デカメロン(下)
ボッカッチョ/柏熊達生 訳
目 次
第八日
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第一話 〈グルファルドはグァスパルルオーロから金を借りて、グァスパルルオーロの妻にその金額をあたえる約束で、彼女と寝ようと相談をして、そうしてから、その金を彼女にあたえる。……〉
第二話 〈ヴァルルンゴの司祭がベルコローレ夫人と寝て、その抵当に自分の外套を残していくが、彼女から乳鉢を借りて、それを返し、抵当においていった外套を返すように言わせる。……〉
第三話 〈カランドリーノ、ブルーノ、ブッファルマッコらは、下のムニョーネ河にエリトローピア(血玉髄)を探しに行き、カランドリーノはそれを発見したと思いこむ。そして、うんと石をかついで家に戻る。……〉
第四話 〈フィエゾレの修院長がある未亡人に思いを寄せるが、未亡人からは愛されていない。修院長は彼女と寝るつもりで、その女中と寝る。……〉
第五話 〈三人の青年が、フィレンツェにいるマルケ地方の出身の裁判官――彼が裁判をしていたときに――のズボンを引っ張って脱がす〉
第六話 〈ブルーノとブッファルマッコは、カランドリーノから一頭の豚を盗む。……〉
第七話 〈ある学者が一人の未亡人に思いをよせる。未亡人はほかの男を愛していたので、ある冬の夜、学者に雪の上で待ちぼうけをくわせる。……〉
第八話 〈二人の男がたがいに往来《ゆきき》している。一人が別の男の細君と一緒に寝る。その別の男がこれを知って、自分の妻と謀って、もう一人のほうを箱の中に閉じこめる。……〉
第九話 〈医者のシモーネ先生は、ブルーノとブッファルマッコから、「掠奪に行く」団体に加わらせてもらうことになって、夜ある場所に行かせられる。……〉
第十話 〈あるシチリアの女が巧みに一人の商人から、彼がパレルモに持ってきたものをとりあげる。……〉
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第九日
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第一話 〈フランチェスカ夫人はリヌッチョという男と、アレッサンドロという男に思いをかけられて、どちらも愛していないので、一人は死人の役をつとめるようにと墓の中にはいらせ、もう一人にはそれを死人だからと言って引き出させる。……〉
第二話 〈ある女子修道院長が、訴えがあったので、そこの修道女が恋人と寝台に寝ているところを見とどけようと、あわてて暗闇で起きあがるが、……〉
第三話 〈シモーネ先生は、ブルーノや、ブッファルマッコや、ネッロの懇請によって、カランドリーノに、彼本人が妊娠していると思いこませる。……〉
第四話 〈フォルタルリーゴ家のチェッコは、シエナ近郊のボンコンヴェント村で、自分の持ち物全部とアンジュリエーリ家のチェッコの金を賭博に使う。……〉
第五話 〈カランドリーノが若い婦人に恋をする。ブルーノがカランドリーノのために護符《ごふ》を作ってやり、カランドリーノがその護符で婦人のからだに触れると、……〉
第六話 〈二人の青年がある男のところに泊まって、そのうちの一人がその男の娘と寝に行き、その男の細君がそれとは知らずにもう一人の青年と寝る。……〉
第七話 〈ターラノ・ディ・モレーゼは、狼が妻ののどと顔をあらかた食いやぶってしまう夢を見て、妻に用心をするようにと言う。妻がそのとおりにしないので、彼女に夢のとおりのことが起こる〉
第八話 〈ビオンデッロが食事のことでチャッコをだますと、チャッコは、めちゃめちゃに殴らせて、たくみに復讐する〉
第九話 〈二人の青年が、一人はどうしたら人に愛されるか、もう一人はどうしたら強情な細君を懲らしめることができるかということについて、サラモーネに忠告を求める。……〉
第十話 〈ジャンニ師は、ピエトロ氏の求めによってその細君を牝馬に変えるために魔法を行なう。そして尻尾をつける段になるとピエトロ氏が、尻尾はいらないと言って、まじないを全部打ちこわしてしまう〉
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第十日
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第一話 〈一人の騎士がスペイン王に仕えるが、自分は十分な褒賞をうけていないと思う。そこで、王はすこぶる確実な実験をもって、それが本人の罪によるのではなく、本人の不運のせいであることを騎士に示す。……〉
第二話 〈ギーノ・ディ・タッコはクリニーの修院長をとらえて、修院長の胃病を治療し、そのあとで放免する。……〉
第三話 〈ミトリダネスは、ナタンの親切なのをそねんで彼を殺しに行くが、彼とは知らずに、彼とばったり出会う。……〉
第四話 〈ジェンティーレ・カリセンディ氏はモデナからやってきて、墓から、死んだものとして埋葬されていた自分の愛していた婦人を取りだす。……〉
第五話 〈ディアノーラ夫人はメッセール・アンサルドに、一月の庭を五月の庭のように美しくすることを要求する。アンサルドは妖術師に報酬を約して、彼女のためにその望みをかなえてやる。……〉
第六話 〈勝利者であるカルロ老王は、ある少女に思いをよせたが、自分の気違いじみた考えを恥じて、その娘と妹に立派な支度をして嫁がせる〉
第七話 〈ピエトロ王は、病気のリーザが自分によせた熱烈な恋のことを聞いて、彼女を慰め、その後若い貴族に嫁がせて、彼女の額に接吻したうえ、その後はいつも自分は彼女の騎士であると自称する〉
第八話 〈ソフロニアは、ジシッポの妻になるつもりでいたが、ティート・クインツィオ・フルヴォの妻になって、彼とともにローマへ行く。……〉
第九話 〈商人の扮装をした回教王《サラデイーノ》はトレッロ氏の厚遇をうける。十字軍の遠征が行なわれて、トレッロ氏は夫人に一定の期間が過ぎたら再婚をしてもよいと言う。……〉
第十話 〈サルッツォの侯爵は、家臣の願いによってやむを得ず妻をめとることとなるが、自分の好みに従ってめとろうとして、ある田舎者の娘を妻にする。彼女との間に二人のこどもができるが、……〉
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著者のむすび
ボッカッチョ年譜
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デカメロン(下)
第八日
[#この行3字下げ]〈デカメロンの第七日が終わり、第八日がはじまる。この日にはラウレッタの主宰の下に、常に女が男に、男が女に、男がほかの男に、たがいに行なうあの瞞着のことを話す〉
日曜日の朝には、一番高い山々の頂きに、もうのぼる太陽の光線が見えそめて、あらゆる影が姿を消し、万物がはっきりと見えておりました。その時、女王は立ちあがって仲間の者たちと一緒に、まず露をふくんだ草を踏んで歩きました。それから七時半頃に、近くの小教会を訪れて、そこで聖務日課を聞きました。それから家に帰って、嬉々として、にぎやかに食事をおえてから、少しのあいだ歌ったり踊ったりしました。その後で、女王からお許しがでると、休みに行きたい者は、そうすることができました。でも、すでに太陽は子午線を過ぎ、女王の望むがままに、一同は例のお話をするために、美しい噴泉のそばに腰をおろしました。女王の命令によって、ネイフィレがこう話しはじめました。
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第一話
[#この行3字下げ]〈グルファルドはグァスパルルオーロから金を借りて、グァスパルルオーロの妻にその金額をあたえる約束で、彼女と寝ようと相談をして、そうしてから、その金を彼女にあたえる。その後、彼女の面前で、グァスパルルオーロに、金は奥さんに渡したというと、彼女はそれは事実であると言う〉
わたくしがお話をして、今日の皮切りをしなければならないということは神さまのお定めでございましょう。それはわたくしにとってもうれしいことに存じます。そこで、愛らしい淑女のみなさん、女が男にたいして行なった瞞着については、たくさんのお話がでましたので、わたくしは男が女に対して行なったのを一つお話しいたしたいと存じます。むろんこれは、その話で、男がしたことを非難したり、女にとって気の毒だったと言おうと考えているからではございません。むしろ男をほめて、女を軽蔑するためで、男たちも、ちょうど自分たちが瞞着していると思っている相手から瞞着されるのと同じように、自分たちを瞞着していると思っている者を瞞着することができることを示すためでございます。わたくしが申しあげなければならないことを、もっと的確に申したければ、瞞着とはいわないで、いっそ返報と申すべきでございましょう。女はいたって貞節でなければならず、その純潔を自分の命と同じように守って、どんなことがあっても、それを汚《けが》すようなことをしてはならないとは申しながら、それでもわたくしたちは罪を犯しやすいので、このことは当然そうあるべきほどには十分に守られておりませんが、わたくしは、欲得ずくでそうしたことをするような女は、火刑に価するものであると断言いたします。愛ゆえに、愛のいとも大きな力を知ったためにそうした立場にいたる者は、つい数日前にフィロストラートがプラートのフィリッパ夫人の場合に起こったことをお話しになりましたように、相手があまりきびしすぎない裁判官でございましたら、そのお許しをうる資格があるだろうと存じます。
さて、メラノにかつてグルファルドという名前のドイツ人の兵隊がおりました。しっかりしたからだつきをしていて、自分が仕えている主人たちに対しては、ドイツ人には珍しく、非常に忠実でございました。彼は自分が借り受けた金銭については、きわめて几帳面《きちようめん》に返済をする人でしたので、わずかな利子でいくらでも金を貸そうという商人を大勢見つけることができたのでございます。この男は、メラノに住んでいるうちに、かなり深い知り合いで、友人だったグァスパルルオーロ・カガストラッチョという名前の裕福な商人の細君で、アンブルオージャ夫人というたいへんな美人に思いをよせました。思いをよせても、非常に用心をしておりましたので、夫や他の人たちはそれに気がついていませんでしたが、ある日のこと、彼は彼女のところに使いの者をやって、どうか自分の恋にやさしい態度をとっていただきたい、自分としては、あなたの命ずることはなんでもするつもりであるから、と言わせました。女はいろいろ多くのことを言ったあとで、もし二つのことをすると約束されたら、グルファルドが望んでいることをする用意があるという話になりました。一つは、このことが彼の口から絶対にだれにも明かされないということで、もう一つは、自分が、あることのために金貨二百フィオリーノがいるので金持ちである彼にそれを贈ってもらいたい、そのあとで、いつなりと彼に身をまかせましょう、ということでございました。グルファルドはこの女の貪欲を耳にして、自分がりっぱな女だと思いこんでいた彼女の心根のいやしさに憤慨すると、熱烈な恋を、ほとんど憎悪に変えてしまいました。そして彼女を瞞してやろうと考えまして、使いの者をやって、そのことばかりでなく、自分のできることで、あなたの気に入ることなら、ほかにもなんでもよろこんでいたしましょう、だから、自分が訪ねるのはいつにしたらよろしいのか知らせてもらいたい、自分はそれを持って行くつもりだし、また自分が心から信頼していて、自分のすることについては、いつも自分と一緒になっている一人の仲間のほかには、だれの耳にもこのことははいらないだろうと、告げました。女は、いや悪女は、これを聞くとよろこびました。使いの者を男のもとにおくって、自分の夫のグァスパルルオーロは、今から二、三日中に商用のためにジェノヴァまで行かなければならないから、その時にはあなたに知らせよう、あなたのところへ使いの者をだそうと、伝えました。グルファルドは、いい折をみて、グァスパルルオーロのところに行って、こう言いました。
「わたしはある仕事をしようとしているのですが、そのために、金貨二百フィオリーノが必要なのです。あなたがこれまでいつも貸して下さっていたあの利息で、それをお貸し願いたいのですがね」
グァスパルルオーロはよろこんでお貸ししましょうと言って、すぐに彼のために金を数えました。それから数日して、グァスパルルオーロは、女が話していたように、ジェノヴァに行きました。そこで女は、グルファルドのもとに使いの者をやって、金貨二百フィオリーノを持って、自分のところにぜひ訪ねてきてくれるようにと伝えました。グルファルドが自分の仲間をつれて女の家に行ってみると、女が待ち構えておりました。まず第一に、彼は仲間の見ているところで、この金貨二百フィオリーノを女の手において、こう言いました。
「奥さん、このお金をとっておいて下さい。御主人がお帰りになったら、それをお渡しになって下さい」
女はその金を受けとりましたが、なぜグルファルドがそう言ったのかわかりませんでした。しかし、彼女は男がその金をたのしみの代金として女にあたえていることを、仲間に気づかれないようにと思って、そう言ったのだと思いこみました。
「よろこんでそういたしましょう。でも、どのくらいあるかみたいと存じます」
その金をテーブルの上にあけると、二百フィオリーノありましたので、彼女は内心ではいたく満足して、それをしまいこむと、グルファルドのところにとって返して、彼を自分の寝室に連れて行って、その夜ばかりでなく、夫がジェノヴァから帰るまで、幾夜もその身をまかせて、彼を満足させました。グァスパルルオーロがジェノヴァから帰ってきましたので、さっそくグルファルドは、彼が細君と一緒にいるところをねらって彼のところに行くと、彼女の前で言いました。
「グァスパルルオーロ、お金は、つまり先日拝借した金貨二百フィオリーノは、それをお借りした使い途に使えなかったので、いらなくなりました。ですから、すぐにここの、奥さんのところに持ってあがりまして、お渡ししておきました。ですから、わたしの借り勘定のほうは消しておいて下さい」
グァスパルルオーロは細君のほうに向いて、金はもらったのかとたずねました。彼女は、そこの、目の前に証人がいるので、それを拒むことができませんので言いました。
「ええ、受け取りましたとも、それをあなたに申しあげるのを忘れていたのですよ」
そこでグァスパルルオーロが言いました。
「グルファルド、わたしは満足ですよ。どうかお引き取り下さい。あんたの勘定はよく直しておきましょう」
グルファルドは立ち去りました。女はまんまとしてやられて、夫に自分の醜行の汚《けが》らわしい代金を渡しました。こうして賢明な恋人は、一文も払わずに、その貪欲な女をたのしみました。
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第二話
[#この行3字下げ]〈ヴァルルンゴの司祭がベルコローレ夫人と寝て、その抵当に自分の外套を残していくが、彼女から乳鉢を借りて、それを返し、抵当においていった外套を返すように言わせる。お人よしの女は、いやみを言いながらそれを返す〉
紳士たちや淑女たちは、グルファルドが貪欲なメラノの女にたいしてのけたことを、同様にほめ讃えました。そのとき女王は、パンフィロのほうを向いて、ほほえみながらそのあとをつづけるようにと命じました。そこで、パンフィロがはじめました。
美しい淑女のみなさん、わたくしは、たえず侮辱をあたえながら、わたしたちから同じように侮辱をうけないですむ人々にたいして、つまり司祭たちにたいして、これを糾弾《きゆうだん》するような小さなお話をしないではいられません。その司祭たちは、わたしたちの妻にたいして、十字軍を起こして、その一人でも征服すると、まるで、アレッサンドリアから回教君主を縛《しば》ってヴィニョーネ(今日のフランスのアウィニヨン)に連れて行きでもしたように、その罪や罰の赦しをえたかのように考えるのです。気の毒に俗人たちは司祭たちにその仕返しをすることはできないが、それでも司祭たちが彼らの細君を襲うときと同じように熱心に、司祭たちの母親や姉妹や情婦や娘を襲って、その憤懣《ふんまん》を晴らします。そこでわたしはみなさんに、田舎臭いげすな色事をお話ししようと思います。それはながながと話すよりは結論のほうがおかしいのでして、その色事から、あなた方は司祭だからとてなにからなにまで、必ず信じていいものではないということを、その教訓としてお拾いになることができるでしょう。
さて、お話しいたしますが、ここのすぐ近くの村であるヴァルルンゴに、あなた方はどなたもご存じか、あるいはお耳になさったことがありましょうが、一人のりっぱな、また女へのつとめにかけては、たくましいからだをした司祭がおりました。彼は字を読むことはあまり知りませんでしたが、それでも日曜には、楡《にれ》の木の下で、たいへん良い、ありがたいことばで、教区の人々の心をたのしませておりました。で、男たちがどこかへ出かけると、今まで村にいたどの司祭よりも熱心に、その細君たちを訪れて、彼女たちに、お祭りに売っている品々や聖水や蝋燭のもえ残りのかけらなどを、ときには家にまでも持って行って、祝福をあたえておりました。
さて、今まで彼の気に入った教区の女たちの中で、ベンティヴェーニャ・デル・マッツォと呼ばれていた百姓の細君で、ベルコローレさんという名の女が、どの女にもまさって気に入りました。この女はまた、実際のところ、色のあさ黒い、頑丈なからだつきの、どの女よりもうまく臼を引くのに適した、あだっぽい、みずみずしい百姓女でありました。そればかりでなく、近所の女よりも上手にシンバルを奏でて、「水は谿間に流れ込む」を歌い、必要があれば、美しい上等なハンケチを片手に持って、リッダやバッロンキオといった百姓踊りもできる女でありました。そんなわけで、司祭さんはすっかり惚れこんでしまい、そのためにぼうっとのぼせあがって、彼女の姿を見られたらと一日じゅう、あたりをうろついておりました。で、日曜日の朝、彼女が教会にきているのがわかると、自分は歌の大先生だと見せようとして、うんと力を入れて、「主、憐れみたまえ」や、「サントゥスの誦《しよう》」を歌いましたが、それは、鳴き叫ぶ驢馬のようでありました。ところが、彼女の姿が見えないとしごくあっさりすませておりました。けれども、うまく立ち廻っておりましたので、ベンティヴェーニャ・デル・マッツォはそれに気がつきませんでしたし、そのことは司祭の隣人にもわかりませんでした。で、司祭は、もっとベルコローレさんの気に入ろうと思って、ときどき贈り物をしました。ときには、手ずから耕やしていた自分の菜園にできた、そのあたりで一番見事なものだった新鮮なにんにくを一束とどけたり、ときには碗豆を一籠、またあるときは、五月の新葱を一束送ったりいたしました。よい折をみては、ちょっと怒ったようなそぶりで彼女を見つめると、やさしく冗談口をたたきました。ものの哀れを知る由もない彼女は、そんなことには気がつかないふりをして、いっこうになびこうとはしませんでした。ですから、司祭さんはその目的を達することができませんでした。
さて、ところがある日のことでした。司祭が昼の日盛りに、村じゅう、そちらこちらといそがしそうに歩いていたときに、荷を山と積んだ驢馬を先にしてやってくるベンティヴェーニャ・デル・マッツォに出会いまして、これに話しかけて、どこに行くのかとたずねました。ベンティヴェーニャは彼に答えました。
「ああ、司祭さま、ちょっと用事がありまして、町まで行きますんで、この品物をボナッコルリ・ダ・ジネストレートさんのところへ持って行くんですよ。決定裁判に、悪事をお裁きの裁判官が検事を使って、なんだかわからないことで、わたしを召喚させたので、助けていただこうと思いましてな」
司祭はよろこんで言いました。
「それはいいことだよ、あんた。ではわたしの祝福をうけて出かけなさい。早くお帰りよ。もしラプッチョかナルディーノに会うようなことがあったら、わたしの殻竿《からざお》に使うあの革紐を届けてよこすようにというのを忘れないでおくれよ」
ベンティヴェーニャはそうしようと言いました。そして、フィレンツェの方に出かけました。司祭は今こそベルコローレのところに行って、運を試す時だと考えまして、足を早めて、彼女の家に着くまでずっと歩きつづけました。そして家の中へはいって、言いました。
「こいつはつらい、そこにいるのはどなたかな?」
屋根裏の部屋に行っていたベルコローレは、それを聞くと申しました。
「まあ、司祭さま、よくいらっしゃいました。この暑いのに、なにを忙しそうに出歩いていらっしゃるのですか」
司祭が答えました。
「神さまが幸運を恵んでくれたんでね。わたしはしばらくあなたと一緒にいようとやってきたんだよ。御亭主が町に出かけるのを見たもんでね」
ベルコローレは下におりてきて、腰をおろすと、夫がすこし前に殻竿で叩いておいた小キャベツの種を選りはじめました。司祭は彼女に話しかけました。
「ねえ、ベルコローレ、あなたはいつもこんなふうに、わたしに情《つれ》ない思いをさせないではいられないのかね?」
ベルコローレは笑いだして、申しました。
「まあ、わたしがあなたになにをしまして?」
司祭が言いました。
「あなたはわたしに対してなにもしないよ。だが、わたしがあなたにしたいと思っていることで神さまがお命じになったことを、あなたはわたしにさせてくれやしない」
ベルコローレが言いました。
「まあ、とっととお帰り下さい。司祭さま方がそんなことをなさるのですか?」
司祭が答えました。
「ええ、ほかの男たちよりはうまくやるよ。なんの不思議があるものか。もっといっておくがね、わたしたちはずっとうまい仕事をやってのけるんだよ。なぜだかわかるかね? それはね、わたしたちは、水が一杯たまったときに水車を廻すからなんだよ。でも、ほんとうのところ、あなたがじっとしていて、わたしに好きなようにさせておけば、あなたの得になるんだがねえ」
ベルコローレが申しました。
「それがわたしになんの得になるのでしょうね? あなた方はだれもかれも、悪魔よりもけちなんですからね」
すると、司祭が言いました。
「わからないね。あなたが申し出たらいいんだよ。かわいい靴が一足ほしいとか、リボンの飾りがほしいとか、上等の羊毛地を一着分たっぷりほしいとかね。それともほかにほしいものがあったらいいなさいよ」
ベルコローレが申しました。
「神父さん、たくさんですわ! そんな物は持っておりますよ。でも、あなたがそんなにわたしがお好きなら、どうしてわたしのために、ある願いをかなえて下さらないのでしょうね? そしたら、わたしだってあなたのお好きなことをいたしますわ」
すると、司祭が言いました。
「あなたの望むことをいってごらん、わたしはよろこんでしてあげよう」
そこで、ベルコローレが申しました。
「わたしは土曜日にフィレンツェに行って、紡いだ羊毛を返して、紡車《いとぐるま》を修理させなくてはいけないんですよ。で、もしわたしがお手許にあるとにらんだ五リラのお金をお貸し願えたら、わたしは高利貸《しちや》のところから、ペルシャ色の長上衣と結婚の時に主人のところに持ってきた止め金つきの皮帯を引きだしてくるのですが、ごらんのとおり、それがないので、わたしは教会にもどこにも行くことができないのですからね。そのあとなら、いつだってあなたのお好きなようにいたしますよ」
司祭が答えました。
「ほんとうのところ、わたしはあいにくそれを持ち合わせていないんだよ。でもよろこんで、土曜日にならないうちに、あなたの手にはいるようにしてあげよう。嘘じゃないよ」
「ええ」とベルコローレが言いました。「あなた方は、みなこうしたたいへんな約束をする人々で、あとになると一つとしてだれにも約束を守りはしないのです。まんまと瞞されたビリウッツァにしたようなことを、わたしにもしようと思っているんですね? 神さまに誓って申しあげておきますが、それはだめですよ。あの女《ひと》はただそれが目的で商売女になったのですからね。お金を持っていらっしゃらなければ、とりに行ってらっしゃい」
「なんだって?」と司祭が言いました。「今、家まで行くようなことはさせないでおくれ。ごらんのように、今は首尾は上乗、だれもいないんだからね。おそらく、今度出直してきたら、だれかしら邪魔がはいっているだろう。わたしには、いつまた今ほどこんなにいい機会がやってくるか、わからないんだからね」
すると、彼女が申しました。
「いいですわ。もしとりにいらっしゃりたければ、いらしって下さい。もしおいやなら、そうして我慢していらっしゃいな」
司祭は、彼女が自分の立場を司祭が救ってくれなければ、彼の気に入ることをする様子がないのを見てとり、自分はどうしてもそうしたい気持ちでしたので言いました。
「なるほど、あなたはわたしがそれを届けないと思っているのだね。あなたがわたしを信用するように、抵当として、この紺色の外套をおいていこう」
ベルコローレはぐっと顔をあげて、言いました。
「そう、その外套ね。それはどのくらいするものですの?」
司祭が言いました。
「なんだって、どのくらいするって? こいつはドアジョ産の、いやトレアジョ産布地なのを、知っていてもらいたいね。ここの人々のなかには、これをクァトラジョ産だといっている連中もいるんだよ。古着屋のロットに七リラも払ってから、まだ十五日とたっていないよ。あなたも知っている、この紺色の布地についてはなかなか詳しいブリエットがいってるところでは、わたしはそれでもまだ五ソルドは得をしているということだよ」
「ほんと?」とベルコローレが言いました。「まあ神父さま、わたしにはどうしてもほんとうとは思えませんでしたわ。でも、まずそれをこちらへ下さいな」
弩《おおゆみ》を一杯に張っていた司祭さんは、外套を脱ぐと、それを彼女に渡しました。女はそれをしまってから言いました。
「神父さま、こっちの小屋にまいりましょうよ。決してだれもまいりませんから」
で、二人はそういたしました。そこで、司祭は、彼女にこの世で一番甘い接吻をあたえ、神さまの親戚にしてから、彼女とともに、かなり長い間たのしみました。それから、結婚式の勤めからの帰りででもあるように、長上衣だけでそこを出ると、教会に立ち帰りました。
そこで、司祭は、一年じゅうにあげられた蝋燭の残りを全部かき集めても、五リラの半分の値打ちもありませんでしたので、外套をおいてきたことを後悔して、どうしたら金をださないで、それを取り戻すことができるだろうかと考えはじめました。しかし、いくらか悪がしこい男でしたので、それを取り戻す方法をすぐに考えつきました。そしてそのとおりにいたしました。
そこで、翌日は祭日でしたので、彼は隣人のこどもをこのベルコローレさんの家にやりまして、その朝ビングッチョ・ダル・ポッジョとヌート・ブラエッティが自分のところに食事にくるので、ソースを作りたいから、どうか石の乳鉢を貸してもらいたいと頼ませました。ベルコローレはそれを司祭のところに持っていかせました。で、食事の時間になったときに、司祭は、ベンティヴェーニャ・デル・マッツォとベルコローレが食事をしているところをねらって行かせようと、司祭志願の弟子を呼びました。
「その乳鉢をもって、ベルコローレのところに返してきておくれ。そうして、こういうんだよ。司祭さまが、たいへんありがとうございましたと、それからこどもが抵当にとあなたのところにおいていった外套をお返し下さいと申しております、とな」
弟子はこの乳鉢をもって、ベルコローレの家にまいりました。見ると、彼女がベンティヴェーニャと一緒に食卓に坐って食事をしておりましたので、そこに乳鉢をおくと、司祭の使者としての口上を述べました。ベルコローレは外套を返してくれというのを聞いて、返事をしようとしましたが、ベンティヴェーニャがいやな顔をして言いました。
「じゃ、お前は司祭さんから抵当をとるのかい? 神かけていっとくが、お前の喉もとを拳骨でうんとつきとばしてやりたいよ。さあ、早くそれを返しておやり、くたばり損《ぞこな》いめ! いいかい、これからさき何をお望みになっても、ほかでもない、うちの驢馬でもだぞ、決していやだなぞといわないようにするんだぞ」
ベルコローレは、ぶつぶついいながら、立ちあがると、ベッドの足のほうにおいてある箱のところに行って、そこから外套を取りだすと、それを弟子にあたえて、申しました。
「わたしからだと、司祭さまにこういって下さい。ベルコローレが、もうあなたには二度とわたくしの乳鉢でソースを摺らせないように、神さまにお祈りをしておりますし、あなたは、今度のことではちゃんとりっぱにお振る舞いになりませんでした、とね」
弟子は外套を持って立ち去ると、司祭にその旨を伝えました。司祭は笑いながら、彼に言いました。
「今度あの女に会ったら、いっておくれ。わたしたちに乳鉢を貸してくれなければ、こっちはあなたに乳棒を貸さないよ、おたがいっこだってね」
ベンティヴェーニャは自分が叱ったので、妻があんなことをいったのだと思って、気にもとめませんでした。しかし、ベルコローレは司祭と仲たがいになって、ぶどうの取り入れの頃までことばもかけませんでした。その後、司祭が大魔王の口に入れてしまうと嚇かしたので、すっかりおじけづいて、小屋の中で、新ぶどう酒や焼き栗で、彼と仲直りをいたしまして、それからはなんどもともに羽目をはずしてたのしみました。司祭は、五リラの代わりに、彼女のシンバルに新しい羊皮をかぶせて、そこに小鈴をつけましたので、彼女はよろこんでおりました。
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第三話
[#この行3字下げ]〈カランドリーノ、ブルーノ、ブッファルマッコらは、下のムニョーネ河にエリトローピア(血玉髄)を探しに行き、カランドリーノはそれを発見したと思いこむ。そして、うんと石をかついで家に戻る。細君が彼に小言をいうと、彼は怒って細君を打擲する。そして仲間の者たちに向かって、彼らが自分よりもよく知っていることを物語る〉
パンフィロのお話に、淑女たちは大いに笑いまして、いまだに笑っておりますが、その話が終わると、女王はエリザに向かって、お話をつづけるようにと命令しました。エリザはまだ笑っておりましたが、さて話しだしました。
心やさしい淑女のみなさま、わたくしは、愉快で、また同様に事実でもございますこの短いお話で、ちょうどパンフィロがそのお話でなさったのと同じくらいに、みなさまをお笑わせできるかどうか、それはわかりませんが、でも、せいぜいそういたすように努《つと》めましょう。
いつもいろいろの風習にとみ、変わった人々の多かったわたくしたちの町に、そう以前のことではございませんが、単純な頭の、奇行にとんだ男で、カランドリーノという画家がおりました。この人は、たいていの場合、一人をブルーノ、他をブッファルマッコという二人の画家と交際《ゆきき》しておりました。二人とも非常に愉快な、そのうえ分別のある、賢い人たちでございました。二人は、カランドリーノの態度や、単純な性質から、よくおもしろくてたまらない目にあったので、彼と交際《つきあ》っていたのでございます。同じように、当時フィレンツェに、何をしてもすばらしく愉快で、抜け目のない、やさしい、マーゾ・デル・サッジョという青年がおりました。この青年は、カランドリーノの愚直についていくらか聞いておりましたので、なにか瞞着をしかけたり、珍しい嘘を本気に思わせたりして彼のやり方をからかってやろうと考えていました。幸いある日のこと、聖ジョヴァンニの教会で彼が、その教会の祭壇の上にある、ついこの間設けられた聖龕《せいがん》の絵画や彫刻を眺めているところを目にしましたので、さては自分の計画を実行する時節が到来したと思いました。で、彼は自分がしようと考えていることを一人の仲間に報《し》らせてから、一緒になって、カランドリーノがただ一人で坐っているところに近よって、彼がいることなど眼中にないようなふりをして、ともに、いろいろの石の効験について話しはじめました。それについては、マーゾはまるで偉い大宝石商ででもあるように、実に見事にしゃべりまくりました。
その話に耳を傾けていたカランドリーノは、しばらくしてから立ちあがると、その話にはなにも秘密なことがないとわかりましたので、二人の仲間にくわわりました。それはマーゾをひどくよろこばせました。マーゾがことばをつづけていますと、こうした効能あらたかな石はどこにあるのかと、カランドリーノからきかれました。マーゾは、大部分はバスク人たちの土地ベルリンツォーネというところの中でも、ぶどうの木をソーセージでゆわえつけ、一デナイオの金で鵞鳥一羽買え、それに若い鵞鳥がおまけにつくベンゴーディという名前の部落にあるのだと答えました。そこには粉に挽いたパルマのチーズだけでできている山があり、その山の上には人間がいて、この人々はマッケローニとラヴィオーリ(麺の一種)を作って、それを去勢した雄鶏のスープでゆでるだけが唯一の仕事で、そこから下に向けて流し落とすと、だれでもがみんな食べ放題、しかも、そのそばには、かつて人の口にのぼったもののうちで最上等の、ヴェルナッチャのぶどう酒の小川が、一滴の水も交えないで流れているのだと話しました。
「ああ」とカランドリーノが言いました。「それはいい国ですな! でも、伺いますが、その人たちが煮《ゆ》でる雄鶏はどうするんでしょうね?」
マーゾが答えました。
「バスク人がみんな食べちゃうんですよ」
すると、カランドリーノが言いました。
「あなたはそこにいらしったことがあるんですか」
マーゾが彼に答えました。
「わたしに、そこへ今までに行ったことがあるかというんですか。ええ、千度が一度になるくらい、行ってきたことがありますよ」
そこで、カランドリーノが言いました。
「どのくらい遠いんですか」
マーゾが答えました。
「百万マイル以上ですよ、一晩じゅう数えても間に合わないくらいね」
カランドリーノが言いました。
「それでは、アブルッツィよりも向こうになるに違いありませんね」
「そうですよ」とマーゾが答えました。「少しばかりね」
頭の簡単なカランドリーノは、マーゾが顔色ひとつ動かさず、笑いもしないでこうした言葉《こと》をいうのを見て、日月よりも明らかな真理には何事にもあれ信用できるように、すっかりそのことばを真実だと思いこみました。そして言いました。
「そいつはわたしには遠すぎますね? でも、もう少し近かったら、はっきり申しますがね、一度あなたと一緒にそこへ出かけて行って、そのマッケローニがころがり落ちるのを見て、腹一杯食べたいもんですよ。でもお聞きしますが、そのあたりには、例の効能を持った石はなにもないでしょうかね?」
マーゾは彼に答えました。
「ありますよ、非常に効験あらたかな石が二種類ありますよ。一つは、セッティニャーノやモンティシの岩石でして、その効験によって、それで挽き臼をつくると小麦粉がでてくるんですよ。そんなわけで、あっちの方の国々じゃあ、お慈悲は神さまから、挽き臼はモンティシからやってくる、と言っているんですよ。でもこの岩石はとてもたくさんありましてな、わたしたちのところでは大してありがたがられません。ちょうどあの人たちのところのエメラルドのようなものですよ。エメラルドなら、モレッロ山よりも大きな山がありましてね、夜半に光っているんです。すごいですよ。それからね、知っておいて下さいよ。うまくできあがった挽き臼を、孔をあける前に、環金で結んで、回教君主のところに持って行くと、褒美はなんでも望み放題のはずですよ。もう一つのは、わたしたち貴金属商がエリトローピア(血玉髄)と呼んでいる石でして、それは多すぎるくらい大した効験のある石で、そのために、だれでもいい、それを身につけていると、それをつけているあいだじゅう、自分がいないところでは、だれからも姿が見られないんですよ」
そこでカランドリーノが言いました。
「それはえらい効験です! だが、この二番目のほうの石はどこにあるんですか」
彼に向かってマーゾが、それは普通、ムニョーネにあると答えました。
カランドリーノが言いました。
「その石は、どのくらいの大きさでしょうね? どんな色をしているんでしょうね?」
マーゾが答えました。
「それはいろんな大きさなんですよ。あるものは大きいし、あるものは小さいんです。でもどれもこれも、ほとんど黒っぽい色をしていますよ」
カランドリーノは、このようなことを全部心にとめてから、ほかに用事があるようなふりをしてマーゾに別れをつげると、ひとり心の中で、この石を深しに行こうと考えました。しかし、とびきり並外れて愛していたブルーノとブッファルマッコに知らせないで、そんなことをするのはよそうと決心しました。そこですぐさま、だれよりも先に、三人で探しに行こうと思って、二人を探しはじめました。で、その朝の残っていた時間は全部、二人を探すのにつぶしてしまいました。そして午後の三時をまわった頃にようやく、彼は二人がファエンツァの婦人修道院で仕事をしていることを思い出して、とてもひどい暑さでしたが、自分の仕事をなにもかも打ち棄てて、ほとんど駈けるようにして、二人のところにまいりました。そして二人を呼んで、こう言いました。
「仲間《みんな》よ、君たちがわたしの話を信じる気持ちがあるなら、わたしたちはフィレンツェで一番の金持ちになれるんだよ。というのはね、信用のおける人から聞いたんだがね、ムニョーネに、それを身につけていると、だれからも自分の姿が見えないという石があるんだそうだよ。だから、ぐずぐずしないで、ほかの者が行かないうちに、わたしたちでそこへ探しに行ったらいいと思うんだよ。確かに石は見つかるよ、わたしが石を知ってるからね。で、それが見つかったら、わたしたちはそれをポケットに入れて、君たちも知ってるようにいつもグロッソ銀貨やフィオリーノ金貨が山と積まれている両替屋の帳場に行って、好きなだけそれを持ってくるのさ。それ以外に、どうしなくちゃならないというんだね? だれにもわたしたちの姿は見えないんだよ。こうして、わたしたちはすぐに金持ちになって、蝸牛《かたつむり》がやってるように、一日じゅう壁をよごしている必要はなくなるんだ」
ブルーノとブッファルマッコは、その男の話を聞いて、心の中で吹きだしました。で、たがいに顔を見合わせながら、たいへんびっくりしたようなふりをして、カランドリーノの勧告をほめそやしました。でもブッファルマッコは、その石はどんな名前なのかとたずねてみました。出来の上等でないカランドリーノは、もうその名前を忘れておりました。そこで彼は答えました。
「その効験を知っているんだから、その名前なんか、どうだっていいじゃないか。ぐずぐずしていないで、それを探しに行ったらいいとわたしは思うんだがね」
「いいとも」とブルーノが言いました。「それはどんな格好《かつこう》なんだね?」
カランドリーノが言いました。
「いろんな格好をしているんだよ。でもみんなだいたい黒いんだ。だから、わたしたちは黒いとみたら、どれでもみんな拾わなくちゃいけないんで、そうすれば、その石にぶっつかると思うんだよ。では、時間を無駄に過ごさないで、すぐに行こうよ」
ブルーノが彼に言いました。
「まあ、待っておくれよ」
そして、ブッファルマッコの方に向いて言いました。
「わたしはカランドリーノがいうことはもっともだと思うよ。しかし、今はその時間でないような気がするんだ。だって、太陽は高くてムニョーネに射しこんで、石をみんな乾かしてしまっているからね。そこにある石は、朝、太陽が乾かさないうちは黒く見えるが、今だと白く見えるからね。そればかりではなく、今日は仕事日だから、ムニョーネにはいろいろの理由で大勢の人がでていて、わたしたちを見たら、何をしに行ったかを探りあてて、たぶんその連中も同じことをやりだすかもしれないよ。そうして、石はそいつらの手にはいって、わたしたちは骨折り損のくたびれ儲けということになるだろうね。もしよかったら、わたしはね、これは白と黒との見分けがよくつく朝にやるべき仕事だと思うんだ。それから、わたしたちを見ている人のいない祭日に、ね」
ブッファルマッコがブルーノの勧告をほめましたので、カランドリーノはそれに同意をいたしました。で、三人打ち揃って、つぎの日曜の朝に、この石を探しに行こうと手はずをきめました。だが何よりもまず、カランドリーノは二人に向かって、このことは自分が内緒で聞いたことなのだから、絶対にだれにもしゃべってはいけないと頼みました。で、そう言うと、ベンゴーディの集落について聞いたことを、二人を相手に、ほんとうにそうなんだよと、なんども誓いを立てて確認しながら話しました。
カランドリーノが自分たちのところから立ち去って行ってから、二人は、このことについてとらなければならない手はずを、たがいの間できめました。カランドリーノは頸を長くして、日曜の朝を待っておりました。その朝になりまして、彼は夜の明けそめる頃に起きあがると、仲間の者たちを呼んで、聖ガッロ門を出て、ムニョーネに下りて、石を探しながら、どんどん下流にくだりはじめました。カランドリーノは一番熱心だったので、先に進んで行って、あちらこちらとすばやく跳ねながら、黒い石が目につくと飛びついて、それを拾いあげては懐《ふところ》にしまいこみました。仲間の者たちはその後につづいて歩きながら、ときどき、それを一つ、これを一つと拾いあげておりました。けれども、カランドリーノはそう大して歩かないうちに、懐が一杯になってしまいました。そこで、そう窮屈ではなかった長上衣の裾を持ち上げて、それで大きな袋を作って、それを方々から皮帯にしっかりと結びつけましたが、じきにそれも一杯になってしまいました。同じようにして、外套で袋をつくりましたが、しばらくすると、それも石で一杯になってしまいました。そこでブッファルマッコとブルーノは、カランドリーノが石をうんと持っているし、食事の時間も近づいているのをみてとりまして、ブルーノはかねてきめておいた手はずに従ってブッファルマッコに言いました。
「カランドリーノはどこにいるんだい?」
すぐそばにいるのが見えているのに、ブッファルマッコはまわりを見まわして、そちらこちらと瞳《ひとみ》をこらしながら、答えました。
「どうしたのか知らないが、それでもすこし前まではわたしたちの前にいたんだよ」
ブルーノが言いました。
「そうだとも、まったく、すこし前まではここにいたんだよ。きっと今頃は家で食事でもしているんだ。わたしたちがムニョーネをくだりながら、黒い石を探すのに夢中になっているのを、そのままおいてけぼりをくわせたんだと思うよ」
「ああ、実に見事に」と、そのときブッファルマッコが言いました。「あの男はわたしたちに一杯くわせて、ここにおいてけぼりにしたもんだね! わたしたちが馬鹿にことを欠いて本気にしちまったもんだからね! ねえ、わたしたちを除いて、ムニョーネにそうした効験あらたかな石があるはずだなんて考えるような馬鹿者は、まあどこにもいないだろうね?」
カランドリーノはこうしたことばを耳にしながら、その石が自分の手にはいったのにちがいない、その石の効験で、すぐ前にいるのに、自分が見えないのだな、と想像しました。そこで、そうした幸運にすっかり有頂天になって、二人になんとも言わないで、家に帰ろうと考えました。で、きびすを返すと、そのまま歩きだしました。ブッファルマッコはそれを見て、ブルーノに言いました。
「わたしたちはどうしよう? どうして帰らないんだね?」
彼に向かって、ブルーノが答えました。
「帰ろう。でも神さまに誓っていうが、もう二度とカランドリーノには、こんなことはさせないぞ! 朝ずっと一緒にいたように、わたしがあれのそばにいるんだったら、この小石をあれの踵に投げつけて、一月くらいはこうした瞞着《いたずら》を忘れないようにしてやるんだがなあ」
そういうのと、腕をひろげるのと、小石を踵に投げつけるのと、みな同時でございました。カランドリーノは痛いので、片足を高くあげると、ふうっとため息をつきはじめましたが、それでも黙ったままで、歩みを進めました。ブッファルマッコは拾った小石の一つを片手にのせて、ブルーノに言いました。
「ごらんよ、きれいな小石だねえ。すぐにこれをカランドリーノの背中にぶっつけてやりたいね!」
で、その小石を投げつけて、カランドリーノの背中にうんと叩きつけました。手短かに申しますと、こんなふうにして、ああ言ったり、こう言ったりしながら、二人はムニョーネをあがって、聖ガッロの門に着くまで、彼に小石を投げつけておりました。それから拾っておいた小石を地べたに投げだして、しばらくの間税関の番人と話しこんでおりました。番人たちは二人から前もって知らされておりましたので、カランドリーノが見えないようなふりをして、腹をかかえて笑いながら、彼を通り抜けさせました。カランドリーノは、足をとめずに、カント・アッラ・マチーナのそばにある自分の家に帰ってまいりました。運命もまたこの瞞着《いたずら》になかなか力をお貸しになりまして、カランドリーノが河を渡り、それから町を抜けてまいりましたのに、ほとんど食事中だったので会った人も少なかったのではありますが、みんなだれ一人として彼に話しかけた者はございませんでした。
さて、カランドリーノは、うんとこさ荷物を持って、家にはいりました。テッサさんという名前で、美人で利口な女だった彼の細君が、たまたま階段の上におりましたが、夫の帰宅がだいぶ遅いのでいくぶん腹を立てて、彼がやってくるのを見ると口やかましくしゃべりたてました。
「ちゃんと帰ってきたためしなんてありゃしない、まったく! お前さんが食事に帰ってくる頃には、人さまはもう食事がすんじまっているんだよ」
カランドリーノはそれを聞くと、自分の姿を見られたのに気がついて、怒りと悲しみにからだをふるわせて、言いだしました。
「ああ、悪い女だ! お前はそんなところにいたのか。お前のおかげで、わたしはめちゃめちゃだ! だが、神さまに誓って、この仕返しはしてやるぞ!」
そうして、自分の部屋にかけあがると、持ってきたたくさんの石をそこにおろして、かんかんになって細君のほうにかけよりました。そして、彼女の髪をつかむと、自分の足もとに引きずり倒して、そのまま思う存分腕を振るい、からだじゅうに拳骨をくらわせ、足蹴《あしげ》にしましたので、頭には毛一本、からだには骨一つ、損なわれずにすんだものはございませんでした。彼女は両手を組み合わせて助けを求めましたが、すこしも役に立ちませんでした。
ブッファルマッコとブルーノは、町の門の番人たちを相手にしばらく笑っておりましたが、それからゆっくりした歩調で、いくらか距離をおいて、カランドリーノのあとをつけだしました。で、彼の家の入り口のそばまでくると、彼が細君にあたえている激しい打擲の音が聞こえてきました。二人はたった今着いたばかりのようなふりをして、彼を呼びました。カランドリーノは汗みどろで、顔を真っ赤にして、息をはずませながら窓に近よると、二人に向って、自分のところまであがってくるようにと頼みました。二人はいくぶん困ったような様子をしながら、上にあがって行きました。見ると、部屋は石だらけで、その片隅に、髪をふり乱して、着物の破れた、顔じゅう青あざで傷だらけになった女が悲しそうに泣いておりまして、その反対側には、帯がとけて、はあはあ息をはずませているカランドリーノが、疲れはてて、ぺたりと坐っておりました。そこで二人はしばらくじっと見つめていてから言いました。
「これはどうしたんだね。カランドリーノ? ここにたくさん石があるが、壁を塗ろうというのかい?」
で、このほかに、なおも言い添えました。
「テッサさんはどうしたんだね? 君が打ったようだね。これはどうしたっていうんだね?」
カランドリーノは石の重みや、細君を打擲した怒りや、運をとりにがしたと思った悲しみやらで、へとへとになっておりまして、返事のことばをちゃんとまとめるのに、息をつくこともできませんでした。彼がぐずぐずしておりますので、ブッファルマッコがまたはじめました。
「カランドリーノ、いくらほかに腹が立ったからといって、君はわたしたちを瞞したようなことをしてはいけなかったね。宝石を探そうとわたしたちを一緒に連れだしておいて、さよならとも、あばよともいわずに、わたしたち二人を馬鹿みたいにムニョン(ムニョーネと同じ)においてけぼりをくわして、帰ってきちまったんだからね。それをわたしたちはひどく憤慨しているんだよ。だが、ぜひともこれは、君がわたしたちにする最後の瞞着《じようだん》であってほしいね」
このことばを聞いて、カランドリーノは無理に元気をだして、答えました。
「仲間《みんな》よ、怒らないでおくれ。ことは君たちが考えているようにはいっていないんだよ。わたしは、運わるく! あの石を見つけたんだよ。わたしがほんとのことをいっているかどうか知りたいかね? 君たちが最初にわたしのことをたがいに尋ねあっていたときに、わたしは君たちから十ブラッチョ(長さの単位、約〇・七メートル)と離れていないところにいたんだ。で、君たちが帰りだして、わたしの姿が目にはいらなかったので、わたしは君たちの前に立って、たえずすこしばかり君たちの先を歩きながら帰ってきたんだよ」
で、そもそもの初めから話しだして、最後まで、二人がしたり、しゃべったりしたことを彼らに物語って、小石を打ちつけられた跡もなまなましい背中や踵を見せました。それからつづけて言いました。
「まったくね、ここにごらんになっている石を全部身につけて、町の門をはいってきたが、なんともいわれなかったよ。なんでもほじりだして見たがるあの番人たちが、ふだんはどんなに不愉快で、うるさいものだかはご承知のとおりさ。そればかりではなく、わたしは道でなん人もの知人や友人に出あったが、いつもはたいていわたしに話しかけて、飲みに行こうと誘うんだがね、彼らにはわたしの姿が目にはいらないものだから、一言半句でも話しかけようとする者は、一人もいなかったよ。とうとう、ここの家に戻ってきてみると、この悪性の女畜生めが、わたしの前に出てきて、わたしの姿を見つけたんだ。君たちも知ってのとおり、女というものは、あらゆるものの効験《ちから》を失くさせるものなんだからね。そんなわけで、わたしはフィレンツェ第一の幸福者だということができたのに、一番不幸な者になってしまったんだよ。だからわたしは、両手の動くかぎり、あれを打ちのめしてやったんだ。どうしてあれの血管を引き裂かないで我慢していられるのか、わからないくらいだよ。あれを最初に見染めた時と、あれがわたしのこの家にやってきた時こそ呪わしいかぎりだよ!」
彼はふたたび怒りにかっとなって、もう一度初めから打つつもりで、立ち上がろうといたしました。ブッファルマッコとブルーノはこんなことを耳にして、たいへんびっくりしたようなふりで、たびたびカランドリーノが言っていたことに合い槌を打っておりましたが、笑いたくてたまらなくなって、今にも腹がさけそうでございました。けれどもカランドリーノがもう一度細君を打とうとして、憤然と立ち上がるのを見てとると、二人のあいだにとびこんで彼を抑えました。そしてこれらのことについては細君にはなんの罪もないのであって、女がものの効験を失わせることを知っていながら、その日、自分の前に姿を現さないようにと言っておかなかった彼のほうに罪がある、だが、運命がきっと彼をお見棄てになったからなのであろう、あるいは、石を見つけたとわかったときに、それを見せなければならなかった仲間の者たちを、彼が瞞そうと考えていたためであろう、そうした配慮をする力を神さまが彼から取りあげてしまわれたのだ、と言ってきかせました。そしていろいろと言葉をつくし、たいへん骨を折って、その泣き悲しんでいる細君を夫と仲直りさせたうえ、憂鬱な顔をした彼を石だらけの家においたまま、立ち去りました。
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第四話
[#この行3字下げ]〈フィエゾレの修院長がある未亡人に思いを寄せるが、未亡人からは愛されていない。修院長は彼女と寝るつもりで、その女中と寝る。婦人の兄弟たちが、現場を司教に発見させる〉
エリザは、仲間一同の大喜びのうちに、そのお話を物語っておりましたが、それも終わりになりましたので、そのとき女王はエミリアのほうを向いて、彼女にエリザのあとをつづけて、そのお話をするようにとそぶりで示しましたので、エミリアは、すぐにこう話しだしました。
ごりっぱな淑女のみなさま、司祭や神父や、すべての聖職者が、どんなにわたくしたちの心を、自分たちの快楽のほうに誘いこもうとしているかということにつきましては、今までのいろいろなお話の中に示されているように存じます。けれども、もうこれで種切れだと申せるようなものではございませんから、わたくしはそうしたお話にくわえて、もう一つある修院長のお話をみなさまにお聞かせ申したいと存じます。この修院長は、どんなことにも頓着せずに、ある貴婦人に、その貴婦人が好もうと好むまいと、自分を愛させようと望んでおりました。ところがその貴婦人は、たいそう賢明な人でしたので、修院長を分相応にあしらったのでございます。
あなた方どなたもご存じのように、その小山がここから見えるフィエゾレは、かつては非常に古い大きな町でございまして、今日はすっかり廃址となっておりますが、それだからと申しまして、司祭がおいでにならなかったことは決して一時たりともあったためしはございませんし、今日もなおおいでになっていらっしゃいます。ここの大教会の近くに、かつてピッカルダ夫人と呼ばれる未亡人の貴婦人が、土地を持っておりまして、そこにはあまり大きくない屋敷がございました。彼女は、この世に並ぶ者のないほどの裕福な婦人ではありませんでしたので、そこで一年のうち大部分を過ごしておりました。彼女と一緒に、たいへん身持ちのいい、礼儀正しい青年である、二人の兄弟も住んでおりました。さて、この婦人は大教会にかよっておりまして、まだ非常に若くて、美人で、愛くるしかったものですから、教会の修院長がすっかり彼女に心を奪われて、ほかにはなにも目にはいらないほどののぼせ方でございました。そのうちに修院長は勇気をふるって、自分の口からこの婦人にその望みを打ち明けて、ぜひとも自分の恋をよろこんでもらいたい、自分があなたを愛しているように自分を愛さなければいけないと頼みました。
この修院長はもう年はとっておりましたが、その頭《ち》のめぐりはすこぶる若く、無遠慮で傲慢、文句が多くていやみたっぷりなその挙措態度にくわえて、なにによらず自惚《うぬぼ》れが強く、そのうえにとてもうるさくて、泣事屋《なきごとや》なので、だれ一人彼を好きになる者はございませんでした。もしだれか彼をよく思わない者があるとすれば、この婦人こそその一人でございました。なぜなら、彼女は修院長をてんで好いていなかったばかりでなく、頭痛よりももっと彼のほうを憎んでいたからでございます。そこで彼女は賢明でしたので、こう彼に答えました。
「修院長さま、あなたさまに愛していただくことは、わたくしにとってたいそうありがたいことかもしれません。わたくしはあなたさまを愛さなければなりませんし、心から愛しもいたしましょう。しかし、あなたさまの愛とわたくしの愛とのあいだには道ならぬことが何一つとしてあってはなりません。あなたさまはわたくしの霊父でいらっしゃいまして、司祭さまでございます。それにもう、かなりよいお年になっていらっしゃいます。こうしたわけで、あなたさまは、行ないの正しい、純潔な方に違いございません。他方、わたくしは、こうした色恋沙汰がここぞと花をひらく娘の身ではなく、後家でございます。後家にはどんなに貞潔な生活が必要であるかということは、ご存じのとおりでございます。ですからあなたさまがお求めになるような仕方で、あなたさまをお愛し申すことは決してございませんし、わたくしもあなたさまからそうした愛し方をしていただきたくはございませんから、どうか、お許しになって下さいませ」
修院長は、その時は彼女からなにも引き出すことができませんでしたが、第一撃でびっくりしたり、へこたれたりするようなことはなく、例の不愉快な執拗《しつこ》さをつかって、手紙を書いたり、使者をやったりさらには教会に彼女がきているのを見かけると自分自身出て行ったりしてなんども彼女を口説きおとそうといたしました。そこで、婦人はこうしたちょっかいを、あまりひどすぎるし、うるさいと思いましたので、ほかに方法もございませんでしたので修院長にふさわしい方法で、彼を身のまわりからふり放そうと考えました。けれどもまず兄弟たちにそのことを相談しないうちは、何事もしないつもりでおりました。で、婦人は、修院長が自分にしたことと、さらに、自分がこれからしようとしていることを、兄弟たちに話してから、そのことについて二人の十分な許しをえましたので、それから数日して、いつものように教会にまいりました。修院長は彼女を見ると、近づいてきて、いつもしていたようになれなれしい態度で話しかけました。婦人は修院長がやってくるのを見て、彼の方にじっと目をこらすと、うれしそうな顔をしていました。二人が片隅に引きさがると、修院長は例の方法で婦人にいろいろと話しだしましたので、彼女は大きな溜め息をついてから言いました。
「修院長さま、わたくしは毎日攻め立てられて、一度も落ちないような堅固な城はどこにもないということを、なんども耳にしてまいりましたが、それが、わが身におこったことが、手にとるようにわかります。あなたさまは甘いことばや、さてはこの親切、あの親切と手をかえ品をかえて、わたくしのまわりを少しもお離れになりませんので、とうとうわたくしの決心もそのために破れてしまいました。それで、そんなにあなたさまのお気に召しているのでしたら、いっそあなたさまのものになってしまおうという気持ちになりました」
修院長は有頂天になって、言いました。
「奥さま、大きにありがとう。ほんとうのことを打ち明けますと、今まではどんな婦人の場合にもそんな目にあったことはないので、どうしてあなたは長い間いうことを聞いて下さらんのかと、すっかりびっくりしておったのですよ。もし女が銀ならば、槌のいいなりになるゆえに、金《かね》になる値打ちはないとは、日頃わたしがいってきたことですよ。しかし今は、そんなことはほっておきましょう。いつ、どこで、わたしたちは一緒になれましょうかね?」
婦人が彼に答えました。
「やさしいお方さま、夜ごとの受け答えをしなければならない相手の夫のない身でございますから、いつと申しまして、それは一番ご都合のおよろしい時で結構でございましょう。しかし、どこか、場所はわたくしには考えおよびません」
修院長が言いました。
「どうしてです? あなたのお宅では?」
婦人が答えました。
「修院長さま、ご承知のとおり、わたくしには二人の若い兄弟がございまして、二人は昼も、夜も、始終友人連中を引きつれて家にやってまいります。わたくしの家は大して広くはございませんので、ひと言も、しっという声すらもたてないで、唖のように黙りこんでいて、暗闇の中で、盲人のようにしていてもかまわないという方のほかは、そこにはいらっしゃれないでしょう。そういうことでもよろしいというのでしたら、あの人たちはわたくしの部屋には邪魔をしにはいってはまいりませんから、いらっしゃれるでございましょう。けれども、あの人たちの部屋は、わたくしの部屋と隣り合っておりますから、どんなに低い声でお話をなさっても、ちゃんと聞こえてしまいます」
すると、修院長が言いました。
「奥さま、このために、一晩なり二晩なり延びないようにしましょう。そのうちに、もっと楽な気持ちでお会いできるようなところを考えたいものですね」
婦人が言いました。
「修院長さま、それはどうともあなたさまのおよろしいように。しかし、ただ一つのことだけお願いいたしておきますが、このことが秘密にされますように、また決してほかへは漏れませんように」
すると、修院長が言いました。
「奥さま、そのことはご安心下さい。それで、もしできましたら、今晩一緒になれるようにお計らい下さい」
婦人が言いました。
「結構でございます」
そうして、彼女はどんなふうに、いつ行ったらいいのか、その手はずを教えてから、そこを辞して家に帰りました。
この婦人には一人の女中がありましたが、年もあまり若くはなく、今まで見たうちでは、これにかなうものはないほどの、醜い、不恰好な顔をしておりました。鼻はひどくつぶれていて、口はひんまがって、唇《くちびる》は厚く、歯は並びが悪くて馬鹿でかく、斜視《やぶにらみ》の気味で、目脂《めやに》がいつも出ていて、顔色はまるでひと夏をフィエゾレではなく、シニガリアで過ごしたような緑黄色をしておりまして、そればかりではなく、おまけに腰骨がはずれていて、右側がすこし不自由でございました。彼女の名前はチュータと申しましたが、犬のような顔をしていましたので、だれからもチュタッツァと呼ばれておりました。彼女は体が不恰好だったうえに、またその心根にもいくらか悪賢いところがございました。婦人は彼女を自分のところに呼んで言いました。
「チュタッツァ、もし今夜わたしのために用をしてくれたら、お前に新しいきれいな下着をあげよう」
チュタッツァは下着というのを聞いて言いました。
「奥さま、あなたさまがもし下着を下さいますならば、わたくしは、たとえ火の中へでもとびこみましょう」
「ではいいね」と、婦人が言いました。「今夜お前に、わたしの寝台で、ある男と寝て、その男をなで可愛がってあげてもらいたいのです。お前も知ってるように、すぐ隣で寝ているわたしの兄弟たちに聞こえるといけないから、口をきかないようによく用心しておくれ。そのあとで、お前には下着をあげます」
チュタッツァが申しました。
「ええ、一人の男どころか、わたくしは、必要ありゃ、六人の男とだって寝ます」
さて晩になりまして、修院長は指示をうけていたとおり、やってまいりました。二人の青年たちは、婦人が言いふくめておいたとおりに、自分たちの部屋にいて、その騒音がよく聞こえるようにしていました。そこで修院長は黙ったままで、暗闇の中を婦人の寝室にはいりこんで、彼女に言われたとおりにして、寝台に上がりました。その反対側からは、どうすればいいかその役割を婦人から十分教えられていたチュタッツァが、寝台にもぐりこみました。修院長殿はそばに婦人がいるとすっかり思いこんでチュタッツァを抱きしめるとなんとも言わずに接吻をしはじめました。チュタッツァのほうでも彼に接吻しました。そうして修院長は彼女とたのしみだして、長いあいだ切望していたものを手に入れました。婦人はこうしておいてから、兄弟たちに向かって、予定の行動の、あとに残ったことをやりとげるようにと命じました。
兄弟たちは、こっそり部屋を出ると広場の方にまいりました。彼らがしようと計画していたことについて、運命は彼らに向かって、求めていたよりもずっと好ましい手を差しのべて下さいました。といいますのは、暑さがきびしかったので、司教が散歩がてらに、この二人の青年の家まで行って一緒にぶどう酒を飲もうと、二人のことを探していたからでございます。ところで、二人が歩いてくるのを見て、司教は自分の望みを話して、みんな一緒に連れだって歩きだしました。そして、数多くの灯がともされている、彼らの丹誠になる新鮮な菜園にはいって、非常にたのしそうに、そこの美酒をいただきました。飲み終わってから青年たちが言いました。
「司教さま、わたくしどもがこの小さな小屋に、あなたさまをお招きしようとまいりましたところ、あなたさまのほうからわざわざお訪ねになるという、まことに辱《かたじ》けない名誉をお恵み下さいましたので、これからお目にかけたいと思う、あるつまらない品を、ぜひともごらんいただきたいと存じます」
司教はよろこんで拝見しようと答えました。そこで、青年たちの一人が、火のついた松明《たいまつ》を片手にとって先に立つと、司教やその他の人々がそのあとにつづいて、修院長殿がチュタッツァと寝ている寝室に向かいました。修院長殿は早く目的を達しようと思って、急いで馬乗りになると、みんながそこに来ないうちに、もう三マイル以上も駈けておりました。ですから、すこし疲れ気味で、この暑いのにチュタッツァを抱いたまま休んでおりました。さて、青年が片手に明かりを持って寝室にはいり、そのあとから司教と、それからほかの人たちがはいりまして、司教にチュタッツァを抱いている修院長の姿が示されました。このとき、修院長は目をさますと、自分のまわりに明かりがついていて、このような人たちがいるのを見て、恥ずかしくてたまらず、不安にもなって、蒲団の中に頭を突っ込んでしまいました。修院長に向かって司教は、ひどい罵詈《ばり》を浴びせかけて、頭を外に出させると、だれと一緒に寝ていたのか見させました。修院長は婦人の瞞着《けいりやく》を知ると、それが口惜しいやら、またいかにも恥ずかしい目にさらされたような気がするやらで、すぐにこの世でまたとない一番悲しい男になりさがりました。そして司教の命令で、ふたたび服をまとうと、犯した罪の大きなあがないをするために、厳重に番人をつけられて家に送られました。そのあとで司教は、修院長がチュタッツァと寝にここにくるなどと、一体どうしてそんなことが起こったのか知りたがりました。青年たちは司教に順序をたてて一部始終を話しました。司教はそれを聞いて、非常に婦人をほめて、それから神父の血で手を汚さないで、修院長を分相応にあしらった青年たちをも同じように讃えました。
司教はこの罪にたいして、修院長に四十日の入牢を命じましたが、愛と怒りの心は、彼に四十九日以上も泣きたい思いをさせました。そのうえ、それから長い月日のあいだ彼が外に出ると、きまってこどもたちが彼を指し示して、「チュタッツァと寝た男をごらんよ!」と言うのでございました。そのことが、彼にはとてもつらいことでありまして、まるで気が違いそうでございました。こんなふうにして、りっぱな婦人は、しつこい申し出のわずらわしさを払いのけましたし、チュタッツァは下着を儲けたのでございます。
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第五話
[#この行3字下げ]〈三人の青年が、フィレンツェにいるマルケ地方の出身の裁判官――彼が裁判をしていたときに――のズボンを引っ張って脱がす〉
その未亡人が一同からほめそやされて、エミリアがそのお話をおえましたので、女王はフィロストラートを見て言いました。
「さあ、あなたの話す番がまいりましたよ」
そこで、さっそく彼は、ちゃんと用意はできていると答えました。そして口を切りました。
愉快な淑女のみなさん、エリザが少し前にその名前をあげた青年のために、つまりマーゾ・デル・サッジョのために、わたしは自分で話そうと考えていたある話をそのままにしておいて、マーゾと、その数人の仲間についてのお話を一ついたしましょう。このお話は、あなた方がお使いになることを恥ずかしがられることばが、その中に用いられておりますので、卑猥ではありますが、それでもとてもおかしな話ですから、あえてお耳に入れようと存じます。
みなさんのお耳にもはいっていることでしょうが、わたしたちの市《まち》に、頻繁にマルケ人の長官たちがまいります。彼らは普通心の貧しい、生活も非常にきりつめた、あわれな人たちでありまして、そのために何をしましても、みんな、けちくさいものとしか思われないのであります。彼らはこうした生まれつきの貧乏くさいことと、けちくさい性質のために、法律学校からというよりも、むしろ鋤から引き離したり、靴屋から引っ張ってきた男たちのような裁判官や公証人を、自分たちと一緒につれてまいります。今、その一人が市長としてフィレンツェにまいりました。そして市長が一緒につれてきた数多くの裁判官の中に、名前をニッコラ・ダ・サン・レピーディオ氏と呼ばせていた、見たところ、どうしても錠前屋《じようまえや》のように思われる男をつれてまいりました。で、この男が、刑事上の係争を聞くために、他の判事たちの間に配置されました。市民たちは、裁判所とはなんにも関係がなくても、ときどきそこに行くことはよくあることですが、ある朝のこと、マーゾ・デル・サッジョも一人の友人を探しにそこへ行った次第であります。そしてふと、このニッコラ氏が坐っているところに目が向いて、その男が珍しい馬鹿者のような気がいたしましたので、彼はその男をすみからすみまで、くまなく観察しておりました。彼には、その男の頭にのせたすっかりくすぶった灰色の栗鼠《りす》の皮の帽子や、腰に下げたインキ壺や、マントよりも長い上衣や、そのほか、きちんとした身だしなみのいい人とは全く縁のない、多くのものが目につきましたが、それらの中で、彼の考えではほかのどんなものよりも一番注意をひくものが一つ目にはいりました。それは一対のズボンでありました。その男が腰かけると、衣服が窮屈なので前が開いていて、ズボンの尻が脚の中途までずり落ちているのが見えました。
そこで、ズボンをあまり見つめていることはよしにして、探していた友人のこともそのままほっておいて、さて、別の捜索に取りかかりました。そうして、二人の仲間を見つけました。その一人はリビ、もう一人はマッテウッツォという名前で、どちらもマーゾと同じような愉快な人たちでありました。で、二人に向かって言いました。
「もし、わたしが好きなら、一緒に裁判所までおいでよ。今まで見たこともないようなとてつもない大馬鹿者を見せてあげるから」
で、二人と一緒に裁判所へ行って、彼らにこの裁判官とそのズボンを示しました。彼らは遠くの方からそれを見て笑いだしました。そして、裁判官殿がいる壇にずっと近づいてみますと、その壇の下にいともやすやすと行けることがわかりました。そればかりではなく、裁判官の足もとにあった板が壊れていて、苦もなくそこから手や腕を出すことができるようになっているのが目につきました。そこで、マーゾは仲間たちに向かって言いました。
「わたしは、みんなであのズボンをすっぽりぬがしてしまいたいんだよ。とてもうまくいくからね」
仲間はどちらも、すぐどうすればいいかわかっておりました。ですから、どうしたらいいだろう、どう言ったらいいだろうと、心の中で手はずをきめると、あくる朝またそこへやってまいりました。裁判所は人でいっぱいでしたので、マッテウッツォはだれにも気づかれないで、裁判席の下にもぐりこみ、裁判官が足をおいている場所のちょうど下へ行きました。マーゾは片側から裁判官殿に近づいて、法服の縁《へり》をつかみ、リビは別の側から近づいて、同じようにいたしました。そして、マーゾが切りだしました。
「裁判官殿、ああ裁判官殿、神かけてのお願いでございます。あなたさまのそちら側にいるその泥棒めがよそへ行っちまわないうちに、あいつがわたしから盗んだ長靴を一足返させて下さい。あいつは盗まないというんですが、あいつがそれに靴底をつけさせているところを、わたしが見てから、まだ一月とはたっていません」
反対側からは、リビが大声でどなっておりました。
「裁判官殿、あいつのいうことを本気にしないで下さい。あいつは欲張りなんですから。あいつは、わたしから盗んだ手提げ鞄のことで、わたしがあいつを訴えにきたのを知って、すぐにやってきて、わたしがだいぶ前から家に持っている長靴のことをかれこれいっているんです。もしあなたさまがわたしのいうことをお信じにならないならば、わたしは隣に住んでいるトレッカや臓物売りの女のグラッサや、サンタ・マリア・ア・ヴェルツァイアへごみ拾いに行く男で、あいつが田舎の家から戻ってくるところを見た者を、証人に立てることができます」
その向こう側から、マーゾはリビに話をつづけさせないで、むしろどなりたてておりました。リビのほうもまたどなりちらしておりました。裁判官は立っていて、もっとよく話を聞こうと、二人のほうにからだを近づけていると、マッテウッツォは時はよしと、片手を板の破れ目から出して、裁判官のズボンの裾をつかむと、ぐいっと強く引っ張りました。裁判官はやせていて胴廻りがないので、ズボンはすぐにずり落ちてしまいました。裁判官は、これに気がつくと、どうしてそんなことになったのかわからないで、ただ衣服を前にかきよせて、からだをかくして、腰をおろそうといたしましたが、それでもマーゾが一方から、リビがその反対側から、彼をおさえて、大声で叫んでおりました。
「裁判官殿、あなたさまがわたしのために裁判をなさらず、わたしの言い分を聞こうともなさらないで、よそへ行ってしまおうとするのは、ひどすぎますよ。この事件のような小さなことは、この土地では訴状では扱わないんです」
で、こう言いながら、二人は彼の衣服をつかんでおりましたので、裁判所にいた者は全部、裁判官《かれ》のズボンがずり落ちているのに気がつきました。しかしマッテウッツォは、しばらくのあいだそれをおさえていてから手を放して外へ出ると、人に姿を見られないで、そのまま立ち去りました。リビはもう十分にしてのけたと思いましたので、言いました。
「わたしは、神さまに誓って申しますが、市会に訴えてなんとかしてもらうつもりです」
すると、マーゾは法服をはなして、向こう側から言いました。
「いいや、わたしはやはり、あなたさまが今朝みたいにお忙しくて困っていらっしゃるようなご様子でないときに、なんどでもお伺いいたしましょう」
そして、一人はこっち、も一人はあっちと、思い思いに、できるだけ早く立ち去りました。裁判官殿は寝ていたのから起きあがるように、みんなの面前でズボンをひきあげてから、そのとき初めてその事件《こと》に気がついて、長靴や手提げ鞄で争っていた連中は、どこへ行ったのかとたずねました。けれども、二度とふたたびその姿が見つかりませんでしたので、彼は、フィレンツェでは、裁判官たちが裁判の席に坐ると、ズボンを引っ張ってぬがす習慣があるのかどうか、どんなことをしても承知しておかなければならないと、神さまの腸《はらわた》にかけて誓いを立てはじめました。一方、市長はこのことを聞いて、たいへんな騒ぎようでありました。あとで友人たちから、このことは、彼が裁判官たちをつれてこなければならなかったのに、安くあげるために無知な田舎者たちをつれてきたことを、フィレンツェの市民たちは知っているぞと、彼に示すためだけにしたのであって、他意はないのだと説明されましたので、彼は黙っているのが最良の途だと思いました。そしてこのことは、その場かぎりですみました。
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第六話
[#この行3字下げ]〈ブルーノとブッファルマッコは、カランドリーノから一頭の豚を盗む。しょうがの団子とヴェルナッチャのぶどう酒で、それを見つけるまじないをさせて、彼には蘆薈《ろかい》の脂《やに》で作った犬による団子をつぎつぎと二個あたえると、彼自身が豚を盗んだような気がする。二人は、もし細君にそのことを告げられては困るならばとおどかして、金を出させる〉
みんなが大笑いをしたフィロストラートのお話がすむとすぐに、女王はフィロメーナにあとをつづけるようにと命令いたしました。彼女ははじめました。
やさしく美わしい淑女のみなさん、みなさんがフィロストラートがマーゾの名前から思いついてなさいましたように、それと寸分たがわずに、わたくしはカランドリーノや、その仲間たちの名前を聞きまして、彼らの話をもう一ついたしたいと存じます。そのお話は、わたくしの考えますように、みなさまのお気に召すことでございましょう。
カランドリーノと、ブルーノと、ブッファルマッコがどんな人間であるかにつきましては、みなさまは今までに十分にお聞きになりましたので、わたくしがご披露する必要はございません。そこで、もっとお話を進めまして、カランドリーノが、細君の持参金としてもらった、フィレンツェからそう遠くないところにある小さな土地を持っていたことを、お耳に入れておきます。その土地から取り入れるいろいろのものの中に毎年一頭の豚がございました。で、毎年十二月になると、細君と彼がその農場へ行って、その豚を殺して、そこで塩漬けにするのが、いつもの習慣でございました。
ところが、そうしているうちにある時のこと、細君のからだがあまり健康でありませんでしたので、カランドリーノはただ一人で豚を殺しに行きました。そのことを耳にして、ブルーノとブッファルマッコは、カランドリーノの細君が農場《そこ》に行かないことを知りましたので、カランドリーノの隣人で、自分たちの大の仲良しである司祭のところにまいりました。そこで司祭と一緒に数日を過ごすつもりでございました。カランドリーノは、二人がそこに着いた日の朝、豚を殺しまして、二人が司祭のところにいるのを見ると、彼らを呼んで言いました。
「よくきたね。君たちに、わたしがどんなに達者な百姓か見ていただきたいね」
そうして、二人を家につれて行くと、その豚を見せました。彼らは豚がたいへんりっぱなのを見たうえ、カランドリーノから、彼が家族のために、それを塩漬けにしようとしているのだと聞きました。ブルーノが彼に言いました。
「おや、お前はなんて頓馬なんだい! それを売っちまえよ、その金で遊ぼうよ。細君には盗まれたといえよ」
カランドリーノが言いました。
「いいや、あれはそんなことは本気にしないで、わたしを家から追いだしてしまうだろう。よけいな世話はやかないでおくれ、絶対にそんなことはしないからね」
そこで、うんと話し合いましたが、それはなんの役にもたちませんでした。カランドリーノは二人を夕飯に誘いましたが、とてもひどい招き方でしたので、彼らはそれを受けようとしないで、彼のところから引き取ることにいたしました。ブルーノはブッファルマッコに言いました。
「わたしたちで、今夜あの豚を盗もうじゃないか」
ブッファルマッコが言いました。
「どうしたら盗めるかね?」
ブルーノが言いました。
「その方法は、わたしがちゃんと考えたよ。もしあいつが今あるところから、豚を動かさなければね」
「では」とブッファルマッコが言いました。「そうしよう。しないって手があるものか。そのあとで、司祭さまと一緒に、そこでご馳走になろうよ」
司祭は、そいつはありがたい、と言いました。そこで、ブルーノが言いました。
「ここで、ちょっとばかり計略《ぎじゆつ》を要するんだよ。君も知ってのとおり、ねえブッファルマッコ、カランドリーノはけちで、他人がおごるとあいつは、よろこんでぶどう酒を飲むだろう。さあ行って、あいつを居酒屋につれていこうよ。そこでだ、司祭さんは、わたしたちのためにすっかり勘定をお払いになるふりをするのだ。あいつにはびた一文も払わしてはいけないんだよ。あいつはぐでんぐでんになっちまうだろうし、あいつは家にはたった一人でいるんだから、わたしたちの仕事は上首尾にお釣りがくるくらいのものさ」
ブルーノが言ったとおりに、二人はしたのでございます。
カランドリーノは、司祭が他人に勘定を持たせないと見てとって、飲みはじめました。そんなに飲まないでもじきに酔うくせに、それでも、うんとこさ飲みました。居酒屋を出たときは、夜もだいぶ更《ふ》けてまいりましたし、別に食事もしたくありませんでしたので、家に帰りました。で、戸口を閉めたと思いこんで、それを開け放しにしたままで寝台にはいりました。ブッファルマッコとブルーノは、司祭と一緒に食事をしにいきまして、食事がすむと、ブルーノが調べておいたところからカランドリーノの家にはいりこむために、ある道具をとりあげて、こっそりとそこへまいりました。でも、戸口が開いているのを見て、みんなは中へはいりました。で、豚を鈎からはずすと、大急ぎでそれを司祭の家に運んで、しまいこんでから、寝にいきました。
カランドリーノは翌朝、ぶどう酒の気も頭からぬけて起きると、下へおりて見まわしましたが、豚が見あたらないで、戸口が開け放しになっているのが目にはいりました。そこで、だれが豚を盗んでいったのか知らないかと、そっちこっちの人に聞いてみましたがわかりません。ああ、困ったことだ、豚を盗まれてしまった! といって、大騒ぎをしはじめました。ブルーノとブッファルマッコは起きあがると、カランドリーノが豚のことでなんと言っているか聞いてみようと、彼のところに出かけました。彼は二人を見ると、まるで泣き出しそうにして言いました。
「ああ、仲間よ、わたしの豚が盗まれちゃったんだよ!」
ブルーノは彼に近づくと、小声で言いました。
「驚いたよ、こんどはうまくやったね!」
「ああ」とカランドリーノが言いました。「本気でいってるんだよ!」
「そういうがね」とブルーノが言いました。「うんとどなるんだよ、そのとおりだったと。だれでも本気にするからね」
そこで、カランドリーノは一段と声を張りあげてどなりました。
「ああ、神さまの御体に誓ってもいい、豚が盗まれたっていうのは、ほんとうなんだ!」
で、ブルーノが言いました。
「そのとおり、そのとおり、そうやっていわなくっちゃいけないんだ。大声でどなれよ、よくみんなに聞かせるんだ。そうすればほんとうらしくみえるからな」
カランドリーノが言いました。
「君はわたしに魂を悪魔に売れというんだな! 君はわたしのいってることを信じないんだね。豚が盗まれていなかったら、わたしは頸《くび》をくくられてもいい!」
すると、ブルーノが言いました。
「まあ、どうしてそんなことが起こったっていうんだい? わたしは現に昨日、そこで見たんだぜ。それが盗まれたなんてことを、君はわたしに信じこませようと思うのか?」
カランドリーノが言いました。
「わたしがいうとおりなんだよ!」
「へえ」とブルーノが言いました。「そんなことがあるもんかね?」
「確かに」とカランドリーノが言いました。「そうなんだよ! だからわたしは困ってるんだ。家に帰るのにどうしたらいいのか、わからないんだ。家内は本気にしないだろうね。たとえ本気にしたって、わたしは今年いっぱい家内とはうまくいかないだろう?」
すると、ブルーノが言いました。
「まったく困ったねえ。もしほんとうだとすると、そいつはまずいね。でも君も知ってのとおり、カランドリーノ、昨日わたしはそういえと、君に教えたんだ。君が細君とわたしたちを同時に瞞してはいやだぜ」
カランドリーノはどなりだして、言いました。
「おい、どうして君たちは、わたしを途方にくれさせて、神さまや聖人や、なにからなにまで呪わせようというんだ? ほんとうに、わたしのいうとおり豚は昨晩盗まれちまったんだよ」
するとこんどは、ブッファルマッコが言いました。
「もしそうだとすれば、わたしたちにできることなら、それを取り返す方法を見つけなくちゃあ」
「どんな方法を」とカランドリーノが言いました。「見つけられるだろうね?」
