもあった。ある夜、伯爵邸の庭の一隅に佇《たたず》んでシュザンヌを待ち焦がれているフィガロの独白にもその辺の消息は明らかに表明されている。「……いけませんよ、伯爵閣下、彼女《あいつ》ばかりは渡せません……渡して堪《たま》るものか。貴方は豪勢な殿様というところから、御自分では偉い人物だと思っていらっしゃる! 貴族、財産、勲等、位階、それやこれやで鼻高々と! だが、それほどの宝を獲《え》らるるにつけて、貴方はそもそも何をなされた? 生れるだけの手間をかけた、ただそれだけじゃありませんか。おまけに、人間としてもねっから平々凡々。それにひきかえ、この私のざまは、くそいまいましい! さもしい餓鬼道に埋もれて、ただ生きてゆくだけでも、百年このかたエスパニヤ全土を統治《おさ》めるぐらいの知恵才覚は搾《しぼ》りつくしたのです。ところで、貴方はこの私と勝負をなさるおつもりですな。……」という文句で始まる例の長独白《ながぜりふ》は、ユゴーの『エルナニ』の長独白と相俟《あいま》って、フランス演劇史上最も名高いものである。
今日ではフィガロの独白のごときは、狂言に出てくる太郎冠者が馬鹿殿様をたぶらかす軽い笑劇ほどの思想内容にすぎぬが、これが維新前なら、封建諸侯に対する反抗的劇作として作者は重刑を課せられたでもあろう。
ボーマルシェの劇や名高い『回顧録』の文章は、対話体としてほとんど完成の域に達したものといわれている。その才華、機智、滑稽、真に端倪《たんげい》すべからざるものがある。しかしながら、それはモリエールの喜劇におけるがごとき、内部から、自然に滾々《こんこん》と湧いて出る文章とは自《おのずか》ら異っている。彼の文章を精細に読んでみると効果を意識し、反省を重ね、技巧を凝らして作り上げた跡が感じられる。精巧な、緻密な機械を見るような印象を与えられるのである。彼の文章や劇の構成を批評して、さすがに時計屋の伜《せがれ》だけあって、秒を刻《きざ》み分を計《かぞ》えて過《あやま》たぬこと時計のごとし、と言った批評家がある。
とまれ、ボーマルシェという男は、奇《く》しき時勢に生れ、奇しき運命の籤《くじ》を抽《ひ》いて、六十七年の奇しき生涯を送った珍しい人間であった。彼が死ぬ前日、彼と半生の苦を分《わか》った親友ギュダンと永年知己であったある書肆《しょし》の主人ボッサンジュとが彼を訪れた。その時、ボッサンジュは次のような述懐をしたと伝えられている。
「ねえ、先生、あなたぐらい不思議な頭の持主はありませんよ。時計屋さんとしては、二十二歳で、新しいシステム時計を発明なされた。音楽家としては、立派な教師にもなり、機械製作者としては、並びない腕前を発揮なされた。実業や外交の方面にまで手を拡げて、偉い権力者達の忠言者となるかと思うと、芝居の脚本にも筆を染めて群を抜《ぬき》んでられる。出版に従事なさったかと思うと、船主にもなって、アメリカ人に軍需品を送ったり、フランスのために銃砲を供給したりなされた。貧しい人には金を、地位の欲しい人には地位を与え、知恵のない人には知恵を貸しておやりになった。その上、多くの友達から親しまれ、近づいて来る女達からは可愛がられ、今年ははや六十七歳になられたが、しかも拙者よりはよほどお若い……全く、不思議な仁《ひと》もあればあるものかな!」
こんな言葉をのこして、ボッサンジュ老人は杖を曳き曳き、ギュダンと連れだって帰っていった。やがてボーマルシェは家族たちに接吻してから、いつものとおり寝室に昇っていった。その翌日、一七九九年五月十八日、彼は寝室の中で冷たくなっていた。卒中であった。しかも死相眠れるがごとく、口辺には微笑の影さえ漂っていたという。
ボーマルシェはかつて彼の分身フィガロに語らせたことがあった。
「人間? それは舞台に現われたように舞台から退いて、もと来た道をとぼとぼと帰ってゆく者です。それから、諸|厄《やく》……諸病……老耄《おいぼ》れて力も尽きた木偶《でく》……冷たいミイラ、一個の骸骨、一つまみの塵、かくてついに虚無《リヤン》……虚無《リヤン》!」
