デカメロン(中)
ボッカッチョ/柏熊達生 訳
目 次
第四日
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第一話 〈サレルノ公タンクレーディは娘の恋人を殺してその心臓を金の大盃にのせて娘に送る。彼女はそれに毒水をそそいで、これを飲みほして死ぬ〉
第二話 〈修道士アルベルトはある婦人に、天使ガブリエッロが彼女を恋していると思いこませて天使ガブリエッロの姿をして何度も彼女と一緒に寝る。……〉
第三話 〈三人の若者が三人の姉妹を愛し、彼女たちとともにクレーティ島に逃げる。長女は嫉妬のあまりその恋人を殺す。……〉
第四話 〈ジェルビーノは、祖父グリエルモ王のあたえた誓約にそむいて、チュニス王の王女を奪おうとしてチュニス王の船と戦うが、王女はその船に乗っていた者たちに殺される。……〉
第五話 〈イザベッタの兄弟たちは彼女の恋人を殺す。彼は女の夢枕にあらわれ、自分がどこに埋められているかを告げる。……〉
第六話 〈アンドレウォーラはガブリオットに恋している。彼女は自分が見た夢を彼に物語り、彼はも一つの夢を彼女に物語る。……〉
第七話 〈シモーナはパスクイーノを愛している。二人がある庭園で一緒にいる時、パスクイーノはサルヴィアの葉で自分の歯をこすり、そのために死ぬ。……〉
第八話 〈ジロラモはサルヴェストラに恋をする。母の願いによってやむなくパリに行き、帰って見るとサルヴェストラが結婚している。ひそかに彼女の家にしのびこんで、彼女のそばに身を並べて死ぬ。……〉
第九話 〈グリエルモ・ロッシリオーネ氏は、妻が愛していたグリエルモ・グァルダスターニョ氏を殺したうえ、その心臓を自分の妻にあたえて食べさせる。……〉
第十話 〈ある医者の妻が、麻酔薬を飲んで眠ってしまった恋人を、死んだものと思って箱に入れると、その箱を男ごと二人の高利貸しが家に持って行く。男は眼をさますが泥棒としてとらえられる。……〉
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第五日
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第一話 〈チモーネは恋をして賢明となり、自分の女エフィジェニアを海上で奪う。ロードス島で投獄され、リジマコがそこから彼を救い出す。……〉
第二話 〈コスタンツァはマルトゥッチョ・ゴミトを愛しているが、その男が死んだと聞いて、絶望のあまりただ一人小舟に乗る。……〉
第三話 〈ピエトロ・ボッカマッツァは、アニョレッラと駈け落ちする。盗賊たちに会い、女は森へのがれて、ある城に行く。……〉
第四話 〈リッチャルド・マナルディは、リツィオ・ディ・ヴァルボーナ氏に、その娘といるところを発見されて、彼女と結婚し、彼女の父親とも依然仲よくつきあう〉
第五話 〈グイドット・ダ・クレモーナは、一人の少女をジャコミーノ・ダ・パヴィアにのこして死ぬ。……〉
第六話 〈ジャンニ・ディ・プロチダは、かつて自分が愛していて、後にフェデリゴ王に献上されていた若い娘と一緒にいるところを発見されて、娘とともに火あぶりにされることになる。……〉
第七話 〈テオドーロは、その主人アメリゴ氏の娘ヴィオランテに思いをよせて、これを妊娠させ、絞首刑の宣告をうける。……〉
第八話 〈ナスタジョ・デリ・オネスティは、トラヴェルサーリ家の娘を思慕して、すげなく拒絶され、その財産を蕩尽する。……〉
第九話 〈フェデリゴ・デリ・アルベルギは恋をするが片思いに終わる。御機嫌とりのために金をつかい、財産を蕩尽して、手もとには一羽の鷹だけが残る。……〉
第十話 〈ピエトロ・ディ・ヴィンチョロは外へ食事に出かける。彼の妻が若者を引き入れる。そこへピエトロが帰宅する。彼女は男を鶏籠の下にかくす。……〉
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第六日
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第一話 〈ある貴族がオレッタ夫人に向かって、ある話をして、まるで馬に乗せていくように、道の長いのを忘れさせようと言いながら、下手糞な話をしたので、彼女に降ろしてくれと頼まれる〉
第二話 〈パン焼きのチスティは、そのことばで、ジェーリ・スピーナ氏に、氏の無分別な要求をさとらせる〉
第三話 〈ノンナ・デ・プルチ夫人は当意即妙の返答で、フィレンツェの司教の不潔な悪《わる》じゃれに沈黙を命じる〉
第四話 〈クルラード・ジャンフィリアッツィの料理人キキビオは、危機をのがれようとして当意即妙のことばを返して、クルラードの怒りを笑いに転じ、クルラードのために嚇《おど》しつけられた禍いをまぬがれる〉
第五話 〈フォレーゼ・ダ・ラバッタ氏と画家ジョット氏は、ムジエッロからくる途中、たがいに相手の醜悪きわまる容貌をひやかしながらやりあう〉
第六話 〈リッチャルド・ミヌートロはフィリッペッロ・シギノルフォの妻を愛する。……〉
第七話 〈フィリッパ夫人は、その恋人といるところを夫に発見されて、法廷に呼ばれ、即座に、胸のすくような返答をして、刑をまぬがれ、法律を改修させる〉
第八話 〈フレスコは、姪に向かって、もし彼女が言うように、不快な人々を見るのがいやだったら、鏡に自分をうつして見るなと勧める〉
第九話 〈グイド・カヴァルカンティは、ふいに自分をつかまえたフィレンツェのさる騎士たちに、警句で、慇懃《いんぎん》に悪口を言う〉
第十話 〈修道士チポッラは、百姓たちに向かって、彼らに天使ガブリエッロの羽を見せると約束する。……〉
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第七日
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第一話 〈ジャンニ・ロッテリンギは、夜、自分の戸口を叩く音を聞く。妻をおこすと、彼女は、夫にそれを幽霊だと思いこませる。……〉
第二話 〈ペロネッラは、夫が帰宅したので、自分の恋人をぶどう酒の樽の中に入れる。夫がその樽を売ってきたと言うので、彼女もその樽を、中にはいって頑丈かどうか調べている男に売ったのだと言う。……〉
第三話 〈修道士リナルドは、名付け子の母親と寝ている。夫は、彼女と寝室にいる修道士を発見する。……〉
第四話 〈トファノは、ある夜、細君を屋外に閉めだす。細君は嘆願しても家にはいれないので、井戸に身を投げるようなふりをして、そこに大きな石を投げおとす。……〉
第五話 〈ある嫉妬深い男が、司祭の格好をして妻の懺悔を聞く。妻は毎夜自分のところにくる司祭を愛しているということを知らせる。……〉
第六話 〈ランベルトゥッチョ氏から愛されていたイザベッラ夫人は、レオネットと一緒にいるところへ、同氏の訪問をうける。……〉
第七話 〈ロドヴィコはベアトリーチェ夫人に、自分が彼女によせている愛を知らせる。夫人は、夫のエガーノに自分の扮装をさせて庭へやり、自分はロドヴィコと寝る。……〉
第八話 〈ある男が細君に対して嫉妬深くなる。細君は、夜、指に紐を巻いて、その恋人が自分のところにくるのを知る。夫がそれに気がついて、恋人の後を追いかけているあいだに、細君は、寝台の中に、自分の代わりにも一人の別の女を寝かせておく。……〉
第九話 〈ニコストラートの妻リディアはピルロを愛し、ピルロはそれを信ずることができるようにと、彼女に三つのことを要求し、彼女はそれをことごとく果たす。……〉
第十話 〈二人のシエナ人が、ある婦人――彼らの一人が名付け親になっているこどもの母親――に恋をする。……〉
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解説
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デカメロン(中)
第四日
[#この行3字下げ]〈デカメロンの第三日が終わり、第四日がはじまる。この日はフィロストラートの主宰のもとに、その恋が不幸な終わりをつげた人々のことを話す〉
愛する御婦人方、私が耳にした賢者のことばや、さては自分が何度も見たり読んだりしたことから、嫉妬の激しい、燃えさかる風は、高い塔か、または木々の一番上に聳えている梢のほかには何も揺り動かすはずはないものと思っておりました。しかし私は自分の考えに瞞されていることを知りました。というのは、この怒り狂う風のひどい激しさから逃げようと懸命になりながら、私はいくつもの平野をよぎったばかりでなく、最も深い谿を伝わって歩いてきていたからです。このことは、私によってだれに献げるということもなくフィレンツェの平俗な散文で書かれたばかりでなく、できるだけごくへり下った文体で書かれたこれらの話を読まれる者には、実にはっきりとおわかりになるでしょう。
そうした一切の心遣いにもかかわらず、私はそうした風に激しくゆり動かされ、むしろほとんど根こそぎにされて、嫉妬に咬みつかれて全身を引き裂かれるのをさけることができませんでした。だから、みじめなことだけがこの世の中では嫉妬をうけないものであるとよく賢者が言うことが真実であることを、まことにはっきりと理解することができます。
さて、つつしみ深い淑女のみなさん、これらの物語を読んで、私があなた方を愛しすぎているとか、私があなた方をたのしませ、慰めたりして、喜んでいるのは正しいことではないとか言った人が何人かおりました。また別の人々は、もっと思慮の円熟した口振りを見せて、彼の年配ではもうこうしたことを追いかけ廻すのは、だから淑女たちのことを話したり、淑女たちの気に入ろうとしたりするのはよくないと言いました。多くの人々は、私の名声を非常に心配してくれるような様子をして、私がこうした冗談であなた方の仲間にまじっているよりも、パルナス山で詩神ミューズたちと一緒にいるほうがずっと賢明だろうにと言っております。さらにまた賢《さか》しいというよりも軽蔑したような言い方で、私が空想にふけってこうしたくだらない気まぐれを追いかけているよりも、どこからパンを得なければならないかということを考えたほうがずっと利口なことだろうにと言った人々もおります。また他のある人々は、私の作品をけなそうとして、私があなた方に話したことは、ほんとうは私の言ったのとは違ったふうのものであったということを示そうとして、やっきになっております。
すぐれた淑女方、私はあなた方の御用を勤めている間に、こんなに多くの、こんなに残忍な、こんなに鋭い歯で押しとばされ、苦しめられ、果ては生きながらに突きさされました。そうしたことに私は心静かに、神さまも御存じのように、耳を傾けて、聞いております。そのことについては、私の弁護はすべてあなた方のお役目ではありましょうが、それにもかかわらず、私は自分の力を差し控えるつもりはございません。それどころか、しなければならないような返事をせずに、何か軽い返事をして、そんなことを聞かないですむようにするつもりでおります。これはすぐにやるつもりです。というのは、私がまだ自分の作品の三分の一にも達していないのに、すでに彼らが数が多くて、多くのことを当てにしておるとすれば、私は、自分が終わりに行きつかないうちに、彼らは前もって何か反駁でもうけていないと、どんどん数がふえて、そのためにちょっと何か一押しすれば私を打倒して、あなた方の力では、たとえどんなにそれが大きなものであろうとも、それに十分抵抗することはできまいと思うからであります。
けれどもだれかに返事をする前に、私は自分のためにお話をしておきたいのです。それも私が自分のお話を、あなた方のいまごらんになっているような、こんなにほめ讃えていいような人々のお話と一緒にしたがっていると思われないように、まとまった一つのお話をではなくて、お話の欠点そのものが、私の集まりの人々のお話に属するものではないことを示すように、一つのお話の一部をしてみたいと思います。
で、私を攻撃する人たちにお話しするわけですが、こうなのです。もう大分前のことですが、私たちの都市《まち》にフィリッポ・バルドゥッチという一人の市民がおりました。それはかなりいやしい身分の者でしたが、金持ちで、その地位に必要なだけのことについては十分に知識も経験もありました。彼には一人の細君がいて、それを非常に愛しておりました。細君も彼を非常に愛しておりました。二人は共に気楽な生活を送っておりましたので、お互いにただ楽しくしていこうとするだけで、それ以外のことには、それほどに気をとめておりませんでした。ところが、今、だれにでも起こることですが、その人のいい女がこの世を去り、彼との間にできた二つばかりの一人息子を残していきました。フィリッポはその妻の死に非常に落胆しました。愛するものを失って、これくらい気落ちした者はほかにはないでしょう。彼は愛していたその伴侶に先立たれ、自分が一人ぼっちになってしまったので、もうこの世にいる望みを捨てる覚悟をきめ、神への奉仕に一身を捧げようと決心しまして、自分の幼いこどもにも同じような途をとらせました。
そんなわけで、すべての財産を貧乏人たちの施しにすると、さっそくアジナイオ山に登って、ここで息子と一緒に一つの小さな小舎にはいりました。彼は息子とともに施物をうけて、断食や祈祷で日を送りながら、こどものいるところでは、俗世のことは何によらず話さないように、またその眼にふれさせないように非常に用心をしておりました。俗世のことが、こうした奉仕から息子をとりのけないようにというわけなのでした。しじゅう彼は永遠の生命の栄光や、神や、聖人たちのことを話して、敬虔な祈祷のほかには何も教えませんでした。何年も長い間、息子をこうした生活にとじこめておいて、決して小舎から出さないで、自分の姿のほかには何も見せませんでした。
この紳士は時々フィレンツェに出かけることになっておりましたが、そこで必要に応じて信心深い人々から助けをうけると、小舎に帰るのでありました。ところが、もうこどもは十八歳になり、フィリッポも年寄りになっていましたが、ある日のこと、その息子が彼にどこに行くのかとたずねました。フィリッポはそれにありのままを言いました。それに応えてこどもが言いました。
「お父さんはもうお年寄りですし、骨を折られるのはおからだにさわりましょう。お父さんは、神さまのお友達や、信心深い方々や、お父さんのお友達をわたしに紹介して下されば、これからは若くて、お父さんよりももっと骨折り仕事のできるわたしが、わたしたちに必要な物をもらいに、フィレンツェに行くことができます。お父さんはここにじっとしていることがおできになれるんですが、そのためには、このわたしを、一度フィレンツェに連れて行ってほしいのです」
紳士は、すでにこの自分の息子は大きくなっていたし、神への奉仕にもよく慣れていて、めったに世俗のことももう息子をひきつけるようなことはあるまいと考えましたので、「この子の言うとおりだ」と心の中で言いました。そこでフィレンツェに行く用がありましたので、息子を一緒に連れて行きました。ここで若者は屋敷や、家や、教会や、その他その都市《まち》じゅう一杯にあるあらゆる物を見て、物心がついてから今までにそんなものは見たこともなかった人のように、ひどくびっくりしだして、いろいろなことについて、何だとか、どう呼ぶのかとか、父親に聞きました。父親はそれを彼に説明してやりました。彼は父親の話を聞くと満足して、またほかのことを聞きました。こうして息子が聞いて父親が答えているうちに、たまたま二人は、結婚式からの帰り途だった美しく着飾った若い女たちの群と出会いました。若者はその女たちを見て、あれは何かと父親に訊ねました。若者に向かって父親が言いました。
「息子よ、下をうつむいているんだよ、あれを見てはいけない。あれは悪いものなんだから」
すると息子が言いました。
「なんというものですか」
父親は、若者の意欲のうちに、少しでも無益な欲望を起こすまいとして、女を呼ぶことをさけて、言いました。
「あれは鵞鳥というものだよ」
なんてすばらしいことを聞くもんだ! 今まで一度もそんなものを見たことのなかった彼は、屋敷や、牛や、馬や、驢馬や、金や、その他見てきたものはそっちのけで、すぐに言いました。
「お父さん、お願いですから、あの鵞鳥を一羽手に入れることができるようにして下さい」
「まあ、息子よ」と、父親が言いました。「お黙り、あれは悪いものだよ」
若者は父親に訊ねて、言いました。
「おお、悪いものはあんなふうにできているんですか」
「そうだよ」と父親が言いました。
すると息子が言いました。
「わたしにはあなたのおっしゃることがわかりません。なぜこれが悪いものなのかもわかりません。わたしに関するかぎり、こんなに美しい、こんなに気持ちのよいものは今まで見たことがないような気がします。あれは、お父さんがわたしに何度もお見せになった絵に描いた天使よりも綺麗です。さあわたしがかわいいとお思いでしたら、この鵞鳥のうち一羽をあの山の上に連れて行けるようにして下さい。わたしがそれに、ついばませましょう」
父親が言いました。
「わたしはいやだ。お前はどこでそれがついばむかも知らないんだよ」
そして自然のほうが、自分の理智よりも大きな力を持っていることを感じて、息子をフィレンツェに連れてきたことを後悔しました。
でも、このお話はここまでお話ししただけで十分でしょうから、次にそれを私が物語った相手の人々に、話しかけてみたいと思います。
さて私の非難者のある人たちは、私があなた方の気に入ろうとして懸命になりすぎるのはいけないことだとか、私があなた方を好きすぎるとか言っております。そのことを、だからあなた方が好きだということと、私があなた方に気に入られようと懸命になっていることを、私はだれはばからずにはっきりと白状いたします。そして私は、その人々が、このことを、いともやさしい淑女方よ、(あなた方からしばしば手に入れる愛にあふれた接吻や、気持ちのいい抱擁や、たのしい肉の交りなどを知ったことはさておいて、ただみやびた風習や、なんとも言えない美しさや、粋なかわいらしさや、そのほかにあなた方の優雅な貞潔を絶えず見てきて、また見ているというだけを考えて)驚いているのかどうか、聞いてみたいのです。人も足をふみ入れない、ひとつ離れた山の上で、小さな小舎のかこいの中で、父親のほかにはだれ一人伴侶もなく、養い育てられて、大きくなった人間があなた方を見ると、あなた方だけが彼によって欲しがられ、あなた方だけが求められ、あなた方だけが愛情をもって追いかけられるというのにですよ。もし私が、天は私の肉体をあなた方を愛するのに全くうってつけにお創りになって、私は幼い頃から、あなた方の眼の光の力や、蜜のように甘いことばの気持ちよさや、物の哀れをさそう吐息から燃えあがる焔を感じて、この心をあなた方に打ちこんでまいったのです。もしその私があなた方を好きになったり、あるいはあなた方の気に入られようと心を砕いているからといって、特にだれよりも一人の隠遁者が、感情のない一人の若者が、いや野生の動物があなた方を好きになっていることに考え及ぶならば、果たしてその人たちは私を非難し、私にかみつき、私を引き裂くでありましょうか。確かに、あなた方を愛してもいないし、あなた方から愛されることも望まない人が、自然によって恵まれた愛情の快楽や、力を感じもしなければ、知りもしない人のように、私を叱っているのであります。私はそんなものは大して気にもとめません。
で、私の年齢をとやかく言っている人々は、なぜ韮《にら》が白い頭をしていても尻尾が緑なのかよく知らないのだということがわかります。そういう人々に対しては、冗談は抜きにして、すでに年老いたグイド・カヴァルカンティやダンテ・アリギエーリや、非常に高齢のチーノ・ダ・ピストイア氏が自分たちの名誉と思い、御婦人方の気にいることを大事に考えていたように、私もその御婦人の気に入るようにつとめなければならないことを、またこの命のあるかぎり、そうすることは決して恥ずかしいことであるとは思っていないと答えます。もし私の話の進め方からはずれないとしたら、私は、その中に歴史を持ち出して、その歴史が、円熟した年頃に、婦人に気に入られようと大いにつとめた昔の偉人たちでみちあふれているかということを示したいくらいです。もしそのこともあの人々が知らないならば、どこかで学んでくるとよいでしょう。
私がミューズの神々とともにパルナス山にいるべきだということは、いい忠告だと認めます。でもしじゅう私たちはミューズの神々と一緒に住んでいることはできないし、ミューズの神々も私たちと一緒に住んでいることはできません。もし男がミューズの神々から離れているようなことがあっても、その神々に似ているものを見て喜ぶことは、非難すべきことではありません。ミューズの神々は女性であって、たとえ御婦人方にはミューズの神々ほどの値打ちがなくても、それでも御婦人方は最初に一目見たところは女神に似ておられます。ですから、ほかの点では私の気には入らなくても、そのために私の気にいらないはずはないでしょう。そればかりではなく、ミューズの神々はいまだかつて一つの詩すらつくる原因とはなりませんでしたが、御婦人方は今までに私に千の詩をつくらせる原因となりました。確かにミューズの神々は、千の詩をつくるのに私を助け、教えてくれました。たとえ極めてつまらないものにもせよ、これらのものを書くに当たって、その神々はおそらく何度も私のもとに、多分役に立とうとなされて、御婦人方が神々に似ているのを嘉《よみ》して、わざわざおでましになったことでしょう。ですから、これらのことを綴りながらも、たまたま多くの人々が思っているほど、私はパルナス山やミューズの神々から、離れているわけではありません。
さて、私の飢にこんなに同情をして、私がパンを得るようにと忠告している人々になんと申したらよろしいでしょうか。確かに私にはわかりません。けれども私が困窮してその人々に訴えたら、あの人々の答えはどんなものだろうかと一人考えてみると、「行って、寓話のなかに探したらいい!」とおっしゃるだろうことはわかっております。今までに詩人たちは、自分たちの寓話の中に、多くの金持ちがその財宝の中でするよりも、はるかに多くその必要なものを見つけました。すでにかなりの者が自分たちの寓話に従いながら、その時代に花をひらかせました。ところがその反対に大勢の者は、自分たちに必要な程度以上のパンを得ようとして、若死をしました。これ以上何を申しあげることがありましょうか。私がこの人々にそうしたものをお願いした時に、彼らは私を追い払えばいいのです。ですが、お陰さまで、私はまだ困ってはおりません。またたとえ困るようなことが起こっても、私は使徒にしたがって、豊かなることも、欠乏をしのぐことも知っております。ですからどなたも私のことについては、自分だけでたくさんですから、気をおつかいにならないようにお願いしたいものです。
これらの物語がこんなふうではなかったと言われる方々は、その真相をお知らせ下されば非常に有難いと思います。もしそれが私の書いたものと一致していなければ、その方々の非難を正しいものとして、私は自分の過ちを改めるようにつとめましょう。しかしことば以外に何もでてこないかぎりは、私はその方々には勝手に言わせておいて、彼らが私について言っていることを彼らに言い返して、自分の考えどおりにして行きます。このたびは十分に答えたと考えますので、私は神さまの御援助と、いともやさしい淑女方よ、私が望みを託しているあなた方の御援助に守られて、また十分な辛抱の心に守られて、この風に背を向けて、その吹くにまかせながら、これと一緒にどんどん先へ進んで行きましょう。というのは、もう自分については細かな埃りについて起こることくらいのほかには何も起こりそうにも思われないからであります。旋風が吹いても、地上からそうした埃りを捲き上げるようなことはありません。もしまた捲き上げるようなことがあっても、高く捲き上がらせて、しばしば人々の頭の上や、国王や皇帝の冠の上や、時には高い屋敷や、そそり立つ塔の上にはこんでいって、そこから落ちるとしても、それが初めに捲き上げられたもとのところよりも下に落ちこむことはできません。今まで私が全力を傾けてあるものに気に入ろうと努めてまいりましたとしたら、只今は層一層そうするつもりでおります。それはあなた方を愛する他の方々や私が、自然の理に従って行動しているという以外には、だれも正当の理由をもって何とも言っていないことを知っているからであります。この自然の法則に反抗しようとするには、余りにも大きな力が必要であります。その力はしばしば無益に使われるばかりではなく、そうして骨を折っている人の非常な損害をともなって使われているのであります。そんな力は、私は、自分にはないと白状いたしますし、このことについて、それを持ちたいとも望んでおりません。もしそんな力があれば、自分のためにそれを使うよりは、むしろ他の人々にお貸ししたいものでございます。だから非難者たちには黙っていてもらいたいのです。彼らが熱く燃え上がることができないならば、氷のように冷たく暮らして、彼らの快楽に、それよりも腐敗した欲望につかっていればよろしいのです。私のことは、私にあたえられているこの短い生涯を、自分の好きな道に放っといて下さい。でも大分話が外れましたから、美しい淑女方よ、私たちが遠ざかってきたもとのところに戻って、始められた順序をつづけなければなりません。
フィロストラートが起き上がって、その仲間の者を全部起こさせた時には、太陽はもう空の一つ一つの星を、また地上からは夜の湿っぽい影を追い払っておりました。みなは美しい庭園に行って、そこでそぞろ歩きを始めました。食事の時間になりましたので、前夜に夕食をとったところで食事をしました。太陽が中天に上ったので、眠りから起き上がると、いつものように、美しい泉のほとりに腰を下ろしました。そこでフィロストラートは、フィアンメッタに、まずお話の糸口を切るようにと命じました。フィアンメッタは、それ以上言われるまでもなく、やさしい態度でこう話しだしました。
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第一話
[#この行3字下げ]〈サレルノ公タンクレーディは娘の恋人を殺してその心臓を金の大盃にのせて娘に送る。彼女はそれに毒水をそそいで、これを飲みほして死ぬ〉
わたくしたちの王さまは、今日傷ましくも悲しい話題をおあたえになられました。で、愉快な気持ちになろうとしてまいりましたところで、それをお話しする者や、お聞きになる者が同情の心を起こさないようにお話しを持っていけそうにもない他人の涙の物語を、話さねばならないと思います。おそらく王さまは、今までの何日かにわたってしてきた歓喜をいくぶん緩和しようとして、そうなさったのでございましょう。けれども王さまがそんなお気持ちになったのがどんな理由からにもせよ、わたくしは王さまのお好みを変えるのはよくないと存じますので、一つの哀れな、というよりも不幸で、あなた方の涙をしぼるにふさわしい事件をお話しいたしましょう。
サレルノ公タンクレーディは、その老年に及んで、その手を若い恋人たちの血で汚さなかったならば、とても人情味のある、気立のよい方でございました。この方にはその一生のあいだに、一人の娘しかございませんでした。もしその娘がありませんでしたら、もっと幸福だったことでありましょう。この娘は、父親から眼に入れても痛くないほどかわいがられておりました。どんな娘でも、父親にこんなにかわいがられた者は今までに聞いたこともないくらいでございました。
このようなはげしいかわいがり方をしたので、公は、娘が夫を持ってもいい年齢を大分すぎておりましたのに、手許から離すことができないで、結婚をさせませんでした。しかし、とうとうカポヴァ公爵の息子に嫁《とつ》がせました。彼女はしばらく公爵と一緒に暮らしておりましたが、未亡人になって、父親のもとに帰ってきました。彼女は体も顔も他のいかなる女にもすぐれて非常に美しく、若くて、きびきびしていて、女には不必要なほど利発でございました。そして、やさしい父親と一緒に、貴婦人らしく非常な安楽な日を送りながら、父親が自分によせる愛情のために、もう再婚させようと気を使ってはいないし、再婚のことを父親に申し出るのも貞潔なこととは思われないと考えて、もしできたらこっそりと立派な恋人を持ちたいものだと考えました。彼女は、宮廷によく見られるように、父親の宮廷に出入りする貴族や平民からなる多くの男たちを見て、大勢の男たちの態度や物腰を観察いたしました。なかでも父親の若い近侍の一人が彼女の気に入りました。その者の名前はグイスカルドといいました。ごく素性のいやしい男でしたが、その徳義心や物腰から申しますと、だれよりも貴族らしいということができました。彼女はしばしばその近侍を見ているうちに、特に彼のやり方をいつも讃えて、心ひそかにその者に烈しく胸をもやしました。若者のほうは、彼もまた馬鹿ではございませんでしたので、そのことに気づいて、彼女に思いをよせ彼女への愛のほかのことは顧みないといった具合でございました。
さてそんなわけで、お互いにひそかに愛しあっておりましたので、公女は何をおいても男と逢いたいものとしきりに望んでおりましたし、だれにもこの恋を打ち明けたくはありませんでしたので、その方法を男に伝えようと新しい策略を考えだしました。彼女は一通の手紙を書きまして、その中で翌日自分と逢うためにしなければならないことを教えました。それからその手紙を葦の管の中に入れ、冗談めかしてそれをグイスカルドに渡しこう言いました。
「今晩これであなたの女中さんに火吹竹をつくっておあげなさいよ。それで火がおこせるように」
グイスカルドはそれを受け取って、彼女が理由もなしにそれをくれるはずはないし、そんなことを言うわけもないと考えながら、そこをひきさがると、それを持って自分の家に帰りました。葦をよく見ると、それが割れていたので、開けて見ると中に彼女の手紙がはいっていました。それを読んで、自分のなすべきことをよく呑みこみました。彼はこの世で一番しあわせな男となったのでございます。そこで彼女に教えられた方法に従って、そのもとに行く仕事にとりかかりました。
公爵の屋敷のそばの山に一つの大きな洞穴が掘ってありました。それは大昔つくられたものでした。その洞穴には、山に人工でつくりつけた空気抜きがわずかの光をさしこんでいました。その空気抜きは、洞穴が棄てられたままになっていたので、その上に生いしげった茨や、草でふさがれておりました。ところで、その洞穴へは秘密の階段を伝わって行くことができました。その階段は屋敷の地階の寝室の一つの中にありましたが、その寝室を彼女が使っておりました。もっともその階段は頑丈な扉で閉めきってありました。この階段は、随分前から使われたことがありませんでしたので、みなの頭から消えていて、それがあることなど覚えている者はほとんどないくらいでした。けれども、恋の目をかすめるほどに秘密なものは何一つあるはずはありませんが、恋はその恋する女の記憶の中に、その階段をよみがえらせました。彼女はだれもそのことに気がつかないようにと、何日もの長い間、自分の道具で骨を折ったあげくに、やっとその扉を開けることができました。扉が開くと、彼女はただ一人洞穴に下りて、その空気抜きを見つけて、グイスカルドにそこからくるようにと、手紙でその空気抜きから地上までの高さを書き記して言い送ったのでございます。そのことを実行にうつすためにグイスカルドはすぐに、それを伝わって下りたり上ったりできるような、ある種の結び目や環のついた一本の綱をこしらえて、茨から身を防げるように革の胴着を着こんで、だれにも何も言わずに、その夜空気抜きのところに行きました。空気抜きの口に生えていた木の幹に綱の片端をしっかりと結びつけて、それに伝わって洞穴の中に下りて、公女のくるのを待っておりました。
公女は、次の日は、眠っていたいようなふりをして、侍女たちを追い払い、ただ一人寝室に閉じこもっていました。そしてその扉を開けると洞穴に下りて行きました。そこでグイスカルドに会って、相共にすばらしい祭りを行いました。それから手をたずさえて彼女の寝室にはいって、そこで底知れぬよろこびにひたったまま、その日の大部分を過ごしました。二人の恋が人に知られないようにと、それについて手抜かりなく打ち合わせた後、グイスカルドは洞穴に帰り、彼女は扉を閉めてから侍女たちのところに出てきました。グイスカルドはやがて、夜になってから、綱をよじのぼって、もとはいってきた空気抜きから外に出て、家に帰りました。
さて、この道が見つかったので、その後二人は、時のたつにつれて、しげしげとそこへやってまいりました。
しかし、こうした長い、大きなたのしみを妬《ねた》む運命は、痛ましい事件で二人の恋人の歓喜を悲しい涙に変えてしまいました。タンクレーディは、時々たった一人で娘の寝室にはいってきて、そこで彼女と一緒にいて、少し話しこんでから、そのあとで出て行くのがならわしでありました。タンクレーディは、ある日のこと、食後に下へおりてまいりまして、ギスモンダという名前であったその公女がすべての侍女たちと一緒に庭園に出ておりましたので、だれにも見られず聞かれもしないで、その寝室にはいると、彼女のたのしみをさまたげたくなかったし、寝室の窓がしまっていて、寝台のカーテンが下りていましたので、寝台の足もとの、片隅の小型の肘掛け椅子の上に腰をおろしました。頭を寝台にもたれかけると、まるでわざと体をかくしたような格好にカーテンを自分の上に引っ張って、そのまま眠ってしまいました。こうして公が眠っていると、運悪くその日グイスカルドをこさせておいたギスモンダは、侍女たちを庭園に残して、静かに寝室にはいってくると、鍵を閉めて、だれか他の人がそこにいようとは気もつかずに、彼女を待っていたグイスカルドに扉をあけてやって、二人でいつものように寝台の上に乗って、一緒にふざけたり、たのしんだりしておりました。ちょうどタンクレーディが眼をさまして、グイスカルドと娘がしていることを耳にし、眼にしたのでございます。そしてひどく悲しんで、初めは二人をどなりつけようと思いましたが、やがてできることなら、じっと黙ってかくれていることにしようときめました。それはもう自分の胸にしなければならないと浮かんできたことを、もっと慎重に、もっと自分の恥にならないように、しとげられるようにするためでありました。
二人の恋人は、いつものように長いあいだ一緒におりました。タンクレーディには気がつきませんでした。もう頃合だと思った時に、二人は寝台からおりて、グイスカルドは洞穴に帰り、彼女は寝室から出て行きました。タンクレーディは年をとっておりましたが、寝室の窓から庭園におりまして、だれにも見られずに、死ぬような悲しみを抱いて、自分の寝室に帰りました。その夜グイスカルドは、革の胴衣にしゃちほこばって、人々の眠りばなに、空気抜きから出るところを、公の命令によって二人の家来に捕えられて、ひそかにタンクレーディのところに連れてこられました。タンクレーディは、彼を見ると、泣かんばかりに言いました。「グイスカルドよ、わしはお前をかわいがってきたが、それは、今日わしの眼で見たように、わしのものにお前がしたような無礼や恥辱をうける筋合のものではなかったのだ」
公に対してグイスカルドは、ただこう答えるだけでした。
「恋には、あなたさまや、わたくしよりもはるかに多くのことができる力がございます」
そこでタンクレーディは、彼をその中の一室にひそかに監禁するようにと命じました。そしてそのとおりに行われました。翌日になって、ギスモンダがこのことを何も知らないでおりますので、タンクレーディはいろいろとあれこれ工夫をめぐらしてから、食後にいつものように娘の寝室に行き、彼女を呼んでこさせて、二人きりで寝室に鍵を下ろしてから、泣きながら彼女に話しかけました。
「ギスモンダよ、わしはお前の徳や貞潔を知っているつもりだったので、もしこの眼で見たのではなかったら、お前が自分の夫でもない男の下に身を横たえるようなことをしたなどと、そればかりかちょっとでもそうしたことを考えたなどと、どんなに人から聞かされようとも、そのようなことは絶対に思いも及ばなかっただろうね。それについて、年をとったわしに許された老先短い一生の間、わしはいつもそのことを思い出しては嘆くことだろう。今はただ、お前がそんな不貞なことをしでかさなくてはいられなかったとしたら、せめてお前の貴族の身分にふさわしい男を選んでいてくれたら、と思うよ。だがわしの宮廷に出入りする大勢の者の中でだ、お前はわしたちの宮廷で小さなこどもの頃から今日まで憐れに思って養ってきた下賤極まる若者のグイスカルドを相手に選んだ。そのことでお前はわしを非常な苦しみに投げこんだ。わしはお前をどう処置したらいいのかわからないのだ。グイスカルドについては、この夜中に、空気抜きから出るところを捕えさせて、牢獄に入れてあるので、もうどう始末しようかということは決めてある。だがお前のことについては、どうしていいのやら見当がつかないのだ。一方では、父親が娘に対して持っているどの愛情よりも、わしはいつもずっと多くの愛情をお前に抱いてきたのだが、その愛情にわしはひかれているのだ。また一方ではお前の大それた気違い沙汰に対して起こった当然すぎる憤怒がわしをとりこにする。愛情はお前を許すようにと言っているし、憤怒は、わしの性質に逆らってお前にひどく当たれと求めている。だがわしは、腹をきめる前に、お前がこのことについて言うべきことを聞きたいと思うのだがね」
こう言うと公はうつむいて、うんと打たれたこどもがするようにはげしく泣きました。ギスモンダは、父の話を聞いて、自分の秘密の恋が露見したばかりでなく、グイスカルドが捕われたことを知って、なんとも言いようのない悲しみに打たれて、大抵の女たちがするように、もうほんの少しで泣き声をたてて涙を流して悲しみを見せるところでした。だがそれでも彼女のけなげな心はこの女々しさをじっと抑えて、その顔色も驚くほどの力で、ちっとも変わりませんでした。彼女は自分のために何か嘆願しようと考える前に、グイスカルドがもう死んでいるのだと思いましたので、もう生きてはいまいと決定をしました。そんな次第ですから、彼女は悲しんでいるとか、自分の過ちを叱られている女のような様子はなく、気の強い女のように、涙一滴こぼさないすました顔つきで、少しも困った様子も見せず、父親にこう答えました。
「タンクレーディお父さま、わたくしは否定もしなければ、お願いもいたしません。だって、否定をしても無駄でございましょうし、お願いを容れていただきたくもございません。そればかりではなく、わたくしはどんなことをしても、お父さまの寛大さや愛情にすがろうとは考えておりません。でも真実を告白申しあげまして、まず本当の理由によってわたくしの名誉を守り、それから実行によって、精一杯自分の立派な心の命ずるところに従おうと考えております。わたくしがグイスカルドを今まで愛してきたことや、今も愛していることは本当でございます。わたくしの命も長いことはないでしょうが、わたくしは死ぬまであの方を愛します。もし死後も愛することができるなら、わたくしはあの人を愛することをやめないでしょう。だがわたくしをこうさせたのは、わたくしの女らしいもろさではなくて、お父さまがわたくしの結婚に気が進まなかったのと、あの方の徳がすぐれていたからでございます。タンクレーディお父さまは生身でいらっしゃって、お生みになった娘も生身であって、石や鉄でできているのではないことが、お父さまにはおわかりになっていなければいけなかったのです。お父さまは只今はお年を召していらっしゃいましょうとも、青春の法則がどんなに多く、どんな種類のものであり、どんな力で襲ってくるものであるかを、思い出しにならなければいけないのでございます。お父さまは、男としてその一番よい時代には、一部は武芸に励まれてお過ごしになりましたとは申せ、それでも閑暇や贅沢が若者ばかりでなくお年寄りにもどんなことをさせるか御存じないはずはございませんでした。ところでわたくしは、お父さまの子として生まれましたので、生身でございますし、まだ若いので、世の中の経験もございません。で、この両方の理由によりまして、情欲にあふれております。結婚しておりますので、こうした情欲を充たすことがどんなに快いものであるか、そのことをすでに知ったことが、この情欲にまことに恐ろしい力をあたえたのでございます。そうした力に、若くて、女の身でもあるわたくしは、我慢ができなくなりまして、その力にひかれるままについていくようになって、恋に落ちたのでございます。もちろんこのことにつきまして、わたくしは、自然の過失に自分が落ちたことについて、お父さまや、自分に対して、できるかぎり恥にならないようにしたいと全力をつくしました。そのことについて、憫み深い愛と、慈しみ深い運命が、わたくしのために極く秘密な途をお見つけになり、お示しになられましたので、その途によって、だれにも気づかれずに、わたくしは自分の欲望を達しました。だれがそれをお父さまに知らせたのか、どうしてお父さまがそれを御存じなのか、それはともかく、わたくしはこのことを否定はいたしません。わたくしは、多くの女がするように、グイスカルドを気まぐれに選んだのではございませんで、こうと決めた考えから、だれよりもあの人を選びました。そして分別ある考えのもとに、あの人を自分のところに呼びこんだのでございまして、わたくしは、自分や、あの方の賢明な辛抱によって、自分の夢を長く楽しんでまいりました。このことについて、お父さまは、恋のためにわたくしが過ちを犯したことの他に、真理よりも世俗の意見に従われて、わたくしがいやしい身分の男と関係をしたことを、まるでわたくしが貴族の男を相手に選んでいたら困るはずがなかったように口にされて、一段ときつくお叱りになっていらっしゃるようでございます。そうなさりながら、お父さまは御自分でわたくしの過ちをお叱りになっているのではなくて、運命の犯した過ちを責めていらっしゃることに、お気づきになってはいらっしゃいません。運命というものは、実にしばしば値打ちのない者たちを高く持ち上げて、真に値打ちのある者たちを低いところに棄てておくものなのでございます。でも今はこのことには触れますまい。で、少しは物の起こりについてお考え下さい。わたくしたちがだれでもこの肉を、肉の大きな塊から得ていることや、すべての魂が同一の創造主によって創られて、同等の力や、同等の権力や、同等の徳をあたえられたものであることを御存じでございましょう。徳は最初に、みな同等に生まれた、また生まれるわたくしたちに差別をつけました。徳の大部分を持っていて、これを用いた人々は貴族と言われて、その余の者が貴族にならなかったのでございます。その後、これに反する慣習がこの法則を包み隠してしまったとは申せ、それはまだ自然からも、良俗からもとりのけられもしなければ、追い払われもしておりません。ですから、徳にしたがって行動する者は、公然とその貴族であることを自ら示しておるのでございまして、それを別のことばで呼ぶ者は、呼ばれた当人ではなくて、呼ぶ当人が、誤りを犯しているのでございます。お父さま、貴族の中をよくごらんになって、あの方々の徳や生活振りや態度をお調べになり、一方グイスカルドのそうした点をごらんになって下さい。もしお父さまがなんの憎しみもまじえずに、御判断を下そうとなされば、お父さまはあの方を非常な貴族であり、このお父さまの貴族は全部|田夫野人《でんぷやじん》だとおっしゃるでございましょう。グイスカルドの徳と値打ちについては、わたくしはお父さまのおことばによる判断と、自分の眼の判断の他には、どなたの判断にも信頼をおきませんでした。お父さまは、立派な男が当然ほめられるような一切の賞讃に値することについて、あの人をとてもおほめになられましたが、一体今までにあの人をあんなにほめた方がおりますでしょうか。確かにそれは間違っておりませんでした。と申しますのは、わたくしの眼に狂いがありませんでしたら、お父さまのことばが言いあらわした以上にすばらしく、あの人がお父さまのおあたえになったそのおほめを受けるにふさわしい行動をとっているのを一つとして見ないものはなかったからでございます。それでもなおそのことについて、わたくしが何かだまされているとしましたら、わたくしはお父さまに騙されたことになるのでございましょう。それでもお父さまは、わたくしがいやしい身分の男と関係を結んだと仰せになりますか。そんなことはおっしゃらないでしょう! しかしひょっとして、わたくしが貧しい男と関係したとおっしゃるのでしたら、それは認めることができますが、お父さまがご自分の家来の立派な男をよい地位につかせるのに事欠いて、こんなやり方をしたというお父さまの恥辱は免れません。でも貧乏はだれからも気高さを奪いはいたしません。気高さを奪うのはかえって財産でございます。大勢の王さまや、大勢の大公がかつては貧乏でございました。土地を耕し、羊の番をしている人々の多くが、かつては非常な金持ちでございましたし、今でもそうでございます。お父さまがお持ちの、ですからわたくしをどう処置なさろうかというその最後のお迷いは、もしお父さまがお若い頃になさらなかったことを、非常にお年を召された今なさろうという、つまりひどい処置をおとりになろうとされるおつもりでしたら、すっぱりとお棄てになって下さいませ。お父さまの残酷な仕打ちはわたくしにお下しになって下さいませ。もしこれが罪でございますならば、この罪のもとはお父さまでございますので、わたくしはなんの嘆願もお父さまにいたそうとは思っておりません。そこではっきり申しあげておきますが、お父さまがグイスカルドについてなさったり、あるいはなさろうとしていらっしゃることと同じことを、わたくしになさらなければ、わたくしのこの手がそれをやりとげるでしょう。さあ、女たちのところへおいでになって涙をお流しになって下さい。もしわたくしたちのしたことがそれを受ける資格があると思し召しでしたら、心を鬼になさって、一打ちであの人とわたくしを、斬り殺して下さいませ」
公は自分の娘の心の立派なのを知りました。しかしだからといって、娘が言ったように、そのことばが示したことを娘が固く守るつもりでいるということを、そのままには信用しませんでした。そこで、彼女のもとを立ち去ると、娘の体にはほんのちょっとでもひどい仕置きをしようという考えは棄てて、別の人をひどい目にあわせて、それで娘の燃えるような恋を冷まそうと考えました。で、グイスカルドの番をしていた二人の家来に向かって、その夜、音を立てないようにしてグイスカルドを絞め殺して、その心臓をとりだして自分のところに持ってくるようにと命じました。家来たちは自分たちが命じられたとおりにいたしました。そこであくる日になりまして、公は一つの大きな美しい金の大盃を持ってこさせて、その中にグイスカルドの心臓を入れると、ごく腹心の家来を使って、それを娘のところに送りとどけて、それを娘に渡す時に、あなたさまが、お父さまの最も愛していたものでお父さまをお慰めになられたように、あなたさまの最も愛しているものであなたさまをお慰め申そうとして、お父さまがこれをおよこしになりましたと言うように、命令しました。
ギスモンダは、その勇猛な意図を棄てないで、父親が立ち去ったあとで、毒草や毒のある木の根を取り寄せて、それを蒸溜して液体にし、自分が恐れていたことが起こったら、すぐに飲むつもりでおりました。彼女のもとに家来がきて、公の贈り物と伝言をもたらしました。彼女は平気な顔でその大盃を手にとり、その蓋をとりのぞいて心臓を見ました。ことばを聞くと、それがグイスカルドの心臓であることがはっきりと知れました。そこで家来のほうに面をあげて言いました。
「このようなこうした心臓には、黄金の墳墓の他にはどんな墳墓もふさわしゅうはございません。その点についてお父さまは非の打ちどころのないなさり方を遊ばしました」
で、こう言うと彼女は、その心臓を自分の口に近づけて、それに接吻してから言いました。
「いつも何事につけても、このわたくしの命の最後の際までも、わたくしは自分に対するお父さまのそれはそれはやさしい愛をうけてまいりました。でも今はこれまでにないほどでございます。ですからこうした大きな贈り物について、どうしても申しあげなければならない最後のお礼のことばを、わたくしからと言ってお父さまに伝えて下さい」
こう言い終わると、自分の体にしっかりとつけていた大盃の上にかがんで、心臓をじっと見つめながら言いました。
「ああ、わたくしのすべての歓喜のいともやさしい住み家よ、今わたくしの額の下の眼にあなたを見させる者の残忍非道には罰が当たっらいい! わたくしは、いつもあなたを心の眼で見つめて喜んでいたのです。あなたが自分の生命を終えて運命があなたに許したものから解放されてしまわれたのです。あなたはすべての人間が駈けて行く終局にお着きになられたのです。あなたは世の中の不幸や苦労をあとにされて、あなたの値打ちにふさわしいその墳墓を、あなたの敵自身から贈られているのです。あなたの葬儀を完全なものにするために、あなたが御存命中にあれほど愛された女の涙のほかには、あなたには何一つ欠けてはおりません。その涙があなたのものとなるようにと、神さまは、わたくしの無慈悲な父の心に、あなたをわたくしのところに送り届けようということを思いつかせました。よし眼は乾いたまま、顔はどんなことにも驚きを見せずに死ぬ決心はつけたとは申しながら、わたくしはあなたのためには涙を流しましょう。あなたに涙をそそいでから、わたくしは少しもためらわず、わたくしの魂が、あなたのかつて大切にしまっておかれた魂と、あなたの力によって結びつくようにいたしましょう。その魂と一緒でなくて、どんな道伴れと一緒になったら、もっと喜んで、いやもっと安心して、未知の世界に行くことができるとおっしゃるのですか。わたくしは、その魂がまだこの中にいて、その魂の歓喜や、わたくしの歓喜の場所を見つめていらっしゃることを信じております。で、わたくしはまだその魂がわたくしを愛していると信じておりますが、それだけにかぎりなくそれを愛したわたくしの魂を待っていると信じております」
こう言うと、まるで頭の中に泉でも持っていたかのように、女の泣き声はたてずに、大盃の上にうつむくと、見ているだけで驚き怪しむほどの涙の雨をそそいで、その死んでいる心臓に何度もいつ果てるともしれない接吻を繰り返しました。
彼女のまわりにいた侍女たちには、これがなんの心臓なのか、彼女のことばがどんな意味のものであるのかわかりませんでした。でも同情の心に打たれて、一同は泣いておりました。みなは不憫そうに、彼女のなげきの理由をたずねましたが、なんの返辞もありませんでした。なおもみなは、できるだけの力をつくして彼女の心を引き立てようと手をつくしました。彼女は思う存分泣いたような気がしてから、頭をもたげて、眼をふくと言いました。
「おお、心から愛する心臓よ、あなたへのわたくしの勤めは全部すみました。あとはただあなたの魂と一緒になるために、わたくしの魂を持って行くだけで、他には何もすることは残っておりません」
こう言うと彼女は、前の日にこしらえた液体がはいっていた壺を持ってこさせて、心臓が彼女の雨とそそいだ涙に浮いているその大盃の中へ、液体をいれました。そして少しも恐れずに、大盃に口をあてると、それを全部飲みほしてしまいました。そして飲み終えると、大盃を片手に自分の寝台に上って、その上でできるだけ行儀よく姿勢をととのえてから、自分の心臓に死んだ恋人の心臓を近づけて、何も言わずに死を待っておりました。
姫の侍女たちは、こうした次第を眼にし耳にしたので、彼女の飲んだものが何の液体か知りませんでしたが、一部始終をタンクレーディに報らせにやりました。公は、何が起こったのかと心配して、すぐに姫の寝室に下りてきました。姫が寝台の上に横になったちょうどその時に、公がはいってきました。公はやさしいことばで娘を慰めにかかりましたが、もう追いつきません。娘が瀕死の瀬戸際にあるのを見て、悲しそうに泣きだしました。公に向かって姫が言いました。
「お父さま、その涙は、こんどのものとは違って、お父さまがお望みにならなかった不幸のためにとってお置き遊ばせ。その涙が欲しくはないわたくしのために、それをお流しにならないで下さい。自分で望んだことを泣き悲しむ者が、お父さま以外に、一体どこにございましょうか。でも、もしお父さまがかつてわたくしに対して持っておられたあの愛情がいくらかでもまだお父さまの心に残っておりましたら、最後の贈り物として、わたくしがグイスカルドとこっそりかくれて一緒に過ごしたことはお気に召さなかったでしょうけれども、どうかわたくしのなきがらを、あの方のなきがらと一緒に、あの方のなきがらをどこにお棄てになりましたとしても、ちゃんと埋葬されるようになさって下さい」
悲嘆の涙にくれて公は答えることができませんでした。すると姫は、自分の最期が近づいたのを知って、胸に死んでいる心臓を抱きしめながら言いました。
「どうぞおしあわせに、もうわたくしはおさらばでございます」
そして、眼をふさぎ、意識がすっかり失くなって、彼女はこの悲しい世から去っていきました。
こうして、みなさまがお聞きになったように、グイスカルドとギスモンダの恋は痛ましい最後を告げました。タンクレーディは非常に泣いて、遅ればせながら自分の残酷だったことを後悔したあとで、サレルノの全市民をあげての悲しみのうちに、二人を同じ墳墓にねんごろに埋葬いたしました。
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第二話
[#この行3字下げ]〈修道士アルベルトはある婦人に、天使ガブリエッロが彼女を恋していると思いこませて天使ガブリエッロの姿をして何度も彼女と一緒に寝る。あとで彼女の親類たちが怖くなり、その家からとびおりて、貧乏人の家にかくれる。貧乏人が翌日野蛮人の姿をさせて彼を広場につれて行くと、そこで仲間の修道士たちに見破られ、捕えられて牢獄に入れられる〉
フィアンメッタの物語は幾度も、彼女の女友だちたちの眼に涙をさそいました。でもそのお話も終わりましたので、王さまはきつい顔をして言いました。
「ギスモンダがグイスカルドとたのしんだよろこびの半分でも得られるなら、わたしは自分の命を投げだしても安いものだと思います。そのことについては、あなた方のうちどなたも不思議に思われるはずはないでしょう。だって、こうして生きていて、数多くの死ぬ苦しみをしていますが、そんな代償を払っても、よろこびのほんの一かけらすら、あたえられたことがないのですからね。でも今は、わたしのことはこのままにしておいて、いくぶんわたしの不幸に似通っている痛ましい話について、パンピネアにお話をつづけていただきたいと思います。パンピネアがもし、フィアンメッタが始められたようにつづけて下さったら、きっとわたしは自分の焔の上に露のしずくがいくつか落ちてくるのを感じだすことでしょう」
パンピネアは、自分に命令が下ったのを耳にして、自分の情愛のこまやかな感情から、そのことばにあらわれた王さまの心よりも、女友だちの心のほうをずっとよく見抜きました。そこで、彼女はその命令だけに従うほかには王さまを喜ばすというよりも、みなをたのしませなければならないと考えまして、題目から外にでない範囲で、滑稽な物語をすることにきめて、話しはじめました。
世間の人々はこんな諺を使っております。
「悪人たちに善人だと思われている人は、悪いことをすることができ、犯人だとは思われない」と。その諺は、わたくしに提出された題目についてお話をするために広範な材料をあたえてくれます。また宗教家の、あの幅広の長い衣を着て、わざとつくった青白い顔をして、他人に物を請う場合にはつつましい、おだやかな声をして、他人のなかに見える自分自身の悪行にかみついたり、自分たちは布施を取り上げて、他の人たちはその布施をするおかげで永遠の救いを得るのだと示す時は、非常に高い、乱暴な声をしていて、そればかりでなく、わたくしたちのように天国を追い求めなければならない人間とは違って、まるで死んで行く銘々に対して、その者が自分たちに遺して行った金額によって、高下の別のある場所をあたえる天国の所有者や主人のようにふるまうといった風で、こうして、もしそれを信じている場合には自分自身を、またそのことばを信じている人たちを懸命に騙しているわけです。宗教家の偽善がどんなにひどく、どんな性質のものであるかを示す広範な材料にもなるわけです。彼らについてわたくしが必要なだけを話してもよろしいんでしたら、すぐにわたくしは、彼らがその極めて幅広い僧衣の中にかくしているものを、多くのお目出度い人々に言って聞かせたいほどでございます。けれども今は、この人たち全部に、その嘘について、ちょうど一人の聖フランシス教団の修道士に起こったようなことが、神さまの思し召しで起こればいいと存じます。その修道士は、若くはなくて、ヴィネージャ(ヴェネツィア)で最大の疑義決定者とされていた人々の一人でございました。この人のことをどうしてもお話しして、ギスモンダの死に対する同情で充ちあふれたあなた方の心を、おそらく笑いとよろこびでいくぶんでも引き立てようと存じます。
さて、やんごとない淑女のみなさん、イモラというところに、情けない放埓な生活を送っていた男がおりました。その男はベルト・デッラ・マッサと呼ばれておりました。その非難すべき所業はイモラの人々によく知られていましたので、そのために、彼は、嘘ばかりではなく、本当のことを言っても、イモラではだれ一人信じてくれる人がありませんでした。そんなわけで、ここではもう自分の欺瞞が行なわれる余地がないとわかりましたので、途方に暮れた者のように、あらゆる悪事の歓迎者であるヴィネージャに引っ越して、ここで、よそではやらなかった自分の悪行に新しい方法を見つけようと考えました。そこで今まで自分がしてきた悪行について良心に責め立てられ、非常に深い謙遜な心に打ち負かされたようなふりをして、だれよりも熱心なカトリック信者になり、行ないすまして、修道士アルベルト・ダ・イモラという名で呼ばれるようになりました。
そしてうわべはきびしい生活を送り、贖罪や節食を非常にほめ讃え、決して肉を食べず、ぶどう酒も好みに合ったのがない時には飲みませんでした。だれかがあらわれるとすぐに、彼は大泥棒や、女衒《ぜげん》や、詐欺師や、人殺しからたちどころに大説教師になり変わりました。だからといって、こっそりとそれをやりとげられるような場合には、前に述べた悪いくせを棄てたのではありませんでした。そればかりではなく、司祭になっていつも祭壇に上ってミサをあげる時に、大勢の人が見ていると、好きな時に涙が苦もなく出てくる人のように、救世主の御受難に泣きました。一口に申しますと、説教や涙で、彼はヴィネージャ人をすっかり籠絡《ろうらく》してしまったのです。ほとんどそこでつくられるすべての遺言状の受遺者か、受託者になったり、多くの人々の金銭の管財人になったり、ほとんど大多数の男女の聴罪師や忠告者になったりするほどでありました。こんなことをしながら、彼は狼から羊飼いになり、その辺りでの彼の聖性の名声は、アシェージ(アッシシ)の聖フランチェスコのそれよりもはるかに高うございました。
さて、リゼッタ・ダ・カ・クィリーノ夫人と呼ばれる大商人の細君で、おろかな若い女が、他の女たちと一緒にこの信心深い司祭のもとに懺悔にまいりました。女はヴィネージャ人でしたので、(ヴィネージャ人はみな軽薄なのですが)司祭の足許にひざまずいて、自分の身の上のことを少し話しましたので、修道士アルベルトから、だれか情人があるのではないかとたずねられました。修道士に向かって彼女はいやな顔をして答えました。
「まあ、修道士さま、あなたの頭にはお目がついていらっしゃらないんですか。あなたは、わたくしが他の女の人の美しさと同じようにつくられているとお思いなんですか。愛人など持とうと思えばいくらでも持てますわ。でもわたくしの美しさは、だれでも勝手に愛せるようなものではございません。わたくしは天国でも美人でしょう。わたしのように美しい女を、何人ごらんになっておいでですか」
その他にも、女は自分の美しさについていろいろと話しましたが、それは聞くに耐えませんでした。修道士アルベルトは、すぐにその女が愚か者なのを見抜き、自分の鋤にかなった土地のような気がしましたので、たちどころに彼女に惚れこんでしまいました。
しかし、甘いことばは、もっと都合のいい時までとっておき、その時はただ信心深い人らしく見せようと思って、女を叱って、そんなことは虚栄だとか、その他いろいろの話をしだしました。すると女は、彼がばかであって、一つの美が他の美にすぐれていることを知らないのだと言いました。そんなわけで修道士アルベルトは、彼女をあまり怒らせまいとして、懺悔が終わってから、他の女たちと一緒に帰らせました。何日かの後、彼は腹心の友だちをつれて、リゼッタ夫人の家をたずね、彼女と一室の片隅に引っ込み、他の人に見られそうもないので、彼女の前にひざまずいて言いました。
「奥さま、わたしが日曜日に、あなたの美しさのことでお話ししながら、あなたに申しましたことについて、どうかお許し下さいますようお願いいたします。そのわけは、あの夜わたしはひどい罰をうけまして、そのためにその後ずっと寝込んでしまって、今日まで起き上がることができなかったからなのです」
するとおろかな女が言いました。
「で、どなたがそんなふうにあなたを罰したのですか」
修道士アルベルトが言いました。
「お話しいたしましょう。あの夜、わたしがいつものようにお祈りをしておりますと、突然わたしの小室の中で、大きな燦光が眼にはいりました。何だろうかと見ようとして振り返ったとたん、わたしにおおいかぶさるようにして手に太い杖を持った実に美しい一人の青年が立っておりました。その青年は、わたしの上衣をつかまえて、その足許にひきよせると、いきなり殴りつけ、全身がくだけるほどでした。そこでわたしがその青年にどうしてそんなことをしたのかとたずねますと、こう答えました。『それはお前が今日リゼッタ夫人の神々しい美しさをけなすようなことをしたからだ。わたしはリゼッタ夫人を、神さまを除いては、他のすべてのものにまさって愛しているのだ』そこでわたしは『あなたはどなたですか』と聞いてみました。それに対してその人は、自分は天使ガブリエッロだと答えました。『おお、天使さま、どうかお許し下さるようお願いします』とわたしは申しました。すると天使は『ではお前ができるだけ早く夫人のところに行って、そのことを許していただく、という条件でお前を許してやる。夫人がお前を許さない場合は、わたしはまたこの世にきて、お前をうんと打ちのめして、お前が生きているかぎりいつまでも苦しめてやるぞ』とおっしゃいました。それから天使がわたしに言われたことは、その前にあなたのお許しをいただけなければ、お話しする気がいたしません」
少しばかり塩加減の甘い、風にさらしたかぼちゃ女は、こうしたことばを聞いて、うちょうてんになり、何もかもすっかり本気にしてしまいました。そしてしばらくすると言いました。
「アルベルトさま、わたくしの美しさは神々しいものだって、わたくしが申したとおりでございましょう。でも、わたくしに神さまの御加護がございますのなら、わたくしはあなたさまをお気の毒に存じます。で只今かぎり、あなたさまがもうひどい目にお会いにならないように、あなたさまを許してさしあげます。ですから天使さまがそのあとであなたにおっしゃったことをわたくしに残らずお話しして下さい」
修道士アルベルトが言いました。
「奥さま、あなたのお許しをいただいたのでよろこんでお話しいたしましょう。しかしどんなことを申しましても、今日この世の中で一番幸福な人であるあなたが、御自分のことを滅茶苦茶になさりたくなかったら、絶対にだれにももらさないという一事をおぼえておいて下さい。この天使ガブリエッロさまには、あなたがとてもお好きで、もしあなたを驚かしたくないという気持ちさえなかったら、何度も夜をあなたと一緒にお過ごしにおいでになりたかったということを、わたしからあなたに伝えるようにと、おっしゃいました。今、天使さまは、一夜あなたを訪れて、ゆるゆるとあなたとお過ごしになりたい旨を、わたしを通じて、あなたに申してよこされております。で、あの方は天使さまでいらっしゃって、天使さまのお姿でこられたら、あなたはそれに触れることができないでしょうから、あなたを楽しませるのに人間の姿でおいでになりたいといわれております。ですから、天使さまは、あなたが天使さまにいつどんなお姿でおいでになっていただきたいかをお知らせになるようにとおっしゃっております。そのとおりに天使さまはおいでになるでしょう。そうすればあなたは、この世に生をうけているどんな女よりも、幸福者だとお考えになれるでしょう」
すると頓馬夫人は、天使ガブリエッロさまが自分を愛していらっしゃるのはとてもうれしい、なぜならば自分は天使さまにきつい執心で、そのお姿が描かれているのを見つけると、その御前に一マッタパン(ガヴィネージャの銀貨)もする蝋燭をとぼさないことは一度だってなかったのですからと申しました。また、天使さまが自分のところにおいでになりたければ、歓迎をうけますよ、わたくしがたった一人で自分の寝室にいるのをごらんになりましょうからと申しました。でも、天使さまは非常に処女マリアさまを愛していらっしゃるそうだし、自分が天使さまを見る時はどこででも、天使さまは処女マリアさまの御前にひざまずいていらっしゃるようですから、天使さまが処女マリアさまのために、自分をお見棄てになってはいけない、というこのお約束をしてからですよと申しました。この他に彼女は自分を驚かすようなことさえなければ、天使さまは、お好きな、どんなお姿でいらっしゃっても結構ですと申しました。
そこで修道士アルベルトが言いました。
「奥さま、あなたのおことばはご立派です。わたしはあなたがおっしゃったことを、天使さまと十分に話し合って手筈をきめましょう。ところであなたはわたしに大きな恩恵をあたえられるのですが、それはあなたには造作もないことです。恩恵と申すのはこうです。天使さまがこのわたしの肉体を使っておいでになるようにと、あなたにお望みになっていただきたいのです。どうしてあなたがわたしに恩恵をあたえることになるのか、お聞き下さい。つまり天使さまは、わたしの肉体からわたしの魂を引き抜いて、天国にお移しになるのです。天使さまはわたしの肉体の中におはいりになるのです。そして天使さまがあなたと一緒にいらっしゃる間じゅう、わたしの魂は天国におるというわけなのです」
するとあまり利口でない夫人が言いました。
「大変結構です。わたくしのことで天使さまからあたえられた打擲のかわりに、こうした慰めをお受けになっていただきたいと存じますわ」
そこで修道士アルベルトが言いました。
「では今晩、天使さまがおはいりになれるように、あなたの家の戸口を天使さまに開けておいて下さい。天使さまは、人間のお姿でおいでになりますから、戸口からでなければはいることができないでしょう」
夫人はそうしましょうと答えました。修道士アルベルトは立ち去りました。彼女は肌衣がお尻に触れないくらいにそっくり返って大喜びでした。そして、天使ガブリエッロが自分のところにくるのを一日千秋の思いで待っておりました。修道士アルベルトは、その夜は天使ではなく、騎士にならなければならないと考えまして、易々と馬から投げとばされないようにと、糖菓子や、その他の滋養物で力をつけはじめました。外出の許可をもらうと一人の仲間と一緒に、夜になりましたので、一人の女友だちの家にはいりました。前にも色恋沙汰に行く時にはここから出かけておりました。もういい時分だと思いましたので、そこから変装をして夫人の家にまいりました。家にはいってから、持って行った飾りで天使に扮装し、階上に上ると、夫人の寝室にもぐりこみました。
夫人は雪のように真っ白なものを見ると、その前にひざまずいてしまいました。天使は彼女に祝福をおあたえになって、立ち上がらせると、寝台に行くようにと彼女に合図をしました。そこで彼女はそれに従うのは望むところでしたので、すぐにそういたしました。天使はその後からその信心深い女と一緒に寝ました。修道士アルベルトは、美しい頑健な肉体の持ち主でして、両脚もしっかりし過ぎるほど体についておりました。そんなわけですから、みずみずしい、ふわふわした軟らかい肉体の夫とはまたちがったやり方をして、その夜は何度も翼を用いないで翔け飛びまわったので、彼女は大声でうれしい悲鳴をあげました。この他に彼は、夫人に天上の栄光について多くのことを話して聞かせました。それから、朝が近づいたので、再会の手筈をきめた上、道具を持って外に出ると、仲間のところに帰って行きました。その仲間には、一人で寝て怖がることのないようにと、その家の女がねんごろなお相手をしておりました。夫人は朝食をとってから、供廻りをつれて、修道士アルベルトのところにまいりまして、彼に天使ガブリエッロの話をいろいろとして、天使から永遠の生命の栄光について聞いたことや、天使がどんな様子をしていたかを、この他にすばらしい作り話もつけ加えて物語りました。修道士アルベルトは夫人に言いました。
「奥さま、わたしはあなたが天使さまとどんなふうにしておられたかは存じません。ただわたしがはっきりと存じておることはこうです。昨夜、天使さまがわたしのところにおいでになって、わたしがあなたのお言伝てを申しあげましたら、天使さまはさっそくわたしの魂を、この地上ではそんなにたくさんあるとは夢にも見たことがないようなそれはそれはたくさんの草花や、ばらの花の間にはこんで行かれたのです。そしてわたしは生まれてこのかた一番たのしいと思った場所の一つにけさの朝課の時刻までおりました。わたしの肉体がどんなになっていたかそれは存じません」
「それを言わないでいられましょうか」と夫人が言いました。「あなたの肉体は一夜じゅう天使ガブリエッロさまとご一緒にわたくしの腕に抱かれておりました。もし本当になさらないのでしたら、あなたさまの左の乳首の下をごらん遊ばしませ。そこに数日間も跡が残るようなとても熱烈な接吻を、天使さまにして差し上げました」
すると修道士アルベルトが言いました。
「よろしい。今日は、もう今までに大分長い間したこともないことをやってみましょう。あなたが本当のことをおっしゃっているかどうか。裸になって調べてみましょう」
そして、いろいろとおしゃべりをしてから夫人は家に帰って行きました。その家に修道士アルベルトは、その後も天使の姿をして、何度もまいりましたが、何の邪魔もうけませんでした。でもある日こんなことがありました。リゼッタ夫人が一人の女友だちと顔を合わせまして、一緒に美しさのことで論じているうちに、自分の美しさをだれよりもすぐれていることを示そうとして、南瓜《かぼちや》頭に塩が足らない女らしく、こう言いました。
「わたくしの美しさをどなたがお好きになられたかご存じでしたら、きっと、あなたは他の方の美しさなど口にはなさらないでしょうよ」
その女友達はリゼッタをよく知っていた人でしたから、それは聞き捨てならないと思ってたずねました。
「奥さま、あなたのおっしゃるとおりかもしれませんわ。でも、その方がどなたかわからないうちは、人はそうおいそれと自分の考えを変えないでしょうよ」
するとあまり利口ではない夫人が答えました。
「それは言わないほうがいいんですが、実はわたくしの恋人は天使ガブリエッロさまなんです。天使さまは、そのおっしゃるところだと、わたくしがこの世界中でも、マレンマでも一番の美人だからって、ご自分よりもわたくしを愛していらっしゃるんですって」
女友達は吹き出したくなりましたが、彼女にもっと先を話させようとして、じっと我慢しておりました。
「本当にねえ、奥さま、もし天使ガブリエッロさまがあなたの恋人でいらしって、そうあなたにおっしゃるのなら、確かにそうにちがいありませんわ。でもわたくしは、天使さまたちがそんなことをなさるとは思っておりませんでしたわ」
夫人が言いました。
「そりゃあ、あなたの間違いですよ、本当に。天使さまはうちの人よりお上手ですわ。天使さまはわたくしに、それはあの天上でもするのだって言っていらっしゃったわ。でも天使さまは、わたくしが天上にいるだれよりも美しく思われたので、わたくしに恋をなさって、しげしげとお通いになって、わたくしと一緒にお過ごしになるのですよ。これでおわかりになりまして?」
女友達は、リゼッタ夫人のところから立ち去ると、こうしたことを人に聞かせるいい機会はこないかと、一日千秋の思いでした。ある祭式で大勢の女たちの一群と一緒になったので、みなにその話を順序を立てて物語りました。
その女たちは、それを夫たちや、他の女たちにしゃべりまして、またその女たちは他の女たちに吹聴したのでございます。こうしてほんの二日とたたないうちに、ヴィネージャじゅうその話で持ちきりになりました。しかしこの話を耳にした人々のなかに、彼女の義理の兄弟たちがおりました。彼らは彼女には何も言わないで、この天使を見つけだし、それが飛ぶことができるかどうか試してみようと心に決めました。そして幾晩も待ち伏せをしました。ところが、このことについて修道士アルベルトは何も知らなかったので、彼はまた女とたのしもうとある夜のことその家にやってきました。彼が着物を脱ぐか脱がないうちに、彼の訪問を見ていた彼女の義理の兄弟たちが、寝室の入り口に押しかけ、それを開けようとしました。それを耳にした修道士アルベルトは、事態をさとって、立ち上がると、他に逃げ口がありませんでしたので、大運河に面した窓を一つ開けると、そこから水中に身を投じました。泳ぎは上手でしたので、ちっとも怪我はしませんでした。彼は運河の向こう岸に泳ぎついて、そこに開いていた一軒の家にいきなりとびこむと、その中にいた一人の男に、後生だから命を助けて下さいと頼んで、どうして自分がこんな時刻に裸でいるのかということについていろいろと作り話をして聞かせました。その男は、かわいそうに思って、自分は用事があって出かけなければならなかったので、彼を自分の寝台に寝かせると、自分が戻ってくるまでそこにいるようにと言いました。そして、家の中に閉じこめてから、自分の用たしに行きました。
夫人の義理の兄弟たちが寝室にはいってみると、天使ガブリエッロは、そこに翼を置きっ放しにして飛び去った後でした。そこで一杯食ったような格好で、みなは夫人にひどい悪口雑言をあびせて、とどのつまりは泣き悲しむ彼女を置き去りにして、天使の道具を持って自分たちの家に帰って行きました。そうするうちに夜も明けました。お人好しの例の男はリアルト橋の上にさしかかると、天使ガブリエッロが昨夜リゼッタ夫人のところに出かけたが、夫人の義理の兄弟たちに見つかったので、恐ろしさのあまり運河にとびこんでしまったが、どうなったことやらかいもくわからないんだよ、とうわさをしているのを耳にしました。男はすぐに自分の家にいるのがそいつだとさとりました。で、家に帰ってくると、その男にちがいないとわかりましたので、いろいろかけあった末に、もし彼が彼女の義理の兄弟たちに引き渡されるのがいやなら、自分に五十ドゥカーティの金を払うことに、彼と話をつけたのでございます。そして金は払われました。で、それから、修道士アルベルトがそこから出たいと言うと、男が言いました。
「あるたった一つの方法でないかぎり、ここからは出られませんよ。今日わしたちはお祭りをやるんでしてな、そこへは熊のような扮装をした男を連れて行く人もあり、野蛮人みたいにした者を連れて行く者もあり、いろいろの趣向をこらした者を連れて行くんです。そうして聖マルコの広場で狩りを催すんですよ。それがすむと、お祭りは終わりというわけで、そうすれば、みなは銘々連れてきた者と一緒に、どこへでも勝手に行けるんですよ。あんたがここにいることを嗅ぎつけられないうちに、わしにそうしたやり方でそこへ連れてってくれと言われるのなら、わしはあなたの好きなところに連れてってあげられるでしょう。さもないと、人に見つからずにどうやったらここを抜けでられるか見当がつきません。夫人の義理の兄弟どもは、あんたがこの界隈にいると見当をつけ、あなたをつかまえようと到るところに見張り番をつけてしまいましたよ」
修道士アルベルトはそんな扮装をして行くのはつらいとは思いましたが、それでも夫人の親戚が怖かったので、そうすることに決めて男に向かってどこにでも好きなところに連れてってもらいたい、どんな扮装で連れて行こうと文句は言わないと申しました。男は、彼の全身に蜜を塗り、その上に小鳥の細かな羽毛を一杯につけ、その頸に鎖を巻き、頭に仮面をつけて、片手に太い杖を持たせ、もう一方の手に屠殺場から連れてきた二頭の大きな犬をひかせて、男を一人リアルト橋にやり、天使ガブリエッロを見たい人は聖マルコ広場にくるようにと布《ふ》れさせました。これがヴィネージャ人の誠実というものでありました。これがすむとしばらくしてから彼を連れだし、自分の前に押し立てて鎖を持ちながら、大勢の人々がこぞって、「あれはなんだ? あれはなんだ?」というえらい騒ぎの中を、そのあとからついて行きながら、彼を広場に連れて行きました。広場にはそのあとをつけてきた人々や、さらにはまた布れだしを聞いてリアルト橋からやってきた人々などでいっぱいでした。男はそこに着くと、一段と高い場所の、一本の円柱にその野蛮人をしばりつけて、狩りを待っているような振りをしておりました。彼は全身蜜を塗られていましたから、蠅や虻に苦しめられていました。やがて男は、広場が人で一杯になったのを見とどけると、その野蛮人の鎖をとこうとするような風をしながら、修道士アルベルトの仮面をはぎとって言いました。
「みなさん、猪が狩りにまにあわないので、狩りは取り止めです。みなさんに無駄足をおかけしてはいけませんので、夜になるとヴィネージャの女たちを慰めに天から地におりてこられる天使ガブリエッロをごらんに供したいと存じます」
仮面がとりのけられると修道士アルベルトだということがたちどころに、みなにわかってしまいました。彼に向かってみなの怒り声があがり、どんな悪党がうけたものとくらべても劣らない聞きづらいことばや、一番ひどい悪口をあびせられました。こればかりでなく、その顔にいろいろの汚物を投げつける者が出てきました。こうして、かなり長い間放っておかれたので、その話がたまたま仲間の司祭たちのところに伝わりました。そこで六人の司祭が修道院を出て、そこにやってきて、彼に外衣をかぶせると、その鎖をといて、えらい騒ぎをうしろに聞きながら、彼らの家まで連れてきて、そこで牢獄に投げこみました。彼は悲惨な日を送った果てに、死んだということでございます。
こうして、この男は善人と思われて、悪事をはたらきながら、そうは思われないでいて、天使ガブリエッロになるようなことまでしでかし、そのために野蛮人に変えられて、結局は当然の酬いとして、罵りどなられて、自分の犯した罪を泣き悲しみましたが、なんの甲斐もありませんでした。他のすべての者たちにも、同様のことが起こってほしいものでございます。
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第三話
[#この行3字下げ]〈三人の若者が三人の姉妹を愛し、彼女たちとともにクレーティ島に逃げる。長女は嫉妬のあまりその恋人を殺す。次女はクレーティ公に身をまかせて長女を死から救うが、その恋人が彼女を殺して長女とともに逃げる。三番目の恋人は三番目の妹とともにその罪を問われ、捕えられて罪を白状するが、死ぬのが怖さに金で牢番を籠絡し、金もなしにローディ島へ逃亡したうえ、そこで貧乏のうちに死ぬ〉
フィロストラートは、パンピネアのお話の最後を聞いて、いくらか考えこんでおりましたが、それから彼女のほうに向かって言いました。
「少しばかり、一段と、わたしの気にいったものが、あなたのお話の最後のほうにありましたが、その前のほうに滑稽なことが多すぎましたよ。あれはなかったほうがよいと思います」
それからラウレッタのほうを向いて言いました。
「さあ、よろしかったら、一つもっといいお話であとをつづけて下さい」
ラウレッタは笑いながら言いました。
「もし恋人たちの不幸な結末ばかりをお望みなのでしたら、あなたは恋人たちに残酷すぎますよ。でも、わたくしはあなたの仰せに従うために、自分たちの恋を少しばかりたのしんだあとで、同じように不幸な最後をとげた三人の女たちのお話をいたしましょう」
こう言ってから、彼女ははじめました。
お若い淑女のみなさん、あなた方もよくご承知のように、悪癖と申すものは総じて、これを行なう者に舞いもどってこれを大変な目にあわせるものですが、また多くの場合、他の人たちをもそんな目にあわせかねないものでございます。わたくしたちを思う存分危険に陥れる悪癖の中で、憤怒こそそうしたもののような気がいたします。憤怒は強い悲しみからひき起こされた、突然の、考えなしの衝動にほかなりません。この衝動はあらゆる理性を追い払って、暗闇で心の眼をくもらし、わたくしたちの心を恐ろしいほど狂暴に燃え上がらせます。で、これはある方には多く、ある方には少ないといった具合に、しばしば男の方に起こっておりますが、それでも、今まで女の人の場合は、その害が一段とひどうございました。この衝動は女にはずっと容易に燃え上がって、一段と明るい焔で燃えさかり、抑えられることもなく、女をけしかけるからでございます。それは何も不思議なことではありません。よく見ればその火というのは、性質上硬くて重いものよりも、軽くてやわらかいものにずっと早く燃えつくことがおわかりになりましょう。わたくしたちはまた、(男の方々は悪くおとりにならないで下さいませ)男の方よりも敏感で、ずっと感動しやすいのでございます。そこで、生来こうした悪癖の傾向がわたくしたちにあることを知って、そのあとでわたくしたちの寛大や、やさしさが、わたくしたちのかかわりあっている男の方々に大きな憩いや、よろこびをもたらすように、憤怒や狂暴が大きな苦しみや危険となるものであることを見まして、一段と強い胸でその悪癖から身を守るために、前にも申しあげましたように、その中の一人の女の憤怒のために、幸福なものから非常に不幸なものになった三人の若者と同数の女たちの恋を、わたくしのお話で、みなさまにご披露しようと存じます。
マルシリア(マルセイユ)は、あなた方がご存じのように、プロヴェンツァにあって、海に面した古い非常に品のいい町でございます。かつては、今日見られるよりもずっと多くのお金持ちや大商人がいました。その中にナルナルド・ナヴァーダという名の人がおりました。いやしい素性の、しかし信用のあつい人で、土地やお金を底知れず持った誠実な商人でした。彼はある女との間に何人もこどもができましたが、そのうちの三人は女の子で、男の子だった他のこどもたちよりも年上でした。女の子のうち二人は双子で十五歳、三番目のは十四歳でした。この女の子たちを結婚させるのに、身内の者たちは、商品を持ってスペインに出かけているナルナルドの帰りだけを待っておりました。上の二人の名前は、一人がニネッタ、も一人がマッダレーナで、三番目の子はベルテッラと呼ばれていました。ニネッタには、貧乏でしたが貴族のレスタニョーネという若者がすっかり心を奪われて、娘のほうも男に夢中でした。なかなかうまくやったので、全然だれにも知られないで、恋をたのしんでおりました。
