巨人たちの星
ジェイムズ・P・ホーガン
訳者 池 央歌
ジャッキーに
プロローグ
二十一世紀も八十年代を迎える頃、人類はやっと平和共存の道を知り、その関心は恒星に向けられたかのようであった。国家を疲弊させる軍備拡張競争に終止符を打ち、戦略兵力を放棄した超大国は代わって軍備のために費やしていた財力を挙げて西欧近代の科学技術とそのノウハウを第三世界に移転することに注ぎ込んだ。地球規模で富の蓄積は増加して生活水準は向上し、世界じゅうが工業化した。安全は保障され、豊かな社会で人々の生活形態は多彩な変化を見せ、人口は定常状態に止まって、かつて人類社会を脅かしたもろもろの厄災、なかんずく、宿命的な社会の病巣とされていた飢餓と貧困は永久に地球上から払拭《ふっしょく》されたかのようであった。米ソの対立はようやく安定の度を増しつつある連邦国家間における政治経済に外交上の影響力を競う知的な争いに席を譲り、その結果、人類の飽くなき冒険心は多国籍にまたがる宇宙開発計画の形で再燃した。その目的のために特別に編成されたUNSA(国連宇宙軍)を調整機関として、人類の宇宙探査は太陽系全域に拡大された。月面探査、開発は長足の進歩を遂げ、さらには火星や金星の軌道に恒久基地も設けられ、一連の有人探査計画は外惑星に向かって入類の視野を拡げた。
この時代の最大の変革は、月面および木星の探査の成果であるいくつかの発見に触発された科学の進展と言ってよかろう。僅か数年の間に次々に驚異の発見が重なり、そもそも人類が科学を知って以来、疑われたこともなかった事実が根底から覆《くつがえ》されて、太陽系の歴史そのものが書き改められなくてはならないことになった。そして、その過程において、人類ははじめて高度な文明を持つ異星人と遭遇したのである。
その歴史を解明した研究者たちによってミネルヴァと名付けられた未知の惑星は、原初の太陽系にあって火星と木星の間に位置を占め、そこには身長八フィートの異星人が高度に発達した科学文明を営んでいた。異星人は彼らの存在を証明する遺物が発見された木星最大の衛星ガニメデに因《ちな》んでガニメアンと命名された。ガニメアン文明は今から二千五百万年前、隆盛の頂点を極めたところで忽然と太陽系から姿を消した。地球の科学者の間では惑星ミネルヴァの環境破壊ないしは悪化が巨人種ガニメアンに他の恒星系への移住を強いたのではないかとする考え方も示されたが、この仮説とて疑問の余地なしとしなかった。遙かに下って、地球の年代で言えば今から五万年の昔、惑星ミネルヴァは破壊された。惑星を形作っていた物質の大部分は太陽系辺境の楕円軌道に投げ出されて冥王星《プルート》となり、残りの破片は木星の潮汐効果によって拡散し、小惑星帯《アステロイド・ベルト》を形成した。
嵌《は》め絵の断片を接ぎ合わせるようにこれらの事実が一つ一つ明らかにされつつあったその最中《さなか》に、かつて姿を消したガニメアンの星間宇宙船が舞い戻って来た。宇宙船の時空変形推力機構の故障と相対論的時差が複合した結果、ガニメアンたちが宇宙船上で過ごした二十数年は、地球の年月ではその百万倍の長さに相当するものであった。宇宙船〈シャピアロン〉号はやがてガニメアンたちを襲うことになる運命がまだミネルヴァに手を伸ばす以前にこの惑星を出発した。それ故、乗員たちはミネルヴァの謎に取り組んだ地球科学者の論理を肯定することも否定することもできなかった。巨人種ガニメアンの一行は地球に六ヶ月滞在して地球人たちと友好を深め、地球の科学研究に協力した。人類は宇宙に友を得た。ガニメアンの生き残りは放浪の果てにやっと安住の地を見出したかと思われた。
しかし、現実はそうではなかった。調査研究が進むにつれて、ミネルヴァのガニメアンたちは牡牛座に近いある恒星系に移住したらしいことがわかって来た。誰いうとなく、その星は巨入たちの星、ジャイアンツ・スターと呼ばれるようになった。そこにガニメアンが生きているという保証はない。しかし、可能性は打ち消し難かった。ほどなく〈シャピアロン〉号は別れを惜しみつつも、遭遇以前より遙かに知識の進んだ地球世界を後にした。
月の裏側の宇宙線観測所はジャイアンツ・スターに向けて〈シャピアロン〉号の生還を予告する信号を発した。信号がジャイアンツ・スターに達するには数年を要するが、それでもなおかつ宇宙船よりはずっと早いはずだった。ところが、信号を発した科学者たちが驚いたことに、発信開始から僅か十数時間後にジャイアンツ・スターと思われる宇宙の一画から応答があったのみならず、この恒星系こそまさにガニメアンが移住した新しい母星であることを確認するメッセージが送られて来た。〈シャピアロン〉号はこの時すでに地球圏を離れていた。推力機構が船体周辺に作り出す時空変形のために、電磁波に乗せた信号は送れず、ジャイアンツ・スターからのメッセージを宇宙船に中継することはできなかった。地球の科学者たちにできることは何もなかった。
〈<シャピアロン〉号はもと来た虚空の彼方に飛び去った。宇宙船上のガニメアンが、まだ見ぬ新しい故郷を尋ね求めた自分たちの努力が実るか、または夢に終わるか、それを知るにはまだ何年も待たなくてはならなかった。
月の裏側の送信機はその後三ケ月にわたって間欠的に信号を送り続げた。が、以後応答は跡絶えたままだった。
1
ヴィクター・ハント博士は髪を梳《と》かし終え、新しいシャツのボタンをかけたところでちょっと手を休め、浴室の鏡の中から自分を見返しているいくらか眠たげではあるが、まあまあの点をつけられる顔をしげしげと眺めた。房々と波打つ焦茶の髪のところどころに微かに白いものが混りはじめている。もっとも、よほど目を凝らさない限り人はそれとは気付くまい。彼の肌は艶々と血色が良い。ベルトはズボンを止める本来の働きを果たして軽く腰を締め、決して出すぎた腹を強くくびれさせてはいない。見たところ、三十九歳としてはまず上出来だ、と彼は密かに思った。と、彼は中年の衰えを警告するTVコマーシャルの画面を思い出して鏡の中で顔を顰《しか》めた。背後のドアからちょっと知恵の足りない女房が飛び出して来ればあのコマーシャルとそっくり同じ場面が再現されるではないか。女は何やら薬壜らしいものをふりまわしながら、禿を防いで発毛を促し、体臭《、、、》を止め、呼吸を楽にしてどうこうと能書きをまくしたてるのだ。妙なものを思い出した。彼はうんざりして流しの上のメデシン・キャビネットに櫛を放り込み、扉を閉めてゆっくりとキッチンのほうへ出て行った。
「バスルームはもう空いた、ヴィック?」寝室の開け放しのドアからリソの声がした。晴ればれと上機嫌な声である。朝のこの時間としてはいささか慎みに欠けると言えなくもない。
「空いたよ」ハントはキッチンの端末にコードを打ち込んでスクリーソに朝食のメニューを呼び出した。ディスプレイに目を走らせると彼はロボットの料理人、ロボシェフにスグランブル・エッグとクリスプ・べーコン、マーマレード付卜ースト、それにコーヒーを二人前注文した。リンが廊下との境の戸口に顔を出した。ハントの大きすぎるバスロープをしどけなく肩にはおってはいるが、小麦色に陽焼けした肌や、すらりと伸びた形の良い脚をことさら隠そうとしているわけでもない。彼女はハントににっこり笑いかけ、背中に垂らした紅毛をふわりと翻《ひるがえ》して浴室に消えた。
「食事が来るよ」ハントはその背中に向かって言った。
「いつもと同じでしょ」ドアの陰からリンの声が返って来た。
「どうしてわかった?」
「イギリス人て習慣を変えたがらない人種ですもの」
「わざわざ生活をややこしくすることはないからね」
スクリーンに買い置きが底をつきかけている食糧雑貨のリストが出た。ハントはコンピュータにオーケーのサインを出し、夕方アルバートスンの店から配達させるように指示した。キッチンを出てリビングルームのほうへ行きかけると浴室からシャワーの音が聞こえて来た。夜毎に何百万という視聴者の前で、痔《じ》だの便秘だの頭垢《ふけ》だの消化不良だのという話題が論じられることを誰もおかしく思わない世界で、きれいな女の子が身につけたものを脱ぐことが何故見苦しいとされるのか、ハントにはとんと理解がいかない。「人間ほど不思議なものはありゃあしないよ」とヨークシャー生まれの彼の祖母なら言うだろう。
シャーロック・ホームズならずとも、前夜リビングルームで展開された情景は難なく想像できるに違いない。飲みかけのコーヒー茶碗。煙草の空箱。ぺぺロ二・ピザの食べ滓《かす》。デスクターミナルの前に散乱した科学雑誌や書類。それらは一夜のはじまりが冥王星をめぐる謎を解く新しいアブローチを検討しようとする純粋な動機によるものであったことを明白に物語っていた。リンのショルダーバッグは入口の小さなテープルにあり、コートは長椅子の端に掛かっている。シャブリの空壜とビーフ・カレーの出前の容器である白いボール箱を見れぱ、学問上の対話が予想外の方向に発展し、必ずしも歓迎できなくはない結末に立ち至ったことは歴然としている。皺《しわ》くちやのクッションと、長椅子とコーヒーテープルの間に脱ぎ捨てられた二足の靴はその後の成り行ぎを雄弁に語っている。まあいいではないか、とハントは腹の内で呟《つぶや》いた。冥王星がどうやって現在の位置に落ち着いたか、結論の出るのが一日遅れたところで世の中にさしたる影響はない。
ハントはデスクの端末に夜の間に郵便が届いたかどうか問い合わせた。ロレンス・リヴァモア研究所でマイク・バロウを中心とする研究班が進めている作業の報告書の下書きがあった。それによれば、ガニメアン物理の応用で低温下で核融合を実現する可能性があるという。ハントはざっと目を通し、後刻熟読吟味することにしてオフィスへ転送した。請求書や銀行の残高報告の類はそのまま記憶に書き込んで、月末にあらためて出力するようにコンピュータに指示した。ナイジェリアのウィリアム叔父からはビデオの録画が送られて来ていた。ハントは再生を指示してスクリーンに画が出るのを待った。シャワーの音が止まり、リンがのんびりとした足取りで寝室へ戻った。
ウィリアム叔父とその家族はつい最近休暇で訪れたヴィックの滞在を非常に喜んでいた。特に木星における体験や、その後ガニメアン一行とともに地球で過ごした時の出来事をハント自身の口から聞いたことは叔父一家にとっては最高の土産だった。従姉妹のジェニーは近々ラゴス近郊で操業を開始する原子力製鉄所の本社に就職が決まったと報告して来た。ロンドンの家族は変わりない。ただ、兄のジョージはパブで誰かと政治談義をするうちに喧嘩沙汰になって警察の厄介になっている……。ラゴス大学のある学生は〈シャピアロン〉号に関するハントの講演を聴いていたく感激し、多忙のところ恐縮ながらと断わって.夥《おびただ》しい質問を寄せて来た。ビデオの再生がやがて終わろうとするところへ、リソが前夜の通り、チョコレート色のブラウスとアイボリーのクレープのスカートに身仕度を整えてキッチンへ現われた。
「今のは誰から?」食器戸棚を開《あ》け閉《た》てしてカウンターに皿を並べながら彼女は尋ねた。「アンクル・ビリーだよ」
「このあいだ行ったアフリカの叔父さま?」
「ああ」
「あちらの様子はどんな?」
「元気にしてるらしいよ。ジェニーは、きみにも話した例の原子力製鉄所に就職が決まったそうだ。ところが、兄貴のジョージがまた面倒を起こしてね」
「おやまあ。今度はなあに?」
「酒場の弁護士を気取ったらしいんだ。政府はストライキ中の労働者にも賃金を保証するべきだという意見に誰かが反対したとかで」
「何なの、それ? あなたのお兄さまって、どうかしてるんじゃない?」
「血は争えないね。わたしにもいくらかその気はあるんだ」
「あなたが自分からそう言ったのよ。わたしが言ったんじゃあありませんからね」
ハントはにやりと笑った。「だったら、聞かなかったとは言わせないそ」
「憶えておくわ。さあ、食事よ」
ハントは端末のスイッチを切ってキッチンに向かった。リンはキッチンを半ば仕切ったカウンターに掛けてさっさと食べはじめていた。ハントは彼女に向き合って腰を降ろし、コーヒーを一口飲んでからフォークを手に取った。
「何をそんなに急いでいるんだ? まだ早いじゃないか。時間はたっぷりあるよ」
「このままじゃあオ7イスへ出られないもの。一度家へ寄って着替えなくては」
「別にまずくはないと思うがねえ。それどころか、なかなか色気があっていいよ」
「お世辞がお上手だこと。ううん、そんなのじゃなくて、今日グレッグのところヘワシントンから特別のお客さまが来るのよ。だから、もみくちゃにされたような恰好で出るのは厭なの。ナヴコムのイメージを傷付けたくないから」彼女はにっこり笑ってイギリス人の発音を真似た。「格調を保たなくてはいけないでしょう」
ハントはふんと鼻で笑った。「それじゃあイギリス人の英語には聞こえないよ。まだ練習が足りないね。で、その客っていうのは何者だ?」
「国務省のお偉方だっていうことしかわたしも知らないの。何でも、このところグレッグが関係してる極秘の用向きらしいわよ。最近ちょくちょく秘密回線で電話がかかって来るし、連絡員が運んで来る書類もみんな親展の封筒入りよ。だから、わたしに訊かれても困るのよ」
「きみにも内緒か?」ハントは怪謝な顔をした。
リソは頭をふって肩をすくめた。「わたしが少々頭の狂った信用できない外国人と付き合っているからかもしれないわ」
「それにしても、ぎみはグレッグの個人秘書だろう」ハントは言った。「ナヴコムのことは何でも知っているとばかり思っていたがねえ」
リンはもう一度肩をすくめた。「今度ばかりはそれがそうじゃないのよ……これまでのところはね。でも、今日は聞かされるだろうっていう気がするの。グレッグもそれらしいことを匂わせているし」
「ふーん……しかし、妙だな……」ハントは皿の料理に注意を戻しながらもまだ釈然としなかった。国連宇宙軍|航行通信《ナヴコム》局長グレッグ・コールドウェルはハントの直属の上司である。一連の情況のしからしめるところ、コールドウェルの指揮下にナヴコムはミネルヴァとガニメアンの歴史解明に中心的な役割を果たした。そして、ハントはガニメアンとの遭遇から、その後の地球滞在期間中、ナヴコムの活動に直接携わった一人なのだ。ガニメアンの一行が地球を去った後、ナヴコムにおけるハントの主たる仕事は、異星人が遺《のこ》して行った山のような科学情報を基に各分野で進められている研究を調整機関の長として整理統合することであった。調査研究の成果は必ずしもすべてが公開されているわけではないが、ナヴコム内部の雰囲気はその点かなり開放的である。リンの話にあったような機密事項を彼は耳にしたことがない。やはり、どこかで何かおかしなことが起こっていると考えないわけにはいかなかった。
ハントは椅子の背に凭《もた》れて煙草をつけ、リンは二人のカップにコーヒーを注ぎ直した。彼女の灰色がかった緑の眸にはいつ奄いたずらっぽい笑いが絶えない。心もち尖らせるようにした口もとも、何やら意味ありげな笑いにほころびかけているようである。ハントはその表情を面白いと思い、そんな彼女に惹《ひ》かれている。アメリカ人はこんな時、可愛い《キュート》という言葉を使うのだろう。彼は〈シャピアロン〉号が地球を去ってからの三ヶ月をふり返り、いつどこで、どんなふうにしてリンと今のような関係がはじまったのか正確に思い出してみようと努めた。ちょっと目に付く女の子という程度にすぎなかったリンと、今では何日か置きにどちらかのアパートで朝の食事を共にする関係になっている。しかし、どう記憶を漁《あさ》っても、これと言ったきっかけがあったとは思えなかった。だと言って、彼に不満があるわけではない。
リンはポットを置いて彼のほうをちらりと見た。二人の目が合った。「ね、傍にわたしがいるととってもいいでしょう。表示装置のスクリーンの他には誰も相手がいない朝なんて味気ないんじゃない?」
彼女はまたしてもそのことを持ち出した。冗談めかしてはいるが、それはハントが真面目に考えたがらなかった場合に備えてのことだ。家賃を別々に払うのは馬鹿げている。公共料金だって一戸にまとめたほうが安上がりだ。彼女の言い分は数え上げれぱきりがない。
「自分の面倒は自分で見るさ」ハントは助けてくれと言わんばかりに両手を拡げた。「さっききみはそう言ったじゃないか。イギリス人は習慣を変えたがらない人種だって。とにかく、わたしは格調を保ちたいのでね」
「絶滅に瀕した種属みたいな言い方ね」
「わたしは、その……盲目的愛国主義者なんだ。誰かがどこかで踏みこたえて最後まで抵抗を貫かなくては」
「わたしに用はないって言うの?」
「ああ、もちろんだよ。ごめんこうむるね。何てことを考えるんだ。きみという人は」
ハントはしかつめらしい顔をしてリンを睨み、彼女は例のいたずらっぽい薄笑いを浮かべて彼を見返した。世界は冥王星に関してもう一日彼の結論を待たなくてはならないことになりそうだった。
「今夜は、何か予定があるの?」彼は尋ねた。
「タ食に招《よ》ばれているの。ハンウェルで……マーケティング関係の仕事をしてる人と、その人の奥さんのこと、前に話したことがあるでしょう。今日は何でも大勢の入を招待しているんですって。ちょっと面白そうよ。誰か連れて来るようにって言われてるんだけど、あなたは興味がなさそうだし」ハントは鼻に雛を寄せて眉を顰《ひそ》めた。「例の、ESPだのピラミッドに凝っている連中かい。亡
「そう。今日はさる超能力者が来るっていうんで大張りきりなのよ。その入はね、もう何年も前にミネルヴァやガニメアンのことを全部予言したんですって。ぜんぜんでたらめでもないようよ。
〈アメイジング・スーパーネイチュア〉にもそのことが出てるから」
リンがからかい半分で言っていることは承知していたが、ハントは面白くなかった。
「いい加減にしてくれよ。この愚かしい国だって、曲がりなりにも教育制度というものはあると思っていたがねえ。きみたちには批判的能力はないのかい?」彼はコーヒーを飲み干してカップを荒々しくカウンターに置いた。「何年も前に予言したなら、どうして何年も前に誰もそれを聞いていないんだ? 科学が予言するべきことをそのいかさま師に教えてやった後で、はじめてそれが発表されるというのはどういうことだ? 〈シャピアロソ〉号がジャイアンツ・スターに行き着いた先でどうなるか、そのいかさま師に書かせてごらん。〈アメイジング・スーパーネイチュァ〉はそいつの原稿を没にすること請け合いだよ」
「そんなにむきになるほどのことじゃあないわ」リンはハントの剣幕を軽くかわした。「わたしはただ賑《にぎ》やかな席が楽しいから行くだけよ。UFOは別の世紀からやって来たタイムシップだと信じている人たちに、事実を解明するために必要以上の仮説を持ち込んではいけないというオッカムの剃刀の格言を説明したってはじまらないでしょう。それに、趣味の問題を別とすれば、みんな好い人たちよ」
星間宇宙船を乗り回し、実験室で生命を創造し、自ら物を考えるコンピュータを作り出したガニメアンが宇宙世界に合理的科学思想を超える神秘など存在しないということを否応もなく見せつけた後に、まだ超能力だ何だと子供騙《だま》しのようなことにうつつを抜かしている人間がいるというのがハントにはどうしても理解できなかった。しかし、現に白日夢を迫って無駄に時間を過ごしている人間は少なくない。
リンも言うとおり、あまりむきになることではない。ハントは手をふってその話題は打ち切りにした。「さあ、そろそろきみを追い出さなくてはね」
リンはリビングルームへ行って靴を履《は》き、バッグとコートを取ってアパートの玄関へ向かった。二人は抱き合って接吻した。
「じゃあ、あとでまたね」彼女はハントの耳に囁いた。
「ああ、おかしな連中には用心するんだよ」
彼女がエレベーターに乗るのを見届けてハントはドアを閉じ、五分ほどでキッチンを片付けて、リビングルームその他も気は心といくらか整頓に努めた。それが終わって、彼は上着をひっかけ、デスクの書類をプリーフケースに押し込んでエレベーターで屋上へ向かった。何分か後、彼のエアモビルは二千フィートの上空を東へ向かう通勤者の流れに吸い込まれた。前方のスカイラインにヒューストンの摩天楼群が朝日を浴びて虹色に輝いていた。
2
ヒューストンの中心街にひときわ高く聳《そび》えるナヴコム本部でエアモビルを降り、ゆったりとした足取りでオフィスの待合室へ顔を出すと、もう秘書のギニーが小まめに仕事を進めていた。ギニーは中年でやや太《ふと》り肉《じし》の小母さんタイプだが、几帳面でよく気が付く有能な秘書である。三人の子持ちで、いずれも十代の後半に入っているから彼女は育児から解放されている。それだけにギニーは仕事に打ち込んでいるのだが、そのひたむぎな態度を見てハントは時に彼女が悪童どもを三人も社会に押しつけた罪の償いをしようとしているのではないかと思うことがある。ギニーのような女は信頼できることを彼は体験的に知っている。脚の長い、ブロンドの若い娘ももちろん大いに結構だ。しかし、ある仕事を時間内にきちんと片付けてくれる助手が必要となれば、ハントは迷わず中年の小母さん型を選ぶ。
「おはようございます。ハント先生」ギニーは彼に挨拶《あいさつ》した。イギリス人はのべつ幕なしに先生だの博士だのとあらたまって呼ばれるのを好まないのだ、とハントはもう何度となく言い聞かせているのだが、こればかりはギニーは頑として改めない。
「やあ、ギニー。どうかね、調子は」
「ええ、おかげさまで何とか」
「犬はどうした?」
「それが嬉しいんですよ、先生。ゆうべ獣医さんから電話がありましてね、腰の骨は折れていませんって。何週間か静かにさせておけばすっかりよくなるだろうっていう話でした」
「ほう、それはよかったね。それで、今朝は、何かどたばたしなくてはならないようなことがあるかい?」
「いいえ、別に。MITのシュペーアン教授からついさっき電話がありまして、お昼前に折返し電話をしてほしいということでした。今、郵便を整理しているところです。いくつか先生も輿味がおありだろうと思うものが来ていますよ。リヴァモアの報告書の草稿はもうごらんになりましたでしょう」
それから三十分ほどで二人は郵便物を整理し、一日の予定を打ち合わせた。その頃になるとオフィスの他の住民たちもあらかた出揃《でそろ》っていた。ハントは進行中の二、三の研究計画について最新の情報に触れておこうと部屋を出た。
一年半前にUNSA材質構造局から引き抜かれてハントの助手になった理論物理学者のダンカン・ワットは全国の研究グループから寄せられた冥王星問題に関する資料をまとめる作業にかかっていた。現在の太陽系と〈シャピアロン〉号の記録に残された二千五百万年前の太陽系の姿を比較した結果、今ではミネルヴァが冥王星の前身であったことは動かぬ事実と認められている。地球はかつて衛星を持っていなかった。月《ルナ》はミネルヴァを回る唯一の衛星だったのだ。ミネルヴァが破壊されると、月は太陽に向かって落ち込≠ン、途中、何らかの偶然が働いて地球に捕獲された。以来、月は現在の軌道に定着したのである。今研究者たちが頭を抱えている間題は、これまでのところ、力学的ないかなる数学モデルをもってしても、冥王星が太陽の引力を脱して現在の位置に移動するに要したエネルギーをはたしてどこから得たのか説明できないことである。世界中の天文学者や宇宙技術者たちがこの謎に取り組んでいるが、まだ解決の目処《めど》は立っていない。そのこと自体、さして異とするには当たらない。なにしろ、ガニメアンたちでさえこの間題に関しては満足な説明を与えることができなかったのだ。
「三天体間の反作用の法則を打ち立てる以外にちょっと道はありませんね」ダンカンは腹立たしげにお手上げの恰好をしてみせた。「惑星戦争は全然関係ないかもしれませんよ。ミネルヴァの破壊は何か太陽系内部で別のことが起こった結果じゃあないですかね」
三十分後、ハントは同じ廊下のいくつか先の部屋を覗いた。マリーとジェフがプリソストン大学のアルバイト学生二人を相手に、壁面の大型グラフィッグ・スクリーンに映し出された一連の偏微分テンソル関数を指しながら熱っぽく論じ合っていた。
「リヴァモアのマイク・バロウ研究班から送って来た最新の報告です」マリーが言った。
「わたしもざっと目を通したよ」ハントは答えた。「まだじっくり読んではいないがね。低温核融合の話だろう」
「結論から言うと、ガニメアンの技術では陽子間の斥力を克服するのに高熱エネルギーを発生させる必要はないということらしいですね」ジェフが口を挟んだ。
「高熱を必要とせずに、どうやって核融合を起こさせるのかね?」
「言うなれば、こっそりやるんですね。まず、中性子状態の核子から出発するんです。中性子ですから斥力は働きません。で、中性子が原子核と強い相互作用を起こす範囲に近付いたところで、粒子の表面で複合生成が誘発されるようにエネルギー傾度を増してやるんですよ。中性子は陽電子を吸収して陽子になります。そこで電子を取り除けば、細工は流々。陽子と陽子は堅く結び付いて、ぽんと融合するわけです」
ハントは唸《うな》った。ガニメアンの進んだ科学をさんざん見せつげられて、もう何が起こっても驚きはしないつもりでいたのだが。
「しかし、そんなレベルでそれだけの操作を制御できるのかね?」
「マイクのチームはそれが可能だと解釈しているようですね」
さらに話は詳細な点におよび、マリーたちがリヴァモアに質問の電話を入れるところでハントは研究室を出た。
ガニメアンたちが置土産に残して行った科学情報はここへ来て急に収穫に結び付きはじめたようである。各領域で毎日何かが新たな展開を見せている。ハントのグループをガニメアン科学研究の国際的|手形交換所《クリアリング・ハウス》として機能させようというコールドウェルの思惑は図に当たった。ミネルヴァとガニメアンに関していくつかの事実が明るみに出はじめた当初から、すでにコールドウェルはハントにその役割を与えていたのだ。ハントのグループはよくその期待に応えた。そして今、彼らは最新の研究成果を統合する世話役集団として充分な働きを見せている。
ハントは最後に一階下のポール・シェリングのコンピュータルームに立ち寄った。ガニメアン技術の圧巻は何と言っても、大量の物質を集積することなしに自在に時空を変形することを可能にした重力工学である。〈シャピアロン〉号の推進機構はその応用技術で、宇宙船は前方にプラックホールを作り出し、そこへ限りなく落ち込む形で推力を得る。船内の引力も擬似効果ではなく、この技術によって人工的に発生させるのだ。ロックウェル・インターナショナルから研学休暇でナヴコムに来ている重力物理学者ポール・シェリングは数学班を指揮してこの半年、ガニメアン物理の重力場方程式とエネルギー・メトリック変換の解明に取り組んでいる。ハントが入って行くと、シェリングはディスプレイに表示された等時線と、変形された時空の測地線を眺めて浮かぬ顔をしていた。
「全部ここにある……」シェリングは仄《ほの》かに光る色分けされた曲線に目を据えたまま、どこか遠くから聞こえて来るような声で言った。「人工ブラックホール……まるで電気をつけたり消したりするように、スイッチ一つでこいつを自由に操作するんだなあ」
ハントにとっては今さら耳新しいことでも何でもない。すでにガニメアンの説明で、〈シャピァロン〉号が事実そのようにして宇宙を航行することはわかっていたし、ハントとシェリングはこれまでに何度となく基礎理論について話し合っている。
「それで、いくらか先へ進んだかね?」ハントは空いた椅子に腰を降ろして、ディスプレイを見やりながら尋ねた。
「とにかく、方向はわかりかけて来たよ」
「任意の点から点へ瞬間移動する方法については、脈がありそうかね?」
瞬間移動だけはさしものガニメアンも達成し得なかったことである。もっとも、彼らの理論体系にその可能性が暗示されてはいた。通常空間の大きな距離を隔てたブラックホールが超空圏《ハイパーレルム》で結合されるなら二点間の距離は消滅するであろう。ハイパーレルム内部では従前の物理学では説明できない法則が働いている。相対論的宇宙の概念や限界はそこではまったく意味をなさない。ガニメアンの学者たちも言ったとおり、瞬間移動によってもたらされる利益は測り知れないが、今のところまだそれを実現する手掛りは何一つ掴《つか》[#手偏+國]めていない。
「すべてはここに示されているよ」シェリングは言った。「可能性はこの中にある。ただ、これには不可分に伴う別の問題があってね、それで頭を抱えているんだ」
「というと?」ハントは問い返した。
「時間軸上の移転だよ」シェリングは言った。ハントは眉を寄せた。相手が別の人間なら、彼は不信を隠そうともしなかったろう。シェリングは両手を拡げてスクリーンを顎でしゃくった。
「どうしたってそこから抜け出せないんだよ。この計算で通常空間での瞬間移動が説明されるとすれば、同時にこれで時間軸上の移転も説明できることになる。いずれか一方の手段を開発すれば、自動的にもう片方も具体化するわけさ。二つのマトリックス・インテグラルは裏と表の関係にあるんだ」
ハントは鼻であしらうような口ぶりになるのを嫌って、一呼吸置いてから言った。「それはどうかな、ポール。因果関係はどう説明するね? その混乱はどこまで行っても整理が付かないだろう」
「わかっているよ……この理論はどこかおかしいんだ。でも、そう考えざるを得ない。これが駄目なら行き詰まりだよ。まったくはじめからやり直しだ。しかし、これでいいとすれば、瞬間移動と時間移転は切りはなせないことになる」
それから一時間あまり、彼らはシェリングの立てた方程式をひねくってみたが新しい結論は出なかった。カリフォルニア工科大学やケンブリッジ大学、モスクワの宇宙科学省、オーストラリア・シドニー大学などの研究グループがこの間題を扱っていたが、いずれも同じところで行き詰まっていた。ハントとシェリソグが計算をやり直してみても、その場で解決の糸口が掴[#手偏+國]めるはずもない.ハントは首を傾げてシェリングの部屋を出た。
オフィスに戻って彼はMITのシュペーアンに電話した。シュペーアンは五万年前に月が地球に捕獲された時その過程で起こった気象の擾乱《じょうらん》現象をシミュレーション・モデルで研究し、興味深い結果を得ていた。それからハントは二、三急ぎの雑務を処理し、あらためてリヴァモアからの報告をじっくり読み返そうと腰を落ち着けたところへ、最上階のコールドウェルのオフィスにいるリンから電話がかかった。彼女はいつになく深刻な表情をしていた。
「グレッグが、あなたにも今日の会談に同席してほしいそうよ」前置き抜きに彼女は言った。
「すぐこっちへ来られるかしら?」
急を要しているらしいことはリンの口ぶりからも察しられた。「二分待ってくれないか」
ハントは不平も言わずに答え、リヴァモアの報告書をナヴコムのデータバンクに入力した。ギニーに何かあったらダンカンと相談して処理するように言い置いて、ハントはきびきびとコールドゥェルのオフィスに向かった。
3
UNSAが太陽系のあちこちに飛ばせている有人、無人の各種宇宙船と、衛星面および軌道上の基地を結ぶ通信網の監理から、ヒューストン以下各地の研究機関の運営に至るまで、ナヴコムの活動は一から十まですべて、最終的には本部最上階のコールドウェルのオフィスの職掌である。贅《ぜい》をつくした広い部屋の一方は全面ガラス張りで、この建物にはおよばない摩天楼群や、遙か下の蟻の群生のような歩行者を見降ろしている。そのガラス壁を背にしてコールドウェルはどっしりとした大ぎなデスクを構えているのだが、正面をびっしり埋める夥《おびただ》しいスクリーンはこの一室にオフィスと言うよりは、むしろどこやらの中央制御室に似た景観を与えている。両側の壁には近年のUNSAのプロジェクト中でも特に華々しい情景のカラー写真がずらりと並んでいる。カリフォルニアで設計された全長七マイルの光子駆動恒星探査船や、月面で製作された宇宙船コンポーネントを組み立てのために軌道に打ち上げる、静かの海に直径二十マイルの規模で建造された電磁カタパルトの写真もそこに飾られている。
オフィス付の秘書に案内されてハントが入って行くと、コールドウェルのデスクにT宇状に突き合わせたテープルにリンと二人の訪間者が坐っていた。一人は四十代の後半と思しき女性で、ハイネックの濃紺のドレスをしゃっきりと着こなし、広襟の紺と白のチェヅクのジャケットを重ねたところは、どうしてまだまだ容色の衰えを言うには程遠い。髪は赤茶で、肩すれすれのところですっきりまとめ、化粧の薄い顔は高い知性と自信を示してなかなかに魅力的である。背筋をびんと伸ばして坐っているが、その姿はいかにも自然でいささかの緊張も感じられない。ハントはどこかで会ったことがある女だとふと思った。
もう一入は男で、チャコールグレイの三つ揃いに、グレイのツートンカラーのネクタイをきちんと締めている。髯剃り跡も青々として、ハントと同年配ながら漆黒の髪を学生ふうに短く刈っている。よく動く黒い目に鋭い洞察力と頭の回転の速さが感じられた。
リンは二人の訪間者と向き合った席からハントをふり返ってにっこり笑った。彼女は淡いオレンジでアクセントを付けた清楚なツーピースに着替えて、髪も高く結い上げていた。男など傍へも寄せつけぬ、隙のない出立《いでた》ちである。「ヴイック」コールドウェルは堂々たるバスバリトンを響かせた。「国務省のカレン・ヘラーを紹介しよう。それから、こちらは大統領外交顧官、ノーマン・ペイシー」彼はハントのほうを小さく指さした。「こちら、ヴィック・ハント博士。絶滅した異星人の遺跡を調べに木星に派遣したところが、宇宙船ごと生きた異星人を連れ帰った男だよ」
彼らは挨拶《あいさつ》を交わした。政府の二人は当然ながらハントの仕事をよく知っていた。ヴィックは思ったとおり、半年前にチューリヒにおけるガニメアンのレセプションの席でカレン・ヘラーに会っていた。あの時、彼女はフランス駐在合衆国大使の任にあったのではなかったか。そう、そして今は国連の合衆国代表を務めているという。ノーマン・ペイシーもガニメアンを何人か知っていたが、異星人の一行がワシントンを訪れた時ハントはその場にいなかった。
ハントはコールドウェルと向き合って長いテープルの端に腰を降ろし、上司の短く刈った霜降りの頭を見つめた。コールドウェルはしばらく伏し目がちに、指先で小刻みにデスクを叩いていたが、やおら眉の濃いいかつい顔を上げて正面からハントの目を覗き込んだ。コールドウェルをよく知っているハントはのっけから話は核心に触れるものと察して心の準備を怠らなかった。
「実はもっと早くにきみに話したかったのだが、そうは行かない事情があってね」コールドウェルは言った。「三週間ほど前からまた、ジャイアンツ・スターから信号が入りはじめたんだ」
そのような進展があったとすれば誰を措いてもまずまっ先にハントに報告がなくてはならないはずだったが、彼は驚きのあまりその点を問題にすることも忘れていた。〈シャピアロン〉号が地球を去り、月の裏側のジョルダーノ・ブルーノ観測所から発信したメッセージに一度だけ応答があったきり、もう数ヶ月経っている。その間にハントば、どうも応答は偽ものだったのではないかという疑惑を深めていた。UNSAの通信網にかかわりを持つ何者かが、何らかの手段でジヤイアンツ・スターの方角にあるUNSAの装置からメッセージを送り返すように工作したのではあるまいか。むろん彼はガニメァンの進んだ技術が常識を超えた放れ業を可能にすることを認めるにやぶさかではない.しかし、発信から応答まで十四時間という事実はメッセージが偽ものだと考えれば何よりも明快に説明されるのだ。が、コールドウェルの言うことが本当なら、ハントは根本的に考えを改めなくてはならない。
「信号が本物だという確証はあるのかね?」驚ぎから立ち直って、ハントは信じられない顔で尋ねた。「まさか、性質《たち》の悪いいたずらじゃあないだろうね」 コールドウェルはかぶりをふった。「発信源を干渉観測的に裏付けるデータもある。冥王星より遠くから信号が出ているんだ。その付近にはUNSAの宇宙船も探査体もいない。それに、通信施設を通過する信号の流れを残らずチェックしても異常はない。メッセージは本物だよ」
ハントは眉を持ち上げて大きく吐息を洩らした。彼の考え方は間違いだった。よかろう。彼はコールドウェルからテープルに拡げられた書類に視線を移し、ふとあることに気が付いて眉を顰《ひそ》めた。最初に月の裏側で受信したメッセージと同様、ジャイアンツ・スターからの応答は〈シャピアロン〉号がミネルヴァを発《た》った時代の通信コードで、ガニメアン語で送られて来たはずである。〈シャピアロン〉号が去った時、メッセージは言語学班の指導者でガニメアン一行の地球滞在中に彼らの言葉を学んだドン・マドスンが翻訳した。ほんの短いメッセージだったが、翻訳の努力は並たいていのものではなかった。コールドウェルが今話している新しいメッセージも、これを解読する人間がいるとすればマドスン以外には考えられない。組織には付きものの序列や順位に遮《さえぎ》られてハントが事情を知らされていなかったとしても、ドソ・マドスンはすべてを知っているはずである。
「で、翻訳はどこが引き受けたね?」彼は探りを入れた。「言語学班か?」
「その必要がないの」リンがこともなげに言った。「標準データ伝送コードで、通信文は英語なのよ」
ハントは椅子の背に凭れて空《くう》の一点を睨《にら》んだ。皮肉にも、その事実はハントの胸にまだくすぶっていた疑念を決定的に打ち消した。異星人からの偽メッセージを英語ででっち上げる馬鹿者がいようはずもない。彼ははっと気付いて声を張り上げた。「そうか! 異星人はどこかで〈シャピアロン〉号と接触したんだな。そうだったのか。それはよかっ……」コールドウェルが首を横にふるのを見て、ハントは言葉を呑んだ。
「この三週間の交信内容から言って、それは考えられない」コールドウェルは厳しい顔でハントを見返した。「地球を知っているガニメアンとは接触していないにもかかわらず、相手はわれわれの言葉のみならず、データ伝送コードを知りつくしている。きみはこれをどう思う?」
ハントは一座を見回した。彼に期待の目が集まっていた。彼は思案をめぐらせた。と、彼はゆっくり大きく目を見開き、あんぐりと口を開けた。驚愕を隠そうともせずに、ハントは声にならない声で言った。「まさか……」
「そのとおり」ノーマン・ペイシーが口を開いた。「この地球という惑星そのものが、どこかから監視されているに違いないのです……それも、もうかなり以前から」
ハントはあまりのことにすぐには言葉もなかった。コールドウェルがこの間題を機密扱いにしたこともうなずける。
「最初にブルーノが受信したメッセージからもその点は間違いない」コールドウェルが説明を補った。「この交信については、レーザー、コムサット、データリンク、その他いかなる種類の電子メディアにもいっさい情報を乗せるなとはっぎり注文を付けているんだよ。ブルーノでこれを受信した技術者は相手の指示を守って、月面から伝令を寄越してわたしにそのことを言って来た。わたしもそれにならって、ナヴコムからUNSAの然るべき筋に人を運って事情を伝えた。ブルーノのほうへは追って指示があるまで、このことは他へ洩らすなと言ってある」
「つまり、監視は少なくともある一部で地球の通信網を盗聴する手段によっている、ということです」ペイシーが言った。「信号を送っているのが何者であれ、これも正体不明ながら、地球を監視している相手とは別の存在だということでもあります.異星人であるかどうかはともかくとしてです。そして、今地球に話しかけている相手は、監視者にそのことを知られたくないのです」
すでにそこまで推理していたハントはうなずいた。
「ここから先はカレンに話してもらおう」コールドウェルは彼女に向き直って小さくうなずいた。
カレン・ヘラーはテープルの端に軽く肘を突いて身を乗り出した。「ブルーノ観測所の科学者たちは早い時期に、今回接触して来た相手がミネルヴァから移住したガニメアンの子孫であることを確認しました」彼女の話しぶりは抑揚が自然で聞く耳に快かった。「ガニメアンの末裔《まつえい》である彼らは現在ジャイアンツ・スター、略してジャイスターを中心とする惑星系の一つで、テューリアンと呼ばれるところに住みついています。何度かの交信でこうしたことがわかって来たわけですが、その間にワシントンのUNSAは国連にこの情況を伝えました」カレン・ヘラーはちょっと言葉を切ってハントのほうを見た。これまでのところハントが説明を求めることは何もない。彼女は先を統けた。「事務総長の特別|諮問《しもん》委員会がこの間題を検討した結果、国連は今回の異星人との接触を極めて重要な政治的外交的事件であると判断しました。そして、以後交信は安全保障理事会の常任理事国から選ばれた少数の代表者グループの手で内密に続けられることになったのです。機密保持のために、ここ当分はいっさい部外者の介入は認めない方針です」
「この決定が下された時点でわたしは口を封じられた恰好でね」コールドウェルはハントの顔を窺《うかが》いながら口を挟んだ。「それで今まできみには話そうにも話しようがなかったわけなんだ」
ハントはうなずいた.そうことを分けて話されれば文句を言う筋はない。
とはいえ、やはりハントは面白くなかった。政治家や役人というのはどうしてこう事大主義なのだろう。慎重にことを運ぶと言っても程度問題である。二重三重に秘密の壁をめぐらすのは明らかに行きすぎだ。国連が密室に問題を抱え込み、ガニメアンのことなどほとんど何も知らないと言ってもいいひと握りの代表に対応策を委ねるとは、考えただけでも業腹である。
「部外者の容喙《ようかい》を望まないって?」ハントは信じられない口ぶりで問い返した。「ガニメアンを知っている科学者まで締め出すっていうのか?」
「特に科学者は遠慮してもらおうということだよ」コールドウェルは言ったが、それ以上説明を加えようとはしなかった。聞けば聞くほどおかしな話である。
「安全保障理事会の常任理事国として、アメリカ合衆国は国連上層部から内々に連絡を受けたのです。それで、その代表団に合衆国の人間を送り込むように工作しました」ヘラーが話を続けた。
「で、ノーマンとわたしがその役目をおおせつかって、以来、もっぱらジョルダーノ・ブルーノでテューリアンとの交信に携わっているのです」
「じゃあ、交信はいっさい月の裏側で独自に、現地の判断で続けられているということですか?」ハントは尋ねた。
「そうです。この間題については、いっさい電子的通信手段によって情報伝達を行なってはならないという通達は厳密に守られています。現地の関係者はすべて人事考査を経た信頼できる人物です」
「なるほど」ハントは椅子に凭れて腕を組んだ。依然として腑《ふ》に落ちない点があるし、自分がこの場に呼び出された理由もはっきりしない。が、それはともかく、ヘラーとペイシーがヒューストンに何をしに来たのかということになると、これまでの話からではまるで理解できない。
「いったいどういうことなんです?」ハントは質問した。「これまで、テューリアンとの間にどんなやりとりがあったんですか?」
ヘラーは傍らの、錠のかかるフォルダーに綴じ込まれた書類を指さした。「交信の記録はここに残らずファイルしてあります。グレッグのところに、そっくり同じものが一式行っています。今からは、もうあなたも完全にこちらサイドですから、あとでゆっくりお読み下さい。掻《か》いつまんでお話しますと、テューリアンからの最初のメッセージは〈シャピアロン〉号に関する問い合わせです。宇宙船の状態、乗員たちの様子、彼らの地球体験、といったようなことを知りたいという趣旨でした。発信者が何者であるかはひとまず措《お》くとして、どういうわけか、相手は、その……地球人が〈シャピアロン〉号に脅威を与える存在であると考えているらしい節があるのです」ヘラーはハントの顔に拡がった当惑の表情を見て言葉を切った。
「とすると、月の裏側からビームを送るまで、先方は〈シャピアロン〉号のことを何も知らなかったわけですね?」
「そう考えるしかありませんね」ヘラーはうたずいた。
ハントはしばらく思案した。「ということは、つまり、何者であれ地球を監視している一派は、これも何者であるかはいざ知らず、現在交信している一派にぜんぜん情報を提供していない、ということですね」
「そのとおり」ペイシーが大きくうなずいた。「監視者が地球の通信網に接近し得るなら、〈シャピアロン〉号について何も知らないはずはないですからね。何しろ、あれだけ大騒ぎになったのだし」
「わたレたちが首を傾げているのはその点に止まらないのです」ヘラーが話の先を続けた。「現在交信中のテューリアン一派は、近年の地球の歴史について極度に歪んだ理解を示しています。彼らは地球が第三次世界大戦、それも惑星間に跨《またが》る大規模な戦争に突入しようとしていると思っているのです。軌道衛星爆弾を飛ばしたり、放射線や粒子ビーム兵器を動員して、それを月面から操作したりというような……わたしたちの想像を超える情況を彼らは考えているんですね」
ハントはそれを闘いて唖然とした。〈シャピアロン〉号が新たな母星の住民と接触したということはあり得ない、と最前コールドウェルがその可能性を否定したが、なるほどもっともな話である。少なくとも、現在交信中のテューリアン人は接触していない。しているとすれば、〈シャピアロン〉号のガニメアンたちがたちどころに誤解を正したばずである。しかし、現に交信中のテューリアン人たちは地球に対して、歪められた印象を抱いている。だとすれば、それは監視中の一派から誤った情報を提供された結果であると考えなくてはならない。それには、監視それ自体に不備があるか、あるいは、情報が故意に歪曲されたか、二つの可能性がある。しかし、交信は英語で続けられているという。監視態勢が十全であることをその事実は物語っている。従って、情報は故意に歪曲されていると判断せざるを得ない.
が、その結論がおよそ理屈に合わないのだ。ガニメアンは本来の性格のしからしめるところとしてマキアヴェリ型の権謀術数を弄《ろう》さない。それと知りつつ虚偽を伝えたりもしない。それは彼らの精神構造にはないことである。彼らはもっと純粋である。現在テューリアンに棲んでいるガニメアンが二千五百万年の間に〈シャピアロン〉号上の祖先とは似ても似つかぬ性格を持つに至ったのでもない限り、故意の情報操作は考えられない。そう、その点は検討に価する。二千五百万年という長い時間にはどんな変化が生じないとも限らない。この段階で不用意な結論は出すべきでない、とハントは思った。これまでの話は記憶に止めるだけにして、あとでゆっくり考えることにしよう。
「たしかに、妙な話ですね」思案を切り上げてハントは言った。「向うも、今頃はすっかり頭が混乱していることでしょう」
「はじめからこんがらかっているよ」コールドウェルが言った。「そもそも、向うが対話を再開する気になったのは、地球へ乗り込もうという考えからなんだ。自分たちの目で地球の現状を確かめて混乱を整理したいということだろうな。それで国連に受け入れ準備を要請して来たのだよ」
「極秘裡にです」ハントの不審に答えるようにペイシーが話を引き取った。「報道やお祭り騒ぎは抜きに願いたいと言うのです。前後の情況を合わせて考えると、どうやら交信中の一派は、監視しているほうの一派には知られないように、こっそり地球の現状を把握したいらしいのです」
ハントはうなずいた。そこのところは理解できる。しかし、ペイシーのロぶりは何となく奥歯に物が挟《はさ》まっているようだった。「それで、何が問題なんです?」ハントはペイシーとヘラーを見比べるようにしながら尋ねた。
「国連上層部の方針です」ヘラーが答えた。「ひとことで言えば、上層部は地球が何百万年も進んだ文明に安易に接したらどういう結果になるか、それを非常に懸念しているのです。この惑星の文明は根底から覆《くつがえ》されてしまうのではないか、ということですね。社会は、縫目がほつれるようにぱらぱらになってしまうのではないか。まだこちらが吸収できる段階に至ってはいない高度な技術文明の洗礼を受けたら押し潰されてしまうのではないか……とまあ、そういったことを心配しているのです」
「そんな馬鹿な!」ハントは思わず叫んだ。「ガニメアンであれテューリアソであれ、向うは何も地球を乗っ取ろうとしているわけじゃあないでしょう。ただ直《じか》に会って話し合いたいと言ってるだけじゃないですか」彼はいらだたしげに両手をふりまわした。「そりゃあ、大騒ぎは避けようというのは、いいですよ。なるたけあっさりと、常識に則《のっと》って事を運ぼうという考えには異論はありません。しかし、今の話はちょっと行きすぎですよ。まるでノイローゼだ」
「おっしゃるとおりです」ヘラーは言った。「国連は度を失っています。そうとしか言いようがありません。月の裏側の代表団は国連の方針を遵守して、何事もゆっくり慌《あわ》てず、そろそろと、といったありさまです」彼女はもう一度、最前のファイルを指さした。「それをお読みになればおわかりになりますが。テューリアンのメッセージに対する応答のしかたがまるでおよび腰で、歯切れが悪いのです。しかも、テューリアンの誤解をきっぱり正そうという態度が見られません。ノーマンとわたしで、その点をもっとぎちんとすべきだと提言しましたし、いろいろ働きかけてもみたのですが、力関係で押えつけられてしまうのです」
ハントは助けてくれと言う顔であたりを見回した。リンと目が合った。彼女は、わかるわ、あなたの気持、と言いたげに微かに笑い、それとはわからぬほど小さく肩をすくめた。国連内の一部の勢力はガニメアンから予期せぬ最初の応答があった時、今ヘラーが述べたとまったく同じ理由で交信を続けることに異を唱えた。ハントはその時の経緯をよく憶えている。世界中の科学者がこれに抗議してその後も地球からの呼びかけは続けられることになったのだ。その反動勢力が今また暗躍しているに違いない。
「何よりも気懸りなのは、この裏にはどうやらわたしたちが恐れている動きが隠されているらしいことです」ヘラーは話を先へ進めた。「わたしたちは国務省から、地球とテューリアンの間のコミュニケーションをできるだけ緊密なものにするように、パイプを太く、臨機応変の対処に心掛けると同時に、合衆国の利益を念頭に置くように、と言い含められています。国務省としては、今のような密室主義には必ずしも賛成ではありませんでした。でも、国連内部の足並も考えなくてはなりません。言い換えれば、これまでのところ合衆国は渋々、国連の方針におとなしく従って来たわけです」
「想像は付きますよ」ハントは彼女の言葉の切れ目を捉えて言った。「しかし、今となってはもう、そんなにのんびり構えてはいられない、というわけですね。何か裏があるような話でしたが……」
「そうなんです」ヘラーはうなずいた。「さっきお話した代表団にはソヴィエトからも人材が送られています。ソプロスキンという人です。現在の世界情勢については、わたしからお話しするまでもありませんが、南大西洋統合政策、アフリカにおける産業育成、科学技術援助等、あらゆる場面でアメリカとソヴィエトは競争しています。ここでガニメアンの進んだ技術を学べるとしたら、その競争でどれだげ優位に立てるか、お互いに充分すぎるほどよくわかっているわけですね。ですから、ソヴィエトも当然、このおよび腰の代表団に活を入れるほうに回ってもいいはずでしょう。ところが、それが違うのです。ソブロスキソは国連の方針に唯々諾々と従うばかりで、抵抗の姿勢一つ示そうとしません。それどころか、月面観測所ではもっぱら事あるごとにだだをこねるような態度を取って、物の流れに逆らってばかりいるのです。こうした事実を目の前にして、あなたはこれをどうごらんになりますか?」
ハントは質問を今一度自分の頭の中で繰り返してから、両手を拡げて肩をずくめた。わけ知り顔をしたところではじまらない。「さあねえ。政治向きのことは苦手でしてね。聞かせて下さい。どういうことです?」
「つまり、ソヴィエトは一方でそうやって時間を稼ぎながら、独自の裏工作でシベリアあたりにテューリアンを誘致して、情報を独占しようとしているのではないか、と読めば読めるわけです」ペイシーが代わって答えた。「そうだとすれば、国連の方針はソヴィエトにとってもっけのさいわいです。公式路線が風通しが悪く、合衆国が国連の顔を立ててもたもたしていたら、どこが獲物を攫《さら》って擾って行くと思いますか? ほんの何ケ国かの首脳の耳に、ソヴィエトはアメリカにはない技術ノウハウを握っているというような話が伝わってごらんなさい。現在辛うじて保たれている力のバランスはどうなりますか? これでおわかりでしょう。ソプロスキンの動きはすべてぴたりとこの線に沿っているんです」
「しかも、国連の方針自体がそういうソヴィエトの思惑にまさにお誂《あつら》え向きであるところが、偶然にしてはできすぎです」ヘラーが脇から補足した。「もう一歩進めれば、ソヴィエトはわたしたちの知らないところで国連上層部に何か伝《つて》があって、意思決定に介入しているのではないかという疑惑は拭《ぬぐ》えないのです。もし、それが事実だとしたら、全地球規模から見て、アメリカ合衆国にとっては極めて由々しい問題です」
やっと少しわかりかけて来た、とハントは思った。ソヴィエトの技術をもってすれば、シベリアに遠距離通信設備を据え付けるくらい造作もないことだろう。月に近い軌道に設置してもいいわけだ。そうして、何者であれ太陽系の外で月の裏側と交信している相手と別個のチャンネルを開く。応答して来るビームは地球に達するまでに大ぎく拡散しているだろうから第三者がこれを受信すれば、どこかで国連以外の誰かが闇取引をしていることはすぐに知れてしまうはずだが、あらかじめコードを作成しておけば、傍受されてもどこへ宛てたものかはすぐにはわからない。仮に非難の目を向けられても、ソヴィエトは飽くまで頑強に白《しら》を切るだろう。それ以上は誰もソヴィエトを追及できまい。
ハントはここに至ってやっと自分に声がかかったわけがわかったと思った。ヘラーは最前口を滑らせたのだ。彼女は、これまでのところ、アメリカは国連の方針に従って来た、と言ったではないか。ソヴィエトの動きを睨んで、国務省もまた独自の情報チャンネルを開く必要に迫られたのだ。しかし、それは地球から数十万マイルの範囲で傍受されるような粗末なものであってはならない。ヘラーとペイシーとしてはどこへ相談を持ち込んだらいいだろう? 当然、ガニメアンとその技術についてよく知っている人間でなくてはならない。ガニメデではじめて異星人と遭遇した人間に相談しないで、いったい他にどんな人材を求められるだろうか?
いや、それだけではない。ハントはガニメデに長期間滞在し、第四次ならびに第五次木星探査隊のメンバーたちとは今なお親しい間柄である。木星は地球から遠く離れた惑星だ。太陽系の外側から木星に向けられたビームは、大きく拡散したにしても、地球近辺では誰もそれに気付くまい。おまけに探査隊の司令船J4とJ5はレーザー・チャンネルで恒久的に埴球と結ばれている。そのレーザー・チャンネルはコールドウェルを長とするナヴコムの監理下にあるのだ。ハントの名が浮かぶのは時間の問題であったろう。
彼はコールドウユルの顔を覗き込み、その目をワシントンからやって来た二人に移した。「ソヴィエトに先を越されないうちに、木星経由でジャイスターとの間にホットラインを設けて、彼らをアメリカ領内に迎え入れようという寸法ですね。そこで、レーザー・チャンネルを盗聴しているであろうテューリアン人に内容を知られることなく、木星探査船ジュピターにこちらの要求を伝える方法はないか、わたしに知恵を貸せとおっしゃるんですね。違いますか?」彼ばコールドウェルに向き直って首を傾げてみせた。「どうかね、わたしの解釈は?」
ヘラーとペイシーは感に堪えたようにそっと顔を見合わせた。
「満点だ」コールドウェルはうなずいた。
「一つだげ抜けていますね」ヘラーが言った。ハントは眉を寄せた。彼女の目に笑いがあふれていた。「知恵を貸していただくとすれば、その後、それに付随して起こって来るもろもろについて、全面的な協力をお願いしなくてはなりません。国連はガニメアンの専門家の協力なしに物事を進めようとするかもしれませんが、合衆国の考え方は違います」
「というわけで、わたしらの仲間へ、ようこそ」ノーマン・ペイシーがしめくくった。
4
ガニメデ上空二千マイルの軌道を回る木星探査船〈ジュピター〉Vの司令官、ジョゼフ・B・シャノンは全長一マイル四分の一におよぶ宇宙船の一方の端に近い指令センター計器室で大きな壁面スクリーンを食い入るように見つめていた。彼の前に人垣を作った同船の士官やUNSAの科学者たちも皆、スクリーン上に展開される光景に固唾《かたず》を飲んでいる。そこには橙色、黄色、茶色の斑《まだら》の衛星表面が暗黒の空の下に起伏し、その空はスクリーンの上方から絶え間なく降り注ぐ白熱の微塵に煙っていた。遠く衛星表面が空と境を限るあたりには幾色もの閃光に染まった火柱が、スクリーンの上端へ突き抜ける勢いで激しく燃えさかっていた。
五十二年前、探査船〈ヴォイジャー〉T号、U号が地球に送って寄越したイオ表面の接写をはじめて目にしてパサデナのジェット・プロパルジョン研究所の科学者たちは驚嘆に声を失った。まだシャノンが生まれる前のことである。オレンジ色のあばた面を見てパサデナの科学者たちはこの衛昆を宇宙が焼いた特大のピザ≠ニ呼んだ。しかし、シャノンに言わせれぱこんなふうにして焼かれたピザなどどこを捜してもありはしない。
木星の磁場に閉じ込められた平均粒子エネルギー十万ケルヴィン相当のプラズマの流れの中に軌道を持つこの衛星は、それ自体が巨大なファラデー発電機と化して内部に一兆ワット、五百万アンペアというとてつもない電流を孕《はら》んでいる。オイロパとガニメデの共鳴が木星の引力に抗してイオを波動させ、そのために生ずる摂動が潮汐摩擦を招いて、イオの内部に厖大な熱エネルギーが発生する。こうして、電気と重力によって作り出された熱は、衛星表面直下の硫黄とその化合物がどろどろになった湯に蓄えられているが、やがて湯は衛星の地殻の弱い部分を突き破って、事実上圧力ゼロの空間に噴出する。硫黄と亜硫酸ガスは一瞬にして凝結し、微細な霜となって毎秒一千メートルの速さで噴射し、時には三千キロメートルを超える高さにまで達する。その絢爛《けんらん》たる活火山噴火は絶えず衛星表面のいたるところで起こっている。
今シャノンがスクリーン上に眺めているのも、イオ表面に接近した探査体が捉えた火山活動の一景に他ならない。科学者と技術者は何度もふりだしに戻る試行錯誤を積み重ね、一年あまりを費やしてやっと、各種の観測機器を搭載して、木星から降り注ぐ放射能や電子やイオンの雨の中で機能する信頼性の高い探査体を開発した。彼らの成功の証である映像伝送に自ら立ち会ってスクリーンの光景を眺めることを、シャノンは司令官としての務めと心得ていた。彼の地位を考えればそれは雑用に等しいことだったが、現にスクリ!ソ上に驚異の光景を見て、シャノンは大いに感動すると同時に、組織の頂点に立つ者がいかに現実に取り残されやすく、現場の事情に疎くなりがちであるかを思い知った。これからは、努めて探査隊本来の使命である科学調査の最新の収穫に触れるようにしよう、と彼は心に誓った。
シャノンは正規の勤務時間が過ぎても指令センターに残り、科学者や技術者たちと一時間あまり探査体について話し合ってから私室に引き揚げた。シャワーを浴びて平服に寛いだ彼はコンピュータの端末にその日の着信を呼び出した。中の一便は平文で、ナヴコム本部のヴィック・ハントからだった。シャノンは嬉しく思う一方ではてなと首を傾げた。ハントとは彼のガニメデ滞在中、何度も親しく話し、楽しい時間を持った。その体験からハントの入柄もよく知っている。ハントは用もないのに御機嫌うかがいの手紙を寄越すようた男ではない。何か面白い話題があるに違いない。シャノンは心|急《せ》く思いで、コンピュータに全文を表示するよう指令した。五分後、彼は相変わらず当惑に眉を寄せたまま、ディスプレイを睨んで思案に暮れていた。ハントからの文面は以下のとおりである。
ジョウ
この件についてこれ以上の誤解《クロス・ワード》があってはいけないと思うので、きみが言っていた本を
めくって糸口《クルー》を捜してみた。五、二四、一〇ページでいくつかの記述に出交《アクロス》した。さらに読み
進ん《ダウン》で一一ならびに二〇章まで行けばすべてはもっとはっきりするはずだ。
七八六の出どころは今もって謎《パズル》である。
匆々
ハント
シャノンには何のことやらさっぱりわからない。が、ハントをよく知っている彼はこの文面に何か重要な用件が隠されているに違いないと確信した。それも機密を要することだ、というところまでは見当が付く。しかし、ハントはどうしてこんな持って回ったことをするのだろう? U NSAには絶対確実な暗号システムがあるはずではないか。まさか何者かがUNSAの通信網を盗聴しているわげでもあるまい。それとも、UNSAの機密システムですら安心できない高性能のコンピュータを使って聴き耳を立てているというのか? あり得ないことではないか。だが待てよ、とシャノンは考え直した。第二次世界大戦中、ドイッも自分たちの交信は盗聴される心配はないとのんびり構えていたのだ。ところが、イギリス軍はブレッチリーの〈タリング・エンジン〉によってヒトラーと将軍たちの間に交わされる無線通信を残らず傍受していたのみか、本来の受信者より先にメッセージを受け取ることも少なくなかった。ハントからのメッセージは英語の平文だが、第三者には何の意味もない。ハントはそうやって誰にも怪しまれずに彼に何かを伝えようとしているのだ。ところが、肝腎のシャノンにもハントが何を伝えようとしているのか、まるで雲を掴むようだった。
翌朝早く上級士官用の食堂に坐った時もまだシャノンはハントからのメッセージのことを考え続けていた。彼はいつも、船長や一等宇宙航海士や早番の技術者たちがやって来る前に朝食を済ませる習慣である。そうやってゆっくり頭を整理して一日の任務に備え、〈インタープラネタリー・ジャーナル〉にざっと目を通して天下の情勢をひととおり心得ておかなくては気が済まない。〈ジャーナル〉はUNSAが太陽系全域の宇宙船や衛星基地に地球から伝送して寄越す日刊新聞である。シャノンが朝食を早く摂《と》るにはもう一つ私的な理由がある。それは〈ジャーナル〉のグロスワード・パズルを解くことだ。記憶を溯《さかのぼ》れる限り以前から、彼のクロスワード・パズルは病|膏肓《こうこう》に入っていた。早朝に頭の運動をすることは、一日の知的活動のために大変いいのだと彼は自分の道楽に理屈を付けている。本当にそう信じているかというとそうでもないが、まあ、どうでもいいことだ。頭の体操である点だけは間違いない。この日はさしたるニュースもなかったが、彼は一応、司令官たる者の心得として見出しを拾い読んだ。司厨員がコーヒーを注ぎ直す頃、彼はクロスワードのページに辿《たど》り着いてほっとした。新聞を二つに折り、さらにもう一つ小さく畳んでテーブルに置くと、彼はポケットのペンを探りながらざっと縦横の鍵を見渡した。上段の見出しに「ジャーナル・クロスワード・パズル 七八六」としてあった。
シャノンはポケットのペンを握ったまま、じっとその数宇に目を凝らした。「七八六の出どころは今もって謎《パズル》である」ハントの手紙の結びの文句がすぐに記憶に甦《よみがえ》った。何痩も読み返したハントの手紙は一宇一句、あまさず頭に焼き付いている。「七八六」と「パズル」……ハントはこの二つを手紙の中で使っている。とうてい偶然の一致とは考えられなかった。そう言えば、ハントも自由な時間がある時はかなりクロスワード・パズルに凝っていた。ロンドン〈タイムズ〉に載った難題を彼に教えたのもハントである。二人はよくバーで一杯やりながら額を寄せ合ってパズルを解いたものだ。「これだ《ユリーカ》!」と叫んで飛び上がりたい衝動を抑えてシャノンはペンをボケットに戻し、同じポケットに小さく折って押し込んであるハントの手紙のハードコピーを取り出すと、それを〈ジャーナル〉とコーヒー茶碗の間に拡げた。
のっけにクロス・ワードの文宇があり、その少し先に糸口《クルー》とある。その意味はもはや考えるまでもない。他はどうだろう? シャノンはハントに本と名の付くものを紹介した覚えはない。この部分はただのつなぎ≠ニ理解してよさそうだった。次に並んでいる数宇には明らかに意味がある。シャノンは眉を寄せて数宇を睨《にら》んだ。5、24、10、11、20……。しかし、その一連の数字は何を語るものでもなかった。昨夜来、彼はその数宇を入れ替えたり、組み合わせたり、いろいろにいじくりまわしてみたが、そこからは何も出て来なかったのだ。ところが、あらためて文面を見返すと、前夜気付かずに読み過ごした二つの文宇が目に飛び込んで来た。5、24、10のところにある|出交した《アクロス》と、そのすぐあとの11、20のところにある、読み|進めば《ダウン》、という文宇である。クロスワード・パズルの言葉で考えれば何のことはない。横《アクロス》の鍵、縦《ダウン》の鍵ではないか。つまり、何事であれハントが伝えようとしていることは、今日のクロスワード・パズルの横の鍵5、24、10と縦の鍵11、20に隠されているのだ。間違いない。
こみ上げる興奮を覚えながら、シャノンは〈ジャーナル〉に視線を移した。ちょうどそこへ、船長と一等宇宙航海士が談笑しながらやって来た。シャノンは〈ジャーナル〉を手にして立ち上がり、まだ食堂へ入って三歩と進んでいない二人とすれ違いざま、肩越しに「やあ、おはよう」と声をかけて足早に立ち去った。船長と航海士は呆っ気に取られて顔を見合わぜた。ふり返った時には、すでに司令官の姿はドアの向うに消えていた。二人は今一度顔を見合わせて肩をすくめ、空いたテーブルに腰を降ろした。
私室に戻ったシャノンはデスクに向かって、あらためて新聞と手紙のコピーを拡げた。横の鍵5は「デジタル・エクィヅプメント社にとって詩の意味するところは何か(六字)」となっていた。UNSAでこの会社を知らなければ|もぐり《、、、、》である。DECのコンピュータは、木星と地球を結ぶレーザー・リソグにあふれるデータのプリプロセスからイオに着陸したロボットとその内蔵する機器の制御にいたるまで、およそコンピュータの仕事とされることはすべて一手に処理している。DEC! この三字が解答の一部に違いない。残る三字はどうだろう? 詩の意味とある。シャノンは詩の同義語を次々に思い浮かべた。ヴァース……リリック……エピック……エレジー…:どれもうまく当て嵌《は》まらない。解答は六文字である。三字で詩を意味する単語を捜さなくてはならないのだ。オード(ode)。これだ、DECと合わせれぱDECODEとなる。暗号を解読すること、つまり意味するところは何かを知ることだ。まずは小手試しである。シャノンはペンでパズルの枡《ます》を埋め、横の鍵24に取りかかった。「ディアナの巻毛《ロック》は心痛の種(八字)」 ディアナの、とあるからこれは簡単だ。しばらく考えて、シャノンは巻毛の同義語トレスを思い付き、ディアナの、というところを縮めた形と合わせてDISTRESSを得た。遭難のような危機を意味する言葉だから、心痛に通じる。
横の鍵10は「難航が予想される場合の誘導灯(六字)」
難航が予想される、とあるからにはこれは航海(VOYAGE)≠フ回文《アナグラム》であろう。シャノンはこの六字をいろいろに置き替えてみたがどうやっても、意味のある単語にはならなかった。それで、これはひとまず措くとして、縦の鍵11に移った。
「日を改めて実験結果を整理しよう(四、四、四字)」
解答は四文字の単語三つである。整理という言葉に、どうやらこれも文宇の置き替えであるらしい匂いがある。シャノンは鍵の文章から十二文宇で一つのまとまりを作る辞句を捜すことにした。日を改めて……しよう、というところがそれだ。LET'S FIT A DATE。彼は新聞の余自にその文句を書きつけ、しばらくいじくっているうちに、TEST DATA FIL Eという組み合わせができた。四宇で三語。ぴたりだった。
縦の鍵20は「アルゴン・ビーム・マトリックス(五字)」である。これだけでは何のことかわからない。シャノンはできるところから枡を埋めて、他の鍵によって得られた文宇に手掛りを掴[手偏+國]むことにした。横の鍵10の誘導灯は、何と鍵そのものの中にそっくり答が置かれていた。難航が予想される(COULD BE A CONFUSED)の中の六宇を取ればビーコン(BEA CON)である。アナグラムを匂わせたのは解答者を混乱させる落とし穴だと思われる。クロスワード・パズルの出題者になるにはよほどのひねくれ者でなくてはならないらしい、とシャノンはあらぬことを考えた。残る一つ「アルゴン・ビーム」は元素記号のArとビームと同義のレイ(RAY)からARRAYと解けた。配列、つまリマトリックスである。何より面白いのは冒頭、横の鍵1の答がアイルランドの河、シャノンであることだった。シャノン宛親展の意味を込めてここに挿入されたものであろう。解答をハントが文中で指示した順序で並べたものが、すなわちメッセージである。
DECODE DISTRESS BEACON
TEST-DATA-FILE ARRAY
遭難信号テスト・データ資料群を解読せよ、という意味になる。
シャノンはパズルを解いて満足を味わったのも束の間で、このメッセージに頭を抱えた。これではふりだしに戻ったも同じである。とはいえ、これがガニメアンに関することであり、ハントの仕事の範囲に含まれた問題であるということは疑いの余地がない。
ガニメデの空の彼方から異星人を乗せた〈シャピアロン〉号が降って湧いたように姿を現わす少し前、木星の衛星系の探査に当たっていたUNSAの科学者集団はガニメデを厚く覆う氷の下に埋もれた二千五百万年前のガニメアン宇宙船の残骸を発見した。ハントと技術者たちはガニメデ恒久基地の一つ、ピットヘッドで宇宙船から回収した機械装置類を調べたが、その過程でガニメアンの緊急用送信機と思《おぼ》しき装置を作動させた。この装置は、ガニメアン宇宙船がメイソ・ドライヴで航行中は電磁信号を受け付けないために、重力波に信号を乗せて意思伝達を図るものであった。それ故、折から太陽系内を漂流していた〈シャピアロン〉号が信号を確認し、ガニメデに飛来して、地球人とガニメアンが遭遇する結果となったのだ。シャノンは〈シャピアロン〉号が地球を去って後、ジャイアンツ・スターから思いがけなく応答があった時、同じ装置を使ってそのことをガニメアン宇宙船に伝えようという提案が一部にあったことを思い出した。しかし、当時ジャイァンッ.スターからの応答に疑惑を深めていたハントの意見でその件は沙汰止みになったのだ。
してみれば、ハントのメッセージにある「ディストレス・ビーコン」とはあのガニメアンの緊急用発信機のことを指しているに違いない。シャノンに解読しろという「テスト・データ」とはいったい何のことだろう? ガニメアン・ビーコンは現物を実地に調べたいという各研究機関の希望で、他の各種の装置類とともに地球へ移された。それらの実験調査に当たった研究者たちは、レーザー・リンクを通じて木星基地の関係分野の者たちにその結果を伝えるならわしであった。シャノンの解釈はただ一つ、ハントは何かを用意して、それを極くありきたりの実験データに見せかけて木星に送ろうとしているのだと考えるしかない。ビーコンに関するデータを装った情報は、おそらく夥《おびただ〉しい数宇の羅列でしかないだろう。しかし、シャノンがその資料に意味があると知った上で数字を読み、解釈に努めれば、そこに語られていることは自ら浮彫りになって彼の目に映るのではなかろうか。
それがハントの狙いなら、地球から送られて来る異例のテスト・データについて心得ている人物は、氷の下から発掘されたビーコンを最初に調べたピヅトヘッド基地の技術者たちを措いてまず他には考えられない。シャノンはデスクのコンピュータ端末に向き直ってJ5の人事記録を呼び出した。数分後、彼はビーコンの試験に当たった技術者集団の責任考がカリフォルニア出身のヴィンセント・カリザンという男であることを突き止めた。バーグレーで電子工学の修士課程を終え、UNSAの宇宙船発射推進機構開発局で十年間働いた実績を認められて、J5に技術者として加わった人物だった。
シャノンはその場でピットヘッドを呼び出そうとして、すぐに思い止まった。通常の通信綱でハントがほんの些細な疑惑をも招くまいとこれだけ気を遣っているとすれば、事はよほど重大であるに違いない。どうしようかと思案しているところへ、端末機のコール・トーンが鳴った。シャノンはスクリーンの表示を消去して応答キーを軽く押した。指令センターに詰めている彼の副官からだった。
「おそれいりますが、司令官、今から五分後にG-三二七で作戦指揮官への命令伝達があります。司令官も同席されることになっていますが、朝から姿が見えませんでしたので、念のため連絡したほうがいいと思いまして」
「ああ、どうもありがとう、ボブ.実は、少々急を要すること溝できたので、出席は見合わせなくてはならない。きみから、皆によろしく伝えてくれないか」
「かしこまりました」
「ああ、それから、ボブ……」シャノンはふと思い付いて声を撥ね上げた。
副官は電話を切りかけて、問い返した。「何でしょう?」
「そっちが済んだら、すぐここへ来てくれ。衛星の基地へ運んでもらいたいものがある」
「運ぷんですか官こ副官は怪訝《けげん》な顔をした。「そうだ。ピットヘッドの技術者宛だ。この電話では説明しにくいのだがね、重要な連絡事項なんだ。そっちを急いで片付ければ、メイン・べース行きの九時のシャトルに間に合うだろう。きみが来るまでに文書にして封印しておく。〈X線〉レペルの機密扱いにしてくれ」
それを聞いて副官は表情を引き締めた。「すぐそちらへ参ります」
スクリーンの顔が消えた。
正午少し前、シャノンはピットヘッドからカリザンがメイン・ベース経由でJ5へ行くという連絡を受けた。カリザンはガニメアン・ビーコンの試験の付随資料と称するデータ・ファイルのプリントアウトを携えてやって来た。まさにこの日の朝、地球からJ5を経てピットヘッドのコンピュータにふいに打ち込まれて来たものだという。ピットヘッド基地の技術陣は皆、目を自黒させた。何故というに、ファイルの標題は一連番号からはずれていたし、中身もデータベース検索システムでは拾えない記述を含んでいたからである。おまけに、標題に示されているような試験が計画されていたことは誰も知らなかった。
シャノンの予想に違わず、ファイルの中身はあらかた数宇ばかりだった。そこにはいくつかのまとまりに分類された夥しい数宇が並び、それぞれのグループの数宇はいずれもある種の組み合わせを作っていた。一見したところ相関変数の読み取りの値を示す実験報告のようであり、額面どおりに受け取ればおよそ大した意味を持つものとは思えなかった。シャノンは信頼できる少数の専門家を呼び集めた。彼らはたちどころに、対をなす数宇のグループは256x256マトリックス・アレイでデータポイントをx軸とy軸で表示したものと見破った。そのヒントも先のクロスワード・パズルに与えられていた。数宇をプロッターにかけてディスプレイ・スクリーンに打ち出すと、各数宇によって表わされる点は、ちょうど直線運動機構のテスト・データの統計分布を思わせるパターンを描いた。ところが、いくつものグループが描き出すパターンをスクリーン上で重ね合わせると、対角線に沿って英文で書かれたメッセージが浮かび上がった。メッセージは第二のファイルの解読を指示していた。これも地球から伝送された第二のファイルには山のような情報が含まれていた。
それは細かく箇条書きされたJ5への指示で、ガニメアン通信コードによる長文のメッセージを、UNSAの通信綱ではなく、太陽系外のある一点へ向けて発信せよというものだった。そして、その太陽系外の一点から応答があった場合には、今ここで使われている手法により、実験データを装って、レーザー・リンクでナヴコムへ伝送するようにとハントは注文していた。
シャノンは寝不足で目をまっ赤にしながら私室の端末機に向かい、地球へ送るメッセージをキーボードで打ち込んだ。宛先はヒューストンのナヴコム司令部ヴィクター・ハント博士である。
ヴィック
ヴィンス・カリザンと話して事情はわかった。そちらの希望に従って目下実験を進めている。
はっきりした結果が出次第、情報を送る。
幸運を祈る
ジョウ
5
ハントは運転席に体を沈めて眼下に玩具の街のように拡がっているヒューストン郊外の景観にぼんやり見とれていた。エアモビルはどこか下のほうから間欠的に送られて来る二進法の信号に誘導されて、滑るように宙を飛んでいた。地上の車が整然と流れ、滑らかに合流し、一斉に加速し、また減速するさまを空から眺めるのは面白かった。誰かが高所から指揮をとっているかとさえ思われる車の流れは、そう言えぱ宇宙のバッハの手になる精緻を極めた楽曲の音の動きを表わしているかのようである。しかし、そんなふうに思うのは見るほうの幻想なのだ。個々の車は目的地とそこに至る途中の道路情況に関して極《ご》く簡単なプログラムを与えられているにすぎない。ただ、人工的な環境の中を夥《おびただ》しい数の車が渋滞も知らずに流れて行くために、その動きがいかにも複雑であるような錯覚を与えるだけなのだ。人生もこれと同じだ、とハントは思った。古来、人間社会とそれをとりまく宇宙を説明する試みとして神秘思想や魔術や超能力ということが手を変え品を変えして登場した述、それらはいずれも精神の位相のずれた観察者が作り出したものであって、彼らが観察の対象とする宇宙に発したものではない。入間は幻影を追いかけることに夢中になるあまり、どれだけ多くの才能を無駄にして来たろうか。ガニメアンは幻想というものを抱かない。彼らはひたすら、あるがままの宇宙を理解し、征服することに努めたのだ。見かけや、自分たちの希望とは関係を絶ったところにガニメアンの思想は成り立っている。彼らが恒星間飛行をなしとげたのも、おそらく、そのせいではあるまいか。
隣の席で、数日前の〈インタープラネタリー・ジャーナル〉のクロスワード・パズルをやっていたリンが途中で顔を上げた。
「これ、何かしら? 樵《きこり》のミュージカル・ナンバー≠なた、どう思う?」
「何文宇だ?」ちょっと考えてからハントは訊き返した。
「九文字よ」
ハントは運転席のコンソールに一定の間隔で表示される飛行状態概況を睨《にら》んで、またちょっと考えて答を出した。「対数だよ」
リンはしばらく考えてにっこり笑った。「ああ、なるほどね。普通の人じゃあなかなか気が付かないわ。樵《ロガー》のリズムで対数《ロガリズム》ね」
「そのとおり」
「これで行けるわ」彼女は膝に拡げた新聞に答を書き入れた。「それにしても、ジョウ・シャノンがすらすらパズルを解いてくれて、本当によかったわね」
「わたしもほっとしたよ」
シャノンの委細承知の返事は二日前に届いていた。暗号のアイディアが閃《ひらめ》いたのはリンのアパートで〈ロンドン・タイムズ〉のパズルを二人して解いている最中のことだった。ナヴコムの言語学者でガニメアン語を修得したドン・マドスソはハントの親友で、しかも〈ジャーナル〉のパズルの出題者の]人である。そこで、ハントはコールドウェルの了解を得た上で、マドスンにジャイスターをめぐる事態について必要最小限度のことを説明し、マドスンの協力のもとに木星へのメッセージを作成したのだ。あとは結果を待つしかない。
「マーフィが一日休暇を取ってくれるといいのにね」リンが言った。
「そうは行かないさ。それより誰かさんに、法に対するハントの拡張定理を忘れないようにしてもらわなくては」
「ハントの拡張定理って何?」
「すべて誤謬《ごびゅう》の可能性を持つものは、誰かがこれを正さない限り、必ず誤謬を犯す」
窓の外に小さく張り出した翼を傾けてエアモビルは向きを変え、航空路からそれてゆるやかな降下に移った。一マイルほど向うの河沿いに整然と並ぶ白い大きな建物のかたまりがゆっくりと横移動して、やがてフ日ントグラスの中央にぴったりおさまった。
「あれはもと保険のセールスマンだな、きっと」しばらくしてハントは低く言った。
「誰のこと?」
「マーフィさ。何もかも悪いほうに向かっています……今すぐ申込み書にサインを&ロ険のセールスマン以外に誰がそんなことを言うものか」
前方の建物が近付くにつれて鮮明な輪郭を見せるようになった。UNSA生命科学局ウェストウッド生物学研究所。ハントのエアモビルは滑らかに減速して、生化学館の上空五十フィートのところで停止した。生化学館は神経科学館と生理学館と並んで|三つ組《トリオ》をなし、芝生と噴水に陽射しのあふれる色鮮やかなモザイク仕上げの広場を隔てて本館と向き合っている。ハントは発着所を自分の目で確認してから、コンピュータに降下を指示した。ほどなく、二人は建物最上階のロピーにある受付に立った。
「ダンチェッカー先生は自室にいらっしゃいません」受付嬢はTV電話のスクリーンを覗《のぞ》いて言った。「転送コード番号は地下の研究室になっていますね。ちょっとお待ち下さい」
彼女はキーボードにコードを打ち込んだ。スクリーンの映像が消えて色彩がちらつき、やがて、額の禿げ上がった長身|痩躯《そうく》[身+區]の男が浮かび出た。細長くやや鉤なりの鼻に時代遅れの金縁眼鏡を危なっかしく乗せている。顔の皮膚はまるで後からの思い付きで頬骨の上に引き伸ばされ、尖った顎の分が足りなくなってしまったとでもいうような印象を見る者に与える。彼は仕事を邪魔されていかにも迷惑らしい顔だった。
「何かね?」
「ダンチェッカー先生、こちら、トップ・ロビーです。先生にお客さまが二人お見えです」
「今わたしは手が塞《ふさが》っているんだ」ダンチェッカーは無愛想に言った。「誰が何の用だって?」
ハントは吐息を洩らし、スクリーンをぐいと自分のほうへ向け直した。「わたしだよ、クリス。リンも一緒だ。今日会う約束だったじゃないか」
ダンチェッカーはたちまち顔をほころばせた。口は細い線になり、両端が心なしか上へ反《そ》り返った。「やあ、これはこれは。どうも失敬。降りて来ないか。レベルEの解剖室だ」
「一人かね?」ハントは尋ねた。
「ああ、ここならゆっくり話ができる」
「すぐそっちへ行くよ」
二人はロビーの裏手のエレペーター・バンクへ回った。
「クリスはまた動物をいじくりまわしているのね」エレベーターを待ちながらリンが言った。
「ガニメデから戻って以来、あの男は地上の空気を吸っていないのではないかね。まだ動物に似て来ないのが不思議だよ」
ダンチェッカーはハントとともにガニメデで太陽系に舞い戻った〈シャピアロン〉号を迎えた。そればかりか、ダンチェッカーはおそらく人類の歴史を通じて最も驚異とすべき事実の解明に与って大いに力を発揮したのだ。その事実の詳細は今のところまだ広く一般に公開されてはいない。心の準備がととのっていない大衆に不用意に伝えることは憚《はばか》られることがらも少なくないからだ。
今から二千五百万年の昔、惑星ミネルヴァの文明が絶頂期にあった時代にガニメアンたちは何度か地球を訪れていたが、そのことはさして驚くに当たらない。ガニメアンの科学者たちはミネルヴァの大気中の二酸化炭素濃度が上がり、その環境が遺伝的に二酸化炭素に対して耐性の低い彼らにとって、とうてい棲めないものになる時代がいずれはやって来るであろうと予測した。そこで彼らは地球に目を着け、移住候補地として地球の環境を分析評価することにしたのである。しかし、この考えはじきに放棄された。ガニメアンはそもそも生化学的に肉食を拒む祖先から進化した種属であり、闘争を好まず、粗暴なふるまいは極力避けようとする性質を持っている。地球における生存競争はガニメアンの嫌うあらゆる種類の残虐性が集中的に現われる場面である。ガニメアンが環境調査にやって来た漸新世後期から中新世初期にかけて、折から地球の生存競争は苛烈を極めていた。性質の穏やかなガニメアンが安心して棲める場所ではない。彼らは地球移住をきっぱりと断念した。
それはともかく、ガニメアンは地球訪問を通じて科学的好奇心を満たす他に、一つの特筆すべき成果を挙げた。彼らは地球上の動物がミネルヴァの動物にはない遺伝子構造によって二酸化炭素を吸収する代謝システムを備えていることを発見したのだ。そのために、地球の動物は先天的に耐性が高く、また、環境の変化によく適応することができた。これを知ったガニメアンは地球へ移住する代わりに別の方法でミネルヴァの環境悪化に対処することを考えだした。そこで、彼らはありとあらゆる種類の地球動物を自分たちの惑星へ運んだ。遺伝子操作の実験を重ね、地球動物の遺伝情報を自分たちの種に植え付けて、子孫に二酸化炭素に対する先天的な耐性を与える目的であった。ガニメデで発見された難破宇宙船にはその時代の地球動物の多くがほとんど完全な形で保存されていた。ダンチェッカーはそれらの標本をウェストウッドに持ち帰って、目下細かい研究を進めているところである。
それから二千五百万年ほど下って、地球年代で今からおよそ五万年前、ミネルヴァに完全な知性を備え、体型もまた現代の地球人とまったく変わることのない人種が誕生した。二〇二八年に行なわれた月《ルナ》面探査によってその存在が明るみに出たことに因み、ミネルヴァで進化したこの人種は〈ルナリアン〉と名付けられた。イギリス人科学者のハントがUNSAに招かれてナヴコムの一員となったのもこの時である。ルナリアンは極めて闘争心旺盛で激しい気性の持主だった。彼らはまたたく間に高度の技術を身に付け、やがて世界は対立する二つの超大勢力、セリオスとランビアに分裂した。対立はついに終末的大戦争へと発展し、戦火は惑星ミネルヴァを覆いつくし、さらにその周辺に拡がった。進んだ科学兵器を無差別に投入したこの激越な惑星戦争によってミネルヴァは破壊され、冥王星と小惑星帯となった。
戦争が両勢力の自滅をもって終結した時、月面に一握りの生存者が残されていた。月が太陽に引き寄せられる途中で地球に捕獲され、現在の軌道に落ち着いた時、彼らは何らかの手段によって月面を脱出し、太陽系内で考えられる唯一の避難所《ヘイヴン》、地球に降り立った。滅亡の危機に灘しながらも彼らは生き延びた。そして何千年もの間にかつての高度な技術文明を忘れ去り、彼らは未開の原始人に帰った。種の起原を証すものすら何一つ残っていなかった。しかし、彼らは持前の生命力と過激な闘争心に物を言わせ、先住者を駆逐して地球に根を張った。先住者の中で最も進んだ人種ネアンデルタール人は霊長類から緩慢な進化を続けてようやく旧石器時代の原始人に達したところだったが、もとよりルナリアンの末裔《まつえい》の敵ではなかった。こうして生存競争を勝ち抜いた彼らは再び文明への道を歩みはじめ、ついに地球を支配する現代人とたったのだ。彼らが科学を再発見し、その力によって自分たちの種の起原を解明したのは遙か後のことだった。
ダンチェッカーは薄汚れた白衣を着て、解剖台に横たわる毛深い大きな動物から取った骨を調べていた。その褐色の獣は筋肉が大きく発達し、下顎を取り去ったあとに一見して肉食動物とわかる鋭く頑丈な牙が覗《のぞ》いていた。ダンチェッカーはその獣を、中新世後期に栄えたダフィノドンと類縁の珍しい種類と説明した。四肢は比較的長く、尾も太く大きい。明らかに趾行動物の体型だが、上顎の臼歯三本は、この動物がアンフィシオンの、ひいては現在のすべての熊の祖先である証拠だという。シノデスムスの標本もダンチェッカーのところにあるが、こちらは今解剖台に横たえられている動物と違い、上顎の臼歯二本の発達状態からシノディクティスと現在のイヌ科の動物の間に位置するものと考えられる。ハントはダンチェッカーの説明を額面どおりに受け取った。
ハントはテューリアンの宇宙船をアメリカに誘致することに成功した暁には、是非ともダンチェッカーを歓迎委員の一人に加えるように、とコールドウェルにうるさく言っていた。世界じゅうの学者を集めても、ガニメアンの生物学ならびに心理学の知識においてダンチェッカーにはかなうまい。コールドウェルはその件についてウェストウッド研究所の所長に内密に打診した。所長は快く承諾してダンチェッカーにそれを伝えた。ダンチェッカーが大いに喜び、二つ返事で役目を引き受けたことは言うまでもない。とは言うものの、地球側の受け入れ態勢作りの任にあるお歴々のやり方については、ダンチェッカーは山ほど文句があった。
「どっちを向いても話にならないことばかりじゃあないか」部屋の片隅の消毒装置に使用ずみの解剖具を片付けながら、ダンチェッカーは腹立たしげに言った。「何かと言えぱ政治家の思惑がらみで、おまけに大時代なスパイ活劇の真似事だよ。人類の知識の進歩拡大のために後にも先にもまたとない素晴しい機会だというのに。おそらく、これを契機に地球の科学は一大飛躍を遂げるはずだよ。そういう時に、まるで麻薬の密売でも計画するように陰でこそこそやらなくてはならないとは、いったい何事かね? こんなことがあっていいものだろうか。電話でそのことに触れてもいかんと言うのだからね。この状態はもう我慢できないよ」
解剖台に屈んで開腹されたダフィノドンの内臓を興味深げに眺めていたリンが顔を上げて言った。「国連としては、まず安全第一を期することが人類に対する義務と考えているんです。何しろ、未知の文明との接触ですから。それで、上のほうでは、こういうことは専門家の仕事だと判断しているわけですよ」
ダンチェッカーは消毒機の蓋を荒々しく閉じ、隅の流しへ手を洗いに行った。
「〈シャピアロン〉号がガニメデにやって来た時、ホモ・サピエンス代表と言えぱ、わたしの記憶する限り、UNSA木星探査隊の学者グループと技術陣だけだったよ」彼は皮肉を込めて言った。「それでも、学者、技術者は外交団として実に模範的だった。宇宙船が地球に着いた時にはすでにガニメアンとの間に完全に友好関係が樹立されていたじゃあないか。きみの言う専門家たちは何もしていない。ただ地球から、どうしろこうしろと愚にもつかないことを指示して来ただけだ。そんなものは、誰も笑って相手にしなかったがね」
ハントはコンピュータ端末のディスプレイ・スクリーンでびっしり埋まった部屋の一隅からデスク越しにダンチェッカーに向ぎ直った。「それが、国連のやり方にもそれなりの理屈があるんだ。わたしらのしていることがどれほどの大冒険か、きみは考えてみたこともないだろう」
ダンチェッカーはふんと鼻を鳴らして解剖台の傍に戻った。「何が言いたいのかね?」
「ここでアメリカが独自に行動を起こしてテューリアンを誘致しなかったら、ソヴィエトに先を越されてしまう。国務省が決断を下したからいいようなものの、そうでなかったら、わたしらはもっと用心しなくてはならないのだよ」ハントはこれまでの経緯を話して聞かせた。
「どうも話がよくわからないね」ダンチェッカーは納得しなかった。「用心することは何もないじゃあないか。ガニメアンはその精神構造のしからしむるところとして、わたしらであれ誰であれ、とにかく他人に危害を加えるという発想を持ち得ない。これはきみも知っているとおりだ。彼らは、要するにホモ・サピエンスをして今日あらしめている性質、気質をまったく持ち合わせていないのだよ」彼は空気を掻きまわすような手つきで、ハントが何か言いかけようとするのを遮った。「テューリアン人がその後まったく違った性質を獲得したのではないかというきみの考えは、まず杞憂《きゆう》と言っていい。人類の行動形態を決定する基本的な性向燐確立されたのは何千万年前などというものではない。もっと昔、何億年も前に溯《さかのぼ》ることなんだ。わたしはミネルヴァの進化を詳しく調べたから自信をもって言えるがね、ガニメアンについてもその点は同じだよ。そのくらいの時間の尺度の中では、二千五百万年なんてわずかなものだ。きみが考えているような大きた変化は、とてもその程度の時間ではあり得ない」
「それはよくわかっているよ」ハントはきっかけを捉えて言葉を挟《はさ》んだ。「きみの話は見当が違う。間題は別だよ。ありていに言って、今交信している相手はガニメアンではないかもしれない。そこが問題なんだ」
ダンチェッカーは一瞬目を丸くし、それから、ハントともあろう者がと言いたげに眉を顰《ひそ》めた。「そんな馬鹿な。ガニメアンでなかったら何者だって言うんだ? 最初に月の裏側から発信したメッセージはガニメアン・コードだろう。それを受け取った相手がガニメアンではないと考える根拠が何かあるのかね?」
「今では、向うは英語だよ。ところが、ロンドン発じゃあない」ハントは言った。
「ジャイスターから信号を送っているんじゃないか」ダンチェッカーは言い返した。「他の情況から察して、ガニメアンはジャイスターへ行ったと考えて間違いないのではなかったかね?」
「信号がジャイスターから出ているかどうか、そこはまだはっきりしないんだよ」ハントはダンチェッカーの誤りを指摘した。「相手はなるほどそう言っている。ところが、向うは他にもずいぶんおかしなことを言って来ているんだ。こっちのビームは、たしかにジャイスターの方角に向けて発射しているがね、はたして太陽系をはずれた外側で、誰がそれを受信しているか確認する術はないんだ。ガニメアンの中継衛星か何かが、わたしらの与り知らない技術で信号を電磁波に変換しているということは、それはあり得なくもないよ。しかし、そうではない可能性もまた否定でぎないんだ」
「そんなむずかしい話じゃあないだろう」ダンチェッカーはいくらかうんざりした様子で言った。
「ガニメアンはジャイスターへ移住する時、ある種のモニター装置を残して行ったのだよ。おそらく、知性生物の活動を捉えて、いち早くそれをジャイスターに伝えるようにプログラムされているんだ」
ハントは首を横にふった。「もしそうだとしたら、百年以上も前に無線電信に感応して装置は始動したはずだよ。人類だってとうの昔にそのことを知っていなければおかしいじゃないか」
ダンチェッカーはちょっと考えてからにやりと歯を見せた。「それこそ、わたしの言うとおりである証拠だよ。装置はガニメアン・コードだけに感応するんだ。人類がガニメアン・コードでメッセージを発信したのは今度がはじめてだろう。つまり、応答しているのはガニメアンに間違いないわけだ」
「しかし、向うは英語で答えているんだよ。装置はボウイング製だとでも言うのかね?」
「言葉は地球を監視して覚えたのさ」
「同じようにしてガニメアン語をものにしたということも考えられるな」
「きみはどうかしているぞ」
ハントは両手をふりまわした。「いいかね、クリス。わたしはただ、事実をありのままに見ようと言いたいだけなんだ。現実に、思いもかけなかったことが起こりつつあるのかもしれないじゃあないか。きみは、相手はガニメアンに違いないと言う。実際、そのとおりかもしれないよ。しかし、そうではたいかもしれない。それ以上のことは、わたしは何も言っていないよ」
「先生は御自分で、ガニメアンは謀略に訴えたり、事実を歪曲したりすることはないっておっしゃいましたね」リンが二人をなだめる口ぶりで割って入った。「ところが、何者であるかはともかく、現在交信中の相手は惑星間外交の樹立について、ちょっとまともとは思えない考え方をしているらしいんです。それに、最近の地球の情勢についても大変おかしな見方をしています。ですから、どうしても誰かが、どこかで誰かに虚偽の情報を提供しているに違いありません。これはガニメアンらしくないことじゃありません?」ダンチェッカーは鼻で笑ったが、答をはぐらかすわけにもいかず、いささか閉口の体《てい》だった。サイドテープルの端末がコール・卜ーンを鳴らして、彼は救われた。「ちょっと失礼」ダンチェッカーはハントの前に手を伸ばして応答ボタンを押した。「わたしだが……」
ナヴコム司会本部のギニーからだった。「今日は、ダンチェッカー先生。そちらにハント博士がおいでですね、博士に急ぎの連絡です。グレッグ・コールドウェルから、直ちに知らせるように言われているものですから」
ダンチェッカーは場所を空け、ハントは椅子を回してスクリーンに向き直った。「やあ、ギニー。何の用だデ」
「J5から先生に連絡が入りました」ギニーは視線を手もとに落とした。「探査隊司令官、ジョゼフ・B・シャノンからです。読みますから、聞いて下さい。実験結果はそちらの予想どおり。追って資料を整理の上、伝送する。幸運を祈る=vギニーは顔を上げた。「お待ちかねの件ですね?」
ハントは喜びに顔を輝かせた。「そのとおりだ、ギニー。ありがとう。感謝するよ」
ギニーはにっこり笑ってスクリーンから消えた。
ハントは椅子をもとに戻して、きょとんとした二人を見上げた。「言い合いもこれまでだ。どうやら、遠からずはっきりしたことがわかりそうだぞ」
6
ジョルダーノ・ブルーノ観測基地の呼びものとも言えるのは、ギリシャ神話に登場する独眼の巨人キクロプスの目を思わせる直径四百フィートの受信用大パラボラアンテナである。鋼鉄の格子を放物面に組み上げたパラボラは月の裏側の荒涼とした岩石砂漠に、星の降る暗黒の空を背景に聳《そび》え立っている。パラボラの笠は観測基地の景観を支配する月面の円型軌条に直径を隔てて相対する二本の可動式鉄塔に支えられている。彼方の星雲の微かな囁《ささや》きにじっと耳を澄ますアンテナの影は観測ドームとその周囲にかたまった建物群に縞目の布のように拡がり、さらに長く伸びて基地をはずれた向うのクレイターや岩石の間に吸い込まれている。
カレン・ヘラーは二階建のメイン・ブロックの屋上に突き出た観測塔のガラス壁越しにパラボラアンテナを見上げた。彼女は一人きりになって頭の中を整理するためにやって来たのだ。十一名の委員から成る国連|月裏面《ファーサイド》代表団の険悪な集会は今日もまた、いたずらに時を移すばかりでまとまりが付かなかった。新しく起こった問題は、信号を発しているのはガニメアンではないのではないかという懸念で、これは先週ヒューストンでハントが話したことを不用意に受け売りした彼女の失敗だった。ふり返ってみると、何と思ってその間題を持ち出したのか自分でもよくわからない。結果から言って、彼女の問題提起は事を遅らせようとしている一派にまたとない口実を与えただけである。後に頭を抱えているノーマン・ベイシーに彼女自身が話したとおり、それはいくらか風通しをよくしようという狙いで試みた荒療治ではあったのだが、彼女の計算は見事にはずれてショック戦術は不発に終わった。焦燥のあまり、彼女はいつになく冷静を欠いていたかもしれない。しかし、もうできてしまったことは仕方がない。ジャイスター宛の最新のメッセージは早急な受け入れの可能性を否定し、ただ言葉数が多いばかりで実のない外交辞令に終始するものだった。皮肉にも、国連側がこうした態度を続けていられること自体、ガニメアンであるかどうかはともかく、異星人が地球に対してかけらほどの敵意も抱いていない証拠だった。もし彼らがその気なら、丁重な招待を受けるまでもなく、乗り込んで来て好ぎ勝手にふるまうこともできたろう。考えれば考えるほど国連の方針は腑《ふ》に落ちず、ヘラーの疑惑は深まるばかりだった。国務省としても、ソヴィエトが何らかの形で国連を操り、自分たちに有利に事を進めようとしているという観測を強めざるを得ない。とはいえ、合衆国はヒューストンが木星を介して独自のチャンネルを開くまでは原則を貫かなくてはなるまい。それも、ヒューストンが成功すればの話だ。ヒューストンのほうがうまく行ったとして、それまでにブルーノで事態の進展を図ろうとする努力が実らなければ、合衆国は業を煮やして単独行動に出たのだと開き直ることができる。
傾いた太陽の光を受げて黒々と尖鋭な輪郭を見せているアンテナを仰ぎながら、彼女は今さらのように地球から二十五万マイルを隔てた不毛の砂漢にこのオアシスを築いた知識と発想、そしてそれを裏付ける技術に驚嘆を禁じ得なかった。パラボラはそのような科学技術の象徴である。こうして彼女がふり仰いでいる今も、アンテナは密かに宇宙の果てを探っているのだ。かつて国家科学財団の学術顧問の一人から聞いた話によれば、一世紀前に電波天文学の幕が切って落とされて以来、世界中の電波望遼鏡が集めたエネルギーは、これを全部合わせても数フィートの高さから落とした煙草の灰ほどでしかないという。それにしても、現代の天文宇宙学が描き出した絵巻の何と絢爛《けんらん》たることだろう。陥没星、プラックホール。X線連星。星雲分子のガスからなる宇宙……。それらはすべて、煙草の灰ほどでしかない僅かな電波に含まれた情報から再構築された知識なのだ。
科学者に対して、カレン・ヘラーは二つの相反する気持を抱いている。彼らの知的な仕事にはただ頭が下がるばかりだし、時には畏怖の念に襲われることなくこれを眺めることはできない。が、一方、彼女は心のどこかで、科学者たちが非生命の世界に逃げ込むのは一種の責任回避であるように思えてならない。本来その中でこそ彼らの知識が意味を持つ人間社会のさまざまな負担から科学者たちは逃避しているのではなかろうか。生物学者でさえ、生命を分子や統計の視点からしか考えようとしない。科学は一世紀前に人類の課題を解決する道具を造り出したが、他の者たちがそれを鍛えて真に目的達成の手段に作り変えようとする間、学界は手を拱《こまね》いて脇に控えていた。二〇〇〇年代に入って国連が本当に世界に影響力を持つ超党派の機関であると認知されてはじめて、やっと戦略軍縮が実現し、超大国の資源はより安全な棲みよい世界の建設に回されるようになった。
つい最近まで、人類の進歩と全能力開花を目指す世界的な努力の縮図であった国連が、進歩の矢印が示す道に横たわる障害物になるとは何と悲しむべきことだろう。それに、いったいどうしてそのようなことが起きるのだろう? 国家であれ、何かの運動であれ変革を促す欲求が満たされ、ひとたび安定期に入ればもはやそれ以上の変革は好まれない、というのが歴史の法則であるらしい。世界的規模で加速する時代の進歩に歩調を合わせて来た国連は、すでにあらゆる国家がいずれ体験する老化現象、「ぼけ」の段階に入っているのだろうか?