これが神を信ぜず、来世を俟《ま》たぬ十八世紀の児の人生観であった。
畢竟《ひっきょう》するに、ボーマルシェは、その生涯を挙げて活動のための活動を追う一個の快楽児であった。その奮闘はまことにめまぐるしいほど華々しく、フランス国内はおろか、ヨーロッパ中を股にかけて、如意の腕を揮《ふる》い、如意の文を舞《ま》わし、如意の舌を弄したが、彼の人となりのどこからも偉大とか深遠とかいう印象は得られない。版画家ホップウッドの描いた彼の横顔は、いかにも気の利いた男前ではあるが、どことなく猿に似たところがないではない。ボーマルシェは蓋《けだ》しフランス文学の孫悟空か。
(N・B)ボーマルシェ研究に関してぜひ読まねぱならぬ文献は、ルイ・ド・ロメニーの『ボーマルシェとその時代』である。上下二巻。暇の乏しさから、この貴重な参考書を改めて読みなおすことができなかったので、やむを得ず、ラルース世界大辞典旧版およびルネ・ダルセームの『ボーマルシェ伝』ならびに二三のフランス文学史に拠って本稿を綴った。(訳者)
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年譜
一七三二年
一月二十四日、ピエール=オーギュスタン・カロン、パリのサン=ドニ街に生まる。父アンドレ=シャルル・カロンは時計職を営む。元来新教徒の家庭なるも、父は親方の地位を獲得するためカトリックに改宗。姉三人、妹二人、男子はピエール=オーギュスタンのみ。
一七四二年(一一歳)
アルフォールの獣医学校に入学。
一七四五年(一四歳)
父、獣医学校をやめさせ、家業を仕込む。
一七四八年(一八歳)
長姉マリー=ジョゼーフ、スペインの商人ギルベールと結婚、マドリッドに行く。次姉マリー=ルイーズも姉に同行す。長姉の結婚後、ピエール=オーギュスタンは仕事に熱意を失い、しばしば深夜に帰宅し、また時計の修繕科を使いこむなど好ましからぬ行為あり。父は彼を家から追い出したが、やがて帰参かなう。
一七五二年(二一歳)
七月、時計の速度調節装置を発明。それにかんする論文を科学アカデミーに提出中、同業者ル・ポート、それを自分の発明であるかのごとく装って≪メルキュール・ド・フランス≫誌に発表。十一月ピエール=オーギュスタンはこの事件を科学アカデミーに訴え、一七五四年二月、科学アカデミー、彼の主張を是認す。
一七五四年(二三歳)
宮廷御用の時計職となる。
一七五五年(二四歳)
店に時計修繕を依頼に来たフランケ夫人と識り、懇ろな仲となる。十一月、夫人の夫の所有せる「大膳職会計係官」の役職を譲り受く。
一七五六年(二五歳)
フランケ死す。十一月二十七日、ピエール=オーギュスタン、フランケ未亡人と結婚。夫人の所有せる小領地ボワ=マルシェの名をとって、ピエール=オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェと称す。
一七五七年(二六歳)
九月、妻(旧フランケ夫人)死す。
一七五七〜六三年
王妾ポンパドゥール夫人の前夫デティオールの城館に出入り、その舞台で演じるため一連の道化芝居をつくる。
一七五九年(二八歳)
四人の王女(アデライード、ルイーズ、ソフィー、ヴィクトワール)のハープの先生となり、その雑用を便じて重宝がられる。この頃より『まじめな芝居にかんする試論』および『ウージェニー』に着手す。
一七六〇年(二九歳)
パーリス=デュヴェルネーの経営する士官学校に国王が行幸するよう骨を折り、それが実現せるため、デュヴェルネー、ボーマルシェのため年金を設定し、かつ自分の事業に彼を引き入れる。
一七六一年(三〇歳)
父、時計職をまったくボーマルシェに譲る。十二月、デュヴェルネーの金銭的援助を得て、八万五千フランを投じて貴族の地位を買う。
一七六二年(三一歳)