二人が長い間恋をたのしんでいた頃、一人はフォルコと呼ばれ、もう一人はウゲットと呼ばれる、どちらも父親をなくして、非常な金持ちになっていた二人の若い友だち同士が、一人はマッダレーナに、もう一人はベルテッラに恋をいたしました。ニネッタから言われたので、そのことを知ったレスタニョーネは、彼らの恋によって自分の窮迫を何とか救えるようにしようと考えまして、彼らと仲よくなり、ある時は一方、ある時はこっちと、時には二人一緒に、その恋人の女たちや自分の女に会いに連れてまいりました。そしてかなり親しくなって、二人の友だちになったと思われた頃のある日のこと、彼らを自分の家に呼んで言いました。
「心から愛する諸君、わたしたちの交際で、わたしが諸君によせている愛情がどんなに強いものであるか、またわたしが諸君のためなら、自分自身のためにすると同じようにつくすものであることが、諸君にはよくおわかりになったでしょう。わたしは諸君を非常に愛しているので、わたしの心に浮かんだことをご披露しようと思うのです。そのあとで諸君とわたしが一緒になって、諸君に一番よいと思われるその決心をつけましょう。諸君は、諸君のことばに嘘がなければ、それからまた日夜をわかたず諸君の挙動からわたしが呑みこめたような気がするところによれば、諸君が恋している二人の娘への熱烈な愛情に悩んでいられますね。わたしは二人の姉になるその一人について、やはり同様な立場にいるのです。そうした熱情に対して、もし諸君がわたしの言うことに同意なさるおつもりならば、わたしの心は、とても甘くてうれしい手段をわたしに教えてくれるのですがね。それはこういうことなのですよ。諸君は非常にお金持ちの青年ですが、わたしはそうじゃありません。もし諸君がその財産を一つに持ち寄ってわたしを諸君と一緒にその財産の三分の一の所有者にして、その財産を持ってわたしたちが世界のどこかに行ってたのしい生活を送りたいときめようとお思いだったら、まちがいなくわたしの心はわたしに、つまり、三人の姉妹にその父親の財産の大部分を持って、わたしたちが行きたいと思うところに、わたしたちと一緒に来るようにさせて、そうして、そこで銘々は、それぞれ女と一緒に、三人兄弟のように、この世にいるだれよりも一番幸福な男の生活が送れるようにしたらと言っているのです。さあ、あとは、そうして楽しい思いをするか、それともそれを放棄するか、その決定は諸君にかかっているのですよ」
一方ならず、こがれ悩んでいた二人の若者は、自分たちの若い娘が手に入れられると聞いて、決心するのもあまり苦になりませんでした。そこで、もしそういうことになるのなら、そのとおりにする覚悟だと言いました。レスタニョーネは、若者たちからこの返事をうけると、それから数日してニネッタと会いました。彼女のところへはもう容易には行くことができませんでした。しばらく彼女と一緒にいてから、若者たちと話したことを彼女に聞かせ、いろいろと説いて、この計画を彼女が喜ぶようにつとめました。しかし、それは大して骨は折れませんでした。彼女のほうが、彼よりも人の眼を気にしないで彼と一緒にいられるようにと望んでいたからです。ですから、彼女は、その計画が気に入ったと、また妹たちは、特にこの点では、自分の思うとおりにするだろうと、はっきりと答えた上、できるだけ早くそれに関して必要な準備を全部するようにと言いました。レスタニョーネは、自分が話したことを早くするようにと自分をしきりにせき立てている二人の若者のところに帰ってきて、彼らに諸君の女たちのほうでは仕事はうまくまとまったと言いました。二人の青年は、クレーティ島(クレタ島)に行かねばならないと決心し、お金を持って商売に行きたいのだという口実のもとに、持っていた地所や屋敷をいくつか売り払い、その他のものも金にかえて、小さな快速船を買い込んで、それにこっそりと十分な武装を施し、定められた時の来るのを待っておりました。一方、妹たちの欲望を知りつくしていたニネッタは、甘いことばでこのことをしようとする意志を燃え立たせたので、妹たちはそれをやりとげないうちは生きている心地もしませんでした。
そんなわけで、快速船に乗りこまねばならない夜となりましたので、三人の姉妹は父親の大きな金箱を開けて、そこから莫大な量のお金や宝石を取り出し、それを持って、三人は打ち揃ってそっと家を出て、かねてきめておいた手筈に従って、自分たちを待っていた三人の恋人と会いました。恋人たちと一緒にすぐさま快速船に乗り込むと、みなは水に橈を入れて、出て行きました。どこにも全然とまらず翌晩はジェノヴァに着きました。ここでほやほやの恋人たちは、初めてその恋の歓喜と快楽を味わいました。そして、必要なものをとって力を養うと出発し、港から港へと航海をつづけながら、八日目が来ないうちに、なんの支障にもあわずに、クレーティ島に到着しました。そこで広大な、美しい土地を買って、その土地のカンディア寄りのところに華麗で快適な住居をつくりました。そこで大勢の召使を使い、犬や小鳥や馬を飼って、酒宴や宴会や慰安の催しをして、自分たちの女と一緒に、王侯貴族のように、この世で一番幸福な人間の生活を始めました。
こんな生活をしているうちに、いくら好きなものでも、あまり多く持っているといやになるとよく言われますが、ニネッタを非常に愛していたレスタニョーネが、だれはばからずに彼女と思うがままにたのしむことができるようになったので、いや気がさしはじめ、その結果彼女を愛さなくなりました。ある宴会で、土地の美しい貴婦人がたいへん気に入り、あらゆる手をつくしてその娘を追いかけはじめ、彼女のためにおどろくほど親切にし、大騒ぎをしはじめました。ニネッタはそのことに気がついて、彼に嫉妬をしましたが、そのはげしさといったら、あらゆることを嗅ぎつけて、そのあとで彼や自分を、文句や憤懣で苦しめるといった始末でした。物がありあまると、いや気を起こすように、望んだ物を拒まれると欲望は倍加するものでございまして、こうしてニネッタの憤懣はレスタニョーネの新しい恋の焔を煽り立てたのでございます。時の流れにつれて、レスタニョーネが恋する女の愛を得たか得なかったか、それは、はっきりしませんが、ニネッタは、だれから聞いたのか、うまく進んでいるものと固く思い込んでしまいました。それで彼女はふかい悲しみに落ち、悲しみは憤怒に変わり、その結果狂乱のとりことなって、レスタニョーネへの愛は烈しい憎悪となりました。そして、レスタニョーネを殺さなくては、自分がうけたと思っていた恥辱の仕返しはできないと考えました。そして、毒薬の調合の名人であるギリシャ人の老婆を呼んで、甘言や贈り物で丸めこんで劇薬を作らせました。その劇薬を彼女は、別にだれとも謀らずに、ある晩レスタニョーネが暑がって、それを気にもかけない時に飲ませました。
劇薬の効き目は恐ろしいもので、夜が明けないうちに、彼は死んでしまいました。その死を聞いてフォルコや、ウゲットや、彼らの女たちは、毒薬で死んだとは知らないので、ニネッタと一緒にひどく泣き悲しんで、立派に埋葬しました。でもそれから大して日数もたたないうちに、ニネッタに毒薬を調合してやった老婆が別の悪業のためにつかまり、拷問にかけられると、いろいろの悪事にとりまぜて、このことを白状して洗いざらい申し立てました。クレーティ公は、それについては何も言わず、ある夜こっそりとフォルコの屋敷をとり囲み、音も立てず、何の抵抗も受けずにニネッタを捕えて連行した上、拷問もしないうちに彼女の口から、レスタニョーネの死について聞きたいと思っていたことを知りました。フォルコとウゲットは、なぜニネッタが捕えられたかを内密に公から聞き、またその女たちも二人からそれを聞きました。それはみなの心を痛めました。そしてみなはニネッタが火刑をのがれるためにいろいろと考えをめぐらしました。みなは彼女は十分それに価するだけのことをしでかした者として、火刑に処せられると思っていたのでございます。でも公がこれを処刑しようという決心が非常に固かったので、一切は徒労に終わるように思われました。若い美人で、長い間公に思いを寄せられながら、それになびくようなことは何一つしようとしなかったマッダレーナは、公の気に入るようなことをすれば、姉を火刑から救うことができるだろうと想像して、用心深い使者を送って公に、二つのことをしていただきたいと申し入れました。つまり第一には自分につつがなく、また自由な姉を返していただかねばならないことと、第二にはこのことを秘密にしていただきたいことだと伝えたのです。
公は使者の口上を聞いて気に入り、しばらく一人でそうしようかどうか考えておりましたが、ついにそれを承諾して、それに応ずる旨を答えました。そこで女と合意の上で、フォルコとウゲットから事件について聞きたいことがあるというようにして、二人を一夜裁判所にとめておいて、ひそかにマッダレーナのところに泊まりに行きました。まずニネッタを袋に入れて、ちょうどその夜海に投げこませなければならないようなふうをよそおってから、彼女をその妹のところに連れて行って、その夜の代価として贈りました。朝になって帰る時に二人の恋の初夜であったその夜が最後の夜とならないようにと頼みこみながら、それだけでなく、自分に非難がでないようにするために、あるいはも一度姉の身の上にひどい仕置きが起こってはならないようにするために、罪の女を遠くへ落とすようにと言いつけました。
翌朝、フォルコとウゲットは、ニネッタがその夜海に投げこまれたと聞いて、それを信じて放免されました。そして、姉の死について女たちを慰めようと家に帰りました。マッダレーナは百方手をつくして姉をかくしておこうとしましたが、それでもフォルコが姉のいることに気づいてしまいました。彼は非常に驚いて、すぐに怪しいと思いました。前に公がマッダレーナを恋していたと聞いていたので、ニネッタがここにいるのは、一体なぜかと訊ねました。マッダレーナは彼に言って聞かせようと長い作り話をこしらえましたが、奸智にたけた彼には本当にされませんでした。そしてどうしても本当のことを言わねばならないように仕向けました。いろいろとつくろったあげくに、彼女はそれを白状しました。フォルコは悲嘆にうちのめされ、怒り狂って剣を抜くと、彼女の慈悲を乞う声も聞かばこそ、斬り殺してしまいました。そして、公の憤慨と裁きを恐れて、彼女の死骸を寝室に残したまま、ニネッタがいるところに行き、うれしくてたまらないといった顔をして言いました。
「ふたたび公の手に落ちないようにするために、わたしにお伴するようにとあなたの妹がきめておいたところへ、すぐにまいりましょう」
ニネッタはそれを本気にし、怖そうにして、逃げたい一心で、もう夜だったので、妹にあらためて暇乞いもせずに、フォルコと一緒に、フォルコが手にすることができたなけなしのお金を持って出かけました。そして、海岸に行って一隻の船に乗りこみました。二人がどこに着いたかは、皆目わかりませんでした。翌日になって、マッダレーナが殺されているのが見つかると、ウゲットに対して抱いていた嫉妬や憎悪から、さっそくそれを公に知らせた者たちがおりました。そんなわけで、マッダレーナを熱愛していた公は、烈火のように憤って、その屋敷に駈けつけると、ウゲットとその女を捕えました。そして、これらのことを、フォルコとニネッタの出奔のことをまだ知らなかった彼らに、無理やりに、マッダレーナの死についてはフォルコと一緒に罪があるのだと白状させました。そう白状した以上、二人は当然死刑に処せられるのを恐れて、自分たちの牢番をしている連中に、万一の場合にと自分たちの屋敷にかくしておいた金を何がしかあたえて実に上手に彼らを籠絡しました。そして牢番と一緒に、何一つ取り出すいとまもなく船に乗り込むと、夜にまぎれてローディ島にのがれて、そこで貧乏と悲惨のうちに長からぬ余生を送りました。という次第でレスタニョーネの狂恋とニネッタの憤怒は、自分たちと他の人々をこんな目に遇わせたのでございます。
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第四話
[#この行3字下げ]〈ジェルビーノは、祖父グリエルモ王のあたえた誓約にそむいて、チュニス王の王女を奪おうとしてチュニス王の船と戦うが、王女はその船に乗っていた者たちに殺される。ジェルビーノは彼らを殺すが、彼も後に斬首される〉
ラウレッタは、そのお話を終えると、口をとじました。仲間の中には、思い思いの相手と恋人たちの不幸を悲しみあう者もあれば、ニネッタの憤慨を悪くいう者もあり、甲論乙駁のありさまでした。王さまは深い物思いから覚めたように顔をあげると、エリザにそのあとにつづけてお話をするようにと合図をしました。エリザはつつましやかにお話をはじめました。
愛らしい淑女のみなさん、愛は眼から火をたきつけられてはじめてその矢を放つものだと信じられていますが、その人たちは評判をきいただけで人が恋をすることができると考える人たちのことを、嘲笑されるかもしれません。その人々が間違っていることが、わたくしが申しあげるお話に非常によくあらわれております。この物語では、お互いに一度も会ったことがないとき、評判がどんな役割を果たしたかがおわかりになるばかりでなく、双方を悲惨な死に追いやったこともはっきりわかることでしょう。
シチリア人の言うところによれば、シチリアの二世王グリエルモには二人のお子さまがありました。一人は王子でルッジェーリ、もう一人は王女でゴスタンツァと呼ばれていました。そのルッジェーリが父王より先に亡くなり、あとにジェルビーノという一人の男の子を残されました。ジェルビーノは、祖父王によって心をこめて育てられて、大そう美しい若者になり、勇武にすぐれ、物腰に王子らしい気品が備わっているというので有名でした。彼の評判は、シチリアの国内だけにとどまらず、世界の方々に響きわたっておりまして、当時シチリアの王さまに対して朝貢国だったバルベリアでは、それは非常なものでございました。ジェルビーノの勇気と礼節のすばらしい名声を耳にした人々の中にチュニスの王女がございました。王女はこれを見た人の話によりますと、今まで自然が創造した最大の美人の一人で、最高のしつけを身につけた方で、気高いおおらかな心の持ち主でした。勇敢な男たちの話を聞くのが好きで、いろいろの人が語るジェルビーノの勇敢なくさぐさの物語は、非常な好意をもって聞いていました。その気に入り方といったら大変なもので、どんなお姿の方なのだろうかとひとり胸にえがきながら、彼を熱烈に恋して、だれよりも進んで彼のことを口にし、彼の話をする人があれば乗りだして耳を傾けるといったありさまでした。
一方、同じように彼女の美貌と勇気の評判は、他国と同じように、シチリアに伝わってきて、ジェルビーノの耳を快く打ち、そのまま忘れられるようなことはありませんでした。それよりも、彼は王女が彼に対して胸を燃やしていたのと同じように、彼女に対してその焔を燃え立たせておりました。そんなわけで、王女に会いたくてたまらなかった彼は、祖父からチュニスに行く許可を得るちゃんとした理由が見つかるまで、その地に行く友人にはだれにでも、できるだけのことをして、一番よいと思う方法で、自分のひそかに抱いている大きな愛情を伝えて、また彼女の便りを自分にもたらすようにと命令しました。その友人たちのある者が、商人たちがやるように、王女のところに婦人用の宝石類をお目にかけに持って行って、うまく命令されたことをやりとげました。彼はジェルビーノの燃える思いをすっかり王女に打ち明けてから、王子と王子の物は全部彼女の意のままにまかせる旨を明らかにしました。王女はうれしそうな顔をして、使者と口上を迎えました。そして自分も同じような思いに身をこがしている旨を答えて、その証拠として、自分の最も貴重な宝石の一つを王子に贈りました。ジェルビーノは、この世で一番貴重な物をいただいた時にするように、うちょうてんになって、その宝石を受け取りました。そして、同じ使者を通じて彼女に何度も手紙を書き、非常に貴重な贈り物をとどけて、もし運命が許してくれるなら、二人で会って手をとり合いたいものだと、王女とその相談をしておりました。
しかし、一方では王女が他方では王子が燃えるように恋いこがれたまま、事情がこんな風に、少し必要以上に長びいているうちに、チュニスの王さまが王女をグラナタの王さまに嫁がせることにしました。そのために王女は、その恋人から遠いところに行ってしまうばかりでなく、まるでまるっきり切り離されてしまうように考え、一方ならず嘆き悲しみました。そんなことが起こらないようにと、手段さえ見つかったら、父王から逃げだして、ジェルビーノのもとに走っていたことでございましょう。同じようにジェルビーノも、この結婚のことを聞いて、身も世もない悲しい日を送っておりました。そしてもし王女が海路で夫のもとに行くようなことがあったら、できたら力ずくでも王女を奪いたいものだと考えました。チュニスの王さまはジェルビーノのこの恋と意図について何か聞いておりましたし、彼の勇気や力を恐れておりました。いよいよ王女を夫のもとへ送らなければならない時がきましたので、グリエルモ王のところに人を遣わして、自分がしようとしていることと、もしそのことについてジェルビーノや他の者たちから自分に邪魔がはいらないということを同王から保証されるならそれを実行するつもりである旨を伝えました。お年寄りだったグリエルモ王は、ジェルビーノの恋のことなぞ今までに何も聞いたことがありませんでしたので、このためにそうした保証が要求されたとは想像もおよばないで、喜んでその保証をあたえました。そのしるしに、王さまはチュニスの王さまに自分の手袋の片方を、使者を通じて贈りました。チュニスの王さまは保証を得たので、カルタゴの港に非常に大きな美しい船を準備させまして、必要なものを積み込んで、王女をグラナタに送るために装飾をほどこし整備をし、あとはただ好天気を待つばかりでした。
こうした一部しじゅうを知り、眼にしていた若い王女は、ひそかに自分の召使を一人パレルモ王に遣わして、自分からと言って美しいジェルビーノに挨拶をした上、自分は数日のうちにグラナタに行くことになっているが、今こそジェルビーノが世の評判のように勇敢な男であるかどうか、また何度も自分に言ってよこしたように自分を愛しているかどうかがわかることでしょうと、申しあげるように命じました。命令をうけた召使は立派にその使いを果たし、チュニスに帰ってまいりました。ジェルビーノはこのことを聞くと、祖父のグリエルモ王がチュニスの王に保証をあたえていたことを知っていたので、どうしたらよいのかわかりませんでした。とはいうものの恋の火に煽られた彼は、女のことばを耳にして、卑怯者と思われてはならないと、メッシナに赴き、そこでさっそく二隻の軽快な競争用の橈船を装備させて、それに勇敢な者たちを乗りこませ、王女の船がサルディーニャ島を通過するにちがいないと考えて、そこに向けて出航しました。
結果は彼が考えたとおりでした。そこに着いて数日すると、王女の船は微風に送られて、ジェルビーノが待ち伏せていた場所から大して遠くないところにやってきました。それを見てジェルビーノは仲間の者たちに言いました。
「諸君、もし諸君がわたしの考えているように勇敢ならば、諸君の中には一人も恋を知らない者、あるいは恋を感じない者がいるとは思わない。自分の経験からいうのだが、恋を知らなくては、どんな人間も徳や情を持てないものだ。もし諸君がかつて恋をしたことがあるか、今恋をしているならば、わたしの念願を理解してくれることだろう。わたしは恋をしており、その恋がわたしをかりたて、諸君にこのような苦労をかけているのだ。わたしが恋しているものは、諸君の眼の前に見える船の上にいるのだ。その船は、わたしが最も望んでいるものと一緒に、山のような財宝で一杯だ。もし諸君が勇敢な人たちならば、大して労しないで、男らしく闘って、それを手に入れることができるのだ。そうして勝利を収めても、わたしは自分の分には一人の女の他には何も要求はしない。その女の恋のために、わたしは武器をとって立ったのだ。ほかのものは全部喜んで諸君にあげよう。いざ往こう、あの船を襲おう。わたしたちの挙に組みする神は、風をとめて、敵船を釘づけになさっていられるのだ」
好漢ジェルビーノは多言の必要はありませんでした。彼とともにいたメッシナ人たちは、掠奪欲にかられて、とっくに心の中では、ジェルビーノがことばで励ましていたことをするつもりだったからです。ですから、ジェルビーノの話が終わると、その話のとおりに進むようにと幸先を祝って、どよめくばかりの鬨《とき》の声をあげ、ラッパを吹き鳴らしました。そして武器をとると、水に橈を入れて、王女の船に追いつきました。船の上にいた人々は、遠くから橈船がやってくるのを見て、風がないので走りだすこともできず、防戦にかかりました。敵船に追いついた好漢ジェルビーノは、もし戦闘がいやだったら、その船の船長たちを橈船に渡すようにと命じました。サラセン人たちは、相手がだれであるのか、何を要求しているのかを確めてから、自分たちは、王から自分たちへの誓約をもらっているのに、それに反してお前たちから襲われているのだと言って、その証拠に、グリエルモ王の手袋を見せて、戦った上でなければ降服はしないし、船の上にあるものは渡さないと答えました。ジェルビーノは、船の艫《とも》に、自分が思っていたよりもはるかに美しい王女を眼にして、いよいよ恋の焔を燃やしておりましたので、今ここには手袋を必要とする鷹がいない、王女を渡すのがいやなら、戦闘に応ずる準備をするようにと、答えました。もうなんのためらいもなく、双方は互いに矢を放ち、石を投げ合って、戦闘を開始し、そのまましばらくの間撃ちつ撃たれつして、互いに損害をこうむりました。
ジェルビーノは、大して戦闘がはかどらないのを見てとって、サルディーニャからひいてきていた小船をひきよせると、それに火をつけて、両方の橈船を使って、その小船を敵船に近づけました。それを見てサラセン人たちは降服か死のいずれしかないとわかったので、船内で泣いていた王女を甲板の上にでてこさせ、船首に連れて行くとジェルビーノを呼んで、その眼の前で、慈悲と助けを叫び求める彼女を斬り殺して、海に投げこんでから言いました。
「さあとれ、こうした姿で呉れてやるわ。こうしかわしたちにはできないんだ。これがお前たちの信義に相当したものだ!」
ジェルビーノは、彼らの残酷なしおきを見ると、死を覚悟したかのように、矢や石などものともせず敵船に近づくと、相手が大勢ひしめいているにもかかわらず、それに飛びうつり、さながら子牛の群れにとびこんだ飢えた獅子が、歯や爪で当たるをさいわいさき殺すように、まず飢えよりも怒りを満足させるように手にした剣でサラセン人たちを右に左になぎ倒して、むごたらしく大勢の者を切り殺しました。燃え上がっている船にもう火が一杯に廻っていましたので、ジェルビーノは乗組員たちに、その報酬として、できるだけのものを掠奪させて、自分は相手をやっつけたがあまりうれしい気持ちにもなれずに、船から下りました。それから美しい王女の死骸を海中から拾いあげさせて、長い間さめざめと涙を流しておりました。シチリアに帰る途すがら、トラパニ島とほぼ真向かいの小さな島のウスティカで、ねんごろにそのむくろを埋葬させました。そして、この世で一番深い悲しみにうちしずみながら家に帰りました。
チュニスの王は、その便りを知ると、グリエルモ王のもとに黒衣の使者を遣わし、その誓約が守られなかったことを嘆きました。使者たちは事の次第を伝えました。そこでグリエルモ王は非常に腹をたてて、どうしても成敗を(それを使者たちは求めていました。)拒む方法が見つかりませんでしたので、ジェルビーノをとらえさせました。家来の貴族の中にそんなことは思い返すようにと熱心に嘆願する者もありましたが、王ご自身で斬首をお命じになり、眼の前でその首をはねさせました。誓約を破る王と思われるより、いっそ孫を失ったほうがましと考えたからでございます。
ですから二人の恋人は、わたくしがみなさまにお話ししたように、わずか数日のうちに、自分たちの恋の果実を少しも味わうことなく、むごたらしくその非業の死をとげたのでございます。
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第五話
[#この行3字下げ]〈イザベッタの兄弟たちは彼女の恋人を殺す。彼は女の夢枕にあらわれ、自分がどこに埋められているかを告げる。彼女はひそかに頭を掘り出し、めぼうき[#「めぼうき」に傍点]の鉢にそれを入れ、毎日長いあいだ涙をそそいでいると、兄弟たちがそれを取り上げてしまい、そのすぐ後で彼女は悲嘆のあげく死んでしまう〉
エリザのお話が終わって、王さまは、いくらかほめられてから、フィロメーナにお話をつづけるようにと命じられました。フィロメーナは、かわいそうなジェルビーノとその王女にすっかり同情し、悲しげに溜め息をついてから、はじめました。
やさしい淑女のみなさん、わたくしのお話はエリザがお話ししたような高い身分の方々のことではありませんが、おそらく、それに劣らず人の心をほろりとさせるものでございましょう。少し前にお話にでましたメッシナが、わたくしにこの物語を思いださせたのであります。そこでこの事件は起こりました。
さて、メッシナに三人の若い兄弟の商人がおりました。この人たちは聖ジミニャーノの出であった父親の死後、非常なお金持ちになりました。彼らにイザベッタという非常に美しい教養のある妹がありました。どんな理由があったか知りませんが、兄弟たちは彼女をまだ嫁がせておりませんでした。三人の兄弟は、このほかに彼らの店の一つにロレンツォというピサの若者をおいて、その店の仕事をとりしきらせていました。この若者は容姿が美しく、非常に粋《いき》でしたので、イザベッタはたびたびこれと顔を合わせているうちに、無性に彼が好きになりだしたのでございます。ロレンツォのほうでも、それに気づき、他の色事はやめて、彼女に夢中になりだしました。そのうちに事ははかどり、互いに好き合っておりましたこととて、まもなく安心してその思いを達するほどになりました。
こんなふうにしてつづけながら、ともにうれしい快楽の時をたのしんでいましたが、こっそりとそれをつづけることができなくなったのです。ある晩のことです、イザベッタがロレンツォの寝所へ行くところを、一番上の兄に見つけられてしまったのでございます。その兄は賢かったので、それを知って大変困ったことだとは思いましたが、その時はことばをかけず、いろいろと胸の中で思いをめぐらしながら、翌朝までじっとしておりました。やがて夜が明けましたので、彼は二人の弟に、前夜イザベッタとロレンツォのことで眼にしたことを物語りました。そして三人で一緒に長い間相談して、この事については、自分たちや妹に悪いうわさが立たないように、このまま黙って見過ごして、みなの損害なり、不都合なりを引き起こさずにこの恥ずかしいことを眼前から取り去ることができるような時機がくるまで、全く気づきもしなかったような振りをし通すことにきめました。
このように申し合わせを固く守って、いつものようにロレンツォとおしゃべりをしたり、笑ったりしておりましたが、そのうちに、三人は郊外へ行楽に行くようなふりをして、ロレンツォを一緒に連れて行きました。そして全く人里離れた遠いところに着くと、ここぞとばかり、なんの警戒もしていなかったロレンツォを殺して、だれにもわからないように埋めてしまいました。そしてメッシナに帰ってきて、ロレンツォは自分たちの用事のためにあるところに行かせたのだという評判をたてました。今までもたびたびこの男を方々に出しておりましたので、そのことは易々と人々に信用されました。
ロレンツォが帰ってまいりませんので、心配になったイザベッタは、うるさいほどたびたび、心配そうに兄たちにたずねました。ところがある日、あまりしつこくそのことを聞いたので、兄の一人がこう言いました。
「一体どうしたというんだ? そんなにたびたびあの男のことを聞くが、お前はロレンツォとどんな関係があるんだい? 今後あいつのことを聞いたら、わたしたちは必要なだけの返事をしてやるぞ」
娘は心配しながら、でも何が心配なのかわからずに、もうロレンツォのことは何も聞かず、なげき悲しんでおりましたが、夜になると、何度も哀れな声をだして男の名を呼んで、帰ってくるようにと頼みました。時にはさめざめと涙を流して、長い間帰ってこないのをぐちって、少しも晴れ晴れとした気持ちにならないまま、相変わらず心待ちに待っておりました。
ところがある晩のこと、彼女が帰ってこないロレンツォのことを泣き悲しみ、とうとう泣きながら寝込んでしまうと、ロレンツォが真っ青な顔をして、髪をおどろに振り乱して、みるめ[#「みるめ」に傍点]のようにぼろぼろになった汚れきった着物をきたまま、その夢の中にあらわれました。彼女がロレンツォがこう言ったような気がしました。
「おお、イザベッタよ、あなたはわたしの名前ばかりを呼んでいる。そうしてわたしが長い間帰らないのを悲しんでくれている。涙を流して、わたしをきつく責めている。そこでお知らせするのですが、わたしはもうこの世に帰ってくることができないのです。だって、あなたがわたくしをごらんになったあの最後の日に、あなたの兄さんたちは、わたしを殺してしまったのです」
そして、自分が埋められた場所を彼女に教えると、もう自分の名を呼んだりしないで、自分を待っていないようにと言うと姿を消しました。
娘は眼をさますと、その夢を本気にして、よよと泣きくずれました。そして朝起きると、兄たちには何も言う気がありませんので、教えられた場所に行って、夢にあらわれたことが本当かどうか見てみようと決心しました。そして以前に自分たちのところで使っていて、彼女のことは一切承知している女を一人つれて、町から少し遠くへ行楽に行く許しを得ると、できるだけ早くそこへ行きました。そして、その場所にあった枯れ葉を取り除くと、土がよそよりもやわらかそうに思われるあたりを掘ってみました。そんなに掘らないうちに、どこもまだ損なわれてもいなければ、腐ってもいない、哀れな恋人の死骸が見つかり、自分の夢が本当だったことをはっきりと知りました。そこで、悲嘆のどん底につき落とされましたが、今はいたずらに泣いている時ではない、できることなら、もっとふさわしい埋葬をするために、その死骸をそっくり運んで行くべきだと思いましたが、それもできないことだと見てとりましたので、短刀でできるだけよく、胴体から首を切りとって、それを手ふきの布につつんで、残った死体の上には土をかぶせ、首を女中に抱かせて、だれにも見とがめられずに、そこを立ち去って家に帰りました。
彼女はこの首を持って自分の寝室にとじこもると、その上にかがんで長い間、身も世もなく、涙で首がすっかり洗えてしまったほど泣きぬれて、いたるところに、何度も接吻を繰り返しておりました。やがて、まよらな[#「まよらな」に傍点]や、めぼうき[#「めぼうき」に傍点]を植える一つの大きな美しい鉢を取り上げると、首を綺麗な布でつつんでその中に入れて、それから上に土をかぶせて、その上にサレルノの大変見事なめぼうきを数株植えて、それにはばら水か、オレンジの花の水か、自分の涙の滴のほかには決して何もかけてやりませんでした。そうして、いつもこの鉢のそばに座って、そこにはかわいいロレンツォがはいっているので、それを、いろいろと思いにふけりながら、見つめているのが習慣になりました。長い間見つめてから、その上にかがんで泣きだすと、いつまでも、めぼうきが全部濡れてしまうまで泣いておりました。
めぼうきは、長い絶え間のない手入れと、中にはいっている腐った首からでてくるその脂肪のために、大変美しくなって、非常にいい香りがしてきました。娘がいつもこんなふうにしているところを、たびたび近隣の人々は見かけました。彼らは、兄たちが妹のやつれた美貌と、眼がひっこんでしまったような様子にびっくりしているので「妹さんは毎日これこれのことをしているのを見ましたよ」と兄たちに話しました。兄たちはそれを聞くと、そのことに気がついて、時々叱りましたが、効果がありませんので、こっそりとこの鉢を妹のところから持ち去らせてしまいました。彼女は、それが見つからないので、大変しつこく何度もそれを返してくれと言いましたが、返してくれないので、泣きつづけ、涙のかわく日とてなく、床に臥して、病みながらも自分の鉢だけは返してくれとせがんでおりました。兄たちはこうした要求にひどく驚いて、そこで中に何があるのかを見たいと思いました。で、土をあけてみると、布があって、その中に首がはいっておりました。まだそれほど腐ってはおりませんでしたので、その縮れ毛の具合からそれがロレンツォの首であることがわかりました。みなはびっくりして、この事が知られはしないかと心配で、その首を埋めると、何も言わずにこっそりとメッシナを立ち退くうまい理窟をつくって逃げだし、ナポリに行きました。
娘はいつまでも泣きやまないで、それでも自分の鉢をせがみながら、泣き死にしてしまいました。こうして彼女の不仕合わせな恋は終わりを告げました。しかし、後にいつかこのことがみなの知るところとなりまして、人ありて、今でも歌われている、あの歌を作ったのでございます。
わたしの鉢を盗んだ
悪い人はだれだった云々
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第六話
[#この行3字下げ]〈アンドレウォーラはガブリオットに恋している。彼女は自分が見た夢を彼に物語り、彼はも一つの夢を彼女に物語る。彼は彼女の腕に抱かれて急に死ぬ。彼女は一人の女中と一緒に男の家に死体を運んで行く途中、政庁の警邏につかまり、事の次第を告げる。市長は彼女を力ずくで従わせようとするが彼女は受けつけない。彼女の父が、逮捕のことを聞きつけ、娘に罪がないことを知って釈放させる。娘はこれ以上俗世にとどまることを拒み、修道女となる〉
フィロメーナがしたその話は、淑女たちに非常に喜ばれました。と申しますのは、彼女たちは何度となくその歌曲《カンツオーネ》が歌われているのを耳にしていましたが、それが作られた理由については、人に聞いても、どうしても知ることができなかったからでございます。王さまは、その話の最後を聞いてから、パンフィロに、その順序につづくようにと命じました。パンフィロが話しはじめました。
只今のお話にでてきた夢のことで、私も一つお話ししなければならないことがあるのです。その中で、二つの夢のことがでてまいりますが、それは只今の夢が、起こった事に関するものであったように、今度のは、これから起こる事についてのものであります。その二つの夢は、それを見た人たちが話し終えるとすぐに、その結果が両方に起こったのであります。しかし、愛らしい淑女方、あなた方は、夢にいろいろのことを見るということは、生きているすべての人々のだれにでもある昴奮であって、そのいろいろのことというのが眠っている間は、眠っている者にとっては何もかも正真正銘に思われますが、その人が眼をさますと、そのあるものは真実に、あるものは真実らしく、その他のものは、全然真実らしくなく思われるらしいということを御存じのはずであります。それにもかかわらず多くのことが実際に起こっております。そんなわけで、多数の人々が、眼のさめているうちに見たものを信用したのと同じ程度に、一つ一つの夢を信用し、自分たちの夢そのものによって、その夢の中で心配したり、希望を抱いたりするにつれて、悲しんだり、喜んだりしております。あるいはまた、あらかじめ夢に示された危険に落ちこんでしまったあとでなければ、夢などてんで信じない人々がおります。そのどちらもわたしはほめません。なぜなら、夢はいつでも真実であるとは言えませんし、いつでも嘘だとも言えないからであります。夢の全部が全部真実だとは言えないことは、何度もわたしたちの一人一人が知り得たところであります。また夢の全部が全部嘘でないことは、もう前にフィロメーナの物語に示されておりますし、先ほど申しましたように、わたしは自分の話でそれを示したいと思っております。そんなわけでわたしは、徳にかなった生活や行為をしておれば、それとは反対の夢を見ても一つもおそれる必要はないし、よこしまなことについては、いくら夢がそれに誂え向きで、それを見る人を有利な見せかけで励まそうとも、だれも信用してはいけないし、こんな具合でその反対の場合には夢に全幅の信頼をおくべきだと考えます。では、お話にはいりましょう。
昔ブレーシャの町にネグロ・ダ・ポンテカルラーロ氏と呼ばれる一人の貴族がおりました。この人には何人ものこどもがおりましたが、そのうちに若くて非常にきれいで、まだ嫁いでいないアンドレウォーラという名の娘がありました。この娘は偶然のことからガブリオットという名前の隣の男に想いをよせました。彼は身分の低い男でしたが、ちゃんとしたしつけの、姿かたちも美しく、人好きがする男でした。娘は家の女中の働きや助けを借りていろいろとはたらきかけたので、ガブリオットは、アンドレウォーラに自分が愛されていることを知ったばかりでなく、女の父親の美しい庭に何度もつれこまれてお互いにたのしみました。ですからどんなことがおこっても、死より他にこの二人のたのしい恋をさくことができそうにありませんでした。二人はひそかに夫婦の契りをかためました。ところが、ある夜のこと娘は眠っているうちに、夢でこんなことを見たような気がいたしました。自分がガブリオットと一緒に庭にいて彼を腕に抱いてお互いに心ゆくまでたのしんでいたのです。そうしているうちに、彼の体から何やら黒い恐ろしいものが出てくるのが見えるような気がいたしました。その形はよくわかりませんでしたが、それがガブリオットをつかまえて、彼女がそれを抑えようとしたにもかかわらずものすごい力で、彼をその腕からもぎとり、彼と一緒に地下にもぐってしまうと、それっきり両方とも見えなくなってしまったというのでした。
そこで、彼女は、なんとも言いようのないほど恐ろしくなり、眼がさめてしまいました。眼がさめると、夢に見たようなことは起こっていなかったので、まあうれしいとは思いましたものの、それでも今見た夢が気にかかっておりました。こんなわけで、次の夜ガブリオットが自分のところにきたがりましたが、なんとかかんとか言って、その晩はこさせないようにしようといたしました。それでも、男の熱望を眼の前にして、変に疑われたくないので、その夜も彼を庭に引き入れました。季節でもあり、咲き乱れた白ばらや、紅ばらの花をたくさんつんでから、女は男と一緒に庭の中にあった見事な、明るい噴泉の下に行って腰をおろしました。そこで、二人は、かなり長い間はしゃいでおりましたが、そのあとでガブリオットが、前日自分に来るなと言ったのは、どういうわけかとたずねました。娘は、自分が前夜見た夢のことを物語り、それで心配だったのだと言いました。ガブリオットはそれを聞いて笑い、夢などというものは食べすぎか、食べたりないから見るものだから、そんなものに信をおくなどとは大馬鹿なことで、どの夢だって実のないものであることは毎日経験ずみなことだと言って、そのあとでこうつけ加えました。
「もしわたしが夢のお告げに従うつもりだったら、あなたの夢のせいよりも、わたしが昨夜同じように見た夢のために、ここにはこなかったでしょうね。夢というのはこうです。わたしは綺麗な心地よい森にいて、その中で狩りをしていました。今までにこんなのは見たことがないような、それは美しい、可愛らしい牝鹿をつかまえたと思ったのです。それは雪よりも白くて、じきにわたしに馴れてしまって、ずうっとわたしのところから離れなくなってしまったようなのです。わたしも、とてもかわいくてたまらなかったので、それがわたしのところからにげださないようにと、わたしはその頸に黄金の環をまきつけて、それを黄金の鎖でつないで手に持っていたと思うのです。そうしたあとで、一度この牝鹿が休んでいた時に、わたしがその頸をかかえていると、どこからかわからないのですが、飢えた、見るからに恐ろしい面をした、石炭のように真っ黒な競争犬がとびだして、わたしのほうに向かってきましてね、どうしてもそれには向かうことができなかったのですね。するとその犬はわたしの胸の左側に鼻面をくっつけて、心臓にとどくくらいかみつくと、それをちぎりとって、持って行ってしまったような気がいたしました。痛くてたまらないと思ったら夢が破れてしまいました。眼がさめると、わたしはすぐにどうかなっていないかと思って、胸に手をやってみました。でもどうにもなっていなかったので、そんなところに手をやった自分のことがおかしくなりました。だから一体こんなことがどんな意味を持っているというのですか。こんな、いやそれよりももっと驚くような夢を今までにたくさん見てきているのです。だからと言って、さして何も、わたしの身には起こったことはありません。ですから、そんなことは放っといて、お互いにたのしむことを考えましょうよ」
娘は、自分の見た夢でびっくりしていたところなので、この話を聞くと、腰もぬけるばかりに仰天してしまいました。だが、ガブリオットをがっかりさせるようなことはしたくありませんでしたので、できるだけその心配をかくしておきました。で、何度か彼を抱いて接吻したり、彼に抱かれて接吻されたりしながら、一緒にたのしんではおりましたものの、なんとなく、気がかりなので、いつもよりしげしげと頻繁に男の顔を見つめていましたが、時々何か黒いものがどこからか出てきはしないか確めてみようとして、庭の中をじろじろと見まわしました。そんなふうにしているうちに、ガブリオットは、大きな溜め息をつくと、彼女を抱きしめて言いました。
「ああ! わたしの魂の君よ! 助けて下さい、死んでしまう」
そう言うと、男はどたりと芝生の上に崩れ落ちました。娘はそれを見て、倒れた男を腰に抱きよせると、泣きそうになって言いました。
「ああ、わたくしのいとしいお方、どうなさったのです?」
ガブリオットは答えませんでした。息づかいもせわしく、全身汗でぐっしょりとなり、それからまもなくこの世を去りました。自分の命よりも恋していた娘にとって、それがどんなに悲しい、つらいことであったか、どなたにも考え及ぶことができるはずであります。彼女は大そう泣きました。何度もいたずらに男の名前を繰り返しては、呼びつづけました。男の体をくまなくさすってみると冷たくなっており、全く息絶えていることがわかると、悲しみにつつまれ、涙にぬれながら、この恋を知っている自分の女中を呼びに行き、彼女に自分の不仕合わせを語って聞かせました。そして一緒になって、しばらくの間、ガブリオットの死に顔を見ながら、さめざめと泣いたあとで、娘が女中に言いました。
「神さまがこの方をわたくしからお召しになったからには、わたくしはもう生きていようとは思わないわ。でもわたくしは、自殺する前に、わたくしの名誉と、わたくしたちの間にあった秘密の恋をなんとかお前とうまい方法で守りたいと思うし、おやさしい魂が去ってしまったこの方のお体を埋葬してもらいたいの」
娘に向かって、女中が申しました。
「まあお嬢さま、自殺などとおっしゃってはいけません。だって、もしお嬢さまが自殺をなさったら、そのお方はこの世で失われたのですから、あの世でも失うことになりましょうよ。自殺なさったら、お嬢さまは地獄に落ちるでしょうが、そのお方はよい方でございましたから、その魂はきっと地獄などへは落ちなかったと思います。一番よいことは、お嬢さまが元気をおだしになってお祈りになり、その他よいことをなさって、そのお方の魂の助けになるようにお考えになることでございます。あるいは何か罪でも犯していて、その必要があるかもわかりませんからね。それを埋葬なさることにつきましては、それはここの、この庭ですぐにできます。そのお方が今までに庭へおいでになったことなど、だれも知ってはおりませんから、そうしておけば絶対にだれにも知られずにすみましょう。もしそれがおいやでございましたら、この庭の外に出して放っておきましょう。明日の朝には、身内の方たちに見つけられて、家に運ばれて埋葬されるでございましょう」
娘は悲嘆にくれて、絶えず泣いておりましたが、それでも女中の忠告に耳を傾けておりました。前のほうについては同意しませんでしたが、後のほうについては、こう言って答えました。
「あんなにいとしい、あれほどわたくしが愛していた、わたくしの夫であるお方が、犬のように埋められたり、通りの地べたに放っておかれたりしてもいいと、だれが考えるでしょう。わたくしはあの方のために涙を流しました。わたくしにできることなら、お身内の涙を注いでもらえるようにしてあげたいの。もう、そのことについて、わたくしたちがしなければならないことが、この胸にうかんできたわ」
そうしてすぐに彼女は、自分の櫃《ひつ》にしまってある絹の布をその女中にとりにやらせました。布がとどくと、彼女はそれを地面にひろげて、その上にガブリオットの体をおき、その顔を枕の上にのせて、泣きの涙でその眼と口をとじて、ばらの花輪をのせると、体のまわりじゅうに、二人で摘んだばらの花を一杯につめてから、女中に向かって言いました。
「ここからあの方の家の入り口までは大して遠くはないわ。だからお前とわたくしの二人で、こうして飾ってあげたように、そこへ運んで行って、家の前においておきましょう。もうじき夜が明けるし、そうしたら連れていかれるわ。こうしたってあの方のお家の人たちには何の慰めにもならないでしょうが、それでもこの腕の中で死なれたわたくしにとってはうれしいことだわ」
こう言うと、またもや滝のように涙を流しながら、男の顔の上に身を投げだして、長い間泣きました。夜が明けてきたので、女中にせきたてられて立ち上がると、ガブリオットと結婚したしるしの指輪を自分の指から抜きとると、それを男の指にはめて、泣きながら言いました。
「いとしいお方、もしあなたの魂がわたくしの涙をごらんになり、魂の去ったあとで少しでも肉体に知る力や感じたりする力が残っているとしましたら、御存命中にあなたがあれほど愛して下さった女の最後の贈り物を、快くお受けになって下さいませ」
こう言うと、彼女は気を失って、彼の上に崩れ折れました。少しして正気にかえると、立ち上がって、女中と一緒に死骸がのっていた布に手をかけ、それを持って庭からでると、男の家のほうに向かいました。こうして歩いているところをはしなくも、偶然その時刻に何か事件があって出ていた市長の警邏《けいら》兵に見つけられ、死骸と一緒につかまってしまったのです。生よりも死を望んでいたアンドレウォーラは、政庁の警邏兵だとわかると、正直に申し立てました。
「わたしはあなた方がどなたでいらっしゃるかわかっておりますし、逃げようとしても到底無駄なことも存じております。わたくしはいつでもあなた方と一緒に政庁にまいりまして、事の次第を申しあげるつもりでございます。でも、わたしがあなた方に従っている以上、あなた方のうちどなたもわたしに手を触れるようなことはなさらないで下さい。またわたくしにとやかく言われるのがおいやでしたら、この死骸から何一つ取り上げるようなことはなさらないで下さい」
こんなわけで、だれにも手出しをされずに、彼女はガブリオットの死骸とともに政庁にまいりました。このことを聞くと市長は起き上がって、彼女を調べ室に呼び、持ち上がった事件について訊問をしました。またある数人の医者に、その男が毒かあるいは他の方法で殺されているかどうか調べさせましたが、みなは殺されたのではなく、心臓の近くで潰瘍が破れたので、そのために息がつまったのだと証言しました。市長はそれを聞いて、彼女には大して罪がないことを知り、巧みに金では売れないものを彼女に贈るような風をよそおって、もし彼女が自分に身をまかせるならば、釈放してあげようと言いました。けれどもそんなことばは何の効果もないので、市長は無体にも力を用いようとしました。怒りに燃えて、恐ろしく強い女になっていたアンドレウォーラは、つよい凛としたことばを浴びせながら市長を突き返し、男勝りの力で身を守りました。
しかし夜が明けて、このことがネグロ氏に伝えられました。氏は痛く悲しんで、大勢の友人と政庁にやってきまして、そこで一部始終を市長から聞くと、娘を返してくれるようにと頼みました。市長は、自分が娘に向かって用いようとした暴力沙汰について、彼女にとやかく非難される前に、自分で自分を非難しておこうと思いまして、まず娘と娘の堅固な操をほめ讃えて、それを証拠立てるために自分がしたことを話して、彼女が非常にしっかりした人であるのを知り、自分は心の底から彼女が好きになってしまった、彼女の父親であるあなたや、彼女に異存がなければ、たとえ一度は身分の低い者を夫にしたにもかかわらず、喜んで自分は彼女を妻に迎えたいとつけ加えました。
二人がこうして話をしている時に、アンドレウォーラは父親の前まで行くと、泣きながらその前に身を投げだして言いました。
「お父さま、わたくしは、自分の大胆だったことや、不仕合わせな目にあったことなどのお話をお父さまにお話しする必要はないと存じます。きっとお父さまはそのことをお聞きになり、御存じのことと思いますもの。ですから、わたくしは心の底から手を合わせて、自分の過失について、つまりお父さまの御存じのないうちに、自分の一番気に入った人を夫にしてしまったことについて、お父さまにお許しをお願いいたします。このお許しをお父さまにお願いするのは、何もこの命をお許しいただくためではございません。ただお父さまの敵としてではなく、お父さまの娘として死にたいからでございます」
そう言うと彼女は、泣きながら父親の足もとに倒れかかりました。もう年をとっているし、生来やさしい愛情にとんだ人だったネグロ氏は、このことを聞くと泣きだしました。そしていたわるようにして娘を立たせてから言いました。
「娘よ、わしは、お前がわしの意見に従って、お前が釣り合いの夫と結ばれていたら、随分うれしかったことだろう。で、もしお前が自分に気に入った夫を選んでいたとしても、その人は、わしにも気に入ったにちがいないよ。だが、その人をかくしていたことは、お前がわしを信用していなかったからで、わしには悲しいのだ。わしが知らないうちに、その人をお前が失ってしまったのを見るのは、なおさらたまらなくつらいよ。だがそれでも、もうこうなってしまったからには、この人が生きていたら、お前の気に入るように、よろこんでその人のためにしてあげられたようなこと、つまりわしの婿にふさわしい取り扱いを今は亡きその人のためにしてあげよう」
で、氏はこどもたちや、親戚の者たちのほうに向かって、ガブリオットのために盛大な葬式をしてあげるように命じました。こうしているうちに、その話を耳にした青年の親戚の男女や、その町にいたほとんど全部の男女が駈けつけてきました。そこで、アンドレウォーラの布にのせられた上、彼女のばらの花につつまれて、中庭の真ん中におかれていた遺骸は、そのまま彼女や、彼の親戚からばかりでなく、町のほとんどすべての女や大勢の男から公然と涙をそそがれて、普通の人のようにではなく、遺族のようにして、中庭から持ち出されると、最も身分の高い市民たちの肩にかつがれて、非常に鄭重に墓地に運ばれて行きました。それから数日の後に、市長が前に要求していたことをなおも言ってきますので、ネグロ氏はそのことを娘に伝えましたが、娘はなにも耳に入れようとはしませんでした。そのことについて、父親は娘の気に入るようにまかせたいと思っていました。その後彼女とその女中は、その高徳をあまねく知られていたある修道院にはいって修道女となり、そこで長い間清らかな生活を送りました。
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第七話
[#この行3字下げ]〈シモーナはパスクイーノを愛している。二人がある庭園で一緒にいる時、パスクイーノはサルヴィアの葉で自分の歯をこすり、そのために死ぬ。シモーナはとらえられて、裁判官にどんなふうにパスクイーノが死んだかを示そうとして、その葉の一枚で自分の歯をこすり同じように死ぬ〉
パンフィロは彼の物語から解放されました。その時に王さまは、アンドレウォーラにはなんの同情も示さず、エミリアを見つめながら、今まで話した人々のあとをつづけて、お話をしていただけるとうれしいというような様子をして見せました。エミリアは少しもためらわずに話しはじめました。
愛する友人のみなさん、パンフィロのお話で、わたくしも一つそれと似たお話をぜひ聞いていただきたい気になりました。アンドレウォーラが庭で恋人を失くしたように、わたくしがお話し申しあげる婦人も、同様な目にあった上に、アンドレウォーラと同様にとらえられまして、力や徳の力というよりも、不意の死によってではありますが、法廷から釈放されたという点などが似ているのでございます。前にもわたくしたちの間でお話がでましたように、恋はすすんで貴族たちの家に住んでおるとは申しながらも、それだからと言いまして、貧しい人たちの家を支配することを拒みはいたしません。むしろ時々は、貧しい人たちの家でその力を示して、最も金持ちな人々にも、非常に権勢のある紳士のように、自分をこわがらしているほどでございます。このことは、たとえ全部ではなくても、大部分わたくしの話の中にあらわれてくることでございましょう。今日は種々のことを、それぞれ変わった話で取り扱って、世界のいろいろのところをめぐりまして、大分遠ざかってしまったわたくしたちの町にもどってこようと思います。
さて、まだそう昔のことではございません。フィレンツェにいやしい身分にしては大変器量よしで気立てのやさしい娘がおりました。貧しい父親の息女で、シモーナという名前でございました。自分の腕で食べたい糧をかせがなければならず、羊毛をつむいでその生活をささえておりました。だからと申して、その胸に恋を受けいれる勇気がないほどいじけた魂の者ではございません。恋は、彼女と同じ身分の一人の若者のうれしい行為やことばで、大分前から彼女の胸の中にとびこみたい様子を見せていました。その若者というのは、その主人の羊毛商人のために、彼女に紡ぐ羊毛をとどけに行っておりました。さて彼女は、パスクイーノという名前の、自分に思いをよせているその若者の美しい顔を胸にひめて、恋いこがれつつも、それ以上には出ようとしないで、つむぎ仕事をしながら、紡錘《つむ》に巻いた羊毛の一巻きが仕上がるたびに、彼女は火よりも熱い無数の吐息を吐いて、それをつむぐようにと持ってきてくれた男のことを思い出しておりました。一方男のほうは、主人の羊毛がよくつむがれるようにと非常に気を使うようになって、まるでシモーナがつむぐ羊毛だけが織物の全部になるのであって、ほかのものはそうではないとでも考えているように、他の女たちよりもずっと頻繁に彼女をせき立てておりました。そんな次第で、女のほうがせき立てられるのをよろこんでいるうちに、男のほうは今までよりもずっと勇敢な態度をとるようになり、女のほうも今までいつも持っていた怖い気持ちや、恥ずかしい気持ちを大分追い払って、ともに契りを結んでよろこびをわかったのでございます。それはどちらにとってもとけるようなうれしいものでしたので、そのためにはお互いに誘われるのを待っているばかりか、むしろ、お互い逢瀬を招き合うようになりました。こうしてこのたのしみを一日一日とつづけておりましたが、ますますそのうちに恋のほむらは燃え上がりまして、ある時のこと、パスクイーノはシモーナに、ある庭園に何とかしてくるようにしてもらいたい、そこならもっとのびのびとして、人目にふれないで一緒にいられようからと言いました。シモーナも賛成して、ある日曜日の食事のあとで彼女は、父親には、ラジーナという友だちと一緒に聖ガッロの免罪のお詣りに行ってきたいからというように見せて、ラジーナと二人で、パスクイーノに教えられた庭園に行きました。そこにはパスクイーノがプッチーノという名前の、でも通称をストランバという友人と一緒におりました。そこで、ストランバとラジーナがいちゃつきだしましたので、二人をそこに残して、自分たちもたのしもうと庭の片側に行きました。
パスクイーノとシモーナがはいって行った庭のその辺には、サルヴィアの大変大きな見事な叢がございました。二人はその根もとに腰をおろして、長い間ともにたのしい思いをしました。そして、その庭でゆっくりした気持ちで食べようとしていたお三時のことをさかんにしゃべってから、パスクイーノはサルヴィアの大きな叢から、その葉を一枚摘みとると、このサルヴィアは食後に歯につまっているものをなんでもきれいにとってくれるよと言いながら、その葉で自分の歯やはぐきをこすりはじめました。こうしてしばらく歯をこすっておりましたが、はじめに話をしていたお三時の話にもどりました。そうして話をつづけたと思ったら、その顔色がすっかり変わりだして、顔色が変わったと思うと瞬く間に眼が見えなくなり、口がきけなくなって、じきに死んでしまいました。それを見ていたシモーナは、泣いて大声をだして、ストランバとラジーナを呼びました。二人が駈けつけて見ると、パスクイーノが死んでいるばかりでなく、もうすっかりむくんで、顔にも体にも一杯に黒いしみがでていました。それを見たストランバがいきなりどなり立てました。
「ああ! 悪い女め、お前が毒を飲ませたんだな!」
そう大声を張りあげたので、庭の近所に住んでいた多くの人々がそれを聞き、駈けつけてきました。見ると、男が死んでおり、ストランバが悲しんで、あいつがだまして毒を飲ませたのだとシモーナを非難しているのをききました。シモーナと言えば、自分の恋人を奪いさった突然の出来事に、まるで気を失ったようになって、身のあかしも立てられないありさまで、みなはストランバが言うとおりだろうと思いこんでしまいました。
そこで彼女をとらえると、大声で泣きわめく彼女を市長の屋敷に連れて行きました。そこでは、駈けつけてきたパスクイーノの友人たちのアッティッチャートやマラジェーヴォレ、それからストランバがうるさく申し立てましたので、裁判官は何の躊躇もせずに事件を調べはじめました。彼女がこの事件で何か悪いことをしたり、罪を犯したりしたおぼえがないというので、彼女が申し立てた死骸の場所やその様子などを、彼女の立ち会いのもとで見てみようと思いました。彼女のことばでは、それがよく呑みこめなかったからでもあります。そこでこっそりと彼女を連れて、まだパスクイーノの死骸が樽のようにふくらんで横たわっているところに行きました。そして死骸を見て驚き、彼女にこれはどうしたのかとたずねました。彼女は、サルヴィアの叢に近づいて、今までの話をいっさい物語ってから、起きた事件を十分にわかってもらおうと思って、ちょうどパスクイーノがやったように、サルヴィアの葉の一枚で自分の歯をこすりました。そうしたことは、ストランバやアッティッチャートや、その他パスクイーノの友人や仲間の者たちによって、裁判官の前で、くだらない意味のないことだと嘲笑されました。その性悪はもっとしつこく非難攻撃をあびせられて、かかる性悪には火刑以外に罰する手はないと、彼らから要求が出されておりました時に、失われた恋人の悲しみや、ストランバが要求した刑罰の恐ろしさに気も顛倒していた女は、かわいそうに、サルヴィアで歯をこすったために、前にパスクイーノに起こったのと同じようなことが彼女に起こって、立ち会っていた人々全部の一方ならぬ驚きのうちに、彼女はその場に打ち倒れてしまいました。
ああ、同じ日に、灼熱の恋とかぎりある命を終える仕儀となった幸福な人々よ! もしあなた方がともに手をたずさえて同じ所に行くことができたならば、もっと幸福でございましょう。またもしあの世でも愛しあうものであって、あなた方がこの地上で愛したように愛しあうとしたら、きわめて幸福なことでございましょう! しかし特にシモーナの魂は、彼女のあとに残って生きているわたくしたちの判断によりますれば、はるかにずっと幸福なものでございまして、運命は彼女の純潔が、ストランバや、アッティッチャートや、マラジェーヴォレなど、たぶん毛梳き人か、それよりもいやしい身分の男たちの証言に負けることを望まないで、彼女のために、その恋人の死にかたと同じ死にかたをあたえて、男たちの悪罵をのがれ、彼女があれほどいとしく思っていた恋人のパスクイーノの魂のあとを追うための最も貞節な道を見出されたのでございます。裁判官は、立ち会っていた人々とともにその出来事に全く肝もつぶれるばかりで、なんと言っていいのか迷ってしまい、長い間考えこんでおりましたが、そのあとで、ふたたび正気に戻ると言いました。
「このサルヴィアは有毒だというわけだ。普通のサルヴィアにはないことだよ。しかしこれが同じように他の人に害をあたえないように、根こそぎ切りとって火にくべてしまえ」
言われたとおり、庭の番人だった男が裁判官の面前でやりだしまして、大きな叢を地上に切り倒すか倒さないうちに、二人のいたましい恋人の死の原因があらわれました。そのサルヴィアの叢の下に、とてつもなく大きいひき蛙が一匹おりまして、その毒気で、そのサルヴィアが有毒なものになっていたことがわかりました。そのひき蛙にだれも近づく勇気がなかったので、そのまわりに枯れ枝や麦わらを山のように積んで、そこでサルヴィアと一緒に焼き払って、かわいそうなパスクイーノの死に関しての裁判官の裁きは終わりました。パスクイーノは、恋していた娘シモーナとともに、いずれもむくんでふくれあがったまま、ストランバや、アッティッチャートや、グッチョ・イムブラッタや、マラジェーヴォレによって、たまたま二人がその司祭教区に属していた聖パオロ教会に埋葬されました。
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第八話
[#この行3字下げ]〈ジロラモはサルヴェストラに恋をする。母の願いによってやむなくパリに行き、帰って見るとサルヴェストラが結婚している。ひそかに彼女の家にしのびこんで、彼女のそばに身を並べて死ぬ。教会に運ばれると、サルヴェストラが彼のそばに身を並べて死ぬ〉
エミリアのお話が終わりました。その時ネイフィレが、王さまの命令でこう始めました。
すぐれた淑女のみなさん、わたくしの考えるところによりますと、自分では他の者たちより物知りだと思いこんでいながら、実はそうでない人たちがおります。彼らは、このために、人々の忠告に対してばかりでなく、また事物本然の理に対しても、自分たちの分別であたろうと考えているのでございます。そうした思いあがりについては、すでに非常に大きな禍いが起こっておりますが、いいことは今までに何一つ見られませんでした。そうした自然のものの中で、忠告なり、反対の行動なりを一番受け入れないものが恋でございまして、恋の性質は、どんな対策で取り除くよりも、むしろ自分自身で燃えつくすと言ったものでございます。そんなわけで、わたくしはある婦人のお話をあなた方に申しあげようと思いつきました。その婦人は、自分が身に備えていた以上に、さらに自分の分別をひけらかそうとして、限度以上に利口にふるまい、恋する心から、おそらく星が芽生えさせた恋を取り去ろうとしましたので、かえって、その息子の肉体から恋と魂を同時に追い出すようなことになったのでございます。
さて年寄りたちの話によりますと、わたくしたちの町にレオナルド・シギェーリという名前の非常にりっぱな金持ちの商人がいました。この人は妻との間にジロラモと呼ぶ息子ができましたが、この息子の誕生の後に、身の廻りのことをよく整理してから、この世を去りました。少年の後見人たちは、その母親と一緒に少年の事業をよく指導いたしました。少年は近所の者たちのこどもと一緒に育ちましたが、その界隈のどのこどもよりも仕立屋の娘で彼と同じ年頃の女の子と親しくなりました。年がしだいに大きくなってまいりますと、親しい間柄は激しい恋に変わり、ジロラモは彼女の顔を見ないと気分が悪くなるというありさまでしたし、むろん彼女のほうでも、男から愛されているのと同じように男を愛しておりました。少年の母親はそれを知って、何度もそのことで彼をののしり、折檻《せつかん》しましたが、その後もジロラモはやめようとはしませんでした。母親は少年の後見人たちとそのことをなげいて、息子の富裕な財産でスモモの木をオレンジの木に変えようと思いこんでいたので、彼らにこう言いました。
「まだやっと十四にも手のとどかないこのうちの子が、近所の仕立屋のサルヴェストラという娘を思いつめてしまって、もし今のうちにその娘《こ》を離しておかないと、ひょっとしていつか、だれも知らないうちにあの娘を妻にしてしまい、わたくしはそれっきり不仕合わせな日しか送れなくなるでしょう。もしまた他の男がその娘と結婚するのを見たら、あの子はあの娘のために死んでしまいますよ。ですから、こんなことが起こらないように、あなた方にぜひとも、店の用事であのこどもをどこかここから遠いところにやってもらいたいのです。あの娘に会えないようにしておけば、娘のことも忘れてしまうでしょうし、そのあとで家柄のよいどこかの娘を妻に迎えてやれましょうからね」
後見人たちは婦人の話のとおりであるし、できるだけそうしようと言って、少年を店に呼んできて、その中の一人がやさしく話しかけました。
「ねえ、坊やはもう大きいんですよ。ですから自分で商売をごらんになるようにしたらよろしいでしょう。そこでわたしたちは、あんたがしばらくパリに行っていて下さると大変うれしいんですがね。パリではあなたの財産の大部分がどんなふうに取引されているかおわかりになりましょう。そればかりでなく、そこにたくさんいるあの紳士や男爵や貴族をごらんになり、その作法を見習って、ここにいるよりもずっと上品で、しつけもよくなり、立派になりましょう。その上でこちらへお帰りになったらよろしいでしょう」
少年は熱心に耳を傾けていましたが、自分は、フィレンツェにいるのが、他の者と同じようにうれしいのだから、そんなことはしたくないとことば少なに答えました。有能な人たちはこれを聞いて、さらに多くのことばを用いて、彼をためしてみました。けれども別の返事を引き出すことができませんでしたので、そのことを母親に話しました。母親はそれを聞くと非常に腹を立て、こどもがパリに行きたがらないことよりも、その恋愛問題について彼にとてもひどいことを言いました。その後で甘いことばでなだめすかし、後見人たちが望んでいたことをしてくれないかとやさしく機嫌をとったり、頼んだりしはじめました。たいへんうまくもちかけたので、息子は一年だけ、それ以上はいやですが、行ってくることにしようと承諾しました。こうしてジロラモは、恋いこがれる胸をいだいてパリに行って、一日のばしに帰国をのばされ、そこに二年間とめておかれました。それから前よりも恋に身を焼かれる思いで帰ってきますと、思う相手のサルヴェストラは天幕作りをやっていた若者と結婚していることがわかり、一方ならず悲しみました。しかし、どうすることもできないとわかりましたので、諦めようといろいろやってみました。彼女がどこにいるのかをさがしだして、恋に落ちた若者たちの風習にしたがって、彼女の家の前を通りはじめました。自分で女のことを忘れなかった以上、女が自分を忘れはしなかっただろうと思っていたのでございます。だが事態はそれとはちがっておりました。彼女は彼のことなぞ全く覚えておりませんで、今まで彼に会ったことなどはないようなふうでした。たとえ何か覚えているようなことがあったとしても、わざと知らん顔をしていました。青年ジロラモはすぐにそれに気がつき、非常に嘆き悲しみましたが、それでも、もう一度女の心を取り戻そうとできるだけのことをしてみました。けれどもそれが何の役にも立たないように思われたので、命をかけても自分の口からじかに彼女に話してみようと決心をしました。近所の者から、女の家のつくりがどうなっているか聞いておいて、ある晩彼女と夫が近所の人々のところに夜ふかしをしに行った留守に、こっそりと家の中にしのびこみ、彼女の寝室の、そこに拡げてあった天幕の布のうしろにかくれました。そして、二人が帰ってきて、寝室にはいってくると、彼女の夫が寝こんでしまうのがわかるまでじっと待っておりました。それから彼はサルヴェストラが横になるのを見ておいたところに行って、彼女の胸に片手をのせると、低い声で言いました。
「おお、わたしの魂よ、お前も眠っているのかい?」
まだ眠っていなかった女は、大声をたてようとしました。でも青年はすぐに言いました。
「後生だ、大声を出さないでおくれ、わたしはお前の恋人のジロラモなんだから」
それを聞いて彼女は、ふるえあがって言いました。
「まあ! どうしましょう、ジロラモ、出て行って下さい。わたくしたちのこども時代には、好きな同士でいても差し支えはありませんでしたが、そんな時代は過ぎ去ってしまったのです。わたくしは、ごらんのとおり、結婚しているのです。ですから、夫以外の男に思いをよせることはいけないことです。だから、一生のお願いですから帰って下さい。もし夫があなたのおっしゃっていることを耳にしたら、ほかにひどいことが起こらないとしても、きっとわたくしが夫と仲よく暮らしていけなくなるようなことになりましょう。でも只今のところ、わたくしは夫に愛され幸福な日を送っているのです」
青年はこうしたことばを聞いて、胸も痛むような悲しみを覚えました。そしてありし昔のことを彼女に思いださせ、遠く離れていても決して弱まるようなことがなかった自分の恋心についてその記憶をよびさまして、いろいろと多くの嘆願をして、非常に大きな約束を申しでましたが、なんの効き目もありませんでした。そこで今は生きている望みもなくなり、最後に自分はお前を待っていて体が氷のように冷えきってしまったから、体が暖まる間だけでも、お前の隣にならんで横になることを、わたしの恋に免じて、どうか許してほしいと頼みました。
そして、彼女には一言もしゃべらないし、その体にはさわらないで、少し体が暖まったら出て行くと約束しました。サルヴェストラは、彼がすこしあわれになってきましたので、彼の条件のもとに、これを許しました。そこで青年は彼女のそばに並んで身を横たえましたが、女の体に触れはしませんでした。そして、女によせてきた長い恋や、女の今の冷たい仕打ちや、希望の失われたことなどを一度に思いつめて、もう生きてはいまいと決心をして、自分で息をとめると、なんとも言わずに拳をにぎりしめて、女の傍に並んだまま死んでしまいました。少ししてから女は、男がおとなしくしているのにびっくりして、夫が眼をさましてはと心配しながら、声をかけました。
「ねえ、ジロラモ、どうして出て行かないんですの?」
返事がないので、男が寝こんでしまったのではないかと考えました。そこで眼がさめるようにと、片手をぐっとのばして触ってみると、氷のように冷たくなっていましたので、びっくりしてしまいました。もっと力を入れて触ってみますと、男が動かないのがわかりました。何度も触ったあげくに、男が死んでしまっているのがわかり、彼女はすっかり悲しくなって、どうしたらよいかわからず、しばらく呆然としておりました。とうとう彼女は、ほかの人のことにかこつけて、そんな場合に夫がどうするか、聞いてみようと思いました。そこで夫を起こすと、現在自分に起こったことが別の女の人にあったようにして話しました。それからもしそんなことがわたくしに起こったら、あなたはどんな措置をとりますかとたずねました。善良な夫は、自分なら死んだ男をそっと男の家まで運んで行って、そこにおいてくる、細君は過ちを犯したとは思えないから、ちっとも叱ることはないだろうと思う、と答えました。
「そこで、そのとおりにわたくしたちはしなくてはいけないのです」
と彼女は言って、夫の手をとると死んでいる青年にさわらせました。夫は気も顛倒して立ち上がると明りをつけて、妻とはそれ以上何の話もしないで、その死骸にもとのように着物を着せて、その無実のために力も出て、さっそくそれを肩にかつぐと男の家の戸口まではこんで行き、そこにおろしておきました。夜が明けて、その者が家の戸口の前に死んでいるのが発見されましたので、みなは、特に母親は大変な騒ぎようでした。体じゅうを調べて、何度も見てみましたが、なんら傷のあとも殴られた形跡も見つかりませんでしたし、医者たちもみなこれは、事実そうだったように、悲嘆が原因で死んだのだと考えました。さて、この死骸はある教会に運ばれました。悲しみにつつまれた母親は、親戚や近所の女たち数人と一緒に教会にやってきて、わたくしたちの習慣に従い、死者のために滝のように涙を流して、なげき悲しみはじめました。こうして非常な悲嘆にくれている間に、ジロラモが死んだ家では、善良な夫がサルヴェストラにこう言いました。
「さあ、頭にマントでもかぶって、ジロラモが運んでいかれたあの教会に行って、女たちの間にもぐりこんでおくれ。そうして、この事件で人々が話し合っていることを聞いておくれ。わたしも男たちの間にはいって、そうしてみよう。わたしたちのためにならないようなことを言ってるかどうか、知りたいからね」
あとであわれっぽくなってきていた女は、生きているうちはただ一つの接吻もしてあげようとしなかった男を、死んだ今になって一目見たいと思っていましたので、その申し出によろこんで、教会に行きました。恋の力というものを探りだすことがどんなに難しいものであるかを考えますと、それは実に驚嘆すべきものでございます。ジロラモのうれしい幸運が叩いてもひらくことができなかったその胸を、不運がひらいたのでした。女が死者の顔を見た時に、そうした不運は彼女の胸によみがえってきていた昔の焔をみるみるうちにことごとくあわれみの心にかえてしまいました。そのために女はマントの下に身をかくして、女たちの間にはいりながら、死骸のところに行きつくまでがまんしてはおりましたが、そこに行きつくと、あっと一声叫び、死んだ青年の上にその顔をうずめました。しかし、その顔は涙で濡れはしませんでした。というのは悲嘆のあまり青年が命を奪われたように、彼女も青年に触れるか触れないうちに、こときれたからでございます。女たちは、彼女がだれだかわかってはおりませんでしたが、彼女に元気をつけて、起きるようにとしばらく話しかけていましたが、起き上がりません。起こそうとして動かないのに気がついて、それで引き起こしてみると、その女がサルヴェストラであり、死んでしまっていることがわかりました。そんなわけで、そこにいた女の人たちは二重の痛ましさにうちひしがれて、ふたたび前以上に泣き叫びました。その話が教会の外の男たちの間にひろがりまして、男たちにまじっていた彼女の夫の耳にはいりました。彼はだれの慰めも、励ましのことばも聞かず、長い間泣いていましたが、やがて、そこにいた大勢の人たちに向かって、昨夜この青年と妻との間に起こったことを物語りましたので、みなは二人のそれぞれの死の原因をはっきりと知って、一人残らず悲嘆にかきくれました。そして、死んだ女の死骸を持ち上げて、普通死骸にするように、よそおいをこらして、同じ寝床《とこ》の上に青年とならべて横たえました。そこで彼女の死骸はしばらくの間涙を注がれてから、二人は同じ墳墓に埋葬されました。愛がその存命中に結ぶことができなかった二人を、死がわかつことのできないえにし[#「えにし」に傍点]で結んだのでございます。
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第九話
[#この行3字下げ]〈グリエルモ・ロッシリオーネ氏は、妻が愛していたグリエルモ・グァルダスターニョ氏を殺したうえ、その心臓を自分の妻にあたえて食べさせる。妻はこれを知って、高い窓から下に身を投じて死に、その恋人とともに埋葬される〉
ネイフィレのお話が、仲間のみなに大きなあわれみの情をひき起こして終わりを告げましたので、王さまは、ディオネーオの特権をふみにじる考えはありませんし、他に話をする人が残っていませんでしたので、話しだしました。
あわれみ深い淑女のみなさん、あなたがたが恋の不幸な事件をそんなに悲しく思っていられるのを見て、只今のお話に劣らずあなたがたの同情をかき立てずにはおかないようなお話を一つ思いだしました。というのは、わたしがお話する事件が起こった人々は、今のお話の人々よりももっと高い身分の人々でして、事件ももっとはげしいものだったからであります。
さて、プロヴァンスの人たちの言い伝えるところによりますと、プロヴァンスにかつて二人の騎士が住んでおり、どちらも城と家来を持っていました。その一人はグリエルモ・ロッシリオーネと言い、も一人はグリエルモ・グァルダスターニョという名前でございました。双方とも武術にかけては非常に剛毅でしたので、互いに仲よくしており、大抵の野試合や騎馬槍試合、その他の武技にはいつも一緒に、同じ軍服をつけて出かけていました。銘々自分の城に住んでおり、十マイルも離れていました。さてグリエルモ・ロッシリオーネが非常に美しい、愛らしい女性を妻にしておりましたので、グリエルモ・グァルダスターニョは互いの友誼や親睦にもかかわらず、彼女に一方ならぬ思いをこがす身となったのでございます。グァルダスターニョ氏がいろいろとはたらきかけた結果、女はそれに気がつき、同氏が非常に立派な騎士であることを知って、彼を好きになり、恋しはじめました。そのうちに彼の他には何も望まず、愛しもしないといった熱中ぶりで、今はただ彼のほうから切り出してくれるのを待っておりました。それもじきに事実となってあらわれました。二人は、一度ならず一緒にはげしく愛し合いました。
二人はあいびきに十分な用心をしませんでしたので、夫がそれに気がついて大変立腹し、今までグァルダスターニョに対して抱いていたあつい友情のかわりに、相手の死を見ねばやまない憎悪を燃えたたせたのでございます。けれどもそのことは、二人の恋人がその恋をかくしているよりももっと巧みにひとり胸の中にかくしておいて、どうしても彼を殺害する決心をしました。
ロッシリオーネがこうした決心をかためていると、フランスで大野試合が催されることになりました。ロッシリオーネはさっそくそのことをグァルダスターニョに知らせて、もしよかったら自分のところに来ていただきたい、行ったものかどうか、またどんなふうにして行こうか、相談しようと言ってやりました。グァルダスターニョは大喜びで、翌日まちがいなく晩餐に伺うと答えました。ロッシリオーネはこれを聞いて、相手を殺せる時機到来と考えました。そこで翌日武装して数名の家来たちを従え、馬にまたがり、自分の居城から一マイルばかりのところの、グァルダスターニョが通るにちがいないある森に待ち伏せておりました。かなり長い間待っていると、こちらのことについては何の疑いも持っていないので、武装などせずに彼が、これもまた武装をしない二人の家来をうしろに従えてやってくるのが眼にはいりました。彼らが、その望みの場所にさしかかったのを見て、ロッシリオーネは狂いたって、憤怒にまかせて槍を片手に振りあげると、「くたばれっ!」と叫びながら、相手にとびかかって行き、同時に槍を相手の胸に突き刺しておりました。グァルダスターニョは、なんの防御も、ほんの一言も口をきくことができずに、その槍に貫かれて倒れると、まもなく死んでしまいました。彼の家来たちはだれがそんなことをしかけたのかも見きわめないで、馬のたてがみを返すと、まっしぐらに自分たちの主人の居城に向けて逃げだしました。ロッシリオーネは馬からおりると、短刀でグァルダスターニョの胸を切り割いて、両手でその心臓をとりだして、槍の小旗につつませた上、家来たちの一人にそれを持っているように命じました。そしてこのことについてはだれもしゃべるような無思慮なことをしてはいけないと言いつけてから馬に乗り、もう夜でしたので、自分の城に帰って行きました。
グァルダスターニョが晩餐にみえると聞いていた夫人は、胸をときめかして待ちこがれておりましたが、やってこないので心配して夫に申しました。
「あなた、グァルダスターニョさんがおいでになりませんが、どうなさったのでしょう?」
夫が言いました。
「あの人は明日にならないとこられないと、知らせてきているよ」
これを聞いて夫人は少しばかり心配になりました。ロッシリオーネは、料理人を呼んでこさせてこう言いました。
「この猪の心臓で料理を作ってくれ。できるだけ腕をふるって、一番上等の、一番おいしいやつをな。わたしが食卓についたら、銀の皿にのせてそれを運ばせてくれ」
料理人はそれをとると、それを細かく切った上、ありったけの腕をふるい、丹精をこめて、上等の香料をうんと加えて、すばらしいシチュー料理をこしらえました。グリエルモ氏は、その時刻になったので、夫人と一緒に食卓につきました。料理が運ばれましたが、彼は自分が行なった悪事のために、すっかり考えこんでしまって、少ししか食べませんでした。そこへ料理人がシチュー料理を運んできました。彼はその晩は食欲がないような振りをよそおって夫人の前におかせ、夫人に向かってその料理をほめそやしました。夫人は食欲がなくはありませんでしたので、それを食べはじめ、おいしいと思いましたので、全部平げてしまいました。騎士は夫人がそれを全部食べてしまったのを見て言いました。
「この料理はどうだったね?」
夫人が答えました。
「旦那さま、ほんとうにおいしゅうございました」
「ああ」と、騎士が言いました。「そうだろうと思うよ。生きている時に何よりもお前に好かれていたものが、死んでからもお前に好かれているからといって、ちっとも驚くにはあたらないよ」
夫人はこれを聞いて、しばらく黙って考えこんでおりましたが、そのあとで言いました。
「なんですって? あなたがわたくしに食べさせたこれは、なんでございますか」
騎士が答えました。
「お前が食べたものは実は、不貞な女としてお前があれほど愛していたグリエルモ・グァルダスターニョの心臓だったのだよ。わたしが戻ってくるちょっと前に、この手であいつの胸からはぎとったんだからね。その心臓だったということをはっきり知っていてもらいたいね」
彼女が何よりも愛していた人のこうしたことを聞いて、夫人の悲しみがいかばかりか、お聞きになる必要はないでしょう。夫人は、しばらくしてから言いました。
「あなたは、不誠実な、悪い騎士がすることをなさいました。なぜなら、あの方がわたくしに強いたのではなく、わたくしのほうからあの方を恋の主人とし、そのためにあなたの名誉を恥ずかしめたのでございますから、その罰はあの方ではなく、わたくしがうけなければならなかったのでございます。でもお願いですからグリエルモ・グァルダスターニョのようなおえらい、御親切な騎士の心臓のように気高い料理の上に、他の料理がはいって行くようなことがありませんように!」