しかし、惑星たちは計算によって予知されたとおりの軌道を運行し、ジョルダーノ・ブルーノの観測機器に繋がれたコンピュータが描き出す運行パターンは不変である。だとすれば、カレン・ヘラーにとっての現実は、それこそが砂上の楼閣だろうか? 科学者たちはもっと大きな不変の真実を求めて幻影を打ち払おうとしているのだろうかP それはともかく、あのイギリス人科学者のハントやヒューストンで会ったアメリカ人が象牙の塔に籠《こも》って、浮世離れした知識を弄《もてあそ》びながらのんびりと生涯を送る人物だとは、カレン・ヘラーにはどうしても考えられないことだった。
星屑を散りばめた空の向うから光の点が近付き、ゆっくりと大きく脹《ふく》らんで、やがてUNSA の月面輸送船の姿を現わした。タイコ(ティコ)からの定期便である。輸送船は基地のはずれに数秒間停滞してから、第三光学ドームと貯蔵タンクやレーザー・トランシーバーがかたまっている向うにそろそろと降下した。ワシントン経由でヒューストンから送られた情報を携えて連絡員が乗っているはずだ。地球監視態勢の背後にガニメアンの技術が控えているとすれば、機密保持にどんなに気を配っても慎重にすぎるということはない。安全とされている情報チャンネルも使用を避けよという通達は今も厳密に守られている。ヘラーは踵《きびす》を返して、背後の壁のボタンを押してエレベーターを呼んだ。ほどなく、彼女は月面下三階の照明も眩《まばゆ》い真っ自な廊下に降り立って、ブルーノの地底|迷路《ラビリンス》を中心部に向って歩きだした。 いくつか先のドアからソヴィエト代表のミコライ・ソプロスキンが姿を現わし、彼女と肩を並べた。背が低く、ずんぐり太って頭は見事に禿げ、顔は赤ん坊のように桃色である。引力の小さな月面でもソプロスキンの歩き方はぎくしゃくしてせわしない。ヘラーは一瞬自雪姫になったような気がした。しかし、ノーマン・ペイシーがこっそり見せてくれた人事記録によれば、ソプロスキンは元赤軍の中将で電子戦略および報復戦術を専門とし、その後長いこと防諜活動に携わった男である。彼以上にウォルト・ディズニーの世界から遠いところにいる男はいないだろう。
「だいぶ前に、原子力空母の試運転で三ケ月間太平洋で暮らしたことがあるがね」ソブロスキンは言った。「どこへ行くにも、果てもない通路を潜って行かなくてはならないのだよ。途中に何があるか、半分もわからずじまいだった。この基地にいるとあれを思い出すよ」
「わたしはニューヨークの地下鉄」ヘラーは調子を合わせた。
「ほう。しかし、地下鉄と違って、ここではちょくちょく壁を清掃するね。資本主義の悪いところは、儲かることしかやらないことだ。つまり、汚れたシャツをきれいなスーツで隠しているようなものだよ」
ヘラーは穏やかに笑った。少なくとも、会議での対立がここまで持ち越されていないのは喜ぶべきことだ。基地の閉ざされた狭い空間で、いつも同じ顔触れが鼻を突き合わせているだけでも気が狂いそうになるのだから。
「タイコからシャトルが着いたわ」彼女は言った。「何かいい知らせはないかしら」
「ああ、シャトルが着いたのは知っているよ。モスクワとワシントンからまた明日の喧嘩の種を送って寄越したことだろう」
国連憲章は代表が本国政府から指示を受けることを禁じているが、この月の裏側では誰もそんなことを気にしない。
「あんまり厄介なことではないといいのだけれど」彼女は吐息を洩らした。「今は全惑星の将来を考えるべき時でしょう。加盟国個々の政策は二の次よ」彼女は横目使いにそっとソプロスキンの反応を窺《うかが》った。今のところワシントンはまだ、国連がクレムリンに操られているという確証を掻んではいないし、ソヴィエトが自国の利益のために何かを画策しているかどうかもわかっていない。ソプロスキンは眉一つ動かすでもなかった。
廊下がつきて二人はコモン・ルームに出た。本来はUNSAの士官食堂だが、今は臨時に国連代表団の休憩所にあてられている。室内の空気は生温く澱《よど》んでいた。国連代表団の何人かと基地の常駐隊員たちが屯《たむろ》している。読書をしている者もあれば、チェスを囲んでいる者もいる。雑談しているグループもあり、奥のバーで飲んでいるグループもあった。ソプロスキンはそのまま部屋を突っ切って、各国代表のオフィスに使われているドアの向うへ姿を消した。ヘラーも同じほうへ行こうとするところを、二ールス・スヴェレンセンに呼び止められた。スウェーデン代表で委員会の議長を務めている男である。スヴェレンセンは入口の近くで何人かと話をしていたが、彼女を見ると仲間から離れて寄って来たのだ。
「やあ、カレン」彼はヘラーの腕を取って脇へ引き寄せた。「ずっと捜していたのだよ。今日の会議のことで、いくつか整理しておきたい点があってね。明日の会議事項をタイプする前に解決しなくてはならないので」
スヴェレンセンは痩せ形で見上げるような長身である。見事な銀髪を豊かに波打たせてきりりと背筋を伸ばしている姿を見ると、ヘラーはこの男こそ本当のヨーロヅパ貴族の最後の生き残りに違いない、といつも思う。誰もがくだけた服装で通しているブルーノ基地で、彼だけは常にきちんとしたスーツ姿で、しかもその着こなしには一点の隙もない。そして、スヴェレンセンはどことなく世の中を見下している節がある。おまえたちとは役目柄、仕方なしに付き合っているのだ、とでも言いたげである。この男が傍にいるとヘラーはどうも打ち解けない。パリをはじめヨーロッパ各地で長く暮らしたことのある彼女はそれを文化の違いで片付けるにはあまりにも広く世の中を知りすぎている。
「あの、わたし、これから郵便を受け取りに行くところなの」彼女は言った。「一時間ほど待っていただけるようなら、またここへ来ますけど。何か飲みながら話してもいいし、奥のオフィスでもいいわ。重大なこと〜」
「ちょっと議事進行の手続きに関することと、会議事項の中で厳密を期したいことが二、三あってね」スヴェレンセンは聴衆に呼びかけるような今しがたの態度とは打って変わって声を落とし、他の者たちにやりとりを聞かれたくないとでもいうふうに彼女の前に立ち蜜がった。妙に馴々しく、それでいて計算されたよそよそしさを感じさせる、胸に一物ある表情だった。スヴェレンセンに見つめられて、彼女は中世の荘園領主に睨まれた小女の気持を味わった。
「そのあとで、ちょっといいことを考えているんだ」彼は自信たっぷり、思わせぶりに言った。
「食事をしながら相談しよう。その光栄に与《あずか》らせてもらえるならばね」「食事はいつになるかわからないわ」ヘラーは言った。自分ながらまずい受け答えだと思った。
「遅くなると思うの」
「そのほうが結構じゃないか。お互いに」スヴェレンセンはぬけぬけと言った。
ヘラーは不愉快だった。口では一緒に食事をさせてもらえれぱ光栄だと言いながら、彼の態度はまるで、有難く思えと言わんばかりだった。「会議事項をタイプする前に、っておっしゃったのではなかったかしら」
「そのほうは一時間後に片付けよう.そうすれぱ、あとでゆっくり食事を楽しめるし、それから、その……」
ヘラーは冷静を保つのに苦労した。スヴェレンセンはこともあろうに彼女を口説いているのだ。もちろん彼女とてお堅い一方というわけではない。生きて行く間にはいろいろなことがある。しかし、自分の立場と場所柄をわきまえてもらいたい。
「あなた、何か考え違いをしていらっしゃるようね」彼女はそっけなく言った。「仕事の話でしたら、一時間後に。それじゃあ、これで失礼します」スヴェレンセンが素直に引き下がれぱ、それきり忘れてしまえることだった。
ところが、彼は引き下がらなかった。彼は一歩すり寄った。ヘラーは思わず後退った。「きみは実に知性的だし、意欲もある。もちろん、女性としても素晴しいよ、カレン」彼はそれまでの気取りを捨てて、ひそひそ声で言った。「今はいろいろと機会が開かれている時代だ……特に、力のある人間と上手く付き合えばね。わたしはきみの役に立てると思うよ。わたしと付ぎ合って、決して損はないんだ」
何という思い上がりだろう。「見損なわたいでいただきたいわ」ヘラーはあたりの注意を引くことを嫌って声を殺した。「これ以上、そんな話は聞ぎたくありません」
スヴェレンセンは、こんなことは毎度お馴染で飽きあきしているとでもいうふうに涼しい顔だった。
「考えておくことだね」彼は言い捨てて、ふらりともとの仲間に戻った。金を払って切符を買った。彼にとってはそれだけのことでしかなかった。ヘラーは憤懣やるかたなかった。煮えくり返るような怒りを堪えながら、何気ないふうを装って歩くのは並たいていの苦労ではなかった。
合衆国代表部のオフィスでノーマン・ペイシーが彼女を待ち受けていた。興奮を抑えかねてじっとしていられない様子だった。
「ニュースだ!」ヘラーの姿を見るなり彼は叫んだ。が、彼女のただならぬ気配に、ふっと眉を曇らせた。「おい、何だか恐ろしい顔をしてるな。どうしたんだ?」
「何でもないの。ニュースは何?」
「今しがた、マリウスクがここへ来たんだ」
グレゴーリ・マリウスクはブルーノ墓地の天文部長を務めるソヴィエト人で、常駐スタッフの中でもジャイスターとの交信について知る特権を与えられた数少ない関係者の一人である。
「一時間ほど前に信号が入ったのだがね、これがわれわれに宛てられたものではないというんだ。二進法のコードでね。マリウスクにもさっぱり中身がわからないそうだ」
ヘラーは浮かぬ顔でペイシーを見返した。地球上、ないしは地球に近いどこかから何者かがジャイスターに交信を求め、そのことを他には内密にしようとしているとしか考えられない。「ソヴィエトかしら?」彼女は陰にこもって尋ねた。
ペイシーは肩をすくめた。「何とも言えんね。スヴェレンセンは緊急会議を召集するだろう。ソプロスキンは飽くまでも自を切るな。しかし、わたし個人の考えを訊かれれば、ソヴィエトに違いないよ。ひと月分の給料を賭けてもいい」
ソヴィエトにしてやられたにしてはペイシーの弾んだ声はどうだろう。彼女が入って来た時の、あの浮きうぎした態度も今の話とはちぐはぐである。
「他には?」彼女は密かな期待をもって尋ねた。
ペイシーは堪えきれずに、口が耳まで裂げるような顔で笑った。彼は傍らのテーブルに開いた郵便行嚢《クーリエズ・バッグ》から一綴の書類を取り出し、勝ち誇ったように高くかざして叫んだ。「ハントはやったよ! 木星を介して交信に成功したんだ! 一週間後には着陸の段取りができている。テューリアンは来ると返事をしたんだよ。アラスカの今は使用されていない空軍基地だ。受け入れ態勢はすっかりととのっている」
ヘラーは彼の手から書類を引ったくるようにして目を走らせた。安堵《あんど》と歓喜が胸にこみ上げて来た。「こうなればこっちのものね、ノーマン」彼女は声にならぬ声で言った。「ソヴィエトに負けるもんですか」
「国務省はきみを召還したよ。約束どおり、きみはテューリアン一行歓迎委員会の一員だ」ペイシーは溜息を吐いた。「何度も月と地球を往復した甲斐があったね。わたしはきみのことを思いながら、こっちで留守を預かる損な役回りだ。行けるものなら一緒に行きたいよ」
「じきに順番が回って来るわ」ヘラーは言った。何もかもが輝いて見えるようだった。彼女はふと書類から顔を上げた。「ねえ、いいことがあるわ。今夜、二人でお祝いの食事をしましょう。いつまた会えるか巷わからないから、送別会もかねて。シャンペンと上等のワインを開けて、ここの冷蔵庫にある限り最高のトリを料理してもらうのよ。ねえ、どう?」
「そいつはいいね」ペイシーはうなずいてからちょっと思案げに顎をさすった。「しかし……少々考えものじゃあないかな? つまりね、一時間前に未確認信号が入った矢先だろう。何を祝っているのか、変に思われやあしないかね? スヴェレンセンはソヴィエトではなくて、わたしらが闇取引をしていると勘繰るぞ」
「だって、事実そのとおりでしょう」
「うん、まあ、それはそうだが……こっちは立派な理由があるんだ。抜け駆けとは違うよ」
「だったら何とでも思わせておけばいいのよ。わたしたちに疑いがかかっていると思えぱ、ソヴィエトは何となく安心して、あまり行動を急がなくなるのではないかしら」何やら別のことに思い至ったか、ヘラーの目に隠微な満足の色が浮かんだ。「スヴェレンセンはどうなりと、自分の好きに考えれぱいいんだわ」
7
ハントはUNSA支給の防寒ジャケットにキルティングのズボン、スノウプーツという出立《いでた》ちで、同じように着脹れた小集団に囲まれてマグラスキー空軍基地のコンクリートのエプロンに立っていた。彼らは白い息を吐きながら足踏みをして体を暖めていた。マクラスキー基地は北極圏を百マイル入ったベアード山脈の裾野である。前日来あたり一面に立ち込めていた霧もようやく晴れて、薄雲を透して太陽が白茶けた光円を覗《のぞ》かせ、あたりの景色もぼんやりとながら灰色の濃淡を描いていた。一行の背後の、半ば廃壗と化した建物にも人の気配があったが、関係者のほとんどは急速修復されたもと食堂の仮宿泊所と作戦司令所に集まっていた。UNSAの航空機や地上車はエプロンのはずれに山と積まれた物資や機材の陰に待機し、記念すべきこの場の情景を録画すべく、特に選ばれたUNSAの広報部員たちがカメラとマイクの砲列を敷いて後方に控えていた。司令所は地域のレーダー網と地中ケープルで結ばれ、ガニメアン宇宙船を誘導するホーミング・ビーコンも設置されていた。基地の空気はただならぬ緊張を孕み、時折りフェンスの向うの凍結した沼をかすめて飛ぶミツユビカモメの鳴き声と、トレーラーに積まれた発電機の唸りの他は静寂を破るものとてなかった。
マグラスキー基地は合衆国領内にあってどこよりも人口密集地から遠く、また幹線航空路から離れた場所である。とはいえ地上の一点である以上、監視衛星の目を逃れることはできない。ガニメアン宇宙船を密かに迎えるために、UNSAは新型宇宙船の大気圏再突入試験が行なわれると内外に発表し、航空各社およびその他の団体に、追って連絡あるまで同基地周辺を航行する飛行機は迂回するように通告した。また、地域のレーダー管制官らが異常な動きに慣れるように、UNSAはこの数日間ふいに飛行計画を変更してアラスカ上空に不規則に各種の飛行機を航行させた。ここまで手をつくせば、あとはもう、出たとこ勝負で成り行きに任せるしかなかった。恒星間宇宙船の着陸という異例の事件をはたして地上の観測者の目から隠しおおせるかどうかはまったく予想も立たぬことである。まして、異星人の進んだ監視システムが相手となると、対策を講じようにも何をどうすればよいやら、手の付けようもなかった。しかし、何者であるかはともかく、木星を介して交信した相手は合衆国側の措置に満足の意を表し、あとは自分たちに任せろと言って来た。
最後のメッセージでアメリカは歓迎委員会の顔触れとその簡単な経歴、それに委員会に選ばれた理由を伝えた。異星人はそれに応《こた》えて地球との交歓に指導的役割を担う三人の名前を知らせて来た。筆頭のカラザーはテューリアンとそれに従属する世界の政府代表で、地球で言えば大統領に最も近い存在であると説明されていた。次いで女流大使フレヌア・ショウム。テューリアン世界にあっては各惑星領域間の調整役である。もう一人、ポーシック・イージアンは科学産業経済担当の、地球で言えぱ大臣職にある人物である。この三人の他に誰が来るのか、あるいは、一行はこの三人ぎりなのか、異星人のメッセージはその他について何も明らかにしていなかった。
「〈シャピアロン〉号が地球へ来た時とは天と地の違いだね」ダンチェッカーは殺風景な基地を見渡して、物足りない口ぶりで言った。〈シャピアロン〉号がジュネーヴ湖畔に降り立った時には何十万という群衆が歓呼で迎え、その模様は生中継で地球全土に伝えられたのだ。
「ガニメデの基地を思い出すよ」ハントは答えて言った。「これでヘルメットをかぶって、その辺に宇宙フェリーのヴェガでもいればガニメデの景色とさして変わらない。新しい時代の幕開きがこれだとはね」
ハントを中に、ダンチェッカーとは反対側に立ったリンは毛皮の裏の大きすぎるフードに顔を埋め、両手をボケットに深く突っ込んで、氷のようになった雪の塊を踏み潰した。「もうそろそろよ。ブレーキはちゃんときくんでしょうね」
すべてが打ち合わせどおりなら、宇宙船は二十四時間前に二十四光年以上も離れたテューリアンを飛び立っているはずだった。
「ガニメアンに関する限り、事故の心配は無用だよ」ダンチェッカーが自信たっぷりに言った。
「事実ガニメアンだとすればの話だね」ハントは条件を付けた。もっとも、今はもう彼もそのことを疑っていない。
「ガニメアンでなかったらお目に懸かるよ」ダンチェッカーはじれったそうにふんと鼻を鳴らした。
彼らの後ろにはカレン・ヘラーと合衆国国務長官、ジェロール・パッカードがむっつりと黙りこくって立っていた。ガニメアンであると否とにかかわらず、異星人は友好的であると主張して誘致作戦を進めるように大統領を説き伏せたのはこの二人である。その判断が誤りなら、二人は合衆国史上最大の失策を演じることになる。大統領は自ら基地に赴《おもむ》いて異星人を出迎えたい意向を示したが、重要人物が何人も一時にワシントンを不在にしてはいらざる疑惑を招くと側近たちに説得されて、渋々思い止まった。
高い支柱に取り付けられた拡声機から作戦管制官の声が響き渡った。
「レーダー・コンタクト!」
ハントのまわりの者たちは傍目にもはっきりそれとわかるほど一斉に体を堅くした。一同の後方ではUNSAの技術者たちが緊張の面持で何かと最後の準備に追われていた。再び管制官の声が響いた。
「西方二十ニマイル、高度一万二千フィートの上空を時速六百マイルから減速しつつ接近中」
ハント以下、エプロンの一同は思わず空をふり仰いだが、雲のかかった空には動くものの影一つ認められなかった。
一分間が何倍もの時間に感じられた。
「五マイルに接近」管制官が言った。「五千フィートに降下。間もなく視界に入る見込み」
ハントは心臓が躍り狂うようだった。凍てつく寒さにもかかわらず、分厚い防寒服が息苦しかった。リンは彼に腕をからげて体をすり寄せた。
西の山から吹き降ろす風が微かな音を運んで来た。音はほんの一瞬彼らの耳をかすめて遠ざかり、次に聞こえた時は前よりずっと近くはっきりしていた。音はゆっくりと脹れ上がり、底力のある排気音に変わった。耳を傾けながら、ハントははてなと眉を顰《ひそ》めた。彼はあたりを見回した。UNSAの技術者たちも狐につままれたように顔を見合わせていた。何かがおかしかった。耳馴れた音は、とうてい恒星間宇宙船のものとは思えない。基地内にじわじわと拡がったざわめきは、雲を突き抜けてまっすぐに降下して来る黒い機影にふっつり跡絶えた。それはボウイング1227超音速VTOL中距離輸送機であった。UNSAが汎用輸送機として国内で広く使用している機種である。エプロンに高まった緊張はたちまち堰《せき》を切って、罵声悪態の波に変わった。
ヘラーとパッカードの後ろでコールドウェルはどす黒い怒りに顔を歪め、うろたえたUNSA の士官に激しく向き直った。「この空域は航行禁止のはずだぞ」
士官はなす術もなく、ただ首を横にふるばかりだった。「もちろんでず。どうしてこういうことになったか……誰かが、その……」
「早くあの馬鹿者を追い払え!」
自分が怒鳴りつけられては間尺に合わないという顔つきで、士官は俄《にわか》造りの司令所に駆げ込んだ。どさくさに拡声器のスイッチを切り忘れたのであろう、管制室内のやりとりがそのまま外に流れた。
「どうしようもないんだ。ぜんぜん応答しないんだから」
「緊急時周波数を使え」
「そんなことはとっくにやったよ。うんでもなきゃあすんでもない」
「どうなってるんだ、いったい? おかげでこっちはコールドウェルにどやしつけられたんだ。イェロー・シックスを呼び出して相手を確認しろ」
「それもやったよ。向うでもわからん。UNSAの飛行機だと思ったそうだ」
「野郎、その電話をこっちへ貸せ!」
飛行機は沼沢地のはずれで姿勢を水平に直し、マクラスキーの管制塔から打ち上げるまっ赤な警告用の仄光弾をものともせずにぐいぐい近付いて来た。やがて、減速しながら歓迎委員会一行のすぐ手前に達した飛行機はちょっとその場に静止してから、コンクリートのエプロンに向かってそろそろと降下しはじめた。UNSAの士官や地上作業員が腕を交差させて着陸不可の合図をしながらぱらぱらと飛び出したが、それも無視して飛行機が接地すると、彼らはまるで蹴散らされたように後退った。コールドウェルは機首の直下に詰め寄って、コクピットに向かってしきりに合図するUNSAの男たちに命令を発しながらつかつかと進み出た。
「なっとらんね」ダンチェッカーは吐き捨てるように言った.「こんなことがあっていいはずのものじゃあないんだ」
「マーフィは休暇から戻ったようね」リンはがっかりした顔でハントに耳打ちした。が、ハントは彼女を黙殺した。彼は何とも言えぬ妙な顔つきでボウイングを見つめていた。目の前で不思議なことが起こったのだ。ボウイングはこの数日間の準備作業で踏み荒らされ、泥濘《ぬかるみ》のようになった雪の上に降下した。にもかかわらず、雪は散りもせず、蒸気となって噴き上がりもしなかった。つまり、ボウイングは逆噴射を使わなかったのだ。外見は確かに1227だが、推進機構が違う。それに、地上で大騒ぎしている男たちに対してコクピットからは何の反応もない。それもそのはずだ。ハントの見間違いでない限り、コクピットは窒っぽなのだ。はたと膝を叩いてハントはにんまり顔をほころばせた。
「ヴイック、どうしたの?」リンが尋ねた。「何がおかしいの?」
「監視されている飛行場の真ん中でこっそり何かをやるにはどうしたらいい?」ハントはボウイングを指さした。さらに言葉を続ける閑もなく、生っ粋のアメリカ人と思われる声がエプロンの向うから朗々と響き渡った。
「テューリアンを代表して地球の皆さんに御挨拶申上げます……。どうもお待たせいたしました。それにしても、あいにくのお天気ですね」
ボウイングのまわりに群がっていた男たちは電気に打たれたように棒立ちになった。沈黙があたりを覆った。と、今聞いた言葉の意味がじわじわと浸透して、男たちは一人また一人と左右に首をふり、互いに声もなく顔を見合わせた。
これが恒星間宇宙船だろうか? 〈シャピアロン〉号は全長半マイルの聳《そび》え立つ巨塔だったではないか。一同はボウイングを前にして、月面タイコ基地で年老いた小女の演ずる自転車の曲乗りを見るようた気持に襲われた。
機首に近い昇降口のドアが開き、梯子《はしご》がするすると地面に伸びた。基地中の視線が昇降口に集まった。UNSAの士官や地上作業員たちはゆっくりと後へ退がり、入れ替わってハントら三人、一歩遅れてヘラーとパッカードがコールドウェルの背後にゆっくり進んで、曖昧《あいまい》に立ち止まった。ずっと後方ではカメラの砲列がぴたりと昇降口を狙って次の動きを待ち構えていた。
「どうぞ、お入り下さい」同じ声が一同を促した。「そんなところにいて、風邪を引いたらつまらないでしょう」
ヘラーとパッカードは困惑に目を見交わした。ワシントンでの打ち合わせにこんな場面はなかった。
「ぶっつけ本番で行くしかないね」パッカードは低く言い、自信ありげに笑ってみせようとしたが、笑いはついに顔までは拡がらなかった。
「ここがシベリアでないのがせめてもの慰めね」ヘラーは押し出すように言った。
ダンチェッカーは得意然としてハントをふり返った。「あれがガニメアンのユーモアでないとしたら、わたしも特殊創造説に宗旨を変えるよ」
異星人は事前に宇宙船擬装のことを連絡して来てもよかったはずだ、とハントは内心思った。しかし、彼らはちょっとしたいたずらで地球人をあっと驚かせたい誘惑に勝てなかったのだ。それに、格式張った形をととのえる閑はなかったであろう。なるほど、これはガニメアンのやりそうなことだ。
UNSAの男たちが左右に分れて道を空け、一同はコールドウェルを先頭にゆっくりと前に進んだ。ハントより数歩先に立ったコールドウェルは、梯子の下に行き着いて、ひゃあっと頓狂《とんきょう》な声を発した。彼はふわりと宙に浮き上がっていた。他の者たちはぎくりと足を止めた。コールドウェルは梯子に足を触れることもなく、次の瞬間には息も乱れず昇降口に立っていた。ふり返った時はいくらかうろたえを見せていたが、すぐに落ち着きを取り戻して、コールドウェルはことさらむずかしい顔で言った。「おい、何をぐずぐずしている?」
次はハントの番である。彼は深呼吸して気を静め、ぐいと肩をそびやかして足を踏み出した。
何とも言えず暖かく快い刺激が全身を包んだ。体の重みがなくなって、何かに吸い寄せられるのを感じた。足の下を梯子が流れたと思う間もなく、彼はコールドウェルの隣に立っていた。コールドウェルは異様な目つきで彼の顔を覗き込んだ。ハントはもはや疑いを持たなかった。これはボウイング1227ではない。
狭い昇降口を囲う透明な琥珀《こはく》色の壁に柔らかい光があふれていた。後部寄りのドアの奥からは一段と強い光が洩れていたが、その向うに何があるかはその位置からではわからなかった。ハントがざっとそこまで様子を掴[手偏+國]んだところへ、リンが宙を飛んで隣へふわりと降り立った。
「煙草は? きみは禁煙主義者だったっけ?」ハントは言った。
「ステュワデスはどこ? プラソデーをお願いしたいのだけれど」
昇降口の外でダンチェッカーのおろおろ声かした。「どういうことだ、これは? この拷問の仕掛を何とかしてくれ!」
ふり返ると、ダンチェッカーが梯子から数フィート離れた宙に浮かんで手足をばたつかせていた。「冗談じゃない。早く降ろしてくれ!」
「入口を塞がないで下さい」どこからともなく、最前の声が聞こえた。「順に詰めて、場所を空げてくれませんか?」
ハントたちは奥のドアのほうへ進んだ。そのあとへ、ダンチェッカーはぶりぶり腹を立てながら舞い込んだ。ヘラーとパッカードがやって来る間に、ハントとリソはコールドウェルに続いて後部に通じるドアを潜った。
そこは奥行二十フィートほどの狭い通賂で、突き当たりにもう一つドアがあった。ドアは閉まっていた。左右は床から天井に達する間仕切りで小間割りされ、ちょうど通路を隔てて電話ボックスが向かい合わせに並んだ形だった。彼らはおそるおそる通路を進んだ。間仕切りの中は全部同じ造りで、通路に向かってゆったりとした赤いクッションの寝椅子があり、虹色の水晶に似た素材を象嵌《ぞうがん》したパネルと、何のためともわからぬ複雑精緻な機械装置が金属のフレームに支えられて寝椅子を囲んでいた。異星人の気配はどこにもなかった。
「本船へようこそ」また声がした。「皆さん、それぞれ席にお着き下さい。そろそろはじめましょう」
「その声は誰だ?」コールドウェルがあたりを見回して尋ねた。「自己紹介してくれると有難いのだがね」
「わたしはヴィザーです」声が答えた。「もっとも、わたしはパイロット兼船室係にすぎません。あなたがたとお会いするはずの者たちは、間もなくここへ参ります」
異星人たちは突き当たりのドアの奥に控えているのだ、とハントは想像した。どうも勝手がわからない。彼は〈シャビアロン〉号がガニメデ上空の軌道に現われた直後にはじめて同号上でガニメアンと出会った時のことを思い出した。あの時も、ちょうど今と同じように通訳の声を介して異星人と接触したのだ。声の正体は〈ゾラック〉と呼ばれる超機能コンピュータ・システムであった。コソピュータは船内のいたるところにさながら神経系統のように入出力端末の網を持ち、宇宙船のほぼあらゆる機能をつかさどっていた。
「ヴイザー……」ハントは声を張り上げた。「きみはこの船内蔵のコンピュータ・システムか?」
「そう言ってもいいでしょう」ヴィザーは答えた。「ここまでがこちらの手が届く限界です。そこにシステムの極《ご》く一部が延長されています。システムそのものはテューリアン以下、この惑星系全体に拡散しているのです。あなたがたはそのネットに接統しているわけです」
「じゃあ、この宇宙船は単独で機能しているのではない、ということかな?」ハントは尋ねた。
「きみは、こことテューリアンの間をリアル・タイムで結んでいるのか?」
「そのとおり。そうでなかったら木星からのメッセージに応答できるはずがないでしょう」
ハントは度肝を抜かれた。ヴィザーの答は恒星宇宙間に張りめぐらされた通信網がほとんどゼロに等しい時間差で情報を伝達していることを意味する.つまり、ことエネルギーに関する限り、ナヴコムのポール・シェリングとさんざん頭をひねった恒星間瞬間移動は理論的に立証されたばかりか、現にこうして実用の域に達しているわけだ。コールドウェルが茫然自失したとしても無理はない。これにくらべたら、ナヴコムはまだ石器時代である。
気が付くと、ダンチェッカーがすぐ後ろで物珍しげにあたりを見回していた。ヘラーとパッカードはちょうどドアを抜けて入って来たところだった。リンはどこへ行ったのだろう? ハントの無言の尋ねに答えるかのように、すぐ脇の間仕切りの奥でリンの声がした。「ねえ、とってもいい気持。これなら、一週間や二週間このままでもいいわ」
ふり返ってみると、リンは早々と椅子に寝そべって陶然としていた。ハントはコールドウェルと顔を見合わせ、ちょっとためらってから手近の小間《キューピクル》に入って、微妙な曲面を描く寝椅子の窪みに体を沈めた。椅子はガニメアンではなく、地球人の体格に合わせてあるようだった。ハントは大いに関心をそそられた。彼らはこのために、わずか一週間で宇宙船を準備したのだろうか?いかにもガニメアンのやりそうなことだ。
再び、何とも言えず暖かく快い刺激が全身を包んだ。ハントは眠気を催し、自然に頭を枕に預けた。かつて味わったことのない恍惚を覚えて、彼はふと、もうこのまま寝たきりになってもいいと思った。夢見心地で向うを見ると、女の姿がぼんやりと浮かんでいた。誰だったか、名前を思い出せなかった。並んで立っているのは、確かワシントンから来たどこやらの省の長官だ。二人は不思議そうにハントを見降ろしていた。「やってごらんなさい。なかなか具合がいいですよ」ハントは自分の声を遠くに聞いた。
意識のある部分では今しがたまではっきり物を考えていたという自覚があったが、何を考えていたのか思い出すことができなかった。そんなことはどうでもいい気分だった。意識はぱらぱらに分解してしまい、全体としてまとまって機能しなくなっていた。ばらばらになったそれぞれが勝手に動き出すのを彼はどこか離れたところから他人ごとのように眺めている気持だった。これでは困るではないか、と意識のある部分が言い、そのとおりだ、と別の部分が相槌を打った。にもかかわらず、彼はいささかも痛痒《つうよう》を感じなかった。
視覚に異常な変化が起こっていた。見上げる天井が突然形を失ってもやもやと流れだしたと思う間もなく、輪郭のさだかでない奇妙な形にまとまって収縮膨張を繰り返し、一旦消え去ってから、今度は前よりも明るく見えだした。色の狂ったコンピュータ・ディスプレイのように、一瞬あたりのものがもとの色の補色に見え、ふっとまたすべてが常態に戻った。
「御迷惑でしょうが、準備の都合がありまして」どこかでヴィザーの声がした。少なくとも、ハントはヴィザーの声だと思った。耳を刺すような高音から何オクターヴも落ち込んで捻りとも囁きともつかぬ低音になるその声の言うことは聞き取りにくかった。「この過程は……」そのあとはまるで何だかわからない。「……二時的なものです。そのあと……」またしばらく歪んだ音が続いた。「……すぐにおわかりいただけるはずです」最後のところは普通に聞こえた。
ハントは体が寝椅子に強く押しつけられるのを感じた。着ているものが肌に貼りつくようだった。息をすると、鼻孔を空気が流れるのがわかった。体が痙攣《けいれん》して彼はどきりとした。が、気が付いてみると体は少しも動いてはいなかった。痙攣と思ったのは全身の皮膚感覚にめまぐるしい変化が起こっているせいらしかった。体中がかっと熱くなり、それから冷たくなり、痒《かゆ》みを覚え、次いでちくちくした。皮膚の感覚が失われた、と思ったが、その時はすでに異常は去っていた。
何もかもがすっかりもとのとおりに帰った。意識は一つにまとまって、全身が正常に機能しはじめた。ハントは指を動かしてみた。体じゅうに浸透していた目に見えないゲル状のものは跡形もなく消え去っていた。彼はそろそろと片方の腕を、続いてもう一方を上げてみた。どこもおかしいところはなかった。
「どうぞ、お起き下さって結構です」ヴイザーが言った。ハントはそっと床に足を降ろし、後退りに通路へ出た。他の者たちも同じように何が何やらさっぱりわからないという顔つきで次々に姿を現わした。突き当たりのドアは前のとおりぴたりと閉まったままだった。
「今のはいったい何の真似かね?」ダンチェッカーが柄になく寝惚けたような顔で尋ねた。ハントは黙って首を横にふるしかなかった。
ふいに背後でリンの声がした。
「ヴィック」
たった一言だったが、そのただならぬ響ぎにハントははっとふり返った。リソは飛び出すばかりに目を剥いて彼らが最初に入って来たドアのほうを見つめていた。その視線を辿ってハントもドアのほうに目をやった。
戸口を塞《ふさ》いで見上げるばかりのガニメアンが立っていた。黒ずんだ緑色のチュニック上下に短めのケープか、大きめのジャケットとでも言うべきものをはおっている。ガニメアン特有の長く尖った顔の中で、潤いのある薄紫の目が地球人の一行をひと渡り見回した。互いに相手の出方を窺《うかが》う恰好で、短い沈黙が流れた。やがて、ガニメアンは言った。「わたしはプライアム・カラザーです。お待ちしていたとおりの方々ですね。どうぞ、こちらへおいで下さい。挨拶を交わすには、ここは少々窮屈ですから」
ガニメアンは言うだけ言うと踵《きびす》を返してドアの向うへ姿を消した。ダンチェッカーはぐいと顎を突き出し、思いぎり背筋を伸ばしてその後を追った。リンがちょっと遅れてそれに続いた。
「そんな馬鹿な」ハントがリンの後から行きかけようとするところヘダンチェッカーの声が聞こえた。 頑《かたくな》に理性にすがりつき、五感が捉えたものを何としても認めまいとする抵抗の声らしかった。次いでリンがあっと息を呑んだ。ドアを抜けて、ハントはすぐにそのわけを知った。彼はカラザーが機首寄りの船室からやって来たものと思い込んでいた。が、そんな船室はどこにもなかった。もとより船室など必要ない。ガニメアンたぢは船外だった。
マクラスキー空軍基地も、アラスカも、北極もそこにはなかった。ハントの目の前に、地球とは似ても似つかぬ世界が拡がっていた。
8
航空機であるか恒星間宇宙船であるかはともかく、ハントたちの乗った異星の乗りものはもはやひらけた屋外に停留してはいなかった。そこは、琥珀《こはく》色やくすんだ緑色の光を帯びた斜面や浮床が目もくらむほどの複雑さで錯綜する宏大なコンコースの中だった。通路や回廊、立坑たどが大小さまざまな角度で立体交差し、入り組みながら一点に集まったその中心にハントはいるようであった。重なり合い、絡み合う空間は八方に拡がって、上下左右、遠近高低の感覚はまるで通用しなかった。エッシャーの絵の中に迷い込んだかのように、一つの面がある所では床であり、別の所では壁であり、また他の場所では天井になっている矛盾に満ちた空間でハントは必死に正気を保とうとしたが、目に映るものがことごとく彼の常識を裏切った。壁面はよじれて裏返しになり、かと思うと二つの面が直角に交わり、あるいはいつの間にか一つに融け合って新たな面を作り出していた。そのあちこちでガニメアンたちがいかにも勝手知った様子で立ち働いている。ハントは方向感覚を失い、ついには頭が働かなくなって考えることを放棄した。眼前の光景は彼の理解を超えるものだった。
ドアから少し離れたところに十数人のガニメアンがかたまり、先程カラザーと自己紹介した一人がやや手前に立っていた。彼らはハントたちを待っているらしかった.一呼吸あって、カラザーはハントに向かって手招きした。何が起こっているのかわからないまま、ハントは僅かに、催眠術をかけられたかのように自分が何かに引ぎ寄せられ、ドアを抜けて床の上を歩きだすのを感じた。
たちまちあたりはめまぐるしく回転する色彩の渦と化し、その中心に吸い込まれたハントは極《ご》く身近な範囲で璃うじて保ち得ていた方向感覚すら失った。千人もの泣き女の叫喚かと思われる異様な音が彼の耳を圧倒した。彼は網膜を突き破るような光の雪崩《なだれ》に捉えられていた。 渦は螺旋《らせん》状のトンネルになり、その中をハントは加速しながら突き進んだ。前方の暗黒の果てから名状し難い形をなす光の塊が迫っては彼の目の前で炸裂した。ハントは生まれてはじめて心から恐怖に襲われた。恐怖は神経をずたずたに切り刻んで彼の思考力を奪った。自分の意志ではどうにもならず、目を覚ますことすらできない悪夢であった。
トンネルの向うに黒い出口が見えた。それが急速に近付いたと思うと、光の渦はふっと消え去った。トンネルを出たところは果て知れぬ宇宙空間であった。星屑を浮かべた黒い宇宙の深淵である。ハントは何事もなかったように満目の星を眺めていた。
いや、気が付いてみると、そこは室内で、彼が眺めている星は大きな壁面スクリーンに映し出されたものであった。あたりは暗く、ものの形もさだかでなかったが、そこはある種の制御室と思われた。人の気配がする……地球人だ。ハントはふるえを抑えることができなかった。冷たい汗が衣類を濡らすのがわかった。しかし、恐怖はいくらか去って思考力も回復しかけていた。
スクリーンの中央を、何やら明るいものが向うから接近して来るところだった。どこかで見たことがある。かつてこれとまったく同じ体験をした、とハントは思った。スクリーンの横合いから、金属光沢を放つ大きな物体の一部が前景に迫り出した。スクリーンの外からぽうっと赤い光がその表面を照らしていた。どうやら、映像を捉えているカメラがその物体に載っているらしい。してみると、ハントは今、宇宙船の司令室でスクリーンに映し出された飛行物体の接近を見守っているのだ。しかも、彼は以前これとまったく同じ情況でスクリーンの前に立ったことがある。
スクリーン上の飛行物体は見るみる大きさを増した。が、それがはっきりと輪郭を現わすのを待つまでもなく、ハントには正体が知れていた。〈シャピアロン〉号である。彼は一年前のJ5 の司令室内に引き戻され、はじめてガニメデの上空に接近する〈シャピアロン〉号を見守っているのだ。彼はUNSAの資料室《アーカイヴ》からこの時の録画を持ち出して何度再生したかわからない。目をつぶっていても次に何が起こるか細部にいたるまで残らず人に話せるほどである。宇宙船は徐々に減速し、やがて五マイルほど向うで相対速度をゼロに保ちつつ、J5と平行する軌道に漂駐した。向きを変えて横腹を見せた全長半マイルの宇宙船は航空宇宙工学の極致とも言うべき、実にほれぼれするほどの美しい曲線を持っていた。
続いてハントのまったく予期せぬことが起こった。スクリーソの一方の端から尾部を輝かせた一基の誘導弾が飛び出し、〈シャピアロン〉号の機首をかすめたと見る間に、至近距離で火の玉と化して砕け散った。ハントは目を疑った。これはなかったことである。
スクリーンから声が響いた。アメリカ軍将校特有のきびきびと歯切れの良い声だった。「警告ミサイル発射。一斉攻撃用意。目標追尾中。Tビーム、ニアミス・パターンで待機。駆逐艦隊、密集|援護《えんご》隊形で接近中。異星船が侵入を試みたら発砲せよ」
ハントは目を覚まそうとでもするかのように首をふって左右を見回した。まわりの者たちは彼の存在を無視している様子だった。
「違う!」彼は叫んだ。「こんなふうじゃなかった。これはでたらめだ!」まわりの考たちはふり向きもしなかった。
スクリーン上に恐ろしげな形をした黒い駆逐艦が群がり、八方からガニメアン宇宙船を包囲した。
「異星人より応答」抑揚のたい声が流れて来た。「駐留軌道《パーキング・オービット》に降下開始」
ハントは今一度抗議の叫びを上げてスクリーンに駆け寄り、司令室の者たちに説明を求めようとふり返った。影のようにあたりにうずくまっていたはずのスタヅフの姿はそこにはなかった。司令室そのものも、いや、J5それ自体が煙のように消え失せていた。
ハントは荒涼たる氷の原に寄り添うようにかたまった金属のドームと基地の建物の脇に並んだ宇宙フェリー、ヴェガを見降ろしていた。ガニメデのメイン・ベイスだった。建物からやや離れた広い空地に〈シャピアロン〉号が銀色の巨塔となって聳《そび》え立っていた。異星の宇宙船の傍らで、ヴェガはまるで蟻のようだった。ハントは最前の場面から数日後の、〈シャピアロソ〉号着陸の瞬間に立ち会っているのであった。
ところが、彼自身がその場に臨んだ簡素ながら心暖まる交歓風景とは異なり、ガニメアンの一行は重装備の戦闘隊に銃を突きつけられて氷の上を歩かされていた。隊列の背後からは装甲車の重砲がガニメアンたちを狙っていた。基地全体が防備態勢で、あちこちに砲床が設けられ、ミサイル発射台をはじめとして実際にはあるはずもない各種の兵器がいつ何時なりと戦闘の火蓋を切る構えを見せていた。あり得べからざることだった。
ハントは自分が基地のドームからその情景を眺めているのか、それとも、どこか別の高いところに浮かんでいるのか判然としなかった。先程の司令室と同じで、身の回りはぼんやりと薄闇に閉ざされていた。彼はあたりをふり返ろうとしたが、夢の中のように力が入らず、体がまるで言うことを聞かなかった。彼は一人ぼっちだった。だだっ広い氷原の上であるにもかかわらず、彼は閉所恐怖を感じた。異星人の乗りものから外へ出た時の驚愕は去らず、神経を責め立てて彼の思考力を奪った。「どういうことだ?」彼は叫んだが、声は咽喉の奥につかえて嗄《しゃが》れた呟きにしかならなかった。「説明してくれ。何のつもりだ?」
「憶えていないかね?」どこかわからぬところから、耳を聾《ろう》するほどの大声が返って来た。 ハントはうろたえてあたりを見回した。誰もいなかった。「憶えていないかとは、何の話だ?」彼は声にならぬ声で問い返した。「こんなことは記憶にない」
「これが記憶にない?」同じ声が詰問した。「きみはその場にいたではないか」
ハントは無性に腹が立って来た。神経を痛めつげられた反動が遅れぱぜにやって来たようだった。「違う!」彼は叫んだ。「あんなふうじゃない。全部でたらめだ。これはいったい何の真似だ?」
「でたらめ? じゃあ、本当はどんなふうだったね?」
「ガニメアンは友好的だった。わたしらはガニメアン一行を歓迎したぞ。友好のしるしも贈った」抑え難い憤りが彼の全身を揺さぶった。「きみは何者だ? 狂っているのか? 出て来い」
ガニメデの基地が消え去り、さまざまな情景が順不同に彼の眼前を流れた。めまぐるしい展開だったが、彼はそこに明らかな情況の推移を読み取った。ガニメアン一行はアメリカ軍によって情無用に逮捕され、彼らの進んだ科学技術を供与ずると無理に約束させられて、やっと宇宙船の修理を許された。ガニメアンたちは地球に連れて行かれ、もっぱらアメリカの利益のためにこき使われた後、その労をねぎらわれることもなく、ディープ・スペースに放逐された……
「これは事実ではないかね?」
「冗談にも程がある。でたらめだ! 誰だか知らないが、きみは狂っている」
「どこが事実に反すると言うのだね?」
「はじめから終わりまで、何もかもだ。いったいこれは……」
ソヴィエトのニュース・キャスターが半狂乱でしゃべっていた。ロシア語を知らないはずのハントにも、何故か話の中身はよくわかった。
今や戦争は不可避の情況となった。先制の手を打たなけれぱ西側は優勢に乗じて何をしでかすかわからない……あちこちで煽動の演説が行われ、群衆は歓呼をもって応えている……アメリカはMIRV衛星を打ち上げた……ワシントンはしきりにプロパガンダを展開している……東側でも戦車やミサイル輸送車が動員され、中国軍歩兵部隊が出動した……強力放射線兵器は太陽系全域に密かに配備されている。歯止めを失った対立は鳴りもの入りで滅亡の道を突き進んでいる
「止めてくれ!」ハントは胸も張り裂けよとばかり叫んだ。反響は四方八方から捜ね返って彼を包み、やがて長く尾を曳いて遠くに消えた。彼は体力が萎え、自分がくずおれるのを感じた。
「嘘を言ってはいないようだな」どこかで静かた、しかし決然とした声が言った。ハントを呑み込んだ宇宙の混沌の渦の中で、その声は正気の最後の牙城であるように思われた。
ハントは昏倒した……どこか深いところへ限りなく落下した……目の前がまっ黒になった……彼は意識を失った。
9
ハントは柔らかく居心地の良い安楽椅子でまどろんでいた。もうかなりの時間そこでそうしているかのように、彼はすっかり体力を回復して寛いでいた。異常な体験の記憶はまだ生々しかったが、何故か彼はそれを学術的好奇心にも似た気持で、やや離れたところから冷静に眺めているようであった。恐怖は跡形もなく去っていた。空気は新鮮で、微かに芳香を漂わせていた。どこかで静かな音楽が聞こえていた。しばらくして、彼はそれがモーツァルトの弦楽四重奏であることに気付いた。狂夢は彼をどこへ導いたろうか?
ハントは目を開け、伸びをしてあたりを見回した。夢うつつに意識していたとおり、彼は安楽椅子に掛けていた。そこは極《ご》く普通の部屋の中で、もう一つ同じような椅子があり、読書用の小さな机の他に、中央に大きな木のテープルが置かれていた。ドアの脇のサイドテーブルには豪華な鉢にバラが活けてあった。焦げ茶の厚いバイルのカーペットはオレソジと茶色を基調にした部屋の内装とよく合っている。背後に一つだけある窓には厚いカーテンが吹き込む風に小さく揺れていた。ハントはいつの間にか濃紺のオープンシャツと薄いグレーのスラックスに着替えていた。部屋には誰もいなかった。
しばらくして彼は腰を上げた。気分は好かった。彼は小首を傾げながら窓に寄って僅かにカーテンを開けた。夏の陽射しがあふれる戸外の風景は、地球のそこそこの大都市ならどこにでもありそうな眺めだった。建ち並ぶ高層ビルが陽を浴びて自く輝き、見馴れた樹木や緑の芝生は彼を差し招いているようだった。すぐ目の下で大きな河が弧を描き、欄干《らんかん》のある古風なアーチ型の橋が鯲かっていた。よく知っている車が道を行き交い、空にはエアモビルが引きも切らずに航行していた。ハントはカーテンをもとどおりに閉じて時計に目をやった。時計は止まっていなかった。
ボウイング≠ェマグラスキーに着陸してからまだ二十分と経っていたい。彼はますますわけがわから振くなった。
窓を背にして両手をポケットに突っ込みながら、ハントは宇宙船の外に出る前から気に懸かっていたことを思い出そうと努めた。ほんの些細なことである。カラザーがちらりと顔を見せてからハントがはじめて宇宙船外の異様な光景を目にし、ずべてが狂いだすまでの優かな間にははっきりと意識に上らなかった。が、カラザーを見て彼は何かがおかしいと思ったのだ。
思い出した。〈シャピアロン〉号ではゾラッグが、イヤフォーンと咽喉に接するマイクを介してガニメアンと地球人の言葉を通訳した。ゾラックは自然に近い音声を合成したが、その言葉は話者の口の動きと合っていなかった。ところが、カラザーはそのような装置を使わずに流暢《りゅうちょう》に英語を話したのだ。それ以上に不思議なのは、元来ガニメアンの声帯は音域が低く、咽喉にかかった声しか出たいから地球人の声を真似ることは不可能であるにもかかわらず、カラザーが自然な英語を話したことである。カラザーの話し方は、音声のずれた映画のようではなく、口と声がぴったり同調していた。いったいどういうことだろう?
しかし、ここでただ考えているばかりでは答が出るはずもない。ドアは極く普通の部屋と変わりがなかった。開いているかどうか、調べる方法はたった一つである。ハントがドアに行き着くより早く、リンが袖なしのプルオーバーにスラックスという軽装で溌剌《はつらつ》とした顔を覗《のぞ》かせた。ハントは部屋の真ん中でつと足を止め、駆け寄って来る彼女を抱き止めようと身構えた。リンがヒロインの伝統に忠実に彼の首にすがりついて泣き崩れるものと思い込んでいたからだ。案に相違して、リンはドアを入ったところで立ち止まり、涼しい顔でざっと室内を見回した。
「悪くないわね」彼女は感想を述べた。「でも、カーペットがちょっと暗すぎるわ。もうちょっと赤が強いほうがいいわよ」
カーペットはたちまち赤みを帯びた茶色に変わった。
ハントは目を自黒させ、眉を寄せて彼女の顔を覗ぎ込んだ。「どういう芸当を使ったんだ?」彼は今一度床に目を凝らした。気のせいではなかった。
リンは意外な顔をした。「ヴィザーよ。ヴィザーは何でもできるのよ。あなた、まだ話してないの?」
ハントはかぶりをふった。リンは首を傾げた。「ヴィザーと話さずに、あなた、どうやって着替えたの? ナヌーク族のもこもこの服はどうしたの?」
ハントはかぶりをふるしかなかった。「そう言われてもねえ。だいたい、どうしてこんなところにいるのか、自分でもわからないんだから」彼はもう一度、赤茶のカーベットを見降ろした。
「いや、おそれいったね。一杯やらないことには、どうも……」
「ヴィザー……」リンは心持ち声を張り上げた。「スコッチをいただけないかしら? ストレートで、氷はいらないわ」
琥珀《こはく》色のウィスキーを半ば満たしたグラスがふっと傍らのテーブルに現われた。リンはグラスを手に取って、当たり前のような顔でハントに差し出した。ハントは内心、そんなものは視覚のいたずらであって、現実にはないほうがいい、と思いながらそっと指先をグラスに触れた。グラスは本物だった。彼はこわごわグラスを受け取り、試みに一口すすった。それから三分の一ほど一気に空けた。暖いものが咽喉を下り、じきに有難い効き目を現わした。彼は大きく息を吸い、しばらく止めてから、気を落ち着けて努めて静かに吐き出した。
「煙草は?」リンが尋ねた。ハントは考えるより先にうなずいた。気が付くと、彼は指の間に火のついた煙草を挟《はさ》んでいた。どうして、などと訊いてはいけない、と彼は自分に言い聞かせた。
すべては何らかの方法によって描かれた幻影に違いない。いつ、どこで、何のために、どうして、などということはこの際間題ではない。どうであれ、彼はこの場の情況に身を委ねるしかなさそうである。おそらく、テューリアン人はこれから彼らが直面する体験に備えて、適応期間の意味でこのような予備段階も設けているのであろう。それならそれで話はわかる。言うなれば、中世の錬金術師をコンピュータ社会の真っ只中に放り出すようなものだ。テューリアン人だか何者だか知らないが、とにかく、これから接触する異星人の社会には、準備してかからなくてはならないことが多々あるに違いない。ハントはそう考えて納得した。気持の整理が着くと、もう最大の難所は越えたという気がした。それにしても、リンはどうしてこうもすんなりこの情況に適応したのだろうか? これまで自分では思ってみたこともない科学者の弱味とでもいったものがあるのかもしれない。ハントは密かにリンの顔色を灘φた。どうやら上辺は何でもないふうを装っているが、彼女もまたハントと同様、内心はかなりうろたえているらしかった。ただ、愛《いと》しい肉親の死を知らされた者によくあるように、彼女はただ自衛本能で自分の置かれた情況やその意味するところを受け付けず、理解を拒んでいるに違いなかった。しかし、リンは彼ほど肉体的な苦痛を味わってはいない様子である。これは喜ぶべきことと言ってよかった。
ハントは椅子の腕に軽く腰掛けた。「で、きみはどうやってここへ来た?」
「それはね、重力コンベヤーだか何だか知らないけど、とにかくあの変なところからあなたのすぐ後に続いて外へ出たでしょう。そうしたら……」ハントの不審らしい顔を見て、彼女はふっと口をつぐんだ。「何の話だか、あなたにはわからないんじゃない?」
ハントは首を横にふった。「重力コンベヤーというのは?」
リンは説明に窮して眉を顰《ひそ》めた。「皆で飛行機の外へ出たでしょう?……広々した明るい場所で、まわりが全部さかさまだったり横向きだったりするところだったわね?……最初にわたしたちを機内に運び上げたのと同じ力が働いて、管の中に吸い込まれたでしょう?……黄色と白の太い大きな管よ……」彼女は一つ一つ質問する形を取りながらハントの表情を観察し、どこから別行動になったのか確かめようとしているらしかったが、すでに二人の体験ははじめから異質であることが明らかだった。
ハントは手をふって彼女を遮《さえぎ》った。「ああ、そういう細かいことは飛ばしていいよ。きみはどこで一人になった?」
リンは答えようとして急に口ごもった。自分で思っているほど記憶が確かではないことにはじめて気が付いた様子だった。「さあ……」彼女は曖昧《あいまい》に言った。「とにかく、あれは……どこだかわからないのだけれど……大きな組織図があったわ。色分けした箱に名前が書いてあって、命令系統が線で結んであるの。それが、変なのよ。USSF……合衆国宇宙軍となっているのよ」記憶が戻るにつれて彼女もまた、一層わけがわからなくなった。「UNSAでわたしの知っている名前もたくさんあったわ。でも、機構や階級が全然でたらめなの。グレッグは将軍で、何とすぐその下にわたしの名前があるじゃないの。少佐ですって」彼女は説明を求められても困るという顔で肩をすくめた。
ハントは月の裏側で受信したテューリアンからのメヅセージのコピーを思い出した。その内容はテューリアンが地球は東西に分裂して武力対決の状態にあると理解していることを物語っていた。しかも、そのありさまはミネルヴァが破局に至ったセリオスとランビアの対立を再現したかと思われるほど、惑星戦争前夜の情勢に酷似していた。ハントの体験を尋問と呼べるなら、あの尋問も明らかに地球の東西対立を前提としていた。偶然の一致とは思えない。「で、それからどうした?」
「ヴィザーに質問されたわ。わたしが働いている組織の機構はその図のとおりかっていうのよ」リンは答えた。「人の名前はそのとおりだけれど、他は全部でたらめだって言ってやったわ。グレッグが関係している武器配備計画がどうこうって、何だかわけのわからないことも訊かれたわ。それから、USSFが打ち上げたとかいう爆撃軌道衛星とやらの写真だの、月面に据え付げてあるという大ぎな放射線発射装置の図面を見せられたわ。実際にはどこを捜したってありもしないものばかりよ。わたし、ヴィザーに向かって、あんたは狂ってる、って言ってやったのよ。それから、いろいろ話して、仲好しになったの」
それが僅《わず》か十分あまりの間に起こったことだというのだろうか。ハントは思案した。何らかの形で、時間圧縮のプロセスが働いているに違いない。「他には?……その間、向うが高圧的な態度に出ることはなかったかい?」
リンは不思議そうな顔をした。「そんなことないわ。とっても紳士的で、いい感じだったわよ。それでわたし、部屋の中でこんな恰好じゃあいやだって言ったの。そうしたら、あっと言う間に、このとおり」彼女は自分を指さした。「まるで着せ替え人形よ。それから、ヴィザーが他にもいろいろでぎることがわかったの。ねえ、IBMがあのくらいのコンピュータを市場に出すまであと何年かかるかしら?」
ハントは立ち上がって部屋の中を行きつ戻りつしはじめた。気が付くと手にした煙草はもとのままで、少しも灰が伸びていなかった。どうやらテューリアンはハントたちから個別に、言わぱ事情聴取を行なっていると考えてよさそうだった。テューリアンは現在の地球の情況について混迷を深めている。どういう理由からかはともかく、彼らは正確なところを知る必要に迫られているのだ。そうだとすれば、彼らのしたことは少しも時間の無駄ではない。ハントの体験は一種のショック戦術であろう。彼の精神状態が最も無防備で、虚偽の答弁をする余裕もないところを狙って真実を聞き出そうとしたのだ。テューリアンの思惑は図に当たった。いくらか業腹でなくもなかったが、ハントはそう結論せざるを得なかった。
「そのあと、あなたはどこか尋ねたら、ヴィザーが廊下へ案内してくれたの。それで、ここにこうしているというわけ」
ハントが口を開きかけるところへ電話が鳴った。彼はきょときょととあたりを見回した。極く普通の内線データグリッドの端末機で、室内の雰囲気にしっくり融け込んでいたために、彼はそこに電話があることすら気付かずにいたのだ。コール・トーンがまた鳴った。
「出てごらんなさい」リンが促した。
ハントは端末機のある一隅に椅子を引き寄せ、腰を降ろして応答ボタンを押した。彼は目を疑った。スクリーンからこっちを見ているのはマクラスキー基地の管制官だった。
「ハント先生」管制官はほっとした様子で呼びかけた。「これはただのルーティン・チェックです。異常はありませんか? 皆さん機内へ入られてからもうしばらくになりますが、どうかしましたか?」
ハントはすぐには声も出ず、ただ荘然とスクリーンを見つめるばかりだった。幻覚の中へ現実世界から電話が通じるという話は聞いたことがない。電話自体が幻覚のはずだ。幻覚に現われた管制官に何を話したらいいだろう?
「どうやって通話しているんだ?」ともすれば声が上ずりかげるのをやっと抑えて彼は尋ねた。
「ついさっき、そちらの機内から低出力でビームを絞って交信する分には構わないという連絡があったんです」管制官は言った。「それで、そのように手配してしばらく待ったんですが、何も言って来ないので、こっちから呼ぶことにしたんです」
ハントはちょっと目を閉じ、それから横目使いにリンのほうをちらりと見た。彼女もぽかんとして首を傾げていた。
「じゃあ、飛行機はあれから動いてないって言うのか?」ハントはスクリーンに向き直って尋ねた。
管制官は眉を寄せた。「ええ、もちろん……わたしは窓から飛行機を見ていますから。……本当に、異常ありませんか?」
ハントは無言で椅子の背に凭れた。頭の中はこんがらかっていた。リンが彼を押しのけるようにしてスクリーンの前に立った。
「何も異常はないわ。あのね、わたしたち、今ちょっと忙しいの。またあとで、こっちから連絡するわ。いいでしょう?」
「そっちが無事だとわかってさえいればね、いいだろう。それじゃあ、またあとで」管制官はスクリーンから消え去った。
リンは取りつくろった態度をかなぐり捨て、部屋に入ってからはじめて、不安におののく様子でハントの顔を覗《のぞ》き見た。「飛行機はまだ地上にいるって……ヴイック、いったいどうなっているの?」彼女は声のふるえを抑えることで精いっぱいだった。
ハントは顔を顰めて室内を見回した。それまで胸の底に抑え込んでいた何かが堰《せき》を切ってあふれ出しそうだった。
「ヴィザー」咄嵯《とっさ》に彼は呼びかけた。「聞こえるか?」「どうぞ」耳馴れた声が答えた。
「マクラスキーに降りた例の飛行機だがね……まだ地上にいるそうじゃないか。今、基地と電話で話したよ」
「そうです」ヴィザーは言った。「電話を取り次いだのはこのわたしです」
「いったいどういうことか、そろそろ説明してくれてもよくはないかね?」
「間もなくテューリアン人たちがお会いして直接お話しするはずです。あなたがたにはお詫びしなくてはなりませんが、テューリアン一同は白分たちの口から説明したいと望んでいます。わたしを介してではなしに」
「せめて、ここはどこかだけでも聞かせてくれないか」ハントは満たされない気持で言った。
「いいですとも。あなたがたは今、知覚伝送装置、パーセプトロンの中にいるのです。装置はあなたが言われたとおり、マクラスキー基地のエプロンにあります」
ハントとリンはそっと当惑の視線を交わした。彼女は力なく頭をふって椅子に体を沈めた。
「腑に落ちないようですね」ヴィザーは言った。「ちょっとデモンストレーションをお目に懸けましょうか?」
ハントは自分の意志とはかかわりなく口が動いて声を発するのを感じた。自分が自分ではなく、目に見えない糸に操られる人形になったようだった。
「ちょっと失礼」顔がひとりでにリンのほうに向いて言った。「心配することはないよ。ヴィザーがちゃんと説明してくれるからね。わたしはすぐここへ戻る」
彼はどこかふかふかと柔らかいところに寝そべっていた。
「ほうら《ヴォワラ》」頭の上からヴィザーの声が降って来た。 ハントは目を開けてあたりを見回した。そこがどこだかわかるまでに数秒かかった。
彼はマクラスキーに着陸した飛行機の、あの仕切られた小間《キュービクル》の中の寝椅子に横たわっているのであった。
機内はひっそり静まり返っていた。ハントは立ち上がり、そっと通路に出て隣の小間を覗《のぞ》いた。リンは寝椅子で心地好げに眠っているらしかった。彼女もハントも、もとどおりUNSAの防寒服姿だった。他の小間の者たちも同じように静かに目を閉じていた。
「外へ出てみたらどうです?」ヴィザーが彼を促した。「あなたが降りている間に飛び立ったりしませんから」
ハントは寝惚けたような気持で通路を機首に向かい、勇を鼓して昇降口との境のドアを潜った。機外は間違いなくアラスカのマクラスキー空軍基地だった。彼の姿を認めて地上作業員や士官たちが駆け寄った。ハントは昇降ロへ進んだ。気が付いた時には梯子の下に立っていた。UNSA の男たちはどっとハントを取り巻ぎ、エプロンを司令所に向かって歩きながら彼に質問の雨を浴びせかけた。
「中はどうなっているんです?」
「ガニメアンが乗っているんですか?」
「連中、出て来ますか?」
「全部で何人です?」
「まだ……声を聞いただけだ。今のところはね。何だって? ああ……うん、まあね。わたしにもよくわからない。ちょっと待ってくれ。五分だけ時間をくれないか? 確認したいことがあるんだ」
食堂に入ると、ハントはまっすぐエプロン側の窓に寄せて設けられた管制室に向かった。管制官と二人の操作技師はハントが機外に出るのを見て待ち受けていた。
「先生、どうです、中の様子は?」ハントがドアを開けるのも待ちかねた口ぶりで管制官が尋ねた。
「うまく行っているよ」ハントは上の空で答えた。彼は制御卓やずらりと並んだスクリーンを眺めて、機内に入ってからのことを思い出そうと努めた。今目に映っているのは本物である。これが現実だ。電話は幻覚で、虚実の関係が逆転しているとは考えられない。現実の世界から幻覚の世界へ通信できるはずはない。しかし、果たしてそうか?
