七破風の屋敷
ナサニエル・ホーソン作/鈴木武雄訳
目 次
一 ピンチョン旧家
二 小さな陳列窓
三 最初の顧客
四 店番の一日
五 五月と霜月
六 モールの井戸
七 客人
八 当世のピンチョン
九 クリフォードとフィービ
十 ピンチョン家の庭園
十一 アーチ窓
十二 銀板写真家
十三 アリス・ピンチョン
十四 フィービのいとまごい
十五 しかめ面と笑顔
十六 クリフォードの部屋
十七 二羽のふくろうの脱出
十八 ピンチョン知事
十九 アリスの花束
二十 エデンの園の花
二十一 門出
著者はしがき
解説
訳者あとがき
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登場人物
ヘプジバー……ピンチョン家の子孫。「七破風の屋敷」を守る未婚の老女。
フィービ……ピンチョン家の遠縁にあたる田舎育ちの乙女。
クリフォード……ヘプジバーの兄。おじジャフリー殺しの冤罪での長い投獄暮らしのあと「七破風の屋敷」に戻ってくる。
ピンチョン判事……クリフォード兄妹のいとこ。町の実力者であり野心家。
ジャフリー・ピンチョン……クリフォード兄妹のおじ。
ホールグレーヴ……放浪のすえ、「七破風の屋敷」に寄寓している銀板写真家。
ピンチョン大佐……「七破風の屋敷」を建てたピンチョン家の始祖。厳格な清教徒。
ジャーヴァス・ピンチョン……ピンチョン大佐の孫。
アリス・ピンチョン……ジャーヴァス・ピンチョンの娘。
マシュー・モール老人……ピンチョン大佐と土地をめぐる争いを起こし、「魔法使い」として処刑される。
マシュー・モール……モール家の子孫。ジャーヴィスと争う。
アンクル・ヴェンナー……町の人々の雑務を引き受けて暮らす老人。
ネッド・ヒギンズ……ヘプジバーの店のおとくい。大食小僧。
イタリアの少年……猿を連れて暮らす大道芸人。
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一 ピンチョン旧家
ニューイングランドのある町の横町を半分ほどはいると、あちらこちらの方角に顔を向けている、屋根の鋭くとがった七つの破風《はふ》と、中央部に、ばかに大きな一本のたばね煙突とを持っている、一軒の古めかしい木造家屋が立っている。そこの通りが「ピンチョン通り」である。その家が古い「ピンチョン屋敷」である。それに、回りいっぱいに枝葉を広げ、その家の玄関前に根を張った一本の楡《にれ》の木は、「ピンチョン楡」の呼び名で、この町生まれのだれにでも親しまれている。私が、今述べたその町を時おり訪れるときは、ピンチョン通りへ折れて通らぬことはめったにない。それというのもこの二つの古代の遺物――楡の大樹と、風雨にさらされた大きな邸宅──の陰を通り過ぎたいからである。
その古めかしい豪壮な屋敷のおもかげは、外の暴風雨や日光だけでなく、内で過ごした人生の長い推移や、それに伴う運命の浮き沈みを表わす跡をとどめていて、まるで人間の顔つきのようにいつも私を感動させた。もしこうしたことを手ぎわよく語るとすれば、少なからず興味と教訓があり、あまつさえすっかり芸術的に配列した結果かと思われそうな、驚くほど、ある統制のとれた物語となるであろう。しかしこの話は、ほぼ二世紀にも及ぶ一連の出来事を含むであろうし、それに、十二分に書くとすると、同じ時代の全ニューイングランド年代史用として慎重に割り当てられる本より、もっと分厚なフォーリオ版か、もっとたくさんの四六版双書をぎっしり埋めるだろう。したがって、「ピンチョン古屋敷」、または別の通り名「七破風の屋敷」を主題にしている口碑《こうひ》伝説の大部分を、どうしても簡略にする必要が起こってくる。それゆえ、この家の土台が築かれたその間の事情をてみじかに述べ、そして始終東風に吹きつけられて黒ずんできた、古風な趣のある家の外側へちらりと視線を走らせながら──また、ここかしこ、屋根や壁のひときわ緑濃いこけむす所を指さしながら──今日をさかのぼってそう遠くない時代からこの物語の本筋を始めよう。それでさえ、遠い過去との関連――忘れ去られた事件や人物とか、ほとんど、あるいは完全にすたれてしまった風習や、感情や、意見などへの参照──があるだろう。そしてそのような関連は、もしうまく読者に伝えられるなら、どんな清新な珍しい人生模様を織りなすにも、どれだけ多くの古い資料が使われるものかを例証してくれるだろう。また、この結果、ほとんど世に無視されている真理から、ある重要な教訓が引き出せるかもしれないのだ。すなわちその真理とは、現在の世代の行ないが、はるかな遠い未来に、善果あるいは悪果をおそらく産み、また産まずにはおかない胚種《たね》であるということ、また、人間が「便宜」という名で呼んでいる、ほんのかりそめの間にすぎない作物の種子といっしょに、まだまだいつまでもおい茂り、自分たちの末孫へ陰気な暗い影を落とすような樫《かし》の実を、人間は必然的に蒔《ま》きつけるのだということである。
「七破風の屋敷」は、今は古めかしい姿でいるが、この同じ場所に文明人が建てた最初の住宅ではなかった。「ピンチョン通り」は、もともとその土地に住んでいた男の名前から「モールの小路」という、もっと粗末な呼び名を持っていて、その男の、いなか家表の牛追い道だった。軟水で口ざわりのよい天然泉水──それは、清教徒植民地が作られている、海に囲まれたこの岬《みさき》ではまれに見る宝であった──が早くからマシュー・モールの気をひいていて、当時の村の中心であった場所からはちょっと遠すぎたが、この地点へむさ苦しい草ぶきの一軒の小屋が建ったのだった。しかし、およそ三、四十年もたち、町が大きくなるにつれ、この粗末なあばら屋が占めている敷地が、身分の高い有力な、ある人物の目に、むしょうにほしく映ってしまった。それでその人は、この土地と、隣接する広大な地域の所有権に対して、議会から認可された譲渡証書をたてに誠しやかな所有権を主張した。ピンチョン大佐というその権利主張者は、今もなお伝えられているこの男のあらゆる気性から察すると、鉄のように意志強固な性格であったらしい。一方、マシュー・モールは、名もない男ながら、自分の権利と考えるものを頑固《がんこ》に守ってきかなかった。そして自分でせっせと働いて、原始林から切り開き、自分の庭や宅地に仕上げた一エーカーか、二エーカーのこの土地を、数年の間、うまく守り通した。この争議に関して現在残っている文書は何ひとつ知られていない。この問題全部についてわれわれが知っている事柄は、大部分伝説に由来している。それゆえ、この事件の理否について決定的な意見を断言することは大胆であろうし、またことによると不正とさえなるだろう。とはいうものの、ピンチョン大佐の要求が、マシュー・モールのちっぽけな地所まで引っくるめてしまおうとして、不当に拡大されたのではないかということが、少なくとも疑惑の種であったらしい。このような疑念をはなはだしく強めるものは、次の事、つまり身分違いなふたりの反目者間のこの論争が──それに、どんなにご時世をほめそやしたところで、個人の勢力が今よりはるかに重い威圧を持った時代であるのに──何年も未解決のまま残されて、かかりあいの土地に住んでいる相手が死んで、やっと結着したという事実である。また、その男の死にざまが人の心に与えた影響ぶりは、今から一世紀半も昔と、今の世とではまるで違う。それは、そのあばら屋の住人のいやしい名が無気味な恐怖でのろわれるほどの死にざまであったし、また、その男が住まった小さな地所を鋤《すき》で掘っくり返し、男の住所も名前も人々の頭から抹殺するほうが、宗教的な行為であるとさえ、いえるほどであったのだ。
マシュー・モール老人は、要するに魔法使いの罪で死刑に処せられたのだ。彼はあの恐ろしい妄想《もうそう》の犠牲となったひとりであった。この事は、ほかにもたくさん教訓があるけれども、とりわけわれわれを戒めて、勢力者階級や、人民の指導者と自任する人たちでさえ、最も逆上した暴徒の特徴とされている、あらゆる狂熱的なあやまちを犯す傾向が十分あると教えてくれている。牧師、裁判官、政治家たち──当時の最も賢明で、最も冷静で、最も神聖な人たち──が絞首台を取り巻く群衆の輪の内側に立ち並び、この血の行事をいちばん大きな声でほめたたえながら、自分たちがみじめな思い違いをしていたことを告白するのはいちばん遅かった。もし彼らが取った処置のうち、どこか一か所他よりもいくぶん微罪に当たるといえるなら、それは彼らが行なった迫害の異常な無差別ぶりであって、法の名を借りた昔の大虐殺の場合と同様、ただに貧乏人や老人たちばかりでなく、あらゆる階級の人々をも迫害した。自分たちの同輩、兄弟、および女房たちの区別もなかった。このようなさまざまな破滅で騒然たるさなか、モールのような取るに足らぬ一介の無名の男が、同じ受難者仲間の群れに混じってほとんど人目をひかずに、死刑の丘へと殉数者の道をたどって行ったからとてなんの不思議もない。ところが後日になって、そんないまわしい時代の狂乱が始まったころ、ピンチョン大佐が、その土地を魔法から払い清めようとしていかに絶叫し、世間の人々と声を合わせたかが思い返された。また大佐がマシュー・モールの断罪を追求した熱烈な態度には、けしからぬほどの苛酷さがあったと、私語されないことがなかった。その犠牲者が、自分に対する迫害者の行動の中に苦々しい私怨を認めていたこと、そして、自分が彼の獲物《えもの》にされて死へと駆り立てられているのだと、みずから言明したこともよく知られていた。死刑の瞬間――首に絞り縄を巻きつかせたまま、そして一方ピンチョン大佐は馬にまたがり、すごいけんまくでその場をにらみすえているときに──モールは絞首台から大佐に話しかけ、一つの予言を叫んだが、それは炉辺の伝説ともなっているうえに、歴史がそっくりその言葉をしるしとどめている。「神さまは」と、その死にゆく男がものすごい形相で、自分の仇敵の不敵な面魂《つらだましい》に向かって、指を突きさしながら叫んだ。
「神さまはあいつに血を飲ませなさるぞ!」
魔法使いという噂《うわさ》のその男が死んでから、彼のささやかな宅地は簡単に横領されて、ピンチョン大佐の手に握られてしまった。ところが、大佐が自分の家宅――広壮な、どっしりと重々しい樫材組みの、そして子孫代々にわたって、持ちこたえられるつもりだった──を、マシュー・モールの丸太造りの小屋が、最初占めていたその場所に建てる考えでいることがわかると、村の口さがない連中は頭を横に振ってそれとなく非難することが多かった。屈強なその清教徒が、今述べたような行動全体を通じ、はたして良心的な高潔の人としてふるまったか、人々はその疑惑をはっきりと口には出さなかったが、それでも、大佐が穏やかならぬ墓の上に自分の家を建てようとしていることを暗ににおわせた。大佐の家は死んで葬られているあの魔法使いの家をだき込むだろう。それでこうして魔法使いの幽霊に一種の特権を与え、新しいどの部屋にも、またゆくゆくは花|婿《むこ》たちが自分の花嫁の手を引いてはいって行き、そしてピンチョン家の血を引く子供たちが生まれてくるどの寝室にも、自由に出入りさせるだろう。モールの罪の恐ろしさや醜さ、また彼の処刑のむごたらしさは、塗りたての漆喰《しっくい》の壁を暗くし、そして古びた陰気な屋敷のにおいをいち早く壁にしみこませるだろう。では、なぜ──周囲のあれほど広大な土地が処女林の散り敷く落葉にうずもれているのに──いったいなんのため、ピンチョン大佐はすでにのろわれている敷地を、ことさら選ぼうとするのか?
しかし、清教徒軍人であり、また治安判事でもあったこの男は、魔法使いの幽霊を恐れるとか、なにかもっともらしい涙もろい感傷によって、自分がねりにねった計画に背を向けるような人間ではなかった。空気が毒だとでもいわれたのなら、彼の心もいくらかは動かされたかもしれなかった。けれども彼は独自の立場で悪霊《あくりょう》といつでも対決するつもりでいた。生まれながらに、まるで花崗岩《かこうがん》の切り石のように重い、頑固な常識を授かり、まるで鉄のかすがいを打つように、峻厳な強い意志で固く締められて、彼は最初の計画どおりやり通し、おそらくそれに対する異論など念頭にすらおかなかった。もっと微妙な感受性の人が教えていたであろうに、およそ繊細さとか、なにほどかの気のとがめとかの点については、大佐は、同じ育ち、同じ世代の人々と同様に、まるで鉄面皮であった。それゆえ、マシュー・モールが四十年前、初めて落ち葉をかきのけたその四角い地面に、彼は自分の穴蔵を掘り、また自分の邸宅の深い土台を築いたのだった。不思議なことに、また、ある人々が考えたとおり不吉なことには、職人たちがめいめい仕事に取りかかったかと思うと、前に述べた天然泉水が、元のような甘露な味をすっかりなくしてしまった。掘りたての穴蔵が深いために水源がじゃまされたのか、それとも何かもっと霊妙な原因が底に潜んでいたのか、いずれにせよ、今なお「モールの井戸」と呼ばれているこの井戸水が、硬性で塩辛くなってしまったことは確かである。水は今もって全くそのとおりである。そして、近所のどの婆さんも、その井戸水は、そこでのどの渇《かわ》きをいやそうとする人々にきっと腹痛を起こさせる、といって保証するのだ。
読者は不思議に思うかもしれないが、この新しい大きな建物の棟梁《とうりょう》大工こそ、その土地の所有権を、死んでも放さぬ手からもぎ取られてしまった、例の男の息子にほかならなかったのだ。ことによったらその息子は当代随一の腕ききの職人であったのかもしれない。あるいは、たぶん、大佐は死んだけんか相手の身内に対するいっさいの仇怨《きゅうおん》を、こんなふうに公然とかなぐり捨てるほうが好都合と考えたのか、またはちょっと人情味にかられたせいであったのだろう。それにまた、息子たる者が、自分の父の怨敵《おんてき》の懐中から、一ペニーの浄財を、いやそれどころか、英貨ポンドをたんまりかせいでやろうとすることは、一般に荒っぽく実利的な当時の風潮と合わないことはなかった。ともかく、トマス・モールは、「七破風の屋敷」の建築技師となった。そして、その義務をきわめて忠実に果たしたので、彼の手で固く締めた木材の枠組が、今なおしっかとからみ合ったままになっているのである。
こうして豪壮な家が建てられた。その家は作者の記憶にありありと浮かんで立ってはいるものの──なぜなら、作者にとっては少年時代から、この家が、遠い過去の時代の最もりっぱな、最も荘厳な建築の見本としても、さらにまた、おそらく、ほの暗い封建時代の古城の出来事などよりは、もっと人間的興味にみちみちた事件の舞台としても、好奇心の的であったからである――その家が、いかにも老いさびた姿で、目にありありと立ってはいるものの、そのためかえって、この家が初めて日の目を見たときの光り輝く奇観をいっそう想像しにくくするのである。家の現状から受ける印象は、百六十年もの星霜を隔てた今、かの清教徒の高官が、町じゅうの人々を客として招待した朝、この家の模様はどうだったかと、われわれが好んで、想像する心象をどうしても、すっかり暗くおおってしまう。
神々しくまたにぎやかなお祭りの、大祓《おおはら》いの儀式が今執り行なわれるところだった。ヒギンスン牧師の行なう祈祷《きとう》や説教も、また、一般町民ののどから流れ出る賛美歌も、なみなみとつがれた、ビール、りんご酒、ぶどう酒やブランデーのため、また、ある権威者たちが断言しているように、丸ごと焼いた雄牛一頭、いや、少なくとも、実質的な重さが雄牛一頭分はある、もっと扱いやすくした大肉片や腰肉のおかげで、腹の底までしみて、ありがたく歓迎されたのだ。二十マイル以内のところで射止められた鹿の胴肉が、ずぬけて大きなまるい肉まんじゅうの材料にされていた。そこの入江でとれた、六十ポンドもある一尾の大鱈《おおたら》が濃い寄せ鍋汁に煮込まれていた。つまり、新しい家の煙突が、炊煙をもうもうと吐き出し、獣肉や、鳥肉や、魚肉とこうばしい野菜や玉葱《たまねぎ》を、薬味をきかして大量にかき混ぜたかおりで、空いっぱいににおわしたのだ。このような祝宴のにおいが、だれかれの鼻先に流れてくるだけで、人々を招いたり、食欲をそそりたてたりするのだった。
「モールの小路」いや、今はいわばもっと上品な呼び名の「ピンチョン通り」は、指定の時刻になると、教会に向かって歩く会衆さながらに雑踏した。人々は皆、近づくにつれ、これから先、人の世のどんなりっぱな邸宅とも肩を並べようとする、堂々とした建築をふり仰いだ。
町の並びからちょっとひっこんで、だが傲然《ごうぜん》と、はばかる色なくそびえていた。家の外側は見えるかぎり、怪奇なゴシック趣味を凝《こ》らした、風変わりな模様で全部装飾されていて、それが、石灰や、小さい玉石や、ガラスの細片で造ったきらきら光る漆喰《しっくい》に、あるいは描かれ、あるいは型押しされていたし、壁という壁の木造部も、これでいちめんに埋め尽くされていた。どちらの側にも、七つの破風が空に向かって鋭く突き出ており、建物全体が、一本の大煙突の数個の気孔から呼吸している、姉妹建築の大殿堂のような外観を呈していた。小さいダイヤモンド型のガラスをはめこんだ、たくさんの格子窓が、広間や寝室へ日光を通していたが、それにもかかわらず、一方では、二階が、地階の上へぐっと張り出しており、そして二階そのものが、三階の下にひっこんでいるので、薄暗い、深い陰影を階下の部屋部屋へ投げていた。いくつかの彫刻入り木球が、張り出ている各階の下にくっついていた。小さいらせん形の鉄棒が、七つの屋根の先頂をどれもこれも美しくしていた。通りにいちばん近く面している破風の三角部には、ちょうどその朝取り付けたばかりの日時計があって、その盤の上には太陽が、これほどの快晴を恵まれたことのない、史上空前の輝かしい時刻の経過を絶えずしるしていた。あたりいちめんに鉋屑《かんなくず》、木片、屋根板や、また欠けたはんぱな瓦《かわら》が散らばっていた。こんながらくたが、掘り返されたばかりの、まだ草もはえかけていない土といっしょに、世間の毎日の話の種にいち早く仲間入りしてしまった家にふさわしい、見慣れぬ目新しい印象を助けていた。
表玄関は、ほとんど教会堂正面の戸ぐらいの幅があり、正面の二つの破風にはさまれた角にあった。そして囲いのない張り出し玄関におおわれて、その屋根の下にいくつかの長いすが置いてあった。入口のこのアーチの下を、少しもすり減っていない敷居の上に足を引きずりながら、今しも牧師たち、長老たち、高官たち、教会の執事たち、それから町や郡のあらゆる貴族たちが歩いて行った。そこへまた、庶民階級の人々も、上流の面々と同様自由に、そしてもっと大ぜいで、どやどやと、乗り込んだ。けれども、入口のすぐ内側にふたりの下男が立っていて、客の中のある人々を台所の近くへ行くよう指でさし示したり、他の人々を、自分で案内してりっぱなほうの部屋へ通したり――だれに対しても一様に丁重ではあったが、それでもめいめいの客の身分の上下をきびしく吟味して見ていた。ビロードの衣装、じみな色ながら高価な、折り目正しくたたんだ襞衿《ひだえり》や白いたれ衿、刺繍入り手袋、いかめしい顎《あご》ひげ、威厳ある風采《ふうさい》や容貌などが、その当時、高貴の紳士と、とぼとぼと足重な風体の小売り商人や、または、皮のジャケットを着込んで、おそらく自分が手伝って建てたこの家へ、恐る恐るそっとはいろうとしている労働者とを、簡単に見分けさせたのであった。
どうにも縁起の悪い事柄が一つあった。それが、礼儀作法にだれよりも気むずかしい数名の客の胸に、隠しようもない不快な気持ちを呼びさました。この豪壮な邸宅の創立者――四角張った、ぎょうさんな作法やふるまいで有名な紳士──はもうとっくに、必ず自身で広間に立って、自分の家の厳粛な新築祝いのために、わざわざこの場に臨席された実に大ぜいの高貴なお歴々に対し、まずもって歓迎の挨拶をすませていなければならないはずであった。その人物がまだ姿を見せていなかった。客の中でもいちばん親しまれていた人たちさえ彼の姿を見かけていなかった。ピンチョン大佐の側でのこのような怠慢は、この州第二の高官が姿を現わして、これ以上厳粛な儀礼がないとわかったときには、いよいよもって言いわけがたたなくなった。副総督の訪問が当日の光栄ある予定行事の一つであったというのに、彼は自分で馬から降りると、夫人を片鞍《かたくら》から助け降ろして、それから大佐の家の敷居をまたいだが、この家の奉公|頭《がしら》の出迎えしかなかったのである。
この人物――白髪頭《しらが》の、もの静かな実に神妙なものごしの男――は、自分の主人が今なお書斎かまたは私室にこもったままでいること、今から一時間前、主人が部屋にはいるとき、どんな事情があろうとけっしてじゃましてはならぬ、とはっきり意志を表明したことを、申し開きしなければならないと思った。
「おい、きさまはわからんのか?」と、この郡の郡長はその家僕を横へひっぱって行って言った。「このおかたがほかならぬ副総督様でいらっしゃるのだぞ。ピンチョン大佐を今すぐ呼んで来い! 大佐がイギリスから、けさ、手紙を数通受け取ったことをわしは知っている。それで、手紙を念入りに読んだり、思案したりして、思わず一時間も過ごしてしまったのかもしれない。それにしても、きさまの主人が、われわれのおもだった統治者のおひとりに、相応な儀礼を尽くさずにいるのを、きさまがみすみす捨てておくなら、きさまの主人はきっと立腹するぞ。しかもあのご仁《じん》は、総督ご自身がご不在の場合は、国王ウィリアム陛下のご名代と申されるおかたなんだ。すぐさまきさまの主人を呼べ!」
「いいえ、はばかりながら、郡長さま」と、その家僕はたいへん困惑して答えたものの、そのしりごみする様子には、ピンチョン大佐の家憲のきびしい、激しい性格をはっきり示していた。「手前の主人の命令は格別厳重なのでございます。それで、郡長さまご承知のとおり、主人に奉公の義務を持ちます召使どもの服従につきましては、主人はいささかのかっても容赦いたさないのでございます。どなた様か有志のおかたにあちらの戸をあけさせてくださいませ。たとい、総督様じきじきのお声がかりで命ぜられましても、手前はご免こうむります!」
「ふん、ふん! 郡長どの!」と副総督は叫んだが、彼はさっきからの問答を聞きつけていたのだった。そして自分はたいへん身分が高いのだから、ちょっとやそっと、威張って見せてもかまわない気持ちになっていた。
「その件はわしが引き受けよう。もはや大佐が出てきて友人たちに、挨拶しておらにゃあならん時刻だ。そうでなければ、今日のお祝いにどの樽《たる》の口を切ったらいちばんよいかと、あれやこれや思案のあげく、大佐所蔵のカナリヤ白ぶどう酒をあんまりなめすぎてしまったのではないかと、気をまわしてみたくなるぞ! だが大佐がこんなにぐずぐずしているからには、わしが自分で大佐に目ざましをくれてやろう!」
そこで副総督は、自分の重そうな乗馬靴の音が、七つの破風のいちばん遠い所までも自然と聞こえたろうと思われるほど、がたがた踏み鳴らしながら、家僕が指さした戸に向かってつかつか進み、その新しい羽目板を、大きく思いきりノックして響かせた。それから、傍観している人々へくるっとふり向き、にっこり笑って、返事を待った。しかし、さっぱり応答がなかったので、彼は再びノックした。がやっぱり最初と同じ不満足な結果に終わった。それでこんどは、生まれつき少々かんしゃく持ちなところから、副総督は手にした剣の重たい柄を振りあげ、それで扉を続けざまにどんどんたたいたので、そばで見物していただれかがささやいたように、その騒々しさは死者の眠りをさえじゃましたくらいだった。
それはともかく、そうしてさえピンチョン大佐の目をさます効果をあげた様子はなかった。その音響が静まったとき、大ぜいの客の舌の根が、隠れてこっそり飲んだ一杯二杯のぶどう酒やブランデーのため、すでにゆるんでしゃべりはじめていたにもかかわらず、静寂が家の隅までふかぶかと、わびしくも重苦しく、行き渡っていた。
「奇態《きたい》だな、確かに! いかにも奇態だ!」と副総督は叫んだが、その微笑は不きげんな顔に変わっていた。「だが客をもてなす当のあるじが、礼儀を失念するよい模範をわれわれに示すからにはわしも同じように作法をかなぐり捨てて、かってにあるじの私室へ推参するとしよう!」
副総督は扉をあけようとした。すると扉は簡単にずるずると動き、ついでおりからの一陣の突風にさっとあけ放たれた。それは大きな音でため息をつくように、いちばん外の玄関から、この新屋敷のあらゆる廊下、あらゆる部屋を吹き過ぎた。風は貴婦人たちの絹の衣装をさらさら鳴らし、紳士たちの鬘《かつら》の長い巻き毛を波立たせ、寝室の緞帳《どんちょう》やカーテンをゆるがした。そしていたるところに異様なざわめきを巻き起こしたが、それがかえって、むしろ騒ぎの後の静寂に似ていた。畏怖《いふ》心やらなかばもの恐ろしい予感やらの一抹《いちまつ》の暗い影――何のためか、また何を恐れてか、だれひとり知る者はなかった──がたちまち居合わせた一同の者におおいかぶさってしまった。
それでも、一同は今あいたその扉へどっと押し寄せたが、激しい好奇心に駆られて、副総督をまっさきに部屋の中へ押し込んだ。最初ちらりとながめたとき、だれもなんの異状も認めなかった。りっぱに家具が備わっている、手ごろな広さで、カーテンのためいくらか暗がりの部屋。書棚にずらり並んだ本。壁に掛かっている大きな地図と、同じように壁にかけたピンチョン大佐の肖像画。そしてその絵の真下に当の大佐自身が、樫の木の肘《ひじ》かけいすに、ペンを片手に、すわっていた。いくつかの手紙や、羊皮紙や、数枚の白紙が、前の卓上に載っていた。大佐は、副総督を先頭に突っ立っている、もの見高い群衆をじっとにらんでいるようだった。その陰気なかさばった顔は、険しく眉をしかめていて、あたかも、自分の奥まった私室の中まで侵入した厚かましさを、きびしくとがめているかのようであった。
ひとりの小さな男の子――大佐の孫、そして大佐と平気でなれなれしくふるまえる、たったひとりの人間──が、今しも大ぜいの客の中から進み出て、座像の人に向かって駆けよった。かと思うと中途で足を止め、ぎょっとして金切り声で叫びはじめた。客一同は、まるで枝葉をいっせいにそよがせている、一本の樹木の葉群《はむら》のようにぶるぶる震えながら、もっと近寄った。すると、ピンチョン大佐のぐっとにらみすえた視線が不自然にゆがんでいることや、襞衿《ひだえり》に血が付いていること、さらにまっ白な顎ひげがべっとりと血にまみれていることが認められた。もはや手おくれで助けようがなかった。かの冷酷非情の清教徒、仮借しない迫害者、強欲な頑固男、それがこときれていた! 死んでいたのだ、自分の新築した家で! 一つの伝説が残っているが、それは、おそらくそんな伝説がなくとも十分陰惨な場面へ、一抹の迷信的な恐怖を与えるものとして、それとなく暗示する価値しかないものであるが、それはこういっている。客の中から一つの声が、あの死刑になった魔法使い、マシュー・モール老人の声色《こわいろ》そっくりに──「神さまはあいつに血を飲ませなさったのだ!」――と高らかに呼ばわったというのである。
こんなにいち早くあのひとりの客人──いつかは必ずどの人間の住まいにもはいり込むただひとりの客──その死神がこんなに早く「七破風の屋敷」の敷居をまたいできたのだった!
ピンチョン大佐の突然な、謎の最期はその日のうちにたいへんな騒ぎとなった。いろいろな噂が立ったが、その中には今日までおぼろげに伝えられているものもある。どう見ても様子が凶行の跡を示していて、彼ののどもとには指の跡があり、襞衿には血まみれな手の型がついていたとか、また、顎ひげのとがった先が、いかにも乱暴につかまれてひっぱられたかのように、くしゃくしゃに乱れていたとか、いうのであった。同じように、大佐が掛けていたいすのそばの、格子窓が開いていたとか、また、その殺人事件が起こるわずか数分前、ひとりの男が、家の裏手の庭垣をよじ登っている姿が見つかったとか、まことしやかに断言された。しかしこのような話を少しでも力説するならば、ばかげていよう。そんな話は今述べたような事件の回りにはきっと芽を出すものだし、また、現に今の場合のように、幾星霜の後まで長く残ることがしばしばあって、ちょうど茸《きのこ》が、一本の樹幹が倒れてうずまり、とうの昔、腐植土になってしまったその場所を暗示しているようなものである。われわれとしてみれば、もう一つの話、つまり、副総督は、一本の骸骨の手が大佐ののどを扼《やく》しているのを見たのだけれども、彼がさらに部屋の中へ踏みこんだとたんに、消えうせてしまったという、そんな作り話と同様に、こういう話には、ほとんど信用が置けないのである。だが、確かなことは、大佐の死体に関して医者たちが大げさな診断や議論を行なったことである。その中のひとり──ジョン・スウィナトンという名前――は高名の人物であったらしいが、その病名を、もしわれわれが彼の医学的専門用語を正しく理解したものとすれば、卒中症例であると決定した。同僚の医者たちは、めいめいかってに、多少とももっともらしい、さまざまな臆説《おくせつ》を採択したが、いずれも人の心を惑わす神秘めいた言葉のあやで飾られており、そのような言葉は、たとい、これらの博学な医学者たちの心の困惑を示すものではないにせよ、医者の意見を綿密に吟味しようとする無学の素人《しろうと》には困惑の種であることは確かである。検死陪審員たちは死体を検査し、そして、いかにも分別くさい人々らしく、けっして異論をさしはさむ隙《すき》のない「急死!」という評決を答申したのであった。
いったい、殺人事件の重大な容疑があったはずだろうにとか、加害者として特にだれかを事件と結びつける根拠が、いくらかでもあっただろうに、とか想像することはまことに困難である。故人の身分や財産や、高名の人物ということから、どんなあいまいな事情にも、この上なく厳重な吟味が手落ちなく行なわれたに相違ない。こういう事がいっさい記録にないところから、こんな容疑は全然なかったと推測するほうが安全である。伝説──それは歴史がうっかり見のがした真理を伝えることも時にはあるが、それよりも、昔炉辺で噂されたような、当時の根も葉もないむだ話が、今は新聞に載って凝り固まることがいっそう多いのである――そういう伝説が、あらゆる反対な事実の主張に対して責任があるのだ。ピンチョン大佐葬儀の際の説教は、印刷されて今も残っているが、その中で、牧師ヒギンスン氏は、この傑物の教会員が送ったこの世の生涯の天福をたくさん列挙したが、とりわけ彼の死がめでたく時を得たものであったと述べている。大佐の義務はことごとく実行され――最高の繁栄は達成され──一族もその未来の世代も安定した土台の上に据えられて、幾世紀の末かけて住まいとする壮観な屋根をいただいた──この善人に残された、次に踏み登る向上の一歩は、地上から天の黄金の門にいたる最後の一段を除いて、他に何があろう! もしもこの敬虔《けいけん》な牧師が、たといわずかな疑念であれ、大佐が乱暴にのどもとを扼《やく》されて、むりやりあの世へ突っ込まれたのであると疑っていたなら、きっとこのような言葉を吐くことはなかったろう。
ピンチョン大佐一家は、大佐の死後まもなくの時代には、人間の身に必定な無常とけっして矛盾しないかぎり、永久に幸福な運命を約束されているように思われた。時の歩みが、一家の繁栄をすり減らし、滅ぼしてしまうどころか、反対にますますふやし、充実させると予想するのが正しいかもしれなかった。というわけは、大佐の跡取り息子が、莫大な遺産をすぐさま享有できたのみならず、インディアンの土地権利証書のおかげで、その後マサチューセッツ州議会の承認によって確認されたきわめて広大な、そしていまもって探検も測量も行なわれていない東部地域に対する請求権があったからである。これらの所有地──というのは所有地と考えたってまずまちがいないであろうから──現在、メーン州のウォルドー郡として知られている土地の大部分を占めており、そして、ヨーロッパ大陸にある多くの公爵領、いや、現イギリス国王の公国よりも広かった。この未開の公国を今なおおおっている人跡未踏の大森林が、金色に咲き誇る豊饒《ほうじょう》な人類文化と交代するその暁──おそらく今から何年も遠い先のことではあろうが、必ずそうなるに違いない──それがピンチョン家の子孫にとって測り知れない財源となるであろう。もしも大佐がわずか数週間生き延びていたら、国の内外に及ぶ、彼の偉大な政治勢力と有力な背後関係とでもって、土地請求権を有効とするに必要ないっさいのものを完全にしていたであろうに、と思われるのである。しかし、牧師ヒギンスン氏の雄弁な祝福の演説にもかかわらず、このことだけが、あれほどの先見の明と、あれほどの機敏な才がありながら、ピンチョン大佐が、中途はんぱなままにしておいたただ一つの事に思われた。この将来の領土に関するかぎり、彼が早きに過ぎて死んだことは、議論の余地がなかった。彼の息子は父親のような高い地位を持っていなかったばかりでなく、地位を得ようとする才能にも、また強固な性格にも欠けていた。そのため政治のはぶりをきかせてみたところで、なんの効果もなかった。それにその請求権のまっとうな正当性とか、あるいは合法性とかは、大佐が死んでみれば、生きているときに言明されていたほど、はっきりしたものではなかった。中間につながるある書類が証拠物件から抜け落ちてしまって、どこを捜しても発見されなかった。
なるほど、ピンチョン家の人々が、その当時のみならず、その後ほとんど百年もの間、いろいろな時期に、あくまで自分たちに権利があると執拗《しつよう》に思いこんでいる土地を手に入れようと、さまざまな努力を重ねたことは事実である。しかし、時がたつにつれて、その領土の一部は、もっと顔のきく人物に改めて交付され、また一部は実際に植民した人たちの手で開墾されて、取られてしまった。これらの植民者たちは、たといピンチョン家の土地所有権のことを今さら耳にしたところで、自分らや、祖先たちが、自身のたゆまぬ労苦によって、自然の荒くれた手からようやくもぎ取ったその土地に対して、何者であれ所有権を──とうの昔に死んで忘れられている総督や議員などが、消えかかった文字で署名している、かびくさい羊皮紙証書をたてにとり──主張しようなどという考えを笑い飛ばしてしまったろう。そのため、この空虚な請求権は、なんら実質的に役だったことはなく、ただ、家柄をひどくうぬぼれる愚かな妄想を、代々、育てただけであった。この妄想は一族のどんな貧しい者にも、まるで自分が貴族らしい家を受け継いで、それを支える王侯ほどの財産が今にもころがり込んでくるかのような気持ちを起こさせた。親族のうちすぐれた素質の人々の例では、この特色は、真に価値ある麗質を少しも盗み去ることなく、人生のきびしい素材に、ある理想的な優美を投げかけた。素質の劣る人間の場合では、この特色の効果は、懶惰《らんだ》と依頼心に走る傾向を強めることであり、むなしい希望の犠牲者が自分の夢の実現を待ち望んでいる間に、あらゆる自発的な努力をなくすようにしむけることであった。請求権が世人の記憶からすっかり忘れられてからも、何年も何年もの間、ピンチョン家の人々は、ウォルドー郡がまだ未開墾の荒野であったころに作られた、大佐の古めかしい掛け地図を調べるのが習慣になっていた。昔の土地測量技師が森林や、湖水や河川を書き入れた場所へ、人々は、開墾地を区画したり、村や町を点々と印したり、その領土のぐんぐん高まる地価を計算したり、まるで、自分たちの力でそこに公国を造る見込みがまだあるかのようであった。
それにもかかわらず、ほとんどいつの世代にもピンチョン家の子孫のだれかひとりが、偶然に、この家の開祖のじつに驚くほど顕著な特色となっていた冷酷で鋭敏な思慮や、実際的な活動力の天分を受けて生まれていた。実際、このような性格の人物はきわめて明瞭にどこまでも跡づけることができて、まるで大佐自身が、いくぶんか薄められて、一種の間欠的な不滅の生命をこの世に受けているかと思われるほどであった。二度か三度、家運の衰えた時期に、この遺伝的特性を受けた代表者がこの世に現われて、町の伝説を陰口する人たちが仲間どうしで、ひそひそささやく噂の種となった。――「そら、ピンチョン老人の再来だぞ! 今に七破風の屋根が新しく葺《ふ》き変わるぞ!」
父から子へと、この人たちは、独特な粘《ねば》り強い、家に対する執着から、この祖先の家にしがみついていた。しかし、いろいろな理由から、また、根拠があいまいなのでとても紙上に発表できないけれども、たびたび受ける印象から、作者は心の中で、この家の資産を代々受け継いだ人々のうち、大部分とはいえないまでも、多くの人が、財産を所有する道徳的権利についての疑惑のために苦しめられたのだと、信じている。法律上の所有権については疑問のあるはずがなかった。けれども、マシュー・モール老人が、その生きていた時代からはるかのちのちの時代まで、始終、ピンチョン家の人の良心へ重い足を突き立てて、踏みつけてきたと思われる。もしそうだとすると、それぞれの財産相続人が──あやまちを知りつつ、しかもこれを正すことができなくて──自分の先祖の大罪をあらたに犯し、そして、本元からの罪をあがなういっさいの義務を負いはしなかったか、という恐ろしい疑問を片づけることがわれわれに残されている。それで、もしこれが真相であるとするなら、ピンチョン家に関しては、この人々は幸福どころか、たいへんな不幸を受け継いだというほうが、はるかに真実に近い表現ではなかろうか?
さきに暗示したように、われわれの目的はピンチョン家の歴史を、「七破風の屋敷」との絶え間ない関係からたどってみようとすることではない。あるいはまた、魔法の絵でも見るように、古い歳月の錆《さ》びと衰えが、どんなふうに古色|蒼然《そうぜん》と家に降り積もっているかを見せることでもない。家の中の生命ともいうべきものといえば、一つの大きな、曇った姿見が部屋の一つにいつも掛かっていて、そしてその鏡の奥深くには、今までにそこで影を映したあらゆるものの姿が──老大佐自身もまた大佐の多くの子孫たちも、ある者は幼児の衣装に包まれ、他の者は女盛りの美しい花の装いや男盛りの若姿で、または白い霜や皺波《しわなみ》の悲しい老い姿で――納められてあると、まことしやかに言いふらされていた。もしわれわれが、そんな鏡の秘密を手に入れたなら、喜んで鏡の前にすわりこみ、鏡が見せるすべての像をこの本に書き写したいものである。
しかし、根拠のほどはわかりかねるのであるが、こんな噂があった。マシュー・モールの子孫が、その姿見の秘密と何かの関係があり、一種の催眠術らしい方法で、鏡の中の世界を、死んだピンチョン家の人々で大にぎわいさせることができるというのであった。人々の姿は、昔世間に見せていた姿でもなく、また、勢い盛んな幸福な時代のものでもなくて、ある罪の行為をくり返し犯しているときの、あるいは人生の悲痛きわまる危機の際の姿であったという。  世間一般の人たちは、ほんとうに、清教徒のピンチョン老人と、魔法使いの男モールの事件について長い間盛んに想像をめぐらせていた。後者が絞首台から投げつけた、例ののろいの言葉は、それがもうピンチョン家の遺産の一部となってしまったなどと、実に大げさな尾鰭《おひれ》をつけて記憶されていた。たとえ、家族のひとりがのどをごろごろ鳴らしただけでも、そばに居合わせた人は、冗談ともまじめともつかず、きっとこうひそひそと話したろう──「あの男はモールの血を飲まされたぞ!」
ピンチョン家の家族のひとりが、今からおよそ百年前、ピンチョン大佐の死について取《と》り沙汰《ざた》されているのとほとんど同じ死にざまで急死を遂げたことは、こういう話題について世間が認めている考え方を、ますますさもありそうなこととしてしまった。そのうえピンチョン大佐の画像が――大佐が遺言状に定めたとおりになっているといわれていた──その男の死んだ部屋の壁にしっかと取りつけたままになっているのが、いまわしい不吉な事と考えられていた。いかめしい、少しもやわらぎのないその顔だちは、ある邪悪な感化力を象徴しているように見え、その表情の幽気は、刻々移りゆく時の日影ときわめて暗く混じり合い、その部屋ではどんなりっぱな思想も意図も、芽を出し、花を開くことがけっしてできないように思われた。思慮深い人に向かってなら、なくなった先祖の幽霊が――おそらく本人が受けなければならない天罰として──その家の「悪霊」となる運命はよくあることだ、と断言しても、われわれが比喩的に言っている話から少しも迷信らしい色合いを感じないであろう。
ピンチョン家は、要するに、ほとんど二世紀もの間、同じころ、ニューイングランドのたいていの他の家々を見舞った運命の浮き沈みを、おそらく表面的にはさほど受けずに暮らしてきたのである。ピンチョン家固有のきわめて特異な気性を持っていながら、やはり、彼らが住んでいた小さい社会の一般的な特色も持っていた。町の人は倹約好きで、思慮深く、秩序正しく、そして家庭を愛する住民であることも、また同時に、人々の同情心がいくらか狭く、限られていることも知られていた。しかし、その町には、おそらくたいていのよその土地ではめったに出会わないような、風変わりな人間がいたり、また時々、異様な事件が起こったりするのである。アメリカ革命戦争のさなか、当時の戸主ピンチョンは王党派を選んだため、亡命者となった。しかし、悔い改めて再び姿を見せたため、「七破風の屋敷」は危いせとぎわに没収を免れたのであった。この七十年間の、ピンチョン家の年代記でいちばん有名な事件も、やはりこの一族に今まで降りかかったことのないほど大きな災難であった。
ほかでもない、同家の一員が、もうひとりの同じ身内の者の手にかかって、横死──そういう判決が下されたものだから――を遂げたという事件であった。この殺人事件にまつわるいくつかの情況が、その犯行を、死亡したピンチョンの甥《おい》のしわざであると、いやおうなしに決めてしまったのであった。その青年は裁判で有罪と宣告された。けれども、その証拠が情況性のものであり、それでおそらく知事の胸に多少の疑惑が潜んでいたためか、または、つまりは──言論の力は、君主国の下にあった場合よりも、共和国内のほうが、はるかに重んじられたから──犯罪者と縁故の人々の名望や政治的勢力がものをいったのか、判決を死刑から終身懲役に減刑したのであった。この惨事は、この物語の本筋が始まるおよそ三十年前、たまたま起こったのであった。近ごろ、噂が流れて(それを信ずる者はほとんどなく、たったひとりかふたり、非常な興味を感じただけであった)長い間葬られているこの囚人が何かの理由で、どうやらその生者の墓場から呼び出される模様だというのであった。
今はほとんど忘れられてしまったこの殺人事件の被害者についてひと言ふた言話しておかなければならない。その人は独身の老人で、昔ピンチョン家の全財産となっていた家と不動産のほかにも大した資産を持っていた。風変わりな、憂鬱《ゆううつ》な性分であったし、また夢中になって古文書をあさったり、昔の口碑伝説を聞いたりした結果、彼は、かの魔法使いの男、マシュー・モールは生命を奪われたのではないにしても、自分の宅地から不当に放逐されたのだと結論する気になった、とはっきりいわれている。こうした事情であるし、それに彼は独身の老人で、不法につかんだぶん取りもの――黒い血のしみがその芯《しん》までしみ通り、今でも良心の鼻先に嗅ぎつけられているもの──を持っているので、たといこんなにおそまきではあっても、モールの子孫に損害賠償するのが、自分にとってどうしても避けられぬ義務ではないか、という疑問が起こった。隠遁《いんとん》した好古家の独身老人として、過去にのみ生活し、ほとんど現在に生きていない人にとって、一世紀半の歳月は、悪を捨てて正義を採ろうとする義理をなくしてしまうほど、長い期間とは思えなかった。彼を最もよく知っている人々が信じていたことは、もしこの老紳士の意図が気《け》取られて、ピンチョン家の親族間になんともいいようのない大騒動が持ち上がらなかったら、彼は断固として「七破風の屋敷」をマシュー・モールの代理人に譲り渡そうとする、まことに奇抜な処置を採っただろう、というのであった。親類一同がほねおった結果、彼の企図は一時保留となった。それでも彼が死んだ後も、自分の遺言書の効力を利用して、生きているとき、実施の寸前にはばまれてしまったそのことを、やり遂げはしまいかと不安がられたのだった。しかしながら、たとい何に刺激されようと、また何にそそのかされようと、人が先祖伝来の財産を自分の血筋から手放して、他人へ遺贈することほどまれな行為はない。人々は自分の身内よりも赤の他人をはるかにかわいがるかもしれない──人々は、前者に対し、嫌悪をさえ、いや、もっと積極的に憎悪をいだくかもしれない。それでいて、死ということを思いめぐらせば、近親の持つ頑固な偏見が息吹き返して、遠い昔からまるで自然のように見える習慣が決めているとおりに、自分の血筋に財産を譲るよう遺言者を促すのである。ピンチョン家の人たちみんなの心の中に、この感情が病気のように根強い力を張っていた。それには独身老人の小心な気休めなどがとてもかなうわけはなかった。したがって、老人が死ぬと、その邸宅は、彼が持っていた大部分の他の財産といっしょに、次の法定相続人の所有となった。
この者は甥であって、叔父殺しと宣告されたいたましい青年の従兄であった。その新しい相続人は、家督相続するころまでは、むしろ放蕩《ほうとう》な若者と考えられていた。しかしたちまちぴたりと身持ちを改めて、非常にりっぱな社会の一員となった。まったく彼は、先祖の清教徒の時代このかた、一門のだれよりも、ピンチョン家の特性を最も発揮し、そして最も立身出世していた。彼は成人したばかりのころ、もっぱら法律を勉強していたし、また生まれつき気質が役人に向いていたので、今から何年も昔、ある下級裁判所の判事の地位につくことができたが、このことが彼に一生の間、判事というじつに望ましくまたいかめしい肩書を与えたのだった。その後、政界に乗り出して、州議会の両分科会での実力者となったうえ、国会で二期の一部を勤めた。
ピンチョン判事はいうまでもなく彼の一門にとって名誉であった。彼は生まれた町からわずか数マイル離れたいなかに本邸を建てていた。そしてその家で、彼が公務からさくことのできた余暇を、キリスト教徒、りっぱな市民、園芸家、そして紳士にふさわしいありとあらゆる慈悲と美徳──ある新聞が、選挙の前日、このとおりの言葉でいい表わした──を見せびらかすのに費やした。
ピンチョン家の人々のうち、生きて判事の輝かしい栄華に浴することができた者はほとんどいなかった。子孫出生の点では、この一族はけっして繁栄しなかった。むしろ死に絶えていくようにさえ思われた。現在生きているとわかっている家族はほんのわずかで、まず、判事その人それからたったひとり生き残っている息子で、目下ヨーロッパ旅行中であった。次に、さっきちょっと触れた三十年懲役中の囚人と、この男のひとりの妹であった。この妹は、例の独身老人の遺書のおかげで、終身不動産権を持っている「七破風の屋敷」に、極端に人目を避けるようにして住んでいた。彼女がみじめなくらい貧乏でいることは知られていたが、それでも好きかってに貧乏していると思われていた。それというのは、裕福な従兄の判事が、彼女に向かって、古い邸宅か、または彼が住んでいる現代ふうな住宅か、どちらかに住めば、あらゆる安楽な生活を提供しようと何回もくり返し勧めたからであった。最後の、そしていちばん若いピンチョンは十七歳のかわいらしいいなか娘で、判事のもうひとりの従弟の娘だった。この従弟は家や財産のない若い女と結婚したが、まだ若いのに、しかも貧しい境遇で死んでしまった。その未亡人は、最近二度めの夫を迎えたばかりだった。
マシュー・モールの子孫については、今は死に絶えたものと思われていた。しかし、例の妄想に駆られた魔女裁判があってから、ずいぶん長い間、モール家の人々は、自分たちの先祖がはなはだ不法な死刑に処せられた土地の、その町に住み続けていた。どの点から見ても、この人々は穏やかで正直で、善意の人たちばかりであって、自分たちに加えられた不当な行為のために、個人や一般の人々に対して恨みをいだくことはなかった。また、たとえ彼らが炉辺で、父から子へと、かの魔法使いの運命や、失われた世襲財産について、敵意に満ちた、どんな思い出を語り継いだにしても、それを根にもって行動することもなければ、また公然と言い出すこともなかった。それにまた、「七破風の屋敷」が、自分たちの正当に所有していた土台の上にその重たい骨組みを載せていることを、たとえ彼らが思い出さなくなったとしても、なんら不思議ではなかったろう。しっかと安定した高い地位や大きな財産をしのばせる外構えには、何かしらがんじょうな、微動もしない、そして有無《うむ》をいわさぬばかりの威圧が備わっているため、現にこのとおり存在しているのだから存在する権利があるのだと、いわんばかりのようである。少なくとも、権利の偽装があまりに巧みなため、貧しく卑賎なほとんどの人々は、心ひそかにさえも、それを問題にするだけの強い道義心を持ち合わさないのである。これが、昔あった多くの偏見がおおかた打ち破られてしまったあとの、今日の実情なのである。それで、貴族がだれはばからず傲慢《ごうまん》にふるまうことができ、そして下層民が甘んじて卑しめられていたアメリカ革命以前の時代では、はるかにもっとひどかった。こんなわけで、モール家の人々は、なんにしても、その忿懣《ふんまん》を自分たちの胸にたたんで出さなかった。
この人々はおしなべてひどい貧乏だった。常に平民でいて世に埋もれていた。手職の仕事に精を出しても、はかばかしくはなかった。波止場人足をやったり、または、平《ひら》水夫として船乗り稼業もやった。町内を転々と、間借りしながら移り住み、老人たちの自然な住居として、とうとう養老院までやってきた。そのあげく、いわば、そんなに長い間、暗い運命の泥沼の危ういふちをはいずりまわった末、この人たちは、すっぽりと完全に沈没してしまった。このような運命は、遅かれ早かれいつかは、王侯と庶民の区別なく、すべての家がたどる運命なのである。過去三十年の間、町の登記簿も、墓碑も、土地の住民録も、また人の知識や記憶さえ、マシュー・モールの子孫の足跡を全くとどめていなかった。彼の血を引く者があるいはどこかよその土地に生きているかもしれなかった。がここでは、その下賎な素性をどこまでも遠く昔へさかのぼることができるのに、ここから先の流れは全くと絶えてしまっていた。
モール一族のだれであろうと目に止まった限りでは、遺伝的な、打ち解けぬ気性のために、他の人々からは区別され──目だつほどではなく、またくっきりと鋭い線ほどでもなくて、噂されるというよりは、むしろ感じ取られるくらいの印象で――隔てられていた。この人々の仲間や、あるいは仲間になろうと努める人たちは、モール家の人々が自分の周囲に一つの輪を巡らしていて、表面いかにも率直で親密そうでありながら、だれもその神聖な、あるいは呪術《じゅじゅつ》の輪の中に踏み入ることができないことに気づいてきた。おそらく、他人の扶助からこの人たちを孤立させ、いつもあれほど不幸な生活に陥れていたものは、じつにこのなんとも形容しがたい、独特な性質であったろう。この人たちの場合、この性質が働いて、町の人々がいだいている嫌悪や迷信的な恐怖の感情を長引かせ、また、この感情が、この人たちにただ一つの遺産であると確認させたことはまちがいなかった。そのような感情で、町の人々は、逆上から目ざめたあとでさえ、魔法使いと噂された者たちの記憶をいつまでも思い続けた。マシュー・モール老人の衣鉢《いはつ》のマント、というよりもむしろぼろぼろの外套が、彼の子孫に降り落ちたのだ。彼の子孫たちは何か神秘的な性質を受け継いでいると半ば信じられていたし、モール一家の目は、不思議な力を持っていると噂されていた。他のいくつかの役にたたない性質や特権がある中に、とりわけ一つのものがこの人たちに授けられていた。すなわち、人々の夢に対してある霊力を働かせる能力であった。どの話も皆ほんとうだとすると、ピンチョン家の人々は、生まれた町の真昼の街路で高慢顔にふるまっているものの、あべこべに眠りの国にはいるやいなや、こんな平民のモール家へ売られた奴婢《ぬひ》に等しかったのである。現代の心理学は、たぶん、死霊と交通すると称するいろいろな巫術《ふじゅつ》を整理し、全くの作り事として排斥せずに、一つの体系にまとめるように努力するだろう。
一節か二節、七破風の邸宅のさらに最近の模様を述べるなら、この序論の章は終わりとなる。この邸宅が古びた七つの先頂をそびえ立たせている町通りが、この町の上流人の住宅地でなくなってからもう久しい。それで、この古い大きな建物が当世ふうの住宅に取り巻かれてはいるけれども、そんな家はたいてい小さく、完全な木造建てであって、最もあくせく働いている一般庶民生活を代表しているものばかりである。それでも、むろん、人生の完全な物語が、こうした家の一軒一軒に隠されているのであろうが、ただ、表面はいかにも見ばえがせず、そこに物語を求めようとするほどの想像力や同情をひきつけないだけである。ところがわれわれの物語のこの古い建物については、その白樫材の木骨、板、屋根板、またくずれかけた壁土、さらに中央の巨大なたばね煙突でさえ、その建物の真の実体のほんの最小極微の部分しか構成していないように思われた。人間のいろいろさまざまな、あまりにも多くの経験がそこでなされたので──おおかたは苦難であったし、またいくぶんかは、享楽もあった──木材ですら、悲しみの涙でしめったようにじくじくぬれていた。家そのものが、人間の偉大な心のように、自己の生命を保ち、豊富な陰鬱な思い出にみちみちていた。
ぐっと深く張り出た二階はこの家に一種の瞑想的《めいそうてき》な風貌を与えるので、この家が多くの秘密を持ち、また教訓に盛り上げられる波瀾に富んだ歴史を蔵している、と考えずに通り過ぎることはだれもできなかった。まん前の、舗装してない歩道のちょうど端に「ピンチョン楡」が生えており、その木は、人が普通に出会う樹木と比べるなら、十分巨木と呼ばれるものであった。この木は初代ピンチョンの曾孫が植えたもので、それで、もう八十歳か、いやおそらく百歳近くであるけれども、今なお勢い強く発育盛りで、街路の端から端まで陰影を投げ、七つの破風を高くしのぎ、そしてこんもりとたれ下がる枝葉は、黒い屋根を全部すれすれにおおうばかりだった。その木はこの古い大邸宅に美観を添え、その建物を自然の一部としているように見えた。ここの通りはほぼ四十年前に広げられたので、正面の破風は、現在、通りとちょうど一直線になった。両側に目の粗《あら》い格子細工の、壊《こわ》れかけた木の垣根が延びており、この垣根の目をすかして草深い庭と、それから特に建物の隅々《すみずみ》に非常に大きく繁茂した牛蒡《ごぼう》が、二、三フィートといっても誇張でない、長い葉をつけているのを見ることができた。家の裏手に庭がある様子だった。その庭は、背は明らかに広かったのだが、今はよその外囲いのために侵入されたり、または別の通りに立っている住宅や付属の建物に封じ込められていた。
もしわれわれが、窓の出張りの真上や、屋根の斜面に、長い年月生えている青々とした苔《こけ》を忘れるようなら、なるほど、事はささいでも、許しがたい手落ちとなろう。またわれわれはどうしても読者の目を、煙突からそう遠くない、二つの破風にはさまれた片隅《かたすみ》に空高くおい茂っている、雑草ではなくて栽培した花卉《かき》へ、きっと向けさせなくてはならない。
これは「アリスの花束」と呼ばれていた。それについての伝説はこうだった。アリス・ピンチョンという婦人が、戯れに、その花の種子を投げ上げた。すると道路のちりほこりと屋根の腐れとが、しだいに種子を育てる土壌のようになり、その土から花は大きく育ったが、そのずっと前にアリスは墓場の人となっていた、というのであった。そんな場所に花が咲くようになった由来は何であろうと、自然の女神がどういうふうにピンチョン家のこの荒れ果てて、朽ちてゆき、色さびた古屋敷をみずから養い育てたか、また、永久に巡りくる夏がいかに最善を尽くして、その屋敷を優艶《ゆうえん》な美で飾ろうとしたか、そしてその努力にもかかわらず、憂鬱になっていったかを観察してみると、悲しい思いも、またなつかしい思いもするのだった。
ほかにもう一つ、どうしても注意しなければならない特徴がある。しかし、そのものは、われわれが、このりっぱな大邸宅の写生に投げかけようと心がけてきた、ある美しい絵のようなロマンチックな印象を傷つけはしないかと、たいへん気づかわれるのである。正面の破風の、額のようにぐっと突き出した二階の下に、表通りと接して店戸《たなと》がついていた。それは、中央から水平に二等分され、その上部が窓になっている、やや昔の住宅にはたびたび見受けられるものであった。この店戸こそ、堂々といかめしい「ピンチョン屋敷」に今住んでいる女当主にとっては、彼女の先祖のある人々にとっても同様だったが、一方ならぬ屈辱の種であった。この問題は実に微妙で、不快なくらい扱いにくいものである。けれども、読者にはどうしてもその秘密を打ち明けなければならないので、どうか次のように理解していただきたい。
今から百年ほど前、ピンチョン家の主人が、大きな経済的|破綻《はたん》に巻き込まれていることを知った。この男は(紳士、と自称はしていたが)まずもって本物ではない、一種のもぐり商人にほかならなかったはずである。というわけは、イギリス国王から、あるいは国王任命の総督から官職を得ようともせず、また、東部の土地に対する先祖伝来の請求権を主張しようともせずに、彼は先祖代々の住宅の横っ腹に店戸をくり抜くことよりほか、もっと上手に財産を積む方法を思いつかなかったからである。なるほど、商人たちがそれぞれ自分の住家に商品をたくわえ、また取引きもするのが当時の習慣であった。けれども、このピンチョン老人が、自分で販売事業を始めたそのやり口には、何かあさましいけちなところがあった。彼は、しわくちゃだらけなのもかまわず、自分の手で、いつも一シリング銀貨へ釣り銭を手渡すし、本物か贋金《にせがね》かを確かめようと、半ペニー銅貨を二度ひっくり返す癖がある、などとひそひそ陰口されたからである。確かに、どんな経路をたどってそこまできたにせよ、彼の血管にはけちくさい行商人根性の血が流れていた。
彼が死ぬとすぐさま、その店戸は錠を降ろされ、掛け金をかけられ、閂《かんぬき》もさされた。こうしてこの話が始まる時までは、おそらく一度も開かれたことはなかったろう。その小さな店の古い帳場、棚、その他の備品は、彼が残して去ったそのままになっていた。死んだ店の主人が、白い鬘《かつら》をかぶり、色あせたビロードの上着を着て、エプロンを腰に、そして両方の手の襞飾《ひだかざ》りを手首から注意深く折り返して、自分の銭箱を引っかき回したり、日記帳のすすけたページを夢中になって読んだりしている姿が、一年じゅうどんな晩でも、雨戸の隙間から見られると、きまって人々は語るのだった。彼の顔に浮かぶなんとも言い表わしようのない悲痛な表情から、彼が会計簿の帳尻を合わせようとして、永遠にしがない努力を続けるのが彼の宿命であるように思われた。
さてこれから──ごらんのとおりの、まことにつたない話しぶりだが――いよいよこの物語を始めることにする。
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二 小さな陳列窓
日の出までまだ半時間あった。その時ヘプジバー・ピンチョン嬢は──目をさましたとはいうまい、気の毒にこの婦人は、いったい真夏の短い夜の間に目を閉じたかどうかさえ疑問だったから――しかし、ともかく、ひとり寝の枕《まくら》から起き上がって、そして身なりを飾る、といえば笑いぐさになりそうなおつくりを始めた。われわれは、たとい空想にすぎないにせよ、未婚婦人の化粧に立ち会うようなぶしつけなふるまいはまっぴらなのである! そこでこの話は彼女の寝室の敷居のところでヘプジバー嬢を待ち受けていなければならない。ただこうしている間、彼女の胸から絞り出される重苦しい何回かのため息を、その悲しみの深さや息づかいの音については遠慮なく、思いきって書き留めるだけである。なぜなら、その吐息は筆者のような、姿なき聴者でなければだれも聞き取ることができないからである。
その「老嬢《オールドミス》」はたったひとりでこの古屋敷に住んでいた。ひとり暮らしとはいっても、彼女のほかに、ある上品な、身じまい正しい青年で、銀板写真をやっている芸術家がひとりいた。その人は、この三月ほど前から、離れた破風《はふ》の一つ――実際的には、独立した全くの一軒家──に、中仕切りの扉全部を鍵、掛け金、また樫の閂でしめきって、宿泊者となっていた。したがって、気の毒なヘプジバー嬢の荒い吐息は聞かれなかった。彼女は寝床のそばで膝を曲げたとき、硬直した膝の関節がぽきぽきする音も聞こえなかった。それからまた、人間の耳には聞き取れなかったが、いっさいを包容する愛情と憐憫《れんびん》とをもって、最もはるかな天国に聞き届けられたのは、ほとんど苦悶《くもん》の声とさえいえるあの祈り言――あるいはささやき、あるいはうめき、あるいは無言に身もだえして──こうして彼女がその日終日「神」の救助を求めたその祈りの声だった! 明らかに、きょうはヘプジバー嬢にとってなみなみならぬ試練の一日となるに決まっている。彼女は過去四半世紀以上の間、世間から全く隠遁して暮らし、実生活のいっさいの事に携わらず、また社交や娯楽にも同じように関係しなかった。そんな冬眠の世捨て人が、これまでの数限りない昨日と同じはずのきょうの日が、冷たい、太陽の照らない、沈みきった穏やかな一日でありますようにと、これほど熱烈に祈るわけはないのだ!
未婚婦人のお勤めは済んだ。いよいよ彼女は敷居を踏み越えてこの物語へ登場するだろうか? いやまだだ、かなり手間がとれる。まず背の高い古風な箪笥《たんす》の引き出しを一つ一つ、やっとこさ、それも何べんもがたぴしさせながら、あけなければならない。それから、また同じように渋々と、みんな元どおりしめなければならないのだ。さらさらとこわばった絹ずれの音がする。部屋を横切って前へ後へ、行ったり来たり歩む足音がする。そのうえヘプジバー嬢は、足を持ち上げていすを踏まえ、化粧台の上に掛けてある、長円形の黒ずんだ枠入りの化粧鏡に映した自分の姿を、八方から丹念にながめているのではなかろうかと思われる。ほんとうだ! そうだ、全くだ! だれも思い設けぬことだった! あたらこの貴重な時間がみな、相当な年輩の婦人の朝の身繕いや、化粧に惜しげなくみな消費されなければならぬのか、しかも彼女はけっして外出しないし、だれひとり訪れる者もなく、それに最も念入りに化粧したときでさえ、彼女の姿からあらぬほうへ目をそらすほうが最も美しい人情であろうというのに!
もう彼女はほとんど用意ができている。彼女がまたひと休みするのを大目に見のがそう。なぜなら、その休みは、彼女のただ一つの情緒、いや、もっとうまく言い換えれば──悲哀と幽居のために、確かにいっそう高められ、激しくされて――彼女の生活のきびしい情熱に、与えられるからである。小さな錠前にさしこんだ鍵が回る音がする。彼女は書き物机の秘密の引き出しをあけたのだ。そしてきっとマルボーン〔細密画家〕独特の画風を遺憾なく発揮した、その優雅な妙筆にふさわしい美しい顔を描いた、ある一枚の小さな細密画像をながめ入っているのだろう。昔、われわれがこの絵を見ることができるのはじつに幸福だった。それは古風な絹の化粧着姿のひとりの青年の肖像である。その衣装の柔らかい優美な趣は、思索的な才能というよりもむしろ温雅で官能的な情緒を暗示するふうの、ふっくらしたしなやかな唇と、美しい目を持っている、夢みがちな表情にはじつにあつらえ向きである。こんな顔だちの持ち主からは、われわれは、当然の事として何も求めようとせず、ただ彼がこの荒くれた世間を気楽に考え、そして幸福に世を送るように願うだけである。いったいこの人物はヘプジバー嬢の若き日の恋人であったというのか? そうではない。彼女はけっして恋人を持ったことがなかった――かわいそうに、どうして持つことができたろうか?──それどころか彼女は、恋愛とは技巧的にどういうものなのか、自分で体験して知ることさえなかったのだ。それにもかかわらず、その小画像の本人に対する彼女の常に変わらぬ誠実と信頼、清新な記憶、および永久に献身的な愛情は、彼女の感情が養われるたった一つの滋養源であった。
彼女はその小画像をしまい込んだらしい。そしてまたもや化粧鏡の前に立っている。涙がわいて拭き取られる。さらに数歩行き来する。さあ、いよいよ――あたかも扉が偶然ちょっと開かれて、長い間とざされた地下の墓所から、ひんやりと、湿っぽい風がさっと吹きつけるように、もう一度痛ましくため息をつきながら──そら、ヘプジバー・ピンチョン嬢が現われた! 彼女は薄暗い、歳月で黒ずんだ廊下へと足を踏み入れる。背の高い、黒い絹衣装を着けた、長い、くびれた腰の人間が、まるで近視の人のように階段のほうへ探り歩きに進んで行く。そのとおり、彼女はほんとうに近視なのである。
その間に太陽は、まだ地平線上に現われていないにしても、しだいに地平線すれすれに登るところだった。空高く漂ういくつかの浮き雲が、いち早く夜明けの光の一部を受け、そして町の通りに並ぶあらゆる家の窓々にその金色の光を投げていたが、「七破風の屋敷」を忘れることはなかった。この家は――今までにこんな朝焼けをいくたびとなく目に止めているものの──今のこの朝焼けもきげんよくながめていた。きらきらと反射する光は、ヘプジバーが階段を降りてはいっていった部屋の模様や調度を、かなりはっきりと見せてくれた。それは低い間柱《まばしら》の部屋で、一本の梁《はり》が天井に渡され、黒い木質の鏡板が張られており、また絵入りタイルを周囲にはめ込んだ大きな炉棚があるが、今は鉄の炉蓋《ろぶた》で閉ざされていて、新式のストーブの煙筒がそれを突き抜いて通っていた。床は絨毯《じゅうたん》が敷いてあったが、もともと高価なその織物が、ここ数年間にすっかりすり切れ、色もあせてしまったので、昔の華美な模様が全く消えうせ、何も見分けのつかない一色に変わってしまった。家具としては、机が二つあった。一つは、とまどいするほど手のこんだ造作で、それにまるでムカデのように足をたくさん出していた。もう一つは、この上なく優美な細工で、四本の長い、か細い足がつき、それがあまり華奢《きゃしゃ》に見えるので、この古風な茶卓が、どれくらい長い年月を、そんなひ弱い足に乗っかっていたのか信じかねるほどだった。六脚のいすが部屋のあちこちに、堅苦しくしゃちほこ張って立っていたが、それは人を不愉快にするためにはじつに巧妙のくふうを凝らしているので、人が目にするだけでもうんざりし、そして、いったいこんないすがふさわしいとされていた社会状態は、なんといういやなものだったろうかと、最もみにくい印象を伝えていた。けれどもただ一つ例外があった。それは非常に古風な一脚の肘掛けいすで、その高い背には樫材の精巧な彫刻が施され、両腕に抱かれた座席は深々として広く、その余裕ある包容は、当世ふうのいすに多い芸術的な曲線が少しもないのを償っていた。
装飾品の家具については、もしそういえるとすれば、たった二品記憶されるだけである。その一つは東部にあるピンチョン領地の掛け地図であるが、版画ではなく、腕達者なある老製図工の作品で、インディアンの野獣の絵で怪奇な彩飾が施され、中にはライオンさえも見られた。この地方の博物学はその土地の地理学と同じで、無知にひとしかったからであり、その地図はまるっきり気まぐれにゆがんで描かれていた。もう一つは老人ピンチョン大佐の肖像で、頭蓋《ずがい》ずきんをかぶり、レースのついた白いたれ襟をつけ、半白の顎ひげを生やした、清教徒ふうの人物の恐ろしげな顔つきを描いている、全身の三分の二像だった。そして片手に聖書を、また別の手で鉄の剣柄《けんづか》を持ち上げていた。画家は後者の剣柄のほうを上手に描いたので、聖書よりもはるかにきわだって人目をひいていた。
この部屋にはいったとたん、画像と正面から向き合って、ヘプジバー・ピンチョン嬢はぴたりと足を止めた。そしてじつに奇妙に顔をしかめたり、変なふうに顔をゆがめたりしながら、画像をじっと見つめたが、その顔は、彼女を知らない人々からは、おそらく激しい怒りと憎しみの表情と解釈されたであろう。しかし、その顔はけっしてそんなものではなかった。彼女は、実のところ、その描かれた顔に対して敬虔《けいけん》の念を感じたのであって、それはただ、遠い子孫の年ふけた未婚の婦人だけに感じられる気持ちであった。それで、このけわしいしかめ面は、彼女が近視なための悪気のない結果であり、また、見る対象のもうろうとした輪郭をはっきりした輪郭にふりかえようと視力を集中する努力なのであった。
われわれは気の毒なヘプジバーの顔のこんな不幸な表情のことでもう少し手間取らなければならない。彼女のしかめ面――世間は、いや、窓にいる彼女の姿を時おりちらと見かける一部の人々は、彼女の顔を意地悪く執拗にこう呼んではばからない──そのしかめ面はヘプジバー嬢をじつにひどいめにあわせ、彼女の性格をつむじ曲がりの老嬢という定評にしてしまった。そしてまた、曇った鏡に映る自分の姿を時々じっと見つめたり、鏡の奥の幽霊界にいる自分のしかめ面といつまでもにらめっこをしたため、だいたい世間の評判どおりに自分の顔つきを不当に判断する気になってしまったということも、まんざら嘘《うそ》ではなさそうである。
「私はなんと情けないふきげんな顔をしているのでしょう!」と、彼女はしばしば心の中でささやいたに相違なかった。――そしてけっきょく避けることのできない宿命観によって、自分でそうと思いこんでしまった。それでも彼女の心はけっして気むずかしくはなかったのだ。根がやさしく敏感で、心の細かな震えや胸のときめきで豊かに膨《ふく》らんでいた。彼女の心がそのような気弱さを全部持ち続けている一方、彼女の容貌はじつに意地悪なほどきびしく、さらにけわしくさえなっていった。またヘプジバーは、彼女の愛情の最も激しい奥底からわいてくる感情を除けば、しぶとい気性は少しも持ち合わさなかった。
それはそうと、われわれはいつまでも、話の発端のところでいくじなくぐずぐずしている。ほんとうのところ、ヘプジバー・ピンチョン嬢が今から何を始めるつもりかを暴露するのがいやでどうしようもないのである。
すでに話したように、表通りに面した破風の一階には、祖先らしくもないひとりの祖先が、一世紀ほど前、店を構えたことがあった。その老紳士が商売から身を引き、棺の蓋をおおわれて永眠して以来、店戸ばかりか、中のさまざまな設備もそのまま、なんの変化も受けなかった。ところが数十年間の塵埃《じんあい》が棚や帳場の上に一インチほども積もっていたし、また一台の天秤《てんびん》ばかりにちりも少したまっていて、まるで埃《ちり》さえ目方をはかるだけの価値があるかのようだった。埃はまた半ば開いた銭箱にもひとりでたまっていた。箱の中には一個のきたない六ペンス銀貨がまだ残っていて、それはまさしくここで恥をさらした家柄の誇りの値段にほかならなかった。ヘプジバー婆さんの幼年時代、彼女が兄とそこの見捨てられた場所でいつも隠れんぼをして遊んだころの、小さな店の状態や模様はこんなふうであった。ついこの数日前までは、そのままの状態で保たれてきたのだった。
しかし今は、店の陳列窓こそまだ世間の目からカーテンをすきまなく降ろしたままであるが、店の内部は驚くほどの変化が起こっていた。たくさんの重たげなくもの巣の花綵《はなずな》は、長い間先祖代々のくもがそれぞれ一生働き通して紡《つむ》いで織ったものであったが、それが天井からていねいに掃《は》き捨てられてしまった。帳場も棚も、また床もみんな洗い磨かれて、そのうえ、床にはすがすがしい青砂がまいてあった。茶色の天秤ばかりもまた錆《さび》をこすり落とそうとして、やかましく磨きをかけられたことは明らかだったが、努力のかいもなく、悲しいかな! 錆は秤のしんまでも深くむしばんでいた。またこの小さな古い店はもはや商品がからっぽどころではなかった。せんさく好きな目が、もし特に許されて在庫品を勘定したり、帳場の後ろを調べたりしたなら、一樽──いやもっと、二樽か三樽ともう半樽、──一つは小麦粉、もう一つはりんご、三つ目は、たぶんとうもろこし粉が入っているのを見つけたろう。同じく、棒状の石けんがぎっしりつまっている松材の四角な箱もあった。また、同じ大きさのもう一つの箱があり、それには一ポンドにつき十本の、獣脂|蝋燭《ろうそく》がはいっていた。少量の赤砂糖、かなりの量の白ささげや皮むき干しえん豆、その他数種の安価な品物や日用の必要品類が商品の大部分を占めていた。これらの商品は、昔の店の主人ピンチョンが仕入れた貧弱な商品棚を、幽霊かまたは魔法の幻灯で映した写像であるとまちがえられたかもしれなかった。ただその中の数品目だけは例外で、それらの種類や表面の形は彼の時代に知ることのできなかったものであった。たとえば、ジブラルタルの岩のかけらをいっぱいつめたガラスの漬物びんが一つあった。がほんとうは、それが例の有名な要塞の本物の岩のかけらではなくて、白い紙にきれいに包まれた、うまそうな細かい菓子であった。それからまた、黒人のジムクロウが、しょうが入り菓子になって、世界に知られた黒んぼ踊りを踊っているのが見られた。一隊の鉛の竜騎兵が、新式の装備と制服を着て、一つの棚を並んで疾駆していた。それから砂糖の人形菓子がいくつかあった。それはどの時代の人間にも大して似ていないが、それでもどうやら、百年前の流行よりはいくらか現代ふうが現われていた。もう一つの、もっと人目をひく最新の珍品は黄燐《おうりん》マッチの包みであった。この品は、昔ならば、瞬間に燃え上がる炎を、トペテ〔昔ユダヤ人が偶像モロクに子供を犠牲としてささげて祭った土地の名、焦熱地獄のこと〕の焦熱地獄の業火から実際借りてくるのだと、想像されたことだろう。
つまり、ずばりと話の要点に触れるなら、何者かが、とうの昔に廃業してもう忘れられてしまったピンチョン氏の用いた店や備品を利用して、別の顧客たちを相手に、故人となったその御仁《ごじん》の商売を、また始めようとしていることは明らかで、議論の余地がなかった。いったいこの大胆な冒険家は何者だろうか? そして場所もあろうに、えりにえって「七破風の屋敷」を、その営利投機の場所としたのはいったいなぜだったのか? 話はさっきの初老の未婚婦人に戻る。彼女はとうとう大佐の画像の陰気な顔から目を離し、ため息をついた。──全く、その朝の彼女の胸は風の神イオラスの洞窟も同様だった。──そして、年輩の女たちのいつもの歩き癖で、爪先《つまさき》で部屋をあちこち横切った。彼女は、間にある廊下を通って、今しがたたんねんに模様を話したその店に通ずる扉をあけた。二階が張り出しているため──またそれどころでなく、破風のほとんど真正面にそびえ立っている「ピンチョン楡」の濃い樹陰《こかげ》のために──薄暮は、ここでは朝もそうだが、いつも暗夜も同然であった。またもヘプジバー嬢は重苦しいため息を! 敷居の上でちょっと立ち止まり、まるで宿怨の敵をにらみ倒すのかと思うほど、近視のこわい顔で窓のほうをじっとうかがってから、彼女は急に身を踊らせてさっと店へ飛び込んだ。その速さ、また、いわば電流の衝撃のような身のこなし、それは実際、全くあっと驚くばかりだった。
いらいらしながら──いささか気違いじみている、といってもいいくらいだった――彼女は、いくつかの子供らの玩具《がんぐ》や、他の細かな商品を、棚の上や陳列窓に、忙しく並べはじめた。この黒い衣装の、顔の青ざめた、貴婦人らしい老い姿のおもかげには、彼女のあさましいけちくさい生業《なりわい》とは相いれない対照的な、ある深刻な悲劇的品性が宿っていた。こんなにやつれて陰鬱な婦人が玩具を手がけるなどとは全く奇妙な事に思われた。玩具が彼女の握ったとたんに消えうせないということはまさに奇跡であった。小さい男の子たちをどうやって自分の屋敷の中へ誘い込もうかなどの問題で、こちこちで地味な彼女の頭を始終悩まさなければならないなんて、なんとも情けない愚かなことだ! そうはいっても、それが明らかに彼女の目的なのだ。
今しも彼女はしょうが入り菓子の象を窓に寄せかけて置こうとした。けれども、触れるその手があまり震えるので、象が床にころげ落ち、三本の足と鼻が欠けてしまう。それはもう象ではなくなって、かびたしょうが入り菓子のいくつかのかけらとなってしまった。そら、またもや、彼女はおはじき入りの大コップをひっくり返してしまった。それが全部八方へころがって、一つ一つのおはじきが、悪魔のさしずで、てんでに見つけたいちばん見つかりにくい暗がりへもぐり込む。天よ、われらの哀れなヘプジバー婆さんを救いたまえ、そして彼女のかっこうをおかしがってながめているわれらを許したまえ! ぎごちなく硬直してさびついた彼女のからだが、四つんばいになって、姿をくらましているおはじきを捜すとき、われわれはどうしても目をそらして彼女を笑わざるをえないのだ。まさしくその事実から、なおさら同情の涙を流したい気持ちをいっそう強くするのである。その理由は、ここに──もし筆者がこのことを、読者にぴんと感じさせることができないならば、それは筆者の罪であって、この論旨が誤っているためではない──ここに、日常生活に起こる最も真実な問題の一つが存在するからである。それは古い格式とみずから称するものの断末魔の激しい苦痛であった。ひとりの貴婦人――幼時から貴族としての過去の追憶を空虚な食べ物として生きてきた人、そして婦人の手は、何事であれパンのために働くなら、よごれてしまってもう取り返しがつかない、というのが信仰である人──この生まれながらの貴婦人は、六十年間財産を食いつめた後、彼女が空想する貴族の台座から余儀なく踏み降りなければならないのだ。一生の間彼女のすぐ後ろに追い迫って離れない貧乏神が、ついにぴたりと追いついたのだ。彼女は自分で食物をかせがなければならない、さもなければ飢え死ぬのだ! それでわれわれは、無札をあえてしても、そのやんごとなき貴婦人がただの女に変貌しなければならないまさにその瞬間の、ヘプジバー・ピンチョン嬢をこっそりとうかがったのである。
この共和国内で、常に大きく動揺しているわれわれの社会生活の波間には、いつもだれかがまさにおぼれ死のうとしている。そんな悲劇は休日興業の通俗劇と同様、始終くり返し上演されている。それでもやはり、おそらく世襲の貴族が、自分より下層の階級へ没落する場合と同じくらい深刻に感ぜられるであろう。いやもっと深刻に感ぜられるのだ。なぜかというと、われわれにとっては、身分とは、実は俗悪な性質の財産であり、またはなやかな制度であって、これらの財産や制度が滅びたあとはなんら精神的生命を持たず、絶望していっしょに死滅するからである。こういうわけで筆者はまことに不幸ではあったが、この物語の女主人公をこのような不運な危機に紹介するゆえ、彼女の運命を傍観せられるかたがたの相応に厳粛な気持ちを懇請したいと思うのである。われわれは哀れな女性ヘプジバーの中に、遠く古い永遠の老貴婦人――海のこなたの土地〔アメリカの国〕で二百歳、海のかなたの国ではその三倍も老齢の――古い肖像・系図・家紋・記録・伝説および、もはや荒野ではなくなって、人口|稠密《ちゅうみつ》な沃野《よくや》と化した、東部地の例の王領地に対する共同相続人としての彼女の請求権などを身につけた、また、「ピンチョン通り」で、「ピンチョン楡」の下で、そして、「ピンチョン屋敷」で生まれ、一生そこで日を送ってきた──その遠く古い昔からの老貴婦人が、いまや落ちぶれて、自分のその屋敷で、一文店の小売り女になり果てる有様をながめよう!
こんなふうに小店を構えて始める商売は、いやしくもこの不幸な世捨て人の境遇に似た事情にある女たちの、ただ一つといってよい世過ぎの道なのである。彼女のあんな近視の目、不器用で同時にか細くて、ぶるぶる震えるあんな指先では裁縫女になれなかった。それでも、五十年も昔の、彼女の見本検査人は装飾用針仕事の最も精妙な見本をいくつか並べて見せたのだった。小さい子供たちのための学校もたびたび彼女の頭に思い浮かんだのだった。そして、女教師の職業の準備をするつもりで、一時は、彼女が幼いころ習った「ニューイングランド・プリマー」〔いろは文字入門書〕の復習を始めたこともあった。しかし子供への愛情がヘプジバーの心にけっして呼びさまされたことはなかったし、そして、全く滅んではいないにしても、今は冬眠していた。彼女は寝室の窓から近所の小さな子供たちをながめて、いったい子供たちとこれ以上なじんで仲好くしんぼうできるだろうかと疑っていた。そのうえ、当今では、「いろは」文字さえ科学になってしまって、非常に難解なもので、もはや文字から文字へ棒先でさして教えるまねはできなかった。近ごろの子供は、ヘプジバー婆さんが子供に教えることができる以上に、子供のほうでもっとヘプジバー婆さんに教えることができた。そこで──彼女はあれほど長年の間世間から遠ざかっていて、遁世《とんせい》の月日が、日一日と加わるごとに彼女の籠《こも》っている洞窟の扉に向かって石をつぎつぎに押しころがしてふさいでしまったのに、ついにその世間とのあさましい接触を始めようと考えて、幾度も幾度も冷たい、深い心の戦慄を感じながらも──かわいそうにこの女は昔の店の陳列窓や、さびた天秤ばかりや、また埃《ちり》まみれの銭箱を思い出したのだった。彼女はもう少しの間がまんしていたかもしれなかった。けれども、まだ触れていない、もう一つの事情が彼女の決意をいくらかせきたてたのだった。そこで彼女のささやかな準備が順調に進められて、その事業が今ちょうど始められるところだった。それでも彼女は自分の運命がどんなに数奇きわまるものであろうと、それを少しも嘆く資格はなかった。というわけは彼女が生まれたその町では、似たりよったりのこんな小店をあれこれと指摘できようし、そのうちのいくつかは「七破風屋敷」にも劣らぬ旧家の中にはいるからである。そして一、二軒の店では、たぶんヘプジバー・ピンチョン嬢その人とそっくりな、名家の誇りの無気味な化身の、落魄《らくはく》した貴婦人が帳場の陰で売り子をしていたのだ。
途方もない愚かしいことは──われわれは正直にありのままを告げなければならない──自分の店を世間の目に体裁よいように整えているときの、この未婚の婦人のふるまいであった。彼女は爪先立ちでそっと窓へ忍び寄ったが、まるで何者か殺伐な凶漢が、彼女の生命をねらって、楡の木陰から見張っていると思っているかのような警戒ぶりだった。長いやせた腕を差し伸べて、真珠の貝ぼたんを留めた紙、びやぼん、その他どんな小さい品物でも、それぞれ決まった場所に置き、そしてあたかも世間が彼女を二目と見られないとでも思っているかのように、そそくさと暗がりへ姿を消してしまった。彼女は、姿を見せずに社会の求めに奉仕しようと心に期して、まるで肉体を離れた異教の神か、あるいは魔法使いの女のように、うやうやしく恐れかしこむ買い手へ、目に見えぬ手で見切り品を差し出すつもりであると、ほんとに想像されたかもしれなかった。けれどもヘプジバーはけっしてこんなうきうきした夢は持っていなかった。彼女はけっきょく前へ出て行って、持って生まれた個性を露《あら》わにして立たなければならないことは十分わきまえていた。しかし他の神経過敏な人たちと同じように、少しずつ小刻みにながめられるのにはがまんできなかった。それでいっそひらりと飛び出して世間の唖然とした視線をいっぺんに浴びるほうを選んだのであった。
もはやのがれられぬその危機が猶予なくやがて来るところだった。今は日光が真向かいの家の正面をひっそりと照らしているのが見られたかもしれず、その家の窓々から照り返す微光が、楡の大枝の間をようやくくぐり抜けてきて、今までよりいっそうはっきりと店の中を明るくした。町は目をさましてくるように思われた。パン屋の手押し車がそこの通りをもうがらがらと通り抜けてしまって、耳ざわりな鈴のりんりん鳴る音で、夜の清浄さを残りなく追い払った。牛乳配達夫は罐《かん》の中身を一軒一軒配っていった。また漁師の吹くほら貝のかしましい響きがはるか遠く、町角あたりに聞こえた。こうした象徴は何ひとつヘプジバーの注意をのがれられなかった。来たるべき時はやってきた。この上の躊躇《ちゅうちょ》はただ彼女の精神的苦痛を引き延ばすだけだろう。もう何もすることはない。ただ店戸から閂《かんぬき》をはずして、出入りを自由に──自由どころか──まるであらゆる人が家ぐるみの友人でもあるかのように、迎えられ――どの通行人も歓迎されて、その目が陳列窓の商品にひきつけられるようにすることだけが、残っていた。今この最後の所作をヘプジバーが演じ、その閂をはずすと、全く肝がつぶれるほどがらがらと音を立てて、興奮した彼女の神経を強く打った。それから――あたかも彼女と世間とを隔てるただ一つの障壁が投げ倒されて、氾濫する不吉な結果の波がさっとその隙間から殺到してくるかのように──彼女は奥の客間へと逃げ込んで、祖先伝来の肘掛けいすに身を投げて、そして泣いた。
あわれな、いたましいヘプジバー婆さん! 人の本性を、そのさまざまな態度や環境を、正しい確かな輪郭と真の彩色で表現しようと努力する作家にとって苦しい悩みの種は、じつに多くのあさましいまた愚かしい事柄が、いたるところで人生が作家に提供する最も純粋な感情ときっと交じり合っていて、救いようがないことである。たとえば、このような今の場面に、なんという悲劇的威厳が混入されていることだろうか! 最も顕著な登場人物の一人として、筆者がやむをえず──若くて美貌の女人ではなく、また苦難のあらしに打ちひしがれながら、今もなお美人のおもかげをとどめるりりしい婦人でさえなくて――胴長の絹のガウンを着て、無気味な恐怖を与えるターバンふうの縁なし帽をかぶった、やせこけて、血色悪く、骨の節々がさびついた未婚の老女を紹介しなければならない場合、遠い昔の罪悪に対する応報のこの物語を、筆者はいかにして気高くすることができよう! 彼女の容貌は醜いとさえいうのではない。その顔は、眉根を寄せて近視のしかめ面になる、ただそのためにつまらなさから救われているのである。そして、けっきょく彼女の偉大な人生の試練とは、つまり、無為に過ごした六十年の生涯の後、ささやかな構えの店を開いて、気楽にパンをかせぐほうが便宜であると悟ることらしい。それにしても、もしわれわれが人間のあらゆる雄々しい運命を洞察するならば、何やらあさましいくだらぬものが、歓喜や悲哀の感情のどんな高尚な要素とも、これと全く同じようにからみ合っているのがわかるだろう。人生は大理石と泥土とから成り立っている。それだけに、われわれを超絶する、ある大きな包容力の同情心をいっそう深く信頼しないならば、われわれは今後、運命の神の冷厳な面上に、いささかも仮借しない恐ろしいしかめ面と同時に、皮肉な冷笑が浮かぶのを思い知らされるであろう。いわゆる詩人的洞察力とは、奇妙に錯綜《さくそう》した要素から成っているこの世界で、きわめてむさ苦しい衣装をまとうよう強いられている美と威厳とを発見する才能なのである。
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三 最初の顧客
ヘプジバー・ピンチョン嬢が樫の肘掛けいすにすわりこんで、両手で顔をおおったまま、事業が乗るかそるかのせとぎわで、希望の女神の姿さえ、ずっしりと重たい鉛の鋳像に見える時、たいていの人々が経験している、あの重苦しいめいった気持ちに圧倒されていた。
急に彼女はちりんちりん響く警報――高くけたたましい、そして乱調子の──小さいベルの音にはっとした。未婚婦人は、まるで夜明けの鶏鳴《とき》を聞きつけた幽霊のようにまっさおな顔ですっくと立ち上がった。というのは彼女は奴隷にされた妖精であり、このベルは呪文であって彼女が服従を誓った魔物であったからだ。この小さなベルは──もっとわかりやすく説明すると──店戸《たなと》の上に取りつけられ、一本の鋼鉄のばねで震動し、こうしてもし客が敷居をまたげば、家の奥のほうまで知らせが届くようにしかけてあった。このベルの不快でいじ悪くやかましい響き(おそらく、ヘプジバーの鬘《かつら》をかぶった元祖が商売をやめて以来初めての)はたちまち彼女の肉体の全神経へ反応してわなわなと激しく震えさせた。危機が彼女を襲ったのだ! 彼女の最初の顧客が戸口にやってきたのだ!