国王専用狩猟地にかんする繋争事件裁判所判事の地位を購入せんとしたが、同僚の判事たちはボーマルシェを成り上り者として忌避し、結局その首席判事代理の地位を得。
一七六三年(三二歳)
一月、コンデ街に四階建ての邸を買う。この頃より妹の友人で植民地生まれの女性ポーリーヌ・ル・ブルトンに心を寄せる。
一七六四年(三三歳)
次姉マリー=ルイーズの許婚者クラビホが結婚の約束を履行しないので、四月パリを発ってマドリッドに向う。五月同地着、姉の恥辱を雪ぐ。新大陸における利権を得んとしてスペイン政府に猛運動せるも成功せず。
一七六五年(三四歳)
三月マドリッドを出発、パリに帰着。彼の留守中ポーリーヌ・ル・ブルトン嬢、騎士セギランと婚約し、ボーマルシェ失恋す。警視総監(後に大臣)サルチーヌと識る。
一七六七年(三六歳)
一月二十九日、『ウージェニー』フランス座にて初演。好評でも不評でもなし。それに『まじめな芝居にかんする試論』を付して出版。
一七六八年(三七歳)
四月、レヴェークの未亡人ジュヌヴィエーヴ=マドレーヌ・ワトブレと再婚。十二月夫人男子を出産。シノン地方に森林を経営す。
一七七〇年(三九歳)
一月十三日、第二作『二人の友』初演。人気かんばしからず、十回にて打ち切りとなる。七月デュヴュルネー死す。その遺産相続人ラ・ブラーシュ伯、ボーマルシェの債権を否認し、訴訟となる。十一月、二度目の妻、肺結核で死す。
一七七二年(四一歳)
二月ラ・ブラーシュ伯第一審にて敗訴し、控訴す。十月、二度目の妻との間に生まれた男子を喪う。
一七七三年(四二歳)
一月、国立劇場フランス座『セヴィラの理髪師』を受理す。
二月十一日、イタリア座の女優メナールのことでショーヌ公、ボーマルシェの家に侵入、刃傷沙汰に及ぶ。同二十四日、この事件のためボーマルシェ、フォール=レヴュークの監獄に入れられる。三月二十二日、昼間は監視づきで監獄より外出することを許され、高等法院にて繋争中のデュヴュルネーにたいする債権の件にかんする訴訟のため、事件担当の判事ゴズマンの夫人の手を介して夫の評定官(判事)に面会。再度面会せんと努力したが成功せず。
四月二十六日、高等法院、ゴズマン評定官の審理報告にもとづき、ラ・ブラーシュ伯の勝訴を宣告す。
五月八日、ボーマルシェ、フォール=レヴュークの監獄より釈放され、ゴズマン事件にたいするカンパーニャを開始す。六月ゴズマンの訴えにもとづき、検事総長は裁判官に汚職の事実ありや否やの調査をおこなう担当官を指名。ボーマルシェ『覚え書』を刊行してゴズマン夫人の主張の虚偽をあばく。
十二月十五日、ボーマルシェが、ゴズマンは隠し女に約束の私生児養育料を支払わぬのみか、その児の洗礼に際し、地位姓名を詐称せることを暴露せる手紙を検事総長に送ったので、高等法院はゴズマンに辞職せしめることを決定。
十二月二十三日、ボーマルシェ、高等法院部長ニコライと法院内にて悶着をおこす。
一七七四年(四三歳)
一月、第四の『覚え書』を刊行。彼の『覚え書』に魅せられた娘マリー=テレーズ=エミリー・ヴィレル=モーラスに惚れ、関係を結ぶ。二十一歳年下の娘。一七八六年に正式に結婚。この女性はボーマルシェの晩年の伴侶として、その不幸な生活のささえとなる。
二月、ゴズマン事件にかんする判決あり、ゴズマン夫人は三六〇リーヴルの返却を命ぜらる。ボーマルシェは高等法院の威信を傷つけたるかどにより、「謝罪」を命ぜられ、四冊の『覚え書』は高等法院大玄関にて焼却と宣告。この判決は結局実行されなかったが、ボーマルシェは逮捕をまぬかれるため一時身をひそめる。ボーマルシェはサルチーヌの勧告にもとづき、国王ルイ十五世に寛大な処置を願い出、しばらくパリを離れることを約す。