「わたしらが機内に入ったあと、向うと接触があったのか?」ハントは室内の誰にともなく尋ねた。
「接触があったかって……」管制官は急に心配そうな顔になった。「今しがた、あなたと話をしたじゃないですか。ねえ、本当に大丈夫なんですか?」
ハントは額をさすって頭の中に渦を巻く混乱がおさまるのを待った。「どうやって交信した?」
「さっき話したでしょう。向うから低出力ビームたら通話できると言って来たんです。それであなたを呼び出したんですよ」
「もう一度やってみてくれないか」
管制官は中央操作卓の前に陣取ってキーを軽く叩き、スクリーンの上の双方向音声グリルに向かって呼びかけた。「マクラスキーより異屋船へ。異星船、応答願います」
「マクラスキー、どうぞ」聞き馴れた声が応答した。
「ヴィザーだな?」ハントが代わって言った。
「やあ、これは。どうです、納得しましたか?」
ハントは目を細めて、何も映っていないスクリーンを見つめた。彼の意識はやっと正常に働きだし、事実を整理して順序正しく並べ替えたようだった。試みるべきことはただ一つ。「リン・ガーランドに繋いでくれないか」
「ちょっと拓待ち下さい」
スクリーンが瞬き、すぐにリンが顔を出した。背景に映っているのは間違いなくついさっき彼がいた部屋である。ハントがマクラスキーから話しかけていることは向うの画面に明らかなはずであるにもかかわらず、リンは少しも驚いた顔をしていない。ヴィザーから説明を受けたのであろう。
「さすがに呑み込みがいいのね」彼女はこともなげに言った。
はじめて事の本質を知る手掛りを得て、ハントはじわりと笑った。
「やあ。一つ、質問があるんだ。わたしが最後にきみと話してから、どうなった?」
「あなたは煙のように消えてしまったわ……掻き消すようにって言うのはまさにあれね。びっくりしたわ。でも、ヴィザーが詳しく説明してくれて」彼女は顔の前に人差指を立て、感に堪えたように首を左右にふった。「こうして話していながら、これは自分でしていることじゃないなんて信じられないわね。全部、頭の中で起こっていることなのね。まるで嘘みたい」
この瞬間に限ってみれぱ、彼女は自分よりよほど詳しいことを知っているに違いない、とハントは思った。しかし、すでに彼はおおよそのところを理解していた。テューリアン・地球間即時通話……異星人が自在に操る奇蹟……英語を話すガニメアン……ヴィザーはあの飛行機とも宇宙船ともつかぬ機械を何と言ったろう? 知覚伝送装置、パーセプトロン! ハントははたと膝を叩いた。
「ヴィザーと話を続けるんだ。わたしもすぐそっちへ戻る」リンはもう安心という顔で笑い返した。ハントはウィンクして通話を切った。
「どういうことだか説明してくれませんか?」管制官は言った。「ですから、その……こちらにも任務上の責任がありますから」
「ちょっと待った」ハントは今一度キーを押して、送話グリルに呼びかけた。「ヴィザー」
「お呼びですか?」
「さっきパーセプトロンから出た時のあの場所だがね、あれは実在の場所なのか? それとも、仮想世界かね?」
「実在です。ヴラニグスと言って、テューリアンの古い街です」
「わたしらが見たのは現在の姿かね?」
「ええ、そのとおりです」
「そうすると、こことテューリアンはリアル・タイムで結ばれているんだね?」
「だいぶわかって来ましたね」
ハントはちょっと思案した。「あのカーペットを敷いた部屋は?」
「あれは作りものです。特殊効果で、それらしく見せているのです。わたしたちのやり方を知っていただくには馴れた環境のほうがいいと考えたものですから。これだけお話すれば、あとはもうおわかりでしょう」
「これはわたしの思いきった想像だが」ハントは言った。「綜合知覚刺激監視と瞬時情報伝達の組み合わせだね。わたしらはテューリアンには行っていない。きみがテューリアンをここへ運んで来たんだ。リンは電話に応えていない。きみはリンの神経組織に直接働きかけて、電話ばかりではなく、他の行動も全部、自分でしているという意識を持たせたんだ。きみはリンの神経から情報を取り出して、映像と音声に変換して、その信号をこっちへ送った。こんなところでどうかな?」
「さすが、お見事」ヴィザーはおそれいった声を模した。「それでは、そろそろこちらへお戻り下さいませんか。間もなくテューリアン一同がお目に懸かりますから」
「じゃあ、またあとで」ハントは答えて通話を切った。
「話して下さい。どうなってるんです?」管制官が説明を催促した。
ハントはどこか遠くを見る目つきで、考え考えゆっくり答えた。「あのエプロンに停まっているのは、つまり、空飛ぶ電話ボックスだよ。詳しい仕組みはよくわからないが、とにかくあの中には人の神経組織の知覚をつかさどる部分に直接作用する装置があって、離れた場所で人が受け取るであろうあらゆる刺激を情報化して脳に送り込むんだ。今スクリーンに出ていたのは、リンの頭脳から直接取り出された情報だよ。コンピュータがその情報を映像音声信号に変換して、ビームに乗せてこっちのアンテナに飛ばして寄越したんだ。こっちからの情報はその逆の手順でリソの頭脳に直接伝わっているわげだ」
十分後、ハントはパーセプト日ンに戻ってもとの寝椅子に横たわった。「何と言えばいいのかな? ただいま、ジェイムズ≠ニでも言っておくか」
今度は意識の擾乱《じょうらん》はなく、あっと言う間に最前の一室に湧いて出た。ヴィザー-が前もって知らせたと見えて、リンはハントの出現を待ち受けていた。ハントはコンピュータの作り出Lた特殊効果がどこかで幻覚であることを露呈してはいないかとあたりに目を凝らしたが、室内は隅から隅まで何もかも本物としか思えなかった。何だか気味が悪いほどである。ヴィザーの完壁な英語と言い、パーセプトロンをボウイングに擬装するためのデータと言い、必要な情報はすべて地球の通信網から引き出されたはずである。事実上、地球に関する全情報が、何者かによっていつの間にか、どこかへ電子的に伝送されたのだ。テューリアンが今度のことでいっさい地球の通信網を避けようとしたのも今となってみればうなずける。
ハントは手を伸ばしてリンの腕にそっと触れてみた。彼女の張りのある肌の温もりが指先に伝わった。何もかも、ハントが推論したとおりだった。外界からの刺激の総量が、おそらくは神経を素通りして脳の知覚中枢に伝えられるのだ。驚異と言う他はない。
リンは彼の手をちらりと見やり、警戒する目つきで彼を見上げた。「そこまで生身と同じかどうか、自信がないわ。今のところ、わたしはそれほど実験精神が旺盛じゃないの。あんまり気分を出さないで」
ハントが言い返そうとするところへ電話が鳴った。彼が応えた。ダンチェッカーだった。怒髪天を衝く勢いである。
「これはひどい! あんまりだ!」顳〓[#需+頁]《こめかみ》に青筋が立ってびくびくしている。「わたしがどんなひどい目にあったかわかるか? ここはコンピュータ化された癲狂院《てんきょういん》だ。きみはどこにいるんだ? いったいこれは……」
「待て待て、クリス。まあ、落ち着いて」ハントは手を上げてダンチェッカーを制した。「きみが思っているほどひどくはないんだ。これはね……」
「ひどくないって? ここはいったいどこなんだ? どうやったらここから出られるんだ? 他の連中はどうした? 異星人どもは何の権利があってこんな……」
「ここはどこでもないんだ、クリス。ぎみはさっきのまま、マクラスキーのエプロンにいるのだよ。わたしも同じ。皆一緒だ。どういうことかと言うと……」
「冗談も休み休み言いたまえ。わたしはちゃんとこの目で……」
「きみはまだヴィザーと話してないな。ヴィザーと話すことを勧めるよ。わたしよりよっぽど上手く説明してくれるはずだ。リンもここにいるよ。わたしは……」
「ヴィザーだか何だか、わたしは話してないし、話す気もない。テューリアン人どもの態度は何だ。失礼極まる」
ハントは溜息を吐いた。「ヴィザー。教授を地球へ連れて帰って、よくわかるように話してくれないか。このままじゃあ、とてもわたしの手に負えない」
「任せておいて下さい」ヴィザーは請け合った。ダンチェッカーは空っぽの部屋を残してスクリーンから消え去った。
「大したもんだ」ハントは言った。これまでにもダンチェッカーにはさんざんてこずって、目の前から消してやりたいと思ったことは二度や三度どころではない。
小さくドアを叩く音がした。ハントとリンはぎくりとドアをふり返り、怪調《けげん》そうに顔を見合わせて、もう一度ドアのほうに目を向けた。リンが肩をすくめてドアを開けに立った。ハントは端末機のスイッチを切って向き直った。リンがドアを開けた戸口を潜って、身長八フィートのガニメアンが体を起こしたところだった。
「ハント先生、ガーランドさん」ガニメアンが口を開いた。「まず、一同に代わって、少々お騒がせしましたことをお詫びします。このあとすぐに説明があるはずですが、よんどころない事情で、どうしても必要な手続きだったのです。あなたがたをしばらく放っておいた恰好ですが、どうかお気を悪くなさいませんように。ほんの一時のことですし、順応期間を置いたほうがいいと考えたものですから。わたしは皆さんとお会いする約束であった中の一人、ポーシック・イージアンです」
10
一緒に歩きながらハントはイージアンの体形が極く僅《わず》かだが〈シャピアロン〉号のガニメアンたちと違うことに気付いた。金属光沢を持つ赤と琥珀《こはく》のシャツと、ゆったりした黄色のジャケットに包んだ上半身は見るからに骨太で頑丈だし、拇指《おやゆび》が二本ある六本指の手も同じだったが、肌の色はハントの記憶にある黒ずんだ灰色よりもやや明るく、顔もガニメアンの特徴を示して上下に長く引き伸ばされたようではあったが、〈シャピアロン〉号のガニメアンにくらべると下顎が後退して、頭部は地球入のそれに近く丸みを帯びていた。
「人工的に作り出した高速回転するブラックホールによって、物体をある場所から別の場所へ瞬間移動さぜることができます」イージアンは気さくに二人の話相手になった。「あなたがたの理論でも予測されているとおり、プラックホールに高速の回転を与えると次第に偏平になって、やがて質量が周辺にかたまった環状体《トロイド》になります。その状態でドーナッツの穴に当たる部分を隔てた両側の空間は等質です。それで、中心の軸に沿って移動すれば、過激な潮汐効果に影響されずにトロイドを潜り抜けることができるのです。このドーナッツの穴の部分は、通常の時空の法則に支配されない超空間への入口になるわけです。この入口を作ってやると、超対称効果によって、通常空間が突出する形になって、それがトロイドの向うへ抜ける出口の役を果たすのです。で、プラックホールの大きさ、回転速度、方向、その他のパラメータを制御することで、数十光年までの距離であれば、出口の場所をかなり正確に設定できるのです」
イージアンを中に、三人は並んで照明の眩い広々としたアーケードを歩いて行った。壁面は微妙な曲線を描きながら舞い上がるように高い天井に繋がり、あちらこちらに地球で言えぱ公園によくある彫刻のようなものが輝きを放っていた。大きな開口部が別の空間に通じているところもあった。上下左右の感覚を狂わせるエッシャーの絵のような景観は前に見た時と似ていたが、はじめてパーセプトロンからこの世界を垣間見た時とは違って、ハントもリンも、もう気圧されることはなかった。ガニメアンの重力工学はここテューリアンの建築にふんだんに応用されているのだ。彼らはいながらにしてテューリアンを訪れているのであった。彼らは部屋を出てからガニメアンで雑踏する回廊や大きなドームをいくつも過ぎてこの場所に出た。現実と幻覚の境目は段差なく融合して、ハントはいつ自分が幻覚の世界に踏み込んだかまるで記憶がなかった。これから二つの異星の文化が出会うのだ、とイージアンは言った。彼はそのための案内役だった。ヴィザーの性能をもってすれば、彼らは一瞬にしてテューリアン世界に渡ることもできたはずである。しかし順応期間中の彼らにとっては生身の案内役がいてくれたほうが自然だし、何かと心強い。ハントはなるほどと一人密かにうなずいた。これからの未知の体験に先立って、異星人とこうして打ち解けた話ができるのも好都合である。テューリアンの配慮は行き届いていた。
「パーセプトロンを地球へ運んだのもその伝だね」ハントは言った。
「地球の近くまでです」イージアンはハントの理解を補う口ぶりで答えた。「ある程度の物体を捉える大きさのプラックホールは広範囲にわたる重力場の擾乱を起こします。そのようなブラックホールを惑星系の真ん中に放り込むわげには行きません。時計や暦が全部狂ってしまいますからね。ですから、パーセプトロンは太陽系のすぐ外側に実体化させて、そこから先は通常の航法で地球まで行くようにしたのです」
「じゃあ、往復には四行程の段階を踏まなくてはならないのね」リンがしたり顔で言った。「行きに二段階、帰りに二段階」
「そのとおり」
「なるほど、それでテューリアンから地球までほぼ一日かかるわけだ」ハントはうなずいた。
「そうです、惑星間瞬時移動はおいそれとはできないのです。しかし、通信となると話は別です。ガンマ周波帯のマイクロレーザー・ビームに信号を乗せて、これを顕微鏡的極小プラックホールに通してやればいいのですから。そういう小さなプラックホールなら、惑星上の装置で他へ悪い影響をおよぼさずに作ることができます。惑星間の即時データ伝送は自由自在というわけですよ。それに、顕微鏡的ブラックホールを作るには、宇宙船を通すような大きなブラックホールを作るほどのエネルギーを必要としません。ですから、わたしたちは特にその必要がない限り、人や物を移動させることはないのです。情報移動で用が足りますから、そのほうが便利なのです」
イージアソの説明はハントの既成の知識と少しも矛盾することがなかった。彼もリンもマクラスキー基地にいて、いっさいの情報をヴィザーを通じて受け取っているのだ。
「情報伝達については今の説明でよくわかるがね」ハントは言った。「入力はどうするんだ?そもそも、入力すべき情報はどこから出ているんだ?」
「テューリアンは惑星全体が有線化≠ウれていましてね」イージアンは説明した。「銀河系の一画に散らばっているわたしたちの世界の惑星はどこもみな同じです。惑星領域のいたるところにヴィザーの端末があります。建物や市街の構造物はもちろん、山岳、平野、森林地帯から惑星上空の軌道にいたるまで、世界全体が稠密《ちゅうみつ》なセンサー網で覆われているのです。ヴィザーはその夥《おびただ》しいセンサーから伝送されて来るデータを統合、補完して、惑星内外の任意の一点で人が体験するであろう知覚情報を合成することができるのです。
「ヴィザーはそうやって合成した情報を、通常の刺激伝達経路、つまり神経系統を通さずに、高解像度空間ストレス波に乗せて直接、脳の知覚中枢に送り込むのです。どこであれ、特定の場所で人が体験するであろう外界からの刺激を総合的な情報として意識の中に投射するわけですね。同時にヴィザーは自律神経を監視して、筋肉運動をはじめ、ありとあらゆる人体の活動に伴うフィードバック情報を忠実に再生します。その結果、擬似体験によって、人は遠く離れた場所にいるのとまったく同じ状態に置かれるのです。現実にその場所に出掛けてみたところで何一つ変わることはありません」
「楽々星間旅行というわけね」リンは半ばひとりごとのように言ってあたりを見回した。アーケードがつきて、彼らは大きく波打つ曲面上を歩きだした。少し手前では壁のように見えていたところである。足を踏み出すと、曲面はゆっくり回転し、背後のアーケードとそれに続く構造全体がどんでん返しに立ち上がった。
「本当にこれが二十何光年も離れた世界なの?」リンはまだ信じられない口ぶりだった。「しかも、わたしは現実にここへ来ているのではないのね?」
「違いがわかりますか?」イージアソは言った。
「そう言うきみ自身はどうなんだ?」ハントはふとあることに思い至って尋ねた。「きみは今現にここ、と言うか、そこと言うか、とにかくそのヴラニクスとやらにいるのかね?」
「わたしがいるのはテューリアンから二千万マイルのところにある人工世界です」イージアンは答えた。「カラザーはテューリアンですが、ヴラニクスからは六千マイル離れたテュリオスというところにおります。テューリアンの首都です。ヴラニクスは古都でしてね、わたしたちにとっては愛着の深い場所でもあり、また歴史的にも重要な意味があって保存されているのです。もう一人、皆さんにお会いすることになっているフレヌア・ショウムはジャイスターから九光年離れた別の宇宙の惑星、クレイセスというところにおります」
リンは怪訝《けげん》な顔をした。「どうもよくわからないわ。別々のところにいて、どうしてこんなふうに共通の体験がでぎるのかしら? あなたがそうやってヴィックの隣にいるのはどうしてなの? あなたがたの世界が銀河系に散らばっているのに、ここで一緒に同じものを見ているのはどういうこと?」
ハントは今しがたのイージアンの話に驚嘆するあまり、質間を口にする気にもなれずにいた。
「ヴィザーは別々の場所から入力されるデータを総合して、全部をひっくるめた印象を作り出します。そして、それをトータル・パッケージとして分配するのです」イージアンはリンの疑問に答えた。「ヴィザーは視覚、聴覚、触覚その他ある特定の環境に関するいっさいのデータと、システムに接続している個々人の神経から取り出して合成したデータを総合することができるのです。そうして、各人にその特定の場所に他の者たちと同席して言葉を交わしている印象を抱かせるのです。この方法によって、わたしたちは他の宇宙を訪問したり、異種文化に接触したりします。他の恒星系に集《つど》って会議を開くこともあれぱ、宇宙の人工世界との間を往復することもあります。いずれの場合も、いながらにして瞬間移動するのと同じことです。もちろん、実際に体を運ぶこともないわけではありません。例えば、レクリエイションですとか、どうしても、情報だけではなく本人がその場にいることを要求される場合ですとか。しかし、ほとんどの場合、遠距離を隔てての仕事や旅行は電子工学と重力工学の応用で処理しています」
彼らの歩く曲面はさらに大きくめくれ上がって、やがて広い円形の露台のような場所に出た。手摺《てすり》越しに見降ろすと、一層下は賑やかな広場だった。頭上を仰ぐと起伏を描く曲面の狭間《はざま》に、つい今しがた彼らが歩いて来たアーケードの床が覗いていた。少なくとも、そこを歩いた時には床だった場所である。ハントもリンも大分馴れて来たせいか、もうその程度では驚かなくなっていた。
「マグラスキーに降りた飛行機の中ではじめて寝椅子に横になった時、自分でも気が狂ったような感じだったけど」リンは記憶を辿《たど》りながら言った。「あれはどういうことなの?」「ヴィザーがあなたの大脳のパターンと活動レベルに同調したのです」イージアンは言った。
「正確な、フィードバック・レスポンスを得るために波長を微調整するのです。個人差がありますからね.一度正確に同調しておけば、もう調整の必要はありません。言わば、指紋を採るようなものです」
「ポーシック」しばらく無言で歩いてからハントが質問した。「のっけからわたしはどかんと一発喰った恰好だったけれども、きみたちは地球の現状について極めて歪んだ理解をしている。その真否を難す必要からわたしを試したのだと思うのだが、そうたのだね?」
「カラザーからあらためて説明があるはずですが、わたしたちとしては何にもましてそれが重大間題だったのです」イージアンは言った。
「しかし、どうしてあんなことをしなくてはならなかったのかな?」ハントは重ねて尋ねた。
「ヴィザーは表象神経パターンを直接読み取ることができるんだろう。だったら、わたしの記憶から情報を取り出せぱいいじゃないか。そのほうが、わたしが嘘を答える心配もない」
「確かに、技術的には可能です」イージアンはうなずいた。「ですが、プライバシー保護のたてまえから、それは法で禁じられているのです。ヴィザーは、本来の知覚入力だけを脳に伝えるように、また同様に神経の運動衝撃出力だけをモニターするようにプログラムされています。言い換えると、ヴィザーは五感に伝わる情報のみを介してコミュニケーションを実現するのであって、読心能力は与えられていない、ということです」
「他の連中についてはどうだろう? 皆がこの体験をどう受け取っているか、その辺のところはわかるかね? 正直に言って、きみたちの歓迎式のやり方は、友好関係を樹立するのにはこれが一番と手放しで推奨するわけには行かないね」
イージアンは口をすぼめた。かつてガニメアンと親しく接したハントは、それが彼らの笑い方であることを知っている。
「どうぞ御心配なく。他の方たちはあなたのようにヴィザーの本質に触れておいでではありません。ですから、まだいくらか混乱している人もいますが、その点を除けば皆さん不快なことはありません」
その混乱が彼らの狙いだ、とハントはふいに理解した。最初のショック戦術で完全に地球人たちの毒気を抜いてやろうと彼らは狙い澄ました一撃を加えたのだ。イージアンが案内役として登場したのも向うの作戦のうちに違いない。
「さっききみが来る前にクリス・ダンチェッカーと電話で話したがね、だいぶ御機嫌斜めだったよ」ハントはリンの表情を見て密かにほくそえみながら言った。
「実を言いますと、ダンチェッカー先生は少々辛い思いをなさいました」イージアンは一歩譲った。「その点はお気の毒だったと思います。ですが、あなたとあの先生のお二人は特別なのです。
〈シャピアロン〉号に関して特にわたしたちが憂慮していることがいくつかありまして、お二人は詳しい事情をご存じなのですから。他の方々については、それぞれの専門分野に関して質疑応答があっただけです。皆さんの話は何から何までぴたりと一致しました。わたしたちにとっては、これは大きな前進です」
「あなたとクリスはどんな目に遭ったの?」リンはハントの顔を見上げた。
「あとでゆっくり聞かせるよ」ハントは言った。
テューリアン人たちのやり方は意表を衝くものではあったが、狙いは見事に図に当たったと言わざるを得ない。ハントは内心舌を巻いた。彼らはこの数分間にハントの一行から何日にもわたる話し合いで得られるよりも遙かに多量の情報を引き出し、分析評価を終えたのだ。彼らにとってそれほど緊急かつ重要な問題であったとすれば、月の裏側で国連代表団が煮えきらない態度を取り続けた後だけに地球人としてはこの荒療治に文句を言う筋はない。コールドウェル以下、他の者たちが自分と同じように考えるかどうか、ハントはいささか気懸《きがか》りだった。その点も間もなくはっきりするだろう。どうやら目的の場所はもうすぐそこだった。
扇形に拡がるなだらかな斜路を下ってアーチを潜ると屋外へ出た。ドーム状の構造物や段丘、遊歩道などが幾重にも重なる斜面がぐるりを取り巻く中央の、ちょうど円形劇場の舞台に当たるところに矩形《くけい》の広場があり、その四辺に広場を隔てて相対する階段状の座席がしつらえてあった。広場全体は、ゆっくりと流れる河やゆらめく噴水を思わせる光の演出で、とりどりの色彩とその陰翳《いんえい》」が描く幾何学模様に満ちあふれていた。三方の座席はガテメアンでぎっしりと埋まっていた。彼らは起立してハントの一行を待ち受げているようだった。中央の一段高いところにいるのは、濃緑のチュニックと銀のケープから、前にちらりと顔を見せたカラザーと知れた。
ハントは広場の反対側の入口から、ガニメアンに付添われたコールドウェルがずんぐりした体を揺すりながらやって来るのを見た。コールドウェルの後から、もう一人別のガニメアンに案内されてヘラーとパッカードが姿を現わした。ヘラーは泰然自若としていたが、パッカードはうろたえた様子できょときょととあちこちを見回していた。ハントは目を転じた。ちょうど、ダンチェッカーがアーチを抜けてやって来るところだった。ダンチェッカーは両脇のガニメアンに向かってしきりに腕をふりまわしながら何か言い立てていた。ダンチェッカーをなだめすかしてここへ連れ出すのは二人がかりの仕事というわげだった。別れ別れにたった彼らは寸秒をも隔てずにこの場に到着した。偶然の一致であろうはずがない。
リンがあっと息を呑み、足を止めて頭上をふり仰いだ。ハントは彼女の視線を辿《たど》って目を上げた。彼もまた、息を呑んで立ちつくした。
広場を囲む斜面が外輪山のようになっているその向う側の三ヶ所から、桃色がかった象牙色のさして太くはない円柱が立ち上がっていた。三本の柱は遙か上方の目測を拒む高さで一つに交わり、回廊や城砦の堡塁《ほうるい》を逆さまにしたようなものに繋がり、その堡塁に似たものはそこからさらに拡がりながら果てしなく上に続いていた。そして、その向うに……何ということだろう、それが拡がりきった向うの、空のあるべぎところには想像を絶する規模の超高層建築と思《おぼ》しきものが密集していた。建物群は目の届く限り一方に連なり、反対の方角を見ると視野のはずれに水平線が霞《かす》んでいた。ヴラニクスの街に違いない。が、その街は何マイルもの上空に逆さまに浮かんでいるのだ。
ハントは卒然として悟った。空に浮かんでいるのは彼らのほうなのだ。広場の外周から立ち上がっていると見えたピンクの円柱は、実は街から延びて、彼らのいる巨大な円形舞台を支えているのだ。そして、彼らは天井を這う蝿のように、そこを逆さまに歩いているのであった。ガニメアンの迷路を引き回される間に彼らは方向感覚を奪われ、上下の逆転にも気が付かなかったのだ。局所的な人工重力効果によって、彼らはそれと知らずに逆さ吊りの姿勢で、遙か頭上のテューリアンの大地を見降ろしていたのである。
コールドウェルたちもそれに気付いて茫然と立ちすくんだ。ダンチェッカーですら、しゃべり立てることも忘れてあんぐり口を開け、目を丸くして空を見上げていた。ガニメアンたちの最後の切札だった。止めの一撃と言うべきだろうか。ハントの一行の中にまだガニメアンの一方的なやり方を快く思わない者がいたとしても、いよいよ対面という直前にこの驚異を見せつけられてはもはや気力も萎えはてて、とても強いことは言えないだろう。この場としては見当違いでなくもなかったが、ハントは未知の異星人がすっかり気に入った。玄人の仕事はいつ見ても気持が良い。
地球人《テラン》たちは一人また一人とようよう我に帰って気を取り直し、ガニメアンたちの待ち受ける中央の広場に向かって歩きだした。
11
「皆さんにはお詫《わ》びしなくてはなりません」双方の紹介が済むのを待ってカラザーはぶっぎらぽうに言った。「先程のような初対面は、地球の習慣ではよくないこととされているようですね。しかし、はっきり言って、どうしてなのかわたしには理解しかねます。いずれ話さなくてはならないことがあるなら、はじめからそれを話して、お互いにすっきりしたほうがいいではありませんか。すでにおわかりのことと思いますが、わたしどもは極めて重大ないくつかの事実を確認する必要がありました。わたしどもばかりではなく、皆さん地球の方々にとってもこれは大ぎな問題であると考えます。結論から言って、それを確認しようとしたことは間違いではありませんでした」
予想に反して、かなりざっくばらんな話になりそうだった。ハントはほっとした。彼は今耳にしているのはカラザーの発言の忠実な通訳だろうか、それとも、ヴィザーの自由な解釈をまじえた作文だろうかとあらぬことを考えた。ある程度の感情的な行き違いは避けられないだろうし、まずくすれば正面からぶつからないとも限らない。ハントは半ば覚悟していたのだ。しかし、ガニメアン側の柔軟戦術は効を奏していると見てよさそうだった。コールドウェルもヘラーもこのままでは済まさないという固い意志を示して表情を強ばらせてはいたが、まずは相手の出方を窺って音無しの構えを極めていた。ダンチェッカーは明らかに一戦交える意気込みでやって来たのだが、最後の土壇場でガニメアンの文字どおり天から降って湧いたような左フックをもろに喰って今のところまだ気力の失せたままである。パッカードは見るからに朦朧《もうろう》としていた。彼の場合は、トランキライザーが効きすぎたのだ。
一呼吸あって、カラザーは言葉を続けた。
「全種族に代わって、ここであらためて皆さんを歓迎します。われわれの世界へようこそおいで下さいました。別々の道を辿《たど》った両異星人種の進化の糸は長い歴史の過程を経て、今ついにこのところに出会いました。これからは二本の糸をより合わせて、蒲互いの利益と進歩のために友好関係を保ちたいものです」
カラザーは腰を降ろした。異星人同士の遭遇の場にしてはそっげない挨拶《あいさつ》だったが、ハントはこのほうがあっさりして、話が早くて結構だと思った。
地球人《テラン》たちは一斉にパッカードをふり返った。社会的な地位から言ってパッカードは当然彼らの代表である。しばらくしてやっと彼は皆の視線が自分に集まっていることに気付いた。パッカードはきょときょとと左右を見回し、椅子の腕を握りしめると唇を湿して足もとも怪しげに緩慢な動作で立ち上がった。「政府を……代表して……」言葉が跡切れた。パッカードはふらふらしながらずらりと並んだ異星人の顔を見渡し、それからヴラニクスの街とその周囲に拡がるテューリアンのパノラマを見上げて、信じられない表情で頭をふった。倒れるな、とハントが思った瞬間、パッカードはふっと姿を消した。
「遺憾ながら、国務長官は御気分がお悪いようです」ヴィザーが一同に報告した。
これをきっかけに地球人たちはふるい立った。コールドウェルは仁王立ちとなり、口をきりりと結んで眼光鋭く異星人たちを見据えた。ヘラーも腰を浮かせたが、コールドウェルに一瞬遅れを取ってやむなく椅子に坐り直した。
「もうたくさんだ」コールドウェルはカラザーを睨《にら》んで陰にこもった声で言った。「慇懃《いんぎん》無礼は抜きにしよう。われわれに敵意はない。そちらの言い分を聞こうではないか」
あたりの様子が一転した。広場も円柱も、ヴラニグスも、天蓋を形作っていたテューリアンの大地も消え去って、彼らは大きな丸天井の一室で虹の七色に輝く水晶の円卓を囲んでいた。おもだった顔触れとその位置関係はコールドウェルが立ち上がった時のままだった。聴衆の席を占めていたガニメアンたちは、部屋の一方の、桟敷《さじき》のようなところから成り行きを見守っていた。広場と違って、室内は身の置きどころがある。地球人たちはいくらか安心を覚えた。
「ちょっとやりすぎでしたね」カラザーがとりつくろう口ぶりで言った。「このほうが、あなたがたには勝手がいいでしょう」
「不思議の国のアリスごっこはもう結構」コールドウェルは言った。「ああ、よくわかった。この世界の技術は驚異と言う他はない。脱帽するよ。それはさておき、わたしらはそちらの求めに応じてここへ来たのだ。ところが、われわれの一人は何の断わりもなく抹殺された。これは穏やかでない」
「あれはこちらの意図したことではないのです」カラザーは言い返した。「ヴィザーも言ったとおり、大変遺憾に思います。もっとも、御心配にはおよびません。御同役はすぐによくなります」
これが地球上の場面なら、二人のやりとりには裏の意味があるのだが、ここではそうはならない。ハントにはわかっていた。何故と言うに、ガニメアンは本性のしからしめるところとして、決して人を威嚇することはなく、また人の威しに動ずることもないからだ。彼らは考え方が違う。カラザーは事実をありのままに述べているのであって、それ以上でもなけれぱ以下でもない。地球人の考え方や慣習はここではまったく通用しないのだ。そのことはコールドウェルも承知していた。しかし、このままではすべてがガニメアン主導の話し合いになってしまう。どこかで線を引いておかなくてはならなかった。
「それでは、お互いに腹蔵のないところで質疑応答と行こう」コールドウェルは言った。「さっきの話で、両人種はこれまで別々に進化して来た、とあったけれども、厳密に言うとこれは正しくない。二つの流れは遠い過去に一度出会っているからだ.これまで見聞きしたところから察して、きみたちの地球に関する知識はどこかで大きく歪んでいるようだから、現在われわれ地球入が知っていることをわたしの口から掻いつまんで説明しよう。そうすれば多くの疑問や誤解が除かれるだろうし、時間の節約にもなると思う」
彼はちょっと言葉を切ったが、返事も待たずに先を続けた。
「われわれ地球入は、きみたちの文明が今からおよそ二千五百万年前までミネルヴァで栄えていたことを知っている。きみたちの祖先は多種多様な地球生物をミネルヴァに運んだ。遺伝子操作によって環境改造を図るためだったとわれわれは理解している。これに失敗して、きみたちの祖先は惑星ミネルヴァを捨ててジャイスターに移住した。後に残された地球動物から進化したのがルナリアンだ。ルナリアンは五万年前、惑星戦争でミネルヴァを破壊し、自分たちも滅び去った。ミネルヴァの衛星であった月《ルナ》は、太陽に引き寄せられる途中で地球に捕獲されたのだが、その時、月面に取り残されていたルナリアンの生存者が地球に渡った。このルナリアンの子孫が現在のわれわれ地球人だ。ここまでは、いいかな?」
ガニメアンたちの間に低いざわめきが拡がった。彼らが思っていたよりも地球人の知識が遙かに豊富かつ正確であることに驚いている様子だった。これは面白くなって来た、とハントは密かに胸を弾ませた。
はじめにフレヌア・ショウムと紹介されたテューリアンの女性大使が口を開いた。「ルナリアンのことをご存じなら、あなたがたがこれまで抱いて来られたはずの疑問に対ずる答も、すぐ手が届くところにあるのです。地球は監視されています。それは、地球人が祖先ルナリアンと同じ道を辿って、いつか高度の技術水準に達するとともに、惑星を]大軍事基地にするのではないかというわたしどもの懸念からなのです。ルナリアンは太陽系外へ進出する前に自滅しましたが、地球人については予断を許しません。ありていに言って、わたしたちは地球が銀河系の他の部分、いえ、いずれは銀河系全体に脅威を与える存在になるだろうと見ています」
ショウムはここまで来てもまだ地球が平和的な惑星であることを認めようとしていない口ぶりだった。親地球派《テラノフィル》と呼ぶには程遠い、とハントは思った。彼らが地球を監視して来た理由については今の説明を聞いたところで驚くには当たらない。ガニメアンとルナリアンの性質を考えれば、まあうなずけないこともないではないか。
「だったら、これほど秘密にこだわるのはどういうわけですか?」ヘラーが尋ねた。コールドウェルは彼女に発言を譲って腰を降ろした。「あなたがたはテューリアン代表ということですが、テューリアン全世界を代表してはいませんね。現にこの会議も、誰であれ監視に当たっている人々には秘密にしているではありませんか。となると、あなたがたは本当におっしゃるとおりの立場なのか、わたしたちは首を傾げないわけには行きません。もし、おっしゃるとおりの立場なら、同種族の間で行動を内密にするのはおかしいではありませんか」
「監視の任に当たっているのは、わたしたちの世界に属する、さる独立の組織……とでも申上げておきましょうか」カラザーが女性大使に代わって答えた。「実は、その組織から伝送されて来る情報にいささか疑わしい節がありまして、それで、わたしどもとしてはその真否を確認する必要を感じたのです。しかし、こちらの誤解ということもあるかもしれない。内密を図ったのはそのためです」
「いささか疑わしい節ですって?」ハントはカラザーの言葉を繰り返し、助けてくれと言わんばかりに両手を拡げてテーブルを見回した。「それじゃあまるで、二、三小さな疑問点があるという程にしか聞こえませんよ。冗談じゃない。〈シャピアロン〉号が太陽系に生還して、地球に着陸した事実もそちらに伝わっていないじゃあないですか。あなたがたの同胞が乗っている、あなたがたの宇宙船ですよ。おまけに、地球の現状についてもあたたがたの理解は不正確なんていうものじゃない。どう考えても、故意に歪曲された情報が伝わっています。いったい、どういうことですか?」
「それはテューリアン内部の問題です。わたしどもは今、何とかして問題を解決しなくてはならないところへさしかかっているのです」カラザーは自分たちの責任を強調した。彼は心なしかうろたえているようだった。コールドウェルの発言を聞いて、地球人が想像以上に多くを知っていることに驚いたためであろう。
「そちらだけの問題ではありません」ヘラーが一歩踏み込んだ。「問題はわたしたちの惑星全体にかかわることでもあります。誰が、いったい何のために地球について誤った情報を伝えたのか、その点をはっきりさせる必要があります」
「どうしてだかわかりません」カラザーは悪びれずに言った。「わたしどももそこが知りたいのです。その第一歩として、正確な事実を掴[#手偏+國]まなくてはなりませんでした。それで、皆さんに不愉快な思いを強いることになったわけで、それについてはここであらためてお詫びします。しかし、今ではもう、地球の現状を正しく理解しているつもりです」
コールドウェルはまだ不機嫌だった。「その組織とやらと直接話をさせてもらいたい。会って真意を質《ただ》そうじゃないか」「それはできません」カラザーは言った。
「どうしてですか?」ヘラーが食ってかかった。「わたしたちがこのまま放っておけないと思うのは当然でしょう。そちらはそちらのやり方で事実を究明したじゃあありませんか。あなたがたが本当にこの惑星を代表する立場なら、わたしたちをその組織に会わせる権限だってあるはずです」
「しかし、あなたがた自身、それを要求できる立場ですか?」ショウムがやり返した。「わたしどもの現状理解に間違いがなければ、あなたがたは全地球を代表する公式の団体ではありませんね。地球を代表するのは国連です。違いますか?」
「わたしどもは過去数週間にわたって国連代表団と話し合って来ました」カラザーが引き取って先を続けた。「国連はわたしどもの地球に対する誤った理解を正す努力を何一つしませんでした。それに、わたしどもと会見することに二の足を踏んでいるように見受けられました。そこへ、太陽系のまったく別の場所からあなたがたのメッセージが届いたのです。あなたがたはわたしどもの応答が公《おおやけ》に知られることを嫌っていると解釈せざるを得ませんでした。つまり、あなたがたもまた、秘密裡に事を運んでいるわけですね」
「国連の煮えきらない態度をどう説明しますか?」ショウムは地球人を順に見渡し、最後にヘラーにぴたりと目を据えた。
ヘラーは調子《ばつ》が悪そうに吐息を洩らした。「さあ、それは。おそらく、非常に進んだ異星文明と接触することで、予測し得ない結果が招来されるのを懸念しているのではないかと思いますが」
「わたしどもの世界でも、一部にそうした懸念がないわけではないのです」カラザーが言った。これは異なことを聞くものだ、とハントは思った。テューリアンの水準から見れぱ地球など取るに足らないはずである。とはいえ、広い宇宙ではまったく何が起こらないとも限らない。
「それでしたら、わたしどもは国連代表団と直接話し合うべきではないでしょうか」ショウムは最前のヘラーの言葉を投げ返した。地球人一同は声もなかった。
ハントはまだ腑に落ちないことがいくつかあった。彼は椅子の背に凭《もた》れて、テューリアンの視点から事態の推移をふり返ってみた。彼らはいつの頃からか地球を宇宙の兵器庫と見なし、地球人を戦乱を好む暴力的な人種と思い込んで来た。歪んだ情報を吹き込んで彼らの理解を誤らせた謎の組織は〈シャピアロン〉号についてはいっさい口を閉ざしていた。ところがある時、カラザーのお膝元にガニメアン・コードの信号が直接届いて、宇宙船が新しい故郷へ向かっていることを伝えたのだ。以後、月の裏側から送信されたメッセージは回を重ねる毎に従来の監視報告とはおよそかけはたれた地球の姿を伝えた。そこまではいい。が、テューリアン人たちは何故、どちらの情報が正しいかを究明することにあれほどまでこだわったのだろう? 彼らの短兵急なやり方を見ても、それは単なる学問的好奇心や内政上の間題整理では説明できないもっとさし迫った重要な理由によるものであったはずである。
「はじめに帰って、その中継装置……そちらが何と呼んでいるか知りませんが……とにかく、あなたがたが太陽系の外に設置している装置のことから話を聞きましょう」ハントは考えを整理して発言した。
「あれは、わたしらのものではないのです」イージアンがカラザーの隣で言った。「わたしらもその正体を知りません。わたしらが設置したのではないのですから」
「それはおかしいな」ハントはぐいと顎を突き出した。「きみたちの瞬間伝送技術によっているし、ガニメアンの外交通信文書の書式が通用するじゃあないか」
「そのとおりではありますが、しかし、あれの設置についてはわたしらは関知していないのです」イージアンは答えた。「おそらく、地球監視に当たっている組織の手で設置されたハードウェアの一端でしょう。それが何かの手違いで、本来の相手ではなしに、わたしらのところへ信号を送っているのだと思います」
「その信号にきみたちは応答した」ハントは突っ込んだ。
「あの当時、わたしたちは信号が〈シャピアロン〉号から発信されたものと理解していました」カラザーが言った。「それで、何はともあれ、受信を確認したことを乗員に伝えなくてはならないと考えたのです。で、彼らがジャイスターを探り当てたのは正しいことで、その針路で飛んで来れぱ間違いない、と言ってやったのです」
ハントはうなずいた。テューリアンの立場だったら彼だって同じことをしたはずである。
コールドウェルは依然としてすっきりしない顔で言った。「それはまあいいとして、その中継装置だがね。どうして正体を突き止めようとしないのかね? テューリアンと地球の間を一日で飛ぶ技術があるなら、それくらい何の造作もないことではないか」
「ハードウェアの誤動作でこっちへ直接信号が送られているのだとしたら、そのままそっとしておきたいのです」イージアンが言った。「なかなか興味深い情報も入って来ますので」
「その組織には内緒にしておきたいって言うんですか?」ヘラーはますますわけがわからない顔で訊き返した。
「そのとおり」
「でも、もう、もうそのことは伝わっているはずですよ。ジャイスターから応答があったことは地球のニュース網で発表されましたから。監視していれば当然知っていますよ」
「しかし、組織はあなたがたが中継装置に向けて発した信号を受け取っていません」イージアンが言った。「受けていれぱこっちにわかったはずです」
ハントは〈シャピアロン〉号が去った後、数ヶ月にわたって月の裏側から続けられた送信にジャイスターが応答しなかったわけを理解した。テューリアン人たちは地球のニュース網を通じて直綾の交信を組織に知られたくなかったのだ。彼らが交信を再開するに当たって、ニュースでそのことを発表するなとくどいほど念を押したわけもそれでうなずける。
ヘラーは額に手をやって頭の中を整理した.「でも、監視組織のほうでもそのままでは済まなかったでしょう」やがて、彼女は顔を上げて言った。「地球のニュースで、あなたがたが〈シャピアロン〉号の消息を掴[#手偏+國]んでいることを彼らは知ったはずです。自分たちが報告しなかった事実ですよ。伏せたままにしておけば自分たちに嫌疑がかかるじゃあありませんか。彼らは当然その場で何らかの手を打ったはずですね。何故そのような重大な事実を報告しなかったか、と問い詰められたら申し開きができないでしょうから」
「おっしゃるとおり。彼らは連絡して来ました」カラザーは大きくうなずいた。
「どうしてもっと早くに連絡しなかったのか、説明を求めなかったのかね?」コールドウェルが脇から尋ねた。「だってそうだろう……宇宙船は地球に六ヶ月も滞在していたのだからね」
「もちろん、説明を求めました」カラザーは言った。「〈シャピアロン〉号の安全を考えたからだ、というのが彼らの答です。へたに干渉して同船をますます危険に追いやることを恐れたというのです。その判断の正否はともかくとして、彼らは〈シャピアロン〉号が太陽系を離れてからわたしどもにそのことを伝える方針だったようです」
コールドウェルは鼻で笑った。謎の組織の説明はまるで体《てい》をなしていない。「監視の記録は提出させなかったのかね?」
「させました」カラザーは答えた。「伝送して来た録画を見て、わたしどもは彼らが〈シャピアロン〉号の安全を考えたという説明に納得したわけです」
この一言を聞いて、ハントは〈シャピアロン〉号のガニメデ到着のあの嘘っぱちの録画の出どころを知った。地球についての報告がすべてでっち上げだったのと同じで、あの録画も監視組織の手にかかる絵空事だったのだ。カラザーたちはそのでたらめな録画にまんまと一杯食わされたことになる。彼らの目を欺《あざむ》くほど、実写と架空の画像は巧みに合成されていた。あれだけの技術で事実に手を加えていたとすれば、カラザーたちが長年何の不審も抱かずに騙されていたのも不思議はない。
「わたしもその録画の一部を見ましたが」驚嘆を隠さずハントは言った。「あれがでっち上げではないかということはどこで気が付きましたか? 画面からではまずわからないと思いますが」
「わたしらは気が付きませんでした」イージアンが説明した。「発見したのはヴィザーです。すでにご承知と思いますが、〈シャピアロン〉号の推力機構は船体の周囲に時空の歪みを生じます。メイン・ドライヴで航行している時にそれが最も大きく見られますが、補助ドライヴでも同じことが起こっているのです。船体の向う側の星の位置がずれて見える程度の歪みが生じるのです。ヴィザーは、画面によってその歪みがあるものとないものがあることに気付きました。それで、〈シャピアロン〉号に関する報告の信憑性《しんぴょうせい》が問題になったのです」「それぱかりではありません」カラザーが言葉を補った。「そういうことがあるとなると、地球からの他の情報もすべて疑ってかからなくてはなりません。ところが、比較検証しようにも、手もとには充分な資料がないのです」カラザーは真剣な眼差《まなざし》でゆっくりと地球人一同を見渡した。
「こう申し上げれぱ、われわれが何故この間題についてこれほど深刻になっているか、もうおわかりでしょう。わたしたちは地球について、真っ向から矛盾する二とおりの情報を持っているのです。しかも、そのどちらがどこまで正しいか、検証の方法がないのです。しかし、今仮に、これまでずっと吹きこまれて来たように地球が理不尽な、暴力的な世界であって、〈シャピアロン〉号の乗員たちがあの録画に見られるような扱いを受けているとしたら……」彼は途中で言葉を濁した。「さあ、わたしたちの立場だったら皆さんどうお考えですか?」
沈黙が円卓を覆った.テューリアソはどちらの情報を信じてよいかわからなかったろう。ハントは密かに彼らの混迷を察した。事実を知るために、彼らはこっそり地球と交信して地球人から直《じか》に話を聞くしかなかった。それが今のこの席である。しかし、それにしてもテューリアン人たちのやり方は少し大袈裟にすぎはしないだろうか?
ふいにリンがあっと口を開け、目を丸くしてカラザーの顔を覗き込んだ。「地球人が〈シャピアロン〉号を攻撃するのではないか、っていうことですね」彼女は声を上ずらせた。「地球人が報告どおりの暴力的人種かどうか、考えたらわかりそうなものじゃありませんか。もしそうだったら〈シャピアロン〉号が飛び立つのを黙って見ているものですか。テューリアンへ行って地球のことを話す前にガニメアンの口を封じますよ」
ようやく事態を理解して地球人一同は眉を曇らせた。コールドウェルですら、しばらくは恐縮の体《てい》だった。ジェロール・パッカードのことで感情の行き違いがあったのは悔やまれるが、テューリアン人たちの態度を責めることはできない。
「しかし、ここまで引き延ばすことはなかったでしょう」ややあって、ハントが言った。「あなたがたには、何光年もの距離を隔ててプラックホールを任意の位置に作り出す技術がある。宇宙船を途中で捕獲して直ちに呼び寄せる手があったはずじゃあありませんか。監視報告の真否について証言を求めるなら、〈シャピアロン〉号の乗員以上にふさわしい証人はいません。彼らは六ヶ月地球で生活したんですから」
「技術上の制約がありましてね」イージアンが答えた。「テューリアンの宇宙船は一日で惑星系の外へ出られます。というのは、プラックボールの効果と相殺して重力擾乱を比較的限られた範囲に止める装置を積んでいるからです。〈シャピアロン〉号は昔の船ですから、そんな装置はありません。ですから、あなたがたの惑星の軌道を狂わせまいとすれば、〈シャピアロン〉号が何ケ月もかかって自力で太陽系の外へ飛び出すのを待つしかないのです。もしわたしたちの懸念がいわれもないものだった場合、太陽系惑星の軌道を狂わせたりしては申し訳が立ちませんからね。ですが、いざとなれぱその危険を冒すこともいたしかたない、という方針だけは固まっていました。事実、わたしたちは今〈シャピアロン〉号の安全を確認しなくてはならないところへ来ています。もう一刻も猶予はなりません。惑星の運行を狂わせてはならないなどと言ってはいられないのです」
「いずれにしろ、国連相手では一向に埒《らち》があかないとわかった時点で、わたしどもはブラックホールを発生させる方針を決めました」カラザーが言った。「そこへ木星からの信号が入りはじめて、計画は一時見合わぜることにしたのです。すでに宇宙船団がプラックホール発生装置を積み込んで待機しています。合図一つでいつでも出動できる状態です」
ハントは椅子に体を沈めて深く溜息を吐いた。間一髪とはこのことだ。J5のジョウ・シャノンが一日二日もたついたら、地球の天文学はふりだしに戻って一から出直さなくてはならないところだったのだ。
「出動の合図を送るべきだ」
地球人側の端の席から声が上がった。皆はびっくりして一斉にふり返った。ダンチェッカーが、こんなこともわからないのかとでも言いたげに挑むような顔で一座を脾睨《へいげい〉していた。地球人もガニメアンもしばらくはきょとんとして声もなかった。
ダンチェッカーは眼鏡をはずし、ハンカチで拭いてまた鼻に戻した。出来の悪い学生たちに出題の意味を理解する時間を与える教授の態度だった。ヴィザーも物好きだ、とハントは内心おかしくてたまらなかった。幻覚の中でまで眼鏡を曇らせることはなかろうに。ダンチェッカーの眼鏡拭きはただの癖で、無意識にしていることなのだ。
ダンチェッカーはおもむろに顔を上げた。「その、ああ……監視組織がいかなる性格のものであれ、彼らは〈シャピアロン〉号がテューリアンに行き着くことを望んでいない。それが自分たちにとって不利益だと考えていることは明らかでしょう」彼はちょっと言葉を切り、その意味が一同の胸におさまるのを待った。
「もし、わたしがその組織の意思決定に与《あずか》る立場にあるとしたらこの間題をどう考えるか、それをここでまとめながら話してみましょう。わたしは、今この場で持たれている会談についても、テューリアンと地球の間のやりとりについても、いっさい知らないものと仮定しなくてはなりません。わたしの情報源は地球の通信網であって、そこではこれらの事実を伝えていないのですから。従ってわたしは自分が歪曲を加えて報告した地球に関する情報の真否が間われていることも、まったく知らずにいるわげです。さて、その仮定に立って考えてみましょう。例えば〈シャピアロン〉号が星間空間のどこかで、ああ、その……不慮の事故に遭ったとしますね。万一テューリアンが事故の原因に疑いを抱いたとしても、加害者としてまっ先に浮かび上がるのは地球人だろう。私はそう判断して何の不安も感じないわけですよ」
ダンチェヅカーは駄目を押すようにうなずき、テーブルを囲む一同が彼の言わんとするところを理解して愕然《がくぜん》とするのを見ると、ちらりと歯を覗《のぞ》かせた。
「そのとおり:」彼は声を張り上げて、正面からカラザーに向き直った。「〈シャピアロン〉号をこの危機から救う手段があるならば、躊躇《ちゅうちょ》は無用、直ちに行動を開始すべきです」
12
ニールス・スヴェレンセンはジョルダーノ・ブルーノの上級幹部用の居室で枕に凭《もた》れながら、部屋の隅の鏡台の前で女が服を着るのを眺めていた。若くていかにも男好きのする女だった。目鼻立ちがくっきりして翳《かげ》りのない顔は典型的なアメリカ人の陽気な性格を示している。しどけな
く梳《す》いた黒い髪と白い肌の対照が際立って鮮やかだ。それにしても、体育館備え付けの太陽燈でもっと肌を焼いたほうがいい、とスヴェレンセンは思った。御多分に洩れず、大学仕込みの知性は付焼刃で、一皮剥けば彼女は凡百の他愛もない小娘と少しも変わるところがない。人生のより重要な側面に心血を注ぐ男にとっては悲しいかな必要欠くべからざる、また、そこそこ結構なお慰みである。「あなたはわたしの体だけが目当てたのよ」女たちは申し合わせたように眉を吊り上げて食ってかかる。彼の答はいつも同じだった。「他に何がある?」
女はスカートのボタンを掛げ終え、鏡に向き直ってせわしげに髪を梳《くしけず》った。「あわただしく飛び出して行くようだけど、わたし、今日は早番なの。本当よ。今だって、もう遅刻だわ」
「気にすることはないよ」スヴェレンセンは心にもなく優しい声で言った。「仕事第一だからね」
女は鏡台の脇の椅子の背からジャケットを取って肩にはおった。「カートリッジは?」スヴェレンセンをふり返って彼女は尋ねた。
スヴェレンセンはベッドナイドの抽斗《ひきだし》を探ってマッチブッグほどのマイクロメモリー・カートリッジを取り出した。「ほら、これだ。くれぐれも慎重にね」
女は近寄ってカートリッジを受け取り、ティシューに包んでポケットに入れた。「わかったわ。今度いつ会えるの?」
「今日は非常に忙しい。また、こっちから連絡するよ」
「あまり長く待たせないでね」女は小さく笑い、屈み込んでスヴェレンセンの額に接吻すると、そっとドアを閉じて立ち去った。
十分後、彼女がメイン・デッシュ(中央アンテナ)制御室に入って行くとジ・ルダーノ・ブルーノ観測基地の天文部長グレゴーリ・マリウスク教授がむずかしい顔で待ち受けていた。
「また遅刻か、ジャネット」
戸口の脇のロッカーにジャケットを掛けて白の作業衣に着替える彼女に向かって教授は不機嫌に言った。「ジョンは今日プトレミー(プトレマイオス)へ行くので早くに出掛けた。それでわたしが穴埋めをさせられる破目になったんだ。一時間後には会議だ。それまでに片付けなくてはならないことが山とある。こう度々遅刻されては困るね」
「済みません、先生。寝坊してしまったもので。これから気を付けます」彼女はつかつかと中央制御卓に向かい、馴れた手つきで前夜のステータス・ログのルーティンを呼び出し但かかった。
マリウスクはオフィスの出入口に並ぶ機材ラックの脇から顰《しか》め面で彼女の様子を眺めた。白衣の背に無造作に垂らした黒髪や、その白衣が包み隠すよりもむしろ浮彫りにしている彼女の蠱惑《こわく》的な体の線は見まいとしても目に入る。「またあのスウェーデン人だな。そうだろう」考えるより先に彼は吐き捨てていた。
「それはわたし個人の問題です」ジャネットは顔を伏せたまま、努めて冷静な声で言った。「さっきも言いましたでしょ……これからは気を付げます」
彼女は唇を堅く結び、キーボードを邪険に叩いて前面のスクリーンに別のデータを呼び出した。
「五五七Bの相関チェックが昨日のうちに終わっていない」マリウスクは険を含んで言った。
「予定では一五〇〇時に終わっているはずだぞ」
ジャネットは一瞬仕事の手を止め、目を閉じて唇を噛んだ。「もう……」彼女は口の中で言い、それから大きく声に出した。「休憩抜ぎで仕上げます。残りは大したことありませんから」
「ジョンがもうやってくれた」
「済みません……。今度ジョンの勤務時間を代わって埋め合わせします」
マリウスクは彼女を睨《にら》みつけていたが、やがてくるりと踵《きびす》を返して物も言わずに制御室を出て行った。
ステータス・ログの点検を終えると、彼女はスクリーンのデータを消して送信サブシステムの補助プロセサー・キャビネットのほうへ移り、蓋を開けて空のスロットにスヴェレンセンから渡されたカートリッジを挿入した。次いで彼女はシステム・コンソールの前へ回り、ルーティン・プログラムによって、すでにこの日の送信のために記号化されたメッセージのバッファにカートリッジの情報を送り込んだ。送信がどこへ向けられているか、彼女は知らない。が、国連代表団がブルーノに乗り込んで来た時から何やら仕事が忙しくなった。国連関係の技術上の処理はマリウスクが一手に引き受けて、職員たちには仕事の中身を話そうとしない。
スヴェレンセンの説明では、カートリッジの情報は俗事にわたることで、地球から遅れて届いたために、すでに用意されたメッセージに補遺として加えるものだという話だった。本来ならば送信内容は代表団全員の承認を得なくてはならないのだが、そこまでするほどの中身はない。ただ、二、三微妙な点もあるので扱いは慎重に、と彼は言ったのだ。ジャネットは、たとえ些細なことであっても国連の機密にかかわっているのだと思うとまんざら悪い気はしなかった。とりわけ、彼女にそのことを依頼したのが社会的な地位もある惚《ほ》れぼれするような好男子であってみれぱなおさらである。彼女は物語りの世界に身を置いて胸をときめかせた。それに、人間どこで何があるかわからない。スヴェレンセンの口ぶりから考えて、彼女は将来のために大きな貸しを作っていると言えなくもなさそうだった。
「あの男は、きみたちと同じで、ここでは大切なお客だよ。わたしらはできるだけ気を遣っているんだ」マリウスクは昼前にソヴィエト代表のオフィスを訪ねてソプロスキンに言った。「しかし、そのために観測基地の仕事が妨げられるのは困るんだ。こっちの仕事を邪魔されてまで好き勝手を許すいわれはない。特に、わたしの目の前でああいうふしだらな真似をされては、こっちとしても黙っているわけには行かない。彼のような立場にはあるまじきことじゃあないか」
「しかし、なにぶん代表団の仕事とはかかわりのない個人の問題だからね、わたしとしても口出ししかねるんだ」ソプロスキンは努めて穏やかに言葉を返した。マリウスクのただならぬ気配は仕事を邪魔された科学者の腹立ちというだけでは片付かないものがある。「きみの口から直接スヴェレンセンに話してくれたほうが筋がとおるのではないかね。だってそうだろう。ジャネットはきみの助手だよ。仕事を邪魔されているのはきみのところなんだ」
「もちろん話したとも。ところが、結果はあまり芳しくないんだ」マリウスグは憮然として言った。「ロシア人の一人として、わたしの抗議をソヴィエト政府のどこであれ、代表団を管轄する部局に伝えてもらいたい。国連を通じて然るべき措置を取るように。それでわたしはこうしてソヴィエト代表部の責任者であるきみに話をしているんだ」
ソプロスキンは正直なところ、マリウスクの嫉妬《しっと》には興味がなかった。それよりも、こんなことでモスクワを騒がせるのは御免だという気持が強い。ゴシップが広まれぱ世論は月の裏側で国連の代表団はいったい何をやっているのかと騒ぎ立てるだろうし、そうなれぱいらざる疑惑を招き、痛くない腹を探られることは目に見えている。とは言うものの、マリウスクがこのままではおさまりそうにない。ソプロスキンが要求を撥ね付ければ、マリウスクは当局に直訴するかもしれない。選択の余地はなかった。「わかったよ」彼は溜息まじりに言った。「わたしに任せてくれないか。今日明日中にもスヴェレンセンに会って話してみよう」
「よろしく頼むよ」マリウスグは真顔で言うとそそくさと立ち去った。
ソプロスキンはその場に坐ったまましばらく思案していたが、やがて背後の金庫に手を伸ばし、ソヴイエト軍情報部の旧友に頼んで密かにブルーノに送らせた人事記録ファイルを取り出した。ファイルをめくって記憶を新たにし、あれこれ考え合わせた末に彼は方針を変えることにした。
ニールス・スヴェレンセンのファイルには不審な点が少なくなかった。記録によればスウェーデン人ニールス・スヴェレンセンは一九八一年マルモ生まれとされている。十代の末に傭兵としてアフリカ在役中に消息を絶ち、十年後にひょっこりヨーロッパに姿を現わしたが、その間どこで何をしていたか、とかくの噂があるばかりで本当のところは誰も知らない。消息が明らかな期間にはさしたる活動もしていないスヴェレンセンが、いつの間にか巨額の富を蓄えて社会的な地位を固めたのはいったいどういうことだろう? マスコミの目を避けながら、彼はどうやって国際的な影響力を持つ要人たちと顔を繋いだのだろう?
女たらしは以前からのことである。ドイッのさる金融家の妻との情事はこの男の本性を知ろうとする者にとって注目に価する。スヴェレンセンに妻を寝取られた男は復讐の意志を明らかにしたが、それからひと月足らず後にスキー場で不可解な事故死を遂げた。当局に多額の金が流れて捜査が打ち切られたことを物語る証拠がある。そうなのだ。スヴェレンセンは自ら進んでそのことを認めようとはしないし、世間に知られることを好んでもいないが、各界の実力者に顔がきき、必要とあればその関係に物を言わせて容赦なく邪魔者を葬る男である。ソプロスキンはその点を胸に畳み込んだ。
最近、特にこのひと月ぱかり、スヴェレンセンが密かにヴェリコフと連絡を取り合っているのも気に懸《かか》ることである。ヴェリコフはモスクワ科学アカデミーの宇宙通信の権威だし、ジャイスターと直接交信を企てているソヴィエト当局の最高機密に関与する人物ではないか。ンヴィエト政府は表向き国連の方針に批判的な態度を示しているが、その実、国連の鈍重な動ぎは思うつぼなのだ。つまり、ソヴィエトとしては独自のチャンネルを開く企てを誰にもまして国連に知られたくないということだ。アメリカはすでにソヴィエトの動きに薄々勘付いているようだが、まだ確証を掴[#手偏+國]んでいない。アメリカは出遅れているのだ。売りもののフェアプレイの精神にこだわるなら、それはアメリカの勝手である。それにしても、ヴェリコフとスヴェレンセンの間にいったいどのようなやりとりが交わされているのだろうか?
もう一つ解せないことがある。スヴェレンセンは国連の戦略軍縮推進の立役者であり、世界の生産性増進の旗頭だったはずである。それなのに、その目的を達成するために全人類にとってはまたとない好機が訪れたと言って良いはずの今、彼はどうして各国の努力に水を差すような国連のやり方を支持しているのだろうか? どう考えてもこれはおかしなことである。そもそも、スヴェレンセンという男がどこを取っても謎なのだ。
それはさておき、マリウスクの助手についてはどうしたものだろう? マリウスクの話では、彼女はアメリカ人だという。スヴェレンセンが問題を避けたがっている時を狙って、とっくり考える閑を与えずに話を付ける手があるのではなかろうか。愛国心の問題は別として、ソプロスキンはヘラーが基地を去った後、ペイシーが自国の方針を貫くために孤独な闘いを続けている姿に敬意を払わずにはいられなかった。今ではアメリカ人ペイシーと個人的に大変親しい間柄になっている。テューリアンとの交信をめぐってソヴィエト連邦とアメリカ合衆国が立場を異にしているのは実に嘆かわしいことと言わなくてはならない。ソプロスキンとペイシーは、腹の底ではお互いに他国の代表たちよりもずっと通い合うものを感じているのだ。長い目で見れぱ、このテューリアン誘致競争で米ソのどちらが勝を制したところで結果はそう変わらないのではないか、とソブロスキンは考えている。かつてカレン・ヘラーが言ったとおり、今は全地球人の将来を考えるべき時なのだ。一人の男として、ソプロスキンは彼女の意見に賛成である。ジャイスターとの接触が彼の予測するとおりの結果をもたらすとすれば、五十年を待たずして国家同士の利害の対立などは取るに足りないことになるだろう。それどころか、国家という枠さえ過去のものになっているかもしれないのだ。しかし、それは一人の男として考えた場合の話である。今はまだそこまで行っていない。ロシア人として、彼にはしなくてはならないことがある。
ソプロスキンは一人うなずき、ファイルを閉じて金庫に戻した。ノーマソ・ペイシーに話して、あのアメリカ娘にそれとなく注意してもらうことにしよう。うまく行けば問題は自然な形で解決し、一時《いっとき》の小さな波紋もじきに消え去るのではなかろうか。
13
壁面の大部分を占めるスクリーンの中央に数千マイルの上空から捉えた惑星の姿が映っていた。惑星表面は深い海の色を湛《たた》えて青く、渦を巻く雲の隙間に覗《のぞ》く陸地は赤道付近の茶褐色から、黄色や緑の変化を見せて両極の白い氷へと続いている。太陽の光に満ちて温暖な、活力にあふれる惑星だった。しかし、スクリーンの映像はガルースの胸に、数ヶ月前にはじめてこの惑星を訪れ、沸騰するばかりの生命力に触れた時のあの驚嘆と感動をよ甦《よみがえ》らせはしなかった。
科学調査隊を乗せた恒星間宇宙船〈シャピアロン〉号の司令官ガルースは個室のスクリーンに遠ざかる地球を眺めながら、相対論的複合時差による長い長い亜空間漂流の果てに太陽系に辿《たど》り着いた彼らを熱狂的に迎えた驚異の人種に思いを馳せていた。〈シャピアロン〉号の時間では二十数年前に当たる今から二千五百万年の昔、ガルースとその一行は科学上の実験調査の使命を帯びて文明の絶頂を極めたミネルヴァを後に恒星イスカリスへ向かった。実験が上手く行けば彼らは生涯の五年足らずを費やすのみで、時差を加えても二十三年後には故郷に帰れるほずだった。しかし、不測の事態が生じて実験は失敗に終わった。ガニメアンは〈シャピアロン〉号の帰還を待たずにミネルヴァを捨てて別の星へ移住した。後に残された動物から長い進化の後に新しい人種ルナリアンが出現した。ルナリアンは独自の文明を築き上げたが、やがて両極に分裂し、戦火を交えて、ついに惑星もろとも自滅した。ホモ・サピエンスは地球に帰り、それから数万年の歴史を書き綴ったのだ。
〈シャピアロン〉号を迎えたのは、このホモ・サピエンスの子孫だった。ガニメアンに事実上見捨てられた憐《あわ》れむべき畸型のミュータントは絶望的に不利な条件を負いながらも、妥協を知らぬ苛酷な環境を生き抜いて誇り高く、強靱な精神力を持つ人種に成長したのみならず、宇宙が彼らの行手に投げ出した障害物をことごとくせせら笑って踏み越えて行った。かつてガニメアン文明が専制をほしいままにした太陽系は、今や地球人がその手で掴[#手偏+國]み取った正当な領分である。それ故〈シャピアロン〉号は再び地球から飛び立ち、ガニメアンの新しい故郷とされているジャイアンツ・スターを指して孤独な宇宙航海を続けることになったのだ。
ガルースは吐息を洩らした。何をもってジャイアンツ・スターを新しい故郷と呼ぶべぎだろうか? そこには空しい希望があるだけで、論理学の初学者の目にすら、巨人たちの星の存在を裏付ける確かな証拠はどこにもない。ガルースと、腹心の上級幹部数人だけが知っている現実を前に、行動決定の正当化を図るために藁《わら》をも掴む思いですがった僅かな可能性がジャイアンツ・スターだったのだ。巨人たちの星は地球人の想像の産物である。地球人の楽天主義と未知への憧憬は止るところを知らない。
地球人にはただただ驚き入る他はない……
地球人たちは巨人たちの星伝説を事実と信じ、ガニメアンの幸運を祈って、挙げて宇宙船の出発を見送ってくれた。船上のあらかたのガニメアンたちと同様、地球人もまたガルースが地球を去るに当たって説明した理由を疑っていない.地球文明はまだ若く未熟であって、いずれ数と力において彼らを圧倒するであろう異星人との共存は時期尚早である。それ故ガニメアンは一旦地球を離れるのだ、とガルースは言ったのだ。中にはアメリカ人生物学者のダンチェッカーやイギリス人科学者ハントのように真実を理解している地球人もいる……。遠い過去のある時、ガニメアンは遺伝子工学の試験管の中でホモ・サピエソスの祖先を造り出した。ガニメアンが押しつけた大きな負担にもかかわらず、地球人は生き延びて今日の繁栄を築いた。地球はガニメアンの干渉から解放されて然るべきである。すでにガニメアンは干渉しすぎたのだ。
そんなわけで、ガルースは伝説を信じ込んだガニメアンの]行を率いて地図のない旅を続けることにした。苦しい決断だった。しかし、少なくともしばらくガニメアンたちに希望を抱かせてやりたい。そう考えることで彼は自身を説得した。イスカリスからの長い航海に一行が耐えられたのも希望があったればこそである。あの時も今も、ガニメアンたちは彼を信頼している。ガルースと腹心の幹部、それに、おそらくはダンチェッカーやハントのような極《ご》く限られた地球人だけが知っている事実を最後まで伏せておくことは決して間違いではあるまい。とは言うものの、あの回転の速い、時には直情径行な驚異の矮人種地球人の友人二人がはたしてどこまで本当のことを知っているかはガルースにもわからない。二度と再び彼らに会うことはないだろう。
ガルースは地球を飛び立ってからもう何度となく、こうして一人静かに遠ざかる惑星の映像や、これから向かう宇宙の果ての恒星図《スター・マップ》をスクリーンに呼び出しては眺めている。まだ何年もかかる虚空の彼方に、無数の星に混って針の先で突いたように小さく見えているのが〈シャピアロン〉号の目的地である。地球の科学者たちの考えはまだ完全に否定されたわけではない。かけらほどではあっても一|縷《る》の望みは残されている……。ガルースははっと我に帰った。しょせんは夢のまた夢だ。現実は甘くない。夢から覚めれば、目の前にはただ暗黒があるばかりである。
ガルースは背筋を伸ばして妄想をふり払った。彼にはするべきことがある。「ゾラック……」彼は声を張り上げた。「映像を消してくれ。シローヒンとモンチャーに、今夜会いたいからと伝えるように。できれぱ、夜のコンサートが終わったらすぐにだ」地球の画がスクリーンから消えた。「第三課程教育カリキュラムの改正案を見せてくれ」
スクリーンに統計表と指導要領が出た。ガルースは表示を眺めてゾラックにいくつか彼の意見を記憶させ、次の資料を呼び出した。見せかけの平穏を保つためでしかない教育カリキュラムに彼が何故頭を悩ませなくてはならないのだろうか? ガルースの決断によって、子供たちは巻添えを食った形である。子供たちは〈シャピアロン〉号の他に故郷を知らず、星間の闇の虚空にはかない最期を遂げる運命にあるのだ。そんな彼らの教育カリキュラムをいじくってみたところで何の意味もないではないか。
ガルースはその投げやりな考えを意識から締め出して、熱心に仕事に取り組んだ。
14
「いいかね、わたしはきみの個人的な問題に口出しする権利はないし、もともとそんなつもりではないよ」ノーマン・ペイシーはブルーノ基地の私室にジャネットを呼んで言った。ソプロスキンと話し合ってから数時聞後のことである。彼はできるだけ物わかりよく穏やかに、しかし厳しく話すことに努めた。「しかし、わたしの耳にもいろいろと聞こえて、代表団の仕事にも影響が出ているとなると、わたしとしても放ってはおけない」
向ぎ合った椅子でジャネットは表情も変えずに彼の言葉に耳を傾けていた。僅《わず》かに目を濡らしているが、それが悔恨のせいか、口惜し涙か、あるいは感情とは何の関係もない、ただ涙腺の状態によるものか、ペイシーには見当が付ぎかねた。
「自分でも、馬鹿だったと思います」しばらくして、彼女は蚊の鳴くような声で言った。
ペイシーは顔には出さずに胸の裡で溜息を吐いた。「スヴェレンセンももう少しわきまえがあってよさそうなものだがねえ」こう言えばいくらか気休めになるだろう。「いやね……わたしの口から、きみにどうしろとは言えないよ。ただ、少なくとも無分別な行動だげは慎んでもらいたい。参考までにわたしの意見を言わせてもらえばだね、これまでのことはきれいに忘れて、きみは自分の仕事に専念したほうがいい。もっとも、これはわたしの考えであって、それをどう受け取るかはきみの自由だ。スヴェレンセンと切れたくないというなら、それはそれでいい。ただ、あまり派手にやらないことだな。そのことでマリウスクがわたしのところに何だかだと言って来ないように、上手くやってもらいたいのだよ。まあ、これがわたしの正直な気持だ」
ジャネットは手の甲で唇を押えて微かに笑顔を覗《のぞ》かせた。「さあ、それはどうかしら。マリウスク先生がこのことでお冠なのは、本当を言うと、わたしがここへ来た時から気があったからですもの」
ペイシーは頭を抱えた。いつの間にか彼は父親の役を受け持ち、ジャネットもまたそのつもりで話しているような形になっている。ここで身上話を打ち明けられてはかなわない。彼は忙しいのだ。
「そいつはまずいな……」彼は助けてくれとばかりに両手を拡げた。「くどいようだが、わたしはきみの私生活にまで嘴《くちばし》を入れるつもりはないのだよ。ただ、合衆国代表団の一人として、仕事上の立場からひと言注意しておく必要を感じたまででね。まあ、この話はこれまでとして、今後ともお互いにわだかまりのないように、仕事で仲好くやるとしよう。それでどうかね?」ペイシーは無理に笑顔を作って彼女の表情を窺《うかが》った。
ところが、ジャネットは何もかも吐き出して胸のつかえを降ろしてしまいたい気持だった。
「ここへ来て、すっかり環境も変わったし、馴れないことばかりで……何しろ、月の裏側でしょう……」彼女はちょっとはにかんだ顔を見せた。「自分では上手く言えませんけれど……親切にされて嬉《うれ》しかったと言うか……」「よくわかるよ」ペイシーは手を上げて彼女を遮《さえぎ》ろうとした。「それは何もきみがはじめてというわけじゃない。ここではよく……」
「それに、あの人、これまで知り合った男の人たちとはぜんぜん違って……あなたもそうですげど、とてもわたしのことをよく理解してくれるんです」
ジャネットはふと眉を曇らせ、何かを話したものかどうかと迷う態度で上目使いにペイシーを見た。自分の部屋を告解聴聞室にされないうちに、とペイシーは腰を浮かぜたが、それより早く、ジャネットは堰《せき》を切ったように話しはじめていた。
「実は、ちょっと気になっていることがあるんです……今まで誰かに打ち明けようかどうしようかと迷っていたんですげど……最初は何でもないことだと思いました。でも……やっぱり気になって……わたし、困っているんです」
彼女は先を促してほしい顔つぎでペイシーを見上げた。ペイシーは眉一つ動かしもせずに彼女を見返した。ジャネットは言葉を続けた。「あの人からわたし、マリウスク先生が扱っている送信の追加データだというマイクロメモリーを渡されたんです。ほんの形式的なもので、中身はほとんど何もないから、って……それが、その……わたしにそれを言い付けた時のあの人の態度が何か変なんです」
彼女は気が楽になった様子でふっと吐息を洩らした。
「よくわかりませんけど……でも、とにかくそういうことがあったんです」
ペイシーは打って変わった態度で身を乗り出し、じっと彼女の目を見据えた。その容易ならぬ表惰を見て、ジャネットは自分が洩らしたことが思っていた以上に重大な事柄だったと知り、たちまち顔面蒼白となった。
「何度そういうことがあった?」ペイシーは鋭く尋ねた。
「三度です……今朝のを入れて」
「最初は?」
「二、三日……いえ、もう少し前だったかしら。カレン・ヘラーが出発する前です」
「マイクロメモリーの中身は?」
「さあ……」ジャネヅトは力なく肩をすくめた。「わたしに訊かれても困ります、ペイシーさん」
「おいおい、それはないだろう」ペイシーはじれったそうに手をふった。「何も不思議に感じなかったとは言わせないそ。きみは制御室にいるんだ。スクリーンにデータを出力して読むこともできたはずじゃあないか」
「やってはみたんです」ちょっと間があって、彼女は言った。「でも、ロックアウト・コードが組み込まれていて、コソソール・ルーティソでは読み取れないんです。送信コールに連動する一回限定信号を内蔵しているんだと思います。つまり、一度発信されると自動的に消去されるんです」
「それを見て、きみは変だと思わなかったのか?」
「はじめは、何か国連の機密保持規定による手続きかと思いました……でも、はてなと思って、それから気になりだしたんです」彼女はおどおどしてペイシーの顔を覗き込み、それから声を落として言った。「あの人は、ほんの付け足しで、中身は何もないって言いました」
今はもうそんなことは信じていない。彼女はそれきり口をつぐんだ。ペイシーはどこか遠くを見つめる目つきで、無意識に拇ゆび《おやゆび》の関節を噛みながら、ジャネットから聞いたことを頭の中で繰り返した。
「他に何を言った?」しばらくして彼は尋ねた。
「他に?」
「どんなことでもいい。スヴェレンセンの言ったりしたりしたことで、何かおかしいと思ったことはないか? 思い出してくれ。どんなつまらないことでもいい。これは問題だぞ」
「ええと……」ジャネヅトは眉を寄ぜて彼の背後の壁を見つめた。「あの人、わたしに世界の軍縮のためにどんな仕事をして来たか、とか、国連を地球規模の有効な組織に育てるためにどう働いたか、とか、そんな話をしました。それで自分は各国の有力者と親しいんだ、って……」
「ああ、それはわたしらもよく知っている。他には?」
ジャネヅトはちょっと口もとをほころばせた。「あなたのこと、代表団の会議で話をややこしくするって、すごく怒っていましたよ。まるであなたが石頭のわからず屋だっていうみたいに。でも、どうしてかしら」
「なるほど」
彼女ははっと何かを思い出した。「それから、もう一つ変なことがありました……ええと、あれは……そう、昨日です」
ペイシーは黙って先を待った。彼女はちょっと考えてから言った。「わたし、あの人のところで……バスルームに入っていたんです。そこへ、代表団の誰かが、何だかすごく慌《あわ》てて飛び込んで来ました。誰だかわかりません。あなたではないし、あの頭の禿げたロシア人でもありません。どこか他の国の人です。浴室のドアは閉まっていましたから、向うもわたしがいるとは知らずに、その場で何かしゃべりだしたんです。そしたら、ニールスが、声が高いと言ってものすごく怒りました。でも、その時はもう、何でも宇宙のどこかにある何かが近く破壊されるというニュースが入ったとか、そんなようなことをしゃべったあとでした」彼女は額に皺を刻んで首を横にふった。「わたしが聞いたのはそれだけで……あとはひそひそ話で聞こえませんでした」
ペイシーは耳を疑う顔で念を押した。「間違いないか?」
ジャネッヅトは自信なげにかぶりをふった。「わたしにはそう聞こえたんですけど、はっきりとは……。水の音もしていましたし……」彼女は確言することを避けた。
「他に、何か耳に入らなかったか?」
「ええ……すみません」
ペイシーは立ち上がってゆっくりドアのところへ行き、しばらく外の気配を窺ってから引き返して真っ向からジャネットを見降ろした。「いいかね、きみは自分がどれほど大変なことに巻き込まれているかわかっていない」彼は重々しく、陰にこもって言った。ジャネットはすくみ上がった。「わたしの言うことをよく聴くんだ。きみはこのことを、絶対に口から外へ出してはいけない。わかるね? 誰にも言うんじゃない。名誉挽回しようと思うなら、今、この場から気持をしっかりさせることだ。きみは今ここでわたしに話したことを、以後絶対に口外しないこと」彼女はぼんやりうなずいた。「誓ってもらいたい」
ジャネットは今一度はっきりうなずぎ、それから、ちょっと考えて尋ねた。「じゃあ、もう二ールスとは会うなということですか?」
ペイシーは唇を噛んだ。もっと詳しいことを探れるたらこれに越したことはない。しかし、ジャネヅトは信頼できるだろうか? ここが思案のしどころだ。
「ここでの話も、この先見たり聞いたりすることも、絶対に他言は無用の約束を守れるなら、会うなとは言わない。それから、何か異常を感じたら必ずわたしに伝えること。ただし、きみにスパイを頼んでいるのではないからね、自分から厄介の種をまくような真似をしてはいけないよ。ただ、目を大きく開けて、よく耳を澄ませておくことだ。はてな、と思うようなことを見るか聞くかしたら、このわたしだけに知らせてもらいたい。他の者には間違っても洩らさないこと。それから、書いたものを残すことは禁物だ。いいね?」
ジャネットはにっこりうなずこうとしたが、顔が強張《こわば》って笑いにはならなかった。「わかりました」
ペイシーはやや長めに彼女の顔を見つめてから、話はこれまでという仕種で両手を拡げた。
「今日のところはこのくらいにしておこう。わたしはこれで失礼するよ。やることが溜まっているのでね」
ジャネットはついと立って戸ロへ向かった。部屋を出ようとする彼女の背中にペイシーは呼びかけた。「ああ、ジャネット……」彼女は足を止めてふり返った。「頼むから、仕事には遅れないように気を付けてくれ。きみのところのロシア人先生を怒らせてはまずいから」
「大丈夫です」ジャネットは小さく笑って立ち去った。
ペイシーはいつの頃からか、ソプロスキンが自分と同じく、スヴェレンセンを中心とするグループから疎外されていることに気付いていた。その後、それとなく注意していると、どうやらソプロスキンはモスクワの意を体して孤軍奮闘しているらしく、国連の煮えきらない態度をただ身動きもままならぬ自分のためには好都合と考えているにすぎないように見受けられた。だとすれば、ソプロスキンはジャネットが小耳に挟《はさ》んだ情報とは無関係と判断してよさそうである。テューリアンにかかわることはいっさい地球と交信してはならないという原則は動かない。ペイシーは自身の判断に賭けて、その夜、基地内でもめったに人の出入りがない資材倉庫で密かにソプロスキンと会うことにした。
「むろん、何一つ断言はできないがね、それが〈シャピアロン〉号攻撃を意味する可能性は濃い」ペイシーは言った。「これまでの経緯から言って、テューリアンは対立する二つの集団から成っていると見るべきだろう。われわれが交信している相手は、ガニメアン宇宙船の安全を心から願っている。しかしだね、この基地の、われわれとは考えを異にする一派がもう一方のテューリアン集団と意を通じていないと言いきれるだろうか? それに、その一派も、わたしらに対して同じ見方をしているとしたらどうだろう?」
ソプロスキンは真剣な表情でペイシーの話に耳を傾けていた。「例の二進コード信号のことだな」彼は言った。はじめから予想されたとおり、謎の信号については誰もがいっさい関知していないと言って体をかわしていた。
「ああ」ペイシーはうなずいた。「わたしらはてっきりお宅だと睨《にら》んでいたよ。アメリカではないことはわかりきっているのだからね。しかし、それは間違いかもしれない。その点は認めよう。もし、国連がこのブルーノでやっていることは全部ただの見せかけで、実はわたしらの知らないところで別の手を打っているとしたらどうだろう? 米ソ両国にここで足踏みをさせておいて、裏で何か工作しているとしたら……? 具体的には言いかねるけれども、テューリアンのいずれか一方、あるいは、ことによると、両派と個別に連絡を取り合っているということも考えられはしないかね」
「何でまた?」ソプロスキンは問い返した。彼は探りを入れる口ぶりだった。今のところ自分から言い出すほどの考えは持ち合わせがないと見える。
「それは何とも言えないがね、わたしが心配しているのは〈シャピアロン〉号のことなんだ。わたしの間違いならそれでいい。しかし、間違いであることを祈って、ただこのまま放っておくわけには行かないだろう。宇宙船に危険が迫っていると考える根拠があるとしたら、とにかくテューリアンに知らせるのが筋じゃないか。知らせてやれぱ、向うなりに対策があるかもしれない」ペイシーはすでに何度かアラスカへ連絡することを考えたが、結局は思い止まっていた。
ソプロスキンはしばらく黙って考えにふけった。コード信号がソヴィエトの呼びかけに応答したものであることはわかっていたが、ここでそれを打ち明けなくてはならない理由は何もない。むしろソプロスキンとしてはスウェーデン人をめぐる疑惑を解明するほうが先である。モスクワは何よりもテューリアンとの友好を願っている。ペイシーがどのような手段を考えているにせよ、彼に協力してテューリアンに危険を知らせることでソヴィエトが失うものは何もない。ペイシーの危懼《きく》が根も葉もないものだったとしても、それによって誰が傷付くわけでもない。いずれにしたところでクレムリンに相談する時間はなかった。「腹を割った話をしてくれて感謝するよ」ソプロスキンは言った。本心であることはペイシーの目にも明らかだった。「で、わたしにどうしろと言うんだ?」
「ブルーノの送信機を使いたいんだ」ペイシーは答えた。「もちろん、代表団を通すわけには行かない。そこで、マリウスクの手を貸りたいのだよ。扱いにくい男ではあるけれども、マリウスグは信頼できる。ただ、わたしから頼んでも首を縦にふらないだろう。きみに口をきいてもらえぱ、何とかなるのではないかと思ってね」
ソプロスキソは怪訝《けげん》そうに小さく眉を持ち上げた。「助手の女の子がいるじゃないか、アメリカ人の」
「それも考えた。しかし、信頼していいものかどうか……。何しろ、スヴェレンセンに近すぎるのでね」
ソプロスキンはちょっと考えてうなずいた。「一時間待ってくれないか。きみの部屋に返事を伝えよう」彼は何やら思案するふうに歯の間から息を吸って言葉を足した。「あの女の子にはあまり負担をかけないほうがいい。わたしはスヴェレンセンについていくらか情報を掴[#手偏+國]んでいるがね、あの男は要注意人物だよ」
二人は夕方の当直交替時間に、夜勤の技術者たちがコーヒーを飲みに行っている隙を狙って中央制御室でマリウスクと談合した。マリウスクはソプロスキンがソヴィエト政府代表として警告発信を要請したことを明らかにする文書に署名することを条件に彼らの頼みを聞き入れた。マリウスグはソプロスキンの一札を私用のファイルに綴じ込んでから制御室のドアに錠をかけ、コンソールのメイン・スクリーンにペイシーの口述するメッセージを映し出して送信用の暗号文を組み立てた。ロシア人二人はペイシーがメッセージを彼自身の名前で発信することに首を傾げずにはいられなかった。ペイシーはまだ隠していることがある様子だった。
15
緊急呼出があってガルースが<シャピアロン>号の司令室へ駆けつけると、副官モンチャーが尋ねられるより先に顔を引き攣《つ》らせて言った。「船体周辺のストレス・フィールドにこれまで一度もなかった異常が起きています。外部からある種のバイアスが掛かって、縦方向のノード・パターンを乱しているんです。多次元位相空間は縮小して、グリッドベースはバランスを失いかけています。ゾラックにも原因がわかりません。今、変換量を計算し直しているところです」
ガルースは調査隊の学術主任シローヒンをふり返った。女流科学者は数人の技術者に囲まれて、ずらりと並んだスクリーンに次々と映し出されるデータの解析を急いでいた。
「どういうことだ?」ガルースは尋ねた。
シローヒンはお手上げとばかりかぶりをふった。「こんなのは聞いたこともないわ.座標軸が指数曲線的に反転した非対称時空に突入しているのよ。空間そのものが、この船を取り込んだまま崩壊しかけているわ」
「脱出でぎるか?」
「万事休すね。針路修正はまるできかないし、縦方向のエコライザーも、出力いっぱいに上げても補正でぎないんですもの」
「ゾラック。そっちはどうだ?」ガルースは声を張り上げた。
「通常空間と整合するグリッドベースが設定できません」コンピュータが答えた。「つまり、迷い子になったということです。現在位置も方角もわかりません。それどころか、はたしてどこかへ向かっているかどうかもわからないのです。いっさい制御がききません。それを除けば、本船自体はどこにも異常はありません」
「システムの状態は?」ガルースは尋ねた。
「センサーも、チャンネルも、サプシステムも、点検した限りではすべて正常に作動しています。……いえ、わたしは故障していません。わたしの誤動作による錯覚ではありません」
ガルースは茫然と立ちつくした。司令室中の視線が彼一人に集まって、彼の命令を催促していた.しかし、何が起こっているかわからない状態でいったいどのような命令を下すことができるだろう? 土台、打つべき手があるのだろうか? 「総員緊急待機して次の指示に備えるように伝達しろ」ガルースは言った。どうするという当てがあるわけではない。とにかく、彼の一言への期待に応えなくてはならなかった。乗組員の一人が復唱して船内に指示を伝えた。
「ストレス・フィールドがそっくりずれているわ」スクリーンの最新データを睨みながら、シローヒンは口の中で呟《つぶや》いた。「確認可能な基準点とはいっさい隔絶しているということね」彼女を取り巻く技術考たちの表情は重苦しかった。モンチャーはただいらいらしながら傍らのコンソールの縁を握りしめるばかりだった。
しばらくして、ゾラックの声が響いた。「状態は急速に回復に向かいはじめました。結合および翻訳機能は新しいグリッドベースに統合されつつあります。基準点は反転してバランス方向に戻ろうとしています」
「何とか乗りきれそうね」シローヒンが控え目な声で言った。期待に満ちたざわめきが拡がった。シローヒンはディスプレイを今一度あらためてほっと肩の力を抜いた。
「ストレス・フィールドは常態に戻っていません」ゾラックは、安心するのはまだ早いという声を発した。「フィールドに外から抑制が働いて、速力は亜重力圏に落ちています。このまま行けば通常空間に浮上します。もう間もなくです」
何かが宇宙船に制動をかけて、無理にも通常空間に引き戻そうとしていた。
「浮上完了。本船は通常空間と接触を取り戻しました……」長い沈黙が続いた。「ただ、現在位置がわかりません。別の場所へ移転しているようです」
床の中央にある球形ディスプレイに火が入って宇宙船を取り巻く星域《スターフィールド》が映し出された。太陽系付近で見る宇宙の景観とはまるで違っていた。〈シャピアロン〉号が地球を出発してから宇宙の様相が変わったというのはとうてい考えられないことである。
「大型の人工構造物がいくつか接近して来ます」ちょっと間を置いてゾラックが言った。「見覚えのない物体ですが、知性生物の手になるものであることは間違いありません。本船は未知の知性生物により、何らかの不明な目的のために、何らかの未知の手段をもって捕獲され、未知の宇宙領域に転位させられたものと見られます。相手の正体が不明であることを除けば、情況は明らかです」
「接近中の物体をスクリーンに出せ」ガルースが指示した。
長大な宇宙船の各所から異なった角度で捉えた映像が司令室の三つのスクリーンに送られて来た。ガルースが見たこともない飛行物体がゆっくりと近付いて来るところだった。司令室の科学者も乗組員も、ただ声もなくスクリーンを見つめるばかりだった。しんと静まり返った中にゾラックの声が響きわたった。
「未確認異星船から連絡がありました。信号方式はこちらと同じ、標準ハイ・スペクトル・フォーマットです。中央モニターに出します」
司令室を上から見降ろすようた大型スクリーンに浮かんだ映像に、ガルース以下その場にいあわせたガニメアンたちは驚天動地のあまり身じろぎすることさえ忘れたかのようであった。
「はじめまして、カラザーです」スクリーンの顔が言った。「大昔にイスカリスに遠征された皆さん、ようこそ。われわれの新しい母星はもう間もなくです。今しばらく御辛抱下さい。向うへ着いたら何もかも説明します」
ガニメアン……いくらか体形が違ってはいるが、スクリーンから語りかけた男がガニメアンであることは疑いの余地もなかった。歓喜と安堵《あんど》、満足と不安が錯綜して、ただでさえ頭が混乱したガルースは、もう何が何だかわからなくなった。これは、いったい……そう、地球人が月から発信したメッセージが届いたのだと解釈する他はない。ガルースは、あのせせこましく、貪欲で、一本気な地球人への思いで胸がいっぱいになった。地球人は正しかったのだ。ガルースは地球人を、地球人のすべてを、心から愛さずにはいられない気持だった。
他の者たちもやっと何が起こっているかに気が付き、あちこちから驚嘆の声が上がった。モンチャーは衝き上げるこもごもの感情を抑えきれずに、両手をふり回しながら輪を描いて歩きだした。シローヒンは椅子に体を沈めて声もなく、ただ目を丸くしてスクリーンを見つめるぱかりだった。
ゾラックが、すでに一同の知っていることを確認した。コ記録を手掛りに星域を推定して現在位置を出しました。これまでの経過を説明しろと言われても返答に窮しますが、どうやら航海は終わりです。ここは巨人たちの星、ジャイアンツ・スターです」
一時間足らず後、ガルースはガニメアンの第一団を率いて〈シャピアロン〉号の降下舟艇からテューリアン船の照明も眩《まばゆ》いレセプション・ベイに降り立った。一行は整然と並んで静かに待ち受けるテューリアソ人たちの前に進み、そこで簡単な挨拶《あいさつ》を述べ合った。漂流者たちが長い航海の間胸に溜め込んでいた感情はついに堰《せき》を切ってあふれ出し、たちまち船上は笑いと涙の饗宴と化した。終わったのだ。長い放浪は終わった。ガニメアンは新しい母星に帰り着いたのだ。
ひとしきり歓談が続いた後、新来のガニメアンたちは傍らの小部屋に案内され、しばらく寝椅子に横になるように指示された。何のためかは説明がなかった。彼らは一時的に知覚の惑乱を体験したが、ほんの短い間のことで、すぐに何もかももとどおりになった。手続きは終わりと告げられて、ほどなくガルースは彼に従うガニメアンたちと小部屋を出て最前テューリアン人たちと挨拶を交わした場所に戻った。彼はぎくりと足を止めた。自分の目が信じられなかった。
テューリアン集団から数歩手前に、あたかもガニメアンたちの驚愕を暎笑するかのように、彼のよく知っている小柄な、桃色の肌をした地球入が数人、こちらを向いてにやにやしていた。ガルースはぽかんと口を開げ、目を自黒させて、一声も発さずにまた口を閉じた。地球人の中からつかつかと進み出た二人は他でもない……
「遅かったね、ガルース」ハントが愉快そうに話しかけた。「どこかで信号を見逃したか何かしたのか?」
「気を悪くしないでくれたまえよ」ダンチェッカーがおかしくてたまらないという顔で言った。
「しかし、きみのその顔を見ているとどうしたって吹き出したくなるのだよ」
二人の後ろにもまだガルースの知った顔があった。がっしりとした体格で、霜降りの髪を短く刈った、彫りの深い顔の男。ヒューストンでハントの上司と紹介された男だ。隣の紅毛の女も同じオフィスで会ったことがある。他に男と女が一人ずついたが、この二人はガルースの知らない顔だった。ガルースは自分自身を叱咤《しった》して足を前に踏み出した。朦朧《もうろう》とした目で、ガルースはハントが地球入の挨拶のしかたで手を差し出しているのを見た。ガルースは心を込めてその手を握り、他の地球人たちとも握手を交わした。幻覚ではない。地球人の手は暖かかった。テューリアンはこの場のために、ミネルヴァ時代にはなかった何らかの手段によって地球人たちを連れて来たに違いない。
他のガニメアンたちがどっと地球人に駆け寄るのを横目に見ながら、ガルースは〈シャピアロン〉号に通じている襟もとのマイクにそっと呼びかけた。〈シャピアロン〉号はテューリアン船からそう遼くはないところに漂駐している。「ゾラック。これは、夢ではないんだな? 今、現にこういうことが起こっているんだな?」ゾラックはガニメアンが常に額《ひたい》に装備している超小型TVカメラの映像をモニターしていた。
「おっしゃる意味がわかりません」ガルースのイヤフォーンを通してゾラックの声が返って来た。
「わたしに見えるのは天井だけです。何か椅子のようなところに寝そべっているのですね。さっきから、もうかれこれ十分くらいそのままです」
ガルースは言葉を失った。あたりを見回すと、向うからハントとカラザーがガニメアンと地球人でごった返す中を掻き分けてやって来るところだった。「彼らが見えないのか?」ガルースは不思議そうに尋ねた。
「誰ですって?」
ガルースが答えるより先に、別の声が言った。「実は、今のはゾラックではありません。わたしがゾラックの声色を使ったのです。申し遅れましたが、わたしはヴィザーです。このあたりで、そろそろいくつかのことを御説明いたしましょう」
「ロピーではまずいな」ハントが言った。「船室へ行こう。積る話もあるからね」
ガルースはますます混乱した。ハントはイヤフォーンを掛けていず、しかも、対話はガニメアン語だったにもかかわらず、彼らのやりとりを理解しているらしかった。
カラザーは脇に控えて一行の挨拶と紹介が済むのをじっと待っていた。やがて彼はガニメアンと地球人の混舎集団を巨大なテューリアン宇宙船の奥へ案内した。母星まではもう、ほんの数時間の距離だった。
16
ハントとダンチェッカーはどことも知れぬ広大な空間に立っていた。そこは壁に囲まれて、大きな箱を伏せたように暗く、足下の床は局所的な間接照明を受けて点々と斑《まだら。模様を描きながら全周に果てしなく拡がり、彼方の閣に吸い込まれていた。頭上から決して瞬くことのないいくつもの大きな星が青白い光を投げてあたりをぼうっと照らしていた。
ジャイスター系の外側で〈シャピアロン〉号が捕獲された後、すっかり冷静を取り戻したジェロール・パッカードは新旧ガニメアン集団が交流する間、地球人はしばらく遠慮しようと言い、他の者たちもそれに賛成した。ヴィザーの好意もあって、彼らはその機会に空いた時間を利用してテューリアン文明を探訪することにした。パッカードとヘラーはテューリアンの社会構造に関心を示して首都テュリオスに向かい、コールドウェルとリンは宇宙工学の実態を見学するために数光隼の範囲に点在する衛星その他の拠点を巡る小旅行に出掛けた。ハントとダンチェッカーは〈シャピアロン〉号捕獲作業を目のあたりにして、宇宙船の針路前方に巨大な環状プラックホールを発生させたエネルギー源や、気の遠くなるほどの距離を隔ててプラックホールを制御する技術に興味を持った。ヴィザーはテューリアンのパワー・プラントに案内しようと言った。途端に二人は今いるところに現われたのだ。
頭上を覆う天空のような透明ドームは宇宙空間に浮かぶ構造物の一部をなすものだった。それにしても何という桁はずれな規模であろう。ドームの外側の前後左右に綬やかな曲面を見せて上向きに反り返る萼《がく》のようなものが拡がっていた。鋼鉄の建造物とは思えないほどの微妙な線を持つ四本の腕は先細りに、目測を拒む遙か彼方の闇に伸びている。ちょうど地球儀に引かれた経線が赤道と交わるように、細長い三日月状のものが直角に交差した位置に彼らは立っているらしかった。三日月の各先端からそれぞれに、直径のさして大きくない筒型のものが突起していた。四本の円筒の軸を延長すれば、空間の一点で正確に交わるに違いない。四門の重砲が同時に一つの目標に照準を合わせた恰好である。周囲には尺度になるものは何もなく、三日月の先端までの距離はとても見当が付かなかった。
三日月形の一端からさらに向うの、ちょうどハントとダンチェッカーの正面にあたるところに、今彼らがその中にいるのとまったく同じ構造の物体が浮かんでいた。細い三日月が二つ交差して、先端に四本の銃身に似た突起があるのも同じである。距離が遠いためにそのもう一つ向うがどうなっているかはわからなかった。目を反対側に転じると、そこにも同じものがあり、上下にもやはり同じものがあった。ハントは三日月の十宇形を単位として、宇宙空間のある一点を中心にこの構造物が、目に見えぬ球面上に整然と配列されていることを理解した。設計図によくある分解組立図を想像すればいい。そして、三日月形の各先端の銃身に似た筒は、球の中心から放射状に引かれる半径線上に正確に位置していた。くすんだ紫色を呈する虚空の闇の、まさにその球の中心に当たるところにぼんやりと滲《にじ》んだような光の塊が渦巻いていた。
二人がとっくりとあたりを眺めるのを待って、ヴィザーは説明に移った。「ここはジャイスター系から約五億マイル離れたところです。あなたがたがいるのはストレサー≠ニ言う装置の中です。ストレサーは全部で六基、空間の一部を球面で切り取った形に配置されています。三日月状の腕は全長五千マイル。つまり、銃身のように見えている突起まで、それだけの距離があるわけです。これで全体の大ぎさがおわかりでしょう」
ダンチェッカーは唖然としてハントをふり返り、あらためて頭上をふり仰いでから、もう一度ハントの顔を覗き込んだ。ハントは焦点を失いかけた目でダンチェッカーを見返した。
ヴィザーは説明を続けた。「ストレサーは曲面の内側に高密度の時空を誘起しますが、その密度は中心に近付くほど高まって、焦点においてプラックホールに陥没します」
滲んだような光の塊を赤い輪が囲んだ。ヴィザーが彼らの視覚にスーパーインポーズしたに違いない。「あの赤い輪の中心がプラックホールです。滲んだように見えるのは、向う側の星の光が屈折しているのです。つまり、ストレサーによって変形された空間が重力レンズの働きをしているわけです。プラックホールはあなたがたのいるところから約一万マイルの距離にあります。実は、お二人の周囲の空間も大きく変形を受けているのですが、わたしはその屈折率を読み取って感覚を補正していますから、普通の状態と少しも変わらないでしょう。
「ストレサーによって形作られた空間の殻の外側に一連のプロジェクターが並んでいて、質量消滅によって得られるエネルギーを高収束ビームとして、ストレサーの間からブラックホールへ照射します。そこでエネルギーに偏向を加えて、高次元グリッドを通して分配したものを通常空間に取り出して、必要なところへ流してやるのです。早い話が、このストレサーのシステム全体が超空間分配グリッドへの入力装置と考えればいいのです。これによって、星間の距離を隔ててどこなりと自在にエネルギー瞬間移動が可能なわけです。いかがですか?」
しばらく経って、ハントはやっと質問を声に出した。「二次側の仕組みはどうなっているのかな?……つまり、その……このシステム一つで全惑星のエネルギーをまかなっているのか、それとも……?」
「分配のパターンは非常に複雑です」ヴィザーは答えた。「いくつかの惑星はガーファランからエネルギーの供給を受けています。今あなたがたが滞在しているところです。現在テューリアンがあちこちで進めている、大きなエネルギーを必要とするプロジェクトもみなガーファランに頼っています。しかし、小型の出力装置があって、これを分配グリッドに接続すれば、エネルギーはどこでも取り出すことができるのです。宇宙船はもちろん、地上車や機械、家庭用エネルギー……およそエネルギーが必要とされる場所はすべてそれで間に合います。装置は小さくまとまっていますから、ほとんど場所を取りません。例えば、アラスカへ運んだパーセプトロンですが、エネルギーは環状プラックホールの地球側の出口に仮設したステージのグリッドから取っています。自力航行の推進機構を搭載したらパーセプトロンはもっと図体が大きくなってしまいますからね。ところが、実際にはその必要はないのです。パーセプトロンに限らず、ここではパワー・ソースを自分で抱えている機械はほとんどありまぜん。みな、惑星外に設けられた集中ジェネレーターと転送装置……今あなたが立っているところがその一つですが……から、グリッドを通してエネルギーを取っています」
「信じられない」ダンチェッカーは溜息混りに言った。「考えてみたまえ。ほんの五十年前、人類はエネルギー涸渇《こかつ》の危機に怯《おび》えていたんだからね。いやあ、驚いた……本当に、おそれいったとしか言いようもない」
「もともとのエネルギー源は?」ハントは尋ねた。「さっきの話だと、入力ビームは質量消滅によって得られるということだったね。何が消滅するのかな?」
「主として、燃えつきた恒星の核です」ヴィザーは答えた。「それによって得られたエネルギーの一部は、遠隔地から物質を転送するトランスファー・ポート……つまり環状ブラックホールのネットワークに流用されます。星の核を解体して消滅装置に送り込むのです。ガーファランから分配グリッドに供給される実質エネルギーの消費量は一日にほぼ月《ルナ》一個分に相当します。しかし、燃料はいくらでもありますから、エネルギー危機が訪れることはまずありません。どうぞ御心配なく」
「そのエネルギーを、ある種の超次元空間を通して、何光年も離れたところに収束させてブラックホールを発生させるというんだね」ハントは言った。「わたしらが見学した〈シャピアロン〉号捕獲作業は実に手が込んでいたけれども、いつもあんなふうに大掛かりになるのかな?」
「いえ、あれは特別です。何よりも精密な制御と正確なタイミングを期さなくてはなりませんでしたから。あれにくらべれば、ただの物質転送は簡単そのものです。厄介な手続きは何もありません」
ハントは口を閉ざし、驚嘆を新たに異星のパワー・プラントを眺め回しながら宇宙船回収作戦の一部始終を思い返した。
ブルーノからノーマン・ペイシーの名前で〈シャピアロン〉号に危険が迫っているという含みの予期せぬメッセージが届くと、カラザーは時を移さず同船を捕獲することを決断した。テューリアンで地球人と彼らが情報を突き合わせてはじめて察知された危険を、その事実を知るはずもないペイシーがどうして嗅ぎ付けたかは謎だった。
地球を監視する組織はカラザーの擁する技術者集団と同様、当然〈シャピアロン〉号の動きを追尾していると考えなくてはならなかった。カラザーは航行中の宇宙船を掻ぎ消すことで彼の行動を組織に勘付かれることを嫌い、イージアン以下技術陣を動員して、二十数光年の彼方から〈シャピアロン〉号を掬《すく》い上げる一方、相手の組織の追尾システムに同号と同じデータを送り続けるダミーを航行さぜる作戦を立てた。宇宙船すり替えに伴う重力場の擾乱を検知される危険があったが、技術上の制約を考えれば追尾システムの恒常監視は不可能であるはずだった。言うなれば、監視者も瞬きぐらいはすることがあるわけで、その隙を狙って手品師の早業さながらにさっとすり替えてしまえば追尾システムの裏をかく成算はあった。計画どおり、すり替えは滞りなく一瞬のうちに完了した。すべてが上手く行ったとすれば、監視組織は〈シャピアロン〉号がすでに何光年もの空間を飛び越してテューリアンの傍に来ているとも知らず、今頃は替玉の宇宙船が発信する刻々のデーータを大真面目に追尾しているはずである。すり替えが見事成功したかどうかは、いずれ時が来れば明らかとなるだろう。
ハントは、考え方の相違するらしいこの二派のガニメアンのいたちごっこの騙《だま》し合いをどう解釈したものかと首を傾げずにはいられなかった。ダンチェッカーがはじめに指摘したとおり、化かし合いはガニメアンの精神構造とは相容れないことである。ハントは何とかしてヴィザーからこの事態の裏に隠されていることを聞き出そうと再三探りを入れてみたが、コンピュータは堅く沈黙を言い渡されているらしく、カラザーが時機を見て自分の口から説明するからと、その都度答をはぐらかした。
それはともかく、何故か〈シャピアロン〉号は攻撃も受けず妨害もされず、ペイシーの懸念は杞憂に終わって、今は安全を約束されている。ペイシーが何か勘違いをして一人相撲を取ったと考える他はなかったが、ペイシーの人柄を知っているハントとしてはそれではどうにも釈然としない。よくよく考え直してハントは好意的な解釈を下した。ペイシーは〈シャピアロン〉号が危険にさらされていると明言してはいない。彼は宇宙空間のどこかで何かが破壊されようとしていると見られる節があり、〈シャピアロン〉号に危険がおよばないという保証はない、と注意を促したにすぎない。カラザーは大事を取ったのだ。それを非難するには当たらない。が、しかし、警告の趣はやはりペイシーが何か途方もない勘違いを犯していたことを匂わせるものである。はたしてそうか? ハントの疑問はふりだしに戻った。
ハントはふいに自然の要求を覚えた。まさか……。コンピュータが情報の上に組み立てた架空の肉体にそんなことがあるだろうか・ いったい何でそこまでしなくてはならないというのか。
気が付いてあたりを見回すと、彼はパーセプトロンの寝椅子に横たわっていた。
「通路の突き当たりのドアです」ヴィザーの声が教えた。ハントは苦笑に首をふりながら起き上がった。例によってガニメアンたちはすることに抜かりがない。通路の奥のドアはそのためだったのだ。
数分後、ジャイスターに戻るとダンチェッカーがただならぬ表情で彼を待ち受けていた。
「きみがいない間に重大なニュースが入った」教授は言った。「ジョルダーノ・ブルーノの彼氏は、こっちが思ったほど見当はずれではなかったらしい」
「どうしたんだ?」ハントは訊き返した。
「月の裏側とテューリアンの交信を中継していた装置が働かなくなった。ヴイザーによれば、何者かが装置を破壊した模様だというんだ」
17
月の裏側に孤立して外部との連絡を絶たれていたノーマン・ペイシーはどうして中継装置が破壊されることを事前に察知したのだろうか? 太陽系外の唯一の情報源はジャイスターのテューリアンから送られる信号だが、テューリアン人たちは現に通信が杜絶するまでそのことを知らなかったのだ。それに、ペイシーは何故国連代表団に事態を諮《はか》らず、独断で警告を発したのだろうか? しかも、ペイシーは密かに制御室に入り込んで、自身の手でメッセージを送信したと思われる。いったいどうしてそんなことができたのか?
