パリの憂鬱
シャルル・ボードレール/村上菊一郎訳
目 次
アルセーヌ・ウーセイに
一 エトランジェ
二 老婆の絶望
三 芸術家の告白の祈り
四 おどけ者
五 二重の部屋
六 人おのおの火竜を負う
七 道化とヴィーナス
八 犬と香水壜
九 不埒なガラス売り
十 午前一時に
十一 野獣なみの女と気取った恋人
十二 群衆
十三 寡婦
十四 老いた辻芸人
十五 菓子
十六 時計
十七 髪の中の半球
十八 旅へのいざない
十九 貧者の玩具
二十 妖精の贈物
二十一 誘惑
二十二 夕まぐれ
二十三 孤独
二十四 計画
二十五 美女ドロテ
二十六 貧者の眼
二十七 壮烈な死
二十八 贋金
二十九 寛大な賭博者
三十  紐
三十一 天性
三十二 酒神杖
三十三 酔い給え
三十四 ああすでに!
三十五 窓
三十六 描こうという願望
三十七 月の賜物
三十八 どちらが真の彼女であろうか?
三十九 良種の馬
四十  鏡
四十二 愛人たちの肖像
四十三 粋な射手
四十四 スープと雲
四十五 射撃場と墓地
四十六 円光喪失
四十七 外科刀《メス》嬢
四十八 この世のそとならどこへでも
四十九 貧民を殴り倒そう!
五十 善良な犬
エピローグ
訳者あとがき
[#改ページ]
アルセーヌ・ウーセイに
わが親愛なる友よ、私は君にささやかな一つの著述をお送りする。もしもこれを首尾《しゅび》備わらずと評する者があるならば、それは不当の言である。なぜというに、反対にここでは、すべてが相互に、かわるがわる、首ともなり、尾ともなっているのであるから。かかる組合せが、あらゆる人々に、君にも、私にも、読者にも、どんなにすばらしい便宜をもたらすかを、どうか考えてくれ給え。われわれは勝手なところで、私は自分の空想を、君はこの原稿を、読者はその読書を、打ちきることができるではないか。私は読者の御《ぎょ》しがたい意思をよけいな筋書の長たらしい糸に、いつまでもつなぎとめておこうとはしない。かりに脊椎骨《せきついこつ》を取り除いてみ給え。するとこの蜿蜒《えんえん》たる幻想の首と尾とは、難なく結合するであろう。また、それを数多《あまた》の断片に寸断してみ給え。すると君はそのおのおのが別々に離れたままでも生存しうることに気がつくであろう。私はそれらの断片のどれかに、君を喜ばせ君を楽しませるに十分なほど生気|溢《あふ》れるもののあることを期待しつつ、あえてこの一匹の蛇を丸《まる》のまま君に捧げる。
私はここで君にいささか告白をしなければならない。かのアロイジュス・ベルトランの有名な、「夜のガスパール」(君とわれわれの友人の二、三とに認められた書物はすでに≪有名≫と呼ばれるべきいっさいの権利を有するのではなかろうか?)を、少なくとも二十回目にひもどいている時であった。私も何かこれに類することをやってみたい、彼が古代生活の不思議なほど絵画的な描写に用いた方法を、近代生活の、というよりはむしろ≪ある≫近代生活の、いっそう抽象的な叙述に、適用してみたいという考えが、ふと私に起こったのである。
音律《リズム》もなく脚韻《きゃくいん》もなくてなお音楽的な、しかも魂の抒情的抑揚《じょじょうてきよくよう》に、幻想の波動に、意識の飛躍に、よく適合するに足る柔軟かつ佶屈《きっくつ》たる詩的散文の奇跡を、われわれの中の何びとが、野心に満ちたかつての日に夢想しなかったであろうか?
このような執拗《しつよう》な志望の生ずるのは、特にあの巨大な都会への頻繁《ひんぱん》な行き交いからであり、またそれとの無数の関係の交錯からである。親しき友よ、君自身も、あの「ガラス売り」のかん高い呼び声を、一つの唄にしようと試みたり、その呼び声が巷《ちまた》の高層の靄《もや》を貫いて、屋根裏部屋まで送ってくる、うら悲しい暗示のすべてを、抒情的な散文の中に表現しようと試みたりはしなかったであろうか?
しかしながら、実をいうと、私は自分のこの熱望が私に満足をもたらさなかったことを惧《おそ》れている。一たび執筆に着手するや否や、私は、わが神秘な絢爛《けんらん》たる手本に遠く及ばないばかりでなく、それとは変に違った何かを(もしこれでもなお何かと呼びうるならば)つくっているのに気がついたのである。私以外に人はみな、さだめしそれをも得々と誇るであろうが、このような偶然な結果は、自分のしようと企てたことを正確になしとげることをもって詩人の最大の名誉であるとみなす魂を、ただただ深く慚愧《ざんき》せしめるのみである。
君の親友
C・B
一 エトランジェ
――君は誰を一番愛するのか? 謎の人よ、聞かせてくれ、君の父か、君の母か、それとも姉妹か兄弟か?
――私には父も母もない、姉妹も兄弟もない。
――では君の友達か?
――あなたのおっしゃるその言葉は、今日《きょう》の日まで私には意味がわかっていない。
――では君の生まれた国か?
――いかなる緯度にそれが位置しているのやら私は知らぬ。
――では美人か?
――女神であり不死の女であるならば、私は進んで愛しもしようが。
――では金か?
――私はそれを憎む、あなたが神を憎むと同じように。
――さてもさても! 君はいったい何を愛するのか? 世にも変った異邦人《エトランジェ》よ。
――私は雲を愛する……あの流れゆく雲を……向こうの……向こうのあのすばらしい雲を!
二  老婆の絶望
皆がちやほやと愛撫《あや》し、誰も彼もが気に入ろうとする、この可愛らしい赤ん坊を見ると、小柄な皺《しわ》くちゃの老婆も、すっかり嬉《うれ》しくなるのであった。この可愛らしい赤ん坊は、小柄な彼女と同じように弱々しくて、また彼女と同じように歯もなければ髪もない。
で彼女は近寄って、にっこりと笑顔《えがお》をつくり、お愛想《あいそ》をしようとした。
しかしながら赤ん坊は、このやさしい、老いぼれた婦人の愛撫を受けると、おびえてじれもがき、かん高い泣き声を家じゅうに響かせた。
その時、このやさしい老婆は、永遠の孤独の中にまたしても引き戻された。そして彼女は片隅で涙を流しながら、呟くのである――「ああ! わたしたち、不仕合せな老いぼれ婆《ばば》にとっては、あのような無邪気な者にさえ好かれる齢《とし》はもう過ぎたのだ。可愛がろうと思う赤ん坊をわたしたちは怖《こわ》がらせてしまうのだ!」
三 芸術家の≪告白の祈り≫
秋の日々のたそがれの、なんと身に沁《し》む事だろう! ああ! 苦しいほど身に沁みる! なぜならそこには、何かしらえもいわれない甘やかな感じが漂《ただよ》っていて、漠然たる中になお一脈の烈しさが残っているからである。「無限」の切尖《きっさき》以上に鋭い刃先《はさき》はない。
空と海との広大無辺の中にまなざしをひたすことはなんと大きな楽しみであろう! 孤独、寂寥《せきりょう》、蒼空《あおぞら》の比類なき純潔! 水平線にうち顫《ふる》えては、その小ささとその孤立とによって、いかんともしがたい私に存在を真似ている小さな片帆、波のうねりの単調なメロディ、すべてこれらは私をとおして思索している。あるいは私がそれらをとおして思索している。(広漠たる夢見心地の中では、自我はたちまちに消え失せるのだから!)まさしくそれらは思索している。しかし音楽的に、絵画的にであって、決して詭弁《きべん》や三段論法や演繹法などは使わずに。
ところで、それらの思索は、私から出るにもせよ、物象から生れるにもせよ、やがてあまりにも尖鋭なものになる。快楽の中にひそむ精力《エネルギー》が不快を創《つく》り、確乎《かっこ》たる苦痛を創る。あまりにも緊張しすぎた私の神経は、もはやただ、かん走った苦し気な振動を続けるのみである。
そうして今や、大空の深さが私を茫然《ぼうぜん》とさせる。その清澄さがわたしを腹立たせる。海洋の不感無覚、風景の不変不動が、わたしを反抗させる……。ああ! 永劫《えいごう》に苦しまなければならないのか? それとも永遠に美から逃避しなければならないのか? 無慈悲な魔女、常勝の敵手、自然よ、私を放しておくれ! 私の希望と私の矜恃《きんじ》とをたぶらかすのはやめておくれ! 美の探求とは、芸術家が敗北せぬうちからすでにおびえて悲鳴をあげる一つの決闘である。
四 おどけ者
それは新年の賑わいであった。泥と雪との泥濘《ぬかるみ》、無数の幌馬車の輻輳《ふくそう》、玩具とポンポンの輝き、熱望と絶望の蠢動《しゅんどう》。大都会のお祭騒ぎは、最も頑《かたくな》な孤独家の脳髄をも掻きみだすのに十分である。
この雑踏、この喧騒のただ中を、一頭の驢馬《ろば》が、鞭を持った馬方《うまかた》に追い立てられて、とっとと速歩で進んでいた。
驢馬が、とある歩道の角を曲がろうとした折、一人のハイカラ紳士、手袋をはめ、ネクタイをきゅっと締め、新調の洋服に身をつつみ、一分《いちぶ》の隙《すき》もなくめかしこんだのが、この謙譲な動物の前にまかり出て、帽子を脱ぎ、いやにうやうやしくお辞儀をして、さていわく、「明けましておめでとう!」それから彼は、自己満足を味わった上に、なお、やんやと賞めそやしてもらいたいためか、剽軽《ひょうきん》な恰好で、誰やら仲間たちのいる方を振り向いた。
驢馬はこのハイカラなおどけ者には一瞥《いちべつ》もくれず、己の務めの呼ぶ方角へ、ただ孜々《しし》として駆けつづけた。
ところで私は、フランスの才気《エスプリ》を一手に引き受けているかに見える、この途方もないばかな男に対し、底知れぬ忿怒《ふんぬ》をむらむらと覚えた。
五 二重の部屋
夢幻に似た部屋《へや》、まことに≪精神的≫な部屋、そこによどむ空気は、ほのかにばら色と青色とに染めなされている。
魂は、悔恨と希望との薫りをつけた怠惰の浴《ゆあ》みをここでとる。――それは何やらたそがれのような、青みがかった、ばら色めいたものであり、日蝕のあいだの快楽《けらく》の夢である。
家具の形は延びて見え、がっかりとさもものうさげな様子をして、夢見心地の風情《ふぜい》である。植物や鉱物のように、夢遊する生命を与えられているとでもいうべきであろうか。さまざまの織物は無言の言葉を語っている。花のように、空のように、沈みゆく夕日のように。
壁には一つとして俗悪な美術品は懸かっていない。純粋な夢や分析することのできない印象にくらべれば、固定芸術、実証芸術などは冒涜《ぼうとく》にすぎない。この部屋では、あらゆるものが、調和のとれた十分な明るさと心地《ここち》よい暗さとを具えている。
最も微妙な選択を経た、あるかなきかの香気が、ほんのかすかな湿りを交えて、この雰囲気《ふんいき》のなかにただよい、そこにまどろむ精神は、温室の感じに揺られて夢路をたどる。
モスリンのカーテンは窓の前に、寝台の前に、ゆたかに降り注ぎ、白妙《しろたえ》の滝となって溢れている。その寝台の上に、夢の女王である「偶像」が横たわっている。だが、どうして彼女がここにいるのであろうか? 誰が連れてきたのか? いかなる魔法の力がこの夢幻と快楽の王座に彼女を据えたのであろうか? そんな詮索《せんさく》はどうでもよい。とにかく彼女はそこにいる! まさしくそれは彼女である。
その焔《ほのお》でたそがれを貫くあの眼が、それ、そこに見えるではないか。恐ろしい悪意のゆえに、私にとっては見覚えのある、この怖るべき微妙な瞳! その眼は、それにうっかり見とれる者の視線を、ひきよせ、征服し、食らい尽くすのだ。私はかつてしばしばつぶさに眺めたことがある、好奇心と嘆賞の念とを起こさせる、この黒い二つの星を。
いかなる善魔の好意によって、私はいまこのように神秘と静寂と平和と薫香《くんこう》とにとりかこまれているのであろうか? おお、なんという無上の幸福! われわれが普通に人生と称しているものは、よしんばそれが最も幸福の高潮に達した時でも、私がいま、一分一分に、一秒一秒に、認識し、味到している、この至上の生活とはいささかも共通した点がない!
いや! もはや分もなく、秒もない! 「時」は消え失せたのだ。君臨しているのは「永遠」のみである、陶酔の永遠!
しかるに、突然、恐ろしいノックの音が響きわたり、私は悪夢の中でのように、胃袋につるはしを打ちこまれたような気がした。
それから「幽霊」が闖入《ちんにゅう》してきた。それは、法律の名において、私をいじめに来る執達吏であり、窮迫を訴えては、私の生活の苦悩に彼女の生活の野卑を加えに来る恥知らずな情婦であり、あるいはまた、原稿の続きを催促に来る新聞編集者の使い走りの給仕である。
楽園の部屋、偶像、夢の女王、あの偉大なルネ〔シャトーブリヤンの「墓の彼方からの回想」第一巻にある〕がいっていたような「|空気の女精《シルフィード》」、すべてこれらの魔法は「幽霊」の叩いた荒々しいノックの音で消え失せてしまった。
あッ! 覚えている! 覚えている! そうなのだ! この陋屋《ろうおく》は、この永遠の倦怠の住居《すまい》は、まさしく私のものだったのだ。それ、そこに、がらくたの、塵《ちり》まみれの、角《かど》のとれた家具類がある。焔も立たず燠《おき》もない、痰唾《たんつば》だらけの暖炉、雨が埃《ほこり》に条《すじ》を残した悲しい窓。消したり中絶したりしたままになっている原稿。不吉だった日付の上に鉛筆でしるしをつけた暦! 私が完璧の感受性をもって陶酔していた先程の別世界の薫りは、あわれ、今は、何やら胸のむかつく黴《かび》に混った煙草の悪臭にとって代られた。今この室内には、荒廃の腐臭がにおっている。
この狭い、しかも嫌悪《けんお》に満ちた世界の中で、見覚えのあるただ一つの物体が私にほほえみかける。阿片剤《あへんざい》の小壜だ。これこそ昔|馴染《なじみ》の怖るべき女友達、ああ、あらゆる女友達のように、愛撫と裏切りとに富める者。
おお! そうだ! 「時」が再び姿を現わしたのだ。今や「時」は主権者となって君臨する。そしてこの醜悪な老人とともに、「追憶」「悔恨」「痙攣《けいれん》」「恐怖」「苦悩」「悪夢」「憤怒」「神経病」の魔性の行列がずらりと立ち帰ってきた。
確かに、今、「秒」は強く厳めしくチクタクと音を立てて、その一つ一つが柱時計から飛び出しながら告げるのである、――「おれは生命だ、うるさくてしぶとい≪生命≫だ!」と。
およそ人生においては、ある吉報、おのおのの人に名状しがたい恐怖を起させる≪吉報≫をもたらす使命を帯びた、ただ一箇の「秒」があるだけである。
そうだ! 「時」が君臨している。「時」は再び暴虐な主権を獲得した。それは、まるで私を牡牛《おうし》扱いにして、その二本の針で追い立てる。――「それ、しいッ! 間抜け野郎! それ、精出せ、奴隷め! それ、生きてろ、餓鬼め!」
六 人おのおの火竜(*)を負う
灰色の大空の下、道もなく、芝草もあざみもいらくさも生えていない、ほこりっぽい大平原の中で、私は数人の人々が身をかがめて歩いてくるのに出会った。
彼らはおのおのその背中に、小麦粉や石炭の嚢《ふくろ》か、又はローマ歩兵の背嚢《はいのう》のように重い、巨大な火竜《シメール》を背負っていた。
しかもその怪獣は、ただずっしりと重いばかりでなく、更に弾力性のある強い筋肉で、人々におおいかぶさり、人々を締めつけ、二つの大きな鉤爪《かぎつめ》で、その乗物の胸にしがみついていた。見たこともないようなその頭は、さながら昔の戦士たちが、敵の恐怖心を増そうとしてかぶった、あの恐ろしい兜《かぶと》の一種のように、人々の額《ひたい》の上にのっていた。
私は一人を呼びとめて、どこへそうやって行くのかと尋ねてみた。彼は、自分も他の連中もそれについては何も知っていない、ただ進んでゆこうという、どうにもならぬ欲望に駆られているのだから、いずれどこかへ行くことだけは確かである、と私に答えた。
奇妙なことに、この旅人の中の誰一人として、頸《くび》にぶらさがり背中にかじりついているその猛獣に対して、別段いらいらと腹を立てている様子はなかった。まるで彼らの身体の一部分とでもみなしているかのようである。疲れてはいるが、真剣な、これらすべての顔は、少しも絶望の色を浮べてはいなかった。大空の憂鬱《ゆううつ》な窮窿《きゅうりゅう》の下を、空と同じように荒涼たる大地の土埃《つちぼこり》に足を没して、彼らは歩みを進めていった。常に希望をいだくようにと運命づけられた人の、諦めきった顔つきをして。
そして行列は私のそばを通り過ぎ、地球の円い表面が人の眼の好奇心から身をくらます場所、あの地平線の、茫たる大気の中へと消え去った。
しばらくのあいだ、私は根気よくこの神秘を了解しようと努めてみたが、やがて、抵抗しがたい「無関心」が、私の上にのしかかってきて、私は、くだんの人々が彼らのやりきれない火竜《シメール》におさえつけられていたのよりも、いっそう重くそれにおさえつけられてしまった。
[#この行2字下げ]* この言葉には、火竜という意味と、空想、妄想という意味とがある。ここではもちろん両方に掛けて用いられている。
七 道化とヴィーナス
なんと素敵な日であろう! 広々とした公園は、「恋愛」の支配を受けている青春のように、太陽の燃ゆる瞳のもとに恍惚と倒れ伏している。
万象《ばんしょう》おしなべて陶酔にふけり、ひそまりかえってそよとだもしない。水さえも深い眠りに沈んだようである。人の世の祭とは趣きを異にして、これはこれ静謐《せいひつ》の大饗宴。
たえずいやます陽《ひ》の光は、万物をしてますます輝かしめ、刺戟された花々は、その色彩の精力《ちから》をもって、天空の瑠璃色《るりいろ》と競おうとする望みに燃えたち、温気《うんき》はもろもろの薫りを眼に見えるようにさせ、それを日輪のほうへ煙のごとく立ち昇らせているとでもいおうか。
しかし一方、かかる万有|愉悦《ゆえつ》のさなかに、一箇悩める存在のあるのを私は認めた。
巨大なヴィーナス像の足もとに、あの人工痴人の一人が、「悔恨」や「退屈」に王様が悩まされるとき笑わせ申すお役目を進んで買って出る道化役《どうけやく》の一人が、けばけばしい滑稽な服を、おかしな恰好に身につけて、角《つの》と鈴とを頭にのせ、台石にぴたりと寄り添うて、涙にうるむ両の眼で、不死の女神を見上げているのだ。
そしてその眼は語っている、――「私は人間の中で、最もくだらない、最も孤独な男です。恋愛からも友情からも見放され、その点では最も下等な動物の足もとにすら及ばない男でございます。さりながら私とて、この私とてやはり不滅の『美』を理解し、それを身に感じるようにつくられているのです! ああ! 女神よ! 私の悲しみと私の錯乱とをお憐れみ下さい!」
しかし冷然たるヴィーナスは、その大理石の眼をもって、遠く何やらを眺めている。
八 犬と香水壜
「――わが美しい犬よ、わが善良な犬よ、わが親しいワン公よ、さあ、ここへおいで、町一番の香水屋で買ってきた上等の香水の匂いを嗅ぎにおいで」
すると犬ははげしく尻尾《しっぽ》を振りながら、思うにそれは、このような可憐な動物においては、笑いや微笑を示す表現なのだが、近寄ってきて、物珍しげに、栓を抜いた香水壜に、その濡れた鼻をおしあてる。それから不意におびえてあとずさりをしつつ、咎めだてでもする恰好で、私に向って吠えたてる。
「――ああ! なさけない犬よ、もしも私がお前に糞《くそ》の入った包みを差し出したなら、お前は大喜びでその匂いを嗅ぎ、おそらくむさぼり食ったかも知れない。してみると、お前もまた私の悲しい生活の伴侶《はんりょ》たるの資格はない。怒りを招くゆえ、かりそめにも微妙な香料を見せてはならず、細心に選りに選った汚物ばかりを見せねばならぬ、かの俗衆に、お前はまるでそっくりだ」
九 不埒なガラス売り
純然たる瞑想型で、行動にはまったく向かない性質《たち》の人がある。しかしながら、時として彼らも、神秘な不可解な衝動に駆られて、自身でさえ不可能と信じていたような素早さで、行動に赴《おもむ》くことがある。
例えば、門番のところに何か悲しい報せがきているのではないかと気になって、思い切って入ることができず、ぐずぐずと門前を一時間もうろつく人、封を切らずに手紙を二週間も取っておいたり、一年前から必要であったある運動を実行するのに、半年も経《た》ってからでなくてはみこしを上げぬ人、このような人々が、時おり、弓を放れた矢のように、突如、抵抗しがたい力
によって行動に邁進《まいしん》することがある。何でも知っていると自称する道学者や医者も、いったいどこからこのような気狂いじみた精力《エネルギー》が、かくもにわかに、これら怠惰な逸楽的な魂にやってくるのか、またこの魂が、最も簡単な最も必要な事すら遂行できないくせに、どうして、ある瞬間には、最も度外れな、時には危険でさえある行為をやつてのける、奔放な勇気をいだくのかは、説明することができない。
私の友人の一人は、およそこの世の最も無害な夢想家であったが、ある時、森林に火をつけた。それは彼の言によると、世間の人が普通に是認しているほどやすやすと火事になるものかどうかを見るためであった。立て続けに十回試みたが、実験はことごとく失敗した。しかし十一回目に、それは見事過ぎるほどの大成功を収めた。
ある男は、火薬樽のそばで葉巻に火をつけるかも知れない。運命を見るために、知るために、試すために、気力のあるという証明をしいて自己にさせるために、賭《かけ》の気分にふけるために、不安の快感を味わうために、あるいは何のためにというわけでもなく、ただ気まぐれに、退屈まぎれに。
それは倦怠と夢想とからほとばしり出る一種の精力《エネルギー》である。そしてそれが、こんなに執拗に現われるのは、いまもいったとおり、概して世人の中の最も物臭《ものぐさ》な、最も夢想的な人々にである。
またある男は、他人の視線にあうと眼を伏せるほど内気で、カフェに入るにも、劇場の事務室の前を通るにも、そこにいるボーイや改札係がミノス、エアク、ラダマント(いずれもギリシャ神話、地獄の裁判官)の威厳を具えているような気がするので、憐れな全身の意志を集中しなければならぬほど、それほど小心なのが、やにわに、そばを通りかかる老人の頸に抱きついて、あっけにとられている群衆の前で、夢中になって接吻するかも知れない。
なぜだろう? けだし、……けだし、その老人の容貌が、彼に無性に愛着を感じさせたからであろうか? そうかも知れない。しかし当の本人でさえなぜであるかを知っていないのだと想像するほうがいっそう当っている。
私も一再ならず、かかる発作《ほっさ》と衝動の犠牲になったが、そのためにわれわれはこう信じざるを得ないのである。悪戯《いたずら》好きな悪魔どもがわれわれの身体《からだ》の中に忍び込んで、知らぬまに、彼らの最も途方もない意志をわれわれに遂行させるのであると。
ある朝、私は、陰鬱なうら悲しい気分で無聊《ぶりょう》のために疲れ果てて、何か偉大なことを、あっといわせる行動を、やってのけたくてたまらぬような気がして起き上った。そして窓を押し開いた。ああ、なんということだったろう!
(人を煙に巻く精神は、ある種の人々においては、思案や工夫のあげくのものではなくて、突発的な霊感の結果なのであり、医者がヒステリックと称し、医者よりいくらか道理のわかる人が悪魔的《サタニック》と称する、あの無抵抗にわれわれを幾多の危険なまたは不利な行動の方へと駆りたてる気分に、欲求の熾烈《しれつ》な点からだけでも、非常によく似ていることに、注目してくれ給え)
往来を見下ろして、最初に私の眼についたのは、そのかん高い調子はずれの呼び声が、パリ特有の重苦しい濁った空気を貫いて私の耳まで昇ってくる、一人のガラス売りであった。ところでこの憐れな男に対して、私がなぜ唐突な兇暴な僧悪の念をいだいたのかは、もとより私には説明できない。
「――おい! おい!」と呼びとめて、上っておいでと私は叫んだ。私の部屋は七階にあって、階段がとても狭いので、あいつは上ってくるのにひと苦労をなめ、そのこわれ易い商品の角《かど》をあちらこちらにぶつけているに相違あるまいと考えると、私はそのあいだ、何やらほくそ笑《え》まずにはいられなかった。
彼はとうとう現われた。私はさも物珍しそうにそのガラスを残らず検《しら》べてから、こういった。「どうしたんだ? 色ガラスを持っていないのか? ばら色、赤色、青色のガラス、魔法のガラス、天国のガラスを? なんという不埒《ふらち》な奴だ! この細民街の中を、よくもぬけぬけと売り歩きながら、人生を美しく見せるガラスを持っておらんとは!」そして私は彼を階段の方へ激しく押しやった。彼は不平をこぼしながらそこによろめいた。
私は露台《バルコン》に近寄って、小さな植木鉢を手に掴んだ。そして、彼が下の出口のところに再び現われるのを見すまして、その背負板の後ろのはしへ、わが手の武器を垂直に落下させた。衝撃《はずみ》をくらって彼は転倒し、売り歩く貧しい全財産は、背中の下になって木《こ》っ葉微塵《ぱみじん》にこわれてしまった。落雷のために水晶宮が崩壊するような響を立てて。
この時、私は自分の狂気に酔い痴《し》れて、彼に激しく浴びせかけた、「人生を美しく見せろ! 人生を美しく!」と。
このような神経質な悪ふざけは、危険がないとはいえないし、またしばしば高価な代償を支払わなければならぬかも知れない。だが、一刹那《いっせつな》のうちに無限の快楽を見出した者にとっては、永遠の刑罰が、そも何するものであろう。
十 午前一時に
やっと! 一人になった! もはや、何台かの、遅れた疲れ果てた辻馬車のごろごろと走ってゆく音しか聞こえない。今から数時間、われわれは、休息でないまでも、静寂を持つことができるのだ! やっと! 人間のうるさい顔は消え失せた。これからはもう、私は自分自身のことだけで悩まされればいいのだ。
やっと! 私は暗闇の浴《ゆあ》みの中にくつろぐことが許されたのだ! まず、しっかりと錠前《じょうまえ》をかけよう。こうして鍵を廻すことで、私の孤独はいっそう深まり、世間から現に私を隔離している障壁はいっそう堅固になるような気がする。
恐ろしい! 恐ろしい都会! さあ、ざっと今日《きょう》のひと日《ひ》を述べてみよう。私は数人の文士に会ったが、その中の一人が私に尋ねた、ロシアへ陸路で行けるかどうかと(奴め、もちろん、ロシアを一つの島だと思っているのだ)。私はまた某誌の編集長と勇敢に議論を交えたが、彼はどんな反駁《はんばく》に対してもこう答えた。「うちの雑誌は紳士たちの集まりですからね」この口吻《くちぶり》だと、よその新聞雑誌はことごとくごろつきどもに編集されていることになる。二十人ほどの人に挨拶したが、その十五人までが一面識もない人々であった。これと同数ぐらいの人と握手をしたが、あらかじめ手袋を買っておいたわけでもない。夕立のあいだ、時間つぶしに、ある軽業娘《かるわざむすめ》の部屋に上りこんだら、彼女から「ヴェニュストル(ヴィーナスの間違いか?)」の衣裳を描いてくれと頼まれた。また、某劇場の支配人のところにご機嫌伺いに行ったが、彼は私を送り出しながらこういった。「――Zを訪ねるといいかも知れませんな、あの人は私どもの作家仲間のうちでは、一番のろまで、一番間抜けですが、また一番有名な男ですから、あれに話せばたぶん何とかなるでしょう。会ってごらんなさい。それから改めてお眼にかかりましょう」と。また私は、決して犯しもしなかった数々の醜行を自慢し(なぜであろうか?)そのくせ卑怯にも、喜んで私が実行した他の悪行は否定した。前者は空《から》威張りする罪、後者は世間の思惑《おもわく》を気にする罪。またある友人には造作《ぞうさ》もない助力を拒絶しておきながら、一方、まるでお話にもならぬ奴のためには紹介状を書いてやった。ああ! これで全部すんだかな?