そして立ち上がると、彼女は自分のうしろにあった窓から、何も考えずに身を投げました。窓は地上から大変高いところにありましたので、夫人は落ちると、死んだばかりでなく、ほとんど全身が砕けてしまいました。グリエルモはこれを見ると、すっかり肝をつぶして、悪いことをしたと思いました。そしてプロヴァンスの土地の人々や伯爵のことをおそれて、何頭かの馬に鞍をおかせると、そこを立ち去りました。翌朝、この事件がそのあたりじゅうに知れわたりました。そこで二人の遺骸は、グリエルモ・グァルダスターニョの城の者たちや、さらには夫人の城の者たちに、底知れぬ悲しみと涙のうちに引き取られ、夫人の城の教会で、同じ墓所に葬られました。その上にはそこに埋葬されたのがだれであるかということや、その死の様子や原因を説明する詩が書かれてありました。
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第十話
[#この行3字下げ]〈ある医者の妻が、麻酔薬を飲んで眠ってしまった恋人を、死んだものと思って箱に入れると、その箱を男ごと二人の高利貸しが家に持って行く。男は眼をさますが泥棒としてとらえられる。医者の妻の女中が市庁に、高利貸したちが盗んだ箱の中に男を入れたのだと申し出て、そのために、男は絞首刑をまぬがれ、金貸したちは箱を盗んだかどで罰金刑に処せられる〉
すでに王さまがそのお話を終えたので、あとお話をするのはディオネーオだけになりました。彼はそれを知っておりましたし、もう王さまからの命令もありましたので話しだしました。
今までに物語られた不幸な恋の悲しいくさぐさには、あなたがたばかりでなく、わたしの眼や胸も痛く悲しまされて、そのためにわたしはそんな話がはやく終わればいいと心から望んでいたのであります。そうした悲しい話も終わった今、わたしはもうこうした悲しい話題のあとを追わずに、もっといくらか愉快な、よい話をしたいと考えます。たぶんそれは明日のお話に一つの暗示をあたえることでありましょう。
さて、いとも美わしい若い御婦人方よ、あなたがたは、サレルノにその名をマッツェオ・デッラ・モンターニャという非常にすぐれた外科医がいたのは、まだそう古いことではないことを御存じのはずであります。この人はすでに最後の老齢期に達していましたが、その町のみめ美わしい、品のよい若い娘を妻に迎え、上品で豪華な衣裳や、いろいろの宝石など女のよろこびそうなもので、町の他の女のだれにも負けないくらいに飾り立てていました。でも彼女は、寝台の中では夫にろくに抱かれていなかったので、いつも凍えていたのは事実であります。彼は、前にお話ししたリッカルド・ディ・キンツィカ氏がその妻に祭日を教えていたように、女と一度寝ると何日かわからないが、力の回復を図らねばならないとか、そういったばかげたことを、彼女に言って聞かせました。そこで彼女は不満やる方ない生活を送っておりました。利口で、ひろい気持ちの女でしたので、家にあるものを倹約しようと思って、盗人になって、他人のものを使おうと決心しました。あれこれと幾人もの若い男たちを物色しておりましたが、とうとうその一人が彼女の気に入りました。
彼女はその青年にあらゆる望みや、胸の思いのありったけや、愛情のすべてをうちこみました。青年はそのことに気がつくと夫人がとても好きになって、これも同じように自分の愛情をあげて彼女に傾けました。この青年は、ルッジェーリ・ダ・アイエロリという名前でした。貴族の出でしたが、身持ちは悪いし、火の車でしたので、彼に好意をよせたり、彼に会いたがるような親類や友人は一人も残っておりませんでした。サレルノじゅうで、彼は窃盗やその他極く卑劣な悪業で悪い評判を立てられておりました。夫人は、それとは別の理由で青年が好きだったので、そんなことはなんとも思わず、女中の一人を使ってうまくはこんで逢いびきしました。二人でしばらくたのしんだあと、夫人は彼の今までの生活を非難して、自分を愛しているのなら、そんなことは止めてほしいと頼みました。そして、そのために青年に時々一定の金を援助することにしました。
それから非常に用心深くやっているうちに、ある日のこと、医者のところに片脚がめちゃくちゃになった患者が運びこまれてきました。その患部を見て医者は、患者の親戚の者たちに向かって、もし脚の中にある腐った骨を取り出さなければ、脚全体を切るか、それとも死ぬしかない、骨を切り取ればなおるかも知れないが、癒る責任は持てないだろうと言いました。彼の親戚の人々はそれに同意して、その条件で彼を医者にゆだねました。医者は、患者が麻酔をかけないと苦痛に耐えもしなければ、治療もさせないだろうと考え、また夕方この仕事にかかるはずでしたので、治療に必要な時間だけ患者に苦痛をあたえないでいられるようなある種の水薬を調製しておきました。そしてそれを家に持ってこさせて、それが何であるかだれにもいわないで、自分の寝室においておきました。夕方になり、医者がその患者のところに行かなければならないと思っていると、マルフィのある大の仲良しの友人たちのところから一人の使いがまいりまして、大喧嘩があって、たくさんの者がけがをしたから、ただちにおいでを願いたいと言ってきました。
医者は脚の治療は次の朝に延期して、小舟に乗るとマルフィに行きました。そんなわけで夫人は、彼がその夜、家に帰るはずがないことを知って、いつもやっていたようにこっそりとルッジェーリを自分の寝室に引き入れて、家の他の者たちが寝に行ってしまうまで、中に閉じこめておきました。
さてルッジェーリは寝室にいて、夫人を待っているうちに、その日にした仕事のせいか、あるいは塩辛い食物を食べたせいか、それともいつもそうなのでしょうか、非常にのどがかわいてきまして、ひょいと窓を見ると、医者が例の患者のために作っておいた水薬の小瓶が眼にはいりました。彼は飲み水だと思いこんで、それを口に持って行くと、すっかり飲みほしました。するとまもなく、ひどく眠くなって、寝込んでしまいました。夫人は都合がつくとすぐに寝室にやってきて見るとルッジェーリが眠っているので、何度もさわって、低い声で起きるようにとことばをかけました。しかし彼は何も答えませんし、小揺ぎもしません。そこで夫人はすこし心配になり、ぐっと力一杯押しながら言いました。
「お起きなさいよ、お寝坊ね。眠りたかったら、あんたの家に行けばよかったのに。ここへ来ることはなかったわ」
そうやって押されたものですから、ルッジェーリは、自分がのっていた箱から床にころげ落ちました。しかし死骸同様で、全く気がついた様子もありません。それを見て夫人は、いささかぎょっとして、彼のからだを起こそうとして、強くゆすぶったり、鼻をつまんだり、ひげを引っ張ったりしましたが、すべては無駄で、彼はぐっすりと寝込んでいました。夫人は死んでしまったのではないかと心配しだしました。しかしそれでもなお、きゅっと肉をつねってみたり、火のついている蝋燭を彼におしつけて焼いてみたりしました。でもなんの効き目もありません。そこで彼女は、夫は医者でしたが、自分は医者ではありませんでしたので、これはてっきり死んだものと思いこんでしまいました。何よりもこの青年を愛していましたから、彼女がどんなに悲しんだか、問うまでもないことであります。声をたてる勇気もありませんでしたので、彼の上によりかかるとしくしくとただ声もなく涙にくれて、嘆き悲しみました。でもしばらくしてから、夫人は自分の不幸に恥を加えないようにと心配になり、すぐに家から死んだ彼を運び出す方法を考えださなければならないと考えました。どうしていいかわかりませんでしたから、こっそりと女中を呼んで、自分の不幸を打ち明けた上で、彼女の意見をきいてみました。女中はびっくり仰天して、彼女も青年のからだを引っ張ったり、つねったりして、全然意識のないのを見てとると、夫人の言ったとおり、つまり本当に彼は死んでしまったのだと言いました。そしてこれは家の外にはこびださなければいけないと勧めました。そこで夫人は女中に言いました。
「で、どこへ運んでいったらいいだろうね。明日、その死骸が見つかった時に、この家の中から運びだしたのだと疑いをかけられないようにするには」
女中が答えました。
「奥さま、昨晩遅くでございましたが、家の隣の指物師の店の前で、あまり大きくない櫃《ひつ》を見つけました。もし親方が家にしまいこんでいなければ、わたくしたちの仕事に誂え向きでございましょう。その中に入れて、短刀で二つ三つ突き刺して、そのままに放っておきましょう。その櫃の中に死骸を見つけた人が、それはよそで入れられたというよりも、この家から入れられたのだと考えるわけがないと、思うのでございます。それよりむしろ、この人は悪い青年でしたから、何か悪いことをしに行って、その友だちのだれかに殺されて、そのあとでこの櫃の中に入れられたのだと考えるでございましょうよ」
女中の進言は、死体に傷をつけるということ以外は、夫人の気に入りました。夫人は、どんなことがあろうと傷つけることはしのびないと言いました。で、女中を、その櫃があるかどうか見にやりました。女中は戻ってきて、まだあると申しました。そこで、若くて元気者の女中は、夫人に助けられて、ルッジェーリを背にかつぎました。夫人はだれか来はしないかと見るために先に立って歩きました。二人は櫃のところに行って、その中に青年を入れて蓋を閉めると、そのままおきっぱなしにしました。その頃、この家から数軒先の家に、高利貸しをしている二人の若者が移ってきました。根がうんともうけて少し使おうという心がけの者でありまして、家具が必要でしたので、前の日にその櫃を見かけておりましたから、夜になってまだそのままおいてあったら、自分たちの家に持ってきてしまおうと相談をまとめておりました。夜なかになったので、二人は家を出て櫃のところへ来ると、あとはよく調べないで、一寸重いなとは思いましたが、すばやく自分たちの家に運びこみ、細君たちの寝ていた寝室のそばに立てかけておき、その時は片づけておこうとも考えず、そのまま寝に行ってしまいました。
ルッジェーリは、したたか眠った上、もう水薬も消化して、その効き目もなくなったので、夜明け近くに眼がさめました。眠りが破られ、五官が力を取り戻したものの、まだ頭脳の中にぼんやりしたものが残っていて、それがその夜ばかりでなく、その後数日にわたって彼をぼんやりとさせておりました。彼は眼をあけてみましたが、何も見えず、あちこちと手探りをしてみて、櫃の中にいることがわかりました。頭の中でいろいろと考えをまとめだしながら、こうひとり言を言いました。「これはなんていうことなんだ? 俺はどこにいるんだ? 眠っているのか、さめているのか。でも俺は、今晩、俺の女の寝室にやってきたことまでは覚えているが、今はどうも櫃の中にいるようだぞ。これは一体どうしたことなんだ? 医者が帰ってきたのか、それとも何かほかの事件が起こって、それで女が、俺が寝ているのでこの中にかくしておいたのかな? そう、きっとそうなんだろう」そんなわけで彼は、黙ったまま、何か聞こえはしないかと耳をすましておりました。長いあいだこうしていたので、小さな櫃の中でいかにも窮屈だし、体をささえているほうの脇腹が痛くなりましたので、寝返りをうって向きを変えようと思って、あまりはでにやりすぎましたので、櫃の一方に体が片よってしまって、櫃は平らな床の上においてありませんでしたから、片方に傾くとそのまま倒れてしまいました。倒れながら大きな音をたてたので、その物音にそのそばで寝ていた細君たちが眼をさましましたが、怖いので黙っておりました。ルッジェーリは、櫃が倒れたのでどうもおかしいと思いましたが、倒れたひょうしに蓋があき、まず何はともあれ、中にいるよりは外に出ることにしました。そして自分がどこにいるのかわからないし、あれやこれや心配になって、彼は、出て行けそうな階段か入り口は見つからないものかと、家じゅうを手探りで歩きだしました。そうして手探りで歩いているのを、眼をさましていた細君たちが聞きつけて、言いだしました。
「そこにいるのはだれですか」
ルッジェーリは、その声に聞き覚えがないので、返事をしませんでした。そこで細君たちは二人の若者を呼びました。若者たちは夜ふかしをして、ぐっすり寝こんでいたので、この騒ぎがちっとも耳にはいりませんでした。ですから細君たちは、ますます怖くなって起き上がると、そこらの窓から顔をだして、どなりました。
「泥棒! 泥棒!」
方々から近所の人たちが大勢、ある者は屋根伝いに、ある者は向こうから、ある者はこっちからといったふうに駈けつけてきました。同様に若者たちも、この騒ぎに目をさまして起き上がりました。
びっくりして気が変になりそうで、逃げだすとしてもどこから逃げだせるのか、見当がつかないでいたルッジェーリをひっとらえると、みなは、その騒ぎを聞きつけて駈けつけていた土地の総督の警吏たちの手に引きわたしました。警吏たちは彼を総督の前に連れて行きました。彼は人々から非常な悪党だと思いこまれていましたので、すぐさま拷問にかけられて、自分は窃盗を働くために高利貸したちの家にはいったのだと白状しました。そこで総督は、あまりぐずぐずしないで、絞首台に首を吊るしあげさせなければなるまいと考えました。ルッジェーリが高利貸しの家に泥棒にはいって捕えられたといううわさは、その朝サレルノじゅうにひろがりました。夫人と女中はそれを聞いて、びっくり仰天、不思議な思いで胸もいっぱいになり、前の晩のことは、夢を見たのではあるまいかと、思えるような様子でした。そればかりでなく、夫人は、ルッジェーリが落ちこんでいる危険を思って、そのきついなげきようといったら、今にも気がちがいそうでした。
七時半を少し過ぎた頃、医者がマルフィから帰ってきて、患者を治療したいから、あの作っておいた水薬を持ってくるようにと言いました。見ると小瓶が空になっているので、自分の家では何一つもとどおりにしておけないと、えらくわめき立てました。別の悲しみでくしゃくしゃしていた夫人は、怒って口答えをしてこう言いました。
「小瓶の水をあけたからってそんなに大騒ぎをするのでしたら、大事が起こったら、なんとおっしゃるでしょうね? それはもうこの世に代わりのないものですか」
医者は夫人に向かって言いました。
「お前はあれをただの水だと思っているか。そうじゃないんだ。あれは眠らせるためにこしらえた水薬なんだ」そして、なぜそれを作ったのかそのわけを語ってきかせました。
夫人はそれを聞くと、そこで、ルッジェーリがそれを飲んだので、自分たちがこれはてっきり死んでしまったのだと思ったことに気がつきました。そして言いました。
「わたくしたちはそうとは知りませんでした。ですからもう一度、別のをお作りになって下さい」
医者は、どうにもしようがないと見てとって、新たに水薬を作らせました。すこしすると、夫人の命令でルッジェーリのことについてどんなうわさがとんでいるか探りに行っていた女中が、戻ってきて彼女に申しました。
「奥さま、ルッジェーリのことはだれでも悪く言っております。わたくしが耳にすることができたところでは、あの方を助けようと考えている友だちや親類は一人もございません。みなは明日、裁判官があの人を縛り首にするだろうと固く思いこんでおります。それからこのほかに、一つあなたさまに面白いことをお聞かせしましょう。それですと、あの方がどうして金貸しの家にはいりこんだかがわかるような気がいたします。まあお聞き下さい。わたくしたちがあの方をお入れした櫃がおいてあった、そこの指物師をよく御存じでございますね。あの人がたった今、あの櫃の持ち主らしい男と言い争いをしていたのです。というのは、その人は自分の櫃の代金を請求していたのですが、親方のほうは、あの櫃は売ったのではない、昨夜盗まれたのだと答えていました。親方にその人はこう言っていました。
『そうじゃないよ。それどころかお前さんは、二人の若い金貸しにそれを売ったんだ。ルッジェーリがつかまった時に、あの人たちの家でそれを見たんだが、その時あの連中は、わしにそう言ったんだからね』
その男に指物師が言いました。
『わしは絶対にあの人たちに売ってなんかいない。嘘を言ってるんだ。あの連中が昨夜通りかかって、それを盗んで行ったのかも知れないよ。その連中のところに行ってみよう』
そんなわけで二人は、仲よく金貸しの家に行きました。そこで、わたくしはこちらに戻ってきました。あなたさまもおわかりでしょうが、そんなふうにしてルッジェーリさまは、見つけだされた場所に運びこまれたのだと思いますね。でもそこで、どうして生き返ったのか、それがわたくしにはわかりません」
すると夫人は、事件の成り立きがよくわかりましたので、自分が医者から聞いたことを女中に話して、ぜひルッジェーリを救い出す手伝いをしてもらいたい、お前さえその気なら、ルッジェーリを救い出すと同時に、わたくしの名誉も傷つけずにすますことができるのだからと頼みました。
「奥さま、どうすればいいのか教えて下さい。わたくしは何でも喜んでいたしましょう」
夫人は気が気でありませんでしたので、すぐにどうしたらいいのか考えをまとめると、それを順序立てて女中に言って聞かせました。女中はまず医者のところに行って、泣きながらこう言いだしました。
「旦那さま、わたくしは旦那さまに対してとんだ過ちをしてしまいました。どうしても、お許しをいただかねばなりません」
先生が言いました。
「どんな過ちだね?」
すると女中は、なおも涙を流しながら申しました。
「旦那さま、若者のルッジェーリ・ダ・アイエロリがどんな男か御存じでございましょう。あの男がわたくしを好きになって、怖いやらいとしいやらで、今年になって、わたくしはあの男の恋人にされてしまいました。で、あの男は、旦那さまがお留守なのを知って昨夜、わたくしにいろいろうまいことを言いましたので、わたくしはお家の自分の寝室に、一緒に寝ようと連れこんだのでございます。ところがあの人がのどがかわいたと言うのですけれど、どこに行ったら早く水、あるいはぶどう酒なりが手にはいるのかわかりません。お部屋にいらっしゃった奥さまに見つけられるのはいやでしたし、そのうち旦那さまの寝室で水のはいった小瓶を見たことを思いだしましたので、それにとびついて、そのままあの人に飲ませてしまいました。小瓶は元のところに返しておきました。それで旦那さまが、大騒ぎをなさったことは存じております。
白状いたしますが、わたくしが悪いのでございます。でもどこに時には悪いことをしない人がおりましょうか。わたくしは、悪いことをしたのが悲しくてたまりません。でも、そのあとで、あれやこれやといろいろのことが起こって、ルッジェーリはそのために命を失おうとしております。ですから、わたくしは心の底から旦那さまにお願いいたします。どうかわたくしをごかんべん下さいますように、また自分にできるかぎり、ルッジェーリを助けに行きたいと思いますから、それをお許し下さいますように」
医者は、女中のことばを聞いて、腹の中は煮え返るようでしたが、ふざけながら答えました。
「お前は、昨晩、自分の手皮を上手にもんでくれる若者を手に入れたと思ったところが、大変な寝坊をつかんだのだから、自業自得というものさ。だから、行ってお前の恋人の命を助けてやるがいい。今後はもう家にその男をひっぱりこまないように気をつけるんだよ。でないと、今度のと合わせて、罰を加えるからな」
女中は小手調べは上々吉のような気がいたしましたので、何はさておき、さっそくルッジェーリがはいっていた牢獄にまいりました。そうして、牢番をうまいことだましこんだので、牢番は彼女にルッジェーリと話を交わさせました。女中は、ルッジェーリに、もし助かりたいと思ったら、裁判官の前でどう答えなければいけないかということを教えたあとで、とにかく彼が裁判官の前にまかりでられるようにしました。裁判官は、その申し立てを聞く前に、女中がみずみずしく張り切った体をしていましたので、この神のかわいい信者と一度たのしんでみたいと思いました。彼女は、よく聞きとどけてもらおうとして、ちっともそれを拒みませんでした。そして粉ひきを終えて立ち上がると言いました。
「裁判官さま、あなたさまはルッジェーリ・ダ・アイエロリを泥棒だとお思いになって、ここに捕えていらっしゃいますが、本当はそうじゃないのです」
そして彼女はその話を最初から始めて、その男の恋人である自分が、どうして彼を医者の家に連れて行ったか、どうして麻酔薬を、それとは知らずに飲ませてしまったのか、またどうして死んだものとして櫃に入れたのかを、おしまいまで物語りました。その後で、指物師の親方と櫃の持ち主とのあいだの言い争いで聞きつけたことを話して、それによって、どうして金貸しの家にルッジェーリがきたのかをわからせました。裁判官は、それが本当かどうか調べるのは容易なことだと見てとって、まず医者に水薬のことは本当かとたずねて、実際その通りだったことがわかりました。そのあとで、指物師と、櫃の持ち主と、金貸したちに尋問して、大変な論争のあげくに、前夜金貸したちが櫃を盗んで家に持ちこんだことがわかりました。
裁判官は最後にルッジェーリを呼び、前の晩はどこに泊まったのかをたずねました。彼は、どこへ泊まったのか知らないが、マッツェオ先生の女中のところに泊まりに行って、その女中の寝室でとてものどがかわいたので、水を飲んだことまでははっきり覚えている。でもそのあとで自分にどんなことが起こったのか、金貸したちの家で目がさめたら櫃の中にいたが、それまでのことはわからないと答えました。裁判官はこれらのことを聞いて、大いに喜び、そのことを女中やルッジェーリや指物師や金貸したちに何度も繰り返して言わせました。とうとうおしまいに、ルッジェーリを無罪であると認めて、櫃を盗んだ金貸したちを、十オンチェの罰金刑に処して、ルッジェーリを放免しました。どんなに彼がよろこんだか、それは聞くも野暮でございます。彼の恋人にとってもそれはかぎりなくうれしいものでありました。夫人は、その後、彼や、それから彼に短刀で傷つけようとしたかわいい女中と一緒に、何度もそのことを笑っては、冗談を言ってはしゃいでおりました。そして二人の恋のたのしみを常にいやがうえにもよく盛り上げていきました。そんなことがわたしにも起こったらいいと思います。でも櫃に入れられることはごめんですがね。
これまでのお話が、愛らしい淑女たちの胸を悲しませていたとすれば、ディオネーオのこの最後のお話は彼女たちを大いに笑わせました。特に裁判官が女中の肉体をたのしんだと話した時などの笑いようといったら、他の話からかきたてられた哀憐の気持ちをやすめるに十分でありました。さて王さまは、太陽が黄色の光りとなり、自分の統治の終わりがきたことを知って、美しい淑女たちに向かって、非常にやさしいことばで自分のしたことについて、すなわち恋人たちの不幸というような残酷な題材でお話をさせたことについて詫びました。詫びが終わると、立ち上がって頭から月桂冠をはずし、淑女たちがだれの頭にそれをのせるだろうかと眼をみはっているうちに、フィアンメッタの光り輝く金髪の頭にそれをのせながら言いました。
「わたしは、今日のつらかった一日についで、明日わたしたちの友だちたちをいちばんよく慰めることができる方にと思って、この冠をあなたの頭におのせします」
その髪の毛が波を打って、長く金色に輝き、純白のきゃしゃな肩の上に垂れさがり、まる顔が白ゆりと紅ばらをいりまぜた生き生きした色で照りはえ、鷹の眼のような二つの眼をかがやかせ、二つのルビーのような唇と小さなかわいい目をしたフィアンメッタは、ほほ笑みながら答えました。
「フィロストラート、わたくしはよろこんでそれをお受けします。わたくしは、今日あなたがなさったことがよくおわかりになるようにと思いまして、只今からみなさまに、明日は、残酷な不幸な事件のあとで、恋人たちが幸運にめぐりあう話をお話ししなければならないと、みなさんに心構えをしていただきたいと存じますし、またそう命令をいたしておきます」
この題目はみなに喜ばれました。彼女は給仕頭を呼ばせて、彼と一緒にしかるべき事について措置してから、座から立ち上がりながら、快活に全員に向かって、夕食の時間まで自由にするようにと申しわたしました。そこでみなは、ある者は美を楽しめる庭園にはいり、ある者は庭園の外で粉をひいている水車のほうに向かい、またある者はあちら、ある者はこちらと、夕食の時間まで、好みに応じてそれぞれのたのしみを味わいました。夕食の時間になりましたので、みなは、例のとおり美しい噴泉のそばに集まり、大喜びで、行き届いたもてなしの夕食をしたためました。それから、食卓から立ち上がると、いつものように、踊ったり歌ったりしました。フィロメーナが先に立って踊ると、女王が言いました。
「フィロストラート、わたくしは、前任者のやり方からそれるつもりはございません。前任の方々がなさったように、わたくしの命令につれて、一つお歌を歌ってほしいと存じます。あなたのお歌は、きっとあなたのお話と同じようなものだと思いますので、今日以上に何日もあなたの不幸な人たちのことで悩まされませんように、わたくしたちはあなたが一番お気に入りのカンツォーネを一つ歌っていただきたいのです。
フィロストラートはよろこんで歌いましょうと答え、ためらうことなく歌いはじめました。
心許せし恋やぶれ
わがこの胸の悲しみを、
涙とともに語らまし。
ああ愛の神、かつての日、
今片恋のかの君を
わが胸深くいざないて、
いと徳高く見せしゆえ
悲しみに泣くわが胸に
汝《な》れゆえにこそ生まれたる
悲苦をも軽く思いしに、
わがあやまりを今ぞ知り
悲哀の心いやまさる。
ただ一筋に思いたる
かの君に今棄てられて、
たばかりごとを知らされぬ。
その時われは行く末の
悲苦の嘆きを思わずに、
ただかの君の寵《ちよう》をうけ
しもべたらんと願いしに、
気づきて見ればかの君は
われをば棄ててひとを恋う。
棄てられたりと知りし時
胸に降りたる涙雨
底をぬらして波をうつ。
いと美しく飾られて
焔と燃えて愛らしき
顔をば見せし日や時刻《とき》を
しばしばわれは呪いたり、
死に行く魂《たま》はわがこころ
のぞみや、熱を呪うのみ。
わが悲しみはいやされず、
――愛よ、汝《な》れこそ知るならん――
悲苦の声もて、汝れを呼ぶ、
苦を遁れんと死をねがう
わが苦のほどを知りたまえ、
さらば来たれ死の神よ
その打撃《ひとうち》と怒りもて
むごくも悪しき命|断《た》て、
死後の途こそやすからん。
いずこを見ても死のほかに
悲苦をいやさんものはなし、
さらば愛よ、死を賜え、
死をもて閉《と》じよ、この悲苦を、
胸をも救え、末世より。
ああ死を賜え、不当にも
快楽をとられしわが上に、
ああわが死もてかの君を
心ゆくまで笑わせよ。
わが舞踊歌よ、汝れ歌う
もののなくとも、われはよし、
われに秀《ひ》いずる歌人《ひと》はなし、
舞踊歌にただわれは言う
愛見つけよと、さらにまた、
にがきこの生《よ》の悲しみを
愛にのみ告げ知らせよと、
愛よ才能《ちから》もてよき港に
導けかしと祈りつつ。
この歌のことばは、フィロストラートの胸のうちとその状態をかなりはっきりと示しておりました。彼は、もしも暮れ落ちた夜の暗闇が、彼女の顔にうかんだ紅の色をかくしていなかったら、踊っていたその話題の女の顔容を、恐らくもっとはっきりと歌いあげたことでしょう。でもその歌を歌いやめたので、寝に行く時がくるまで、なお多くの歌が歌われました。そこで女王の命令が下りましたので、銘々は自分の寝室にひきさがりました。
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第五日
[#この行3字下げ]〈デカメロンの第四日が終わり、第五日がはじまる。この日はフィアンメッタの主宰のもとに、いくつかの残酷な、あるいは不幸な事件の後に、恋人たちに、めぐってきた幸運な事柄について語る〉
もう東のほうはすっかりしらんで、生まれでる陽光は私たちの半球を隈なく明るくしておりました。折柄フィアンメッタは、暁に灌木林でたのしげに鳴いていた小鳥の甘い歌声に眼がさめると、起き上がって、他の全部の淑女たちと三人の青年を呼ばせました。そして、ゆるやかな足取りで原に下りると、広い平地を、露にぬれた草をふみながら、太陽がいくらか高く上るまで、仲間をつれて、四方山の話をしながら散歩しました。でも、もう陽光が暑くなってきたので、自分たちの大広間のほうに足を向けました。そこにつくと、女王が極上のぶどう酒と糖菓子で今までの軽い疲れを回復させてから、一同は食事の時間までそのたのしい庭園をそぞろ歩きしました。食事の時間となり、万事大変ゆきとどいた給仕頭によって支度がされていましたので、みなは、いくつかの恋の琴歌や一、二の舞踊歌が歌われたあとで、女王の思し召しのままに浮き浮きとして食事にとりかかりました。順序よく喜びのうちに食事がすむと、いつもの踊りの習慣を忘れず、一同は楽器を鳴らし、歌を歌って、少しばかり踊りました。その後、午睡の時間がすぎるまで、みなと自由にしました。ある者は眠りに行き、ある者はその美しい庭園でまた気散じをしておりました。けれども午後の三時を少しすぎた頃、一同は女王の思し召しのとおり、今までの習慣に従って噴水の近くに集まりました。女王は主座に腰を下ろしてから、パンフィロのほうを見てほほえみながら、幸福な結末の話に糸口をつけるようにと命じました。
彼はよろこんでそれに従い、こんな話をしました。
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第一話
[#この行3字下げ]〈チモーネは恋をして賢明となり、自分の女エフィジェニアを海上で奪う。ロードス島で投獄され、リジマコがそこから彼を救い出す。彼はリジマコとともに、エフィジェニアとカッサンドレアを結婚式のさい奪い出して、女たちをつれてクレタ島にのがれる。その後、女たちは二人の妻となり、彼らは女たちとともに、自分たちの家に呼び返される〉
心やさしい淑女のみなさん、今日のようなうれしい日の幕をあける立場に立たされて、わたしは物語らなければならないたくさんのお話を思い出しました。その内の一つが特にわたしの気に入りました。と申しますのは、その話によっては、みなさまは主題となっている幸福な結末がおわかりになられるばかりでなく、また多くの人々が、とんだ見当違いから呪ったり、非難したりしている恋の力が、どんなに健康で、どんなに強力で、どんなに幸福に充ち溢れているかが、御理解いただけるからであります。これは、もしわたしの考えちがいでなかったら、あなた方も恋をしていらっしゃると思いますから、きっとみなさまのお気に召すことでしょう。
さて、わたしたちがかつてチプリ人たちの古い物語の中で読んだことがありますように、チプリの島に、その名をアリスティッポという偉い貴族がおりました。この人は世俗的な財産をうんと持っていて、その点ではだれをもしのいでおりました。もし運命が唯一つのことで彼に悲しい思いをさせなかったとしたら、だれよりも満足でいられたはずであります。そのことというのはこうでした。彼には幾人ものこどもがありましたが、その中に、体の大きさや美しさの点では、他のこどもたちのだれよりもすぐれているのに、ほとんど気がふれていて、望みのないのが一人おりました。彼の本当の名前はガレーゾといいました。先生が骨を折っても、父親が賞めそやしたり打ったりしても、あるいはまただれかがどんなにやってみても、その頭に学問も行儀も覚えこませることができません。それよりもふいと調子はずれの声をだし、人間よりも獣のような動作をしておりましたので、愚弄されてみなからチモーネと呼ばれておりました。それは土地のことばで「大きな獣」という意味を持っていました。父親は、その子の失われた生涯を心から悲しんでおりました。もうこどもについてのあらゆる希望が自分から消えてしまったし、その悲しみの原因をいつまでも眼の前においておきたくなかったので、こどもに向かって、荘園に行ってそこで自分の百姓たちと一緒に暮らすようにと命じました。チモーネは田舎の人々の風俗や習慣が町のよりずっと気に入っていましたので、このことを大変よろこびました。チモーネは荘園に行き、そこで荘園に属した仕事をやっておりましたところ、ある日のこと、こんなことがありました。
正午もすぎた頃、彼は杖を小脇に農場から農場へと歩いているうちに、小さな森の中にはいりました。そこはそのあたりでも非常に美しいところで、五月でもありましたので、あたり一杯に枝葉がしげっておりました。その森を通って行くと、運命の手引きがあったのでしょう、亭々と聳える木々にかこまれた草地のところに出ました。その草地の一つの片隅に美しい冷い泉が湧きでておりました。見るとその泉の傍に、緑の芝生をしとねとして、眼のさめるように美しい若い女が、雲白の肉体のどこといわずまるですけて見えるような薄い衣服を身にまとって眠っていました。ただその腰から下のほうだけを真っ白な薄い布でおおっているだけでした。その足もとには、若い召使の二人の女と一人の男が、やはり同じように眠っておりました。チモーネはその若い女を見ると、まるで今まで女の姿など一度も眼にしたことがないように、杖にもたれて何も言わずに、ただもううっとりしてじっと見つめていました。千回の教育をうけても、都会風のよろこびの印象など何一つとしてはいることができなかったその粗雑な胸に、一つの思いが目ざめてくるのを彼は感じました。その思いは、彼の卑俗で粗野な智能に、その女が、今まで見た一番美しい人間であることをさとらせたのであります。そこで彼は彼女のいろいろの部分一つ一つを見ました。黄金と見まごう立派な髪や、額や、鼻と口や、頸の上部と腕に、特にまだそうふくらんでいない胸に讃嘆の眼をみはりました。野卑な田舎者からたちまち美の審判者となった彼は、深い眠りのうちに彼女がじっと閉じているその眼を、ぜひ見たいと思いました。そのために、何度も彼女を起こそうかと思いましたが、自分が今まで見た女たちよりずっと美しいような気がしましたので、もしや女神ではないかという疑問が起こりました。神聖なものは世俗のものよりもずっと尊敬する値打ちがあるということを判断するくらいの感情は彼にもありましたので、そのために彼はじっとして、彼女が自分から眼をさますのを待っていました。あまり待たされ過ぎると思いましたが、それでも常にない快感のとりことなった彼は、そこを立ち去ることができませんでした。そうこうしているうちに、大分たってから、エフィジェニアという名のその若い女が、召使たちのだれよりも先に眼をさまして、頭をもたげ、眼をひらいて見ると、眼の前に杖によりかかったチモーネがいるものですから、たいへん驚いて言いました。
「チモーネ、今頃この森に何を探しにいらっしゃったの?」
チモーネは、その容姿や、その愚鈍野卑な点や、父親が貴族で金持ちであることなど、土地のほとんどすべての人が知っておりました。彼はエフィジェニアのことばになにも答えませんでした。でも女の開いた眼を見て、それをじっと見つめているうちに、その眼からある爽やかな気持ちが動きだして、今まで全く感じたことのない快感を自分の体じゅうにみたしてくれるような気がしました。女はそれを見ると、野卑な男だけに、そうしてじっと自分を見つめているうちに、自分にとって恥となる取り返しのつかないことをしでかしはしないかと心配になりました。そこで召使たちを呼ぶと、立ち上がりながら言いました。
「チモーネ、さようなら」
すると、チモーネは女に答えました。
「わたしはあんたと一緒に行くよ」
で、女は、相変わらず彼が怖いので、その同行をことわりましたが、どうしても彼からはなれることができません。とうとう彼は女の家までついてきてしまいました。彼はその足で父親の家に行き、どうしても荘園には帰りたくないと言いました。さてどんな教えもはいることができなかったチモーネの胸の中に、エフィジェニアの美しさを見てから愛の矢がとびこんだため、すっかり人間が変わり、父親や家族の者や、彼を知っている者みんながびっくりするほどでした。まず彼は父親に、自分の兄弟たちがやっているのと同じように衣服やその他一切の身の廻りを立派に飾って外出させてほしいと申し出ました。父親は大喜びでそうしました。それから彼は立派な青年たちと交際して、貴族に、特に恋人が心得ているべき作法を聞きこんだりして、みなから讃嘆の眼で見られました。それからほんのわずかの間に学問の初歩を覚えたばかりでなく、哲学の学徒の中でも非常に優秀な者になりました。彼がエフィジェニアによせる恋がこうしたことの原因なのですが、この恋は彼の野卑な、田舎者のような声を、上品な、都会人のような声に変えたばかりでなく、歌や器楽にも上達し、さらに乗馬や海陸の戦術にもすぐれた勇敢な青年となったのであります。簡単に申しますと、彼はその初恋の日から四年とたたないうちに、チプリの島のどの青年をもしのぐ一番優雅な、礼儀正しい者になって、すぐれた美徳も人一倍多く備えるにいたったのであります。さて、心やさしい淑女方よ、わたしたちはチモーネのことについてなんと言ったらよろしいでしょうか。確かにそれは、立派な魂に天からさずけられた高尚な美徳が嫉妬深い運命によって、その心の極く小さな片隅に押しこめられて、すこぶる強力な絆でしばられ、閉じこめられていたのを、運命よりもはるかに強い愛が、その絆をずたずたに切りさいなんで眠っていた才智の覚醒者となり、力を振るってその高尚な美徳を暗い残忍な濃霧の中から明るい光線の中に押しだしたのです。愛が自分の支配する精神をどこからひきだして、自分の光明によってどこにそれを連れて行くかを、あきらかにしたのであるということに他なりません。
さてチモーネは、エフィジェニアを恋しているために、若い恋人たちがよく仕出かすように、いくつかのやりすぎはありましたが、アリスティッポは、恋が彼を牡羊から人間にもどしてくれたことを考えて、辛抱強く我慢していたばかりでなく、彼には気ままにするように励ましておりました。しかし、エフィジェニアにチモーネと呼ばれたことを覚えていて、ガレーゾと呼ばれることを拒んでいたチモーネは、自分の希望をやましいところなく実を結ばせたいと思って、エフィジェニアの父親チプセオに、彼女を妻にほしいと、何度も人を介して話させました。けれどもチプセオはいつも、自分はロードス島の貴族の青年パジムンダに嫁にやる約束をしているので、その約束を破りたくないと答えました。で、エフィジェニアの約束の結婚の時がきまして、夫が彼女に迎えをよこしましたので、チモーネは胸の中で言いました。「おお、エフィジェニアよ、今こそあなたがわたしからどんなに恋されているかを示す時だ。わたしはあなたのおかげで男になった。もしあなたを手に入れることができたら、わたしはどんな神さまよりももっと光栄ある者になれることを疑わない。きっとわたしはあなたを自分のものにして見せる、さもなかったら死んでしまおう」こう言うと、ひそかに、自分の友人であった何人かの貴族の青年たちに助力を求めて、一隻の船に海戦に適した万端の装備をさせた上、海に出ると、ロードス島の夫のもとに送られて行くエフィジェニアが乗っている船を待っておりました。彼女の父親から、夫の友人たちに対して大変な歓待があった後に、船は海に乗り出し、船首をロードス島のほうに向けて出航しました。寝もやらなかったチモーネは、翌日自分の船で追いつくと船首に立ち上がって、エフィジェニアの船の上にいた者たちに向かって、大声で呼びかけました。
「とまれ、帆を下ろせ。さもないとお前たちは打ち負かされて、海に沈められるほかないぞ」
チモーネの敵たちは甲板の上に武器を持ち出して、防禦の用意をしました。そこでチモーネは、言い終わると同時に鉄の銛《もり》を取り上げて、全速力で走っていたロードス人たちの船尾に投げつけて、敵船を自分の船の船首に力まかせに引き寄せました。そして獅子のように慓悍《ひようかん》に、一人の部下の来るのも待たずにロードス人たちの船にとび乗って、まるで敵などみな虫けらででもあるかのように、愛に拍車をかけられて、片手に短刀をかざすと、すごい勢いで敵中におどりこみ、右に左に斬りつけて、まるで羊のようになぎ倒しました。ロードス人たちはこれを見て、武器をほうりだして、ほとんど声をそろえて、一同捕虜になると申し出ました。これに向かってチモーネが言いました。
「青年たちよ、分捕品がほしいとか、諸君が憎いために、わたしは武器を手にこの海上で、諸君を襲おうと、チプリを出帆したのではない。わたしにこんなことをさせたのは、わたしにとっては大変なことなのだが、あなた方にはそれをおだやかにわたしに渡すことは、いともたやすいことなのだ。それはわたしが何にもまして愛しているエフィジェニアだ。わたしは彼女の父親から、友人としておだやかに彼女をもらうことができなかったので、愛はわたしにやむなく諸君から、敵として、武器をふるって彼女を手に入れさせるように仕向けたのだ。だからわたしは、彼女に対しては諸君のパジムンダと同じような地位に立とうとしているのだ。わたしに彼女を渡してくれ、そしてどうか帰ってくれ」
青年たちは、寛大な措置からというよりも自分らの力が及ばないとさとると、泣きながらエフィジェニアをチモーネに引き渡しました。彼はエフィジェニアが泣いているのを見て言いました。
「貴婦人よ、お嘆きにならないで下さい。わたしはあなたのチモーネです。婚約をたてにするパジムンダよりも、わたしは、長い間の愛によって、あなたを自分のものにする資格をずっと持っている者です」
さてチモーネは、彼女をすでに自分の船の上に運ばせましたので、ロードス人たちの物には何一つ手を触れずに、自分の仲間たちのところにひきあげ、ロードス人たちをそのまま立ち去らせました。こうしていとしい分捕品を得たのでだれよりも大満足のチモーネは、しばらくの間泣き叫ぶ彼女を慰めていましたが、やがて、今すぐにチプリには帰らないほうがいいだろうと、仲間たちと相談をして決めました。みなは同じ意見でしたので、ほとんど全部の者が、特にチモーネの新旧の親戚や多くの友人がいるのでエフィジェニアを連れて行っても安全だと思っていたクレタ島のほうに、自分たちの船の船首を向けました。しかし非常にたやすく女を手に入れることをチモーネに許した運命は移り気なもので、まもなくこの恋する青年のかぎりない歓喜を、悲しいにがい愁嘆に変えたのであります。
チモーネがロードス人たちと別れてからまだ四時間とたたないうちに、チモーネがこれまで経験したどの夜よりもたのしいものだと待ちかねていた夜がやってくると、夜とともに恐ろしい暴風雨となり、天は雲でおおわれ、海は狂風で吹きまくられました。そんなわけで、だれ一人として、どうしたらいいのかどこへ行ったらいいのか見当がつかず、おまけに船の上で何かしようにも立っていることもできないありさまでした。どんなにチモーネがそれを悲しんだか、おたずねになるまでもないでしょう。神々が、死ぬことを一段とつらく思わせるために、彼の欲望を達せさせたように思われました。もしこのことさえなかったら、彼は死ぬことなど何とも思っていなかったにちがいありません。彼の仲間の者たちも同じように悲しみました。エフィジェニアはだれにもまして悲嘆にくれ、大声をあげて泣き叫び、波が打ちあたるごとに怖がっておりました。そして泣きながらチモーネの恋を呪い、彼の思い切った行為をののしって、神々の御心に逆らって自分を妻にしようとした彼が、その不敵な欲望を達するのを神はお望みにならないで、まず彼女が死ぬのを見てから、そのあとで彼も無慚な死に方をさせようとお望みになっているのであって、それ以外にはこんな暴風雨が起こるはずがないと言いました。こうして、またこれよりもひどい愚痴をあびせられて、船乗りたちはどうしていいかわからず、刻一刻と風は強さをまして、どこに向かっているのかわかりもしないうちに、船はロードス島の近くにきました。それがロードス島だとは知らないまま、命が助かりたい一心からあらゆる手をつくして、できることならそこに漕ぎつけようと努力しました。そのことには運命は好意を見せ、彼らを海の小さな湾に導き入れました。その湾には彼らの少し前に、チモンから逃がしてもらったロードス人たちが、船に乗ってやってきておりました。
暁がきて空がいくらか明るくなったので、ほとんど弓矢のとどくくらいの距離に、前の日に自分たちが逃がしてやった船がいるのに気がついたのと、自分たちがロードス島に着いたことに気づいたのと同時でありました。そこでチモーネは、実際あとで身にふりかかったことが起こりはしないかと一方ならず恐れ悲しむと、そこから脱出するのに全力をつくし、どこへ行こうとここより悪いことはないのだから運を天にまかせ、どこなりと自分を運んで行ってくれと命じました。そのために恐ろしいほどの努力が払われましたが、その甲斐はありませんでした。すごい強風が逆に吹いてきて、そのために、小さな湾から出られるどころかいや応なしに、岸に追いやられてしまいました。岸に着くとみなは、船から下りたロードスの船乗りたちに見つけられてしまいました。その内のある者はさっそくその近くのロードスの貴族の青年たちが行っていた村に駈けこみ、ここにチモーネがエフィジェニアと一緒に、幸いにも自分たちと同じように船で到着している旨を知らせました。貴族の青年たちは、この報告を聞くと大変よろこんで、村の男たちを大勢つれてすぐに海岸に行きました。すでに仲間たちと上陸し、近所の森に逃げようと相談をきめていたチモーネは、みなと一緒にエフィジェニアもふくめて捕えられると、村に連れて行かれました。その報告を聞いたパジムンダがロードス島の元老院に泣いて訴えて、元老院と一緒になって命令しましたので、その年のロードス人たちの最高の司法官だったリジマコが多くの兵隊をつれて町からやってくると、チモーネとその仲間たち全部を牢獄に投じました。こんなふうにして、あわれにもチモーネは、少し前に手に入れた愛するエフィジェニアを、ただ何度か接吻しただけで手離してしまいました。エフィジェニアはロードス島の多くの貴婦人から迎えられて、その監禁によって得た苦痛や、荒れ狂う海でなめた難儀について慰められ、元気づけられて、この人々のところに、結婚式を行なうと定められた日までおりました。チモーネとその仲間たちは、パジムンダが死刑にさせようと躍起になって主張いたしましたが、前日ロードス人たちを釈放していたので、命は助けられて終身刑に処せられました。一同は、御想像できるように、牢獄の中で悲嘆の日を送り、全くよろこびというものへの望みを絶たれておりました。パジムンダは、未来の結婚の準備をできるだけ急がしておりました。ところが、運命はチモーネに対してあまり早く下しすぎた不正な取り扱いをまるで後悔するかのように、彼の救助のために新しい事件を持ち上がらせました。
パジムンダには一人の弟があり、年こそ彼より若いのですが、人柄は劣っておりませんでした。この人はオルミスダという名前で、ずいぶん前から貴族で美貌の若い女を妻にもらうことに話がまとまっておりました。この女はカッサンドレアと言い、これをリジマコが夢中で恋しておりました。結婚はいろいろの事があって、何度もお流れになっておりました。さて、パジムンダは、自分の結婚式をすこぶる盛大にやらなければならないと思い、二度も金をかけて式をあげるより、この同じ結婚式にオルミスダにも同様に妻をめとるようにさせることができたら、一番いいと考えました。そんな次第で、彼はふたたびカッサンドレアの両親と話をはじめて、うまくこれを説き伏せて、パジムンダがエフィジェニアと結婚するその同じ日に、オルミスダがカッサンドレアと結婚するようにしようと、彼ら兄弟は一緒になって、カッサンドレアの両親と話をとりきめました。それを聞いてリジマコは、もしオルミスダが結婚しなければ、当然カッサンドレアは自分のものになると固く考えかけていた自分の望みが絶たれるのを見たものですから、一方ならずいやな気持ちにさせられました。けれども賢い人でしたから、自分の不快は胸の底にかくしておいて、どうしたらそれが実現しないように邪魔をすることができるだろうかと考えはじめました。女を奪わないかぎり、他に方法がありそうにも思えませんでした。これは自分の持っている職掌柄容易なことに思われましたが、彼は、そんなことをしたら、その職務を持っていなかった場合を思うと、あまりに不正なことだと考えました。しかし簡単に言うと、長い間いろいろと熟考したあげく、正直が恋に席を譲って、彼は、たとえどんな事が起ころうとも、カッサンドレアを奪い取ろうと決心をしました。それで、これを行なうために手に入れなければならない仲間の助力や、守らねばならない手筈のことを思いめぐらしているうちに、仲間たちと一緒に牢獄に入れてあったチモーネのことを思い出して、このことについてはチモーネよりほかに、信用のおける仲間は手に入れることができないだろうと想像したのであります。そこで、次の夜、こっそりと彼を自分の寝室に連れてこさせて、こんな具合に話しかけました。
「チモーネ、神々は人間に対して、物の最良の、鷹揚な授与者であるが、また同様に人間の真価、美徳の非常に賢明な試験官でいらっしゃるので、その神々がどんな場合にも磐石のごとく不屈不撓であるとお認めになった人間は、人一倍勇気のある者だから、それだけ高い褒美をあたえられる資格があると言えるのだよ。わしも知っているが、神々は、金がうなるほどあるあなたのお父さんの家の枠の中では、充分やらせてみることのできない確かな試練を、あなたがつむことを望んでいらっしゃるのだ。で、わしが聞いたところによると、最初神々は刺すような恋の不安をもってあなたを無感覚な獣から人間になるように仕向けたのだが、そのあとで、今度は苛酷な運命といやな投獄をもって、あなたの魂が、あの手に入れた獲物をわずかの間たのしんだあの時のものと変わっているかどうか、ごらんになりたいとお望みなのだ。もしもそれが前と同じであるならば、現在あなたに授けようと準備していられるものほどうれしいものを、今まであなたに神々はお授けにはならなかったのだ。それがどんなものであるかを、あなたが前に用いた力を取り戻して、元気一杯になるようにと思って、あなたにお話ししようと思うのだ。あなたの不幸をよろこんで、あなたの死刑の熱心な主張者だったパジムンダは、あなたの女のエフィジェニアとの結婚式をできるだけ早くあげようと急いでいるのだよ。幸運が最初あなたにあたえておいて、すぐに機嫌を悪くして、あなたから取り上げたあの獲物を、あいつはそうやってたのしもうというわけさ。わしが思ってるくらいにあなたも恋しているのなら、そのことがきっとどんなにあなたを悲しませるものか、このわし自身よくわかるのだよ。あなたにするのと同じような不届きなことを、わしが何よりも愛しているカッサンドレアのことで、その同じ日に、あいつの弟のオルミスダがわしにしようとしているのだ。そうした運命の不正や、苦しみをのがれるには、わしたちの友人たちや、右腕になる者たちの力によるほかは、運命によっては何一つ道がひらかれていないと思うのだ。その味方と一緒にわしたちは剣を手にして、わしたちの二人の女のあなたには二度目の掠奪、わしには最初の掠奪の道を、わしたちのために切り開かせる必要があるのだ。そこで、もしあなたの、いや、わしはあなたの釈放などとは言わんよ、あなたは自分の女がいないのに身の自由などかまってはいないと思うからね、だがもしあなたの女をどうしても取り戻したいと言うのなら、あなたがわしの企てにしたがう考えさえあれば、神々は彼女をあなたの手の中においてくれるのだよ」
このことばは、チモーネをすっかり正気に返しました。彼は大してためらいもせずに答えました。
「リジマコさん、あなたのおっしゃることがきっとわたしに起こってくるというなら、あなたは、このことでは、わたしより強くて信頼できる仲間を手に入れることができませんよ。だから、あなたがわたしにさせなければならないとお考えになっていらっしゃることを、わたしに言いつけて下さい。驚くような力で、それをやりとげてお目にかけましょう」
彼に向かってリジマコが言いました。
「今日から三日目に、新婦たちは初めて夫たちの家にはいるのだ。そこへ日暮れ時に、あなたは武器を持って自分の仲間たちをひきつれて、わしは自分の腹心の者を何人か連れてはいりこんで、客たちの中から二人を掠奪して、わしがこっそりと用意させておいた船に連れて行こう。はむかってこようとする奴は、誰彼の容赦なく斬殺してしまうのだ」
この命令はチモーネの気に入りました。彼は定めの時刻まで、黙然として牢獄にはいっておりました。結婚式の日が来ると、その豪華振りは大仰で、すばらしいものでありました。二人の兄弟の家では、隅々までもうれしいお祝いの気分がみなぎっておりました。ぬかりなく万端の用意をととのえたリジマコは、こぞって衣服の下に武装をしたチモーネや、その仲間たちや、同様に自分の友だちたちに向かっていい時分だと思った時に、まずいろいろと話しかけて、自分の意図に熱中させてから、これを三組に分けて、一組をこっそりと港に派遣しました。それは必要の際にだれも乗船をさまたげる者がないようにするためでありました。他の二組をつれてパジムンダの家に到着すると、自分たちを中に閉じこめたり、自分たちが出てくる時に邪魔立てしたりする者が出てこないようにと、一組を入り口に残しておいて、あとに残った一組をつれてチモーネと一緒に階段を上って行きました。そして、新婦たちが多くの他の婦人たちと整然と席について食事していた広間に着くと、前に進みでて、食卓をひっくり返すと、銘々自分の女をつかまえて、仲間たちの腕の中に引き渡し、ぐずぐずせずにすぐさま船に連れて行くようにと命じました。新婦たちは泣いて叫びだしました。他の婦人たちや、召使たちもこれにならいました。またたく間に、あたりには騒音と泣き声がみちあふれました。けれどもチモーネと、リジマコと、二人《かれら》の仲間たちは、剣を抜き放って、だれ一人手向かう者もなくみなが道をあけてくれたので、階段のほうに行きました。階段を下りてくると、その物音に大きな棒を片手にもってきたパジムンダが、みなの前に現れました。チモーネは力一杯その頭に打ちかかり、中程までは十分に切りつけて、自分の足もとに打ち倒しました。かわいそうにオルミスダは兄を救おうと駈けつけてきて、これも同じようにチモーネの一撃で打ち殺されました。近づいてこようとした者たちも何人かおりましたが、リジマコや、チモーネの仲間たちに切りつけられて、押し返されてしまいました。彼らは、血と騒音と泣き声と悲嘆にみちた家をあとにして、だれの邪魔もされないで、一つにかたまると、獲物をつれて船に引き上げました。船に女たちを乗せて、彼らは、仲間たち全部の者と一緒に乗船して、もう海岸は女たちを取り戻そうとして駈けつけた武装した人々で一杯でしたので、橈を水に入れると、気も浮き浮きと気の向く先をめざして出帆しました。そしてクレタ島に着くと、そこで友だちや親戚など大勢の者から大歓迎をうけまして、二人の女と結婚して、立派な式をあげてから、よろこんで自分たちの獲物をたのしみ味わいました。チプリ島とロードス島では、二人の行動が原因で、大変な騒ぎと紛擾が、長い間起こっておりました。結局、二人の友だちたちや、親戚たちが、向こうの島でも、こっちの島でも、中にはいって、解決をつけてくれましたので、しばらくの追放のあとで、チモーネはエフィジェニアとともに元気でチプリ島に帰り、リジマコも同様カッサンドレアとともにロードス島に帰りました。そうして銘々、自分の土地で、自分の女と一緒に、末長くむつまじく満足して暮らしました。
[#改ページ]
第二話
[#この行3字下げ]〈コスタンツァはマルトゥッチョ・ゴミトを愛しているが、その男が死んだと聞いて、絶望のあまりただ一人小舟に乗る。小舟は、風に吹かれてスーザに運ばれた。彼女はトゥニジア(チュニス)で、男が健在なのを見て、その面前に姿をあらわすと、男は、その献策によって国王の殊遇をうけ、彼女と結婚して、富裕の身となり、彼女と手をたずさえてリパリに帰る〉
女王は、パンフィロのお話が終わったのをみると、非常にほめ讃えた後、エミリアに向かって、つづけて一つお話をするようにと命じました。エミリアは、こう話しだしました。
人は、愛情の度合によってその報酬が生まれてくるということは、当然よろこぶべきでございます。愛するということは、苦しみよりもむしろたのしみをうける価値のあるものですから、今度の主題については、前の主題について王さまのおことばに従った以上によろこんで、女王さまのお言いつけに従ってお話をいたしましょう。
さて、心やさしい淑女のみなさん、あなた方は、シチリアの近くにリパリという名で呼ばれている小島があることを御存じでしょう。この小島に、そう昔でもありませんが、かなり名門の生まれであるゴスタンツァ(コスタンツァと同じ)という名の大変美しい娘がおりました。ところが、同じ島のマルトゥッチョ・ゴミトという名の、極く優雅で礼儀正しく、その職業にかけては立派な腕を持っている一人の若者が、この娘に思いをよせたのでございます。同様に娘のほうも、若者の顔を見ていないと気持ちがすぐれないといったくらいに、若者に対して思いをこがしておりました。マルトゥッチョは、彼女を妻にめとりたいと思って、彼女の父親に人を介して申し込みましたが、父親は、その若者が貧乏だから娘はやれないと答えました。マルトゥッチョは、貧乏のせいでことわられたので憤慨して、友人や親戚のある者たちに、自分は金持ちにならないかぎり、リパリには決して戻らないと誓いました。
こうしてマルトゥッチョは出帆すると、海賊を働いて、自分より力の劣っている者を片っぱしから掠奪しながら、バルベリア(北アフリカ海岸にあった国)の沿岸を航行しました。もし彼が自分の財産に満足するなら、この仕事で十分な幸運に恵まれていたでしょう。ところが、彼とその仲間たちは、わずかの間に大金持ちになったのですが、それだけでは物足りなくて、もっと大金持ちになろうと努力しているうちに、ある時のこと、サラセン人たちの船数隻に襲われ、長い間防戦したあげくのはてに、彼は仲間たちと一緒に捕えられて掠奪され、大部分の仲間は、サラセン人たちによって袋に入れられおもしをつけられて海に投げこまれた上、船は沈められてしまいました。彼は、トゥニジアに連れて行かれて、牢獄に入れられたまま、長いあいだ悲惨な境遇におかれておりました。マルトゥッチョと一緒に船に乗っていた連中は全部溺死したという知らせが、リパリにとどきましたが、それは一人や二人の口からではなくて、多くの人々を通じてでございました。
マルトゥッチョの出帆に身も世もなくなげき悲しんでいた娘は、マルトゥッチョがその仲間たちと一緒に死んでしまったと聞いて、長い間泣いておりましたが、もうこの世に生きてはいまいと、ひとり決心の臍《ほぞ》をかためました。で、乱暴なやり方で自殺する気持ちにもなれず、何か変わった方法で死のうと考えました。そこである夜のこと、こっそりと父親の家を脱けだして、港にやってまいりますと、たまたまそこに、他の船から少し離れたところに漁師たちの小舟が一隻あるのが眼にはいりました。見ると、小舟には、ちょうどその時、小舟の持ち主が下船したばかりだったので、帆柱や帆や橈がちゃんとそろっておりました。彼女は、さっそくその小舟に乗りこんで、橈を使っていくらか沖に出ました。その島では普通どの婦人もそうですが、航海術の心得がありましたので、帆をあげて、橈と舵を棄ててしまい、すべてを風に托したのでございます。彼女は、風が、荷物も船長ものせていない小舟を覆えすか、岩に打ちつけて壊してしまうかするだろう、そうすれば、助かろうとしたって助かりっこはない、当然溺れ死んでしまうと、考えていました。そして、マントで頭をつつみこむと、舟底に横になったまま泣いていました。
ところが、彼女が考えていたのとは、全く違ったことが起こったのでございます。折柄吹いていたその風は北風でしたが、非常におだやかで、海もほとんど凪《な》いでおりました。舟はしっかりとしていて、彼女が身を托した夜の翌日の夕方頃、トゥニジアから優に百マイルも先の、スーザという町の近くのある海岸に彼女を運んで行きました。娘は横になったままで、どんなことが起こっても頭をあげず、あげようともしませんでしたので、自分が陸地にいるのか、海上にいるのか、全くわかりませんでした。
舟が岸に打ち当たった時、ちょうどその海岸に貧しい一人の婦人がいて、自分のところの漁師たちの網を陽向《ひなた》から片づけておりました。婦人は舟を見て、帆を一杯にはったままどうして陸地に打ち当たるように仕向けられたのだろうかといぶかしがりましたが、舟の中で漁師たちが眠っているのだろうと思い、舟のところへ行って見ますと、その娘のほかにはだれもいませんでした。娘はぐっすりと寝込んでいたので、婦人は何度も声をかけて呼びました。やっと相手が自分の声に気がつくと、その着物から、キリスト教信者だとわかりましたので、イタリア語を使って、彼女に、こんなところへ舟に乗ってただ一人できたのは、どうしたわけかとたずねました。娘は、イタリア語を耳にすると、別の風が吹いて、自分をリパリに押し戻したのではなかろうかと心配しました。そして、すぐに立ち上がってあたりを見廻しましたが、道も見覚えのないところだし、自分が倒れていたことに気がついて、自分はどこにいるのかと、その親切な婦人にたずねました。彼女に親切な婦人は答えました。
「娘さん、あなたはバルベリアのスーザの近所にいるんですよ」
それを聞くと、娘は、神さまが自分に死を賜わろうとなさらなかったことを悲しみ、自分の恥をさらすのではないかと心配して、どうしていいのか途方にくれてしまって、舟のそばに腰をおろすと、わっと泣きだしました。親切な婦人は、これを見て同情しました。そして、いろいろとことばをつくして、自分の小屋に連れて行き、彼女にどうしてここへ来たのかを物語らせました。親切な婦人は、まだ娘が食事をしていないというので、自分のかたいパンや、二、三尾の魚や水を彼女のためにととのえてから、勧めましたので、娘も少しばかり食べました。それから、ゴスタンツァは、こんなふうにイタリア語を話す親切なあなたはどなたかとたずねました。その婦人はゴスタンツァに向かって、自分はトラパニの生まれで、カラプレーザという名で、ここのキリスト教信者の漁師のところで働いているのだと言いました。娘は、非常に悲しんでいましたが、カラプレーザと言うのを聞いて、どうしたわけでそうなったのかはわかりませんでしたが、心の中で、この名前を聞いたことはいい前兆だと思い、なぜだかは知らずに、希望を抱きはじめ、自殺の考えはうすらいできました。自分がだれで、どこの者であるかは言わないで、神さまの愛によって、どうか自分の若さに同情して、ひどい辱しめをうけないですむようにするのに、何か忠告をしていただきたいと、心をこめてその親切な婦人に頼みました。
カラプレーザは、彼女のことばを聞くと、親切な婦人らしく彼女を自分の小屋に残したまま、網の始末をすると、戻ってきました。そして彼女を自分のマントの中に蔽いかくして、一緒にスーザへ連れて行きました。到着してからカラプレーザが言いました。
「コスタンツァさん、わたくしはあなたを、とてもいいお方であるサラセンの婦人の家に連れて行きますよ。わたくしは始終そのお方の用事をさせていただいています。お年寄りですが情け深い方です。わたくしは、あなたのことを最善をつくしてその方に推薦しましょう。その方があなたによろこんで会い、きっとお嬢さんのように扱って下さると思います。だからあなたも、その方のところで、奉公しながら、できるだけその方の気に入るようにしなさい。そのうちに、神さまがもっといい運を恵んで下さるでしょうから、それまではね」
人のいい婦人は、自分が言ったとおりにしてくれました。
年をとっていたその婦人は、カラプレーザの話を聞いてから、その娘の顔をじっと見つめていましたが、涙を流しながら彼女をひきよせると、その額に接吻をしました。それから手をとって、自分の家に連れて行きました。その家で婦人は他の何人かの女たちと一緒に、男気抜きで暮らしておりました。みなは、絹や椰子の葉や皮革のいろいろの細工をしながら、種々の品の加工をしておりました。娘は、そうした仕事の一つをわずか数日で覚えました。そしてみなと一緒に仕事をはじめました。彼女は老婦人やその他の婦人たちの気に入り、可愛がられました。わずかの間に、彼女たちに教わって、そのことばも覚えてしまいました。
さて、娘の故郷では、もうこの世にいない者、死んだ者としてなげき悲しまれておりましたが、彼女はこうしてスーザに住んでいました。ある時のこと、マリアブデラというトゥニジアの王さまに、グラナータにいる親戚の大変勢力を持ったある若者が、トゥニジアの王国も自分に所属するものだと言いだして、雲霞のような大軍を擁して、トゥニジアの王をその国から追い払おうと襲いかかってきました。そうしたことが、バルベリア語に通暁している獄中のマルトゥッチョ・ゴミトの耳にはいりましたので、またゴミトは、トゥニジアの国王が防禦のために大童であると聞きましたので、自分と自分の仲間たちの牢番をしている連中の一人にこう言いました。
「もし王さまとお話しができたら、王さまが戦争にお勝ちになるような忠告を、きっとしてあげられるんだがなあ」
牢番は、そのことばを自分の上役に伝えました。上役は、それを、ただちに王さまに報告しました。そこで王さまは、マルトゥッチョを自分のところに連れてくるようにと命じました。マルトゥッチョは、その忠告とはどんなものかと王さまに聞かれると、こう答えました。
「王さま、わたくしが昔この陛下の領土にたびたび伺いました頃、陛下の戦争のやり方をよく拝見しておりましたので、陛下はこんどの戦争をなさるのに必ず弓兵をお使いになるでしょうと思うのでございます。でございますから、敵の弓兵に矢がなくなり、味方の弓兵には矢がいくらでも十分にあるようにする方法が見つかりましたら、陛下の戦争は勝利をお収めになると存じます」
彼に向かって王さまが言いました。
「無論、それができたら、わしは勝利者になれると思う」
マルトゥッチョが王さまに申しました。
「王さま、陛下がお望みでございましたら、立派におできになれます。どうしたらよろしいか、まあお聞き下さいませ。陛下は、御自分の弓兵たちの弓に、一般にだれにでも用いられている弦《つる》よりもずっと細い弦を取りつけさせなければなりません。それから矢を作らせるのですが、矢の頭の溝は、この細い弦だけにしか使えないようにしておかなければいけません。で、このことは、敵もその対応策を考えるでございましょうから、彼らには知られないように、秘密裡に取り計らわれなければなりません。で、わたくしがこの方法を申しあげる理由はこうなのでございます。陛下の敵の弓兵たちが自分たちの矢を射つくし、陛下の弓兵たちも自分たちの矢を射つくしてしまったあとで、戦争がつづいている間じゅう、敵兵たちは味方が射たものを拾わねばならなくなり、味方は敵兵たちの矢を拾わねばならなくなるのは、御承知でございましょう。しかし、敵兵たちは味方が射た矢を、使うことができないでしょう。その矢の頭の溝が小さいので太い弦をうけつけないでしょうから。ところが、味方にとっては、細い弦には、太い溝のついている矢はとても具合よく合いますので、敵兵たちの矢について起こったのと反対のことが持ち上がりましょう。こうして、敵が矢がなくて困っているのに、味方には矢がふんだんにあるというわけでございます」
王さまは聡明な方でしたので、マルトゥッチョの忠告が気に入りました。で、その忠告に全面的に従った結果、戦争は勝利をおさめました。そんなわけで、マルトゥッチョは王さまに非常にかわいがられて、その結果、重要な地位にとりたてられ、裕福になりました。
このことの評判は、領土じゅうにひろがりました。そして、ゴスタンツァが、長い間死んだと考えていたマルトゥッチョ・ゴミトが存命していることが、彼女の耳にも伝わりました。彼女の胸の中で弱まっていた彼への愛情が、たちまち焔となって燃えあがり、一段と激しくなって、消えていた希望をよみがえらせました。そこで彼女は、自分が一緒に住まわせてもらっている親切な婦人に、身の上の出来事を洗いざらい物語り、うわさにきいていたことをこの眼で確かめるため、トゥニジアに行ってみたいと言いました。婦人は、ゴスタンツァに向かって、その望みを非常にほめ、まるで母親でもあるように、舟に乗って彼女と一緒にトゥニジアに参りました。トゥニジアでは、ゴスタンツァを、自分の親戚の家に鄭重に迎えいれました。カラプレーザも同行していましたので、婦人はカラプレーザをやって、マルトゥッチョについて情報をさぐらせました。そしてマルトゥッチョが存命しており、重要な地位についていることがはっきりしましたので、貴婦人はマルトゥッチョに、恋人のゴスタンツァがこの地まで会いにきていることを、ぜひ自分の口から教えたいと思いました。ある日のこと、マルトゥッチョがいるところへ出向いて行って彼に言いました。
「マルトゥッチョさん、あなたの召使がリパリからきて、わたしの家にいるんでございますよ。当地でひそかにあなたとお話をしたいと申しております。そこでわたくしは、彼が望んでいたように、他人に打ち明けたくありませんでしたので、自分でこのことをあなたにお話しにまいったのでございます」
マルトゥッチョは彼女に礼を言って、彼女のあとについて、その家にやってきました。娘は彼を見た時に、うれしさのあまり死ぬところでございました。じっと抑えていることができなくて、彼女は両腕をひろげて彼の首にとびついて抱きしめました。そして過去の数々の不幸な思い出や、現在の歓喜のために、何も言うことができず、愛情にむせんでしくしくと涙を流しはじめました。マルトゥッチョは、娘を見るとびっくりして、声もでませんでしたが、やがて吐息をつきながら言いました。
「ああ、わたしのコスタンツァ、あなたは生きていたんですね。あなたがいなくなったこと、故郷であなたのことが何一つわからなくなったと聞いてから、もう大分になりますよ」
こう言うと男は、愛情をこめて涙を流しながら、彼女をかき抱いて接吻しました。ゴスタンツァは、自分の身の上に起こったすべての出来事や、現在自分が厄介になっているその貴婦人からうけてきた厚遇を男に語って聞かせました。マルトゥッチョは、いろいろとたくさん話し合った後、彼女に別れを告げて自分の主人である王さまのところに参りまして、一部始終を、お話ししました。それから、お許しを得て、自分たちの信仰の形式に従って、彼女と結婚したいと考えている旨を申し添えました。王さまはこれらの次第を聞いて、びっくりしました。そして、娘を召し出させて、彼女の口からマルトゥッチョが言ったとおりであることを聞いてから言いました。
「さて、お前はこの男を夫として実にうまく手に入れたもんだ!」
そうして王は、非常にたくさんの高価な贈り物を持ってこさせると、その一部を彼女に、一部をマルトゥッチョにあたえた上、双方の一番気に入ることを二人の間でするようにと許可をあたえました。マルトゥッチョは、ゴスタンツァが世話になっていた貴婦人を心から讃えて、ゴスタンツァのためにつくしてくれた親切について感謝をしてから、貴婦人にふさわしい贈り物をいたしまして、神様のお恵みに預かるようにと祈って、ゴスタンツァのさめざめと泣くうちに、貴婦人に暇を告げました。それから、王さまのお許しをいただいて、二人は小さな船に乗ると、カラプレーザも一緒に、順風に送られて、リパリに帰りました。リパリでは、到底筆紙につくせないような大歓迎が行なわれました。ここでマルトゥッチョは、彼女と結婚しまして、盛大な、豪奢な結婚式をあげました。それから彼女と一緒に、平和に、ゆったりとした気持ちで、長いあいだその恋をたのしんだのでございます。
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第三話
[#この行3字下げ]〈ピエトロ・ボッカマッツァは、アニョレッラと駈け落ちする。盗賊たちに会い、女は森へのがれて、ある城に行く。ピエトロは盗賊たちに捕えられるが、その手をのがれ、幾多の事件の後に、アニョレッラがいるその城にたどりつき、彼女と結婚して、ともに手をたずさえてローマに帰る〉
みんなの中にエミリアのお話をほめないものは一人もありませんでした。女王はそのお話が終わったのを見て、エリザのほうに向かって、あとをつづけるようにと命じました。エリザはそれに従って、話しだしました。
美しい淑女のみなさん、わたくしには、あまり利口でない二人の若者が過ごした、悪い一夜のことが頭にうかんでおります。でもその夜のあとに、多くのたのしい日がつづきましたから、わたくしたちの話題にふさわしいので、わたくしはそれをお話したいと存じます。
かつては世界の頭であったように、今日では尻尾に廻っているローマの都に、少し以前のこと、かなり家柄のいいローマの名門の出で、ピエトロ・ボッカマッツァという青年がおりました。この青年が、平民ですがローマ人にはかなり親しまれている、ジリウオッツォ・サウッロという名前の人の娘で、アニョレッラという、大変美しくて、愛らしい若い女性に思いをよせました。愛するうちに、いろいろとできるだけのことをしたので、娘のほうでも、男が自分を愛するのに劣らないくらいに、彼を愛しだしました。ピエトロは、たぎりたつ恋心にせっぱつまっていたうえに、その娘のことで感じている欲望ゆえになめているつらい思いに、もうこれ以上我慢ができないような気がしましたので、妻にほしいと申し込みました。ピエトロの親戚の人たちは、そのことを知ると、打ち揃って彼のところにきて、彼がしようと思っていることを、激しく非難しました。他方、ジリウオッツォ・サウッロのところには人をやって、ピエトロのことばにはどんなことがあっても従ってはならない、もし従うようなことがあったら、自分たちはもう友人としても、親戚としても認めないからと、伝えさせました。ピエトロは、自分の望みに到達する唯一のものだと思っていたその道がふさがれているのを見て、悲嘆のあまり死にそうな思いでした。もし、ジリウオッツォが承諾をしていたら、自分の親戚全部の意向にさからっても、その娘を自分の妻にもらっていたことでございましょう。だが、それでも若い娘がいいと言ったら、結婚が行なわれるようにしようと決心しました。仲介人を通じて、彼女がそれをよろこんでいるとのことを聞きましたので、彼女と相談して、一緒にローマから駈け落ちをすることにきめました。その準備をととのえまして、ある朝のこと、ピエトロは、非常に早くから起きると、彼女とともに馬に乗って、アラーニャのほうに向かいました。ピエトロは、そこに、非常に信頼していた何人かの友人を持っておりました。こうして二人は馬を進めながら、追跡されている心配がありましたので、結婚式をあげる余裕はありませんでしたが、一緒に自分たちの恋の話をしながら、時々互いに接吻をかわしました。
ところがピエトロはあまりよく道を知っていませんでしたので、ローマから八マイルばかり離れたところにきた時に、右側に曲がらなければならないところを、左側の道にはいってしまいました。それから二マイルとは馬を進めないうちに、二人はある小城のそばにやってきました。その小さな城から二人の姿を見て、すぐに十二人ばかりの徒歩の兵士たちが出てきました。もうすぐそばまで近づいてきていましたので、娘はそれを見ると、大声をあげて言いました。
「ピエトロ、逃げましょうよ。わたくしたちのところに押しかけてきているわ!」そして、ありったけの力をふりしぼって、彼女はとても大きな森のほうに馬のたてがみを向けました。拍車で馬の脇腹をしっかりと抑えつけて、鞍の前穹に体をずりかからせましたので、馬は体を刺されたような気がしたものですから、まっしぐらに駈けだして、その森に彼女を連れこみました。
道よりも娘の顔のほうを見ていたピエトロは、彼女のように、やってくる兵士たちにすぐには気がつきませんでしたので、まだ姿が見えないので、どっちの方角から来るのかと見つめているうちに彼らに追いつかれて、つかまり、馬から引きずりおろされました。何者かと聞かれて、答えると、その連中は、お互いの間で相談をはじめ、こう言いました。
「こいつは、われわれの敵の仲間の者だ。その着物と馬を取り上げて、オルシーニ人たちの面当てに、こいつをこの樫の木で縛り首にしてやるほかあるまい」
一同はこの相談に同意をして、ピエトロに着物を脱ぐように命令しました。ピエトロは着物を脱ぎながら、もう自分の不運を予知しておりました。ところが、優に二十五人の兵士たちからなる伏兵が、その連中めがけて、うしろから「やっちまえ、やっつけちまえ!」と叫びながらとび出してきました。連中は、この伏兵に不意をうたれて、ピエトロを放ったまま、自分たちの防禦に当たりました。けれども自分たちのほうが伏兵よりも数が少ないのを見てとると、逃げだしました。伏兵はこれを追いかけました。
ピエトロは、それを見て、すぐに自分のものを拾い集めると、自分の馬に乗って、娘が逃げて行ったと見てとった道を、まっしぐらに全力で、逃げだしました。自分をつかまえた連中やその連中を襲った伏兵たちの手のとどかない安全な所にきたものの、森には途も小道も馬の蹄の跡も見つかりませんし、恋人も見つかりませんでしたので、悲しくなって、森の中をあちらこちらと呼ばわりながら、うろつきはじめました。だがだれも答える者とてはありませんでした。いまさら引き返す勇気もなく、前へ前へと進んで行きながら、どこへ行ったらいいのかわかりませんでした。一方、森によく住んでいる猛獣のことを考えると、自分の身や、同時にまた娘の身が心配になってきて、娘が熊や狼に喉を裂かれて殺されているありさまが眼にうかんでくるようでした。
そこで、この不幸なピエトロは、一日じゅう森の中を、大声をあげたり呼んだりしながら、時々、前に進んでいるつもりで、あとずさりしておりました。叫んだり、泣いたり、怖がったり、そして長い間の絶食のため、へとへとに疲れ切って、もうこれ以上は我慢できなくなりました。気がつくと夜になっていまして、他にどうしたらいいのかいい考えもうかんできません。ふと見上げると天にもとどく樫の木がありましたので、馬から下りると、樫の木にそれをつなぎました。それから、夜中に、猛獣に食われないようにと、その木に上りました。間もなく月が上って、空は晴れわたっていました。ピエトロには、落ちてはいけないと思って眠る勇気がでてきませんでしたので、(もっとも、たとえゆっくり眠れるような設備がととのっていたとしても、自分の恋人について感じていた悲しみや、心配が、彼を眠らせてはくれなかったでしょう)溜め息をつき、泣きながら、自分の不幸をかこいつつ、眼をさましておりました。
娘は、前にも言いましたように、逃げて行きながら、馬の行くままにまかせ、自分がどこに行くのやらわからぬまま森の中にずっとはいりこんでしまいました。そこで、ピエトロがしたと同じように一日じゅう、ある時には足をとめて待ち、ある時には歩いて、泣いたり叫んだり、自分の不幸をなげいたりしながら、その荒地をうろついておりました。しまいに、ピエトロが来ないのがわかり、ある日の夕暮れどき、ふとある小道に出ました。その小道にはいって馬で二マイル以上進んで行くと、遠くのほうに一軒の小さな家が見えました。彼女はその家に向かって、とぶように全力をそそいで、馬を駈けさせました。そこに着いて見ると、人の好さそうな年寄りが、同じように年とった妻と一緒におりました。二人は、娘が一人ぼっちなのを見て言いました。
「娘さんや、今時にたった一人で、こんなところで何をしているんですか?」
娘は、連れの者を森で見失ったのだと泣きながら答え、アラーニャまでどのくらいあるのかとたずねました。親切な老人が答えました。
「娘さんや、これはアラーニャに行く道ではありません。十二マイル以上はありますね」
すると、娘が言いました。
「人を泊めるような家が、この近くにありましょうか」
彼女にその親切な男が答えました。
「あなたが、日が暮れないうちに行きつけるような近い所には、そんな家はありません」
すると、娘が言いました。
「では、ほかに、行けそうもないようでございますから、どうか今夜は御慈悲と思って、ここにわたくしを泊めていただけないでしょうか」
親切な男が答えました。
「娘さんよ、あなたが今晩わたしたちのところに泊まろうとなさるのは結構です。しかし、それでもあなたに知っておいてもらいたいのは、つまりこの界隈では、昼となく夜となく、敵も味方も徒党を組んで、ひどいわるさや、大きな迷惑をかけるのがしょっちゅうといってもいいくらいなのでして、もし不幸にしてあなたがここにいらっしゃる間に、だれかがきたならば、あなたが美しくて、若いのを見たら、その連中はあなたにひどいことや、恥ずかしいことをしかけるにきまっています。でも、わたしたちはあなたのために何もしてあげられないということなんですよ。もしこんなことが起こっても、あなたがあとでわたしたちのことをぐちらないようにと思って、そのことをあなたに前もって言っておきたかったんですよ」
娘は、老人のことばを聞いて恐ろしくなりましたが、時間も遅かったので、こう言いました。
「もし神さまにそうした思し召しがございましたら、あなたやわたくしを、そうした不幸から守って下さるでしょう。またたとえ、そうした不幸が起こりましても、森の中で猛獣に食い裂かれるよりは、人間からひどい目にあわされるほうが、ずっとましでございます」
そう言うと、娘は馬から下りて、その貧しい男の家にはいって行きました。そこで夫婦と一緒に彼女は、彼らのところにあった貧しい夕飯をたべました。そのあとで、身ぐるみのまま、二人の小さなベッドに身をなげて、彼らと一緒に横になりました。その夜は一晩中まんじりともせずに、溜め息をついたり、自分やピエトロの不幸を泣いたりしていました。ピエトロのことについては、ただ悪いことだけを考えるほかには、何もできませんでした。
もう夜が明けそめる頃、彼女は大勢の人々が歩いてくるはげしい足音を耳にしました。そこで、起き上がると、その小さな家のうしろにあった大きな庭に出て行きました。見ると、庭の一隅に乾し草がたくさん積んでありましたので、その連中がここに来てもすぐに見つかることはないだろうと思って、その乾し草の中にかくれました。身をかくし終えたと思ったとたんに、悪人たちの徒党であったその連中が、小さな家の戸口にきていました。彼らは、戸口をあけさせると、中へはいって、まだ鞍をおいたままになっている娘の馬を見つけると、だれかいるのかと聞きました。親切な男は、娘の姿が見えないので、答えました。
「だれも、わたしたちの他にはおりません。でも、この馬がどこから逃げてきたのか知りませんが、昨晩、わたしたちのところにやってまいりまして、わたしたちは、狼どもに食われないようにと、家に入れておいたんです」
「じゃあ」と、徒党の親分が言いました。「わたしたちが貰って行こう、ほかに持ち主がないというんなら」
そこで、その連中はみな小さな家を手分けしてさがしはじめ、その一部が庭にやってきました。彼らは、自分たちの槍や、楯を下におきました。ところがその内の一人が、退屈しのぎに、槍を乾し草の中に投げこみましたので、かくれていた娘はもう少しで殺されるところだったし、もう少しで姿をあらわすところでした。というのは、槍が左の乳のすれすれのところを通って、切先で着物がちぎりとられたほどだったからでした。そこで彼女はもう少しで悲鳴をあげるところでしたが、自分がどこにいるのかを思い出して、全身をゆすぶると、じっと息をのんでおりました。連中は、ある者はこっち、ある者はそっちといったように散り散りになって、子山羊や、その他の肉類を料理して、食べたり、飲んだりした上、自分のことをしに立ち去りましたが、娘の馬を連れて行ってしまいました。彼らが、かなり遠のいた頃に、親切な男は細君に向かってききました。