三月、ロンドンに向けて出発。同地にて王妾デュ・バリー夫人を中傷せる冊子『ある娼婦の覚え書』の著者テヴノー・ド・モランドを買収し、その冊子を破棄せしめることに成功。六月ロンドンより帰る。その直前にルイ十五世死し、ボーマルシェは報償の期待を裏切られたが、新王ルイ十六世に申し出て、マリー・アントワネットのことを中傷せるアトキンソンの冊子『スペイン分家に与うる意見書』を破棄する使命をおびてロンドンに引返す。同地にて仏語版の原稿と印刷ずみの四千部の冊子をアトキンソンより買収せるも、オランダ語版を準備しているというので、彼とともにオランダに赴き、オランダ語版を買収す。アトキンソン突如姿をくらまし、ドイツへ行く。ドイツ語版を作成中ならんとそのあとを追い、八月十四日、ニュルンベルク近くの森で彼と決闘す(これはボーマルシェの主張)。八月十九日、ウィーンに到着、女王マリア・テレサに謁見。女王はボーマルシェの労を感謝せるも、大法官カウニッツは彼に疑心を抱き、九月国事犯の疑いをもってホテルに軟禁。大臣サルチーヌがボーマルシェを信用している旨パリ駐剳オーストリア大使に言明したので、九月十七日、釈放され、九日後にパリに帰着するをえた。
一七七五年(四四歳)
二月二十三日、ショーヌ公事件、ゴズマン事件のため再度にわたり上演延期になっていた『セヴィラの理髪師』フランス座にて初演。この時は五幕物。評判かんばしからず、ただちに四幕物に書き改め、二月二十六日、再演、成功をおさむ。
四月、国王に報告書を送り、アメリカ独立軍の勝利を予告す。五月、秘密の使命をおびて再びロンドンに行く。十二月、パリ高等法院、デュヴュルネーにたいする債権の事件にかんし、ゴズマンの審理報告にもとづき下された一七七三年の判決を破棄し、エクス・アン・プロヴァンスの高等法院に本事件を再審理せしめることに決定す。
一七七六年(四五歳)
外務大臣ヴェルジェンヌに、アメリカ独立軍に武器を供給することを説得し、七月大臣よりひそかに百万フランの金を与えられ、さらにスペイン政府より同額の金を得てロドリゲス=ホルタレス商会を設立す。
一七七七年(四六歳)
海上の覇権を掌握せる英軍の目をかすめて五百万フランの物資(大砲・小銃・火薬・二万五千人分の衣料等)をアメリカに輸送することに成功。一月、女子ウージェニー生まる。七月、自邸に作家を招じて「劇作家協会」を設立。
一七七八年(四七歳)
アメリカ国会より彼の供給せる物資の代金の支払いを保証する旨の正式の文書を得。(ボーマルシェの供給した物資は三六〇万フランにのぼるが、アメリカ政府はこの数字に異議をとなえ、永らく紛争をつづけたが、一八三五年八〇万フランがボーマルシェの遺族に支払われて落着した)
七月二十三日、エックスの高等法院、デュヴュルネーにたいする債権にかんする訴訟事件につきボーマルシェに勝訴の判決を下す。
一七八〇年(四九歳)
『狂おしき一日、またはフィガロの結婚』完成。
十二月、ボーマルシェの努力により、著作権につき政府は従来よりやや作家に有利な決定をなす。ヴォルテール全集刊行のため、印刷所設立の目的をもってドイツ領ケールの旧城塞を借用す。
一七八一年(五〇歳)
一月ヴォルテール全集の刊行趣意書を出版、予約募集を始む。
フランス座『フィガロの結婚』を受理せるも、ルイ十六世上演を禁止。
コルンマン夫人事件起こる。夫人は十五歳で三六万フランの持参金を持ってアルザスの銀行家と結婚したが、ドーデ・ド・ジョサンなる愛人を持った。夫は最初むしろこの情事をけしかけた。ドーデが陸軍大臣モンバレー大公のお気に入りで、その手を介してたんまり儲けることができたからである。しかるにモンバレーが失脚するや、コルンマンは嫉妬をやき始め、夫人を監禁した。ドーデからこのことを聞き知ったボーマルシェは夫人のため奔走を始めた。
一七八三年(五二歳)
ヴォルテール全集出始む(最終巻は一七九〇年)。六月、王弟アルトワ伯、ムニュ=レプジール荘にて『フィガロの結婚』を上演せんとして国王より差し止めらる。九月、ヴォードルイユがポリニャック公夫人および、アルトワ伯のためジェンヌヴィリエで催した饗宴に『フィガロの結婚』を上演。
一七八四年(五三歳)