思い直す暇も自分でふりきって、彼女はまっさおな、狂おしい、必死の身ぶりと表情の、すさまじいしかめ面で、店の中へ駆けこんだが、そのけんまくは、帳場の後ろに立って微笑しながら商品と代償の銅貨と引きかえるよりも、むしろ家宅侵入者と猛烈に戦うほうがはるかに似合っていた。実際、普通の客ならだれだって、くるっと背中を向けて逃げたろう。それにしても気の毒なヘプジバー婆さんの胸の中には少しも荒らだった気持ちがなかった。また、その瞬間、一般世間にも、あるいは特に個人の男と女に対しても、苦々しい反抗心はひとつもいだいていなかった。彼女はあらゆる人々の無事を願っていたが、また、自分については人々と交渉を断ち、そしてひっそりと自分の墓所に幽居したいと願っていた。
買い手は、この時までに、戸口の内側に立っていた。朝の光の中から、彼は全く颯爽《さっそう》とやってきたので、朝の明朗な霊気をいくぶんかいっしょに店の中へ持ち込んだように思われた。その男はやせぎすの青年で、多くて二十一、二歳の、どちらかといえば、年齢のわりには落ち着いた、思慮深そうな表情だが、それでいて身のこなしの敏捷さや精力もまた持っていた。こういう特色が、肉体的に、彼のからだの造りや動作に認められたばかりでなく、彼の性格にもほとんどすぐに感ぜられたのである。絹の毛質とはいえない、褐色のひげが顎を縁どってはいたが、今のところまだ顎をすっかり埋め尽くしてはいなかった。口ひげもまた、短くはやしており、それで彼の浅黒い、上品な目鼻だちの顔はこういう自然にはえた装飾のため、いっそうりっぱに見えた。着ている衣服といえばおよそ簡素きわまるものだった。安価なありふれた生地の夏の上着、薄手の、碁盤縞《ごばんじま》のズボン、それにけっして最上等の細編みでない麦わら帽子。オーク・ホール〔ボストン付近にあった組合クラブのようなもの〕が彼の服装をいっさい整えたのかもしれなかった。彼が紳士として注目されたのは──もし彼が実際に、紳士であると少しでも主張したいのなら──もっぱら彼が着ているじつに目のさめるほど純白で上品な、さっぱりしたリンネルのせいであった。
彼はヘプジバー婆さんのしかめ面に出会って驚くふうは見えなかった。これまでに顔が合っており、悪意のないことがわかっていたからであった。
「ほほう、ねえピンチョンさん」と銀板写真家が呼びかけた──というのはその男こそ、彼女を除けばただひとりの、七破風の大邸宅の例の住人だったからである──「あなたがりっぱな趣旨をひるまずに実行なさったのを見ると僕はうれしいですね。僕はただ、僕の好意を伝えたいのと、またお店の準備に何かお手伝いできないか、伺ってみようと思ってちょっとお寄りしただけなんです」
難儀し窮乏している人々や、またなんとか世間と戦っている人々は、非常にひどい仕打ちにもがまんできるし、そしてたぶんそのためかえって強気一方にさえなれるだろう。ところが、純真な同情と受け取れる、どんな簡単な言葉にも、こういう人々はいっぺんに参ってしまうのである。哀れなヘプジバーの場合にもそのとおりになった。というわけは、彼女がその青年の笑顔――思慮深い顔がそのためいっそう晴れやかに見えた──を見たり、また彼のやさしい口調を聞くと、彼女は初め急にヒステリックにくつくつ笑いだし、それからりすす泣きを始めた。
「ああ、ホールグレーヴさん」と、彼女は話ができるようになるとすぐに叫んだ。「私はとてもこれをやり遂げることができません! とても、とても、とってもできません! 私は死んでしまいたい、そして古い、私の家の墓地で、先祖の人たちとみんないっしょにいたいと思います! お父さんや、お母さんや、姉さんもいっしょにねえ! そうです、それから私の兄だってそうです。兄は私がこんな所にいるよりも、墓場にいるほうがはるかにましだと思うでしょう! 世間はあんまり冷たく残酷です──それに私はすっかり年をとり、すっかり弱ってしまって、もう全く望みがありませんよ!」
「ああ、僕を信じてください、ヘプジバーさん」と青年は、落ち着いて言った。「あなたがいったん堂々と事業のまっただ中へ乗り出されたからには、もうそんな感情にわずらわされることはなくなりますよ。今のところ、そういう気持ちはどうしても避けられませんがね。あなたは、実際、長い間の蟄居《ちっきょ》から出ようとなさるちょうど間ぎわに立っておられるし、それに、世の中には醜悪な妖怪どもがうようよしていると思い込んでいらっしゃるのですからね。そんなお化けなどは、子供のおとぎ話の本にある大男や人食い鬼と同じで、実際は存在しないことがすぐにわかりましょう。僕は世の中にこれほど不思議なものはないと思うのですが、どんな物でも、人がいざこれとほんとに取っ組み合いを始めたとたんに、そいつの正体が消えてなくなるものです。あなたがそんなに恐ろしく思っていらっしゃるものも、そうなりますよ」
「だって私は女ですもの!」とヘプジバーは、さも哀れげに、言った。「私は、貴婦人《レデー》、と口に出すところでしたわ──でもそんなものは過去として考えています」
「なるほど。もしそれが過去になっておれば問題ないですよ!」とその芸術家は答えたが、思いやりのある彼の態度から、隠しきれない皮肉の光が異様にちらりとひらめいた。「そんなものは捨ててしまいなさい! かえってないほうがましですよ。ねえピンチョンさん、僕は率直に言いますよ。だって僕たちは友だちでしょう? 僕は、きょうという日はあなたの生涯の幸福な一日だと考えます。一つの時代を終わり、新紀元を開く日です。これまでは、あなたが、貴族社会にひとり超然とすわっている間に、あなたの生命の血が血管の中でだんだん冷えてきたのです。ところが、残る世間の人々はあれやこれや宿命的な闘争を戦い抜いていたのです。これからは少なくとも、目的に向かって健全なそして当然な努力をなさる分別を、また人類共同の戦いにあなたのお力を――多少にかかわらず──貸そうとなさる分別をお持ちなさい。これは成功ですよ――だれにも劣らぬたいへんな成功ですよ!」
「ホールグレーヴさん、あなたがそういう意見をお持ちになるのは全く当然です」とヘプジバーは、いささか威厳を損じてむっとして、やせこけた姿勢をきっと正しながら、返答した。「あなたは男性ですし、青年です。そして、今はほとんどの人がそうですが、立身出世する目的で教育されたと思います。しかし私は貴婦人に生まれましたし、また常に貴婦人として暮らしてきました。たといどんなに貧乏しても、常に貴婦人で通しました!」
「でも僕は紳士の身分に生まれませんでしたし、また紳士らしく暮らしたこともありません」とホールグレーヴは、かすかに笑いながら言った。「それでね、あなた、あなたは僕がこういう貴族的な感覚に同情するとはご期待なさらないでしょう。しかし、偽りのないところ、僕は不完全ながらそうした気持ちも多少理解しています。紳士とか貴婦人とかいう名称は過去の世界の中で、ある意義を持っていたし、また紳士の名を帯びる資格ある人々に対して、望ましい、あるいは望ましからぬ、特権を与えていました。今日では──そして将来の社会状態ではなおさら──そんな名称は、特権どころか、拘束を意味していますよ!」
「それは耳新しい見解ですね」とその老貴婦人は頭を横に振りながら言った。「私はそんなことはとても理解できないでしょう。また理解したいとも思いませんわ」
「それでは、こんな話はやめにしましょう」と、芸術家はさっきよりもっとやさしくほほえんで答えた。「そしてあなたが、貴婦人でいらっしゃるより、真の女性でいらっしゃるほうがよいのではなかろうか、ご自分で悟られるようにお任せいたしましょう。ヘプジバーさん、あなたはこの家が建てられて以来、ご当家の婦人のどなたにせよ、今日あなたが家の中で実行していらっしゃる事以上に雄々しい仕事を、いったいなさったことがあるとほんとにお考えですか。まさかそうではないでしょう。そしてもしピンチョン家のかたがたが、常にそれほどりっぱにふるまっておられたのなら、あなたがいつか僕に話してくださった、魔法使いの老人モールの呪いが、神様の思し召しによってあの人たちの不幸となるよう、非常な圧迫をはたして加えていたでしょうか、僕は疑います」
「ああ──違います。違います!」とヘプジバーは、先祖代々伝わる呪いの陰気な権威を、彼がこのようにほのめかしたことを不快とは思わずに言った。「もしモール老人の幽霊か、老人の子孫のだれかが、今日店番している私を見たならば、これこそ呪いの大願成就と唱えるでしょう。それはそうと、ホールグレーヴさん、ご親切にありがとうございます。私はりっぱな店の経営者となるよう、できるだけ努力しますわ」
「どうぞなさってください」とホールグレーヴは言った。「そして僕に、お店の最初のお客さんとなる喜びを味わわせてください。僕は仕事部屋に出かける前に、これから海岸へ散歩に行くところなんです。仕事場で、僕は天の恵みの日光を悪用して、光線の働きで、人間の顔だちを写し出すのです。このビスケットを数個、海の水に浸したら、ちょうど僕の朝食に足りるでしょう。六つでいくらになりますか」
「私をもうしばらく貴婦人にしておいてください」とヘプジバーは答えたが、悲しげな微笑が、古風な品位ある物腰にある優雅な風情《ふぜい》を添えていた。彼女はビスケットを彼の手に載せてやったが、その代償を受けとらなかった。「ピンチョン家の者が、何にしても、ご先祖さまの屋根の下で、たったひとりのお友だちから、一口のパンの代償を受けることはなりません!」
ホールグレーヴは店を立ち去ったが、残された彼女はちょっとの間、そんなにひどく落胆した気分にならずにいた。しかし、たちまち意気が消沈して元のように最低の水平面まで低下した。胸をどきどきさせながら、ようやく表通りに繁くなりはじめた、朝早い通行人の足音に耳を澄ました。一度か二度、足音がぐずぐず手間どるような気がした。こうした顔見知りのない人たち、または近所の人たちは、その場合しだいに、ヘプジバーの店の陳列窓にずらりと並んだ玩具やちっぽけな商品をながめていた。彼女には二重の責め苦だった。一つには、よそよそしい冷淡な目が、じろじろながめる無遠慮な権利を当然持っているという、圧倒的な屈辱感のためであり、もう一つは、その陳列窓が、もっとできそうに思えたほど上手にも、またさっぱり有利なようにも配列されていなかったという考えが、愚かしいほどしつっこく、彼女の念頭に浮かんだためであった。まるで彼女の店が成功するか、失敗するかの全運命が、さまざまに組み分けた品物の並べ方や、または腐り傷がありそうなりんごをもっときれいなものと交換することにかかっているかのようだった。それで彼女は並べ替えた。ところがたちまち、何もかもそのために台無しになった気がした。そして、そのようにいかにも失敗らしく見せかけるものはことごとく、興奮した危機感と、独身の老嬢として自分が持っている気むずかしい性分のせいであることは気づいていなかった。
やがて、ちょうど戸口の上がり段のところで、ともに荒っぽい口調からそれと知られる、ふたりの労働者がばったりと顔を合わせた。お互いに自分の事をしばらく語り合ってから、そのひとりが店の陳列窓にふと気づいて、そして相手の注意をそちらに向けさせた。
「おい!」と彼は大きな声で言った。「君はこいつをどう思うかね? ピンチョン通りじゃあ、商売景気は上々らしいぜ!」
「おや、おや、なるほど、こいつは見ものだわい!」と相手が大声で叫んだ。「ピンチョン古屋敷の中で、そしてピンチョン楡の真下でね! こいつはだれも想像できなかったろうぜ? 独身婆さんのピンチョンが一文商いを開店するとはなあ!」
「あの婆さんが店をうまくやっていくと思うかい、ディクシー?」とその友人が言った。「こりゃあ、じつに結構な場所柄だとはいえないな。ちょうど角を曲がったところに、もう一軒の店があるんだ」
「うまくやっていくって!」とディクシーは、いかにもそんな考えは夢にも思い浮かばないとでも言いたげな、ひどく軽蔑した顔色で叫んだ。「とんでもない! だって、あの女の顔といったら──おれはその顔を知っているんだ、なぜっておれは一年間、あの女の菜園を掘っくら返してやったんだからな──あの顔は、たとい悪魔のオールド・ニックが、とても寛大な気持ちであの女と商売する気になったとしても、ニックのほうで顔負けして恐れ入るくらいなんだ。だれでもやりきれやしないよ、ほんとうだよ! あの女は、わけがあろうとなかろうと、全くのへそ曲がりで、ものすごいしかめっ面をするんだ!」
「まあ、それはそう大した問題ではない」と相手の男が意見を述べた。「こういうひねくれ者の連中はたいてい商売じょうずで、自分たちがやってる仕事の呼吸《こつ》をなかなかよくのみこんでいるものなんだ。だが、君が言うように、あの人がたいしてやれるとはおれも思わんね。この一文店の経営という仕事は、他のあらゆる種類の商売、手職や肉体労働と同じように、過労なんだ。おれは、自分で大損して、身につまされているんだよ! おれの女房は三か月間一文店をやったんだ。そして女房の物いりで五ドルも足を出しちまったよ!」
「つまらん商売だよ!」とディクシーは、どうやら頭を横に振っているかのような口調で答えた──「つまらん商売だよ」
それほど簡単には分析できない何かの理由から、この事についての彼女のこれまでのあらゆる苦悩のうち、今の会話を立ち聞きしたヘプジバーの心をぞっと戦慄させたものほど、激しい苦痛はけっしてなかった。彼女のしかめ面について言われたその証言は恐ろしく重大なものであった。その証言は、彼女の身贔屓《みびいき》な欺瞞《ぎまん》の光線から完全に解放された自己の真の姿を突きつけるようなもので、それがあまりの恐ろしさにあえて見ることができないのであった。そのうえ、彼女が店を始めたそのことが──彼女にとってはこんなに息苦しい一心不乱な事柄なのに──世間の人々へ与えたと思われるささいなつまらぬ影響のために、彼女は愚かしいほど心を傷つけられた。このふたりの男が、最も近い世間の代表者であったのだ。ちらりと投げる一瞥《いちべつ》、行きずりのひと言ふた言、野卑な哄笑《こうしょう》、そして人々が町角を曲がりきらぬうち、もちろん彼女は忘れられてしまうのだ! 人々は彼女の体面を少しも心にかけなかったし、また彼女の没落のことも同じように意に介しなかった。それから、また、経験という確かな知恵が語った、不成功の予言が、墓穴に落ちる土くれのように、彼女の瀕死《ひんし》の希望の上にふりかかった。あの男の妻がすでに同じ実験を試み、そして失敗してしまったのだ! どうして生まれながらの貴婦人が──それも生涯の半ば世を隠れ、世間の実情に全く暗い齢《よわい》六十の世捨て人が――たくましく、げすっぽく、抜け目なく、あくせくと働く、古くさいニューイングランド女でさえ、ささやかな物入りで五ドルも損をしてしまったというのに、いったいどうして成功を夢みることができようか! 成功の女神はとてもおぼつかない姿で現われた。そして成功の望みはとりとめのない幻覚であった。
ある意地の悪い精霊が、ヘプジバーを気違いにしてやろうと精いっぱいの努力をして、彼女の想像力の目の前に一種のパノラマを繰り広げ、顧客で大にぎわいの、都市の目抜き通りを映し出した。あるかぎり数多くの、かつ壮麗な店という店! 食料品店、玩具店、呉服店など、どの店もそれぞれすばらしく大きな板ガラスの窓、豪奢《ごうしゃ》な造作、莫大な、そしてあますところなく各種の商品が備わっており、巨額の投資がなされていた。各商店の奥を仕切るりっぱな鏡が、輝くばかりみがかれた架空の写像を遠望させて、この財貨の山をことごとく倍加した! 街路のこちら側の、この華麗な商品陳列場では、香水をにおわせた艶々《つやつや》しい大ぜいの店員が、にやにや笑ったり、笑顔になったり、お辞儀したり、品物を計り分けたりしていた。ところが街路のむこう側は、薄暗い、古い、「七破風の屋敷」で、張り出た二階の下に古めかしい店の陳列窓が取り付けられ、そして着古した絹ガウンをまとったヘプジバーが、みずから帳場の陰で顔をしかめて、通り過ぎる世間の人々をにらんでいるのだ! こんな極端な対照がはっきりと出て、彼女がぜひなく始めなければならなかった生存競争で、かなわぬ相手の勝目を公平に表現したのだ。成功だって? めっそうもない! 彼女はもう二度とそんなことを思わないだろう! よその家々は皆日光を浴びていたのに、その屋敷はまるで永遠に霧の中に埋もれていたも同然だった。というのは、どの足もその店の敷居をまたごうとはしなかったし、またどの手も店の戸をあけてみようとさえしなかったからである!
しかし、ちょうどこの時、店ベルが、彼女の頭の真上で、まるで魔物に憑《つ》かれたかのようにちりんちりんと鳴った。老貴婦人の心臓は同じベルの鋼鉄のばねに取り付けられているようだった。というのは、その心臓が、音といっしょになって、続けざまに激しく痙攣《けいれん》したからである。戸はぐいと押し開かれた。しかし半仕切りの窓の向こう側に人影は全然見えなかった。それでもヘプジバーは、両手を固く握りしめ、あたかも彼女が呪文で悪霊を呼び出しておいて、そしてこわごわながら、思いきってぶつかってみようと意を決しているかのような形相で、立ってじっと見つめていた。
「神さま、お救いください!」と彼女は、心でうめいた。「今が私の生きるか死ぬかのせとぎわです!」
戸は、きいきいと鳴りながら、さびた蝶番《ちょうつがい》がかろうじて動いてむりにあけ放たれると、ひとりの角張った、たくましい、小さな腕白小僧が、りんごのようにまっかな頬をして、はっきり見えてきた。その男の子はかなりみすぼらしい服装で(でもそれは、父親の貧乏のせいよりも、むしろ母親のなげやりなためというふうに受け取れた)青い前だれをかけ、とてもだぶだぶする短いズボンに、足指の所が少し破けた靴をはいて、経木《きょうぎ》編みの帽子をかぶり、その裂け目から巻き毛の細かい縮れ髪が突き出ていた。小わきに抱えた、一冊の本と小さい石盤とが、登校の途中であることを示していた。男の子はヘプジバーの顔をしばらくじっと見つめたが、もし客がその子より年長者であったとしても、彼女が客をながめる悲劇的な態度や奇妙なしかめ面がどうにも腑に落ちなくて、だいたい同じしぐさをしていただろうと思われた。
「まあ、坊やなのね」と彼女は、こわくもなんともない人物を見て、元気を出しながら言った──「さあ、坊や、何がほしかったの?」
「そら、その窓の中の、あの黒ん坊菓子だよ」と小僧は答えて、一セント銅貨を差し出しながら、学校へぶらぶらと歩いて行く途中、彼の目に留まったしょうが入り菓子の人形を指さした。「そっちの、足がこわれていないほうだよ」
そこでヘプジバーはひょろ長い腕を伸ばして、陳列窓から小人の形の菓子を取って、それを彼女の最初の顧客に手渡した。
「お金はいいよ」と彼女は言って、子供を戸のほうへちょっと押してやった。それというのも、昔から上流気取りの彼女は銅貨を見ると頑固な反感で胸がむかついたし、また、そのうえ、かび臭いしょうが入り葉子一つと引き替えに、子供の小づかい銭を受け取るのはまことにやりきれないさもしさを覚えたからだった。「お金はいいよ。黒ん坊菓子をかってに取りなさい」
その子供は、いろいろな一文店での豊富な経験の中で全く先例がなかった、こんな気前のよい提案に、丸い目を見張りながら、しょうが入り菓子の人形を受け取って、店を出て行った。歩道まで来るが早いか(その子はなんという小さい食人種なんだろう!)黒ん坊の頭はその口中におさまっていた。男の子は戸をしめて出ていくほど注意深くはなかったので、ヘプジバーは、若い人たち、ことに小さい男の子たちはやっかいなことだと、思わずひと言ふた言小さくつぶやきながら、子供の去ったあとからわざわざ戸をしめようとしていた。彼女が、そんなに名の売れた黒ん坊菓子の新たな代表をもう一つ窓に飾ったちょうどそのとき、店ベルがまたかしましくちりんちりんと鳴って、再び戸が、独特なふうに引きつりきしみながらさっと開いて、きっかり二分前、出て行ったはずの、さっきのたくましい小さな腕白小僧が顔を現わした。まだ完全に終わりきらない、食人種の食事のパン屑や色の薄れたしみが口の回りにあざやかに目立っていた。
「今度は何なの、坊や?」未婚婦人は、多少いらいらしながら尋ねた。「戸をしめに戻ってきたの?」
「ちがうよ」と小僧は答えて、いま飾られたばかりの人形を指さした。「僕はもう一つその黒ん坊がほしいんだよ」
「そう、さああなたはこれですね」とヘプジバーは言って、手を伸ばしてそれを降ろした。けれども、執念深いこの客は、しょうが入り人形菓子を店に置くかぎり、どうあっても彼女から離れ去ろうとはしないだろうと見てとると、さしのべた片手をやや引っこめた――「どこに一セントあるの?」
小さい男の子は一セント銅貨を用意していた。けれども、いかにも生粋《きっすい》のヤンキーらしく、いくらかでも得な賢い物をしたかったのだろう。ちょっと残念そうな顔を見せて、ヘプジバーの手に銅貨を置き、そしてさっきの黒ん坊のあとを追っかけ、ふたりめの黒ん坊を口の中へ放りこみながら立ち去った。新米の小売商人は自分の営利企業から得た初めての実利的成果を銭箱に落とした。やってしまったのだ! あの銅貨の不浄なしみはもう彼女の手の平から洗い落とすことはできないだろう。小さな男の生徒が、小鬼姿をした黒ん坊の踊り子に助けられて、取り返しのつかない破滅を働いたのだ。由緒ある貴族階級の機構が、こんな子供の手にかかって破壊されてしまったのだ! それは全く、あたかも子供の一つかみに七つ破風の邸宅がさんざんに握りつぶされてしまったかのようだった。今はもう、ヘプジバーの手で、古いピンチョン家の先祖たちの肖像を全部壁のほうへ向き変えさせ、それから東部領地の地図を燃やしてかまどの火をたきつけさせ、また名家の伝統という彼女の空虚な息吹きでその焔をあおりたてさせよう! 彼女は祖先となんの関係があったか? 何もなかった。子孫であるというにすぎなかった! もはや、貴婦人ではなく、ただひとりの天涯孤独の未婚の老女、そして一文店の経営者、ヘプジバー・ピンチョンにすぎなかった!
しかしながら、彼女がこのようなもの思いをいくらか誇張気味に次から次へ頭の中で駆けめぐらせている間に、どれほどの心の落ち着きが彼女の全身をおおってしまったかは、全く驚嘆のほかはない。眠る間も、あるいは悲しい白日の夢にふける間も、始終彼女を責めさいなんでいたかつての不安や疑念は、彼女の計画が具体化する模様を見せはじめてからこの方、今は全く消えうせてしまった。実際、彼女は自己の立場の目新しさを感じこそすれ、もはや心の乱れも恐れも感じなかった。時おり、ほとんど青春の歓喜ともいえる感動がわいてきた。それは彼女が長い間の冬眠と単調な隠遁生活をしたあとの、清新な外気の爽快《そうかい》な息吹きであった。努力というもののなんという健康さ! われわれが知らずにいる力のなんという不思議な働き! ヘプジバーが幾年も久しく知らなかった、最も健康な色艶が、今ちょうど、あたかも彼女が、生まれて初めて、自活のために自分の手を伸べた、まさにその恐ろしい危機に訪れたのだ。男の生徒のあのちっぽけな丸い銅貨が――それは色が鈍く光沢なく、世界じゅうここかしこで微力な役目を果たしていたものではあったが──福徳のかおり豊かな、そして黄金の座金にはめられて彼女の心臓に最も近く飾るにふさわしい神秘の護符であると証明された。それは、電気めっきの指輪と同じききめがあり、そしておそらく全く同じ効能を与えられているものだったろう! なんにしても、ヘプジバーは、肉体的にもまた精神的にも、その霊妙な作用のおかげをこうむったのだ。まして、それが彼女に元気を出させてかなりの朝食を取らせ、その際、勇気がますます長続きするよう紅茶を一さじ、余分に煎《せん》じたので、なおさらのことであった。
そうはいっても、彼女の開店の初日が、こんな快活な元気な気分を、何度もひどくじゃまされないで経過したわけではなかった。通例、神は、人間がその能力をむりのない程度に十分発揮しているのにちょうど足るだけの勇気しか、めったに与えてくださらない。この老貴婦人の場合には、新たな努力の興奮が収まってしまったあとで、全身的な気力のめいりが、時おり、今にも戻ってきそうでならなかった。そのさまは、われわれがしばしば見かけるあの、大空を暗くし、そしてどこもここも灰色のたそがれにしている幾層かの密雲が、ついに、夜の入りかけに、ほんのしばし、ちらと日の目をのぞかせるのに似ていた。しかしいつも、嫉妬深い雲はその一条の蒼穹《あおぞら》の縞《しま》をさえ遮《さえぎ》って、再び群がり寄ろうと努めるのである。
客は昼前、日足が進むにつれてはいってきたが、むしろ不振であった。また場合によっては客のほうか、ヘプジバー嬢のほうか、どちらかが不満なこともあったと打ち明けなければならない。かつまた、だいたいから見て、潤沢な利得の総額を銭箱に収めたのでもなかった。ある少女が、母のお使いで、特殊な色とそろいの木綿糸を一綛《ひとかせ》買いにきて、その近視の老婦人が寸分違わぬ色ときっぱり保証したものを受け取ったが、すぐ駆け戻って、これは色が合わないし、おまけに、非常にもろくなっているよ、とすげない、ふきげんな伝言《ことづて》を持ってきた! それから、青い顔色の、苦労の皺を刻んだ女で、年寄りではないが、ひどくおもやつれして、まるで銀のリボンのように、もうすでに銀白の糸すじが髪に混じっている人がいた。生まれつき虚弱で、獣のような亭主──きっと飲んだくれの男だろう──と、それに少なくも九人はいる子供らのために、死ぬほど疲労しているのがだれの目にもそれと知られる、そういう女房たちのひとりであった。彼女は数ポンドの小麦粉がほしくて、お金を差し出した。しかし零落した貴婦人は無言でそれを断わって、そして彼女が代金を受け取った場合よりもっと量《はか》りをよくして、そのかわいそうな女にくれてやった。しばらくたって、ひどくよごれた、青い木綿の仕事着の男がはいってきてパイプを買ったが、その問強い酒の激烈な悪臭が、彼が息づかいするたびに、焼けるような熱い空気へ吐き出されたばかりでなく、全身からもじくじくとしみ出て、まるで燃えやすいガスのように、店いっぱいに充満した。ヘプジバーは心の中でこの男こそ、苦労で皺だらけなさっきの女の亭主であるという印象を受けた。彼はタバコを一袋所望した。ところが彼女はその品を用意してなかったので、この乱暴な客は買ったばかりの自分のパイプを激しく投げつけて、悪態をつく口調と皮肉のこもった、何か訳のわからぬ言葉をつぶやきながら、店を出て行った。そこで、ヘプジバーはあきれて目をきっと見張って、うっかり神をもはばからぬほど顔をしかめてしまった。
午前中に、ジンジャビールや、サルサ根飲料や、または何か同じ種類の醸造飲料を求めた客は五人もあった。そして、そういう物は何ひとつ買えないので、非常なふきげんで出て行った。その中の三人は戸をあけ放したまま立ち去ったし、残りのふたりは出しなにことさらいじ悪く戸を引っぱったので、小さなベルの音がヘプジバーの神経をさんざんに苦しめた。丸々と太った、騒々しい、火のような赤ら顔の近所の主婦が、息せききって店に飛び込んで激しい口調でパン種をくれとせがんだ。そして気の毒にもその貴婦人が、いかにも冷静におずおずした態度で、この興奮している客に、その品物を店に置かなかったと話して聞かせたところ、じつにしたたか者のこの主婦は、思いきって紋切り型の非難を浴びせかけた。
「一文店、それにふくらし粉もないの!」と彼女は言った。「それじゃちっとも役にたたないじゃないの! いったい、だれがこんな話を聞いたことがあるの? あんたのパンなんかけっしてうまくふくれやしないわよ、私のパンがきょうはふくれないみたいにね。あんたはすぐさま店をたたんだほうがましだわ」
「そうですね」とヘプジバーは深いため息をつきながら言った。「たぶんそうでしょうねえ!」
そのうえ、こんな例のほかに数回も、ぞんざいではないにせよ、なれなれしい口調で人々から話しかけられて、彼女の貴婦人としての感情が心底から傷つけられた。人々は彼女と同輩であるばかりか、彼女の庇護者《パトロン》であって目上であると、自分で思っていることは明らかだった。ところで、ヘプジバーは、何か微光のような、または後光のようなものが、彼女の身の回りにさすことだろう、そしてそのことが彼女の正真正銘な貴族の身分に対して、丁重な敬意か、もしくは少なくとも、それとはいわぬ会釈のそぶりかは、きっと保証してくれるであろうと考えて、知らず知らずにうぬぼれていたのだった。その反面、こういう会釈があまり露骨に言い表わされたときほど、彼女の心の責め苦が耐え切れないことはなかった。一度か二度の、むしろ差し出がましい同情めいた口出しに対し、彼女が答えた返事はまるで毒舌にひとしかった。それから、残念な話であるが、ヘプジバーは、ひとりの女客が、買い物をするように見せかけてはいるが、その品物が実際入用なわけではけっしてなくて、ただ彼女をじろじろ見てやろうとするいじ悪い気持ちから、店に引きつけられて来たのだろうと疑ったため、全くキリスト教徒とは思えない精神の混乱状態に陥ってしまった。野卑なその女は、貴族とか称する白かびのはえたひとりの女が、人生の花盛りの全部と、老年の大部分とを、世を避けてあたらむなしく送ったあとで、帳場の陰ではどんな異彩を放っているものやら、自分で見届けてやろうという腹づもりでいたのだった。他の場合ではたとえどんなに機械的であって悪意がないとはいうものの、特にこの場合にかぎって、ヘプジバーのゆがめた顔が大いに彼女のために役だったのだ。
「私は生まれてからあんなこわい目にあったことはなかったわ!」とそのせんさく好きな女客は知り合いのひとりにその出来事の模様を述べて言った。「あの女の性根はいじ悪のがみがみばばあですよ、ほんとにそうなんですよ! なるほどあの女はほとんど口をきかない。だけどあの目つきのいじ悪さといったら、あんたに一目見せたかったねえ!」
そういうわけで、だいたいのところ、彼女の新しい経験は、われわれのこの落ちぶれた貴婦人が、自分で下層階級と呼んでいる人の気質や態度についてはなはだ不愉快な結論を持つようにしたが、これまで、彼女は、自分が問題なく上級の社会に位置しているとして、これらの下層の人々をあるやさしい、哀れみをこめたいんぎんさで見おろしていたのだった。ところが、不幸にも、彼女は同じように、全く正反対のある苦々しい感情と戦わなければならなかった。つまりつい最近まで自分がそれに属することを誇りにしていた有閑な貴族階級に対する、一種の激しい憎しみの感情をさすのである。もしひとりの高貴の婦人が、優雅な、高価な夏衣装をまとい、ベールをひらひらさせ、上着を幽艶《ゆうえん》に揺りながら、そして、彼女が地を踏んでいるのかそれとも空中に浮き漂うているのか、確かめようと、彼女の優美な上靴ばきの足もとへ思わず人の視線を走らせるほど、全く空気のように軽やかに――もしこのような幻の麗人が、この辺鄙《へんぴ》な街路をたまたま通りかかり、そして、あたかもこうしんばらの花束が持ち運ばれて行くかのように、彼女が行き過ぎるにつれて街路を悩ましくまたもの狂わしく馥郁《ふくいく》とにおわせて去るようなときには──そのときは、また、ヘプジバー老婦人のしかめ面が、もはや近視だからという口実だけでなにもかも自己弁護することはできないのではないか、と気づかわれるのである。
「どんな目的で」と彼女は、金持ちを前にしての、実は全く貧乏人の屈辱感にすぎないあの恨めしい鬱憤《うっぷん》を漏らしながら考えた――「いったいあの女は、神さまのお目からはどんなりっぱな目的のために生きているの? あの女の両の手の平をまっ白く華奢《きゃしゃ》にさせておくために、全世界の人たちが、あくせくして働かなければならないの?」
そう言ってから、恥じて後悔して、彼女は顔を隠した。
「神さま、私をお許しくださいませ!」と彼女は言った。
もちろん、神は彼女をお許しになった。しかし、ヘプジバーは、午前の半日間の、心の内外両面の歴史をあれこれ考えあわせて、その店が、彼女の一時の幸福に対してさえ、真に本質的な貢献をしていないし、道徳的・宗教的な考え方では身の破滅を立証するのであろうと、恐怖を感じはじめた。
[#改ページ]
四 店番の一日
正午近く、ヘプジバーは、相当な年輩の大柄でかっぷくのよい、そして驚くほど威厳のある態度のひとりの紳士が、白くほこりっぽい街路の向こう側を、ゆっくり通って行くのを見た。彼は「ピンチョン楡」の木陰にさしかかったとたん、ぴたりと足を止め、(その間、帽子を脱いで、額の汗をふきながら)荒れ果てて古さびたおもかげの「七破風の屋敷」を、格別な関心ぶりで、精密に吟味しているようだった。
この男自身が、じつに変わった身なりをしていて、この家と同じように、注意してながめるだけの価値は十分あった。はなはだ高貴ないかめしい体裁を作る紳士の見本としては、これ以上のものは捜す必要もなかったろうし、また捜したって見つかりはしなかっただろう。そのような威厳ぶる体裁が、なんとも言い表わしがたいある魔力の働きで、自然にこの男の表清や身ぶりに現われているばかりでなく、着ている衣服の様式までも支配していて、その服装全部が、特にこの男に似つかわしく、かつ無くてはならぬものにしていた。具体的には何ひとつ、他人の服装と違っているとも見えないのに、やはりその服装にどことなくまことに豊富な厳粛さがあって、それが衣服の仕立てとか材料とかに関係していると決めるわけにはいかないからには、着ている本人の特徴であるに相違なかった。
彼の金冠の杖――黒い、つやつやとみがいた木の、権威を標示する重宝《ちょうほう》な棒──もまた、持ち主に似た特性を持っており、たとい杖だけひとり歩きをしたとしても、どうやら満足に勤まる代役としていたるところで認められていただろう。この特性は──それは彼の身の回りのすべての物に非常に目だって出ているし、それでその効果を読者に伝えたいのである──彼の身分、生活上の慣習、また外面的な環境よりも根の深いものではなかった。だれしも彼を知名の、勢力あり権威ある人物と認めた。そしてとりわけ、あたかも彼が自分の銀行預金を披露したかのように、あるいはまた、彼が「ピンチョン楡」の小枝に手を触れて、マイダス王の神話さながらに、その枝々を黄金に変えるところを人が目撃したかのように、だれもかも彼が富裕なことを確信することができた。彼が若かったころは、きっと顔だちのりっぱな男と思われていたことだろう。この年輩になって、彼の顔があまりにいかつく、こめかみがあまりに露出して、はえ残る毛髪があまりに白く、目つきがあまりに冷たく、口もとがあまりに固く締まりすぎて、容色の美という点からはすっかり縁が切れてしまった。彼はおそらくりっぱな堂々たる肖像になったことだろう。たぶんこれまでの生涯のどの時期よりも、今がいちばんりっぱであろう。ただし彼の表情は、カンバスの上に塗りこめられてゆく間にもきわめて明瞭に冷酷になってゆくかもしれなかった。画家は彼の顔面を研究し、そして、眉を一顰《いちびん》すれば顔をけわしくし──また一笑すれば顔を明るく輝かす──百面相の表情能力を確かめたいと願ったことだろう。
そんな初老の紳士が「ピンチョン屋敷」をながめて立っている間、むっつりした顔と微笑とがつぎつぎに顔に浮かんでは消え去った。彼は商品陳列窓に目をとめた。そして、金のつるの眼鏡を取り上げて、それを片手に持ちながら、ヘプジバーが並べたおもちゃや商品のささやかな陳列を詳しくながめ渡した。始めはこれが彼を満足させない様子だった──いやむしろ、はなはだしい不快を招いたようだった──それなのに、もう次の瞬間には、彼はうっすら笑っていた。この薄笑いの表情がまだ口のあたりに残っている間に、彼は、何気なしに窓へからだをかがめたヘプジバーの姿をちらと見つけた。するとたちまち、その薄笑いは、辛辣《しんらつ》な不愉快なものからこの上なく晴れやかな満悦と慈愛に変わってしまった。彼は、威厳といんぎんな好意とを巧妙に取り合わせて、お辞儀をし、そして再び歩きだした。
「ああ、あの男が来た!」とヘプジバーはひとり言をいって、じつに苦々しい感情をぐっと飲み下した。そして、その感情からのがれることができないので、心の奥へ追い返そうと努めた。「いったい、あの男はこの店のことをどう思っているかしら? 喜んでいるかしら?。 ああ!――振り返って見ているわ!」
紳士は街路上に立ち止まって、からだをくるりと半ば向き変えたまま、まだ店の陳列窓から目を離さなかった。実際、彼は完全に回れ右をして、あたかも店にはいろうと思案しているかのように、一、二歩あるき出した。ところが、偶然にも、その紳士の意図が、ヘプジバーの最初の客の、黒ん坊菓子を平らげた例の人食い小僧のために出し抜かれてしまった。この小僧は、陳列窓をじっとのぞいて、しょうが入り菓子の象にひきつけられてがまんできなくなったのだ。こんな小柄な小僧なのになんという偉大な食欲なのだろう!──朝食のすぐあとでふたりの黒ん坊を!──そして今度は昼食前のまず食いならしに象一頭とは! 後者のこの象の買い物が済んだころには、かの初老の紳士はもう前のように歩き出して、町角を曲がってしまっていた。
「なんとでも思うがいいよ、いとこのジャフリー!」と未婚婦人は、用心深く頭を窓から突き出して、表通りをあちこちながめ渡してから、からだを引っ込めながらつぶやいた。「なんとでも思うがいいよ! あなたは私の店のちっぽけな陳列窓を見たんだね! いいわ!──何か文句があるの?──私が生きているかぎり、ピンチョン屋敷は私のものじゃないの?」
こんな出来事があってから、ヘプジバーは奥の居間に引っ込み、その部屋でまず編みかけの長靴下をつかみあげ、それから興奮している乱れた手つきでぐいぐいと編み始めた。けれどもまるで編み目とけんかをしかけているのにすぐ気がついて、それをわきに放り出して、部屋の中をせっかちにあちこち歩き回った。ついに、彼女は自分の先祖であり、またこの家の創立者でもある、例のいかめしい老清教徒の肖像画の前にたたずんだ。ある意味で、この画像は薄れてカンバスの中へほとんど消え入り、そしてもうろうとした歳月の闇の奥へ姿を隠してしまった。別の意味では、彼女が子供のとき、初めてその画像になじんで以来、画像がますますはっきり目だってきて、そして著しく表情に富むようになってきたと想像しないわけにはいかなかった。そのわけは、からだの輪郭やその肉体がながめる人の目からしだいに暗く消えてゆく一方、その人物の大胆な、非情な、そして同時に、表面に出ないでいる陰暗な性格が、一種の霊の浮き彫りとなってくっきりと露出してくるように思われるからであった。このような効果は古い昔の画像に時おり見受けられるものである。こういう画像は、画家が(もしその人が当世の画家に見られるような如才なさをいくぶんでも持ち合わせているなら)自分の後援者《パトロン》に対し、後援者自身の顔の特色として描き出そうとは夢にも思わなかった表情を蔵している。しかし、それにもかかわらずわれわれは、その表情を一目で、人間の心の見苦しい真相を反映しているものと見破ってしまう。このような場合では、描かれる人の心の特性に対する画家の深い洞察力が作用して画像の本質を作ったものであり、それが歳月のため表面の彩色が擦り落とされてしまってから現われてくるのである。
肖像をじっと見つめている間、ヘプジバーはその画像の人の目からにらまれて身を震わせていた。彼女の心に伝わる祖先崇拝の念は、彼女の判断を臆病にし、真実の知識が彼女に命ずるとおりに手きびしくその絵の本人である先祖の性格を批判させなかった。けれども彼女はそのままじっと見つめていた。なぜならその画像の顔が、たった今表通りで見かけたばかりのあの顔を、ますます正確に、またもっと深い奥まで、読み取る力を彼女に与えてくれた──少なくとも、彼女はそんな気がした──からであった。
「この顔はあの男そっくりだわ!」と彼女はひとり言をつぶやいた。「ジャフリー・ピンチョンがたといどんなににこにこして見せても、あの顔つきが陰に隠れているのだ! あの男に頭蓋帽やたれ襟や、黒い袖なし外套を着せ、片方の手に聖書を、別の手に剣を持たせてみなさい──そうすればたといジャフリーがどんなに微笑を浮かべて見せても――だれだって、あれは開祖ピンチョン老人の再来だ、と言って、ひとりも疑う者はないだろうよ! あの男こそ新しい家を建築する人間であることを自分で証明したのだ! それにまた、きっと、新たな呪いを招く人間であることも!」
こんなふうにヘプジバーは、古い昔の、こんなとりとめのない空想ですっかりとり乱してしまった。彼女はあまりにもひとりぼっちで──あまりにも長い間「ピンチョン屋敷」に──暮らしてきたので、ついに彼女の頭までが、この家の木材の乾蝕《ほしくい》でいっぱい詰まってしまった。彼女は精神を正気に保つため、白昼の街路を散歩する必要があった。
対照の妙の不思議な働きで、もう一つの画像が彼女の目の前に浮かんできた。その絵は、どんな画家でもこれほど大胆に追従《ついしょう》しなかったろうと思われるほどの描きぶりではあるが、それでも繊細微妙な筆触《タッチ》のため、似寄りは完璧のまま残っていた。マルボーン筆の例の小さい細密画も、同じ人物の画像であったが、ヘプジバーが虚空《こくう》に思い描いた、そして愛情も悲痛な思い出もからめてともに溶かし込んでいる、その肖像画には遠く及ばなかった。やさしく、穏やかに、快活で思い深げな面《おも》ざし、ふっくらと、赤い唇で、今にもほころびそうな微笑をたたえ、目はつぶらな瞳《ひとみ》をやさしく明るく輝かせてそのほほえみを先ぶれているようだった! 異性の気質に形どられてもう分離できなくなっている女性的気性! あの細密画像もまた、同じように、最後のこの特色を持っていた。その結果、この画像の本人は母親似であり、そしてその母親は、うるわしい愛嬌ある婦人で、たぶん、ある性格的な美しい弱さを持ち、これがかえってますます愉快に彼女を知り、ますます楽しく彼女を愛するようにさせる婦人であったとだれでも必ず考えたのであった。
「そうなのよ」とヘプジバーは考えて、心の底から瞼《まぶた》へこみあげてきた、深い悲しみのほんのわずかな一部にすぎない涙をかろうじてこらえた。
「あの人たちは、兄の持っている母親似の気性を迫害したのだわ! この人は全くピンチョン家の者らしい男ではなかったのです!」
しかしちょうどここで店ベルが鳴った。その音ははるか遠い所から響くようだった──それほどヘプジバーは記憶の墓場の底深く落ち込んでいたのだった。店に出てみると、そこにひとりの老人がいたが、「ピンチョン通り」の身分卑しい住人で、ヘプジバーが過去何十年もの間、この家出入りの顔なじみとして認めていた者だった。彼は大昔から生きている老人で、昔から白髪頭《しらがあたま》で、皺があって、そして、たった一本、それも半分欠けた虫歯が、上顎の前にしかはえていなかったように思われた。ヘプジバーはかなり年取っていたのだけれども、近所の人たちからアンクル・ヴェンナーと呼ばれているこの老人が、ちょっと腰をかがめて、砂利や舗道の上を重たそうに足を引きずりながら、通りをあちらこちら往来していないときなど思い出すことができなかった。それでもこの老人にはまだどこかしんの強い元気盛んなところがあって、それが毎日彼に呼吸を保たせているばかりでなく、もしも彼がいなかったら、見たところ満員なこの世に空席となっていたはずの、その場所を占めさせてくれたのだった。いったいあれでどこかに行き着けるのかと、だれしも首をかしげるようなのろまな引きずり足で、使い歩きをしたり、家庭用の一、二フィートの小さい薪《まき》を鋸《のこぎり》でひいたり、古い樽を細かに打ち砕いたり、松板を割りつけて焚付《たきつけ》にしたり、夏には、安い家賃の借家に付いている幾枚かの野菜畑を掘り起こして、働いて得た農産物を半々にわけてもらったり、冬には歩道の雪をシャベルで投げ捨てたり、または木小屋や、物干し綱伝いに雪道をあけたりする。こんなことが少なくとも二十世帯はある中で、ヴェンナー爺やが受け持つおもな仕事のうちにはいっていた。彼はそこの社会の中で、ちょうど牧師が自分の教会の地区で持っているのと全く同じような特権を主張したし、またおそらく同じくらい熱烈な関心を感じていた。彼が十分の一税として豚一頭を納めさせようと言い張ったわけではなくて、ただ牧師がやるような敬虔な方法として、毎朝巡回し、自分が持っている一匹の豚の飼料として、食卓のパン屑や料理鍋のあふれ汁などをかき集めて歩いたのである。
彼がもっと若いころ――こんな言い方は、要するに、彼には「若いころ」というのがなく、「もっと若いころ」があったのだ、というあいまいな言い伝えがあったからである──ヴェンナー爺やは、どちらかといえば何よりも、知能が足りないと一般に考えられていた。実のところ、彼は他の人々が求めるような成功を望むでもなく、また、世間との交際にあたって、薄ばかと取りざたされる者が引き受けている、あの慎ましく謙虚な職分だけを守っているために、そのような言いがかりを実質的には承服していたのだった。しかし、非常な高齢となった今は──長い間の苦しい経験が実際に彼を利口にしたのか、それとも老い衰える判断力が公平な自己評価をますます不可能にしたのか、いずれにせよ──この古老はたいへんな知恵を誇示して、知恵者の評判を心からうれしがっていた。なおそのうえ、時おり、彼にはなんとなく詩心めいた気質さえうかがわれることがあった。それも彼の荒廃しかけた小さな心の石壁にはえた苔《こけ》か、ニオイアラセイトウの花であって、彼がずっと若かったころや中年時代には、野卑で平凡だったかもしれない下地に、魅力が加わったのであった。ヘプジバーはこの老人にある敬意をいだいていた。なぜならヴェンナーの名はこの町に古くからあったもので、昔はれっきとした家柄だったからである。彼に心安い尊敬に似た好意を寄せるいっそうよい理由は、「七破風の屋敷」と、おそらく、これに暗い影を投げかけている楡の木とを除けば、ピンチョン通りでは、人間と物とを問わず、アンクル・ヴェンナー自身がいちばん古参な存在であるということだった。
この長老が今ちょうど、古い青色の上着を着込んで、ヘプジバーの前に姿を現わした。それは今はやりの服であって、だれかはで好みの店員が脱ぎ捨てた衣装が、自然に彼の物となってしまったのに相違なかった。彼のズボンといえば、あらい麻布製のもので、脛《すね》が非常に短く、おしりのところが妙にふくらんでたれ下がっているが、それでも彼の風体《ふうてい》には、他のものでは補うことが全くできないくらい、うまく似合っていた。帽子は服装のどの部分ともつり合わず、かぶっている頭とだけわずかに縁があるくらいであった。このようにアンクル・ヴェンナーはひとりの寄せ集めの老紳士であり、一部だけは本人であるが、おおかたは借り物の他人であった。また、雑多な時代の継ぎはぎでもあるし、時世と流行の縮図でもあった。
「ほほう、あなたは本気で商売をお始めなさんしたね!」と彼は言った。「ほんとうにおやりなさんしたな! なるほど、これはうれしいですな。お若い人たちが世の中を手ぶらで暮らしちゃあいけませんし、また年寄りだっておんなじですよ。リューマチにでも取っつかれれば別ですがね。そいつがもうわたしに用心しろって警告しましたよ。それでこの先二、三年もたてば、仕事をかたづけて、わたしの農場に引っ込む算段をしなけりゃなりますまいて。ほら向こうにある──あの大きな煉瓦の家――感化院とたいていの人が呼んでいるあれですよ。でもわたしはまず自分の仕事をやって、それからあそこへ行き、ぶらぶらと遊んだり楽しんだりするつもりですよ。わたしはあなたが仕事を始められたのを見てうれしいですよ、ヘプジバーお嬢さま!」
「ありがとうよ、ヴェンナー爺や」とヘプジバーは、微笑しながら言った。彼女はこの単純でおしゃべりの老人に対して、いつも好感を持っていたからだった。もし彼がおばあさんだったら、彼女が今きげんよく受け入れた相手のなれなれしさをきっとはねつけてしまったことだろう。
「今時分私が仕事を始めるなんてほんとにねえ! いや、正直に言いますと、私は商売をそろそろやめなければならないそんな年になって、やりはじめたのですよ」
「ああ、そうおっしゃってはいけませんよ、ヘプジバーお嬢さま!」と老人は答えた。「あなたはまだお若い婦人ですよ。だってわたしは今よりも若い自分のことなど思ったこともまずないですが、あなたがこの古いお屋敷の玄関あたりで遊んでおいでなされた、まだほんの小ちゃい子供姿を始終お見かけ申したのも、ついこないだのような気がしますがねえ! ですが、もっと、あなたはよく敷居のところへ腰掛けなされて、まじめな顔して表通りをながめておいでなさんしたね。あなたにはいつもまじめくさったところがありましたからね──おとなびた風情がね、まだようやくわたしの膝ぐらいの背たけのころだったのに。まるで今も昔のあなたが見えるような気がしますよ。それからあなたのおじい様がまっかな外套にまっ白い鬘《かつら》、そして三角帽をかぶって、杖を手に、家から出て来られ、じつに堂々と町を歩いて通られるお姿もね! アメリカ革命前に成人なされた昔の殿方たちはいつ見ても堂々と威儀を正しておいででしたよ。わたしの若いころは、町の偉いお方は普通「王様《キング》」と呼ばれたものです。そしてその奥さまは、いかにも「女王《クイン》」とは言わないが、「貴婦人《レデイ》」と呼ばれてましたよ。この節、王様などと呼ばせたがる不敵な男はようおらんでしょう。そしてたといいささかなりと自分が一般庶民より上だと思えば、それだけいっそう低くみんなに腰をかがめるだけですよ。わたしはあなたのいとこにあたる判事さまと、十分前に出会いましたよ。わたしゃあごらんのとおり、あらい麻布の古ズボンをはいているのに、判事さまはちょっと帽子を上げてわたしに会釈されたんですよ、全くねえ! あの判事さまが頭を下げてにっこり笑いなされたんですからねえ!」
「そうですよ」とヘプジバーは、思わず知らず何か苦々しいものが、こっそりはいってきた口調になって言った。「私のいとこのジャフリーはほんとにあいそよく笑うと思われています!」
「おっしゃるとおり、にこにこしておいでですよ!」とヴェンナー爺が答えた。「そしてそのようなことはピンチョンさんとしちゃあなかなか大したことですよ。というわけは、まことに失礼ですが、ヘプジバーお嬢さま、お家のかたがたは気楽で愉快なかたたちだという評判は全然なかったですからね。だれだってあのかたたちに近づくことはできませんでしたよ。ですけど、さてヘプジバーお嬢さま、老齢《とし》に免じていただいてあつかましくお尋ねしますが、ピンチョン判事さまは、あんなに大した財産がおありなさるのに、なぜ一歩乗り出して、ご自分のいとこのかたに、女手一つの小さな店をすぐしめなさいとおっしゃらんのですかね? そりゃ何か仕事をなさるのはあなたの面目ですよ。ですがあなたを働かしては判事さまのお顔にかかわりましょうて!」
「どうか、そんな話はよしてちょうだい、ヴェンナー爺や」とヘプジバーは、冷たく言い捨てた。「それでも、たとい私が自分でかってにパンをかせいだところで、そのことが何もピンチョン判事の落ちどにならないことは、断わっておかなければなりません。また何もあの人を非難するにはあたりませんよ」と彼女は、ヴェンナー爺の年寄りなことや、慎ましく、懇意にしていることなどの特典を思い出して、もっとやさしい口調になって、こんなふうに付け加えた。「たとい、私が、やがてあなたのおっしゃる農場へあなたといっしょに引っ込むほうが便利なことが、もしかわかった場合にしてもですよ」
「そりゃあそこは、どうして、どうして、悪い場所じゃないですよ、わたしのあの農場は!」と老人は、そんな期待の中に何事かほんとうにうれしいことがあるかのように、はしゃいで、大声を出した。「あの大きな煉瓦建ての感化院はけっして悪い場所じゃあないですよ。ことに、わたしの場合のように、あそこでかなり大ぜいの古い顔なじみを見つけられる者にとってはね。わたしゃ時々、冬の晩など、あの連中の仲間入りしたくてたまらなくなりますよ。だって、わたしのような、ひとりぽっちの年寄りがしめきったストーブだけを相手に、何時間も、こっくりこっくりしているなんて、全くおもしろくない仕事ですからね。夏だって冬だって、わたしの農場をほめるところはうんとありまさあ! 秋の場合を例にとっても、自分と同年輩のだれか年寄りとおしゃべりしたり、あるいは、たぶん、さすがおせっかいなヤンキーたちさえそいつの使い道にはさじを投げてしまったんで、なまける要領《こつ》をよう心得ている、生来とんまな男とのらくら暇をつぶしたりしながら、日当たりのよい納屋や、山と積んだ薪の上でまるまる一日暮らすことほど愉快なことが、いったい何がありますかい? ヘプジバーお嬢さま、確かにわたしゃあ、大概の人が感化院と呼んでいる、わたしの農場におるような気持ちの時ほど満足を覚えたことがあったろうかと疑いたくなりますよ。しかしあなた──あなたはまだお若い婦人です──あなたがあそこへいらっしゃることはありませんよ! あなたのためにもっといいことが起こりますよ。わたしゃあそう信じていますよ!」
ヘプジバーは、彼女の古めかしい友人の表情や言葉の調子に何か特に変わったところがあるような気がした。それで彼女はかなりしんけんに彼の顔をじっと見つめ、もしあるなら、どんな隠れた意味がそこに潜んでいるのか、見つけ出そうと努力した。事態が全く絶望的な危機に達してしまった人々は、ほとんどきまっていろいろな希望を夢み続けるものであり、利益に対するなんらかの聡明かつ適度な期待を造り上げるための、堅実な材料を自分の力でつかむことができなければできないほど、その希望はますますそらぞらしい華麗な夢となるのである。このように、ヘプジバーは小さな店の計画を仕上げている間も始終、ある道化師のあやつる幸運が彼女の気に入るように舞い込んでくれるだろうという、かなえられない思いをいだいていた。たとえば、ひとりのおじが──五十年前、インドヘ船でたったが、その後なんの音さたもなかった――今に帰ってきて、非常に年取ったよぼよぼのもうろくを慰めるため彼女を養子に迎え、真珠やダイヤモンドや東洋のショールやターバンで飾ってくれたり、そしてけっきょくは数えきれない彼の資産の女子相続人とするかもしれなかった。あるいはイギリス下院議員で、現在イギリス本土の分家の戸主──この分家と、大西洋のこちら側の本家筋とは、過去二世紀間ほとんど、いや全く交際が絶えていた──この高名の紳士がヘプジバーに、荒れ果てた「七破風の屋敷」を捨てて海を渡り、親族といっしょに「ピンチョン本邸《ホール》」に住まうように招待するかもしれなかった。けれどもどうにもならない厳然たるいろいろの理由のため、彼女は彼の要望に従うわけにいかなかった。それゆえもっと有望なことは、いつか昔の世代に、バージニア州に移住して、その土地の大農園主となった、ピンチョン家の者の子孫たちが――ヘプジバーの窮状を耳にしたり、またニューイングランド人の血に混じり、その気質を豊かにしたに相違ないバージニア人のすばらしく鷹揚《おうよう》な気性に駆り立てられたりして──彼女に一千ドルの送金をし、しかもその好意を毎年くり返すと申し出てくれるだろうということだった。あるいは──そして確かに、これだけ明白に正当な事なら筋の通った予想であって、法外であるはずがなかった──ウォルドー郡の領地遺産に対する膨大な請求権は、けっきょくピンチョン家に有利な判決となるかもしれなかった。その結果、一文店を営むかわりに、ヘプジバーは宮殿を建てて、最も高い塔の上から丘陵、渓谷、森林、原野、町を祖先の土地の彼女の領分として眼下に展望することであろう。
こういうことはみな彼女が長いこと夢見ていた空想の一部であった。それで、このような空想の働きで、ヴェンナー爺が彼女を勇気づけようとした試みが、偶然彼女の頭脳の貧弱な、殺風景な、憂鬱な部屋部屋に不思議な祭りの明かりをにぎやかに点《とも》して、あたかもその心の世界が急にガス灯で照明されたかのようだった。しかしヴェンナー爺は、彼女が描く空中楼閣を全然悟らなかったのか――どうして悟られようか!──または、もっと大胆な男でさえ取り乱すかもしれなかったが、彼女がしんけんに思いつめたしかめ面が彼の記憶力を惑乱させたのか、そのどちらかだった。ヴェンナー爺はそれ以上もっと重要な話題には深入りしないで、喜んでヘプジバーのため、店の経営者としての彼女にある賢明な助言を与えてやった。
「掛け売りは禁物ですよ!」──こんな言葉が彼の金言の中にあった──「紙幣《さつ》はけっして受け取りなさるなよ! つり銭によっく気をつけさっしゃい! 銀貨は四ポンドの分銅に落として音色《ねいろ》で真偽を調べなされ! 町の方々に非常にたくさん出回っている、あんなイギリスの半ペニー銀貨や粗悪な代用銅貨はみな突っ返しなされ! 暇な時には、子供たちの毛の靴下や二また手袋を編みなされ! 酵母《イースト》を自分で造り、またジンジャビールも自分で造りなさいよ!」
そして、彼がすでに語って聞かせた、固い小さい丸薬のような知恵の言葉を飲み込もうと彼女が一生懸命努力している、と彼は、これが自分のとっておきの、しかも最も肝心な忠告であると次のように言明した。
「店のおとくいさんのために晴れやかな笑顔を見せなされ。そしてお客さんが求める品を手渡すときは、あいそうよくにこにこするもんですよ! 古いかびた品でも、あなたがそれをやさしい、暖かいほがらかな微笑に浸せば、しかめ面して売る新品よりは、売れ行きがよくなりますよ」
この最後の格言に対して、かわいそうにヘプジバーは非常に深い、重々しい吐息で答えたので、アンクル・ヴェンナーは、まるで秋の野分《のわき》に吹かれる、一枚の枯れ葉のように──実はそのとおりだが──今にもふっと吹き払われるところだった。それでも彼は立ち直って、前のほうに身をかがめ、そして、その老顔にあふれるほどの同情を浮かべて、彼女にもっと近寄るよう手招きした。
「あのかたはいつ帰ってきなさるんですかい?」と彼はささやいた。
「どなたのことですか?」とヘプジバーは、顔色を変えてきいた。
「ははあ? あなたはその話はなさりたくないんですね」とヴェンナー爺は言った。
「なるほど、なるほど! もうその話はよしにしましょう、その噂は町じゅうに広まっていますがね。わたしはあのかたを覚えてますよ、ヘプジバーお嬢さま、まだあのかたがひとりで駆けて歩けなかったころですよ!」
その日の残りの時間、気の毒にもヘプジバーは、小売り業者として、これまでのあっぱれな手並みと比べて見劣りするかのような働きぶりだった。彼女は夢見ながら歩いているふうに見えた。いや、もっと正確にいうと、彼女のいろいろの感動が駆り立てるいきいきした生命や現実が、半ばさめている徴睡《まどろみ》の寝苦しい夢魔のように、外界のいっさいの出来事を、夢うつつにしたのだった。彼女はそれでも機械的に店ベルの呼び出しに何度も応じ、そして客の求めるままに、店をうろうろとおぼろげな目でのぞき回り、品物をあれこれと客に差し出し、そして客が買おうというその品物を──意地悪く、とたいていの客が想像したのだが──横っちょへ突き出した。精神がこのように過去へ、またはいっそう恐ろしい未来へ向かって、さっと飛躍したり、あるいは、なんらかの方法で、精神自身の領域と現実の世界との間の無限の境界を踏み越えたりするときには、ほんとうに悲しい混乱が起こるのである。肉体は現実の世界にとどまって、単に動物生態の機械作用とほとんど同じ働きで、できるかぎり、肉体そのものを指導しようとする。それは、死の静謐《せいひつ》の特権――生者の苦患《くげん》からの解放――を持たない死に等しい。現実の職業が、この老貴婦人の瞑想する精神を今いらだてているような、そんなくだらないささいな仕事から成っている場合には、最悪なのである。
あいにく、午後になって、大ぜいの客が殺到した。ヘプジバーは狭い売り場を、おろおろと、てんてこまいして、前代未聞のしくじりを犯した。一ポンド十本の獣脂ろうそくを、あるいは十二本、あるいは七本と、糸でつるしたり、スコッチかぎタバコと思ってしょうがを売ったり、針と思ってピンを、またはピンと思って針を売ったりした。つり銭の勘定をまちがえて、時には一般の客の損になったし、またもっとたびたび彼女のほうの損失になった。彼女はこんなふうのやりかたを続けて、全力を尽くしてはまた混乱を招いたが、けっきょくその日一日の労働が終わったとき、金入れの引き出しに貨幣がほとんどからっぽなのを見て、さっぱり訳がわからず、びっくりしてしまった。彼女があれほど一生懸命商売したあとで、その売り上げ高はおそらく銅貨六枚と、九ペンス貨幣と紛らわしいのが一枚とであったが、けっきょくこれもやはり同じ銅貨なことがわかった。
こんなに犠牲を払っても、いやどんな犠牲を払ったにしても、彼女はその日一日が終わったことをやれやれと喜んだ。彼女は今まで、夜明けから日暮れまでのろのろと間延びする時間を、こんなにやりきれなく感じたことはかつてなかったし、また何ひとつする仕事のないみじめなうんざりした気持ちをこんなに味わったことも、また、ふてくさったあきらめから、いっそすぐさまごろりと横になり、そして生命や、また生きる苦労や憤懣《ふんまん》やらに、自分の突っ伏した肉体を、思う存分踏みつけさせるほうがましと思案する気持ちになったこともかつてないことだった! へプジパーの最後の仕事は黒ん坊や象をむしゃむしゃ食べる例の餓鬼《がき》の小僧が相手で、それが今度は駱駝《らくだ》が食べたいと言い出した。彼女は大いにろうばいして、最初は木製の竜騎兵を出したかと思うと、次には一つかみのおはじきを差し出した。しかしそのどちらも、ほかの物ならなんでも、むさぼり食うさすがの小僧の食欲に適しなかったので、彼女はそそくさと売れ残っているしょうが入り菓子の、まるで博物学のような各種動物を全部持ち出して、この子供の顧客《とくい》を店から手早く追い立てた。それから店ベルを編みかけの長靴下で包み、そして戸に樫の木の桟を横にさし込んだ。
こんな店じまいをしているとき、一台の乗り合い馬車がやって来て楡の木の枝の下にぴたりと止まった。ヘプジバーははっとびっくり仰天した。遠いかなたにもうろうとして、広漠たる中間には一条の日光もささない所、それが「過去」の世界であり、そこから彼女のたったひとりの客人がやって来ると待望されるのであった! 今、はたして彼女はその人物にめぐり会うのであったか?
ともかく、だれかが、乗り合い馬車の中のいちばん奥から降り口へと歩いて来た。ひとりの紳士が降り立った。しかしそれはただうら若いひとりの少女に手を貸そうとするためであった。すんなりした姿の少女は、少しも助けを借りる必要はなく、今、軽々と踏み段を降り、そして最後の段から歩道へひらりと飛んで降りた。少女は付き添った騎士へにっこり微笑で報いると、明るい頬の紅潮が、再び馬車に乗るときの紳士自身の顔に反射して輝いて見えた。少女はそれから「七破風の屋敷」のほうへ向かった。その間に、その屋敷の入口ヘ──店の戸口ではなくて、その古めかしい正面玄関へ──乗り合い馬車の御者が軽い旅行かばん一個と紙箱一個とを運んでいた。まず古い鉄の|叩き金《ノッカー》をかちかちと激しくたたいてから、乗せてきた客の少女とその手荷物とを玄関の上がり段に残したまま行ってしまった。
「あれはいったいだれかしら?」と、視覚器官をできるだけいちばん見える焦点まで絞っていたヘプジバーは考えた。「あの娘さんは家をまちがえたに違いない!」
彼女はそっと足音を忍ばせて広間にはいった。そして、自分の姿は見せないで、玄関のほこりっぽい横窓からこの陰気な古い大邸宅へはいろうと姿を現わした、うら若く、花のように美しい、そして非常に快活な顔をじっと見つめた。そんな明るい顔に対してはどんな扉でもたいてい自分から開いて迎え入れるかと思われるほどであった。
そのうら若い少女は、だれでも一目でそれと知れるほど、じつにはつらつと、じつにのびのびとしてこだわりなく、それでいて、一般の規則に対しても行儀よくすなおに見えたので、ちょうどその瞬間彼女の周囲のあらゆるものと著しい対照をなしていた。この家の片隅《かたすみ》にはえている、むさ苦しく、見苦しく繁茂しためっぽう大きい雑草や、彼女に暗い影を投げかけている重々しい二階の突き出しや、年を経た玄関の大扉の枠《わく》組みなど、──こういうものは何ひとつ彼女の世界のものではなかった。しかしながら、たった一条の日光が、たとえどんな陰気な場所にさし込んでも、たちまちその場にふさわしい適応性をみずから造り出すのと全く同じように、その少女がその玄関に立っていることがきわめて似つかわしく思われたのだった。その戸がさっと開いて彼女を中に迎え入れたのも、同じように当然なことは明らかであった。その未婚婦人は、自分では、最初はすげないぶあいそうな心組みだったのが、すぐ、戸をぐっと押し返し、錆びた鍵を動き渋る錠前に差し入れて回さなければならないとぴんと感じはじめた。
「はてこの子はフィービかしら?」と彼女は胸の中できいた。「この子はフィービに違いない。だってほかにだれもいるはずがないもの──そのうえこの少女には、どこかこの子の父のおもかげがあるもの! でもこの子はここになんの用があるのだろう? そしてたった一日の前ぶれさえしないで、また歓迎されるかどうかもきかないで、こんなふうに迷惑にも人のところへ不意に押しかけて来るなんて、全くお上りさんらしい親類だわ! そうね、一晩泊めてやらなければいけないだろうね。そしてあす、この子をお母さんのもとへ帰してやりましょう!」
フィービは、ニューイングランドの片いなか生まれの、先に述べたピンチョン一族の血を引くあの小さい子孫であると、承知してもらわなければならない。その土地では親類関係の古い慣習や感情が、まだいくらか保たれているのである。彼女が属する交際社会では、親類同士が、招待なしに、または前もって固苦しい通知もなしに訪問し合うことをけっして無作法とは思っていなかった。それでも、ヘプジバー嬢の隠遁している生活を考えたうえで、一通の手紙が実際にしたためられて速達便で送られて、フィービが訪問を思い立っている趣旨を伝えたのだった。この手紙が、この三、四日間、一ペニー郵便制度の配達夫のポケットにはいったままだった。その配達夫は、たまたまピンチョン通りには他に用事がなかったので、まだ「七破風の屋敷」を訪ねる都合をつけていなかったのだ。
「いいえ!──この子はたった一晩泊められるきりよ」とヘプジバーは、玄関の戸の閂《かんぬき》をはずしながら言った。「もしクリフォードが、この子がここにいるのを見つけたら、気が落ち着かなくなるかもしれないもの!」
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五 五月と霜月
フィービ・ピンチョンは、着いたその晩、この古い屋敷の庭園を見おろす部屋に眠った。その部屋は東向きだったので、ちょうどころ合いの時刻になると、燃えるような真紅《しんく》の光が窓からさんさんと洪水のようにさし込んで、黒ずんだ天井や壁紙を浸してそれぞれの色に染めた。フィービの寝台には緞帳《どんちょう》が付いていた。暗い古風な天蓋《てんがい》や、重たそうな花綵《はなずな》など、ひところは美麗な、そして豪奢でさえあった生地で造られたものだった。しかし今はこうしたものがこの少女を雲のように暗くおおい、ほかのところは白昼になりかけているのに、ここのひと隅《すみ》だけを夜にしていた。それでも朝の光がやがて色あせた緞帳の間の寝台に足もとの隙間へこっそり忍び込んできた。するとそこに新しい客人――朝の光そのものかとまごうばかりのばら色を頬《ほお》に浮かべ、そして明けがたの微風《そよかぜ》が葉群《はむら》をゆするように、去り行く徴睡《まどろみ》が手足をそっと震わせている──がいるのを見つけて、曙光《しょこう》が彼女の額に接吻した。それは露のようにさわやかなおとめ──「曙《あけぼの》の女神」のような永遠の処女──が、まだ眠っているその妹へ、ひとつにはやむにやまれぬ優しい愛の衝動から、またひとつには、もはや彼女の目をさまさせる時分であるとの粋《いき》な暗示として、与える愛撫であった。
こんな朝の光の唇に触れられて、フィービはそっと目をさました。そして、ほんのしばらくは、自分がどこにいるのか、またどうしてこんな重たい緞帳が思いがけなく自分の周囲に花綵をたれているのか、わからなかった。実際、彼女には何もかも全くはっきりしなかった。ただ、まだ朝早いということ、それから、たとえ次にどんな事が起こっても、まず第一に起きてお祈りするのがほんとうである、とわかっただけであった。彼女は部屋や部屋の中の家具類、とりわけたけの高い、堅苦しいいすの無気味な様子から、いっそう熱心に祈祷する気になった。そしてその中のいすが一脚、彼女の寝台のすぐかたわらに立っていて、そしてだれか古老めかしい風体の人物が終夜それに腰かけていて、見つかろうとするほんの寸前、うまくのがれてしまったかのような気がしたからであった。
フィービがすっかり着終わったとき、窓から外をのぞくと庭に一株のばらが見えた。非常に背の高いばらで、枝葉を大きく広げているので、家の片側へ支柱で寄せかけてあった。そして珍しい、じつに美しい品種の白ばらの花が、文字どおりいちめんに咲いていた。少女が後になって見つけたことだが、花はたいてい芯部《しんぶ》がいたんだり、またはかびがはえたりしていた。しかし、かなりの距離からながめると、まるでそのばらを一株まるまる土壌ぐるみ、この夏、エデンの花園から移植したばかりのようなみごとな風情だった。けれども、ほんとうは、そのばらはアリス・ピンチョン──フィービの祖父母の大おばにあたる婦人であった――が庭地として耕されてからだけ数えても、すでに二百年ほどの植物の腐植であぶらぎっている土壌へ植えたものであった。しかし、古い土から咲き出てはいるけれども、ばらの花はやはり新鮮なこうばしい香気を「造物主」に向けて空へ放っていた。また香気が馥郁《ふくいく》と浮かび漂って窓辺を過ぎるとき、フィービの若々しい息吹きがそれと混じり合っても、そのために不純になったり、心に満たなくなったりするはずはなかった。彼女はきしきし軋《きし》む、敷き物のない階段を急いで降りて、庭の中へはいりこみ、最も完全な花の中からいくつか集めて、彼女の部屋へ持ってきた。
フィービは、独特な世襲財産として、物事を実際的に処理する才能を授かっている人々のひとりであった。それはもって生まれた魔法のようなもので、これに恵まれた人たちは、周囲の物から潜在しているいろいろな素質を引き出して見せることも、またとりわけ、どんな短い期間にせよ、いやしくもわが家となる場所へ楽しそうな、住みごこちよさそうな表情を与えることもできるのである。原始林をわけ行く旅人たちが、無造作に下ばえをたばねた粗末な仮小屋も、このような婦人のたった一夜の旅寝のために家庭の趣を帯びるであろう。そしてその婦人のしとやかな姿があたりの物陰へ没し去ったずっと後々までも、その趣をとどめることであろう。これにけっしてひけをとらないだけの同じ家庭的な魔法が、フィービの住む、荒れ果てた、陰気で薄暗い部屋を、いわば、更生するのに必要であった。その部屋はあまり長い間だれも住んでいなかったので──くも、二十日鼠《はつかねずみ》、家鼠《やそ》、それに幽霊は別だった――その結果、荒廃が部屋中にはびこっていたが、それが人間のほんの少しの楽しい暇も消してやろうと目を光らしているのである。フィービの手順が正確にどうであったかを話すことは不可能である。彼女は何か予定の計画を持っているとは思えなかった。ただこちらへちょっと、あちらへちょっとさわるだけだった。二、三の家具を明るみに持ち出したり、他の家具類を暗がりへ引きずっていったりした。窓のカーテンをくくり上げたり、降ろしたりした。こうして半時間もたつうち、その部屋全体にやさしく暖かく迎えるほほえましい風情を与えることに完全に成功した。ついほんの昨夜までは、その部屋は、何よりもあの未婚の老婦人の心情によく似ていたのだった。つまり、部屋の中にも老婦人の心にも、日光はささず、また団欒《まどい》する焚火《たきび》も燃えず、そして幽霊や幽霊の思い出のほかは、ひとりの客さえ、ここ何十年もの間、この老婦人の心にもまたこの部屋にもついぞはいってこなかったからである。
こんな不可解な魔力にはさらにもう一つの特色があった。その寝室は、もちろん、人生の場面として非常に大切な、またさまざまな経験をもっている部屋であった。すなわち婚礼の夜の喜びがここで激しく胸をときめかせた。新しい生命が初めてここでこの世の息を吸い込んだ。またこの部屋で老人たちが死んだのだった。けれども――不思議の正体が白ばらの花であろうとなかろうと、またその微妙な霊力がなんであれ――鋭敏な天性の人なら、その部屋が今はひとりのおとめの寝室であって、おとめのかぐわしい息吹きと楽しい思いのために、今までの不幸も悲しみもすべて清められてしまったと、すぐさま悟ったであろう。おとめの見た昨夜の夢は、非常に愉快な夢だったので、陰鬱な気を払い清め、そして今は自分が入れ代わってその部屋に住みついていた。
いろいろな物を思うとおりに並べ変えてから、フィービは再び庭に降りるつもりで、部屋から外へ出た。一株のばらのほかにも、数種類の草花が忘れられて荒れ放題に庭におい茂り、そしてなんの身だしなみもなくからみ合い、入り乱れては互いに相手の成長を暗くじゃまして(人間の社会にもしばしばこれに類する例があるとおり)いるのを彼女は認めていたからだった。ところが、階段の降り口で彼女はヘプジバーに出会った。ヘプジバーはまだ時間が早いので、もし彼女の教養にこれくらいのフランス語が含まれていたのなら、おそらく、「婦人寝室《プドワール》」と呼んでいたろうと思われる、彼女の私室ヘフィービを招いた。部屋は数冊の古本や編み物かごや、ほこりっぽい書き物机などで散らかっていた。また片側にはじつに奇妙なかっこうの、大きな黒い家具が一品備えてあったが、この老婦人はフィービに、それがハープシコードであると教えてくれた。それは他の何物よりも棺おけにいちばんよく似ていた。そして、実際――長年の間、ひきもしないし、またふたをあけもしなかったので──その中にたくさんの楽譜が、空気の流通がないので窒息したまま死蔵されているに相違なかった。ヨーロッパで奥ゆかしい音楽的教養を修めたアリス・ピンチョンの時代以来、人間の指がその弦に触れたことはほとんどなかった。
ヘプジバーは若い客を腰かけさせた。そして、自分も手近ないすにすわりながら、フィービの清楚《せいそ》な娘姿を、あたかもそこに潜んでいる弾力や動機の秘密をぴたりと見抜くつもりでいるかのようにしんけんな目でじっと見た。
「ねえ、フィービや」と、とうとう彼女は言った。「私はほんとに、あなたを家に泊めておく見通しが立たないのよ」
しかし、こういったその言葉には、読者の胸にこたえるかもしれないほどぶあいそうな、そっけない調子はなかった。なぜならこのふたりの親族が、就寝前の話し合いで、もうお互いにある程度理解し合っていたからであった。ヘプジバーは、フィービがよその家で身を立てたいと希望するようになった事情(少女の母の再婚が原因で)を、納得できるほど十分に知った。また彼女はフィービの人柄や、身のうちにみなぎっている生まれつきの活動性――真のニューイングランド婦人の最もりっぱな特性の一つ――を誤解することもなかった。なるほど、この性分が彼女を刺激して、いわば、立身出世を望んだのかもしれなかった。しかし、彼女がどうにかして受けることができた同じだけの恩恵を人にも施そうとする、自尊心ある意図をもっていた。彼女のいちばん近い身内のひとりとして、当然ヘプジバーのもとへ身を寄せたのであって、しいていとこに保護を求めるつもりはさらさらなく、ただほんの一、二週間の訪問にすぎず、もしそれがお互いの幸福であるとはっきりわかれば、いつまで延ばしてもよいのであった。
そんなわけで、ヘプジバーのぽつんとした言葉に対して、フィービも同じように率直に、そしてもっと快活に答えた。
「ねえ、あなた、どんなふうになるか私はわかりませんが」と彼女は言った。「でもあなたがお考えになっていらっしゃるよりまだもっと、私たちはお互いに都合がいいのかもしれないと、ほんとに私は考えていますわ」
「あなたはしっかりした娘さんですね──それははっきりわかります」とヘプジバーは言い続けた。「私が二の足を踏むのは何もその点についての問題ではないのよ。だけど、フィービ、この私の家は、若い人が住むのには全く陰気な所ですよ。雨風が吹き込むし、また冬になると、雪が屋根裏部屋や二階の部屋にはいってくるのに、お日さまはさっぱりささないのよ! それに私ときたら、これ、このとおり──陰気で寂しいおばあさんで(だってねえ、フィービ、私は自分のことを年寄りと言いはじめているのよ)、気性といえば、いいところは一つもない気がするし、元気はさっぱりないのよ。私はあなたの生活を愉快にすることはできないし、それにねえ、フィービ、私はあなたにご飯を食べさせてあげることさえできないのよ」
「あなたは私が明るい気性の子であることがおわかりになりますわ」とフィービは、微笑しながら、それでもちょっと優雅な気品らしいところを見せて答えた。「それに私は自分で働いて食べるつもりです。ご承知のように私はピンチョン家のひとりとして育てられたのではありません。ニューイングランドの村では、娘はたくさんのことを覚えるのです」
「ああ! フィービ」とヘプジバーは嘆息しながら、言った。「あなたの知識はここではまあほとんど役にたちますまいよ! それからまた、あなたがこんな所であたら青春の日を棒にふってしまうなんてみじめな話ですよ。そんなばら色のほおも一、二か月後には、そんなにきれいでなくなりましょう。私の顔をごらんなさい!──そしてなるほど、その対照はじつにきわだっていた──このとおりほんとに青いでしょう! こういう古い屋敷の塵や腐りが呼吸器のために毒なのだと私は考えています」
「お庭がございますし――お花の手入れがいりますわ」とフィービは考えを述べた。「私は戸外の運動で健康を保たなければなりませんね」
「それでけっきょくね、あなた」とヘプジバーは、そんな話題を振り切るかのように、急に立ち上がりながら、大きな声で言った。「ピンチョン古屋敷へだれかを泊めるとか、住まわせるとかは、私が決めることではないのよ。この家の主人が戻って来るのですよ」
「ピンチョン判事さんのことをおっしゃいますの?」とフィービはびっくりしてきいた。
「ピンチョン判事だって! 私が生きているかぎり、あの男はこの敷居をまたごうとしますまい! しませんよ、しませんとも! しかしね、フィービ、私が話しているさっきの人の顔をあなたに見せてあげようね」
彼女は前に述べた小さい細密画像を捜しに行き、それを手にして戻って来た。それをフィービに手渡して、その顔をじっとうかがっていた。そしてその少女が画像に心ひかれる表情を示しそうなそぶりに何か嫉妬のような気持ちを感じた。
「顔が気に入りましたか?」とヘプジバーはきいた。
「すてきですわ!――ほんとに美しいわ!」とフィービは、賛嘆して言った。「これは、飛び切りきれいな男のお顔、またはいちばん理想的なお顔ですわ。子供のようにあどけないところがあって──それでいて幼稚ではなくて──このかたにはだれだってほんとうに心から好意を感ずるばかりですわ! こんなかたは少しでも苦しいめにあってはいけませんわ。このかたに苦労や悲しみをかけさせないためなら、だれだってたいていのことはしんぼうするでしょう。このかたはどなたでいらっしゃいますか。ヘプジバーさま?」
「あなたは聞いたことがなかったの? クリフォード・ピンチョンという人のことを?」
「ありませんわ! 私はあなたと、私たちのいとこのジャフリーさまのほかには、ひとりのピンチョンすら残っていらっしゃらないと思っていました」とフィービは答えた。「ですけれど、クリフォード・ピンチョンのお名まえは聞いていたような気がいたしますわ。ええ、聞いていましたわ!──お父さまからか、お母さまからか。でもそのかたはずっと以前になくなられたのではございませんか?」
「ええ、ええ、まあね、たぶん、でしょうよ!」とヘプジバーは、悲しそうな、空虚《うつろ》な声で笑いながら、言った。「でも、これくらい古い屋敷では、ねえ、死んだ人たちがまた戻って来ることはほんとにありがちなことですよ! 今にわかりますよ。それで、ね、いとこのフィービ、私がこんなに話したあとでも、あなたの勇気がくじけないなら、そう早く別れないことにしましょう。ねえ、あなた、あなたの親類が提供できますこのような当家に、当分の間、あなたを歓迎いたします」
こんな慎重な、しかし必ずしも冷淡といえない言葉で歓迎の趣旨をはっきり言って、ヘプジバーは彼女の頬に接吻した。
ふたりは階下へ降りて行った。そこではフィービが──仕事を引き受けるというよりはむしろ、先天的な適性という磁力の作用で、仕事をわが身に引き付けるように――朝食の用意にいちばんかいがいしい役目を受け持った。この家の女主人は、その間、おもに傍観して立っていた。彼女のようにぎこちなくて自由のきかない、型にはまった人々は常にそういうものである。彼女は手を貸したいと思っても、生まれつき自分が不器用なため、手のついている仕事をじゃましそうなことがわかっていたのだ。ヘプジバーは、長い間の孤独が産んだ必然的な結果である不精な惰性から、まるで別世界からでもながめるようにじっと見つめていた。それでも、彼女は、今来たばかりの同居者がさっそく自分を環境に適応させ、そのうえ、家でも、家のあらゆるさびた古道具でも、自分の用途に適合させてしまうその機敏な働きぶりを見て、興味を覚えたり、楽しみをさえ感じたりしないわけにはいかなかった。また、彼女がやったどんな仕事も、意識的に努力したものではなく、かつ時々は、非常に快く聞こえる美しい歌声を急に出しながら働いたものであった。この天性の美声はフィービを、まるで木の茂みにさえずる一羽の鳴き鳥のように思わせた。あるいは、小川が時おり小さな渓谷を朗らかに歌い流れるように、生命の流れが彼女の胸を高鳴らせているのだという思いを伝えた。美しい歌声は活動的な気質の楽しさの先ぶれであって、実際の労働に喜びを感じ、そしてそのために、働く気性を美しくした。それはニューイングランドの一つの特色――一本の黄金の糸を混じえて織りなした、きびしく古い清教徒気質の生地──であった。
ヘプジバーは、家の紋章の付いている、いくつかの古い銀さじと、人や鳥や獣の異様な姿が同じように異様な風景の中へいちめんに色どられている、陶器の茶道具一式とを持ち出した。なかに描かれている人物は、この人たちだけの世界――多彩な色に関するかぎり、目のさめるような絢爛《けんらん》な世界で、かつ急須や小さな茶わんが茶の湯の習慣そのものと同じに古風であるが、今なお色があせていない──に住む変わった瓢軽者《ひょうきんもの》たちであった。
「あなたのおばあさんの親の親のその親が結婚なさったとき、こんなお茶わんを持っていらっしゃったのよ」とヘプジバーはフィービに言った。「その人はりっぱな家柄の、ダヴェンポート家のかたでした。この品々はこの植民地で初めて見られたぐらいの茶わんだったのよ。それで、もしかしてこのなかの一個でもこわれたりしたら、私の心もいっしょに傷ついてしまうでしょう。けれどもそんなふうにもろい茶わんのせいにするのは愚にもつかないことだわね。今ふり返って、私の心が破れもせず、これまでやり通してきたことを考えてみればね」
その茶わんは──おそらく、ヘプジバーの若いころから使われていなかったろう──少なからぬ量の塵がこびりついていたが、その塵のよごれをフィービは、じつに丹念にじつに丁寧に洗い落としたので、貴重な陶器の持ち主さえ満足したくらいであった。
「あなたはなんというしっかりした、かわいい、所帯持ちのじょうずな子だろうね!」と持ち主は微笑しながら、また、同時にその微笑が雷雲にさえぎられた日光のように薄れるほど、大げさに顔をしかめながら、大きな声で叫んだ。「あなたは、ほかのいろいろな事もこんなにうまくやるの? お茶わん洗いと同じくらい勉強も得意なのかい?」
「そうでもない、と思いますわ」とフィービは、ヘプジバーの質問のしかたをおかしがって笑いながら言った。「でも私は、去年の夏、地元の小さな子供たちの学校の先生をしましたし、また今もやはりやっていたかもしれませんでした」
「ああ、そりゃたいへんけっこうですね!」とその未婚婦人は、きっと威儀を正しながら、述べた。「しかしこういう事はあなたのお母さんの血からあなたに伝わったものに違いないわね。私はこういうことに才能を持っていたピンチョンなんてひとりも知らなかったものね」
じつに奇態な、しかしそれでも真実な話であるが、人間は一般に自己の欠点を、自己の有用な才能と全く同じくらい、いや、むしろそれ以上に自慢顔をするものである。そのようにヘプジバーは、どんな実用的な目的に対しても、ピンチョン家の人たちが持っている、いわば、この先天的適応不能性をうぬぼれていた。彼女はそれを遺伝的特性とみなしていた。そして、おそらく、それはそのとおりだったろうが、不幸にも、社会の上層に久しく位置している旧家にしばしば発生するような、病的な特性であった。
ふたりが朝の食卓から離れる前に、店ベルがけたたましく鳴った。するとヘプジバーは、まことに見るも哀れな、土気色の絶望的なおももちで、ついに飲み残した茶わんを下に置いた。気が向かない仕事の場合は、一般に初日よりも二日目がますますいやなものである。われわれは前日の拷問の激しい苦痛をことごとく手足に感じながら再び拷問台に戻るのである。ともかくヘプジバーは、このかん高い音でが鳴りたてる小さなベルに自分が慣れてしまうことはとうていできないと十二分に悟った。それが何度鳴っても、その音が常に彼女の神経系統をしたたかにまた急激に乱打した。そしてことに今ちょうど、彼女の紋章入りの茶さじや骨董品の陶器で、貴族生活の思いにふけりながらひとり悦に入っていたとき、顧客に対応するのはなんともいえないいや気がさしてきた。
「ご心配なさいますな、あなた!」とフィービは、さっと身軽に立ち上がりながら、大きな声で言った。「きょうは私が売り子を勤めます」
「まあ、あなたが!」とヘプジバーは大声で言った。「いなか育ちの若い娘がこういう事に何がわかるものですか?」
「私の家の買い物は全部、私が村の店でやっていましたのよ」とフィービは言った。「それから私は小間物の慈善市で売り場を受け持ったことがありますし、そしてだれよりもじょうずに売りさばきましたのよ。こういう事は勉強したってできるものではありませんわ。これは要領しだいのもので、この要領というものは、私の考えでは」と彼女はほほえみながら付け足した。「その人の母の血から伝わるように思います。私が器用な主婦であるように、じょうずな売り子であることもごらんにいれますわ!」
老貴婦人はフィービの後ろをそっと歩いて行って、廊下から店の中をのぞきこみ、フィービが、請け負った仕事をどんなふうに切り回すかと注意していた。それはかなりやっかいな仕事だった。白い短いガウンを着て、緑のスカートをはき、首に金色のじゅず玉の首飾りを掛け、そして頭にナイトキャップのような帽子をかぶった、非常な年寄りのおばあさんが、たくさんの紡《つむ》ぎ糸を持ってきて、店のいろいろな商品と交換しようとしていた。この婦人はたぶん、この町で今も昔ながらの紡ぎ車を絶えず回し続けている最後の人物であったろう。この老婦人のしわがれた、そしてうつろな口調と、フィービの美しい声とが混じり合って一本の糸に撚《よ》られた会話は、聞くだけの値うちがあった。さらに、ふたりの姿を対照すると――非常に明るく花のような風情と――非常に老いぼれて陰気な様子と――ある意味では、両者の境はたった売り台一つであるが、別の意味では、六十年以上の隔たりがあっていっそう値うちがあった。取り引きについていえば、生まれつきの正直と賢明とに対する、皺だらけなずるさと駆け引きとの取り組みだった。
「うまくさばけたではありませんか?」とフィービは、客が立ち去ってから笑いながらきいた。
「ほんとに、じょうずにやったわね、あなた!」とヘプジバーは答えた。「私だったらあんなにみごとにさばききれなかったでしょうよ。あなたがおっしゃるように、これは母親側からあなたに遺伝している要領《こつ》に違いないわね」
それは率直純真な賛嘆の声である。あまりにも内気にすぎ、またはあまりにも不器用なため、喧騒な世間の中で応分の役目を果たすことのできない人たちが、興奮する生きた社会の舞台で実際に活躍する立役者をながめる際の称賛の言葉である。それが、実は、あまりに真実である結果、こういう人たちは、たいてい、その称賛を身がってな自己の気に入るようにし、そのため、こうした活動的で強制的な性質と、もっと高尚で重要なものと彼らが思い込んでいる性質とは両立しないものであると、好んで仮想したがるのである。こういうふうに、ヘプジバーは小売り業者としてのフィービにすこぶる優秀な才能を認めて十分満足した。彼女はおとなしく耳を傾けてフィービの暗示する、大ぜいの客がますます殺到する方法とか、危険な投資をしないで利益をあげるいろいろな方法に聞き入った。彼女はこの村育ちの少女が、液状と固形と、二種類の酵母《イースト》を造ることや、まるで神酒のように甘美な口あたりのいい、珍しい健胃剤として効能のある一種のビールを造ることや、なお、そのうえだれでも一度味わえば、どうしてももう一度食べたくなる、ある小さな香料入りの菓子を焼き、店に並べて売りに出すことに同意した。こんな機転のきく心や、すぐれた技能の証拠は全部、この貴族育ちの女小売業者にとって非常に歓迎されることであった。しかし、それはどこまでも、彼女が無気味な微笑を浮かべて、半ばわざとらしいため息をしながら、驚嘆やら憐憫《れんびん》やら、それにしだいにつのりゆく情愛やらの入り混じった感情をいだきながら、こんなふうにひとり心につぶやくことができる限度にとどまっていた──
「この子はなんとまあしっかりした、いい子だろう! そのうえ、この子が貴婦人だったらなおよかったのにねえ!――だけどそれはできない相談だわ! フィービはけっしてピンチョン家の人ではないのだもの。この子は何もかも母親譲りなのだわ!」
フィービが貴婦人でないということについては、いや彼女が貴婦人か否かは、おそらく決定しがたい難点であったろう。しかしそんなことは、いやしくも明朗で健全な精神の人なら、全く批判の的として思い浮かぶはずがない事柄だった。ニューイングランド以外の国では、非常に多くの淑女らしい特性と、淑女の性格に不必要な部分(両立するかぎり)をつくっている非常に多くの他の特性とが結びついている人物に出会うことはできないであろう。フィービは趣味の規範と衝突することはなかった。驚くほど常に自己の調和を維持し、周囲の環境とけっして摩擦を起こさなかった。なるほど、彼女のからだは――ほとんど子供のようにじつに小柄で、そしてじつにしなやかにきびきびしていて、運動するほうが休息と同じくらい、いやかえって気楽なくらいに思われるほどだった──人が想像する伯爵夫人の容姿に似つかわしくはなかったろう。また彼女の顔も──左右両側の茶色の巻き毛や、ややきつい感じの鼻や、健康そうなばら色の頬や、すき通る渋色の肌や、五つ六つのそばかすなど、四月の太陽と微風とをなつかしくしのばせる風情があって──厳密には彼女に美人と呼ぶ資格を与えなかった。しかし彼女の日は輝きと深みとをたたえていた。彼女は非常にかわいらしかった。まるで小鳥のように優美で、また同じくらい優美にふるまった。家のあたりでその快活さはまるで、ちらちらと葉陰を漏れて床の上に落ちる、一条の太陽の光線か、あるいは宵闇《よいやみ》の迫るころ、壁に映ってちょろちょろ踊る炉火の明かりのようだった。フィービを貴婦人席へ並べるための彼女の資格を議論するより、貴婦人のいない社会を仮定して、優美と実用とを兼ね備えた女性の典型としてフィービをみなすほうがいっそう望ましいことであろう。そのような社会にあっては、婦人の勤めは当然、実際的な仕事のまっただ中に乗り出して、何もかも、どんなつまらぬ雑仕事でも――たとい鍋や、やかんのすりみがきであろうと──愛情と喜びの雰囲気で、すべてを金色に輝かすこととなるであろう。
こういうのがフィービの本領であった。これに対して、生まれながらの、かつ教養ある貴婦人が見たいなら、遠くに求めるまでもなく、手近のヘプジバーを見れば事は足りる。すなわち、さらさらする衣《きぬ》ずれの古めかしい絹衣装を着て、古い家柄の誇りや、広大な王領地に対するあいまいな主張権を胸中深く愚かにも意識しながら、また身だしなみの芸事に、おそらく、昔、ハープシコードをかき鳴らしたり、優雅なミニュエットの舞踏を踊ったり、また刺繍のけいこに古風なつづれ錦を縫い刺したりした記憶をいだいている、わが孤独な未婚の老婦人のことである。それは新しい「平民|気質《かたぎ》」と古い「貴族気取り」との間のあざやかな対応であった。
「七破風の屋敷」の打ちひしがれた相貌《そうぼう》が、今もなお陰気なしかめ面《つら》を見せていることは確かながら、フィービが家の中をあちらこちら行き来するにつれ、一種の陽気な輝きが屋敷の薄暗い窓々から、ちらちらと外へ見えていたに相違なかったのだと、ほんとうにそんなふうに思われた。そうでもなければ、近所の人々が、少女の住んでいることにどうしてそんなに早く気がつくようになったのか、説明がつかないのである。店の顧客は大きな流れのように、十時ごろから正午近くまで、ひっきりなしに押し寄せてきて──昼食時にはいくらか弱まるが、午後には再び始まり、そして最後に、長い一日の日没前、半時間かそこらで流れが絶えてしまうのである。最も義理堅いひいき筋のひとりは、黒ん坊や象をむしゃむしゃ平らげた大食いの、ネッド・ヒギンズ小僧で、彼はきょう、ひとこぶらくだ二頭と機関車一台とを飲みこんで、あっぱれな健淡《けんたん》ぶりを発揮したのだった。フィービは、石板の上で、総売り上げ高を合計しながら、声を出して笑った。一方ヘプジバーは、まず両方の絹手袋をはめてから、銭箱の中へちゃらちゃらと投げ込んだ銅貨や、ぼつぼつ混じっている銀貨のむさ苦しい堆積を勘定した。
「ヘプジバー、私たちは商品を仕入れ直さなければなりませんわ!」と売り子の少女が大きな声を出した。「しょうが入り動物菓子はすっかり売り切れたし、オランダの乳しぼり娘の木製人形もそうですし、他のおもちゃもおおかた売り切れですのよ。安い干しぶどうはないかと始終聞かれましたし、また呼び子や、らっぱや、口琴《びやぼん》などをわいわいほしがっていますわ。それから少なくとも十二人くらいの男の子は糖蜜《とうみつ》菓子をくれってせがみましたわ。それに赤りんごを九リットルほどなんとかして手に入れなければなりませんわ。ちょっと季節おくれですけれどもね。それにしてもねえ、あなた、すごい嵩《かさ》の銅貨ですことねえ! 全く銅貨の山ですわねえ!」
「でかした! でかした! 全くでかしたもんですなあ!」とアンクル・ヴェンナーが言ったが、彼はその日のうちに何度も、機会をつかまえては、その店へ足を引きずって出たりはいったりしていたのだった。「この娘さんはけっしてわたしの農場で一生を終わる人じゃあございませんねえ! はてさて、なんというてきぱきしたかわいい子なんだろう!」
「そうですよ、フィービはほんとうにしっかりしたいい子だわ!」とヘプジバーは、顔をしかめていかめしくうなずきながら言った。「しかしね、ヴェンナー爺や、あなたは長年この家の人たちを知っておいでだわね。いったいピンチョン家にはフィービと似ているような人がいたかしら、わかりませんか?」
「おられたとはどうしても思えませんなあ」とその古老めく年寄りは答えた。「ともかく、わたしはあいにく、この娘さんのような人はピンチョン家の人たちにも、また、この事にかけては、よそのどこででも、お目にかからなかったですよ。わたしはよそさまの台所や裏庭あたりばかりでなく、町角でも、波止場でも、またそのほか商売で出かけるどんな場所でも、ずいぶん世間を見てきましたよ。それであけすけに申しますがね、ヘプジバーお嬢さま、わたしはこのフィービさんの働きぶりのような、まるで神様のお使いみたいに精出す人なんてほんのちょっとも存じ上げなかったですなあ!」
ヴェンナー爺のほめ言葉は、相手と場合とを考えて、やや無理に、ほめあげた気配が見えるとしても、それはそれで、まことに微妙で、しかも真実をうがったある意味を持っていた。フィービの働きには何か精神的な品性が備わっていた。長くて忙しい一日――ただもう無造作にむさくるしく見苦しいふうに見られたかもしれなかった雑事に明け暮れる──の生活が、こういう家庭の務めをまるで彼女の品性から咲き出した花のように思わせる、あの自然に発する優雅さのため、愉快な、また甘美な暮らしに変えられたのだった。したがって労働も、彼女が手がけているかぎり、遊戯のように楽しく自由に変化する魅力があった。天使はあくせくほねおらない。しかもりっぱな成果をからだから産み出すのである。ちょうどそのようにフィービは働いたのである。
ふたりの親類──うら若いおとめと未婚の老婦人──は日暮れ前、商売のあいまあいまに暇を見つけては、愛情と信頼に向かって急に歩み寄った。世捨て人は、ヘプジバーのように、絶体絶命に追い詰められ、そして個人的交際をぎりぎりまで迫られるときは、普通は驚くほど率直に、少なくともその場はあいそよくふるまうものである。ちょうどヤコブが格闘した天使のように、いったん敗北すれば自分から進んで相手を祝福するのである。
老貴婦人は家の中を部屋から部屋ヘフィービを案内し、どの壁にも、いわば、哀れ深い壁画となって描かれているいろいろな伝説を詳しく話して、わびしいながらまた誇らしい満足感を覚えていた。彼女は、副総督が剣の柄で、部屋の戸の板張りをたたきつけたぎざぎざの傷跡を示した。そこは変死した主人役、ピンチョン大佐が物すごい形相で、仰天している客たちを迎えた部屋だった。そのことがあってから、そのにらんだ顔の暗い恐怖が今もなお、そこの廊下に残っているように思われる、とヘプジバーは述べた。彼女はフィービに言いつけて、背の高い一つのいすに足を掛け、東部地にあるピンチョン領地の古い掛け地図を調べさせた。彼女が指で押えた一地区には、銀の鉱脈があって、その位置はピンチョン大佐自身の、ある備忘録の中に正確に示されていたが、ピンチョン家の請求権が政府によって認められたその時に、初めて公表されるはずであった。このようにピンチョン家が公正に扱われ、権利が認められることは、まさしくニューイングランド全体の利益のためであった。彼女はまた、イギリスの膨大なギニー金貨の財宝が、家の付近か穴蔵か、またはきっと庭園のどこかに隠されていることは疑いない、とも話して聞かせた。
「ねえ、フィービ、もしかひょっとして、あなたがそのお宝を見つけたら」とヘプジバーはちらりとフィービに横目をくれながら、薄気味の悪い、けれども根はやさしい微笑をたたえて言った。「私たちはあの店ベルが鳴らないように永久に縛ってしまいましょうね!」
「そうですわ、あなた」とフィービは答えた。「でもほら、こう言っている間に、だれかがベルを鳴らしていますわ!」
客が立ち去ると、ヘプジバーは、アリス・ピンチョンという人物について、おぼろげに、そして長々と話をした。その人は、今から百年も昔、生きていたときは絶世の美人であって、いろいろな才芸を修めていた。アリスの艶麗《えんれい》で明朗な性格のかんばしい残り香は、ちょうど干からびたばらのつぼみ一つでも、それが色あせてしぼんでいた引き出しの中をにおわせているように、彼女が暮らしていた住まいのあたりに今もなお漂っていた。このうるわしいアリスはある大きな、しかも不思議な災難に出会って、だんだんやせ細り、青白くなってゆき、そしてしだいにこの世から消えうせてしまった。しかし現在でも、彼女は「七破風の屋敷」に付きまとっていて、そして、何度も──ことにピンチョン家のだれかが死んでいくときは──彼女がかなでている悲しいそして美しいハープシコードの調べが聞こえてくると想像されていた。この中の一つの曲が、ある音楽愛好家の手によって、彼女の霊の指先がかき鳴らしたそのままの音譜に書き留められたことがあった。その曲はあまりに絶妙な哀切きわまる調べであったので、ある偉大な悲哀が人々にその曲のいっそう深遠な妙調を悟らせる場合でなかったら、だれひとり、今日にいたるまで、その悲痛な曲の演奏を聞くに耐える者はなかったのである。
「それは私にお見せくださいましたあのハープシコードのことだったのですか?」とフィービは尋ねた。
「そう、あれのことですよ」とヘプジバーは言った。「あれがアリス・ピンチョンのハープシコードだったのよ。私が音楽のおさらいをしていたころ、父はどうしても、私があの楽器をあけるのを許さなかったのよ。それで、私の先生の楽器をひくことしかできなかったので、とっくの昔、楽譜をみんな忘れてしまったのよ」
こんな古い話題をやめて、老婦人は銀板写真家のことを話しはじめた。その男は、人柄がよく身じまいの正しい青年らしいし、それに貧しい境遇と思われたので、彼女は七つある破風の一つをその青年の住まいとして許したのだった。しかし、だんだん彼女がホールグレーヴ氏の様子を観察してみると、彼をどう理解してよいのかわからなくなった。彼はほとんど想像もできないような奇態な仲間を持っていた。長い顎ひげをはやして、リンネルのだぶだぶのブラウスや、また他のこれに類するとっぴな、似合わない上着を着込んだ男たち、社会改革論者、禁酒運動講演者、気むずかしい顔のさまざまな博愛主義者、共産主義者や過激論者などの連中で、ヘプジバーの信ずるところでは、彼らは法律を認めず、固形食を取らず、他人の料理場のにおいをかいで生活し、そしてその献立をせせら笑う者どもであった。その銀板写真家のことで、彼女は先日、一ペニー新聞に掲載された、彼が悪党仲間のような集会で、不穏な、社会秩序を破壊する内容の多い演説をした、と彼を非難する一節を読んだのだった。ヘプジバーにしてみれば、彼が催眠術を行なっていると信ずる理由があったし、それに、この節こういうものが流行しているのなら、彼があそこのひとりぽっちの自分の部屋で、「魔法」を研究していると疑いをかけたくなるのも当然であった。
「でもねえ、あなた」とフィービは言った。「もしその青年がそんな危険な人なら、なぜそんな人を泊めておおきなさいますの? たといその人がもっとひどいことはしないにしても、家に火をつけるかもしれませんわ!」
「もちろん、たびたび」とヘプジバーは答えた。「あの青年を追い出してはいけないかどうか、私はしんけんに問題にしたのよ、でもいろいろと変わり者のところはあるけれど、落ち着いたものごしの人間で、そして人の心をしっかとつかんで放さないところがあるので、彼が好きだというのとはちょっと違うけれど(というわけは、私がその青年を一から十まで知っているのではないのだから)全然その姿が見られないのも心残りな気がするのでね。女というものは、私のように全くひとりぼっちで暮らしていると、かりそめの知り合いにも愛着心を持つものなのね」
「でも、もしホールグレーヴさんが無法な人間ならですよ!」とフィービはとがめたが、彼女の本質の一部はじつに法の領域を踏み越えないことであった。
「ああ!」とヘプジバーは、気に留めないで言った。──というわけは彼女は形式ばる気性であったとはいえ、しかもなお、彼女が身をもって経験したところでは、人間の法律に対して歯ぎしりして憤っていたからであった──あの人はあの人自身の法を持っている、と私は思っているわ!」
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六 モールの井戸
朝食前のお茶が済んでから、かわいらしいいなか育ちの少女はふらりと庭園へはいってみた。構内は、昔は非常に広々としていたのだが、今では小さな囲い地にせばめられてしまって、一部は高い木柵《もくさく》で、また一部は別の街路に立ち並んでいる家々の離れ家などで閉じ込められていた。まん中は芝生になっていて、こわれかけた小さい建物を取り巻いていた。それが昔、四阿《あずまや》であったことが、かろうじてしのばれる程度の原形を見せていた。去年の根から芽生えたホップの蔓《つる》が、四阿へはい上がりかけていたが、それでもその緑のマントで屋根をおおい隠すまでには、まだまだ手間がとれるだろう。七つの破風のうち正面向きか斜め向きの三つが、陰気ないかめしい顔つきで、庭を見おろしていた。
黒い、豊かな土壌は長い年月の腐れ物で自然に肥沃《ひよく》になっていた。落ち葉や花びらや、かってな伸びほうだいの植物の茎やら果皮やらは、ひなたで誇り顔にはびこるときよりもかえって枯死してからよけい役にたつのである。これらの過去の積年の邪悪は再び芽生えて、常に人間の住居の付近に根を張りがちな、あんなふうに蔓延《まんえん》する雑草に当然なっているはずであった。しかしフィービは、そのような雑草の繁茂が、毎日、そして規則的に庭園に与えられる、やや念入りな手入れのために、阻止されたのに違いないと思った。白い八重咲きのばら株が、花の季節初めから、家に寄せかけてあらたに支柱をやり直したことは明らかだった。一列の|すぐり《グズベリ》の株を除けば、一本の梨の木と三本の西洋すももの木とがありったけのくだものの品種であって、何本かの余分な枝や発育不良の枝を最近|剪定《せんてい》した跡がついていた。また古くから代々伝わった数種類の草花もあって、非常に威勢よい茂りぐあいではなかったが、丁寧に除草されていた。まるでだれかが、愛好心からか、それとも物好きからか、花ができるかぎり最も完全に咲けるように一生懸命育てているかのようであった。
残りの庭地は巧みに選んだ各種の食用野菜が配列されていて、感心するほどみごとな成育ぶりを見せていた。西洋かぼちゃは、まず黄金色の花盛りであった。きゅうりは、今まさに太い茎から枝わかれして八方に伸び広がろうとする形勢を見せていた。二|畝《うね》三畝のさやえんどうや、さらに同じ畦数《あぜかず》の、支柱へ花綵《はなずな》のように巻きつこうとしているさやえんどうもあった。トマトは非常によく囲われた、目当たりのよい場所を占めているので、その植物はもうばかに大きく伸びていて、早めの豊富な収穫を期待させていた。
フィービはこんなに野菜を栽培し、畑をこんなにきれいに整然としておくのはいったいだれが管理し、手入れしているのだろうかと不思議に思った。いとこのヘプジバーの仕事でないことだけは確かだった。ヘプジバーは花卉《かき》園芸などという貴婦人好みの仕事に対する趣味も元気も持っていなかったし、それに──彼女の隠遁癖《いんとんへき》や、家の中の陰気な暗がりへ逃げ込みたがる性向があって──いんげん豆やかぼちゃの仲間にはいって除草をしたり、鍬《くわ》を動かすために、ほんのちょっぴりでも野天の下に出て来る気は全くなかったことであろう。
いなかの風物から完全に遠ざかった初めての日だったので、フィービは雑草や、木の葉の茂みや気品の高い花や、またありふれた野菜の、こんな小さな庭地に思いがけない魅力を見つけた。「天」の目の太陽も愉快そうに、この片隅を見おろしているように思われ、とりわけにこにこ笑いながら、あたかも、よその土地では圧倒され、ほこりっぽい都会からは追放された自然が、よくここに安息の場を保つことができた、とながめて喜んでいるかのようだった。その場所はいくぶん野性的な美を帯びていたが、それでも、一つがいの駒鳥《こまどり》が梨の木に巣をかけていたり、薄暗くさしかわした樹枝の中をさも忙しげにふるまっている事実から、きわめて優雅な美しさも備わっていた。蜜蜂もまた──奇妙な話だが──おそらく数マイル離れたある農家のかたわらの巣箱の集蜜区域から、ここまで飛んで来るだけの価値はあると思っていた。蜂は蜜を求めて、あるいは蜜をかかえて、夜明けから日暮れまで、いくかえり空の旅をくり返したことだろう! 今はもう遅いのに一つや二つのかぼちゃの花から、花の奥でこの蜜蜂が黄金色の花粉にまみれて貴い仕事に精出している、愉快な羽音がまだぶんぶん聞こえていた。ほかにもう一つの物がこの庭にあった。たとえ人間が、これをわが物とするために何事ができようとも、自然はこれをけっして譲れない自己の財産として堂々と主張できるものであった。これは泉水であって、古い苔《こけ》だらけの石で丸く縁取られ、その底は、色とりどりな丸石の一種のモザイク細工とも見えるもので敷きつめられていた。威勢よくわき出るときの水の戯れやかすかな波紋が、これらのさまざまな斑入《ふい》りの小石に魔法を施しては、姿を見定める暇もなくはや消えうせる、変幻自在の怪しいまぼろしの像を絶えず描いていた。そこから、苔のはえた石縁を満々とあふれた水は、垣根の下を音もなくくぐり、惜しいことに、流水路というよりはむしろ下水路と呼ばれる所を流れて行った。
またこの泉水からそう遠くはない、庭の向こう隅に立っている、じつに古めかしい時代物の鶏舎《とや》の話をするのを忘れてはならない。それには現在、雄鶏《おんどり》チャンティクリア、雌鶏《めんどり》二羽、それにたった一羽の雛《ひな》だけがはいっていた。この鶏は全部、ピンチョン家相伝の財産として代々受け継がれてきた純血種の見本であって、その全盛時代には、七面鳥ほどの大きさにも達したことがあり、それに、肉が美味なため、王侯の食卓に適しているといわれていた。この伝説的な名声が正真正銘なことを証拠だてるためには、ヘプジバーは大きな卵の殻を出して見せることができたろう。それはともかく、雌鶏どもは今は鳩よりも大きくないぐらいで、奇妙な、色あせて、尾羽打ち枯らした姿をしていたし、痛風にかかったかっこうで歩き回り、また、こつこつ、あるいはがあがあなど、あらゆる変わった鳴き声を通じて眠たそうな、もの悲しげな響きをたてていた。この品種は、純血に保存しようとあまりきびしく用心しすぎた結果、他の多くの高貴な品種同様、退化してしまったことは明らかだった。鳥族のこれらの輩《やから》は名門の品種としてあまりにも長い間存続しすぎたのだった。この一族の現在の代表者たちは、その哀愁ある挙動から判断して、この事実を自覚しているらしかった。彼らは生き長らえて、もちろん、時々卵を生み、一羽の雛をかえした。それはけっして自分たちの満足のためではなくて、昔あれほど賞賛された名品種の鶏であったものを世界が絶対に失ってはならないためであった。この雌鶏どもの著しい特徴は、最近になって痛々しいまでに伸びの悪い鶏冠《とさか》であったが、しかしあまりにも奇態で、またいじ悪いくらいヘプジバーのターバン帽にそっくりなので、フィービは──彼女の良心を鋭く突き刺す苦悩の種だが、是非もなかった──これらのわびしい両足動物と彼女のお上品な親類との間の共通な類似点を思いつかないわけにはいかなかった。
少女はパンのかけらや冷えたじゃがいもや、その他鶏の食欲を満たしてやるのによさそうな食べ残りなどを取りに家の中へ駆け込んだ。戻ってきて、彼女は妙な呼び声を出したが、鶏どもはそれがわかるふうだった。ひよこが鶏舎《とや》の柵をはいくぐり、いくらか元気な様子を見せて、彼女の足もとに駆けてきた。一方、雄鶏のチャンティクリアと彼の世帯の夫人たちはフィービを変な横目でちらちらながめ、それから、彼女の人柄について賢明な所見を通信するかのように、互いにくうくう鳴きかわした。鶏どもの風采は、古びているのはむろんのこと、いかにも賢げなので、彼らが由緒ある種族の子孫であるばかりか、「七破風の屋敷」が建ってこのかた、それぞれ個人の立場で生存してきたし、そしてどうやらこの屋敷の運命と何やらかかり合っているのだという考えを、さもほんとうらしくしていた。彼らは、他のたいていの守護天使たちとは違った翼と羽とを持っているけれども、一種の守護神の小妖精か、またはバンシー〔恐ろしい鳴き声で家人の死を予示する化物〕であった。
「さあ、お前、おかしなちびのひよこさん!」とフィービは言った。「そらお前においしいパン屑をあげますよ!」
ひよこは、それを聞いて、見かけは母鶏とほとんど同じくらい古老の風格があるけれども──実際、歴代の先祖全部の古めかしさを、小規模に、一身に集めていた──元気を十分に奮い起こしてばたばたと飛び上がって、フィービの肩に止まった。
「その小さい鶏はあなたにたいそうおせじを言っていますねえ!」とフィービの背後で声がした。
さっと振り向くと、彼女はひとりの青年を見つけてびっくりした。彼は彼女が出てきた破風とは別の破風の戸をあけてこの庭へはいり込んでいたのだった。彼は片手に鍬を持っていた。そしてフィービがパン屑を取りに行っていた間に、トマトの根元へ新鮮な土壌の引き寄せにせっせと精出したところだった。
「そのひよこはほんとうにあなたを古いなじみのように扱っていますねえ」と彼はしんみりと、言い続けたが、同時ににこにこと微笑しているので、フィービが最初思ったよりも快活な顔になっていた。「鶏舎の中のご老体どももまたたいへんあいそよくごきげんのように見受けられますね。あなたはさっそくご愛顧をこうむるとは運がいいですねえ! この連中はずっと前から僕を知っているんですが、一日だって僕が餌《えさ》を持って行ってやらない日はないくせに、ご懇意の光栄に浴したことは全然ありませんよ。ヘプジバーさんは、きっと、他のいろいろな伝説の中へこの事を織り込んで、鶏どもは、あなたがピンチョン家のひとりであるとわかっている、と書き留めるだろうと思いますよ」
「この秘伝はですね」とフィービは、にこにこしながら言った。「私が雌鶏やひよことの話し方を習っておぼえているからですよ」
「ははあ、ですがこの雌鶏どもは」とその青年は答えた──「貴族の血統を引くこの雌鶏どもは納屋の庭先あたりの鶏どもの話す卑俗な言葉なんかせせら笑って理解しませんよ。僕は──またヘプジバーさんもきっと同感でしょうが──鶏どもは家族の口調を覚えているのだ、というふうに考えたいですね。というのは、あなたはピンチョン家のかたでしょう?」
「私、フィービ・ピンチョンと申します」と少女は、いくらかよそよそしい態度で言った。その理由はこの新しい知人は例の銀板写真家以外の人物のはずはないとわかっていたし、その男の無法な性向についてあの未婚の老婦人から不愉快な知識を与えられていたからだった。「私のいとこ、ヘプジバーのお庭が他人のお世話になっていたとは存じませんでした」
「そうです」とホールグレーヴは言った。「僕はこの黒い土を掘り起こして、耕したり、除草したりしますが、これは、人々が非常に久しい間この土地に種をまき、取り入れをした後で、土の中にまだ残っているかもしれないなけなしの地力や野性味を摂取するためなのですよ。僕は気晴らしに土を掘っくり返すのです。僕の本業は、仕事があるといえるなら、もっと明るい物質が相手なのです。つまり、日光でもって肖像を造るのです。それで、自分の商売のためあまりぎらぎらと目がくらむことのないように、こういう薄暗い破風の一つに僕を住まわせてくれるよう、ヘプジバーさんを説き伏せたのでした。部屋へはいると、まるで目隠しするようなものです。ところで、僕の作品の見本を一枚ご覧になりませんか?」
「銀板写真の肖像のことですか?」とフィービは、前より打ち解けてきいた。それは、偏見は持っているものの、彼女の身内の青春の気がわきあふれて彼の青春と触れ合ったからである。「私はああいう写真の類の絵はあまり好きでありません──あれは非常に堅苦しくてきびしいのです。そのうえ、見る人の目をかわそうとしたり、そして完全にのがれようと努めますわ。自分が非常にぶあいそうな顔つきでいることを自覚している、と思いますわ。それでそのために見られるのがいやなのですわ」
「たいへん失礼ですが」とフィービの顔を見ながら、その芸術家は言った。「銀板写真術が、この上なくおあいそうを浮かべた顔に不愉快な本性を露出できるかどうか、試してみたいものですね。ですがあなたのおっしゃる事には確かに真理があります。僕が手がけた写真は、なるほどたいていぶあいそうな表情をしています。しかしまことにもっともなその理由は、思うに、本人たちがぶあいそうだからですよ。『天』の公明で純真な日光には驚くばかりの直覚力があります。われわれは、日光が単に、表面を写し出すことだけを当然として認めているのですが、日光は実際に、目に見えない性格を真実どおりに露出するのです。こういう秘密の性格はどんな画家でも、たといそれを看破できたところで、思い切って描くだけの勇気はないでしょう。少なくとも、僕の技術の謙虚な描線には少しのおついしょうもありません。さあ、これは、僕が何度もくり返して撮影したものですが、それでもやはり好結果が得られない写真です。それなのに本人は、だれの目にも全く違う表情に見えるのです。この人物についてあなたのご批評を聞かしていただけたらありがたいのです」
彼はモロッコ皮のケースに納められた銀板写真の小型な肖像を出して見せた。フィービはそれをちらりと一目見ただけで、返してしまった。
「私はこの顔を存じています」と彼女は答えた。「というのはそのいかめしい目つきが、一日じゅう私を追いかけ回していたからです。その顔は私の先祖の清教徒で、あちらの居間にかけてあります。なるほど、あなたはあの肖像画の黒いビロードの帽子や、まっ白い顎ひげをなくして複写する方法を発見なさったのですね、そしてあの人の外套や白いたれ襟の代わりに、現代ふうの上着や繻子《しゅす》のネクタイを着せてあげたのですね。私はあなたがしてあげた修正であの人がりっぱになられたとは考えられません」
「もう少し長くご覧になっておられたら、ほかにもっと違ったところがおわかりだったでしょうに」とホールグレーヴは、笑いながら言ったものの、明らかにたいへん感心した様子だった。「僕はあなたに、これが現代の人の顔であり、またあなたがたぶん必ず対面なさる顔だと保証できますね。ところで、驚くべきことは、この本人が、世間の人たちの目に──そして、まあおそらく、この男の最も親しい友人たちにも、慈悲深い心とか、率直な気持ちとか、太陽のような上きげんとか、そのほかこういう性格のいろいろ殊勝な特色を現わしている、じつにすばらしいあいそのよい顔なんです。太陽は、ご覧のとおり、全然話が違います。そして僕としては六ぺんもしんぼう強く試してみたのですから、太陽がうまく言いくるめられはしませんよ。さあこれが、狡猾《こうかつ》で、陰険で、無情で、傲慢でさらにそのうえ、氷のように冷淡な男です。その目つきをご覧なさい! そんな目でじろじろながめ回されていい気がしますか? その口もとをご覧なさい! そんな口もとがいったい微笑できますか? ところがどうして、この本人のいかにもやさしそうな微笑をひと目ご覧にいれることができたらなあと残念です! この男は相当な地位の公人であるし、またその写真が銅版印刷になる予定のものだけに、それだけいっそう大きな不幸です」
「まあ、私はもうこれ以上その顔を見たいと思いませんわ」とフィービは、目をそむけながら言った。「その顔は確かにあの古い肖像にそっくりですわ。けれど私のいとこのヘプジバーはもう一枚の肖像――小型の画像をお持ちです。もしそのご本人がこの世においでなさいますなら、私はそのかたが、きびしくこわい顔に見えるようお日さまに要求なさるかもしれないと思いますわ」
「それじゃあ、あなたはあの肖像をご覧なさったのですね!」とその芸術家は、たいそう興味を持っている表情で叫んだ。「僕は見たことはありませんが、見たいものだと非常な好奇心を持っているのです。それであなたはその顔が気に入るように思われましたか?」
「あんなきれいな顔はありませんでしたわ」とフィービは言った。「男のかたの顔にしては、あんまりおとなしくてやさしすぎるくらいですわ」
「目つきに荒っぽいところがありませんか?」とホールグレーヴは言い続けたが、あまりのしんけんさにフィービはどぎまぎしたし、またこんな新しい面識につけ込んでくる彼のもの静かななれなれしさにも同じように閉口した。「どこかに、何か暗い、または薄気味悪いところはありませんか? その本人がある重罪を犯したことがあるとお気づきになれませんでしたか?」
「ばかばかしいことですわ」とフィービは少しいらいらしながら言った。「あなたがまだ見ていらっしゃらない肖像のことを私たちが話し合うなんて。あなたはよそのかたの写真とまちがえていらっしゃるのですわ。犯罪ですって、まさか! あなたは私のいとこのヘプジバーのお友だちですもの、その肖像を見せていただくようにお願いすべきでしょう」
「本人に会えたらもっと僕の趣旨にかなうでしょう」と銀板写真家は、落ち着き払って答えた。「その人の性格について、僕たちがその特徴をかれこれいう必要はありません。そういう点は正当な権限を持つ裁判所、いや正当な権限ありと自称する裁判所によってすでに解決されてあります。ですがお待ちなさい! どうか、まだ行かないでください! 僕はあなたにご相談したいことがあります」
フィービはちょうど引き下がるところだったが、いくらかためらいながら、戻ってきた。というわけは、フィービが彼の態度を正確に理解していたわけではなかったからである。もっとも、なおよく観察すれば、彼の態度の特色は、他人の感情を害する粗暴に似ているというよりも、むしろ儀礼ばらないというふうに思われた。それにまた、彼がそれから話し続けた口ぶりには、まるでその庭が、ヘプジバーの特別な好意によって単に出入りを許されている場所というよりも、むしろ自分が持っている庭でもあるかのような、何か奇妙な一種の権威がこもっていた。
「もしお気に入りますなら」と彼は述べた。「こちらのいろんな草花や、あちらの老いぼれてもったいぶった鶏どもを、喜んであなたの管理にお任せいたします。いなかの空気や仕事から離れて来られたばかりですから、あなたはやがて何かこんな戸外の労働が必要だとお感じになるでしょう。僕自身の本領がそうたいして草花の中にあるわけではないのです。だからご随意に、草花を摘み取ったり手入れしたりできますよ。そして僕は、ヘプジバーさんの食卓をにぎわすつもりでいるりっぱな、正直に働いて得たお勝手用の野菜全部と引き替えに、時たまごく少々の花をわけてくださるようお願いしたいのです。そこで僕らは、どちらかといえば共産制度による、労働者仲間になりましょう」
黙々と、そしてむしろ自分でもびっくりするほどすなおに、フィービは言われるとおりに花壇の除草を始めた。しかし彼女は、あまりにも思いがけなく、懇意に近い間柄になってしまったと思っているこの青年のことを、なおいっそうあれこれと思い巡らしていた。彼女には彼が好いたところばかりではなかった。彼の性格はこの若いいなか娘をとまどいさせたが、たとえもっと老練な観察者でも同じことだったろう。というわけは、彼の話しぶりがだいたいはしゃいだ調子であったのに、彼女の心に残った印象は全くしんけんな印象で、彼の若々しさがそれを和らげているほかは、ほとんど厳粛なくらいだった。彼女は、いわばその芸術家の本性に潜むある一種の磁気的要素に対して、抵抗したのであって、彼としては、おそらくそれと気づかずに、この磁気を彼女に向かって働かせたのであった。
しばらくたつと、夕暮れが、果樹の影や周囲の建物のために濃くなって、庭いちめんをやみにした。
「さあ」とホールグレーヴは言った。「もう仕事をやめる時ですね! 最後の一鍬で豆の茎を切り取ってしまいましたよ。フィービ・ピンチョンさん、さようなら! いつでも天気のよい日、もしあなたがこのばらのつぼみを一つ髪にさして、中央通りにある僕の仕事部屋へおいでくださるなら、僕がいちばんきれいな太陽光線をつかまえて、花と花を飾ったおかたの写真を作りましょう」
彼は自分ひとりで住んでいる破風のほうへ去って行ったが、戸口の所まで来ると、くるっと頭を向けて、フィービに呼びかけた。その口調には確かに笑い声のところがあったものの、半ば以上は本気で言っているふうに受け取れた。
「モールの井戸の水を飲まぬよう気をおつけなさい!」と彼は言った。「その水を飲んでも、また顔に浴びてもいけません!」
「モールの井戸ですって!」とフィービは答えた。「それは苔だらけの石で縁取りをしたあれですか? あそこの水を飲むつもりは全然ありません──でもなぜいけないのですか?」
「おお」と銀板写真家は答えた。「なぜなら、お年寄りの貴婦人の好物みたいに、それは魔法のかかった水なんです!」
彼は姿を消した。それからフィービは、しばらく手間どっていると、彼のいる破風の部屋に、弱い明かりがちらちらしたと思うと、こんどはゆらめかないランプの光が見えてきた。母屋《おもや》のヘプジバーの一室に戻ってみると、間柱の低いその居間が非常にもうろうと薄暗く、彼女の目が内部を見通せないことに気がついた。それでも、おぼろげながら老貴婦人のやせこけた姿が、窓ぎわからちょっと引っ込めた、まっすぐな背の高いいすの一つにすわっていて、その窓のかすかな光が、斜めに隅へ向けられた彼女の頬をうっすらと青白く浮き立たせているのがわかった。
「ヘプジバー、ランプをつけましょうか?」と彼女は尋ねた。
「どうか、そうしておくれ、ね、嬢や」とヘプジバーは答えた。「でも、そのランプは廊下の隅のテーブルの上に置いてちょうだい。私の目は弱いからね。ランプの光が目に当たってがまんできないくらいなの」
人間の声はなんという楽器であろうか! 人間の魂のどんな感情の動きにもなんと驚嘆するほど鋭敏に感応することだろうか! その瞬間のヘプジバーの口調には、何かしらある豊かな深みと潤いとがこもっていて、あたかもその言葉は、ありふれたものながら、彼女の心のぬくもりに浸されていたかのようだった。台所でランプに火をともしているとき、またも、フィービはいとこが自分に話しかけたように思った。
「ただ今すぐですわ、あなた!」とフィービは答えた。「このマッチはちかちか光るだけで、消えてしまいますのよ」
しかし、ヘプジバーから返事を聞くかわりに、彼女は聞き覚えのないつぶやき声を耳にしたような気がした。しかし、その声は奇妙に意味がぼやけていて、はっきりと発音された言葉というより、むしろ意味をなさない音声に似ており、たとえば理知的な発言というよりは、むしろ感情や共感の発声かとおぼしいような音だった。それがあまりにあいまいだったので、フィービの心に受けた印象または反響は現実感を欠いていた。彼女は何か他の物音を人間の声と聞き違えたに相違ない、でなければ全く自分の気のせいだと決めてしまった。
彼女は火のついたランプを廊下に置いて、再び居間にはいった。ヘプジバーの姿は、黒い輪郭が暗黒と溶け合っていたけれども、今はおぼろげながら前よりもよく見えてきた。しかしその部屋のもっと遠い所は、壁が光線の反射に非常に不向きなので、これまでとほとんど変わらずまっ暗だった。
「あなた」とフィービは言った。「たった今、私に何かおっしゃいまして?」
「いいえ、嬢や!」とヘプジバーは答えた。
言葉数こそ前よりも少なかったが、同じように不思議な音色がその中にこもっていた! 甘美で柔らかな、もの悲しい、けれども悲嘆でないその口調は、ヘプジバーの心の泉の水底《みなそこ》から、最も深い感情にすっかり浸されて、わき上がってくるように思われた。その声はまた、かすかな震えを帯びていて、それが──激しい感情はすべて電気であるため──一部はおのずからフィービに伝わってきた。少女はしばらくひっそりとすわっていた。しかしやがて、彼女の感覚は非常に鋭敏なため、部屋の暗い片隅の乱れた息づかいに気づいてきた。そのうえ、彼女のからだつきが、繊細であり、健康であるため、知覚作用がほとんど霊媒のように働いて、だれかが間近にいることを直感した。
「あのね、あなた」と彼女は、たとえようのない、聞き渋る気持ちを強《し》いて振り切って尋ねた。「どなたかこの部屋に私たちといっしょにおられるのではありませんか?」
「ねえ、フィービ、かわいい嬢や」とヘプジバーはちょっと間を置いてから言った。「あなたは朝早く起きたし、一日じゅう忙しかったわね。もうおやすみなさいな。あなたにはきっとたっぷり骨休めが必要ですからね。私はしばらく居間にすわって、思いをこらすのです。これはね嬢や、あなたがこれまで過ごしてきた年数よりも長い間の私のしきたりなのですよ!」
こうして一方ではフィービに引き取るように言いながら、この未婚婦人は歩み寄って、彼女に接吻し、そして自分の胸にひしと抱きしめたが、その心臓は、強く、高く、荒々しくはずんで少女の胸を打ち続けた。いったいどうしてこの老いさらばえた婦人の心に、こんなに満々とわきあふれる豊かな愛情が宿るようになったのだろうか?