あらゆる人々に不満をいだき、自分自身にも不満をいだいたので、私は今、深夜の静寂と孤独の中で、いささかなりとも自分の罪をつぐない、己れの矜恃《きんじ》を昂揚させたいと願うのである。私が愛した人々の魂よ、私が謳歌《おうか》した人々の魂よ、私を強くしておくれ、私を力づけておくれ、浮世の虚偽と腐敗の空気とを私から遠ざけておくれ。そして御身《おんみ》、わが主、神よ! 願わくは、私が人間の最下等の者でないことを、私が私の軽蔑する人々より劣った者でないことを、私自身に証明する、美しい数行の詩句を作る力を私に恵み給え。
十一 野獣なみの女と気取った恋人
恋人よ、ほんとにあなたは、際限もなく情け容赦もなく私を疲らせる。あなたが溜息つくのを聞いていると、まるで落穂拾いの六十歳の老婆よりも、居酒屋の門口《かどぐち》でパン屑を拾い集める老いぼれの乞食女よりも、いっそう悩んでいるかのようだ。
せめてあなたの溜息が悔恨の情でも示しているのなら、まだしもあなたの名誉になるところだが、どう見てもそれは安逸の飽満と休息の過剰とを現わしているにすぎない。あまつさえ、あなたはとめどもなく無駄言を並べたてる。『よく愛して頂戴! たんと可愛がって欲しいわ! こうやって慰めてね。ああやって愛撫して下さいね!』どれ、これから私があなたの病気を癒《なお》してあげよう。お金が二スウもあれば、大して遠くまで出かけずとも、お祭の真ん中で、その方法が見つかるだろうよ。
さあ、よく目をとめて、この頑丈な鉄の檻《おり》をごらん。この中には、地獄の亡者のようにわめきながら、流竄《るざん》を憤る類人猿《オランウータン》のように格子《こうし》をゆすぶりながら、時には虎の廻転跳躍を、時には白熊の間の抜けた貧乏ゆるぎを、そのままそっくり真似て、毛むくじやらな怪物が動きまわっているが、しかもそいつの恰好はどことなくあなたによく似ている。
この怪物は、世間の男が『わが天使よ!』と呼ぶ動物の一つ、すなわち女なのだ。それからもう一人の、手に棒を持って、声を限りにどなっている怪物は、その良人《おっと》にほかならない。彼は、彼の正妻を野獣のように鎖でつないで、その筋の許可を得ているのはいうまでもないが、市《いち》の日に、郊外で見世物にしているのだよ。
よく注意してごらん! その猛獣使いの投げ与える生きている兎や、けたたましく啼《な》きたてる鶏を、彼女はどんなにがつがつと、(おそらく空真似ではあるまい)引裂いて食うことか。『おっと身代《しんだい》を一日で食べちまってはいけない』猛獣使いはいみじくもこういって、邪慳《じゃけん》に餌をもぎとってしまうのだが、猛獣の、私は女のといいたいが、歯には、なお一瞬のあいだ、餌食《えじき》のえぐり出された臓腑《はらわた》が引っかかって残っている。
それッ! おとなしくさせるためにピシッと棒の一撃だ! 彼女が、爛々《らんらん》たる渇望の眼で、取り上げられた食物をなおも見つめているものだから。なんと! その棒は伊達《だて》や酔狂の棒じゃない。義毛《いれげ》をつけているにもかかわらず、彼女の生肌《なまはだ》が音を立てたのを聞いたかね? あれあのように烈しく眼をむき出して、彼女はいっそう自然風に咆哮《ほうこう》する。激昂のうちに、彼女の全身は、叩かれる鉄のように火花を発する。
このような有様こそ、アダムとイヴの二つの後裔《こうえい》の、おお、わが神よ! 御身の手になる人間どもの、結婚生活の風習なのだ。まさか彼女は、結婚の光栄のあのむずむずする愉悦を知らないわけでもなかろうが、要するに彼女が不幸であるのは論ずるまでもない。世にはもっと救いがたい、つぐないがたい不幸があるにはある。しかし、彼女は彼女が放り出されたこの人生において、女にはふさわしい別の生き方があるということを、とうてい信ずることができないのだ。
ところで今度は、私たち二人のことだが、気取り屋の恋人よ! この世に充満しているこれらもろもろの地獄を眺めながら、あなたは、あなた自身の見事な地獄のことを私にどう思ってもらいたいのかしら、あなたの肌と同じように柔らかい褥《しとね》の上にしか憩《いこ》わず、よく煮た肉しか口にせず、手慣れた召使に食べ物を小さく切る世話まで焼かせる、そのあなたは?
しかもあなたの馥郁《ふくいく》たる胸に溢れる、その小さな溜息のすべてが、私にとって何を意味することができるだろうか、頑健なコケティッシュな女よ? 書物から学んだ、そのあらゆる気取りと、見る人に憐憫《れんびん》の情とはまるで違った感情をいだかせる、疲れを知らぬその憂愁とが、私にとって何を意味することができるだろうか? 実際、私は真の不幸とはどんなものであるかを、あなたに教えてやりたくてたまらなくなる時がある。
私の気むずかしい美しい恋人よ、あなたがそうやって泥濘《ぬかるみ》に足を入れて、その眸《ひとみ》を、まるで王様を天にお願いするかのように、ぼんやりと空に向けている様子を見ると、たぶん、理想を祈願しているあの若い蛙〔ラ・フォンテーヌ「寓話詩」中の「国王を求める蛙たち」を指す。この蛙たちは天帝から国王として一本の梁材を送られたが、それが無能なので別の国王を要求し、今度は一羽の鶴を送られた。鶴は彼らを残らず食い殺してしまった〕譬えられるかも知れない。もしもあなたが無力な王様(よくご存知のように私が今それである)を軽蔑するなら、用心が肝要、やがて鶴が飛んできてあなたを啄《ついば》み、あなたを鵜呑みにし、あなたをなぶり殺しにすることだろう!
いくら詩人だからといっても、私はあなたが考えたがるほど、それほどお人好しではない。あなたがあまりたびたび、その気取った空泣きで私をうんざりさせるようなら、私はあなたをあの野獣なみの女として取り扱うか、それとも空壜《あきびん》のように窓から投げ棄ててしまうよ。
十二 群衆
群衆という浴《ゆあ》みにひたることは、誰にもできるわけのものではない。衆人を楽しむことは一つの芸術である。揺籃《ようらん》の中で妖精から仮装と仮面への趣味、定住への憎悪、旅への情熱を吹き込まれた者のみが、人類の力をかりて、生活力の陶酔にふけることができるのである。
群衆と孤独、これは才能のある溌剌《はつらつ》たる詩人ならば、自由に置き換えうる、相等しい単語である。己れの孤独を賑《にぎ》やかにすることのできない者は、多忙な群衆の間に処して独りでいる術《すべ》をも知らない。
詩人は、意のままに自己自身になったり、他人になったりすることのできる、この比類のない特権を享楽する。肉体を捜し求めてさまよう霊魂のごとく、彼は好きな時に誰の人格の中にでも入ってゆく。彼にとってのみ、万人は空洞である。そしてもしある場所が彼にふさがっているように見えたとするなら、それはその場所が、彼の眼にはわざわざ訪れるほどの価値がないからにほかならない。
孤独な瞑想的な散歩者は、かかる万物との融合から不可思議な陶酔を引き出す。群衆と容易に婚を通じる者は、かの匣《はこ》のように閉めきったエゴイストや、軟体動物のようにとじこもった出不精者《でぶしょうもの》には、永遠に与えられない熱狂的な享楽を知っている。彼は環境が呈示するあらゆる職業、あらゆる愉悦、あらゆる悲惨を、すべて自分のものとして採りいれる。
眼前にふと現れる人に、行きずりの見知らぬ人に、惜しみなく詩や仁愛を捧げふるまう魂の、この神聖な売淫、このえもいえない大饗宴にくらべれば、世人がいうところの恋愛なるものは、あまりにも小さく、あまりにも狭く、またあまりにも弱々しい。
世の幸福人士に向って、よしやそれが彼らの愚かな自尊心を一瞬傷つけるにすぎないにもせよ、彼らの幸福よりまさった、もっと広大な、もっと洗練された幸福があるということを、時に教えてやるのはよいことである。植民地の建設者、民衆を導く牧師、世界の涯まで派遣された伝道師らは、如上の神秘な陶酔について必ずや何かを知っているに相違ない。されば彼らは、己れの才能で作り上げた広大な家族の中にあって、彼らの波瀾《はらん》に富んだ運命や清浄潔白な生活を気の毒がってくれる人々を、かえってしばしば憫笑《びんしょう》するに相違ないのである。
十三 寡婦
ヴォヴナルグ〔フランス十八世紀の有名なモラリスト〕はいっている、公園の中には、失望した野心家、不幸な発明家、挫折《ざせつ》した栄誉を嘆く者、破れた心情の人、すべてこのような、嵐の最後の溜息がなお胸底に吹きすさんでいて、楽しい人々や閑《ひま》な人々の思いあがった視線を遠くに避けた、乱れに乱れた鬱々《うつうつ》たる魂の、主として通いゆく小径《こみち》があると。その蔭暗い隠れ家《が》こそ、人生の跛行者《はこうしゃ》たちの会合所である。
詩人や哲学者は、特にこうした場所に、そのむさぼるような推測の眼を好んで注ぐ。そこには、確かに糧《かて》がある。なぜなら、もしそれが詩人や哲学者の訪ねるをいさぎよしとしない場合であるとするならば、それこそ私が今しがた暗示したように、ほかならぬ富める人々の歓楽場なのだから。そういう空虚な場所の喧騒《けんそう》には彼らをひきつける何物もない。反対に、彼らは、すべて弱々しい、うらぶれた、悲しみにかき暮れた、よるべない者のほうへは心ひかれる思いを抑えがたいのである。
経験を積んだ眼は決してだまされはしない。こわばったりあるいはうちしおれたりしている顔立の中に、落ちくぼんでどんよりした、ある苦闘の最後の光のぎらついている眼の中に、深く刻まれた数多くの皺《しわ》の中に、のろのろとした、又はひどくせっかちな歩みぶりの中に、それはただちに読みとるのである、裏切られた愛情、認められない献身、報いられない努力、慎《つつ》ましく黙々と耐え忍んだ飢えと寒さなどの、数え切れないほどの物語を。
諸君は時おり、寂しい腰掛《ベンチ》の上に腰を下ろしている寡婦を、貧しい寡婦を、見たことがあるか? 喪服をつけていようがいまいが、寡婦だということは容易にわかる。それにまた、貧しい者の喪服にはいつも何かしら足りない点があり、調和の欠乏したところがあって、そのためひとしお痛々《いたいた》しい風情が加わっているものだ。貧しい者の喪服はその悲痛に関してもやはり倹《つ》ましくせざるを得ないのである。富める者は己れの悲哀さえ余すところなく麗々しく示すのであるが。
自分の胸のうちを分つこともできない坊やの手をひいている寡婦と、全然一人ぼっちの寡婦と、どちらが最も悲しい、最も痛ましい寡婦であろうか? 私にはわからない……。ある時、私は、こうした種類の悩める一人の老婦人の後を、何時間もつけて行ったことがある。ぎすぎすした、真直な身体《からだ》つきのその女は、つかい古した小さな肩掛《ショール》をまとって、身体全体に禁欲主義者の矜恃《きんじ》を具えていた。
彼女は明らかに、絶対的な孤独によって、老いたる独身者の日常を強いられていた。そして彼女の習性の男性的な特徴が、その日常の謹厳さに、ある神秘な痛烈味を添えていた。彼女がどんなみすぼらしいカフェで、どんなふうに朝食をしたためたか、それは私にはわからない。私は彼女の後をつけて図書館の閲覧室に入り、彼女がかつて泣きはらしたことのある眼を活発に動かして、強烈な個人的な興味のあるニュースを新聞紙上に漁《あさ》っているのを、永いあいだ窺《うかが》っていた。
こうしてついに、彼女は、午後、悔恨と追憶とが群をなして降りてくる空模様の一つ、あの美しい秋空の下に、公園の、とある片隅に腰を下ろした。群衆から遠く離れて、パリ市民を慰める軍楽隊の演奏の一曲に耳傾けるために。
これこそいうまでもなく、罪知らぬこの老婦人の(あるいは清浄になったこの老帰人の)ささやかな遊蕩《あそび》なのである。友もなく、おしゃべりもなく、歓《よろこ》びもなく、打ち明け話をする相手もない、重苦しいその日その日の、かけがえのない慰安なのである。神はこれを、おそらくは数年このかた! 一年に三百六十五回、彼女の上に下し給うているのであろう。
更にもう一人。
一概に同情からではないにしろ、少なくとも好奇心から、私は、公開の演奏会の囲いのまわりにぎっしり集まっている下層民の群に、いつも視線を注がないではいられない。管絃楽は夜の闇を横切って、祝祭や戦捷《せんしょう》や歓楽の歌を投げている。夜会服はきらめきながら裳裾《もすそ》を曳き、視線は互いに交錯している。何もすることがなくて倦《う》んだ閑人《ひまじん》たちは、いかにものんびりと音楽を味わうようなふりをして、身体を揺り動かしている。ここには富める者、幸福なる者、それ以外には何もない。生きていることの屈託なさと楽しさとを、呼吸する者、感じさせる者、それ以外には、何もない。ただ、向うの外囲いの柵によりかかって、風のまにまに、音楽の断片を無料《ろは》でせしめながら、内側の絢爛《けんらん》たる坩堝《るつぼ》を見つめている、あの貧民どもの光景のみが例外であった。
貧しい者の瞳の奥に富める者の歓《よろこ》びが反映しているのは、常に興味の深い事柄である。ところがこの日、私はこれら仕事着や更紗《サラサ》布を着た庶民たちの中に、周囲のあらゆる低俗さと著しい対照をなしている、人品卑しからぬ一人のひとを見つけた。
それは背の高い威厳のある婦人であった。容姿全体に具わっている気品に至っては、往時の貴族階級の麗人の肖像集の中にもこれと匹敵するものを見た覚えがないほどである。その人柄のあらゆる点から気高《けだか》い貞節の薫《かお》りが発散していた。その顔は悲しくやつれていて、身にまとっている第一喪服と完全に調和していた。賤民たちの中に眼もくれず立ち混っておりながら、彼女もまた、彼らと同様に、光り揮く世界を深いまなざしで見つめていた。そしてしとやかに頭を振りながら聴いていた。
不思議な眺めだ! 「実際、いくらあの女《ひと》が貧乏でも、たとえば本当に貧乏だとしても、こうまでけちくさい倹約をする道理はない。あの立派な品のよい顔がそれを保証している。ではなぜ彼女は、彼女の姿だけが飛び抜けて目立つ、このそぐわない環境の中に、好んでとどまっているのだろうか?」と私は考えた。
しかし、物好きに彼女のそばを通って見た時、私はその理由が読めたと信じた。この立派な寡婦は、彼女と同じように黒い着物を着た一人の子供の手をひいていた。よしんばいくら入場料が安かろうと、それだけのお金があれば、おそらく子供の必要品の一つを買うには十分であろうし、うまくいって、贅沢品《ぜいたくひん》の、玩具の一つも買えようというものだ。
彼女は徒歩で帰ったであろう、思いにふけりながら、空想しながら、一人で、いつもたった一人ぼっちで。なぜなら子供というものは、騒々しくて、自分勝手で、優しさもなければ辛抱《しんぼう》強くもなく、純然たる動物と同じように、犬や猫と同じように、孤独な悩みをいって聞かす相手にさえなることができないのだから。
十四 老いた辻芸人
休みの人々が、到るところに、装《よそおい》い凝《こ》らして、溢れ出て、楽しんでいた。それは辻芸人や手品師や動物見世物師や露店商人などが、一年じゅうの不景気をつぐなおうとして、永いあいだ、あてにしている大祭の一つであった。
このような日には、民衆は、苦悩も労働も何もかも忘れてしまうものらしい。彼らは子供と同じになる。子供にとっては、それは休みの一日であり、学校に対する恐怖が二十四時間延ばされることである。大人にとっては、生活という意地悪い強権と締結をした休戦であり、あまねく勤労と闘争とにおける猶予期間である。
上流社会の人でさえ、精神的な仕事にたずさわる人でさえ、この大衆的な祭礼の影響から免かれることは困難である。彼らとてもいやおうなしにこの太平楽の雰囲気から彼らの分け前を吸収する。ところで私はというと、私は生粋《きっすい》のパリッ子として、この祭礼の期間に得意然と軒をつらねているあらゆる掛け小屋を、観《み》て廻るのを一度も欠かしたことがない。
実際、小屋という小屋は、はげしい客争いをし合って、どなりつづけたり、ほえ立てたり、わめき散らしたりしていた。それは叫び声とジンタの爆音と打揚げ花火の炸裂《さくれつ》との混合であった。道化役者や剽軽役《ひょうきんやく》は、雨風《あめかぜ》や陽《ひ》にさらされて黒くこわばった顔の相好《そうごう》をひんまげていた。彼らは自分の演技の効果に自信のある喜劇俳優のずうずうしさをもって、モリエールばりのどっしりとした重苦しい滑稽劇の、しゃれや冗談《じょうだん》をふりまいていた。類人猿《オランウータン》のように額《ひたい》も頭蓋もないように見える、大きな手足が自慢の力持ちは、今日の書入れ日のために前日洗濯しておいた肉襦袢《にくじゅばん》を着て、傲然《ごうぜん》とふんぞりかえっていた。妖精か王女のように美しい踊子たちは、スカートを一面にきらめかせる角灯《ランタン》の光の下で、飛び狂い、跳ね廻っていた。
すべてはただ、光と塵埃《じんあい》と叫声と歓喜と喧騒であった。ある者はお金を消費し、ある者はお金を儲《もう》け、しかもその双方が同じように愉快でたまらないのだった。子供たちは棒砂糖をねだって母親の下裳《ペチコート》にぶらさがり、または、神様のようにまぶしい手品師をいっそうよく見ようとして父親の肩車に乗る。そして到るところ、あらゆる薫りを圧して渦巻いているのは、このお祭の香《こう》ともいうべき揚げ物の匂いであった。
はずれまできて、小屋の軒並の一番はずれまできて、私は見た、落魄《らくはく》の身を恥じ、これらいっさいの華《はな》やかさからわれとわが身をしりぞけたかのような、ひとりの憐れな辻芸人が、腰はまがり、齢《とし》は朽ち、老いぼれ果てて、小屋の柱によりかかっているのを。その小屋がまたどんな愚昧《ぐまい》な野蛮人の小屋よりもみすぼらしくて、蝋涙《ろうなみだ》を流していぶる燃えざしの二本の蝋燭《ろうそく》は、その窮追ぶりをなおも明るすぎるほど照らし出していた。
到るところに歓喜と儲けと逸楽とがあったのに、到るところに明日のパンへの確信があったのに、ここには絶対的な悲惨がある。技巧どころか、むしろ必要に追られてこのような対照を作り出した、凄《すご》さに輪をかけた、滑稽なぼろを変てこにまとった悲惨な姿がある。笑ってはいなかった、このみじめな男は! 泣いてもいない、踊ってもいない、身ぶりもしていない、叫んでもいなかった、陽気な唄も悲しい唄も何ひとつ歌ってはいなかった。彼は黙ったまま動かずに、すべてを断念し、何事も抛棄《ほうき》していた。彼の運命はすでに終っていたのだ。
しかし、なんと深刻な忘れがたい視線を、彼は、己れの見苦しい悲惨な姿の数歩手前のところでぴたりと流動する波を立ちどまらせてしまう群衆や灯火の上に、投げかけていたことだろう! 私はヒステリーの怖ろしい手で咽喉《のど》を締めつけられるような気がした。そして溜ったまま落ちようともしない始末の悪い涙のために視界をさえぎられるように思った。
どうしたらよかろう? どんな珍しい、どんな不可思議なことを、このぼろぼろの幕の後ろの、悪臭みなぎる暗闇の中で、見せてくれるつもりなのかと、この不幸な老人にたずねたところで何になろう? 実際、私はあえてたずねることはできなかった。私の臆病の理由は諸君の笑いを招くに相違ないが、白状すると、私は彼を侮辱することになりはしないかと惧《おそ》れたのである。ついに、私は自分の気持を汲んでもらいたいと念じつつ、彼の床板の上に、行きずりに幾らかのお銭《あし》を置いてこようと決心したのであるが、ちょうどその時、何やらわからぬ混雑のためにまき起された、どっとしりぞく人の波が、私を彼から遠く引き離してしまった。
そうして、私は帰る途々《みちみち》、この幻影につきまとわれて、自分の唐突な苦悩を分析しようと努めた。そして私は考えた、私が今しがた見てきたのは、かつては一世の輝かしい慰め手であったのに、今はその時代の後に空《むな》しく生き残った老いぼれ文士の面影であり、友もなく、家族もなく、子供もなく、貧窮と大衆の忘恩とのために零落し、もはや忘れっぽい世間の人がその小屋に入ろうともしない老いぼれ詩人の面影なのだ! と。
十五 菓子
私は旅に出ていた。私を取りまく周囲の風景は、抵抗しがたい偉大さと崇高さとを具えていた。その風景から、その時、何ものかが私の魂の中に沁み込んだのに相違なかった。私の想いはあたりの大気と同じような軽さで浮々と飛びめぐっていた。憎悪とか世俗の恋愛などという卑俗な情熱は、今や私には、脚下の深い谷底に棚引いている雲と同様に、遠いものに思えるのであった。私の魂は、私を包んでいる空の円天井と同じように、広大で純潔なものに思われた。地上のもろもろの事物の思い出は、遠く、はるか遠く、向うの山の斜面で草を食《は》んでいる、眼に見えないほどのあの家畜らの鈴の音のように、嫋々《じょうじょう》と弱められ、細められてでなければ、私の心にとどいてこなかった。測り知られぬ深さのために黒ずんで見える、ひそまりかえった小さな湖水の上を、時たま、雲の影が、天をよぎってかけりゆく空の巨人の外套の翳《かげ》りのように掠《かす》め去っていた。そして私は、このまったく音のない大きな動きによってまき起された、稀に見る荘重な感覚が、恐怖をまじえた歓喜で私を満たしていたことを覚えている。つまり私は、私を包んでいた感動的な美のおかげで、私自身と全宇宙とが完全な平和の状態に融合しているのを感じていたのである。この完璧な至福の中にいて、地上のあらゆる悪をすっかり忘れ果てた心境にいて、私はついに人間の本性は善であると主張する諸新聞を、さほど笑止だとは思わないようにさえなってしまった。――その時である。度しがたい肉体がまたもや要求を訴えはじめたので、私はこの長途の登攀《とうはん》のために生じた疲労を恢復し、空腹を癒《い》やそうと考えた。私はポケットから大きなパンの塊《かたまり》と、革のコップと、当時薬剤師が旅行家に売っていた、必要な場合に雪を溶かして混ぜればいい、一種の気つけ薬の壜とを取り出した。
のんびりとパンを切っていた時、ふとかすかな物音がしたので眼を上げた。私の前に、ぼろを着た、色の黒い、髪のおどろな、一人の少年が立っていて、その落ちくぼんだ、とげとげしい、哀願するような眼は、パンの塊をむさぼるように見据えていた。そして彼が低いしゃがれ声で、菓子だ! という言葉を溜息のように洩らすのが聞えた。ほとんど真白なパンに敬意を払おうとして彼がつけたこの呼び名、私はそれを聞いて吹き出さずにはいられなかった。で私は彼のために大きな一片をちぎって差し出した。彼は欲しくてたまらぬその品から眼を離さずに、そろりそろりと近寄ってきて、それから、片手でそれをひったくるが早いか、ぱっと飛びのいた。私の申し出は冗談半分なのかも知れない、それとも私がすでにそれを後悔しているのかも知れないと、惧《おそ》れているかのような様子だった。しかしながら、ちょうどその瞬間、彼は、どこからか飛び出してきた、一見|双生児《ふたご》と思えるほど彼にそっくりの、もう一人の野蛮な少年に引っくり返された。取っ組んだまま、二人は貴重な獲物を奪い合って、地上をころがり廻った。もちろんどちらも兄弟のために半分分けようとはしない。最初の少年が腹を立てて二番目の少年の髪を掴《つか》めば、後者は耳たぶに噛《かぶ》りつき、その血まみれの小さな肉片を吐き出しながら、何やら方言で見事な呪いの言葉をわめいた。菓子の正当な所有者が、掠奪者の目玉に小さな爪を突き刺そうとすれば、後者は後者で、片手で力一杯、敵の咽喉《のど》を締めつけ、その隙に一方の手で戦利品をポケットにねじこもうとする。すると敗れたほうは、やけっぱちの勇気をふるって、相手の鳩尾《みずおち》のあたりに頭でずしんと一撃を食らわせ、彼を地上にうち倒した。実際、彼ら少年の力量としては不相応と思えるくらい永いあいだ続けられた、このいまわしい闘争を、ここに述べたところで何になろう? 菓子は瞬間ごとに手から手へ渡り、ポケットからポケットヘ移された。しかし、ああ! それは次第に大きさが変り、ついに二人がへとへとになり、息を喘《あえ》がせ、血みどろになって、もうそれ以上続けることができなくなったために喧嘩をやめてしまった時には、実をいうと、すでに闘争の目的物は跡かたも残っていなかった。一片のパンは消え失せて、砂粒のようにこなごなになって、砂に混って散らばってしまった。
この光景は私にとって風景を暗澹《あんたん》たるものにしてしまった。少年たちを見る前に、私の魂が楽しんでいた、あの物静かな歓《よろこ》びは、今は残らず消えてしまった。私はそのためかなり永いあいだ、悲しみに閉ざされたまま、絶えず次の言葉を繰り返した。「さてもさても、奇妙な国があるものだ、パンが菓子と呼ばれ、まさしく兄弟殺しの大喧嘩をひき起すに十分なほど珍しい砂糖菓子《フリヤンディーズ》と呼ばれているとは!」
十六 時計
シナ人は猫の眼のうちに時間を読む。
ある日、一人の宣教師が、南京《ナンキン》城外を散歩しながら、懐中時計を忘れてきたのに気がついて、とある童子に時刻を尋ねた。
大清国《だいしんこく》の腕白児童は、最初もじもじしていたが、思い直してこう答えた。「いますぐ教えてあげますよ」まもなく、ひどく太った大猫を腕にかかえて再び現われ、噂にたがわず、その白眼のうちに時刻を見つつ、ためらうことなく断言した。「まだきっちり正午《おひる》にはなっておりません」それはまさしく合っていた。
さて私はというと、私もまた、彼女の同類の名誉であると同時に、わが心の誇り、わが精神の香りであるところの、いみじくも名づけられた、美女フェリーヌ〔猫〕の上に身をかがめれば、夜でも昼でも、明るみの中でも、薄暗い物蔭でも、彼女の可愛らしい眼の奥に、つねにはっきりと時間を読む。いつも同じ一つの時間、茫漠《ぼうばく》として荘厳な、虚空《こくう》のように広大な、分や秒の区切りのない一つの時間を、――時計面には記されておらぬが、しかも吐息《といき》のように軽やかで、まばたきのように迅速《じんそく》な、不動の時間を。
そしてもしも私の視線が、その心地《ここち》よい文字盤の上で休んでいるあいだに、誰かうるさい厄介者がそれを邪魔しにくるならば、もしも無礼な頑固な精霊か、あるいは時ならぬ悪魔がやってきて、「お前はそんなにしげしげと何をそこに見つめているのか? その女人の眼の中に何をお前は探しているのか? のらくらな浪費家よ、時間をでもそこに見ているのか?」と私に向って尋ねるならば、私はためらわずに答えるであろう、「そうだ、私は時間を見ている。それは『永遠』という時間である!」と。
ところで、ねえマダム、この台詞《せりふ》こそ、実に賞讃に値《あたい》するところの、かつあなた自身と同じように大袈裟《おおげさ》な、相聞歌《そうもんか》ではありませんか? 実際、私はこんなふうに粋《いき》な気取った言葉を誇張して話すのが至極うれしいのです。しかし、何もそのお返しをあなたにおねだりするわけではありませんよ。
十七 髪の中の半球
いつまでも、いつまでも、お前の髪の匂いを嗅がせておくれ。咽喉《のど》の渇いた人が泉の水にするように、その髪の中に私の顔をすっぽりとひたらせておくれ。思い出を中空にゆすぶるために、馥郁《ふくいく》たる手帛《ハンカチ》のように、私の手でそれを揺らせておくれ。
お前の髪の中に、私の見るすべてのものを、私の感じるすべてのものを、私の聴くすべてのものを、お前もまた知ることができればいいのに! ああ、他人の魂が音楽の上を旅するように、私の魂は薫《かお》りの上を旅してゆく。
お前の髪は帆布と帆檣《マスト》の充ちみちた一つの夢をすっかり含んでいる。それはまた大海原《おおうなばら》をも含んでいて、その貿易風は、空がひとしお青く、ひとしお深く、大気が果実や木の葉や人々の肌の香りに薫《くゆ》り立つ、あの魅力に富んだ風土のほうへと私を運んでゆく。
お前の髪の大洋の中に、私は港をちらりと見る。メランコリックな歌声と、あらゆる国々のたくましい男たちと、常夏《とこなつ》の熱を湛えた涯《はて》しない精緻《せいち》な複雑な構造を浮き上らせている、あらゆる形の諸船《もろぶね》と、それらがこの港には群れつどうている。
お前の髪を愛撫していると、私はまたしても思い出す、美しい汽船の一室で、港のあるかなきかの横揺れにゆられながら、植木鉢と素焼きの冷水|甕《がめ》との間の、長椅子《ながいす》にもたれて過ごした、あの長い時間のけだるさを。
お前の髪の熱い炉《ろ》の中に私は嗅ぐ、阿片《あへん》と砂糖とに混った煙草の匂いを。お前の髪の夜の中に私は見る、熱帯地方の青空の無限が光り輝くのを。お前の髪の絨毛《うぶげ》の生えている岸辺に私は酔う、瀝青《タール》と麝香《じゃこう》と椰子油《やしゆ》との互いに混り合う薫香《くゆりが》に。
どうかこのまま、いつまでも、お前の重い黒髪の組み毛を私に噛ませておくれ。その弾力性のある、仕末に負えない髪を噛んでいると、私には思い出を食べているような気がするのだ。
十八 旅へのいざない
古い馴染《なじみ》の恋人を連れて、私が訪れたいと夢みるのは、すばらしい一つの国、人々のいう「極楽境」である。わが北部地方《ノール》の靄の中に沈んでしまった珍しい国、さながら西洋の東洋、ヨーロッパのシナともいうべき国である。それほどそこでは熱い気まぐれな幻想が、自由気儘にふるまっていたし、それほどその幻想は、すぐれた繊細な植物で、倦《う》まずたゆまずその国を飾り立てていたのだ。まことにそれは「極楽境」、そこではすべてが美しく豊かで、静穏にしてかつ誠実である。そこでは豪奢は秩序の中に欣然《きんぜん》とその姿を映し、生活は豊満にして呼吸するに心地《ここち》よく、乱雑と喧騒と意外事とは取り除かれ、幸福は静謐《せいひつ》と婚を結び、料理さえも詩的にして脂濃《あぶらこ》く、同時にまた人を興奮させる。そこでは、わが愛しい恋人よ、すべてがお前によく似ている。
お前は知っているか? 冷たい窮乏に陥った時、われらを捉えるあの熱病を、未知の国へのあの郷愁を、いらだつ好奇心のあの苦痛を。それはお前によく似た国土、そこではすべてが美しく豊かで、静穏にしてかつ誠実である。そこでは幻想が、西洋のシナを築き上げ、飾り立て、生活は呼吸するに心地よく、幸福は静謐と婚を結んでいる。ああ、行って暮すべきはその国、行って死すべきはその国である!