そこで、ブッファルマッコが言いました。
「確かに、君の豚を盗みにインドからくる者はないね。だれか君の近所の人だったにちがいないよ。で、君がその連中を集めることができれば、むろんわたしはパンとチーズのおまじないをやれる。そうすればたちどころに、だれが盗んだかわかるだろう」
「そうだよ」とブルーノが言いました。「君の近所にいるそのおえら方の連中に、パンとチーズのまじないをちょっとやってみたらどうだね。きっと、あいつらのうちだれかが盗んだので、あいつらはこのことに気がついて、きたがらないだろうね!」
「それじゃ、どうしたらいいんだい?」とブッファルマッコが言いました。
ブルーノが答えました。
「しょうが入りのうまい団子と上等のヴェルナッチャぶどう酒でやればいいよ。それを飲みにくるようにと招《よ》ぶんだ。連中はそこまでは考えないで、やってくるだろう。こうすれば、パンとチーズと同じようにしょうが入りの団子が効き目をだしてくれるんだよ」
ブッファルマッコが言いました。
「まったく君のいうとおりだ。ではカランドリーノ、君はどう思うね? そいつをやってみようか」
カランドリーノが言いました。
「わたしのほうこそ、神さまの愛にかけて、そうお願いしたいよ。だれが盗んだかわかっただけでも、半分は腹の虫がおさまるような気がするからね」
「いいとも」とブルーノが言いました。「君が金さえ出してくれれば、君のためにそうした品々を買いにフィレンツェまで行ってきてあげていい」
カランドリーノは四十ソルドばかりの金を持っておりましたので、それをブルーノに渡しました。ブルーノはフィレンツェの薬剤師をやっている友人のところへまいりまして、しょうが入りのりっぱな団子を一ポンド買って、その上に犬にやる団子を二つつくらせて、それに新鮮な蘆薈《ろかい》の脂《やに》の一番にがいのをまぜさせました。そのあとで、ほかの団子にかぶせてあるのと同じように、その二つにも砂糖の衣をかぶせて、それを見失ったり、ほかのと間違えたりしないように、ある小さなしるしをつけさせておきました。そのしるしで、彼はとてもよくそれを見分けることができました。それから上等のヴェルナッチャ酒を一瓶買い求めて、農場のカランドリーノのところに帰ってまいりました。そして、彼に言いました。
「明日の朝、君が疑いをかけている連中に、一緒に飲みにくるように招いておいてくれたまえ。祭日だし、みんなよろこんでくるだろう。わたしは今夜ブッファルマッコと一緒に、団子にまじないをかけておいて、明朝君の家に持っていくよ。そして、君のために、わたしが自分でそれをみんなに渡してあげよう。いったり、おこなったりすることは、みんなわたしがしてあげよう」。
カランドリーノはそのとおりにいたしました。さて、あくる朝、農場にきていたフィレンツェの青年たちや、そこのお百姓たちが、かなり大勢、教会の前の楡《にれ》の木のまわりに集まりますと、ブルーノとブッファルマッコは、一箱の団子と大瓶のぶどう酒を持ってやってまいりました。みんなに円陣をつくらせてから、ブルーノが言いました。
「みなさん、どうしてあなた方がここにおいでになるのか、その理由を申しあげなければなりません。それは、もしあなた方がいやにお思いになることがもちあがりましても、わたしにご不満を申されては困るからであります。ここにいるカランドリーノが昨夜、りっぱな豚を一頭盗まれまして、だれが盗んだのか見当がつきません。そこで、ほかでもありませんが、ここにいるわたしたちのうち、だれかがそれを盗んだにちがいないというわけで、カランドリーノが豚を盗んだ者を見つけるために、あなた方にこの団子を一つずつ召し上がって、ぶどう酒を飲んでいただきたいというのであります。で、ただ今からご承知おき願いたいことは、豚を盗んだ者は団子を食べてしまうことができないで、それどころか、それが毒よりもにがい味がして、吐き出してしまうだろうということであります。ですから、こうしたはずかしめを大勢の目の前でうける前に、それを盗んだ者は、司祭さまに告白をなさるほうが、最良の方策だろうと思います。そうなれば、わたしはこの事件から手を引きましょう」
そこにいた者はだれでも、進んでそれを食べたいと申しました。そこでブルーノは一同をならばせて、カランドリーノをその中に入れて、端のほうからはじめて、一人一人に団子をくばりだしました。で、カランドリーノの前にきたとき、犬用の団子を一つとって、彼の手にのせました。カランドリーノはさっそくそれを口にほうりこんで、かみはじめました。しかし、舌に蘆薈の脂の味がするとすぐに、その苦味に我慢ができなくなって、吐きだしてしまいました。みんな、だれが吐きだすか見ようとして、たがいに顔を見合っておりました。ブルーノはまだそれをくばりおえておりませんで、そのことに気がつかないようなふりをしておりますと、だれかがうしろの方で言っているのが聞こえました。
「えい、カランドリーノ、これはどうしたというんだい?」
そこですぐに彼はうしろを振り向いて、カランドリーノが自分のを吐き出しているところを見てとると、言いました。
「お待ち、何かほかに交《まざ》りものがあったから、君は吐き出したんだろう、もう一つおとり」
そして、二番目のをとって彼が口に入れると、まだくばらなければならない団子をくばって歩きました。カランドリーノは、最初の団子もにがいと思いましたが、こんどのは、もっとにがいような気がいたしました。だが、それでもそれを吐き出すのが恥ずかしくて、しばらくの間かみながら、口にふくんでおりました。そうして口に入れたまま、彼は、はしばみの実のような大粒の涙をぽろぽろと流しはじめました。で、おしまいには、もう我慢ができなくなって、最初のと同じように吐き出してしまいました。ブッファルマッコは一同にぶどう酒をくばっており、ブルーノもそうしていましたが、これを見ると口をそろえて、確かにカランドリーノは自分で豚を盗んだのだと言いました。そして、口ぎたなく彼を叱る連中もでてまいりました。
しかし、それでも一同が立ち去ってから、ブルーノとブッファルマッコがカランドリーノと一緒にあとに残りました。ブッファルマッコはカランドリーノに言いました。
「でもわたしは君が豚を盗んで、そのうえ、はいった金で一度わたしたちに飲ませるのがいやさに、盗まれたなんてわたしに思いこませようとしたことは、ちゃんとわかっていたんだよ」
まだ蘆薈の苦味を吐き出してしまっていなかったカランドリーノは、自分が盗んだのではないと誓いを立てはじめました。ブッファルマッコが言いました。
「でも、いくらで渡したんだい。馬鹿、ほんとうに六フィオリーノでかい?」
カランドリーノはそれを聞くと、身も世もなくもだえはじめました。ブルン(ブルーノと同じ)が彼に言いました。
「よくお聞きよ、カランドリーノ、わたしたちと一緒に食ったり飲んだりした仲間の中にね、君がこの家の二階に、お楽しみの囲《かこ》い者の若い女をおいておき、何かためては、それをその女にやるんだってことを、それから、この豚もその女にやったと自分はにらんでいるんだということを、わたしに話した者がいたぜ。君は人を瞞すのが、こんなにうまくなったんだね! いつかも黒い石を拾うんだって、わたしたちをムニョーネの谿間につれて行ったね。あのときもわたしたちをすっかりまごつかせたうえ、自分は帰ってしまって、あとで自分だけ石が見つかったなんて、わたしたちに思いこませようとしたんだ! で、今も同じように、そんな誓いを立てて、自分で人にやったか、売り払ってしまった豚を、盗まれたなんて、あいかわらず信じこますことができると思いこんでいるんだ。わたしたちは、君の瞞着には慣れているし、そいつは見抜いているんだ。君はもうわたしたちには手も足もでないよ! ところで、ほんとうのことをいうがね、わたしたちはまじないをかけるのに苦労したんだぜ。だから、君からは去勢したおんどりを二つがい、お礼にもらおうと思っているんだ。それがだめなら、テッサさんにすべてをぶちまけてしまうぜ」
カランドリーノは自分の言うことが信じられないのを見てとり、とても悲しいとは思いましたが、このうえ細君から怒られるのはいやでしたので、彼らに二つがいの去勢鶏をあたえました。彼らは豚を塩漬けにしたうえ、それをフィレンツェに持ってかえり、あとに残されたカランドリーノは損害と瞞着を一人でかぶってしまいました。
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第七話
[#この行3字下げ]〈ある学者が一人の未亡人に思いをよせる。未亡人はほかの男を愛していたので、ある冬の夜、学者に雪の上で待ちぼうけをくわせる。その後、学者は、ある勧告をして、七月の最中《さなか》に、彼女を一日じゅう裸で塔の上にいさせて、蠅や虻《あぶ》にいじめさせ、陽光に照りつけさせる〉
淑女たちは、災難なカランドリーノのことを大いに笑いましたが、もし豚を盗んだ男たちに、去勢鶏までもとられるのを知って気の毒な気持ちになっておりませんでしたら、もっと笑ったことでありましょう。しかし、お話の終わりがまいりましたので、女王はパンピネアに、お話をするようにと命じました。で、彼女はすぐに、こう話しだしました。
心から愛する淑女のみなさま、策略は策略によって騙《だま》されるということは、しばしば起こることでございます。ですから、他人を騙してよろこぶことは大して分別のあることではございません。わたくしたちは、今まで話されたいくつもの小さなお話の中で、人が行なった瞞着をお腹《なか》を抱えて笑ってまいりましたが、その中で、これについて復讐の行なわれたことは、一つも認められたことがございません。でもわたくしは、わたくしたちの市《まち》の婦人に返された当然のむくいについて、いくぶんの共感をお持ちいただきたいと存じます。その婦人の瞞着は、瞞着でお返しをされまして、ほとんど死の苦しみをともなって、彼女の頭上に戻ってきたのでございます。このお話をお聞きになることは、今後他人を瞞着するのに一段と用心をするようになりましょうし、大いに分別の心が啓発されましょうから、あなた方にとって無益ではございませんでしょう。
まだそう何年も前のことではございません。フィレンツェに、容姿の美しい、高慢な心の、ことば使いの非常にひなびた、財産も相当に豊かな、エレナという若い婦人がおりました。彼女は、夫をうしない未亡人になりましたが、自分で選んだ美男の優雅な青年を恋しておりましたので、決して再婚しようとは望んでおりませんでした。で、なんの気づかいもございませんので、非常に信頼していた女中の取り持ちで、しばしば彼と夢見心地でたのしみ合っておりました。ちょうどその頃のことでございます。わたくしたちの市の貴族で、リニエーリという青年が、多くの者がしているように、やがて後には自分の学問の切り売りをしようというためではなく、それは貴族に一番ふさわしいことでありますが万象の理《ことわり》や、万象の原因を究めるために、長い間パリで勉強をいたしまして、パリからフィレンツェに帰ってまいりました。そしてここで、その貴族《みぶん》や学問のゆえに、たいへんな尊敬をうけまして、市民としてりっぱな生活を送っておりました。しかし深奥なことの理解にすぐれた人々は、それだけ容易に恋の罠《わな》に落ちることがございますように、そうしたことがこのリニエーリにも起こりました。ある日のこと、彼が散歩がてらにある祭りにまいりましたところが、その目の前に、わたくしたちの都市の未亡人たちがよくするように、黒い喪服《もふく》をまとった、彼の考えによると実に美しさにみちあふれた、今までに彼としてはほかに見た覚えがないような、愛嬌のこぼれるばかりの、このエレナが現れたのでございます。彼は、神さまに裸の彼女を両腕に抱きしめるようなお恵みを授けられた者こそ、至福なものと呼ばれることができるだろうと考えました。で、用心をしながら、一度ならず彼女を見つめておりましたが、大切で貴重なものは骨を折らずには手に入れることができないことを知っておりましたので、彼女に気に入られるために、あらゆる骨折りや、すべての心づかいを傾けようと固く心にきめました。彼女に気に入られて、その愛をかちえ、それによって彼女の知遇をうることにしようという考えだったのでございます。ところが、うつむいてなどいない人で、真物《ほんもの》以上に自分を買っており、わざとらしく眼を動かしてあたりを見まわし、だれが自分をほれぼれした眼つきで見つめていたか、すぐに承知していたその若い婦人は、リニエーリに気がつくと、心の中で笑いながら言いました。
「今日出てきたのはむだじゃなかったようだわ。だって、もし考えちがいでなかったら、わたくしは一羽のむくどりの鼻づらをつかまえたらしいもの」
そして、彼女は眼尻《めじり》で彼の方を二度三度技巧的に見つめて、できるだけ彼に、自分がつけまわされるのをよろこんでいるということをわからせようと、いろいろとやっておりました。一方彼女としては、その美貌で多くの男を蕩《た》らしこみ、つかんでおけば、それだけ自分の美貌の値打ちが上がり、とくに彼女が愛とともに美貌をあたえてきた男にとっては、格別そうであるにちがいないと考えていたのでございます。
賢明な学者は、哲学的思索をほうっておいて、魂の全部を彼女に傾けてしまいました。彼女の気に入るにちがいないと思いこんで、彼女の住み家を探りあてて、そこに行くのにいろいろの理由をこじつけては、その家の前を通りはじめました。婦人は、すでに申しあげた理由から、そうしたことに虚栄心がふくらんで自惚れておりましたので、たいへん喜んで彼に会うようなふりをよそおっておりました。そんなわけで学者は方法を見つけて、婦人の女中と親しくなって、その女中に自分の思いを打ち明けたうえ、主人の婦人にたいして、自分がその寵愛にあずかれるように、ひと肌ぬいでもらいたいと頼みこみました。女中はやすやすと請け合って、そのことを女主人に物語りましたので、彼女はお腹《なか》の皮をよじらせて、大笑いをしながらそれを聞いておりましたが、こう言いました。
「あの人がパリから持ってきた知恵を、どこに捨ててきたかわかったかい? さあ、あの人が探しているものをあげましょう。これからさき、あの人がお前に話しかけたら、わたくしのほうでは、あの人がわたくしを愛している以上に、あの人を愛しているといっておくれ。でもね、わたくしは、ほかの女の方たちに向かって顔をかくさないでいられるように、自分の貞潔というものを、大事にしておかなくてはいけないのだからとね。もしあの人が評判のように賢い方だったら、このことで、わたくしを一段といとおしく思うにちがいないわ」
ああ、悪い、情けない女でございますこと! みなさま、彼女は、学者たちとかかわり合うことがどんなことであるのか、よく知っていなかったのでございます。女中は彼に会って、自分の女主人から命ぜられたとおりのことをいたしました。学者はよろこんで、手紙を書いたり、贈り物を届けたりして、ますます熱烈な嘆願をするようになりました。で、何をしても受け付けられましたが、普通ありきたりの返事しかあたえられませんでした。こんなふうにして、彼女は彼を甘言で釣っておきました。最後に、彼女が自分の恋人にすべてのことを打ち明けましたところが、恋人はときどき彼女に向かって腹を立てて、いくぶんやきもちをやきましたので、恋人がそのことで自分を疑っているのは意味のないことであることを示そうとして、学者がたいへんしつこく言いよってくるのをさいわいに、学者のもとに女中をやりました。女中は女主人からであるといって、女主人はあなたの愛について確信をえてのちに、あなたのお気に召すようなことができそうな暇が全然見つかりませんでしたが、間近にせまったクリスマスには、あなたとお会いしたいものだと思っております、ついてはクリスマスの翌晩に、もしよろしかったら家の中庭においでを願いたい、そこへはできるだけ早くあなたに会いに行くつもりでございます、と伝えました。学者は、欣喜雀躍《きんきじやくやく》、だれよりも大喜びで、指定された時間に婦人の家に行き、女中の手で中庭に案内されて、その中に閉じこめられると、そこで婦人がくるのを待ちはじめました。婦人は、その晩自分の恋人をこさせて、一緒にたのしく夕食をしたためてから、その夜自分がしようと考えていることを、彼に話して聞かせたうえで、こうつけくわえました。
「では、あなたがばかばかしいことにやきもちをやいたその相手の男を、わたくしがどんなにはげしく、またどんなふうに愛してきたか、お目にかけましょう」
恋人は胸をわくわくさせて、このことばを聞いておりましたが、婦人がことばで自分に説明したことを、実行の上で見たいものだと思いました。たまたまその前の日に、大雪が降りまして、どこもかしこも雪でおおわれておりました。ですから学者は中庭にちょっといるあいだに、もう思いのほかのひどい寒さを感じはじめました。けれども、いずれ暖かいところで休めるだろうと思って、それでも辛抱強くこらえておりました。婦人はすこししてから、恋人に向かって言いました。
「寝室にまいりましょう、そして小窓から、あなたがやきもちをやいている相手の男が何をしているか、それからわたくしが話をさせにやった女中に、あの男がどう返事をするか見てみましょう」
そこで二人は小窓のところに行って、よそからは見られずに、外を眺めながら、女中がもう一つの小窓から学者に話しかけて、こう言っているのを耳にしました。
「リニエーリさま、奥さまはこのうえもなくおかわいそうなお方でございますよ。だって、今晩ご兄弟の方がお一人おいでになりまして、奥さまととてもお話がはずんで、そのあとで奥さまとお夕飯を一緒に召しあがられまして、まだお帰りにならないのでございますからね。でもじきにお帰りになることと存じます。そんなわけで、奥さまはあなたのところへおいでになれなかったのでございますが、もう今にもいらっしゃいましょう。お待ちになってお気持を悪くなされないようにと、奥さまからのお願いでございます」
学者はそれをほんとうだと思いこんで、答えました。
「いつでもご都合がよくなって、わたしのところにこられるようになるまで、わたしのことなぞ心配なさらないように、わたしの愛する奥さまに申しあげておくれ。でも、できるだけ早くおいで下さるようにとね」
女中は中に引っ込んで、寝に行ってしまいました。そこで婦人は恋人に言いました。
「ねえ、どうお思いになって? あなたが心配していらっしゃるように、わたくしがあの人を愛していたら、あの下で凍っているのに、わたくしがじっとしていられるとお思いになります?」
こういうと婦人は、もういくぶん満足の態であった恋人とともに、寝台にはいって、ひどい目にあわされている学者のことを笑ったり、馬鹿にしたりしながら、長い間にぎやかにたのしみ合いました。学者は中庭じゅうを歩きながら、あたたまろうとして体を動かしておりましたが、腰をおろすところも、夜風をさけるところもございませんでした。彼は兄弟が婦人のところに長居をしているのを呪っておりましたが、ちょっとでも音がすると、婦人が自分のために戸口を開けた音ではないかと思いました。しかしそれは空しい望みでした。彼女は夜中近くまで、その恋人とたのしんでおりまして、こう言いました。
「ねえあなた、あのわたくしたちの学者のこと、どうお思いになって? あの人の知恵分別と、わたくしがあの人によせている愛と、どっちが大きいと思っていらっしゃる? 先日あんなお話をしてあなたの胸にまき起こしたことを、わたくしがあの人をこごえさせている寒さで、あなたの胸から追いだしてくれるでしょうね?」
恋人が答えました。
「ええ、わたしの肉体の心よ、いいですよ。あなたがわたしの幸福や、わたしの休養や、わたしの喜悦であり、わたしのすべての希望であるように、わたしもあなたのそうしたものであることが、よくわかりました」
「それなら」と婦人が言いました。「あなたがほんとうのことをおっしゃっているという証拠に、今わたくしを千度も接吻してちょうだい」
そこで恋人は彼女をしっかりと抱いて、千度どころか十万遍以上も接吻しました。そしてしばらくの間、こうした話をしておりまして、それから婦人が言いました。
「ねえ! ちょっと起きましょうよ。そしてわたくしの新しい恋人がいつも火の中で燃えていると手紙に書いてよこしたその火が、ほんとうに消えたかどうか見に行きましょう」
で、二人は起きあがると、例の小窓のところに行きました。庭を見おろすと、学者が雪の上で、あまりの寒さに歯をがちがちさせているその音楽につれて、ぴょんぴょんはねて踊っているのが目にはいりました。その踊りの休む暇もなく、動きの速いことと申しましたら、こういうのは今までに二人とも見たことがありませんでした。そこで婦人が言いました。
「どうお思いになって。あなた、わたしの甘い希望よ、わたくしにはラッパや風笛の音楽を使わないで、男たちに踊りをおどらせる力があるような気がしません?」
恋人は彼女に向かって、笑いながら答えました。
「わたしの大きな喜悦《よろこび》よ、思いますよ」
婦人が言いました。
「一緒に戸口のところまで、下りて行きたいのです。あなたは黙っていらっしゃい、わたくしがあの人に話しかけます。そうしてあの人のいうことを聞きましょう。ひょっとしたら、わたくしたちがあの人を見てたのしんだのと同じくらいに、おもしろいでしょう」
そうして、そっと寝室を開けると、戸口のところに下りて行きました。そして戸は全然開けないで、そこにあった隙間から、婦人は低い声で、学者を呼びました。学者は、自分の名を呼ぶ声を耳にして、これはてっきり中へはいれるものだと思って、神さまを讃えてから戸口に近づいて、言いました。
「ここにおりますよ、奥さま。どうかお開け下さい、寒さに凍え死にしそうですよ」
婦人が言いました。
「まあ、そうですわね。あなたが寒がり屋なのは存じております。ここはちょっとばかり雪が降りましたので、寒さもなかなかきびしゅうございますもの! ええ、わたくしは、パリのほうがずっとよけい降ることは承知しております。まだお開けできないのです。だって、昨夜わたくしのところへ夕御飯にきたあのいやな兄弟が、まだ帰らないんですからね。でも、もうじきに帰るでしょう。そうしたらすぐに開けにまいります。わたくしは、たった今やっとの思いであの人のところからこっそりぬけだして、あなたがお気を悪くなさらないでお待ちくださるように、お慰め申しにまいったのでございます」
学者が言いました。
「ああ! 奥さま、どうかお願いですから、お開け下さい。少し前からとびきりひどい雪が降りだして、いまだに降りしきっております。その中の屋根のあるところにはいれますように、そのうえで、あなたのお好きなときまで待っていましょう」
婦人が言いました。
「ああ! わたくしのかわいいお方、それができないのですよ。この戸口は、開くときにとても大きな音をたてますので、もしわたくしが開けましたら、ぞうさもなく兄弟に聞こえてしまいます。でも、じきにあとで開けにこられるように、あの人のところへ行って、帰るようにと申してみましょう」
学者が言いました。
「さあ、早くいらしって下さい。で、お願いしますが、わたしが中にはいったら暖まれるように、うんと火をおこさせておいて下さい。わたしはすっかり凍えて、ほとんど感じがなくなってしまっているんですから」
女が申しました。
「そんなことはないはずでしょう、あなたがなんども書いておよこしになったことが、つまり、わたくしを愛するあまりあなたの体じゅうが燃えていらっしゃるということが、ほんとうでしたらね。でも、あなたはきっとわたくしをおからかいになっていらっしゃるのだと思います。では、まいります。お待ち下さいね、わるくお思いにならないで」
一部始終を聞いていて、すっかり有頂天になっていた恋人は、彼女とともにもう一度寝台に帰って、その夜は少ししか眠りませんでした。それどころか、ほとんど一夜を、たのしみに耽ったり、学者を嘲笑したりして、つぶしてしまいました。
かわいそうに学者は、まるで鸛《こうのとり》のようになって、歯をしきりにがちがちいわせておりましたが、騙されたと気がつくと、もしかしたらと思ってなんども戸口を開けようとしたり、どこかに出られるところはなかろうかと見まわしたりしておりました。それがどうしてもだめだとわかりますと、檻の中のライオンのように中庭じゅうを行ったり来たりしながら、天候のことや、女の人の悪さ、夜の長いことなどを、自分のいたらなかったことと一緒に呪《のろ》っておりました。そうして婦人にたいしてかんかんになって腹を立てると、彼女によせていた長いあいだの熱烈な愛情を、すぐさま残忍で激烈な憎悪に変えてしまいまして、復讐の方法を見つけようと、胸の中で大きな、いろいろな計画をめぐらしておりました。彼は前には婦人と一緒にいたいと望んでいたのですが、今はそれよりもずっと烈しく、その復讐を渇望しておりました。
夜は、だいぶ長くぐずついたあげくに、夜明けに近づいて、暁になりそめました。すると、婦人から教えこまれていた女中は、下におりて、中庭を開けると、彼に同情しているようなふうをしながら、言いました。
「昨晩おいでになった方は、ひどい目にあったらいいんです! あの人には夜じゅう手こずらされましたが、あなたも凍え死にするような目にあわされましたね。どうしてでしょうね? お諦めなさいませ。だって、今夜うまくいかなかったことは、この次にはうまくいくでしょうから。わたくしはよく知っておりますが、こんなに奥さまが辛いとお思いになったことは、今までになかったでしょう」
憤慨していた学者は、賢《かしこ》かったので、事前に嚇したって嚇された方の防禦の武器になるにすぎないとわかっておりましたから、おさえつけられない意志がどうかして吐きだそうとすることばを、胸の中にぐっととじこめて、低い声で、すこしも怒っている様子を見せないで言いました。
「ほんとに今まであったこともないような一番ひどい夜でしたよ。でも、そのことについて、奥さまになんの罪もないことはよくわかっていました。だって、奥さまはわたしを憐れに思ったので、御自分でこの下までおりてこられて、いいわけをなさって、わたしを慰められたのですもの。それにお前さんのいうように、昨夜できなかったことは、いずれこんどの時にできるでしょう。奥さまによろしくおっしゃって下さい。では、さようなら」
で、彼はほとんどからだじゅうがかじかんで自由がきかなくなっておりましたが、どうにかして、自分の家に帰ってまいりました。家では疲れきって、眠たくて死にそうでしたので、寝台に身を投げだしました。目がさめると、まるで腕も脚《あし》もすっかりなくなってしまったようでございました。そこで医者を呼びにやって、寒さにあったことを話して、治療してもらいたいと頼みました。医者たちは、びっくりするほどたいへんな応急の処置を講じて治療をいたしましたので、しばらくすると、患者の神経をいやして、それをほぐすことができました。彼がもし若くなくて、それにまた暖かい季節が訪れませんでしたらずいぶん辛い目にあわなければならなかったことでございましょう。しかし、健康を取り戻して、元気になったあとで、彼はその憎しみを胸中にかくしておいて、今までよりもずっと、彼の未亡人に恋いこがれているような様子を見せておりました。
ところが今、いくらか時が経過してからのことでございますが、運命の手は、学者にその欲望を満たすことができるような機会をお恵みになりました。と申しますのは、未亡人に愛されていて、未亡人が自分によせている愛などなんとも思っておりませんでした青年が、別の女を恋して、未亡人の気に入るようなことを、ちっとも言ったりしなくなりましたので、彼女が涙と悲しみにくれながら、骨身をけずっていたからでございます。女主人をたいへん気の毒に思っていた女中は、恋人を失って泣き悲しんでいる境地《なか》から、女主人をどうして救い出したらいいだろうかと途方にくれておりましたが、学者がいつものように通りを行くのを見て、ばからしい考えを起こしました。それは、なにか魔法(降神術)の祈祷でもしたら女主人の恋人がまえのように、また彼女を愛するようになるだろう。それについては学者が大先生であるにちがいないというのでございました。彼女はそのことを女主人に話しました。その賢くない婦人は、学者が魔法を知っていたら自分自身のために使っていただろうということには考えおよびませんでした。そして女中のことばに耳を傾けて、すぐに学者のところへ行って魔法をかけてくれるかどうか聞いてみるように、それからそのお礼には女主人があなたの好きなことはなんでもいたしますと、はっきり約束してくるよう申しました。
女中はその使いをりっぱに、とどこおりなく果たしました。学者は女中の話を聞くと、大いによろこんで心の中で言いました。
「神さま、ありがとうございます。讃えられたまえ。わたしがあれほど熱烈に愛していたのに、その酬いとしてわたしに侮辱をくわえたあの悪い女に、あなたさまのご助力によって、罰をうけさせる時がまいりました」
そして、女中に向かって言いました。
「そのことでご心配なさらないようにと、奥さまに申して下さい。奥さまの恋人がインドにおりましょうとも、わたしは彼にすぐに立ち帰らせて、奥さまのお心にそむいてしたことについて、お赦しを請うようにさせますからね。でも、そのことに関して奥さまがどんな方法をおとりにならなければいけないか、それについては、奥さまのお好きな時に、お好きな場所で申しあげることにしましょう。奥さまにそうお伝え下さい。そして、わたしからといって、元気をつけてあげて下さい」
女中がそのことを伝えまして、サンタ・ルチーア・デル・プラートで会うことに手はずがつきました。そこへ婦人と学者がまいりまして、二人だけで話をしているうちに、彼女は自分がその学者を今にも死なせようとしたことなど忘れてしまって、自分のことをすっかり、それから自分が望んでいることも包みかくさずに話して、どうか助けてもらいたいと嘆願いたしました。
「奥さま、わたしがパリで学んだもののなかに、魔法(降神術)がはいっていることはほんとうです。それについては、確かにわたくしは蘊奥《うんおう》をきわめております。けれども、魔法《それ》は神さまの非常にお嫌いになるものですから、わたしは自分のためにも、他人のためにも決してそれを使うまいと誓っておりました。わたしがあなたに捧げている愛の力は非常に強いので、あなたがわたしにしてほしいとおっしゃることを、どうしておことわりしたらよいかわかりません。ですから、たとえそのためにわたしだけが鬼の家に行かなければならないとしましても、あなたがお望みになる以上、わたしはそれをする覚悟でおります。けれども、あなたに申しあげておきますが、それはたぶんあなたがお考えになっていらっしゃるよりもむずかしいことでして、とくに女が自分を愛するようにと男を呼び返したり、あるいは男が女を呼び返したりする場合には、そうなのです。なぜなら、これは、それに関係している当人の体によるのでなければできませんし、それを行なうのは、それを行なう者がしっかりした気持ちであることが必要だからでありまして、またそれは、夜、さびしいところで、だれも伴《つ》れて行かないで、おこなわなければならないからなのです。そうしたことをする覚悟があなたにおありかどうか、わたしにはわかりませんが」
賢さがもてあますほど恋のとりことなった婦人は、彼に向かって答えました。
「理由もないのにわたくしを棄てたあの人を取り戻すためには、わたくしは恋の火から、どんなことでもするような気持ちに駆りたてられております。しかし、それでも、もしよろしかったら、どうしたらわたくしが安心できるか教えて下さいませ」
人が悪くて、ずるかった学者が言いました
「奥さま、わたしは、あなたが取り戻したいと望んでいらっしゃる男の代わりをつとめる錫《すず》の人形をこしらえなければなりません。それを、わたしがあなたのところにお届けしたら、あなたは月が一杯にかける頃、人々の寝入りばなに、たった一人で、水の流れのある川に、七回、裸で人形と一緒にはいって、浴《ゆあ》みをしなくてはいけないのです。そのあとで、裸のまま、木の上か、どこか空き家の屋根にのぼらなくてはなりません。そうして、片手に人形を持って、北の方を向いて、わたしが書いておいてあげるある言葉を、七回唱えて下さい。それを唱えおわると、あなたが今まで見たうちで一番美しい二人の乙女が、あなたのところに来て、こうやってあいさつをしますと、何をしてほしいのですか、とやさしくたずねるでしょう。この乙女たちにあなたの望みを、しっかりと十分におっしゃるようにして下さい。男の名前を取り違えておっしゃらないように注意なさるのですね。あなたが名前を告げると、乙女たちは発《た》って行きましょう。あなたはご自分の着物をおいておかれた場所におりて、もとのように着物を着て、家にお帰りになるのです。きっと次の日の夜中にならないうちに、あなたの恋人は泣きながら戻ってきて、あなたにお赦しと憐れみを請《こ》うでしょう。よろしいですね、その後は決して、ほかに女ができて、あなたを棄てるようなことはないでしょう」
婦人はこうしたことを聞いて、すっかり信用すると、もう恋人を腕に取り戻したような気がして、いくぶんうれしくなって、言いました。
「ご安心下さい。そういうことは十分りっぱすぎるくらいにしてみましょう。わたくしには万事が都合よくそろっております。なぜなら、上《かみ》のヴァルダルノの方にわたくしは土地を持っておりまして、それは川岸のすぐそばなのです。ただ今は七月ですし、浴みをするのはたのしいでしょう。そのうえ、川からそう遠くないところに、人の住んでいない小さな塔がありまして、ただ、ときどき羊飼いたちが迷子になった動物《ひつじ》を見つけだそうとそこにあるあの栗の木のはしごを伝って、たたきの屋上にのぼって行くくらいのものだったことを憶えております。とてもさびしい、ちょっと離れた場所でした。わたくしはその塔の上にのぼりましょう。そこで、あなたがご命令になることを、一番うまくやってみたいと思います」
婦人の言った場所と小さな塔を、とてもよく知っておりました学者は、彼女の考えがはっきりとつかめましたので、ほくほくして、言いました。
「奥さま、わたしはまだ一度もそのあたりへまいったことがありません。だから土地も小さな塔も知りません。でも、あなたがおっしゃるとおりでしたら、それ以上いいところはないでしょう。ですから、都合がつきしだい、人形と呪文をお届けしましょう。しかし、よくお願いしておきますが、あなたがお望みを達せられて、わたしがあなたのお役によく立ったことがおわかりになったら、わたしのことを思い出されて、お約束をお守り下さいよ」
婦人は彼に向かって、必ずそうすると約束いたしまして、彼に別れを告げると家に帰りました。学者は、自分の計画が実を結ぶにちがいないと思いましたので、うれしくなって、魔法の文字をつけた人形を作り、呪文として戯言《ざれごと》を書きました。で、いい頃あいを見計らって、それを婦人に届けて、その夜、遅滞なく自分の言ったことが行なわれなければいけないと伝えさせました。それから、自分の計画を成就しようとして、こっそりと、召使を一人つれて、小さな塔のすぐそばに住んでいた友人の家にまいりました。
一方婦人は、女中をつれて外へ出ると、自分の土地に行きました。で、夜になりましたので、寝台にはいるようなふりをして、女中を寝に行かせました。そして、家じゅうの者が寝こんだ頃にそっとぬけだして、アルノ河の岸辺にある小さな塔の近くに行きました。そして四辺《あたり》をよく見まわしてから、人の姿も見えず、その気配もしないので、着物を脱いで、その着物をくさむらの中にかくしておいて、人形を持って七回水浴をいたしまして、そのあとで、裸のまま、人形を片手に、小さな塔の方に行きました。学者は、夜になりはじめた頃に、召使と一緒に小さな塔の近くの柳やその他の木々のあいだに身をかくして、これらのことをすっかり眺めておりましたが、婦人がこうして一糸もまとわないで自分のすぐそばを通り過ぎて行きますと、その肉体が雪の肌をしている彼女のために、夜闇までが明るくなっていくのを目のあたりにして、それからなおもその肉体の胸や四肢をじっと見つめながら、その美しさにほれぼれとした気持ちになって、それがほんのわずかの時間の後に、どうなってしまわなければならないかということをひとり思いめぐらしながら、すこしばかり彼女のことがかわいそうになってまいりました。一方、肉への欲情《しげき》が急に彼を襲うと、寝ていたものをむくりと立ちあがらせまして、彼はそのかくれ場から跳び出して行って彼女をとらえて、その欲望をみたすようにとうながしました。そうして彼は、その同情と肉欲の感情から、いまにも打ち負かされそうになりました。しかし、自分が何者であり、自分のうけた恥辱がどんなものであったか、何がゆえに、まただれから受けたのであったか、ということが記憶によみがえってまいりまして、そのために憤怒に燃えたちますと、同情や肉欲を払いのけ、自分の決意をかためて、婦人をそのまま通り過ごさせました。婦人は塔の上にのぼると、北のほうを向いて、学者からあたえられていたことばを唱えはじめました。少ししてから学者は小さな塔の中にはいって、そっと、ほんのわずかずつ、婦人のいた屋上に通じているそのはしごをはずしまして、そのあとで、彼女が、なんというだろうか、どうするだろうかと、様子をうかがっておりました。
婦人は七回呪文を唱えてから二人の乙女がくるのを待ちはじめました。ずいぶん長く待っておりました。そればかりでなく、思ったよりもずっと寒さが身にしみました。そのうちに暁の光が見えてまいりました。そこで婦人は、学者が自分に言ったことが起こらなかったのを悲しみながら、ひとりごとを言いました。
「あの人は、わたくしが一夜待ちぼうけをくわせたので、その仕返しに、こんどはわたくしに一夜を明かさせたのではないかしら。でもそのために、こんなことをしたのだとしたら復讐としてはなっていないわ。だって、今の一夜は、あの一夜の三分の一の長さもないもの。それだけではなく、あの晩の寒さは、こんなものではなかったのだから」
そこで彼女は、夜がすっかり明けてしまわないうちにと思って、塔から下りようとしましたが、見ると梯子がなくなっているのに気がつきました。すると、世の中が足の下から消えてなくなってしまったかのように、がっくりとして、気力がなくなると、塔の屋上に倒れてしまいました。で、力が戻ってきてから、身も世もなく泣いたり、悲しんだりしだしました。これは学者のしわざにちがいないと百も承知しておりましたので、学者にあんな恥辱をあたえたことや、そのあとで、当然敵と考えなければならない相手を信用しすぎたことを、後悔しはじめました。婦人はずいぶん長いあいだそうしておりました。それから、なにか下りる方法はないかと見まわしましたが、それが見あたりませんので、ふたたび泣きだすと、胸をかきむしられるような思いに沈んで、ひとりごとを言いました。
「ああ、不幸な女よ、お前がここで裸になっているところを人に見られたということがわかったら、お前の兄弟たちや、親戚や、隣近所の者や、全部の、フィレンツェ人というフィレンツェ人から、なんといわれるだろうか。あれほど高く買われていたお前の貞潔は、贋物《にせもの》だったと知れわたってしまうだろう。お前がこのことで嘘のいいわけをしたいと思っても、そのいいわけはできるだろうが、お前のことを何もかも承知しているあのいやな学者が、そうした嘘をつかせておかないだろう。ああ、かわいそうなお前、お前は因果なことに恋をしてしまったあの青年と、お前の名誉を同時に失うことだろう!」
このあとで、彼女は悲しみにひしがれて、いまにも塔から地上《した》に跳びおりようといたしました。でも、もうすでに太陽ものぼっておりましたので、彼女はずっと片隅に、それから塔の胸壁に一段と近づいて、女中を呼びにやれるような牧童が動物《ひつじ》をつれてその近くにきていはしないかと、見まわしておりますと、くさむらの下手《しもて》でいくぶん眠ってから、目をさました学者が、彼女を見あげました。彼女も彼を見つけました。学者は彼女に向かって言いました。
「お早うございます、奥さま、乙女たちはちゃんとまいりましたか」
婦人は彼の姿を見て、その声を聞くと、はげしく泣きだして、自分が話ができるように、塔にはいってきてもらいたいと頼みました。学者はたいへん親切にその頼みを聞き入れました。婦人は屋上で下向きに身を伏せると、そこの、梯子などをかける開いた口から頭だけ出して泣きながら言いました。
「リニエーリ、わたくしがあなたにひどい一夜を過ごさせたとしましても、あなたは十分にその讐《かたき》をおとりになりました。だって、七月とは申しながら裸でいたので、昨夜は凍え死ぬような思いをいたしました。そればかりか、わたくしはあなたを騙したことや、あなたを信用した自分の愚かなことを思う存分泣きましたので、どうしてわたくしの眼がまだ頭《かお》についているのか、不思議なくらいでございます。ですから、あなたが愛しているはずがないわたくしのためとは申しません、紳士でいらっしゃるあなたのために、お頼みいたします、どうか、わたくしがあなたにあたえた侮辱の復讐としては、今までなさったことで、もうやめにして下さい。そして、わたくしの着物を持ってこさせて下さい。またわたくしがここからおりられるようにして下さい。そうして、あとで、そうなさろうとしても、わたくしにお返しになれないものを、つまり、わたくしの名誉を、わたくしからお取りあげになろうなどと思わないで下さい。もしあの夜、あなたとの逢瀬を、わたくしが奪ったといたしましたら、わたくしは、あなたがご都合のいい時にいつでも、あの一夜にかえて、幾夜でも逢瀬をお返しできますから。では、これでもうよろしいことにして下さい。りっぱなお方として、復讐がおできになったのですし、そのことをわたくしに思い知らせたことで、満足なさって下さい。女に対して、暴力をおもちいになろうとなさらないで下さい。鷲にとっては鳩に勝ったとて、なんの名誉にもなりません。では、神さまへの愛にかけて、またあなたのご名誉のために、わたくしをかわいそうだとお思いになって下さい」
学者はきっとなって、自分がうけた侮辱を思いめぐらしながら、彼女が泣いたり、頼んだりしているのを見て、心の中で、よろこびと悲しみを同時に感じました。それは何ものにもまして望んでいた復讐のよろこびでございましたが、彼はまた人情にもほだされて、不幸な婦人に同情をそそぎ、悲しみも感じていたのでございます。しかし人情は復讐への欲望の激しさには勝つことができませんでしたので、彼は言いました。
「エレナさま、わたしは自分の頼みを、今あなたが巧みになさっていられるように、実際のところ涙で濡らしたり、甘ったるくしたりすることはできませんでしたが、雪が一面に降り積もったあなたの中庭で、寒くって死にそうだったあの夜、そうしたわたしの頼みが聞き届けられて、ほんのちょっとの間でも、あなたが屋根のあるところにわたしを入れて下さっていましたら、ただ今、あなたのお頼みをかなえてさしあげることなぞ、わたしにとってはぞうさもないことでしょう。ただ今は、以前よりあなたにご自分の名誉がそれほど大事に思われ、そこに裸でいることがそれほど重大に思われるのでしたら、そうしたお頼みは、わたしが歯をがちがちいわせて、雪を踏みならしながら、あなたの中庭を歩きまわっていたあの夜、裸で抱かれていてつらいともお思いにならなかったその相手の男になさったらいかがです。あの男に助けておもらいなさい。あの男に着物を持ってくるようにおさせなさい。あの男に、あなたがおりるはしごを運ぶようにおさせなさい。あなたがご自分の名誉を、今も、またほかに千回も、いつだってこの人なら危険にさらすようなことはないと思っていらっしゃるその男に、あなたのご名誉にたいして同情を起こさせるようにお努《つと》めなさい。どうしてあなたは、ご自分を助けにくるように、あの男をお呼びにならないのですか。あの方をおいては、それを親身になってだれが考えてくれましょうか。あなたはあの男のものです。もしあの男があなたを守らず、助けないとしたら、あの男は何を守ったり、助けたりするんでしょう? あの男を呼びなさい。馬鹿なお方ですよ、あなたは。そうして、あなたがあの男によせている愛や、あの男の知恵とあなたの知恵が、あなたを、(あなたがあの男とたのしみながら、わたしの愚かさと、あなたがあの男におよせになっている愛と、どちらが大きいとお思いですかとお聞きになった、その)わたしの愚かさから救いだすことができるかどうか、試してごらんなさい。わたしが望みもしないし、もし望んだらあなたとしては拒むことができないものを、今ごろになって下さろうというご親切はおやめになって下さい。もし生きてここから出て行かれるようなことがありましたら、あなたの夜は、あなたの恋人のためにとっておおき下さい。そうした幾夜はあなたのものと、あの男のものになさるがよろしいでしょう。わたしは一夜で堪能しましたし、一度騙されたらそれで十分でしょう。まだあなたはずるく口前をつくろって、わたしをほめそやしながら、わたしの好意をえようと、いろいろなさっています。わたしを紳士だとか、りっぱな人だとかお呼びになり、そうして暗黙のうちに、わたしに、寛大な人として、あなたの邪悪を罰することをやめさせようと懸命になっています。けれども、あなたのおべんちゃら[#「おべんちゃら」に傍点]は、以前あなたの不誠実な約束がやったように、今ではわたしの知恵の目を曇らすことはできないでしょう。わたしには自分がわかっています。あなたはたった一夜で、その不誠実な約束で、わたしに自分というものをわからせて下さいましたが、わたしはパリ滞在中には、それほど自分というものを学びはしませんでした。しかし、かりにわたしが寛大だと仮定しましても、あなたは、その寛大の効果《ごりやく》を当然うけられるような人間ではありません。あなたのおっしゃったことは、人間だけに通用すべきもので、あなたのような野生の猛獣の場合の贖罪や、同様に復讐の、終局のものは死でなくてはなりません。だから、わたしは鷲でないとしましても、あなたが鳩ではなくて毒蛇であることを知っておりますから、遠い昔の敵として、あらゆる憎悪を抱いて、全力を傾けて、追求しようと考えております。といっても、わたしがあなたにしているこのことは、正当には復讐とはいえないものでして、むしろ懲罰というべきものであります。なぜなら、復讐は受けた侮辱以上に出なければなりませんが、懲罰はそこまでにいたらないものだからであります。もしわたしが、あなたのために自分の魂をどんな目にあわされたかを考えて、復讐しようと思ったならば、あなたの命を奪ったとしても十分とはいえないでしょうし、あなたの命と同じような命を百奪ったところで、気がすみはしないでしょうからね。だって、いやしい、悪い、罪のある女を殺すことになるのですから。数年したら皺だらけになって台なしになるそのあなたの御面《おめん》を除いたら、あなたはそこいらの馬鹿で卑しい女中とくらべて、どこがいったいすぐれているというのです? だから、あなたがすこし前にわたしをそう呼んだような、りっぱな人間を死なせようとすることは、あなたには、手にあまる仕事だったのです。そういう人間の命はまた、あなたのような人間が十万人で、この世のつづくかぎりかかってするよりも、たった一日で、もっと世の中の役に立つことができるでしょうからね、そこでわたしは、あなたがこらえていらっしゃるこの悲しみで、多少とも感情を持っている男たちを愚弄することがどんなことであり、学者たちを愚弄することがどんなことであるのか、お教えしましょう。あなたがここを脱することができたら、もう二度とそうした馬鹿なことをしでかさないような教訓をさしあげましょう。でも、そんなにおおりになりたいのなら、どうして下にとびおりないのですか。そうしたら、頸《くび》を折って、おりがたいことに神さまのおかげで、あなたはご自分で落ちていると思っていらっしゃるその苦しみから出られるでしょうし、それと同時に、わたしを世界一の果報者にして下さるでしょう。さあ、わたしはうまくやって、まんまとあなたをその上にのぼらせました。こんどは、あなたがうまくおやりになって、この前わたしを騙すことができたように、そこからおおりになるんですな」
学者がこう言っているあいだに、不幸な婦人はたえず泣いておりました。時はたっていって、太陽は頓着なく、ますます高くのぼっていきました。でも婦人は、学者が黙りこんだのに気がつきましたので言いました。
「ああ! むごいお方、あの呪わしい夜のことがあなたにとってそんなにつらいものであり、わたくしの過ちをそんなに悪くお思いになって、そのために、わたくしの若い美しさや、にがい涙の、へりくだった嘆願も、あなたになんの憐みの心も起こさないといたしましても、せめて、わたくしが改めてあなたを信用したことや、わたくしの秘密をすっかりあなたに打ち明けて、それでわたくしの罪をこのわたくしに思い知らせようとなさるあなたのお望みに好機会をおあげしたことなど、このわたくしの行ないだけでも、いくぶんなりとあなたを感動させて、あなたのきびしい頑固な気持ちをやわらげてくれたらと思います。なぜなら、わたくしがあなたを信用しなかったら、あなたがあれほど熱心に望んでいらしったわたくしへの復讐の途が一つも開けなかったでしょうからね、ああ! あなたのお怒りを棄てて、もうわたくしをお赦し下さい。あなたがわたくしをお赦しになって、ここからおろして下されば、わたくしは、あの不誠実な青年をすっぽりと見かぎって、あなただけを愛人とも、主人ともいたす覚悟でおります。もっともあなたはわたくしの美しさを、長つづきのしない、値打ちのないものだとおっしゃって、たいへん攻撃していらっしゃいましたね。その美しさは、ほかの婦人たちの美しさも一緒にして、それがどんなものでありましょうとも、わたくしの考えでは、それはほかの理由からは珍重すべきものではないといたしましても、それが男子の方々の青春時代の望みや、たのしみ、よろこびであるという点から珍重すべきものなのでございます。そうしてあなたは年寄りではございません。たとえあなたから残酷に取り扱われましょうとも、だからと申してわたくしは、自分がここから下へ、あなたの目の前で、(もしあなたが、あとではそうなりましたが、あの頃は嘘つきでなかったといたしましたら)かつてはあれほどわたくしを好いて下さったその目の前で、身を投げるようないやな死に方をするのを、あなたがごらんになりたがっていらっしゃるとは信じられません。ああ! お願いですから、どうかわたくしをかわいそうだと思って下さい。お日さまが熱すぎるくらいに照りだしました。そうして昨夜は寒すぎて苦しめられましたが、それと同じように、今は熱さがわたくしをひどく痛めつけだしております」
うれしそうにして、婦人にしゃべらせていた学者は、彼女に言いました。
「奥さま、今あなたの信頼がわたしの手にゆだねられたのは、あなたがわたしによせる愛からではなくて、あなたがうしなった男を取り戻すためだったのです。ですから、それは、最大の罰をうける資格しかありません。ほかにはなんの方法もなくて、もしこの途だけが、わたしの望んでいた復讐に好都合だったとお思いでしたら、それは気違いじみた考えです。わたしには、ほかに千もの途があったのです。わたしはあなたを愛しているようなふりをして、あなたの足のまわりに千の罠《わな》をかけておきました。で、もしこのことが起こっていなかったとしても、遠からず、当然あなたは一つの罠にかからなければならなかったのです。どれか一つの罠にかかったら、これよりももっと大きな罰や、恥辱に落ちこんでいたでしょう。で、わたしがこれを選んだのは、あなたに楽をさせたいからだったのではなくて、できるだけ早くよろこびたかったからなのです。で、すべての方法がだめだったとしてもわたしにはペンが残されております。わたしはペンで、あなたのことをうんと、それもひどいことを、ひどい方法で書くでしょう。あまりひどいので、あとでそれをお知りになったら、あなたは一日に千度も、ご自分が生まれてこなければよかったとお思いになるくらいです。ペンの力というものはそれを認識し、経験したことのない人々が考えているよりも、はるかに大きなものです。わたしは神さまに誓って申しますが、(わたしがあなたにするこの復讐については、こいねがわくば神さまが、最初にわたしをよろこばせて下さったように、最後までわたしにそうした気持ちでいさせて下さいますように。)あなたのことは、やがてそのためにあなたが他の人々にたいしてばかりでなく、ご自分にたいしても恥ずかしくなって、ご自分の姿が見られなくなるようにと、その眼をくりぬいてしまわれるようなひどいことを書いていたでしょうね。ですから、小さな流れのため海の水かさが増したからといって、その海を叱るのはやめて下さい。あなたの愛とか、あるいは、あなたがわたしのものになるとか、そんなことは前にも申したように、ちっとも問題にはしていません。もしおできになるのでしたら、今まであなたがその持ち物になっていらしった相手の男のものにでもおなりなさい。その男をわたしは前に憎んでいましたが、現在は、その男がこんどあなたにそむいて行ったことを考えて、好きになっております。あなた方は恋をして、青年たちの愛を求めますが、それはいくらかでも青年たちが、一段と溌剌とした肉体をして、一段と黒々としたひげを生やして、胸を張って歩き、踊りをし、競技をしているように見えるからです。そうしたことは、もういくらか年をとっている人々もしてきたことですし、青年たちを学ばなければならないことも知っているのです。ところがそればかりでなく、あなた方は青年たちを最良の騎士だと考えて、青年たちは年をとった人々よりも、一日に何マイルもよけいに歩くのだと値踏みをしております。確かにわたしは、青年たちが一段と強い力で、毛皮をこすることは白状します。しかし年寄りたちは、熟練しておりますので、蚤《のみ》のいる場所を知っています。量が多くて味の悪いものよりも、むしろ、量が少なくて味のいいもののほうがはるかにまさっております。激しい速歩は、たとえ若くても、相手を台なしにして疲れさせますが、快適に行くのは、相手を宿につれて行くのはいくぶん遅れますが、さわやかな気持ちでそこへともなうものです。知恵のない動物《もの》よ、あなた方は、そのわずかばかりの美しい見せかけの下に、どんなに悪いものがかくされているか、気がつかないのです。青年というものは、一人の女では満足しないで、目にはいっただけの女を全部手に入れたがるものでして、彼らは多くの女を手に入れる資格があると思っているのです。ですから、青年たちの恋は移りやすいもので、その証拠には、今あなたは正真正銘の証人になれるではありませんか。彼らは自分たちの女から尊敬されて、愛撫をうける値打ちがあると思っていまして、彼らにとっては、自分たちが手に入れた女たちの自慢をするよりも大きな名誉はありません。そうした間違いが今までに、多くの女を、そういうことを口外しない修道士たちのところに走らせました。あなたは、ご自分の恋を知っているのは、あなたの女中とわたしだけだとおっしゃっておりますが、それはよくご存じないからで、もしそうだと思っていらっしゃるのなら、とんだお考え違いです。あの男の家の界隈は、ほかのことはほとんどなにも話していませんし、あなたの界隈もそのとおりです。しかし、たいていの場合、そうしたことをしている当人が、そのような評判を耳にはさむ最後の者なのです。年寄りたちはあなた方に贈り物をしますが、青年たちはまた、あなた方から掠《かす》めとっております。だからへま[#「へま」に傍点]な選び方をしたあなたは、ご自分で身をおまかせになった相手の男のものになっていらっしゃればいいのです。愚弄なさったわたしのことは、ほかの者にまかせておいて下さい。わたしは、あなたよりもずっとりっぱで、あなたよりもわたしのことをよく理解してくれた婦人を見つけましたから。それで、あなたが墜死するのを見たいとわたしの眼が望んでいることについて、わたしの口から聞くよりも、もっとはっきりしたものをあの世のお土産《みやげ》にしようとなさるなら、いっそすぐにでもとびおりてごらんなさい。わたしが思いますには、あなたの魂は、もう悪魔の腕にうけとめられていましょうから、わたしの眼がまっさかさまにあなたの落ちて行くのを見て、眩《くら》むか眩《くら》まないか見わけることができましょう。でも、あなたがそれほどまで、わたしをよろこばそうとはなさらないと思いますので、申しておきますが、もし太陽があなたに照りつけだしたら、以前わたしに辛抱させたあの寒気のことを思い出して下さい。もしそれをこの暑気とまぜ合わすと、きっと、日光がやわらいで感じられることでしょう」
悲嘆にくれていた婦人は、学者のことばが残忍な最後を目ざしていることを見てとると、ふたたび泣きだして申しました。
「ねえ、わたくしのことでつゆほどもあなたのお心が動かされないのでしたら、あなたがわたくしよりも利口だとお認めになり、またご自分が愛されているとおっしゃったその婦人《おかた》にあなたが注いでいられる愛で、お心を動かして下さい。そのお方の愛ゆえに、わたくしをお赦し下さい。もとのように着物が着られるように、わたくしの着物をお返し下さい。そうして、ここからわたくしをおろして下さい」
すると学者は笑いだして、もうとっくに九時も過ぎているのを見て、答えました。
「そうですね、あなたがその婦人にことよせてお頼みになるのでしたら、いけないとはことわれません。着物がどこにあるのか教えて下さい。とりに行きましょう。そうして、あなたをその上からおろしてあげましょう」
婦人はそれを真《ま》にうけて、いくらか元気がでてくると、着物をおいてある場所を教えました。学者は塔を出ると自分の召使に向かって、そこから離れないように、いや、そのそばにいて、自分が戻ってくるまで、だれもその中に入れないために、できるだけ見張っているようにと命令いたしました。そう言ってから、彼は友人の家に行って、そこでゆっくりくつろいで食事をすませまして、そのあとで、ちょうどいい時刻だと思ったときに、寝に行きました。
塔の上に残された婦人は、あてにもならない希望に少しは元気をつけられましたものの、それでも一通りではない悲しみようで、からだをおこして坐り直すと、胸壁の少し影のあるほうに近づいて、やるせない千々の思いに胸をいためながら待ちはじめました。そして、ある時は考えにふけり、ある時は泣き悲しみ、学者が着物を持って戻ってくれるだろうと望みをかけたり、そんなことはないだろうと絶望したりしながら、あれを考え、これを思っているうちに、悲しみに打ち負けて、それに昨夜はちっとも眠っておりませんでしたので、ぐっすり寝込んでしまいました。
凄い熱をだしていた太陽は、すでに中天にかかって、彼女の柔らかい、きめのこまかな肉体の上や、なにも被っていない頭に非常に強く、じかに、真上から照りつけましたので、外に見えている肌を灼きつけたばかりでなく、その一面にわたってごくこまかなひびをつくりあげました。それはひどい灼け方でしたので、ぐっすりと寝込んでいた彼女も目を覚まさないではいられませんでした。彼女はからだが灼けるような感じがいたしましたので、少しばかりからだを動かしてみますと、動いているうちに、ちょうど焦げた羊皮紙を人が引っぱるときにそんなことが起こるのを目にしますが、それと同じように、灼けた皮膚が全部口を開いて、ちりぢりにちぎれたような気がいたしました。そのうえ、頭がとても痛んで、割れそうな気がいたしました。それは、少しも不思議ではございませんでした。塔の屋上は焦げるように灼けておりましたので、彼女は、いても立ってもいられませんでした。ですから、じっとしていないで、あっちへ行ったり、こっちへ来たり、泣きながら場所を変えておりました。そればかりではなく、ちっとも風が吹きませんでしたので、おびただしい数の蠅《はえ》や虻《あぶ》が飛んできて、それがどんどんふえていきました。それは口を開いている肌にとまって、ぎゅっと刺したので、そのたびに短槍で突き刺されるような思いがいたしました。ですから彼女は、自分のことや、自分の命のことや、自分の恋人のことや、学者のことを始終ぶつぶつ呪いながら、身のまわりに両手を動かすのを一時もやめませんでした。こうして、なんともいえない熱さや、日光や、蠅と虻や、さては飢《ひも》じさや、とくに一段と強い喉の渇きや、さらには千もの悲しい思いに悩まされ、痛めつけられ、突き刺されて、彼女は立ったまま、自分の近所にだれかの声が聞こえはしないだろうかと、見まわしはじめました。どんなことが起ころうとかまわない、その人に呼びかけて、救いを求めようと、すっかり覚悟をきめておりました。けれども彼女の敵側にまわった運命は、このことすらも彼女から奪い去ってしまいました。お百姓たちはみんな、暑いので、田畑から引き揚げてしまっておりました。もっとも、みんなは、自分たちの家のそばで麦打ちをしていましたので、その日はだれも、その近所には仕事に行っておりませんでした。ですから、蝉《せみ》の鳴き声のほかはなにも聞こえませんでした。そして向こうにはアルノ河が見えました。それは彼女の水を飲みたい欲望をかき立てながら、その渇をやわらげないで、一段と激しくしておりました。なお方々に、森や木蔭や家々が見えましたが、それらはすべて同様に、これを望む者にとっては、悲しいものでございました。これ以上なにをわたくしたちは、この不幸な婦人について話したらよろしいのでございましょうか。上の太陽、足もとの屋上の熱気、わきからの蠅や虻の攻撃、そうしたものが彼女をすっかり痛めつけましたので、昨夜はその雪のような白い肌で暗闇まで圧倒していた彼女も、そのときは茜《あかね》のように真赤になって、全身血のあざだらけで、それを見た者には、この世で一番の醜女のように思われたことでございましょう。彼女は、どうという考えも浮かばずに、希望もなくこうしていて、ただ死を待つばかりでございましたが、すでに午後の一時半も過ぎた頃、学者は眠りからさめると、婦人のことを思いだして、どうなっているか見てみようと塔に戻ってまいりました。そして、まだなにも食べていなかった召使を食事にやりました。婦人は学者がきたのを耳にして、よろよろと、ひどい苦痛に悲しそうにして、屋上に開いている口のところに近よると、そこに坐って、泣きながら、話しだしました。
「リニエーリ、あなたは、十二分に、並外れた復讐をなさいました。なぜなら、わたくしが、夜、自分の中庭であなたを凍えさせたとしましたら、あなたはわたくしを、日中に、この塔の上で、焼かせた、いいえ、燃えあがらせましたし、そのうえに飢えと渇きで死ぬ思いを味わわせましたもの。ですから、わたくしは、ただ神さまだけの御名によって、あなたにお願いいたしますが、この上までのぼっていらしって下さい。自殺のできるほどわたくしの心は強くございませんから、いっそあなたに殺してもらいたいのです。なによりもわたくしは、死にたいのです。わたくしが感じている苦しみは、それほどひどいものでございます。もしこの慈悲をわたくしにおあたえになるのがおいやでしたら、せめて一杯の水なりと持ってこさせて下さい。わたくしは、体の中が乾燥し、涸渇してしまっておりますので、自分の涙ではとうてい手に負えないこの口を、それでうるおすことができたらと思っております」
学者は、その声を聞いて、彼女の弱っているのを知ったうえに、さらにその肉体がすっかり太陽に灼かれているのが、一部ではありますが目にはいりましたので、そんなこともあり、また彼女の卑屈な嘆願もございましたので、彼女にたいしていささか同情の念が湧いてまいりました。でも、それにもかかわらず、答えました。
「悪い女め、あなたは、むろんわたしの手にかかって死ねはしませんよ。あなたに、もしそういう望みがおきたら、ご自分の手だけでお死になさい。あなたは、わたしが寒さをやわらげるためにあなたからもらった火の分だけ、あなたの暑さをしのがせる水をわたしからもらえるでしょう。でも、わたしが残念に思うのは、あなたの暑さからの病気は、香りのいいばら水の冷たさで治療するのでしょうが、わたしの、寒さから起こった病気は、とても臭い糞尿の熱で治療をしなければならなかったことですよ。また、わたしは神経や、この体《いのち》を失うところでしたが、あなたは、その暑さで皮がむければ、蛇が古い皮をぬいでそうするように、やっぱりもとのとおりに美しくしていられることですよ」
「ああ! かわいそうなわたくし!」と婦人が申しました。「そんなふうにして獲られるそうした美貌は、神さま、わたくしを憎んでいる人たちにおあたえ下さいませ。でも、どんな猛獣よりも残忍なお方よ、あなたはどうしてこんなふうにわたくしを苦しめさいなんで、平気でいらっしゃれるのでしょうか。わたくしがあなたの親戚の人々を全部、ごく残忍な拷問にかけて殺したとしても、これ以上の、どんな責苦《こと》をわたくしは、あなたから、あるいはほかの人から受けなければならないでしょうか。全市をみな殺しにした裏切者にたいしてすら、あなたがわたくしを日光で焼けただらせ、蠅にかませるように罰したこの残忍な仕打ちよりも、もっとひどいどんな残忍な仕打ちを用いることができたでしょうか、てんでわたくしには見当もつきません。そればかりではなく、あなたはわたくしに一杯の水もあたえようとはなさいませんが、法律によって死刑の宣告をうけた殺人犯だって、刑場に向かうときには、求めさえしましたら、たいていの場合、ぶどう酒を飲ませてもらうことができます。今は、なるほど、あなたがそのきびしい残忍な態度を固持していらっしゃることや、わたくしの苦しみがちっともあなたの心を動かすことができないことがわかりましたので、ただ神さまがわたくしの魂をお憐れみ下さいますようにと願って、わたくしはじっと辛抱して死を迎える覚悟でおります。わたくしは、神さまに、正しいお目をもって、このあなたの所業をごらん下さいますようにと、祈っております」
こんなことばを言ってから、婦人は、そうした燃えあがるような暑さからのがれることはできないと観念して、泣く泣く苦しそうにしながら、屋上の中央にひきさがりました。そうしてたえず激しく泣き叫んで、身の不幸を嘆きながら、他のいろいろの責苦のほかに、渇きのために一度ならず千度も気が遠くなるかと思いました。けれども、もう薄暮もせまり、学者は十分に復讐をしたような気がしましたので、彼女の着物を持ってこさせて、それを召使のマントに包ませて、その哀れな婦人の家に行ってみますと、そこでは彼女の女中が、戸口のところに腰をおろして、がっかりして悲しそうに、途方にくれておりました。学者はその女中に向かって言いました。
「女中さん、お前さんの御主人はどうしました?」
女中が、彼に答えました。
「旦那さま、わからないのでございます。わたくしは、昨夜お寝《やす》みになったと思いましたので、今朝は寝台におよっていらっしゃるかと思っておりました。ところが、ここにもあっちにも、どこにも見つかりません。どうなさったのかもわかりません。それでわたくしは心配でたまらないのでございます。でも旦那さま、あなたは何かご存じでございましょうか」
学者が女中に向かって答えました。
「わたしが御主人の罪を罰したように、お前の罪も罰してやるために、御主人をつれて行ったところへお前も一緒につれて行ったらよかったんだ! だが、お前がわたしのことを思いださないでは、ほかの男を決して騙せないように、お前の仕業について復讐をしないうちは、お前を、どんなことがあっても、わたしのこの手からはのがさないよ」
で、こう言うと、学者は自分の召使に言いました。
「この着物をその女に渡して、もしよかったら、御主人のところに行くようにいっておくれ」
召使は命令どおりにしました。そこで女中は、着物をとりあげて、それが主人のものだとわかり、相手の言っていることを聞いているうちに、女主人が殺されたのではないかとたまらなく気になって、もうすこしで叫び声をたてるところでございました。で、すぐに泣きだすと、もう学者は立ち去っておりましたので、その着物を持って塔のほうに駆けつけました。運悪くその日は、この婦人のところの作男が二頭の豚を見失って、それを探しておりました。そして学者が出かけてまもなく、その塔にやってまいりまして、豚がいるかどうかそこいらじゅうを見まわしておりました。不幸な婦人の泣いている悲しそうな泣き声を聞きつけました。そこで、できるだけ上にのぼって行って、どなってみました。
「その上でだれか泣いているんだね?」
婦人は自分の作男の声だとわかりましたので、その名前を呼んで、言いました。
「ああ! 女中のところへ行っておくれ、そうして、あれにこのわたくしのところまで、のぼってこさせてちょうだい」
作男は主人だとわかると、申しました。
「ああ奥さま、だれにそんなところへつれてこられたんでございます? 奥さまのところの女中は、今日一日じゅうあなたさまを探しておりましたよ。でも、あなたさまがここにいらっしゃるなんて、だれが考えつきましょう?」
そして、梯子の柱の木を持ってきて、しかるべくそれを立てかけて、横木を紐で結びはじめました。ちょうどその時に、女主人のところの女中がまいりました。女中は塔の中にはいると、もう声もたてられなくなって、両手で自分の顔や、胸を叩きながら、どなりました。
「ああ! やさしい奥さま! どこにいらっしゃるんですか」
婦人は女中の声を聞いて、ありったけの声をふりしぼって言いました。
「ああ、お前、わたくしはここにいます。泣かないでおくれ。わたくしの着物をすぐにこっちへ持っておいで」
女中は女主人の声を聞きつけると、ほとんど元気を取り戻して、作男がもうだいたい作りあげておいた梯子を伝って、作男に助けられながらのぼって行って屋上に着きました。見ると女主人は、人間のからだには見えないで、むしろ焦げた丸太のようになって、がっくりと力なく、色青ざめて、裸のままで床《ゆか》に横たわっておりましたので、女中は爪を自分の顔につきたてて、まるで女主人が死んでしまったかのように、その上に泣きくずれました。けれども婦人は女中に向かって、どうか黙って着物を着るのを手伝うようにと頼みました。着物を持ってきた者と、現にここにいる作男のほかには、自分がどこにいるのかだれにも知られていないということを、女中から聞きますと、いくぶん安堵して、どうか、だれにもこのことは言わないでおくれと二人に哀願しました。作男はいろいろとおしゃべりをしてから、歩けなくなっていた婦人を抱きあげて、無事に塔の外まで運びだしました。あとに残った女中はかわいそうに、よく注意しないで梯子をおりてきて片足をふみはずし、梯子から地べたにころげ落ちて、腰の骨を折って、痛いものですから、ライオンのようにわめき立てました。作男は婦人を芝生の上におろすと、女中がどうしたのか見に行きました。行ってみると腰の骨を折っておりましたので、これも同じように芝生に運んで、婦人の隣りにおきました。婦人は自分のいろいろの不幸にくわえて、またこんなことが起こり、自分がだれよりも頼みにして、これに助けてもらおうと思っていた女中が腰の骨を折ってしまったのを見て、ひとしお悲しくなって、ふたたびわっと泣きだしましたが、その痛ましさに、作男は慰めることができなかったばかりでなく、自分も同じように泣きだしました。しかし、すでに太陽も傾きましたので、そこで夜にならないようにと、嘆きにくれていた婦人のいうがままに、自分の家に行って、そこで二人の兄弟と女房を呼びだしました。みんなは一枚の板を持って、もとの場所に帰ってきて、その上に女中をのせると、家に運んで行きました。それから作男は、婦人に冷たい水を少し飲ませて、やさしいことばをかけてから、抱きあげて、彼女を寝室に運び入れました。作男の女房は、彼女にパンをぶどう酒にひたしたのを食べさせてから、着物をぬがせると、寝台にねかせました。みんなは、婦人と女中をその夜のうちに、フィレンツェに連れて行くように手はずいたしました。そのとおりに行なわれました。
そこで非常に奸智にたけていた婦人は、実際に起こったこととはまるっきり違っている作り話をこしらえあげて、自分や自分の女中のことについて、自分たちにこんなことが起こったのは悪魔《おに》の仕業であると、自分の兄弟たちや、姉妹たちや、その他すべての人々に思いこませました。医者たちがすぐに呼ばれまして、婦人はたいへんに悲しみ苦しんで、全身のはがれた皮膚をなんども敷布にくっつけて残しておりましたが、とうとう医者たちは、そのはげしい熱や、その他の余病を癒してしまいました。同様に女中の腰も癒しました。そんなわけで婦人は、自分の恋人のことを忘れて、その後はよくわきまえて、瞞着したり、恋をしたりしないように用心をいたしました。学者は、女中が腰の骨を折ったと聞いて、十分に復讐をしたような気がいたしましたので、よろこんで、もうなにも口外しないで、そのままにしておきました。さて愚かな若い婦人は、学者も、普通の人を相手にするときと同じように騙せると思いこんで、学者というものは、全部とは申しませんが大部分が、どこに急所があるか承知しているものであるということを知らずに、かえって、自分の瞞着で、こんな目にあってしまいました。ですから、みなさま、とくに学者を相手の場合はそうでざいますが、総じて瞞着などはなさらないようになさいませ。
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第八話
[#この行3字下げ]〈二人の男がたがいに往来《ゆきき》している。一人が別の男の細君と一緒に寝る。その別の男がこれを知って、自分の妻と謀って、もう一人のほうを箱の中に閉じこめて、そのうえで、その男が中にはいっているのをそのままにしておいて、別の男が、その男の細君と寝る〉
淑女たちにとっては、エレナの事件は聞いていてつらくて、せつないものでありました。でも、そんなことが起こったのはいくぶん当然のようにも思いましたので、学者のことは、恐ろしくきびしくて、頑固な、いやそれよりも残忍なものだとうわさをしましたものの、その事件を見る目には、かなり同情をひかえている色が見えておりました。しかし、パンピネアがお話をおえたのを見て、女王はフィアンメッタにそのあとをつづけるようにと言いました。彼女はよろこんでそれに従いながら言いました。
みめ美わしい淑女のみなさん、侮辱をうけた学者のきびしさが、あなた方の心をいくらか突き刺したように思えますので、わたくしは、なにかもっとたのしいもので、そのいらだったお気持ちをやわらかくほぐすのがよろしいかと存じます。そこでわたくしは、ある侮辱(不当な行為)をとてもおとなしい気持ちでうけて、その復讐をたいへん穏やかなやり方でしかえした、ある青年のちょっとしたお話を申しあげたいと考えております。そのお話によってみなさまは、男がそのうけた復讐をする場合には、復讐のほどよさを超えて、侮辱をあたえようと思わないで、「人を呪わば穴二つ」くらいで、十分に満足すべきであるということを、ご理解なさるでございましょう。
さてご承知おき願わなければいけないことは、わたくしがかつて耳にしたところによりますと、シエナに、かなり裕福な、庶民階級ではいい家柄の出の二人の青年がおりまして、その一人はスピネッロッチョ・ディ・タヴェーナという名前で、もう一人のほうはゼッパ・ディ・ミーノという名前であったということでございます。二人ともシエナのカモッリーア通りで家が隣り合っておりました。この二人の青年はいつもたがいに往来《ゆきき》をしておりまして、表面にあらわれたところでは、まるで兄弟ででもあるかのように、あるいはそれ以上に、愛し合っておりました。二人はそれぞれ、細君に非常な美人を持っておりました。ところがさて、スピネッロッチョがゼッパの在宅しているといないとにかかわらず、その家にしげしげと出入りしておりますうちに、ゼッパの細君ととてもねんごろになりまして、彼女と一緒に寝るようになりました。二人はだれにもそれと気づかれないで、長いあいだこうした関係をつづけておりました。けれどもそうしているうちに、ある日のこと、ゼッパが在宅しておりまして、細君がそのことを知らないでおりますと、そこへスピネッロッチョがゼッパを呼びにまいりました。細君は、主人は留守ですと申しました。そんなわけでスピネッロッチョは、すぐにあがりこむと、細君が客間にいるのが目につきましたので、だれもいないのを見すまして、彼女を抱いて、これに接吻をしはじめました。彼女も彼に接吻を返しました。これを見たゼッパはなにも言わないで身をかくし、この戯れをどんなことになるだろうかと、じっと見守っておりました。まもなく、彼が見ていると、自分の妻とスピネッロッチョはそうして抱き合ったまま、寝室に行って、中にはいると鍵をかけてしまいました。そこで彼はとてもやきもきいたしました。しかし、騒ごうとどうしようと、自分のうけた侮辱が小さくなるものではなく、かえってそのために恥辱《はじ》を大きくしてしまうことがわかっておりましたので、だれにも知られないで、自分の気持が満たされるような方法で、これについてどんな復讐をしなければならないだろうかと考えはじめました。で、長いあいだ考えたすえに、その方法が見つかったような気がいたしましたので、スピネッロッチョが妻と一緒にいるあいだじゅう、そっとかくれておりました。
スピネッロッチョが立ち去りましたので、彼は寝室にはいって行きました。見ると、妻は、スピネッロッチョがふざけながら落としてしまった薄布をまだ頭にちゃんとつけ終わっておりませんでしたので、彼が言いました。
「おい、何をしているんだね?」
細君は彼に答えました。
「お見えにならないんですか」
ゼッパが言いました。
「ああ、よく見えるよ。ああ、見たくなかったほかのことも見ちゃったよ!」
そうして彼は、実際あったことについて彼女に談じはじめました。彼女はすっかりおどおどして、いろいろとよけいなことをしゃべったあげくに、自分がうまい具合にスピネッロッチョにそうした交わりを拒むことができなかった次第を白状したあとで、泣きながら赦しを請いはじめました。細君に向かってゼッパが言いました。
「そら、ねえ、お前はとんだことをしたね。もし、わたしに勘弁してもらいたいと思ったら、わたしがお前に言いつけることを、そっくりそのままやるようにしておくれ。それはこういうことなんだ。わたしは、お前からスピネッロッチョに、明日の朝九時頃に、スピネッロッチョが何か口実を見つけてわたしのところから出て行ってここのお前のところに来るようにと、いってもらいたいんだよ。で、あれがやってきた頃にわたしは戻ってこよう。わたしの帰ってくるのが聞こえたら、お前はあれをこの箱の中に入れて、中に閉じこめて鍵をかけておくれ。あとは、お前がそれをすっかりしおえた時に、それからする先のことを言うよ。で、それをするのに、ちっともこわがることはないよ。あれになんの危害もくわえないことは、約束しておくからね」
細君は夫を満足させるために、そうすると言い、そのとおりにいたしました。
翌日になりまして、ゼッパとスピネッロッチョが一緒におりますと、午前九時頃になって、その時刻にゼッパの細君のところに行くと彼女に約束をしてあったスピネッロッチョがゼッパに言いました。
「わたしは今朝、ある友人と食事をしなければならないんだ。その友人を待たせたくない。だから失礼するよ」
ゼッパが言いました。
「まだまだ食事の時間じゃないよ、間があるよ」
スピネッロッチョが言いました。
「かまやあしないよ。それにわたしは、わたしの用件でその人と話があるんだよ。だから、やっぱり早めに行ってなくちゃならないんだ」
そこでスピネッロッチョは、ゼッパのところから出て行くと、わざと廻り道をしてゼッパの家に行って、その細君と一緒になりました。二人が寝室にはいると、まもなくゼッパが戻ってまいりました。細君は夫が帰ってきたことを知ると、非常におどおどしたような様子をして、スピネッロッチョを、夫が言っていたその箱の中にかくれさせて、中に閉じこめて鍵をかけてから、寝室の外にでました。ゼッパはあがってきて、言いました。
「おい、食事の時間だろう?」
細君が答えました。
「ええ、すぐです」
そこでゼッパが言いました。
「スピネッロッチョは今朝は友人のところへ食事に行って細君は一人おいてけぼりだよ。窓のところへ行って呼んでごらん、わたしたちと一緒に食事をしにいらっしゃいといっておあげ」
細君は自分のことでびくびくしておりまして、そんなわけですからたいへんすなおになっていて夫の言いつけどおりにいたしました。スピネッロッチョの細君は、ゼッパの細君がなんども頼むし、自分の夫が食事に戻らないはずだと聞いて、そこへやってまいりました。彼女が来ますと、ゼッパは、彼女をなめるようにして撫でると、親しげにその手をとってから、自分の細君に向かって小声で、台所へ行っているようにと命じ、それからスピネッロッチョの細君を寝室につれて行きました。寝室にはいると、うしろを振り返って、中から鍵をかけてしまいました。スピネッロッチョの細君は、中から寝室の鍵をかけるのを見て、申しました。
「まあ! ゼッパ、これはどうしたことなんです? じゃあ、あなた方は、このために、わたしをこちらにこさせたのですか。では、これが、あなた方のスピネッロッチョにたいする愛なのですか。あなた方があの人にする正しい友達づきあいなのですか」
ゼッパは、彼女の夫が閉じこめられている箱に近づいて、彼女をしっかりとはなさずに、言いました。
「奥さん、そんな泣き事をおっしゃる前に、わたしが話したいことをお聞きになって下さい。わたしはスピネッロッチョを兄弟のように愛してきたし今も愛しているんです。ところが昨日彼は気がついていないでしょうが、わたしは、自分が彼をあまり信頼してきたので、こんなことまで、つまり、彼があなたと寝るのと同じように、わたしの家内とも一緒に寝るようなことまでさせてしまったことを発見したのです。で今、わたしは彼を愛しているので、自分がうけた侮辱とそっくり同じ侮辱を返すほかには、彼にそれ以上の復讐をしようとは考えておりません。彼はわたしの家内を手に入れました。それでわたしはあなたを手に入れようと考えているのです。あなたがおいやなら、わたしは彼に復讐をしなくてはなりません。わたしはこの侮辱をそのまま赦すつもりはありませんから、あなたも彼も、もう決して仕合わせにはなれないような細工を彼にしてやりましょう」
細君はこの話を聞いて、ゼッパからなんどもくどいほど、確かな証拠をあげられたので、ほんとうだろうと思って言いました。