「おやすみなさい」とフィービは、ヘプジバーの態度から不思議な感動を受けながら言った。「もしあなたが、私をかわいい娘とお思いになりましたなら、うれしゅうございますわ!」
彼女は自分の寝室に引き下がったが、すぐには寝つかれなかったし、また眠ってもあまり熟睡できなかった。何時ごろともはっきりわからぬ深夜に、そしていわば、夢の薄いベールを通して、階段を上がる重そうな、しかし力も意志も腑抜けている足音を意識した。ヘプジバーの声が、夢のベールに押し静められて、足音と打ち連れて階段を上って行った。そしてまたも、いとこの声に答えるあの異様な、あいまいなつぶやき声を耳にしたが、それは人間の言語のもうろうとした陰影にたとえられるのかもしれなかった。
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七 客人
フィービが目をさましたとき──彼女は梨の木に住みついた、雌雄|一番《ひとつが》いの駒鳥が朝早く鳴きかわすさえずりに目ざめたのだった──階下を動き回る物音が聞こえた。それで、急いで降りて行ってみると、ヘプジバーがもう台所にいた。彼女は窓近くに立って、一冊の本を鼻先すれすれに近づけて持ち、まるで、彼女の不完全な視力では内容がなかなか読みにくいので、本の中身を鼻でかぎわけて覚えこむつもりでいるかのようだった。もし何かの本が、今いったような流儀でその本の本質的な知識内容を明白にすることができたとすれば、今ヘプジバーが手にしているものこそまさしくその本であったろう。そして、こんな場合には、台所がたちまち鹿肉《ヴェンズン》、七面鳥《ターキー》、去勢雄鶏《ケーポン》、豚脂《ラード》を用いた山鶉類《バートリッジ》や、プディン、ケーキや、クリスマスパイなど、丹念に混合したり調製した各種の料理の芳香で湯気もうもうと立ちこめたことだったろう。それは料理の本で、無数の古風なイギリス料理がたくさん書いてあり、そして版画のさし絵がついて、それには貴族が居城の大広間で催すのにふさわしいような大宴会の際の食卓の配列が描かれていた。それで、金と力に飽かして庖厨《ほうちゅう》の技量《わざ》をふるった趣向の中から、ヘプジバーは気の毒にも、持っているだけの腕と、あり合わせの材料とで、手早く朝食にまにあいそうな、何かちょっと乙な食物をあさっていた。
やがて、ほっと深いため息をついて、彼女はおいしい料理の本をそばに置き、「斑《ふ》入り」(スペックル)と彼女が呼んでいる一羽の古い雌鶏が、前の日卵を産んだかどうかとフィービに尋ねた。フィービは駆け出して見に行ったが、待ちもうけた宝を手にしないで戻ってきた。
しかし、ちょうどその時、魚屋の吹く法螺貝《ほらがい》の音が聞こえ、ここの通りを近づいて来ると先ぶれした。ヘプジバーは陳列窓を勢いよくこつこつとたたいてその魚屋を呼び入れた。そして彼の荷車の中では最上等の鯖《さば》で、彼が指でさわってみて最も脂《あぶら》ののったはしりものと保証したのを買い取った。フィービにコーヒーを少し妙《い》るように頼んで──彼女は偶然気がついたのだが、これは本物のモカ・コーヒーで、長いこと貯蔵されていたため、小さい実の一粒一粒が同じ重さの金の値段に等しいはずであった──未婚婦人は古風な炉の非常に大きい入れ物に燃料をどっさり積み重ねたので、まだ消えやらず残っていた薄闇《うすやみ》を台所からたちまち追い払ってしまった。いなか育ちの少女は、できるだけ手助けしようと思い、彼女の母独特の簡単な造り方をまねて、インディアン団子《ケーキ》をこしらえようと言い出した。そしてその団子が滋味に富み、それに、もし調理法さえ誤らなかったら、他のどんな方法で作った朝食パンも及ばぬ風味があると保証できたのであった。ヘプジバーは喜んで承知したので、台所がたちまちおいしい食品の調理場となった。おそらく、この世を去った料理女の幽霊どもは、不細工な煙突からうずを巻いて上る、もともと幽霊の成分である煙の中で、不思議そうに、ながめ渡したり、または大きな口径の煙突をのぞいて見おろしたりして、調理しようとする食事の質素ぶりをさげすみながら、それでも作りかけの料理にいちいちもうろうたる影の手を突っ込もうとして、かいなくあせったことだろう。何にせよ、餓死しかかった鼠どもが、隠れ場所からこっそり姿を現わして、後足でちょこんとすわり、かんばしい空気をかぎ、そして物ほしげにかじりつく機会をうかがっていた。
ヘプジバーは生まれつき調理が好きでなかった。それで、じつを言うと、そばにつきっきりで焼きぐしをくるくる回したり、または鍋を煮たたしたりするよりは、いっそ食事抜きですますことがたびたびだったので、彼女が今のようにやせ細る結果を招いたのも当然だった。それゆえ、火に対する彼女の熱意は、全く彼女の感情に対する一種の勇敢な試練であった。彼女が炎々と燃え、白熱する石炭の火床をかき出し、鯖《さば》を焼いているありさまは、悲壮であったし、また(前に述べた鼠や幽霊を除けば、ただひとりの目撃者であるフィービが、もし涙を流すどころでない、もっとたいせつな仕事に従事していなかったなら)断然落涙に値する光景だった。いつもは青白い彼女の頬が熱さと忙しさで燃えるようにすっかり上気していた。彼女がその魚を見守っている優にやさしい心づかいと、じつに細かな気の配りようは、あたかも──他にそれをどう表現してよいかわからない──あたかも彼女自身の心臓が焼き網の上に載せられて、彼女の永遠の幸福が、まさしくころあいなその焼きかげんに関係しているかのような慎重ぶりだった。
人生は、家の中では、整然と並べられた、そして十分に用意された朝の食卓ほど愉快な期待の持てるものはないといってよい。一日のみずみずしい若さにあふれた、そしてわれわれの精神的要素と官能的要素とがその後のどの時期よりもいちばんよく調和しているときに、さわやかに食卓につく。そのため、朝の食事の物質的な満足が、われわれ人間の動物的本能へたとえいくらか過分に譲歩したからといって、胃の腑からであれ、良心からであれ、何も格別ゆゆしい苦情を受けずに、十分楽しむことができるのである。円陣を作って居並ぶ顔なじみの客席を駆け巡る、いろいろな奇想もまた、痛快な辛辣さと陽気さがあって、きびきびした真理を含むことが多いが、こういうものが正餐会《ディナー》の粋をこらした社交に入り込むすきはずっと少ない。か細い、優美な脚にささえられ、そして華麗な緞子《ダマスコ》のテーブル掛けでおおわれているヘプジバーの小さい古風な食卓は、社交界の中でも最もはれやかな会合の場面や中心となるにふさわしい趣があった。焼き魚の煙が野蛮人の偶像神を祭る社《やしろ》の香煙のように立ち上り、他方モカ・コーヒーの芳香が、古代ローマの竃《かまど》の守り本尊ラー神や、または現代の朝の食卓を支配するいかなる権力者の鼻孔をも満足させたかもしれなかった。
フィービのインディアン団子はあらゆるお供え物の中で最もおいしいものであった──その色合いがかの清浄|無垢《むく》な黄金時代の純朴な祭壇にふさわしいものであった――すなわち、じつにあざやかな黄色い団子なので、マイダス王が食べようとした瞬間、光り輝く黄金に変わってしまったパンの一部に似ていた。バターを忘れてはならない──そのバターは、フィービが、彼女のいなかの家で自分で作ったもので、いとこのもとへごきげん伺いの贈り物として持参したものだった──そしてクローバーの花のにおいがして、黒ずんだ鏡板張りの居間いっぱいに、田園風景の魅力を放散した。すべてこういうものが、風雅でゆかしい豪華な古い陶器の茶わんに受け皿、紋章入りのさじ、クリーム入れの銀の壷(ヘプジバーの持っているもう一品の銀製食器で、そして最も不細工な浅いどんぶりの形をしていた)といっしょに食卓に並べられたが、それを見れば昔ピンチョン大佐の客人のうち最も威厳ある人物でさえ、冷笑して着席を拒む必要はなかったろう。しかしその清教徒の顔は絵の中からにらみおろしていて、まるで卓上のどの食物も彼の食欲を満足させないといわんばかりであった。
できるだけ美しく飾ろうとするつもりで、フィービは、かおりのよい、美しい数輪のばらや、二、三の他の草花を集めて、ガラス製の水差しにいけた。その水差しは、もうとっくの昔取っ手をなくしていたので、かえって花びんによく似合っていた。早朝の日ざしが──イヴとアダムとが朝の食卓に向かい合っているとき、イヴの部屋をのぞき込んだ朝日のようにさわやかに──きらきらと梨の木の枝々をくぐり抜けながら、ちょうどテーブルヘ斜めにさしてきた。もう用意はすっかり整った。三人分のいすと料理の皿があった。ヘプジバーのため、いす一脚と料理一人分――同じくフィービのための一人分――だがもうひとりの、どんな客人を彼女のいとこは待ちもうけていたのだろうか?
こうした用意を整えている間、ヘプジバーのからだはとめどなく細かく震えていた。彼女の心の動揺があまりに激しいので、フィービは、炉火の光で台所の壁に映ったり、または太陽の光線で居間の床に落ちたりする、ヘプジバーのやせこけた影のかすかな身震いを認めることができるほどだった。彼女の乱れ騒ぐ心の現われ方は全く千差万別で、ほとんど互いに符合しないため、フィービはそれをどう解釈してよいのやらわからなかった。ある時には喜びと幸福の陶酔に包まれているように思えた。こんな時には、ヘプジバーは両腕をさっと広げて、フィービを抱きかかえ、昔母がいつもしてくれたようにやさしく頬に接吻するのだった。彼女はやむにやまれぬ衝動からそうするように思われたし、またあたかもやさしい愛情で胸が詰まりそうなので、息つくひまを得るため、どうしてもその愛情をいくぶんか吐き出さなければならないかのようだった。すると次の瞬間には、変化する理由が全然見えないのに、彼女の例にない歓喜の情が再び小さく縮こまり、いわば、肝をつぶして、喪服をまとってしまうのだった。あるいはまた、それが逃げ出して、いわば自分が長い間鉄鎖につながれて横たわっていた彼女の心の中の土牢《つちろう》に身を隠し、他方では、冷たい幽霊のような悲哀が、幽囚の身となって釈放を恐れている歓喜と入れ代わってしまうようなものだった。――悲しみはそれほど暗々とかがやいていた。彼女はたびたびどんな涙も及ばぬほど痛々しい、小さな、興奮した、ヒステリックな笑い声を急に立てた。かと思うとたちまち、どちらの感動がいちばん強いのか試そうとするかのように、さめざめと涙を流すのだった。あるいはまた、たぶん笑いと涙とが同時にやってきたのであろうか、かわいそうにヘプジバーを、たとえて言えば、青白い、もうろうとした一種の虹で包んでしまった。
フィービに対しては、すでに述べたように、彼女は愛情をいだいていた。──ふたりが知り合ってまもないのに、前夜のあの特別だった接吻は別として、今までよりもはるかにずっとやさしくなっていた──それでも、不きげんといらだちとが絶えずくり返されていたのだった。彼女はフィービにきびしい言葉で口をきいた。すると次には、堅苦しく疎遠なふだんのそぶりをいっさい投げ捨てて、許しを請うのだが、また次の瞬間には、許してもらったばかりの非礼を再びくり返すのであった。
ついに、ふたりの互いの仕事が全部かたづいてしまったとき、彼女はその震える手にフィービの手を握りしめた。
「堪忍しておくれ、ね、嬢や」と彼女は叫んだ。「でもほんとうは私は胸がいっぱいなのですからね! 堪忍しておくれ。私はね、フィービ、たといあんな乱暴な口をきいても、あなたが好きなんですからねえ! そこは何も気にしないでね、かわいい嬢や! そのうち、親切になりますわ、いっしょうけんめい親切にね!」
「ねえ、ほんとうにあなた、どうなさいましたかおっしゃっていただけませんか?」とフィービは、明るいそして涙ぐましい同情を感じてきいた。「どうしてあなたはそれほどまでに感激していらっしゃるのですか?」
「静かに! 静かに! あの人がやって来ます!」とヘプジバーは、急いで目をぬぐいながら、ささやいた。「あの人にあなたからまず会うようにしましょうね、フィービ。なぜって、あなたは若くてばらの花のようで、いやが応でも、微笑を漏らさずにはいられないものね。あの人はいつでもはれやかな顔が好きでしたよ! そして私の顔は、今は、もう老《ふ》けてしまって、それに涙でかわくまもないくらいですものね。あの人は泣き顔にはけっしてがまんしませんでした。そら、カーテンをちょっと引いておくれ、影が食卓のあの人の席の側に落ちるようにね! でもそちらには十分日あたりよくしてくださいよ。だってあの人は、よく世間にはそういう人たちがいるものですが、陰気くさいのが大きらいでしたから、あの人は、今までの生涯で、ほとんど日の目を見なかったのよ――かわいそうなクリフォード──しかも、ああ、なんという暗い影でしょう! かわいそうな、ほんとにかわいそうなクリフォード!」
まるでフィービに対してよりは自分の心に話しかけているかのように、老貴婦人はこんなふうに低い声でつぶやきながら、つま先で部屋の中を歩き回り、いかにも重大な時機といわんばかりにあれこれと用意を整えていた。
そのうちに、階段の上の廊下に足音がした。フィービはそれが、夜分まるで夢のようにおぼろげに、階段を上がって行ったあれと同じ足音であるとわかった。近づいてきた客は、だれであるかは知らないが、階段の降り口で立ち止まっているらしかった。降りながら二度三度足を止めた。降りた所でまた止まった。毎回こう躊躇するのは別に目的あってのこととは思われず、むしろ自分がからだを動かしたその目的を忘れてしまったためか、あるいはまた、動機となった力があまりに微弱でとても前進を続けることができないので、足が心ならずもぴたりと止まってしまったかのようだった。ついに、その人は居間の敷居のところで長い間立ち止まっていた。戸のハンドルを握った。それでも戸をあけないで握った手を放してしまった。ヘプジバーは、両手をぶるぶると痙攣させて握りしめながら、入口をじっと見つめて立っていた。
「まあどうぞ、ヘプジバー、どうぞそんなお顔をなさらないで!」とフィービはからだを震わせて言った。それというのも彼女のいとこの感動ぶりや、この不思議に歩き渋る足音が、まるで幽霊が今にもその部屋にはいって来るかのような感じを起こさせたからであった。「あなたはほんとうに私をびくびくさせますわ! 何かおそろしいことが起ころうとしているのでしょうか?」
「静かになさい!」とヘプジバーはささやいた。「きげんよくしていらっしゃい! どんな事が起こっても、ただきげんよくしているんですよ!」
敷居のところで止まった最後の休みがあまり長すぎるとわかって、ヘプジバーは、不安な思いに耐え切れず、駆け寄って戸をさっとあけ放ち、見知らぬ人の手を取って中へ引き入れた。ちらっと最初の一目で、フィービは、色あせた緞子《どんす》の昔風な化粧着をまとい、そしてごま塩まじりの、いやほとんどまっ白い頭髪を普通以上に長く伸ばした、ひとりの相当な年輩の人物を見た。頭髪が額をすっかり暗く隠していたが、ただ彼がそれを後ろへかきあげて、ぼんやりと部屋を見回すときだけ陰っていなかった。彼の顔をほんのしばらく調べるだけで、その足どりが、のろのろとして、まるで床の上を初めてよちよちよぎる幼児の歩みのようにあてどなく、ようやく彼をここまで運んできたにすぎないような、そんな歩き方をしなければならないわけは容易に認められた。そうはいっても彼の体力が、のびのびと闊歩《かっぽ》するのに不十分だったろうという証拠は何もなかった。歩行できないわけはその男の精神にこそあった。彼の顔の表情は──一方では、理性的な明るさが顔に現われているにもかかわらず──ちらちらゆらめき、かすかに薄れゆき、そしてほとんど消え去るかとみれば、また弱々しく生色を取り戻すように思われた。それは消えかけた燃えさしの間からちらちらと見える炎に似ていた。われわれは、炎々とよく燃えさかるときの火焔より、こんな炎をかえって熱心に見つめるものである──かえって熱心にではあるが、ただ、それがひとりで燃え立って会心の光輝を放つか、それともただちに消滅するか、どちらかでなければならないように、なんとなくもどかしがりながら、じっと見つめるのである。
部屋にはいってからちょっとの間、その客は、まるで幼な子が自分を連れ歩くおとなの手を放さぬように、本能的に、ヘプジバーの手を取ったままじっとして立っていた。けれども彼はフィービを見た。そして彼女の若さにあふれた、快活な容貌から発している一種の光明を感じ取った。彼女の顔は、ほんとうに、部屋じゅうに楽しい気分をふりまいて、さながら太陽の光を浴びて立っている花を盛ったガラスの花びんが、きらびやかな光輪を反射しているようだった。彼は挨拶した、いや、会釈《えしゃく》しようとしてうやむやなはんぱな礼となって流産してしまった、というのが真相に近かった。しかし、挨拶こそ未熟であったが、どんな体裁のよい円熟した作法の技巧もとうてい及ばない、言うに言われぬ優美な思いを伝えた、いや、感じをにおわせた。その美はあまりにもかすかであって、即座には、捕えられないものだった。それでも後から思い返してみるなら、その人の全貌を一変させてしまうように思われた。
「ねえクリフォード」とヘプジバーは、わがままな幼児をなだめすかさんばかりの口調で言った。「これが私たちのいとこのフィービよ――フィービ・ピンチョンさんよ──ほら、アーサーのひとり娘ですよ。この人はしばらく私たちといっしょに暮らしたいといって、いなかからやって来たのですよ。私たちの古い家は今はほんとに寂しくなってしまったものですからね」
「フィービだって?──フィービ・ピンチョン?──はてフィービねえ?」とその客は、変な、間のろい、聞き取りにくい言葉でくり返した。「アーサーの子供か! ああ、私は忘れたのだ! ま、いいよ! よく来てくれましたね!」
「いらっしゃい、ね、クリフォード、このいすにお掛けなさい」と言ってヘプジバーは、彼の手を引いて席へ連れてきた。「ちょっと、フィービや、そのカーテンをも少し降ろしてちょうだい。さあ朝ご飯にいたしましょう」
客は設けられた場所へ着席すると、不思議そうにあたりを見回した。彼は明らかに目の前の場面と取り組んで、これをもっと得心の行くまではっきりと、胸にぴんとくるように努力していた。彼は、少なくとも、この場所、この間柱の低い、大梁《おおはり》のある、樫《かし》の鏡板張りの居間に現にいるのであって、どこかよその場所、すなわち彼の五感にすっかり焼きついてしまった例の所にいるのでない事を確かめたがっていた。しかしその努力が非常に大きすぎるためとても長続きできないで、とぎれとぎれに成功を収めただけだった。絶え間なく、彼は自分の居場所から消えうせていたと言うことができるだろう。つまり、言葉を変えていうなら、彼の精神と意識とが離れ去り、自分の衰弱した、白髪の、陰鬱な姿――空蝉《うつせみ》の形骸《なきがら》、肉体だけの幽霊──を食卓に着席させておいたのだ。一瞬の空白の後、またも明滅する淡い光が彼の瞳に現われてくるのであろう。そのことは、彼の霊の部分が戻ってきて、心に円居《まどい》の火を点じ、ひとり住みわびるように運命づけられている、暗い朽ちかけた邸宅に知性の灯火を燃え立たそうと最善を尽くしていることを予兆したのであった。
さほど冬眠していない、といってもまだ完全に生気はつらつとしていない、そんな状態のある瞬間、フィービは、初めのうちは、あまりとっぴな、あきれはてた思いつきとして受け付けなかった事柄を確信するに至ったのである。彼女の目の前にいるこの人物こそ、いとこのヘプジバーが持っているあの美しい小さい細密画像の本人に相違ないと悟ったのだ。全く、衣装を見分ける婦人特有の目で、彼女はただちに、彼のまとっていた緞子の化粧着が、図柄も、生地も、また仕立てもみな、画像の中にきわめて精密に描かれているものと全く同じであると見きわめたのであった。この古い、色あせた衣服は、ありし日の華麗な色彩はさめはてているものの、ある言い表わしがたい方法で、着用している者の測り知れない不幸を無言のうちに翻訳し、そしてながめる者の目にそれと悟らせているように思われた。表面に現われたこの象徴のために、この人の魂がもっとじかに着ている膚身《はだ》の衣装が、どれほどすり切れて着古されたものだったか、また、かつては美貌や優雅さが絶妙な画家の霊筆をさえほとんど超絶するほどであったその姿や顔が、いっそうよく認められた。この人物の霊魂が、ある俗世間的な経験から、何か悲惨な不当なしうちをこうむったに相違ないことが、いっそう正しく理解できたのであった。その場に彼は、自己と世間との境界に、落魄《らくはく》と敗残のもうろうとしたベールをかぶったまますわっているように思われた。しかしそのベールを透かして、飛び去りゆくときのあいまあいまに、画家マルボーンが──息を飲んで、奔放な妙筆をふるって――かの小画像に与えたものと全く同一の、きわめて洗練された、きわめて柔和な想像力に富む表情が捕えられたかもしれなかった! この顔の表情には何か先天的な特質があって、すべての幽暗な年月も、また彼の身にふりかかった不相応な災難の重荷も、その特質を完全に抹殺《まっさつ》するだけの力はなかったのだ。
ヘプジバーはそれからおいしそうなかおりのコーヒーを茶わんについで、差し出した。客の目が彼女の目と合ったとき、客はうろたえて落ち着きをなくしたようだった。
「あんたは、ヘプジバーかい?」と彼は、悲しげにつぶやいた。それから、もっと離れて、そしてたぶん人が聞いているとも気づかずに、ぶつぶつ言った。「なんと変わったものだ! はてさて変わったものだ! それに私のことを怒っているのかな? なぜあんなに顔をしかめているのかなあ?」
気の毒なヘプジバー! 時と彼女の近視と、さらに心の中の不満からくる焦燥とが、あのようなみじめなしかめ面《つら》を全く常習にした結果、どんな激しい気分の高潮にも決まってこれが現われるのだった。しかしはっきりしない彼のつぶやく言葉を聞くと、悲しみにあふれた愛情で、彼女の顔の隅々までやさしくなり、美しくさえなった。──顔のけわしい表情が、いわば、暖かい、霧のような火照《ほて》りの陰に隠れてしまった。
「怒っているんですって!」と彼女は彼の言葉をくり返した。「あなたを怒っているんですって、クリフォード!」
そんな驚きの叫び声を出したとき、彼女の口調には、あるもの悲しい、真に微妙な、震えわななく旋律がしみ通っていたものの、それでいて、鈍感な聞き手なら、なお邪険と誤解したかもしれない響きまで押し静めることはできなかった。あたかもある卓越した音楽家が、ひび破れた楽器から魂にしみ入る妙曲をかなでるのに、楽器が霊妙な調べのさなかに物理的な欠陥を響かせるかのようであった。──ヘプジバーの声の中に美しい音質を見いだす感覚はそれほど奥深いものだった!
「ここにあるのは、愛情だけですよ、クリフォード」と彼女は付け足した。「愛情だけですよ! あなたは家にいるのですよ!」
客は彼女の言葉の調子に微笑で答えたが、その笑顔は彼の顔を少しも明るくしなかった。その微笑は、弱々しくて瞬間に消えてしまったけれども、不思議なほど美しい魅力を持っていた。すぐその後にもっと粗野な表情が現われた。すなわち、顔を和らげる知性的なものを欠いたため、彼の顔のみごとな彫りや輪郭に粗野な効果を及ぼした表情であった。それは食欲の現われた顔つきだった。彼はほとんど大食といってもさしつかえないほどの健啖《けんたん》ぶりで食物を平らげた。そして盛りだくさんに並べられた食卓から食欲を満喫させて、自分のことも、ヘプジバーや若い少女のことも、その他周囲の何もかも忘れ去っている様子だった。彼のからだつきは、背が高く、華奢《きゃしゃ》で上品な作りであるけれども、美食を楽しむ感覚はおそらく先天的のものだった。それにしても、もし彼のもっと霊妙な特性がはつらつと活気を保っていたのなら、こんな感覚は抑制されたまま、かえって一種の身だしなみに変えられ、無数の知的教養の様式の一つとさえなっていたろうに。しかし、実情はこのとおりだったので、その結果は、いたいたしく、それでフィービは目を伏せた。
しばらくたつと客はまだ味わっていないコーヒーのこうばしいかおりに気がついてきた。彼はしきりにそれをがぶ飲みした。その微妙な精髄《エッセンス》が魔法の飲み物のように彼に働いて、動物としての彼の不透明な物質をしだいに透明なものに、いや、少なくとも、半透明なものにと作用した。その結果一条の霊的光明が、これまでよりいっそう清らかな光輝を帯びて、体内くまなく伝わった。
「もっとおくれ、もっと!」と彼は、まるで彼からのがれ去ろうとするものを、けんめいにつかんで放すまいとするかのように、言葉ももどかしげにいらだって叫んだ。「これこそ私に打ってつけのものだ! もっとたくさんおくれ!」
こんな微妙で強力な感化が作用して、彼はいっそうきちんと正座し、そして視線が止まるどんな物にもじっと注意を払うまなざしでながめ渡した。その効果は、彼の表情がもっと知的になるほど大きくなかった。それなりの効果はあっても、こうした最も独特な効果とはならなかった。また、いわゆる霊性がきわめて顕著に表面へ現われるように、しいて自覚を促されたのでもなかった。それでなくて人間のある繊細な気質が、今見えてきたのだった──くっきりと鮮明に現われたのではなくて、不安定に不完全にちらちらと漏れたのであった──その気質の機能はありとあらゆる美しく愉快なものを扱うことであった。もしその気質を主要な属性としている性格にあっては、この気質はその持ち主に優雅な趣味とうらやましいほど鋭敏な幸福感とを授けるであろう。美はこういう人の生命であろう。その人の抱負はことごとく美の方へ向けられるであろう。そして、気分と身体の諸器官とを調和させ、その人自身の成長発展も同じように美しくなるであろう。このような人は当然悲哀とはなんの縁故もないであろう。闘争とも無縁であろう。千変万化に姿を変えて、世間と戦う勇気と意志とを持つ人々を待ち受けている、殉教とも当然無関係であろう。これらの勇敢な気性の人々に対して、このような殉教は世界が贈る進物のうち最も高価で正当な褒賞《ほうしょう》である。われわれの目前にいる人物に対して、世界が贈る正当な報いは、ただ受けた苦痛のきびしさに正比例する激しい悲嘆があるきりであった。彼は殉教者となる資格を持っていなかった。そこで、寛容で剛毅《ごうき》で高邁《こうまい》な精神の人は、彼がこんなに安楽に適した性質で、安楽以外のどんな目的にもあまりにひ弱い人間であるのを見て、もしかして、われわれの荒涼とした世界の膚寒い木枯《こがらし》が、こんなひ弱な人間に和らいで吹いてくるというのなら、自分のためにくふうしていたかもしれない、なけなしのわずかな享楽を、喜んで彼のためにささげてしまったことであろう──こんな精神の人から見ればまことにけちな希望を放棄してしまったであろう──と考えられるのである。
てきびしく、あるいは軽蔑して、いうわけではないが、クリフォードの性質は遊惰《ゆうだ》逸楽のシバリス人のように思われた。そのことは、そこの陰気な古い居間の中で、小暗い葉群《はむら》をくぐり抜けてきて、細かに震え戯れる日光へ彼の目がいやおうなく引かれている、その磁気的な引力によっても認めることができた。そのことは、花をさした花びんに目を留めてつくづくと楽しんでいる彼の様子にも見られた。彼は、霊的成分が香気とねり合わされ、きわめて精巧に型どられたからだの人に独特といってよい喜びようで、花のにおいを吸い込んだ。またそのことは、彼がフィービをながめて、思わず漏らす微笑にも現われた。フィービのみずみずしい少女姿は太陽の輝きであり、また花であり──これら二つの精髄の、いっそうかわいらしい、そしていっそう快活な発露であった。「美しいもの」に対する彼のこのような愛情と必要とは、彼がその女主人から、さっとすばやく目をそらせ、再び元へ戻すどころかあらぬほうへ目をうろつかせる、その本能的な警戒心にも同じように明瞭に見られたのであった。それはヘプジバーの不幸であり──クリフォードの罪ではなかった。どうしてクリフォードは──彼女は顔色がじつに黄色いし、非常に皺だらけではあるし、いかにも悲しげな態度であり、それにあの奇妙で無気味なターバン帽を頭に載せたり、眉を引きゆがめた最もいじ悪そうな例のしかめ面をしているものだから──どうして彼は喜んで彼女の顔をじっと見つめることができたろうか? しかし、彼女が黙々として与えたあれほど深い愛情に報いる恩義を感じていなかったか? 彼は彼女になんの負い目も感じなかった。クリフォードのような性質はそんな負債を請け合うことはできない。その性質は──われわれは非難するつもりで言うのでなく、また、われわれの言い分を、別の気性の人々に対しても、なんら割り引きなしに有効に主張するのであるが──その性質は常に本質的に利己的なのである。それでわれわれは、そんな人はそのまま許しておいて、それだけいっそう、われわれの男らしく私心のない愛情を、報酬なしにその人間に惜しみなくそそがなければならない。ヘプジバーは哀れにもこの真理をわきまえていた。いや、少なくとも本能のままにこの真理を行なったのだ。じつに久しい間、クリフォードは美しいものから疎遠になっていたので、彼女は喜んで──喜んだとはいっても、現にため息をつきながら、そして心の中では自分の寝室でそっと涙を流すつもりで──年老けて見苦しい彼女の顔立ちより、もっと晴れやかな対象が今彼の目の前に見られることを喜んだ。彼女のおもざしは全く魅力を持っていなかった。また、たとえ魅力があったとしても、彼の身を案ずる彼女の癌《がん》のような悲嘆が、とっくの昔、そんな魅力を滅ぼしてしまったことであろう。
客はそり返っていすに掛けていた。彼の顔には夢みるような喜びの色に混じって、努力と不安の悩ましい表情が見られた。彼は周囲の場景をもっと徹底して自分に納得させようと努めていた。あるいは、たぶん、これが夢ではなかろうか、それとも、想像力の戯れではなかろうかとおびえながら、そんな甘美な瞬間も、さらにある光輝が加わり、幻影がますます長く続くようにあがき求めて、いらだっていた。
「なんと愉快なことだろう! なんと楽しいことだろう!」と彼はつぶやいたが、しかしだれに話しかけるふうでもなかった。「これが長く続くだろうか? あのあけ放った窓を通う大気はなんとかぐわしいことだろう! 開いている窓! あんなに戯れる日ざしのなんという美しさ! いろいろなこの花の、なんという馥郁《ふくいく》としたかおり! あの若いおとめの顔の、なんという晴れやかな、なんと花のような輝きだろう!──露を含んだ花の風情《ふぜい》か、また露雫《つゆしずく》にさした日光であろうか! ああ! これはみな夢に違いない! 夢だ! 夢だ! けれどもその夢が四方の石壁をすっかり隠してしまったのだ!」
すると彼の顔は暗くなって、まるで洞窟か、土牢の影が顔におおいかかったかのようだった。その表情にはもはや牢獄の窓の鉄格子を漏れてさし込むわずかな明るさしかなかった──さらにまた、その明るさがますます薄れていって、あたかも彼が深い底へしだいに沈み行くかのようだった。フィービは、(彼女は、現に目の前で行なわれている物事に、いつまでも関係せずにいることはめったにしんぼうしきれない、そしてやればたいていうまくやり遂げる、そうした機敏で活動好きな性分であるから)今はもうその見知らぬ男に話しかけたくてたまらない気持ちになった。
「ここに新しい種類のばらがありますわ。私がけさ、お庭で見つけましたの」と彼女は、花びらにさした花の中から小さい真紅の花を一つ選びながら、言った。「この季節には、ばらの株にわずか五つか六つの花が咲くだけでしょう。これがその中のいちばん完全な花ですのよ。これには一点の傷も黴《かび》もありません。それになんというよいにおいでしょう!──こんなによいかおりのばらはほかにありませんわ! どなただってこんなよいかおりは忘れっこありませんわ!」
「ああ!──はてな! それを手に取らせてくれ!」と客は叫んで、熱心に花を握りしめたが、その花は、かんばしい香気を発散するにつれ、思い出多い香気に特有な魔力の働きで、無数の連想をもたらした。「ありがとう! これは私にたいへん役にたちました。私がこの花をいつもどんなに珍重していたか、思い出したよ──昔、ずっと昔、だったと思うがね!──それともついきのうのことだったのかな? この花は私を若返った気分にしてくれるよ! 私は若いのかな? この思い出が特に明瞭なのか、それともこの意識のほうが奇妙にぼんやりしているのかな! それにしてもこの美しいうら若い少女はなんとやさしい気立てだろう! ありがとう! ありがとう!」
この小さい真紅のばらの花から生まれてくる快い興奮は、クリフォードに、朝の食卓で楽しむ最も晴れやかな幸福の時を与えてくれた。そんな朗らかな気分は、その後まもなく、彼の目がふと、かの老清教徒の顔にとまることがなかったら、もっと長く続いたかもしれなかった。老清教徒はすすけた額縁の光沢《つや》のうせた画面から、この場の様子をまるで幽霊のように、それもはなはだ気むずかしく、ぶあいそうな幽霊のように見おろしていた。客はいらだっている手まねをしながら、家じゅうの甘やかし子らしい大っぴらなかんしゃくだとすぐわかるむずかりようで、ヘプジバーに話しかけた。
「ヘプジバー!──ヘプジバー!」と彼はたいへん力んだ、はっきりした声で叫んだ。「なぜあなたは、あんないまいましい画像を壁に掛けておくのかね? ははあ、そうか!──あれがてっきりあなたの趣味なんだね! 私は、あなたに千べんも、あれはわが家の悪魔だ!――特に私の悪魔だと言って聞かしたろう! あれを降ろしなさい、今すぐにだよ!」
「ねえクリフォード」とヘプジバーは、悲しそうに、言った。「それができないことはおわかりでしょう!」
「それなら、ともかく」と彼は、相変わらず相当語勢の強い話しぶりで言い続けた。「どうかその画像を、たっぷり広い、襞《ひだ》をたくさんたらした、金色の縁取りに房つきの、まっかなカーテンで隠しておくれ。私はあれががまんできないのだ! あれが私の顔をまともに見つめてはならないのだ!」
「そうですね。ね、クリフォード、その絵におおいをかけましょう」とヘプジバーは、なだめるように、言った。「二階のトランクにまっかなカーテンがはいっているわ──少し色がさめて虫食いがあるかもしれないけれど――でもフィービと私がそれをうまく仕上げますわ」
「きょうじゅうにね、忘れないでくれ!」と彼は言った。それから、低い自省するような声で付け足した。「いったいどうして私たちはこんな陰気な家に住まなければならないのだろう? なぜフランス南部へ行かないのかね?――イタリアヘ?──パリやナポリやベネチアやローマヘ行かないのかね? ヘプジバーは言うだろうよ、私たちには財産がないって。こっけいな考えだよ、そりゃあ!」
彼はにっこりとひとり笑いして、皮肉めいた意味ありげな微妙な視線をヘプジバーへ投げた。
彼が経験したいろいろのむら気な感情は、かすかに外へ現われるだけであったけれども、きわめて短い時間に相ついで起こったために、この見も知らぬ男を明らかに疲労させてしまった。どんなに緩慢であろうと、川の流れのような生活よりは、むしろ足もとの溜り水となって淀んでいる、悲しい単調な生活に慣れていたのだった。うっすらと眠りの影が彼の顔いちめんに広がって、生まれつき華奢で優雅な顔の輪郭に、たとえて言うならば、ちょうど、日光が少しもささず、立ちこめている濃霧が、特色ある風景をおおい包んでしまうような、そんな効果を及ぼしていた。彼の顔はますます野卑に見えてきた──ほとんどうすのろにさえ見えてきた。もしも何ほどかの関心とか美とかが──たとい退廃した美であっても──これまでこの男に現われたことがあるとすれば、目撃者はそのことに疑惑を持ちはじめ、そして、いったいどのような優美さがあんな面貌《かお》にちらちら見えていたのか、また、いったいどのような微妙な輝きがこんな霞んだ目に輝いていたのか、自己を欺くのかと、自分自身の想像力を非難しはじめるかもしれなかった。
しかし、客がすっかり眠りこけてしまわぬうち、店ベルの鋭い、かん高い音が聞こえてきた。その音は、クリフォードの聴覚器官と特に鋭敏な神経とをはなはだ不快に突き刺して、いすから急に飛び立たせた。
「これはしたり、ヘプジバー! 私たちは今、なんというものすごく騒々しい物音を家の中にさせておくのかね?」と彼は叫んで、いらだったやりきれない忿懣《ふんまん》を──当然の事のように、そして昔の習慣どおり──この世で彼を愛しているただひとりの人にぶちまけた。「私はこんないまいましい、かしましい音は聞いたことがないよ! なぜあなたはそれを許しておくのか? あの調子はずれな音といったら、いったい全体、あれはなんの音だろう?」
見かけたところこんなたわいない、こうるさい物音ぐらいのために、クリフォードの性格が、いかにくっきりと――あたかもおぼろげな画像がひらりとカンバスから飛び出すかのように──浮き彫りにされたかということはじつに驚くばかりであった。その秘密は、彼のような気質の人間は常に、自己の感情を通じてよりも、むしろ美と調和に対する自己の感覚を通じていっそう敏感に傷の痛みを刺激されやすくできているからである。もしクリフォードが、これまでの生涯で、彼の趣味を最も完璧なところまで涵養《かんよう》するもろもろの手段を享楽していたなら、あれほど微妙な性質は、今の時期よりもっと前に、彼の持っている感情を完全に食い尽くすか、または鑢《やすり》ですっかりすり減らしていたかもしれなかったことは──たまたま似たような事件がしばしば起こったものだから――確かにありうることである。それゆえ、彼の長い間の暗い災難が、その根底に、彼を救う一滴の慈悲の涙さえなかったのだろうなどと、われわれはあえて公言すべきであろうか?
「ねえ、クリフォード、あの音があなたの耳に聞こえないようにできればいいですがねえ」とヘプジバーは、じっとしんぼうしながら、それでも恥ずかしい、苦しい思いで顔をまっかに染めながら言った。「あの音は私だってほんとうに不愉快なのです。でもね、クリフォード、あなたにお聞かせしたいことがあります、いいですか? このいやなやかましい音ったら──フィービ、どうか駆けていってだれがいるのか、見てちょうだい!――このうるさいちんちんする音はほかでもない、私たちの店ベルなのですよ!」
「店ベル!」とクリフォードは、あっけにとられてじっと見つめながらおおむ返しに言った。
「そうです。私たちの店ベルです」とヘプジバーは言ったが、深い感動のこもっている、生まれながらに備わった一種の威厳が今は自然とその態度に現われていた。「というのはね、いとしいクリフォード、私たちは非常に貧乏していることを知ってもらわなければならないのです。たとい、私たちが死ぬほどパンのほしいときでも、パンを差し出すその救助者の手を、ぴしゃりと払いのけたい(あなただってそうなさるでしょう!)そんな人からの援助を受け入れるか――ほかに救いはないのですよ、あの男からでなければね、それとも私が自分で働いて私たちの暮らしをかせぐか、そのどちらか以外に、なんの手段もなかったのです! ひとりきりでしたなら、私は甘んじて飢え死にしていたかもわかりません。しかしあなたは私のもとに帰されることになっていたのです! それなら、ねえ、クリフォード」と彼女は、いかにもみじめな微笑をしながら、つけ加えた。「あなたは、私が正面の破風に小さい店を開いたため、この旧家に取り返しのつかない恥辱を招いたとお考えになりますか? 私たちの祖父の祖父は、まだまだこんなに困っていないのに、同じように店を出されたのでした! あなたは私のことを恥じておいでですか?」
「恥辱だよ! 不名誉だよ! あなたは私にそんな口をきくのかい、ヘプジバー?」とクリフォードは言ったが──それでも怒ったふうはなかった。そのわけは、人間の精神は徹底的に打ちのめされた場合、ささいな侮辱にぷりぷり不平を言うけれども、大きな侮辱に対してはけっして立腹しないものだからである。それで彼はただ悲痛な感情で話したのだった。「あんなことを言って思いやりがなかったね、ヘプジバー! なんという恥辱がいったい、今、身にふりかかるものなのだろうか?」
それからこのいくじのなくなった男――享楽のために生まれてきたはずだった、それなのにあれほどみじめな運命に巡り合った男──は急に女のように激しく号泣した。しかし、それもほんのわずか続いただけだった。それがやがて彼を静かな沈黙の、そして、顔色から判断して、不愉快とは見えない状態にした。こんな気分からまた彼は、ちょっとの間、いくらか元気を回復した。そして微笑を浮かべてヘプジバーの顔を見つめたが、その微笑の鋭い、半ばあざけりと受け取れる意味は彼女にとって謎であった。
「私たちはそんなにひどく貧乏なのかい、ヘプジバー?」と彼は言った。
掛けているいすが深々としてそれに柔らかいクッションであったので、クリフォードはついに、ぐっすりと寝入った。高く低く規則正しくなった彼の寝息を聞いて──(しかしその寝息は、こんな時でさえ、元気な張り切ったものでなく、彼の性格の無気力さにふさわしい、ひ弱な一種の震えを帯びていた)──すっかり寝ついたこんな証拠を聞いて、ヘプジバーは、もう今までもそうしていたのだが、彼の顔をもっとしげしげと大胆に見定める機会をつかまえた。彼女の心は涙で溶けてしまった。彼女の深い心の最も奥底から、低い、やさしい、しかしなんとも言い表わしようのない悲しげな、うめき声が絞り出された。彼女はこれほどまでに深く嘆きあわれむ心から、変わりはて、老衰し、色あせ、落ちぶれた顔を凝視《ぎょうし》していても少しも非礼な気持ちはしなかった。しかし彼女がいくらかほっとして気のゆるみが出たとたん、彼がこんなにまでひどく変わりはてているものだから、その顔を丹念に見つめていたことを心がとがめだてた。それでヘプジバーは、そそくさと目をそらせ、日あたりのよい窓にカーテンを降ろして、眠っているクリフォードをそのままにして出て行った。
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八 当世のピンチョン
フィービは、店にはいるとすぐ、もうそこには顔なじみの大食小僧──もしわれわれがこの子の大手柄をまちがわずに数えあげられるなら――黒ん坊、象、らくだ、ひとこぶらくだ、それに機関車をむしゃむしゃ平らげた小僧がいるのを見つけた。この子の持ち物は、いっさいがっさいこれまでの二日間に、今いった、前代未聞の豪勢な買い物につぎ込んでしまったが、この若紳士の今の用件は、母の言いつけで、卵三個と干しぶどう半ポンドを買ってくることだった。そこでフィービはその品物を渡して、彼のかねてからの贔屓《ひいき》に対する感謝のしるしに、また朝食後のちょっぴりおまけの一口という寸法で、同じように彼の手に一頭の鯨を握らせたのだった! この大魚は、ニネベの予言者ヨナ〔ヘブライの予言者、三日三夜の後、大魚の腹中から出てきた〕の場合の経験とは反対に、さまざまな隊商《キャラバン》がすでに先行した同じ運命の赤い道を下る行進をすぐ始めた。この非凡な小僧は、人間も物もすべてむさぼり尽くす食欲の点からも、また、彼が、「時」と同じように、こんなにたくさん神の創造物をのみ下したあとでも、まるで今しがた造られたばかりに見えるほど若々しい様子をしている理由からも、ほんとうに、年老いた「時の翁《おきな》」の象徴そのものであった。戸をちょっとしめかけてから、その子供はふり返って、フィービに何事かもぐもぐ言ったが、鯨を半分のみかけたばかりなので、何を言っているのか彼女ははっきり理解できなかった。
「なんと言ったの、坊や?」と彼女はきいた。
「お母さんが知りたがっているんだよ」とネッド・ヒギンズは、前よりはもっとはっきりくり返した。「独身婆さん、ピンチョンの兄さんはどんなぐあいかってさ? その人は家に帰って来たんだってみんなが言ってるよ」
「ヘプジバーさまのお兄さまですって!」とフィービは、ヘプジバーとその客との間の血縁関係をいきなりこんなふうにきかされてびっくりして、大きな声で叫んだ。「あの人のお兄さま! それではいったいあのかたは今までどこにいらしたのでしょうか?」
小さい男の子は獅子鼻に親指を当てただけで、例のはしこいしたり顔をしたが、それはふだん町の通りで暮らしている子供が、すぐに習い覚えて、生まれつきどんなに利口でない顔だちでも、隠してしまうしぐさだった。それからフィービは男の子の顔をじっと見つめたまま、その子の母のことづてにも返事をしなかったので、男の子は立ち去ってしまった。
男の子が玄関前の階段を降りて行ったとき、ひとりの紳士がそれを上がって、店の中へはいってきた。その人はでっぷり太っていて、それで背たけさえもうちょっとうまくのびていたら、この上なく上等の黒ラシャに似た薄手の生地の黒背広を着た、かなり老年の、堂々たる風采の人物と見えたろう。珍しい東洋産の木に金をかぶせた杖が、大いに彼の風貌にりんりんたる威厳を添えていたし、また最も清らかな雪白の昔ふうなネクタイや、気むずかしく磨きあげた長靴も同じように威厳を高めていた。毛深いほどの濃い眉毛をはやした、彼の浅黒い角顔は、本来強い印象の風であって、もしこの紳士が、たいへんな上きげんで慈悲深そうな表情を作って、努めてそんないかめしい印象を和らげようと心を配らなかったなら、きっと、かえって冷酷に見えたことだろう。しかし彼の顔の下のほうには動物質がいくらか重たそうにたまっているため、その顔つきは、おそらく、精神的な感じというより、むしろ脂《あぶら》ぎったてらてらな表情で、そして、彼の明らかな願いが完全にかなえられる程度とまではいかないが、いわば、一種の艶々《つやつや》しい肉体的光輝を帯びていた。
いずれにせよ、敏感な観察者ならば、彼の顔つきはおおらかな情け深い心の外への反射でありたいと心がけてはいるけれども、慈悲心と認める証拠はほとんどないと考えたかもしれなかった。そしてもしその観察者が鋭利で敏感であると同時に、たまたまつむじ曲がりな人間なら、紳士の顔に浮かんだ微笑は彼がはいている長靴の光沢とそっくりであること、さらにまた両方とも、いつも表面に出しておくためには、紳士も靴みがき男も、それぞれ一生懸命の苦労に違いないことにたぶん気がつくであろう。
その見知らぬ紳士が、張り出した二階や楡の木の葉の濃い茂みが、店窓に並べた商品類とともに、一種の陰鬱な媒質をかもし出しているこの小さい店にはいったとき、彼の微笑はますます広がって、まるで顔から発する光だけの力でそんな陰気な雰囲気全部を(そのうえヘプジバーとその同居者たちにかかわるどんな精神的な憂鬱も)打ち消してやろうと意気込んでいるかのようだった。未婚の老嬢の骨と皮という姿と思いのほか、ばらのつぼみのような、うら若い少女を見つけたとたんに、驚愕《きょうがく》の表情がありありと現われた。彼ははじめ眉根を寄せた。ついで今までよりもっと、心にもないあいそを装って微笑した。
「ああ、なるほど!」と彼は、低くてよく通る声で言った──その声は、もし教養のない人ののどから出ていたら荒っぽく聞こえたろうが、慎重な訓練のおかげで、今ではじゅうぶん聞きよい調子になっていた。――「私はヘプジバー・ピンチョンさんがこんなに幸先《さいさき》よく開店なさったとは存じませんでした。あなたはヘプジバーさんのお手伝いでいらっしゃいますね?」
「確かにさようでございます」とフィービは返事して、それからちょっと淑女らしくつんとすまして(というのは、その紳士はいんぎんであったが、彼女を給金のため働いている若い人と思っていたことは明瞭だったからである)こう言って付け足した。「私はヘプジバーさまのいとこで、訪問中の者です」
「ヘプジバーさんのいとこだって?──それにいなかからって? こりゃ、どうも失礼いたしました」と紳士は、フィービがこれまでお辞儀されたことも、またほほえみかけられたこともないくらい、頭を下げてにこにこしながら言った。「そういうわけでしたら、私たちはもっとごじっこんにしなければいけませんね! はてな──メアリーかな?──ドリーかな?──フィービかな?──そうか、フィービというお名前ですね! あなたが私のなつかしいいとこであり、また級友であるアーサーのひとりっ子、フィービ・ピンチョンですか? ああ、なるほどお口もとあたり、お父さんのおもかげがありありですね? そうです、そうですとも! 私たちはもっと親しくしなければなりませんね! 私はあなたの身内なんですよ、ねえ。きっとあなたはピンチョン判事のことを聞いておられるはずですね?」
フィービがその返事に左足を引き膝を曲げて脆礼《きれい》を行なったとき、判事はその若い親類に、血縁の名乗りと、自然にわく愛情の接吻を与えようという、許されてよい、むしろほめられてよい趣旨から──血の近さや、ふたりの年齢の隔たりを思って──からだを曲げて前へ乗り出した。あいにく(なんの意図もない、つまり人間の知力に対して少しも自己の正体をはっきり説明しない本能だけの意図で)フィービは、まさにその危うい瞬間に身を退いた。その結果堂々とした風体の彼女の親類の男は、期待を裏切られ、からだを売り台の上に乗り出して、唇を突き出したまま、何もない空気に接吻している、かえって呵々《かか》大笑ともいうべき苦境に陥った。それは雲を抱擁しようとしたイクシオン王〔ギリシア神話。ヘラを愛しようとして、ヘラと誤り、雲の像に接吻した〕の事件の現代版であって、この判事はすべて架空の事件をしりぞけ、かつ影を実体と絶対に見誤らないことを自負していたので、それだけいっそうばかばかしかった。実はこうだった──そしてこれがフィービのたった一つの弁解なのである──すなわち、なるほどピンチョン判事の火照《ほて》るような温情が道路の広さとか、あるいは普通の大きさの部屋とか、間に距離を置くなら、傍観している婦人にとって、絶対に不愉快なものではないかもしれない。しかしこの浅黒い、肥満した面相(それにまた、ひどい不精な顎ひげをはやしていて、どんな剃刀《かみそり》もつるつるにあたることができなかった)がその注目する相手の人間と実際に接触を求める段になると、その温情があまり熱くなりすぎるということであった。判事には、どういうものか、男とか、性《セックス》とか、そういったものの現われが、全く露骨すぎていた。フィービは目を伏せた。そして、彼からじっと見つめられて、なぜとも知らずに、まっかに恥じていた。それでも彼女は、この暗い顔つきの気味の悪い顎ひげをはやし、まっ白いネクタイを締めている、そして心にもないおあいそをふりまく判事より、もっと年長者はむろんのこと、若い者たちなどおそらく五、六名のさまざまないとこから、今までに接吻されたことはあったし、それで何も特別潔癖に気に病むことはなかったのに! それなら、なぜ判事がやっていけないのか?
フィービが目を上げたとたん、ピンチョン判事の顔色が変わっているのにはっとした。その顔は規模の差はあるにしても、明るい日ざしを浴びている風景と雷雨寸前の風景との間の違いほどにもきわだっていた。それが暴風雨の景観の激しい憤怒の相を帯びていたというのでなくて、冷たく、非情で、けっして情にほだされず、ちょうど終日暗く立ちこめている雲に似ていた。
「まあ、今はどうすればいいのかしら?」とこのいなかの少女は心の中で考えた。「このかたは心に柔らかな所が全くなく、また東風ほどもやさしいところがない顔つきをしていらっしゃる! 私は何も悪気でしたことではないのです! このかたがほんとに私のいとこなのですから、もしできれば、接吻させてあげたでしょうが!」
すると不意に、フィービは、このピンチョン判事こそ、かの銀板写真家が庭で彼女に見せた小型の人物写真の本人で、今この男の顔に見える非清な、いかめしい、無慈悲な表情は、太陽があくまできびしく露出しようとしてやまなかった、例の写真の表情であると思いあたった。したがって、この表情が、一時的な気分でなくて、それどころか、いかに巧みに隠そうとしても、この人の生命に根ざした本性であったのか? またそれだけでなく、その表情はこの人の体内にある遺伝性のもので、かの顎ひげをたくわえた先祖から、貴重な相伝動産の一つとして代々伝わったものであって、この先祖の画像の中に、現代のこの判事の表情もまた、特に不思議なくらいその顔だちも、まるで予言したようにぴたりと現われているのか? フィービよりもっと深遠な哲学者であったなら、この考えの中にあるじつに恐ろしい事柄を発見したかもしれなかったのだ。そのことは、弱点、欠陥、欲情、野卑な性向および道徳的な病いなど、犯罪に導くものが、親から子へとつぎつぎに遺伝されるもので、それが伝わる方法は、人間の法律が、相続を限定し、子孫に伝えようとして、財産や栄誉について、しっかと定められている法規より、はるかに確実であるということを意味するものであった。
しかし、あいにく、フィービの目が再び判事の顔にとまったとたんに、その醜いいかめしい表情がすっかり消えてしまった。そして彼女は、この優秀な人物がその偉大な心から周囲の大気の中へまき散らす、いわば、蒸し暑い土用の熱気のような博愛に全く当てられているのに気がついた──ちょうど蛇がにらみすえて敵をすくませるその手始めに、まず蛇独特の臭気で空気を満たすといわれているのとそっくりだった。
「これは気に入ったね、ねえフィービ!」と彼は、さもわが意を得たといわんばかりに力んでうなずきながら、大声で言った、「これはたいへん気に入ったよ、ねえお嬢さん! あなたはしっかりした子だね、そしてたいせつに身を守るように心得ておりますね。若い娘さんは──特にほんとにきれいな娘さんの場合は──どんなに唇を用心してもしすぎることはありませんからね」
「ほんとうに、あなた」とフィービは、その事をしいて笑いにまぎらせようとしながら言った。「私は不親切なつもりはなかったのでございます」
それでも、ふたりの面識が幸先のよくないすべり出しであったというただそれだけの理由によるものかどうか、彼女はやはりいくらか遠慮がちにふるまっていた。こんな事は率直で温和な彼女の性質にけっしてありふれたことではなかった。とりとめのない空想、つまり彼女がこれまで耳にした非常にたくさんの陰気な伝説の主、初代の清教徒──ニューイングランドのピンチョン一家全部の元祖であり、「七破風の屋敷」の創立者であって、しかもその屋敷で怪奇な死を遂げた男――が今現に店の中へはいってきたという思いつきが、どうしても彼女の頭から離れなかった。なんでも即座に用意できる当今では、それぐらいわけなく整えられた。彼があの世から着いたとたん、ものの十五分も床屋で過ごさなければならんかな、と思うぐらいのものだったろう。床屋は、清教徒が顔じゅうにはやした顎ひげを左右にわけたごま塩の頬《ほお》ひげに整えたのだ。彼は次に既製品の衣類販売店をひいきにして、ビロードの腰のくびれた胴衣や、黒色の外套や顎の下の美しい刺繍入りのたれ襟もあわせて、白いカラーやネクタイ、上着、チョッキやズボンと交換したのだ。そして最後に、鋼鉄の柄の段刀《だんびら》を捨てて、金冠の杖を取り上げ、こうして今から二世紀昔のピンチョン大佐が、今の世の判事として歩いてくるところなのだ!
もちろん、フィービは非常に分別に富む少女だったので、こんな思いつきをほほえましい事ぐらいにしか考えられなかった。また、もしかして、このふたりの人物が彼女の目の前にいっしょに現われることができたら、多くの相違点が認められたであろう。祖先のイギリス人が育ったのとは似ても似つかぬ風土の中で過ぎた長い年月の隔たりが、子孫のからだに大きな変化を必ず及ぼしているに相違なかった。判事の筋肉の量が大佐のものと同じなはずはなかった。もちろん判事のほうの肉づきがよくなかったのだ。当世の人々の間では、動物質の点で、重量の男として通っており、かつ彼がさすが裁判官の大いすを占めるにふさわしく、驚嘆するほど臀部《でんぶ》の発達に恵まれていると思われてはいるが、現代のピンチョン判事を、もしその祖先と同じ秤《はかり》で目方を計るなら、つり合いを取るため少なくとも旧式五十六ミリ砲一門を必要としたであろう、とわれわれは思うのである。それから判事の顔は、風雨にさらされ、すっかり薄黒くなった大佐の頬にその熱情を現わしていた、あのイギリス人の血色をなくしてしまい、アメリカ人|同胞《どうほう》の顔にきまってしまった黄白色を帯びていた。そのうえ、もしわれわれがまちがっていないなら、いま論議の的になっているこの紳士のような、れっきとした清教徒子孫の典型にさえ、神経過敏のような性質が多少目だつようになったのである。その影響の一つとして、この性質は、昔のイギリス人に見られたものよりもっと機敏な融通性と、もっとはつらつとした生気とを紳士の表清に与えてくれた。けれども、もっと不撓《ふとう》不屈であったあるものをその犠牲にしてしまった。これらの鋭敏な才能が、まるで、酸性の液体のように働いてその物を溶かしたものと思われた。このような過程は、たぶん、人類の偉大な進歩体系に属するものかもしれない。この体系は、一歩一歩踏み登るにつれて、動物的な体力の必要が減少するため、人体の粗悪な面の属性をますます精練して、われわれをしだいに霊化する運命に定めているのかもしれない。もしそうだとすれば、ピンチョン判事は、他の一般の人々と同様、なお一、二世紀の間、こうした精練に持ちこたえることができるだろう。
判事と彼の先祖との間の知的・倫理的な相似は、少なくとも、態度や風貌が非常に似通っているところから当然予想されてよいほど強いものであったらしい。ピンチョン老大佐の追悼《ついとう》演説の中で、牧師は自分の教区の教会員であった故人を聖者の列に加えた。そして、いわば、教会の屋根を貫き、さらに頭上の蒼天《そうてん》を通してはるかに望見し、霊界の王冠をいただく聖歌合唱隊にまじって、竪琴を手にしている大佐の座像を示した。彼の墓石に刻まれた碑文もまた、称賛をきわめている。また歴史も、彼が史書に名をとどめるかぎり、その品性の節操と高潔を非難しない。やはりそのように、当世のピンチョン判事に関しても、牧師も、法律批評家も、墓石の碑銘を彫る者も、また全般のあるいは地方の政治の歴史家も、この有名人のキリスト教徒としての誠実さ、または人間としての体面、あるいは判事としての簾潔《れんけつ》、あるいはしばしば試験済みの、政党代表者としての彼の勇気や信義に対し、あえて立って一語すら反対を唱える者はいない。しかし、一般民衆の目にさらし、またはるかな未来の人々に告げるため、鑿《のみ》が彫りつけ、声が語り、また筆が書きしるすところの冷たい、形式的な、そらぞらしい言葉のほかに──そしてこのような言葉は、そうしている自分の行為を意識して、致命的にも、たいてい言葉の真実さや自由さを失わざるをえない──かの先祖にまつわるいろいろの伝説や、この判事に関するひそやかな日ごとの噂話があって、それらの証言は不思議なほど一致していた。公人についての女性の個人的・家庭的意見を取り上げてみると啓発されることがしばしばある。そして、彫り版にするつもりの肖像と、本人の背後で手から手へこっそり渡される鉛筆画《スケッチ》との間の極端な食い違い以上に好奇心をそそるものはけっしてあるはずがない。
たとえば、伝説ではかの清教徒が財産に対して強欲であったと断言した。この判事もまた、おうように散財するふうには見せかけるけれども、まるで鋼鉄《はがね》の手のようにがっちり握るけちん坊だと噂されていた。かの先祖はいかめしい傲慢な好意、荒っぽい激しい言葉や態度を身につけていたが、たいていの人々はこれを堂々たる偉丈夫の厚い生硬な皮を通って出てくる、純真な鉄火の気性だと思っていた。この先祖の末裔《まつえい》は、もっと優雅な時世の要求に従って、この粗暴な慈愛を霊化してあのように明るくあいそよい微笑にし、それを浮かべてまるで真昼の太陽のように輝いて町通りを歩き、あるいは知人の応接間で団欒《まどい》する炉火のようにあかあかと輝くのであった。かの清教徒は──もし、今の世になっても、話し手が声をひそめてささやく、いろいろ不思議な物語にだまされたのでなければ――彼のように動物的に異常に発達した男たちが、信仰や主義のいかんにかかわらず、不純物も、不純物をおおい包む俗界の粗悪な肉体をもともに脱ぎ捨てないかぎり、きっと常に犯しているに相違ない罪悪に陥ったのだった。われわれは、この判事を悪くささやいたのかもしれない似たりよったりの、今の世のどんな醜聞も、この本に載せてけがしてはならない。また、かの清教徒は家庭の独裁者であって、妻を三人も消耗してしまった。そして夫婦関係で、ただこの人物の因業な目方と薄情な性分のために、妻をつぎつぎに憔悴《しょうすい》させて、墓場へ送ったのであった。この点両者の相似は、いくぶんか減じている。判事はただひとりの妻を娶《めと》っただけであり、結婚して三、四年目に妻に死なれたのだった。しかしながら、こんな一つの作り話があった──われわれはそれを作り話というふうに考えたい、けれど、もしかしたら、あるいはこれがピンチョン判事の夫としての態度を象徴するのかもしれない――夫人は新婚の蜜月中に致命的な痛手をこうむって、けっして二度とほほえむことはなかった。なぜなら、彼女の夫が君主ならびに家長に対する忠誠の証拠として、毎朝枕べに、コーヒーを給仕するよう彼女に強要したからであった。
この遺伝的形質類似の問題、それはあまりに多種多様の結果をはらむ問題である──直系の血筋に、これがしばしばくり返されると、一世紀あるいは二世紀を隔てて、いかに大きな祖先の累積が各個人の背後に横たわっているかを思い合わせれば、全く説明できないものである。それゆえ、われわれはただ、次のように言い添えるだけにとどめよう。すなわち、かの清教徒は──少なくとも、炉端で話す伝説はこう語っているのであるが、伝説は驚くほど忠実に人の性格的な特色を伝えることがしばしばある──豪胆で、傲慢で、残忍で、老獪《ろうかい》であった。そして陰謀を深く企み、休息も知らず良心もわきまえぬ執念深さで追求し――あくまでそれをやり通した。また弱者を踏みにじり、そして、自分の目的のために必要とあれば、最大の力を発揮して強者を打ち倒した。判事がどの程度、清教徒に似ていたかは、この物語が進むにつれて明らかになるだろう!