ブルーノ観測基地はいったいどうなっているのだろう?
ジェロール・パッカードはテューリアン側に、そもそも今度のことが起こって以来の地球との交信の記録を残らず提示するよう要求した。カラザーは一も二もなく応諾し、ヴィザーがマクラスキーに降りたパーセプトロンのプリンターからハード・コピーを吐き出した。マクラスキー基地の一行がそれを地球側の記録と突き合わせてみたところ、いくつか不思議な食い違いが発見された。
冒頭の部分は両方の記録が一致していた。〈シャピアロン〉号が地球を去った後、ブルーノの科学者たちは国連の圧力に抵抗し、ガニメァンとの対話を再開する希望を抱いてジャイアンツ・スター宛に信号を送り続けた。しかし、最初の思いがけない簡単な応答以後ガニメアンは沈黙を守った。一方通行に終始したこの時期を通じて、地球人は自分たちの惑星の科学文明の水準や社会情勢に関する情報を送ったが、それらは総じて、今のところまだ地球人にはその正体が明かされていない監視組織≠ェ長年にわたってテューリアンに報告して来たこととはかけはなれた内容だった。この食い違いがきっかけで、テューリアン人たちは監視報告の真否に疑問を抱くようになったのだ。が、いずれにせよ、この時期に地球から受信されたメッセージは、地球側に残された送信の記録と完全に一致していた。
続く一連の記録はテューリアソが対話を復活して、国連が地球を代表して応答に当たった部分だった。この頃から地球側の態度がはっきり変わりはじめている。ヒューストンではじめて会った時カレン・ヘラーがハントに話し、またハント自身がその後に実情をあらためたとおり、地球側のメッセージは消極的で優柔不断だった。国連は地球を銀河系の火薬庫と見るテューリアンの誤解を一向に正そうとせず、地球を訪れて直接会談したいというテューリアソ側の要望に、何かと言を左右にして歯切れの良い返答を与えなかった。そして、この部分の記録に明らかな違いが発見されたのだ。
ヘラーが月の裏側に滞在した期間の送信の記録は、テューリアソ側の受信の記録とことごとく一致していた。ところが、他にヘラーのいっさい関知しない二件の通達がテューリアンに届いていたのである。書式と認識表示から見て、それがブルーノ基地を発信源とするものであることは疑いの余地もなかった。しかも、驚くべきことに、その内容は極めて好戦的であり、異星との修好を渋る国連でもこうまでは言うはずがないと思われるほど敵対感情を剥《む》き出しにするものであった。事実に反する記述もあり、全体としては、地球は自分で自分の面倒を見る、異星人のいらざる容喙《ようかい》は笑止千万、たって来訪すれば武力をもって阻止するであろう、と強硬である。さらに不可解なのは、その中にハントらがテューリアンと接触してはじめて明らかになった歪曲された地球の姿を事実であると肯定するのみか、一層歪んだ印象を与えようとする記述があったことである。ブルーノ基地のいったい誰がこのような情報が伝えられたことを知っているだろう?
そこへ、ハントが木星から連絡して来た。ガニメアン・コードに変換されたメッセージは異星人の地球来訪を歓迎する意志を伝え、着陸地点さえ指示していた。それまでの地球側の態度とは天と地の違いである。テューリアンがこんがらかったのも無理はない。
そうこうするうちに、今度はソヴィエトが独自に接触して来た。応答時の機密保持についてあれこれと注意を添える念の入れようである。パッカードはカラザーに、アメリカ人一行、とりわけ彼自身が動転させられた尋問をソヴィエト人に対しても行なうべきだと主張した。ソヴィエトもテューリアンの来訪に乗り気だったが、木星経由で送られて来るハントのメッセージにくらべると、いささかおよび腰でなくもなかった。総じてソヴィエトの態度は慎重の上にも慎重だった。ところが、ここでもまた、全体とは基調を異にする情報が三度にわたって混入していることが判明した。。ブルーノ基地からの非公式§A絡と同様、それらは異星人への反感を露《あらわ》にしていたが、何とその一部には内容表現ともブルーノの怪情報とほとんど変わりないくだりがあった。偶然の一致とはとうてい考えられない。
ソヴィエトは現地にいたカレン・ヘラーですら知らないブルーノ怪情報をどこで掴[#手偏+國]んだのだろうか? 考えられるのはただ一つ、当のソヴィエトこそが怪情報の出どころではないのか……。だとすれば、クレムリンはやはり何らかの手段で国連を牛耳っているということだろうか? ブルーノの代表団はアメリカをはじめ、ジャイスターのことを知っているいくつかの有力な国の目を欺《あざむ》く茶番にすぎないのだろうか? 代表団の一見慎重な、しかし、まるで進歩のない動きはソヴイェトがそのために送り込んだ人物──おそらくはソプロスキンの巧みな工作によるものではあるまいか。ブルーノ観測基地の天文部長がロシア人であることを考えると、この見方はますます真実味を帯びて来る。だが、しかし。怪情報はテューリアンを誘致しようとするソヴィエト自身の努力をぶち壊しにするものである事実は動かない。この矛盾はどう説明したらいいだろう? そして、カレン・ヘラーがブルーノ基地を去った後、第三の、実に最後通牒にも等しい激越な通信文が届いた。地球はテューリアンとの交流を望まず、以後いっさい対話を絶つべく、すでにその手配をした、という内容であった。最後に、宇宙空間で何かが破壊されようとしているというノーマン・ベイシーからの警告が届ぎ、その後間もなく中継装置は機能を停止した。
謎は謎を呼んだが、それを解く鍵はアラスカにはない。パッカードは国務省の伝令がマクラスキーにやって来て、ジャイスターとの交信が杜絶し、国連代表団は地球に帰還することになったと公式に伝えるのを待ってコールドウェルと共にワシントンへ戻った。リンは二人に同行し、ペイシーから話を聞き次第マクラスキーにとんぼ返りすることになった。
ハントとダンチェッカーはマクラスキー空軍基地のエプロンでパッカードとコールドウェル、リンの三人を乗せたUNSAのジェット機がワシソトンへ発《た》つのを見送った。ジェット機は南を指して急角度で上昇しながら遠ざかった。すぐ近くで地上作業員たちが、パーセプトロンの脚がコンクリートに穿《うが》った穴に雪を埋め戻していた。パーセプトロンは謎の監視組織の目を惹《ひ》かぬように、エプロンの端のUNSAの飛行機の間に移動していた。パーセプトロンの通信システムに使用されているプラックホールは顕微鏡規模の小さなものだが、それでも質量はちょっとした山一つほどある。マクラスキーのエプロンはそれだけの重さに耐えるように作られてはいなかった。
「しかし、考えてみれば妙な話だね」ジェット機が小さな点となって遠くの尾根を越すと、ハントは言った。「ヴラニクス・ワシソトン間の距離は二十光年だよ。ところが時間を食うのは最後の四千マイルだげだ。このごたごたが片付いたら、この惑星のいくつかの地点をヴィザーの記憶に書き込むというのはどうかね?」
「いいね」ダンチェッカーは気のない返事をした。朝食の時から目立って浮かぬ顔である。
「そうすれば、グレッグも運輸関係の雑用から大幅に解放されるじゃあないか」
「だろうね」
「ナヴコム司令部とウェストウッドをプログラムに組み込んでもらうっていうのはどうだ? オフィスからテューリアンへ行って、昼食には帰って来られる」
「ん……」
二人は向きを変えて食堂のほうへ歩きだした。ハントは横目使いにそっと教授の顔を窺ったが、ダンチェッカーはそれにも気付かず、むっつりと黙りこくっていた。
部屋に入るとカレン・ヘラーが通信文の記録とブルーノで書き溜めたメモをテーブルに拡げて頭を抱えていた。彼女は二人の姿を見て書類を脇へ押しやり、椅子の背に寄りかかった。ダンチェッカーは窓際に立って無三口のままパーセプトロンを眺めやった。ハントは一隅の椅子に、後ろ向きに跨《またが》って腰を降ろした。
「どうしても理解できないわ」ヘラーは溜息混りに言った。「月面であれどこであれ、わたしたち以外の誰かにこの情報が洩れるというのは絶対にあり得ないことよ。カラザーの言う組織≠ニ接触がない限りはね。そんなことってあるかしら?」
「わたしもそこを考えているんだ」ハントは言った。「例の二進コード信号はどうなんだろう? ひょっとすると、モスクワははじめからカラザー派を相手にしてないんじゃあないだろうか」
「いえ、その点は調べました」ヘラーは傍らの書類の山を指さした。「月面で受信したメッセージは全部カラザーのところから出たものです。その点は間違いありません」
ハントは頭をふって椅子の背に腕を組んだ。「何とも解釈のしようがないね。ノーマソの帰りを待って向うの様子を聞いてみないことには」
沈黙が室内を支配した。ダンチェッカーは相変わらず何やら考え込む様子で窓の外を眺めやっていた。しばらくしてハントは言った。
「しかし、妙なものでね……どこを取ってもわからないことだらけで、とうてい収拾が付かない状態になった時、ほんの何でもない、それまで誰もが見逃して来た極《ご》く些細な事実に目を向けたところが、たちまち全体がはっきりして急転直下の解決を見る、ということがよくあるだろう。ほら、何年か前のルナリアンの起源で行き詰まった時がそうだ。月が移動したに違いない、と考えた途端に何もかもすっきり説明が付いたのだからね。後からふり返ってみれぱ、そんなことははじめから明白だったはずなんだ」
「今度も何かそういうきっかけがあるといいのだげれど」ヘラーは書類をまとめてフォルダーにおさめた。「もう一つわたしがおかしいと思うのは、ガニメアンがどうしてあんなふうにこそこそするのかっていうことなの。ガニメアンらしくないでしょう。それが、片方のグル!プはどこかで何かこっそりやっていて、もう片方のグループも別のことをやりながら、お互いに自分たちのことを相手に知られまいとしているんですものね。あなたは誰よりもガニメアンのことをよくご存じでしょう。この状態をどんなふうにお思いになって?」
「それがわかればねえ」ハントは何とも答えようがなかった。「それに、中継装置を破壊したのは何者だろう? カラザー派でないことはわかっている。だとすれば、別の一派の仕業だね。そうすると、あれだけ慎重を期したにもかかわらず、交信のことが向うに知られたということになる。でも、だからと言って、どうして装置を破壊する必要があったんだろう? たしかに、ガニメアンらしくないやり方だよ……少なくとも、二千五百万年前のガニメアンがそんなことをするとは思えない」
ハントはわれ知らずふり向いて、最後の一句をダンチェッカーの背中に投げ掛けた。ダンチェッカーは最前から窓際に立ったまま一歩も動いていたかった。ハントはいまだに二千五百万年ではガニメアンの性格は変わりようがないという考え方に納得できないものを感じていた。しかし、ダンチェッカーの確信は揺るぎなかった。ハントの一言はダンチェッカーの耳に入らなかったろうか。いや、一呼吸あってダンチェッカーは窓外に目をやったままの姿勢で言った。
「あるいは、きみの最初の仮説は検討に価するのかもしれたいね」
ハントは黙って先を待ったが、ダンチェヅカーはそれきり口をつぐんだ。
「仮説、というと?」ハントはたまりかねて催促した。
「交信の相手はガニメアンではないのではないか……」ダンチェッカーはあやふやな声で言った。短い沈黙が流れた。ハントとヘラーはそっと顔を見合わせた。ヘラーは眉を顰《ひそ》め、ハントは肩をすくめた。交信の相手がガニメアンであることは今や動かぬ事実である。二人は何が言いたいのかと問い返す目でダンチェッカーを見上げた。ダンチェッカーはくるりと向き直って、両手で上着の襟を掴んだ。「現実に沿って考えてみたまえ」彼は挑むように言った。「相手の行動はわたしらが知っているガニメアンからはどうしたって想像できない。わたしは向うの二派の関係を問題にしているのだよ。一方のグループはわたしらが会って、ガニメアンであることがわかっている。ところがもう片方のグループには会わせてももらえない。ガニメアンはいろいろと理由を構えたけれども、そんなものはこじつけだとわたしは自信をもって断言するね。この事実から論理的に引き出される結論は何か──。別の一派はガニメアンではない、ということだよ。違うかね?」
ハントは虚を衝かれた思いで声もなくダンチェッカーを見返した。彼の結論は明快であって付け加えるべきことは何もない。ハントらはカラザーの言う組織≠ェガニメアンであると頭から決めてかかっていた。テューリアン人たちはそれを否定しなかった。が、そのとおりだとはただの一度も言わなかったのだ。
「もう一つ考えることがある」ダンチェッカーは言葉を続けた。「脳の組織構造と、表象レベルにおける神経活動バターンは地球人とガニメアンではまったく違っているのだよ。ガニメアン同士の意思疎通を図るものとして設計されたコンピュータとその端末が、そのままガニメアンと地球入の間でも機能するとは私にはとても考えられない。言い換えると、今あのエプロンにある船《ヴェッセル》に積まれた装置はガニメアン用の標準モデルで、それがたまたま地球人との意思疎通をもやってのける、などという、そんな馬鹿なことはあり得ないということだよ。あの装置があのとおり機能しているのは何故か。考えられることはただ一つ。あれはそもそものはじめから、地球人の神経中枢に結合するように作られているからだ。つまり、設計者は地球人の神経中枢の働きを知りつくしているんだ。おそらく、地球監視によって得た現代の医学情報からではそこまで人間の頭の中のことはわからない。それよりも遙かに詳しい知識を彼らは持っているんだ。だとすれば、彼らはその知識を惑星テューリアンで得たとしか考えられないじゃあないか」
ハントは信じられない顔つきでダンチェッカーを見つめた。「何が言いたいんだ、クリス?」彼は押し出すような声で尋ねたが、すでに答は聞くまでもなかった。「テューリアンにはガニメアンだけじゃあなしに、地球人と同じ人種がいるということか?」
ダンチェッカーは大きくうなずいた。「そのとおり。はじめてパーセプトロンに入った時、ヴィザーはたちまちパラメータを調整して知覚刺激を地球人の数値に合わせたし、わたしらの神経系から苦もなくフィードバック情報を取り出しただろう。地球人における正常な刺激レベルがどのくらいだか、ヴィザーはどうして知っているのかな? フィードバック・パターンが正確かどうか、何によって判断したのかな? 唯一可能な解釈は、すでにヴィザーが人間をさんざん扱って、地球人の神経生理を知りつくしている、ということでしかないじゃないか」彼は言うことがあるなら言ってみろとばかり、挑発的な態度で二人の顔を見比べた。
「あり得ますね」カレン・ヘラーはダンチェヅカーの発言を反芻《はんすう》しながらゆっくりうなずいた。「ガニメアンが時間を稼いでいるように見えるのもそう考えれば説明が付くわ。わたしたちの反応を見ながら、だんだんに事実を明らかにするつもりではないかしら。特に、地球人については喧嘩《けんか》早いと思い込まされて来たわけだし……。それに、もしその一派がわたしたちと同じ人種だとしたら、地球監視の役割を与えられても不思議はありませんものね」
彼女は自分の言葉をふり返ってしきりにうなずいていたが、何かに思い至ったか、ふと眉を寄せてダンチェッカーを見上げた。
「でも、どうして地球人と同じ人種があの惑星にいるんですかしら? ガニメアンが移住する前からすでにそこにいて、独自の進化を辿《たど》ったとか……何か、そんなようなことですか」「いいや、それは断じてあり得ません」ダンチェッカーはじれったそうに言った。ヘラーは面喰って何やら言い返そうとしかけたが、ハントが小さく目くばぜして、それとはわからぬほど微かに首をふるのを見て思い止まった。ダンチェッカーが進化論の講義をはじめたら日が暮れてしまう。ヘラーは片方の眉をちょっと上げてハントに了解の意を伝え、それきり口をつぐんだ。
「答は目の前にありますよ」ダンチェッカーは思わせぶりに言い、ぐっと胸を張って上着の襟を掴み直した。「ガニメアンは今からほぼ二千五百万年前にミネルヴァからテューリアンへ移住しました。すでにその頃、かつて地球からミネルヴァへ行った動物の中には霊長類にまで進化しているものがあったことがわかっています。ガニメデの難破船でもその例がいくつか見られます。一方、あの難破船は、まさにテューリアンへの移住の途中で事故に遭ったものと考えるに足る根拠があるのです」あとは話すまでもなかろうという顔で、彼はちょっと言葉を切った。「明らかに、ガニメアンは人類の前段階にあるヒト科の生物を連れて移住したのです。その子孫が進化して人類社会を作った。そうして、惑星テューリアソでガニメアンと立派に共存しているのです。ヴィザーが人類とガニメアンの間に自在に意思伝達を成り立たせること自体がその何よりの証拠です」
ダンチェッカーは襟を掴[#手偏+國]んでいた手をはなして後ろに組み、得意然としてぐいと顎を突き出した。
「これこそ、ハント先生、わたしが大きな誤りを犯していない限り、きみがさっき言っていた、すべてを一気に解決する鍵であるところの、明白にして些細なる事実だよ」
18
ノーマン・ペイシーは、静かに、と片手を上げて話を遮《さえぎ》り、秘書とUNSAの兵卒二人が荷造りに忙しい次の間との境のドアを閉めた。ジャネットは書類の山をどけて腰を降ろした椅子からペイシーの動きを目で追った。書類は代表団のブルーノ撤退に備えてすっかり箱詰めも終わっていた。
「続きを聞こうか」ドアから戻ってペイシーは先を促した。
「ゆうべ遅く……もう真夜中を回っていたかもしれません。正確な時間は憶えていませんけど」ジャネットは言い出しかねる様子で作業衣のボタンをひねくり回した。「ニールスのところへ電話があったんです。ヨーロッパ合衆国のダルダニエだと思います。何でも急ぎの用事のようでした。ヴェリコフとかいう人の話だったと思います。で、ダルダニエが何か言いかけると、ニールスがそれを遮って、すぐそっちへ行く、と言いました。わたしは寝たふりをしていました。ニールスは服を着てそそくさと出て行きましたけど……何だかこっそりという感じで、わたしを起こさないように用心しているみたいでした」
「なるほど」ペイシーは小さくうなずいた。「で、それから?」
「それで……わたし、最初に部屋に入った時、あの人が何か書類を読んでいるのを見たんです。書類はすぐホールダーに隠しましたけど、錠をかけなかったのをわたし、見て知っていました。それで、ニールスがいない隙に、中を覗いてみたんです」
ペイシーは奥歯を噛みしめて感情を殺した。スパイの真似事はするなとあれ程厳しく言ったはずではないか。とはいえ、彼女がそこで何を見たかは大いに関心がある。「それで?」ペイシーは膝を進めた。
ジャネットは怪訝《けげん》そうに眉を曇らせた。「いろんな書類に混って、赤で縁取りしたピンクの綴じ込みがありました。それだけなら何とも思わなかったでしょうけれど、その表紙にあなたの名前が書いてあるので、はてなと思ったんです」
ペイシーは額に皺を刻んだ。ジャネットの言うピンクの綴じ込みは国連規程の機密メモに違いない。「中を見たかね?」
ジャネットはうなずいた。「それが、何だか変なんです……。あなたに関する報告で、あなたがこのプルーノ基地でとかく代表団の妨げになっていると非難する内容なんですもの。最後に結論≠ニいう一節があって、アメリカ合衆国がもっと協力的な態度を取っていれば、代表団の成果は挙がったはずである、って書いてあるんです。これじゃあまるで言いがかりでしょう。変だって言ったのはそのことなんです」ペイシーは言葉もなくジャネットの顔を見つめていた。彼が口を開くより先に、ジャネットはこれから話すことについては責任は負えないという態度で首を横にふった。「それから、あなたと……カレン・ヘラーのことが書いてありました。二人は……」彼女は口ごもり、片手を上げて二本の指を絡めてみせた。「……こういう関係だって。ええと、何て書いてあったかしら……。かかる目にあまるばかりの不謹慎なふるまいは国連代表団の一員にあるまじきものであり、おそらくはアメリカ合衆国の妨害工作の一環であると思われる……=v
ジャネットは椅子の背に寄りかかって今一度かぶりをふった。
「全然でたらめですよね……。でも、あの人がそんな報告を書くとしたら、つまり……」彼女は言葉を濁した。
ペイシーは荷造りの途中の木箱に浅く腰掛け、呆気に取られた顔で彼女を見つめた。しばらくして、彼はやっと口を開いた。「きみはそれを、自分の目で見たんだね?」
「ええ。全部憶えてるわげじゃあありませんけど、でも、内容は今お話したとおりです」ジャネットは困ったような顔をした。「わたしは信じていませんよ。そんな嘘っぱち……」
「きみが報告を読んだことを、スヴェレンセンは知っているのか?」
「知ってるはずがありません。ちゃんともとどおりに戻しておきましたから。他のも読んでお知らせしたかったんですけど、あの人がいつ帰って来ないとも限らなかった竜のですから。でも、実際にはなかなか帰りませんでした」
「それでいい。無理押しをしなかったのは賢明だよ」ペイシーは床に目を落とした。いきなり横面を張られたような気持だった。やがて、彼は顔を上げて尋ねた。「きみ自身のことについてはどうなのかね? 代表団の引き揚げが決まってから、スヴェレンセンの態度に何か変わった様子はないか? 何か、気になるようなことは?」
「例のマイクロメモリーのことで、口止めされたとか、威されたとか、そういうことですか?」
「うん……それもある」ペイシーは彼女の表情を窺《うかが》った。
ジャネットは寂しげに笑ってかぶりをふった。「それが、全然なんです。急に優しくなって、別れるのが残念だって言うんです。地球へ帰ったらまた会おうって……もっとお給料の良いところへ紹介してくれるような口ぶりでした。いろんな有名人にも会わせてやるとか、しきりとそんなことを言っています」
べ'イシーはスヴェレンセンの抜け目のないやり方に感心した。上等な餌をちらつかせておけば女は裏切らない。
「ぎみはあの男を信頼しているか?」彼は片方の眉を上げて尋ねた。
「いいえ」
ペイシーは満足げにうなずいた。「きみはなかなか進歩が速い」彼は室内をひとわたり見回し、くたびれぎった様子で額をさすった。「ここはひとつ、じっくり考えてみなくてはならんね。知らせてくれてありがとう。それはともかく、その恰好でいるところを見るときみはまだ仕事中だろう。またマリウスクを怒らせるのはまずいそ」
「部長は休みです」ジャネットは言った。「でも、おっしゃるとおり、わたしはまだ仕事があるんです」彼女は立って行きかけたが、ドアの手前でふり返った。「お知らせしてよかったのかしら。代表団の耳には入れないようにって、この前おっしゃいましたね。でも、大事なことのような気がして。それに、もう皆地球へ帰るのだし……」
「いいんだよ。きみは間違っていない。あとでまた会おう」
ジャネットはペイシーに言われてドアを開けたまま立ち去った。ペイシーは腰を上げずに、頭の中でジャネットから聞いたことを繰り返した。UNSAの兵卒が荷物を片付けにやって来て彼の思考を妨げた。ペイシーはコモン・ルームでコーヒーを飲みながら考えることにした。
コモン・ルームはがらんとして、バーの片隅でスヴェレンセンとダルダニエが他の代表二人と額を寄せ合って話しているばかりだった。彼らはペイシーが入って行くとほんの申し訳に会釈をして、また自分たちだけで話し続けた。ペイシーはディスペンサーからコーヒーを取り出して、彼らとは反対の隅のテープルに腰を降ろした。どこか別の場所にするのだったと悔やんでみてもはじまらない。コーヒー茶碗越しにそっと彼らの様子を窺いながら、ペイシーは廷臣に取り巻かれているかのような、長身で姿の艮いスウェーデン人をめぐる謎の数々を思い返した。
〈シャピアロン〉号についてのペイシーの懸念はどうやら見当はずれだったらしい。ジャネットが盗み聴いたのは、ジャイスターとの交信がふいに跡絶えたこととかかわりのある何かだったのではあるまいか。その直後に交信が絶えている事実は何かを語っていはしないか。もしそうだとすれば、スヴェレンセンと、少なくとも他に一人、誰かが事前に交信杜絶のことを知っていたのだ。これはどう説明したらいいだろう? スヴェレンセンとダルダニエがヴェリコフと接触しているというのも妙な話ではないか。CIAの報告によれば、ヴェリコフはソヴィエトにおける宇宙通信の権威である。モスクワと国連内部の反動勢力が手を結んで陰謀を企てているのだとしたら、ソプロスキンは何故ペイシーに協力したのだろうか? 協力すると見せかけて、ソヴィエトはもっと深いたくらみをめぐらせているのではないだろうか? ソプロスキンを信用したのは間違いだった。ペイシーは自分の迂闊《うかつ》さに臍《ほぞ》を噛む思いだった。ジャネットを上手く使って、ソブロスキンやマリウスクは遠ざけておくべきだったのだ。
そして何よりも理解に苦しむのは、あの悪辣《あくらつ》な中傷と個人攻撃である。カレン・ヘラーを悪女に仕立て、彼らがブルーノ基地で果たした役割を根も葉もない誹謗《ひぼう》で塗り潰そうとする狙いは何だろう? スヴェレンセンがそんな姑息な手段を弄《ろう》するというのもうなずけない。ジャネットがこっそり覗《のぞ》いた書類は代表団の公式議事録に添付される性質のものではない。議事録は代表団全員の承認を経なくてはならないし、その写しはニューヨークの国連本部に送達されるのだ。スヴェレンセンがそれを知らないはずはない。欠点の多い男だが、スヴェレンセンは馬鹿ではない。ペイシーはあることに思い至って、胃の脆から苦いものが衝き上げて来るのを感じた。これまで会議の模様を逐一書き止めた記録に目を通し、公式議事録として承認を与えて来たが、果たしてそれがそのままニューヨークに送られていただろうか? すでにペイシーは何やら怪しげな闇の動ぎを感じている。目に見えないところで何が起こっているか知れたものではない。
「わたしに言わせれぱ、南大西洋政策はアメリカに譲ったほうがいいのだよ」スヴェレンセンは取り巻きを相手に長広舌をふるっていた。「アメリカ合衆国は今世紀はじめまでに、核産業の地盤沈下に対してとうとう有効な手を打てなかった。ソヴィエトが中央アフリカの市場を事実上独占したのはむしろ当然だよ。それによって、地球全域における両大国の影響力がバランスして、競争が激化するならば、これは長い目で見たら全地球の利益に繋がるんだ」三人はおっしゃるとおりとうなずいた。「要するに、わたしは立場上、一国一国の政策に手足を縛られてはならないのであって、長期的な視野から全人類の進歩を考えることがこの際もっとも重要なのだよ。これまでも、わたしはそれを信条として来たし、これから先もわたしの態度は変わらない」
よくもぬけぬけと言えたものだ。ペイシーはたまりかね、コーヒーを呑み下して、カップを叩きつけるように置いた。バーの男たちはびっくりして彼をふり返った。
「よく言うよ」彼は部屋の隅から不機嫌に言った。「あんまり人を馬鹿にしてほしくないね」
スヴェレンセンは露骨に厭な顔をした。「どういうことだね?」彼は蔑むように問い返した。
「御説明を願おうか」
「全人類の進歩のために今回ほどの素晴しい機会はあるものじゃない。それをきみはむざむざ投げ捨てた。そのことを言っているんだ。きみの偽善にはとうていついて行けない」
「おっしゃることがわかりかねるのだがね」
ペイシーは唖然とした。「しらばっくれるな。わたしらがここでやっていた茶番は何だと言うんだ」声が上ずるのが自分でわかった。感情を剥《む》き出しにするのはよくないと知りつつ、憤懣は抑え難かった。「ジャイスターと何週間も交信しながら、地球人は結局何も言わなかった。一歩も前進しなかった。全人類の進歩を考えるが聞いて呆れるね」
「ああ、おっしゃるとおり」スヴェレンセンは冷静を装った。「それにしても、きみともあろう人がそんなふうに食ってかかるとは意外だね。文句があるなら自国の政府に持ち込むのが筋というものではないかね」
スヴェレンセンの言うことはまるでとんちんかんではないか。ペイシーは面喰った。「何を言っているんだ、きみは? アメリカははじめから積極論だ。ずっとテューリアン受け入れを主張して来たじゃないか」
「だとすれば、その主張を貫けなかった君自身の器量不足こそ責められるべきだろう」スヴェレソセンは言い返した。
ペイシーは耳を疑った。他の三入の男の顔を見たが、誰一人彼に同情を示す者はなかった。やっと、うすうす事情が読めて来た。ペイシーの背中を何やら冷たいものが走った。彼は詰問する目つきでスヴェレンセンの取り巻きを順に睨《にら》みつけた。最後にダルダニエと目が合った。フラソス代表は無言の威圧に耐えかねた。
「合衆国代表がごとごとに全体の流れに逆らうようなことがなければ、異星人との話合いももっと大きな進展があったとわたしは思いますね」ダルダニエはペイシーを名指しで非難することは避け、わざとらしく言いにくそうに眉を顰《ひそ》めた。
「何とも残念なことです」ブラジル代表のサラケスが言った。「月面に最初に足跡をしるした国の活躍に大いに期待したのですがね、裏切られましたよ。いずれまた、対話が復活した暁には、何とか今回の時間の損失を取り戻したいものです」
何もかもまるででたらめだ。ペイシーは開いた口が塞がらなかった。誰もがスヴェレンセンに手懐《てなず》けられているのだ。彼らが地球に戻ってこの調子であることないことしゃべりまくり、書き替えられた記録が国連に届けられれぱ、ペイシーの言うことは誰も信じなくなるに違いない。すでに彼は自分でもこの情況が現実かどうかさえ確信が持てなかった。まだブルーノ基地にいること自体、まるで嘘のようである。こみ上げる怒りに彼はわなわなとふるえた。ペイシーはテープルを離れてスヴェレンセンに詰め寄った。
「どういうことだ?」彼は陰にこもって言った。「そうやってえらく気取って反っくり返って、いったい何さまのつもりか知らないが、そもそもここへ来た最初からわたしはきみのそのお高く止まった態度には我慢がならなかったんだ。いや、そんなことはどうでもいい。わたしは、今ここで何が起こっているのか、それを知りたいんだ」
「ここへきみの私的な問題を持ち出すのは考えものではないかね」スヴェレンセソは言い、それからあらためて言葉を加えた。「特にきみ好みの……ふしだらな人物に関することは」
ペイシーはかっと赤くなるのが自分でわかった。「何の話だ?」
「これはご挨拶だね……」スヴェレンセンは眉を顰め、差し合いのある話はしたくないとでもいうふうにふっと顔をそむけた。「まさかきみは、お国の女性大使との一件は誰にも気付かれていないなどと思ってはいまいね。まったく……こんことを言わされるこっちこそいい迷惑だ。この話はもう止そう」
ペイシーは正直、今身の上に起こっていることが信じられなかった。彼はスヴェレンセンからダルダニエに視線を移した。フラソス人は顔を伏せてグラスに手を伸ばした。サラケスもペイシーの目を避けてむっつり黙り込んでいた。ペイシーはそれまで聞き役に回っていた南アフリカのヴァン・ギーリンクに向き直った。「思慮に欠けていたとしか言いようがないね」ヴァン・ギーリンクはいかにも気の毒そうな口ぶりをしてみせた。
「この男が……」ペイシーはスヴェレンセソを指さしながら一同をぐるりと見渡した。「ぎみたちは、この男が好き勝手にでたらめを吐くのを黙って見ているのか? スヴェレンセンがどんな男か知っているだろう。きみたち、どうかしているぞ」
「きみの言い方は穏やかでないな、ペイシー」スヴェレンセンは言った。「何をあてこすろうとしているんだ?」
非はスヴェレンセンのほうにある。厚顔にも彼はあくまで白《しら》を切り通す気なのだ。ペイシーは殴りかかりたくなる心を必死に抑えた.「それじゃあ何か? きみはあのことについても、わたしがありもしないものを見ていると言うのか?」ペイシーは低く声を落とした。「マリウスクの助手のことだ。きみは、何もなかったと言うのか? ここにいるきみの傀儡《かいらい》どもは、どこまでもきみに味方するのか?」
スヴェレンセンは大袈裟に目を剥いてみせた。どうして、なかなかの役者である。「わたしが察するとおりのことを言うつもりなら、この場で今の発言を撤回して謝罪したまえ。きみはわたしを侮辱したのみか、きみ自身の地位にも泥を塗った。感情的な中傷には、ここでは誰も耳を貸さないそ。それに、きみは地球へ帰っても非常な悪印象をもって迎えられるだろうが、誰もきみの名誉回復には力を貸すまい。きみはもう少し頭のいい男かと思っていたがねえ」
「どうも、参りましたな」ダルダニエは頭をふってグラスを口に運んだ。
「前代未聞ですね」サラケスが調子を合わせた。
ヴァン・ギーリンクはぎごちなく床に視線を落としたまま口を開こうとしなかった。
天井に埋設されたスピーカーから呼び出しの声が流れた。「国連代表団のミスター・スヴェレンセン。緊急連絡です。ミスター・スヴェレンセン、お近くの電話をお取り下さい」
「ああ、諸君。わたしは失礼するよ」スヴェレンセンは吐息を洩らしてペイシーを睨み据えた。
「この悲しむべき錯乱は、きみが地球外の環境に順応しきれなかったための一時的なものと言うことにしておこう。このことをわたしは以後いっさい口にしない」彼は含むところある声で言った。「ただし、断っておくが、この基地という閉ざされた環境を去って後もなおきみが悪質な中傷をふりまくようなら、わたしとしても考え方をあらためなくてはならない。そうなった時、ぎみは非常に不利な立場に立たされるだろうし、将来のためにも影響は甚大だ。わたしが警告しなかったとは言わせないそ」
言い捨ててスヴェレンセンは、ふんぞり返って立ち去った。他の三人もグラスを干してそそくさと引き揚げた。
ブルーノ観測基地最後の一夜となったその夜更け、ペイシーは驚愕と憤懣、焦燥で床に入る気にもなれなかった。彼は個室の床を歩き回りながら、この月面基地に来てからの一部始終をふり返り、いろいろに角度視点を変えては情況の分析を試みたが、どう考えても筋の通らないことばかりだった。よほどアラスカに連絡しようかと思ったが、今度もまた考え直して止めにした。
現地時間でかれこれ夜中の二時になろうとする頃、遠慮がちにそっとドアを叩く音がした。ペイシーははてなと首を傾げ、椅子から立ってドアを開けた。ソプロスキンだった。ロシア人はすり抜けるように部屋に入り、ペイシーがドアを閉じるのを待って内ポケットから大き目の封筒を取り出すと、黙ってそれをペイシーに手渡した。ペイシーは中をあらためた。赤で縁取りしたピンクの綴じ込みで、表紙に「機密。報告二三八/二G/NTS/FM。ノーマン・H・ペイシー人物像とその行動」としてあった。
ペイシーは目を疑いながらも中を開けて走り読んだ。顔を上げて、彼は押し出すような声で尋ねた。「どうやってこれを?」
「まあ、方法はいろいろとあるものさ」ソプロスキンは曖昧に答えた。「そいつのことを知っていたのか?」
「いや……何か、この種のものがあるらしいと、うすうす察してはいたがね」ペイシーは慎重に言葉を選んだ。
ソプロスキンはうなずいた。「これが入目に触れるのはきみとしても好ましくないと思ってね。焼却することだね。ロピーは他に一部しかない。そっちはもうわたしが処分したよ。だから、もうそいつが目当ての宛先に届くことはない」
ペイシーはあまりのことに声もなく、もう一度綴じ込みに目をやった。
「それから、もう一つ、代表団の議事録でおかしなものを見付けたよ。こっちの記憶とまるで違うことが書いてあるんだ。それはきみやわたしが目を通して承認したものと差し替えておいた。だから、ニューヨークへは正確な中身のほうが届く。信じてくれて大丈夫だ。連絡員がタイコへ行く前に、わたしが自分で封印して行背嚢へ入れたんだ」
「しかし……どうやって?」ペイシーはそう尋ねるのがやっとだった。
「間違ってもそれを君に話す気はない」ロシア人はそっけなく吐き捨てたが、その目には笑いが揺れていた。
世界中が残らず敵ではないと知って、ペイシーは思わず顔をほころばせた。「このあたりで、じっくり意見を交換する必要がありそうだね。ここにはあいにくウォツカがないんだが、ジンではどうかな?」
「いや、実はわたしもそう考えているところなんだ」ソプロスキンはまたもや内ポケットから一片のメモを取り出した。「ジンで結構。わたしは公平でね」
ソプロスキソはジャケットを脱いで戸口に掛け、安楽椅子にゆったりと腰を落ち着けた。ペイシーは次の間にグラスを取りに行き、冷蔵庫に充分氷があることを確かめた。長い夜になりそう'だった。
19
ガルースは生涯のうちの二十八年を〈シャピアロン〉号で過ごした。
遙か昔、惑星ミネルヴァの科学者たちは大気中の二酸化炭素濃度の増大を予測して、広範囲におよぶ気候地質制御計画に取り組んだ。計画はありとあらゆる科学技術を動員する大掛りなものとなるはずだった。ところが、シミュレイション・モデルによって検討を重ねた結果、気候制御は太陽から遠く離れたミネルヴァで生命の維持に重要な役割を負っている二酸化炭素の温室効果を損ねて、当初の予測よりも早くこの惑星を居住不能の環境にしてしまう危険があることが判明した。この危険に対処するべく、一部の科学者集団が太陽の質量を操作して、放射される熱量を増加する方法を提案した。気候制御計画を推進し、もし大気の組成に不安が生じて温室効果が失われるようであれぱ、太陽の温度を上げて損失を補うという考え方である。そうすることによって、全体としてミネルヴァの環境はもとどおりに保たれるはずだった。
ミネルヴァ政府は慎重を期し、計画の実地テストを行なうことにして科学調査団を乗晋た〈シャピアロン〉号を太陽によく似た星イスカリスに派遣した。イスカリスの衛星にはいかなる生命も存在しないことが知られていた。実験を行なうことにした政府の判断は正しかった。計算外の事態が生じて、イスカリスはノヴァに変わった。調査団は折から進められていた宇宙船メイン・ドライヴ機構の修理が終わるのを待つ閑もなくイスカリスから脱出することを余儀なくされた。制動装置が働かぬまま全速力で宇宙に投げ出された〈シャピアロン〉号は太陽系の近くを二十数年にわたって漂流した。が、その間に、複合相対論的時差のために、船外では百万倍の時間が流れ去っていた。そして、宇宙船はミネルヴァを飛び立ってから実に二千五百万年後の地球にやって来たのだ。
ガルースは船内の学校の講堂に立ち、がらんとした階段座席と角のすり減った机、そしてその向うの壁面に並ぶ表示スクリーンを見上げた。過ぎ去った年月の思い出が彼の胸中をよぎった。彼と一緒にミネルヴァを出発した多くの同胞がすでに故入となっている。が、去る者がある一方で新しく生まれる命がある。新しい世代が今では大きく育って船内の人口構成にかなりの部分を占めるまでになっている。ほんの短い間の地球滞在を別とすれば、宇宙船の中でしか暮らしたことのない世代である。いろいろな意味で、ガルースは彼ら若い世代の父親という自覚がある。彼は時に信念が揺がぬでもなかったが、若い者たちの彼に対する信頼はただの一度として揺がなかった。結果から言って、その信頼に応えてガルースは彼らを新しい母星に連れ帰った。はたして彼らにどんな未来が開かれているのか、ガルースにはそれを予測する術もない。
いよいよ未知の母星に降りることになった今、ガルースの気持は複雑だった。長い放浪の生活に終止符を打つことが嬉しくないはずはない。ガニメアンたちはついに同胞にめぐり会ったのだ。が、一方、胸の奥のどこか深いところで、この宇宙船という小さな自足の世界に絶ち難い愛着を覚えていることもまた事実であった。宇宙船も、船内の生活も、その構成員すべてが互いに顔見知りである小ぢんまりとした共同体も、すべてガニメアンたちのものであると同時に、指導者であるガルースの肉体の一部と化していた。しかし、それももう終わりなのだ。彼は未知のテューリアン社会に、宇宙船におけると同様しっくり融け込めるだろうか? 彼の目にさえ魔法に近いものと映る驚異の技術文明を達成し、何光年四方におよぶ宇宙空間に何百億もの人口が分布する新しい社会に、はたして彼は自分の場所を見出し得るだろうか? 彼一人ではなく、〈シャビアロン〉号のガニメアン全員についても同じ疑問を抱かないわけには行かない。もしこの新しい社会に融け込めなかったら、もはやガニメアンに安住の地はないのだろうか?
ガルースは講堂を後にして人気《ひとけ》の絶えた通路とコミュニケーション・デッキを抜け、司令室へ通じる輸送管の入口へゆっくりと歩いた。長年大勢の足に踏まれた床はすり減り、通路の壁もこすれて黒光りしていた。壁の染みや柱の傷の一つ一つに秘められた歴史がある。どれもがみな、長い漂流生活の記念であり、貴重な記録でさえある。それもやがてはすべて忘れ去られてしまうのだろうか。
ある意味では、すでに忘却ははじまっているとガルースは思った。〈シャピアロン〉号はテューリアン上空の軌道に待機中である。乗員のほとんどは地上の施設に収容されている。歓迎の儀式も祝賀の行事もなかった。宇宙船が何光年もの距離を隔てて捕獲された事実は今のところまだ公表できない事情があった。ガルース以下ガニメアン一行の存在を知る者はほんのひと握りのテューリアン人に限られている。
司令室ではシローヒンが一入、ディスプレイのデータを眺めていた。近付いて行くガルースをふり返って彼女は言った。「宇宙船回収の手順のややこしいことと言ったらないわ。ここに応用されている物理学の理論を見るとこちらの時代遅れを思い知らされるようね」
「どういう点で?」ガルースは訊き返した。
「イージアンの技術陣は複合開口超空間を作り出すのよ。両用環状ブラックホールとでも呼べばいいかしら。つまり、ブラックホールの片側は入口で、その反対側は出口の働きをするの。これを使って一瞬のうちに宇宙船のすり替えをやってのけたんだわ。この船と替え玉がブラックホールの中ですれ違ったのよ。しかも、そのタイミングがピコセコンドの精度で制御されているの」シローヒンは言葉を切り、気遣わしげにガルースの顔を藤き込んだ。「顔色がすぐれないようね。どうかして?」
ガルースは曖昧に今辿って来た背後の通路を指さした。「いや、何でもない……ただ、誰もいない、がらんとした船内を歩いて来たののでね。長い間の習慣というのは恐しい。何だか知らない場所にいるような気がしてね」
「わかるわ、その気持」シローヒンもまた同じ気持だったに違いない。「でも、気を落とすことはないでしょう。あなたは約束を果たしたのですもの。皆、じきにここの生活に馴染んでそれぞれの生き方を見付けるでしょう。それでいいのよ」
「わたしもそう思いたいね」ガルースは言った。
ゾラックが二人に声を掛けた。「ヴィザーからまた連絡がありました。カラザーが、時間が空いたのでそちらがよけれぱこれから会いたいそうです。場所はここから約十二光年離れたクウィースという惑星です」
「すぐ行く」ガルースは答え、驚嘆に頭をふりながらシローヒンと連れ立って司令室を出た。
「どうも勝手が違ってやりにくいね」
「地球人たちは苦もなく順応しているようね」シローヒンは言った。「ちょっと前にヴィック・ハントと話をしたら、あの人、自分のオフィスにヴィザーと接続するカプラーを据え付けることを考えているのよ」
「地球入はどんなところでもやって行けるんだ」ガルースは感に堪えぬ声で言った。
二人はテューリアンが移動式の知覚伝送カプリング・キュービクル四基を据え付けた一室に入った。〈シャピアロン〉号はヴィザーと結ばれていないので、テューリアンの情報交換システムとの接続にはこの方法しかない。だから、カラザーが宇宙船を訪問することはできなかった。宇宙船が軌道上でフリーフォールの状態になかったら、伝送装置のモジュールが内蔵する極小プラックホール、マイクロ卜ロイドの重みで床がめり込むどころでは済まないだろう。ガルースとシローヒンはそれぞれにキュービクルの寝椅子に横たわり、ヴィザーと接続した。次の瞬間、二人はクウィースの上空五十マイルの高さに浮かぶ人工島の一部をなす大きな部屋に、カラザーと肩を並べて立っていた。
「地球人《テラン》はきみたちが考えているよりも遙かに優秀な頭脳を持っている」ひとしきり三人で話し合ってから、ガルースは言った。「わたしらは地球に六ヶ月滞在したから、よく知っているんだ。謀略と、それを察知することとは彼ら地球人の生き方の一部でね、そこがガニメアンにはなかなか理解のおよばないところだが、彼ら地球入は天性の勘とでも言うべきものがあって、必ず真相を探り当てるのだよ。これ以上事実を伏ぜておげぱ、地球人がそれを嗅ぎ付けた時、かえってお互いに気まずいことになる。もう、このあたりでありのままを打ち明けるべきだ」
「それに、事実を隠すのはガニメアンのやり方ではないでしょう」シローヒンも傍から言葉を添えた。「地球の実状はすでにお話したとおりだし、地球人がわたしたちに、本当に献身的と言えるほど良くしてくれたことも話しましたね。あなたがたがこれまで地球人を疑って来たのはジェヴレニーズの虚偽の報告のためですから、その点は責められません。でも、もはや情況は変わりました。あなたがたは地球人に対して、また、わたしたちガニメアンに対して、真実を明かす義務があります」
カラザーは二人からやや離れて、手を後ろに組んで思案をめぐらせた。今彼らのいる部屋は人工島の下側に、ちょうど魚が卵を抱いたようにぶら下がっている。透明な壁はそのまま床に繋がって球の内面を作り、遙か足下の雲間に紫紅色に饉む惑星クウィースの大地が覗いている。頭上には人工島の腹が大きく拡がり、鋼鉄の外板が波を打つここかしこに彼らがいる場所と同じシャボン玉のような構造物が突き出している。それらの起伏や突起はやがて遠くの平面に呑み込まれ、人工島は視野の果てでまくれ上がるようにつきていた。
「やはり……秘密は守り通せないと言うのですね」
しばらくして、カラザーは二人に背を向けたまま言った。
「ジェヴレニーズが〈シャピアロン〉号を破壊して、地球人に罪をなすりつけようとしているのではないかという可能性をいち早く指摘したのは他ならぬ地球人だったことを忘れてはいけない」ガルースは駄目を押すように言った。「テューリアンには思いも寄らなかったことだろう。ここは現実を直視したくてはいけないんだ。地球人《テラン》とジェヴレニーズは精神構造に多分に共通するものがある。ガニメアンは彼らとはまるで違う。わたしたちは肉食をしない。わたしたちの頭は肉食をする者の考えを読むようにはできていないのだよ」
「それとまったく同じ理由で、本当のところジェヴレニーズの狙いは何かを知るためには、きっと地球人の知恵を借りなくてはならないでしょう」シローヒンが言った。「ジェヴレニーズが長年にわたって意図的に地球について虚偽の報告を続けて来た理由は何か、多少なりと説明できますか?」
カラザーは球面状の透明な壁から二人に向き直った。「説明の糸口も掴[#手偏+國]めません」
「昨日や今日にはじまったことではないんだ」ガルースは追い討ちを掛けた。「きみたちは、月面から接触があるまでかけらほども疑わなかったじゃあないか」
カラザーは深くうなだれて、やがて諦め顔で溜息混りにうなずいた。「おっしゃるとおりです・…・わたしたちは疑うことを知りませんでした。つい最近までわたしたちは、ジェヴレニーズがわたしたちの社会に融合して、わたしたちの科学、文明を真剣に学ぽうとしているものと信じて来ました。ジェヴレニーズはわたしたちと手を携えて宇宙に新しい世界を開く協力者であると考えていたのです……」彼は眼下の大地を指さした。「例えば、この惑星です。わたしたちはここに自治権を与えて完全に独立した惑星国家を育てるために協力を惜しみませんでした。いずれはわたしたちと共に銀河系に新しい文明を築くようになってくれたらと期待したのです」
「それが、どこかで何かが間違ってしまいましたね」シローヒンがずばりと指摘した。「何がどこでどう間違ったか、正確に見極めるには地球人の思考が必要でしょう」
カラザーはやや長めに二入を見つめてからもう一度うなずいた。「公式には、対地球外交はフレヌア・ショウムの管轄です。ショウムと話し合わなくてはなりません。ここへ来られるかどうか、都合を訊いてみましょう」カラザーは僅かに視線を上げてヴィザーを呼んだ。「ヴイザー。フレヌア・ショウムの都合を訊いてくれ。時間が空いているようなら、今のこの場の話を再生した上で、ここへ来られるかどうか返事をするように伝えろ」
「直ちにそのように手配します」ヴィザーは応答した。
短い沈黙の後、シローヒンが言った。「ヴラニクス会談の録画で見た限りでは、ショウムはあまり地球人に好感を持っていないような印象を受けましたけれど」
「ショウムははじめからジェヴレニーズを信用していませんでした」カラザーは言った。「地球人に対しても同じ気持を抱いているようです。まあ、無理からぬことでしょう」またしばらくの沈黙が続いた。「グウィースというところはなかなか面自い惑星ですよ。ほぼ全域に、知性人種へあと一歩という段階の人種が生存しています。ジェヴレニーズはこれまでにも、同じような惑星をいくつもわたしたちの世界に併呑するに当たって協力的な態度を示して来ました。ガニメアンと違って、彼らジェヴレニーズは原始人種の扱いにかげては持って生まれた才能があるのです。ちょっと例をお見せしましょう。ヴィザー……さっきわたしが見ていたところを出してくれ」
床の申央に立体映像が浮かんだ。天然の石と、土を焼いた煉瓦で造られた、変わった形の粗末な住居が並ぶ部落を空から俯瞰《ふかん》した映像だった。部落の中央に六方から広い階段で登る小丘があり、その頂きに円柱と破風を備えた堂々たる建物が聳《そび》えていた。ガルースは地球で写真を見た古代の神殿を思い出した。一方の階段の下の広場はぎっしりと群衆で埋まっていた。
「クウィースはまだヴィザーに接続していません」カラザーが映像を指しながら説明した。「ですから、こっちから現地へは行かれまぜん。この映像は軌道上から望遠で捉えたものを、あなたがたの視神経に直接投射しているのです」
映像の視野が狭まって倍率が上がった。群衆の一人一人が見分けられた。惑星クウィースの住民は二本の足で直立し、両手や頭の配置は人類とほとんど変わりなかったが、僅かに身にまとった粗末な衣服の端に覗く素肌は人間の皮膚とは似ても似つかぬ桃色で、水晶の光沢を帯びていた。頭は上下に長く、顱頂《ろちょう》から後頭部へかけて赤みがかった縮れ毛が濃く生えている。手足は引ぎしまって長く、その動作は流れるように滑らかで、不思議にガルースの心を捉えるものがあった。
と、彼は階段の上から群衆を見降ろしている五人の異人種集団に気付いて目を丸くした。五人は頭にきらびやかなかぶりものを戴き、長衣を風に翻《ひるがえ》して昂然と肩をそびやかしていた。その態度は尊大で、群衆を蔑《さげす》んでさえいるようだった。ガルースはすぐさま、ピングの肌の細造りな異星入たちの動作が何を意味するかを悟った。彼らが繰り返す動作は恭順と祈りを示すものに他ならない。これは信仰の情景なのだ。宇宙船司令官は含むところある顔できっとカラザーをふり返った。
「クウィース人はジェヴレン人(ジェヴレニーズ)を神だと思っています」カラザーは説明した。
「魔法の船で空から降りて来て、奇蹟を働く神々なのです。ジェヴレニーズは以前から、こうやって未開人種を懐柔して、自分たちに対する尊敬と信頼を植え付ける方法を試みています。そうした上で、未開人種を徐々に文明社会に触れさせて行くわけですが、これはジェヴレニーズが長年の監視を通じて地球から学んだ方法ですね」
シローヒンが不安げに尋ねた。「賢明なやり方と言えるでしょうか? そのような非科学的な心情を基盤とする人種が、はたして合理主義の上に成り立つ科学文明に移行できるか、自分たちを取り巻く環境に正しく対処できるかどうか、地球の例から見ても問題があるのではないでしょうか?」
「おそらく、そのような質問が出ると思っていました」カラザーは言った。「実はわたし自身も同じことを考えて思い悩んでいるところなのです。今度のことがあるまで、どうやらわたしたちはジェヴレニーズを信頼しすぎていたようです」彼は深刻な顔でうなずいた。「遠からず、事態は大きく変わることでしょう」
ガニメアンの二人が口を開く閑もなく、ヴィザーから声があった。「フレヌア・ショウムがそちらに参ります」
「映像は竜ういい」カラザーが言うとクウィースの情景が消え、入れ違いにショウムがカラザーの脇へ姿を現わした。
「わたしは賛成しかねます」シ・ウムは自分の気持を隠さずに言った。「地球人はどうしてもジェヴレン人に直接会わせろと言うでしょう。そうなると、事はますます厄介ですよ。今だってすでにこれだけ面倒なことになっているんですから」
「しかし、ジェヴレソ人に地球監視の任を与えたのはわたしたちだ」カラザーはたしなめるように言った。「その結果をわたしたちが引き受けなくてどうするね?」
「わたしたちが任を与えたというのは違います」ショウムは言い返した。「それはジェヴレン人のほうから言い出したことです.彼らの要求があまり執拗《しつよう》だったので、当時のテューリアン政権はとうとう根負けしてジェヴレン入に地球監視を任せることにしたのです。事実上は乗っ取りです」彼女は不安な面持でかぶりをふった。「今後の事情調査に地球人を参加させるのはどうかと思います。地球人がテューリアンの科学技術を吸収することを考えると、わたしはとても心配です。ルナリアンの例があります。ジェヴレン人がヴィザーと同じ機能を持つシステムを自分たちで手にしてからどうなったか見てごらんなさい。誰の目にも明らかでしょう。彼らは皆同じです。進んだ技術を身に付げれば、彼らはきまってそれを悪用するのです」
彼女はガルースとシローヒンにちらりと目をやって、カラザーに向き直った。「わたしたちは〈シャビアロン〉号の安全を気遣いました。今はもう、宇宙船は無事テューリアンに着いています。わたし個人としては、ここで地球とはいっさい接触を絶って、ジェヴレン人との情況打開に専念するべきだと思います。地球人に用はありません。彼らはもう、役割を果たしたのです」
「それは違う」ガルースは声を張り上げた。「地球人はわたしらにとってかけがえのない盟友なんだ。地球人の助けがなかったら、わたしらは決してテューリアンまで辿り着けなかったろう。そんなふうに地球人を切り捨てることは許されない。それでは〈シャピアロン〉号のガ仁メアンたちが納得しない」
カラザーが答えるより早く、ヴィザーが新たな連絡を取次いだ。「失礼します。ポーシック・イージアンがそちらへ行きたいと言っています。急用だそうです」
「そうか。ここはもうじき終わる」カラザーは答えた。「いいだろう、ヴィザー。イージアンをここへ寄越せ」
イージアンがふっと姿を現わした。「今テューリアンでハントとダンチェッカーと別れて来たところです」彼は言った。テューリアン入はヴィザーによる知覚伝送を当たり前のことと受け取っているから、いちいち挨拶を交わす習慣はない。「いずれこういうことになるだろうとは思っていましたが……彼らはジェヴレニーズのことを嗅ぎ付けましたよ。ついてはその件で、わたしら三人が揃《そろ》ったところで会談したいと言っています」 カラザーは度を失った。他の者たちも度肝を抜かれたのは同じである。
「どうして?」カラザーは問い返した。「どうしてジェヴレン人の存在が地球人に知れた? ヴイザーは地球向けのデータ・ビームを残らず検閲しているはずだぞ。ハントやダンチェッカーがジェヴレン人が一人でも入っている映像を見ることはないはずだ」
「彼らはここに人類がいるはずだと推論したのです」イージアンは前言を訂正した。「地球監視は人間の手で行なわれているに違いないと、彼らは論理的に割り出したんですよ。何とかしなくてはなりません。わたし一人では、もうこれ以上彼らを食い止められそうにありません……特に、ダンチェッカーは手に負えません」
ガルースは両手を大きく拡げてカラザーとショウムに向き直った。「言いたくはないが、さっきわたしが話したとおりだ。地球人にかかっては、秘密は守りとおせるものではない。こうなった以上、話すしかないな」
カラザーは意見を乞う表情でショウムをふり返った。
ショウムは考えをめぐらせたが、他に思案のあろうはずもない。「いいでしょう……」彼女は渋々うなずいた。「どうしてもということであれぱ。こうして顔が揃っているうちに二入をここへ呼んで、事実を話すことにしましょう」
「カレン・ヘラーはどうしている、ヴィザー?」カラザーは尋ねた。「今、システムに接続しているか?」
「ヘラーはテューリアンで過去の監視報告を調べているところです」
「それなら、ヘラーもここへ呼べ」カラザーは指示を下した。「三人揃ったところで、すぐこっちへ」
「ちょっとお待ち下さい」短い沈黙があって、ヴィザーは言った。「今、報告の一部をハード・コピーに取ってマクラスキーに転送するところです。三十秒ほどでそちらへ回ります」ヴィザーの声が切れると同時に、ハントとダンチェヅカーが床の中央に姿を現わした。
「どうも勝手が違って具合が悪いな」ガルースはそっとシローヒンに耳打ちした。
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「わたしたちは、人類の文化の黎明《れいめい》期から地球を監視して来ました」カラザーはきっぱりと言った。「監視作業はもっぱら、わたしたちの社会を構成する種族の一つであるジェヴレン人がこれに当たって今日に至っています。ジェヴレニーズについてはこれまである事情から伏せて参りましたが、すでに御明察のとおり、彼らはあなたがたとそっくり同じ人間です」
「ホモ・サピエンスは、何と言うか、その……大変、気性が激しいですね」フレヌア・ショウムが補足説明の必要を感じたらしい口ぶりで言った。「人類は本能的に強い対抗意識があります。わたしたちは、この情況は極めて微妙な問題を含んでいると考えたのです。いずれ明るみに出ることならば先へ延ばしても良いのですが、今日ここで打ち明けてしまえば、もう秘密でも何でもありません」
「やっぱり」ダンチェッカーはいかにも満足げにハントとその向うのカレン・ヘラーをふり返った。「わたしが言ったとおりだよ……ミネルヴァからテューリアンに移住した時、一緒にジャイスター系に渡った霊長類を祖先に、独自にここでヒトが進化したんだ」
「いえ……そうではないのです」カラザーが言いにくそうに言った。
ダンチェッカーはまるで不当な辱しめを受けたとでもいうふうに、目を自黒させて異星人を見返した。「何ですって?」
「ジェヴレニーズはあなたがおっしゃるよりもっとずっとホモ・サピエンスに近いのです。近いどころか、彼らはあなたがたと同じ、五万年前の祖先ルナリアンの直系です」
カラザーはちょっとそわそわした態度でショウムに目をやり、向き直って地球人たちの反応を窺《うかが》った。ガルースとシローヒンは沈黙を守った。二人は真相を知りつくしている。
ハントとダンチェッカーは等しく当惑を感じて顔を見合わせ、再びガニメアンたちに目を向けた。ルナリアンの生存者は月から地球へ渡って来たはずである。そのルナリアンがどうしてテューリアンにいるのだろう? 考えられる唯一の可能性はテューリアソ人が連れて行ったのではないかということだ。しかし、テューリアン人はいったいどこからルナリアンを連れて行ったのだろうか? ミネルヴァには生存者は一人もいなかったはずである。たちまち疑問はそれからそれと湧いて出て、ハントはどこから手を着けてよいやらわからなくなった。ダンチェッカーも同じところで立往生しているらしかった。
ややあって、カレン・ヘラーが口を開いた。「はじめに戻って、いくつか基本的な事実を確認しましょう」彼女はもっぱらカラザー一人を相手にしていた。「わたしたちは、ルナリアンはあなたがたがテューリアンに移住した時に置ぎ去りにした地球動物を祖先としてミネルヴァで進化したと考えています。これは事実ですか? それとも、他に何かわたしたちの知らないことがあるのですか?」
「いえ、おっしゃるとおりです」カラザーは答えた。「今から五万年前頃までに、あなたがたの推論されたとおり、ルナリアンは非常に進んだ披術文明を達成したのです。そこまでは、あなたがたの理論に何も誤りはありません」
「ひとまずは安心といったところですね」ヘラーは実際ほっとした様子でうなずいた。「でしたら、それから後のことを順を追って聞かせて下さい。そうすれば、質問も大幅に省けるでしょう」
「それはいい考えです」カラザーは相槌を打ち、頭の中で話をまとめながら、三人の地球人を見比べておもむろに言葉を続けた。
「ガニメアンはテューリアソに移住するに当たって、ミネルヴァの変化を見守るために観察システムを残して行ったのです。今と違って当蒔はまだ通信技術も不完全でしたから、伝送される情報は間欠的で不備なものでした。しかし、それでもミネルヴァのその後の変化は充分に捉えることができました。センサーが捉えた当時のミネルヴァの模様をお目に懸けましょう」
カラザーはヴィザーに指示を下し、一歩退って床の中央に視線を据えた。触れればどっしりと手応えのありそうな大きな立体映像が浮かび上がった。惑星ミネルヴァだった。
ハントは海岸線の細かな出入りに至るまで、惑星表面のありさまを詳しく知っている。月面探査の過程で発掘された宇宙服姿のルナリアン〈チャーリー〉の死体は近来の科学史上記念すべき大発見だったが、これをきっかけに広範囲にわたる調査研究が進められて、ついに人類はミネルヴァの運命を明らかにし、〈シャピアロン〉号の出現より早くにガニメアンの存在を知ったのだ。チャーリーが所持していた地図をもとに、ナヴコムの研究者たちは直径六フィートの惑星儀を完成した。しかし、今ハントが目の前にしている惑星には、模型にある両極の大きなアイス・キャップや熱帯がなかった。二つの大陸は、かなり輪郭が変わってはいるものの、ほぼ模型のとおりだった。もっとも、これもよく見ると南北両極に向かって模型よりもひと回り大ぎな拡がりを持っていることがわかる。両極のアイス・キャップは現在の地球の極地圏とほぼ同じ広さだった。映像は五万年前のルナリアン時代のミネルヴァではなく、ルナリアソが登場する以前、二千五百万年の昔の姿だから、表面のありさまに違いがあるのは当然である。しかも、これは模型ではなく、当時のありさまをそのままに伝える実写なのだ。ハントはダンチェッカーをふり返ったが、教授は催眠術にでもかかったようにただぽかんと立体映像を見つめているばかりだった。
続く十分間、彼らは惑星の移り変わりを眺めながらカラザーの説明に聴き入った。軌道上から望遠レンズで捉えた映像が、地球動物が進化し、繁殖し、先住のミネルヴァの生物を駆逐しながらこの惑星に適応して行くありさまを、一分間に二百五十万年の速度で再現した。やがて、地球から運ばれた霊長類に遺伝子操作が加えられた後、社会生活を営む最初の類人猿が出現した。
進化のパターンは、大筋において以前から地球の科学者が考えていたとおりだった。ただ、二〇二八年まで、その進化が別の惑星で起こっていたのだということを科学者たちは知らなかっただけである。紀元前五万年弱のものと推定される化石の分類学上の位置付けに問題があったとしてもやむを得ない。ところが、映像で再現されたミネルヴァの歴史には、地球の人類学者がかつて想像もしなかったようなくだりがあった。初期の類人猿は陸上の肉食動物から身を守る術を持たず、それがために、一時期浅い水中に帰ったのである。かくて、類人猿はクジラをはじめとする水生哺乳動物と同じ道を辿りはじめたが、知性が発達して身を守る術を獲得するに至って再び陸に揚がった。まだ肉体的な適応を示す際立った変化が生じる前のことである。これによって、この時期の類人猿が直立歩行し、体毛を持たず、拇指《おやゆび》と人差し指の間の水掻《みずか》きも未発達であるわけがわかる。他にも、涙腺の塩分濾過機能のように、地球の学者たちの間で論議の種とされて来た顕著な特色がいくつかあったが、それらはいずれも、類人猿が短期の水中生活で陸に戻ったことで説明が付く。ダンチェッカーにとってはこれ一つで向う一週間しゃべり詰めにしゃべるに充分な材料であろう。ハントは別の機会にイージアンとその問題を話し合うように教授をなだめて、カラザーに説明の続きを促した。
陸へ揚がった人類の祖先はやがて道具と火を使うことを覚え、集団生活をはじめる。社会秩序が徐々に形を整え、原始狩猟生活から農耕経済を経て都市が出現し、ついに彼らは科学を知って工業化の道を歩みはじめる。この時期にも、地球の歴史とはやや趣を異にするところがあった。ルナリアンはすべてにおいて徹底した合理主義、現実主義を貫いていた。彼らは与えられた資源と自分たちの能力を最大限に活用した。地球人が古来習慣として来たように、問題の解決を迷信や呪術に頼ることはなかった。狩の収穫を約束するのは良い武器と優れた技倆であって、生贄《いけにえ》によって目に見えぬ神々の怒りを鎮めることではなかった。豊年満作のために必要なのは種子と土壌と気象に関する知識であって、儀式や祈祷《きとう》ではなかった。いくばくもなく、彼らは測定と観察、そして理知の力を鍵として宇宙を支配する法則を発見し、エネルギー制御と富の蓄積に新たな地平を切り開いた。これを契機にルナリアンの科学産業は一夜にして百花|繚乱《りょうらん》の繁栄を達成した。これにくらべれば、その後の地球の進歩は同じ筋道を辿りながらもここで迷い、かしこで躓《つまず》き、文明への道程は遅々たるものだった。
ルナリアンの歴史を僅《わず》かな資料から再現した地球の科学者たちは、彼らが手もつけられぬほど戦闘的な性格を持ち、進んだ技術を身に付けた時、彼らは否応もなく自滅の道を歩みはじめたと解釈した。が、今ハントたちは必ずしもそうとばかりは言いきれないことを知った。たしかに歴史の初期にルナリアンはあちこちで対立抗争を繰り拡げたが、産業化社会の幕が上がる頃にはもうそのようなことはなくなっていた。より大きな共通の目的がミネルヴァ世界の結束を促したからである。科学者たちは氷河期の接近とそれによってもたらされるであろう環境悪化を予測した。何世紀かの後には大挙してより温暖な惑星に移住したいという悲願から、ルナリアソは科学技術の進歩に憑《つ》かれたように力を注いだ。天文学者たちは、火星と地球を移住の候補地に挙げた。ルナリアンの存亡を懸げた移住計画である。同種間の対立に費やすべき資源があるはずはなかった。ところが……
惑星を破壊することになった最後の大戦争に先立つこと約二百年のある時、ミネルヴァ世界の情況を根底から揺がす大きな変化が生じたのである。
カラザーは語った。「種属固有の、極端な情緒不安定がまだ遺伝的に稀釈されずに残っていた結果と考えられますが、蒸気の利用を覚えて、電気の時代にさしかかろうとする頃、ルナリアンの中から特に優れた資質を持つ人種が出現して、それまでの惑星の水準を大きく引き離して独自の進歩を遂げたのです。彼らがいつどのようにして出現したのかはわれわれにもわかりません。数の上でも、はじめはほんのひと握りでした。それが、急激に数を増して大きな勢力に発展したのです」
「それは、惑星の両極化がはじまる頃のことですね?」ヘラーが質問を挟《はさ》んだ。「そうです」カラザーはうなずいた。「この特種な一属がランビアンです。ランビアンは極めて冷酷な人種でした。彼らは軍備を強化して、全体主義の統治を行ないました。そうして、他の国々が対抗するだけの力を蓄える以前に惑星の広い部分を武力で制圧したのです。ランビアンの狙いはミネルヴァの産業技術を一手に支配して、自分たちだけ地球へ移住することでした。そこで、そのために共同して努力を重ねている国々を支配下におさめようとしました。狙われた国にとっては、降伏はすなわち滅亡を意味します。で、他の国々は同盟を結んで、武器を取って自分たちの安全を守る以外に道はありません。これがセリアンです。こうして、二大勢力の死に至る対立は避けられない情況になったのです」
映像の再生はさらに続いた。ミネルヴァは次第に軍事一色に塗りつぶされ、産業機械はすべて戦争の準備にかり出された。正視に堪えぬ悲劇だとハントは思った。戦争の必要はまるでなかったのだ。全ルナリアンの倍の人口を地球へ運んでもあり余る物的入的資源が戦争のために注ぎ込まれていた。この時期にランビアンが出現しなかったら、ルナリアンは地球移住を果たしていたに違いない。幾千年もの努力の末に、彼らはその目的まであと僅か二百年というところまで行き着いていたのだ。彼らは滅亡を免れ、彼らの文化を守ることができたはずである。にもかかわらず、ルナリアンはそのすべてを投げ捨てて亡び去ったのだ。
ヴィザーは戦乱の情景を映しだした。都市を一瞬にして蒸発させる火の玉の衝撃に大地は震憾し、海は煮えたぎり、森林は火の絨毯《じゅうたん》と化してめくれ上がり、死の灰をまきちらした。やがて黒煙と灰燼《かいじん》は惑星表面を覆いつくし、ミネルヴァは黒と焦茶の酷い斑《まだら》の塊となった。そのあちこちに、赤と黄色の光点がぼんやりと明滅しはじめたと見る間に、それは輝きを増して拡がり、繋《つな》がり合って大陸を舐めつくした。惑星の内部から熔岩が噴き出し、張り裂げた地殻の破片は虚空の八方に飛散した。小惑星帯誕生の瞬間であった。後に冥王星となって太陽系の辺境をめぐることになる惑星は、そこに文明を築いた民族の墓標になろうとしていた。ガルースとシローヒンはすでに何度も見て知っている光景を前に、今もまた悄然として声もなかった。その場にいあわせる中で、二人だけはミネルヴァを文宇どおりの故郷としていた。
カラザーはひとしきり感情の波に揺られた一同が落ち着ぎを取り戻すのを待って言った。「ガニメアンは久しい以前から、ルナリアンの祖先を遺伝子操作の被害者にしたことに良心の呵責《かしゃく》を感じていました。それ故、彼らはミネルヴァに関しては不干渉の方針を貫いて来たのです。その結果が、今ごらんになったとおりです。大破局の後、ひと握りの生存者が月面に残されましたが、生き延びる望みはありません。その頃、テューリアソはすでにプラックホールを制御して、情報や物体を瞬間移動する技術を完成していました。だから、ガニメアンは事態の推移をリアル・タイムで捉えていたのです。そして、ルナリアンの生存者に救いの手を差し延べることにしました。不干渉の方針を貫いた結果を目のあたりにして、彼らはルナリアンの生存者を見捨てるに忍びなかったのです。そこで、ガニメアンは救助隊を編成して、大型宇宙船をルナとミネルヴァの近くに送り込みました」
ハントはやや遅れてカラザーの言ったことの意味に気付いた。彼は驚いてガニメアンの顔を見た。「太陽系の中まで?」ハントは尋ねた。「惑星系の内部には大型のプラックホールを作らないということだったんじゃあありませんか?」
「この場合は非常事態です」カラザーは答えた。「この時ばかりはガニメアンも原則を任げることにしたのです。一刻も猶予はありませんでした」
ハントはその意味するところを理解して目を丸くした。冥王星を現在の位置に動かしたのはこれだった! ミネルヴァとその衛星を切り離したのもテューリアンの人工ブラックホールだったのだ。ただひと言の説明で、ナヴコムの研究者や職員の半数は職を失った……。
「そうすると、人類の祖先であるルナリアンは月に乗って地球にやって来たのではないんですね」カレン・ヘラーが言った。「ガニメアンが彼らを地球に運んで、月は月で後から移動して来た、ということですね」
「そうです」カラザーはこともなげにうなずいた。
これでまた一つ謎が解けた。地球の科学者たちが作った数学モデルでは、月がミネルヴァから地球を回る軌道に移るまでには非常に長い時間を要する。ルナリアンの生存者がその間どうやって持ちこたえたのか、ということがこれまで大きな謎とされ、論議を呼んで来たのだ。彼らが自力で地球に渡ったと考えることにも無理があったのだ。が、ここでガニメアンが介入したとわかれぱ何のことはない。その事実を投入すれば方程式はたちまちにして解けるではないか。ガニメアンのちょっとした助けを得て、ルナリアンはささやかな集団生活の場を確保し、文明再興の道を歩みはじめることができたわけである。だが、そうだとしたら、彼らは何故に原始人のふりだしに帰って、かつての水準に戻るのに何万年もの時間を費やさなくてはならなかったのだろうか? 考えられる答はただ一つ。月が地球に捕獲されたことによって生じた擾乱現象がその理由である。真実とは何と皮肉なものだろう、とハントは思った。彼らが以前から馴れ親しんで来た月《ルナ》に邪魔されることがなかったら、ルナリアンは遅くとも紀元前四万五千年までには再び宇宙へ飛び去っていたはずである。
「ところが、生存者の全員が地球へ運ばれたわけではなかった」ダンチェッカーが先回りして言った。「一部はテューリアンに運ばれて、その子孫が今のジェヴレニーズだ、ということですね」
「そのとおりです」カラザーはうなずいた。
「それだけの体験をしながら……」ショウムが引き取って説明を続けた。「セリアンとランビアンは折り合いませんでした。ミネルヴァの破局を招いたそもそもの原因はランピアンですから、当時のガニメアンは彼らをテューリアンに引き取って、自分たちの社会に包含して行くのが良いと考えたのです.セリアンは自分たちから望んで地球へ渡るほうを選びました。ガニメアンは引き続き援助することを申し出たのですが、彼らはそれを拒みました。そういうわけで、監視態勢は彼らを見張るためではなく、どちらかと言えば、むしろ彼らを見守るためでした」
ハントは首を傾げた。その頃から監視が続けられていたとすれば、ガニメアンは当然、自分たちが力を貸した集団が原始人に退化したことを知っていたはずである。どうして見て見ぬふりをしたのだろうか?