四月二十七日『フィガロの結婚』公開初演、成功を博し六八回続演さる。ボーマルシェ、検閲を愚弄してサン=ラザール監獄に入れられる。
一七八五年(五四歳)
ボーマルシェの企画せる水道会社のことにつき、ミラボー、ボーマルシェを攻撃、ボーマルシェも応戦し小冊子の交戦となる。
一七八六年(五五歳)
五月一日、モーツァルトの『フィガロの結婚』ウィーンにて初演。
一七八七年(五六歳)
六月八日、オペラ『タラール』オペラ座にて初演、好評。バスチーユの正面にりっぱな邸を建築。コルンマンの弁護士ベルガス『姦通にかんする覚書』を刊行してボーマルシェを非難す。
一七八九年(五八歳)
四月二日、高等法院コルンマン事件につき夫人の勝訴を判決せるも、ベルガス弁護士のボーマルシェ攻撃つづく。五月、フランス革命始まる。
一七九〇年(五九歳)
『タラール』、連盟祭(七月十四日)にて再演さる。
一七九一年(六〇歳)
一月『罪深き母』完成、二月フランス座に受理さる。演劇の検閲制度廃止さる。
一七九二年(六一歳)
六月六日『罪深き母』初演。この年の始め頃よりオランダにある六万挺の小銃を購入するようフランス政府に勧告、運動を始める。
八月十一日、群衆小銃隠匿の疑いをもってボーマルシェの邸に侵入捜索す。同月二十三日、政府はすでに代金支払いずみの小銃を引渡さないとの理由でボーマルシェを逮捕、アベイの監獄に入れられたが、二十九日疑い晴れて釈放さる。
九月一日、群衆による政治犯の虐殺始まり、ボーマルシェ一時田舎に身をひそめる。九月十四日、国民公会に出頭し、オランダにある小銃入手のことを訴え、国民公会はようやくオランダ政府の要求せる保証(その武器を植民地――アメリカ――に転売せぬという約束)を政府が与えるよう決議した。外務大臣ルブラン=トンデュはボーマルシェにパスポートを交付せるも公会の決議せる保証を拒否、小銃入手に必要な金も出さなかった。そのかわり一人の男が現われて、ボーマルシェにその小銃の譲り受け方を申し出た。思うにこの男は外務大臣の手先きであって、大臣は小銃を政府に売りつけてひと儲けしようとの野望を抱いていたのであろう。ボーマルシェは怒って、自費をもってオランダ行きを決意、十月まずロンドンに渡り、友人から金を調達してオランダに行く。同地の新聞で、自分が反政府陰謀団の一員として九月二十三日、逮捕状を発せられていることを知り、ロンドンに赴き、弁明と抗議を同地の新聞に発表したが、外務大臣は彼を亡命者とみなし、そのリストに載せたので、彼の家は封印された。ボーマルシェは国民公会に出頭して黒白を争いたい旨申し送った。
一七九三年(六二歳)
三月、国民公会ボーマルシェの出頭願いを許可。ボーマルシェ直ちに帰国し、公安委員会で弁明。公安委員会は小銃入手のためボーマルシェを再びオランダに派遣と決定。六月二十八日パリを発ち、まずバーゼルに赴く。しかるに同地に約束の金が届いておらず、ボーマルシェはロンドンで何とかしようと、イギリスに渡る。その間に再び亡命者リストに登録さる。七月五日、妻と娘ウージェニーと妹ジュリーは逮捕、ポール=ロワイヤルの監獄に入れられ、ボーマルシェの財産は没収となる。テルミドール九日のクーデタ(七月二十七日)の後三人は釈放された。ボーマルシェはあくまで小銃を入手しようとオランダに行き、同地でクーデタを知ったが、オランダにいる亡命者の間で彼はロベスピエールの手先きと見られ、身辺必ずしも安全でなかったので、九月ハンブルクに移り、帰国まで同地で、窮乏の生活を送る。
一七九六年(六五歳)
七月、妻の運動効を奏してボーマルシェ、パリに帰る。娘ウージェニー、元ラ・ファイエット将軍の副官ドラリュと結婚。
一七九七年(六六歳)
五月五日『罪深き母』再演。
一七九八年(六七歳)
愛妹ジュリーの死。
一七九九年(六八歳)
五月十七日、卒中におそわれ、十八日永眠。遺骸は邸内に葬られたが、一八二二年ペール=ラシェーズ墓地に改葬さる。