今述べた両者の相似のどの項目もほとんどフィービの頭に思い浮かばなかった。ほんとうは、彼女がいなかに生まれていなかに住まったために、「七破風の屋敷」のそれぞれの部屋や炉端のあたりに、まるでくもの巣や煙の煤《すす》かさのようにいつまでもこびりついているこの家の伝説を、いじらしくも大部分は知らないままに過ごしてきたのであった。それでも、事柄そのものはじつに取るに足らないのだが、異常なほど恐ろしい印象を彼女に植えつけた事実が一つあった。死刑になった魔法使いのモールが、ピンチョン大佐とその子孫に向かって投げつけた呪《のろ》いの言葉──神さまはあいつらに血を飲ませなさるぞ──のことも、また奇跡的なこの血が、この家の人たちののどもとでごろごろ鳴る音が時々聞こえるという世間一般の考えも、ともに彼女は聞いていた。この後者のほうの陰口を──いかにも分別ある人柄にふさわしく、またとりわけ、ピンチョン家のひとりにふさわしく──フィービは、むろんわかりきったばかばかしい噂だと決めこんでいた。しかし昔の迷信は、人の心情にたっぷり浸されて、ひそひそとささやかれて具体化し、そして何世代も相次いで、唇から耳へと幾度もくり返されて伝わった後、素朴な真理の効果がしみ通るものである。団欒《まどい》する囲炉裏《いろり》の煙がその迷信に、徹底的ににおいをしみ込ませたのだ。いろいろな家庭の事実と混じり合い、長い間伝わるうちに、迷信はしだいにさも事実らしい様相を帯びてきて、まるで自宅にいるように気楽になれなれしくふるまうので、その影響力は普通われわれが推察する以上に大きい。そこでたまたまこんな事が持ち上がった。フィービがピンチョン判事ののどもとで鳴る何かの音を聞いたとき──彼としてはむしろいつもの癖であって、まんざら故意とばかりはいえないが、それでも、もし軽い気管支の故障とか、または、ある人々が暗示するように、卒中の徴候とかでさえないなら、別にこれという意味のないものである──その少女がこの奇妙でぶざまな、がぶ飲みするような音を聞いたとき、彼女は、じつに愚かにも、はっと驚いて両手をぐっと握りしめた。
もちろん、こんなつまらぬ事に気を取り乱すなら、フィービとしてはばかげきったことだし、うろたえた様子を、そのことにいちばん気をつかっている人物に見せるなどはなおさら許されないことだった。しかしその出来事が、大佐と判事とについて彼女が最前からいろいろ空想していたことと奇態なくらいぴたりと一致したので、しばらくは、両者の身元が全く混同しそうだった。
「どうかしましたか、お嬢さん?」とピンチョン判事は、彼らしいきびしい目つきを彼女に向けて言った。「何かにびくついているのですか?」
「ああ、なんでもございません、あなた──ほんとになんでもございませんわ!」とフィービは、われながらいまいましく少し自嘲するように笑いながら答えた。「でもたぶんあなたは私のいとこのヘプジバーさまとお話しなさりたいのでございましょう。お呼びいたしましょうか?」
「どうかちょっと待ってください」と判事は、再び顔をはればれと照り輝かしながら言った。「あなたは、けさは、少しご気分がいらいらしているようですね。都会の空気はね、フィービ、あなたの元気で、健康ないなかの習慣と合わないのです。それとも、何か心配事でも起こったのですか?──いとこのヘプジバーの家族に何か特に変わった事でもありましたか?──新来の客でも、え? 私はそうだと思いましたよ! 気分が悪いのもむりはないですよ、ねえ、お嬢さん。あんな客と同じ家に住むなんて純心な若い娘さんがびっくりするのももっともですよねえ!」
「おっしゃることがさっぱり訳がわかりませんわ、あなた」とフィービは、けげんそうに判事の顔をじっと見つめて答えた。「家には恐ろしいお客さまなどおりません。ただお気の毒な、やさしい、子供のように単純な男のかたがただひとりいらっしゃいますが、そのかたはヘプジバーさまのお兄さまと私は信じています。そのかたは全く正気とばかりはいえないのではないかしら(でもあなたさまは私よりももっとよくご存じでございましょう)、しかし非常におとなしい、もの静かなかたに見えますので、母親が安心して自分の赤ちゃんを任せられるくらいですわ。そしたらあのかたは、まるで赤ちゃんよりたった二つ三つ年かさの子供みたいに、いっしょになって遊ぶだろうと思いますわ。あのかたが私をびっくりさせるなんて!──まあ、そんなこと全然ございませんわ!」
「私のいとこのクリフォードについてまことに好意ある、また、まことに率直なお話を聞いてうれしく思いますよ」と判事はものやさしく言った。「今から何十年もの昔、私たちがともに少年であり、青年であったころ、私はあの男に非常に親密な気持ちを持っていましたし、今なおあれの身辺のあらゆる事になにかとやさしい心づかいを寄せております。ね、フィービさん、あなたはあの男が精神薄弱らしいと言いましたね。神さまがあの男に、せめて過去の罪障を懺悔《ざんげ》するだけの知恵を授けてくださるように願っているのですよ!」
「私は、どなたにしても」と、フィービは意見を述べた。「あのかたほど懺悔する罪の少ないかたはあるはずがないと思います」
「おや、あなたはまさか」と判事は哀れむような顔つきをしながら、答えた。「まさかクリフォード・ピンチョンの噂を聞いていなかったはずはないでしょう?──あなたがあの男の経歴を知らないなんていうはずはね? まあ、それはいいですよ。それはあなたのお母さんが、姻戚《いんせき》関係を持たれたりっぱな家名に対し、きわめて正当な敬意を表されたのです。この不幸な人物をできるかぎり信用して、その最善を願っておやりなさい! これこそキリスト教徒がお互いを批評する際に、常に守るべき規則です。そしてことに、それぞれの人柄が、必ずある程度互いに頼り合っている近親の間柄では、それが正当でもありまた賢明なことです。しかしクリフォードは客間にいますか? ちょっと中にはいって会いましょう」
「あなたさま、たぶん、私がヘプジバーさまをお呼びするほうがよろしゅうございましょう」とフィービは言った。けれども、こんなに愛情深い親戚の人が家の奥まった場所へはいり込むのをぜひ妨げなければならないものかどうか、わかりかねていた。「ヘプジバーさまのお兄さまは、朝ご飯のあと、ただいま熟睡なさっていらっしゃるようでした。それでヘプジバーさまはお兄さまのお眠りをじゃまなさりたくないことはまちがいありません。どうぞ、私に取り次がせてくださいませ!」
しかし判事は無断で押し入ろうとする異常な決意の色を見せた。それでフィービは、いかにも動作が無意識に思考と一致する人の活発さで、さっと戸に向かって歩きだしたとたん、彼はほとんど、いや全く遠慮会釈なく、彼女をわきへ押しのけた。
「いや、いや、フィービさん!」とピンチョン判事は、まるで雷がごろごろ鳴るような太いよく通る声で、また雷鳴の起こる夕立ち雲のように険悪なこわい顔をして言った。「あなたはここにいなさい! 私は家も知っているし、いとこのヘプジバーも知っているし、それに、その兄のクリフォードも同じように知っているのだ!──それでいなかの若いいとこの娘にわざわざ私を取り次いでもらう必要はないですよ!」──ついでながら、この終わりのほうの言葉には、急にきびしくなった態度からまたもとの慈愛深いものごしへ変化する気配が見えた。──「私はここがまるで自宅のように気楽なんですよ、フィービ、忘れてはいけませんよ。それにあなたが客人だということも。ですから私はちょっと中へはいって、クリフォードがどんな様子か自分で見届けて、彼とヘプジバーとに私の心からの同情と好意とを確信させたいのです。この重大な時にあたっては、私がどんなにあのふたりのために尽くしたい気持ちでいるかを、私自身の口からあの人たちに話して聞かせるのは正しいことです。おや! これはこれはヘプジバーが自身で出てこられましたね!」
事情はこのとおりだった。あたりに反響する判事の声が、居間にすわって顔をそむけながら、兄の寝入りに付き添っていた老貴婦人の耳に達したのであった。彼女は、おとぎ話の中で、魔法にかかって眠っている麗人の守役《もりやく》としていつも現われる竜に驚くばかり似ている、といわざるをえない形相で、いわば、正面玄関を固めんものと、今しも身を乗り出したところだった。いつもの彼女のしかめ面が、この時ばかりは、明らかに、あまりにも激しかったため、近視などという罪のない理由で言いまぎらわせるものではなかった。そしてその恐ろしい顔はピンチョン判事をきっとにらみすえて、執念深い反感の力を不当に軽く見損じていたと、彼を仰天させないまでも、ろうばいさせた様子だった。彼女は片手を用いて追い払う手まねをした。そして出入り口の薄暗い枠に完全な通せんぼの姿そのまま、いっぱいにからだを伸ばして、立ちふさがった。しかしヘプジバーの心の秘密をもらし、正直に告白しなければならないことであるが、生まれつき臆病な彼女の性格が、この時でさえ現われてきて、小刻みにからだを震わせ、これが、自分では、関節を一つ残らず、ちぐはぐにはずすような感じを与えたのであった。
判事は、もしかしたら、ヘプジバーのすさまじいけんまくの陰にある、真の勇気がどんなにたかの知れたものか、知っていたのかもしれない。ともかく、物に動じない剛毅《ごうき》な紳士なので、すぐに気を取り直し、抜かりなく片手を差し伸べていとこに近づいた。それでも、賢明な予防を策し、微笑にまぎらせて進み出ようとしたが、その笑顔がじつに明るく蒸し暑いので、たといそれが見かけの半分だけの暖かさにすぎなかったとしても、四つ目垣のぶどうが真夏のような微笑にさらされて、たちまち紫色に変わったかもしれなかった。実のところ、かわいそうにヘプジバーが、まるで黄色い蝋人形でもあるかのように、彼女を即座に溶かし込んでしまうのが判事の趣旨であったのかもしれない。
「やあ、これはいとこのヘプジバー、私はうれしいですよ!」と判事は大いに語気を強めて叫んだ。「さあ、やっと、あなたは生きがいができましたね。そうですよ、私たちみんながですよ、あなたの友人も身内も、きのうよりももっと生きるはりあいを感じていますよ。私はクリフォードを安楽にするために、できるかぎりどんな援助でもいたしたく、とりあえず急いでやってきたところです。あの男は私たちみんなのものですからね。あの男が、あのとおり優雅な趣味があり、あのとおり美を愛好したために、どれだけ多額の金が必要か──昔どれだけの多額の金をいつも必要としていたか――私は承知しています。私の家にある物はなんなりと──絵でも、本でも、ぶどう酒でも、食道楽のぜいたく品でも――なんでも自由に使ってもらいましょう! クリフォードに会えればこれにまさる心からの満足はないですよ! 今すぐ、奥へ行きましょうか?。」
「いけません」とヘプジバーは答えたが、彼女の声があまりいたいたしく震えていたので、たくさんのことを口に出すことができなかった。「あの人は来訪者と面会できません」
「来訪者だって、え! あなたはそんなふうに私を呼ぶのですか?」と判事は叫んだが、判事の感情はその冷淡な言葉のために傷つけられたらしい。「いや、それなら私に、クリフォードをもてなす主人役を勤めさせてください、また同じようにあなたの主人役もね。すぐ私の家においでなさい。郊外の空気や、私がかき集めたありとあらゆる便利なもの──ぜいたく品と言ってもよいでしょう──が、クリフォードのため奇跡のような働きをするでしょう。それであなたと私と、ねえ、ヘプジバーさん、私たちのクリフォードを幸福にするために、ともに相談し、ともに見守り、ともに努力いたしましょう。さあ! 私としては、義務でもあれば楽しみでもあるこの事に関して、この上とやかく言う筋がありましょうか? すぐに私の所へおいでなさい!」
こういうじつに手厚い待遇の申し出や、身内として主張する権利をこれほど鷹揚《おうよう》に認めてやろうという言葉を聞いて、フィービはピンチョン判事のそばに駆け寄ってつい今しがたしり込みして避けたばかりのその接吻を、自分から進んで、彼に与えてやりたくてたまらない気持ちになった。ところがヘプジバーに対しては全く反対だった。判事の微笑が、まるで日光が酢に作用するように、ヘプジバーの苦々しい気持ちに作用して、前より十倍もひどく酢っぱくしたのであった。
「クリフォードは」と彼女は言った。──まだ非常に気が立っていて唐突な文句しか口に出せなかった──「クリフォードはここに家を持っています!」
「ヘプジバーさん、神さまがあなたをお許しくださるように」とピンチョン判事は──うやうやしく目を上げて、彼が訴えているかの高等衡平法裁判所のほうを仰ぎ見ながら──言った。「もしあなたがこの事で何か重苦しい昔のひがみか憎しみに悩まされておられるなら、お許しください! 私は胸襟を開いて、喜んであなたとクリフォードを心から迎え入れようとこうして立っているのです。私の好意を――あなたがたの幸福を願っている私の切実な申し出を拒まないでください! この事は、あらゆる点で、あなたがたにいちばん近い肉親として当然いたさなければならぬものなのです。あなたの兄さんが私のいなかの本邸を望みどおりにできるというのに、兄さんをこんな陰気な家や、窒息しそうな空気の中へ閉じ込めておくなら、それは、あなた、重大な責任になりましょう」
「それはけっしてクリフォードのためによくありますまい」とヘプジバーはさっきのようにそっけなく言った。
「おいお前!」と判事は我慢しきれなくなって立腹してどなった。「これはいったいどういうつもりなんだい? ほかに工面がつくのかい? いや、おおかたそんなことじゃないかと察していたんだ! 注意したまえ、ヘプジバー、注意したまえよ! クリフォードはこれまで身にふりかかったどれにも劣らぬ暗い破滅のせとぎわにいるのだよ! しかし君は女なのだから、なんで君などと話し合いするものかね? どきなさい!──私はクリフォードに会わなけりゃならないんだ!」
ヘプジバーは戸の向こうにそのやせこけたからだを大きく広げた。それでからだが実際にかさばったように思われた。そしてまた、心の中に非常な恐怖と動揺があるだけに、かえってますます恐ろしい顔つきをしていた。しかしピンチョン判事のむりやり押し通ろうとする明瞭な意図が、奥の間から聞こえてくる声のためにじゃまされた。弱々しい、震えを帯びた、泣き悲しむその声は、自分でどうにもならない無力な恐慌《きょうこう》を現わしており、かろうじてものにおびえた幼児が持っている程度の、自分を防護する力しかなかった。
「ヘプジバー! ヘプジバー!」とその声は叫んだ。「その男に降参してひざまずいてくれ! その男の足に接吻してくれ! 中へはいってこないようどうかその男に願ってくれ! ああ、その男が私にお慈悲をかけるよう頼んでくれ! お慈悲を! お慈悲を!」
その瞬間、ヘプジバーを横へおしのけ、敷居を踏み越え、しどろもどろの悲痛なその哀願のつぶやきが聞こえてくる客間へ押し入ることが、判事の断固とした意図ではなかったのかと、首をかしげたくなる様子が現われた。彼を押し止めたものは何も憐憫《れんびん》の情からではなかった。そのわけは、最初、その弱々しい声を聞いたとき、彼の両眼には赤い火がきらきらと燃え、そして、いわば、彼の全身から何か陰気に発している言い表わしがたい、すごく恐ろしい勢いで、急にせかせかと前進したからであった。ピンチョン判事を理解するためには、まさにその瞬間の彼を観察すべきであった。このような真実が発覚したあとでは、たとい彼が思う存分どれほど熱烈に微笑して見せたところで、ぶどうを紫に、あるいはかぼちゃを黄に着色するのは朝飯前でも、観察者の脳裏から、熱鉄のように焼きついたその印象を溶かし去ることははるかに困難であったろう。そしてその微笑が彼の恐ろしい面相をそれだけ和らげるどころか、かえっていっそうすごみを増したので、彼の顔つきは憤怒とか憎悪とかを表わさず、目的以外は何物をも抹殺しようとする、ある強烈残忍な意志を表わすように思われた。
それにしても、けっきょく、われわれはひとりの卓越した、あいそのよい紳士を中傷してはいないのだろうか? 今すぐ判事の顔を見てみなさい! 彼は、自分の情けある行為をありがたく思うことのできない人たちに、あまり強引に押しつけるのはまちがいであったと、明らかに意識しているようである。彼はこの人たちがもっと上きげんな時期を待ち、そのおりこそ今度の場合と同様に、さっそく援助してやろうとじっと構えているつもりだろう。彼が戸口から引き返そうとするとき、彼の顔からいっさいを包容する慈悲の光が照り輝き、ヘプジバーと少女フィービと、それから姿を見せないクリフォードの三人全部と、そのうえ全世界の人々もみなひっくるめて、彼の広大無辺な心に収容し、氾濫する愛情の暖かな流れに湯あみさせることを暗示していた。
「あなたは私にじつにひどい仕打ちをなさったねえ、ヘプジバー!」と彼は、まずやさしく彼女に片手を差し出し、それから立ち去る用意に手袋をはめながら言った。「非常にひどい仕打ちですよ! しかし私はそれを許します。そしてあなたが私のことをもっとよく理解してくださるよう努めましょう。もちろん、気の毒なクリフォードはあんな不幸な精神状態にあるので、今のところしいて面会しようと考えるわけにはいきません。しかし私はあの男が私の愛する実の弟でもあるような気持ちで、あれの幸福を見守ってやりましょう。それからまた、ね、あなた、あなたの不当な仕打ちを、あの男にもあなたにも、しいて認めさせることを、私は少しもあきらめていません。たまたまそれが認められたあかつきには、あなたがたのために及ぶかぎり尽くそうとする私の最大の好意をあなたがたに受け入れていただくよりほか、私はどんな復讐も望んでおりません」
ヘプジバーに頭を下げて、それからフィービには慈父のような愛情をいくらかこめてぺこりと別れの会釈をしてから、判事は店を立ち去って、そして微笑しながら町を歩いて行った。富める者が共和国の顕位高官を望むときにいつもやるように、彼は自分を知っている人たちに対して鷹揚な親切な態度をとることにより、いわば、国民に向かって、自分の財産や、繁栄やまた高い地位のことを釈明したのだった。そして彼が会釈する相手の人間の卑賤の度合いに正比例して、自分の威厳をそれだけ余分に投げ捨てた。そしてこうすることによって、あたかも彼が卑屈な追従者《ついしょうしゃ》の一隊に露払いさせて繰り出しているかのように、全く文句なしに、尊大な自己の優越感を保証したのである。特に今日の午前は、ピンチョン判事のやさしそうな面持ちの温熱といったらまた格別で(少なくとも、こんな話が町じゅうに取りざたされた)、日光が余分にふえただけ、余分に舞い上がった塵埃《じんあい》を鎮めるため、散水車数台を余分に出動させる必要があるとわかったくらいであった!
判事の姿が見えなくなったとたんに、ヘプジバーは死人のようにまっさおになった。そして、フィービのほうへよろよろとよろめいて、頭をうら若い少女の肩にがっくりと落とした。
「ああ、フィービ!」と彼女はつぶやいた。「あの男は私の生涯の恐怖の種だったのよ! 私は勇気を、どうしても、どうしても持てないのだろうか──私の声はしばらくの間も震えがやまず、あの男がどんな人間か、あの男の正体を思うさまあばいてやれないのだろうか?」
「あの人はそんなにひどい意地悪なのですか?」とフィービはきいた。「でもあの人の申し入れはほんとに親切でしたわ!」
「あんな申し入れの話はおよしなさい──あの男は薄情な心を持っているのです!」とヘプジバーは返答した。「さあ、行きなさい、そしてクリフォードとお話ししなさい! あの人を慰めて気持ちが落ち着くようにしてあげておくれ! こんなに興奮している私を見たら心がみじめにかき乱されるでしょう。さあ、行きなさい、ね、嬢や、では私はお店のほうを見ていましょう」
そこで、フィービは出て行った。しかしその間も、今しがた彼女の目の前で行なわれた諍《いさか》いはどういう意味であったのか、そしてまた、判事や、牧師や、その他あんなに高名で世間体のりっぱなお歴々が、実際は、正義と高潔の人物でないなどということは、たったひとりの例にしても、いったいありうることだろうか、などの疑問のために当惑していた。このような疑念は非常に不安をかきたてる力を持っており、そして、もしそれが事実であるとわかると、われわれのこのうら若いいなか育ちの少女のような、きちんとして規律正しく、そして節度を好む人々の心に、恐ろしいかつ驚くべき影響を及ぼすものである。大胆なもっと思索をする傾向の人々は、高貴の人もまた卑賤の人と変わりなく、邪悪をつかんで分け持つらしいことを発見して、ある厳粛な喜びに打たれるかもしれない。なぜならばこの世に邪悪は必ず存在するものだからである。もっと広い視野の人やもっと深く洞察する人は、階級も高貴も地位も、人の尊崇を要求する権利に関するかぎり、すべて虚妄《きょもう》であると見抜くかもしれない。しかもなお、あたかも宇宙がそのためにまっ逆さまにがらがらところげ落ちて渾沌《こんとん》に陥るかのようには感じないであろう。しかしフィービは、宇宙を元のままの位置に保つため、ピンチョン判事の性格に関する彼女自身の直感を、いくぶんか、うやむやにしておくよりほかにしかたがなかった。そして判事の性格を非難した彼女のいとこの証言についてはこう結論した。ヘプジバーの判断はいわゆる両家累代の宿怨によっていっそう苛烈になったもので、こうした宿怨は、生命を失って腐敗した愛情に憎しみ固有の毒素を混入するため、憎しみの毒性をいっそう致命的にするものである、というのであった。
[#改ページ]
九 クリフォードとフィービ
わが不幸な老婦人ヘプジバーの天性の気質には、何かしら高貴、鷹揚な、そして気品の高いところがあったことは、まさにまちがいのないことであった! そうでなければ──そしてまたこれも同じように真相であったが──彼女は貧しさのために豊かとなり、悲しみのために発展し、生活上の強い、そして孤独な感情のために高揚され、こうして真の勇気を授かったのであって、もし、もっといわゆる幸運な環境にあったなら、これが彼女の特色となることはできなかったであろう。長いわびしい年月の間、ヘプジバーは、いま実際身を置いている環境を心待ちしながら──たいていは絶望しながら、こんな望みに自信はさらさらなく、ただそれが、もし実現できれば最も輝かしい夢であると常に感じながら──過ごしてきたのだった。彼女はわが身のために何ひとつ神に求めたことはなく、ただこの兄に身も心もささげる機会を願っただけであった。この兄を彼女はそれほど愛していたのだった──現在そのままの彼を、あるいはもっとりっぱになったかもしれない彼を、それほどまでに賛美したのである──そしてこの兄に対して彼女だけが、全世界でただひとり、ひたすらに、ためらうことなく、いついかなる時も、一生を通じて、真実を持ち続けてきたのであった。そしてこのところへ、人生もはや終わりかけた、失われた人間の彼が、長年に及ぶ奇怪な災難から抜け出して家に戻って、そして、見たところ、単に肉体を養うパンのみか、精神の生命を支えるあらゆるもののためにも、どうやら、彼女の同情を頼んでよりすがったふうだった。彼女はその呼び声に応じた。彼女は進み出て──わが不幸な、やせこけたヘプジバーが、古びた絹衣装に身を包み、こわばった関節や、例の悲しい依沽地《えこじ》なしかめ面をしながらも喜んでできるかぎり世話をしたのだった。しかも、もしそれだけのことだったら、その百倍も尽くす愛情で世話をしたろう! これほど涙ぐましい情景は──それで、われわれがこんなに悲壮に考えているのに、もし微笑がどうしても浮かんでしかたがないなら、神さま、われわれをお許しください!──その日の昼下がり、ヘプジバーが見せたほどの真実な哀れをこめた情景はないといってよかったろう。
彼女は、クリフォードを自分の大きな、暖かな愛情の中に包み、それが彼にとって全世界となるようにし、こうして彼が外界の冷たさとわびしさに責めさいなまれる思いを持ち続けることのないように、どれだけしんぼう強くほねおったことだろう! 彼を慰めたい一心の彼女のささやかな努力! なんといういじらしい、けれどもなんとおおらかな、努力であろう!
彼が若いころ詩や小説が好きだったことを思い出し、彼女は書棚の鍵をあけて、ひところはすばらしい読み物だった本を数冊取り降ろした。「金髪盗み」を収めたポープの本一冊、「タトラー」誌が一冊、ドライデンの論文集の端本《はほん》が一冊で、どの本も表紙の金箔《きんぱく》は曇り、内容も絢爛《けんらん》な昔の色をなくした思想であった。こんな本はクリフォードに適用しなかった。この作家たち、そして、新しい作品がまるで今織りたての絨毯《じゅうたん》の目もあやな生地のように光り輝く、そうした社会的な文学者たちはみな、一、二の時代を経たあとでは、どんな読者に対する魅力も甘んじて断念しなければならないし、また文章の手法や様式を完全に評価しなくなった人の心に、なおいくぶんかの魅力が保たれていると期待することはほとんど不可能であった。それからヘプジバーは「ラセラス」〔ジョンソン博士の小説「幸福の谷間」の主人公〕を取り上げて、「幸福の谷間」の話を読みはじめた。満ち足りた生活の何か秘訣がその中に丹念に仕組まれていて、少なくともきょう一日はクリフォードにも彼女自身にも慰めになるかもしれないとぼんやり考えたからであった。しかし「幸福の谷間」は雲がかかっていた。そのうえ、ヘプジバーは、文の意味とは無関係に、何度でも朗読の口調を誤ってむやみに強め、それが彼にはわかるらしくて、聞き手を悩ました。じつのところ、彼は彼女が読み聞かせる意味にはたいして注意を払う様子は見えず、明らかにそんな講話は退屈さすだけであった。彼の妹の声もまた、生まれつきしわがれていたのが、悲哀に満ちた生涯を送るうち、何か耳ざわりな、があがあ声に固まってしまったが、これがいったん人間ののどに取りつくと、罪悪と同じように根絶できなくなるのである。男であれ女であれ、喜びや悲しみの一語一語にまといつき、終生離れぬこの烏《からす》のような鳴き声は、しばしば宿痾《しゅくあ》となった憂鬱症のしるしの一つである。これが起こる場合は常に、どんなわずかな癖のある語調にも、不幸な一生の経歴が残らず伝えられる。その印象はじつに、あたかも声がまっ黒に染められてしまったかのようである。あるいは――もっと穏やかな比喩を用いなければならないとすれば──このみじめな嗄《しわが》れ声は、あらゆる音声の変化を貫いて、まるで言葉の水晶のじゅず玉を連ねる一本の黒い絹紐《きぬひも》のようなもので、そのために全部の真珠が黒く見えるのに似ている。こういう声は絶望を弔う喪服を着てしまったのである。それで絶望といっしょに死んで葬られるべきものである!
彼女がいろいろ努力してもクリフォードは喜ばないと見てとって、ヘプジバーはもっと気分を浮き立たせる慰め事はないかと家じゅうを捜し回った。ある時は、彼女の目がふとアリス・ピンチョンのハープシコードにとまった。その瞬間は非常な危機であった。そのわけは──伝説にちなむ恐怖がこの楽器に積もり積もっていたし、また幽霊の指がこの楽器で悲しい歌を弾奏するといわれていたにもかかわらず──この献身的な妹は、クリフォードのためその弦を爪弾《つまび》き、さらにその演奏に彼女の歌声を添えようと大まじめに考えたからであった。哀れなクリフォード! 哀れなヘプジバー! 哀れなハープシコード! この三者はともに不幸な三幅対となっていたろう。ある好意ある何かの力の働きで──たぶん、長い間埋もれていたアリスその人の、だれにも悟られない取りなしによるものであろう──そのはらはらさせる不祥事が危うく避けられたのであった。
しかし何よりもいちばん悪いことは──ヘプジバーにとって最も耐えがたい、そしておそらくクリフォードにとってもまたやりきれない、最も残酷な運命は──彼が彼女の風采にどうにもならない嫌悪を覚えることであった。彼女の顔だちは、感じがいいどころではなかったのに、今は老いと悲しみとまた彼のために世間に対する憤りとでとげとげしくなっており、それに彼女の衣装、ことにそのターバンふうの婦人帽、ひとり暮らしの間に知らず知らず身についてしまった風変わりな奇妙な態度──これがこの哀れな貴婦人の風采の特徴であったから、哀痛きわまりないけれども、本能的な「美」の愛好者の彼が、目をそらすよりしかたがなかったのも、大して不思議なことではない。それはどうにもならないことだった。それは彼の心のうちで最後まで滅びない衝動であったろう。臨終《いまわ》のきわに、クリフォードがその唇から最後の息をかすかに音もなく引き取るとき、彼は疑いなくヘプジバーの手を握りしめて、彼女が惜しみなく与えたあらゆる愛情を熱烈に感謝して、それから目を閉じるであろう──だがそれは死ぬためにというよりはむしろ、これ以上やむをえず彼女の顔をながめることのないためである! かわいそうなヘプジバー! どうすればよいのか、彼女は自分でとくと考えてみた。そして自分がかぶっているターバン帽にリボンを幾つかつけようと思いついた。けれども、数人の守護天使がとたんにさっと飛び出して、彼女が熱望する最愛の人物にとって、生命にかかわる結果ともなりかねないあぶない実験を差し控えさせたのであった。
簡単にいうと、ヘプジバーの容姿が見映えのしないうえに、彼女の動作すべてにわたって不器用なところがあった。からだのこなしが無骨にしかできない、それで見場よくふるまうことが全くできない、何か不体裁なものがあった。彼女はクリフォードにとって悲嘆のたねであったし、彼女もそのことを知っていた。こうして困り果てたあげく、この年老いた未婚婦人はフィービに頼った。あさましい嫉妬心はヘプジバーの心に少しもなかった。もし神が、み心により、彼女の容姿をクリフォードの幸福の媒体とし、こうして彼女の雄々しい誠実な生涯に栄冠を授けておられたら、なるほど、はなやかな喜色ではないにせよ、心底から真実な、そして一千の浮気な狂喜に値する歓喜によって、彼女は過去のいっさいが報いられていただろう。これができるはずはなかった。だからこそ彼女はフィービに頼り、その仕事をフィービの手に託したのだ。フィービは、すべての仕事に対する常として、快活に、それを取り上げたが、特に使命を果たすような義務感は何もなく、じつはそんな単純な気持ちのため、かえって仕事が首尾よくはかどるのであった。
暖かいやさしい気立てが知らず知らず働いた結果、フィービはたちまちふたりの孤独者同士の、日々の生活のためにではなくとも、日々の慰安のために絶対に必要な人間となってしまった。「七破風の屋敷」の薄汚なさやむさくるしさは、彼女がそこに姿を現わしてからは、消えうせたように思われた。家の木骨の古い材に付く蒸《む》れ腐れが食い入らなくなった。塵が、古ぼけた天井から、下の部屋の床や家具に、そうたくさん降り積もらなくなった。──いや、何にしても、庭の小路をさっと吹き、ここかしこ、するすると過ぎ、何もかも掃き清める微風のように軽快な、かわいらしい主婦がいたのだ。もの寂しい見る影もなく荒れた部屋なのににぎにぎしく出没する、かずかずの陰惨な事件の亡霊ども、遠い昔から、たび重なる訪問で幾つもの寝室に死神が残していった、重苦しい息づまりしそうな死のにおい──これらのものも、うら若く清新な、あくまで健康な心のおとめ、たったひとりの霊気のため、この家庭の雰囲気にくまなくまき散らされた清浄な感化力には及ばなかった。フィービには病気の気配さえ全くなかった。もしあったとしたら、ピンチョン古屋敷はそれをますますつのらせて不治の病いにしてしまうもってこいの場所だった。
しかし今、彼女の精神は、その潜勢力の点から、ヘプジバーのすこぶる大型な鉄張りトランクの一つの中で、リンネルやレース織りのいろいろな品、襟巻き、帽子、靴下、たたまれた衣装、手袋、その他そこにたいせつにしまってあるどんな物にも芳香を発散して浸み透らせている、ごく徴量のばら油に似ていた。大きなそのトランクのどの品物もばら香水のためにいっそうよいかおりがするように、ヘプジバーとクリフォードのあらゆる思想や感情が、陰気そうには見えても、フィービの思想感情がこれと交じり合うために、ある微妙な楽しい性質を帯びてきたのであった。彼女のからだや知性や感情のはつらつとした活動性が、彼女を刺激してつぎつぎに周囲に現われる平凡な細かい仕事を絶えず実行させたり、またそのおりおりの時にかなった趣向を思いつかせたり、そして──ある時は梨の木でさえずっている駒鳥の朗らかな歌声に、またある時は、できるかぎり心の底からヘプジバーの暗い不安に、またはその兄のあいまいな悲しげなうめき声に──同情させたりした。この軽妙な適応性は完全な健康のしるしであると同時に、その健康が最もよく保存されているしるしでもあった。
フィービのような気性の人はきまってそれ相応な感化力を持っているけれども、それに相当する尊敬の目でながめられることはめったにない。しかし、その精神力は、彼女が、この家の女主人を取り巻いているようなじつに苛酷な環境の中に自分から飛び込んでいったという事実によって、少しは評価されるかもしれない。また、自分よりずっと大きいからだの人物に彼女がもたらした影響によっても同じように評価されるかもしれない。なぜなら、ヘプジバーのやせて、骨ばったからだや手足は、フィービの小柄で軽快な姿と比べてみると、おそらくその婦人と少女それぞれの精神的な重みや物質とある似つかわしい比例をなしていたからである。
例の客にとって──ヘプジバーの兄──すなわち「いとこのクリフォード」と今はフィービが呼びはじめたその人――にとってフィービは特に必要であった。彼が彼女と話し合うとか、あるいは、何かほかの非常にはっきりした方法で、彼女との交際に魅力を感じているそぶりを見せるとか、言えるわけではけっしてなかった。けれども、もし彼女が長い間姿を見せないと、彼はじりじりといらだち興奮してきて落ち着かず、彼のあらゆる動作の特徴となっているそわそわした様子で、部屋のあちらこちらを歩き回った。さもなければ、自分の大きないすにすわって、両の頬杖をつきながら、物思いに沈む風情でいて、生気を見せるのはただ、ヘプジバーがどうかして彼の目をさまそうとするたびに、電気の火花のようにぱっと不きげんになるときだけだった。フィービがかたわらにいて、そして彼女の清新な生命が彼の枯れしぼんだ生命と触れ合うこと、普通はこれが彼の求めるすべてであった。実際、自然に噴出し自由に遊び戯れる彼女の活気は、ひっそりと全く静かに内気に控えていることはめったにないくらいで、ちょうど泉水が絶えずさざなみのえくぼを作り、せせらぎ流れて歌いやまぬのに似ていた。彼女は美しい歌声の天分を持っており、それがまた、あまり自然な歌いぶりなので、どこからそれを手に入れたかとか、どんな大家が彼女に教えたか、などと尋ねることは、小鳥について尋ねないのと同じように、だれも考えていなかった。われわれは小鳥のささやかな歌の調べにも、鳴る神のとどろく大音声《だいおんじょう》と同様にきわめて明瞭に「創造主」のみ声を聞き取るのである。フィービが歌っているかぎりは、自分で思うままに家の中を歩き回っているのかもしれなかった。
クリフォードは、彼女の美しい、楽しそうな素朴な歌声が二階の寝室から降ってこようが、あるいは店から廊下伝いに聞こえてこようが、あるいはまた、きらきらする日光といっしょに、梨の木の葉群《はむら》をくぐり抜け、庭から部屋の中へ降りそそいでこようが、満足していた。彼はやさしい喜色を満面に輝かせて、歌声がたまたま身近を流れているか、またはより遠く聞こえるかによって、ある時はひときわ明るく、ある時はいくらか顔を曇らせながら、いつも静かにすわっていた。しかし彼をいちばん喜ばしたのは、彼女が彼の膝もとの低い足台に腰かけている時であった。
フィービが快活な歌調よりも哀愁の曲調を選ぶほうが多かったということは、彼女の気質から考えて、おそらく驚くべきことであろう。しかし若くて幸福な人々は自分たちの生活をある透明な陰影で加減するのをいとわないものである。そのうえフィービの声や歌の最も痛切な哀調は、明朗な精神で織られている金糸の生地の篩《ふるい》を通してきたもので、そのために得た明るい特性と何やら非常によく混和したので、その歌を聞いて泣けばそれだけ、人の気分はかえってはればれするのであった。暗い不幸が厳然と犯しがたく控えているとき、あけすけな歓楽は、ヘプジバーや彼女の兄の一生を通して低音を奏鳴する荘重な交響楽を、耳ざわりな、また非礼な雑音でかき乱したことであろう。それゆえ、フィービがそんなにたびたび悲しい主題歌を選んだことはもっともであったし、また彼女が歌っているかぎり、それほど悲しい歌ではなくなったのもまずいことではなかった。
クリフォードは、フィービを遊び相手とする習慣がつくとすぐ、彼の性質が本来、甘美な色合いや陽気な光線の輝きをあらゆる方面から吸収できる、非常な能力があったに相違ないことを示した。彼女が彼のそばにいる間、彼は若々しくなった。美なるもの──厳密には、それが最高に発露するときすら、実在せず、そして画家が長い間注目してこれを捕え、自分のカンバスに定着させようとしたのであろうが、けっきょく徒労に終わったもの──それでいて、単なる夢ではない美が、時々彼の顔にちらちらと浮かんで輝くのであった。美は照明する以上の働きをした。それは繊細で幸福な精神の光輝としか解釈できないある表情によって彼を変貌させた。あの白い髪、それからあんなに深い皺《しわ》――額を横切り、非常に深く書き込まれたため、また、あらゆる話を詰めこもうとむだな努力をしたと思えるほど非常に圧縮しているため、全部の碑文が判読しがたいくらい、それぞれ無数の悲話を記録している──そういうものが、その瞬間、消えてしまった。やさしい目をした、同時に慧眼《けいがん》の人ならば、彼が性来どんな人間に生まれついていたか、そのかすかなおもかげをこの男の姿に認めたかもしれなかった。やがて、老いの影が、悲しいたそがれのように、忍び足で彼の姿へ再び戻って来たとき、諸君は「運命」の神と議論して、この人間は、死すべき運命の身に造られてはならなかったのだ、さもなければ、人生が彼のような特性のためには緩和してやるべきだったのだ、と断言したい気分に駆られたことであろう。彼がこの世に出生した必然性は、全くなかったように思われた──世間は彼をけっして必要としなかった──しかし、現にこの世の息を吸ったからには、常に最もかぐわしい常夏《とこなつ》の空であるべきはずだった。「美なるもの」のみを食べて生活し、この世の運命をできるかぎり寛大に扱われようとする傾向の人々について、全く同様な困惑がきまってわれわれを悩ますものである。
ありそうなことだが、フィービは、自分がそれほど慈悲の魔法をかけてしまった当の人物を、じつに不完全に理解していたにすぎなかった。またそうする必要もなかった。炉床で燃えている火はその回りを半円に囲む人全体の顔を喜ばせることができるが、全員のうちの一人物の個性を知る必要はない。実際、クリフォードの性質はあまりにも微妙な繊細なところがあって、ちょうどフィービの場合のように、個人の本領がたぶんに「現実的なもの」にある人からは十分真価を認められることはできなかった。しかし、クリフォードにとっては、その少女の気性の現実性や、純真さや心からの素朴さは、彼女が持っているどんなものにも劣らぬ強い魅力であった。いかにも、美は、そしてそのもの固有の姿をしたほとんど完全な美は、欠くことのできないものであった。たといフィービが、風采が粗野で、形が見苦しく、耳ざわりな声で、そしてぶざまにふるまっていたとしても、こんな不幸な体裁の陰に、あらゆるりっぱな天分を豊かに恵まれていたかもしれなかった。それでもなお、彼女が女の姿を装うかぎり、クリフォードをぎょっとさせ、そして彼女が美を持たないことに落胆したことだろう。しかしフィービ以上に美しく──少なくとも、より以上にかわいらしく造られた人はけっしていなかった。そして、そのため、この男にとって──これまでは、そして感情も空想も胸の中で死に絶えた今までは、この人の乏しい、はかない、なけなしの生存の喜びは、一片の夢であったのだ──この人の思い描く女の姿がしだいに女としての情熱と実感とを失って、まるで世を捨てた芸術家たちの絵のように、冷えきった観念性に凍《い》てついてしまったのだ──そんな彼にとって、最も快活な家庭生活のこの愛すべき象徴こそ、躍動する実社会へ復帰するためにまさしく彼が必要としたものであった。たとい制度改善のためとはいいながら、世の常道から迷い出た、あるいは追放された人々が、最も望んでいるものは連れ戻されることである。この人々は山の頂上であれ、あるいは土牢の中であれ、孤独に身を震わせている。
さて、フィービの霊気は彼女のいる周囲に家庭を造った。──追放者も囚人も権力者も──人類の下積みにされた不幸な者、人類から遠ざけられた不幸な者、あるいは人類の上に立つ不幸な者──が本能的に渇望するところのある世界──その家庭を造ったのだ! 彼女は実在していたのだ! 彼女の手を取れば、人は何ものかに触れた。何か柔らかなものであった。ある物質、そして暖かな物質であった。その確かな抱擁を感触するかぎり、たといそれが柔らかなものであっても、人は自己の立場が、まさに人間性という全体的な同情の絆《きずな》に連なっていると確信することができよう。世界はもはや妄想ではなかった。
この方面をさらにもう少し注目するならば、われわれは、しばしば不思議と感ずる事柄の説明を暗示してよいかもしれない。なぜ詩人たちは、似たような詩的天分のためにではなくて、精神に関する理想的芸術家の幸福のみならず、最も粗野な手職人の幸福をさえ造り出す特性のために仲間を選ぶ傾向がそんなに多いのか? その理由はおそらく、詩人は、最も高尚な高みに登ればなんら人間的交際は必要としない。けれどもその地位を降りて、そして名の知れない他人となることをわびしく思うからであろう。
これほど密接に、また絶えず互いに結びついていながら、それでも彼の誕生日から彼女の誕生日まで、あたら浪費されてしまったこんな陰鬱な、謎のような年月を隔てた、この一組の男女の間に成長した関係には、何かしら非常に美しいものがあった。それは、クリフォードとしてみれば、婦人の感化に対する最も鋭敏な感受性を先天的に授かっていながら、熱烈な愛情の盃を一度も飲み干した経験のない、そして今は時期すでに過ぎてまにあわぬことを承知している男の感情であった。彼はそのことを、老衰した知力をしのいで今も衰えていない本能の微妙な勘で悟っていた。こうして、フィービに対する彼の情愛は、父親としての感情ではなかったが、彼女が彼の娘であった場合に劣らず清純なものであった。いかにも彼は男であったし、そして彼女を女と認めていた。彼女は彼のただひとりの、女性の代表者であった。彼は女性として彼女に備わっている一つ一つの魅力を絶えず心に留め、そして豊満な唇や処女らしい胸部の発育を目に留めた。若木の果樹についた花のように、彼女の肉体からおのずと芽吹く、ういういしげな女らしいふるまいはすべて彼に感化を与えて、胸の底まで最も激しいわななくような満足感でうずくことが間々あった。
こんな瞬間──というわけは、こんな感動が瞬間を越えることはめったになかったからである──半ば冬眠状態のその男は、ちょうど長い間沈黙していた竪琴が、音楽家の指がさっと走ったとみる間に、朗々と高鳴るように、豊かな諸調の生命感にあふれてくるのであった。しかし、要するに、このことは、個人として本人に備わっている情緒というよりは、むしろある知覚作用か、または共感であると思われた。彼は楽しい単純な物語を読むように、フィービを読んだのだ。彼は彼女の歌に聞きほれた。そのさまは、まるで彼女が一編の家庭詩であって、神がこの詩を、荒涼として陰惨な彼の運命を償うため、彼を最もあわれんでいるある天使に、家の隅々まで響くよう歌わせたかのようであった。彼女は彼に対しては、現に実在する一事実ではなくて、彼がこの世で持つことのできなかったいっさいのものを、しみじみと暖かく彼に理解させてくれる解釈であった。その結果、この単なる象徴、もしくは生ける画像が、現実的な慰安とさえいえるものであった。
しかしわれわれはその観念を言葉に表わそうと努力しても徒労である。美や、美がわれわれを感銘させる際の深い感動に対する適切な表現はとうてい得ることができない。幸福のためにのみ造られた、それなのにこれまで、はなはだみじめにも幸福になれなかったこの人間――彼の性向があまりに恐ろしくじゃまされたため、いつかわからぬずっと昔、倫理的にもあるいは知的にもけっして強靱《きょうじん》でない、彼の性格の繊細なぜんまいがすっかり伸びてしまって、今は精神薄弱になっていた──もろい小舟に乗ってあらしの海上を「極楽島」からやって来た、この哀れな孤独の航海者は、最後に彼を難破させた山なす大波のために、静かな避難港へほうり出されたのであった。そこで、彼が死んだように浜辺に横たわっていたとき、この世のばらのつぼみのかおりが馥郁《ふくいく》と鼻先に漂ってきた。そして、ゆかしいかおりの常として、生きて呼吸しているあらゆる美しいものの記憶や幻影を呼び集めたのであったが、じつはこのような美のただ中にこそ彼は自分の家《ホーム》を持つのが当然であったのだ。幸福な感化力に対して生まれつき鋭敏な感受性を働かせて、彼はかすかな、希薄な歓喜を魂の中へ吸い込んでは、吐き出しているのだ!
それではフィービはどんなふうにクリフォードを見ていたか? この少女の性質は、人の性格の中の、奇妙な異常なものに最も心をひかれるような性質ではなかった。彼女に最もよく適していたろうと思われる道は、よく踏みならされた、平凡な人生行路であった。彼女が最も満足を感じたと思われる友だちは、人がどの曲がり角でも出会うような人間だった。クリフォードを包んでいた秘密は、それがいやしくも彼女を感動させたかぎりではむしろ苦悩であって、多くの女がその秘密に感じたろうと思われるあの小気味よい魅力ではなかった。それでいて、彼女の持ち前の親切気が盛んに活動したわけは、彼の境遇に隠れている暗い影絵のためではなく、また彼の性格のひときわ微妙な美質のためでさえなくて、むしろ彼のような孤独な心が、彼女のような純真無垢の同情にあふれる心へひたむきに訴えたためであった。彼女は愛情のこもった目で彼をながめたが、その理由は、彼は非常に多くの愛情が必要であったし、それに愛情を受けたことがほとんどなかったように思われたからであった。常にはつらつとして健康な感覚の結果である機敏な気転でもって、彼のために有益なものを見つけては、それを実行した。彼の精神や経験のどんな病的なものでも彼女はとんちゃくしなかった。そしてこうしてあけすけな、けれども、いわば天真爛漫に自由にふるまう彼女のあらゆる行為によって、ふたりの交際を健康に保った。
精神を病む人も、またおそらく肉体を病む人も、四方八方から反射して、周囲の人々の態度に現われる自分の病気のさまざまな映像を見て、ますます暗く、絶望的な重病人にされてしまう。病人たちは自分らが吐く息の毒性を、無限にくり返して、吸い込むようにしいられる。しかしフィービは哀れな病人にもっと清浄な空気を補給してやれた。彼女はまた、野に咲く花のかおりでなくて──野趣は彼女の特色でなかったものだから──庭ばら、石竹その他、自然も人間も心を合わせて、何世紀もの間、来る夏も、来る夏も、育成してきた非常に美しいかずかずの花の芳香で空気を飽和した。クリフォードとの関係からいって、フィービはちょうどこのような花であり、彼が彼女から吸い込む喜びはまさにこのようなものであった。
それにもかかわらず、彼女の花びらは、あたりの重たい雰囲気のために、時々はややしおれることもあったと断わっておかなければならない。彼女は今までよりもっと思慮深くなってきた。かたわらでクリフォードの顔をじっとながめたり、そしておぼろげな、まだもの足りない端麗さや、ほとんど消えうせた知性を見ていると、彼の生涯がどんなであったか尋ねてみたくなるのだった。この人はいつもこんなふうだろうか? この人は生まれた時からこんなベールをかけていたのだろうか?――このベール、その陰にこの人の精神の大半が隠されてほとんど表へもらさない、そしてそのべールを通してこの人がきわめて不完全にしか現実の世界を認識しない──そのベールの灰色の生地は何か暗い災難で織られているのだろうか? フィービは謎という謎を好まなかった。それでこんなやっかいな謎からのがれられたらさぞうれしがったことだろう。それにしても、クリフォードの性格についての彼女のいろいろな瞑想がはるかにりっぱな結果を生んだため、何の気なしのさまざまな彼女の推測が、どんな奇怪な出来事でも自然と事情がわかってくる傾向と相まって、だんだんと彼女に真相を教えてくれたときでも、恐ろしい印象を少しも受けずにすんだのだった。たとい世間が彼をどんなにひどく虐待したのであっても、彼女はいとこのクリフォードを非常によく理解していたので──あるいは理解した気になっていたので──彼の細い、華奢《きゃしゃ》な指に触れられてもぞっと身震いするようなことはけっしてなかった。
こんなすばらしい同居人が姿を現わしてからまだ幾日もたたぬうち、この物語の古屋敷の中におよそきまりきった暮らしの日課が自然に出来上がってしまった。朝、食事がすんだすぐあとで、自分のいすにかけたままぐっすり寝込むのがクリフォードの習慣だった。そして偶然にじゃまされたりしなければ、うたた寝の密雲から、あるいはひらひらとあちこち飛び歩くもっとうすい霧の中から、たっぷり正午近くまで、姿を現わさなかった。眠りこけているこの時間こそ、かの老婦人が兄にかしずく時期であって、その間フィービは店番を受け持った。そんな取り決めを世間の人々はいち早く悟った。そして彼女が店の仕事を切り盛りする時間に大ぜいの客が押しかけて、若い女の売り子のほうが断然人気のあることをはっきり示した。昼の正餐《せいさん》が終わると、ヘプジバーは編み物――彼女の兄が冬はくための、鼠色の毛糸の長靴下──を取り上げた。そしてため息をつき、顔をしかめてクリフォードにやさしい愛情をこめた別れを告げ、それからフィービヘ手まねきで見張りを頼んで、出て行って帳場の陰にすわった。こんど、しらがの老人の看護役――保護者、遊び相手──いやなんでもよい、もっとぴったりする言葉の役目──になるのはそのうら若い少女の番であった。
[#改ページ]
十 ピンチョン家の庭園
クリフォードは、もしフィービの並々ならぬ積極的な誘導がなかったら、彼のどんな生き方にも忍び込み、彼をそそのかしては朝から夕方までだらしなくいすにすわり込ませる不精さにはほとほと根気負けしてしまったことだろう。しかし少女はほとんどきまって庭へ席を移すように勧めた。庭ではヴェンナー爺と銀板写真家とが荒れ果てた園亭、つまりあずまやの屋根を手ぎわよく直してあったので、今では日除《ひよ》けにも、にわか雨の宿りにも十分な避難所となっていた。ホップの蔓《つる》もまたこの小さいおつな建物の四方に盛んに繁茂しはじめ、中を鬱蒼《うっそう》とした隠れ家にして、そこの無数ののぞき穴から、いっそう広々と閑静な庭園がちらりちらりと垣間《かいま》見られた。
ここ、ちらちらと戯れる光線の緑の遊び場で、ときどき、フィービはクリフォードに本を読んで聞かせた。彼女の知人の写真芸術家は文学趣味があるらしく、パンフレット型の小説本や、数冊の詩集を彼女に貸してくれたが、ヘプジバーが兄を慰めようと選んだものとは、文体も好みもまるで違っていた。けれども、たとい少女の読み方が年輩のいとこの読み方よりいくらかでも成功したからとて、本のおかげではなかったといえよう。フィービの声には常に美しい音楽の響きがあって、はしゃいだ陽気な声色でクリフォードの気分を引き立てたり、または小石にせせらぐ小川のように絶え間なく流れる歌声で彼の心を慰めることができた。しかし小説のたぐいは──こういう作品に親しんでいなかったいなか娘は、すっかり夢中になってしまうことがたびたびだったが──風変わりな聞き手の興味をほとんど、ひくことはなかった。さまざまな人生描写、情熱的・感傷的な場景、機知、ユーモア、情念も、クリフォードに対しては、いっさいが無であり、いや無よりもなおいけなかった。
彼がこういうものの真実性を試すことのできる経験を欠いていたためか、またはわが身の悲痛が、そらぞらしい感動などはかなわないくらい、現実的な試金石であったためか、どちらかだった。フィービが本を読みながら急に朗らかな笑い声を立てると、彼もまた共鳴して時々笑ったが、しかしとまどいした、不審そうな表情で答えるほうがもっと多かった。もし一滴の涙――絵空ごとの悲しみにそそぐおとめの一滴のきらきらする涙──がある憂鬱なページに落ちたりすると、クリフォードはそれを実際に起こった災難のしるしと受け取るか、さもなければ気分をいらだてて、憤然として手まねで本を閉じさせた。またそれが賢明でもあった! 世の中はわざわざ似非《えせ》の悲しみごとを慰めにしなくとも、悲しみはもうたくさんではないか?
詩に対しては、まあよかった。彼は韻律《リズム》の高底、また巧みにくり返される押韻《ライム》を喜んだ。またクリフォードは詩情を感ずることができないことはなかった――たぶんその最高潮の部分とか、最も深刻なところとかは別として、最も快速で軽妙な詩情に感応することができた。どんな霊妙な詩の中にそんな覚醒《かくせい》を促す魔力が潜んでいるのか、予言することはできなかった。けれどもフィービが本から目を上げてクリフォードの顔をながめたとき、顔から出ている光によって、彼女のものよりもっと鋭敏な知性が、読み聞かせた詩から燃え移って、柔らかな光の炎を上げていることに気がつくのだった。しかし、このような白光がひとたび輝けば、それがその後何時間も続く憂鬱の先ぶれとなることがたびたびだった。なぜなら、その白光が彼から遠のくと、知覚や能力がのがれ去るのを自覚しているように見え、そして、あたかも盲人が失われた自分の視力を求め歩くかのように、あたりを手探りして捜すのだった。
フィービが話をしたり、または付き添いながら説明したり意見を述べたりして、目の前の出来事を彼の心にあざやかに印象づけることは、彼をいっそう喜ばせたし、心の幸福のためにいっそう役だった。庭園の生物はクリフォードにいちばん適した話をするのに、かっこうの話題を与えた。彼は、きのうからどんな花が咲いたかと必ず尋ねた。花に対する彼の感情はじつに微妙で、趣味というよりむしろ一種の感動のように思われた。彼は花を手にしてすわったり、熱心に観察したり、それから花びらから目を移して、フィービの顔をしげしげとながめるのが好きで、そのさまはまるで庭咲きのその花がこの家庭のおとめと姉妹《きょうだい》でもあるかのようであった。花のかおりに喜びを覚えたり、花の美しい形や色調の優雅さとか華麗さに満足を感じたばかりではなかった。クリフォードの享楽には、あたかも花に感情と知性が備わっているかのように、花の生命や、性格や、個性を知る喜びが伴われており、この知覚が庭のいろいろな花を愛するようにさせるのだった。
花に対するこんな愛着や同情はほとんど女特有の気質である。男は、たといそんな気質に生まれついても、花より粗雑な物事と接触しているうちに、たちまちそれを失い、忘れ去り、そして軽侮することを覚える。クリフォードもまた、長い間それを忘れてしまっていた。けれども、今、彼が自己の生命の肌寒い冬眠からゆっくりとよみがえるにつれて、再びその気質を見つけたのであった。
フィービがいったん本気で捜しはじめると、どれだけ多くの愉快な出来事が、そんな奥まった庭地に絶えず起こるようになってきたかは不思議なくらいである。彼女はこの場所を訪れた最初の日に、ここで蜜蜂を見かけたり、羽音を聞いたりした。そしてたびたび──実際はほとんどひっきりなしに──それ以来、蜜蜂どもがそこへ始終やって来ていたが、もちろん、ここよりもはるかに近所の宿の、広いクローバー畑や、あらゆる種類の草木を植えた庭があるのに、なぜ、いや何をしつこく望んで、遠回りに花の蜜を運ぶのか、だれにもわからない。けれども、蜜蜂はそこへやって来て、かぼちゃの花の中へ飛び込んだが、それはまるで一日がかりの飛行距離に、かぼちゃの蜜がよそには全くないかのようであり、あるいはまた、ヘプジバーの庭の土壌が、そこの生産物に、これらの勤勉な小さい魔法師たちが望んでいるとおりの特性を与えてやり、そしてニューイングランド蜂蜜の全部に、ハイメタス蜜〔アテネ郊外の山の名、大理石、蜜蜂の産地〕の芳香をつけさせようとしているかのようだった。クリフォードが大きな黄色い花のふところに、蜜蜂の晴れやかな、ぶんぶんつぶやくような羽音を聞いたとき、暖かな陽気、青空、緑の草、大地から天高くみちみちる神の自由な大気を喜ぶ気分にあふれてあたりを見回した。要するに、なぜ蜜蜂が、ほこりっぽい町の、そんな片隅の緑地にやって来たかは問うまでもないことである。神が彼らをそこへつかわされ、わが哀れなクリフォードを喜ばしたもうのである。蜜蜂は花のわずかな蜜のお返しに、豊かな夏を伴ってきたのだ。
いんげん豆の蔓が支柱にからんで花咲きはじめたころ、あざやかな深紅の花をつけた、特に変わった一つの品種があった。このいんげん豆は、銀板写真家が、七つ破風の一つの屋根裏部屋から見つけたもので、遠い昔、ある園芸家のピンチョンの手で、古い箪笥《たんす》の中へたいせつにしまってあった。このピンチョンは、もちろん、そのうちにその種子をまくつもりでいたが、自分が先に、死神の庭の土へまかれてしまった。こんな古い種子の胚《はい》がまだ生きているものか試すつもりで、ホールグレーヴはいくらかまいてみた。するとその実験の結果、一列のみごとないんげん豆の蔓が、早くも支柱の高さいっぱいにはい上がり、頂点から地面までらせん状にまっかな花をふさふさと飾った。それで、最初のつぼみが花を開いてからは、無数の蜂鳥《ハミングバード》がそこへひきつけられてしまった。ときによると、まるでたくさんの花の一つ一つに、空飛ぶ鳥ではいちばんちっぽけなこの鳥が一羽ずついるかと思うほどだった。親指ぐらいの大きさの艶々《つやつや》しい羽根の鳥が、いんげん豆の支柱の付近を飛び回ったり、ひくひくとからだを震わせたりしていた。なんともいえない、いかにもおもしろそうに、そして子供よりももっとうれしそうに、クリフォードは蜂鳥をじっとながめていた。彼はいつもあずまやから頭をそっと突き出して、もっとよく蜂鳥を見ようとするのだった。また、その間静かにしていなさいとフィービヘ手まねで合図し、彼女の同感によって自分の喜びがいっそう高まるように、彼女の顔に浮かんだ微笑をちらりちらりとすばやく盗み見るのだった。彼は若返っただけではなかった。──彼は再び子供になったのだ。
ヘプジバーは、こんな子供っぽい感激の発作をふと目にするたびに、母とも妹ともつかぬ情愛や、悲喜こもごもの奇妙に入り交じった感情を顔に現わして、頭を横に振るのだった。蜂鳥がやって来ると、クリフォードはいつもこうでしたよ──いつも、幼いころからそうでしたのよ――それに蜂鳥を大喜びしたことは、あの人が美しいものに対する愛好心を示したいちばん早い一つのしるしだったのです、と彼女は言った。そしてあの写真芸術家がこんな真紅の花のいんげん豆を植えたとは――蜂鳥が遠い所まで飛んできて捜し当てたとは、また、これまで四十年間もピンチョン家の庭園に栽培しなかったものなのに──クリフォードが戻ってくるその夏に植えつけたことは不思議な暗合である、とこの貴婦人は考えたのであった。
すると涙が哀れにもヘプジバーの目にたまり、あるいはさめざめと目からあふれてきて、彼女はしかたなくどこか片隅へ引っ込んで、心の動揺をクリフォードに悟られまいと気をつかうのだった。実際、このごろの喜びはすべて涙を催させた。季節の到来が遅かったので、小春|日和《びより》のようで、最もさわやかな日ざしにも霧がかかり、また最もきらびやかな歓喜の中にも老衰と死とが潜んでいた。クリフォードが子供の幸福を味わうように見えれば見えるほど、実際との食い違いがいよいよ悲しく認められた。彼の記憶を全く破滅させてしまった謎の、そして恐ろしい「過去」を持ち、空白な「未来」を前に控えて、彼はただこのような夢|幻《うつつ》のみで実体のない「現在」だけを持っていた。これとても、いったん目をすえて吟味すれば無なのである。彼は、多くの徴候によって認められるように、快楽の陰にこっそり身をしのばせていたが、しかもその快楽が、みどり子の遊びであって、冗談に戯れもてあそぶべきものと知っており、心からの遊びとは信じていなかった。クリフォードは、おそらく、いっそう深い意識の鏡に照らして、自分が、あの非常な混沌の人々の一例であり、また代表者であると悟っていた。不可解な神の摂理はこの人々の意志を絶えず世間と食い違わせ、この人々の天性に対する神みずからの契約と思われるものを破棄し、この人々に相応な食事を差し控えて、ごちそうの代わりに毒物を前にすえる。そしてこのようにして──だれが考えても、おそらく、ごく簡単にほかに調整できそうなものであったのに──この人々の生涯を、奇人や孤独者にし、そして苦悩にしてしまうのである。彼の長い生涯、あたかも人が外国語を学ぶように、不幸とはどんなにみじめなものかを、絶えず学んでいたのだった。そして今は、肝に銘じたその教訓のため、彼はかろうじてささやかな淡い幸福を理解できたのだった。しばしば彼の目にもうろうと疑惑の影が映った。
「フィービや、私の手を取っておくれ。そしてお前のかわいい指でうんとつねっておくれ! ばらの花をおくれ。ばらのとげを握ってずきりと刺す感覚で、私が目ざめていることを確かめるのだ!」と彼は言い言いした。明らかに彼は、これこそ実在であるといちばんよく知っているあの特性、苦痛感によって庭園や、風雨にさらされた七つの破風や、ヘプジバーのしかめ面やフィービの微笑もまた、同じく実在であると自分を安心させるために、こんな刺し傷のささいな苦痛を望んだのであった。彼は、もし自己の肉体に烙印《らくいん》するこの保証がなかったら、これらのものが存在していると考えることはできなかったろう。それはちょうど、今まで彼の精神を養っていた、そして、その乏しい生命の滋養源さえほとんど尽き果てようとしていた、あのむなしく混乱する空想的場景を、実在なものとすることができないのと同じであった。
著者は読者のがわの同情を深く信頼しなければならない。さもなければ、この庭園の生態についての概念を作るのに必要なだけ、詳細に、また見たところ取るに足らない事件まで、書くことをためらわなければならないのである。それはひとりの、雷に打たれたアダムのエデンの園であって、彼は始祖のアダムが追放されていったその同じ荒涼として危険な荒野から、この場所へ亡命して身を寄せたのであった。
フィービがクリフォードのため、できるだけ利用した有効な方法の一つは、例の鳥類の社会の、雌鶏たちであった。この種族は前に述べたように、いつとも知れない昔から、ピンチョン家に代々伝わる家宝であった。鶏が小屋に閉じ込められているのを見ると心を痛めるので、むら気なクリフォードの気に入るよう、放し飼いになっていて、今はかってに庭をうろついていた。何かちょっとしたいたずらはできても、三方は建物で、一方は高くそびえて飛び越せない木の柵がじゃましていて、逃げることができなかった。鶏たちは有り余る暇な時間をモールの井戸端で過ごすことが多かった。そこには一種の蝸牛《かたつむり》が始終出てくるので、これは明らかに鶏にとってありがたいごちそうであった。それに塩辛い井戸水そのものが、この世の他の動物にとってどれほど胸がむかつくものであっても、これらの鶏からはたいへん珍重されていたので、頭を上向け、くちばしをぱくつかせて味わっている様子を見ると、まさに試飲用の酒樽を取り巻いている飲んべえどもの風体そっくりだった。たいていは静かに、けれども時々活発に、始終さまざまな話を語り合ったり、また時にはひとり言をいったり──肥えた、まっ黒い土からみみずをほじくり出したり、または好みに合った野菜をついばみながらの──鶏たちのおしゃべりには、まことに家庭的な風格があるので、いったいなぜ、人間と鶏との家庭問題に関する定期の意見交換会を設けることができないのかと、人が怪しむほどであった。雌鶏はすべて、態度がきびきびと気がきいていて、かつ変化に富むことから、研究する価値は十分あるものだが、この先祖伝来の雌鶏たちほど風采と動作の異様な鶏はけっして他にいるはずがなかった。彼らはたぶん、連綿と続く卵から受け継いだ、歴代先祖の特異な遺伝形質をことごとく身に備えていたか、さもなければ、この一羽の雄鶏、チャンティクリアとその妻の二羽の雌鶏とが瓢軽者《ひょうきんもの》になってしまい、そのうえ、孤独な生活のため、また彼らの婦人後援者、ヘプジバーに対する同情のあまり、いささか頭が変になってしまったのであった。
なるほど、鶏たちは、見るからにおかしな格好だった! 雄のチャンティクリア自体が、竹馬のような二本足でのそのそ歩き、どんな身ぶりにも、無限に古い血統の威厳が備わってはいたが、普通のしゃもぐらいの大きさがあるかなしだった。二羽の雌鶏はうずらほどの大きさだった。一羽のひよこにいたっては、まだ卵の殻にはいっているぐらいに、じつに小さい姿なのに、それでもやはり、まるでこの古めかしい一族の元祖であったかと見えるほど、老い、衰え、しなび、かつ世慣れていた。この一家一番の若手ではなくて、むしろこの種族の生きた見本である、これらの鶏たちの年齢のみならず、この小さなからだに全部圧縮されている美点や奇癖の持ち主であった、祖先の雄鶏や雌鶏すべての年齢までも、このひよこに累計されてしまったかのようだった。母鶏は明らかにこれをこの世のただ一羽のひよことみなしており、そして事実、世界の存続にも、あるいは少なくとも、教会であれ、国家であれ、現在の万般の均衡のためにも、必要なものと考えていた。その程度まで子雛の貫禄を意識しなければ、母鶏がちっぽけなからだの羽を逆立てて実物の二倍大に広げ、末たのもしいその子孫にあこがれの目さえ向けようとするだれかれの顔にも飛びかかって、子雛の安全を見張っているがまん強さは、母たる者の目からさえ、正当なものと認められはしなかったろう。その程度まで子雛を評価しなければ、根元にいる肥えたみみずを捜そうとして、母鶏が根気よく地面を引っかく熱心さ、最もりっぱな花や野菜を掘り返すずうずうしさを弁護することはできなかったろう。ひよこがたまたま長い背たけの牧草の中か、かぼちゃの葉陰に隠れているときの、母鶏がこっこっと呼ぶ興奮した鳴き声、翼の下にしかと抱きかかえている間の、満足げにくうくうというやさしいつぶやき声、大敵の隣家の猫が、高い木柵のいただきにいるのを見つけたときの、隠しきれない恐怖とけたたましい反抗に鳴き騒ぐ声──このうちどれかの声が一日じゅうほとんど絶え間なく聞こえた。少しずつ、この観察者は、高名な品種のこのひよこに、母鶏にも劣らぬほどの大きな関心を感ずるようになってきた。
フィービは、年寄りの雌鶏とすっかりなじみになってから、時々片手でひよこをつかまえることを許されたが、その手は完全に一、二立方インチのひよこのからだをつかむことができた。彼女がもの珍しそうにひよこの遺伝的特徴――羽の特殊な斑点や、頭のてっぺんのおかしな毛房や、どちらの足にも一つずつくっついている瘤《こぶ》──を調べている間、このかわいらしい二足動物は、彼女が主張するところでは、絶えず彼女にこ賢《ざか》しい目配せをしていた。銀板写真家はあるとき彼女にささやいて、これらの特徴はピンチョン家の人々の奇癖を表わしていること、ならびに、ひよこそのものが、古屋敷の生命の象徴なのであるが、古屋敷は、また同じように、ひよこの解釈を具体化したものである、それは解きがたい解釈であるけれども、謎の手がかりは一般にこんなものであると話した。それは羽の生えた謎であった。それは卵から孵化《かえ》した一つの神秘であり、しかも卵が腐敗していたかとも思われるほど不思議なものであった!
雄鶏チャンティクリアの二羽の雌鶏のうち、二番目の妻のほうは、フィービがここに来て以来ひどい憂鬱状態に陥っていたが、その原因は、あとで明らかになったように、卵を産めないからであった。ところがある日、この雌鶏が庭のあちらこちらの片隅を──なんともいえぬ、さも満足そうに、始終、くうくうとひとりつぶやきながら──のぞき回っていたとき、もったいぶった歩きかたや、斜めにかしげるような音や、つんと取り澄ました上目づかいなどの様子から、じつにこの雌鶏こそ、人間からあれだけみくびられているにもかかわらず、黄金にも宝石にも値踏みできない、ある貴重な物を身に帯びていることがはっきりと知られた。しばらくすると、チャンティクリアとその家族全員のきゃっきゃっと鳴きわめくただならぬ歓声が聞こえてきたが、その中に例のしなびたひよこも混じっていて、自分の父や母や、あるいはおばと同様に事情を十分のみこんでいるようだった。午後になって、フィービはじつにちっぽけな卵を一個──れっきとした巣箱の中ではなくて──あんまりもったいないのでそこには預けておけなかったのだ──|すぐり《グーズベリ》の茂みにおおわれた、去年の枯れ草の上にこっそりとずるく隠してあるのを見つけた。この事を知ったヘプジバーは、その卵独特の風味を賞するために、それを取り上げて、クリフォードの朝食に供したが、彼女の言明するところによると、この家の鶏卵は、この風味のために常に有名なのであった。こうして無法にもこの老貴婦人は、たかが茶さじのくぼみにも満たない徴量の珍味を兄に与えるぐらいの目的のため、おそらく、古く伝わる鶏の一種族の存続を、あたら犠牲にしたのであった! この暴挙に関連してのことに相違なかったが、その翌日、チャンティクリアが、卵を奪われた母鶏を伴い、フィービとクリフォードの正面に陣取って大いに陳情したが、もしフィービのほうで突然吹き出しさえしなかったら、彼の家系と同じくらいの、長広舌を一席ぶったかもしれなかった。そこで立腹した雄鶏は竹馬のような高足で大股《おおまた》に歩き去り、フィービにも、またほかのだれに対しても、全然目もくれなかったが、ついに彼女が、かたつむりに次いで雄鶏の貴族的な味覚にいちばん気に入ったごちそうの、香料菓子を与えて和解したのであった。
われわれは明らかに、ピンチョン家の庭園を通って流れるこんなささやかな、生命の小川のそばを、あまりに長い間去りかねている。けれども、こうしたささいな出来事やわずかな悦楽は、それがクリフォードのため大いに役だつことがはっきりしたからには、いちいち書き留めてもおしかりは受けまいと考える。こういうものには土のにおいがしみていて、彼のために健康と養分とを与えてくれた。彼が自分でする仕事の中には好ましくない作用を及ぼすものもあった。たとえば、彼はモールの井戸にからだを乗り出して、水底の色とりどりの小石を敷きつめたモザイク細工の上面に、水の波動で描かれた、絶えず去来する変幻きわまりない妖《あや》しい紋をながめ暮らす、変わった性癖があった。彼が言うのには、そこではいろいろな顔が彼を見上げていて──魂を魅了する徴笑をたたえた美しい顔を並べて──つかの間その顔がそれぞればらの花のようにあまりに艶麗で、またどの微笑もあまりに晴れやかなので、それが消え去った瞬間には、さっとすばやく同じ魔術で新しい顔が現われるまで気を悪くするというのであった。けれども時々彼は、「陰気な顔がじっと私をにらんでいるよ!」と急に大声を出して、その後は一日じゅう気がめいっているのだった。
フィービは、クリフォードのそばで泉をのぞきこんでいるのに、こういうものは――美しいものも醜いものも――いっさい見えず、ただあざやかな色彩の小石が、あたかもわき出る水勢にゆらいでかき乱されているかのように見えるだけであった。それから、クリフォードの心をいたく悩ました、陰気な顔とは、果樹の一つ、西洋すももの一枝の投げかける影が、モールの井戸の水中の光線をさえぎっているのにすぎなかった。しかしその真相は、彼の空想――彼の意志や批判力よりもいち早く復活し、そしてそのどちらよりも常に強く働いている──が、彼の天分を象徴する美のさまざまな幻影や、また時おりは彼の運命を表わしている、いかめしく恐ろしい物の怪《け》を創造したものであった。
日曜日には、フィービが教会に行ってきてから──少女は教会へ通う信仰心を持っていて、もし祈祷《きとう》・聖歌・説教または祝祷などをのがしたりするといつも気が落ち着いておれなかったので──そのため、礼拝時間の後、たいてい、酒なしのささやかな祝宴が庭園で催された。クリフォードとヘプジバーとフィービのほかに、ふたりの客がその会の定連であった。ひとりは写真芸術家のホールグレーヴで、彼はいろいろな改革者たちと提携したり、またほかにも奇妙で不審な気性があるにもかかわらず、ヘプジバーの目からは、やはり相変わらず高く買われていた。もうひとりの客は、ちょっと気恥ずかしくて言いそびれるくらいだが、例のアンクル・ヴェンナー古老で、さっぱりしたシャツと、ふだん着よりはりっぱに見える、上質の黒羅紗《くろラシャ》の上着を着用に及んでいた。なぜなら両肘にはきちんとつぎ当てがしてあるし、またその裾がやや不ぞろいな点を除けば、満足な上着といえばいえそうな代物《しろもの》であったからである。クリフォードは何度も、この老人との交際を楽しんでいるように見えたが、それはちょうど、人が十二月ごろ、木の下で拾う霜焼けたりんごの甘い風味に似た、円熟しきった快活な気質のせいであった。社会階級の最低点にいる人間のほうが中間のどの地位にいる人間よりも、落ちぶれた紳士にとっては、より気楽に、より気持ちよく顔を合わせられたのである。そのうえクリフォードは若々しい男盛りをなくしてしまったので、今は長老格のアンクル・ヴェンナー爺と並んで見れば、比較的若々しい気分を感じて気に入ったのであった。事実、クリフォードが、もう寄る年波だという意識を半ば故意にわれから隠し、なお前途に世俗的な未来の空想を夢見ていたことは、時々認められた。しかし空想とはいっても、あまりにおぼろげに描かれた絵なので、何かふとした偶然の出来事や、思い出とかが、彼に枯れ葉のようなしがない思いをさせるとき、そのすぐあと――もちろん、憂鬱症には陥っても――失望感に襲われることはなかった。
そんなわけでこの奇妙な取り合わせのささやかな社交の仲間が、荒廃したあずまやの下で会合するのが例であった。ヘプジバーは――心では、相変わらず威厳があって、昔の上流気取りを寸毫《すんごう》も譲らず、まるで腰の低い王女さまだといわんばかりに、ますますそんな気取りを性根に持ちながら──かなり品のある歓待ぶりを示した。彼女は放浪の芸術家にやさしく話しかけたり、また──貴婦人の身でありながら――かの薪《まき》作りの木挽《こびき》で、みんなのはしたない用事の使い走りをする、つぎはぎ哲学者の老人とも賢明な相談をした。すると町角とか、その他、同じように公正な観察をするのに十分適したさまざまの場所で世間を研究していたヴェンナー爺は、まるで町の共同用水ポンプが水を吐き出すように即座に知恵を吐露した。
「ヘプジバーお嬢さま、ね、あなたさま」と彼は、一同がそろって愉快に興じたあとで、あるとき言った。「わたしは安息日の午後の、こんな静かな小さい集まりはほんとうに楽しいですなあ。わたしがほしいものだと期待しているのは、これとそっくりな寄り合いなんですよ、わたしが農場に引っ込んでからですねえ!」
「ヴェンナー爺やは」とクリフォードは、さも眠そうな低い含み声で述べた。「しょっちゅう農場のことを話しているね。しかし私は、やがて、爺のためにもっとりっぱなものを計画するよ。今にわかるから!」
「ああ、クリフォード・ピンチョンさま!」とつぎはぎだらけの男は言った。「私めのためにいろいろと計画なさるのはご随意ですが、私は自分で立てたこの計画が、たとい、けっして実現までにはいかなくとも、断念する気はありませんよ。私には、人々が財産の上にも財産を積み上げようと努力しているのは驚くべきまちがいを犯しているとしか思えません。もし私がそれをやっていたら、神さまはきっと私のめんどうをみてくださらないような気がするでしょう。そして、ともかく、町の人々はめんどうをみなくなるでしょうよ! 私は、無限はどえらく大きくわれわれみんながたっぷりはいれるもの──永遠はたっぷりと長いもの、と考えている人たちのひとりなんですよ!」
「もちろんよ、それはそのとおりよ、ヴェンナー爺や」とフィービは、ちょっと間を置いてから、批評した。というのは彼女がこの結びの警句の意味の深さや適切さを測り知ろうと努めていたからだった。「しかし、私たちのこの短い一生のため、人は一軒の家と手ごろな広さの庭とを自分のものにしたいと思うのでしょう」
「僕にはね」と銀板写真家は、にっこりしながら言った。「ヴェンナー爺やは知識の底にフーリエの社会主義を持っているように思われます。ただその主義が、この人の頭の中で、あの系統立ったフランス人の頭脳に見られるような、非常な明確さがないだけですよ」
「さあ、フィービ」とヘプジバーは言った。「もうすぐりを持ってきていいわね」
そこで、傾いた夕日の美しい黄金色の光がまだ庭園の広場へさし込んでいるとき、フィービはひとかたまりのパンと、灌木《かんぼく》から採取したばかりのすぐりに、砂糖を加えて押しつぶしたのを陶製の丼《どんぶり》に入れて運んできた。これらのものと、それに水──すぐそばの、不吉な縁起の泉からくんだものではない──が饗応《きょうおう》の全部であった。その間、ホールグレーヴはクリフォードとの交際を固めようと相当ほねをおっていたが、その様子は、この哀れな隠遁者がこれまで過ごしてきた、またはこれから過ごす残りの寿命より、現在のひと時がいちばん楽しくなるように、全く親切|一途《いちず》な動機から動かされているようだった。それにもかかわらず芸術家の深い思索的な、すべてに気を配る鋭い目には、時々、邪慳《じゃけん》ではないが、腑に落ちない表情があった。あたかも彼は、赤の他人、若くて縁もゆかりもない冒険家が持ちそうに思われるものとは違った、何か特別な、その場に対する関心をいだいているかのようだった。けれども、表面は気分をきわめて自由に変化させながら、彼はもっぱらその会を賑《にぎ》やかに引き立てようと気を入れていた。それが非常にうまくいっていて、さすが暗い顔色のヘプジバーさえ、憂鬱ずくめの気配はいっさい放り捨て、残りの明るい色だけでなんとかやれる様子だった。フィービは心の中でこう思った――「まあ、あの青年はあんなに愉快になれるのねえ!」
ヴェンナー爺についていえば、この青年に、友情や推薦のしるしとして、本職の写真が成り立つよう、顔を貸してやろうと一も二もなく承諾した――ただこのことは比喩的な意味でなく、町じゅうによく売れている彼の顔を銀板写真にして、ホールグレーヴの写真館の入口に飾るのを許したのであって、文字どおり、顔をきかしたと了解されたい。
クリフォードは、一同とささやかな夕食を共にしたとき、だれよりもいちばん陽気になった。それは病的な精神状態の人々にありがちな、ちらちらとゆらめき上る精神の閃光《せんこう》の一つであったか、さもなければその芸術家が、一種の心の琴線を微妙にかき鳴らし、音楽の旋律を響かせたからであった。実際、快い夏の宵《よい》ではあり、根が親切なこの小さな集《つど》いの人たちの同情もあって、クリフォードのように感受性のきわめて鋭敏な性格の人が、はつらつと活気づき、そして周囲で話される言葉に機敏に反応する様子を示すのはおそらく当然のことであった。しかし彼はまた、淡い、空想に燃え輝く自分の理想を吐露した。それだから空想は、いわば、あずまやを透かしてきらめき、そして葉群《はむら》の入り組んだ隙間を縫って逃げて行った。彼は、フィービとふたりきりでいるときは、もちろん、同じように快活ではあったが、たとい片寄ってはいても、これほど鋭敏な知力の徴候はけっして見せたことがなかった。
しかし、日光が七破風の頂点を去って行ったように、感激がクリフォードの目から消えうせてしまった。彼はぼんやりと、また深く悲しむようにあたりを見つめ、あたかも何か貴重なものをなくしたのに気づき、しかもそれが何であったかを正確には思いあたらないため、ますますやるせなく、なつかしんでいるかのようであった。
「幸福がほしいなあ!」とついに彼は、ほとんど言葉ともつかぬ、しわがれた、聞き取りにくい声でつぶやいた。「何年も、私はそれを待っていたのだ! 遅いなあ! 遅いなあ! 私は幸福がほしいなあ!」
ああ、哀れなクリフォード! お前は年ふけて、そしてお前の身にけっしてふりかかるはずではなかった災難に疲れている。お前は半ば気が狂い、また半ば白痴である。ほとんどすべての人と同様に、没落者であり、敗残者である――ただある者は、仲間より度が少ないか、気づかれていないかの違いである。旧家に住み、忠実なヘプジバーと暮らすお前の静かな家庭や、フィービと過ごす長い夏の日の午後や、ヴェンナー爺や銀板写真家をまじえた安息日のこんな祝宴が、幸福と呼ばれる価値がないというのなら、運命の神はお前のための幸福を持ち合わせていないのだ! いいではないか? たとい幸福そのものではないにしても、それは不思議なほど幸福に似ており、そして、あまりくよくよと内省するときは、そのいっさいを消滅し去るあの空霊な触知できない特性のため、いっそう幸福に近いのである。それゆえ、できる間に享受しなさい! 不平は言わず──疑わず――ただできるだけそれを利用しなさい!
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十一 アーチ窓
いつもの無気力な気持ちから、あるいは植物的性格と名づけられそうな静かな気性から、クリフォードは、これまで述べたとおりの生活を送りながら、日一日と、際限なく──または、少なくとも、夏の季節の終わりまで――おそらくだらだら過ごして満足していたことだろう。
けれどもフィービは、時おり場面の変化を図るのがクリフォードのためかもしれないと思いついて、表通りの生活をながめるほうがよいとたびたび勧めた。それでふたりはいっしょに階段を上って、その家の二階へ行くのが例であったが、そこは、広い玄関の端っこで、並はずれて大きいアーチ型の窓があって、一対のカーテンが光をさえぎっていた。窓は玄関の上で開くようになっていて、そこは昔バルコニーのあった所で、その手すりはとっくの昔朽ちてしまって、今は取り除かれていた。このアーチ窓の所で、窓をあけ放して、カーテンが作るかなり暗い陰へ身を置いたまま、クリフォードは、たいして人口の多くない都会の場末の通りに繰り広げられそうな、世界の大きな動きのほんの一部をまのあたりに見る機会を持ったのだった。
ところがかえって、彼とフィービのほうが、市が公開できるどんなものにも劣らないほど十分に見ごたえのあるながめとなった。青白い、しらがの、子供っぽい、年寄りの、憂鬱な、それでいてたびたび心から愉快そうになり、そして時には繊細な知性が現われる、そんな容貌のクリフォードが、色あせた緋色《ひいろ》のカーテンの陰からのぞき――何かそぐわない興味と熱心さで単調な日常のできごとを見守り、そして、どんなわずかな感情のときめきにも、ふり向いて晴れやかな、うら若いおとめの目に同情を求めるのであった!
もしクリフォードが、いったん窓辺にしっかりと腰を据えれば、ピンチョン通りでさえ、そんなに退屈な、寂しい所ではなくなって、通りに沿ったどこかの場所に、見ほれはしないまでも、ながめる興味をそそるものが彼の目に留まるであろう。やっと人生の展望を始めたばかりの幼い子供になじみないろいろの物さえ、彼には珍しそうだった。貸し馬車とか、また、中にたくさんの客が混んでいて、あちらこちらで客を降ろしては新たな客を拾い上げ、こうして、浮き世という、旅路の果てが至るところにあって、またどこにもない、かの巨大ながた揺れの乗物を象徴する乗り合い馬車など――こういうものを彼は熱心に目で追いかけるのだったが、それでも馬や車輪で舞い上がるほこりが、通った道にまだ静まりきらないうちから忘れてしまうのだった。珍しい物事について(その中には貸し馬車や乗り合い馬車が数えられた)彼の心が本来持っている、しっかりとつかんで放さぬ記憶力をなくしてしまったようだった。たとえば、日の照る昼の時間に、二度か三度、散水車がピンチョン家のそばを通り過ぎて、婦人のどんな軽やかな足取りにも舞い立っていた白いほこりの代わりに、水にぬれた大地の広い道幅の跡を残した。まるで夏の雷雨を市の役人たちが捕えて飼いならし、自分らに便宜な最も平凡な日課に駆使しているようなものだった。その散水車に、クリフォードはけっして慣れることができなかった。それはいつも、最初の場合と同じような驚きで彼をあわてさせた。彼の心は明らかに散水車から強い印象を受けていたが、次に再び現われる前に、この巡回する雷雨の記憶を忘れてしまっていて、ちょうど暑熱がたちまち道沿いにまっ白なほこりを再びまき散らす、町の通りの忘れっぽさと全く同じだった。鉄道についても同様、クリフォードはその蒸気の悪魔のかしましいほえ声を聞くことができたし、また、アーチ窓からからだを少し乗り出して、通りの端をかすめてさっと瞬時に通過する、車両を幾つも連ねる汽車を垣間見ることができた。このようにして彼を圧倒する恐ろしい勢力、という観念は、くり返されるたびごとに新規なものであり、そして、たとい百回目でも初回と全く同じ不愉快さと、似た程度の驚きとで、彼をおびやかすように思われた。
不慣れな物事を処理したり、移り行く時の速さに追随する力が、このようになくなったり、また止まったりすることほど、老衰の悲しみを感じさせるものはない。それはただ仮死状態でしかありえない。なぜなら、もしその力が滅ぶような場合には、不死の生命もほとんど無用の長物だからである。このような災難がわれわれにふりかかる場合はいつでも、その当座、幽霊よりもなお劣っているであろう。
クリフォードは実際、最も根深い保守的な人間だった。彼にとっては、町の通りの古風なものは何でもなつかしかった。彼の気むずかしい本性を当然悩ましたはずの、粗雑な特色の古くさい物さえそうだった。古い、がらがらと音を立てるがたゆれ荷馬車が好きだった。ちょうど今日の観察者が古いローマの都、ヘルクラネウム〔ナポリ近くのローマ旧都市、紀元七九年ベスビオス山噴火のため、ポンペイとともに埋没〕で、古代の乗り物の轍《わだち》を見つけるように、彼は久しい間埋もれていた記憶の中に昔の荷馬車の跡を今なお見つけたのであった。まっ白な天蓋のついた肉屋の馬車は気に入りの見ものであった。らっぱの音が先ぶれてくる、魚屋の馬車もそうだった。また、一軒一軒歩き回り、いつまでも馬をしんぼう強くとどめておいて、その間持ち主が、近所の半数ほどの主婦たちと、蕪《かぶ》、人参、夏南瓜《なつかぼちゃ》、莢隠元《さやいんげん》、青豌豆《あおえんどう》や、新しい馬鈴薯《じゃがいも》を商っている、いなかの男の野菜を積んだ荷馬車もそうだった。かしましい鈴音を立てている、パン屋の馬車が、クリフォードには愉快な響きを与えるのだったが、そのわけは、これがちりんちりんとじつに不調和な、昔なつかしい音を立てるし、こういうものはほかにめったにないからであった。
ある午後ひとりの鋏《はさみ》とぎ師が、たまたまピンチョン楡の木の下の、ちょうどアーチ窓の真ん前で、丸砥石《まるといし》を回しはじめた。子供たちは母親のはさみ、大きな肉切りナイフ、父親のかみそり、そのほかなまくらになった刃物は何でも持って(ほんとに気の毒に、クリフォードの知恵は別として)とぎ師に魔法の輪へあててもらって、新品同様にして返してもらおうと駆けてきた。めまぐるしい回転機が動き出し、鋏とぎ師の足で続けざまに回された。硬い砥石に当たって硬い鋼《はがね》が摩滅すると、そこから疳《かん》高い、邪慳《じゃけん》な叱声《しっせい》が長々と起こって、そのすさまじさには、たとい小規模に圧縮されてはいても、「万魔殿《バンデモニアム》」の大魔王とその仲間の悪魔が発する怒号のようであった。その音は人間の耳に相変わらずつまらない乱暴を働く、醜悪な、小さい、騒音の毒蛇であった。しかしクリフォードは有頂天になって喜んで聞き入った。その音響は、どんなに不快なものにせよ、非常に小気味のよい生気があって、それで、丸く取り巻いて回転する丸い砥石をじっと見つめている、好奇心に燃えた子供たちとともに、他のほとんどすべての手段によっても得られなかったほど多くの、活動的で、騒々しく、そして陽気な、はつらつとした生命を彼に与えるように見えた。それにしても、その魅力は主として過去のものであった。なぜなら、鋏とぎ師の石の輪が彼の幼な心の耳にしゅっしゅっと響いていたからであった。
彼は時々、近ごろは駅馬車がなくなったといって悲しそうに苦情を訴えた。そして、腹立たしい口調で、昔はざらにあった、上が四角で、両翼が左右に突き出ている、いつも一頭の農馬が引いて、農家の主婦や娘が御者となり、スノキの黒い実や黒いちごを町じゅうに呼び売り歩いていた、あの馬車はどうなってしまったのかときいた、それが姿を見せないために彼を不審がらせ、すぐりの類が広い牧場にも、樹陰《こかげ》の細道づたいにも、実を結ばなくなってしまったのか、と言った。
しかし、いやしくも美感に訴えるものならば、どんなにささやかなふうにであれ、こうした古い連想から勧められる必要はなかったのだ。このことは、例のイタリアの少年たちのひとりが、手回し風琴を携えてやって来て、楡の木の涼しい樹陰に足を止めたときに認められた。少年は敏捷な、商売なれた目で、アーチ窓からじっと自分を見守っている二つの顔に気がついて、それで、楽器を広げて、美しい曲をあたりに流しはじめた。彼は、スコットランド高地のキルトの肩掛けを着せた、猿を一匹肩に載せていた。そして、彼が見物人に見参するための豪華な出し物の総仕上げとして、小さな人形部隊を持っていた。これらの人形の本領も居住も、手風琴のマホガニー製の箱に納まっており、そしてその生命の根本原理は音楽であって、手風琴の柄を回してその音楽を軋《きし》り出すのがこのイタリア人の仕事であった。みなそれぞれ職業が違うので――靴直し、かじ屋、軍人、扇を持つ貴婦人、徳利《とっくり》を持った酔っぱらい、雌牛のそばにうずくまる乳しぼりの女──この幸福な小さい社会は和合した生活を楽しんでおり、かつ人生を文字どおり踊り暮らしていると、ほんとにいえそうだった。そのイタリア人はクランクを回した。すると、こはいかに! この小人《こびと》らひとりひとりがじつに珍妙にいきいきと動きだした。靴直しは靴修理に取りかかった。かじ屋は金槌《かなづち》で鉄を打った。軍人はぴかぴかする剣を振り回した。貴婦人は扇でかすかな風を起こした。陽気な酔っぱらいは徳利から酒をぐい飲みした。熱心な、知識に飢えた学者は本を開いて、頭を振り動かして読んだ。乳しぼりの女は威勢よく雌牛の乳をしぼり出した。そしてけちん坊は金貨を数えて金庫にしまった──これがみな、一本のクランクを一様に回しただけで起こるのだった。ほんとうだ。それに、全く同じ衝動に駆り立てられて、愛する男が恋人の女の唇に口づけして会釈したのだ! たぶん、朗らかで辛辣なある皮肉屋が、われわれ人間は、仕事や娯楽が何であろうと――どんなにしんけんであれ、どんなにつまらなくあれ――みんな同じ一つの調べに合わせて踊っているのであって、そして、われわれの愚かしい活動にもかかわらず、けっきょく何事を引き起こすこともできないということを、この無言劇の場面で、暗示しようと望んだのであった。なぜなら、この見せ物に見られる最も驚くべき状況は、音楽が鳴りやむと、どの人形も、いっせいに、最も大げさな生態から死の冬眠へ、石像と化してしまうことだった。靴直しの靴も仕上がらず、またかじ屋の鉄も形になっていなかった。また酔っぱらいの徳利の中のブランデーが一滴も減っていなければ、乳しぼりの女の桶《おけ》の中の牛乳が一滴も増していないし、けちん坊の金庫に一枚の貨幣もふえなかったし、また学者は本を一ページも読み進まなかった。あらゆる事が、みんなあわててあくせく働き、享楽し、金貨をたくわえ、また賢明になろうとして、愚かしいふるまいを見せる前の状態にそっくりそのままだった。そのうえ、何よりも悲しいことに、恋する男は、おとめが接吻を許したのに少しも幸福にならなかったことだった! しかし、この最後のやりきれない苦塩《にがり》のような辛味をうのみにするくらいなら、むしろわれわれはこの見せ物の持つ寓意《ぐうい》をそっくり返上するものである。
猿は、その間、キルトの外套の下から太いしっぽをくるくると途方もなく長たらしく伸ばしたまま、イタリア人の足もとに位置していた。猿は皺《しわ》くちゃな、いとわしい小さい顔を、ひとりひとりの通行人にも、たちまち群がり寄って輪になった子供たちにも、またヘプジバーの店の戸口にも、また上のほうの、フィービとクリフォードが見おろしている、アーチ窓にも向けた。また、絶えず、彼はスコットランド高地ふうの縁なし帽を脱いで、そしておじぎしながら右足を後ろに引く跪礼《きれい》をした。そのうえ、時々、ひとりひとりに自分でおねだりして、小さいまっ黒な手の平を差し出したり、その他、だれかがたまたまふところにしているかもしれない、どんな不浄な鐚銭《びたせん》でもやたらにほしがる露骨なことをいろいろやった。あさましく下品な、それでいて不思議と人間そっくりなしょぼしょぼした表情、どんなえげつないもうけにもすぐ飛びつく構えを見せる、じろじろとせんさくするようなずるい目つき、そのばかでかいしっぽ(あまり大きすぎて外套の下に体裁よく隠しきれない)、それにそのしっぽが象徴している悪魔のようないたずら根性――要するに、この猿の風体を見えるとおりに受け取ってみるがよい。そうしたら諸君は金銭の最も下賤な形を象徴する、銅貨製のマモン神の、これにまさる偶像を望むことはできないであろう。さらにこの貪欲《どんよく》な小悪魔を満足さすこともまた全くできなかった。フィービは片手いっぱいほどの銅貨を投げおろしたが、猿はうれしい顔一つ見せず熱心に拾い取り、安全な保管のため、イタリア人にそっくり手渡して、そしてすぐさま、もっと欲張って無言の哀訴を何回もくり返しはじめた。
いうまでもなく、何人かのニューイングランド人が──いや、それがどこの国の人であっても、似たり寄ったりであろう――通りかかって、猿にちらりと一瞥《いちべつ》をくれて、そして、自分の持っている道徳の状態がほとんどそっくりそのまま、ここに例証されているとは思いもよらずに、歩いて去った。しかし、クリフォードは別種の人間だった。彼は音楽を聞いて子供のように喜んだし、また、音楽にあやつられる人形を見てにこにこ笑った。けれども、長いしっぽの小悪魔をひと目ながめてからは、そのからだつきといい、根性といい、あまりに恐ろしい醜悪さに非常な衝撃を受け、実際に涙を流して泣きだす始末だった。この気弱さは、単に繊細な才能のみを持っていて、もっと激しい、もっと深刻な、また、からからと笑い飛ばすもっと壮烈な力を欠く人々が、たまたま最悪の、かつ最も卑劣な人生の姿に直面する際は、ほとんど避けることのできないものであった。
ピンチョン通りは、今まで述べてきたこういうものよりも、もっと堂々と人目を引く催し物で時々活気づくのであった。そしてそれがぞろぞろと大ぜい連れてやって来た。人波の殺到する音や叫びが、しだいにかしましく聞こえてくると、クリフォードは、世間との直接的な接触を思って身震いするほど嫌悪を感じ、やはり強い衝撃を受けるのであった。このことがある日明らかになった。ちょうど、政治運動の行列がたくさんの旗をひらひらさせながら、太鼓、横笛、クラリオンやシンバルを、立ち並んでいる建物の間に反響させながら、町じゅうを通り抜けて、踏みつける足音やめったにない大騒ぎが、だらだらと後へ尾を引いて、いつものもの静かな「七破風の屋敷」を通り過ぎたときだった。ただ見物するだけが目当てなら、狭い通りをねって行くときの行列のながめほど精彩ある特色を欠くものはない。見物人が行列の人たちの、汗とうんざりする己惚《うぬぼ》れを浮かべたそれぞれのあきあきする平凡な顔や、はいているズボンのかっこうや、堅苦しそうな、またはだらしのないシャツのカラーや、あるいは黒い上着の背中のほこりなどをはっきり認めると、それが猿芝居のように思われるのである。壮観な行列となるためには、それが広い平地の中央か、または都会の最も壮麗な市民の広場を悠々と長蛇の列が繰り延べられるとき、どこか有利な地点から展望されなければならない。そうすれば距離が遠いため、行列を作っている微細な個々の人間を全部溶かし込み、一つの広大な集団の生活――一個の雄大な生物――茫漠《ぼうばく》とした同質の精神が躍動している、人間の一大集合体にしてしまうからである。しかしまた一方では、もしある感受性の強い人が、こうした行列のすぐそばにたったひとり立っていて、行列をばらばらな分子としてでなく、一つの結合体として──滔々《とうとう》たる潮流、暗々と神秘をたたえ、そして淵底《ふちぞこ》から、見る人の胸深く同気相呼ぶ生命の大河として──ながめるなら、その時は近接するほうがその効果を増すであろう。そうすればその人の心を全く魅惑して、共鳴する人間感情のわき立つ渦流《かりゅう》へ飛び込まずにはおられなくなるであろう。
このとおりのことがクリフォードについて証明された。彼は身震いした。彼は蒼白になった。彼はいっしょに窓べにいる、ヘプジバーとフィービヘ訴えるような視線を投げた。ふたりとも彼が感動していることは全然わからないで、ただめったにない大騒ぎに不安を感じているだけだと察していた。とうとう手足をわななかせながら、彼はすっくと立ち上がり、片足を窓枠に掛けた。そして、あと一瞬の後には、手すりのない露台に出ていたであろう。けれども実際はそうしなかったので、行列の人々全部が、はたはたと旗をひるがえすようにしらがをねぶらせた、もの狂わしい、やつれ界てた姿の彼を、また同類からうとんぜられた、けれども今は自己を支配する、押えきれない本能の力によって、再び人間としての自覚を感じている孤独者の彼の姿を、見かけたかもしれなかった。もしクリフォードが露台に取りついていたとしたら、おそらく道路へ飛び降りていたであろう。しかし、恐れてしりごみするその絶壁へ、かえって駆り立てて突き落とし、しばしば人を犠牲にするあの一種の恐怖心の刺激によったのか、それとも人類の偉大な中心に向かって引きつける人間の先天的な磁気作用によったのかは、容易に決められなかった。一つの衝動が同時に彼に働いたのかもしれなかった。
しかし、いっしょにいた人たちは、彼のそぶりにびっくりし──それは、われ知らず、ふらふらとせき立てられて行く人のそぶりだった――クリフォードの服をつかまえて引き戻した。ヘプジバーは金切り声をあげた。どんな節制のないふるまいにもぞっとするフィービは、急にすすり泣いて涙を流した。
「クリフォード、クリフォード! あなたは気が狂ったの?」と妹はきいた。
「どうかわからないね、ヘプジバー」とクリフォードはため息をつきながら言った。「何も心配しないでくれ──もう済んだのだ──しかし、もしああして飛び降りて、まだ命があったとしたら、私を別人にしてしまっていたと思うよ!」
ある意味では、あるいはクリフォードの言うとおりだったかもしれない。彼には衝撃が必要だった。あるいはおそらく彼は、人生の大海へ深く深く、飛び込んで、底まで沈み、その深層におおわれて、それから正気づいたはつらつとした姿となって現われて、世界と自己とに復活する必要があったのであろう。さらにまた、おそらく彼は最後の妙薬――死そのものを必要としたのであろう!