「昨晩ここへやってきた若い娘さんは、わたしたちが起きてからまだ一度も見かけないが、どうしたんだろうね」
人のよさそうな細君は、知らないと答えると、あたりを見まわしておりました。娘は、みなが立ち去ったことがわかったので、乾し草から出てきました。そこで人のいい親切な男は、彼女が彼らの手に落ちなかったのを見て、たいへんよろこび、夜もすっかり明けていたので、彼女に向かって言いました。
「もう夜も明けましたから、あなたさえよろしかったら、ここから五マイルのところにある城までお供しましょう、そこなら、あなたも安全というものですよ。でも、今ここから出て行った悪党どもが、あなたの馬を連れて行ってしまったから、あなたは歩いて行かなくちゃならないでしょうね」
娘はそれについてはあきらめておりましたので、ぜひとも城へ連れて行ってほしいと頼みました。そこで一同は歩きだして、七時半頃に城に着きました。
それは、オルシーニ家の一人で、リエッロ・ディ・カンポ・ディ・フィオーレと呼ばれている人の城でした。たまたま、城には、奥方がいましたが、この方は目もまばゆいばかりに金髪の、信心深い夫人でございました。奥方は娘を見ると、すぐにだれだかわかりましたので、大騒ぎをして迎え入れ、どうしてそこへたどりついたのか、順序立てて説明してくれと言いました。娘は一部始終を物語りました。奥方は、ピエトロも、自分の夫の友人なので、娘と同じように知り合いでしたので、その出来事を悲しみました。そして、どこで捕えられたのかということを聞いて、おそらく殺されてしまっただろうと思いました。そこで、娘に向かって言いました。
「ピエトロがどうなったか、あなたにはおわかりになっていないのですから、あなたをローマへ無事にお送りできるようになるまで、わたしと一緒にここにおいでなさい」
ピエトロは、はてしない悲嘆にくれながら樫の木の上にいましたが、とろとろっと眠りこもうとした時、見ると、二十匹ほどの狼がやってきて、馬を見つけるとそれをぐるりと取り囲んでしまいました。馬は、気がついて頭をもたげ、手綱を切って、逃げだそうとしましたが、取り囲まれているのでそれもできず、長い間歯を使ったり足蹴をくれたりして身を守っておりました。しかし、とうとう最後に、狼どもに倒されて、食いちぎられ、すぐに腹に孔をあけられてしまいました。狼どもは馬にむさぼりつくと、骨だけ残してすっかり平げて、立ち去って行きました。それを見ると、今まで馬がいて、自分の辛苦の伴侶や支柱となってくれるような気がしていたピエトロは、すっかりおじけづいて、もう絶対に自分はその森から出られないと考えました。そして、夜明け近くになって、樫の木の上で寒さにふるえながら、あたりを見廻していると、一マイルほど前方に大きな火が燃えあがっているのが眼にはいりました。そこで、夜もすっかり明けたので、びくびくながら樫の木から下りると、その方向へ足を向けてどんどん歩いて、その火のところに行き着きました。見ると、火のまわりに羊飼いたちがおり、食事をしながらわいわい騒いでいました。その連中に彼は、同情をうけて、迎え入れられました。彼は食事をして、温まってから、自分の不仕合わせな身の上や、どうしてそこにただ一人でやってきたかを彼らに物語ってから、このあたりに自分が行くことができそうな別荘か城があるかどうかとたずねました。羊飼いたちは、ここからたぶん三マイルばかり離れたところに、リエッロ・ディ・カンポ・ディ・フィオーレの城があって、現在奥方がいらっしゃると言いました。それを聞いて、ピエトロは大満足で、みなのうちだれかに城まで連れて行ってもらいたいと頼みました。二人の羊飼いが進んでそれをしてくれました。ピエトロは城に着くと、そこで二、三の知人に会い、恋人の娘を森で探し出す方法を見つけようとしていると、奥方のほうから、呼び出しをうけました。さっそく、奥方のところへ行くと、そこで奥方と一緒にいるアニョレッラの姿を見た時の、彼のよろこびにくらべられるようなよろこびは、ありませんでした。彼はアニョレッラを抱擁しに行きたくて、身をこがす思いでしたが、奥方への恥ずかしさから、じっとこらえておりました。もし彼が非常に喜んでいたとしたら、娘のよろこびもこれに劣りませんでした。奥方は彼を迎え入れると、大騒ぎをして、その身の上に起こったことについて、親しく話を聞くと、彼が親戚の考えにさからってしようとしたことについて、痛く叱責しました。でも奥方は彼がどんなことがあろうとそうするつもりでいることや、それを娘がよろこんでいるのを見て、言いました。
「何をわたくしが余計な心配をすることがありましょう。この人たちはお互いに愛し合っているし、知り合っている。どちらも、同じように、わたしの夫の友だちです。この人たちの望みは貞潔なものであるし、また一方は絞首台をのがれ、他方は槍の穂先をのがれて、両方とも野獣の牙をのがれたのだから、その望みも神さまのお思し召しにかなっていることだと思います。二人は、望みどおりにしたらいいんですわ」
そして、二人に向かって言いました。
「まだ二人が夫婦になりたいとお望みでしたら、わたくしも賛成です。結婚なさいよ。ここでなら結婚式の費用のことは、リエッロの掛かりでとりはこべばよろしいのです。あなた方と親戚のあいだの仲直りは、わたくしがうまくとりなしてあげましょう」
ピエトロは大よろこびで、アニョレッラは、それにも勝るよろこびようで、ここに二人は結婚をいたしました。貴婦人は、山でできるだけのことはして、二人の立派な結婚式を取り行ないまして、そこで二人は自分たちの恋の最初の結実を、いともたのしく味わいました。それから、何日かたってから、貴婦人は、二人と一緒に馬に乗って、多くの供廻りの者たちにかしずかれて、ローマに帰ってまいりました。そこでピエトロの親戚たちが、彼のしたことで非常に腹を立てているのを見て、彼らのあいだを仲よくさせました。ピエトロは妻のアニョレッラと一緒に、共白髪になるまでしごく平穏に、たのしく暮らしたのでございます。
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第四話
[#この行3字下げ]〈リッチャルド・マナルディは、リツィオ・ディ・ヴァルボーナ氏に、その娘といるところを発見されて、彼女と結婚し、彼女の父親とも依然仲よくつきあう〉
エリザが黙りこんだので女王は、その話に仲間の淑女たちがあたえている賞讃のことばを聞きながら、フィロストラートに向かって、何かお話をするようにと命じました。フィロストラートは、笑いながら話しだしました。
わたしは、みなさんに残酷な話をして、みなさんから何度も攻撃されてきましたので、こうした悲しい気持ちをいくぶんでも回復したいと思って、何かあなた方を笑わせるようなことを話さなくてはならない立場に立っているような気がします。そこで、数々の吐息や、それから恥ずかしい思いのまじった一時の恐怖などのほかには、わずらわしいこともなく、幸福な結末に到達した恋の物語をと思います。
さて、みなさん、そう大して昔のことではありませんが、ロマーニャに、リツィオ・ディ・ヴァルボーナ氏という非常に裕福で、正直な騎士が住んでおりました。たまたま年をとってから、マドンナ・ジャコミーナと呼ばれる夫人との間に一人の女の子が生まれました。この子は、成長するにつれて、その界隈でだれもその足もとにも及ばないくらい美しくなり、愛嬌もしたたるばかりでした。父親や母親にとっては一粒種でしたから、二人からたいへんかわいがられ、大事にされまして、驚く程慎重に監視されておりました。両親は彼女に立派な縁組をさせてやりたいと、かねがね思っておりました。さてリツィオ氏の家に、美しい溌剌とした体つきの青年がよくたずねてきまして、リツィオ氏と腰を落ちつけて話しこんでおりました。この青年はマナルディ・ダ・ブレッティノーロ家の者で、その名をリッチャルドと言いました。この青年については、リツィオ氏もその夫人も、自分の息子のように扱うほかは特別監視はしませんでした。青年は、一度ならずその若い娘がたいへん美しくかわいらしく、またその立ち居や振る舞いも立派で、もう結婚の年頃になっているのを見て、彼女に強く心をひかれましたが、細心の注意を払って、その恋を心の底にかくしておきました。それを娘のほうも気づいて、同じように彼を愛しはじめました。リッチャルドはこれを非常に満足に思いました。それで、彼女に何かことばをかけたいと何度も思いましたが、不安になっては黙りこんでしまいました。それでも一度機会をとらえて、勇気をだして言いました。
「カテリーナ、お願いです、わたしを焦れ死にさせないで下さい」
娘はすぐに答えました。
「あなたこそ、わたくしに死ぬような苦しみをさせないでほしい、と祈っているくらいですわ!」
この返事に、リッチャルドはさらに大きな喜びと勇気を感じて言いました。
「わたしは、あなたのお気に召すなら、何でもします。でもあなたの生命や、わたしの生命を救う何かいい方法を考えるのは、あなたのほうですよ」
娘は、そこで言いました。
「リッチャルド、あなたも御存じのように、わたくしは監視されておりますから、どうしてあなたにわたくしのところへ来ていただけるものやら、わたくしには見当がつきません。でも、恥になるようなことは除いて、わたくしにできる何か御存じでしたら、おっしゃって下さいませ。それをいたしましょう」
リッチャルドは、いろいろと考えていたのですぐに言いました。
「かわいいわたしのカテリーナよ。あなたが、お父さんの庭のそばにある露台《ベランダ》でお休みになるか、露台まできて下さるかしないかぎり、わたしには何の方法もわかりません。その露台に、夜あなたがいらっしゃるとわかったら、きっとわたしは、露台は随分高いけれども、どんなにしてもあなたのところへ行ってみせましょう」
彼に向かって、カテリーナが答えました。
「もしあなたがそこへおいでになれるのでしたら、わたくしは、そこで眠れるようにすることは、十分できると思います」
リッチャルドは、よろしいと言いました。そう言うと、二人はたった一回だけ、すばやく口づけをして別れました。翌日は、もう五月の終わり近くでしたので、娘は母親のところに行って、昨夜はあまり暑すぎたので眠ることができなかったと、こぼしました。母親が言いました。
「娘や、何が暑いんですか。ちっとも暑くはないじゃないですか」
母親に向かって、カテリーナが言いました。
「お母さま、お母さまは『わたしの考えでは』とおっしゃらなくてはいけませんわ。大方お母さまのおっしゃるとおりかもしれません。でも、年寄りの女の人よりも娘のほうがどんなに体が熱くほてっているものか、お考えにならなくてはいけませんわ」
夫人はそこで言いました。
「娘や、それはそうですね。でも、お前が望むように、勝手にわたしは熱くなったり、寒くなったりすることはできませんよ。気候というものは、季節が定めるとおりに、受け入れなくてはならないものなんですよ。たぶん今夜はずっと涼しいでしょうから、よく眠れましょう」
「そうだとよろしいんですが」と、カテリーナが言いました。
「でも夏に向かっていますから、夜が涼しくなってくるということは、ちょっと考えられないことですわ」
「では」と、夫人が言いました。「お前は、どうしたらいいというんですか?」
カテリーナが答えました。
「もしお父さまやお母さまさえよろしかったら、わたくしは喜んで、お父さまの寝室と並んだお庭に面している露台に、小さなベッドをこしらえて、そこで寝たいんです。夜鶯が歌うのを聞きながら、場所もずっと涼しいですし、お母さまの寝室よりも、ずっと気持ちよくしていられますわ」
母親がそこで言いました。
「娘よ、安心なさい。わたしはそのことをお父さまにお話しして、お父さまがよろしいとおっしゃったら、そうしましょうね」
リツィオ氏は、そのことを夫人から聞くと、年はとっているし、その愚にもつかない話が少し気にもさわったのでしょう、こう言いました。
「その歌を聞いて、あの子が眠りたいという鶯は、なんて鶯なんだい? わしは、今でもあの子を蝉の声で寝かしつけてやれるよ」
カテリーナは、そのことを知ると、暑さのためよりも、むしろ腹が立って、その夜は自分が眠らなかったばかりでなく、たえず暑くてたまらないと泣き言を言いながら、母親を眠らせませんでした。その泣き言を聞いていた母親は、朝になると、リツィオ氏のところにきて言いました。
「旦那さま、あなたは娘がかわいくないのでございますね。あの寝台で寝たら、なんだというんですか。あの子は一晩じゅう暑い暑いと言って眠りませんでした。それに、夜鶯が歌うのを聞くのが楽しいといったとて、まだこどもなんですからね、驚くことがあるでしょうか。若い人たちは、自分たちにふさわしいことをしてみたいのでございますよ」
リツィオ氏は、これを聞いて言いました。
「よし、あの露台にはいるくらいのベッドを、こしらえてやるがいい。カーテンでそのまわりを囲ませるんだよ。そこに寝て、思う存分夜鶯の歌うのを聞くがいいさ!」
娘はこれをきくと、さっそくそこにベッドをこしらえさせました。その晩は、そこに寝ることにしました。待機していると、リッチャルドの姿が見えましたから、かねての約束の合図をすると、彼はそれを見て、どうしたらいいのかを理解しました。リツィオ氏は、娘が寝に行ったのを耳にしましたので、自分の寝台から露台に通じている出入り口に鍵を下ろして、これも同じように寝に行きました。リッチャルドは、しんと静まりかえっているのを見とどけてからはしごの助けをかりて壁に上ると、つづいてその壁からも一つの壁の突き出たところにしがみついて、墜落の危険を冒しながら、露台の上までたどりつきました。そこで娘のひそかな、熱烈な歓迎をうけました。二人は何度も接吻をしてから一緒に横になり、ほとんど夜っぴいて、お互いに幾度となく鶯を鳴かせながら、心ゆくまでたわむれ、たのしみました。夜は短く歓楽は大きいので、もう夜明けも間近いのに、二人はそんなことには思いも及ばず、また気候のせいや、たわむれ興じているために体がほてっていたので、身に何もまとわないまま寝込んでしまいました。カテリーナは右腕でリッチャルドの首のあたりを抱き、左手であなた方が男子の前で口にするのを一番恥ずかしがる、彼の一物をつかんでおりました。こんなふうにして、二人が目をさまさずに眠っているうちに夜が明けたので、リツィオ氏は起き上がりました。彼は、娘が露台で眠っていることを思い出して、そっと出入り口をひらきながら言いました。
「昨夜、鶯がどんな具合にカテリーナを寝かしつけたか、一つ見てこよう」
そして静かに進んで行って、ベッドを囲んでいたカーテンを高くひきあげて見ると、リッチャルドと娘が一糸もまとわずに、前に述べたような恰好で抱き合って寝ておりました。男がリッチャルドであることをよく見届けた上、そこを出ると、夫人の寝室に行き、彼女を呼び起こして言いました。
「さあ、早く起きなさい。お前の娘があんなに鶯をほしがっていたが、わなにかけて今それをつかまえて、手に持っているから見においで」
夫人が言いました。
「そんなことがあるものですか」
リツィオ氏が言いました。
「早く行けば、それが見られるよ」
夫人は急いで着物を着ると、足音をしのばせながら、リツィオ氏のあとからついて行きました。二人がベッドに着いて、カーテンをとりのけると、マドンナ・ジャコミーナ夫人は、どんなふうに娘が、あれほど熱心にその歌うのを聞きたがっていた夜鶯をつかまえて、現にそれをじっと持っているかをはっきりと見ることができました。そこで夫人は、てっきり娘がリッチャルドに欺されたのだと思いこみ、彼をどなりつけようとしましたが、リツィオ氏が言いました。
「妻よ、お前が、わしの愛をうれしいと思うなら、何も言わないでいてほしい。実のところ、娘がそれをつかまえた以上はもう娘のものなんだからね。リッチャルドは、紳士だし裕福な青年なんだ。わしたちは、リッチャルドなら文句のない姻戚を持てるわけだよ。もしリッチャルドが無事にわしのところから出て行きたかったら、まず娘と結婚することが必要だよ。こうして彼は、鶯を自分の籠に入れたのであって、他人の籠に入れたのではないということをさとるだろうよ」
それを聞いて、夫人も安心し、夫がこの事件で腹を立てていないのを見、また娘がいい夜を過ごして、よく眠ったうえに鶯をつかまえたことを考えて、黙っていました。こうしたことばが話されてのちまもなく、リッチャルドが眼をさましました。夜がすっかり明けているのを見て、生きた心地もなくなり、カテリーナを呼んで言いました。
「ああ、わたしの魂よ、夜が明けてしまったのにこんなところにいて、一体わたしたちは、どうしたらいいだろうね?」
このことばを聞くと、リツィオ氏はつかつかと進みよって、カーテンをのけると答えて言いました。
「なんとかやり方はあるだろうよ」
リッチャルドはリツィオ氏を見た時に、自分の体から心臓をちぎりとられたかと思いました。彼は起きあがってベッドの上に坐ると、言いました。
「どうか御慈悲をお願いします。わたしは、不義をした悪い男ですから、殺されても文句の言えないことは存じております。ですから、存分にわたしのことは御処分なさって下さい。でも、もしできることなら、わたしの生命に慈悲を垂れて下さい、わたしが死なずにすむようにして下さい」
リツィオ氏は、彼に向かって言いました。
「リッチャルド君、これは、わしが君に対して持っていた愛情や、君によせていた信頼にかなうものではなかったね。だがしかし、こうなった以上、青春が君にそんな過ちを犯させた以上、君が自分を死から救い、私を恥辱から救うには、正当な妻としてカテリーナと結婚をしなさい。つまり、あの子が昨晩君のものであったように、生命のあるかぎり君のものでいられるようにしてほしいんだよ。こうして君は、わしの心の平和と、君の生命の安全を手に入れることができるんだよ。もし君がそうすることがいやなら覚悟をきめて、君の魂を神さまにお頼みしたほうがいいよ」
こんなことばが言われている間に、カテリーナは夜鶯をはなして、夜具で体をまとうと、はげしく泣きだして、父親にリッチャルドを許してほしいと頼みました。また一方リッチャルドには、二人が安心して、長い間、共にこうした楽しい夜をいくらでも持てるようになりたいから、リツィオ氏の望んでいることをするようにと頼みました。でもそれには、たいして嘆願の要はありませんでした。なぜなら、一方には犯した過失の恥ずかしさや、これをつぐなおうとする欲望があり、他方には死の恐怖や、助かりたい熱望があり、この他に、燃えたぎる恋心と、恋する者を所有したい欲念があって、これらが一緒になって、自由に、なんの躊躇もなく、リッチャルドに、自分はリツィオ氏の気に入ることをすると言わせました。そこで、リツィオ氏は、マドンナ・ジャコミーナ夫人から、その指輪の一つを借り、その場でそこから一歩も動かずに、リッチャルドは、彼らの面前でカテリーナを妻にめとりました。それが終わってからリツィオ氏と夫人は、そこを立ち去りながら言いました。
「もうおやすみなさい、たぶんそうするほうが、起きるよりも必要だろうからね」
二人が出て行くと、若者たちはふたたびぴったりと抱き合って、昨夜は六マイルしか歩きませんでしたので、起き上がる前に、さらに二マイル歩いて、第一日目の終わりとしました。それから起き上がるとリッチャルドは、リツィオ氏ともっとちゃんとした話をして、数日の後に、そうすることが必要でしたので、友人たちや親戚たちの面前で、もう一度娘と結婚し、大変なお祭り騒ぎをして、自分の家に彼女を連れて帰って、豪華な華燭の式典をあげました。それから彼女とともに長い間、平和に、慰め合いながら、昼となく夜となく、勝手気ままに鶯とりにはげみました。
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第五話
[#この行3字下げ]〈グイドット・ダ・クレモーナは、一人の少女をジャコミーノ・ダ・パヴィアにのこして死ぬ。その少女にジャンノーレ・ディ・セヴェリーノとミンギーノ・ディ・ミンゴレがファエンツァで恋をし、喧嘩沙汰に及ぶが、少女がジャンノーレの妹だとわかって、ミンギーノに妻としてあたえる〉
鶯の話を聞きながら、どの淑女もみんな大笑いに笑って、そのために、フィロストラートが話をやめてしまっていたのに、淑女方はそれでも笑うのをやめることができませんでした。でもしばらく笑ってから、女王が言いました。「あなたは昨日わたくしたちに悲しい思いをさせましたが、今日はずいぶんたのしいお話をきかせて下さいましたから、だれもあなたを責める人はいないと思います」
そして女王はネイフィレにことばを向け、お話をするように命じました。ネイフィレはよろこんで、こう話しだしました。
フィロストラートが話をロマーニャ地方にもちこみましたので、わたくしも同じようにその土地にはいって、お話をしながら、少しばかりそこを散歩したいと存じます。さてお話し申しあげますが、かつてファーノの町に、二人のロンバルド人が住んでおりました。その一人はグイドット・ダ・クレモーナと呼ばれ、他の一人はジャコミーノ・ダ・パヴィアと言いまして、どちらももう老人でしたが、若いころは、ほとんどしょっちゅう戦争に出て、兵隊になっておりました。グイドットは死にのぞんで、こどもは一人もないし、ジャコミーノよりも信頼できる友人なり、親戚がありませんでしたので、ジャコミーノに、自分の身の上のことをいろいろと物語ってから、十歳くらいになる少女と、自分がこの世で持っている財産とを彼にのこして亡くなりました。長いあいだ、戦争と不幸に巻き込まれていたファエンツァの町が、いくぶん今までよりもいい状態にもどりまして、町に戻りたい者には、帰還が自由に許されたのは、このころのことでございます。そこで、前に住んでいて、住み心地がよかったジャコミーノは、自分のものを全部持って、その町に戻ってきました。彼は、グイドットが自分の娘のようにかわいがって面倒を見ていて、自分にのこして行ったその少女を一緒に連れておりました。少女は、成長するにつれて、当時その町のだれにも劣らぬくらいのたいへん美しい娘になりました。娘は美しいのと同様に、礼儀正しく、貞潔でございました。そんなわけで、多くの人々から恋い慕われだしました。その中でも特に、美しい裕福な二人の青年が、同じくらいに熱烈な恋を彼女にささげました。そして二人は嫉妬から互いに極端に憎み合うようになりました。その一人はジャンノーレ・ディ・セヴェリーノといい、もう一人はミンギーノ・ディ・ミンゴレと申しました。少女が十五歳になりましたので、二人は、もし少女の親戚の者たちが許可をあたえたら、どちらもよろこんで妻にもらおうとしました。でも正当な理由によってことわられましたので、銘々は秘術をつくして、彼女を手にいれなくてはと懸命になりました。
ジャコミーノは、家に年をとった女中と、クリヴェッロという陽気で愛想のいい下男をおいていました。ジャンノーレはこの下男と大変親しくなりまして、いい潮時を見計らって、この下男に自分の恋のすべてを打ち明け、自分の思いがかなうように肩を入れて貰いたい、もしそうしてくれるならお礼はたんまりだそうと頼みこみました。彼に向かってクリヴェッロが申しました。
「この事については、わたくしといたしましては、ジャコミーノさまがよそに夕食にお出かけになった時に、あなたをお嬢さまのいらっしゃるところへ御案内する以外には何もしてあげられません。お嬢さまは、わたくしがあなたのことを何かお話ししようと思っても、決して耳をおかしにはならないでしょうからね。これでよろしかったら、お約束をして、やってみましょう。そのことで、もしおできになるなら、あなたがいいとお思いになっていらっしゃることを、おやりなさいまし」
ジャンノーレは、それ以上は望まないと言って、相談がまとまったのでございます。一方ミンギーノは、女中を手なずけてうまく使ったので、女中は何度も娘に手紙を持って行って、ミンギーノの恋を伝えてその胸を燃え上がらせたようでした。この他に、女中は、ジャコミーノが何か用があって晩に外出するような場合には、お嬢さまのところにお連れしようと約束しておりました。
ところが、こうしたことばが話されてから、まもなくのことでありました。クリヴェッロの計らいで、ジャコミーノは友だちの一人と夕食に出かけました。クリヴェッロは、そのことをジャンノーレに知らせて、合図をするから来るように、そうすれば戸口は開いているからと、相談をきめました。一方女中は、こんなことはちっとも知りませんでしたので、ミンギーノに、ジャコミーノがその晩は家で食事をしないことを知らせた上、さらに彼に向かって、家の近くにいるように、そうして、自分がする合図を見たら、やってきて家にはいるようにと言いました。夕方になりまして、二人の恋人たちは、お互いに何も知らないで、各々相手のことを疑いながら、武装をした友人たちをつれて、彼女を手に入れようとしのんで行きました。ミンギーノは、自分の仲間と一緒に、この隣に住んでいる友人の家にかくれて、合図を待っていました。ジャンノーレは、仲間の者たちと一緒に、その家から少し離れたところにおりました。
クリヴェッロと女中は、ジャコミーノが出かけたので、互いに相手を追い出そうといろいろやっておりました。クリヴェッロが女中に言いました。
「今頃、どうしてお前は、寝に行かないんだい? どうしてまだ家の中をうろついているんだい?」
すると女中が彼に申しました。
「まあ、あんたはどうして、お前の御主人を探しに行かないんだね? 今頃、食事もすんだのに、こんなところで何をぐずぐずしているんだね?」
こうして、二人は互いに相手を追い出すことができませんでした。でもクリヴェッロは、ジャンノーレとの約束の時間になったのを知って、ひとりごとを言いました。「こんなやつはどうだっていいじゃないか。もし静かにしていなかったら、ひどい目に会うというものさ!」そして、約束の合図をして、戸口をあけに行きました。ジャンノーレは、すぐに二人の仲間と一緒にやってきて、中へはいりました。部屋に娘がおりましたので、連れさろうとしてつかまえました。娘はこれに抵抗して、大きな叫び声を立てました。女中も同じようにしました。それを聞きつけたミンギーノは、さっそく仲間のものと一緒にそこに駈けつけて、娘がもう部屋の出入り口の外に引きずり出されているのを見ると、みなは一斉に剣を抜き放ち、どなりつけました。
「やい、裏切り者めら、殺してやる! そうは問屋がおろすもんか。この乱暴はなんてことだ?」
こういうと、みなは相手に切りつけました。一方近所の連中はこの騒ぎに、明かりや武器を手にとび出してきて、このありさまを非難して、ミンギーノに加勢をしはじめました。そこで、長い間争った後に、ミンギーノは娘をジャンノーレから奪って、ジャコミーノの家に連れ戻しました。双方の喧嘩仲間がまだ引き分けられないうちに、町の長官の家来どもがやってきて、一同のうちの大勢の者を召し捕えました。特にその中には、ミンギーノや、ジャンノーレや、クリヴェッロが捕えられておりまして、牢獄に投ぜられました。けれどもやがて事件はしずまり、ジャコミーノは帰宅しました。彼は、この事件を非常に悲しみましたが、その真相を調べて、娘には何の罪もないことを知って、いくぶん安心すると、同じようなことが二度と起こらないようにするために、できるだけ早く結婚させなければならないとひとり心に決めたのでございます。
朝になりますと、両方の親戚たちが、事件の真相を聞きつけて、捕えられている青年たちの身にどんな不幸が起こるかも知れないと思って、ジャコミーノによく考えて処置をとってもらいたいと思いました。彼のもとに参りまして、やさしい口振りで、あの青年たちの無分別からうけられた侮辱については――今願い事に参上しているわたしたちに対して、あなたがかけて下さっていると思われる、あなたの愛情や、好意を重くみられて――それほどお気にかけられないようにと、嘆願いたしました。そのあとで、悪いことをした青年たちは、わたしたちの責任のもとで、あなたが好きなような方法でその罪をつぐなうつもりだと言いました。今までにいろいろとたくさんのことを見てきた、やさしい感情の持ち主であったジャコミーノは、簡単に答えました。
「みなさん、わたしは、現在あなた方の土地にいるように、もしこれが自分の土地におると致しましても、わたしはあなた方の友だちだと思っておりますから、あなた方のお好きなようにする以外に、あれこれと何一つするつもりはございません。また、この他に、あなた方は、あなた方御自身に侮辱をおあたえになったのですから、さらにわたしはあなた方の御希望どおりに従わねばなりません。というのは、この娘は、たぶん多くの者が考えておりますように、クレモナの生まれでも、パヴィアの生まれでもなくて、むしろファエンツァの生まれだからでございます。もっともわたしも、あの子も、わたしにあの子を預けた人も、あの子がだれの娘なのかは知ってはおりませんでしたがね。ですからお願いの筋については、お申し出のとおりに、わたしとしてはお取り計らいいたしましょう」
この立派な人々は、娘がファエンツァの生まれであると聞いてびっくりしました。ジャコミーノに、その寛大な返事の御礼を述べてから、どうして彼女がジャコミーノの手にはいったのか、またどうして彼女がファエンツァ生まれの女であることを知っているのか、よかったら自分たちに話してもらいたいと頼みました。その人たちに向かって、ジャコミーノが言いました。
「グイドット・ダ・クレモーナという人は、わたしの仲間で友だちでした。死を間近に控えて、わたしに言ったところによりますと、この町が皇帝のフェデリゴに占領されて、何もかも掠奪された時に、彼は、仲間の連中と一緒にある家にはいりこんだところ、その家には品物が一杯つまっていましたが、住んでいる人々は逃げてしまったあとで、ただ残っていたのはこの娘一人だったということで、まだ二つかそこいらだったこの娘は、彼が階段を上って行った時に、お父さんと呼んだのだそうです。そんなわけで、彼はその子がかわいそうになって、その家にあった家財全部と一緒に、その子を連れてファーノに行ったのです。そこで死ぬに当たって、その子を、自分が持っていた財産とともに私に遺して行きました。その時彼は、時期がきたら、その子に結婚させるように、自分のものだった財産を持参金としてつけてやるようにとわたしに命令したんですよ、で結婚の年頃になりましたが、わたしの気に入る人物にあの子をやるような運が向いてこなかったんです。昨晩の事件のようなものがも一度持ち上がらないうちに、なんとか結婚させたいと思っているんですよ」
そこの人々のあいだにグイリエルミーノ・ダ・メディチーナという者がおりました。この者は、その事件にグイドットと一緒にいたので、グイドットが掠奪した家が、だれの家であったか、実によく知っておりました。で、そこの人々の中に、その家の持ち主がいるのを見て、そばに近づいて行って言いました。
「ベルナブッチョ、ジャコミンが言っているのを、君、聞いたかね?」
ベルナブッチョが言いました。
「うん、わしはあの騒ぎの中で、ジャコミンが言うその年頃の娘をなくした覚えがあるので、ちょうど今それを考えていたんだよ」
彼に向かって、グイリエルミーノが言いました。
「確かに、これはその娘だよ。だってわたしは、既にその場所にいて、そこでグイドットが、どこで掠奪を行なったか自分で説明しているのを聞いて、それが君の家だったとわかったんだからね。だから、その子が君の娘だと確かにわかるように、その特徴を探させたらどうかね」
そこで、ベルナブッチョは考えていましたが、娘の左耳の上に小さな十字架のような傷あとがあるはずだということを思いだしました。それは、あの事件の少し前に、切開された腫瘍のあとでした。そこで少しも躊躇せずに、ベルナブッチョは、まだそこにいたジャコミーノに近よると、自分をあなたの家に連れて行って、その娘を見せてほしいと頼みました。ジャコミーノは、よろこんで彼を案内して、その面前に娘を連れてこさせました。ベルナブッチョはそれを見た時、これまた美人であったその子の母親の顔をまのあたりに見るような気がしました。しかし、このしるしだけでよさないで、彼は、ジャコミーノに向かって、もしよかったら左耳の上の髪の毛を少しばかり持ち上げさせてもらいたいと言いました。ジャコミーノはそれを承諾しました。ベルナブッチョは、恥ずかしそうにしていたその子のそばに近よると、右手で髪の毛をさしあげて十字架を見ました。それからその子が本当に自分の娘であることがわかりましたので、ほろりとして、彼女が手でさえぎるのもかまわずに、泣いて彼女を抱きはじめました。それからジャコミーノに向かって言いました。
「兄弟よ、これはわたしの娘です。わたしの家は、グイドットに掠奪された家だったのです。この娘はあの騒ぎで、わたしの妻で、この子の母親だった人から忘れられてしまったのです。今日までわたしたちは、この娘が、あの日焼き払われた家の中で焼け死んだものと思っていたんですよ」
娘はこれを耳にして、相手が年をとっている人なのを見て、そのことばを信じて、また、心の中にかくれた本能の力に動かされて、その抱擁をうけながら、その人と一緒に熱い涙を流しはじめました。ベルナブッチョはすぐに人をやって、彼女の母親や、その他の親戚たちや、姉妹兄弟を呼びよせて、みんなに彼女を見せた上、事実を物語って何度も抱擁をしあい、大さわぎしてよろこびました。そして、ジャコミーノが心からよろこんでくれたので、彼女を自分の家に連れ戻しました。
立派な人物だった町の警視長官は、これを知ると、捕えていたジャンノーレはベルナブッチョの息子であって、その娘の血をわけた兄であることがわかりましたので、彼が犯した過失を大目に見ることを言い渡しました。そしてこのことで、ベルナブッチョやジャコミーノと交渉をして、ジャンノーレやミンギーノと仲直りをさせました。ミンギーノには、その親戚全部の大よろこびのうちに、アニェーザという名前のその娘を妻としてあたえました。彼らと一緒に、クリヴェッロやその他この事件に関係した他の連中も釈放しました。で、ミンギーノは、後に大よろこびで、壮大な結婚式をあげた上、彼女を家に連れて行って、ともにその余生を平和に幸福に送りました。
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第六話
[#この行3字下げ]〈ジャンニ・ディ・プロチダは、かつて自分が愛していて、後にフェデリゴ王に献上されていた若い娘と一緒にいるところを発見されて、娘とともに火あぶりにされることになり、火刑柱にしばられるが、ルッジェーリ・デッロリアの眼にとまって、難をのがれて彼女の夫となる〉
淑女たちに大変気に入ったネイフィレの話が終わったので、女王は、パンピネアに向かって、何か話してほしいと命じました。パンピネアはさっそく陽気な顔をもたげて話しだしました。
朗らかな淑女のみなさま、恋の力は大変に大きなものでございまして、今日やまた今までに何度か物語られました数多くのことで、よくおわかりになりますように、それは恋人たちを、大きな骨折りや、思いもよらぬ危険に遭遇させるものでございます。それにもかかわらず、わたくしは、恋する一人の青年のお話をして、もう一度このことを説明いたしたいと存じます。
イスキアは、ナポリに非常に近い島でございます。その島にかつて、他の者たちより一際すぐれて美しい、快活な乙女が住んでおりました。その名をレスティトゥータと言いまして、同島の貴族で、マリン・ボルガロという者の娘でした。この乙女を、イスキアの島の近くのプロチダという小島のジャンニという名の青年が、自分の命よりも愛しておりました。ジャンニは、彼女に会いにプロチダ島からイスキア島へ昼のあいだ渡ったばかりでなく、船が見つからない時には、他には何もできなくても、せめて彼女の家の壁でも見られたらと思って、今までにも何度となく、夜プロチダ島からイスキア島まで泳いで渡りました。こうした熱烈な恋をしている間のことでございます。ある夏の日のこと、娘がたった一人海岸にいて、小刀で岩石から貝をはぎとりながら、岩から岩へと伝っているうちに、岩々の間にかくれた場所にでてまいりました。そこは陰になっていて、ちょうど氷のような清水の泉が湧きでていたので、ナポリからやってきたシチリアの青年たちが数人、一隻の舟をつけて、集まっておりました。みなその娘が非常な美人であるのを見ると、彼女が自分たちに気がついていないし、相手が一人なのを見てとって、ひきとらえて連れ去ろうと相談をきめました。その決心に実行がつづきました。青年たちは、娘が大声でどなり立てることには頓着せず、その体をつかんで舟にのせると立ち去ってしまいました。そして、カラーヴリアに到着してから、娘がだれのものになるべきかについて、話し合いをはじめました。要するに、銘々で乙女を自分のものにしたがりました。そこで、お互いの間では相談がまとまらないで、みなの仲が悪くなり、彼女のために自分たちの仕事までめちゃめちゃになりそうになったので、彼女を、当時若くてそうしたことをたのしんでいたシチリアの王フェデリゴに差し上げようと、意見が一致しました。
一同はパレルモに着くと、そのとおりにいたしました。王は、彼女が美人であるのを見て、これを嘉納されました。しかし、王はいくぶん体の具合が悪かったため、もっと丈夫になるまで、彼女をクーバという御自分の庭にあるさる美しい家に住まわせておいて、そこで世話をするようにと命じ、そのとおりに行なわれました。娘が掠奪されたという騒ぎはイスキアでは大変評判でした。一番人々を悲しませたのは、彼女を掠奪したのが何者かわからないことでありました。だが、だれよりも胸を痛めていたジャンニは、イスキアでそんなことを人伝てに聞くのを待っていないで、どっちの方角に船が向かって行ったか知っておりましたので、一隻の舟を仕立て、それに乗り込むと、全速力でミネルヴァからカラーヴリアのスカレアまで、沿岸全部をさがしまわりました。到るところ隈なく娘の行方をさがしておりましたが、スカレアで娘がシチリアのパレルモへ連れていかれたということをシチリアの船乗りたちから聞かされました。ジャンニは、すぐさま一刻を争ってそこまで舟をやり、そこで捜索した結果、娘が王に献上されクーバにかくまわれていることがわかりました。彼は悲嘆にくれ、二度と彼女を取り戻すことができないばかりでなく、顔を見ることもできないと、ほとんどすべての希望を失ってしまいました。しかし、恋の力に支えられて、舟を追いかえしてから、だれにも自分だと気づかれなかったのでそこにとどまって、しばしばクーバへ行きました。ところがある日のこと、さる窓辺に彼女がいるのが眼にとまりました。彼女のほうも青年をみつけました。そこで互いに大変喜びました。そのあたりに人気のないのを見てジャンニは、できるだけ娘のそばに近よって話しかけました。そして、もしもっとそばで話しかけるにはどうしたらいいのかを彼女に教わり、まずそのあたりの様子をよく見届けてから立ち去りました。そして、夜になるのを待って、夜もだいぶふけてからそこにまた戻ってきて、きつつきですらもとまっていられないような所にしがみついて庭にもぐりこむと、一本の棒を見つけて、それを娘に教わっておいた窓にかけて、いとも軽々とそれを伝ってのぼって行きました。娘は自分の名誉をそこなうまいと、今まではいくらか素っ気なくしていましたが、今はもうそんなものはなくなってしまったような気がしておりました。この人以上に、心おきなく身をまかせる人は他にだれもいないと思い、自分を連れ出すように説きふせてみようと考えました。そして、心の中で、男の望むことは何でも聞きとどけようと決心しました。そんなわけで、男がすぐ寝室の中にはいれるようにと、窓を開け放しておきました。ですからジャンニは、見ると窓が開け放たれていますので、そっと中へはいりこんで行って、眠っていなかった娘のかたわらに身を横たえました。娘は、二人がまだ何も始めないうちに、自分の意図をすっかり男に打ち明けて、それから自分を救って、連れ去るようにと熱心に頼みました。娘に向かってジャンニは、これほどうれしいことはない、ここから出て行ってふたたび来る時は、あなたを連れ出すことができるようまちがいなく手筈をしておこう、と言いました。そして、二人は大喜びで抱き合うと、恋《アモール》がこれ以上の大きなものはあたえることができないようなたのしみを味わいました。二人は何度もそのたのしみを繰り返した後、つい知らない間に、互いに抱き合ったまま寝こんでしまいました。
最初の一目で、娘をいたく気に入っていた王は、彼女のことを思いだして、体の具合もよくなっていましたので、もう夜明けが間近でしたが、少しの間彼女のところに行って暇をつぶそうと思い、家来の一人を連れておしのびでクーバにやってきました。家の中にはいって、娘が眠っている寝室を静かに開けさせて、明かりのついた大きな燭台を先に立てて、はいって行きました。そしてベッドの上をちらりと見ると、彼女がジャンニと一緒に真裸で抱き合ったまま眠っているのが眼にはいりました。それを見た王は、みるみるうちに激昴し、まさに怒髪天をつかんばかりのありさまで、もう少しで二人をそろえて腰の短刀の錆にしかねない様子でございました。それから裸で眠っている二人の寝首をかくことは、王にとってはもちろんのこと、だれにとっても、実にいやしいことだと思い返して、じっとこらえると、二人を公衆の面前で火あぶりの刑で死なせてやろうと考えました。そして、一緒につれてきていた、たった一人のつれの家来のほうを向いて、言いました。
「わしが既に望みをかけていたこの罪な女を、お前はどう思うか?」
それから王は、自分の家にはいりこんで、こんなに恥辱と不快をあたえる大胆不敵なことをしでかした青年が何者であるか、知っているかと訊ねました。家来は、そんな者は見た覚えがないと答えました。さて王は、憤然として寝室を出て行き、二人の恋人を、裸のまま引っとらえてしばっておいて、夜がすっかり明けたら、パレルモに連れて行って、そこの広場で、背中合わせにして柱にしばりつけ、みなの見せ物にするように、また、当然のむくいとして火あぶりに処するように、そのためには朝九時まで、そのままにしておくようにと命じました。こう言うと王は、かんかんに腹を立てたまま、パレルモの自分の館に帰りました。王が立ち去ると、すぐに大勢の者が二人の恋人の上にとびかかって、二人を叩き起こしたばかりでなく、情け容赦なく引っとらえてしばりあげました。若い二人がいかに悲嘆にくれ、自分たちの命を心配して泣いたり悲しんだりしたか、今更言うも愚かなことでございます。二人が、王の命令に従って、パレルモに連れていかれて、広場で柱にしばりつけられますと、王の命令の時間に彼らを焼くための枯れ枝や火の用意が、その眼の前で行なわれました。大勢のパレルモ人がこぞって二人の恋人を見ようとあつまってきました。男たちはみな娘を見ようとそばへ近づいて、彼女が美しく実によくととのった体をしているのをほめそやしていました。こぞって青年を見ようと駈けつけた女たちは、彼が美しくよく均整がとれていると言って、心から賞讃しました。しかし、不幸な恋人たちは、二人ともひどく恥ずかしそうに頭をたれて、身の不幸を泣きながら、残酷な火刑の死を、今か今かと待っておりました。こうして、定められた時間までおいておかれている間に、二人の犯した行為の評判は、いたるところにひろがって、計り知れない価値のある人物で、当時王の提督をしていたルッジェーリ・デッロリアの耳にはいりました。彼は、二人を見ようと、彼らがしばられている場所へやってきました。そこに着くと、彼はまず、娘を眺めて、その美しさを非常にほめてから、その後で青年を見に近よると、すぐに青年がだれだかわかりました。彼は青年に一段と近づいて、ジャンニ・ディ・プロチダではないかとたずねました。ジャンニは顔をもたげると、かねて知り合いの提督だとわかりましたので、答えました。
「閣下、わたくしは、たしかにかつてはあなたがおたずねになった名の者でございました。でももう、そうではなくなろうとしております」
すると提督は、どうしてこんなことになったのかと訊ねました。提督に対して、ジャンニが答えました。
「恋と王の怒りです」
提督は、その話をもっと詳しくさせました。一部始終を彼から聞いてから、立ち去ろうとしたので、ジャンニが提督を呼びとめて言いました。
「閣下、おできになることでしたら、わたしをこんなふうにさせておくお方に御慈悲をお願いして下さいませ」
ルッジェーリは、どんな慈悲かとたずねました。彼にジャンニが言いました。
「わたしはもう、じきに死なねばならないことはわかっております。わたしは、この女の人を自分の命よりも愛しており、女の人はわたしを同じように愛しています。その女の人とわたしは背中合わせになっておりますので、わたしが死ぬとき、御慈悲によって、お互いに顔を向き合っていられるようにしていただきたいのです」
ルッジェーリは笑いながら言いました。
「よし君がいやになるほど女の人の顔が見られるようによろこんでしてあげよう」
提督は、彼のところを去ると、刑執行の命令をうけていた連中に向かって、王から改めての命令がないうちは、予定のことをしてはならぬと言いつけました。そしていそいで、王のところに行ってみると、王は怒っていましたが、ひとことも言わせないで、こう申しました。
「王さま、あなたさまがこの広場で火あぶりにするようにと命令をなさった二人の若者たちは、どんなことであなたさまの御機嫌を損ねたのでしょうか」
王は彼にそのわけを話しました。ルッジェーリがつづけて言いました。
「彼らが犯した過失は、その罰を十分にうける値打ちがございます。でも、あなたさまからではございません。過失が懲罰をうけるに値するように、善行は慈悲や憐憫の他に、褒賞をうける資格がございます。あなたさまは、御自分で火あぶりにするようにとお望みになった者たちが何者であるのか、御存じでいらっしゃいますか」
王は知らないと答えました。するとルッジェーリが申しました。
「わたくしはあなたさまに二人を知っていただきたいのです。それは、どんなにあなたさまが怒りの衝動のために御自分をお忘れになっているか、お気づきになると思うからでございます。あの青年は、ジャン・ディ・プロチダ氏の肉親の兄弟であるランドルフォ・ディ・プロチダの息子でございます。あのジャン・ディ・プロチダ氏のお蔭で、あなたさまはこの島の王となり、君主となっていらっしゃるのでございます。娘はマリン・ボルガロの息女でございます。今日あなたさまの御威信がイスキア島から追い払われないようにしてくれているのは、この者の威勢のお陰でございます。こればかりでなく、彼ら二人は長い間愛し合っているのでございまして、もし恋のために若者たちがすることが罪と言うべきものだといたしましたら、二人は、恋のためにやむなく、無論あなたの御威信をないがしろにしようと夢にも考えずに、この罪を犯したのでございます。この二人を最大の寵愛と贈り物でねぎらってやらねばなりませんのに、なぜ死なさせようとなさるのでしょうか」
王は、これを聞いて、ルッジェーリが本当のことを言っていると確かに思いましたので、自分がもっとひどいことをしようとしていたことばかりでなく、今までしてきたことについても、心苦しく思いました。そこですぐに、二人の若者を、柱から解き放して自分の前に連れてくるようにと命じました。そして、そのとおり行なわれました。王は彼らの事情をすっかり知ってから、名誉と贈り物で、自分が課した不当な扱いをつぐなおうと考えました。そして、二人に立派な着物を着せてから、互いに同意していると聞きましたので、乙女をジャンニと結婚させまして、素晴らしい贈り物をとらせた上、大よろこびの二人を彼らの家に送り返しました。そこで二人は大変にぎやかな歓迎をうけて、その後長く、たのしみと喜びのうちに世をすごしました。
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第七話
[#この行3字下げ]〈テオドーロは、その主人アメリゴ氏の娘ヴィオランテに思いをよせて、これを妊娠させ、絞首刑の宣告をうける。鞭打たれながら、絞首台まで連れてこられるが、父親によって息子だとわかり、釈放され、ヴィオランテを妻にめとる〉
二人の恋人が火あぶりになりはしないかとびくびくしながら、耳を傾けていた淑女たちは、二人が難をのがれたと聞いて、神を讃えながら、一同愉快な気持ちになりました。女王はお話の終わりを聞いて、次のお話をするようにと、ラウレッタに命じました。ラウレッタはよろこんで話しはじめました。
美しい淑女のみなさん、善王グリエルモがシチリア島を統治していた頃、同島にアメリゴ・アバーテ・ダ・トラパニ氏と呼ばれる一人の貴族が住んでおりました。この人は、財産同様たいへん子宝に恵まれておりました。ですから、召使が必要でしたので、エルミニアの沿岸を航海して多くのこどもたちを捕えてきた、ジェノヴァ人の海賊たちの橈船が、東方から到着したのを幸いに、そのこどもたちのうち何人かを、トルコ人だろうと思って買い入れました。他の者はみな羊飼いの子のように思われましたが、その中で一人だけ、だれよりも上品で顔つきもすぐれている、テオドーロという少年がおりました。この少年は、召使のような取り扱いをうけてはいましたが、アメリゴ氏の家の中で育てられ、こどもたちと一緒に成長しました。少年は生まれつきの性質から、挙措も上品で、行儀もよくなりはじめましたので、アメリゴ氏に大変気に入られて、そのために同氏は少年を奴隷の地位から解放しました。アメリゴ氏は、少年がトルコ人だと思いこんでいましたので、彼に洗礼をうけさせてピエトロと名づけ、非常に信頼して、自分の家のことを見させる家令にいたしました。
アメリゴ氏の他のこどもたちと同じように、ヴィオランテという娘も、美しく、上品な娘になりました。父親が、この娘の結婚をぐずぐず延ばしているうちに、娘は、ひょっとしたことからピエトロに恋をしてしまいました。彼女はピエトロに恋して、男の態度や、その仕事ぶりを大変尊敬していましたが、それでもそれを相手に打ち明けることを恥ずかしがっておりました。けれども恋《アモーレ》は彼女からこの骨折をとりのけてくれました。というのは、ピエトロが何度も注意して彼女を見ているうちに、すっかり彼女に惚れこんでしまいまして、そのために彼女の姿を見ていないとどうしても気分がすぐれないほどになってしまったからでございます。でも、それは悪いことをしているように思われましたので、だれにもこのことを気がつかれないようにと、非常に気をつかっておりました。よろこんで彼を見ていた娘は、それに気がついて、男を安心させるために、そのことを自分も大変うれしく思っている――事実そうだったのですが――という様子を見せました。二人は、お互いに何か話し合いたいと、熱望していながら、それをする勇気もなく、長い間日を送っておりました。
しかし、二人がこうして同じように、恋の焔に焼かれて、燃える思いに身をこがしているあいだに、運命は、彼らの望みがかなえられるように決定を下したかのように、二人のさまたげとなっている恐怖心をその胸から追い払う道を見つけました。アメリゴ氏は、トラパニから一マイルばかり離れたところに、非常に美しいところを持っておりました。夫人はそこへ、娘やその他女中たちや、貴婦人たちを連れて、よく気晴らしに出かけました。ある暑い日のこと、そこへピエトロも一緒に連れて行っておりました。時々夏にそんなことがありますように、急に一天が黒雲に閉ざされてしまいました。夫人は悪い天候にあわないようにと、つれの者たちと一緒にトラパニに向かって帰路につきまして、できるだけ足をはやめました。けれども、年が若いピエトロと、同じくこれも若い娘とは、どんどん歩いているうちに、彼女の母親やつれの婦人たちをずっと追い越してしまいました。天候が怖いのと同じように、恋のためにも足取りがはやめられたのでございましょう。二人が夫人やその他の連中をはるかにひきはなして、やっとその姿が見えるか見えないようになった時でした。しきりに雷鳴がした後いきなり大粒の固い雹《ひよう》が降りだしたので、夫人とつれの一行は、ある百姓の家に逃げこみました。ピエトロと娘は、とっさの隠れ場もありませんでしたので、だれも住んでいない、ほとんど崩れかかった古い小さな家の中に逃げこんで、わずかに残っている屋根の下でよりそっておりました。天井がせまいので、二人はやむなく一緒に体を触れ合わなくてはなりませんでした。こうして触れ合ったことが原因となって、二人は、恋しい思いを打ち明けるようになりました。まずピエトロが話しだしました。
「神さまが、この雹が降りやまないようにして下さると、ずっとこうしていられるんでしょうね」
娘が言いました。
「そうだったら、わたしもうれしいわ!」
こうしたことばから、手を取りあい握りあうようになりまして、それから抱きあい、やがて接吻しあうようになりました。ずっと雹は降りつづいていました。その一部始終を微に入り細にわたってお話しすることはやめにいたしまして、要するに、二人は恋の最後のたのしみを味わったあとで、これからもお互いにこっそりとたのしみあう手筈をきめたのですが、それでもまだ天候は回復しておりませんでした。やがて嵐がやんで、二人は近くの町の入り口までやってきて、母親に迎えられて一緒に家に帰りました。
その後何度も二人は、用心深く逢いびきしては、ともに大いに楽しい思いをしておりました。そうしているうちに、当然のことですが、娘は妊娠してしまいました。それは、どちらにとっても非常に有難くないことでございました。ですから娘は、自然の経過にさからって、堕胎をしようといろいろの方法を講じてみましたが、どうしてもうまく行きませんでした。ピエトロは、自分自身の命が心配になってきて、逃亡の決心をして、そのことを彼女に話しました。娘は男の話を聞いて言いました。
「もしあなたが行ってしまうようなことになったら、わたしは自殺しますよ」
彼女を非常に愛していたピエトロは、向きなおって言いました。
「どうしてあなたは、わたしにここにいろとおっしゃるんですか。あなたの妊娠で、わたしたちの過失はわかってしまうでしょう。あなたは大したこともなく赦してもらえるでしょうが、わたしは、あなたの罪や、わたしの罪の罰をうけねばならないでしょう」
彼に対して娘が言いました。
「ピエトロ、わたしの犯した罪は人にわかりますわ。でもあなたの罪は、あなたさえ何もおっしゃらなければ、決してわからないでしょうから、安心していらっしゃいな」
するとピエトロが言いました。
「あなたがそう約束して下さるんでしたら、わたしはとどまりましょう。でも、約束を守るようにして下さいよ」
娘はできるだけ長く自分の妊娠をかくしておりましたが、お腹がどんどん育ってくるので、もうかくしていられないと思いました。ある日のこと、泣きに泣いて母親にそのことを打ち明けて、どうか自分を助けてほしいとたのみました。夫人はびっくりしてなげき悲しむと、娘に向かってひどいことばを浴びせ、どうしてそんなことになったのか、娘の口からさぐろうとしました。娘はピエトロに迷惑がかからないようにと思って、架空の話を作りあげました。夫人は娘の言うことを信じて、その過失をかくしておくために、娘を別荘の一つにやりました。
そこで、出産の時がまいりまして、娘は女たちがするように叫び声をあげておりますと、ほとんど顔など見せたことのないアメリゴ氏が(よもやここにやってこようとは夫人も思っておりませんでしたが)、ちょうど猟の帰りがけに、娘が大声をあげていた寝室のそばを通りかかり、びっくりして部屋へはいってきて、これは一体どうしたことだとたずねました。夫人は、夫の顔を見て、悲しそうに立ちあがると、娘の身の上に起こったことをつつみかくさず物語りました。けれども夫は、夫人ほどに軽々と物事を信じてしまう人ではありませんので、娘が自分でだれの子を妊ったか知らないなんて、そんなことはあるはずがないと言いました。そして真実のことを言えば娘は自分の慈悲をうけることができようが、さもないと情け容赦はない、死ぬ覚悟でいるがいい、と言い添えました。夫人はできるだけのことをして、自分の言ったことで夫の機嫌をとりつくろおうといろいろ骨折りましたが、なんの役にも立ちませんでした。母が父に話しかけている間に、父は男の子を生みおとした娘に激怒して、抜き身の剣をふりかざしてとびかかっていきました。そして言いました。
「だれの子か言え、言わないとすぐにでも命はなくなるぞ」
娘は死ぬのが怖くて、ピエトロとの約束を破って、彼と自分との間に起こったことを、一切打ち明けました。父はそれを聞くと、まさに怒髪天を衝くといった激昴ぶりで、もう少しで娘を殺してしまうところでした。しかし彼は、怒りにまかせて口をついてでる悪罵を投げつけてから、ふたたび馬に乗ると、トラパニに行って、王の総督をしていたクルラード氏のところを訪ね、ピエトロから加えられた不正を物語った上、何も気づいていないピエトロをすぐさま引っ捕えさせました。
ピエトロは拷問にかけられて、自分のしたことを一切白状しました。数日の後に、ピエトロは、鞭で打たれながら町中を引き廻された上、絞首刑の宣告を総督からうけました。ピエトロを死に導いただけでは怒りのおさまらないアメリゴ氏は、同時刻に二人の恋人と彼らの子をあの世にやってしまおうとして、ぶどう酒のはいったコップに毒を入れて自分の召使に渡し、それに抜き身の短刀を添えて言いました。
「この二つの品を持ってヴィオランテのところに行きなさい。そして、わたしからだと言って、毒か短刀か、この二つの死のうち、どちらか好きなほうをとるように言いなさい。それがいやなら、わたしは町じゅうの人々の面前で、それだけのことをしたのだから、火あぶりの刑にするつもりだと伝えなさい。それがすんだら、数日前にあれが生んだこどもをとりあげ、壁に頭をうちつけて、犬に投げて食わせてしまえ」
この気性のはげしい父親から、こうした娘と孫に対する残酷な宣告をきかされた召使は、気がすすまぬながらも、出て行きました。刑の宣告をうけたピエトロは、刑吏たちから鞭で打たれながら絞首台に連れて行かれる時に、この一団を指揮していた連中の希望で、ある宿屋の前を通りすぎました。その宿屋には三人のエルミニアの貴族が泊まっておりましたが、この人たちは、ローマ教皇と、ぜひとも行なう十字軍のための重大な交渉をするために、エルミニアの王からローマに派遣された大使でしたが、数日間休養をとろうとここに落ついていたのでした。彼らはトラパニの貴族たち、特にアメリゴ氏から非常に鄭重な歓待をうけておりました。この人たちは、ピエトロを引っ張って行く連中が通ると聞いて、これを見ようと窓辺によっておりました。ピエトロは、腰から上はすっかり裸で、うしろ手にしばられておりました。三人の大使の一人で、老人の、大変権威のあるフィネオという人が、ピエトロを見つめているうちに、その胸に真紅の大あざがあるのを見つけました。それは色を染めたものではなくて、自然に皮膚の中に刻印されていて、この地で婦人たちが「ばら疹」と呼んでいるものと同じようなものでした。それを見ると、すぐにフィネオの記憶の中を、その息子の姿がさっとかすめました。十五年前のことでしたが、その息子は、ライアッツォの海岸で、海賊たちに奪い去られ、その後はなんの消息もありませんでした。鞭で打たれている悪者の年配を考えて、フィネオは、もし自分のこどもが生きていれば、ちょうどこの人くらいの年配にちがいないと思いました。そして、そのあざ[#「あざ」に傍点]からその青年が自分の子ではないかと疑いはじめまして、もしこどもだったら、その青年が自分の名前や父親の名前やエルミニアの言語を覚えているはずだと考えました。そこで、その男が自分のそばにきた時にこう呼びました。
「おお、テオドーロ!」
その声を聞いてピエトロは、すぐに顔をあげました。彼に向かってフィネオは、エルミニア語を使いながら言いました。
「お前は、どこの生まれで、だれの子かね?」
ピエトロをつれていた刑吏たちは、その偉い人への尊敬の心から、彼をとめてくれましたので、彼が答えました。
「わたしはエルミニアの生まれで、フィネオという名前の者のこどもでした。ここへは、だれだか知らない者に小さなこどもの時、連れてこられたのです」
フィネオはそれを聞くと、その男が自分の失くしたこどもであることが明白なのを知りました。そこで、泣きながら仲間の者たちと一緒に下へ降り、刑吏たちの間にいるこどもに駈けよって抱きつくと、自分が着ていたまことに豪奢な生地のマントを、ピエトロの身にかけてやってから、処刑のために彼を連行していた者に向かって、この男を連れ戻すように命令がでるまで、そのままここで待っていてもらいたいと頼みました。その者は喜んで待っていると答えました。フィネオは、その青年がなぜ死ぬために連れて行かれるのか、その原因は評判がいたるところにたっていたので、とっくに知っておりました。ですから、自分の仲間や家来たちを引きつれて、すぐさまクルラード氏のところに行き、こう申し立てました。
「閣下、あなたが、奴隷として死に追いやった者は、自由な人間であって、わたくしのこどもでございます。そして、その純潔を奪ったとか言われている相手の婦人をすぐにでも妻として迎えるつもりでおります。でも、結婚を望んでいるかどうか知りとうございますから、その間だけ、どうか刑の執行は御猶予願いとう存じます。そこでもし彼女が結婚したいと申しましたら、閣下は法律に反した処置をなさることになりましょう」
クルラード氏は、その男がフィネオの息子であると聞いてびっくりしました。不運にもそんな間違いをしたことを、いくらか恥ずかしく思い、フィネオが言っていることが本当であると白状して、さっそくピエトロを家に帰させた上、人をやってアメリゴ氏を呼びよせて、これらのことを話して聞かせました。アメリゴ氏は、もう娘や孫が死んでしまったろうと思いこんでおりましたので、もし娘が死んでいないなら、過ぎ去ったことは、一切好都合にとりつくろうことができたことを知って、自分のしでかしたことをだれよりも一番悲しく思いました。しかし、それはともかく、もしまだ自分の命令が取り行なわれていなかったら、そのままほっておくようにと、娘のいるところに、駈け足で使者を送りました。駈けつけた使者が見ると、アメリゴ氏に派遣された召使が、短刀と毒を彼女の前において、彼女があまり早く選ばなかったので、彼女に向かって、ひどいことばを浴びせて、無理にどっちか片方を選ばせようとしておりました。けれども、自分の主人の命令を聞いて、彼女をそのままに放って、主人のところに立ち帰って、そのことがどうなっているか報告しました。それを聞いてアメリゴ氏は、よろこんでフィネオがいるところに赴き、ほとんど泣かんばかりに自分がしたことについて、できるだけことばをつくして詫びて許しを請うた上、もしテオドーロが自分の娘を妻に迎えてくれるならば、よろこんで差し上げようと言いました。フィネオはよろこんでその詫びをうけいれて答えました。
「わたしは、息子にあなたの娘さんをめとらせるつもりでございます。もしそれがいやだと申しましたら、息子にあたえられた宣告を執行していただきましょう」
さて、フィネオとアメリゴ氏は相談がまとまりまして、テオドーロが死の恐怖におびえながら、父親との再会をよろこんでいるところにきまして、そのことについて彼の希望をたずねました。テオドーロは、自分が望めばヴィオランテが自分の妻になるだろうと聞いて、その喜びようと言うと、まるで地獄から極楽に飛び上がるようでありました。そして、あなた方のどちらにも御異存がなかったら、自分としては大変うれしいことであると申しました。そこで今度は娘にその望みを聞くために使者が送られました。娘はだれよりも悲しい気持ちで死を待っておりましたこととて、テオドーロの身に起こったことや、起ころうとしていることを聞いて、大分たってからそのことばをいくらか信ずるようになり、少し陽気になり、もしそのことについて自分の望みどおりにいくならば、テオドーロの妻になることよりもうれしいことは何もあるはずがないと答えました。しかし父親が自分に命ずるようにするつもりであると言い添えました。さて、こうしてみなの同意の上で娘を結婚させ、式は町の人々あげての大喜びのうちに、盛大に行なわれました。娘は元気が出て、自分の小さなこどもを育てているうちに、まもなくふたたび今まで以上の美人になりました。そして、産褥の期間が過ぎて後、ローマからの帰りが待たれていたフィネオの前にまかり出て、父親にするような鄭重な挨拶をしました。フィネオはこうした美しい嫁ができたのを非常によろこんで、盛大な式やお祝いをして、二人の披露宴をあげさせました。それからは娘同様に彼女をかわいがりました。それから彼は数日の後に、自分の息子と、彼女と小さな孫を橈船に乗せて、自分と一緒にライアッツォにつれて行きました。そこで二人の恋人は、生命のあるかぎり、平和な日々を送ったのでございます。
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第八話
[#この行3字下げ]〈ナスタジョ・デリ・オネスティは、トラヴェルサーリ家の娘を思慕して、すげなく拒絶され、その財産を蕩尽する。身内の者たちに頼まれて、キアッシに赴き、そこで一人の騎士が一人の若い婦人を追跡して、これを刺殺し、二頭の犬がこれを貪り食うところを見る。彼は自分の親戚や、自分の愛していたその婦人を食事に招待する。彼女はこの同じ若い婦人が食い裂かれるのを見て、同じような事件が起こるのをおそれて、ナスタジョを夫にする〉
ラウレッタが口をつぐみましたので、女王の命令によってフィロメーナがはじめました。
愛らしい淑女のみなさま、わたくしたちのあいだでは、憐憫が賞讃されておりますように、また残酷性は神聖な正義によって復讐をされるものでございます。このことをあなた方に示して、あなた方の心から残酷というものを追い払う手段をあたえたいと思いまして、ここにたのしいとともにそれに劣らぬくらい哀切の情にみちたお話を一つ申しあげたいと存じます。
ロマーニャのたいそう古い都ラヴェンナには、かつて多くの貴族や紳士方が住んでおりました。そうした方々の中に、ナスタジョ・デリ・オネスティという青年がおりましたが、父親と叔父の死にあって、計り知れないほどの大金持ちとなっていたのでございます。この青年は、妻をもらっていませんでしたので、若者にあり勝ちなように、自分よりもはるかに身分の高貴な婦人の、パオロ・トラヴェルサーリ氏の娘に恋をして、なんとかして彼女が自分を愛するようにさせたいものと、いろいろとやっておりました。その努力たるや、大変なもので、見事で賞讃すべきものでありましたが、なんの効果もなかったばかりでなく、むしろ彼にとっては有害だったように思われました。それほど彼が思いをよせた若い婦人は、彼に対して、冷酷で無愛想な態度を見せておりました。たぶんその人並すぐれた美貌のためか、その貴族の生まれを鼻にかけたためでございましょう、実に傲慢無礼な女でして、彼や彼の好きなようなことは、何一つとして彼女の気に入りませんでした。ナスタジョにはそれが我慢ができなくなり、悲しさのあまり何度も自殺したいと思いました。それでも自殺は思いとどまって、相手を諦めてしまうか、できることなら、彼女が自分にしているように彼女を憎んでやろうと、何度も何度も思ってみました。でもそう決心したものの、希望が薄くなればなるほど、恋する気持ちは倍加するような気がするだけでした。そして青年は、とめどもなく恋しつづけて、浪費をやめませんでしたので、一部の友人や親戚たちは、彼が健康も財産も同じようにすりへらしてしまうだろうと考えました。みなは何度となく彼に、ラヴェンナを去って、しばらくどこかよそへ行っていなければいけない、そうすれば恋もさめ、出費も減るだろうからと、なだめたり忠告したりしました。こうした忠告をナスタジョは、馬鹿にして取り上げようとしませんでした。が、それでも、うるさくせがまれますので、そんなにいやだとばかりは言っておれず、そうすることにしました。それで、まるでフランスかスペインかどこか遠い土地にでも行くように、ものものしい支度をさせてから、馬に乗り、多くの友人に伴われてラヴェンナを出て、三マイルばかり離れたキアッシという土地に行きました。そこに天幕を取り寄せまして、一緒に来てくれた連中に向かって、自分はここに滞在したいからみなさんはラヴェンナに帰って下さいと申しました。さて、ナスタジョはここで天幕を張って、今までにない最も贅沢で豪奢な生活をはじめ、従前どおり晩餐や昼餐に、この人あの人と、知人を招待しておりました。
ところがさて、ある日のこと、五月のはじめの実にいい天気でしたが、ナスタジョは、残酷な婦人のことを思いだしまして、もっと、思う存分考えられるようにと、召使たち一同には、自分を一人放っておいてくれるようにと命令しまして、一歩また一歩と物思いにふけりながら、松原まで参りました。ほとんど十一時をまわっていましたが、彼は食事のことも何も忘れて、半マイルも松原の中にはいりこんでしまいました。するといきなり女の激しい泣き声と喉の張り裂けるような叫び声を耳にしたような気がしました。そのために、彼は、甘い考えを破られて、何が起こったのか見ようとして頭をもたげると、自分が松原にはいりこんでしまっているのに気づき驚いてしまいました。そればかりでなく、前のほうを見つめると、灌木と茨の密生した小さな森を抜けて、裸の髪を乱した美人が、全身小枝や茨に引っかかれて、泣きながら、大声で救いを求めつつ、彼のいるところに向かって駈けよってくるのが眼にはいりました。見るとこの他に、女の両脇には二匹のすごく大きくて獰猛な番犬がいて、しつこく女につきまとって駈けながら、ひっきりなしに追いついては、むごたらしくかみついておりました。彼女のうしろから、黒い競走馬に跨がった黒装束の騎士が、怒り狂った顔つきで、細身の短剣を片手にして、怖ろしいひどいことばで、彼女を殺してしまうとおどかしながら追いかけてくるのが眼にはいりました。このありさまは、ナスタジョの胸に、驚愕と恐怖を一時に巻き起こした上に、最後にその不幸な女に対して同情の念を湧き立たせました。そうした同情から、もし自分にできることなら、そうした苦しみや死から女を救ってやりたいという望みが起こってきました。しかし、彼は武器を持っておりませんでしたので、大急ぎで木の枝をとると棒の代用にして、犬や騎士に立ち向かっていきました。けれどもこれを見た騎士は、遠くから彼に大声で言いました。
「ナスタジョ、ほっといて下さい。この悪性の女が当然身に覚えのある成敗は、犬どもやわたしにまかせておいて下さい」
こう言っている間にも犬は、若い婦人の両脚にしっかりと食いついて、これを押しとどめると、あとから追いついた騎士が、馬から下りました。ナスタジョは騎士に近づいて言いました。
「わたしは、自分をこうして御存じでいらっしゃるあなたがどなたなのかわかりません。しかしわたしはあなたに、武装した騎士が裸の女を刺し殺そうとしたり、まるで女が野獣のようにその脇腹に犬をけしかけようとなさるのは、実に卑劣なふるまいだと断言いたします。わたしは力の許すかぎり、この婦人を守ってやります」
すると騎士が言いました。
「ナスタジョ、わたしはあなたと同じ国の者でした。わたしは、かつてグイド・デリ・アナスタジ氏と呼ばれた者で、あなたがトラヴェルサーリ家の娘さんを恋しているより、ずっと熱烈な恋を、わたしがこの女にささげた頃は、あなたはまだほんの少年でした。この女が高慢で残酷なばかりに、わたしは苦しみ悩んだあげくある日のこと、この、ごらんのとおり、わたくしの手に握られているこの細身の短剣で、絶望のあまり、自殺して果てまして、永劫の罰をうけているのです。わたしの死を殊のほかよろこんだこの女も、やがて、いくばくもしないうちに亡くなりまして、その残酷さと、わたしの苦しむのを見て狂喜していたことの罪によって――そんなことをしても悪いことをしているとは思わないで、当然のことをしているつもりでいましたので、そのことについては少しも後悔をしていませんでしたが――同じように地獄の罰を課せられて、今もそれをうけているのです。地獄にこの女が下りてくると、この女とわたしに罰として課せられたことは、女はわたしの前を逃げることであって、わたしはこれほど恋していたのに、今は恋する女としてではなく、不倶戴天の敵として、この女を追いかけることでした。わたしは、この女に追いつくたびに、自分が自殺に使ったこの細身の短剣で、女を殺し背中から引き裂いて、恋も同情も到底はいることのできなかったその頑固で冷酷な心臓を、他の臓腑と一緒に、あなたが今すぐごらんになるように、体の中からとりだして、この犬どもに食わせるのです。ところがじきに、神の正義とお力の望むがままに、この女はまるで殺されなどしなかったように生き返って、またもや悲しい逃亡をはじめ、犬とわたしが追跡をはじめるのです。金曜日ごとに、この時間になると、わたしはこの女にここで追いついて、この場でごらんのような虐殺を行なうことになっているのです。他の日には休んでいると思ってはいけません。この女がかつて、わたしに対して、残酷な考えをめぐらしたり、行ないをしたりしたいろいろ他の場所で、この女に追いつきます。ごらんのように恋人から敵になったのですから、この女がわたしに対して残酷にふるまった月数だけを年数になおして、こんな具合につきまとってやらなければなりません。では、わたしに天誅《てんちゆう》を加えさせて下さい。あなたには逆らうことのできない事柄に、反対をしないで下さい」
ナスタジョは、こうしたことばを聞いて、すっかり怖くなってしまい、まるで全身身の毛のよだつ思いがして、あとずさりすると、みじめな婦人をじっと見つめながら、騎士がどうするだろうかと、恐ろしそうにして待っておりました。騎士は話を終えると、怒った犬のように、細身の短剣を片手に、婦人にとびかかっていきました。婦人はひざまずいて、二匹の犬にしっかり抑えつけられたまま、騎士に大声で慈悲を願っておりました。騎士はありったけの力をこめて、婦人の胸の真ん中に一突きくれると反対側まで突き通しました。その一突きをうけると婦人は、泣いて叫び声をあげながらうつむいたまま倒れました。すると騎士は小刀をとって、婦人のうしろの腰のあたりを裂いて、心臓や、そのまわりにあるものを全部引きずりだして、二匹の犬に投げてやると、飢えきっていた犬は、たちまちそれを平らげてしまいました。するとまもなく、婦人は、まるでそんなことなぞ何も起こらなかったように、すぐに立ち上がると、海のほうに逃げだしました。婦人のあとから、相変わらず食いつきながら、犬が追いかけていきました。騎士はふたたび馬に跨がって、またも細身の短剣をとりあげて婦人の追跡を始めました。そうしてじきに、遠くに姿を消してしまって、ナスタジョにはもう何も見えなくなってしまいました。
ナスタジョは、こうした場景を見てから、しばらくの間、かわいそうなような、怖いような気持ちでおりました。そのうちに、こうした事が金曜日ごとに起こるとすれば、これは自分には非常に役に立つにちがいないということが、頭に浮かびました。そんなわけで、彼はその場所にしるしをつけた上で、召使たちのところに立ち帰りました。その後でいい折を見て、何人かの親戚や友人たちを呼びにやって、さて一同に申しました。
「みなさんは、長い間わたしに、わたしの例の敵を愛するのをやめるように、またわたしの出費もいい加減でよすようにと御忠告になりました。で、もしあなた方がわたしに、一つ御好意をお授け下さるならば、わたしはその御忠告に従う覚悟でございます。その御好意というのはこうなのです。つまり、今度の金曜日に、パオロ・トラヴェルサーリ氏や、奥さんや、お嬢さんや、その親戚の婦人の方々や、その他どなたでも、あなた方のよろしいとお思いの方々が、ここでわたしと御一緒に食事をなさるように、お取り計らいいただきたいのです。なぜわたしがそうしたいかというわけは、その時に、おわかりになるでしょう」
一同にとっては、そんなことは、造作なくできることのような気がいたしましたので、ラヴェンナに帰ると、頃合いを見て、ナスタジョが望んでいた人々を招待いたしました。ナスタジョが思いをよせていた婦人をそこへ連れてくることは、むずかしいことでございましたが、それでも婦人は他の婦人たちと一緒にやってきました。ナスタジョは、贅沢な食事の用意をさせて、あの残酷な女の虐殺されるのを見たその場所のあたりの松の木の下に、食卓をいくつかおかせました。そして、男女の客たちを食卓につかせてから、自分が恋していた婦人が、あの事件の持ち上がることになっていた場所の真正面に坐らされるようにしておきました。
さて、すでに最後の料理が出た頃、いきなり追い立てられた婦人の絶望的な悲鳴が、一同の耳にはいりました。みなは、それを耳にするとびっくり仰天し、なんだろうとたずねましたが、だれもそれに答えられる者がありませんでした。みなは、総立ちになって、何が始まったのだろうと見まわしていると、泣きわめく婦人や騎士や犬どもが眼にはいり、やがてそれはそこの一同の中にはいってきました。犬や騎士を目前にして大騒ぎが起こって、多くの人々は、婦人を助けようとして前に出ました。しかし、騎士はナスタジョに話したように、みなにも話して一同をあとにひかせたばかりでなく、全部の者を恐ろしさにふるえ上がらせて、その胸を不思議な気持ちで一杯にさせました。前にしたとおりをやりましたので、そこにいた婦人たちは全部(泣きくれる婦人や騎士の親戚もそこにいて、また騎士の恋や死のことを覚えている者も大勢おりましたので)まるでその事柄がわが身の上に行なわれるのを眼にしたように、悲しそうに泣きました。その事が終わって、婦人と騎士が立ち去った後でも、それを見ていた人々は、いつまでもいろいろと話しこんでおりました。
しかし、一番怖い思いをした人々の中に、ナスタジョが恋していたその残酷な婦人がおりました。婦人はいつも自分がナスタジョに対して残酷な仕打ちをしてきたことを思いだして、万事をはっきりと見聞きして、この世の他のだれよりも自分にこうした事が関係のあることを知ったのでございます。ですから、彼女はもう怒った彼に追いかけられながら、逃げ出して、両方の脇腹には番犬どもがすがりついているような気がしました。これを見て婦人は、とても怖かったものですから、そのために、こんなことが自分には起こらないようにと、さっそく機を見て(その好機はその晩のうちに見つかりましたので)、憎しみを恋に豹変して、腹中の女中をこっそりとナスタジョのところに送りました。女中は、婦人からの言伝てだと言って、婦人はあなたの思し召しどおりになんでもするつもりだから、ぜひ婦人のもとまでおいでいただきたいと言いました。ナスタジョは婦人に、それは自分には非常にうれしいことであるが、もしあなたさえよろしかったら、あなたの名誉を重んじて、自分の好きなようにさせてほしいということは、すなわち、あなたを妻としてめとることであると返事をしました。ナスタジョの妻にならなかったのは、他人のせいではなく、自分の考えからであったことを知っていた婦人は、それで結構ですと彼に返事をしました。そこで彼女は、自身で使者に立って、父母にナスタジョの嫁になるのはうれしいと申しました。それを聞くと両親は大変よろこびました。次の日曜日に、ナスタジョは彼女と結婚式をあげ、彼女とともに末長く幸福にすごしました。この恐怖は、この幸福の原因をなしたばかりでなく、それよりもむしろ、ラヴェンナ中の女がびくびくと怖がり屋になりまして、今まではそうでもございませんでしたが、その後は男たちの望みに対していっそう折れやすくなったということでございます。
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第九話
[#この行3字下げ]〈フェデリゴ・デリ・アルベルギは恋をするが片思いに終わる。御機嫌とりのために金をつかい、財産を蕩尽して、手もとには一羽の鷹だけが残る。愛する婦人の訪れをわが家にうけて、何もないので鷹を食膳に供える。婦人はそのことを知って心が変わり、彼を夫として迎え、金持ちにする〉
すでにフィロメーナがお話をするのをやめたので、女王は特権によって、ディオネーオ以外には、もうだれもお話をする者はないと見てとりましたので、にこやかな顔で言いました。
さてわたしがお話しする番になりました。心から愛する淑女方よ、わたしは、只今のお話と一部似たところのあるお話でその責を果たしたいと思います。それは、あなた方の愛嬌が、男の心にどんなに大きな偉力を持つものであるかを知っていただきたいばかりでなくて、また、必要な場合には、みなさん方自身が御自分の褒賞の授与者になるべきでありまして、どんな場合にも、運命が指導者になるようなことはお許しにならないようにということを学びとっていただきたいからであります。運命はつつしみを忘れて、実際にはしばしば、度を外して褒賞をあたえるものであります。
さて御承知いただかねばならないことは、わたしたちの都市に住んでいられた、恐らくまだいられると思うコッポ・ディ・ボルゲーゼ・ドメニキは、いまだに尊敬の的であり、貴族の血すじのためというよりも、その態度や人徳によって永久に消えることのない名声を一身にあつめている方ですが、老境にはいりましたので、近隣の人々やその他の人たちを集め、しばしば、昔のことを話してたのしんでおりました。彼は記憶がよく、順序立てて上手に話ができました。彼がよくしたいろいろ面白い話の中にこういうのがあります。
かつてフィレンツェに、フィリッポ・アルベルギ氏の息子でフェデリゴと呼ばれる青年がいましたが、文武両道にかけて、トスカーナのどんな貴族の青年よりもすぐれておりました。彼は、普通貴族によく起こるように、当時フィレンツェ一の美人で、愛嬌のある婦人といわれるモンナ・ジョヴァンナという貴婦人に思いをよせました。貴婦人の愛を得ようと、彼は馬上試合を行ない、競技を催し、宴会をひらき、贈り物を捧げるなど、金に糸目をつけずその財産を使いました。けれども、彼女は美人であり、貞潔な人でもありましたので、自分のためになされたそうしたことや、それをしてくれる人のことなど、問題にしておりませんでした。
さて、フェデリゴは、自分の力以上の浪費をして、他に何一つ儲けませんでしたので、よくあるように、財産がなくなり、すっかり零落《れいらく》して、今はただかろうじて生活を支えてくれる収入のあるわずかな土地と、その他に、世にもすぐれた逸物といわれる一羽の鷹を除いては、何一つ残っておりませんでした。それでも恋心はつのるばかりですし、不自由なくこの都市で生活することはできそうもなくなりましたので、自分の土地があったカンピに行って住みました。そこで狩猟のできる時には狩猟をし、だれにも援助をたのまず辛抱強く、貧乏を耐えしのんでおりました。