「それで、もう一方の集団……ランビアンはその後どうなりましたか?」ヘラーが質問した。
「その当時からランビアンが地球監視に当たっていたはずはありませんね。いつから、どうして彼らがその仕事をするようになったのですか?」
カラザーは苦しげに吐息を洩らした。「テューリアン人は彼らにさんざん手を焼かされました。そのために、月が地球に捕獲された結果、天変地異が起こって、辛うじて生ぎ延びたセリアン社会がまたもや滅亡の危機に見舞われても、もう放っておくしかないということになったほどです。テューリアン人はランビアンという間題児を抱えて頭の痛い思いをしていましたから、地球人となったセリアンたちが性急な進歩を目指すことを歓迎しなかったのです。ミネルヴァの悲劇を繰り返す恐れが多分にありましたからね」彼は、良い悪いの問題ではなく、それが当時の実状だったのだという含みでちょっと肩をすくめた。「が、その後、ランビアンも世代交替を繰り返すうちに、かなり性質が変わりました。これならガニメアン社会にうまく融け込めるだろうという望みも出て来たのです。そこで、ガニメアンは積極的に彼らを受け入れて宥和《ゆうわ》を図る政策を採ることにしました。そのような経緯があって、その頃はすでにジェヴレニーズと呼ばれるようになっていたランビアンの子孫は地球監視計画を任されることになったのです」
「間違いでした」ショウムが口を挟《はさ》んだ。「彼らは追放されるべきだったのです」「ふり返って考えれば、そのとおりだとわたしも思う」カラザーは言った。「しかし、これはわたしやきみが生まれる前の、遙か昔の話だからね」
「その、監視システムのことを聞きたいのですがね」ハントが話題を変えた。「どういう仕組みですか?」
イージアンが説明に立った。「基本的には地球圏外からの査察です。百年前までは、さして厄介なことはありませんでした。地球がエレクトロニクスと宇宙開発の時代に入ってからは、ジェヴレン人たちものんきな高みの見物では済まなくなったのです。使用されている機材は極めて小型で、宇宙空間ではまず目に見えないと言って差し支えないようなものです。情報の大半はあなたがたの通信綱、例えば地球と木星を結んでいるレーザー・リンクなどを傍受して、それをそのまま転送しています。地球の宇宙計画初期の頃、ジェヴレン人はあなたがたが使い捨てた人工衛星に似せたものをこしらえて、それに査察装置一式を搭載したことがあります。地球人が宇宙掃海に乗り出すようになって、このやり方は打ち切りになりました。しかし、これはなかなか便利な方法ですよ。パーセプトロンをボウイングに擬装したのも、実はこのアイディアをいただいたわけです」
「それにしても、どうしてあれだけ本当らしい情報をでっち上げることができたのかな?」ハントは質問した。「あれだけのことをやってのけるには、ヴィザーのようなシステムが必要だろう。なみの汎用コンピュータではとてもああは行かない」
「そのとおりです」イージアンはうなずいた。「事実、彼らにはそういうシステムがあるのです。もう、かなり以前のことですが、ジェヴレン人に対してある程度楽観的になっていたテューリアンは彼らに自治権を与えて独立を認めました。これがジェヴレンです。彼らの惑星はわたしたちが開発した宇宙世界のはずれに位置していますが、そこはジェヴェックスというシステムが全域を覆っているのです。ヴィザーとまったく同じものですが、この二つのシステムは接続していません。ヴイザーと同じように、ジェヴェックスはジェヴェヅクスで独自の情報世界を作っているわけです。このジェヴェックスに地球監視システムは接続しています。わたしたちはジェヴェッグスからヴィザーを経て間接的に報告を受けているのです」
「事実の歪曲や画面の合成がいともたやすくできた理由がこれでおわかりでしょう」ショウムが言った。「博愛主義もこれまでです。そもそも、ジェヴレン人にあのようなシステムを持つことを許したのが間違いでした」
「虚偽の情報を流した狙いは何ですか?」カレソ・ヘラーが切り込んだ。「これまでのところ、まだその点の説明がありません。ジェヴレン人の報告は、第二次世界大戦までは実に正確です。二十世紀後半の情勢になるとだいぶ誇張が目立ちます。が、問題はその後です。過去三十年に関しては、これはもう純然たる創作です。彼らはどうしてあなたがたに、地球は第三次大戦に突入すると思い込ませたがっているのですか?」
「人間の歪んだ精神構造をどう説明しろと言うのですか?」ショウムはジェヴレニーズと地球人をひっくるめて人間と呼んだ。自分ではそれに気が付いていない。
彼女が一瞬カラザーにちらりと視線を投げるのをハントは見逃さなかった。どうやら、まだ何か裏がある。この期におよんでなおテューリアンが打ち明けたがらないことがあるのだ。何事であるかはともかく、それはガルースやシローヒンでさえ知らされていない事実であることを、ハントはその場で直観した。しかし、今はその点を追究するべき時ではなさそうである。ハントはふとあることを思い出して、話を技術上の問題に戻した。
「ジェヴェックスはどの範囲まで事実を記憶しているのかな? ヴィザーと同じに、ミネルヴァのガニメアン文明まで溯《さかのぼ》るのかね?」「いえ」イージアンが答えた。「ジェヴェックスはずっと後世に完成されたシステムです。ヴィザーの記憶する情報をそっくり教えてやる必要はありませんでした。ガニメアンに関することばかりですから」彼は怪訝《けげん》そうにハントの顔を窺《うかが》った。「〈シャピアロン〉号の録画でヴィザーが発見した、背景の星のずれのぱらつきを言っているんですね?」
ハントはうなずいた。「今の話ですっきりするね。そうだろう。ジェヴェックスは背景の星がずれることを知らなかったはずだよ。ヴィザーは〈シャピアロン〉号の設計データを掴[#手偏+國]んでいたけれども、ジェヴェックスにはそれがなかった」
「おっしゃるとおりです」イージアンは言った。「他にもおかしな点がいくつかありましたが、いずれも古いガニメアン技術に関係することで、ジェヴェッグスの情報が欠落していたための誤りです。それがわかって、わたしたちははじめて疑惑を抱きました」
以後ジェヴェックスから送られて来る情報はすべて疑ってかからなくてはならなくなったであろうことは想像に難くない。しかし、ジェヴレン人の頭越しに直接情報源である地球に照会する手段はなかった。にもかかわらず、テューリアン人はまさにそれをやってのけたのだ。
カラザーはしきりに話題を変えたがった。話の跡切れた隙を捉えて彼は言った。「ガルースから、あなたがた地球人にとって興味深い、別のくだりを見せるようにという要求がありました。ヴィザー……ガニメアンのゴーダ着陸の模様を見せてくれ」
ハントははっと顔を上げた。ゴーダの名は耳に覚えがある。ダンチェッカーも眉を寄せて顎を突き出した。ヘラーは不思議そうな顔で二人を見比べた。チャーリーの最期については彼女はあまりよく知らない。
ドン・マドスンを指導者とするナヴコム言語学班は非常な努力の末に長いこと謎のまま残されていたチャーリーの手記を解読した。手記は月面に生き残ったセリアン集団の一人であるチャーリーが廃壗と化した基地に一縷《いちる》の望みを託して決死の行軍を続ける途中、次々に仲間が息絶えて行くのを目の前にしながら毎日の行動を書き綴ったものだった。手記はチャーリーが発見された場所に行き着いたところで跡切れていたが、すでにその頃仲間は皆力つきて、残ったのはチャーリーと、コリエルと呼ばれる僚友の二人だけとなっていた。そのチャーリーも生命維持装置の故障で倒れ、コリエルは基地を指して単独行を続けることにたった。その後コリエルがチャーリーの倒れた場所に戻ったことを示す記録はない。彼らが目指した月面基地の名がゴーダである。
床の中央に新しい映像が浮かんだ。星の降る黒い空の下に荒涼たる岩石砂漢が拡がっていた。高熱に焼かれた跡も生々しい岩石や砂礫は戦闘の激しさを物語っている。広大な基地であったに違いないその場所は破壊しつくされて見る影もなかった。荒廃の只中に、僅かに倒壊を免れた構築物がみすぼらしい姿をさらしていた。トーチカか砲塔を思わせる箱形の建物は片側の壁が吹き飛んでいた。中はまっ暗だった。
「ゴーダで残ったのはこれだけです」カラザーが解説を加えた。「この画は今着陸したばかりのテューリアン船から撮っています」
長四角の胴体に脚と角《つの》を付けたような小型の舟艇が月面から二十フィートほどの高さで、画面の手前からゆっくりと廃屋のほうへ向かった。建物のすぐ近くに降りた舟艇から宇宙服に身を固めた一団のガニメアンが飛び出し、壁の破れ目にそろそろと近付いて行った。あるところまで行って、彼らはぎくりと足を止めた。前方の暗がりで動くものがあった。
奥に明りが点って壁の破れ目を照らした。そのトーチカのようなものがもとは何の建物であったのか、画面からは判然としないが、地下室への降り口と思われるところに宇宙服姿の小集団がかたまっていた。ガニメアンの宇宙服とは形が違う。彼らは数フィートの間合で向き合ったガニメアンの肩よりも背が低かった。それぞれに武器を携えてはいるが、互いに顔を見合わせ、ガニメアンの様子を窺う態度からも彼らが非常に動揺していることがわかる。事態が呑み込めず、どうしてよいやら決断がつきかねているありさまだ。その中に、一人だけ例外がいた……
仲間たちより一歩前に進んで立ったその男の青い宇宙服は焼け焦げ、ほこりだらけで見るからに敗残のみすぼらしさをさらけ出していた。しかし、男は両足をしっかりと踏みしめて仁王立ちとなり、片手に構えたライフルに似た武器は微動だにせず、ぴたりと先頭のガニメアンを狙っていた。空いたほうの手で、男は仲間たちに前へ出ろと合図した。絶対の権威を示す動作だった。他の者たちは彼の指示に従って両脇に散開し、さらに物陰から異星人一行に銃を向けた。彼は仲間たちよりもずっと背が高く、体もひと回り大きくがっしりとしていた。ヘルメットの奥で歪めた唇の間にまっ白な歯が覗いた。無精髯が伸び放題のどす黒くくすんだ頬のせいか、歯の白さがひときわ鮮やかに見えた。音声回路から何やら閲き取りにくい言葉が洩れた。意味は不明ながら、昂然として戦いを挑む声であることは疑いもなかった。
「当時はまだわたしどもの監視システムは不完全でした」カラザーが言った。「お互いに言葉が通じないのです」
ガニメアンの指揮官は声の抑揚に意味を込め、仕方咄で自分たちが味方であることを伝えようとしているらしかった。ひとしきり身ぶり手ぶりのやりとりがあって緊張が解けた。やがてセリオスの巨人が銃を降ろすと、他の者たちも物陰から次々に進み出た。巨人はガニメアンたちについて来るように合図した。背後の仲間たちは二つに分れて道を開けた。巨人はガニメアンの一行を案内して建物の奥へ入った。
「あれがコリエルです」ガルースが言った。
すでに察しは付いていたが、ハントはそれを聞いて何故かほっとした。
「やったな!」ダンチェッカーは顔を輝かせて歓声を上げ、それからごくりと唾を呑んだ。「コリエルはゴーダへ行き着いたんだ。いやあ、よかったよかった。本当によかった」
「まったくです」ガルースはハントの顔に早くも兆《きざ》した次の疑問を読み取って言った。「宇宙船の日誌を調べてみると、彼らはコリエル隊の辿った道を引き返しています。コリエルと最後まで一緒だった]人はすでに死亡していました。それで、そのままにして立ち去ったのです。しかし、途中で落伍した何人かはまだ生きていて、救助されました」
「で、この後は?」ダンチェッカーが尋ねた。「わたしらの間で前々から話題になっているのはね、コリエルは最終的に地球に渡った一団の中にいたのかどうか、という点なのだよ。これで見ると、やはりその中にいたものと想像されるけれども、そこのところはわかっているのかな?」
答に代えて、カラザーは別の映像を呼び出した。地球人の目には見馴れない移動式居住設備と思われるものが十数棟、河岸に並んで小集落を作っていた。背後は亜熱帯の森林らしく、その向うに山脈が霞《かす》んでいた。傍らに物資の集積所が設けられ、木箱やドラム罐に似た種々の梱包が幾列にも積上げてあった。前景に二、三百人あまりの群衆がかたまっている。地球人と少しも変わらぬ姿である。粗末だが、いかにも機能的と見受けられるシャツとズボソという出立ちで、大半が腰のホルスターに武器を吊り、あるいは紐で肩に担っている。
コリエルは群衆より数歩進んで、両の拇指をゆったりと腰のベルトに掛けて立っていた。仲間たちより頭ひとつ大きく、肩幅も広い。黒い髪は豊かに波打ち、顔はいかめしく、彫りが深い。彼の両脇と背後に一人ずつ、腹心らしい部下が控えている。群衆のあちこちで武器が高く上がり、一同は手をふりはじめた。別れの挨拶に違いなかった。
画像は傾きながら遠ざかり、小集落は見る間に生い繁る緑の中に沈んで消えた。密林もやがてただ一面の緑の濃淡に変わり、視野が拡がるにつれて周囲の地形が見えて来た。
「地球を発《た》ってテューリアンへ帰る宇宙船から捉えた最後の画像です」カラザーが言った。
紅海の一部とわかる海岸線が視野に入り、遠近の差で周辺が歪んでいるとはいえ、まぎれもない中東の地形になった。ついで視野に入った惑星の天と地の境目は早くもくっきりと円弧を描きはじめていた。
一同は遠ざかる地球を無言のままいつまでも見守っていた。その地球もついには消え去って、ダンチェッカーは溜患混りに呟いた。「信じられるかね……あのたったひと握りが全人類のはじまりだったとはね。あれだけの苦難を乗り越えて、彼らは世界を征服したんだ。実に驚嘆すべき人種だったと言う他はない」
ダンチェッカーが何かに本当に心を揺さぶられている姿をハントは滅多に見たことはない。その思いはハントもまた同じだった。彼はルナリアソ戦争の情景を思い返し、ジェヴレン人がでっち上げた、地球が同じ破局に向かって突き進むさまを描いた映像を想起した。へたをすれば、地球はあの架空の映像に描かれたとおりの運命を辿っていたかもしれないのだ。きわどいところだった。地球は破局の淵に一度は立ったのだ。そこで踏み止まったから良かったものの、針路を変更しなかったらほんのあと二、三十年で地球はミネルヴァの轍《てつ》を踏んだに違いない。そうなれば、チャーリーやコリエルや、ゴーダ基地のセリアンたち、それに、テューリアン人の努力はすべて水の泡である。加えて、その後に彼らが営々として築ぎ上げたものがことごとく灰燼《かいじん》に帰するところだったのだ。
ハントはウォータールーの戦いでナポレオソを破った後にウェリントン将軍が言った言葉を思い出した。「きわどいところだった。間一髪とはこのことだ。生涯でもこれほどの瀬戸際に立ったことはまたとない」
21
ブルーノ観測基地の事情についてノーマン・ペイシーの報告を聞いたジェロール・パッカード・は早速、極秘の文書をもってCIAにスヴェレンセン個人に関する過去のいっさいの記録と、念のために月面国連代表団全員の記録を合わせて開示するよう要求した。これを受げてCIAの情報担当官グリフォード・ペンスンは翌日、国務省にパッカードを訪ねて密かに人事記録要約を手渡した。コールドウェルとリン、それにノーマン・ペイシーがその場に呼ばれてベンスンの説明を聞いた。
「スヴェレンセンは二〇〇九年に西ヨーロッパにひょっこり姿を現わしましたが、その時はすでに、各国政界、金融界の有力者と密接な関係にありました。いつの間にどう手を回したかはわかっておりません。それ以前の十年間の動きはまるで掴[#手偏+國]めないのです。具体的には、スヴェレンセンがエチオピアで殺されたとされている時を境に、その後の消息はまったく空白です」
ベンスンは壁に貼り出したサマリー・チャートを指しながら言った。夥《おびただ》しい人名や組織の名前が並び、写真が添えられ、相互関係を示ず線が縦横に引かれていた。
「最も関係が深いのは、フランス・イギリス・スイスにまたがる投資銀行コンソーシアムですが、これに加わっている銀行のほとんどは、十九世紀に中国のアヘソ貿易の利益を隠匿する目的で東南アジア一円に金融綱を張りめぐらした銀行家の血縁がそのまま役員を引き継いでいます。そこで目につくのは……このコンソーシアムのフランス勢で大きな発言力を持つ中の一人がダルダニエの親類であることです。実に、スヴェレソセン・ダルダニエ両家の関係は三代前まで溯《さかのぼり》ります」
「高利貸し仲間は結束が堅いからね」コールドウェルが口を撫んだ。「付き合いが長かったところで、大した意味があるとも思えないな」
「二人だけの関係であれば、わたしも特に間題にはしないと思います」ペンスンはうなずいた。
「ですが、ちょっとこっちを見て下さい」彼はチャートの別の部分を指さした。「イギリスとスイスの銀行は世界の金取引の大きな部分を支配していますが、これが、ロンドン金市場と鉱山関係を通じて南アフリカと繋がっているのです。ここにも目につく名前が、登場します」
「そこに名前が出ているヴァン・ギーリソクというのは、スヴェレンセンの取り巻ぎの、あのヴァン・ギーリングの血族ですか?」リンが眉を寄せて尋ねた。
「そうです」ベンスンは言った。「親類がたくさんいましてね、それが全部、何らかの形で同じ一つの仕事に関係しているんですよ、とにかく、複雑怪奇です」彼はちょっと言葉を切った。
「今世紀はじめの何年かまで、ヴァン・ギーリンクの息のかかった多額の金が南アフリカの白人支配を維持するためにこの地域に流れ込んでいました。政治経済の両面からブラッグ・アフリカの土台に揺さぶりを掛けるためでした。一九七〇年代から九〇年代にかけて、キューバその他の共産勢力に対するレジスタンス支援に誰も関心を示さなかった理由の一つがそれです。輸出入禁止という事態に立ち至って、ヴァン・ギーリンク一族は自分たちの立場を確保するために、兵器商人に変身しました。その仲立ちとなって、しばしば彼らに便宜をはかったのが南米の各国政権です」
「そこでブラジルの男が一枚噛んで来るわけか」コールドウェルは眉を持ち上げた。
ベンスンはうなずいた。「他にもその種の手合はいますがね。サラケスの父親と祖父はともに大手の金融業者で、特に石油業界に顔がききました。ヴァン・ギーリンクと石油業界が陰で人を操って、二十世紀終盤の中東紛争を煽《あお》っていたのです。エネルギーの主役が核へ移行する前に短期の石油利潤を荒稼ぎしようという狙いでした。この時期に符丁を合わぜたように核反対の世論が盛り上がったこともこれで説明が付きます。その副作用で、中米の石油に対する需要が高まって、サラケス一門はここでも濡れ手で粟の大儲けをしました」ペンスンは両手を拡げて肩をすくめた。「まだ他にもいろいろありますが、これであらましはわかるでしょう。国連代表団の背景を洗うと、多かれ少なかれ似たような話が出て来ます。代表団は、要するに陽の当たる大家族なのですよ。事実、姻戚関係で結び付く顔触れも少なくありません」
ベンスンの話が一段落すると、コールドウェルは新たな関心を示してチャートを眺めた。椅子の背に凭れて彼は尋ねた。「で、だからどうだって言うんだ? 今の話と、月の裏側で起きたことと、どこでどう鶏がるんだ? そいつはこれから考えるところか?」
「わたしは事実を提供するだけです」ベンスンは言った。「解釈はそちらにお任せしますよ」
パッカードが部屋の中央に進み出た。「これを見ていると、もう一つ面白いことに気が付くね。この人間関係は、ある共通のイデオロギーで括《くく》ることができる。封建主義だ」
他の者たちは不思議そうな顔をした。パッカードは説明を試みた。「さっきグリフはこの高利貸集団が三、四十年前の反核ヒステリーの火付役であったことを指摘した。ところが、それだけでは済まないんだ」彼はペンスンと入れ替わってチャートを指し示した。「例えば、スヴェレンセソの足場になっているこの金融コンソーシアムだがね。一九〇〇年代最後の四半世紀を通じて、彼らは第三世界に盛大に金をばらまいて反進歩、反科学の院外団に仕立てることを策動した。南アフリカでも同じように、民族主義勢力が台頭して進歩的な政府の実現を阻んだし、工業化や黒人同化教育に反対した。大西洋を隔てた南米では右翼ファシスト政権が少数派の権益を標榜して次々に軍国化を図りながら、全体の進歩を妨げた。一歩退ってこれを眺めると、明らかに一つの基本的イデオロギーが見えて来るじゃないか。時の権力構造において封建領主の立場にある考の特権と利益を守るということだよ。つまり、わたしに言わせれば、世の中は昔から少しも変わっていないんだ」
リンが首を傾げて言った。「そんなことありません。ずいぶん変わっているんじゃありませんか? だって、今のお話は現状と違いますもの。スヴェレンセンにしても、他の人たちにしても、していることは今のお話とまったく反対でしょう。全世界の進歩を掲げているんですから」
「わたしが言いたいのは、いまだに同じ人間が力を握っているということだよ」パッカードは言った。「たしかにきみの言うとおり、この三十年ばかりの間に彼らの基本政策は変わって来たかもしれない。スヴェレンセンの融資団はナイジェリアの核融合プラントと製鉄プラント建設に緩やかな条件で信用を供与している。金本位制の水準を考えたら、これはヴァン・ギーリソクのような人物が首を縦にふらなければとうていまとまる話ではなかったはずだ。南米の石油は水素を基本とする代替エネルギーへの移行を促して中東の緊張緩和をもたらした。これが軍縮実現の背景の一つになっている」パッカードは肩をすくめた。「ある時期からはっきり変わりだしたんだ。本来なら五十年前にできたはずのことを、ここへ来て急に後押しする動きが目立つようになった」
「それとブルーノにおける彼らのやり方と、どう結び付くんだ?」コールドウェルが釈然としない顔で尋ねた。「話が繋がらないじゃないか」
短い沈黙があってから、パッカードは話を一歩先へ進めた。「一つの考え方として、こういうのはどうがね? 支配階級を占める少数派は進歩によって何も得るところがない。歴史を通じて支配階級が常に技術革新に反対の態度を取って来たのはそのためだ。変化が自分たちに利益をもたらす保証がない限り、彼らは腰を上げない。つまり、自分たちが利益を独占するならば進歩も結構というわけだね。この旧態依然たる姿勢は前世紀いっぱい続いた。ところが、その頃世界情勢は、早いところ何か手を打たなけれぱ誰かがボタンを押すだろうということが目に見えるところまで行っていた。そうなっては魚が生ぎ延びる池もなくなってしまう。原子炉か、核爆弾かの選択しかない。そこで彼らは革新に踏み切った。その過程で、巧みに自分たちの権益ば守ったのだよ。ここまでは良かった……
「しかし、テューリアンが進んだ技術を手土産に登場するとなると事情は一転する。技術革命の余波がおさまる頃には、彼らは出る幕もなくなっているだろう。そこで国連に圧力をかけて、自分たちの身のふり方の目処《めど》が付くまで、壁を築いて時間を稼こうとした」 彼は両手を拡げ、発言を促す表情で一同を見渡した。
「中継装置については、彼らはどうして知っていたんですか?」ノーマン・ペイシーが部屋の隅から声を発した。「グレッグとリンの話で、例のコード信号は無関係であることがわかりました。ソプロスキンも無関係です」
「スヴェレンセン一派が破壊工作に一役買っていることは間違いないな」パッカードは言いきった。「どうしてと訊かれても答えようがないが、そうとしか考えられないだろう。口の堅いUN SAの技術屋を使ったかもしれないし、あるいは、どこかの国の政府か、独自の技術を持っている民間企業に手を回して誘導弾か何かを発射したかもしれないんだ……そうだとすれば、彼らはすでに何ヶ月も前、ジャイスターから最初に信号が入った時点で手を打ったに違いないな。つまり、これまでの牛歩戦術は誘導弾が目標に達するのを待つ時間稼ぎだったのだよ」
コールドウェルはうなずいた。「それなら筋が通る。まんまとやられたな……スヴェレンセン一派はもう一歩で交信妨害に成功するところだったんだ。マクラスキーで通信が確保されていたから良かったものの、それがなかったら……」
重苦しい沈黙が室内を閉ざした。リンは気遣わしげに男たちの顔を見比べた。「それで、これからどうなるんですか?」
「さあ、そこがむずかしいところだ」パッカードは思案顔で言った。「どっちを見ても事情は複雑でね」
リソはパッカードの気持を測りかねる様子だった。「まさか、このままでは済まされないでしょう?」
「成り行き次第で、何とも言えんね」
リンは目を丸くした。「そんな! 成り行き次第で何とも言えないって……スヴェレンセンのような人たちが昔から、自分たちの利益を守るために世界の進歩を妨げたり、教育を駄目にしたり、軽薄な風俗文化やプロパガンダを支持したりして来たのに、それに対して何も打つ手がないなんて、そんな馬鹿な」
「この情況はきみが考えているほど単純明快ではないそ」パッカードはむっとした。「さっきも言ったとおり、事情は複雑だ。あることを確信することと、それを立証することとは全然別なんだ。これをスヴェレンセン一派の共同謀議として告発する気なら、こっちは相当の準備をしてかから・なくてはならない」
「でも……でも……」リンは言葉を捜した。「他に何が必要なんですか? 証拠は全部揃っているじゃありませんか。太陽系外の中継装置を破壊した事実だけだって充分なくらいです。国連代表団の名を借りながら、彼らはこの惑星の代表じゃあありません。地球全体の利益なんて頭から考えていないんです。そのこと自体、彼らを罪に間う立派な根拠だと思います」
「彼らが事実破壊工作に手を下したという確かな証拠は何もないんだ」バッカードは彼女をたしなめる口ぶりで言った。「それはまったくの憶測にすぎない。装置は自然に故障したのかもしれないんだ。カラザーの組織が破壊したという可能性だって否定できない。今のところ、スヴェレンセンの仕事だと極め付げる根拠は一つもない」
「スヴェレンセンは装置が破壊されることを知っていたんですよ」リンは反論した。「それが破壊工作に関係していた何よりの証拠じゃあありませんか」
「知っていた、とどうして言える?」パッカードは切り返した。「プルーノの一介の職員にすぎない若い女が何かを小耳に挟んで、わけもわからずにただそう思い込んだというだけだろう」彼はかぶりをふった。「ノーマンの話をきみは聞いているな。スヴェレンセンはその気になれぱ、彼とその女の子の間には何もなかったと証言する人間でこの部屋をいっぱいにすることだってできる。女の子のほうはのぼせていたが、スヴェレンセンが洟《はな》もひっかけないので、腹いせにノーマンのところへ駆け込んでありもしないことを言い立てた。というようなことで話はそれまでだ。そういう例は何も今にはじまったことじゃあない」
「スヴェレンセンが女の子に発信させた怪情報はどうですか?」リンは食い下がった。
「怪情報?」パッカードは肩をすくめた。「同じことさ。そんなものはどこにもありはしない。女の子のでっち上げだ。そう言われれぱそれでおしまいだよ」
「でも、テューリアン側の記録でちゃんと受信したことになっているんですよ」リンは言い募った。「今はまだアラスカのことを公表する段階ではないとしても、いざという時にはテューリアンじゅうのガニメアンを連れて来て証言させることだってできるじゃありませんか」
「ああ、そのとおり.その結果はっきりすることと言えぱ、公式に発信されたものではない雑情報がまぎれ込んでいたという事実だけだ。誰がどこから発信したか、ガニメアンたちの証言からでは決められない。月の裏側から発信されたと見せかけるために何者かが標識コードを盗用したのではないかとでも言われれぱ、それ以上は突っ込めない」パッカードはまた頭をふった。「こうやって考えて行くと、一つとして核心に触れる証拠はないんだ」
リンは助けを求める顔でコールドウェルをふり返った。コールドウェルは無念らしくかぶりをふった。「パッカードの。言うことは理屈だよ。そんなものは全部ひっくり返してやりたいと思う気持はわたしとしてもきみと同じだ。しかし、慌《あわ》てて事を起こすのはまずい」
「口惜しいかな迂闊《うかつ》に手出しはできませんね」ベンスンが再び話に加わった。「彼らは滅多に尻尾を出しません。たまに出すことがあっても、その時はこっちが脇見をしているんです。今度のブルーノの件にしても、似たようなことはこれまでだって何度か起こっているんですよ。でも、結局のところ決め手になりません。たった一つでもいい……必要なのはこの決め手というやつです。ここはひとつ、スヴェレンセンのひざもとに誰かを送り込むことですね」彼はあまり気乗りのしない声で言った。「しかし、それをやるには詳しい調査と綿密な計画が必要です。人選にもじっくり時間をかけなくてはなりません。早速準備にかかりますが、あまり期待なさいませんように」
リンとコールドウェル、ペイシーの三入はワシントンのセントラル・ヒルトンに泊っていた。その夜、食事を済ませた後、彼らはコーヒーを飲みながらパッカードのオフィスでの話の続ぎに時を移した。
「歴史を通じてこの対立のパターンは変わっていないよ」ペイシーは言った。「二つの理念が対立しているんだ。一方に封建貴族がいて、もう一方に職人、技術屋、土木工事屋の共和主義がある。古代奴隷経済社会においても、教会が知識階級を弾圧した中世ヨーロッパにおいてもこれは同じ。イギリス帝国の植民地主義から、ひいては最近の、東側の共産主義や西側の消費主義に至るまで、この構造は連綿として変わらないんだ」
「ひたすら働かせろ。目的に殉《じゅん》じる気持にさせろ。ただし、考える閑は与えるな、か。え?」コールボウェルはわかりきったような顔で言った。
「そういうことだ」ペイシーはうなずいた。「教養があって、豊かで、精神的に解放された市民階級の出現を搾取階級は何よりも嫌うんだ。権力というのは富の規制と管理の上に成り立つものだからね。科学技術は無尽蔵の富をもたらす。故に科学技術は規制しなくてはならない。知識と理性は敵である。迷信とまやかしを武器とせよ」
一時間ほどしてロビーの隅のやや奥まったところにある静かなテーブルに席を移してからも、リンはこの二人のやりとりを思い返していた。最後に一杯飲んで解散しようということになったのだが、バーが混雑して騒々しかったので彼らはその場所を選んだのだ。本人が意識しているかどうかはいざ知らず、ハントが生涯を賭しているのも同じ戦いだ、と彼女は理解した。テューリアンとの交信を絶とうとしたスヴェレソセン一派はガリレオに学説の撤回を強いた宗教裁判所の判事であり、ダーウィンに反論した主教である。アメリカを自国の産業の専属市場として支配しようとしたイギリス貴族や、鉄のカーテンの両側で核兵器を握って世界を脅迫した政治家どももその反動姿勢においてスヴェレンセン一派と選ぶところがない。彼女は何とかしてハントの戦いを支援したかった。味方であることを示すジェスチャーに終わったとしても、じっとしているよりはましである。しかし、彼女には方法がなかった。彼女はかつてこれほどの不安と無力を同時に味わったことはなかった。
コールドウェルはヒューストソに急ぎの連絡をしなくてはならない用件を思い出し、すぐに戻ると言い置いて、土産物店や紳士服の店が並ぶアーケードをエレベーターのほうへ立ち去った。ペイシーは椅子に体を沈め、グラスを置いてテーブル越しにリンを見つめた。
「いやにおとなしいね。ステーキの食べすぎかな?」
リンは小さく笑った。「いえ……ちょっと考えごとをしてたものですから。大したことじゃあないんです。でも、今日は深刻な話をしすぎたみたい」
ベイシーはテーブルに手を伸ばし、小皿のクラッカーを取って口に放り込んだ。「ワシントンDCへはよく来るのかね?」
「ええ、しょっちゅう。でも、ホテルはここじゃなくて、たいていハイアットかコンスティテューションなんです」
「UNSAの人は皆そうだね。ここは政治向きの人間が集まるところだよ。よく外交会議の二次会みたいになることがある」
「UNSAの場合はハイアットがそんなふうですね」
「ああ。きみはたしか、東部の出身だったね?」
「ニューヨークの、イーストサイドの北寄りです。学校を出てからUNSAに入って、それで南部へ移りました。本当は宇宙飛行士になりたかったんですけど、結局、デスクの飛行士で」彼女はふっと溜息を吐いた。「でも、不満はありません。グレッグの秘書をしていると面自い体験もできますし」
「よくできるね、あの男は。上司としては仕事がしやすいだろう」
「やると言ったことは必ずやる人ですね。できないことははじめからやると言わないんです。ナヴコムの人たちは皆尊敬しています。必ずしも本部長のやり方に皆が全面的に賛成するとばかりは限りませんけれど、でも、それはお互いさまですもの。グレッグがいつも言うことですが:・…」
呼び出しの声が二人の話を遮った。「お呼び出しを申上げます。ノーマン・ペイシーさま、いらっしゃいましたらフロントまでお越し下さい。急ぎの連絡がございます。ノーマン・ペイシーさま。どうぞフロントまでお越し下さいますよう、お願いいたします」
ペイシーは立ち上がった。「今頃、何だって言うんだろう? ちょっと失礼」
「どうぞ」
「ついでにお代わりを注文しようか?」
「いえ、自分でしますから、どうぞいらっしゃって」
ペイシーは出入りの客やこれから遅い食事をしようというグループでごった返すロビーを、掻き分けるようにフロントへ向かった。係の男はペイシーを見てちょっと怪訝《けげん》そうに眉を上げた。「ペイシーだが。今、呼び出しがあった。ここへ何か連絡が届いているとかで」
「ちょっとお待ち下さい」男は背後の小仕切りから自い封筒を取り出した。「三五二七号室のノーマン・ペイシーさまですね?」
ペイシーは部屋のキーを示して封筒を受け取った。
「ありがとう」彼はイースタン航空の支店に近い一隅で封を切った。一枚の便箋に手書きの文宇が認《したた》めてあった。
至急面談いたしたきことあり。当方、ロビー反対側。内密の用件故、貴殿の私室にてお会い願いたし。
ペイシーは眉を顰《ひそ》め、顔を上げてロピーを端から端まで見渡した。フロアを隔てた向う側に、ダーク・スーッを着た背の高い、色浅黒い男が立っていた。傍で数人の男女が賑やかに談笑していたが、浅黒い男はその仲間ではないようだった。目が合うと、男は微かにうなずいた。ペイシーは一瞬迷ってからうなずき返した。男はさりげなく時計を覗き、あたりを見回すと、アーヶードをゆっくリエレペーターのほうへ歩きだした。ペイシーはその後ろ姿を見送ってリンのところへ取って返した。
「ちょっと用事ができた。済まないが、わたしはこれから人に会わなくてはならないんだ。グレッグによろしく伝えてくれないか」
「その用事のことも伝えます?」
「実はわたしもまだ知らないんだよ。どのくらいかかるかもわからない」
「そうですか。わたしはここでゆっくり世の中を眺めていますから。それでは、また後ほど」
ベイシーはロビーを横切ってアーケードに入った。一足違いで彼は、長身で銀髪の美しい、上等な身なりの男がフロントでキーを受け取ってロピーに向き直るのを見逃した。銀髪の男は悠揚迫らぬ態度でロビーの中央に進み、立ち止まってあたりを見回した.
しばらく後、ペイシーが三十五階でエレベーターを降りると、件《くだん》の浅黒い男が廊下の少し先で待ち受けていた。ペイシーが近付いて行くと、男は無言で三五二七号室まで進み、脇へ避《よ》けてペイシーがドアを開けるのを待った。ペイシーは男を先に立てて部屋に入った。彼がドアを閉じる間に、男が明りをつけた。
「それで?」ペイシーははじめて口を開いた。
「イワンと呼んで下さい」浅黒い男はヨーロヅパ訛りの強い英語で言った。「ワシソトンのソヴィエト大使館の者です。わたしの口から直接あなたに伝えるように指示されている用件がありますので、それをお話します。ミコライ・ソプロスキンが、ある重大な事柄について至急あなたと会談したいと希望しています。あたたにとっても、極めて重要な問題です。こう申し上げれぱおわかりでしょう。会談の場所はロンドン。すでに手配はととのっています。会談に応じていただけるかどうか、わたしが御返事をうかがって、ミコライに伝えます」
イワンはペイシーが返答に窮するさまをしばらく見守っていたが、やがて、内ポケットから厚地の紙を二つ折りにしたものを取り出した。「これをお見せすれば、わたしがいかがわしい者ではないとおわかりいただけるはずだ、と言われて来ました」
ペイシーはそれを受け取って折り目を伸ばした。赤で縁取りした桃色地の、国連の機密メモ用箋の一葉だった。ペイシーは何も書かれていない用箋をじっと見つめ、それからイワンに向かって→つうなずいた。「しかし、この場でわたしの一存で即答するわけには行かんね」彼は言った。
「しばらく時間をもらいたい。今夜遅く、もう一度会えるかな?」
「そういうことになるだろうと予想していました」イワンは言った。二つ先の角に〈ハーフ・ムーン〉というコーヒー・ショップがあります。そこでお待ちします」
「ちょっとある場所まで足を運ばなくてはならないだろうと思うのだがね」ペイシーはあらかじめ断わっておくことにした。「遅くなるかもしれないぞ」
イワンはうなずいた。「何時まででも待っておりますから」それだけ言って彼は立ち去った。
ペイシーはドアを閉じてからしばらく、思案顔で室内を行きつ戻りつしていたが、やがて、データグリッドの端末に向かって腰を落ち着け、キーボードを叩いてジェロール・パッカードの私邸を呼び出した。
三十五階下のロビーの片隅で、リンはエジプトのピラミッドや、中世の大|伽藍《がらん》や、イギリスの弩級戦艦、そして二十世紀末の軍拡競争のことなどを考えていた。これらのことにも歴史は同じパターンを繰り返しているのだろうか? 技術革新が人類の富を増大し、一人当たりの収入をどれだけ伸ばしても、結局、何かが剰余分を吸い取って、一般大衆は終生あくせく働くしかない。生産性がどんなに向上しても、労働の質が変わるだけで、人が労働そのものから解放されることはない。一般大衆が自分たちの労働の成果である富と自由を与えられないとしたら、いったいその収穫は誰が持ち去っているのだろうか? リンはこれまでにない角度からものを見て、いろいろなことがわかりかけて来た。
彼女は声を掛けられるまでペイシーが立った後の席に腰を降ろした男に気が付かなかった。
「お邪魔じゃあありませんか? 目の回るような一日の終わりに、しばらくこうしてのんびりと、世の中の動きを眺めるというのはいいものですね。どうか、御相伴をお許し下さい。世聞にはえてして孤独を好んで人生を暗くしてしまう偏屈な人間がいますが、わたしから見ると、実につまらないことです。どうしてそんなことをする必要があるのか、理解に苦しみますね」
リンは危うく手にしたグラスを取り落とすところだった。テーブルを隔てて向き合った男の顔を、彼女はつい数時間前パッカードのオフィスで、グリフォード・ベンスンが壁に貼り出した写真で見たぱかりだった。二ールス・スヴェレンセンである。
彼女はグラスの残りを一息に飲み干し、むせ返りながらやっと答えた。「ええ、本当に……そのとおりですわね」
「失礼ですが、ここにお泊りですか?」スヴェレソセンは尋ねた。彼女はうなずいた。スヴェレンセンはにやりと笑った。貴族的な押し出しと、計算された傲慢さは世の常の男性とはどこかひと味違っている。女にはそこが何ともたまらない、とリンは密かに認めずにはいられなかった。エレガントな銀髪と上品な顔立ちは、そう、〈プレイガール〉の標準から見ればいわゆるハンサムではないかもしれない。が、そこがまた不思議な魅力でもある。どこか遠くを見つめるような目には、何か吸い寄せられるようなものがある。
「お一人で?」
リンはもう一度うなずいた。「ええ、まあ」
スヴェレンセンは眉を持ち上げ、彼女に向けてグラスを掲げた。「そちらは空いているようですね。実は、これからバーで肩をほぐそうとしていたところです。どうやらこの場に限ってはお互いに世界九十億の人間から見放された孤島の住民ですね。悲しむべぎことです。わたしとしては何とかしなくてはなりません。不躾《ぶしつけ》とは承知の上ながら、いかがです、御一緒願えませんか?」
* * *
ペイシーはエレベーターでロビーへ戻る途中のコールドウェルと鉢合わせした。
「意外に長くかかってね」コールドウェルは言った。「予算の配分についてヒューストンはすったもんだの最中だよ。そろそろ帰らなくてはならないだろうな。今だって、すでに留守が長すぎているんだ」彼はペイシーを見てはてなという顔をした。「リンはどうした?」
「下にいるよ。わたしは呼び出しを食って」ペイシーはエレペーターの閉じたドアを見つめて言った。「ソプロスキンがここのソヴィエト大使館を通じて接触して来たよ。何かわたしに話すことがあって、ロンドンで会いたいと言っている」
コールドウェルは驚いて眉を高く上げた。「会いに行くのか?」
「まだ結論は出していない。今、パッカードに電話をしてね、これから車を拾って、相談に行くところなんだ。その後、さる人物に会って返事をすることになっている」彼はやれやれとばかり頭をふった。「せめて今日一晩くらいはゆっくりしたかったのだがね」
二人はエレベーターを降りて、もとの場所に戻った。テープルには誰もいなかった。あたりを見回したが、リンの姿はどこにもない。
「女の子専用の部屋へでも行ってるんだろう」コールドウェルが言った。
「そんなところだ」
二人は話しながらしばらく待ったがリンはなかなか帰って来なかった。しびれを切らしてペイシーが言った。「もう一杯飲むつもりが、ここじゃあ用が足りなくてバーへ行ったんじゃないかね。まだいるかもしれない」
「見て来よう」コールドウェルは回れ右してロビーを突っ切った。
ほどなく彼は、ヒルトンのロピーで考えごとをしながら歩いているところを背中から市街電車に撥ねられた、とでもいう顔つきで戻って来た。
「いるよ」コールドウェルはうつろな声で言い、空いた椅子にどさりと腰を降ろした。「それが、一人じゃないんだ。きみも行って見て来い。ただし、顔を見られないようにしろ。見て来たら、あの子の相手がわたしの思ったとおりの人物かどうか、教えてくれ」
一分後、ペイシーはコールドウェルの向かいの椅子にどさりと腰を降ろした。折り返しの市街電車に撥ね飛ばされたような顔つきだった。
「間違いない」ペイシーは間の抜けた声で言った。かなり時間が経ったと思われる頃、ペイシーは半ばひとりごとのように言った。「やつはコネティカットのどことかに屋敷がある。プルーノからの帰りにこのワシントソで何日か羽根を伸ばしているんだ。そうと知っていれぱ、こっちは別のホテルにしたのになあ」
「リンは、どんな調子だった?」コールドウェルは尋ねた。
ペイシーは肩をすくめた。「御機嫌だよ。調子付いて一人でしゃべっている。知らない者が見れば、男のほうが引っかけられて何百ドルがとこ散財する場面だと思うだろうな。リンは、自分の面倒くらいは見られますから御心配なく、てな顔をしているよ」
「しかし、どういうつもりだ、いったい?」
「知るものか。きみはあの子の上司だろう。こっちは、まだろくに付き合いもないんだ」
「まずいそ、しかし。放っとくわけには行かんだろう」
「どうしろって言うんだ? 自分であそこへ行ったんだろう。子供じゃないんだ。それに、わたしが行って連れ出すわけには行かないそ。スヴェレンセンと向かい合って知らない顔はできないからね。ここで事を荒立てるのは上手くないよ。これは君の問題だ。さあ、どうするね? 上司の権隈をもって野暮で押すかね? どうだ?」
コールドウェルは苦虫を噛み潰した顔でテーブルを見つめていたが、思案に窮しているようだった。ペイシーは腰を上げ、申し訳なさそうに両手を拡げた。「ああ、グレッグ。意地悪を言うようで済まないが、ここはどうなりと、きみの好きに任せるしかないね。パッカードを待たせているんでね。こっちをすっぽかすわけには行かない。わたしは失敬するよ」
「わかった、わかった。さっさと行ってくれ」コールドウェルは投げやりに手をふった。コ戻ったら電話で成り行きを知らせてくれよ」
ペイシーはロピーに面したバーの前を避け、脇の出口から立ち去った。コールドウェルはその場に坐ったまましぱらく考えにふけったが、やがて困惑の撫で頭をふり、溜まった書類に目を通しながらペイシーの達絡を待つことにして自分の部屋へ引き揚げた。
22
ダンチェッカーはテューリアンのさる研究所の一室で、二つ並べて表示された立体映像を長いこと見つめていた。ガニメアン世界の海底に棲息するある種の腔腸動物の細胞を大きく拡大したもので、構造がよくわかるように、核その他の細胞を形作る物質が色分けされていた。ついに彼は頭をふって体を起こした。
「いやあ、残念ながら降参だ。わたしには両方ともまったく同じものにしか見えない。これが、全然別種の生物だと言うのかね?」とうてい信じられない口ぶりだった。
数歩退って立ったシローヒンは控え目に笑った。「左側に出ているのはある種の単細胞微生物でしてね、自身のDNAを融解して、宿主のDNAを模倣する特殊な酵素を持っているんです」彼女は説明を加えた。「この模倣過程が完了すると、この微生物は宿主が何であれ、相手の細胞とまるで見分けが付かない姿になるんです。つまり、その時点でこの微生物は宿主の体の一部となって完全に同化するわけですね。ですから抗体や拒否反応とは無縁です。これは非常に高温のプルー・スターから強い紫外線を受けるある惑星で進化したんです。おそらくは、細胞保全機能がそのはじまりでしょう。それによって、この微生物は極端な変異を起こすことなく、種として定着したのだと考えられています。適応の例としては非常に珍しいものですね。きっとあなたは関心がおありだろうと思いまして」
「これは珍しい……」ダンチェッカーは低い嘆声を洩らし、映像のもとであるデータをおさめた金属とガラスの装置に近付いた。彼は体を屈めて、体組織のサンプルが入っている小さな容器を覗《のぞ》きながら言った。「わたしも地球へ帰ったら、ぜひこの微生物を研究したいね。ああ……テューリアンはわたしにサンプルを分けてくれるだろうか?」
シローヒンは声を立てて笑った。「それはもう、二つ返事ですわ、先生。でも、どうやってサンプルをヒューストンへ持っていらっしゃるおつもり? 現実には、今あなたはここにいらっしやらないんですよ」
「そうか。わたしとしたことが」ダンチェッカーは舌打ちして残念そうに頭をふり、あらためて室内に並ぶ装置機材を見回した。彼には何のためともわからない装置がまだ他にいくつもあった。
「わたしの研究はまだまだこれからだ……」彼は自身に向かって低く言った。「まだまだこれからだよ……」
物思いにふけっていたダンチェッカーはふと眉を顰《ひそ》めてシローヒンに向き直った。「実は、テューリアン文明全体についてちょっと不思議に思っていることがあるのだがね。知恵を貸してもらえないだろうか?」
「わたしでわかることでしたら。どういう御質問でしょう?」
ダンチェッカーは深く溜息を吐いた。「それが、その……何と言うか……二千五百万年の歴史にしては、テューリアン文明は意外に進んでいないという気がわたしはするのだよ。もちろん、地球とはくらべものにならない。しかしだね、地球が現在のテューリアンに追い着くにはそんなにおそろしく長い時間はかからないだろうと思う。その点が、どうも腑《ふ》に落ちないんだ」
「わたしも同じことを考えましてね」シローヒンは言った。「イージアンと話をしてみました」
「説明が得られたかね?」
「ええ」シローヒンはダンチェッカーの物問いたげた顔を長いこと見つめてからおもむろに口を開いた。「テューリアン文明はあるところで長期にわたって停滞したのです。それが皮肉なことに、科学の進歩がもたらした結果でした」
ダンチェッカーは眼鏡の奥で目をしばたたいた。「それはまた、どうして?」
「先生はガニメアンの遺伝子操作技術について詳しくお調べになりましたね」シローヒンは言った。「テューリアンへ移住した後、その技術はさらに一段と進んだのです」
「それがどうして文明の停滞に繋《つな》がるのかな?」
「テューリアン人は遠い先祖の時代から夢だった能力を獲得したのです。……遺伝子を操作して、肉体の老化、衰弱を永久に防止する技術を完成したのです」
ダンチェッカーがその言葉の意味を理解するまでには数秒の間があった。彼はあっと息を呑んだ。「不老不死を実現した……?」
「そのとおりです。以来、長いことユートピアが実現したと考えられていました」
「考えられていた?」
「その結果はすべて予測しつくされてはいなかったのです。不老不死が達成されてからしばらくは、いっさいの進歩発展が止まってしまいました。創造性が失われてしまったのです。テューリアン入は賢《かしこ》すぎる、知りすぎた人種になったのです。特に、不可能を見越すという意味で、あまりにもものわかりが良すぎるようになってしまったのです。諦《あきら》めが良すぎる、と言い換えることもできますね」
「夢を描くことがなくなったのだね」ダンチェッカーは悲しげに頭をふった。「それは悲劇だ。わたしたちが今当たり前と思っていることはすべて、誰かが突拍子もない夢を描いたところからはじまっているんだからね」
シローヒンはうなずいた。「そして、その夢を描くのは、かつては若い世代の特権でした。精神が柔軟で、恐いもの知らずの若い世代が失敗をものともせずに大きなことを企てて、それが驚異的な進歩や発展の原動力になっていたのです、ところが、今はもう、そういう若い世代がいません」
ダンチェッカーは何度もしきりにうなずいた。「社会全体が老入性の精神障害を来してしまったのだね」
「そういうことです。そこに気が付いて、はじめて昔の生き方に帰ろうという動きが起こりました。ところが、すでに文明の停滞は慢性化していたのです。そんなわけで、やっと突破口が開けたのは比較的最近のことです。瞬間移動の技術も、ルナリアン戦争の末期に辛うじて介入に間に合うのがやっとでした。超空間パワー分配グリッドや、機械と神経系の直接結合、そうして、ヴィザーが完成したのはそれからまだずっと後のことです」
「その間の事情は充分想像が付くね」ダンチェッカーは心ここにない声で呟いた。「人はよく、やりたいことをやるには一生は短すぎると不満を言う。ところが、その制限がなかったら何もしやあしない。時間が限られているということは、何よりも強い動機になるのだよ。わたしもこれまで何度かこの間題を考えてみたことがあるがね、不老不死が実現したら、結局は退屈だけが残るだろうと思っていたよ」
「テューリアンの経験に多少とも意味があるとすれば、おっしゃるとおりであることが証明されたということでしょうね」
二人はなおしばらくテューリアンの歴史について話し含った。シローヒンはやがてガルースとモンチャーに会いに〈シャピアロン〉号へ引ぎ揚げた。ダンチェヅカーは研究室に残って、ヴィザーの案内でテューリアン生物学の成果を見学した。興味はつきなかったが、彼はまだ印象が薄れないうちにいくつかの疑問点をハントと話し合いたいと思った。そこで彼はヴィザーに、ハントがシステムに接続しているかどうか尋ねた。
「いえ、接続していません」ヴィザーは答えた。「十五分ほど前に飛行機でマクラスキーを発ちました。何でしたら、基地の管制室に繋ぎましょうか?」
「うん……ああ、そうしてくれ」
ダンチェッカーの目の前数フィートのところに通話スクリーンが現われた。マクラスキー基地の管制官が映っていた。
「ダンチェッカー先生。こちら、管制室です。何か御用ですか?」
「ヴイザーに聞いたのだが、ヴィックはどこかへ出掛けたそうだね。何かあったのかな」
「午前中ヒューストンへ行ってくる旨、あなた宛に伝言があります。ただし、それだけで、詳しいことは何も書いてありません」
「クリス・ダンチェッカーからなの? わたしが出るわ」どこか遠くでカレン・ヘラーの声が聞こえた。間もなく、管制官と入れ替わってヘラーが画面に顔を出した。「こんにちは、先生。ヴィックはリンがワシントンからなかなか帰らないので、しびれを切らしてヒューストンに連絡したんです。ところが、グレッグは戻っているのに、リンはまだですって。それで、ヴィックは様子を見に行ったんですけど、わたしが知っているのはそこまでで……」
「ああ、そう」ダンチェッカーは首を傾げた。「しかし、おかしいな」
「実は、わたしからも先生にお話したいことが、あるんですけれど」ヘラーは続けて言った。
「カラザーとショウムと、ルナリアンのある時代の歴史について話し合ったところが、ちょっと面白いことが出て来たんです。そのことで、先生の御意見をお聞きしたいと思いまして。いつこちらへお戻りですか?」
ダンチェッカーは何やら口の中でぶつぶつ言いながら研究室を見回した。と、彼はヴィザーからの信号が空腹を伝えていることに気付いた。「いや、そろそろ帰ろうと思っていたところでしてね。十分ほどしたら、食堂で会いませんか?」
「では後ほど」ヘラーはうなずき、スクリーンごと消え去った。
十分後、ダンチェッカーはマクラスキー基地の食堂でベイコンと卵、ソーセージ、それにハッシュ・ブラウンの盛大な食事に取りかかっていた。テープルを挟《はさ》んでヘラーはサソドイッチをつまみながら話した。UNSAの隊員たちは基地恒久化の改造作業に出払い、調理場で食器を洗う音が聞こえる他はあたりに人の気配はなかった。
「ルナリアン文明と地球文明の発展の度合いを比較分析してみたのですが、びっくりするほど開きがあるんですね。ルナリアンは道具を使いはじめてからほんの何千年かで蒸気機関の時代に入っています。地球はその十倍もかかっているんですよ。これはいったい、どういうことですかしら?」
ダンチェッカーは眉を寄せて口の中のものを呑み込んだ。「ルナリアンの進歩に拍車をかけた要因はすでに明らかにされているはずですがね」彼は学生の質問に答える口ぶりで言った。「一つには、ルナリアンが年代的には地球入よりもガニメアンの遺伝子操作実験の時代に近いということ。つまり、その分だけ、彼らは遣伝的に不安定なものを多く持っていたわけです。従って、それだけ飛躍的な変異の可能性を孕《はら》んでいたということでしょう。ランビアンの突然の出現はこのことを裏付けるものです」
「でも、その説明は少し納得しかねますね」ヘラーは考えながら言った。「先生御自身がこれまでに何度も、たかだか何万年では大きな変化は起こり得ないとおっしゃっていますでしょう。
〈シャピアロン〉号が地球に来た時ゾラックが集めた人間の遺伝データを使って、ヴィザーに計算させてみたんですが、その結果からも同じことが言えます。ルナリアンの遺伝子パターンはランビアンの出現より遙か以前に確立されているんです。ランビアンの出現は戦争前ほんの二百年くらいのことですよ」
ダンチェッカーはパンにバターを塗りながら、ふんと鼻を鳴らした。政治家が科学者を気取るとはしゃらくさい。「ルナリアンはガニメアンがミネルヴァに残して行った高度な文明の遺産を引き継いだのです」彼は言った。「彼らが科学文明のレベルに達した時、目の前に、まるで充実した博物館や図書館があったようなものです。地球とは出発点が大きく違うのですよ」
「でも、地球へ渡って来たセリアンはすでに完熟に達した文明を持っていました」ヘラーは切り返した。「そこでハンディキャップは解消しますね。だとしたら、他の何がこの違いを生んだのでしょう?」
ダンチェッカーは眉間に皺を寄せた。女政治家が科学者に議論を吹っかけるとは、まったく鼻持ちならない。「ルナリアン文明は氷河期が迫って環境の悪化が進むという、非常に厳しい条件の下で急激に発達したのです。危機感が進歩を加速したのです」
「セリアンが渡って来た時、地球は氷河時代に入るところでした」ヘラーは待っていましたとばかりに応酬した。「氷河期はその後長く続いています。ですから、その点でも条件は同じですね。となると、どこで違いが出たのでしょう?」
ダンチェッカーは腹立たしげにフォークを肉に突き立てた。「生物学者として、また、人類学者としてわたしが言うことに疑問を持たれるのは、それはもちろん、あなたの勝手です」彼は陰にこもって言った。「しかし、わたしの立場として、事実を説明するのに最小限度の必要を超えてこじつけの仮説をでっち上げるようなことは認められません。これまでにわたしたちが知っていることは、すでに事実を充分説明しているのです」
ダンチェヅカーからこれに類する言葉が出ると予測していたヘラーは眉一つ動かしはしなかった。「先生は生物学者の視点にこだわりすぎていらっしゃるのではないかしら」彼女は婉曲に言った。「社会学の視点から問題を逆に捉えてみたらどうでしょうか」
ダンチェッカーにしてみれば問題に逆も真もありはしない。「どういうことです?」彼は憮然として問い返した。
「何がルナリアンの進歩を速めたか、ではなくて、何が地球の進歩を遅らせたか、ということです」
ダンチェッカーは眉を寄せて皿を覗《のぞ》き込み、それから顔を上げてにんまりと歯を見せた。「月を捕獲したことで、地球の自然環境が激変したからですよ」彼は勝ち誇ったように言った。
ヘラーは不信を隠そうともしなかった。「それが彼らを後戻りさせて、もとの水準を回復するのに何万年もかかったっておっしゃるんですか? まさか、そんな! せいぜい何百年かの遅れならわかりますよ。でも、何万年もなんて、とても考えられません。その説明には納得しかねます。ショウムも、カラザーもそれは違うと言うはずです」
「ほう」ダンチェッカーは鼻自んだ様子で皿のペイコンを突ついていたが、やがて顔を上げて言った。「それではお聞きしますが、あなたはこれをどう説明するんです? 何か他に考えがありますか?」
「これまで先生がまったく触れていらっしゃらないことがあります」ヘラーは教授の挑戦に応じた。「ルナリアンは早い時期から非常に合理主義的な、科学的な意識を身に付けて、はじめからその上に立って文明を築いて行きました。それにくらべて地球のほうは、何千年もの間、問題の解決を呪術や神秘主義に頼っています。人間は長いことサソタクロースや、イースター・バニーやトゥース・フェアリが願いを叶えてくれると信じて来ました。ものごとを科学的に考えるようになったのはやっと最近になってからですよ。それに、いまだに迷信はなくなっていません。わたしたちはそういう非科学的な精神構造が文明の進歩にどう影響するか、ヴィザーに計算させてみました。何と、他のもろもろの要素を金部合わせたよりも、これが大きな足枷《あしかせ》になっているのです。地球の進歩を遅らせたのは、人間の非合理的非科学的精神構造そのものだったのです」
ダンチェッカーはしばらく考えてから気のない声で言った。「なるほど」それから、彼はぐいと顎を突き出した。「しかし、その話が特に別の問題を提起しているとは思えませんね。要するに、早くから合理的な考え方を持っていた片方の人種は急速に進歩して、それがなかったもう片方の人種は進歩が遅れた、というだけのことでしょう。で、あなたは何が言いたいんです?」
「カラザーとショウムと話してから、わたしそのことをずっと考えているんです。どうしてそういうことになったのか……。ヴィックは物事には必ず理由があるといつも言っています。表面からは見えなくても、探って行けばきっと何かがあるはずだ、って。だとしたら、ちょっとまともに考える力があれば迷信や呪術なんて何の意味もないことくらいすぐわかるはずなのに、地球人が何千年もの間、そういう非科学的なものにとらわれて来た理由はいったい何だったのでしょうかP」
「あなたは、科学の方法のむずかしさということがよくわかっていませんね」ダンチェッカーはさとすように言った。「事実と虚偽、真実と神話を確実に弁別する方法を打ち立てるには長い時間、おそらくは何世代にもわたる蓄積が必要なのです。一夜にしてそれがわかるということはあり得ませんよ。そんな単純なものではありません」
「でも、だったら、そのむずかしさがルナリアンにとっては足枷にならなかったのはどうしてですか?」
「そんなことは、わたしはわかりません。あなたはわかりますか?」
「さっきから、お訊きしたかったのはそこなんです」ヘラーは身を乗り出すと、テープル越しにじっとダンチェッカーの顔を覗き込んだ。二つの仮定として、こういう考え方はどうでしょうか。地球人が神話や魔術を深く信じて、長いことそれが社会の根底を支配して来たのは、地球文明の初期には、今でこそわたしたちが伝説だ迷信だと言っていることが現実だったのではないか……」
ダンチェッカーは食べかげていたものを咽喉に詰まらせて顔をまっ赤にした。「何ですって?冗談じゃない。あなたは、宇宙の動きを支配する物理法則が、過去数千年の間に変わったと言うんですか?」
「いいえ、そんなことは言っていません。わたしはただ……」
「こんな馬鹿げた話は聞いたことがない。今われわれが直面している問題は、ただでさえ複雑で学界の各領域が頭を悩ましているんだ。そこへ占星術だの、ESPだの、何だか知らないが、荒唐無稽なお伽噺《とぎばなし》だのを持ち込まれてはたまったものじゃない」ダンチェッカーはやりきれない顔であたりを見回し、ふっと小さく溜息を吐いた。「あのね、科学というものと、子供向けの雑誌に盛んに載っている安手のお話の区別が付かない人には、いくら説明してもきりがありませんよ。悪いことは言わない。こんな話をしても時間の無駄です……ついでながら、あなたは自分の時間だけではなしに、わたしの時聞も無駄にしているんですよ」
ヘラーは冷静を保つことに努めたが、声が尖るのをどうすることもでぎなかった。「わたしはそんな話をしているんじゃありません。お願いですから、もう少しわたしの言うことを聞いて下さい」
ダンチェッカーはうんざりした顔で上目使いにヘラーを見ながら食事を続けた。ヘラーは話を先へ進めた。
「こういう筋書を考えてみて下さい。ジェヴレン人は自分たちがランビアンで、地球人がセリアンであることを忘れていないのです。それで、彼らは今なお地球を仇敵《きゅうてき》と睨《にら》んでいます。その彼らは、テューリアンでガニメアンの技術を手当たり次第、選りどり見どりで吸収したのです。ところが、地球へ渡ったライバルのほうは月の接近による環境の激変のためにふりだしに戻る破目になりました。ジェヴレニーズとなったランピアンは地球監視の権限を掴み取りましたが、その頃、すでに彼らの惑星は独立して、ジェヴェックスという独自のコンピュー・タ・システムを持っていましたから、宇宙船であれ何であれ、銀河系のどこへでも好きなところへ瞬間移動させることができました。おまけに、彼らは人間です。姿かたちは地球人と見分けが付ぎまぜん」
ヘラーは僅《わず》かに体を引き、この先は話さなくてもわかるはずと言いたげに、期するところある目つきでダンチェッカーの顔を見つめた。ダンチェッカーは口へ運びかけたフォークを宙に止め、面喰って彼女を見返した。
「ジェヴレン人は魔法を使い、奇蹟を働くことができたのです」頃合いを計ってヘラーは言った。
「彼らは古代の地球に、さしあたり今の言葉で言えば、工作員《エージェント》を送り込んで、迷信や、魔術信仰や、神秘思想を広めたのです。そのようにして形作られた非科学的な精神構造はいまだに地球人の中に尾を曳いています。原始宗教を吹き込んだのは、地球人が科学を再発見して技術を開発することをできる限り遅らせるための謀略でした。技術を身に付けれぱ、地球人は再びかつてと同じ脅威的な存在になりますから。こうして時間を稼ぐ一方で、ジェヴレン人はガニメアンのノウハウを吸収しながらジェヴェッグス・システムを拡充して、その先で何を狙っているかはさて措き、自分たちの勢力を拡大したのです」
彼女は椅子の背に凭《もた》れ、両手を拡げてダンチェッカーの顔を覗き込んだ。「いかがですか?」 ダンチェッカーは愕然として、しばらくは声もなかった。
「論外だ」やっとのことで彼は言った。
ヘラーは堪忍袋の緒を切らした。「どうしてですか? 今の話の、どこが間違っていますか?」彼女は詰間した。「現実の問題として、何かが地球の進歩を遅らせたんですよ。今のように考えれば説明が付きます。先生のおっしゃったことは、どれ一つ取ってみても充分な説明になっていまぜん。ジェヴレン人には地球の進歩を遅らせる動機と手段があったんです。今の論理は現実と合致します。他に何が必要ですか? 科学者というのは、少なくとも事実に対しては公平な目を持っているはずだと思いましたけれど」
「こじつけにしてもひどすきる」ダンチェッカーは侮蔑を露《あらわ》に言い返した。「あなたはもう一つ、科学の鉄則を忘れているね。仮説は実験によって検証しなくてはならないのだよ。その途方もない思い付きを、あなた、どうやって検証するって言うんです? まあ、こう言ってもあまりお役に立たないかもしれないが、〈スーパーマン〉のイラストレーターか、スーパーマーケットで売っている婦人雑誌の記者あたりに相談してみることですね」それきり彼は食事に専念した。
「そういう態度なら、ええ、よくわかりました。どうぞ、ごゆっくりお食事を」ヘラーは席を蹴って立ち上がった。「ヴィックがルナリアンの存在をあなたに認めさせるのにさんざん苦労したということを聞きましたけど、そりゃあそうでしょうって」彼女は後をも見ずに立ち去った。
三十分後、カレン・ヘラーはまだ煮えくり返るような思いでエプロンのはずれからUNSAの隊員たちが発電小屋の設営作業を進めるのを眺めていた。ダンチェッカーが食堂から顔を出し、彼女の姿を認めると、後ろ手をしてゆっくりとエプロンの反対側に向かった。フェンスのはずれに立って、彼は時折りちらちらとヘラーのほうを盗み見ながら、基地のはずれに拡がる沼地を長いこと眺めやっていた。どのくらいの時間が経ったろうか。ダンチェッカーは思案げに深くうなだれて食堂のほうへ引き返した。入口まであと数歩というところで彼は立ち止まり、もう一度へラーの背中に目をやって、しばらく躊躇《ためら》った後、きっと顔を上げてつかつかと歩み寄った。「ああ、さっきは……どうも失礼」彼は言った。「あなたの話には、なるほど聞くべき点がなくもないようです。あの結論は、もう一歩突っ込んで検討するに価します。早速、他の連中と話し合ってみることにしましょう」
23
「何だって?」
ナヴコム司会部最上階のオフィスへ通じる廊下で、ハントはコールドウェルの腕を取って引き戻した。
「あの男はリンに、ニューヨークの母親に会いに行くような時には電話を寄越せと言った。だからわたしはあの子が母親に会いに行けるように、休暇をやったんだ」コールドウェルはジャケットの袖からハントの指を引き剥がすようにして歩きだした。
ハントはしばらくその場に根が生えたように立ちつくしていたが、すぐまた気を取り直してコールドウェルに迫いすがった。「何でまた? それはあんまりだ? わたしにとって、リンは赤の他人じゃあない」
「こっちにとっては彼女は部下だ」
「しかし……あの男に会って、リンは何をするんだ? 詩の朗読でも聞かせるのか? グレッグ、それはないだろう。彼女にこんなことをさせるのは止してくれ」
「小姑みたいな言い方だな」コールドウェルは軽く受け流した。「わたしは何もしてやしない。これはあの子が自分で段取りしたことだ。それに、わたしとしてもチャンスを無駄にする手はないからな。有力な情報が手に入らないとも限らないんだ」
「リンの職務分析記録には、マタ・ハリの真似事をさせるなどということはどこにも書いてないはずだ。これは明らかにこの局の業務規定と雇傭契約の範囲を越えた不当な人権侵害だ」
「どういたしまして。これは将来への踏台になる絶好の機会だよ。彼女の職務分析は自主性と創造性を強調している。まさに持って来いの仕事じゃあないか」
「こんなことがリンの将来のために何の役に立つって言うんだ? スヴェレンセンというやつは一つことしか頭にない男だぞ。意外に思われるかもしれないが、リンがあの男の千人斬りの犠牲者の一人になるのをわたしは黙って見てはいられないんだ。わたしの考えが古いのかもしれないさ。しかし、UNSAで仕事をするというのがそんなことだとは知らなかったね」
「まあ、そう大袈裟に言いなさんなって。誰もあの子をそんな目に遭わせようとは思っちゃいない。ただ、上手くすればこっちの知りたいことが多少なりとも掴[#手偏+國]めるかもしれないというだけの話なんだ。チャンスが天から降って湧いた。リンはそいつを掴まえたんだ」
「詳しいことはカレンから聞いたよ。いいだろう。こっちはルールを知っている。リンもルールを知っている。しかし、スヴェレンセンはルールを知らないそ。やつはどうすると思う? 机に向かってアンケートに答を記入するか?」
「リンは上手くやるよ」
「彼女をそんなふうに使うのはあんまりだ」
「わたしにはどうすることもできんね。リンは休暇で母親に会いに行っているんだ」
「じゃあ、わたしも特別休暇を取らせてもらおう。今、この瞬間からだ。ニューヨークに私的な急用ができたのでね」
「却下する。きみにはここでやってもらわなくてはならないもっと重要な仕事が山ほどあるんだ」
二人は黙りこくって控え室を抜け、コールドウェルの城である奥のオフィスに入った。コールドウェルの秘書が口述筆記のオーディオトランスクライバーから顔を上げてにっこり会釈した。
「グレッグ、いくらなんでもこれはひどい」ハントはまた同じことを蒸し返した。「これには……」
「これにはきみが思っている以上に深い事情があるんだ」コールドウェルはハントを遮った。
「わたしはノーマン・ペイシーとCIAからじっくり話を聞いた。だから向うから機会が転がり込んだ時、見送る手はないと判断したんだ。リンもその点は充分承知しているよ」彼は上着を戸口のハンガーに掛け、手にしたブリーフケースをデスクに置いた。「スヴェレンセンについては、こっちが夢にも知らなかったことがずらずら出て来た。まだほじくれぱいくらでも出そうだ。とにかく落ち着いて、五分だけそこへ坐ってわたしの話を聞け。これまでのあらましを話すから」
ハントは深く溜息を吐き、こうなってはいたしかたないと諦め顔で両手を拡げると、傍らの椅子にどさりと腰を降ろした。
「五分じゃあとても間に合わないだろう、グレッグ」向き合って坐ったコールドウェルに彼は言った。「こっちも、昨日テューリアン人から仕入れて来た話があるんだ」
ヒューストンから四千五百マイル離れたロンドンのハイド・パークで、ノーマン・ペイシーはサーペンタイン池畔のペンチに腰掛けていた。夏の訪れを待ちかねていたようにオープン・ネックのシャツや夏物の軽装で繰り出した市民の群が公園を囲む緑に色を添え、樹冠の向うには街の建物がどっしりとした景観を見せている。五十年この方、ほとんど変わっていない風景である。これこそが人々が心から求めているものなのだ。ノーマン・ペイシーはあたりを眺めながら、そう思った。日々安楽に暮らし、市民としての務めを果たし、そして他人には邪魔されないこと。それが大方の市民のささやかな、しかし、強い希望である。それなのに、極く少数の野望を抱く者たちが権力を握り、自分たちに都合の良い規範を一般大衆に押し付けようとするのはいったいどうしたことだろう? 狂った信念に憑《つ》かれた一人と、信念などはどこ吹く風という百人とでは、はたしてどちらの罪が重いだろうか? しかし、自由を強く求めること自体、一つの信念であり、自由のために闘う者がやがて狂信者になり下がった例は歴史上枚挙にいとまがない。一万年にわたって人間はこの間題に取り組んで来たが、いまもって解決に至ってはいない。
地面に影がさして、ミコライ・ソプロスキンが隣に腰を降ろした。この陽気に厚手のスーッを着込み、きちんとネクタイを締めて額を汗で光らせている。
「ジョルダーノ・プルーノからここへ来ると本当に生き返るようだね」彼は撚携代わりに言った。
「月面の海《マライア》が本当の海だったらさぞいいことだろうな」 ペイシーは池の面からロシア人に向き直ってにやりと笑った。「木も何本かほしいところだな、え? どうやらUNSAはこのところ金星冷却と火星酸素化の計画にかまけて、月まではとても手が回りかねているようだ。そうでなくても、はたして月面の環境改良を考えている人間がいるかどうかね? しかし、何とも言えないそ。そのうち、月も住みよくなるかもしれたい」
ソプロスキンは吐息を洩らした。「そのために必要な知識や技術が目の前に差し出されていたんだ。それをわたしらは投げ捨ててしまった。わたしらは、おそらく人類史上最大の犯罪を目撃したのだということにきみは気が付いているかね? しかも、世界はその事実を知らされることがない」
ペイシーはうなずぎ、努めてさりげない態度を装った。「それで? 話というのはP」
ソプロスキンはハンカチを出して額の汗を拭った。「ジャイスターからのコード信号はきみの言ったとおり、ソヴィエトが独自に設置した送信機からの呼び掛けに応答したものだったよ」
ペイシーは驚きの表情も浮かべず、ただ小さくうなずいた。すでにそのことはワシントンでコールドウェルとリン・ガーランドから伝わっていたが、知っていると言うわけには行かない。
「ヴェリコフとスヴェレンセンがその件とどういうかかわりか、わかったかね?」
「だいたい掴「#手偏+國]めたつもりだよ」ソプロスキンは言った。「二人はテューリアンとの交信を妨害することを目的とする地球規模の結社に属しているらしい。やり方が同じなんだ。ヴェリコフはソヴィエトが独自にチャンネルを開くことに強力に反対している一派でね。反対の理由も国連と同じと来ている。ところが、有効な妨害工作の手筈がととのわないうちに送信がはじまって、反対派にとっては寝耳に水だったんだ。で、スヴェレンセンと同様、ヴェリコフは自分の立場を利用して、密かに対話をぶち壊しにするような雑音を挿入した……と、少なくともわたしらはそう読んでいる。まだ証拠は掴めていないがね」
ペイシーはまたうなずいた。これもすでにわかっていることである。「きみの言うその雑音だがね、内容はわかっているのか?」彼はそれもテューリアンから伝えられたコールドウェルのメモで読んでいたが、ふと興味に駆られて尋ねた。
「それは知らない。まあ、見当は付くけれども。彼らはジャイスターと地球を結ぶ中継装置の機能が停止することを事前に知っていた。要するに、彼らは妨害派の一味ということじゃないか。おそらく、一味は何ヶ月も前から工作していたに違いない。それなりの技術を持った民間企業に手を回すか、あるいは、気心の知れたUNSAの誰かを抱き込んだか……それは何とも言えないがね。まあ、その点はともかく、一味の作戦は、中継装置が破壊されるまで、国連とソヴィエトの二つのチャンネルの対話を進展させずにただだらだらと引き延ばすことだったと見ていいだろう」
ペイシーは池の対岸を見渡した。池の一部を柵で仕切った中で、子供たちが初夏の陽を浴びながら水とたわむれていた。歓声や笑い声が時折り風に運ばれて来た。ヴェリコフが一味であるという他は、ソプロスキンの話に新しいことは何もない。「で、ぎみとしては、この情況をどう考えるね?」池の向うを見つめたまま、ペイシーは尋ねた。
重苦しい沈黙が長く続いた。ソプロスキソは言った。「ロシアはね、今世紀のはじめまで圧制の伝統を引きずって来たんだ。十五世紀にかつての征服者モンゴルの支配を脱して以後、ロシアは自国の安全に異常なほど執着するようになった。他国の安全はロシアの脅威であって、これは許せない、と思いつめるほどだよ。それで、次々と近隣の諸国を侵略して、弾圧と恐怖政治とテロによって国境を押し拡げた。しかし、これはどこまで行ってもきりがない。国を一つ乗っ取れば、その向うにまた国境があるのだからね。共産主義は世界を少しも変えやあしなかった。しょせんはおめでたい理想主義者を掻き集めて、暴虐を正当化するための旗印でしかなかったんだ。一九一七年の革命後の僅か数ヶ月を除いては、ロシアは共産主義じゃあない。中世の教会がキリスト教の本質からはずれていたのと同じでね」
ソプロスキンはハンカチを畳んでポケットにしまった。ペイシーは黙ってその先を待った。
「しかし、それも今世紀のはじめに熱核戦争の脅威が去って、より次元の高いインターナショナリズムに向かって変わりはじめた、とわたしらは考えていたよ。表面的にはそのとおりだった。わたしと同じようなたくさんの人間が、これもまた、それなりに圧制を脱した西側との相互理解と共通の進歩のために自分を投げ出して努力したんだ」ソプロスキンは悲しげに頭をふった。
「ところが、今度の対テューリアン間題を通じて、ロシアを暗黒時代に追い込んだ勢力は亡び去っていないことがはっきりした」彼はきっとしてペイシーに向き直った。「西側に宗教テロと経済搾取をもたらした勢力も亡びていない。東西で、彼らはただ自分たちの保身のためにいくらか姿勢を変えただけなんだ。この地球という惑星には、無数のスヴェレンセンと無数のヴェリコフを結ぶ網が張りめぐらされている。彼らは鐘や太鼓で解放を叫んでいるがね、そこで言う解放とは彼ら自身が美味い汁を吸うことであって、その旗印に従う多数の利益などははじめから彼らの眼中にないんだ」
「ああ、そのとおりだ」ペイシーは言った。「わたしのほうでもそれはだいぶ見えて来ている。で、結論は?」
ソプロスキンは遠い池の対岸を指さした。「わたしに言えることは、あそこでああやっている子供たちは、別の世界で別の太陽の下で大きくなってもいいはずだということだよ。そのためには知識が必要なんだ。ところが、形態の如何を間わずすべて圧制者にとって、知識は敵なのだよ。知識は歴史を通じて、いかなるイデオロギーや信仰にもまして多くの人間を貧困と抑圧から解放した。あらゆる隷属は、非抑圧者の奴隷根性に発するんだ」
「どうも、びんと来ないな」ペイシーは言った。「何が言いたいんだ? 西側へ亡命を考えてでもいるのかね?」
ソプロスキンはかぶりをふった。「この戦いはイデオロギーの問題じゃあない。子供たちの意識を解放しようとする者と、彼らテューリアン文明の恩恵を与えまいとする者の激突だよ。最近の戦闘でわたしらは一敗地にまみれたがね、それで戦いが終わったわけじゃあないんだ。いつか必ず、テューリアンとの対話を復活する日が来る。それはそれとして、今モスクワではクレムリンの主導権をめぐって風雲急を告げているところなんだ。わたしはモスクワを離れるわけに行かない」
彼は背中に手を回して、文書の束と思《おぼ》しき紙包みをペイシーの前に差し出した。「きみの国と違って、ソヴィエトでは昔から内政間題の解決には情無用の手段に訴える仕来りだ。向う何ヶ月かの間に、かなり大勢の入間が消されるだろう。わたしもその中の一入かもしれない。覚悟はできているつもりだが、これまでの努力がまったく無駄だったとは思いたくないんだ」彼は包みをベンチに置いて手を引っ込めた。「そこに、わたしの知る限りのことが残らず書いてある。モスクワの同志に預けるのは危険だ。わたしと同じで、明日にはどうなるかわからない身の上だからね。しかし、きみならその情報を有効に活かしてくれると信じているよ。きみは本質的な戦いにおいて、わたしらが味方同士であることを知っている人間だと思うから」
ソプロスキンは立ち上がった。
「知り合えてよかったよ、ノーマソ・ペイシー。両陣営の間に、地図の色分けには左右されない強い絆《きずな》があるとわかったのは非常な慰めだ。いつかまた会おう。しかし、もうその日が来ないとしたら……」彼はみなまで言わずに右手を差し出した。
ペイシーも立ってその手をしっかり握った。「きっとまた会おう。情況は必ず好転するよ」
「だといいがね」ソプロスキンは手をはなし、踵《きびす》を返して池の端を歩きだした。
ペイシーは包みを強く握りしめて、運命との果たし合いに臨むべく立ち去ろうとしているずんぐりと背の低い男のぎくしゃくとした後ろ姿を見つめた。子供たちの笑顔を瞼《まぶた》に描いて死んで行く覚悟であろう。見捨てることはできない、とペイシーは思った。何も知らずに死地へおもむく彼を黙って見送ることはできない。
「ミコライ!」ベイシーは彼を呼び止めた。
ソプロスキンは足を止めてふり返った。ペイシーはその場を動かなかった。ロシア人はゆっくりとペンチの傍に戻った。
「一敗地にまみれた、ときみは言ったね。それは違う」ペイシーは打ち明けた。「もう一つのチャンネルで、今もテューリアンと交信は続いている……アメリカはやったんだ。中継装置は必要ない。もう何週間もテューリアンと対話しているんだ。カレン・ヘラーが地球に帰ったのはそのためだよ。話し合いは進んでいる。世界じゅうのスヴェレンセンが束になってかかっても、もはや友好を阻害することはできないんだ」
ソプロスキンはじっとペイシーの顔を見つめた。ペイシーの言葉が彼の胸におさまるには長い時間がかかった。やがて、ソプロスキンはゆっくりと、それとはわからぬほど微かにうなずき、どこか遠くを眺める目つきで低く言った。「ありがとう」
彼は向きを変え、今度は夢の中にいるかのようにそろそろと歩きだした。二十ヤードほど行ったところで、彼はまた立ち止まってペイシーをふり返った。ソプロスキンは無言で手をふった。次に歩きだすとすぐ、その足取りは目に見えて軽くなった。
二十ヤードを隔てて、ペイシーはソプロスキンの顔に輝く歓喜をはっきりと見た。ペイシーはソプロスキンの姿がボートハウス付近の人込みに消えるまで見送り、それから向きを変え、反対側のサーペンタイン橋を指して歩きだした。
24
ニールス・スヴェレンセンの時価百万ドルの邸宅はニューヨーク市から四十マイル離れたコネティカットの、ロングアイランド湾を見降ろす緑地帯に二百工ーカーを占める敷地に建てられていた。段丘状の植込みに囲まれて、クローバーの葉をかたどった大きなプールがあり、屋敷はL 宇型に庭園を抱え込んでいる。プールを隔てた反対側にテニスコート、一方に翼屋《ウイング》と向き合って別棟がある。屋敷はゆとりを大きく取った斬新なデザインで、片流れの屋根が鋭角的に一気に地面近くまで傾《なだ》れ落ちているところは、建物それ自体が一個のアプストラクト彫刻といった趣である。側面へ回ると、磨き出したプラウンストーンやモザイク・タイルやガラスの壁が、あるいは垂直に、あるいは斜めに空を切って入り組んでいる。中央のひときわ高い部分はスヴェレンセンの居室で、広々とした部屋が二層に重なっている。片翼は平屋で、週末毎のパーティや、その他さまざまな目的で集まる客用の寝室が六つと大広聞、反対側は居室部分よりやや低めだが、こちらも二階造りで、スヴェレンセンと秘書のオフィスと書庫、その他仕事のためのスペースにあてられている。
スヴェレンセンの邸宅には何かといわくありげな噂がつきまとっている。
リンはクリフォード・ベンスン子飼いの工作員に伴われてニューヨークへ飛んだ。工作員の紹介で地元のCIA支局を訪れたリンは、そこでスヴェレンセンに関する資料を調べた。それによれぽ、スヴェレンセンの屋敷は十年前、さる超大複合企業の建設部門であるワイスマント興業の手で建てられたものであった。同社は工場建設が専門で個人住宅は手がけていない。外部から設計技師やデザイナーがコンサルタントとして招かれたのはそのためである。それはまあ良いとしよう。不思議なのは、ワイスマントがカリフォルニアに本拠を持つ会社であることだ。地元に一流の建築業者がいくらでもいるはずなのに、スヴェレンセンは何故カリフォルニアの業者に工事を依頼したのだろうか?
さらに調べてみると、ワイスマント興業の株式はカナダのある保険コンソーシアムがほとんど一手に保有していることがわかったが、このコンソーシアムは無名のスヴェレンセンが一躍国際社会の第一線に登場した時にその足場となったイギリス、フランス、スイスの銀行家連合と密接な関係にあった。スヴェレンセンはかつての恩に報いただけのことだろうか? それとも、彼が義理のある、そしておそらくは秘密の繋がりを持つ業考に屋敷の施工を依頼するにはそれなりの深い理由があったのだろうか?
リンはビキニ姿でプールサイドの寝椅子《シェイズ》に横たわり、花壇の向うの屋敷を眺めながら何度も同じ疑問を頭の中で繰り返した。スヴェレンセンは真紅の海水パンツで傍らのパラソルの下のテーブルに掛け、アイス・レモネードを傾げながら、ラリーと呼ばれる男と話し込んでいた。隣のシェイズにはチェリルというプロンドの女が生まれたままの姿で俯《うつぶ》せになり、プールの中ではサンディとキャロルが明らかに地中海人種とわかるエンリコという男と黄色い声を上げてはしゃいでいた。サンデイはトップレスで、エンリコが下も脱がせようとしているのがこの馬鹿騒ぎの原因だった。他にもう一組カップルがいたのだが、一時間ほど前に姿を消したきり戻って来る気配もない。時刻は金曜日の昼下り。夕方から明日の朝へかけてもっと大勢集まって来る、とリンは聞かされていた。木曜の朝、リンの電話に答えたスヴェレンセンは、極《ご》く親しい友人たちの気楽な集まりだから、と言って彼女を誘ったのだ。
リンは屋敷を眺めながら、オフィスの一画が他とはどこか感じが違うと思った。先に屋敷の中を案内したスヴェレンセンは、オフィスには私的な客は通さないことにしていると言った。至極もっともな話だが、それだけでは説明の付かない何か異様な空気をリンは察していた。ガラス張りの面積を大きく取って、引き戸で自由に出入りのできる開放的な居住部分と連って、オフィスの一画は高いところに小さな窓が並んでいるだけの閉鎖的な造りだった。その窓も厚い壁に深く窪んで、内部に明りを取り入れるよりは、むしろ陽光を遮《さえぎ》るのにふさわしいと思われるほどである。リンは窓に目を凝らした。念入りな細工の飾りと見えたのは、カムフラージュした頑丈な鉄格子であった。それもこそ泥を防ぐ程度の生易しいものではない。タンクの攻撃にも持ち堪《こた》えるだろう代物だった。外に通じる出入口はない。オフィスは屋敷の中からしか入れなかった。意識して眺めなかったらリンはそのことに気付かなかったであろう。オフィスの一画は化粧タイルとペンキ塗りの壁で他の部分と見た目はほとんど変わりがないが、その実、そこは独立した要塞に他ならなかった。
プールの喧躁が一段と高まって、エンリコが女の体と飛沫《しぶき》を掻《か》い潜《くぐ》り、ビキニの下半分を高々と掲げて浮かび上がった。「いっちょう上がり。さあ、もう一人」彼は得意になって叫んだ。
「ずるいわ!」サンデイは金切声を上げた。「あたし溺れるところだったわよ。そういうのを弱い者いじめって言うのよ!!」
「キャロルの番だ」エンリコは言った。
「んーん、もう!」キャロルは笑った。「ようし、二対一よ。サソディ、手を貸して。この人、やっちゃいましょうよ」また大騒ぎがはじまった。
「女二人じゃあ無理だろう」スヴェレンセンがリンをふり返って言った。「きみも加勢してやったらどうかね。ここは無礼講だ。遠慮はいらないよ」
リンはシェイズに頭を寝かせて言った。「ええ、でも、時にはこうやって観客に回るのもいいものよ。それに、彼女たち二人で充分よ.わたしは予備役で結構」
「御立派だねえ。後のために体力を残しておこうというわけだな」ラリーがスヴェレンセンの耳もとで言いながら、リンに向かって大きくウインクした。彼女は見て見ぬふりをした。
「お楽しみはこれからだよ」ラリーは厭味に笑って言った。リンは曖味に笑い返したが、内心さてどうしたものかと途方に暮れていた。
「いろんな人間を紹介するよ。各界の売れっ子ばかりだ」
「楽しみだわ」リンはそっけなく答えた。
「いい子だろう」スヴェレンセンはラリーに向かって言い、悦に入った様子でリンに視線を戻した。「ワシントンで知り合ってね……見付けものだよ。ニューヨークへはちょくちょく人に会いに出て来るんだそうだ」
リンは自分が商品にされたような気がした。実際、この情況ではそれと大して変わりがない。だと言って、彼女は今さら腹も立たなかった。上辺だげでも調子を合わせる気がなかったらはじめからこんなところに乗り込みはしない。
「わたしもワシントンへよく行くんだよ」ラリーが言った。「きみは、仕事か何かで?」
リンはかぶりをふった。「いいえ、務めはヒューストンの宇宙軍。コンピュータとレーザーと、数宇でしゃべる人ばっかりで……。でも、食べて行くためには仕方がないでしょう」
「ああ。しかし、それももうじき変わるんだ。そうだろう、リン」スヴェレンセンが脇から言った。「実は、わたしの関係でワシントンに彼女にぴったりの口があるんだ。仕事もずっと面白いと思うよ。ラリー、きみはフィル・グレズンビーを知っているな? このあいだワシントンへ行った時、一緒に食事をしたんだ。その席で出た話でね、今度新しく開設する代理店を任せられるぱりぱりの若い人材を捜していると言うんだよ。報酬がまた桁はずれなんだ」
「きみがそこへ移るなら、ワシントンで会えるね」ラリーは彼女に向かって言い、それからわざとらしく眉を顰《ひそ》めた。「しかし、それは仕事の話で、まだ先のことだろう。何もワシントンでなくたっていい。ここでお互いに充分知り合えるじゃないか。きみは、独りかい?」
「ああ、自由の身だ」スヴェレンセンが言った。
「それは結構」ラリーは声を弾ませた。「こちらもここでは鰥夫《やもめ》でね。きみを皆に紹介する案内役には最適だよ。いや、本当に、きみは人を見る目があるね。趣味もいいことだろう。ああ、こうしよう……これから皆でいろいろと趣向を変えて遊ぶことになっているけれども、きみはわたしのパートナーだ。これで先約ができたわけだ。いいね?」
「わたしは刹那主義よ」リンは言った。「今現在のことしか考えないの。先のことはまたその時になってから。おわかり?」彼女は眩しそうに太陽を見上げ、スヴェレンセンをふり返った。
「当面の問題としては、わたし、このままじゃあ日射病になってしまいそう。日陰に入って、何か着て、もう少し涼しくなったらまた来るわ。いいでしょう?」
「ああ、構わんよ」スヴェレソセンはうなずいた。「何が困ると言って、きみに倒れられるほど困ることはないからね」
リンはシェイズから起き上がって屋敷のほうへ歩み去った。
「あの女をものにするのはなかなか骨だぞ。その前に……」
彼女はスヴェレンセンの低い声を背後に聞いたが、後半はプールから新たに弾けた矯声に掻き消された。
チェリルは顔を上げて、遠ざかるリンを植込みの葉越しに見送った。「あんたなんかじゃあさまにならないわよ。ラリー」彼女は言った。「わたしなら、あの子をうんと楽しませてやれるけど、全然違った味でね」
「だったら、三人取りという手はどうだ?」ラリーは言い返した。
リンにあてがわれた一室にはキングサイズの対のベッドが並び、家具も調度も屋敷の外観から期待されるとおり、すべてに贅《ぜい》をつくしていた。相客はドナという女と聞かされていたが、まだ来ていない。リンはシャツプラウスとショートパンツに着替え、窓際に立って思案した。
部屋にはTV電話があったが、手を触れる気にもならなかった。盗聴される恐れが多分にある。それに、いざとなれぱ電話など必要なかった。クリフォード・ベンスンの手配に抜かりはない。戸棚に掛けたショルダーバッグには超小型発信機を仕込んだコンパクトがある。安全装置をはずして隠しボタンを押せぱ非常信号が発信される仕掛である。リンがボタンを一度押すと、直ちにCIAの工作員が兄と名乗って電話を寄越し、親類に不幸があって、すでに迎えのタクシーが急行しつつあると伝える手筈である。ボタンを三度押せば、一マイルほどのところにエアモビルで待機している二人の工作員が三十秒で飛んで来る。ただし、これは本当に二進《にっち》も三進《さっち》も行かなくなった時、と彼女は釘を刺されている。いずれにせよ、今のところまだコンパクトを持ち出す段階ではなかった。屋敷内はしんと静まり返っている。夕方になれぱこの静けさが嘘のように思えることだろう。密かに偵察を試みるには絶好の機会である。たかだか二時間いただけで手ぶらで逃げ帰るなんて許されない、と彼女は自身を叱咤《しった》した。
リンは深呼吸して唇を湿し、ドアを細目に開けて外の様子を窺《うかが》った。人の動く気配もない。そっと廊下に出ると、向かいのドアの奥から圧し殺した笑い声が洩れた。リンは立ちすくんだ。それきりあたりは物音一つしなかった。彼女は忍び足で建物の中央部へ向かった。
廊下は奥まった小部屋を突っ切って、吹き抜けの大広閻に出た。片側は全面、屋根の勾配に沿ったガラス壁である。毛足の長いカーペットを敷き詰めた広間は鉤《かぎ》の手に向うへ続き、ひとところ床が沈んだ正面に煉瓦を積んだ重厚な暖炉が設けられている。周囲の一段高い床は扇形に拡がって、他の部屋へ通じる出入口や階段に繋《つな》がっていた。
広間を過ぎて裏手の廊下へ出ると、キッチンからくぐもった話し声や食器の触れ合う音が聞こえた。しかし、目の届く範囲に使用人の姿はなかった。リンはあちこち覗《のぞ》きながら内装や置物、壁の絵、照明器具などに注意を凝らしたが、特にこれと言って注意をひかれるほどのものはなかった。足を止めて部屋の配置をしっかりと頭に焼き付けてから、彼女はオフィス・ウィングに通じているらしい狭い廊下を進んだ。
最前スヴェレンセンにざっと案内された時に見た覚えがある部屋をいくつか過ぎ、オフィス・ウィングに通じる、おそらくはたった一つのドアの前に出た。そっと把手を回してみたが、案の定、鍵が掛かっていた。彼女は軽く握った拳でドアを叩いた。音は何かに吸い取られるようで、板扉に付きものの深みのある響ぎがない。表面は板張りだが、その下には何か堅いものが厚く詰まっているに違いない。ドアはただ境を区切るためだけのものではなさそうだった。削岩機を担ぎ込むか、さもなければ、軍の爆破工作隊でも連れて来ない限り、そこから先は一歩も進めない。彼女は諦《あきら》めて広間へ引き返すことにした。途中でふと、さっき広間で見た置物のことを思い出した。その時は何とも思わなかったのだが、よく考えてみると、どうも見覚えがあるような気がした。まさか……。置物の形を頭に描いて、彼女は慌《あわ》てて自分の疑惑を打ち消した。そんなはずはない……。眉を顰めながら、彼女はわれ知らず足を速めていた。
置物は煉瓦造りの暖炉の脇の、龕《がん》に似た壁の窪みに間接照明の柔らかい光を受けて飾られていた。金と銀の輝きを帯びた水晶のような素材の抽象的な造形で、高さは約八インチ。ずっしりと重そうな黒い台座に立っている。最前、通りすがりに見た時は、よくあるアブストラクト彫刻の類だと彼女は気にも止めなかった。しかし、今こうして手に取ってつくづく眺めてみると、その造形と彼女の記憶にある形が重なるのはただの偶然の一致とは思えなかった。
基部のごつごつと盛り上がったところは特に意味はない。問題はその中央から立ち上がっている彫刻の本体である。精緻に刻まれたテラスや平屋根や控え壁が複雑に入り組み、重なり合って、全体が微妙な曲線を描く先細りの円柱を形作っている。何かの塔の模型だろうか? 彼女は首を傾げた。以前どこかで見たことのある円塔……。円塔のつきるところから三本の細い枝が伸び、それがやがて一つに交わろうとするあたりで皿に似た一枚の円板を支えている。展望台だろうか〜 円板の表面にも細かな模様が刻まれていた。手にした置物をさかさにして、彼女はあっと息を呑んだ。円板の裏側に描かれた模様は一目でそれと見定められる同心円だった。彼女が手に持っているのはヴラニクスの街の中央に聳える塔の模型だったのだ。あり得べからざることではたいか。とはいえ、現にそれ以外の何ものでもありはしない。
リンはふるえる手で置物を命に戻した。いったい何ごとに巻き込まれたというのだろうか? 彼女は自問した。一刻も早く、荷物をまとめてここを抜げ出そう、と部屋へ駆け戻ろうとして彼女は思い止まった。気を静めようと努めるうちに、少しずつ思考力が働きはじめた。ここで逃げ出すわけには行かない。このような機会は二度と再び向うからやって来はしまい。この裏に何が隠されているか、今彼女が探らなければ、この先ついに誰も知ることなく終わるかもしれない。リンは目を閉じて深呼吸を繰り返し、勇を鼓して最後まで見届けよう、と自身を励ました。
秘密を知るにはオフィス・ウィングを探らなくてはならなかったが、忍び込む術がない。何とか道はないものだろうか? 地下から入ることはできないだろうか……。このような建物に地下室がないはずはない。だとすれば、階段はキッチンの近くであろう。彼女はキッチンに続く廊下の端に出た。人声が聞こえたが。ドアは閉まっている。廊下に並んだ二つのドアはクローセットだった。さらに進んでもう一つ先のドアを細目に開けると、木の階段が地下に通じていた。彼女は体を横にして戸口をすり抜け、後ろ手にドアを閉じて階段を降りた。
地下室というのはだいたいどこも同じようなものである。日曜大工の作業台と工具の棚。買い置きの雑貨の山。縦横に走るバイプやダクト。鎧扉の中で機械が唸っているのは空調設備であろう。階段を降りたところから、地下室は建物の両翼に向かって伸びていた。彼女はオフィス・ウィングのほうへ進んだ。物置き代わりに使われていると見え、そこにも木箱や内装材の余りが雑然と片寄せられていた。突き当たりの壁の中央に僅かな隙間が開いていた。リンは近付いて隙間の向うを覗いた。がらんとした小さなスペースがあって、また壁になり、地下室はそこで行き止まりだった。オフィス・ウィングとは完全に遮断されている。彼女は神経を凝らしてあたりを見回した。その一画は同じ地下室でありながら、他とは明らかに、造りが違う。特に奥の壁は構造が変わっていた。
壁と天井が合わさったところに、フランジの幅が少なくとも十五インチはありそうな太い鋼鉄の梁が走っていた。梁を支える両端の鉄骨も同じように太く頑丈で、コンクリートの土台に深く食い込んでいるらしかった。天井も、角々に三角の補強板を入れて横桁で念入りに支えてある。地下室の他の部分と同じに白ペンキで塗りつぶされた部材はざっと見ただけでは目に付かなかったかもしれない。しかし、特別の関心をもって見る者の目に、そこだけがとりわけ強度の高い構造になっていることはあまりにも歴然としていた。
オフィス・ウィングは土台からして、壁を境に他の部分からはっきり独立しているのだ。リンはその土台と鉄骨の一部を目の前に見ていることになる。部材の質と構造から察して、そこは軍艦一隻の重さに耐えることができそうだった。いったい、この上にこれほどの強度を必要とする何があるというのだろうか? 彼女は不審の眉を曇らせた。
記憶の底から、マクラスキーのコンクリートのエプロンに穿《うが》たれた穴のことが浮かび上がった。 テューリアンの星間通信システムはスイッチ一つで発生する顕微鏡的規模の人工環状ブラックホールを使用しているのではなかったか……。
いや、そんな馬鹿な話があろうはずがない。この建物が建てられたのは十年前のことである。二〇二一年にはテューリアンどころか、ガニメアンの存在すらまだ地球には知られていなかったのだ。
彼女は仕切り壁からゆっくりと後退り、首を傾げてふらふらと階段に引き返した。
階段を登りきったところで立ち止まり、心臓の鼓動が落ち着いて頭の混乱がおさまるのを待った。ドアをそっと開けて隙間に目を当てると、スヴェレンセンが今まさに、角を曲がって向うの部屋へ姿を消そうとするところだった。何かを捜す様子でしきりに左右を見回している。捜しているのは人だろうか……? リンはたちまち新たな恐怖に襲われて激しくふるえだした。ヒューストンのナヴコムが急に遠くなったような気がした。とにかくここを抜け出さなくては。抜け出すことがでぎたら、もう二度と再びヒューストンの居心地の艮いオフィスから出ないようにしよう。
彼女を捜しているとしたら、スヴェレンセンは当然まず部屋の戸を叩いたはずである。少々まずいことになった。部屋にいなかった理由を用意しておかなくてはならない。リンは知恵を働かせ、廊下に出ると足音を忍ぱせてキッチンに駆け込んだ。しばらく後、彼女はコーヒー茶碗を手にしてキッチソから現われ、客室のほうへ歩きだした。
「ああ、そこにいたのか」背後でスヴェレンセンの声がした。暖炉を囲む一段高い床を半ば横切りかけたところだった。足がすくんで、彼女はその場にびたりと立ち止まった。立ち止まったからよかったのだ。身動きしようものならカーペットにコーヒーをぶちまけてしまうに違いない。やっと気を静めて向き直ると、脇の一室からスヴェレンセンが顔を出した。海水パンツのままで、シャツを軽く肩にはおり、サソダルを突っかけている。彼は何かに勘付きながらも今一つ確信がないという表情で、探るようにリンの顔を見掘えた。
「コーヒーが飲みたくなったから……」彼女は言わずもがなのことを口にして、すぐに後悔した。取って付けたように笑わなかったのがせめてもの慰めである。スヴェレンセンの視線が自分を素通りして背後の龕の置物に伸びるのがわかった。置物の上にでかでかとネオンサインが点って、この女が手を触れた≠ニいう文宇が瞬いているような気がした。彼女は置物をふり返ってみたい衝動と必死に闘った.