彼と社会との間の断ちきられた同胞愛の絆《きずな》を再び結ぼうとする、似たような痛切な思慕がもっと穏やかな形でたびたび現われた。そして一度は、思慕の情そのものよりもいっそう深く根ざしている宗教心によって美化された。今から述べる事件で、クリフォードに向かって──この哀れな見捨てられた男、つまり、ほうり出され忘れられ、そして、災害をもてあそんでは狂喜する悪魔の玩具《おもちゃ》にされているとわが身をはかなんでも、もしそんなことができるなら、人間として許されて、罪とはならなかったかもしれないほど不幸な彼に──差し伸べられた神の加護と愛情とに、クリフォードのほうで、心から感謝したのであった。
安息日の朝だった。いつものようにうららかに晴れ渡った静穏な安息日で、この日は特に清浄な大気に包まれていた。こんな時には神は地球の全表面を、おごそかな、それでいてまた、やさしい微笑で包み、威光を満ち渡らせるように思われる。このような安息日の朝には、もしわれわれがきわめて純粋な、朝の大気のような媒質であったなら、どんな地点に立つにせよ、みちみちる大自然の尊厳がわれわれの心身にしみ渡って上昇するのを意識したであろう。教会の鐘は、さまざまな音色を持ちながら、みな調和して、高らかに呼んでは、互いに答え合っていた──「きょうは安息日ですよ!──安息日ですよ!──そうです。安息日ですよ!」すると町全体に鐘は祝福の音をまき散らして、あるときはゆるやかに、あるときはもっとはつらつとうれしげに、またあるときは唯一の鐘が、あるときは全部の鐘がいっせいに鳴って、熱心に叫んでいた──「きょうは安息日ですよ!」そしてさまざまな鐘の音をはるか遠くへ投げて、空の中へ溶け込ませ、神聖な言葉を空いっぱいに行き渡らせた。空気は、神の最も甘美な、最も柔和な日光を含んでいて、人間が胸の中へ吸い込み、祈りの言葉となって再び送り出すのにふさわしくしていた。
クリフォードは窓ぎわにすわって、ヘプジバーといっしょに、近所の人たちが通りへ出て来るところを見ていた。だれもかも、ほかの日にはどんなに宗教的ではないにせよ、安息日の感化ですっかり姿を変えていた。そのため着ている服さえ──たとい千度目のブラシを十分かけた、老人の上品な上着にしても、あるいは母親がきのう縫い終えたばかりの、小さい少年が初めて着る子供服やズボンにしても──昇天の聖衣のような気品をいくらか持っていた。同じように、この古屋敷の玄関から、小さい緑の日がさをかざしたフィービがさっと飛び出して、アーチ窓のそばにいるふたりの顔を振り仰ぎ、出かけの挨拶のやさしい視線と微笑を投げかけた。彼女の顔つきには人なつこいうれしさがあり、また、だれでも遊び戯れることができ、それでいてこれまでどうり尊敬できる、ある清浄さがあった。彼女は最も素朴な美しさに富む母国語でささげられた祈祷に似ていた。そのうえ、フィービはまことに清新であり、衣服の装いが軽妙で優美だった。あたかも彼女が着ているものは何であれ──ゆるやかな上着も、小さい麦わら帽子も、ずきんも、彼女がはいているまっ白いストッキングと同様――今まで肌につけたことがなかったかのようだった。いや、たとい着たことがあっても、そのためにかえって新鮮になり、まるでばらの花の中に寝ていたかのように馥郁《ふくいく》とにおっていた。
少女はヘプジバーとクリフォードに手を振って、通りを歩いて行った。彼女が胸にいだく信仰は、熱心、純真、真実で、地上を歩むことのできる実体と、天へ昇る力を持つ精神とを持っていた。
「ヘプジバー」とクリフォードは、フィービを曲り角までじっと見送ってからきいた。「あなたは教会へ行かないのかい?」
「行きません、クリフォード!」と彼女は答えた。「このところ何年も、行っておりません!」
「もし私がそこへ行ったらね」と彼は再び言った。「非常にたくさんの人たちが回りでお祈りしているときなら、私はもう一度お祈りできそうな気がするよ!」
彼女はクリフォードの顔をのぞき込んだ。するとその顔にやさしい自然な感情の流露が見られた。なぜなら彼の胸の感動が、いわばわき出て、神に対する敬虔《けいけん》な法悦と、人間同胞に対する心からの愛情となって、その目にあふれ出たからであった。その感動はおのずとヘプジバーに伝わった。彼女は彼の手を取り、連れ立ってひざまずいて、ふたりいっしょに──ともにあれほど久しい間世間を遠ざかり、そして、彼女が今自分で認めたとおり、天上の神とも親しまずにいたふたりが──大ぜいの人々に混じってひざまずき、そして神にも人にも同時に和睦《わぼく》したいと痛切な願いをいだいていたのであった。
「ねえ、兄さん」と彼女は、しんけんに言った。「まいりましょうよ! 私たちはどこにもはいっておりません。私たちはどの教会にもひざまずいてお祈りするたった一フィートの場所さえないのです。だけど、たとい座席の間の広い通路に立つにしても、どこか礼拝する場所にまいりましょう。哀れな、見捨てられた私たちだって、教会の座席の戸がどれか一つ私たちに開かれるでしょう!」
それでヘプジバーと彼女の兄とは用意を整えた──ふたりは古めかしい服のいちばんよいものをできるだけ手早く着たが、それがあまり長い間掛け釘にかかっていたり、トランクにしまってあったりしたので、昔の湿気とかびのにおいがしみついていた──ふたりとも色あせた晴れ着をきて、教会に出かける用意を整えた。ふたりは階段をいっしょに降りてきた──やせこけて、血色の悪いヘプジバーと、青白く、衰弱して、老いさらばえたクリフォードが! 彼らは玄関の戸をあけて、敷居を踏み越えた。すると、ふたりとも、あたかも自分たちが全世界の人々を前にして立っていて、あらゆる人間の大きな恐ろしい目が自分たちだけを見つめているかのように感ずるのだった。彼らにそそがれた神の目は引っ込められたように思われて、そして何の励ましも彼らに与えなかった。町の通りの暖かな日ざしの空気が彼らをぞっと身震いさせた。ふたりの心は、このうえ一歩でも前へ踏み出すことを思うと、胸の中でおののいた。
「そんなはずないよ、ヘプジバー!──もう手おくれなのだ」とクリフォードは深い悲しみをたたえて言った。──「私たちは幽霊なのだ! 私たちには人中に出る権利がないのだ──どこにも権利がないのだ。ただこの古い屋敷の中だけなのだ。この屋敷には呪《のろ》いがかかっており、そのために、私たちはどうしてもこの屋敷に住みつく運命なのだ!」と彼は、この男独特の、けっして奪うことのできない、気むずかしい鋭敏な神経質で言い続けた。「出かけたところで体裁のいいことでもないし、また見映えすることでもなかろうよ! 私が世間の人たちをこわがらせたり、また子供たちが、私の顔を見て、母親の服にしがみついたりするかと思うと、気分が悪くなるよ!」
ふたりはおじけづいて暗い廊下へ引き返して、戸をしめた。しかし、階段を再び上がってみると、家の中全部が今までの十倍も陰気になり、空気がいっそう息詰まり、重苦しくなったと思った。それは彼らが今しがた不意に自由というものをちらと垣間見たり、呼吸したりしたからであった。彼らはのがれることはできなかった。獄吏が、彼らをからかって、ただ戸を細めにあけ放しておいたまま、戸の陰に立っていて彼らが忍び出るのを見張っていたのだった。敷居のところで、彼らは無慈悲にも獄吏の手につかまったと感じた。なぜなら、人間が持っている心ほどまっ暗な土牢が他にあろうか! 人間の自我ほど容赦のない獄吏が他にいるだろうか!
けれども、もしわれわれがクリフォードを、始終、あるいは大部分、みじめなものとして言い表わすならば、それは彼の精神状態の正しい描写とはならないであろう。それどころか、ずばり言いきってしまえば、同じ都市の中で、彼の半分ほどの年輩で、彼くらい快活な、悲哀を知らない、多くの時間を享楽した者はだれもいなかった。彼は苦労の重荷を背負っていなかった。解決を予期すべきいろいろな問題や不慮の事件などは何ひとつなかった。これらのものは他のすべての人々の生命をすり減らし、そしてその生命を扶養するためのやっかいな手順そのものが、生きがいをなくさせてしまうものなのである。この点で彼は子供だった。──長かろうと短かろうと、彼の全生涯を通じて子供だった。実際、彼の人生は幼年期より少し進んだ時期に停止していて、彼の記憶はすべてその時期の付近にふさふさとくっついているように思われた。ちょうど、ひどい打撃を受けて無感覚になった後、被害者の回復した意識が、麻痺《まひ》させた事件からかなり過去の時間へ逆行するようなものである。彼は時々フィービとヘプジバーに自分が見た夢を話したが、夢の中で彼はきまって子供か、または非常に若い男の役を演じていた。彼が自分の夢を話すとき、あまりにあざやかな印象なので、そのため彼は、前夜の夢に見た母親が着ている上等更紗の部屋着の特殊な模様、つまり捺染《なつせん》について妹と一度口論をしたほどだった。ヘプジバーは、こういうことにかけては女はまちがいないものですよ、と鼻を高くしながら、その服が、クリフォードが述べるような模様とは少し違っているといってきかなかった。ところが、古いトランクから問題の服を取り出してみると、それがクリフォードの記憶とぴったり一致していることが証明された。もしクリフォードが、それほど真に迫っている夢から脱け出すたびに、少年から老廃人へと変貌する拷問を受けたとすれば、毎日くり返される衝撃はあまりに大きくて、とうてい堪えることはできなかったろう。それは朝のしらじら明けから、真昼を通じ、就寝の時刻まで、身震いする激しい苦悶の種となったであろう。そしてそんな時でさえ、鈍い、底知れない苦痛や青白い不幸の色調と、彼のまどろみのばら色の幻想や青春とが混じり合ったことであろう。それでも夜の月の光は朝の霞をも織り交ぜて、まるで衣装のように彼を包んだ。彼はその衣装をしかと抱きしめてからだにまとい、めったに現実が突き通さないようにした。彼はしばしば完全に目をさましているのではなかったが、目をあけたまま眠った。そしておそらく自分ではそんな時がいちばん夢を見ている気でいたのだった。
こんなふうに、彼はいつも自分の子供時代の付近にばかりとどまっていたので、子供たちへの思いやりがあって、そのために彼の心は、ちょうどあちこちの小川が、水源から遠くない所で流れ込む貯水池のように、それだけいっそう新鮮さを保っていた。ある微妙な身嗜《みだしな》みの気持ちから、子供たちと交わりたい希望は果たせなかったけれども、アーチ型の窓から外を見て、小さな女の子が歩道で輪回しをしているのや、男の生徒たちがボール遊びをしているのをながめることより好きなものはないくらいだった。子供たちの騒がしい声が、遠い所で、みんないっしょうけんめいにわんわんと群れ合い、混じり合い、ちょうど日当たりのよい部屋で蝿《はえ》がぶんぶんするように、聞こえてくるのが彼には非常に愉快だった。
もちろん、クリフォードは子供たちと遊べたらうれしがったことだろう。ある午後、どうしてもシャボン玉を飛ばしたくてたまらない気持ちに襲われた。その遊びは、ヘプジバーがフィービヘ話したところでは、ふたりとも子供だったころ、彼女の兄が大好きな遊びだった。それゆえ、アーチ窓の所で、陶製のパイプを口にくわえている、彼の姿をながめてみよ! 白い頭髪に、青ざめた、夢のような微笑を満面にたたえ、そしてその顔にはまだ美しい気品が漂っている、彼の顔をながめてみよ! その美は、これほどの長い年月にもかかわらず、生き長らえてきたものであり、彼を最も憎む敵でさえ、霊性であり、不死のものと認めたに相違なかったものなのだ。窓から表通りへ、空気の玉をそこかしこ吹き散らしている、彼の姿をながめてみよ! このシャボン玉は、水泡のからっぽの表面に、まるで空想から生まれたようなあざやかな色合いで、この大きな世界を写し出している、実体のない小さな星屑《ほしくず》であった。これらの華麗な幻想がふわふわ浮かんで降りてきて、味気ない雰囲気をあたりいちめん想像的な情景に変えたとき、道行く人々がこれをどう思ったかを見るのは好奇心をそそることだった。ある者は足を止めてじっと見つめ、それから、たぶん通りの曲がり角までもシャボン玉の愉快な思い出を持ちながら歩いて行った。ある者はむっとした顔で見上げ、まるで気の毒にもクリフォードが、彼らの通るほこり道すれすれまで美しい幻の像をふわふわ浮かばせて、悪さをしたかのようであった。大ぜいの人が、指かステッキを突き出して、それでさわろうとした。そしてシャボン玉が、それに描かれた大地や空のあらゆる景観もろとも、何事もまるでなかったかのように消えうせたときは、もちろん、依枯地な満足を覚えたのだった。
ついに、おりもおり、かなり年ふけた、ことに偉そうな風体の紳士がたまたま通りかかったとき、大きなシャボン玉が一つ、悠々と飛んで降りてきて、まっこうから紳士の鼻へ衝突して破裂した! 彼は見上げた──初めは、アーチ窓の後ろのほうの暗がりをいっぺんに見抜くほどの、きびしい、鋭い目つきで──次には、身の回り数ヤードも広く土用の暑熱を発散すると思われたかもしれなかった微笑を浮かべながら、見上げたのだ。
「ああ、いとこのクリフォードか!」と、ピンチョン判事は大声を出した。「なんと! まだシャボン玉を飛ばしているとは!」
その口調はいかにも親切らしく、そして慰めるつもりのように思われたが、それでもやはり辛辣な皮肉がこもっていた。クリフォードはどうかといえば、全身が完全にしびれたような恐怖に襲われてしまった。過去の体験からきたものらしい彼の恐怖が、どんなはっきりした原因かはさておいて、クリフォードは、威圧的な強者がいる前では、弱虫で華奢《きゃしゃ》で不安がちな気性の者に特有な、あの生まれつき備わる根深い憎悪を、傑物である判事に対して感じたのであった。強者は、弱者がとうてい理解できないものであり、したがって、そのために、ますます恐れられるのである。弱者の彼を取り巻く縁故者の中で、強固な意志の身内ほど、どえらい恐ろしい化け物はいないのである。
[#改ページ]
十二 銀板写真家
フィービのように非常に活動的に生まれついている人物の生活が、完全に、古いピンチョン屋敷の構内だけに留めておかれるなどと思ってはならない。彼女を相手につれづれを慰めたいクリフォードの望みは、日足が伸びたこのごろでは、日没よりかなり早めにたいてい満足に果たされていた。彼の毎日の生活は、静かなように見えるが、彼の生命を支えているあらゆる精根を涸《か》らし尽くしたのだ。彼をへとへとに疲労させたのは肉体の運動ではなかった。そのわけは──時々|鍬《くわ》を持って少し耕したり、または庭先の道をゆっくり歩いたり、あるいは、雨天にはだれもいない部屋を動き回ったりするほかは──手足の筋肉を働かすどんな仕事に関しても、ただ黙然《もくねん》として過ごすのが彼の性分だったからである。むしろ、彼の生命力を焼き尽くす火が体内にくすぶり続けていたか、または、だらだらと間延びして、違った環境の人なら、心を麻痺させてしまったろうと思われる単調さが、クリフォードにとっては単調でなかったのかもしれない、そのどちらかがくたくたにさせたのだった。
おそらく、彼は二度目の成長と回復の状態にあったのだ。そしてもっと世慣れしている人々には全くむだに見過ごされている、見るものや、聞くものや出来事から、彼の精神や知力のための栄養を始終吸収していたのだった。子供の新鮮な心にとってはあらゆるものが活動であり変転であるように、長い間仮死状態にあった後、一種の新生を経験した心にとってもまた、同じことかもしれなかった。
その原因はなんであれ、クリフォードはいつも、くたくたに疲れて、太陽の光線がまだ窓のカーテンに溶け込んでいたり、または部屋の壁に夕映えの明かりを投げているころ、部屋へ引っ込んで休むのであった。そしてほかの子供たちのように、彼がこんなふうに早くから寝入って子供のころを夢みている間、フィービは昼の残りと宵《よい》を自由に自分ひとりの趣味にふけるのであった。
これは、フィービの性格のように、病的な影響にはほとんど感染しない性格の人の健康にさえ必要な自由であった。この古屋敷は、すでに述べたように、壁の中に干し腐れもぬれ腐れもどちらもあった。これと違った空気を呼吸しないのは健康によくなかった。ヘプジバーは、彼女なりにりっぱな、とりえとなる特色を持ってはいたが、あまり久しい間一つ所に幽居して、つぎつぎに連なる考え事と、たった一つの愛情と、不法な仕打ちを恨む一念のほか、だれひとり相手がなかったため、一種の狂人になってしまっていた。おそらく読者は、クリフォードが非常に遅鈍であるために、彼と朋輩との仲が、いかに親密で独占的なものにせよ、彼らに精神的な影響を与えることができなかったと想像するかもしれない。けれども人と人との間の同情あるいは磁気作用は、われわれが考えている以上に微妙であり、普遍的なものである。それは、実際、種類の異なる有機体の間にもあって、甲から乙の生物へ震え伝わる。たとえば、フィービが自分で観察したことであるが、花は、クリフォードか、ヘプジバーが手にすると、彼女が手にするときより、常に早く枯れはじめた。それで同じ法則に従って、彼女の日々のすべての生命を、これらふたりのむしばんだ心をいやす花の香気に変えてしまうなら、この花のような娘は、もっと若くて幸福な青年の胸に飾られた場合より、必ずはるかに早く衰えて色香もあせるに相違ない。彼女が時々活発な衝動を気ままにさせたり、郊外を散歩していなかの空気を呼吸したり、あるいは海岸沿いに潮風を吸い込んだりするのでなかったら――しばしば生粋のニューイングランド娘にとっては、生まれつきの衝動に駆られて、形而上学的あるいは哲学的な講演に出席したり、または七マイルにわたるパノラマをながめたり、音楽会を聞いたり──町へ買い物に出かけて行って、ショーウィンドーをくまなくあさったり、そしてリボンを一本持って帰宅したり――さらにまた、わずかな時間を利用して自分の部屋で聖書を読んだり、ちょっと多くの暇をさいてこっそりと彼女の母や故郷のことを偲《しの》んだり──今述べたそういう精神の薬がなかったならば、われわれのフィービが哀れにもたちまちやせ細り、そして青白い不健康な顔色を現わして、果ては未婚の老嬢と陰気な将来とを予言する、奇妙な臆病な習性を帯びてくるのが、認められたことだろう。
静かなふうにではあったが、ある変化がありありと見えてきた。その変化のために侵された魅力はなんであろうと、新たな、おそらくもっと貴重な魅力によって償われたのではあったが、多少惜しまれる変化であった。彼女はそんなにいつも快活でばかりはいないで、思いにふけりがちな気分を持つようになった。クリフォードは、概して、彼女のこれまでの生一本に快活な姿よりこの気分のほうが好きだった。なぜなら、現在、彼女はこれまでよりもいっそうよく、またいっそう微妙な点まで彼を理解しており、そして時々彼自身のことを、心に納得ゆくまで説明してさえくれたからであった。彼女の目は今までより大きく、より愁《うれ》わしげに、またより深く見えた。それがあまりに深く、ひっそりと静かなひと時には、まるで掘り抜き井戸のように、下へ下へと底知れぬ深みのように思われた。彼女は、われわれが初めて乗り合い馬車から降り立つ彼女の姿を見たときよりも娘らしさがうせていた。娘らしさが少なくなって、女らしさが増していた。
フィービがたびたび交際する機会を持った、ただひとりのうら若い心の人は例の銀板写真家の青年であった。どうしても、周囲の隠遁的な空気に圧迫されて、ふたりはかなり懇意な習慣へ引き込まれたのだった。もしふたりがこれと違った状況の下で巡り会っていたら、この若い彼らのどちらも相手に対してさほどの考慮を払うこともたぶんなかっただろう。でなければ、実際、彼らの極端に相異なる点が、互いに相手をひきつけるという原理を証明したものであったろう。なるほど、ふたりとも、ニューイングランド生まれにふさわしい性格であった。それで、そのため彼らが表面的にますます発展する、共通な根拠を持っていた。しかし彼らの内面はそれぞれ、生まれ故郷がまるで世界の果てほど離れているかのように、違っていた。ふたりが知り合った初めのころ、フィービは、その淡白な、あどけないいつもの態度よりはむしろ控えめに、ホールグレーヴのそうたいして積極的とは見えない接近から遠慮していたのだった。それにまた、ふたりは毎日会い、そしていくらか友だちらしく、また親しそうに語り合ってはいたけれど、彼女は今のところまだ彼を十分知っていると安心してはいなかった。
芸術家は、とりとめのないふうに、フィービに身の上話のようなものを語ってきかせた。彼はまだ若いし、そして彼の生涯は今ちょうどたどり着いたところで終わっているけれども、さすがにやはり、自叙伝一巻を優に満たすだけの事件に富んでいた。「ジル・ブラス」〔フランスの小説家ル・サージュ作の悪漢物語〕ふうのロマンスはアメリカの社会と風俗に適用するならば、もはやロマンスでなくなるであろう。われわれの仲間の多くの人々の経験は、それを本人たちは人に語り聞かせるほどの価値がないと思っているが、このスペイン人の若い時代の数奇な運命に匹敵するであろう。一方これらの人々の究極の成功もしくは目ざす目標は、小説家がその小説の主人公のためにくふうするどんな目標よりも比類なく高いかもしれない。
ホールグレーヴが、いくらか自慢げに、フィービに語ったところによると、彼の素姓は、きわめて卑賤な生まれとしか自慢できないし、また彼の教育についても、最小限度のもので、土地の小学校に冬の数か月間出席して受けただけということしか誇ることができなかった。早くから自分で身の方針を立てるよう放任されていたので、彼はまだ少年のころから自立を始めていた。それは彼が持って生まれた強い意志の力にぴたりとかなった条件であった。今たった二十二歳なのに(数か月足りないが、その数か月は、こういう生涯の数年に当たる)彼はすでに、いなかの学校教師をやっていた。次にいなかの商店の販売係になった。それから、それと同時かまたはその後にか、地方新聞の政治記者となった。その後オーデコロンやその他の香水を製造するコネチカット州のある工場に雇われ、行商人として、ニューイングランドや中部諸州を旅行した。まるで嘘のような話だが、歯科医術を研究して開業したところ、特にこの地方の奥地の川沿いにあるあまたの工場都市では、自慢の種になるほどの大成功であった。何やかやの臨時雇いの公務員として、郵便船に乗り組み、ヨーロッパを訪問した。そして帰国する前、手段を見つけてイタリア、フランス、ドイツの一部を見物した。近ごろになって、彼はフーリエ主義者たちの共同社会に数か月暮らした。さらに最近では、催眠術に関する公開講演者となっていたが、この科学に対して(彼はフィービにこの科学を保証し、また実際に、偶然すぐそばで土をほじくっていた雄鶏チャンティクリアを眠らせて、十分証明したのであった)彼はじつに驚くほどの天分を持っていた。
銀板写真家としての、彼の現在の状態は、これまでのどの状態よりも重要なものではないし、また長続きしそうもないと自分では考えていた。それは、自分でパンをかせがなければならない冒険家がするように、そそくさと機敏に飛びついたものだった。もし彼が同じように脱線して何か別の手段でパンを得たい場合には、いつでもやはりあたふたとそれをほうり出すだろう。しかし最も驚くべきことは、そして、おそらく、この青年の並々ならぬ心の安定を示すものは、これほど何回も世の荒波に浮き沈みしながらもけっして自己の本性を失わなかったということであった。家無し者ではあったが──絶えず居所を変え、そのため、一般世論にもまた個人に対しても責任がなく──表面の持ち物を一つほうり投げては、新たに一つ引っつかみ、するとたちまち三つ目の物へ移っていきながら──彼は最も奥にある人間性をけっして侵すことなく、良心を常に身に体していたのだった。この事がまごう方なく事実だと納得しなければ、ホールグレーヴを知ることはできなかった。
ヘプジバーはそれを見抜いていた。フィービも同じように、すぐにそのことがわかって、このような確信からわいてくる一種の信頼感を彼に寄せた。それでも、彼女ははっと驚いたり、時々は反発もしたが──彼がどんな法を認めているにせよ、いやしくも法に対する彼の誠実さを少しでも疑ったからではない──彼の言う法と彼女の信ずる法とが食い違っているという気持ちからであった。彼は固定して存在するどんなものに対しても、それが即座に、立場を固守する権利を確立できないかぎり、尊敬しないため、彼女を不安がらせたし、また彼女の周囲のあらゆるものをぐらつかせてしまうように思われた。
それからさらに、彼女には、彼の気性が生まれつき愛情深いとはまず考えられなかった。彼はあまりにも平静で冷ややかな観察者であった。フィービが彼の目を感じることは、しばしばだった。彼の愛情は、ほとんど、いや全然感じられなかった。彼はヘプジバーとその兄と、かつフィービ自身とに、ある種の関心を持っていた。彼はこの人たちを注意深く研究して、それぞれの特徴のどんなささいな事柄も見のがそうとはしなかった。彼は喜んでできるだけこの人たちのために尽くした。しかしけっきょく、彼はこの人たちと必ずしも一致提携しているわけではなかったし、また、しだいに懇意になるにつれ、ますます好きになるというどんな信頼できる証拠も与えていなかった。彼はこの人たちとの交際から、感情の滋養でなくて、精神の糧《かて》を求めているらしかった。フィービは、彼が彼女の友人たちや彼女自身を、人間的な愛情の対象として全然か、でなければ、比較的ごくわずかしか、心にかけてくれないからには、これらの人たちに対して、いったいなんのためにそれほど大きな関心を理知的に働かせているのか、さっぱり思い当たらなかった。
芸術家は、フィービと会うときはいつでも、クリフォードの健康について特に根掘り葉掘りきいた。彼は、日曜日の祝いのときを除いては、めったにクリフォードに会わなかった。
「クリフォードはやはり幸福そうに見えますか?」と、ある日、彼はきいた。
「まるで子供のように幸福ですわ」とフィービは答えた。「でも――また子供のように──じきにもう落ち着かなくなりますの」
「どうして落ち着かなくなるんだろう?」とホールグレーヴはきいた。「外からくるもののためですか、それとも心にある思想のためですか?」
「私にあのかたの思想がわかるものですか! どうしてわかるわけがありましょうか?」とフィービは率直にきびきびと答えた。「ほんとにたびたび、あのかたのごきげんは、これといって思い当たる理由が全くないのに、まるで雲が出てお日様をおおうように、変わるのです。ここのところあのかたがずっとよくわかりかけてきましたので、あのかたの気持ちを詳しくのぞいてみるなんてことは、あまりまともじゃないと思っています。あのかたは身にしみて大きな悲しみを経験なさったので、そのため、心がすっかり厳粛に、また清浄になっているのです。うきうきしていらっしゃるとき――つまり太陽があのかたの心の中を照らしているとき──そんなときに私はちょうど光の届くところまで、思いきってのぞいてみますが、もうそこから先はおあずけですわ。そこは暗い影が落ちている聖域ですわ!」
「あなたはこのような情緒をじつに美しく表現なさるんですね!」と芸術家は言った。「僕にそんな感情はありませんが、気持ちは理解できます、僕があなたのような機会に恵まれたら、なんの遠慮会釈なく、僕の下げ振り糸が届くところまでクリフォードの心の底を測量するんですがねえ!」
「あなたがそんなことをなさりたいとはほんとに変ですねえ!」とフィービは、思わず知らず口に出した。「いとこのクリフォードはあなたにとっては、いったいなんですか?」
「ああ、なんでもありませんよ!──もちろん、なんでもありませんよ!」とホールグレーヴは微笑しながら返事をした。「ただ、この世はこれほど奇妙で不可解な世の中なのですかねえ! 僕は世間をながめればながめるほど、ますますわからなくなってきますよ。それで僕は人間の当惑がその人の知力を計算する枡目《ますめ》ではないかと思いはじめています。男、女、それからまた子供たちも、じつに不思議な生き物で、人がこれをほんとに知っているとは夢にも確信できないのです。それにまた、その人たちが、現在見せている表面の姿から、いかなる人物であったかも推察できないものなんです。ピンチョン判事! クリフォード! この人たちはなんという複雑な謎――複雑な中でも特に複雑な謎を表わしていることでしょう! この謎を解くには、若い娘が持っているような、直感的共感が必要なのです。僕のような、単に傍観者にすぎない者(直観力を全然持っていない、そして、せいぜい、微妙で鋭敏なだけの人間)は、とまどうことはだいたい確かです」
芸術家はこんど、ふたりが今まで触れていた暗い話より、もう少し明るい話題へ会話を移した。フィービも彼もともに若かった。それにホールグレーヴは、年少からの早すぎた人生の体験にも、あの美しい青春の意気を全部浪費したわけではなかった。若々しいその意気は一つの小さな心と空想からほとばしり出て、全宇宙にあまねく満ち渡り、いっさいをあたかも世界創造の第一日のように皎々《こうこう》と輝かすかもしれないものである。人間の持っている青春はすなわち世界の青春である。少なくとも、人はあたかも事実であるかのように感じ、そして花崗岩質の地殻がまだ固まっていない物質であって、どんな形にも思うままにこね上げることができると想像する。ホールグレーヴは、まさしくそのとおりであった。彼はいかにも賢者らしく世界の老化について語ることはできたが、自分が言っていることを現実に信じてはいなかった。彼はまだ若年であり、それゆえ世界──あの白い顎ひげをはやした皺だらけな道楽者の、老いぼれて、神々《こうごう》しい風格のない──この世界をまだ未熟な若輩とみなし、本来あるべきどんな理想の姿にも改善される素質は持ちながら、実現のどんなかすかな見込みさえまだ見せていないと思っていた。彼は、ある自覚、または心ひそかな予言――青年がこれを持たないくらいなら、生まれないほうがましだったろうし、成熟したおとながこれを完全に放棄するくらいなら、むしろすぐにも死ぬほうがましだったろう――を持っていた。われわれは昔からのひどいしきたりどおり永久にはいずり回る運命にあるのでなくて、それどころか、自分が生きている間に完成されるはずの黄金時代の先駆者が、いま現に、四方八方にいるのだ、という意識であった。ホールグレーヴにとっては――またもちろん、アダムの孫たちの時代以来、あらゆる世紀の末たのもしい青年たちにとっても同じように思われていたのである──今のこの時代では、これまでより以上に、こけ蒸して腐朽した「過去」は破壊されなければならないし、生命をなくしたいろいろの制度はじゃまにならぬようほうり出さなければならない。そしてそれらの死んだ残骸は埋められ、こうして何もかも新規にやり直さなければならないように思われた。
重要な点について──それを疑えばわれわれはけっして生きておれないかもしれない!──到来しつつあるよりよき世紀について、この芸術家の言うことは確かに正しかった。彼の誤りは、この今の時代が、過去の、あるいは未来のいかなる時代も及ばぬ宿命を負っていて、「古代」の着古したぼろ衣装が、つぎはぎ細工でしだいに更新されるのではなく、仕立ておろしの背広にさっと着換えるところを見なければならない時代であると想像している点にあった。自己の短い一生を、永久に続く偉大な事業の尺度として適用する点にあった。さらに、とりわけて目ざすその遠大な目的に対して、彼がみずからそのために戦うとか、あるいはそれに反抗するとかが、何か重大な関係を持っていると思い込んでいる点にあった。けれども彼がそう思うのは結構なことであった。この熱烈な信念が、彼の平静な性格にくまなくしみ通り、こうして安定した思想と英知の風格を帯びてきて、彼の青春を清純に保ち、また抱負を高めるのに役だつであろう。そして年月が彼の身にますます重厚さを加えるにつれ、若いころの信念が、避けることのできない経験によって当然修正されるとき、けっして感情の苛酷なまたは急激な変動を伴うことはないであろう。彼は依然として人間の光輝ある運命に確信を持ち続け、そしておそらく、自己が自己のためにいかに無力であるかを認めるがゆえに、それだけますます人間を愛することであろう。そして人生の門出に際して持っていた高慢な信念が、人生を閉じるにあたっては、はるかに謙虚な信念と首尾よく交換されていて、最もりっぱに指導された人間の努力でさえ成就するものは一種の夢にすぎぬその反面、神こそ唯一の現実の造り主である事実が見きわめられることであろう。
ホールグレーヴはほとんど読書しなかったし、そしてそのわずかな読書さえ、人生の大道を歩きながらのものであった。それでその道中、本の神秘の言葉が大ぜいの人々の話す片言と必ず交じり合い、その結果、どちらも本来持っていたと思われる言葉の意味を全く失いがちであった。彼は自分では思想家と思っていたし、そしてたしかに思索に富む気質ではあった。しかし自分が歩く道を見つける段になると、おそらく教育を受けた人が思索を始めるその起点にもまだ達していなかったろう。彼の品性の真の価値は、過去の生活の転変はすべてただ衣装の脱ぎ替えにすぎないのだと考えさせている、強い精神力に対するそれほど深い自覚にあった。あまりにもひそやかで自分ではその存在すらほとんど気づかないほどながら、自分が手がけたどんなものにも熱を入れるあの感激性にあった。もっと寛容ないろいろな衝動の中にまぎれ込み──他人の目からはむろんのこと、自分の目からも――隠れてはいるけれども、彼をある主義の単なる理論家から実践的な闘土へと実質的に変えてしまう、そんな一種の効能が潜んでいる彼特有の野望にあった。総じて、彼の教養とか教養の不足の点で──彼の粗野、奔放、あいまいな哲学とか、またその傾向をいくらか阻止する実際的経験の点で、人類の福祉を願う彼の高邁《こうまい》な熱意とか、またあらゆる時代が人類のために建設したいかなるものも眼中にない点で、彼の信仰心とか、また不信心の点で、波が持っているものとか、彼に欠けているものとかの点で──この芸術家は生まれた国の多数同輩の代表者として姿を現わすのはまことにふさわしいことかもしれなかった。
彼の前途を予想することはむずかしいであろう。ホールグレーヴが持っていると思われる特性は、だれがなんでもかってしだいにつかみ取れる国柄では、世に稀な宝の幾つかを間違いなく手に入れることができる素質のようだった。しかしこういう事は結構あてにならないものである。世の中でわれわれはほとんどひと足ごとに、ちょうどホールグレーヴぐらいの年ごろの、いかにも驚異の仕事を期待できそうな若者たちによく出会う。けれどもその人たちのことを、後からいろいろと念入りに調べてみても、二度と消息を聞くことがない。たぎり立つ青春と熱情のほとばしり、知性と想像力の清新な色沢が、これらの若者に見せかけの光輝を投げかけて本人たちや他の人々をも愚弄《ぐろう》するのである。ある種の更紗、キャラコ、ギンガム木綿のように、初め真新しい間はりっぱに見えるが、日光や雨に長持ちできず、洗濯日の後では、はなはだ興ざめの姿をさらすのである。
しかしわれわれの任務は、特にきょうの午後、ピンチョン庭園のあずまやで、見かけたままのホールグレーヴを描くことである。そういう見方からすれば、この青年がそんな非常な自信を持ち、賛嘆するほどの才能を現わしているじつにりっぱな風貌の──また、彼の本性を試したたくさんの試練にもほとんど損傷していない──この青年の姿を見ることは愉快なながめであった。彼がフィービと親しげに交際しているありさまは愉快な風情であった。彼女が心の中で彼を冷淡だと断定したときは、彼を公正に批評したとはいえなかったのだ。あるいは、もしそれが正しかったとすれば、今は、前よりも暖かな心になってきたのであった。彼女のほうでは別にそんなつもりはなく、また彼のほうでも気がついていなかったが、彼女は「七破風の屋敷」を彼にとって家庭のように感じさせ、またその庭園をなじみ深い構内にしたのであった。
彼は、自分で自慢している洞察力でもって、フィービやフィービの周囲のすべてのものを見抜くことができ、しかも子供のおとぎ話本の一ページのようにすぐ読みきれるものと思っていた。しかしこういう透明な性質のものはしばしば深さの点で人を欺くものである。泉水の底の小石は思ったより遠い距離にある。こうして芸術家は、フィービの能力をどう判断したにせよ、黙って聞いている彼女の美しい姿にいくらか魅惑され、ついうかうかと、彼が世の中でなそうと夢みている事を気軽に打ち明けた。彼はまるで自己の分身に話すように自分のことを滔々《とうとう》と述べ立てた。おそらくきっと彼女に向かっている間、彼は相手のフィービのことを忘れてしまっていた。全くの話、熱心や感激にそそられて話が佳境に入るときは、思想の必然的な傾向にだけ動かされて進み、最初に見いだす貯水槽へ安全に流れ込んでいった。しかし、もし諸君が庭の垣根の隙間からふたりをのぞいて見たとしたら、その青年のしんけんさと上気した顔色とから、彼がうら若いおとめに言い寄っているところだと思わせてしまったかもしれなかった!
ついに、フィービが質問するのに非常に都合のよい事柄をホールグレーヴが言ったので、彼がどういう次第で彼女のいとこのヘプジバーと初めて近づきになったのか、また彼が現在、何を好んで荒廃している古いピンチョン屋敷を宿としているのかと、彼女はきいた。彼はその質問にすぐ答えようとはしないで、これまでの話題であった「未来」を変えて「過去」の影響力について語りはじめた。一方の問題は、実際のところ、他方の問題の反響にすぎないのである。
「われわれはこの『過去』というものから逃げきるわけにはいかないのだろうか?」と彼は、今までどおりしんけんな口調で話を続けながら叫んだ──「過去が、巨人の死体のように『現在』の上にのしかかっているのです! 実際まるで若い巨人が、年寄りの巨人、自分の祖父、もうとうの昔に死んで、ただ丁寧に葬りさえすればよいはずの死体を、あちらこちら運び歩いて体力をすっかり消耗するようにしいられているのと全く同じ状態です。ちょっとでも考えてごらんなさい。そしたらわれわれが過去の時代に対して──もっとぴったりする言葉でこれを言い表わすなら『死神』に対して──どんな奴隷になっているかがわかってあなたはびっくりなさることでしょう!」
「でも私はそれがわかりません」とフィービは意見を言った。
「それなら、たとえばね」とホールグレーヴは言い続けた。「死者が、もしたまたま遺言状を作っていたとすれば、もはや自分のものでない財産を処分するわけです。そうでなく、もしその人が遺言しないで死ぬとすれば、その人よりずっと以前に死んでいる人々の意志に従って財産が分配されるのです。死者がわれわれの判事席を全部占領しています。そして生きている判事たちはただ死者の下した判決を捜し出してこれを読み返すにすぎません。われわれは死んだ人々の本を読みふけっています! われわれは死んだ人々の話す冗談を聞いては大笑いし、死んだ人々の悲嘆を聞いては泣きます! われわれは死んだ人々の肉体的・精神的病苦をわずらい、死んだ医者どもが生前に患者を殺したその同じ薬で死ぬのです! われわれは死んだ人々の形式や教義に従って現代の『神』を崇拝します! われわれが自己の自由意志から、何事かしようと求めても、死者の冷たい氷の手がわれわれをじゃまします! われわれの目をどの方面に向けようと、死人のまっさおな、けっして和《やわ》らがぬ顔が目にぶつかって、われわれを心の底まで凍らせます! それでわれわれは、固有の影響力をわれわれ自身の世界にまだ持ちはじめることもできないうちに、はや自分たちが死ななければなりません。そのころには世界は、もはやわれわれのものではなくて、われわれが露ほども干渉する権利を持っていない、次の世代の世界となっているでしょう。僕はまた、われわれは死人の家に住んでいるのですと言うべきところでした。たとえば、七破風のこの屋敷みたいにですね!」
「そういう家でも住みごこちさえよければ、それでいいじゃありませんか?」とフィービは言った。
「しかしわれわれが生きている間に、きっと、その日がやってきますよ」と芸術家は言葉を続けた。「どんな人でも子孫のために自分の家を建てようとしない日がやってきます。どうして建てなければならないでしょうか? ちょうど人が耐久力のある一そろいの服――皮か、ゴム質か、またはそのほかなんでも長持ちするもの――を注文し、その結果ひ孫たちまでその服のおかげをこうむって、ひいじいさんそっくりの風体を世間にさらしているのと全く同じことですよ。もしそれぞれの世代の人が自分の世代の家を建築するように許可され、また期待できるなら、たったそれだけの変化が、そのこと自体は比較的つまらぬことですが、社会が当面して苦しんでいるほとんどすべての改革を意味するでしょう。僕は、われわれの壮大な公共建築物──われわれの国会議事堂、州会議事堂、裁判所、市役所、また教会――が石や煉瓦のような恒久的な材料で建てなければならないものか、疑問に思います。ああいう大建築は、建物が象徴するもろもろの制度を検討し改革するため、庶民に対する暗示として、二十年か、そこらに一度、崩壊して廃墟になればよいのですがねえ」
「あなたは古い物はなんでもかでもとても憎んでいらっしゃいますわね!」とフィービは、肝をつぶして言った。「そんなにくるくる変わる世の中を思うと目まいがいたしますわ!」
「僕は確かにかび臭いのはいっさいごめんです」とホールグレーヴは答えた。「さて、この古臭いピンチョン屋敷! あのまっ黒い屋根板の、そしてどんなに湿気が多いかひと目でわかるほどまっさおな苔のはえている、あれが健康な住み家ですか?──暗くて間柱の低い部屋の家がですよ?──不満や苦悩にあえぎながら、ここで吸って吐かれた人間の息が結晶してあたりの壁いちめんにこびりつき、あかやよごれとなっている家がですよ? そんな家は火で清めなければなりませんよ、──清められて灰だけしか残らぬようにですね!」
「それならなぜあなたはそんな家に住んでいらっしゃるんですか?」とフィービは、ちょっとしゃくにさわってきいた。
「ああ、僕はここで研究を行なっているんですよ。けれども、本を読むのではありません」とホールグレーヴは答えた。「この家は、僕の考えでは、あの不吉な、いまわしい『過去』、および、僕が今まで激しく非難していた過去のすべての悪影響もともに含めて、表現していると思います。僕はその家がどんなに憎らしいかもっとよく知るために、しばらくの間住んでいます。ところであなたは、魔法使いのモールのことや、その男とあなたの何代も昔のひいじいさんとの間に起こった事件の話を聞いたことがありますか?」
「はい、ありますとも!」とフィービは言った。「その話はずっと昔、父からも、また私がこちらに来たその月に、ヘプジバーからも二、三度聞きました。ヘプジバーは、ピンチョン家の災難はみんな、あなたがおっしゃるその魔法使いとの例の口論から始まったと考えていらっしゃるようですわ。それにホールグレーヴさん、あなたもそんなふうに思っていらっしゃるようですね! あなたがあんな愚にもつかないことをお信じになるなんて、ほんとにおかしいですわ。もっともっと信用する価値のあるものをたくさん排斥していらっしゃいますのにねえ!」
「僕はその話を信じていますとも」と芸術家は、まじめな顔で言った。「けれども、迷信としてでなくて、疑いのない事実によって証明されるものとして、またある理論を例証するものとして、信じているのです。まあ、ごらんなさい。──僕たちが今見上げている、このような七つの破風の下で──そしてこれをピンチョン老大佐は、現在からはるか遠い未来の時代に至るまで、繁栄と幸福に恵まれた、自分の子孫たちの屋敷にするつもりだったのでした──あの屋根の下で、ざっと三世紀の間、絶え間ない良心の呵責《かしゃく》、きまって敗北する希望、近親間の争い、さまざまな不幸、奇怪な死にざま、陰険な疑惑、語るに忍びない恥辱など、絶えずありました──僕はこのような災難の全部、または大部分の起源を、あの老清教徒が一族の根を植えて、永久財源を残そうとする無法な欲望にまで突きとめていく方法を持っているのです。一家一門の根を植える! この考えこそ、人間が行なうたいていの不法行為や害悪の根底に潜んでいるのです。じつを言えば、こうですよ、いくら長くとも、半世紀ごとに一回、門閥は大ぜいの名もない一般大衆の中に埋没され、そしてその祖先に関することはいっさい帳消しにしてしてしまうべきですよ。人間の血は、その新鮮さを保つためには、ちょうど水道の水が地下の導管の中を運ばれるように、人目にたたない潜流となって流れていなければなりまん。たとえば、このピンチョン家の人々の家庭生活では──失礼ですが、フィービさん。しかし僕はあなたをピンチョン家の人々と同じには考えられないのです──この人たちの短いニューイングランドの家系さえ、家族全部が何かしら一種の精神異常に感化してしまっているほど、長い時間が経過しているわけです!」
「あなたは私の身内についてずいぶん失礼なことをおっしゃいますね」とフィービは、ききとがめるべきかどうか、胸の中で思案しながら言った。
「僕は真実な人に真実な意見を話しているのです!」とホールグレーヴは、フィービがこれまでの彼に見かけなかった激しい語気で答えた。「真実は僕の言ったとおりなんです! そのうえ、この災禍の最初の犯罪者であり、産みの親である者がどうも生き長らえていたらしい、そして今もなお表通りを──少なくとも、気性もからだつきも、その人物に全く生き写しの男が――自分が受け継いだのと全く同じくらい裕福な、また同じくらい呪われている遺産を、子孫に相続させてやろうという最も堂々とした期待をもって、闊歩していますよ! あなたは例の銀板写真のことや、その写真があの古い肖像画に似ていたことを覚えていらっしゃいますか?」
「あなたは、どうもこうも全くまじめくさったお顔をしていらっしゃいますねえ!」とフィービは大声で叫んで、驚きやらちぐはぐな気持ちでじっと彼の顔を見ていた。半ば愕然とした、またいくらか笑いたくなる気持ちもあった。「あなたはピンチョン家の人々を精神異常だとおっしゃいますが、それは伝染するものですか?」
「おっしゃることはわかります!」と芸術家は顔を赤らめて笑いながら言った。「僕は自分がほんとに少々いかれていると思っています。僕はあちらのあの古い破風に住むようになってから、この問題が異常なしつこさでがっちりと僕の心をつかまえて放さないのです。それをほうり出す一つの方法として、僕が偶然知った、ピンチョン家のある歴史的な事件を伝説の形にまとめました。そしてそれをある雑誌に発表するつもりです」
「あなたが雑誌にお書きになるのですか?」とフィービは尋ねた。
「あなたがご存じなかったなんておっしゃられますか?」とホールグレーヴは大きな声をあげた。――「そりゃあ、僕の文名は大したものですよ! そうです、フィービ・ピンチョンさん、数多い僕の驚くベき天分の中には、物語を書く才能もはいっていますよ。そして僕の名前は、嘘どころか、『グレーアム誌』〔当時の文学月間雑誌〕や『ゴディ誌』〔当時の婦人雑誌〕の表紙を麗々しく飾って、たぶん、いっしょに名を連ねた文学の聖者たちの名前のだれとも引け目なく、堂々と登場していますよ。ユーモアの面では僕はなかなかみごとな手ぎわを持っていると思われています。また感傷について言うならば、僕はまるで玉葱《たまねぎ》のように涙腺を刺激させますよ。ですが僕の書いた物語を読んでお聞かせしましょうか?」
「はい、もしお話があまり長すぎないならですね」とフィービは言って──そして笑いながらこう付け足した──「またあまり退屈にならないならですね」
この後者の点は銀板写真家が自分で決めかねることだったので、彼はただちにくるくるに巻いた原稿を取り出して、暮れ近い日光が七つの破風を金色に染めるころ、読みはじめた。
[#改ページ]
十三 アリス・ピンチョン
ある日、高貴のジャーヴァス・ピンチョンさまから、大工のマシュー・モール青年の所へ呼び出し状が届けられ、すぐさま「七破風の屋敷」へ出頭するようお召しであるとのことであった。
「それでお前の主人は僕になんの用があるのかね?」と大工は、ピンチョン氏の下男の黒人に言った。「家を修理しなければならないのかね? そうかもしれないね。それでもあの家を建てた僕のおやじの責任じゃあないな、あるもんか! 僕はついこの前の安息日に、あの老大佐の墓碑を読んでいたんだ。そしてその日付けから勘定してみると、あの家が建ってから三十七年になる。屋根を修理する仕事があるからって何も不思議はないさ」
「だんなさまがなんのご用だか知りゃしねえだ」とシピオは答えた。「お家はてえそうけっこうなお屋敷だし、ピンチョン老大佐さまもそう思ってござらっしゃると、わしゃあ考えますだ。そうでなけりゃあ、なんであのご老人のお化けがあんな家にちょこちょこ出くさって、かわいそうな黒んぼを、あれほど、たまげさすもんですかい?」
「よしよし、シピオ君、僕がただ今まいりますとご主人に伝えておいてくれ」と、大工は笑い声を立てながら言った。「だんながりっぱな、腕の立つ仕事をお望みなら、僕こそもってこいの職人だとわかるだろう。それであの家にそんなお化けが出るっていうのかい? 『七破風の屋敷』から幽霊を追い払うには、僕よりもっと達者な仕事の職人がいるだろうね。たとい大佐が静粛にしていなくったって」と彼はぶっぶつひとりつぶやきながら、こう付け加えた。「魔法使いの僕のおじいさんは、ピンチョン家の壁ががっしりと持ちこたえているかぎり、あの一家につきまとうことはまずまちがいなかろう」
「何をひとりでぶつぶつ言っているんですかい、マシュー・モールさん?」とシピオはきいた。「そして、なんであんたはそんな暗い顔をしてわしをにらみなさるんですかい?」
「なんでもないよ、黒んぼ!」と大工は言った。「お前は、お前のほかはだれも暗い顔をするものじゃないと思っているのかい? 帰ってお前の主人に、僕がすぐ来るからと言っておけ。それからもしひょっとして、娘さんのアリスお嬢さまに会えたら、マシュー・モールがくれぐれもよろしく申しましたと伝えてくれ。お嬢さまは美しい顔でイタリアから帰られた──美しくて、やさしくて、誇り高い──昔のままのアリス・ピンチョンだねえ!」
「あいつめがアリスお嬢さまのことをかれこれ言いやがって!」と、シピオは使いからの戻り道、大きな声で言った。「卑しい大工風情のくせに! あいつなんかずっと遠方からお嬢さまのお顔をおがむことさえできねえだよ!」
この青年、大工のマシュー・モールは、彼が住んでいる町で、人々からほとんど理解されていない、また一般にあまり好かれていない人物であったことを、述べておかなければならない。といって、彼の誠実さや、彼が細工した仕事の出来ばえや勤勉ぶりに対して、何か文句がつくというわけではなかった。多くの人々は嫌悪の念(これがぴったりする言い方かもしれなかった)で彼をながめたが、それは一つには彼自身の品性や態度からきた結果であり、また一つには遺伝の結果であった。
彼は昔のマシュー・モールという、この町の初期の植民者のひとりで、はぶりをきかしたころは、有名な恐ろしい魔法使いであった人間の孫であった。この神に見放された老人は、コットン・マザー〔アメリカの牧師、学者〕およびその兄弟の牧師たち、学者の判事たち、その他の賢者たち、それから怜悧《れいり》な総督、ウィリアム・フィップス卿らが、老人の徒党大ぜいを「絞首台の丘」の岩肌道を登らせて、霊魂の大敵を打ちひしぐほどあっぱれな奮闘をしたときの、受難者たちのひとりであった。明らかに、その当時から、本来ならば賞賛すべきその仕事を不幸にもやりすぎた結果、魔女たちに対するそのしうちが、これによって苦しめて完全に打ちのめそうとした目ざす敵の「大悪魔」よりも、かえって「慈悲深い神」のほうではるかに受諾できないことが証明されたのではないかと、疑惑を持たれるようになってしまった。
しかし、畏怖心や恐怖感がこのおそろしい魔法の罪に問われて死んだ人たちの記憶にまといついていたことも、同じように明らかなことであった。岩の裂け目の、彼らの墓場は、あまりにもあわただしくその中へ押しこめられてしまった墓の主たちを、引き止めておくことはできまいと思われた。ことにマシュー・モール老人は、普通の人が寝床を抜け出るように、彼の墓場からなんのためらいもなく苦もなく起きあがることは知られており、また、まるで生きている人々が白昼人目に立つように、しばしば真夜中に姿を現わした。この危険な魔法使い(彼の場合は、その正当な刑罰がなんら改心させたそぶりもなかったようであった)は、「七破風の屋敷」と呼ばれる、ある邸宅に絶えずつきまとおうとする執念深い習性を持っていて、その邸宅の所有者を相手取り、まだ未解決の地代請求権をあくまでも主張した。この幽霊は──彼が生きているころ、きわ立った特色の一つであった強情さで──自分がその家の建っている敷地の正当な地主であると言い張ったらしい。彼の条件は、地下室が掘りはじめられたその日からの、今述べた地代を即金で支払うか、またはその邸宅をそっくり明け渡すかのどちらかだった。さもなければ、幽霊である債権者の彼が、たとえ死んでから千年たっても、ピンチョン家のあらゆる事件に干渉して、何もかもしくじるようにしてやるぞ、というのであった。たぶん、それは根も葉もない話かもしれなかった。しかし、この魔法使いのモールがどれほど一徹な頑固じじいであったかを忘れることのできない人々にとっては、あながち信じかねることばかりとは思えなかった。
さて、その魔法使いの孫であるこの物語のマシュー・モール青年は、先祖のいかがわしい特性をいくらか受け継いでいると一般に思われていた。どれくらい愚にもつかぬ事柄がこの青年についても宣伝されていたかは驚くばかりである。たとえば、彼は不思議な力を持っていて、人々の夢の中にはいり込み、どうやら芝居の舞台監督がするように、自分が空想するままに夢の中の事件をさしずできるのだと、誠しやかに言いふらされた。隣近所の人々、とりわけ女の人たちの間では、いわゆるモールの目の魔法について盛んに噂されていた。ある者は彼が人々の心の中を見ることができると言い、他の者は、この目の奇跡的な力の働きで、彼が人々を自分の心の中に引き入れたり、あるいは、もし彼がやろうと思えば、霊界にいる自分の祖父のところへ、人々を使いに出すこともできるのだと言ったりした。さらにまた他の者は、その目はいわゆる「悪魔の目」と呼ばれるもので、とうもろこしを枯らしたり、または胸焼けで子供たちを干ぼしにして、からからなミイラにする機能を持っているとも言った。しかし、この若い大工を最も不利な立場にしたものは、まず第一に、容易に打ち解けてなじまず、かつきびしい彼の生まれつきの性質であり、次には彼が聖餐《せいさん》にあずかる教会員でないという事実と、宗教や政治の問題に異端の教説をいだいているということであった。
ピンチョン氏の呼び出し状を受け取ってから、大工はたまたま手がけていたささいな仕事の仕上げにちょっと暇どっただけで、その後「七破風の屋敷」へ向かって歩いて行った。この有名な建物は、その様式こそややすたれてきているかもしれないが、今でも堂々たる家柄の邸宅として、町に住むどの紳士の住まいにも劣らなかった。現在の所有者のジャーヴァス・ピンチョンは、まだほんの子供のころ、祖父の急死にあってから、彼の鋭敏な神経に打撃をこうむった結果、この家を忌みきらう病気に取っつかれたと噂されていた。この子は、ピンチョン大佐の膝によじのぼろうと駆けて行ったそのとたん、清教徒のその老人が死体となっていたことを発見したのだった。成人するとすぐピンチョン氏はイギリスを訪問したが、そこである財産持ちの婦人と結婚、その後幾星霜をあるいはイギリスで、あるいはヨーロッパ大陸のいろいろな都市で過ごしたのであった。この期間その本宅はある親類の人の管理に任されていた。その人はこの家屋敷を徹底的に修理しておくことに免じて、当分の間、そこを自分の住まいにすることを許されていた。この契約はきわめて忠実に実行されていたので、今、ちょうど大工がその家に近づいたとき、彼のもの慣れた目でさえ家の状態に文句をつけるあらを捜すことができなかった。七つの破風の先端は鋭くそびえ立っていた。こけら板の屋根は一滴の雨水も漏らさぬようだった。またきらきらと輝いている漆喰《しっくい》が外側の壁の表面全体に塗られていて、まるでたった一週間前に塗り替えられたばかりのように、十月の日を浴びて光を放っていた。
その屋敷は、人間の顔に現われる、心から活動を楽しんでいる晴れやかな表情のような、あの生気あふれる快活な外観を呈していた。だれでも、ひと目で、大ぜいの家族がその中で盛んに活動していることがわかったろう。樫材を山と積んだ一台の車が通用門を過ぎて裏手の離れ家のほうへ行くところだった。太った料理人──またはたぶん家政婦だったろう──が勝手口のところへ立って、農夫が売りに持ってきた数羽の七面鳥や家禽《かきん》を値切っていた。時々、階下の窓越しに、きちんとした身なりの女中がひとり、またこんどは黒光りする顔の奴隷がひとり、ばたばた通るのが見られた。二階の部屋のあけ放した窓に、幾つかの鉢に植えられた美しい優雅な花――外国産の品種の花だが、ニューイングランドの秋の日光ほどほかほかと快適な日ざしは全く経験していなかった──その花へ身を乗り出している、その花と同じ外国育ちの、またその花のように美しく臈《ろう》たけた、ひとりの若い婦人の姿があった。彼女の容姿は、その建物全体に、言うに言われぬ優美さと、ほのかに妖艶《ようえん》な魅力とを与えていた。他の点では、その建物は豪壮な、明るく陽気そうな大邸宅で、一門の長老の住まいとして似つかわしく思われた。彼は真正面の破風に家長自身の本陣を構え、残り六つの破風を六名の子に一つずつ割り当てているのかもしれなかった。他方中央の大煙突は当然この故老の寛大な心を象徴し、これが子供たち全部の気持ちを暖かく保ち、そして七つの小さい個々の心を包容する完全な一つの偉大な心にまとめていた。
正面の破風には垂直の日時計が取り付けられていた。それで大工がその下を通るとき、見上げて時刻に気を留めた。
「三時だ!」と彼はひとりごとを言った。「僕の父の話では、あの日時計は例の老大佐が死ぬたった一時間前に取り付けられたものだそうだ。それがこの三十七年間なんと正確に時間を守っていることだろう! 時の影法師がはいずり忍び寄り、常に日光の肩越しにのぞいているのだ!」
マシュー・モールのような職人が、紳士の屋敷へ出頭せよと呼び出された場合には、使用人や労働者たちが普通出入りを許されている裏口に行くか、または少なくとも、もっと上級の商人たちがご用を承る横手の勝手口へ回るほうが分相応であったかもしれなかった。しかしその大工は性質がたいへん気位高く偏屈なところがあった。そしてそのうえ、彼はちょうどこの時、そのじつにりっぱなピンチョン屋敷が当然彼のものになっていたはずの土地に立っているのだと考えていたために、心の中は先祖以来の不当な所有権侵害を恨んで怒っていた。甘露な天然水がわいてくる泉のそばの、ちょうどこの敷地の上に、彼の祖父は松の木を切り倒して一軒の粗末な家を建て、その中で子供たちが生まれたのであった。ピンチョン大佐はただもう死んで硬直している男の握りしめた指から、その地所の所有権をもぎ取ってしまったようなものだった。そういうわけでモール青年は、彫刻した樫の大扉へつかつかと進んで行って、あの恐ろしい魔法使いの老人が自分で戸口に立っているのだとだれでも想像したろうと思うほど、かしましい音でノッカーを打ちつけた。黒人のシピオはすごくうろたえて、呼び出しに応じて出てきたが、大工の姿しか見えないので、驚きあきれて、白い目をむいてにらんだ。
「とんでもないこった! こいつはなんちゅう大それた人間なんだろう、この大工のやつめ!」と、シピオはのどの奥でもぐもぐ言った。「あいつがありったけの力で玄関の戸をひっぱたいたなんてだれが思うもんか!」
「さあやってきたよ!」とモールは、きびしい声で言った。「お前の主人の居間に案内しな!」
彼が家の中にはいったとたん、美しい、そして悲しい旋律が、二階の部屋の一つから流れ出て、廊下を伝い、魂をわななかせるように響いてきた。それはアリス・ピンチョンがはるか海のかなたから携えてきた楽器、ハープシコードであった。麗人のアリスは未婚の身の余暇をいつも花か音楽かに費やしていたが、それでも花はとかくしおれがちであったし、音調はしばしばうれいに沈んでいた。彼女は外国の教育を受けていて、美しいものは何ひとつ発展したことのない、ニューイングランドの生活様式になじむことはできなかった。
ピンチョン氏はモールの到着を今か今かと待ちかねていたところだったので、黒人のシピオは、むろん、一刻の猶予もなく大工を主人の面前へ案内した。この紳士がすわっている部屋は手ごろな広さの居間で、家の庭園がながめられ、一部の窓が数本の果樹の葉群《はむら》にさえぎられて日陰になっていた。その部屋はピンチョン氏の私室で、大部分はパリからもってきた、優雅で高価な様式の家具が備え付けてあった。床は(その当時は、まだめったにないしろものだった)まるで生きている花で燃え輝くかと思うほど、巧妙に艶《つや》やかに織られた絨毯でおおわれていた。片隅に大理石像の婦人が立っていたが、婦人の像にとっては、持っている美しい肌身だけが唯一の、またそれだけで十分な衣装であった。いくつかの絵――古色を帯びて、そして豊醇な色調がしみ渡って目もあやな光彩を放っている──が壁にかかっていた。暖炉の近くには大きく、非常に美しい象牙をちりばめた黒檀の用箪笥《ようだんす》があった。それは古めかしい家具の一つでピンチョン氏がベネチアで買い求めたもので、メダル、昔の貨幣、そのほか旅先で拾い集めたどんな小さな、また貴重な骨董品でも納めておく宝庫に使われていた。しかし部屋は、こんないろいろな装飾品をみな並べても、昔に変わらぬ特色を見せていた。それは低い間柱《まばしら》、大梁《おおはり》、昔ふうなオランダの彩瓦《いろがわら》を用いたマントルピースなどであった。その結果部屋は、舶来の思想を熱心に詰め込み、苦心してみごとな才芸を修めたものの、前よりも大人物にならず、また本質的な個性としては、優雅にもなっていない人間を象徴していた。
じつにみごとに家具を整えたこの部屋にむしろ場違いのように見える物が二つあった。一つはある広い地域の大きな掛け地図、または測量図面で、それは何十年かずいぶん昔に描かれたらしく、今は煙ですすけたり、またあちらこちら指でさわった跡でよごれていた。もう一つは清教徒の服装をしているいかめしい顔の老人の画像で、あらい筆触《タッチ》ながらも、大胆な効果があって、驚嘆するほど性格が強く表現されていた。
イギリス産の石炭を燃やしている炉火の前の小さいテーブルに向かって、ピンチョン氏は腰を降ろし、フランスですっかり気に入りの飲み物になってしまったコーヒーをすすっていた。彼は中年のじつに眉目秀麗な男で、ふさふさと肩まで垂れるかつらをつけていた。青いビロードの上着を着て、へりやボタン穴のところにはレースがついていた。そして火明かりが、金糸で花模様をいちめんにあしらった、ゆったりした幅のある胴衣をきらきらと照らしていた。大工を案内してシピオが部屋にはいってくると、ピンチョン氏はいくらかからだを向きかえたが、再びもとの姿勢に戻って、ゆっくりとコーヒーを飲み終わって、目の前に呼びつけた客を注意して見ようとはしなかった。それは彼が故意に無礼を働くとか、または無視してやろうというわけではなくて――もしそうだったなら、ほんとうに、彼は罪を自覚して赤面したことであろう──モールのような身分の人間が、自分の礼儀に対して注文をつけるとか、または礼儀について、どうのこうの心をわずらわすとかいうことは、いっこう念頭になかったからであった。
しかし大工はすぐ炉床のそばまでつかつかと歩いて行って、ピンチョン氏と正面から相対するように、くるりと向き直った。
「あなたは僕を呼び出しなさいましたね」と彼は言った。「どうぞ、僕が自分の仕事に戻れますように、用向きをご説明くださいまし」
「ああ! 失礼だが」とピンチョン氏は、静かに言った。「私は補償もしないでお前に時間の負担をかけるつもりはない。お前の名は、たしか、モールだね──トマスだったかマシュー・モールだったか──この家を建築した男の息子か孫の者だね?」
「マシュー・モールです」と大工は答えた──「この家を建てた者の息子──この土地の正当な所有者の孫でございます」
「私はお前がちょっとほのめかしたその紛争のことを承知している」とピンチョン氏は、心を乱した様子もなく落ち着き払って述べた。「私の祖父がこの邸宅の敷地に対する所有権を確立するため、法による訴訟にたよらざるをえなかったことをよく知っている。われわれは、お前しだいだが、その論争をくり返したくない。その件は、その当時、しかも管轄裁判所によって──公平に、と申さねばならない──それで、何にしても、いまさらどうにもならない、決定となったのである。しかるに、まことに奇態にも、お前が偶然触れたその問題こそ、私が今お前に話そうとしている事件なのだ。それでこのあいも変わらぬ執念深い遺恨――失礼だが、悪意あっていうのではない──お前が今見せたその忿懣《ふんまん》が、この件から完全に除かれているとはいえないのだ」
「ピンチョンさま」と大工は言った。「自分の血筋の者に加えられた不法行為に対して、人が自然にもらした無念の言葉に、なんぞご趣旨にかなうことがございましたら、どうぞご随意に!」
「言葉どおり真に受けますぞ、モールどの」と七破風の持ち主は、かすかに笑いながら言った。「それで私はお前にこれからある方策を提案しようと思うが、このことには、お前の父祖から伝わった遺恨が――もっともであるにせよ、ないにせよ――私の用向きに関係していたのかもしれない。お前は、察するところ、ピンチョン家が、わが祖父の時代以来常に、東部地の莫大な領土に対する請求権が、今なお未解決のまま告訴中であることは知っているだろう?」
「たびたびですとも」とモールは答えた――そして彼は顔じゅうに薄笑いを浮かべたと言われている──「もう始終でした──僕の父から!」
「この請求権は」とピンチョン氏は、大工の笑いが何を意味しているのか考えていたかのように、ちょっと間を置いて、言い続けた。「私の祖父が死去した当時、まさに落着して完全に承認される寸前の模様であった。祖父がなんの困難も、なんの遅延も予期していなかったことは、祖父の腹心の人たちが、十分承知していたのだ。さて、ピンチョン大佐は、いうまでもなく、公私の事務に精通している実際家で、絶対に、不当な欲望をいだいたり、あるいは実行不能な計画を追求しようと試みる人物ではなかった。それゆえ彼が、この東部領土に対する請求権の問題で、相続人たちにははっきり知られていないけれども、自信をもって勝訴を予想するだけの根拠を持っていたと明瞭に結論されるのである。要するに、私はこう信ずる──また私の法律顧問たちも私の信念と一致しており、そのうえ当家の伝説によっても、ある程度、正しいと認められていることなのだ――私の祖父がこの請求権に必要な、ある土地証券、または証書を持っていた。しかし、それがその後見えなくなってしまったのだ、と信じている」
「いかにもごもっともです」とマシュー・モールは言った──そしてまたも彼の顔には陰気な笑いが浮かんだといわれている。──「ですがひとりの貧しい大工がピンチョンさまのご当家の重大事件といったいなんの関係がありましょうか?」
「おそらく全然なかろう」とピンチョン氏は言い返した──「ことによると、大いにあろう!」
ここで、マシュー・モールと七破風の持ち主との間に、後者がこんなふうに切り出した問題について、非常に多くの言葉が綿々と語られた。それは(ピンチョン氏は、極端にばかばかしく見える噂話に触れることはかなり躊躇《ちゅうちょ》したものの)世間で信ずる通説が、モール家の人たちとピンチョン家の所領としてまだ実現されていない広大な地所との間にあった、ある不可解な因縁や所属のことを暗示しているということであったらしい。魔法使いの老人は、絞首刑にされたとはいえ、ピンチョン大佐相手のけんかでけっきょく、いちばんうまい物を買い当てたと一般にいいふらされていた。彼は一エーカーか二エーカーの庭地と交換して、莫大な東部地の請求権を手に入れてしまったからであった。近ごろ死んだ、非常な年寄りのあるばあさんが、囲炉裏話をしながら、たびたび比喩的な表現を使って、何マイルも広いピンチョン領土が、モールの墓の中ヘシャベルでほうり込まれてしまったと話した。ついでながら、モールの墓は「絞首台の丘」の頂上近くの二つの岩にはさまれた、きわめて浅い穴にすぎなかった。また、弁護士たちが見えなくなった文書を捜して調査したとき、それは魔法使いの骸骨の手の中からでなければ、けっして見つかるまい、と笑い話にされていた。抜け目ない弁護士たちは、こんな伝説を非常に重要視した結果――(しかしピンチョン氏はこの事実を大工に知らせることは適当と思わなかった)──魔法使いの墓をこっそり捜索させたのだった。しかし何ひとつ見つからず、ただ、不思議なことに、骸骨の右手がなくなっていることがわかっただけであった。
さて、疑いもなくゆゆしい大事は、こうした世間の噂話の一部の出所が、かなりあやふやな、あいまいなふうにではあるけれども、死刑になった魔法使いの息子で、かつ現在のこのマシュー・モールの父親の、ふとした言葉やそれとなくぼかした口ぶりからである、と突き止められたことであった。それで、ピンチョン氏は、ここで自分が関係した手持ちの証拠の一件を活用することができたのだった。そのころはまだほんの子供でしかなかったが、彼は、大佐が死んだ前日、ひょっとしたら当日の朝、いま現に彼と大工と話し合っているこの私室で、マシューの父親が、何か仕事をやっていたことを記憶していたか、でなければどうもそんな気がするのであった。ピンチョン大佐の物である何かの書面が数枚、卓上に散らばっていたことを大佐の孫ははっきり思い浮かべていた。
マシュー・モールは婉曲《えんきょく》に容疑をほのめかされていると悟った。
「僕の父は」と彼は言った――しかしやはり、彼の表情を一種の謎にする、例の陰気な微笑を浮かべていた。――「僕の父はあの残忍な老大佐より正直な人間でした! 父の所有権が二度と取り返されぬよう、証書を一枚あの世へ持って行ってしまったのでしょう!」
「私はお前と議論のやりとりはしない」と外国育ちのピンチョン氏は、尊大に落ち着き払って述べた。「また私の祖父、あるいは私個人に対するどんな無礼にも立腹することは私にふさわしいふるまいとはなるまい。紳士たる者は、お前のような身分や階級の人間と交際を求める前に、まず、緊急な目的が不快な手段を償うものかどうか、考慮するものである。こんどの場合はその埋め合わせがつくことなのだ」
それから彼は話を元へ戻した。そしてもし大工が、ゆくえ不明の書類が発見され、その結果、東部地の請求権が首尾よく認められるようになる資料を提供するならば、大工に莫大な金銭を取らせると申し入れた。長い間マシュー・モールはこの提案に対し、冷淡に耳を傾けなかったといわれている。けれども、最後に、彼は奇妙な笑い声を立てながら、ピンチョン氏が、それほど必要に迫られている証拠書類の返礼として、魔法使いの老人の宅地を、現在その土地に建っている「七破風の屋敷」ともども、譲り渡す気があるかどうかと尋ねた。
根も葉もない炉辺の伝説は(私の物語はもともとこの伝説を、誇張はいっさい抜きにして追っている)ここで、ピンチョン大佐の画像に現われたじつに奇態なあるふるまいについて話を伝えている。この絵は、その家の運命ときわめて密接な関係があり、そして全く魔法仕掛けで壁の中へはめ込んであるため、万一その絵が取りはずされるようなことがあれば、まさにその瞬間、高楼全体が大音響とともにくずれ落ち、塵埃《じんあい》になってしまうだろう、と思われていたことを理解していただきたい。ピンチョン氏と大工との間にさっきのような会話が行なわれている間、始終この画像はにらんだり、こぶしを握りしめたり、極端に不安な証拠をたくさん見せていたけれども、ふたりの対話者はどちらも気がつかなかった。そして最後に、マシュー・モールが七破風の建物を譲り渡せとずぶとく切り出したのを聞いて、幽霊のような画像はとうとう堪忍袋の緒を切って、その額縁から今にも自分で降りて来ようとする様子を見せたとはっきり伝えられている。しかしこんな信用の置けない出来事は表立って話しする筋合いのものではない。
「この家をよこせって!」とピンチョン氏は、その申し出に仰天して大声で叫んだ。「もし私がそんなことをしようものなら、私の祖父は墓の中に安閑と眠ってはおられまいぞ!」
「もし噂話が全部ほんとだとすると、そのおかたはけっして安眠なさっていやしませんよ」と大工は落ち着き払って、述べ立てた。「しかしその問題はマシュー・モールに対してよりもむしろそのおかたの孫に関する事柄です。僕はそれ以外、提案する条件を持っていません」
ピンチョン氏は、最初、モールの条件を承諾することはできないと考えた。それでも、再びちらりと見やったときは、少なくともそれを問題として取り上げて話し合ってみてもよいという意見になった。自分ではその家に対して少しも個人的な愛着を感じていなかったし、幼いころの住まいであったこの家にまつわる愉快な思い出は何ひとつ持っていなかった。それどころか、三十七年たった今もなお祖父の死霊が家じゅうにみちみちているように思われて、まるであの日の朝、ものすごい形相で、いすにかけたまま硬直している祖父の姿をながめて、少年が驚きおびえたあの時と全く同じだった。そのうえ長年外国に滞在し、イギリスの多くの城、昔の領主の大邸宅、またイタリアの大理石の宮殿に関する知識のために、壮麗の点からも、彼は「七破風の屋敷」を軽蔑の目でながめるようになっていた。その屋敷は、領土の所有権を実際に獲得したあかつきに、ピンチョン氏が必ず営まなければならない領主の生活様式には、はなはだしい不釣り合いな邸宅であった。彼の執事なら恥を忍んでこれに住むこともできよう、だがけっして、広大な土地の領主自身ができないことは確かだった。もし、ほんとうに成功した場合には、イギリスに帰ろうというのが彼の意図であった。また、じつのところ死んだ妻の財産はもちろんのこと、彼自身の財産も使い果たされる徴候が見えてこなかったなら、あんなずっと快適な国をいまさら立ち去ろうとはしなかったろう。東部地請求権がひとたび公正に解決され、そして確かな基礎に立って実際に領有できたなら、ピンチョン氏の所有地は――エーカーでなく、マイル数で計算される──伯爵領の価値があり、それで当然イギリス国王にあの高貴な爵位を請願する資格もあろうし、また買い取ることもできるだろう。ピンチョン卿!──あるいはウォルドー伯爵!――このような高貴の人が、なんで身の栄耀栄華を、小っぽけな七つのこけら板ぶき破風の大きさぐらいに縮めるなどと考えられようか?
要するに、この事をもっと大局的に考えてみると、大工の持ち出した条件はじつにばかばかしいほど簡単なものなので、ピンチョン氏は大工の目の前で笑いをがまんしかねたくらいだった。彼は今述べたようにいろいろ反省したあとで、得られるはずの莫大な利益と比べてじつに安価な報酬を、いくらかでも値切ろうと言い出すことは全く恥ずかしいことだと思った。
「モール、私はお前の提案に賛成しよう」と彼は叫んだ。「私の所有権を立証するに必要な証書を私に渡せ、そうすれば『七破風の屋敷』はお前のものだ!」
ある異説の物語によると、今述べた趣旨の正式の契約書が弁護士の手で作られ、証人立ち会いで署名|捺印《なついん》されたといわれる。他の物語によると、マシュー・モールは、ピンチョン氏が自己の名誉と誠意にかけて、取り決めた条件の遂行を保証した非公式の契約書で満足したともいっている。紳士はそれからぶどう酒を命じ、大工といっしょに乾杯して、その契約を確認した。最初のふたりの議論からその後の正式な手続きまでの間絶えず、かの老清教徒の画像はもうろうとした身ぶりであくまでも不賛成を主張していたものらしい。けれどなんのかいもなかった。ただ、ピンチョン氏が杯を飲み干して下に置いたとき、祖父の顔が心持ちけしきばんだように見えただけであった。
「このシェリー酒は私には強すぎるぶどう酒だ。はやもう頭にきいてきたよ」と彼は絵を見た。とたん、いくらかぎょっとした顔つきで述べた。「ヨーロッパに帰ったら、イタリアやフランスの、もっと優秀な品質の年号入りぶどう酒に限るとしよう。その最高級品は輸送したら台なしになるんだ」
「ピンチョン卿におかれてはどのようなぶどう酒も、またどこで、お飲みになろうともご随意です」と大工は、まるでピンチョン氏の野心的な計画を打ち明けられでもしたかのように答えた。「しかしまず、だんなさま、もしこのなくなった証書の消息をお望みとあらば僕はあなたの美しいアリス嬢とちょっとお話しするご好意を、たってお願いいたさなければなりません」
「気が狂ったか、モールめ」とピンチョン氏は、傲然《ごうぜん》と大声でどなった。そしてこんどは、とうとう憤怒と高慢とがごたごたに入り交じった。「わが娘がこのような一件といったいなんの関係があるか?」
実際、大工のがわのこの新しい要求を聞いたとき、七破風屋敷の持ち主は、彼の家を明け渡せといけしゃあしゃあと切り出されたときよりもかえって肝をつぶしたのだった。最初の契約条項に対しては、少なくとも譲歩できる動機があった。後の条件に対して譲ることのできる動機は何ひとつあるとは思えなかった。それにもかかわらず、マシュー・モールはその若い貴婦人を呼び入れるよう言い張った。そして彼女の父親に、一種の神秘めいた説明のしかたで──これがこの事件の様相を予想以上に相当陰暗にしたのである──ようやく納得させたのだった。つまり、そのぜひとも必要な知識を手に入れるたった一つの見込みは、麗人のアリス嬢がもっているような清浄無垢な処女の知性を玲瓏《れいろう》透明な霊媒とすることであった。われわれのこの物語に、ピンチョン氏の、良心の呵責、自負心、あるいは父親としての愛情ゆえの、気迷いやためらいをからませずにあっさり言うと、彼はけっきょく娘を呼ぶよう命じたのであった。彼は、娘が部屋にいて、そしてすぐに手放せない仕事に従事しているわけでないことをよく知っていた。というのは、偶然にも、アリスの名前が話に出てからは、父親も大工もともに彼女の弾奏するハープシコードの悲しい、美しい音楽と、それに合わせている、もっとはかなく思い沈む哀調の彼女の歌声とを聞いていたからであった。
そこでアリス・ピンチョンは呼ばれて姿を現わした。ベネチア派のある画家が描いた、そして父親が残してきたこの若い貴婦人の肖像は、デヴォンシャー現公爵が入手して、今はチャツワースに保存されているといわれている。それはその絵の本人となんらかの交際があったためではなくて、絵としての独自の価値、および顔に現われた高貴な品性の美のためであった。もし天性の貴婦人で、一種の気品と冷淡な麗容によって世俗の民衆から区別される人物がかつていたとすれば、その人こそアリス・ピンチョンにほかならなかった。それでも彼女には女らしいところが混じっていた。やさしい情愛、いや、少なくともやさしい情愛の素質があった。そのような取り柄の気質の人のためには、寛容の気性の男なら彼女の自負心をいっさい許したことであろう。そして、彼女が通る路上に横たわり、アリスの華奢なその足で男の胸を踏ませて満足を覚えたことであろう。男が要求したと思われるすべてのものはただ、彼もまた実際一個の人間であり、彼女と同様、同じ要素で造られている、ひとりの同胞であるという事実の承認にほかならなかったのである。
アリスが部屋にはいってきたとき、彼女の目は大工にとまった。彼は部屋の中央近くに立ったままでいて、緑色の毛のジャケットを着、膝がしらがむき出しの、だらしない半ズボンをはき、それにはものさし用の長いポケットがあって、ものさしの先がはみ出ていた。ものさしがその職人の家業にふさわしい目印であることは、ちょうどピンチョン氏が、紳士としての貴族階級を自負する正装用の剣と同じであった。芸術的な美を称賛する紅潮がアリス・ピンチョンの顔いっぱいに輝いた。彼女は──それを少しも隠そうとしなかった――モールの容姿の驚くばかりの端麗さ、たくましさや、気力にすっかり感嘆してしまった。しかしそれほど賛嘆するまなざしを(たいていの他の男ならおそらく、一生涯、楽しい思い出の種としてそれをたいせつに心にいだいていたろうに)その大工はけっして容赦しなかった。モールの知覚の働きをそれほど捕えがたく陰険にしたものは、じつに悪魔自身であったに相違なかった。
「この小娘は僕をまるで野蛮なけだものみたいにながめるのか?」と歯がみしながら、彼は考えた。「僕が人並みに精神を持っているかいないか、この女に思い知らせてやろう。もし僕の精神がこの女のものより強いと証明されれば、それだけこの女は不幸になるのだ!」
「おとうさま、私を呼びなさいましたね」とアリスは、美しい、ハープの音色のような声で言った。「でも、もしこのお若いかたにご用がありますのなら、どうぞ私をまた帰らせてくださいませ。おとうさまはあのクロード〔クロード・ロラン、フランスの風景画家〕の絵で晴れやかな思い出を呼び戻そうと努めていらっしゃいますが、たといあの絵がありましても、ご存じのとおり、私はこの部屋が好きでありません」
「どうか、しばらくお待ちください、お嬢さま!」とマシュー・モールは言った。「僕とあなたのおとうさまとの用談は済みました。あなたとの用向きが、これから始まるのです!」
アリスは、びっくりして不審そうに、父親のほうをながめた。
「そのとおりだよ、アリス」とピンチョン氏は、ちょっと取り乱してろうばいしながら言った。「この若者は──名前はマシュー・モールというのだが──私が了解する限りでは、お前を仲介として、お前が生まれるはるか昔からゆくえ知れずになっているある書類、すなわち羊皮紙の証書を発見できると言明しているのだ。その文書はきわめて重要なものゆえ、これを取り戻すため、できる限りの手段を尽くし、たといまゆつば物と思われる手段さえ、無視せぬほうが得策なのだ。それでね、アリスよ、今申した趣旨にかなうかぎり、この男の質問に答え、またその法にもかない、かつ無理からぬたのみに応じてやってもらいたいのだ。私はこのまま部屋にいるから、若者のがわの粗暴な、また不都合なふるまいは案ずるには及ばぬよ。それに、お前が少しでも希望するなら、むろん、その調査は、いやどんな名目であれ、ただちに取りやめにするつもりだ」
「アリス・ピンチョンお嬢さまは」とマシュー・モールは、最大の敬意を表して、しかもその顔色と声の調子には隠しきれない皮肉を見せながら、話した。「もちろん、おとうさまが控えておられますし、またおとうさまの万全な保護を受けられて、さだめしご安心におぼしめされましょう」
「確かに私は、おとうさまのおそばで、露ほどの不安も覚えませぬ」とアリスは、処女らしい品位を示して言った。「また私は、貴婦人が自己の本分に忠実でありますなら、たといどのような人からも、またどのような場合に臨みましても、恐れることがあろうとは少しも考えられませぬ!」
哀れなアリス! こうして彼女はいったいどんな不幸な衝動に駆られて、自分が評価できない力に対して挑戦する状態にたちまち身を置いてしまったのだろうか?
「それでは、アリスさま」とマシュー・モールは──職人ふぜいとしては、じつに堂に入った身ぶりで──いすを勧めながら言った。「失礼ながらちょっといすにおかけあそばして、そして何とぞ(しがない大工の分際として誠にもったいないことながら)お目を私の目にじっとそそいでくださいまし!」
アリスは言われるとおりにした。彼女ははなはだ誇り高かった。貴族の身分のあらゆる利点を別にしても、この美しい少女はある力――美、高貴、無垢の純潔、それに女性の保全力との結合したもの──そして心の中の反逆によって裏切られないかぎり、彼女の本領を侵すことのできない世界にする、そんな力を自覚している気でいた。彼女は、おそらく何かしら不吉な、邪悪な目に見えぬ力がいまやひしひしと彼女の障壁を突破しようと迫っている、と本能的に悟っていた。そして彼女もまたその抗争を拒否しようとしなかった。そこでアリスは女の子の力を男子の力に対抗させたのだ。女のがわでしばしば互角にならない取組みであった。
彼女の父親はその間あちらを向いて、クロードの描いた風景画を見て瞑想にふけっているふうであった。その絵では、薄暗い、そして縞《しま》のように太陽光線のさした遠景がはるかかなたの千古の森の中へ溶け込んでいたので、たとえ彼の空想があまりに深く絵の奥へ呆然《ぼうぜん》と迷い入ってしまってもなんら不思議はなかったろう。しかし、じつをいえば、その絵は、その時の彼にとっては、絵のかかっているのっぺりした壁も同然であった。彼の心は、かねて聞いていた多くの奇妙な話で絶えず付きまとわれていた。それは、超自然的とまではいかなくとも不思議な才能が、ふたりの直系の祖先はもとよりいま現にここにいるその孫ともども、これらモール家の人たちのものであるという話であった。ピンチョン氏の長年の外国滞在や、当世の才子や流行児たち――追従者とか、名利を追う俗人とか、また自由思想家たち──との交際が、昔そのころ、ニューイングランド生まれならだれひとり完全には脱けきれなかった、清教徒のあの無気味な迷信を消し去るのに大いに役だっていた。けれども、他方では、社会の人々全部がモールの祖父を魔法使いであると信じていなかったか? その犯罪が証明されなかったか? 魔法使いはその罪状のために死ななかったか? その魔法使いが、ピンチョン家に対する祖先伝来の宿怨《しゅくえん》を、ただひとりのこの孫に残さなかったか、そしてこの孫が、見たところ、その怨敵《おんてき》の家の娘に怪しい霊力を今まさに働きかけようとしているではないか? この霊力こそ魔法と呼ばれるものとまさしく同じものではないだろうか?
くるりとからだの向きを半回転して、彼は姿見に映ったモールの姿をちらりとながめた。大工は、アリスから数歩離れた所で、両腕を高く空中に持ち上ちげて、あたかもおもむろに、重々しい、そして目には見えないある重圧を、その処女に対して下向けに働かせているかのような身ぶりをしていた。
「待て、モール!」とピンチョン氏は、前へ進み出て、大声で叫んだ。「お前はこのうえ続けて行なうことは許さぬぞ!」
「もしおとうさま、どうぞ、このかたのじゃまをなさらないでくださいませ」とアリスは、そのまま姿勢を変えずに言った。「この人の働きは、私が請け合います、なんの危害もないことが証明されましょう」
再びピンチョン氏はクロードの絵に目を移した。それなら、わが意志に反して、この実験を完全にやらせようとするのがわが娘の意志であったのだ。したがって、これからは、自分はしいることなく、ただ承諾さえすればよいのだ。それに私がこのことの成功を望むのは自分のためよりも、はるかにもっとわが娘のためではないか? あのなくなった羊皮紙の証書がいったん取り戻せたなら、美しいアリス・ピンチョンは、自分がその時贈与できる莫大な持参金付きで、ニューイングランドの牧師や弁護士のような者でなく、イギリスの侯爵か、またはドイツの現皇太子と結婚するかもしれないのだ! こう考えて、野望に燃えるこの父親は、心の中で、もしこの大きな目的達成のために悪魔の力が必要とあらば、モールが悪霊を呼び出してもよろしい、と承諾する気になっていた。アリス自身の純潔が彼女を安全に保証するであろう。
はなやかな空想に心をふくらませていたピンチョン氏は、娘の口から出かかった、何やら叫び声を耳にした。その声は非常にかすかで低かった。全くぼそぼそとして、言葉に言い表わそうとする意志さえ半ば欠けていたとしか思えなかったし、趣旨があまりにぼんやりしていて理解できなかった。けれどもそれは助けを求める呼び声であった!──彼の良心はそのことをけっして疑わなかった──そして、彼の耳にはほとんどささやきとしか聞こえなかったが、それは陰気な悲鳴であり、そしてそのような叫びとして長い間彼の胸の奥あたりで、くり返し響き渡った! しかし、こんどは、父親はふり向かなかった。
さらにしばらく間をおいて、モールが話した。
「あなたのお嬢さまをごらんなされませ!」と彼は言った。
ピンチョン氏はそそくさと進み出た。大工はアリスのすわっているいすのまん前にすっくと立っていて、そして力を勝ち誇る表情で乙女《おとめ》のほうを指さしていた。その力の及ぶ範囲が、ほんとうに目に見えぬ霊界や無限の世界に向かい茫漠《ぼうばく》として伸び広がっているので、その限界を明らかにすることができなかった。アリスはぐっすりと深く眠っている姿勢ですわっていて、長い鳶色《とびいろ》のまつ毛が目の上にたれていた。
「そら、お嬢さまはあのとおりでございますよ!」と大工は言った。「話しかけてごらんなされませ!」
「アリス! これ娘!」とピンチョン氏は大声で叫んだ。「アリス!」
彼女は身動きもしなかった。
「もっと大きな声で!」とモールは、ほほえみながら言った。
「アリス! 起きなさい!」と父親はどなった。「お前のこんな様子を見るのは心外だ! 起きなさい!」
彼は、恐怖を帯びた声で、そしてどんな耳ざわりな音にもいつも非常に敏感に聞きとがめたあの微妙な耳に口を寄せて、高い声で話しかけた。しかしその音が彼女に届かないことは明らかだった。自分の声が娘の心に通じないこのような無能さが、彼とアリスとの間に、どんなに遠い、暗い、どうしても到達できない距離感を父親の心に焼き付けたかは、言い表わしようがないのである。
「からだにさわるのがいちばんいいです!」とマシュー・モールは言った。「お嬢さまをゆすぶってごらんなさい。それも手荒くですよ! 僕の手は手斧や、鋸《のこぎり》や、鉋《かんな》をあんまり使いすぎて固くなっていますから――でなければお手伝いしたいところですが!」
ピンチョン氏は娘の手を取って、しんけんに握りしめた。彼は娘に接吻した。それに非常な情熱がこもっていたので、娘は必ず感じなければならないはずだと思った。それで、娘がまだ目をさまさないのを見て急にかっと怒って、その処女らしいからだを乱暴にゆすぶったが、次の瞬間、それに気がついてはっとした。彼は抱いている両腕を引っ込めた。するとアリスは──彼女の姿態は、しなやかに自由になるけれども、全く意識がなかった――彼女の目をさまそうといろいろな手を尽くす前の、もとの姿勢に逆戻りしてしまった。モールが位置を変えたので、彼女の顔がわずかに彼のほうに向けられた。がどうやら彼女の眠りそのものが彼のさしずと関係ありそうに思われた。
それから因習を尊ぶその男が、いかに鬘《かつら》から髪粉を落として怒り震えたか、取り澄ました、堂々たるその紳士がいかに自己の威厳を忘れたか、金糸の刺繍の胴衣《チョッキ》がその下で動悸《どうき》をうっている胸の中の憤怒、恐怖、悲哀の発作に伴って、いかに炉火の光にちらちら揺れ、きらきらと輝いたか、そのながめは異様な光景であった。
「悪党めっ!」とピンチョン氏は大声でどなって、モールに向かって握りこぶしを振り回した。
「きさまは悪霊とぐるでわしから娘を盗んでしまったな! 娘を返せ、老いぼれ魔法使いの小せがれめ、さもないときさまのじじいの跡を追わせて、きさまも『絞首台の丘』へ登らせてやるぞ!」
「お静かに、ピンチョンさま!」と大工は冷笑しながら落ち着き払って言った。「お静かに、どうぞおとのさま、でないとあなたさまの手首のそのごりっぱな襞飾《ひだかざ》りが台なしになりますよ! もしあなたさまがたかが一枚の黄色い羊皮紙をつかみ取りたいばっかりにお嬢さまを売り渡されたとしても、それは僕の罪でしょうか? あれあのとおりアリスお嬢さまはすわって静かにお眠りです! さてこの大工がさきほどお見かけしたときとおんなじにお嬢さまが天狗かどうかマシュー・モールが試してみましょう」
彼は話した、するとアリスは、なよなよと打ち沈み、暗黙に同意している様子で返事したし、また松明《たいまつ》の炎が揺れて隙間漏れる風の流れをそっと暗示するときのように、彼のほうへ彼女のからだを傾けていた。彼は片手でさし招いた。すると彼女はいすから立ち上がって――盲目的に、しかしなんの疑念もなく、まるで確かな、必然的な自己の中心へおもむくように──かの誇り高いアリスが彼に近づいた。彼は手を振って後退するよう合図した。すると、アリスはあと戻りして、自分の席に腰を降ろした。
「お嬢さまは僕のものです!」とマシュー・モールは言った。「最も強力な精神の権利によって僕のものです!」
この伝説をさらに進めていくと、なくなった文書を発見する目的で、大工が唱える呪文(もしそんなふうに呼ぶことができるなら)の、長々しい奇怪な、そして時々畏怖を感じさせる物語になる。大工の目的は、アリスの心を一種の望遠鏡的な霊媒に変え、これを通してピンチョン氏と彼とが霊界を瞥見《べっけん》しようということだったらしく思われる。したがって、彼は、この地上の世界のかなたへ持ち去られた、きわめて貴重な秘密を保管しているあの世の亡者たちと、ひとり隔てて、不完全ながら一種の霊交を行なうことに成功したのであった。彼女は昏睡《こんすい》状態にある間、自分の霊化した知覚に映じている三人の人影を説明した。ひとりは老年の威厳ある、きびしい顔つきの紳士で、荘重な祝祭のためか、厳粛そうで高価な衣装を着ていたが、そのみごとな縫い取りの白いたれ襟に大きな血のしみがついていた。次の男は、みすぼらしい身なりの老人で、陰気な意地悪そうな面構えで、首の回りにちぎれた首なわがまといついていた。三番目は、前のふたりほど年寄りではないが、中年を越えた男で、そまつな毛織りの短い上着に皮の半ズボンをはき、わきポケットから、大工の物さしが一本突き出ていた。この三人の幻の人物は例のゆくえ不明の文書の消息を互いに知っていた。中のひとりは、じつのところ──それは白いたれ襟を血染めにしている男であった──彼の身ぶりが誤解されていなかったとすれば、羊皮紙文書を直接保管して持っているようなそぶりだったが、その預り物を渡して心の荷を軽くしようとした。しかし、それが同じ秘密を握っている相棒のふたりのためにじゃまされた。とうとう、彼のいるあの世からこの人間の世界にまで十分聞こえるように、彼がその秘密を大声で叫び出そうとする意志を見せたとたん、ふたりの仲間が彼と争って、ふたりの手が彼の口を圧迫した。するとたちまち──彼の息が止まったためか、それとも秘密そのものがまっかな色だったためか──彼のたれ襟に鮮血がさっと流れた。このため、ふたりのみすぼらしい身なりの人物が、ひどく赤面している高貴の老人をあざ笑ったり愚弄《ぐろう》したりして、ふたりとも鮮血のしみを指さしていた。
このだいじな急場に、モールはピンチョン氏のほうをふり向いた。
「そんな事はけっして許されはしないでしょう」と彼は言った。「あの男の相続者たちを非常な金持ちにするはずの、この秘密を保管することが、あなたのおじいさまの懲罰の一部となっています。あの男はその秘密がもはやなんの価値もなくなるまで、秘密で口をふさがれていなければなりません。それであなたさまは『七破風の屋敷』を手放さずに取っておおきなさいませ! その屋敷はあまりにも高価な犠牲を払って購《あがな》った遺産で、またあまりにもきびしい呪いにかかっていますから、大佐のご子孫からたといかたときでも肩替わりするわけにはまいりませぬ!」
ピンチョン氏は話をしようと努力した。けれども──恐怖や、憤怒で――のどもとでただごろごろつぶやくばかりだった。大工はにんまりと笑った。
「あはは、だんな!──いかにも、あなたはモール老人の血を飲まされましたね!」と彼は、あざわらいながら言った。
「人間の形に化けた悪鬼め! なんできさまはわが子に対していつまでも支配権をふるおうとするのか?」とピンチョン氏はのどに詰まった声がやっと出てくるようになったとき、大声で叫んだ。
「娘を返せ! どこへなりととっとと出てうせろ。金輪際つらを合わすな!」
「あなたの娘さんですって!」とマシュー・モールは言った。「なあに、このかたはりっぱに僕のものです! とは申しましても、美しいアリスさまがあまりつらいことのないよう、あなたにお預けしておきましょう。しかし僕は、このかたに大工のモールを思い出す機会をけっして持たせないとは保証いたしませんよ」
彼は両手を振って上へ動かす身ぶりをした。そして、同じ手まねが何度かくり返された後、麗人アリス・ピンチョンが不思議な昏睡状態から目をさました。彼女は目がさめたが、自分が幻像をみた経験は少しも覚えていなかった。ただ正体もなく一時空想にふけり、ちょうど、炉床の消えかかった炎が再び煙突へゆらめき上るほどのほんのつかのまに、われに返って現実の生活を意識した人のようであった。マシュー・モールに気がついたとたん、麗人アリスの生まれつきの自負心をかきたてた一種独特な笑いが大工の顔に浮かんでいたので、なおのこと、彼女はいくらかよそよそしい、しかし優雅な品位ある態度を装った。そのときの、東部地のピンチョン領土に関する、ゆくえ不明の不動産権利証書の捜索はこんな結果に終わってしまった。そして、その後もたびたびくり返されたけれども、ピンチョン家の者がその羊皮紙の証書を見届けたという例はただの一度も起こらなかった。
しかし、ああ、麗人の、貴婦人の、けれどあまりにも高慢なアリスは哀れであった! 彼女が夢にも思わなかった、ある力が彼女のおとめ心をしっかりとつかまえてしまった。彼女自身のものとは似ても似つかぬある意志が、彼女を強制し、無理じいに、その奇怪な、気まぐれな命令を実行させた。彼女の父が哀れにもわが子を、エーカーの代わりにマイル数で自分の領土を測量してやろうという、大それた欲望の犠牲に供してしまったことが証明された。それで、そのために、アリス・ピンチョンが生きているかぎり、彼女はモールの奴隷であり、戒めの鎖で身をがんじがらめにされるより千倍も屈辱的な捕われの身であった。
粗末な自分の炉のそばにすわったまま、モールはただ手を振り動かしさえすればよかった。そうすると、その誇り高い貴婦人がたまたまどこにいようと──彼女の部屋にいようと、また父の堂々たる風采の賓客をもてなしていようと、あるいは教会で礼拝中であろうと──彼女の居場所や仕事が何であろうと、彼女の精神は彼女自身の支配から抜け出して、モールの前に屈服した。「アリスよ、笑え!」と大工は、自分の炉のそばでよく言い言いした。あるいは、一言も口に出さないで、おそらく熱烈にその意志を念ずるのだった。すると、祈祷の時間であれ、また葬式の際であれ、アリスは急にもの狂わしい笑い声を立てなければならなかった。「アリスよ、嘆け!」――するとたちまち彼女はさめざめと涙を流して、まるで篝火《かがりび》に降りそそぐにわか雨のように周囲の人々のあらゆる喜びをかき消した。「アリスよ、踊れ!」──すると彼女は、外国で習い覚えた宮廷ふうの舞踊ではなくて、いなかのお祭り騒ぎのときの活発な娘っ子に似つかわしい急速調のジッグとか、飛んだりはねたりのリガドーンのような舞曲を踊りだすのであった。モールの一時のでき心は、アリスを破滅させることでなく、また彼女の情愛を高雅な悲劇で飾ったろうと思われる何か暗澹《あんたん》とした、あるいは非常に大きな災禍を彼女に報いるためでもなく、ただ彼女に卑しいしみったれた侮辱を晴らしたいためのように思われた。こうして生命の威厳はすべて失われた。彼女は自分があまりにひどく品位を落としたと感じて、虫けらと本性を取り替えてしまいたい激しい思いに駆られたのであった!