「ゼッパさん、この復讐がわたくしの上に降りかかってくる以上、わたくしは、二人でしなければならないことについて文句は申しません。でも、わたくしは、あなたの奥さんがどんなことをなさったといたしましても、あの方とは仲良くしていたいと思いますから、そうしていられるようにお計らい下さるという約束のうえでございますよ」
ゼッパが彼女に答えました。
「きっとそうしましょう。そればかりでなく、わたしは、あなたのほかにはだれも持っていないような貴重で、見事な宝石を、あなたに贈りましょう」
そういうと、ゼッパは彼女を抱いて接吻をしはじめ、彼女の夫が閉じこめられている箱の上に横にして、その上にのって、心ゆくまで彼女とたのしみました。箱の中にいて、ゼッパが言った全部のことばや、自分の妻の返事を聞いたうえ、そのあとで、自分の頭の上で行なわれたトレヴィゾ踊りを堪能したスピネッロッチョは、長いあいだ、死んでしまうかと思うような悲しい思いをいたしました。もしゼッパがこわくなかったら、そうやって閉じこめられたまま、細君に向かってひどい罵詈雑言をくわえたことでございましょう。やがてそれでも、その罵詈すべき侮辱行為は自分がはじめたことであり、ゼッパがそんなことをしたのは当然そうする理由があったのでありますし、ゼッパは自分にたいして人情味をもって、友人の仲間として行動をしたのであると考えなおしまして、もしゼッパさえよかったら、今まで以上の親友になっていたいと、心の中で言いました。ゼッパは、好きなだけ女と一緒におりましてから、箱をおりて、その細君が約束の宝石をねだりますと、寝室の戸口を開いて、妻にきてもらいました。彼女《さいくん》は、ただこう言っただけで、あとは黙っておりました。
「奥さま、あなたは五分五分のお返しをなさいました」
笑いながら、そう言いました。彼女に向かってゼッパが言いました。
「この箱をおあけ」
細君はそのとおりにいたしました。ゼッパは中にいるスピネッロッチョを、彼の細君に見せました。自分がしていたことをゼッパが知っていたことがわかっているスピネッロッチョと、自分が夫の頭の上でしたことを夫が耳にしたり感じたりしていたことを知っている細君と、この二人のうちどちらがよけい恥ずかしい思いをしたか、それは簡単にすむ話ではございませんでしょう。ゼッパはスピネッロッチョの細君に言いました。
「さあ、これがあなたにお贈りする宝石ですよ」
スピネッロッチョは箱から出ると、あまりくどくどいわずに、申しました。
「ゼッパ、わたしたちは五分五分だよ。だから、君がさっき、わたしの家内にいっていたように、わたしたちは前々どおり友人でいるのがいいんだ。わたしたちの間にはおたがいの妻のほかには何一つ別々のものはなかったんだが、その妻も共通にしようじゃないか」
ゼッパはよろこびました。で、このうえもなくなごやかに四人は打ち揃って、食事をいたしました。その後は、その細君たちのおのおのには二人の夫があり、彼らもまためいめい二人の妻を持つことになりましたが、そのことについては、おたがいのあいだになんの問題も喧嘩もちっとも起こりませんでした。
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第九話
[#この行3字下げ]〈医者のシモーネ先生は、ブルーノとブッファルマッコから、「掠奪に行く」団体に加わらせてもらうことになって、夜ある場所に行かせられるが、ブッファルマッコに、汚物の溝に投げ落とされて、そこにおいていかれる〉
淑女たちが、二人のシエナ人が行なった細君を共有することについて、いくらかおしゃべりをしたあとで、ディオネーオの特権を不当に扱いたくありませんでしたので、ただ一人の話し手として残った女王が、話しはじめました。
愛する淑女の方々、スピネッロッチョはゼッパによってなされた瞞着を、文字どおり十分にうける資格がございました。ですから、パンピネアがすこし前にお示しになりましたように瞞着を探し求めたり、あるいはそれをうける種を播《ま》いたりする者に、なにか瞞着をしかける者は、そうきつく非難すべきではないと思われます。スピネッロッチョはそれをうける種を播いたのでございます。で、わたくしは、瞞着を探し求めていたある男のことをお話ししようと考えております。もっともその瞞着した人々は非難すべきではなくて、ほめ讃えなければならないと思っております。瞞着をうけた人は馬鹿者《ひつじ》なのに、ボローニャからフィレンツェへ、栗鼠《りす》の毛皮にすっかり包まれて帰ってきた医者でございました。
つねづねわたくしたちが見ておりますように、わがフィレンツェ市民たちは、判事になったり、医者になったり、公証人になったりして、長い、幅広の着物や、緋色の衣裳や、栗鼠の毛皮や、そのほかとてもご大層なみなりをして、ボローニャからわたくしたちのところに帰ってまいります。そんなおめかしの結果がどうなるかは、これもまた、つね日頃目にしているところでございます。そうした人々の中にまじって、学問よりも父親ゆずりの財産にとんでいて、近頃、緋の衣裳を着て、頭巾《ずきん》から垂れている大きな肩衣をつけて、彼自身の言うところによると、医学博士になったシモーネ・ダ・ヴィッラ先生が帰ってまいりまして、わたくしたちが今日ココメロ(西瓜)通りと呼んでいる通りに家を構えました。今申しあげましたように、新帰郷のこのシモーネ先生には、いろいろの目につく癖がございましたが、とくに道をとおって行く人を見ると、どんな人であろうとかまわずに、あれはだれかと、自分と一緒にいる者に聞く癖がございました。まるでその人々の行動によって、自分の患者たちにあたえなければならない薬を調合しなくてはならないとでもいったように、全部の人々を観察して、それを記憶しておりました。とくに彼の目をひいた人々の中に、今日は二度も話にのぼったブルーノとブッファルマッコという二人の絵描きがおりました。二人はいつも一緒にいて、医者の隣人たちでございました。この二人は、実際にそうではございましたが、この世のだれよりも無頓着で、一番愉快な生活をしているように思われましたので、彼は、何人《なんにん》もの人に、二人の様子をたずねてみました。そうして、二人が貧乏人で、絵描きだということを、みなの口から聞いて、彼らが貧乏ではこんなに愉快に暮らせるようなことがありえようはずはないと思いこんだのでございます。しかし、二人が奸智にたけた人たちだと聞いておりましたので、どこかほかの、人に知られないところから莫大な儲けを引き出しているにちがいないと考えました。そこで、できたら二人と、でなければ、せめてその一方と親しくなりたいという欲望を起こしました。そうしてブルーノと親交を結ぶことになりました。で、ブルーノは、この医者と数回会っているうちに、相手が動物《ばかもの》であることがわかりましたので、珍しい話をしては医者とこのうえもなくたのしい時を過ごしておりました。医者も同様に、ブルーノを相手に、愉快でたまらない気持ちを感じはじめました。で、ときどきブルーノを食事に招いておりましたが、そうしておけば、ブルーノとは親しく話ができると思ったからでした。そして彼は、ブルーノとブッファルマッコが貧乏人なのに、そうやって愉快に暮らしているので、実は二人のことを驚いているのだといって、いったいそうするには、どんな術《て》を使っているのか教えてもらいたいと頼みました。
ブルーノは医者の話を聞いて、それがいつもの一番ばからしい、くだらない質問の一つのように思われましたので、吹きだして、相手の頓馬さ加減にうってつけの返事をしてやろうと考えると、言いました。
「先生、わたしは自分たちがどうやっているか、それを多くの者にはいいたくないんですよ。でも、あなたは友達でもあり、ほかの人々にもおっしゃらないだろうとわかっておりますので、あなたには安心して申しましょう。わたしと、わたしの仲間が、あなたのお思いになるように、いやそれ以上に愉快に、しあわせに暮らしていることは事実です。わたしたちは、自分の商売とか、そのほか、わたしたちがいくらかの所有地《とち》からうる収入などでは、現に飲んでいる水の代金を払う足《た》しにもならないでしょう。だからと申して、わたしたちが盗みを働きに行くなどとお考えにならないで下さい。わたしたちは掠奪《りやくだつ》に行くんです。これによって、わたしたちの好きなものやあるいは必要なものはなんでも、他人にはちっとも迷惑《そん》をかけないで、全部手に入れます。そのために、ごらんのようなわたしたちのたのしい生活が生まれてくるんです」
医者はこの話を聞くと、それがどんなものか知らないのに、それを真《ま》にうけて、たいへん驚きましてから、すぐに、掠奪に行くとはどんなことか知りたいと思って、いても立ってもいられなくなりました。で、きっとどんなことがあっても、だれにもしゃべらないからと断言いたしまして、どうかそれを教えてくれとブルーノに三拝九拝して頼みました。
「ああ!」と、ブルーノが言いました。「先生、なにをわたしにお聞きになるんですか。あなたがお知りになりたがっていらっしゃることは、あまりにも大きな秘密でして、もしそれを他の者に知られたら、わたしの身の破滅となり、わたしがこの世から追放されてしまい、いや、わたしがサンガッロの大魔法ルチフェロの口に投げこまれてしまうようなことなのです。しかし、わたしがあなたのお人柄としてのレニャイアの西瓜頭ぶり(ばかさ加減)に捧げている愛と、あなたによせている信頼はとても大きなものですので、わたしには、あなたのお望みのことをおことわりすることはできません。ですから、次のような盟約のもとにお話しいたしましょう。つまり、お約束なさったように、決してだれにもお漏らしにならないと、モンテゾーネの十字架にかけて、わたしにお誓いをなさることなのです」
医者は、決してだれにも漏らしはしないと断言しました。
「では、蜜のようにやさしい先生」とブルーノが申しました。「あなたにぜひご承知おき願いたいのですが、そう以前のことではありませんが、この市《まち》にスコットランドの者でしたので、ミケーレ・スコットとかいう名前だった魔法の大先生がいらっしゃったのです。その方は、今日ではご存命の方もわずかになってしまいましたが、それはそれは大勢の貴族から、非常な尊敬を払われておりました。この方がここを立ち去ることになり、みんなの熱心な頼みによってわたしたちのところに、自分のしっかりした弟子を二人残して行って、自分を尊敬してくれたこうした貴族たちのよろこぶことなら、どんなことにでも、いつも役に立つようにと命じておきました。ですから二人は、前に述べた貴族たちのために、みんなのある種の色恋や、その他のこまごましたことの世話を勝手にやっておりました。その後、この市《まち》や、人々の風習が気に入りましたので、ずっといつまでもここに住んで、その何人かと、相手が貴族であるとか貴族でないとか、金持ちであるとか貧乏人であるとか、そんなことには頓着しないで、ただ自分たちの風習に合致していればいいとして深い緊密な友情を結ぶことにいたしました。で、こうした自分たちの友人をよろこばせようとして、二人は二十五人ばかりの団体をつくりましたが、この連中は、一月にすくなくとも二回は、二人の命令したある場所に集合しなければなりませんでした。そしてそこへまいりまして、めいめいが自分の欲望を二人に話しますと、二人はすぐにその夜のうちにその望みをかなえてくれるのです。ブッファルマッコとわたしは、この二人の者ととくに親交があり、じっこんにしていますので、二人のおかげでそうした会にくわえられて、今その会員なのです。で、こうなんですよ。わたしたちが一緒に集まることがあります場合に、食事をする部屋の周囲の壁飾りや、王者にふさわしい豪奢な食卓や、こうした集団にくわわっている各自の世話をつとめる大勢の男女の、上品で、美しい給仕たちや、わたしたちが食べたり、飲んだりするのに使う鉢や、水入れや、瓶や、盃や、その他金銀の食器類や、そればかりではなく、めいめいの好みに従って、一つ一ついい頃合いに出される多くの、いろいろの食物などを眺めるのは、すばらしいことですよ。わたしは、そこで聞かれる無数の楽器の甘い音色や、調子の豊かな歌が、どんなもので、どんなに多いか、とうていあなたに説明することはできないでしょうね。そこでとぼされる蝋燭がどんなにたくさんなものか、そこで費《つか》われる糖菓子がどんなにおびただしい量にのぼるか、そこで飲まれるぶどう酒がどんなに上等なものか、そうしたことも、お話しすることはできないでしょうね。それから塩のきいていない南瓜先生、わたしたちが、ごらんのようなこんな着物や、こんなふうな身なりでそこに行くなどとは、お思いにならないで下さい。あなたがごらんになって、皇帝に見えないような、みすぼらしいなりの者は、一人もいませんよ。それほどわたしたちは、高価な着物や、りっぱなものでめかしております。しかし、そこでの他のありとあらゆる喜びにもまして、最大のものは、美人のそれがあることです。美人たちは、男が望みさえすれば、世界じゅうからそこにやってまいります。ここでは、バルバニッキの女や、バスク人の女王や、回教君主の后や、オスベクの皇后や、ノルルエーカのチャンチャンフェーラや、ベルリンツォーネのセミスタンテや、ナルシアのスカルペドラなどが、あなたのお目にとまるはずです。なんでわたしはいちいち名前などあげているんでしょう? そこには、世界じゅうの女王たちが全部おります。尻の穴の真ん中に角が生えているプレスト・ジョヴァンニ(長老ヨハネ)のスキンキムルナまでもですよ。今にじきにごらんになれますよ! そこでは、ぶどう酒を飲んで、糖菓子を食べたあとで、踊りを一つ二つしてから、その美人たちは、熱心に口説いてくる相手の男をつれて、自分の寝室に行きます。それらの寝室は、見たところ天国のようだということをご承知下さい。それほど、美しいんですよ! またそこは、あなたが蒔蘿《クミニウム》を摺らせるときの、あなたの調剤室の薬の鉢と同じようにいいにおいがしています。そこにはヴィネージャの総督の寝台よりもりっぱに見える寝台がありまして、そこへみんなは寝に行くのです。さて、布をかたく緊《し》めて織るために、それらの織女たちが、どんなに踏み子をふみ、筬《おさ》を自分のほうに引っ張るかは、ただあなたのご想像におまかせしましょう! けれども、わたしが思いますのに、一番うまくやっている連中の中に、ブッファルマッコとわたしがはいっているのです。というのは、ブッファルマッコはたいていの場合フランスの女王を自分《かれ》のために呼ばせて、わたしは自分のためにイギリスの女王を呼ばせているんですからね。二人はまた世界一の美人なんですよ。で、わたしたちは、二人がわたしたちのほかは、だれにも目をくれなかったほど、うまいやり方を知っていました。ですから、わたしたちが、その方々から千フィオリーノか、二千フィオリーノをもらいたいときには、もらえるのだということはさておいても、二人のこうした女王の愛をえているということを考えれば、わたしたちが他のだれよりも愉快に暮らして、やっていくことができるかどうか、当然そうでなければならないかどうか、それは、あなたご自身がお考えになれるはずです。で、このことをわたしたちは、俗に『掠奪に行く』と呼んでいるのです。海賊がみんなの財宝《たから》を掠奪するように、わたしたちは掠奪をするからなのです。もっとも、彼らは決して財宝《それ》を返しませんが、わたしたちはそれを使ってから返しますから、だいぶ彼らとは違っています。りっぱな先生、さあこれで、わたしたちが『掠奪に行く』といっていることがおわかりになったでしょう。でも、このことがどれほど秘密にしておいてもらいたいものか、あなたにはおわかりのはずです。ですから、もうそのことは申しもしませんし、お頼みもいたしません」
たぶんその学問も、こどもたちの白癬《しらくも》を癒す以上のことにはおよんでいなかった先生は、真理ならどんなものでもいい、それにあたえるだけの信用ぶりを、ブルーノのことばに対して示しました。そして、なんでも自分の一番望んでいるものに熱中してしまう、そうした熱の入れ方で、この団体にくわえてもらいたいものだと思いました。そんな次第で、彼はブルーノに、二人が愉快にしていられるのは、確かにふしぎなことではないと答えると、じっと心を抑えて、これからさらにブルーノを大事にして、もっと心安く自分の頼みを申し出ることができるようになるまで、それに自分を加入させてほしいと頼むのを思いとどまりました。さて、そうした依頼は別の機会にゆずりまして、彼はあいかわらず彼との交際をつづけて、朝も晩も一緒に食事するようにと招んで、並外れた愛情を示すことをやめませんでした。で、この二人の交際は、たいへん親密で、途切れることがございませんでしたので、ために、先生はブルーノがいなくては生きていけない、生きる方法を知らないといったふうに思われました。
ブルーノは、なかなか具合がいいように思いましたが、医者からうけているこの鄭重な取り扱いに恩義を感じないように思われたくはございませんでしたので、医者の客間に四旬斎の絵を、寝室の入り口に神の子羊を描いて、通りに面した戸口の上には一つの小便壺を描きました。それは彼の診察を請う必要のあるような連中が、彼をほかの医者たちから見分けることができるようにというわけでございました。またその小外廊には鼠と猫の戦闘の絵を描きましたが、医者にはそれがりっぱすぎるように思われました。そのほかに、彼はときどき一緒に食事をしなかったときに、先生に言いました。
「昨夜は、団体《あつまり》に行ってまいりました。わたしは、英国の女王が少しいやになったので、アルタリージの(またタリジの)大王のグメドラを呼ばせました」
先生が言いました。
「『グメドラ』ってなんですか。そんな名前はわかりません」
「ああ先生」とブルーノが申しました。「それはそうでしょう。だって、ポルコグラッソやヴァンナッチェーナは、それについてはなにもいっておりませんからね」
先生が言いました。
「あなたは、イポクラッソやアヴィチェンナというつもりなんですね」
ブルーノが言いました。
「ええ、わかりませんよ。あなたがわたしのいう名前をおわかりにならないように、わたしにはあなたのおっしゃる名前はよくわかりませんよ。でも、大王の国のあの言語《ことば》の『グメドラ』は、わたしたちの言語の『皇后』の意味なんです。ああ、すばらしい美人に思えるでしょうね! あの女《ひと》なら、あなたに薬も、灌腸も、膏薬も忘れさせてしまうでしょうと、わたしは太鼓判を押していえますよ」
で、彼の欲望をどんどん燃え立たせようと、こんなことをなんどか言っておりますうちに、ちょうどある晩のこと、猫と鼠の戦闘の絵を描いていたブルーノのために、寝にも行かないで、明かりを持っていた先生は、今までいろいろともてなして十分にその歓心をえたと思いましたので、ブルーノに心のうちを打ち明けようと決心しました。たった二人だけでしたので、彼に言いました。
「ブルーノ、神さまもご承知のとおり、今日、わたしがあなたにしているように、なんでもしてあげたいと思う相手は、ただの一人だっておりません。もしあなたがわたしにペレトラみたいな遠いところまで、ここから行けとおっしゃったら、自分では行きかねまいと思っております。だから、わたしがあなたに心安だてに、心を打ち明けて頼んだところで、驚いては困りますよ。あなたもご存じのとおり、ついこのあいだ、あなたはあなた方の愉快な団体のやり方のことをお話しになりましたが、今までにはどんなことでも決してこんなことはなかったくらい、その仲間になりたいと夢中になって考えるようになりました。で、これには理由がないわけではありません。そのことはひょっとして、わたしがその団体にくわえられるようなことにでもなれば、あなたにもおわかりになるでしょう。あなたが今まで長いあいだにごらんになったことがないような、一番美しい女を、わたしがそこへつれて行かなかったら、わたしはあなたに嘲笑《あざわら》っていただきたいと、今から思っているのですからね。わたしは去年初めてカカヴィンチリで、その女《ひと》に会いましたが、心の底から好きなんです。ほんとうに、キリストの御体にかけて申しますが、わたしは、もしあれがわたしの願いを聞きとどけてくれたら、ボローニャのお金の十グロッシをあげようとしたのですが、あれはいやだといいました。しかし、両手を合わせてお願いしますから、その団体にぜひはいるのに、どうしたらいいのか、わたしがしなければならないことを教えて下さい。それから、あなたもわたしがそれにはいれるようになさって下さい。お骨折り下さい。実際、あなた方のためにわたしは、よい、忠実な、りっぱな仲間になりましょう。わたしがどんなに美男であるか、しっかり[#「しっかり」に傍点]ものであるかは、何よりもまずごらんのとおりです。わたしはばら[#「ばら」に傍点]の花のような顔色をしています。そのうえ、医学博士です。わたしは、そんな人はあなた方の仲間に一人もいないと思いますね。それからわたしは、たくさんのいいことや、美しい歌を知っております。あなたにその一つを歌ってお聞かせしましょう」
で、すぐに歌いだしました。ブルーノはおかしくて、おかしくて、吹きだしそうでしたが、それでも我慢しました。歌が終わると、先生が言いました。
「どうですな?」
ブルーノが申しました。
「確かに、とうきびの六絃琴はあなたには負けますな。それほど見事にお張りあげになりますよ」
先生が言いました。
「わたしにいわせれば、もしこれをお聞きにならなかったら、あなたは、決してそうはお思いにならなかったでしょうな」
「まったくおっしゃるとおりです」とブルーノが申しました。
先生が言いました。
「わたしはほかの歌もよく知っているんですよ。でも今はこのことはよしておきましょう。わたしの父は、あなたがごらんになっていらっしゃるわたしとそっくりで、田舎におりましたけれども貴族でしたし、わたしも同様に、ヴァッレッキオ家の出《で》の母から生まれたのです。あなたもごらんになることができましたように、わたしはまたフィレンツェのどの医者よりも、りっぱな本や、美しい着物《もの》を持っております。ほんとうに、全部勘定すると、百バガッティーノ近くの金額になる着物を持っていますよ。もう十年も前からです! だから、わたしがその団体にはいれるようにして下さるよう、できるだけのお骨折りをお願いします。神さまに誓って申しますが、もしあなたがそうして下さったら、もし病気にでもなるようなことがありましても、わたしは自分の商売では決してあなたから一デナイオの金もいただきませんよ」
ブルーノは彼の言うことを聞いて、前にもなんどかひどくそんな気がしておりましたが、やはり思ったとおりの大馬鹿だと思いましたので、申しました。
「先生、もうちょっと明かりをこっちのほうへ寄せて下さい。わたしがこの鼠どもの尻尾を描きあげるまで、よろしくお願いしますよ。そのあとでお答えをします」
尻尾をつけると、ブルーノはその頼みをもてあましたような様子をして、言いました。
「先生、あなたがわたしのためになさっていらっしゃることは、たいへんなことですよ。それはわかっております。だがそれでも、あなたがわたしに要求なさっていることは、あなたの頭脳の偉さにとっては小さなことでしょうが、わたしには非常に大きなことなのです。先生のためにするのでなかったら、することができても、してあげようと思う相手の人はこの世にはおりませんね。先生のためにするというのは、わたしが当然しなければならない程度に、あなたを愛しているからでありまして、また、それはあなたのおことばのせいなのですよ。あなたのおことばは、非常に知恵分別の味つけがきいておりまして、そのために、わたしを自分の考えからそちらへ引きずりこむばかりでなく、長靴から信者を引きだしてしまうくらいなんですからね。で、わたしはあなたと交際していればいるほど、あなたがますます賢いお方のように見えてくるのです。またこういってもよろしいのです。たとえあなたを好きにさせるようなものが、ほかにないとしましても、あなたがご自分でおっしゃったように、それほど美しいものを恋していらっしゃることを知っておりますので、あなたが好きなんです、とね。しかし、ともかく申しあげておきたいのですが、わたしはこのことにつきましては、あなたがほのめかしていらっしゃることをしてあげることはできないのです。ですから、あなたのために、たってお望みなさっていらっしゃるにちがいないことをしてあげられないんですよ。けれどもあなたが、その大きな、りっぱな誠のお心にかけて、それを秘密にしておいて下さると、わたしに約束なさいましたら、わたしはあなたがおとりにならなくてはいけないやり方をお教えしましょう。あなたは、さきほどわたしにおっしゃったそんなにりっぱなご本や、そのほかにいろいろの品をお持ちなのですから、わたしには、きっとそれがうまくいくような気がしますよ」
先生がブルーノに言いました。
「安心しておっしゃって下さい。わたしの見るところでは、あなたはわたしがどんな男かおわかりになっていないし、わたしがどんなに秘密を守ることができる男か、まだご存じないようですな。グァスパルルオーロ・ダ・サリチェート氏が、フォルリムポーポリの市長の下で裁判官をしていらしったときに、あのお方はわたしをとても口のかたい男だと考えておられたので、あのお方がわたしにいっておよこしにならなかったことは、ほとんどなにもありませんでしたよ。わたしのいうことがほんとうかどうか、お知りになりたいのですか? わたしは、あのお方がベルガミーナと結婚なさろうとしていたことを、打ち明けられた最初の者だったのですよ。さあ、おわかりになったでしょう!」
「じゃあ、もう結構です」とブルーノが申しました。「あのお方が信用なさったのでしたら、わたしは安心して信用します。あなたがおとりにならなくてはいけないやり方とは、こうなのです。わたしたちは、このわたしたちの団体に、いつも一人の団長と、二人の顧問をおいておりましたが、この人々は六か月ごとに交替するのです。きっと来月の一日には、ブッファルマッコが団長になって、わたしが顧問になるでしょう。そうきまったのです。団長になったものは、自分が好きな者をそこに入れたり、はいれるようにしたりするのに、たいへんな力があります。ですから、わたしはあなたができるだけ、ブッファルマッコと親交を結んで、彼を大事になさったほうがよろしいと思います。彼は、あなたがこんなにご聡明なお方だと知ったら、すぐにあなたに惚れこんでしまうような男です。で、あなたは、その知恵分別と、お持ちになっていらっしゃるそうしたりっぱな数々の品で、彼を少し手なずけられたときに、そのことをお頼みになったらよろしいでしょう。あれはいやだとは申せないでしょう。わたしはあれに、もうあなたのことを話しておきましたので、あなたをだれよりも好いております。あなたがそういうふうになさったら、あとはわたしにあれとの交渉はおまかせになって下さい」
すると、先生が言いました。
「あなたがお話しになっていらっしゃることは、わたしには願ったり、かなったりのことであります。もしそのお方が賢い人たちをお好きな方だとすると、わたしとちょっとでいいからお話しになりさえすれば、わたしはその方に、いつもわたしを探しまわるように、きっとさせてみせましょう。わたしには知恵分別がうんとあって、市《まち》全体にくれてやっても、まだ自分ではたいへんな利口者でいられるのですからね」
こうして手はずがつくと、ブルン(ブルーノと同じ)はブッファルマッコに順序をたてて、すべてのことを話しました。それを聞くと、ブッファルマッコは、このシーパ先生(馬鹿先生)が求めていることをしてあげるようになりたいと、それを一日千秋の思いで待っておりました。掠奪に行きたいと熱心に望んでいた医者は、ブッファルマッコの友人になるまでは気を許しませんでした。彼は容易にそれに成功しまして、彼を最も豪勢な晩餐や午餐に招き、彼と一緒にブルーノをも同様に招きだしましたので、彼ら二人はすこぶる鄭重なもてなしをうけました。彼らは、極上のぶどう酒や、大きな去勢した雄鶏《おんどり》や、その他のおいしいものをたくさんいただきましたので、彼のそばにしっかりとくっついておりました。またちょっと声をかけられると、いつも、別の人にだったらそんなことはしないだろうと言いながら、彼のところに腰を落ちつけました。それで、もういい頃合いだと思われましたので、前にブルーノに聞いたように、ブッファルマッコにたずねました。すると、ブッファルマッコはたいへん困ったような顔をして、ブルーノを頭からどやしつけると、言いました。
「パッシニャーノのあらたかな神さまに誓っていうが、もう少しできさまの鼻がかかとにめりこむほどひどく頭を殴りつけてやるところだったぞ。この裏切り者め! きさまのほかには、こんなことを先生に話す人は、どこにもいないんだ」
けれども医者はひどく詫びて、それは他の方面から聞いたのだと言って、誓ってみせました。そして、利口そうなことをいろいろと言ったあとで、まあ、彼をおとなしくさせました。ブッファルマッコは、先生のほうに向いて、言いました。
「先生、あなたがボローニャに行ってこられて、この土地まで固《かた》い口をお持ち帰りになったのは、なるほど結構なことです。さらに申しますと、あなたは、多くの馬鹿者のしたがるように、林檎についていろは[#「いろは」に傍点]を学んだのではなくて、むしろ、とても長いメロンで十分に勉強なさいましたね。もしわたしの考えちがいでなければ、あなたは日曜日に洗礼をうけましたね。あなたはあちらで医学の勉強をなさったと、ブルーノがわたしにいっておりましたが、わたしの考えでは、あなたは人間の心をつかむ方法を研究なさったようです。あなたは、わたしが今までに見たどなたよりも、その知恵分別と弁舌で、そうすることをご存じですものね」
医者は相手のことばをさえぎってから、ブルンのほうに向きなおって、言いました。
「賢い人たちと話したり、交際したりすることは、なんというすばらしいことでしょう! この方のようにこんなに早く、わたしの感情のすみずみまでも理解した人がほかにあったでしょうか。あなただって、この方みたいにこんなに早くわたしの値打ちがおわかりにはならなかった。だがあなたが、ブッファルマッコは賢い人たちがお好きなんだとおっしゃったときに、わたしがあなたにいったことを、せめてお話ししてあげて下さい。どうです、うまくわたしはいいあてたでしょう?」
ブルーノが言いました。
「思ってたより以上にですね!」
すると、先生はブッファルマッコに言いました。
「わたしがボローニャにいるところをごらんになっていたら、そうはおっしゃらなかったでしょう。あそこでは大人も、こどもも、先生も生徒も、わたしを何にもまして愛さない者は一人もおりませんでした。それほどわたしは、この弁舌と知恵分別でみんなを満足させることを知っておりました。なお、お話ししますと、わたしが一言しゃべると、きっとみんなを笑わしたもんですよ。それほどわたしはみんなによろこばれておりました。で、わたしがそこを発《た》った時には、みんなはおいおい手ばなしで泣いて、わたしにずっと滞在していてくれといいました。わたしにいてもらいたいので、わたし一人にまかせるから、あそこにいる全部の学生に医学の講義をしてもらいたいといったほどでした。けれども、わたしはそれをことわりました。ずうっと、わたしの家の人々の持ち物だった莫大な遺産を(ここに)持っておりましたので、やはりここへ来るつもりだったからです。で、そうしました」
そこで、ブルーノがブッファルマッコに言いました。
「どうだね? わたしがそういったときに君はそれを信じなかったね。ほんとうだよ! この世の中に、この人と肩を並べられるくらいに、驢馬の小便のことがわかる医者は一人もいないんだ。ここからパリの城門までの間に、このような人をもう一人見つけようとしたって、断じて見つかりっこはないよ。さあ、先生のお望みになっていらっしゃることを、できるものなら、してあげるのはいやだなんていってごらん!」
医者が言いました。
「ブルンがおっしゃるとおりですよ。でも、わたしはここでは人に知られておりません。あなた方フィレンツェ人はむしろ鈍感なほうです。でも、わたしは、始終やっているように、博士連中の中にいるところを見てもらいたいと思っています」
すると、ブッファルマッコが言いました。
「まったく実際、先生、あなたはわたしが思っていたよりも、ずっと物知りでいらっしゃいます。そこで、あなたのような賢い方々に普通話すような口上を用いまして、細断的(でたらめな用語)に申しますが、あなたがわたしたちの団体に加入できますように、必ず犬馬の労をおとりいたしましょう」
この約束のあとで、医者が二人に対して行なったもてなしやご馳走などは、何倍にもふえました。そこで二人は、それを大いにたのしみながら、実にあきれるばかりの愚かしいことを彼に語って聞かせたうえ、女としては、人類の全汚物の中で見いだされる第一の美人である、チヴィッラーリの伯爵夫人を取り持とうと約束いたしました。医者は、この伯爵夫人とは何者であるのかとたずねました。その医者に向かって、ブッファルマッコが言いました。
「種《たね》きゅうり先生、その方はとても偉すぎるほどの夫人でして、この世に彼女の権勢のおよばないような家はほとんどありません。そのほかいろいろありますが、修道会修道士たちは、カスタネットを叩いて彼女に敬意を表しております。それだけでなく、彼女がそこいらに出かけると、だれよりもずっとからだをかくしておりましても、香りですぐに自分のいるところを他人に知らせてしまうということを、お教えしておきましょう。そんなわけで、このあいだもある夜のこと、彼女はアルノ河に足を洗いに、それから少しばかり空気を吸いに行くとき、あなたの家の入り口の前を通って行きましたがね。でも、彼女の一番長くつづいている住家《すまい》は、ラテリーナ(便所の意)にあります。ですから、夫人の部下たちは、よくその辺を怠りなく巡回していますが、彼女のえらさを示すために、棒や肥汲み道具を持っているのです。夫人に属する男爵たちは、たとえばタマニン・デッラ・ポルタ(門の、小さくて丸い糞の意)男爵や、ドン・メータ(牛などの糞山)男爵や、マニコ・ディ・スコーパ(箒の柄)男爵や、スクァッケラ(下痢便)男爵など、いたるところにいくらでもおります。それらはあなたの召使たちだと思うのですが、でも今はいちいち思いだしてはいられませんね。そこで、カカヴィンチリのあの美人のことはほっといて、もしわたしたちの考えがうまくいけば、こうした偉い夫人の甘美な腕に、あなたを抱かせてあげましょう」
ボローニャで生まれて育った医者には、二人の者のことばがわかりませんでした。ですから、その夫人なら満足だと言いました。こうした話のやりとりがあってからまもなく、絵描きたちは、医者が入団を許可されたとの報告をもたらしました。で、その夜にはみんなが集まることになっているという、その日がまいりまして、先生は二人を午餐に招きました。食事がすんでから、彼はその団体《あつまり》に行くのには、どんなふうにしなければならないのだろうかとたずねました。彼にブッファルマッコが言いました。
「よろしいですか、先生、あなたはほんとにしっかりしていなければいけません。なぜなら、もしあなたがほんとにしっかりしていらっしゃらないと、あなたには邪魔がはいりますし、あなたはわたしたちにたいへんな迷惑をおかけになるかもしれないんですからね。ほんとにしっかりしていていただかなくてはならないことは、これからお耳に入れましょう。あなたは今晩、人々の寝いりばなに、サンタ・マリア・ノヴェッラの外に最近建てられた、あの高くなっている墓の一つに、あなたの一番りっぱな着物をまとって、腰かけているように工夫しなければいけません。それは、あなたに初めて団体の前にりっぱな姿であらわれていただきたいのと、それからさらに、わたしたちはそこにおりませんでしたので、人づてに聞いたところによりますと、あなたは貴族でいらっしゃるので、伯爵夫人がご自分で費用をお払いになって、あなたを浴《ゆあ》みの騎士に取り立てようと考えていらっしゃるからなのであります。そこで、わたしたちが使いにだす者が、あなたのところにまいりますまでお待ちになって下さい。で、あなたに何もかも知っていただきたいので申しますが、あなたのところに、そう大きくない、黒い、角の生えた獣が行って、あなたの前の広場じゅうを、ひゅうひゅう息づかいも荒くとび廻って、あなたを驚かすでしょう。しかし、やがて、あなたが驚かないとわかると、その獣はそっとあなたのそばに近づいて行きます。それがそばに近づいて行ったら、そのときあなたは少しもこわがらないで、墓からおりて、神さまなり、聖人たちの助けを求めずに、その獣の背にお乗りなさい。うまくお乗りになったら、もう獣にはさわらないで、胸の上に腕を組んで、両手を胸におあてなさい。すると、獣は心地よく動きだして、あなたをわたしたちのところに連れてきます。でも、ただ今から申しておきますが、もしあなたが神さまなり、聖人たちに助けを求めたり、あるいはこわがったりしたら、獣はあなたを、からだが臭くなるようなところへ、投げ落としたり、たたきつけたりするかもしれません。ですから、もしほんとにしっかりしていられるという気持ちがしませんでしたら、そこへはいらっしゃらないで下さい。あなたに迷惑《そん》をおかけするうえに、わたしたちにとってもなんの得にもならないからです」
すると、医者が言いました。
「あなた方はまだわたしがどんな人間かおわかりになっておりませんね。あなた方はおそらく、わたしが手袋をはめて、長い着物をきたりしているので、用心しているんですね。わたしがかつて、ボローニャで夜やっていたことを、その頃は時おり仲間の者たちと一緒に女のところにかよったものですが、そいつをあなた方がお知りになったら、びっくりするでしょうね。ほんとうですよ。そうしたある夜のことでしたが、一人の女がわたしたちと来たがらないのです。それは、ひどいやつで、そのうえ悪いことに、ちんちくりん[#「ちんちくりん」に傍点]の一寸法師でしたよ。わたしは、まずそいつをうんと殴りつけてやって、それからひょいとぶらさげたうえ、弩《おおゆみ》でもひいたくらいの距離に遠くほうり投げたことを覚えております。こうしたので、その女はやはりわたしたちと一緒にやってこないわけにはいきませんでした。それから別の時ですが、わたしは一人の召使をつれただけで、アヴェ・マリアのお祈りのじきあとで、修道会修道士の墓地のそばをとおったことを覚えております。ちょうどその日に、一人の女が埋葬されていたのですが、わたしはちっともこわくありませんでした。ですから、このことはご心配なさらんで下さい。わたしはしっかりして、元気すぎるくらいなんですからね。それから申しあげておきますが、十分にりっぱにしてあなた方のところへまいるために、わたしは医学博士になった時の、緋色の衣裳をつけましょう。わたしを見て団員の方々がおよろこびになるかどうか、それから、わたしがだんだん位がのぼって、そのうちに団長にされるかどうか、おわかりになるでしょう。また、その伯爵夫人はまだわたしを見もしないのに、わたしに思いをよせられて、わたしを浴みの騎士になさろうとしていらっしゃるところからみても、わたしがそこにまいりましたら、団体の活動がどう変わっていくかがおわかりになりましょう。騎士の称号はわたしに似合わないでしょうか、わたしはその称号をうまく維持できないでしょうか、それともうまく維持できるでしょうか。まあ、わたしにまかせておいて下さい」
ブッファルマッコが言いました。
「ごもっともすぎるくらいです。でも、あなたは、わたしたちを騙《だま》して、そこにおいでにならないとか、あるいは、わたしたちが使いをだしたらいらっしゃらないようなことがないように、ご注意下さい。わたしがそう念をおしますのは、まったく、あなた方医者とおっしゃるものは、寒さをたいへん気になさるからですよ」
「そんなことはありません!」と医者が言いました。「わたしはそうした寒がりやの仲間じゃありません。寒さなんかなんとも思っていません。夜分に、だれでもときどきそうしますように、用便におきますが、胴衣の上に毛皮のほかにまた何かを着るなどということは、もうほとんどありません。ですから、わたしは必ずそこへまいります」
そこで二人が立ち去って、夜になりましたので、先生は家で細君にはなんとか口実をもうけて、こっそりと一番りっぱな着物を取りだして、いい頃合いだと思いましたので、それを着ると、一つの墓の上にのぼりました。寒さがきびしかったので、その大理石の上にからだをちぢめて、獣を待ちはじめました。体が大きくて頑丈だったブッファルマッコは、今日では行なわれていない、ある遊戯によく使われていた仮面の一つを無理をして手に入れますと、黒い毛皮の外套を裏返しに着まして、仮面が悪魔《おに》の顔をして、それに角《つの》が生えているのを除いたら、まるで熊かと思われるような格好をしておりました。そんないでたちで、彼はサンタ・マリア・ノヴェッラの新広場にまいりました。その首尾《しゆび》やいかにと、ブルーノが彼のあとからついてまいりました。で、ブッファルマッコは先生さまがそこにいるのに気がつくと、広場じゅうをぴょんぴょん跳ねたり、うるさく騒ぎ立てたり、まるで嵐でも巻き起こったように、ひゅうひゅううなったり、咆えたり、わめいたりしはじめました。先生はそれを耳にし、目にすると、根が女よりも臆病でしたので、体じゅうの毛が総毛だって、がたがたふるえはじめました。で、今は、こんなところに来るよりは、自分の家にいたほうがよかったと思いました。とは申しましても、そこへきてしまった以上、しっかりと勇気をだすように努力いたしましたので、二人から聞いていた不思議なことを、どうにかして見たいという欲望が強くなってまいりました。しかしブッファルマッコは、今お話しいたしましたように、いくらか暴れたあとで、おとなしくなるようなふうをしながら、先生がのっていた墓に近づいて、そこにじっと動かないでおりました。先生はこわくてぶるぶるふるえていましたので、その背に乗ったものか、それともそのままじっとしていたものか、どうしたらいいかわかりませんでした。しまいに、もしそれに乗らなかったら、ひどい目にあうのではないかと心配して、第二の恐怖で最初の恐怖を追っ払うと、墓からおりて、「神よ、助けたまえ!」と小声でつぶやきながら、その獣の上に乗って、しっかりと腰を据えました。でも、あいかわらず全身をふるわせながら、前に言われていたように、両手を胸の上で組み合わせました。するとブッファルマッコはゆっくりと、サンタ・マリア・デッラ・スカーラのほうに方向をとって、四《よ》つん這《ば》いで歩きながら、リポレの修道院まで彼をつれて行きました。当時そのあたりには数々の穴があって、そこいらの畑の百姓たちが、自分たちの畑を肥えさせるために、チヴィッラーリ伯爵夫人にその穴にあけさせておりました。ブッファルマッコはその穴のそばに行って、一つの穴の縁《ふち》に近よると、時期をねらって、片手を医者の片足にかけると、うしろから押しとばして、まっさかさまに穴の中に投げこんでしまうと、歯をむきだして、跳ねたり、暴れたりしながら、サンタ・マリア・デッラ・スカーラのそばを抜けて、オニッサンティの牧場に向かって歩きだしました。笑うのをこらえきれなくなって、逃げだしてしまったブルーノと、その牧場で会いました。二人は大喜びしながら、糞尿だらけの医者がどうするか、遠くのほうからそれを見まもりはじめました。医者先生は鼻もちのならない場所にいることに気がつくと、立ち上がって、なんとかそこから這いだそうとしましたが、そっちこっちになんどもころがって、頭から足まですっかり糞尿だらけになって、痛いやら情けないやら、ほんのわずかですが、いくらか呑んだあげく、頭巾《ずきん》をそこにおいたまま、それでも外へ出てまいりました。そして、両手でできるだけいい具合に糞尿をこすり落として、どうしたらいいのか見当がつきませんでしたので、わが家に立ち戻って、どんどん戸口を叩いて開けてもらいました。
彼がこうして悪臭を放ちながら中へはいって、ふたたび戸口を閉めると、もうそこにはブルーノとブッファルマッコが来ていて、先生がどんなふうに細君に歓迎されるか、聞き耳を立てておりました。二人が耳をすましていると、細君がどんな悪党でもうけたことがないような、このうえもない罵詈《ばり》を、彼に浴びせかけているのが聞こえました。細君は言っていました。
「ああ! とてもお似合いですよ! お前さんは、どこかの女のところに行って、その緋色の着物で、えらくりっぱなところを見せたがったのですね。もうわたくしでは不足なのですか? お前さん、わたくしはお前さんだけでなく、市《まち》じゅうの男全部でも十分に満足させることができるのですよ! あの連中が、お前さんにふさわしいところへ、お前さんを投げこんだように、さっさとお前さんを溺れ死にさせてくれたらよかったのにねえ! さあ、みなさん、妻がありながら、夜はかの女を探しに行く、りっぱな医者がここにいますよ!」
で、細君はこんなことや、そのほかいろいろたくさんのことを並べたてて、医者に、彼のからだをすみずみまで洗わせながら、夜中までぎゅうぎゅう責めさいなみました。
やがて、翌朝、ブルーノとブッファルマッコは打擲されたときによくできるような青あざを、着物の下に体じゅう描いてから、医者の家にまいりました。見ると、彼はもう起きておりました。二人が家の中にはいってみると、なにからなにまで臭くにおっておりました。まだ臭いものを全部洗い浄めるのがすんでいなかったからでございます。医者は二人が自分のところへきたのを知ると、これを迎えて、神さまがあなた方によい日をおあたえになりますように、と申しました。ブルーノとブッファルマッコは彼に向かって、前もって相談をまとめておいたとおりに、怒ったような顔をして、答えました。
「そのことばをわたしたちは、あなたに申しませんよ。それよりも、あなたは今まででは、最も不誠実な、最大の裏切り者でしたから、神さまにうんと懲《こ》らしめて下さるようにお願いしているんです。あなたが殺されてしまうようにとね。だって、わたしたちはあなたを立てて、よろこばせてあげようといろいろ骨を折っているのに、あなたのやりそこないときたら、わたしたちが犬のように打ち殺されなかったことだけが、みつけものですよ。あなたの不誠実のために、わたしたちは昨夜うんとこさ打擲をうけました。あれほど打たれなくても、驢馬はローマに行きつけたと思うくらいにですよ。そればかりか、わたしたちは、あなたを入れてもらおうと手はずをすませておいたあの団体から、危く追い出されるところでした。もしそれを本気になさらないならば、わたしたちの肌がどうなっているか、調べてごらんなさい」
そうして、二人は薄暗いところで着物の前のほうを開けて、すっかり絵具で染めておいた胸を見せると、すぐにそれをかくしてしまいました。医者は詫びて、自分の不幸を、自分がどんなふうに、どこへ投げこまれたかを、話そうといたしました。するとブッファルマッコが彼に言いました。
「わたしはあなたが橋の上から、アルノ河に投げこまれればよかったと思います。どうしてあなたは、神さまや、聖人たちにお願いしたんです? そのことは前もって注意しておきませんでしたか?」
てんで神かけてそんなことは、覚えがない、と医者が言いました。
「どうして」とブッファルマッコが言いました。「覚えがないんですって? あなたは小枝のようにふるえて、ご自分がどこにいるのかわからなかったと、わたしたちの使いの者がいっておりましたから、あなたはそのことをよく覚えているはずですよ。こんどはあなたにまんまとやられました。でも、もう二度とだれにもその手はくわされませんよ。あなたにはお返しをしなくてはならないあいさつを、これからまだするつもりです」
医者は赦しを請い、どうかお願いだから、恥をかかせるようなことはしないでもらいたいと頼み、できるだけことばをつくして、懸命に彼をなだめすかそうとしました。そして、二人がこの自分の恥辱《はじ》を世の中に知らせはしないかと心配して、今までも大事にしておりましたが、それからというものは、二人を今までよりもずっと手厚くもてなしまして、ご馳走やら、そのほかいろいろのことをしてご機嫌をとりました。ですから、あなた方がお聞きになりましたように、ボローニャであまり学問を覚えてこなかった者には、こうして教えるのでございますね。
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第十話
[#この行3字下げ]〈あるシチリアの女が巧みに一人の商人から、彼がパレルモに持ってきたものをとりあげる。商人は前よりもずっと多くの商品を持ってきたようなふりをして、彼女から金を借りうけて、水と麻屑をおいていく〉
女王のお話が、いろいろのところで淑女たちをどんなに笑わせたかは、問う必要もありません。あまり笑いましたので、一人として、涙を十二回(なんども)も眼に浮かべなかった者はありませんでした。しかし彼女がお話をおえましたので、こんどは自分の番になったことを知っていたディオネーオが言いました。
やさしい淑女のみなさん、奸計というものは、それによって巧みに騙《だま》される者が、油断も隙もない奸計であればあるほど、ますます愉快なものであることは、だれでも知っているところであります。ですから、あなた方がこぞって、たいへんおもしろいことをお話しになりましたけれども、わたしは、騙された女の人が、あなた方のお話しになった男や女の人に騙されたどんなものよりも、他人を騙すことにかけて腕のすぐれた名人だっただけに、あなた方のお話しになったどのお話よりも、みなさんのお気に召すにちがいないと思いますので、やはりそうしたお話を一ついたそうと考えております。
海岸地に商品を持ってやってくる商人たちはだれでも、それを船から下ろして、全部を、多くの土地では、市町村か、あるいは土地の領主によって維持されており、税関と呼ばれている倉庫に運び入れるという習慣が、港を持っているすべての海岸地には、普通あったものですが、おそらくそれは今日でもつづいていることでしょう。そこで商人が、倉庫の管理をしている者たちに、書類で全商品と、その値段を書いたものを渡しますと、上記の人たちから商人に倉庫があたえられます。商人はその倉庫に商品をしまって、鍵をかけておきます。それから今申しあげた税関吏たちは、税関の帳簿に、商人の貸勘定として、その全商品を記帳しておいて、あとで商人が税関から引き出す全部または一部の商品に対して商人に保管料を払わせるのです。で、この税関の帳簿から、多くの場合仲買人たちは、そこにある商品の品質や数量を、それから、それを所有している商人がだれであるかを知って、やがて彼らはこの商人たちと、その必要に応じて、交換や取引や売却や、その他の処分の交渉をするのです。そうした習慣が、ほかの多くの土地と同じようにシチリアのパレルモにもありました。ここにはまた、容姿は非常に美しいけれど、およそ正直とは仇《かたき》同士のような女たちがたくさんおりましたが、今日でもやはりそういった者がおります。彼女たちは、これを知らない人からみると、偉い、大そう貞潔な婦人と考えられているにちがいなく、またそう考えられております。彼女たちは男たちの鼻毛を抜く(ひげを剃る)どころか、その皮を剥《は》ぐのに全力を傾けておりましたので、外国の商人がやってきたとみるとすぐに、税関の帳簿から商人が持っているものや、それをどのくらい持っているかなどを知って、そのあとで、うれしい、色っぽいしぐさや、蜜のように甘ったるいことばで、こうした商人たちを蕩《た》らしこんで、自分たちの恋の網《あみ》にひっかけようと、手練手管を弄《ろう》します。彼女たちはもう多くの男たちをそれにひっかけて、その商品の大部分を、ときには全部を男たちから奪いとりました。なかには、商品や、船舶や、肉や、骨までもそこにおいてきた男たちもおります。それほど女|床屋《とこや》は気持ちよく剃刀《かみそり》を使うことを知っていたのです。
さて、そう以前のことではありませんが、ちょうどここへ、店の主人たちから派遣されて、サラバエットという名前でしたが、ニッコロ・ダ・チニャーノと呼ばれていた、わたしたちのフィレンツェの青年が、サレルノの市場で売れ残った、金貨百五十フィオリンの値打ちのある布地を持ってやってきました。彼は商品の明細書を税関吏に渡して、商品を倉庫に入れると、その処分をあまり大して急ぐ様子も見せないで、ときどきその土地に遊びに出かけました。彼は色が白くて、金髪で、非常に男前がよく、容姿も端麗でしたが、これらの女床屋の一人で、みんなにヤンコフィオーレ夫人と呼ばせていた女が、彼のことをいくらか耳にしておりまして、これに目をつけたのであります。青年はそれに気がつきましたので、この女を偉い夫人だと見込んで、自分の美貌が彼女の気に入るだろうと考えまして、周到な用心をして、この恋をとげたいと思いました。そこでだれにもなにも言わずに、彼女の家の前の往来《さんぽ》をしはじめました。彼女はそれに気がつくと幾日かは流し目を送って彼の心を燃やし、自分は彼のために身も細る思いをしているという様子を見せてから、女衒《ぜげん》の腕前がすばらしくすぐれている自分の女中を、彼のもとにこっそりと送りました。この女中は、眼に涙を浮かべながら、いろいろとたくさんのことを話したあとで、自分の女主人が彼の美貌や、その人好きのする容姿にすっかり心を奪われて、夜も昼もおちおちしていられない有様ですから、あなたさえよろしかったら、何をおいても、あなたとこっそり温泉でぜひお会いしたいと申しておりますと、しゃべりたてました。そのあとで、女中は、財布から指輪を取りだすと、それを女主人からだといって、彼に渡しました。
サラバエットはそう聞くと、自分ほど仕合わせなものはないと有頂天になりました。そうして、指輪をとると、それで眼をこすって、そのあとでそれに接吻してから、指にはめたうえで、その女中に向かって、もしヤンコフィオーレ夫人が自分を愛しているのだったら、自分も彼女を自分の命以上に愛しているのだから、夫人の思いはむくいられているのであって、自分としては、彼女の好きなところへ、いつなりとも出向くつもりだと答えました。
さて、使いの女はこうした返事を持って、女主人のところへ帰りましたが、それからじきに、サラバエットには、翌日、夕方後に、どこどこの温泉宿で彼女を待っているようにと伝えられました。彼は、だれにも全然なにも言わないで、さっそく、言いつけられた時間に、そこへ行ってみると、温泉宿が女の手でとってありました。そこへまもなく、荷物を持った二人の女奴隷がやってきました。一人は美しくて大きな綿の敷きぶとんを頭にのせて持ってきました。もう一人は、いろいろの品物の一杯はいっている、とても大きなパン籠を持ってきました。二人はこの敷きぶとんを温泉宿の寝室の寝台の上にひろげて、その上に一対の絹で縁どった上等の敷布をかけて、それから、純白のシプロ島産の綿腰ざぶとんと、見事に飾り刺繍をした二つの枕をおきました。そのあとで、二人は着物をぬぐと、湯ぶねの中にはいって、湯ぶねをすっかり丁寧に洗い浄めました。それからまもなく、女(夫人)が別の女奴隷を二人従えて、温泉宿にまいりました。そこで女はゆったりとするとすぐに、サラバエットに、にぎにぎしい大仰なあいさつをして、ふうっと大きな溜め息をいくつもついてから、幾度も抱擁して、接吻をしたあとで言いました。
「あなたを除いては、だれだってわたくしにこんなことをさせることはできなかったと思います。あなたはわたくしの胸を燃え立たせたのですよ、トスカーナの憎いお方」
そんな話のあとで、彼女の言うなりに、二人はどちらも裸になって温泉にはいりました。二人と一緒に、女奴隷たちもはいりました。そこで彼女は、ほかの者たちには、男に手を触れさせないで、自分自身で、麝香《じやこう》入りの石鹸や、カーネーションの香りのついた石鹸で、驚くほど上手に、サラバエットの全身を洗って、そのあとで自分の体を女奴隷たちに洗わせたり、こすらせたりしました。それがすむと、女奴隷たちは二枚の真っ白な上等の敷布を持ってきましたが、それからばらの花の香りが漂ってきて、あたり一面ばらの花になったように思われました。一人の女奴隷がサラバエットをその一枚にくるみ、も一人のほうが別の敷布に女をくるんで抱きあげると、こしらえてあった寝台に二人を運びました。寝台では、汗がおさまってから、その敷布が女奴隷たちによって取り去られて、二人は別の敷布の中に裸のままで残されました。女奴隷たちはパン籠から、ばら香水や、オレンジの花の香水や、ジャスミンの花の香水や、橙花の香水などが一杯にはいった、非常に美しい銀の香水瓶を取りだして、二人の全身にこれらの香水をふりかけました。そのあとで二人は糖菓子のはいっている箱や、極上のぶどう酒をとりだすと、それで少しばかり元気をつけました。サラバエットは天国にいるような気持ちでした。確かに花をあざむくような美人だった彼女をなんども見つめておりましたが、早くこの女奴隷たちが立ち去って、彼女の腕に抱かれたいと、一時千秋の思いがしておりました。女奴隷たちが女の命令で、火のついている小さな松明《たいまつ》を寝台に残して立ち去ったあとで、彼女はサラバエットを、彼は彼女を抱擁しました。自分にのぼせて女が全身を灼《や》けただらせているような気がしていたサラバエットのよろこびは大したもので、二人は長いあいだそうしておりました。けれども、女はもう起きる時刻だと思いましたので、女奴隷たちを呼んで、二人は着物を着ました。そして、もう一度ぶどう酒を飲んで、糖菓子をたべて、いくらか元気を取り戻しまして、その香水で顔や手を洗ってから、さて、出かけるときになって、女がサラバエットに言いました。
「もしよろしければ、今晩わたくしのところにおいでになって泊まって下さったら、とてもうれしいのでございますが」
この女の美しさや手のこんだ愛嬌に、もうすっかり心を奪われていたサラバエットは、彼女からその心臓のように愛されきっていると固く信じこんでいましたので、こう答えました。
「はい、あなたのおよろこびになることは、わたしにとっては何よりもうれしいのです。ですから、今晩でもいつでも、あなたのお望みのとおりに、あなたに命令されるとおりにいたす考えです」
さて女は家に帰ると、その衣裳や道具で自分の寝室を飾り立てさせて、りっぱな晩餐の用意をさせてから、サラバエットを待っておりました。サラバエットはいくぶん暗くなってから、そこへまいりました。いそいそと迎えられて、たいへんな騒ぎで、鄭重な給仕をうけて、食事をいたしました。それから二人は寝室にはいりました。そこで彼は、伽羅木《きやらぼく》のすばらしい香りをかぎ、チプリ産の小鳥の恰好をした置物のしつらえてある豪奢な寝台や、衣桁《いこう》にかけられている数多くの見事な衣裳を目にとめました。そんなことの全部とその一つ一つが、彼にこの女がたいへん金持ちな婦人にちがいないことを思わせました。彼女の生活について、それとはあべこべの噂がつぶやかれているのを聞いても、全然それを信じようとはしませんでした。また彼女が今まで男を何人か騙したことはあるだろうと思っておりましたが、そんなことが自分の身に起こるだろうとは、夢にも信ずることができませんでした。彼はその夜は大喜びで、ますます欲情のほむらをもやしながら彼女と寝ました。朝になりまして、彼女はりっぱな財布のついている銀の美しいしゃれた帯を彼に締めてやってから、こう言いました。
「わたくしのやさしいサラバエット、わたくしのことをよろしくお頼みいたしますよ。わたくしは体をあなたのお好きなようにおまかせいたしましたが、それと同じように、なにもかも一切、わたくしの力でできますことは、あなたのご自由になるのでございます」
サラバエットはよろこんで彼女を抱擁し、接吻してから、彼女の家を出て、他の商人たちが集まっているところへまいりました。こうして、全く一文《いちもん》の金も費《つか》わないで、一度ならず彼女と交わり、あいかわらずますます熱を入れて恋にのぼせておりましたところが、そのうちに、商品を現金で売り払って、うんと金儲けをいたしました。そのことを、例の女は、彼の口からでなく、他の人々の口から、すぐに聞き込みました。ある晩のこと、サラバエットが彼女のところへまいりますと、彼女は、男とおしゃべりをして、さんざんはしゃぎまわって、接吻したり、抱擁したりして、彼を恋い慕う思いに燃えあがっているような様子をして、そのために彼に抱かれて、そのまま死んでしまいたいと思っているような風情《ふぜい》に見えました。それからまた彼女は、自分が持っていた実に見事な銀の盃を二つ、彼に贈ろうといたしました。サラバエットは、自分がわずか一グロッソの値打ちのものすら彼女にやることができなかったのに、あれこれとなんどにもわたって彼女からは優に金貨二十フィオリンの値打ちのものをもらっておりましたので、その盃をもらおうとはいたしませんでした。結局、彼女が、恋に燃えあがっているうえに、気前のいい女であるところを見せて、彼をすっかり夢中にさせたとき、かねて彼女から言いつけられておりましたので、一人の女奴隷が彼女を呼びにまいりました。そこで、彼女は寝室を出て行って、すこし外にいてから、泣きながら寝室に戻ってくると、寝台にうつむきになって身を投げだしてから、どんな女もこんなことはあるまいと思われるほど、悲しそうに、おいおいと泣きだしました。サラバエットはびっくりして、彼女を抱きあげると、彼女とともに泣きだしながら言いました。
「ああ! わたしのからだ中の心臓よ、あなた、こんなに突然、どうしたというのです? この嘆きの原因はなんです? ああ! 言って下さい、ねえ」
女は、なんども相手にそう聞かせてから、申しました。
「ああ! やさしいお方、わたくしはどうしたらいいのか、どういったらいいのか、見当がつきません! たった今メッシナから手紙がまいったのです。わたくしに、自分の持ち物を一切売り払うなり、質に入れるなりして、どうしても間違いなく今日から八日のうちに、金貨千フィオリンを自分のところまで届けてほしい、さもないと自分の頸がとんでしまうのだと、わたくしの兄弟が書いてよこしました。わたくしには、どうしていいのか、そんなに早くお金が手にはいるかどうかわかりません。せめて十五日の余裕がありましたなら、それよりずっと多くのお金がはいるあてにしているところから、そのお金を手に入れる方法もありましょうし、あるいはまた、うちの土地をどこか一部売り払うこともできますからね。でも、それができませんので、わたくしはそんな不吉な報らせがやってこないうちに、いっそ死んでしまいたいと思います」
そう言うと、彼女は悲しくてたまらないような様子をして、泣くのをやめませんでした。恋の炎で、分別の目がだいぶくらんでいたサラバエットは、それをほんとうの涙だと思い、そのことばをもっと本物だと思いこんで、言いました。
「あの、わたしは金貨千フィオリンをご用立てすることはできませんが、もし今から十五日以内にお返し下さることができるのでしたら、五百フィオリンだけはりっぱにご用立てができます。ちょうど昨日、わたしの生地《きじ》が売れたのは、あなたにとって運がよろしかったのです。もしそうでなかったら、一グロッソのお金すらお貸しできなかったでしょうからね」
「ああ!」と女が申しました。「ではあなたはお金にお困りでいらっしゃったのですね。わたくしには千フィオリンのお金はございませんが、あなたにさしあげるのに百フィオリンなら、いいえ、二百フィオリンでも手許にはございましたのに。あなたがおっしゃって下さったそのご援助をお受けする勇気が、そのおことばでくずれてしまいました」
サラバエットは、そのことばにますます強く心を奪われて、言いました。
「あの、そんなことで、お諦めになっては困ります。今のあなたのように、わたしにそのお金が必要でしたら、ちゃんとお願いしていたでしょうからね」
「ああ!」と女が申しました。「サラバエットさま、あなたのわたくしへの愛が真実で、完全なものであることはよくわかっております。わたくしからお願いするのもお待ちにならないで、そうした必要にせまられた、そんなにも多額のお金を気前よくお出しになって、わたくしを助けて下さるのですもの。確かにわたくしは、こんなことがなくても、すべてあなたのものでございましたが、もっともっとあなたのものになります。これからは、あなたのおかげで、兄弟の頸《くび》が助けられたご恩を忘れるようなことは、決してございません。でも、あなたは商人でいらっしゃるし、商人というものは、お金で万事を切り盛りするということを考えますと、ほんとうに、神さまもご照覧下さい、わたくしはいやいやながら、そのお金をいただくのでございます。けれどもわたくしは、必要にせまられておりますし、きっとすぐお返しができると思いますので、それを頂戴いたします。もしすぐにお返しする方法が見つかりませんでしたら、わたくしの財産を抵当にさし出しましょう」
そう言うと、彼女は涙を流しながら、サラバエットの顔の上に身を投げだしました。サラバエットは彼女を慰めはじめました。その夜を彼女と過ごしてから、彼は自分がきわめて鷹揚な下僕であることを十分に見せようとして、彼女がなんとかいってこないうちに、音色のいい金貨五百フィオリンを持って行きました。それを彼女は、心の中では笑いながら、眼には涙を浮かべて受け取りました。サラバエットは彼女の簡単な約束を信用いたしました。
女が金を手に入れると、暦が変わりはじめました。前には、サラバエットが好きな時にはいつでも、女のところに勝手に行けましたが、今ではいろいろの口実が設けられるようになりだして、そのために彼は七度に一度ぐらいしか家の中に入れてもらえませんし、以前のように、もうあんな顔も、あんな愛撫も、あんな大騒ぎもされませんでした。そうして、金を返してもらう期限がきたばかりでなく、一、二か月が過ぎ去って、金を返してくれと催促しますと、ただ聞かされるのは言いわけばかりでありました。そこで、サラバエットは、その悪性女の術策《て》と、自分の無分別だったことに気がついて、それについては書類もなし、証人も立ててないので、女にその気がなければ何をしてもむだだとわかりました。またこのことについては前に注意もされていたし、したがって、自分が大馬鹿だったことを当然のことながら嘲笑されることはわかっており、だれか他人に愚痴を聞いてもらうことも恥ずかしい気がしましたので、底知れない悲しみに落ちながらも、ただ一人で、おのが愚かさを泣いておりました。すると、主人たちからなんども手紙がまいりまして、その金を為替にして、自分たちのところへ送ってほしいと言ってきました。彼はそうすることもできないし、ここで自分の失策がばれないようにと思って、出発する決心をし、一隻の船に乗ると、行くはずになっていたピサにではなく、ナポリにまいりました。
当時、ここにはわたしたちの同郷人で、コンスタンティノーポリの皇后陛下の財務官の、ピエトロ・デル・カニジャーノがおりました。非常に知恵のある、才たけた人で、サラバエットやその一家の人々の大の親友でありました。サラバエットは何日か悲しんでおりましたが、そのあとで、このたいへんに思慮の深い人に、自分のしてきたことや、惨憺たる出来事を物語ったうえで、もう二度とフィレンツェに帰るつもりはないと断言して、ここで自分の生計が立つようにしてもらいたいと、その援助と助言を求めました。カニジャーノはこれを聞くと、悲しそうにして言いました。
「それはいけなかったね。あなたのやり方が悪かった。御主人たちの言いつけをおろそかにしたんだ。遊びなどに、一度にどっと金を費いすぎたよ。でもどうしたもんだろう? すんだことだ。どうしたら取り返しがつくか、考えてみなくてはね」
しかし、聡明な方でしたので、すぐにどうしたらいいか思いついて、それをサラバエットに教えました。サラバエットはそれが気に入りましたので、そのとおりにやってみたいと、試《ため》しにかかりました。
で、彼の手許にもいくらか金がありましたので、カニジャーノがさらにいくらか貸しあたえまして、彼はたくさんの梱《こおり》をよく縛らせ、十分に金帯をはめさせると、油の大樽を二十買い込んで、その中身を一杯にして、一切合財を船に積みこんだうえ、パレルモに帰ってきました。そして梱の明細書を税関吏に渡し、同様に大樽の価格表も渡して、全部を自分の貸方勘定に記帳させてから、それらの商品を倉庫に入れながら、自分が待っている他の商品が到着するまで、これには手をつけたくないのだと言いました。ヤンコフィオーレはこれを聞いて、金貨三千フィオリン以上の値打ちのある、彼が待っている品を除いても、彼が現在持ってきた品が優に金貨二千フィオリンから、あるいはそれ以上の値打ちがあるということを耳にして、ほんのわずかしか取り上げていなかったような気がしました。で、その五千フィオリンの大部分をせしめることができるようにしようと考えて、彼に五百フィオリンを返そうと思いたちまして、彼のところに使いの者を出しました。
人が悪くなっていたサラバエットが出かけて行くと、彼女は、彼が持ってきた商品《もの》のことはなにも知らないようなふりをして、大歓迎してから、言いました。
「あのねえ、わたくしが期限がきたのにお金をお返ししなかったので、さぞお怒りになっていらっしゃることでしょうね?」
サラバエットは笑いだして、言いました。
「さあ、わたしは、もしあなたにさえよろこんでいただけると思ったら、この心臓でもえぐり出してさしあげるような男ですから、実際のところ、ちっとも気持ちなぞ悪くしませんでした。しかし、わたしがあなたのことで、どんなに悩んだか、お聞きになっていただきたいのです。わたしはあなたをそれはそれは愛しておりますので、そのために自分の土地の大部分を売り払わせまして、二千フィオリン以上も値打ちのある商品を、現在ここに持ってきたのですが、さらに、三千フィオリン以上もするだろうと思う商品が西の国から到着するのを待っているのです。わたしは、あなたの愛におぼれていて、あなたのどの恋人よりもずっとしあわせなような気がしておりますので、この土地に倉庫をつくって、いつでもあなたのそばにいられますように、ここに住みつきたいと考えております」
女は彼に答えました。
「ねえ、サラバエット、あなたはわたくしが自分の命よりも愛しているお方ですから、あなたによろしいことでしたらなんでも、わたくしは大喜びでございます。あなたがここでお住みになろうというお考えで、ここにお帰りになったことも、たいへんうれしいと思いますわ。だってわたくしは、今でもあなたとうんとたのしみたいと思っているんですものね。でも、あなたがお発ちになった頃に、ときどきおいでになろうとして、お招きできなかったり、ときどきおいで下さったのに、いつものようによろこんでお迎えすることができなかったことや、そのほかお約束した期限にお金をお返ししなかったことについて、ちょっとお詫びをしたいと思います。当時わたくしは悲しみと苦しみのどん底にのた打ち廻っておりましたことを、ぜひあなたに知っておいていただきたいのです。で、こんな状態にいるものは、たとえ他人を愛しておりましても、自分で思うようにいい顔もしていられませんし、ただその人のためにしじゅう気を使っていることもできません。それからまた女の身で、金貨千フィオリンをこしらえることは非常にむずかしいことでして、しょっちゅう嘘ばかりいわれて、約束されていたことは守ってくれないし、そんなわけでわたくしたちのほうでも他人に嘘をいわなければならなくなるということも、ぜひ知っておいていただきたいのです。わたくしがお金をお返ししなかったのもそんなわけからで、ほかに悪い点があったからではございません。でも、あなたがお発ちになってから、まもなく、お金ができましたので、どこへお送りしたらよろしいのか知っておりましたら、確かにお送りしていたのでございます。けれどもそれを知りませんでしたので、別にしてとっておきました」
そして、男が彼女のところへ持って行ったのと、同じ金がはいっていた財布を持ってこさせると、それを彼の手に渡して言いました。
「五百フィオリンございますかどうか、数えて下さい」
サラバエットはこんなにうれしいと思ったことはありませんでした。それを数えて、五百フィオリンあるとわかると、それをしまってから言いました。
「はい、あなたのおっしゃるとおりでした。でも、お取り扱いには恐縮しました。このようにしていただきましたし、またわたくしがあなたをお慕いしている愛から申しましても、今後ご必要があって、どんなことをお願いになられましても、それはわたしの力のおよぶ、ご用立てのできる額にくらべたら、とるに足らぬものでしょう。わたしがここに住むことになりましたら、お試みになることができましょう」
で、こんなふうにして、サラバエットは、ことばの上では彼女と円満に恋のより[#「より」に傍点]をもどして、ふたたび彼女と親しい交わりを結びはじめました。彼女も男にたいして、このうえもないたのしみと、ありったけのもてなしをして、最上の愛を示しだしました。しかし、サラバエットは、女の詐欺を自分の詐欺で罰したいと考えておりましたので、そのうちある日のこと、彼女から使いの者がきて、彼に自分のところへきて食事をして泊まって行くようにと伝えましたとき、彼はまるで死にたいと思っているような憂鬱な、みじめな顔をして、そこへまいりました。ヤンコフィオーレは彼を抱擁して、接吻してから、どうしてそんなに憂鬱にしているのか聞きだしました。彼は、しばらくの間、なんどもたずねさせてから言いました。
「わたしはもうだめです。わたしが待っていた商品を積んでいる船が、モナコの海賊につかまって、その代償金に金貨一万フィオリンをよこせといわれていて、そのうちわたしの払い分が千フィオリンなのですからね。あなたに返していただいた五百フィオリンの金は、ここに麻布を送ってもらうのに投資して、すぐにナポリに送ってしまったので、わたしの手許には一デナイオの金すらありません。で、今手許にある商品は現在売り払うとしても、時期はずれなので、やっと市価の半分にしかならないでしょう。それにわたしは、この急場を助けていただくような人が見つかるほど、まだここでは顔が売れておりませんし、ですから、どうしたらいいのかかいもく見当がつきません。それに、もしすぐにその金を送らないと、商品はモナコに持っていかれて、わたしは無一物になってしまいます」
女はそう聞くと、なにもかも全部を失ってしまうような気がしましたので、たいへん心を痛めまして、モナコに商品がいかないようにするためには、どうしなければならないかと考えながら、言いました。
「あなたのために、わたくしがほんとに悲しんでいることは、神さまもご存じです。でもそんなに悲しんだところで、なんになりましょう? わたくしにそのお金があったら、ほんとに、すぐにでもお貸しするのですが、でもそれがないのですよ。実はね、先日わたくしのところに五百フィオリンがなかったときに、それを貸して下さった方があるのですが、とても高い利子をほしがるのです。百について三十割以下ではいやだというのですからね。もしこの人からお借りになりたければ、うんと持ち物を抵当にだして保証をしなければならないでしょう。わたくしとしては、あなたのお役に立ちさえしたら、あの人が貸して下さる金額にたいして、あなたのために持ち金を全部と、この体を抵当にするつもりでございます。でもそのほかの分については、どうやって保証をされますか」
サラバエットには、この女が、自分のためにこうして役に立とうとしている理由がわかりました。そして貸してくれる金は彼女のものにちがいないと気がつきました。彼はその話が気に入りましたので、まずお礼をいって、そのあとで、利子が高くても、必要にせまられているから、夢にもことわるつもりはないと言いました。それから、自分が税関においてある商品を、金を貸してくれる人の名義に書きかえて、借金の保証にしよう。だが、だれかにその商品を見せてくれといわれても見せることができるように、またそれを少しでも他人にさわられたり、よそへ移されたり、すり変えられたりしないようにしておくために、倉庫の鍵は自分で持っていたいと言いました。女はよくおっしゃいました、それはとてもいい保証だと申しました。そこで、その日になりますと、彼女は、自分がたいへん信用している仲買人を呼びにやりまして、このことをよく話したうえ、金貨千フィオリンを渡しましたが、さらに仲買人はそれを自分のものとしてサラバエットに貸しまして、サラバエットが税関に預けておいたものを自分の名義に書きかえさせました。そして、証書と裏書証書を作らせたうえ、相談がまとまりましたので、それぞれ思い思いの仕事に向けて袂《たもと》をわかちました。
サラバエットは金貨千五百フィオリンを持って、一刻も早く船に乗ると、ナポリのピエロ・デル・カニジャーノのところに立ち帰りました。で、そこから、自分を布地の売りさばきに派遣したフィレンツェの主人たちのところに、全額の代金を十分に送りまして、ピエトロやその他自分が借金をした相手の人たち全部に支払いをすませたうえ、何日も、カニジャーノと一緒に、シチリア女にしてのけた詐欺(瞞着)のことをたのしい笑い話の肴にいたしました。それからもう商人をしているのがいやになって、そこからフェルラーラにまいりました。
ヤンコフィオーレは、パレルモにサラバエットの姿が見えませんので、驚いて怪しみだしました。で、二か月あまりも待ったあとで、彼がやってこないのをみて、仲買人に倉庫をこじあけさせました。最初に、油が一杯詰まっていると思っていた大樽を調べてみると、その一つ一つに、上部の口の近くに小樽一杯分ほどの油がはいっているだけで、海水が一杯に詰められてあることがわかりました。それから、梱を解いてみますと、布地のはいっていた二つを除いては麻屑が一杯詰まっておりました。要するに、なにもかもまぜて、二百フィオリン以上の値打ちはありませんでした。そこでヤンコフィオーレは一杯くわされたことを知って、長いあいだ、五百フィオリンを返したことを、またそれと比較にならないほど、千フィオリンを貸したことを泣き悲しんでおりまして、「トスカーナ人を相手にするときは、片眼でないほうがいい」と、よく言っておりました。こうして、損害をこうむり、瞞着をうけて彼女は、人はおたがいに盲目ではないということをさとりました。
ディオネーオが話をおえると、ラウレッタは満期になって、それ以上は自分が主宰してはならないことを知っておりましたので、その結果からみてよかったと思うピエトロ・デル・カニジャーノの勧告や、それを実行に移すにあたって、これに劣らないものがあったサラバエットの狡知をほめ讃えたあとで、自分の頭から月桂冠をとると、それをエミリアの頭にのせて、しとやかに申しました。
「夫人《マドンナ》よ、わたくしは、あなたがわたくしたちのどんなにたのしい女王になられるかどうか、それは存じませんが、それでもあなたは、わたくしたちの美しい女王になられるでございましょう。では、あなたのなさることが、その美しさに似つかわしいものでありますようになさいませ」
そうして、ふたたび腰をおろしました。
エミリアは女王に推されたことよりも、普通、女というものが一段と望んでいることを、一同の前でこんなふうにほめられたので、心もち恥ずかしそうにして、黎明の光をうけたういういしいばらの花のように、顔を染めました。それでも、いくぶんうつむきかげんにしておりまして、顔の赤い色が消えてから、給仕頭に向かって、仲間のために必要なことを命じたうえで、こう話しだしました。
「たのしい淑女のみなさん、牡牛たちが一日の一部を軛にしめつけられて働いたあとで、その軛をゆるめられ、はずされて、森の中を、どこまでも好きなところへ自由に草を食みにやらされることを、わたくしたちははっきり見ております。また、枝葉のしげった色とりどりの木々の生えている庭が、樫の木だけが目にはいる森に劣らず、美しいものであることを見ております。そこでわたくしは、おたがいにある法則にしばられて、何日かを話し暮らしてまいりましたことを考えまして、毎日働いている者と同じように、いくらか散歩をしたり、散歩をしながら、もう一度軛をかけられてもいい力を取り戻すことが、有益であるばかりでなく、時宜に適していると存じます。そこで、あなた方のたのしいお話につづいて、明日していただく予定のお話として、わたくしはあなた方をある特定の主題の下に制限しようとは思いません。めいめい好きなようにお話ししていただきたいと思います。と申しますのは、話される事柄が多種多様でありますことは、一つの事柄についてお話しするのと同じようにたのしいものではないかと思うからでございます。そしてこうしておきますと、わたくしのあとから主宰するお方はわたくしよりお強い方でございますから、もっとしっかりと、これまで従ってまいりました法則に、わたくしたちをしめつけることがおできになるでございましょう」
こういうと、女王は夕飯の時間まで、めいめいに自由をあたえました。
一同は女王のいわれたことについて、女王を聡明なお方だと賞讃いたしました。そして、立ち上がると、ある者はあるたのしみに、またある者は別のたのしみに、思い思いのたのしみにふけりました。淑女たちは花冠を作ったり、遊戯をしたり、青年紳士たちは勝負事をしたり、歌を歌ったりしました。こうして、夕飯の時まで時間をつぶしました。夕飯の時間になりますと、美しい噴泉のまわりで、にぎやかに、楽しく食事をいたしました。夕飯後には、いつものように一同は歌を歌ったり、踊りをしたりしながら、遊び戯れました。おしまいに女王は、前任者たちのやり方に従いながら、多くの者がよろこんで歌を歌っていたにもかかわらず、パンフィロに向かって、ぜひ一つ歌うように命じました。パンフィロはさっそく、こう歌いはじめました。
ああ恋よ、恋、なが幸《さち》の
愉悦、歓喜の大なれば
恋に燃ゆるもいとうれし。
ながもたらせし、いと高く
貴き喜悦のこの胸に
溢れたぎらす愉《たの》しさは
胸よりそとにほとばしり
わがくもりなきかんばせに
その仕合わせを告げ知らす
いとも貴く高き館《や》に
人を恋うれば燃えて立つ
胸の悩みも癒やさるる。
この胸の幸、ああ恋よ
歌にて語る術《すべ》もなく
筆にしるさん道もなし
人に知れなばよろこびの、
悩みに変わるそがために
力の限りかくさばや。
さるにてもこのうれしさは
いかに語るもその端《はし》を
伝うることのかたきもの。
前に抱きしかの人を
この腕のまたかき抱き
かつてわが面《も》を近づけし
かの人にこのかんばせを
寄せて歓喜としあわせを
祈らん日をばだれか知る?