しかり、行って呼吸し、行って夢み、無限の感覚によって時間を延ばすべきはまさにその国である。ある音楽家は「ワルツへのいざない」を書いた。愛する女に、選ばれた吾妹子《わぎもこ》に、捧げうる「旅へのいざない」を作るのは果して何びとであろう?
しかり、楽しく暮すべきは、その雰囲気の中である。――そこでは、歩みの遅々たる時間ほど、より多くの思想を含み、大時計は、ひとしお深い、ひとしお意味のある荘厳さで幸福を告げているのだ。
光沢《つや》のある羽目板の上に、あるいは、金色《こんじき》の、暗い豊麗な鞣革《なめしがわ》の上に、それを描いた芸術家の魂のように、敬虔《けいけん》なしとやかな奥深い絵画が、今もなおひっそりと生きている。食堂や客間を豊かにいろどる夕日の光は、船の桟《さん》でこまかく区切られた、手の込んだ高い窓や、美しい織物に漉《こ》されてさし込んでくる。家具は大きく、珍しく、奇妙で、洗練された人の魂のように、錠前と秘密とに身を固めている。鏡、金属、織物、金銀細工、陶器類は、見る人の眼に、無音の神秘な交響楽を奏《かな》でている。あらゆる物から、あらゆる隅々から、ひきだしの隙間から、織物の襞《ひだ》から、この部屋の魂ともおぼしき妖《あや》しい香りが、スマトラの忘れがたいおいしい料理の味が、発散している。
まことに「極楽境」、と私がお前にいったとおり、そこでは、さながら美しい良心のように、すばらしい一揃いの厨房器具のように、燦然《さんぜん》たる金銀細工のように、また色とりどりの宝石細工のように、すべてが豊かで清潔で、つややかに光り輝いている! 全世界に偉大な貢献をした勤勉な人の館のように、この世の数々の宝物は、そこに集まり溢れている。「芸術」が「自然」よりもすぐれているように、他の国々にまさっている珍しい国、そこでは自然が夢によって改造され、訂正され、美化され、鋳直《いなお》されている。
ああ、願わくは園芸の錬金術師たちが、探求し、ますます探求して、彼らの幸福の限界を絶えず拡大すればいいに! 彼らの野心的な課題を解く者のために、六万フロラン、十万フロランの懸賞金を出してくれればいいに! 私は、私はすでに、私の黒チューリップと私の青ダリヤとを発見したのだ!
たぐい稀なる花よ、発見されたチューリップ、寓意的なダリヤよ、お前が行って育ち、行って花咲くべきは、まさにあの、かくも穏やかな、夢多い美しい国ではなかろうか? かくてこそお前は、お前の相似の中に置かれるのではなかろうか? かくてこそお前は、神秘主義者の言をかりていえば、お前自身の照応《コレスポンダンス》の中に、お前の姿を映すことができるのではなかろうか?
夢である! 常に夢である! しかも魂が野望をいだけばいだくほど、繊細になればなるほど、夢はますます可能から遠ざかってゆく。人はおのおの、天与の阿片剤の、絶えず分泌され絶えず更新される一定量を、心のうちに有している。しかし生れてから死ぬまでのあいだに、明確な楽しみに満たされた時間を、成功した確定的な行為に満たされた時間を、われらは一体いくつ数えうるであろうか? 私の精神が描き出したこの絵画の中に、お前によく似たこの絵画の中に、いつの日、われらは移り住めるであろうか?
これらの宝、これらの家具、この豪奢、この秩序、これらの薫り、これらの奇蹟の花々、それはお前である。これらの大河、これらの静かな運河、それもまたお前である。河や運河を下りゆき、富を満載し、帆綱を操《あやつ》る単調な船唄の立ち昇るこれらの巨大な船、それはお前の胸の上にあるいはまどろみ、あるいは転々とする私の思想である。お前は、お前の澄みきった美しい魂の中に、大空の深さを映しながら、おだやかに私の思想を、「無限」そのものである海のほうへ導いてゆく。――やがて海路《うなじ》の浪に疲れ、東洋の産物を満載して、それらの船が再びふるさとの港に帰ってくる時、それはやはり、「無限」からお前のほうへと帰ってくる、豊かにされた私の思想にほかならないのだ。
十九 貧者の玩具
無邪気な気晴らしを一つ教えてあげよう。罪のない娯楽は実に少ないものだ!
朝、君が、大通りをぶらぶら歩いてみるつもりで家から出かける時、ほんの一銭ぐらいで買える、ちょっとした思いつきの玩具をポケットに満たしておき給え、――たとえば、一本の糸で操られる平べったいおどけ人形とか、鉄砧《かなとこ》をたたく鍛冶屋《かじや》とか、その尻尾《しっぽ》が笛になっている馬にまたがった騎士などを。――そして君は、酒場に沿って歩きながら、並木の下を歩きながら、君の出会う見も知らない貧しい子供たちにそれを恵んでやり給え。彼らが眼を皿のようにみはるのを君は見るだろう。最初、彼らはどうしても受け取ろうとはしないであろう。己れの幸福を疑っているのだ。それから、彼らはその贈物をさっとひったくって逃げてゆくであろう。人間の信ずべからざることを知った猫が、君から貰った食べ物の一片を、遠くへ持っていって食べようとするように。
さて、とある路《みち》のほとり、陽《ひ》に照らされた美しいお屋敷の白亞《はくあ》の色がずっとはずれに見えている宏壮な庭園の、その鉄柵の後ろに、ひどくしゃれた散歩服を着た、美しい瀟洒《しょうしゃ》な子供が立っていた。
奢侈《しゃし》と、安楽と、富裕を見慣れていることとが、このような子供を、中産階級や貧民階級の子供たちとはまったく別の体質で作られていると思えるほど、美しくしているのだった。
その子供のそばに、主人と同じように瀟洒な、艶《つや》のある、金色に塗られ、緋色《ひいろ》の服を着た、羽毛やガラス玉で飾られたすばらしい人形が、草の上にころがっていた。しかし、その子供が気に入りの玩具をうっちゃらかして、見つめているのは次のことであった。
鉄柵のこちらがわの路ばたに、あざみといらくさのあいだに、薄汚い、貧相な、煤《すす》けた別の子供が遊んでいた。どん底階級の子供ではあるが、鑑識家の烱眼《けいがん》が馬車造りの塗ったニスの下にさえ理想的な絵画を見抜くように、公平な眼は、一たび厭うべき貧窮の垢《あか》をこの子供から洗い落したならば、その本然の美を発見するでもあろう。
大きな路とお屋敷、この二つの世界を区切っている象徴的な鉄柵越しに、貧しい子供が富める子供に自分の持っている玩具を見せていたのだ。富める子供はそれを珍しい未知の品物のように、欲しくてたまらぬ面持《おももち》で見つめている。ところでその玩具は、むさくるしい姿の子供が、格子《こうし》のついた箱に入れて、いじめたり、動かしたり、ゆすぶったりしているその玩具は、なんと一匹の生きた鼠なのであった! 彼の両親は、いうまでもなくお金を倹約して、その玩具を生活そのものの中から取ってきたのであった。
そしてこの二人の子供は、平等な白さの歯を覗かせて、お互いに兄弟のように笑い合っていた。
二十 妖精の贈物
それは、この世に生れてからまだ二十四時間しか経たないすべての嬰児《みどりご》たちのあいだに、贈物の分配を始めようとする妖精の大集会であった。
古風な気まぐれな、「運命」の「姉妹」たち、歓喜と苦悩との奇怪な姿をした「母親」たち、すべてこれらの妖精は、まことにさまざまな様子をしていた。陰鬱《いんうつ》な不愛想らしい者もいれば、ふざけっぽいいたずらそうな者もいた。以前からいつも若々しかった者は今もやはり若々しく、以前いつも年老いていた者は今もやはり年老いていた。
妖精を信用している人間の父親たちはみな、おのおのその嬰児《みどりご》を腕に抱いて、すでにここに集まっていた。
「才能」「財力」「幸運」「いかんともしがたい事情」、それらが、賞品授与式の時の壇上の賞品のように、審判席のかたわらにうずたかく積み重ねてあった。ただし風変りなことに、これらの「贈物」はある努力に対する褒美《ほうび》ではなくて、それとはまったく反対に、いまだ生活を営まない者に対して与えられる恩恵、一生の運命を決定し、幸福の源とも不幸の源ともなりうる恩恵であることであった。
気の毒にも妖精たちは多忙をきわめていた。なぜなら、懇望者の人数が非常に多く、その上、人間と神とのあいだに在るこの中間の世界も、われわれと同様に、「時間」やその無窮の後裔《こうえい》たる、「日」「時」「分」「秒」の恐ろしい法則に支配されているからである。
実際、妖精たちは、まるで面会日の大臣か、あるいは担保品無料払戻しを布告した祝日の公営質屋の従業員のように、眼のまわるほどの忙しさであった。人間界の裁判官が朝から法官席の椅子に坐りっきりだと、昼食のことや家庭のことや懐かしいスリッパのことを空想せずにはいられなくなるように、妖精たちもまた、それと同じようにいらいらして、ときどき時計の針を眺めたに相違なかろう。この超自然界の審判においてさえ、多少のそそっかしさや出まかせがあるものとすれば、人間界の裁判に時おり同様な間違いがあっても、われわれは驚かないことにしよう。われわれ自身でさえ、このような忙しい場合には、不公平な裁判官になりかねないのだから。
気まぐれよりむしろ慎重ということが妖精の不変の特性であるとすると、奇怪千万に思えるような、いくつかのでたらめが、この日もまた、行なわれたのであった。
すなわち、磁力のように富を吸い寄せる力が、ある冨豪のたった一人の相続人《あととり》に与えられた。しかし彼は、何らの慈善心も、人生の最も明瞭な善行を渇望する性質も、授けられなかったのであるから、後年その巨万の富にひどくわずらわされるようになるに相違ない。
また、「美」への愛好と「詩人になる能力」とが、ある陰鬱な貧乏人の息子に与えられた。しかし石切り稼業の彼の父親は、どんな手段をもってしても、この不憫《ふびん》な小伜《こせがれ》の才能を助長してやったり、その必要品を扶助してやったりすることはできないであろう。
私は言い忘れていたが、この式場では、貰うほうからどれを下さいと要求することはできず、またどんな贈物を貰っても拒絶することはできない掟《おきて》になっていた。
厄介な仕事が片づいたものと信じて、妖精たちは残らず席を立った。なぜなら、この人間の稚魚《ちぎょ》どもに投げ与えるべき、いかなる引出物も、いかなるほどこし物も、もはや残ってはいなかったからである。その時、一人の貧しい小柄な商人風の実直そうな男が立ち上るや、一番近くにいた妖精の多彩な霞《かすみ》の衣にとりすがって叫んだのであった。
「もしもし! あなたさま! 私どもをお忘れでございます! 私の子供がまだ残っています! せっかくやってきたのですから、どうぞ何か下さいまし」
妖精はさだめし困惑したことだろう。何一つ残り物はないのだから。しかし彼女は、その時ふと、「仙女《フエ》」「|地の精《グノーム》」「|火の精《サラマンドル》」「|空気の女精《シルフィード》」「|空気の精《シルフ》」「|水の妖女《ニックス》」「|水の精《オンダン》」「|水の女精《オンディーヌ》」などといったような、あの、人間の友であり、しばしば人間の情熱に順応することを余儀なくされる、微細な神々の住んでいる超自然界において、めったに適用されないけれども、誰にもよく知られている、一つの法則を思い出した。――私がいおうとするのは、つまり今のような場合に、すなわち分け前がなくなってしまった場合に、なお一つ、追加した例外の分け前を与え得る能力を、もし即座にそれを創り出せるだけの空想力さえ持っているなら、妖精に対して認めるという法則のことである。
そこで件《くだん》の親切な妖精は、身分にふさわしい落着きをもってこう答えた。「わたしはお前の息子《むすこ》に恵んであげよう……お前の息子に……『人に気に入られるという贈物』を!」
「でも、気に入られるとはどんなふうに? 気に入られるとおっしゃいますと……? 気に入られるとはどんな理由で?」と、この小売商人はしつこく尋ねた。彼はもちろんありふれた理屈屋の一人なので、「不条理」の論理など解することはできないのであった。
「それはね! つまりそれはね!」と妖精はぷりぷり怒って答えながら、彼に背を向けてしまった。そして仲間の列に追いついて、みんなにこういったのである。「ねえ、あのうぬぼれの強い、ちっぽけなフランス人をあなたがたはどう思って? あいつは、何もかも知りたがる男で、しかも息子のために一番上等の分け前を貰ったくせに、『わかりきった事柄』をなおもつべこべと問いただしたり、議論したりするのですからね」
二十一 誘惑
あるいは恋愛の神と富貴の神と名誉の神
傲然《ごうぜん》たる二人の悪魔と、それに劣らず異様な一人の魔女が、昨夜、眠っている人間の弱点を「地獄」が襲撃し人間と秘かに交通する、あの神秘な階段を上って来た。そして彼らは私の前にくると、演壇に出たように突っ立ったまま、威風堂々と身を構えた。夜の漆黒《しっこく》の闇の底にこうして浮き出ている三人の身体《からだ》からは、燐光質の輝きが放射していた。彼らはいかにもあたりを払う毅然《きぜん》たる様子をしていたので、私は最初三人とも真の神だと思ったほどである。
一番目の悪魔の顔つきは、男か女か、はっきりとはわからなかった。そしてまた、その肉体の曲線には、太古の酒神《バッカス》の柔軟さもあった。ものうげな美しい双眸《そうぼう》は、幽暗|模糊《もこ》たる色を浮べ、夕立の重い露をなお湛えているすみれの花によく似ていた。半ば開いた唇は、暖かい香炉に似て、そこから香料の芳《かんば》しい匂いが発散していた。そして、彼が溜息をつくごとに、麝香《じゃこう》の香りのある昆虫たちが、ひらひらと飛び交いながら、その吐息の熱《ほて》りに照らし出されていた。
緋《ひ》の胴着のまわりには、帯のように、玉虫色の一匹の蛇が巻かれていて、鎌首をもたげ、ものうげに燠火《おきび》のような眼で彼を見上げていた。この生きた帯には、気味の悪い液体のいっぱい入っているガラス壜やぴかぴか光る刃物や手術用の器具などが互いちがいにぶら下っていた。彼は右の手に、中味の赤く光るもう一つの壜をたずさえていたが、その貼札には次のような奇怪な言葉が書いてあった。「飲め、これはこれわが血液、最上の気つけ薬」そして左の手には、一つのヴィオロンを持っていたが、それはもちろん彼の快楽や彼の苦悩を歌ったり、魔宴《サバト》の夜《よ》な夜なに、彼の狂熱ぶりを他に伝染させたりするのに役立つ品である。
彼のきゃしゃな足頸《あしくび》には、ちぎれた金の鎖のいくつかの環が引きずられていた。そしてそのために歩行が不自由になってやむなく地上に眼を落す時、彼はいかにも得意然と、磨き立てた宝石のように燦然《さんぜん》と光沢《こうたく》を放つ足の爪を眺めやるのであった。
彼は慰むべくもない沈痛な眼で私を眺めたが、そのまなざしからは油断のならない陶酔のいろが溢れ出ていた。そして彼は歌うような声で私にいった。「お前がお望みなら、お前がお望みなら、わしはお前を人々の魂の主権者にしてあげよう。そうすれば、彫塑家《ちょうそか》が粘土に対する支配者でありうる以上に、お前は生きた物質の支配者になれるのだよ。そしてお前は、他人の中に入って自己を忘却するためにお前自身から脱け出たり、他人の魂を引き寄せてついにはお前の魂と融合させたりする、次から次へと湧き起ってくる快楽を味わえるだろう」
そこで私は相手に答えた。「大きにありがとう! だがね、僕の貧弱な自我よりもおそらく値打がいいわけでもない、そんな連中のその劣等商品が、僕にとって何になろう。僕だって思い出せば恥ずかしい点がないでもないが、僕は自分をちっとも忘れたくはないのだ。君とは一面識もなかったけれど、古めかしい怪物よ、君のその神秘な刃物、君のその怪しげな壜、君のその足にからまっている鎖、それらは君の友情が僕に都合のいいものでないことをまざまざと説明してくれる象徴である。君の贈物はしまっておき給え」
二番目の悪魔は、最初の悪魔のような、悲痛にしてかつほほえんでいる風貌もなければ、そのような見事な媚態《びたい》もなく、そのような優雅で匂やかな美しさもなかった。でっぷりと肥った男で眼のない大きな顔をして、重い太鼓腹は腿のあたりまで垂れ下り、皮膚はすっかり金色に塗られて、そこにはまるで刺青《いれずみ》をしたように、世のあらゆる悲惨事のさまざまな形を現わした、大勢のうごめく小さな人間の姿が描かれてあった。一本の釘にみずから進んでぶら下っている、気力のないちっぽけな人間たちもあれば、顫える手よりも哀願する眼のほうがいっそうほどこし物を懇望しているような、痩せた畸形の侏儒《しゅじゅ》もあり、また、しなびた乳房にしがみついている月足らずの赤ん坊をかかえている年老いた母親もあった。
この肥った悪魔は片手の拳《こぶし》で大きなお腹《なか》を叩いていた。するとそこから、長く響き渡る金属製の鏘々《そうそう》たる音が湧き起り、その余韻は無数の人声から成る漠然たる呻《うめ》きとなって消えていった。彼はみそっぱを臆面もなく覗《のぞ》かせ、どこの国でも、ある人々が、しこたまご馳走を食べたあとでやるように、高らかに馬鹿笑いをした。
そしてこの悪魔は私にいった。「わしはお前に、すべてを手に入れうるもの、すべてに値するもの、すべてに代わるものを、授けることができるのだよ!」こういって彼が奇怪な太鼓腹を叩くと、その殷々《いんいん》たる谺《こだま》が彼の大ざっぱな言葉に注釈を加えた。
私は嫌悪《けんお》の情に駆られ、そっぽを向いて答えた。「僕は自分の享楽のために何びとをも悲惨に陥れることは必要としない。壁紙のように君の皮膚の上に描かれているあらゆる不幸な人々によって、悲しい気持にされてしまうそんな富貴は欲しくない」
魔女はというと、私は彼女をひと眼見た時から異様な魅力を覚えたのだ、と告白しなければ、嘘をつくことになるであろう。この魅力を明示するためには、齢《とし》はすでに下り坂でありながらなお老いを見せず、その美しさの中に身に沁《し》む廃墟の魔力を保っている、絶世の麗人の魅力とくらべるよりほかに、私はよりすぐれた方法を知らないのである。彼女は権柄《けんぺい》ずくなくせに同時に楚々《そそ》たる風情《ふぜい》をも有していた。そしてその眼は、疲れて隈《くま》ができているにもかかわらず、人を悩殺する力を備えていた。私を最も驚かせたのは、その音声の神秘さであって、私はその中に、最も甘美な中音部《コントラアルト》の記憶と、また、絶えず火酒で洗われている咽喉《のど》の、多少しゃがれた声とを、見出したのである。
「お前はわたしの力が知りたいかえ?」と、この贋《にせ》の女神は魅力ある逆説めいた声でいった。
「お聴き」
そして彼女はそのとき、世界じゅうの新聞の表題《タイトル》で軍帽《ミルリトン》のようにリボン飾りをほどこされた、巨大なラッパを口にあてた。それを通して彼女が私の名前を呼ぶや、その呼び声は万雷のごとき音を立てて、空間を貫いてとどろきわたり、一番遠い遊星から谺《こだま》となって私のところに戻ってきた。
「おう!」と私はなかば征服されて叫んだ。「これだ、これだ、貴重なのは!」しかし、いっそう注意深くこの誘惑的な女丈夫を熟視した時、私は何だか彼女に見覚えがあるような気がした。彼女が私の知人の二、三のやくざな連中と乾杯《かんぱい》しているところを私は目撃したことがあるようだ。そしてあの真鍮《しんちゅう》楽器のしゃがれ声は、何かしら淫売屋のラッパの記憶を私の耳に思い起させた。
で、私はあらん限りの侮蔑をこめて答えた。「出てゆけ! 僕はその名を口にするのも汚らわしい誰かの情婦《いろおんな》などと結婚するようにはできておらんのだ」
まったくのところ、かくも勇敢な克己《こっき》ができたことについては、私は誇るべき権利があったのだ。だがあいにくと私は夢から眼が覚めた。そしてあらゆる力が私から失せてしまった。私は考えた。「実際、あれほど慎重ぶりを発揮したとは、われながらよくよくぐっすりと眠っていたものだ。ああ! 僕の眼覚めているあいだに、もう一度彼らがやってきてくれるなら、僕はあんなにまで気むずかしい態度はしないであろうに!」
そして私は大声で彼らを呼んだ。どうか先刻のことは許しておくれ、君たちの愛顧を受けるに値するためなら、幾度でも必要なだけ自分の体面を汚してもいい、と私は申し出た。しかしながら、もちろん私はひどく彼らの逆鱗《げきりん》に触れてしまったものと見えて、彼らは二度と帰ってはこなかった。
二十二 夕まぐれ
日が暮れる。一日の労苦に疲れた憐れな人々の心の中に、大きな安らぎが作られる。そして今その人々の想いは、たそがれのもの柔らかなそこはかとない色を帯びてゆく。
しかし一方また、丘の高みから、夕暮の透明な雲を越して、私の家の露台《バルコン》まで、多数の不調和な叫びから成る大きな唸り声が聞えてくる。その叫びはここまでの空間のために、満ち高まる潮《うしお》のような、あるいは吹きつのる嵐のような、悲痛な諧調《ハーモニー》に変えられているのだ。
たそがれがきても心|鎮《しず》まらず、夜の到来をあたかも梟《ふくろう》のように魔宴《サバト》の合図と思い込む、あの不幸な人々は何者であろうか? あの不吉な、梟の啼き声のような、呻《うめ》きは、丘の上の暗い精神病院から聞えてくるのだ。夕方、煙草をすいながら、一つ一つの窓が「ここにいま平和がある。ここに家庭の団欒《だんらん》がある!」と語っている、人家の密集した広い谷間の休息を眺めやりながら、私は、向うの高みから風が吹き下ろす時、この地獄の諧調に似た声に愕然《がくぜん》とする私の想いを、やさしく揺すって寝かせつけることができる。
たそがれは狂人たちを昂奮させる。――私は、たそがれになるとまったくの病人になってしまう二人の友人がいたことを思い出す。その一人は日が暮れると、友情や礼儀のあらゆる覊絆《きはん》を忘れ果てて、野蛮人のように、相手かまわず誰にでも乱暴を働いた。私は、彼が給仕頭の頭にすてきな若鶏料理の一皿を投げつけたのを目撃したことがある。彼はその料理の中に、何かしら侮辱的な象形文字が見えたような気がしたのだろう。深い歓楽の前触れである夕暮は、この男にとっては、最も滋養に富んだ物まで台なしにさせてしまうのであった。
他の一人は、失意の野心家であったが、日が傾くにつれて、ますます気むずかしくなり、沈みがちになり、意地悪くなった。昼間のうちはまだ寛大で社交的だったが、夕暮がくると冷酷になった。たそがれどきに起るこの狂癖は、他人に対してのみではなく、彼自身に対しても兇暴に働きかけるのであった。
前者は、己れの妻や子を見分けることさえできなくなって、狂い死んだ。後者は今なお永遠の業病《ごうびょう》に苦しんでいる。かりに共和国や王侯の与えうる、いっさいの名誉が彼に授けられたとしても、ひとたびたそがれがくれば、彼の胸中には依然として、かの架空の殊遇《しゅぐう》を欲する燃えるような熱望が点火されるに相違ない。彼らの精神の中にかくも暗黒を置く夜が、私の精神の中には光明を作り出すのである。同一の原因から相反する二つの結果の生ずることは、往々にして見受けるところではあるが、私はいつもそのことで、不安のような、驚愕のようなものを感ずる。
おお、夜よ! 清涼《せいりょう》の気をもたらす暗闇よ! 汝は私にとって心の祝祭の合図であり、憂悶《ゆうもん》からの解放である! 曠野《こうや》の孤独の中で、首都の石ころだらけの迷路の中で、星のきらめきよ、街の灯の輝きよ、汝こそは「自由」の女神の狼火《のろし》である。
たそがれよ、いかに汝の甘くして優しいことであろう! 夜の勝ち誇った圧迫の下にあえぐ昼の断末魔のように、なおも地平線に棚曳いているばら色の微光、落日の臨終《いやはて》の栄光の上に濁った赤い汚点《しみ》をつくる数々の燭台の灯、東洋の奥から見えない手が引き出してくる重い帳《とばり》、これらは、人生の荘厳な時刻に、人間の心の中でひしめき合う、あのいっさいの複雑な心情にさながらである。
それはまた、いわば踊子の珍しい衣裳の一つでもあろう。その透きとおった紗《しゃ》の生地《きじ》の下には、暗黒の現在の向うに懐かしい過去が透いて見えるように、燦然《さんぜん》たるスカートのきらびやかさが和《やわ》らげられてちらついている。そして、そこにちりばめられた金や銀のまばたく星は、「夜」の深い暗黒の下でのみ鮮やかに点《とも》るところのあの幻想という灯火を表わしている。
二十三 孤独
ある博愛家の新聞記者が、孤独は人間に悪いものだと私にいった。そして自説を裏書するために、彼は、不信心家がみなやるように、教父たちの言葉を引用した。
私といえども、悪魔が淋しい不毛の場所に好んで出没することや、殺戮《さつりく》と多淫の精霊が独居のうちで烈々といきり立つことは知っている。しかしこうした孤独は、情欲と妄想とをもって孤独を満たす、あの閑居して不善をなす手合いにとってのみ、おそらく危険であるのかも知れない。
講壇や演壇の上から弁舌を振うことがなによりの快楽である一人の饒舌家《じょうぜつか》が、ロビンソンの無人島に漂流すれば、猛烈な狂人になるおそれが多分にあることも確かである。私は何もこの新聞記者に、クルーソーの勇ましい徳性を強要するわけではない。しかし彼がいちがいに孤独と神秘とを愛する人々を非難することだけはやめてもらいたいのだ。
世の饒舌人種の中には、サンテール〔フランスの革命家、将軍。部下の鼓手に太鼓を叩かせて断頭台のルイ十六世の演説を打ち消した〕の太鼓によって思いがけない時に己れの弁論をさえぎられる懸念なしに、断首台上から滔々と一場の演説を行うことが許されるならば、死刑をも大して嫌がらずに承諾するような連中がある。
雄弁の吐露《とろ》が彼らにもたらす快楽は、他の人々が沈黙と瞑想とから引き出す快楽に等しいことを察するので、私は彼らを不憫《ふびん》だとは思わない。だが私は彼らを軽蔑する。
私は、この憎らしい新聞記者が私を勝手に楽しませておいてくれればいいと特に望む。「じゃあなたは」と、――彼はいかにも使徒気取りの鼻にかかった声で私にいうのだ、――「どうあってもあなたの楽しみを他人に分けようとは思わないのですか?」見給え、諸君、このずるい嫉妬家《しっとか》を! 彼は、彼の楽しみを私が軽蔑していると知ったので、今度は私の楽しみの中へそろそろと忍び込みにやってきたのである。このいやらしい興ざめ男は!