ある夕べ、ある結婚の宴会で──(しかし彼女の結婚ではなかった。というわけは、あまりにも自制心をなくしていたために、彼女は結婚することさえ罪悪とみなしたであろうから)──哀れにもアリスは目に見えぬ彼女の暴君に招き寄せられて、そして、薄い紗織りの白装束に繻子《しゅす》の上ばきを突っかけて、一労働者のむさ苦しい住まいへと表通りを急ぐようしいられた。家の中には笑い声やにぎやかな歓呼がわき起こった。というのはマシュー・モールがその晩、そこの労働者の娘と結婚することになっていて、それで高慢なアリス・ピンチョンを自分の花嫁にかしずかせるよう呼び出したからだった。そしてそのとおりに彼女は行なった。そしてふたりが一つになったとき、アリスは魔法の眠りから目をさました。しかし、もはや高慢ではなく──つつましく、そして悲しみにすっかり浸された微笑を浮かべながら──彼女はモールの妻にキスをして、そして立ち去った。寒さきびしい晩だった。東南の風が雪混じりの雨を彼女の薄い肌着に吹きつけた。繻子の上ばきは、泥まみれの歩道をとぼとぼ歩く間に、ぐしょぐしょにぬれてしまった。あくる日、かぜ。すぐに、痼疾《こしつ》のせき。やがて、消耗熱患者の紅潮した頬、やせ衰えたからだで、ハープシコードのそばにすわって、家じゅうに音楽を響かせた! 音楽、その中には天国の聖歌隊の歌調が共鳴していた! おお、うれしさよ! なぜならアリスはついに彼女が受けた最大の屈辱に耐え抜いたからだった! おお、さらに大いなるうれしさよ! なぜならアリスは彼女のこの世のただ一つの罪を改悟し、もはや高慢ではなくなったからであった!
ピンチョン家はアリスのためにりっぱな葬式を行なった。親類知己が集まり、そのうえさらに町じゅうの名士がみな参加した。しかし、葬式の最後に、マシュー・モールがあたかも自分の心臓さえ二つに食いちぎるばかりに、無念の歯がみをしながら、ついて来た──かつて遺体のあとに付き従った者のうち最も暗い憂愁にとざされた男であった! 彼はアリスの高慢を打ちひしごうとはしたが、彼女を殺すつもりはなかった。けれども彼はか弱い女の魂を、戯れに、荒っぽい彼の手につかみ取ってしまったのだ!
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十四 フィービのいとまごい
ホールグレーヴは、青年作家らしい精力と熱心さで夢中になって彼が書いた物語を読み聞かせていたが、所作で話の筋を述べたり例を示したりできる要所要所では、たっぷり演技を用いたのであった。彼はいま現に一種の不思議な眠け(読者が、あるいは、眠けがさしてきた、といま自分で感じているかもしれないものとは似ても似つかぬもの)が聞き手の少女の知覚に投げかけられているのを観察していた。それは、明らかに、神秘的な手まねの効果であって、これによって彼は、催眠術を施している大工の姿を身ぐるみフィービの前に連れ出し、フィービに認めさせようとしたのであった。瞼がだらりと彼女の目にかぶさって──今、ちらっと瞼が開いたかと思うと、まるで鉛のおもりが付いているように、再び降ろされて閉じてしまった──からだをわずか彼のほうに傾けて、そしてほとんど彼の呼吸によって自分の息を整えているようであった。
ホールグレーヴは、原稿をくるくると巻きながら、彼女の顔をじっと見つめ、そして例の不思議な心理状態の最初の段階であると認めた。彼は、フィービに自分から話したとおり、この状態を産み出す並々ならぬ能力を持っているのだった。ベールが彼女の身を包みはじめた。そしてそのベールの中で彼女は彼の姿だけ見ることができ、また彼だけの思想と感情の中に生きていることができた。彼が視線を若々しい少女にそそいだとき、その視線は思わず注意力をますます集中してきた。彼の態度には力を意識しているところがあって、それがまだ十分に成熟しきらない彼の風采に、肉体には全然現われていないある品位を帯びさせていた。彼がちょっと片手を振り動かし、これに応じて意志を働かしさえすれば、フィービのまだのびのびしている処女の精神を完全に支配できることは目に見えていた。つまり、彼の書いた伝説の中の大工が習い修めて不運のアリスに対して行なった術と同じくらい危険な、またおそらく同じくらい不幸なある霊妙な力を、この善良で、純粋で、天真|爛漫《らんまん》な子に対して確証できることは明瞭であった。
ホールグレーヴのような、思索的であると同時に行動的な気質の人にとって、人間精神に対する絶対支配権を握る機会ほど大きな誘惑はない。また青年にとってうら若いおとめの運命の裁決者になることほど魅惑的な考えはない。それゆえ、われわれは──彼の性質や素養の欠陥は何であっても、また宗旨や制度に対する彼の軽蔑にもかかわらず──この銀板写真家に、他人の個性を尊重するというまことに珍しい、高尚な特性があることを認めよう。さらにまた、信頼された後はいつまでも変わることのない誠実さを彼が持つとしよう。なぜなら彼は、フィービに対する自分の呪文を永久に解けぬ鎖にしたかもわからなかったそのもう一つの環を、自分から押えてからませなかったからである。
彼は片手でちょっと上へ持ち上げる手まねをした。
「あなたはほんとうに僕をくやしがらせますね、ねえ、フィービさん!」と彼は、半ばひやかしぎみに彼女へほほえみかけながら、大きな声で叫んだ。「そりゃあ僕のつたない物語が、まことに残念ながら、『ゴディ』誌や『グレーアム』誌にはとてもだめなことはわかりきったことなんですがね! まあ考えてごらんなさい。新聞批評家たちが、じつに才気縦横、迫力あり、想像力に富み、感動を与え、そして独創的な結末である、と言明するものと期待していたそこのところであなたが眠りこけるなんてねえ! まあ、この原稿はランプの火点《ひとも》し用に燃やさなければなりますまい。ただし、実際、僕の甘いのろくささがすっかりしみ込んでいるので、少しでも燃えるものならばね!」
「私が眠っているのですって! どうしてそうおっしゃることができますの?」とフィービは、崖の縁までころがりながら崖に気づかないでいる赤ん坊のように、自分が通り越した危機のことは何も悟らずに答えた。「いえ、いえ! 私は一生懸命謹聴していたつもりです。それで、どんな事件だったかはっきりとはとても覚えていませんが、それでもたいへんな不幸と災難の印象を受けています――ですから、もちろん、その物語はすばらしい魅力に富んでいることがわかるでしょう」
この時までに、太陽はもう沈んでしまっていて、そして日没後しばらくの時がたち、地平線がいっそう目もあやな美しい輝きを、すっかりなくしてしまってからはじめて上空に現われる、あのあざやかな夕ばえのなごりのとりどりの色が天頂へ向かって雲を染めていた。月もまた、すでにさっきから天高く上っていて、そしてその丸く平たい表面を薄青い空へほんのりと溶け込むようにつつましく出ていたのが──ちょうど野心的な扇動政治家が、庶民感情の流行色を装い、遠大な野望を隠すように――今は中天の軌道にかかり、皎々《こうこう》と小判形にさえて照らしはじめた。この銀の光線はまだ消えやらぬ白昼の光の性格を一変させる十分な力をすでに持っていた。月の光はこの古屋敷の相貌を和らげて美しく潤色した。しかしまだ、暗い影は数多い破風の隅々にひときわ黒々と落ち、また突き出た二階の下や、半ば開いた戸の内側にひっそりと立ちこめていた。刻一刻と時がたつにつれて、庭はますます絵のような趣を見せてきた。果樹、灌木の植え込み、花卉《かき》の繁みが、もうろうとした暗闇を合間合間に抱いていた。平凡でとりえのないものが――真昼には、それが積もるのに百年のむさ苦しい寿命を要したものと思われた──今は空想的な魅力のために変貌してしまった。海風がかすかにそこへ吹いて来て草木の葉群《はむら》がさやぐとき、いつも百年の神秘的な星霜が葉と葉の間でささやかれていた。細やかなあずまやの屋根になっている葉群を漏れて月光があちらこちらへちらちらさし込んできて、銀白の光が暗い床、テーブル、円形の長いすの上に落ち、そして梢《こずえ》の間の隙間や、むら気な割れ目がそのかすかな光をあるいは通し、あるいは閉ざすにつれて絶えず位置を変えては戯れていた。
終日暑苦しかったあと、大気は非常にさわやかに涼しかったので、夏のその夕べは、露やしたたるような月光を、冷たい氷の味を少量混ぜながら、銀の花びんから振りまいているように思われたかもしれなかった。あちらこちら、こんな新鮮な露が数滴人間の心にばらまかれ、心に青春を若返らせ、そして自然の持つ永遠の青春に感応する力を与えた。その芸術家はたまたまこの青春を復活する力をそそがれた人となった。この力が彼に──実際に彼が経験したようにまだほんの若年のころから、人と人との荒くれた闘争のただ中へ突っ込まれてしまったので、時にはほとんど忘れていたもの──まだ自分がいかに青春の気に満ちているかを感じさせた。
「僕にとって」と彼は述べた。「こよいほどの美しい夕暮れの訪れをながめたことはなかったし、また今ほどの非常な幸福感を覚えたことはなかった気がします。けっきょく、われわれはなんという楽しい世界に住んでいるのだろう! なんと楽しい、なんと美しいことだろう! また世界は、ほんとうに腐敗した、あるいは使い古したものはいっさい持っていず、なんと若々しいことだろう! たとえば、この古屋敷ですが、朽ち木の臭いで時々呼吸をひどく圧迫するのです! それからこの庭では、まっ黒な腐食土がいつも僕の鋤《すき》に粘り付き、まるで僕が墓掘りしている寺男そっくりなんです! もし、今僕を支配しているこの気持ちをいつまでも持ち続けることができるなら、育ったそら豆やかぼちゃのかおりにこもる、大地の始まりの新鮮さで、この庭は毎日処女地となるだろうに。そしてこの屋敷は!──神の手で造られたいちばん初めのばらの花が咲き誇るエデンの園のあずまやそっくりだろうに。月の光、それと月の光に感応する人間の心の中の感情とは、とりわけ最も偉大な改善者や改革者です。それで他のあらゆる改革や改善は、思うに、月光にとうてい及ばないことが証明されるでしょう!」
「私は今よりももっと幸福でしたわ。少なくとも、もっともっと快活でしたわ」とフィービは、感慨深そうに言った。「けれども私はこのきらきらと照らしている月の光に非常な魅力を感じています。そして私は、昼の明かりが、疲れきっているので、いかにも渋りがちにのろのろと歩み去り、そしてあまりに早く昨日と呼ばれることを、さもいやがっているふうなのをながめているのが好きです。私は今まで月の光のことをこれほど心にかけたことなど全くありませんでした。今夜は、月の光の中の、こんな美しい物は、いったい何でしょうかしら?」
「それではあなたはこれまで月の美しさを感じたことは全然なかったんですね?」と写真芸術家は、たそがれの闇を通して少女の顔を熱心に見つめながらきいた。
「全然ですの」とフィービは答えた。「私がこんなに月の美しさを感じてしまった今は、人生はもう同じ物には見えませんわ。私は、これまで、すべてのものを、白昼の光の中で、さもなければ部屋じゅうをちらちらと照らしてゆらめき踊る陽気な炉火の赤い光の中で、ながめていたような気がします。ああ、私はかわいそうに!」と彼女は、半ば慨嘆するような笑い声を立てながら、こう付け足した。「私はいとこのヘプジバーや気の毒なクリフォードを知らなかった昔ほど愉快にはもうなれないでしょう。このわずかな時の間に、私はずいぶんおとなになりました。ぐっとおとなに、そして、ぐっと賢く、だとよいのですが、なりました。そして──必ずしも前より悲しくなったというのではなく──でも、確かに、私の気分の明るさが半分もなくなりましたわ! 私はおふたりに私の日光を差し上げてしまいましたし、そして差し上げたことをうれしく思っています。けれど、もちろん、それを差し上げたり、そして持っていたり、両方はできません。にもかかわらず、両方とも好ましいのですよ!」
「フィービさん、あなたは持っているだけの値うちあるものは何ひとつなくしていませんし、また持つことができたものもなくしていませんよ」とホールグレーヴは、ちょっと間を置いて言った。「われわれの最初の青春は価値がありません。というわけはわれわれは、それが過ぎ去ってしまってからでなければ少しも気がつかないからです。しかし時々──人は極端に不幸でないかぎり、常にそうだと思いますが──人を愛しているときの心の歓喜からわきあふれる、二度目の青春を意識するようになります。または、ことによると、青春が何かほかの、もしそうした出来事があるとすれば、人生の盛大な祝典を飾るために訪れるかもしれません。過ぎ去った青春の最初の、軽はずみな、あさはかな快活さに対するこのような自我の嘆き(あなたが今なさっているような)や、また復活した青春のこのような奥深い幸福感──われわれが失った幸福よりははるかに深みがあって豊かなもの──は、霊魂の発展になくてはならぬものなのです。ある場合には、この二つの状態がほとんど同時に訪れて、悲哀と狂喜とがまじり合い、一つの不可思議な感激となるのです」
「おっしゃることがよくのみ込めないような気がいたします」とフィービが言った。
「無理もありませんよ」とホールグレーヴは、にこにこしながら答えた。「というわけは、僕があなたに打ち明けた秘密というのは、僕が、悟りはじめたとたんにもう言葉に出していたのですからね。それにしても、このことは覚えておきなさい。そしてこれが真理であるとはっきりあなたにわかってきたとき、その時こそ今晩の月の光の場面をお考えなさい!」
「今はもう全く月明りになりましたね、ただほんのりとかすかなあかね色の光が、あちらの建物の間を、西空から上のほうへさっと染め上げているだけですわ」とフィービが語った。「私は家の中へはいらなければなりませんわ。いとこのヘプジバーは計算が早くありませんし、それで私がお手伝いしないと、一日のお勘定で頭痛が起きるでしょう」
しかしホールグレーヴはもうしばらく彼女を引き止めた。
「ヘプジバーさんがおっしゃったんですが」と彼は述べた。「あなたは二、三日たったら、いなかへお帰りだそうですね」
「そうです。けれどほんのちょっとの間ですわ」とフィービは答えた。「だって私はここが現在私の家だと考えているのですもの。私は二、三の事を打ち合わせたり、おかあさまやお友だちともっとゆっくりお別れをしに行くのです。だれでも、非常に望まれて、そして非常に役にたつ場所で暮らすのは愉快なことですわ。そして私は、ここでは、自分でそんなふうに感じて満足が得られそうな気がいたします」
「きっと得られますよ、しかもあなたの想像以上にたくさんね」と芸術家は言った。「この家にあるどんな健康も、慰安も、また寿命も、みなあなた個人に具体化されているのです。こうした恩恵はあなたといっしょにやって来たもので、あなたがここの敷居を出たとたんに消えてしまいましょう。ヘプジバーさんは、社会から隠れたために社会との真の交渉はすべて絶たれて、実際は、死んでいるのです。もっとも、さも生きているふうに自分を生き返らせて、痛烈に非難されるしかめ面で世間の人々を苦しめながら、店番を勤めてはいますがね。あなたの気の毒ないとこのクリフォードも、もうひとりの死んで長い間埋もれていた人間で、知事と諮問委員会があの人に死霊を呼び戻す魔法の奇跡を行なったのですよ。たといあの人が、あなたが行ってしまわれたある朝、ぼろぼろにくずれ落ち、一塊の塵のほか、影も形も見えなくなってしまったとしても、僕は不思議に思いませんね。何にしても、ヘプジバーさんはほんのなけなしの適応性さえなくすでしょう。ふたりともあなたのおかげで生きているのです」
「そんなふうに考えるとほんとに悲しくなりますわ」とフィービは悲しそうに答えた。「しかし私のささやかな能力がおふたりに全く必要なものだったことは確かです。そして私はあのかたたちの幸福に心から関心を寄せています──ちょっと妙なんですが母親のような気持ちなのです――どうかお笑いくださらぬように! それから、ホールグレーヴさん、率直に申し上げますが、あなたはあのかたたちの幸福を望んでいらっしゃるのか、それとも不幸を願っていらっしゃるのか、私は時々とまどいするのです」
「確かに」と銀板写真家は言った。「僕は、この古めかしい、素寒貧の独身老婦人と、それからこの零落して打ちのめされた紳士、この月足らずの美の愛好家──とに興味をほんとに感じています。なんとたよりない、老いぼれた子供たちだろう! と好意の興味もまた感じているのです。しかしあなたは、僕の気持ちがあなたの気持ちとどんなに違った性質のものであるかを、全然ご存じありません。僕の心を駆り立てている衝動は、このふたりの人物に関して、助けるとか、じゃまするとか、そのどちらでもありません。そうでなくて、事件を傍観し、分析し、自分で解き明かし、そしてほとんど二百年の間、あなたと僕が今踏んで立っているこの地面にだらだらと尾を引いてきている芝居を理解しようということなんですよ。もしその終局に立ち会うことを許されるなら、事件がどう展開されようと、その芝居からある倫理的な満足感が得られることを僕は疑いません。僕にはその終末が近づいているという確信があります。しかし、たとい神が救わんがためにあなたをここにすでにつかわされ、そして僕をただ、特に許された、うってつけの傍観者としてのみつかわされるとしても、僕はこの不幸な人たちにできるかぎり援助を与えることを自分で誓います!」
「あなたはもっとはっきり物をおっしゃっていただきたいわ」とフィービは、当惑したり、不愉快になったりして、大きな声で言った。「そして、とりわけ、もっとキリスト教徒らしくまた人間らしく感じていただきたいものです! どうして困っている人たちを見ながら、何はさておき、その人たちを助けたり慰めたりしてあげたいと願わずにおられるでしょうか? あなたはまるでこの古い屋敷が劇場でもあるかのようにお話しなさいますね。そしてあなたはヘプジバーやクリフォードの不幸を、またふたりより昔の代々の先祖の不幸を、まるで私が昔見た、いなかの旅館の広間で上演されているような、あんな悲劇としてながめていらっしゃるようですね。ただ違うのは、今度の場合、もっぱらあなたひとりをおもしろがらせるためにお芝居されていることですわ。私はこんな事は好きでありません。その芝居は役者の犠牲がひどすぎますし、それに見物客が冷淡すぎますわ」
「あなたは辛辣ですね」とホールグレーヴは言ったが、彼自身の気持ちについてのこんな手きびしい寸評にある程度の真理を認めないわけにはいかなかった。
「それから」とフィービは言い続けた。「あなたがおっしゃいました、終末が近づいているというあなたの確信とは、いったい何を意味するのでしょうか? かわいそうな私の親類の人たちに差し迫っている、何か新しい心配事でもご存じなのですか? もしそうなら、すぐお話しください。そしたら私はおふたりのそばを離れません!」
「許してください、フィービ!」と銀板写真家は言って片手を差し出したが、少女はその手に自分の手を与えないわけにはいかなかった。「僕にはいくらか神秘論者のところがあることを告白しなければなりません。そんな傾向が、催眠術の才能とともに僕の血の中にあるのですが、このことは昔魔法が盛んなころならば、僕を『絞首台の丘』へ上らせたかもわかりませんね。僕を信じてください。もし僕が何か秘密をほんとに知っており、それを打ち明けることがあなたのお友だち──その人たちは同じように僕自身の友人なわけです──の利益になりますなら、僕らがお別れする前に当然お知らせしますよ。けれど僕はそういうことは皆目存じません」
「あなたは何か隠していらっしゃるわ!」とフィービは言った。
「何もありません──僕個人の秘密のほかはありません」とホールグレーヴは答えた。「なるほど僕は、ピンチョン判事が今でもクリフォードから目を離さず、また彼の破滅に大いに関係があったことは認められます。けれども、あの男の動機や意図は僕にとっては謎なのです。あれは断固として仮借しない、生粋の宗教裁判官の性格を持っている男です。それで、もしあの男がクリフォードを拷問にかけて何か利得しようとたくらんでいるとすれば、それをやり遂げるためなら、クリフォードの関節をその継ぎ目からねじ切ってしまうだろうと、僕はほんとにそう信じます。しかし、あれだけ財産があり、有名であるのに──自分ひとりの力においても、また社会各方面の支持においてもあれほどの勢力があるのに──ピンチョン判事は、あの白痴で極印づきの、麻痺しかけているクリフォードから、いったい何を期待し、または何を恐れなければならないのだろうか?」
「だって」とフィービは追及した。「あなたは災難が今にも差し迫っているかのようなお口ぶりでしたわ!」
「ああ、それは僕の精神が過敏だからですよ!」と芸術家は答えた。「僕の心は、あなたのは別ですが、たいていの人の心と同様、横へひねくれる癖があるんです。そのうえ、自分がこのピンチョン古屋敷の同居人であり、そしてこの古い庭園に腰を降ろしていると思うとじつに不思議な気がして──(ほらお聞きなさい、モールの井戸がなんとざわめいていることでしょう!)──その結果、たといこの一つの事情からだけでも、運命の神が悲劇の大づめのための第五幕を手配中であると想像しないわけにはいきません」
「それごらんなさい!」とフィービは再び腹だたしい気持ちで大声で言った。そのわけは彼女は生まれつき、日光が暗がりの片隅を忌むように神秘めいたことに敵意を感じていたからである。
「あなたはますます私を当惑させますわ!」
「それじゃあ僕たちは仲好しのまま別れましょうよ!」とホールグレーヴは、彼女の手を握りしめながら言った。「それとも、もし仲好しでなければ、あなたが僕をすっかりきらいにならないうちに別れましょう。僕を除いて世界のすべての人を愛しておられるあなた!」
「では、さようなら」とフィービは率直に言った。「私はいつまでも怒っているつもりはありませんし、あなたにそんなふうに思われますなら、残念です。いとこのヘプジバーが戸口の暗がりにこの十五分間も、立ち尽くしていらっしゃいますわ! 私があまり長い間しめっぽいお庭に居つづけると思っていらっしゃるのですよ。ですから、おやすみなさい、そしてさようなら!」
それから二日目の朝、フィービが、麦わらのボンネットをかぶり、一方の腕にショールを、別の腕に小型の旅行かばんを持って、ヘプジバーやいとこのクリフォードに別れを告げている姿が見かけられたかもしれなかった。彼女は次の汽車に乗ることになっており、その汽車は彼女を故郷の村から六マイルの所まで運んでくれるのであった。
涙がフィービの目に宿っていた。やさしい哀惜の露を含んだ微笑が、彼女の快活な口もとにちらちらと見えていた。彼女は、ここの、悲しみに重たくおおわれたこの古い屋敷での、わずか数週間の生活が、どういう次第でこんなに彼女の心をしっかりとつかんでしまい、彼女の連想の中へ全く溶け込んで、今となっては、これまでに過ぎ去った何にもましていちばんたいせつな、思い出の中心点と思えるようになったのだろうかと不思議でならなかった。どうしてヘプジバーが──気味の悪い、無口な、そして彼女のあふれるばかりの心からの愛情に対して反応を示さない──あのヘプジバーがどうやってこれほど多くの愛情を首尾よくかち得るようになったのか? それにクリフォード──恐ろしい犯罪の謎を身に帯び、むっとする獄舎の空気が今でも彼の息吹きにこもっていて、発育不全の老廃人でいる──その彼がなんとこよなく純真な小児に変貌してしまったことだろう! そしてその子をフィービが必ず見守ってやり、また、だれからも顧みられないその子の時間の、いわば、思慮となる義務をなんと感ずることだろう! あらゆるものが、別れのまぎわとなって、ことにくっきりと彼女の視野に映った。彼女がどこをながめようと、どんな物に手を触れようと、あたかもしっとりと人情にうるおっているかのように、どの対象も彼女の思いに答えていた。
彼女は窓から庭をのぞいた。するとあれほど長年の間雑草の繁茂のために害されている、黒い土壌のこんな場所を立ち去ることが、故郷の松林や新鮮なクローバーのかおりに再び触れるうれしい思い以上に、残り惜しく感じられた。彼女は雄鶏チャンティクリアと二羽の雌鶏の老いさびた雛《ひな》を呼んで、朝の食卓から持ってきたパンの屑を投げてやった。雛は、急いでごくり飲み込むと、翼を広げてフィービのそばの窓枠に止まり、まじめくさって彼女の顔をじっとのぞき込み、かあかあ鳴いて感激を吐露した。フィービは自分のるすの間よいおませな雛でいるよう言いつけて、そして蕎麦《そば》の小さな袋をみやげにあげると約束した。
「ああ、フィービや!」とヘプジバーはひと言いった。「あなたは家に来たころのような自然な微笑をしないわねえ! あのころは笑顔のほうで晴れやかになりたがっていましたよ。今は、あなたのほうが晴れやかに笑おうとしていますね。あなたがしばらくの間、故郷の土地に帰って行くのはけっこうです。あなたの心にたいへんな重みがかかりましたものね。家はあんまり暗くて寂しすぎるし、お店は苦労があり余るし、それに私ときたら、品物を実際よりもきれいに見せる手ぎわは全くないものね。クリフォードだけがあなたのただ一つの慰めでしたね!」
「フィービ、こちらへおいで」と急にいとこのクリフォードが大きな声で言った。彼は朝の間ほとんど口をきかずにいたのだった。
「近くへ!――もっと近くへ!──そして私の顔をじっと見て!」
フィービは両方の小さい手をそれぞれ彼のいすの肘掛けに載せて、前かがみに顔を彼に近づけ、彼が好きなだけしげしげと見つめられるようにした。たぶん、こうした別れのときの心に潜む感動が、ある程度、もうろうと弱り果てた能力を蘇生させたのであろう。ともかく、フィービがすぐ直感したことは、たとえ予言者ほどの深い洞察力ではないにせよ、それでも婦人にまさる微妙な鑑識の目が、彼女の心を的にして働いているということだった。ついさっきまでは、隠しておきたいと思った覚えは一つもなかった。今は、あたかもある秘密が他人の知覚を媒体にして暗示され、意識するようになったかのように、彼女はクリフォードに見つめられてしかたなく両方の瞼を閉じた。頬の紅潮もまた――ますます赤くなった。なぜなら彼女は一生懸命それを押えつけようと努めたからであった──発作のたびにさし満ちる潮の流れのように、しだいに高まり、ついには額までまっかに染まってしまった。
「フィービ、もういいよ」とクリフォードは、悲しい微笑を浮かべながら言った。「私が初めてあなたを見たときは、あなたはこの世でいちばんかわいらしい娘さんだった。そして今は、深味が加わって美しくなった! 少女時代を終わりおとめになったのだ。つぼみが花になっているのだ! もう、行きなさい!──私は今までよりいっそう寂しい思いがする」
フィービはわびしそうなふたりにいとまごいをして、瞼をしばたたいて涙を払い落として、店を通り抜けた。そのわけは──彼女のるすがどんな短い間であるか、それゆえそんなことで落胆するを愚かしさを考えると──ハンカチでぬぐうほど泣いたとはどうしても認めたくなかったからである。戸口の階段で、この物語の始めのほうで触れたあの大食小僧に出会った。彼女は商品の陳列窓から博物学の何かの標本――彼女の目があまり涙で霞んでいたのでうさぎであったか、かばであったか正確に告げることができなかった――を取ってその子の手に別れの贈り物として渡し、それから道を歩いて行った。アンクル・ヴェンナー老人が、鋸引《のこび》き台と鋸とを肩にして、自分の家の戸口からちょうど出て来るところであった。そして、とぼとぼと通りを歩きながら、ふたりの道筋が共通なかぎり、臆面《おくめん》もなくフィービと道連れで歩いて行った。また、彼のつぎはぎの上着や古びたシルクハット、それに奇妙な作りのあらい麻布のズボンという風体にかかわらず、彼女は彼を歩き負かす気持ちになれなかった。
「わたしらは、次の安息日の午後、あなたがいないで寂しがるでしょうなあ」と町の哲学者はつくづく言った。「人によっては、呼吸するのと同じように全く自然に、またたく間に成長するものですが、不思議なことですよ。それで、失礼ですが、フィービさん(老人がこう申しても何も悪気のあるはずはないのですが)、あなたの成長ぶりは全くそのとおりに思えるんですよ! わたしの年はたいへんな数だし、あなたの人生はほんの今始まったところですよ。それなのに、どうしたわけか、まるでわたしの母の部屋の戸口であなたを見つけて、その後も、わたしが歩く道沿いにはい茂るつる草のように、花を咲かせていたかのような、古いなじみの気がするんですよ。すぐ戻っていらっしゃいよ、でないとわたしはわたしの農場にもう出かけてしまっているでしょう。というのはこういう鋸引き仕事がわたしの背中の痛みにちとこたえすぎるような気がしだしたからですよ」
「すぐに戻りますよ、ヴェンナー爺や」とフィービは答えた。
「それからね、フィービ、あちらにいるあのかわいそうなかたたちのためにも、それだけ早めに戻んなさいよ」と彼女の道連れが言い続けた。「あのかたたちは、今じゃあ、あなたなしにはけっしてやっていけませんよ──けっして、ねフィービ、けっしてやれやしません!──まるで神さまのお使いのひとりがあのかたたちといっしょに暮らして、あの陰気な屋敷を愉快に楽しくしていてくださったも同じことですよ! もしも、きょうのような気持ちよいある夏の朝、その天使が翼を広げて元の所へ飛んで帰るとしたら、あのかたたちがみじめな境遇になるとあなたには思えませんか? やれやれ、あなたが汽車で故郷へ帰りなさろうとするからには、あのかたたちはちょうどそんなふうに悲しんでいなさるですよ! ねフィービさん、あのかたたちはしんぼうできませんよ。だからきっと戻ってきなさいよ!」
「私は天使ではなくってよ、ヴェンナー爺や」とフィービは、町角のところで片手を彼に差し出しながら微笑して、言った。「けれど、人間はわずかなことでもできるかぎりよい事をしているときほど天使らしい気がすることはないものだと思いますわ。それできっと帰って来ますわ!」
こんなふうに老人とばらの花のような少女とは別れた。そしてフィービは朝の翼に乗った。そして、ヴェンナー爺がたいへんあいそよく彼女を天使にたとえた、その天使たちの空飛ぶ力を授かったかとも思われるほどの速さで、やがていっさんに飛んでいた。
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十五 しかめ面と笑顔
いくつかの日が「七破風」の上をのろのろと重そうにわびしく過ぎて行った。実際(空も地もおおう陰鬱をフィービの旅立ちというただ一つの不幸な事情のせいにしないように)、東から吹く暴風雨がもう始まっていて、古い屋敷の黒い屋根や壁を今までなかったほど陰気にする仕事へ根気よく身を入れていた。それでも外側は家の中の半分も陰気でなかった。
クリフォードは哀れにも、もともと乏しい楽しみをたちまち根絶やしにされてしまった。フィービが家にいなかったのだ。また日光も床へ射してこなかった。庭は、ぬかるみの小道と、ひえびえと雨露のしたたるあずまやの葉の繁みとで、見るからに身震いする有様であった。さっと海からの塩辛い突風に吹き流される、寒い、しめっぽい、非情な大気の中では何ひとつおい茂るものもなく、ただ、こけら屋根板の継ぎ目に沿ってはえている苔《こけ》や、正面の二つの破風にはさまれた隅《すみ》の、ついこの間まで日照りで苦しんでいた雑草の大きな株だけであった。
ヘプジバーはどうかといえば、彼女は東風に取っつかれたように見えるばかりでなく、そのからだつきが、この長く続く暗い、けわしい天候の別の姿にすぎないように思われるのであった。東風自身が、気味悪くうらぶれて、色ざめした黒い絹ガウンに身を包み、雲の花輪のターバン帽を頭に載せているのだった。店の客足は遠のいていった。なぜなら、弱いビールや他のいたみやすい商品を、しかめ面でにらみつけてすっぱくするという噂《うわさ》が世間に広まったからであった。おそらく彼女のふるまいには、世間の人たちがとかく陰口する無理からぬ言い分があったことはほんとうであろう。しかしクリフォードに対しては、彼女は不きげんでもまた不親切でもなかったし、またもしも彼女の気持ちを彼に通ずることができさえしたら、心のぬくもりがふだんより減ることもなかった。しかし、彼女の最善の努力さえなんのかいもないことが、この哀れな老貴婦人の心を麻痺させた。彼女は部屋の片隅に黙々とすわっているよりほか、ほとんど何をすることもできなかった。そんなとき、小さな窓をいちめんにおおっている梨《なし》の木のぬれた枝々が、日なかの木下闇《このしたやみ》を作っていて、それをヘプジバーは知らぬまに自分の憂いに沈んだ顔でいっそう暗くしていた。そのことはけっしてヘプジバーのおちどではなかった。どんな物でも──彼女の一生の三倍も四倍も長い間、天候がどんなものかを知っている古いいすやテーブルでさえ──これほどいやな天候は経験しなかったかのように、しめっぽい、寒々とした顔をしていた。あの清教徒の大佐の画像は壁にかかったままで震えていた。屋敷そのものさえ、七破風のそれぞれの屋根裏から、台所の大きな炉床にいたるまで、ぶるぶる震えていた。その炉は、暖を取るために造られたものであったが、今ははなはだ味気なくがらんとしているため、それだけにこの邸宅の気分の象徴としてかえってりっぱに役だっていた。
ヘプジバーは客間に火をたいて何もかも陽気にしようと試みた。しかしあらしの悪魔が上から見張りしていて、炎が燃えつくたびに、煙をもとへ追い返し、煙突の煤《すす》だらけなのど元をあらしの息でふさいだ。それにもかかわらず、この悲惨な暴風雨の四日間、クリフォードは古外套にくるまって、いつものいすにすわりこんだままでいた。五日目の朝、朝食に呼ばれたとき、彼は傷心しきったつぶやきで答えただけで、寝床を離れる意志は見せなかった。妹はけっして彼の考えを変えさせようとは試みなかった。実際、ヘプジバーは、ひたすら彼を愛していたとはいえ、今もなお鋭敏であるが、批判的で気むずかしく、力と意志とが欠けている、すさんだ心のために慰安を求めてやろうとする、そんないたましい義務――彼女が持っているわずかなそして堅苦しい能力ではとても実行できないもの──にもうこれ以上耐えることはまずできなかったろう。きょう、彼女がただひとりすわって震えていて、同じ受難者の相手が発作のようにため息をつくたびに、絶えず悲しみを新たにすることなく、また気まぐれな悔恨の痛苦から苦しんでいないらしいのは、少なくとも、まだいくらか、決定的な絶望までには達していなかったのだ。
しかしクリフォードは、階下に姿を現わさなかったけれども、けっきょく、自分で元気を出して娯楽を求めていたらしかった。午前のうち、ヘプジバーはある音曲を耳にしたが、その曲調は、(「七破風の屋敷」にはほかになんの楽器もなかったので)アリス・ピンチョンのハープシコードから出ているのに相違ないとわかっていた。彼女はクリフォードが、若いころ、音楽に対する洗練された趣味があったし、また演奏にも相当りっぱな腕を持っていたことを覚えていた。しかしながら今彼女の耳に静かに聞こえてくる、哀愁きわまる曲ながら、その美しい、幻想的な、精妙な調べが示すような、日々の練習を特に必要とする高度の芸能を彼が保っていると考えることはむずかしかった。それに長い間沈黙していた楽器が、それほど豊かな諧調を出すことができるというのもまた同じような驚異であった。ヘプジバーはなんの気なしに、思わず家族の者の死の前兆であり、そして伝説の人アリスがひき鳴らすとされている、幽霊の音楽のことを思いついた。しかし、数回かき鳴らされたあと、絃が震動のためばらばらと切れてしまったらしく、音楽が鳴りやんでしまったところをみると、たぶん、幽霊の指とは違う力が働いた証拠であったろう。
しかしその神秘的な調べのすぐあとにもっと耳ざわりな音がした。東風の吹くその日は、ヘプジバーとクリフォードにとって、かつて蜂鳥を乗せて運んできた最もかぐわしい大気をさえ、十分毒してしまうほどの出来事が起きずにはすまない運命の日であった。アリス・ピンチョンの演奏(あるいは、もしわれわれがその音楽を人間わざと考えなければならないなら、クリフォードの演奏)の最後の余韻が、ほかならぬ店ベルの俗っぽいけたたましい響きのために追い払われてしまった。敷居の上を引きずる足音が聞こえ、それからは床の上を歩くやや重たそうな足音がしてきた。ヘプジバーはちょっと手間取ったが、その間に色あせたショールに身を包んだ。これこそ東風と戦う四十年の間彼女の身を守った鎧《よろい》であった。しかしながら、ある独特な音――咳《せき》でもなく咳ばらいでもなくて、何者かの大きな深い胸郭の中でごろごろと鳴り響くような発作的な音──に促されて彼女は、急ぎ足で進んで行ったが、その表情には、危険な非常の場にのぞむ女たちにきわめて普通な、あのすさまじい形相の臆病さがあった。こんな場合、女性の中で、しかめ面してにらんでいる気の毒なわがヘプジバーほど恐ろしげな面相をした者はいないといってよかった。しかし訪問者ははいってきて後ろの店戸を静かにしめ、こうもりを売り台に立てかけて、それから取ってつけた慈悲深い顔を、自分が現われたために驚いたり怒ったり、やっきとなっている顔と向かい合わせた。
ヘプジバーの予感は嘘ではなかった。訪問者はピンチョン判事にほかならなかった。彼は正面玄関の戸をあけようとしてできなかったが、今度は店の中へまんまとはいり込めたのであった。
「やあ、こんにちは、ヘプジバー、ごきげんはどうですか?──それにこの全くひどい悪天候は気の毒なクリフォードの身にさわりはしませんかな?」と判事は切り出した。そして、じつににこやかな慈愛に満ちた彼の笑顔のため、東から吹きつける嵐が恥をかかされたり、あるいは、少なくとも、いささかもなだめられたりしなかったのは、どうにも、不思議に思われた。「私は、あの男の慰安なり、またはあなた自身の慰安なりを、なんとかふやしてあげることができないかと、もう一ぺんうかがわずには安心できなかったんですよ」
「あなたはどんな事もできません」とヘプジバーはできるだけ興奮を押えながら言った。「私がクリフォードのために一生懸命尽くしています。あの人は境遇が許す限りのどんな慰安でも持っています」
「しかしねえ、あなた、私にちょっと言わしてください」と判事は返事した。「あなたはまちがっていますよ──むろん、限りない愛情と親切とにあふれ、そしてこの上ないりっぱな善意があってもですよ──それでも、やはり、あなたの兄さんをあんなにして閉じ込めておくなんてあなたはまちがっていますよ。なぜ兄さんをそんなふうにあらゆる同情や好意から全く遠ざげようとするんですか? クリフォードは、かわいそうに! これまでじつにやりきれないほど孤独の気持ちでいたんですよ。今からは兄さんに交際させなさい──つまり、親類や旧友との交際ですよ。たとえば、私をクリフォードにちょっと会わせなさいよ。そうすればきっとよい結果になることを請け合いますよ」
「あの人とはご面会できません」とヘプジバーは答えた。「クリフォードはきのうから床についたきりです」
「なんだって! どうしたんだ! あの男は病気かい?」とピンチョン判事は、怒りの警告と思われそうな事柄にぎょっと驚いて大きな叫び声を出した。というわけは、彼が話していたとき、例の清教徒の老人のにらまえたその形相が部屋じゅうを暗くしたからであった。「いや、それじゃあ、私はあれに会わないわけにはいかないし、会ってやろう! もし死にでもしたらどうするんだ?」
「あの人が死ぬ心配はありません」とヘプジバーは言って──そしてもはやどうにもがまんできない無念さでこう言い足した。「全然ありませんとも。もしあの人が、今、迫害されて死ぬようなことさえなければですよ、ずっと昔それをやろうとした同じ男の手にかかってですね!」
「ねえ、ヘプジバー」と判事は胸を打たれるほどしんけんな態度で言ったが、それが話し続けているうちに涙ぐましい感激にさえ強まった。「私が義務と良心とにかけて、また法律によってしいられて、しかもわが身の危険を冒しても、果たさざるをえなかった役目のために、私に対するこの相も変わらぬ、この果てしない恨みつらみは、いかに不当な、いかに不人情な、いかに非キリスト教徒的なものか、あなたにわからぬはずがありましょうか? クリフォードに不利となった、私の行為のうち、私がやらずに捨ておくことのできたものが何かありましたか? あの男の妹のあなたは──私が今まで苦しんでいたように、それがあなたの尽き果てぬ苦しみの種である、私の行為を、もしあなたが知っておられたなら──いったいどうやってあなたは、あれ以上、大きな愛情を示すことができたでしょうか? それからね、あなた、私の行為が私に心の呵責《かしゃく》を全く与えていないとお考えですか?――あの日から今日まで、天が私に恵んでくださったあらゆる幸運を受けながらも、それが私の胸中になんの苦悶も残していないとお考えですか?――あるいはまた、このなつかしい肉親が、この幼なじみの友が、あれほど微妙な麗質に生まれ合わせたこの人間――あんな不幸な男、とは言っても、あんな罪人、と言うのは控えたいですが――われわれのクリフォードが、けっきょく、もとの自由な生活を許されて、楽しく暮らせるようにすることが、一般正義の当然な義務であり、社会の福祉に一致すると考えられているときに、この私が現在うれしく思っていないとあなたはお考えですか? ああ、ねえ、ヘプジバー、あなたは私というものを少しもわかっていない! あなたには私のこの心情が全くわかっていない! この心は今、あの男に会えると思って動悸《どうき》うっているのです! 生きている人間でクリフォードの災難のためにこれほどたくさん涙を流した者は(あなたは別ですよ──そのあなただって私以上には流していませんよ)ひとりもいません! 涙の一部は今ご覧のとおりです。大いに喜んであの男の幸福をふやそうとする者はだれひとりいません! ね、ヘプジバー! 私にやらせなさい!──ね、あなた、私にやらせてみなさい!――あなたがあなたの敵、またクリフォードの敵として扱った男にやらせてみなさい!──ジャフリー・ピンチョンにやらせてみなさい、そうすればその人間が、心の底まで、真実なことがわかりましょう!」
「神様に誓って」とヘプジバーは叫んだが、冷酷な気性の男からこんなにこんこんとほとばしり出るはかり知れない愛情の言葉のため、ますます激しい義憤に駆り立てられる一方であった。──「あなたが侮辱しなさる神さま、そしてあなたがそんなかずかずの嘘の言葉を並べ立てていられるのをお聞きになっても、あなたの舌の根を麻痺させないでおられるからには、そのお力を疑いたくさえなりますが、その神さまに誓っても──どうか後生だから、あなたの犠牲者のための、こんないやらしい愛情の見せかけはよしてちょうだい! あなたはあの人が憎いのです! 男らしく、そうおっしゃい! あなたは、現に今、あの人に対して何か陰険な事を心にたくらんでいるのです! それをすっかり話してしまいなさい、今すぐに!──それとも、もしもっとうまく事を運びたいため、黙っていたいのなら、首尾よくいって得意な顔ができるまでそれを隠しておきなさい! けれど気の毒な兄に対するあなたの慈悲の言葉は二度とおっしゃらないでいただきます! 私はがまんできません! それは私を駆り立てて女の身だしなみを忘れさせてしまいましょう! そのため私は、気も狂わんばかりになるでしょう! おやめなさい! 二度とおっしゃいますな! そのためあなたをまるで追い出すような羽目となりましょう!」
こんどばかりは、ヘプジバーは怒りのためぐっと勇気がわいた。彼女は言いきった。しかし、要するに、ピンチョン判事の誠実に対するこのような押えきれない不信は、また人間的な同情の立場に立とうとする彼の主張を、きっぱりと、このように頭からはねつけるとは――こうした事は彼の性格に対する何か公正な認識が根拠となっていたものか、あるいは根も葉もない、女の不合理な偏見の落とし子にすぎなかったのか?
判事は、少しの疑いもなく、名だたる声望の人であった。教会がそれを認めていた。州もそれを認めていた。それはだれからも否定されなかった。公人としてまた私人としての、彼を知る大ぜいの人々の非常に広い社会の中で、だれひとりとして──ただしヘプジバーや、または銀板写真家のような、法を無視するある神秘論者や、また、たぶん二、三の政敵は別として――世間注視の的である高貴の地位を彼が要求したにしても、むきになって批判しようと思う者はなかったろう。それにまた(それだけにわれわれはますます公平に批評しなければならない)ピンチョン判事は、おそらく、自己のうらやましいほどの名声が自己の功績と一致しているということにたいして、あるいはそうたびたび、自分で疑問を持つことはなかったろう。それゆえ、彼の良心は、普通は人間の清廉に対するいちばん確かな保証であると考えられるものだが──彼の良心は、二十四時間のうちたった五分間、あるいは、時には、まる一年巡るうちある忌《い》まわしい日を除いて──彼の良心は世間の称賛の声とぴたり一致する保証を与えた。それにしても、この証拠がのっぴきならないものに見えても、われわれは、判事とこれに同調する世間が正しく、そして哀れにもヘプジバーだけが、ひとり偏見を持っていて、まちがっているという主張に対し、われわれの良心をかける危険には躊躇《ちゅうちょ》しなければならない。人々の目から隠れて――ひとり忘れられ、あるいは彫刻や装飾を施したけばけばしい山なす功績の下にあまりにも深く埋もれた結果、彼の毎日の生活がそれと気がつくことができないままに──ある邪悪な醜いものが忍び潜んでいたのかもしれなかった。それどころか、われわれはもっと進んで、毎日毎日犯罪が彼の手によって行なわれており、殺人のあの不思議な血痕のように、絶えずくり返され、そして新たにまっ赤に染め返されながら、彼が必ずしも、また毎瞬毎瞬、それを意識しているとはかぎらなかったと、はばかりなく断言できるほどであった。
強い意志、剛毅《ごうき》な性格、および厳格な肌合いの人々は、とかくこうしたあやまちを犯しやすいものである。こういう人たちは普通、形式を最高のものと重大視する。こういう連中が活躍する舞台は生活の外側の現象の中にある。この連中は大きなもの、重たいもの、実利的な名義のもの、たとえば黄金、地所、責任ある報酬の多い役職とか、また社会的栄誉などをしっかりとつかみ、手配し、またわが物顔にひとり占めする大幅な才能を持っている。これらのものを材料にして、かつ、公衆の前で行なわれた体裁のよい功績でもって、こういう仲間のひとりが、いわば、そびえ立つ、荘厳な楼閣を建てる。するとその楼閣は、他人の目から、そしてけっきょく自分自身の目からも、その人物の品性、もしくはその人個人にほかならぬように見えてくる。それゆえ、宮殿を見てごらん! その華麗な広間、およびいくつもの広々とした続き部屋は、高価な大理石のモザイクで床が敷きつめられている。窓という窓は、どの部屋も高さいっぱいに、最も透明な板ガラスを通して日光を射し入れている。高い天井と壁との境の蛇腹《じゃばら》は金箔《きんぱく》で塗られ、その天井は豪華に彩色されている。そして高くそびえる大きな丸屋根が――この丸屋根を通して、中央の石畳みの床から、中間にはどんな障害になる物質もないかのように、だれでも虚空《こくう》を仰ぎ見ることができよう──全体の上に載せられている。これ以上の、いったいどんな美しい、またどんな崇高な象徴によって、だれが自己の性格を暗示しようと望むことができようか? ああ! しかしどこかの低く薄暗い奥まった隠れ場所――地階のどこかの、閉ざされ、鍵をかけられ、閂《かんぬき》をさされ、そしてその鍵を捨ててしまった密室に――あるいは大理石の石畳みのすぐ下、あざやかな色模様のモザイク細工を上にして、よどんでいる水たまりの中に――半ば腐乱した、まだ盛んに腐っている、そして死臭を御殿の隅々までぷんぷん発散している死体が横たわっているかもしれない! 中に住む者はそのことに気づかないであろう。そのわけは悪息が長い間自分の毎日呼吸する息になってしまっているからである! 訪問者たちもまた気づかないであろう。そのわけは、彼らはただ主人がくまなく御殿の中へ念入りにまき散らす高価な芳香と、自分たちが持参して主人の前で喜んでたく香料をかぐだけだからである! 時おり、偶然にも、予言者が訪れる。するとその人の沈痛な鋭い天眼の前には建築がみな溶けて希薄な空気となり、ただ奥まった隠れ場所や、忘れられた戸の上にくもの巣の花綵《はなずな》を張り巡らし、閂をかけた密室や、あるいは石畳みの下の恐ろしい落とし穴と、その中の腐れかけている死体だけがそのまま残る。それで、この点にわれわれは、この人間の品性の真の象徴、およびこの人間の人生になんらかの真実性を与えている本人の行為の真の象徴を、求めることができる。こうして、みえを張る大理石御殿の下の、多くの不純なものでけがれ、そして、おそらく血に染まっている、あのよどみ水の溜池《ためいけ》こそ──あの醜い秘密の行為、ことによると、彼はぬけぬけと祈りをささげて、思い出すことすらないかもしれない――この人間の破廉恥な魂なのである!
こういう一連の批評をもう少し詳しくピンチョン判事にあてはめてみる――彼の生活にははでやかなごみくずがたくさんあり、判事がかつて苦しめられたのよりも、もっと活発に微妙に働く良心をさえおおい隠して、十分麻痺させるくらいであったと(りっぱな体面のこの名士に全然罪を負わせずに)われわれは言ってよかろう。彼が判事職にあるときの裁判官としての高潔さ。その後いろいろな職務上の公共奉仕の忠実さ。政党に対する献身や、その方針を固く守り、あるいは、何にしても、その組織的な活動に協調したきびしい政治的節操。聖書協会会長としての驚くほどの熱意。寡婦と孤児救済資金の会計として非の打ちどころもない清廉。きわめて珍重される梨を二品種も作り出して果樹園芸界へ、また有名なピンチョン雄牛のすぐれた能力による農業界への尽力。多年にわたる、過去の身持ちの潔白。浪費好きな道楽息子に眉をひそめ、ついに勘当し、そしてその青年が息を引きとる最後の十五分足らずまで赦免を延ばした厳格さ。朝夕に唱える祈りと、食事時の感謝の祈り。禁酒運動の勧めに尽くした努力。近ごろ痛風を病んでから、古いシェリー酒を日量五杯にきめた自制ぶり。彼のリンネルの雪のような純白さ、ぴかぴかにみがかれた長靴の光沢、金冠の杖のみごとさ、上着の肩幅の広くゆったりした仕立て、さらにその材料の品質のりっぱさ、そして、一般に、身の回りの服装やしたくのわざとらしい身だしたみ。貧富にかかわらず、知人のひとりひとりに、おじぎをしたり、帽子を高く持ち上げたり、うなずいたり、手を振ったりして、街頭で世間の注意をおこたらぬ細慮。世間の人をひとり残らず喜ばすためにする慈愛の微笑――このような輪郭で作られた肖像の中に、いったいどうしてもっと陰気な気性の入り込む余地を見いだすことができようか? このとり澄ました面相こそ彼が鏡の中でながめる顔であった。この驚くほど整理された生活は、彼が毎日毎日を過ごしながら自分で意識していることであった。それなら、彼が、自分こそその結果であり総勘定であると主張し、そして彼自身にもまた社会に対しても、「そらそら、ピンチョン判事だ、よくごらん」と言うのも当然ではないか?
ところで、何年も昔、まだ年若で向こう見ずの青年だったころ、彼がある一つの非行を犯したということ──あるいは、今もって、避けるに避けられぬ環境の力が、多数の称賛される、または、少なくとも、非難のない行為の中で一つのいかがわしい行為を時々彼にやらせているということ──を認めるなら、あなたがたはその一つの避けがたい行為、しかも、その半ば忘れられている行為によって判事の特徴を決め、またその行為でもって生涯の明朗な人生に暗影を投じようとするだろうか? 悪の中のそれほど重いもの、親指大ほどの悪が、他方の秤皿《はかりざら》に盛り上げられた大量の悪でない物の重さをしのぐものは何であろう! このように天びんで帳尻を合わせる勘定のしかたはピンチョン判事の同類者たちが好んで用いるやり方なのである。不人情な、冷淡な性分で、こんな不幸な立場に置かれ、めったに、あるいは全く内面を洞察せず、そして、世論の鏡に映ったままの自画像と称するものから、自己についての見解を強引に取ろうとする人間は、財産や評判をなくしてからでなければ、真の自覚へ達することはまずできない。病気が必ずしも彼の自覚を助けるとはいえないし、臨終もまた必ず助けるとはかぎらないのである!
しかし、今われわれの仕事は、怒り心頭に発したすさまじいヘプジバーと向かい合って立っているピンチョン判事についてである。彼女は、自分でもびっくりしたが、なんら思い設けていなかったのに、実際なんの恐れ気もなく、今度だけは、三十年間この血縁の男に向かって持ち続けた、根強い彼女のうっぷんをぶちまけたのだった。
ここまでは、判事の顔色は穏やかな寛容を見せていて――自分のいとこの取り乱した激情を落ち着いてほとんどやさしくたしなめるふうに――彼女の言葉から受けた非礼を鷹揚《おうよう》にキリスト教徒らしく忍耐する表情をもっていた。しかしこれらの言葉が取り消しようもなく話され終わったとき、彼の顔つきは苛酷さと、権力の意識と、そしていささかも仮借しない断固とした様子とを見せた。そしてこのことはきわめて自然な、感じ取れないほどの変化だったので、あたかも非情な男が最初からそこに立っていて、柔和な男が全くいなかったかのようだった。その趣はまるで、とりどりに柔らかな色彩の明るいふわふわ雲が、絶壁の山の岩頭から急に消えうせて、たちまち永久不変のものと思わせるけわしい山容がそこに残っているかのようであった。ヘプジバーは、今まで胸にたまった痛恨を晴らしていた相手が、実は自分の先祖の老清教徒で、現在の判事ではなかったという、正気と思えぬ信念を危うく持つところであった。どんな人でも、自分の持っている血統《ちすじ》を、ピンチョン判事が、この危機に、奥の間の画像にそっくり生き写しなことでその血統を証明したほど、強くはっきり見せたことはなかった。
「ねえ、ヘプジバーさん」と彼は、じつに穏やかに言った。「このことはもう打ち切りにしてよい時分ですね」
「たいへんけっこうですわ!」と彼女は答えた。「それなら、なぜあなたはこのうえ私たちを苦しめようとなさるのですか? かわいそうなクリフォードと私のじゃまをしないでください。私たちはふたりともこれ以上何も望んでおりません!」
「私の目的は私がこの家を立ち去る前にぜひクリフォードに会うことです」と判事は言葉を続けた。「ヘプジバー、気違い女のようなふるまいはよしなさい! 私はあれのたったひとりの友人でしかもなんでもやれる友人なんですよ。こんなことがあなたの心に全然思い浮かばなかったのですか──わからなかったほどあなたは盲目なのですか――つまり、私の承諾のみか、私の努力や私の陳情や、また私の政治上、職務上個人的な勢力など背後関係全体の尽力がなかったら、クリフォードはいわゆる釈放にはけっしてならなかったろうということですよ。あなたはあの男の放免が私に対する勝利だとお考えでしたか? そんなものじゃありませんよ、ね、あなた、どうしてどうして、そんなことあるもんですか! とんでもない話だよ! そうではなくて、それは私のほうで長い間思い続けていた念願が成就したのだよ。私があの男を保釈したのだよ!」
「あなたですって!」とヘプジバーは答えた。「私はそんなことをけっして信じません! あの人が牢屋にはいったのは全くあなたのおかげです。あの人の釈放は神さまのおぼしめしです!」
「私があの男を釈放してやったんだ!」とピンチョン判事は、悠々とこの上なく落ち着き払って再び断言した。「だから私はあれをずっと釈放したままにしておくかどうかを決めるため、現在ここにやって来たのだよ。そのことは彼しだいなのだ。こういう趣旨のため、私はあれにぜひ会わなければならないのだ」
「なりません!――会えばあの人は気違いになってしまうでしょう!」とヘプジバーは叫んだがちょっとふらついた様子が判事の鋭い目に十分認められた。というのは、彼女は彼の好意などはてんで信頼していないが、最も恐れていることが、譲歩した場合に起こるのか、それとも抵抗した場合に起こるのか、見当がつかないからであった。「それでなぜあなたはこんなみじめな廃人の、ほんのわずかな知力を持っているだけの、しかもそれすら愛情ある目で見ない人から隠そうとしている者に、会おうとなさるのですか?」
「もしそれだけのことなら、私の目にたっぷりの愛情をあの男に見せてあげますよ!」と判事はこぼれるばかりのあいそのよい面相に十分根拠ある自信を見せながら言った。「しかしね、ヘプジバー、あなたはたくさんの真実を、しかも、とてもてきぱきと打ち明けてくれましたね。まあお聞きなさい、ではこうして面会を主張している私の理由を率直に説明いたしましょう。今から三十年前、私たちのおじのジャフリーが死んだとき、こういう事がわかったのです――あなたがこんな事にたいへん注意をひかれたかどうかはわかりません。この事件の回りにはもっと悲しい利害関係が群がっていたのです──しかしおじの、あらゆる種類の、はっきりわかった遺産が、今まで値踏みされていたどの見積りよりもはるかに不足していることが明らかになったのです。おじはじつに莫大な金持ちだと思われたのです。彼が当時の最も勢力ある人物に数えられていたことはだれひとり疑わなかったのです。だが彼の奇妙な癖の一つは──そしてまるっきり愚行とばかりは、いや、けっして言えないが──財産の金額を隠そうとして、たぶん自分の名でなく他人名義で、遠い土地のや外国の投資をしたり、そのほか資本家たちにはわかりきった方法だが、しかしここでいちいち説くには及ばないかずかずの手段を取ったりしたことだったのですよ。おじジャフリーの遺言書によって、あなたが承知のとおり、彼の全財産が私に贈られました。ただ一つの例外は、この母屋《おもや》の古い邸宅と、それにくっついて残っている先祖代々のわずかな地所の、あなた自身の終身不動産権だけです」
「それであなたはそれさえ私たちから奪おうとするのですか?」とヘプジバーは、苦々しい侮蔑《ぶべつ》を押えきれずに尋ねた。「そのことがかわいそうなクリフォードの迫害をあなたが中止するための代償なのですか?」
「そんなことはあるものですか、ね、あなた!」と判事は、いかにもやさしそうに微笑しながら答えた。「それどころか、あなたには公平に認めていただかなければならないことだが、血縁の者同士として差し出す心からの親切をなんでも受け入れる決心さえつけば、いつでも私は喜んであなたの資産を二倍にも三倍にもしてあげようと始終話してきましたよ。そんなことってあるもんですか! しかしここがこの問題の要点ですよ。今述べた、私のおじの疑う余地のない莫大な財産のうち半分も――いや、私は十分確信しているが、その三分の一も――おじの死後、明白にされていなかったのだよ。ところで、あなたのにいさんのクリフォードが、残りの財産を取り戻す手がかりを与えることができると信じられる最も有力な理由を私は持っているのだよ」
「クリフォードがですって! クリフォードが何か隠した財産のことを知っていますって?──クリフォードがいつでもあなたを金持ちにする力を握っているんですって?」と老貴婦人は、そんな考えをいくらか嘲弄するような気持ちにかられて、大きな声を出した。「とんでもないことです! あなたは思い違いをしています! それこそほんとうに笑いごとですよ!」
「それが確かなことは私が今確かにここに立っているのと同じだよ!」ピンチョン判事は、持っている金冠のステッキを床へ突き立てて、同時に、あたかも肥満したからだの全力をこめて彼の確信をいっそう強く表わそうとするかのように、足を踏み鳴らして言った。「クリフォードが自分からそのとおりに私に話したのだ!」
「いいえ、めっそうな!」とヘプジバーは、とても信じられないというふうに、絶叫した。「あなたは夢でも見ているのですよ、ジャフリー!」
「私は夢想家たちの仲間にははいらないよ」と判事は、静かに言った。「おじが死ぬ数か月前、クリフォードは私に、数えきれないほどの財産の秘密を握っていると言って自慢したのだよ。彼は私をあざけって、好奇心をそそりたてるつもりだったのだ。私にはそのことがよくわかっている。けれども、われわれふたりの会話を詳細にかなりはっきり思い返してみた上で、彼のいった言葉の中に真実があったのだと、私はあくまで信じている。クリフォードは、今すぐにでも、もしよければ──そしてぜひそうしなければならんのだ!――ジャフリーおじのゆくえ不明になっている莫大な財産の目録なり、証券なり、証拠物件なり、たといどんな形で残っていようと、その所在を私に教えることができるのだ。彼は秘密を握っている。彼の自慢は根も葉もない言葉ではなかったのだ。その言葉には、ある迫力、語勢、特徴などがあって、謎のように不思議な彼の言い回しの中にも、しゃんと筋の通るしっかりした意図が現われていたのだよ」
「けれどそんなに長いことそれを隠していたクリフォードの目的はいったいなんだったというのですか?」とヘプジバーはきいた。
「それはわれわれの堕落した人間性の醜い衝動の一つだったんだよ」と判事は、目を上のほうへ向けながら答えた。「あの男は私を自分の敵とみなしたんです。彼は私のことを、自分を打ちのめしそうな破廉恥、身に差し迫る死の危険、取り返しのつかない身の破滅の原因だと考えたんです。それゆえ、私をいっそう高く栄華の階段を昇らせるような資料を、あの男が牢獄の中から、みずから進んで提供する可能性はなかったのだ。しかしあの男が秘密を渡さなければならない時機がいま来ているのだよ」
「それで、もしあの人が断わったらどうしますか?」とヘプジバーは尋ねた。「いや──私が信じきっているように──そんな財産のことを全然知らないならどうしますか?」
「これはしたり、あなた」と判事は、どんな暴力よりもこわいすごみをきかせた落ち着きを見せながら言った。「あなたのにいさんが戻ってから、私は予防策(そのような、状況にある人間の近親としてまた当然な後見人としてまことに正当な方法)を採り、あの男の態度や習癖を絶えず、かつ注意深く監視させたのだ。庭でどんな事が起こっても、あなたの近所の人たちがその実地証人だったのだよ。肉屋、パン屋、魚屋、あなたの店の数名のお得意さんや、またたくさんの物見高いお婆さんたちが、あなたの家の中の秘密をいくつか話してくれたんだよ。そのうえ大ぜいの人たちが――私自身もそのひとりだが──アーチ窓での彼のとんでもない行状を証言できるのだ。数知れぬほど多くの人々が、一、二週間前、そこから表通りへあわや身を投げようとした彼の姿を見たんだ。こんなあらゆる証言から、私は――言うのも気が進まないし、じつに残念なことだが──クリフォードの不幸が、非常に強いとはけっしていえない知能をひどく侵してしまったので、あの男を釈放しておくのはどうしても安全じゃあるまいと心配されるのだ。ほかに採るべき方法は、ご承知に相違ないが――そしてこの方法を採るか採らぬかは、全く今から決めようとしている私の決意しだいなんだが──その代わるべき手段は、たぶん、あの男が残りの生涯を終わるまで、同じ不幸な精神状態の人々を収容する公立精神病院へ監禁することなんだ」
「まさか本気ではないでしょうね!」とヘプジバーは金切り声を立てた。
「もしいとこのクリフォードが」とピンチョン判事は、全く落ち着き払って言い続けた。「ただ悪意から、また、私の利益が当然クリフォード自身にとってもたいせつなはずなのに、私個人への憎しみから──こういう形の感情は、他のどんな徴候とも同じように、精神病の現われであることが多いが──もしあの男が、私にとってじつに重要なその知識を、しかもそれを握っているのは確かなのに、私に教えぬなら、そのことが、あの男の精神異常を私に確信させるに足る一つの証拠と考えられるんだ。また、いったん良心の指示する方針が確認されれば、ヘプジバー、あなたはよくよく私を承知だから、私がそれを追求することには少しの疑念もないはずだ」
「ああ、ジャフリー──ねえ、ジャフリー!」とヘプジバーは、悲しみに打ち沈み、怒りからさめて、泣き叫んだ。「あなたこそ心が狂っているのです、クリフォードではありません! あなたはあなたの母親が女であったことを忘れています!──あなたは女きょうだいや、男きょうだいや、自分の子どもたちがあったことを忘れています!──またこのみじめな浮き世にも、人と人との間に愛情が、人から人へ哀れみがあったことを忘れています! もしそうでなかったら、どうしてあなたはこのようなことを思いつくことができたでしょうか? ねえ、ジャフリー、あなたは若僧ではありません!──いいえ、中年でもありません──もうとっくに年寄りなんですよ! 髪の毛がまっ白なのですよ! あと何年生きることができますか? そのわずかな間、十分に裕福なのではないですか? 今から墓場まで行く間、あなたは飢えることがありますか──着る物や、雨露をしのぐ屋根に事欠くことがありますか? いやありません! それどころか、あなたが今持っておられる財産の半分で、ぜいたくな食物やぶどう酒を思うまま楽しむことができるし、今の住まいの二倍もぜいたくな家を建てられるし、そして世間へまだまだはでなみえを張ることもできますし──それでもまだあなたのひとり息子に遺産を残して、あなたの死に水を取って祈ってもらうこともできるのです! それならなぜあなたはこんな無慈悲なしうちをするのですか? ──まるで気違いざたで、邪悪と呼んでよいのかもしれません! ああ悲しいこと、ね、ジャフリー、この薄情で強欲な根性が二百年の間私たちの血に通っているのです。あなたは、昔あなたの先祖がなさったとおりの非行を、別の形で再びくり返し、先祖から受けた呪いをあなたの子孫に伝えようとしているにすぎないのです!」
「後生だから、ね、ヘプジバー、わけのわかった話をしなさい!」と判事は、かんじんな用向きについての議論で、今述べたような全く愚にもつかない話を聞くやいなや、理論家肌として当然じれったくなって、大声をあげて叫んだ。「私はあなたに私の決断を話したのだ。私は容易に変えやしない。クリフォードは必ず秘密を打ち明けるか、それとも自己の行為の結果に責任を負うかだ。だからさっさとあの男に決めさせなさい。なぜならけさは二、三の用をめんどうみなければならんし、また友人の政治家数人とだいじな正餐《せいさん》の約束があるんだからな」
「クリフォードはどんな秘密も持っていません!」とヘプジバーは答えた。「それで神さまはあなたの胸に一物あるたくらみをあなたにさせることはありますまい!」
「今にわかるよ」と判事は、断固として悪びれずに言った。「こうやっている暇に、あなたがクリフォードを呼び出して、そしてこの問題をふたりの血を分けた者どうしで話し合い、穏便な解決で済ませるか、それともまた、これが避けられればそれに越した幸福はないと思っているのだが、しいて私にもっと手荒な手段を取らせるか、どちらか決めてもらいたい。この責任は全くあなたのがわにあるのだ」
「あなたは私より強いのです」とヘプジバーは、ちょっと思案してから言った。「そしてあなたの強引さには露ほどの情けもありません! クリフォードは現在気が狂っていません。しかしあなたがぜひ面会したいとおっしゃるならあの人が発狂しないともかぎりません。とはいうものの、あなたがどういう人か、私は実際によく知っていますから、あの人がたいせつな秘密は何ひとつ持っているはずはないことを、あなたに自分で判断してもらうのが私として最もよい方法だと信じます。クリフォードを呼びましょう。どうか情けをかけてやってください!──あなたの心の声が命ずるよりも、もっとたくさん情けをかけてやってください! 神さまはあなたをよく見ていらっしゃいますからね、ジャフリー・ピンチョン!」
判事はいとこのすぐ後について、こんな会話が行なわれた店から客間に通り、先祖から伝わった大きないすへどっかと重いからだを投げ込んだ。昔からたくさんのピンチョン家の人たちがそのいすの広いゆったりした腕に抱かれて安らかに休んだのであった。──遊び終わった、ばら色の頬《ほお》の子供たち、恋を夢みる若者たち、憂苦にうみ疲れたおとなたち、人生の重たい冬を背に負う年寄りたち──彼らは思いに沈み、まどろみ、そしてさらにもっと深い眠りへとこの世を去って行った。疑わしい話ではあるが、長い間の伝説となっていたことは、このいすこそ、判事のニューイングランド祖先の始祖──その画像が今も壁にかけられているその当人──がこれに腰かけて息絶えたまま、殺到する知名の客に向かって、無言の恐ろしい死者の接見をしたそのいすであるというのであった。凶兆であったその時から現在に至るまで、おそらく──といってわれわれは彼の心の中の秘密を知るわけにはいかないが――しかしおそらく、われわれが今しがた清け容赦を知らぬ強情ぶりを見届けた当のピンチョン判事より、もっと疲れ果てた、またもっと悲惨な男がこのいすに腰を埋めたことは、まだかつてなかったろう。確かに、彼はわずかな犠牲を払っただけで、これほど魂を鉄の鎧《よろい》で武装したのではないに相違なかった。このような冷静ぶりは、弱い人々の暴力などは及ばないはるかに大きな努力なのである。さらにまた彼にはやろうとする大きな仕事が控えていた。彼は、三十年が過ぎた今、生き身のまま墓場から立ち上がったひとりの肉親と会い、その男から秘密をもぎ取るか、それともその男を再び生きた人間の墓場へ送り込まなければならぬその仕事は、ささいな用事――片手間に用意を整えて、すぐまたちょっと一息入れるというほどの手軽な雑事――であったろうか?
「何か言いましたか?」とヘプジバーは、客間の敷居のところから中をのぞいて見ながらきいた。というのは、彼女は判事が何か声を出したと思い、その声を、ふびんがる気持ちの衝動であればよいと解釈したくてたまらなかったからだった。「私を呼び返したような気がいたしましたが」
「いやとんでもない!」とピンチョン判事は、すごい目でにらみながら、荒々しい声で返事したが、みるみる彼の形相は、部屋の暗がりに、ほとんど黒い紫色にまで変わっていった。「なんで私があなたを呼び返すわけがあるものか? 時がたつ! クリフォードに私のところへ来るように言いつけなさいっ!」
判事はチョッキのポケットから時計を取り出した。そして今は手に持ったままクリフォードが姿を現わすまで時間がどれだけたつか計っていた。
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十六 クリフォードの部屋
かわいそうにヘプジバーにしてみれば、彼女がそんなみじめな用向きで部屋を出て行ったときほどこの古い屋敷がひどく陰鬱に見えたことはなかった。家の中は異様な趣を帯びていた。彼女は踏み滅らされた廊下を歩き、がたびしの戸をつぎつぎに開いて、きいきいときしむ階段を上り、思い悩みながら、こわごわとあたりを見回した。たとい彼女の背中やわきのほうで、死んだ人々のきぬずれの音がさらさら聞こえたり、あるいはいくつかの青白い顔が階段の上がりばなに待ちうけていたにしても、興奮している彼女の心には、不思議ともなんとも感じられなかっただろう。彼女の過敏な神経は今けんかしてきた怒りや恐怖の騒ぎのため、すっかり調子が狂っていた。
彼女とピンチョン判事との対話は、判事がこの一家の開祖の風貌や性質を全く完璧に表わしていたので、荒涼とした過去を呼び返したのであった。その過去は彼女の心を重く圧迫した。伝説に詳しいおばたちや祖母たちから、ピンチョン家の運、不運について彼女が聞いていたどんな事でも──これらの話をきっと連想させる、炉隅《ろすみ》の燃え輝く火によってこれまで彼女が暖かく記憶を保ってきたいろいろな物語が──今や、陰鬱に、ぞっと身の毛がよだつように、ひえびえと彼女の心に浮かんできた。悲しい気持ちでじっと考えこんだとき、家の歴史の挿話はたいていそうなるものである。その物語全体が、代々にわたってくり返し現われる一連の災厄にほかならず、それがおよそ一様な色調で、荒筋だけは違っているがほとんど変化がないように思われた。
しかしヘプジバーは今、あたかも判事と、クリフォードと、彼女自身とが──その三人が共同で──この家の年代記へ、また新たな事件を一つ加え、それを残り全部の歴史からぐっときわだたせるために、いっそう大胆に悪と悲嘆を浮き彫りにしあげているところのような気がするのであった。こうして現在の危機の大きな嘆きが個性を現わして、クライマックスの主役を演じ、しばらくして性格を失い、しだいに衰えて、何年かずっと昔の悲しみ事や喜び事に共通な、暗い灰色の織り地の色へ溶け込んでしまう運命のものなのである。何事であれ、奇異な、あるいはぎょうさんな様相をするのは、比較的ほんの一瞬の間にすぎないものである──これは一つの真理であり、その真理の中に悲痛も甘美もともに含まれているのである。
しかしヘプジバーは、何か空前の重大事が目の前に迫り、今すぐにも実現されそうな意識からのがれることはできなかった。彼女のたかぶった神経はぶるぶる震えていた。本能的に彼女はアーチ窓の前に足を止めて、外の通りをながめ、そこにある永久に変わらぬ物体を心にしっかりと捕え、こうして、もっと身近な回りの世界をふらつかせているからだのよろめきや震えを止めて安定させようとした。すると、晴天とけわしい荒天のときとの差はあっても、あらゆるものが、前日の、また数知れぬその前の日と全く同じながめであるのを彼女が見やったとき、いわば、どきっと心が衝撃を受けたかのように、ぴたりとそれがやんでしまった。彼女は通りに沿って戸口の上り段から上り段へと目を走らせた。そしてぬれた歩道に、雨水がいっぱいになるまで気づかないでいたくぼみの水たまりがあちこちにできているのが目に止まった。彼女はある一つの窓をもっとはっきり見届けたいと思って、ぼんやり霞む目をいちばん見える視点まですぼめた。そこには洋服屋の裁縫婦がひとりすわって仕事をしているのが、半ば見たような、半ば察したような気がしたからだった。ヘプジバーは、こんなに離れているのに、そんな見も知らぬ女の同情へよりすがったのだった。それから彼女は軽やかに通り過ぎる二輪幌馬車に気を取られて、ぬれてきらきら光る馬車の屋根や、ぱしゃぱしゃと水をはね飛ばす車輪をながめ、そして馬車が町角を曲がるまで見送ったが、ど肝を抜かれて、荷重になるほど沈んだ心をこのうえ運ぶのは断わられてしまった。馬車が姿を消してしまうと、彼女はもうしばらくひまどっていた。こんどは人の好いヴェンナー爺のつぎはぎ姿が、通りの出ばなからこちらのほうへゆっくりとやって来る姿が見えたからだった。彼はびっこをひいていた。なぜなら東風がもう彼の骨の節々にしみ通ってきたためであった。ヘプジバーは、彼がまだもっとゆっくり歩いて、もう少しの間、孤独に身を震わせている彼女を助けてくれたらよいのにと思った。彼女を悲痛な現在から連れ出して、彼女自身と、彼女にいちばん身近かな事柄との間に人間をはさんでくれるものはなんであっても──つまり、彼女がいま赴く途中のぜひもない用向きを、たとい一瞬なりと、じゃまするものはなんであれ──すべて歓迎された。最も快活な心に次いで最も重い心の者がいちばん遊びたがるものである。
ヘプジバーは自分ひとりの苦痛だけでもしんぼうしきれぬほどであったが、まして自分がクリフォードに苦痛を与えるに決まっている事柄に対しては、いっそうがまんできなかった。生まれつきなんといっても弱い性質で、またこれまで災難でさんざん痛めつけられていたため、一生を通じて彼の「邪悪な運命」となっている、この冷酷無情な男に彼を対面させることは、当然クリフォードの完全な破滅を招かないはずはなかったろう。たとえふたりの間になんらつらい思い出がなかったにしても、また現在ふたりの間で争っているお互いに角つき合わす利害関係は何もなかったとしても、人よりも敏感なたちの人が、肥満した、重い、鈍感な者に対する先天的な反感だけでも、本来、前者にとって悲惨なものに相違なかった。それは、すでにひび破れている陶器の花びんを、大理石の円柱にぶっつけるようなものであろう。今までヘプジバーはいとこのジャフリーの強引な性格――彼の知力、強力な意志、大ぜいの中で活躍する長い間の習慣、また、彼女がそうと信じ込んでいるように、邪悪な手段による無遠慮な私欲の目的追求などのために強引な――性格をこれほど正当に評価したことはなかった。ピンチョン判事が、クリフォードが持っていると思いこんでいる秘密についてある妄想に憑《つ》かれていることは、事をめんどうにするだけであった。彼のように意志の強固な、そしてきまって機敏な人たちは、実際的な問題に誤った見解をたまたまいだく場合には、これを事実として知られているいろいろな事柄の中へ楔《くさび》に打ち込んでしっかりと固めてしまうので、これをこの人たちの心からねじり取ることは樫の樹木を引っこ抜くよりも容易なわざではないのである。こうして、判事は不可能なことをクリフォードに要求したために、後者は、それを実行できず、そのためにどうしても滅びなければならないのだ。なぜなら、こんな男の手にしっかりとつかまえられたらクリフォードのやさしい詩人的性質は、はたしてどうなることだろう! その性質はもともと美の享楽の生活を音楽的抑揚の流れとリズムに調節するほかは、どんな事にもけっして執着を持てないはずの性質だった。事実、すでにもうどんな結果になってしまっているか? 失意! 傷魂! まるで生けるしかばね! やがてあとかたもなく滅ぶ運命なのだ!
ほんの一瞬、ヘプジバーの心をちらとかすめた考えは、判事がクリフォードに押しつけているような、死んだおじの消えうせた遺産についての知識を、彼がほんとうに持っていないのかどうかということだった。彼女は自分の兄にかかわる、いくつかのはてな、と思われるあやふやな節を思い出した。それは──もしそんなあてずっぽうがもともと途方もなく筋違いなものでないとしたら──そういう暗示のようにも解釈されたかもしれなかった。外国を旅行し、外国に住居する計画や国内で豪奢な生活をする白日の夢や、華麗な空中楼閣などが描かれていたが、これを建設し実現するためには無限の富を必要としていたろう。これほどの財産が彼女の思うとおりになるのだったらクリフォードがこの荒廃した古屋敷に幽居する自由をあがなうため、どんなにか喜んで、ヘプジバーはそのあり金全部を薄情な肉親のその男に与えたことであろう! しかし彼女は兄のいろいろな計画が、母親の膝のそばの小さないすにすわりながら、子供が描く人生の未来図と同じように、現実的な内容と意図が欠けていると信じていた。クリフォードは幻の黄金のみが自由に使えるだけであった。そしてそんなものはピンチョン判事を満足させるしろものではなかった!
追いつめられたふたりに救いはなかったのか? 彼女は都会のまん中にいながら、なんの救いもないとは不思議に思われた。窓を押し上げて悲鳴をあげるのは、朝飯前であろうし、その異様な苦悶を聞けば、それが何か恐ろしい危急の際に人間の魂が発する叫びである事を承知の上で、だれでもさっと救助に駆けつけてくれるだろう! しかしだれが、またどんな親切気から助けに来ても、みんなきまっていちばん強い者の味方をするなんて――なんと乱暴な、なんとばかばかしいとさえいえる不幸な運命であろうか──それなのにこのような事が、このうとましい狂乱の浮き世に、なんと絶え間なく起こることであろう、とヘプジバーは思った。力と悪とが結ばれれば、磁気を帯びた鉄に似て、金輪際抵抗できない引力が与えられるのである。ピンチョン判事は――民衆の目から見れば卓越した、身分の高い大資産家であり、慈善家、国会議員、教会員であり、その他りっぱな名声を与えるいかなるものとも密接に結びついている人間で──これらの有利な照明を浴びて、まことに堂々としているために、ヘプジバーは彼のそらぞらしい不誠実についての結論を自分からはばからずにはいられなかった。一方は、この判事! しからば相手方は、だれか? 罪を犯したクリフォードであった! かつては世間の笑い者! 今は、ほとんど忘れ去られた恥ずべき汚れた人間!
しかし、ヘプジバーはこのように、判事が他人の援助をいっさい自己の味方に引き寄せてしまうだろうと覚悟していたにもかかわらず、自分ひとりで行動することは非常に不慣れであったので、ほんのわずかな助言でも彼女の心をゆすぶってなんらかの行動をさせたことであろう。おとめのフィービ・ピンチョンなら、たとい何か有益な暗示ではないにしても、ただ彼女の暖かい快活な性格のせいだけで、たちまち全体の局面を明るく輝かしたことだろうに。ふと銀板写真家のことがヘプジバーの頭に浮かんだ。彼は若くて無名の、放浪の冒険家にすぎなかったのだが、ホールグレーヴには、危機を救う戦士となるにふさわしい力が十分あることを彼女は知っていた。こんなことを心の中で考えながら、彼女はある戸の桟をはずした。その戸はくもの巣だらけで、長い間使用されていなかったが、彼女が使っている母屋《おもや》の一部と、放浪の銀板写真家が今仮の宿ときめている破風との間を出入りする方法として、昔役だっていたものだった。彼はそこにいなかった。裏返しになった、机の上の一冊の本、くるくる巻いた一束の原稿紙、書きかけの一枚の紙、一枚の新聞紙、今やっている商売用の二、三の器具、捨てられた数葉の銀板写真の一枚一枚など、まるで彼がすぐ近くにいるかのような印象を与えていた。しかし、真昼のこの時分には、あるいはヘプジバーが予想していたのかもしれないように、写真家は自分の営業所にいた。重苦しい気持ちの合い間からちらちらひらめくたわいない好奇心に駆られるままに、彼女は一枚の銀板写真に目をやった。すると彼女をにらみつけているピンチョン判事の顔を見た!「悪運」がまともに彼女を見すえていた。彼女は気がめいる失望感で、むだだった捜し物から引き返した。彼女の長年のひとり住まいの間にも、今ほど孤独の真の味を身にしみて感じたことはなかった。まるで家が砂漠の中に立っているか、または、ある呪文によって周囲に住んでいる人々や、家のそばを通り過ぎる人々から見えなくされ、そのため、家の中にいたましい事故とか、犯罪とか、どんな形の不幸が起こっても助けられる見込みはないかのように思われた。悲しみと傷ついた自負心をいだきながら、ヘプジバーは友人たちをふり捨てて暮らしてきたのであった。彼女は、神の手に成る同胞はみな互いに助け合うべし、と神が定められたその援助を強情に放棄したのであった。それで今、クリフォードと彼女自身とが、それだけ容易に自分たちと血をわけた敵の犠牲となることは彼女の天罰であった。
アーチ窓へ戻ってきて、彼女は目をあげて――顔をしかめた、しょぼしょぼの、おぼろな視力のヘプジバーがまともに天をふり仰いだのだ!──そして灰色に塗りこめられた密雲を貫いて天まで届くよう熱心に祈った。雲霧は、あたかも人間の苦悩、疑惑、混乱、冷淡な無関心などの大きな密集したかたまりを象徴するかのように、大地と天界との中間にたれこめていた。彼女の信仰はあまりにも弱かった。その祈り事はあまりに重すぎてこんなに高くは上がらなかった。それは、ひとかたまりの鉛となって、彼女の心に落ちて戻ってきた。そしてそれは、神はひとりの人間がその同輩にするこんなささいな非行をいちいち干渉しないし、また孤独な人間の魂のこうしたささやかな苦悶をいやすどんな鎮痛剤も持ち合わせておらず、ただ神の正義と慈悲を、きらきらと照らす太陽のようにさっと、世界の半球へいっせいに降りそそぐのだという確信で、彼女の心をみじめにうちのめした。神慮の茫漠《ぼうばく》とした広大さは神慮を虚無にしたのであった。しかしヘプジバーは、ちょうど暖かい太陽の光線がどんな貧しい家の窓にもさしこんでくるように、それぞれの個人の求めに対して神の心づかいといたわりの愛の光が照らすことを悟ってはいなかった。
ついに、彼女がどうしてもクリフォードに負わさなければならない責め苦をなんとかして延期させる口実がほかにないことを知って──その拷問をきらったためにこそ、彼女が窓辺で手間取ったり、写真家を捜し求めたり、またなまじっか祈り事をしたわけであった――そしてまた、ぐずぐずする彼女をしかって、今にも階下からピンチョン判事のきびしい怒声が聞こえるかとひやひやしながら──のろのろと、青ざめた、悲痛な姿で、陰気な幽霊の女のように、ほとんど手足の自由もきかぬふうにのろのろと兄の部屋の戸に忍び寄り、そしてノックした!
返事がなかった!
そして返事のあるはずなど、どうしてあったろうか! 彼女の手は、それを動かす意志がひるんでいるためぶるぶる震えて、あまりに弱く戸をたたいたのでノックの音が内側へ通っていかなかったのだ。彼女は再びノックした。それでもまだ答えがなかった! これとて不思議ではなかった。彼女はわななく心だけの力をふりしぼってたたいたのであって、それがある微妙な磁性の働きで、彼女自身の恐怖をノックの音に伝えたのであった。クリフォードは顔をまくらにうつ向けて、夜半におびえる子のように、頭に夜着をかぶることだろう。彼女は三度目を、規則正しく三つ、静かに、しかも十分はっきりと、そしてたたくつもりで、ノックした。というわけは、われわれがどれほど慎重な技巧でノックを加減しようとしても、手が、われわれが感じている何か心の諧調を、非情の木質にかなでないわけにはいかないからである。
クリフォードは返答しなかった。
「クリフォード! にいさん!」とヘプジバーは言った。「はいってもいいの?」
ひっそりしていた。
二度、三度、さらに何度も、ヘプジバーは彼の名をくり返したが、むだだった。とうとう、兄が例になく熟睡しているものと考えて、はいってみると、部屋にはだれもいなかった。自分の知らぬ間にどうやって、いつ、兄が抜け出したのかしら? 暴風雨の日なのに、そして閉じこもる退屈さにやりきれず、庭のいつもの場所に抜け出して、今ごろはあのあずまやで陰気な雨宿りをしながら寒々と震えていはしないだろうか? 彼女は急いで窓を押し上げ、ターバン帽をかぶった頭とやせたからだを半身外へ突き出して、庭じゅうくまなく、おぼろげな視力で見えるかぎり捜し求めた。彼女はあずまやの中と、円い形の長いすが、屋根から落ちる雨だれでぬれそぼっているのを見ることができた。中にはだれもいなかった。クリフォードはその辺にいなかった。ただし、ほんとうに彼が隠れるつもりで――(そんなこともあろうかと、ちらっと、ヘプジバーは思ったのだが)――からみ合う広い葉がこんもりと小暗く茂っている、大きなぬれた藪《やぶ》へはい込んでしまえば別だが。そこはかぼちゃのつるが、一時しのぎに垣根へ斜めにさしかけた古い木の枠へがむしゃらにはい上がっているところだった。けれども、こんなことはあるはずがない。彼はそこにいない。というわけは、ヘプジバーがながめている間に、見なれない一匹の猫がちょうどそこからそっと出てきて、用心しながら庭を横切って行ったからである。猫は二度足を止めてにおいをかぎ、それからあらためて応接間の窓のほうへ進んで行った。すると、猫族には共通な、こそこそと、人目をうかがうそぶりをする理由からだけであったのか、それともこの猫が容易ならぬ悪心をいだいていると見えたためか、この老貴婦人は、自分で非常に当惑したにもかかわらず、この動物を追っ払ってしまいたい気持ちをかきたてられ、そのために窓のつっかい棒を投げ降ろした。猫は見つかった窃盗か殺人犯のように、彼女を見上げてじろりとにらみ、そして次の瞬間、逃げ去った。ほかに生き物は何ひとつ庭に見えなかった。雄鶏とその家族は、降りやまぬ長雨に気を腐らして、鶏舎《とや》を離れないでいたか、または、二番目にりこうな方法として、ころあいに鶏舎へ戻ってしまったか、どちらかであった。ヘプジバーは窓をしめた。
それにしてもクリフォードはどこにいるのだろうか? もしか彼の「邪悪な運命」がいるのに気がついて、判事とヘプジバーとが店で立ち話をしている間に、ひそかに階段を忍び降り、そして表戸のかけ金をそっとはずして、表の通りへ逃げ出したとでもいうのだろうか? それを思うともう彼女は、家のあたりで着ていた古めかしい服装の、しらがで、皺の寄った、それでいて子供のようにあどけない彼の顔が目に見えてくる気がした。それは人がたびたび寝苦しい夢の中で、自分がそんな姿をしていて、世間の目がみな自分にそそがれている思いがするときのような風体であった。いたましい兄のこうした姿が市中を至る所さまよい歩き、まるで幽霊のように、すべての人の目をひき、あらゆる者の驚異と嫌悪をかき立てて、しかも昼日なか、姿が見えるだけにいっそう身震いさせることであろう。彼を覚えていない、若い大ぜいの人たちの冷笑を招いたり──昔なじみの彼を思い出すかもしれない少数の老人たちの、それだけかえってきびしい軽侮と憤りを招いていたら! わんぱくな小僧たちにからかわれていたら! 小僧らは、表通りを駆け回るぐらいに大きくなると、美しく神々しいものを崇敬する気持ちも、また悲しいことをあわれむ情ももはや持たなくなって──罪の権化《ごんげ》を宿している人間の肉体を清浄にする、神聖な罪意識をもはや持ち合わさず──まるでどの小僧もみな「悪魔《サタン》」が父親であるかのようなのだ! 小僧たちのののしる声や、かん高い、金切り声の叫びや、残忍な笑い声に苦しめられて──彼をめがけて小僧たちが投げつけるであろう、表通りのきたない物で侮辱されて──あるいは、きっとありそうなことだが、だれひとり彼を苦しめようと一言でも軽はずみに吐く者はいないけれども、ただ異様なあたりの気配に心を取り乱して――もしかクリフォードが、確かに精神異常であるとみなされるような、何か無法な乱行をふとしでかしたところでなんの不思議があろうか? こうしてピンチョン判事の鬼畜のような計画は労しないでたちまち成就されるであろう!
それからヘプジバーは、その町がほとんど完全に周囲を水で囲まれていることを思案した。いくつかの波止場が港の中心へ延びており、そしてこの険悪な天候で、いつも込み合う商人、労働者、船乗りたちがいなかった。どの波止場もひっそりしていて、船はみな舳《へさき》や艫《とも》を、もうろうとした長い波止場沿いにつながれていた。もしかしてあてどない兄の足先がその方向に迷って行ったら、そして彼がただ、ほんのちょっと、深い、黒々とした潮流に身をかがめて、こここそ彼の手の届く安全な逃避の場所と考え、そしてたったひと足、あるいはからだの平均をほんのわずかくずすだけで、肉親の判事の手から永久にのがれられると思いつきはしないだろうか? ああ、ふとした誘惑! もし彼の重たい悲痛をその身の安全保証としたら! 沈んで、悲痛の鉛を重りにして、けっして二度と浮かばないとしたら!