「ヒューストンの人閻が日射病を気にするとは解せないねえ」スヴェレンセンは言った。「それも、ぎみのように見事に陽焼けしている人が」上辺はさりげなかったが、その声は明らかに、どういうことだ? と詰問していた。
彼女は一瞬返答に窮した。「ちょっと、一人になりたかったのよ。あの人……ラリーだったかしら……すごくくどいんですもの。わたし、ああいう雰囲気には馴れていないし」
スヴエレンセンは、そうか、やっぱり、と何やら思い当たる目つきで胡散《うさん》臭げに彼女を見た。
「そういつまでも堅くなっていないで、少しは打ち解けてもらいたいね。だってそうだろう。皆、羽根を伸ばしにここへ来るんだからね。一人ご清潔ぶってるのがいるせいで、せっかくの気分がぶちこわしになったんじゃあ目も当てられないじゃないか」
うろたえながらも、リンは険を含んで言い返した。「でもね……わたし、まさかこんなふうだとは思ってもいなかったわ。ああいう軽薄な入たちが集まるなんて、あなた、ひとことも言わなかったわ」
スヴェレンセンはあからさまに不愉快な顔をした。「こいつはおそれいった。きみはまさか、わたしに向かって中流の道徳を説こうって言うんじゃないだろうね。きみはどういうつもりでここへ来たんだ? わたしは親しい友だちが集まると言ったはずだよ。わたしとしては皆に存分に楽しんでもらいたい。彼らの好みに合ったもてなしをしたいんだ」
「彼らの好み? 行き届いていらっしゃること。皆さんお喜びでしょうね。でも、わたしの好みはどうなるの?」
「ほう、わたしの友入は程度が低い、ときみは言いたいのか? これは面自い。きみの好みならもうよくわかっているよ。きみは何事によらず趣味が奢《おご》っている。贅沢《ぜいたく》に憧れているんだ。いいだろう。贅沢な思いをさせてやろうじゃないか。しかし、世の中にただのものはないことくらい、きみだって心得ているはずだな」
「わたしはね、あそこできゃあぎゃあ騒いでいる、体だけ大人になった子供たちの御機嫌を取るキャンディにされるのはごめんだわ」
「きみこそ、何を青臭いことを言うんだ? わたしはここの主人として、客であるきみに、わたしの好意に対して皆とうまくやってくれることを期待する権利もないのかい? それとも、きみはわたしを博愛主義者か何かと間違えて、慈善事業でこの家を開放しているとでも思っているのか? 断っておくが、わたしはそんなおめでたい人間じゃない。わたしに限らず、現実の何たるかを理解する頭を持っている人間は皆同じだ」
「誰が慈善事業だなんて言って? 現実の何たるかと言う中には、人の気持を認めることも入っているんじゃあないの?」
スヴェレンセンは鼻で笑った。人の気持など彼にとってはどうでも良いことなのだ。「それも中流のまやかしだ。わたしに言わせれぱ、きみが何を期待してここへ来たかは知らないが、とにかくきみの期待はいわれのない幻影だよ」彼は溜息を吐いて肩をすくめた。すでに彼女に対する興味は失われていた。「金の心配も悩みごともなしに、人生を大いに楽しむ機会は目の前に開けているんだ。だがね、それを掴[#手偏+國]み取る気なら、子供の頃に吹き込まれた愚にもつかない貞操観などはかなぐり捨てて、自分の立場を現実的に考えなきゃあ駄目だ」
リンは無性に腹が立って来たが、辛うじて冷静な声で言った。
「現実的に考えたつもりよ」それ以上言う必要はなかった。
スヴェレンセンは顔色一つ変えなかった。「そう言うことなら、すぐタクシーを呼んで、似非《えせ》ロマンティシズムと手の届かない夢の世界へさっさと帰ることだ。こっちは痛くも痒《かゆ》くもない。女は他にいくらでもいるんだ。どうしようときみの勝手だがね」
リンは身じろぎもせず、スヴェレンセンの顔に熱いコーヒーを浴びせてやりたいのを懸命に堪えた。ひとしきり高まった義憤の波が退き、彼女は昂然と肩をそびやかして自分の部屋へ引き揚げた。スヴェレソセンγは冷やかな目で彼女の後ろ姿を見送り、侮蔑に肩をすくめると、足を速めて、仲間たちのいるプールサイドへ戻った。
二時間後、リンはニューヨークまで同行したCIAの工作員と並んでワシントン行きの飛行機に乗っていた。まわりの席には家族連れやカップルの客がいた。単身の客もいれば団体も乗っていた。服装もとりどりで、ビジネス・スーツあり、ジャケットあり、シャツにセーター、ジーソズとくだけた装いも少なくない。談笑する客もいれば読書に耽《ふけ》る客もいる。眠っている人もある。皆、極く普通の、まともで慎ましい、善意の人々だ。リンは客たちの一人一人を抱きしめたい気持だった。
25
ヴィザーが作り出す幻視の世界で、カレン・ヘラーは身長五億マイルの巨人となって空間に浮いていた。緩やかな結合を示すピンポン球ほどの二連星が目の前をゆっくりと回転していた。一つは黄色、今一つは白色星である。周囲を見渡せぽ、墨汁を流したような果てもない空間に無数の星が針で突いたほどの光点となって散らばっている。連星の質量の中心は、惑星スリオの軌道に重ねてヴィザーが映し出した極端に偏平な楕円の一方の焦点に当たっている。
ヘラーのすぐ隣に、宇宙を玩具にさてこれから何をして遊ぽうかと思案をめぐらす大神といった面持で浮かんでいるダンチェッカーが、楕円軌道を回る惑星を指さした。ヴィザーが時間を縮めているので惑屋の動きは速い。
「スリオは、この楕円の両端でまったく別の条件にさらされるわけですよ」彼は言った。「こちら側では二つの太陽に照り付けられる。従って、非常に暑い。反対側では太陽から遠くなって、非常に寒い。惑屋の一年は、表面が寒冷な海に覆われる時期と、事実上水界がなくなって熱く乾ぎきってしまう時期が半々です。イージアンの話では、これまでにテューリアン人の発見した世界でも、このように珍しい例は他にないそうです」
「信じられませんね」ヘラーは感に堪えぬ声で言った。「その条件で生命が発生したっておっしゃるのね。そんなことがあり得るでしょうか」
「誰だってそう思うでしょう」ダンチェッカーはうなずいた。「わたしも、イージアンにこれを見せられるまでは信じられなかった。それで、あなたにもお見せしようと思ったのですよ。近くへ寄って惑星そのものを観察することにしましょう」
ヴィザーが彼の言葉に応え、二入は見る見るスリオに接近した。連星は背後に消え去り、惑星は球体となって脹れ上がり、さらに近付くと視野いっぱいに平らに拡がった。寒冷な海が惑星表面を覆いつくす時期に当たっていた。二人の体が小さくなり、見馴れた水平線が目に入ったと思う間もなく、彼らは異星の水棲生物が泳ぎ回る海の底に立っていた。
サメの仲間を思わせる魚に似た黒い動物に彼らの視野は絞られて行った。ヴィザーが二人の視覚に送り込む情報を差し替え、その生きものの体組織は透きとおって骨格が外から見えるようになった。海面から射し込む光線がスロー・ストロボのように明滅を繰り返した。魚の映像はその間二人の目の前に固定されていた。
「明暗は夜と昼を表わしています」ダンチェッカーはヘラーの怪訝《けげん》そうな顔を見て説明を加えた。「ヴィザーが時間を縮めて再現しているんですよ。観察しやすいように、対象は静止させてくれているのです。日照時間がだんだん長くなって行くのがわかりますか?」
ヘラーはすでにそれに気付いていた。同時に、魚の骨格に微妙な変化が起こっていることも彼女は見逃さなかった。背骨は次第に太く短くなり、鰭《ひれ》の骨は長く伸びて、明らかに関節を持つ肢の形になった。そして、その鰭は時とともに背中から腹部に近いほうへ移動して行った。
「どうしてこんなことになるのかしら?」
「適応ですよ。これをお見せしたかったんだ」ダンチェッカーは言った。「惑星は今、暑さに向かっています。海水はどんどん蒸発して水位が下がっている最中です」
ヴィザーは早速二人を海面上に連れ出してそのありさまを示した。惑星表面はすでに最前二人が降りて来た時とはすっかり様子が変わっていた。海は遠くに退いて、高い崖に囲まれて落ち込んだ水溜りがあちこちに残り、大陸棚が現われて、かつて島だったところが鸚がって広い陸地を形作っていた。後退する海岸線を追って草木の緑が拡がり、また、不毛だった山岳地帯へも這い登っていた。雲が湧いて厚く垂れ込め、高地に滝のような雨が降り注いだ。
二人はなおしばらく惑星表面の変貌して行くさまを眺めた。それから、内陸の降雨が河となって流れ下り、やがて海に注ぐ浅い河口に降り立って、あたりの変化をつぶさに観察した。大陸棚に谷を穿《うが》った流れが落ち込もうとする礁湖は早くも涸《か》れようとしていた。さっきまで魚のようだった動物は、この頃にはもう、未発達ながら脚を使って沼沢地を歩ぎ回る両棲類に変わっていた。頭は完金に分化して頸部から上だけが自由に動くようになっていた。
「特別な腺がありましてね、環境の変化があるところまで進むと、ある種の物質を分泌して骨を溶かすんです。そうやって、新しい環境で生きて行くのによりふさわしい骨格に作り変えるんですね」ダンチェッカーは言った。「実にこれは大変なことです」
ヘラーから見れぱ、それは適応などという生易しい言葉ではとても納得できない変容だった。
「魚のままで、もっと深い海へ移るという道もあるんじゃありません?」
「いや、もうじき海そのものが消えてしまうんです」ダンチェヅカーは言った。「まあ見ていてごらんなさい」
海は点々と湿地に囲まれた小さな沼になり、やがて完全に干上がった。大気の温度はますます上がり、高地に発した河川は斜面を下るうちに細々とした流れになって、僅《わず》かに残る水溜りに行き着く前に蒸発した。かつての海底はいつか一面の砂漠と化していた。一度は拡がった緑も再び後退して、僅かに高原や山地にオアシスを残すばかりとなった。件《くだん》の動物は今や完全に陸棲となり、鱗《うろこ》はあるが、物を掴[#手偏+國]むことのでぎる手を持つ、ちょうど地球の爬虫類に似た姿に変わっていた。
「これが変化の最終段階です」ダンチェッカーが言った。「スリオの一年間に、この生物は形態学上の両極を振子のように往復するんです。苛酷な条件に対して、生命というものがいかに粘り強いものかを示す好個の一例だとは思いませんか?」
二つの太陽の日照時間が重なって一日が長くなり、やがて、スリオが楕円の端を回って寒冷期に向かうと日は短くなりはじめた。植物は斜面を下って拡がり、それにつれて例の動物の四肢は退化した。海から陸へ上がった時の変化を逆に辿《たど》りはじめたのだ。「こういう情況で知性が生まれるものでしょうかしら?」ヘラーは興味深げに尋ねた。
「それは何とも言えませんよ」ダンチェッカーは言った。「ほんの何日か前には、わたしも今見たことが本当とは思えなかったんですから」
「まるでお伽噺《とぎばなし》のよう」ヘラーはすっかり驚き入っていた。「いや、これが現実です」ダンチェッカーは言った。「現実というやつは、生身の人間の空想を謡かに超えて不思議なものですよ。例えば、人間の目には赤外線や紫外線は逆立ちしたって見えません。結局、人間は体験を組み合わせることによってしか物を考えられないんです。本当に新しいものは外界である宇宙から与えられるしかない。その宇宙に横たわる事実、真相を発見するのが科学の役割です」
ヘラーは横目使いに彼を見て、ちょっとからかう口ぶりになった。「先生のことをあまり知らなかったら、議論を吹っかけられたと思うでしょうね。あまり深入りしないうちに、ヴイックから連絡があったかどうか、行ってみません?」
「そうしましょう」ダンチェッカーはうなずいた。「ヴィザー。マクラスキーへ帰してくれないか」
彼は寝椅子から起ぎ上がり、パーセプトロソの通路に立って隣の小間《キュービクル》からヘラーが出て来るのを待った。二人は連れ立って昇降口に出ると、ふわりと地上に降り立って、食堂に向かってエ.プロンを歩きだした。
「でも、先生、いずれ話の結着は付けなくてはね」しばらく行って、ヘラーは言った。「わたしは法律専攻ですけれど、法律もやはり真実の究明に大きな比重があることはご存じでしょう。方法も科学に近いものですわ。科学考の仕事にコンピュータが必要だからと言って、論理が科学者の専売特許ということにはなりませんでしょ」
ダンチェヅカーはちょっと考えてから、皮肉っぼく一歩譲った。「うん……なるほど。数学音痴にとって、法律はそれに代わる何かを提供してくれるものである、ということはあるでしょうねえ」
「あら、そうですかしら? 法律はもっと閃《ひらめ》きを必要とする世界ですよ。それどころか、科学者が使おうともしない頭が要求されるんですよ」
「ほう、これは異なことをうかがう。そこのところを、もう少し説明していただきたいものですね」
「自然界はたしかに複雑径奇ではあっても、決して不正直ではありませんでしょ、先生。故意に偽られた証拠や、事実をひた隠しに隠そうとする相手にてこずったことがおありかしら?」
「ふん。それじゃあお訊きしますが、あなたは御自身の仮説を厳密な実験によって立証しなくてはならなかったことがありますか? どうです? 答えられますか?」ダンチェッカーは詰め寄った。
「わたしたち法律家は、実験を繰り返す贅沢《ぜいたく》は許されません」ヘラーは切り返した。「犯罪者が条件を一定に保った実験室で同じ罪を犯すということはまずありませんから。それだけに、わたしたちは最初の判断が肝腎なのです」
「うん、なるほど。うん……」
二人は艮い時にマクラスキーに戻った。管制室へ入ると、ちょうどハントから連絡があったところだった。
「こっちへは、いつ帰れるかね?」ダンチェッカーは尋ねた。「カレンから実に意表を衝《つ》く提言があってね。わたしも考えてみたが、なるほどとうなずかざるを得ない。それで、でぎるだけ早い機会に君《きみ》たちとも話し合いたいと思うのだよ」「グレッグと一緒に、これからすぐ発《た。つところだ」ハントは言った。「今しがた、ジョンの当市来訪のことを聞いたよ。これですべてに新しい光が当たることになった。ASPA委員会で検討する必要がある。手筈《てはず》をととのえてくれないか」 これは、ペイシーとソブロスキンの会見についてのパッカードの報告がヒューストンに届いたという意味である。ハントは早急にカラザー以下テューリアン首脳との会談を召集しなくてはならないとダンチェッカーに伝えたのだ。
「すぐ手配しよう」ダンチェッカーは請け合った。
一時間後、ダンチェヅカーがカラザーと打ち合わせを済ませてハントとコールドウェルの到着を待っているところへ、ワシントンのパッカードから緊急連絡が入った。
「いっさいの行動を一時停止だ」彼は言った。「メアリーが戻った。直ちに飛行機でそちらに向かわせる。現在そちらでどこまで知っているかは知らないが、そんなものは話にならん。メアリーは爆弾を土産に持って来た。とにかく、彼女の話を聞くまでは何もするな」
「わかりました。そのように取り計らいましょう」ダンチェッカーは溜息を吐いた。
26
テューリアン文明の一構成種族であるジェヴレン人の指導者、ジェヴレン連邦首相イマレス・ブローヒリオにとって過去数ヶ月は、何代も前の祖先から周到に練り上げつつ引ぎ継がれて来た大計画を危機にさらす予期せぬ出来事の連続であった。
その第一は、まったく計算外だった〈シャピアロン〉号が降って湧《わ》いたように地球に再登場したことである。宇宙船の出発に当たって地球人が連絡を寄越すまで、テューリアン人たちはそのことを知らなかった。地球人の発した信号は何故かジェヴェックスを素通りしてヴィザーに直接届いたのだ。どうしてそのようなことが起こったのかは今もって謎である。ブローヒリオは糾明の矢面に立たされることを避けるために、やむなく先手を打ってカラザーにジェヴレン側の態度を釈明した。ただでさえ何をしでかすかわからない兇暴な地球人を相手にしているところヘテューリアン人が介入しては情況の混乱を招く恐れがあると判断したため、〈シャピアロン〉号が地球圏を脱するまで措置の正否はひとまず度外視して、報告を差し控えることにしたという趣旨である。差し迫った中で急場しのぎの釈明だったが、カラザーはこれを了承したものと思われた。地球からの信号を中継した装置はかつてテューリアンが太陽系外に設置したものではなかった。ブローヒリオがその点を指摘すると、カラザーは地球監視の権限をジェヴレン人に与えることを決めた協定をテューリアン側は一度として破っていない、と言って取り合わなかった。しかし、ブローヒリオ配下の技術陣は中継装置がテューリアン人の手によって維持されていると考える以外にこの情況を説明しようがなかった。そうだとすれば、テューリアン人はブローヒリオが考えていたよりもよほど知略に長《た》けていると判断しなくてはならない。 数ヶ月後に彼の危惧は現実となった。テューリアン側は密かに地球との対話を再開したのみか、何とその目的はこれまでジェヴェックスが地球監視報告として提供して来た情報の真否を究明することだったのだ。ブローヒリオはこれに大っぴらに抗議することができなかった。へたに騒ぎ立てれぱテューリアン側には秘密にしておかなくてはならない地球上の情報源を暴露する結果となるからである。ブローヒリオは急遽地球側の動きを制御することでひとまず時間を稼ぎ、カラザーの矛先《ほこさき》をかわした。思いもかけずソヴィエトが第二のチャンネルで交信を求めて来た時、ブローヒリオはこれを利用して情況を有利な方向へ導こうとしたが思うように行かず、切羽詰まって彼は地球との交信をいっさい遮断するという思い切った手段に訴えざるを得なかった。彼としては、テューリアン側が地球と直接対話を進める可能性を考えて、これは最後まで避けたかった。テューリアン人は正面切って協定を破棄することに躊躇《ちゅうちょ》を覚えるはずだという計算もあったのである。
テューリアン側は地球との交信がなお続けられていることを伏せていた。ブローヒリオの側近たちは、テューリアン側に中継装置の破壊は地球人の仕事であると思い込ませる作戦が図に当たったと判断した。加えて彼らは、テューリアソが沈黙を守っているのは、これまで苦労して吹き込んで来た悪逆無頼の地球のイメージが無傷である証拠と考えた。そんなわけで、テューリアンが対地球外交を進展させて親善使節団を派遣するようなことはあり得まい、とジェヴレニーズはたかを括《くく》っていたのである。
油断は禁物ながら、賭は当たったと思われた。残る問題は〈シャピアロン〉号である。太陽系の外に向かう同号はすでにブラックホールで捕獲しても惑星の軌道にさしたる影響を与えないところまで達していた。テューリアン人は生来の用心深さから何よりも安全第一を心懸け、〈シャピアロン〉号が充分太陽系を離れるまでは行動を起こすまい、とブローヒリオは読んでいた。中継装置の破壊を優先したのもそのためで、また、それによってテューリアン人がいかにおめでたいか、ちょっと試してやろうという狙いもあった。破壊は異星人に敵意を抱く地琢人の仕業だと信じ込ませることができればしめたものである。そうなれば、〈シャピアロン〉号が破壊された時、まず疑われるのは地球人である。中継装置の破壊はブローヒリオの読みが正しかったことを裏付けた。長いことイマレス・ブローヒリオを悩ませ続けて来た頭痛の種も、もはや解決は時間の問題だった。
ジェヴレンの奥地の深い山懐に抱かれた作戦会議室で補佐官や幕僚らに囲まれて、ブローヒリォは難局を乗り切った深い満足感を味わっていた。ジェヴェックスは追尾システムから送られて来る何光年も離れた〈シャピアロン〉号の動きを刻々にスクリーンに映し出していた。ブローヒリオはジェヴレン軍の黒い制服に身を固めた将軍たちや、帝国の隅々から情報をもたらし、彼の命令を帝国じゅうに隈なく伝える通信システムの夥《おびただ》しい装置をひとわたりゆっくりと見回した。いよいよ運命が彼に与えた栄光の時が満ちるかと思うと、衝き上げる興奮と期待に体がふるえた。栄光はジェヴレン人の優越と鉄の意志を高らかに証すものであった。彼こそは父祖代々が営々と積み重ねて来た努力を受け継いで開花を実現する待望の人物である。遠からず、ブローヒリオの支配は銀河系全域におよぶであろう。
制服はまだ公に知られてはいず、時にジェヴレンを訪れて長期滞在するガニメアンの要人たちがこの作戦本部に案内されることはなかった。軍の編制、作戦の立案、訓練は依然秘密裡に進められていたが、すでに予備隊将校団を核として実戦の訓練を経た戦闘部隊の命令系統も確立され、徴兵計画の細目も固まって、いざとなれぱ直ちに戦時体制に移行する準備がととのっていた。ジェヴレンの遠い衛星アッタンの地下工場は数年前から武器弾薬を製造備蓄しており、ジェヴレンの全産業経済はいつなりと進んだ段階の戦時編制に組織することができる状態であった。
しかし、時局はまだそこまで熟していない。この数ヶ月の間に何度かブローヒリオは側近のいわれなき動揺によって時期尚早の行動に誘われかけた。が、その都度彼は明晰な思考と英断、そして強劔な意志の力をもって側近たちの手綱を締め、障害を一つ一つ乗り越え、あるいは回避して、ついに〈シャピアロン〉号のみを唯一の間題として残すところに漕ぎつげたのだ。その間題も、もう解決は目に見えている。彼は試練に耐えて器量を証《あか》した。彼がテューリアンの軛《くびき》をかなぐり捨てる時、セリアンどもはそのことを思い知るはずである。しかし、まだその時は来ていない。もうしばらくだ。
「目標、一走査周期内に接近」ジェヴェックスが告げた。室内は期待を孕む緊張に満たされた。〈シャピアロン〉号は数日前に、テューリアンの追尾システムに重力場の擾乱を検知されないように距離を隔てたところから環状プラックホールによって針路に打ち込んだ宇宙機雷に接近中であった。機雷は数ギガトン相当の核爆弾で、目標がある距離以内に近付くと自動的に起爆するようにプログラムされている。重力受動態処理をほどこされているため、宇宙船の推進機構が誘起するストレス・フィールドの位相差を読み取って相手の動きを捉えるテューリアンの追尾システムには検知されることがない。ジェヴェックスの報告は、追尾システムが次に走査を一度終えるまでに機雷が爆発することを意味する。
ブローヒリオの科学顧問の一人、ガーウェン・エストードゥはそわそわして言った。「それはまずい……今さら言っても無駄ですが、われわれはあの船に針路を変えさせて、アッタンかどこかに抑留するべきでした。これは……」彼は表情を曇らせた。「これは行きすぎです。テューリアンにこのことが知れたら、弁明の余地もありません」
「これこそ千載一遇の好機というものだ.ガニメアンどもは心理的に地球不信に傾いている」ブローヒリオは傲然《ごうぜん》と言い放った。「これほどの機会はまたとない。機会は逃さず利用することだ。優柔不断に機を逸するなどもっての他だ」彼は科学者に軽侮の視線を投げた。「わたしが命令してぎみたちが従うのもそのためだ。天才は、優良危険と無謀の別を知って乾坤一擲《けんこんいってき》の勝負に出る。中途半端では大きなことは何一つものにならない」彼はふんと鼻を鳴らした。「第一、テューリアン人どもに何ができる? やつらは力と力の対決を好まない。悲しいかな、やつらは遺伝的性質のために、宇宙の現実に宇宙の命ずる方法をもって対処する能力に決定的に欠けているのだ」
「にもかかわらず、彼らはこれまでずっと生き延びて来ました」エストードゥは言い返した。
「あれはまやかしだ。テューリアン人は一度として闘いを勝ち抜いたことはない」ワイロット将軍がブローヒリオを支持して言った。「力によって生き抜くのが宇宙の摂理というものだ。自然の流れに任せたら、テューリアン人どもはひとたまりもないだろう。やつらに未知の銀河系開拓の先鋒たる資格はない」
「流石《さすが》は軍人。頼もしいな」ブローヒリオは当てつけるようにエストードゥら科学者の一団を見渡した。「きみらは安全な場所でガニメアンの羊どものようにぶうぶう言うが、山中でライオンの群に出会った時、いったい誰がきみらを守るのだ?」
と、そこヘジェヴェヅクスの報告が入って論議は一時中断した。
「最新情報、分析評価……」
ジェヴレン軍作戦本部司令室は水を打ったように静まり返った。
「目標は走査視野より消滅。目標消滅。破壊効果百パーセント。任務完了」
たちまち緊張は解けて室内にざわめきが拡がった。ブローヒリオはにんまり顔をほころばせ、そっくり返って側近たちの祝辞を受けた。権力と威光の実感が胸に満ちあふれて、彼ははじめて制服が板に付いた気がした。ワイロットは指導者に向き直り、片手を上げてジェヴレン流に敬礼した。他の者たちも一斉に立ち上がってそれに倣《なら》った。 ブローヒリオは軽く答礼し、ざわめきがおさまるのを待って、あらためて片手を高く掲げた。
「これは、来たるぺき大事業の、ほんの小手調べである」彼の声は朗々として室内に響きわたった。「運命に従って前進するわれらジェヴレン人の行手を遮《さえぎ》るものは何もない。テューリアン人どもは、太陽系を席捲《せっけん》し、やがては銀河系をも呑みつくすハリケーンの前に一握の藁屑《わらくず》となって消散するであろう。諸君はわたしに進んで従うか?」
「進んで従います!」一同は口々に答えた。
ブローヒリオは今一度にんまり笑った。「諸君を裏切るようなことは断じてない」
ひとしきり賞讃の声が高まって、やがて波の退くように静まった。ブローヒリオはやや調子を落として穏やかに言葉を続けた。「しかし、当面われわれとしては、支配者であるガニメアンに対して果たすべき務めがある」彼が皮肉に口を歪めて押し出したひと言に、席上の何入かは苦笑を禁じ得なかった。ブローヒリオはちらりと天井に目をやった。「ジェヴェックス。ヴイザー経由でカラザーに、極めて重大な用件でエストードゥとワイロット、それにわたしの三人が直ちに面談を求めると伝えろ」
「かしこまりました、閣下」ジェヴェックスは応答した。しばらく間があって、ジェヴェッグスはテューリアンからの返事を取り次いだ。「ヴィザーによれば、カラザーは会議中で、しばらく待ってくれないかということです」
「今しがた、極めて重大な情報が入った」ブローヒリオは言った。「待っている閑はない。カラザーに、重ねて失礼ながら、何としても即刻テューリアン側と会談を要求すると伝えろ。ヴィザーに、われわれは〈シャピアロン〉号が事故に遭ったと信ずるに足る情報を掴んでいると言え」
二分ほどして、ジェヴェックスがテューリアン側の意向を伝えた。「カラザーが、すぐ会います」
27
ヒューストンにおいて、コールドウェルはハントに、おそらくは何世紀もの昔から世界史の裏面で地球を動かしていたに違いない権力構造の存在について語った。今世界に網を張ったその勢力は人類の進歩を阻害し、地球科学の発展を制御して、自分たちの特権を守り、利益を図って来た。テューリアンとの交信を妨害し、ついにはこれを遮断するに至った一連の動きは、その闇の勢力の構図と策謀の表面化と見て間違いあるまい。
そうこうするところへ、マクラスキー基地のダンチェッカーが見るからに興奮した様子で、カレン・ヘラーがまったく新たな視点からコペルニクス的転回ともいうべき解釈を打ち出した、と伝えて来た。数時間後、アラスカに着いたハントとコールドウェルは、ジェヴレン人が歴史の黎明《れいめい》期から地球文明の発達を阻害する一方、自分たちはガニメアンの科学技術の恩恵に浴しながら勢力を伸張して来たと考えるに足る証拠があることを知った。この解釈はあまりにも衝撃的であったために現実の情況に当て嵌《は》めて考えることはなかなかむずかしかったが、そこヘワシントンからリンが一同を驚天動地させる報告を持ち帰った。スヴェレンセンはすでに何年も前からジェヴレニーズと交信を保っていたのみならず、例のヴラニクスの塔の模型から察して、ジェヴレニーズは今も時折り地球にやって来ているに違いなかった。つまり、ジェヴレン人は歴史の初期に地球に干渉を加えたと言うに止まらず、ペイシーとソプロスキンがその一部を暴露した謀略こそ、まさにジェヴレン人を元凶とするものに他ならなかったのだ。
たちまちそれからそれと新たな疑問が湧《わ》いて出た。スヴェレンセンは生まれながらの地球人であって、ただ協力者として活動しているにすぎないのだろうか? それとも、彼は地球に潜入したジェヴレン人工作員で、かつてアフリカで死亡したスウェーデン人の名前を騙《かた》っているのだろうか? 地球人であるとジェヴレン人であるとを問わず、はたして現在スヴェレソセンと立場を同じくする者が地球圏にどれだけ潜伏しているだろうか? 彼らを見分ける手だては? ジェヴレン人は何故地球が主戦論に傾いていると偽りの報告をしたのだろうか? ガニメアンに対して、地球の太陽系外侵略の危険を口実に、自分たちの軍備増強を正当化するためだろうか? 仮にそうだとして、ならば彼らの兵器保有を動機付ける仮想敵国はどこだろう? テューリアンを討ってガニメアン支配の時代に終焉《しゅうえん》をもたらそうというのか。それとも、地球を攻めて五万年前の抗争に結着を付けようというのか? 彼らの狙いが地球攻略にあるとすれば、過去数十年来スヴェレンセン一派が推進している戦略軍縮と平和共存政策は、地球を丸腰にするための巧妙な擬態と言わなくてはならない。なまじ抵抗力があれば、地球はかつてのミネルヴァ同様、黒煙を吹いてくすぶる灰の塊と化すであろう。それを嫌って、彼らは地球の産業経済を無傷のまま乗っ取る考えではあるまいか? しかし、そうだとしたら彼らは対テューリアン戦略をどのように考えているのだろう? テューリアンが拱手傍観を極《き》め込むはずはないではないか。 何はともあれガニメアンと会談する必要があった。連絡を受けたカラザーは、〈シャピアロン〉号のガルース、シローヒン、モンチャーを含めて、関係者を直ちにテュリオスに呼び集めた。会談は二時間におよんだが、そこヘヴィザーが声を挟《はさ》み、〈シャピアロン〉号の替え玉が何者かの手で破壊されたことを告げた。そして、その直後に、ジェヴレン連邦首相イマレス・ブローヒリオがカラザーに即刻の面談を求めて来た。
テュリオス政庁の一室にマグラスキーの一団と共に座を占めたハントは、ジェヴレン人との初の対面を期待と緊張の入り混った表情で今や遅しと待ち構えていた。〈シャピアロン〉号のガルースと二人の腹心はハントらと向き合った位置に並び、カラザー、イージアン、ショウムと他に数人のテューリアン人が別の一画に陣取っていた。〈シャピアロン〉号のガニメアンたちは自分たちの理解を超える虚偽の報告や妨害工作を知った衝撃からまだ立ち直りかねている様子だった。フレヌア・ショウムすらも、虚構を見抜く地球人独特の能力を借りなければ自分たちはとうていこの事態の本質を正しく把握することはできなかったろうと謙虚に認めた。他者の意志を疑うことは肉食型の思考にしかないものであろう。ガニメアンはもともと肉食動物の系統ではない。
「地球では、泥棒を捕えるには泥棒をもってせよ、と言いますね」ガルースは言った。「この場合もそれと同じで、人間を捕えるには入間をもってせよですね」
「彼らは科学者として立派かもしれませんけれど、法律家としては落第でしょうね」カレン・ヘラーはダンチェッカーにそっと耳打ちした。ダンチェッカーはふんと鼻を鳴らしたきり何も言おうとはしなかった。
カラザーはジェヴレン人が手綱をゆるめたらどこまで虚偽を押し通そうとするか試すつもりだった。それに、彼自身がどこまで知っているかを明かす前に聞き出しておきたいこともあった。そこで彼はジェヴレン人と、〈シャピアロン〉号のガニメアンおよび地球人とを直ちに対決させず、ヴイザーに命じてジェヴェックスに送り込む情報からこの二つのグループに関するいっさいのデータを削除することにした。具体的には、ハントとガルースの一行はその場にいながらジェヴレン人の目には映らないという情況が設定されたわけである。このようなやり方は潔癖を身上とするテューリアン人の倫理にもとるものだったし、ヴィザーが実用化されてこの方、絶えて例のないことでもあった。が、カラザーはジェヴレン人の取った行動の甚大な影響に鑑《かんが》みて、敢えて不文律を犯すことにしたのである。ハントはどうなることかとわくわくした。
「ブローヒリオ首相、ワイロット長官、エストードゥ科学顧問」ヴィザーが紹介した。ハントは体を堅くした。カラザー以下テューリアン勢と対面する位置に、三人のジェヴレニーズがふっと姿を現わした。中央がブローヒリオであることは一目で知れた。身の丈は六フィート三インチを下るまい。精悍《せいかん》な面魂で黒い目が鋭く、房々した漆黒の髪は見事だった。旺盛な闘争心を口角に漂わせ、髯はきりっと刈りととのえている。胸板は厚く、見るからに頑丈な上半身を藤色のチュニックに包み、上に重ねた半外套は金糸の輝きを帯びている.
「〈シャピアロン〉号はどうした?」カラザーはいきなり、ことのほか激しい権幕で詰問した。これにはハントも驚いた。属領とはいえいやしくもブローヒリオは国家元首である。当然、外交儀礼に則《のっと》った挨拶《あいさつ》があるのが順序であろう。ジェヴレン人たちの面喰った顔も、彼らがそれを期待していたことを物語っていた。中の一人がまっすぐにハントのほうを見た。が、その視線はハントを素通りして背後の壁に伸びている。ハントは透明人間の奇妙な心境を味わった。
「推参お許しいただきたい」ブローヒリオが口を切った。さびのある深い声で、かなり無理してへり下った口調である。「たった今、極めて由々しい事態の報告がありました。宇宙船は追尾データにいっさいの痕跡を止めず消息を絶ちました。破壊されたものと結論せざるを得ません」彼はちょっと言葉を切って室内を見回した。「単なる事故ではありますまい。何者かが故意に破壊したと考えるべきでしょう」
テューリアン人一同は長いこと無言のままブローヒリオを見返した。懸念や落胆どころか、驚ぎの表情すら示そうとしない。テューリアン人の反応を見て、と言うよりはむしろ彼らがまったく反応しないのを見て、ブローヒリオの目にはじめて微かな動揺が走った。こんなはずではなかったのだ.
ブローヒリオと並んだ今一人のジェヴレソ人はまだ異常を察していないらしかった。この男は背が高く、紺と黒のいかめしい装いである。銀髪をきれいに撫でつけ、目は碧く、氷のように冷やかである。どちらかと言えば丸顔で、非常に血色が良い。テューリアン人たちと同じで、自分もこの情況を極めて遺憾に思う、という仕種で彼は両手を大きく拡げた。「われわれは警告したはずです。こうなる前に宇宙船を保護するべきであると、再三にわたって進言したはずです」これはまったくの偽りである。思い入れたっぷりの演技は相手を納得させるものと信じていると見える。「地球人は〈シャピアロン〉号がテューリアンに着くのを黙って見逃すはずがない、とわれわれはあれほど言ったではありませんか」
向う側でガルースがぎろりと目を剥《む》くのをハントは見た。ガニメアンとしては精いっぱいの憎悪の表現である。「落ち着くんだ、ガルース」部屋を隔ててハントは声を掛けた。「どうせもうすぐきみの出番だよ」
「幸い、ガニメアンは気の長い人種でしてね」ガルースは答えた。もちろん、二人のやりとりはジェヴレニーズの耳には入らない。ハントは何とも不思議な気がした。
「そうかな?」ややあって、カラザーが声を返した。うなずくでもなけれぱ首を傾げるでもない。
「きみの憂慮にはおそれ入る、ワイロット長官。きみはまるで自分の嘘を信じてでもいるようだな」
ワイロットはあっと息を呑んだきり声を失った。虚を衝《つ》かれて立往生の体《てい》である。第三のジェヴレン人エストードゥは鈎鼻の細面で痩せ型の男だった。黄色いシャツに金糸の縫い取りのある若緑の上下を品良く着こなしている。エストードゥは両手をふり上げて大袈裟《おおげさ》にびっくりしてみせた。「嘘? それはどういうことです? 何が言いたいのですか? そちらはそちらで宇宙船を追尾していたはずじゃあありませんか。ヴィザーはデータを確認していないのですか?」
ブローヒリオはどす黒い顔で陰にこもって言った。「これはわれわれに対する非常な侮辱だ。ヴイザーのデータはわれわれの言うことと達うのか?」
「データのことを言っているのではない」カラザーは極めつげた。「しかし、言っておくが、きみたち、もう一度よく考え直して、この情況に対して釈明を用意したほうがいい」
ブローヒリオは傲然《ごうぜん》と肩をそびやかして正面からテューリアンたちを睨《にら》み返した。怒り心頭に話してゼる二とま明らかビっヒ。「どうブう二とだ、カラザー?」
「まず、そちらの説明を聞きましょう」ショウムがカラザーの隣の席から言った。低く抑えた声だったが、いっぱいに巻ききったぜんまいの緊張を孕《はら》んでいた。ブローヒリオはぎくりと彼女に向き直り、それから動揺を隠さず左右にせわしなく視線を走らせた。彼は罠に餃まったことを直観していた。
「〈シャピアロン〉号のことはひとまず措きましょう」ショウムは言葉を続けた。「ジェヴェックスはいつから地球に関して虚偽の報告をしていますか?」
「何だって?」ブローヒリオは飛び出さんばかりに目を剥いた。「いったい何の話だ? 何を評処に……」
「いつからですか?」ショウムは風を切る笞《むち》のように鋭い声を発した。その声も、他のテューリアン人たちの表情も、いっさいの言い逃れを撥ねつけていた。ブローヒリオは顔面に朱を注いだ。が、彼はあまりのことに返す言葉がなかった。
「何を証拠にそのようなことを?」ワイロットが食ってかかった。「言いがかりもはなはだしい。地球監視はわたしの管掌です。これはわたしに対する個人攻撃と受け取らざるを得ない」コ証拠?」ショウムは即座に問い返した。ワイロットの空々しい態度には開いた口が塞がらないとでも言いたげだった。「地球は今世紀に入って二十年の間に戦略的軍備縮小を断行して、以来、平和共存の努力を推し進めています。にもかかわらず、ジェヴェックスの報告にはそれについて一言もありませんでした。ジェヴェッグスによれぱ、軌道上に核兵器が配備されています。月面には放射線プロジェクターが据付けられています。太陽系全域に軍事施設があるという報告もありました。その他にも、ジェヴェックスの報告は、実際にはありもしないことだらけです。あなたはそれを否定しますか?」
エストードゥは→心不乱に思案をめぐらせていた。「それは違います!」彼は思わず叫んだ。
「報告は修正を加えたものであって、ありもしないことを述べているのではないのです。わたしどもの情報筋から入った連絡によりますと、地球各国の政府は監視に気付いて、軍国化の色彩を隠そうとしているということです。それで、わたしどもはジェヴェックスにデータを修正して、監視を悟られなかった場合の推移を予測させたのです。それによって得られた結果を事実として報告したのは、テューリアン世界は防衛努力を怠ってはならないと意味合いを含めてのことです」
テューリアン人たちの表情に露骨な侮蔑を見て取って、エストードゥは鼻白んだ。「たしかに、修正は、その……意図的ではなしに、多少誇張された部分もあったかと思いますが」
「もう一度訊きます。いつからですか?」ショウムは畳みかけた。「いつからそのようなことが行なわれていますか?」
「十年か、二十年前……いえ、正確なことは記憶しておりません」
「記憶にない?」ショウムはワイロットに向き直った。「監視はあなたの管掌です。記録はないのですか?」
「ジェヴェッグスがすべて記録しています」ワイロットの返事は歯切れが悪かった。
「ヴィザー!」カラザーが声を張り上げた。「ジェヴェックスの記録を表示しろ」
「言語道断だ!」ブローヒリオがどす黒い怒りに顔を歪めて叫んだ。「地球監視は以前からの協定でわれわれに権限を任されているはずだ。テューリアンから情報開示を要求されるいわれはない。そういう約束だぞ」
カラザーは耳も貸さなかった。しばらくしてヴィザーは報告した。「ジェヴェックスの応答は意味不明です。記憶を消去されたか、さもなければ、表示を規制されているものと思われます」
ショウムは少しも騒がずに、エストードゥに向き直った。「いいでしょう。それでは、あなたの言葉を額面どおりに受け取ります。二十年前から、ということでしたね。そうすると、それ以前のジェヴェックスの報告には修正は加えられていないのですね? 間違いありませんか?」
「いえ、もう少し前からだったかもしれません」エストードゥは憾てて言った。「二十五年か、三十年前から……」
「じゃあ、もっと前からとしましょう。地球における第二次世界大戦の終結は今から八十六年前です。わたしは大戦中のジェヴェックスの報告を調べてみました。そこには、例えばこんなことが述べられています。ハンブルク、ドレスデン、ベルリンの諸都市は通常爆弾の絨毯《じゅうたん》爆撃によって潰滅したのではなく、核兵器によって破壊された──。また、これもジェヴェックスによれば、一九五〇年代の朝鮮動乱は米ソの全面的武力衝突にエスカレートした──。現実には、そんな事実はありません。一九六〇年代から七〇年代にかけて、中東で戦術核が使われたことはただの一度もないし、一九九〇年代に中ソ対立が交戦の危機を迎えたこともありません」
ショウムの声はさながら刃物のように鋭くなった。
「〈シャピアロン〉号がアメリカ軍の手でガニメデ駐屯要塞に抑留された事実はありません。アメリカ軍がガニメデに駐留したことはないのです」
エストードゥは返す言葉もなかった。ワイロットは身じろぎもせず、ただ空《くう》の一点を見つめていた。ブローヒリオは憤怒の形相で、激しく肩で息をした。
「証拠を見せてもらいたい!」彼は喚《わめ》いた。「そんなものはあるまい。事実無根だ。証明できるものならお目に懸りたい。証人はいるのか? そもそも何の権利があってわれわれにこのような非礼を働くのだ?」
「わたしが答えましょう」カレン・ヘラーがつと立ち上がった。今度はコールドウェルに先を越されることはなかった。ハントの目には室内に何の変わりもなかったが、ジェヴレン人たちが愕然としてヘラーのほうをふり返ったところを見ると、ヴィザーが彼女を登場させたに連いない。
ジェヴレン人たちに口を開く隙を与えず、カラザーが言った。「きみの要求に応える人物を紹介しよう。アメリカ合衆国国務省派遣テューリアン特使、カレン・ヘラー」
エストードゥはまっ蒼になった。ワイロットはしきりに口を動かしたが、ついにその口から声が出ることはなかった。ブローヒリオは両の拳を握りしめ、無念さに金身をわなわなとふるわせた。
「証人ならいくらでもいるぞ」カラザーが言った。「九十億の地球人がみな証人だ。が、この場としては何人かの代表で充分だろう」
ハント以下、地球人代表団が姿を現わすと、ジェヴレン人たちは目を丸くした。誰も向う側に目をやろうとしない。カラザーはヴィザーに、まだ〈シャピアロン〉号のガニメアンを登場させるきっかけを与えていないのだ。
カレン・ヘラーはジェヴレニーズの地球に関する情報操作について山ほどの疑問を抱えていた。いずれも彼女の推論に基づくことであって何一つ証拠はない。が、はったりを咬《か》ませてジェヴレン人たちから証拠を引き出すのにこれほどの機会はまたとあるまい。彼女はおめすおくせず切り込んだ。
「ミネルヴァ戦争の後、月《ルナ》からテューリアソへ連れて行かれたランピアンは、その後もセリアンを仇敵《きゅうてき》と睨《にら》んでついに怨みを忘れることがなかったのです。ランビアンは地球の存在を脅威と見て、いつか亡ぼさなくてはならないと考え続けて来ました。その日のために、彼らはガニメアンの科学技術に接することのできる有利な立場を活かして、宿敵地球を後進段階に押し止めることに力を注ぎました。地球が再び手強い相手として立ち上がらないように、進歩を阻害しながら、一方で彼らは無敵の力を身に付けるべく、ガニメアンの知識と技術を最後の一滴まで吸い取ろうとしたのでず」
彼女はわれ知らず、あたかも法廷における検事が裁判官や陪審員を相手にする口調になって、カラザー以下テューリアン人一同に訴えかけていた。彼らは黙ってじっと耳を傾けていた。ヘラーは一呼吸置いてやや調子を変えた。
「いったい、知識とは何でしょう?」彼女は問いかけた。「物事の表面を撫でるだけでなく、願望の眼鏡をとおして物を観るのでもなく、現実をあるがままに受け取ってその本質を捉える真の知識とは何でしょう? 事実と虚偽、真実と神話、現実と幻影を正しく識別する有効手段として確立された唯一の思考形態は何でしょうか?」彼女は呼吸を計って一段と声を張り上げた。「それは科学です! 一念をもって信じることが事実をも動かすという考えから人は往々にして何かを一途に思い詰めますが、事実は飽くまで揺ぎないものです。そのような不動の事実として今わたしたちが知っていることはすべて合理的な科学の方法によって明らかにされたのです。科学のみが立証に耐える思想の土台となり得ます。何となれぱ、科学は結果を予測し、予測された結果は検証を経てはじめて真実と認められるからです。にもかかわらず……」彼女は声を落とし、地球人たちをも説得する口吻《こうふん》になった。「にもかかわらず、過去数千年にわたって地球人は俗信、迷信、非合理な教義、無力な偶像にすがって来ました。人類は冷静に見つめれば明らかに目に映るはずのものを拒み続けたのです。呪術や魔力を信じて、自らそうした力を身に付けようとすることがいかに不毛であるかを、人類は認めようとしませんでした。実際には、呪術は収穫をもたらさず、予言は当たらず、魔力など何の役にも立たなかったにもかかわらずです。さらに言うならば、そうした俗信の類は役にも立たなかった代わりに、さして大ぎな害もありませんでした。つまり、毒にも薬にもならなかったと言うことです。そして、これはラソビアンたち、後のジェヴレン人たちの見地からすれば、実に願ってもないことでした。偶然にしてはできすぎと言っていいほどの理想的な情況だったのです」ヘラーはきっとしてジェヴレニーズたちに向き直った。
「しかし、今ではもう、それが偶然ではなかったことをわたしたちは知っています。偶然の要素はかけらもなかったのです」
ダンチェッカーは驚嘆の面持でハントにそっと耳打ちした。「いやあ、おそれいった。まさかあの人が、こんな大演説をぶつとは思ってもいなかったよ」
「わたしもだ」ハントは瞬き返した。「きみは彼女に何を吹き込んだんだ?」
ジェヴレン人一同をはったと見据えて、ヘラーはなおも舌鋒をゆるめなかった。「初期の人類に迷信を植え付けたのは、あなたがたジェヴレン人の手先が地球人の目の前で働いてみせた奇蹟であったことをわたしたちは知っています。ジェヴレン入は雇い入れた手先を訓練して、工作員として地球人の中へ送り込みました。そして、群衆心理を操って、神話伝説に基づく、言うなれば反文明工作を推し進めたのです。それによって、地球人が合理的思考に目覚めることを妨げ、技術文明を達成して環境を征服し、やがてジェヴレン人の領域を脅かす存在に成長することを阻害したのです。それは違う、と言えますか?」
彼女のはったりが効を奏したことはジェヴレン人たちの顔を見れば明らかだった。彼らは驚愕と、急所を衝かれた苦悶に身動きもならず、抗弁の術もなく、ただじっと立ちつくすばかりだった。一層自信を付けて、ヘラーはテューリアン勢に向き直った。
「地球文明初期の迷信や古代宗教はいずれも周到な計画の下に人類に深く植え付けられたものでした。バビロン、マヤ、古代エジプト、中国の文明はみな迷信、呪術、民話、伝説などを信じる・無知の上に成り立ったものです。盲信は人類の論理的思考の芽を摘み取りました。そのような非合理的な精神構造に根を発した文明は、やがて都市を築き、美術や農耕技術を育てましたが、人類は無限の未来の扉を開く鍵である科学の発達にはほとんど無関心でした。人類は恐れるに足りなかったのです」
テューリアン人たちはここに至ってはじめて、地球人がいかに事の本質を深く理解しているかを知った。低いざわめきが室内に拡がった。
「地球の最近の歴史については、どう考えますか?」カラザーはこの間題に彼のように直接深いかかわりを持ってはいない他のテューリアン人のことを念頭に置いて質問した。
「歴史を通じて近代に至るまでこの構造は変わっていません」ヘラーは答えた。「天のお告げをもたらしたり、奇蹟を働いて伝説を生んだ聖人や異形の者たちは、地琢の進歩を食い止めるためにジェヴレンから送り込まれた工作員です。心霊教やオカルト、擬似科学、その他の荒唐無稽な信仰や運動が十九世紀のヨーロッパや北米で盛んな流行を見せたのも、真の科学と理性の発達を妨害する工作でした。二十世紀に入ってからも、科学技術を否定し、経済成長に反対するいわゆる大衆行動が盛り上がりました。反核運動もその一つです。いずれも計算ずくで操られた行動でした」
「きみは何と答える}」カラザーはブローヒリオに激しく詰め寄った。
ブローヒリオは腕組みをして大きく息をつき、ゆっくりとヘラーに向き直った。彼は落ち着きを取り戻しているらしかった。まだまだ敗北を認めるつもりはない。挑むように地球人たちを睨み据えてから、彼はカラザーをふり返った。
「ああ、そのとおり。事実は今の話にあったとおりだ。ただし、動機の説明が間違っている。地球人でなくてはとてもあのようなことを考えられるものではないな。地球人は心が歪んでいるために、われわれの姿までがあのように歪んで見えるのだ」彼は詰るように地球人たちを指さした。
「地球の歴史は知っているはずだな、カラザー。ミネルヴァを破壊した暴虐と流血を好む残忍な性質は今なお地球人に色濃く残っている。対立、戦争、革命、殺戮《さつりく》の際限もない繰り返しである地球の歴史については今さらここでわたしの口から言うまでもあるまい。しかも、いいか、ここが肝腎なところだ。地球人どもは、われわれがあれほど平和のために努力したにもかかわらず、殺戮を繰り返して来たのだ! たしかに、われわれは地球人の目を科学技術からそらせるために工作員を送り込んだ。いったい誰がそれを非難でぎる? 何万年も前に地球人が宇宙へ帰ることを許していたら、現在銀河系がどのような地獄絵と化しているか、考えてもみるがいい。われわれジェヴレンのみならず、テューリアン世界がいかなる危機にさらされたか、仮にも想像が付くというのか?」
ブローヒリオは侮蔑を露《あらわ》に地球人たちを一瞥《いちべつ》した。「やつらは野蛮人だ。しかも、頭が狂っている。どこまで行っても変わらない。われわれが地球人を未開のままに閉じ込めて来たのは、子供に火遊びをさせないのと同じ理困だ。それは火事を防ぐことであると同時に、子供を火傷の危険から守ることでもある。この先もわたしの方針に変わりはない。わたしは間違っていない。非難を浴びるいわれはないそ」
「あなたがたは言うこととすることが裏腹です」フレヌア・ショウムが攻勢に転じた。「もし、あなたが戦闘的な惑星に平和を根付かせたと自信をもって言えるなら、あなたはその成功を誇りと思うはずです。まさかその実績を隠したりはしないでしょう。しかし、現にあなたがたは自分たちのしたことをひた隠しにして来ました。あなたがたの望んだとおり、地球は平和の道を歩きはじめたにもかかわらず、あなたがたは地球が戦争に向かってまっしぐらに突き進んでいるかのように偽りました。なるほど、あなたがたはミネルヴァ人の闘争本能が稀釈されて、大人の知恵が付くまで地球の進歩に制動をかけたかもしれません。しかし、あなたがたはその事実を隠したのみか、歪曲しています。これをどう説明しますか?」
「地球の平和は一時の気まぐれだ」ブローヒリオは言い返した。二皮剥けば、やつらは少しも変わっていない。最近の報告に大幅な修正を加えたのは、上辺に騙されてはならないという考えからだ。いずれこの間題については最終的解決を図らなくてはたらない」
カレン・ヘラーは二人のやりとりを聴きながらめまぐるしく思案をめぐらせた。最終的解決とは、ジェヴレンが地球の脅威を口実に軍備拡張を進め、時至れぱ武力によって銀河系の覇権を握ることを意味しているに違いない。これも彼女が記録を漁《あさ》って事実関係を追跡する過程で浮かび上がって来た解釈である。正否を確かめるにはちょうど良い場面だが、それには今一度はったりに訴えなくてはならない。
「その説明には納得しかねます」彼女は言った。「さっきわたしが話したことは、ジェヴレン人がこれまでして来たことの、ほんの一部でしかありません」
室内の者たちは一斉に彼女をふり返った。
「十九世紀になると、ジェヴレン入の必死の妨害工作にもかかわらず、西欧文明は科学産業技術を急速に発展させました.これを見て、ジェヴレン人は戦術の転換を図ったのです。彼らはそれまでとは逆に、あちこちの領域で少しずつ情報を洩らしました。これが突破口となって、地球の科学は加速的に発展しました」彼女はここでちょっと首を傾げた。「ハント先生。この点について、何か御意見がおありですか?」
ハントはこの質問を予期していた。彼は発言に立った。
「十九世紀後半から二十世紀初頭へかけて、物理学および数学の歴史に見られる大ぎな不連続、非線型的飛躍は、従来から学界の謎とされていました。私見を述べさせてもらえるなら、この飛躍的進歩、概念の革命は、当時の学術水準から推して、外部の影響なしにはとうてい達成され得なかったものです」
「ありがとうございました」ヘラーが言った。ハントは腰を降ろした。ヘラーはテューリアン人たちの怪謝《けげん》な顔をひとわたり見回した。「それまで仇敵である地球の足を引っぱって来たジェヴレニーズは何故ここで戦術を転換したのでしょうか? それは彼らが、もはやそれ以上地球の進歩を堰《せ》き止めることはできないと悟ったからです。そこで、ジェヴレン人は、地球が高度に技術化された惑星になるならば、これまでに積み上げて来た社会基盤を上手く利用して、地球がその技術によって自滅する方向へ進歩を導こうと考えました。つまり、彼らは地球の科学技術を助成しながら、それを昔から人間を苦しめ悩ませて来た厄災の防止や病害の駆除に役立てるのではなく、かつてない大規模かつ激越な世界戦争の手段とするように仕向けたのです」
話しながら彼女はブローヒリオの表情を観察した。彼女の発言は図星だった。彼女は止めの一撃を繰り出した。
「十九世紀の末にヨーロッパ貴族社会に潜入して階級内相互の憎しみを煽り、ついには第一次世界大戦の発火点まで加熱させたのはジェヴレン人の工作員たちではありませんか?」彼女は反語をもって厳しく断定した。「一九一七年の革命後、ロシアの支配権を握って典型的な全体主義体制を作り上げたのはジェヴレンの息のかかった傀儡《かいらい》集団だったのではありませんか? 第一次大戦後、疲弊したドイツを牛耳って、国際連盟が平和的手段によって排除しようとした反目を再燃焼させたのはジェヴレン人集団だったのではありませんか? 集団の指導者層は、特に選ばれて訓練を受けた工作員たちでした。違いますか? 本当のアドルフ・ヒトラーはどうなったのですか? それとも、ヒトラーは本人のままで、誰かが陰で操っていたのですかP アルフレート・ローゼンバーグですか?」
三人のジェヴレン人は答えるまでもなかった。彼らの血の気も失せて強張《こわば》った顔がすべてを語っていた。ヘラーはテューリアン入たちに向き直って説明を加えた。「第二次世界大戦は、ジェヴレン人の計画では核戦争になるはずでした。そのための科学、政治、社会、経済上の条件は全部ととのっていました。結局は計画どおりにはなりませんでしたけれども、危ないところでした。本当に、もう一歩という瀬戸際まで行ったのです」
テューリアン人の間に新たに驚嘆のざわめきが走った。それが静まるのを待って、ヘラーはやや声を落として発言のまとめにかかった。
「その後、対立は五十年の長きにわたりました。しかし、その間ジェヴレン人たちは努力を続けたにもかかわらず、ついに彼らが意図した地球の破局は訪れませんでした」ここから先はまったくの推断だったが、彼女は声の調子を変えずに続けた。「ジェヴレン人はいずれ宿敵地球と対決する日がやって来るに違いないと判断しました。この時期を境に、彼らは地球の軍事色を極端に誇張しはじめたのです。そして、地球の脅威を口実に、自分たちはひたすら防衛力の増強を図りました。一方、地球に対しては再び戦術を転換して、緊張緩和、軍縮を推進しました。加えて地球人が本来の希望に従って資源と人材を創造的に活用することを奨励したのです。その狙いは、言うまでもなく、地球を丸裸の標的にすることです。自分たちの軍備拡張を正当化するために、ジェヴレン人たちはテューリアンに伝送する報告にどんどん手を加えて、最後にはジェヴエックスの記憶にしかない架空の世界を作り上げるまでになったのです」
ヘラーはここでもう一度言葉を切ったが、室内は水を打ったように静まり返ったままだった。彼女はいきなり正面からジェヴレン人たちを指さして精いっぱい声を張り上げた。
「地球人が殺戮を好むなどと、いったいどこを押せばそんな言葉が出るのです? 地球の歴史を血に染めた唾棄すべき暴力行為がすべてジェヴレン人工作員の策謀の結果であったことを、誰よりもよく知っているのはあなたがたではありませんか。あなたがたは、かつて惑星地球の支配者たちが殺害した人民をすべて含わせたよりももっと大規模な殺戮をやってのけたのです」彼女は低く落とした声に険を帯びて言った。「ところが、〈シャピアロン〉号の予期せぬ出現でジェヴレン人の計画は根底から覆される破目になりました。ガニメアンがテューリアン世界と接触することを許せぱ、これまでの偽りはことごとく暴露されてしまいまず。ジェヴレン人が〈シャピアロン〉号のことをテューリアンに秘密にしていた本当の理由はそこにあったのです」
ただでさえ土気色だったブローヒリオの顔は見る間に蒼自に変わった。ワイロットは顔に血が上って苦しげに息を乱し、エストードゥは脂汗を流してわなわなとふるえていた。部屋の向う側では、ガルース、シローヒン、モンチャーの三人が、いよいよ出番が近付いたことを察して膝を乗り出していた。
「さて、問題はその〈シャピアロン〉号です」ヘラーはわざとらしいほど穏やかな声で言いながらも、ジェヴレン人たちを見据える目は異様な光を帯びていた。「先程、〈シャピアロン〉号を破壊したのは地球人であると匂わせる発言がありました。しかし、その発言の根拠をなすものは今見て来たとおり、ことごとく偽りでず。〈シャピアロン〉号は六ヶ月間の地球滞在中、ただの一度も危険にさらされたことはありません。それどころか、地球人とガニメアンの関係はこの上もなく友好的でした。そのことを示す証拠は山とあります」彼女はちょっと間《ま》を置いて続けた。「しかし、地球人が宇宙船とその乗員に決して危害を加えなかったことを明らかにするのに記録や物的証拠に頼る必要はありません。そんなものよりも謡かに雄弁な証拠があるからです」
ガルースたちはきっと体を堅くした。今しもカラザーはヴィザーに合図を送ろうとするところ.だった。
ジェヴレン人たちはふっと消え失せた。
掻き消すように、というのはまさにこれだった。皆の口から驚きの声が洩れた。少し経ってヴィザーが告げた。「ジェヴェックスは接続を絶ちました。交信の手だてはありません。いくら呼んでも応答がありません」
「どういうことだ?」カラザーは訊き返した。「ジェヴレソとは通信が杜絶したのか?」
「惑星ジェヴレンは外部との接触を絶ちました。ジェヴレン世界は孤立しています。ジェヴェックスはこちらとの通信を遮断して、単独のシステムになりました。ジェヴェックス系の宇宙ゾーンとは交信はもちろん、知覚伝達も含めていっさいの情報移動は不能です」
テューリアン人たちの動揺はこれが極めて異常な事態であることを語っていた。ハントはふり返った。不思議そうな顔のダンチェッカーと目が合った。ハントは肩をすくめた。「ジェヴェックスは国交断絶に踏み切ったと見えるね」
「どういうつもりだろうか?」ダンチェッカーは尋ねた。
「さあねえ。まあ、言うなれぱ籠城かね。彼らはジェヴェックスに管理された自分たちの世界に閉じ籠って、外部との接触を絶っているんだろう。こうなると、宇宙船で乗り込まない限り、談判はできないわけだ」
「そんなのんきな話じゃあないんじゃないかしら」リンがハントの隣で言った。「ジェヴレニーズが銀河警察をもって自ら任じているとしたら、この先ちょっと厄介よ」
テューリアン人たちは沈痛な面持で押し黙っていた。カラザーとショウムはあたりを憚《はばか》るようにそっと視線を交わした。イージアンは顔を伏せて、調子《ばつ》が悪そうにしきりに手の甲をこすっていた。地球人と〈シャピアロン〉号のガニメアンたちはどうして艮いやらわからず、ただ何かを待つ顔つきで彼らを眺めやっていた。やがて、カラザーは溜息を吐いて顔を上げた。
「ジェヴレニーズから真相を引き出したあなたがたの手腕は実に見上げたものです。ただ、一つだけその推論に誤りがあります。勢力を伸ばそうとする地球の脅威はもとより、その他のいかなる理由によっても、ジェヴレニーズは防衛力強化を言い出したことはないのです」
ヘラーは、それがどうした、という表情で腰を降ろした。「彼らがどんな人種かは今の話でわかったはずですね」彼女は言った。「彼らが密かに軍備を拡張していなかったとどうして言いきれますか?」
「たしかに、断言はできません」カラザーは一歩譲った。「もし彼らが軍備を増強していたとすれば、これはテューリアンと地球の両人種にとって極めて深刻な事態です」
コールドウェルは面喰った。彼は頭の中を整理するふうにしばらく眉を寄せ、ヘラーの顔も窺《うかが》ってから、カラザーに向き直った。「しかし、彼らが虚偽の情報をでっち上げた理由はそれだとわたしらは解釈している。そうでないとしたら、他に何か理由があるのかね?」
テューリアン人一同はますます困惑の態度を示した。ショウムはカラザーの顔を覗《のぞ》き込み、何やらもうこれ以上は隠しておけないという仕種で両手を拡げた。カラザーはなおも躊躇《ためらい》いを見せたが、ついに重たくうなずいた。
「ジェヴレニーズが情報を偽った理由はもう明らかです」ショウムが部屋全体を見渡して言った。何事かを待ちかまえる緊張に室内はしんと静まり返った。ショウムは深く息をして言葉を続けた。
「それには、さらに込み入った事情があるのです。わたしたちはこれまで……」彼女はガルースたちのほうにちらりと目をやった。「その点については皆さんにいっさい伏せておくことが賢明であると判断して来ました」ガルースたちも、地球人たちも、じっと黙ってその先を待った。
「久しい以前から、ガニメアンの子孫であるわたしたちテューリアン人は、ミネルヴァの亡霊が甦《よみがえ》ることを恐れていました。もし、そのようなことが起これば、今度はあの悪夢が銀河系全域を巻き込むのではないかと危懼《きく》しないわけには行きません。今から一世紀足らず前、ジェヴレニーズはわたしたちより一世代前のテューリアン人に、地球がまさにそのような脅威の存在になりつつあると説いて、地球を永久に封じ込めることの必要を認めさせたのです。これを受けて、テューリアン側は有事対応策の具体化に取りかかりました。ジェヴレニーズの虚偽の情報でテューリアンは地球脅威論を真に受けていましたから、計画の実現に力を入れました。その時点で地球の実状が正しく伝わっていたら、テューリアンは有事対応計画などはじめから問題にもしなかったはずです。今にして思えばジェヴレニーズは明らかに、競争相手である地球を永久に封じ込めて、将来銀河系の覇権を一手に握るためにテューリアンの技術を自家薬籠中《じかやくろうちゅう》のものとする狙いで情報を偽っていたのです。ブローヒリオの言う最終的解決とはこのことなのです」
地球人たちにはショウムの言うことがぴんと来なかった。
「どうも、よくわかりませんね」ダンチェッカーがたまりかねて尋ねた。「地球を封じ込めるとはどういうことですか? まさか、武力に訴えるというのではないでしょう」
カラザーはゆっくりとかぶりをふった。「それはガニメアンの流儀ではありません。だから、対決ではなく、封じ込めなのです。わたしたちはこれをはっきり区別しています」
ハントは眉を寄せてカラザーの言わんとする意味を汲もうと努めた。地球を封じ込める? もはや手遅れではないか。人類はすでに地球を離れて行動半径を拡げつつあるのだ。だとすれば……まさかと疑いながらもハントは驚ぎの目を瞠《みは》った。いくらテューリアン人でもそこまで大きな発想を抱くはずはない。「太陽系を……?」カラザーの顔を見てハントは思わず声を発した。
「まさか、太陽系全体をそっくり封じ込めると言うのではないでしょうね」
カラザーはものものしくうなずいた。「ガニメアン重力工学の応用で、わたしたちは、重力傾度の極めて険しい殻《シェル》によって大きな宇宙空間を包み込む技術を開発しました。この重力殻は地球人の旺盛な闘争心をもってしても破ることはできません。いや、光さえもこの殻を透過することはできないのです。璽力殻内部には何の変化も起きません。地球人はこの殻の中で何をしようとまったく自由です。殻の外で、わたしたちもまたわたしたちの道を自由に往《い》く……」カラザーはひとわたり室内を見回し、他の者たちの驚愕の視線を毅然として受け止めた。「それがわれわれの最終的解決となるはずだったのです」
28
かくてガニメアンはその長い種の歴史を通じてはじめて戦争を体験することになった。厳密には戦争とは言えないが、情況は彼らにとってほとんどそれに等しく、呼び方などはこの際問題ではなかった。テューリアン側の迅速果断な対応は実に驚異と言う他はなかった。カラザーはヴィザーに命じて、テューリアンとその周辺のガニメアン領に在住するジェヴレン人に対するいっさいのサービスを停止した。生まれた時から情報の瞬時伝達はもとより、何光年という距離すら情報化による瞬間移動で自由に行き来することを当たり前として来た大勢のジェヴレン人がたちまち身動きもできなくなった。生活のすべてを情報と機械に頼っていた彼らは突如として右も左もわからない、まったく体験のない社会に投げ出されたのと同じであった。彼らは孤立し、行動の術を知らず、恐慌を来たした。数時間を経ずして、無力なジェヴレン人たちは残らず逮捕抑留された。抑留はガニメアンが彼らの扱いについて方針を決めるまで、身心の安全と健康を守るための処置でもあった。だから、捕虜と言うのは当たらない。こうしてガニメアン世界に散らばっていたジェヴレン人は僅《わず》かな時間で全員が収容された。第五列の暗躍の余地はなかった。残る相手は惑星ジェヴレンとジェヴェックスによってそれに結ばれた衛星世界だけである。ところが、これが思いの他に難攻不落であった。ハントがはじめに言ったように、宇宙船を送り込んで攻めるというわけには行かなかったからである。
問題はジェヴレンがジャイスターから何光年も離れていることだった。宇宙船を派遣するにはヴイザーが投射ずる環状プラックホールを潜らせるしかない。ところが、ヴィザーがジェヴェヅクス系のゾーンにテスト・ピームを発射すると、ジェヴェックスは苦もなくこれを遮断した。ジェヴレン入がかなり以前からテューリアンとの国交断絶に備えていた証拠である。ジェヴェックスのビーム遮断能力がおよぶ範囲の僅か手前にプラッグホールで宇宙船を送り込み、そこから通常空間を接近する作戦も現実的ではなかった。何となれば、テューリアソ宇宙船は動力も制御もすべて中央発動管制センターからテューリアンh-グリッドを経て送られるビームに頼っているからである。このビームもジェヴェックスは容易に遮断するであろう。つまり、ジェヴェッグスが稼動している限り、何ものもジェヴレン圏に侵入することはできず、ジェヴェックスの稼動を停止させるには、その手段となる何かをジェヴレソ圏に送り込まなくてはならない道理である。テューリアンはここで行き詰まった。
加えて一層深刻なのは、ジェヴレニーズはかねてからこのことあるのを予期して兵器を大量に準備していたに違いなく、彼らの宇宙船は自航自動制御能力を備えていると考えられることである。ジェヴレン勢は何の障害もなくヴィザーの管理下にあるテューリアン圏に侵入して勝手放題、暴虐の限りをつくすであろう。決め手は時間だった。テュリオスでの決裂はジェヴレンの離反を予定より早めたであろうことは明らかである。テューリアンの行動が速《すみ》やかであればあるほどジェヴレン側の立ち遅れに付け込むチャンスは大きい。とは言うものの、いまだかつて外界と戦火を交えたこともなく、兵器の備えもないテューリアソ人にいったいどんな行動を期待できたろう? 仮に戦闘能力があったとしても、敵の勢力圏に接近することが不可能では、まったく手も足も出ないではないか。何ら方策の目処《めど》も立たぬままいたずらに時間が過ぎて行ったが、テュリオス会談決裂からまる一日を経た頃、ガルースとシローヒン、それにイージアンがカラザーに内談を申し込んだ。
「気を悪くしないでもらいたいのだが、きみたちは明白な事実を忘れている」ガルースは言った。
「ジェヴレン人はテューリアンの先進技術の中にどっぷりと漬かっているから、別の視点からものを考えられないのだ」
カラザーは両手を上げて一同をなだめた。「まあ落ち着いて。そんなに腕をふりまわさないでくれないか。いったい何が言いたいのかね?」
「ジェヴレンに侵入する手段は、今この瞬間、テューリアン上空の軌道にあるということです」シローヒンが進み出た。「〈シャピアロン〉号です。あなたがたの目には旧式と映るでしょうが、あの船は自航能力があります。ゾラックの航行操作制御は完壁です。h-グリッドからビームで遠隔操作する必要はないのです」
カラザーは茫然としてしばらくは声もなかった。言われてみれぱそのとおりである。ジェヴェックスが接続を絶ってからぶっ通しで対策会議を続けていながら、テューリアン科学者の誰一人、〈シャピアロン〉号の存在を考えた者はない始末だった。それにしても、あまりにも安直な話ではないか。どこかに穴があるのではなかろうか。カラザーはイージアンをふり返り、無言のうちに意見を求めた。
「行けますよ。絶対です」イージアンは言下に答えた。「シローヒンが言うとおり、ジェヴェツクスは〈シャピアロン〉号の侵入を食い止められません」
この提案の裏にはもっと深い何かがある。ガルースの表情を窺《うかが》ってカラザーは直観した。ガルースは口に出さなかったが、ジェヴェックスは〈シャピアロン〉号のジェヴレン圏侵入を阻止できないとしても、ひとたび圏内に入った同号を攻撃する手段にはこと欠かないというのもまた明白な事実ではないか。昨日、ガルースはジェヴレン人との対決を目前にして逸《はや》る心を抑えかねていた。最後の土壇場で相手に逃げられて、彼は地団駄踏んで口惜しがったのだ。ガルースは自分自身ばかりか、宇宙船と乗組員を危険にさらしてまで、ブローヒリオに対して無謀な私的復讐を企らんでいるのだろうか? カラザーにしてみれぱ、そんなことは許せるはずもなかった。
「いいや、自力で航行しようとどうしようと、〈シャピアロン〉号は撃墜される」彼は抑えつけるように言った。「ジェヴレンは全惑星系に探査体を配備して監視態勢を取っているに違いないからな.そんなところへ迂闊《うかつ》に宇宙船を送り込むわけには行かない。〈シャピアロン〉号はテューリアンと交信できないし、自衛のための武器一つ積んでいないではないか。そんな船が……」彼はみなまで言わず、あとは顔つきで拒否の姿勢を示した。
「その点でしたら技術的に解決できます」シローヒンが言った。「〈シャピアロン〉号の舟艇何隻かにジェヴェックスには探知されない低出力のh-リンク通信機を積んで、本船の前方二十マイルあたりに展開させるのです。舟艇と本船のコンピュータの聞には超光速双方向通信が確保されます。ゾラックが相殺電波を発信して、舟艇は本船から反射される光波とレーダー波長の電波と合わせて、これを位相のずれた信号として前方へ飛ばすのです。これで然るべき距離を隔てれぱ、どの角度から探知電波を受けても、相殺効果で向うの計器のふれはゼロです。つまり、〈シャピアロン〉号は電磁波上、覆面宇宙船となるわけです」
「しかし、h-スキャンに影が出るだろう」カラザーは納得しなかった。「ジェヴェックスは宇宙船メイン・ドライヴのストレス場を検知するぞ」
「メイン・ドライヴで航行することはありません」シローヒンは引き下がらなかった。「ヴィザーのブラックホールを潜る間に超空間で加速されますから、向うへ飛び出してから慣性で、一日でジェヴレン圏に達します。接近したら補助ドライヴで減速して姿勢を立て直せぽいいのです。補助ドライヴならストレス場はまずほとんど検知されません」
「その場合も、環状ブラックホールを惑星圏外に設定しなくてはならない」カラザーは言った。
「重力場の大擾乱をジェヴェックスが見逃すはずはないな。当然、こっちの動きは読まれてしまう」
「無人宇宙船を囮《おとり》として二、三基送り込めぱいいでしょう」シローヒンば即座に言い返した。「ジェヴェックスは無人の宇宙船を撃墜して、それで事は終わりと判断するはずです。〈シャピアロン〉号から注意をそらすのに、囮を使うのは実に上手い作戦だと思います」
カラザーは何としてもこの提案が気に入らなかった。彼は三人に背を向け、後ろ手を組んでゆっくり室内を歩きながら壁を睨《にら》んで思案した。彼は科学技術には疎《うと》かったが、素人なりに理解する限り、作戦は理論的には見込みがあると思われた。テューリアン宇宙船は必ず環状プラックホールの発生に伴う擾乱現象を緩和して、その規模を最小に止めるための緩衝装置を搭載している。それ故、宇宙船は通常空間を一日飛んだだけで、超空間を潜って惑星圏外に出ることができるのだ。〈シャピアロン〉号の時代にはまだそのような技術はなく、従って緩衝装置は積んでいない。同船が太陽系を脱出ずるのに何ヶ月もかかったのはそのためである。カラザーは、しかし、これもまた技術的に容易に解決できる間題であることに気が付いた。〈シャピアロン〉号に緩衝装置を搭載するにはほんの二、三日もあれば充分である。それに、他に技術上の困難があったとすれば、イージアンが早々と指摘しているはずである。
作戦の狙いについては説明を乞うまでもない。ジェヴェックスはヴィザーと同様、惑星圏を広大な通信網で覆いつくしている。超通信グリッドの他に、このシステムはジェヴレン周辺の近距離ローカル通信用に、通常の電磁波信号を用いており、そのビームも惑星表面に稠密《ちゅうみつ》な網を拡げている。テューリアン側がビームのどれか一つ、できれぱいくつかのビームに一般の通話を装って接続を確保すれば、ジェヴェッグスの中央演算装置に直結してシステムを内部から破壊し得るであろう。作戦が成功すれば、ジェヴレン世界の全機能が麻痺する。前日、テューリアン在住のジェヴレン人社会で小規模に起きたと同じ状態がジェヴレン圏全域を襲うのだ。しかし、ジェヴレン通信網の情報を傍受する装置を具体的にどこにどう設置するか、これはなかなかの難題だった。イージアンの率いる技術陣は前の日からこの間題を検討しているが、まだこれと言った妙案はない。 カラザーは三人に向き直った。「わかった。侵入手段についてはきみたちの考えに万事遺漏ないようだな」彼はひとまず譲歩した。「これからわたしの言うことに抜けている点があったら指摘してもらいたい。まず、ジェヴェックスのように超大規模なシステムの機能を破壊するとなると、こちらのコンピュータの能力もそれ相応に大きなものでなくてはならない。ゾラックではとうてい歯が立つまい。実用システムで見込みがあるのはヴィザーだけだ。ところが、ヴィザーはh-リンクを必要とするからゾラックとは結合できない。ジェヴェックスが稼動している限りh- リンクは使えないのだからな」
「そいつはやってみないことには何とも言えません」イージアンはカラザーの指摘する困難を認めた上で言った。「しかし、ゾラッグは何もジェヴェックスのシステム全体を破壊する必要はないんです。ヴィザーを向うの心臓部に直結するチャンネルを確保すればそれで充分なんですから。それにはまず、〈シャピアロン〉号とその舟艇にヴィザーとh-リンクで結合する装置を積み込むことです。舟艇を散開してジェヴェックスのチャンネルを複数ヶ所で傍受するのです。ゾラッグがジェヴェックスのhーリンク妨害機能プロヅクまで食い込んだところで、ゾラック経由でヴィザーの撹乱情報をどっと流し込んでやればいい。ジェヴェックスは八方から叩かれる恰好です。あとはヴィザーが何とでもしますよ」
成算はなくもない。カラザーは内心うなずかざるを得なかった。どこまで可能性を見込めるかはわからないが、チャンスはチャンスである。言い出したのはガルースだが、これまでに提案されたどの作戦よりも現実的である。しかし、ジェヴェックスという全能の魔神が支配する敵領域に、それにくらべればいたいけた子供のようなゾラックを積んだ、身を守る術もない〈シャピアロン〉号を単独で派遣することを思うとカラザーはぞっとした。三人の厳しい視線を意識しながら、彼はゆっくり部屋の中央に戻った。ガルースたちの表情を見れば、彼が何と答えることを期待しているかは明らかだった。「もちろん、〈シャピアロン〉号をどのような危険にさらすことになるかは承知の上だな?」彼はガルースに向かって重々しく言った。「ジェヴレン側がいかなる態勢で迎え撃つかはまったく予測の外だ。ひとたびジェヴレン圏に侵入したら、仮に進退|谷《きわ》まったとしても、もう救出の手だてはないのだぞ。相手方に知られずにテューリアンと連絡を取ることはできない。連絡を取ればたちまち交信は妨害される。〈シャピアロン〉号は孤立無縁だ」
「わかっているとも」ガルースは答えた。その顔は厳しく、声はいつになく険しかった。「わたしはやる。ガニメアンたちについて来いと言うつもりはない。来るか来ないかは各人の意志に任せる」
「わたしの気持はもう決まっています」シローヒンが言った。「全員が作戦に参加する必要はありません。しかし、有志は必要な数を上回るでしょう」
カラザーはすでに彼らの隙のない論理に屈していた。事態は急を要している。ジェヴレン人の野望を打ち砕く行動は一日早けれぱそれだけ効果も大きいのだ。とはいえ、ガルースとその配下の技術者たちは、ジェヴェックスを向うに回して戦いを挑むにはテューリアンのコンピュータ技術について知識が不足していることは否めない。作戦にはどうしてもテューリアンの技術者の参加が必要である。
カラザーの心中を読み取ったかのように、イージアンが低く言った。「わたしも行きます。わたしの部下にも有志は多すぎて断りきれないほどいます。その点はわたしが保証します」
長く重苦しい沈黙が流れた。シローヒンが言った。「グレッグ・コールドウェルはむずかしい決断を速やかに下す彼一流のやり方を持っていますね。問題自体の難易はひとまず措いて、他にこれに代わる手段があるかどうかを考えるのです。代案がないとなれば、それで決まりです。今がちょうど同じ情況ですね」
カラザーは深い吐息を洩らした。彼女の言うとおりだった。危険は大きい。しかし、今ここで行動を起こさず、先へ行ってさらに計画を推し進め、陣容をととのえたジェヴレンと対決しなくてはならないとしたら、そのほうがもっと危険は大ぎいのだ。
「どう思う、ヴィザー?」
「全面的に賛成です。特に、最後の決断についてのくだりは説得力があります」ヴィザーは答えた。
「ジェヴェックスと渡り合う自信があるか?」
「まあ、任せておいて下さい」
「ゾラックだけを足場に、充分機能できるのか? ジェヴェックスを麻痺させられるか?」
「麻痺させる? 八つ裂きにしてやりますよ」
カラザーは驚きの目を瞠《みは》った。ヴィザーは少々地球人と付き合いすぎたのではあるまいか。カラザーは表情を引き締めて思案に耽《ふけ》り、やがて、一つきっぱりとうなずいた。決断は下った。彼は打って変わっててきぱきとした態度になった。「作戦の成否は時間一つにかかっている。時間の計算はどうだ? 予定は立っているのか?」
「人員の選択および命令伝達に一日。ジャイスター系離脱の時間を縮小するために〈シャピアロン〉号に重力場緩衝装置を搭載するのに五日。母船と舟艇にh-リンクおよび煙幕用の通信機を装備するのに五日」イージアンが即座に答えた。「もっとも、これは平行して進められますし、テストは航行中に行なえます。ジャイスター系離脱に一日。プラックホールの出口からジェヴレソまでが一日。これに、ヴィック・ハントのいわゆるマーフィ・ファクター、すなわち予備の一日を加えて、テューリアン発進は六日後の計算です」
「いいだろう」カラザーはうなずいた。「時間が決め手ということで意見が一致したならば、善は急げだ。直ちに行動を開始しよう」
「もう一つ、話しておきたいことがあるのだが」ガルースは言いかげて口ごもった。
カラザーは一呼吸待って先を促した。「何かね、司令官?」
ガルースは両手を拡げて、すとんと落とした。「地球人のことだ。このことを知れば必ず参加を申し出る。わたしにはよくわかっているのだよ。彼らはパーセプトロンで体ごとテューリアンへやって来て、作戦に参加させろと言うに違いないのだ」彼は同調を求める目つきでシローヒンとイージアンをふり返った。「しかし、この戦いは……ガニメアン科学の現場における純粋な技術戦だ。地球人にははっきり言って出る幕がない。彼らをいたずらに危険にさらしたところで意味がないし、それ以上に、今度のことでわれわれは地球からの情報に非常に多くを負っている。おそらく、この先も、地球に頼る場面が出て来るだろう、つまり、この際マクラスキーとの交信を絶つことは何としてもできないということだ。マクラスキーにいてくれれぱ地球人には重要な役割もある。だから、わたしは彼らが参加を希望して来ても認めたくない。これは何よりも彼ら自身のために言うことだ」
カラザーはガルースの目に、ブローヒリオが〈シャピアロン〉号撃墜のことを認めた時に浮かんだと同じ色が走るのを見た。カラザーの思ったとおりだった。ガルースは個人的にブローヒリオに決戦を挑む覚悟なのだ。ガルースは他人を巻き添えにしたくない。ハント以下、親しい地球人は特に遠ざけておきたいのだ。カラザーはシローヒンとイージアンの表情を窺《うかが》った。二人ともガルースの胸中は読んでいるに違いなかった。しかし、それを口にしてガルースの権威と自尊心を傷付けるような二人ではない。カラザーにしても同じである。
「よくわかった」彼はうなずいた。「きみの意志に沿うようにしよう」
29
ソヴィエトの軍用ジェヅト機は夜の闇に紛れて、フランツ・ヨーゼフ・ラソドと北極の間の氷原をかすめて北へ向かった。クレムリン内部とソヴィエト連邦の支配階級の間に表面化した対立は深まりこそすれ和解の兆はなく、連邦構成国もまた二派に割れて睨《にら》み合いの状態が続いていた。そのような中で、ジェット機は夜陰に乗じて密かに離陸したのであった。ヴェリコフは武装した護衛兵二人に挟《はさ》まれて暗いキャビンの最後部に端然と坐っていた。数人の将校らば、あるいは微睡《まどろ》み、あるいは声を落として何やら深刻らしく話し込んでいた。ミコライ・ソプロスキンは窓外の闇に目をやりながら、過去四十八時間の驚嘆すべき事態をふり返った。
異星人たちは尋問に持ちこたえられなかったと判断してよさそうだった。少なくとも、ヴェリコフは白を切り通せなかった。そう、ヴェリコフは異星人だったのだ。姿|容《かたち》は地球人と見分けが付かなかったが、彼はテューリアン世界の地球監視組織の一員であり、人類の歴史を通じて社会に潜入し、進歩を阻害する工作を続けて来たジェヴレンの密使の片割れだったのだ。ニールス・スヴェレンセンもまたその一人である。地球の軍縮は、彼らがジェヴレン人を後ろ楯に支配の座に着くための地ならしで、スヴェレンセンはジェヴレンの属領となった地球の太守に任ぜられることになっていた。地球はいずれ非産業化され、ジェヴレン貴族の保養地と、功労者に褒賞《ほうしょう》として与えられる別荘地にされる予定であったという。そのような地球で、労働とサービスからあぶれた多数の入口の生活はどのようにして支えられるのか、ジェヴレン人がどんた政策を用意していたかについては説明されていない。
以上のことが明らかにされると、ヴェリコフの命の値段は急落した。身の安全を図って彼は地球側に寝返り、嘘ではない証拠にジェヴレンと地球工作員を結ぶコミュニヶーション・リンクの詳細を暴露した。 コネティカットのスヴェレンセンの私邸内に設置された通信機は、妨害工作の隠れ蓑《みの》となっているアメリカのさる建築会社のジェヴレン人技術者によって完成されたものであるという。この通信機によってスヴェレンセンはテューリアン人が月の裏側の地球人と密かに続けていた交信の中身を逐一ジェヴレンに報告し、ジェヴレンから指示を仰いで地球側の応答に手加減を加えていたのである。これまでのところ、ヴェリコフはノーマン・ペイシーの話にあったアメリカのチャンネルについては何も知っていない、とソプロスキンは判断した。ジェヴレン人の恐るべき情報収集能力をもってしても、この秘密には手が届かなかったのだ。
ソプロスキンは、異星人の組織を潰滅させる第一歩は、彼らがまだ事態を悟らぬうちにコネティカットの通信リングを遮断することだと考えた。言うなれば、ジェヴレン人一派の寝込みを襲う作戦である。しかし、そのためには当然、ワシントンの誰かに助力を乞わなくてはならない。ジェヴレン人の組織がどこまで根を張っているかはヴェリコフ自身も知らなかった。となると、安心して相談できるのはノーマン・ペイシーしかいない。そこで彼はソヴィエト大使館のイワソを介して、暗号文でペイシーに連絡を取った。八時間後、合衆国国務省からモスクワのソプロスキンに電話が入った。ソヴィエト外交団のホテルの予約を確認する内容であった。ソプロスキンの先のメッセージを了解したという意味である。
「着陸五分前」暗い天井のインターコムからパイロットの声が響いた。キャビンに鈍い明りが点り、ソプロスキン以下ソ連軍将校たちは煙草をポケットにしまい、書類を片付け、荷物をまとめると、外の寒さに備えて厚いコートを着込んだ。
ソヴィエト機は夜空を降下して、アメリカの科学観測基地と極地測候所を兼ねた施設の照明も寂しい飛行場に着陸した。エプロンのはずれの暗がりにアメリカ空軍の輸送機がエンジンをかけて待機し、その傍らに防寒服に身を固めた小集団がソヴィエト機を出迎えていた。キャビソ前方のドアが開いて蛇腹式の階段が地面に伸びた。ソプロスキンの一行は護衛兵二人に挟まれたヴェリコフをさらにもうひと回り取り囲む形で雪の上を進み、出迎えのアメリカ人たちの少し手前で立ち止まった。
「やっぱり、すぐまた会うことになったじゃないか」ノーマン・ペイシーは手袋のままソプロスキンと握手して言った。
「話したいことが山ほどある」ソプロスキンも挨拶代わりに言った。「きみが想像しているよりも、こいつは遙かに根が深いそ」
「さあどうかな」ペイシーはにやりと笑った。「こっちも、あれからじっと坐っていたわけじゃあない。聞いてびっくりしなさんなよ」
一行が輸送機に乗り込もうとする背後でソヴィエト機が離陸し、一直線に夜空に消えた。三十秒後にはアメリカ軍の輸送機も飛び立ち、大きく旋回して北へ向かった。北極回りでカナダから東海岸沿いにワシントンDCへ南下するはずである。
* * *
マクラスキーの夜は更けていた。基地は寝静まっている。各種の航空機が翼を休めているあたりから遼く離れて、フェンスに沿ってぽつりぽつりと夜間照明がオレンジ色の光を落としている中で、ハントとリンとダンチェッカーの三人は肩を寄せ合うようにして牡牛座のほうを見上げていた。
彼らはカラザーに食ってかかり、理をつくして考えを主張し、駄々をこね、泣き落としに訴えて、この事態は地球の問題でもあるのだと抗弁した。ガルースとイージアンが進んで危険に身をさらすなら、その危険を共に分かつことこそ地球人の名誉ある務めであると言い立てた。しかし、無駄だった。ガルースは頑としてパーセプトロンの移動を認めなかった。国連の上層部や合衆国政府に口添えを求めるわけには行かなかった。ジェヴレン人はどこにどんな顔で紛れ込んでいないとも限らない。そんなわけで、ハントらはただガニメアンの幸運を祈りながら待つしかなかった。
「馬鹿よ」しばらくしてリンが言った。「ガニメアンはこれまでに一度だって戦争なんてやったことがないのよ。それなのに、奇襲作戦で惑星を一つまるまる制圧しようなんて、いったいどういうつもりかしら。ガニメアンがそんな真似をするなんて、思ってもみなかったわ。ガルースはどうかしちゃったんじゃないかしら?」
「もう一度だけ、自分の宇宙船で飛びたいんだろう」ハントは低く吐き捨て、面自くもないというふうにふんと鼻を鳴らした。「二千五百万年も乗っていりゃあ、いい加減飽き飽きしたって不思議はないだろうになあ」
ガルースは伝説によくある艦長のように、自分の船と運命を共にする気ではないだろうかという考えが頭を過《よぎ》ったが、ハントはそれを口に出そうとはしなかった。「それにしても、実に高潔と言うべきだね」ダンチェッカーは溜息混りに頭をふった。「しかし、どうも心配だな。パーセプトロンをここから動かせないというのが第一わからない。何かの口実だとは思わないかね。わたしらは、それはまあ、技術上のことについては何の役にも立たないかもしれないが、いざと言う時にはガルースたちのために、何らかの形で手を貸すことはできるはずなんだ」
「例えば?」リンが尋ねた。
「だって、そうだろう」ダンチェッカーはわかりきったこととでも言いたげだった。「わたしらはガニメアンと親しく接して、お互い、考え方の違いをよく知っている。ジェヴレン人もいっぱしの策士か謀略家気取りでいるかもしれないが、なあに、その実、自分たちが思っている程でもないのだよ。ところが、そこを見抜いて、付け込むとなると、これには地球人の勘がなくてはどうにもならない」
「彼らは、要するにガニメアンしか知らないからね」ハントが言った。「ところが、こっちは何千年来、人間同士でやっている」
「そこだよ、わたしの言いたいのは」
短い沈黙が流れた。リンが半ばひとりごとのように言った。「こういうのはどうかしらね? ジェヴレン人たちがどんなに優秀なつもりでいるか知らないけれど、本当に能力のある相手にかかったらどんな目に遭うか、思い知らせてやるのよ。でっち上げの情報で人を騙しおおせた気になっているなら、まんまと裏をかいてやるのよ。こっちにはヴィザーが付いているんだから、方法はあるはずでしょう」
ハントは眉を寄せた。「何の話だ、いったい?」
「自分でもよくわからないけれど」リンは曖昧《あいまい》に言って肩をすくめた。「ジェヴェックスはずっと前からテューリアンに偽の情報を吹き込んでいたんでしょう。だから、こっちも同じことをしてやったらいいんじゃないかって……ちょっとそんなふうに思ったのよ。別に深い意味があるわけじゃないわ」
「同じことをしてやるって、何を?」ハントはまだ呑み込めなかった。