歓喜、愉悦のみなもとを
かくせど胸に燃えあがる
幸知る人のよもあらじ。
パンフィロの歌は終わりました。その歌は一同によって挙《こぞ》って唱和されましたが、パンフィロがかくしておかなければならないと歌ったものを当てようとして、ありったけの注意ぶかい関心をそそいで、そのことばに注意をはらう者は一人もございませんでした。みんなはいろいろのことを想像してはおりましたが、だれもその真相をつかむことはできませんでした。しかし女王は、パンフィロの歌が終わって、若い淑女たちや紳士たちがよろこんで休養をとろうとしているのを見て、みんなに寝に行くように命じました。
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第九日
[#この行3字下げ]〈デカメロンの第八日が終わり、第九日がはじまる。この日には、エミリアの主宰のもとに、それぞれが好みに応じて、一番おもしろいと思っていることを話す〉
その輝きで夜を追いだす光は、すでにるり色の天頂を明るい空色にすっかり変えてしまい、芝生では小さな花々が頭をもたげはじめました。エミリアは起きあがると、仲間の淑女たちや、紳士たち全員を呼ばせました。一同はやってまいりますと、女王のゆるやかな足取りにつづいて歩みを運んで、館からさほど遠くない小さな森まで足をのばしました。そこにはいって行くと、子鹿や、牡鹿や、その他いろいろの動物が、流行しているペストのために、猟師にねらわれる心配はほとんどなく、まるで怖くないのか、飼い馴らされてしまっているようにして、待っているのが、一同の眼につきました。みんなは、そっちの動物、こっちの動物に近づいて追いつこうとするそぶりを見せ、動物たちを跳びあがらせたりして、しばらくの間、たのしんでおりました。しかし、すでに太陽がのぼりましたので、一同は帰る時刻だと思いました。みんなはそれぞれ樫の枝葉の冠をつけ、香りの高い草や花を両手いっぱい持っていました。この人たちに会った者は、ただ「この人々は死に打ち負かされることはないだろう、でなければ嬉々として死を迎えることだろう」という以外に、なんにも言えなかったことでしょう。さて、こうして、歌を歌ったり、おしゃべりをしたり、冗談を言い合いながら、一歩また一歩と足を運んで、館に帰りつきました。そこではすべての用意が順序よくととのって召使たちがうれしそうに、うきうきとして出迎えました。そこでしばらく休息してから、若い紳士や淑女たちが次々と面白さが加わってくる六つの歌を歌って、それから食卓のほうにやってきました。そのあとで、手を洗い、女王の希望によって、給仕頭が一同を食卓につけました。そこへ御馳走が運ばれて、みんなは愉快に食事をいたしました。食事が終って席を立つと、しばらく踊ったり、音楽を奏でたりいたしました。それから、女王の命令で、休みたい者は休みにいきました。しかし、いつもの時刻がまいりましたので、銘々、例の場所にお話をしに集まりました。そこで女王がフィロメーナをじっと見つめながら、本日の話の糸口をつけるようにと申しました。フィロメーナは微笑をたたえながら、こんな風にはじめました。
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第一話
[#この行3字下げ]〈フランチェスカ夫人はリヌッチョという男と、アレッサンドロという男に思いをかけられて、どちらも愛していないので、一人は死人の役をつとめるようにと墓の中にはいらせ、もう一人にはそれを死人だからと言って引き出させるが、二人は命ぜられた目的を達することができなくて、彼女はまんまと二人を厄介払いする〉
女王さま、あなたのお望みによりまして、御威光にふさわしいこの広々とした自由な分野で、お話をいたしますことは、とくに最初の競技者に選ばれた身にとりまして、非常にうれしいことでございます。もしわたくしが、それをうまくしとげますれば、きっと、あとにつづく方々はさぞそれをうまく、また一段とみごとになさることだろうと思います。ああ、かわいらしい淑女方よ、わたくしたちのお話の中では、何度となく、愛の力がどんなに強く、どんな種類のものであるかが、示されてまいりました。でもわたくしは、それについて十分に語りつくされたとは思っておりませんし、これから一年間そればかりについてお話ししたといたしましても、まだ委曲をつくすことは不可能でございましょう。恋愛は恋人たちを死ななければならないような種々の危険に導くばかりでなく、死人を引きずりだすために死人の家(墓)にはいらせることもございますから、今までに語られたお話のほかに、そのことについて一つお話をいたしたいと存じます。そのお話によって、みなさまは、恋愛の力を御理解になるばかりでなく、あるしっかりした婦人が、自分はいやがっているのに、思いをよせてくる二人の男を厄介払いしようとして用いた知恵を、ごらんになることでございましょう。
さて、お話にはいりますが、かつてピストイアの町に、大そう美しい未亡人がおりました。フィレンツェから追放されてそこに住んでいた、一人はリヌッチョ・パレルミーニといい、もう一人はアレッサンドロ・キアルモンテージという、二人のフィレンツェの人が、お互い同士は何も知らずに、たまたま彼女に心を奪われて、この人を夢中になって恋したのでございます。二人は銘々、彼女の愛をぜひとも手に入れようとして、できるだけのことをこっそりとやっておりました。
名前をフランチェスカ・デ・ラッザリ夫人と言ったこの貴婦人は、彼らの各々からよこす使いの言葉や、二人の嘆願にうるさいほどせき立てられて、ついうっかりと何度かそれに耳をかしましたが、そこから慎重に身をひこうと思いましても、それができずにおりましたところ、二人を厄介払いするのに、いい考えが浮かびました。それは二人にある用を頼んでみることでございました。その用は、やってできないようなものではありませんでしたが、そんなことをする者はいないだろうと、彼女は思っておりました。それで、もし二人がそれをしなかったら、もう彼らの使いの口上は聞きたくないという正当な、あるいはもっともらしい口実をこしらえようというのです。
その計画というのは、次のようなものでした。この計画が頭に浮かんだ日に、ピストイアで一人の男が死にました。この男の先祖は貴族でしたが、本人はピストイアばかりでなく、世界じゅうでいちばん悪い男だという評判でございました。そのうえに、生きている間はとても醜い珍妙な顔をしておりましたので、知らない人が初めて彼に会ったらさぞこわかったことだろうと思われるほどでございました。この男は聖フランチェスコ教会の外の墓に埋葬されておりました。彼女は、この死骸が自分の計画にあつらえむきの一役を買うだろうと考えました。そこで、彼女は、女中の一人にこう言いました。
「わたくしが始終、リヌッチョとアレッサンドロという二人のフィレンツェ人のよこす使いから悩まされ、悲しまされていることを、お前は知っているね。今わたくしは、あの人たちを愛してよろこばしてやる気持ちにはなっていません。で、あの人たちを厄介払いするために、いつも大それた申し出をしてくることでもあるし、あの人たちがやりっこはないと思うことでもって二人を試してみようと考えたんです。そうして、このうるさいことを払いのけてしまうのよ。ではどうするのか聞いておくれ。知ってのとおり、けさ聖フランチェスコ教会の墓地に、スカンナディーオ(先に述べたあの悪人はそう呼ばれていた)が埋葬されたんだけど、この世の中でいちばん勇気のある人たちでも、この人を見ると、死んでからのことはもちろん、生きている時でも、こわがっていました。だからお前は、こっそり、最初にアレッサンドロのところへ行って、こう言っておくれ。『フランチェスカ夫人からの伝言ですが、奥さまは、あなたがもしそれをお望みになられるならば、次のような方法で、あなたが長いあいだ熱望していらしった自分の愛を手に入れられて、自分と一緒にいられるとおっしゃっております。いずれあなたにはおわかりになるようなある理由で、けさ埋葬されたスカンナディーオの死骸が、今夜奥さまの家に一人の親類によって運んでこられるはずなのです。で、奥さまは、死骸になっているその男をこわがっていらっしゃるので、それを運びこまれたくないのです。そこで奥さまから、一つあなたに御迷惑でしょうが、お願いがあるのですが、それはあなたにどうか今晩、人が寝静まったらすぐに、スカンナディーオが埋葬されているその墓に行って、中へはいってその死骸の着衣を身につけたうえ、あなたを運びだしにくるまで、あなたに死んだ本人の振りをしていただきたいということなのです。そうして、何も言わないで、からだも動かさずに、あなたは、その墓から引きだされて、奥さまの家へ運ばれておいでになるのです。そこで、奥さまはあなたをお迎えしますから、その後、あなたは奥さまと一緒にいらしって、その他のことは奥さまのお考えにおまかせになって、お好きな時にお発ちになればよいのです』そう言って、もしあの人が、そうしたいと言ったら、それでけっこうです。そんなことはしたくないと言った場合には、わたくしからだと言って、もうわたくしのいるところには姿をお見せにならないように、そして命が惜しかったら、今後はわたくしのところへ小僧や使いの者をおよこしにならないように伝えておくれ。で、そのあとで、リヌッチョ・パレルミーニのところへ行って、こう言ってちょうだい。『フランチェスコ夫人は、もしあなたが奥さまのために一つ骨を折ってくださったら、なんでもあなたの好きなようになるつもりだとおっしゃっております。ですから、けさスカンナディーオが埋葬された墓へ、今晩の夜なかにいらしってください。そして、あなたが何を聞いても感じても一言も言わずに黙ったまま、そっとその死骸を引きだして、奥さまの家に運んでいただきたいのです、そこへおいでになれば、奥さまがなぜその死骸をほしがっているかがおわかりになりましょうし、奥さまをお相手にお望みを達することができましょう。このことをなさりたくなかったら、今後はけっして奥さまに小僧や使いの者をおよこしにならないでいただきたいとのことです』とね」
女中は、二人のところにまいりまして、言われたとおりに、それぞれに、順序を立てて伝えました。それに対して、夫人の気に入るならば、墓の中はおろか地獄へまでも行くつもりだと、銘々が答えました。女中はその返事を夫人に伝えました。夫人は、二人がそんなことをするほど自分にのぼせているかどうかを見てやろうと、待ちかまえておりました。
さて、夜になりまして、人々がもう最初の眠りにはいりましたので、アレッサンドロ・キアルモンテージは、胴衣一枚になると、墓で、スカンナディーオの身代わりになりに行こうと、自分の家を出ました。が、歩いているうちに、心の中に、とてもこわい気持ちが浮かんでまいりまして、ひとり言を言いはじめました。
「ああ、わたしはなんという馬鹿者なんだ! どこへ行こうというんだ? あの女の親類たちが、わたしがあの女に思いをよせていることに気がついたのだろう、ありもしないことを本気にして、わたしをあの墓の中で殺そうとして、あの女にこんなことをさせているのかもわからない! もしそんなことにでもなったら、貧乏くじを引くのはわたしだけで、あの連中の迷惑になるようなことは、何一つ知られずにすんでしまうだろう。それともだれかわたしの敵が、これをたくらんだのかもわからないぞ。そいつがたぶんこの女を愛していて、こんなことをして、その男に心中立てをするつもりなんだろう!」
そのあとで言いました。
「しかし、そんなことは両方ともあるはずがないとして、それでもあの女の親類たちがわたしを彼女の家に運んでいかなければならないとしたら、わたしにはその連中がスカンナディーオの死骸を自分たちで抱きたいためとか、あの女に抱かせたいためにほしがっているとは、どうしても思えない。それよりもたぶん以前に、あの男が何かのことであの連中に侮辱を加えたというので、なんとかその死骸に傷でもつけようとしているらしく思えてしかたがない。あの女は、わたしがどんなことを知ろうと何も言わないようにと言っている。もしあの連中がわたしの眼をくり抜いたり、歯を引き抜いたり、両手を切ったり、あるいはまたそんな風の悪戯をしたら、わたしはどうしたらいいのだろう? どうして、黙ってなんかいられるだろう。で、もししゃべったら、わたしは正体を見破られて、ひょっとしたらひどい目にあわされる。またもしそんな目にあわされないとしても、あの連中はわたしをあの女のところにおいておかないだろうし、そのうえあの女は、わたしがその命令にそむいたと言って、わたしの好きなことなどてんでさせてはくれないだろうから、わたしとしては骨折り損のくたびれ儲けということになるだろう」
こんなことを言いながら、もうほとんど家のすぐそばまで帰ってまいりました。しかし、それでも切ない恋心が、それと反対の理由で、とても激しい力で彼を前に押しだしましたので、とうとう彼は墓まで引きずられていってしまいました。そして墓をあけると、彼はその中にはいり、スカンナディーオの服をはいでそれを自分で着てから、頭の上の墓石を閉じて、スカンナディーオの死骸のあった場所におさまると、この男がどんな人間だったかということが思いだされてまいりました。そして夜になると、死人たちの墓場だけでなく、また他のところでも起こっていたいろいろの事を聞いておりましたので、全身に鳥肌が生じだし、今にもスカンナディーオが立ち上がって自分の喉笛を断ち切るのではないかという気がいたしました。しかし熱烈な恋心に助けられて、あれやこれやのこわい思いに打ち克ち、まるで死人になったようにじっとしたまま、何が起こるだろうかと待っておりました。いっぽうリヌッチョは、夜なかが間近に迫ってきましたので、思いを寄せていた女から言ってよこしたことを実行するために、家を出ました。そして歩きながら、スカンナディーオの死骸を肩にかついでいるところを市庁の役人たちにつかまって、魔法使いにされて火焙《ひあぶ》りの刑に処せられはしないかとか、もしあとで人に知られて、スカンナディーオの親類に憎まれるようなことになりはしないかといった身に降りかかってきそうなことや、その他の場合のことをたくさん、いろんなふうに考えはじめて、そのために足も思うように進みませんでした。しかしそのあとで考え直して、言いました。
「わたしがあれほど恋いこがれてきた、今も愛しているこの貴婦人が、わたしに頼んできた最初の願いに、とくにそれであのひとの歓心を間違いなく得られるというのに、いやだなどと言えるものだろうか。必ず死ぬときまっていたって、自分で約束したことをしないわけにはいかないぞ!」
で、どんどん歩いていって、墓に行き着くと、それをそっとあけました。アレッサンドロは、墓が開くのを知って、こわくてたまりませんでしたけれども、それでも黙っておりました。リヌッチョは中へはいると、スカンナディーオの死骸をつかんでいるつもりで、アレッサンドロの両足をつかまえると、彼を外に引きずりだし、自分の肩にかついで、貴婦人の家のほうに歩きだしました。こうして歩きながら、あまり注意を払いませんでしたので、彼のからだを、道に沿って置いてあったベンチのそっちの角や、こっちの角に、よく打ちつけました。その夜は暗くて、闇が深かったので、自分がどこに向かって歩いているのかさっぱり見当がつきませんでした。しかし、もうリヌッチョは貴婦人の家の戸口の下に着いておりました。貴婦人は、心の中ではもう二人とも追い払おうと覚悟をきめて、女中と一緒に窓辺で、リヌッチョがアレッサンドロを運んでくるかどうか見てみようと待機しておりました。ちょうどその時、市庁の巡邏《じゆんら》兵たちが、一人の逃亡者を引っ捕えようと、そのあたりに待ち伏せをして、なりをひそめておりましたが、リヌッチョの足音を聞きつけると、何をしているのか、どこに行こうとしているのか見きわめようとして、すぐさま明かりを取りだすと、楯と槍をかまえて、どなりつけました。
「そこにいるのは何者だ?」
リヌッチョは巡邏兵たちに気がつくと、あまりゆっくり考えをまとめる余裕もなく、アレッサンドロを放りだしたまま、韋駄天《いだてん》走りに逃げだしました。アレッサンドロは、すぐに起きあがると、ひきずるように長い死人の服を身につけたまま、これもまた同様に逃げて行ってしまいました。
夫人は、巡邏兵たちがとりだした明かりで、リヌッチョがアレッサンドロをかついでいるところを、その眼にはっきりと見ましたし、同時に、アレッサンドロがスカンナディーオの服を着ているのに気がつきまして、それぞれの男たちのたいへん思い切ったやり方に、心から驚きました。こうしてびっくりはいたしましたが、アレッサンドロがほうりだされるのを見たり、そのあとで逃げだして行くところを見て、腹をかかえて笑いました。で、そうした出来事を非常にうれしがって、二人のうるさい取り巻きから自分を救いだしてくれた神を讃えながら家の中に引っ込むと、寝室にはいってから女中を相手に、自分が二人に命じたことをあのとおりにやってくれたのだから、二人のうちどちらも、きっと自分を熱愛しているのだと、断言いたしました。
リヌッチョは身の不運を悲しんで、呪いながらも、これだけでは家に引き上げませんでした。そのあたりから巡邏兵たちが立ち去ると、彼はアレッサンドロをほうりだしておいたところに戻ってきて、自分の仕事をまっとうするために、死骸はないだろうかと手さぐりで探しはじめました。けれどもそれが見つかりませんでしたので、それでは巡邏兵たちが持ち去ったのだろうと考えて、泣く泣く家に帰っていきました。アレッサンドロは、だれが自分を運んできたのかわかりませんでしたので、なんともしようがなくて、身の不しあわせを嘆きながら、やはり同じように家に帰りました。
翌朝になって、スカンナディーオの墓があいていて、アレッサンドロが底のほうにかくしてしまったので、その中には死骸が見つかりませんでしたから、ピストイアじゅうがいろいろのうわさで持ちきりでございました。馬鹿な連中は、彼が悪魔どもに持ち去られたのだろうと言っておりました。そんなことにかかわりなく、二人の恋人たちは銘々、夫人に対して、自分がやったことや、起こったことを知らせて、これによって彼女の命令を十分に果たさなかったことの言いわけをして、彼女の歓心を買い、愛を求めました。彼女はそんなことはぜんぜん信じたくないようなふりをして、二人は自分が要求しておいたことを果さなかったのだから、二人のためには何もしてあげたくはないとはっきり答えて、その厄介払いをいたしました。
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第二話
[#この行3字下げ]〈ある女子修道院長が、訴えがあったので、そこの修道女が恋人と寝台に寝ているところを見とどけようと、あわてて暗闇で起きあがるが、自分も一人の司祭と一緒だったのでヴェールを頭にのせたつもりで、司祭の股引《ももひき》をかぶってしまった。訴えられた修道女はそれを見て、女子修道院長にそれと気づかせて、釈放されたうえ、恋人と心おきなく一緒にいられるようになった〉
すでにフィロメーナも口をつぐんでしまい、自分が愛したいと思っていなかった男たちを厄介払いした夫人の知恵才覚は、一同から賞讃をうけましたが、それとは反対に、恋する男たちの大それた執念深さは、一同によって、それは恋愛ではなくて、狂気だと言われました。その時女王はエリザにやさしく言いました。
「エリザ、あとをつづけてちょうだい」
エリザは、すぐにはじめました。
心から愛する淑女のみなさん、フランチェスカ夫人は、ただいまお話にございましたように、賢明なやり方で、その苦境を脱することができました。ところが一人の若い修道女は、運命に助けられて、さわやかな弁舌を用いて襲いかかる危険から自分を救ったのでございます。あなた方も御存じのように、自分が大馬鹿なくせに、他人たちの先生となり懲罰者となっている者が大勢おります。こうした人たちを運命は、わたくしのお話でおわかりになりますように、ときどき、しかるべく懲《こ》らしめております。で、そうしたことが、わたくしのお話ししなければならない修道女が服従していた女子修道院長に起こったのでございます。
さて、ぜひ御承知おき願いたいのですが、ロンバルディアに、高徳と篤信をもってその名もとくに高い修道院がございまして、そこにいる修道女たちの中に、イザベッタという名前の、貴族の血と、すばらしい美貌に恵まれた一人の若い娘がおりました。ある日のこと、面会にきた親類の男に会いに話し格子[#「話し格子」に傍点]のところにまいりましたが、その男と一緒にいた一人の美しい青年に恋をしてしまいました。青年は、彼女が非常に美しいのを見て、それにもう彼女の欲望をその眼から読みとっておりましたので、同じように彼女に対して胸をこがしました。そして、二人は、それぞれ大変苦しい思いをしながら、長いあいだ、むすばれることもなく、この恋を暖めておりました。とうとう、お互いに恋のほむらに煽られて、青年は、ごくこっそりといとしい修道女のもとに通えるような道を見つけました。そのことを彼女のほうもよろこんでおりましたので、青年は、一度ならず足繁く彼女を訪れて、それぞれ大いにたのしい思いをいたしました。しかし、こうしたことがつづいているうちに、ある夜のこと、青年がイザベッタのところから出て、帰って行くところを、ここの修道女の一人に見られてしまったのでございます。青年も、イザベッタも、そうとは気がつきませんでした。この修道女は、そのことを何人かの他の修道女たちに話してしまいました。そしてまずこれを、ウジンバルダさんという、修道女たちや、彼女を知っているどんな人の意見によりましても、善良な、信仰心の篤い方でとおっていた女子修道院長に訴えようと相談をきめました。それから一同は、その修道女がそんなことはないなどと否定することができないように、青年と一緒にいる現場を、修道院長におさえさせようと考えました。そこでみんなは何も言わないで、彼女を不意に取りおさえるために、こっそりと、徹夜や監視の分担をきめました。
さて、イザベッタはこんなことには無関心で、またそれについては何も知りませんでしたので、そうしたある夜のこと、彼女が青年をそこへこさせたというしだいです。鵜《う》の目鷹の目だった連中には、すぐにそれと知れ渡りました。もうだいぶ夜もふけておりましたが、彼女たちは頃合いを見計らって、二組に分かれると、一組はイザベッタの部屋の戸口の警戒につき、他の一組は修道院長の寝室に駆けて行って戸口を叩きました。すると、すぐに答えがございましたので、こう言いました。
「さあ、|修道院長さま《マドンナ》、早くお起きになってください。イザベッタが部屋に若い男といるところを見つけたんです!」
その夜修道院長は、それまでにしばしば箱に入れて呼びよせていた一人の司祭と一緒にいたのでございます。修道院長はその声を聞くと、修道女たちが、あわてすぎて、あるいは夢中になりすぎて、戸口を力いっぱい押し、それが開いてしまいはしないかと心配で、大急ぎで起きると、なんとかうまく暗闇で服を着ました。しかし頭にかぶる「サルテーロ」と呼んでいるヴェールが畳んであったのを取り上げたつもりで、司祭の股引《ももひき》を拾いあげてしまいました。彼女は、とてもあわてふためいておりましたので、自分では気がつかずに、ヴェールのかわりにそれを自分の頭にのせると、外に出て、すぐさまうしろの戸口を閉めると、申しました。
「神に呪われたその女は、どこにいます?」
修道女たちはイザベッタがあやまちを犯しているのを見せなければと、すっかりのぼせあがって夢中になっていましたので、修道院長が頭にのせている物などには気がつきませんでした。彼女たちは一緒に、例の部屋口に着くと、その戸を床に押し倒してしまいました。みんなが中にはいって見ると、寝台の中で恋人同士は抱き合っておりましたが、こうしていきなり襲われましたものですから、びっくり仰天して、どうしていいのかわからないで、じっとすくんでおりました。この娘はたちまち他の修道女たちに捕えられ、修道院長の命令によって、集会所に引き立てられました。服を身につけた青年はふみとどまっていて、もし自分の恋人の身に何か変わったことでも起こったら、手の届くかぎり多くの修道女たちに目にもの見せてくれたうえに、彼女を一緒に連れだそうという気がまえで、事件がどんな結末に落ちつくか見てみようと待っておりました。
修道院長は、集会所の席につくと、この罪を犯した娘ばかりを見つめていた修道女たち全員の面前で、彼女に向かって、その醜い非難すべき行動が、もし外部に知れたら、修道院の高徳や貞潔や名声を汚辱してしまうところでしたと言って、これまでに女性に向けて言われたいちばんひどい罵詈を浴びせかけたうえ、その罵詈のあとで、世にも恐ろしいおどし文句をつけ加えました。
その娘は、罪を犯しておりますので、恥じ入ってびくびくしており、何と答えていいのかわからず、黙りこんでおりましたので、他の修道女たちの同情をひきました。それでも修道院長がくどくどと文句を繰り返しておりましたので、娘はひょいと顔をあげてみました。すると修道院長が頭にのせているものと、そっちや、こっちからぶらさがっている股引の紐が目にはいりました。そこで、娘はそれがなんであるのかわかったものですから、すっかり安堵の胸をなでおろして、申しました。
「修道院長さま、神様の御加護で、もしおできになることでございましたら、あなたさまの頭巾《サルテーロ》の紐をお結びになって、それから、なんでもおっしゃりたいことをおっしゃってくださいませ」
娘の言っていることがわからなかった修道院長が言いました。
「何が頭巾です? この恥知らずが。今度は、冗談を言う勇気がでたんですか? 冗談口をたたけるようなことをしでかしたとでも思っているのですか」
すると、娘がもう一度申しました。
「修道院長さま、後生ですから、頭巾の紐をお結びいただきとう存じます。そのあと、お好きなことを、おっしゃってくださいませ」
そこで修道女のうちの多くの者は顔をあげて、修道院長の頭を見ました。修道院長も同時に両手を頭にあげましたが、一同には、なぜイザベッタがそう言ったのかわかりました。そこで修道院長は、自分の同じようなあやまちに気がつくと、それを全部の修道女に見られてしまったことを知って、今さらそのあやまちをかくす手段もございませんでしたので、お説教を変えて、今までしていたのとはがらりと違ったやり方でお話をしはじめました。そして、肉の刺激から身を防ぎ守ることは不可能であるとお話を結びまして、だからこっそりと、その日までしてきましたように、各人は、それができる場合には、たのしんでもよろしいと言いわたしました。こうして娘は釈放され、修道院長は司祭のところに、イザベッタはその恋人のところに寝に戻っていきました。その後も何度となくイザベッタは、自分を羨んでいた修道女たちを尻目にかけて、その恋人を引き入れました。恋人のなかった修道女たちは、できるだけ力をつくして、こっそりと自分たちの恋の冒険を探し求めました。
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第三話
[#この行3字下げ]〈シモーネ先生は、ブルーノや、ブッファルマッコや、ネッロの懇請によって、カランドリーノに、彼本人が妊娠していると思いこませる。彼はその薬のために前記の者たちに去勢したおんどりと金をあたえて、分娩《ぶんべん》せずに快癒する〉
エリザがその話を終えたあとで、若い修道女をうらやましがっている仲間の修道女たちの牙《きば》からみごとに救いだした神さまに対して、一同感謝を捧げたのち、女王はフィロストラートに、あとをつづけるようにと命令をしました。フィロストラートは、その命令を二度と繰り返させないで、話しはじめました。
いとも美しい淑女のみなさん、昨日わたしがあなた方にお話しいたしましたあのしつけの悪いマルケの裁判官のおかげで、わたしはあなた方にお話ししようとしておりましたカランドリーノのお話を、しそびれてしまいました。で、カランドリーノと、その仲間たちについてはたくさんお話もでましたが、彼について話されることは、一段と興を増すばかりでありますから、わたしは、昨日考えておりましたお話も、やはりみなさまに御披露することにいたしましょう。
カランドリーノがどんな男で、またこのお話の中に出てくるほかの連中がどんな人たちであるかは、今までにずいぶんはっきりと示されております。そこで、そのことについてはそれくらいにしておいて、わたしはただ、カランドリーノの伯母が死んで、彼に小銭《こぜに》で二百リラの金を遺していったことをお耳に入れておきます。そんなわけで、カランドリーノは、自分は土地を買いたいのだと言いはじめました。そして、まるで使える金が金貨一万フィオリンほどもあるような顔をして、フィレンツェじゅうの仲買人と商談をしておりましたが、その商談は、問題の土地の値段になると、いつもこわれてしまいました。このことを知っていたブルーノと、ブッファルマッコは、それはまるで弩《おおゆみ》用に土の弾丸をこしらえるような無駄骨折りだから、土地など買うよりも、その金で自分たちと一緒に楽しんだほうがずっといいことなのだと、何度も言って聞かせました。しかし、そんなことはおろか、二人はいまだかつて彼におごらせるように仕向けることさえできませんでした。そこである日、二人でそのことを愚痴っておりますと、そこへ仲間のネッロという絵描きがやってきましたので、三人で知恵をしぼって、カランドリーノの勘定でたらふく食べる方法を見つけだそうときめました。で、善は急げというわけで、お互いのあいだで何をしなければならないか、その手はずをすませました。翌朝、カランドリーノが家から出るときに待ち伏せしていて、彼がほんの少し歩きだしたところで、ネッロが彼とばったり出会って言いました。
「今日は、カランドリーノ」
カランドリーノは、ネッロに向かって、神さまがよき日とよき年とを君の上に恵まれるようにと答えました。そのあとで、ネッロはちょっとためらっておりましたが、相手の顔をじろじろと見つめだしました。カランドリーノが、ネッロに言いました。
「何を見ているんだね?」
すると、ネッロが彼に言いました。
「昨夜何か怖い目にでもあったのかね? いつもとは別人のようだぜ」
カランドリーノはすぐに気になりだして、言いました。
「ああ、なんだって? わたしがどんなふうに見えるって?」
ネッロが言いました。
「さあ、それはなんとも言えないがね。でも君はすっかり変わっちまったように見えるよ。たぶんなんでもないんだろうが」
そうして、そのままカランドリーノを行かせました。カランドリーノは、わけがわからず、すっかり心配になって、歩いていきました。そこからあまり離れていないところにいたブッファルマッコは、カランドリーノがネッロと別れていくのを見て、カランドリーノとでっくわして挨拶をしてから、彼に気分はなんともないかとたずねました。カランドリーノが答えました。
「わたしにはわからないんだ。でも、たった今ネッロがわたしに、すっかり変わっちまったようだと言っていたしね。わたしはどうかしたんだろうか?」
ブッファルマッコが言いました。
「ああ、たいしたことじゃないのかもしれないがね。でも君は半分死んじまっているようにも見えるね」
カランドリーノは、もう熱があるような気になってきました。そこへブルーノがやってきて、相手が口をきかないうちに、言いました。
「カランドリーノ、なんだい、その顔は? まるで死んじまったようじゃないか! どうなんだい、気分は?」
カランドリーノは、彼らがてんでにこう言っているのを聞いて、自分でもてっきり病気にかかってしまったのだと思いこんで、すっかりしょげ返って聞きました。
「どうしようかしら?」
ブルーノが言いました。
「君は家に帰って寝台にはいり、よく布団をかけてもらったらいいと思うね。そして、君も知っているとおり、わたしたちとたいへん親しいシモーネ先生のところへ小水を届けたらいいだろうね。あの人は、君がどうしたらいいか、すぐに言ってくれるよ。わたしたちは君と一緒に行って、何か用があったら、手伝ってあげよう」
そこへネッロがやってきまして、みんなはカランドリーノと彼の家に帰っていきました。カランドリーノは、すっかりくたくたになって、寝室にはいると細君に言いました。
「こっちへ来て、よく布団をかけておくれ。わたしはとてもからだのぐあいが悪いんだから」
そうして、横になると、自分の小水を女中に持たせて、シモーネ先生のところに送り届けました。その時シモーネ先生は、メルカート・ヴェッキオ(古市場)の、メロン(「馬鹿」の意にもなる)の看板のでている店におりました。
で、ブルーノが、仲間たちに言いました。
「君たちはここに彼と残っていてくれたまえ。わたしは医者がなんと言うか、聞きに行ってこようと思うんだ。もし必要だったら、ここに連れてくるからね」
そこで、カランドリーノが言いました。
「ああ、いいよ、君、行ってきて、どんなようすなのかあとで教えてくれたまえ。なんだか知らんが、腹の中が変なぐあいだからね」
シモーネ先生のところに出かけたブルーノは、小水を持って行った女中より先に着いて、シモーネ先生にそのわけを話しました。ですから、先生は女中が着いた時、その小水を見てから女中に言いました。
「帰ってよろしい。そして、カランドリーノにうんと暖かくしているようにと言っておくれ。わたしはこれからすぐにうかがって、どんな病気なのか、どうしなければいけないか、あの人に話してあげよう」
女中はそのとおり伝えました。それからまもなく、先生とブルーノがやってきました。先生は、カランドリーノのそばに腰をかけて、脈をとりはじめました。しばらくしてから、そこに細君がいるのにおかまいなく言いました。
「ねえ、カランドリーノ、友人に話すつもりで言うがね、君は妊娠しているだけで、ほかにはどうということもないんだよ」
カランドリーノは、これを聞くと、悲しそうに大声を立てて、言いだしました。
「ああ! テッサ、これはお前のせいだよ、お前はいつだって上にばかりなりたがっていたんだ。わしが言っていたとおりだ!」
非常な貞女だった細君は、夫がそう言うのを聞くと、恥ずかしそうに真っ赤になって、うつむくと、なんとも答えないで寝室から出て行きました。カランドリーノは、泣き言をつづけて言いました。
「ああ! とんだ目にあっちまった! どうしたらいいんだろう! このこどもをどうやって生むんだろう? どこからこどもは出るんだろう? どうだい、うちの家内の淫らなばっかりに、わたしはきっと死んじまうよ。わたしがしあわせになりたいと思っている度合いと同じくらい、家内には罰が当たって不幸な目にあうといいんだ。だが、わたしが、今はだめだが、しっかりしてさえいたらなあ! そうしたら、起きあがって、あいつを思う存分殴って、からだじゅうめちゃめちゃにしてやるんだがなあ。わたしが、あれを上にのらせなければよかったんだから、これも自業自得と言わなくちゃならないんだ。だが、わたしが今度助かったら、断じてあれにはそんなことをさせないぞ。その前にあれはとっくに、欲望で狂い死にしてしまうだろうがね」
ブルーノとブッファルマッコとネッロは、カランドリーノのことばを聞くと、吹きだしたくなって、おなかがはちきれそうでした。しかし、シンミオーネ(大猿)先生は、歯を全部抜いてしまえるほど大口をあいて、だらしなくげらげらと笑っておりました。けれどもそうしているうちに、カランドリーノが医者に、自分のことについて忠告や助力をあたえてほしいと頼みこんだので、先生は彼に言いました。
「カランドリーノ、そう気を落としてもらっちゃ困るね。さいわい、わたしたちは早く気がついたんだからね。わたしがちょっと手当てをすれば、数日で癒してあげられるよ。だが、少しお金を使わなくちゃいけないよ」
カランドリーノが申しました。
「ええ、先生、そりゃあ、そうですとも! わたしはここに二百リラ持っています。これで、土地を買おうと思っていました。わたしがこどもを生まなくてすむのでしたら、必要なだけ、全部でもおとりになってください! 女たちはこどもを生むのに、かなり大きなものを持っているくせに、いざ生む段になると、とても大騒ぎをするということを聞いてますし、もし、わたしがそんな苦しい目にあったら、お産をしないうちに死んじまうと思うくらいの大騒ぎをしそうで、どうしたらいいのか、途方に暮れているしまつですからね」
医者が言いました。
「心配御無用。とてもよくきいて飲みやすい蒸溜した水薬を、君のためにこしらえてあげよう。それは三日で、何もかも溶かしてしまう。そうして君は魚よりもぴんぴんしちまうよ。だが、今後は無分別なことはしないで、二度とこんな馬鹿げた目にあわないようにするんだよ。さて、その水薬を作るには、上等の、ふとった去勢鶏が三つがい必要なんでね。そのほかに、これに関わりのあるいろいろの品物のために、あの人たちのだれか一人に、それを買うようにと小銭で五リラやって、全部の品をわたしのところに届けさせてくれたまえ。わたしはきっと明日の朝、君のところへその蒸溜した水薬を届けてあげよう。大きなコップになみなみとついで、一回に一杯ずつ飲むように」
カランドリーノはこれを聞いて、申しました。
「先生、おっしゃるとおりにします」
で、彼はブルーノに五リラと、去勢鶏三つがいの代金を渡して、自分のために、そうした品物をめんどうだがととのえてくれと頼みました。
医者は、そこから家へ帰ると、彼のために少量の香りのいい砂糖水を調合して、それを届けさせました。ブルーノは、去勢鶏や、そのほか御馳走を作るのに必要なものを買いこんで、医者や、仲間たちと一緒にこれをたいらげました。カランドリーノは、三日つづけて、砂糖水を飲みました。医者は彼のところにやってきました。三人の仲間たちもやってきました。医者は、彼の脈をとって言いました。
「カランドリーノ、君はもうだいじょうぶ、すっかりなおっているよ。安心してなんでも仕事をしに行っていい。もうひっこんでいる必要はないよ」
カランドリーノは、よろこんで、起きあがると、自分の仕事をしにでかけました。そして、だれか話し相手を見つけるといつでもきまって、シモーネ先生が、自分にみごとな治療をしてくれて、ちっとも痛みを感じさせないで、三日間で妊娠をなおしてくれたと、ほめそやしました。ブルーノと、ブッファルマッコと、ネッロは、たくみにしまり屋のカランドリーノの鼻をあかすことができましたので、大いに満足しておりました。もっともテッサは、それに気がついて、夫に向かって、ひどくぶつぶつこぼしておりました。
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第四話
[#この行3字下げ]〈フォルタルリーゴ家のチェッコは、シエナ近郊のボンコンヴェント村で、自分の持ち物全部とアンジュリエーリ家のチェッコの金を賭博に使ったうえ、シャツ一枚になってアンジュリエーリ家のチェッコを追いかけながら、相手が自分の物を盗んだと言って、村人たちに捕えさせる。そして彼の服を着て馬に乗り、相手をシャツ一枚でおいてけぼりにして、その場を立ち去る〉
カランドリーノが、自分の妻を責めて言ったことばを聞いて、仲間のもの一同は大笑いをしました。しかし、フィロストラートが口をつぐんだので、女王のお望みに従って、ネイフィレがはじめました。
世にすぐれた淑女のみなさん、もし他人に対して、自分たちの愚かさや悪いくせを示すよりも、自分たちの聡明なことや、長所を示すことのほうが、人間にとって一段と困難なことではないといたしますならば、多くの人々が自分たちのことばをつつしもうと努めるのは無駄な骨折りであると、申してもよろしいでございましょう。このことは、自分が愚かなばかりに罹《かか》っていると思いこんでしまった病気から回復するため、細君の秘密のたのしみなどを他人に公開する必要などぜんぜんなかったカランドリーノの馬鹿さかげんによって、あなた方は十分に納得されたと思います。このことから、それとは反対の、すなわち、一人の男の悪知恵が、いかにもう一人の知恵をしのいで、相手にひどい損害と侮辱をあたえたか、という話がわたくしの頭に浮かんでまいりましたので、それをみなさんにお話しいたしたいと存じます。
そう以前のことではございませんが、シエナに、どちらもチェッコという名前の二人の相当の年配になった男がおりました。一人はアンジュリエーリ、もう一人はフォルタルリーゴという姓でございました。二人は、生活の仕方が多くの点で異なっておりましたが、一つの点で、すなわち、両方とも自分たちの父親を憎んでいるという点ではすっかり意気投合しておりましたので、お互いに友人になって、しばしば往来しておりました。
美男で、行儀作法を心得たアンジュリエーリは、父親からの月々のあてがいぶちで送っているシエナの生活を味気なく感じておりましたところへ、自分をたいへんかわいがってくれていた枢機卿が、教皇の使節として、マルカ・ダアンコーナにこられたと聞きましたので、自分の境遇を、よくすることができると思いこんで、その枢機卿のところに行こうと決心をいたしました。で、このことを父親に話しまして、衣裳をつくり、馬を買い求め、立派にして出かけるために、六か月分を一度にもらうことで、父親と話をつけました。そして、自分の用をさせるのに、一緒に連れて行けるような男を探しておりましたところ、このことをフォルタルリーゴが聞きこみました。彼はさっそくアンジュリエーリのところにやってきて、ぜひ一緒に連れて行ってもらいたい、自分は、下男でも、従者でも、なんでもかまわない、食べさせてさえいただければ手当などは一文もいらないと、懸命に頼みだしました。彼に対して、アンジュリエーリは、君がどんな仕事にも役に立つことを知らないわけではないが、君は賭博をするし、そればかりでなく、ときどき酔っぱらうから、と言って連れて行きたくないと答えました。それについてフォルタルリーゴは、むろんどちらも用心してやらないようにするからと言って、何度も誓いを立ててこれを保証したうえ、あまりくどく頼みましたので、アンジュリエーリも根負けしてしまって、それならよろしいと言いました。
ある朝、二人は出発しましたが、ボンコンヴェントまでやってきて、食事をすることにしました。そこでアンジュリエーリは食事をすませると、暑さがきびしかったので、宿屋に寝台を用意させ、服を脱ぐとフォルタルリーゴに手伝わせて床につき、午後三時が鳴ったら、起こすようにと彼に言っておきました。
フォルタルリーゴは、アンジュリエーリが寝入ったので、居酒屋に出かけ、そこでいくぶんきこしめしてから、何人かの者を相手に賭博をはじめました。その連中は、ちょっとの間に、彼が持っていたなにがしかのお金を捲き上げ、同様に彼が身につけていた服を全部取り上げてしまいました。そこで彼は、その負けを取り返そうと思って、シャツ一枚のままアンジュリエーリが寝ていたところに行き、相手がぐっすりと寝込んでいるのを見て、その財布から持ち金を全部引き抜いて賭博をしているところに戻り、前のもの同様に、それもとられてしまいました。
アンジュリエーリは、目がさめると起きあがって、服を着てから、フォルタルリーゴのことをたずねました。彼の姿が見つかりませんでしたので、アンジュリエーリは、あいつは、前のいつものくせがでて、どこかで酔いつぶれて寝込んでしまったのだろうと考えました。それで彼をほうっておくことにきめて、自分の馬に鞍《くら》を置かせ、手さげかばんを積ませますと、コルシニャーノで別の従者を雇おうと考え、そこを立ち去ることにしまして、さて宿屋の亭主に勘定を払う段になると、お金が見つかりません。そこで、悶着が起こり、宿屋じゅうはひっくりかえるような騒ぎに捲きこまれてしまいました。アンジュリエーリが、宿屋の中でお金を盗まれたと言って、そのためにみんなを引っくくって、シエナに引きたてさせるとおどしたからでございます。すると、ちょうどそこへ、前にお金を盗んで行ったでん[#「でん」に傍点]で、服を奪いにきたフォルタルリーゴが、シャツ一枚で戻ってまいりました。そして、アンジュリエーリが馬に乗ろうとしているのを見て、言いました。
「これはどうしたわけですか、アンジュリエーリさん? もう出発するんですか。まあ! ちょっとお待ち下さい。じきにここへ、わたしの胴衣を三十八ソルドの質草《かた》にとった男がやってくるはずです。きっとその男は、今、金を払ってやれば、三十五ソルドで胴衣を返してくれますよ」
まだそのことばが終わらないうちに、一人の男がやってきました。その男は、アンジュリエーリに、フォルタルリーゴが負けた金額を言って、フォルタルリーゴが彼の金を盗んだ犯人だったということをはっきりと思い知らせました。そんなわけで、かんかんに怒ったアンジュリエーリは、フォルタルリーゴにたいへんきつい罵詈雑言を浴びせました。もし神さまのほかにこわいと思うもの(法律の制裁など)が何もありませんでしたら、手をあげてひどい目にあわせていたことでしょう。しばり首にしてやるとか、シエナから追放して、もしシエナに帰りでもしたら死刑にしてやるとか言っておどかしながら、馬に乗りました。フォルタルリーゴは、まるでアンジュリエーリが自分にではなく、他人に向かってでも言っているように、知らぬ顔をして言いました。
「ああ! アンジュリエーリさん、さあさあ今は、そんな愚にもつかないことはほうっておきましょう。それよりもこの一件を考えましょう。今だったら、三十五ソルド払えば、それを取り戻せるんですよ。ここで明日までぐずぐずしていたら、この人はわたしに貸した三十八ソルドを一文も欠けてはいやだと言うでしょうからね。この人は、わたしが言いなりになって、お金を使ったので、こうした好意を示してくれているんです。ああ! どうしてわたしたちは、この三ソルドを儲けようとしないんですか?」
アンジュリエーリは、彼がこう言っているのを聞くと、いても立ってもいられない気持ちになりました。とくに、まわりにいる連中が自分のほうをじろじろ見つめているのを眺めて、フォルタルリーゴがアンジュリエーリの金を賭博で失ったのではなくて、アンジュリエーリのほうにまだフォルタルリーゴに渡す分があるのだと、その連中が思いこんでいるらしいような気がいたしましたので、フォルタルリーゴに向かって、言いました。
「お前の胴衣がわたしになんの関係があるというんだ? お前はしばり首にでもされればいいのだ。お前は、わたしの金を盗んで、賭博に使ったばかりでなく、そのうえに、わたしの出かけるのを邪魔だてして、わたしを愚弄するようなことまでしくさったのだからな」
フォルタルリーゴは、どこ吹く風と聞き流して、じっと立ったままで、言いました。
「ねえ! どうしてあなたはその三ソルドを、わたしのために儲けようとしないのですか。わたしが、また今度それを、あなたに御用立てできないと思っていらっしゃるんですか。ねえ! もしわたしのことを考えて下さるのでしたら、そうして下さいよ。どうしてあなたは、そんなに急いでいらっしゃるのです? わたしたちは、トルレニェーリには、今晩のうちにまちがいなく着きます。さあ、財布をおだし下さい。シエナの町じゅうを探したってこの胴衣くらいぴったりと身に合うのは一つだって見つからないでしょうからね。それをですね、この人に三十八ソルドでやっちまうなんて! これは四十ソルドか、それ以上の値打ちがあるんです。ですから、あなたはわたしに二重の損をかけることになるんですよ」
アンジュリエーリは、その相手に金を盗まれたうえ、今そんな言いがかりをつけられていることを知って、煮えくりかえるような気持ちになって、もう返事もせず、馬頭を転じて、トルレニェーリのほうに走りだしました。フォルタルリーゴは、抜け目のない悪知恵を働かして、シャツ一枚のままで、そのあとから駆けだしました。そして、もう二マイルあまりもただ胴衣のことばかり口にしながら、追いかけました。アンジュリエーリは、そのうるさい声を耳から払いのけようとして、馬の足を急がせておりました。すると、アンジュリエーリの前方の道の近くの畑の中に、百姓たちがいるのがフォルタルリーゴの目にはいりました。フォルタルリーゴは彼らに向かって、大声で叫びだしました。
「そいつをつかまえてくれえ、そいつをつかまえてくれえ!」
そこで百姓たちは、手に手に鋤や、熊手を持って、アンジュリエーリの行く手に立ちふさがると、てっきり彼がシャツ一枚で追いかけてくる男から盗んだのにちがいないと思いこんで、彼を押しとどめて、捕えてしまいました。アンジュリエーリは、自分が何者であり、事件のいきさつはこうなのだと、彼らに話してみましたが、何の効き目もございませんでした。ところが、フォルタルリーゴは、そこに追いつくと、怒ったような顔をして、言いました。
「わたしのものを持ち逃げした性悪の泥棒め、わたしはどうしてお前を殺さないのか、わからないくらいだ!」
それから村人たちのほうに向いて、言いました。
「見て下さい、みなさん、この男が、最初自分の持ち物を全部賭博ですってしまってから、宿屋に、どんなふうに、このわたしをおいてきぼりにしたか! まったく、神さまとあなた方のおかげで、これだけは取り戻せたというわけです。このことは、一生ありがたく恩にきます」
アンジュリエーリも同じようにしゃべりたてましたが、彼のことばは聞き入れられませんでした。フォルタルリーゴは、村人たちに手伝ってもらって、アンジュリエーリを馬から引きずりおろし、裸にして、その服を自分で着込むと、馬に乗り、アンジュリエーリをシャツ一枚ではだしのまま置き去りにして、いたるところでその馬と服はアンジュリエーリから賭博で勝ちとったのだと言いふらしながら、シエナに帰ってきました。マルカの枢機卿のもとに立派ななりをして行こうと思っていたアンジュリエーリは、無一文になってシャツ一枚でボンコンヴェントに戻りましたが、当分は恥ずかしいのでシエナに帰る勇気がでませんでした。服を貸してもらって、フォルタルリーゴが乗っていた駄馬に乗り、コルシニャーノの親類のところまで行って、父親から金が届くまで、そこに厄介になっておりました。こうして、フォルタルリーゴの悪知恵は、アンジュリエーリの聡明な計画を画餅《がべい》に帰せしめたのでございます。もっとも、然るべきところで、然るべき機会に、アンジュリエーリから仕返しをうけずにすみはいたしませんでしたけれども。
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第五話
[#この行3字下げ]〈カランドリーノが若い婦人に恋をする。ブルーノがカランドリーノのために護符《ごふ》を作ってやり、カランドリーノがその護符で婦人のからだに触れると、婦人は彼と一緒に行く。彼は細君に見つかって、とてもひどく、うるさい質問攻めにあう〉
ネイフィレの長くもない話が終わると、一同はあまり笑いもせず、話題も出てきませんでしたので、女王はフィアンメッタのほうを向いて、つづいてお話をするようにと命じました。彼女はうれしそうにして、よろこんでお話ししましょうと答えて、話しだしました。
いともつつましやかな淑女のみなさん、あなた方は御承知のことと存じますが、すでにたくさん語られた題材であっても、話そうとする人が、それにふさわしい時と場所を選んでお話しすれば、そのたびに、いちだんと人をたのしませることができると思います。ところで、わたくしたちがなんのためにここにいるのかということを考えますと、陽気に騒いで、愉快に時を過ごすためなのであって、それ以外のためにここにいるのではございませんから、わたくしは、にぎやかさと快楽を提供することのできるものなら、何でも、ここでは然るべき時と場所を得たものであり、たとえそのことで千回お話がされたといたしましても、これをお話しすればやはり同じように人をたのしませるにちがいないと存じます。そういうわけで、カランドリーノのことについては、わたくしたちのあいだで何度もお話に出ましたけれども、少し前にフィロストラートがおっしゃったように、そのどれもがたのしめるものだった点を考えまして、今までにされたお話のほかに、思い切ってさらにもう一つお話をいたしましょう。もしわたくしが事実の真相からそれようと思っておりましたなら、あるいは思っておりますならば、いろいろと別の名前を用いて、それをまとめあげて、物語ることが十分にできたでしょうし、できることでございましょう。しかし、実際にあったことの真相から離れることは、お話をするに当たって、聞く方々のたのしみを大いに損なうものでございますから、今述べた理由に力をかりまして、ありのままの形で、それを申しあげましょう。
ニッコロ・コルナッキーニはわがフィレンツェの市民で、お金持ちでございまして、数ある所有地の一つとしてカメラータに立派な土地を持っており、そこに豪奢な美しい屋敷を建てさせましたので、その屋敷全体に絵を描いてもらいたいと、ブルーノとブッファルマッコに話をつけました。二人はその仕事が大きなものでしたので、自分たちにネッロとカランドリーノを加えて、みんなで仕事にとりかかりました。さて、そこではいくつかの寝室に寝台やその他適当な家具が備えられて、一人の年寄りの女中が留守番として住んでいるほかは、家族の者とてはだれもおりませんでした。フィリッポという名のニッコロの息子が、若くてまだ独身でしたので、ときどきたのしもうと、女を連れこんできては、一日か二日そこにかくまって置いて、それから追いかえすのを例としておりました。さて、何度かそんなことをしているうちに、ニッコローザという名前の女を、そこへ連れこんだのでございます。この女は、マンジョーネと呼ばれていた悪い男が自分の思い者として、カマルドル街のある家にかこっておいて、金をとっては人に世話をしていたのです。女は美しい容姿で、身なりもよく、こうした地位の者としては、たいへん礼儀も正しく、話も上手でした。ある日の昼頃、彼女が白い下着を着て、髪を頭の上に巻きつけたまま、寝室を出て、その屋敷の中庭にある井戸のところで、手と顔を洗っておりますと、ちょうどそこへ、カランドリーノが水を汲みにきて、なれなれしく彼女にあいさつをいたしました。彼女はカランドリーノにあいさつを返すと、じっとその顔をみつめはじめました。それはほかに考えがあったというよりも、カランドリーノが変人のように思われたからでした。カランドリーノは、女を見つめ返すとたいそう美人に思われましたので、なんとかそこにいようとあれこれと仕事をしたりして、仲間たちのところに水を持って帰ろうとはしませんでした。でも、女と知り合いではなかったので、話しかけるわけにはいきませんでした。彼がじろじろと見ているのに気がついていた彼女はひとつからかってやろうと思って、ときどき彼のほうを見つめて、小さな溜息をいくつかもらしました。そのため、カランドリーノはたちまち彼女に対して胸をこがしてしまい、彼女がフィリッポに呼ばれて、その寝室に帰っていくまで、中庭から立ち去りませんでした。仕事に戻ってきたカランドリーノは、ただ溜息ばかりをついておりました。ブルーノは、もともとカランドリーノのすることにはとても興味を持っておりましたので、その行動にひとかたならぬ注意をよせていたものですから、そのことに気がついて言いました。
「どうしたんだ? カランドリーノ。君は溜息ばかりついているよ」
カランドリーノは、彼に言いました。
「ねえ君、だれかわたしに力をかしてくれる者がいたら、助かるんだが」
「なんだって?」と、ブルーノが言いました。
彼にカランドリーノが言いました。
「だれにも言ってはいけないよ。この下に若い女の人がいてね、妖精よりも美人なんだ、その人が君から見てもたいへんだと思われるくらい、わたしにぞっこんまいってしまったんだ。わたしは今、水を汲みに行った時、それに気がついたんだ」
「ああ!」と、ブルーノが言いました。「用心したまえ、あれはフィリッポの細君かもしれないぜ」
カランドリーノが言いました。
「そうだと思うよ。だって、フィリッポが呼んだら、寝室の彼のところへ行っちまったからね。でも、だからと言って、それがなんだと言うんだ? こんなことにかけては、わたしはフィリッポばかりか、キリストさまだって一杯食わせて見せるよ。本当のことを君には言うけど、ね、わたしも、口では言えないくらい、あの女が好きでたまらないんだ」
すると、ブルーノが言いました。
「よし、その女が何者か調べてあげよう。もしそれがフィリッポの細君なら、とても懇意にしてもらっているから、君の用件は即座に片づけてあげよう。だが、ブッファルマッコに知らせないようにするには、どうしたらいいものだろうね? あいつと一緒でないと、わたしはどうしてもあの女と話ができないんだよ」
カランドリーノが申しました。
「ブッファルマッコなら、わたしはかまわないよ。だがネッロには用心しよう。あいつは、テッサの親戚で、何もかもぶちこわしちまうだろうからね」
ブルーノが言いました。
「そのとおりだ」
さて、ブルーノは、その女が屋敷にくるところを見ておりましたし、フィリッポも彼にその女のことを話しておりましたので、彼女が何者であるのか、知っておりました。ですから、カランドリーノがちょっとの間仕事をあとにして、女を見に行ったので、そのあいだにブルーノは、ネッロと、ブッファルマッコにすべてを打ち明けてしまいました。そうして三人一緒になって、こっそりと、この彼の恋愛事件についての取り扱い方をきめました。カランドリーノが帰ってきましたので、ブルーノが小声で聞きました。
「会ったのかい?」
カランドリーノが答えました。
「ああ! 会った、あの女はわたしを腑抜《ふぬ》けにしてしまった」
ブルーノが言いました。
「わたしは、それがわたしの考えている女かどうか見に行ってきたいね。もしそうだったら、わたしに任せておきたまえ」
そこでブルーノは下におりて行って、フィリッポと女がいるのを見て、二人に向かって、カランドリーノがどんな男であって、二人のことをどう言っていたかということを順序を立てて話をして、カランドリーノの恋愛事件を肴《さかな》に大いに笑い興じるために、二人のうち銘々がしたり、言ったりする役割について、彼らと手筈をきめました。そしてカランドリーノのところに戻ってきて、言いました。
「やっぱりあの女だったよ。だからこのことはとても上手にやらなくちゃいけないよ。もしフィリッポにそのことがわかったら、アルノ河の水を全部浴びても、すむようなことではないだろうからね。だが、もしわたしがあの女と話をすることになったら、君からだと言って、なんと伝えたらいいんだい?」
カランドリーノが答えました。
「うん、まず、あの女にわたしがあなたにこどもをみごもらせるくらいの、千|桝《ます》ほどの量り知れない愛情をよせていると言うんだ。それから、わたしはあなたの下僕です、何か御用はございませんか、と言ってくれたまえ。わかったかい?」
ブルーノが言いました。
「うん、わたしにまかせておきなさい」
夕飯の時間になったので、彼らは仕事をやめて中庭におりて行くと、そこにフィリッポとニッコローザがおりましたので、しばらくのあいだカランドリーノのために、そこに止まっておりました。そこでカランドリーノは、ニッコローザをじっと見つめだして、盲人でも気がつくような、なんとも奇妙な動作をいろいろたっぷりとやりはじめました。いっぽう女のほうでは、彼を夢中に燃えたたせるのに効き目があると思うようなあらゆることをいたしました。フィリッポはブルーノから得ていた報告によって、カランドリーノの動作を見て、このうえもなく愉快な思いをしながら、ブッファルマッコや、その他の連中と話をしていて、このことには気がつかないようなふりをしておりました。しかし、それでも少しすると、彼らは、カランドリーノが非常にがっかりしているのをよそにして、そこを発って、フィレンツェに向かいました。途々ブルーノが、カランドリーノに言いました。
「まったく君は、あの女を、日なたの氷のようにとろかしてしまったね。神さまに誓って言うけれど、もし君が三弦胡弓《リベバ》を持ってきて、あの君の恋の歌をいくつか、その伴奏でちょっと歌ったら、あの女は、窓からとび下りて君の胸にとんでくるだろうぜ」
カランドリーノが言いました。
「そう思うかい、君? 三弦胡弓を持ってきたほうがいいと思うかい?」
「うん」と、ブルーノが答えました。
カランドリーノが、彼に言いました。
「君は今日、わたしがそのことを話した時は、本気にしていなかった。ねえ君、わたしにはね、だれよりもうまく、自分の望んでいることをやりとげられることがわかっているんだ。彼女みたいなすばらしい女をこんなに早く惚れさせることは、わたしのほかに、だれができるというんだ? 一日じゅうあっちこっちをふらついても、何ひとつできやしない。あの女にもてたとほらばかり吹いているあの青二才どもには、てんでそんなことはできやしないだろうよ! さて今度は、わたしが三弦胡弓を手にしたところを、ちょっとばかし見てもらいたいね。そりゃあ、すばらしいもんだよ! それから、君が考えるほどわたしが年寄りじゃないってことを、はっきり知っておいておくれよ。あの女にはそれがわかったんだよ、あの女にはね。もしそうでないにしても、わたしがあれのからだに手をかけたら、それをわからしてやるんだ。キリストさまに誓って言うがね、気違い女がこどもを追い廻すように、あの女がわたしのあとを追いかけ廻さずにいられなくなるくらいに、うまく、あれにはいいことをしてみせるからね」
「おお!」と、ブルーノが言いました。「君はあれを夢中で抱きしめるだろうよ。その楽器の糸巻のようならんぐい歯で、君が、あの女の真紅の口や、二つのばらの花のようなあの頬っぺたにかみついて、それからからだじゅうを食べてしまうのが、今から目に見えるようだ」
カランドリーノは、このことばを聞いて、もうそれをしているような気持ちがして、うれしさのあまりじっとこらえていられないで、すっかり有頂天になって、歌ったり、踊ったりするしまつでした。そこで、翌日、彼は三弦胡弓を持ちだして、それを弾きながら、いくつも歌を歌いましたので、仲間たち一同は面白くてたまりませんでした。で、要するに、彼はたびたび彼女の姿を見ようとすっかりのぼせあがっておりましたので、そのために、ちっとも仕事が手につかなかったのです。一日のうち千回も、彼女を見ようと、窓辺や、戸口や、ある時はまた中庭に駆けて行きました。彼女は、ブルーノのさしずに従って、巧みに操作をして、非常にうまくその機会を彼にあたえておりました。いっぽうブルーノは、カランドリーノの使いの者に返事をしたり、またしばしば女のほうからのことばを彼に伝えました。女が留守だった時には(たいていそうでしたが)、彼女から手紙を自分のところによこさせました。その手紙の中で、彼の欲望に大きな希望を持たせておいて、彼女は親戚の家にいるので、カランドリーノに会えないのだということを知らせました。こんなふうにして、事件を操っていたブルーノとブッファルマッコは、カランドリーノのやり方を何よりも面白がっておりましたが、そうしながらも、女がほしがっていると言って、ときどき、象牙の櫛や、財布や、ナイフや、そういったこまごまとしたものを贈らせて、そのお返しには、一文の値打ちもないにせものの指輪などを渡しましたが、カランドリーノはそれをもらって気違いのようになってよろこんでおりました。そのほかに、ブルーノとブッファルマッコは、カランドリーノから自分のことをよろしく頼むということで、おいしい食事に呼ばれたり、いろいろのちょっとした贈りものをうけました。さて、彼らは、もう何もしないで、二か月あまりも彼をこんなふうにしておいたのですが、カランドリーノは仕事がおしまいになろうとしているのを見て、仕事が終わらないうちに自分の恋をとげなかったら、もう二度とそうすることはできないと考えましたので、真剣になって、ブルーノにせっついて、早くなんとかさせようとしはじめました。そんなところへ、女がやってきましたので、ブルーノは、まずフィリッポや彼女とどうしたらいいのか手筈をきめてから、カランドリーノに言いました。
「ねえ、君、彼女は君が望んでいることをすると、わたしに千度も約束をしておきながら、そのあとで何もしないんだ。どうもあれは君をからかっているらしいよ。だから、あれが、約束したとおりに実行しないからには、わたしたちは、君さえよかったら、あれがどう言おうとも、あれにそれを実行させてみせるよ」
カランドリーノが答えました。
「ああ! そうだよ、まったく。早くそうしておくれよ」
ブルーノが言いました。
「わたしが君にこしらえてあげる護符《ごふ》で、あの女にさわってみる勇気があるかい?」
カランドリーノが言いました。
「ああ、あるとも」
「では」と、ブルーノが言いました。「胎内の子牛の皮で作った紙を少しと、生きているこうもりと、お香を三粒と、祝福を受けたろうそくを一本持ってくるようにして、あとはわたしに任せておきたまえ」
カランドリーノは、その晩は一晩じゅう道具を持って、こうもりをとろうと骨を折って、とうとう一羽をつかまえましたので、それをほかの品と一緒にブルーノのところに持っていきました。ブルーノは寝室に引っこんで、その紙の上にいくつかの魔法の文字ででたらめなことを書いて、それを彼のところに持ってきて言いました。
「カランドリーノ、いいかね、もし君がこの書いたものであの女に触れると、あの女はすぐに君のあとについてきて、君の望むとおりにするよ。だから、もしフィリッポが今日どこかへ出かけたら、なんとかしてあの女のそばへ行って、それでさわってごらん。それから、ここのわきにある藁葺小屋にはいるんだ。そこへはだれも行く者などないから、一番いい場所だよ。君はあの女がそこにくるのを目にするだろう。あの女がそこにはいりこんだら、君がどうしなくちゃならないか、それは先刻御承知だね」
カランドリーノは、有頂天になってしまいました。その書いたものをとると、言いました。
「それは君、わたしに任しといて下さい」
カランドリーノが警戒していたネッロは、ほかの連中と同様に、このことを面白がって、みんなと一緒になって、彼に一泡吹かせるのに手をかしておりました。そこで、ブルーノに言いつけられていたものですから、フィレンツェのカランドリーノの細君のところに行って、言いました。
「テッサ、カランドリーノがムニョーネの小石を持って戻って来たあの日に、理由もないのにあなたをどれほど殴ったか覚えていますね。だからわたしは、あなたがその仕返しをしたらいいと考えているんです。もしあなたが、仕返しをしないというなら、もうわたしを親類だとか、友人と思ってはいけません。カランドリーノは、あそこの女に惚れこんでしまって、それがひどい性悪女ときていますので、しょっちゅうカランドリーノとしけ[#「しけ」に傍点]こんでしまうんです。ついさっきも、も少ししたら逢おうと約束をしていましたよ。そこで、わたしは、あなたにそこへ来てもらって、あいつを見つけて、うんと懲らしめてもらいたいんですよ」
彼女はこれを聞くと、笑って過ごすことはできないような気がいたしました。そこで立ちあがると、言いだしました。
「ああ! 泥棒め、わたくしをほうっておいてそんなことまでもしているの? どんなことがあったって、神さまの十字架にかけてそんなことをしたら、きっと仕返しをしてやるから」
そうしてマントをとりあげて、小さな女中を一緒に連れ、ネッロとともに、走りづめでそこに向かいました。ブルーノは、細君の姿が遠くのほうからやってくるのを見ると、フィリッポに言いました。
「あそこへ、わたしたちの友人がやってきますよ」
そこでフィリッポは、カランドリーノや、ほかの連中が仕事をしていたところに行って、言いました。
「みなさん、わたしは今からフィレンツェに行かなくてはなりません。しっかり仕事をして下さいよ」
で、彼は出発すると、自分の姿は見られないで、カランドリーノがすることはなんでも見えるような場所にかくれに行きました。カランドリーノは、フィリッポがだいぶ遠くに行ったと思いましたので、中庭におりて行って見ると、そこにはニッコローザがたった一人でおりました。で、彼女と話をはじめると、どうしなければならないかその役割をよく承知しておりました彼女は、彼に近づくと、いつもよりも少しよけいに馴々しいそぶりをいたしましたので、カランドリーノは例の護符で彼女のからだをさわりました。そして、さわってから、何も言わずに、小屋のほうに向けて歩きだしますと、ニッコローザが彼のあとにつづきました。その中にはいると戸口を閉めて、カランドリーノに抱きついて、そこにあった藁の上に彼を投げ倒し、その上に馬乗りになると、彼を自分の顔に近づけさせないで、その両肩に手をおいて、心から思いつめた恋人に対するように、じっと見つめながら、言いました。
「まあ、わたくしのやさしいカランドリーノ、わたくしの心臓よ、わたくしの魂よ、いとしい君よ、わたくしの憩いよ、どんなに長いあいだ、わたくしはあなたを自分のものにして、この胸に抱きしめたいと望んでいたことでしょう! あなたは、そのやさしい男まえで、わたしをすっかり悩殺なさいました。あの三弦胡弓でわたくしの心をつかんでしまわれました。あなたを抱いているのは、うつつでございましょうか」
カランドリーノは、やっとからだが動けるようになると、言いました。
「ああ! わたしのやさしい魂よ、あなたに接吻させて下さい」
ニッコローザが申しました。
「まあ、とてもお急ぎになりますのね! まず心ゆくまでそのお顔を見せてちょうだい、このやさしいあなたのお顔を、とっくりあきるほど見せてちょうだい」
ブルーノとブッファルマッコはフィリッポのところにきて、三人そろって、ことのしだいを見たり、聞いたりしておりました。そして、まさにカランドリーノがニッコローザに接吻しようとしたところへ、ネッロがテッサと一緒にやってまいりました。ネッロは着くなり、言いました。
「神さまに誓って言いますが、二人は一緒ですよ」
小屋の戸口までくると、怒っていた細君は、そこに手をかけて、押し開け、中にとびこむと、ニッコローザがカランドリーノに乗りかかっているのが目にはいりました。ニッコローザは、細君の姿を見ると、すぐに立ちあがって、逃げだし、フィリッポのいるところに行きました。テッサは、まだ起きあがっていなかったカランドリーノにとびついて、その顔に爪を立てると、顔じゅうひっかきまわして、その髪の毛をつかむなり、あっちこっちと引きずりまわしながら、言いだしました。
「恥知らずのきたならしい犬め、ふん、お前さんが、わたくしに、こんなふざけたまねをするのかい? 気じるしの老いぼれめ、今までお前さんを思ってきたなんて、いまいましいったらありゃしない。他人のところで惚れていられるほど、お前さんは自分の家ですることがないとでも思っているのかい? ごらんよ、この色男を! さあ、お前さんには自分がわからないんだね、極道者が? お前さんなんか、からだじゅうをしぼったって、一人分のソースに使えるほどのおつゆだって、でてこないんだよ、その自分がわからないのかい? 性悪男めが。神さまに誓って言っておくが、お前さんがはらませた女は、今度はわたしじゃないからね。その女がだれであろうと、神さまの罰が当たればいいんだ。お前さんみたいなこんなできそこないが好きになるなんて、そいつは、きっとろくな女じゃないにきまってるものね!」
カランドリーノは、細君がくるのを見ると、生きた心地もなく、彼女に向かって、なんら身を守る気力もでませんでした。それでも、こんなふうにひっかかれて、からだじゅう皮をむかれて、めちゃめちゃにされたうえで、頭巾を拾いあげて起きあがると、自分と一緒にいた女はこの屋敷の主人の奥さんなのだから、もし自分を八つ裂きにさせたくなかったら、どうか大声を立てないでもらいたいと、細君に意気地なく頼みだしました。細君が言いました。
「ええ、そんな女には神さまの罰が当たるといいのよ!」
フィリッポや、ニッコローザと一緒にこのことを心ゆくまで笑い興じていたブルーノとブッファルマッコは、その物音を聞きつけてきたような振りをして、そこに出てくると、いろいろとなだめすかして、細君を落ちつかせたうえ、カランドリーノに忠告として、もしフィリッポがこのことを何か聞きつけて、君をひどい目にあわせるといけないから、フィレンツェに行って、もう二度とここへはやってこないようにと言いました。こうして、好色で悪党のカランドリーノは、全身皮をむしられ、ひっかき傷だらけになって、フィレンツェに帰ってくると、もうあそこへは行く元気もなく、夜となく昼となく、細君の小言《こごと》にいためつけられて、悩まされながら、自分の仲間たちや、ニッコローザやフィリッポをさんざんと笑わせたあげくに、自分の熱烈な恋を思い切りました。
[#改ページ]
第六話
[#この行3字下げ]〈二人の青年がある男のところに泊まって、そのうちの一人がその男の娘と寝に行き、その男の細君がそれとは知らずにもう一人の青年と寝る。娘と寝た青年は、娘の父親のところに寝に行って、仲間の青年に話しているつもりで、いっさいを父親に言ってしまい、一同大騒ぎとなる。細君が、それと気がついて、娘の寝台にはいり、なんとかとりつくろって、万事をまるくおさめる〉
前にも何度か仲間の人々を笑わせたカランドリーノは、今度も同じようにみんなを笑わせました。淑女たちが、カランドリーノのやり方についておしゃべりをやめたあとで、女王はパンフィロに話をするようにと命じました。パンフィロが話しはじめました。
ほめ讃うべき淑女のみなさん、カランドリーノが恋をしたというニッコローザの名前で、わたしは、もう一人のニッコローザのお話を思いだしましたので、それを物語りたいと存じます。そのお話で、ある気のいい女の即座の気転が大変な醜聞を事もなく解決したことが、おわかりになると思います。
そう昔のことではありませんが、フィレンツェ近郊のムニョーネの平地に、人のいい男がおりまして、旅人に飲み食いをさせてその報酬で暮らしておりました。貧乏人で、家も小さかったのですが、ときどき頼まれると、知り合いの人たちにかぎって宿をすることもありました。さて、この男には、とても美人の細君があって、その細君との間に二人のこどもがおりました。一人はきれいな、愛くるしい娘で、年の頃は十五、六歳で、まだ夫がありませんでした。もう一人はまだ一歳にもならない小さな男の子で、これは母親が自分で乳をやっておりました。