「独りでいることのできないという、この大きな不幸!……」と、ラ・ブリュイエール〔フランスの有名なモラリスト〕は何かでいっている。自分の気持をもてあますことをもちろん惧《おそ》れながら、自己を忘却しようとして群衆の中を走りまわる人々、そういう人々をことごとく慚愧《ざんき》させるためのように。
「われわれの不幸のほとんどすべては、われわれが自分の部屋にとどまっていることができなかったからである」と、他の賢者パスカルはいっている。かくいう時パスカルは、もしも私が現世紀の美しい言葉で呼ぼうとすれば博愛とでも称しうる、あの売淫と雑沓《ざっとう》との中に、幸福を捜し求めるあらゆる狂気沙汰の人々を、その瞑想の小部屋の中でさだめし思い浮べていたことだろう。
二十四 計画
人影のない大きな公園の中を散歩しながら彼は考えていた。「複雑な、贅《ぜい》を凝《こ》らした宮廷の衣裳をつけて、美しい夕暮どきの雰囲気の中を、大きな芝生と水盤の真向いに、宮殿の大理石の階段を降りてくるとしたら、どんなに彼女は美しいことだろう! もともと彼女は王女のように見えるのだから」
しばらくして、今度は通りを歩きながら、彼は一軒の絵葉書屋の店先に歩みをとどめ、熱帯風景を描いた一枚の版画を紙箱の中に見出すと、こう考えた。「いやいや! 私が彼女のいとしい生命を所有したいと思うのは宮殿の中ではない。そこでは≪私たちの家≫にいるような気がしないだろう。それに、金ぴかずくめのその壁には、彼女の肖像画を懸けるべき場所もなかろう。その壮麗な廻廊には睦《むつ》まじく囁《ささや》き合うべき片隅もない。私の人生の夢をはぐくむために、行って住むべきはまさにこの国である」
そしてその版画の細部を眼でくわしく分析しながら、彼は心の中で思いつづけていた。「海辺には、美しい木造の小屋、名は忘れたが、奇妙な、艶《つや》のある木々がそれを一面に蔽うている……。大気の中には、酔うような何ともいえぬよい匂い……。小屋の中には、ばらと麝香《じゃこう》の強烈な薫《かお》り……。やや離れて、私たちのささやかな地所の後ろには、波に揺られている帆檣《マスト》の先端《さき》……。二人の周囲には、廻転窓掛の漉《すか》したばら色の光線に照らされ、瀟洒《しょうしゃ》な茣蓙《ござ》や頭にくる匂いの花々に飾られ、重い漆黒《しっこく》の木で造ったポルトガル式ロココ風の珍しい椅子(彼女はこの椅子の上に、いかにも物静かに、心地《ここち》よく風に吹かれて、軽く阿片《あへん》を含んだ煙草をくゆらしながら憩《いこ》うことだろう!)のある部屋の彼方《かなた》に、ヴェランダの向うに、外光《ひかり》に酔った鳥のさえずりと、黒ん坊の小娘たちのおしゃべりと……。そして、夜ともなれば、私の夢に伴奏をしようと、音楽を奏《かな》でる樹木の、メランコリックな木麻黄樹《フィオラス》の、嘆きの歌! そうだ、ほんとに、これこそ私の探し求めていた背景である。宮殿などが何になろう?」
それからなお先へと大通りを進んで行くと、とあるこぎれいな旅館が眼に入った。多彩なインド更紗のカーテンで華やいで見える一つの窓から、にこやかな二つの顔がのぞいていた。ただちに彼は考えた。「これほど身近にあるものを、あんなに遠方まで探し求めに行こうとしたとは、さてさて私の考えはよほど放浪好きなやつに相違ない。快楽と幸福とは、行き当りのこの旅館、偶然出会ったこの旅館の中にある。ここにはいとも豊富な逸楽があるではないか。燃えさかる暖炉の火、派手な色彩の陶器、相当な晩餐《ばんさん》、辛口《からくち》のぶどう酒、多少ごわごわしているがこざっぱりとした敷布のついたとても大きな寝台、これ以上好いものがまたとあろうか?」
そして彼は、「叡知」の忠告がもはや外界の喧騒《けんそう》に打ち消されない時刻に、一人で家へ帰ってきて、考えた。「私は今日、空想の中で三つの住居を持ち、そこでそれぞれ相等しい快楽を見出し、私の魂がこれほど敏捷《びんしょう》に旅をするのに、どうして私の肉体に無理に場所を移させる必要があろう? それにまた、計画というものはそれ自体ですでに十分な楽しみなのだから、計画を実行したところで一体何になろう?」
二十五 美女ドロテ
太陽は怖るべき直射の光をもって街を蹂躙《じゅうりん》し、砂はまばゆく照り輝き、海はぎらぎら反射している。知覚を失った世界は、ぐったりと疲れて午睡にふける。それは、眠る者がなかば眼ざめながら己が涅槃《ねはん》の逸楽を味わう、あの一種風味ある死にも似た午睡《ひるね》。
おりしも、太陽のように強く毅然《きぜん》たるドロテが、人影のない路上を進んでゆく。広大無辺の青空のもとに、このとき生あるただ一人として、光の中にきわだった一つの黒点をつくりながら。
彼女は進んでゆく。いかにもほっそりとした上体を、いかにも幅の広い腰の上に、柔らかく揺《ゆす》りながら。身にぴったりと合った絹のドレスは、その明るいばら色の色調で彼女の皮膚の浅黒さと歴然たる対照をなし、高い身の丈《たけ》や窪んだ背中や尖った乳房の形をくっきりと示している。
赤い日傘は、光線を漉《こ》しながら、その照りかえしの血の色の顔料を、彼女の黒い顔の上に投げかけている。
ほとんど青くさえ見えるたわわな髪の重みは、きゃしゃな頭を後ろに引いて、勝ち誇ったようなけだるいような風情《ふぜい》を彼女に添えている。重い耳環はひめやかに愛くるしい耳でさえずっている。
ときどき海からのそよ風が、波打つスカートをはしからまくし上げ、艶々《つやつや》しい見事な脚を見せてくれる。ヨーロッパの博物館に所蔵された大理石の女神の足にそっくりの彼女の足は、細かい砂の上にきちんと形をしるしてゆく。それというのがこのドロテは、奴隷の境遇から解放された誇りよりも、人々から賞賛される喜びのほうが強いほど、それほど大したおしゃれ者で、奴隷ならぬ自由の身なのにわざわざ靴もはかずに歩いているのだから。
彼女はこうして調子よく進んでゆく。生きているのが幸福でたまらず、無邪気な微笑を浮かべながら、まるで空の遠くに、己の歩みぶりと美しさとを映し出す鏡を見ているとでも言ったように。
身を噛みさいなむ太陽のもとで犬でさえ苦悩にあえぐこんな時刻に、一体いかなる強い動機が、青銅のように美しく冷やかな、無精なドロテを、このように外出させているのであろうか?
花と茣蓙《ござ》とがごく僅かな費用で申しぶんのない閨房《けいぼう》を造っている、あのなまめかしくしつらえられた彼女の小屋、彼女があれほど楽しんで、髪を梳《す》いたり、煙草をすったり、涼風に吹かれたり、羽根製の大きな扇についた鏡に顔を映したりしていたあの小屋、そしてその時、百歩ほど向うで岸を打つ海が、とりとめもない彼女の夢見心地に力のこもった単調な伴奏を奏《かな》で、また一方、米とサフランとを混ぜた蟹のシチューの煮えている鉄の鍋《なべ》が、庭の奥から、彼女に刺戟性の匂いを送っていたあの小屋を、なぜ彼女は出てきたのであろうか?
彼女はたぶん、どこか遠くの海岸で同僚たちが有名なドロテのことを話すのを耳にしたある青年士官と、逢引きでもしに行くのであろう。きっと彼女は、この単純な女性は、オペラ座の舞踏会の話をしてくれと彼にねだったり、カフラリア〔アフリカ東南部の一地方〕人の老婆さえ歓喜に酔って熱狂するあの日曜日の舞踏へのように、オペラ座の舞踏会へもはだしで行けるのかとか、パリの美しい貴婦人たちはみな自分よりも美しいかなどと彼に尋ねることだろう。
ドロテは誰からも嘆賞され可愛がられている。もしも彼女が、かれこれ十一歳になった、すでに成熟して大そう美しい、彼女の妹を身受けするために、お金をどっさり蓄めねばならぬ責任さえないとすれば、完全に幸福であるだろうに! でも彼女は、善良なドロテは、むろん立派にそれをやってのけるだろう。なぜなら、妹の主人というのは、ひどい守銭奴で、あまりにも拝金主義者で、金貨の美以外の美は理解することができない男だから!
二十六 貧者の眼
ああ! お前は、私が今日なぜお前を憎んでいるかを知りたいのだね。それをお前に説明するよりも、お前がそれを理解するほうがいっそうむずかしいに相違あるまい。なぜならお前は、私の信ずるところでは、女の鈍感さの、最も見事な見本なのだから。
私たちはいっしょに、私には短かいとさえ思われた永い一日《ひとひ》を過したのだね。二人の想いがすべてお互いに共通であるようにと、そして二人の魂が今後はただ一つになるようにと、私たちは堅く約束を交わした。――それは、あらゆる人々が夢みるけれども、誰一人実現したことがなかったのはともかくとして、要するに、珍しくも何ともない一つの夢に過ぎないのだよ。
夕方、いくらか疲れて、お前は、新しい並木道の一角を占めている新しいカフェの店先に腰を下ろしたいと望んだ。そこにはまだ漆喰《しっくい》の屑が一面に散らばっていたが、未完成ながら、すでに豪華さは揚然と示されていた。カフェには灯《ひ》が輝いていた。ガス灯さえ初店《はつみせ》の意気込みを余すところなく見せ、全力をあげて照らしていた、まばゆいほどの白亞《はくあ》の壁を、眼を奪う鏡の面を、木縁《きべり》の軒蛇腹《のきじゃばら》の金色を、綱をつけた犬に曳かれている頬のくりくりしたお小姓たちを、拳の上にとまらせた鷹に向ってほほえんでいる貴婦人たちを、頭の上に果実や挽肉《ひきにく》や狩の獲物を載せているニンフや女神の群を、シロップとミルク入りの紅茶の小さな甕《かめ》やあるいは二色のオベリスク形組合せアイスクリームを腕さしのべて捧げている、エベ〔ギリシア神話の青春の女神、オリンポス山上の神々の饗宴に侍して神酒と神饌を給仕するを役目とする〕やガニメード〔ギリシア神話、トロイの美貌の王子、後に天帝に召されエベの代わりに神々に仕えた〕の群を、すべて健啖をうながすように描かれたいっさいの物語と神話とを。
私たちの真ん前の歩道の上には、疲れた顔をした、ごましお髯《ひげ》の、四十がらみの律義《りちぎ》そうな男が、片手には小さな男の子を連れ、他の腕には歩くのにはまだ弱すぎる幼児を抱《かか》えて突っ立っていた。彼は子守り女の役を果しながら、子供たちを夕方の散歩に連れて出ていたのである。みんな見すぼらしい身なりをしていた。その三つの顔は異常に真剣であり、その六つの眼は、年齢によって度合に相違はあるけれど、等しく感嘆の色を浮べて、新しいカフェをじっと見つめていた。
父親の眼は語っていた「じつにきれいだ! じつにきれいだ! 貧民社会の金《かね》が全部この壁の上に集まってしまったようだ」――少年の眼はいっていた、「きれいだなあ! きれいだなあ! だけどこれは、僕たちみたいな者でない人々だけが入れる家だ」――一番小さい子供の眼は、あまりにも幻惑されてしまって、茫然《ぼうぜん》とした深い歓喜のほかは何も現わしていなかった。
シャンソン作者たちは、喜びが人の魂を善良にし、心を和《やわ》らげるといっている。その歌詞《もんく》が、この夕べ、私に関する限りでは、なるほど間違っていなかった。私はこの家族の眼によって感動させられただけでなく、私たちの咽喉《のど》の渇きにくらべて大げさすぎる私たちのコップや水差《みずさし》を、いささか恥ずかしいとさえ思ったのである。私は自分の視線を、いとしい恋人よ、お前のまなざしのほうに振り向けて、私と同じ感慨をそこに読みとろうとしたのであった。そして、お前のいみじくも美しく妖《あや》しくも優しい眼の中に、「気まぐれ」が住み「月」の霊気が宿っているお前の緑の眼の中に、私は深く見入ったのであるが、その時お前は私に告げた。「あの人たちは大きな門のように眼をみはって、あたしには我慢できないわ! ねえ、あなた、ここの主人にそういって、追っ払わせて下さらない?」
ああ、これほど、お互いに理解し合うということはむずかしいのだ、わが恋人よ、相思の仲でさえ、これほど、お互いの考えはちぐはぐなのだ!