リンは遼い夜空を見上げた。「ねえ、これは本当に、たとえばの話よ。ジェヴェックスがでっち上げた地球の兵器や爆弾の偽情報はそっくりどこかに記憶されているわけでしょう? でも、その記憶装置には監視組織が収集した地球に関する正確な情報も貯えられているはずね。つまり、ジェヴェックスは地球のことを知りつくしているのよね。でも、偽の情報と正確な情報はどこで区別するのかしら? どっちがどっちか、何で見分けるの?」
「さあねえ」ハントは気のない返事をした。「何か、呼び出し符号で区別するシステムがあるんだろう」
「そう、それよ」リンはうなずいた。「ねえ、もしジェヴェックスの検索システムがわかって、呼び出し符号を書き替えてしまったら、ジェヴェックスは何が何だかわからなくなるんじゃないかしら? ジェヴェックスは自分の嘘を信じ込むはずよ。ジェヴェックスが突拍子もないことを言いだしたらどうなると思う? ブローヒリオたちは大騒ぎよ。わたしの言うことはわかるでしよう? ちょっと見物《みもの》だと思うわ」「それは面白い」ダンチェッカーが関心をくすぐられた様子で呟いた。その顔に意地悪な笑いがじわりと拡がった。「カラザーにその話をしてやれなかったのは残念だね。非常時かどうか知らないが、それならガニメアンは飛び付くよ」
ハントもこみ上げる笑いを抑えきれなかった。やるならもっと徹底的にやったほうがいい。ヴィザーをジェヴェッグスの記憶装置に直結させることができれば、そこから先は造作もない。ヴィザーを通じていかにもありそうな話を派手に吹き込んでやれぱいいのだ。さらに、ジェヴェックスの地球監視データ入力システムに結合すれば、ヴィザーは思いのままにジェヴェックスを騙すことができる。ジェヴレンを銀河系から叩き出すために地球から全宇宙艦隊が発進しようとしていると信じ込ませるくらいは朝飯前である。ダンチェッカーに言わせるまでもなく、これは面自い。
「テューリアンと条約を結んで、地球軍はプラックホールでジェヴレン討伐隊を派遣する、というのはどうかね」ハントは言った。「ジェヴェックスは、何日後に地球軍が来襲すると大真面目に発表する。記憶が狂っているから、前々から並べ立てて来た嘘八百とは矛盾しないな。ジェヴレン人どもは、まさかとは思うけれども、ジェヴェックスが狂っているとは知らない。生まれてこの方ジェヴェッグスを疑うなどということはただの一度もない連中だからね。さあ、そうなるともう何が何だかわけがわからない。ブローヒリオはどうするだろうかね」
「心臓発作でひっくり返るわよ」リンは言った。「どうかしら、クリス?」
ダンチェッカーは急に眉を曇らせた。「わたしには何とも言えないね。しかし、これこそまさに、わたしが前から言っていることを絵に描いたような実例だよ。敵を欺《あざむ》く謀略は持って生まれた人間の知恵のようなものだ。ところが、ガニメアンにはそれがない。彼らは正面から乗り込んで、もろにジェヴェックスを叩き壊そうとするだろう。ガニメアンの論理は常にまともで一直線だ。彼らは上手く立ち回るということを知らない。例えば、ジェヴレン人が、ジェヴェックスが故障しても独自に機能する予備《バックアップ》システムを用意しているとしたらどうなると思う? 〈シャピアロン〉号は仮に奇襲攻撃に成功してジェヴェックスを破壊したとしても、そのことによって丸裸で敵の銃口の前へ飛び出す結果になるのだよ。わたしの言う意味はわかるだろう?」ダンチェッカーはしかつめらしく二人の顔を見比べてから言葉を続けた。「ところが一方、もし彼らの作戦がジェヴェックスを破壊することではなしに、さっきぎみたちが言ったように、情報を操作してジェヴレン人を混乱に陥れることだとすれば、その場合はどさくさに付げ込んでさらに敵を撹乱する望みもあるだろう。しかし、どうやらこのままではそういうことにはなりそうもないね」ダンチェッカーは再び暗い空を仰いで悲しげに頭をふった。「残念ながら、心優しいガニメアンがそんた老獪《ろうかい》な戦術を取るとはとうてい思えない」
ハントの顔からたちまち今しがたの喜色が影をひそめた。ガニメアンと地球人のために彼は努力した。コールドウェルも、ヘラーも頑張った。しかし、努力が足りなかったのではないかというしっくりしない気持は胸のどこかにくすぶり続けていたのだ。ダンチェッカーの発言を聞きながら、ハントは自分も同じ不安を抱きながら敢《あ》えて目をつぶっていたのだということをはっきり悟った。「一緒に行くべきだったな」彼は肩を落として言った。「グレッグを焚《た》きつけて、何としてでもガニメアンを説得するべきだったんだ」
「説得したところで無駄だったろう」ダンチェッカーは言った。「ガルースがブローヒリオと決闘する気でいるのがわからないのかね? だから、彼は信義として他人を巻き添えにしたくなかったのだよ。カラザーはそれを知っていた。こっちが何を言っても通じないさ」
「そういうことらしいな」ハントは吐息を洩らし、また牡牛座の方角に目をやった。やがて、彼はきっぱり妄想を絶って左右をふり返った。「だいぶ冷え込んで来た。中へ入って、コーヒーでも飲もう」
何光年もの彼方で〈<シャピアロン〉号はひっそりとテューリアン上空の軌道を離れた。ヴィザーは一日余り同船を追尾し、宇宙船がジャイスター系を後に超空間を潜り抜け、ジェヴェックス管理下のジェヴレン圏の外周に移動するのを見届けた。無人の囮宇宙船二隻に動力と制御情報を送るビームはたちまちジェヴェックスに遮断された。囮船がジェヴレン圏のはずれを漂流する間に〈シャピアロン〉号は距離を稼ぎ、やがて、敵の星を覆い隠す不可入性の界面を突き抜けてヴィザーの視野から消え去った。
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宇宙空間に浮かぶ構造物は一辺の長さが五百マイルを超える中空の六面体であった。各頂点から胴回り二十マイルの柱が対角線に沿って伸び、中央の直径二百マイルの球状物体を支えていた。箱形の表面には大小の突起があり、肋材《ろくざい》の一部が覗《のぞ》き、ドームに似た脹《ふくら》みもあった。突起物はまっ黒で、角度によっては銀色に光って見えた。中央の球体と支柱の一部に巨大なコイルが絡《から》みついている。これを一つの単位として、まったく同じ構造のものが二千マイルの間隔で一列に並び、目の届く限り、宇宙の果てまで続いていた。
元テューリアンの属領ジェヴレン連邦の首相であり、今は独立を宣言したジェヴレン公国の大公、イマレス・ブローヒリオはジェヴレン軍最高司令官の黒い制服に身を固め、腕組みをして、数千マイル上空の宇宙船の司令ドームからその光景を眺めやっていた。遙か斜め下に衛星アッタンがテニスボールを腕いっぱいに掲げたほどの大きさで、黒ずんだあばたの三日月となって顔を覗かせていた。ワイロット以下ジェヴレン軍の各方面軍司令官らがエストードゥと何人もの文官顧問たちと共に背後に控え、一方にニールス・スヴェレンセンとカドリフレクサー建設計画技術調整者フェイロン・タールが苦りきった顔で立っていた。
ブローヒリオはドームの外を指さし、タールを睨《にら》みつけて厳しく言い放った。「日程を大幅に繰り上げなくてはならないことになった。そのつもりでやってもらいたい」
「このように大規模な作業は、命令一つで簡単に工期を短縮できるという性質のものではありません」タールは抗議した。「カドリフレクサーはあと五十ユニットを完成させなくてはなりませんが、それには昼夜兼行で突貫作業を進めても、少なくともまだ二年は……」
「二年は聞題外だ」ブローヒリオは極《き》め付けた。「わたしは今、きみにはっきりと要求した。今日中に確答しろ。要求に応える形でだ。そのために計画をどう変更するか、具体的に提示しろ。公国は目下戦時経済体制にある。必要な資材は優先供給するぞ」
「いえ、資材の間題ではありません」タールはなおも抗弁に努めた。「エネルギーです。それだけ大量のカドリフレクサーを現場に運ぶには二年では無理です。グラロートの試算では……」
「クラロートは解任した」ブローヒリオは言った。「計画は今、軍の監理下にある。すでに非常事態宣言によってジェネレーター・バッテリーの拡張が決定されている。エネルギーの供給に支障はない」
「しかし……」まだ何か言いかけるタールをブローヒリオはいらだたしげに手をふって遮《さえぎ》った。
「二十四時間の猶予を与える。技術陣と対策を協議しろ。明日のこの時間にジェヴレンの公国戦略計画本部に出頭報告しろ。言訳は認めん。わかったか?」
「かしこまりました、司令官閣下」タールは弱々しく答えた。
ブローヒリオは声を殺してジェヴェックスを呼び出し、夕刻にアッタンでタールに代わる人材を物色することを催促するように指示した。彼はスヴェレンセンに蔑《さげす》みの目を向けた。「わたしの有能な部下は地球の情況を完全に掌握するはずだったが、どうやらこれも裏切られたな」彼は口を歪めて言った。「いったい、きみはどこに目が付いているのだ? きみの鼻先で、テューリアン人はいったいどうやって地球人と交信を確保した? やつらの通信設備はどこだ? きみはどうやってやつらの交信を遮断する気だ? そもそも、やつらはどうやってきみの組織に潜入した? 裏切ったのは何者だ? 返答の用意はあるだろうな、スヴェレンセン?」
「お言葉を返すようですが」スヴェレンセンは声を詰まらせた。「たしかに、テューリアン人どもがどのようにしたものか、地球と交信を確保したことは認めます。しかし、組織が敵性分子の潜入を許したという御非難は事実無根です。そのような証拠はどこにも……」
「本気で言っているとしたら、きみは馬鹿か盲目だ!」ブローヒリオは一喝した。「わたしはテュリオスへ行って来た。きみは行っていない。やつらは何もかも知っていたぞ。地球人はきみの組織の腰抜けどもを半数は寝返らせて、もう何年も前から反工作をやらせていたに違いない。ヴィザーと地球が直結してからどのくらいになる?」
「それは……目下確認を急いでいるところです、閣下」
「月面からの送信がはじまるより遙か以前であることは明らかだ」ブローヒリオは言った。「ブルーノの対話はきみを釣る餌だ。きみは愚かにもそれに食いついた」彼は顔を歪め、わざとらしくスヴェレンセンの声を真似た。「態勢は完金に掌握しました、閣下≠れは何だ? へっ!」ブローヒリオは握り拳で片方のて掌《てのひら》を叩きつけた。「掌握だ? 糸操りで躍らされていたのはきみのほうではないか! それも、何年にもわたってだ。地球太守だと? きみなぞは幼稚園で道・化を演じて子供たちに馬鹿にされるくらいがちょうどいいのだ」
スヴェレンセンは青筋を立てて歯を食いしばったが、口を開こうとはしなかった。
ブローヒリオは軍部の重臣たちを前に、いかにもやりきれないという態度でこれ見よがしに両手を拡げた。
「わたしの苦労を察してくれ。できそこないの技術屋に、できそこないの工作員だ。きみたちはどうだ? わがほうが態勢をととのえる間、敵が何もせずにのんびり構えているはずはあるまい。それなのに、だらだらとまだ二年もかかるとのおおせだ。それ故、わがほうが主導権を握っているうちに何らかの行動を迫られる事態となった。諸君の対応策を聞かせてもらいたい」
一部の将軍たちは困惑の体《てい》でそっと顔を見合わせた。やや遅れて、ワイロットがおずおずと答えた。「目下、最新の情況の推移を分析中です。当面の事態に鑑み、作戦を抜本的に……」
「分析評価の空論に用はない。今現在、攻撃行動の具体案があるのか、ないのか? カドリフレクサー完成までの間に有利な情勢を確保する作戦の見通しは立っているのか?」
「いえ、しかし、それは……」
「将軍に作戦がない?」ブローヒリオは皮肉たっぷりに声を張り上げた。「何たることだ。どいつもこいつもできそこないばかりではないか。まあいい。さいわい、おれに考えがある。アッタンにおけるわがほうの兵器生産計画はすでに成果を挙げつつある。そうだな? わがほうは宇宙戦艦を保有している。武器もある。それを直ちにジャイスターへ移動する手段もある。テューリーアン人どもは丸腰だ。打って出るなら今だ」
ワイロットは眉を顰《ひそ》めた。「しかし、それはかねての方針ではありません。挑発を受けずにテューリアンを攻める考えはなかったはずです。兵器はセリアンに対して使用されるべきものです。テューリアン攻撃を一般市民にどう説明しますか? そのような行動が大衆の支持を得るとは思われません」
「誰がテューリアンを攻めると言った?」ブローヒリオは問い返した。「戦争と言えぱがむしゃらに武力行使することしか考えられないのか? きみのその、肩に乗っている頭は何のためだ?」彼は向き直って全員に語りかけた。「戦争とは、武力の戦いであると同時に、心理的な争いでもある。特に、敵の心理を読むことが戦局を有利に進める上では決定的に重要だ。地球の歴史、さらには溯《さかのぼ》ってミネルヴァの歴史を見るがいい。輝ける勝利は多くの場合、心理的な一瞬の機会を掴[#手偏+國]むことによってもたらされている。今、まさにそのような機会が降って湧いたのだ」
「つまり、こういうことでしょうか?」エストードゥが遠慮がちに尋ねた。「心理的な圧力をかけてテューリアンを降服に追い込むという……?」
ブローヒリオはびっくりしてエストードゥをふり返った。讃嘆の色を隠そうともしない。「科学考にしては珍しく血のめぐりがいいな」彼は声を張り上げた。「聞いたか? 科学者の方が諸君らよりもよっぽど将軍らしい考えを持っているぞ。テューリアン人どもは戦争が嫌いだ。それどころか、戦争の何たるかもまるで知ってはいない。やつらは今この瞬間、わがほうが自分たちの世界の殻に閉じ籠《こも》って、当分そこから出て来ないものと思い込んでいる。油断している。ために、やつらは隙だらけだ」
彼はゆっくりとドームの端へ出て、遠くのアッタンを眺めやった。少し経って、彼はフロアの中央に戻って話を続けた。「テューリアン人どもが今何を考えているか、おれには手に取るようによくわかる。やつらはわれわれジェヴレン人を恐れているが、立ち向かう勇気はないのだ。が、地球人は勇気がある。一方、やつらにはわれわれに対抗する技術があって、地球人にはそれがない。となると、やつらはどうするか。もう、言わなくてもわかるだろう」
ワイロットは途中からゆっくり何度かうなずいた。「地球人に武器を与えて代理部隊に仕立てるわけですね。テューリアンは自分たちの代わりに地球に戦争させる気だ」
「そのとおり」ブローヒリオは声を張り上げた。「ところが、地球は軍縮を進めているし、もともと技術的にわれわれと渡り合うだけのものはない。テューリアンは右から左へ地琢に貸与できる兵器を持っていない」ブローヒリオは勝ち誇ったように目を光らせて一同を見回した。「すなわち、地球に代理戦争をやらぜるやつらの計画には時間がかかるということだ。しかし、わがほうはすぐにも行動を起こすことができる。やつらの丸腰に対して、少なくとも素手ではないからな。いずれテューリアンが持つであろう戦力にくらべれぱ、われわれの軍隊は小規模かもしれん。が、現時点では、こっちにはとにかく武器がある。向うはゼロだ。数学的に言えば、わがほうは無限大の優位である。この状態は決して長くは続かない。しかも、わがほうにとってこれほど有利な情勢は二度と再び望めるものではない。だからこそ、打って出るなら今なのだ。この機を逸することは許されない」
ブローヒリオの論理を納得するにつれて、ワイロットの目は輝きはじめた。「自航能力を有する宇宙戦艦によって機動部隊を派遣し、テューリアン人どもにヴィザーの支配権をわれわれに移譲せよと最後通牒を突き付けてやりましょう。ガニメアンのことですから、否《いな》やはありますまい。ヴィザーがなけれぱテューリアン人どもは身動きもできません。われわれはジェヴェックス圏とヴィザー圏を二つながら合わぜ支配することになるのです」
「加えて、地球入どもは兵器の供給を絶たれる」ブローヒリオが先を続けた。「テューリアンの後ろ楯がなけれぱ、地球人はとうてい二年間でわれわれに太刀打ちするまでには至らない。かくしてわれわれは地球との戦闘に備え、かつ、テューリアンを永久に無力化するための時間を稼ぐことができるのだ」
ブローヒリオは正面からワイロットに向き直り、腕組みをしてぐいと顎を突き出した。
「これが作戦だ、将軍。おれの作戦だ」
「まさに鬼才の閃きです」ワイロットは嘆声を発した。他の将軍たちも口々に賛同を表わした。
「直ちに作戦各段階の詳細を検討いたします」
「すぐにかかれ」ブローヒリオは指示を下した。スヴェレンセンに向き直ると、彼は陰にこもって言った。「自分の力で名誉を回復できると思うなら、きみは地球へ戻れ。組織内の変節者を一人残らずあぱき出して、然るべく処分しろ。ラソクB2以上の者を除いて残らずだ。B2以上の者は地球に留め置け。追ってジェヴレン送還のために宇宙船を派遣する。その者たちは、溝れが直々に始末する」彼はさらに声を落とし、その目に憤怒を燃やして言った。「ここで償いを果たせなければ、スヴェレンセン、貴様も連れ戻ずからそう思え。そのために、おれが地球に出向くことになろうともだ」
31
〈シャピアロン〉号からは何の連絡もないまま数日が過ぎた。ヴィザーは手に入る限りのジェヴエックスの設計データを分析し、ゾラックが電子的に錠前破りを働きつつ、何段階もの保安チェック機構を掻《か》い潜《くぐ》り、アクセス制限回路をすり抜げて敵システムの心臓部に到達する可能性を五パーセントと予測した。間題は、ガニメアン分子回路を使用したジェヴェックスの演算速度はナノセコンドを上回ることであった。これはすなわち、ジェヴェックスが通常のデータ処理の合間に極めて念入りな自己点検を行なえることを意味している。ジェヴェックスを覆う甲冑《かっちゅう》は厚く、仮にゾラックが毛筋ほどなりと傷を負わせることがでぎたとしても、後続のヴィザーが楔《くさび》を打ち込むより先に傷は塞がれてしまうに違いなかった。ジェヴェックスは自分の内部で何が起こっているかをいつも知っている。ハントはそのことをコールドウェルにこう説明した。「ジェヴェックスは自分を常時精密検査しているのさ。もし、ほんの数秒でも注意を脇へそらせることができれば、演算速度から考えたらそれは大変な時間だからね、ゾラックが向うの安全機能を麻痺させてヴィザーを結合させる可能性も出て来るのだけれども」
しかし、ジェヴェックスの注意をそらせる手段はゾラックしかなく、ゾラックが食い込むにはジェヴェッグスの注意が脇へそれていなくてはならないのだから、これは土台話にならなかった。
そうこうするところヘヴィザーが、ジャイスター系外周で一連の重力擾乱が生じ、宇宙船と思《おぼ》しき物体がどこからか続々と送り込まれていると告げた。ほどなく飛行物体は一団となってテューリアンに接近しはじめた。h-グリッドのパワー・ビームも制御ビームも検知し得ず、ヴィザーは接近する物体の動きを正確に掴[#手偏+國]むことができなかった。飛行物体は自航能力を持つ重装備のジェヴレン宇宙戦艦隊であった。総勢五十隻。艦隊がテューリアソの間近に迫って散開すると、ジェヴェックスは一時ヴィザーとの接続を回復してジェヴレン側の最後通牒を突き付けた。テューリアン圏は四十八時間以内にジェヴレンの支配に服すこと。四十八時間が過ぎてもこれに応じない時は、ヴラニクスを皮切りに都市を一つずつ焼き払う。これは最後通牒であって、話し合いの余地はない。
テュリオス政庁は極度の緊張に包まれていた。マクラスキー基地から地球人グループも呼び出され、カラザーとショウム、それに技術集団の幹部たちが談議を重ねていた。イージアンの補佐官モリザルの顔も見える。最後通牒を受け取ってから早くも六時間がむなしく過ぎていた。
「しかし、何か打つ手があるだろう」コールドウェルはいらだたしげに会議室の中央を行きつ戻りつしながら声を尖らせた。「リモートコントロールの宇宙船で体当たりを喰わせるとか、ヴィザーにブラックホールをいくつか作らせて、その中へ叩き込むとか、何か方法はありそうなものじゃたいか」
「そのとおりです」ショウムがカラザーをふり返って言った。「じっとしていたら駄目です。腹立たしい限りですけれど、ここはジェヴレン側の押し付けて来た条件から出発して対応を考えなくてはならないのです。他に取るべき道がありますか?」
「宇宙船を突貫させても、接近しないうちに叩き落とされますよ」モリザルが言った。「プラックホールにしても、向うはたちまち探知して避けてしまいます。上手く行ってせいぜい何隻か吸い込むくらいが関の山でしょう。しかし、それをやれぱ、向うは時間切れを待たずに直ちにテューリアンを焼き討ちにしますよ」
「それに、そのようなやり方はガニメアンの考えるべぎことではない」カラザーは両手をふり上げた。「ガニメアンはいまだかつて暴力に解決を求めたことはない。そのような行動はわたしが許さない。われわれガニメアンは、ジェヴレン人のような野蛮の品性に身を落としてはならないのだ」
「あなたがたは、こういう事態に直面したことがありませんね」カレン・ヘラーが発言した。
「こうなったら、乗るか反るか、やるしかないでしょう」
「この人の言うとおりです」ショウムがヘラーを支持した。「ジェヴレン軍はさして大規模な編制ではありません。おそらく、現時点ではこれが彼らの総力と見ていいでしょう。六ヶ月先には情況が変わります。地球人の論理は過激です。過激ではありますが、しかし、この情況においては現実的です。ここで小さな犠牲を覚悟すれば、将来もっと大きな被害を回避する結果となるでしょう。これは歴史を通じて彼らが学んだ教訓です。わたしたちも地球人を見習うべきです」
「いや、それは違う」カラザーは譲らなかった。「地球の歴史は諸君もよく知っているではないか。そのような論理は果てもないエスカレーションを呼ぶだけだ。正気の沙汰ではない、その方向を取ることはわたしが認めない」
「フローヒリオは正気ではないのですよ」ショウムは言い募《つの》った。「他に道はないのです」
「いや、きっと道はある。今必要なのは考える時間だ」
「その時聞がもうないのです」
重苦しい沈黙が室内を覆った。片隅で、ハントはリンと顔を見合わせて力なく肩をすくめた。彼女は眉をそばだてて溜息を吐いた。言うべきことは何もない。情況は絶望的だった。やや離れた席で、ダンチェッカーが何やらそわそわしはじめた。彼は眼鏡をはずして左右に透かし、もとに戻して、今度はしきりに鼻を摘《つま》みだした。頭の中で何かがまとまりかけているのだ。ハントは期待の目でそれとなく様子を窺《うかが》った。
「ああ、例えば……」ダンチェッカーは口を開ぎ、ちょっと思案して、カラザーとモリザルに向き直った。「仮に、ジェヴレン軍に攻撃を思い止まらせて、戦力を防衛に向けさせることができたら……つまり、艦隊をジェヴレンに引き揚げさせたら……かなり時間を稼げることになりませんか」
カラザーは眉を寄せて彼を見返した。「引き揚げさせる? 何に対して防衛すると言うんです? テューリアンには彼らに脅威を与える手段は何一つありません。その点はあなたがた地球も同じでしょう」
「おっしゃるとおりです」ダンチェッカーはうなずいた。「しかし、脅威と思い込ませる手段ならないこともありません」
ガニメアンたちはきょとんとして彼を見つめた。ダンチェッカーは説明した。
「つい先頃、ここにいるヴィックとリンの間で出た話ですが、ヴィザーに地球軍のジェヴレン総攻撃の情報を創作させて、それをジェヴェックスに送り込んではどうかということです。もちろん、ゾラッグがチャンネルを確保することが前提ですがね。チャンネルを確保して、ジェヴェックスの記憶を操作してやれば、ジェヴェックスは地球にそれだけの戦力があったとしても、これまでの監視データから判断して不思議はないと信じ込むでしょう。わたしの言う意味はわかりますね? そうやってはったりをかければ、ジェヴレン陣営内部は混乱に陥ります。急遽、艦隊を引き揚げますよ。これで動揺が大きければ、向うは事態を掌握するまでテューリアン攻撃は控えるでしょう。その先どうするか、今のところわたしに考えはありませんが、少なくとも現状から脱する足がかりは掴めるでしょう」
ショウムは怪訝《けげん》な顔で彼の発言に耳を傾けていた。「ジェヴレン人がわたしたちに対してしたこととまったく同じですね」彼女は誰にともなく低く言った。「向うがしたことを、そっくりそのままやり返すわけですね」
「ええ、たしかに、そう言っていい側面があります」ダンチェッカーはうなずいた。
モリザルの質問に応えて、ダンチェッカーはさらに作戦の詳細を具体的に説明した。ひとしきり、やりとりが終わるとガニメアンたちは不安げに顔を見合わせたが、ダンチェッカーの話には何一つ決定的な欠陥はなかった。
「どう思う、ヴィザー?」なおしばらく話し合ってからカラザーが超頭脳の意見を求めた。
「可能性はありますが、依然、五パーセントを超えまぜん」ヴィザーは答えた。「問題そのものが変わらないからです。ジェヴェックスにチャンネルを確保するためには、ゾラックが向うの保安回路を遮断することが先決です。まだ何の連絡もないところを見ると、あまり期待できません」
「他に、何か意見はないか?」カラザーは重ねて尋ねた。
短い沈黙があって、ヴィザーは答えた。「何もありまぜん。地球人の協力を願って架空の情報を用意しましょう。ゾラックが難関を突破したら直ちにビームで発信できるように。ただし、可能性は五パーセントですから、あまり当てにしないで下さい」
この話し合いの中頃から、ハントは期するところありげな表情を見せはじめていた。席上の面々はそれに気付いて、一人また一人と彼のほうへ顔を向けた。
「要はさっきからの続きで、どうしたらジェヴェヅクスの注意をそらすことができるかの聞題でしょう」ハントは言った。「違いますか? ほんの何秒か自己検知機能を麻痺させれば、ゾラックが保安回路を遮断してh-リンクのチャンネルを開ける。ヴィザーがそのチャンネルを確保すれば、あとはこっちのものですね」
「そのとおりですが、何が言いたいのですか?」ヴィザーが言った。「その話はすでにさんざん繰り返しています。とにかく、ゾラックがチャンネルを開いてくれないことには何もできません」
「それが、でぎるんだ」ハントはどこか遠くを見る目つきで言った。室内はしんと静まり返った。ハントはきっとして一座を見渡した。皆は期待に胸を弾ませてその先を待った。「ゾラックは外側から向うのシステムに食い込もうとしているから探知を掻い潜ることは無理です。しかし、チャンネルはもう一つ別にある。内側から、ジェヴェックスの心臓部に直結するチャンネルです」
コールドウェルは仰天して目を自黒させた。「おいおい、何を言い出すんだ。別のチャンネル? そんなものがどこにある?」
「コネティカットだよ」ハントは言い、ちらりとリンの顔を覗いてから一同に向き直った。「スヴェレソセンの屋敷にはジェヴェックスと地球を結ぶ通信設備が隠されているに違いないとわたしは見ています。おそらく、知覚伝送装置も完備しているでしょう。そうとしか考えられないではないですか。だから、それを使うのです」
彼の発言の意味が皆の胸におさまるにはしばらく時間がかかった。モリザルは腑に落ちない顔で尋ねた。「それを使ってどうするんです? どう使うと言うんです?」
ハントは肩をすくめた。「そこまでは、まだ考えていませんがね、使い方はいろいろあるでしょう。ヴィザーが創作する情報を裏付ける話を吹き込むという手もあります。地球は何年も前から軍拡を推し進めている……今、討伐隊がジェヴレンに向かっている……まあ、補強証拠というやつですね。これでジェヴェックスは何秒か混乱するでしょう」
「きみとしたことが、どうしてまたそんな支離滅裂なことを言い出すんだ?」コールドウェルは開いた口が塞《ふさ》がらないという顔だった。「ジェヴェックスがそんな話を信じるはずがないだろう。向うはきみが何者であるかすら知らないんだ。きみは例の椅子に寝転がって、その頭の中ヘジェヴェックスを呼び込もうと言うのか?」
「わたしがそんなことをするものか」ハントは言った。「しかし、スヴェレンセンならどうだ? ジェヴェックスはスヴェレンセンを知っているし、あの男の言うことは信じるはずだな。そうなったら、一時の混乱どころでは済まないだろう」
「スヴェレンセンにそんなことをさせられるでしょうか?」ヘラーは首を傾げた。「あの人に協力させる目処《めど》がありますかP」 ハントは肩をすくめた。「頭に銃でも突き付けてしゃべらせるんですね」彼はこともなげに言った。
室内は再びしんと静まり返った。あまりにもとてつもない提案に、しばらくは誰も返す言葉がなかった。ガニメアンたちが茫然と顔を見合わせる中で、一人フレヌア・ショウムだけは迷わずハントを支持する決心と見えた。
「どうやってスヴェレンセンの屋敷に乗り込むね?」コールドウェルがまだ気持を整理しかねる顔で尋ねた。「リソの話だと、軍隊を動員しなければ駄目だっていうぞ」
「だったら軍隊を連れて行くさ」ハントは言った。「ジェロール・パッカードとノーマン・ペイシーから話を通してもらえばどうにでもなるだろう」
ハントの提案は俄《にわか》に現実性を帯びて来た。
「でも、ジェヴェックスに知られずに、どうやってスヴェレンセンにそれだけのことを強制できますかしら?」ヘラーは慎重だった。「というのは、ヴィザーはマクラスキー基地で、まだパーセプトロンに着座する前にすでにわたしたちのことを知っていましたでしょう。スヴェレンセンのところでも、それは同じで、周囲の情況は全部わかってしまうのではないですかしら?」
「それは何とも言えませんね」ハントは一歩譲った。しかし、他に道はない。「一か八か、やってみるしかないですよ。それに、カラザーに与える危険にくらべたら、このほうがよっぽど危険負担は小さくて済む。すでにガニメアンは大ぎすぎる危険を負っていますよ」
ハントのこの一言にコールドウェルはきっぱりうなずいた。「よし。やろう」
「ヴィザー……?」カラザーは急激な話の展開に追いつきかねる表情でヴィザーの意見を求めた。
「こんな話は聞いたこともありません」ヴィザーも困惑を隠そうとしなかった。「しかし、五パーセントの可能性をいくらかなりと増すことならやってみる価値はあります。戦争映画の製作はいつからかかりますか?」
「すぐはじめてくれ」コールドウェルは中央に進み出た。前線指揮官としてかつて味わったことのある興奮が俄に胸に衝き上げて来た。「カレンとわたしはここに残って準備に協力しよう。クリス、きみも残ってもう一度この作戦全般について詳しくテューリアン側に説明してくれ。ヴィックはワシントンへ飛んでパッカードと軍との交渉に当たってもらう。リンも一緒だ。スヴェレソセンの私邸の事情を知っているがらな」
「作戦指揮官はあなたと考えたほうがよさそうですね」カラザーが言った。
「ありがとう」コールドウェルはうなずいて室内を見回した。「ようし。もう一度はじめから具体的に検討して、地球とこっちの動きが同時進行するように計画を調整しよう」
ハントとリンはその日の午後遅くワシントンに着いた。コールドウェルが前もってアラスカからパッカードに連絡を取っていたから、パッカードとペイシー、それにCIAのクリフォード・ペンスンが待ち受けていることはわかっていた。が、ミコライ・ソプロスキンを先頭とするソヴィェト軍将校団の出迎えは二人の予期せぬことだった。さらに驚いたことに、ハントとリンは地球側に寝返ったジェヴレン人科学者ヴェリコフが別室に待機していると知らされたのである。
ソヴィエト軍の将校たちはハントとリンの話を聞ぎ、自分たちがこの作戦にいかに大きく貢献し得るかを知って腰を抜かさんばかりに驚いた。ソプロスキンは二人の話と、すでにヴェリコフから聞いたことを突き合わせて、スヴェレンセンの邸宅のオフィス・ウィングが間違いなくジェヴェックス通信システムの全機能を備えた一端末機構であり、知覚伝送装置も設置されていることを確認した。現にヴェリコフは何度もそのパーセブトロンを介してジェヴレンと地球の間を行き来していた。ソプロスキンが加わって、ハントとリンの作戦は一層実行容易になったと思われた。
「御指摘のとおり、最大の危険はスヴェレンセンに虚偽の報告を強制した場合、ジェヴェックスに周囲の情況を察知されることです」ソプロスキンは言った。「しかし、その危険は避けられますね。通信室さえ制圧すれば、ヴェリコフを説得して、自発的に協力させればいいのです。ジェヴェックスはヴェリコフを知っていますから、妙に気を回すことはないでしょう」
十分後、彼らは一階下の別室へ移動した。廊下には武装兵士二名が立哨していた。ヴェリコフはさらにソプロスキンの部下二人に付添われて室内で待っていた。ソプロスキンの求めに応じて、ヴェリコフは壁面の表示装置にスヴェレンセンの邸宅の見取り図を映し出し、通信室の場所とそこに通じる出入口、邸宅の保安システム等を説明した。
「きみの判定は?」ヴェリコフの説明が終わると、ペイシーがリンをふり返った。
彼女はうなずいた。「百パーセント正確です。今の話のとおりです」
「信用してよさそうだな」パッカードが満足げに言った。「ソプロスキンに伝えたこともすべてヴィック・ハントの話と一致する。大丈夫だ」 .
ヴェリコフは目を丸くして自分の描いたスケッチを指し、リンをふり返った。「これを知っているんですか? まさか、そんな。知覚カプラーのことを、どうしてこの人が知っているんです?」
「今それを話している時間はない」ソブロスキンはぴしゃりと言った。「それで、屋敷の映像監視システムは? 各部屋にカメラがあるのか? 通信室は内外ともか? どうなっているね?」
「ジェヴェックスに繋がっている監視カメラは通信室内部だけです」ヴェリコフは自分の立場がよくわからず、不安げに左右をふり向きながら答えた。
「だとすれば、通信室の外で何が起こっているか、ジェヴェックスにはわからないわけだな」ソプロスキンは言った。
ヴェリコフはうなずいた。「わかりません」
「外回りの防犯装置は?」ペイシーが尋ねた。「その種の設備はあるのかね? こっそり塀を乗り越えるようなことができるかどうか……」
「まんべんなくワイアーが張りめぐらされています」ヴェリコフは答えた。質問の意図がうすうすわかりかけて来た様子である。「塀を乗り越えれば必ず警報が鳴ります」
「屋敷は上空軌道からジェヴレン入に監視されているのかね?」ハントが質問した。「監視の目に触れずに実力で侵入することは可能かな?」
「わたしが知っている限り、上空からの探査は定時的で、恒常監視は行なわれていません」
「間隔は?」
「それはわかりません」
「スヴェレンセンのところの使用入についてはどうなんですか?」リンが尋ねた。「やっぱり、ジェヴレン入ですか? それとも、地元の人ですか? 使用人たちは、どの程度内部の事情を知っていますか?」
「すべて、特別に選ばれたジェヴレン人です」
「何人いる?」ソプロスキンが鋭く尋ねた。
「武器は持っているか? 武器の種類は?」
「全部で十名。常時六名が邸内の警備に当たっています。片時も武器を離しません。通常の地球製の火器です」
パッカードは全員を見渡した。皆は順に一人ずつ、ゆっくりとうなずき返した。「侵入の見込みありと判断していいな。このあたりで、プロフェッショナルの意見を聞くとしよう」
ヴェリコフは急にうろたえを示した。「侵入とはどういうことです? あそこへ乗り込む気ですか?」
「あそこへ乗り込むんだ」ソプロスキンがきっぱり言った。
ヴェリコフは抗議しかけたが、ソプロスキンの険しい目つきに気圧されて、唇を舐めてうなずいた。「わたしにどうしろと言うんです?」
一時間後、VTOLの兵員輸送機がポトマック河を越えて彼らをフォート・マイヤー空軍基地に運んだ。あらかじめ連絡を受けて、対テロリスト特殊部隊の指揮官、シアラー大佐が待ち受けていた。作戦会議は深夜におよんだ。曙光が束の空を自く染める頃、空軍の輸送機がフォート・マイヤーを飛び立ち、海岸沿いにニューイングランドに向かった。三十分足らず後、空軍機はコネティカット州スタンフォードから二十マイルほど離れた丘陵地帯の森陰にある軍の補給基地にひっそりと着陸した。
32
ジェヴレン人は依然として地球の通信網盗聴を続けていた。地球人はそれを知っていたし、ジェヴレン人もまた知られていることを知っていた。それ故コールドウェルは、ジェヴレソ人が地球各国政府間の連絡は当然、解読不能の暗号文によるものと理解するに違いないと判断した。とりわけ、目前に迫ったジェヴレン攻撃に関する連絡は暗号でなけれぱ本当らしくない。しかし、暗号が文宇どおり解読不能であってはジェヴェックスがその内容を知ることができず、それではありもしない事実についての情報をまことしやかに漏洩《ろうえい》する意味がない。
コールドウェルの要請によって、マクラスキー基地の科学者集団はパーセプトロンを介して現在地球で使用されている最高機密伝達用の暗号方式をテューリアンに伝えた。ヴィザーはこれを分析し、ジェヴェックスは地球の暗号を難なく解読するだろうと答えた。科学者たちは懐疑的だった。そこで、ヴィザーは実際に解読してみせようと申し出た。地球から暗号文を発信すると、僅か数分で完壁な平文が送り返されて来た。ヴィザーと同じ性能を持つジェヴェックスが暗号を読み取れることが証明されたわけだった述、科学者たちは地球の暗号がまだまだ幼稚なものであることを思い知ってしゅんとした。が、まあ、それはそれ、ジェヴェックスに地球の最高機密通信を盗聴している錯覚を与えられることがこれではっきりした。
そこで、ヴィザーは過去数十年の地球の歴史の改竄《かいざん》に取りかかった。超大国は軍備を放棄するどころか、軍拡競争はエスカレートする一方であり、ついには過剰|殺戮《さつりく》力を持て余すまでに至った、という筋書である。各国の指導者が密かに談合を行ない、緊急同盟が成立、地球は総力を挙げてジェヴレン攻撃に転じる決定が下された。連合宇宙軍はテューリアンの瞬間輸送力を借りてジェヴレン圏に接近することになった。テュリオス政庁で試写されたヴィザーの手になる戦争映画の最後の場面は、統合参謀本部における合同作戦会議と、各軍司令官への命令伝達の模様であった。ヴィザーからアメリカ軍最高司令官の役をふられたギアヴィ将軍なる人物が熱弁をふるった。
「われわれはこれより、技術力において測り知れぬほど遙かにわれわれに優る敵と交戦しようとしている。敵の兵力、報復力もまた想像を絶するものである。しかしながら、われわれはこのバランスを逆転する二つの条件を握っている。すなわち、時間と戦備である。テューリアンの情報によって、敵方はまだ戦備がととのっていないと判断される今こそ、われわれにとっては進撃の時である。であるからして、われわれの戦略の根幹は、この二つの条件を最大限に活かすことにある。いたずらに計画の詳細にこだわらず、前線各軍指撮官の自主性に多くを委ねて迅速なる行動を展開し、われわれはただ一度の容赦なき奇襲電撃|殲滅《せんめつ》作戦を完遂しなくてはならない。この際、道義を云々することは論外である。この好機は二度と再び訪れまい」
ソ連軍の将軍が身を乗り出して作戦の説明に入った。「攻撃の第一段階は〈オックスボウ〉と名付けることとする。長距離放射線砲十五門をもってまず、駆逐艦隊および接戦支援部隊の戦列後方百万マイルよりジェヴレンの局地目標を個別選択的に砲撃する。予備として、さらに放射線砲五門を一千万マイル後方に待機させる。砲撃によって敵防御勢を引きつけ、その間に先鋒隊は惑星に接近して作戦第二段階の攻撃を開始する」
ヨーロッパ空軍作戦部長が引き取って続けた。「第二段階<〈ンシーフ〉はジェヴレン近隣宇笛領域の徹底掃討ならびに敵施設の破壊をもって開始する。次いで直ちに軌道上より連合攻勢によって地上の大型軍事施設および人口密集地帯を制圧する。後続部隊は人口密集地帯ならびに官庁所在地に集中攻撃をかけ、パニックを惹起せしめ、交通通信を杜絶せしめて敵方の防備を突き崩す。一方、低空要撃隊ならびに殺戮《さつりく》用軌道衛星によってジェヴレン大気圏の制圧を図ると同時に、宇宙空母より発艦する戦術集団は地上の重点目標の攻撃および敵部隊の撃退に当たる。本段階の目標は、先鋒隊の大気圏突入後十二時間以内に制空権を確保することである。目標達成の合言葉は〈クレイモア〉とする」
続いて立った中国軍の将軍が作戦の最終段階を説明した。「〈クレイモア〉は地上橋頭堡確保の条件がととのった時点で宣告される。すなわち、これを境に作戦は最終段階〈ドラゴン〉に移行する。第一波地上降下は遠隔操作の囮《おとり》船をもって行ない、敵の残存防御施設の有無を確認する。もしあるならぽ、軌道上に待機する攻撃隊の一部がこれを破壊し、他の戦闘集団は地上に接近して降下部隊を掩護する。地上制圧を任務とする空母機動隊はこれより着陸艇の発進を開始する。降下進入路の掃討を待って、地上部隊はまず十ニケ所の戦略拠点に着陸する。地上作戦の詳細は目下、各橋頭堡指揮官の間で調整中である。降下地域に反撃が集中することを妨げるべく、高空から戦略爆撃が持続される」
「以上が作戦概要である」ギアヴィ将軍がしめくくった。「各隊の任務、行動予定、コールサイン等について、この後直ちに発表する。そのまま待機するように」
「どうかね、感想は?」映像が消えるとすぐ、コールドウェルが尋ねた。
「おそれいりましたね」ヘラーが言った。「わたしが観ても何だか恐いよう」
「いやはや、どうも」カラザーは放心したように低く言った。「あなたがたを〈シャビアロン〉号で行かせなくてよかったと思います。それにしても、わたしどもには考えも付かないことです」
ダンチェッカーは浮かぬ顔だった。「何かこう、もう一つ緊迫感が足りないような気がするね。いついっかということがはっきりしていない」
「意図的にぼかしたのだよ」コールドウェルは心得顔に言った。「もっともらしく見せる必要があるのだからね。地球艦隊が太陽系を脱するのに数ケ月かかる計算だ。それで作戦予定日はぼかしたほうがいいと判断した。そうする以外にないじゃあないか」
「そうかな? どうも気に食わんね」ダンチェッカーは納得しなかった。
しばらくは誰も口を開こうとしなかった。と、モリザルが顔を上げて言った。「どうでしょう、すでにわれわれテューリアンは太陽系のはずれに移動の足場を持っているわけですね。ですから、もう一歩進めて、地球艦隊にテューリアンから支給したh-グリッド・ブースターを取付けることにするんですよ。そうすれば、地球艦隊は一日で太陽系を離脱できます」
「全艦隊が?」ヘラーが訝《いぶかし》しげに問い返した。「そんなに短時間で全艦隊の装備がととのいますか?」
「話の上ですから」モリザルはうなずいた。「わけはありませんよ。ガニメアンの技術陣が全面的に協力すれば、無理な相談じゃあありません」
「どう思う?」カラザーはダンチェッカーをふり返った。
「そのほうが説得力がありそうだね」ダンチェッカーは言った。
「最後のところを、こんなふうに変えてみましょう」ヴィザーが手直しを申し出た。再び映し出された画面では、ギアヴィ将軍が説明をしめくくるところだった。
「以上が作戦概要だ。日程に大幅な変更はない。目下テューリアン人たちの手でh-ビーム・プースターの取付作業が進められている。第一分隊の地球発進は定刻、すなわち本日一八〇〇時とする。現時点の作業状況から推して、全軍のジェヴレン系外集結は予定通り三日後となろう。その後、全軍は再度超空間を通過し、二十四時間でジェヴレンに到達する速度をもって通常空間に再突入する。従って攻撃開始は今より四日後である。幸運を祈る。各隊の任務、行動予定、コールサイン等について、この後直ちに発表する。そのまま待機するように」画面が消えた。
「上等だ」ダンチェヅカーはうなずいた。
「あとはこれを裏付ける地球監視データを創作することですが、それには現在の地球の兵器や軍事施設に関する情報が必要です。マクラスキーから伝送するように手配していただけますか?」ヴィザーが言った。
「繋いでくれ。すぐ手配させよう」コールドウェルは接続を待つ間、別のスクリーンにヴィザーが映し出したジェヴレン艦隊のテューリアン包囲陣を見やった。「〈シャピアロン〉号からはまだ何も言って来ないか?」
「連絡はありません」ヴィザーは抑揚のない声で答えた。
マクラスキー基地の管制官の顔を捉えたスクリーンの立体映像がコールドウェルの目の前に浮かんだ。コールドウェルはジェヴレン軍の脅威を意識から締め出し、当面の仕事に神経を集中した。
33
「畜生! ええ、糞!」ニールス・スヴェレンセンはデータグリッド端末のキーボードを邪険に突つき、装置を力いっぱい叩きつけた。スクリーンは瞬《またた》く気配すらなかった。スヴェレンセンは憤然としてL宇型の広間に飛び出した。
「ヴイッカーズ!どこにいるんだ、いったい? 電話会社のろくでなしどもはまだ来ないか?」
ヴィッカーズは裏手の廊下からのっそり顔を出した。スヴェレンセンの親衛隊指揮官株で屋敷内を取り仕切っている、色浅黒いがっしりとした体格の男である。「わたしは十分ほど前に戻ったところですが。すぐ来るという返事でしたがね」
「それがまだ来ないというのはどういうことだ?」スヴェレンセンは八つ当たりに食ってかかった。「急ぎの用があるんだ。早く故障を直さぜないことにはどうにもならん」
ヴィッカーズは肩をすくめた。「そのことはちゃんと伝えてあります。わたしに怒鳴ったってしょうがないでしょう」
スヴェレンセソはしきりに手首をこすり悪態を吐きながら部屋中を行ったり来たりした。「どうしてまた、こういう時に限って故障が起きたりするんだ? こんな単純な通信サービスも満足に保守でぎないとはどういうことだ? 電話会社はサルでも雇っているのか? ええい、まったくどうも、我慢がならん」
窓の外から、近付いて来るエア・カーの微かな捻りが聞こえた。ヴィッカーズは小首を傾げて耳を澄まし、ガラス壁の一部に切られた引き戸に寄って空を見上げた。
「タクシーですよ」肩越しにふり返って彼は言った。「向う側へ降ります」
正面のドライヴウェイにエア・タグシーが降りる音がした。すぐ続いてドアのチャイムが鳴り、メイドが玄関へ急ぐ足音がした。女同士のひそひそ声が廊下を伝って来たと思う間もなく、メイドに案内されてリン・ガーランドが晴れやかな顔で現われた。スヴェレンセンは驚きと不興ですぐには声も出なかった。
「ニールス!」彼女は歌うように言った。「何度も電話したのよ。でも、故障らしかったし、どうせ会うんだから構わないと思って、まっすぐ来ちゃったの。わたしね、あれからあなたに言われたこと、考えてみたのよ。言われてみればそのとおりかもしれないなって。だから、もう一度、やり直せるんじゃないかと思うの」
彼女はさりげなくショルダー・バッグに手を掛けていた。スヴェレンセンは今通信室の外にいる。邸内に侵入するに当たっては、どうしてもこれだけは譲れないとシアラー大佐が注文を付げた条件である。リンはバッグの上から超小型送信機のボタンを探って三度押した。
「選りに選って、また何でこんな時に!」スヴェレンセンは吐き捨てた。「こんなふうに突然やって来られては迷惑だ。わたしは非常に忙しい。仕事に追われているんだ。それに、このあいだ、あまり愉快とは言えない形で別れた時、わたしははっきりとこちらの態度を示したはずだ。きみに用はない。ヴィッカーズ、御苦労だがミス・ガーランドをタクシーまでお送りしてくれ」
「さあ、どうぞ」ヴィッカーズは進み出て、メイドがまだうろついているほうへ顎をしゃくった。
「ええ、そう。あなたの態度はよくわかっているわ」リンはヴィッカーズを無視してスヴェレンセソに食い下がった。「あなたははっきりそう言ったんですものね。本当に、わたしって馬鹿だったわ。あなたにそう言われても仕方ないのよね。でも、わたし、考え直したのよ。だって、やっばり……」
「つまみ出せ」スヴェレンセンは低く言い放って顔をそむげた。「頭の空っぽな女のたわけた話を聞いている閑はない」
ヴィッカーズはリンの二の腕を取って玄関へ引き立てた。メイドが廊下を駆げ抜けてドアを開けた。タクシーは降りたままの位置で待っていた。ヴィッカーズがリンを戸ロへ押し出そうとするところへ、サザーン・ニューイングランド電話会社の修理トラックが乗りつけて、タクシーとすれすれに停まった。梯子が張り出して、タクシーの上昇を妨げた。
タグシーの運転手は窓から顔を突ぎ出してトラックに咬みついた。「馬鹿野郎! どういうつもりだ? そんなとこへ停まられちゃあ、こっちが出られねえじゃねえか!」
修理工が二人、トラックの横から降り、別の一人が荷台から顔を出した。トラックの運転手はエンジンをかけ直した。セルモーターが何度か捻ってふっつり止まった。
「またかよ」トラックの運転手は罵声《ばせい》を吐いた。「さっき出て来る時もこれだったんだ」
「どうでもいいけど、早いとこ何とかしろよ、え? こっちは遊んでられる身分じゃねえんだ」
ヴイッカーズはリンから手をはなして、口の中でしきりに悪態を吐いていた。メイドと彼が外のやりとりに気を取られている隙に、リンは足音を忍ばせて小走りに廊下を引き返した。
「そっちが下がったらどうなんだ? 何かよ? バックのやり方も知らないのか?」
「こっちが下がれるかどうか考えてみろ。そこは花壇じゃねえのか? どこに目が付いてやがんだ?」
トラックからまた新手の電話工夫が降り立った。単純な故障の修理にしては人数が多すぎる。しかし、ヴィッカーズとメイドは運転手同士の喧嘩に釣り込まれて、すぐにはそれと気付かなかった。このほんの数秒の遅れが彼らにとっては命取りだった。前方の立木の向うから次第に近付いて来る飛行音も彼らの耳には入っていなかったのだ。
リンが取って返して広間の角を曲がると、スヴェレンセンは向うの窓際に寄って空を見上げていた。爆音は急に脹らんで八方から屋敷に迫って来るようだった。と、突然、頭上から降って湧いたように陸軍の降下艇二機がプールサイドのテラスに着陸し、カーキ色の戦闘服に身を固めた兵士の一団がばらばらと飛び出した。どこか階上で爆発音とガラスの砕け散る音が響いた。正面玄関からなだれ込む兵士たちにヴィッカーズとメイドが弾き飛ばされるのがガラス越しにちらりと見えた。さらに爆発音が起こって、廊下に煙が立ち込めた。
リソはすかさずバッグからガスマスグを出してかぶった。手榴弾とガス弾があちこちの窓から雨霰と投げ込まれた。屋内のいたるところで爆発が起こり、煙が噴き出した。叫び声やガラスの砕ける音がそれに混った。ドアを開け閉てする音や銃声も聞こえていた。スヴェレンセンの部下の一人が中央階段から飛び出して、しきりに何かを口走りながら背後の上階を激しく指さした。
「屋上です。軍隊が屋上から侵入して来ます.軍隊は……」男の声は続いて起こった爆破音に掻き消され、男は背後から噴き出す煙に呑み込まれた。
スヴェレンセンは弾けるように窓からふり返ったが、ガスに目をやられて部屋の中央で方角を見失っていた。何が何でも彼を通信室に行かせてはならない。リンは壁に沿ってスヴェレンセンの背後に回り込み、オフィス・ウィングに通じる戸口を塞《ふさ》ごうとした。煙を透かして、スヴェレンセンは彼女の動きを見抜いた。
「貴様!」
リンの顔を認めて、スヴェレンセンは憤怒の形相ものすごく、煙と涙に汚れたその顔はいやが上にも醜悪であった。リンは心臓が口から飛び出しそうになりながらも、後退りに通路へ向かった。スヴェレンセンの影が煙を押しのけて彼女に迫った。
軍隊式のきびきびとした命令が喧曝を貫いた。広間のすぐ向うの客室あたりから聞こえて来るようだった。スヴェレソセンは戸惑いを見せて肩越しにふり返った。キッチンの前の廊下を人影が重なり合って寄せて来た。外のプールのほうからも一団の兵士たちが攻め込んだ。スヴェレンセンはきっと向き直ると、オフィス・ウィングを指して駆けだした。リンは考える閑もなく、手近の藤椅子を掴[#手偏+國]むなり、彼の足もとめがけて力いっぱい投げつけた。スヴェレンセンは壁に頭を打ちつけてどうと床に投げ出された。
リンは煙を透かして見た。スヴェレンセソは身をよじりながらも懸命に起き上がろうとしていた。彼女はうろたえてあたりを見回した。サイドテープルに大きな花瓶があった。彼女は花瓶を取ると呼吸をととのえて手のふるえを抑え、勇を鼓してそろそろとスヴェレンセンに近付いた。
スヴェレンセンは半身を起こして片手で頭を押えていた。指の間から血が細く糸を引いていた。彼は片足を踏ん張り、壁に手を着いて立ち上がりかけた。リンは花瓶を大きくふりかぶった。が、スヴェレンセンの足は萎えていた。彼は体《たい》が極まらず、苦痛に大きく呻いて再び床に長く伸びた。リンは花瓶をふりかぶったまま身動きもならず立ちつくした。戦闘服にガスマスクを着け、ライフルを手にした兵士らが煙の中から立ち現われた。兵士の一入が彼女の手から花漉をあっさり取りのげた。
「ここはわれわれに任せて下さい」くぐもった声で兵士は言った。「大丈夫ですか?」
リンはぼんやりうなずいた。目の前で二人の特殊部隊兵がスヴェレンセンを荒々しく引き起こした。
「大した見物《みもの》だったよ」背後でイギリス人とわかる声がした。「その分なら、イギリス空軍特殊部隊だって通用するよ」
ふり返ると、ハントがいかにも感心したふうに彼女を見つめていた。シアラーが隣に立っている。ハントは進み出て彼女の腰に手を回し、優しくしっかり抱き寄せた。彼女はハントの肩に頭を預けてすがりついた。緊張が解けると痙攣《けいれん》のようなふるえが止まらなかった。話をするどころではなかった。
すでにあたりの騒乱はおさまって煙が退きはじめていた。スヴェレンセンの親衛隊は部屋の一隅に集められ、武器を取り上げられて、順に客室のほうへ追い立てられていた。突撃隊の兵士らは早々とマスクをはずしていた。石屑やガラスの破片を踏んでアメリカ人とソヴィエト軍将校の一団がやって来た。何人かはスーツの上に戦闘服をはおっていた。スヴェレンセンはやっと焦点を結んだ目が飛び出すほどに仰天した。
「やあ」ノーマン・ベイシーが声を掛けた。こみ上げる笑いを隠しきれないといった顔つきだった。「ひさしぶりだね」
「きみにとっては、戦争は終わりだ、議長先生」ソプロスキンが言った。「戦争どころか、すべて一巻の終わりだよ。プルーノがきみの趣味に合わなかったのは残念だな。これから行くところにくらべれば、プルーノは天国だ」
スヴェレンセンは激しい怒りに顔を歪めたが、まだ茫然自失から立ち直っていないのか言い返そうともしなかった。
曹長の一入がつかつかとやって来てシアラーに敬礼した。「当方、被害ありません、大佐。軽傷者はいずれも敵方です。逃亡者はおりません。建物全域を制圧しました」
シアラーはうなずぎ返した。「すぐに一味を本部基地へ連行しろ。降下艇は監視にかからないように他へ移動させろ。ヴェリコフとCIAの者たちはどこだ?」
曹長が答えるより先に、また一団の男たちが現われた。スヴェレンセンはヴェリコフの名を聞いてぎくりとふり返り、口をあんぐり開けた。ヴェリコフは数フィート手前で立ち止まり、挑むようにスヴェレンセンを睨《にら》みつげた。「そうか、貴様だったのか……」スヴェレンセンは歯ぎしりした。「この……裏切者!」
彼は躍りかかろうとしたが、たちまちライフルの台尻でしたたか鳩尾《みぞおち》を突かれて海老《えび》なりにうずくまった。二人の兵士が両側から彼を引き起こした。
「鍵はいつも身に付けています」ヴェリコフが言った。「鎖で首に掛けているはずです」
シアラーがスヴェレンセンのシャツを引きむしり、鍵を取ってヴェリコフに渡した。
「この暴虐行為にはきっと仕返しをしてやるからそう思え、大佐」スヴェレンセンは肩で息をしながら陰にこもって言った。「いいか、必ずだ。貴様なぞとは比較にならない大物を、おれは何人も葬って来たんだ」
「暴虐行為?」シアラーはわざとらしく眉をそばだてた。「こいつ、何を言っているんだ、曹長?」
「自分にはさっぱりわかりません、大佐」
「何かここで変わったことを見たか?」
「何も見ておりません」
「こいつ、何で腹を押えているのかな?」
「消化不良かと思われます、大佐」
すでに捕縛された親衛隊のほうへ引っ立てられて行くスヴェレンセンを見送って、シアラーはクリフォード・ベンスンに向き直った。「われわれは警護の者十名を残して撤退します。あとは、そちらでよろしいように」
「よくやってくれた、大佐」ペンスンは答礼して他の者たちをふり返った。「さあ、時間が貴重です。次の行動に移りましょう」
一同は脇へ寄り、ヴェリコフを先に立てて、数歩後から通信室へ向かった。廊下の突き当たりに、どっしりとした木のドアがあった。
「ジェヴェックスの視野がどこまで拡がっているかわかりません」ヴェリコフは言った。「用心のために、ずっと退って下さい」
ベイシー以下、ハント、ソプロスキン、リン、ベンスンの面々は間合を取って一ケ所にかたまった。
「この恰好ではちょっと何ですね」ヴェリコフはスーツの埃をはたき、髪を撫で付け、ハンカチで顔を拭いた。「どうです? これできちんとして見えますか?」
「上等だ」ハントが答えた。ヴェリコフはうなずぎ、向き直ってドアに鍵を挿した。それから、深呼吸して把手を掴[#手偏+國]み、ぐいとドアを押し開けた。ハントらは一瞬、室内に整然と並ぶ.夥《おびただ》しい装置機械に目を瞠った。ヴェリコフはドアを開けたまま通信室の奥に進んだ。
34
〈シャピアロン〉号の司令室は数日来、息苦しいほどの緊張に包まれていた。イージアンはフロアの中央に立って、大きなメイン・スクリーンを見上げていた。スクリーンにはさまざまな記号と夥《おびただ》しい線が複雑に入り組んだジェヴェックスの回路図が表示されている。ゾラックが侵入経路を求めて探査信号に対する応答をもとに、統計解析とパターン分析を繰り返したがらさんざん苦労して描き上げたものである。しかし、ゾラックはまだジェヴェックスのhービーム遮断機能を麻痺させるための中枢回路を探り当てるには至っていなかった。ゾラックはすでに何度も探査を試みているのだが、その都度ジェヴェックスの恒常的自己診断ルーティンに信号を検知され、自動修正処理によって回路の発見を阻まれていた。このまま探査を続けれぱ、ジェヴェックスの不良診断データ蓄積が警戒域に達し、監理機能が異常を察知するのはもはや時間の問題だった. 船内の意見は二つに割れていた。イージアン以下テューリアンの技衍陣は早々と作戦を断念して計画放棄を主張した。ガルースと彼に従った者たちは、何が何でもやり抜くのだと息まいた。イージアンから見れぱ、ガニメアンたちは自殺願望を抱いているとしか考えられなかった。
「第三探査チャンネルの論理指向に対して疑問符が返って来ました。これで三度目です」傍らの制御卓から操作技師が言った。「ヘッダー応答分析は、こちらがジェヴェックスの外部信号規制回路に接近しすぎていることを示しています」技師はイージアンをふり返って首を横にふった。
「これ以上は危険です。第三チャンネル探査はしばらく見合わせて、一般信号を流しましょう」
「演算パターンは新しい上級診断プログラムと連動しています」別の操作技師が声を上ずらせた。
「重度機能不全検査に引っかかったんです」
「第三チャンネルを遮断しなくては駄目です」また別の一人がイージアンにせっついた。「今だってもう、見破られているのと同じです」
イージアンは厳しい目つきでメイン・スクリーンを見上げた。スクリーンの片側にずらりと警報符号が並んでいた。
「ゾラックの情況判断はどうだ?」イージアソは尋ねた。
「辛うじて優先質問信号は回避しましたが、警報は解除されていません。非常に厳しい情況ですが、今のところこれがやっとです。危険を承知でもうひと押ししてみるか、一度引き下がって次の機会を待つか、決定はそちらに任せます」
イージアンは、じっと体を堅くして成り行きを見守るガルース、シローヒン、モンチャーの三人をふり返った。ガルースは口をきっと結んで、それとはわからぬほど微かにひとつうなずいた。イージアンは深呼吸してゾラッグに指示を下した。「やってくれ、ゾラック」
張りつめた沈黙が司令室を覆った。全員の視線がメイン・スクリーンに釘付けになった。
続く数秒の間に、ゾラックと遙か彼方のジェヴレン中継衛星を結んで十億ビットの情報が飛び交った。スクリーンの一ヶ所に新たなプロック燐現われた。四角い枠に囲まれた記号を度ぎつく浮彫りにして、赤ランプが激しく点滅した。操作技師の一人は思わず悲痛な呻きを洩らした。
「非常事態宣言です」ゾラックが報告した。「全機能特別警戒態勢プログラムが始動しました。もはやこれまでです」
ジェヴェックスは〈シャピアロン〉号を発見したのだ。
イージアンは声もなく床に目を落とした。言うべきことは何もなかった。ガルースはまだこの事態を認めたくない様子で、未練らしく首を横にふった。シローヒンが近付いて、その肩にそっと手を置いた。「あなたはやるだけやったのよ」彼女は静かな声で言った。「誰かがやらなくてはならなかったことよ。他に道はなかったのですもの」
ガルースははじめて夢から覚めたかのようにぼんやりとあたりを見回した。
「わたしは何を考えていたのだろう?」彼は声にならない声で言った。「こんなことをする権利は私にはない」
「しなくてはならなかったのよ」決然として、シローヒンは言った。
「飛行物体二個、十万マイル前方より接近中」ゾラックが告げた。「ジェヴレン軍哨戒機と思われます」
容易ならぬ事態であった。〈シャピアロン〉号を包み隠す相殺電波の煙幕も至近の距離から探査されれぱ用をなさない。
「向うの計器にかかるまで、あとどのくらいだ?」イージアンがかすれた声で尋ねた。
「長くて二分といったところです」ゾラックは答えた。
ジェヴレン軍作戦本部の一室に立って、イマレス・ブローヒリオはテューリアンを包囲する機動部隊の陣容をスクリーン上に眺めていた。艦隊はヴィザーの管理する宇宙領域を侵していたにもかかわらず、ジェヴレンと艦隊間の交信は妨害されなかった。テューリアン側はそのような行為に出れば、かねてからの命令によってジェヴレン軍がたちまち侵攻を開始すると判断しているに違いない。少なくとも、今のところテューリアン側からは何の動きも起こっていない。慎重と言えぱ聞こえは良いが、要するに意気地のない腰抜けのガニメアンであってみれば、それも無理からぬことだろう。ブローヒリオの判断はまたしても正しいことが証明されたのだ。ついに正面衝突の情況に立ち至った今、テューリアン人どもは果たせるかな、ブローヒリオが自ら鍛えた胆力と腕っ節、そして意志の力の前には手も足も出ない。すでに勝敗は決まったも同然と思うと彼は深いところからこみ上げる満足に自ら頬がほころびるのを禁じ得なかった。
所定の刻限までに応答がない時は、手はじめにテューリアソ上の無人の場所を選んで威示攻撃を加え、最後通牒がただの灘しではないことを思い知らせてやらなくてはならない。その刻限ももう目前である。ブローヒリオの幕僚たちは緊張と期待に体を堅くして彼の様子を辯ダていた。
「艦隊の現況を報告しろ」ブローヒリオは凛《りん》とした声で言った。「変化はありません」ジェヴェックスが答えた。「砲撃隊はセカンダリー・ビームの照準を目標地域に合わせ、飽和砲撃用意の態勢で待機中です」
ブローヒリオは今しばらくこの快感を引き延ばそうセするかのように、ひとわたり将軍たちを見回した。いよいよ命令を発しようと彼が口を開きかげた、まさにその時、ジェヴェックスから声があった。
「閣下、しばらく。地球より最緊急連絡です。閣下御直々の応答を求めております」
ブローヒリオの顔から笑いが消えた。「スヴェレンセンに話すことは何もない。あの男には前にはっきりと指示を下してある。何の用だと言うのだ?」
「スヴェレンセンではありません、閣下。ヴェリコフです」
ブローヒリオは激怒した。「ヴェリコフだと? 今頃やつがコネティカットで何をしている?やつはロシアで任務に就いているはずではないか。このような形で秩序を乱すとは、いったい何の真似だ?」
ジェヴエックスは一瞬|躊躇《ためらい》を見せる様子だった。「ヴェリコフは……閣下に直接、最後通告を伝える、とか申しております」
ブローヒリオはいきなり顔面に鉄拳を喰いでもしたように茫然と身じろぎもせずに立ちつくした。首筋から血が上り、じわじわと頬を染め、やがて生え際までまっ赤になった。幕僚たちは驚愕と不審の目つぎでそっと顔を見合わせた。ブローヒリオは唇を噛み、何かを操みしだくように両手を開いたり結んだりした。「やつをここへ引き出せ」彼は吠えるように言った。「おれがそう言うまで接続を絶つな、ジェヴェックス」
「お言葉ですが、それはできかねます、閣下」ジェヴェックスは言った。「ヴェリコフは当システムと知覚結合いたしておりません。音声画像チャンネルのみ接続いたしております」
一方の壁面スクリーンに、スヴェレソセン邸通信室の中央に立つヴェリコフの姿が映し出された。背後にパーセプトロンの座席の一部が見えている。ヴェリコフは賢明にもその椅子に横たわることを避けているのだ。通信室で何かが起こっているに違いない。ヴェリコフは自信ありげに腕組みをして、スグリーンからゆったりとブローヒリオを打ち眺めていた。
「よく聴けよ、机上の大将軍」ヴェリコフは侮蔑を露に唇を歪めた。「われわれを地球へ派遣したのは失敗だったな、ブローヒリオ。おかげをもって、われわれは本物の戦士の何たるかを直に学ぶ光栄に浴したわけだがね。わたしは冗談を言っているのではない。もともとあまり出来がいいとは思えないが、ど素人のかたまりを地球にけしかけようとしているところを見ると、ますますもって貴様は馬鹿だ。地球人の手にかかったら、貴様などはひとひねりだぞ。こっちが言いたいのはそれだけだ」
ブローヒリオは目を剥《む》いた。首筋に青く浮き出た静脈がひくひく躍った。「裏切者は貴様だったか!」彼は穢《けがら》わしげに言った。「獅子身中の虫がとうとう正体を現わしたな。最後通告とは何のたわごとだ?」
「裏切者? どういたしまして」ヴェリコフは顔色一つ変えなかった。「こっちはただ勝目のあるほうに付くだげの話だ。もともとそれはおまえの流儀ではないか。地球の支配権を握るために、早くからおまえはわれわれをここに寄越した。感謝しているよ。おまえさんには気の毒だが、おかげでこっちは強いほうの味方になった。どっちが得か、考えてもみろ。おまえさんの支配を受けて田舎大名で終わるか、こっちで自分たちの支配を確立するか.答は自《おの》ずと知れているだろうが」
「自分たちとはどういうことだ?」ブローヒリオは聞き咎めた。「徒党の人数は?」
「もちろん全員だ。われわれはすでに地球各国の政府を手懐《てなず》けた。戦略軍はわれわれの指揮下にある。それに、われわれは久しい以前からテューリアンとの連帯を深めている。そうでなかったらテューリアン人がそっちに知られずに地球と交信できると思うか? テューリアン人は貴様らが、いいか、地球人ではなく、貴様らジェヴレン人どもこそが銀河系を脅かすごろつきだと知っている。だからわれわれはテューリアンを説き伏せて、貴様らの始末を任せてもらったのだ。というわけで、この惑星の全兵力はわれわれの手中にある。その後ろにはテューリアンの技術力がある。もう終わりだ、ブローヒリオ。あと貴様に残されているのは、せいぜい命乞いをすることくらいだな」
ヴェリコフの背後の開け放ったドアの陰で、ハントは驚き入ってリンに耳打ちした。「まさかここまでやってくれるとは思っていなかったよ。まさに、アカデミー賞ものだね」
傍らで、ソプロスキンもまた信じられない顔つきでヴェリコフに狙いを付けていた自動拳銃を降ろした。
ブローヒリオは動揺の色を見せた。「戦略軍だと? 戦略軍とは何のことだ? 地球に戦略軍などあるものか」
ジェヴェックスが再び割り込んで来た。「第五管区に警報発令。正体不明の宇宙船団が領界を侵犯しようとしています。実情査察のため、宇宙駆逐艦二隻が発進しました」
「今はそれどころではない」ブローヒリオはもどかしげに片手をふりまわした。「管区司令部に権能を委任して後刻報告させろ」彼はヴェリコフに向き直った。「地球はもう何年も前に軍備を放棄したはずだ」
「本当にそう思うか?」ヴェリコフは明らさまにせせら笑った。「貴様もずいぶんおめでたいな。いつかこうなることがわかっていながら、われわれがそう簡単に地球の軍縮を認めると思うか? 軍縮を達成したと伝えたのはそっちを油断させるためのでたらめだ。皮肉なことに、そっちがでっち上げた偽情報が地球の本当の姿を伝えていたんだ。テューリアン人たちはあれを見て大いに面自がったものだ」
ブローヒリオはすっかり頭が混乱した。「地球は軍備を縮小した」彼は頑《かたくな》に言った。「監視データは……:ジェヴェックスによれば……」
「ジェヴェックス?」ヴェリコフはふんと鼻を鳴らした。「ジェヴェックスにはな、ヴィザーが前々から作り話を吹き込んでいたんだ」ヴェリコフの表情が鋭く、厳しく変わった。「よく聴け、ブローヒリオ。こっちは同じことを二度しゃべる気分ではないのだ。例のテューリアンにおける会談で貴様は墓穴を掘ったぞ。あれでガニメアンたちは貴様の正体を見極めた。今ではもう、あの心優しい巨人たちがわれわれを留め立てしようともしない。というわけで、これが最後通告だ。艦隊を直ちにテューリアンから撤退させ、ジェヴレン全軍の指揮権を無条件でわれわれに委譲すればよし、さもない時はテューリアソが地球連合軍をジェヴレン圏に瞬間移動させ、地球軍は惑星ジェヴレンを粉砕するだろう。きみも、きみの惑星も、きみがコンピュータ・ネットワークと呼ぶところの笑うべきがらくたの寄せ集めも、ことごとく宇宙の微塵と化して飛散するのだ」
ジェヴェックスの奥深いどこかで何かがしゃっくりに似た震動を起こした。中枢機能をつかさどる機構から新しいデータの解析を命ずる緊急信号が流れて情報処理の順位秩序が混乱し、百万件を超える処理操作が停滞した。その混乱の最中《さなか》に、hースペースから入力される探査信号を走査していたルーティンが乱調を来たした。ほんの一瞬のことである。しかし……
テューリアンで成り行きを見守っていたヴィザーは突如として数時間来の沈黙を破った。
「何かあったようです。ゾラックの回線が通じました」
沈着をもって知られるコールドウェルさえが思わず飛び上がった。ヘラーとダンチェッカーは壁面のスクリーンをふり仰いで驚異の目を瞠《みは》った。何光年もの距離を隔てて、二進法の信号が
〈シャピアロン〉号にどっと流れ込み、ゾラックがこれに応えて、ヴィザーは送り返された情報から直ちにジェヴェックスの回路の分析に取りかかった。
「どんな様子だ?」カラザーが不安げに尋ねた。「〈シャピアロン〉号は無事か? ゾラックはどこまでジェヴェックスに食い込んだ?」
「行き詰まっています」やや遅れてヴィザーが答えた。「ちょっと待って下さい。ここは一秒一刻を争うところです」
絶望の沈黙に閉ざされた〈シャビアロン〉号の司令室に、数日来跡絶えていた耳馴れた声が響き渡った。「やあ、苦戦しているな。じっとしていろ。ここはこっちに任せてくれ」
イージアンは耳を疑った。制御卓の空いた席に体を沈めていたガルースは声もなく訝《いぶか》しげに顔を上げた。まわりのガニメアンたちも皆信じられない様子できょときょととふり向き合っていた。
「ヴィザーか?」イージアンが幻聴に怯えるように低く尋ねた。「ゾラック。今のはヴィザーか?」
「ちょっと待って下さい」ゾラックが答えた。「詳しい事情はわかりませんが、今のは間違いなくヴィザーです。何かがジェヴェックスの自己診断機能を麻痺させました。それでわたしが外部信号妨害ルーティンを遮断したのです。テューリアンと繋《つな》がりました」
ゾラックが話している間に、ヴィザーはジェヴェッグスの診断サプシステムに接近するパスワードを解読し、記憶された一連のデータを消去して、かねて用意の新データに差し替えてから、あらためて警報を発令した。ジェヴレン防衛第五管区司令部のコントロール・センターにあるスクリーンの表示が変わって、中継衛星の誤動作が誤報を生んだことを告げた。緊急発進した宇宙駆逐艦二隻は反転して基地に舞い戻り、通常の哨戒任務に就いた。その頃すでに、ヴィザーは夥《おびただ》しい偽情報をジェヴェックスに注ぎ込んでいた。その内容についてはゾラックにさえ説明している閑はなかった。同時にヴィザーはジェヴェックスの通信サプシステムに直結して地球に通じるチャンネルを開いた。
スヴェレンセン邸の通信室に突然、ヴェリコフがよく知っているヴィザーの声が飛び込んで来た。
「ようし、上手く行った。ヴィック・ハントたちがそこにいるなら、これから先の場面を見物させてやってくれ。データストリームを一方通行にして、そっちの画像はジェヴレンのスクリーンに出ないようにするから大丈夫だ。さあ、早いとこ話を切り上げて脇へ退がれ」
ヴェリコフは腰を抜かすほど驚きながらも顔色一つ変えなかったのはあっぱれである。ハントたちはヴイザーの声を聞き、あまりのことに言葉もなく、そろそろと戸口へ進んで中を覗《のぞ》いた。ブローヒリオには彼らの姿が見えない。彼はただ茫然と正面を見つめたままだった。ヴェリコフは自分を叱咤《しった》してすかさず次の行動に移った。
「一時間だけ返事を待とう、ブローヒリオ。いいか、はっきり言っておく。今テューリアンを包囲中の艦隊の、一隻たりとも敵対的と受け取れる行動を示したら、わが方は直ちにジェヴレソを攻撃する。攻撃命令は一度発令されたら撤回はあり得ない。一時間の猶予だ」
スクリーンには何の変化もなかったが、ヴィザーが割り込んで言った。「ようし、上等。そっちからの信号は遮断した」
ハントらは放心状態のヴェリコフをどっと取り囲んで口々に彼の活躍を賞め、肩や背中をむやみに叩いた。ペイシーとペンスンはまだ信じられない顔で戸口に立ちつくしていた。ソプロスキンはドアを抜けたところでオートマチックをそっと上着の下に隠した。
別のスクリーンに〈シャピアロン〉号の司令室が映し出された。ヴィザーはジェヴェックスの通信機能を自分のシステムに取り込み、さらに数秒後にはテュリオス政庁の光景までがコネティカットの通信室に伝送された。このようなことを実現するコンピュータの複雑な結合を思ってハントは溜息が出た。コールドウェルやヘラーやダンチェッカーは現実にはアラスカにいるのだ。その彼らの映像をコネティカットに伝送する回線は数光年を隔てた惑星ジェヴレンから〈シャピアロン〉号を経てさらに第二の星ジャイスターに通じ、そこからパーセプトロンを介してマクラスキー基地に結ばれているのだ。
「いやあ……あなたは何でもぎりぎりのところでかたを付ける主義ですね」〈シャピアロン〉号のイージアンがまだ恐怖の冷めやらぬ顔で言った。
「きみたちはどうも心配性で困る」テュリオスのコールドウェルがちょっと脇のほうへ視線をはずして言った。「わたしらは、こういうことには馴れているんだ」彼はまっすぐコネティカットのスクリーンに向き直った。「どうだった? 皆、無事か? スヴェレンセンはどこだ?」
「ちょっと予定を変えたんだ」ハントが答えた。「あとでゆっくり説明するよ。こっちは全員無事だ」
ジェヴレンの作戦本部の模様を伝えているスクリーンの中で、ブローヒリオがジェヴェックスに現時点の地球監視データの表示を求めた。ジェヴェックスはそれに応じて、地球各国の首脳が連合軍によるジェヴレン総攻撃の密談を凝らしている情景を映し出した。愕然とするブローヒリオにジェヴェックスは、これはすでに旧聞に属することだと追い討ちをかけた。現在、侵攻作戦はもっと進んだ段階に達している。ジェヴェックスが入手した最も新しい映像情報は、地球連合軍統合参謀本部における各方面軍への作戦伝達の一場面であった。ブローヒリオはますます頭が混乱し、焦躁を募らせた。
「どういうことだ、ジェヴェックス?」彼は上ずった声で詰問した。「あの原始人どもの言う軍隊とは何のことだ? やつらにどんな兵器があると言うのだ?」
「お言葉ですが、閣下、それは今さら申し上げるまでもないことと存じます」ジェヴェックスは答えた。「かねてから地球が増強に努めて来た戦略部隊のことです。兵器は現在地球各国が制式配備している極《ご》く一般的なものです」 ブローヒリオは眉を寄せて髯を逆立てた。彼はふと、正気を保っているのは自分一人なのではないかという恐怖に襲われて、狐につままれた顔の将軍たちを見回した。「地球が制式配備している一般的な兵器だと? そんな報告は一度としてなかったではないか」
目に見えぬ指がジェヴェックスの記憶装置をひと撫でし、一瞬のうちに大量の情報を書き変えた。「閣下のお言葉とも思えません。わたしは一貫して詳細を報告して来ました」
ブローヒリオはどす黒い怒りに顔を曇らせた。「何を言うか。いったい何の詳細を報告した?」
「過去数十年の間に地球が整備した惑星間攻撃防衛力の詳細です」ジェヴェックスはきっぱり言い放った。
「ジェヴェックス! どうした? しっかりしろ!」ブローヒリオは癇癪玉《かんしゃくだま》を破裂させた。「地球はとうの昔に軍備を放棄した。貴様はずっとそのように報告して来た。いったいどういうことだ?」
「どうもこうもありません。わたしははじめから今言ったとおりの報告をしています」
ブローヒリオは両の手で目をこすり、その手を大きく拡げて幕僚たちをふり返った。「おれが狂っているのか? それとも、やくざなコンピュータが故障を起こしているのか? どうなんだ?」彼はいらだって叫んだ。「誰か言ってくれ。おれはこの何年か、おれが見聞きしたと思っているとおりのことを見たり聞いたりして来たのか? それはおれの妄想か? 地球は軍備を放棄したのではないのか? 諸君はそう聞かされていないか? 今の話にあったような兵器が本当にあるのか、ないのか? ここにいる中で、正気なのはおれだけか? それとも、おれ一人が狂っているのか? いったい何がどうなっているのか、誰か話してくれ」
「ジェヴェックスは常に事実を報告します」エストードゥがぽつりと言った。それですべては説明が付くとでも言いたげだった。
「こんな事実がどこにある?」ブローヒリオは喚ぎ立てた。「ジェヴェックスは前後不揃いのことを言い立てているではないか。事実は一つしかないはずだ。事実に前後不揃いということはあり得ない」
「わたしは何一つ不揃いなことを言った覚えはありません」ジェヴェックスは抗弁した。「わたしの記憶は……」
「黙れ! 訊かれたことにだけ答えろ!」
「失礼いたしました、閣下」
「ヴェリコフがヴィザーについて言ったことは、きっと本当です」エストードゥがおろおろ声で言った。「ヴィザーはジェヴェックスが接続されている間にさんざんでたらめを吹き込んだのです。ジェヴェックスが接続を断つまで、おそらく何年にもわたってのことでしょう。ジェヴェックスが絶縁した今、わたしたちははじめて本当のことを知らされたのです」作戦会議室にただたらぬざわめきが拡がった。
ブローヒリオは唇を舐《な》めた。急に自信がぐらつきはじめた様子だった。「ジェヴェッグス!」「はい、閣下」
「さっきの画像は……監視網から直接伝送されたものか?」
「もちろんです、閣下」
「地球にはあれだけの兵力があるのだな? その兵力が今、動員されていると言うのだな?」
「そのとおりです」
ワイロットはまだ疑念が晴れずに問い返した。「証拠があるか? ジェヴェックスは従来とまったく反対のことを申し立てています。何をもって事実と判断しますか?」
「それだと言って、何もせずにじっとしているのか?」ブローヒリオは食ってかかった。「地球軍など来るはずがないとたかをくくって、そうやってじっと坐っている気か? どんな証拠がほしい? 地球軍が傾《なだ》れを打って攻め込んで来れぱそれではじめて納得するのか? その時貴様はどうする気だ? 馬鹿者が!」
ワイロットは押し黙った。他の将軍たちは不安げにそっと視線を交わし合った。
ブローヒリオは後ろ手をしてゆっくりと室内を行きつ戻りつしはじめた。「こっちにはまだ切り札がある」ややあって、彼は言った。「わが方は、地球首脳間の最高機密暗号情報を解読している。地球軍の作戦は筒抜けだ。軍備の規模においてわれわれは劣るかもしれないが、技術水準においては遙かに地球を凌《しの》いでいる。射撃能力はわが方が絶対優位だ」彼はきっと顔を上げた。その目は異様な光を放っていた。「原始人どもの会議は諸君もさっき聞いたとおりだ。地球軍は奇襲作戦にすべてを懸けている。ところが、すでにそれを知っている以上、わが方は奇襲を食うことはないのだ。ヴェリコフめはわれわれを素人と抜かしたな。地球の原始人どもをけしかけて来るがいい。迎え撃ってやる。ジェヴレン兵器の威力を見せつけて、どっちが素人か思い知らせてやるのだ」
ブローヒリオはワイロットに向き直った。「テューリアンで展開中の作戦は一時延期だ」彼は断を下した。「直ちに全軍を呼び帰してジェヴレン防衛に当たらせろ。ジャイスター系の軌道が狂おうとどうしようと構わん。プラックホールを発生させて、可及的速やかに艦隊を帰還させろ。明日のこの時間までに防衛配備を完了しろ」
テューリアンを包囲する機動部隊の指揮官たちに新しい命令が伝達された。艦隊は帰還の途に就いた。しかし、そこはヴィザー管理下の宇宙領域だった。ジェヴェックスはヴィザーに妨害されてブラックホールを発生させることができないと報告した。艦隊はジャイスター系を離れた上でなくてはジェヴレンに瞬間移動できない。ブローヒリオは防衛態勢確立の期限を一日延ばさなくてはならなかった。艦隊は自力航行してジャイスター系を脱するしかない。一時間後、全艦隊はテューリアン圏の外周に向かって一斉に移動を開始した。
「作戦の第一段階はこれでめでたく終了だ」コールドウェルはテュリオス政庁のディスプレイが伝えるジェヴレン軍撤退の模様を眺めながら満足げに言った。「尻に帆をかけるとはこのことだ。ようし、この調子で先へ進めよう」
35
ジャイスター系の外側に環状プラックホールが点々と超空間への入口を連ねていた。ジェヴレン軍の宇宙戦艦は訓練の徹底した部隊にふさわしく迅速《じんそく》かつ正確な行動で隊列を解き、一隻また一隻と超空間に突入して行った。しかし、この時すでに瞬聞移動システムはジェヴェックスの手を離れ、完全にヴィザーの支配下にあったことをジェヴレン人の誰一人として知る者はなかった。ヴィザーの隠密行動はかくも鮮やかだったから、自己のシステム内部で命令系統が組み替えられていることを当のジェヴェックスさえ知らずにいたのである。通常空間に再突入したある艦隊はそこが天狼星《シリウス》であることを知って茫然自失した。別の艦隊は牡牛座の一等星アルデバランの近くに飛び出した。同様に、小艦隊は一隊ないし二隊ずつ、竜骨座のカノープス、牛飼座のアークトゥルス、子犬座のプロキオン、双子座のカストル、北極星、オリオン座のリゲル、その他もろもろの星域にぱらぱらに放り出された。これで当分邪魔者はなくなった。一段落した後で狩り集めれば済むことである。コールドウェルの作戦第二段階もかくて滞りなく終了した。
ハントは片手に煙草、もう一方の手にプラックコーヒーのカップを持ってスヴェレンセン邸の内庭《パティオ》に立ち、プールサイドに半円陣を作って特殊部隊の兵士らが見守る中を、けばけばしい身なりの一団が抗議の声を上げながら空軍の兵員輸送機に押し込まれる情景を眺めた。最後に逮捕されたその華やかな集団はパーティのつもりでやって来たところを、待ち受けていたCIAにひとまとめに搦《から》め取られたのだ。ヴィザーが監視システムを制圧した今はもう、軌道からの査察の目を恐れることはなかったが、それでもなおグリフォード・ペンスンはできるだけ表立った行動を避ける方針を貫いた。スヴェレソセンの人脈がどこまで拡がっているかこの機会に探ろうという考えからである。もっとも、それはスヴェレンセンが地元で手懐《てなず》けた協力者をいぶり出せるかもしれないという程度のことであって、ジェヴレン側の地球潜入工作に関してはすでにヴィザーがジェヴェックスの記憶装置から詳細な組織の系統図を手に入れていた。その情報はベンスンとソプロスキンのもとに渡っている。組織の潰滅はもう時間の問題だった。
ガニメアン宇宙船団は惑星ジェヴレンの周辺に集結していた。この時点でヴィザーはジェヴェックスのあらゆる機能を停止させることもできた。かつてテューリアン領内のジェヴレン人社会に起きたと同じことをもっと大規模な形で繰り返すこともでぎたはずである。ただ、問題はジェヴレソ人がかねてから戦時体制に備えていたことである。ジェヴェックスの機能が麻痺しても、独自に機能する緊急補助システムの用意がないとも限らない。それ故、コールドウェルとハントは直ちにジェヴェックスを停止してガニメアンたちをジェヴレンに送り込むのは得策でないと判断した。彼らとしてはなおも庄力を加えて、ヴェリコフの要求した無条件降伏、あるいはジェヴレン内部の分裂を待つことにした・のである。また、ジェヴレン軍作戦本部の模様を観察することで、ジェヴレン人がコンピュータの助けを借りずにはたしてどこまで自発的な行動を取れるものか見当を付けられそうだという読みもあった。
ハントの背後の、ガラス壁のあったあたりに応急処理として張られたビニール・シートを潜ってリンが顔を出した。彼女はそっと近付いてハントに腕をからげた。
「これでもう、ここのパーティに来ることもなくなったわね」プールサイドのVTOLに目をやって、彼女は言った。
「またこういうことになったか」ハントはちょっとふてくされた。「かねがね噂に聞いていた女の子が現われる傍から、ああやって誰かが連れて行ってしまうんだ。どうしてこういうめぐり合わせなのかね」
「それだけのことでそんなに浮かない顔してるの?」リンは目をくりくりさせて意味ありげに、いたずらっぼく尋ねた。
「スヴェレンセン君をこういう形で見送るのが残念だということさ。当然の話じゃないか」
「あら、そう」リンは声を落として茶化すように言った。「グレッグの話とはちょっと違うようだけど」
「ほう」ハントは眉を顰《ひそ》めた。「グレッグが……きみに何か言ったかい?」
「グレッグとわたしは意気が合うんですもの。そんなこと、わかってるはずでしょう」彼女は体をすり寄せて、ハントの腕にすがった。「わたしがここへ乗り込んだことで、誰かさんがすごく怒ったっていう話だったけど」
「見識の問題だよ」ハントは憮然として言った。「考えてもごらん。わたしがマクラスキーみたいな殺風景なところに足止めを食っている時に、誰かが陽の当たる場所で痛快な思いをするというのは許せないよ。わたしは筋の通らないことが嫌いでね」
「まあ、ひねくれた人」リンは溜息を吐いた。
二人は部屋に戻った。ソプロスキンが将校たちと片隅に立ち、ヴェリコフは奥のソファでベンスン以下CIAの面々と話していた。ソヴィエト軍の他の将校たちも話に加わっていた。ノーマン・ペイシーの姿はなかった。まだ通信室で粘っているのであろう。ソプロスキンと目が合って、ハントはちょっとヴェリコフのほうへ顎をしゃくった。「よくやってくれたよ。彼なりに一所懸命だった」声を落として彼は言った。「寛大な処置を期待するね」
「できるだけのことをしよう」ソプロスキンは答えた。感情に欠げた声だったが、その底にはハントを安心させる響きがあった。
「何だと?」通信室の廊下からブローヒリオらしい怒声が聞こえて来た。「艦隊の居場所がわかったと?」
「お、お。連中、事態に気付いたな」ハントはにやりと笑った。「行ってみよう。これを見逃す手はないそ」
一同は通信室へ急いだ。他の者たちも続々と詰めかけた。誰もが山場の一幕を見逃したくない気持だった。
「ジェヴェックスの誤動作と思われます」テューリアン侵攻軍の最高司令官はブローヒリオの権幕にすくみ上がった。「すべてにおいて時期尚早が禍いしたのです。時間に迫られて、移動システムのテストも充分ではありませんでした」
「そのとおりです」ワイロットが血の気の失せた顔で加勢した。「時間が不足でした。惑星間侵攻作戦はあのような短時間で組織できるものではありません。はじめから無理があったのです」
ブローヒリオは激しく向き直って、地球連合軍の最新戦闘序列を表示しているスクリーンを指さした。「やつらはやった!」彼は喚き立てた。「地球では自転車やオマルの工場まで、今は兵器を作っている」彼は将軍たちを睨《にら》み据えた。「しかるに、わがジェヴレンにおいてはどうだ? カドリフレクサーの完成に二年! 移動用のジェネレーター配備に十二ヶ月! われわれは技術力において圧倒的に他を凌いでおります、閣下≠ニ抜かしたのはどこのどいつだ!」ブローヒリオは顔面に朱を注いで拳をふり上げた。「その技術はどうした? おれの味方は銀河系のろくでなしばかりか? 地球人十人を部下に持てぱ、おれは金宇宙を征服してみせるぞ!」彼はエストードゥにぐいと顔を寄せた。「艦隊を引き戻せ。ジェヴレン圏のど真ん中にプラックホールを開けてでも、今日中に狩り集めろ」
「お言葉ですが……そのように簡単なことではありません」エストードゥは弱りきって小さく言った。「ジェヴェックスは移動システムの制御困難を訴えておりまして」
「ジェヴェックス! このたわけ者は何をぶつくさ言っているのだ?」ブローヒリオは声を荒らげた。
「セントラル・ビームの同期システム添応答しないのです、閣下」ジェヴェックスは答えた。
「自分でもどうなっているのかわかりません。白己診断データが解釈できないのです」
ブローヒリオは目を閉じて惑乱と闘った。「ならばジェヴェックスに用はない」エストードゥに向き直って彼は言った。「アッタンの予備システムを使え」
エストードゥは必死に唾を呑み下した。「アッタンのシステムは汎用ではありません。ジェヴレンに物資を輸送する能力しかないのです。艦隊は十五の星域に散らばっています。アッタンのシステムを使うためには星一つ一つについて出力を調整し直さなくてはなりません。それには何週間もかかります」
ブローヒリオは呆れ返って物も言えず、息を乱しながらフロアの中央を行ったり来たりした。と、彼はつと立ち止って地域防衛組織の指揮官に向き直った。「地球人どもはジェヴレンの腰抜軍を平らげたら誰に便所を掘らせるかということまで計画しているぞ。きみは地球の通信ネットワークに直通の回線で繋がっているな。地球人どもの暗号も解読している。やつらの考えていることを、君は全部知っているはずだ。きみの防衛計画を聞こう」
「は? わたしは、その……」将軍はへどもどした。「わたしが何を……」
「ぎみの防衛計画を聞いているのだ! はっきり答えろ!」
「しかし……われわれには武器がありません」
「予備隊はどうした? それでも貴様、将軍か?」
「ロボット駆逐艦が数隻あるだけですが、いずれもジェヴェックスが制御しています。はたして信頼できるでしょうか? 予備隊はテューリアンへ出払っています」
予備隊まで動員しろと言ったのはブローヒリオだったが、誰もそのことを指摘する勇気はなかった。
作戦本部は水底の沈黙に閉ざされた。これまでと観念してワイロットがきっぱりと言った。
「休戦です。他に道はありません。休戦を申し入れましょう」