ところがその辺りを何度も往来していたフィレンツェに住む、伊達《だて》で愛嬌がある貴族の青年が、この娘に目をつけて、熱烈に思いをもやしたのであります。彼女のほうも、こんな青年に恋をされたことを誇りに思い、親切にもてなして、いつまでも自分を愛してもらおうと努めながら、やはり同じように彼をいとおしく思っておりました。もしピヌッチョ――青年はそういう名前でした――が、娘や、自分の悪い評判が立つのをいやがりませんでしたら、それぞれ双方の望みどおりに、そうした恋は何度も実を結ぶことができたでしょう。けれども、その熱い思いは日一日と激しくなっていきまして、ピヌッチョは彼女とどうしても会いたいという欲望にかき立てられました。で、ふと娘の父親のところに泊まりこむ方法を見つけだそうと考えつきました。娘の家の様子は承知しておりましたので、もしそうしたら、だれも知らないうちに、彼女とあいびきができるだろうと思ったのであります。そう思いつくと、さっそくそれを実行に移しました。
彼は、この恋を知っていたアドリアーノという信用のおける仲間と一緒に、ある晩おそく、二頭の賃貸し駄馬を借りて、それに多分藁が一杯につまった二つの手さげかばんをのせて、フィレンツェを出ると、わざと廻り道をして、馬を走らせながら、ムニョーネの平地にでましたが、もう夜もふけておりました。で、そこから、まるでロマーニャから帰ってきたように、あとへ引き返しますと、家々のあるほうにやってきて、その人のいい男の家の戸口をたたきました。男は、青年のどちらともたいへん懇意にしておりましたので、すぐに戸口をあけました。ピヌッチョが彼に言いました。
「ねえ、ぜひ今夜、わたしたちを泊めてもらいたいんだ。わたしたちは、フィレンツェにはいれると思っていたのだが、あまり馬を速めることができなかったので、ごらんのとおり、こんな時間に、やっとここまでたどりついたようなわけなんだよ」
主人が彼に答えました。
「ピヌッチョさま、わたしがあなた方のようなお方をお泊め申すところなど持っていないくらいは、あなたさまもよく御存じでございましょう。でも、ここでこんな時間になってしまわれたら、よそへいらっしゃる時間もございますまいから、できるだけのことはいたしまして、よろこんでお泊め申しましょう」
そこで二人の青年は馬をおりて、小さな宿にはいると、まず自分たちの馬をいたわって、それからちゃんと夕飯は持参しておりましたので、主人と一緒に食事をしました。さて、この家には、非常に小さな寝室しかなくて、そこには、主人ができるだけうまく工夫して並べた三つの小さな寝台がおいてありました。そのうち二つの寝台は、寝室の一方の壁のところにあり、三番目の寝台はもう一方の壁に沿って、ほかの二つの寝台と向き合っておいてありましたので、それら全部のために、やっと間がとおれるくらいの隙間が残っているだけでした。主人はこの三つの寝台のうち、一番まともなのを二人の仲間のために用意させて、それに寝かせました。それから、しばらくして、二人のどちらも眠ったふりはしておりましたが、眠らないでいると、主人は残っていた寝台の一つに娘を寝かせて、もう一つの寝台に、彼とその細君がはいりました。細君は自分が寝ている寝台のそばに、自分の小さなこどもを寝かしてあるゆりかごを並べておきました。で、ものごとはこんなふうに片がつきましたが、ピヌッチョは万事を見ておきましたので、しばらくしてから、みんなが寝込んだと思った時分に、そっと起きあがって、自分が恋いこがれていた娘が寝ている小さな寝台のところに行って、その横に並んで寝ました。彼は、娘からまだびくびくしたしぐさではありましたが、よろこんで迎えられて、何よりも望んでいたあの悦楽を味わいながら、そのまま彼女のところにおりました。
ピヌッチョがこうして娘と一緒におりますと、ちょうどその時、猫が何かを落としたので、細君がはっと目をさまして、その物音を聞きつけました。そこで起きると、大事な品物じゃないかしらと心配して、暗闇でしたので、物音のしたほうに歩いていきました。そんなことには気がつかなかったアドリアーノは、たまたまある自然の必要のために起きあがって、急いで用をたし[#「たし」に傍点]にいこうとして、細君がそこに置いておいたゆりかごを見つけて、それを片づけないととおれないものですから、それをつかんで、あった場所から持ちあげて、自分が寝ていた寝台のそばに並べておきました。そして、自分が起きた目的の用をたすと、戻ってきて、ゆりかごのことは気にもかけずに、寝台にはいりこみました。細君は、探したあげくに、落ちたものが心配していたものではなかったとわかりましたので、べつに明りをつけてそれを見ようともしないで、猫を叱りとばしてから、小さな寝室に戻ってきました。だが、ゆりかごが見つからなかったので、ひとりごとを言いました。
「まあ、困ったわ! なんていうことをしたもんでしょうね! まったく、わたしは、いきなり、お客さんたちの寝台に行くところでしたよ!」
そして、細君は、もう少し歩いてから、ゆりかごが見つかりましたので、その隣に並んでいた寝台の中に夫と寝るものとばかり思いこんで、アドリアーノのところに横になりました。まだ眠っていなかったアドリアーノは、これに気がつくと、いそいそと、大よろこびで彼女を迎え入れて、べつになんとも言わないで、一度ならず、大麦を仕込んで細君を狂喜させました。さてそうしているうちに、ピヌッチョは、愛する娘と一緒に寝込んでしまいはしないかと心配して、今は自分が望んでいたその悦楽も手に入れましたので、自分の寝台に寝にいこうと、娘のそばから起きあがって、そこまでくると、ゆりかごがあったために、それを主人の寝台だと思いこんでしまいました。そこでも少し先まで歩いて行って、主人と一緒に横になりました。主人はピヌッチョがきたので目をさましました。ピヌッチョはアドリアーノの横にいるものとばかり思って言いました。
「ほんとうだぜ、君、今までにニッコローザみたいにかわいいやつは、一人もいなかったよ! 神さまのおからだに誓って言うが、わたしは、男がこれまでに女としたたのしみの中で、一番大きなたのしみを、あれと味わったよ。いいかい、わたしは、ここから出かけてから、六回以上もお宮まいりをしてきたんだぜ」
主人は、この話を聞いて、とてもいやな気がして、まずひとりごとを言いました。
「こいつは、うちでなんということをしやがるんだ?」
それから主人は、大事をとるよりも、ついに怒りにかられて言いました。
「ピヌッチョさま、あなたのしたことは、ひどい、むちゃというものです。どうしてそんなことをしなくちゃならないのか、わかりませんね。だが、神さまのおからだに誓って申しておきますが、仕返しはいたしますよ」
世に比類のない聡明な青年というわけではなかったピヌッチョは、自分の誤りに気がつきましたが、できるだけうまくそれをとりつくろおうとはしないで、こう言いました。
「どうやって仕返しをするんです? わたしに向かって、何をすることができるというんです?」
夫と一緒に寝ていると思っていた細君は、アドリアーノに言いました。
「まあ! うちの客人たちがなんだか言い争いをやっているよ。そらね、お聞きよ」
アドリアーノは笑いながら、言いました。
「ほうっときなさいよ、神さまの罰が当たればいいんです。ゆうべ、飲みすぎたんですよ」
細君は、夫がどなっているのが聞こえるような気がしましたし、アドリアーノの声を聞いて、たちどころに、自分がどこに、だれといたのか、わかりました。そこで、利口な女でしたから、なんとも言わずにすぐに起きると、こどものゆりかごをとって、寝室にはちょっとの明りもありませんでしたが、見当をつけてそれを娘の眠っていた寝台のそばに持っていくと、娘のところへはいり込みました。そうして、まるで夫の大声で目がさめたような振りをして、夫を呼ぶと、ピヌッチョと何を言い争っているのかと、たずねました。夫が答えました。
「この人がゆうべニッコローザに何をしたか自分でしゃべっているのを、お前は聞いていないのかい?」
細君が言いました。
「その人は、臆面もなく大嘘をついているんです。だってその人はニッコローザとは寝ていませんもの。わたしがずっと今まで、ここに寝てて眠れなかったんですからね。その人の言うことなんか本気にしたら、お前さんは大馬鹿者ですよ。あなた方は、晩にぶどう酒を飲みすぎて、そのためにあとで、夜なかに夢を見て、目もさめないで、あっちこっちうろつきまわって、えらいことでもしている気なんですよ。あなた方が頸《くび》を折らないのが、玉にきずってわけですよ! おや、そこでピヌッチョさまは何をしていらっしゃるんです? どうして御自分の寝台でおやすみにならないんですか」
アドリアーノは、細君がたくみに自分の恥と、娘の恥をかくしているのを見てとって、言いました。
「ピヌッチョ、君が夢を見ながら起きあがって、夢に見ているくだらないことをほんとうのことのように言いふらすこの悪い癖は、いつかはきっと君をとんだ目にあわせるだろうから、そこいらをふらつくなと口がすっぱくなるほど言っておいたはずだよ。こっちへ戻ってこいよ。神さまの罰でも当たるといいんだ!」
主人は、細君が言っていることと、アドリアーノが言っていることを聞いて、ピヌッチョが夢を見ているのだと、すっかり、信じすぎるほど信じだしました。そこでピヌッチョの肩をつかむと、からだをゆすぶって、呼ばわりながら言いました。
「ピヌッチョさま、お起きになって下さい。あなたの寝台にお帰りなさい」
ピヌッチョは、みんなが話していたことを考え合わせて、夢を見ている人のように、なおもうわごとを口走りはじめました。それを見て主人は、腹をかかえて大笑いをいたしました。やっとのことで、ずっとからだがゆすぶられておりましたので、目がさめたようなふうをして、アドリアーノを呼ぶと、言いました。
「もう夜が明けたのかい? わたしを呼んだりして」
アドリアーノが申しました。
「そうだよ、こっちへおいでよ」
ピヌッチョは、しらばくれて、眠くてたまらないようなふりをしながら、やっと主人のかたわらから起きると、アドリアーノの寝台のところに戻ってきました。で、夜が明けると、主人は起きあがって、笑いだして、ピヌッチョや、その夢のことをからかいはじめました。こうして、一言、二言かわしてから、二人の青年は駄馬の用意をすませ、手さげかばんをのせて、主人と一杯飲んだうえで、この事件の結果そのものと同じように、この事件が行なわれた方法にもほくほくよろこんで、馬にまたがると、フィレンツェに向かって立ち去りました。やがてその後は、別の方法を見つけて、ピヌッチョはニッコローザとあいびきをいたしました。ニッコローザは母親に、ピヌッチョが確かに夢を見たのだと言いはっておりました。ですから、細君は、アドリアーノの抱擁を思い出しては、自分だけが目をさましていたのだとひとりごとを言っておりました。
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第七話
[#この行3字下げ]〈ターラノ・ディ・モレーゼは、狼が妻ののどと顔をあらかた食いやぶってしまう夢を見て、妻に用心をするようにと言う。妻がそのとおりにしないので、彼女に夢のとおりのことが起こる〉
パンフィロのお話が終わって、細君の機転が一同の賞讃を博しましたので、女王はパンピネアに話をするようにと、言いました。そこでパンピネアが話しだしました。
やさしい淑女のみなさん、多くの人々の馬鹿にしている正夢のことは、前にもわたくしたちの間でお話にのぼりました。けれども、それだからと言って、わたくしは、まだそう古いことではございませんが、近所の婦人が、その方の御主人がごらんになった夢を本気にしないばかりに、その婦人の身の上にふりかかったことをごく短いお話にしてみなさんにお話し申しあげるのをよすつもりはございません。
わたくしは、あなた方がターラノ・ディ・モレーゼという非常に立派なお方を知っていらっしゃるかどうか、存じません。このお方は、マルガリータと呼ばれる、きわだって美しい若い婦人を、妻にめとっておりました。でも、この夫人はだれよりも変わっていて、不愛想で、強情でございました。ですから他人の気にいるようなことは何一つしたがりませんでしたし、他の者もだれ一人として自分の思うように彼女に何かさせることはできませんでした。それを我慢することは、ターラノにとっては非常につらいことでございましたが、ほかになんとも仕方がなかったものですから、じっと我慢をしておりました。
さて、ある夜のこと、ターラノが、この妻のマルガリータと田舎の自分の別荘にいた時のことでございますが、彼が眠っておりますと、自分たちがそう遠くないところに持っていたたいへん美しい森を、妻が歩いていく夢を見たような気がいたしました。こうして、妻が歩いていくのを見ているうちに、森の一方から大きくて獰猛《どうもう》な狼が跳びだしてきたように思いました。狼はすぐに、彼女ののどに跳びつくなり、そのからだを地べたに引きずり倒して、彼女が助けを呼ぶなかを、ぐんぐんと引っぱっていきました。彼女は、やがてその口から離れましたが、狼は、彼女ののどと顔をあらかた食い破ってしまっていたようでした。ターラノは翌朝、起きると妻に言いました。
「ねえ、お前の強情がやわらいで、わたしがお前と一緒になってから、一日でもたのしい日を送ることができたということはないけれども、それでもわたしは、不幸なことがお前に起こったら悲しいと思うだろうね。だから、もしお前がわたしの忠告を信ずるなら、今日は家から出てはいけないよ」
そこで、妻からどうして、とたずねられましたので、彼は自分の見た夢を、順序を立てて物語りました。細君は頭をふりながら、言いました。
「汝を愛せざる者、汝の悪夢を見る。あなたは、わたくしにとても同情をしていらっしゃるように見えますが、わたくしがそうなればいいと、御自分でごらんになりたがっていらっしゃることを、夢にごらんになったのです。確かに、わたくしは、今日ばかりでなく、いつでも用心はいたしましょう。そんな不幸や、その他の不幸が起こって、あなたによろこばれることなど、ないように」
すると、ターラノが言いました。
「わたしは、お前がきっとそういうだろうと、よくわかっていたんだ。痘瘡《とうそう》にかかっている人に櫛《くし》をかける者は、そうしたお礼をうけるものだからね。まあ、好きなように考えたらいい。わたしは、自分としてはお前のためを思って言っているんだ。ではもう一度忠告しておくが、今日、お前は家にいるんだね、それができなければ、少なくともわたしたちの森には、行かないようにするんだね」
細君が、申しました。
「はい、そうしましょう」
あとで彼女は、胸の中でこう言いだしました。「あの人ったら、わたくしが今日うちの森に行くのにおじけづいたと思いこんでいるけれども、どんなに悪がしこい策略があるかわかったもんじゃないわ。あそこで、あの人はきっとどこかの性悪女と逢う約束をしたにちがいない。それでわたくしに、みつけられたくないのよ。ああ、わたくしを馬鹿にして、勝手なまねができるでしょうとも。わたくしがあの人を知らないで、そのことばをほんきにしていたら、大馬鹿者でしょうよ! でも、夢にもそんなことはさせやしない! たとえ、一日じゅうあそこにいなくちゃならないとしたって、あの人が今日しようと思っている計画が、どんなものであるのか、見とどけなくちゃならないわ!」
こう言うと彼女は、夫が家の一方の側から出て行きましたので、自分は別のほうから外に出ました。彼女はできるだけこっそりと、すぐさま森に行って、森の中にあった木立の一番茂った場所に身をかくして、心をくばりながら、だれかやってくるのが見えはしないかと、あちらこちらを見まわしておりました。こうして、狼のことなど、少しも気にかけないでおりましたところが、すぐそばの、茂った草むらの中から大きな恐ろしい狼が跳びだしてきました。それを見て彼女が、主よおたすけ下さい[#「主よおたすけ下さい」に傍点]と言いも終わらないうちに、狼はそののどに跳びついて、しっかりとくわえると、まるで小さな子山羊のように彼女のからだを持ち去りかけました。彼女は、のどがつまってしまいましたので、大声を立てることもできず、他の方法で身をまもることもできませんでした。ですから、もし羊飼いたちにでっくわさなかったら、狼は彼女を引きずっていって、間違いなくしめ殺してしまっていたことでしょう。羊飼いたちは、狼をどなりつけて、むりやりに彼女をはなさせました。
そこで、さんざんな目にあった人の悪い女は、羊飼いたちにはどこのだれかわかりましたので、家に運ばれまして、医者たちの長い治療をうけたあとで、なおりました。でもすっかりなおったわけではなく、のど全体と顔の一部はとてもひどくやられておりましたので、このために、前にはきれいでございましたのに、今ではただ驚くばかりにみにくく、不具になってしまったように思われました。そこで彼女は、人に見られるところに姿をだすのを恥ずかしがって、何度も、自分の強情だったことと、一文も損がいがないのに、夫の正夢を信じようとしなかったことを後悔して、さめざめと泣くのでございました。
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第八話
[#この行3字下げ]〈ビオンデッロが食事のことでチャッコをだますと、チャッコは、めちゃめちゃに殴らせて、たくみに復讐する〉
この愉快な一団の人々はそれぞれこぞって、ターラノが眠っているあいだに見たのは、夢ではなくて幻だった、だからこそ何一つ欠けずに、実際に起こったのだと言いました。けれども銘々が黙り込みましたので女王はラウレッタに、そのあとをつづけるようにと、命令いたしました。ラウレッタが言いました。
いとも聡明な淑女のみなさん、今日わたくしの前にお話しになりました方々が、ほとんど全部、何かしらすでに話されたことにもとづいてお話をはじめられましたように、わたくしも、昨日パンピネアによって物語られた、学者が行なったきびしい復讐から考えついて、その復讐そのものはそれほど残酷なものではないといたしましても、これを受けた者にとっては非常につらかった復讐について、ぜひお話をいたしたいと存じます。
さてお話にはいりますが、フィレンツェにみんなからチャッコと呼ばれていた人で、今までこれほどの者はないといってもよろしいくらい、非常に食いしんぼうな男がおりましたが、その財産は、彼の大食に要る費用をまかないきれませんでした。ただこの男はたいそう立ち居振る舞いもよく、立派な、人好きのする話しぶりは堂に入っておりましたので、全くの道化師ではないが、いわゆる諷刺家になりまして、金持ちの人々のところに出はいりをし、御馳走をいただいてよろこんでおりました。そして、いつも招ばれているとはかぎりませんのに、きわめて頻繁に、こうした金持ちのところに昼飯や、夕飯を食べにまいりました。
当時、フィレンツェにもう一人、ビオンデッロと呼ばれる人で、からだつきの小さな、非常におしゃれで、蠅よりも小ぎれいで、小さな縁無し帽を頭にのせて、金髪を長くのばし、一本の毛もよじらせていないといった男がおりました。この男は、チャッコと同じようななりわいをしておりました。ビオンデッロは、四旬節のある朝のこと、魚を売っているところに出かけて、ヴィエリ・デ・チェルキ氏のためにたいへん大きな八つ目|鰻《うなぎ》を一尾買うところでしたが、そこをチャッコに見られてしまいました。チャッコはビオンデッロのところに近寄って、言いました。
「これはどうしたわけなんです?」
ビオンデッロが、彼に答えました。
「昨晩、これとはくらべものにならないくらい立派なやつが三尾と、|※[#「魚+尋」、unicode9c58]魚《ちようざめ》が一尾、コルソ・ドナーティ氏のところに届けられましたよ。ある貴族たちに御馳走をするのに、それだけでは足りないので、さらにこの二尾を、わたしに買ってこいと言ったんです、君、こないかね?」
チャッコが、答えました。
「きまってますよ、うかがいます!」
で、頃合いを見計らって、彼はコルソ氏の家にまいりますと、コルソ氏は数人の近所の人たちと一緒にいて、まだ食事についておりませんでした。彼は、どうしたのだと、コルソ氏から聞かれて、答えました。
「あの、わたくしは、あなたさまや、お宅のお客さま方と御一緒に、御馳走をちょうだいしにあがりました」
彼に向かって、コルソ氏が言いました。
「よくおいでくださった。ちょうど時間だから、ではまいりましょう」
さて、一同が食卓につくと、まず豌豆《えんどう》と油漬けの鮪《まぐろ》がでて、そのあとからアルノ河の川魚のフライがでたきりで、あとは何もでませんでした。チャッコは、ビオンデッロに一杯食わされたことに気がついて、胸中すくなからず憤慨して、この復讐をしないでおくものかと決心いたしました。それからあまり日数もたたないうちに、彼は当の相手にばったりと出会いました。相手の男は、もうこのいたずらを吹聴《ふいちよう》して、もう大勢の人たちを笑わせていたのでございます。ビオンデッロは彼を見ると、あいさつをして、笑いながら、コルソ氏のところの八つ目鰻はどうだったねとたずねました。
チャッコは、彼に返事をして、言いました。
「八日たたないうちに、わたしなんかよりも、君のほうが、ずっとよくわかるよ!」
で、彼はその仕事にさっそくとりかかることにして、ビオンデッロと別れると、頭のきく便利屋とお礼の金額について話をつけまして、その男にぶどう酒のガラスびんを渡して、カヴィッチュリの画廊の近くに連れて行き、その中にいるフィリッポ・アルジェンティ氏と呼ばれる騎士で、だれよりも大柄の、筋肉隆々とした、強くて、横柄で、怒りっぽくて、変わっている男を、彼に示して、言いました。
「このびんを片手に持って、あの人のところに行って、こう言っておくれ。『旦那さま、ビオンデッロから使いによこされたのですが、このびんをあなたの上等の酒で紅玉《ルビー》色にしていただきたいとお願い申すよう、とのことでございました。仲間たちと一杯やろうということでございましてな』そうして、あれにつかまらないように、うんと用心するんだ。でないとあれはお前をひどい目にあわせるだろうし、お前はわたしの仕事をぶちこわしてしまうことになるからね」
便利屋が申しました。
「ほかにわたしの言うことはございませんか」
チャッコが言いました。
「ないよ、では行っておいで。そのことを言ったら、びんを持って、ここのわたしのところに戻ってきておくれ、お礼のものを払うよ」
さて、使いの男は歩いていって、フィリッポに使いの用向きを伝えました。フィリッポはその男の言うことを聞くと、じきに肝癪玉を破裂させる男でしたので、知り合いの間柄であるビオンデッロが自分をひやかしていると考えまして、顔を真っ赤にして言いました。紅玉《ルビー》色にしていただきたいの[#「色にしていただきたいの」に傍点]、仲間たちだのって[#「仲間たちだのって」に傍点]、何だい[#「何だい」に傍点]、それは[#「それは」に傍点]? 貴様にも[#「貴様にも」に傍点]、あいつにも[#「あいつにも」に傍点]、大罰が当たればいいんだ[#「大罰が当たればいいんだ」に傍点]! そうして立ち上がると、使いの男をつかまえようと、腕をのばしました。ところが使いの男は、用心しておりましたので、待っていましたとばかりに、逃げだしました。別の道をとおって、一部始終を見ていたチャッコのところに帰ってきて、フィリッポ氏が言っていたことを、話しました。チャッコはよろこんで、便利屋にお礼の金を支払いました。それから、一息いれるということもなく、せっせと足を棒にして、ビオンデッロを見つけだしました。で、彼に言いました。
「最近カヴィッチュリの画廊に行ったかね?」
ビオンデッロが答えました。
「ぜんぜん行かないよ。どうしてそんなことを聞くんだい?」
チャッコが言いました。
「どうしてかって? フィリッポ氏が君を探させているからなんだ。何の用があるのか、知らないがね」
すると、ビオンデッロが言いました。
「よろしい。あっちのほうに行くところなんだ。あの人に声をかけてみよう」
ビオンデッロが出かけたので、チャッコはどうなることか見とどけようと、そのあとをつけて行きました。フィリッポ氏は使いの男をつかまえることができませんでしたので、かんかんに怒っておりました。使いの男の言ったことばからは、ビオンデッロがだれでもいい、他人に頼まれて、自分を愚弄したと思うほかに、考えようがありませんでしたので、腹がにえくりかえるような思いがしておりました。で、彼がこうしてかんかんになっているところへ、ビオンデッロがやってきたのです。彼は、ビオンデッロを見ると、つかつかと歩み寄って、その顔を力いっぱい拳骨で殴りつけました。
「あっ、旦那」とビオンデッロが言いました。「これはどうしたわけです?」
フィリッポ氏は、ビオンデッロの髪の毛をつかんで、その小さな縁無し帽を頭から吹っとばして、その頭巾を地べたに投げつけたうえ、したたかに相手を殴りつづけながら、言いました。
「裏切り者め、これがどうしたわけか、うんとわからしてくれるわ! 紅玉《ルビー》色にしていただきたい[#「色にしていただきたい」に傍点]だの、仲間たち[#「仲間たち」に傍点]だのと、なんでそんなことをわたしのところに言ってこさせたんだ? 貴様に馬鹿にされるほど、このわしがこどもに見えるというのか」
そう言いながら、まるで鉄でできたような拳骨をかためると、彼の顔じゅうを殴りつけ、髪の毛一本無事には残さないで、泥の中にひっくり返して、着ていた服を全部ずたずたに破ってしまいました。夢中になってやっておりましたので、ビオンデッロは、最初からただの一度も、一言も口をきくことができず、なぜそんなことをするのかとたずねることもできませんでした。彼は、紅玉《ルビー》色にしていただきたい[#「色にしていただきたい」に傍点]とか、仲間たち[#「仲間たち」に傍点]とか、言っているのははっきり聞きましたが、それがどういう意味なのかわかりませんでした。とうとうしまいにフィリッポ氏がしたたかに彼をぶちのめしおえた頃、大勢の人々がまわりにたかってまいりまして、見るからにだらしのないざまになって、からだじゅう痛めつけられた彼を、フィリッポ氏の手から引き離しました。そして、なぜフィリッポ氏がこんなことをしたのかを話して、彼があんなことを伝言させたことをたしなめ、もうフィリッポ氏がどんな人間か十分に知っていなくてはならないし、彼はああいう人物をからかうようながらではないと言いきかせました。ビオンデッロは泣きながら、陳謝して、自分はフィリッポ氏にぶどう酒をもらいに使いなどだした覚えがないと申しました。でも、少し服装をととのえてから、こいつはチャッコのしわざだったのだなと考えながら、しょげかえって、泣く泣く家に帰っていきました。それからだいぶたって、顔の青あざが消えて、また外出しだしてからのこと、ちょうどチャッコが彼に会いましたので、笑いながらたずねました。
「ビオンデッロ、フィリッポ氏のぶどう酒はどうだったね?」
ビオンデッロが答えました。
「コルソ氏の八つ目鰻で君がうけた感じと、そっくり同じだったよ!」
すると、チャッコが言いました。
「君の心がけしだいだよ。君がこの間みたいに十分御馳走をしてくれりゃあ、わたしだって、この間みたいに、うんと飲ましてあげるというもんだ」
チャッコに向かっては、彼を憎んでも、ひどい目にあわせることはそれよりも難しいことを知っていたビオンデッロは、神さまに彼との仲直りをお願いいたしまして、それから後は、もう二度と彼を愚弄しないようにと用心を怠りませんでした。
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第九話
[#この行3字下げ]〈二人の青年が、一人はどうしたら人に愛されるか、もう一人はどうしたら強情な細君を懲らしめることができるかということについて、サラモーネに忠告を求める。サラモーネは、一人には愛するようにと、もう一人には鵞鳥橋に行くようにと答える〉
ディオネーオに特権を留保させるとして、これからお話をしなければならないのは、女王だけになりました。女王は、淑女たちが不運なビオンデッロのことを大いに笑い興じたあとで、たのしそうにこう話しはじめました。
愛らしい淑女のみなさん、もししっかりした頭脳で万物の秩序が考えられるならば、世界じゅうの女性というものは、自然や、習慣や、法律によって、男性に隷属して、男性の意のままに身を持し、身を治めなければなりません。ですから、自分が隷属する男性から平穏や、慰安や、休養を望む女性ならだれでも、貞潔であるばかりでなく、みずからへりくだって、辛抱強く、従順でなければならないということは、いとも容易にわかることでございましょう。つまりこのことは、すべての聡明な女性の至高な、特別の財宝でございます。で、あらゆることについて一般の幸福を考えている法律や、影響力がすこぶる大きく、尊敬すべきものである風習または習慣とでも言うべきものが、必ずしもわたくしたちをそのように訓練してくれないといたしましても、わたくしたちを肉体の上では繊細に、柔軟に作り、魂の点では臆病で、こわがり屋に作り、わたくしたちに弱々しい体力や、快い声音や、四肢の優美な動きをあたえた自然が、かなりはっきりとそれをわたくしたちに示しております。つまり、これらのことはすべて、わたくしたちが、他人の支配を必要とするものであることを証明しているのでございます。そして、助けられ、支配される必要のある者は、自分の支配者に対して、従順であり、これに隷従し、尊敬を払わなければならないことは、すべて理の当然でございます。そもそも、わたくしたち女性には、支配者や、補助者として、男性以外に、だれがおりましょうか。ですから、わたくしたちは、男性を、心から敬いながら、これに隷従しなければなりません。で、この法則からはずれる者はどなたでありましょうとも、当然きつい叱責をうけるばかりでなく、またきびしい懲罰に値するものであると考えることができます。
わたくしは前からそう考えていたのでございますが、夫があたえることができなかった懲罰を、神さまがおあたえになったというターラノの強情な細君のことを、パンピネアがお話しになりましたので、それでまた、わたくしは少し前に、そんなことを思い起こしました。しかし、わたくしの判断によりますれば、自然や、風習や、法律が望んでいるように、やさしく、好意的で、従順にすることからはずれる女性はすべて、すでにわたくしが申し述べましたように、きつい、きびしい懲罰をうける値打ちがあるような気がいたします。そこで、わたくしは、そのような婦人たちを、そうした病気からなおす効き目のある薬として、サラモーネからあたえられた忠告を、よろこんでお話し申しあげたいと存じます。もっともこうした薬を必要とするような婦人はどなたも、男性が『駿馬《しゆんめ》も駑馬《どば》も拍車を要し、賢婦も愚婦も棒《むち》を要す』というような諺を用いても、それが自分に言われたものだとは考えないものです。そのことばも、洒落としてなら、すべての婦人から容易に肯定されるかもしれません。けれどもまたこれを教訓として解釈しようとする者があれば、わたくしは、それも認めるべきでございましょう、と申しあげます。もちろん、婦人というものはすべて移り気で、折れやすいものでございまして、それゆえに、彼女たちのために定められた枠《わく》からあまりはみ出すような婦人たちの不正を矯正するためには、彼女たちを罰する棒《むち》が必要でございます。また、引きずられていかない婦人たちの徳を支えるためには、彼女たちを支え、ときに警告するための棒《むち》が必要なのでございます。でも、今はお説教はやめにいたしまして、わたくしがお話ししようと考えている本筋に移りましょう。
サラモーネ(ソロモン王のこと)の奇蹟的な叡知《えいち》についての非常に高い評判は、すでにほとんど全世界にひろがっておりまして、これを体験してその確実なことを試そうと望んでいる者には、だれかれの区別をせずに、たいへん鷹揚にそのもとめに応《こた》えているとのうわさも、隈《くま》なく知れわたっておりますので、世界のいろいろのところから大勢の人々が、非常に緊急な、せっぱつまった必要にかられて、彼のもとに忠告をうけに駆けつけてまいっておりました。その忠告を受けに行った人々の中に、小アルメニアのラヤッツォの町の貴族で、非常に金持ちの、メリッソという名前の青年がおりました。彼はラヤッツォの生まれで、そこに住んでおりました。で、イェルサレムに向かって馬を走らせているうちに、アンティオッチャ(アンティオキアのこと)を出た頃、彼と同じ旅をしていたジョセフォと呼ばれる一人の青年と、少しの間一緒に馬を並べることとなりました。で、彼は、旅人のつねといたしまして、ジョセフォと話をまじえだしました。メリッソはもうジョセフォから、その身分や、彼がどこからきたのかを聞いておりましたので、彼がどこにどんな理由で行くのかと、たずねました。ジョセフォは彼に答えて、自分は、どの女よりも強情で、意地悪で、頼んでも、なだめても、またほかにどんな方法をとっても、その強情をやめさせることができない自分の妻に対して、どんな方法をとったらよろしいのか、サラモーネから忠告をしていただくために、同王のもとに行くのだと言いました。で、そのあとで、彼も同様に、相手に向かってどこから来て、どこに行くのか、またそれはなんのためなのか、とたずねました。彼にメリッソが答えました。
「わたしはラヤッツォの者です。あなたに不幸がおありのように、わたしにも別の不幸があるのです。わたしは金持ちで、若いので、自分の財産を、宴会をして町の人々に御馳走をするのに使っております。ところがこんなことをいくらやってみても、一人としてわたしを愛してくれる人が見つからないことを考えますと、じつに不思議で、変な気がしてきます。ですから、わたしは、どうしたら自分が愛されるようになるのか、その忠告をいただきたいと思って、あなたがいらっしゃるのと同じところへ、行くのです」
そこで二人の仲間は一緒に歩きだしました。イェルサレムに到着いたしまして、サラモーネの高官《バロン》の一人によって、王の前に連れていかれました。メリッソは王に手短かに自分の用件を申しあげました。彼に向かって、サラモーネが答えました。
「愛せよ」
で、このことばが終わると、メリッソはすぐに外にだされてしまいました。次いで、ジョセフォが、なぜ自分がそこに参上したのか、その理由を述べました。彼に向かって、サラモーネは、こう答えただけでございました。
「鵞鳥橋《ポンテ・アツローカ》に行け」
そのことばが終わると、ジョセフォも同じように、ただちに王の御前から退出させられまして、自分を待っていたメリッソに会うと、自分が返事としてうけたことばを、彼に伝えました。二人はこれらのことばを考えてみましたが、その意味がわかりませんし、自分たちの用向きになんらの効果もありそうには思えませんでしたので、まるで愚弄されたような気持ちになって、引き返そうと思い、旅をはじめました。そして、何日か旅をつづけたのちに、ある河のところにまいりますと、そこに立派な橋がかかっておりました。騾馬《らば》や、馬に荷を積んだ大きな隊商がその橋を渡っておりましたので、二人は、その荷がとおってしまうまで、橋を渡るのを待っていなければなりませんでした。で、もうほとんど全部がとおってしまったのですが、たまたま一頭の騾馬だけが変にものおじして、よくそんなところを見受けますが、どうしても前に進もうとしたがりませんでした。ですから、馬方は鞭をとって、騾馬に橋を渡らせようと、最初はかなり加減をして、打ちはじめました。しかし騾馬は、道のこっちに来たり、あっちに行ったりして、ときどきあと戻りまでして、頑として進もうとはしませんでした。そんなわけですから、馬方はかんかんに怒って、鞭を振るって、頭や、脇腹や、背中を、力いっぱいに殴りだしました。でも、すべては徒労でございました。そこで、このありさまを見ていたメリッソとジョセフォは、馬方に何度も言いました。
「ひどいやつだ、どうするつもりなんだ? 殺そうというのか? なぜ、なんとかしてうまく、静かに連れていこうとしないんだ? お前みたいに鞭でなぐりつけるよりも、そうしたほうが動くだろうよ」
二人に向かって、馬方が言いました。
「あなた方は御自分の馬を御存じでしょうが、わたしは、自分の馬のことなら知っとりますだよ。これのことは、わたしにまかしておいておくんなせい」
で、そう言い終えると、馬方は騾馬を打ちはじめました。こっちをうちつけ、あっちをひっぱたきまして、騾馬もとうとう進みだしましたので、馬方はこうしてその証《あかし》を立てました。さて、二人の青年は、そこを発とうとして、ジョセフォが、橋のたもとに坐っていた人のよさそうな男に、ここはなんというところかとたずねました。男は彼に答えました。
「旦那さん、ここは鵞鳥橋と申します」
ジョセフォはそれを聞くとすぐに、サラモーネのことばを思いだして、メリッソに向かって言いました。
「ねえ、君、まったくのところ、サラモーネからいただいた忠告は、ほんとうに正しいものかも知れませんよ。わたしは、自分で妻を打つことを知らなかったことが、今はっきりとわかりましたからね。この馬方は、わたしにどうしたらいいのか、教えてくれたんですよ」
それから、何日かの後に二人はアンティオッチャに着きましたので、ジョセフォはメリッソを何日か自分の家に泊めて休息させました。で、彼は細君からたいへんつっけんどんなやり方で迎えられてから、彼女に向かって、メリッソの注文どおりに、夕飯をこしらえるようにと言いました。メリッソは、ジョセフォに気をつかって、なるべく簡単に、注文しました。細君は、今まで夫に対していつもそうしていたように、メリッソが注文しておいたとおりにはしないで、まるでそれとはあべこべのものをこしらえました。ジョセフォはそれを見て、怒って言いました。
「お前は、この夕飯をどんなふうにこしらえたらよいのか、言われていなかったのか?」
細君は、傲慢な態度で振り返ると、言いました。
「おや、それはどういう意味ですの? 召し上がりたいなら、なぜ召し上がらないんです? どうしろと言われたって、わたしはこんなふうに作ろうと思ったんですよ。お気に召したら、召し上がれ。おいやでしたら、およしになって下さいな」
メリッソは、細君の返事にびっくりして、心から彼女をひどい女だと思いました。ジョセフォは細君のことばを聞いて、言いました。
「おい、お前はまだ、いつものとおりなんだね? だが、きっとわたしは、お前のやりかたを変えさせてやるぞ!」
そうしてメリッソのほうを向いて、言いました。
「君、サラモーネの忠告がどのようなものだったか、早く試してみよう。だが、わたしがやることを見ていて、あまり気をもまれないように、またそれをほんの芝居だと思って下さるようにお願いしておきますよ。それから、わたしの邪魔をなさらないようにするために、わたしたちが騾馬に同情した時に、馬方が言った返事を思いだして下さい」
彼に、メリッソが言いました。
「わたしはあなたのお宅におります。あなたのお気に召すようになさればいいんです」
ジョセフォは、若い槲《かしわ》の木片の丸い棒を見つけると、細君が憤慨して食卓を立って、ぶつぶつ言いながらはいりこんでしまった寝室にまいりました。そして細君の髪の毛をつかんで、足もとになげ倒すと、この棒で激しく打ち始めました。細君は最初はどなり立て、それからおどしにかかりましたが、どうやってもジョセフォがやめないのを見てとると、もうすっかり打ちのめされていた彼女は、どうか自分を殺さないでもらいたいと、神さまにかけてその憐みを請いはじめまして、そのうえに、以後はけっして彼の命令に従わないようなことはしないと申しました。ジョセフォは、それでもまだやめませんでした。むしろ、回を重ねるごとにますます狂いたって、ある時は胸を、ある時は腰を、またある時は肩をと、激しく殴りつけて、その傷跡をさらに打擲《ちようちやく》して、自分が疲れるまでは、その手を休めませんでした。手短かに申せば、この細君のからだには、痛めつけられない一本の骨すらも、ほんのちょっとした部分さえも、ございませんでした。
で、これがすんでから、彼はメリッソのところに来て言いました。
「鵞鳥橋に行け[#「鵞鳥橋に行け」に傍点]という忠告が、どんな証《あかし》を立てるか、明日、わかりますよ!」
そして、しばらく休んでから、手を洗い、メリッソと夕飯をしたためました。二人は頃合いを見計らって、寝に行きました、性悪女は、やっとのことで床《ゆか》から起きあがると、自分の寝台に身を投げだしました。そこで、できるだけからだを休めてから、翌朝は非常に早く起きて、何の御馳走をこしらえたらよいか、その希望を、ジョセフォのところへ、うかがいによこしました。それを見て、彼はメリッソと笑ってから、それを命じました。やがて時間となりましたので、行ってみると万事が、あたえた命令どおりに、たいへんよくできておりました。ですから、二人は、最初は誤解しておりましたが、その忠告を心からほめそやしました。何日かのちに、メリッソはジョセフォと別れて、家に帰りまして、聡明な、さるお方に、サラモーネから教えられたことを話しました。その方は彼に言いました。
「だれだって、これよりも本当の、いい忠告を、君にあたえることはできなかっただろうね。君も知ってのとおり、君はだれも愛していないのだよ。君がしている御馳走や、世話は、君がほかの人々によせている愛情からしているのではなくて、派手好きのためにしているんだ。だから、サラモンが君に言われたように、愛したまえ、よ。そうすれば君は愛されるだろうからね」
つまり、こんなぐあいにして、強情な女は懲らしめを受けました。また青年は、他人を愛し、他人から愛されたのです。
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第十話
[#この行3字下げ]〈ジャンニ師は、ピエトロ氏の求めによってその細君を牝馬に変えるために魔法を行なう。そして尻尾をつける段になるとピエトロ氏が、尻尾はいらないと言って、まじないを全部打ちこわしてしまう〉
女王がいたしましたこのお話に、淑女たちはぶつぶつ呟き、青年紳士たちは笑いましたが、それもやみましたので、ディオネーオが、こう話しだしました。
愛嬌のこぼれるような淑女のみなさん、多くの白鳩の中では、一羽の黒いからすは雪白の白鳥よりも、美を添えるものであります。それと同じように、大勢の賢人たちの中では、さほど聡明でないものは、時には彼らの円熟に輝きと美しさを増大させるばかりでなく、またよろこびと慰めを強めるのに適しております。言うなれば、あなた方はみなさんこぞってたいそう思慮に富み、控え目でいらっしゃいますので、かえっていくらか馬鹿であるこのわたしが、あなた方の徳をわたしの欠点でいちだんと光り輝かせているわけでして、ひときわすぐれた値打ちであなた方の徳をいちだんと暗くするよりは、ずっとあなた方によろこんでいただかなければならないのであります。そんな次第で、ありのままのわたしをお見せするために、わたしにもっと幅の広い気ままを許していただかねばなりませんし、またこれからしようとするお話の中で申しあげることを利口な人間の口から聞く場合よりも、いっそうの辛抱をもって、あなた方は、これをお聞きにならなければならないのであります。さて、わたしはあまり長すぎないお話をいたしましょう。そのお話の中で、あなた方は、まじないの力で何かを行なう者たちから命じられたことは、いかに忠実に守る必要があるかということや、その(命じられた)ことをする場合に犯した小さな過失が、いかに魔法使いの仕あげたすべてのものをぶちこわしてしまうかということを、御了解になられるでありましょう。
昨年のことですが、バルレッタに、ジャンニ・ディ・バローロ師と呼ばれる司祭がおりました。貧しい教会を持っておりましたので、暮らしを支えるために、一頭の牝馬で、プリア地方の市場をあちらこちらと、商品を運んで、売買をはじめました。そうしているうちに、司祭は、一頭の驢馬《ろば》で同じ商売をやっていたピエトロ・ダ・トレサンティという男とたいへん親しくなりまして、愛情と友誼を示すために、プリア式に彼のことを、ただコンパール・ピエトロと呼んでおりました。彼がバルレッタに来た時はいつでも必ず、自分の教会に連れていって、そこに自分も一緒に泊まり、できるだけのもてなしをしました。一方ピエトロのほうは、非常に貧乏で、トレサンティに自分と、若い美人の細君と、驢馬がやっとはいれるくらいの、小さな家を持っておりましたが、ジャンニ師がトレサンティにやってきた時はいつでも、自分の家に案内して、バルレッタで司祭からうけたもてなしのお礼のつもりで、できるだけ御馳走をしておりました。ところが、それでも泊めるということになると、ピエトロには美人の細君と一緒に寝ていた小さな寝台しかありませんでしたので、思うようにもてなすことができませんでした。そこで、ジャンニ師の牝馬を、彼の小さな廐《うまや》に驢馬と並べて入れておいてから、その牝馬の少しばかりの藁の上で、司祭に寝てもらわなければなりませんでした。細君は、司祭がバルレッタで夫にしてくれたもてなしぶりを知っておりましたので、司祭が来た時には、司祭が夫と一緒に同じ寝台で眠れるようにと、自分は隣に住んでいるジュディチェ・レオのツィータ・カラプレーザという名前の女の人のところに寝に行こうと思いまして、なん度もそのことを司祭に申しましたが、司祭は一度もそれを承諾しませんでした。何度もそんなことが繰り返されているうちに、司祭が、彼女に言いました。「ジェンマータ奥さん、わたしは居心地がよろしいのですから、わたしのことで気をつかわないで下さい。というのはね、わたしは、好きな時に、この牝馬を美人の小娘に変えて一緒に寝ていて、そのあとで、好きな時に、それを牝馬に変えているのですよ。ですから、わたしはこの牝馬からは離れません」
若い細君はびっくりしましたが、それを本気にして、夫に話したうえ、言い添えました。
「もしあの方が、あなたのいうように仲良しなら、どうしてあの魔法を教えてもらわないんですの? あなたがわたくしを牝馬に変えて、驢馬と牝馬で自分の商売ができるようになれば、わたくしたちは今までの倍儲かるじゃないの。家に帰ってきたら、あなたがわたくしを今みたいな女にもどせば、いいじゃありませんか」
あまり利口なほうではなかったピエトロは、このことを真《ま》にうけて、その忠告に同意しました。そして、できるだけうまく立ちまわって、このことをぜひ教えてくれるようにとジャンニ師に頼みはじめました。ジャンニ師は口をつくして、そんな馬鹿げた考えはやめさせようとしましたが、どうしても彼が聞こうとしませんでしたので、こう言いました。
「では、あんた方がたってと言うのなら、わたしたちは、いつものように夜明け前に起きよう。そうして、どうやるのか教えてあげよう。本当のところ、このことでいちばん難しいのは、君もいずれわかるだろうが尻尾をつけることなんだ」
ピエトロとジェンマータ奥さんは、その夜はろくに寝もしないで、このことに胸をおどらせて待っておりましたが、夜明けも間近に迫りましたので、起きあがると、ジャンニ師を呼び起こしました。ジャンニ師はシャツのまま起きあがると、ピエトロの寝室にやってきて言いました。
「あんた方以外に、わたしがこれをやってあげる人は、この世に一人もいないんだよ。あんた方が、たってと望むから、するんですよ。もしあんた方がどうしてもうまくやってもらいたいと思うなら、わたしの言うとおりにしなくてはいけないんだよ」
二人は、司祭が言うとおりにすると申しました。そこでジャンニ師は、明かりをとると、それをピエトロの手に渡して、言いました。
「わたしがどうするか、よくごらん。またわたしがなんと言うか、よく覚えておいておくれ。もし万事をぶちこわしたくないと思ったら、何を聞いても、何を見ても、ひと言も口をきかないように用心するんだ。そうして、尻尾がよくつきますようにと神さまにお祈りをしているんだね」
ピエトロは、明かりをとると、そのとおりにしますと言いました。そのあとで、ジャンニ師は、ジェンマータ奥さんを、生まれた時のままの裸にしまして、やはり何が起こっても口をきかないようにと教えて、牝馬がするように両手と両足で床に四つんばいにさせまして、両手でその顔や、頭をなではじめながら、言いだしました。
「これは牝馬の美しい頭になるように」
それから、髪の毛にさわって申しました。
「で、これは牝馬の美しい脚《もも》と、美しい足になるように」
それから、彼女の胸にさわって、それが固くて丸々としているのを見ると、呼び起こしもしなかったものが目をさまして、立ちあがってまいりましたが、こう申しました。
「で、これは牝馬の美しい胸になるように」
それから司祭は、背中や、腹や、お尻や、腿《もも》や、脚に同じようなことをいたしました。そうして最後に、尻尾のほかに何もすることがなくなりましたので、シャツをまくりあげると、彼は、それを使って人間を植えつけていた杭《くい》をとって、そのために作られていた畝《うね》にすばやくさしこむなり、申しました。
「で、これは牝馬の美しい尻尾になるように」
その時まで万事を注意深く見つめていたピエトロは、この最後のを見ると、こいつはいけないと思って、言いました。
「ああ、ジャンニ神父、わたしは尻尾は頼まないよ、尻尾は頼みませんよ!」
もう、それであらゆる植物が結びつくところの根からでる汁がはいってしまったので、ジャンニ師は杭を引き抜いてから、言いました。
「ああ! ピエトロどうしたんだね? 何を見ても口をきいてはいけないと、君に言っといたじゃないか。牝馬はできあがるばかりになっていたのに君は口をきいて、何もかもぶちこわしてしまったんだ。今となってはもう、それをもう一度やり直す術《て》はないんだ」
ピエトロが言いました。
「けっこうです。わたしはあんな尻尾をあなたに頼んだんじゃないのです。どうしてあなたは、『お前やれ』とわたしにおっしゃらなかったのです? それにあまり下のほうにつけすぎましたよ」
ジャンニ師が言いました。
「君には、最初は、わたしみたいにうまくつけることができないだろうと思ったからさ」
若い細君は、このことばを聞くと、立ちあがって、本気になって夫に言いました。
「まあ! あなたは大馬鹿ですよ。どうして自分やわたくしの仕事を台なしにしたの? 尻尾のない牝馬なんて、見たことがあって? ほんとうに、あなたは貧乏だけど、もっとうんと貧乏になってもしかたがないでしょうね」
さてピエトロが口走ったことばのために、もう若い細君を牝馬に変える方法がなくなりましたので、彼女は悲しそうに、ふさぎこんで元どおりに服を着ました。ピエトロは、いつもしていたように、牝馬をつれて、前の商売に取りかかりました。そしてジャンニ師と一緒にビトントの市場に行きましたが、もう二度とあんな奉仕を頼みませんでした。
ディオネーオが望んでいたよりも、はるかにこれをよく了解した淑女たちが、どんなにこのお話を笑ったことでしょうか、それは、今お笑いになっている方に、想像していただきましょう。さて、いろいろのお話が終わりまして、お日さまはもう日ざしもやわらかになりましたので、女王は自分の主宰権の終わりがきたことを知って、立ちあがると、王冠をとりはずして、今はこうした名誉を授ける唯一の相手として残っていたパンフィロの頭に、それをのせて、ほほえみながら申しました。
「王さま、あなたは、最後の王さまでいらっしゃいますから、わたくしのいたらなかった点や、あなたがおつきになる地位に、今までついてまいりました方々の欠点をとりつくろわなければなりませんので、あなたには重任が残されておるしだいでございます。それでわたくしは、神さまのお恵みによって、あなたを王に推挙いたしましたのですが、それと同じように、神さまがあなたにもお恵みを垂れて下さいますよう、お祈り申しあげております」
パンフィロは、よろこんでその名誉をうけてから、答えました。
「あなたや、ほかのわたしの臣下たちの徳のおかげで、わたしもほかの方々がそうでありましたように、おほめにあずかれる者になりましょう」
そうして、彼は、自分の先任者たちの習慣に従って、然るべきことどもを給仕頭に命じましてから、待っていた淑女たちのほうを向いて言いました。
「恋に心をもやす淑女のみなさん、今日わたしたちの女王でいらっしゃったエミリアの寛大なお取り計らいは、あなた方の力にいくぶんの休養をあたえるべく、なんでも好きなものを話題にしてお話をする自由を、あなた方にさずけられるということでした。もうあなた方も休養をおとりになりましたので、わたしは、いつもの法則に立ち帰るのがよろしいと考えます。そこで、明日はあなた方の一人一人に次の話題について、つまり愛やそのほかのことで、寛大にまたは鷹揚に、何かをなしとげた者について、お話をしていただきたいと思います。こうしたことをお話ししたり、行なったりすると、十分に備えのできているあなた方の心を燃え立たせて、短いものにほかならないわたしたちの命を、賞讃すべき名声のうちに永遠にのこるようにしようとして、これに立派な努力を果たさせるでありましょう。畜生どもがしているように、ただ腹にばかり奉仕しているとはかぎらない人間はだれでも、そのことを望むばかりではなくて、全力を傾けて、これを探し求め、実行しなければならないのであります」
この主題は、愉快な仲間の気に入りまして、一同は、新しい王の許しを得て、打ち揃って席を立つと、それぞれ自分のいちばん望んでいるものを選んでいつもの娯楽をはじめました。こうして夕飯の時間まで打ち興じました。夕食には一同にぎやかに集まってまいりまして、行きとどいた、きちんとととのった給仕をうけました。夕食が終わったあとで、立ちあがって、いつもの踊りをしてたぶん曲よりも歌詞が一段と面白い小歌を千ほども、たくみに歌いまくりましてから、王はネイフィレに向かって、自分のために一つ歌ってほしいと命じました。ネイフィレは澄んだ、うれしそうな声で、ためらいもせずに、たのしそうに歌いだしました。
われは若き身春なれば
心もかろく恋心
甘き思いの歌うとう
緑の牧場分け入れば
白、黄、くれない、千々の花
棘あるばらや白き百合
その幸《さち》いのるわが身をば
今も昔もいとおしむ
いとしの君の面影に
たとえんかなや園の花
かの面影に似た花の
わが眼にいればつみとりて
唇によせ胸のうち
口説のかぎり望みごと
心おきなく語らなん
さて余の花は金の髪
結びて花の環とすべし
自然の花の目にしむる
このよろこびはわが胸を
燃えたたしめしかの君の
御姿を見る心地なり
花の香におうよろこびは
ことばに述ぶるすべもなく
語るはひとりわが吐息
吐息はほかの女《おみな》らの
悲しきものにひきかえて
熱くさやかにもれいでて
いとしの君の胸うてば
君のさとりていそいそと
かけよる時にわれはよぶ
「ああ来れかしわがために!」
ネイフィレの小歌は、王や、すべての淑女たちから非常にほめ讃えられました。小歌のあとで、もう夜もだいぶふけましたので、王は一同に、それぞれ夜明けまで休みに行くようにと命じました。
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第十日
[#この行3字下げ]〈デカメロンの第九日が終わり、第十日すなわち、最後の日がはじまる。この日にはパンフィロの主宰の下、愛や、その他のことで寛大に、または鷹揚《おうよう》に、何かをなしとげた者について語る〉
パンフィロが起きあがって、淑女たちや、仲間の紳士たちを呼ばせた時には、もう東方のいくつかの小さな雲は、すぐそばまで近寄ってさし込んでいた陽光をうけて、その端のほうが光りまばゆい黄金そっくりに変わっておりましたが、西方では、小さな雲のあるものは、まだ真紅色でした。一同が集まりましたので、王はみんなとどこへたのしみに行ったらいいだろうかと相談をしてから、フィロメーナやフィアンメッタにともなわれ、ゆるやかな足取りで歩きだしました。他の者たちは、王のあとにつづきました。一同は、自分たちの将来の生活について、いろいろのことを話したり、物語ったり、答えたりしながら、長いあいだ散歩をしておりました。かなり歩きまわってから、日が暑く照りだしたので、屋敷に帰りました。そこで、清冽《せいれつ》な水の噴泉のまわりを囲んで、コップをゆすがせてから、飲みたい人は少しばかりの水を飲んで、それら食事の時間まで、庭の心地のよい木蔭の下で身をやすめていました。それから、いつものように食事をすませ午睡をとってから、王の命令で集まりました。そこで王はネイフィレに最初のお話を命じました。ネイフィレはよろこんでこう話しだしました。
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第一話
[#この行3字下げ]〈一人の騎士がスペイン王に仕えるが、自分は十分な褒賞をうけていないと思う。そこで、王はすこぶる確実な実験をもって、それが本人の罪によるのではなく、本人の不運のせいであることを騎士に示して、そのあとで彼に十分すぎるほどの贈り物をする〉
尊敬すべき淑女のみなさん、わたしたちの王が、鷹揚《おうよう》ということについて語るように、わたしにお命じになったのは、有難いしあわせであると考えなければなりません。鷹揚こそは、太陽が天空全体の美と装飾であるように、あらゆる徳の輝きと光明であります。ですからわたしは、自分の考えでは、かなり面白いと思う短いお話をいたしましょう。このお話をお思い起こしになれば、必ずやみなさまのお役にたつことでありましょう。
さて、大分昔からわたしたちの町に住んでいた勇敢な騎士たちの一人で、おそらく一番すぐれていた、ルッジェーリ・デ・フィジョヴァンニという者がいたことを御承知いただかねばなりません。この人は、お金持ちで、大志を抱いておりまして、トスカーナ地方の生活や習慣のことなどを考慮したうえ、そこに住んでいても自分の勇気を示すことは、ほとんど、または全然できないだろうと思いましたので、当時その勇名は他のいかなる諸公のそれをもしのいでいたスペイン王アルフォンソのもとにしばらくのあいだ仕えようと決心しました。そして、その権勢を示すだけの武具、馬匹はいうに及ばず、供廻りにまでも十分の用意をして、スペイン王のもとに赴き、王から愛想よく迎えられました。
さて、ルッジェーリ氏はそこに長期間滞在して、王のやり方をよく見ていましたが、彼には、王がそれに価しない者にまで、城や町や采地(男爵領)を、今度はこの人に、次はあの人にとでたらめに贈っているような気がしました。ところが自分がどのくらい値打ちがあるのか知っている彼には、何一つ贈られたことがありませんでしたので、これは自分の名声を軽んじるものであると考えました。そこで他所へ行くことにきめて、王にお暇《いとま》を願いでました。王はそれを許し、彼にこれまでだれも乗ったことのないような最もよい騾馬一頭を贈りました。それは、長い旅行をしなければなりませんでしたルッジェーリ氏にとっては、有難いものでありました。このあとで、王は一人の慎重な家来を呼びよせて、できるだけよいと思う方法で、王から派遣されたことを気《け》どられないようにルッジェーリ氏と一緒に馬をならべて旅をし、ルッジェーリ氏が王のことで口にすることは何でも覚えておいて、自分に報告すること、それから二日目の朝にルッジェーリ氏に王のところに引き返せと言いつけるように命じました。家来は注意していて、ルッジェーリ氏が土地を去るとすぐに、うまい具合に彼と道づれになりまして、自分もイタリアに向かって旅行をしているのだと思わせました。
さて、ルッジェーリ氏が王から賜った騾馬に乗って、これを走らせておりますと、例の家来は、あれこれとおしゃべりをしながら、朝の九時近くになりましたので言いました。
「そろそろこの獣らに、小便をさせたらいい時分だと思うのですがね」
そして廐にはいると、例の騾馬を除いて、他の獣らはみんな小便しました。なおも駒を進めて行き、例の家来は、相変わらず騎士のことばに注意を怠らないでおりますうちに、とある川にやってきました。そこで他の獣らが水をのんでおりますと、例の騾馬が川の中に小便をしました。ルッジェーリ氏はそれを見て言いました。
「ああ、神さまのばち[#「ばち」に傍点]でもあたるがいい、こん畜生め。お前は、お前をわたしにくれた御主人のように出来あがっているんだな!」
家来は、このことばを覚えました。で、一日中彼と一緒に馬をやりながら、多くのことばを心にとめておきましたが、王さまを賞めちぎって言うことば以外は、何も聞きませんでした。そこで翌朝、馬に乗ってトスカーナのほうに馬をやろうとすると、家来は彼に王の命令を伝えました。そこで、ルッジェーリ氏はすぐさま引き返しました。王はすでに相手が例の騾馬について言っていたことを承知していましたので、彼を呼び、うれしそうな顔をして迎えたうえ、どうして自分を彼の騾馬に、または騾馬を自分に譬えたのかとたずねました。ルッジェーリ氏は平気な顔で申しました。
「陛下、あの騾馬は小便をすればいいところでは小便をしないで、してはならないところで小便をいたしました。同じように陛下は、おさずけになってはならないところに褒賞《ほうしよう》をあたえられ、それをおさずけになるべきところには、それをなさいません。そこで、陛下をあの騾馬にたとえたのでございます」
すると王が仰せられました。
「ルッジェーリ、わしが、お前と較べたらなんの値打ちもない多くの者たちに褒賞をとらせて、お前にはそれをあたえなかったのは、わしがお前を、どんな立派な褒賞を授けてもいいほど勇敢な騎士であると認めなかったからではない。ただお前に褒賞を授ける機会をわしに恵んでくれなかったお前の不運にこそ罪があるので、わしのせいではない。そこでわしの言うことが本当だということを、お前にはっきりと見せてあげよう」
ルッジェーリ氏が王に答えました。
「陛下、わたくしはこれ以上金持ちになろうとは思っていませんでしたから、陛下から褒賞を授けられないことで、腹を立てているのではございませんが、陛下が何事につけても、わたくしの勇気をお認めにならなかったことが口惜しいのでございます。ともかく、陛下のおことばは、ご立派で、偽りのないものと存じます。わたくしはなんの証拠がなくてもそれを本当だと思いますけれども、陛下のお気に召すことでしたら、なんでも拝見いたすつもりでおります」
さて、王は彼を大広間に連れて行きました。そこには、前もって王が命じておかれましたので、二つの鍵のかかった大きな櫃《ひつ》がありました。王は大勢の家来の前で言いました。
「ルッジェーリ、この櫃の一つには、わしの王冠や笏《しやく》や金の球や、多くの立派な帯や、留め金や指輪や、その他わしの持っている一切の宝石がはいっていて、もう一つの櫃には泥が詰めてある。では、その一つをとるがいい。お前がとったほうをお前に進ぜよう。そうすれば、お前の勇気に対して、わしかそれともお前の運か、どちらが恩知らずだったかわかるだろう」
ルッジェーリ氏は、そうすれば王がよろこぶと思いましたので、その一つをとりました。王はそれをあけるように命じました。あけてみると、それは泥が詰まったほうでございました。そこで王は、笑いながら言われました。
「ルッジェーリ、わしが運について言ったことが本当だと、これでわかっただろう。しかし、お前の勇気は、わしが運の力にさからってもいいだけの値打ちが確かにある。わしは、お前がスペイン人になる意志のないことを知っている。だからここの城や町を贈ろうとは思わないが、運がお前からとりあげたその櫃を、運にさからってお前のものにしてあげよう。それを国に持って帰るがよい。わしの贈り物を証拠として、お前が自分の近隣の人々にりっぱに自慢ができるだろう」
ルッジェーリ氏はその櫃をうけると、王に、そうした贈り物にふさわしい感謝のことばをのべて、それを持ってよろこんでトスカーナに帰りました。
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第二話
[#この行3字下げ]〈ギーノ・ディ・タッコはクリニーの修院長をとらえて、修院長の胃病を治療し、そのあとで放免する。修院長はローマの教皇庁に帰ってから、ギーノと教皇ボニファツィオとを仲直りさせて、彼を慈恵団騎士にする〉
アルフォンソ王が、フィレンツェの騎士に対してとった寛大な態度は、すでに大方の賞讃を博しまして、このお話が非常にお気に召した王は、エリザに、そのあとにつづいてお話をするようにと命じました。エリザはさっそく話しだしました。
心やさしい淑女のみなさん、王が寛大でいらしったことや、その寛大を、自分に仕えてきた者に示されたときは、ただ賞讃に価する立派なことだと申すほかはございません。しかし、もし敵に廻しても、だれからも非難をうけることがないような人間に対して、聖職者が、驚嘆するような寛大な態度をとるお話をいたしましたら、わたくしたちはなんと言うでございましょうか。確かに、王の寛大は世にも珍しい高徳であり、聖職者の寛大は奇蹟に他なりません。と申しますのは、彼らはすべて、女性よりもはるかに並外れて吝嗇でございまして、どんな寛大な行為にも剣を引き抜く激しい敵だからでございます。で、人間はだれでも、うけた侮辱については復讐を渇望するとは申しますが、御承知のとおり、聖職者たちは、忍耐を説教し、また侮辱を許すことを大いに賞讃しておきながら、それでいて、他の人たちよりも、激烈に復讐の鬼となってしまいます。そのことをつまりある聖職者がどんなに寛大であったかを、(わたくしの)次のお話でみなさまははっきりと御承知になられるでございましょう。
ギーノ・ディ・タッコは、その豪邁なことと、その掠奪ぶりとで、大変有名な男でございますが、彼はシエナから追い出されて、サンタフィオーラの伯爵家の敵となり、ローマの教皇庁に対してラディコーファニに反乱を起こさせまして、そこに定住して、その周辺を通行する者を相手かまわず、部下の山賊たちに掠奪させておりました。さて、教皇ボニファツィオ八世がローマにおりました時に、世界じゅうで一番の金持ちの高位聖職者の一人だと認められているクリニーの修院長が、教皇庁に伺候いたしました。修院長はそこで胃をこわして、医者たちから、シエナの温泉に行けば間違いなくなおるだろうと勧告をうけました。そこで教皇がそれをお許しになりましたので、ギーノの名声など気にかけないで、諸道具や、荷物や、馬匹などをこれ見よがしに派手にそろえて旅に出ました。ギーノ・ディ・タッコは、修院長がくると聞いて、網《あみ》を張っておりました。で、従者は小者一人のがさずに、全部の家来とその持ち物はいうまでもなく、この修院長を狭い場所にとりかこんでしまいました。そうしておいてから、ギーノは、部下の一人で一番腕のある男に、十分に供をつけて、修院長のところにやりました。その男はギーノからの口上だといって、修院長に、どうかギーノと一緒にそのお城までお越しを願いたいと、ごくねんごろに伝えました。それを聞いて修院長はかんかんに怒り、ギーノとは何の用もないから、何もしたくない、と答えました。だが、自分は旅をつづけたいので、その旅を邪魔する者の顔が見たいと答えました。使者は彼に向かってうやうやしい口のきき方をしながら言いました。
「メッセーレ、閣下は、神のお力のほかには、何一つ恐ろしいものはないわたくしたちのところへおいでになったのです。ここでは破門や聖務停止になんの値打ちもございません。従いましてこの事については、ギーノの願いをお聞き届け遊ばすのが最良の策かと存じます」
そうしたことばがやりとりされているうちに、もうそのあたりは全部部下の山賊でとりかこまれてしまいました。そこで修院長は家来たちもろとも、とりこになってしまったのを知って激怒しましたが、使者と一緒に城に向かって進みました。その一隊と荷物も、彼のあとにつづきました。馬から下りるとギーノの命令どおり、たった一人で館の非常に暗い、気持ちの悪い小さな寝室に入れられました。他の者たちはその身分によって、城の大変よい部屋に入れられまして、馬匹や荷物全部は、何一つ手をつけられないで、安全なところにおかれました。それがすむと、ギーノは修院長のところへ行って申しました。
「閣下、あなた様をお客に迎えましたギーノは、あなた様がどこへどういう理由で御旅行をなさっていらっしゃるのか、なにとぞお漏らし下さいますようお願いしております」
思慮深い人で、すでにすっかり、傲慢な態度を改めておりました修院長は、彼に、自分がどこへ、なぜ行くのかを説明しました。ギーノはそれを聞くと、そこを出て、温泉を用いないで修院長を治してあげたいと考えました。そこで例の小部屋に、始終大きな火をたいているように言いつけて、翌朝まで彼のところには参りませんでした。翌朝彼は、真白いナプキンに包んだ焼きパンを二片と、修院長自身のものであるコルニリア産の白ぶどう酒を大きなコップに一杯持ってきて、こう修院長に申しました。
「閣下、ギーノはまだ若かった時分に、医学を勉強いたしました。で、胃病には、自分であなた様のためにおつくりする薬よりよくきくものは何もないということを、勉強したと申しておりますが、わたしがここに差し上げるこれらの品々は、その手初めなのでございます。ですからどうぞこれを召し上がって、御養生をなさいますように」
口をきく気よりも、ずっとお腹が空いていた修院長は、怒った仕草をみせましたが、パンを食べ、白ぶどう酒を飲みました。それからいろいろと尊大なことを言い、多くのことをたずね、それについてたくさんの忠告をあたえまして、特にギーノに会わせてほしいと要求いたしました。ギーノはそれを聞くと、一部はつまらないことなのでそのまま聞き流しておきまして、あるものに大そう鄭重に返事をして、ギーノはできるだけ早くこちらに伺うはずだとはっきり申しました。で、こう言うと修院長のところから立ち去りました。翌日、同量の焼きパンと同量の白ぶどう酒を持ってやってくるまで、そこには姿を見せませんでした。こうして数日間そうしておりました。そのうちに彼は、自分がわざわざ、そっと持って行って、おいてきた乾しそらまめを、修院長が食べてしまっているのに気がつきました。そこで彼は、ギーノからの言いつけだといって、胃の具合をどう思うかとたずねました。修院長は彼に答えました。
「わたしは、彼の手から放免されれば、結構だと思うのだよ。そうなれば、あとは食欲にまさるものは何もないよ。彼の薬ですっかり治してもらいましたのでね」
そこでギーノは、修院長の諸道具で、修院長の家来たちのために、美しい寝室をととのえさせ、大宴会の準備をさせまして、そこへ城中の大勢の人々と一緒に修院長の家来を全部招くことにして、翌朝、修院長のところにまかりでて申しました。
「閣下、閣下にはすっかりお癒《なお》りになりましたので、御病室を御退出になる時がまいりました」
で、彼は修院長の手をとると、支度をしておいた寝室に連れてまいりまして、修院長の家来たちと一緒にそこに残したまま、宴会を立派なものにしようと支度に出て行きました。修院長は自分の家来たちを相手にいくらか休養をとると、自分がどんな生活を送ってきたか、それをみんなに物語りました。ところが家来たちは、それとは反対に、口をそろえて、自分たちはギーノから驚くほど鄭重な取り扱いをうけたと申しました。さて、食事の時間がまいりまして、修院長やその他の者たちは、次々とおいしい御馳走や上等のぶどう酒を饗応されました。でもギーノは、まだ修院長に自分のことを知らせませんでした。
しかし、修院長がこうして何日かの間滞在いたしましてから、ギーノは、修院長の荷物をことごとく一つの部屋に持ってこさせて、その部屋の下に当たる中庭には馬匹《ばひつ》を、一番貧弱な駄馬に至るまで一頭残らず連れてこさせておきましてから、修院長のところにまいりまして、お体の具合をどうお思いか、馬に乗れるくらいしっかりしていらっしゃるとお考えか、とたずねました。修院長は彼に向かって、自分は十分に体はしっかりしたし胃もすっかりなおった、あとはギーノの手から放免されさえすれば結構なのだが、と答えました。そこでギーノは、修院長の荷物がおいてあって、家来一同が集められていた部屋に修院長を案内いたしました。修院長を、彼の馬匹が全部見渡せる窓に近づけて申しました。
「修院長閣下、その身は貴族でありながら、家から放逐されて、困窮の底に沈み、多くの手強い敵を持っておるために、何をかくそう実はこのわたしであるギーノ・ディ・タッコめが、悪い性根のためではなく、自分の命と自分の貴族としての身分を守れるようにと追い剥ぎに身を落とし、ローマの教皇庁の敵となった仕儀を、あなた様にぜひとも御承知になっていただかなければなりません。しかし、あなた様は立派なお方のように思われますので、御存じのようにおなかも癒してあげておりますし、あなた様には、他の方にするようなお取り扱いぶりをいたすつもりはございません。他の者でございましたら、あなた様のようにわたしの掌中に落ちましたら、その持ち物は自分の好きなだけ頂戴するでございましょう。ですが、わたしは、あなた様が、わたしの困っていることを御推察のうえ、そのお荷物のうち、あなた様御自身でお好きなだけをわたしにお恵み下さいますようにと、思っております。お荷物は全部ここに、あなた様の前に何一つ手をつけないでおいてございますし、あなた様の馬匹は、こちらの窓から中庭に並んでいるのがごらんになれます。ですから、その一部でも全部でも、お好きなようにおとりになって下さい。また只今からは、お発ちになるのも、御滞在になるのも、あなた様の御意のままでございます」
修院長は、追い剥ぎの口からこうした寛大なことばが出るものかと、すっかり驚いてしまいました。で、それが大変に気に入りまして、すぐにその憤怒や、屈辱感がさらりと消えてなくなり、むしろそれが一変して好意になりましたので、彼は心からギーノの友人になり、駆けよると抱きついて申しました。
「わたしは、神様に誓って言うが、自分でそうだとにらんだ君のような人間の友情を得るためなら、今日までうけた侮辱よりも、もっとひどい侮辱をうけても文句は言わないだろうね。君に、こんな悪い職業をやらないではいられなくしている運命こそ、呪われたらいいのだ!」