二十七 壮烈な死
ファンシウールはすばらしい道化師で、国王の友人の一人ともいっていいほどだった。しかしながら、稼業《かぎょう》として道化に身をゆだねている人々にとっては、かえって真面目《まじめ》な事柄が因果な魅力を有するもので、国家とか自由とかの観念が一介の喜劇役者の脳髄をひたむきにとらえてしまうということは、一見不思議に思われるかも知れないが、ある日、ファンシウールは数人の不平貴族のくわだてた陰謀の一味に加わったのである。
国王を廃し、独断で社会改革を決行しようとするこれら慷慨《こうがい》の士を、その筋に密告するおめでたい男は、どこの国にも必ずいるものだ。問題の貴族たちは、ファンシウールももちろんのこと、逮捕されて、死刑執行は動かぬところとなった。
私は、国王が謀叛人《むほんにん》の中に気に入りの俳優のいるのを見て、煮え湯を飲まされたような気持になったことを進んで信じたいと思う者である。この国王は、他の国王にくらべて、格別良いほうでもなく悪いほうでもなかったが、しかし極端に神経質であったため、多くの場合、どの国王よりも残忍になり専横になる傾きがあった。美術の熱心な愛好家であり、その上すぐれた鑑賞家でもあった彼は、快楽にかけては実際飽くことを知らなかった。人事や道徳に関してはかなり無頓着なくせに、なにしろ自分が真個の芸術家なので、「退屈」以外には恐れるに足る敵を知らなかったのである。そして、地上の暴君たるこの「退屈」から遁《のが》れんがために、あるいはそれを征服せんがために、彼が払ったさまざまの異様な努力は、もしも彼の国内で、快楽だけを、または快楽の最も精緻《せいち》な形式の一つである驚愕だけを目的とするとは限らず、どんなことでも書いていいと許されていたとするならば、峻烈《しゅんれつ》な歴史家のがわから、確かに、「怪物」というあだ名を彼に対して奉らせたことだろう。この国王の大きな不幸は、彼の天稟を十分に発揮するだけの宏壮な舞台を持ち合わせていなかったことである。狭過ぎる限界のうちで窒息してしまって、その名とその良き意志とが常に後世に知られていない若いネロは、世に少なしとしない。先見の明のない「天の摂理」は、この国王に彼の領土よりも大きな才能を授けておいたのである。
突如、王が謀叛人たち全部に特赦を賜おうとしているとの噂がひろまった。この噂の源《もと》というのは、ファンシウールがその得意とする主要な役の一つを演じなくてはならぬ一大演劇会が発表されたからで、人々のいうところによると、刑の宣告を受けた例の貴族たちもそこに列席を許されるとのことであった。浅薄な連中は、これこそ、顔に泥を塗られた国王が寛大な意向を持っている明らかなしるしであるとつけ加えた。
そもそもこの国王のように、生れながらに、または好んで、並はずれた変人にとっては、どんなことでも、たとえば徳行でも仁慈でも、とりわけそこに思いがけない快楽を見出すことが期待しえたとするならば、何事でもできないということはない。しかしながら、私のように、この国王の物好きな病的な魂の奥底をもっと深く洞察することのできた人々にとっては、王が、死刑をいい渡された男の、舞台における技倆の真価を判断したがっているのだと見るほうが、はるかに真相に近いのではあるまいか。彼はこの機会を利用して、もっとも興味ある生理学上の実験を行い、そして一人の芸術家の日頃の才能が、そのおちいった異常な境遇によって、どの程度にまで変質または変形されうるかを確かめようと思ったのである。それ以外に、王の魂の中に、仁慈などという多少なりともまとまった意図が、果して存在していたであろうか? その点は今日《こんにち》に至るまでついに疑問のままである。
とうとう、晴れの日が到来した。この小さな宮廷は華麗の限りを発揮した。少なくとも、まのあたりそれを見なくては、財源に制限のある一小国の特権階級が、真の盛儀のためにどれほど贅美《ぜいび》を示しうるかを、残らず了解することは困難であろう。まずその並べたてられた豪華さの魔術によって、次にそこに結びつけられた神秘な精神的な興味によって、この日のそれは二重の意味において真の盛典であった。
ファンシウールは、生命の神秘を象徴的に表現するのを目的とするあの夢幻劇の中の主役がしばしばそれであるが、無言の役やあまり台詞《せりふ》を口にしない役に、とりわけすぐれていた。彼は軽快に、まったく気楽な態度で登場した。その様子は見物の貴族たちの心に、温情と特赦との観念を裏書するのにあずかって力があった。
ある俳優について、「これはいい役者だ」という時、人々はその扮した役の背後に当の俳優個人を、つまり技巧とか努力とか意志とかを、洞察する余地のあることを意味するきまり文句を使っているのである。しかるに、もしここに一人の俳優が、その演出を命じられた役に関して、ちようどあの、最も立派な古代の彫像が奇蹟的に生きて動いたり歩いたり眼が見えるようになったりして、美の一般的な漠然たる概念に適するのと同じような状態に、到達したとするならば、それこそ疑いもなく、珍しい、まったく意外な場合としなければなるまい。ファンシウールはこの夜、生命のある、可能な、真実のものと思わないではいられない一個の完全な理想の化身《けしん》であった。この道化師は、不滅の円光を頭のまわりに戴き、舞台の上で、往ったり来たり、笑ったり泣いたり、身をよじらせたりしていた。その円光は誰の眼にも見えないが、私にだけは見えて、そこには「芸術」の光輝と「殉教者」の栄光とが不思議な汞和《アマルガム》をなして混り合っていた。ファンシウールは、何かは知らないが特殊な優美さによって、神々《こうごう》しいものと超自然的なものとを最も無法な道化の中にまで取り入れていた。私が今こうして、あの忘れがたい夜のことを諸君に叙述しようと努めているあいだ、私のペンは顫え、感動の涙は後から後からと私の眼に溢れてくる。ファンシウールは、断乎たる動かすべからざる方法で私に証明してくれたのだ、「芸術」の陶酔は、深淵への恐怖をおおいかくすのに、他の何ものよりも適しているということを、天才は死に直面してもなお、彼のように、死とか破滅とかいういっさいの観念を超越した三昧境《さんまいきょう》に没入し、死を忘れうる歓喜をいだいて、喜劇を演ずることができるのだということを。
観衆はみな、ひどく感情のすさんだ軽薄な連中だったとはいえ、今やたちまちこの芸術家の全能の支配を受けてしまった。もはや誰一人として死や喪や刑罰のことを考える者はなかった。誰も彼も、生ける芸術の傑作を見ることによって得られる、層々と高まる快楽に、不安を忘れて身をゆだねた。喜悦と感嘆の爆発は、鳴り続ける雷鳴のごとき勢いをもって、幾度となくくりかえし建物の円天井をゆるがせた。国王自身も酔い痴《し》れて、廷臣たちの拍手に和した。
とはいえ、烱眼者《けいがんしゃ》から見れば、国王のその陶酔ぶりは、決して純粋なものではなかった。思うに彼は専制君主の権力が敗北を喫したと感じたのであろうか? 人々の心を恐れさせ、人々の魂をしびれさせる自己の技術を、踏みつけにされたと感じたのであろうか? 己れの期待を裏切られ、己れの予想を愚弄《ぐろう》されたと感じたのであろうか? このような、きっぱり図星だともいえず、さりとて絶対に図星でないともいえない臆測《おくそく》が、国王の顔を見つめているあいだに私の脳裡を横切った。王の顔には、雪の上に雪が降り積むように、平素の蒼白さの上に絶えまなく新らしい蒼白さが加わって行った。彼が、こんなにも見事に死を茶化したこの旧友、この不思議な道化師の才能を、あからさまに喝采しているあいだでさえ、彼の唇はますます固く引きしまり、彼の瞳は嫉妬や怨恨のそれに似た内心の焔《ほむら》できらついていた。ふと、ある瞬間、私は陛下が、後ろに控えた一人の小姓のほうに身をかがめて、何やら耳打ちするのを見た。その可憐な少年の茶目っぽい顔は微笑に輝いた。それから少年はある火急の使命を果そうとするもののように、急いで王の桟敷《さじき》を離れた。
数分の後、鋭く長い口笛の音が、演技の最高調の瞬間においてファンシウールを立ちすくませ、同時に人々の耳と心をつんざいた。そしてこの思いがけない半畳の飛び出した観客席の現場から、一人の少年が、笑いをおさえてあたふたと廊下へ走り去った。
ファンシウールはぎくっとして、夢幻から揺りさまされ、まず眼を閉じ、ほとんどすぐにまたそれを途方もなく大きく見開き、次にはひくひくと呼吸するかのように口を開き、前に後ろに少しよろめき、そしてそれから、突然床の上にぱったり倒れて息絶えた。
剣のようにすばやかったあの口笛が、事実、死刑執行人の代りを勤めたのであろうか? 国王自身は、己れの策略が殺人の効果をあげることをあらかじめ知っていたであろうか? これは疑う余地がある。国王は、その親愛な、他人の追随を許さないファンシウールを哀惜したであろうか? そう信ずるのは、気持のいいことだし、正当なことでもある。
罪ある貴族たちは、この観劇が見納めとなった。その夜のうちに、彼らは残らず人生から抹殺されてしまった。
それ以来、諸国で正当に価値を認められた数々の狂言師たちが訪れては、この**宮廷の前で芝居を演じたけれど、誰一人として、ファンシウールのすばらしい神技を偲《しの》ばせることもできず、また彼ほどの≪寵愛≫をかちえることもできなかった。
二十八 贋金
煙草屋の店先を遠ざかってから、私の友人はお金を念入りに選り分けはじめた。彼は、チョッキの左のポケットに小さな金貨を、右に小さな銀貨を、ズボンの左のポケットに一握りの大形の銅銭《ばらせん》を、右には特に調べ上げた二フラン銀貨を、それぞれしまいこんだ。
「細かい妙な分け方だ!」と私は心の中で思った。
私たちは、帽子を顫《ふる》えながら差しのべる一人の乞食に出会った。――その哀願する眼の無言の雄弁にもまして、人をそわそわさせるもののあることを私は知らない。この眼には、読みとることのできる敏感な人から見れば、じつにおびただしい卑屈ないろと、おびただしい非難とが、含まっているのである。鞭打《むちう》たれている犬の涙ぐんだ眼の中には、この複雑な感情の深さに何やら近いものがある。
友人のほどこしは私のよりずっと多額だった。で私は彼にいった。「なるほど尤もだ。人から驚かされるという快楽の後では、人をびっくりさせるという快楽ほど大きなものはないからねえ」――「なあに、贋金《にせがね》をくれてやったのさ」と、彼は己れの浪費を弁解するような口ぶりで、澄まして答えた。
しかし、私の、いつも午後二時になってから、あわてて正午を深し求める情けない脳髄の中に(なんと厄介《やっかい》な能力を自然は私に贈ってくれたことだろう!)、この時ふと、次のような考えが忍び込んだ。今のような行為は、私の友人としては、あの可哀そうな乞食の生活に一つの事件をこしらえてやろうという、そしてまたおそらく、乞食の手に入った贋金《にせがね》がひき起すかもしれない、不幸な、あるいは不幸でない、さまざまの結果を知りたいという、そういう願望があってこそはじめて許さるべき行為なのだ、と。あの贋金が本物のお金になって殖えはしないだろうか? そのためにあの乞食を牢屋にぶちこむようなことになりはしないだろうか? たとえば居酒屋の主人とかパン屋の主人とかが、彼を贋金つくりとして、あるいは贋金の流布者《るふしゃ》として、警察につき出そうとするかも知れない。それにまたあの贋金が一人の貧しいささやかな相場師にとって、数日間の富の資本《もとで》にならぬとも限るまい。このように私の空想は、友人の心に翼を貸して、できる限りのあらゆる仮定から、できる限りのあらゆる推論を引き出しながら、それからそれへと進展していった。
しかるにこの友人は、私の言葉を鸚鵡《おうむ》返しにくりかえして、だしぬけに私の空想を断ち切ってしまった。「そうだ、なるほど尤もだ。期待している以上のものをくれてやって相手をびっくりさせるくらい、楽しい快楽はないからねえ」
私はじっと彼を見つめた。そして彼の眼が異議をさしはさむ余地もない無邪気さに輝いているのを見てびっくりしてしまった。彼が先ほど慈善と同時にうまい商取引をもしようとしたのだということが、すなわち四十スウのお金と神の御心とを儲《もう》けようとし、金をかけずに天国を手に入れようとし、結局|無料《ろは》で慈善家の肩書をせしめようとしたのだということが、この時はっきり私に読めた。私が今の今まで彼にとって可能であると空想していた、あの罪深い享楽を、もしも彼が望むとあらば、私は彼に許してやったでもあろう。彼が貧者を危険な目にあわせて興がるだけなら、私は珍しい不思議なことぐらいに思ってすましたであろう。しかし、彼の打算がかくも当を失しているにいたっては断じて許容できないのである。質《たち》が悪いということはもちろん許せないことであるが、当人にしてみずからの質《たち》の悪さを承知しているのなら、まだしも幾分取柄がある。最も償《つぐな》うことのできない悪徳は、無知によって悪をなすことである。
二十九 寛大な賭博者
昨日《きのう》、大通りの人込みを分けてゆく時、私はかねがね面識をえたいと思っていたある神秘な「人物」とすれちがったのを感じた。一度も会ったことはないのだが、とっさにそれと私にはわかった。先方でも私について同じような願望をいだいていたに相違ない。なぜなら、彼は行きずりに、私に意味ありげな眼くばせをしたから。私は急いでそれに応じた。私は注意深く彼についてゆき、まもなく彼のあとから、とある地下室に降りて行ったが、そこにはパリのいかなる上流の邸宅も肩を並べることのできないような豪奢が燦然《さんぜん》と輝いていた。それの入口に気がつかず、今までに幾度となくこの魅惑に満ちた洞窟のそばを通りすぎることのできたのが、私にはどうも不思議な気がした。部屋には、のぼせさせはするが、何ともいえない心地《ここち》よい雰囲気が支配していて、ほとんど即座に、人生の索莫《さくばく》たるわずらわしさをことごとく忘れさせてくれた。みんなはそこで、あのロチュスの実〔ホメロスの「オデュッセオア」中にある、浮世の絆を忘れさせる不可思議な美味を具えたロトファージュ産の霊果〕を食う人々が、永遠の午後の光に照らされた魅惑の島に上陸して、調べの美妙な滝津瀬《たきつせ》の睡気《ねむけ》を誘う音に聞き惚れながら、ふるさとの家や妻子に二度と再び見《まみ》えたくない気持が、海洋の大波の上に二度と再び上りたくない気持が、胸の中に生れるのを感じる時に味わったに違いないような、それとよく似た測り知られない至福を呼吸していた。
そこには宿命的な美を刻まれた男たちや女たちの異様な顔があった。私ははっきりとは思い出せないが、どこかの国で、いつの頃にか、すでにこれらの顔を見たことがあるような気がした。そしてそれは、見知らぬ人に会った時に普通生ずるあの遠慮の気持よりも、むしろ兄弟姉妹のような親しい感じを私にいだかせたのである。もしも私がどうにかして彼らのまなざしの特異な表情をはっきり説明しようと欲するなら、私は、退屈への恐怖感や、生きていることを自覚しようとする不滅の願望が、これ以上強く燃えさかっている眼は、今までついぞ見たことがないとでもいうだろう。
私の主人《あるじ》と私とは、座につく早々、もはや旧知の親友であった。私たちは食事をし、あらゆる種類の異常な酒を度はずれに飲んだが、それにも劣らず異常なことに、数時間経っても、私は彼よりも酩酊しなかったようである。そのあいだ、賭博が、この超人間的な快楽が、長短の間隔を置いて、私たちの頻繁《ひんぱん》な酒杯を途切らせた。そして私は、三番勝負の時に、英雄的な無頓着さと気軽さから、自分の魂を賭けて、それを失ってしまったことをいわなければならない。魂というものは、手でさわってもわからないものであり、またしばしば無用で、時には大そうじゃまなもので、私はそれをなくしても、散歩の途中で自分の名刺を紛失したのより多少低い程度の痛痒しか感じなかった。
私たちは、その比類のない風味と薫《かお》りが、人の魂に、未知の国や未知の幸福への郷愁をそそる、何本かの葉巻をゆっくりとくゆらせ、そして、このようなありとあらゆる無上の歓楽に酔い痴《し》れて、私は、相手の気を悪くさせたとは思えないなれなれしさを発揮し、溢れんばかり酒の入っているコップを手にとるや、あえて叫んだのである、「あなたの不朽の健康を祝します、古参の牡羊〔ここでは悪魔の代名詞〕よ!」と。
二人はまた、宇宙について、その開闢やその未来の破滅について、現世紀の大思想すなわち進歩《フロクレ》や|完成の可能性《ペルフェクチビリテ》について、それから一般に人間の耽溺《たんでき》のあらゆる形式について語り合った。この最後の問題に関しては、わが殿下は、軽妙な、太刀打ちできない諧謔《かいぎゃく》に尽きるところを知らなかった。彼は、どんな有名な人情話の語り手にも見られなかった優雅な言葉遣いと落着き払った滑稽味とを交えて自分の意見を述べた。また現在まで人類の頭脳を占有してきたさまざまな哲学の不条理を私に説明し、そして更に、私がその利益とその所有とをいかなる人にも頒ちたくないような、ある二、三の原理を私に打ち明けてさえくれた。彼は世間のあらゆる方面で浴びせられる悪評については決してぐちをこぼさなかった。そして私に、彼自身は≪迷信≫打破に最も関心を有する者であると断言し、なお、自己の力量に関しては、たった一度心配したことがあるだけで、すなわちある日、同僚たちよりも聰明な一人の宣教師が、演壇上から「わが親愛な同信者の皆さんよ、決して忘れてはなりませんぞ! 悪魔の最も巧妙な策略は、皆さんが文化の進歩を謳歌する声をお聞きになる時に、悪魔など存在するものではないと皆さんに信じ込ませることであります」と叫ぶのを耳にした時だけであることを私に告白した。
その有名な説教者についての追憶が、私たちの話題をひとりでに翰林院《アカデミー》のことに導いていった。そしてわが不思議な会食者は私に、自分は多くの場合、学者先生のペンや言葉や良心に霊感を与えることをおろそかにしない。また翰林院《アカデミー》のいっさいの会議にはほとんどいつも、姿こそ見せぬが、親しく出席しているのである、と明言した。
こんな風な彼のおびただしい好意に勇気を得て、私は彼に神の消息を尋ね、最近神に会ったことがあるかどうかと聞いてみた。すると彼は何となく悲しいいろのうかがわれる無頓着さでこう答えた。「わしたちは出会えば互いに会釈は交わすさ。だが、いくら生来の慇懃《いんぎん》さをもってしても、昔の悪感情の記憶を全然拭い去ることのできない二人の老紳士のようにそうするだけだよ」
この殿下が、こんな長時間にわたる拝謁《はいえつ》を一介の平民に賜わった前例があるかどうかは疑わしいので、私は殊遇につけあがることを倶《おそ》れていた。ついに暁が顫えながら窓ガラスに白みはじめた頃、この、そうとは知らないで彼の栄光のために尽し、数多《あまた》の詩人が歌い、数多《あまた》の哲学者が仕えるところの、この有名な人物は私に告げた。「どうか君よ、わしについていつまでもいい思い出を持っていてくれ給え、『わし』は人からずいぶん悪くいわれるが、君たちの俗語の一つを用いていえば、わしもまた、時には≪うい奴≫(bon diable)であることを知ってもらいたい。君が魂を失った、恢復《かいふく》しがたい喪失の償いに、わしは君に、運よくゆけば君の手に入るはずだった一つの賭を進呈しよう。いいかえれば、君のあらゆる病気と君のあらゆる悲惨な運命との源《みなもと》である、あの「退屈《アンニュイ》」という異常な疾患を、一生涯、緩和し征服しうる可能性を進呈しよう。君一人ではどんな望みもいだくことができないだろうから、わしがその実現を助けて進ぜよう。君は君の凡庸《ぼんよう》な、同輩の上に君臨するだろう。君は阿諛追従《あゆついしょう》やまた崇拝さえも与えられるだろう。金銀、ダイヤモンド、桃源境の宮殿は、君がそれを得ようと努力しなくても、先方から君を捜しにやってきて、受取って下さいと頼むだろう。君は幻想の赴くままに、故郷や祖国を何度でも変えることができるだろう。君は、女が花のようにかぐわしく匂っている、常夏《とこなつ》の、魅力に富んだ国で倦むこともなく逸楽にふけるだろう。――そしてまた、そしてまた……」と彼はつけ加えながら、立ち上って、にっこり笑って私を送り出した。
もしも私が、あんなに大勢集まっている人々の前で、恥をかくことを惧《おそ》れるのでなかったなば、私は喜んでこの寛大な賭博者の足もとにひざまずき、彼の稀代《きだい》の寛容に感謝したでもあろう。しかし、ひとたび彼と別れてしまうと、次第々々に、抜きがたい疑惑の念が私の胸に忍び込んできて、私はもはや彼のいったような途方もない幸福をあえて信ずることはできなくなった。そして寝床につくとき、愚かな習慣の名残《なごり》でまたお祈りを捧げながら、私はなかば眠りに沈みつつくりかえした。「わが神よ! わが主なる神よ! 願わくはかの悪魔をして彼の約束を守らしめ給え!」と。
三十 紐
エドゥアル・マネに
「錯覚はね、――」と私の友人が私にいうのであった、「――おそらく人間相互の、あるいは人と物との、関係と同じくらい無数なのだ。そして、その錯覚が消え失せた時、いいかえれば、われわれが実体やまたは事実をわれわれの外部に在るがままの姿で見うるようになった時、われわれは、消え失せた幻に対する哀惜《あいせき》の情と、新らしい事態に面し現実の事実に面した楽しい驚嘆の念と、この二つの半々に入り混った複雑な異様な気持を味わうものである。ところでもしもこの世に、明白な、わかりきった、いつも同一な、そしてその性質を決して見まちがうことのできないある現象が存在するとすれば、それはあの母性愛である。母性愛のない母親を想像することは、熱のない光を想像するのと同じように困難なことだ。だから子供に関する母親のすべての行為と言葉を母性愛のせいだと考えるのは、あくまで正当なことではあるまいか? ところがここに、まあ次のようなちょっとした話を聴いてくれ給え。僕はこのことでは、最も自然な錯覚を起して、妙なぐあいにわけがわからなくなってしまったのだ。
画家という職業柄、僕は路で出会う人々の顔だちや容貌を注意深く眺める癖がある。そうして僕たちの眼に、人生を、他の人たちにとってよりもはるかにいきいきとした、はるかに有意義なものとしてくれるこの能力から、僕たちがどんなに楽しみを得ているかは、君もご存じだろう。僕のいま住んでいる、あの、芝草の生えた広い空地のためにいまだに家並《やなみ》のまばらになっている辺鄙《へんぴ》な界隈《かいわい》で、僕は一人の少年をしばしば観察したことがある。この少年の顔つきは、ほかのどの子供たちよりも溌剌としていて、茶目っぽくて、最初から僕をひきつけてしまった。彼は一度ならず僕のためにモデルになってくれた。僕は彼を、時にはジプシーの子供に、時には天使に、また時には神話のキュピットに仕立て上げた。放浪者のヴィオロンを持たせたり、荊棘《いばら》の冠《かんむり》をかぶらせたり、キリスト礫刑《たくけい》の釘を打ちつけたり、エロスの炬火《たいまつ》を捧げさせたりした。僕は、このやんちゃな少年の道化ぶりがすっかり気に入ったので、ある日、貧乏人であるその両親に向かって、この子にはきちんとした服装《なり》もさせるし、お小遣もいくらかやるし、画筆を掃除させたり使い走りをさせたりする以外には、何も骨の折れることはさせないからと約束して、譲ってくれと頼んだ。垢を洗い落して見ると、この少年はなかなかこぎれいになった。それに僕の家《うち》での生活は、彼にとっては、父親のむさくるしい家で暮していた生活にくらべると、まるで極楽みたいな気がしたに相違ない。ただ一つぜひともいわねばならぬことは、この頑是《がんぜ》ない少年が早熟《ませ》た憂鬱症の奇妙な発作《ほっさ》を起してときどき僕をびっくりさせ、また、まもなく砂糖と酒類《アルコール》とに対する過度の嗜好《しこう》を示しはじめたことである。どうもそれがあまりひどいので、ある日のこと、僕は、幾度も注意しておいたにもかかわらず、彼がまたしても例のものをちょろまかしている現場を取りおさえて、両親のもとへ送り返すぞとおどしつけてやった。それから僕は外出し、いろんな用事にかまけて、かなり長時間、家を留守にしたのであった。
家に帰ってきて、まず第一に目についたのが、なんと、戸棚の羽目板に首をくくっている僕の少年、僕の生活の茶目な相棒だったとは、その時、僕の恐怖と驚愕とはどんなだったろう! 両足は床に届かんばかりに垂れ下り、まさしく足で蹴飛ばしたに相違ない一脚の椅子が、彼のそばに倒れていた。頭はひきつったように一方の肩に傾いていた。ふくれ上った顔と、大きく見開いて恐ろしいほど見据えている両眼とが、僕に何よりもまず、生きているのではないかという錯覚を起させた。死体を下ろすのは君が考えるほど容易な仕事ではなかった。もうすっかり硬直していて、それをどさりと床に落すのはなんともいえないいやな気持がするので、一方の腕でその全身を支え、一方の手で紐を切らねばならなかった。しかし、それだけで仕事が全部すんだというわけではない。この首くくりの少年は非常に細い紐を使っていたために、それが肉の中に深く食い込んでいるので、今度は細い鋏《はさみ》ではれ上った肉のくびれのあいだに紐を捜し出し、それを頸《くび》から切り難さなければならなかった。
君にいうのを忘れていたが、僕はもちろん大声で助けを呼んだのだ。けれども近所の連中は誰も手助けにきてくれなかった。それというのが、彼らはきっと、なぜだか知らないが決して首くくりのことには手出しをしたがらない、文明人の慣習を墨守したのであろう。やっとのことで医者がきて、死後数時間を経過していると僕に告げた。後程、屍衣を着せるために着物を脱がさねばならなくなった時、死体の硬直のひどさといったら、とても手足を曲げられるどころではなく、着物を脱がすためにはやむなく着物を引き裂いたり截《た》ち切ったりしなければならなかったほどである。
僕は当然この事件を警官に届け出る義務があったが、その警官はじろりと僕を睨みつけて『どうも怪しい!』とほざくのであった。これは、罪のない者をも、罪を犯した者と同様に、とにかくびくびくさせてやろうという職業上の習慣と、かまをかけるのが癖になった警官根性とから来ていることはもちろんである。
果さなければならない最もかんじんな仕事が一つ残っていたが、それは考えるだけでも僕の心を恐ろしくしめつけた。子供の両親に知らさねばならない。行こうにも僕の足がいうことをきかない。やっと勇を鼓《こ》して出かけるには出かけた。ところが意外なことに、母親は平気なもので、涙一滴すら眼に浮べなかった。僕はこの不思議な事実を、彼女が感じているに相違ない恐怖そのもののせいだと考えた。そして僕は『怖ろしさのあまり口もきけない』という有名な諺《ことわざ》を思い浮べた。父親はどうかというに、なかばぽかんとし、なかば夢うつつのていたらくで、こういっただけである。『結局、こうなるのが一番いいところでしょう。どうせあいつはろくな最後はとげられない奴でしたから!』
さて、死骸を僕の長椅子の上に寝かせ、女中に手伝わせて、せっせと納棺の準備をしているところへ、母親が画室に入ってきた。そして伜《せがれ》の死顔をひと目見たいといった。僕は実際、彼女がその不幸に酔い痴《し》れるのをさえぎることはできず、そのせめてもの悲しい心やりを断るわけにもゆかなかった。つぎに彼女は、子供が首をくくった場所を見せてくれと頼んだ。『ああ! 駄目です! おかみさん』と僕は答えた。『それはあなたのために悪い』こういって何気なく例の不吉な戸棚のほうに眼を向けた時、僕は、恐ろしさと腹立たしさとの混ったいやな気持で、側面に打ちつけられたままで残っている釘と、そこにまだぶら下っている長い紐の切れはしとに気がついた。僕はさっと飛んで行って、この不幸な最期の痕跡《こんせき》をもぎ取るや、開いている窓から表へ投げ棄てようとした。すると憐れなその女は、僕の腕に取りすがって、抵抗しがたい声でいうのでる。『おお! 旦那さま! わたしにそれを下さい! お願いです! 後生《ごしょう》です!』てっきり彼女は、絶望のあまりそんなに狂気になって、息子が自殺の手段に用いた品にいまさら烈しい愛着を覚え、それを怖ろしくも懐かしい記念《かたみ》の品として取っておきたがっているのだ、と僕には思われた。――こうして彼女は釘と紐とを横取りにした。
どうやら! やっと! 万事けりがついた。あとはただ、僕の脳髄の襞《ひだ》にうるさくつきまとって、じっと見据えた大きな眼で僕をうんざりさせる、あの少年の死骸の幻影を徐々に払いのけるために、僕の仕事にいつもよりいっそう熱心に取りかかるだけであった。ところが翌日、僕は一束の手紙を受取った。ある手紙は僕と同じ建物の住居人たちから、他の何通かは近所の家々から、それも一通は二階から、一通は三階から、また一通は四階から、といったぐあいで、中には、真剣な願いを表面《うわべ》だけの冗談でごまかそうと、いたずら半分な書きっぷりをしたのもあれば、また、中には、ひどくぬけぬけと間違いだらけの綴りで書いたのもあるが、しかしどの手紙もみな同じ目的を目指しているのであって、すなわち、幸福が舞い込んでくるという迷信の、例の首くくりの紐のひときれを分けてくれというのである。断っておくが、差出人の中には男より女のほうが多く、まったくの話、全部が全部、賤しい下層階級の人たちばかりとは限っていなかった。僕は、それらの手紙を今でも保存している。
と、その時、ゆくりなくも、ある閃きがちらっと僕の脳裡を掠めた。そして僕にはわかったのだ、なぜ母親がああまでしてあの紐を僕からひったくったのか、どういう商取引で彼女がその心を慰めようとしたのかが」
三十一 天性
秋の陽射《ひざ》しがその歩みを好んで遅らせているように見える美しい庭園の中で、金色《こんじき》の雲が動きゆく大陸のようにただよっている、はや緑色を帯びた空の下で、美しい四人の子供が、四人の少年が、さだめし遊びにも飽いたのであろう、互いに話を交わしていた。
一人がいった。「昨日《きのう》、僕はお芝居へ連れていってもらった。向うのほうに海と空とが見えている、広々とした悲しそうな宮殿の中で、男たちや女たちが、これもまた悲しそうな、真剣な顔をして、しかしそこいらで見かける人々よりずっと美しい立派な服装《なり》をして、歌うような声でしゃべっていた。おどし文句をいい合ったり、哀願したり、お互いに身も世もあらぬ嘆きに沈んだり、帯に差した短剣に幾度となく手をやったりしていた。ああ! とてもきれいだったよ! 女の人なんか、僕らの家にくるどんな女の人よりもずっと美しくて背も高かった。眼は窪《くぼ》んで大きく、頬は火のように真赤で、いかにも恐ろしい様子をしているのに、どうしても好きにならずにいられないのさ。怖いことは怖いし、泣きたくもなる、そのくせ嬉しくてたまらないのだ……。それから、もっと奇妙なことには、あれを見ていると、同じ服装をして、同じことをいったりしたりして、同じ声でしゃべりたくてたまらなくなる……」
四人の少年の中の一人は、さっきからもう友達の話に耳を傾けず、驚くばかりまじまじと、どこか天の一角を見つめていたが、この時、突然口をきいた。「ごらん、あすこをごらん……! あれが見える? あの小さな離れ雲の上に、あの焔の色をした、しずしずと進む小さな雲の上に、ね、あのかたが坐っておられる、あのかたも、いわば、きっとあすこから僕たちのほうを見てらっしゃるのだよ」
「しかし、いったい誰なの?」と他の少年たちが尋ねた。
「神さまさ!」と彼はいかにも確信に満ちた調子で答えるのであった。「ああ! もうあんなに遠くへ行かれた。もうすぐ君たちにも見えなくなる。きっと神さまはあらゆる国々を訪れるために旅行をなさっているのだろう。あれあれ、地平線とすれすれの並木の向うへ行ってしまわれる……それいま、鐘楼の後ろに下りて行かれる……ああ! とうとう見えなくなった!」そして少年はいつまでも同じ方角に向いたまま、法悦と哀惜とのいうにいわれない表情に輝く瞳を、天地を劃する一線の上になおもじっと注いでいた。
「阿呆だね、あいつは、自分にだけ見える神さまがいるなんて!」とその時三番目の少年がいった。この少年の小さな全身には、異様な熾烈《しれつ》さと精気とがみなぎっていた。「僕は、決して君たちに起ったことのないある事柄が、どんなふうにして僕に起ったか、それをひとつ聞かせてあげよう。あんな芝居や雲の話よりかちっとばかり面白いよ。――二、三日前、僕の両親が僕をいっしょに旅行に連れてってくれた。ところが僕たちの泊った宿屋にはみんなに足りるだけの寝台がなかったので、結局、僕はうちの女中と同じ寝台に寝ることになった」――彼は友達をそばに引き寄せて、一段と声をひそめて話し出した。――「ほんとに変な気持になるよ、いいかい、一人で寝るんじゃなくって、暗がりの中で自分の女中と一つの寝台に寝るというのは。僕は寝つかれないままに、女中が眠っているあいだ、その腕や頸《くび》や肩に手をやって遊んでいた。ほかのどんな女よりも肥った腕や頸をしていて、その肌がとても柔らかくて、そうだよ、とても柔らかくて、まるでレター・ペーパーか絹半紙みたいなんだ。相手が眼をさましはしないかしらという心配や、それから、自分にもなぜだかわけのわからない心配などがなかったなら、僕はいつまでもそれを続けていただろう。それほど僕は楽しかった。それから僕は、彼女の背中に垂れている髪の中に顔を埋めた。それはたてがみのように毛が濃くて、ほんとに、今この庭に咲いている花とそっくりのいい匂いがしていた。おりがあったら、君たちも僕と同じようにやってごらん、そしたらわかるよ!」
この驚くべき打明け話をした当の若い本人は、物語をしながらも、今なお消えやらぬ快感の、一種の麻酔のために、眼を大きく見開いていた。夕日の光線は、この少年の乱れ髪の褐色《かちいろ》の捲毛《まきげ》を透《とお》して滑り落ち、その瞳に、燐光を放つ情熱の円光のように火をつけていた。この少年なら、雲の中に「神霊」を探し求めて一生を棒に振るようなことはなく、きっとほかの場所でそれをしばしば見出すであろうとは、容易に推察できることであった。
最後に四番目の少年がいった。「君たちも知ってるとおり、僕は家ではほとんど気晴らしというものがない。お芝居へなんか一度も連れていってもらえない、僕の後見人はひどくしみったれだもの。それに神さまだって僕のことや僕の退屈にはかまって下さらないし、僕を甘やかしてくれるきれいな女中もいやしない。ただ僕の楽しみは、どこというあてもく、誰にも心配をかけずに、いつでもまっすぐに前へ前へと進んでいって、いつも新しい国々を見ることだ、という気がよくするのだ。僕はどこにいても決して幸福じゃない、だからどこかいまいる以外の場所へ行けば、もっと幸福になれるだろうと、いつも思うよ。ところでね! 僕は隣り村のついこのあいだの市《いち》で、僕の思っているとおりの暮し方をしている三人の男たちを見た。僕以外には、君たち誰もそれには気をとめなかった。彼らは背が高く、色はほとん真黒いほどで、ぼろこそまとっていたが、傲然《ごうぜん》と構えて、誰のお世話にもならぬといった様子をしていた。大きな暗い瞳が、音楽をやるあいだだけはすっかりぎらぎら輝いていた。その音楽というのがまた、思いもよらぬ音楽なのだ。人を踊りたくさせたり、泣きたくさせたり、泣きながら踊りたくさせたりするほどであまり永く聴いていると気ちがいのようになってしまう。一人はヴィオロンを弓《きゅう》で弾きながら、やるせない気持を語っているように見え、他の一人は、頸に革帯でつるした小さなピアノの鍵盤《キー》の上に小さな琴槌《きんつい》を躍らせながら、隣りの男の愁嘆を茶化しているように見え、一方、三番目の男は、ときどき突拍子もなく乱暴にシンバルを打ち鳴らしていた。彼らは自分でひどく満足しきっていたので、群衆がちりぢりになってからも、やはりその野蛮な音楽を奏《かな》でつづけていた。そのうちにようやく銅貨を拾い集め、荷物を背負って、出発した。僕は彼らの住んでいるところが知りたくて、遠くから、森のはしまであとをつけていったのだが、そこまで行ってはじめて彼らがどこにも住所を持っていないことがわかった。
その時、一人がこういったのだ、――天幕《テント》を張らずばなるまいかね?