「何だと?」ブローヒリオは激怒した。「公国は独立を宣言したばかりだ。それなのに、一戦も交えることもなく、原始人どもの足下にひれ伏すと言うのか? いったいどういうつもりだ?」
「一時休戦です」ワイロットは食い下がった。「アッタンの生産が軌道に乗って、兵器の用意がととのうまでの間です。軍隊が訓練を積んで戦闘力を身に付けるまで時間を稼ぐのです。地球は何世紀もの昔から戦争に備えています。われわれは違います。その差はいかんともし難いのです。テューリアンとの絶縁はいささか早まったと言わざるを得ません」
「ここは休戦以外に生き延びる術はないのではありますまいか、閣下」エストードゥも脇から口を添えた。
「ジェヴェックスがチャンネルを復旧しました」ヴィザーが報告した。「ブローヒリオはカラザーと単独会見を要求しています」
カラザーはいずれこの要求があるものと見越して政庁の一画に一人離れて席を構えていた。コールドウェル、ダンチェッカー、ヘラー、それに他のテューリアン人たちは床を隔てた反対側の隅にかたまっていた。
ブローヒリオの上半身画像がカラザーの前に現われた。ブローヒリオは見るからにうろたえていた。「これはどういうことだ? わたしはテューリアンへ出向いて会談する意志を明らかにしたではないか」
「この際、膝詰めの談判は穏当でないとわたしが判断したのだ」カラザーはブローヒリオの抗議を撥ねつけた。「何を話し合うと言うのかね?」
ブローヒリオは苦渋の面持でごくりと唾を呑んだ。「わたしは、その、一連の情勢の展開について検討を重ねた。ふり返って考えるに、われわれは地球人の臆面もない態度にまどわされた点がなくもない。われわれの対応は、いささか……性急にすぎたかもしれない。そこで、あらためて、この問題をテューリアン・ジェヴレン関係の視点から話し合いたいと思う」
「現在の情況はわれわれテューリアソにはかかわりのないことだ」カラザーは言った。「われわれは地球人がジェヴレンとの間で事態の解決を図ることに同意した。地球側からすでに条件が示されているはずだな。ジェヴレンは地球が示した条件を呑むのかね?」
「地球側の言い分はあまりにも一方的だ」ブローヒリオは不服を示した。「交渉の必要がある」
「ならば、地球人と交渉することだ」
ブローヒリオは鼻白んだ。「しかし……地球人は原始人だ。野蛮入だ。地球人に解決を委ねることが何を意味するか、わからないと言うのか?」
「よくわかっているつもりだ。きみは〈シャピアロン〉号のことを忘れたのか?」
ブローヒリオはまっ蒼になった。「あれは弁解の余地もない誤りだった。責任の所在を明らかにして、あのような事態を惹き起こした者は厳重に処罰する。しかし、現在の情況はまた間題が違う。ガニメアンとジェヴレン人は何万年もの昔から手を結び合って来たではないか。ここでわれわれを見捨てるとは、あんまりだ」
「ジェヴレン人は何万年もの昔からわれわれを欺《あざむ》いて来た」カラザーは冷やかに言った。「われわれはルナリアンの脅威が銀河系に拡散することを何とかして防こうと努力したのだ。にもかかわらず、現に銀河系はその脅威にさらされている。地球人に解決を委ねるしかないとすれば、進んで委ねようではないか。もはやガニメアンにできることは何もない」
「話し合おう、カラザー。このようなことがまかり通っていいはずのものではない」
「地球人の条件を呑むか?」
「地球人が本気とは思えない。交渉の余地はあるはずだ」
「だったら地球人と交渉しろ。わたしからはこれ以上、言うことは何もない。それでは、わたしは失礼するぞ」
ブローヒリオの映像…は消え去った。
カラザーは敬服の眼差を向けているコールドウェルたちをふり返った。「あんなことでどうでしょう?」
「お見事ですわ」カレン・ヘラーが言った。「国連に議席を申請なさってもいいくらい」
「地球式に、押しの一手で行く気分はどうですか?」ショウムが並ならぬ好奇心を示して尋ねた。
カラザーは立ち上がり、そり返って胸いっぱいに息を吸い込んだ。「何というか、その……もりもりと力が湧《わ》いて来る心持だよ」彼は隠さずに気持を打ち明けた。 コールドウェルは成り行ぎを見守る地球上の一同をふり返った。「情況は悪くないそ。ジェヴレン艦隊はばらばらになって当分は帰れない。敵は矢が尽きかけている。そろそろ止めを刺す時機だ。どう思うね?」
ハントは慎重だった。「ブローヒリオは自信がぐらついている。とは言うものの、まだまだ降参する気はない。破れかぶれで何をしでかさないとも限らないそ。特に、武器を積んでいないテューリアン船を送り込むのは考えものだ。ここはもう少し揺さぶりをかけたほうがいい」
「わたしらもそう思います」〈シャピアロン〉号からガルースが言った。その声にはもう後へは退かない決意があふれていた。
コールドウェルはちょっと思案してうなずいた。「よし、そうしよう」彼は顎を突き出し、ハントに向かって片目をつぶってみせた。「ヴィザーが材料を山と用意してくれたよ。これを使わなかったら罪というものだな」
「罰が当たるよ」ハントは大真面目に言った。
36
ジェヴレン軍作戦本部のスクリーンに地球連合軍の出動風景が映し出されていた。画面の手前から恐ろしげな形をした灰色の宇宙駆逐艦が隊列を組んで迫り出し、すでに視野の果てまで絨毯《じゅうたん》のように続いている大艦隊に加わった。最初の艦隊が画面の奥へ遠ざかると、すぐ続いて新たな艦隊が登場し.同じように視野をいっぱいに埋めて雁行した。第一艦隊はソヴィエト連邦の赤い星の標識を掲げていた。第二艦隊はアメリカ合衆国の星条旗だった。ヨーロッパ合衆国、カナダ、オーストラリア、中華人民共和国の標識が後に続いた。前景でゆっくり回頭する大型宇宙戦艦の向うには夥《おびただ》しい戦艦が縦陣を作っていた。直線的な船形のあちこちに設けられた銃座やミサイル格納庫が無言のうちに驚異的な破壊力を誇示している。さらに機動部隊と補給部がしんがりに続いた。宇宙空母。砲台衛星。巡洋艦。迎撃機母艦。地上攻撃衛星。武器兵員輸送船。シャトル発射台……その他ありとあらゆる種類の宇宙船が護衛船団を従えて繰り出していた。先頭集団は画面の奥で早くも周囲の星と見分けも付かない光点となり、その距離ではもう動きもさだかではなかった。いや、しかし、それは見かげの上の話である。測り知れぬ殺傷力を孕《はら》んだ一大人工星座は全速力で地球を遠ざかり、まっしぐらにガニメアンの瞬間移動ブラックホールの入口に向かっているのであった。
音声機構からジェヴェックスの説明が流れた。「月《ルナ》付近の集結空域を出動する第一波です。加速度は地球人が先に発表した到着時間から逆算した数値と一致します」
ブローヒリオは蒼ざめた顔で訊き返した。「第一波だと? 後続の勢力があるのか?」
それに応えて画面が地上の俯瞰《ふかん》に変わった。砂漢の一部を柵で広く囲った大きな基地と思われた。片隅に黒い点線のように見えているものに向かってカメラは一気にズームアップした。それは補給物資を搭載中の大気圏シャトル船団であった。その傍らには戦車、自走砲、兵員輸送車、そして何万という兵士の集団が部隊毎に整然と幾何学的な隊伍を組んでいた。「中国正規軍です。第二波攻撃隊として、これから軌道上の集結空域へ運ばれるところです」
再び画面が変わり、前と同じような光景を映し出した。濃い森林に覆われた丘陵地帯だった。
「シベリアで出動に備える大気圏内超音速爆撃機と高高度迎撃機編隊です」
画面はさらに変わった。「アメリカ西部から出動するミサイル部隊と対戦車レーザー砲部隊です。この他各国が第二波の出動準備中です。統合参謀本部では目下非常事態に備えて第三波攻撃作戦を検討しています」
ブローヒリオの額に汗の粒が浮ぎ出した。彼は目を堅く閉じ、何やら呪文を唱えでもするように唇を動かして、必死に冷静を保つことに努めた。
「これは私見ですが、閣下……」ワイロットが何か言いかけるのを、ブローヒリオは片手を上げて制した。
「やかましい.おれは今、考える時間を必要としているのだ」ブローヒリオは顎鬚をひねり、片手を背中に当てがって室内を行ったり来たりした。ややあって、彼は将軍たちに向き直った。
「ジエヴェックス!」
「はい、閣下」
「ヴィザーはテューリアンの設備を通じて地球の通信ネットに結ばれているはずだな。ヴィザーを介しておれを地球に繋げ。アメリカ合衆国大統領かソヴィエト連邦首相、いや、誰でも構わん、とにかく地球の意思決定に関与する人物と話をさせろ。早くしろ」
「さあ、どうしますか?」ヴィザーはテュリオス政庁に判断を仰いだ。
「今さらこっちの方針を変えるわけには行かない」コールドウェルが言った。「無条件降服以外にブローヒリオに開かれた道はないんだ。相手はヴェリコフしかいないと思い込ませるように持って行け」
ブローヒリオはいらいらしたがら、また行きつ戻りつしはじめた。ジェヴェックスが報告した。
「ヴィザーはこちらの要求を拒否しています。テューリアン側の方針で、地球人とジェヴレン人の問題には介入しないという態度なのです」
ブローヒリオはがくりと膝が折れそうになるところを辛うじて踏みこたえた。「テューリアンはジェヴレンに戦艦を派遣しているのだぞ」彼は喚いた。「片方でそのようなことをしながら、介入したい方針とはどういうことだ? ヴィザーに抗議しろ」
「はなはだ申し上げにくいことですが、閣下、ヴィザーは糞喰え、と捨科白《すてぜりふ》を吐きました」 ブローヒリオはあまりのことに怒鳴り返すことも忘れていた。「ならば、もう一度カラザーに繋ぐようにヴィザーに言え」彼は声を詰まらせた。
「ヴィザーは拒否しています」
「ヴイザーを出せ。おれが話す」
「向うはいっさい接続を絶っています。呼び出しに応じようとしません」
ブローヒリオは憤怒と恐怖にわなわなとふるえた。彼は焦点を失った目でせわしなく左右をふり返った。
「ヴェリコフと話すしかありません」ワイロットが言った。「最後通告を受容ずることです」
「ならん!」、ブローヒリオは叫んだ。「一戦も交えずして白旗を掲げることはできない。まだ二日ある。全将校団と科学技術陣をアッタンに移して立て籠《こも》ることもできる。背水の陣を敷くのだ。アッタンの陣を強化すれぱ地球人どもは容易に近寄れまい。追撃して来れば返り討ちだ」
彼はワイロットをきっと見据えた。
「ジェヴェックスと相談して、二日以内に能う限り最大の戦力をジェヴレンからアッタンに移転する計画を策定しろ。直ちにかかれ。他の責任はいっさい放棄して構わん」
「このあたりで時間の跳び越しと行くか」様子を窺《うかが》っていたハントが言った。「条件は揃《そろ》った」
「本当にやる気ですか?」〈シャピアロン〉号からシローヒンが問い返した。彼女は心配そうだった。「理論的に無理があると思いますが」
「どう思う、クリス?」コールドウェルが肩越しにダンチェッカーをふり返った。
「今の状態なら、彼らは非合理を非合理と受け取らないだろう。おそらく、疑問を抱くゆとりもないのではないかね」
「連中はほとんどパニックを来たしている」ソブロスキソがハントの隣から言った。「パニックと論理は並び立たないことになっているよ」
「わたしはいまだに、あなたがたの言うパニックなる現象がよく理解できませんね」〈シャピアロン〉号のイージアンが言った。
「それを、これからお目に懸けようという段取りだよ」コールドウェルはヴィザーに指示を下した。
「失礼ですが、閣下」ジェヴェックスが言葉を挟んだ。「二日以内というのば現実に即しません」
「何だと?」ブローヒリオはぎっくりと立ちつくした。「現実に即さぬとはどういうことだ?」
「二日とおっしゃる根拠がわかりません」ジェヴェックスは答えた。
ブローヒリオは何をか言わんという表情で頭をふった。「自明のことではないか。地球人は二日後に攻めて来る。違うか?」
「おっしゃることがわかりません、閣下」
ブローヒリオは怪訝《けげん》な顔で将軍たちを見渡した。幕僚たちもまた不思議そうに顔を見合わせていた。
「地球軍の来襲は二日後だ。違うか?」ブローヒリオは重ねて言った。
「作戦は延期されて溝りまぜん、閣下。攻撃開始は今日、正確には十二時間後です」
しばらくは時間の流れが止まったような沈黙があたりを支配した。
ブローヒリオは握り拳を上げて何度かゆっくり額を叩いた。
「ジェヴェックス」やっと気持を静めて彼は穏やかに言った。「おまえはさっき、第一波はやっとこれから地球を発進するところだと言ったのだぞ」
「お言葉を返すようですが、閣下。わたしはそのようなことを申した覚えはありません」
ブローヒリオは堪えかねて張り裂けるばかりの声を放った。「どうして地球人どもが今日じゅうにやって来られるのだ? 今、地球を発進したところではないか。そうではないと言うのか?」
「地球軍は二日前に行動を開始しています」ジェヴェックスは答えた。「すでにジェヴレン圏に到達しています。十二時間後には攻撃を開始します」
ブローヒリオは見る見るまっ赤になった。「さっきの画像は、地球からの生中継だと言ったはずではなかったか?」
「いえ、二日前の録画であると申し上げました」
「そんなことは言わなかった!」ブローヒリオは喚《わめ》いた。
「はっきり、そう申し上げました。記憶もそのようになっております。もう一度、画像を再生しますか?」
ブローヒリオは将軍たちに訴えるような視線を向けた。「聞いたろう、諸君。いったいこのやくざな人工頭脳はどうしたというのだ? さっきの画像は生中継ではなかったのか? どうなのだ?」
誰もブローヒリオの言うことを聞いてはいなかった。将軍の一人はわけのわからぬことを口走りながらあたりをうろうろ歩きまわりだした。別の一人は頭を抱えて呻《うめ》いていた。他の者たちはうろたえて口々に勝手なことを喚き合っていた。
「二日前の録画であるはずがない」
「どうしてそう言いきれる? 何が事実か、事実でないか、どうしてわかる? いったい、貴公は何をもって判断するのだ?」
「ジェヴェックスがそう言った」
「それが、今は二日前の画だと言っているのだ」
「ジェヴェックスは狂っているのだ」
「しかし、ジェヴェックスは……」
「ジェヴェックスは頼りにならん。われわれはいったい何を信じたらよいのだ?」
「地球軍が攻めて来る! もう、そこまで来ているのだ!」
科学者のエストードゥはそっと部屋から姿を消した。混乱の最中で、誰もそれに気が付かなかった。
ブローヒリオは両手をふり重わして負けじと声を張り上げた。「十二時間だぞ! 十二時間後には敵が攻めて来るのだ! しかるに、わが方には武器がない。地球軍はのっけから総攻撃をしかけて来る。われわれの情況を知らないからだ! その、われわれの情況はどうか? わが方には一矢を報いる術もないのだ! 子供ばかりの宇宙船一隻でも、やつらはジェヴレンを征服できるのだ。われわれがそのような状態にあることを地球人どもは知らない。迎え撃つおれの手にあるのは何だ? できそこないの幕僚、できそこないの科学者集団、それに、できそこないのコンピュータだ!」
ワイロットは立ち騒ぐ将軍たちを掻き分けてブローヒリオの前に出た。「選択の余地はありません」彼は強硬に諫言《かんげん》した。「ヴェリコフの条件を受諾することです。少なくとも、そうすることで今しばらくの時間が生じます」
ブローヒリオは険しい目つきで睨《にら》み返したが、ワイロットの言うとおりだと認めていることは顔に書いてあった。とはいえ、まだ気持は決しかねている。ワイロットはしばらく待ってから、喧躁に抗して声を張り上げた。
「ジェヴェックス! スヴェレンセン直通のチャンネルで地球を呼び出せ。ヴェリコフに繋げ」
「かしこまりました、将軍」ジェヴェックスは答えた。
コネティカットの通信室で、ハントは戸口から覗《のぞ》いているヴェリコフをふり返った。「さあ、きみの出番だ。間もなくブローヒリオの降服を受諾することになる。それでめでたしめでたしだ」
他の考たちが一斉に引き下がって丸く場所を空ける中を、ヴェリコフはつかつかと進み出た。ジェヴレンの作戦本部を映し出しているスクリーンの中で、ワイロットとブローヒリオはまっすぐ正面に向き直り、ジェヴェックスの接続を待っていた。ヴェリコフも精いっぱい胸を張り、腕組みをして歴史的瞬間に備えた。
スクリーンの画像がふっと消えた。
通信室の一同は首を傾げながら互いに顔を見合わせた。
「ヴィザー……?」一呼吸置いてハントが呼びかけた。「ヴィザー、どうしたんだ?」
答えがなかった。テューリアンと〈シャピアロン〉号のスクリーンも画が消えていた。
ヴェリコフが片側の機械装置に飛び付いて手早く各部を点検した。
「駄目です」皆をふり返って彼は言った。「システムがそっくり遮断されています。どこにも通じていません。こちらからは接続できません。何かの原因で、ジェヴェックスとは完全に接続を断たれたのです」
テュリオス政庁でも同様な騒ぎが持ち上がっていた。コールドウェルがうろたえて叫んだ。
「ヴィザー、どうした〜 地球とジェヴレンソの画像が出ていないそ。どこかで接続が切れたか何かしたのか?」
数秒経ってヴィザーが答えた。「それどころではありません。接続が切れたのはコネティカットとジェヴレン作戦本部だげではないのです。ジェヴェックスそのものが接続を断ったのです. どうすることもできません。全システムが機能を停止しました」
「ジェヴレンがどうなっているか、全然わからないのか?」モリザルが蒼くなって尋ねた。
「わかりません」ヴィザーは答えた。「ジェヴェックスの管理する惑星圏内で僅《わず》かに回線が通じているのは〈シャピアロン〉号だけです。ジェヴェックスは機能していません。全システムが停まってしまったのです」
ブローヒリオは、気が付くと作戦本部の建物の地下壕の私室に横たわっていた。彼はがばと跳ね起ぎた。何がどうなっているのか自分でもよくわからなかった。ほんの今しがた、彼は作戦会議室でワイロットと共にヴェリコフとの接続を待っていたはずである。それを思い出した途端、今この瞬間にもジェヴレン圏に突入しようとしている地球軍大艦隊の偉観がありありと瞼《まぶた》に浮かんだ。彼はうろたえてあたりを見回した。
「ジエヴェッグス!」
返事がない。
「ジェヴェックス、応答しろ」
何度呼んでも同じだった。
冷たく堅いものが胃の底にわだかまっている気持だった。プローヒリオはそそくさと立って肌着の上にローブをはおり、隣室へ走ってモニター・パネルの状態表示をあらためた。照明、空調、通信、給水……すべてが非常モードに切り替わっていた。ジェヴェックスは機能を停止しているのだ。彼は通話コンソールを試してみた。スクリーンに現われるのは何度やっても回線飽和の表示ばかりだった。それはすなわち、故障が部分的なものではないことを意味している。本部の建物全体が混乱に陥っているのだ。彼は寝室に駆け戻って戸棚から衣類を乱暴に引きずり出した。上着のボタンをかけているところへ、廊下のドアをそっと叩く音がした。ブローヒリオは慌《あわ》ててプリント・ロックに拇指《おやゆび〉を当ててドアを解錠した。エストードゥが二人の部下を従えて立っていた。廊下でけたたましく叫び交わす声が聞こえた。
「どうしたのだ?」プローヒリオは食ってかかった。「システムが麻痺状態ではないか」
「わたしがもとを切ったのです」エストードゥは言った。「中央制御室の手動オーバーライド遮断器を降ろしました。ジェヴェッグスの全システムを停めたのです」
プローヒリオは髯を逆立てて目を剥《む》いた。「何だって? 貴様……」 エストードゥは手をふって彼を遮った。日頃のエストードゥからは想像も付かない、思い詰めた仕種だった。ブローヒリオは気圧されて口を閉じた。
「何が起こっているか、わかりませんか?」エストードゥは急き込んで声を尖らせた。「ジェヴェックスは正常ではなかったのです。内部から妨害されていたのです。ヴィザーの仕業としか考えられません。何らかの手段でヴィザーはジェヴェックスの中枢機能に直結したのです。だとすれば、これまでのこちらの動きは何もかもテューリアンに筒抜けです。あと十二時間。急げばまだ脱出できます。アッタンとはまだ非常回線で繋《つな〉がっています。予備システムでジェヴレンにプラックホールを発生させることができるのです.ジェヴェックスの機能は麻痺していますから、ヴィザーは目隠しされているのと同じです。テューリアンや地球のことは気にする必要はありません。地球軍の第一陣がやって来るまでまだ十二時間あります。来た時には、もうここはもぬけの殻です。われわれの行先は、彼らにはわかりません。向うがアッタンに目を着ける頃には、こっちは戦闘態勢を固めています。わかりますね? これしか道はないのです。ジェヴェックスが稼動している限り、いっさい敵に知られずに行動することは不可能なのです」
プローヒリオはエストードゥの言葉に耳を傾けながら咄嵯《とっさ》に思案をめぐらせた。議論をしている場合ではない。何もかもエストードゥが言うとおりなのだ。プローヒリオはうなずいた。「戦う意志のある者は残らず本部に集合させろ。知覚転送ではなしに、各本人が体ごとだ」彼はエストードゥに向かって言った。「ランチャーに連絡して、信頼できる乗組員五班を今日一八〇〇時までにギアベーンに待機させろ。おまえは……」彼はエストードゥの背後に控えた側近の一人に目を移した。「ギアベーンの作戦指揮官にE級輸送船五隻をその時間までに整備させろ。一分たりとも遅れることは許さん。輸送船団がジェヴレン圏を離脱し次第、環状プラックホールでアッタンに瞬間移動するよう各方面に手配しろ」もう一人の側近を指さして彼は言った。「ワイロット将軍に、警備隊五箇中隊をギアベーンに空輸して一七三〇時までに出発準備を完了させるように伝えろ。二千人の輸送能力が必要だ。どこからでも構わん、手当たり次第に輸送手段を徴発しろ。実力行使に遠慮は無用だ。わかったか?」
ブローヒリオは上着の襟を直し、寝室へ取って返して拳銃のベルトを締めた。「おれは本部会議室へ行く。ぎみたち三人は手配を済ませて今からきっかり一時間後におれのところへ来い。言われたとおりにしろ。明日の今頃は全員アッタンだ」
37
〈シャピアロン〉号は惑星ジェヴレンに接近して、後からテューリアンを雑ったガニメアン船団の到着を待っていた。船団は惑星圏にさしかかっていたが、〈シャピアロン〉号に合流するまでにはまだ何時間もかかる距離を残していた。低空に降下した舟艇が地上の模様を母船司令室のスクリーンに伝えていた。ジェヴレンじゅうが大混乱に陥っていた。空中を移動するものはなく、近接地域間の移動や行楽用の容量の小さな道路に地上車があふれていたるところで渋滞が生じていた。早くもあちこちで暴動が起こっている。しかし、指導者もいず、組織力もない大方の一般市民はただ広場や空地に集まって右往左往するばかりだった。地上の通信情報を傍受しても、公共サービスはいっさい麻痺し、何一つ秩序回復の対策が取られていないことは明らかだった。この混乱を鎮め、社会秩序を回復する大仕事はガニメアンたちの手に委ねられることになりそうだった。
ガルースは司会室の中央に立って逐時報告される情況を判断しながら、気持は重苦しく沈んで行く一方だった。ヴィザーはジェヴェックスを破壊していない。混乱の原因はジェヴレン人たち自身にあると考えなくてはならない。彼らは知らぬ間に外部から監視されていたことにどこかで気付いて、ヴィザーを目隠しするためにジェヴェックスの全システムを遮断したのだ。ジェヴレン側は何かを企らんでいるに違いない。しかし、彼らの狙いは知る由もない。ガルースは何としても気に入らなかった。
今一つ、どこか深いところで彼を悩ませているのはしくじったという気持だった。イージアンも、シローヒンもモンチャーも、他の者たちも、〈シャピアロン〉号のジェヴレン還征がテューリアンを救ったと言って彼を勇気付けようとしている。しかし、ガルースは仲間たちを船もろとも死の淵に立たせた責任を強く意識せずにはいられなかった。ハントたち地球人の迅速《じんそく》な行動が彼らを救ったのだ。ガルースは乗組員ぱかりか、イージアン配下の科学技術陣までも危険にさらした。彼が窮地を脱し得たのは他の者たちの支えがあったからである。たしかに、テューリアンに対する脅威は除かれた。それはそのとおりである。しかし、ガルースはとてもそれを自分の手柄と考えることはできなかった。何の役にも立てなかったのが悔まれる。テューリアンから送られる讃辞は彼の心を暗く重くするものでしかなかった。
片側の小さなスクリーンの中で、ハントが肩越しにふり返って誰かと話していた。ジェヴレンの地球潜入工作の本拠だったコネティカットのスヴェレンセン邸内には大勢の入間があふれていた。
「しかし、何だね。こいつはひょっとすると将来地球人にえらい面倒を負わせることにもなりかねないな」
「何が言いたいんだね?」アメリカの政府高官ノーマソ・ペイシーの声が画面の外から間い返した。
ハントは体をよじって目の前のスクリーンを指さした。「だってそうだろう。いずれ地球人はテューリアンの学校へ子供を留学させるようになるな。向うへ行った子供たちはこの回線を使うことを覚えて、受信者払いで家へ電話をかけるぞ」
ジェヴェックスが機能を停止して通信が杜絶した後、コネティカットのハントたちは電話でマクラスキー基地を呼び出し、信号をパーセプトロンのデータビームに乗せてヴィザーと接続することを思い付いたのだ。スヴェレンセンの通信室の隣室にある二台のテレビ電話が今はガニメアンとの交信に使われている。一台は〈シャピアロン〉号、もう一台はテュリオス政庁に通じていた。
「わたしはいまだに信じられないね」ハントの後ろの窓際の椅子にかけてちらりと顔を覗《のぞ》かせているCIAのベンスンが言った。「この電話が、恒星空間を隔てた異星船の物言うコンピュータに繋《つな》がっているなんて、信じられない」ペンスンは画面の外にいる誰かをふり返った。「なあ。CIAはもっと早くにこいつをやるべきだったよ。お宅たちがクレムリンの便所でこそこそ話していることだって盗聴できるんだから」
「しかし、もうそういう時代も終わりですよ」ロシア人らしい声が答えた。
〈シャピアロン〉号に今現に同乗していたとしても地球入たちのふるまいは変わらないだろう、とガルースは密かに思った。今しがたの危険も、未知の恐怖も、彼らはまるで気にしない。そうして、あのように冗談を飛ばし合って笑い興ずることだろう。地球人は常に何かに挑み、失敗しても笑って忘れ、すぐにまた試みる。最後には、きっと目的を達するのだ。間一髪の危機も、彼らにとってはもう過ぎ去ったことである。勝負で一本取ったというだけのことにすぎない。今、彼らの頭にあるのは次の一本のことだけである。ガルースはつくづく地球人たちが羨《うらや》ましいと思った。
沈黙を破ってゾラックが情勢の急変を告げた。「緊急報告。新しい動きが起こりました。第四号舟艇がジェヴレンの裏側から発進する宇宙艦隊を発見。総勢五隻、密集隊形で上昇中」
スクリーンの画像が雲塊に覆われたジェヴレン惑星表面に変わり、斑《まだら》の大地を背景に五つの黒い点となって移動する宇宙艦隊を映し出した。
傍らのスクリーンで、ハントはぐっと身を乗り出した。他の者たちも後ろから肩をくっつけ合って屈み込んだ。地球人たちは固唾を呑んで成り行きを見守っていた。隣のスクリーンではカラザー以下テュリオスの一同が、やはり緊張に顔を強張らせていた。
「ブローヒリオと参謀たちに違いない」短い沈黙の後、カラザーが言った。「アッタンに退却する気だな。ジェヴレンとアッタンを結ぶ予備の移動システムがあるとエストードゥが言っていた。それを使って落ち延びる計画だったのか。もっと早くそこに気が付くべきだった」
イージアンは司令室のガルースの傍に立った。シローヒンとモンチャーは他の技術者たちと一方の隅にかたまっていた。
「脱出を許してはなりません」イージアンは不安げに言った。「アッタンは最後の防衛拠点として備えを固めているはずです。彼らは角面堡に立て籠《こも》って徹底抗戦の構えを取るに違いありません。こっちに攻め手がないことが知れるのは時間の問題です。アッタンに脱出されたら、事態は容易ならぬことになります」
「何かね、そのアッタンというのは?」ハントがスクリーンの中から尋ねた。
イージアンは考えをめぐらせながら上の空で答えた。「ジェヴレンの遠い衛星で、空気も水もない岩の塊です。ただ、鉱物資源は豊富なのです。ジェヴレンはずっと昔に、工業化の資源確保というたてまえでその所有権を認められました。それが今では彼らの兵器庫になっているのです。おそらく衛屋全体が要塞と兵器工場を兼ねた角面墜になっているでしょう。何としても、プローヒリオのアッタン籠城《ろうじょう》は阻止しなくてはなりません」
イージアンがハントに説明している間、ガルースはテューリアンの超空間移動システムについてそれまでに学び得たことを頭の中で復習した。ヴィザーもジェヴェックスも、自己の管理する宇宙領域に投射されるh-ピームをそれぞれの探査網で検知し、遮断することができる。探査体はまた、環状プラックホールが形成される際、フィールド・パラメータを読み取って超空間に流れ込もうとするエネルギーを拡散させてプラックホールの発生を阻害することができる。探査体がなけれぱビームもエネルギーの流れも遮断できない。ジェヴレン周辺に綱を張っている探査体はすべてジェヴェックスに付属するものである。ジェヴェッグスが機能を停止している今、ヴィザーはそれを介してアッタンからのビームを遮断できない理屈である。ジェヴレン人がシステムを閉鎖したのはそのためだったのだ。
「打つ手はないな」カラザーが別のスクリーンから言った。「そこにいるのは〈シャピアロン〉号だけだ。他の船が行き着くまでにはまだ少なくとも八時間はかかる」
悲痛な沈黙が司令室を覆った。カラザーは途方に暮れて左右をふり返るばかりだった。ハントたち地球入もなす術を知らず、ただ息を殺していた。中央のスクリーンでは、ジェヴレン艦隊が早くも惑屋の描く円弧の外へ飛び出そうとしていた。
ガルースは情況が次第にはっきりと見えて来るにつれて、久しく忘れていた自信と勇気がもりもりと湧《わ》き上がるのを感じた。彼の取るべき行動は決まっていた。ガルースは司令官の自覚を取り戻した。「われわれは現にここにいる」
イージアンはちらりとふり返り、腑《ふ》に落ちない顔でスクリーンに視線を戻した。五つの黒い点は星の降る空間を急速に遠ざかりつつあった。「追跡できますかね?」彼は自信なげに言った。
ガルースは期するところある顔でにやりと笑った。「向うはたかがジェヴレンの惑星間輸送船だろう。きみは大切なことを忘れてはいないか? この〈シャビアロン〉号は恒星間宇宙船だぞ」
カラザーの発言も待たずに、ガルースはきっと頭を上げて命令を発した。「ゾラック! 第四号舟艇をただちに追跡に向けろ。他の舟艇は残らず回収しろ。本船を高軌道に上昇させて、その聞に全舟艇を最大航続距離にチャージしろ。メイン・ドライヴ出力全開用意だ。追跡するぞ」
「追跡してどうする?」カラザーが尋ねた。
「それは追いついてからのことだ」ガルースは言った。「とにかく、見失わないことが先決だ」
「タリー・ホウ!」ゾラックが完壁なイギリス英語で鬨《とき》の声を真似た。 ハントはびっくりして目を自黒させた。「どこでそれを覚えた?」
「第二次世界大戦中のイギリス空軍のパイロットを描いた記録映画だよ」ゾラックは答えた。
「ぎみのためにね、ヴィック。きっと喜ぶだろうと思って」
38
ブローヒリオはジェヴレン艦隊旗艦のブリッジに立って夥《おびただ》しいデータスクリーンを見上げている操作技師団を険しい目つぎで見渡した。スクリーンには遠距離走査コンピュータから刻々とデータが送り出されていた。情報を交換する低いざわめきを破って制御卓の一ヶ所から驚きの声が上がった。
「どうした?」プローヒリオは性急に報告を求めた。
エストードゥが茫然とした顔でふり返った。「あり得べからざることです……」彼はしきりに背後のスクリーンを指しながら、声も満足に出ないありさまだった。「しかし、事実は事実です……間違いありまぜん」
「だから、どうした?」ブローヒリオは焦れて叫んだ。
エストードゥはごくりと唾を呑んだ。「〈シャピアロン〉号です。ジェヴレンから回頭して、こっちへ追って来ます」
プローヒリオは正気を疑う目でエストードゥの顔を覗《のぞ》き込んだが、ふんと鼻を鳴らし、操作技師を二入押しのけて自分でスグリーンの前に坐った。見る間に彼の唇はまくれ上がり、髯は逆立ってふるえた。眼前の事実を断じて受け入れまいと抵抗する態度だった。隣のスクリーンに望遠レンズが大きく捉えた画像が出た。もはや事実は打ち消しようもなかった。ブローヒリオは弾かれたように、やや退ってスクリーンを覗いているワイロットをふり返った。
「貴様、これを何と説明する?」彼は喚《わめ》きちらした。
ワイロットはうろたえて激しくかぶりをふった。「そんなはずはありません。ガニメアン船は破壊されたのです。わたしがそれは確認しました」
「ならば、あそこにまっすぐこっちを追って来るのは何だと言うのだ?」ブローヒリオは操作技師たちに向き直った。「あの船はいつからジェヴレンにいる? 目的は何だ? 誰も知らなかったとはどういうことだ?」
ブリッジの一段高いところから艦長の声が響いた。「非常な加速度で追跡して来ます。とても逃げきれません」
「追って来たところで何もできません」ワイロットが声を詰まらせて言った。「武器は積んでいませんから」
「馬鹿者!」ブローヒリオは一喝した。「〈シャピアロン〉号は何故破壊を免れた? すでにテューリアンに移動していたからだ。地球人どももテューリアンに渡っているだろう。あの船には、おそらく、地球人どもが武器を携えて乗り込んでいる、ということだ。攻撃されたらわれわれはひとたまりもないそ。こっちは一度あの船を攻撃してへまを犯しているのだ。〈シャピアロン〉号の乗員は地球人が何をしようと知らぬ顔だぞ」
ワイロットは唇を噛んで項垂《うなだ》れた。
「〈シャピアロン〉号周辺のストレスが急速に高まっています」遠距離走査オペレーターが他より一段高い座席から叫んだ。「レーダー走査も光学的接触も不能です。h-スキャソによれば、敵船は針路を保ってなお加速中です」
エストードゥは必死に考えをめぐらせた。「まだ逃げきる見込みはあります。閣下」彼ははっと顔を上げて言った。プローヒリオは顎を突き出して詰問する表情で彼をふり返った。エストードゥは言葉を続けた。「ガニメアン船はまだストレス・フィールド緩衝システムのない時代に建造されています。h-スキャソ装置もありません。つまり、メイン・ドライヴ航行中はこちらを追尾できないのです。彼らはわれわれの針路を予測して追跡するしかありません。しかも、針路を修正するには段階的に減速しなくてはならないのです。向うが手探りで飛んでいる間に、こちらは針路を変えて追跡をかわすことも不可能ではありません」
他のオペレーターが報告した。「右舷後方に重力変動。距離九八〇マイル。強度七。なお増加中。第五級プラックホール開口。h-スキャンは〈シャピアロソ〉号前方に同級の進入口を捉《とら》えています」
ブリッジ内は色めき立った。オペレーターの報告は、ヴィザーが二本のビームを投射して環状プラックホールを作り出していることを意味している。超空間のトンネルを潜り抜けて〈シャピアロン〉号はジェヴレン艦隊に追いすがろうとしているのだ。第五級のブラックホールはさして大型の物体を瞬間移動させるものではない。オペレーターがまたうろたえた声を発した。「飛翔体が通常空間に再突入しました。高速度で接近して来ます」
「ミサイルだ!」誰かが叫んだ。「敵はミサイルを発射した!」
乗組員たちは浮足立った。プローヒリオはうつろな目を見開いて、噴き出す汗を拭うことすら忘れていた。ワイロットはへたへたと椅子にくずおれた。
今一度オペレーターが叫んだ。「飛翔体確認。〈シャピアロン〉号のロボット舟艇です。針路、速度とも本艦に同じ、ブラックホールの出口は閉じました」
遠距離走査オペレーターが報告した。「〈シャピアロン〉号、加速接近中。距離、二十二万マイル」
「ふりきれ!」プローヒリオは艦長席を見上げて叫んだ。「艦長、追跡をかわして逃げきれ」
艦長は針路変更を指示し、コンピュータがそれに応じて宇宙船の向きを修正した。
「舟艇はぴったり追随して来ます。逃げきれません。〈シャピアロン〉号もヴェクトルを修正して間合を詰めて来ました」
プローヒリオは憤怒に顔を歪めてエストードゥに噛みついた。「何が、向うは手探りだ? 減速する気配もないではないか!」
エストードゥは両手を拡げて意味もなく首を横にふった。ブローヒリオは技術者たちをふり返った。「どうだ? 敵はしつこいそ。何とかならないのか?」
誰一人、答える者はなかった。プローヒリオはスクリーンの〈シャピアロン〉号追尾データを指さした。「あの船に乗っているどこかの天才が、何か特別な手を編み出したんだ。それなのに、こっちはどうだ? おれのまわりは屑《くず》ばかりだ」彼はブリッジの床を行ったり来たりした。「いったい、どういうことだ? 向うは天才揃《ぞろ》い。おれのまわりは屑ばかり。どうしてこういう……」
「そうか!」エストードゥが叫びとも喰りともつかぬ声を発した。「敵は舟艇と〈シャピアロン〉号をh-ビームで結んでいるんだ。.舟艇はこっちの動ぎを全部読み取って、ヴィザーを通じて〈シャピアロン〉号のフライト・システムに最新データを送り込む……。これではどうやってもふりきれるわけがない」
ブローヒリオはしばらくエストードゥを睨《にら》みつけていたが、やがて、通信士官に向き直って声を張り上げた。「ぐずぐずしている閑はない。アッタンヘジャンプするぞ。向うの状態はどうだ?」
「ジェネレーターは出力いっぱいで待機中です」通信士官は答えた。「照準は本艦ビーコンに合っています。直ちにプラックホール開口が可能です」
「しかし、敵舟艇がわれわれにぴったり付いて瞬間移動したらどうします?」エストードゥが言った。「アッタンの通常空聞に再突入すればヴィザーが舟艇の位置を割り出します。われわれの目的地を知られてしまいます」
「われわれの目的地くらい、向うの知恵者どもはとうの昔にお見通しだ」ブローヒリオは頭ごなしに極めつけた。「だからと言ってやつらに何ができる? アッタンに近寄るものなら容赦はない。木っ端微塵と吹き飛ばしてやるまでのことだ」
「しかし、本艦はまだジェヴレン圏内です」エストードゥはおろおろ声で抗議した。「ここでジャンプしたら、惑星が……宇宙領域が大混乱を来します」
「それを思ってこんなところで足踏みしていると言うのか?」ブローヒリオは口を歪めた。「敵の舟艇が警告にすぎないということがわからんのか? ぐずぐずしていれば、次は本当にミサイルを撃ち込んで来るぞ」プローヒリオは、文句があるか、とばかりに挑むようにブリッジを見回した。プローヒリオに楯突く者はなかった。彼は傲然《ごうぜん》と肩をそびやかした。「艦長! 直ちにアッタンへ移動しろ」
命令はアッタンに伝えられ、数秒を経ずして巨大なジェネレーターはジェヴレン船五隻の前方の限られた空間にエネルギーを注ぎ込んだ。時空の一部が褶曲《しゅうきょく》し、ねじれて揺動し、果てしなく陥没した。超空間への入口が激しく旋回する渦の中心に形をなしはじめた。それはまず虚空の一点に収束された光の小さな輪となって現われた。やがてその輪がゆっくりと拡がって漏斗状の壁を作ったと見る間に、渦流の焦点に底知れぬ暗黒の空間が生じた。
次いで漏斗状の窪みの内側に反対方向の渦流が発生した。逆回転する二つの渦はせめぎ合い、反発し合ってめまぐるしく波動した。時空は引き裂かれてさながら乱麻のようにもつれ合った。何かが異常だった。超空間の入口は安定しなかった。「どうした?」ブローヒリオは叫んだ。
エストードゥは血眼となってずらりと並ぶスクリーンのデータを追いかけた。「何かが環状プラックホールの発生を妨害しています……フィールド・マニフォールドを破断させようとしています。こんなことははじめてです。ヴィザーの仕業に違いありません」
「そんな馬鹿な!」操作技師の一人が叫んだ。「ヴィザーはビームを遮断できない。ジェヴェックスは閉鎖されているんだ。ヴィザーには探査体がない」
「ビーム遮断ではないな」エストードゥは誰にともなく言った。「進入口は形成されているんだ。ただ、別の何かが……」彼は〈シャピアロン〉号を捉えているスクーリンに目をやった。「そうか! ヴイザーは〈シャピアロン〉号の舟艇に進入口の形成をモニターさせているんだ。ビームは遮断できない。それでヴィザーはジャイスターから補足パターンのビームを発射して、アッタンのビームを相殺しようとしているんだ。そうやってプラックホールを通行不能にする狙いなんだ」
「まさか」技術者の一人が反論した。「舟艇一隻じゃあそれだげの相殺力は出せないだろう。それに、向うはジャイスターから当てずっぽにビームを発射しているはずじゃないか」
「ジャイスターとアッタンのビームが同一空間で干渉し合ったら、相乗効果は大変なものだぞ」別の技術者が言った。「不安定な共鳴が起こりでもしたら、それこそどうなるかわかったものじゃない」
「現にその不安定な共鳴が起きているんだ」エストードゥはスクリーンを指さして叫んだ。「さっきから言ってるだろう。ヴィザーの仕業に間違いない」
「ヴィザーがそんな危険を冒すものか」
宇宙船前方では複合相対論的時空の歪みによって惹《ひ》き起こされたエネルギーの大渦流が収縮拡散しながら激しく揺動していた。数光年を隔てた二点から流れ込むエネルギーは衝突して、電光は宇宙空間を切り裂き、花火のように弾けて散った。プラックホールの核は収縮し、肥大して飛散し、新たに融合した。宇宙船は渦の中心に向かってまっしぐらに突き進んでいた。
ブローヒリオは技術者たちの議論について行かれなかった。彼は命令を待っている艦長を見上げた。命令を下しかけて、一瞬、彼はエストードゥの異様な表情に気付いて声を呑み込んだ。
エストードゥは何とも形容し難い不思議な顔をして、〈シャピアロン〉号を捉えたスクリーンの前に石のように立ちつくしていた。彼は身のまわりで起こっていることは何もかも忘れ去った様子で、何事かを低く呟《つぶや》いていた。「舟艇を経由したh-ビーム……。ヴィザーとジェヴェックスを繋《つな》いだのはこれだ」彼は眼球が抜げ落ちるばかりに目を剥《む》いた。豁然《かつぜん》としてすべてを悟ったエストードゥの顔は見る間に土気色に変わった。「それで、ジェヴェックスは偽情報を吹き込まれて……そうか! そうだったのか! ありもしないことを、〈シャピアロン〉号からの操作で……こっちは丸腰の船一隻に追われて逃げまどっているのか」
「どうした?」プローヒリオは鋭く呼びかけた。「何だ、その顔は?」
エストードゥは焦点を失った目でふり返った。「そんなものはありゃあしません……地球連合軍なんて、どこを捜したっていやあしません。嘘っぱちです。ヴィザーが偽情報をでっち上げて、〈シャピアロン〉号を通してジェヴェックスに吹き込んだんです。まんまと騙されました。向うははじめから〈シャピアロン〉号しかいないんです」
艦長がブリッジの上階から身を乗り出した。「閣下、直ちに針路変更を……」
その声も、ブローヒリオの耳には届かぬ様子だった。艦長はほんの一瞬躊躇《ちゅうちょ》したが、すぐに副長をふり返った。「前方補正器遮断、非常ブースター点火。全速後進。迂回路を算出して直ちに針路変更せよ」
「何だと?……今、何と言った?」プローヒリオは、彼を半円陣に取り巻いて首をすくめている男たちにゆっくりと向き直った。「おまえたち、地球人どもに見事に一杯食わされたと言うのか?」
ブリッジの天井から合成されたコンピュータの音声が無表情に流れた.「ネガティヴ・ファンクション。ネガティヴ・ファンクション。いっさいの測定不能。本船は逆転不能の傾度で加速中。修正不能。繰り返す。修正不能」
プローヒリオは耳も貸さなかった。宇宙船は限りなく複雑に入り組んだ時空の迷路にすさまじい勢いで突入した。
「馬鹿者め!」ブローヒリオは両の拳をふり上げ、声の限りに喚《わめ》きちらした。「ろくでなし!できそこない! 貴様ら、みんな、できそこないだ!」
「おい、見ろ。もろに突っ込んで行くそ」〈シャピアロン〉号司令室のスクリーンの中で、ハントは驚異の目を瞠《みは》った。メイン・スクリーンには二十万マイル前方をジェヴレン船団に食い下がって飛び続ける舟艇から送られた画像が映し出されていた。恐怖を孕《はら》んだ沈黙があたりを支配した。
「どうなっているんだ?」イージアンがフロアの中央からおずおずと尋ねた。
「不定波動がh-周波、つまりビーム・スペクトル内のずれに起因する異常波型に重なって相乗効果を生んでいます」ヴィザーが答えた。「超空間内部の混乱は分析可能の範囲を超えています」
隣のスクリーンではカラザーがものも言えずに口をあんぐり開けて頭をふっていた。「こんなはずではなかった……」やっとのことで彼は声を絞り出した。「どうして引ぎ返さなかったのだ? わたしはプローヒリオが超空間に逃げ込むのを止めれぱそれでよいと考えていたのだがね」
「ゾラック! メイン・ドライヴを停止して減速しろ」ガルースが感情抜きのきびきびした声で指示を下した。「通常空間と接触を回復したら、直ちに光学走査画像を出してくれ」
スクリーンいっぱいに、虚空の暗黒を切り裂く電光が荒れ狂った。五つの黒い点はぐんぐん画面の奥に遠ざかって小さくなり、あるところでふっと光の渦に呑み込まれた。渦は触手を伸ばすかのように迫り出して、追いすがる舟艇を銜《くわ》え込んだ。〈シャピアロン〉号のストレス・フィールドが消滅し、スクリーンの画像はゾラックが望遠レンズで捉えた前方の空間に切り替わった。
「安定回復に向かっています」ヴィザーが報告した。「共鳴が鎮まって擾乱の余波だけになりました。超空間のトンネルは閉じようとしています」
スクリーンの中で、電光はちりぢりに跡切れて螺旋《らせん》状に渦に吸い込まれて行った。渦は次第に赤みを増しながら小さくなり、溶暗して消え去った。しばらくは背景の星が擾乱の名残を示して揺れていたが、それもじきに鎮まって、すべては嘘のように常態に帰った。
司令室は長いこと沈黙に閉ざされたままだった。誰も身じろぎ一つしようとしなかった。スクリーンに映った地球人やテューリアン人も深刻な表情で黙りこくっていた。
かなりの時間が経ってから、ヴィザーが驚きを隠しきれぬ声で言った。「まだ報告することがあります。詳細は今のところまだわかりかねますが、どうやらジェヴレン船団はトンネルを潜り抜けた模様です。舟艇はトンネルが閉じる最後の瞬間まで画像を送り続けていました。それで見る限り、彼らは通常空間に再突入したと判断しないわけには行きません」
司令室にざわめきが拡がる中で、スクリーンは舟艇が送って寄越した最後の画像に変わった。五隻のジェヴレン船は隊形を崩しながらも、たしかに通常空間と見られるところを飛んでいた。背景の星もそこが通常空間であることを示していた。そして、画面の右肩にひときわ大ぎく映っているのはどこかの惑星らしかった.画面が静止して、ゾラックが言った。「ここで送信が跡絶えています」
「あの中を、潜り抜けたって?」イージアンは舌をもつれさせて言った。「どこへ行ったんだ?どこで通常空間に再突入した?」
「それはわかりません」ヴィザーは答えた。「アッタンを目指していたはずですが、あの状態ではどこへ投げ出されたかわかったものではありません。これからアッタンのビームを基準に方位測定を行なって星域を割り出しますが、それには少々時間がかかりそうです」
「それを待ってはいられない」カラザーが言った。「アッタンが防備を固めていようとどうしようと、ジャイスターから支援の船隊を派遣するぞ。何としてもプローヒリオの針路を絶たなくてはならない」
彼は周囲の反応を窺《うかが》った。異議を唱える者はなかった。カラザーは一段と厳しい声で言った。
「ヴィザー、支援隊の隊長に繋《つな》いでくれ」
「もうここに用はない」ガルースは低く落ち着いた声で言った。「ゾラック、船をジェヴレンへ帰せ。テューリアン人の到着を待つことにする」
〈シャピアロン〉号が回頭してジェヴレンに引ぎ返す間に、ジャイスター系の外周にいくつかの環状プラックホールが口を開け、テューリアン支援船隊は超空間を潜り抜けて、次の瞬間、アッタン圏に再突入した。ジェヴレン軍の遠距離査察システムは亜光速で接近して来る船隊を捉えた。アッタン防衛軍の司令官は船隊を地球連合軍の分隊と判断した。たちまちのうちに、緊急非常周波数帯は無条件降伏を叫ぶ声で飽和した。数時間後にアッタンに降り立ったテューリアンの一隊はいっさいの抵抗を受けることなくこの衛星を制圧した。
まったく予期せぬ結果だったが、アッタンが降服した理由はそれ以上にテューリアン側を驚かせるものだった。プローヒリオの船団はアッタンどころか、アッタンから目の届く限りのどこにもやって来なかったのだ。アッタンの司令部は、プローヒリオの船団がジェヴレン圏を離れた時点で消息を絶って以降、ついに彼らと接触を回復することができなかった。プローヒリオとその幕僚たちがいなくなっては、アッタンは首のない蛇も同然である。アッタン勢はいちはやく武器を捨てて投降した。
五隻のジェヴレン船はどこに消えてしまったのだろうか? ヴィザーは自分の管理する宇宙領域のどこを捜してもブローヒリオたちが実体化した形跡はないと報告した。さらに、ジェヴェックス圏の内外に小型のブラックホールを貫通させ、ありとあらゆる装置を積んだ探査船を八方に派遣したが、ついに船団は影も形も見えなかった。ブローヒリオの一行は、ジャイスター系が銀河宇宙に占める一画から忽然《こつぜん》と消え去ってしまったのだ。
それはともかく、テューリアン人たちはアッタンで思いがけないものを発見した。彼らは驚きの目を瞠《みは》り、理解に苦しんで頭を抱えた。アッタン圏のさる宇宙領域に、建造過程のさまざまな段階にある夥《おびただ》しい構造物が放置されていたのである。形も大きさもみな同じ、一辺五百マイルの箱状のもので、対角線に沿った太い円柱が中心部で直径二百マイルの球型物体を支えていた。
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「いったい、これはどういうことだろう?」アッタンに接近したテューリアン船から外を打ち眺めながら、カラザーは言った。「これは、われわれが設計したとおりのカドリフレクサーの現物ではないか。ジェヴレン人がそれをすでに何百と作り上げている」
「わかりませんね」ショウムが隣でしきりに首を傾げた。「どう説明したらいいのか」
ヘラーとコールドウェルとダンチェッカーは互いに顔を見合わせた。
「カドリフレグサーというのは?」コールドウェルが尋ねた。
カラザーは溜息を吐いた。取り繕《つくろ》った話をしたところではじまらない。「わたしたちが太陽系封じ込めに使おうとしていた装置です。これを冥王星の外側に、ある距離を隔てて太陽系を包む球面状に配置する計画だったのです。カドリフレクサーはそれぞれ上下左右の四つのユニットとh-フィールドによって格子型に結合されます。各ユニットの時空変形効果がひと続きの、言うなれば絶対に透過不能の目に見えない膜となって太陽系をすっぽり包むわけです。
「わたしたちは縮尺モデルで実験を重ねて来ましたし、原寸の試作機もいくつか完成していますが、まだまだ最終計画の具体化には前途程遼い段階です」
カラザーは船窓の外を指さした。「ところが、ジェヴレン人たちはこのとおり、われわれの設計データを盗んで計画をここまで進めているのでず。彼らの狙いがわたしには理解できません」
ダンチェッカーは眼鏡の奥でしきりに昌をぱちくりさせながら、眉を寄せて思案をめぐらせた。ジェヴレン人を芯に、王葱《たまねぎ》のように幾重にも層をなしていた謎の皮の最後の一枚が今まさに剥けようとしている。どこかでそんな気がしていた。ジェヴレン人は地球の脅威をことさらに強調し、それを裏付げる証拠を偽造した。そして、地球人の太陽系外進出を阻止すべきであるとガニメアンを説得したのだ。そのためには物理的に地球を封じ込めなくてはならない、と彼らは言った。つい最近までガニメアンはそれを真に受けていたのだ。ジェヴレン人の建議を容《い》れて封じ込めの準備に着手した。ところが、ジェヴレン人たちは独自に同じ計画を推進し、しかも、そのことをガニメアンには伏せていた。何故か? これをどう解釈したら良いだろう?
ダンチェッカーはヴィザーがスクリーンに映し出している〈シャピアロン〉号の司令室と、コネティカットのスヴェレンセン邸の映像に目をやった。が、どちらもダンチェッカーの疑問に答える状態ではなかった。〈シャピアロン〉号のガニメアンたちは司令室のメイン・スクリーンに吸い寄せられていたし、ハントたちは部屋の奥のデータ・スクリーンに群がってこちらには背中を向けていた。そのスクリーンには〈シャピアロン〉号からの画像が映っているはずである。いずれも何かに興奮している気配だったが、話の中身は聞き取れなかった。
「同じことを、自分たちの手でやり遂げようとしていたとは考えられませんか?」少し経って、カレン・ヘラーが言った。
「何のためです?」カラザーは問い返した。「現にわたしたちが計画を進めていたのですよ。同じことを計画して彼らに何の得がありますか?」
「時間はどうかな?」コールドウェルが試みに答えを出した。
カラザーはかぶりをふった。「それほど切迫した事態と受け取っていたのであれぱ、彼らはわたしたちに計画をもっと速く進めるように要請したでしょうし、これだけのことをするのに費やした努力の何分の一かで目的を達することもできたはずです。彼らの予定がどうなっていたかは知りませんが、テューリアンの資源と技術力をもってすれば予定をずっと繰り上げても間に合うでしょう」
フレヌア・ショウムは何か思い当たる節がある顔だった。「それにしても不思議ですね。わたしたちが計画を進めようとした時にジェヴレン側が地球脅威論を引っ込めたことが何度かありました。ジェヴレンはわたしたちが研究開発を進めることを希望しながら、一方では計画の実施をでぎるだけ遅らせるように仕向けていたと考えられないこともありません」
「ノウハウを盗んでいたんだ」コールドウェルは唸《うな》った。「テューリアンからどんどん知恵を失敬して自分たちの計画を先へ進めていた……」彼はちょっと考えてから質間した。「この、カドリフレクサーは恒星系を封じ込める他に、何か別の用途があるのかな?」
「それはありません」カラザーは即座に答えてから、思い直して言葉を補った。「それはまあ、同じ規模、ないしはそれ以下のものであれば、何を閉じ込めてもいいわけですが……」
「ふうむ……」コールドウェルは考え込んだ。
ヘラーが両のて掌《てのひら》を返して肩をすくめた。「もし、彼らの狙いが太陽系封じ込めではなかったとしたら? 彼らが封じ込めようとしていたのは……」彼女は最後まで言いきろうとはしなかった。皆が同時に答に行ぎ着いた。
カラザーとショウムは声もなく顔を見合わせた。「わたしらか?」カラザーはやっとのことで押し出すように言った。「テューリアンか? ジェヴレンはジャイスター系の封じ込めを狙っていたのか?」
ショウムは額に手をやって、その意味するところをさらに深く考えようとする様子だった。コールドウェルとヘラーはものも言えずにただ二人の顔色を窺《うかが》うしかなかった。
ゆっくりと霧が晴れて行くように、ダンチェッカーの意識の中ですべてが明らかな輪郭を現わしはじめた。
「そのとおり!」彼は声を張り上げて中央に進み出ると、今一度頭を整理して、しきりに大きくうなずいた。「そうです。他に説明のしようがありません」
これ以上何の説明が必要か、という顔で彼はもどかしげに一同を見回した。皆はきょとんと彼を見返した。ダンチェッカーが何を言おうとしているのか、誰も理解しなかった。一呼吸あって、ダンチェッカーはおもむろに口を開いた。「これまでわたしは、ランビアン・セリアソの対立感情をジェヴレン人が何万年を経た今に至るまで執念深く持ち越しているということがどうしても理解できませんでした。しかも、その聞に彼らはガニメアンの感化を受けているのですからなおさらです。不思議だと思いませんか? かつての敵対心だけではとうてい説明できない。この裏には他に何かがある、と思ったことはありませんか?」
彼は言葉を切り、もう一度問いかけるように皆を見回した。
しばらくして、コールドウェルが言った。「そんなふうに思ったことはたいね、クリス。どうしてだ? きみはいったい何が言いたいんだ?」
ダンチェッカーは唇を湿した。「ジェヴレン人が長年にわたって世代交替を繰り返す間、彼らの社会の背後に一貫して変わることのないある存在があったというのは極めて興味深い事実だと.思わないかね?」
短い沈黙が流れた。 ヘラーがはっと目を瞠《みは》った。「ジェヴェックス……? 先生のおっしゃる、ある存在、というのはコンピュータのことですか?」
ダンチェッカーはすかさず自信をもってうなずいた。「ジェヴェックスの成立は遙か以前に溯《さかのぼ》ります。その基本設計とプログラミングは創造者、すなわち、ランビアンの直系の子孫の持って生まれた闘争心や果てしなき野望、非情の精神といったものを色濃く反映していると考えるのは、はたして現実とかけはなれたことでしょうか? そのような野望を植え付けられたコンピュータが、ジェヴレン人の中でも特に資質《ししつ》の優れた人材を手懐《てなず》けて自分の手足にしたということは、断じてあり得ないでしょうか? もしそれが事実だったとすれば、ジェヴェックスにとってテューリアン人という存在はその野望の前に立ち塞《ふさ》がる障害であり、自由を奪う首枷《くびかせ》であったはずです」
コールドウェルも小さくうなずきだした。「何とかして、目の上の瘤《こぶ》であるテューリアン人を排斥しなくてはならなかったわけだな」
「そのとおり」ダンチェッカーは言った。「ただし、すぐにというわけには行かない。その前にテューリアンから学ぶべきことがたくさんあったから。それにしても、いずれ最後にはテューリアンから与えられた知恵と技術を武器にして、当のテューリアンを駆逐しようというのだからジエヴレン人は恐ろしい。テューリアンから盗んだガニメアン科学技術を武器に、ジェヴェックスを指導者に戴いて、ジェヴレン人は銀河系をわがもの顔に支配する。これが彼らの展望だったのだよ。テューリアンの高度な文明を考えてごらん……何光年もの距離を瞬時に移動する技術。ジェヴレン人は知性人種が足を踏み入れた宇宙空間を残らず手中におさめることもできたはずだよ。彼らの野望は果てしない。自分たちの領域をどこまででも拡げる気だったんだ。そのジェヴレンの前に立ち塞がる唯一の障害がテューリアンだった。それで彼らは何ものをもってしても破ることのできない重力殻でジャイスター系を隔離しようと計画したのだよ」
ダンチェッカーは上着の襟を掴んで反り身になり、茫然自失しているカラザーたちを見比べた。
「というわけで、ジェヴレン人の行動の背後にあったものがこれで判然としました。おそらく、彼らはミネルヴァ時代からこの究極の宇宙支配の構図を夢に描いていたことでしょう。その夢を、彼らはあと一歩で実現するところだったのです」
「すると、アッタンで生産されていた兵器は……」カラザーはまだ驚きから立ち直れず、ふるえ声で言った。「テューリアンを敵と想定したものではない……?」
「それは違いますね」ダンチェッカーは言った。「ジャイスターを封じ込めた後、いよいよという時のことを考えて軍備を進めていたのでしょう」
「そうだわ。そうなると、最初の敵はもう知れていますね」ヘラーは言った。「彼らはランビアン、私たち地球人はセリアンですもの」
「言うまでもないことです」ショウムは低く声を落とした.「その頃、地球はまったくの無防備状態になっているはずでした。テューリアンに対して地球の軍備放棄をひた隠しにしていたわけもそれでわかります」彼女はジェヴレン人の抜け目のなさにあらためて感心するふうに一人でしきりにうなずいた。「実に巧妙な計画ですね。自分たちが力を蓄えている間は地球の進歩を遅らせて、ある時期から急に地球の進歩を加速させたのですね。そして、地球脅威論を打ち上げて、ガニメアンの庇護《ひご》を求める態度を示したのです。ジェヴレン人は、最終的には自分たちの力で脅威を排除する考えでしたね。しかも、ガニメアンにはその事実を隠して、技術開発をけしかけて、その技術で地球ではなく、当のガニメアンを封じ込める計画だったのです。そうやってガニメアンを遠ざけてしまえぱ、あとは恐いものなしです。ランビアソの末裔《まつえい》であるジェヴレソ人は仇離《きゅうてき》セリアンを誰に邪魔されることもなく討つことができたはずですね。力の差は歴然としています」
「赤児の手をひねるようたものだったろう」コールドウェルも今度ばかりは恐怖を抑えかねた体で呟いた。
「ジェヴレン人は太陽系を奪還する考えだったのだよ」ダンチェッカーが言った。「そもそものはじめから、それこそが彼らの第一目標であったとわたしは想像するね。彼らにしてみれば、もともと太陽系は自分たちのものだったんだ。いつまでもガニメアンに従属する立場に甘んじてはいられない。ジェヴレン人の精神構造を考えれぽ、それは当然の気持だろう」
「辻褸が合いますね」カラザーは悲しげに言った。「何故彼らがあれほどまで自治領として分離することを主張したのか……何故ヴィザーから独立したシステムで自分たちの宇宙領域を管理しなくてはならなかったのか」
カラザーとショウムは視線を交わしてうなずき合った。「いろいろなことがはっきりと見えて来ました」
彼はしばらく物思いに沈んだ。次に口を開いた時、その声は意外にも晴れやかだった。
「今の話がすべて事実だとすれば、わたしどもにとってはこれからの仕事がずいぶん楽になりました。問題の根がジェヴレン人の人種的特性ではなく、むしろジェヴェックスに発しているということであれば、対処のしかたはあります。不愉快な報復手段を取る必要はないでしょう」
ショウムはどこか遠くを見る目つきでゆっくりとうなずいた。「そうですね……。正しい方向を与えられれば、彼らは新しい規範を学んで、成熟した穏健な人種に生まれ変わって文明を再興するかもしれません。まだすべてが失われたとは言いきれません」
「そう考えれば、わたしらには新しい建設的な目標ができたことになる」カラザーは早くも積極的な姿勢を示した。「道草だったかもしれないが、最後はきっと良くなるだろう。きみの言うとおり、すべてが失われたわけではないのだ」
「ああ、今のところ、これは飽くまでも一つの仮説ですよ」ダンチェッカーが慌《あわ》てて念を押した。
「しかし、検証の道はあります。事実すべてがジェヴェックスから起こったことであれば、概念サプネットを検索してジェヴェックスの古い記憶の中に、今ここで話した発想の原型があるかどうか調べれぱいいのでず」彼は正面からカラザーに向ぎ直った。「ジェヴレンの秩序が回復し次第、厳重な監理の下にジェヴェックスの一部の機能を復活してヴィザーに記憶を徹底的に調査さぜることはできるでしょう」
カラザーは聞き終えぬ先からうなずいた。「わたしもそれを考えていたところです。それには、何はともあれまずイージアンと話し合わなくてはなりません」彼は〈シャピアロン〉号司令室の画像をふり返った。「イージアンはまだ手が空かないか? そっちはどんな様子だ?」
司令室のメイン・スクリーンの下に集まったガニメアンたちの間で何やら大騒ぎが起こっていた。次いで隣のスクリーンから地球人たちの沸き返るような声がこぼれ出た。ハントらコネティカットの面々は肩をぶつけ合うようにしながらどやどやとアッタンのテューリアン船と結ばれたスクリーンの前へ移動した。ダンチェッカーたちは話を中断して、しばらくは呆気に取られてスクリーンを見つめていた。ハントは興奮のあまり舌も回らぬありさまだった。「発見したぞ!ゾラックが惑星を拡大処理したんだ。場所がわかった。あり得ないことなんだ!」
ダンチェッカーは目を白黒させた。「ヴィック、きみの言うことはまるで意味が通じないそ。頼むから気を落ち着けて、よくわかるように話してくれないか」
ハントが努めて気持を静めようとしていることは傍目にも明らかだった。「ジェヴレン船五隻の行方だよ。突き止めたんだ」彼は言葉を切って息をととのえ、背後で〈シャピアロン〉号の画像に見入っている男たちをふり返った。「ゾラック! 画像をヴィザーに伝送してくれないか。アッタンのスクリーンに出すように」
ダンチェッカーの乗っている宇宙船に、〈シャピアロン〉号の舟艇が超空閻のトンネルが閉じる寸前に送って寄越したジェヴレン船の画像が表示された。
「画が出たか?」ハントが言った。
ダンチェッカーはうなずいた。「ああ。これがどうかしたかね?」
「右肩に惑星が見えているだろう。ゾラックに、その部分を拡大してくれと言ったんだ。やってくれたよ。惑星がわかった」
「ほう」ダンチェッカーはまだ何のことだか呑み込めなかった。「どこの惑星かね?」
「それを訊くなら、いつのと言ってもらいたいね」ハントはにやりと笑った。
ダンチェッカーは眉を寄せてまわりをふり返った。他の者たちもわげがわからずに困惑の表情を浮かべていた。「ヴィック、何の話だ、いったい?」
「ヴィザー、見せてやってくれ」ハントは答える代わりに言った。
右肩に小さく映っていた惑星が中央に移動して、画面いっぱいに拡大された。星の降る空間に、明るい光線を浴びて浮かぶ惑星だった。雲間に海が覗《のぞ》いていた。解像度は決して高いとは言えなかったが、陸地の形ははっきりと見分けられた。カラザーとショウムがあっと息を呑んだ。ダンチェヅカーも一瞬遅れて飛び上がった。
よく知っている惑星だった。ハントと同じく、二年前にヒューストンでルナリアン調査研究に携わっていた頃、彼はその惑星の広い極地氷原に挟まれた大陸や島々、地峡、河口、海岸線を見飽きるほど眺めて暮らしたのだ。ダンチェッカーはふり返った。カラザーとショウムはあまりのことに声を失ったままだった。コールドウェルもわれとわが目を疑う表情で茫然と立ちつくしていた。ダンチェッカーは彼らの視線を辿《たど》ってゆっくりとスクリーンに向き直った。間違いない。彼の錯覚ではなかった。
惑星はミネルヴァであった。
40
何光年もの距離を隔てて、ヴィザーとアッタンのブラックホール・プロジェクターが限られた時空の支配権を争った最後の数秒間に、はたしてそこで何が起こったかは誰にも想像し得なかったし、誰もがそれは永遠の謎であろうと見切りを付けていた。しかし、ハントはカレン・ヘラーとノーマン・ペイシーがはじめてヒューストンにコールドウェルを訪れたあの日、ポール・シェリングが言ったことは正しかったのだと認めざるを得なかった。ポール・シェリングは、宇宙空間の二点間の瞬時移動を理論付けるガニメアン方程式は、時間軸上の移転をも説明するものであり、時に空間と時間軸上の移動が同時に起こることを意味している、と言ったのだ。どのような条件が重なったかはともかく、五隻のジェヴレン船は何光年もの距離を跳び越えたのみか、五万年の時間を溯《さかのぼ》って、まだミネルヴァが存在する時代の太陽系に舞い戻ったのである。ガニメアン科学者たちは背景の星の位置を測定し、ジェヴレン船が太陽系に戻った年代を正確に計算した。それは、ミネルヴァを破壊に導いた最後のルナリアン戦争の二百年前だった。
これによって、惑星ミネルヴァに当時の水準を遙かに超える高い技術文明を持つランビアンが、まさに一夜にして登場した謎が氷解した。同時に、それまで戦乱を避けて、地球移住のために一致協力して技術開発を目指していた惑星世界が二極に分裂し、戦火を交えて、ついには相討ちに自滅した理由も説明された。セリアンは二千五百万年前にガニメアンの手で地球からミネルヴァに運ばれた地球動物を祖先としてこの惑星上で進化した先住民である。ランビアソは五万年未来のジェヴレンからやって来た。ランビアンはミネルヴァで進化した人種ではない。彼らは移住者だったのだ。
しかし、ここに解明された事実は、新たに科学者たちが将来にわたって荷物とするであろう数々の謎を生んだ。例えば、ランビアンが自分たちの遠い子孫のそのまた子孫であるという事実をどう説明するかの問題である。彼らの限りない権勢欲は人種的な特色であるよりも、むしろ、とりわけ権力志向の強い者の集団を括る性格的特性であると考えなくてはならないが、だとすれば、彼らはその性格をどこから受け継いだのだろうか? ジェヴレン人はそれをランビアンから受け継いだが、そのランビアンはミネルヴァに降り立ったジェヴレン人から過激な性格を受け継いだのだ。それでは、いったいどこにその起原を求めるべきだろう? ダンチェッカーは彼らが変形された時空を通過する間に生理学的な変質を来たし、それがすべての発端となったのではないかという仮説を提唱したが、これはあまり説得力がなかった。何となれぱ、この場合、何をもって発端とし、起原と言うかは容易に規定し難かったからである。
ミネルヴァに舞い戻ったジェヴレン人がその後に何が起こるかを知っていたに違いないことも、大きな疑問の種であった。二百年後には戦争で惑星が破壊され、辛うじて生き延びた者たちがテューリアン人に救われてジェヴレン世界を築き、五万年後にヴィザーによって滅ぼされることを知っていたジェヴレソ人は何故、その運命を変える努力をしなかったのだろうか? 運命の前に彼らは無力だったろうか? 決してそんたことはない。いかなる歴史があったかは知らず、それ以前にそこにあった世界をいっさい消去して、時環《タイムループ》にまったく新しい歴史が書き込まれたのだろうか? それとも、ジェヴレン人は出発のどさくさで有形の記録を持ち出す閑もなく、超空間を潜り抜ける間に記憶も喪失して、ミネルヴァに着いた時には自分たちが何者か、どこから来たのか、まるでわからなくなっていたのだろうか。それがために、なす術もなく永劫の輪廻《りんね》に身を委ねたのだろうか?」
テューリアン人たちもこうした疑問に答えることができず、彼らの学問領域はジェヴレン入をめぐって新たな開拓を迫られることになった。いずれ遼い将来、ガニメアンと地球人の数学者や物理学者は相携えてジェヴレン人の不思議な運命を科学的に解明する理論を打ち立てるかもしれない。が、それもまた、何とも言いきれぬことであった。
一つだけ、地球人とガニメアンを、そしてジェヴレン人をも等しく悩ませていた謎が氷解した。それは、冥王星を越えた太陽系の外側にあって、月の裏側から旧時代のガニメアン・コードで発信された信号をいちはやくキャッチし、ヴィザーに中継したのは何ものだったかということである。テューリアン人はジェヴレン人が中継装置を打ち上げたものと理解し、ジェヴレン人はテューリアンが探査体を飛ばぜていたに違いないと解釈していた。情況のしからしめるところ、当時両者は互いにそのことを面と向かって問い詰めるわけには行かなかったのだ。そして、ジェヴレソ人の手で通信が遮断されて、中継装置の正体は闇に葬られた。いかなる装置が誰の手でそこに設置されたのか──
謎の中継装置の正体は、ジェヴレン船団を追って超空間のトンネルに飛び込んだ探査舟艇以外の何ものでもあり得なかった。舟艇が母船の暗号方式に則した信号に応答するプログラムを与えられていたのは、当然と言えばあまりにも当然すぎることである。そして、舟艇はh-リンクでテューリアンと結ぽれていた。シローヒンの科学者集団は最後の数秒間の交信記録を分析して、超空間のトンネルが閉じた時、探査舟艇は受動モードで母船〈シャピアロン〉号からの指令を待っている状態にあったことを確認した。思えば長いことよくも待ち続けたものである。ジェヴレン船隊追踏のためにヴィザーから与えられた運動力によってミネルヴァ付近の通常空間に飛び出した探査船は太陽の引力に逆らって太陽系の外周に向かい、冥王星を超えた軌道に定着したのだ。そして、待ち続げた。ある時、ついに理解し得る信号が飛び込んで来た。探査船はかねて指示されていたとおり、それをヴィザーに中継した。その間に五万年の星霜が過ぎ去っていたことを、一個の機械装置である探査船が知る由もなかった。
かくてミネルヴァと初期ガニメアン、ランビアンとセリアソを含めたルナリアン、チャーリーとコリエル、地球のホモ・サピエンス、そしてジャイアソツ・スターを結ぶ円環は閉じた。円環は終わったところからはじまっていた。その輪廻の中にジェヴェックスとプローヒリオとランビアンたちは閉じ込められている。彼らは永劫の過去からどこまで行っても抜け出すことができない。皮肉にも、その時環牢は、彼らがテューリアンを封じ込めようとした透過不能の重力殻よりもなお一層堅固であった。
邪心の指導者が去った後のジェヴレン人たちは地球人と少しも変わるところがなく、晴ればれとして、力を合わせて市民社会の再建に立ち上がった。政治経済の機構改革はもとより、それ以上にブローヒリオの無謀な惑星脱出が惹起した重力擾乱によって破壊された都市機能の回復は容易ならぬ大事業であった。カラザーはガルースをジェヴレンの臨時総督に任命して復興の指導監督に当たらせた。ジェヴレンはテューリアンの保護領となり、当分はジェヴェックスのような惑星全土を管理するシステムを認められなかった。そうは言っても広域を覆う情報処理システムは市民生活に欠くことができない。幸い、ゾラックはジェヴレンの現状にお誂《あつら》え向きの処理能力を備えていた。〈シャピアロン〉号はジェヴレンに常駐することになり、ゾラックは、いずれは惑屋間にネットワーグを拡げ、さらに将来ヴィザーに統合されることを前提に、パイロット・ネットワークの核として新しい活躍の場を見出した。
加えて暫時コソピュータ管理をはずされたジェヴレンは、ガルース以下〈シャビアロン〉号で二千五百万年前の世界から渡って来たガニメアンたちにとって、テューリアン社会に徐々に適応して行くためには理想的な環境であった。しかも、彼らガニメアン集団はガルースを助けて惑星社会を再建し、ジェヴレン政府の新しい機構を作り上げるために中心的な役割を果たすことになったのだ。そんなわけで、ガルースも、彼に従ったガニメアンたちも、ゾラックも、再び故郷と呼べる場所とやり甲斐《がい》のある将来の目標を与えられて胸を脹《ふく》らまぜた。 地球では前政権の灰燼《かいじん》の中から立ち上がった新体制の下でミコライ・ソプロスキンがソヴィエ卜外相に就任した。クレムリソの密室政治は急に改まるはずもなかったが、その内部でどう話がまとまったものか、ヴェリコフは地球外科学顧問の肩書を与えられた。人類史上はじめて地球市民権を認められた異星人である。
アメリカ合衆国国務省ではパッカードの肝煎《きもい》りで、カレン・ヘラーとノーマン・ペイシーを中心とするグループが過去一世紀にわたって東西間を隔てて来た相互不信の垣根を取り去り、米ソニ大超国の経済力、たらびに台頭しつつある第三世界の物的人的資源を合わせて全地球の繁栄を図る政策を立案することになった。かつて第一次世界大戦を惹《ひ》き起こし、ポルシェヴィキ革命とヒトラー政権の両方に資金援助を与え、また、中束紛争や東南アジアの危機を演出し、核兵器競争を煽《あお》って自分たちの懐を肥やした国際組織は潰滅した。ジェヴェヅクスの記憶にはまだ他にも彼らの謀略が目自押しに並んでいたが、いずれも計画倒れに終わったのは幸いであった。
地球をそっくりジェヴレンの属領とする計画の急所と目されていた国連はジェヴレン工作員の影響から解放され、星間共同体に役割を占めるであろう地球の代表機関として再生の道を歩み出した。星間共同体で地球が果たす役割は将来ますます重みを増すと予想された。そこでは、クリフォード・ベンスンやシアラー大佐や、ソプロスキン配下の将校団に活躍の場が用意されている。何となれぱ、ひたすら科学技術のみを信奉して来たガニメアンも、今回の体験を通じて時に腕力にものを言わせることの必要を悟ったからである。広い銀河系の未踏の領域には、まだ何人ものプローヒリオがいないとも限らない。
星間共同体の時代はいずれ必ずやって来る。しかし、それはまだ先の話である。その前に地球として準備を終えておかなくてはならないことが山ほどあった。まずは惑星再教育である。自然科学の全体系を時代に即して改めなくてはならない。UNSAは、ナヴコムを組織替えしてコールドウェルを最高責任者とする新しい超大機関に吸収する計画を決定した。コールドウェルはワシントンに本拠を移し、ガニメアン技術を足場とする宇宙開発の長期展望確立と、地球の通信ネットワークの一部をヴィザーに結合するための準備調査という遠大な事業の指揮を執《と》ることになった。ハントはその新しい機関の副長官に就任するはずである。ダンチェッカーは無限の宇宙に未知との遭遇を求め、異星生物とその進化を研究する機会が開かれることを喜んで、新機関の異星生命科学局長への誘いを快諾した。少なくとも、ダンチェッカーはワシントン入りを望んだ理由をそう説明している。コールドウェルが新しい組織にリンの席を用意したことは言うまでもない。 しかし、何と言っても今回の立役者はヴィザーだった。ヴィザーは何人によっても、また、いかなるシステムをもってしても、決して代役のきかない大任を見事に果たしたのだ。カラザーはヴイザーにアッタンの管理権を与えて独立を認め、ヴィザーが自由に自己の知能を開拓することを許した。もっとも、ヴィザーとその創造者とを結ぶ紐帯《ちゅうたい》が絶たれたわけではない。近い将来、そしてまた何世紀もの未来にわたって、人類とガニメアンは相携えて銀河系に領域を拡げるであろう。そして、すでに揺ぎなく立証されたとおり、人類とガニメアンとコンピュータ、すなわち生物《オーガニック》と非生物《イノーガニック》の連携はそこでもまた底知れぬ力を発揮するに違いない。
エピローグ
黒塗りのリムジソの列は儀伎兵と各国大使のいならぶ前にゆっくり滑るように停まった。ワシントンDCから数マイルを隔てたメリーランド州、アンドリュウ空軍基地のフィールドのはずれである。陽射の明るい、よく晴れた日だった。フェンスの外に詰めかけた何万という群衆は何故かひっそりと息を殺していた。
フードに大統領旗を靡《なび》かせた先頭車の二台後のリムジンから、黒のピンストライプの三つ揃《ぞろ》いを着込んだハントが降り立った。糊のきいたカフスとカラーにきちんと締めたネクタイは堅苦しく、自分でも板に付かない感じだった。運転手がドアを押え、ハントはリンに手を貸した。ハント以上に正装がそぐわないダンチェッカーがそれに続き、後からコールドウェルとUNSAの高官グループが降り山皿った。
ハントはあたりを見回した。ずっと向うに翼を休めている航空機の列の中にさりげなく置かれたパーセプトロンは一目で見分けることができた。
「どうもしっくりしないねえ」彼は言った。「板で塞《ふさ》いだ窓なんてありゃあしないし、雪もなけれぱ、山も見えないじゃないか」
「あなたがそんな少女趣味だとは知らなかったわ」リンは空を見上げて言った。「空は青いし、緑はいっぱいだし、わたしはこのほうがずっといいわ」
「きみは恋々として昔を懐かしむ杼情派ではないと言うのだね」ダンチェッカーが横から言った。
リンはかぶりをふった。「あれだけ何度も行ったり来たりしたんですもの。マクラスキーはもうたくさん。二度と行きたいとは思わないわ」
「近い将来、きみにはもっともっと遠いところへ行ってもらうことになるぞ」コールドウェルはにこりともせずに言った。
彼らの前のリムジンのソヴィエト首相一行はまだ降りて来なかったが、先頭の車からは合衆国大統領と側近たちが姿を現わしていた。カレン・ヘラーとノーマソ・ペイシーがグループを離れてハントたちのほうへやって来た。
「まあ、こっちの空気にも馴れてもらわなくてはね」ベイシーが大きく腕をふって言った。「しばらくはここがきみたちの本拠地だ。この基地はぎみたちの自家用飛行場のようになるだろう。これから、忙しいそ」
「今そのことを話していたんですけど」リンが言った。「ヴィックはマクラスキーのほうが気に入っているようですよ」
「ワシントンDCへは、いつ?」ヘラーが尋ねた。
「早くとも、まだ何ヶ月か先になるだろうね」コールドウェルが言った。
ヘラーはダンチェッカーに向き直った。「まず一番にどこかで食事をしなくてはね、クリス。アラスカの栄養失調から回復するためにも」
「そういう提案なら大歓迎だよ」ダンチェッカーは上機嫌で答えた。「わたしも全面的に賛成だ」
リンはそっとハントの脇腹を突つき、ハントはそっぽを向いてにやりと笑った。
ペイシーは時計に目をやって肩越しにふり返った。ンプロスキンを先頭にソヴィエト代表団が車から降りて来るところだった。
「もう間もなくだな」ペイシーは言った。「向うへ行って並んだほうがいい」
一同はソヴィエト代表団に合流した。すでに午前中、ホワイトハウスで互いの紹介は済んでいた。彼らはリムジソの列の前方の大統領の一団に加わった。ソプロスキンがペイシーに近付いて言った。
「とうとうこの日がやって来たね、同志。子供たちは他の星の下で、他の世界を知ることになるだろう」
「あの時、わたしは、きっとそういう時代が来ると言ったろう」ペイシーは答えた。
パッカードが怪訝《けげん》な顔でペイシーをふり返った。「何の話だ、それは?」 ペイシーは唇をほころばせた。「話せぱ長いことです。いずれ折を見て」
パッカードはコールドウェルに向き直った。「しかし、何だな。少なくとも、今日の場合はこれからどうなるかわかっているから安心だな、グレッグ。あの時は本当に、どうなることかと思ったよ」
「楽に構えるさ」コールドウェルは言った。「わたしらがすぐ後ろについているんだ」
一行は基地の広場に矩形を作って整列した。マクラスキーから戻った科学技術陣がジェロール・パッカードを先頭に一列となり、合衆国大統領とソヴィエト首相が並んで立った後ろに、ペイシーとソプロスキンがそれぞれ側近集団を従えて続き、他の車から降りて来た各国代表団とU NSA高官のグループがしんがりを固めた。誰もが期待の目で空を仰いでいた。突如として基地とそれを取り巻く群衆の間に漣《さざなみ》のように拡がった興奮のどよめきを、彼らは耳で聞くよりも、むしろ体じゅうの神経で感じ取った。
雲一つない蒼穹《そうきゅう》の果てにぽっつりと点のように姿を現わした宇宙船は見る間に大きく接近した。やがて、太陽の光を反射して銀色に輝く船体の輪郭が見分けられるようになった。宇宙船は美しい曲線を持つ楔形《くさびがた》であった。前部に扇状の張り出しがあり、その両端に飛行船の客室に似た脹《ふくら》みが針の目ほどに小さく見えていた。宇宙船はさらに接近した。
ハントは驚嘆に打たれてあんぐりと口を開けた。近付くにつれて、船体側部の起伏や、腹部の架構が見えるようになった。さらに細部が明らかになると、アンテナ類の突起や透明ドームやターレットの配置に心憎いばかりの計算がつくされていることがよくわかった。しかし、何にもましてハントを驚かせたのはその大きさだった。彼のまわりかちも嘆息に似た声が洩れた。フェンスの外の群衆はただ茫然として、まるで金縛りにでもされているかのようだった。宇宙船の全長は何マイルにもおよぶに連いない……何十マイルだろうか。地上からではとうてい想像も付かなかった。宇宙船は頭上の空の半ばを覆《おお》った。伝説の怪鳥が翼をいっぱいに拡げた姿を思わせる宇宙船の影はメリーランド州をそっくり包んでしまいそうだった。宇宙船はまだ成層圏の高さであろう。いや、まだそこまでも達していないかもしれない。
ハントはテューリアンのパワー・ジェネレーターを見学し、その大きさは直径何千マイルと聞かされた。しかし、ジェネレーターはあたりに比較する何ものもない宇宙空間に浮かんでいたのだ。彼はただ数宇から漢然と大きさを想像したにすぎない。だから、さして驚きはしなかった。これとは話が別である。彼は今、樹木や建物や、日常馴れ親しんであらためて目を向けることもないもろもろの物に囲まれて地上に立っているのだ。そこには人の常識を超える大きさの割り込む余地はない。直接見渡すことのできない地平線の果てから果てという距離でさえ、それは人が容認し得る尺度であり、秩序の規範であり、また、動かし難い限界でもある、テューリアン宇宙船はその尺度に規定された世界に占めるべき場所がない。宇宙船はその大きさにおいて次元を異にする、別の秩序に属している。その大きさの前には人間が知っている限りの尺度も限界も意味をなさない。ハントは目の前にある足の爪が何を意味するかをはじめて悟った蟻の心境だった。はじめて海洋を知った微生物の気持と言っても良い。彼の意識の中にはその大きさを受容するモデルがなかった。彼の感覚は、今自分が見ているものの総体を把握し、理解することを拒んだ。ハントは生まれて以来の全体験の記憶を動員し、それによって規定される視野の中におさまる形で対象を捉え直そうと試みたがその努力も空しかった。彼は考えることを放棄した。
空を覆い隠す宇宙船の腹部に、何やら動くものを認めてハントはわれに帰った。まわりで茫然自失していた者たちもそれに気付いた。かなり以前から降下していたものがその頃になってやっと皆の目の届く範囲に入ったに違いなかった。それは音もなく基地の中央を指してまっすぐに降りて来た。ある高度に達して姿勢を変えたところをよく見ると、それは純金の輝きを帯びた長円型の着陸艇だった。背面に鋭角に突き出した二枚の小さなフィンの他は鶏卵のように滑らかである。着陸艇はハントたちのほうに鼻面を向けて程良い位置にふわりと降り立った。十秒あまり、基地全体はいっさいの動きが絶えて、底無しの静寂に覆われた。
と、着陸艇の前端下部がゆっくりと開いて、幅の広いなだらかなランプが地面に伸びた。ランプの上端が機内に吸い込まれるあたりは明度の高い黄色い光に包まれていた。リンはそっとハントの手を握った。身長八フィートの異星人十数人が肩を並べて光の中から姿を現わし、静かにランプを降りはじめた。彼らはランプを降りきったところで足を止め、出迎えの地球人一行を見渡した。
中央がカラザーである。ハントらが見馴《みな》れたあの銀のケープとグリーンのチュニックを着てはいなかったが、その顔は一目でわかった。片側にフレヌア・ショウムとポーシック・イージアン、それに、イージアンの副官モリザル。反対側にガルースとシローヒンとモンチャー。〈シャピアロン〉号のガニメアンたちも何入か顔を見せている。灰色の肌は、彼らよりもやや体格が華著なテューリアン人たちの黒い肌と違って見分けは容易だった。マグラスキー基地でテューリアン入に会った者たちはこの瞬間を心待ちにしていた。おそるおそるパーセプトロンに足を踏み入れたあの時以来、彼らは何光年もの距離を隔てた知覚伝送によってしかテューリアン人に接していない。生身のテューリアン人に会うのは本当にこれがはじめてのことだった。
後ろのほうでブラスバンドの演奏がはじまった。群衆はいまだに頭上の宇宙船に圧倒されて粛然と静まり返っていた。ガニメアンたちは列を乱すことなく、威儀を正してゆったりと進み出た。コールドウェルを先頭に、マクラスキーの一団が中間地点に彼らを出迎えた。
「ずいぶんひやりとする場面もあったけれど、地球はついにやってのけたのよね」リンは歩きだしてハントにそっと話しかけた。
「これで終わったようた言い方じゃないか」ハントは低く言い返した。「これから、いよいよはじまるんだ」
ハントの言うとおりだった。ガニメアンにとっては何万年もの過去から続けて来た仕事の一つの結着でもあろう。惑星ジェヴレンの住民たちにとっては、精神を入れ替えて再生を目指す転機である。ヴィザーにとっては、新しい存在の位相への移行である。
しかし、人類《ホモ・サピエンス》にとっては、これこそまったく新しい出発であった。
星を継ぐ者は、今正当に宇宙の遺産相続権を主張しようとしている。
訳者あとがき
何はさておき、本書の訳出が大変遅れてしまったことを読者諸兄諸姉にお詫びしなくてはならない。もちろん、それにはいろいろと事情もあることだが、すべては訳者の責任であって弁解の余地はない。にもかかわらず、気長に今日までお待ち下さった諸氏の御寛容には只管感謝の他はない。ここにあらためてお礼を申上げる次第である。
J・P・ホーガンのこの三部作がSFとしてどのような性格を備え、どう評価されているかは第一作『星を継ぐもの』の解説で鏡明氏が詳しくお書ぎ下さった。ホーガンは一九四一年生まれの若い作家だが、著作に専念する以前の曲折に富む経歴の故か、時代を読む目を持っている。だからこの三部作にしても、手法の上ではこけおどしなところはないとしても、素材の扱い方に今の時代に出るべくして出た作品であることをうなずかせるものがある。人類の目が現実に地球外へ向きはじめ、異星人の概念が一時代前とははっぎり変りつつある現状を踏まえてチャーリーを登場させた発想は、この作者の批評家としての資質を語るものだと訳者は密かに思っているのだが、いかがなものだろう。この三部作は主題そのものが新しいのではなく、主題、素材の解釈に読者側の視野の変りようを抜かりなく計算に入れているところに新しさがあるのではなかろうか。
そのことは、この第三作『巨入たちの星』において、話の焦点が社会科学の領域に移っているのを見れぱなお一層明らかだろう。かつて東京オリンピックで山下跳びがウルトラCの流行語を生むほど人々を驚かせたが、今では中学生でもこの技を楽にこなすようになっている。それと同じで、未知との遭遇は今後もひねりを加えて何度となく作品にされるだろうが、遭遇自体はもはやSFのウルトラCではなくなった。
ホーガンはそこを一歩進めて、遭遇の次に控えた課題を本書のあちこちにさりげなく提示している。異人種間の関係の持続がそこでは問題とされるから、この第三作で政治、経済、外交、文化といった方面にホーガンの筆が走ったのはけだし当然のことだろう。技術格差をめぐる議論は、昨今世上を賑わせている貿易摩擦の問題を下敷きにして読むとなかなか面白い。そういう読み方もこの本はできるのだ。
それはともかく、メビウスの環を閉じてジャイアンツ・スター三部作はひとまず完結した。ひとまず、というのは前作『ガニメデの優しい巨人』のあとがきでも指摘しておいたが、一作の終りに次の何かを予感させるのが、ホーガンの流儀だからである。ジェヴレン人は時環に閉じ込められたが、ホモ・サピエンスはそうでないことをホーガンは匂わせている。連作の形を取るかどうかは別として、ホーガンは三部作を書ぎ上げた時、すでにその延長線上に構想を抱いていたとしても不思議はない。終ったところにはじまりがあることを常々面自い作品の条件と考えている訳者はホーガンがいずれはこの三部作と血縁の関係を持つ作品を発表することと予想し、かつ大いに期待している。
底本:「巨人たちの星」東京創元社
1983年5月27日 初版
1992年10月16日 19版
入力:2103
2009年6月29日公開