そのあとで、修院長は、自分のたくさんの持ち物の中から極くわずかの、どうしても手放せないものだけをとり、馬匹についても同様に取り計らいまして、その他のものは全部ギーノに残したまま、ローマへと立ち帰りました。
教皇は、修院長がとりことなったことを御存じでした。そのことを大変気の毒に思っておられましたが、修院長に会うと、温泉は効き目があったかとおたずねになりました。修院長はにこにこしながら教皇に答えました。
「教皇聖下、わたくしは、温泉よりも近いところで名医を見つけましたが、それが大そう上手に治してくれました」
修院長は、どんなふうに治してもらったか、その方法を物語りました。それを聞いて、教皇はお笑いになりました。修院長は、その話をつづけながら、寛大な心に動かされて教皇に特赦を願いでました。教皇は、修院長がそれとは別のものを要求するにちがいないと思っておりましたので、鷹揚に、彼の要求するものを叶えてあげると言われました。そこで修院長が言いました。
「教皇聖下、わたくしがあなた様にお願い申しあげようと考えておりますことは、あなた様からわたくしの医者のギーノ・ディ・タッコに特赦を賜わることでございます。と申しますのは、わたくしが今まで知り合った立派な偉い人たちの中でも、彼は確かにその点で最もすぐれた者の一人でございまして、わたくしには、彼が行なっている悪事は、彼の罪過というよりも、はるかに多くその不運の罪過だと考えられるからでございます。もしあなた様が、彼に、身分相応に生活できるようなものをお恵みになって、そうした不運を一変させて下さいますならば、遠からずあなた様も、彼に対してわたくしと同じようなお考えをお持ちになられるだろうことを、わたくしは露ほども疑ってはおりません」
教皇はこれを聞くと、もともと気宇の大きなお方であり、立派な人物が大好きなお方でございましたので、あなたの言うとおりの値打ちの者ならば、よろこんでそうしましょう、あなたが彼を安全な方法を講じて召し出されるようにと、おっしゃいました。さてギーノは、修院長の望みにこたえて、安全通行証をうけて、ローマの教皇庁にまいりました。彼が教皇のところに滞在中にまもなく、教皇は彼を立派な人物であると見こまれまして、これと仲直りをなさったうえ、慈恵団大院長の地位を賜わって、同団の騎士に任命なさいました。彼は、聖教会カトリック教会及びクリニーの修院長の友人として、また下僕として、生涯その地位についておりました。
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第三話
[#この行3字下げ]〈ミトリダネスは、ナタンの親切なのをそねんで彼を殺しに行くが、彼とは知らずに、彼とばったり出会う。そして彼自身からその方法を教えられて、相手が準備しておいたとおり森で彼に会う。ミトリダネスは、相手がナタンであることを知って恥じ、その友人となる〉
確かにみんなは、こうしたこと、つまり聖職者が寛大にふるまったということを聞いて、奇蹟でも耳にしたような気がしました。けれども、もう淑女たちのお話が終わりましたので、王はフィロストラートに、その先をつづけるように命じました。フィロストラートはすぐにはじめました。
気高い淑女のみなさん、スペイン王の寛大さは実に大きなものであり、クリニーの修院長の寛大なことは、多分いまだかつて聞いたこともないくらいのものでありました。しかし、ある人がその鷹揚さから、自分の血潮を、否、自分の命を奪おうと望んでいる相手に、それと気取られないように用心して、それを相手に提供しようと決心して、もし相手がとろうとしたら、それをあたえていただろうということをお聞きになったら、恐らくみなさんは、これは前の話と同じように驚嘆すべきものだとお思いになられるでありましょう。そこでわたしは、自分の小さなお話で、そのことをみなさんにお聞かせしようと思います。
数人のジェノヴァ人や、その地方にいた人たちのことばに信頼をおくことができるとしますれば、カッタイオの地方(中国北部)にかつて、貴族の血筋の、群を抜いた金持ちで、ナタンという名の男がいました。この人は、西方から東方に、東方から西方に行こうとする者がほとんど、どうしても通らなければならない街道の近くに土地を持っておりましたが、太っ腹で鷹揚な気持ちの人で、何かして人に知られたいと望んでおりました。そして、多くの棟梁を使って、わずかの間に今までに見たこともないような美麗で、宏壮で、豪奢な屋敷を建て、貴族たちを迎えて御馳走をするのにふさわしい調度類の最良のものを選んで、備えつけさせました。また大勢のちゃんとした召使たちをおいておりましたので、往来する者をだれでも、よろこんで、にぎやかに迎えて御馳走をするようにさせておりました。こうした賞讃に価するやり方をつづけていましたので、東方ばかりでなく、西方一帯にかけて、人々は彼の名声を知っておりました。やがて彼も高齢に達しましたが、相変わらず倦まずに寛大にふるまっていましたところ、たまたま彼の名声が、彼のところからあまり遠くないところのミトリダネスと呼ばれる青年の耳に伝わりました。彼は、ナタンには負《ひ》けはとらない金持ちだと自分で考えていましたので、ナタンの名声やその徳をうらやんで、もっと寛大にふるまって、相手のそれを消してしまうか、ぼかしてしまおうと心の中できめました。で、ナタンの屋敷にそっくり同じような屋敷を建てさせて、そのあたりを往来する者に対して、まだだれもやったことがないような底なしの寛大なふるまいをしはじめましたので、むろん瞬く間に、非常に有名になりました。
ところがある日のこと、この青年がたった一人で、自分の屋敷の中庭におりますと、一人の貧しそうな女が屋敷の出入り口の一つから中へはいってまいりまして、彼にほどこしを請い、恵んでもらいました。その女はまたもや第二の出入り口から彼のところへ近よってまいりまして、もう一度恵んでもらいました。こうして、つづけざまに十二回目まで、そのとおりにいたしました。そうして、女が十三回目にまいりました時に、ミトリダネスが言いました。
「ねえ、お前さんは物乞いに引き返してくるのが、ちと早すぎるよ!」
それでも彼は女に恵んでやりました。その老婆はこのことばを聞くと言いました。
「ああ、ナタン様の鷹揚さよ、あなたはなんてすばらしいのでございましょう! なぜと申しましたら、ここと同じように、その屋敷にある三十二の出入り口をはいっていって、ほどこしを請いましたが、あの方はわたしの顔を知られないで、いつも恵んで下さったのでございます。それがここでは、まだ十三回しかまいりませんのに、顔を知られたうえ、小言をいわれてしまいました!」
こう言うと女は立ち去って、もうそれっきり戻ってまいりませんでした。ミトリダネスは、老婆のことばを聞いて、ナタンの評判は自分の名声を軽くするものだと考え、いかりにのぼせあがって言いました。
「ああ、わたしはだめだ! わたしは、ごくささいなことでもナタンに近づくことができないのに、ナタンの大きなことにかけての鷹揚なやり方に、追いつき、追いぬくことができるのは、いつのことだろうか。あの男をこの地上から消してしまわないかぎり、わたしは骨折り損をしているだけだ。あの男がとしのせいでぽっくり逝《い》かないとしたら、わたしが自分で手を下してやることが必要なんだ」
こうして激情にかられて立ちあがると、自分の決心をだれにも告げないで、馬にまたがると、わずか数人の従者をつれて出発し、三日目にナタンが住んでいる土地に到着しました。そして、みんなには自分と一緒の者ではないような、自分を知らないような振りをしていて、自分から別に指示があるまでは自分たちのやどでも探しておくようにと命じました。日の暮れかけた頃に着いて、たった一人になってから、彼は、立派な屋敷から大して遠くないところで、はでな着物は何一つまとわず、ただ一人で散歩しているナタンを見つけました。彼はそれがナタンだとは知りませんでしたので、ナタンの家はどこか教えてもらえないかとたずねました。ナタンはよろこんで答えました。
「このあたりでそれをわたしよりよくお教えできる者はいないでしょう。もしよろしかったら、わたしが御案内しましょう」
青年は、それはたいへん有難いが、もしできたら、自分はナタンに姿を見られたり、だれであるか知られたくないのであると言いました。彼にナタンが言いました。
「そのほうがよろしければ、そういう風にしましょう」
そこでミトリダネスは馬からおりて、瞬く間に自分と愉快な話を交わしたナタンと一緒に、その立派な屋敷へやってきました。そこでナタンは、召使に青年の馬をひきとらせてから、その召使の耳に口を寄せて、自分がナタンであることをだれも青年にしゃべらないように、家じゅうの者にすぐ手配しておけと命じ、そのとおりに行なわれました。そこで、二人が屋敷の中にはいると、ナタンはミトリダネスを、たいそう美しい寝室に通しました。そこだと、ナタンが客の用たしをするように言いつけておいた者以外は、ミトリダネスの姿を見る者はだれもありませんでした。ナタンはできるだけの礼をつくして彼を歓待して、自分でその相手をつとめました。ミトリダネスはナタンのところにいる間は、父親のように彼を尊敬しましたが、それでも彼に、あなたはどなたなのかとたずねました。ナタンは彼に答えました。
「わたしはナタンのつまらない召使でございますよ。わたしは、こどもの時から、彼と一緒にこれまで年をとってまいりましたが、ナタンは、わたしをごらんのとおりの身分より上には、決して引き立てては下さいませんでした。ですから、他の人は、ナタンはいい人だと大喜びですが、わたしはあまり喜べないのでございますよ、はい」
このことばを聞いて、ミトリダネスには、さらにいっそう用心深く、安全な方法で、自分の邪悪な計画をやりとげることができるという希望が湧きました。ナタンは彼に向かって、非常に丁寧に、自分にできることなら忠告もし、助力もしようと申し出て、あなたはどなたであって、何の用でここにおいでになったのかとたずねました。ミトリダネスは、しばらくの間返事をするのをためらっていましたが、とうとう彼に打ち明ける決心をして、まわりくどい言い方で秘密を守るようにと頼み、それから忠告や助力を頼みまして、自分がだれであって、どんな目的でここへやってきたのか、なぜそんな考えを起こしたのかということをのこらず話しました。ナタンは、ミトリダネスの話や残忍な計画を聞いてすっかり仰天してしまいましたが、あまり長くためらいもしないで、平然としっかりした顔つきで答えました。
「ミトリダネス、あなたの父上は立派な方でございました。あなたは、今まででわかりますように、つまり、みんなに対して寛大に振るまおうと大変気高い行ないを実行なさってこられて、父上に負けまいとお考えになっていらっしゃいます。あなたがナタンの徳に対して抱いていらっしゃる羨望を、わたしは賞讃いたします。もしこの世の中にそうした羨望がたくさんございましたら、この悲惨きわまる世界は瞬く間によくなることでございましょう。あなたがわたしにお話しになった御計画は、むろん秘密にしておきましょう。それについて、わたしは大きな助力というよりも、むしろ有益な忠告をおあたえすることができましょう。それはこうでございます。ここから、この近所の半マイルばかりのところに小さな森があるのが、あなたにはお見えになるでしょうが、その森へナタンはほとんど毎朝たった一人でお出かけになって、かなり長い間散歩をされます。そこでナタンにお会いになって、なんでもお好きなようになさることは、雑作《ぞうさ》もないことでございます。もしあなたがナタンの命をおとりになったら、だれにも邪魔をされないで御自分のお宅にお帰りになれるようになさるには、あなたがそこへ行かれる時の道ではなくて、森から左手に出ている道がお眼にとまったら、それをおいでなさい。少しばかり荒れた道ですが、お宅にはずっと近いし、あなたにとっては、一段と安全だからでございます」
ミトリダネスはその情報をうけますと、ナタンが、自分のところから出ていったので、同じようにその中に来ておりました仲間たちに、明日はどこで自分を待っていてほしいと用心深く知らせました。しかし、翌日になりましても、ナタンは、ミトリダネスにあたえた忠告とは違った考え方や、いくらか変わった気持ちなどを起こさないで、たった一人で、その小さな森へ死にに行きました。
ミトリダネスは起きあがると、別の武器は持っておりませんでしたので、弓と剣を手にして馬にまたがり、その小さな森に向かいました。すると遠くからナタンがただ一人で、森を散歩しているのが見えました。彼はナタンに襲いかかる前に、その顔を見て、その声を聞いておこうと思って、ナタンのほうに馬を走らせ、頭に巻いていた布をつかんで言いました。
「老いぼれめ、貴様を殺してやる!」
ナタンが言いました。
「なるほど、わたしはそうされていい人間でございます」
ミトリダネスはその声を聞き、その顔を見ると、すぐに相手が、自分を快く迎えてくれたうえ、親切に屋敷に連れて行って、心から忠告をしてくれた人であることを知りました。ですからたちまち激怒は消えて、その怒りは恥ずかしさに変わりました。そこで彼は相手を傷つけようと引き抜いていた剣を投げ棄てると、馬から下りて、泣きながらナタンの足もとに駆けよって言いました。
「ああ、心から愛する父上、人もあろうにわたくしが手に入れたいと打ち明けてしまったそのお命を、気取られぬように用心しながら、わたくしにおあたえになろうとしていらっしゃったことを考えますと、わたくしにははっきりと、あなたの寛大なお心がわかります。しかし、わたくし自身のことよりも、わたくしの本分のことを案じて下さいました神は、一番その大切だった瞬間に、情けない羨望がとざしていたまなこを知性をもってひらいて下さいました。ですから、あなたが進んでわたくしの気に入るようにして下されば下さるほど、それだけわたくしは、自分の誤りをつぐなう自責の念にかられるのでございます。ですからどうぞ、わたくしの罪にふさわしいとお考えになるような復讐を、この身になさって下さい」
ナタンはミトリダネスを立ちあがらせて、やさしく抱くと、接吻して言いました。
「いいえ、あなたがそれを邪魔だとか、その他何とおっしゃろうとも、許しを求めたり、許しをあたえたりする必要はございません。なぜならば、あなたは憎いからではなくて、人々にもっとすぐれていると思われたいために、そうなさったのです。ですからわたしのことなら御安心下さい。情けない連中がしているように、お金をためないで、その貯えをお使いになっていらっしゃるあなたのお心の気高さを考えまして、わたしくらいあなたを愛している者は、他にはどこにもいないと、お思いになって下さい。御名をあげようとされて、わたしを殺そうとなさったことを、恥ずかしいなどとお思いになってはいけません。またわたしがそれにびっくりしていると、お思いになってはいけません。やんごとない皇帝や、非常に偉い王などは、ほとんどただ、あなたがなさろうとしたように一人の人間ではなく、無数の人間を殺し、国々を焼きはらい、都市を破壊するというすべだけで自分たちの国をひろげ、その結果として、自分たちの名声をあげてまいりました。ですから、あなたが御自分の御名をもっとあげようとしてわたし一人を殺そうとなさっても、それは何も驚くような、珍しいことをなさったのではなくて、ごく使い古されてきたことをなさったのでございます」
ミトリダネスは、自分の邪悪な望みの弁解はいたしませんでしたが、ナタンが見出してくれた道義心に富んだ言いわけに感心しながら、ナタンと話をしているうちに、自分は、ナタンがどうしてそんな気構えになって、そのために方法を教え、忠告をするようになれたのか、大変ふしぎに思っていると言いました。ナタンが彼に言いました。
「ミトリダネスよ、わたしは、自分の忠告や自分の措置について、あなたに驚かないでいただきたいのです。なぜなら、わたしは自分で思った通りのことをする性格ですし、あなたがなさろうとお考えになったのと同じことをする覚悟をきめてからは、わたしの家にこられている方には、その方から求められたことはなんでも自分のできる限りをつくして、その望みをかなえて差しあげなかったことは、一度だってございません。あなたはわたしの命を望んでおいでになりました。ですから、わたしはあなたのお望みになることを伺いまして、あなたがその望みのものを得ないでここから立ち去るたった一人の方にならないようにと思いまして、すぐにわたしは命を差しあげることに決めました。で、あなたがそれを手に入れられるようにと、またそのために、あなたが命を失わないように、あなたの役に立つと思ったあの忠告をいたしたのでございます。ですから、もう一度申しあげて、お願いいたします。もしよろしかったら、わたしの命をおとりになって、お気持ちを満足させて下さい。それよりもよい自分の命の使い方があるかどうか、わたしにはわかりません。この命はもう八十年も使ってまいりましたし、たのしい目にも、うれしい目にもあわせてまいりました。他の人々や、一般に万物のあり方からして、自然の流れに従えば、わたしの命はもう先の短いものでございます。ですからわたしは、この命が、わたしの意志に反して、自然の力によってとりあげられるのを見るよりも、今までいつも自分の財産を贈ったり、使ったりしてきましたように、この命を贈ったほうがはるかにいいと考えております。百年を差しあげることは、ちっぽけな贈り物でございます! ましてや、これから生きながらえる六年や、八年の命をさしあげることは、もっとつまらないことでございます! では、よろしかったら、おとりになって下さい、お願いでございます。なぜなら、わたしはこの一生の間、それを欲しいと言ってこられた方にまだ会ったことはありませんし、もしそれを欲しいとおっしゃるあなたが、それをおとりになりませんでしたら、いつまたそうした方にお目にかかれるか、わかりませんからね。で、もしだれかそうした方にお会いするようなことになりましても、長生きをすればするほど、その値打ちが少なくなってまいりますことは、わかっております。ですから、この命がもっと値打ちがさがらないうちに、どうかおとりになって下さい。お願いいたします」
ミトリダネスは、ひどく恥じいって言いました。
「ああ、あなたのお命のような貴重なものを、あなたのお体から引き離して、奪いとってしまうことはおろか、少し前までそうでしたように、ただそれを欲しいと思うことだけでも、神のお力で、ふっつりとやめさせていただけますように! あなたのお命から、そのおとしを減らすどころか、わたくしは、喜んでそれに自分の命をお加えいたしたいと思っております」
ナタンが彼に言いました。
「では、もしおできになったら、あなたのお年をわたしの命にお加えになろうとおっしゃるのですね。そうして、どなたにも一度もしたことがないことを、あなたに対してさせようと、つまり、一度も他人からとったことのないわたしに、あなたのものをとらせようとなさるのでございますね」
「そうでございます」と、すぐにミトリダネスが言いました。
「では」と、ナタンが言いました。「わたしが申すとおりになさって下さい。あなたは、ただ今のように青年のままで、ここの、わたしの家におとどまりになってナタンという名前になって下さい。で、わたしはあなたのお家にまいりましょう。そうしてずっとミトリダネスと人に呼ばせましょう」
すると、ミトリダネスが答えました。
「もしわたくしに、あなたがおできになるように、また今までおできになったとおりに、よい行ないをすることができれば、わたくしは、あまりためらわずに、お申し出でのことをお受けしたいところでございます。けれども、わたしの行ないでは、ナタンの名声が落ちますことは、火を見るより明らかに思えますし、自分の力では始末できないことで、他人の邪魔立てなどするつもりはございませんので、それはお受けいたしかねます」
こうした話や、その他多くの話が、ナタンとミトリダネスとのあいだに交わされましたが、ナタンが望むがままに、二人は一緒に屋敷に戻りました。屋敷でナタンは何日も心をこめてミトリダネスを饗応いたしまして、できるだけの力と頭を用いて、ミトリダネスの気高い、立派な決心を励ましました。で、ミトリダネスが自分の従者たちとともに家に帰りたいと思いましたので、ナタンは決して、寛大の点にかけては、自分はミトリダネスをしのぐものではないことを、相手に十分に知らせたうえで、青年を発たせました。
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第四話
[#この行3字下げ]〈ジェンティーレ・カリセンディ氏はモデナからやってきて、墓から、死んだものとして埋葬されていた自分の愛していた婦人を取りだす。婦人は元気をつけられて男子を産む。ジェンティーレ氏は、婦人とこどもを婦人の夫ニッコルッチョ・カッチャニミーコに返してやる〉
人間が自分の血のことで、そんなに鷹揚でいられるとは、驚くべきことだと一同は考えました。で、みんなは、ナタンが、スペイン王やクリニーの修院長の鷹揚ぶりにまさるものであると、断定いたしました。しかし、これについてはあれこれとたくさんお話がでたあとで、王はラウレッタのほうを見て、自分が彼女にお話をしてもらいたいと思っていることを知らせました。そこでラウレッタは、さっそく話しだしました。
お若い淑女のみなさん、すばらしい、美しいことがいろいろと物語られました。もしわたくしたちが、あらゆることに、おびただしい話題を提供してくれる恋愛事件に、手をつけないとしましたならば、お話の寛大で気高いことで、あたえられた話題はことごとく占められてしまいましたから、もうわたくしにはお話のできそうなことは何も残っていないような気がいたします。ですから、わたくしは、こんなわけもあり、また青春がわたくしたちを主として導くにちがいないものを話題としております点から、恋をしているある男が行なった寛大な行ないを、みなさまにお話し申しあげたいと思います。もしも、愛するものを手に入れるために財宝が贈られ、敵意が忘れられ、自分の命や名誉や、中でも一番大切なものである名声が、千もの数多い危険にさらされることが真実でありますならば、あらゆることを考慮しまして、それが、今までお話にでました寛大のどれにも劣るような気持ちを、恐らくみなさまにはお持ちになられないでございましょう。
さて、ロンバルディアのいとも気高い都市ボローニャに、その人徳や貴族の血が流れているために、非常に尊敬されている、ジェンティーレ・カリセンディと呼ばれる一人の騎士がおりました。この人が、ニッコルッチョ・カッチャニミーコという人の夫人であるカタリーナと呼ぶ貴婦人に思いをよせました。それで夫人から色よい返事をうけることができなかったので、ほとんど絶望して、モデナの市長に呼ばれたのをさいわいに、そこへ行ってしまいました。
その頃、ニッコルッチョはボローニャをるすにしており、夫人は妊娠中だったので、そこから三マイルばかり離れた別荘へ行っておりましたが、突然激しい発作に襲われたのでございます。それはひどい、強烈なものでしたので、彼女の身体から生命のしるしがすっかり消えてしまいました。そして幾人かの医者も、彼女は死んでいると判断しました。夫人の一番近い親戚たちは、胎児が完全な形をとれるほどまだ妊娠して日がないことを、彼女の口から聞いていましたので、それ以上かかわり合おうともしないで、夫人をそのままの姿で、近所のある教会の墓に泣きの涙で埋葬しました。このことはすぐに、一人の友人からジェンティーレ氏に伝えられました。彼は、夫人の好意をうけてはいませんでしたが、非常に悲しんで、最後にひとりごとを言いました。
「ああ、カタリーナさん、あなたは亡くなってしまった。わたしは、あなたが生きていらっしゃった時には、一度だってあなたに見つめてもらえなかった。今、あなたは御自分で身を防ぐことができないから、わたしは亡くなったあなたから、どうしても接吻を盗まないではいられない!」
そう言うと、もう夜になっておりましたので、自分の出発を人にはかくしておくようにと命じたうえ、一人の従者をつれて、馬に乗ると、すぐさま婦人が埋葬されていたところへ到着しました。それから墓をあけて、その中に用心しながらはいって行って、夫人と並んで身を横たえると、顔を彼女の顔に近づけて、滝のように涙を流して泣きながら、何度もその顔に接吻をしました。しかし人間の欲望というものは、どこまでいっても満足いたしません。ますますその上を望むものでございまして、特に恋人たちの望みがそうであることは、わたくしたちもつとに承知しているところであります。ジェンティーレはこれ以上そこにいるのはよそうと胸のうちで、心をかためてから申しました。
「ええ、ここに来た以上、どうしてちょっとこの人の胸にさわってみないんだろう? もう二度と触れられないにちがいないし、今まで一度だって触ったことはなかったのだ」
そこでこうした欲望に負けると、彼は夫人の胸に片手をあてて、しばらくそのままにしておりましたが、すると夫人の心臓がかすかに鼓動を打っているように感じました。彼は、あらゆる恐怖を払いのけたうえ、もっと注意深くさぐってみると、生気はかすかで弱々しく思えましたが、夫人が死んでいないことがわかりました。そこで従者に手伝わせて、できるだけそっと彼女を墓からとりだし、馬上の自分の前にのせて、ひそかにボローニャの自分の家に連れていきました。
家には彼の母がおりました。気がしっかりした、聡明な婦人でございました。彼女は息子から一部始終をくわしく聞いてから、憐憫の心に動かされ、静かに火をたいて、何度かゆあみをさせ、迷っていた夫人の命を呼び戻しました。夫人は生きかえるとすぐに、深い吐息をもらして言いました。
「あら、わたくしは今、どこにいるのでございましょう」
彼女に気立ての立派な老婦人が答えました。
「御安心なさいませ、あなたは、いいところにいらっしゃるのですよ」
夫人は正気をとりもどすと、あたりを見廻して、自分がどこにいるのかよくわかりませんでしたが、自分の前にジェンティーレ氏がいるのを見て驚き、どうして自分がここにきているのか話していただきたいと、彼の母親に頼みました。夫人に向かってジェンティーレ氏は、すべてを順序立てて物語りました。それを聞いて夫人は泣き悲しんでおりましたが、しばらくしてから、自分にできるだけのお礼を述べました。そのあとで夫人は、彼が自分によせていた愛と彼の立派な人柄にかけて、どうか彼の家で自分や自分の夫の名誉を汚すような行ないを受けないように、夜が明けたら自分の家に帰してくれるよう頼みました。ジェンティーレ氏は彼女に答えました。
「奥さま、わたしの欲望が過去にどんなにはげしいものであったとしましても(自分があなたに寄せていた愛がその原因となって、神さまが、あなたを死からよみがえらせて、わたしに返して下さったこうしたお恵みをお授けになられた以上)、わたしは現在も、またこれから後も、ここでもまたどこでありましょうとも、あなたをただかわいい妹として扱うつもりしかありません。しかし、今夜あなたのためにしてあげたこのわたしの行ないは何かお礼をうける値打ちがあります。ですからわたしがあなたにお願いする御好意を、お拒《こば》みにならないでいただきたいのです」
夫人は彼に対して、ただ自分にできることなら、またその好意が正しいことならむくいるつもりであると、やさしく答えました。そこでジェンティーレ氏が答えました。
「奥さま、あなたのおみうちやボローニャの人々は全部、あなたが亡くなったものと思っておりますし、そう確信しております。そんなわけで、あなたをお家で待っている方は一人もありません。ですから、わたしが、モデナから直ぐに帰りますから、それまで、あなたにここでわたしの母と一緒に暮らしていて下さるよう、どうかお願いいたします。で、このことをあなたにお願いする理由は、わたしがこの土地の最も立派な市民たちの面前で、あなたを、あなたの御主人に対して、貴重で鄭重な贈り物としてさしあげたいからです」
夫人は騎士に恩をうけたことを認めておりましたし、その要求が道にかなったものであると思いましたので、自分が生き返ったことを知らせて親類縁者をよろこばしたくてなりませんでしたが、ジェンティーレ氏が要求したとおりにする覚悟をきめ、誓ってそうすると約束をしました。で、その返事が終わるか終わらないうちに、彼女は、出産の時が来たような感じをうけました。そこで、ジェンティーレ氏の母親からやさしく介抱されて、まもなく玉のような男の子を生み落としました。それを見てジェンティーレ氏や夫人の喜びは、二重にも三重にもましました。ジェンティーレ氏は、必要なものはなんでもそろえるようにと、また夫人には、まるで自分の妻ででもあるように、よく世話をしてあげるようにと命じました。そしてこっそりとモデナに帰りました。
彼は、そこで任期をすませましてボローニャに帰らなければならないことになりましたので、自分がボローニャにはいることになっていた朝、自分の家でニッコルッチョ・カッチャニミーコを加えたボローニャの大勢の貴族たちを招いて、盛大で立派な宴会をするようにと命じておきました。家に帰って馬からおりると、みんなと一緒になりまして、同じように、夫人も今までになく美しく、健康そうになっており、その小さなこどもも元気にしているのを見まして、くらべようのないほどのはしゃぎようで、客人たちを食事につかせますと、いろいろとすばらしい料理を御馳走しました。食事が終わりに近づいた頃、彼はまず夫人に、自分がしようと考えていたことを話して、どういうようにするかその方法を彼女と打ち合わせておいてから、こう切りだしました。
「みなさん、ペルシャには、わたしの考えによると、あるよい習慣があるとのことを、何度か聞いて覚えております。その習慣というのは、人がその友人を一番大事にもてなそうとする時には、その友人を自分の家にお招きして、彼に、細君なり情婦なり娘なりなんなりと、一番大切にしているものを見せて、もし自分にできさえしたら、よろこんで自分の心臓をもお目にかけたいと申すことであります。そうした習慣をわたしはボローニャでも守りたいと考えます。御親切にもあなた方は、わたしの宴会に御光来の栄を賜わりました。わたしはあなた方に、自分がこの世で持っている、また、きっと持つであろう一番大切なものをお目にかけまして、あなた方をペルシャ風におもてなし申しあげたいと存じます。でも、これを行なう前に、わたしは、これから自分があなた方に提出する疑問について、お感じになられるところを、おっしゃって下さいますよう、お願いいたします。ここに人のいい大変忠実な一人の召使をおいている家があります。その召使が病気にかかりました。この人は、病人の召使の最期を見届けないで、その召使を道の真ん中に運ばせたままにして知らん顔をしております。よその人が通りかかって、病人に対して同情の心が動いて、彼を自分の家に連れて行き、大いに心を用い金をかけて、もとの健康にかえしてやります。そこでわたしは、もしその召使の主人が、召使を返してもらいたいと申し出た場合、二番目の主人が返したがらなかったとしましたら、もとの主人は、公平に見て、二番目の主人に対して文句を言ったり、非難したりすることができるかどうか、その点を知りたいのであります」
貴族たちは、互いにいろいろと話し合った結果、一同が同じ意見に落ちつきました。ニッコルッチョ・カッチャニミーコが弁舌が達者でございましたから、彼にその返事をするようにと頼みました。彼は、まずペルシャの習慣をほめ讃えてから、自分は他の者たちと同じように、そうした場合最初の主人は、召使を見棄てたばかりでなく、抛りだしたのだから、もう自分の召使に対して何の権利もない、また召使は第二の主人のしてくれた善行によって、当然その人の召使になったようなもので、第二の主人は、その召使を手ばなさなくても、最初の主人に対して何の損害も、何の暴力も、何の不正も行なったのではないという意見であると言いました。立派な人々を招いてありましたので、食卓についていた他の人たちも全部一同口をそろえて、ニッコルッチョが答えたところと同じ意見だと言いました。騎士はそうした返事や、それをニッコルッチョがしたことに満足しまして、自分も同じようにそうした意見だと断言しました。で、そのあとで言いました。
「さてお約束に従って、あなた方をおもてなしする時刻です」
彼は二人の従者を呼ぶと、彼が立派に服装をととのえ、装身具《かざり》をつけさせておいた夫人のところにやり、どうかこちらへおいでになり、貴族たちにお会いになって、一同をよろこばしてあげてほしいと、たのませました。夫人はかわいい男の子を抱きあげると、二人の従者をつれて広間にまいりました。で、騎士の命ずるままに、一人の立派な人の隣に腰をおろしました。すると騎士が言いました。
「みなさん、これがわたしの何よりも大切にしている、またそうしようと考えているものであります。わたしの申しあげることが正しいとお思いかどうか、よくごらんになって下さい」
貴族たちは彼女に丁寧に挨拶をし、ほめ讃えてから、騎士に向かって、こうした方は当然大事にしなければならないとはっきりと認めたうえ、夫人を見つめはじめました。人々の中には、もしこの夫人が亡くなったと思いこんでいませんでしたら、この夫人をあの方だと思ったにちがいない者が、かなりたくさんおりました。でも、だれよりも、ニッコルッチョが彼女をじっと見ておりました。ニッコルッチョは、騎士がしばらくのあいだ席を外しましたので、彼女がだれなのか知りたくてたまらず、我慢ができなくなって彼女に、あなたはボローニャのお方か、それともよそのお方かとたずねました。夫人は夫が自分にたずねるのを聞いて、返事をしないでいるのに骨が折れました。それでも、打ち合わせておいた手筈を守ろうとして、黙っておりました。ある人は、その男の子はあなたのものですか、とたずねました。またある人は、ジェンティーレ氏の奥さまなのか、それとも何か他の関係の身内なのかとたずねました。その人々に、彼女は何の返事もしませんでした。しかし、ジェンティーレ氏が戻ってまいりましたので、客たちのうちのある者が言いました。
「御主人、このあなたのものは、きれいなものですね。でもこの方は唖者《おし》のようですね。そうなのですか」
「みなさん」と、ジェンティーレ氏が言いました。「この方が只今お話しにならなかったのは、この方の徳の広大なことを、すくなからず証拠立てているのであります」
「では」と、その人がつづけました。「この方がどなたなのか、あなたからわたしたちにおっしゃって下さい」
騎士が言いました。
「それはよろこんで申しあげます。ただわたしが何を申しあげましても、わたしが話を終えますまで、どなたもそのお席から決して動かないと、お約束して下さい」
みんなはそのことを彼に約束しまして、食卓ももう片づけられましたので、ジェンティーレ氏は夫人と並んで腰をかけると言いました。
「みなさん、この女の方は、わたしが少し前にあなた方に質問を提出したところの、あの誠実で、忠実な召使であります。この方は、身内の人々からそう大事にされないで、いやしい、もう役に立たないものとして、路傍に棄てられていましたところを、わたしによって拾われましたが、わたしは、いろいろ心をつくしてお世話をし、死の手から救いだしてあげました。神さまは、わたしのやさしい愛情をみそなわして、わたしのためにその恐ろしいお姿から、こんなに美しいお方にして下さいました。しかしどうしてこんなことが起こったのか、もっとよくあなた方におわかりになるようにと、わたしはそのことを手短かにあなた方に明らかにいたしましょう」
彼は、自分が彼女に思いをよせたことから話しだして、その時までに起こったことを、はっきりと物語りましたので、聞いていた人々はすっかり驚いてしまいました。それから彼は言い添えました。
「そんなわけですから、みなさんが、特にニッコルッチョが、少し前の御意見をお変えになっていらっしゃらなければ、この女の方は当然わたしのものでございまして、どなたも立派な権利を主張してこの方を返してくれとは申せないのであります」
これにはだれも答えませんでした。それよりもむしろ一同は、彼がその次に何と言うかと待っておりました。ニッコルッチョや、そこにいた人々や、夫人は感動して涙を流しておりました。けれどもジェンティーレ氏は立ちあがると、小さな男の子を抱きあげて、夫人の手をとって、ニッコルッチョのほうに行って言いました。
「さあ、お立ち下さい、わたしの名づけ子の父親よ。わたしは、あなたの身内や夫人の身内の方々が抛りだしたあなたの奥さんを、あなたにお返しするのではありません。ただわたしは、わたしの名づけ子の親であるこの夫人を、この彼女のこどもと一緒にあなたに贈り物として差し上げたいのです。このこどもは、あなたがお生みになったのだと信じておりますし、わたしが洗礼に立ち会って、ジェンティーレと名前をつけたのです。それから、この女の方が三か月ほどわたしの家にいらしったからといって、愛情を弱めることのないようにお願いいたします。なぜなら、わたしの愛が実際そうでありましたように、この方の命拾いの原因となるようにと思われて、恐らく前に、わたしをしてこの方に思いをよせるようにとお取り計らい下さった神の御名にかけてお誓い申しますが、このお方は、お父さんやお母さんや、あるいはあなたと御一緒にいらっしゃっても、わたしの家で、わたしの母親のところで暮らしていらっしゃったよりも貞潔な日を送ることはできなかったでしょうからね」
そう言ってから、彼は夫人のほうを向いて言いました。
「奥さま、もうわたしは、奥さまがわたしになさったすべてのお約束から、あなたを解き放し、自由のお体にして、ニッコルッチョにお渡しいたします」
そして、夫人とこどもをニッコルッチョの腕に抱かせて自分の席に戻りました。ニッコルッチョは、その望みが薄かっただけに、大したよろこびようで、無我夢中で自分の妻とこどもをうけとりますと、知っているだけのことばをつくして、騎士にお礼を述べました。感動のあまりこぞって涙を流していた人たちも、このことで騎士を大変ほめ讃えました。騎士は、このことを伝え聞いただれからもほめそやされました。夫人は大騒ぎをされて自分の家に迎えられましたが、長い間、ボローニャの市民たちからまるでよみがえった人のように驚嘆の眼で見つめられました。ジェンティーレ氏は、ずっとニッコルッチョや、その親類たちや、夫人の縁者たちの友人として世を送りました。
さてここで、心やさしい淑女の方々よ、あなた方はどうお思いになりますか。王が笏《しやく》や王冠を贈ったことや、修院長が自分では何の損もしないで悪党と王の間をとりもって仲直りをさせたことや、あるいは老人が敵の短刀に自分の頸《くび》を差しのべたことは、ジェンティーレ氏の事件と比較のできるものだとお考えになりましょうか。ジェンティーレ氏は若くて情熱に燃えておりまして、他人の軽率が抛りだして、自分が幸運にも拾いあげたものに、当然の権利を持っていると思っていながら、立派に自分の炎をおさえつけたばかりでなく、自分がいままであらゆる思いをかけて、ほしがり、盗もうとしていたものを手に入れたのに、鷹揚に返したのでございます。確かにわたくしは、今までにお話に出た寛大の行為のどれも、これとは較べものにならないような気がいたします。
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第五話
[#この行3字下げ]〈ディアノーラ夫人はメッセール・アンサルドに、一月の庭を五月の庭のように美しくすることを要求する。アンサルドは妖術師に報酬を約して、彼女のためにその望みをかなえてやる。夫人の夫は彼女に対し、アンサルドに身をまかせることを許す。アンサルドは夫の鷹揚な態度を聞いて、夫人のその約束を解いてやり、妖術師は、アンサルド氏のものを何も受けたがらないで、同氏の報酬を免除する〉
愉快な仲間の銘々からジェンティーレ氏は最高の讃辞で天にとどくほど持ちあげられましたが、王は、エミリアに次のお話をつづけるようにと命じました。彼女は、まるでお話ししたくてたまらないように、元気よく話しだしました。
心やさしい淑女のみなさま、ジェンティーレ氏が寛大にふるまわれなかったという方があったら、それは道理をわきまえない方でございましょう。しかし、これ以上寛大な行ないはできないとおっしゃったら、その例をお目にかけることはむずかしいことではないでしょう。そのことをわたくしは、自分の短いお話でみなさまのお耳に入れようと存じます。
寒いけれども、美しい山々やいくつもの川や、清冽な噴泉などのある風光明媚な国、フリオーリ(北部イタリアの山岳地方)に、ウディネという町がございます。ここにかつて、ディアノーラ夫人と呼ばれる美人の貴婦人がおりました。とても人好きのする、人のいいジルベルトという大金持ちの奥さんでした。この婦人はすぐれた素質を持っていましたので、地位の高い、武芸と礼節にかけてはすべての人にその名を知られていた人物アンサルド・グラデンセという男爵から、深い思いをよせられていました。男爵は熱烈に夫人に恋をし、彼女から愛されようと自分にできることはなんでもしておりまして、そのためにしばしば使いの者をやって彼女をしつこく口説きたてましたが、それも無駄な骨折りでございました。騎士のしつこい心づかいが、夫人にはいやに思われましたので、騎士が要求したことはことごとく拒んでいましたが、それでもやはり騎士が自分に思いをかけて、せき立てるのをやめそうにもないとみてとりますと、彼にはできそうにもない要求をして、相手を身のまわりから追い払おうと考えました。で、騎士のところから、たびたび自分のところに使いにきていた一人の女に、ある日のことこう言いました。
「あなたはアンサルド氏が何にもましてわたくしを愛していると、何度もおっしゃって、あの方からのすばらしい贈り物をいくつも下さいましたが、そんな物をいただいてもわたくしは決してあの方を愛したり、あの方に身をまかせたりするつもりはありませんから、贈り物はそちらにとっておいてお寄越しにならないでもらいたいのです。でも、もしあの方があなたのおっしゃるようにわたくしを愛していることが真実と確信がまいりましたら、わたくしはあの方を愛してあげて、あの方のお好きなようになるつもりです。ですから、そのことについてわたくしがお願いすることをなさって、わたくしに証拠をみせて下されば、わたくしはあの方の命令に従いましょう」
人のいい女が申しました。
「奥さま、あなたが、あの方にしていただきたいとおっしゃるのは、どんなことでございましょうか」
夫人が答えました。
「わたくしが望んでおりますことはこうです。ものもなくなるお正月に、わたくしはこの町の近くに、まるで五月のように緑の草や花や葉の繁った木々でいっぱいの庭がほしいのです。あの方にそれがおできにならなければ、今後あなたや他の使いの者たちを、ここによこさないでいただきたいのです。もしそれでもなお、しつこくなさるようでしたら、今までは、夫や親戚の者にもかくしておきましたが、みんなにそのことを訴えて、どんなことをしてでも身のまわりからあの方を追い払うつもりです」
騎士は、夫人の要求や申し出を聞くと、むずかしい、まるでできそうもないことをしなければならないような気がして、それが自分に希望を捨てさせるだけのために、夫人から要求されたことだとわかってはおりましたが、それでもできるだけのことはやってみようとひとり決心をしました。そして、世界中の方々に人をやり、そのことについて自分に助力や忠告をあたえてくれる者がいるかどうか探させました。すると、たくさんの報酬をもらいさえすれば、妖術を使ってそれをしてもよろしいという者が見つかりました。アンサルド氏は、莫大な額のお金を払う約束をきめて、定められた時が来るのをよろこんで待っておりました。その時が参りました。寒さは大変きびしくて、何もかも雪と氷におおわれておりましたが、その妖術師は、正月一日の前夜に、町の近くの非常に美しい牧場に、妖術を使って細工をしましたので、翌朝それを見た人々が証言したところでは、あらゆる種類の草や木や果実にみちあふれた、だれも今までに見たことがないような、非常に美しい庭が出現しました。アンサルド氏はこれを見ると、すっかりよろこんで、庭にあった一番見事な果実と、一番美しい花をいくつかとらせて、それをこっそりと、自分の愛する夫人に贈らせて、彼女の求めていた庭を見に来るようにと、招待しました。それは、自分が夫人を愛していることを彼女が知って、自分と交わした誓いで固めた約束を思い出して、誠実な夫人としてそれを守ってほしいためでございました。
夫人は、花や果実を見ると、すでに大勢の人々がそのすばらしい庭のことを話しているのを聞いておりましたので、自分の約束を後悔しはじめました。けれども後悔に沈んではおりましても、珍しいもの見たさに胸がいっぱいでしたので、町の大勢の婦人たちと一緒に、その庭を見物にまいりました。そして、びっくりして、口をきわめてその庭をほめてから、そのために、どんな義務を自分が背負いこんでしまったかを考えると、だれよりも悲しい気持ちになって、家に帰りました。その悲しみに生きた心地もなく、胸にかくしていることができなくて、それが外にあらわれてきました。彼女の夫はそれに気がつき、その理由を彼女から聞こうとしました。夫人は恥ずかしいので、長い間黙りこんでいましたが、とうとう仕方がなく順序をたてて一部始終を打ち明けました。ジルベルトはそれを聞くと、最初はかんかんになって怒りましたが、やがて夫人のけがれのない意図に思いをいたしまして、怒りをはらいのけて、よく熟慮したうえで言いました。
「ディアノーラ、そんなことの使いの者のことばを聞いたり、何か条件をもうけて、他の人と自分の貞操を約束したりすることは、分別のある貞淑な婦人のなすべきことではないよ。耳からはいって心でうけとられることばというものは、多くの人々が考えているよりも大きな力を持っているし、また恋人たちにとっては、ほとんどどんなことでも可能になるものなのだよ。まず耳をかして、その後で約束をするなんてまずいことをしたものだね。でもわたしは、あなたの心の貞潔なのを知っているから、その約束のきずなからあなたを解き放してあげるために、おそらく他の人なら許しはしないようなことをあなたには許してあげよう。もしあなたがアンサルド氏をだましたら、あの人はたぶん妖術師に頼んで、わたしたちをひどい目に合わせるかもしれないし、またその妖術師がこれまたこわいような気もするからね。わたしは、あなたがアンサルド氏のところに行き、なんとかできたら貞操を守って、あの約束から解いてもらうように努力してほしい。どうしても他にしようがなかったら、今度だけはあの人に体を許してあげなさい。心まではいけないよ」
夫人は、夫の言うことを聞きながら泣いており、そんな好意をうけるのはいやだと申しました。そして、夫人は懸命にそれを拒みましたが、ジルベルトはそうしてほしいと希望しました。そこで翌朝の明け方に、夫人は大して身の廻りをかざらず、二人の従者を先に立て一人の女中をうしろに従えてアンサルド氏の家にまいりました。アンサルドは夫人が自分のところにきたと聞きましたので、たいそう驚きました。そして起きあがると、妖術師を呼んでこさせて、彼に言いました。
「わたしは、妖術の力によってなんとすばらしいものを手に入れたか、君に見てほしいんだ」
で、夫人に会いに行き、なんら淫らな欲望を抱かずに、鄭重に迎えました。一同は大きな火のもえる美しい部屋にはいりました。アンサルドは彼女を座につかせると言いました。
「奥さま、わたしがあなたによせておりました長い間の思いに、何かの酬いをうける値打ちがありましたら、どうかお願いでございますから、うるさいと思し召さずに、こんな時間にあなたが、こうした供の者をお連れになって、ここにおいで下さった本当の理由をお打ち明けになって下さい」
夫人はさも恥ずかしそうに、眼に涙をうかべて答えました。
「あの、わたくしがここへまいりましたのは、わたくしがあなたによせる愛のためでも、約束を守るためでもなくて、わたくしの夫の命令だからでございます。夫は自分やわたくしの名誉よりも、あなたの道ならぬ愛ゆえのお骨折りを尊重いたしまして、わたくしをここにこさせました。ですから、夫の命令なので、わたくしは、このたびにかぎりあなたのどんなお望みにも従うつもりでございます」
アンサルド氏は、最初びっくりいたしましたが、夫人のことばを聞くと、前よりもさらにびっくりしはじめました。彼はジルベルトの寛大さに心をうごかされると、その熱情は同情に変わりはじめました。
「奥さま、あなたのおっしゃるとおりだといたしますと、わたしは自分の恋に同情して下さる方の名誉を打ち壊すことになります。滅相もないことです! ここにいつまでいらしっても結構ですが、それはわたしの妹としてです。お好きな時に御自由にお帰りになってもかまいません。本当に御主人がお示しになった御立派な態度に、あなたから然るべくお礼を申しあげて下さい。そして今後いつまでもわたしを兄弟とも召使ともお考えになっていただきたいのです」
夫人はこのことばを聞いて、今までにないくらいのよろこび方で言いました。
「わたくしは、あなたの御立派なことを考えまして、わたくしがこちらに伺いましても、只今あなたがなさるのを眼にいたしますこのこと以外には何も起こらないと、わたくしに考えさせることのできなかったものは何一つございませんでした。そのことについては、わたくしはいつまでも感謝の心を忘れはいたしません」
夫人はいとまを告げると、恥ずかしくないだけの供廻りにつきそわれて、ジルベルトのところに帰ってまいりまして、あったことを物語りました。そのために夫とアンサルド氏は、大変緊密で誠実な友情に結ばれました。アンサルド氏が約束の報酬をあたえようとしていた当の妖術師は、アンサルド氏に対するジルベルトの寛大な態度と、夫人に対するアンサルド氏の気前のよい態度を知って申しました。
「わたしは、ジルベルトが自分の名誉について、あなたが御自身の愛について、寛大な態度をとられたのを拝見しました。ですからわたしだって同様に、自分の報酬について鷹揚な態度をとらずにはいられませんよ。そのお金はあなたのお手許にあったほうがよろしいことはわかっておりますから、そのままおしまいになっていただきたいと思います」
騎士は恥ずかしがって、その報酬全部か一部なりと取らせようといろいろしました。けれどもそれが無駄な骨折りに終わってから、妖術師が三日目にその庭を取り払って、出発することになりましたので、アンサルドは彼に別れのあいさつをしまして、それから胸中の夫人に対する色恋は消しとめ、正しい慈愛の情を燃やしておりました。
愛想のいい淑女の方々、さあ今度はなんと申したらよろしいでしょうか。わたくしたちは、ほとんど死にかけた婦人や、消えてしまったような希望に対するもうさめかけた愛情を、今までよりもっと激しくまだ愛していて、一段と大きな希望にまるで燃えさかっていて、その手にあれほど追いかけていた獲物をつかんでいるアンサルド氏のこの鷹揚さよりもうえに、私たちはおくのでございましょうか。この鷹揚さに、前のお話に出た鷹揚さが比較されると考えなければならないといたしましたら、それはわたくしにとりましては、愚かしいことのように思われるでしょう。
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第六話
[#この行3字下げ]〈勝利者であるカルロ老王は、ある少女に思いをよせたが、自分の気違いじみた考えを恥じて、その娘と妹に立派な支度をして嫁がせる〉
ディアノーラ夫人の事件に関して、ジルベルトとアンサルド氏と妖術師のうち、だれが一番寛大だったかということで、淑女たちのあいだで交されたいろいろのお話を十分に物語れる者がどこにおりましょうか。それをお話ししましたら、あまりにも長すぎることでございましょう。けれども王はしばらくのあいだ論じ合うことを許されたあとで、フィアンメッタのほうを見て、お話をしてみんなにこの議論を終わらせるようにと命じました。フィアンメッタは少しもためらわず話しだしました。
光り輝く淑女のみなさん、わたくしはいつも、わたくしたちのような団体では、お話の内容があまり窮屈すぎて、他の人たちの議論の材料にならないようにしたいと考えておりました。議論などは、糸巻き竿や紡錘をやっと使えるわたくしたちのあいだでよりも、学校の学生のあいだでなすべきものでございましょう。ですから、今までお話にのぼったことについてみなさんが議論をしていらっしゃるのを拝見して、心の中に疑いをもちましたわたくしは、議論の余地のあるお話は棄ておいて、身分のいやしい人のではなく、勇敢な王で、自分の名誉をそこなわず、騎士にふさわしい行ないをなさったお方のお話をいたしましょう。
みなさんは、人々がカルロ老王、またはカルロ第一世のことを思い起こしてうわさしているのを何度となくお聞きになったことでございましょうが、そのすばらしい攻撃と、マンフレーディ王に対しておさめられた輝かしい勝利によって、ギベッリン党の者たちはフィレンツェから追い払われ、そこにグェルフォ党の人々が帰ってまいりました。そんなわけで、ネーリ・デリ・ウベルティ氏と呼ばれる一人の騎士は、家族の者全部を引き連れ、巨額のお金を持ってフィレンツェを出ると、カルロ王の保護の及ぶところ以外のどこにも行こうとは思いませんでした。彼は人里離れたところに住んで、そこで余生を静かに終えようと思い、カステッロ・ア・マーレ・ディ・スタービアへ行きまして、そこで、その土地の他の家々から弩《おおゆみ》で一射程ばかり離れた、その辺にたくさんあった橄欖や胡桃や栗の木々のあいだに土地を買って、その上に美しい、住み心地のいい大邸宅を建てて、その大邸宅のそばに風雅な、見るからにたのしい庭園をつくりました。流れの水が豊富にありましたので、その庭園の真ん中に、わたくしたちのやり方に従って、美しいきれいな水のいけす[#「いけす」に傍点]をこしらえて、造作もなくそれを多くの魚で一杯にしました。
そして、毎日この庭園を美しくしようということだけを仕事にして、他には何もしないで暮らしておりました。ところがちょうどカルロ王が、暑いころでしたので、少し休もうとお思いになって、カステッロに立ち寄りました。そこでネーリ氏の庭園の美しいことを聞いて、それを見たいと思いました。それがだれのものであるかをお聞きになり、その騎士が自分とは反対党に属する者でありましたので、これをできるだけてなずけて自分の味方にしておこうと考えました。使者をやって、次の晩に四人の随行者をつれておしのびでお訪ねになり、彼と一緒にその庭園で食事をしたいと言われました。それはネーリ氏にとっては、たいへん有難いことでございました。彼は立派に支度をして、家族の者たちと万端の手筈をととのえ、できるだけの歓迎ぶりで、王を自分の美しい庭園に迎えました。王は、ネーリ氏の庭園全部とその屋敷をごらんになり、ほめ讃えられてから、いくつもの食卓がいけす[#「いけす」に傍点]のそばにおかれてありましたので、手を洗ってから、その一つにおつきになりました。そして、随行者の一人であったグイド・ディ・モンフォルテ伯爵に、御自分の片側に坐るように、ネーリ氏には向かい側に坐るように命じて、一緒に来ていた三人の者にはネーリ氏の出される命令に従って給仕をするようにお命じになりました。そこへ贅沢な食事が運ばれ、極上のぶどう酒が出て、順序もよく、いくらほめてもほめ足りないほどで、心の安まるものがございました。王は、これを口をきわめて讃えられました。
で、王がうれしそうに食事をなさって、その閑静な場所を楽しんでいらっしゃいますと、突然庭園に、十五歳ばかりの娘が二人はいってまいりました。金糸のような金髪で、全部が捲き毛になった髪をして、そのとけた髪の上には雁来紅のかわいい花をのせておりまして、その顔を見ると、さながら天使のように見えました。それほどあどけない、美しい顔をしておりました。二人はとても薄い雪のように白い着物をその肌にまとっていましたが、それは腰から上が非常に細くて、そこから下にかけては天幕のようにひろがって、足までたれておりました。先にくる娘は、両肩の上に一対の魚網《ぎよもう》をかついで、それを左手でつかみ、右手には長い棒を持っておりました。あとにつづくもう一人の娘は左肩に鍋をのせ、同じその腕で薪を一束かかえて片手に五徳を持ち、もう一方の手には、油のはいった土器の壺と、火のついた小さな松明《たいまつ》を持っておりました。王は二人をごらんになってびっくりすると、一体どうしたわけなのかとかたずをのんでおられました。
娘たちはつつましやかに、恥ずかしそうに進んでまいりまして、王にあいさつをいたしますと、そのあとでいけす[#「いけす」に傍点]にはいる降り口まで行って、鍋を持っていた娘が鍋やそれから他の物を下におき、もう一人の娘の持っていた棒を受け取ると、二人でいけす[#「いけす」に傍点]の中にはいりました。いけす[#「いけす」に傍点]の水は二人の胸のあたりまでありました。そこでネーリ氏の召使の一人がすぐに火をたきつけて五徳の上に鍋をのせ、それに油を入れて、娘たちが魚を投げてよこすのを待ちかまえました。二人のうちの一人が、魚のかくれていそうなあたりをかきまわすと、もう一人のほうが網をだして、それを熱心に見ておられた王の一入《ひとしお》のお喜びのうち、瞬く間に魚をたくさんとりました、そして、それを召使に投げてよこすと、召使はそれをほとんど生きたまま鍋に入れました。娘たちは、前から申し渡されておりましたので、一番美事な魚をいくつかつかんで、それを王や伯爵や父親の前の食卓に投げはじめました。その魚が食卓の上にはね上がりましたので、王は非常によろこばれて、自分も同じようにそれをおつかみになると、娘たちのほうに投げ返されました。こうして、しばらくの間戯れていらっしゃるうちに、召使はあたえられたのを料理しました。それは、たいへん贅沢な、おいしい食べ物というよりも、むしろ小皿物《そえもの》としてネーリ氏の言いつけ通り、王の前に運ばれました。娘たちは魚の料理ができたのを見て、魚もたくさんとれましたので、白い薄い着物がすっかり肌にくっついたまま、いけすから出てまいりました。二人はそれぞれ、前に持ってきたものをふたたび取りあげると、恥ずかしそうに王の前を通って屋敷に帰りました。
王や伯爵や他に給仕をしていた者たちは、この娘たちを熱心に眺めていましたが、銘々その胸の中では、美しい非のうちどころのない容姿と、そのうえに可愛らしくて礼儀正しいのに感嘆しておりました。でもそれは、だれよりも特に王の気に入りました。王は二人が水から出てきた時、その体の隅々までも食い入るように見つめておられましたから、その時にだれかが王の体を何かで刺しても、恐らく気がつかれなかったでしょう。で、二人が何者であるのか、どうしてそこへ出てきたのか、それも知らずに、王は二人のことを何度も思いうかべておりますうちに、二人に愛をかけてやろうという非常な熱烈な欲望が、胸に起こってくるのをお感じになりました。そこで王には、もし用心をしなかったら、自分が恋に落ちてしまうことが、火を見るよりもはっきりとおわかりになりました。でも、御自分では、その娘たち二人のうち、どっちが余計気に入った娘なのか、見当がおつきになりませんでした。それほど、二人はあらゆる点で似ていたのでございます。しかし、王はしばらくこうした考えにふけっておりましたあとで、ネーリ氏に向かって、二人の娘は何者であるのかとおたずねになりました。ネーリ氏は彼に答えました。
「陛下、あれはわたくしの双子の娘でございます。そのうち一人は麗わしのジネブラ、も一人は金髪のイゾッタという名前でございます」
王はその娘を大変おほめになってから、二人を結婚させるようにと勧められました。それを聞いて、ネーリ氏は、二人を嫁がせる持参金がないので、それができないのだと言いわけをしました。そのうちに食事は果物をだすだけになり、その二人の娘が、それぞれ薄琥珀《うすこはく》のとてもきれいな上衣を着て、季節のさまざまの果物が山と積まれた銀の大皿を銘々両手で捧げてはいってくると、それを王の前の食卓の上におきました。それがすむと、いくらかあとずさりして、歌を歌いだしました。そのことばはこういう出だしでした。
ああ愛よ、わが着きし今、
長き歌は叶うまじ
その歌いぶりがあまりにもやさしく、可愛らしいので、聞きほれていた王には、天使の群がこぞってそこに舞いおりて、歌を歌っているように思われました。歌い終わると、娘たちはひざまずいて、うやうやしく王においとまを請いました。王は、二人が立ち去るのを悲しくお思いになりましたが、それでもうわべはうれしそうにして、いとまをおあたえになりました。さて、食事が終わると、王はふたたび随行者たちと一緒に馬にお乗りになり、一同はネーリ氏をあとにのこして、あれこれとよもやまの話をしながら王宮に帰りました。
王宮にお帰りになってからも、王は自分の愛情をかくしておられましたが、その後は大切な仕事をしておられても、麗わしのジネブラの美しさや可愛らしさを忘れることができませんで、その愛ゆえに、彼女に似ている妹をさらにいとしく思われました。まるで他のことをお考えになることができないほど、(小鳥のように)恋のとりもちに捕えられてしまったのでございます。そこで他の口実をもうけて、ネーリ氏と親しい交わりを結ばれ、ジネブラに会うためにしじゅうその美しい庭園を訪れました。でももうこれ以上耐えられなくなり、どうしていいのかわかりませんでしたので、その娘を父親から一人と言わず二人とも奪い取ろうという気持ちになられて、自分の恋と意図とをグイド伯爵に打ち明けました。伯爵は立派な人でしたので、王に申しました。
「陛下、わたくしは、陛下のおっしゃることに、心から驚いております。わたくしは、陛下の御幼年時代から今日まで、陛下のお人柄をだれよりもよく存じておりますだけに、他のどなたよりもずっと驚いております。お若い年頃には、恋というものは容易にその爪をさしこむものでございますが、陛下はその頃には、そうした情熱をお持ちになったようには思われませんでしたのに、もう御老境に近づかれた現在、陛下の話を承って、陛下が恋をなされているなどとはまことに珍しい、奇妙なことで、まるで奇蹟のように存ぜられます。それで、もしそのことでわたくしが陛下をお叱りする地位におりましたならば、陛下がまた、新たに征服なさった王国で、未知の奸計と裏切りにみちた国民に囲まれ、武具で身を固めておられ、非常に大きな心配事や重要な政務に忙殺されて、息つく暇もございませんのに、心をまどわすような恋にお心を向けられたことなどを考えますと、わたくしは、そのことで自分が陛下にどう申しあげたらよろしいのか、よく存じております。これは高邁《こうまい》にわたらせられる王の御行為ではなくて、むしろ臆病な青年の行為でございます。またこればかりではなく、非常に悪いことには、陛下を自分の家に迎えて、自分の力以上に御歓待申しあげてなお、その御歓待ぶりを厚くしようとして、ほとんど裸体の娘たちをごらんに供し、それによって、いかに自分の陛下によせる信頼が大きなものであるかを、さらにはまた陛下が王であらせられて、貪欲《どんよく》な狼ではないといたく信じていることを証拠立てたあの気の毒な騎士から、陛下は二人の娘を奪い取ろうとおっしゃいました。マンフレーディが女たちに行なった乱行が、陛下にこの王国への門をひらいたことが、こんなにも早く陛下の御記憶から消えうせたのでございましょうか。陛下が、御自分を歓待する者から、その名誉や、希望や、慰めを取り上げられるという、これよりももっと永劫《えいごう》の刑罰をうけるに価する裏切りが、これまでに、どこに行なわれたことがございましょうか。もし陛下がそんなことをなさいましたら、下々《しもじも》では陛下のことを何とおうわさいたしましょうか。陛下は、彼がギベッリーノ党だからそうしたのだ、とおっしゃれば十分言いわけがたつと、おそらくお思いなのでございましょう! さて、そんな形で、その腕の中に駆けこんでくる者たちが、それがだれであるにせよ、こんなふうに取り扱いをうけまして、それが、王者の正義にかなうものでございましょうか。王よ、陛下がマンフレーディを打ち破られたのは実に大きな御名誉でございますが、御自身に打ち勝たれることは、それよりもはるかに大きな御名誉であるとわたくしは考えております。でございますから、他の者たちを正しく導かなければならない陛下よ、御自身に打ち勝たれて、この欲望をおおさえ遊ばされませ。こんな瑕瑾《かきん》のために、御立派にかち得たものをそこなわないようになさいませ」
このことばは、王の心を痛く突き刺しました。それが本当のことだとわかっていましただけに、その心を苦しめました。ですから熱い溜め息をいくつかついてから言われました。
「伯爵よ、わしは確かによく鍛錬された戦士にとっては、他の敵らをどんな者でも、たとえどんなに強くても、自分自身の欲望と較べたら実に弱くて、易々と負かすことができると思う。しかし、どんなにその苦しみが大きく、その力が量り知れないくらい必要であっても、そなたのことばに大いに鞭撻されたから、そう日がたたないうちに、わしはそなたに、自分が他人に打ち勝つことができると同じように、自分自身をも征服できることを、行動によってみせねばなるまい」
こうしたおことばがあってから、大して日数もたちませんでしたが、王はナポリにお帰りになって、御自分が卑劣に何かを行なうような原因をお除きになるためと、騎士に彼からうけた歓待の褒美をとらせるために、御自分のものにしようときつく御熱心だったものを他人に譲ることはつらいとはお思いになりましたが、それにもかかわらず、その二人の娘を、それもネーリ氏の娘として嫁がせようと決心なさいました。で、ネーリ氏の喜びのうちに、娘たちに莫大な持参金をあたえて、麗わしのジネブラをマッフェオ・ダ・パリッツィ氏に、金髪のイゾッタをグリエルモ・デッラ・マーニャ氏に嫁がせました。どちらも、身分の高い騎士で、偉い男爵でございました。王は娘たちを彼らにお引き渡しになると、言いつくせない悲しみを抱いてプリアにお帰りになり、絶えず激務に精励されて、御自分の烈しい欲望を粉砕されましたので、その恋の鎖を断ち切り打ち壊したあとは、一生の間、そうした情熱のとりことなることはございませんでした。
たぶん王ほどの者にとって、二人の娘を嫁がせたことはつまらないことだとおっしゃる人々もいらっしゃいましょう。わたくしも同感でございます。けれども恋慕の王が、自分の思いをかけた娘を、その恋の葉なり花なり果実なりを、取ったり摘んだりしないで嫁がせたというのでしたら、わたくしはそれをきわめて立派な、とてもとても立派なことであると申したいのでございます。そこでこの寛大な王は、騎士にたくさんの褒美をおあたえになり、愛する娘たちには見事な支度をしてやり、御自分には強く打ち勝って、そのとおりを行なったのでございます。
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第七話
[#この行3字下げ]〈ピエトロ王は、病気のリーザが自分によせた熱烈な恋のことを聞いて、彼女を慰め、その後若い貴族に嫁がせて、彼女の額に接吻したうえ、その後はいつも自分は彼女の騎士であると自称する〉
フィアンメッタがお話を終えて、カルロ王の男らしい寛大なお振る舞いは大いに賞讃をうけました。もっともその中でギベッリーノ党の婦人はほめようとしませんでした。その時パンピネアは、王の命令をうけて話しはじめました。
やんごとない淑女のみなさん、他の理由から人のいいカルロ王を快く思っていらっしゃらない方をのぞくと、分別のある方で、あなた方が同王についておっしゃるとおりのことを口になさらない方は一人もいないと思います。ところで、これと同じように賞讃に価することで、カルロ王の反対党の方が、わたくしたちのフィレンツェの娘に対して行なったことを思いだしましたので、わたくしはそれをお話し申しあげたいと思います。
フランス人たちがシチリアから追いだされた時代に、パレルモに、大金持ちでベルナルド・プッチーニと呼ばれる、わたしたちのフィレンツェ人の薬屋がおりました。この人には、奥さんとのあいだに大変美人で年頃の一人娘がございました。さて、ラオナのピエトロ王(アラゴンのピエトロ王)がシチリア島の君主になりましたので、パレルモで、その土地の貴族たちと立派な祝祭を催しました。その祝祭で、王はカタローニャ風の槍試合をしましたが、ちょうどその時、リーザという名のベルナルドの娘が、他の婦人たちと一緒に一つの窓から、王が試合場を駆けまわるのを見て、すっかり王が好きになり、一度ならずながめているうちに、熱烈に王を恋慕するようになりました。祝祭が終わって、リーザは父親の家に暮らしておりましたが、この自分のすばらしい高嶺《たかね》の恋のほかには、何も考えることができませんでした。この恋について彼女を一番苦しめたことは、自分のしあわせな結末に対する希望が、ほとんどない非常に低い身分の立場にあることでございました。しかし、だからといって王を愛することをやめようとはしませんでしたし、さらに大きな苦しみが加わることをおそれてそれを他人に打ち明ける勇気はありませんでした。王のほうはそんなことは知りませんし、またそんなことは問題にしておりませんでした。ですから彼女は人が考えている以上に、耐えがたい悲しみに泣きくれておりました。そんなわけで、彼女の胸には恋心が絶え間なくつのり、やるせないさびしい気持ちでいっぱいでした。そしてこの美しい娘は病気になり、日一日と雪が太陽にとけるように、眼に見えてやせ細ってまいりました。娘の両親はこのことを悲しんで、絶えずなぐさめ励まし、医者よ薬よと心づかいをして、できるだけの面倒をみました。けれども彼女は、自分の恋に絶望して、もう生きていたくないと心にきめておりましたから、そうしたことも役に立ちませんでした。
父親は彼女に、なんでも好きなことをするようにと言いましたので、彼女は、何とかうまい具合にやれたら、死ぬ前に自分の恋と決心を王の耳に入れられるのではないかと思いました。そこである日父親に、ミヌッチョ・ダ・アレッツォを自分のところに呼んでほしいと頼みました。
当時ミヌッチョは、最もすぐれた歌手で、楽人で、ピエトロ王はよろこんで彼に会っていました。ベルナルドは、娘は彼が演奏したり、歌うのを少し聞きたいので、ミヌッチョを呼んでもらいたがっているのだろうと思いました。そこで、ミヌッチョにそう伝えると、彼は気持ちのいい男でしたので、すぐにリーザのところにまいりました。そしてしばらくのあいだ、やさしいことばで彼女を元気づけてから、六弦琴を手にとって舞踊音楽をいくつか奏《かな》で、そのあとで二、三のカンツォーネを歌いました。彼は娘の心を慰め引き立てるつもりでしたが、その歌はかえって娘の恋心にとっては、火となり焔となりました。それがすんでから、娘は彼にだけちょっと話したいことがあるからと申しました。そこでみんなが席をはずしてから、彼女はミヌッチョに申しました。
「ミヌッチョ、わたくしはあなたを、わたくしの秘密の心から信頼する預かり主になっていただきたいと選びました。わたくしがあなたにお話しする相手の方以外には、だれにもこのことを決して打ち明けないことをまずお願いして、次に、あなたにおできになるかぎり、ぜひわたくしの力になっていただきたいと思ったからでございます。ねえ、ミヌッチョ、ついてはあなたに知っていただきたいのですが、わたくしたちの殿様の、ピエトロ王がシチリア島主におなりになった御即位の大祝祭の日に、王様が槍試合をなさるのを拝見したわたくしは、王様をお慕わしいと思う火がこの心に燃えあがり、わたくしをごらんのようなありさまにつき落としてしまいました。わたくしは、自分の恋が王様にとってはどんなに不釣り合いのものであるか存じてはおりますが、それを追い払うことはおろか弱めることすらできず、それに耐えて行くことが辛くなりましたので、苦しみを減らすために死の道を選びました。でももしそれを王様が御存じにならないうちに、死ぬといたしましたら、わたくしはとてもうかばれないと思うのでございます。それで、あなたのほかにはこのことを王様にお伝えして下さる方は考えられませんので、お願いするわけでございます。どうかお断わりにならないで下さい」
そう言うと、リーザは泣きながら口をつぐみました。ミヌッチョは、彼女の心のすぐれていることや、そのつよい決心にびっくりして心から同情しました。そして、どうしたら彼女の役に立つことができるか、考えが思いうかびましたので言いました。
「リーザ、どうかわたしを信頼して、決して欺されるようなことはないから安心していらっしゃって下さい。わたくしは、あれほどの偉い王様に心を捧げられた、あなたの気高いお振る舞いをおほめ申しあげて、あなたのお力になりましょう。三日たたないうちに、何とかしてあなたがお喜びになるお便りをお届けできると思います。では時間を無駄につぶさないために、わたくしはさっそくそれに取りかかろうと思います」
リーザは、そのことをもう一度熱心に彼に頼み、自分が元気をだしていると約束して、どうかすぐにいらっしゃって下さいと申しました。ミヌッチョはそこを出て、当時、非常にすぐれた詩の作者であるミーコ・ダ・シエーナに会って、いろいろと頼んで次のような小歌をつくってもらいました。
愛よ、かの君のもとにかけり行きて
わが胸のこの苦しみを告げよかし、
胸ふたぐ恋の重荷に
われは死なんと告げよかし。
ああ愛よ、手を合わせて御身に請う、
かの君のいます家を訪れ
この胸をやさしくとかす御君を
われ恋い慕うと告げよかし。
この身をこがすほむらにわれは
息の絶ゆるをおじ怖れ、
望み、怖れ、恥じらいつつも、
かの君ゆえに耐えしのぶこの苦しみに
別れを告ぐる日を知らず、
この心痛を、神、かの君に告げよかし!
愛よ、かの君を恋いてより
悩みの母のその君に、胸の悩みを
せめて一度は語るべき
勇気を御身は賜わらで、
恵みしはただ心怖じ、
かくて死ぬれば死は悲し!
かの君が、わが苦しみを知るとても、
この切なさを訴うる勇気を
この身にあたえしとても、
よもや不快は抱くまじ!