すると他の一人が答えて、――なんの! いいってことよ! こんなに晴れた晩だもの!
三番目のが収入高《みいり》を勘定しながらいうことに、――ここの奴らには音楽なんぞてんでわかりゃしない。それに女たちは熊のように不細工に踊るだけでなあ。幸いひと月もせぬうちに、おいらたちはオーストリアに行けるが、あすこへ行けば、少しはましな連中に出会えるだろうよ。
――いや、それよりかスペインへ出かけるほうがよさそうだ。なにしろもうこんな季節だから、雨季にならんうちに逃げ出そうぜ。濡らすのは咽喉《のど》だけで結構さ、とまたさっきの一人がいった。
僕は、ね、こんなぐあいに、何もかも覚えている。あれから彼らは、めいめい火酒を一杯ぐっと飲んで、額《ひたい》を星のほうに向けたまま眠ってしまった。僕は最初、いっしょに連れてってくれるように、そして楽器の鳴らし方を教えてくれるように、頼みたくてたまらなかった。しかし思い切って頼めなかった。もちろん、何事でも、決心するということはいつもなかなかむずかしいことだし、それに一つは、フランスの国境を出てしまわないうちに追手《おって》に捕まってしまう惧《おそ》れがあったものだから」
他の三人の友達がたいして面白がってもいない様子から察して、私はこの少年がすでに理解されない人間であることを思うのであった。私は彼を注意深く眺めた。その瞳、その額には、何か、同情を得るにはおよそ縁遠い宿命的な早熟さがひそんでいて、しかもそれが、なぜかは知らないが、私の同情をよび起し、自分にはまだ知らない一人の弟がいるかも知れないという妙な考えさえ、ふと私にいだかせたのである。
陽《ひ》は沈んでしまった。荘厳な夜が席に着いていた。少年たちは別れを告げて立ち去った。一人一人、知らぬうちに、境遇と偶然とに従って、その運命を熟させに、近親者の眉をひそめさせに、そして光栄への、あるいは汚辱への道をたどりに。
三十二 酒神杖
フランツ・リストに
酒神杖とは何であるか? 精神的な詩的な意味に従えば、それは、神霊の代弁者でもありその下僕《しもべ》でもある僧侶や又は尼僧が、神霊をいつき祭るために手に持つ僧職の徴《しるし》である。しかし物質的にいえば、一本の棒、単なる一本の棒、ホップ草の副木《そえぎ》、ぶどうの支柱、乾燥した堅い真直ぐな棒にすぎない。この杖の周囲には、茎と花とが気まぐれにうねりくねって、たがいに遊び戯れている。茎は蛇行《だこう》して逃げ去るような風情を示し、花はあたかも釣鐘か伏せた盃のようにうつむいている。そしてこの優雅なあるいは絢欄《けんらん》たる線と色彩との錯綜《さくそう》から、驚くべきひとつの栄光がほとばしり出ている。それはたとえば、曲線と螺旋《らせん》とが、直線に対しへつらって、その周囲で無言の崇敬のうちに舞踏をしているとはいえないであろうか? すべてこれらの繊細な花冠が、すべてこれらの萼《しべ》が、香気と色彩の煥発《かんぱつ》が、司祭の杖のまわりで神秘な|スペイン舞踏《ファンダンゴ》を踊っているとはいえないであろうか? しかるに、どんなうかつ者が、これらの花やぶどうの蔓が杖のために作られたのかどうかを、またはこの杖がぶどうの蔓や花や美しさを示すための口実に過ぎないのかどうかを、あえて決定しようとするのか? 尊敬に値するたくましい巨匠、神秘な情熱的な「美」の懐かしい酒徒《バッカス》、リストよ、酒神杖は君の驚嘆すべき二重性の表現である。かの無敵の酒神《バッカス》によっていら立たされた水波精《ニンフ》といえども、君が君の同胞の心の上に、君の才能を振うのと同じほどの精力や気まぐれをもって、その酒神杖を熱狂した仲間たちの頭上に振りまわしたことはないのである。――この杖、これこそ君の真直な、強固な、不撓《ふとう》不屈の意志である。この花々、これこそ君の意志をめぐる君の幻想の逍遥である。男性の周囲で心とろかす旋回舞踊を踊る女性的要素である。直線と唐草模様、意図と表現、意志の強靱《きょうじん》と言辞の婉曲《えんきょく》、目的の単一と手段の多様、天才という全能にして分離し得ざる汞和《アマルガム》。ああ、そもそもどんな分析家が、君を分離し君を分解しようとする不埒《ふらち》な勇気をいだくのであるか。
懐かしいリストよ、靄を越えて、もろもろの河の彼方《かなた》、ピアノが君の栄光を歌い、印刷術が君の叡知を翻訳する、さまざまの都会のはるか彼方、どんな場所に君がいようと、永遠の都ローマの華麗さの中でも、麦酒神《ガンプリヌス》の慰める夢多い国の靄の中でも、楽しみの歌やいうにいわれぬ苦しみの歌を即座に奏《かな》で、深遠な思索を紙に托す、永劫の「逸楽」と「苦悩」の歌い手、哲学者、詩人、芸術家、リストよ、私は君に不朽の敬意を捧げる者である!
三十三 酔い給え
常に酔っていなければならぬ。それがすベてである。それが唯一の問題である。君の双肩を打ち砕き、君を地面へと押しつける、「時」の怖るべき重荷を感じないためには、たえず酔っていなければならぬ。
だが何に? 酒に、詩に、徳に、どれでも君の好きなものに。とにかく酔い給え。
そしてもしも時として、宮殿の階段《きざはし》の上で、濠《ほり》のほとりの青草の上で、あるいは君の部屋の索漠《さくばく》たる孤独の中で、君が眼を覚ましたなら、すでに酔いが薄らいだか、又は冷めきってしまったなら、問い給え、風に、波に、星に、鳥に、大時計に、すべてこの過ぎゆくものに、すべてこの嘆くものに、すべてこの運《めぐ》るものに、すべてこの歌うものに、すべてこの語るものに、問い給え、今はいかなる時刻であるかを。すると風は、波は、星は、鳥は、大時計は、君に向って答えるであろう。「今こそ酔うべき時刻である! 『時』に虐げられる奴隷とならぬためには、たえ間なく酔い給え! 酒に、詩に、徳に、どれでも君の好きなものに」
三十四 ああすでに!
すでに百|度《たび》も、太陽は、燦然《さんぜん》とまたはもの悲しげに、この海洋の、縁《ふち》のほとんど見渡せない広大な水槽から躍り出た。百度も、太陽は、輝かしげにまたは鬱々《うつうつ》と、夕暮の広大な浴《ゆあ》みの中に沈んで行った。何日も前から、われわれは天空の彼方《かなた》のがわを眺めたり、対蹠地点《たいせきちてん》の大空の星のアルファベットを判読したりすることができるほどになっていた。そして船客たちはそれぞれみな溜息を洩らし不平を並べていた。陸地の近づいたことがかえって彼らの煩悶を強めたとでもいうべきであろう。「いったいいつになったら」と彼らはいっていた、「大波に揺られたり、われわれより大きな鼾《いびき》をかく風にかきみだされたりする睡眠をやめることができるのだろうか? いつになったら、揺れない肱掛椅子にもたれて、胃の消化《こなれ》を助けることができるのだろうか?」
彼らの中には家庭のことを考えている者もあれば、不貞な陰気くさい妻や騒々しい子供たちをさえなつかしがる者もいた。ひとたび上陸でもしたら、家畜以上に狂喜して草をむさぼるかも知れないほど、誰も彼も、見えない陸地の姿に夢中になっていた。
ついに、陸影見ゆとの信号があった。近づくにつれて、われわれは見た、それがまばゆいばかりのすばらしい土地であるのを。生命の音楽が、とりとめのないささやきとなってそこから流れ出てくるように思われ、また、あらゆる種類の緑に富んだ浜辺からは、花と果実の馥郁《ふくいく》たる香気が、数里離れたところまで漂ってくるように思われた。
たちまち、人々はみな喜び勇み、人々はみな不機嫌を棄てた。すべての争いは忘れられ、あらゆる相互の非は許され、約束した決闘も記憶から削除され、怨恨は煙のごとく飛び去った。
私ひとりは、私ひとりは悲しかった、途方もなく悲しかった。神霊を奪い取られる司祭のように、私は胸かきむしられる沈痛な思いなしにはこの海から別れることができなかった。かくも奇怪なまでに魅惑に富んだ海、怖るべき単純さのうちにかくも無限の変化を有する海、かつて生存し、今も生存し、また未来にも生存する、あらゆる人々の魂の不平や苦悶や歓喜をうちに蔵して、それらをその戯れとその挙動とその憤怒とその微笑とで表現するかのように見えるこの海から!
この比類もない美に別れを告げながら、私は死なんばかりにうちしおれざるを得なかった。さればこそ、同船者のおのおのが「やっとこれで!」といった時に、私は「ああすでに!」としか叫ぶことができなかったのである。
とはいうものの、それは音響と、情熱と、安楽と、祝祭とを具えた陸地であった。それはばらと麝香《じゃこう》の神秘な薫《かお》りをわれわれにもたらし、そしてそこから生命の音楽が恋の囁きとなってわれわれのところに聞えてくる、数々の約束に満ちた、豊かな、すばらしい一つの陸地であった。
三十五 窓
開かれている窓の中をそとから眺める人は、決して、閉ざされている窓を眺める人ほど多くのことは見ないのである。一本の蝋燭《ろうそく》の照らしている窓にもまして、奥深い、神秘な、豊かな、薄暗い、魅惑的なものがまたとあろうか。白日の光の下で見ることのできるものも、窓ガラスの内側で起るものにくらべると、常に興味が薄いのである。この暗い、あるいは明るい穴孔《あな》の中には、人生が生き、人生が夢み、また人生が悩んでいる。
甍《いらか》の波の彼方《かなた》の窓に、私は、中年の、すでに雛《しわ》のよった一人の貧しい女を見かける。それはいつも何かの上に身をかがめていて、一度も部屋から立ち去ったためしがない。その容貌とその服装とその身ごなしと、さてはほんの些細《ささい》な事柄から、私はこの女の物語を、というよりはむしろこの女の伝説を作り上げた。そして、涙を流しながら、私はときどきそれを自分に語って聞かせる。
よしんばそれが哀れな年寄りの男であったとしても、私はまったく同じように、造作なくその男の伝説を作り上げたことであろう。
そして私は、私以外の人間の中に入って生活し苦悩したことを誇らしく感じて寝床につく。
おそらく諸君は私に向っていうであろう、「そんな伝説が本当だと君は確信しているのか?」と。だが、私のそとに置かれている現実が何であろうと構うことはないではないか、ただそれが私にとって、生きてゆく助けとなり、私の存在していることや、私の何ものであるかということを、感じさせてくれる助けとなったからには。
三十六 描こうという願望
人間というものはおそらく不幸だろう。しかし、願望に身を引き裂かれる芸術家はなんと幸福なことか!
夜の闇の中に運ばれてゆく旅人のその背後に残る名残《なごり》惜しい美景のように、私の前にたまにちらりと姿を見せて、しかも、大そう速《すみや》かに逃げ去った女、私はそれを描きたい気持に燃えている。ああ、彼女が姿を消してからすでにいかに久しいことだろう!
彼女は美しい。美しいという以上にむしろ人を驚嘆させる。彼女のうちには暗黒がみちあふれている。そして彼女の与える霊感はすべて夜のように奥深い。彼女の双眸《そうぼう》は神秘が茫漠ときらめいている二つの洞窟であり、その視線は稲妻のように明滅する。それは暗闇の中の一種の炸裂《さくれつ》である。
私は彼女を黒い太陽にたとえるでもあろう、もしも人々が、光明と幸福とを降り注ぐ黒い天体を想像できるものならば。しかし彼女はそれよりもいっそう容易に月を連想させる。疑いもなく恐るべき影響の痕《あと》を彼女にとどめたあの月を。冷やかな花嫁にも似た牧歌風の白い月ではなく、嵐の夜の底に懸り、走るむら雲にかきみだされる、あの心をとろかす不吉な月を。純真な人々の睡眠《ねむり》を訪れる、平和な慎しみ深い月ではなく、テッサリア〔古代ギリシアの一地方の名〕の巫女《みこ》たちが、おびえおののく草葉の上で手荒く踊りを強いる、天からもぎ取られた、あの敗残の激昂の月を!
彼女の小さな額の中には、執拗な意志と餌食《えじき》を求める嗜好《しこう》とが宿っている。しかも一方、人の気を落着かせないその顔の下のほうには、未知と不可能とを呼吸してうごめく鼻孔のあたりに、火山地帯に咲き出る華麗な一輪の花の奇蹟を夢みさせる、赤くて白いあでやかな大きな口のほほえみが、説明しがたい優しさを帯びて輝いている。
征服したい、享楽したいという欲望をいだかせる女は数々いるものである。しかるに彼女は、そのまなざしの下にゆるゆると死んでゆきたい願いを起させる。
三十七 月の賜物
気まぐれそのものである月姫は、お前が揺藍《ようらん》で眠っているのを窓越しに眺めてつぶやいた。
「わたしはこの子が気に入った」と。
そして彼女はふうわりと雲の階段《きざはし》を降りて来て、音もなく窓ガラスを抜けて忍び込んだ。それからお前の身体《からだ》の上に母親のようななよやかなもの優しさで身をかがめ、お前の顔に彼女の色を映したのだ。さればこそ、お前の瞳は今でも緑色、お前の頬は、今もなお人並はずれた蒼白さ。お前の眼がそんなに異様に大きくなったのも、その訪問者をじっと見つめたからである。彼女がお前の胸のあたりをあれほど優しく抱きしめたのでお前はいつでも月を見れば泣かまほしさにそそられる。
ところで一方、月姫は、溢れ高まる悦《よろこ》びに、燐光を放つ大気のように、発光する毒物のように、隈《くま》なく部屋を照らしていた。そして、生ある月光のすべてが、こう考えてはいっていた、「お前は永久にわたしの接吻の影響を受けるであろう。わたしのようにお前は美しくなるであろう。わたしが愛するものを、わたしを愛するものを、お前も愛することであろう。水を、雲を、静寂《しじま》を、夜を、広大無辺の緑の海を、無形にしてなお多形の水を、お前のいまだ行かぬ場所を、お前の知らぬ恋人を、怪しい形の花々を、気を狂わせる香料を、ピアノの上にうっとりと寝て、しゃがれた優しい声をして女のように呻《うめ》く猫を!
そしてお前はわたしの恋人たちから慕われて、わたしに媚びる男らからちやほやされることであろう。お前はわたしの夜の愛撫の時に胸のあたりを抱きしめてやった緑の眼の男らの、その女王になるであろう。海原《うなばら》を、ざわめく無辺の緑の海を、無形にしてなお多形の水を、彼らのいまだ行かぬ場所を、彼らのいまだ知らぬ女人を、未知の宗教の香炉にさも似た不吉な花々を、意思をまどわす香料を、彼らの狂気の表象である野生の多淫な獣類をひとしく愛する男らの、その女王にお前はなるであろう」
そうだ、そのためである、私が今、呪われた駄々っ子のわが恋人よ、お前の足もとに身を投げて、お前の全身の中に、恐るべき「神霊」の、予言的な名づけ親の、あらゆる気まぐれ者の毒を飲ませた乳母《うば》の、ああ、あの月姫の反映を探し求めているわけは。
三十八 どちらが真の彼女であろうか?
私はベネディクタとかいう女を知っていた。彼女はその雰囲気《ふんいき》を理想で充たし、その双眸《そうぼう》は、高邁《こうまい》と美と栄光への、また不滅を信じさせるいっさいのものへの、願望の色を浮べていた。
しかしこの奇蹟の少女は、永く生きるにはあまりにも美しすぎた。彼女は私が知合いになってから数日の後に死んでしまった。そして、春が、その香炉である陽炎《かげろう》を墓地の中にまで揺り動かしていたある日のこと、彼女を手ずから埋葬してやったのは私である。インドの大きな箱のように腐蝕しない香木で作った柩《ひつぎ》の中に彼女を密封して、埋葬してやったのは私である。
さて私の眼が、私の宝を埋めた場所をそのままじっと見つめていた際、突然、私は、亡くなった彼女に不思議なほどそっくりの一人の少女を見かけた。それは、新しい墓土の上を、ヒステリックな怪しげな荒々しさで踏みつけながら、高笑いしながらいうのであった。「あたしよ、ほんとのベネディクタは! このあたしなのよ、有名な下種《げす》おんなは! あなたは今まで狂気じみたことをしたり無分別だったりした罰に、これからはこんなあたしでも可愛がって下さるわねえ!」
しかし憤然として、私は答えた、「いや! いや! いや!」と。そして拒絶の意をいっそう強調するために、激しくじだんだ踏んだので、私の脚は新しい塚の中に膝《ひざ》まではまり込んでしまったのだ。まるで罠《わな》にかかった狼のように、私は、おそらくいつまでも、理想という墓穴に繋《つな》ぎとめられたままであろう。
三十九 良種の馬
彼女はひどく醜い。そのくせ彼女は魅惑的である!
「歳月」と「愛欲」とは、彼女の身体《からだ》に爪痕《つめあと》を残し、そして一つの刹那《せつな》ごとに、一つの接吻《せっぷん》ごとに、青春や溌刺さから何が奪い去られてゆくかを、残酷にも彼女に教えた。
彼女は本当に醜い。彼女は蟻であり、蜘蛛であり、お望みなら骸骨そのものであるといってもいい。しかしまた、彼女は飲料であり、霊薬であり、魔法である! 要するに、彼女はえもいわれない女なのだ。
「歳月」は、彼女の歩みぶりの燦然《さんぜん》たる調和と、その骨組の不滅の優雅とを破壊することができなかった。「愛欲」も彼女の子供らしい呼吸《いぶき》の心地《ここち》よさを変えはしなかった。また「歳月」は、彼女の豊かな丈長髪《たけなががみ》から何ものをも奪い取りはしなかったので、今もそこから、ニーム、エクス、アルル、アヴィニョン、ナルボンヌ、トゥールーズ、これら太陽に恵まれた恋と魅惑の都市の、南フランスの悪魔じみたすべての生気が、野生の薫《かお》りとなって発散している!