ところがさてある日のこと、フェデリゴが貧乏のどん底に落ちこんでいた時に、モンナ・ジョヴァンナの夫が病気にかかりました。夫は死に臨んで遺言を作りました。非常に金持ちでしたので、かなり大きくなっていた自分の息子を相続人にしましたが、モンナ・ジョヴァンナを愛していましたので、もし息子が法律上正当な相続人を残さないで死ぬようなことが起こった場合には、息子のつぎには、彼女をその相続人にすることにきめて、息を引き取りました。こうして、未亡人となってあとに残ったモンナ・ジョヴァンナは、わたしたちの都市の婦人たちの習慣に従って、夏になると、息子をつれて、田舎の自分の土地に行きました。その土地はフェデリゴの土地のすぐ隣に当たっておりました。そんなわけで、そのこどもは、そのフェデリゴと親しく交わって、鳥や犬とたわむれはじめました。何度もフェデリゴの鷹を見ているうちに、たまらなく気に入ってしまって、どうしても手に入れたいと思うようになりました。しかし、それがフェデリゴにとって非常に大切なものであることを知っていましたので、それをねだる勇気もありません。そうこうしているうちに、今度はそのこどもが病気になってしまいました。母親は、他にこどもがありませんし、何にも勝ってかわいがっておりましたので、そのことを非常に悲しんで、一日じゅうそばにつききりで、絶えず元気づけておりました。そして、何か欲しいものはないかと訊ね、できることなら、かなえてあげるから、欲しいものを言いなさいと話しました。息子は何度も母親がそう言ってくれるので答えました。
「お母さま、もしお母さまがわたしにフェデリゴさんの鷹をもらって下さったら、わたしは、じきに病気が癒ると思うのですが」
婦人はこれをきくと、しばらく思案にくれていましたが、自分がなすべきことを考えはじめました。彼女は、フェデリゴが長い間自分に思いをかけているのを知りながら、自分は今までに好意のこもったまなざしを唯の一度もかけていない事を思いながらつぶやきました。「人のうわさに聞くと、またとない最良種であって、その上あの方の生活の支えになっているというその鷹を貰うため人をやったり、あるいは自分で貰いに出かけたりどうしてできましょう。他にはなんのたのしみも残っていない紳士から、そのたのしみをとりあげてしまうような、そんな思いやりのないことは、できるわけありません」もし頼めば、きっと貰えるとは思いましたが、今言ったような考えにわずらわされて、息子にはなんと言っていいのかわからず、黙っておりました。とうとう彼女は息子への愛情に負け、息子をよろこばせるために、たとえどんなことが起ころうとかまわない、鷹を貰いに、人などはやらずに、自分で出かけて行って、息子に持ってきてやろうと、ひとり心に決めました。で、息子に答えました。
「息子よ、元気をおだしなさい。本気になってなおることをお考えなさい。明日の朝、わたしが最初にすることは、その鷹を貰いに行って、そうして、それをあなたに持ってきてあげることだと、お約束しておきますからね」
それを聞いてよろこんだこどもは、その同じ日のうちに、いくらか病気回復の兆しを見せました。
翌朝貴婦人は、も一人の婦人を伴って、散歩にでも出たようなふりをして、フェデリゴの小さな家にまいりますと、会いたいと告げました。彼は、鷹狩りの季節ではないし、ここ数日は鷹狩りに出かけませんでしたので、庭にいてちょっとした仕事を片づけておりました。彼は、モンナ・ジョヴァンナが戸口で自分に会いたいと言っているのを聞いてびっくり仰天し、よろこんでそこに駈けつけました。貴婦人は彼がやってくるのを見て、婦人らしい愛嬌を見せて近づくと、フェデリゴがうやうやしく挨拶をしましたので、それに答えて言いました。
「御機嫌よう、フェデリゴさま」
それからつづけました。
「わたくしは、あなたが必要以上にわたくしを愛して下さったために、今までにたいそう御損をなさった事を償い、ねぎらうためにまいったのでございます。その償いと申しますのは、このつれの者と一緒に、あなたと今朝お食事をさせていただきたいということでございます」
彼女に、フェデリゴはへりくだった態度で答えました。
「奥さま、あなたのために、わたしは、どんな損失もうけた覚えはございません。かえって、利益をうけております。ですから、もしわたしに何か取り柄があるといたしますなら、それはあなたの御立派なことと、わたしがあなたによせていた愛情のおかげだったと申してよろしいでしょう。あなたの御親切なお訪ねは、こんな貧乏な者へのお訪ねでありますだけに、今までにわたしが使った金を、もう一度使うように返して下さるよりも、はるかにずっとうれしく存じます」
こう言うと、彼は恥ずかしそうに自分の家に彼女を招き入れて、そこから庭に案内いたしました。それからみなのお相手をさせることのできる者はだれもおりませんので、申しました。
「奥さま、他にだれもおりませんので、わたしが食事の支度をしに行っている間、この百姓の細君が、あなた方のお相手をつとめましょう」
彼は、自分の貧乏がどん底をついていたのに、自分が滅茶苦茶にその財産を使い果たしてしまったことを今まではそれほどわかっておりませんでした。が、今朝は、この婦人のためにかつては無数の人々を御馳走に招いたのに、当の本人を御馳走することのできるようなものが何一つ見つかりませんでしたので、いまさらのようにそのことに気がつきました。そこで、身も世もない悲しさにうちひしがれて、わが身の不幸を呪詛しながら、気でも違った人のように、あっちこっちと歩き廻っていましたが、金も質草も見つかりませんでした。時間はたつし、婦人には何か御馳走をしたい気持ちで胸はいっぱいでしたが、他人はもちろんのこと、自分のところの百姓にも助けを求めたくはありませんでした。すると、自分の立派な鷹が眼にはいりました。部屋のとまり木の上にいるのを見たのであります。そこで、ほかに仕方もなかったし、それを手にとると、ふとっているのがわかったので、これこそあの婦人にふさわしい食物だと思いました。そこでその他には何も考えないで、鷹の首をひねると、一人の女中に渡して、すぐに毛をむしりとり、一本の串にさして丹念に焼かせました。それからまだいくらか手許にあった純白の掛け布を食卓にかけて、うれしそうな顔をして庭の貴婦人のところに戻ると、自分の力で精一杯の食事の支度ができたと告げました。そこで婦人は、つれの婦人とともに立ち上がって食卓につきました。二人は何を食べているのか知らずに、心から親切にもてなしているフェデリゴと一緒に、その立派な鷹を食べてしまいました。
食卓を離れてから、二人はしばらく、彼と楽しくよもやまの話をしておりましたが、婦人は、自分が訪問したわけを言う頃合いだと思いましたので、やさしくフェデリゴに向かって話しはじめました。
「フェデリゴさま、あなたは御自分の今までの御生活と、恐らく頑固で残酷なものとお考えになっていらしたわたくしの貞潔とをお思いだしになられて、わたくしがここに伺いました主な理由をお聞きになられましたら、わたくしの無遠慮なことにきっとお驚きになるにちがいないと存じます。でも、もしあなたにお子さまがおありになりましたら、または、おありだったことがございましたら、こどもに注がれる愛情がどんなに力強いものであるか御存じになれましょうから、きっと、いくぶんかはわたくしをお赦し下さるだろうというような気がいたします。でも、あなたにはお子さまはございませんけれども、一人の子があるわたくしは、他の母親たちに共通な法律をまぬがれることはできません。その力に従わずにはいられませんので、わたくしは、自分の気持ちやあらゆる体面や義理にそむいて、一つの贈り物をおねだりしなければなりません。それがあなたにとって、非常に大切なものであることは存じております。あなたにはひどい不幸のために、他になんのたのしみも、なんの喜びも、なんの慰めも残っておりませんから、それは無理もないことでございます。で、この贈り物というのは、あなたの鷹でございまして、わたくしのこどもがそれを非常に欲しがっておりますので、もしわたくしがそれをいただいて行ってやらないと、今かかっている病気がとてもおもくなり、やがてこどもを失うようなことになるかもしれないと、不安なのでございます。そこでわたくしは、あなたがわたくしをお思い下さる愛にかけてというのではなく、何事よりも御親切なあなたの寛大なお心にかけて、わたくしはその鷹をぜひ贈っていただきたいとお願いいたします。その贈り物のおかげで、わたくしが、こどもの命を助けることができ、そのおかげであなたに何時も感謝をしていると申すことができればと存じますので」
フェデリゴは、婦人が求めていたことを耳にすると、鷹は婦人に御馳走してしまっていたので、その望みにこたえることができないのを知って、何も答えないうちに彼女の前で泣きだしました。婦人は、はじめはその嘆きが、ほかではない立派な鷹を手放さなければならないのを悲しいからだろうと思いました。そこでもう鷹はいらないと言おうとしたくらいでございました。けれども、じっとこらえて、フェデリゴが泣きやんで返事をするのを待っておりました。フェデリゴはこう言いました。
「奥さま、神の思し召しによって、わたしがあなたに思いをよせて以来、わたしは、いろいろなことで運命がさからっているように思え、それを悲しんでおりました。ですが、現在運命がわたしにしむけていることに較べれば、大したことではございません。わたしが金持ちであった時は、あなたはおいでになろうとはしなかったのに、今この貧しい家においで下さって、わたしから小さな贈り物をお望みになられたのに、運命はわたしにその贈り物ができないようにしむけたことを考えますと、わたしはこの運命というものと、断じて仲直りはできないと考えるのです。どうしてこの贈り物をすることができないのか、そのわけを簡単に申しあげましょう。あなたがそのおやさしいお気持ちで、わたしと一緒に食事をなさろうとおっしゃるのを伺いまして、わたしは、あなたの高い御身分と、その御立派なお人柄を考えまして、できるだけのことをして、他の人々に差し上げる御馳走よりももっと立派な御馳走でおもてなしをするのが当然なことだと考えました。そこで、あなたがお求めの鷹と、鷹の実に立派なことを思い出しまして、これこそあなたにふさわしい食べ物であると考えました。今朝、わたしはそれを料理して、焼き鳥にして皿にのせ、あなたに差し上げたのでございます。けれども、今それとは別の方法でその鷹をお望みでいらっしゃるのを伺って、それを差し上げることができないのは、何よりも残念で、わたしとしては、どうしても諦めることができません」
こう言うと、彼はその証拠に、羽毛や足や嘴を婦人の前に持ってこさせました。
婦人はそれを見、その話を聞くと、最初は彼に向かって、一人の女に御馳走するために、それほどの鷹を殺したことを非難しました。しかし後で、貧乏になっても損なわれず、また今も損なわれていない彼の心の立派なことを、ひそかに心から讃嘆しました。やがて、婦人は鷹を貰う希望もなくなりましたし、息子の病状のことも心配になりましたので、すっかりしょげてその場を辞すると、息子のところに帰りました。息子は鷹を手に入れることができなかったので、悲しかったためか、あるいは、やはりそうなる運命であった病気のせいか、そう日数もたたないうちに、母親の尽きない嘆きに送られてこの世を去りました。母親は、しばらくの間涙と悲嘆にくれておりましたが、大変金持ちの上まだ年も若かったので、兄弟たちから何度も再婚するようにとすすめられました。そこで、自分では気がすすみませんでしたが、あまりしつこくすすめられるので、フェデリゴの立派な人柄や、先日のあの鷹揚な取り扱いを、だから自分に御馳走をするためにあれほどの鷹を殺してくれたことを思いだして、兄弟たちに言いました。
「もし、あなた方さえよろしければ、わたくしは今のままで結構です。でもわたくしが結婚することをぜひにとお望みならば、フェデリゴ・デリ・アルベルギ以外のどなたとも結婚はしないつもりです」
兄弟たちは彼女をからかいながら言いました。
「馬鹿だね、何を言うんだい? 何一つ持っていない奴とどうしようと言うんだい?」
兄弟たちに、彼女は答えました。
「あなた方がおっしゃるとおりなのは、よくわかっています。でもわたくしは、人間の欠けている財産よりも、財産の欠けている人間のほうを先にとります」
兄弟たちは、彼女の決心を聞いて、フェデリゴが貧乏ではあるが、非常に立派な男であることを知っていたので、彼女の望みどおりに、その全財産と一緒にフェデリゴに嫁にやりました。フェデリゴは自分があれほど愛していた婦人を妻にして、その上に大金持ちになり、莫大な富と彼女とともに幸福にその余生を終えました。
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第十話
[#この行3字下げ]〈ピエトロ・ディ・ヴィンチョロは外へ食事に出かける。彼の妻が若者を引き入れる。そこへピエトロが帰宅する。彼女は男を鶏籠の下にかくす。ピエトロは食事によばれたエルコラーノの家で、その細君が引き入れておいた若者が見つかったことを話す。妻はエルコラーノの細君を非難する。運悪く驢馬が籠の下にいた男の指を踏みつける。男が叫び声をあげたので、ピエトロがそこに駈けつけて男をみつけ、妻の背信を知るが、最後に、自分の卑劣な行為のために妻と仲直りをする〉
女王のお話がおしまいになり、フェデリゴに褒賞をお授けになった神さまが、一同の者によって讃えられましたが、その時、一度も命令を待ったことがないディオネーオが、話しはじめました。
わたしたちが、善い行ないよりも悪い行ないのほうを、特に他人のしたことである場合に、笑い悦ぶことは偶然の悪癖でしょう。それは生活態度の邪悪というものによって人間に生じたのか、あるいは人間の本性の中にある罪の一つなのか、わたくしにはわかりません。わたしが前にも試み、今また試みようとしている骨折りは、ぜひあなた方の憂鬱な気持ちを払いのけて、哄笑し陽気になっていただきたいほかには、別になんの目的もありません。わたしのこれからのお話の内容は、慕わしい淑女方よ、いくらか品は悪くても、聞いていてたのしいものですから、お話しすることにしましょう。みなさんは、それをお聞きになるに当たっては、ちょうど庭園におはいりになってかわいい手をのばして、ばらの花をつんで、棘はそのままにしておかれる時にいつもなさっていらしたとおりのことをして下さい。不幸を背負った悪い男を、その悪行と一緒に棄てておいて、今申したことをして下さい。必要な時には、他人の不幸に同情をしながら、その男の細君の恋の瞞着をほがらかにお笑いになって下さい。
まだそう昔のことではありませんが、ペルージャに、ピエトロ・ディ・ヴィンチョロという金持ちの男がおりました。この男は、自分の持っていた欲望のためというよりも、恐らく他人を欺いて、全ペルージャ人が自分にあたえていた評判をしずめるために、妻をめとりました。運命は、こんな具合に彼の欲望に合致したのです。つまり彼がめとった妻は頑丈で、赤毛で、情熱的な若い婦人であって、夫が二人ほしいくらいでした。ところが彼女は、妻のことよりも男のことに気をとられている男のところにきてしまったのです。そのことを彼女は、時のたつとともに知るに及び、自分が美人で、みずみずしく健康にあふれ、精力にみちみちているのを感じておりましたので、最初はひどく腹を立てて、夫を相手に時々ひどい悪態をついて、しょっちゅう喧嘩をするようになりました。やがて、こんなことをやっていても、夫の悪癖を矯正しないうちに、自分の体のほうがまいってしまうと見てとって、ひとりごとを言いました。
「この性悪な男は、その悪行で乾いた道を木靴で歩きたくて、わたしを放っておくんだよ。だからわたしは、雨の降る中を他人を船にのせてせっせと運ぶようにしよう。わたしは、あの人が男であることを知っていて、男たちが欲しがっているし、欲しがるにちがいないものを、あの人も欲しがると思ってあの人を夫にして、しこたまの持参金を持ってきたんだわ。もしあの人が男でないと思っていたら、絶対に結婚なんかしなかっただろう。もし女が気に入らないのなら、わたしが女だと知っているのにどうして、わたしを妻にもらったんだろう。わたしには我慢ができないわ。わたしがこの世に生きていたくなかったら、修道女になってしまっているわ。こんなふうに、わたしは自分で望んでこの世に生きていたいんだけど、もし、あの人からたのしみや、よろこびを期待しようとしたら、待つだけ無駄で、このままお婆さんになってしまうかもしれない。お婆さんになってからそれに気がついて、自分の青春をつぶしてしまったことを悲しんでもなんにもならないわ。この青春をたのしく送るには、夫はとてもいい先生で、手本を示しているわ、あの人がたのしんでいるものをわたしにもたのしめってね。そのたのしみは、あの人の場合はきつく非難すべきものだけれども、わたしがするならほめてもらってもいいことでしょうよ。わたしは、世間の通念を破ることになるだろうけれど、あの人は世間の通念と自然の掟を破っているんだからね」
さて、この女はこんな考え方をこっそりと実行に移そうとして、蛇に餌をやるという聖女ヴェルディアーナの再来とさえ考えられていたある老婆と仲よくなりました。この老婆は、いつも数珠を手に贖宥《しよくゆう》のミサには欠かさずにまいりましたし、口に出すことと言えば教皇のことや、聖フランチェスコの傷痕のことばかりで、ほとんど全部の人々から聖女だと考えられていました。彼女はいい潮時を見て、自分の考えをのこさず老婆に打ち明けました。老婆は彼女に言いました。
「わたしの娘よ、万事を御承知の神さまは、あなたがちっともまちがっていないことを御存じですよ。特別の理由がないのに、そうしたことをしたとしても、青年時代を無駄にしないために、あなたや、若い女の方はみんな、そうしなくてはいけないんですよ。それを知っている人にとっては、時を無駄につぶすことくらい悲しいことはありませんからね。わたしたちは年をとってしまうと、炉ばたの灰をじっと見ているほかに、何ができるというんですか。だれも知らないし、だれも証人になってはくれませんが、わたしは、そうした女の一人です。年をとったわたしは、時を無駄にすごしてしまったことを知って、今更どうすることもできませんが、胸に覚える傷手は大きく、痛いものがないでもございません。わたしは、全く無駄にすごしてしまったわけではないのですが、そんな馬鹿な女だとお考えにならないで下さいまし。それでもわたしは、しようと思えばできたことをしませんでした。そのことを思いだすと、ごらんのように、もうだれも何一つ親切なそぶりをしてくれないような年寄りになってしまった現在、わたしがどんなに悲しんでいるか、神さまは御存じです。男の方には、こんなことはございません。男は、このことだけではなく、なんでもいろいろなことができますように生まれついています。大部分の者は、若い時より年をとってからのほうが、値打ちがでるんですよ。ところが女というものは、このことをして、こどもをこしらえることだけに生まれついているので、このために大事にされているのです。もしあなたにそれがわかる手がかりが他になくても、男ではそうは行かないのに、わたしたちはいつもそれができる準備ができている一事をもってしても、ええ、このことはおわかりになるにちがいありません。こればかりではなく、多くの男が一人の女を疲れさすことはできないのに、一人の女は多くの男を疲れさせることができるでしょう。わたしたちは、このことのために生まれてきているのですから。も一度あなたに申しますが、あなたが、御主人に対して悪には悪をもってむくいる戦法をおとりになるのは、非常に結構なことですよ。あなたが年をとってから、その魂が肉体を叱るようなことがありませんようにね。人はこの世では、自分でとるだけを手に入れています。特に女がそうです。女は男よりもずっと多く、(自分たちが持っている間に)その時間を使わなくてはいけません。ごらんのように、わたしたちが年をとると、夫や他の男たちは、わたしたちを見たがりません、いや、わたしたちを台所に追っ払って、猫とお話をさせたり、鍋や皿を数えさせたりしているんですからね。なお悪いことには、わたしたちは歌に歌われているんですよ。それは、『若い女にゃ御馳走を、年寄り婆にゃ冷飯を』というんでしてね、そのほかにもまだいろいろとたくさんのことを申しておりますよ。もう話はこれくらいにして、今からあなたに申しておきますが、あなたは、この世の中でわたしより役に立つ人に、その御胸うちをお打ち明けになることはできなかったのですよ。わたしが相手として必要なことを言えないような、高潔な人は一人もおりませんし、わたしがうまくまるめて、自分の思うように持って行けないような、頑固な、わからず屋はおりませんからね。さあ、あなたがお好きな人をわたしに教えなさい、そうしてわたしにまかせておきなさい。でも、一つだけ、わたしの娘よ、言っておきますが、わたしは貧乏な者ですから、わたしの身の上のことはおまかせしましたよ。わたしは、これからは、あなたのお名前を、わたしの贖宥のミサのどれにも、わたしの唱える主祷文にはいつでも、お入れしたいと思い、神さまがそれを、あなたの死者たちの冥福に捧げられた灯明や、蝋燭と思し召しを、御嘉納下さいますように、願っております」
老婆は話を終えました。そこで若い婦人は老婆と相談がまとまりまして、そのあたりを、しじゅう通っていた青年について、詳しい特徴を説明したうえで、もしこの青年を見かけたら、どうしたらいいかよくのみこんでいてもらいたいということになりました。そして、婦人は老婆に塩漬肉を一切れ渡して帰しました。老婆はそれからたいしてたたないうちに、婦人が話していた青年を、こっそり婦人の寝室に連れこみました。それからまもなく、また別の青年で若い婦人の気にいるのがでてくるにしたがって引き入れたのです。彼女は、それに関してできることについては、いつも夫のことを心配しながらも、一度も欠かすことなく機会を利用していました。ところがある晩のこと、夫がエルコラーノという名の友人のところに食事に行かなければならなかったので、婦人は老婆に向かって、ペルージャじゅうで最も美男子で、最も好いたらしい青年を、自分のところに来させるようにと言いつけました。老婆はすぐにそう取り計らいました。婦人が青年と一緒に食事をしようと食卓についた時、さあ大変、ピエトロが戸口で開けてくれと呼ばわりました。このことを聞いて婦人は生きた心地がありませんでした。もしできたら青年をかくしたいと思いましたものの、これを送りだすか、ほかの場所にかくれさせる考えが浮びません。ちょうど食事をしていた部屋の隣に外廊がありましたので、そこにあった鶏籠の下に青年をもぐりこませました。そして、その上からその日空にしておいた袋の布をかけると、夫のために戸口を開けさせました。家にはいってきた夫に向かって彼女が言いました。
「えらく忙しい晩ごはんでしたのね」
ピエトロが答えました。
「わしたちは食べやしなかったんだよ」
「それは、どうしたというんですか」と細君が言いました。
すると、ピエトロが言いました。
「というのは、エルコラーノと細君とわしと三人で食卓についていたんだが、わしたちのそばでくさめをするのが聞こえてきたんだよ。それも、最初や二度目は気にかけなかったんだが、くさめをしていた奴が、さらに三度、四度、五度と、それから何度もくさめをしたんで、わしたちはみなびっくりしたんだ。その前に、大分長い間わしたちを戸口に戸をあけもしないで立たせておいたので、細君にいくらか腹を立ててたエルコラーノが、憤然として言ったんだよ。
『これはどうしたってことなんだ? あんなくさめをする奴は何者だ?』
そう言って食卓から立ち上がると、すぐそばにあった階段のほうに行ったんだ。その階段の下には、板仕切りの押し入れがあったが、どうもその中からくさめの音がしてくるような気がしたので、そこにあった口を開けたんだよ。開けると滅法界たまげるばかりの硫黄の臭気がとびだしてきてね。もっとも前々から臭気がしていて、わしたちが文句を言っていたので、細君は『わたしが、硫黄でヴェールを漂白して、硫黄を散布するのに使った小鍋を、あの階段の下にしまったので、まだ煙がでてくるんですよ』と言ったもんだ。
そこで、エルコラーノが口を開いて、臭いがいくぶん散ってから中を見ると、硫黄でむせびかえってまだくさめをしている男が眼にはいったんだ。その男を見るとエルコラーノが大声をだしたね。
『ああこれで、わしたちが一寸前に来た時に、戸口を開けないで外に立たされていたわけがのみこめた。この仕返しをしないうちは、腹の虫をおさまらせてたまるものか』
細君はそれを聞くと、自分の悪事が露見したと思って、なんの言いわけもしないで、食卓から立ち上がると逃げだしちまった。どこへ行ったのやらわしは知らんよ。エルコラーノは細君が逃げだしちまったことに気がつかないで、くさめをしていた者に向かって、外に出てこいと何度も言ったけれども、もう腰も立たなくなっていたその男は、いくらエルコラーノが言っても動かなかったよ。そこでエルコラーノが、その男の片足をつかんでそとへ引っ張りだしたが、そいつを殺しちまうと言って小刀をとりに駈けだして行ったんだ。だがわしは、役所の厄介になってはと心配になり、立ち上がると、その男を殺させたり、けがをさせたりさせないようにと思って、大声でどなったりしてその男をかばっていたので、そのためにそこへ近所の連中が駈けつけてきたんだよ。みなはもうすっかり力が抜けていた青年をつかんで、どこか知らないが家からはこんで行っちまった。そんなわけで、わしたちの晩飯は邪魔がはいって、さっきも言ったとおり、わしはかっこまなかった[#「かっこまなかった」に傍点]ばかりでなく、一口味見をすることさえできなかったんだよ」
このことを聞いた細君は、たまにはそのために不幸な目にあう女もいるけれど、自分と同じように利口な女が他にもいることを知り、進んでエルコラーノの細君の肩を持ってしゃべり立てようとしました。でも他人の過失を非難すれば、自分の過失にも逃げ道ができるにちがいないような気がして、こう話しだしました。
「なんて立派なんでしょう。とても信心深い方のようだったので、わたしはあの方のところへ告誡に行ってもいいと思ってたんですのに。それからもっと悪いことには、あの方はお年寄りで、若い女の人たちのよい模範にならなくちゃならない年なんですよ。不信きわまる罪の女でこの世のありとあらゆる女の恥さらしですし、非難しなくてはなりません。あの方は、自分の貞潔や夫に約束した誠やこの世の名誉、体面というものを投げすてて、あんなに立派で名誉ある市民で、あんなによくしてくれる夫から、別の男に移るのを恥と思わなかったんです。もし神さまがお救いになるとおっしゃっても、こんな女に憐みはかけたくないものです。こんな女は殺しちまえばいいんです。生きながらに、火中に投げ込んで、灰にしちまえばいいんですわ!」
それから細君は、そこのすぐそばの籠の下にいれておいた恋人のことを思いだしたので、ピエトロに、もう時間だから寝に行くようにとすすめました。寝るよりも食べたいと思っていたピエトロは、晩飯に何かあるのかと聞きました。細君はピエトロに答えました。
「食べるものが残っていないかですって! あなたがるすの時は、うんと御馳走を食べてるとでも思ってるの? さあもう今晩はおやすみなさいよ。そのほうが、からだにいいわ」
ところがその晩、ピエトロのところの作男たちが、農場から何かはこんできて、その驢馬に水もやらずに外廊と並んでいる廐舎にいれておいたので、喉がかわいた驢馬の一頭が、廐舎を出て水はないだろうかと、そこいらじゅうをかぎ廻っていました。そうしているうちに、その外廊のまん中の青年がかくれていた籠のところに来ました。青年は四つんばいになっていなければならなかったので、籠の外の床に片方の指をだしていました。不運と言うか災難と言うか、この驢馬がその指を踏んづけました。ですから、青年はとび上がるほど痛かったので悲鳴をあげました。
ピエトロはそれを聞くとびっくりして、家の中に起こっていることをさとりました。そこで部屋から出て、驢馬が足をどけないで、かえってぐんぐん押しつけていたため、青年が痛がって泣いているのをきいて言いました。
「だれだ、そこにいるのは?」
籠のところに駈けつけて持ち上げると、青年がいました。青年は驢馬の足に指を踏んづけられた痛さのほかに、ピエトロにひどい目にあうのではなかろうかという恐怖で、ふるえていました。青年は、ピエトロがその悪癖の上で、長い間追い廻していた者なので、ピエトロにその顔を知られておりました。
「お前はここで何をしているんだ?」
青年はそれには返事をしないで、ただ御慈悲ですからひどい目にあわせないでほしいと頼みました。彼にピエトロが言いました。
「起きろ、わしがお前に何かひどいことをしやしないか、心配なんかしなくてもいいよ。ただどうしてここにいるのか、言っておくれ」
青年はすべてのことを話しました。青年を見つけたので、細君が悲しんでいたのと同じくらいによろこんでいたピエトロは、青年の手をとると、自分と一緒に彼を部屋に連れて行きました。そこでは細君がこのうえもなく恐れて、夫を待っていました。ピエトロは、細君の真正面に腰をおろすと言いました。
「たった今お前は、エルコラーノの細君の悪口を言って、あんなのは焼き殺してしまったほうがいい、お前たち全部の面汚しだと言っていたね。どうしてお前自身のことについては、言わないんだね? あるいはまた、お前が自分のことを言いたくないのなら、あの女がしたのと同じことを、自分でしていたのを知りながら、どうしてあの女の悪口を言って平気でいられるんだい? お前たちは、みんなそういう人間にできていて、他人の罪で自分たちの過失をかくそうとしているのか。天から火でも降って、お前たち全部を焼いてしまえばいいんだ! なんて性悪な連中だ!」
細君は夫が、すぐには、ことば以外に何もひどいことをしなかったのを見てとり、こうした美青年を手に入れて陽気になっていると思ったので、元気を出して言いました。
「あなたは、犬が棒をきらうように、わたしたちをきらっているのだから、天から火が降って、わたしたち全部を焼き殺したらいいと思っているくらいのことは、百も承知しています。だが神さまの十字架にかけて、そんなことが行なわれるはずはありませんよ。でもわたしは、あなたがなげいている点について知りたいので、あなたとちょっとばかり議論をしてみたいですわ。もしあなたが、わたしをエルコラーノの奥さんと較べようとなさるのなら、それもようございましょう。あの方はえせ[#「えせ」に傍点]信者で偽善者のお婆さんであって、旦那さんから奥さんとしての扱いをうけていますが、わたしにはそんなことがないのです。なぜなら、わたしはあなたのおかげでいい着物を着、いい靴をはいていますが、ほかのことではどんなふうにされているでしょう。わたしと寝なくなってからどのくらいになるか、あなたはよく御存じです。わたしは、あなたに今されているような取り扱いをうけるよりは、むしろぼろを身につけてはだしで歩いていても、ベッドであなたにちゃんとかまってもらうほうがいいんです。ピエトロ、わたしはほかの女と同じように女であって、ほかの女が欲しがっているものが欲しいんです。だから、あなたからそれを得られないので、自分でなんとか手に入れようとしても、悪口を言われるところはないんです。せめてわたしが召使や乞食どもを相手にしないだけ、あなたの名誉を思っているんですよ」
ピエトロは、一晩じゅうしゃべらせても、彼女のことばが終わりそうにもないのを見てとり、細君のしたことは大して気にかけていなかったのでこう言いました。
「もうやめておくれよ。そのことについてはお前の満足のいくようにするよ。晩飯に何かみんなで食べられるように、お骨折りを願いたいね。この青年もあたしと同じように、まだ夕飯がすんでいないようだからね」
「確かに、そうよ」と、細君が言いました。「その人はまだ夕飯を食べていません。あいにくあなたがいらした時に、あたしたちは、食事をしようとして、食卓についていたんです」
「じゃあ、さあ行って」と、ピエトロが言いました。「わしたちが食事ができるようにしておくれ。そのあとで、わしは、このことについては、お前が文句を言わないですむように、取り計らうよ」
細君は夫がよろこんでいるのをきいて、立ち上がると、すぐにもう一度食卓を用意して、支度しておいた夕飯を持ってきて、けがれきった夫や青年と一緒にたのしく食事をしました、食事のあとでピエトロが、三人全部の満足のいくように申し出たことを、わたしは忘れてしまいました。翌朝、広場に行きつくまで青年は、前夜細君と旦那さんとどっちによけい相手になってもらったか、はっきりしませんでした。そこで、愛するわが淑女の方々よ、あなたに仕掛ける者には仕返しなさいと、あなた方に申しあげたいのです。もしそれができなければ、できる時がくるまで覚えておおきなさい。人をのろわば穴二つなんですからね。
さてディオネーオのお話はすみましたが、淑女たちは、面白くないからではなく、恥ずかしいので今までほど笑いませんでした。女王は、ディオネーオのお話のおしまいがきたのを知って、立ち上がると、月桂冠をとりのけて、それをうれしそうにエリザの頭にのせて言いました。
「貴婦人よ、さあ、あなたが御主宰なさる番です」
エリザはその月桂冠をうけると、彼女は今までに行なわれたとおりにしました。自分の統治期間中、必要なことについて、まず給仕頭に命令をあたえまして、それから仲間の喜びのうちにこう言いました。
「わたくしたちは、巧みなことばや、うてばひびくような返答や、あるいはまた迅速な判断などによって、多くの方々が攻撃してくる他人の歯をおしのけ逆にかみ返したり、降りかかる危険を追い払うことができたことを、今までに何度も聞いております。で、話題としては美しいし、有益かもしれませんので、明日は、神さまの御加護によって、こんな題材について、すなわち他人にいどまれて、やさしいことばでやり返したり、うてばひびく返答や助言で、損害とか危険とか嘲弄をのがれた者について、お話ししていただきたいと存じます」
これは一同から非常に賞讃されました。そこで女王は立ち上がると、夕飯の時刻まで一同に暇をとらせました。
行儀のいい仲間の人たちは、女王が立ち上がったのを見て一斉に立ち上がると、いつもの方法に従って、銘々自分の一番好きなことをしておりました。やがて蝉が鳴きやみましたので、みなを呼ばせて夕飯にまいりました。夕飯はたのしくにぎやかにすみまして、一同は歌ったり、楽器で奏でたりしはじめました。女王の希望によって、エミリアは舞踏を、ディオネーオは歌を歌うようにと命令をうけました。彼はさっそくはじめました。
「モンナ・アルドルーダ、尻尾をおあげよ――面白いお話をして進ぜるほどに」それを聞いて、淑女たちはみんな笑いだして、一番笑いころげていた女王は、そんな歌はやめて、別のにして下さいと言いました。ディオネーオが言いました。
「貴婦人よ、小太鼓があったら、わたしは、『着物をおあげよ、モンナ・ルーパ』か、『小さな橄欖の木の下には草がある』を、やりたいのですが。それともわたしが、『海の波は、なぜにこんなにわたしをいじめるの?』でもやるのを、お望みですか。でも、わたしは小太鼓がないんです。そこで、この他のものの中からどれがお望みなのか、あなた方でお考えになって下さい。これはお気に召すでしょうね。『こっちへ出してごらん、切られるからね、原っぱのさんざしのように』」
女王が言いました。
「いいえ、もっと別のを歌って下さい」
「では」と、ディオネーオが言いました。「わたしは『モンナ・シモーナよ、樽におつめよ、さあ、おつめよ、十月じゃないんだが』をやりましょう」
女王は笑いながら言いました。
「まあ、困った人ねえ! よろしかったら、美しいのを一つ歌って下さいな。わたくしたちは、そんなのはいやですから」
ディオネーオが言いました。
「いいえ、貴婦人よ、お怒りにならないで下さい、でも、どれが一番よろしいんですか。わたしは千以上も知っております。『このわたしの貝殻を、もしわたしが叩かなければ』か、それとも『おや! おとなしくしておくれ、うちの亭主よ』か、それとも『わたしは百リラの牡鶏を買いましたのよ』はいかがです?」
そこで女王は、他の淑女たちは全部笑っていましたけれども、少し憤然として言いました。
「ディオネーオ、冗談はおよし遊ばせ、そして一つ美しいのを歌って下さい。そうなさらないと、あなたはわたくしがどんなに怒れるものか、おわかりになるかも知れませんよ」
ディオネーオはこれを聞くと、冗談は放っておいて、さっそくこんな具合に歌いはじめました。
愛のみ神よ、かの君の
ひとみの光にこのわれは
汝れとおみなのしもべたり
ひとみよりの輝きは
わが眼をとおし、この胸に
汝れが焔を燃えたてぬ、
汝が御力の偉なるかな
かの君の美をわれに見せ、
この身はそれを慕いつつ
裾《すそ》のまわりにまつわりて
み前に捧げるわが才能《ちから》
今あやしくも吐息生む
かくしてわれは、ああ愛よ、
汝れがしもべになり果てて
力の恵みを待ち望む、
汝れの燃やせしわが欲望《よく》や
誠心《こころ》のすべて、かの君の
知るや知らざや。その君は
わが魂《たま》の主、やすらぎは
ただかの君にあると知れ
いとしわが愛よ、願わくば
汝が熱き火をわがために
かの君に見せ、注がれよ、
汝が見るごとくこのわれは
恋にやつれて少しずつ
殉教の床に力尽く、
時到りなばかの君に
われをよしなに頼まれよ
ただ汝れにのみわれすがる。
ディオネーオが黙りこんで、その歌が終わったことを示したあとで、女王は他の多くの者に歌わせましたが、それでもディオネーオの歌を大変ほめ讃えました。しかし夜もいくらかふけましたので、女王は日中の熱さがもう夜の冷気に抑えられたのを知って、銘々につぎの日まで、思い思いに休みに行くようにと命じました。
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第六日
[#この行3字下げ]〈デカメロンの第五日が終わり、第六日がはじまる。この日には、エリザの主宰のもとに、他人に挑《いど》まれて、やさしいことばでやり返したり、うてばひびく返答や助言で、損害とか、危険とか、嘲弄をのがれた者について語る〉
月は中天にかかって、その光を失い、すでに生まれでた新しい光に、私たちの世界はすみずみまでも明るくなりましたので、女王は起き上がると、仲間の者を呼ばせて、ゆっくりした足取りで、露を分けて散歩しながら、あれこれとよもやまの話をしたり、今まで物語られた話のいろいろのおもしろさについて議論をしたり、さらにはまたそれらの話に述べられたいろいろの場合をもう一度思い出して笑ったりしました。美しい丘から、いくらか遠ざかって行くうちに、日もずっと高くなって、一同は暑くなりだしたため、もう家に帰らなければなるまいと思いました。それで、踵を返して帰ってまいりました。そこには、すでに食卓の用意もできておりまして、到るところに、青い草や、美しい花が撒きちらされていましたので、一同は暑さがさらに烈しくならないうちに、女王の命令によって、食べはじめました。にぎやかに食事が終わって、ほかのことをする前に、みんな美しくて、たのしいはやり歌をいくつか歌ってから、ある者は寝に、ある者は将棋をやりに、またある者はトリクトラク盤(戦争将棋の一種)を興じに行きました。ディオネーオは、ラウレッタと一緒に、トロイオロとクリセイダ(ボッカッチョの作った小詩「フィロストラート」の主人公たち)のことを歌いだしました。そのうち話の集《つど》いに戻らなければならない時間がまいりましたので、いつもしていたように、みんなは女王に呼ばれて、噴泉のまわりに腰をおろしました。
さて、すでに女王が最初の話を命じようと思っていたときに、今までに起こったことがないようなことが持ちあがりました。というのは、台所で、女中や召使たちによってたてられた大きな物音が、女王や一同の耳にはいったのでした。そこで、給仕頭を呼んでこさせて、だれが大声を出したのか、物音の原因はなんなのかとたずねましたところ、その喧噪はリチスカとティンダロの間に起こったのだと答えました。しかし給仕頭は、彼もまたそのとき二人をしずめようとして行く時、ちょうど女王に呼ばれたので、その理由を知っていませんでした。女王は、給仕頭に向かって、リチスカとティンダロをすぐに呼んでくるようにと命じました。二人がきたので、女王は、彼らの喧噪の理由はなんだったのかと訊ねました。
女王にティンダロが答えようとすると、すこし年をとっていて、いくらか傲慢なところもあり、どなっていたので昴奮もしていたリチスカは、いやな顔をして彼のほうを振り向いて、言いました。
「わたしがいるというのに、わたしをおいて先にしゃべろうなんて、なんて無作法な男なんだい! わたしにしゃべらしておくれよ」
そして女王のほうに向き直って言いました。
「貴婦人よ、この男は、シコファンテのおかみさんのことをわたしに知らせようとするんですよ。まるで、てっきり、わたしがあの女と交際がないかのように、シコファンテがあの女と寝た初めての夜にさ、マッツァ殿(棒殿)がネーロ山(黒山)に力ずくで、血をとび散らしながらはいりでもしたかのように、思わせようとするんですよ。で、わたしは、それは嘘だ、むしろその中にゆうゆうと、それも中にいるものは大喜びといった具合で、はいったんだと言いました。まったく、この男ときたら、父親や兄弟たちが七度のうちの六度まで、結婚を三、四年よけいに延ばしたって、娘たちはそのままおとなしく自分たちの時をむだにすごして待っているほど馬鹿なものだと、腹の底から思いこんでいるくらいの、大頓馬なんですよ。ほんとに、あの娘たちがそんなにのんびりしているとしたら、結構でしょうがねえ! キリストさまに誓って、なぜならわたしは誓う時に、自分がいっていることを知っていなければなりませんので、わたしは、近所の娘で、処女で夫のところに嫁いで行った者を今までに一人も知っておりませんし、結婚した婦人たちについても、彼女たちが、どんなに多くの、またどんな種類の裏切りを、夫たちに対してしているか、よく知っております。ところが、この馬鹿は、わたしがまるで昨日生まれたかのように、女というものを、わたしに教えようとするんですよ」
リチスカがしゃべっている間じゅう、淑女たちは大笑いに笑っていましたので、その歯を全部抜こうと思えば抜くことができるほどでした。で、女王はたしか六度も沈黙を命じましたが、なんの役にも立ちませんでした。リチスカは、自分がしゃべりたいと思ったことをしゃべってしまうまでは、どうしてもやめませんでした。けれども、彼女が話をおえたあとで、女王は笑いながら、ディオネーオに向かって言いました。
「ディオネーオ、これはあなたの手がける問題ですわ。ですから、わたくしたちのお話が終わったときに、それに最後の宣告をあたえるようにして下さい」
ディオネーオは女王に向かってすぐ答えました。
「貴婦人よ、宣告はもうそれ以上聞かないでも下《くだ》りましたよ。わたしはリチスカのいうことがもっともだと思います。実際、彼女のいうとおりです。ティンダロは馬鹿ですよ」
リチスカはそれを聞くと笑いだし、そしてティンダロのほうを向いて言いました。
「わたしのいったとおりだろう。いいかげんにおしよ、まだあんたは、黄色い口をしていて、わたしよりも利口だと思っているのかい? まったく、わたしはむだに年をとってきたんじゃないからね、ほんとだよ」
で、女王がいやな顔をして、彼女に黙るように言い、もし棒で打たれたくなかったら、それ以上しゃべったり、騒ぎ立てたりしないようにと命じました。彼女とティンダロを追っ払っていなかったら、みんなは、その日一日じゅう、彼女のおしゃべりを聞いているほかに、なにもできなかったことでしょう。二人が立ち去ったあとで、女王はフィロメーナに、まずお話の糸口をつけるようにと命じました。フィロメーナは喜んで、こう口を切りました。
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第一話
[#この行3字下げ]〈ある貴族がオレッタ夫人に向かって、ある話をして、まるで馬に乗せていくように、道の長いのを忘れさせようと言いながら、下手糞な話をしたので、彼女に降ろしてくれと頼まれる〉
お若い淑女のみなさん、輝かしい晴れた夜には星が空の飾りであり、春には花が緑の草原の、若葉をつけた灌木が丘の飾りであるように、気のきいたことばは、賞讃すべき作法や、りっぱな談話の飾りでございます。それは簡単なものでございますから、男子の方々よりも婦人の方々にふさわしいものなのですが、婦人の方々は沢山しゃべりすぎて、しまつの悪いものでございます。ところでわたしたちの才能の変わっているためか、わたしたちの時代に天からもたらされている特別の嫌悪のためか、その理由はどうでありましょうとも、適当な時に、なにか気のきいたことばを言ったり、それが言われた場合にまちがいなくこれを理解することができるような婦人は、今日ほとんど、または一人も残っておりません。これはわたくしたち婦人全部にとっての一般的な恥でございます。でも、このことにつきましては、もうパンピネアによって十分に話されましたので、それ以上、わたくしはそれについて申しあげるつもりはございません。でも、うまく機会をつかんで言われたことばが、どんなにそれ自身よいものであるかということを、ごらんにいれるために、ある騎士にたいして、ある貴婦人が丁寧に沈黙を命じたそのやり方を、わたくしはみなさまにお話ししたいと存じます。
あなた方のうち多くの方々はごらんになって御承知かもしれませんし、またはうわさを耳にしていらっしゃるかもしれませんが、わたくしたちの町に、まだそう古いことではございませんが、一人の気品のある、ふるまいの雅《みや》びた、弁舌のすぐれた貴婦人が住んでおりました。その方はごりっぱなので、お名前を黙っているわけにはまいりませんでした。その方はオレッタ夫人と呼ばれて、ジェーリ・スピーナ氏の奥さまでございました。夫人は、わたくしたちのようにたまたま田舎に滞在しておりまして、その日、自分の家の食事に招いた淑女たちや騎士たちと一緒に、気散じに、あちらこちらと歩いておりました。一同が出発したところから、これから歩いて行こうと考えていたところまで道が少し遠かったのでしょう、その一団中の騎士の一人が言いました。
「オレッタさま、よろしかったら、これからわたしたちが行く道中の大部分を、この世で一番おもしろいお話をひとつお聞かせして、馬に乗っているような気分でおつれ申しましょう」
夫人は、騎士に向かって答えました。
「ええ、かえってこちらから、頭を下げてお願いいたします。とてもうれしゅうございます」
話は舌にのらないし、剣も腰にしっくりしないような男だった騎士殿は、そうしたことばを聞くと、その話をはじめました。それは、実際のところ、話としてはたいへんおもしろいものでございました。でも、彼は三、四度、いや六度も同じことばを繰り返したり、話を後に戻したり、ときどき「そいつは間違えました」と言ったり、またよく名前を間違えて、相手を取り違えて呼んだりしましたので、――人物の性格や、起こった事件について話し方がこのうえもなく不手際だったことは言わないといたしましても――話をひどく打ち壊してしまいました。ですからオレッタ夫人はそれを聞いていて、まるで病人のように、今にも死にそうだったと思われるほど、なんども汗がでて、胸苦しさをおぼえました。夫人は、騎士がのぼせて何を話しているのかまごまごしてしまって、そこからぬけ出ることができなくなったのを見てとって、もうこれ以上は我慢ができなくなりましたので、やさしく申しました。
「騎士さま、このあなたさまのお馬は速歩《あるきかた》がきつすぎます。そこで、お願いですから、どうかわたくしを下に降ろして下さい」
たまたま、話し手としてよりもずっとすぐれた聞き手であった騎士は、その機知にとんだことばの意味がわかりましたので、それをよろこんで、冗談に受け流すと、いろいろとほかのお話をやりだしました。そしてはじめにやって、うまく先がつづけられなかったお話のほうは尻切れとんぼで、それきりよしてしまいました。
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第二話
[#この行3字下げ]〈パン焼きのチスティは、そのことばで、ジェーリ・スピーナ氏に、氏の無分別な要求をさとらせる〉
オレッタ夫人のお話は淑女方や紳士方のだれからも非常な賞讃を博しました。女王は、パンピネアにお話をつづけるようにと命じました。そこで彼女はこんなふうに話しだしました。
美しい淑女のみなさん、気高い魂にいやしい肉体をあたえる自然と、これからお話しする、わたくしたちの市民チスティや、そのほか多くの人々に起きるのを見ることができたように、気高い魂をそなえた肉体にいやしい職業をあたえる運命と、どちらの罪が重いか、わたくしには自分では判断がつきかねます。このチスティは非常に気高い魂をそなえておりましたが、運命はこの人をパン焼きにしたのでございます。で、自然はきわめて分別にとんでおり、たとえば馬鹿者たちは運命を盲目だと考えておりますが、実際、運命が千の眼をそなえていることを存じませんでしたら、わたくしもきっと自然や運命を同様に罵倒することでございましょう。自然や運命は、非常に聡明ですから、人間がよくやるようなことをしているのだと思います。つまり人間は、将来何が起こるか不安なので他日の必要にそなえて、自分たちの最も貴重な品物を、家の一番疑われないような、最もつまらない場所に、隠しておいて、それから一番必要なときに、それを取りだします。そのつまらない場所が、りっぱな部屋もおよばないほど、不思議と確実に保管しているからでございます。こんな具合に、この世の二人の司《つかさ》はしばしばその最も貴重なものを最もいやしいと考えられている職業の陰にかくしておきます。それが必要になってきた場合に取りだして、その光彩を一段と輝きわたらせようとするためでございます。パン焼きのチスティが、ジェーリ・スピーナ氏の智恵の眼を開いて、そのことを僅かなことで証明したことの次第を、きわめて短い小話で、みなさまにお目にかけたいと存じます。ジェーリ・スピーナ氏のことは、その夫人だった、オレッタ夫人のお話が出ましたので、思いだしたのでございます。
さてお話しいたしますが、ジェーリ・スピーナ氏が大そう寵遇をうけていた教皇のボニファツィオが、ある非常に大切な用事のために、何人かの貴族の使節をフィレンツェに派遣したことがございます。一同はジェーリ氏の家に泊まりこみ、ジェーリ氏はみんなと一緒に教皇の用事をしておりました。ところがほとんど毎朝その理由はとにかくとして、ジェーリ氏は教皇のこれらの使節たちと一緒に、一同徒歩で聖マリア・ウーギの前を通りました。そこには、パン焼きのチスティがパン屋の店を持っていて、みずからその職業に従っておりました。運命はチスティに非常にいやしい職業をあたえはしましたが、かなり親切に扱ったので、彼は非常な金持ちになっておりました。で、その職業を棄てて他の職業につこうとは思わないで、豪奢な生活を送っていまして、いろいろ結構なものを持っておりましたが、なかでも、フィレンツェやその近辺では一番上等の、白と赤のぶどう酒をいつもそなえておりました。
チスティは、毎朝自分の家の入り口の前をジェーリ氏と教皇の使節たちが通るのを見て、暑さも烈しゅうございましたので、彼らに自分の上等の白ぶどう酒をご馳走したら、さぞ親切なこととよろこばれるだろうと考えました。しかし自分の地位や、ジェーリ氏の地位に思いをいたして、ジェーリ氏を招待しようとすることは礼を失するような気がいたしましたが、ジェーリ氏自身が進んで招待されるように仕向ける方法をとろうと考えつきました。で、彼は、いつも、まっ白い上衣を着て、洗いたての前掛けをして――この二つは彼をパン焼きよりもむしろ、粉屋にみせておりました――毎朝、ジェーリ氏が使節たちと通るはずだと思われる時刻に、自分の家の前に、新しい、錫張りの容器《ばけつ》に、新鮮な水を入れたのと、上等な白ぶどう酒を入れたポローニヤの、新しい小さな土器の壺を一つと、銀製かとまちがえるくらいに光っているコップを二つ運ばせておいて、一同が通りすぎるころに、一人腰を下ろして、一、二度うがいをしてから、その自分のぶどう酒をさもおいしそうに飲みはじめましたが、それはまったく、死人にすらも飲みたいものだと欲望をおこさせるほどでございました。
ジェーリ氏はそれを一朝、二朝と見ておりましたが、三番目の朝、話しかけました。
「どうかね、チスティ? おいしいかい?」
チスティはすぐに立ちあがると、答えました。
「はい旦那さま、でもどんなにおいしいかは、あなたさまがお試《ため》しにならないかぎり、おわかりになってはいただけないでございましょう」
天気のかげんか、いつになく疲れていたせいか、それともたぶん目にしたチスティのさもおいしそうな飲みっぷりのせいか、すっかり喉《のど》が乾いていたジェーリ氏は、使節たちのほうを振り返ると、ほほえみながら言いました。
「みなさん、このりっぱな男のぶどう酒を味わってみなくちゃなりますまい。たぶん、飲んで後悔するようなものではないでしょう!」
で、彼は、みなと一緒に、チスティのほうに近よりました。チスティは、ただちに店からりっぱなベンチを持ってこさせて、一同に坐るようにと頼みました。そしてコップを洗おうと、もう前に進み出ていた彼らの家来たちに向かって言いました。
「みんな、お前たちはうしろへさがって、その仕事はわたしにまかせておくれ。わたしは、パンを焼くのと同じくらいうまく、ぶどう酒を注ぐことができるんだからね。そのしずくでもご馳走にあずかれると、夢にも思っちゃいけないよ」
で、そういうと、自分で、りっぱな、新しいコップを四つ洗ってから、上等のぶどう酒の入っている小さな壺を持ってこさせて、ジェーリ氏と、その仲間の人々に、せっせと注いでご馳走いたしました。一同には、そのぶどう酒が昔から飲んできたもののうちで一番極上の品のように思われました。そこで、ジェーリ氏は、それをたいへんほめそやしまして、使節たちがフィレンツェに滞在しているあいだじゅう、ほとんど毎朝彼らとともにそれを飲みにまいりました。
仕事も早くすんで、使節たちが出発することになりましたので、ジェーリ氏は一同のためにすばらしい宴会を催して、その宴会には、最もりっぱな市民たちの一部も招待いたしまして、チスティもこれに招いたのでございます。チスティはその宴会に、どうしても来ようとはいたしませんでした。そこで、ジェーリ氏は家来の一人に向かって、チスティのぶどう酒を一|罎分《びんぶん》もらってくるように、それからそのぶどう酒を最初の料理の際に、各人にコップに半分ずつ注ぐようにと命じました。家来は今までに一度もぶどう酒を飲めなかったので怒っていたのでしょう、大きな罎を取り上げました。それをチスティが見て言いました。
「ねえ、お前さん、ジェーリ氏が、あんたをよこしたのはわたしのところじゃないよ」
家来は、なんどもそうだと言い張りましたが、違う返事はえられませんでしたので、ジェーリ氏のところに立ち帰って、そのとおり伝えました。ジェーリ氏は彼に言いました。
「も一度行って、わしがそうさせているのだというんだ。もし、彼がまだそんな返答をしたら、わしはだれのところにお前を使いにだしているのか、聞いておいで」
家来はまたやってきて、申しました。
「チスティ、確かにジェーリ氏は、わたしをお前のところによこしているんだよ」
チスティは彼に答えました。
「ねえお前さん、ぜったいあの方はそんなことはなさらないよ」
「では」と家来が言いました。
「だれのところにわしをよこしているんだい?」
チスティが答えました。
「アルノ河へさ!」
家来がそのことをジェーリ氏に伝えますと、すぐに彼の智恵の目が開きました。彼は家来に向かって言いました。
「お前がどんな罎をそこへ持って行ったのか、見せてごらん」
そして、罎を見て言いました。
「チスティのいうとおりだ!」
で、家来を罵り叱ってから、手ごろの罎を持たせてやりました。チスティはそれを見て言いました。
「今こそ、あの方がお前をわたしのところにおよこしになっていることがよくわかるよ!」
そして、チスティはよろこんで、罎にぶどう酒を詰《つ》めました。それから、同じ日に、小樽に同じぶどう酒を詰めさせて、快くそれをジェーリ氏の家に運ばせたうえで、あとから訪ねて行きました。で、彼に会って、申しました。
「旦那さま、わたしが、今朝、大きな罎でびっくりさせられたとお思いになっては困ります。でも、わたしが数日来、わたしの小さな壺であなたさまにお見せしたことを、つまり、これは家庭《うち》でがぶがぶ飲むようなぶどう酒ではないことを、お忘れになったのではないかと存じまして、そのことを今朝、あなたさまに思い出していただきたかったのでございます。もう、わたしは、このぶどう酒の番人をして、あなたさまのためにとっておこうとは思いませんので、すっかりあなたさまのところに運ばせましてございます。今からは、どうかご自由にお使い下さいますよう」
ジェーリ氏は、チスティの贈り物をたいへんありがたく思いました。そして、それにふさわしいと思うだけのお礼を返しました。そして、その後はずっとチスティを尊敬し、また友人として交わりました。
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第三話
[#この行3字下げ]〈ノンナ・デ・プルチ夫人は当意即妙の返答で、フィレンツェの司教の不潔な悪《わる》じゃれに沈黙を命じる〉
パンピネアがそのお話を終えた時に、チスティの返答と鷹揚ぶりが、一同から非常にほめそやされたあとで、女王は、そのつぎにはラウレッタに話させることにしました。ラウレッタは、うれしそうに話しだしました。
みめうるわしい淑女のみなさん、先にはフィロメーナが、ただ今はパンピネアが、わたくしたちのとるに足らない価値や、機知に富んだことばの美しさについて、正鵠《まと》を射《い》たお話をなされました。ですから、そのことについてはまたお話を繰り返す必要はございませんが、警句について今までお話にでたこと以外に、わたくしは、警句の性質というものは、羊がかみつくように聴者《ききて》をかむべきものであり、もし警句が犬のようにかみつけば、警句ではなく罵詈《ばり》になってしまうから、犬がかみつくようなものではいけないと思います。警句の性質とはそういったものであることを、みなさまに思いだしていただきたいのでございます。
オレッタ夫人のことばや、チスティの返答は、そうしたことを非常にうまくやりとげました。ほんとうのところ、警句が返答に用いられる場合に、返答をする者が、初めに犬にでもかみつかれたようなやり方をされれば、犬のようにかみついたとしても、非難すべきものではないでしょうし、それゆえに、どんなふうに、いつ、だれに向かって、また同様にどこで、機知に富んだ警句を言ったらよろしいのか、注意しなければなりません。かつて、わたくしたちの高位聖職者がそんなことをあまり注意しなかったため、自分があたえたのと同じような辛辣《しんらつ》なことばをうけました。そのことをわたくしは、短いお話でみなさまにご披露《ひろう》いたしたいと存じます。
偉い聡明な高位聖職者のアントニオ・ドルソ氏がフィレンツェの司教であった時に、ロベルト王の元帥、デーゴ・デッラ・ラッタ氏というカタローニャの貴族がフィレンツェにまいりました。この者は、常に容姿も美しく、ひととおりでない大の漁色家でしたが、フィレンツェの婦人の中で、とくに一人、たいへんな美人で、前述の司教の弟の姪にあたる婦人が気に入ってしまいました。で、元帥は、彼女の夫が、いい家庭の出であるにもかかわらず貪欲で、悪い男であると聞いておりましたので、自分に一夜その細君と寝させてくれれば、金貨五百フィオリーノをあたえることにしようとの約束で、彼と話をまとめました。そこで、当時使われていた銀貨のポポリーノ貨(ごく僅少な値打ちの貨幣)を金めっきさせておいて、細君はいやがりましたが、これと一緒に寝たうえ、その金を夫にあたえました。やがてそのことが一般に知れわたりましたので、その悪い男は、損をしたうえ、もの笑いとなりました。司教は、聡明な方でございましたから、そんなことはなにも耳に入れていないようなふうを装っておりました。そんなわけで、司教と元帥はたがいに頻繁に往来しておりましたが、聖ジョヴァンニの日(六月二十四日)のこと、二人が並んで馬を駈けさせながら、パリオの競走(馬や馬車の競走)が行なわれている通りを往く女たちを見ているうちに、司教は、一人の若い婦人――この婦人は、現在蔓延しているペストで命を奪われましたが、アレッシオ・リヌッチ氏の従妹で、その名前をノンナ・デ・プルチ夫人と申しました。みなさまもきっとこの方のことは御存じにちがいありません。彼女は、当時、みずみずしい、みめ麗しい、口の達者な、開け放しの気性の婦人でして、すこし以前に聖ピエトロ門の夫のところに嫁いできておりました――を目にとめて、それを元帥に示すと、やがて、婦人のそばに近よって行って、片手を元帥の肩にかけて言いました。
「ノンナさん、この方をどう思いますね? この方を征服することが、できるとお思いですか」
ノンナには、そうしたことばが、いくらか自分の貞潔を傷つけるように思われましたし、大勢いて、それを聞いている人々が、きっと自分を不貞な女のように思うだろうという気がいたしました。ですから彼女は、この汚辱をすすごうとは考えないで、しっぺ返しをしてやろうと思って、さっそく返答をいたしました。
「司教さま、たぶんこのお方は、わたくしを征服はなさらないでしょう。わたくしはほんもののお金《かね》がほしゅうございます」
そのことばを聞いて、元帥と司教は、一人は司教の弟の姪に不貞な行為をした本人であり、他の一人は、自分の弟の姪の身に辱しめをうけた者でしたので、どちらも同じように胸を突き刺される思いがして、たがいに顔を見合わせることもなく、恥ずかしそうに黙ったまま、そこを立ち去って、その日はもうなにも言いませんでした。こんなわけで、婦人は辛辣なことばでかみつかれていたので、そのあとで警句を吐いて他人にかみついても、なんの非難もうけませんでした。
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第四話
[#この行3字下げ]〈クルラード・ジャンフィリアッツィの料理人キキビオは、危機をのがれようとして当意即妙のことばを返して、クルラードの怒りを笑いに転じ、クルラードのために嚇《おど》しつけられた禍いをまぬがれる〉
もうラウレッタが黙りこんで、ノンナは一同からたいへんほめ讃えられました。その時、女王はネイフィレに向かって、話をつづけるようにと命じました。ネイフィレが話しました。
愛らしい淑女のみなさん、即座の機知は事件に応じてしばしば話者たちに、即妙で役に立つうまいことばを提供いたしますが、さらに運命[#「運命」に傍点]は、ときに臆病者たちの援助者でありまして、話者にとって心の落ちついているときには見つかりそうもないようなことばを、すぐさま彼らの舌頭におくものでございます。このことをわたしは、自分のお話でみなさまにお知らせしようと存じます。
クルラード・ジャンフィリアッツィは、あなた方のうちどなたもお聞きになったり、ごらんになっていらっしゃいますように、ずっとわたしたちの都市の鷹揚でりっぱな貴族の市民でございます。彼の偉大な功績については申しあげないことにいたしますが、騎士の生活を送っていて、たえず狩猟や、鷹狩りに興じておりました。ある日のこと、彼は、ペレートラの近所で、鷹を使って一羽の鶴を殺しましたが、見ると太っていて、若かったので、それを、キキビオという名前でヴェネツィア人だった自分の腕ききの料理人のところに持たしてやりました。それを、夕飯に食べられるように焼いて、うまく調理するようにと言いつけてでございます。見るからに一風変った間抜けな男だったキキビオは、鶴の羽をむしり、串にさしたうえ、それを火にかけて、入念に焼きはじめました。それがもうほとんど焼けあがって、とてもいい匂いがしてきた時に、ちょうどそのあたりの若い女が一人台所にはいってまいりました。それはブルネッタと呼ばれていて、この女にキキビオはぞっこん惚れこんでいたのでございます。で、女は鶴の匂いをかいで、それが目にはいると、甘ったるいことばで、その片方の腿《もも》を自分にくれないかと頼みました。キキビオは、歌うような調子で言いました。「あなたは[#「あなたは」に傍点]、それをわしからもらえませぬ[#「それをわしからもらえませぬ」に傍点]、ブルネッタの奥方よ[#「ブルネッタの奥方よ」に傍点]、あなたは[#「あなたは」に傍点]、それをわしからもらえませぬ[#「それをわしからもらえませぬ」に傍点]」
そこでブルネッタの奥方は怒って彼に言いました。
「神かけていっとくがね、もしお前さんがそれをわたしにくれないんなら、お前さんは、自分の好きなものを、わたしからもらえないだろうさ」
で、手短かにお話しすると、そのことばのやりとりはたいへんなものでございました。とうとうキキビオは、自分の女を怒らせまいとして、鶴の腿の片方をちぎりとると、それを彼女にあたえました。やがて、クルラードと何人かの客人の前に、その片腿のない鶴が出されましたので、クルラードはびっくりして、キキビオを呼び、鶴のもう一方の腿はどうしたのだとたずねました。嘘つきのヴェネツィア人は彼に向かって、すぐに答えました。
「旦那さま、鶴には一つの腿と一本の脚しかございません」
するとクルラードが怒って言いました。
「なんだって、一つの腿と一本の脚しかないって? この鶴のほかに、わしが鶴を一度も見たことがないっていうのか」
キキビオがつづけました。
「旦那さま、わたしが申しあげたとおりでございます。およろしかったら、わたしは、生きている鶴で、あなたさまにそのことをお目にかけましょう」
クルラードは、そこに招《よ》んでいた客人の手前、遠慮して、それ以上、多くをしゃべろうとはいたしませんでした。でもこう言いました。
「わしがいまだかつて、どんなものか見たことがない、話しに聞いたこともないものを、お前はわしに、生きているもので見せてくれるというんだね。よろしい、わしはそいつを明日見たいね。そしたら満足がいくだろうよ。だが、キリストの御体に誓っていうが、もしお前のいうのと違っていたら、お前をひどい目にあわせて、お前が生きているあいだじゅう、いつもその損傷《あと》を見て、わしの名前を思い出すようにしてくれるぞ」
さて、その晩は、それで話は終わりましたが、翌朝、日がのぼると、一夜眠っても憤慨が消えていなかったクルラードは、まだぷりぷりふくれていて、起きあがると、馬をひけと命じました。そしてキキビオを駄馬に乗せてから、岸辺にはいつも夜明け頃に鶴が見られるという大きな早瀬のほうに連れていきながら言いました。
「わしか、お前か、だれが昨晩嘘をいったか、じきにわかるよ」
キキビオは、クルラードの憤怒がつづいているし、どうしても自分の嘘の証しを立てなければならないのを見てとって、どうしてその証しを立てたらいいのかわかりませんので、このうえもない恐怖にふるえながら、クルラードのあとから馬を走らせておりました。もしできたら、いっそ逃げてしまいたいと思っていたことでしょう。でも、それもできませんので、前を見たり、後ろを見たり、わきを見たりしておりました。そして、目にはいるものはなんでも、二本足で立っている鶴ではないかと思いました。
しかし、もう二人は河のそばについておりまして、河岸にいたゆうに十二羽の鶴がだれよりも先に彼の目にはいりました。その鶴は、どれもこれも眠る時によくするように、片足で立っておりました。そこで、彼はさっそくクルラードにそれを示して言いました。
「旦那さま、あなたさまが、もしあそこにいる鶴をごらんになりますれば、わたしが昨晩ほんとうのことを申しあげたことが、鶴には一つの腿と、一本の脚しかないことが実によくおわかりになられることでしょう!」
クルラードは鶴を見て言いました。
「待っていろ、わしが、鶴にはそれが二つあるところをお前に見せてやるから!」
で、いくらか鶴に近づいて行って「おほ[#「おほ」に傍点]! おほ[#「おほ」に傍点]!」と大声を立てました。その叫び声に、鶴はもう一方の足をおろすと、数歩あるいてから逃げだしました。そこでクルラードはキキビオのほうを向いて言いました。
「どうだい、悪党め! 二つあるように思わないかね?」
キキビオは胆《きも》もつぶれるばかりで、頭がぼっとして、なにを言っていいのかわからずに、答えました。
「そうですよ、旦那さま。でも、あなたさまは、昨晩の鶴には、おほ[#「おほ」に傍点]、おほ[#「おほ」に傍点]と大声でおっしゃいませんでした。ですから、もしそんなふうに大声でおっしゃいましたら、かの鶴はこの鶴どもがやったように、もう片方の腿と、もう一本の足を外にだしていたことでございましょう」
クルラードには、この返答がたいへん気に入りましたので、その憤怒はすっかり、上機嫌と笑いにかわってしまいました。彼は言いました。
「キキビオ、お前のいうとおりだ。そうすりゃよかったよ!」
こんなふうにしてキキビオは、その当意即妙の、頓知めいた返答で、その禍いをのがれて、主人との間も無事におさまりました。
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第五話
[#この行3字下げ]〈フォレーゼ・ダ・ラバッタ氏と画家ジョット氏は、ムジエッロからくる途中、たがいに相手の醜悪きわまる容貌をひやかしながらやりあう〉
ネイフィレが黙って、淑女たちがキキビオの返答に大喜びをしたあとで、パンフィロは、女王の望みによって、お話をしました。
心から愛する淑女のみなさん、ほんの今しがたパンピネアによって示されたとおり、ときに運命が価値のすこぶる大きな宝の数々を、いやしい職業に従っている人々の中にかくしているように、またすばらしい才能の数々が、自然によって、人々の実に醜い形の中におかれていることがわかります。そのことは、わたしがこれからみなさんに簡単にお話ししようと思っている二人の同市民の中に、よくあらわれております。つまり、その一人は、フォレステ(フォレーゼ)・ダ・ラバッタと呼ばれる、体が小さくて醜悪で、顔は平たく押し潰されていて、バロンチ家の人々(醜い顔をもって有名だった)の中の一番醜い者でも、彼とくらべたら美男だろうと思われるくらいでした。しかし法律についてはなかなか造詣が深くて、多くのりっぱな人々から、民法の生き字引(戸棚)と評判されていました。もう一人はその名をジョット(フィレンツェの生んだ偉大な画家)といって、非常にすぐれた才能を持っていましたので、万物の生みの母であり支配者である自然が、天の不断の運行をもって創りだしているもので、彼が描かないものは一つもないほどでありました。尖筆《せんぴつ》や、鵞筆《ペン》や、あるいは画刷毛を使って本物そっくりに、いやそっくりではなくて、むしろ本物と思われるように、描きました。そのために、多くの場合、彼が描いたものを見ると、人間の視覚の方が誤りを犯して、描かれているものを本物だと思いこんでしまうのです。
ですから彼は、賢明な人々の知恵をよろこばせるよりも、無知な人々の目をたのしませるために絵を描いている一部の画家たちの誤りのもとに、何世紀もの長いあいだ埋もれていたその芸術をふたたび光の中に返したのですから、フィレンツェの栄誉の光明の一つとされたのも当然でしょう。それにこの点については、他の連中の師でありながら、いつも師と呼ばれることを拒んで、非常に謙遜しながらもその栄誉をえただけに、なおさらそう言えるのです。彼が拒否したこの肩書は、彼に劣った連中や、彼の弟子たちによって、がつがつと貪るように奪いとられただけに、それだけ強く、彼は輝きを見せていました。けれども、彼の芸術は非常に偉大ではありましたが、だからといって、彼は、体格でも風貌でもフォレーゼ氏よりちっとも美しくはありませんでした。では、もとのお話に戻りまして、申しあげます。
フォレーゼ氏とジョットは、ムジェッロに、土地を持っていました。フォレーゼ氏は、ちょうど夏季で裁判所が休暇になっているので、自分の土地を見に行って、たまたま賃借りの貧弱な駄馬に乗って帰る途中、これも同じく自分の土地を見て、フィレンツェに帰って行く前述のジョットに会いました。ジョットは、馬でも着物でも、少しもフォレーゼよりりっぱではありませんでした。二人は年寄りでしたので、ゆっくりした歩調をとって、つれだって行きました。ところが、夏にはよくそうしたことがおこりますが、にわか雨に襲われたのです。二人はできるだけ急いで、どちらにとっても友人で、知人にあたるある百姓の家に逃げこみました。でも、しばらくたっても、雨がいっこうに止みそうな様子も見せませんでしたし、二人は、その日のうちにフィレンツェに戻りたいと思っていましたので、百姓からロマーニャ風の無色の羊毛の厚布でつくった古い半外套を二着と、古ぼけてすっかりすり切れている帽子を二つ、――それよりいいのはなかったので――借り受けて出かけました。
さて、二人がいくらか進んでからたがいに相手を見ると、どちらもびしょ濡れで、駄馬が足でめちゃくちゃにはね[#「はね」に傍点]とばす泥のはね[#「はね」に傍点]だらけ(そうしたことは、だれの目にも、尊敬を加えないものです)になっていましたが、天気もいくぶん晴れてきましたので、長いあいだ黙りこんで馬を進めていた二人は、話をかわしはじめました。で、フォレーゼ氏は馬を進めながら、たいへん上手な話者だったジョットの話を聞きながら、彼を横から頭からまたからだじゅうにわたって、よく見ますと、なにからなにまで汚れきって、みっともなくなっているのを見て、自分のことはちっとも考えないで、笑いだしました。そして言いました。
「ジョット、君に今まで一度も会ったことがないよその人が、われわれのほうに向かってやってきたとしたら、君を、実際に、世界で最もすぐれた画家だと思うと、考えるかい?」
ジョットは、彼に、すぐさま言い返しました。
「そりゃあね、その男が、あんたを見て、これは|ABC《アビチ》を知っているぞ、と思うようなら、その時には、君のいうとおりに、そうだろうと考えるね!」
フォレーゼはそれを聞いて、自分のやり口の間違っていたことを悟って、自分の売った品物に、相当するだけの金が支払われたのを知りました。
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第六話
[#この行3字下げ]〈ミケーレ・スカルツァは、ある青年たちに向かって、バロンチ家の人々が世界じゅうで、あるいはマレンマじゅうで、一番の貴族だということを証明して、賭けていた夕飯を頂く〉
淑女たちがジョットの当意即妙の返答をまだ笑っていたときに、女王はフィアンメッタに、あとをつづけるようにと命じました。フィアンメッタは、こう話しだしました。
おやさしい淑女のみなさん、おそらくみなさまには、パンフィロほどはご存じないバロンチ家の人々のことを、パンフィロによって思い出されましたが、そのことがわたくしの記憶に一つのお話を思いおこさせました。そのお話の中には、バロンチ家の人々がどんなに計り知れないほど高貴なものであるかが、わたくしたちの話題からはずれずに示されております。ですから、わたくしはそれをお話し申しあげたいと存じます。
そう以前のことではございませんが、わたくしたちの町に、ミケーレ・スカルツァという青年が住んでおりました。この青年は、ほかには類のないほどの気持ちのいい陽気な男でございまして、実に奇妙な馬鹿話を、よく知っておりました。そんなわけで、若いフィレンツェ人たちは、一緒に集まる時に、彼が仲間に加わるのをたいへんよろこびました。
さてある日、彼が何人かの人々とモント・ウーギにいた時のこと、みんなの間で、フィレンツェじゅうで一番の貴族と一番の旧家はだれだろうという論議が始まりました。みんなのうちで、ある連中は、それはウベルティ家の人々だと言い、他の連中は、ランベルティ家の人々だと言って、ある者はこれを、ある者は他をと、胸の中で贔屓《ひいき》にするままに申し立てました。スカルツァはみんなの言うことを聞いて、嘲り笑いだして言いました。
「よせ、よせ、何をいうんだ、大馬鹿だよ、諸君は。諸君は、そのいうところを知らず、なんだよ! あのフィレンツェのみならず、全世界の、もしくはマレンマじゅうの最高の貴族で、最古の旧家といったら、バロンチ家の人々だよ。このことでは、全部の哲学家や、わたしのように、バロンチ家の人々を知っている者は、だれでも同意見だ。で、諸君がほかの者たちのことを考えないように、いっておくが、それは聖マリア・マッジョーレの、諸君の隣人であるバロンチ家の人々だよ」
彼がほかのことを言うに違いないと期待していた青年たちは、これを聞くと、こぞって、彼を嘲弄して、言いました。
「君はわたしたちをからかっているんだね。まるでわたしたちが君のように、バロンチ家の人々を知らないとでもいうようにね」
スカルツァが申しました。
「神命に誓っていうが、からかってなんぞいないよ。それよりも、ほんとうのことをいっているんだ! で、もしだれかわたしと夕飯の賭《かけ》をして、賭に勝った者を、その人が好きで選ぶ仲間の者六人と一緒に、夕飯に招ぼうという者があったら、わたしはよろこんで賭けるよ。またそれ以上のことをしよう。すなわち、わたしは諸君がお望みになるどんな人の審判にも服するよ」
その人々の中で、ネーリ・マンニーニという者が言いました。
「わたしがこの夕飯の賭の相手をひきうけましょう!」
そこで二人は、自分たちがいた家に、ピエロ・ディ・フィオレンティーノを審判者として迎えることに意見が一致して、彼のところに行って、今までの一部始終を物語りました。ほかの者たちもみんな、スカルツァの負けるところを見て、嘲笑してやろうと思って、二人のあとからついて行ったのです。慎重な青年だったピエロは、最初にネーリの申し立てを聞いてから、つぎにスカルツァのほうを向いて言いました。
「で、君は自分で主張するそのことを、どう証明することができるんだね?」
スカルツァが申しました。
「どうだって? わたしは、君ばかりでなく、それを否定している者までが、わたしがほんとうのことをいっているというような論法で、それを証明しよう。諸君は、人間というものは古ければ古いほど、貴いということをご存じだね。この連中の間でも、今しがたまで、そういう話だった。バロンチ家の人々は、他のだれよりも古いんで、だから、だれよりも貴いんだ。それで、どうして彼らが、そんなに古いのかということを、諸君に証明すれば、もちろん論議はわたしの勝ちになるんだろうね。諸君は、バロンチ家の人々は、神さまが絵を習いはじめられた時代に、神さまから作られたのに、他の人間は、神さまが絵を描くことを覚えてから作られたことを、知らなければならないんだ。で、わたしがこの点でほんとうをいっているかどうかについては、バロンチ家の人々や、他の人間たちのことを考えてみたまえ。諸君が見ると、他の人間は全部よくととのった相応に調和のとれた顔をしているのに、バロンチ家の人々を見るとある者は非常に長くて細い顔をしており、ある者は箸にも棒にもかからない調子はずれの大きな顔をしているね。また、とても長い鼻をしている者がいるし、ある者は短い鼻をしている。ある者はあご[#「あご」に傍点]が突き出て、上にそっくり返っていて、そのあご[#「あご」に傍点]の骨は驢馬のそれのようだ。片方の眼が、もう片方の眼より大きい者がいるし、また片方の眼が、もう片方より下がっている者がいる。それは、絵を描くことを習っているこどもたちが、よく最初に描く顔といったようなものだ。だからすでにわたしがいったように、神さまが絵を描くのを習い始められた時に、彼らをお作りになったことは、かなりよく現れているね。だから、彼らは他の者たちよりも古く、したがって貴いんだよ」
そのことを、審判者だったピエロや、夕飯を賭けていたネーリや、その他すべての者たちは思いだし、スカルツァの愉快な申し立てを聞いて、みんな笑いだすと、スカルツァの言うとおりだ、彼が夕飯の賭に勝った、それから確かにバロンチ家の人々は、フィレンツェだけではなく、世界じゅうで、あるいはマレンマじゅうで一番の貴族で、一番の旧家の人々だと断言しました。
ですから、パンフィロが、フォレーゼ氏の顔の醜さを示そうとして、バロンチ家の者のほうが美男だとおっしゃったのはあたっております。
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第七話
[#この行3字下げ]〈フィリッパ夫人は、その恋人といるところを夫に発見されて、法廷に呼ばれ、即座に、胸のすくような返答をして、刑をまぬがれ、法律を改修させる〉
すでにフィアンメッタは沈黙して、めいめいがまだ、バロンチ家の人々をだれよりも高貴にするために、スカルツァが用いた新しい話題を笑っていた時に、女王はフィロストラートに、お話をするようにと命令しました。そこで、彼が話しだしました。
いともすぐれた淑女のみなさん、お話の上手なことは、とにかくどんな場合でも結構なことですが、巧みに話すことが必要な時に、ちょうどそれができるのは、たいへんいいことだと思います。わたしが、みなさんにお話ししようという貴婦人は、それを見事にやることができて、これからみなさんがお聞きになりますように、聞いている人々を陽気にし、笑わせたばかりではなく、恥かしい死の係蹄《わな》からまぬがれることができました。
かつてプラートの町に、実際、峻厳苛酷で、非難に価するある法律がありました。この法律は、だれか恋人と姦通しているところを夫に発見された女は、相手かまわず金のために男と一緒にいるところを発見された女と同じように、なんの区別もしないで、火あぶりの刑に処せられるようにと、命じておりました。この法律が行なわれていた頃のことです。ある夜のこと、その名をフィリッパ夫人という、とても綺麗で、だれよりも多情な貴婦人が、その寝室で、自分の命よりも愛していた、その町の若い、美男の貴族ラッザリーノ・デ・グァッツァリオトリの腕に抱かれているところを、夫のリナルド・デ・プリエージに発見されてしまいました。リナルドはそのさまを見て、かんかんに怒って、もう少しで二人にとびかかって、殺してしまうところを、じっとこらえました。自分の命が心配でさえなかったら、怒りのたぎりたつままに、そうしていたことでしょう。だから、そのことだけは思いとどまりましたが、自分がすることの許されていないことを、すなわち、自分の妻を死にいたらしめることを、プラートの法律の力でやりとげようとする欲望を抑えることはできませんでした。