愛よ、もしわが心をかの君に、
ああ、使者送り、顔見せて、
告げまいらする安心を、
われに恵むを好まずば、
いとしの君のもとに行き、
われかつて、楯と槍にて騎士たちと
競技の君を仰ぎ見て、
胸つぶるほど恋いこがれ
君を見とれし日のことを
かの君の胸に呼べよかし。
ミヌッチョはさっそくこの詩にふさわしい、しとやかで物悲しい曲をつけました。そして、三日目に宮廷にまいりますと、ピエトロ王は御食事中でした。彼は王から、何か六弦琴を弾きながら歌うようにと言われました。そこで彼は楽器を奏でながら、この歌をいともやさしく歌いだしました。広間にいた人々は、ことごとくわれを忘れたような心地でじっと耳をすましておりました。王は他の者たちより一段とそうしていられたようでございました。ミヌッチョが歌を終わりましたので、王は今までこんな歌を聞いたことがないようだが、どこからはいってきたのかとおたずねになりました。
「陛下」と、ミヌッチョが答えました。「この歌詞ができて、曲をつけられてから、まだ三日とたっておりません」
彼は王がだれのために作られたのかとおたずねになったので答えました。
「わたくしは、陛下以外の方にそれを申しあげたくございません」
王は、それをお聞きになりたかったので、食卓を片づけさせると、彼を自分の部屋にはいらせました。そこでミヌッチョは、自分が聞いた一部始終を、順序を立てて物語りました。王はそれを聞いて大変よろこんで、その娘を非常にほめ、そのような娘には同情をかけてやるべきだと仰せられました。そして、王の代理として彼女のところを訪れ、慰め励ましたうえ、必ずその日の暮れ方には自分が訪ねて行く旨を伝えるようにと言われました。ミヌッチョは、こうしたうれしい便りを娘にもたらすことを非常によろこんで、すぐさま六弦琴を持って彼女のところへまいりました。彼女と二人きりで何もかも物語りまして、それから六弦琴を取り上げて、例の歌を歌いました。これを聞くと娘はとてもうれしそうにして、大喜びでございました。そしてたちまちのうちに回復の顕著な兆候《しるし》が眼に見えるようにあらわれました。家の者はだれもどんなことが起こっているのか知らず、想像もしていないうちに、彼女はひとり胸をこがしながら、自分の思いを捧げた殿様がおいでになることになっている暮れ方を待っていました。
鷹揚で情け深い王は、あとで、ミヌッチョからお聞きになったことを何度もお考えになり、また娘とその美貌のことも大変よく御承知でしたので、今までよりもひとしお憫れに思し召されました。そして暮れ方に、馬にまたがると散歩に出かけるようなふりをされながら、薬屋の家のあるところにやってきました。そして薬屋の美しい庭を開けてほしいと申し入れ、その庭で馬からおりました。しばらくしてからベルナルドに、娘はもう結婚したのかとおたずねになりました。ベルナルドが答えました。
「陛下、娘はまだ結婚しておりません。それよりも、重い病気にかかりまして、いまだにそのままでございます。ところが実は、今日の午後三時以来、とてもよくなりましてございます」
王はこの快方の意味をすぐにおさとりになって言われました。
「まったくのところ、こんなに美しい娘が、そんなに早くこの世からとりあげられては、大きな損失であろう。わしは見舞いに行ってやりたい」
そこで、王は二人のつれの者とベルナルドともども、まもなく彼女の寝室に行きました。寝室におはいりになると、娘は心持ち体をもたげて、胸をときめかしながら待ちあぐねておりました。王は寝台にお近づきになり彼女の片手をとって言われました。
「お嬢さん、どうしたというのです。あなたは若くて、他の婦人方を慰めてあげなくてはいけないというのに、自分で病気なぞにかかってしまって。わたしたちは、あなたが早く本復するように、元気をだしていただきたいと祈っているのですよ」
娘は、自分が何よりも愛していた人の手にさわられるのを感じて、いくらか恥ずかしいとは思いましたが、それでもまるで天国にのぼったようなよろこびをおぼえました。そして口がきけるようになると答えました。
「陛下、わたくしが自分のわずかばかりの力で大きな重荷を支えようといたしましたことが、わたくしの病気の原因でございました。陛下の御親切なお情けによって、じきにわたくしはこの病気からなおってお目にかけましょう」
王だけには、彼女のことばに秘めた意味がわかりましたが、王は彼女が立派な娘であると次第にお思いになりまして、何度も胸の中で、彼女が身分の低い男の娘に生まれた運命を呪われました。そして、しばらく彼女のところにおられて、さらにいろいろと慰めてからお発ちになりました。王のこの人情味のあるやり方は、たいそう賞讃の的となり、薬屋とその娘には非常に名誉なことになりました。娘のよろこびようと言いましたら、今までどんな婦人もその恋人からこんなにうれしい目にあわされた者はないといっていいくらいでした。彼女は光り輝く希望に助けられて、数日ならずして回復しましたが、今までにないほど美しくなりました。ところが彼女が回復してから、王は娘に、そうした愛に対してどんなお返しをしたらよかろうかと、王妃と話をおまとめになった上、ある日のこと馬にのると、大勢の貴族たちを連れて薬屋の家にまいりました。そして庭にはいると、薬屋とその娘を呼ばせました。するとその庭に、王妃が多くの貴婦人と一緒にまいりまして、みんなは娘を中に迎え入れて、すばらしいお祝いをはじめました。しばらくしてから、王は王妃と一緒に、リーザを呼んで、彼女に言いました。
「立派な娘よ、あなたがよせられた大きな愛によって、あなたはわたしたちから大きな名誉をかち得たのです。わたしたちは、あなたにそれをよろこんでもらいたいのです。その名誉というのは、あなたが結婚の年頃なので、わたしたちが世話をする者を夫に持ってほしいということなのです。それとは別に、わたしは、あなたの騎士と名乗りたいので、あなたから愛のしるしとして、ただ一度の接吻をしてほしいのだが……」
恥ずかしくて顔じゅう紅に染めた娘は、王と同じように自分もよろこんで、低い声でこう答えました。
「陛下、わたくしは、もし自分が陛下に思いをよせたことが世間に知れましたら、大抵の人々が、わたくしを身のほどをわきまえぬ、気違いだとうわさするだろうと存じます。けれども、人の心をただ一人御照覧遊ばされる神も御存じのように、わたくしは、最初陛下に心をひかれました時に、あなたさまは王様でいらっしゃって、自分は薬屋のベルナルドの娘であり、自分としては心の情火をそんな高いところに向けてはいけないことだと存じておりました。けれども、わたくしよりも陛下のほうがずっとよく御存じのように、人間はだれもそれ相応の選択によって恋をいたすものではなく、欲望と好みによって、恋をいたすものでございます。そうした法則に対してわたくしの力は、何度となく抵抗いたしましたが、もうこれ以上耐えられなくなって、わたくしは陛下を愛しましたし、今も愛しておりますし、いつまでも愛しつづけるでございましょう。実のところわたくしは、陛下への愛のとりこになった気持ちでおりますので、陛下のお望みになるとおりに、自分も望む覚悟をいたしました。でございますから、わたくしは、陛下がわたくしにお世話下さる方で、わたくしの名誉や身分にふさわしい方ならば、その方をよろこんで夫に迎え、大切にいたしますが、そういたすだけではなく、もし陛下がわたくしに火の中にはいるようにおっしゃれば、それが陛下のお喜びになることでしたら、わたくしはよろこんでそういたしましょう。王様でいらっしゃるあなた様を騎士に持つことは、どんなに有難いことか、陛下も御存じのことでございますから、そのことについてはお答え申しません。わたくしの愛のしるしにただ一つお求めになる接吻も、王妃様のお許しがございませんうちは、さしあげるわけにはまいりません。それでも、陛下のお情けや、ここにおいで遊ばす王妃様のお情けのような、そうした深いお情けについては、わたくしには到底御返礼できませんから、神さまがわたくしに代わって、あなた様方に、感謝とお礼をお返し下さいますようにと、祈るばかりでございます」
ここで娘は口をつぐみました。王妃には娘の返事がたいへん気に入りまして、王が言われていたように、聡明な娘であるとお思いになりました。王は、娘の父親と母親を呼ばせて、御自分がなさろうとしていたことについて両親には何の不足もないことをお聞きになると、ペルディコーネという名前の、貴族でありますが貧しい一人の青年を呼んでこさせ、彼の手に指輪を二つ渡しました。彼がそれを拒みませんでしたので、リーザと結婚させました。王と王妃が娘に賜わった多くの貴重な宝石のほかに、王はただちに、両人に非常に肥沃な、産物の豊かな二つの土地、チェッファルーとカラタベッロッタを贈って言われました。
「これは君に花嫁からの贈り物として上げる。君にしてあげようと思っている贈り物については、いずれ先になるとわかるだろう」
そう仰せになると王は娘に向かって言われました。
「今度はわたしたちが、あなたの愛のしるしにいただかなくてはならないものを頂戴することにしよう」
そして、両手で彼女の頭をとって、その額に接吻をいたしました。ペルディコーネや、リーザの父母や、彼女も同じようによろこんで、大宴会を催して、にぎやかな結婚式をあげました。多くの人々の申しますところによると、王は娘に対してよく約束を守られたそうでございます。ですから、王は御存命中は、いつも御自分は彼女の騎士であるとおっしゃって、どんな演武にも、娘からとどけられた飾り紐のほかに、甲胄には別のものをつけて臨むようなことは、決してございませんでした。
さてこうした行ないによって、臣下の心がとらえられ、他人によい行ないをする手本があたえられ、永遠の名声がかち得られるのでございます。今日では、大部分の君主が残酷、非道になってしまいましたので、こうしたことに心を用いる者は、ほとんどあるいは全然なくなりました。
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第八話
[#この行3字下げ]〈ソフロニアは、ジシッポの妻になるつもりでいたが、ティート・クインツィオ・フルヴォの妻になって、彼とともにローマへ行く。そこへジシッポが零落してたどりつき、ティートから軽蔑されたと思いこんで死のうと思い、自分は一人の男を殺したと告白する。ティートは、彼がジシッポであることを知り、彼を救うために、自分が男を殺したのだと言う。実際に殺した男がそれを見て、自分だと名乗りでる。そこで、オッタヴィアーノによって、一同は放免され、ティートはジシッポに妹を妻としてあたえ、彼と自分の全財産を共有にする〉
パンピネアの話が終わり、淑女たちもそれぞれ、特にギベッリーノ党の者は一段と強く、ピエトロ王をほめそやしましたので、フィロメーナは王の命令によって、話しだしました。
淑女のみなさん、王というものは、しようと思えばどんなことでもできますので、それだけ特に王には寛大さが必要でございます。そこで権力のある者が、自分にできることをするのは、よい行ないではございますが、力がない故に要求されることも少ない人が、自分にできることはしなければならないように、それほど驚くには当たりませんし、また最高の讃辞で持ちあげるべきことでもございません。ですから、わたくしは、もしあなた方が王の行ないをそうしたことばで賞揚され、それを立派なものであるとお思いになられるのでしたら、わたくしたちと同じような人間の行ないが王のそれと似ていたり、それ以上のものであった場合は、それが一そう強くみなさまのお気に召し、あなた方から賞讃を博するものであろうことは、いささかも疑いはいたしません。そこで、わたくしは、二人の友人同士の市民のあいだに行なわれた、賞讃に価する寛大な行為をあなた方に物語ることにきめました。
さて、オッタヴィアーノ・チェーザレが、まだアウグストと呼ばれないで、三頭政治と呼ばれる職について、ローマ帝国を治めておりました時代に、ローマにプブリオ・クインツィオ・フルヴォと呼ぶ貴族がおりました。この人には、ティート・クインツィオ・フルヴォという名の息子がありまして、驚くほどの才能を持っておりましたので、哲学の勉強にアテネにやって、自分の昔からの友人のクレメーテと呼ぶ貴族に、できるだけの世話を頼みました。ティートはクレメーテの家で、ジシッポという名のクレメーテの息子と一緒に暮らすことになり、ティートとジシッポは、クレメーテの指示によって、アリスティッポという哲学者の教えをうけ、同じような勉強をさせられました。二人の青年は、お互いに交際をしているうちに、自分たちの生活ぶりや、考え方がすっかり同じでしたので、そのために、やがては死以外のものでは引き離すことができないほどの深い兄弟愛や友情が、二人のあいだに生まれました。二人は一緒にいないとしあわせに思いませんし、心も安まりませんでした。二人は同じように卓抜した才能に恵まれていましたので、同じような歩調で、すばらしい讃辞をうけながら、哲学のかがやかしい薀奥《うんおう》をきわめておりました。そうして、どちらを自分の子というわけへだてなく愛していたクレメーテが、このうえもなくよろこんでおりますうちに、二人はそうした生活を三年もつづけました。その三年の終わりに、老年であったクレメーテがこの世を去ったのでございます。そこで二人は、共通の父親を失ったように、同様の悲しみにくれましたが、この降りかかった事件について、彼ら二人のうちどちらのほうをよけいに慰めたものか、クレメーテの友人や親戚たちも見当がつきませんでした。それから数か月の後に、ジシッポの友人や親戚たちが、彼をかこんで、ティートと一緒に、妻をもらうようにと勧めました。そして彼のために、素敵な美人で、非常な名門の出であって、アテネの市民で、その名をソフロニアといい、年は十五歳ほどの娘を見つけました。やがて結婚式の日が近づきましたので、ジシッポはある日のこと、まだ一度もその顔を見ていませんでした娘に、自分と一緒に会いに行ってもらえないかと、ティートに頼みました。二人が彼女の家に着くと、彼女が二人のあいだに腰をおろしましたので、ティートは、まるで友人の花嫁の美貌の審判者のような格好で、眼をこらして彼女を見つめはじめましたが、彼女のどこもかしこも、かぎりなく彼の気に入りました。で、ひとり、これを心から讃えているうちに、顔にはだしませんでしたが、女を愛するどんな恋人にもないほどの、はげしい恋心が燃えあがりました。けれども、二人はしばらく彼女のところにいてから、そこを辞して家に帰りました。
ティートは、ただ一人自分の寝室にひっこんで、好きになった娘のことを考えはじめまして、じっと考えていればいるほど、心は燃えあがってきました。それに気がつくと、何度も熱い溜め息をついて、ひとりごとを言いだしました。
「ああ、なんという情けない生活を送っているのだ、ティートよ! お前はどこに、何に、その心や、愛や、希望をおいているのだ? ではお前は、クレメーテやその家族からうけた尊敬から言っても、彼女を花嫁に迎えるジシッポとお前のあいだの完全な友情から言っても、この娘には姉妹と同じように尊敬を払わねばならないことがわからないのか? では、何を愛しているのだ? 偽りやすい恋のために、どこへ引っ張られて行くのだ? 甘い希望のために、どこへ引っ張られて行くつもりなのだ? 知恵の眼をひらくがいい。そして、ああ、憐れな男よ。お前みずからを知るがいい。理性に従うのだ。淫らな欲情をおさえるがいい。正しくない欲望をおさえるのだ。お前の考えを他に向けろ。この第一歩に当たって、お前の淫欲に反抗するのだ。そうして、まだ間に合ううちに、お前みずからに打ち克て! お前が望んでいるこのことはいけないことだ。これは正しいことではない。お前がしようとしていることは、たとえ確かにそれをやりとげる自信があっても(もっともお前にはそれはないが)、もし、真の友情が求めていることや、またお前がなすべきことに考え及べば、お前はそれを避けなければいけないはずだ。では、どうするつもりだ。ティート? もしお前が、当然のことをしたいと思ったら、その道ならぬ恋を捨てるのだ!」
そのあとで、ソフロニアのことを思いだすと、彼は考えを変えて、今言ったことを全部取り消して言いました。
「恋の法則は、他の法則よりも強力なものだ。それは友情の法則ばかりでなく、神望な法則を破っている! 今までに、父親が娘を愛し、兄弟が姉妹を愛し、継母が継子を愛したことは、何度あっただろうか。それは、今までに千度も行なわれたような、一人の友人が、他の友人の妻を愛することよりもずっと恐ろしいことなのだ。そればかりではなく、わたしは若いのだし、青春というものは全く恋の法則に支配されているものだ。だから、愛の神のお喜びになることは、わたしも好きになるようにならなくてはいけないのだ。道にかなったことは、ずっと年をとった者のすることで、わたしは愛の神がお望みになるもののほかは、望むことができはしない。あの娘《ひと》の美貌は、だれにでも愛される値打ちがある。青年のわたしが、あの娘《ひと》を愛したとしても、だれがわたしにそれ相当の、文句が言えるだろうか。わたしは、あの娘《ひと》がジシッポの花嫁だから愛しているのではなくて、むしろ、あの娘《ひと》がだれのものであろうとも愛するつもりで、愛しているのだ。他の人にではなく、むしろわたしの友人のジシッポに彼女をあたえたのは、正に運命の神の手違いだ。で、もし彼女が、その美貌の故に当然、それ相応に愛をうけなければならないとしたら、彼女をこのわたしが愛していることを知って、ジシッポはだれよりもよろこぶにちがいないのだ!」
こんな理屈をつけてから、また自分自身を嘲笑しながら、また反対の理屈に移り、これからあれへあれからこれへと、その日一日と、その夜ばかりでなく、何日もつぶしてしまいました。そのうちに、食べ物も喉を通らず、睡眠もとりませんでしたので、衰弱して病床につかねばなりませんでした。彼が何日となく心配そうに考えこんでいるのを見ていて、今また病気になったのを知ったジシッポは、大そう悲しんで、彼のそばから一時も離れずに、あらゆる手段をつくし、心を配って、彼に元気をださせようとつとめながら、しばしばしつこく、その心配や病気の原因についてたずねました。でもティートは何度も作り話の返事をしておりましたが、ジシッポにそれがわかってしまいました。ティートはやむを得ないと思いまして、泣いて溜め息をつきながら、こんな具合に答えました。
「ジシッポ、もしわたしが運命によって、自分の徳の強さを証拠だてなければならなくなり、実に恥ずかしい次第だけれど、その徳の敗れ去るのを見る羽目に落とされたときには、神がお許し下さるなら、これ以上生き長らえるよりも死んだほうがずっとましだと思うのだ。わたしは、君には何もかくしておくことができないし、そうしてはならないのだから、赤面しないわけにはいかないが、それを打ち明けよう」
そうして彼は、最初から話しだして、自分の心配事の原因や、心配事との闘いや、最後にそれに勝ったかどうか、またソフロニアのために死にそうであることなどを彼に打ち明けまして、自分はこのことがどんなにいけないことであるか知っているから、そのあがないのために死を決意したのだと断言しました。ジシッポはこの話を聞き、相手が泣き悲しんでいるのを見ながら、自分もその美しい娘の可愛らしさに心をとらえられていましたので、最初しばらくはじっと考えこんでしまいました。しかしたちどころに、友人の命のほうがソフロニアよりも大切であると割り切ったのであります。そして友人の涙に誘われて、自分も泣きながら、こう言いました。
「ティート、もし君が実際そうしているように、慰めを必要としていないならば、君はこんなに長いあいだ、その実に痛ましい情熱をわたしにかくしておいて、わたしたちの友情にそむいた男として、わたしは君自身に向かって愚痴《ぐち》を言いたいくらいだよ。たとえ君には正しいことのように思えなくても、だからといって、正しくないことは、正しいことに劣らず、友人にはかくしておくべきものではないはずだ。友人たる者は、正しいことについては、友人と喜び合うように、正しくないことは、何とかして友人の心から除こうとするものだからね。でも今は、そんな愚痴をいうのはよそう。そして、一番必要だとわかっているものに話を移そう。君がわたしと婚約したソフロニアを熱烈に愛したとしても、わたしは驚きはしない。でも、君の好きなものが一段とすぐれているだけに、それだけ情熱を感じやすい君の心の美しさと気高さをわたしは知っているからね。君がソフロニアを愛しているのはもっともなことなのだが、それだからといって、もし彼女がわたし以外の他の人のものだったら、彼女を愛しても道理だと思って、彼女をわたしにあたえた運命のことを呪うのは不当だと思うよ。それで、もし君に分別があるなら、君がもっと感謝しなければならないようにするには、運命は彼女をわたしにあたえないで、だれにあたえたらよかったのだろう。だれでもいい、他の者が彼女を手に入れていたら、どんなに君の愛が正しいものであったとしても、その人は彼女を君のためよりも、自分のために愛していただろう。そんなことは、もし君が、わたしを友人だと思っているのなら、わたしについては心配する必要はない。その理由はこうだ。つまり、わたしは二人が友だちになってから、わたしのものであって君のものでなかったようなものは、何一つ持っていた覚えがないのだからね。もし事情が他にどうもできないように進んでいたら、わたしだって他人と同じようにするだろう。でも事態はまだ、彼女を君だけのものにすることができるような程度なのだから、わたしはそうするつもりだよ。もしわたしが正当に行なうことができることで、自分の欲望を君の欲望に変えることができないとしたら、どうしてわたしの友情が君にとって大切なものかわからなくなるはずだ。ソフロニアがわたしの婚約者であることや、わたしが彼女を愛していて、結婚式を待っていたことは本当だけれど、君がわたしよりもずっと鑑識《め》があるので、彼女のような可愛いものを、一段と熱烈に望んでいるからには、きっと彼女がわたしの寝室に、わたしの妻としてではなく、君の奥さんとしてくるようにしてあげよう。だから、心配など棄ててしまいたまえ。憂鬱は追い払ってしまいなさい。失くした健康や元気や陽気な気分を呼び戻してくれたまえ。これから先は、わたしの愛よりもはるかに値打ちのある君の愛が当然うける酬いを待っていたまえ」
ティートは、ジシッポがそういうのを聞いて、そうした甘い希望をうれしく思いましたが、それだけに、当然人間として持つべき理知が働いて、ジシッポの鷹揚な態度が立派であればあるほど、相手のそれを利用することはひどくいけないことだと考えて、恥ずかしく思いました。ですから、彼は泣きやむことができませんで、やっとのことでこう答えました。
「ジシッポ、君の鷹揚な、真実の愛情は、わたしの友情が当然とるべきことを、手にとるように教えています。神さまが一番ふさわしい男として君にあたえられた彼女を、わたしが自分のものにするために君から貰いうけるなどということは、夢にもあってはなりません!(神さま、そんなことはおさせにならないで下さい!)、もし彼女がわたしにふさわしいと神さまが思し召すなら、君だってだれだって、神さまが彼女を君にお授けになったと思ってはいけないはずです。だから君が選ばれたことや、慎重な忠告や、君の贈り物を、そのままお受けなさい。そして、神がそうした幸福には価しない者として、わたしのために準備なさった涙の中で、わたしを苦しませて下さい。もしわたしがその涙に打ち勝てば、君によろこんでいただけましょう。もし涙がわたしに打ち勝てば、わたしは苦しみからのがれるでしょう」
ジシッポが彼に言いました。
「ティート、もしわたしたちの友情が、君に無理にもわたしの好きなことをさせその道を君がどうしてもとらなければならないようにすることを許してくれるならば、これは、その友情を利用した方が、いいと思いますよ。君がわたしの頼みをよろこんで聞かなくても、友人の幸福のために、できるだけ努力をして、わたしは、ソフロニアが君のものになるようにしよう。わたしには、恋の力がどんなに強いものであるかがわかっているし、またその力が一度ならず何度も、恋人たちを不幸な死に導いたことも知っている。わたしから見ると、君は死のそばにいて、とって返すことも涙に打ち勝つこともできないようです。このまま進んだら、負けて死んでしまうでしょう。そうしたら、わたしも君のあとにつづくつもりです。だから、別に君を愛していないとしても、わたしは自分で生きていくために、君の命が大切なのです。そこで、ソフロニアは君のものにしましょう。これほど君の気に入る娘は、易々とほかには見つからないでしょうから。わたしは自分の愛を他の娘《ひと》に向けて、君と自分の気持ちを満たすことにしよう。わたしは、妻というものが、友人とおなじように仲々見つからないで、見つけるのがむずかしいものだったら、たぶんこれほど鷹揚にふるまいはしないでしょう。でも、わけなく他の妻は見つけられるだろうけど、友人は見つけることができませんから、わたしは(彼女を失うとは言いたくないのです、彼女を君にあたえて失うのではなくて、彼女をもっといい別の自分に引き渡すのだから)、君を失うよりも、むしろ彼女を引き渡そうと思うのです。ですから、もしわたしの頼みがいくぶんでも君を動かすことができたら、お願いだから、この苦しみから脱して、君とわたしを同時に慰め励まして下さい。また君の熱い思いが愛するものに望んでいるそのよろこびを、明るい希望を抱いてつかまえるようにして下さい」
ティートは、ソフロニアが自分の妻になるというこのことを承諾するのを恥ずかしく思って、これについてはまだ同意しませんでしたが、一方からは恋の力にひかれ、他方からはジシッポの慰めのことばに励まされて言いました。
「でもジシッポ、わたしには君から頼まれて、ぜひ君のためにそうしてほしいと言われることをするのでは、君のよろこぶことをしているのか、自分のよろこぶことをしているのか、どっちだと言ったらいいかわからないね。それで、君の鷹揚な態度の立派さに、わたしの当然感じるべき恥ずかしさも消えてしまったから、わたしはそのとおりにしましょう。だがこれについては、わたしは、自分が君から愛するひとだけでなく、そのひとと一緒に自分の命までいただくことを知らない者のようにふるまうのではないということを信じて下さい。もしできたら、君がわたし自身よりも親身になって同情して、自分のためにしてくれたことを、どんなに有難く思っているか、それを立派に君のしあわせになるようにはからって、君にお見せすることができますようにと祈っています」
このことばのあとでジシッポが言いました。
「ティート、このことをやりとげるためには、こうした方法をとらなければいけないと思いますよ。君も知ってのとおり、わたしの身内の者と、ソフロニアの身内の者との長い話し合いのあとに、彼女はわたしの嫁になったのです。だから、もしわたしが今、彼女を妻にほしくないと言いに行ったら、大変な醜聞が持ちあがって、わたしは彼女の身内や、自分の身内を怒らせてしまうだろう。そんなことは、もしこれで彼女が君のものになることがわかっていれば、わたしはなんとも思いません。しかし、わたしがこんなふうにして彼女と手を切ったら、彼女の身内の人々が他の者に彼女をやってしまいはしないかと心配なのです。その他の者というのは、たぶん君ではないだろうからね。こうして君もわたしが手に入れられないものを失ってしまうでしょう。だから君さえよかったら、わたしは自分で始めたことをこのままつづけていって、彼女を自分の嫁としてわたしの家に連れてきて、結婚式をあげるようにしたらと思います。そのあとで君が、前もって手はずをきめたとおりに、こっそりと君の花嫁のつもりで彼女と寝るようにしなさい。そして、しかるべき場所で、しかるべき折を見て、そのことを公表しよう。みんながいいと言ったら、いいではありませんか。もしいいと言わなかったら、それでもすんでしまったことだし、いまさらあとへ戻ることはできないのですから、どうしても納得しないわけにはいかないでしょう」
ティートは、その勧告をよろこびました。そこでジシッポは、ティートが病気もなおって、しっかりしたので、彼女を自分の家に迎えました。大宴会をひらいて、やがて夜になりましたので、婦人たちは、花嫁を夫の寝台の上に残して帰っていきました。ティートの寝室はジシッポの寝室につながっていて、互いに往き来をすることができました。ジシッポは自分の寝室にいましたが、明かりを全部消してしまってから、そっとティートのところに行き、自分の妻のところへ寝に行くように言いました。ティートはそれを見て、恥ずかしさに耐えられなくなり、後悔して、行くことを拒みました。でも、口先だけでなく、心から友人の望みをかなえてあげようとしていたジシッポは、長いあいだ言いあってから友人を追いやりました。ティートは寝台にはいると、娘を抱いて、まるで冗談を言うように、小声で自分の妻になりたいかとたずねました。彼女は、彼をジシッポだと思いこんで「はい」と答えました。そこで彼は、美しい、立派な指輪を彼女の指にはめながら言いました。
「わたしは君の夫になりたいのです……」
それから夫婦の契《ちぎ》りをむすんで、彼女から長い、恋の悦楽を味わいました。でも彼女も他の人たちも、ジシッポが彼女と寝たと思っていました。
さて、ソフロニアとティートの夫婦の関係がこんな具合にいとなまれておりますうちに、ティートの父親のプブリオがこの世を去りました。そこで、すぐに家事を見にローマに帰ってくるようにと、手紙を彼に書いてまいりました。ですから、彼は、出発のことと、ソフロニアを連れて行くことを、ジシッポときめました。これは、彼女に一切の事情を打ち明けなければ、うまくやれるはずもないし、できそうもありませんでした。そこである日のこと、二人は彼女を寝室に呼んで、その事情を逐一説明しまして、それについて、ティートは、一緒に過ごした夜、二人のあいだに起こったいろいろのことを思いださせて、彼女にそれが嘘でないことを知らせました。彼女は、すこしむっとして、相手をかわるがわるにらんでから、わっと泣きだして、ジシッポの瞞着《まんちやく》を嘆き悲しみました。そして、ジシッポの家で、すぐにそのことについては何も切りださないで自分の父親の家に行き、父親と母親に向かって、自分と両親がジシッポからうけた瞞着のことを物語ったうえ、自分はみんなが考えているようにジシッポの妻ではなくて、ティートの妻であるとはっきり言いました。これはソフロニアの父親にとっては大変悲しいことでございまして、彼は自分の身内の者や、ジシッポの身内たちを相手に長い間、ひどく泣きごとを繰り返しておりましたが、その言い合いや騒ぎは、はてしのない大変なものでした。ジシッポは自分の身内や、ソフロニアの身内からも憎まれ、だれも彼のことを叱責するだけでなく、きびしい懲罰を加えなければいけないと言っておりました。しかし彼は、自分は正しいことをしたのであって、ソフロニアを自分よりもすぐれた者と結婚させたのだから、彼女の身内から感謝されるのが当たり前だと言い張りました。一方ティートは一部始終を聞き、非常にいやな気持ちをしながら我慢をしておりました。ギリシャ人の風習というものは、彼らに、返答をする者がどうにか見つかるまでは、大騒ぎをしたり、脅かしたりして前に乗りだしてくるが、それからは謙遜になるばかりでなく、きわめて卑屈になるものであるということを知っておりましたので、もうこれ以上、返答をしないで彼らの文句を我慢していてはいけないと考えました。そこで、彼はローマ人の魂とアテネ人の知恵をそなえていましたので、非常に巧みな方法で、ジシッポの身内やソフロニアの身内の者たちに、ある寺院に集まってもらい、ジシッポだけと一緒に、その寺院にはいって行き、待ち構えていた人々に向かってこう言いました。
「人間によって行なわれていることは不滅の神の摂理であると、多くの哲学者たちによって考えられております。これについて、ある者は、人々の行ない、またはこれから行なうであろうことは、当然そうあるべきものなのであると言おうとしています。もっとも、この必然性をただ行なわれたことだけに適用しようとしている者も一部におります。そうした意見は神よりも、自分たちのほうが賢明であるということを示したがっていることにほかなりません。神の御行為を非難することが、どんなに気違いじみた、大それた生意気なことであるか、いとも容易におわかりになるでございましょう。さらにはまた、大胆にもそんなことまでするような気持ちになる人々が、どんな責め苦をうけるに価するものかもおわかりになることでございましょう。事実そうなったことから現在おわかりのように、永劫の昔から[#「永劫の昔から」に傍点]ソフロニアがジシッポのものではなくて、わたしのものになると御措置がとられていることを考えないで、あなた方が、御自分たちでソフロニアをジシッポにおあたえになったのに、彼女がわたしの妻となったことについておっしゃったにちがいない、またずっとおっしゃっているにちがいないと聞いておりますことが、本当でしたら、わたしの考えによれば、あなた方は全部そうした人々の仲間であります。しかし、神さま方のひそかな御摂理や、御意図についてお話しすることは、多くの方々にとって、むつかしく理解しにくいように思われますので、わたしは、神さま方がわたしたちのことには何ら干渉なさらないものと仮定して、人間の理性にくだってお話ししたいと存じます。それについてお話をしますと、わたしの生き方(習慣や態度)と全然反対の二つのことをしなければならないでしょう。一つは自分はいくらか褒めることになり、もう一つは他人をいくらかけなすか、軽んずることになりましょう。でも、どちらの場合でも、真実から離れるつもりはありませんし、只今の問題が、それを要求していますので、やはりわたしはそういたすことにします。あなた方が、御自分たちの考えでジシッポにあたえた彼女を、ジシッポが、自分の考えでわたしの妻としてくれてしまったので、理性よりも憤激にかられたあなた方の不満は、絶えずぶつぶつ言って、いや大騒ぎをして、ジシッポをはずかしめ、叱りつけ責めたてております。ところがわたしは、その点ジシッポこそ大いに賞讃されてしかるべきものだと考えています。その理由はこうです。一つには、彼が友人のなすべきことをしたからであります。も一つには、彼が、あなた方よりも賢明に行動したからであります。一友人が他の友人に対して行なうようにと、友情の神聖な法則が望んでいることを、只今説明することが、わたしの意図ではありません。ただそのことについて、友情のきずなが、血とか、姻戚関係とかのきずなよりもはるかに緊密なものであることを、あなた方に思いだしていただいただけで結構です。それは、友人というものは、自分たちで選んだままのものでありますが、身内というものは、運命があたえたところのものであるからです。ですから、もしジシッポが、あなた方の好意よりも、わたしの命をよけいに愛したとしましても、わたしは自分でそう思っているように、彼の友人なのですから、どなたも驚く必要はありません。
では、第二の理由にまいりましょう。ここでは、彼があなた方よりも賢明だったということを、もっとしつこく明示しなければなりません。なぜなら、あなた方は神々の御摂理について何もお感じになっていらっしゃらず、友情の効果についてもなおさらのこと御存じないように、わたしには思われるからであります。わたしは、あなた方の御予断や、あなた方のお考えや、あなた方の御決定が、ソフロニアを、青年で哲学者のジシッポにあたえたのであって、ジシッポのそうしたものは、彼女を青年で哲学者である者にあたえましたと申しましょう。あなた方のお考えは、彼女をアテネ人にあたえました。そして、ジシッポの考えは、ローマ人にあたえたのであります。あなた方のお考えは、若い貴族に、ジシッポのは、さらに名門である貴族にあたえました。あなた方のお考えは、金持ちの青年にあたえましたが、ジシッポのはたいへん金持ちの青年にあたえました。あなた方のは、彼女を愛していなかったばかりでなく、ほとんど彼女を知らなかった青年にあたえたのでありますが、ジシッポのは、いかなる幸福にもまさって自分の命以上に彼女を愛していた青年にあたえました。わたしの申すことが本当であって、あなた方がなさったほうよりも賞讃すべきものであるかどうか、一つ一つに当たってお考えになっていただきたいのです。わたしがジシッポのように若くて哲学者であることは、それについて長々と申さなくても、わたしの容貌や研究が、それを語ってくれます。彼も、わたしも、同じ年でありまして、わたしたちはいつも同じ歩調をとって、研究してまいりました。彼がアテネ人であって、わたしがローマ人であることは、本当です。もし都市の栄誉について論争するならば、わたしは自由都市の生まれであり、彼は貢《みつぎ》を納める都市の生まれであると申しましょう。わたしは世界じゅうの主人である都市の生まれであり、彼はわたしの都市に服従している都市の生まれだと申しましょう。わたしが武道や主権や学問の花咲きにおう都市の生まれであるにひきかえ、彼は自分の都市を、ただ学問の都市としか讃えることができないだろうと、わたしは申しましょう。そればかりでなく、あなた方はここでわたしを非常にいやしい学生だとごらんになっていらっしゃいますが、わたしは、ローマの民衆のかす[#「かす」に傍点]の出ではございません。わたしの家や、ローマの広場は、わたしの祖先たちの古い肖像にみちみちております。またローマの年代記には、クインツィオがローマのカピトリオで行った多くの凱旋式のことが一杯に載っています。わたしたちの家名の栄誉は、年月がたったために衰えるようなことはなく、むしろ今日では、今までにまさって、花をひらいております。わたしは、清貧というものが、ローマの貴族たちの古代からの、すこぶる大きな財産であることを知っていますので、恥ずかしくて、自分の富貴のことは申しません。でも庶民たちの意見では貧乏は非難され、富貴は賞讃されております。わたしには、貪慾からではなく、運命に愛されて、有り余るほどの財産があります。わたしはジシッポがここにいて、これを身内にしていることが、あなた方にとって大事なことにちがいなかったし、またそうにちがいないことを、よく存じております。しかし、ローマでは、わたしをあなた方の最良の主人役として、公事《おおやけごと》の便宜にも私事の必要にも役に立つ、熱心で有力な後援者としてあなた方がお持ちになっていらっしゃるのだと考えると、わたしは、どんな理由がありましても、そこでは、あなた方にとって、ジシッポと同様に大事な者にちがいありません。
さて、我意を棄てて、理性をもって考えるならば、わたしの友人のジシッポの考えよりも、あなた方のお考えをほめる者が、どこにおりましょうか。確かにだれもおりはいたしません。ですからソフロニアは、ローマの、貴族の古い家柄の金持ちであり、ジシッポの友人であるティート・クインツィオ・フルヴォに立派に嫁いだのであります。ですから、そのことを嘆いたり、不満に思ったりする者は、なすべきことをなさないし、そのしていることを知らないのであります。恐らく、ソフロニアがティートの妻であるのを嘆いているのではなくて、そのことについて友人なり、身内なりが何も知らないうちに、彼女がこっそりと、人目を盗んで彼の妻になったやり方を嘆いているのであるとおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。で、こうしたことは、奇蹟でもなければ、新しく起こっていることでもありません。わたしは、父親の意志にさからって、すでに夫をこしらえた婦人たちや、恋人たちと家出をした、妻になる前に愛人であった婦人たちや、口上をもってする以前に妊娠や、出産をもって結婚を披露して、そうしたやむを得ない事情が、それをよろこんで承諾させた婦人たちのことなどは、無論ほうっておきます。つまりそうしたことは、ソフロニアには起こらなかったのです。彼女はむしろ順序をふんで、慎重に、正しく、ジシッポからティートにあたえられたのであります。またある方々は、ジシッポが、彼女と結婚する権利のない者に、結婚させたというでありましょう。これは愚かしい女々しい泣きごとで、思慮の足りないところから出たものであります。運命が、万事を一定の結果に導いて行くのにいろいろの方法や、珍しい道具を用うるのは、何も変わったことではありません。哲学者とはいわなくても、むしろ靴屋が、彼の判断によって、わたしのことを、こっそりとなり、あからさまになり措置したとしましたら、その目的がいいものであれば、わたしは何を心配しなければならないのです? もし靴屋が思慮のないものであれば、わたしは、二度ともう彼にはそうすることができないように十分に用心をして、そのことについては、お礼をいわなければなりません。もしジシッポがソフロニアを立派に結婚させたとしたら、そのやり方や、彼について嘆いていることは、よけいな馬鹿げたことであります。もし彼の思慮分別についてあなた方が御信用をなさらないならば、もう彼に結婚ができないように用心をなさって下さい。で、このことについては、彼にお礼をおっしゃって下さい。しかし、あなた方にぜひ御承知おき願いたいのは、わたしが、術策や欺瞞を弄して、ソフロニアの体を通じて、あなた方の血の立派な点や清純な点に何らしみ[#「しみ」に傍点]をつけようなどとしなかったことであります。わたしはこっそりと彼女を妻にしましたが、強奪者のように彼女の処女を奪いにはまいりませんでしたし、あなた方との姻戚関係を拒んで、敵のように道ならぬ方法で彼女を手に入れようとは思いませんでした。でもわたしは彼女の惚れぼれする美貌や、彼女のひとがらに熱烈に胸をもやしておりましたし、もしたぶんあなた方がおっしゃろうとなさっているそうした順序をふんで彼女を手に入れようとしたら、彼女はみなさんにたいへん可愛がられておりますので、わたしが彼女をローマに連れて行きはしないかと心配して、そのために彼女を手に入れることができないだろうとわかっていたのであります。そこでわたしは、今ではみなさんもおわかりになったような、秘密の術策を用いて、ジシッポに、彼がする気持ちになっていなかったことを、無理にわたしのために承知させました。そのあとでわたしは彼女を熱烈に恋い慕っておりましたが、恋人としてではなく、夫として、彼女とちぎりを結ぼうといたしましたので、彼女自身が真実によって証明することができますように、わたしは彼女に、わたしを夫として望むかとたずねて、それに彼女がはい[#「はい」に傍点]と答えまして、なおしかるべきことばを述べて指輪をあたえ、結婚してから、そのあとでわたしは彼女に近づいたのであります。もし彼女がだまされたという気がするのでしたら、わたしには、それについて非難されるはずはありません、それは、わたしにだれであるかとたずねなかった彼女のほうであります。ですから、ソフロニアがこっそりとティート・クインツィオの妻になった、このことは友人のジシッポと、恋人のわたしが行なった大きな悪、大きな罪、大きなあやまちであります。このために、あなた方は彼を苦しめ、嚇し、罠にかけているのです。もしジシッポが彼女を、田舎者に、悪党に、下僕にあたえていたならば、それ以上あなた方はどうするとおっしゃるのです? どんな鎖が、どんな牢獄が、どんな十字架があたえられればいいのでしょうか。けれども今は、このことは言わないことにしましょう。わたしがまだ予期していなかった時がまいりました。すなわち、わたしの父親が亡くなりまして、わたしはローマに帰らなければならないのです。わたしはソフロニアを一緒に連れていこうと思いますので、自分が恐らくまだかくしておくつもりでいたことを、あなた方にお知らせいたしました。そのことを、もしみなさんが賢い分別のある方々でしたら、よろこんで辛抱して下さるでしょう。なぜなら、もしわたしがあなた方を欺瞞したり、侮辱したりしようと思っていたら、わたしは、彼女を騙したままで棄てて行くことができたのですから。でも、どうか神さま、ローマ人の精神に、そんないやしい根性が夢にも宿らないようにして下さい! だから彼女は、すなわちソフロニアは、神さま方の同意と、人間の法則の力と、わたしの(友人の)ジシッポの賞讃すべき思慮分別と、わたしの恋の計略によって、わたしのものとなりました。そのことを、あなた方は、たぶん御自身たちが神さま方よりも、あるいは他の人たちよりも賢明であると考えておられて、わたしには非常に腹の立つ二つのやり方でばかばかしいほど責めたてているようです。その一つは、わたしがいいという以外には、あなた方としては何の権利も持っていらっしゃらないソフロニアをひきとめておくことです。もう一つは、あなた方が、御自分たちで当然恩義を感じているジシッポを敵として取り扱っていることです。これらのことで、あなた方がどんなに馬鹿げたことをしているかということは、只今はこれ以上申そうとは考えておりません。しかし、友人同士としてあなた方に、その怒りをやわらげて、抱いていられる恨みをすべて棄てさるように、またわたしが、よろこんで、あなた方の身内となって出発して、あなた方の身内として暮らせるようにするために、ソフロニアをわたしに返して下さるようにと、お勧めしようと考えております。もうできてしまったことが、あなた方の気にいろうがいるまいが、もしあなた方が他のやり方をしようとお考えならば、わたしはあなた方からジシッポを連れ去って、自分がローマに着いたら、あなた方がどう考えようと頓着なく、当然わたしのものである彼女を取り戻しましょう。ローマ人たちの魂の怒りがどんな力を持っているかということを、絶えずあなた方を敵にまわして、経験によってあなた方に知らせてあげましょう」
ティートはこう言って立ちあがると、心の底から怒ったような顔をして、ジシッポの手をとると、寺院の中にいた連中などなんとも思っていないようなふうをしながら、頭をふりふり、嚇かしながら、そこから出て行きました。寺院の中に残っていた人々は、いくぶんティートの理窟から、彼と姻戚や友人の関係を結んでもいいと思い、またいくぶんか彼の最後のことばに驚き怖れて、ジシッポを身内として失ったうえにティートを敵にまわすよりは、ジシッポがなりたいと望まないのだから、ティートを身内にするほうが一番いいと、満場一致で決定いたしました。そのために、一同は出向いて行って、ふたたびティートを見つけると、ソフロニアが彼のものとなり、彼を大事に身内に迎え、ジシッポをよい友人とすることは、自分たちも好むところであると申しました。そうして一緒に、身内らしい、友情のあふれた賑やかなあいさつをすましてから、そこをひきあげたうえ、ソフロニアを彼のもとに送りとどけました。彼女は賢明でしたので、周囲の事情にばつを合わせて、ジシッポに対して抱いていた愛をさっそくティートに向き変えまして、彼とともにローマに行って、そこで非常に鄭重に迎えられました。
ジシッポはアテネに残り、ほとんどみんなからは大して大騒ぎもされませんでしたが、それからまもなく、ある民事上の訴訟事件のために、家の者全部と一緒に、落ちぶれて見る影もない姿で、アテネから追いだされ、無期追放に処せられました。そうしているうちにジシッポは貧乏人だけではすまなくて、乞食にまでなって、もしやティートが自分のことを思いだしてくれはしないか、試してみようと思って、やっとのことでローマにたどりつきました。で、ティートが健在で、すべてのローマ人から愛されていることを知って、彼の家を教わってその前に行き、ティートがくるのをじっと待ち構えておりました。彼はティートに、自分が落ちぶれているので、ことばをかける勇気はありませんでしたが、ティートが自分に気がついて、人を使って呼ばせるようにと、彼に自分の姿を見せるよう手をつくしました。ティートが通りすぎてしまいましたので、ジシッポには、ティートが自分を見て、顔をそむけて逃げて行ったのだという気がしました。彼はかつてティートのためにしてやったことを思いうかべると、侮辱と絶望におしつぶされて、そこを立ち去りました。もう夜でしたし、彼は何も食べていないうえに、お金はないし、どこへ行ったらよいのかわかりませんので、何よりもつい死にたくなって、町のずっと人里離れたあたりにまいりました。見るとそこに大きな洞穴がありましたので、その夜はそこで明かそうと中へはいりました。そうして何も敷いていない地べたで、ひどい身なりをしたまま、長い間泣きくれたあげくについ寝込んでしまいました。すると、そこへ前夜連れ立って泥棒に行った二人の男が、明け方に盗んだ品を持ってその洞穴にはいってきました。そして喧嘩をはじめ、強いほうの男が相手を殺して立ち去りました。それをジシッポは見聞きして、われとわが身に手を下さないでも、自分が熱望していた死への道を見つけたような気がいたしました。ですから、彼は立ち去らずにじっとしていましたので、その事件を聞きつけた裁判所の警吏たちがやってきて、ジシッポを引っ捕えて、乱暴に引っ立てていきました。彼は訊問をうけますと、自分がその男を殺したのであって、そのあとでどうしても洞穴から立ち去ることができなかったのだと白状をいたしました。そんな次第で、マルコ・ヴァルローネと呼ばれる執政官は、彼を当時行なわれていたように、磔刑《はりつけ》にするようにと命じました。
たまたまその時ティートが執政官の裁判所にまいっておりました。彼は見すぼらしい被処刑者の顔を見て、その理由を聞いてから、すぐにそれがジシッポであることに気がつき、彼の不運に驚いて、どうしてそこへきていたのか不思議に思いました。それから、彼のために力をかしたいと夢中になって熱望すると、自分が罪を着て、彼の弁護をしないかぎり、彼の命を助ける道がまったくないことを見てとりまして、すぐさま進みでると大声で申し立てました。
「マルコ・ヴァルローネ様、あなたが処罰したかわいそうな男を呼び戻して下さい。あの人は無罪なのです。わたしは、今朝あなたの警吏たちに死んでいるところを見つけられたあの男を殺して、その罪で神さま方をひどく辱かしめてしまいましたが、今はもう一人罪のない者を死なせて、さらに神さま方を辱しめたくはありません」
ヴァルローネはびっくりして、裁判所の者たち全部にそれを聞かれてしまったことを悲しく思いました。そして、自分の地位からして、法律の命ずるところをしないわけにはいきませんので、ジシッポを引き戻させて、ティートの面前で彼に言いました。
「お前は何一つ拷問をうけないのに、全然したこともないことを白状して、自分の命をなくそうなんて、どうしてそんな気ちがいじみたまねをしたんだ? お前は、昨夜男を殺した犯人だと申し立てていたが、今この者がきて、お前ではなくて、自分がその男を殺したのだと申し立てているのだ」
ジシッポはじっと見つめて、それがティートであることを眼にいたしました。彼には、ティートがかつて自分からうけた好意に感謝しているので、自分の命を助けるために、こんなことをしているのだということが、手にとるようにわかりました。そこで不憫になって、泣きながら申しました。
「ヴァルローネ様、本当にわたしが殺しました。わたしの命を助けるには、ティートの同情は、もう手遅れでございます」
ティートは一方から申しました。
「執政官殿、ごらんのようにこの者はよその土地の者で、殺された男のそばに武器を持たないで見つけだされたのです。彼のみじめな生活が、彼に死にたくなる理由となっていることは、あなたにもおわかりでしょう。ですから彼を放免して下さい。そしてその資格のあるわたしを罰して下さい」
ヴァルローネは、この二人の熱心な申し立てを不思議に思って、もうどちらも無罪に違いないと推測しました。そして、二人の放免の方法を考えておりますと、ちょうどそこへプブリオ・アンブストという、すべてのローマ人に悪名の高い、手のつけられない大泥棒の青年がやってまいりました。彼が実は人殺しをしていたのでございます。彼は互いに罪を着ようとしている二人が、無罪であることを知っておりましたので、この二人の者の無実に対してその胸をゆすぶられるような感動をうけたために、非常に大きな同情に心を動かされて、ヴァルローネの前に出てきて申しました。
「執政官殿、わたくしの運命は、是非ともこの人たちのむずかしい問題を解決するようにと、わたくしに迫っております。わたくしには、どんな神さまがわたくしを励まし、かり立てて、自分の罪をあなたさまに打ち明けるように仕向けているのかわかりません。ですから、この人たちのどちらも自分自身で犯したと、てんでに申し立てていることについては、無罪だということを御承知になって下さい。わたくしは、本当に今朝明け方に、あの男を殺した犯人でございます。わたしは、ぬすんできたものを、自分が殺した相手と分けていた時に、ここにいるこのみすぼらしいこの男が、そこで寝ているのを見かけました。ティートのことは、わたくしが弁護する必要はございません。彼の評判はあまねく行きわたっておりますし、彼はそんなことをするような身分の者ではございません。ですから二人は放免して下さい。そして法律が科している処罰を、わたくしにあたえて下さい」
もうオッタヴィアーノはこのことを耳に入れておりました。彼は三人を呼び出させたうえ、どうしたわけで銘々が受刑人になろうとしているのか、聞きたがりました。各自はその理由を物語りました。オッタヴィアーノは、無罪だった二人を放免して、二人のことを思って第三の男も放免しました。ティートは、彼の友人のジシッポの手をとって、まず彼の水臭い、不信なやり方をはげしくなじってから、大喜びで彼を迎えると、自分の家に連れていきました。家ではソフロニアが同情の涙を流しながら、兄弟のように迎えました。いくぶん彼に元気をつけさせてから、彼に着物を着せて、彼のひとがらや高い身分にふさわしい服装にもどし、自分のあらゆる財産や土地を彼と共有にして、そのあとでフルヴィアと呼ぶ自分の若い妹を妻にあたえました。それから彼は言いました。
「ジシッポ、君がこのわたしのところで暮らすなり、あるいはまたわたしが贈ったすべてのものを持ってアカイヤに帰ろうと、どちらなりと君の選択にまかせますよ」
ジシッポは一方では、自分の都市からの追放で仕方はないし、また他方ティートのうれしい友情に対して当然感じている愛情にも強いられて、ローマ人になることを同意しました。ローマで彼は妻のフルヴィアとともに、ティートはソフロニアとともに、同じ家に同居して、いつまでも長いあいだ楽しく暮らしまして、日ましに、親しい友だちになりました。
ですから、友情はたいへん神聖なものでして、特に尊敬に価するばかりでなく、寛大や廉直の母として、感謝や慈愛の姉妹として、憎悪や貪慾の敵として、また不朽の讃辞をもって賞讃するに価するものでございます。それは他人から懇請されるまでもなく、自分が他人からしてもらいたいようなことを、いつでも他人に立派にしてあげる用意ができているものです。そのきわめて神聖な効果が、今日二人の人間の間にごく稀れにしか見出されないのは、人間のいやしい貪慾のあやまちと恥辱のせいでございまして、この貪慾は、自分の利益ばかりを考えて、友情というものを地の果て遠く、永遠の流謫に追いやってしまいました。友情以外にどんな愛が、どんな富貴が、どんな親戚関係が、ジシッポの胸に、ティートの熱情や涙や溜め息を有効に感じさせて、そのために彼をして、自分の愛する身分の高い美人の花嫁をティートのものにさせたのでございましょうか。友情以外にいかなる法律が、いかなる威嚇が、いかなる恐怖が、人のいない場所で、暗い場所で、自分の寝台の中で、ジシッポの若々しい両腕に、恐らく時には誘惑するような美しい若い娘を抱擁することを思いとどまらせたでしょうか。友情以外に、どんな名誉、どんな報酬、どんな儲けが、友人をよろこばすためには、自分の身内やソフロニアの身内を失うことなど頓着せずに、庶民たちのよこしまなつぶやきなどにも頓着せずに、嘲笑や愚弄にもかまわずに、ジシッポを平気でいさせたでございましょうか。また一方友情以外に、何者がティートに、うまい具合に見ない振りをしていられたのに、なんら躊躇するところなく、ジシッポがみずから求めた磔台《はりつけだい》からジシッポを救うために、即座にみずからの死を求めさせたでございましょうか。友情以外に、何者がいささかの遅滞もなく、ティートをして、その莫大な財産を、ジシッポと共有するように果てしなく鷹揚にさせたでございましょうか。友情以外に何者がティートをして、見たところ非常に貧乏で、極度に落魄していたジシッポに、何の疑いもなく、妹をあたえるほどはげしく熱心にさせたでございましょうか。さて、人々は、仲間の多人数なのや、兄弟たちの群れや、こどもたちの多数なのを望めばよろしいのでございます。そして自分たちのお金で召使たちの数をふやせばよろしいのでございます。で、こうした者の一人一人が、だれでありましょうとも、父親なり兄弟なり、主人の大きな危険を取りのけようと努力するよりも、自分のごく小さな危険なら何でも怖れるものですが、そんなことは気にかけないのがよろしいのです。その点、友人は全然その反対のことをしていることがわかります。
[#改ページ]
第九話
[#この行3字下げ]〈商人の扮装をした回教王《サラデイーノ》はトレッロ氏の厚遇をうける。十字軍の遠征が行なわれて、トレッロ氏は夫人に一定の期間が過ぎたら再婚をしてもよいと言う。彼は捕虜となり、鷹を馴らしているうちに、回教王の知るところとなる。回教王は彼がトレッロ氏であることを知って、自分のことも相手に知らせて、この上もなく鄭重にする。トレッロ氏は病気になって、妖術によって一夜のうちにパヴィアに運ばれる。そして再婚する自分の妻のために行なわれる結婚式で、彼女から夫であることを発見されて、彼女とともに自分の家に帰る〉
フィロメーナはその話を終えて、ティートの寛大な報恩が、一同から口をそろえて賞讃をうけました。その時王は、最後の順番をディオネーオのために保留して、こう話しだしました。
愛らしい淑女のみなさん、フィロメーナは、友情について語られている中で、まちがいなく真実をお話しになっていますし、そのお話の終わりで、今日友情が人々によってほとんど顧みられないと嘆かれたのは、もっともなことであります。もしわたくしたちが、世の中の欠点を矯正しなければならないために、あるいはまたそれをとがめ立てするためにここに集まっているのでしたら、わたしは、大いに弁じたてて、フィロメーナの言葉をつづけるつもりですが、わたしたちの目的は他にありますので、わたしは、たぶん大変長いでしょうが、全体にわたって面白いお話をして、回教王の寛大な行ないの一つをみなさんにお知らせしようという気持ちが湧きました。それは、わたしのお話の中でみなさんのお聞きになることによって、たとえわたしたちの悪癖の故にだれかの友情を完全にかち得ることができないとしましても、わたしたちは、時期がきたら、その報いがあるにちがいないという希望を持ちながら、他人のために役に立つたのしみを、せめて持っていたいからであります。
さてお話しいたしますが、ある人々の確言するところによりますと、皇帝フェデリゴ一世の御代に、聖地を取り戻すためにキリスト教徒たちによって十字軍の大遠征が行なわれました。それを剛勇無双の君主で、当時バビロニアの回教君主だった回教王《サラデイーノ》が、十字軍のことを少し前から聞いていて、さらに防備を強化するために、その十字軍のためのキリスト教徒の君主たちの装備を親しく見ることにしようと決心しました。それでエジプトで、自分の仕事をすっかり片づけてから、巡礼に出かけるようなふりをして、一番の重臣で、最も賢明な家来二人と、三人の従者を供にしただけで、商人の扮装をして旅にでました。多くのキリスト教国を訪ねたうえ、ロンバルディアで、山々を越えようと馬を走らせているうちに、ちょうどメラノからパヴィアへの途すがら、もう日も暮れかかったころに、その名をトレッロ・ディ・ストリア・ダ・パヴィアという一人の貴族にばったり会いました。この人は、従者たちや犬や鷹を連れて、テジノ河畔にある美しい別荘に泊まりに行く途中でした。トレッロ氏は彼らを見た時に、これは貴族で外国人だとわかりましたので、あいさつをしようと思いました。回教王がトレッロの従者の一人に、ここからパヴィアまでどのくらいあるのか、その町に遅れずに到着できるだろうかとたずねましたので、トレッロは従者に返事をさせないで、自分で答えました。
「パヴィアにおはいりになれる時間までに、みなさんが、そこへお着きになれないでしょう」
「では」と、回教王が言いました。「わたしたちは他国の者ですので、どこにいい宿があるか教えて下さい」
トレッロ氏が言いました。
「それはよろこんでお教えしましょう。わたしはちょうど今、ある用事でパヴィアの近くまで、この従者の一人をやろうと考えておりました。その者をあなた方と一緒にやりましょう。その従者があなた方を、かなり居心地よくお泊まりになれる宿に御案内いたしましょう」
そして彼は、従者のうちで一番思慮にとんだ者に近づいて、用向きを命じたうえ、彼らと一緒にやりました。彼は自分の別荘に行くと、大急ぎで立派な夕飯を準備させて、いくつかの食卓を庭園におかせました。それがすむと、彼は入り口に行って、彼らを待っていました。従者は貴族たちとよもやま話をして、いくらか廻り道をさせながら、一同に気づかれないで、自分の主人の別荘に案内しました。トレッロ氏は彼らを見て、歩いて会いに行って、笑いながら言いました。
「本当によくいらっしゃいました」
鋭い頭の持ち主だった回教王は、この騎士が、もし自分たちに会った時に招待していたら、自分たちがそれに応じなかっただろうと心配して、だから、自分たちがその晩を彼とすごすことを断れないようにと、巧みに彼の家に案内したのだとさとりました。そして騎士のあいさつに答えて言いました。
「御主人、もし人が親切な方に向かって不平が言えるものでありますれば、あなたがわたしたちの旅の邪魔をなさったことにはふれないでおきましても、わたしたちがあなたの御好意を受ける資格はただ一度あいさつを交しただけにすぎませんのに、このような御親切を無理にうけさせて下さったあなたに、わたしたちは苦情を言いたいと思います」
賢明で話の上手な騎士は言いました。
「みなさん、あなた方がわたしたちからおうけになるこれは、あなた方の御様子からお察しすると、あなた方にふさわしいそれと較べて心ばかりの親切でございます。しかし本当のところ、パヴィアをはずれては、あなた方はどこにもいい宿をおとりにはなれないでしょう。ですから、少しはのびのびとおくつろぎになるために、多少廻り道をなさったとしましても、その御気分を損ねないでいただきとう存じます」
で、そう言っているうちに、彼の従者たちがみんなのまわりにやってまいりまして、一同が馬からおりると、馬をひいていきました。トレッロ氏は三人の貴族を、彼らのために支度しておいたそれぞれの寝室に案内しました。そこで一同に靴をぬがせて、とても冷たいぶどう酒で気分をさわやかにしてから、夕食ができる時間まで、たのしい話をしてもてなしました。回教王や伴《つ》れの人たちや、従者たちは、全部ラテン語を知っていましたから、大変よく相手にも話が通じました。一同は銘々、この騎士が今まで会ったうちで、一番愛想のいい、一番礼儀正しい、だれよりも話の上手な人だと思いました。一方トレッロ氏には、この人々が立派な、前に考えていたよりも、地位の高い人々であるような気がしました。そこで、彼は胸のうちで、その晩仲間の者たちを招いて、もっと鄭重な宴会をして、彼らを歓待できないことを悲しく思いました。それで彼は、翌朝その埋め合わせをしようと考えました。で、自分がしようと思っていたことを従者の一人に話して、その者をそこからすぐ近くの、城門など一つも閉まっていないパヴィアの町にいる、非常に聡明で、大そう心のひろやかな彼の夫人のところにやりました。そうしたあとで、貴族たちを庭園に案内して、鄭重にどなたであるかとたずねました。
「わたしたちはチプリ(キプロス)の商人でございまして、チプリからきましたが、商用でパリにまいります」
すると、トレッロ氏が申しました。
「チプリが立派な商人を生んだのを知りましたが、それと同じように、そうした貴族をこのわたしたちの土地が生んでくれたら、どんなによろしいことでございましょう!」
こうした話題から他の話題へと、しばらくのあいだ話がはずんでいるうちに、夕食の時間になりました。そこで騎士は一同を食卓に招きまして、食卓では、突然の夕飯にしては大変美味しい御馳走が順序よく出ました。食卓が片づけられてからまもなく、トレッロ氏は一同が疲れていると考えて、豪華な寝台に彼らを休ませ、彼も同じように、それからじきに寝にいきました。
パヴィアにやられた従者は、夫人に使いの口上を伝えました。夫人は、女らしい心からではなく、王のような気高い心で、すぐさまトレッロ氏の友人や召使を大勢呼ばせて、盛大な宴会にふさわしい万端の用意をさせました。そして松明《たいまつ》をつけて、町の一番身分のある人々を大勢宴会に招待させて、布地や絹布や毛皮などを集めさせて、夫から使者を通じて言いつけられたことを完全にととのえました。夜が明けて、貴族たちは起きました。彼らと一緒にトレッロ氏は馬にまたがって、自分の鷹を持ってこさせると、近くの沼沢へ一同を案内して、鷹がどうやって飛ぶかをごらんに入れました。しかし回教王が、パヴィアの一番いい宿に自分たちを案内してくれるものはないかとたずねましたので、トレッロ氏が言いました。
「わたしが案内役になりましょう。そこへ行く用事がございますので」
彼らはそれを本気にしてよろこびました。そして彼とともに出かけました。で、もう午前九時でしたが、一同は町に着きまして、一番いい宿に連れていかれるのだと考えていると、トレッロ氏と一緒に彼の家にやってまいりました。家では、優に五十人からの有力な市民が、もう貴族たちを迎えにきておりまして、すぐにみんなの手綱や鐙《あぶみ》のまわりに近よりました。回教王や、その伴れの者たちはこれを見て、はっきりとその事態を察して言いました。
「トレッロさん、これはわたしたちがあなたにお願いしたこととはちがいます。昨夜は充分に、わたしたちが望んでいるよりもはるかに厚いおもてなしをいただきました。ですから、もうなんの御心配もなく、わたしたちに旅をつづけさせて下さればよろしかったのですのに」
トレッロ氏が、彼らに答えました。
「みなさん、昨夜行なわれましたことについては、わたしはあなた方よりも、どうしてもわたしの小さな家においでいただかねばならないような時刻に、あなた方の旅を遅らせて下さった運命に感謝しております。今朝のこのことについては、わたしは、それからわたしとともに、あなた方を取り巻いているこの貴族の方々全部も、あなた方に感謝をいたしましょう。この方々と一緒に食事をなさることをお断りになることが、この方々への親切だと思し召されて、そうなさりたいのでしたら、そうなさっても結構でございます」
回教王と伴れの一行は、それに負けて馬からおりました。で、貴族たちによろこんで迎えられると、彼らのために贅《ぜい》をつくしてととのえられていた寝室に案内されました。彼らは旅の支度をほどいて、少し休んでから、豪華に飾り立てられていた広間にまいりました。水で手を洗ってから食卓につき、たくさんのすばらしい御馳走を饗応されました。それはまことに大がかりな立派な支度で、皇帝が行幸になられても、これ以上のもてなしはできないと思うほどでございました。で、回教王と一行は、偉い方々で、大きなことは見なれてはおりましたが、それにもかかわらず、これには痛く驚いて、市民ではあるが君主ではないと彼らが承知していた騎士の身分を考えて、これ以上のものはないと思いました。
食事がすんで、食卓が片づけられて、一同はしばらくのあいだよもやま話をしていましたが、非常に暑かったので、トレッロ氏の望みに従い、パヴィアの貴族たちは休みに行き、騎士は三人の者とあとに残りました。そこで、彼は彼らと一緒に一室にはいりまして、自分の大切なものは一つ残らず見てもらおうと思っていましたので、そこへ自分の優雅な夫人を呼ばせました。夫人は非常に美しく大柄な人でしたが、豪華な衣裳に飾られて、天使かと思われるような二人のこどものあいだにはさまり、一同の前に出てきて愛想よくあいさつをしました。みんなは彼女を見ると、立ちあがってうやうやしくこれを迎えました。そして、自分たちの間に彼女を坐らせると、その二人の美しいこどものことを大騒ぎしてほめそやしました。そこで彼女は、みんなと楽しい話をはじめましたが、トレッロ氏がちょっとの間席を立ちましたので、彼らにどこからおいでになったのか、どこへいらっしゃるのかとやさしくたずねました。貴族たちはトレッロ氏に答えたのと同じように返事をいたしました。すると夫人は、うれしそうな顔をして言いました。
「では、わたくしの女らしい考えがお役に立つと存じます。ですから、どうかわたくしがみなさまのために持ってこさせる小さな贈り物を、特別のおはからいでお断りになったり、おさげすみなさらぬようにお願いします。女というものは、自分たちの小さな心によって、小さな贈り物をするとお考えになり、贈り物の量よりも贈る人のやさしい心をおくみになって、どうかお受け下さいませ」
そして銘々のために一つは絹地の裏のついた、もう一つは毛皮の裏のついた、市民や商人の着るものではなく、高貴な人々の着るような二揃えの衣裳を、それから絹の薄地の上衣を三枚と肌着などを持ってこさせてから、言いました。
「これをお納め下さいませ。わたくしは、これと対《つい》の着物を夫にも仕立てました。ほかの品々も、みなさんが奥さま方から遠く離れていらっしゃり、今までなさった旅路の長さや、これからなさる長い御旅行のことを考え、また商人というものは身ぎれいな気持ちのこまやかな方々でいらっしゃることを考えますと、たとえそれがそう値打ちのあるものではなくても、みなさまのお役に立つことでございましょう」
貴族たちはびっくりして、トレッロ氏が自分たちのために、何から何まで行き届いた親切をしようとしていることを、はっきりと知りましたが、商人の着るものではない衣裳の立派なのを見て、自分たちの身分をトレッロ氏に知られたのではないかと疑いました。それでも彼らの一人が夫人に答えました。
「奥さま、この品々はたいへん立派なものでございまして、御辞退できないあなたのお頼みが、無理にわたしたちにそうさせるのでありませんでしたら、簡単にいただくわけにはまいりません」
それがすんで、もうトレッロ氏が帰ってまいりましたので、夫人はみんなに別れを告げて、それから出て行きました。従者たちにも、それ相応にこれと同じような品をおくらせました。
トレッロ氏はいろいろと頼みこんで、その日一日中はみんなに自分のところにいるということを承知してもらいました。そこで彼らは、一眠りしてから、着物を着て、トレッロ氏とともにしばらくの間、町を馬で廻りました。夕飯の時間になりましたので、大勢の身分のある人たちと一緒に、すばらしい夕飯をいただきました。それから時刻になりましたので休みにまいりました。夜が明けたので起きあがって見ると、自分たちの疲れた駑馬《どば》の代わりに、三頭の肥えたみごとな乗馬がおいてあり、同じように、その従者たちにも新しい強い馬が用意されてありました。回教王はそれを見て、自分の仲間の者たちのほうを振り返って言いました。
「わたしは神に誓っていうが、この人よりも申し分のない、親切で、気のつく人は今までになかったよ! もしキリスト教徒の王たちが、このお方が立派な騎士としてふるまわれているように、王たる道を心得ているならば、バビロニアの回教王は、多くの王は無論のこと、彼らの一人にすらも敵対することはできないだろうね!」
だが、その贈り物を拒むことはできないだろうと知っていましたので、鄭重にお礼を述べてから、馬にまたがりました。トレッロ氏は、大勢の仲間と一緒に町から外へ、大分遠いところまで一行を送っていきました。回教王はもうすっかり惚れこんでおりましたので、トレッロ氏と別れるのはつらいと思いましたが、それでも旅路を急がねばなりませんでしたので、どうか引き返してほしいと頼みました。騎士は、みんなと別れるのはいやでしたが言いました。
「みなさん、あなたがそうおっしゃるなら、そういたしましょう。でも、みなさんにこう申しあげたいのです。わたしは、あなた方がどなたか存じませんし、あなた方におっしゃっていただける以上のことを、おたずねはいたしません。しかし、あなた方がどなたでありましょうとも、今度は、あなた方が商人だとわたしに思いこませることはできないでしょう! では御機嫌よう」
回教王はすでにトレッロ氏の仲間たち全部に別れのあいさつをすませましたので、彼に答えて言いました。
「御主人、わたしたちのことばが本当だと思わせるような商品をお目にかける機会もございますでしょう! では御機嫌よう」
そこで回教王は、もし自分が命をながらえて、待機している戦争で討ち死にするようなことがなかったら、トレッロ氏が自分にしてくれたのに劣らないようなもてなしで彼にむくいようと固い決心をして、一行とともに出発しました。彼は伴れの一行を相手に、騎士やその夫人や、騎士の行ないや、取り計らいについて大いに語り合って、何もかも口をきわめてほめそやしました。大変苦労して西方の国々は全部訪問しましたので、海にでて、その一行とともにアレッサンドリアに帰り、十分に情報を得ましたので、防禦にとりかかりました。トレッロ氏はパヴィアに帰りました。そうして長いあいだ、この三人が誰だろうかと考えておりましたが、到底真相をとらえることも、それに近づくこともできませんでした。
十字軍遠征の時がきまして、全般的に大規模な戦備がととのえられましたので、トレッロ氏は、夫人の嘆願や涙を流しての訴えにもかかわらず、自分もこれに従軍する決心をしました。一切の準備をすませて、馬に乗るばかりになった時に、自分が何よりも愛していた夫人に向かって言いました。
「妻よ、ごらんのとおり、わたしはわたし自身の名誉のために、また霊魂の救済のために、この十字軍の遠征に従軍する。だから、あなたにはわたしたちの家のことや、わたしたちの名誉のことをお願いします。ところで、わたしは従軍することは確実だが、帰還については、いろいろ無数の場合が起こり得ることだから、なんら確信というものが持てないが、一つあなたにして貰いたいお願いがある。わたしにどんなことが起こっても、わたしの命について確かな情報がないかぎり、わたしが出発する今日から数えはじめて、一年と一か月と一日だけわたしを待っていて貰いたいのです」
はげしく泣きくずれていた夫人は答えました。
「トレッロ様、あなたがお発ちになって、わたくしをあとに残しておいでになるこの悲しみにとざされて、わたくしはどうして自分の気持ちを引き立てていったものかわかりかねます。けれども、わたくしの命がこの悲しみよりも強くて、あなたに何か変わったことが起こりましたならば、わたくしはトレッロ様の妻として、あなたの思いを抱きしめて、生きもし、死にもいたしますから、そのことをお信じになって生き抜き、また死んでいって下さいませ」
トレッロ氏は夫人に言いました。
「妻よ、あなたはできるかぎり、約束したとおりにしてくれると、わたしは固く信じている。でもあなたは若く美しくて、名門の出であるし、あなたのひとがらは立派で、到るところに知れ渡っている。そんなわけで、大勢のえらい貴族たちは、わたしの身の上について何かがあったら、あなたの兄弟や身うちの人に、あなたを貰いたいと言いはしないかと心配なのだ。その人たちの勧めは、あなたがどんなに避けようとしても避けることができないし結局彼らの希望に従わなければならないだろう。で、これが、わたしの希望した期間を、それ以上のことは望まないが、待ってほしいとあなたに要求している理由なのだよ」
夫人が答えました。
「わたくしは、あなたに申し上げたことで、できるだけのことはいたしましょう。で、それでも、それと違ったことをしなければならないような時には、むろんあなたがお命じになりましたことに従いましょう。わたくしは神さまに、そうした期間中に、あなたや、わたくしをそんな目にお会わせにならないようにと、お祈りしております」
そのことばがすむと、夫人は泣きながらトレッロ氏と抱擁して、自分の指から指輪を抜いて彼に渡しながら言いました。
「わたくしがあなたにもう一度お目にかかれないうちに死ぬようなことがございましたら、それを見るたびに、わたくしのことを思い出して下さいませ」
で、彼はその指輪を受け取ると、馬にまたがりました。そうしてみんなに別れを告げてから、旅に出ました。部下の一隊とともにジェノヴァに到着して、橈船に乗って船出をして、まもなくアクリに着いて、キリスト教徒たちの他の部隊と一緒になりました。その軍隊に、ほとんどすぐにとても激しい疫病が起こって、大勢の者が死にはじめました。その疫病がはやっているあいだに、回教王の術策のせいか、それとも回教王が幸運に恵まれたせいかわかりませんが、疫病をのがれたキリスト教徒のほとんどすべての残存者は、なんらの抵抗を試みないで、回教王の捕虜にされて、多くの町々に分けられ、牢獄に入れられました。トレッロ氏はそうした捕虜の中の一人になって、アレッサンドリアの牢獄に入れられました。そこでは、だれにも顔を知られていませんでしたし、また人に知られることを怖れておりましたが、周囲の事情からやむを得ず、自分が大変な名人であった鷹の訓練をはじめました。このために、彼のことが回教王の耳に伝わりました。そこで回教王は彼を牢獄から引き出して、自分の鷹匠にしました。トレッロ氏は、回教王から洗礼名以外の名前では呼ばれたことがありませんでしたので、彼は回教王が例の男だとは気がついておりませんでしたし、回教王も彼がトレッロ氏だとは知りませんでした。彼はただ心をパヴィアの空にばかりはせており、なん度も逃亡しようと試みましたが一度もうまくゆきませんでした。そこで彼は、ある幾人かのジェノヴァ人が、彼らの同市民たちを買い戻すために、回教王のところに使者として来ており、帰って行くことになっているのを知って、自分は生きていて、できるだけ早く帰って行くつもりであるから、待っていて貰いたいと、夫人に宛てて手紙を書こうと考えました。で、そのとおりにいたしました。そして彼は、自分が知っていた使者たちの一人に、それらの手紙を自分の叔父である聖ピエトロ・イン・チエルドーロの修院長の手に届くようにしていただきたいと、鄭重に頼みました。
で、トレッロ氏がこんなふうにしておりますと、ある日のこと回教王は、トレッロ氏を相手に自分の鷹のことで話をしていると、トレッロ氏が、にっこりと微笑んで、回教王がパヴィアの彼の家にいる時に、非常に注意をひかれていた特徴のある口ぶりを見せました。その口ぶりから回教王の頭に、トレッロ氏のことがふっと浮かんできまして、回教王はじっと相手を見つめはじめましたが、これは騎士にちがいないような気がいたしました。そこで、今までの話を打ち切って言いました。
「ねえ、君、君は西方のどこの国の者なのですか?」
「陛下」と、トレッロ氏が申しました。「わたくしはロンバルディア人で、パヴィアという町の貧乏で身分のいやしい者でございます」
回教王はそれを聞くと、自分が疑っていたことがほとんど確実となりましたので、心の中でよろこんで言いました。「神さまはこの人の親切が、わたしにとってどんなにうれしいものであったかということを、この人に知らせる機会をおあたえになったのだ!」で、別に何も言わずに、自分の持っているすべての衣裳を一つの部屋にならべさせておいて、そこへ彼を案内して言いました。