「歳月」と「愛欲」とは、その見事な歯で彼女を噛んだが無駄だった。男の子のような彼女の胸から、そこはかとない永遠《とわ》の魅力は、いささかも減らされはしなかったのである。
使い古されたかも知れないが、決して疲れてはいない、いつも勇壮な彼女は、貸馬車や重い荷馬車につながれていても真の愛好家の眼にはただちにそれと認められる、あの血統正しい良種の馬を思わせる。
それにまた、彼女は大そう甘やかで大そう情熱的である! 彼女は、人が秋にする恋のような恋をする。冬の近いということが彼女の心に新しい情火を燃え立たせるので、彼女は献身的な愛情を傾けても決して疲れを覚えないかのようだ。
四十 鏡
ぞっとするような醜い容貌の一人の男が入ってきて、鏡に顔を映して眺めていた。
「なんだって君は鏡をのぞくのかね? のぞけばきまって不快な気持になるはずだのに」
ぞっとするような醜い容貌の男は私に答えた。「――君、八十九年〔フランス革命の年〕に制定された不滅の原則によれば、万人は権利平等である。だから僕にだって鏡に顔を映す権利はあるよ。快、不快の問題にいたっては、僕の自意識のみに関係することだ」
良識の名においては、もちろん私のほうが正しかった。だが、法律の見地からすれば、この男にも間違いはなかった。
四十一 港
生存の闘争に疲れた人の魂にとって、港は魅力ある一つのすみかである。大空の広さ、動きゆく雲の建築、移ろいやすい海の色、灯台のきらめく光、これらは、たえて倦《う》ますことなく人の眼を楽しませるのにこよなく適した一つのプリズムである。複雑な綱具をまとい、波のうねりが調和ある振動を伝えてくる、船のすらりとしたたたずまいは、人の魂の中に、韻律《リズム》と美への嗜好《しこう》を保たしめるのにあずかって力がある。しかも特に、もはや好奇心も野心も失せた者にとって、望楼の中に横たわり、あるいは防波堤の上に肱《ひじ》ついて、船出する者、帰ってくる者、希望の力をなおいだく者、旅に行こう、富を作ろうとなお願う者の、かかる動きをことごとく眺めやることには、一種神秘にして貴族的な快楽がある。
四十二 愛人たちの肖像
男たちの密室で、いいかえれば、ある小粋《こいき》な賭博場に隣接した喫煙室の中で、四人の男が煙草をすったり酒を飲んだりしていた。彼らは確かに若くもなければ年老いてもいず、美しくもなければ醜くもなかった。しかし、年とっているにせよ、年若いにせよ、とにかく彼らは、快楽の老練家《ヴェテラン》のまぎれもない特徴、何といったらいいか、あの、「われわれは力強く生活してきた。そして今も、熱愛したり、尊重したりすることのできるものを捜し求めているのだ」と明言している、冷やかな嘲るような悲哀の色を浮べていた。
彼らの中の一人が、話題を女のことに向けた。女のことなど一言もいわなければ、彼はいっそう哲学的であったろうが、しかし世間には飲むと低級な会話をさげすまなくなる人たちがいるもので、そんな時その連中は、舞踏曲でも聞くようなあんばいに話し手の言葉に耳傾けるものである。
「男は誰でも」と彼がいった、「一度は天童《ケルビム》〔九人の天使の第二位に位する美童〕の年頃を経験する。それはまだ森の女神がいないので、樫《かし》の幹を厭《いと》いもせずに抱擁する時期である。これが恋愛の第一期だ。第二期になると選択をはじめる。あれでもないこれでもないと思案することのできるというのが、すでにもう頽廃《たいはい》なのだ。ひたすら美人を捜し求めるのがこの時期だ。僕はどうかというに、諸君、僕はもうだいぶ以前から、自慢ではないが第三期の更年期に到達している。この時期になると、美しい女が香水や装身具などで味をつけられているのでなければ、それ自体だけではもはや不十分なのだ。なお白状すると、僕はときどき、まるで未知の幸福にあこがれるように、絶対的な静穏を特徴とすべき、あの第四期とでもいったものにあこがれることがある。しかしながら、僕の生涯を通じて、天童《ケルビム》の時代以外には、僕は他の何びとよりも、女のじれったいほどの愚劣さ、その腹立たしいほどの凡庸さに敏感だった。僕が動物において特に好ましいと思うのは、彼らの無邪気さである。それくらいだから、僕が自分の最後の恋人のために、どれほど悩んだかは、察してくれ給え。
彼女はさる公爵の落胤《おとしだね》だった。美貌なのはいうまでもない。そうでなければ、僕が何で手に入れよう? ところが彼女は、あたら立派なその美点を、不似合いなぶざまな野心で台なしにしていた。すなわち、のべつに男子ぶろうとしたがる女だった。『あなたなんか男じゃないわ! ああ! あたしが男だったらいいのに! あたしたち二人の中で、男はあたしよ!』こういうのが、唄だけを歌ってくれるようにと僕が望んでいるその口から、いつも飛び出してくる我慢のできないきまり文句だった。書物や詩やオペラに関して、僕がうっかり賞讃でも洩らそうものなら、『あなたはたぶんそんなのが大そう力強いものだと信じているんでしょう?』と彼女はすぐに口をきく、『あなた、力強さということがわかってらっしゃるの?』そしてべらべらとまくしたてる。
ある日、彼女は化学をやりはじめた。だからそれ以来僕の唇《くち》と彼女の唇とのあいだにはガラスのマスクができたのだ。そのくせまた、ひどく淑女ぶる女で、時に僕が少々情のこもりすぎた身ぶりで押し倒したりしようものなら、まるで手籠《てごめ》にあう神経質な女のように身体をひきつらせる……」
「で、どんなぐあいにけりがついたのかね?」と三人の聴き手の一人が尋ねた、「君がそんなに辛抱《しんぼう》強いとは知らなかった」
「――神さまが」と彼は語を続けた、「この不幸からお救い下すったのだ。ある日のこと、僕は、理想的な力に飢えたこのミネルヴァが、家の下男と顔つき合わせて、当人たちを赤面させないためには僕のほうからこっそり引き下らねばならないような、とんだ濡れ場を演じているところを見つけたのだ、その夕方、僕は彼らに給金の残りを全部支払って、二人ともお払い箱にしてしまった」
「――僕の場合は」とさきほど話をさえぎった男が改めて口を開いた、「僕は、自分自身についてぐちをいうほかはないんだ。幸福が僕の家にきて住んでいたのに、僕はそれとは気がつかなかったのだから。運命が僕に先年、女性という女性の中で一番優しくて、一番従順で、一番献身的な女を享有する機会を授けてくれていた。いつでも僕の要求に応じて! しかも決して、熱中することのない女だった。『あたしもそうしたいわ、あなたがご満足なさるのですもの』これが彼女のおきまりの返事だった。のぼせ上った愛情の飛躍が僕の恋人の胸から引き出すのよりも、諸君がこの壁かこの長椅子《ながいす》をひっぱたいたほうが、ずっと多くの呻《うめ》き声を出せるだろう。同棲して一年の後、彼女は快感を味わったことがないと僕に告白した。僕はそんな片手落ちな決闘がいやになった。そしてこのたぐいまれな娘は他の男と結婚した。後年、僕はふと、も一度彼女に会ってみたくなった。彼女は僕に六人の立派な子供を見せながらいわく、『ねえ! あなた、あたし奥様になってもあなたの恋人だった時分と同じようにまだ生娘でしょう』なるほど、その身体《からだ》つきにはいささかの変化もなかった。ときどき僕は、彼女に未練が起るのだよ。彼女をお嫁に貰っておけばよかったのになあ、とね」
他の連中はどっと笑った。そして今度は三人目の男が口を開いた。「諸君、僕は諸君がおそらく顧みなかったような快楽を体験した。僕は、恋愛の中の滑稽味、感嘆おくあたわざる滑稽味について語ってみたい。諸君は諸君の恋人を憎んだり愛したりしただろうが、僕はそれ以上に自分の最近の恋人を嘆賞したものだった。世間の人もみな僕と同じように彼女に感嘆した。僕たちが料理店《レストラン》へ入っていって、ものの数分も経つと、もう誰も彼も食事を忘れて彼女に見とれるのだ。ボーイもレジスターの女さえも、この伝播する恍惚《こうこつ》に感染して、仕事を忘れてしまう始末だ。つまり、僕はある月日のあいだ、一箇の生きた驚異と差向いで暮したのだ。彼女はぱくつき、噛み砕き、咀嚼《そしゃく》し、むさぼり、嚥《の》み込み、しかもこの世で最も軽快な最も屈托のない風情《ふぜい》でそれをやってのけるのだった。彼女はこうして永いあいだ僕をうっとりとさせていた。『あたしお腹《なか》がすいたわ!』と彼女が告げるその様子は、ものやさしい、夢みるような、イギリスふうな、ロマネスクなものだった。そして彼女は、人を感動させ同時に陽気にさせる世にも美しい歯並をのぞかせながら、夜となく昼となく、この言葉をくりかえした。――僕が彼女を≪大食の怪物≫として市に見世物に出したら、ひと身代つくれたでもあろう。彼女には十分食べさせてやっていたのに、彼女は僕を捨ててしまった。――てっきり食料品御用商人のところへでも鞍替えしたのだろうって? ――まあ、だいたい図星に近いところだね、相手は陸軍経理部の雇員といったような男だから、職掌柄どうにでも食料をちょろまかして、数人分の兵隊の食扶持《くいぶち》を、この憐れな娘に供給していることだろう。少なくとも僕はそう臆測《おくそく》しているね」
「――僕は」と四人目の男がいった、「僕は、世間の人々が利己主義な女だといって非難するのとは正反対のことで、ひどい苦痛をなめたものだ。君たちのようにあまりにも幸福な連中が、恋人の欠点をこぼすなんて、まったくどうかと思うね!」
この言葉は、おとなしい落着いた様子の一人の男の口から、ごく真面目《まじめ》な調子で語られたのであった。ほとんど聖職者のように見える彼の容貌には、そのまなざしが「予はこうしたい!」とか、「こうしなければならない!」とか、「予は断じてそれを許さない!」などと告げている眼が、明るい灰色の眼が、不幸にも光っていた。
「G君、君の神経質なことは僕も知っているが、それからK君とJ君、君たちは二人ともだらしなくて軽率だが、もし諸君にして、僕の知っていた某女と関係したならば、諸君はきっと逃げ出すか、死んでしまったことだろう。ところが僕は、ごらんのとおり生き残っている。まあ考えてもみ給え、愛情の上でも計算の上でも決して過失を犯すことのない一人の女を。やりきれないほど平静な性格、芝居気も誇張もない献身、弱さのない優しさ、激しさのない精力というものを想像してみ給え。僕の恋の物語は、鏡のように磨かれた清らかな、眼のくらむほど単調な、そして僕の感情と身ぶりとを僕自身の良心のような皮肉な正確さで残らず映し、従って僕が少しでも勝手に、ばかげた身ぶりや感情を示そうものなら、離れない僕の投影《かげ》がすぐに無言の非難を浮べるところの、あの海面の上を、涯しなく航海するのに似ている。その恋愛は僕にはまるで監視のように思われた。彼女は、どんなにたくさんの痴《たわ》けた行為を僕に許さなかったことだろう! 僕はそれをしなかったのが今でも残念でたまらない。僕はいやいやながらどれほど多くの義理を果したことだろう! 自分勝手な狂態を演ずることができたなら僕はどんなにか幸福だったろうに、彼女がそれをさせなかったのだ。越えがたい冷酷な規則《のり》を設けて、彼女は僕のあらゆる気まぐれを阻止したのだ。かてて加えて怖ろしいことに、彼女は危機が過ぎ去っても、ちっともありがたいなどという気持を僕に起させはしなかった。いくたび僕は、『ねえ、情けないお前よ! 欠点のある女であってくれ、僕が煩悶したり憤慨したりしないでお前を愛することができるように!』と、こう彼女に叫びながら、彼女の咽喉首《のどくび》に飛びかかろうとする衝動を、ぐっとおさえたことだろう。心は憎悪でいっぱいなのに、数年のあいだ、僕は彼女を尊敬していた。とうとう、このことで死んだのは僕じゃなかった!」
「――おやおや!」と他の人たちが尋ねた。「それじゃア彼女が死んだのかい?」
「――そうだ! そんな状態で続けてゆけるはずがない。この恋愛は僕にとっては、のしかかるような悪夢となってしまった。政治家のいうように、勝つか、死ぬるか、運命が僕に課した二つに一つの道はそれだった! ある夕方、森の中の……、沼のほとりで……、彼女は彼女でその瞳に天国の和《なご》やかさを映し、僕は僕で心が地獄のようにたまらなく苦しくなっていた、あるメランコリックな散歩のあとで……」
「――えっ!」
「――どうした!」
「何だって?」
「――それはぜひもないことだった。僕はね、非の打ちどころのない召使を殴ったり、誹《そし》ったり、馘《くび》にしたりするには、あまりにも公平無私な感情を持ちすぎている男なのだ。だがその感情を、彼女が僕に吹き込んだ恐怖と調和させねばならなかった。つまり彼女への尊敬を欠かさないようにして、彼女から僕を解放しなければならなかったのだ。いったい諸君は、僕に彼女をどうしろというのだ、彼女が申しぶんのない女であるのに?」
他の三人の仲間は、とりとめのない、幾分とぼけたまなざしでこの男を眺めやっていた。合点がゆかないというふりをよそおうかのように、また、どんなに十分説明されたところで、自分たちにはそれほどてきびしい行動はとれそうもないということをそれとなくほのめかすかのように。
それから、一同は、いとも堅固な寿命を有している「時間」をつぶすために、いともゆるゆると流れてゆく「人生」の歩みを急《せ》かせるために、また新たに酒の壜を運ばせたのである。
四十三 粋な射手
馬車が森を通り抜けてゆく時、彼は「時間」つぶしに二、三発射ってみるのも面白かろうといいながら、とある射的場の近くに車を停めさせた。時間というこの怪物を殺すことこそ、各人の最も普通な最も正当な仕事ではあるまいか? ――で彼は、彼の親愛な、いとしくもまた憎らしい妻に、彼が多くの快楽と多くの苦痛と、またおそらくは彼の才能の大半とを負うている神秘な同伴の女に、粋《いき》な態度で手をさしのべた。
数発の弾丸《たま》は狙《ねら》った的《まと》から遠くはずれた。一発のごときは天井に飛び込んだ。すると美しい妻が、良人《おっと》の技の拙《まず》さを嘲りながら、狂ったように笑いこけるので、彼は突然女のほうをふりかえってこういった。「ね、あすこの、あの右のほうにある、あの鼻を空に向けた、いかにも高慢ちきな顔をした人形をごらん、いいかね! いとしい天使よ、僕はあれをお前だと思うよ」そして彼は眼を閉じて引金をひいた。人形は見事に首を射ち落された。
この時、彼は、彼の親愛な、いとしくもまた憎らしい妻に、彼の避けがたい無慈悲な女神《ミューズ》に、頭を下げてお辞儀をし、慇懃《いんぎん》にその手に接吻して、さてつけ加えた。「ああ! ――わがいとしい天使よ、僕の立派な腕前について、僕はどんなにお前に感謝していることだろう!」
四十四 スープと雲
小柄でやんちゃなわが恋人が私を昼食に招いてくれていた。その食堂の開かれた窓から、私は、神が水蒸気をもって造り給う動く建築、あの、手に触れることのできないすばらしい構成を眺めていた。じっと見惚れたまま私は考えていた。「――あの幻影はことごとく、わが美しい恋人の、緑色の眼をした小柄でやんちゃなわが妖魔の、明眸《ひとみ》とほとんど同じくらいに美しい」
すると不意に、背中を拳《こぶし》でどやされて、私は、魅力あるしゃがれ声、火酒でやられたようなヒステリックな声、わがいとしい恋人の声を耳にした。その声がいうことに、「――いつになったらスープを飲むの? 間抜けな雲屋ののろまさん」
四十五 射撃場と墓地
酒場、≪墓地見晴し亭≫。――「風変りな看板だ――」とわが散歩者は考えた。「――それにしても、飲みたくなるようにできた名だ! きっとこの酒場の主人は、ホラティウス〔古代ローマの詩人〕やエピクロス派の詩人たちがわかっているに相違ない。また、盛宴を張る時にはいつもきまって骸骨《がいこつ》とか、または何か人生のはかなさを寓意する品物などを飾った、あの古代エジプト人の深い洗練さをわきまえているのかも知れないな」
で彼は入ってゆき、墓に面して一杯のビールを傾け、悠然と葉巻をくゆらした。それから、ふと、墓地の中へ下り立ってみようという気にそそられた。墓地の雑草は丈《たけ》高く伸び、いかにも人を手招くかのようであり、しかもそこには豊かな太陽が君臨していた。
はたして墓地には光と熱が猛威をふるっていた。酔いどれの太陽が、腐肉によって肥えた華麗な花の毛氈《もうせん》の上に、長々と寝そべっていたとでもいおうか。生命の無限のざわめきが空気を満たしていた、――無限に小なるものの生命が。――そしてその空気を、もよりの射撃場の銃声が、あたかも音を弱めて演奏する交響楽の響きの中で栓《せん》を抜かれるシャンパンの音のように、規則的な間《ま》を置いてつんざいていた。
その時、彼は、彼の頭脳を熱する太陽のもと、「死」の烈々たる薫《かお》りの雰囲気の中に、腰掛けていた墓石の下から一つの声が囁《ささや》きかけるのを耳にした。その声はこういっていた。「お前たちの標的と騎銃とに呪《のろ》いあれ、死者とその神聖な休息とをあまりにも意に介することの少ない騒々しい生者どもよ! お前たちの野心に呪《のろ》いあれ、お前たちの計算に呪いあれ。『死』の聖堂の近くにきてまで殺戮《さつりく》の技を練習するせっかちな人間どもよ! もしお前たちが、その賞を獲ることのいかに易しいかを、その標的《まと》を当てることのいかに易しいかを、そして『死』以外のいっさいがいかに虚妄であるかを知ったならば、勤勉な生者どもよ、お前たちはそんなにあくせくと骨折ることもなかろうし、あの厭《いと》うべき人生の唯一の真の標的《まと》、死という『標的《まと》』の中にずっと以前から安住している者たちの眠りを妨害することも少ないだろうに!」
四十六 円光喪失
――おや、おや! なんと! あなたがこんなところに? あなたともあろう方が、こんないかがわしい場所に! 霊気を飲み給うあなたが! 神饌《しんせん》を召し上り給うあなたが! 実際これには驚きました。
なんの君、君も知ってるとおりわしは馬や車が怖ろしい。ついさっき、大急ぎで通りを横切ろうとした時に、一度にどっと八方から死が駆足で押し寄せてくる、あの織るような混雑を突っ切って、泥濘《ぬかるみ》のあいだを跳んだ拍子に、はずみを喰らってわしの円光が、わしの頭から割石道の泥の中に滑り落ちてしまった。わしにはそれを拾いあげる勇気がなかった。骨をへし折られるよりか、徽章《きしょう》を失くするほうがむしろましだと判断した。そしてまたわしは考えた、禍《わざわい》転じて福となると。ねえ、今こそ、わしはお忍びで歩きまわったり、げびた行為をしたり、一介の平民のように、放蕩にふけったりすることができるのだよ。だから、ごらんのとおり、君たちとまるで同じように、わしはこうしてここにいるのさ!
――しかしせめて、その紛失の掲示をさせるか、当局に捜してもらうか、しなければなりますまい。
――いや、いいんだ! このままで結構だよ。わしの素性を知っているのは君だけなんだ。その上あんな格式はわしをうんざりさせる。それに、どこかの三文詩人があれを拾って、臆面もなく頭に載せるのかと思うとわしは愉快だ。幸福人を一人つくってやれるとは、なんと楽しいことだろう! 特に、わしを吹き出させる幸福人を! そのX某とか、Z某とかを想像してごらん、なんともはや! 滑稽至極ではないか!
四十七 外科刀《メス》嬢
ガス灯の光のもとを場末の町はずれまでやってきた時、私は誰かの腕が、私の腕の下にそっと差し込まれるのを感じ、私の耳元に囁《ささや》く一つの声を聞いた。「あの、あなたはお医者さまでしょう?」
見ると、それは背の高い、丈夫そうな、眼のつぶらな、ほんのりと化粧をした一人の娘で、その髪の毛は帽子の紐《ひも》といっしょに夜風になびいていた。
「いや、私は医者じゃありません。どうか通して下さい」「あら! うそ! あなたはお医者さまですわ。あたしにはよくわかりますの。あたしの家へいらっしゃって下さい。きっとご満足なさいますわ。さあ、どうぞ!」「必ずお伺いします。でも、のちほど、お医者さんの後からね。ああ、弱ったなあ!……」「まあ! いやだわ!」と彼女は私の腕にすがりついたまま、声を立てて笑いながら、「剽軽《ひょうきん》なお医者さまですこと。あたしはお医者さまの中でそんなお方をたくさん知ってますわ。さあ、いらっしゃいよ」
私は神秘が非常に好きである。なぜなら私は常にそれを解きほぐしたいと望んでいるからである。そこで今、私はこの連れの女に、というよりはむしろ、この思いがけない謎の女に、連れてゆかれるままにまかせた。
私はそのむさくるしい部屋の叙述は省略する。それは昔の有名なフランスの詩人たちが幾人も書いていることではないか。ただ、これだけはレニエ〔フランス十六世紀の諷刺詩人〕も気がつかなかった細かいことだが、著名な医者の肖像画が二、三、壁に掲げてあった。
どんなに私は歓待されたことだろう! 燃えさかる暖炉の火、温かい酒、そして葉巻。このような結構なものを私にすすめながら、自分でも一本の葉巻に火をつけて、このおどけた女はいうのであった。「どうぞお宅のようになすって、おくつろぎ下さい。そうすれば病院のことや楽しかったお若い頃のことを思い浮かべになれますわ。――まあ、これは! こんな白髪をどこでおつくりになったの? L病院のインターンでいらしった時分は、それはまだ大して昔とはいえませんが、こんなふうではありませんでしたのに。あなたがいろんな大手術の時に、先生のお手伝いをなさっていたのをあたし覚えておりますわ、そういえば、あの先生は、切開したり、切断したり、削《そ》いだりするのがお好きでしたね! あの方に器具や糸や海綿を手渡しするのがあなたでした。――そして、手術が終ると、あの先生は、懐中時計を出して眺めながら、得意然とおっしゃいましたね、『諸君、たった五分間だわい!』って。――ええ、そうよ! あたしどこへでも行きますの。ですからあたし、こういう先生がたをみんなよく知ってますとも」
しばらく経つと、今度は親しげにあんたと呼びながら例の台詞《せりふ》をくりかえしてこういった。
「あんたはお医者さまでしょう、そうじゃないこと? あたしの小猫さん」この愚劣な繰《く》り言《ごと》に私はすっくと立ち上り、「違うといってるのに!」と色をなして叫んだ。
「それじゃ外科医?」
「違う! 違う! もし本当に外科医だったら、君の首をちょん切りますよ! しょ……しょ……しょうがない女だな!」
「ちょっと待っててね」と彼女は続けて話しかけた。「お見せしたいものがあるのよ」
そして彼女は、戸棚から一束の紙を取り出したが、見るとそれは、ヴォルテール河岸の古本屋に何年も店《たな》ざらしになっているのをよく見かける、モーランの石版画の、当代知名の医家肖像集にほかならなかった。
「ねえ! あんた、この方をご存じ?」
「知ってますとも! X氏です。名前が下に書いてあるじゃありませんか。しかし私は個人的に氏を知ってるんですよ」
「そうでしょうね! それからそら! ここにZさん。講義の時に、Xさんのことを、『腹の黒さが顔にまで出ているあの怪物!』なんておっしゃった方よ。それというのがみな、同じ仕事でご自分と意見が違うからなんだわ! あの時、学校ではみんなそれを笑ってたわね! 覚えてらっしゃる? 次にそら、Kさん。あの、ご自分の病院で治療してやっていた政治犯の連中を、その筋に密告した方よ。あれはいろんな暴動のあった時代だったわね。あんなきれいな顔の人が、あんなに不人情だなんて、どうしてでしょう? ――それから今度はWさん。イギリスの有名なお医者さま。あたし、パリヘいらっしゃった時につかまえたのよ。お嬢さまみたいな方ね、そうじゃなくって?」
それから私が、同じ円卓《まるテーブル》の上に置いてあった、紐《ひも》でからげた包みに手を触れると、「ちょっと待って」と彼女はいって、「それは病院詰のお医者さまたちで、こちらのが通勤の方々だわ」
そして彼女は、もっとずっと若い顔が写っているたくさんの写真を、扇形にひろげて見せた。
「この次お目にかかる時には、あんたも写真を下さるわね、いけない?」
「でも」と私はまた私で、あくまで依怙地《えこじ》に彼女に尋ねた。「どうして私を医者だと思い込んでいるの?」
「だって、女に対してそんなに優しくて、そんなに親切なんですもの!」
「妙な理屈《ロジック》だ!」と私は心で考えた。
「ほんとに! あたしったら、めったに勘違いなどしたことないのよ。あたし、お医者さまをとてもたんと知ってるの。あたしは先生がたが大好きなので、たとえ病気でなくても、ただお会いするだけの用事で、ときどきお会いしに出かけてゆくの。中には冷淡に、『あなたはどこも悪くないじゃありませんか!』なんておっしゃる方もあるけれど、また中には、わたしの気持をわかって下さる方もあってよ。こちらが愛想よくしてあげるものだから」
「で、わかってもらえない時には……?」
「だってそれは! 役にも立たないのにわたしのほうからお邪魔したわけですもの、暖炉棚の上に十フラン置いて引き下るまでよ。――あの方たちはみんな、とても親切で、とても優しい人たちですわ! ――あたし、慈善病院で、天使のように美しくて、慇懃《いんぎん》な、一人のインターンの方を見つけたの。働いてる方よ、可哀そうな青年! お友達の話によると、ご両親が貧乏で何も仕送りができないため、その人はお金《あし》をちっとも持っていないんですって。あたしはそれを聞いて決心がついたの。齢《とし》はもうあまり若くないけど、あたしこれでも相当にきれいでしょう。あたしはその方にいってあげたの。『あたしの家へいらっしゃいな。たびたび訪ねていらっしゃいな。あたしに気兼ねはいらないことよ。お金なんか欲しかないのよ』ってね。しかし、おわかりでしょうが、あたしはいろんな手でそれをあの方にさとってもらおうとしたのよ。ぶしつけにいったりはしないわ。その可愛い坊やに、恥をかかせちゃ大変ですもの!――ところで! あたしがどうしてもその人に切り出せなかった妙な願いを持っていたのを、あんたは信じて下さる? あたしはその人に、手術器具の入ったケースを提げて、手術着を着て、わたしの家へきてもらいたかったの、少しくらい血がついたままでね!」
彼女はこれを、ある多感な男がその愛する女優に向って、「僕は、あなたが演じたあの当り役の衣装を着たままの姿を見たいですな」というように、非常に無邪気な様子でいってのけた。
私はというと、私は相変らず依怙地《えこじ》に、こう咎《とが》めたのである。「君はそんな特殊な情熱が君の心に生じた時期や機会を思い出せますかね?」
私のいった意味を理解させることはむずかしかった。やっと彼女はそれをさとった。しかしその時、彼女は世にもうら悲しい様子をして、今でも私は忘れることができないのだが、眼をそらしさえして答えたのだ。「知りませんわ……思い出せないわ」
大都会において、散歩したり観察したりすることができる場合、いかなる奇怪事の見出せないということがあろう? 人生には罪のない怪物がうようよしている。――主《しゅ》よ、わが神よ! 御身《おんみ》、造物主よ、御身、支配者よ、「掟《おきて》」と「自由」とを作り給える御身よ、人間をしてなすがままにまかせ給う主権者よ、なにごとをも赦し給う法官よ、理由と原因とに満ち給いて、あたかも刀の切尖《きっさき》で治療するごとく、おそらくわが心を改めさせるためにわが精神の中に恐怖の嗜好《しこう》を置き給える御身よ、ああ、主よ、願わくは憐れみ給え、心|痴《し》れたる男女を憐れみ給え! おお、造物主よ! なぜ怪物が存在し、いかにしてそれが作られたかを、またいかにすれば作られないですんだかを、ただ一人知り給える御身の眼に、そもそも怪物なるものが存在しうるでしょうか?
四十八 この世のそとならどこへでも
Any where out of the world.
この世は一つの病院で、そこにいる患者たちはおのおのその寝台を換えたいという望みに憑《つ》かれている。ある者はせめて暖炉の前へ行けば我慢もしようと思い、ある者は窓際へ行けば病気が治るだろうと信じている。
私も今いる場所でないところへ行けば、いつも幸福になれるような気がする。それゆえ移転の問題は、私がたえずわが魂と議論を交えている問題の一つである。
「聞かせておくれ、わが魂よ、冷えた憐れな魂よ、リスボンに住むのをどう思う? あそこはきっと暖かだから、お前はとかげのように元気を取り戻すことだろう。あの街《まち》は水に臨んでいて、聞くところによると、大理石で築かれた都で、住民は植物を厭《いと》うのあまり、樹という樹を残らず引き抜いてしまうそうだ。これこそお前の趣味にかなった風景である。外光《ひかり》と鉱物とそれらを映す水とによって作られている風景は!」
私の魂は答えない。
「お前は動くものを眺めながら休息するのが大そう好きだから、オランダヘ、あの至福の国へ、行って住みたいとは思わぬか? お前が美術館でその絵をよく嘆賞していたあの国でなら、たぶんお前の憂さも晴れるであろう。ロッテルダムをどう思う、林立する帆檣《マスト》や家々の軒下の舫《もや》い船などの好きなお前は?」
私の魂は黙ったままだ。
「バタヴィヤ〔旧オランダ領東インド、ジャワ島の主邑〕のほうが、もっとお前の気に入るかも知れないね? しかもあそこなら、熱帯の美と結びついたヨーロッパの精神が見られるだろうから」
一言の答えもない。――私の魂は死んだのであろうか?
「さてはお前は、お前の苦悩の中でなければ楽しめないほど心が麻痺《まひ》してしまったのか? もしそうなら、『死』に似た国へ逃げて行こう。――万事は私が引き受けた。隣れな魂よ! トルネオ〔フィンランド北西隅の都会〕行きの荷造りをしよう。さらにさらに遠く、バルチック海の涯まで行こう。できることなら、もっと人生から遠ざかり、極地へ行って住もうではないか。あそこでは太陽が斜めに地上をかすめるばかり。昼と夜との緩慢な交替が、変化を減らして、虚無の半身たる単調を増している。あそこでわれわれはいつまでも暗闇の永い浴《ゆあ》みに浸れるであろう。同時にまた北極光が、われわれの気をまぎらせるために、地獄の花火の反映のように、時おりそのばら色の花束を贈ってくれることだろう!」
ついに私の魂はたまりかねて口を開き、賢《さか》しくも私に向ってかく叫んだ。「どこでもかまわぬ! どこでもかまわぬ! この世のそとでありさえすれば!」
四十九 貧民を殴り倒そう!