この最後の考えの恐ろしさにヘプジバーは耐えられなかった。ジャフリー・ピンチョンでさえ、今は彼女を助けてくれるに違いない! 彼女は急いで階段を降り、歩きながら金切り声を出した。
「クリフォードがいないわ!」と彼女は叫んだ。「兄の姿が見えないわ! ジャフリー・ピンチョン、助けて! 何かの災難があの人にふりかかるわ!」
彼女は応接間の戸をさっと開いた。しかし、窓という窓をさえぎる樹枝の形やら、黒ずんだ樫の鏡板やらで、部屋の中には光線がほとんどなく、そのためヘプジバーのおぼつかない視力では判事の姿をはっきり見わけることができなかった。それでも彼女は彼が、床の中央近い、祖先譲りの肘掛けいすにすわって、顔をいくらかそむけたまま、窓のほうをながめているのを見たことは確かだった。ピンチョン判事のような人間の神経組織はきわめて強靱《きょうじん》で、また落ち着いたものなので、彼はおそらく彼女が立ち去ってから二度と身じろぎもせず、厳格な気性から冷然と構えて、偶然が彼をほうりこんだそのままの姿勢を保っていたのだろう。
「ほんとうによ、ジャフリー」とヘプジバーは、応接間から別の部屋を捜そうとからだの向きを変えながら、いらだたしげに、大声をあげた。「兄が部屋にいないのです! 私を手伝ってあの人をぜひ捜してください!」
しかしピンチョン判事は、ヒステリックな女の驚きあわてた叫び声を聞いて、いかめしい人柄からも、また大柄なずうたいの大きな腰部からも、あたふたとぶざまに安楽いすから飛び立つような男ではなかった。それにしても、この事件に関する彼自身の関心の度合いを思えば、もう少し機敏に騒ぎ回りそうなものだった。
「あなたは私のいうことを聞いてるの、ジャフリー・ピンチョン?」とヘプジバーは、ほかのどこを捜しても見あたらなかったので、再び応接間の戸に近寄りながら、金切り声で言った。「クリフォードがいないのですよ!」
ちょうどこの時、応接間の入口の所に、中から出てきた、当のクリフォードが姿を現わしたのだ! 彼の顔はこの世の人とも思われないほどまっさおだった。ほんとうに死人のように白いので、廊下の至る所もうろうとした薄闇をすかして、あたかも光が彼の顔だけを照らしているかのように、ヘプジバーはその面ざしを見わけることができた。その顔のいきいきと激しく興奮している表情もまた同じように、その目鼻立ちを明るく輝かすに十分なようだった。その表情は彼が手ぶりで示す感情とぴたり一致する、軽侮・愚弄の表情であった。クリフォードが半ば後をふり向いて、入口に立ちながら、応接間の中を指さし、あたかもヘプジバーばかりか、世界じゅうの人々までも呼び集めて、何か想像もつかない愚劣な物をながめさせようとしているかのように、人さし指を静かにぴくぴく動かした。こんな、じつに間の悪いそしてとっぴな動作のために――それがまた、他のどんな興奮した感情よりもむしろ歓喜に見える表情を伴っていたので――どうしてもヘプジバーは、冷酷な親類の不吉な訪問が、かわいそうにも兄を完全な狂人にしてしまったのかと心配せずにはいられなかった。それにまた彼女は、判事がおとなしく黙っている気持ちを、クリフォードのこのような精神錯乱の徴候が進む間、彼がずるく監視しているのだと推察するよりほかに解釈のしようがなかった。
「静かになさい、クリフォード!」と彼女はささやいて、片手を上げ、用心するようにと印象づけようとした。「ああ、後生だから、静かにしてね!」
「あの男を静かにさせておくんだな! それ以上何があいつにできるものか?」とクリフォードは答えて、ますますもの狂わしい手ぶりをしながら、今出てきたばかりの部屋の中を指さしていた。「私たちはね、ヘプジバー、私たちはもう踊ることができるのだ!──私たちは歌うことも、笑うことも、遊ぶことも、なんでもやりたいことはできるのだ! 圧迫がなくなったのだよ、ヘプジバー! 圧迫がこのうんざりする古い世界から行ってしまったのだ。それで私たちはかわいいフィービと同じように快活になれるのだ!」
そして、彼の言葉のとおり、声をあげて笑いだしたが、それでもまだ、ヘプジバーには見えない、応接間の中の何かを指さしていた。彼女は不意にある恐ろしい物を直感してぞっとした。彼女はさっとクリフォードのそばをすり抜けて、部屋の中へ姿を消した、かと思うとほとんどすぐに、のどが詰まるような叫びをあげて、戻ってきた。彼女は、おびえた、探るようなまなざしで兄をじっと見つめて、彼が、頭から足先まで、全身をわなわなと震えおののかせているのを認めたが、その一方、荒れ狂う激情か恐慌か、このようなあらしのさなかに、突風のような彼の笑い声がなおもとぎれとぎれに続いた。
「ああ神さま! 私たちはどうなるのでしょうか?」とヘプジバーはあえぎながら言った。
「おいで!」とクリフォードは、いつもの彼に全く似わない、簡単なきっぱりした口調で言った。「私たちはあんまり長くここに住みすぎるのだ! この古屋敷はいとこのジャフリーに任せようじゃないか! あいつはこの家をたいせつに管理するだろうよ!」
ヘプジバーはその時クリフォードが外套──ずっと昔の衣服──を着ていることに気がついた。それは東風が荒れ模様のこのごろ、彼が始終着込んでいたものだった。彼は片手で招いて、そして、彼女が理解できた限りでは、ふたりでいっしょにこの家から出て行こうという意向を暗示した。真に強い個性を持っていない人間の生涯には、混乱した、盲目的な、あるいはふらふらと酔っている危機――勇気が最も幅をきかす試練の危機──があるものである。ところがその場合こうした人たちは、もしほっておかれたら、当てもなくよろよろ歩いたり、またはたまたまどんな指導を身に受けても、たといそれが子供の指導であろうと、むやみやたらに盲従するものである。いかにばかばかしかろうと気違いじみていようと、ある目標はこの人たちにとっては「天の賜物」である。ヘプジバーはちょうどこの危機に達していた。行動とか責任とかに対して不慣れなため──見てしまった物への恐怖心でいっぱいで、どうしてそんな事が起こったかと尋ねることも、または想像することさえこわがって――自分の兄を追いかけていると思われる不幸な運命におびえて──まるで死臭のように家じゅうに立ちこめて、明確な思考を抹殺《まっさつ》してしまう、もうろうとした濃い、窒息しそうな恐怖の雰囲気のために呆然《ぼうぜん》として――彼女はなんの疑いもなく、即座に、クリフォードが暗示した意志に従った。ひとりきりでは、彼女は、意志が常に眠っている夢の中の人物に似ていた。クリフォードは、ふだんこの能力が全く欠けていたのであるが、緊張した危機感からこれを見つけたのだった。
「なぜあなたはそんなにぐずぐずしているのかい?」と彼は叫んだが、きびしい声だった。「ずきん付きの外套か、またはなんでも好きなものを身につけなさい! なんでもかまわないよ。かわいそうにヘプジバー、あなたは美しくもまた賢くも見えるはずがないよ! 財布を持って、金を入れて、それからやってきなさい!」
ヘプジバーはいちいちさしずどおりに従って、まるでほかにはやるべき事も思いつく事もないかのようだった。彼女はほんとうに、なぜ自分は目をさまさないのだろうか、また、もっともっと耐えがたい、目もくらむようなどんな苦痛の極点に達すれば、自分の精神が迷路からあがいて抜け出して、そして、こんなことは何事もいっさい現実には起こらなかったのだというふうに自覚されるだろうか、と不思議に思いはじめていた。もちろん、これは現実ではなかったのだ。こんな暗い、東風の吹く日はまだ始まってはいなかったのだ。ピンチョン判事は彼女と話はしなかったのだ。クリフォードは笑ったり、指さしたり、彼といっしょに立ち去るよう彼女を手招きしなかったのだ。ただ彼女は、明け方の夢の中で、たくさんわけのわからない不幸のため――孤独な睡眠者がたびたびやるように――悩まされていたにすぎなかったのだ!
「こんどは──こんどは──私はきっと目がさめますよ!」とヘプジバーは、わずかな旅じたくを整えようと、あちらこちら歩きながら、考えた。「私はもうがまんできないわ! 私は今こそ目をさまさなければいけないわ!」
しかし時は、そのような自覚の時は、やってこなかった! それはふたりが家を離れ去る直前、クリフォードが応接間の戸へ忍び足で行き、そして、その部屋にひとりきりでいる者へ別れの会釈をしたときでさえ、やって来なかった。
「あの老いぼれめが、今時どんなたわけた姿を見せていることだろう!」と彼はヘプジバーに小声で言った。「私が完全にあいつの言いなりしだいになったと、あいつめが思い込んだちょうどその時にね! さあさあ急いで! でないとあいつは、クリスチャンとホープフルの後を追っかける巨人ディスペア〔ジョン・バンヤン「天路歴程」の主人公。クリスチャンとその従者ホープフル「希望」を、ダウティング「疑惑」城の領主ジャイアント・ディスペア「巨人絶望」が捕えて獄舎に入れる話〕のように、急いで立ち上がって、なおも私たちを捕えるだろうよ!」
ふたりが表の通りへ出て行くとき、クリフォードは正面玄関の一本の柱の何か表面にある物にヘプジバーの注意を向けさせた。それは彼の名前のかしら文字にすぎなかった。彼が少年だったころそこへ彫りつけたもので、文字の形にはいくらか、彼らしい独特の優雅な味があった。兄と妹は立ち去り、ピンチョン判事を、先祖代々の古い屋敷へ、たったひとりすわったままに残していった。それが非常に重たくずんぐりしているので、邪悪を行なっている最中に死滅した夢魔が、そのだらしない死体を、責めさいなんだ人間の胸の上へ、しかるべく取り捨てられるよう残していった夢魔の死体というよりほか、うまくたとえることはできないのである!
[#改ページ]
十七 二羽のふくろうの脱出
夏ではあったが、ヘプジバーとクリフォードとがピンチョン通りから町の中心へ向かって歩いている途中、風をまっこうから受けたので、東風はかわいそうにヘプジバーの残り少ない歯を口の中でがたがたと震えさせていた。それはただこの無情な突風が、彼女のからだにもたらした冷たい悪寒《おかん》であったばかりでなく(特に彼女の手も足も、これほど凍え死ぬばかりの冷たさを覚えたことはかつてなかったけれども)、肉体的な肌寒さとまじり合っている、ある道義的な気のとがめがあって、これがからだよりもむしろ精神的にいっそう彼女を身震いさせていたのだった。
世界をおおう広漠|蕭条《しょうじょう》たる大気はなんというわびしさだろう! これが、実際、どんな新しい冒険家に対しても、たとい、最も熱い生命の血潮が脈管をたぎり流れる若いころ、その中へ飛び込むにせよ、大気が与える印象なのである。それなら、ヘプジバーとクリフォードにとって──ふたりはそれほどの年寄りでありながら、未経験なことはまるで子供のようだった──彼らが玄関先の階段を降りて、「ピンチョン楡」の大きな木陰を通り過ぎたとき、大気は、はたしてどう感じられただろうか! ふたりは、子供がおそらく六ペンス銀貨一枚とパン一個をふところに、しばしば世界の果てまで行くのを夢みるような、全くそれと同じ遍歴に出かけてすっかり途方に暮れてさまよっていた。ヘプジバーの心の中は、あてどなく流離しているみじめな思いであった。彼女は自分で行動する能力をなくしてしまっていた。しかし、周囲の困難な事情を思うと、その力を取り戻そうとひと奮発するかいがなさそうな気がしたし、またそれどころか努力することができないのであった。
ふたりがこんな奇妙な遠出の旅へ乗り出しているとき、彼女は時々クリフォードを横目でちらちらとながめては、彼が強い興奮に取りつかれ、それに支配されていることを認めないわけにはいかなかった。彼が突然に、そして全くいやおうなしに、行動をきびきびと決定する支配力を彼に与えたものは、じつにこれであったのだ。それはぶどう酒の陽気な興奮と少なからず似通っていた。あるいはまた、自由奔放にはつらつと演奏されているが、楽器の調子は狂っている愉快な音楽にたとえたらもっとおもしろいかもしれなかった。ひびわれた耳ざわりな調子が絶えず聞こえてくるように、また、妙音の喜悦が最高潮をきわめるさなかに雑音が最も高くきしるように、クリフォードは始終全身を震わせていて、彼が得意そうな微笑を浮かべているときが最も激しくわなないて、そのためにほとんど飛んだりはねたりで歩かなければならないかのように思われた。
ふたりは外でめったに人に行き会わなかった。「七破風の屋敷」のへんぴな付近から、ふだんはもっと人通りが多くまたにぎやかな繁華な町へ通って行っても会わなかった。でこぼこの路面に沿い、小さい雨水だまりがあちこちにあって、きらきらと輝いている歩道。あたかも商売の活気がこの品一つにしぼられてしまったかのように、商店の陳列窓に麗々しく飾り立てられているこうもりがさ。時ならぬ突風のために吹きちぎられ、大道沿いに散乱している、うまぐりや楡のぬれた木の葉。街路のまん中の醜い泥の堆積、それが長い間念入りに雨で洗われたため皮肉にもそれだけきたなくなっていた。――これらのものは非常に陰鬱な一幅の風景画の中の比較的はっきりわかる点景であった。活動しているものや、人間の気配としては、がらがらと疾駆する貸し馬車か乗り合い馬車であって、その御者は頭や肩を防水の笠《かさ》で保護されていた。ひとりわびしげな老人の姿、どこか地下の下水道からはい出してきたかのように思われるその人は、溝に沿って腰をかがめて歩きながら、ぬれたがらくたを棒で突っついて、さびた釘を捜していた。一、二名の商人が郵便局の入口で、ひとりの編集人やひとりのよろず屋の政党政治家といっしょに遅れた郵便物を待っていた。保険会社の窓では数名の退職した船長たちの顔が、人けのない街路をぼんやりながめたり、天気をののしったり、一般の消息も地方の噂話もどちらも乏しいことをぷりぷり怒っていた。もしこの人たちが、ヘプジバーとクリフォードの持ち歩いている秘密を探りあてることができたとしたら、こういう噂好きのお歴々にとってなんと大した掘り出し物の宝となったことだろう! けれどもこの二つの人影は、ちょうど同時に通りかかった、そして偶然スカートを足首の上までわずか高めに引き上げた、若々しい少女の姿ほどにも大した注意をひかなかった。もし太陽の照るうららかな日であったなら、ふたりが人目に立たずに町を抜けることができたろうか。今はおそらく、ふたりは陰気なきびしい天気に調和しているように感じられて、そのためくっきりと強く浮き彫りされることはなかったのだ。あたかも、太陽がふたりを照らしていても、薄墨色の闇に溶けてゆき、そして没すると同時に忘れられてしまうようなものだった。
哀れなヘプジバー! もし彼女にこの事実がわかっていたら、彼女は少しは慰められたことだったろうに。というわけは、他のいろいろな苦労とは別に──妙な話だが!──自分がみっともない服装をしているという気持ちからわいてくる女性特有の、またいかにも独身の老嬢らしい、いたいたしい苦しみがあったからである。こうして、彼女はどうしても自分の心の奥へいよいよ小さく縮こまらずにはいられなかった。いわばあたかもここにはすり切れてひどく色あせた、ずきん付きの外套だけがあらしの中を歩いているのであって、着ている人はだれもいないのだと、見る人々に思わせようと望んでいるかのようだった!
ふたりが歩いているとき、もうろうとして非現実的な感情が始終彼女の回りをぼんやりと包んでおり、また同じ感情が彼女の全身にみちみちていたので一方の手が別の手に触れてもほとんど感じられないくらいだった。どんな程度の確信でもこんな無感覚よりはましであったろう。彼女はくり返しくり返し、小声でひとり言をささやいた──「私は目がさめているの?──私は目がさめているの?」──そして、自分が目をさましていることを乱暴に確かめようとして、肌寒くぱらぱら吹く風に時々顔をさらした。ふたりをそこへ連れ出したものはクリフォードの意図であったにせよ、または偶然にすぎなかったにせよ、ふたりは今、灰色の大きな石造建築のアーチ型玄関の下を通っているのに気がついた。中は、非常に広々として、床から屋根までがらんと高くそびえ、今は、濛々《もうもう》と盛んに渦巻きのぼる煙や蒸気が一部に立ちこめて、ふたりの頭上に小さな雲界をつくっていた。
車両を連ねた汽車がちょうど発車するところだった。機関車は、まっしぐらに突進しようとたけりたっている軍馬のように、いらだちながらしゅうしゅうと蒸気を吐いていた。すると発車のベルがせっかちにけたたましく鳴り響いた。それは人生がわれわれを、あわただしい生涯へせき立てる、そっけない呼び出しをじつによく現わしていた。疑問も、躊躇もあらばこそ──いっそ無謀とまではいえなくとも、有無をいわさぬ決断力が、不思議にも彼を、彼を通じてヘプジバーを、完全にとりこにしてしまったので――クリフォードは彼女を客車のほうへ促して、手を貸して乗り込ませた。信号が与えられた。機関車は短い、せわしい息づかいで煙をぱっぱっと吐き出した。汽車は進行しはじめた。そして、たくさんの他の乗客といっしょに、この旅慣れないふたりの旅客は風のように疾走して行った。
それで、とうとう、しかも世間の人々がするいっさいの行楽からあれほど長い間遠ざかっていたあとで、ふたりは人生の大きな潮流へ引き込まれ、運命そのものの力によって吸われるように、水勢に押し流されたのであった。
過去の出来事は、ピンチョン判事の訪問も含めて、何ひとつ実際になかったはずだという考えにまだ付きまとわれている、七破風屋敷の隠遁者は、兄の耳にこうささやいた。
「クリフォード! クリフォード! これは夢ではないの?」
「夢だって、ヘプジバー!」と彼は、彼女に面と向かって笑わぬばかりにおおむ返しに言った。
「それどころか、私は今まで目をさましていたことはなかったのだ!」
その間、窓からながめながら、世界がふたりを追い越して疾駆するのを見ることができた。ある瞬間、ふたりは人里遠い土地をごうごうと走っていた。次の瞬間には、村落がふたりの回りに発達してしまっていた。さらに二、三度呼吸したと思うと、まるで地震で飲まれてしまったかのように村が消えてなくなっていた。教会堂の尖塔は土台ごと浮いて流されているように思われた。広いふもとに並び立つ丘がすべるように走り去った。あらゆるものが長年の休息から揺り動かされて、ふたりのとは正反対の方向へ旋風の速さで動いていた。
客車の中はありふれた車内生活があるだけで、他の乗客の目をひくものは別になかったが、奇妙なぐあいに解放されたこの一組の捕われ人のためにはすべて珍しいものずくめであった。長い狭い一つ屋根の下で、五十名の人々が親しい仲間となり、この二つの自我をしっかりとつかまえてしまった同じ強大な力に引かれて驀進《ばくしん》するということは、全く新しい経験であった。この人々のためにあんなひどく騒々しい力が働いているのに、人々がみなあんなにじっと静かに自分の席にすわったままでいられるとは全くの驚異と思われた。
ある人々は、切符を帽子にさしたまま(こういう人たちは長途の旅行者で、その前途には百マイルの鉄道が横たわっているのだ)、小さい小説本のイギリス風景や冒険談に夢中になって、公爵や伯爵たちと交際を続けていた。他の人々は、もっと短い旅なのでそんな深遠な勉強に没頭することはできず、一ペニー新聞でやや退屈な道中をまぎらしていた。車内の反対がわにいる少女たち仲間とひとりの青年とは、ボール遊びに打ち興じていた。彼らはボールをあちらこちらへ投げ合って、笑いを何べんも爆発させていた。売り子の少年たちが、りんご、ケーキ、キャンデー、また色とりどりな薬入り糖菓をいくつも――ヘプジバーに捨ててきた自分の店を思い出させるような商品――持って、ほんのわずかな時間しか停車しない駅にもきっと現われて、手早く商売をまとめたり、または市場が商品をかっさらってゆかないように、にわかに打ち切ったりした。
人々は新しく絶えず乗ってきた。古顔の人々は――というわけは、万事がこんなにめまぐるしい急な流れでは、人々はすぐにこんなになじんでしまったからだ──絶えず去って行つた。あちこちで、ごうごうととどろく喧騒の中で、人は腰かけたまま眠っていた。睡眠、遊戯、商売、いっそうまじめくさった、あるいはもっと気の軽い勉強、そしてみんなに共通な、そしてやむにやまれぬ前方への躍進! それはまさに人生そのものであった!
クリフォードの生まれつき鋭敏な共感はすっかり覚醒した。彼はまわりを過ぎて行くすべてのものの色調を捕えては、受けとるときよりもいっそういきいきとそれを投げ返した。が、それでも、あるけばけばしい無気味な色合いが交じっていた。一方、ヘプジバーは、今しがた振り捨ててきた隠遁生活の時よりもかえって世間からいっそう遠ざかった思いがした。
「あなたは楽しくはないんだね、ヘプジバー!」とクリフォードは、離れて、とがめるような口調で言った。「あなたはあの陰気な古い屋敷と、いとこのジャフリーのことを考えているんだね」――ここまで言うと彼の全身の震えが口に出てきた──「それもたったひとり、あそこにすわっているいとこのジャフリーを! 私の忠告をいれなさい――私のとおりになさい──そんなものは手放してしまいなさい。さあ、私たちは、世間に出ているんだよ、ヘプジバー!──実生活のただ中なんだ!──大ぜいのわれわれの仲間にまじっているんだ! あなたも私も楽しくなろうよ! ボール遊びをやっている、あの青年やあのかわいらしい娘さんのように楽しくね!」
「楽しくだって!」とヘプジバーは、その言葉を聞いて、鈍い重苦しい心の中に、凍りつくような苦痛を激しく感じながら、こう考えた──「楽しくだって! 彼はもう気が狂っているんだわ。そして、もし私がいったんはっきりと自覚できたら、私だって気が狂ってしまうでしょう!」
もし固着した観念が狂気であるというのなら、彼女はたぶんそれから遠くはなかったろう。急速に遠くへふたりが鉄路に沿ってごうごうがたがたと前進して行ったとはいうものの、ヘプジバーの心象からすれば、あたかもふたりがピンチョン通りを行ったり来たりしているようなものだった。何マイルも何マイルもさまざまなけしきを通ってきながら、彼女のための光景は何ひとつなかったも同様だった。ただ、こけむした、七つの古い破風の先頂と、片隅にぼうぼうとおい茂る雑草と、店の陳列窓と、ひとりの客が戸をゆすぶって、小さい店ベルをけたたましくむやみと鳴らしているけれども、ピンチョン判事の眠りをかき乱すこともない、光景だけであった! このたった一軒の古屋敷が至る所にあったのだ! 家が自分の巨大なずうたいを、がらがらと汽車より早い速度でみずから持ち運び、彼女がちらりと目をくれるどの地点にも鈍重に腰をすえた。
ヘプジバーの気質はあまりにかたくなすぎて、クリフォードの心ほど容易に新しい印象を受けとることができなかった。彼は天駈《あまか》ける気性を持っていた。彼女のほうはどちらかといえば植物的な気性で、もしも根ぐるみ引き抜かれれば、とても生き長らえることはできなかった。こうして、彼女の兄と彼女との間にあった今までの関係はたまたま一変してしまった。家庭にあっては、彼女は彼の保護者であった。ここでは、クリフォードが彼女の保護者になってしまって、ふたりの新しい立場に属するものはどんな事でも、不思議に機敏な知力の働きで理解するように思われた。彼は驚いた結果、人格と知力旺盛な人間に変貌したのであった。あるいは、たとえ病的な、一時のものかもしれなかったが、少なくとも、これに似た状態に変わったものであった。
車掌がその時ふたりの切符を請求した。すると、自分で財布を預かっていたクリフォードは、他の人々がするのを注目していたとおり、一枚の紙幣を彼の手に置いた。
「このご婦人とあなたのとですか?」と車掌はきいた。「それでどちらまで?」
「私どもを運んでくれる所までさ」とクリフォードは言った。「どうでもいいんだよ。私どもは遊びのために乗っているんだ、ただそれだけさ!」
「それにしてはあなた、おかしな日を選びなさるもんですねえ!」と反対側の席にいる鋭い目つきの紳士が、クリフォードとその連れとをあくまで探り知ろうとするかのように、じっと見つめながら話した。「東風の雨降りしぶく日に、何より望ましい慰めは、私の考えでは、自分の家の中で、ほかほかとぬるい炉火にあたっていることだと思いますがね」
「私はあなたに全く賛成とはいきません」とクリフォードは言って、その老紳士にていねいにおじぎをし、それからすぐ、紳士が切り出した会話の糸口を取り上げた。「それどころか、今ちょうど考えていたところですが、この鉄道というすばらしい発明は──速力といい、便利といい、まだまだ大きな、かつ当然な改善が期待されるので――家庭とか炉辺とかについての古くさい観念を取りやめて、何かもっとりっぱな物ときっと取り替わる運命になっていると思います」
「いったい常識として」とその老紳士は、かなりむっとしたようにきいた。「だれにしたって自分の家の居間や炉隅より何かよいものがありますか?」
「そういうものは、多くの善良な人たちが大いにありがたがっているようなとりえを持っていないのです」とクリフォードは答えた。「これらのものは、簡単にはっきり言えば、つまらぬ目的へいたずらに用いられたのだと言えましょう。私の印象は、驚くほど増した、そしてさらに増しつつあるわが交通施設が、われわれをまたもや遊牧状態に連れ戻す運命を持っているということです。ねあなた、あなたはご承知ですね──あなたはご自分の経験で観察なさったに相違ありません──つまり、すべての人類の進歩は円周をなしているということ、あるいは、もっと正確な美しいたとえを用いますなら、上昇するらせん形曲線を描いているということです。われわれはまっすぐに前進している、そして、一歩一歩、全く新しい局面に達していると自分では思い込んでいるのに、実際は今からずっと昔に試みられて捨てられたものに戻ってきているのです。しかしそのものは、今は霊化され、洗練され、そして理想の姿に完成されていることがわれわれにわかります。過去はただ現在および未来を大ざっぱに感覚的に予言するものにすぎません。この真理を今議論している話題にあてはめてみましょう。──われわれ人類の初期に、人間は小鳥の巣のように簡単に建てられる、木の枝で造ったあずまやの、仮小屋に住まっていました。そしてその小屋を人間が建てたのです──もしも、こんな楽しい夏至《げし》の家は、人の手で造られたというよりもむしろ自然に成長したものなのに、それを建築といわなければならないならばです──それを自然の女神《めがみ》は、くだものがたくさん実る場所、魚や、猟の鳥や獣が豊富な場所、あるいは、とりわけて、どこよりも美しい木陰や湖水や森や丘などの、いっそう優美なたたずまいによって、美感が満足できる場所に、小屋を建てるよう人間を助けたのだ、と言えましょう。こうした生活には魅力があったが、人間がこの生活を捨て去って以来、その魅力は生活から消えうせてしまいました。こうした生活は単なる生活以上の何かすぐれたものを象徴していました。その生活にはそれなりの欠点がありました。たとえば飢えやかわき、きびしい天候、暑い日ざしとか、また、実り多き美しいあこがれの土地をはさんで横たわる、不毛でいまわしい地域を、歩み疲れた、まめだらけな足で行進することなどです。しかし、われわれの上昇するらせん形では、こういう欠点をみんな免れています。これらの鉄道は──もし汽笛が音楽的になり、そしてごうごうという耳ざわりな騒音を除くことができさえすれば――絶対に、過去の世代がわれわれのために造ってくれた最も偉大な恩恵です。鉄道はわれわれのために翼を与えます。道中の苦労と塵《ちり》ほこりをみんななくしてくれます。鉄道は旅行を精神的に清めます! 移転が非常に容易ならば、何がいったい人をそそのかして一つ所に滞在させることができましょうか? ですから、なんで自分で手軽に持ち運びできない荷やっかいな住まいを建てるでしょうか? 人は、ある意味では、どこということなしに──もっとよい意味では、ふさわしい美しいものが宿を与えてくれる所なら、どこででも、同じように気楽に住めるというのに、なんで煉瓦や石や、また虫食いの古材木の牢獄に一生囚人となっていなければならないのでしょうか?」
クリフォードの顔は、こんな議論を吐きながら、赤く熱していた。若々しい気性が体内から輝き出て、老人の皺も青く薄黒い皮膚の色も、ほとんど透き通る顔に変わっていた。はしゃいでいた少女たちはボールを床に落として、彼の顔をまじまじと見つめた。少女たちはたぶん、この人の髪がまだ白くならず、また目じりに烏《からす》の足型の皺が刻まれていないころ、今老衰しかけているこの男の人は、大ぜいの女の胸にその顔立ちをくっきりと印象づけたに相違ないと、心のうちで思ったことだろう。しかし、ああ! どの女の目も、美しかったころの彼のおもかげをながめたことはなかったのだ。
「私はそれが世の中の進歩した状態であるとは言いかねますね」と、なじみになったばかりのその人が意見を述べた。「どこにでも所定めず住むなんてね!」
「言いたくありませんか?」とクリフォードは、異様に力をこめて大きな声で叫んだ。「私にとっては日光と同じくらいに明瞭なことですが──もし日光がいくらかでも空にあればですね。──つまり、人間の幸福や進歩の途上にある、最も大きな障害と考えられるものは、漆喰《しっくい》で塗り固めたたくさんの煉瓦や石の山や、大釘で結合している切り刻まれた木材などであって、人間は自分たちが苦しみもがくためにわざわざくふうをこらしてこういう物を造り、これを家とか家庭とか呼んでいることははっきりしていますよ! 霊魂は外気が必要です。さっと吹き払ってしばしば空気を一新することです。病的な悪い影響が、いろいろさまざま姿を変えて、炉辺に集まり、家庭生活をけがすのです。死んでしまった祖先や親族の亡霊で毒されている古い家庭の空気ほど、不健康なものはありません。私は知っている事実を話します。ある一軒の家が私の見慣れた記憶の中にあります──私たちの古い町でだれでも時々見かけるような、ああいうとがった破風(それが七つあるのです)造りに、出張った二階建ての大きな家屋の一つ──古さびて、がたついていて、きいきいきしみ、干し腐れやしめり腐れがつき、黒ずんだ、暗い、そしてみじめな古い土牢で、玄関の上にアーチ窓があり、片側に小さな店戸がついていて、家の前に一本の大きな、鬱蒼《うっそう》と茂った楡の木があるのです! さて、あなた、私の心にこの七破風造りの邸宅が思い浮かぶときはいつでも──事実があまり奇妙なので、私はどうしてもお話しせずにはおられません――すぐに私は、驚くほど恐ろしい顔つきで、樫の木の肘掛けいすにすわったまま、死んで、石のように硬直して、胸のシャツに血が見苦しく流れている、ひとりの年輩の紳士の幻、いや姿が心に見えてくるのです! 死んでいる、しかし目をかっと開いたままなのです! 私がその家を思い出すたびに、その男は家全体をけがしてしまいます。私はそんな所ではどうしてもはなやかに栄えることはできなかったし、幸福になることも、また神さまが私におぼしめされたとおりにふるまうことも楽しむこともできませんでした!」
彼の顔は暗く曇った。そして小さく縮こまり、すっかりしなびて、老いすがれてしまうように思われた。
「どうしても、あなた!」と彼はくり返した。「どうしても私はそんな所で愉快に息をつくことができませんでした!」
「私はそうじゃないと思います」とその老紳士は、クリフォードをしんけんに、そしてむしろ不安そうにじろじろと見つめながら、言った。「あなたの頭にあるそのお考えについては、あなた、私はどうしてもそうではないと考えます!」
「確かに息がつけませんでした」とクリフォードは言い続けた。「それでもしあの家が取りこわされてしまうか、焼け落ちるかして、大地から取り除けられ、そして雑草の種子が土台の上にふんだんにばらまかれるようになれば、私もほっと気を休めるでしょうに。私がその屋敷跡をもう一度訪れることは二度と再びありませんよ! というのは、あなた、私がその家から遠くへ逃げて行けば行くほど、ますますうれしさが、朗らかなさわやかさが、胸の鼓動が、知的な躍動が、つまり、青春が──そうです、私の青春です、私の青春です!──ますます私に戻ってくるからです。つい先ほどのけさまで、私は老いぼれていました。私は鏡をのぞいて自分のしらがや、額を真横に走るたくさんの深い皺や、頬の落ちくぼみや、目じりのあたりに刻まれた非常に大きい烏の足型の皺を見て、あきれていたのが思い出されます! あんまり早すぎましたよ! 私はがまんなりませんでした! 老年はやってくる権利を持っていなかったのです! 私は生きていなかったのですよ! しかし現在私が年寄りに見えますか? もしそう見えるなら、私の顔が不思議にも私を裏切っているのです。というわけは──大きな心の重荷が取り払われたので──世界と人生の年盛りを目の前にして、私はじつに盛んな青春の意気を感じているからです!」
「あなたは確かにそうなふうに感じておられると思います」と老紳士は言ったが、むしろ当惑している様子で、そして、クリフォードのひどく興奮したおしゃべりのため、ふたりのほうに向けられている人々の目を避けたがっているらしかった。「どうかそういうふうでありますように」
「お願いですから、ね、クリフォード、静かにしていらっしゃいよ!」と妹がささやいた。「皆さんがあなたを気違いと思いますよ」
「あなたこそ黙っていなさい、ヘプジバー!」と兄は言い返した。「人々がどう思おうとかまわないよ! 私は気違いじゃない。三十年ぶりに初めて私の思想がしきりとわいて、それがすぐ言葉となって出てくるのだ。私は話さなければならないし、また話しますよ!」
彼は再び老紳士のほうへ向き直って、また話をしはじめた。
「そうなんですよ、あなた」と彼は言った。「私の固い信念であり、また希望でもあることは、非常に長い間、何かしら神聖なものの具体的な表現であると考えられていた、屋根とか炉辺とかいう言葉が、やがて人々が日常使用しなくなり、そして忘れられてしまうことです。たった一つのこの変化で、どれだけ多くの人間の邪悪がくずれ去るものか、ちょっとでも、想像してごらんなさい! 私たちが不動産と呼んでいるもの――家を建てる土台となる固い地面――は、この世のほとんどすべての犯罪を支えている広い基盤なのです。ある人はほとんどどんな悪事でも犯そうとします――人は大理石と同じに頑固な、そして同じように重たく、人間の魂を未来|永劫《えいごう》まで圧しつける、おびただしい悪事の山を積み重ねます――それもただ、自分がはいって死に、そして自分の子孫がみじめにも閉じこめられているように、大きな、憂鬱な、暗い間取りの邸宅を建てようとするからです。その人は自分の死体を屋台骨の下に横たえ、自分のいかめしい肖像を壁にかけ、こうしてわが身を運命の邪心に変えてしまってから、最も縁の遠い曾孫《ひまご》たちまでもその家で幸福に暮らすんだと思っているのです! 私は根も葉もないことは言いません。全くこのとおりの家が私の心の目に映るのです!」
「それなら、あなた」と老紳士は、しきりにその話題をやめたがって言った。「あなたが家を捨てたってとがめられることはありませんね」
「すでに生まれている子どもが生きている間に」とクリフォードは言い続けた。「こんなことはみな廃止になってしまうでしょう。世界はますます非常に霊妙に、精神的になっていくので、これからはこんな大きな罪悪をそういつまでもしんぼうすることはできないでしょう。私にとっては──といっても、相当長い期間にわたって隠遁生活をしていたので、たいていの人たちよりもこういう事柄を承知していませんが──その私にさえ、もっとよい時世の前兆はまちがいなく見えるのです。そら、催眠術! あれが、人生から粗悪なものを洗い清めるために、なんの効果もないものでしょうか、いかがでしょう?」
「全然ごまかしですよ!」と老紳士はがみがみと言った。
「いつか、あの少女フィービが私たちに話してくれた、例のこつこつたたく狐狗狸《こくり》の精霊たちは」とクリフォードが言った──「ああいうものは、物質の世界の戸口でこつこつノックしている、霊界からの使者でなくてなんでしょうか? その戸はすっかり開放されるでしょう!」
「やっぱり、ごまかしですよ!」と老紳士は、クリフォードの形而上学がこんなにちらちらと顔をのぞかせるので、ますますいらだってきて、大声で言った。「私はこんなばかばかしい事を触れまわる間抜けなやつらのからっぽな脳天をこん棒でこつこつとくらわしてやりたいぐらいです!」
「それなら電気がありますよ──悪魔、天使、すばらしい物理的な威力、すべてに浸透する知力です!」とクリフォードは大声をあげて叫んだ。「それもまた、ごまかしなんですか? 電気によって物質界が、息もつかぬ一瞬の間に数千マイルをひりりと振動する、一つの偉大な神経と化してしまったこと、これは一つの事実でしょうか?――それとも私が夢を見たのでしょうか? 確かに、丸い地球は、知力が充満している一個の巨大な頭、一個の脳髄ですよ! あるいは、地球自体が一つの思想であって、思想以外の何ものでもなく、それでもはや私たちが考えていたような物質ではない、と言うべきでしょう!」
「もしあなたが電報のことを言っておられるなら」と老紳士は、線路に沿っている電線にちらと目を走らせながら、言った。「それはじつに大したものです――つまり、もちろん、綿花や政治の相場師たちがそれを手に入れてしまわないならばの話です。そりゃあ全く、すばらしいものですよ、あなた、特に銀行強盗や人殺しどもの探知に関してはですね」
「私はそういう見方からは、電報がそう好きになれません」とクリフォードは答えた。「銀行強盗や、あなたのおっしゃる人殺しも、同じように、個人の権利を持っています。啓発された人間性や良心のある人々は、社会の大部分の人たちがそういう人権の存在をとかく論駁《ろんばく》する傾向があるため、それだけいっそう寛容な精神でもってその権利を顧慮してやるのが当然です。電信のような、ほとんど霊的な媒体は、高く、深く、喜びあふれる、そして神聖な使命のためにささげられなければなりません。恋人たちは、毎日毎日――もしもっとたびたび通信したいなら、毎時間――彼らの胸のときめきをメーン州からフロリダ州へ、たとえばこんな言葉で、発信することができるでしょう――『私はあなたを永久に愛します!』──『私の胸は愛情があふれています!』──『私はあなたをできるかぎり、いやが上にも愛します!』とか、また次の電信では──『私はあれから一時間長生きしました、それであなたを二倍も愛します!』あるいは、ある善人がこの世を旅立ったとき、遠方にいるその友人は、まるで幸福な精霊たちの住む世界からのたよりのように、ある電気のような戦慄が、こう告げるのを意識するでしょう──『あなたの親友は天上の祝福に浸っています!』あるいは家をるすにしている夫のもとには、こんなたよりがきましょう──『あなたを父とする、一つの不死の生命が、今しがた神のみもとからつかわされました!』──するとたちまちその生命の小さな声がそんなに遠くまで届いて、胸の中に響き渡るように感ずるでしょう。けれども気の毒なあのごろつきや、銀行強盗たちのために──この人たちは、けっきょく、九分どおりまで人並みに正直な人間ですが、ただある種の形式的な手続きを無視したり、取引所の営業時間よりはむしろ、夜中に仕事をかたづけたがることだけが別なのです──そして、あなたが言われたような、ああいう人殺したちのため、といってもこの人たちはその行為の動機の点ではしばしば許される場合があり、また、もしわれわれがその行為の結果だけを考えるならば、社会の恩恵者の中に並べられる価値があるのです──このような不幸な人々のため、私はほんとうに、この人たちを追いかけて世界じゅうくまなく狩り立てるのに非物質的な不可思議な力が協力することは感心できません!」
「あなたは感心できないって、へえ?」と老紳士は、けわしい目つきになって、叫んだ。
「絶対に、できません!」とクリフォードは答えた。「そのことはあの人たちをみじめすぎるくらいまで不利にします。たとえば、あなた、一軒の古い屋敷の暗い、天井の低い、大梁《おおはり》を渡した鏡板張りの部屋に、ひとりの死者が、胸のシャツを血まみれにして、肘掛けいすに腰かけていると想像いたしましょう──そしてこの仮説に、その家から抜け出してくるもうひとりの男を加えるとしましょう。その男は死者の悪霊が家じゅうに充満して耐えられない気がしているのです──そして最後に、その男が、行く先も全くわからずに、汽車を利用して、疾風のような速さで逃げるところを想像いたしましょう! さて、あなた、もしその逃亡者がどこか遠い町で汽車を降りたところ、人々が皆、彼が見るのも考えるのも避けようとしてそんなに遠くまでのがれて行った、当の死人のことをしゃべり散らしているとわかったら、あなたはその人の基本的人権が侵されているとお認めになりませんか? 彼は『遁《のが》れの町』を奪われているのです。そして、小生の意見では、限りない虐待を受けていると思います!」
「あなた、あなたは妙なかたですねえ!」と老紳士は言って、まるでクリフォードのからだに穴をあけてやろうと決心しているかのように、錐《きり》のように目を鋭くとがらせてじろじろと見た。
「私はあなたの心を見抜くことができません!」
「そうでしょう、見抜けないことは請け合いですよ!」とクリフォードは笑いながら、大きな声で言った。「それでもね、あなた、私はモールの井戸の水と同じくらい透明なんですよ! でも、さあ、ヘプジバー! 私たちは今度こそ十分遠くまで逃げてきたね。小鳥が木にとまるように、私たちも汽車を降りよう。そしていちばん近い小枝に腰かけて、今度はどこへ飛んで行くか相談しよう!」
ちょうどその時、たまたま、汽車が寂しい中間駅に着いた。短い停車時間を利用して、クリフォードは客車を降り、ヘプジバーを引き寄せていっしょに歩いた。ちょっとたって、汽車は――クリフォードが中にまじって注視の的となっていた、その大ぜいの人々みんなを乗せて──すべるようにはるか遠くに去って行き、たちまち小さくなって点となり、それも、一瞬の間に、消えてしまった。世界はこのふたりの放浪者から逃げ去ってしまった。ふたりはあたりをやるせなくじっとながめた。少し離れた所に年古く黒ずんだ木造の教会が、窓は破損し、壮大な建物の本堂を貫いて大きな裂け目が通り、それに方形の塔の頂天から垂木《たるき》が一本ぶら下がっていて、荒廃して朽ち果てた陰惨な姿で立っていた。さらに遠く離れて一軒の農家があり、古風な様式で、ちょうど教会と同じくらい古さびて黒ずみ、三階の先頂から、地上、人間の背たけのところまで急勾配の屋根がついていた。家には人が住んでいないらしかった。なるほど、薪の山の残骸が戸口の近くにあるにはあったが、木切れや散乱した丸太の間に雑草が伸びていた。細かい雨粒が斜めに降ってきた。風は荒れ狂うほどではなかったが、陰気で、ひえびえとした湿気をはらんでいた。
クリフォードは頭から足先までからだが震えていた。彼の気分のすさまじい沸騰──これが思想や、空想や、また言葉に対する不思議な才能をすぐすらすらと供給し、そしてこんなにあわ立ちわき出る豊かな印象を吐露せずにはいられない、ひたむきな必要からしゃべるよう彼を刺激したのだった──は全く静まってしまった。激しい勢いの興奮が彼に精力と活気とを与えたのであった。興奮の働きが終わると、彼はたちまちしょんぼりとしはじめた。
「こんどはあなたに案内してもらわなければならないよ、ヘプジバー!」と彼は、けだるそうにしぶしぶと口をききながら、つぶやいた。「どうともあなたの好きなとおりにやっておくれ!」
彼女はふたりが立っているプラットホームにひざまずき、両手をぐっと握りしめて空へ高く持ち上げた。どんよりと、灰色の重い雲が空を見えなくしていた。しかし今はもう不信仰のときではなかった。今この場合、頭上に天をいただき、全能の父たる神がそこから照覧されていることに疑いをさしはさむべき時機ではなかった!
「おお、神さま!」と哀れ、やつれ果てたヘプジバーは不意に絶叫した──それからちょっと黙って、どんなお祈りをすればよいかを考えた──「おお、神さま──われらの父よ――私たちはあなたさまの子供ではありませんか? 私たちをあわれんでくださいませ!」
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十八 ピンチョン知事
ピンチョン判事は、ふたりの親類があんなふうに無分別にあたふたと遠くへ逃げている間、古い客間にじっとすわったまま、ありふれた言葉でいえば、この家のいつもの住み手たちの不在中、るす番をしていた。その彼のもとへ、また古さびた「七破風の屋敷」へ、この話は今、ちょうど昼の光にうろたえて、おのがうつろな木へと急ぐふくろうのように、引き返すのである。
判事はもう長い間その姿勢を変えなかった。ヘプジバーとクリフォードの足音が廊下をきいきい鳴らしながら通り、ふたりが出て行ってしまって戸が用心深く閉ざされてから、彼は手も足も動かさなかったし、また、部屋の片隅をにらみすえた視線を髪一筋もそらさなかった。彼は左手に時計を持っているが、だれからも文字盤が見えないように握りしめていた。なんという深い瞑想の発作であろう! あるいは、彼が眠っていると仮に考えるなら、発作にも痙攣にも、引きつりにも、夢の中の寝言にも、鼻からでるらっぱそっくりのいびきにも、また寝息のどんなかすかな乱れにも、全然わずらわされない熟睡の様子から、なんという安らかな、まるで幼児のような良心が、またなんという健康な胃腸の状態が、うかがい知られることであろう!
諸君は、彼がいったい呼吸しているかどうかを確信するためには、自分の息を殺さなければならない。息は全く聞こえない。諸君はかちかちと彼の懐中時計の音を聞く。彼が呼吸する音は聞こえない。むろん、じつに、さわやかな睡眠なのだ! それにしても、判事は眠っているはずがない。彼の両眼は開いているのだ! 彼のような老練な策士は、両眼をかっと見開いたままで熟睡することはけっしてない。だれか敵または離間者が、こんな彼の油断につけ込んで、両の目の窓から彼の心の中をのぞき込み、そしてこれまでだれとも分かちあったことのない思い出、計画、希望、不安、弱点、長所の中から変な物を発見しないかと恐れるからである。用心深い人間は片目をあけて眠るものだと一般にいわれている。それが知恵というものであろう。しかし両眼いっしょには眠らない。というのはこれでは不注意となるであろうから! いや、いや! ピンチョン判事は眠っているはずがない。
それにしても、用務をあれほどたくさん背負いこんでいる──しかもまた、時間厳守で有名な――紳士が、好きで訪問するとはけっして思えない、古ぼけた寂しい邸宅にこんなに長くぐずぐずしているとは奇妙である。なるほど、樫の木のいすがゆったりと余裕があるのに心ひかれているのかもしれない。いかにもそれは広々として、そして、それを造った粗野な時代を斟酌《しんしゃく》してみれば、かなり安楽な腰かけで、何よりも容積が十分で、判事の大きな胴幅を少しも窮屈にしなかった。もっと大柄な男でもそのいすへゆるゆる収まることがわかるだろう。今は画像となって壁にかかっている、彼の先祖は、イギリス人らしい太り肉《じし》のからだつきにもかかわらず、正面幅がこの肘から肘までに及んだり、あるいは腰がいすのクッション全部を占めたりする様子はほとんど見かけなかったものだった。しかしこれよりもっとりっぱないす──マホガニーとか、黒くるみ、紫檀《したん》製のや、ばね仕掛けの座とか緞子《どんす》のクッションのついたものや、さまざまな傾度のもの、またいすを安楽にしたり、あるいはあまり気楽になれすぎて退屈となることを防いだりするためにかずかずのくふうをこらしたものなど──こんないすをいくらでもピンチョン判事は自由に使えるのだ。そうだ! 彼はいくらでも客間へかってにはいってよいどころではないのだ。母親は進み出て、手を差し伸べて彼を迎えるだろう。生娘は、彼がもう初老になってはいるものの──男やもめの老人さ、と彼はにこやかに自分をさしていうものの――判事のために座ぶとんを振って形を整えたり、何かとこまめに精いっぱい働いて、彼を楽しませようとするだろう。というのも判事は裕福な男だからである。そのうえ彼は、他の人たちと同様、いろいろな計画を心にいだいており、しかもたいていの他人の計画より気がきいているのは当然である。いや、少なくともけさ床の中に寝たまま、気持ちよさそうに半ばうとうとしながら、一日の仕事を立案したり、この先十五年の見通しを思案していた。彼のたくましい健康と、老齢から侵されていないといってよいほどのわずかな老化から見れば十五年や二十年――そうだ、あるいはたぶん二十五年ぐらい!──はしめたものだと称しても当を得た話である。町内やいなかにある彼の不動産、鉄道、銀行、保険の株券、それにアメリカ国債など──要するに、どんな投資のものであれ、現在手持ちのものや、またこれからすぐ手に入るはずのものなど、自分の全財産を楽しむ二十五年の余生。加うるに身にふり落ちてきた公的な栄職、さらにこれからも舞い落ちるはずのなおいかめしい名誉職! すてき! すばらしい! 十分だ!
まだその古いすを去りかねているのか! もし判事がむざむざ捨て去るわずかな暇があるならば、習慣的にしばしばやるように、なぜ保険会社を訪れて、なめし皮のクッションの肘掛けいすの一つにしばらく腰を降ろし、その日の噂話に耳を傾けたり、またまちがいなく明日の世間話の種になるような、何か深い趣向の言葉をさりげなくもらしたりしたいのだろう! それから銀行の重役たちは、判事が出席する意向であり、また司会する役目であった会議を、開かないのか? いや実際は開いているのだ。その時刻は案内状に書かれ、それがピンチョン判事のチョッキの右ポケットにある、いや、あるはずだ。彼をそこへ行かせよう、そしてだらりのからだを彼の金袋の上にのうのうと横たえさせよう! 彼はその古いすにもたれてもうさっきからたっぷり暇をつぶしたのだ!
きょうはこんなに多忙な一日であったはずなのに! まず第一にクリフォードとの面会であった。判事の計算では、半時間もあれば、そのために事足りるつもりだった。たぶんもっと少なくて済むだろう。だが──ヘプジバーとまず交渉しなければならないし、それにこういう女たちはふた言み言ではるかにうまく用事が足りるのに、ぺらぺらとおしゃべりしたがる点を考慮に入れて──半時間とみておけばいちばん安全だろう。半時間だって? おやおや、判事さん、あなたがお持ちのけっして道草を食わない正確な時計で、もう二時間ですよ! ちょっと目を時計に落としてよっくご覧なさい! ああ、彼は、その忠実な時の番人を見えるところまで持ってくるために、頭を下げるか、手を持ち上げるかする手数さえ自分でとろうとはしないのだ! 時間は、にわかに、判事によって全く取るに足らないものとなってしまったらしい!
また彼は自分の用事をいっさい忘れてしまったのか? クリフォードの件が落着したら、彼はステート街の場外取引仲買人に会うつもりであった。この男は、判事が投資によらず、この男を通じひょっこり手にはいってくるはずのばらばらの数千ドルに対して、高額の手数料や、最も信用ある手形をせしめてやろうと企てていた。この皺だらけの高利貸しはむだな汽車旅行をしたことになるだろう。半時間後に、ここの隣の通りで、不動産の競売が行なわれることになっており、昔は先祖ピンチョン老人の財産の一部であり、もともとはモールの庭に属した土地も含まれていた。そこはこの八十年間ピンチョン家から人手に渡っていたものだった。しかし判事はかねてからそれに目をつけていて、七破風屋敷の周囲に今も残されているちっぽけな領地へ、再び併合してやろうと望みをかけていたのだった。それで今はもう、こんな奇態な忘却の発作に襲われている間に、競売の運命の木槌《きづち》がふり降ろされ、そして古くから伝わる先祖代々の遺産を、何者か縁のない所有者の手に渡してしまったに相違ない! もしかしたら、実のところ、そのせり売りはもっと天気が晴れるまで延期されたかもしれない。もしそうなら、判事はなんとか都合をつけてすぐ次の機会に出席し、自分で入札して競売人をありがたがらすだろうか?
次の用件は自分で馬車を駆るための馬を買うことであった。これまで彼が愛した馬は、ちょうどけさ、町に出かける途中、つまずいたので、それですぐ捨てなければならないのだ。ピンチョン判事の首はたいへん貴重なものだから、馬がよろけるぐらいな不慮の事故に生命をかけるわけにはいかない。もし今までの仕事が全部順調にはかどってしまえば、ある慈善団体の会合に出席してもよかった。とはいうものの、その団体のかんじんな名前が、彼の慈善があんまり多種多様なので、すっかり忘れ去られているのだ。そのためこの約束は実行されずに済まされるかもしれないし、それでも大した被害は受けないだろう。それから彼は、まだまだ火急な問題をたくさん控えているが、もし時間があれば、ピンチョン夫人の墓碑を建て直す手段を講じなければならぬ。その墓碑は、寺男の話では、大理石が、うつ伏せに倒れて、まっ二つに割れたという。彼女は神経質で、めそめそと始終涙にぬれていたことや、コーヒーの一件などの愚かしいふるまいにもかかわらず、なかなか感心な女であった、と判事は思っている。そして彼女はちょうどよいころにこの世を去ったので、彼は墓石を建て直すくらいはもの惜しみしないだろう。少なくとも、彼女が墓碑を全然必要としなかった場合よりはましなのだ! 次に記入している項目は、珍しい品種の果樹数本を、翌年の秋、いなかの彼の本邸で引き渡せるように注文することであった。そうだ、ぜひとも、それを買いなさい。そうすれば、ピンチョン判事さん、桃の実があなたの口へ甘い風味をしみ込ますでしょう! このあとにはもっとだいじな用件が控えている。彼の属する政党の委員会が、この秋の選挙戦をまかなうため、この前の支払い額のほか、百ドルか二百ドルの寄付を願ったことであった。判事は愛国者である。国家の運命は十一月の選挙にかかっているのだ。そしてそのうえ、このことは別の所で暗示されるであろうが、彼は同じその大勝負に容易ならぬ自分の運命をもかけているのだ。彼は委員会が依頼するとおりにやるだろう。いや、委員たちの予想をはるかに上回る気前を見せるだろう。彼らは五百ドルの小切手を、しかも必要とあらば、即金でもらえるだろう。次はなんだろうか? ピンチョン判事の幼なじみを亭主に持った、ある落ちぶれた寡婦が、実は哀れな手紙で、窮迫した実情を彼に訴えたのだ。彼女と美しい娘とは食べるパンもろくになかった。彼はちょっときょう、彼女を尋ねてもよい気なのだ――たぶんそうするだろう──たぶんしないだろう――彼にたまたま暇があるか、そして一枚の細かい紙幣があるかどうかによることだ。
もう一つの用事、これにはしかし、彼は大して重きを置いていない──(自分のからだの健康について、注意深いのは、けっこうだ。だが、取り越し苦労はしないことだ)──それで、もう一つの用事とは、家の主治医にみてもらうことだった。おやおや、どういうぐあいなんですか? いやあ、病気の徴候を述べるのはどうもむずかしいですね。ただ視力がぼんやりして頭がふらふらするというのでしたかな?──それともまた、解剖学者たちの言葉でいうと胸郭部位の、不快な息づまりとか、窒息とか、のどがごろごろ鳴るとか、ぶくぶく泡をふくとか、でしたかな?──あるいはそれが心臓のかなりはげしい鼓動で、何よりもまず、この臓器が判事の生理的装置から抜けてはいなかった事実の証明として、むしろ判事の名誉になるだけのことだったかな? そんなことはどうでもかまわなかった。医者は、たぶん、こんなたあいもない苦情へ専門家らしく聞き耳を立ててにっこりと笑うだろう。こんどは判事がにっこり笑うだろう! それから互いに目と目を見合わせて、いっしょにからからと愉快に笑うだろう! だが診察なんてなんだ、ばかばかしい! 判事は断じてそれを必要としないだろう。
さあさあ、どうぞ、ピンチョン判事さん、あなたの時計を見てごらん、今すぐに! なんだろう──ちょっと見てみることさえしないとは! 正餐の時刻まであと十分足らずなのだ! きょうの正餐会は、事の重大さからいって、あなたがこれまで召し上がったあらゆる正餐でいちばんだいじなものだということは、よもや記憶から抜けてしまっているはずはないのだ。そうだ、まさしく最もたいせつな正餐なのだ。たとえ多少は世に名を知られたあなたのこれまでの生涯で、豪華な宴会の主賓席近く高々とすえられて、そしてウェブスターの大演説の声調が今もなお朗々と響いている人々の耳へ、あなたの流暢《りゅうちょう》な祝辞をそそいだことはこれまであったにしても。しかしながら、これはけっして公式の正餐会ではない。それはこの州の数地区から集まった十数名そこそこの友人の集まりにすぎないのである。令名高い地位と勢力を有する人々が、同じように高名な、共通に知り合いの友人の自宅に、ほとんど偶然に、会合しているのである。その友人は自分の毎日の食事よりはいくらか上等な食事で人々を歓待するだろう。フランスふうの料理などとはかりにも言えないが、それでもすばらしい正餐である。ほんものの海亀肉と思われるが、それから鮭《さけ》、かん鯛《だい》、おおほしはじろ、豚肉、イギリス産の羊肉、上等の焼き肉とか、あるいは、こういうお歴々はたいていそうなのだが、本格的な田園紳士たちの口によく合う、例の実質的な珍味の食品類である。つまり季節のおいしい食物、それが多くの時期を通じて誇りである銘柄の古いマデイラぶどう酒で風味が加わるのである。それはジュノー印の逸品である。まろやかな味で、上品なききのよい、豪奢なぶどう酒である。使用に備えて取っておく、びん詰めにした幸福である。液体の黄金よりもなお貴重な金色の液体である。きわめて珍しい、賛嘆に値する珍品だから、舌ききの飲酒家たちも、このぶどう酒を賞味したことは生涯の画期的事件と数えるほどのものなのだ! それは心臓病を追い払い、代わりに頭痛を病むこともけっしてない! もし判事が一杯のコップをぐいと一気に飲み干すことさえできるなら、この重大な正餐に彼をこんなのろまにしてしまった、えたいの知れない昏睡を──(というのは十分の合間と、さらにそのうえ五分が、すでに過ぎているからだ)──振り払う力を彼に与えてくれるのに。その一杯はほとんど死者をさえ復活させるだろう! ピンチョン判事さん、今すぐに一口いかがでしょうか?
ああ、この正餐! あなたはその真の目的をほんとに忘れてしまったのですか? それなら、あなたが「コーマス」劇〔ジョン・ミルトン作の仮面劇〕の中のいすのように、あるいはモール・ピッチャーがあなた自身の祖父を動けなくしたいすのように、実際魔法にかかっていると思われるその樫の木のいすからあなたがさっと飛び出すように、そのほんとうの目的を小声で言ってあげよう。しかし野心が魔法よりもっと力あるお守りです。ではさっと立ちなさい。そして、魚料理がだめにならぬうちにみんなが食事を始められるように、急いで町を通り抜け、突然皆の中へばたばたと飛び込みなさい! みんなあなたを待っているのだ。それでも、みんなが待っているというその事に、あなたはほとんど関心を持っていない。この紳士がたは──こんなことをいまさら話す必要があるのだろうか?──州の各方面から、なんの目的もなく、集まったわけではない。この人たちは、そのひとりひとりがいずれも、老練な政治家で、国民が自分の統治者を選ぶ権利を、国民に知られないように国民からひそかに盗み取ろうとする下準備を工作する技術にたけているのである。この州知事選挙の際の、一般民衆の呼び声は、たとえ雷鳴のように高く響いても、実際はこの紳士たちが、あなたの友人の祝宴の席で、ひそひそとささやくないしょ話の反響にすぎないであろう。この人たちは自分たちの候補者を決めるために会合しているのである。この少数の陰険な策動家たちが党大会を牛耳り、大会を通じて党をさしずするのである。そしてどんなもっとりっぱな候補者が──もっと賢明で学問がありもっと気前のよい慈善をもって有名な、もっと忠実に党方針を堅持する、もっと何回も民衆の信頼にこたえて試練を経た、もっと個人としての品性が潔白な、もっと庶民の福祉事業に大きな感心を持ち、そして先祖代々の子孫により、もっと清教の信仰と実践に深く根ざしている──いったいいかなる人物が、われわれのすぐ前に控えているピンチョン判事ほどの、行政長官たる地位にふさわしいこれらすべての資格を、他のだれよりもずばぬけて兼ね備えていて、国民の投票に推薦されることができようか?
それなら、急ぎなさい! あなたの役目を勤めなさい! あなたが苦労したり、戦ったり、登ったりはったりした、その報酬は、あなたのつかむがままなのです! この正餐会に出席しなさい!──あの貴重なぶどう酒を一杯二杯飲みなさい!──思うまま声を潜めて保証を与えなさい!──そうすればこの光栄ある古い州の事実上の知事としてテーブルから立ち上がるのです! マサチューセッツ州の、ピンチョン知事閣下!
ところでこのような確信には何かききめの強い陽気にうきうきするアルコール成分がはいっていないだろうか? この確信を得ることがあなたの半生の大望であったのだ。もはや、あなたが受諾の意志を表明することのほかは、ほとんどすべて不要である現在、なぜあなたは、あなたの祖父の祖父譲りの樫のいすに、あたかも知事のいすよりすわりごこちがよさそうに、どっかと腰をすえているのか? われわれは皆「|丸太ん棒の王様《キング・ロッグ》」〔イソップ物語の中にあるカエルの国の実力のない王〕の話を聞いている。しかし、こんなわれがちに押し合いへし合いする時世では、あのような王族のやからは最高長官の選挙にとうてい勝てないだろう。
やれやれ! もう絶対に正餐にはまにあわない! 海亀の肉、鮭、かん鯛、山しぎ、ゆでた七面鳥、イギリス・サウスダウン種の羊肉、豚肉、焼き牛肉は消えてなくなったか、またはばらばらに散らかって、なまぬるいジャガイモや、冷えて脂肪がいちめんに固まりついた肉汁とともに残っているだけである。判事は、たといほかになんにもなかったとしても、ナイフとフォークを使えば奇跡を成し遂げていたであろう。まるで人食い鬼のようなその健啖《けんたん》ぶりに関して、造物主は彼を偉大な動物にお造りになったが、食事の時刻には偉大な獣になさった、と言い古されていた人間、それは諸君、ほかならぬこの判事のことであったのだ。彼のような非常に官能的な性質の人々は、給食の時間には、特別な赦免を主張しなければならない。しかし、今度だけは、判事は完全に正餐会に遅刻してしまった! もう正餐後の飲酒会にさえ、まにあわないのではないかと気づかわれる! 客たちは上きげんになってはしゃいでいる。彼らは判事を見限ってしまった。そして、自由土地党党員が彼をまるめこんだものと結論して、別の候補者を決めるだろう。もし今、仮に、われわれのこの友人が、あんなに目をかっとむき出して、同時にものすごいどろんとした目で凝視のまま、彼らの中ヘのそのそ入りこんだと考えたら、そのぶあいそうな態度はみんなのはしゃいだ気分をいっぺんにさましてしまうだろう。また、ふだん服装にあんなに気むずかしいピンチョン判事としては、シャツの胸へあんなまっかなしみをつけたまま宴席に姿を見せるのは、さっぱり似合わないであろう。それはそうと、どうしてそこへしみがついたのか? ともかく、不体裁である。判事としては、上着の胸のぼたんをきちんとかけ、馬預り所から引き出した自家用幌付き二輪馬車に乗って、大急ぎで自分の家へ帰るのが最も賢明な道である。家では、水割りブランデーを一杯飲み、厚身の羊肉一切れ、ビフテキ一切れ、照り焼きの鶏一羽、または何かこうした即席のちょっとした正餐と夕飯とを兼ねる食事を済ませて、炉辺で夜を過ごすがよい。ここの古い屋敷の腐った空気が彼の血管にしみこませて血をこごらせた寒気を取り除くため、彼は自分のスリッパを長い間火にあぶらなければならないのだ。
だから、起きなさい、ピンチョン判事さん、起きなさい! あなたは一日をまる損にしたのだ。しかしあすがじきにここへやって来るだろう。あなたは、朝早く起きて、それを精いっぱい利用しますか? あす! あす! あす! 〔シェイクスピア作「マクベス」にある有名な句〕われわれ生命ある者は、あす遅れずに、起きるだろう。きょう死んでしまった彼については、彼の朝《あした》は復活の朝となるであろう。
そうこうしている間に薄闇が部屋の隅々から暗々とわき上がっている。背の高い家具の影法師はしだいに濃くなり、初めはいっそうきわだって見えてくる。次にはますます広がって、そのくっきりした輪郭は、さまざまな物体と、そのまん中にすわっているひとりの人影へ静かにはい寄る、いわば、暗い灰色の忘却の潮の中に没して消えてしまう。闇は外からはいってきたのではなかった。それは終日ここにたれこめていたのだ。そして今、闇のみが持つ必然の時に従い、いっさいのものを占有してしまおうとする。判事の顔は、じつにいかめしく、そして不思議に白く、すべてをおおうこの溶媒に溶け込むことを拒んでいる。いよいよかすかに光は薄れてゆく。あたかも両手いっぱいの暗闇が再び空にばらまかれたかのようである。今はもう薄暮ではなくて、暗黒である。それでもまだ窓の所にほのかな幻の影が見える。白光とも、微光とも、また幽光ともつかぬものが──それはもう消えてしまったかい? いやまだ!――そう、消えたよ!──いやすっかりというわけではないよ! そら、まだ黒ずんだ白いのが残っているよ――われわれはあえてこんなつじつまの合わない言葉を結び合わさなければならない――ピンチョン判事の顔が黒ずんで白いのだ。顔だちは何も見えなくなった。ただその薄黒さだけが残っている。それで今度はどう見える? もう窓はない! 顔はない! 無限の、測り知れない暗黒が視界を完全に消してしまったのだ! われわれの宇宙はどこにあるのか? あらゆるものがわれわれから滅び去ったのだ。そしてわれわれは、混沌の中に漂いながら、かつて世界であったものを捜し求めて、嘆き悲しむように、またささやくように吹き渡る、所定めぬ疾風《はやて》に耳をそばだてて聞き入るかもしれない!
ほかに物音はしないのか? ただ一つ別の、そして恐ろしい音がする。それは判事の懐中時計のかちかちいう音である。それはヘプジバーがクリフォードを捜しにこの部屋を出ていった時から、判事が手に握りしめていた時計である。理由はなんであろうと、ピンチョン判事のじっと動かない手の中で、こんなにせかせかと規則正しく細かな刻みをくり返す「時」の脈搏の、この小さい、静かな、絶え間ない鼓動は、その場にありあわす他のどんなものにも見られない、ある恐ろしい効果を持っている。
しかし、耳を澄ましてごらん! あのぱっと吹きつけた風の音がひときわ高かった。あの音は、この五日間、むせび泣き、そしてあらゆる人々の胸に一様に傷心の思いをかき立てた、蕭条《しょうじょう》とした陰気な風とは似ても似つかぬ音色を持っていた。風向きがくるりと変わったのだ! 風は今、東北方から騒々しく吹きすさび、ちょうど自分の競争相手と力比べしようとする力士のように、七破風の建物の古ぼけた屋台骨を引っつかみ、ぐいぐいとゆすぶっている。もう一つ、また一つと、突風の頑強なつかみ合いだ! 古い屋敷はまたきいきいきしみ、そして煤まみれののどもとで──その広口の煙突の大きな煙道で――やかましいだけでなんだかわけのわからないほえ声をたてている。それも一つには乱暴な風に向かっての苦情であるが、むしろ、お互いが一世紀半なじんだ仇敵《かたき》同士にふさわしい、強清な反抗からである。ごうごうというすさまじい音が炉ぶたの陰でほえている。戸が階段の上あたりでばたんとしまった。おそらく、窓が一つあけ放しのままなのか、さもなければ手に負えない突風のためにこじあけられたのだろう。こうした古い木材の大邸宅はなんという不思議な吹奏楽器であることか、またいかに奇々怪々な騒々しい物音に取りつかれていることかは、あらかじめ想像することさえできないのである。これらの物音は、強風が窓をあけ放しにした屋敷へ襲いかかり、まっこうから吹き込むときはいつなりと、すぐさま鳴り響き、ため息をつき、すすり泣き、悲鳴をあげはじめ――そしてどこか遠い部屋で、空気とはいえじつに重たそうな大槌をふるってたたいたり――また、まるで大手をふってどんどん玄関から踏み込んだり、また、不思議にこわばった絹衣装を引きずるように、ばさばさと階段を登り降りしたり──騒ぎだすのである。われわれはここの屋敷に付き添う霊でなければよかったに! あまりにも恐ろしい! さびしい屋敷を鳴り響かせる風のこの叫び声。姿を見せぬ座像の、判事の静寂さ。それに握りしめた時計のあのしつこいかちかちいう音!
もっとも、ピンチョン判事の姿が目に見えぬ点なら、その件はやがて元のとおりに直るだろう。東北風が空の雲をからりと吹き払ったからである。窓がはっきり見えている。そのうえ、窓ガラスを透かして、黒い、こんもり茂り合う葉群《はむら》が、窓の外で、絶えず不規則に波立つように揺れ、そのために星明かりを、あるいはここ、あるいはかしこへ、ちらちらとのぞかせているのがおぼろげにわれわれの目にはいってくる。これらの光はちらほらと、他の何よりもまず、判事の顔をなんべんも明るく照らした。しかしこんどはそら、もっと有力な光が現われてきた。梨の木の梢にあのように乱舞している白銀の光に目を留めなさい。今度はやや下方の枝へ、そして今度は全部の枝葉の上をきらめき踊り、そら、その間に、交錯する垣間《かいま》を縫って、月光が部屋の中へ斜めにさしこんでいるのだ。光は判事の像をゆらゆらと照らして、彼が暗闇の時を微動もせずにいたことを示している。月の光は、千変万化に遊び戯れながら、彼の不動のおもざしをかすめて、影を追いかける。光は彼の時計へきらきら輝く。彼の手はしっかと握って文字盤を隠している。けれどもわれわれは時計の忠実な両針がぴたりと重なり合ったことを知っている。なぜなら町の時計の一つが真夜中を告げているからだ。
ピンチョン判事のような、たくましい思慮の男は、夜中の十二時でも、正午の時刻に相当して、なんら意に介することはない。どこか前のところで、先祖の清教徒と判事のふたりの似寄りが、たとえどんなに正しく述べられているにしても、この点ではまちがっている。今から二世紀前のピンチョンは、当時の人たちが概してそうであったように、精霊の加護を、それがとかく不吉な性質のものとは思いながらも、全く信仰していると公言した。向こうの肘掛けいすにすわっている今夜のピンチョンは、こんなたわいもないことをてんで信じていない。これが、少なくとも、今から数時間前の彼の信条であった。それゆえ、先祖から伝わったこの家のまさにこの部屋についていつも語られていた話――炉隅の中に長いすを備えていたころ、そこでは老人たちがすわりながら過ぎ去った昔の灰を突っついたり、燃えついた石炭のように伝説の火をかき立てたりした時代の──そんな話を聞いても、彼は身の毛もよだつ思いはしないだろう。実際、こんな口碑などはあまりにもばかげていて、幼い子供の身の毛さえ、恐れて逆立つことはないのである。たとえば、幽霊話でさえも持っていることができそうな、どんな常識、どんな意味、あるいは教訓を、あんなばかばかしい言い伝え、真夜中にピンチョン家の死んだ人たちが全部この客間に必ず会合することに決まっている、などという話から、捜し当てることができようか? では、ねえ、いったい何のためだというのかい? むろん自分たちの先祖の画像が、その遺言状の指示に従って、今も昔のとおりに壁に掛かっているかどうかを確かめるためなのさ! それぐらいのことで、墓場からぞろぞろと出かけてくるかいがあるのだろうか?
われわれはそんな考えをちょっとからかってみたい気持ちにそそられる。幽霊話は、もはやしんけんに取り扱われることはまずない。ピンチョン一家の亡者たちの家族集会は、次のようにして行なわれるものと察せられる。
まず第一に先祖がみずから、黒い外套をまとい、高いとんがり帽子に、腰をふくらませた中ズボンをはき、腰の回りに皮帯を締め、それに鋼鉄の握り柄の剣をつりさげてやってくる。彼は一本の長い杖を手にしているが、それは高齢の紳士たちがからだをささえる力を得るためにも、また威厳ある風格のためにもいつも持ち歩くものである。彼はその肖像画を見上げる。実体のない幽霊が、描かれた自分の姿に見入っている! 万事安泰である。画像は相変わらずそこにある。彼の頭脳の意欲は、肉体そのものから芽を吹いて墓地の雑草となってしまったこんなに久しい年月を経た今も神聖に保たれているのだ。ごらん! 彼はそのむなしい手を上げて、額縁に触れてみる。万事安泰だ! しかしあれは笑顔だろうか?──むしろ、彼の顔だちの陰影を暗くかすめる、恐ろしい必死の形相ではないのか? 頑強な大佐は不服なのだ! 彼の不満の表情がじつにきわだっているために、彼の顔だちはますますはっきりと特色を現わしている。それにもかかわらず、月の光がその顔を透き通って、向こうの壁へちらちらとゆらめいている。何事かが先祖を異様に激怒させたのだ! 荒々しく頭を横に振りながら、彼は向こうへ去って行く。こんどは、六世代にわたる、一族全部の、他のピンチョンたちがやって来て、互いに押し合いへし合いながら、手を伸べてその絵を取ろうとする。年寄りの男たちや老婆たち、僧服や態度に清教徒らしいいかめしさがまだ残っているひとりの牧師、それから昔フランス戦争当時の赤いイギリス軍服を着たひとりの士官がわれわれの目にはいる。そこへ今から一世紀前の小売り業者のピンチョンが、両方の手首から襞《ひだ》飾りを折り返したままでやって来る。またそこへ写真家の伝説のなかのかつらをかぶり、金襴《きんらん》の装束をつけた紳士が、美しい憂わしげなあのアリスを伴って現われる。しかしアリスは、処女のままなくなった彼女の墓から高慢な誇りを持ってきていない。全部のものがその絵の額縁を取ろうとする。これらの人間の亡霊どもは何を求めているのだろうか? ある母親は、その子の小さな両手が額縁に届くようにと、子供を高く持ち上げている! この絵について、何か秘密があることは明らかであり、その秘密が、今は安らかに眠っているはずの、これらピンチョン家の人たちの魂を哀れにも悩ましているのだ。そうこうしているうち、一方の隅には、もみ皮製の胴衣と半ズボンを着て、ポケットからは大工用ものさしが突き出ている、かなり年輩の男が立っている。彼は例の顎ひげをはやした大佐とその子孫たちを指さしては、うなずいたり、あざけったり、からかったりしたあげく、耳には聞こえないが、騒々しく爆笑したりしている。
こんなに酔狂に思うまま空想を走らせたので、われわれは自制して手引きする力をいくらかなくしてしまった。われわれはこの幻影の場面に思いもよらない人影をはっきりと見分ける。先祖累代のこれらの人々に混じって、全く当世ふうな服装をしたひとりの青年がいるのだ。彼はほとんど裾《すそ》のない、黒いフロックコートに鼠色のズボン、黒エナメル皮の深ゴム靴をはき、りっぱな細工の金鎖を胸に渡し、そして、銀をかぶせた鯨骨の小さい杖を手にしていた。もしわれわれがこの人物と真昼に出会ったら、判事のたったひとり生き残っている息子の、小ジャフリー・ピンチョンとしてあいさつするだろう。この人はこの二年間外国を旅行しているのである。もし彼がまだ生きているなら、どうしてその影だけがここへやって来たのだろうか? もし死んだとすれば、なんという不幸であろう! ピンチョン旧家の財産は、この青年の父が手に入れた莫大な資産といっしょに、何者に譲り渡されるのだろうか? 哀れな愚かなクリフォードヘ、やせこけたヘプジバーへ、それからいなか育ちのかわいらしいフィービヘだろうか? しかしもう一つ、しかももっと大きな奇跡が現われた! われわれは自分の目を信ずることができようか? 肥満した、相当な年輩の紳士がひとり姿を見せたのだ。その人は身分の高い堂々とした風体をして、ゆったりと幅のある、黒の上着とズボンを着ており、もし純白なネクタイを染め、胸のシャツにたれているまっかな大きい血のしみさえなかったら、その服装はいたれり尽くせりの身だしなみとはっきりいわれたことであろう。その者は判事だろうか、それともほかの人物だろうか? どうしてピンチョン判事なはずがあろうか? ちらちらと照る月の光がわれわれにどんなものの姿をも見せてくれるように、今もまだ樫のいすにすわったまま、彼の姿をくっきりとわれわれに見分けさすのである! その幽霊がだれのであろうと、幽霊は絵に向かってつかつかと進み、額縁をつかんで、その裏をのぞこうとするらしい。それから先祖のピンチョンと同じように険悪な形相でにらみながら、向こうへ去って行くのである。
今ほんの少しほのめかした幻想的な光景が、けっしてこの物語の本筋の一部をなすものと考えてはならない。われわれは、ゆらめく月の光にだまされて、しばらくこんなあられもない思いにふけったのである。月光はいろいろな影と手を取り合って踊り、そして、諸君が知ってのとおり、常に霊界に入る一種の窓、または戸口である鏡へ反射するのである。それにわれわれは、いすにすわっているその人物についてのあまりに長い、そして余念ない瞑想から一息しなければならなかった。このすさまじい風もまた、われわれのさまざまな思案を吹きつけて奇妙に混乱させたが、それでもただ一つの決定的な中心の思想からばらばらに吹き散らすことはなかった。向こうの判事は鉛のようにどっかとわれわれの魂の上に腰をすえたまま動かない。彼はもう二度と微動さえしないつもりだろうか? 彼がぴくりとも身じろぎしないならば、われわれは気が狂ってしまうだろう! 諸君は、一匹の小さい二十日鼠のこわさを知らぬふるまいに判事の静寂さがいっそうよく判断できるだろう。その鼠は、一条の月の光を浴びて、ピンチョン判事のすぐ足もとに、あと足でちょこんとすわり、この大きな黒いずうたいをくまなく探検旅行しようかと思案をこらしているらしい。おやっ! 何があのはしっこい小さな二十日鼠をびっくりさせたのか? それは、窓の外にいる、老いぼれ猫の顔である。その雄猫は用心深く見張ろうとしてそこへ陣取っていたものらしい。この老いぼれ猫はじつに醜い顔つきである。それは、二十日鼠を待ち構えている猫なのか、それとも人間の魂をねらっている悪魔なのか? あの猫をおどして窓から追っ払うことができればよいのに!
ああ、ありがたい、夜がもう過ぎようとしている! 月の光線は、もはや白銀《しろがね》のような輝きはなく、また光が落とす黒い影とそれほど鋭く対照することもない。月の光は、今は薄れている。闇は薄墨色に見え、まっ暗でない。騒々しかった風は静まりかえっている。何時だろうか? ああ! 懐中時計はとうとうかちかちの音がやんでしまった。なぜなら判事の忘れっぽい指が、いつものように、ふだんの就寝時間の半時間かそこら前の、十時に、時計のねじを巻くのを怠ったからだ──それで五年間に初めて時計が止まったのだ。しかし「時」の偉大な宇宙時計は相変わらず鼓動を続けている。索漠《さくばく》とした夜が──というのは、ああ、われわれがあとにした幽霊の現われる荒涼たる夜暗はなんと索莫な思いがするであろうか!──さわやかな、澄みきった、晴朗な朝と交代するのである。祝福された喜びの燦々《さんさん》たる光! 白昼の光──この常に薄暗い客間にようやくさし込んでくるなけなしのかすかな光でさえ――悪を消し去り、あらゆる善を可能にし、また幸運を得られるようにする、普遍的な神の恩寵《おんちょう》の一部のように思われる。ピンチョン判事はこんどこそいすから立ち上がるだろうか? 彼は歩み出て朝日の光を額に受けるだろうか? 彼は新しいきょうの日を――神がほほえみかけて祝福し、そして人類に授けたもうた――この日を彼は、これまでの誤っていたたくさんの意図よりもりっぱな趣旨で始めるだろうか? それとも、深く仕組んだきのうのすべての陰謀が、今までどおり、執念深く彼の胸に宿っていて、やはり盛んに頭の中を駆けずっているのだろうか?
このあとのほうの場合には、する仕事がたくさんある。判事はクリフォードとの対面を相変わらずヘプジバーに主張するだろうか? 彼は危険のない、老紳士向きの馬を買うだろうか? ピンチョン家の昔の地所の買受け人を説得して、彼に有利なように、その取引きを譲らせるだろうか? 彼の家庭の主治医を尋ねて、一門の栄誉と幸福をになうため、長者としての最大の天寿を全うするまで保つ医薬を手に入れるだろうか? とりわけ、ピンチョン判事は例の知名の友人一同に、適当な言い訳をして、祝賀会へ彼が欠席したのはなんとしてもやむをえないものであったと皆を納得させ、そして、やはり彼をマサチューセッツ州知事にしようと友人たちが好ましい意見になるよう、完全に自分の信用を取り戻すだろうか? そして、これらの大きな目的が全部達成されてから、芸の細かい、いかにも慈悲深そうなあの真夏の土用のような微笑を、暑苦しくハエを誘い寄せてはぶんぶん飛び回らせるほどの微笑をふりまきながら、再び街頭を散歩するだろうか? それとも彼は、まる一昼夜、墓穴のような幽居のあとで憂いに沈み、心やさしく、利を求めず、世俗の名聞を避け、あえて神を愛するとまではいかずとも、思いきって自分の朋輩を愛してできるかぎり親身の世話をする、つつましい懺悔者《ざんげしゃ》として出て行くであろうか? 彼は――傲慢な仮面であり、いまわしい虚偽である、見かけ倒しの慈愛からにやにやといやらしく笑わずに──そのになう罪の重荷に、ついに打ちひしがれて、悔俊《かいしゅん》に悩む心のいたいたしい悲しみを身に帯して行ない澄ますのであろうか? なぜかといえば、彼がどんな見せかけの栄誉を上から何枚重ね着しても、この男の性根には重たい罪があるというのが、われわれの信念だからである。
ピンチョン判事よ、立ちなさい! 朝の日ざしは木の葉の茂みをくぐってきらきら輝き、そして、美しく神々しい光ながら、そなたの顔を避けようともせず、燃えるように照らしている。陰険、俗臭、利己的、冷酷な偽善者のそなたよ、立ちなさい! そして今までどおり陰険に、俗っぽく、利己的に、冷酷に、かつ偽善のままでいるか、それともまた、たとえそのためには生ける血を流してまでも、これらの罪悪をそなたの性根から引き抜くか、どちらかを選びなさい!「復讐者」はそなたに襲いかかるのだ! 起きなさい、手おくれとならないうちに!
なんたることだろう! そなたはこの最後の訴えによっても奮起しないのか? そうか、全然しないのか! それにそら、一匹のハエがいる――ざらにいる一匹の家バエで、始終窓ガラスに止まってぶんぶんしているやつだ──そいつがピンチョン判事をかぎつけたのだ。そして、あるいは額の上を、あるいは顎を、そして今度は、これはしたり! 鼻柱の上をはいずって、州長官気取りの男のかっとむき出した目玉のほうへ向かっている! そなたはそのハエを振り払うことができないのか? そなたはそれほどひどい物ぐさなのか? きのう、あんなに多くの忙しい仕事をたくらんだ男のそなたなのに! あれほど強引であったそなたが、今はそんなにひどく女々《めめ》しいのか? 一匹のハエさえ払いのけないのか? よし、さらば、われわれはそなたを見放そう!
でも、聞きなさい! 店ベルが鳴っている。こんなふうに何時間も、われわれがこんな重苦しい話を語り伝えて終わりの時間を過ごした後で、世界がいきいきとして現に存在し、そして、こんな古い、寂しい屋敷でさえ、その生きた世界と何か連絡の道が保たれていることを感じさせられるのは、しあわせなことである。われわれはピンチョン判事の前から抜け出して、七破風屋敷の前の通りへ出て、もっとのびのびと呼吸する。
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十九 アリスの花束
手押し車をごろごろころがしているヴェンナー爺は、暴風雨の翌日、この近所を歩き回っているいちばん早起きの人間であった。
「七破風の屋敷」のまん前のピンチョン通りは、みすぼらしい囲いで仕切られた、貧しい人々の木造の住家が立ち並んでいる横町の体裁から当然予想されるよりもはるかに愉快な光景を呈していた。自然は、その朝、これまで続いた陰気な五日間を、美しく埋め合わせてくれた。広い、恵まれた大空が、あるいは、家並みの合い間に見えるかぎりの空が、再びなごやかに日光に照り渡るのを振り仰いでながめるだけでも、十分な生きがいがあったろう。
どんなものでも、大まかにざっとながめ渡しても、またもっと細かに吟味してみても、すべて気持ちよかった。たとえば、歩道のよく洗われた小石や砂利がそうだった。通りのまん中の、空を映している水たまりでさえそうだった。垣根の根元に沿うてはっている、今は色あざやかな緑の雑草がそうだった。垣根の向こう側には、もし上からのぞき見するなら、多種多様のものが栽培されている庭が見られた。野菜の作物は、どの種類も、うるおいある温熱と豊かな生命にあふれていて、陰気に見えるどころではなかった。「ピンチョン楡」は、その大きな丸い枝葉の隅々まで、全くいきいきとして、朝の太陽とここちよく吹くそよ風とをいっぱいに受けていた。その風はこの緑の球体をいつまでも去りやらず、無数の葉の舌先をいっせいにさやがせていた。この老樹は突風からなんの被害も受けなかったように見えた。枝をへし折られることもなく、また葉も全部満足についていた。この樹木全体が緑の一色であったが、楡の木が時おり、いち早く色を変えて秋を先ぶれるため、たった一本の枝だけが、輝く黄金色に変わっていた。それはちょうど、アエネアス〔トロイアの英雄、シビルの案内で冥府にはいる〕と巫子《みこ》のシビルを地下の冥府《めいふ》へはいらせてくれた黄金の枝のようであった。
この不思議な一本の枝が七破風屋敷の正面玄関前に、通行人のだれでも背伸びすれば折り取れるほど地面に近くたれさがっていた。その枝を玄関の所で差し出されたなら、人が中に入って、この家の秘密をすべて知らされる権利の象徴であったろう。表面的な外観に信用は全く置けないもので、この古さびた大きな屋敷はいかにも人の心をひきつける趣を備えており、またその歴史はきっと折り目正しく幸福な由緒《ゆいしょ》あるものに相違なく、炉辺の物語としてさぞおもしろい話であろうという考えをいだかせた。窓という窓は斜めにさし入る日光に陽気にきらめいていた。あちらこちらにはえている、緑の苔の線や苔のふさは、「自然」との古いなじみや姉妹仲《きょうだいなか》の誓いのように思われた。あたかもこの人間の住まいは、そんなに古い年代のものなので、原始時代の樫の木にまじって長年の慣習による権利を確立してしまったかのようであったし、また他のどんな物でも、長い間存続してきたおかげで、存在権の恩典を得ていた。想像力に富む性質の人なら、その家のそばを通り過ぎる間に、再三ふり向いて、その家をまじまじと注目することだろう──みんな仲よく煙突を集めているたくさんの破風の先頂、地階の上へ深くかぶさった張り出し二階、玄関の真上に開いて、壮麗とはいえないまでも、古風で優雅な趣をこわれた玄関へ与えているアーチ窓、入口近くの、特に大きく繁茂しているごぼうなど──その人はこうしたすべての特徴を心に留めて、目に見えぬいっそう深い何事かに気づくことであろう。彼はこの邸宅が、頑固な清教徒の老人、「高潔」の住まいであったこと、その人は、いつか忘れられた世代で臨終のとき、この家の全部の部屋や寝室に祝福の言葉を言い残したが、その言葉の効験が、今日にいたるまで、子孫の人々の宗教、正直、ほどほどの蓄財、つまり、清貧で実質的な幸福の中に認められると、想像することであろう。
とりわけて一つのものが、想像力のたくましい観察者の記憶の中に根を降ろすだろう。それは一むらの大きな花房──それを雑草と、今からたった一週間前であったら、諸君は呼んだことだろう──正面の二つの破風にはさまれた角に咲いた、まっかな斑《ふ》入りの花房だった。老人たちは麗人アリス・ピンチョンを偲《しの》び、それを「アリスの花束」と呼び慣れていた。そして彼女が花の種子をイタリアから持ち帰ったのだと信じていた。その花が、きょう、濃艶な満開の美を咲き誇っていて、いわば、この家の中で何かが完成されたのだということを神秘的に表わしているように思われた。
さっき述べたように、ヴェンナー爺がこの町通りに姿を表して、手押し車を押していたのは、日の出からほんのまもないころだった。彼はキャベツの葉、かぶの頭の葉っぱ、ジャガイモの皮、それから夕食の鍋の雑多な残りかすなど、近所のつましい主婦たちが、豚の餌にしかならないからと、いつも取りのけておいてくれるものをかき集めるため、毎朝の巡回をしているところであった。ヴェンナー爺の豚は、こういう慈善の施し物をたらふく食って、絶好の状態を保っていた。そのため、このつぎはぎの哲学者は、彼が農場へ引退する前に、太っちょの豚公のごちそうを作り、近所の人々を全部招待して、みんなが手伝って太らしてくれた豚の切り身の大肉や肉つき肋骨《ろっこつ》をふるまうと口癖に約束していた。クリフォードが家族のひとりとなってから、ヘプジバー・ピンチョン嬢の家政の手腕はじつにめきめきと上達したので、その饗宴にあずかる彼女の分け前はけっして貧弱なものではなかったろう。したがって、ヴェンナー爺は、七破風屋敷の裏手の上り段の所で、彼がやって来るのをいつも待っていた、食物の残り屑がたくさんたまっている、陶器の大皿が見つからないので大いに失望した。
「ヘプジバー嬢さまがこんなに忘れっぽいとは今までちっとも知らなかったなあ」と、その古老は心の中で思った。「お嬢さまはきのう、正餐を取られたに違いない――それは疑いないことなんだ! 近ごろは、毎日正餐を取っておられるのだ。では、煮肉の汁やジャガイモの皮はどこにあるのかね、え? ノックしようか、そしてもう起きておられるか、試してみようか? いや、いや――そりゃあ、だめだ! もしかわいいフィービが家の付近にいるのだったら、ノックしたってかまわないのだがなあ。だがヘプジバー嬢さまは、たといごきげんは上々でも、おそらく窓からわたしをにらんで見おろして、ぶあいそうな顔をなさるだろうよ。だから、お昼にまたやって来よう」
こんなことを思案しながら、老人は小さな裏庭の門をしめていた。けれども、ここの家屋敷の門や戸はどれもこれもそうなのだが、門の蝶番《ちょうつがい》のきいきいきしむ音が、北側の破風に住んでいる男の耳まで届いてきた。その破風の窓の一つからは門のほうを横ざまに見通すことができた。
「ヴェンナー爺や、おはよう!」と銀板写真家が、窓から上体を乗り出して言った。「だれも起きている気配がしませんか?」
「しませんよ」とつぎはぎの男は言った。「しかしそりゃ不思議じゃないですよ。目が昇ってから、まだ、やっと半時間足らずですからね。けれど、ホールグレーヴさん、あなたにお会いしてほんとにうれしいですよ! 家のこちらがわは妙に、人けのない様子ですからね。それでわたしは、なんだかどうも、心配になってきて、まるで家の中に人っ子ひとりいない気がしましたよ。家の表側はずっと陽気に見えますよ。そしてアリスの花束があそこにきれいに咲いていますよ。それでね、ホールグレーヴさん、もしわたしが若い男だったら、たとい生命をかけても屋根へ上がって、あの花の一つを恋人の胸へ飾ってやるんですがなあ!──そうそう! ところでゆうべは風のために眠れなかったですかい?」
「いやはや、全くでした!」と写真芸術家は微笑しながら答えた。「もし僕が幽霊というものを信ずる人間でしたら──そして信じているのかいないのか、自分でもよくわからないのですが──昔のピンチョン家の人たち全部が、この家の階下の部屋、ことにヘプジバーさんの部屋あたりで、騒ぎ回っていたと断言したでしょうね。しかし今はじつにひっそりかんですね」
「そうですね、ヘプジバーさんは、そんな騒ぎで、終夜、眠りをじゃまされたからには、おおかた寝すごされるでしょうね」とヴェンナー爺は言った。「だけど、はてな、変ですねえ、もし判事さんが自分のいとこをふたりともいっしょにいなかへ連れて行ったのか、どうなのかねえ? わたしはきのうあの人が店へはいって行くところを見ましたよ」
「何時ごろ?」とホールグレーヴは尋ねた。
「ああ、お昼前、だいぶまわったころですよ」と老人は言った。「そう、そう! わたしは歩き回らにゃあ、またわたしの手押し車もぐるぐる回らにゃなりませんよ。しかしお昼時にここへ戻ってきますよ。だってわたしの豚は朝飯はもちろん、昼飯もほしがるんですからねえ。食事時や食べ物の種類などてんでおかまいなく、わたしの豚にとってはなんでもござれらしいですよ。ではさようなら! それから、ホールグレーヴさん、もしわたしが、あなたのように若かったら、アリスの花束を一つ取って、フィービが帰ってくるまで水につけておくんですがねえ」
「人から聞いたところでは」と銀板写真家は、頭を引っ込めながら言った。「モールの井戸の水があの花にいちばんぴったりしているそうですね」
ここでふたりの話は終わって、ヴェンナー爺は歩き去った。それから半時間、七破風屋敷の閑静を破るものはなかった。ひとりの訪問客もなく、ただ配達の少年が、正面玄関前の上り段を通り過ぎながら、新聞紙を一枚ほうり投げて行っただけであった。というのは、ヘプジバーは、最近、新聞を月ぎめで取っていたからであった。しばらくたつと、肥満したひとりの女が、飛ぶように急ぎ足でやって来て、店戸の前の階段を駆け上がる拍子につまずいた。彼女の顔は料理の火熱で赤くほてっていたし、それに、かなり暑い朝であったから、まるで煙突の熱、土用の暑気、それに自分の太ったからだの駆け足とで、全身がてんぷらになったかのように、いわば、ぶつぶつしゅうしゅうとあわ立ち煮え立っていた。彼女は店戸をあけようとした──が、戸締まりがしてあった。再びあけようとしたが、非常にいらだってぶつかったので、店ベルがとげとげしく響いて彼女へはね返ってきた。
「いまいましい独身|婆《ばば》のピンチョンめ!」とかんしゃくなその主婦はつぶやいた。「あろうことか、一文店を開業するなどと空とぼけて、正午まで床に寝ているなんて! こういうのがたぶんあの女のいうお上品な育ちぶりなんだろうね! だけどわたしゃあ、あの気取り屋をたたき起こすかそれとも戸をぶっこわすか、どっちかなんだよ!」
そこで彼女は戸をゆすぶった。すると店ベルは、それ独自の意地悪いかんしゃくを持っていて、けたたましくが鳴り立てたが、そのとがめるような響きが――なんと聞かせてやりたかった相手の耳にではなくて──通りの反対側にいる善良なひとりの婦人の耳に聞こえたのだ。彼女は窓を開いていらいらしている買い手に話しかけた。
「ガビンズさん、そこのお店はだれも見つかりゃしませんよ」
「でも私はどうしてもここのだれかを見つけなけりゃならないし、だから見つけてやりますよ!」とガビンズ夫人は大声でわめいて、またもそのベルヘ乱暴に当たり散らした。「私は夫の朝食用に、半ポンドの豚肉がほしいし、飛び切り上等のひらめをフライにしたいんですよ。それで、貴婦人であろうとあるまいと、独身婆のピンチョンをたたき起こして、その用を足させてやりますよ!」
「だってわけをようくお聞きなさいな、ガビンズさん!」と婦人は向こう側で答えた。「ピンチョン婆さんもそのにいさんも、ふたりともいとこのピンチョン判事さんのいなかの本邸へ行ってしまったんです。家にはだれもいませんよ。ただ北側の破風に寝泊りしているあの若い銀板写真屋さんがいるだけです。私はきのうヘプジバー婆さんとクリフォードさんが出て行くところを見かけましたよ。泥の水たまりをぽちゃぽちゃ歩いて、ふたりはひとつがいのあひるそっくり、変なかっこうでしたよ! ふたりとも行ってしまったんです、ほんとにそうですよ」
「ではどうして、ふたりが判事さんの家へ行ったということがわかるんですか?」とガビンズ夫人は尋ねた。「判事さんはお金持ちです。そして、判事さんが彼女の生活を見てやろうとしないので、彼とヘプジバーとは、これまで幾日も幾日も、けんかしていたんですよ。彼女が一文商いの店を開いた大きな理由はそれなんですよ」
「私は、その事ぐらいはよく知っています」とその隣人は言った。「しかしふたりは行ってしまったんです──それだけは確かなことです。だってあなた、血縁の者でもなければ、だれがいったい、あんなこわい気性の独身婆さんと、あんな恐ろしいクリフォードとを引き取るもんですか?」
ガビンズ夫人は、不在のヘプジバーに向かってなおも激しい忿懣《ふんまん》を胸いっぱいに抱きながら立ち去った。それからさらに半時間、あるいは、たぶん、もっとだいぶ長い間、家の表は中とほとんど同じくらいひっそりしていた。それでも、楡の木は、よそでは感ずることのできないかすかな風に答えて、愉快にはればれと、陽気にそよいでいた。ひとかたまりの昆虫が、楡の木のたれこめた日影の中で、おもしろそうにぶんぶんと羽音を立てていた。そしてそれがひなたへ飛び出すと、たちまち光の斑点となった。一匹のせみが、その樹木のどこなのか、探り知られない奥まった所で一、二度、鳴いた。また一羽の薄い金色の羽のはぐれ小鳥がやって来て「アリスの花束」のあたりを飛び回った。
最後に、われわれの小さい友だちのネッド・ヒギンズが、登校の途中、とぼとぼと道を歩いて来た。そして、二週間もたって初めて、偶然一セントを手にすることができたので、どうしても七破風屋敷の店戸を素通りできなかった。しかし店の戸はあかなかった。それでも再三再四、さらにまた六回も、努力を重ねて、かけがえのない大事な物に思いつめている子供の向こう見ずなしつこさで、中へはいろうとした。彼は、明らかに象がほしかったのだ。でなければ、たぶんハムレットと同じように、わにを食べるつもりだったのだろう。ますます激しくなる彼の攻撃に答えて、ベルは時々、穏やかな音をりんりんと立てたが、そんな小さい子のひ弱い力ではどんなにあがいても、かん高い響きで騒ぎ立てられるわけにはいかなかった。彼は、戸の取っ手を握って、カーテンの割れ目から中をのぞいてみると、客間へ行く廊下に通ずる内側の戸がしまっていた。
「ピンチョンさん!」とその子供は金切り声をあげて、窓ガラスをとんとんとたたいた。「僕は象が一つほしいんだよう!」
なんべんくり返して呼んでも返事がないので、ネッドはじれったくなってきた。彼の小さな腹の中が急に煮えくり返ってきたので、窓から石を投げつけていたずらをしてやる気になって、石を一つ拾い上げた。怒りのために泣きじゃくるのもぶつぶつ言うのもいっしょだった。ひとりの男──たまたま通りかかったふたりの男のひとり──が、小僧の腕をつかまえた。
「どうしたんだ、この悪魔め?」と彼はきいた。
「僕はヘプジバー婆さんか、フィービか、またはだれか店の人に用があるんだよう!」とネッドは、すすり泣きしながら、答えた。「だれも戸をあけてくれないんだ。それで僕は象を買えないんだよう!」
「学校へ行け、この悪たれ小僧め!」と男は言った。「角を曲がった所にも一軒、一文店があるよ。じつに妙な話だね、ディクシー」と彼は、連れの男にこう言って付け足した。「ピンチョン家の人たちは皆どうしたんだろうねえ! 貸し馬車屋のスミスの話じゃ、ピンチョン判事がきのう、馬をうまやに入れて、正餐すぎまで預けたのに、まだ連れて行かないんだそうだ。判事の雇い男のひとりが、けさ、彼のことを問い合わせにやって来たんだ。判事は自分の習慣を破ったり、または家を外に泊まったりするような人間ではないと、噂しているんだよ」
「おお、彼はだいじょうぶ、無事に姿を現わすよ!」とディクシーは言った。「それから独身のピンチョン婆さんはどうかといえば、おれの言葉をほんとうにしろよ、彼女は借金をしょい込んで、債権者から逃げ出しちまったんだよ。君は覚えているね、彼女が初めて店を開いた朝、おれが予言したろう。彼女の悪魔のようなしかめっ面が、お客さんたちをおどかしちまって追っ払ってしまうだろうってね。お客はとてもあれにはたまらんよ!」
「おれは、ばあさんが店をやっていけるとはけっして思ってやしなかったよ」と彼の友人が述懐した。「この一文店の商売は女たちにゃ無理だよ。おれの女房もやったんだ。ところがその出費で五ドルの損とおいでなすったんだ!」
「つまらんことだな!」とディクシーは、頭を横に振りながら、言った。「つまらんことだなあ!」
朝の間、ひっそりと静まって奥の知れないこの大邸宅の、在宅と思われた住み手たちと交渉しようとして、このほかにもいろいろの事が試みられた。草の根のビール〔薬草や野草の根から取った液にイーストを加えて製した、ほとんどアルコールのない飲料〕を売る男が、きれいなペンキ塗りの馬車に乗り、いっぱい満たした二ダースのびんを積んで、からびんと交換しにやって来た。パン屋は、ヘプジバーが客へ小売りしようと注文しておいた堅焼きビスケットをどっさり持ってやって来た。肉屋は、彼女がクリフォードのためにきっと買いたがるだろうと思って、おいしい一口肉を持ってきた。もしだれか、こうした事の経過をじっと見ている者が、この家の中に、隠されたあの恐ろしい秘密を知っていたとしたら、人生の流れがこのあたりにこんな小さな渦巻き──棒切れとか、わらくずとか、いろいろのそうしたがらくたを、死体が人目にふれずに横たわる、まっ黒な深い淵《ふち》の真上で、くるくると舞い流している渦──を造っているのを見て、異様にもまた奇怪な戦慄に襲われたであろう!