「ねえ君、これらの着物の中に、君が今までに眼にしたものがあるかどうか見てごらん」
トレッロ氏は、それを見はじめますと、彼の夫人が回教王に贈り物にした衣裳が目にとまりました。けれども、それがよもや同じものであろうとは考えませんでした。それでも答えました。
「陛下、一つも見覚えのあるものは、ございません。まことのことを申しますれば、あの二つの衣裳は、わたくしが、かつて家にこられた三人の商人とお揃いで着た衣裳に似ております」
すると、回教王はもう我慢ができなくなって、やさしく彼を抱擁しながら言いました。
「君はトレッロ・ディ・ストリアさんでしょう。わたしは君の夫人が、この衣裳を贈って下さった三人の商人の一人です。わたしが君とお別れする時に、そんな機会もあるだろうと言ったように、わたしの商売が何か、あなたのお考えになったところに間違いのないことを証拠立てる時がやってきたのです」
トレッロ氏は、これを聞くと非常にうれしく、また恥ずかしく思いはじめました。こうした客人を迎えたことをうれしいと思い、粗末な迎えかたをしたように思われたのが、恥ずかしいと思ったのです。回教王は、彼に言いました。
「トレッロさん、神さまが君をここにおよこしになった以上、ここではもうわたしが主人ではなくて、君が主人であるとお思いになって下さい」
二人はともに心から喜びあいまして、王は騎士に立派な衣裳をつけさせ、一番偉い貴族たち全部の前につれて行って、彼の立派な人柄を口をきわめていろいろとほめ讃えてから、自分の恩寵をかたじけなく思っている者はだれでも、自分と同様にトレッロ氏を尊敬するようにと命じました。その後は、だれもがそのとおりにしました。
回教王の随行者として騎士の家に厄介になった二人の紳士は、だれよりも特にそうしました。
トレッロ氏はいきなり光栄の座におかれましたが、そのことが彼の頭からロンバルディアのことをいくらか忘れさせてしまいました。自分の手紙が叔父のところに着いたはずだという希望がそうさせたのです。キリスト教徒たちが回教王によって捕虜にされた日に、彼らの陣地、または部隊の中で、その名をトレッロ・ディ・ディーニェス氏と言った大して偉くないプロヴァンスの騎士が死んで埋葬されました。ですからトレッロ・ディ・ストリア氏はその高い身分のために部隊全部に知られていましたので、トレッロ氏が死んだ[#「トレッロ氏が死んだ」に傍点]といううわさを聞いた者はだれでも、それがトレッロ・ディ・ストリア氏のことで、トレッロ・ディ・ディーニェスのことではないと思いこみました。で、そのあとにつづいて起こった捕虜の事件は、そう誤解した人々の誤った考えを解きほぐすことができませんでしたので、多くのイタリア人はこの情報を本気にして、帰っていきました。この連中の中には、彼が死んだのを見て、その埋葬に立ち会ったと大胆にも言いふらす出しゃばり者もおりました。そのことが夫人や、彼の身内の者の耳にはいりましたので、それがために彼らばかりでなく、彼を知っている者はみな、非常に大きななんとも計り知れない悲しみに打ち落とされました。夫人の嘆きや悲しみや涙がどんなものであり、どんなに大きなものであったか、それを述べるとしたら、長いことになりましょう。夫人は、絶え間のない苦悩に嘆き悲しんで何か月かを送った後に、その悲嘆もしずまりはじめたころ、ロンバルディアの有力な人から求婚の申し出があって、兄弟たちやその他の身内の者から再婚するようにとすすめられるようになりました。それを彼女は、なん度もはげしく泣きながら断っておりましたが、しまいにはやむなく、どうしても身内の者たちが望むとおりに従わねばならなくなりました。でも自分がトレッロ氏に約束しておいた期間だけは、結婚相手のところに行かないで、いなければならないという、条件をつけておきました。
パヴィアで夫人のことがこんなふうになっていて、もう彼女が夫のところに行かなければならない期間が八日ばかりしか残っておりませんでしたが、ちょうどそのころトレッロ氏は、アレッサンドリアで、前にジェノヴァに行った橈船に、ジェノヴァ人の使節たちと一緒に乗って行ったのを見たことのある一人の男に会いました。そこで、その男を呼ばせて、航海はどうであったか、またいつジェノヴァに着いたのかとたずねました。その男は彼に言いました。
「旦那様、わたくしが船を下りたクレーティ島で聞いたところでは、橈船は不幸な航海をやりましたよ。橈船がシチリア島の近くにきた時に、危い北風がおこって、バルベリアの暗礁に橈船をたたきつけましたので、助かった者は一人もありませんでした。その中にまじって、わたくしの二人の兄弟も死んでしまいました」
トレッロ氏は、実際そのとおりだったその男のことばを信じて、自分が夫人に要求した期限が数日で切れることを思いだすと、パヴィアでは、自分の身の上について何も知っているはずがないと考えましたので、きっと夫人が再婚したにちがいないと思いました。そこで、彼は悲嘆にくれて、そのために食物も喉をとおらないで床についてしまい、死のうと決心しました。彼をいたく愛していた回教王は、そのことを聞くと、騎士のところにきて、いろいろとことばをつくして頼んだ後に、彼の悲嘆や、病気の理由がわかりましたので、前もってそのことを自分に話さなかった彼を大いになじりました。そのあとで元気を出すようにと頼んで、もし元気を出せば、彼が約束の期限にパヴィアに帰れるようにしてあげようとはっきり言ってから、その方法を話しました。トレッロ氏は、回教王のことばを信用して、そういうことが可能なことで、なんども行なわれたといううわさをたびたび耳にしていましたので、元気をとりもどして、回教王に早くそうしてもらいたいと頼みだしました。
回教王はその妖術をすでに使ったことのあるお抱えの妖術師に、トレッロ氏が寝台に寝たまま一夜のうちにパヴィアに運ばれるような方法をみつけるようにと命じました。妖術師は回教王に、そのとおりにいたしますと答えました。けれども本人のためになるのですから、騎士を寝させてもらいたいと、回教王に頼みました。この手筈がすんでから、回教王はトレッロ氏のところにもどりました。見ると彼は、もしできたら約束の期限までにパヴィアにぜひ帰りたいものであるが、それができなければ、死んでしまいたいとすっかり覚悟をきめておりますので、回教王はこう言いました。
「トレッロさん、もし君が奥さまをやさしくお愛しになり、奥さまが他の者と結婚なさりはしないかと御心配になりましても、わたしがちっともそのことで君を非難できないことは神さまも御存じです。それは、わたしも今までに随分多くの婦人を見ましたが、その中で、はかない花である美しさのことはさておいて、奥さまは、その作法やその身振りやその態度が一番賞讃されていい、非常にすぐれているお方です。運命が君をここへおつかわしになった以上、君とわたしの今後生きなければならない余生を、わたしが持っている国をおさめながら、同じように君主となって一緒に暮らしたら、どんなにたのしいことだろうと、わたしは思います。で、これも神さまから許されないで、君が死ぬか、約束の期限にパヴィアにいるか、どちらかにしなければならないと固く思いこんでいらっしゃるならば、わたしは君のお人柄にふさわしいだけのその待遇や立派な取り計らいで、供廻りをつけて君のお宅までお送りすることができるくらい早目に、そのことをぜひとも知りたかったのですがねえ。そうすることができませんでしたし、君はそれでもすぐにあちらに帰りたいとお望みでありますから、わたしは、君にお話しした方法で、できるだけのことをして、君をお送りしましょう」
トレッロ氏は王に申しました。
「陛下、そのおことばがございませんでも、いろいろのことでわたしは、自分としては決して、それほどに厚いものをうける資格がなかったのに、そうした陛下の御好意を十分にお示しいただきました。で、陛下がおっしゃることは、それをおっしゃられないといたしましても、わたくしはそう固く思いこんでおりますし、そう思いこんで死んでまいりましょう。けれども、わたくしはそうすることに決めましたので、陛下がして下さるとおっしゃっていらっしゃることが、一刻も早く行なわれるようにしていただきたいと、お願い申しあげます。明日が、わたくしの待ってもらっている最後の日でございますので」
回教王はそれは間違いなく行なわれると言いました。翌日になると、回教王はその夜彼を送りだすことになっていましたので、大広間に、ビロードや金襴《きんらん》ですっかりできあがっている、とても美しい豪華な敷布団の寝床をつくらせまして、その上にその後西方では限りない宝物とされている、大粒の真珠や、非常に貴重な宝石の装飾がほどこされている掛布団をかけさせて、こうした寝床にふさわしい二つの枕をおきました。それがすむと、王はもう回復していたトレッロ氏に、サラセン風の着物で今までだれも見たことがないくらいの一番美しいものを着せるように命じました。そして頭には、彼らのやるように、自分の非常に長い捲頭巾《ターバン》を巻かせました。で、もう遅いので、回教王はトレッロ氏がいた寝室に大勢の貴族たちと一緒にきまして、彼の傍に坐ると、涙を流しながら話しだしました。
「トレッロさん、君とお別れしなければならない時が近づいてきます。わたしは君がなさることになっている御旅行の性質が許しませんので、君の供をすることや、君にお供をつけることができませんから、この寝室で君にお別れをしなければなりません。ですから、わたしは君にあいさつをする前に、わたしたちのあいだにあるその愛情と友情とによって、君にわたしのことを覚えていて下さるようにお願いします。もしできましたら、わたしたちの命がなくなる前に君は、ロンバルディアの御用事をお片附けになって、ぜひもう一度わたしのところにいらしって下さるようにお願いします。それはあなたにお会いしてよろこんだうえ、只今君がお急ぎになるのでどうしてもしなければならないこの粗忽を、その機会に補いたいからです。そんなことが起こるまでは、どうかいやがらないでわたしに手紙をお書き下さい、また御入用の品はわたしまでお申し出になって下さい。わたしはこの世のだれのためよりも、あなたのためにはよろこんで必ずお役にたちましょう」
トレッロ氏は涙をおさえることができませんでした。涙にさえぎられて、彼は、あなたの御好意と御仁徳を忘れることはできない、また自分に時が貸されて生き長らえることができれば、あなたのお命じになったことは必ずするつもりであると、ことば少なに答えました。そこで回教王は、やさしく彼を抱いて接吻したうえ、涙にくれながら、御機嫌ようと言ってから、寝室を出ました。他の貴族たちはそのあとで、みんな彼に別れを告げて、回教王と一緒に、王が寝床をつくらせておいた広間にまいりました。でももう遅かったので、妖術師がその実行にかかるのを待ちかまえて、急いでおりますと、一人の医者が水薬を持ってきて、彼に力をつけるためにあたえるのだと思いこませて、それを飲ませました。じきに彼は眠りに落ちました。こうして眠ったままで、騎士は回教王の命令によって美しい寝床に運ばれました。寝床の上に王は、非常に高価で大きくて、きれいな花冠をのせて、それには、これは回教王からトレッロ氏の夫人に贈られたものであると、あとではっきりとわかるように記しました。そのあとでトレッロ氏の指に、燃え立っている松明《たいまつ》のように光っている紅玉《ルビー》のついている、その値段を計ることができないほどの指輪をはめました。それからその腰に剣をはかせましたが、その飾りは容易に評価できないようなものでありました。またこの他に今までに見たことがないような真珠が、他の非常に高価な宝石と一緒につけてある止め金を、前につけさせました。それから彼の両側に、金貨《ドブレ》の一杯はいったとても大きな金の鉢をおかせ、彼の身のまわりには、真珠や指輪をさした多くの紐や帯やその他話したらきりのないくらいのいろいろの品をおかせました。これがすむと、王はふたたびトレッロ氏に接吻してから、妖術師に彼を送るようにと申しました。そこでただちに、回教王の面前で寝床はトレッロ氏ごと、そっくりいずこへともなく取り去られてしまい、回教王は彼の貴族と話をしながらあとに残っておりました。
トレッロ氏は、自分が要求したとおり、前に述べたすべての宝石や装飾品とともに、もうパヴィアの聖ピエトロ・イン・チエルドーロの教会の中に到着していて、まだ眠っておりました。するとその時、既に朝祷の鐘が鳴って、香部屋《こうべや》係が片手に明かりを持って教会にはいってきまして、不意に豪奢な寝床を見たものですから、びっくりしたばかりか、ひどく怖がって、ころぶようにして取って返しました。修院長や修道士たちは彼が逃げてきたのを見て、驚いてそのわけをたずねました。その修道士がわけを話しました。
「ああ」と、修院長が申しました。「お前はそんなに他愛もなく青くなって驚くほど、もうこどもでもないし、この教会に来たての者でもないのだ! さあ行こうじゃないか。何をそんなに怖がっているのか見てみよう」
そこでいくつも明かりをつけてから、修院長が、修道士たち全部をひきつれて、教会にはいって行きますと、その眼をみはるばかりの豪奢な寝台があって、その上に騎士が眠っているのが、眼にとまりました。いぶかしそうに、びくつきながら、寝台に全然近づかないで、その貴重な宝石類を見つめておりますと、ちょうどその時、水薬の効き目がきれましたので、トレッロ氏が眼をさまして、太い溜め息をもらしました。修道士たちはこれを見ると、修院長も一緒になって驚き怖れ、主よ[#「主よ」に傍点]、助け給え[#「助け給え」に傍点]! と叫びながら、一人残らず逃げだしました。トレッロ氏は眼をあけると、まわりを見廻しながら、自分が回教王に要求したところに着いていることをはっきりと知りました。ですから、すっかりよろこんでしまいました。そこで体を起こして坐ると、身のまわりにあるものを些細に見つめてから、回教王の寛大なことは前からよく知ってはおりましたが、今はそれが一段と大きなものだと、前よりもはっきりわかりました。それでも別に動かないのに、修道士たちが逃げだして行く理由がわかりましたので、修院長の名を呼んで、自分は彼の甥のトレルだから、怖がらないようにと、頼みました。修院長はそれを聞くと、トレルは何か月も前に死んだと思っていたものですから、ますます怖くなりました。でも、しばらくしてから、本当の道理を考えて安心したうえ、なおも自分の名を呼ばれましたので、十字を切ってから、彼のところに行きました。
トレッロ氏は彼に言いました。
「ああ、わたしの神父さま、何を怖がっていらっしゃるんですか。わたしは、神さまのお恵みによって生きていて、ここへ海の向こうから帰ってまいりました」
修院長はトレッロ氏が長いひげを生やしてアラビア風の着物をつけていたのに、それでもしばらくすると相手がだれであるのかわかって、心から安心すると、彼の片手をとって言いました。
「わたしのこどもよ、本当によく帰ってきたね!」
そしてつづけました。
「わたしたちが怖がったからとて、驚いてはいけないよ。だってこの土地には、お前が死んだと固く信じきっていない者は一人もいないんだからね。だからこそ、わたしはお前に言えるんだがね、お前の奥さんのアダリエータ夫人は、その身内の頼みやら、嚇かしに負けて、いやいやながら再婚の約束をしてね、今朝新しい夫のところに行くことになっていて、結婚式やその祝宴に必要なことは支度ができているのだよ」
トレッロ氏は、豪奢な寝床に立ちあがると、修院長、修道士たちに大喜びであいさつをしてから、自分の用事をすますまでは、この自分の帰国のことはだれにもしゃべらないでくれと頼みました。このあとでその高価な宝石を安全なところにおいてから、その時まで自分の身の上に起こったことを、修院長に物語りました。修院長は彼の幸運をよろこんで、彼とともに神に感謝を捧げました。あとでトレッロ氏は、彼の夫人の新しい夫はだれであるのかと訊ねました。修院長は彼にそのことを言いました。トレッロ氏は修院長に言いました。
「わたしは、自分の帰国したことが、人々に知られないうちに、その結婚で、自分の妻の態度がどのようなのか見たいと思います。ですから、聖職にたずさわっている方々が、そんな宴会においでになるのはしきたりにかなっておりませんけれども、わたしのために、どうかそこにわたしたちが行かれるようにしていだきたいと思います」
修院長はよろこんでそうすると答えました。で、夜が明けましたので、修院長は花婿のところに使いをやって、一人の仲間と一緒に結婚式に列席したいと言いました。その貴族は、それは願ってもないことであると答えました。さて食事の時間になりましたので、トレッロ氏は、着ていたままの服装で、修院長と一緒に花婿の家にまいりました。彼の姿を見たものはだれでもびっくりして、みつめていましたが、だれも彼がトレッロ氏だとは気がつきませんでした。修院長はみんなに、彼は回教王からフランスの王に使節として派遣されたサラセン人であると言っておりました。さて、トレッロ氏はちょうど彼の夫人と向かい合って食卓につかせられました。彼は天にものぼる気持ちで夫人を見つめておりましたが、夫人の顔には、この結婚を悲しんでいるらしい色がうかんでいるような気がしました。夫人も同じようになんどか彼を見返しておりましたが、それは彼がだれであるのかわかったからではありません。なぜならば、長いひげや、奇妙な衣裳や、死んでしまったと思いこんでいる固い確信などのためにさえぎられて、彼が夫であることはわからなかったからであります。けれどもトレッロ氏は、彼女が自分を覚えているかどうか、ためしてみてもいいころだという気がしましたので、自分の出発に際して夫人からあたえられていた指輪を手にとると、彼女の前で給仕をしていた青年を呼んでもらって言いました。
「わたしからだと言って花嫁さんにこう伝えて下さい。わたしの国の習慣では、ちょうど、わたしがここにきているように、だれか他国の者が、あの方のような花嫁さんの宴会で食事をいただく時には、他国の者が食事につらなったのを感謝するしるしに、花嫁さんは、自分が飲んでいる杯にぶどう酒をなみなみとついで贈るのです、それを他国の者は、好きなだけ飲んでから、杯に蓋をしまして、それをお返しすると花嫁さんがその残りを飲むのです、とね」
青年は夫人にその旨を伝えました。夫人はしつけのよい、聡明な人でしたので、その者が非常に偉い人であると思いこんで、その臨席を感謝していることを示そうと、自分の前にある大きな黄金の杯を洗って、ぶどう酒をなみなみと一杯についだうえ、その貴族のところに持って行くようにと命じました。そしてそのとおりに行なわれました。で、トレッロ氏は、彼女の指輪を口の中に入れておいて、ぶどう酒をのみながらだれにも気づかれないで、それを杯の中にうまく落としました。そして少しばかりぶどう酒を残しておいて、杯に蓋をしてから夫人に返しました。夫人は相手の習慣を果たそうとして、杯をとり、蓋を取り去って杯を口に持っていきましたが、指輪が目にはいりました。そこで何も言わずに、しばらくの間それをじっと見ておりました。それがトレッロ氏の出発の時に、自分が彼にあたえた指輪であることがわかると、それを手に取って、他国の者であると思っていた相手をじっと見つめていましたが、もう、それがだれであるのかわかりましたので、まるで気違いにでもなったように、前にあった食卓をひっくり返すと、大声で叫びました。
「これがわたくしの夫でございます。これが本当にトレッロ様でございます」
そうして、夫が席についていた食卓に駆けよると、自分の衣裳や食卓の上にあった物などに頓着しないで、力いっぱいとびついて行ってしっかりと彼を抱きしめました。そこにいた人々がいろいろと言ったり、したりしましたが、トレッロ氏が夫人に自分を抱擁する時はまだ十分あるだろうから、少し落ち着くようにと言うまでは、彼の頸から夫人を引き離すことはできませんでした。それから彼女は体を起こしまして、もう結婚式はすっかりざわついて、でもこうした騎士が取り戻せたので、多少今までになくたのしいものになりましたが、騎士が頼んだので、だれも彼も静かにしておりました。そこでトレッロ氏は、一同に、自分の出発の日からその時までの身の上に起こったことを物語って、最後に、自分を死んだものと思いこんで、自分の妻を夫人に迎えた貴族が、自分が生きているので彼女を取り返しても、いやに思うはずはないだろうと結びました。新郎はいくぶん面目を失いましたが、あなたのものはお好きなようにしていただくのが自分の望むところであると、鷹揚に友人として答えました。夫人は、新郎から貰った指輪と花輪をそこへおいて、杯から取り出した指輪をはめて、回教王から贈られた花冠をつけました。そして二人は、自分たちのいた家を出て、結婚式の行列を全部従えてトレッロ氏の家まで行きました。ここで二人は、悲しみ嘆いていた友人たちや、身内の人々を、それからまるで奇蹟だといって自分たちを見つめていたすべての市民を、盛大なたのしい祝宴を催して慰めました。トレッロ氏は、結婚の費用を出した者や修院長やその他大勢の人々に、自分の貴重な宝石を分けあたえ、一人ならず使者を送って回教王に自分の幸福な帰国を知らせ、自分は彼の友人で下僕であると考えて、今までにないくらい親切にしながら、その後何年もその立派な夫人と暮らしました。
さて、これがトレッロ氏の苦しかった事件と、その愛する夫人との結末と、二人のうれしい気やすい親切のむくいでありました。多くの人々は親切に振る舞おうとつとめておりますが、彼らはそれを行なう力があるのに、それをうまく行なうことを知らないものですから、それを行なう前に、それを価値よりずっと高く買わせようといたします。ですから、もしそのむくいがやってこないとしても、彼らもまた他の人たちも、それに驚いてはいけないのであります。
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第十話
[#この行3字下げ]〈サルッツォの侯爵は、家臣の願いによってやむを得ず妻をめとることとなるが、自分の好みに従ってめとろうとして、ある田舎者の娘を妻にする。彼女との間に二人のこどもができるが、妻にはこの二児を殺したふりをしてみせる。その後妻に向かって、お前がいやになったから別に妻を貰ったという芝居を打ち、自分の娘を新しい妻のように仕立てて邸に帰らせて、妻のほうは下着一枚で追い出す。しかし妻が何をしても辛抱しているのを見て、今までになかったくらいやさしく妻を家に呼び戻し、大きくなったこどもたちを見せて、彼女を侯爵夫人として尊敬し、人々にも尊敬させる〉
王の長いお話が終わって、一同は見たところ大変気に入ったようでしたので、ディオネーオが笑いながら言いました。
「その夜、幽霊の立った尻尾の頭をさげさせようと期待していた新郎のほうは、あなた方がトレッロ氏をいくらほめたとしたって、一文の金も出しはしないでしょうよ」
そのあとで、お話をするのはもう自分だけしか残っていないと知っていましたので、話しはじめました。
おとなしい淑女のみなさん、わたしの考えるところでは、今日は王とか回教王とかそうした人々の話ばかりでつぶれてしまいました。そこでわたしは、あなた方からあまり離れないように、ある侯爵にとってはいい結末に落ちつきましたものの、寛大なことではなくて、気違いじみた非道なことを、お話ししたいと思います。でもそのことをわたしはどなたも見習わないようにお勧めします。それが侯爵の場合にうまくいったのは、実に困ったことなのですからね。
もう大分前のことですが、サルッツォの侯爵家の当主は、グァルティエーリと呼ばれる青年だったことがあります。彼には妻もなければこどももないので、暇さえあれば鷹狩りや、狩猟にふけっておりまして、妻を貰うとか、こどもをつくるとか考えたこともありませんでした。この点では、彼は非常に聡明だったと申さねばなりません。しかし、このことは家臣の気に入りませんで、彼らは、主人に相続人がなくなり、自分たちに主人がなくなるようなことが起きてはいけないから、妻を貰うようにと彼になんどとなくお願いしました。そして将来によい希望のかけられるような、彼の心から満足するような婦人で立派な父親や母親のある者を見つけようと申し出ました。グァルティエーリが彼らに答えました。
「友人たちよ、あなた方は、わたしが自分の生活に適している者を見つけることがどんなにむずかしいか、その反対の者の数がどんなに多いかを考えて、また自分に適していない女にぶつかった者の生活が、どんなに辛いものであるかを知っていながら無理にわたしにそうしろと言うのだね。あなた方は、父親や母親の生活ぶりからその娘のことがわかると思うというし、そこでわたしの気に入るような者を見つけてくれると言うがね、そう言うことは、ばかなことだよ。だってどこでその父親がわかるのか、どうして娘の母親の秘密を知ることができるのか、わからないもの。また両親のことがわかっても、よく娘たちは父親や母親とは似ていないことがあるものね。しかしそれでも、あなた方がわたしをこの鎖にしばりつけようとしたいのなら、わたしはそれで結構だということにしよう。で、それがまずくいった時に、わたしは、他人に文句を言わないで、自分が悪かったのだと思えばいいように、自分でそれを見つける者になりたいね。あなた方にはっきり言っておくが、わたしが自分のために貰う者が、もしあなた方から主人の妻らしい尊敬をうけないとしたら、あなた方の願いを聞いて、いやいやながら妻を貰うのが、わたしにとってどんなに辛いものであるかということが、あなた方には骨身にしみてわかるだろう」
重臣たちは、彼が妻を貰ってさえくれるようになったら、それだけで満足だと答えました。
グァルティエーリは、彼の家の近くの村の貧しい娘の生活ぶりが、大分前から気に入っていまして、非常に美しいようにも思っていましたので、この娘となら、かなりたのしい生活ができるにちがいないと考えました。ですから、それ以上は調べないで、彼女と結婚したいという気持ちになりました。その貧乏な父親を呼び、彼女を妻に貰う話をとりきめました。それがすんでから、グァルティエーリは土地の友人たち全部を集めさせて、彼らに会いました。
「友人たちよ、あなた方は、わたしが妻を貰う覚悟をきめるだろうといってよろこんだし、今でもよろこんでいる。わたしは、自分が妻をほしいからというよりも、あなた方によろこんで貰いたいので、そうきめたのだ。あなた方は、わたしに約束したこと、つまり、わたしが貰う女がどんな者であっても、主人の妻として満足して尊敬するといったことを覚えているね。そこでわたしがあなた方に約束を守り、あなた方はわたしの約束を守る時がきたのだ。わたしはここのすぐ近所にわたしの心にかなった娘を見つけたのだが、その娘を妻に貰って、今から数日したら家に連れてくるつもりだ。だから、あなた方がわたしの約束に満足だと言えるように、わたしもあなた方の約束に満足であると言うことができるようにするために、結婚式を立派にして、あなた方が鄭重な礼でこれを迎えられるように考えてほしい」
人のいい人々は、うれしそうに口をそろえて、それは自分たちのよろこびとするところであり、その方がどんな人であろうと、自分たちはこれを奥さまとして迎えて、あらゆる機会に奥さまとしての尊敬を払うつもりであると答えました。このあとで、みんなは盛大で愉快な祝宴を行なう支度にかかりました。グァルティエーリも同じようにしました。彼は実に盛大で、立派な結婚式を準備させて、大勢の友人や親戚、偉い貴族たちや、その他近隣の人々を招待させました。この他に彼は自分が結婚することにきめた娘と同じ背恰好の娘の体に合わせて、美しい豪奢な衣裳を何枚も裁って作らせました。この他に帯、指輪や豪華できれいな冠など、花嫁に必要なものを全部準備させました。そして、結婚式に予定した日となりましたので、グァルティエーリは七時半に馬に乗り、彼に敬意を表しにきていた人々もみなそうしました。で、彼は一切の必要なことを手配してから言いました。
「みなさん、花嫁を迎えに行く時刻だ」
で、彼はその一隊全部をひきつれてでかけると、村に着きました。娘の父親の家について見ると、娘はあとでグァルティエーリの花嫁がくるのを、他の女たちと一緒に見に行こうと思って、大急ぎで泉から水を汲んでかえってくるところでした。グァルティエーリは彼女を見ると、その名前で、つまり「グリセルダ」と彼女を呼び、父親はどこにいるかとたずねました。娘は恥ずかしそうに答えました。
「殿様、(父は)家におります」
すると、グァルティエーリは馬からおりて、みんなに待っているようにと命じてから、ただ一人そのみすぼらしい家の中にはいっていきました。見るとそこには、ジャンヌーコレという名前の彼女の父親がいましたので、彼に言いました。
「わたしは、グリセルダと結婚するためにきたのです。だが、あなたの面前で、娘さんから少しばかり聞きたいことがあります」
そして彼は、自分が彼女を妻に貰ったら、自分の気に入るようにつとめて、どんなことを言っても、しても、腹を立てないようにするかどうか、また従順にするかどうか、などと似たようなことをたくさんたずねました。その全部について娘はそうすると答えました。するとグァルティエーリは、娘の手をとって外につれて行くと、自分の供の一隊の者全部と、その他のすべての人々の面前で、彼女の着物を脱がせて裸にしました。そして自分が作らせておいた衣裳を持ってこさせると、すぐにそれを彼女に着せ、靴をはかせ、乱れていたその髪の上に冠をのせさせました。このあとで、みんながこれを見てびっくりしているので、言いました。
「みなさん、この婦人がわたしを夫として望むならば、わたしは彼女に妻になってもらいたいと考えているのだ」
それから彼は、われとわが身を恥ずかしそうにして、もじもじしていた娘のほうを向いて言いました。
「グリセルダ、わたしをあなたの夫にしたいかね?」
彼女は、彼に答えました。
「はい、殿様」
で、彼が言いました。
「わたしもお前を自分の妻にしたい」
そして彼は一同の面前で、彼女と婚約をしました。で、彼女を立派な馬にのせると、鄭重にともなって、家に連れて行きました。そこで、盛大な結婚式が行なわれました。その祝宴は、フランス王女を貰った時でもなければ、こうはいくまいと思われるほどのものでありました。
若い花嫁は衣裳と一緒に、魂や物腰までも一変したようでありました。彼女はすでに申しましたように、姿や顔がきれいでした。きれいなうえに、さらにやさしくなり、愛嬌もでて、また挙措もたいそう上品になり、そのために彼女は、ジャンヌーコレの娘の女羊番とは思われず、だれか貴族のこどもではないかと思われるほどでありました。ですから、前の彼女を知っていた人はみなだれでも、彼女には驚いておりました。そればかりでなく、夫には従順でよく仕えましたので、彼はこの世で一番しあわせ者で、恵まれた男であると考えておりました。彼女は夫の家臣たちに対しても同様に、やさしく思いやりがありましたので、彼らの中には、自分の命よりも彼女を愛さないような者や、よろこんで彼女を尊敬しないような者は一人もいないくらいで、みんなは彼女の幸福や幸運や繁栄を祈っておりました。彼らは口ぐせのように、グァルティエーリは、あの女を妻に貰うなんて分別のない者のやり方をしたものだと言っていたのに、今は、彼以外には見すぼらしい着物や田舎じみた服装の下にかくされていた彼女の高いひとがらを見抜く者は他には一人もいないだろうから、彼こそはこの世の中で一番分別のある賢明な者であると言っておりました。簡単に申しますと、大して時日もたたないうちに、彼女はそのやり方がよかったので、夫の侯爵領ばかりでなく、到るところで、立派な人柄やすぐれた態度についてよい評判をうけましたし、もし自分と結婚したことで自分の夫がとやかく言われたことがあったとしても、それを反対の賞讃に変えてしまいました。グァルティエーリと一緒になってからまもなく、彼女は妊娠をし、月がみちて一人の女の子を生み落としました。それでグァルティエーリは大喜びでした。しかしその後まもなく、彼の心には新しい考えが、すなわち長い試練と耐えがたいような方法で、彼女の忍耐力をためしてみたいという考えがうかびました。そしてまず、ことばでいじめました。つまり彼は怒ったようなふりをして、自分の家臣たちは彼女の身分が低いのがとても不満で、特にこどもができるのを眼にしてからはそれがひどくなり、生まれた女の子については意地悪そうに、ぶつぶつこぼしているばかりだと言いました。夫人はそのことばを聞いて、顔色一つ変えもしなければ、いささかも真っ直ぐな気立てをうごかさずに言いました。
「旦那さま、わたくしのことについては、旦那さまが一段と、その名誉にそい、お心が安まると思し召すとおりになさって下さいませ。なぜならわたくしは、あの方々よりも身分の低い者であることや、あなたが御親切にもわたしに授けて下さったこの名誉に、自分が価しない者であったことを存じておりますので、どんな措置をうけましても満足でございます」
この返事にグァルティエーリは、彼女が、自分や他の者から尊敬をうけていても、ちっとも高慢になっていないのを知って、非常にうれしく思いました。少ししてから彼は、家臣たちが、彼女の生んだその女の子をひどくきらっていることを、それとなく妻に話しておいてから、一人の従者に言いふくめると、これを妻のもとにやりました。従者は大変悲しそうな顔をして彼女に言いました。
「奥さま、わたくしは、もし自分が命を落としたくないと思ったら、御主人の命令どおりにいたさねばなりません。御主人がわたくしに命令なさったことは、わたくしが奥さまのお嬢さまをとりあげて、そうして……」
もうそれ以上は申しませんでした。夫人は従者のことばを聞き、その顔を見て、前に夫の言ったことばを思いだしながら、この従者にこどもを殺すようにと命令がでたのだろうとさとりました。ですから、すぐにこどもをゆりかごからとりあげると、これに接吻して祝福をあたえたうえ、胸のうちは悲しさで一杯でしたが、顔色一つ変えないで、これを従者の腕に渡してから言いました。
「さあ、渡しますよ、あなたの、またわたしの主人が、あなたにお命じになったことを完全に果たしなさい。でも、獣や鳥に食い荒らされないようにしておいて下さい。もしそうするように主人が命令なさったのなら別ですよ」
従者は女の子を受け取ると、夫人が言っていたことをグァルティエーリの耳に入れましたので、グァルティエーリは彼女の変わらない固い心に驚いて、従者を女の子とともにボローニャの自分の親戚のところにやり、だれの娘か秘密にして大切に育て、教育をしてくれるよう頼みました。夫人がまた妊娠して月みちて男の子を生み落としたのは、それからまもなくのことでありました。グァルティエーリは大喜びでした。でも自分が前にしたことだけであきたらずに、さらにひどく彼女をいためつけました。そして、ある日のこと怒ったような顔をして、彼女に言いました。
「あなたがこの男の子を生んでからは、わたしの家臣たちは、ジャンヌーコレの孫がわたしの後に、自分たちの主人になるにちがいないと、ひどく不平をこぼしているので、わたしはどうしても、彼らと一緒に暮らして行けなくなってしまった。そこでわたしは、自分が追い出されまいとしたら、この前したようなことをやって、しまいにはあなたと別れて、別の妻をもらわなければなるまいと心配している」
夫人はじっと辛抱して聞いていましたが、ただこう答えただけでありました。
「旦那さま、どうかお気のすむように、お望みのかないますようにお考えになって下さいませ。わたくしのことでしたら何も御心配なさらないで下さい。わたくしはそれで旦那さまのお喜びになるのを見さえすれば、これに越すうれしいことはございませんもの」
あまり日数もたたないうちにグァルティエーリは、前に女の子のために従者をやったのと同じようなやり方で、今度は男の子のために従者をだしました。そして、同じようにこれを殺させたように見せておいて、女の子と同じように、男の子もボローニャに送って育てさせました。そのことについて、夫人は女の子の場合と同じように、顔色一つ変えずに、別になんとも申しませんでした。そこでグァルティエーリは非常に驚いて、彼女がやったとおりにできる女はどこにもないだろうと、ひとり強くうなずきました。彼女がこどもと一緒にいた時、彼女がこどもたちをうんと可愛がっていたのを眼にしていなかったら、彼女がもうこどもにかまいたくないから、そうした態度をとるのだと、彼は思いこんだにちがいありません。ところが彼は、彼女が分別があるからそうした態度をとっていることを知っておりました。家臣たちは、彼がこどもたちを殺させたのだと思いこんで、はげしく彼を非難し、残酷な男だと考えました。そして夫人にはこの上もなく同情しました。夫人は、こうして殺されたこどもたちのことをいたんで自分にくやみのことばをのべる婦人たちには、それについては、こどもを生ませた夫の喜ぶことなら、自分にも不満はないというほかには何も申しませんでした。
けれども、女の子の誕生から何年もたちましたので、グァルティエーリは、夫人の忍耐力に最後の試練をあたえてもいい時期だと思い、大勢の家臣たちを相手に、自分はもうどうしてもグリセルダを妻にしておくことに我慢できない、あれを妻にした時には、自分は若気のあまりそうしてしまったのだと今になってわかった、だからできるだけの手を打って教皇から、他の女を妻にしてグリセルダと別れることができるような特免を自分に出していただくようにしたいのだと言いました。それを聞いた多くの善良な人々から、彼はきつい叱責をうけました。それに対して彼は、そうしなければならないという他には、何も答えませんでした。夫人はこれらのことを聞いて、自分は父親の家に帰り、前にやっていたように羊の番をして、自分が心から愛していた人が他の婦人のものになるのを見ていなければならないだろうと思って、心の中ではげしく嘆き悲しみました。しかしそれでも今まで運命の幾多の迫害に耐えてきたように、こうした迫害にも耐えなければならないと、顔色もかえず覚悟のほどをきめました。
それからまもなくグァルティエーリはローマから贋の教皇の手紙を出させて、家臣たちにはその手紙で、彼に他の妻を貰ってグリセルダと別れることできると、教皇が特免をあたえたように思いこませました。そこで彼は、夫人を自分の前に呼びよせて、多くの人の前で言いました。
「妻よ、教皇から賜わった許可によって、わたしは他の婦人をめとって、あなたと別れることができるのだ。わたしの祖先は、この土地の偉い貴族や君主であったのに、あなたの祖先たちはずっと百姓であった。だから、あなたにジャンヌーコレの家に、自分の嫁入り仕度を持って帰ってもらいたいと思うのだ。わたしはそのあとで、自分にふさわしいと考えている別の婦人を家に迎えるよ」
夫人はこのことばを聞くと、普通の女にはできないほどじっと我慢をして、涙をおさえました。そして答えました。
「旦那さま、わたくしはいつも自分のいやしい身分が、どうしても旦那さまの高い身分に不似合いなことを存じておりました。で、わたくしが旦那さまのところにおりましたのは、旦那さまや、神さまのお恵みだと考えておりまして、いつも自分に貸しあたえられたものだと考えておりました。それをお取りあげになりたいのでございますか。それをお返しすることは、わたくしの当然のよろこびでございますし、うれしいと思っております。ここに旦那さまがわたくしと結婚なさった時の指輪がございます。どうぞお取り下さい。旦那さまはわたくしがここに持ってまいりました嫁入り仕度を持ち帰るようにおっしゃっていらっしゃいます。でもそうするためには、わたくしは裸のままで迎えられたことを決して忘れてはおりませんから、旦那さまには支出掛りをお使いになる御必要はございませんし、わたくしは、財布も駄馬も必要ございません。もしも旦那さまが御自分でお生ませになったこどもたちを宿していたこの体をみんなに見られてもさしつかえないとお考えでしたら、わたくしは、裸のままで出てまいります。けれども、わたくしがここに持ってきて、ふたたび持ち帰られない、わたくしの処女としての純潔さに対するむくいとして、どうかわたくしのこの嫁入り仕度のうえに、せめてたった一枚だけなりと上着をかけてもよろしいと思し召し下さいますように、お願いいたします」
だれよりも泣きたい気持で一杯だったグァルティエーリは、それでもこわばったきつい顔のままで言いました。
「では、下着を一枚持っておいで」
まわりにいた人々は、十三年以上も彼の妻であったものが、下着一枚というみじめな恥ずかしい姿で出て行くのを人々に見られないように、彼女に一枚の着物を贈ってあげてほしいと頼みました。けれども、それは無駄でした。そこで夫人は、下着のまま靴もはかず頭に何もかぶらないで、一同に別れを告げると家を出て、見送っていたすべての人々の涙や泣き声に送られて父親のもとに帰りました。ジャンヌーコレは、グァルティエーリが娘を妻に迎えなければならないということが、どうしても本当だと信じられませんでしたから、毎日、こうしたことが起きはしないかと待機しておりましたので、グァルティエーリが娘と結婚した朝、娘が脱いでいった着物をしまっておきました。それを娘に出してやると、娘はそれをふたたび着て、前にいつもしていたように、けなげにも敵側にまわった運命の恐ろしい襲撃に耐えながら、父親の家のこまごました仕事にとりかかりました。
グァルティエーリは、これをすませてから家臣たちに、パナゴの伯爵の家の一伯爵の娘を貰ったと思いこませました。結婚式のために盛大な準備をさせながら、グリセルダのところに使いをやって、自分のところにくるようにと伝えました。グリセルダがきますと、彼は言いました。
「わたしは、新たに選んだ婦人を連れてくる。そこで初めて来るに当たって、婦人に敬意を表したいと思う。しかし、あなたも知っているように、この家には部屋を飾りつけたり、こうした祝宴に必要なたくさんのことをすることができそうな女がいない。だから、だれよりもよく家のこうしたことのできるあなたが、しなければならない万端の手筈をととのえてほしい。そして、自分でいいと思うような貴婦人たちを招待してほしい。主婦になったつもりで、その方々を迎えて下さい。そして結婚式がすんだら、自分の家に帰ってよろしい」
グリセルダは、結婚を思いきったように、夫に捧げている愛情を思いきることはできませんでしたので、こうしたことばは彼女の胸を短刀のようにつきさしましたが、こう答えました。
「旦那さま、何もかも承知いたしました」
彼女は、少し前に下着を着て出て行ったその家にロマーニャ風の粗末な着物を着てはいってくると部屋部屋の掃除をして、これをかたづけ、いくつもある広間には壁掛けや掛け布をおかせ、そして台所の支度などまるでその家の小間使いのようになんにでも手をつけはじめました。そして少しも休まずに、とうとう必要なだけのことは全部うまい具合にととのえてしまいました。そのあとで、グァルティエーリの名前で、土地の貴婦人たちを全部招待させて、祝宴の日を待ちました。結婚式の当日になりますと、彼女はみすぼらしい着物を身にまとっていましたが、貴婦人らしい気持ちと態度で、結婚式にきたすべての貴婦人をうれしそうな顔で迎えました。
グァルティエーリは、パナゴの伯爵家に嫁いでいたボローニャの親戚のところでこどもたちを大事に育てさせておりましたが、もう女の子が十二歳になって、今まで見たこともないほどのだれにも劣らない美人になり、男の子は六歳になっていました。そして使いの者をボローニャの親戚のところにやって、親戚の者にこの娘と息子を連れてサルッツォにぜひくるように、その時立派な堂々とした供廻りを連れて、別に娘が何者かだれにもなんにも言わないで、自分の妻として彼女を連れてくるのであると、みんなに言うようにはからってもらいたいと頼みこみました。その貴族は、侯爵が頼んだとおりにして旅をはじめると、数日の後に娘とその弟と身分のある人々の一行を連れて、食事の時間にサルッツォに着きました。見るとそこには、土地の人々全部と、その近隣の大勢の者たちがいて、グァルティエーリのこの花嫁を待ちかまえておりました。彼女は貴婦人たちに迎えられて、食卓の用意がしてあった広間にはいってきましたが、グリセルダは、そのままの姿で、うれしそうに彼女に会いに行って言いました。
「奥さま、よくいらっしゃいました」
貴婦人たちは、グァルティエーリに向かって、グリセルダを一室にとどめておくようにするか、あるいはまた、そんな身なりで客人たちの前に出ないように、彼女のものだった着物を何枚か貸してあげてもらいたいと熱心に頼みましたが、なんの効き目もありませんでした。その貴婦人たちが食卓について、給仕がはじまりました。娘はみんなの視線をあびておりましたが、人々はてんでにグァルティエーリはうまい換え方をしたと言っておりました。けれども、その人々の中でもグリセルダは、彼女とその弟をほめちぎりました。
グァルティエーリは、新しい事態が彼女をちっとも変えていないのを見て、また彼女が大変思慮にとんでいるのを知っていましたし、そのことが愚鈍からきているのではないことを確信していましたので、夫人の忍耐力について知りたいと思っていたことは全部、十分に知りつくしたような気がしました。もう彼女がそのしっかりした顔の下にかくしているその苦しみから、彼女を救いださなければいけない頃だと思いましたので、彼女を呼んでこさせると、みんなの前で微笑をたたえながら彼女に言いました。
「わたしの花嫁をどう思うかね?」
「旦那さま」とグリセルダが答えました。「わたくしにはとてもよろしいように思われます、もし、お美しいように御聡明でいらっしゃいますなら、きっとそうでいらっしゃるとは存じますが、わたくしは、旦那さまがこの世で一番幸福なお方として、そのお方とともにお暮らしになられるにちがいないと、いささかもお疑いはしません。けれども、かつて旦那さまのものでございました別の女におあたえになりましたあのお仕打ちは、どうか一生のお願いでございますから、このお方にはなさらないで下さいませ。なぜならば、前の女は小さい頃から絶えず苦労してきておりましたが、このお方は、それよりもお若いし、それに加えて大事に育てられていらっしゃいますので、到底そうしたお仕打ちには耐えられないと存じますからでございます」
グァルティエーリは、夫人がその女を自分の妻にちがいないと思いこんでいて、それでほめる以外には何も言わないのを見てとると、夫人を自分の隣に腰かけさせて言いました。
「グリセルダ、もうあなたにその長い辛抱の結果を知ってもらいたいし、またわたしが残酷で不正で非道だと考えてきた人々には、わたしのしてきたことは、あなたに妻たることを教え、彼らには妻を得て、これを扱う方法を知ることを教え、自分にはあなたと一緒に暮らさなければならないあいだじゅう、いつまでも安心をあたえたいと思って、つまりはそうした目的に向かって自分がやっていたものであることを知ってもらいたい時がきたのだよ。わたしは妻を貰うことにした時に、そうしたことが自分には起こらないではないかと非常に心配だった。だから、その証拠をつかみたいと思って、わたしはあなたが知っているようないろいろの方法で、あなたをいじめたり苦しめたんだよ。それでわたしはことばでも行ないの上でも、あなたがわたしの意にさからうようなことをしたとは一度も気がつかなかったから、わたしはあなたについて望んでいたあの幸福を得られるような気がするので、自分でなん度もあなたから奪ったものを一度にあなたに返して、自分があなたにあたえたあのつらい仕打ちの痕跡を、最上のやさしい気持ちでいやしてあげたいと思っている。だからよろこんであなたがわたしの花嫁だと思いこんでいるこの娘とその弟をあなたの、それからわたしのこどもたちとして受け取ってもらいたい。このこどもたちは、わたしが残酷にも殺させたと、あなたや他の多くの人々が長い間考えていた者なのだ。わたしはあなたの夫であるし、何よりもあなたを愛している。わたしくらい自分の妻に満足していられる者はどこにもいないだろうと自慢することができると思いこんでいるのだよ」
そう言うと彼は夫人を抱擁して、接吻しました。そしてうれしさのあまり泣いていた彼女と一緒に立ちあがると、こうした次第を聞いてしんから驚いた娘が坐っていたところに行きました。二人は娘をやさしく抱擁し、弟も同じように抱擁して、娘やその他そこに居合わした多くの人々の疑いを晴らしました。貴婦人たちは非常によろこんで食卓を離れると、グリセルダと一緒に寝室にはいっていきました。そして、ことばをつくしてお祝いを言いながら、その粗末な着物を脱がせて、彼女の衣裳の中の上品な着物を選んで着せて、ぼろを着ていてもそのようには見えましたが、今度は本当の貴婦人として広間につれもどしました。ここで彼女はこどもたちと一緒に心ゆくばかり再会のよろこびにひたりました。人々はだれもかれもこれを見て狂喜すると、そのよろこびとお祝いをますます盛んにして、何日となくつづけました。人々は、グァルティエーリがその夫人に対してとった試練は、あまりにも残酷で耐えがたいものだと思い、彼女を非常に思慮分別のあるとても聡明な婦人であると思いました。パナゴの伯爵は数日の後に、ボローニャに帰りました。グァルティエーリはジャンヌーコレに今までの仕事をやめさせて、舅《しゆうと》としてしかるべき地位につけましたので、ジャンヌーコレは尊敬をうけて、幸福のうちにその老後を終えました。グァルティエーリは、その後娘を身分の高い者に縁づけて、できるだけの尊敬を払いながら、グリセルダと一緒に長いあいだ幸福に暮らしました。
さてここで、王宮にも、人々の上に君臨するよりも豚の番をしていたほうがずっと似合うような人々がいるように、貧しい家々にも天から聖らかな魂が降るものであるというほかには、ここでなんと言ったらよろしいでしょうか。グリセルダ以外のだれが、グァルティエーリがあたえたきびしい、前代未聞の試練に、涙一滴こぼさずに、うれしそうな顔をして耐えることができたでしょうか。グァルティエーリが、彼女を下着一枚で家の外に追いだした時に、下着が美しい衣裳に換えられるようにと、別の男に毛皮をこすらせた(身を任した)かも知れないような女にめぐりあっていたとしても、グァルティエーリがひどい仕打ちをうけたものだとは、恐らく言いきれないでしょうね。
ディオネーオの話は終わりました。淑女たちはいろいろと意見を異にしながら、ある者はこれを非難し、ある者はまたこれをほめ讃えながら、話の花を咲かせておりました。その時王が天を仰ぎ見ると、太陽がすでに落ちて、たそがれの時刻であることがわかりましたので、坐ったままこう話しだしました。
「愛らしい淑女のみなさん、あなた方も御承知のことと思いますが、人間の知恵というものは、過ぎ去ったことを覚えていたり現在を知ることばかりで足れりとするものではなくて、これらのことの両方によって未来を予見できるということこそ、賢明な人々から、非常に大きな知恵だと考えられております。あなた方も御存じのように、わたしたちが、この疫病の時代がはじまってから絶えずわたしたちの市《まち》じゅうに見られる憂鬱や苦悩や心配からのがれて、自分たちの健康や、命を保持するために何か気晴らしをしなければならないとフィレンツェを出てから、明日で十五日になりましょう。わたしの考えますところでは、わたしたちはそのことを立派にしとげました。もしわたしの見るところが正しかったとすれば、ここではたのしい、時には淫欲に誘うような話が語られ、絶えず食べ、美酒を飲み、楽器を奏で、歌を歌うなど、弱い心を道ならぬことへと刺激するようなことばかり行なわれましたが、わたしは、それのどの行為も、どのことばも、どんなことも、あなた方のほうにも、また、わたしたちのほうにも非難しなければならないようなものがあったとは思いません。わたしは、絶え間のない礼節や、絶え間のない和合や、絶え間のない兄弟のような親和をそこに見たり聞いたりしてきたような気がいたします。それはあなた方や、わたしの名誉になり、役に立つという点から考えて、疑いもなく、わたしとしては何よりもうれしいと思っております。ですからわたしは、あまり長い間一緒に交わっているために倦怠に一変するような事態が起こらないように、またわたしたちの長すぎる滞在を、空想をたくましくして悪く考える人がでてこないようにと思いまして、それにわたしたちの一人一人は各自の一日を、まだわたしのところにあるこの名誉の各自の分担をお持ちになりましたのですから、もしみなさんがよろしいと思し召されるなら、もうわたしたちは、出発の地点に帰るのがよろしいのではないだろうかと考えたいのです。そればかりではなく、あなた方がよくお考えになれば、おわかりでしょうが、わたしたちの団体は、もうこの周辺の多くのものに知られておりますので、その人数も増えて行って、わたしたちのたのしみは何もかも奪われてしまうことでしょう。ですから、もしあなた方がわたしの申し出を御承認下さいますならば、わたしは自分にあたえられた冠を、わたしの出発の時まで戴いておきましょう。出発は明日になるだろうと思います。もしもあなた方が別の決定をなさいますならば、わたしは、次の日のために冠を授けなければならない方をもうきめてあります」
話は淑女たちや紳士たちのあいだで、いろいろ交わされましたが、とうとう一同は、王の申し出を有益で正しいものであると認めて、王が言ったとおりにしようと決めました。そこで王は給仕頭を呼ばせて、翌朝とるべき手筈について話をしました。そして、夕飯の時間まで一団の人々には暇をあたえると立ち上がりました。淑女たちや、その他の人々は立ち上がると、いつもしていたとおりに、思い思いにそのたのしみにとりかかりました。夕食の時間になりましたので一同は大喜びで食卓につきました。そして食事のあとで、歌を歌ったり、楽器を奏でたり、踊りをしたりしはじめました。ラウレッタが踊りをしておりますと、王はフィアンメッタに一つの歌を歌うようにと命じました。フィアンメッタは、とても楽しそうにこう歌いだしました。
恋に嫉妬のなかりせば
いかなる女《ひと》もわれほどに
身のしあわせを謳《うた》うまじ
心たのしき青春が
徳の力や勇猛の、
剛毅、分別、智と礼儀、
弁舌さやかに、瑕瑾なき
伊達な姿の恋人《ひと》をもて
女の心をみたすなら、
かかる恵みをしかと恋う
われなればこそかの人に
恵みのすべてを仰ぎ見る。
されど他の女らは
われとは同じ好みゆえ
憂い心はうちふるう。
ただ最悪を考えて
他の女らにわが愛人《ひと》を
恋うる心のあるを知り、
至宝の人はこのわれに
悲しき吐息をはかせつつ
嘆きの日をば指折らす。
いとしの君に勇猛と
同じ程度の信頼を
寄せ得るならば嫉むまじ
男心をひく女、
憂きこと多く、気もくらく
若人はみな罪人に
見えて悲しや、死を思う。
君見る女《ひと》は盗女《ぬすびと》か
われは疑い、おじ怖る。
女よ、かかる屈辱を
われに与うることなかれ。
言葉や、合図、誘惑《さそい》もて
わが恋人をうばいとり
不運をかもす女《もの》ありと
小耳にはさむその折は
神みそなわせ給えかし
かかる狂気の女めを
悲嘆の淵におとすべし
フィアンメッタが歌を歌い終わった時に、その隣にいたディオネーオは、笑いながら言いました。
「貴婦人よ、あなたが淑女のみなさんに御自分の恋人がどなたかお示しになったのは大変御親切でした。それを知らないために、その方をあなたから取り上げるようなことがあってはなりませんものね。そうしたらあなたはお怒りになるでしょうね」
このあとで、さらにいくつかの歌が歌われました。もうほとんど夜半でしたので、王のことばに従って一同は休みにいきました。あくる日になってみんな起きあがると、すでに給仕頭が自分たちの荷物は全部送りだしてありましたので、思慮にとんだ王の案内でフィレンツェに帰りました。三人の紳士は、前に七人の淑女と一緒に出発した聖マリア・ノヴェッラの教会に彼女たちを残して、これに別れを告げると、自分たちの他のたのしみに向かいました。また彼女たちは、頃合いを見て自分たちの家に帰りました。
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著者のむすび
いと気高く、年若い淑女のみなさん、あなた方をお慰めしようと思って、私は、こうした長い仕事に従ってきましたが、つらつら考えますのに、私にその値打ちがあったからではなく、あなた方の敬虔なお祈りによって、聖なるお恵みの御援助が下り、私はこの作品の当初にあたって、自分がしなければならないと約束したことを、完全にしおえたと思っております。ですからまず神に、つぎにあなた方にお礼を申しあげて、ペンと疲れた手に休養をあたえなければと思います。そうして休養をあたえる前に、私は、恐らくあなた方のある者なり、他の方々なりがおっしゃるかもしれないいくつかの小さなことについて、(なぜならば、これらのことは他のものよりも特に特権を持ってはならないことは、きわめてはっきりしているような気がしますし、むしろそんな特権を持っていないということを第四日の初めに示しておいたと思うからであります)ことばを用いないで差し出された質問にこたえるようにして、簡単に御返事をしたいと考えます。
たぶん、あなた方の中には、私がこれらのお話を書くのに、貞淑な婦人が口にしたり、耳にしたりするのにあまりふさわしくないようなことを、時々淑女方に言わせたり、頻繁に聞かせたりなどして、放縦に流れすぎたとおっしゃる方々がいられるでしょう。私は、それを否定します。なぜなら、貞淑なことばでそれを話すならば、だれにとっても話してはいけないような貞淑でないことは、何一つないからであります。それを私はここで、かなり上手にやりとげたような気がします。ですが、まあそれはそうだと仮定しておきましょう(どうせ私をお負かしになるあなた方と言い争いをするつもりはありませんので)。で、どうしてそんなことをしたのかとの御質問に答えるためには、たくさんの理由がすぐにでも出てくるということを申しておきます。まず、ある話の中にいくぶんいかがわしいことがあるとしますれば、それは話の性質がそれを必要としたのであります。もしそれらの話が、理解のある人によって、理性にとんだ眼で見られたら、私のほうでそれを、その形式から外してしまおうと望まなかったかぎり、このやり方以外にそれを物語ることができなかったことは火を見るよりも明らかにおわかりでしょう。もしもひょっとして、そのお話の中にある小さな文句なり、あるちょっとしたことばなり、えせ[#「えせ」に傍点]信心家の婦人に気に入らないような放縦なものがあるとしますれば、(そうした婦人は行為よりもことばを重く見て、善良であるよりもそう見えるように懸命になっているのですが)、私は、日常、穴[#「穴」に傍点]と栓[#「栓」に傍点]とか、臼[#「臼」に傍点]と杵[#「杵」に傍点]とか、腸詰《ソーセージ》と卵形腸詰《モルタデツロ》とか、これに似たたくさんのことを口にすることが、紳士や淑女の方々には一般にいけないとされておりますが、私がお話を書いたことはそれ以上にいけないことではなかったはずだと申しておきます。それは別として、私のペンに、画家の画筆に対するほどの権威があたえられていないということがあってはなりません。画家は、なんらの、少なくとも理窟に合った非難をうけないで、――聖ミケーレが剣か槍で蛇を傷つけ、聖ジョルジョが龍をめったやたらに傷つけたりしているのを描いているのは、取り上げないでおきましょう――男性のキリストや、女性のイヴを描いて、人類の救済のために十字架の上で死のうとなさった御方自身の御足を、ある時は一本の釘で、ある時は二本の釘で、十字架に打ちつけております。それから、これらのことは(教会の歴史の中には、わたしが書いたものとはちがったもっとひどいものがたくさんありますけれども)、教会の、万事が非常に貞淑な心やことばで語られなければならない教会の中でも、さらにはまた、貞淑が他のどこにも劣らず心要とされている哲学者の学校の中でも、またいかなる場所の聖職者たちや哲学者の間でも、話されるものではなくて、庭園の中や娯楽の場所で、分別があって、話で変な気持ちになるようなことはないが、年の若い人々の間で、最も貞淑な人々にとっても、身の保全のためには、頭に股引をのせて行くことが禁じられないような時間に話されるものであることは、手にとるようにおわかりになるでしょう。それがどんなものでありましょうとも、聞く人々によっては、他のすべてのものと同じように、害にもなり益にもなるでしょう。チンチリオーネや、スコライオや、その他多くの者によれば、ぶどう酒は人間にとって百薬の長ではありますが、熱のある者には有害であることを、知らないものがおりましょうか。熱のある者に有害だから、ぶどう酒は悪いと、私たちは言うでしょうか。火は非常に有益である、むしろ人間にとって欠くことのできないものであることを、知らない者がおりましょうか。火が家や村や町を焼くから、それは悪いと私たちは言うでしょうか。武器は同じように、平和に暮らしたがっている人々の命を守りますが、武器の邪悪のためではなく、武器を悪く使う人々の邪悪のために、なん度も人間を殺しております。
腐敗した知能は、決して一つのことばすらも正しく理解したことはありません。貞淑なことばがそうした知能に対して益がないように、それほど貞淑でないことばでも泥濘が太陽の光線を、地上の汚穢が天上の美を汚すことができないように、ちゃんとした立派な知能を汚すことはできません。どんな本や、どんなことばや、どんな文字が、聖書のそうしたものよりももっと神聖で価値があって、尊敬すべきものなのでしょうか。それでも聖書のそれをよこしまに曲解して、自分や他の人々を破滅におとしいれた人々が大勢おりました。一つ一つのものは、それ自身では何かにとっていいものなのですが、悪く使われると、多くのものにとって有害にもなるものなのです。私は自分の話については、それと同じようなことを申します。もしこれらのお話から邪悪な勧告なり、邪悪な行為をひきだしたい者がおりますれば、これらのお話は、もしそこにひょっとして、そうしたものがありましたら、またそうしたものがあるようにゆがめられ曲解されましたら、だれにもそのことを禁じはしないでしょう。そこに効用と利益を望むものがおりますれば、これらのお話は、それを拒みはしないでしょうし、もしこれが物語られた機会や、その対象となった人のような、そうした機会に、そうした人に対して読まれるならば、これらのお話はどうしても、有益で貞潔であるといわれたり、考えられたりするほかはないでしょう。主祷文を口にしたり、霊的指導司祭に肉饅頭や、菓子をつくらなければならない者は、こちらの話をほうっておいて下さい。それは読んでもらいたいといってだれのあとも追いかけはしないでしょう。もっとも修道女たちも同じように、時々はそうしたいたずらを口にしたり、また行なったりします。
同様に、この中にはそれがなかったら、はるかによかっただろうにと思われるお話がいくつかあるとおっしゃる方々がおられましょう。それはよろしいでしょう。でも私は、ここに話された話以外には書けませんでしたし、書いてはいけなかったのです。だからこれらのお話をなさった方々が、美しいお話をしなければならなかったので、そうすれば私はそれを美しく書いたでしょうからね。しかしそれでも、私が(ほんとはそうではなかったのですが)、これらのお話の創作者で、著者だったと予想したがる者がありましたら、私は、神以外には、あらゆるものを立派に、完全につくるような巨匠はどこにもいないのですから、すべてのお話が必ずしも美しくはなくても、自分は恥ずかしいと思わないだろうと申します。勇士たちの最初の創始者だったカルロ大帝は、その勇士だけで軍隊を組織できるくらい多くの勇士を創ることはできませんでした。数多くのものの中には、いろいろな種類のものがなければなりません。どんな畑でも、最良の野菜の中に、いたいた草なり、あざみなり、いばらなりがまじっていないほどよく耕された畑は一つとしてあったためしがありません。そればかりでなく、あなた方の大部分がそうでありますように、単純な若い娘たちにお話をしようとして、非常に軟らかすぎる話題を探しまわり、これを見つけようと苦心したうえ、きわめて適度に話そうと心をくだくのに骨身をけずっているなどということは、いかにも馬鹿げたことでございましょう。それはともかく、これらのお話を読まれる人は、気にさわることはほうっておいて下さい。そして楽しいと思われるお話をお読み下さい。これらのお話はみんな、だれも欺されないようにと、その最初に、自分たちの胸の中にかくしているものをちゃんと書いて示しております。
さらにまたこれらのお話の中には長すぎるものがあるとおっしゃる方もいくらかはおられましょう。そうした方々にはまた、私は他にする仕事のある者で、これらのお話が短くても、それを読むのは馬鹿なまねをしているのだと申しておきます。私が書きはじめてから大分時がたちましたが、自分の仕事の最後にたどりついている現在まで、だからと申して、自分がこの労作を、ひまな婦人に捧げたのであって、その他の方々に差し上げたものではないということは頭を離れませんでした。暇つぶしにお読みになる方には、どんなお話でも、もしそれがお話をする者の目的にそいさえすれば、長いということはないでしょう。短いものは、恋の快楽にお使いにならないだけの時間を持てあましていられるあなた方、御婦人にとってよりも、時間をつぶそうとしてではなく、これを有益に用いようとして骨を折っている学生たちにとって、ずっと好適なのであります。で、この他に、あなた方はどなたも、アテネなり、ボローニャなり、パリなりに勉強にいらっしゃいませんから、あなた方には、勉強をしてその才能を鋭く磨かれた人々に対するよりも、もっと詳しくお話をしなければならないのです。
それからまた、話されたことが、しゃれや冗談で一杯すぎていて、分別のある真面目な男が、こんなふうに書いたのはいけないことであるとおっしゃる方々がいられることも、露ほどにも疑ってはおりません。この方々には、私はお礼を申さなければなりません。お礼を申します、この方々は真の愛情から心を動かして、私の名誉にやさしい心を用いて下さるからです。でもこの方々の反対には、こうお答えしたいのです。私は自分に分別があることを、また自分の一生のあいだになん度もそうであったことを白状いたします。ですから、私の分別の度を計ったことのない方々に向かって、自分は真面目な者ではなくて、むしろ水に浮かんでいるほど軽々しい者であると、はっきり申しておきます。修道士たちが、人々が罪を犯したと言って叱るための説教が、今日では大部分、しゃれや冗談や馬鹿話で充満していることを考えて、私は女性の方々の憂鬱を吹きとばそうとして書かれた私のお話の中に、それと同じものがあっても悪くはないと思ったのであります。それでも、御婦人方がこのために笑いすぎるようなことがありますれば、ジェレミアの哀歌や救世主の御受難や、マッダレーナの痛恨が、彼女たちを容易にそれからいやして下さるでしょう。
さらに、私がいくつかのところで修道士たちについて本当のことを書いているので、私は悪い毒のある舌を持っているのだろうとおっしゃる方々がいるのではないかと、気に病む方が一体いるでしょうか。そうおっしゃる方々は赦してあげたいものです。だって、正当でない理由が彼女たちを動かしていると考えてはならないし、修道士たちはいい人々で、神の愛のために骨折り、仕事を避け、水量があふれそうな時に粉を挽いて、そのことを言いふらさないからであります。修道士たちはみんな牝山羊の糞のような悪臭をちっとばかりだしていますが、もしそれがなかったら、あの人たちとつきあうのは楽しすぎるくらいでしょうね。とは申しましても、私はこの世の中のことにはなんら安定というものがなくて、いつも変動していることは白状いたします。私の舌にもそうしたことが起こるかもしれません。私は自分の判断を信用しないで、自分のことについてはできるだけ判断を下すことを避けておりますが、ついこの間、私の近所のある婦人が舌なら私が世界じゅうで一番上等の一番やさしいものを持っていると申しました。で、実際、そんなことがあった時は、これらのお話のうち、もう書くところがいくらも残っておりませんでした。その方々が熱心にそんなふうにおっしゃいますので、私は、先程の婦人が言ったことを、その方々への御返事にしたら、それで十分だろうと思いたいのです。
今はもう、それぞれの御婦人に、お好きなように言ったり、思いこんだりさせておいて、こうした長い仕事の後に、その御助力をもって、私を待望の目的に導いて下さった御方にうやうやしく感謝をささげて、このお話に終わりをつげていい時です。ではみなさん、美しい淑女の方々よ、神のお恵みを得て安らかにお暮らし下さい。そしてもしひょっとしてどなたかに、これをお読みになったことが、いくらかでもお役に立ちますならば、私のことを思いだして下さい。
[#この行3字下げ] ここで別の名をカレオット公と呼ばれる、デカメロンと称せられる書物の第十日で、最後の日が終わる。
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ボッカッチョ年譜
一三一三年
[#1字下げ]パリーで私生児として生れる。父親はチェルタルドの出で、ボッカッチョ(又はボッカーチーノ)・ディ・ケッリーノ (Boccaccio, Boccaccino di Chellino) と言い、バルディ銀行と密接な関係を有する両替業者で、フィレンツェに住んでいた。母親はフランス人でジャンネット・ド・ラ・ロシュ (Jannette de La Roche) と言い、貴族の出だとも裁縫師の娘だとも言われる。父親は赤ん坊をつれてフィレンツェに帰り、やがてジョヴァンニ・ダ・ストラーダのもとでラテン語を学ばせた。父親はマルゲリータ・デ・ジャン・ドナート・デ・マルトリと結婚し、一子を儲けた。
一三二一年
[#地付き]八歳
[#1字下げ]ダンテ(一二六五―)死去。
一三二三年
[#地付き]十歳
[#1字下げ](又は二五年)家事見習のためナポリに送られる。両親との間もうまく行かないせいもあった。父親は六年にわたり彼を商人にしようと努力したが効なく、教会法の勉強に転向させた。ボッカッチョはこれも放擲、文学に耽る。商売上の結びつきからナポリ王ロベルト・ダンジョの宮廷に出入、文学者としての情熱を燃やす。この頃ヴェルギリウス、スタティウス、オヴィディウスなどのラテン詩人や、ダンテ、ペトラルカなどに親しみ、また学者と交り、天文学、古典研究、ギリシャ語などの指導をうける。一方美貌と才智をもって社交界に身を投じ、貴婦人たちと交った。この時代の作品に『ディアナの狩猟』がある。他に多くの詩をつくる。
一三三三年
[#地付き]二十歳
[#1字下げ](又は三一年)三月三十日聖土曜日、ナポリの聖ロレンツォの教会で久遠の女性フィアンメッタ Fiammetta(「小さな焔」の意)を見染める。彼女はロベルト王とフランス女との間の私生児で、マリア・ダクィノ (Maria dユ Aquino) と呼ばれ、貴族の夫人で、ボッカッチョと同年配位であった。ボッカッチョは彼女に多くの詩や小説を捧げた。二人の恋は三年位つづいたが、後にマリアは他の愛人にはしった。
一三三六年
[#地付き]二十三歳
[#1字下げ]この頃小説『フィロコロ』を書きはじめる。
一三三八年
[#地付き]二十五歳
[#1字下げ]この頃長詩『フィロストラート』なる。
一三四〇年
[#地付き]二十七歳
長詩『テゼイダ』なる。
バルディ銀行の倒産と父親の窮乏で、十月フィレンツェに呼び戻される。住みなれたナポリへの愛着断ちがたく、フィアンメッタに未練を残しつつ、失意のうちにここを去った。これ以後の公私の生活はあまり明らかでない。幾多の恋愛をし、ヴィオランテという娘もできたが、七歳で他界した。
一三四一年
[#地付き]二十八歳
[#1字下げ]ナポリに帰りたい念しきり。父親二回目の結婚。ペトラルカ月桂冠を授けられる。
一三四二年
[#地付き]二十九歳
[#1字下げ]この頃、散文と詩よりなる『アメート』(一九四一―四二)、長詩『愛の幻影』(一九四二―四三)完成。
一三四三年
[#地付き]三十歳
[#1字下げ]この頃、小説『フィアンメッタ』なる。
一三四五年
[#地付き]三十二歳
[#1字下げ]この頃、長詩『フィエゾレの妖精』なる。
一三四六年
[#地付き]三十三歳
[#1字下げ]秋ラヴェンナのオスタジオ・ダ・ポレンタの秘書となる。
一三四七年
[#地付き]三十四歳
[#1字下げ]フォルリのフランチェスコ・デリ・オルデラッフィのもとに身を寄す。ラテン学者チェッコ・ダ・ミレートを識る。
一三四八年
[#地付き]三十五歳
[#1字下げ]オルデラッフィに従いナポリに行ったらしい。既にフィアンメッタは他界していた。この年デカメロンに出てくるペスト発生。フィレンツェにはいなかった。『デカメロン』に着手する。
一三四九年
[#地付き]三十六歳
[#1字下げ]父親がペストで死去。弟フランチェスコの輔佐人になる。この頃『ペトラルカ伝』を書く。
一三五〇年
[#地付き]三十七歳
[#1字下げ]聖クレメンテ六世の金祝のため、パルマからローマに向う途中フィレンツェに立寄ったペトラルカと親しく相識る機会を得た。二人の深い友情は死までつづいた。フィレンツェの公職につき、ロマーニャに使節として派遣される。
一三五一年
[#地付き]三十八歳
[#1字下げ]フィレンツェのカメルレンギの家におり、二月その代理となって、プラートの町を購入のため、ナポリの女王と交渉。春、フィレンツェ政府の使者としてパドヴァでペトラルカと再会。ペトラルカの父親から没収した財産の返還と、フィレンツェ大学の講座担当の要請の使いであった。ペトラルカはこれを辞退したが、二人は幾日かの楽しい時をすごした。十二月暴政をもって聞えたヴィスコンティ家に対し、フィレンツェと同盟するよう勧告するため、ティロロのルドヴィコ・ディ・バヴィエーラのもとに派遣される。ラテン詩『牧歌』を書き始める。(六六年完成)
一三五三年
[#地付き]四十歳
[#1字下げ]この頃『デカメロン』完成。ペトラルカがヴィスコンティ家の招きを承諾したのに憤慨、師とまで仰いだペトラルカに憤懣の手紙を送る。
一三五四年
[#地付き]四十一歳
[#1字下げ]カルロ四世のイタリア南下に関する相談のため、アヴィニョンの教皇インノチェンツォ六世のもとに派遣される。
一三五五年
[#地付き]四十二歳
[#1字下げ]フィレンツェの傭兵事務局に勤務、傭兵の不在を記帳する任務をあたえられる。『コルバッチョ』を完成。『名人行伝』を書きはじめる。
一三五八年
[#地付き]四十五歳
[#1字下げ]『ダンテ讃美論』に着手。
一三五九年
[#地付き]四十六歳
[#1字下げ]春、ミラノにペトラルカを訪問。主として宗教を論ずる。ボッカッチョ、宗教心をゆり動かされる。
一三六〇年
[#地付き]四十七歳
[#1字下げ]この頃『名人行伝』及び『異邦人の神々の系譜』の初稿なる。『山、森、泉、湖、河、沼及び沢並びに海の名称』に着手。(一三七四年頃完成)この冬フィレンツェの自家に客としてカラブリアのギリシャ語学者レオンツィオ・ピラートを招き、公費をもってホーマーの詩をラテン語に訳させた。(或はピラートをフィレンツェ大学に入れてギリシャ語を教えさせた、とも言われる。)この頃『名婦伝』に着手。死ぬまでつづける。
一三六二年
[#地付き]四十九歳
春、修道士ジョアッキーノ・チャーニがボッカッチョを訪れて、シエーナの聖ブルノーネ派の司祭ピエトロ・ペトローニが、もし彼が不信仰な研究を捨てて懺悔しなければ、劫罰を受けるだろうと予言したと伝える。ボッカッチョはいたく動揺し、作品を焼いて信仰の道に入ろうと考え、ペトラルカに相談した。ペトラルカはこれを止めさせ、元気づけて、研究をつづけさせた。又一緒に暮そうとすすめた。しかしその後も死の不安はボッカッチョの頭を去らなかったようである。これ以後多くのものをラテン語で書いた。
十月、旧友ニッコロ・アッチャイウォーリとフランチェスコ・ネッリの招きに応じてナポリに行く、青春時代の故郷も自尊心を傷つけるだけであった。六カ月でナポリを去る。
一三六三年
[#地付き]五十歳
[#1字下げ]ヴェネツィアのペトラルカのもとに三カ月客となる。後フィレンツェをきらい、チェルタルドに帰り、孤独な生活を愛した。ここで『ピーノ・デ・ロッシ氏に宛てた慰めの手紙』を書く。この頃『ダンテ讃美論』なる。
一三六五年
[#地付き]五十二歳
[#1字下げ]再びフィレンツェの使節として、アヴィニョンのウルバーノ五世を訪れる。フィレンツェに帰ったのは収入のためもあった。
一三六七年
[#地付き]五十四歳
[#1字下げ]教皇ウルバーノ五世をローマに訪問。春ペトラルカを訪ねてヴェネツィアに行ったが留守。その娘夫婦の客となり、厚遇を受ける。
一三七〇年
[#地付き]五十七歳
[#1字下げ]秋より翌年の春にかけて再びナポリに滞在。
一三七一年
[#地付き]五十八歳
[#1字下げ]トスカーナに帰り、一三七三年十月までチェルタルドに住む。
一三七三年
[#地付き]六十歳
[#1字下げ]八月、フィレンツェの聖ステファノ教会で『神曲』の講義をするよう要請を受ける。十月二十三日開講する。
一三七四年
[#地付き]六十一歳
[#1字下げ]健康を害し、『神曲』の講義を数カ月間、約六十回で中止し、チェルタルドに帰る。七月十八日ペトラルカ死去。十月その訃を聞き、悲しむ。既に八月より遺言を書いており、蔵書を聖スピリト教会の修道士マルティーノ・ダ・シーニャに委ねることにする。『神曲註釈』は十四世紀の最良の註釈書の一つとされている。
一三七五年
[#地付き]六十二歳
[#1字下げ]『異邦人の神々の系譜』や、『名婦伝』の加筆に余生を送り、十二月二十一日逝去。チェルタルドの聖ヤコポ教会に埋葬される。
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ボッカッチョ (Giovanni Boccaccio)
イタリアの作家。一三一三年、フィレンツェの両替商の家に生まれる。幼年時からダンテの作品に親しむ。まだ少年の頃に稼業習得のためミラノに送られるが、各地から集まってきた知識人たちと親しく交わりながら宮廷文化を謳歌し、詩作や天文学、古典研究に打ち込む。一九四〇年フィレンツェに呼び戻された後は、いっそう精力的に文学研究や著作に励み、その文名は日増しに高まっていく。経済的には恵まれなかったが、フィレンツェ共和国の特使としてヨーロッパ各地に派遣される傍ら、ホメロスの詩を公費でラテン語に翻訳させるなど、政治的かつ文化的にも重要な役割を果たす。晩年には古典の文献的研究と著述に没頭、ステファノ協会で行われる『神曲』の講義者にも任命された。親友ペトラルカの訃報を聞いた翌一三七五年、隠棲先の城塞都市チェルタルドに没した。ダンテ、ペトラルカと並ぶ最大の文学者であり、後世のヨーロッパ文学に深甚な影響を及ぼした。叙情詩、叙事詩、長・短編小説、論文など、多方面に才能を発揮し、ラテン語と俗語(発生期のイタリア語)の両方を駆使して、膨大な作品を残した。
柏熊達生(かしわぐま・たつお)
一九〇七年、千葉県に生まれる。イタリア文学者、翻訳家。東京外国語大学卒業後、外務省留学生としてローマへ渡航。ミラノ領事館、ローマ大使館勤務を経て、一〇年後に帰朝、東京外国語大学教授に就任。一九五六年、四八歳の若さで歿。訳書にアミーチス『クオレ』、コッローディ『ピノッキオ』など多数。
本作品は一九五七年一一月「世界文学全集1」として河出書房から刊行され、一九八一年三月、ノーベル書房から三冊本で刊行された後、一九八八年一月、ちくま文庫に収録された。