二週間も私は部屋に閉じこもったまま、当時(といっても今から十六、七年前のことだが)流行だった数多《あまた》の書物に取りかこまれていた。それらの書物というのは、民衆を二十四時間で幸福にし、賢明にし、富裕にする方法を説いた書物のことである。公衆の福利をはかる経綸家《けいりんか》たち――すなわちすべての貧民に向って奴隷になれと勧める人々、貧民はみな王位を剥がれた王であることを彼らに説き聞かせる人々――こういう手合いの労作を私は残らず消化した、――というよりはむしろ鵜《う》呑みにした。従って、私がその時、迷妄《めいもう》あるいは愚昧に近い精神状態になったとしても、べつに怪しむには当るまい。
私は最近、世の善良なご婦人がたのあらゆる常套語《じょうとうご》を記載した辞書に、一とおり眼を通したことがあるが、その常套語以上に高尚なある観念のかすかな芽生《めばえ》が、当時、私の知性の底に閉じこめられたままうごめいているのを感じたような気がしただけだった。しかしそれはまだ、観念の観念に過ぎず、非常に漠然たる何ものかに過ぎなかったのである。
そして私はひどい渇《かわ》きを覚えて外出した。なぜなら、くだらない読み物を熱狂的にたしなんだ後では、それに正比例して、外気と清涼剤への欲求が起るものであるから。
私がとある酒場に入ろうとした時、一人の乞食がぬっと帽子を差しのべた。そいつは、もしも精神が物質を動かし、催眠術師の眼がぶどうの実を熟《う》れさすものとするならば、王位をくつがえすかも知れないような忘れがたい眼つきの一つをしていた。
同時に私は、わが耳にささやく一つの声、聞き覚えのある一つの声を聞いた。それはどこへでも私につきそってくる守護の天使の、あるいは守護の悪魔《デモン》の声であった。ソクラテスでさえ彼の守護の悪魔《デモン》を持っていたのに、なぜ私が私の守護の天使を持っていない道理があろう? なぜ私が、ソクラテスのように、老練なレリユ〔当時知名のパリの精神科医。「ソクラテスの悪魔《デモン》について」なる論文集がある〕国手や慎重なバイヤルジェ〔同じく知名の精神科医〕国手の署名した、精神異常の証明書を貰う名誉を持っていない道理があろうか?
ただしかし、ソクラテスの悪魔《デモン》と私の悪魔《デモン》とのあいだには次のような相違がある。ソクラテスのは擁護したり、警告したり、さえぎったりするためにのみ彼のところに姿を現わすのであるが、私のは忠告したり、暗示したり、説得したりしてくれるのである。あの憐れなソクラテスは止《と》めだてする悪魔《デモン》しか持っていなかったが、私のは偉大な是認者である。行動の悪魔《デモン》、あるいは闘争の悪魔《デモン》である。
さてその声が私にささやくのであった。「他人と同等であることを立証する者のみが他人と同等なのだ。自由を征服しうる者のみが自由を獲《う》るにふさわしいのだ」と。
そこでただちに、私はくだんの乞食《こじき》に飛びかかった。拳固のただの一撃で、私は彼の一方の眼をふさいでしまった。はれはみるみるボールのようにふくれ上った。彼の二本の歯を折るために、私は自分の生爪《なまづめ》を二枚はがした。生れつき蒲柳《ほりゅう》の質で、拳闘などほとんど練習したことがなかったので、私はこの老人を一挙に殴り倒せるほど強いという自信がなかったため、片手で相手の着物をつかみ、片手で咽喉首《のどくび》をおさえつけて、彼の頭を激しく壁にぶっつけはじめた。白状しなければならないが、私は前もってあたりを一瞥《いちべつ》し、こんな人っ気のない町はずれなら、かなり永いあいだ、巡査が見廻りにやってこないということをちゃんとたしかめておいたのである。
つづいて、肩胛骨《けんこうこつ》も折れよとばかり、力まかせに背中を蹴とばして、このよぼよぼの六十歳の老人を打ち倒すや、私は地面にころがっていた太い木の枝を手にとって、ビフテキを軟かくしようとする料理人《コック》のように根気強く彼を殴りつけた。
突然、――おお、奇蹟! おお、自己の学説の秀抜さを証明した哲学者の喜び! ――私は、この老いぼれの痩せしなびた身体《からだ》が向き直って、あれほどがたぴしと調子の狂っていた機関には絶対に想像もつかなかったような精力《エネルギー》をもって、立ち上るのを見た。そして私には吉兆と思われた憎々しげなまなざしで私を睨みながち、このたかりの老いぼれは、私に向って飛びかかりざま、私の両眼をしたたか殴りつけ、私の四本の歯を叩き折り、例の木の枝で私にめった打ちを喰らわした。――つまり私はさっきの荒療治によってこの男に自尊心と生命力とを回復させてやったのである。
そこで私は、喧嘩はもうすんだのだと思っていることを相手にわからせるために、待った待ったと合図をした。そうしてストア派の詭弁家《きべんか》のような満足をおぼえて起き上り、彼に向ってこういった。「君、もはや君は僕と同等の人だ! さあどうか僕の持ち合せの金を君に分けさせてくれ給え。もしも君が真の博愛主義者なら、君の同僚から君がほどこし物をねだられた場合には、いま僕が苦痛を忍んで君の背中に試みた学説を、すべて彼らに対しても適用すべきであることを覚えていてくれ給え」
彼は私の学説を理解したことを、そして、私の忠告に従うことを、固く固く私に誓った。
五十 善良な犬
ジョゼフ・ステヴァン(*)氏に
私は現世紀の青年作家たちの前でさえ、ビュフォン〔フランス十八世紀の有名な科学者。荘重な名文をもって一世に鳴る〕を賞讃することを決して恥ずかしいとは思わなかった。しかし今日、私が加勢に呼ぼうとするのは、この華麗な自然の描写家の霊魂ではない。断じてそうではない。
それよりもむしろ私は進んでスターン〔一八世紀のイギリスの小説家。その主著たる「感傷旅行」の主人公は驢馬《ろば》に乗って諸国を遍歴する〕に呼びかけて、次のようにいうかも知れない。「天国から降りてき給え。または極楽浄土から僕のほうへ上ってき給え。そして善良な犬たちのために、憐れな犬たちのために、どうか僕に、君にふさわしい歌を作る霊感を授けてくれ給え、多感な諧謔家《かいぎゃくか》よ、比類ない諧謔家よ! 後世の人々の記憶の中でいつも君には付きものの、あの有名な驢馬《ろば》に跨《またが》って帰ってきてくれ給え。そして特に、その驢馬が、例の不滅の糖杏菓《マカロン》を唇《くち》のあいだに軽妙にくわえてくるのを忘れないようにね!」
さあ、官学派《アカデミック》な詩神《ミューズ》は引き下ってくれ。そんな淑女|面《づら》した老いぼれ女に私は何の用事もないのだ。私は親密な市民的な生気の溢れた詩神《ミューズ》をお呼びする。願わくは、善良な犬を、憐れな犬を、そしてその仲間である貧乏人や友愛の眼で眺めてくれる詩人以外には、どの人からもまるでペスト患者か虱《しらみ》だらけの乞食のように追い払われる犬を、私が歌うのを援けられんことを。
小憎らしいのは、デンマーク犬、キング・チャールズ犬、狆《ちん》ころ、またはスパニエル犬といったような、器量自慢の犬、うぬぼれの強い四つ足動物である。奴らは人に気に入られるのを確信しているかのように、ずけずけと来客の脚のあいだや膝《ひざ》の上に飛び込んでくるほど、思い上っていて、子供のように騒々しく、おしゃれ女のように大馬鹿で、時には下男のようにすねて横柄である! ことに憎らしいのは、グレーハウンド犬と人の呼ぶ、虫ずの走るのんべんだらりとした四つ足の蛇。こやつは尖った鼻づらに友達の跡をつけてゆくだけの嗅覚も持たず、その平べったい頭の中にはドミノ遊びをするだけの知能も持ち合せていない!
すべてこれらうんざりする居候《いそうろう》どもよ、犬小屋へ失せろ!
肌ざわりのよいお蚕《かいこ》ぐるみの犬小屋へ帰ってしまうがいい!
私は、泥まみれの犬、貧しい犬、宿無し犬、野良犬、辻芸人である犬を、そして貧乏人や流浪の民や旅芸人の本能のように、その本能が、知恵の良き母でありかつその真のパトロンである必要に迫られて、驚くばかり鋭敏になっている犬を歌うのだ!
広い都会の、うねうねとした、雨水の溜った路を、ひとり淋しくさまよっている犬であろうと、あるいはまた、世間から見捨てられた男に向って、しばたたく精神的な眼で、「いっしょに連れてって下さい。そうすれば私たち二人の窮迫からおそらく私たちは一種の幸福をつくり出せるでしょう」と告げている犬であろうと、すべて落醜《らくはく》の犬を私は歌う。
「犬はどこへ行く?」と、かつてネストル・ロクプラン〔当時知名のフランスのジャーナリスト。「フィガロ」誌の主筆〕が、ある不朽の新聞文芸欄の文章の中で述べていた。当人はさだめし忘れてしまったであろうが、私一人は、またおそらくサント・ブーヴは、今日もなおそれを記憶している。
犬はどこへ行くのかと、注意の足りぬ人々よ、君たちは尋ねるのか? 犬は用足しに出かけるのである。
用談に、または逢いびきに。靄《もや》を冒し、雪を冒し、泥濘《ぬかるみ》を分けて、三伏《さんぷく》の炎天の下を、沛然《はいぜん》たる豪雨の中を、彼らは蚤《のみ》や情欲や欠乏やあるいは義務に追い立てられて、行ったり、来たり、駆けたり、馬車の下をくぐり抜けたりする。われわれと同じように、彼らも早朝から起き出して、生計の道を探し求め、または快楽を追って走りゆく。
彼らの中には、郊外の廃墟の中に寝て、毎日、一定の時刻に、パレ・ロワイヤル街のとある台所口にほどこし物を乞いにくる者もあり、また、中には、愚かな男性たちからもはや相手にされなくなったので動物にその徒然《つれづれ》の心を振り向けている、六十がらみの老嬢《オールドミス》の、情けで準備してくれたご馳走に、各自ありつこうとして、五里以上の道を群をなして駆けつけてくる者もある。
またある者は、脱走する黒人の奴隷のように、恋に狂ってある日のこと己れの故郷を捨てて都に上り、お化粧《けしょう》はかなりぞんざいだが気品があって感謝に満ちた一匹の美しい牝犬のまわりで、一時間あまりも跳ね廻っている。
しかも彼らはみな、手帳も控えも紙入もなしで、やることが非常に正確である。
諸君はあの怠惰なベルギーの国をご存じか? そしてそこで、肉屋や牛乳屋やパン屋の荷車を曳いて、勝ち誇った吠え声で、馬との競争に感じる得意然たる喜びの情を示している、あのすべての元気のよい犬を、私のように讃美したことがあるか?
ところで次に、なおいっそう開化した階級に属する二匹の犬がいる。諸君を不在中の見世物の部屋の中に案内することを許してくれ給え。帳《とばり》のないニス塗りの木製の寝台が一箇と、南京虫に汚された、だらりと垂れた掛布団《かけぶとん》と、藁《わら》をつめた椅子が二脚と、鋳物のストーヴと、調子の狂った楽器が一つ二つ。ああ、悲しい家具類よ! しかし目をとめて、どうかあの二匹の利口な立役者を眺め給え。彼らは、生地がいたんではいるが豪著な衣裳を着て、吟遊詩人か軍人のように帽子をかぶり、名もない料理がストーヴのとろ火の上でぐつぐつと煮られ、その真ん中に一本の長い匙《さじ》が、工事の落成したことを告げて空高く聳え立つ旗竿《はたざお》のように突きささって立っているのを、魔法使いのように注意深く見守っている。
かくも芸熱心な役者たちが、精のつく濃厚なスープで腹ごしらえをしてからでなくては、舞台に出ようとしないのは無理からぬことではあるまいか? そして諸君は、観客の冷淡さと、自分一人でのさばって役者の四人分以上のスープを飲んでしまう親方の不正とを、一日じゅう耐え忍んでゆかなければならないこの可哀そうな畜生どもに、少しくらい肉体的快楽を許してはやれないであろうか?
すべてこれら四つ足の哲学者を、慇懃《いんぎん》で従順で献身的な奴隷を、人間の≪幸福≫にのみ没頭しきっている今の共和政府が、犬の≪名誉≫をも考慮に入れる余裕を持っているなら、共和国の辞書でやはり≪奉仕者≫〔フランス革命後の共和政府は、従来の従者、下僕などという呼称を廃し、代えるに奉仕者なる語を使った〕という名称を与えたかも知れぬこれらの犬を、私はどんなにしばしば、ほほえみながら感動して眺めやったことだろう!
そして私は、おそらくどこかに、(どこであるかを結局誰が知ろう?)これほどの勇気と、これほどの忍耐と精励との報酬として、善良な犬のために、憐れな犬のために、身も世もあらぬ泥まみれの犬のために、特別の楽園があるかも知れないと、いかにしばしば考えたことだろう。スウェーデンボルグ〔スウェーデンの神秘哲学者〕は、トルコ人のためにも一つの楽園があり、オランダ人のためにも一つの楽園があると、はっきり断言しているではないか!
ウェルギリウス〔古代ローマの叙事詩人〕やテオクリトス〔古代ギリシアの田園詩人〕の詩の中の羊飼たちは、かわるがわる唄をうたったご褒美に、上等の乾酪《チーズ》や、名匠の手で作られた笛や、あるいは乳房のふくれた牝山羊《めすやぎ》を期待したものだった。ところで憐れな犬を歌った詩人は、その報酬として、秋の陽射《ひざ》しや齢《よわい》の闌《た》けた年増女の美やサン・マルタン〔パリのほぼ中央をセーヌ河に通ずる運河〕の夏の日を思わせる、豪奢ではあるが褪《あ》せた色の、美しい一着のチョッキを貰った。ブリュッセル市ヴィラ・エルモザ街のその居酒屋にたまたま居合せた人は誰でも、その時、あの画家がどんなに敏捷《びんしょう》に、詩人のために、着ていたチョッキを脱いで与えたかを忘れないであろう。それほどその画家は、憐れな犬を歌うということが立派な正しいことであるのをよく承知していたのだ。
ちょうどそのようにして、良き時代の、さるすばらしいイタリアの暴君は、崇高な詩人アレタン〔イタリアの諷刺詩人〕に、貴重な十四行詩《ソンネ》や珍しい諷刺詩を歌った引出物として、宝石をちりばめた短剣やら、宮廷の外套《マント》やらを賜わったものである。
さて、例の詩人は、画家から貰ったチョッキを身につけるごとに、善良な犬を、哲学者である犬を、サン・マルタンの夏の日を、齢《よわい》の闌《た》けた年増女の美を、偲《しの》ばないではいられない。
[#この行2字下げ]* 一八一九〜九二年。ベルギーの動物画家。一八五七年以後数回フランスのサロンに入選した。彼がブリュッセルに滞在中のボードレールに美しい古風なチョッキ贈ったことは事実である。
エピローグ
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心滴ち足りて、われはいま丘に登りぬ、
ここより隈《くま》なく都会を眺め得るなり、
病院、娼楼《しょうろう》、煉獄、地獄、徒刑場、
かしこにはあらゆる巨大なるもの花のごとくに咲けり。
わが憂悶の守護者、あわれ悪魔《サタン》よ、汝《なれ》こそは知らめ、
われ、空《むな》しき涙を流さんとてかしこに行きしにはあらで、
老いたる情婦の肉を漁《あさ》る年老いし男のごとく、
恐ろしき魅力絶え間なくわれを若返らしむる。
かの巨大なる坩堝《るつぼ》にこそ陶酔せんがためなりしを。
都会よ、汝、感冒にかかりて、重く、いぶせく、
朝の毛布にくるまりてなおも眠りつづけるとも、また誇りかに、
細やかなる金紐飾りの薄暮《かわたれ》の帳《とばり》の中を歩むとも、
ああ、汚濁の首都よ、われ汝を愛す! 娼婦らと
強盗どもよ、汝らは凡俗の庶民たちの窺い知らざる
快楽を、かくもしばしばここに捧げ参らすなり。
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訳者あとがき
ボードレール(一八二一〜六七)の散文詩『パリの憂鬱』は、一貫して純粋な美しさを堪えている古典である。彼の全著作中これ以上に陰影と情緒に富んだ味わい深い作品はない。『悪の華』の一部の詩篇に、往々にして感じられるようなロマンチックな衒《てら》いや偽悪ぶった調子は、ここには見られない。いたるところに真の芸術家の善意が輝き、すべてが内省的、暗示的で、微妙な均衡のもとに高雅な調べを奏でている。
相互に交る交る首ともなり尾ともなるこれら一体系の散文詩を、ボードレールは誰の示唆《しさ》によって思い立ったのであろうか? それは巻頭ウーセイヘの献辞の中で述べているようにアロイジュス・ベルトランであることはいうまでもない。ボードレールをして感嘆せしめたベルトランは、フランス文学において散文詩というジャンルを創始した詩人であり、わずかにその功績によって十九世紀初頭の文学史に小さな席を与えられている。しかし、『パリの憂鬱』の粉本となったベルトラン唯一の珠玉詩集『夜のガスパール』は、「音律《リズム》もなく脚韻もなくてなお音楽的な」という点においてのみ前者に影響を及ぼしているに過ぎず、両者の間には根本的に詩風の相違がある。皮肉な言い方をすれば、どちらもサント・ブーヴから絶讃を博したこと、どちらも作者の死後はじめて一冊の刊本にまとめられたこと、それ以外に共通点はないのである。『夜のガスパール』が「レンブラント及び力ローの画風にならえる幻想詩」という傍題の示すように、あくまで中世趣味の絵画的色彩美を歌った無感動な平面描写であるのに反し、『パリの憂鬱』は、近代人の複雑な心理の独白を志向したはるかに内面的な知的な要素の濃い作品である。ボードレールは単に散文詩という形式を使用することをベルトランから思いついただけである。
『パリの憂鬱』はベルトランよりもいっそうポーの散文に近い。ボードレールのポー翻訳は、一八五六年『異常物語』、一八五七年『続異常物語』、一八五八年『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』、一八六四年『ユーレカ』、一八六五年『綺譚正譚』の刊行といったぐあいに、散文詩の製作とは絶えず陰になり陽になって進行している。従って、散文詩の幾篇かがひとりでにポーの影響を受けて、散文性の勝った象徴的コントの趣を見せているのは否めない事実であろう。(たとえば「壮烈な死」はポーの「ぴょんぴょん蛙」に似たところがある)しかしまた、ポーよりはいっそう柔軟であり繊細であり、更に言いうるならばいっそう抒情的でさえある。
ボードレールの眼は、ナポレオン三世の第二帝政治下、繁栄を謳歌する首都パリの俗悪な市民生活を凝視して、そこに≪憂鬱≫の象徴を見出し、大都会の日蔭にうごめく寂しい寡婦や宿無し犬や卑屈な乞食や老いた辻芸人や病的な女人など、すべて敗残の弱者に対し側隠の情を寄せたのである。『パリの憂鬱』は『悪の華』と並んで『パリ詩集』と名づけることのできるほど見事な都会詩であると、批評家チボーデはいみじくも指摘して、「都府とは何か。人間の森である。都会詩を創るように生れついた魂は、この人間の森の中において、さながらロマン派の詩人が樹木の森の中にあって自然を前にするのと同じように感じるのだ。動く森である群衆は、ボードレールの幻想の環境となり、支えとなり、風景となる」といっている。
二十歳のころに旅行した南海の印象は、この散文詩集の中にも『悪の華』におけると同様、華麗な銅版画を描き出している。詩人は色の黒い恋人の身体に南半球の夢を見る。疲れはてた都会生活のどん底から幸福と純美への思慕として、熱帯の空の色や船の形や植物や大気の薫《かお》りを思い浮べる。それは単なるエキゾチスムではなく、理想追求の熱い祈願にほかならない。
ボードレールが諸新聞雑誌に散文詩を少しずつ発表した時、その総題として用いた名称は、年次順にいって『夜の詩』『散文詩』『小散文詩』『パリの憂鬱』『狼狂者小詩』であり、なおその他にもウーセイに与えた一八六一年十二月の二通の私信によれば、『孤独なる散歩者』『パリ逍遥』『仄明りとけむり』などの題が腹案に入っていた。
彼がはじめて散文詩を発表したのは、一八五五年、パリ、アシェット書店刊行の諸家詩文集『フォンテーヌブロー』に「夕まぐれ」「孤独」の二篇を寄せた時である。しかし一冊にまとめようと思い立ったのは、『悪の華』初版の上梓された一八五七年のころであるらしい。同年七月九日付の母への手紙にいわく、「私にはなすべき仕事がいろいろございます。それは蔵書や版画や博物館のない土地では書くことができないのです。何よりもまず『美術論』『夜の詩』『阿片吸飲者の告白』を片づけてしまわねばなりません」更に七月二十七日付の手紙にもくりかえしこのことを母に告げている。「ご諒承下さることと存じますが、オンフルール(セーヌ河の漁港、母の別荘の所在地)への旅行は特に延期いたしました。――それに今度の訴訟事件で時間を全部とられるにもかかわらず、私は四冊の本を書き上げなくてはならないのです。エドガー・ポーの第三巻と『夜の詩』(自作)『美術論』(自作)と『阿片吸飲者』(F・クインシーの作品の翻訳)です」こうして『悪の華』訴訟事作判決の直後、八月二十四日のル・プレザン誌に、既発表の二篇を含む六篇の散文詩が掲載された。
更に五年後、一八六二年八月から九月にかけて、ラ・プレス紙上に、ウーセイヘの献辞を添え二十篇の散文詩(既発表のもの六篇を含む)が三回にわたって掲載されるに及び、ここにはじめて『パリの憂鬱』前半の骨格が堂々と体系づけられた。
ボードレール自身この著作については絶大な自信を抱いていたようであるが、後半三十篇の製作は、貧窮と病苦の中で難渋をきわめ、編集者の無理解から発表にも幾多の困難が伴った。一八六四年ベルギーへの逃避行以来、一八六六年失語症の身をパリの病院に横たえるまでの間、彼は母に宛てて綿々と『パリの憂鬱』のことを書き送っている。
「私はエッチェル氏(ベルギーの出版商)とも仲直りしました。この人は当地に立ち寄り、増補『悪の華』と『パリの憂鬱』の手交期限を九月末まで延ばしてくれました。――『パりの憂鬱』はオンフルールで書き上げることにしましょう。ああ! これができ上ればどんなに嬉しいことでしょう! 私はひどく衰弱し、何もかも厭になり、自分自身にも愛想がつきたので、ときどき、ずっと以前から中止しているこの書物をとうてい完成できないような気もします。でも私はこの書物のことばかりずいぶん楽しみに考えていたのです」(一八六四年八月八日付)
「『パリの憂鬱』、私の大そう当てにしていたこの呪われた書物は、半分で中絶したままになっています。ああ! 私は帰宅するのが遅れてしまいました! 一つの仕事を永いあいだ中止しておいたり、一度にあれやこれやに手をつけたりするのは、確かに大きな危険です。思索の糸がたびたび切れて、最初自分の占めていた精神上の雰囲気をもう二度と見出すことができないのです」(一八六四年十一月三日付)
「ときどきまた散文詩に取りかかっています。……しかし、観念や心象や言葉を組合わせるためには、幾分でも気持の平静であることが必要です。――しかるに私はそんな平静どころの騒ぎではありません」(一八六五年二月十一日付)
「そうです、『散文詩』は続けています。もっとも続けざるをえないわけです。二年前からの約束もあるし、かつ『散文詩』の後でなければ『悪の華』は重版にならないのですから。しかし、ゆっくりと、ごくゆっくりとやりましょう。この国の雰囲気は重苦しいものです。それに、発表ずみの四、五十篇(当時までに発表されたのは正確に言うと四十一篇であった)をお読みになって母上もおわかりになったでしょうが、こんな小さなつまらない作品の製作も、精神の大きな集中の結果なのです。でも私は、一冊の風変りな、『悪の華』よりもっと風変りな、少なくとももっと奔放自在な著作を首尾よく作り上げたいと思っています。私はその著作で恐怖と道化とを、更に愛情と憎悪とを結合させることでしょう」(一八六五年三月九日付)
「私は文字どおり意気消沈《いきしょうちん》に陥っています。『ベルギー論』も『散文詩』も執筆する元気がございません。旅客のトランクが汽車に積み込まれるのを見ると、私はこう独りごとをいいます『あそこにまだ一人の幸福人がいるわい! 奴さんには行先があるのだ』長いあいだ≪比較的≫気持のいい人だと思っていた二、三のベルギー人も、今や私には鼻持ちならなくなりました」(一八六五年五月四日付)
当時の暗澹たる心境は、画家エドゥアール・マネに宛てた五月十一日付の手紙にも色濃く滲み出ている。「僕は身体《からだ》が弱っている。死にそうだ。二、三の雑誌に寄稿すべき一まとめの散文詩があるのだが、しかしもうにっちもさっちもいかない。僕は子供のころや遠い世界の涯で暮していたころには覚えなかったホームシックで苦しんでいる。何も愛国者だというわけではないが」
晩年凋落期のボードレールの詩は、『悪の華』増補第三版に見られるとおり、意外にも駄作が混っている。だが一たび散文詩に眼を転ずると、そこには一篇も投げやりな作品はなく、どれもみな渾然たる出来栄えで、いかに詩人が最後の精魂をこれに打ち込んだかがわかるのである。借金に追われ病苦に悩んだ不如意な流寓生活の中で散文詩稿は推敲に推敲が重ねられた。
とかくするうち、ボードレールは、しびれを切らしたエッチェルから出版契約取消しの宣告を受け(一八六五年七月)、最後の望みを托したパリのガルニエ書店からも半年の折衝の末、同じく出版を拒絶された(一八六六年二月)。こうしてついに『パリの憂鬱』は、ボードレールの生前には単行本として上梓される運びにいたらなかったのである。不治の病床につく三週間前に、ボードレールはなおも母への手紙の中で『パリの憂鬱』のことを語っている。
「私は例の『パリの憂鬱』と若干のくだらない作品に、半月ほどせっせと精進いたしましょう。その全部が(『ベルギー論』を除いて)でき上ったら、パリヘ出かけて自分で運だめしをやってみましよう。もちろんまたブリュッセル市へ引き返さなくてはなりますまいが、もしパリでうまくゆけば、売込みが成功すれば、ベルギーへはほんの数日帰るだけでよいでしょう」(一八六六年三月五日付)
『パリの憂鬱』のたどった苦汁にまみれた歴史は、ボードレールの晩年の手記『赤裸の心』の左の一節と読み合わせる時、われわれを深い感慨に誘うのである。
「――各瞬間ごとに、われわれはそのときどきの感覚と思想との重荷でおしつぶされている。この悪夢から逃れ、かつそれを忘れるには、二つの方法しかない。快楽と仕事がそれだ。快楽は人をすりへらす。仕事は人を養う。選ぶべきだ」
「――私は自分の計画が成就したという悦びをまだ一度も知らない。執念の力、希望の力。さっそくまず仕事に着手することだ。少しくらい拙くても、うかうか夢想ばかりしているよりはましである。小さな意志の実行がたび重なって大きな結果をなす」
かくて『パリの憂鬱』は、ボードレールの最後の≪悔恨≫の形見分けとなった。