肉屋は、持ってきた小羊の膵臓《すいぞう》か、いや、その珍味はなんであれ、その売り物に一生懸命だったので、七破風屋敷のどの入口にも近づいてあけようとした。そしてとうとうひと回りして再び、彼がいつも出入りしていた場所の店まで戻ってきた。
「これは上等の食物なんだし、あのばあさんがこれに飛びつくことはわかっているんだ」と彼はひとり言をいった。「彼女が外出しているはずはないな! おれは十五年間ピンチョン通りに馬車を走らせているが、彼女が家を離れたためしは知らないな、なるほど、人が一日じゅうノックしたって彼女が戸口へ出てこないことはちょいちょいあったさ。でもそれは自分ひとりだけまかなっていればよかったころの話なんだ」
肉屋は、ほんのしばらく前、お菓子の象を食べたがっていた小僧が見た同じカーテンの割れ目から中をのぞいてみたが、奥の戸は、子供が見たときと違って、しまってはおらず、ちょっとあいて、ほとんどあけ放したようになっていた。どうしてそういうことが起こったのか、ともかく事実そうなっていた。廊下を通して、もう少し明るいが、やはり薄暗い客間の内部を、もうろうと見通すことができた。肉屋は、大きな樫の木造りのいすにすわっている男の、黒い細ズボンをはいた、どうやらがっしりした二本の足らしく思えるものを、かなりはっきりと見わけることができたような気がした。しかし、いすの背に隠れて、その人影のほかの部分は何も見えなかった。肉屋がせっかく、注意をひこうと根気よくほねおったのに対して、この家の住み手のほうでこんな人をばかにした沈黙で答えたことが、生身《なまみ》のこの男の向かっ腹をかっとさせ、彼はもうまっぴらだと度胸を決めた。
「よし」と彼は思った。「おれがせっかくこんなにほねおってやっているのに、ピンチョン独身婆あの人でなしの兄めがあすこに腰かけたままでいる! なんだい、豚だってもっと礼儀をわきまえなけりゃ、一突きにするんだぜ! こんな連中を相手に商売するのは自分の職業を卑しくするというもんだ。こんどからは、もしあの連中が腸詰め一本でも、または一オンスの肝臓でもほしかったら、馬車の後ろから追いかけさせてやるんだ!」
彼はその一片の珍品を、さもいまいましそうに馬車の中へほうり込んで、ふきげんに馬車を走らせて行ってしまった。
それからそう長い時間はたっていなかったが、町角を折れて、この通りを近づいてくる、音楽の響きが聞こえてきた。その音が何回かひっそりととだえては、またくり返され、だんだん近く、急に活発な音曲を始めるのだった。やじうまの子供たちが、群衆の中心から起こってくるように思われる音楽といっしょに、ぞろぞろと歩きだしたり、立ち止まったりするのが見られた。それゆえ、子供たちは、やさしく響く曲調のため、みんながゆるめに縛られて、捕虜となって引かれているのであった。前掛けをつけ、麦わら帽をかぶったある小柄な男が時々、戸口や門口からはねるように飛び出しては近づいてきた。「ピンチョン楡」の木陰へ来たとき、それが例のイタリア少年で、猿とあやつり人形とを持って、前に一度、アーチ窓の下で、手回し風琴を演奏した子であることがわかった。フィービの晴れやかな顔──それから、むろん、彼女が投げてくれた気前のよい報酬は──今でも彼の記憶に残っていた。ここが、風変わりな彼の渡世のあのささいな出来事が偶然に起こった場所だったと気がつくと、表情に富む彼の顔つきが燃えるように輝いてきた。
彼は手入れしていないままの庭(今は、ぶた草やごぼうがおい茂って、前よりももっと荒れていた)へはいってきて、表玄関の上り段に陣取って、見せ物箱を開き、演奏を始めた。機械人形の社会のひとりひとりが、男や女のそれぞれの生業《なりわい》に従ってたちまち活動しだした。猿はスコットランド高地ふうの帽子を脱いで、見物人に向かってぺこぺことこびへつらいながら、おじぎして右足を後ろに引くあいさつをして、投げ銭を拾い取ろうと絶えず油断なく目を配っていた。また異国生まれの若者自身は、携えた機械の軸を回しながら、アーチ窓のほうを見上げて、自分の音楽をもっといきいきと、もっと美しくする人が今に現われるであろうと期待をかけていた。子供の群れは近くに立っていた。一部の子供は歩道の上に、一部は庭の中に立っていた。ふたりか三人、ちょうど玄関の上り段に突っ立っていて、さらにひとりは敷居の上にうずくまっていた。その間、例のせみが大きな「ピンチョン楡」の老樹の中で鳴き続けていた。
「家の中にさっぱり人声がしないね」とひとりの子供がもうひとりの子供に話しかけた。「お猿はここではなんにも拾えないね」
「だれかが中にいるよ」と敷居の所にいる小僧が断言した。「僕は足音を聞いたんだよ!」
いつまでも若いイタリア人の目は斜めに見上げたままであった。そして、かすかな、ほとんどうきうきした気分ではあるが、あたかも純真な、ほのかな感動が、かの吟遊楽人たちの、あじけない機械的な演奏に、今までよりもいっそううるおいある美しい調べが伝わったかのように、ほんとうにそう感じられた。こういう放浪者たちは、人生の路傍でふと身にふりかかる、飾り気のないどんなやさしい人情にも──たとえただ一度の微笑とか、あるいは意味が通じないただ一言にすぎなくとも、中にこもる心の暖かみだけで──容易に感応するのである。この人たちはこうした事柄を忘れない。なぜなら、こういうものは細やかな魔術であって、その瞬間――しゃぼん玉にあたりの風景が映るほんのつかの間を──自分たちの回りに家庭《ホーム》を築くからである。
それゆえ、イタリア少年は、この古屋敷が重々しく沈黙して、はつらつと響く彼の楽器の演奏をあくまで拒んでいるように思えてもけっして失望しなかった。彼はどこまでも楽しい節で訴え続けた。いつまでも上のほうを見上げて、浅黒い、異国者らしい自分の顔が、やがてフィービの晴れやかな容貌で、きっと明るくなると思い込んでいた。また彼は、もう一度クリフォードの顔を見ずに立ち去る気にはならなかった。クリフォードの繊細な感受性が、フィービの笑顔と同じように、異国人にとって、一種の心の言葉を話したのだった。彼は音楽をありったけ、何回も、くり返したので、ついに聞き手がだんだん飽きてきた。見せ物箱の木彫りの人形もそうだったし、中でも猿がいちばんあきあきした。なんの反応もなくただせみが鳴いて答えているだけであった。
「この家には子供がひとりも住んでいないよ」と、とうとう、ひとりの男の生徒が言った。「ここには独身のおばあさんと、おじいさんのほかには、だれも住んでいないんだよ。ここではなんにももらえやしないんだ! なぜ向こうのほうへ行かないんだい?」
「ばかだなあ、お前、なんでお前はあの男に告げ口するんだい?」と、音楽はちっとも好きでないが、安い値段で聞けるところが大いに気に入っている、抜け目のない、ひとりの小さいヤンキーが小声で言った。「あの男が好きなだけ鳴らさせておけよ! だれもお金を払わなくなったってこっちの知ったことじゃあないんだ!」
けれども、イタリア人はもう一度、音曲をひとわたり、ざっはとひき終わった。普通の見物人――玄関の戸のこちら側の、音楽や晴れた日ざしのほかは、少しも実情を理解できない人──には、町の音楽師の強情さはおもしろかったかもしれなかった。彼は、けっきょく成功するだろうか? 頑固に閉ざされているあの戸が急にぱっと開かれるだろうか? この家のうれしそうな子供たちの群れや、若い者たちが、踊ったり、歓声をあげたり、笑ったりしながら、表へ飛び出してきて、見せ物箱の周囲に集まり、夢中になってはしゃぎながらあやつり人形をながめ、てんでに銅貨を投げて、しっぽの長い「宮の神」のお猿に拾わせるのだろうか?
しかし、七破風屋敷の外貌についてはむろんのこと、その内部の心の秘密も知っているわれわれにとって、玄関先の上り段で軽快な流行歌曲がこのようにくり返されると、ぞっとするほどの恐ろしい効果が感じられるのである。もしもピンチョン判事(彼は、どんなに温和な気分のときも、パガニーニのひくバイオリンの音にも、全然、心ひかれることはなかったろう)が、シャツの胸を血だらけにして、玄関に立ち現われ、浅黒い、蒼白な顔で恐ろしくにらみつけながら、その外国生まれの流浪者へ、去れ、と手まねで合図するようなことがあったなら、たんと醜態なことであろうか! いったい今まで、だれひとり踊る気分になれない場所で、ジッグやワルツの舞曲がこんなふうに手回し風琴で演奏されたことがあったのか? ああ、あったとも、じつにたびたびあったのだ。このような対照、つまり、悲劇と陽気な笑いとの交錯は、偶然、毎日、時々刻々、起こっている。陰気な荒廃した、人っ気のない、そして恐ろしい「死神」が、森閑とした静寂《しじま》の中に厳然と座している古い屋敷は、多くの人々の心を象徴するものであった。人の心というものは、このような真情にもかかわらず、外を取り巻く世間の歓楽の歌声やこだまを聞くようにしいられているのである。
イタリア人の演奏が終わる前、ふたり連れの男が、昼食に行く途中、偶然通りかかった。
「おい君、フランスの若い衆!」とふたりのうちの一方が呼びかけた──「そこの上り段をどいて、どこかよそへ行ってそんなくだらぬまねをしな! そこはピンチョン家の人たちが住んでいるんだ。あの人たちは、ちょうど今ごろは、大騒ぎしている最中だ。きょうは音楽を聞く気にはならないよ。この家を持っているピンチョン判事が殺されたといって、町じゅうで噂しているんだ。町の警察署長が事件の調査に乗り出しているんだ。だからお前はさっさと行っちまえ、今すぐだ!」
イタリア人が手回し風琴を肩にかついだとき、上り段の上にある、一枚のカードを見つけた。そのカードは、配達人がほうり投げた新聞紙の下になったため、午前の間中、隠れて見えなかったのだが、今ようやく人目についたのだった。彼はそれを拾いあげたが、何事か鉛筆で書きつけてあるのを知って、その男が読むように手渡した。つまり、銅版刷りにしたピンチョン判事名入りのカードで、裏面には、彼が前の日にかたづけるつもりであった、さまざまな用件についてのいくつかの覚え書きが鉛筆で書いてあった。それはその日一日を予想した歴史の概要であった。ただ万事が計画どおりには全然運ばなかっただけであった。そのカードは、彼が最初、この家の正面玄関からはいろうとした際に、判事のチョッキのポケットからなくなったのに相違なかった。雨ですっかりぬれていたが、それでもところどころ読み取れた。
「おい、ディクシー!」とその男は大声をあげた。「これはピンチョン判事と何か関係がある。ほら!──ここに彼の名前が印刷されているよ。またこっちは、きっと、何やら彼が自分で書いたものらしいな」
「それを持って町の警察署長の所へ行こうよ!」とディクシーは言った。「それこそ署長にはもってこいの手がかりになるかもしれないよ。つまりだな」と彼は連れの男の耳にささやいた。「判事があの玄関をはいって行って、二度と出て来なかったんだと言ったって、何も不思議じゃあないね! 判事のいとことかいう男が、例の昔の手を使ったかもしれんな。それに独身者のピンチョン婆さんは一文商いで借金をしょいこんでしまったし――そして判事の財布はしこたまふくらんでいるときてるし──それにまたあの連中はもうとうから仲違《なかたが》いしているんだからな! こんな事をあれこれつなぎ合わしてみろよ、そしたらどういうことになるかってことよ!」
「しっ、静かにしろ!」と相手の男がささやいた。「そんな事を最初に口に出すやつは罰《ばち》当たりになるらしいぜ。しかしおれも、君の言うように、ふたりで町の警察署長のところへ行ったらいいと思うよ」
「そうだ、そうだ!」とディクシーは言った。「やれやれ!──あの女のしかめ面には悪魔くさい所があるって、おれがいつもいわんことじゃなかったんだ!」
男たちは、そこでくるりと向きを変えて、もと来た道を引き返して行った。イタリア人も、またアーチ窓をちらりと見上げて別れの視線を送りながら、そそくさと立ち去った。子供らはといえばいっせいに逃げ出した。しかも、まるで巨人か人食い鬼に追っかけられているかのように、一目散に飛んで逃げ、とうとう、その家からかなり離れた場所まで行って、ちょうど駆け出したときのように、急に、みないっせいに、足を止めた。子供らの鋭敏な神経が、はしなく盗み聞いた話からいいしれない恐怖を感じ取ったのだ。古い大きな邸宅の奇怪なとがった屋根や、暗い影の多い隅々をふり返ってながめながら、彼らは、どんなに明るく輝く日光でも追い払うことのできない陰鬱が、その屋敷一帯に満ち広がっているような気がしたのだ。幻のヘプジバーが、同時にいくつかの窓から、彼らをにらみつけ、人さし指をぴくぴく動かしておびやかしたのだ。幻のクリフォードが――なぜなら(もしそれと彼が知ったなら、深刻な心の痛手となったことだろうが)彼はこの小さい子供たちにとって、いつも恐怖の的だったからだ──うつろなヘプジバーの後ろに立って、色あせたパジャマ姿で、恐ろしい身ぶりをしていたのだ。子供というものは、感じる場合は、おとなよりも、恐慌狼狽《きょうこうろうばい》にいっそう感染しやすいものである。その日はもう終日、臆病なほうの子供たちは、七破風屋敷を避けようとして、そこの通りに全然寄りつかないで遠回りした。その一方、もっと大胆なほうの子供たちは、その屋敷のそばを全速力で駆け抜ける競走を仲間にいどんで、自分の豪胆ぶりを見せびらかそうとした。
イタリアの少年があいにくだった音楽といっしょに、姿を消してからまだ半時間とたっていないころであったろうが、一台の馬車がそこの通りを走ってきた。その馬車がピンチョン楡の木陰に止まった。御者が馬車の上段から、トランク、ズックのかばん、紙箱を取って、その古屋敷の上り段の上に置いた。馬車の中からは麦わらの婦人帽が、次には若いひとりの少女のかわいらしい姿が見えてきた。フィービであった! 彼女が軽やかな足どりで初めてこの物語へ登場したときほどういういしい花の姿とばかりはいえないけれども──というわけは、あれから数週間たつうちに、さまざまな経験から、今までよりもっと落ち着いた、もっと女性らしい、もっと思い深い瞳になってしまっていて、それは心の深奥さを感じはじめた印であったからである──それでもまだ持ち前の天真|爛漫《らんまん》な光が彼女の全身に静かに輝いていた。彼女はまた、自己の領分であれば、物事を空想的なふうよりは、むしろ現実的な様子を帯びさせる、固有の才能を失っていなかった。それにもかかわらずわれわれは、たといそのようなフィービにとってさえ、今のこの危機に、七破風屋敷の敷居をまたぐのは、あぶなっかしい冒険だという気がするのである。彼女の健康な霊気でも、彼女が出発したあとから、この家へどやどやとはいり込むことができた大ぜいの、青ざめた、ぞっとする恐ろしい罪深い無数の亡者どもを追い払う十分な力を持っているだろうか? それとも、彼女もまた同じように、容色衰え、病みほうけ、悲しみに打ちしおれた醜い姿と変わり果てて、階段を音もなくすべるように昇り降りし、窓辺にたたずめば、子供たちをおびえさせるもう一つの新たな蒼白な幽霊となるにすぎないのだろうか?
せめて、われわれは、少しも疑うことを知らないこの少女に、彼女を迎えようとする人間は影も形もなく、たったひとり、ピンチョン判事の姿だけであり、その彼が──われわれと終夜寝ずの番をして以来、なんという悲惨なありさまをして、思い出してもぞっとする姿をしているか!――今でも樫のいすにすわったきりでいるということを、喜んであらかじめ警告したいところなのだ。
フィービはまず店の戸をあけようとした。戸は彼女の手ではあかなかった。戸の上半分となっている窓に引いたままの白いカーテンが、何かただ事ならぬ気配のように、とっさに彼女の鋭い知覚に映った。再びここからはいろうと努力することもなく、彼女はアーチ窓の下の、大きな表玄関のほうへ行った。鍵がかけてあるとわかって、彼女はノックした。がらんとしている内部から反響が返ってきた。彼女は二度目、また三度目とくり返しノックした。そして、じっと耳をすましていると、床がきいきいときしんで、ちょうどヘプジバーが、いつものようにつまさきの忍び足で彼女を内へ入れようとやって来るかのような気がした。けれどこんなそら耳の足音がしたあとでは、まるで死のような沈黙が続いたので、彼女は、この家の外側の様子を自分ではようく見慣れたつもりでいたのだが、家をまちがえたのではなかろうかと、疑いはじめたほどだった。
彼女の注意は今度は、少し遠い所の子供の声にひきつけられた。その声は彼女の名前を呼んでいるように思えた。声がしたほうをながめると、フィービは、小さいネッド・ヒギンズが、かなり離れた向こうの通りで、足踏みしたり、頭を乱暴に横に振ったり、両方の手でとがめるようなまねをしたり、口をいっぱい広げた金切り声で彼女に叫びかけているのが目についた。
「だめだ、だめだ、フィービ」と彼は絶叫した。「中へはいらないでよう! そこには何か悪い事があるんだよ! はいらないで──はいらないで──中へはいらないでよう!」
しかし、その小さい人間は自分の趣旨をとっくり説明できる距離までどうしても近づく気持ちになれなかったので、フィービは、その子がいつか店にやって来たとき、いとこのヘプジバーを見てびっくり仰天したからだろうと結論した。その訳は、この善良な婦人の見かけは、じつのところ、子供たちの肝をつぶしてろうばいさせるか、または不作法にげらげらと高笑いさせるか、ほとんど互角の機会を招いたからであった。こんな出来事のために、なおさら彼女は、この家が全く不思議なほどしいんと静まっていて、はいりにくくなってしまった気がした。次の方法として、フィービは庭園の中にはいって行った。彼女はそこならきょうのような、こんなに暖かい晴れ渡った日には、クリフォードや、たぶん、ヘプジバーもまた、あずまやの日陰で真昼をぼんやり遊び暮らしているのが、きっと見られるかと思い込んでほとんど疑っていなかった。彼女が庭の門をはいったとたんに、鶏の一家が、半分駆けたり、半分飛んだりしながら、彼女を迎えた。一方、居間の窓下でうろうろしていた一匹ののら猫が逃げ出して、あわてて垣根を乗り越えて姿を消した。あずまやにはだれもいないし、床や、テーブル、丸い形の長いすがまだぬれたままで、小枝が散乱し、過ぎ去った暴風雨の狼藉の跡があった。庭の草木の伸びは全くけたはずれだったように思われた。雑草はフィービのるすや長雨につけ込んで、いろいろな花や野菜を圧倒してはびこっていた。モールの井戸の水は石べりを越えて氾濫して、庭の隅に、ものすごく広い溜池《ためいけ》を作っていた。
そこの光景全体の印象は、今まで何日もの間──たぶん、フィービが出立して以来──だれもその足跡を残した者はなかった場所のような感じであった──というのは、あずまやのテーブルの下に、自分のものであった横ぐしを見つけたからで、それはこの間の午後、彼女とクリフォードとがそこへすわっていたとき、落ちたのに違いなかった。
少女は、肉親であるふたりの者が、今はもうあとの祭りだったと思われるが、古い屋敷の中にこもりっきりでいるどころか、はるかに奇異な行動ができるのだということを知った。それでもやはり、何かまちがいごとでもありそうなおぼろげな疑念と、なんとも言い表わしようのない不安な気持ちで、母屋《おもや》と庭の間のいつも連絡路となっている戸口に近づいた。その戸は、彼女がはいろうとすでにやってみた二つの戸のように、内から鍵がかかっていた。それでも、彼女はノックした。するとすぐさま、あたかもその申し込みを待ち受けていたかのように、何者か姿を見せない人間が相当な力をこめて、広々とではないが、彼女がからだを斜めにしてゆるゆるはいれるぐらいに戸が引きあげられた。ヘプジバーは、からだをさらして外からじろじろ見られないように、いつもこんなふうに戸をあけていたので、フィービはどうしても、彼女を中に入れたのは自分のいとこに決まっていると思い込んでいた。
そこで、なんのためらいもなく、彼女は敷居を踏み越えた。すると中にはいったとたんに、後ろで戸がしまった。
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二十 エデンの園の花
フィービは日の照る白昼から急にはいってきたので、その古い屋敷のほとんどどの廊下にも潜んでいるような、烏羽玉《うばたま》の闇の中ですっかり目が見えなくなった。彼女は最初、だれが中へ入れてくれたのか気がつかなかった。彼女の目がまだ闇に慣れないうちに、だれかの手が彼女の手を取ってしっかりと、だがやさしく暖かい力をこめて握りしめた。こうして歓迎したために、彼女の心はなんともいえないわななくようなうれしさでこおどりしたり、どきどきしたりした。彼女は自分が客間のほうにではなくて、昔、七破風屋敷の壮麗な応接室であった、大きな、だれも使っていない部屋へ手を引かれて行ったような気がした。
日光が、カーテンを降ろしていないこの部屋全部の窓にさんさんとさし込んで、塵《ちり》の積もった床の上に落ちていた。そのためフィービは、今はもうはっきりと──暖かい手が彼女の手とぴったり触れ合ったあとでは、実際、秘密でもなんでもなくなったこと──つまり、彼女を迎え入れてくれた人は、ヘプジバーでもクリフォードでもなくて、ホールグレーヴであったということを見とどけた。微妙な、直感的な心の通い、いや、むしろ、何かしら心に伝わる、おぼろげな、はっきりしない印象が、彼女を無抵抗に、彼の衝動のなすがままにさせたのであった。彼女は、手を振り払おうとはせず、しんけんになって彼の顔をまともに見つめた。そして、とっさに不吉を予感することはなかったが、彼女が家を出てからの、この家の様子が一変してしまったことを意識しないではいられなかった。そんなわけでしきりに事情をあかしてもらいたがっていた。
芸術家は顔色がいつもより青かった。思い悩むように、きびしく額を皺寄せて、両の眉の間には、一本の深く刻んだ縦皺をはわせていた。しかし、彼の笑顔は純真な暖かみにあふれ、喜びが内にこもっていて、フィービがこれまで見かけなかったほど、飛び抜けていきいきした表情が、ホールグレーヴの胸のあたりにわだかまるどんなことも習慣的に包み隠そうとする、ニューイングランド人らしい抑制から脱け出て、輝きを放っていた。その顔は、荒涼たる森林か、または果てしなく広い砂漠の中で、たったひとり、何か恐ろしい目的をじっと考え込んでいた男が、家郷にまつわるあらゆる長閑《のどか》な思いや、静かに移り流れる日常の出来事を持ち出す、無二の親友のなつかしい顔を認めたときの、あの表情であった。それにもかかわらず、彼女の物問いたげな顔にどうしても答えなければならないと感じたとたんに、その微笑《ほほえ》みは消えうせた。
「フィービ、あなたが帰ってきたことを僕は喜ぶわけにはいきませんね」と彼は言った。「僕たちはおかしな時に顔を合わせたもんですねえ!」
「何が起こったのですか?」と彼女は大きな声で叫んだ。「家の中がなぜこんなに人の気配がしないのですか? ヘプジバーやクリフォードはどこにいらっしゃるのですか?」
「行ってしまったのです! ふたりがどこにいるのやら、僕には想像もつかないのです!」とホールグレーヴは答えた。「家の中には僕たちがいるきりなんです!」
「ヘプジバーとクリフォードが行ってしまいましたって?」とフィービは大きな声を出した。「そんなはずはありませんわ、それでなぜあなたは私を、客間でなしに、この部屋へ連れてはいったのですか? ああ、何か恐ろしい出来事があったのですね! 私は走って行って見なければなりません!」
「いや、いや、フィービ!」とホールグレーヴは、彼女を引き止めながら言った。「僕があなたにお話ししたとおりなんです。ふたりは行ってしまいました。そしてどこへ行ったのか僕にはわかりません。なるほど、恐ろしい事件は起こりました。しかし、あのふたりの身に起こったのでもなければ、また、僕は少しも疑わずに信じていますが、あのふたりが手を下して起こったものでもありません。もし僕があなたの性格を正しく理解しているとすればね、フィービ」と彼は、自分の目をじっと彼女の目にそそいだまま、きびしい不安と、やさしい愛情とが入り交じった思いで、言い続けた。「あなたはやさしいけれど、そしてお見かけしたところ、あなたの本領は平凡な物事にあるように思われますが、あなたは並々ならぬ強い力をお持ちです。あなたにはすばらしい心の均衡がありますし、また、もし試してみるなら、常軌をはるかに越える問題も、りっぱに処理してみせるだけの能力をお持ちです」
「いいえ、いいえ、私は非常に弱いのです!」と彼女は、ぶるぶる震えながら答えた。「だけど何が起きたのか、おっしゃってください!」
「あなたは強いですよ!」とホールグレーヴは言い張った。「あなたは強くはあるし、また聡明に違いありません。というのは僕はすっかり迷っているからで、それであなたの助言が必要なのです。たぶんあなたは、これぞと思われるいちばん適切な行為を教えてくださることができましょう!」
「お話しください!──お話しください!」とフィービは、全身をぶるぶる震わせながら言った。「胸が詰まりそうだわ──こわくてびくびくするわ──この秘密ったら! ほかの事ならなんでもしんぼうできるのに!」
芸術家は躊躇した。フィービから感銘を受けた、彼女の心の平衡力について、彼が今しがた、しかもきわめてしんけんに語った言葉にもかかわらず、きのうのあの恐ろしい秘密を彼女に打ち明けることは、やはりほとんど邪悪に等しいことだと思われた。それはちょうど、ぞっとする忌わしい姿の死体を、家族がまどいする炉火の前の、清潔で楽しい場所に引きずり入れるようなものであった。そこでは、回りのあらゆるものが上品なたたずまいであるだけに、ますます死体が醜い姿をさらすであろう。しかし事実を彼女に隠しておくことはできなかった。彼女はどうしても知りたいと言い張ってきかなかった。
「フィービ」と彼は言った。「あなたはこれを覚えていますか?」
彼は彼女の手に一枚の銀板写真を渡した。それは彼らふたりが、庭で、初めて顔を合わせたときに、彼女に見せた同じ写真で、写された本人の冷酷、無情な気性が著しくきわだって露出していた。
「これがヘプジバーやクリフォードとどんな関係があるのですか?」とフィービは、それどころではない場合に、ホールグレーヴがこんなに自分をからかうなんて、と腹立たしくあきれながら、尋ねた。「この人はピンチョン判事ですわ! あなたはこの前、それを私に見せてくださいましたわ!」
「しかし、こちらが同じ顔の、撮ってから半時間とたたないものなんです」と言って、写真芸術家はもう一枚の小型写真を差し出した。「僕がちょうどそれをしあげたときに、戸口にいるあなたの物音を聞きつけたのでした」
「これは死んでいますね!」とフィービはぞっと身ぶるいして、ひどくまっさおになった。「ピンチョン判事が死んでいるわ!」
「そこに写っているそのままの姿で」とホールグレーヴは言った。「彼は次の間にすわっています。判事は死んでいるし、クリフォードとヘプジバーとは姿を消してしまった! 僕はそれ以上のことは知りません。その他はすべて推測です。昨夜、ひとり住まいの僕の部屋に戻ってきたとき、客間にも、またヘプジバーの部屋にも、またクリフォードの部屋にも明かりが見えませんでした。家のあたりはことりともしなかったし、また足音一つしませんでした。けさも、同じように、まるで死んだようにひっそりしていました。ふと僕の窓から、ひとりの隣人が証言しているのが聞こえてきました。あなたのご親類ふたりが、きのうあらしの最中に、家を立ち去るところを見かけたと言っていました。ピンチョン判事のゆくえがわからないという噂もまた、僕の耳に届きました。なんとも形容できないある感情――悲劇の大詰めのような、または大願成就のような、何かもやもやした感じ──に駆り立てられて家の中のこんな場所まではいり込み、そこで僕はご覧のとおりの物を見つけたわけです。クリフォードのために役だつような一つの証拠物件として、そのうえ、僕自身にとっても貴重な一つの記念品として──というわけはね、フィービ、僕とあの男の運命とを奇妙にからませている、先祖から伝わってきたいろいろな理由があるからですよ──僕は自分でかってに、ピンチョン判事の最期をこんな絵の記録にして保存する手段を取ったのです」
フィービは興奮していたが、ホールグレーヴの沈着な態度を認めないわけにはいかなかった。彼は、なるほど、判事の死にざまが全く恐ろしいと思いつめているように見えたが、それにもかかわらず、その事実を、少しも驚きの色を交じえないばかりか、あらかじめ定めおかれた、必然的に起こる運命のものであり、ほとんど予言さえできたろうと思われるほど、うまく過去のいろいろな事件の中へぴたりとはまり込む出来事として、彼の心の中へ受け入れてしまっていた。
「なぜあなたは戸口を全部あけ放して、証人たちを呼び入れなかったのですか?」と彼女は、いたいたしくからだを震わせながら尋ねた。「私たちだけがここにいるのは恐ろしいわ!」
「しかしクリフォードのことですよ!」と芸術家はにおわせた。「クリフォードとヘプジバーのことですよ! 僕らはあの人たちふたりのためにどうすればいちばんよいかを考えなければならないのです。ふたりがゆくえをくらましてしまったとは、みじめな運命ですよ! ふたりの逃亡はとかく色に染まりやすいこの事件に、最も不利な色彩を塗り付けることでしょう。けれどもふたりを知っている人たちにとっては、じつにわけなく説明できることなのです! こんどの死にざまが、クリフォードにあれほど悲惨な結果を伴ったこの前のときの死にざまとそっくり似ているのにうろたえ騒ぎ、恐怖に駆られて、ふたりは身をもってこの場からのがれるほかにはなんの思案も浮かばなかったんですよ。なんという悲惨な不幸だろうか! もしヘプジバーが大声で悲鳴をあげてさえいたら──もしクリフォードが戸をさっと開放し、ピンチョン判事が死んだと宣告していたら――事件そのものはいくら恐ろしいものであっても、ふたりにとっては有利な結果を生む事件であったろうに。僕の見るところでは、それがクリフォードのからだに着いている黒いしみを拭い去るにはとてもききめがあったろうにねえ」
「ではいったいどうして」とフィービはきいた。「そんなほんとに恐ろしいことから何かよい結果が得られるのですか?」
「なぜかといえば」と芸術家は言った。「もしこの事件が公正に考察され、そして率直に解釈されることができるならば、ピンチョン判事が不当な最期を遂げたはずはなかったということが、明らかとなるに相違ないからです。このような死に方が、過去の代々にわたって、彼の家族の特異体質であったのです。なるほど、たびたび起こるものではありませんが、いったん起こるとなると、普通、判事ぐらいの年輩の人々で、そしてたいていは、ある精神的な危機に緊張した場合とか、あるいは、たぶん、発作的に怒り狂った際に襲うものなのです。モール老人の予言は、どうやらピンチョン一族に特有なこの体質に関する知識に基づいたものだったのでしょう。さて、きのう起こった死についての状況と、今から三十年前の、クリフォードのおじの死の模様を記録している状況とには、細かな点まで、そしてほとんどそっくりそのままの類似があります。詳しくお話しする必要はありませんが、確かに状況が手加減されており、このために、ジャフリー・ピンチョン老人が、しかもクリフォードの手にかかって、非業の死を遂げるにいたったことはありうることだ──いや、人々がこれらの加減された事柄を一見すると、いかにもありそうなことだ、むしろ、確かにそうだとさえ信じこませるようになっていたのは、ほんとうですよ」
「そういう状況はどこからやってきたのですか?」とフィービは大きな声で言った。「あの人は私たちはわかっているのですが、潔白ですのに!」
「状況があんばいされたのですよ」とホールグレーヴは言った。──「少なくとも、僕が長い間確信していたことはこうでした──あの人のおじが死んだ後、そしてその死が発表される前、あちらの客間に今すわっているあの男の手で、状況があんばいされたのです。あの男自身の死は、先年のおじの死とそっくりそのままではありますが、しかし、こうした容疑のある状況を全然伴っていないので、あの男の頭上に振りおろされた神の一撃であって、彼の邪悪に対する天罰であると同時に、クリフォードの身の潔白を明白になさる計らいのように思われます。けれどもこのような逃亡は──それは何もかも歪《ゆが》めてしまいますよ! 彼は、このすぐ近くに身を隠しているのかもしれません。判事の死亡が見つからないうちに、僕らが彼を連れ戻すことができさえしたら、災いを正しく改めることができるのにねえ」
「私たちはこの事を、このうえ一刻も隠してはなりません!」とフィービは言った。「この事を私たちの胸の中に固く閉じ込めておくのは恐ろしいことです。クリフォードは潔白です。神さまはそのことを明らかに示してくださるでしょう! 私たちは戸を残らずあけ放して、近所の人たちをみな呼んで真実を見ていただきましょう!」
「あなたのおっしゃることは正しいのです、フィービ」とホールグレーヴは返答した。「もちろんあなたのおっしゃることにまちがいはありません」
それでも芸術家は恐ろしいとは感じていなかった。ところがその恐怖こそ、フィービがこんなふうに自分と社会との間にわだかまりを感じたり、また常軌を越えた事件と接触する羽目になったりするときは、彼女のやさしくて、秩序を愛する性格には付き物の感情であった。彼はまた、彼女がするように、ありふれた生活の場へ急いで逃げ込もうとはしなかった。それどころか、熱狂的な享楽を摘み取った。──いわば、荒廃した土地に育ち、吹きしきる風の中に花開く、不思議な美の花──そのような瞬間的な幸福の花を、彼は現在の立場から摘み取ったのだ。そのことがフィービと彼自身とを世界から分け隔てた。そして、ふたりだけが知っているピンチョン判事の謎の死因、およびその死のことでどうしても打ち合わせなければならなかった相談のため、ふたりは互いにしかと結び合わされた。その秘密は、このように秘密として続くかぎり、ふたりを呪術《じゅじゅつ》の輪の中に、ざわめく人ごみのさなかの孤独の中に、絶海の孤島と同じ完全な幽境に、とどめておいた──ひとたび秘密が暴露すれば、海洋は、遠く離れ離れの岸辺に立つふたりの間を流れるであろう。こうしている間、ふたりの周囲のあらゆる事情がふたりを一つに引き寄せるように思われた。ふたりは、手に手をとって、互いにひしと寄り添いながら、薄暗い路を通り抜けて行くふたりの子供に似ていた。家中にみちみちている恐ろしい「死神」の幻影が、その硬直した手でしかとつかんでふたりを固く結び合わしたのだ。
このようないろいろの影響は、もしさもなければ、そんなに奔流しなかったかもしれないふたりの感情を急速に発展させた。事によると、ほんとうは、ふたりの感情がまだ成長しない芽ばえの間に枯らしてしまいたいというのが、ホールグレーヴの意向であったろう。
「なぜ私たちはこんなにぐずぐずしているのですか?」とフィービはきいた。「こんな秘密は私をひどくはらはらさせますわ! 戸を残らずあけ放しましょうよ!」
「僕らが生きている間、このような瞬間は二度とくるはずはありませんよ!」とホールグレーヴは言った。「ね、フィービ、この感動はすべて恐怖ばかりでしょうか?──恐怖とは別のものがありませんか? 僕が感じているように、これこそただ一つ、生きがいある人生の機微とする、歓喜をあなたは全然感じていませんか?」
「なんだかばちが当たるような気がしますわ」とフィービはおののきながら、返事した。「こんなときにうれしいと思うなんて!」
「フィービ、あなたがおいでになるまでの間、僕がどんな気持ちで過ごしたか、あなたにわかっていただきたいものですねえ!」と芸術家は大声で言った。「暗い、冷たい、みじめな気持ちで過ごしましたよ! あちらにいる死者の悪気が、どんなものにも大きなまっ黒い影を投げかけました。彼は宇宙を、私が認識できるかぎり、犯罪と、犯罪よりもいっそう恐ろしい復讐との舞台にしてしまいました。そのような意識が僕の若々しい気力を奪い取ってしまいました。僕はもう二度と青春の意気を感ずる希望は全くなくなってしまいました! 世界がうとましく、荒涼として、邪悪に、敵意を帯びて見えてきました──僕の過去の人生は、じつに孤独で索莫としたものに思えてきました。僕の未来は、僕がどうしても陰鬱な像に形作らなければならない、得体の知れない暗闇のように映ってきました! ところがね、フィービ、あなたが敷居をまたいできました。すると希望が、熱情や歓喜が、あなたといっしょにはいってきたのです! まっ暗な瞬間がたちまちこの上なく幸福な瞬間となりました。言葉を出さないで時を過ごしてはなりません。僕はあなたを愛しています!」
「どうしてあなたは、私のような単純な娘を愛することができましょうか?」とフィービは、彼のしんけんさに打たれて、どうしても話さずにはいられなくなって、きいた。「あなたはいろいろな思想をとてもたくさんお持ちです。ですが私はいくらそれに共鳴しようと努力したってむだとなりましょう。そして私は──また、私で──あなたが同じようにあまり共鳴なさらないような性向を持っています。それはどちらかといえば小さい問題です。けれども、私はあなたを幸福にしてあげられる余地を十分に持ち合わせていません」
「あなたこそ、僕の幸福を実現できるたったひとりのかたですよ!」とホールグレーヴは答えた。「あなたが僕に授けてくださる場合を除いては、僕が幸福になれる見込みは全然信じられません!」
「それから──私、心配だわ!」とフィービは、彼が彼女の胸にかきたてた疑惑の点を率直に打ち明けている間でさえ、ホールグレーヴのほうへからだを小さく縮めながら、続けて言った。「あなたは私が自分で歩いている静かな小路から私を連れ出そうとなさいましょう。あなたは、道のないところを、私が一生懸命あなたの後について行けますようになさいましょう。私はそんなふうにすることはできません。それは私の持ち前の気性でありません。私は倒れて死んでしまうでしょう!」
「ああ、フィービ!」とホールグレーヴは、ほとんどため息をつくように、同時に深い思いをこめた微笑を浮かべながら、大きな声で言った。「それは、あなたが不安な予感がするものとははるかに違ったものになりましょう。世界が前進しようとする衝動はすべて不安をいだく人々のおかげなのです。幸福な人間はどうしても昔ながらの領域に身を閉じ込めます。僕は今後は、木を植えたり、垣根を結わえたり──おそらく、時期がくれば、子供らの世代のために家をさえ建ててやったりして──要するに、法律や、社会の平和な慣習に服従するのが自分の運命であるような予感がいたします。あなたの平衡性は僕の振り子のように揺れるどんな性向よりも強いものとなりましょう」
「私はそんなふうにおっしゃっていただきたくありませんわ!」とフィービは、むきになって言った。
「あなたは僕を愛していますか?」とホールグレーヴはきいた。「もし僕たちがお互いに愛し合っているのなら、今はほかの事を考える余地はありません。ふたりでこの事をとっくり思案し、そして納得いたしましょう。フィービ、あなたは僕を愛していますか?」
「あなたは私の心を見抜いていらっしゃるわ」と彼女は、伏し目になりながら言った。「あなたは私があなたを愛しているのをご存じですわ!」
すると、不安と恐怖の念でいっぱいな、ちょうどこの時、一つの奇跡が働いた。もしこのような奇跡がないならば、どんな人間の生活も空白なものである。ありとあらゆるものを正真正銘に、美しく、かつ神聖にする無上の幸福が、この青年と処女の周囲に輝いた。彼らはどんな悲しい事も古い事も忘れてしまった。彼らはこの地上を変貌させ、それを再び「エデンの園」にして、自分たちふたりがその花園に住む最初の者となった。ふたりのすぐそばにいる、死んだ男のことは忘れられてしまった。このような危機にあたっては、死は存在しないのである。なぜなら、霊魂の永遠性が新たに啓示されて、その清浄な雰囲気の中にいっさいを包容するからである。
しかしながら、重苦しいこの世の夢はなんといちはやく再び地上に落ち着くことだろうか!
「お聞きなさい!」とフィービはささやいた。「だれかが表玄関の所にいますよ!」
「僕たちはもう世間と顔を合わせましょうよ!」とホールグレーヴは言った。「もちろん、ピンチョン判事がこの家を訪問したとか、ヘプジバーとクリフォードが逃亡したとかいう噂は、今は家宅捜索を始める段になっています。僕たちはこれを迎えないわけにはいきません。すぐ玄関をあけましょう」
しかし、驚いたことには、ふたりが道路に面した表玄関まで行き着かぬうち――先ほどからの会合が行なわれていた部屋をさえ出ないうち──ふたりはずっと離れた廊下に足音を耳にした。それゆえ、鍵がしっかりかかっているものとふたりが思っていた表玄関の戸が──その戸は、ホールグレーヴが、実際に、鍵がかかっているのを見届けたのだし、またフィービがあけてはいろうとしたができなかったのだ――外からあけられたのに相違なかった。その足音は、外来者たちが、歓迎されないことは自分でわかりきっている住宅へ職権をもって闖入《ちんにゅう》する際ならば当然だろうと思われる、荒っぽい、ずうずうしい、断固として、踏んごむような足どりではなかった。弱っているとか疲れている人たちのものらしい、弱々しい足音であった。耳を澄ましているふたりにとって聞き慣れた、二つの声が入り交じってつぶやいていた。
「そんなはずがあるかな?」とホールグレーヴはささやいた。
「あれはあの人たちだわ!」とフィービは答えた。「ああ、ありがたいわ!――ああ、ありがたいわ!」
するとその時、フィービの思わずささやいた嘆声に感応したかのような、ヘプジバーの声を、ふたりはもっとはっきり聞いた。
「ああ、ありがたい、にいさん、私たちは家に着きましたね!」
「やれやれ!――そうだよ!――ああ、ありがたい!」とクリフォードは答えた。「わびしい家だね、ヘプジバー! しかしあなたはうまく私をここまで連れて来てくれたねえ! 待ちなさい! あの客間の戸があいている。私はあのそばを通り抜けることはできない! 私はあずまやに行って休ませてもらおう。あそこは私がいつも──ああ、あんな事が私たちふたりの身にふりかかってきてからは、ずっとずっと昔のことのような気がするが、あそこは私がいつもかわいいフィービといっしょにほんとに幸福に過ごした場所なのだ!」
しかしその家は、クリフォードが想像したほど全くわびしいとばかりはいえなかった。彼らはまだ幾足も歩いていなかったのだ――実は、一つの目的をようやく果たしたもの憂《う》さで、次にはどうするかもおぼつかなくて、彼らは入口の所でまごまごしていたのだ──ちょうどそのときフィービが駆け寄って彼らを出迎えた。フィービの姿を見たとたん、ヘプジバーはわっと泣きだした。彼女は精いっぱいの力を出して、悲痛と責任の重荷を背負ってよろけながら、ついに今、どうやらその重荷を投げおろしても安全なところまで歩み続けて来たのだった。実際は、彼女はそれを投げおろすだけの精力も持っていなかった。重荷がささえきれなくなって、その重荷のために彼女は地べたへ押しつけられてしまったのだ。ふたりのうちではクリフォードのほうが気丈な様子であった。
「私たちのかわいいフィービ!──ああ! それにホールグレーヴもいっしょだね」と彼はちらりと、鋭い、敏感に見抜くような視線を走らせ、美しい、思いやりのある――しかしやるせなげな微笑を浮かべながら、叫んだ。「私たちが町の通りを歩いて来ながら、そして『アリスの花束』が今を盛りと咲き誇っているのを見たとき、私はあなたがたふたりのことを思ったのだ。そのように『エデンの園』の花もまた、この古い、陰鬱な屋敷の中に、きょう、咲いたのだね」
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二十一 門出
判事ジャフリー・ピンチョン閣下のような社交界きっての高名の人士の突然の死は、世間に二週間たってもまだ完全には静まりきらないほど大きな騒ぎ(少なくとも、故人といっそう親密な関係の側近者にあっては)を巻き起こした。
しかし、ある人の伝記となっているすべての事件のうち、その人の死に対してほど、世間がいたってあっさりと仲直りする事件はほとんどない──いや確かに、死と同じくらい重大な事件は何ひとつない──ということは注目してよいであろう。たいていの他の事件や思いがけない事故の場合は、その人は、毎日毎日くり返される雑事と混じって、われわれの間に姿を現わし、そして観察するためのあるはっきりした視点を与えてくれる。彼が死ぬときは、ただ空虚さと、ほんの瞬間的な渦巻き──がぶりと飲み込まれてしまった物体のさも偉大そうな見かけに比べるなら、まことに小さい渦──と、まっ黒な深淵からわき上がって、水面で破れる一つか二つの水泡《みなわ》だけである。ピンチョン判事については、ちらと見ただけで、彼の死の旅出の模様が、有名人の霊にふつう付きまとう追慕よりもっと大きく、そしてもっと長い間の、死後の人気をもたらすことはいかにもありそうに思われた。しかし、その筋の最高の権威者によって、その事件は自然死であり、そして──軽い異常体質を示す、二、三の取るに足らない細かな点を除けば――けっして異常な死に方ではないことが理解されるようになると、世間は例のようにさっさと、彼がこれまで世に生きていたことさえ忘れはじめた。要するに、判事閣下は、地方新聞紙がその紙上に哀悼の意を表し、彼を弔うきわめて美文調の死亡記事を載せる暇もなく、古くさい題目になりかかっていた。
しかし、このすぐれた人材が生前によく出入りしたあらゆる場所を通って、暗く地をはって、ないしょ話がこっそりと流されていた。その話は、町角あたりで大声で話そうものなら、どんなに寸分のすきのない身だしなみの人々をもびっくりさせたろうと思われるものだった。人間の死という事実が、故人が生きていっしょに活動している間に人々が得た、故人の品性に関する意見よりも、よかれあしかれ、いかにいっそう真実な見解を人々にたびたび与えるように見えるかは、じつに不思議なものである。死はきわめて真正の事実であるゆえに、死は虚偽を退け、あるいは虚偽のむなしさを暴露する。それは金を立証し、卑金属をはずかしめる試金石である。もし死者が、それがだれであろうと、死んで一週間たって舞い戻ることができるとしたら、世間の評価のはかりにかけると、生前に占めていた目盛りよりあるいは高く、あるいは低く自分が位置しているのに気づくことはほとんどまちがいないであろう。しかし、われわれがいま暗示している物語、いや醜聞は、今から三、四十年前の死んだピンチョン判事のおじ殺し、と噂された事件とちょうど同じころの古い事柄に関してであった。ピンチョン判事自身のこのたびの、しかも惜しまれる死去についての医師の意見は、前回のおじの事件で、殺人罪が行なわれたという考えをほとんど完全に取り除いてしまった。それでも、記録が示すところでは、ジャフリー・ピンチョン老人が死ぬまぎわか、またはその前後に、何者かが老人の私室に立ち入った形跡を、議論の余地なくさし示す状況があった。寝室のすぐ隣の部屋の、老人の机や私用の箪笥《たんす》が、ひっかき回されていた。金銭や金めの品物が紛失していた。老人が着ていたリンネルのシャツに血まみれの手の型がついていた。そして、強引に溶接された一連の推定証拠の鎖のために、強盗と外見上の殺人事件の犯罪は、当時「七破風の屋敷」に自分のおじと同居していたクリフォードに負わされたのであった。
どこから起こったともなく、今、新たな一説が起こってきた。その説は、クリフォードのしわざであったという考えを放逐しようとして、そのためにこれらの状況を説き明かそうと企てたものであった。多くの人々は、長い間、じつに不可解であった事実の由来や説明が、あの銀板写真家によって、催眠術師の予言者たちのひとりから得られたのだと断言した。この予言者たちは、今日、両眼を閉じたままで物を見抜く奇跡を行なって、さまざまな人事の様相を、はなはだ異様に当惑させたり、またどんな人の生まれつきの視力をも恥じ入らせるのである。
この説明によると、われわれの物語では模範的人物として描かれたのであったが、ピンチョン判事は、青年時代、明らかに度しがたいやくざ者であった。よくある例だが、野卑な、動物的本能がいち早く発達していたのであって、音に聞こえた彼の知的才能や剛毅な性格は、おくれて発達したものであった。彼は乱暴で、不品行で、卑しい快楽に惑溺《わくでき》して、性質が悪党根性と少しも変わらず、金づかいがむやみと荒く、おじの施しにあずかるほかには、金づるとてなかった。こうした行状の成り行きが、かつては彼に熱心にそそいでいたその独身老人の愛情をうとくしたのであった。いま断言されていることだが――といって、法廷で有効か否か、その筋に確かめてみたのだ、などといつわるつもりはない――その青年は、ある晩、悪魔にそそのかされて、おじの私用の箪笥を捜そうとした。そしてだれからも怪しまれない方法で、それに近づくことができたというのであった。こうして罪を犯しているとき、寝室の戸があいたので彼はびっくりした。ジャフリー・ピンチョン老人が寝巻き姿で立っていたのだ! このような犯罪を不意に見つけた驚き、興奮、狼狽、恐怖が、その独身老人の遺伝的にかかりやすい、危険な病状の発作を招いたのだ――血で息が止まったらしく、床に倒れて、こめかみを机の角にひどく打ちつけた。どうしたらよいのだろうか? 老人は確かに死んだのだ! 救助はとてもまにあわぬだろう! もしほんとうに、救助の来るのが早すぎでもしたら、彼の意識が回復して、現行犯を見つけてしまった自分のおいの破廉恥罪を思い出すからには、なんという不幸なことになるであろう!
しかし彼はけっして蘇生《そせい》しなかった。この青年には常に付きものの冷静な大胆不敵さで、箪笥を捜し続けた。そして最近の日付けの、クリフォードに有利な遺言状と──それを彼は破棄した――それより古い、彼自身に有利な、もう一通の遺言状を見つけて、このほうを彼はそのまま残しておいた。しかし、立ち去る前にジャフリーは、かき回した箪笥の中が、何者かが忌まわしい目的をいだいて部屋にはいってきたという証拠になることを思いついた。容疑は、もし他へそらさなかったら、実際の下手人に向けられるかもしれなかった。それゆえ、彼はじつに死者を目の前にして、自分の競争相手であり、その性格を軽蔑したり、憎悪したりしているクリフォードを犠牲にして、自分はのがれようとする計画を巡らした。彼がクリフォードを殺人犯の罪科に陥れてやろうとする、何か計画的な意図をもって行動したということは、まあ、ありそうもないといってよかろう。自分のおじが凶行によって死んだのではないことを知っており、あわただしい危急に際して、このような推理を働かすことは彼の頭に思い浮かばなかったかもしれない。しかし事件がこのようにだんだん陰険な様相を帯びてくると、ジャフリーの乗りかかった手段は、もはや残るすべての手段まで彼に誓わせていた。じつに狡猾《こうかつ》にも状況にあれこれ手を加えた結果、クリフォードの裁判のとき、いとこの彼は、虚偽を証言する必要はほとんどなく、ただ、彼が自分で手を下した行為や、自分の目で確かめた事実の申し立てを差し控えることによって、ただ一つの決定的な説明を与えないことだけが肝心と思ったのであった。
このように、クリフォードにかかわる、ジャフリー・ピンチョンの精神的犯罪は、まさに陰険であり、のろうべきものであった。ところが、その犯罪の単なる外見と確定的な犯行事実とを、それほど重大な犯罪と一致させることは最も不可能なことであった。この手口こそとりも直さず高名貴顕の人が最も手軽に処理することを心得ている犯罪のたぐいである。その罪は、ピンチョン判事閣下がその後、自己の生涯を長年展望している間に、しだいに視野から消えうせたり、あるいはなんでもない微罪とされてしまった。彼はずる賢くもそれを、忘れられそして許されるかずかずの若気のあやちまの中へ押しやって、めったに、あらためて考えてみようとはしなかった。
われわれは判事が安らかに眠るままに捨てておく。彼は臨終のとき、幸福であったとは言えなかった。彼はひとり息子に譲る財産をいや増しにふやそうとしているうち、知らぬまに、子のない男になっていた。彼が死んで一週間たつかたたぬかに、一隻のキュナード会社の汽船が消息を持ってきた。ピンチョン判事の子息は、故国に向かってまさに乗船しようとするまぎわに、コレラにかかって死亡したというのであった。この不幸のおかげでクリフォードは金持ちになった。ヘプジバーも同じように金持ちになった。われわれのかわいらしい村おとめも、それから彼女を通して、かの財産やありとあらゆる保存物の不倶戴天のあだ──奔放な改革者──ホールグレーヴもまた同じように金持ちになった!
クリフォードの生涯は、今はあまりにも年老いてしまって、社会の正しい世論でも、わずらわしく苦痛でさえある正式の名誉や権利の回復にはもはや値しなくなっていた。彼が必要としたのはごく少数の人々の愛情であって、見も知らぬ大ぜいの人々の賞賛でもなければ、また尊敬でさえもなかった。もしも彼の幸福を保護する任務をになっている人たちが、過去の思いをいたいたしくも復活させて、クリフォードをこれにさらすのが得策であると考えたとしたら、きっとこのような賞賛や尊敬を彼のためにかちとることができたであろう。けれども、いやしくも彼が望むようなどんな安楽な境地も、平和な忘却にこそあったのである。彼があれほど不法な虐待をこうむった今となっては補償の道はないのである。笑止千万な補償のまねごとなら、世間は喜んでおいそれと提供したかもしれないが、ありとあらゆるいくとせの苦悶の限りを尽くしたあとでやってきたのでは、哀れなクリフォードができるかぎりの、最も辛辣な冷笑を招くぐらいのものであったろう。
われわれ人間の世界では、自分が行なったものであれ、あるいはしんぼうしたものであれ、どんな大きな過失でも、事実の上ではけっして訂正されないものだということは真理(そして、もしもその真理がいっそう次元の高い希望を暗示するものでなかったら、それはじつに悲しい真理となるであろう)である。時、絶え間ない境遇の浮き沈み、決まって時機を得ない死、が訂正を不可能にする。たとえ長い年月がたったあとで、正義がわれわれの自由になるように思えても、それを安置する壁龕《へきがん》が見つからないのである。もっとましな救いの方法は受難者がさっさと通過して、昔取り返しのつかぬ身の破滅と考えたものを、はるか後方にそのまま置き捨てることである。
ピンチョン判事の死が与えた衝撃は、クリフォードを絶えず活気づける、そしてつまりは彼に有益な影響をもたらした。あのたくましい肥大の男が、クリフォードの夢魔であったのだ。あれほど悪意をもってはぶりをきかすところでは、とても自由に息がつけなかった。自由となった最初の効果は、われわれがクリフォードのあてどない脱走ではっきり認めたように、わななくような陽気な興奮であった。その興奮からさめても、彼は以前のような知能の無感動に陥ることはなかった。彼は、なるほど、当然彼のものとなったろうと想像される才能を、ほとんど完全に身に着けたわけではけっしてなかった。しかし彼は、いくらか彼の性格を明るくし、その中に発育不全なままでいた驚くべき麗質の輪郭をかなり発揮し、そして自己を、今までと同じくらいに深い、しかし今までほどは憂鬱でない、関心の対象とするのに十分な才能を回復した。彼が幸福なことは全く明らかであった。もしわれわれがちょっとひと息入れて、今では、あらゆる設備を思うままに使用して、「美しいもの」を求める本能を満足させている、彼の日常生活をもう一度描くことができるなら、彼には非常に楽しく思われた庭園の情景も、比べてみれば、みすぼらしく、またつまらなく見えるであろう。
人々の運命に変化が起こってからすぐあとで、クリフォードとヘプジバーとフィービ嬢とは、芸術家の賛成も得て、陰気で古い「七破風の屋敷」から引っ越すことに決め、そして当分の間、故ピンチョン判事のいなかの優雅な邸宅を住まいとすることにした。雄鶏チャンティクリアとその一家はもうそこに移されていた。そこでは二羽の雌鶏が、過去一世紀の間受けていなかった手厚い保護の下に、義務と良心の問題として、自分たち有名品種を存続させようとする明白な計画を立ててただちに根気強く産卵の手順に取りかかった。皆が出発と決められたその日、この物語の主要な人物が、好々爺《こうこうや》のアンクル・ヴェンナーも含めて、客間に集まった。
「設計に関するかぎり、あのいなかの邸宅は確かに非常にりっぱなものです」とホールグレーヴは一同がこれからの予定を論じ合っていたときに言った。「しかし僕はね、なくなった判事が非常な金持ちであるし、そして自分の子孫に財産を譲ろうとするもっともな考えでいたのだから──あれだけ優秀な一個の住宅建築物を、木でよりはむしろ石で実現するほうが妥当であると――感じなかったのだろうか、僕はおかしいと思うんですよ。そうすれば、家族の者は代ごとに、それぞれ自分の趣味や便宜に合わせて内部を改造できたでしょうに。一方、外部は、年月がたつうちに、建築本来の美しさに古さびた風格がだんだん加わってくるし、こうして、僕がどんなつかの間の短い幸福にもなくてはならぬものと考える、あの永久性の印象を与えていたかもしれなかったのにね」
「おやまあ」とフィービは叫んで、芸術家の顔をほとほとあきれ果てたようにじっと見つめた。「なんとあなたのお考えの驚くほど変わったことでしょう! 石造りの家ですって、まあ! 人間は、何か小鳥の巣のような、こわれやすくてまにあわせな物の中に住めばよいのにとおっしゃったのはたった二、三週間前ですのに!」
「ああ、フィービ、僕は、家が将来どうなっていくか、あなたに話しましたね!」と芸術家は、半ば憂鬱そうな笑い方をしながら、言った。「あなたはもう僕が保守的な人間であるとお認めですね! 僕が保守的な人間になるなんて思いもよりませんでした。このことは特に、先祖代々非常な不幸が続くこの住宅では、また、あちらのあの模範的な保守主義者の肖像からにらまれているのでは、許されないことです。あの男は、じつにその保守的な性格から、長年の間、自分が一族の邪悪な因果になっていたのですよ」
「あの画像だ!」とクリフォードは言って、その肖像のきびしい視線を避けるように見えた。「私はあの絵を見るたびに、昔の夢のような思い出が私に付きまとうのだが、ほんのすれすれのところでしっかと心につかめずにいるのだ。財産だ、と言って聞かせるらしいのだ!──数えきれない財産だ! 想像も及ばぬ財産だ!――私が子供のころか、あるいは青年だったころ、あの肖像が口をきいて、私に金持ちの秘密を話したとか、または隠匿した財産の文書を持って、手を前へ差し出したとか、なんとなくそんなふうに思えたのだ。しかし、今では、こんな昔の事柄は、私には全くぼんやりしているのだ! こういう夢はいったいなんだったのだろうか?」
「おそらく僕はその夢を呼び返すことができますよ」とホールグレーヴが答えた。「ごらんなさい! この秘密を知らないなら九分九厘までは、だれもこのばねにさわろうとはしませんよ」
「秘密のばねだって!」とクリフォードは、大声で言った。「ああ、今思い出したよ! 私はその秘密のばねを見つけたんだ。ある夏の午後、遠い遠い昔、家のあたりをぶらぶらしたり、夢想したりしていたときだったよ。しかしその秘密は思い出せない」
芸術家は、自分が言い出したそのばね仕掛けを指で押した。昔なら、ばねの働きでおそらく絵を前方へ飛び出させたところだったろう。しかし、長年の間隠されていたために、機械がすっかりさびついて腐食していた。そのためホールグレーヴが押したとたん、肖像は、額縁もろとも、急に元の位置からころげ落ち、顔を下にして床に横たわった。壁の中の隠し穴がこうして明るみにさらされたが、その中に、ある品物が一世紀間の塵《ちり》を厚くかぶってあったので、それがすぐ折りたたまれた一枚の羊皮紙であるとは見分けられなかった。ホールグレーヴがそれを開いて、一枚の古い証書を見せたが、それには数名のインディアン酋長が絵文字で署名してあって、イーストウォードの広大な面積の領土を、永久に、ピンチョン大佐とその代々の相続人へ譲渡するという証文であった。
「これこそ、例の羊皮紙の証書で、これを取り戻そうとしたために、美しいアリス・ピンチョンの幸福と生命とが犠牲にされてしまったのですよ」と芸術家は、自分が書いた伝説をそれとなくほのめかして言った。「それは非常な価値があったのですが、ピンチョン家の人たちが捜し求めてもだめだったものです。今ごろその宝物が見つかったのだから、久しい間なんの価値もなかったわけです」
「かわいそうないとこのジャフリー! これこそあの人をだましたものですよ」とヘプジバーは大声をあげて言った。「あの人たちがふたりとも若かったころ、クリフォードが、きっと、この宝物を発見したというようなおとぎ話でもしたのでしょう。彼は始終あちらこちら家のあたりで夢想しては、暗い隅々を美しい物語で明るく輝かしていましたよ。それで、何もかも現実であるかのように捕えるジャフリーは、かわいそうに、私の兄がおじの財産を見つけたものと思い込んだのですよ。彼はこんな思い違いをしたままで死んだのです!」
「でも」とフィービは、ホールグレーヴひとりに向かって、言った。「あなたはどういうわけでその秘密を知るようになったのですか?」
「僕の最もいとしいフィービ」とホールグレーヴは言った。「モールの名前を騙《かた》るなら、あなたはどうお気に召すでしょうか? その秘密について言えば、それは祖先から僕に伝わってきた、たった一つの遺産なのです。あなたにはもっと早く(あなたがびっくりして逃げはしないかと心配さえしなかったら)お話ししておかなければならなかったことですが、不当な行為と報復のこの長い戯曲の中で、僕は魔法使いの老人役を演じており、そしてたぶん、本もののあの老人にも劣らぬ魔法使いでありましょう。死刑になったマシュー・モールの息子は、この屋敷を建築中、すきを見てあの隠し穴を造り、ピンチョン家の莫大な土地請求権を左右するインディアンの証書を隠匿したのです。こんなふうにピンチョン家の人々は、東部の領地をモールの宅地と交換したのです」
「すると今は」とヴェンナー爺は言った。「ピンチョン家の土地請求権を全部合わせても、向こうのわたしの農場の、ひとりの持ち分だけの値うちもないと思いますねえ!」
「ヴェンナー爺や」とフィービは大きな声で言って、そのつぎはぎだらけの哲学者の手を取った。「あなたはもうけっして農場の話をしてはいけません! あなたが生きているかぎり、あそこへはあなたを行かせません! 新しい私たちの庭には一軒の小屋がありますのよ──あなたがこれまで見たこともないほどきれいな、少し黄色っぽい茶色の家ですよ。そしてとてもすてきな見かけの住まいですのよ。だってまるでしょうが入りビスケットで出来ているように見えるのですからね──そして私たちはわざわざあなたのために、部屋へ家具を用意したり取りつけたりするところですの。あなたの好きかってなことしか何もさせませんし、全く気楽にさしてあげますよ。そしていとこのクリフォードを、あなたの口から始終漏れる、知恵のある愉快な言葉で快活にしていてくださればよいのですわ!」
「ああ! かわいい娘さん」と好々爺のアンクル・ヴェンナーは、すっかり参ってしまって言った。「もしあなたが老人を相手に話しているように、若い青年相手に話すんだったら、男が負けん気でもう一分がんばる見込みも、わたしのチョッキについている一つのボタンほどにくだらなくなるでしょうよ! そして──これはしたり、あなたがわたしに吐き出させた、あの大きなため息が、残りのやつまでみんな吹き飛ばしてしまいましたよ! しかし気にかけないでくださいよ! あれは今までついた中でもいちばん楽しいため息でしたよ。あのため息をつくからには、天国の空気をがっぷり吸い込んだに相違ないという気がしますよ。やれ、やれ、フィービお嬢さん! 町の衆はこの辺の庭や、勝手口のあたりにわたしがいないのを寂しがるでしょう。そしてピンチョン通りは、アンクル・ヴェンナー爺がいなければ様子が違ってきはしないかと、気がかりですね。わたしはそこの通りを、片側の草刈り場、反対側の七破風屋敷の庭と、いっしょにして覚えていますがね。しかし、わたしがあなたがたのいなかの邸宅へ行かなけりゃならないか、それともあなたがたがわたしの農場へ来なけりゃならないか──そいつは確かに二つのうちの一つですな。どちらを選ぶか、あなたがたにおまかせいたしましょうよ!」
「おお、ぜひとも、私たちといっしょに来なさい、ヴェンナー爺や!」とクリフォードは言った。彼はその老人の老熟しきった、穏やかな、そして枯淡な精神を非常に楽しく味わったのだ。「あんたは私が掛けているいすから、歩いて五分とかからぬあたりにいつもいてもらいたいものだね。あんたは私が知るかぎりたったひとりの、知恵の底までただの一滴も苦い成分を含んでいない哲学者だよ!」
「おやおや!」とヴェンナー爺は叫んで、自分がどんな人間なのか、いくらか悟りはじめてきた。「それでもわたしが若かったころは、人々はいつもわたしをばか者たちの仲間と決めてかかっていましたよ! しかしわたしは、自分がロックスベリー赤りんごに似てると思いますね――品がぐっと上等であれば、それだけわたしも長持ちできるんですよ。そうなんですよ。あなたやフィービが言ってくださった、わたしの知恵の言葉は、黄金色のたんぽぽの花みたいなもんですよ。その花は暑い月にはけっして大きく伸びないが、しおれた草に混じったり、干からびた葉っぱの下に、時には十二月ごろのおそくまで、光り輝いているのが見られますよ。それでお友だちの皆さん、もし二倍もたくさんありましたら、わたしのたんぽぽの花のごちそうをどうぞ自由におあがりください!」
その時、一台のじみではあるがみごとな、濃緑色の四輪馬車が、古い大きな屋敷のこわれかかった玄関の正面にぴたりと止まった。一同がぞろぞろと出てきて、そして(数日たって後を追うことになっていた、好々爺のアンクル・ヴェンナーだけは別として)それぞれの席にすわりはじめた。みんな非常に愉快そうにいっしょにおしゃべりしたり、笑ったりしていた。そして──われわれが当然神経が高ぶって胸が鼓動をうつはずのときに、たびたび起こる例だとわかっているが──クリフォードとヘプジバーとは、ふたりがお茶時にそこへ戻ってくる予定になっているかのような感動しか持たずに、ふたりの先祖の住まいに最後の別れを告げた。数人の子供らが、四輪馬車や二頭の葦毛《あしげ》の馬のような、めったにない見ものにひかれてそこへ近寄ってきた。ネッド・ヒギンズ少年が中に混じっているのに気がついて、ヘプジバーは片手をポケットの中へ入れ、そして彼女の最初の、また最も忠実なお客であった、その小僧に銀貨を差し出したが、その額は、ドムダニエルの洞窟〔バビロン付近の幽霊のほら穴〕のような彼のおなかへ、まるでノアの箱舟に移されたほどのいろいろな種類の四足獣を、ぞろぞろと乗り入れさせるのに十分であった。
ちょうど四輪馬車が走り去ったとき、ふたりの男が通りかかった。
「やれやれ、ディクシー」と、ふたりのうちのひとりが言った。「君は、このことをどう思うかい? おれの女房は一文店を三か月やって、しかも物入りのため五ドルの損ときていやがる。独身者のピンチョン婆さんもちょうど似たり寄ったりの間、商売していたんだ。それで数十万ドル──婆さんのも、クリフォードのも、フィービの分も合わせての計算だが――また、その二倍だと言ってる者もあるんだぜ――そんな大金《おおがね》を持って、自家用四輪馬車に乗って行っちまうんだよ! もし君がそいつを運がいいと言いたいんなら、そりゃそれで全く文句はないさ。だが待てよ、われわれがそいつを神さまのご意志としていただかなけりゃならないんなら、そいつあ、おれは必ずしもご意志のほどは測りかねるなあ!」
「なかなかうまい話だなあ!」と、りこう者のディクシーは言った。「なかなかうまい話だなあ!」
モールの井戸は、こうしている間も、寂しく取り残されていたが、絶え間なく変幻きわまりない紋様を描いて水を噴出していた。その万華鏡の絵の中に、天分を備えた人の目なら、ヘプジバーやクリフォードや、伝説の魔法使いの末孫や、またその彼が魔法の「恋」のくも糸で織りからめてしまった村おとめ、などの人たちの未来の運命が予兆されているのが見えたかもしれなかった。そのうえ「ピンチョン楡」は、十一月の強風が吹き残した葉群《はむら》で、意味のわからぬ予言をささやいた。そして聡明なヴェンナー爺は、こわれかかった玄関をゆっくり通り抜けながら、一曲の音楽を耳にしたような気がした。そしてあの麗人アリス・ピンチョンが──彼女の血縁の人々の、こうしたいろいろの行ないや、過ぎ去ったこの悲しみや現在のこの幸福をまのあたりに見届けてから──「七破風の屋敷」から天へ向かって漂々と飛びながら、別れを告げる精霊の歓喜の一曲を彼女のハープシコードでかき鳴らしたのだと思った。 (完)
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著者はしがき
作家が自分の作品を「ロマンス」(空想小説)と呼ぶとき、その作品の様式、素材の両方について、ある程度、作家が自由に裁量する権利を主張したいのはいうまでもないことであって、もしその作家が、「ノヴェル」(写実小説)を書いているのだ、と公言したのであったら、そのような自由をかってにする資格があるとは思わなかったであろう。後者「ノヴェル」の創作形式は、人間が経験するかもしれない、可能な生涯に対してのみならず、たぶん経験しそうな、ありふれた生涯に対しても、きわめて微細に忠実を旨とすべきであると考えられる。前者「ロマンス」は──それが、芸術作品として、法則に厳密に従わなければならないと同時に、またそれが、人間感情の真理からはずれている限り、許しがたい罪を犯すものであるが──作家が、大幅に、自分でかってに選び、またはかってに創造した環境に支配される、感情の真理を描く正当な権利を持つものである。作家はまた、もし適当と思うなら、絵の明るさを強く出したり、あるいは柔らかに美しくしたり、また陰影を深く豊かにするなど、作家自身の気分的媒質をあしらってもよいのである。作家は、もちろん、ここに述べた特権をきわめて節制して用い、そして、特に「驚異ごと」は、料理の実質的な内容の一部として世間の前へ差し出すよりは、ほんのりと、微妙な、はかなく消える風味として和《あ》える方が賢明であろう。しかし、たとえ作家がこのような用心を怠るにしても、文学上の罪を犯しているということはできない。
この作品で、著者がみずから意図したことは――といって、幸いにどれだけ成功しているかは、作者が判断すべきでない──作家としての特権の領域に踏みとどまって逸脱しないことであった。この物語が「ロマンス」の定義を受けるという考え方は、行ってしまった過去の時と、今まさに飛び去りゆく現在とを、結び合わそうと試みている点にある。これは一つの伝説であって、今ははるか遠い灰色の時代から、われわれの白昼の時まで、延々と続いており、そしてそれには伝説らしい模糊《もこ》とした霧をいくらか伴っている。読者はその霧を好きなように、あるいは無視しようと、あるいは絵画的な効果のため、人物や事件のまわりにほとんど気づかれぬぐらいに浮かび漂わせようと、どちらでもよい。この物語は、おそらく、そんな便宜を必要とするほど、また同時に、物語の芸術的仕上げをそれだけいっそう困難にするほど、地味な生地で綴り合わされている。
多くの作家は、ある一定の倫理的意図に非常な重点を置き、それが自分たちの作品の目ざす目標であると公言する。特にこの点に欠けることのないように、著者は自分で一つの倫理を用意した。──すなわち、ある世代の犯した悪業が親から子へと代々生きのび、そして、一時の仮の利点を一つ残らず脱ぎ捨てて、本物の、全く手に負えない災禍となり果てるという真理である。──それで、もしこの「ロマンス」が、不正手段で得た金貨や、不動産は、大なだれをうって不幸な子孫たちの頭上に転落し、そのために人々をあるいは不具にし、あるいはおしつぶし、ついには山なす蓄財も元の原子となって、八方みじんに散らばってしまう愚かしさを、世の人々に──いや、実際、ただのひとりにでも、──十分に確信させることができるなら、著者は格別満足に思うだろう。しかし、著者は、正直のところ、たとえいささかなりとこのようなことを期待して、ひとり悦に入るほど想像力が豊かではない。「ロマンス」が真に何事かを教え、あるいは何か有効な作用を生む場合、それは普通、表面的な過程を経るよりは、むしろ、はるかにいっそう隠微な過程を経るものである。著者は、それゆえ、この物語を、まるで鉄の串で刺すように──いや、むしろ、胡蝶をピンで刺しとめるように──倫理でもって容赦なく刺し通し、こうして物語から生命を奪い取り、同時にそれを見苦しい不自然な姿のまま硬直させておくのは、無益のことと考えたのである。
崇高な真理は、なるほど、公正に、美しく、そして巧妙に、苦心の末達成されれば、一段一段輝きを増し、かくて小説最後の展開に有終の美を冠し、芸術的栄光を添えるかもしれない。しかしその真理が、最初のページよりも最後のページにきて、少しでも、いっそう真実になるということはけっしてないし、またいっそう明白になるということもないといってよい。
読者はたぶん、この物語の想像上の出来事に、ある実在の場所を当てはめたがるかもしれない。たとえ、歴史的事実との関連──それは、ごくわずかではあったが、著者の計画になくてはならないものであった──を許されていたにしても、著者はみずから進んで、この種のことは何ひとつ避けていたろう。他のいろいろな苦情はさておいて、この史実的関連は、著者の空想的映像を、ほとんど、いやおうなしに現在の事実と接触させるため、「ロマンス」を融通性のないきわめて危険なたぐいの批評にさらすのである。しかしながら、土地の風習を描くのは少しも著者の意図でないし、また著者が特別の敬意と生来の関心とをいだいている、土地の社会の特色に干渉するつもりも全くない。著者は、何びとの私有権をも侵害しない街路を設定し、ひとりの所有者も実在しない一画の敷地を専有し、かつ、空中楼閣を築くために長年使いなれた材料で、一戸の家を建築したために、許しがたい罪科を犯したと、考えられることはないと信ずる。この話の登場人物は──この人々は先祖重代の、れっきとした名門の出であると名のってはいるものの――実は著者がかってに作ったものか、または、何にしても、自分で混ぜ合わせた人間である。この人々の美点が、なんら光彩を放つはずはなく、またその欠点が、みずからそこの住民であると公言している古くゆかしいその町の、露ほどにも、不名誉となってはね返るはずもないのである。それゆえ、もし──特に著者が言及している地域では──この本が、エセックス郡の実際のどの土地よりも、はるかに多く頭上の雲と関係している一編の「ロマンス」として、厳密に読まれるならば、著者は満足するであろう。
一八五一年一月二七日
レノックスにて
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解説
人と作品
背たけ五フィート十インチ半、肩幅広い。だが軽快で運動型、体重百五十ポンドを越えない、手足の形美しく、頸《くび》と咽喉《のど》もとのつくりは古代彫刻に劣らぬみごとさ。長く波のようにうねる髪は色、黒に近い。頭部は大きく雄大に発達し、眉|黒々《くろぐろ》と濃く、優美にアーチを描き、眉下が広い。鼻すじ通り、顎《あご》先きはローマ型。顎ひげをたくわえたことなく、口ひげは五十五歳で初めて生やした。目は大きく、濃い青色、きらきら輝き、多彩な表清に富む。………まだ大学生だったころ、森林の小路でふいに彼と出会った、あるジプシーの老婆が、じっと彼を見つめて、「あなたは人間でしょうか、天使でしょうか」と尋ねた。
ナサニエルと同じく文学者であった長子ジュリアンの語るこのような父の風貌は、たとえ多少の美化があるにせよ、われわれが知る限りの肖像と相まって、眉目秀麗な彼の容姿を思い浮かべざるを得ないであろう。特に注意を惹くのは、続いてジュリアンが、「彼は疲れを知らぬ散歩家であり、大の肉体活動の人であった。四十歳になるまで、その場跳びで、五フィートの高さを飛び越すことができた」と言っている点である。「ホーソンの文才はアメリカが生んだ第一級の、最も精緻なものだ。エマスンのよりもはるかに精緻なものだ」とはマシュー・アーノルドの評であるが、孤独と瞑想を愛するこの文学者は、また明らかにスポーツマン型でもあった。
ナサニエル・ホーソンは一八〇四年七月四日、マサチューセッツ州セイレムに生れた。この町は一六三〇年六月、ジヨン・ウインスロップが清教徒七、八百名を率いて上陸、植民した由緒深い港町。彼の祖先もこれと前後して移ってきた。父は同じ名で船長であった。母は近くの鍛冶屋の娘、エリザベス・クラーク・マニング。やはり祖先は一六八九年イギリスから移民した古い家柄。そして彼は姉一人妹一人にはさまれたひとり息子であった。
ホーソンが四歳の時、父は南米北岸のスリナムで黄熱病のため死んだ。母へ残した遺産わずかに二九六ドル。やむなく母は子供たちを連れ、実家マニング家へ帰った。九歳の時ボール遊びで足を怪我して学校を休み、半ば病人のように三年ほど暮らした。十二歳の夏、伯父ロバートの所有地、メーン州のレイモンドに母と子供たちが移り住んだ。深い森に囲まれたセバゴ湖畔であった。病いの間、自然に読書の味を覚えた少年は、思索的な性質と文学書から得る空想を欲しいままにしながら、幸福と歓喜に溢れた多感な少年の日の三年をここに送った。この時代に読んだ本はバンヤンの「天路歴程《ピルグリム・プログレス》」、スペンサーの「仙女王《フェアリー・クイーン》」、シェイクスピアやミルトンなどであった。
十七歳、伯父ロバートの学資援助でボウドイン・カレッジに入学した。このころ特にウォルター・スコットの歴史小説を読んだ。学業にはそれほど身を入れなかったらしい。級友にすぐれた人物が多く、詩人ロングフェロー、後のアメリカ大統領フランクリン・ピアス、終生変らぬ友情であらゆる支援を惜しまなかった海軍士官ロバート・ブリッジなどがいた。
一八二五年に卒業。既に文学を職業に選ぶ決心をしていた彼は、すぐセイレムの家に戻り、いわゆる「軒端の部屋」にこもって創作した。白昼は読書と創作、夜間は外出、時には夜明けまで散歩した。卒業後の十二年間は彼の文学修業時代であった。
一八二八年、「ファンショー」を無名出版。しかし、後になって彼はこの小説を探し求め、見つけ次第破棄した。この頃から、物語、随筆、スケッチなどを、わずかな稿料、または無報酬で、あるいは無名、あるいはいろいろな筆名で、地方雑誌「トークン」「ニューイングランド雑誌」「デモクラティック・レビュー」などに発表した。これらは大部分「トワイス・トールド・テールズ」「古牧師館の苔」「スノウ・イメージ」に収録された。一八三六年には雑誌の編集も半年ほど引き受けたり、G・S・グッドリッチの「パーレイの万国史」を書いた。一八四一〜四二年にかけ、未来の妻の姉で、当時の熱心な改革運動家、エリザベス・ピーボディと協力して、子供向きのアメリカ歴史の話「おじいさんの椅子」を出版した。
このころ既にホーソンはエリザベスの妹ソファイアと会い、ともに愛し合ったが、貧しいため、結婚できなかった。一八四二年七月九日に結婚して、革命戦争の古戦場となったコンコード河畔の「古牧師館《オールドマンス》」に住んだ。家計は貧しかったが、家庭は極めて幸福であった。貧乏は以前からで結婚もそのために延び、ボストンの税関にも勤務した。一八四一年にはエマスンやマーガレット・フラー、その他の文化人たちが始めた、創作と労働を理想とする実験的集団生活のブルック農場に参加したが、結局失望して脱退した。一八四四年三月三日、長女ユーナ誕生、翌年十月、古牧師館を去ってセイレムに帰り、翌四六年六月四日ひとり息子ジュリアンが生れた。同年四月からセイレムの税関に勤務していたが、四九年政変のため職を追われた。この事がかえって、既に着手していた「緋文字《スカーレット・レター》」の創作に専念させる結果をもたらしたが、これも妻が貯えていた金のおかげであった。このころ最も窮乏に陥り、母は逆境のさなかに死んだ。しかし「緋文字」は一八五〇年に出版された。アメリカを題材とし、最も異色に富むこのすぐれた作品は当然好評を博し、これによって作家としての地位が確立した。
本作品はまた、その後の多作の端緒にもなった。即ち一八五一年「七破風の屋敷」、翌五二年「ブライズデール・ロマンス」が出た。両者とも人間心理を鋭く描写しているが、後者は例のブルック農場の体験を取り入れたものである。このほかギリシア神話を基にした「ワンダー・ブック」(一八五一)及び「タングルウッド・テールズ」(一八五三)、更に大統領選挙戦に打って出る友人の伝記「フランクリン・ピアス伝」(一八五二)などであった。
この間住居も転々した。一八五〇年五月からレノックスに住み、翌年、末子ローズが生れた。選挙に勝った大統領フランクリン・ピアスはホーソンを収入の多いリヴァプールの領事に任命した。この際、彼がもしこれを辞退し、折角多くの傑作を生産し始めた創作に専念したとしたら、どれだけ彼の天分を伸ばし得たろうか、とは批評家の言である。だが彼はこれを受けた。彼は、文学者としての名声は既に得たものの、将来の生活を保証するその収入に不安を感じたからにほかならない。一八五三年七月六日ボストンを出発した。
領事職にあること約四年、一八五七年の夏遅く、領事職を辞任した。しかし英国を去ったのは翌年一月五日。家族や家庭教師を連れて、パリやイタリアの旅に出た。十一月、長女ユーナがローマ熱で重病になり、五九年春まで病み、時には絶望視され、これが終生、彼女の不健康のもとになった。夏、いったん家族は英国に帰り、翌六〇年六月末、アメリカに帰った。「マーブル・フォーン」は一八五九年、イタリア及びイギリス滞在間に書かれ、翌六〇年の初め出版された。これが欧州滞在間の唯一の文学的成果である。「祖国《アワー・オールド・ホーム》」(一八六三)は「英国日誌《イングリッシュ・ノートブックス》」をもとにしたもの。これらの日誌類は、ホーソンの死後、部分的にホーソン夫人によって出版されたが、その後、多くの箇所に夫人の手が加わっていて、故意に修正、削除され、原手記の格調・色彩を失っていることが発見された。こうしてランドール・ステワート氏の苦心により完全に復元された「米国日誌《アメリカン・ノートブックス》」(一九三二)が世に出たのである。次いで一九四一年には「英国日誌《イングリッシュ・ノートブックス》」がやはり同氏の手で完成出版された。
コンコードに帰ったホーソンは、なおも創作に意を燃やしたが、既に彼の健康がこれを許さなくなっていた。死の影がしのび寄っていたのだ。
南北戦争の起きた一八六一年の春、ホーソンは抗戦意識に燃えるコンコードの愛国的な友人との間に疎遠を感じ、孤独の思いを痛切に味わった。健康は日を経る毎に悪くなった。一八六四年の春、親友の出版者、W・D・ティクノアの世話を受けながら小旅行の途中、ティクノアはフィラデルフィアで急逝した。彼は異常なショックを受け、コンコードに帰った時はほとんど半死半生であった。ついでフランクリン・ピアスとホワイト・マウンテンヘ旅行したが、ニューハンプシャー州プリマスのホテルで、眠りながら死亡した。
ホーソンの死後、ホーソン夫人は遺稿の整理と出版に当たったが、出版者J・T・フィールズと極めて不幸な争いの後、一八六八年十月、子供たちを連れてドレスデンに去ってしまった。その後一八七○年一家はロンドンに渡り、翌年二月、その地で夫人は死んだ。ユーナは一八七七年、三十三歳で死去。作家、実業家であったジュリアンは一九三三年まで生きた。末子のローズは不幸な結婚後、カトリックに帰依し、夫の死後修道尼となったが、一九二八年、ニューヨークで没した。
ホーソンはセバゴ湖畔の森で「呪わしい孤独癖」に取っつかれたと語っているが、性来憂鬱であったか否かについては議論区々である。ジュリアンは、父はふたりの人間──「ひとりは同情的で直観的、もうひとりは批判的で論理的」──であって、両者が互に共存、調節し合ったという。彼が孤独な悲観の人であったとは思われない。むしろこれを反証する資料や論拠が多いのである。彼の暗さはいわゆる「ふくろうの巣」ごもりの修業時代のものであり、「トワイス・トールド・テールズ」の成功、愛妻との生活などによって薄れていったことは疑いない。即ちその暗さはむしろ文学的な技巧、スタイル、題材やテーマに由来すると考えられる。薄明にたたずむ静かな思い、忍びよる憂愁、きめ細かな配慮と密やかな息づかい、物かげにうごめくそこはかとなき気配を感じさせる筆触は、H・ジェームズのいう光と影の「明暗対照法《キアロスキュアロー》」そのままに絶妙の霊筆である。それは絶望の黒暗々の色では決してなく、人の心の奥に潜む魂のありかを模索する、微妙な感触なのである。しかも彼は対象をあらゆる方向から、あるいは主観的、あるいは客観的に周到に観察しながらも、あくまで懐疑的な論理に従って決定的な判断を読者に任せてしまうのである。これはただに彼の手法のみのせいでない。ホーソンほど人間の胸奥にある霊魂の神聖を信じ、その尊厳を侵す罪業の深さを強調した作家はいなかった。彼の小説に登場する主人公が、人間としての分際を逸脱し、他人の聖域《サンクチュアリ》を侵したために破滅に陥る例は無数といってよい。「|赦されぬ罪《アンバードナブル・シン》」は彼の最も重要なテーマであった。
本作品について
ホーソンの長編第一作「緋文字」は、ニューイングランドの歴史と地理的環境を背景に、特に清教徒の生活心理を探り、人間の衝動と良心の間に深く根ざした相剋をえぐる小説であった。カタルシスを伴うその悲劇的性格はギリシアの運命劇に類比される格調があった。しかし、翌年に出版された、第二作の「七破風の屋敷」は、ホーソンが第一作の激しい緊張の桎梏《しっこく》から解放され、和やかな安息感の中で縦横に才筆を振い、思うまま天分を伸ばすことができた、彼みずから「前作にまさる」、気質に適った作品と名乗った小説である。
「緋文字」の序章「税関」は、「緋文字」にとってはその物語の発端となる偶然の機縁を示すに過ぎないが、本作品にとってこそ実質的な序章をなしている。その中には、祖先に対するやみがたい尊敬と愛慕とともに、彼らが犯した罪業の深さが孤愁の響きをもって痛切に告白されている。故郷セイレムの町を「二百二十五年前、わが家名を名乗る」最初の英人《ブリトン》が、森に囲まれた荒涼の地に植民し、その子孫が、「生れては死にゆき、その肉体が土壌と混じり、遂にはかなりの量の土がどうしても、かりそめの間《ま》を生きて地上を歩むわがこの肉体と、血の通うものとならざるを得ないのだ。それ故、私のいう愛着は、土の身が土に対する感覚的な共感に過ぎない」と壊しみ、まるで「磁石」のように彼を惹きつける、どうしようもない「宇宙の中心」であったと回想する。イギリス領事として初めて海外に赴任するまでの約五十年、彼の体験する見聞と歴史的洞察の領域は、この小さな清教の局地に、限られていた。
ホーソンの祖先はイギリス自作農《ヨーマン》の出であり、その姓はバークシャー、ホーソン丘《ヒル》に由来するという。直系の祖、トマス・ホーソンはアメリカ発見時代に生れた人、新世界にきたホーソンはウィリアムを名乗る者で、弟ジョンと共に最初ドチェスター、後にセイレムに移った。このウィリアムとその子ジョンとが、清教徒の行なった例のクエーカー教徒及び魔女迫害に関係した。ホーソン家にまつわる呪うべき伝説はここから生れてくる。
「いかめしく、顎ひげを生やした。黒|貂《てん》の皮外套、尖《とん》がり帽」のこの先祖は、「聖書と剣を手にして渡来し、まだ踏みもならさぬ道路を、堂々と闊歩する、戦争と平和の人として重要な」人物となった。彼は「軍人、立法者、そして裁判官」であり、かつ教会の支配者であった。彼は清教徒としての特色を「善悪ともに全部」そなえていた。この祖先こそ、先祖ウィリアム・ホーソン少佐であり、他宗派、特にクエーカー教徒の迫害者であった。その息子もまた清教の支配階級を牛耳り、魔女の殉教で有名になった、大佐にして裁判官のジョン・ホーソンであった。この先祖の罪は、魔女たちが彼の身体に血の汚点《しみ》をつけ、墓地の枯骨《ここつ》にさえ血の痕がしみつくほど業《ごう》深いといわれた。罪の報いは覿面《てきめん》だった。ホーソン家の人々は初めの二代以後、次第に「世間の目」から消えていき、没落の果て、百年以上も陸地を離れ、親から子へと代々、ごま塩頭の船長が船の後甲板から家庭へと引退し、一方、十四歳の少年がマストの前に立ち、「父や祖父に吹きつけた潮しぶきや疾風《はやて》」に立ち向った。父祖の業罪《ごうざい》が代々の子孫に祟《たた》る聖書の章を作者は意識して、
「私のこれら先祖がみずから悔い、己れの所業《しょごう》の赦免を天に願ったかどうか、または重罪の報いにあの世で今も呻吟しているのかどうか、私は知らない。それはともかく、本小説の作者の私は、これら先祖の代表として、先祖のためにその犯した罪を引き受け、どのような悪の呪い──私が聞き知っており、過去数百年、一族の零落したわびしい現状が実証している、いかなる呪いも――今日、これ限り、いっさい取り除かれるよう祈るものである」
これが作者ホーソンの痛切な願いであった。原作者ホーソンは本作品の序に、「ある世代の犯した悪業が親から子へ代々」生きのび、遂に「全く手に負えぬ災禍となり果てる倫理」を用意したといい、その直系の曽孫、当主マニング・ホーソン氏はこの本こそ、おそらく「自分の生家からあの呪いを払い清めんがため、彼がほんとうに書きたかった本」であったと常に思っていたという。まさにそのように、個性的人物が登場し、筋を明暗に織りからめ、最後に新生の黎明が訪ずれるのである。強欲と権力で強奪した大地にそびえる七つ破風《はふ》の古さびた「呪いの館」は、変転する時流と没落の運命の象徴である。一室の壁にかかる清教徒の不気味な肖像は、この家の開祖、頑固非情のピンチョン大佐であり、その罪業は土地を奪われたモール、及びこの館を建築したその息子、大工モールの呪いと、当初から陰暗に絡み合う。この館にひとり住む、六十を越えてなお独身の老嬢、女主人《ヒロイン》ヘプジバーは、生活のため貴婦人の誇りを棄て、恥を忍んで一文《いちもん》店を開業する。彼女の境遇に同情し、絶えずはげます青年は、各地放浪の末この家に寄寓を許された、新しい思想の銀板写真家ホールグレーヴである。ある日、ピンチョン家の血を引く遠い田舎の少女、フィービが突然訪ずれてヘプジバーの店を手伝う。そこへ、伯父殺しの冤罪《えんざい》で獄窓につながれて三十年、今は往年の美貌と美意識を失った老廃人、兄クリフォードが急に帰ってきて、妹ヘプジバーに優しく介抱される。年老いた兄妹は純真なフィービに感化され、繊細な感覚と生き生きした生活をとり戻す。兄妹のいとこ、ピンチョン判事こそ悪の権化であり、表面は慈悲をよそおいながら、実は遠い先祖の清教徒軍人をしのばせる強欲非道の者で、クリフォードを殺人罪に陥れ、財産を横領した男であった。彼はなおも兄妹を脅迫し、秘密の財産を明け渡せと嚇《おど》したとたん、血を吐き、頓死する。判事の死は悪霊の呪いからの開放を意味する。クリフォードはホールグレーヴの働きで青天白日の身となり、ピンチョン判事の莫大な遺産を相続した。かくてホールグレーヴは、実は土地を奪われたモールの子孫であると告白し、すでにある夜、月光の下でフィービ(月の精)と誓った愛を確かめ合う。そして一同はこの呪いの館を出て、新しい明日の生活へ、緑の馬車に乗って出発する。
かくて二世紀にわたる宿怨のピンチョン、モール両家は、フィービとホールグレーヴの婚約によって呪いから開放された。庭園の「モールの井戸」は呪いのささやきを止め、古びた七破風の屋敷とピンチョン楡の老木がそびえるあたり、いずこともなく精霊の歓喜の曲が聞こえてくるのであった。
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訳者あとがき
「七破風の屋敷」は、「緋文字」に次いで翌一八六一年に発表された名作である。これを本邦初訳として泰文堂から出版したのは一九六四年六月であった。今回は百年記念全集第二巻の決定版を読み、その編集の精密無比に讃嘆するとともに、かつて不明だった箇所についての疑問の解決などもあったので、かなりの改訳をおこなうことができた。
ホーソンが序の中に「人間感情の真理」を描いたと宣言するこのロマンスを、ヘンリー・ジェームズは「非常な魅力」にうたれて再三読みながら、その原因を「音曲の美妙さ」や「晴朗な初秋の候のなごやかさ」に喩《たと》えるほかはなかった。長の年月、ホーソンの幽徴な象徴、墨絵のような陰影《ニュアンス》、深い人間心理の洞察に囚《とらわ》れて、そのためにこそ「翻訳」の苦悩を常に味わわなければならぬ身を、よくよくの因果な果報者と、今は半ば諦らめ、半ば甘んじている。
一九七一年三月一日 蔵王山麓にて