そこで、妻の過失を証明するかなり都合のいい証拠を手に入れて、夜が明けると、だれとも相談をしないで、妻を訴えて、法廷に召喚させました。ほんとうに恋をしている女たちが普通そうであるように、気性の勝っていたその夫人は、多くの友人や親戚から、やめるようにと忠告されましたけれども、逃亡して法廷に出頭しないで、亡命のうちにみじめな生活を送って、昨夜自分が抱かれていたようなあの恋人にふさわしい値打ちが自分にないことを示すよりは、法廷に出頭して事実を白状し、いっそのこと潔《いさぎよ》く死のうと、すっかり心にきめていました。で、かなり多くの男女の人々にともなわれ、みんなから否定するようにと元気をつけられて、長官の前にまいりますと顔色もかえず、しっかりした顔つきで、自分にお訊ねになることは何だと聞きました。
長官は、夫人をつくづく眺めて、彼女がたいへんな美人で、そのものごしもまことに賞讃に価し、そのことばつきが示すところでも毅然《きぜん》とした心の持ち主であることを知りまして、彼女がかわいそうに思えだし、もし自分の名誉を傷つけまいとすれば、これを死刑に処さねばならないようなことを白状しはしないかと心配しました。それでも、自分に課せられた事件について、訊問をやめるわけにはいきませんでしたので、彼女に言いました。
「夫人よ、ごらんのとおり、ここにあなたの御主人のリナルドがいらして、あなたの不平を申しておられます。御主人は、あなたがほかの男と道ならぬことをしているところを見つけたとおっしゃって、当地に在《あ》る法律が規定しているとおりに、それについてあなたを罰して、その命を奪ってくれと本官に要求なさっています。しかし、本官は、あなたがその事実を白状しなければ、そうすることはできません。だから、ご自分の答えることをよくお考えになるんですな。そして、あなたの御主人があなたを訴えておられる事件は事実かどうか、本官に申し立てなさい」
夫人はすこしも驚いた様子もなく、とても美しい声で答えました。
「長官さま、リナルドがわたくしの夫であることや、昨夜わたくしがラッザリーノに抱かれているのを、あの人が見つけたことは真実でございます。わたくしは、自分がラッザリーノによせているやさしい偽りのない愛情をもやして、その腕の中になんども抱かれてまいりましたが、そのことも否定するつもりはございません。しかし、わたくしは、あなたさまはご存じだと固く信じておりますが、法律というものは万人に平等であって、それに適用される人々の同意のもとに作られなければなりません。この法律についてはそうしたことが行なわれていないのです。なぜなら、この法律は、男よりもずっと大勢の人たちをよく満足させることができる婦人たちだけを、かわいそうに束縛しているからでございます。そればかりではなく、この法律ができたときは、婦人はだれも同意しなかったばかりでなく、だれ一人として同意を求められたものすらございませんでした。そんな次第ですから、この法律は当然悪法だと申すことができます。もしあなたさまが、わたくしの肉体や、あなたさまの魂をそこなって、この法律の施行者になりたいと思し召すなら、それはご自由でございます。しかし、何か審判をお下しになる前に、ほんのちょっとしたお慈悲をお恵み下さいますよう、つまり、わたくしの夫に向かって、わたくしが夫の好きな時はいつでも、何回でも、決していやだとは申さずに、この体のすみずみまでも、あの人の気のすむようにまかせたかどうか、どうぞお聞きになって下さいますよう、お願い申しあげます」
それについて、リナルドは、長官がたずねるのを待たずに、むろん妻は、自分が要求するたびに、身をもってあらゆる快楽をみたしてくれたと、即座に答えました。
「そこで」とすぐに夫人がつづけました。「あなたさまにお訊ねいたしますが、長官さま、もしあの人がいつもわたくしから自分に必要で気に入ったものをとっていたといたしましたら、わたくしは、あの人の残したものを、どうしなければならなかったのでしょうか。犬どもにくれてやらなければならないのでしょうか。それを失くなるにまかせたり、いたずらに腐らしてしまうよりは、わたくしを自分の命よりも愛してくれる一人の貴族にさしあげるほうが、ずっとよろしくはないでしょうか」
法廷には、たいへん有名な夫人のこうした訊問を聞きに、ほとんどプラートの町じゅうの人々が来ておりました。みんなはこの愉快な質問を聞いて、すぐに、どっと大笑いをしたあとで、ほとんど異口同音《いくどうおん》に、夫人の言うとおりだ、よくぞ言ったと、一斉に叫びました。そして、一同はそこから立ち去る前に、長官の勧《すす》めもあって、その残忍な法律を改修して、それは金のために自分たちの夫にたいして非行《ひこう》を犯すような婦人のためだけに適用するものとする、としておきました。そんなわけで、リナルドは、こうした気違いじみた計画の失敗に狼狽して、法廷を立ち去りました。夫人は、まるで火あぶりの刑から生き返ったように、嬉しそうに、はればれした様子で、意気揚々と家に帰って行きました。
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第八話
[#この行3字下げ]〈フレスコは、姪に向かって、もし彼女が言うように、不快な人々を見るのがいやだったら、鏡に自分をうつして見るなと勧める〉
フィロストラートが物語ったお話は、はじめ聞いている淑女たちの心にちくりと恥ずかしい思いをいくらか突き刺し、その証拠《しるし》を一同は、その顔にあらわれた貞潔な紅の色で示しました。やがてみんなは、たがいに顔を見合わせて、吹きだすのをやっとこらえながら、にやにや冷笑を浮かべて、お話に聞き入っておりました。でも、フィロストラートがそのお話をおえたあとで、女王はエミリアのほうを振り返って、あとをつづけるようにと命じました。エミリアは、まるで眠りからさめたように、ふうっと息を吐きだしながら、はじめました。
美しいみなさま、わたくしはしばらくのあいだ、すっかりほかのことを考えておりまして、心ここにあらずといった有様でございました。ですから、わたくしたちの女王のおことばに従うために、もしわたくしが心をここにおいておりましたならば、たぶんいたさないような、ごく小さなお話、ある若い婦人の愚かな誤り――この誤りは、その伯父によって、愉快な警句で矯正されていたはずなのでございますよ。もしも婦人にその警句を理解できる程度の頭がございましたらね――をみなさまに物語って、責《せめ》をはたすことにいたしましょう。
さて、フレスコ・ダ・チェラティコという人に、愛称的にチェスカと呼ばれていた一人の姪がございました。この娘は、姿も顔も綺麗ではありましたが(でも、今までになんどもよく見かける、あの天使のような容姿に属するものではございません)、自分を非常に高貴なもののように思っていたので、自分自身のことはてんで考えおよばないで、男や女や、目にはいるものはなんでも、悪口を言うのがくせになっておりました。彼女は、だれよりも不愉快で、気むずかしくて、怒りっぽかったので、何をしようと、彼女の気に入るようなことはできませんでした。こうしたすべてのことのほかに、なかなか気位が高くて、たとえフランスの王族のお姫さまだったとしても、高すぎたことでございましょう。彼女は道を行くときには、見るものに激しい不快を感じて、まるで自分が見たり、出会ったりしたどんな人からでも、悪臭が襲ってでもくるかのように、ただもう一途に顔をしかめるだけでございました。
さて、ほかにもたくさんある彼女の不愉快で、いやな態度は放っておくといたしまして、ある日のこと、彼女は、家に帰ってきて、フレスコがそこにおりましたので、さもけだるそうに、フレスコの隣に腰をおろすと、ただもう、ふくれっ面でふうふう息を吐いておりました。そこで、フレスコが訊ねました。
「チェスカ、どうしたっていうんだい、今日はお祭りなのに、こんなに早く家に戻ってきて?」
彼女は、気持ちの悪くなるようなしな[#「しな」に傍点]をつくって、伯父に答えました。
「わたくし、ほんとうに早く切りあげて帰ってきましたのよ。今日くらい、この町に、不愉快でいやな男女がいたことはないと思うんですもの。まるで不運にとりつかれたように、わたくしの気にいるような人は一人として、道を通っていないんです。それにこの世に、わたくしくらい不愉快な人たちを見るのをいやがるものは、一人もいないと思っております。それで、そんな人たちを見まいとして、こんなに早く帰宅したのでございます」
フレスコは、姪の嘔吐《へど》のでるような態度をとても不愉快に思いましたので、彼女に向かって言いました。
「娘や、お前がいうように、そんなに不愉快な人々が気にいらないならば、お前がたのしい日を送るためには、もう決して自分の姿を鏡にうつして見てはいけないよ!」
しかし、葦《あし》よりも空っぽのくせに、賢さではソロモン王と比肩できるつもりでいた彼女は、フレスコの真実のこもった警句を牡羊が理解する程度しか理解しなかったのでございます。むしろ彼女は、ほかの女たちと同じように、鏡に自分をうつして見るつもりだと申しました。こうして彼女は、みずからの無知の境にとどまったままで、今なおそこにいるのでございます。
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第九話
[#この行3字下げ]〈グイド・カヴァルカンティは、ふいに自分をつかまえたフィレンツェのさる騎士たちに、警句で、慇懃《いんぎん》に悪口を言う〉
女王は、エリミアがその話から放免されて、最後に話をする特権を持っている者を除いて、話をするのは自分しか残っていないことを知って、こう話しはじめました。
やさしい淑女のみなさん、今日は、わたくしがどれか一つお話ししなければと考えていたお話を二つ以上も、みなさまにとられてしまいましたけれども、それでもまだわたくしにはお話しするのが一つだけ残っておりまして、このお話の結論には、たぶんこれほど意味深長なものは、まだほかのお話にでてきていないような、そうした警句がふくまれております。
さてみなさまにご承知おきいただきたいのは、その昔、わたくしたちの町には、たいへん美しい、賞讃に価する習慣がございましたことで、その習慣も、この町に富とともに増大していった貪欲のために、――その貪欲が習慣をことごとく追い払ってしまったので――今日ではなに一つ残っておりません。そうした習慣の一つに、フィレンツェのいろいろな場所で、その界隈の貴族たちが一緒に集まりまして、一定数の団体を作って、楽々と費用を出せるような人たちをそれにくわえるように意を用いて、今日はだれ、明日はだれといった具合に、みんなが順を追って、てんでにその日には、全団員を宴会に招待する、といったのがございました。で、その宴会では、しばしばフィレンツェを訪問中のよその貴族たちや、さらにはフィレンツェの市民たちを饗応いたしました。また一年に少なくとも一回は、みんなで同じような服装をして、最大の記念祝日などには、うち揃って町を騎馬で練り廻しました。そして、時には槍試合や野試合を行ないましたが、とくに大祭日や、あるいはまた勝利とか、その他の吉報が町にもたらされた時などには、そうしたことが行なわれました。そのような団体の中に、ベット・ブルネッレスキ氏(ギベッリーノ党の富裕な家族で、最も熱烈な黒派に属し、一三一一年に殺害された)の団体がありまして、ベットやその仲間の人たちは、八方手をつくして、カヴァルカンテ・デ・カヴァルカンティ氏の息子のグイド(清新体派の詩人で、ダンテ第一の親友、一三〇〇年に死んだ)を、その団体に引き入れようとしておりました。それは理由のないことではございませんでした。と申しますのは、彼は世界じゅうで最良の理論家の一人で、非常にすぐれた自然哲学者だったというほかに(こんなことを団体は大して問題にしていなかった)、非常に上品で、挙措もすぐれ、たいへん弁舌のさわやかな人でして、自分で行なおうと思ったことで、貴族の身分にふさわしいことはなんでも、だれよりも上手にやりとげることができましたし、そればかりでなく、大金持ちでしたので、心の中でそれだけの値打ちがあると思った人たちを、最高度に歓待することができたからでございました。しかし、ベット氏はどうしても彼を引き入れることができませんでした。で、彼は、その仲間たちと一緒に、そうしたことのおこる理由は、グイドが思索にふけって、ときどき世間と没交渉になるからだと思いこみました。そして、グイドはいくらかエピキュリアン派の人々の思想を持っていましたので、一般の人々のあいだでは、彼のこのような思索は、神が存在しないことを発見できるかどうかを、ただ探究するだけなのだ、と評判になっておりました。
さて、ある日のことでした。グイドはオルト・サン・ミケーレを出発して、しばしば彼の散歩道だったアディマーリ通りを通って、聖ジョヴァンニまでまいりました。聖ジョヴァンニの周りには、(今日では聖レパラータにある)大理石の大きな墓や、その他多くの墓がありました。彼は、そこにあるいくつもの雲斑岩の円柱や、それらの墓や、閉まっていた聖ジョヴァンニの門のあいだにおりました。ベット氏は、その団体の連中と一緒に、馬で、聖レパラータの広場にやってまいりまして、グイドがそれらの墳墓の間にいるのを見て、言いました。
「行って、からかってやろう!」
で、馬に拍車をくれると、たのしい襲撃をするような恰好で、まるで彼が気がつかないうちに、そのそばに近よって、話しかけました。
「グイド、君はわたしたちの団体の者になるのを拒んでいるね。だが、いいかね、君が神は存在しないということを発見したときに、何をしとげたといえるんだね?」
グイドは、自分がみんなに取り囲まれているのを見て、すぐに言いました。
「みなさん、あなた方は、ご自分の家では、わたしに向かって、お好きなことをおっしゃれますね!」
そして、大きな墓の一つに片手をかけると、とてもからだの軽い人だったから、ぱっとひと跳びして、向こう側に身を投げると、一同からのがれて、立ち去りました。
連中はみんなそこに立ちつくしたまま、顔を見合わせておりましたが、彼は頭がどうかしているんだ、彼の答えたことはなんの意味も持っていないんだ、だって、自分たちのいるこの場所では、自分たちはほかのすべての市民たちと同じように何らの権利もないんだし、グイドだって自分たちのだれとも異なってはいないのだ、と言いはじめました。ベット氏はみんなのほうを向いて言いました。
「もし諸君が彼のいうことを理解できなかったのなら、頭がどうかしているのは諸君のほうだ。彼は慇懃《いんぎん》にわずかなことばで、この世で最大の悪口を、わたしたちに投げつけたんだ。なぜなら、もし諸君がよく眼をひらいて見るならば、これらの墓は死人の家なんだからね。なぜならその中には死人が入れられて住んでいるんだもの。それを彼はわたしたちの家だといって、わたしたちや、その他の愚か者や、無学者たちは、彼やその他の学者たちとくらべると、死んだ人間にも劣るということを、わたしたちに示したんだよ。だから、わたしたちは、ここにいると、自分たちの家にいることになるんだよ」
そこで、めいめいは、グイドが言おうとしたことを理解して、恥ずかしく思いました。みんなはもう彼をからかいませんでした。そして、それからは、ベット氏を、鋭敏で賢明な騎士であると認めました。
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第十話
[#この行3字下げ]〈修道士チポッラは、百姓たちに向かって、彼らに天使ガブリエッロの羽を見せると約束する。その羽の場所に炭を発見して、それは聖ロレンツォを焼いた炭の一部だと言う〉
仲間の一人一人がその話をすませましたので、ディオネーオは話をしなければならない番が自分に廻ってきたことを知りました。そこで、厳かな命令をあまり待ちもしないで、グイドの辛辣な警句をほめ讃えている人々に沈黙を命じて、切りだしました。
かわいらしい淑女方よ、わたしは特権として、自分の一番気にいったことをお話しできることになってはおりますが、今日は、あなた方全部がたいへん上手にお話しになったその主題から離れようとは考えておりません。で、あなた方の足跡を追って、みなさんに、聖アントニオの修道士の一人が、二人の若者たちによって仕組まれていた侮辱を、とっさの機転で、いかに用心深くのがれたかを、お話ししようと考えております。まだ太陽が中天にあるのをごらんになったら、わたしが、このお話を手を抜かずに十分お話しするために、多少お話をひろげましても、あなた方のご機嫌をそこなうことはないでしょう。
チェルタルドは、おそらくあなた方にはお聞きおよびのことでしょうが、わたしたちの
都市の郊外にあるヴァル・デ・エルサの田舎町です。それは小さいけれども、かつて貴族や富裕な方々が住んでいました。その田舎町へ、そこはいい牧場だと思われていたので、聖アントニオ修道士団の一人で、チポッラ修道士という名前の者が、長年来、一年に一度は欠かさずに、そこの馬鹿者たちから自分たちに寄進される布施を集めに行くのを例としておりました。この修道士は、この土地が全トスカーナじゅうに有名な玉葱《チポツラ》の産地でしたので、他の理由もありましたが、ひときわその名前のために、そこではたいへん尊敬され歓迎されていました。この修道士チポッラは小柄で、赤毛で、にこにこ笑顔の、世にもまれな愉快な男でした。そればかりではなく、なにも学問はありませんでしたが、すばらしい、当意即妙の話し上手でしたので、彼をよく知らなかった者は、これは大演説家だと尊敬したばかりではなく、トゥリオ(キケロのこと)その者か、あるいはクィンティリアーノであると言ったことでしょう。まるで彼は、そのかいわいの人々全部の教父か友人、あるいは恩恵者でありました。
彼は、いつものしきたりに従って、今までなんどもきましたが、八月に一度そこにやってまいりました。で、ある日曜の朝、まわりの村々の善男善女がみんな大教会のミサに集まりましたので、頃合いをみはからって、前へ進みでると申しました。
「紳士淑女のみなさん、あなた方もご承知のとおり、あなた方の習慣は、慈悲深いアントニオさまが、あなた方の牛や驢馬や豚や羊をお守り下さるようにと願って、毎年聖アントニオ男爵の貧者(修道士)たちに、あなた方の能力と信仰に従って、ある者は少なく、ある者はたくさんに、小麦や穀類を寄進することでございます。そのほかにもあなた方は、とくに、わたくしたちの宗団に籍をおかれる方々は、年に一度払いこまれるあのわずかな団費をいつもお納めになられます。これらのものを集めるために、わたくしは、自分の上役から、すなわち修道院長さまから派遣されてまいりました。ですから、午後の三時過ぎ、鈴が鳴るのをお聞きになりましたら、神さまの御祝福をうけながら、ここの教会の外までおいで下さい。そこでわたくしは、いつもするように説教をいたしましょう。そしてみなさんは十字架に接吻をなさって下さい。そればかりでなく、わたくしはあなた方全部が男爵の聖アントニオ氏をたいへん崇拝していらっしゃることを知っておりますので、とくに好意をみせて、あなた方に、わたしがみずから、その昔、海のかなたの聖地から持ち帰りました、いともあらたかでりっぱな御遺物をお目にかけましょう。これは天使ガブリエッロの羽の一枚でして、天使がナザレで処女マリアさまに告示にまいられました時に、そのお部屋に残っていたものでございます」
で、こう言うと、修道士は黙りこんで、またミサにかかりました。
修道士チポッラはこんなことを話しているときに、教会の中に、他の大勢の人々にまじって、一人はジョヴァンニ・デル・ブラゴニエーラ、他の一人はビアジョ・ピッツィーニと呼ばれていた二人のとてもずる賢い青年がおりました。二人は、ちょっとの間、修道士チポッラの遺物のことを胸の中で笑っていましたが、その後で、修道士とは大の仲良しで、修道士の交際仲間だったくせに、この羽のことで、修道士にひと泡吹かせてやろうと決心しました。で、二人は、修道士チポッラがその朝、田舎町で一人の友人と一緒に食事することを知っていましたので、彼が食卓についていると聞いて、すぐさま通りに下りて、修道士が逗留していた宿屋にまいりました。ビアジョが修道士チポッラの従者と話しこんで、ジョヴァンニが修道士の持ち物の中からこの羽を、どんなものであろうとかまわないから探しだして、とりあげてしまい、修道士がそのあとで、このことをどんなふうに人々に話すか、二人で見てやろうという計画だったのです。
修道士チポッラには一人の従者がありまして、ある連中はこれをグッチョ・バレーナ(鯨のグッチョ)と呼び、ある連中はグッチョ・インブラッタ(汚いグッチョ)と呼び、またある者はグッチョ・ポルコ(豚のグッチョ)と呼んでいました。この男はなんら取り柄のないひどい左巻きでして、漫画家のリッポ・トーポですら、こんなのはいまだかつて描いたことがないというほどでした。この男について、修道士チポッラは仲間の者たちを相手によく冗談をいうのが常でした。「わたしの従者ときたら、その一つがどれでもいい、サロモーネとか、アリストーティレとか、セネカにあったら、それだけでこの人たちのあらゆる善徳や、あらゆる知性や、あらゆる聖性を打ち壊してしまうような性質を九つも身につけているんだよ。だから、そんなものを九つも持っていて、なに一つ善徳も、知性も、聖性もないなんて男が、どんな男だか考えてごらんよ!」そして、ときどき、この九つのものはどんなものかと訊ねられると、彼はそれに韻をつけて、答えるのでした。「それはこうなんだよ。遅鈍《タルド》で、汚穢《スリアルド》で、|嘘つき《プジアルド》。怠惰《ネグリジエンテ》で、不従順《デイズツビデイエンテ》で、悪口屋《マルデイチエンテ》。|なげやり《トラスクラート》で、|忘れん坊《スメモラート》で、|がさつ者《スコストウマート》。ここにあげないが、このほかにもまだ、黙っていたほうがいい欠点が別にいくつかあるんだ。で、彼のことでとても噴飯にたえないのは、彼がどこへ行っても妻をもらって、家を借りたがることなんだよ。でかい、真っ黒な、よごれきった髯《ひげ》を生やしているくせに、自分は美男で、人に好かれていると思っているらしく、自分をみる女は一人残らず、自分に惚れこんでしまうと考えているんだよ。勝手にさせておいたら、女という女のあとを追い回して、自分の衣服が脱げてなくなるのにも気のつかない馬鹿ぶりをやってみせるだろうね。あいつが、わたしにとってたいへん役に立ってくれることはほんとうだ。なぜって、だれかがあいつに聞かれないようにこっそりと私に話しかけても、いつもその一部を横から聞いてしまうし、またわたしが何かで意見を聞かれたりすると、あいつはわたしが答えられないのではないかとひどく心配してね、すぐに自分で、ちゃんとしかるべき判断を下して、いいとか悪いとか答えてくれるんだよ!」
修道士チポッラは、宿屋にこの従者を残しておいて、だれにも自分のものを、とくに背負い袋は、その中に聖物が入れてあるのだから、手をふれさせないように、よく用心しているようにと命じておきました。しかし、鶯が緑の枝にとまりたがる以上に、とくに女中でもいそうなにおいがしたらなおさらのこと、台所にいるのが好きだったグッチョ・インブラッタは、宿屋の台所に、脂肪肥りで、丸々として、からだが小さく、不恰好で、牛馬の糞を入れる二つの籠のように思われる一対の乳房をつけて、汗まみれで、てらてらに油じみてきたならしい、煤けた、醜さで有名なバロンチ家の人々の仲間のようにみえる顔をした女中を一人見つけました。すると猛禽が死んだ獣にとびかかって行くように、修道士チポッラの部屋や、その持ち物を全部ほうりっぱなしにして、そこに下りてまいりました。で、八月だというのに火のそばに腰をおろして、ヌータという名前のその女中と、話をかわしはじめて、自分は正真正銘の貴族で、他人にやらなければならなかったごくわずかな金は別として、九百万フィオリーノ以上の金貨を持っているし、なんでもすることができて、天主すらも知らざることを話すこともできるのだとしゃべりだしました。で、アルトパシオ修道院の慈善給食の大鍋のだし[#「だし」に傍点]が作れそうなほど油垢がたまっている彼の頭巾や、破れて、つぎはぎをし、頸《くび》のまわりや腋の下に垢がこびりついていて、韃靼《だつたん》や印度の布でも足もとによりつけないような多くの汚点《しみ》や色のついた胴衣や、こわれ放題の小さな靴や、ぼろぼろの靴下のことはおかまいなしに、彼は女中に向かって、まるでカスティリオーネの領主ででもあるかのように、自分はお前に着物を着せて、りっぱに飾り立て、他人に仕えるそんな惨めな境涯から救いだして、お前はなにも持っていないけれども、もっと明るい将来に希望が持てるようにしてあげたいのだと言いました。そのほかにもたくさんのことを、非常に愛情をこめてしゃべりたてましたが、みんなのれんに腕押し、ぬかに釘で、彼の計画の大部分がそうだったように、これまた徒労に帰しました。
さて二人の青年たちは、グッチョ・ポルコがヌータにまつわりついているのを発見しました。ですから、自分たちの骨折りが半減したのをよろこんで、だれにも邪魔をされないで、ちょうど開け放しになっていた修道士チポッラの部屋にはいりこみました。二人が最初に探しにかかったものは、羽がはいっていた背負い袋でありました。その背負い袋を開くと、薄琥珀《きぬ》に幾重にも包んであるごく小さな小箱が見つかりました。それを開けてみると、その中には鸚鵡《おうむ》の尻尾の羽が一枚はいっておりました。二人はそれこそ、修道士チポッラがチェルタルドの人々に見せると約束していたものにちがいないと思いました。確かに当時は、そうしたことを容易に信じこませることができました。エジプトの珍しい品々は、後にはおびただしく大量に渡来して、イタリアじゅうをひどい危機におとしいれましたが、当時はまだほんの一部しかトスカーナには渡っていなかったからです。で、そうした珍しい品々が、トスカーナのどこかで少しは知られておりましても、そのあたりの住民たちにほとんど知られておりませんでした。それよりもむしろ、まだ昔の人たちの素朴な正直な気持ちがつづいていて、みんなは鸚鵡など見たことがなかったばかりでなく、だいぶ前からそんな名前を聞いたこともありませんでした。さて青年たちは羽を見つけたので、よろこんでそれを手に入れると、小箱を空のままにしておきたくないので、部屋の片隅にあった石炭を見つけて、それを小箱につめました。そしてよく閉じてから、万事もとのとおりに整えておいて、うれしそうに羽を持ってそこを立ち去り、修道士チポッラが羽のかわりに石炭を見つけてどういうか、そのことをたのしみに待ちはじめました。
教会にいた無知でお人好しの人々の群れは、午後三時過ぎに天使ガブリエッロの羽を見られるはずだと聞いて、ミサがすむと家に帰りました。そして人々はそれぞれ近所の人に話し伝えて、一同は食事がすむと、それはそれは大勢の人々が、教会の前の広場にやっとはいれるくらいに押しかけて、その羽を見ようと、頸《くび》を長くして待ちかまえておりました。修道士チポッラは、十分に食事をしてから、そのあとでいくらか眠って、午後の三時を少しまわってから起きあがると、大勢の百姓たちが羽をぜひ拝観しようと集まっていると聞いて、グッチョ・インブラッタに、そこまで鈴と背負い袋を持ってくるようにと、人をやって命じました。グッチョはやっとのことでヌータと別れて台所をあとにしてから、命じられた品物を持って、そこへあがってきました。台所で水を飲んでいたので、うんとからだがふくれてしまい、はあはあ息を切らせながら、そこにやってくると、彼は修道士チポッラの命令で、教会の戸口のところまで行って、鈴をはげしく鳴らしだしました。人々が全部集まったので、修道士チポッラは、自分の持ち物に手がつけられたことなどにはてんで気がつかないまま説教をはじめ、うまく物事を運ぼうとして、いろいろとたくさんのことをしゃべりたてました。そして、天使ガブリエッロの羽を示さなければならない時になって、何よりも先に、厳かに告白の祈りを捧げて、二本の松明《たいまつ》に火をつけさせ、まず頭巾を脱いで、いとも鄭重に薄琥珀《きぬ》をひろげると、中から小箱をとりだしました。最初に、天使ガブリエッロと、その御遺物の讃美と称讃のことばを唱えてから小箱を開きました。見ると、中には石炭が一杯はいっていました。グッチョ・バレーナがそんなことのできるほどの者でないことはわかっていましたから彼がそれをやったとは疑いもせず、また、他の者たちがそんなことをしないようによく用心していなかったことを叱りもしませんでしたが、グッチョが怠け者で、不従順で、なげやりで、忘れん坊であることを知っていたのに、彼にその品物の番を頼んだ自分を、口には出さないが呪っておりました。しかし、それにもかかわらず、顔色ひとつかえないで顔をあげると両手を天にあげて、一同に聞こえるように申しました。
「おお神さまよ、とこしえに御身のお力の讃えられますように!」
それから小箱を閉じて、人々のほうに向いて言いました。
「紳士淑女のみなさん、あなた方にご承知おきいただきたいのでございますが、わたくしはまだ非常に若かった頃に、自分の修道院長から太陽ののぼる国々へ送られまして、明白な命令をもって、陶磁器の製法の秘訣を見つけるまで探るようにと託されました。その製法の秘訣を会得するには、なんの費用もいりませんでしたが、それは、わたくしたちよりも他の人々にとってずっと有益なのでございます。そんなわけで、わたくしは旅をはじめヴィネージャから出発しまして、ボルゴ・デ・グレーチに行き、そこからガルボの王国バルダッカを通ってパリオーネに到達しまして、そこから喉の乾きをおぼえながら、しばらくの後やっとサルディーニャにたどりつきました。でも、どうしてわたくしは、自分が旅行してきたあらゆる国々を、あなた方に述べ立てているのでしょうか。わたくしは、聖ジョルジョの支流を通って、大勢の人間の住んでいる、人口の多い国々であるトルッフィア(「詐偽の国」)やブッフィア(「愚弄の国」)にまいりました。で、そこから、メンツォーニャ(嘘言)の国に到着しました。そこでは、わたくしたち宗派の修道士たちや、他の宗派の修道士たちを大勢見かけましたが、彼らはみんな、自分たちの利益がつづきさえすれば、他人の迷惑などなんとも思わないで、神の愛の名においてなんとかして、不愉快なことを避け、のがれておりまして、その国々では、金は全部鋳造しないのを(つまり地金のままで)費っておりました。で、それから、わたくしはアブルッツィの地にまいりました。そこでは男たちや女たちが、木靴で山にのぼり、豚のソーセージを造っておりました。その少し先へ行くと、輪形のパンを棒にかけ、ぶどう酒を革袋に入れて運ぶ人々が目にはいりました。その人々のところからわたくしはバーキ(蚕)の山々にまいりましたが、そこからはあらゆる水流が麓に向かって流れているのです。じきにその中にはいりこみましたが、今度はインディア・パスティナーカに着きました。そこでわたくしは、自分の身にまとっているこの服に誓ってあなた方に申しますが、わたくしは、長柄の鉈鎌《なたかま》が空を飛ぶのを見たのです。それを見たことのない者には、信じられないことです。でも、そのことについては、どうかマーゾ・デル・サッジョよ、わたくしに嘘をいわせないで下さい。その人は、わたくしがそこで会った豪商で、胡桃《くるみ》を割って、その殻《から》の小売をやっていました。しかしわたくしは、自分が探しに行っていたものが見つかりませんし、そこから先は水路を行かねばなりませんでしたので、あとに引き返してまいりまして、夏場は冷たいパンが四デナリ(貨)の値もして、暑さはいくらでもあるから無料《ただ》という、その聖地に到着しました。そこでわたくしは、イエルサレムの非常にお偉い教父であらせられる、畏敬《いけい》すべき神父のノンミブラズメーテ・セヴォイピアーチェ氏にお会いしました。この方は、わたくしが常に身にまとっている男爵、聖アントニオ氏の修道士服にたいする敬意から、ご自分のところにご所蔵のあらゆる聖なる御遺物をお見せになりたがりました。それはとても多くて、もしわたくしが全部お話ししたいと思いましたら、かなり時間をかけてやっても、おしまいにすることはできないでしょう。しかしそれでも、みなさんをがっかりさせないために、それを少しお話ししましょう。そのお方はまずわたくしに、昔のままの完全でしっかりした、聖霊の指をお見せになりました。また聖フランチェスコに現れた天使セラフィーノの前髪や、小天使の爪の一つや、ヴェルブムカーロ・ファッティ・アッレ・フィネストレの肋骨の一本や、聖女フェッカットリカの衣服などを見せて下さいました。また東方の三賢人にあらわれた星の光の少しと、悪魔と闘った時の聖ミケーレの汗を一瓶と、聖ラッザロの死をもたらした頤《あご》と、そのほかのものをお見せ下さいました。で、そのお方が長い間探しておられたモレッロ山の絶壁の俗語になおした絵画や、カプレツィオの何章かを、わたくしが快く呈上すると、そのお方はご自分の神聖な御遺物をわたくしにお分け下さいまして、聖女クローチェ(「十字架」の意)のお歯を一枚と、小瓶につめたサラモーネ寺院の鐘の音を少々と、すでにあなた方にお話ししました天使ガブリエッロの羽と、聖ゲラルド・ダ・ヴィッラマーニャの木靴の一つをわたくしに下さいました。それは、まもなく、フィレンツェで、ゲラルド・ディ・ボンシにさしあげまして、非常にあらたかなものとして崇められました。そのお方はまたわたくしに最大の恩寵を授けられた殉教者、聖ロレンツォが焼き殺された炭をお恵み下さいました。それをわたくしは全部、敬虔な態度で肌身離さずにここに持ってまいり、ただ今ここにございます。わたくしの修道院長は、それが本物であるかどうか証明されるまでは、人に見せることを決してお許しになりませんでした。けれども、その炭が行なったある奇蹟によって、またその教父からいただいたお手紙によって、それが確かなものとなった現在、修道院長はわたくしにそれを見せてよろしいとお許しをおあたえ下さいました。でも、わたくしはそれを他人に託しておくのが心配で、しじゅう手もとにおいて持ち歩いているのです。事実を申しますれば、わたくしは天使ガブリエッロの羽をこわれないようにと、一つの小箱に入れておいて、聖ロレンツォが焼かれた石炭をもう一つの小箱に入れて持っているのです。この二つの小箱はたがいにとてもよく似ているので、わたくしはそれをよく間違えてしまいます。そして、ただ今も、そのことが起こりました。ですから、わたくしは羽がはいっている小箱をここに持ってきたと思いこんで、炭のはいっているのを持ってきてしまいました。このことをわたくしは間違いだったとは考えません。それよりもたった今、聖ロレンツォの祝日が今日から二日後にせまっていることを思いおこしまして、むしろそれは神さまのご意志だったと、神さまご自身が、その炭の小箱をわたくしの両手におおきになったのだと考えるほうが、確かなような気がいたします。ですから、わたくしが聖人の焼き殺された炭をみなさんにお見せして、あなた方が神さまにお寄せになっているにちがいない敬虔の念を、みなさんの胸に燃え立たせるようにとお望みになって、わたくしが持ってまいるはずだった羽ではなしに、そのいとも神聖な御体から流れでた脂肪で消されたあらたかな炭を、わたくしに取り上げさせたのであります。ですから、祝福されたこどもたちよ、あなた方の帽子をとって、これを拝観しに、うやうやしくお近づきになって下さい。しかしその前に、どなたでも、この炭で十字の印をつけてもらう人は、その一年間は、断じて痛みを感じないような火なら火傷《やけど》はしないということをご承知になっていただきたいと思います」
そう言ってから、修道士チポッラは、聖ロレンツォの讃歌を歌いながら、小箱を開けると、石炭を示しました。愚かな群衆は、感嘆して、つつしみかしこんで、その炭を見てから、一同大道で修道士チポッラのところに押しかけて、今までにないほどの多額の寄進をして、めいめいその炭でぜひ触《さわ》ってもらいたいと彼にお願いしました。そこで修道士チポッラは、その炭を手にとると、みんなの白い胴衣や上着や、婦人たちのヴェールの上に、できるだけ一杯に大きな十字架を描きはじめました。そして、それらの十字架を描くために減っただけの炭は、あとで小箱の中で、もとどおりにふえるのであって、それは今までになんども経験したことであるとはっきり言いました。こんな具合に、彼はうんと金儲けをしながら、チェルタルドの人々を全部十字軍にこしらえあげて、自分から羽を取り上げて、愚弄しようとした者たちを、その打てば響く才知で、かえって彼ら自身が愚弄される目にあわせました。この二人の青年は修道士チポッラが行なった奇妙な取り繕いと、それも長い間、なんとも実に巧みなことばでやってのけたことを聞いて、頤《あご》のはずれるほど大笑いをしました。そして、村人たちが帰ってしまってから、修道士チポッラのところに行って、このうえもない上機嫌で自分たちのやったことを打ち明けて、彼にその羽を返しました。翌年その羽は、その日炭が儲けさせてくれたと同じくらいの儲けをかせいでくれました。
この話は、仲間一同を一様に、たいへん喜ばせ、たのしませました。修道士チポッラのことはなにからなにまで、とくに彼の遍歴のことや、彼が見たり、持ってきたりした遺物のことは、大いに笑いの的となりました。女王は、この話で、同時に自分の主宰権《シニヨリア》が終わったと聞いて、立ち上がると王冠を脱いで、微笑みながら、それをディオネーオの頭にのせて言いました。
「さあ、ディオネーオ、淑女たちをおさめて、これを導くことがどんな仕事であるか、少しばかり、お試しになる時がまいりました。では、王さまにおなり下さい。そして、主宰の最後の時に、あなたの主宰をほめ讃えなくてはならないように、うまくお治め下さい」
ディオネーオは王冠を手にとると、笑いながら答えました。
「みなさんは、今までに、わたしよりずっとたのしい王さまを――将棋の王さまのことですがね――ごらんになったことでしょう。もしあなた方が、真の王さまに服従なさるように、わたしに服従なさいますならば、わたしは、いかなる祝祭もそれを欠くと、たのしくなくなってしまうものを、すなわちわたしたちの愛を、みなさんに楽しんでいただくようにするつもりです。しかし、こんなあいさつはよしにしましょう。できるだけうまく治めることにしましょう」
そして彼は、いつもの習慣に従って、給仕頭を自分のところに来させたうえ、自分の主宰権《シニヨリア》がつづく間じゅう、順序よく行なわなければならないことを命じました。そのあとで言いました。
「ごりっぱな淑女方よ、わたしたちは今までに人間の才知や、種々の場合について、いろんなふうにお話ししてまいりました。ですから、もし女中のリチスカが少し前にここへ来なかったならば――彼女はそのおしゃべりで、明日やるこれからの話の題材をわたしに見つけてくれたのです――わたしは話題を見つけるのにだいぶ長いあいだ苦しんだのではないかと思います。彼女は、あなた方がお聞きになったように、処女で嫁に行ったものは近所の娘にはいないといいました。それからまた既婚の女たちもその夫たちに向かって、いかに多くの、どんな質《たち》の愚弄《たばかり》をしてのけているか、よく知っているといい添えました。でも前半は、こどもも知っていることなので、そのままにしておくとしまして、後半がお話をするには愉快なことに違いないと思います。ですから、わたしは、女中のリチスカがその機会を恵んでくれたので、明日は、婦人たちが恋のために、または恋を助けるために、自分たちの夫に向かって、――夫が気づいていてもいなくても――今までやってきた愚弄について、お話をすることにしたいと思います」
こんな話題で話すことは、自分たちには都合がわるいと淑女たちのある者には思われましたので、彼女たちは今述べられた提案をかえてほしいと、彼に頼みました。彼女たちに王が答えました。
「淑女方よ、わたしは自分が課した題目を、あなた方と同じように知っています。時代は、男や女が不貞な行為をしないように用心すれば、どんな話をすることも許されているような今日であることを考えれば、あなた方がわたしに示そうとなさる理由は、わたしに、それを命じることをやめさせることはできません。この時代の逆境に際して、裁判官たちは裁判所を放棄してしまうし、神の掟も人間の法律も沈黙してしまって、生命を保持するために、広範な自由が各人にあたえられているということを、ご存じないのですか。もし話をしているうちに、いくらかでも、あなた方の貞潔がゆるんだとしても、それはなにも行為の上で誤っていることをしなければならないということではなくて、あなた方や他の人たちにたのしみをあたえようというのですから、わたしは、だれかが将来あなた方を、どんな理由でも非難することはできないと思います。そればかりではなく、あなた方の仲間は、最初の日からただ今まで、きわめて貞潔でありまして、そこでどんなことが話されましても、仲間が行為の上でけがれたことをしたようには思いませんし、また神の御力のおかげで、けがれるようなことはないでしょう。それから、あなた方の貞潔を知らないものが一体どこにおりましょう? たのしいお話どころではなく、死の恐怖でさえも、あなた方の貞潔をかき乱すことができようとは思いません。ほんとうのことを申しますと、あなた方がこのようにおどけた主題で話すのをおやめになるということを、もしだれかが知ったら、たぶん、あなた方がそのことで罪を犯しており、そのために、そんなお話をしたがらないのだろうと疑うことでしょう。そうでなくてもわたしは、ずっとみなさんに従順にしてまいりましたし、今、あなた方はわたしを王にお選びになり、法律をわたしの掌中におおきになろうとなさったうえで、わたしが命令したことはお話しになりたがらないとは、どういうことでしょう。あなた方よりも悪い連中に考えられるつまらない疑いはほっといて、めいめい、なんとかしかるべくお話をなさることをお考えになって下さい」
淑女たちはこのことばを聞くと、彼の好むようにしようと申しました。そこで王は、夕飯の時まで、めいめい好きなことをしているようにと暇をとらせました。話が短かったので、太陽はまだ非常に高うございました。そこでディオネーオは、ほかの青年たちと、盤で遊びだしましたので、エリザは、ほかの淑女たちをかたわらによんで言いました。
「わたくしたちがこちらにまいりました日から、わたくしは、あなた方がどなたもいらっしゃったことのないと思う、女たちの谿谷[#「女たちの谿谷」に傍点]と呼ばれている、この場所からとても近いところへ、あなた方をお連れしたいと思っておりました。今日まで、そこにみなさまをご案内できるような暇がございませんでしたが、ちょうど今日はまだ太陽も高うございます。もしそこにおいでになったら、来てよかったと心からお喜びになること受けあいですわ」
淑女たちは、その用意ができている旨を答えました。そして女中を一人呼んで、青年たちにはなにも知らせないで、歩きだしました。一マイルそこそこ行って、女たちの谿谷[#「女たちの谿谷」に傍点]に到着しました。一同は、その片側にとても清冽な小川が流れている、かなり細い道を通って中にはいりました。とくに暑いさかりでしたので、そこの美しくて、心地のよいことといったら、これ以上想像することはできないくらいでした。あとで彼女たちのある者がわたくしに話したところによると、谿谷にあった低地は自然のつくったものでありながら、まるで人がつくったもののように思えました。コンパスで測ってつくられたようにまるくて、周囲は半マイルをちょっと超えており、それほど高すぎない六つの小山にかこまれていて、一つ一つの小山の頂上には、まるで美しい小城のような形につくられた館が見えていました。それらの小山の山腹は、よく円形劇場などで、階段が頂上のほうから一番下のほうまで、しだいに輪を小さくせばめながら次々と、順序よく並んでいるのを見受けますが、それと同じように、低地に向かって段々をなしておりていました。で、これらの山腹で、南に向かっているところは全部、いたるところぶどう畑や、オリーブや、巴旦杏や、桜や、無花果《いちじく》や、その他多くの種類の果樹で一杯であって、掌《てのひら》のような土地でも棄ててはありませんでした。北の大熊星が照らしている山腹は樫や、とねりこや、その他緑濃く、まっすぐに立った木々の小さな森になっていました。その先につづく低地には、淑女たちがはいってきた入口のほかには別に入口はなくて、一面に樅の木や、糸杉や、月桂樹や、何本かの松が生えていて、それはとてもよく配置され、整理されていて、まるで、そこにある木々のどれもみな、最良の工匠《こうしよう》によって植えられたようでした。木々のあいだには太陽の光がわずかしか、あるいは全然はいりませんでした。太陽が高い時には、一面にこまやかな草や、真紅の花や、その他の花が咲き乱れて芝生になっている地上まで、光線がのぞいていました。このほかに、他のものに劣らずにたのしい気持ちをおこさせていたのは、一つの小川でした。その小川は、あの小山のうちの二つの小山を分かっている谿谷の一つから石灰岩の崖を落下して、落下しながら耳にとても快い音を立てていて、飛沫をあげているところは、遠くから見ると、何か押しつぶしたものから細かに飛び散る水銀のように思われました。その小川は、下の小さな底地に達すると、そこで一本の美しい水路に集められて、底地の中央まで急速に流れて行って、そこで小さな池を作っていました。それは、そうしたものを重宝がる市民たちが、自分たちの庭に、魚をいけておくところとして、ときどきつくる池とそっくり同じものでした。で、この池は、人間の胸ぐらいの深さで、水中にはなにもまじっているものがなかったので、その底は、ごく細かい砂利になっているのが、実に手にとるように見えていました。その砂利は、ほかに用のない者だったら、しようと思えば一つ一つ勘定をすることができたことでしょう。水に目をやると、底が見えるばかりではなくて、多くの魚がそっちこっちに泳ぎまわっているのが見えて、たのしいばかりでなく、驚きでありました。それを閉《とざ》している岸辺は芝生になっている土地で、池の周囲は、その湿りをうけているところほど、一段と美しさを増しておりました。池からあふれでる水は、も一つの水路にはいり、そこを通って、小さな谿谷の外に出て、もっと低いところに流れていました。
さて、若い淑女たちは、この池のところに来て、そこらじゅうを見わたして、その場所を大いに賞めてから、非常に暑いし、目の前には池があるし、だれにも見られる心配がないので、ひと浴びしようと決心しました。で、一同は、女中に向かって、自分たちがはいってきた道にいて、だれか来るか見ていて、それを知らせるようにと命じてから、七人の淑女は服をぬいで、池の中にはいりました。池は、薄いガラスが真紅のバラをかくすように、みんなの純白の肉体をかくしていました。みんなは池にはいると、そのために水は少しもにごりませんので、まごまごして逃げそこなっている小魚のあとをあっちこっちと懸命になって追いかけまわし、両手でそれをつかまえようとしだしました。こうしてにぎやかに騒ぎながら、何匹かの小魚をつかまえて、しばらく中にいてから池を出て、ふたたび服をまといました。そして、その場所を、今まで賞めた以上には賞めることもできず、家に帰らなければならない時刻がきたと思われましたので、ゆっくりした足取りで歩きだしながら、その場所の美しさを大いに話し合いました。で、かなり早く館に着いて見ると、まだ青年たちは出かける時と同じように遊戯をしていました。その青年たちに向かって、パンピネアは笑いながら言いました。
「今日は、わたくしたちも、あなた方を瞞《だま》してあげましたわ!」
「どうして?」とディオネーオが言いました。「お話をする前に、実行にとりかかられましたかね?」
パンピネアが言いました。
「まああなた、そうなのでございますよ!」
そして、彼女は、自分たちがどこからきたのか、その場所がどんなふうにできているのか、そこからどのくらい距っているのかということを、それから自分たちがしてきたことを、詳しく語って聞かせました。王は、場所の美しさを話しているのを聞いて、そこが見たくなって、さっそく夕飯を命じさせました。一同が大喜びのうちに夕飯がすんで、三人の青年は、召使たちを従えると、淑女たちをあとに残して、この谿谷へまいりました。で、あたりを眺めまわして、三人のうちだれもまだそこにきたことがありませんでしたので、そこを、この世で最も美しい景色の一つだと賞めそやしました。そして、一同水浴びをして、ふたたび服をまとってから、あまり遅くなりましたので家に帰りました。家では、見ると淑女たちが、フィアンメッタの歌う歌につれて、輪舞をしておりました。輪舞が終わると、青年たちは淑女たちと女たちの谿谷[#「女たちの谿谷」に傍点]のことについて話しこんで、たいへんに賞め讃えました。そこで王は、給仕頭を呼んで、もしかするとだれかその谿谷で昼寝をしたり横になりたいと思うかもしれないから、翌朝寝台をいくつか用意して、そこに運んでおくようにと命じました。そのあとで、明りや、ぶどう酒や、菓子を持ってこさせて、いくらか元気をつけたあとで、みんなに踊るようにと命じました。そして、王は、自分の命令によって、パンフィロが踊りを一つ踊ると、エリザのほうを向いて、やさしく言いました。
「みめ麗わしいお嬢さま、今日あなたはわたしに、王冠の誉れを授けて下さいましたので、わたしは今晩あなたに、歌の誉れを捧げたいと思います。ですから、一番お気に召したのを一つお歌いになって下さい」
エリザは王に向かって、よろこんでほほえみながら答えました。そしてきれいな声で、こんなふうにはじめました。
愛よ、汝が爪のがれえば
他の鉤《かぎ》などてこのわれを
捉えることのよもあらじ
この身は若く汝が戦闘《みち》を
至高甘美の和と認め、
すべての武器を棄てさりぬ
苛酷貪欲|誠《まこと》なき
暴君、汝は自信もて、
汝が武器、さてはむごき鉤
かざしてわれを襲いたり
汝《なれ》は鎖にしばられて
苦しみ嘆くこのわれを
情《つれ》なき人に手渡しぬ
そのためわれはその人の
力にしかれ、今はただ
吐息はおろか身のほそる
嘆きの徒労《むだ》をかこつのみ
風のもたらすわが願い
彼《か》の人聞かず風馬牛、
わが苦しみのいやまして
生きるは涙、死にもえず、
神、この悲苦を憐みて、
われを助けて汝が絆《つな》に
しばりし彼を、賜えかし
この願いをば望まずば
希望の結ぶ絆をとけ、
神よ、聞きませ、この願い
もし聞かれなばこのわれも
そのかみのごと美しく、
苦しみ棄てて紅白の
花を飾りて、出直さん
とてもあわれっぽい溜め息をして、エリザがその歌をおえたあとで、一同はそうしたことばに驚いてはおりましたが、だれ一人として、どうした理由からそんな歌を歌ったのか、見当もつきませんでした。しかし上機嫌だった王は、ティンダロを呼ばせると、彼に、自分の風笛を持ってこいと命じました。風笛の音につれて、王は多くの踊りを踊らせました。でも、もう夜も、だいぶ更けてきましたので、一同に向かって寝に行くようにと言いました。
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第七日
[#この行3字下げ]〈デカメロンの第六日が終わり、第七日がはじまる。この日にはディオネーオの主宰のもとに、婦人たちが恋のために、または恋を助けるために、自分たちの夫に向かって――夫が気づいても、いなくても――今までにやってきた愚弄《たばかり》について語る〉
給仕頭が起きあがって、主人からうけていた命令や、指示に従って、女たちの谿谷[#「女たちの谿谷」に傍点]に万端の用意をするために、大きな荷物とともに、そこに出かけた時には、すでに東方の星はことごとく姿を消して、ただ一つ私たちが「|暁の明星《ルチーフエロ》」と呼んでいる星だけが、白みがかった黎明の中に輝いていました。荷積みの人たちや、馬の騒ぎたてる音に目を覚ましていた王は、給仕頭が出かけた後まもなく起きあがりました。起きあがってから、淑女たちや、青年紳士たちを全部一様におこさせました。一同が歩きだしたとき、太陽の光線はまだ隈なく十分に輝きわたってはいませんでした。その朝ほど、鶯や、他の小鳥たちが、陽気に歌っているように思われたことは、今までにありませんでした。小鳥たちの歌声にともなわれて、女たちの谿谷[#「女たちの谿谷」に傍点]までまいりますと、さらにずっと多くの小鳥が自分たちの到着をよろこんでくれているような気がいたしました。そこで、谿谷をまわって、もう一度全体の様子を見直すと、一日のうちのその時刻が、谿谷の美しさに一段とかなっていただけに、そこは、前日よりも一そう美しく思われました。みんなは、うまいぶどう酒と糖菓子で腹ごしらえをしたあとで、歌では小鳥たちにひけをとってなるものかとばかり、歌を歌いはじめました。すると、谿谷も、一同と一緒になって、みんなが歌うその同じ歌を、たえず繰り返しました。まるでこれに負けまいとしているように、小鳥という小鳥は、そのこだま[#「こだま」に傍点]に、甘美な、新しい調べをくわえていました。しかし食事の時間になりましたので、食卓が枝葉のしげった月桂樹や、その他の美しい樹立《こだち》の下の、美しい池のそばにならぶと、一同は王のことばにしたがって、座につきました。そして、食事をしながら見ると、小魚がすごい大群をなして、池の中を、泳ぎまわっていました。それは、眺めるのによかったばかりでなく、ときどき話題にものぼりました。そのうち食事が終わって、食物や食卓が片づけられたあとで、なおも一同は今までよりもたのしそうに、歌を歌いはじめました。それから、小さな谿谷のあちこちに寝台がつくられまして、気のきいた給仕頭がフランスの薄いカーテンや、天蓋ですっかりこれをかこんで、うまくかくしましたので、休みたいものは、王の許しをえて、休みに行くことができました。休みたくないものは、好きなように、例のほかのたのしみに耽《ふけ》ることができました。けれども、そのうち、みなが起きて、一緒に集まって話をする時刻になりました。みんなが王の望みにしたがって、食事をした場所からそう遠くない草の上に敷き物をひろげさせて、池のそばに腰をおろすと、王は、エミリアに話をはじめるようにと命令いたしました。
エミリアは微笑をうかべながら、よろこんでこう話しだしました。
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第一話
[#この行3字下げ]〈ジャンニ・ロッテリンギは、夜、自分の戸口を叩く音を聞く。妻をおこすと、彼女は、夫にそれを幽霊だと思いこませる。二人が祈祷で、お祓《はら》いに行くと、叩く音がやむ〉
王さま、わたくしたちがお話ししなければならないこのようなすばらしい話題に、あなたさまがもし、わたくしよりもほかの方に口火を切るようにとお望みになっていらしたら、わたくしはとてもうれしかったでございましょうに。でも、わたくしに、みなさまの勇気をださせるようにとの思し召しでございますので、わたくしはよろこんでそうしようと存じます。
いとも親愛なる淑女のみなさま、他の方々も、わたくしと同様にこわがりやで、とくに幽霊を――わたくしたちはだれも同じように幽霊をこわがってはおりますものの、神さまも御照覧《ごしようらん》あるように、わたくしは幽霊がどんなものであるのか存じませんし、それをご存じの方にもお目にかかったことがございません――こわがっていらっしゃるとしたら、その幽霊があなた方のところに出てきた場合、それを追っ払うために、わたくしの話をよく注意して聞いてくだされば、それはたいへん役に立つあらたかな、よいお祈りをお覚えになられましょう。
かつて、フィレンツェの聖ブランカツィオの界隈《かいわい》に、ジャンニ・ロッテリンギと呼ばれた一人の羊毛職人がおりました。ほかのことではそう賢いほうではありませんでしたが、自分の仕事の上では幸運な人でございました。また、この人はいくらかお人好しでしたので、何度となく聖マリア・ヴェッラの聖歌隊の指揮者をつとめておりまして、自分たちの集会がうまくいくように気を配ったり、その場所の世話をしたり、ほかのそうしたいくつものこまごました仕事を、しじゅう引きうけておりました。それにかけては、自分は非常に値打ちのある人間だと思っておりました。で、そうなりました理由は、彼が裕福な人間でしたのと、何度も修道士たちにうんと御馳走したからでございます。修道士たちはたびたび、靴下だの、袖無し上衣だの、袖無し肩衣だのと、それぞれもらいましたので、彼によい祈祷を教えたり、俗語に訳した主祷文[#「俗語に訳した主祷文」に傍点]や、聖アレッシオの歌[#「聖アレッシオの歌」に傍点]や、聖ベルナルドの哀歌[#「聖ベルナルドの哀歌」に傍点]や、ドンナ[#「ドンナ」に傍点]・マテルダの讃歌[#「マテルダの讃歌」に傍点]など、そういったくだらない長ったらしいおしゃべりを教えこみました。それを彼は非常にありがたがって、一つ残らず、自分の救霊のために、それはそれは丹念に覚えこんでおりました。
さて、この人は、すこぶる美人で愛くるしい婦人を妻にもっておりまして、その名をテッサ夫人《モンナ》といい、マンヌッチョ・ダ・ラ・ククリアの娘で、大そう利口で、用心深い人でございました。夫人には、夫の間抜けなことがわかっていましたし、美男で、溌剌《はつらつ》とした青年であるフェデリーゴ・ディ・ネーリ・ペゴロッティに思いをよせておりまして、男のほうでも彼女を心憎からず思っていましたので、彼女は、自分の女中をやって、フェデリーゴに、前に申しあげたジャンニがカメラータに持っているたいへんりっぱな別荘まで話しにくるようにと命じました。夫人は夏じゅうそこにいたのでございます。で、ジャンニは、ときどきそこへ来て夕食をとって泊まると、朝には、店や、ときには自分の聖歌隊のところに帰って行くのでした。ところで、そんなことを一方ならず熱望していたフェデリーゴは、指定された日に暇をつくって、夕暮れ時にそこにまいりまして、その晩はジャンニがそこに来ない日でしたので、のびのびとして、大喜びで、婦人と夕食をともにして寝ました。彼女は、その夜、男の腕に抱かれたまま、夫の讃歌を六つも彼に教えたのでございます。そして彼女は、これからもこのような機会を持ちたいと思っておりましたし、フェデリーゴも同様でしたので、そのつど女中が彼のところにいかないでもすむようにしようと、二人は、一緒になって、こんなふうに相談をまとめました。つまり、男が毎日、そこより少し上手のほうにあった彼の別荘に行ったり、そこから帰って行くときに、彼女の屋敷に並んでいるぶどう畑に注意すれば、そのぶどう畑の支え棒の一本に、驢馬の頭蓋骨がかかっているのが目につくだろう、その頭蓋骨がフィレンツェの方に鼻面《はなづら》を向けていたら、安心して、必ずその晩暗くなってから、自分のところに来るように。それでもし戸口が開いていなかったら、そっと三度叩くように、そうすれば、自分のほうで開けよう。また頭蓋骨の鼻面を見て、それがフィエゾレのほうに向いていたら、ジャンニがきているのだから、やってこないようにする、というのでありました。で、こんなふうにしながら、二人はなんどもあいびきを重ねました。
ところがそうやっているうちに、一度こんなことがございました。フェデリーゴがテッサ夫人と夕食をともにするはずでしたので、夫人は二羽の大きな去勢した雄鶏を料理させておきました。すると、そこへくるはずでなかったジャンニが、とても遅くなってからやってまいりました。そこで夫人は胸もつぶれる思いで、夕食には夫と二人で、別に蒸《む》させておいた塩味の肉を少しばかり食べました。そして、白いナプキンに、蒸した二羽の去勢した雄鶏と、たくさんの新鮮な卵と、一瓶の白ぶどう酒をくるんだのを、女中に命じて、庭に運ばせました。そこへは屋敷の中を通り抜けないで行くことができましたし、その庭で彼女はときどきフェデリーゴと夕飯をしたためることにしておりました。そして、女中には芝生《しばふ》の縁《ふち》に立っている桃の木の下に、その御馳走をおいておくようにと言いました。しかし、彼女はぷんぷんしていたので、女中にフェデリーゴがくるまでそこで待っていて、ジャンニがいることと、庭のその御馳走を食べるようにと伝えることを忘れてしまいました。そこで、彼女とジャンニが寝床にはいって、女中も同じように寝つくと、ほどなくフェデリーゴがやってきて、戸口をそっと一つ叩きました。戸口は寝室のそばにありましたのでジャンニはすぐにそれを聞きつけました。夫人も同様でございました。でも、ジャンニが自分のことをなにも疑わないようにと思って、眠っているふりをしていました。で、すこしすると、フェデリーゴが二度目を叩きました。その音にジャンニはびっくりして、ちょっと夫人をつついて、言いました。
「テッサ、あの音が、お前にも聞こえるかい? うちの戸口を叩いているようだがね?」
夫よりも、ずっとよくその音が耳にはいっていた夫人は、目をさましたようなふりをして、申しました。
「なんておっしゃいました?」
「あのね」ジャンニが言いました。「うちの戸口を叩いているようだといったんだよ」
夫人が申しました。
「叩いているんですって? ああ、ジャンニ、じゃあ、あなたは、あれがなんだか知らないんですか。あれはね、この頃毎晩、くるんですけど、わたくしが一番こわいと思っている幽霊なんですよ。それで、あの音を聞きますと、わたくしは(ふとんの中に)頭をひっこめて、夜が明けるまでは決して頭を出す勇気がでてきませんの」
すると、ジャンニが言いました。
「さあ、お前、もし幽霊であってもこわがることはないよ。わしたちが寝床にはいった時に、わしは、とうに、テ・ルーチス(われら日没前に主に願い奉る)や、インテメラータ(おお、汚れなき者よ)のお祈りや、ほかにたくさんいい御祈祷を唱えて、また寝台には、父と子と聖霊の御名において、隅から隅まで十字のしるしをつけておいたんだからね。こわがることはないよ。幽霊にどんな力があったとしても、わしたちに害をくわえることはできないんだからね」
夫人は、フェデリーゴがひょっとして、ほかの疑いをおこして、自分に腹を立てるようなことがあってはならないと思って、ここはどうしても起きあがって、ジャンニがいることを、彼に知らせなければならないと考えました。で夫に申しました。
「結構ですわ、あなたはご自分のお祈りをなさいました、あなたはね。わたくしは、あなたがここにいらっしゃる以上、二人でそのお祓《はら》いをしないうちは、自分としてはとうてい無事に、安心していられるような気がいたしません」
ジャンニが言いました。
「おや、どんなふうにお祓いをするんだね?」
夫人が言いました。
「わたくしには、お祓いが上手にできるのですよ。といいますのは、先日、わたくしがフィエゾレに赦罪のミサにまいりましたときに、あの女|隠遁者《いんとんじや》の一人がね――それはまた、ねえ、ジャンニ、神さまがわたくしに代わってあなたにお話しになられる最も聖らかなものなんですよ――その方がね、わたくしがひどくこわそうにしているのをごらんになって、ありがたい、効験あらたかな御祈祷を教えて下さいまして、隠遁者になる前に何度もそれを試してみたが、いつも効目《ききめ》があったと、おっしゃいました。けれども、神さまもご存じのように、わたくしにはただ一人でそれを試す勇気は、とうていでてこないでしょう。しかし、今はあなたがいらっしゃるんですから、二人で、そのお祓い浄めにまいりましょうよ」
ジャンニは、それはとてもいいことだと言いました。そして、二人は起きあがると、そろって、そっと戸口のところへまいりました。その外では、フェデリーゴが、もう疑いながら待っておりました。夫人はジャンニに言いました。
「さあ、わたくしが言ったら、唾をはくんですよ」
ジャンニが言いました。
「いいよ」
そこで、夫人は祈祷をはじめて言いました。
「幽霊よ、夜出歩く幽霊よ、お前さんは尻尾を立ててやってきた、尻尾を立てたまま帰って下さい。庭の太い桃の木の下においで下さい。そこには塗油した、二重に塗油したものと、うちの牝鶏の糞玉百個がお目にはいりましょう。瓶に口をつけて、退散して下さい。わたくしや夫のジャンニに害をくわえないで下さい」
夫人はそう言ってから、夫に言いました。
「唾をおはきなさいよ、ジャンニ!」
で、ジャンニが唾をはきました。外にいて、これを聞いていたフェデリーゴは、もう嫉妬心も消え失せてしまって、とても憂鬱ではありましたが、ついたまらなくなって吹きだしてしまいました。そして、ジャンニが唾をはいたときに、小さな声で言いました。
「歯もはきだしちまえ!」
夫人は、こんなふうに三度幽霊のお祓いをしてから、夫と一緒に寝床に戻りました。夫人と一緒に夕飯をいただくつもりだったフェデリーゴは、夕飯を食べていませんが、お祈りのことばの意味がよくわかりましたので、庭に行きました。そして、太い桃の木の下に二羽の去勢された雄鶏や、ぶどう酒や、鶏卵を見つけましたので、それを自分の家に持って行って、のびのびとした気持ちで夕食をしたためました。それから、なんどとなく夫人とあいびきを重ねましたが、彼女と一緒にこのお祓いのことで大いに笑いました。
ある人たちがこんなことを話しているのは、ほんとうでございます。夫人は驢馬の頭蓋骨をちゃんとフィエゾレのほうに向けておいたんだそうです。ところが一人のお百姓が、ぶどう畑を通りながら、それを棒で叩いて、ぐるぐるっと廻したので、頭蓋骨はフィレンツェのほうに向いたままになってしまいました。そこでフェデリーゴは、呼び出しがかかったのだと思って、そこにやって来ると、夫人がこんなふうに祈祷をしたのだそうでございます。
「幽霊よ、幽霊よ、どうか退散して下さい。驢馬の頭を向けたのは、わたくしでなく、よその人。神さまの罰があたればいい。わたくしはここにジャンニとおりまする」
そこで、彼は立ち去って、泊まることもできず、夕飯も抜きだったのだということです。
けれども、たいへんなお年寄りで、わたくしの近所にいるある婦人は、その人が娘だった頃に聞いたところによると、そのどちらもほんとうだということを、また、あとのほうの話は、ジャンニ・ロッテリンギに起こったことではなくて、聖ピエトロ門にいた、ジャンニ・ロッテリンギと同じような、したたかな馬鹿者のジャンニ・ディ・ネッロと呼ばれた者に起こったことだと言っております。ですから親しい淑女のみなさん、この二つのうち、どちらでもお好きなほうをとられるよう、よろしかったら、両方ともおとりになっても、それはあなた方のご選択におまかせいたします。このような祈祷は、経験上、そうした場合にたいへん大きな効験を持っております。どうぞお覚えになって下さい。今後、みなさまのお役に立つことでございましょう。
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第二話
[#この行3字下げ]〈ペロネッラは、夫が帰宅したので、自分の恋人をぶどう酒の樽の中に入れる。夫がその樽を売ってきたと言うので、彼女もその樽を、中にはいって頑丈かどうか調べている男に売ったのだと言う。その男は、樽から飛びだしてきて、夫にその樽を削らせたうえ、そのあとで自分の家まで運ばせる〉
エミリアの話を、一同は大笑いしながら聞いて、その御祈祷を、ありがたい、あらたかなものだと賞めそやしました。そのお話が終わりましたので、王はフィロストラートにつづけるようにと命じました。フィロストラートがはじめました。
親愛なる淑女のみなさん、男たちが、とくに夫たちが、あなた方に向かってする愚弄《たばかり》は、なかなか数が多くて、そのために、ときどき、婦人の方で夫に対してそれをすることがあると、あなた方は、そんなことが実際起こったこと、それを知っていること、またはだれかがそのうわさしているのを聞いただけでは満足せず、もし男たちが知っているのなら、一方婦人たちだって知っているのだということを、男たちに知ってもらおうとして、あなた方は自分からいたるところに触《ふ》れまわるはずであります。そのことは、あなた方には利益になるにきまっております。なぜなら、ある者が、相手が知っているということを知っているときには、その相手をそうやすやすと瞞そうとはしないからであります。ですから、今日、わたしたちがこの問題について語っていることが、ふたたび男たちに知られると、それによって男たちは、あなた方も同様に、しようと思えば愚弄《たばかり》をすることができるのだと知って、あなた方を愚弄するのを手控えるという、大きな理由が生まれないと、だれが言えましょうか。そこで、身分は低いけれども、ある若い婦人が、わが身を救うために、即座に、その夫にたいして行なったことをお話ししようと思います。
まだそんなに前のことではありませんが、ナポリで、ある貧しい男が、ペロネッラと呼ぶ、美しい愛らしい若い婦人を、妻にもらいました。左官屋だった彼はその商売で、彼女は糸を紡いで、かなりほそぼそとかせぎながら、できるだけのことをして、その日その日を送っておりました。ところが、女好きの伊達男たちの仲間の青年が、ある日のこと、このペロネッラを見て、とても気に入って、すっかり惚れこみまして、あれやこれやといろいろしつこくくどいたあげくに、とうとう彼女と仲よくなってしまいました。二人は一緒にいられるようにするために、たがいにこんな手はずをきめました。つまり、彼女の夫は毎朝早く起きて、働きに行ったり、働き口を探しに行ったりしますので、青年が、彼の出かけて行くところが見えるあたりにいて、アヴォリオという彼女の住んでいる界隈はたいへんさびしい人通りの少ないところですので、夫が出かけたら、青年が彼女の家にはいってくるようにしようというのでありまして、二人はなんどもこれを実行しました。
しかし、そうした朝を重ねているうちに、ある朝のことでした。そのお人よしが出かけて行って、ジャンネッロ・ストリニャリオ――青年はこういう名前でした――が家にはいってきて、ペロネッラと一緒にいると、いつもなら一日じゅう帰ってくることはないのに、少しして、夫が戻ってきまして、戸口が内側から閉まっているのを見て叩いてみました。叩いたあとで、こうひとり言を言いました。
「ああ神さま、御身の常に讃えられてあらんことを! なぜなら、御身はわたしを貧乏人になされましたが、すくなくとも、善良で、貞潔で若い妻をお恵みになってわたしを慰めて下さいました! どうです、わたしが家を出ると、他の者がはいってこれないように、うるさいことをいわれないように、こうやってすぐに内側から錠をかけているんですよ」
ペロネッラは、戸口の叩き方でそれとわかりましたので、夫だと知ると言いました。
「ああ! ジャンネッロよ、困りましたわ。だって、うちのひとが戻ってきたんですよ、いやな人ったらありゃしない、一体どうしたっていうんでしょうね。だって、今までこんな時刻に戻ってきたことなんかないんですもの。おそらくあなたがここにはいってくるところを見たんでしょう! でも、それはとにかくとして、後生ですから、そこに見えるその樽の中にはいってちょうだい。わたしは戸をあけに行きます。なんのために、今朝はこんなに早く戻ってきたのか、ひとつ聞いてみましょう」
ジャンネッロは、すぐに樽の中にはいりました。ペロネッラは戸口へ行って、戸を開けてやると、いやな顔をして言いました。
「おや、今朝はまたこんなに早く家に帰ってくるなんて、どうしたわけなんですか。どうもわたしの見たところ、お前さんは現にこうして、道具を手に持ったまま帰ってきているとすると、今日は何もしたくないんですね。お前さんがそんなことをしていたら、わたしたちは何を食べて生きていくんですよ? どこからパンを手に入れるんですよ? せめてうちの灯《ひ》をとぼすだけの油をかせげたらと思って、爪から肉がとびだすほど、夜昼なくただせっせと糸を紡いでいるわたしが、お前さんに下袴や、ほかの着物類を勝手に質に入れられて、黙っていると思っているんですか? お前さん、これを見てびっくりしない者や、わたしがこうやって骨を折っているのを見て、わたしを馬鹿にしない者は、この近所には一人だっていませんよ。だのに、お前さんは、今ごろは仕事をしていなくてはならないのに、両手をぶらんぶらんさせてうちへ戻ってくるんですからね!」
こう言うと、彼女は泣きだして、また初めからまくし立てました。
「ああ、わたしは不仕合わせで、悲しいったらないわ! なんて間《ま》の悪い生まれ方をしたんでしょう! なんて悪い時に、来合わせたんでしょう! とてもりっぱな青年と結婚ができたのに、それをことわって、この人の、自分の家へ連れてきた女のことを考えてもみないこの人のところに、来ちまったんですからね。ほかの女の人たちは、自分たちの恋人《いいひと》とちちくり合っていて、それぞれ恋人の二人や三人こしらえていない者はいないんですよ。そうしていい思いをして、夫たちには月を太陽といいくるめているのよ! ところがわたしときたら、ああ! お人好しで、そんな話には耳をかさなかったばかりに、苦しい思いをし、不運をかこっているのです。わたしは、ほかの女の人たちのように、どうして自分がこうした恋人たちをつくらないのか、わけがわからないんですよ。よく覚えておいて下さいよ、お前さん。わたしが悪いことをしようと思ったら、すぐにその相手は見つかるんですよ。だって、わたしを愛していて、わたしを好いてくれて、たくさんのお金やら、わたしがいいといえば、着物でも宝石でもくれるといって、使いをよこしたかなり伊達な人たちが幾人もいるんですからね。でも、わたしは、そんなことのできるような女の娘ではありませんから、わたしの心がそんなことは受けつけませんでした。だのにお前さんは、今ごろは仕事をしていなければならないのに、うちに戻ってくるんですからね!」
夫が言いました。
「ああ! お前、お願いだから悲しまないでおくれよ。どうか信じておくれ、わたしはお前がどんな女だか知っているし、今朝も幾分それがのみこめたんだよ。なるほど、わたしが仕事に出かけたのはほんとうだ。だがこのわたしが知らなかったように、お前も知らないらしいね。今日は聖ガレオーネの祭日で、仕事は休みさ、だから、こんな時間にうちに帰ってきたんだよ。だが、にもかかわらずだ、わたしは、二人が一月以上も食えるような方法を考えて、見つけてきたんだよ。というわけはね、ここにわたしと一緒にいる人に、お前も知ってるように、前々から、家のじゃまになっていたその樽を売ったんだよ。で、わたしに五ジリアーティ(一三〇〇年ごろ鋳造されたナポリの貨幣。フランスの百合の花の飾りがついていたのでジリアーティ貨、すなわち百合貨とよばれた)の代金をくれるんだよ」
すると、ペロネッラが言いました。
「そうしたことが、なにもかも、わたしを怒らせるのよ。お前さんは男で、出歩いていて、世間のことを知っていなくちゃならないのに、樽を五ジリアーティで売ったんですね。わたしは女の身で、戸口の外にちょっとでも足をふみだしたことはないけれど、それがうちのじゃまになるのを見て、あるいいお方に七ジリアーティで売ったんです。そのお方は、お前さんが帰ってきたときに、樽がしっかりしているかどうか見ようとして、中へはいったんですがね」
夫はそれを聞くと、たいへんよろこんで、そのためについてきていた男に向かって言いました。
「お前さん、どうか帰っておくれ。お聞きのとおり、お前さんは五ジリアーティしか出さなかったが、わたしの家内は、七ジリアーティで売ったんだからね」
その人が言いました。
「それは何よりですね!」
そして、立ち去りました。するとペロネッラは夫に向かって言いました。
「さあ、お前さんがいる以上は、こっちへきて、その人とわたしたちの取引を話し合って下さいよ」
何か心配なことが起こりはしないか、何か措置を講じなくてはならないようになりはしまいかと、聞き耳を立てていたジャンネッロは、ペロネッラのことばを聞くと、すぐさま樽の外にとび出して、まるで夫の帰ってきたことなどなにも知らないようなふりをして、言いだしました。
「どこですね、おかみさん?」
もうそこにやって来ていた夫が、その男に言いました。
「さあ、わたしでいいんだよ、何か用かね?」
ジャンネッロが言いました。
「お前さんはだれですね? わたしは、この樽の売買をした相手の女《ひと》に用があるんですよ」
人のいい夫が言いました。
「安心して、わたしと売買をすればいいんですよ。わたしはあれの主人ですからね」
そこで、ジャンネッロが言いました。
「樽はかなりしっかりしているようですが、その中に、ぶどう渣滓《かす》を入れておいたようですな。だって、なんだかわからないが、爪ではがすことができないほど乾ききっているものが、一面にこびりついていますからね。でも、それがまずきれいにとれなくては、引き取りませんよ」
そこでペロネッラが申しました。
「いいえ、そんなことで売買がだめになりはしませんよ。うちの主人がすっかりきれいにしますよ」
で、夫が言いました。
「ああ、いいよ」
夫は、道具を下において、服を脱いでシャツひとつになると、灯をつけさせ、鑿《のみ》を渡してもらうと、その中にはいって削りだしました。ペロネッラは、まるで夫がしていることを見たがっているように、そんなに大きくもない樽の口に頭を突っ込んで、そればかりか、片腕をすっかり肩までいれて、言いはじめました。
「こっちを削って下さい。こっちを、それから、向こうも……ほら……ごらんなさいな、こっちに少し残っていますよ」
彼女がこうして、夫に教えたり、注意したりしているあいだに、その朝夫が戻ってきた時にはまだ十分その欲望をみたしていなかったジャンネッロは、思うようにすることができないとみてとって、できるだけ欲望をみたそうと計りました。そこで、樽の口をすっかりふさいでいた彼女に近づくと、広々とした野原で手綱を放たれたさかりのついた牡馬が、パルティアの牝馬を襲うような恰好で、その若い欲望をみたしました。欲望が完全にみたされたちょうどその時に、樽削りの仕事も終わりました。で、彼はわきに離れ、ペロネッラは、ジャンネッロに言いました。
「さあ、この灯を持ってね、お前さん、あんたの気のすむようにきれいになっているかどうか、見て下さいよ」
ジャンネッロは、中をよく見てから、これでよろしい、自分としては結構だと言いました。そして、夫に七ジリアーティを払って、それを家に運ばせました。
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第三話
[#この行3字下げ]〈修道士リナルドは、名付け子の母親と寝ている。夫は、彼女と寝室にいる修道士を発見する。彼らは夫に、修道士が名付け子のために呪文で虫を追い出しているところであると思いこませる〉
フィロストラートは、パルティアの牝馬のことを、そう漠然と話すことができませんでしたので、利発な淑女たちは、ほかのことを笑っているようなふりをしながら、笑いました。そして、王は彼のお話が終わったのをみて、エリザに話すようにと命じました。エリザは、それに従って話しだしました。
好ましい淑女の方々よ、エミリアの幽霊のお祓《はら》いの話は、わたしに別の呪文のお話を思いださせてくれました。それはエミリアのお話のようにおもしろくはございませんが、ただ今のところ、わたしたちの話題について、ほかのお話が頭に浮かんでまいりませんので、それをお話しいたしましょう。
みなさまにご承知おきいただきたいのですが、かつて、シエナの町に、かなり伊達な、女好きで、りっぱな家柄の、名前をリナルドという青年がおりました。この青年は、近所のたいへんな美人で、金持ちの奥さんであるアニェーザ夫人に熱烈な思いをよせまして、だれにも疑われないで話しかける方法が見つかりさえしたら、自分の望んでいることはすべて、彼女から手に入れることができるにちがいないと思っておりましたが、その方法がひとつも見つかりませんし、夫人は妊娠中でしたので、その生まれてくるこどもの名付け親になりたいものだと考えました。で、彼女の夫と近づきになりまして、自分で一番正直だと思った方法で、そのことを話して、そのとおりに取り運ばせました。そこでリナルドは、アニェーザ夫人のこどもの名付け親となりまして、彼女に話しかけるちゃんとしたもっともらしい口実ができましたので、勇気を振るいおこして、だいぶ前から相手も自分の眼つきで、それとさとっていた自分の胸のうちを、ことばに出して、相手に知らせました。でもそれを聞いて、夫人は悪い気持ちはしませんでしたが、大した効き目はございませんでした。その後ほどなく、どうした理由かわかりませんが、リナルドは修道士になりまして、どんな牧草《もうけ》を見つけたにもせよ、その地位にずっととどまっておりました。彼は、修道士になった頃は、しばらくのあいだ、自分の名付け子の母親によせていた恋や、その他いろいろのつまらない望みはふり棄てて顧みませんでしたが、それでも時がたつにつれて、修道士の服をまとったままで、そうした空しい望みをまた起こして、見栄《みえ》を飾り、いい服をつけ、身につける物はすべて伊達に飾りたて、歌や、十四行詩や、舞踊歌を作り、歌を歌いだすなど、またほかにもこうしたことばかりしはじめました。
でも、わたくしたちが取り上げているこの修道士リナルドについて、一体わたくしは、なにをしゃべっているというのでしょう? こんなことをやらない修道士たちが、どこにいるというのでしょう? ああ、汚《けが》れ腐った世の恥でございます! 彼らは脂肪ぶとりの姿を見せ、色艶《いろつや》のいい顔で現れ、その衣服や、身のまわりのすべてに軟らかいものをつけて出てくることを恥ずかしいとは思っておりません。そして、鳩のようにではなく、とさかを振り立てて、胸を張ったりっぱな雄鶏のようにして歩いております。彼らが自分たちの小部屋を、煉り薬や、膏薬の一杯はいった壺とか、いろいろの糖菓子の箱とか、蒸溜水や、油のはいっている薬瓶や、細口瓶とか、マルヴァジーアや、ギリシャのぶどう酒とか、ほかのとても貴重なぶどう酒が一杯につめてある瓶とかで、足の踏み場もないようにしておりまして、だからそれは、これを目にする者には、修道士たちの小部屋ではなくて、薬屋か香水の店のような感じがすることは、ふれないでおきましょう。そこで、もっと悪いことは、でございますね、彼らは、自分たちが痛風を病んでいることを他人に知られるのを恥ずかしいとは思っていないのでございます。かなりの断食や、粗末で少量の食物や、節制を守った生活が、人間をやせさせ、細くさせて、大体において健康にするものであることや、そうしたことが病気にさせたといたしましても、すくなくとも痛風にかからせることはないということが、他の人にはわかっていない、知られていないと思いこんでいるのでございます。痛風には、普通、身持ちのいいことや、それからつつしみ深い修道士の生活に属していることが、すべて療法として用いられております。
また彼らは、粗食の生活のほかに、精勤のつづく徹夜や、祈祷や、苦行のための鞭打ちが、人間の顔色を青白くさせ、苦しみ悩んでいるような様子をさせるにちがいないことや、聖ドメニカや聖フランチェスコが、それぞれ四枚も袖無し上衣を持っていたのではなく、見栄を張るためではなしに、寒さをしのぐために、上等の染めた羊毛の生地や、その他の軟らかい生地のものを着ないで、粗い羊毛の、自然のままの色の生地のものを着ていたことを、ほかの人が知らないと思いこんでいるのでございます。そうしたことについて、修道士たちを養っている単純な人々の魂に欠けているところを、神さま、どうかお導きになって下さいますように!
さて、こういうわけで、修道士リナルドは、ふたたび最初《もと》の食欲《よく》をおこして、なんどもうるさいほど、名付け子の母親を訪ねはじめました。そして、大胆になってきて、今までにないしつこさで、自分が望んでいるところに相手をひき入れようとしだしました。人のいい夫人は、誘惑の手はなかなか強く引っ張るし、修道士リナルドがはじめ思ったよりも美男のような気がしてきましたので、ある日、彼からとてもしつこく迫られたときに、要求されたものを許したい夫人がだれでもやる方法にすがって言いました。
「まあ、リナルドさま、修道士さま方もそんなことをなさるのですか」
彼女に修道士リナルドが答えました。
「奥さま、この袖無し上衣を脱ぐことは容易なことでして、それを脱ぎさえすれば、あなたにはわたしもほかの人たちと同じようにただの男に見えて、修道士には見えなくなりましょう」
夫人は吹きだしそうな口の恰好をして、申しました。
「まあどうしましょう! あなたはわたくしの子の名付け親でございます。どうしてそんなことができましょう? それは並外れた悪いことでございましょう。わたくしは、それが並外れた大罪であるということを、なんども耳にしてまいりました。むろん、そうでなかったら、あなたのお望みのことをしても、よろしいんですけれど」
修道士リナルドが彼女に言いました。
「そんなことでおやめになるんでしたら、あなたはお馬鹿さんですよ。わたしは、それが罪でないとは申しません。でも、もっと大きな罪を、神さまは悔い改める者には、いくらでもお赦しになっていらっしゃいます。では、あなたのお子さんの洗礼をしたわたしと、生みの親であるあなたの御主人とどっちがお子さんにとって関係が近いのか、まあおっしゃって下さい」
夫人が答えました。
「うちの主人のほうが関係が近うございますわ」
「あなたのおっしゃるとおりです」と、修道士が言いました。
「で、あなたの御主人は、あなたと一緒におやすみになりませんか」
「ええ、やすみますわ」と、夫人が答えました。
「では」と、修道士が言いました。「お子さんにたいして、あなたの御主人よりも関係のうすいわたしは、当然、あなたの御主人と同じように、あなたと寝ることができるはずです」
論理などわからない、それを説きふせるのにはちょっとした理屈でたくさんだった夫人は、修道士の言っていることがほんとうだと思いこんだのか、それとも思いこんでいるようなふりをしたのか、こう返事をいたしました。
「あなたの賢いおことばに、口答えのできるものがどこにおりましょう?」
そうした後で彼女は、名付け親の関係があるにもかかわらず、修道士の望みをかなえたのであります。二人はそれっきりでよさないで、疑いをうけることがすくなかったので、名付け親の関係にまぎれてやすやすと、なんどもあいびきをかさねました。
ところが、ある時のことでございました。修道士リナルドが夫人の家にやってまいりまして、そこに夫人のなかなかきれいで、かわいらしい女中のほかにだれもいないのを見て、伴《つ》れの者に向かって女中と一緒に行って主祷文を教えるようにといって、これを鳩小屋にやってしまいますと、自分は、こどもの手をひいていた夫人と一緒に寝室にはいって、中から鍵をしめると、そこにおいてあった長椅子の上で、たのしみはじめました。そうしているうちに、名付け子の父親が帰ってまいりました。父親はだれにも気づかれないで、寝室の出入り口にやってきまして、そこを叩いて夫人を呼びました。アニェーザ夫人はそれを聞きつけると言いました。
「もうおしまいですわ。主人が帰ってきたんですもの。もう今度こそは、なぜわたくしたちが親密にしているのか、その理由がわかってしまいますわ」
修道士リナルドは裸でした。つまり袖無し上衣もつけず、肩衣もつけず、肌着をつけているだけでございました。彼はそのことばを聞くと言いました。
「あなたのおっしゃるとおりです。もし服でもつけていたら、なんとか方法もあるでしょうがね。でも、もしあなたがそこを開けて、御主人がわたしのこんなところをごらんになったら、なんとも言いわけのしようがありませんよ」
夫人は、とっさの思いつきにたすけられて言いました。
「さあ、服をお召しなさいよ。お召しになったら、あなたの名付け子を抱きあげて、わたくしが主人にいうことをよく聞いていて下さい。あなたのことばが、あとでわたくしのことばに調子《ばつ》が合うようにするためにですよ。あとは、わたくしにまかせておいて下さいな」
その人のいい男はまだ叩くのをやめませんでしたので、奥さんが答えました。
「今そちらへまいりますよ」と、起きあがると、彼女は愛想のいい顔をして、寝室の出入り口のところへ行き、そこを開けて申しました。
「ねえ、あなた、申しあげておきますが、わたくしたちのところの名付け親のリナルドさんがここにいらっしゃるんですのよ。きっと神さまがおつかわしになったんですわ。だって、もしいらして下さらなかったら、今日は確かに、うちのこどもに死なれていたことでしょうから」
薄っぺらな狂信家はこれを聞いて、すっかり気も顛倒《てんとう》して言いました。
「なんだって?」
「ああ、あなた」と、夫人が申しました。「すこし前に、突然この子が気が遠くなりましてね、わたくしは死んじまったのではないかと思いましたわ。で、どうしたらいいのか、なんていったらいいのか途方にくれていました。ところがそこへ、リナルドさんがちょうどおいでになって、こどもを抱きあげると、『奥さん、これはお子さんのお腹の中にいる虫のせいですよ。虫が心臓に近づいていって、お子さんはきっと殺されてしまいますよ。でも怖がることはありません。わたしが虫に呪文をかけて、みな殺しにして進ぜます。そしてわたしがここから出かける前に、あなたが今までに見たことがないほど、お子さんを丈夫にしてお目にかけましょう』とおっしゃいました。で、あるお祈りをするのに、あなたが必要だったのですが、女中にはあなたが見つかりませんでしたので、リナルドさんは、そのお祈りを、この家の一番高いところで、自分の伴《つ》れの方に言わせまして、リナルドさんとわたくしは、ここの中にはいりました。こうしたお勤めには、子供の母親以外の者がたずさわってはならないので、またほかの者に邪魔されないようにと思いまして、わたくしたちはここに鍵をおろしておきました。リナルドさんはまだ、こどもを抱いていらっしゃいます。あの方のお伴れが、お祈りを唱えおえるのだけを待っていらっしゃるのだと思います。もうそれもすんだことでしょう。こどもはもうすっかり正気を取り戻しておりますから」
お馬鹿さんは、こどもへの愛情から胸をしめつけられて、妻が構えた欺瞞《ぎまん》に気がつかなかったので、そうしたことを信じきって、大きく溜め息をはきだすと、言いました。
「わしは坊やの顔を見に行きたいよ」
夫人が言いました。
「行ってはいけません。うまくいったものを、こわしてしまいましょうから。お待ちなさい。行ってよろしいかどうか見てみましょう。そして、お呼びしますよ」
すっかり様子を聞きながら、ゆるゆるともとどおりに服を着て、こどもを抱きあげた修道士リナルドは、万端の手はずをちゃんと胸にたたんでから、声をかけました。
「あの奥さま、御主人の声がそちらにするようですが?」
お馬鹿さんが答えました。
「ええ、そうですよ」
「それでは」と、修道士リナルドが言いました。「こちらへおいで下さい」
お馬鹿さんがそこへまいりますと、修道士リナルドが申しました。
「神さまのお恵みによって、すこやかになられたあなたのお子さんをお受けとりになって下さい。今晩は、生きてあなたのお目にははいるまいと思った瞬間《とき》もありましたがね。では、聖アンブルオジョ氏の御像《みぞう》の前に神さまを讃えて、お子さんの大きな蝋の像を捧げさせて下さい。その聖人の御功徳によって、神さまがあなたにお恵みを授けられたのですからね」
こどもは父親を見ると、そばに駈けよって、小さなこどもたちがよくやるように、はしゃぎまわりました。父親はこどもを抱きあげると、まるで墓穴から引きだしてでもきたかのように涙を流しながら、接吻をしてこどもを癒してくれたその名付け親にお礼を言いはじめました。修道士リナルドの伴れは、可愛い女中に主祷文を一つどころか、おそらく四つ以上も教えこんだうえ、ある修道女が自分に贈ってくれた白い麻の撚《よ》り糸《いと》の財布をあたえて、これを自分の女信者にしてしまっておりましたが、お馬鹿さんが細君の寝室に来て呼び声をたてているのを聞いて、そっと足音をしのばせて、そこで行なわれていることを、見たり聞いたりできる場所にでてきました。そして、事態がうまく運んでいるのを見て、下へおりてきて、寝室にはいると言いました。
「リナルドさん、あなたがわたしにおいいつけになったあの四つのお祈りは、全部唱えてしまいましたよ」
修道士リナルドが伴れに向かって言いました。
「兄弟よ、あなたは息が長いですね、よくやって下さいました。わたしのほうは、御主人が帰ってこられたときに、まだ二つしか唱えていませんでしたよ。でも、神さまは、あなたのお骨折りや、わたしの骨折りをよみせられて、わたしたちにお恵みを授けられまして、お子さんは全快しましたよ」
お馬鹿さんは、上等のぶどう酒と糖菓子を持ってこさせてこどもの名付け親と、伴れの修道士には何よりも必要であったものをご馳走いたしました。それから、彼らと一緒に家を出て、お大事にといって、引き取ってもらいました。で、さっそく、蝋の像をつくらせまして、聖アンブルオジョの像の前に、ほかのいくつもの像と一緒に、取りつけるようにと送りました。聖アンブルオジョ像にと申しましても、メラノ(ミラノ市のこと)の聖像にではございません。
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第四話
[#この行3字下げ]〈トファノは、ある夜、細君を屋外に閉めだす。細君は嘆願しても家にはいれないので、井戸に身を投げるようなふりをして、そこに大きな石を投げおとす。トファノが家を出てそこに駈けよると、彼女は家にはいって、彼を外に閉めだし、どなりちらして、彼を辱める〉
王はエリザのお話がおわるのを耳にして、ためらうところなく、ラウレッタのほうを向くと、どうかお話をしてもらいたいという様子をしてみせました。すると彼女は、さっそく、こう口を切りました。
ああ、愛よ、あなたの力はなんと大きく、なんと素晴らしいものでございましょう! その忠告がなんと多く、その工夫がなんと多いことでございましょう! あなたが、あなたの足跡を追う者に立ちどころにお示しになるあの用心、あの先見、あの指示を、いかなる哲学者が、いかなる芸術家が、一体示すことができたでしょうか、あるいはまた、できるでしょうか。今までに示されたものの中で、かなりよくわかりますように、確かにほかのどんなことについての教理でも、あなたの教理にくらべると遅れております。愛らしい淑女方よ、わたくしはそうした教理に、さらに単純な夫人が用いた教理を一つ附けくわえましょう。それは、愛のほかにはだれがそうしたものを示すことができるでしょうか、わたくしには見当がつかないようなものでございます。
さて、かつてアレッツォの町に、トファノという名前で呼ばれていた金持ちがおりました。この人には、その名をギータ夫人というなかなかの美人が妻として恵まれました。彼は、どうしたわけか存じませんが、じきにひどいやきもちやきになりました。夫人はそれに気がついて、憤慨すると、なんども夫にそのやきもちの理由を問いただしましたが、彼は一般的なくだらない理由以外には、なに一つ申し立てることができませんでした。そこで夫人は、夫が理由もなく怖れている悪事《こと》で夫に死ぬ思いをさせてやろうと考えるにいたりました。で、彼女は、自分の見たところでは大そうりっぱなある青年が、思いをよせてきているのに気がついておりましたので、慎重に、その青年と意を通じはじめました。で、彼と彼女とのあいだはだいぶ事態が進捗しまして、あとはただ口約束を実行することのほかには、なにも残っておりませんでしたので、夫人はこれについて、そうする方法を見つけようと考えました。で、すでに夫の悪い癖の中で、酒が好きなことを知っておりましたので、それをほめだしたばかりでなく、巧みに、うるさいくらいに、飲め飲めとけしかけました。それが夫の癖になりましたので、自分に都合がいい時にはほとんどいつでも、夫に泥酔するほど酒を飲ませることができました。そして夫が十分に酔ったとみてとったときに、彼を寝かせて、初めて恋人とあいびきをいたしましたが、それからは安心して、なんども男と逢う瀬を重ねました。で、彼女は夫の酩酊《めいてい》にすっかり気を許しまして、大胆にも恋人を自分の家に引き入れたばかりでなく、ときどきは、そこからそう遠く離れていなかった男の家に行って、男と一緒に夜の大部分を過ごしておりました。恋に心を奪われた夫人は、こうしたことをつづけていましたが、さて、この気の毒な夫は、彼女が自分に飲めと勧めていながら、そのくせ自分はちっとも飲んでいないのに気がついたのでございます。そこで彼は、これはおかしいぞ、すなわち、夫人《つま》があとで、自分の寝込んでいる間に、好きなことができるようにと思って、自分を酔わせているのではないかと、疑いだしました。で、そうかどうか、そのことについて試《ため》してみようと思って、ある晩、その日は飲まなかったのに、話しっぷりにも、仕草にも、今までになく、ひどく酔っぱらったふりをいたしました。夫人はそれを本気にして、ぐっすりと寝させるには、それ以上飲ませる必要はないと考えて、さっそく、寝床に入れました。それがすむと、今までなんどかそうしてきたとおりに、家を出て、恋人の家にまいりまして、そこに夜半までおりました。
トファノは、夫人がいないのに気がつくと、起きあがって、戸口のところへ行って内側から鍵をかけ、窓のところに腰を下ろしておりました。それは、自分で、夫人が帰ってくるのを見ていて、夫人のやっていることには気がついているのだと見せようとするためでございました。で、彼は夫人が帰ってくるまで、そうしておりました。夫人は家に帰ってきて、外に閉め出されたことがわかると、一方ならず悲しんで、力ずくでその戸口を開けることができるかどうか、やりはじめました。トファノはしばらくの間、それをじっと見ておりましたが、そのあとで言いました。
「妻よ、いくらやってもむだだよ。家の中にはいれるわけないからね。さあ、今までいたところに帰ったらどうだい。わたしが、お前の親戚や、近所の人たちの前で、このことについて、当然お前にふさわしいあつかいをしてあげるから、それまではどうしてもはいれないものと覚悟したほうがいいよ」
夫人は、自分はあなたが想像なさるようなところからきたのではなくて、夜が長くて、夜じゅう眠れなくて、家で一人でいるのもつらいといっている近所の婦人のところに行って起きていたのだから、どうか戸を開けてもらいたいと、哀訴嘆願《あいそたんがん》をしはじめました。それでもその馬鹿者は、だれも知らなかった自分たちの恥を、アレッツォの人たち全部に知らせたいと思っておりましたので、そんな嘆願はなんの役にもたちませんでした。夫人は、嘆願がなんの役にもたたないのをみてとると、おどしの手に移って言いました。
「開けてくれなければ、わたくしはあなたを、この世で一番不幸な人間にしてしまいますよ」
トファノが彼女に答えました。
「わたしにたいして、何ができるというんだね?」
夫人は、愛《アモーレ》によって、そのいろいろの勧告で、自分の知恵をとぎすまされておりましたので、こう答えました。
「わたくしは、罪もないのに、あなたがわたくしにうけさせようとする恥を我慢しているくらいなら、その前に、このすぐそばにある井戸に身を投げてしまいますよ。あとでわたくしが井戸の中に死んでいるのが見つかったら、ほかでもないあなたが、酔っぱらってわたくしをそこに投げこんだのだと思わない者は一人もいないでしょうね。そうなればあなたは逃げだして、財産を失って、流浪の旅をつづけなければならないでしょうし、あるいはまた、事実そうなりますように、わたくしを殺した犯人として、頭を刎《は》ねられねばならないでしょう」
こうしたことばを聞いても、トファノは自分の愚かな意見をかえませんでした。そんなわけで夫人が言いました。
「さあ、もうわたくしは、こうしたあなたのいやな仕打ちには我慢ができません。あなたに神さまのお許しがございますように。このわたくしの紡錘《つむ》を、ここにおいておきますから、あとで持ち返らせて下さいな」
こう言うと、その夜は道で会ってもほとんどおたがいに姿も見分けられないほど真っ暗でしたので、夫人は井戸の方に行って、井戸のそばにあったとても大きな石を持ち上げると、「神さま、お許し下さい!」と叫んで、それを井戸の中に落下させました。石は、水にとどくと、すごく大きな音をたてました。トファノはそれを聞きつけると、すっかり彼女が身投げをしたものと思いこんでしまいました。そこで、綱のついている釣瓶《つるべ》をとると、すぐさま、彼女を助けるため家からとびだして、井戸に駈けよりました。自分の家の戸口のそばにかくれていた夫人は、彼が井戸に駈けて行くのを見ると、すぐに家にとびこんで、内側から鍵をおろして、窓のところに行って、しゃべりだしました。
「葡萄酒は人が飲むときに、水を割ればよろしいのですが、夜半をすぎてからではいけないんですよ」
トファノは、彼女のことばを聞くと、かつがれたことを知って、戸口のところに戻ってきましたが、中にはいることができないので、開けてくれと言いだしました。彼女は、そのときまでしていたような小さな声で話すやり方を棄てて、ほとんどどなりたてながら言いだしました。
「まあ、あきれた、このうるさい酔っぱらいめ、あなたは今夜、中へは入れませんよ。もうこうしたあなたのやり方には我慢ができません。あなたがどんな人間か、夜は何時に家に帰ってくるか、みんなにお見せしておく必要がありますからね」
一方、トファノは腹をたてて、罵ったり、どなったりしはじめました。近所の人たちは、その騒ぎを聞いて起きあがると、男も女も、窓に駈けよって、何が起こったのかとたずねました。夫人は、泣きながら話しだしました。
「この人は、悪党なんですよ。夜、酔っぱらって帰ってきたり、居酒屋に寝込んでしまって、それからこんな時間に帰ってくるんですよ。そのことでわたくしは長いあいだ辛抱してきましたが、なんの甲斐もありませんし、あの人が矯《なお》るかどうかみたいと思って、家の外に閉めだすようなこんな恥をかかしてやりたいと思ったんですよ」
一方、馬鹿者のトファノは、事件がどうだったか、一部始終を述べたてて、夫人をひどく嚇かしました。夫人は近所の人々に言いました。
「まあ、ごらんなさい、なんていう人なんでしょうね! もしわたくしがあの人のように道《そと》にいて、あの人がわたくしのように家の中にいるとしたら、あなた方はなんとおっしゃるでしょうね? どうしたって、あの人のいうことがほんとうだとお思いになりましょう。これで、あの人の頭のきれることがよくおわかりでしょう! あの人が自分でしたことを、あの人ときたら、ほかでもないわたくしがしたのだといっているんですよ。あの人はなんだか知らないが井戸に投げこんで、わたくしがびっくりすると思ったんですよ。でも、ほんとうに井戸に身投げをして、溺れてしまえばよかったんですわ。そうすれば、あの人がたらふく飲んでいたぶどう酒がとてもいい具合に水で割られたでしょうからね」
近所の人々は、男も女もこぞってトファノを非難して、彼が悪いのだと言い、彼が夫人に叱って言ったことについて、彼を罵りはじめました。でまたたく間に、騒ぎは隣から隣へと伝わっていって、とうとう夫人の親戚の人々の耳にまではいりました。親戚の人々はそこにやってきて、事件のことをそばにいたあちこちの人から聞いて、トファノを捕えると、うんと殴りつけて、全身をいためつけました。それから家の中にはいって、夫人の持ち物をかき集めて、トファノを前よりもひどくおどかしつけながら、夫人ともども、自分たちの家に帰りました。トファノは、これはまずいことになった。自分のやきもちのせいで、こんな目にあったのだと気がつきましたので、もともと夫人を心から愛しておりましたから、何人かの友人を仲に立てて、いろいろ苦労したあげくに、仲直りができて、夫人をふたたび家に迎えました。夫人に向かって彼は、もうこれからはやきもちをやかないと約束をいたしまして、そればかりでなく、なんでも好きなことをしてよろしい、だが、自分にわからないようにうまくやってもらいたいと、許可をあたえました。こうして、大馬鹿の田舎者のように、損をしてから約束を結びました。愛よ、万歳、戦いとその全部隊よ、亡び去れ。
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第五話
[#この行3字下げ]〈ある嫉妬深い男が、司祭の格好をして妻の懺悔を聞く。妻は毎夜自分のところにくる司祭を愛しているということを知らせる。そこで、嫉妬深い男が、かくれて戸口の番をしているあいだに、女は屋根伝いに恋人をこさせて、彼と一緒に寝る〉
ラウレッタはそのお話をおえました。で、すでにみんなもめいめいその女がよくやった、その悪い男にふさわしい仕返しをしたものだと、ほめそやしました。王は、時間を失うまいとして、フィアンメッタの方に向くと、やさしく、彼女にお話をする役目を課しました。そこで彼女は、こう話しはじめました。
いと気高い淑女のみなさま、ただ今のお話で、わたしは同じように、ある嫉妬深い男のお話をいたさなければならないような気持ちでおります。そうした男の方々にたいして、とくに彼らが理由もなく嫉妬を起こす場合に、その婦人の方々がとられた手段を、わたしは、当然のことをなさったと思っているからでございます。また、もし法の制定者たちが、あらゆる点を考慮なさっていたならば、この場合についても、自分を防衛するために他人を傷つけた者にたいして定めた刑罰以外には婦人にたいして定めるはずがなかったでしょうと、わたしは判断いたします。嫉妬深い男の方々は、若い婦人たちの命に罠《わな》をかける者であり、彼女たちの死をひどく熱心に探し求めている輩《やから》だからでございます。彼女たちは一週間全部の日々を家に閉じこもっていて、家庭や家事の用事に従っていますが、だれでもしているように、祭日には、いくらか慰安や休養をとって、いくらかたのしみもとれるようになりたいと思っております。畑の農夫たちや、町の工人たちや、法廷の裁判官たちがしているようにでございますね。七日目には、すべてのお骨折りから休まれた神さまがなさったように、また神さまの名誉《ため》と、めいめいの共通の幸福を考えて、労働の日と休養の日を分けている宗教上の規則や、一般社会の規則が求めているようにでございますね。ところが、嫉妬深い男たちは、そうしたことに、少しも力をかそうとはいたしませんでした。それよりも、彼女たちをさらに厳重に、家に閉じこめ、部屋に押しこめておいて、ほかのすべての人たちには幸福なそうした日を、一段と悲惨な、悲しいものにしております。それが、不幸な婦人たちにとって、どんなに大きな、深い悲しみであるかは、それを味わったものだけが存じております。ですから、結論として、ある婦人が、理由もないのに嫉妬深い夫にたいしてやってのける仕打ちは、確かに、非難されるべきものではなくて、賞讃されるべきものでございます。
さて、アリミノに、土地も金もたくさん持っている、一人の金持ちの商人がおりました。この人は、非常な美人を奥さんにしておりまして、奥さんのことでは、並外れて嫉妬深うございました。これについては、彼が奥さんを非常に愛していて、たいへんな美人であると思っており、奥さんがあらゆる方法を講じて、彼の気に入るようにつとめていることを知っていながら、またあらゆる男の人が彼女を愛していて、彼女がだれにでも美人に思われ、さらに彼女が彼にすると同じように、ほかの男たちの気に入ろうともつとめていると考えていたことのほかには、彼にとっては別に取り立てた理由とてございませんでした。それは馬鹿な、頭のない人間の理屈でございました。で、ひどく嫉妬深くなって、非常な看視ぶりで、身動きのできないようにおさえつけておりましたが、それは死刑の宣告をうけた人々でも、牢番たちからこれほどの看視はうけなかっただろうと思われるくらいでございました。奥さんが結婚式や、お祭りや、教会に行くことができなかったり、どんなことがあっても家から一歩も踏み出すことができなかったことはもちろんのこと、奥さんはどんな理由がありましても、窓から顔をだしたり、家から外を眺めたりしようとはいたしませんでした。そんなわけで、彼女の生活はひどく悪いものでございました。で、奥さんは、自分では罪がないことを知っておりますだけに、なおさらこの苦痛にはどうにも我慢がなりませんでした。
そこで、彼女は、自分がとが[#「とが」に傍点]もないのに夫から不当な扱いをうけているのだから自分の気がすむようにするために、そういう取り扱いをうけるには、それだけの理由があるようにする方法を、もしそうした方法が見つかるならば見つけようと決心いたしました。窓から顔を出すこともできないし、家の前の通りを往きながら、自分に気のある態度をとっている男の恋を嬉しいと思っているようなそぶりを見せる方法もございませんでした。しかし彼女は、自分の家の隣に、美男の、好ましい青年がいるのを知っておりましたので、自分の家と彼の家をわかっている壁になにか孔でもあったら、そこからなんども覗いていれば、青年と顔を合わせて、彼に話しかけるようにもなろうし、もし自分の恋を彼がうけてくれるというなら、それを捧げよう、またその方法さえ見つかるならば、ときどきは彼とあいびきもしようと考えました。そして、こんなふうにして、夫の体内から悪魔が退散するまで、よこしまな生活を送っていようと考えました。そこで、夫が不在の時に、ここかしこと折にふれて違った場所に行って、家の壁を見ておりましたが、さいわい、家の一番気のつかれない場所に、壁の隙間が幾分あいているのが見つかりました。その隙間をとおして見ると、向こう側は、ほとんどなにも見分けがつかないくらいでしたが、それでもそこには部屋があって、隙間がちょうどそのところに当たっていることがわかりましたので、彼女はひとりごとを言いました。「もしこれがフィリッポのお部屋だったら――だから隣人の青年のだったら――わたしの計画は半ば達せられたようなものだわ」そこで彼女は、自分に同情していた女中を使って、用心深くそれを探らせました。で、ほんとうにその青年がその部屋に、たった一人で寝ていることがわかりました。そこで、隙間のところになんどもまいりまして、青年がいるとわかると、小石や木片を投げ落としましたが、あまり頻繁にそうするので、青年は何事だろうとそれを見にそこへ近づいてまいりました。その青年を、彼女がそっと呼ぶと、彼はその声に聞きおぼえがありましたので、彼女に返事をいたしました。彼女は、これはいい具合だとばかりに、手短かに自分の胸のありったけを、彼に打ち明けました。すると青年は有頂天になってしまい、自分のほうから孔が大きくなるように計らいました。もっとも、だれにも気づかれないようにはいたしました。そして、ここから頻繁に話を交わし、手を触れ合いましたが、嫉妬深い男のきびしい看視があるために、それ以上は踏みこんですることはできませんでした。
さて降誕祭が近づきましたので、奥さんは夫に向かって、もしよろしかったら他の信者たちがするように、祭日の朝、教会に行って告解をして、御聖体を拝領したいと申しました。嫉妬深い夫が言いました。
「告解したいなんて、どんな罪を犯したんだい?」
奥さんが申しました。
「なんですって? あなたはわたくしを閉じこめておいでになるので、わたくしが聖女のようにしているとお思いなんですか。あなたのご存じのように、わたくしは、この世に暮らしているほかの人々と同じように、罪を犯しているのです。でも、あなたは司祭さんではありませんから、あなたにそのことを申しあげたくないのです」
嫉妬深い男は、このことばに疑いをおこして、彼女がどんな罪を犯したのか知りたいと思って、その思いをとげる方法を考えつきました。そこで、よろしいと答えました。だが、自分たちの礼拝堂以外の教会に行ってはいけない、またそこへは朝早く行って、自分たちの助任司祭か、助任司祭が指定する司祭のところで告解をして、他の者のところではしないように、それからすぐに家に帰ってくるようにと答えました。奥さんには、半ば意味がのみこめたような気がいたしましたが、なにも言わないで、ただそのとおりにすると答えました。
聖日の朝がまいりましたので、奥さんは夜明けに起きあがって、身なりをととのえると、夫から言われていた教会にまいりました。一方、嫉妬深い夫は起きあがると、その同じ教会に出かけて行って、彼女よりも前に到着いたしました。で、自分がしようと思っていたことを、その教会の司祭と前もって相談しておきましたので、わたしたちが司祭たちの身につけているのをよく見かけるような両頬に垂れ布のある大きな頭巾のついた司祭服を一着まといまして、頭巾をすこし目深に引っ張っておいて、唱歌隊の中に坐りこみました。奥さんは教会にやってくると、助任司祭をたずねました。助任司祭は出てまいりまして、奥さんから告解したいということを聞いて、自分は聞くことができない、でも自分の仲間をよこしましょうと言いました。そして、立ち去りましたが、あいにくと嫉妬深い夫をよこしました。夫は、大そうもったいぶった恰好でやってまいりまして、まだ日は大して明るくなっていないし、頭巾をうんと目深にかぶっていたにもかかわらず、うまくごまかすことができませんでしたので、すぐに奥さんから見破られてしまいました。奥さんはこれを見て、「この人が、嫉妬深い男から司祭になったのは、ほんとにありがたいことだわ。でも、わたくしにまかせとくがいいわ。この人には、この人が探しまわっているものをくれてやるから」と、ひとりごとを言いました。
そこで、夫だとは気がつかないようなふりをして、その足もとに坐りました。嫉妬深い男は、ほかの点では、すっかり変装ができているように思って、どんなことがあっても見破られることはないと思っておりましたので、いくぶん話し方のじゃまになるように、そうした話し方をすれば、細君から見破られることがないだろうからというわけで、口に小石をいくつかいれておきました。さて告解をする段になって、奥さんはまず自分が結婚していることを話してから、そのほかにいろいろと述べましたが、その中には、毎夜自分のところにきて寝るある司祭に、自分は思いをよせているのだということがはいっておりました。嫉妬深い男はこれを聞いたときに、胸に短刀を突き刺されたような気がいたしました。そして、もしもその話の先をどうしても、もっと知りたいという気持ちがおこらなかったら、彼は告解などほうりだして、立ち去っていたことでございましょう。そんなわけで、そのままじっと動かないで奥さんにたずねました。
「なんですって? あなたの御主人は、あなたと一緒に寝ないんですか」
奥さんが答えました。
「寝《やす》みますわ」
「では」と嫉妬深い男が言いました。「どうして、その司祭もあなたと寝ることができるんでしょうか」
「はい」と奥さんが申しました。「司祭さんがどんなふうにして寝て行くのかは存じませんが、家では、あの方が手をふれて開かないような入り口は一つもございません。あの方のお話ですと、あの方がわたくしの部屋の入り口のところにおいでになってそれを開ける前に、なにか二言三言おっしゃると、それで主人はすぐに眠ってしまうそうでございます。で、眠ったとわかると、入り口を開けて中にはいってこられて、わたくしと寝られるのでございます。これは寸分《すんぶん》の手違いもなくいくのだそうでございます」
すると、嫉妬深い男が言いました。
「奥さん、それはいけないことです。そんなことはすっかりおやめにならなければいけません」
奥さんが彼に言いました。
「司祭さま、そんなことは、絶対にできそうもございません。だってわたくしは、とてもあの方を愛しているのでございますもの」
「それでは」と嫉妬深い男が言いました。「わたしは、あなたを嚇すことはできますまい」
奥さんが彼に申しました。
「それは悲しゅうございます。わたくしは、ここに嘘を申しにまいったのではございません。もし自分にできると存じましたら、そうあなたさまに申しあげたいのでございます」
すると、嫉妬深い男が言いました。
「ほんとうのところ、奥さん、わたしは、あなたがそんなことをして魂を失《な》くされるのを見て、お気の毒な気がします。でもわたしは、あなたのために、あなたに代わって神さまに特別のお祈りを捧げる骨折りをしてあげたいと思いますが、たぶんそれは、あなたのためになることでしょう。ときどき自分の助祭をあなたのところへやりますから、それに、わたしのお祈りがあなたのためになったかどうか、おっしゃって下さい。で、ためになったら、こんなふうにやっていってみましょう」
彼に奥さんが言いました。
「司祭さま、家に人をよこすようなことは、なさらないで下さい。なぜなら、もし主人にそのことがわかりますと、とてもひどいやきもちやきでございますから、私がなにか悪いことをしたのだろうという考えをおこして、どんなことになっても、それを取りのけることはできないでしょうし、わたくしは、主人と年じゅう仲違いをしていなければならないでしょうからね」
嫉妬深い男が、彼女に言いました。
「奥さん、そんなことは心配なさらないで下さい。あなたが御主人から決してなんともいわれないように、わたしがきっと取り計らってあげましょうからな」
すると奥さんが申しました。
「もしそうなさるお気持ちでございますのなら、わたくしはうれしゅう存じます」
告解をすませ、贖罪をすることにして、立ち上がると、ミサを聞きにまいりました。嫉妬深い男は、その身の不運にふうふういいながら、司祭の衣服を脱ぎにいって、それから、司祭と細君が一緒にいるところを見つけて、二人をひどい目にあわせてやる方法をなんとか見つけたいものだと思いながら、家に帰ってまいりました。奥さんは教会から帰ってきて、夫の顔を見ると、夫にひどい仕打ちをしてしまったことをはっきりとさとりましたが、夫のほうは、できるだけ自分のしてきたことや、知ってしまったことをかくそうと、いろいろと骨を折っておりました。で、夫は次の夜は、道に面した戸口のところにいて、司祭がくるかどうか待っていなければなるまいと、心の中できめまして、奥さんに言いました。
「わたしは、今晩よそで夕飯をいただいて、泊まってこなければならないんだよ。だから、道に面した戸口と、階段の中途にある入り口と、寝室の入り口は、ちゃんと鍵をかけておきなさい。で、いい時刻《ころ》だと思ったら寝みなさいよ」
奥さんが答えました。
「よろしゅうございます」
で、暇ができてから、孔のところに行って、いつもの合図をいたしました。フィリッポはそれを聞きつけると、すぐに孔のところにまいりました。奥さんは彼に、その朝、自分がしてきたことや、夫が食事に出かけたことを話して、それから申しました。
「きっとあの人は外出するのではなくて、戸口の番をするのだろうと思います。だから、わたくしたちが一緒になれるように、今夜ここへ屋根を伝わっていらっしゃる手だてをお見つけなさいな」
青年はそれをきいて非常によろこんで言いました。
「奥さん、わたしにおまかせになって下さい」
夜になると、嫉妬深い男は武器を持って、こっそりと地階《した》の部屋に身をかくしました。奥さんは、いい頃合いだと思ったときに、戸口という戸口に全部鍵をかけさせて、とくに、嫉妬深い男が上がってこられないようにと、階段の中途にある入り口に鍵をかけさせました。青年は自分のところから、非常に用心のいい途をとおってやってまいりました。で、二人は寝床にはいって、たがいにたのしみ合い、愉快な時を過ごしました。そして夜が明けると、青年は自分の家に帰りました。嫉妬深い夫は悲しい思いにしずみながら、夕飯も食べずに、寒さに生きた心地もなく、ほとんど夜っぴて武器を手に戸口にくっついて、司祭がくるかどうかと待っておりました。夜明けが近くなってきて、もう番をしてはいられませんので、地階《した》の寝室で眠ってしまいました。そうして、九時頃起きあがると、もう家の戸口も開いておりましたので、よそから来たようなふりをして、自分の家に上がってきて、食事をしました。で、すこししてから、一人の若者を、彼女の告解を聞いた司祭の助祭のように仕立てて、彼女のもとにやって、彼女の知り合いの司祭がまたやってきたかどうか、聞かせました。その使いの者をとてもよく知っていた奥さんは、例の司祭はその晩はこなかった、もしこんな具合だったら、たとえ自分がその司祭を忘れまいとしても、自分の念頭から消えてしまうかもしれないと答えました。
さあ今、わたくしはあなた方に何をお話しすることがございましょう? 嫉妬深い夫は、幾夜も幾夜も、司祭がはいってくるところをつかまえてやろうと番をしておりました。奥さんは、その恋人とたえずたのしい時を過ごしておりました。もう我慢ができなくなった嫉妬深い夫は、とうとうふくれっ面をして、細君に向かって、彼女が告解をしたあの朝、司祭になにを話したか尋ねました。奥さんは、それは正しいことでも、りっぱなことでもないからと言って、話したくないと答えました。嫉妬深い夫が、彼女に言いました。
「悪い女め、お気の毒だが、わたしはお前が司祭に話したことを知っているんだ。お前がそれほど思いをよせていて、毎夜魔法を使ってお前と寝て行く司祭がだれか、どうしても知らなくてはならない。それができなければ、お前の血管を切ってやる」
奥さんは、自分が司祭などに思いをよせているのは、うそだと申しました。
「なんだって?」と嫉妬深い夫が言いました。「お前の告解を聞いた司祭に、これこれしかじかといったではないか」
奥さんが申しました。
「あなたがそこに立ち会ったとしても、それ以上よくはわからないくらい、よくもまあ、あの司祭は、あなたにいいつけたものでございますね。ええ、そうですとも、わたくしはあの人にそう申しました」
「じゃあ」と嫉妬深い夫が言いました。「その恋人の司祭とはだれなのか、早くいってくれ」
奥さんは笑いだして、申しました。
「牡羊が角を持って屠畜場に曳《ひ》かれて行くように、賢い人がつまらない女に引きずり廻されると、わたくしはとても愉快な気持ちがいたしますのよ。もっともあなたは、ご自分でその理由も知らずに、その胸に嫉妬の悪霊をはいりこませて以来今日まで、賢くはないし、賢かったこともございませんでしたがね。で、あなたが馬鹿で、とんちき[#「とんちき」に傍点]であればあるほど、わたくしの手柄も小さくなるんですよ。ねえあなた、あなたはご自分の心の目が見えないのと同じように、わたくしのこの頭についている目もめくらだとでもお思いなのでございましょうか。そんなことは決してございません。わたくしは、この目で見て、自分の告解を聞いた司祭がどなただったかわかったのです。で、それがあなただったことも存じているのでございます。でもわたくしは、あなたが探し求めていらしたことを、あなたにさしあげようと決心して、それをさしあげました。けれども、もしあなたが、ご自分でお考えになっていらっしゃるように賢い人でしたら、そんな方法であなたの奥さんの秘密を知ろうとはなさらなかったでございましょうし、また、つまらない疑いなどおこさないで、奥さんがあなたに告解したことはほんとうのことであって、奥さんは何ひとつ罪は犯していなかったのだということに、気がつかれたはずでございます。わたくしは、ある司祭さんを愛していたと申しましたね。で、わたくしが度を越してまで愛しているあなたは、あの司祭だったのではありませんでしたか。司祭さんがわたくしと寝たいとお思いになる時には、わたくしの家の戸口はどれもこれも鍵をかけておけないと、あなたに申しましたね。あなたがわたくしのいるところにいらっしゃりたいとお思いになるときに、あなたの家で、どの戸口がこれまでに鍵がかかっていたことがございましたでしょうか。司祭さんは毎夜わたくしと一緒に寝ると、あなたに申しましたね、いつあなたがわたしと寝なかったことがございますか。で、あなたが、助祭をわたくしのところにおよこしになったときは、いつでもご存じのように、あなたがわたくしと寝ていませんでしたから、司祭さんはわたくしのところにはこなかったと、あなたに伝えさせました。ご自分の嫉妬のために盲目になったあなたのほかに、こんなことがわからないような馬鹿がどこにおりましょうか。あなたは、夜、戸口で番をするために家にいて、わたくしには、ご自分がよそへ行って食事をして、泊まってきたのだと思いこませたとお考えでございます。もうご自分の誤りをおなおしになって下さい。そして今までの、いつもの人間に返って下さい。わたくしと同じように、あなたのやり方を知っている者たちに愚弄されないようになさって下さい。そうして、今なさっていらっしゃるような仰々しい看視をおやめになって下さい。なぜなら、神さまにお誓いいたしますが、もしあなたを欺いて間男《まおとこ》を作りたいという気になったら、たとえあなたに、いま二つの眼があるように、百の目が生えでてきましょうとも、あなたには気づかれないように、自分の好きなことをしとげる勇気が、その欲望からわいてくるでございましょうからね」
細君の秘密をとても巧みに聞きこんだような気持ちでいた、馬鹿な、嫉妬深い夫は、これを聞くとしょげかえってしまいました。で、もうなんとも答えないで、細君を、善良な、賢い女だと思いました。そして、ちょうどその必要がないときに、嫉妬という名の衣をつけていたように、嫉妬が必要となったときには、すっかり嫉妬の衣を脱いでしまいました。そんなわけで、賢い奥さんは、まるで道楽をする許可でもうけたかのように、恋人を猫が歩くように屋根伝いにこさせないで、入り口からはいらせて、用心深く振る舞いながら、その後なんどとなく、恋人とたのしい時を過ごし、愉快な日を送りました。
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第六話
[#この行3字下げ]〈ランベルトゥッチョ氏から愛されていたイザベッラ夫人は、レオネットと一緒にいるところへ、同氏の訪問をうける。そこへ自分の夫が帰ってきたので、彼女はランベルトゥッチョ氏に頼んで短剣を片手にかざしながら家を出て行ってもらう。そのあとで彼女の夫はレオネットを送って行く〉
フィアンメッタの話は、すばらしく、一同の気に入りまして、みんなはめいめい、奥さんはとてもうまくやった、それは、馬鹿な男には必要な薬だったとはっきり話しました。そして、話が終わると、王はパンピネアに、あとをつづけるようにと命じました。パンピネアが話しだしました。
世の中には軽率な口のきき方をして、恋は人から分別を奪い、恋する人を愚か者にするといっている者がたくさんおります。ばからしい主張だとわたくしには思われます。今まで話されたことが、十分にそれを示しておりますが、わたくしはも一度それを示したいと存じます。
あらゆる財産に充ち溢れているわたくしたちの町に、身分の高い、とても美人の、若い婦人がおりました。この方は、さる非常に勇気のある、りっぱな騎士の夫人でございました。人間というものは常に同じ食物では満足しないで、ときには食物をかえたがることがよくございますが、この婦人も夫には大して満足いたしませんで、名門の生まれでこそございませんでしたが、大そう人好きのする、態度のりっぱな、レオネットという名前の青年に思いを寄せました。青年も同じように彼女を恋しておりました。あなた方もご承知のように、両方でそれぞれ思い望んでいることが、実を結ばないのは珍しいことでございまして、二人が自分たちの恋の仕上げをするには、大して時間はかかりませんでした。さて、この夫人は、美しい、こぼれるような愛嬌のある方だったので、ランベルトゥッチョ氏という騎士がひどく彼女にお熱をあげたのでございます。この騎士は、不愉快な、しつこい男のように思われましたので、彼女のほうでは、世界じゅうの何をもらっても、彼を愛する気にはなれませんでした。ところが男のほうは、なんども使いの者をだして、しつこく彼女に迫りましたが、なんの甲斐もございませんでした。彼は有力な人物でしたので、人をやって、もし自分の意に従わなければ恥をかかせてやるとおどかしました。そこで夫人は、怖ろしい、相手がどんな人間であるのか知っておりましたので、彼の意に従うことになりました。
さて、イザベッラという名前だったその夫人は、夏のわたくしたちの習慣に従って、田舎にあるたいへん美しい別荘に行っておりました。ある朝のこと、自分の夫が馬に乗って、どこかある土地へ、何日か滞在をしに出かけましたので、レオネットに使いの者をだして、自分のところに泊まりにくるようにと伝えましたものですから、レオネットは大喜びで、さっそくやってまいったのでございます。ランベルトゥッチョ氏は、夫人の夫がよそに出かけたということを聞いて、ただ一人馬に乗ると、彼女のところに行って、戸口を叩きました。夫人の女中は、彼の姿を見ると、すぐに、レオネットと一緒に寝室にいた夫人のところに行って、彼女を呼んで言いました。
「奥さま、ランベルトゥッチョさまがたったお一人で、この下にまっておられます」
夫人はこれを聞くと、このうえもなく悲しみました。でも、騎士を非常にこわがっておりましたので、レオネットに、ランベルトゥッチョ氏が立ち去るまで、寝台のカーテンのうしろに、気をわるくしないで、しばらくかくれているようにと頼みました。夫人におとらず騎士をこわがっていたレオネットが、そこに身をかくすと、彼女は女中に向かって、ランベルトゥッチョ氏のために戸口を開けに行くようにと命じました。戸口が開いて、騎士は中庭で馬からおりると、そこの掛け金に馬をつないで、上にのぼってきました。夫人はやさしい顔をして、階段の上まで出てきて、できるだけうれしそうなことばを使って彼を迎えると、何か用なのかとたずねました。騎士は彼女を抱擁して、接吻してから言いました。
「わたしの魂よ、御主人がお留守だと聞いたので、ちょっとばかりあなたと一緒にいたいと思って伺ったのですよ」
こうしたことばのあとで、二人は寝室にはいって、中から鍵をかけると、ランベルトゥッチョ氏は彼女を相手にたのしみはじめました。彼が夫人とこんなことをしているうちに、彼女としては全く思いがけなかったことですが、夫が帰ってきたのでございます。女中は主人の姿を屋敷の近くで見つけましたので、すぐさま夫人の寝室に駈けこんで行って、申しました。
「奥さま、ただ今旦那さまがお帰りでございます。もう下の中庭にきていらっしゃると思います」
夫人はこれを聞くと、家の中に二人の男がはいっていることを承知しているし、馬が中庭につないであるので、騎士が身をかくせないことを知っておりましたので、生きた心地もしませんでした。それでも、すぐに寝台から下にとびおりると、腹をきめて、ランベルトゥッチョ氏に言いました。
「騎士さま、あなたが少しでもわたくしを愛していらっしゃり、わたくしを死から救いだしたいとお思いでしたら、わたくしが申しあげるとおりになさって下さい。抜き身の短刀を片手にお持ちになって、いやな、かんかんに怒った顔つきをして、階段を駈けおりて下さい。『どんなことがあっても、きっと、ほかのところでつかまえてやるぞ!』といいながら行くんですよ。たとえ夫があなたをとめようとしても、なにかたずねようとしても、わたくしが申しあげたこと以外はなにもおっしゃらないで下さい。で、馬に乗って、どんなことがあっても踏み止まらないで下さい」
ランベルトゥッチョ氏はよろこんでそうしようと言いました。で、短刀を引き抜くと、今までの疲れやら、騎士の帰宅でむっとした腹立ちやらで、顔を真っ赤にほてらせながら、夫人に命じられたとおりにいたしました。夫人の夫はもう中庭で馬を下りまして、そこにつないであった馬にびっくりして、上へあがろうと思っていると、ランベルトゥッチョ氏が駈けおりてくるのを見て、彼のことばや顔つきに驚いて言いました。
「これはどうしたんです、あなた?」
ランベルトゥッチョ氏は鐙《あぶみ》に片足をかけて、馬にまたがると、
「どんなことがあっても、きっと、ほかのところでつかまえてやるぞ!」と言っただけで、立ち去ってしまいました。
主人《きぞく》が上にのぼって行って見ると、自分の妻が階段の上で、すっかり取り乱して、びくびくしておりました。その夫人に向かって彼は言いました。
「これはどうしたんだね? ランベルトゥッチョ氏はあんなに怒って、だれを嚇かしているんだい?」
夫人は、レオネットに聞こえるようにと、寝室のほうに戻りながら答えました。
「あなた、こんなにこわいことはございませんでしたわ。ここの中へ、見知らない青年が、片手に短刀を振りかざしたランベルトゥッチョさまに追いかけられて、逃げこんできて、たまたまこの寝室が開いているのを見て、体をぶるぶるふるわせながら、『奥さま、お願いですから助けて下さい、わたしがあなたの腕にとびこんだまま殺されることのないように』というんですよ。わたくしはすっくと立ち上がって、その人に、だれなのか、どうしたのかと聞こうといたしましたところが、ちょうどそのとき、ランベルトゥッチョ氏が上がってきて、『どこにいるんだ、裏切り者め!』とおっしゃったんです。わたくしは寝室の入り口のところに立ちはだかりまして、あの方が中にはいってこようとするのをおさえました。あの方は礼儀正しい方なので、自分が中へはいるのをわたくしがいやがっていると見てとると、いろいろといいわけをしてから、ごらんになったように、おりて行かれたのでございます」
すると、夫が言いました。
「妻よ、よくやってくれた。この中でだれかが殺されたら、とんだ非難をあびせられたことだろうね。ランベルトゥッチョ氏は、この中へ逃げこんだ人を追いかけてくるなんて、ずいぶん失礼なことをしたもんだ」
それから主人は、その青年はどこにいるのかと聞きました。夫人が答えました。
「まあ、あなた、どこにかくれているのかわかりませんわ」
そこで騎士が言いました。
「どこにいるんだ? 安心して出ておいで」
一部始終を聞いていたレオネットは、ほんとうにこわかったので、びくびくしながら、かくれていたところから出てまいりました。そこで騎士が言いました。
「君はランベルトゥッチョ氏とどうしたというんだね?」
青年が答えました。
「旦那さま、なにもしやしません。ですからわたしはどうしても、あの人がすこし気が変になっているのか、でなければ、わたしを他の人と取り違えたのだと思うのです。だってあの人は、このお屋敷からあまり離れていないところの道でわたしの姿を見ると、『裏切り者め、殺してやる!』といったのですからね。わたしは、どうしたわけでなどと聞きはしません、すぐさま逃げだして、ここにとびこんでまいりました。ここで、神さまと、このやさしい奥さまのおかげで助かりました」
すると、騎士が言いました。
「もういい、なにも心配することはないよ。わたしが君をお宅まで無事に送り届けてあげよう。あとで君は、あの男とどうしてそうなったのか、調べさせておくんだね」
で、みんなで食事をしてから、騎士は青年を馬に乗せて、フィレンツェに連れて行き、青年の家まで送り届けました。青年は、夫人からうけた教えにしたがって、その晩のうちにこっそりとランベルトゥッチョ氏と話をして、しかるべく手はずをしておきましたので、その後いろいろとうわさが立ちましたが、騎士はそのことについては、妻からうけた愚弄にぜんぜん気がつきませんでした。
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第七話
[#この行3字下げ]〈ロドヴィコはベアトリーチェ夫人に、自分が彼女によせている愛を知らせる。夫人は、夫のエガーノに自分の扮装をさせて庭へやり、自分はロドヴィコと寝る。やがてロドヴィコは起きあがって、庭へ行ってエガーノを打擲《ちようちやく》する〉
パンピネアが物語ったイザベッラ夫人のこの詭計は、仲間のひとりひとりから驚嘆すべきものだとされました。そしてフィロメーナが、王にお話をつづけてやるようにと命じられましたので、話しだしました。
愛らしい淑女のみなさま、もしわたくしの考えちがいでございませんでしたら、わたくしはあなた方に、今のと同じように見事な詭計をひとつ、さっそくながらお話し申しあげようと存じます。
かつて、パリにフィレンツェの貴族がおりまして、この人は貧乏のために商人になったところが、商売がすばらしくあたって、たいへんな金持ちになったのだということを、あなた方にご承知おきいただかねばなりません。この人は夫人とのあいだに一人の息子がございまして、これにロドヴィコと名前をつけておりました。で、この息子が父親の貴族社会に合うように、商売につかないようにとの考えから、父親は彼をどの店にも入れようとしないで、ほかの貴族たちとともに、フランスの王さまに仕えるようにいたしましたので、そこで息子は、よい礼儀作法や、ためになることをたくさん習い覚えました。さて、そこに住んでいた間のことですが、あるとき、聖地から帰ってきていたある騎士たちが、ロドヴィコも参加していた青年たちの話にくわわって、青年たち同士でフランスや英国や、その他世界の方々の美人について話をしているのを聞いておりましたが、騎士たちの一人が、自分は世界じゅうを遍歴し、今までにありとあらゆる女たちを見てきたが、ボローニャのエガーノ・デ・ガッルッツィの細君で、ベアトリーチェと呼ばれている夫人に、その美しさで肩を並べるような婦人は、ほかに見たことがないと言いだしました。その騎士と一緒にボローニャで夫人を見た彼の仲間の者たちは、みんなこれに同意いたしました。まだだれにも思いをよせたことのないロドヴィコは、それを聞くと、その婦人に会いたくなって身もやける思いで、そのためにもうほかのことは上《うわ》の空でございました。で、ボローニャまでその婦人に会いに行こう、そこで婦人を気に入ったら、さらにそこに滞在しようと決心して、父親には聖地に行きたいと芝居を打って、やっとのことでその許可を受けました。
それから、自分の名前をアニキーノとつけて、ボローニャにやってまいりました。ところが、幸運に恵まれて、次の日にあるお祭りでこの婦人に会いました。そして自分が想像していたよりも、はるかに美人のような気がいたしました。ですから、彼女にすっかり夢中になってしまいまして、その恋を手に入れないうちは、断じてボローニャからは発つまいと決めました。で、それにはどんな方法をとらなければならないかと一人で考えたあげくに、なにをおいても、もし召使を大勢使っている彼女の夫の召使になることができたら、おそらく自分の望んでいる目的が達せられるだろうと思いました。そこで自分の何頭かの馬を売り払い、召使たちがちゃんとやってゆかれるように片づけて、みんなに自分を知らないようなふりをするようにと命令したうえ、宿の主人と話をして、もしりっぱな紳士がだれか見つかったら、よろこんでその者の召使になりたいと言いました。主人は彼に言いました。
「あなたは、エガーノという名前の、この土地の貴族に気に入られるに相違ない、うってつけの召使でございますよ。その方は召使を大勢使っておりますが、どの召使も、あなたのようにりっぱな者ばかりがお望みなのでございます。わたくしがその方にお話をいたしましょう」
で、主人は言ったとおりにしました。エガーノのところからたち去る前に、アニキーノのことを取りきめました。それを聞いてアニキーノは踊りあがってよろこびました。そしてエガーノのところに身をおいて、思う婦人の顔を全く頻繁に見る機会に恵まれ、エガーノには非常によく気に入られるように仕えだしましたので、エガーノも彼をことのほか寵愛して、彼がいないとなに一つできないほどでございました。で、自分のことばかりではなく、なにからなにまで一切の切り盛りを彼にゆだねておりました。
ある日のこと、エガーノが狩猟《たかがり》に出かけて、アニキーノがあとに残っておりましたので、(アニキーノが自分を愛していることはまだ知りませんでしたが、それでも、その人物や立ち居振る舞いを見て、ひそかに心の中ではこの男をなんどもほめていたし、気にも入っていた)ベアトリーチェ夫人は、彼と将棋をさしだしました。彼女の気に入りたいと思っていたアニキーノは、非常に巧くやりながら、負けておりました。ですから夫人はたいへんなご機嫌でございました。夫人の女中たちはみんな、二人の将棋を見物しておりましたが、そこから席をはずして、二人だけで指させておきました。ところがアニキーノは、ふうっと大きな溜め息をつきました。それを見て、夫人が言いました。
「どうしたの、アニキーノ? わたしが勝つのがそんなに悲しいの?」
「奥さま」とアニキーノが答えました。「こんなことよりもずっと大きなことが、わたしのこの溜め息の原因なのでございます」
すると夫人が言いました。
「まあ! それを後生だからいっておくれ」
アニキーノは、自分が何にもまして愛していた人が「後生だから」(「わたしへの愛にかけて」)と懇請するのを聞いて、前のよりももっとずっと大きな溜め息をつきました。それを見て、夫人はもう一度、その溜め息の理由がなんであるのか、どうか自分に話してくれるようにと頼みました。アニキーノは彼女に言いました。
「奥さま、わたくしがそれを申しあげましたら、奥さまのお気持ちを損ねはいたすまいかと、心配でたまりません。それから、奥さまがほかの方にそれをおもらしになりはしないかと、それも気がかりでございます」
夫人は彼に言いました。
「きっと、わたしは気をわるくしないわ。それから安心なさい。どんなことをわたしにいっても、あなたがいいといわなければ、ほかの人には決してもらしなんかしないから」
そこで、アニキーノが言いました。
「あなたがそうお約束下さいますならば、お話しいたしましょう」
で、まるで眼に涙を浮かべるようにして、彼は、自分がだれであるか、彼女について何を聞き、どこで聞いたのか、どんなに彼女を恋い慕っているか、なぜ自分は彼女の夫の召使になったのか、などを語ったうえ、そのあとで、もしできたら、ぜひ自分のこの胸のうちに秘めた、これほど強烈な欲望に同情してもらいたい、もしそれがいやならば、せめて自分を今までどおりの形でほっておかれて、自分が彼女を愛することはかなえてほしいと、すがるようにして頼みました。ああ、ボローニャ人の血のすぐれて、やさしいこと! いつに変わりなく、こうした場合に、なんとあなたは賞讃に値するほどりっぱなものでしたでしょう! 決してあなたは、涙や溜め息にあこがれはいたしませんでした。常に懇願になびき、恋の熱望に折れました。もしわたくしがあなたをほめることばを並べたてるといたしましたら、わたくしの声は決してかれはてることはございませんでしょう。
やさしい夫人は、アニキーノが話している間じゅう、彼を見ておりましたが、そのことばを心から信用して、彼の嘆願に動かされて、その愛を心にすっかり迎え入れると、彼女も同じように、溜め息をつきはじめました。で、二三度溜め息をついてから答えました。
「わたくしのやさしいアニキーノよ、気をお落としになってはいけません。わたくしは大勢の人々からいいよられてきましたし、今でもいいよられているのですが、貴族や紳士や、そのほかの人々の贈り物でも、約束でも、口説《くぜつ》でも、わたくしがそういった人々のだれかを愛したいという気持ちになるほど強く、わたくしの心をゆり動かしたことは、一度もございませんでした。でもあなたは、あなたのおことばの述べられていたほんのわずかの時間に、わたくしをこの身から奪いとって、あなたのものにしてしまいました。わたくしには、あなたが、とても見事にわたくしの愛をかちえたように思われます。ですからわたくしは、自分の愛をあなたにさしあげます。そして、今夜がすぎ去らないうちに、わたくしはあなたのお望みのままになりましょう。で、このことがちゃんと行なわれるようにするために、夜半にわたくしの寝室においでになるようにして下さい。入り口は開けておきましょう。わたくしが寝台のどちら側で寝るかご存じでしょう。そこへいらして、わたくしがもし眠っていたら、さわって、おこして下さい。そうしたら、いままでお持ちになってきた長い欲望をお慰めいたしましょう。このことを本気になさるように、手つけとして、接吻を一つしてあげたいと思います」
と、夫人はアニキーノの頸《くび》に両手を投げだして、心をこめて彼に、アニキーノは彼女に、接吻をいたしました。こんな話が行なわれてから、アニキーノは夫人のもとを去って、自分の用事に出かけ、天にものぼる心もちで、夜のくるのを待ちこがれておりました。エガーノは狩猟から帰ってきて、食事をすませると、疲れておりましたので寝に行き、夫人もこれにつづきました。で、約束しておいたとおりに、寝室の入り口は開け放しにしておきました。その入り口に、言われた時間に、アニキーノがやってまいりまして、そっと寝室にはいると、入り口に中から鍵をかけて、夫人が寝ていた方の側に行って、その胸に片手をのせてみると、彼女が眠っていないことがわかりました。夫人はアニキーノがきたのを知ると、その手を自分の両手にとって、ぎゅっと握りしめて、寝台の上で向きを変えましたが、それがあまりひどかったので、眠っていたエガーノが目をさましてしまいました。そこで彼女は、夫に言いました。
「あまりお疲れのようでしたので、昨晩はなにも申しあげたくなかったのです。でも、後生ですからおっしゃって下さい、あなたは、ご自分で家においていらっしゃる召使のうち、だれが一番いい、一番誠実な、一番あなたを愛している召使だとお思いになりますか」
エガーノが答えました。
「まあ、どうしてお前はわたしにそんなことを聞くんだね? 知らないのかお前? わたしがいまアニキーノを信用して、愛しているくらい、これまでに信用したり、いまも信用している、または愛している召使は一人もなかったんだよ。でもお前はどうしてそんなことを聞くんだね?」
アニキーノはエガーノが起きているのを知り、自分のことを話しているのを聞いて、夫人が自分を瞞《だま》すのではないかと気が気でなく、出て行こうと思って、なんども手をひっこめようといたしました。しかし、夫人がずっと握ったままでいて、放しませんでしたので、どうしても逃げることができませんでした。夫人はエガーノに答えて言いました。
「それはこうなのです。わたくしはあなたのおっしゃるとおりあの男がだれよりもあなたにたいして誠実だと信じておりました。ところがあの男は、わたくしにそれがまちがいだということをさとらせてくれたのです。と申しますのは、あなたが今日狩猟においでになりましたときに、あの男はここに残っておりまして、頃合いを見て、ずうずうしくも、わたくしにその意にどうしてもしたがうようにと言いよってきたからなのです。それでわたくしは、くどくどと例をあげてそれをあなたにお知らせしなくてもよろしいようにと、それをじかにご自身で、ごらんになっていただこうと思って、それはうれしいことです、今夜、夜半過ぎに、わたくしがうちの庭に出て行って、松の根もとで待っていましょうと、答えておきました。今、わたくしとしては、そこに行くつもりなどございません。でも、もしあなたがご自分の召使の誠実ぶりをお知りになりたいと思し召したら、わたくしの長上衣をどれかお召しになり、頭にヴェールをおかけになって、下におりて、あの男がくるかどうか待っていらっしゃれば、苦もなくおわかりになりますわ。わたくしはきっとくると思います」
エガーノはこれを聞いて、言いました。
「もちろん、見てこなくてはならない」
そして起きあがると、暗闇の中で、できるだけうまく夫人の長上衣を着こみ、頭にヴェールをかけると、庭に出て行って、松の根もとでアニキーノを待ちはじめました。夫人は夫が起きあがって、寝室を出たのを知ると、自分も起きて、寝室の入り口に中から鍵をかけました。生まれてはじめて、こんなひどい、こわい目にあって、ありったけの力をふりしぼりながら、なんとかして夫人の手から遁《のが》れようともがいて、十万遍も、彼女や自分の恋や、それを信じていた自分を呪っていたアニキーノは、最後に夫人がとった措置を耳にして、この世で一番幸福な男になりました。で、夫人が寝床に戻ると、彼女の望むがままに、彼女にならって着物をぬいで、かなり長い間、おたがいに快楽と愉悦にひたりました。それから、もうこれ以上アニキーノがいてはいけないと思いましたので、彼をおこすと、ふたたび着物を着せて、こう言いました。
「わたくしのやさしい口《かた》よ、太い棍棒をおとりになって、庭にいらして下さい。そして、わたくしを試すために、そう懇請したのだというふうをして、まるでそれがわたくしでもあるかのように、エガーノに悪罵をあびせて、棍棒でうんとなぐって下さい。こののち、おたのしみや快楽が、とてもうまくつづくようになりますからね」
アニキーノは起きあがると、片手に一切れの柳の枝を持って庭に行って、松のそばに近づきますと、彼がやってくるのを見ていたエガーノは、大喜びで迎えるような様子で立ち上がると、彼に会いに来ました。エガーノに向かって、アニキーノが言いました。
「ああ、悪い女め! ではやってきたんだな。わたしが、旦那さまに向かってこんな過ちをしたがっていたと、いや、したがっていると思いこんだんだな? 骨身にこたえるような歓迎ぶりをしてやるぞ!」
そして棒を振りあげると、彼をなぐりだしました。エガーノはこのことばを耳にして、その棒を目にすると、なんとも言わずに逃げだしました。そのあとから、アニキーノは追いかけながら、たえずどなっていました。
「でてうせろ、神さまの罰があたるといいんだ。悪たれ女め、明日の朝、きっとエガーノさまにいいつけてやるぞ」
エガーノはしたたかなぐりつけられてから、ほうほうの態《てい》で、すっとぶようにして寝室に帰ってまいりました。その夫に向かって夫人は、アニキーノが庭にきたかどうかたずねました。エガーノが言いました。
「こなけりゃよかったよ。だってあれは、わたしがお前だと思いこんでいるので、棒でわたしをめちゃくちゃになぐりつけたうえ、どんな悪性の女だっていわれないような、またとないひどい悪罵をあびせたんだからね。確かにわたしは、あれがわたしの恥になるようなことをしようという考えで、あんなことばをいったのかどうか、あの男にはほんとにびっくりしていたんだよ。でも、お前がとても愉快そうにして、はしゃいでいるのを見て、試そうと思ったんだね」
「では」と夫人が言いました。「あれがわたくしをことばで試し、あなたを実行で試したのは、ありがたいことですわ。きっとあれは、あなたがその実行を我慢しているより以上に、わたしのほうがずっと辛抱強くそのことばを我慢しているということができるだろうと思います。でも、あなたをそれほど誠実に思っている人ですから、大事にして、重く引き立ててあげたいですわね」
エガーノが言いました。
「ほんとにお前のいうとおりだね」
で、このことから考えて、彼は自分以外のすべての貴族が今までに持っていたもののうちで、最も貞節な夫人と、最も誠実な召使を持っているのだと思いこみました。そんなわけで、その後、彼と夫人は、なんどもアニキーノとこのことを笑い興じましたが、アニキーノと夫人は、アニキーノがボローニャでエガーノのところに住んでいるあいだじゅう、二人にとってたのしみで、快楽であったそのことを、そんなことがなかったら、こうはゆくまいと思われるほど、いとも容易につづけることができました。
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第八話
[#この行3字下げ]〈ある男が細君に対して嫉妬深くなる。細君は、夜、指に紐を巻いて、その恋人が自分のところにくるのを知る。夫がそれに気がついて、恋人の後を追いかけているあいだに、細君は、寝台の中に、自分の代わりにも一人の別の女を寝かせておくと、夫はその女を叩いて、髪を切り、それから細君の兄弟たちのところに行く。兄弟たちは、そのことが真実でないことを知って、彼に悪罵をあびせる〉
みんなはとくに、ベアトリーチェ夫人が夫を愚弄するにあたってなかなか狡知《こうち》にたけていたような感じをうけましたが、アニキーノが夫人にしっかりと手を握られたまま、自分が求愛したことをその夫に告げ口されるのを聞いたときに、その怖ろしさは非常に大きなものだったろうと、ひとりひとりが認めました。しかし王は、フィロメーナが黙ったのを見ましてから、ネイフィレのほうに向いて言いました。
「あなたがなさって下さい」
彼女は、まずちょっとにこりと笑ってからはじめました。
美しい淑女のみなさま、今までお話をなさった方々が、みなさまの御満足をえましたように、もしわたくしがおもしろいお話でみなさまをお喜ばせしようとしましたら、それはわたくしにとってたいへん難しい重荷になります。で、神さまの御加護によって、わたくしは、その責をできるだけうまくはたしたいと存じます。
さて、みなさまにご承知おき願いたいことは、わたくしたちの町に、かつてアルリグッチョ・ベルリンギエーリと呼ばれる大そうお金持ちの商人がおりまして、この男が、今日でもなお相変わらず商人たちがしているように、愚かにも、出《で》の高い婦人と結婚して貴族になりたいと思いまして、シスモンダ夫人という名の、彼には不似合いな若い、貴族の婦人を嫁にもらいました。彼女は、商人たちがよくするように、彼が、たいてい出歩いていて、自分とはそう一緒におりませんでしたので、長いあいだ自分を恋い慕っていたルベルトという青年に思いをよせました。で、仲よくなりまして、とてもたのしかったものですから、たぶんつい油断をしたのでございましょう、アルリグッチョが何かに感づいたのか、あるいは、その理由はどうでありましょうとも、とにかく彼はこの世で最も嫉妬深い男になってしまいました。そして出歩くことをやめ、その他あらゆる仕事をほうりだしたまま、ほとんどもっぱら、すべての関心を彼女の監視に傾けておりまして、彼女がはじめに寝床にはいるのを聞きつけないうちは、決して寝るようなことはなかったでございましょう。そんなわけですから、細君は、恋人のルベルトとどうしてもあいびきをすることができませんでしたので、たいへん悲しく思っておりました。それでも今、男と一緒にいられる方法をなんとか見つけなければならないと、いろいろと考えて、それにまた男からも大いにけしかけられましたので、こんな方法を使おうという考えがでてきました。つまり、自分の寝室が道に沿っておりましたし、それにアルリグッチョはとても寝つきが悪いが、そのあとではぐっすり寝込んでしまうことを、何回となく見知っておりましたので、ルベルトを、夜半に家の戸口にこさせて、自分で開けに行って、夫がぐうぐう眠っている間に、すこしばかり男と一緒に過ごそうと考えたのでございます。男が来たときに、だれにも気づかれないで、自分だけにわかるようにするために、彼女は寝室の窓の外に一本の細紐をたらして、そして細紐の一端は地面に届くようにしておき、他の一端は床《ゆか》におとして、自分の寝台まで引っ張ってきて、掛け蒲団の下に入れて、自分が寝台にはいったときに、それを足の親指に結んでおくようにしようと考えました。で、あとで、このことをルベルトに使いを出して知らせたうえ、彼がやってきた場合には、ぜひその細紐をひくようにと命じて、もし夫が眠っていたら、それをそのままひかせておいて、自分が戸口を開けに行こう。もし夫が眠っていなかったら、自分がその細紐をぐっとつかまえていて、自分のほうにひくから、その時は待っていないでもらいたいという合図だと思ってほしいと伝えました。そのことはルベルトの気に入りました。で、彼は頻繁にやってまいりましたが、彼女と一緒になれる時もあり、そうでない時もございました。
二人はこうしたやり方をつづけておりましたが、とうとう、ある夜のことでございました。細君が眠っているときに、アルリグッチョは片足を寝床の中でのばしたひょうしに、この細紐を見つけてしまいました。そこで、手をやってみると、細君の指に細紐がゆわえつけてあるので、「確かにこれは何かの計略にちがいない」と、ひとりごとを言いました。で、そのあとで、細紐が窓から出ているのを見て、その確信をかためました。そこで、細君の指からそっとその細紐を切り離して、自分の指にゆわえつけまして、どうしてこんなことをしておいたのか、見てみようと注意をこらしておりました。まもなくルベルトがやってまいりまして、いつものように細紐をひきましたので、アルリグッチョは目をさましました。よく結ぶことができなかったところへ、ルベルトがそれを強く引っ張ったので、細紐が手もとにとびこんできたものですから、待っていなくてはいけないのだとさとりまして、そのとおりにいたしました。アルリグッチョは、すぐさま起きあがると、武器を手にして、そいつが何者か見定めよう、そして、ひどい目にあわせてやらずばなるまいと思って、戸口に駈けつけました。さて、アルリグッチョは商人ではございましたが、気性のはげしい、強い男でございました。戸口にやってくると、いつも細君がやっていたように、そっと開けませんでしたので、待っていたルベルトはそれに気がついて、もしかしたら、つまり戸口を開けたのは、アルリグッチョではないかと思いました。そこで、すぐさま逃げだしましたので、アルリグッチョが追いかけはじめました。とどのつまりが、ルベルトはかなり遠くまで逃げたのですが、アルリグッチョが追いかけるのをやめませんでしたから、自分も同じように武器を持っておりましたので、剣を抜いて振り返りました。そして、一方は斬りつけ、相手はそれを防ごうとして、ともに戦いました。細君は、アルリグッチョが寝室を開けたときに目をさまして、自分の指から細紐が切り離されているのを見て、すぐに自分の計略が発見されたのに気がつきました。で、アルリグッチョがルベルトの後を追いかけて行ったのを知って、さっそく起きあがると、どんなことになるのか、きっとこれから持ちあがるにちがいないことがわかりましたので、万事をのみこんでいた自分の女中を呼んで、これを拝み倒して、自分の寝床に身代わりにして寝かせますと、彼女がだれであるか知らせないようにして、アルリグッチョがあたえる打擲《ちようちやく》を辛抱して受けてもらいたい、彼女がそのために嘆くようなことがないように、十分にお礼をとらせるからと頼みました。そして寝室についていた明かりを消すと、そこから外に出て、家の一部に身をかくして、どうなるだろうかと待ちはじめました。アルリグッチョとルベルトとのあいだに、激しい闘いがまじえられていたので、その通りの近くの人々は、その物音を耳にして起きあがると、二人に向かって罵詈《ばり》をあびせかけました。アルリグッチョは人に顔を見られるのをこわがっておりましたので、その青年がだれなのか知ることができず、少しの傷も負わせることができませんでしたが、かんかんになって、腹をたてたまま、相手をほうっておいて、家の方に引き返しました。そして、寝室にやってきて、ぷんぷんしながら言いだしました。
「悪い女め、どこにいるんだ? お前は、わたしに見つからないように、明かりを消したんだな、だが、そいつは失敗だぞ!」
そして、寝床に近づいて、細君をつかまえているつもりで、女中をつかまえると、手足をできるだけ動かして、顔じゅうが潰れるほど殴ったり、蹴ったりしたうえ、最後にその髪を切ってしまいました。そのあいだじゅう、今までに悪い女が投げつけられたうちで最もひどい罵詈をあびせかけました。女中は当然のことですが、激しく泣きました。彼女はときどき、「ああ! どうかお情けです!」とか、「もう我慢ができません!」とか言っておりましたが、その声は泣き声で変わりはてておりましたし、アルリグッチョは憤怒で分別を失っておりましたので、それが細君のでなく、ほかの婦人の声であることに気がつきませんでした。さて、わたくしたちが話したように、彼はさんざん打擲して、その髪を切ってから言いました。
「悪い女め、お前にさわるのは、こうした方法でだけだ。だがわたしは、お前の兄弟たちのところに行って、お前のりっぱな行ないを話してやろう。そのあとで、お前の兄弟たちに、お前に会いにきてもらい、自分たちの名誉にかけてふさわしいと思う措置をとって、お前を連れて行ってもらいたいとお願いするよ。だって、とうていもうお前はこの家にいられないだろうからね」
で、こう言うと、彼は寝室を出て、外から鍵をかけて彼女を閉じこめたまま、たった一人で立ち去りました。
一部始終を聞いていたシスモンダ夫人は、夫が立ち去ったのを知ると、寝室を開けて、ふたたび明かりをつけて見ると、女中はさんざんに打ちのめされて、おいおい泣いておりました。その女中を、できるだけうまく慰めてから、寝室にひきとらせて、そこで、こっそりと手当てや治療をさせたうえ、アルリグッチョ自身の金をあたえましたので、女中は満足したようでした。で、女中をその寝室にひきとらせてから、すぐに自分の寝室の寝台を整えて、まるでその夜はだれもそこには寝ていなかったようにすっかりなおして、元のとおりにしておいて、それからふたたび灯火をつけて、もう一度着物を着ると、まだ寝床にははいらなかったような具合に、身のまわりを整えました。それから、小さな灯をともして、布地を手にとると、階段の上に腰をおろして、裁縫をしながら、どんなことが起こるだろうかと待ちはじめました。
アルリグッチョは自分の家を出ると、飛ぶようにして、細君の兄弟たちの家に行って、そこでどんどん戸口を叩きましたので、それが聞こえて、戸口が開きました。細君の兄弟たち(三人でした)と彼女の母親は、アルリグッチョがきたと聞いて、みんな起きあがると、いくつも明かりをつけさせてから、彼のところにやってまいりまして、こんな時間に、たった一人でなんの用できたのかとたずねました。アルリグッチョは彼らに向かって、シスモンダ夫人の足の指にゆわえつけてあるのを発見した細紐からはじまって、自分が見たり、行なったりしたことの最後にいたるまでを物語りました。で、自分がしたことを全部彼らに証拠立てるために、自分では細君のと思いこんでいた切りとった髪の毛を彼らの手に渡したうえ、自分としてはもうどうしても家におく考えはないのだから、彼女のところへおいでになって、みなさんで、ご自分の名誉が立つように思われる処置をとってもらいたいと言い添えました。夫人の兄弟たちは、耳にしたことでむしゃくしゃして、それをほんとうだと思いましたので、彼女にたいして腹を立てて、松明《たいまつ》に火をつけさせると、彼女をうんと懲らしめてやろうと思って、アルリグッチョと一緒に出かけて、彼の家に向かいました。みんなの母親は、それを見ると、泣きながらその後につづいて歩きだして、そっちの息子やこっちの息子と、かわるがわる顧みながら、もっとよく見ないで、または知らないで、こうしたことをそうすぐに信じこんではならない。なぜなら夫《あれ》はほかの理由で彼女《むすめ》に腹を立てて、ひどい目にあわせて、今、自分の言いわけのために、こんな言いがかりを彼女《むすめ》にふっかけているのかもしれないのだから、と頼みました。なおも母親は、幼い時から育てあげてきたので娘をよく知っているから、そんなことが起こるとは全く驚きいったことだとか、それと似たようなことをいろいろとたくさん申しました。
さて、一同はアルリグッチョの家に着いて、中にはいると、階段をのぼりだしました。シスモンダ夫人は、みんながやってくるのを聞いて、言いました。
「そこにいらっしゃるのは、どなた?」
兄弟たちの一人が、彼女に答えました。
「だれだか、お前にはよくわかるはずだ、悪者め」
すると、シスモンダ夫人が言いました。
「まあ、それはどういう意味なんです? まあ、どうしましょう!」彼女は立ちあがって、言いました。
「あら、兄弟のみなさん、よくいらっしゃいました! 今時分、三人揃って、何を探していらっしゃるんですか」
一同は、アルリグッチョがすっかり打ちのめしたと言っていたのに、顔に打擲をうけた跡ひとつなく、彼女が腰をおろして、縫い物をしているのを見ると、最初のうちはいくぶんびっくりして、煮えくりかえるような怒りをじっとおさえつけてから、アルリグッチョが、彼女のことで泣き言を言ってきたのはどういうわけなのかとたずねて、なにもかも洗いざらいに自分たちに話すようにと、きつく嚇しました。
夫人が言いました。
「わたくしには、あなた方になんとお話ししたらいいのか、また、なんでアルリグッチョが、わたくしのことをあなた方にこぼしたのか、わかりませんね」
アルリグッチョは彼女を見て、自分がその顔をたぶん千回も拳骨でなぐりつけて、引っかいたうえ、ありとあらゆるひどい目にあわせてやったことを思いだして、放心したようにじっとその姿を見つめておりましたが、今、彼女を見ると、そんなことは全然なかったように思われました。手短かにいえば、兄弟たちは彼女に、細紐とか、打擲とか、その他一切、アルリグッチョが自分たちに言ったことを、話して聞かせたのでございます。
夫人はアルリグッチョのほうを向いて言いました。
「まあ! あなた、なんていうことを、わたくしは聞かされるんです? どうしてあなたは、そうでもないのに、悪い女のように人に思わせて、ご自分の大恥をかこうとなさったり、また、そうでもないのに、ご自分を悪党で、残酷な人のように思わせたりなさるんですか。で、今夜、いつあなたはこの家に、わたくしと一緒に二人っきりでいらっしゃいましたか。それとも、いつわたくしをお打ちになりましたか。わたくしは自分では、そんな覚えはございません」
アルリグッチョが話しだしました。
「なんだって、悪者め。わたしたちは一緒に寝床にはいったじゃないか。お前の恋人を追いかけまわした後でも、寝床に戻ってきたじゃないか。お前をさんざん殴りつけて、髪の毛を切ったじゃないか」
夫人が、答えました。
「昨晩、この家にあなたは、お寝《やす》みになりませんでしたよ。でもわたくしには、自分のほんとうの言葉以外には、ほかに証拠をあげることができませんから、このことはほっておきましょう。で、あなたのおっしゃる、わたくしを打ったとか、わたくしの髪の毛を切ったとかいうことを取りあげましょう。あなたは、わたくしをお打ちにはなりませんでした。ここにいらっしゃる方々も、同じようにあなたも、わたくしの体じゅうのどこに、打擲の跡が一つでもあるかどうか、よく注意してごらんになって下さい。わたくしは、この体に手をくだすような大胆なまねをなさらないようにお勧めしますわ。だって、もしそんなことをなさったら、神かけて、あなたのお顔を爪でめちゃくちゃに引っ掻いてしまうにきまっておりますからね。同様に、わたくしが感じたり、聞いたりしましたところでは、わたくしの髪の毛もお切りにはなりませんでした。でもたぶん、わたくしが気がつかないうちに、お切りになったんでしょうね。髪の毛が切られているかどうか、ごらん下さいな」
そうして彼女は、頭からヴェールを取り除くと、切れていない、そっくりもとのままの髪の毛を示しました。兄弟たちや母親は、そうしたことを見たり、聞いたりして、アルリグッチョに向かって言いだしました。
「アルリグッチョ、あなたは何をいいたいんです? あなたが自分でなさったといいにいらっしゃったこととは、全く違っておりますよ。どうやって、あなたが、この他のことの証《あか》しを立てるのか、わたしたちには見当がつきませんね」
アルリグッチョは茫然《ぼうぜん》としているようでございましたが、それでも口をきこうといたしました。しかし、自分が証《あか》しを立てて見せられると思っていたことが、案に相違したのを見て、なにもいう勇気がなくなりました。夫人は、兄弟たちのほうを向いて言いました。
「兄弟たちよ、わかりましたよ。主人はわたくしがどうしてもしたがらなかったことをするように、つまり、わたくしが主人のいやな行ないや、悪いことをあなた方に話すようにと、願っていたんですわ。ですから、そうしてあげますよ。主人があなた方に話したことは、主人の身に起こったことで、主人がそうしたことを行なったのだと、わたくしは信じて疑いません。まあ、どんなふうにかは、ひとつお聞き下さい。あなた方がとんでもないことに、このわたくしを嫁にやったこのりっぱな人のことですがね、この人は自分では商人だといい、一般にそう信じてもらいたがっております。で、宗教家よりも節制して、娘さんよりも身だしなみがよくなければならないはずなのです。だのに酒場から酒場へと酔っぱらい歩いて、こっちの淫らな女、あっちの淫らな女と関係をつけない晩は、ほとんどないのです。そうして、あなた方がごらんになったようなふうに、わたくしを夜半まで、ときには、夜明け頃まで待たせておくのです。きっと主人はしたたかに酔っぱらっておりましたから、だれか好きないやしい女と一緒に寝て、目がさめたところが、細紐がその足にゆわえつけてあるのを見つけて、そのあとで、主人がいったような、その勇ましいことを全部やってのけて、そのあげくに女のところに戻って行って、打擲をして、髪の毛を切り取ったんですわ。まだ十分正気を取り戻さなかったので、そうしたことをわたくしに向かってしたのだと思いこんだのですわ。きっとまだそう思いこんでいるのですよ。もしあなた方が、主人の顔をよくごらんになれば、まだあの人の酔いがさめていないことがおわかりになりましょう。でも、それはそれとして、あの人がわたくしのことをなんと申しましょうとも、わたくしは、あなた方に酔っぱらいとしてでなく、しらふの人としてあの人を取り扱ってもらいたくないのです。わたくしがあの人を許してあげるのですから、同じようにあなた方も許してあげて下さい」
彼女の母親は、こうしたことばを聞くと、騒ぎたてて、言いました。
「まあ、神さまの十字架にかけて、お前、そんなことをしてはいけませんよ。それよりも、こんないやな、恩知らずの犬は殺してやりたいくらいですよ。お前のような娘を嫁にもらう値打ちはないんですからね。ほんとに、ばかばかしい! お前を泥の中から救いあげたとしたって、これ以上のひどいことはできないはずだよ! もしお前が驢馬の糞のような、けちな商人に汚《きた》ならしいことばをあびせられていなければならないとしたら、そんな奴はもうこっぴどい目にあったらいいんだよ。田舎から出てきて、いやしい家の出で、百姓の着る粗地の羊毛の着物を着て、だぶだぶの太いズボンをはいて、尻の孔にペンをさしている連中のくせに、三文《ソルド》の小金を持つと、もう貴族のお嬢さまや、りっぱな婦人を嫁にもらいたがって、貴族の紋章をつけて、『わたしはこうした家柄のものです』とか、『自分の家のだれそれはこんなことをしましたよ!』とかいいふらすんですよ。ほんとに、兄さんたちが、わたしの勧めに従っていたらと思いますよ。ほんのわずかの持参金で、グイディ伯爵家にりっぱに嫁《とつ》がせることができたんですからねえ。それをあの兄さんたちは、お前がフィレンツェじゅうで最もりっぱで、貞潔な娘なのに、そのお前を夜半に、まるでわたしたちがお前がどんな女か知らないようにさ、淫売だなんて、恥ずかしくもなく呼ばわったりしたそんなえらい男に、わざわざやりたがったんです。でも、ほんとうに、お前の兄さんたちがわたしのことばをなるほどと思って、そいつにひどい仕置きをして罰してやったらいいんですよ」
そして、こどもたちのほうに向かって言いました。
「こどもたちよ、わたしはそんなことがあるはずはないといったが、そのとおりでしたね。お前たちの人のいい義兄弟が、妹をどんなに扱っているか聞きましたかね? この目腐《めぐさ》れ金の小商人めがさ! だから、もしわたしがお前たちだったら、そいつが言ったようなことをいったり、しているようなことをしたうえからには、そいつをあの世に送りこまないうちは、とうてい満足もしなければ、気のすむこともないだろうと思いますよ。わたしは女ではあるが、もし男だったら、自分以外の他人には手は出させたくないところですよ。神さま、そいつを、その恥知らずの、情けない酔っぱらいを、ひどい目にあわせてやって下さい!」
青年《こども》たちは、こうしたことを見たり、聞いたりしてから、アルリグッチョのほうに向きなおると、今までどんな悪党でもうけたことがないような、最もひどい罵詈をあびせかけて、あげくのはてに言いました。
「酔っぱらいに免じて、今度のことは勘弁してあげよう。だが、命が惜しかったら、これから先は、同じような話をわたしたちに聞かせないように用心なさいよ。もしそんなことがわたしたちの耳にはいったら、必ず、それも、これも一緒にして仕返しをしますよ」
で、そう言ってから、みんなは立ち去りました。アルリグッチョは放心した男のようになって、自分がやったことが、ほんとうにあったことなのか、それとも夢に見たことなのか、自分ではわからなくなって、もう一言もしゃべらないで、細君をそっとしておきました。彼女は、その利発な頭で、身にふりかかってくる危機を脱したばかりでなく、将来、すこしも夫のことを心配しないで、思うままにそのたのしみをみたすことができる道をひらいたのでございます。
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第九話
[#この行3字下げ]〈ニコストラートの妻リディアはピルロを愛し、ピルロはそれを信ずることができるようにと、彼女に三つのことを要求し、彼女はそれをことごとく果たす。またこのほかに、ニコストラートの前で、ピルロとたのしんで、ニコストラートには、彼が見たことは真実ではないと思いこませる〉
ネイフィレの話はたいへん気にいりまして、王がパンフィロにお話をするようにと命じて、なんども淑女たちには黙るようにと申し渡しましたが、それにもかかわらず、彼女たちはそのお話について笑ったり、話し合ったりしないではいられませんでした。けれども、一同が静かになりましたので、パンフィロはこう口を切りました。
尊敬する淑女のみなさん、わたしはそれがどんなに困難で、危っかしいものであろうとも、熱烈に愛している者が思い切ってやりとげられないようなものがあろうとは思いません。そうしたことは、今までにたくさんのお話の中で示されてはまいりましたが、それでもわたしは、あなた方に申しあげようと思っているお話で、そのことをずっとよく示すことができると信じております。
そこであなた方は、その行動にあたって、賢い理性よりもはるかに幸運に恵まれた婦人のことをお聞きになるでしょう。ですから、わたしは、これからお話ししようと考えている婦人の足跡を追うような危険を、どなたにもお勧めしたくはありません。なぜなら、幸運は必ずしも常に恵まれるものではないし、またこの世では、万人がことごとく同じように目がかすんでよく見えないというわけでもないからであります。
そこにいた今までの歴代の王のために、大きいというよりも、はるかに有名であったアカイアの非常に古い町アルゴに、かつてニコストラートと呼ばれた貴族が住んでいました。この人はもう老境に近かったのですが、運命は彼に、リディアという名前で呼ばれていた美人でもあり、また同じくらいに大胆でもあった貴婦人を妻として恵みました。彼は貴族で金持ちでしたので、大勢の召使を使い、犬や鷹を飼っていて、狩猟がことのほかに好きでした。で、その召使たちの中に、感じのいい、快活で容姿の端麗な、なにをやってもすぐれた腕を持った、ピルロと呼ばれる青年がおりまして、この者をニコストラートは、どの召使よりも可愛がり、信頼しておりました。リディアは、この青年に熱烈な思いをかけて、夜昼の見さかいなく、たえず彼のことのほかは、なにも考えていませんでした。その愛について、ピルロは、それに気がつかなかったのか、それともそれを望まなかったのか、てんで、それを問題にしているような様子を見せませんでした。そのために夫人は、心の中でたえがたい悲しみを感じておりました。で、なにもかも一切を彼に知らせようと決心して、たいへん信用しているルスカという女中を自分のところに呼んで、こう言いました。
「ルスカ、お前はわたしから今まで目をかけてもらっているのだから、もっとわたしのいうことを聞いて、忠実に仕えてくれるにちがいないわね。で、今わたしがお前にいうことは、お前を使いに出す先方《あいて》の方以外には、決してだれの耳にもはいらないように注意しておくれ。ごらんのとおり、ルスカや、わたしは若くて、みずみずしい女で、女の人の望むことができるものはことごとく、十分に、いやというほど持っているのでね、手短かにいうと、たった一つのものを除いては、文句をいえる筋合いではないんだよ。それは、夫の年齢が、わたしの年齢とくらべると多すぎるということなの。そんなわけで、わたしは若い女の人たちがとくに好むことについて、満ちたりた思いをしないで暮らしているんだよ。でも、ほかの女《ひと》たちと同じように、そうした欲望は感じているので、だいぶ前からわたしは、もし運命がこうした年寄りの夫をわたしにあたえるような情けないことをしてくれたとしたならば、わたしはこの自分のたのしみや幸福をみたす方法を見つけられないような、自分自身にたいして情けないことはしたくないと、一人で決心したの。で、ほかのいろいろのことについてと同じように、このことについても、たのしみや幸福をみたしたいと思って、それにはだれよりもふさわしいうちのピルロに、その抱擁で満足させてもらいたいと考えたんだよ。で、あの人のことをすっかり思いつめてしまったので、その姿を見たり、あの人のことを考えたりしないでいると、ちっとも気分がすぐれないの。もしすぐにでもあの人に会えなかったら、きっと死んでしまうのではないかと思うわ。だから、もしわたしの命を大事だと思ったら、お前が一番いいと思う方法で、あの人のところに行ったら、わたしのこの思いをあの人に伝えて、そうして、わたしからだといって、ぜひおいでになってもらいたいと頼んでおくれ」
女中はよろこんでそうすると申しました。で、最初の機会がきたと思った時に、ピルロを傍へ引き寄せて、できるだけうまく、女主人の使いのことばを話しました。ピルロはそのことを聞いて、そんなことはてんで思いもよらなかったので、非常に驚いて、夫人が自分を試すためにそんなことをいわせたのだろうと疑いました。そこですぐに、そっけなく答えました。
「ルスカ、わたしはそのことばが、うちの奥さまの口からでていると思うことはできないね。お前が自分でいっていることをよく考えてごらんよ。たとえ奥さまからでているとしてもだ、わたしは奥さまが本気でそんなことをお前にいわせているとは思えないね。またたとえ本気でそんなことをいわせたとしても、わたしの御主人は、わたしを身にあまるほど親切にめんどうを見て下さっているんだよ。命をとられたって、わたしはそんな侮辱を御主人にあたえるようなことはしないつもりだ。だから、お前はもうそんな話をわたしにしないようにしておくれよ」
ルスカは、彼の邪慳な口ぶりに驚きもしないで言いました。
「ピルロ、このことや、ほかに奥さまがわたしに命令なさることはなんでも、またなんどでも、いいにくるわよ。それがお前さんにとって、うれしいことであっても、いやなことであってもね。でも、お前さんは馬鹿な人ねえ」
で、ピルロのことばにすこし困ったなと思いながら、女中は女主人のところに帰ってきました。女主人は女中のことばを聞いて、いっそ死んでしまいたいと思いました。それから、何日かして、ふたたび女中に話しかけて、言いました。
「ルスカや、樫の木は最初の一撃では倒れないということを知っておいでだね。だから、わたしの考えるところでは、いこじ[#「いこじ」に傍点]になって誠実な男をとおそうとしているあの人のところへ、もう一度行ってもらったほうがいいと思うんだよ。で、いい潮時をねらって、あの人にわたしの燃える思いを知らせて、首尾よくいくように、全力をつくしてやってみておくれ。だって、物事がこんなふうにこじれていると、わたしはそのために死んでしまうかもしれないし、あの人はだまされたと思いこんでしまうだろうからね。そして、あの人の愛を求めているのに、あげくのはては憎しみをうけることになるだろうからね」
女中は夫人を慰めてから、ピルロに会いに行くと、ピルロはうれしそうにして、よろこんで会ってくれましたので、こう話しかけました。
「ピルロ、わたしは数日前に、お前さんの、そしてまたわたしにとっても主人の奥さまが、お前さんによせている思いのために、どんなに悩み苦しんでいらっしゃるか知らせたね。今、も一度それをはっきりいってあげるけど、お前さんが、この間示したように頑固をとおしていると、奥さまはじきに死んでおしまいになるに違いないと思ってね。だからわたしは、ぜひお前さんに奥さまのお望みをかなえてあげておくれと、お願いするんだよ。お前さんがただそうやって強情を張っているなんて、わたしはお前さんをたいへん利口な人だと思っていたのに、これからは馬鹿だと考えなおそうよね。あんなに美人で、あんなにやさしい、金持ちの奥さまが何をおいてもお前さんが好きだと思いこんでいるのだから、お前さんにとって、これにまさる大きな、名誉なことがあるだろうかね。それに運命が、お前さんの青春の欲望にうってつけの、こうしたご馳走や、おまけにお前さんのほしいような息抜きの場所を目の前に据えつけて下さったことを考えたら、お前さんは、どんなに運命に感謝しなくてはならない立場におかれているか、わかるはずだがねえ! お前さんが利口にやれば、今ありつけるこのたのしみよりも、いい目にあえるような友達《ひと》が、一人でもあるかね? お前さんが奥さまに色よい返事をしようと思えば、武器や馬や品物やお金をうんともらえるだろうが、どこにお前さんみたいにされる人が見あたるかね? だから、わたしのことばに心を向けて、正気におかえりよ。運命がうれしそうな顔をして、大股で人に会いにくるなんて、普通たった一度きりしかないことを思い出すんだね。そのときに、運命を受け入れることのできない者は、あとで貧乏して、乞食になっても、自分を恨みこそすれ、運命に苦情をいってはいけないんだよ。また、そればかりではなく、召使と主人のあいだでは、友人たちや親戚の間で守られるようなあの誠実は、守ろうとしなくてもいいんだよ。むしろ、召使は主人にたいして、できるかぎり自分たちが主人に扱われるのと同じような扱いをお返ししなければいけないんだよ。もしお前さんに、美人の奥さんなり、お母さんなり、娘さんなり、姉妹なりがあって、ニコストラートの気に入ったとしたら、お前さんはニコストラートが、ちょうどお前さんがあの方の奥さんのことであの人に尽くそうとしているような誠実を、守ってくれるだろうと思っているのかね? そんなことを思っているとしたら、馬鹿だよ。うまいことをいっても、頼んでみてもだめだとなったら、お前さんがどう思おうとも、あの方はお前さんに力ずくでやってくるだろうね。だから、わたしたちは、あの方々がわたしたちや、わたしたちのものを扱うと同じように、あの方々や、あの方々のものを扱おうよ。運命の恩恵を頂戴して、それを追い払わないでおくれ。運に会いに行って、訪ねてくれる運を迎えておくれ。なぜって、もしお前さんがそうしなかったら、きっとそのあとで奥さまは死んでおしまいになるだろうが、そんなことは別としても、お前さんはこれからなんどでも後悔をして、そのあげくに死んでしまいたいと思うようになるだろうからね」
ピルロは、ルスカが自分に言ったことばを、なんども考えておりまして、もし今度またルスカがやってき自分が試されていないことが証明されたら、今までと違った返事をしよう、なにもかも奥さまの気に入るようにしよう、と決心しておりました。そこで答えました。
「ねえ、ルスカ、なにもかもお前がいうとおりなことはわかっているよ。だが一方、わたしは、御主人が大そう賢明で、分別のあるお方であることも知っているんだ。そして、御主人はご自分の一切のことをわたしの手にゆだねていらっしゃるんでね。わたしはリディア奥さまが、御主人のお勧めやお望みで、わたしをなんとか試そうとして、こんなことをなさっていらっしゃるのではなかろうかと心配でたまらないんだよ。だから、わたしが要求する三つのことを、奥さまがわたしにはっきりさせて下さるならば、もう、どんなことがあったって、わたしは奥さまのお気に入るようにするつもりだよ。で、わたしが望んでいる三つのことというのは、こうなんだ。まず、ニコストラートの前で奥さまが、御主人のりっぱな鷹を殺すこと、次に奥さまがニコストラートのひげを一房、わたしのところまで送り届けること、最後に、御主人自身の一番いい歯を一本、送り届けること、というんだ」
これらのことはルスカにはたいへんなことのような気がしましたが、夫人にとってはなおさらのことそうでした。それでも、よい激励者で、忠告の大先生である愛の神さまは、彼女にそれを行なうように決心させました。そして、自分の女中を彼のところにやって、彼が要求してきたことは十分に、さっそく行なうつもりであると告げました。またそのほかに、彼女は、ピルロがニコストラートを賢い人だと思っておりましたので、自分はニコストラートの面前でピルロとたのしんで、ニコストラートにはそれがほんとうではないと思わせてみせる、と告げました。そこでピルロは、貴婦人が約束したことを行なうのを待つことになりました。それから数日後ニコストラートがそれまでにしばしば行なっていたように、ある貴族たちにたいへんなご馳走をいたしました。すでに食卓が片づけられましたので、貴婦人は、緑色のビロードの着物を着て、装身具で念入りに飾り立てて、自分の寝室をでると、一同のいるその部屋にはいってきました。で、ピルロやその他一同の者を見てから、ニコストラートが大事にしていた鷹がいたとまり木のところに行って、まるで手にとまらせるようなふうをして、それを解き放すと、足緒をつかんで鷹を手にするなり、壁に打ちつけて殺してしまいました。すると、ニコストラートが彼女のほうに向かって、「あっ! お前、なにをしたんだ?」と叫びました。彼女は、夫にはなんとも返事をしないで、彼と一緒に食事をした貴族たちのほうを向いて言いました。
「みなさま、もしわたくしが鷹に復讐するくらいの勇気がなかったら、王さまに侮辱をうけた場合、その復讐をすることなどはおぼつかないでしょう。あなた方にご承知願いたいことは、男が女のたのしみのために使うはずになっている時間をすっかり、この鳥が長いあいだにわたって、わたくしから奪いとっていたことでございます。いつも明け方になると、ニコストラートは起きあがって、馬に跨り、鷹を手に、ひろびろとした野原へ行って、鷹をとばしておりましたが、わたくしときたら、ごらんのとおり、ただ一人でつまらない思いをして寝室に残っていたのでございます。そんなわけで、わたくしは、ただ今いたしましたようなことをしようと、なんども考えておりました。わたくしがそれをしないでおさえていましたのは、あなた方のような、わたくしの苦情の正しい裁判官になって下さると思われる方々の前で、それをしてのける機会を待っていたからでございます」
それを聞いていた貴族たちは、夫人のニコストラートにたいする愛情は、そのことばのとおりに相違ないと思いこみまして、めいめい笑いだすと、怒っていたニコストラートの方に向かって話しかけました。
「ねえ! 夫人が鷹を殺して、自分がうけた侮辱の復讐をしてのけたのは、まことに見事なものでございますな!」
一同はそうした事件について、いろいろと冗談を言いまして、もう夫人も寝室に引き上げておりましたので、ニコストラートの怒りを笑いにかえてしまいました。ピルロは、これを見て胸の中で言いました。
「奥さまは、わたしの幸福な恋にすばらしいいとぐちをつけたもんだ。根気よくつづけて下さるといいんだがなあ!」
こうしてリディアによって鷹が殺されてから、まだ何日とたっていない時のことです。夫人はニコストラートと一緒に寝室におりましたが、夫をなでさすりながら、一緒に冗談などを言いだしました。で、夫がふざけて彼女の髪の毛をちょっと引っ張ったところが、それがきっかけとなって、彼女は、ピルロが自分に要求していた二番目のことを実行に移すことにしました。夫人はさっそく夫のひげをほんの一房つかんで、笑いながら、ぐっと引っ張ったので、ひげが頤《あご》からすっぽりととれました。そこでニコストラートが痛がると彼女が言いました。
「まあ、どうなさったの? わたくしがあなたのひげを六本ほど抜いたからって、そんな顔をしていらっしゃるんですか。あなたが、たった今、わたくしの髪の毛を引っ張ったときのわたくしの痛さほどではございませんよ!」
こうして、次から次へと二人は睦言《むつごと》をつづけておりましたが、夫人は夫の頤から引き抜いた一房のひげを大切にこっそりとしまいこんで、その日のうちに愛する恋人のところに届けました。
三番目のことについて、夫人は一段と胸を痛めました。でも、才知のすぐれた人であり、恋はさらにその光を冴えかがやかせましたので、夫人は、それをしとげるためにどんな方法をとらねばならないかを考えつきました。ところでニコストラートのところには、二人の少年が、二人とも貴族でしたので、ニコストラートの屋敷で貴族の行儀作法を習うようにと、その父親たちから託されておりまして、ニコストラートが食事をする時に、一人はその前で肉を切り、も一人はぶどう酒を注いでおりました。夫人は二人とも呼んでこさせて、彼らに夫の口が臭くにおうように思いこませて、ニコストラートの給仕をする時にはできるだけ頭をうしろにひいているように、またこのことは決してだれにも言わないようにと教えこみました。年の若い二人は、夫人のことばをすっかり信じこみ、彼女が自分たちにやって見せたとおりの仕草をやりだしました。そこで、夫人はあるとき、ニコストラートにたずねました。
「あなたは、このこどもたちが給仕をする時に、どうしているかお気がつきましたか」
ニコストラートが言いました。
「ついているとも。それよりもわたしは、どうしてそんなことをするのか、聞こうと思っていたんだよ」
夫人が彼に言いました。
「おききになってはいけません、わたくしに説明ができますから。わたくしは、あなたにいやな思いをさせまいとして、長いあいだ黙ってまいりました。でも、他の人も気がつきだしたとわかりましたからには、もうそのことをあなたにおかくしする必要はございません。こうしたことがあなたに起こるのは、ただあなたのお口がたいへん臭いからでございまして、そんなことは今までにそうないことでしたので、それがどんな理由によるのか、わたくしにはわかりません。でも、あなたは貴族の方々とご交際をなさらねばならないので、これはたいへん困ったことでございます。ですから、それをなおす方法を講じる必要がございましょうね」
すると、ニコストラートが言いました。
「それはどうしたわけかね? 口の中に虫歯でもあるんだろうか」
リディアが夫に申しました。
「たぶんそうでございましょうね」
そして、夫を窓のところに連れて行って口を開けさせると、あっちこっちと見まわしてから言いました。
「まあ、ニコストラート、どうしてあなたはこんなに我慢できたんでしょうね? こちら側に一本ございますよ。わたくしが思うのに、これは虫がついているばかりか、すっかり腐りきっております。こんなのを口の中にもう少し長くほっておかれたら、両側の歯が何本もやられてしまいますわ。だから、これ以上進まないうちに抜いておしまいになるようにお勧めいたします」
すると、ニコストラートが言いました。
「お前がそういうんなら、わたしも同感だよ。それを抜く医者を今すぐに呼びにやっておくれ」
夫人が夫に言いました。
「こんなことで、お医者をお呼びになることはございませんでしょう。お医者をお呼びにならないでも、このわたくしでうまく抜けるようになっているようでございます。それにこの先生方というものは、こんな仕事をなさるときには、とても残酷でございますから、わたくしは、あなたがお医者の手にかかるのを見たり聞いたりしておりましたら、きっとこの胸がはり裂けてしまいましょう。ですから、なにもかもすっかり、わたくしが自分でやってみたいと思います。もし痛すぎるようでございましたら、とにかくすぐによします。お医者さんでしたら、そんなことはなさらないことですから」
そこで、夫人はそうした仕事に用いる道具を持ってこさせて、寝室の外にほかの者を出してしまって、ただルスカだけを残しておきました。で、内側から鍵をかけて、ニコストラートを食卓の上に寝かせ、その口にやっとこ[#「やっとこ」に傍点]を入れて歯の一本をはさみました。一人の女にしっかりと抑えられていた彼は、痛いので大声をあげましたが、もう一人の女のすごい力で一本の歯が抜きとられてしまいました。リディアはすぐにそれをしまって、自分が前から手に持っていたぼろぼろに腐った別の歯を取りだして、痛がってまるで半ば死んだようになっている夫に、それを見せながら言いました。
「ごらんなさい、あなたのお口にあった歯は、もうこんなになっているのでございますよ」
彼はそれを真《ま》にうけて、とても痛い思いをして、ひどくぶつぶついっておりましたが、それでも歯を抜いてからは、なおったような気がして、あれこれといろいろのもので元気づけられ、痛みが軽くなりましたので寝室を出ました。夫人は歯を取り上げると、すぐに恋人のところに送りました。男はもう彼女の愛に確信をえましたので、どんな望みにもしたがうと申しました。
もっと男に安心させたいと思っていた夫人は、一刻も早く彼と一緒になりたいし、自分で約束したことをしとげたいと考えました。そして仮病《けびよう》をつかっておりますと、ある日、食事のあとでニコストラートが訪ねてきましたが、見ると、夫にはピルロがついて来ているだけなので、夫に向かって、気晴らしをしたいから庭まで行くのに二人で手をかしてもらいたいと頼みました。そこで、一方からはニコストラートが、反対側からはピルロが、彼女をかかえるようにして庭に連れて行き、りっぱな梨の木の下の芝生のところにおろしました。しばらくのあいだ、みんなで坐っておりましたが、かねて自分がしようと思っていたことをピルロに報らせておいてあった夫人が言いました。
「ピルロ、わたくしはあの梨がほしくてたまらないわ。お前上にのぼって、いくつか落としてくれないかね」
ピルロはすぐに上にのぼると、梨を落としはじめました。それを落としながら言いだしました。
「おや、旦那さま、何をなさっていらっしゃるんです? それに奥さま、あなたさまも、わたくしのいるところで、そんなことをなさって、恥ずかしくはございませんか。わたくしが盲人だとでもお思いなのですか。あなたさまは、つい今しがたまであんなにひどいご病気だったのです。どうして、そんなことがおできになるほど、そんなに早くおなおりになられたんでしょうね? でも、そんなことがなさりたかったら、あなた方にはたくさんりっぱな寝室《おへや》がおありになるのです。どうして、その寝室のどれかに、なさりにおいでにならないのですか。わたくしの前でなさるよりも、ずっとよろしゅうございましょう」
夫人は夫のほうを向いて言いました。
「ピルロは何をいってるんでございましょう? たわごとをいってるのでございましょうか」
すると、ピルロが言いました。
「たわごとなどいってはおりませんよ、奥さまはわたくしが見えないとお思いなのですか」
ニコストラートは非常に驚いて、言いました。
「ピルロ、ほんとに、お前は夢を見てるんだと思うね」
彼に向かって、ピルロが言いました。
「旦那さま、夢など見ておりませんよ。あなたさまも夢をごらんになってはいらっしゃいませんよ。それどころか、とてもさかんにお動きでございますよ。もしこの梨の木がそれくらい動きましたら、実は一つも残らないでございましょうね」
すると、夫人が申しました。
「これはどうしたことでございましょう? あの人のいっていることが、ほんとに見えるというのは、事実なのでございましょうか。わたくしは、もし神さまのお助けがございましたら、もしもとのように自分が丈夫でございましたら、あの人が見えるといっていることが、どんな不思議なことか見きわめに、どうしても木の上までのぼっていってやりますわ」
ピルロは梨の木の上から、あいかわらずしゃべって、そうした話をつづけておりました。彼に向かってニコストラートが言いました。
「下へ降《お》りてこい」
すると、彼は降りてきました。そこでニコストラートが言いました。
「何が見えたっていうんだね?」
ピルロが言いました。
「きっと旦那さまは、わたくしを馬鹿かそれとも阿呆《あほう》だとお思いなのでございましょう。でも、申しあげなくてはなりません。わたくしは、あなたさまが奥さまにのりかかっていらっしゃるのを見ました。それから降りてきながら見ますと、あなたさまはお起きになって、ただ今いらっしゃるその場所にお坐りになりました」
「確かに」とニコストラートが言いました。「お前は頭が変になっていたんだね。だって、お前が梨の木にのぼってからは、ちっとも動かなかったんだからね。お前のほうにだけ動いたように見えたのさ」
彼にピルロが言いました。
「どうして、わたくしたちは、そのことで言い合いをしているのでございましょう? でもわたくしはあなたさまを見ましたよ。で、もしわたくしがあなたさまを見たといたしましたら、それはあなたさまが、奥さまの上にのっていらっしゃるところを見たのでございますよ」
ニコストラートはますますびっくりいたしまして、そのためにこう言いました。
「わたしは、この梨の木が魔力を持っているかどうか、またこの木にのぼる者には不思議なものが見えるかどうか、しっかりと見とどけてみたいね!」
で、木にのぼりました。彼が木の上にのぼったときに、夫人はピルロとたのしみはじめました。ニコストラートはそれを見てどなりだしました。
「ああ! 悪い女め、お前はなんていうことをしているんだ? それから、ピルロ、わたしがとくに信頼していた、お前は?」
そう言いながら、彼は梨の木を降りはじめました。夫人とピルロが言いました。
「わたくしたちは坐っておりますよ」
で、彼が降りてくるのを見て、二人は――彼が自分たちをおいていったときの姿勢をとって――もとのように坐りました。ニコストラートは下に降りてきて、見ると、自分がおいていった場所に、二人がおりましたので、彼らに罵詈《ばり》をあびせかけました。その彼に向かってピルロが言いました。
「ニコストラートさま、ただ今、ほんとうのことを申しあげますが、あなたさまが前におっしゃいましたとおり、わたくしは梨の木の上におりましたときに、幻を見たのでございますね? あなたさまが幻をごらんになったことを見たり、知ったりいたしまして、はじめてそうだとわかりました。で、わたくしがほんとうのことを申しあげていることを証拠立てることは、なんでもございませんが、ただ一つ、非常に貞節で、だれよりも聡明でいらっしゃる奥さまが、そのような恥をあなたさまにおくわえになろうとして、どうしてあなたさまの目の前へそれをなさりにゆけるでございましょうか、そこにご注意がいき、お考えがおよびましたら、それでよろしいのでございます。わたくしのことについては、なにも申しあげたくございません。わたくしは、そんなことをしに、あなたさまの御前にまいるはおろか、そうした考えが浮かんでくる前に、この体を八つ裂きにしてもらいたいくらいでございます。ですから、この見間違いの罪科《とが》は、梨の木からでているのにちがいありません。なぜなら、あなたさまがここで奥さまと横になって交わっていらしったことを、嘘だとわたくしに思わせるものは、ただ一つのことを除いてはございませんでしょうからね。それは自分がこれっぽちもしないし、考えもしなかったことを、わたくしには火を見るよりもはっきりわかっていることを、あなたさまがわたくしがしたようにお思いになられたように、あなたさまが口におだしになったのを聞いたことでございます」
まるで憤慨にたえないようにしてもう立ち上がっていた夫人は、そのあとから口をだしました。
「あなたがごらんになったとおっしゃるそんなあさましいことを自分でしたいと思ったら、わざわざあなたの目の前にいってそれをするほど、そんなにわたくしが馬鹿だとお考えになると、とんだことになりますよ。もし、わたくしにそんな気がおこりましたら、わたくしはこんなところへはまいりませんで、いっそうちの寝室のどれかにまいりまして、あなたにはめったにわからないように、なんとかうまくやるということだけは、信じていらして下さい」
ニコストラートには、両方の言い分が、つまり二人はここで、彼の前で、そんな行為におよぶはずがなかったのだということが、ほんとうらしく思われましたので、もう話をしたり、そんなふうに叱責したりするのをやめて、その事件の珍しいことや、木の上にのぼった者にそうやって変わってうつる眺めの奇蹟について語りだしました。しかし、ニコストラートが自分のことをかれこれ言ってのけた意見のことで、腹を立てているふりをしていた夫人は言いました。
「まったく、わたくしにできることなら、この梨の木がもう決してこうした恥ずかしい目に、わたくしや、ほかの女をあわせないようにしたいものでございます。だからピルロや、駈けて行って斧を持っておいで。そして、この木を切って、お前とわたしの仇を一度にとっておくれ。ほんとは、なんの考えもなくやすやすと理知の目をくらまされたニコストラートの頭を、それでなぐってあげたほうがずっといいんだがねえ。だって、あなたがおっしゃるようなことが、あなたの頭についている眼《もの》に見えたような気がなさっても、絶対にあなたは、その頭脳《あたま》で判断して、そんなことが起こったなどとお考えになったり、同意したりしてはいけなかったのですものね」
ピルロは、すぐさま斧を取りに行って、梨の木を切り倒しました。夫人はそれが倒れるのを見てから、ニコストラートに向かって言いました。
「わたくしの貞潔を疑わせた敵が打ち倒されるのを目にいたしましたので、怒りも消えました」
で、彼女は、そのことで許しを求めていたニコストラートを快く許してやったうえ、自分の命よりも彼《おつと》を愛している彼女《じぶん》に、そのような疑いは、今後絶対にかけないようにと命じました。こうして、馬鹿にされた気の毒な夫は、彼女や彼女の恋人と一緒に屋敷に帰りました。その屋敷では、その後、たびたびピルロはリディアと、リディアはピルロと、前よりも容易に、悦楽と歓喜にひたりました。神さま、願わくば、わたくしたちにもそうしたものをお恵み下さいますように。
[#改ページ]
第十話
[#この行3字下げ]〈二人のシエナ人が、ある婦人――彼らの一人が名付け親になっているこどもの母親――に恋をする。名付け親だった男が死んで、仲間のところへ前にしていた約束どおり戻ってきて、あの世ではどんな生活をしているかを物語る〉
お話をする義務は、王にだけ残されました。王は、なんの罪もないのに切られた梨の木を気の毒がっていた淑女たちが静かになったのを見てから、話しだしました。
正しい王はだれでも、自分が作った法律の第一の遵奉者でなければならないことは、何よりも明白なことであります。もしそうしなかったならば、懲罰に価する下僕となり、王であると考えることはできません。そうした罪や叱責に、あなた方の王であるわたしは、とにかく、どうしても落ち込まなければなりません。わたしが、今日行なわれたわたしたちのお話にたいして、昨日規則をあたえたことはほんとうです。それは、今日は自分の特権を用いまいと思って、あなた方と一緒に同じ規則にしたがって、あなた方全部がお話しになったことを話したいという考えからでありました。しかし、わたしがお話ししようと考えていたことが、話されてしまったばかりでなく、わたしの力ではどんなに記憶の糸を探ってみても、思い出すことができないような、またそうした題材について、すでにでた話と肩を並べるようなことをお話しできるかどうかわからないような、いろいろ多くの、ずっとおもしろいことが話されてしまいました。そこでわたしは、自分自身が作った法律にそむかなければならなくなりましたので懲罰に価しますから、今後は自分に課せられるどんな罪科にも服することを申しあげておきまして、自分のいつもの特権に立ち帰りましょう。で、エリザがおこなった名付け親と名付け子の母親とのお話や、それからシエナ人たちの馬鹿さかげんはとてもおもしろかったので、親愛な淑女の方々よ、愚かな夫たちにたいして賢明な細君たちが行なった愚弄をほっておいて、わたしに、シエナ人たちの小さなお話をみなさまにするようにと勧めるわけなのです。そのお話は、カトリック教に反しておりますので、信じていけないことをたくさんその中に含んではおりますが、それでも少しはお聞きになっておもしろいものでしょう。
さて、シエナに二人の身分の低い青年がおりました。その一人はティンゴッチョ・ミーニという名前で、もう一人はメウッチョ・ディ・トゥラと呼ばれておりまして、二人はサライア門に住んでおりました。二人は、おたがいに往来《ゆきき》する以外は、ほとんどだれとも交際をしておりませんでした。見たところでは、二人はたいへん愛し合っておりました。みなと同じように、二人は教会や説教に行って、死者の霊魂が、彼らの生前の行ないによって、別の世で授けられる栄光や責め苦のことを、なんども聞いておりました。そのことについて、確かな話を知りたいと思いましたが、その方法が見つかりませんので、二人のうち先に死んだ者が生き残った者のところへ、もしできたら戻ってきて、相手が望んでいることについて知らせることにしようと、おたがいに約束をしました。二人はこの約束を誓言で固めました。
さてこの約束をして、前に申しましたように、あいかわらず往来《ゆきき》しているうちに、ティンゴッチョは、カンポレッジョに住んでいるアンブルオージョ・アンセルミーニという者のために、名付け親になったのであります。この者には、ミータ夫人という細君とのあいだに男の子がありました。ティンゴッチョはメウッチョと一緒に、ときどき、非常な美人で、ほれぼれするような女だったこの名付け子の母親を訪ねているうちに、名親関係の間柄にもかかわらず、彼女に思いをよせてしまいました。メウッチョも同様に、彼女がたいへん気に入ったうえに、ティンゴッチョがたいへんほめるのを耳にしているうちに、彼女を恋してしまいました。で、この恋については、おたがいに相手を警戒しておりましたが、それは同じ理由からではありませんでした。ティンゴッチョは、名付け子の母親に思いをよせることは自分自身にたいして悪い行ないをしかけるようなものであり、他人に知られたら恥ずかしい思いをしなければならないとの理由から、そのことをメウッチョに知られないように用心しておりました。メウッチョは、このような理由から警戒していたのではなく、ティンゴッチョが彼女を好いていることに気がついていたからでありました。そこで、彼はこう言っておりました。
「もしこのことを彼に知らせたら、彼はわたしを嫉妬するようになるだろう。で、彼は、いつでも好きなときに名付け子の母親と話をすることができるから、そんなわけで、できるだけ手をまわして、彼女にわたしを憎ませるようにするだろう。そうなれば、絶対にわたしには、自分の好きな彼女を手に入れることができなくなるだろう」
さて、この二人の青年は、お話ししましたように、いずれも恋する身でありましたが、女にたいしてその欲望を打ち明けられる機会に一段と恵まれていたティンゴッチョは、手をかえ、ことばをかえていろいろやったあげくに、彼女を手に入れてしまいました。そのことをメウッチョはよく承知していて、たいへん不愉快に思いましたが、それでも、いつかは自分の欲望をとげなければならないと思っておりましたので、ティンゴッチョに自分のことを打ち壊されたり、邪魔されたりする材料や口実をあたえないために、じっとそんなことには気がつかないようなふりをしておりました。
こうして二人の仲間は、一人は他の者よりも幸福ではありましたが、ともに女に思いをよせておりましたところ、ティンゴッチョは名付け子の母親の領地の中に、やわらかい土地を見つけて、鋤《す》いたり、耕したりあまり精を出しすぎたため、病気の襲うところとなって、何日かの後に重態におちいって、この世を去ったのであります。それから時がたって、三日目に(その前にはおそらくこれなかったのでしょう)、前々からの約束にしたがって、夜、ティンゴッチョはメウッチョの寝室にまいりまして、ぐっすりと寝込んでいたメウッチョを呼びおこしました。メウッチョは目をさますと言いました。
「お前はだれだ?」
彼がメウッチョに答えました。
「わたしはティンゴッチョだよ。君とした約束に従って、あの世の様子を話しに、君のところに帰ってきたんだよ」
メウッチョは彼を見て、いくぶん驚きましたが、それでも安心をすると言いました。
「よくきてくれたね、兄弟!」
で、それから、あんたは亡霊になったのかと、たずねました。
彼に向かって、ティンゴッチョが答えました。
「亡くなったもの[#「亡くなったもの」に傍点]とは、ふたたび見つからないもののことだよ。もしわたしが亡くなっていたら、どうしてここにきていられるだろうかね?」
「ああ!」と、メウッチョが言いました。「わたしのはそういう意味じゃないんだ。ただわたしは、地獄の劫火で責め苦をうけている霊魂の中にはいっているのかどうかと、君に聞いているんだ」
ティンゴッチョが彼に答えました。
「そんなことはないね。だが、わたしは、自分が犯した罪のために、すこぶる重い、とても苦しい罰を、ちゃんとうけているよ」
そこでメウッチョは、この世で犯す罪の一つ一つにたいして、あの世ではどんな罰が科せられるのかと、ことこまかにティンゴッチョにたずねました。ティンゴッチョはそれを全部話して聞かせました。それからメウッチョが、この世からティンゴッチョのために、何かしなければならないことがあるかどうかとたずねました。ティンゴッチョは彼に、それはある、それは自分のためにミサや祈祷文をあげさせて、布施をすることである、なぜなら、そうしたことはあの世の者たちのためにはたいへん役に立つのだから、と答えました。メウッチョは彼に、よろこんでそうしようと言いました。で、ティンゴッチョが彼のもとから立ち去ろうとしたときに、メウッチョは名付け子の母親のことを思いだして、心もち頭をもたげて言いました。
「ああ、今思いだしたが、ティンゴッチョ、君がこの世にいたときに一緒に寝ていたあの女のことで、あの世ではどんな罰をあたえられているんだ?」
彼に向かって、ティンゴッチョが答えました。
「兄弟よ、わたしがあの世に着いたときに、わたしの罪をなんでも全部知っているらしい人がいてね、ある場所に行くようにとわたしに命じたんだが、その場所でわたしは、実にきつい責め苦をうけて自分の罪を泣いたのだ。見るとそこには、わたしと同じように、同じ罰をうけた大勢の仲間がいたよ。で、わたしは、彼らの中にいて、名付け子の母親と昔やったことを思いだして、そのために、今までうけたよりもずっと重い罰をうけるのだと予期していたので、自分は大きな燃えさかる火中にいたのに、こわくて全身をふるわせていたのだ。それに気がついて、わたしの傍にいた者が、『お前さんは火の中にいてふるえているが、ここにいるほかの連中よりも、何かもっと大きな曰《いわ》くがあるのかね?』と話しかけてきたんだよ。そこでわたしは、『ああ! 友よ、わたしは昔犯した大きな罪のことで審判を待っているんだが、その審判がこわくてたまらないんだ』といったのだ。するとその人は、それはどんな罪だと聞いたよ。わたしは彼に『その罪というのは、わたしが自分の名付け子の母親と寝たことで、あまり寝すぎて、命をおえたんだ』と話した。すると、その人はその話を嘲笑《あざわら》って、わたしに『よせ、馬鹿、心配はいらないよ、ここでは名付け子の母親なんか問題にはしていないよ!』といったのだ。それを聞いてわたしはすっかり安心した」
こう言うと、夜明けも近づいたので、彼が言いました。
「メウッチョ、さようなら、もうこれ以上、あんたと一緒にはいられないんでね」
そして、すぐに立ち去りました。
メウッチョは、あの世では、名付け子の母親のことはちっとも問題にならないと聞き、今までにそうした関係の女をかなりほっておいたので、自分の馬鹿さかげんを冷笑しだしました。そこで、自分の無知なやり方を棄てて、その後はこの点について利口になりました。このことをもしリナルド司祭が知っていたならば、あの人のいい名付け子の母親を自分の欲望に従わせたときに、四の五の理屈をこねまわす必要はなかったでありましょう。
太陽が西に傾いて、微風がおこってまいりました。そのとき王は、自分のお話をおえて、もうお話をする人はだれも残っておりませんでしたので、頭から月桂冠をとりのけると、それをラウレッタの頭にのせて言いました。
「貴婦人よ、わたしは、あなたご自身(ラウレア、月桂冠)をあなた(ラウレッタ、小さな月桂樹の意)に冠らせて、わたしたちの女王にいたします。さあ、一同の歓喜となり、慰安となるものを、女王としてお命じになって下さい」そして、彼はふたたび座につきました。
女王となったラウレッタは、給仕頭を呼ばせて、彼に向かい、あの気持ちのよい谿谷に、あとでゆるゆると館に帰れるようにしたいから、いつもよりいくらか早い時刻に、食卓を並べるように命令してほしいと言いつけました。そのあとで、自分の主宰がつづいているあいだにしなければならないことを、彼に指示いたしました。それから、仲間の者たちの方を向いて言いました。
「昨日ディオネーオは、女たちが夫に対して行なう瞞着のことを今日話すようにとお望みになりました。で、もしわたくしが、たちどころに復讐をしたがるあの歯をむき出している犬の種類に属している者であることをお見せしたいと思いましたら、わたくしは、明日は、男たちが自分たちの妻にたいして行なう瞞着をお話ししなくてはならないと申すところでございましょう。でも、そのことはそっとしておいて、わたくしは、いつも、女が男に、男が女に、あるいはまた男が他の男にといった具合に、行なわれているあの瞞着のことを、めいめいでお話しになりますようにと申します。で、こうした話題でお話しすることは、今日と同じように愉快なことだろうと存じます」
こう言ってから、立ちあがると、夕食の時間まで、仲間をひきさがらせました。
そこで、淑女たちや紳士たちは、同じように立ちあがりました。そのうち幾人かの人々は、裸足《はだし》で清く澄んだ水の中を歩きだしました。また他の人々は、緑の芝生の上を、美しい、まっすぐに立った木々の間をたのしそうにそぞろ歩くのでした。ディオネーオとフィアンメッタは長い間一緒に、アルチータとパレモーネを歌いました。こうして多種多様のたのしみにふけりながら、一同は夕食の時間まで、大いに楽しく時を過ごしました。夕食の時間となりましたので、みんなは、池に沿って食卓に坐ると、そこで無数の小鳥の歌に耳を傾けながら、周囲の小さな山々から吹いてくる快い風にたえず涼をとり、一匹の蠅もいないところで、ゆったりとした気持ちで、たのしく食事をしたためました。で、食卓が片づけられて、その快い谿谷をしばらくめぐり歩いてから、まだ太陽は半薄暮《メツゾヴエスプロ》(午後七時半)の高さにありましたので、女王のお望みに従って、自分たちのいつもの館のほうに向かって、ふたたびゆっくりした足取りで歩きだしました。そして昼間話題にのぼったことやその他のことなど、まことに千差万別、いろいろのことについて、冗談を言ったり、おしゃべりをしたりしながら、夜も間近に迫った頃に、その美しい館に到着しました。そこでは、非常に冷たいぶどう酒と果糖で、軽い歩行の疲れを追い払ってから、美しい噴泉のまわりで、さっそく、ティンダロの風笛の音に、またはほかの楽器の音に合わせてぐるぐるまわりながら、踊りはじめました。しかし、最後に女王はフィロメーナに歌を歌うようにと命じました。彼女はこう歌いだしました。
ああ! 味気なきわが命!
悲しくもわが失いし
枝にかえる日あるべきか
さだかにはあらねども、ああ
そのかみの身にかえる
燃える望みは、胸のうち
ああ、この胸をしめつくる
いとしの君よ、やすらぎよ、
ああ君、希望《のぞみ》賜えかし
われに問う気も術《すべ》もなし
迷える魂の励ましの
ああ君、希望《のぞみ》賜えかし。
わが胸の燃ゆるまま、夜を
日についで息もつかせぬ
美の何なるか知らねども
常には見えざる力もて
おのがじし、耳、心、眼に、
怪しくも火を燃えたてぬ
その火にわれは燃えさかり
ただ君により励まされ
去りし力のよみがえる
ああ告げよかし、死の思い
与えしみ眼に口吻《くちづ》けし
君にまみゆる日はいつと、
ああ告げよかし、わが霊よ、
君帰る日はいつと。
「とく」と言い、励みを賜え、
待つことのいと短くて
そのとまりいと長きこそ
恋失いし女ののぞみ
もしわれ君をとらえなば
そのかみのごと、君去るに
まかせる愚をばよもすまじ、
いかなることのありとても、
君をとらえていざ甘き
唇《くち》の渇きをいやすべし、
その余は今は許しませ
さらばとく来て、抱けかし、
思えば歌も口をつく。
この歌は、仲間一同に、フィロメーナが新しい、楽しい恋にしめつけられているのだと考えさせました。で、その歌のことばからおして、彼女がその恋を、顔を眺めるだけでなく、もっとずっと楽しんでいるように思われましたので、彼女が一段と幸福そうなのを見て、そこにいた淑女《ひとびと》の幾人かは、それをうらやましいと思いました。けれども彼女の歌が終わったので、女王は、次の日が金曜日であるのを思いだして、一同に向かってやさしく申しました。
「貴婦人とそれからお若い方々よ、あなた方のご存じのとおり、明日はわが主の受難のために捧げられた日にあたります。この日には、もしよくご記憶でございましたら、わたくしたちは、ネイフィレが女王の時に、つつましやかにこれを祝って、たのしいお話を他日に延ばしたのでございます。同じようなことを、これにつづく土曜日にもいたしました。ですからわたくしは、ネイフィレがお示しになったよい例に従いたいと存じまして、明日とその次の日は、前のそうした日にもいたしましたように、わたくしたちのたのしいお話は遠慮いたしまして、このような日には、わたくしたちの霊魂の救済のために起こったことを追憶するのが、よいことであると考えるのでございます」
女王の敬虔な話はみんなの気に入りました。一同は女王から暇がでましたので、もう夜の大部分も過ぎておりましたこととて、打ち揃って休みに行きました。
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解説
[#地付き]柏熊達生
デカメロンは一三四八年に筆を初め、一三五三年に完成したボッカッチョの傑作である。これ以前の作品は、形式と内容の不均衡のために不完全であったが、この作品においては彼の詩想と、それを表現する言語との間には何らのコントラストはなく、完全な融合がある。
この作品の題名は「十日」を意味し、十日の間に語られたように見せかけている百の話を内容としている。
多くの作品の中に女を書いたボッカッチョは、その傑作を、女性に贈ろうと考えた。彼はその序言の中で、恋に悩む者たちを慰めたいのだといい、男には気をまぎらすいろいろの方法があるが、女はかよわいために、一段とその苦悩もはげしいが故に、世の婦人たちにこの話を捧げたいと思ったのであって、この話を読む婦人方は、「その中に示されている興味深いことから、娯楽や、有益な忠告をとりあげて、心して避くべきことや、同様に見習うべきことを知ることがおできになりましょう」と書いている。
この意地の悪い、偽善的な序言のあとに、彼は一三四八年の恐ろしいペストのことを描写している。そして読者を苦しめたことをすまなく思ったのだろう、「この恐ろしい書きだしは、ちょうど旅人の前にそそり立っている、近くに美しいこころよい平地をひかえている嶮岨な一つの山にほかなりません」と附け加えた。こうしてフィレンツェ、イタリア、ヨーロッパに暴威を振ったペストの描写の後に彼は百の話を含んだ娯しい物語りを始めるのである。
フィレンツェにペストが猖獗していた頃のある朝のこと、三人の若い紳士(パンフィロ、フィロストラート、ディオネーオ)と七人の妙齢の貴婦人(パンピネア、フィアンメッタ、フィロメーナ、エミリア、ラウレッタ、ネイフィレ、エリザ)が、偶々聖マリア・ノヴェッラの教会で顔を合す。そこでパンピネアが、ペストに罹らないように町を逃げだして、何日か他処で愉快に暮そうではないかと提案する。その提案に一同が賛成して、翌日陽気な一団は立派な別荘に立てこもるのである。
フィロメーナが毎日かわり番に王なり、女王なりを選んで、時を過す方法を決めて貰うことにしようと申し出るが、これも皆の歓迎するところとなって、第一日はフィロメーナが女王に選ばれる。
集会や、舞踊や、歌や、遊戯や、宴会などの娯しみの他に、中世には(今日では失われたが)、話しをする娯しみがあった。誰でも本の読める今日では、客間で話をする者などはないだろうが、当時としては、話術が重要なものであった。そこでフィロメーナが、団員は各自一日に一話をすること、どんな主題について話をするかは王または女王が定めることという命令を出したが、これは歓んで一同から聞き届けられた。
十日で百の話。第一日は、話題は各人の自由に任された。第二日は、多くの苦難を経て後に幸福な結末に到達する人々のことが語られる。第三日には、長い間熱望したり、失ったものを手に入れたりした事が話題となる。第四日は、不幸な恋人たちの話。第五日は、悲しい事件の後に、幸福に辿り着く恋人たちのこと。第六日は、巧みな即答で危機を脱する人々の事が話題となっている。第七日には、妻が良人に対しておこなう瞞着の話。第八日は、女が男に対し、男が女に対し、男が男に対しておこなう瞞着。第九日は、話題は自由で、第十日には、気高い、寛大な行為が語られている。
『デカメロン』のように、額縁をなす叙述の中に多くの話を入れる遣方《やりかた》は、何も新しいものでないことは、『千一夜』や、『七賢物語』を思い起せば足りよう。また、『デカメロン』の話は、大体に於て、著者の独創によるものではない。
『デカメロン』の典拠は、無数で、多種にわたっている。ボッカッチョは、古典、東洋、フランス、イタリアの物語や、口伝から資料をとったが、しかるべくこれを改変し、登場する人物の性格に適合させ(繊細な心理解剖をしながら)、自由に表現している。
典拠も多様であり、人物、話題、それぞれの話の性質などは、特に多様である。あるものは、奇智に富んだ対話が話全体の動機と目的を描きだした短い逸話であり、あるものは、人物の数からも、構想の大きさからも長篇小説のようであり、またあるものは、面白さの中に悲しい調子をたたえ、多くのものは、最後まで聴者の心を緊張させておく冒険談であり、かなりのものが芸術家や、愚か者に対する瞞着を取扱っている。
たとえ『デカメロン』が大芸術作品でないと仮定しても、ここには中世の、特にイタリアや、フィレンツェの社会の見事な描写があるから、これは歴史的文献として貴重なものと言えるだろう。教会や宮廷の人々、騎士や兵隊、職工や農夫、芸術家や商人などを初めとして、あらゆる階級の男女が登場して、それぞれが自分の身分の特徴や、更には個人的な風貌を持っている。相違は身分だけに止まらない。各人は、異ったモラルを持っている。軟弱な女性の傍に、志操堅固な女性がおり、詐欺漢、食客の傍に、寛大な、気品のある貴族がいるといった具合である。
その事件と人物の多彩はまさに人生万華鏡というべきであるが、これを内容的に整理してみるのも、デカメロンの理解には便利である。ある人はこう分けている。
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@ 運命の戯れ。U2(第二日第二話のこと、以下これに準ずる)、U5、U4、U3、W10、U7。
A 夢と悪人。\7、W6、W7、X8、Z10。
B 人間の徳に関係した冒険。X3、X2、X7、W4、X6、U8、U9、U6。
C 青春の本能と法則。W序、U10、X4。
D 利己主義と奸計。V2、[2、[10、V3、Z2、Z8、Z5、Z4、Z6、Z7。
E 女の奸計と瞞着。\9、[7。
F 滑稽。馬鹿や、単純な者への瞞着。Z3、Z1、Z9。
G 贋信心家の瞞着。T2、\10、V8、Y2、Y10。
H 瞞着。\4、\8、[3、[4、[5、[9、\5、[6、\3、T1。
I 警句。Y1、T5、T7、Y2、T10、Y8、X5、T6、T8、Y4、T3。
J 怜悧。V5、V6、V9。
K 恋の力。親切と騎士気質。\1、V7、X9、]7。
L 畜生《ばか》を人間に変える美。恋と死。X1、W8。
M 恋と死の悲壮な動機。W9、W5、W1。
N 人間の勇気と運命。]1、]2。
O 情熱の勝利。寛大。]6、]4、]5、]9、]8、]10、]3。
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別の分け方(デ・サンクティスによったA・ガスパリーの方法をサヴィオッティが説明しているものによる)を見てみよう。
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@ 逸話、奇智にとんだ警句、当意即妙の返答。第六日の短い話や、第一日の幾つかの話がこれにはいる。例えば真の宗教は何かとバビロニアの帝王に尋ねられたメルキセデックが、同じような指環を三つだして、おこなった返答など。
A 人間の徳。第十日の話、スペインの王アルフォンソの立派な態度や、カルロ・ダンジョや、バビロニアの帝王や、ナタンの寛大や、ティートとジシッポの友情など。鷹を殺して愛する婦人にあたえたフェデリゴ・デリ・アルベリギ(X9)、従順な妻のグリセルダ(]10)など。
B 異常な事件。(運命)。追剥に奪われたものが翌日手にかえってくるリナルド・ダ・アスティ(U2)、落魄したところを、英国の王女と結婚して金持となるフィレンツェのアレッサンドロ(U3)、第五日のチモーネ・ダ・チプリや、ジャンニ・ダ・プロチダの話などのいくつかの話もこれにはいる。更にベリートラ夫人(U6)、テオドーロ(X7)、グイドット・ダ・クレモーナの娘(X5)などは、長い間別れ別れになっていた近親が、予期せずに邂逅する話である。また異常な事件が相次いで起る話には、その財産を失い、海賊となってトルコ人たちを略奪し、金持となり、ジェノヴァ人たちに捕えられて後難破して、辛うじて助かり、波と一緒に打ちあげられた、しがみついていた木箱に宝石類が一杯つまっていたので三度、金持となるランドルフォ・ルッフォロの話(U4)や、四年の間にいろいろの土地で九人の男のものとなって、最後に父親に返されて、最初の旅出の通りガルボの王妃に処女として嫁いだバビロニアの皇女の話(U7)などがはいる。
C 恋の奸計。これにはいる話には、忍耐心と、怜悧《ちえ》によって、良人の高慢を征服し、軽蔑に打ち勝ったジレッタ・ディ・ネルボーナ(V9)や、鶯の声を聞きたがった乙女カテリーナ(X4)など美しい話があるが、大抵は良人を欺く姦婦のそれである。
D 恋(人間の本性、肉欲の声)の力。唖のまねしたマゼットと修道女たちが娯んだ話(V1)、隠遁の苦行者ルスティコと信心深いアリベックの話(V10)など。司祭ヴァルルンゴ([2)や、修士アルベルト・ダ・イモラ(W2)の話は、聖職を悪用したので作者はこれを糾弾するが、聖職者が人間本能から犯す肉の罪は咎め立てていないことに注意を要する。恋はまた勇気、気高い心を生む。カテッラを手籠めにして、「あなたの愛を奪うために欺いたのではなくて、わたしがあなたに寄せている有り余る愛の故であります」と言いわけをするリッチャルド・ミヌートロの話(V6)がそれである。逆境に臨んで節を守ったジェノヴァのヅィネヴラ(U9)――男の場合はアングェルサ伯グァルティエリ(U8)の話――のように考える女は稀にしかないが、老人の良人を棄てて海賊と一緒になったバルトロメアのような女(U10)は、数が多く、こうした女もまた作者によって同情されている。良人を欺して閉め出しを喰わせたギータ(Z4)や、吝嗇な良人に復讐してツィマと関係を結ぶに至るフランチェスコ・ヴェルジェッレージの妻(V5)などがこの種類にはいる。しかし、ベアトリーチェ(Z7)のように、特別の口実が女の側になくても、作者はこれを許している。ただアンブルオージャ夫人([1)のように金儲けの目的で身を任せる女や、エレナ([7)のように真面目な恋人を侮蔑する女を、作者は罰している。恋が道徳や、法則《しぜん》に反した場合は悲劇的な闘争となる。(これはデカメロンの面目の躍如とした部分ではない。)第四日の話が全部これにはいる。恋人グイスカルドの心臓に毒を注いで、それをのんで死ぬギスモンダ、ロレンツォの頭をめぼうき[#「めぼうき」に傍点]の鉢にかくしておくイザベッタ、恋人の死後、修道女となるアンドレウォーラ、同じようにサルヴィアの葉をかんで死ぬシモーナ等々がこれにはいる。デカメロンの世界のような明るい世界を創った作者は、滑稽な事件や、面白い人々で充満した、小さな日常の生活の喜劇を、そこから巧みにひき出すところに本領がある。馬商人のアンドレウッチョ・ダ・ペルージャ(U5)、修士チポッラの召使グッチョ・ポルコ(Y10)、アニェーザ夫人と寝て、子供の虫下しのまじないをしているのだと良人を欺す修士リナルド(Z3)、大天使ガブリエッロの羽を見せるといってチェルタルドの人々を欺す修道士チポッラ(Y10)、リゼッタ夫人に大天使が恋をしていると思いこませる修士アルベルト・ダ・イモラ(W2)、司祭に仮装した良人を欺す女(Z5)、懺悔聴聞司祭を仲人として恋人と娯しむ女(V3)などの話がそれである。
E 実話または、実話に類するもの。妹だと言いくるめてアンドレウッチョを欺すフィオルダリーゾ(U5)、サラバエットから金を欺しとるが、貪欲のために損をしてしまうヤンコフィオーザレ([10)、ピエトロ・ディ・ヴィンチョロの妻に青春を娯しめと教える、教会通いの女衒《ぜげん》(X10)、商人アルリグッチョの姑の貴婦人(Z8)、等々の婦人や、頭蓋骨を使って男をひきいれるテッサの良人ジャンニ・ロッテリンギ(Z1)、至福者になろうとして、修士と妻に四十日間を娯しませるプッチョ(V4)、嫉妬のため煉獄にいると錯覚して、妻を寝とられる百姓フェロンド(V8)、妻を馬にかえようとするピエトロ(\10)、等々数多くの男たちの話がそれである。
F 瞞着。ただ笑うためのものには、画家ブルーノとブッファルマッコ([3、6、9、\3、5)、医者のシモーネ([9)、画家のカランドリーノ([3、6、\3、5)、等がある。また道徳的目的を持ったものとしては、よく、宗教家が主人公や、犠牲者等になっている。リゼッタ夫人を欺した修道士アルベルト(W2)、百姓女ベルコローレを嚇して、関係のよりを戻す司祭のヴァルルンゴ([2)、ビッカルダ夫人に欺されて、司教にとんだところを見つけられるフィエゾレの修院長([4)、信心家と思いこませて、聖人になりおおすチャッペッレット(T1)、等々の話がそれである。
[#ここで字下げ終わり]
こういう具合に、旅行者ボッカッチョ(いろいろの人々を近くから観察して、人間の長所を知りつくしていた)は、千差万別の人物を描いて楽しんでいたが、特に婦人を好んで登場させ、また、騎士や貴婦人よりは、市民を書くのが得意であった。
彼が想像で創りあげたこの屈託のない団体の思いつきは、かつてロベルト王の宮廷で過した、青春と恋の日の思い出に拠るものであったのだろう。この話者たちの一人一人は各々その性格を話に反映しているのであって、賢明で礼儀正しいパンフィロと、変人で、順序などを守らないで話をするディオネーオとは混同されない。年長で真面目なパンピネアや、内気で優しいラウレッタや、ちょっと虚栄心のあるエミリアや、はしゃいでいるフィアンメッタなども、それぞれはっきりと異った性格を示している。
金曜日と土曜日には話をしたがらないで日曜日にはミサに行く(だから金、土は二回、日曜が一回を含めて、一団は十五日目の朝、出発と同じように水曜日にフィレンツェに帰っている)彼女たちが、どうして、司祭や修士が笑いものにされている話を楽しんで、信仰への尊敬を払っていると言えるのだろうかわからない、と問題になった。だがこうした矛盾を私達は作者自身の心の中に見てきた。チャーニの訪問を受けて後の変化は、既に(特にアメートや、「愛の幻影」に)、異端的形式とキリスト教的感情の混淆を、天上への希求を、地下への落下を見てきた。そうした感情の混淆は、彼や、登場人物の心の中にばかりでなく、また当時の社会全体に、あったのである。恐ろしいペストの猖獗を見て、神に助けを求める者もあり、放埓三昧にふける者があり、同じ人間で両方をやる者もあったのは事実であろう。(いや、いつの時代にも、人間の心に巣喰っている二面であると考えることもできないとは言えない。)
司祭や、修士への諷刺は、一般の小説《ノヴエツレ》には珍らしくはなかった。けれども、「『デカメロン』の淫猥性は、世紀の堕落によるばかりではなく、そうした醜聞を作者が好んでいたと考えられよう。ボッカッチョが女について多く書いたのは、女が好きだったからだ、不貞な情熱を書いたのは、それに心を惹かれたからである。私生児で幼時を母の接吻も愛撫もなしに過し、姉妹がなく、妻のない、遊逸と悪徳にみちた宮廷で女を知ることを覚えた作者《もの》が、こうした浮気な、肉感的な女を描くのは当然だ」と言った文学者がいる。
この『デカメロン』を、ボッカッチョは年老いてから、ある若い友人が、自分の家の女に読ませようと考えていると聞いて、「とんでもない、そんなことは勘弁して貰いたい。それを読む者はわしを穢らわしい好色漢、老不徳漢と取沙汰するだろう」と、むきになって手紙を出した事実や、執筆半ばにその筆を折ろうと考えたという点や、彼が序言の中で、「恋の悩みを除き、有益な処世法を教える」ためだと述べたことや、巻末に、不道徳であるとの非難には、附しておいた詳しい綱目によって、「いけないところは読まないがいい」と、答えていることなどからも推察できようが、その大部分(七〇%くらい)が好色的な内容をもっている。
さて、『デカメロン』はイタリア語散文芸術の重要な一起点をなすという説がある。ボッカッチョはイタリア語散文の父であると、権威ある『デカメロン』研究者は書いた。しかし古譚百話《ノヴエツリーノ》(十三世紀末から十四世紀初めにかけて一トスカーナ人が集めたとされている)や、フランコ・サッケッティ(一三三二年?―一四〇〇年?)の短篇三百種《レ・トレチエント・ノヴエツレ》は、主としてフィレンツェ地方語による散文であり(更にシエナの聖ベルナルドの、シエナ地方語による散文の逸話や寓話を包含した説教も思い出される)、またそれより以前にダンテの新生《ヴイタ・ヌオヴア》や饗宴篇《コンヴイヴイオ》や、ディーノ・コンパーニの編年史《クロニカ》のようなそれぞれの美しい頁を有するものを考え合すならば、ボッカッチョをもって、イタリア語散文が生れたとは誇張にすぎようが、ボッカッチョがラテンの作家たちに倣って、確かりした構文《ペリオド》を作ろうとした点は、高く評価されるべきである。ボッカッチョの構文は、その後のイタリアの散文作家に、長い間大きな影響をあたえた。十五世紀は十六世紀に対して、文法が生みだされるような価値のある散文は提供していなかったので、この二百年以上の間、イタリア語の文法学者たちは、その文法の研究にあたって『デカメロン』だけに依存しなければならない状態にあったし、イタリア語散文作家たちはただ一つデカメロンを規範にしなければならなかった。(もっともボッカッチョの亜流は、彼の欠点だけを見倣ったので、そうした悪風がまったくなくならない限り、ボッカッチョ散文の価値評価も誤まられたわけである。)漸く歩をふみだしたイタリア語文学においては、ダンテ、ペトラルカをもって、イタリア語詩の基礎は確立していたが、散文においては、その言葉と形式は、まだ不定な、幼稚なものであった。当時人々は散文を綴るには、ラテン語をもってするのが普通であった。ペトラルカは傑作として後世に遺すべき意図を持っていたものは、書簡すらも全文ラテン語で書いていた。そうした時代に、ペトラルカに劣らないラテン語の力があったと評せられるボッカッチョは、ダンテや、ペトラルカよりも身近かに親しむことができたフィレンツェ語をとりあげて、これをラテン作家から学んだ構文(従属文の主文への論理的結合や、結合、繰返し、転置を伴った関係代名詞の使用による連鎖になる厳かな構文)のうちに、それを生かしたのである。構文の荘重さに引きかえて、文体《スタイル》は決して単調ではない。ボッカッチョは、『デカメロン』をフィレンツェ俗語を用いて、散文で、卑俗な文体で書いたのだと(確かにボッカッチョは、『デカメロン』が後世問題にされるような作だとは想像しなかった)謙遜して言っているが(イタリア語がルネッサンスの春に凱歌をあげるや、ダンテや、ペトラルカは世界の尊敬を受けたが、彼もまた散文のモデルと謳われたのであって)、イタリア語の文法と言語に関する権威あるアッカデミア・クルスカは、デカメロンの中に殆んどすべての文体が含まれており、この作品だけで、殆んどあらゆる種類の作文法を見出すことができると評していることから考えても、ボッカッチョがいかに、ラテン語においてよりもフィレンツェ語に於いて、また詩においてよりも散文において、自ら期するところがあったかがうかがわれ、前述の謙遜は文字どおりには受取りかねるとする見方も、『デカメロン』を、特に階級と社会に従っての多種の人物の会話のうちに見る整然とした、迫力のある点、二重の意味を持った方言の駆使、警句、諺、隠語の挿入、等々などを心して読んだ者には、首肯できることであろう。ボッカッチョはラテン語的用法を模範としてフィレンツェ語を美化し、優雅にした。だから、ここに用いられた言葉は、フィレンツェのものでも、時代のものでも、ボッカッチョのものでもなく、実に『デカメロン』特有のものであると言えよう。この構文の中には、ダンテの神曲がそのまま散文となり、Petronius の小説の数行が巧みに取入れられているように、多くの章句の挿入もまた、『デカメロン』の註釈者連を忙殺させるものである。
ラテン的散文を師としたといっても、当時のラテン作品のイタリア語訳に見られる無味単調はなく、その文体の至妙なる点は、既に述べたが、その風物の描写(『デカメロン』にでてくるイタリアの地名は神曲を凌駕しているといわれている)は、よくその特徴を捉えて、波の音、風の声を聞かせてくれる。ボッカッチョは、(彼は詩人を志し、多くの詩を書いたが、ペトラルカに及ばざることを知って詩人を断念したという者もいる)自分では意識していなかったかも知れないが、『デカメロン』の到るところに詩句なき詩を綴り、詩情を感じさせる。その全篇に流れる音楽性こそが、『デカメロン』の芸術を高からしめる重大な要素なのである。(それはまだまだ、拙訳の敢て試みないところである。そのためには数十回作品を読み返して、訳者がその音楽性の中に生きる余裕と、表現語である日本語研究の精進の結実が、不可欠なのである。今回の拙訳は達意と気品ある表現だけを心がけた。小生流の解釈による翻訳は、将来に期待して頂きたい。)ボッカッチョは散文の父とは言えないかも知れないが、サッケッティの短篇三百種とはまったく趣きを異にした、また新生や饗宴篇にも見られない血と肉のついた、多彩な、興趣の尽きない散文の創始者、発明者と言えるだろう。(イタリア文学に対するボッカッチョの功績には他に、物語詩に八行解節を(有機的にまとまったものとして)使った最初、または殆んど最初の人であり、ダンテに関する教育をおこなった最初の人であり、ギリシャ語教育を再興させた最初の貢献者である、などを挙げることができよう。)
時が流れて、浪漫主義イタリアが自己の運命を見つめた時に、新時代の先駆者、詩人、小説家ウーゴ・フォスコロは、テムズ河畔に『神曲』の他に、『デカメロン』の原典研究を行い、更に一八七五年にチェルタルドにボッカッチョの像が建てられた時に、その除幕式は詩人、評論家ジョズエ・カルドゥッチの熱弁によって飾られた。カルドゥッチは、一三〇〇年代の三巨星として、ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョを挙げて、彼を二大詩人と同列に置き、「ボッカッチョの人曲 Commedia umana こそは、普遍性においてダンテの神曲に比肩さるべき唯一の作品である」と激賞した。デ・サンクティスは、「これぞ新しいコンメディアである、神曲ではなくて、地上の曲 Terrestre Commedia である。ダンテは自らのマントに身を包んで、視界から姿を消す。中世はその幻影と、伝統と、神秘と、恐怖と、影と、恍惚と共に、芸術の神殿から追い払われる。そして、そこへ騒々しい音をたててはいってくるのは、ボッカッチョであり、彼はその後長く自分のうしろに全イタリアを曳っぱっていく。」と、『デカメロン』論を結んだ。
『デカメロン』は、ラテン語からの重訳でつとに一四一四年にフランス語に訳され、後一五四五年にいい仏訳書がでるに及んで仏作家に影響するところが多く、これら作家の一人にマルグリット・ド・ナヴァーレ Marguerite de Navarre (1492-1549)(七日物語《エプタメロン》)があり、英国においては十四世紀末、チョーサー Geoffrey Chaucer (? 1340-1400) がカンタベリー・テールズ Canterbury Tales に『デカメロン』を模倣し、ボッカッチョの他の散文作品『フィロストラート』から『トルイラスとクレッシダ』Troilus and Criseyde の詩を作った。シェークスピアは同名の劇にこの主題を用い、また『デカメロン』の第二日第九話から取材して、劇『シムビリン』を作った。シェークスピアが利用したといわれるものは、一五六六年(第一巻六十話)、一五六七年(第二巻三十四話)に、ウィリアム・ペインター William Paynter が訳したと言われるザ・パレス・オブ・プレジュア The Palace of Pleasure である。こうして『デカメロン』は、ルネッサンス時代にヨーロッパの諸国に紹介され、模倣される一方、イタリアにおいては、ポッジョ、バンデッロ、チンツィオ、フィレンツォーラ、マレスピーニその他の多くの追随者や模倣者をだしたのである。
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ボッカッチョ (Giovanni Boccaccio)
イタリアの作家。一三一三年、フィレンツェの両替商の家に生まれる。幼年時からダンテの作品に親しむ。まだ少年の頃に稼業習得のためミラノに送られるが、各地から集まってきた知識人たちと親しく交わりながら宮廷文化を謳歌し、詩作や天文学、古典研究に打ち込む。一九四〇年フィレンツェに呼び戻された後は、いっそう精力的に文学研究や著作に励み、その文名は日増しに高まっていく。経済的には恵まれなかったが、フィレンツェ共和国の特使としてヨーロッパ各地に派遣される傍ら、ホメロスの詩を公費でラテン語に翻訳させるなど、政治的かつ文化的にも重要な役割を果たす。晩年には古典の文献的研究と著述に没頭、ステファノ協会で行われる『神曲』の講義者にも任命された。親友ペトラルカの訃報を聞いた翌一三七五年、隠棲先の城塞都市チェルタルドに没した。ダンテ、ペトラルカと並ぶ最大の文学者であり、後世のヨーロッパ文学に深甚な影響を及ぼした。叙情詩、叙事詩、長・短編小説、論文など、多方面に才能を発揮し、ラテン語と俗語(発生期のイタリア語)の両方を駆使して、膨大な作品を残した。
柏熊達生(かしわぐま・たつお)
一九〇七年、千葉県に生まれる。イタリア文学者、翻訳家。東京外国語大学卒業後、外務省留学生としてローマへ渡航。ミラノ領事館、ローマ大使館勤務を経て、一〇年後に帰朝、東京外国語大学教授に就任。一九五六年、四八歳の若さで歿。訳書にアミーチス『クオレ』、コッローディ『ピノッキオ』など多数。
本作品は一九五七年一一月「世界文学全集1」として河出書房から刊行され、一九八一年三月、ノーベル書房から三冊本で刊行された後、一九八七年十二月、ちくま文庫に収録された。