創世記機械
ジェームズ・P・ホーガン
山高昭 訳
[#改ページ]
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)日向《ひなた》ぼっこ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大量|殺戮《さつりく》
[#]:入力者注 主に傍点の位置の指定や字下げなど
(例)それ[#「それ」に傍点]だよ
明らかな誤植、筆者または編者の勘違いなどは修正しました
(例)幅木《そえぎ》→幅木《はばき》
-------------------------------------------------------
[#改ページ]
創世記機械
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
子供は誰も生まれながらの科学者である。
本書をデビー、ジェーン、ティーナに捧げる――この三人の若い科学者は、
「誰がそういった?」
「それはどういう人?」
「どうしてそうだと知ったの?」
と問うことによって、現実と幻覚とを識別することを教えてくれた。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
五十キロほど北方のアルバカーキに向かう幹線道路からの分岐には、例の標識が立っていた。
[#ここから3字下げ][#ここから太字]
高等通信研究所
官有地につき部外者立入厳禁
前方二・五キロで通行証提示のこと
[#ここまで太字][#ここで字下げ終わり]
フォードクーガー≠ヘ、モーターの電気的な下降音を微かに響かせながら滑らかに減速して右手の車線に出ると、出口の傾斜路に入った。ブラッドリー・クリフォード博士は、計器盤からの鋭い警報音はあまり意識しなかったが、コンピューター制御から手動に切りかわった車体の手応えを感じた。傾斜路に続く道は緩やかにカーブし、干からびた低木や埃《ほこり》だらけのクコの茂みが点在する低い砂質の小山の向こうに隠れて、幹線道路からは見えなかった。
クーガーのボンネットの下へゆっくりと滑りこんでくる前方の道路は、荒れた岩だらけの丘の中腹を這っていて、まるで石の上に日向《ひなた》ぼっこするトカゲのように見えた。丘の右手、前方の揺らめく靄《もや》の中には、リオグランデの谷を画する切り立った赤褐色の堡塁が、万古不易の列をなして幾重にもそそりたち、淡灰色と淡青色の層となってかすんでいき、最後には遠い地平線の空に溶けこんでいた。
道路は丘の肩を半ば登ったところで最高点に達し、その先は反対側の斜面を曲がりくねりながら長い緩やかな下降を経て、前方の荒れた谷の入口に届くのだが、高等通信研究所(ACRE)の施設はその奥に拡がっていた。朝のこの時分には、太陽が研究所の向こう側から照らして、雑然と並ぶ建物や無線塔やパラボラアンテナを、谷の奥を仕切る絶壁の前に威嚇するようにうずくまる鮮明なシルエットに変えた。遠くから眺めると、その光景はいつも、どこかの暗い巣穴の入口を守る不気味な巨大変異種の昆虫集団のように思えた。その様子は、科学の最終的な変質、虐げられた世界にさらに強力な破壊力を解き放つことをめざす知識の利用を象徴するかのようだった。
一・五キロほど進み、谷底までの半ばを下降し、道路がACREの外側のフェンスを横切る所で、検問所が設けられてあった。速度を落として低い柱のそばに止まると、略装ながら武装し鉄かぶとを着用した黒人の陸軍軍曹が、遮断棒の位置から近づいてきた。クリフォードは、衛兵のお座なりなおはよう≠ニいう挨拶にうなずいて答えると、パス入れから磁気コードされたカードを抜きだして、柱の上の箱の前面にあるスロットに挿しこみ、パス入れを衛兵に渡した。次は、スロットの隣のガラス板に、親指の腹を押しつける番だった。ACRE本部の地下深くにあるコンピューターは、検問所から送られたデータを走査し、ファイルにある記録と照合し、その結果を、衛兵所の表示コンソールの前に坐っている別の兵隊の所へ送り返した。軍曹はクリフォードが差しだした手にパス入れを返し、車内をざっと見まわしてから、後ろに下がって手を挙げた。クーガーは通過し、後方では遮断棒がまた元の位置に下りた。
十五分後、クリフオードは、数学・コンピューター利用部門(マス・コンプス)の応用研究部三階にある自室に入った。ACREへは平均して週にせいぜい二日出てくる程度で、あとは自宅にいて、研究所のデータ・バンクやコンピューターが利用できる個人用のインフォネット端末装置で仕事をしていた。今回は八日間も不在だったが、卓上端末装置で伝言のリストを調べてみると、とくに急を要することは何もなかった。緊急な電話はすべて自宅の番号にまわされて、そこで処理してあったのである。
だから、十一時の会合まで、予期せぬ周章狼狽をするようなことはなかった。
そう思ったとたん、通話がかかっていることを告げるチャイムが鳴った。彼は、ため息をついて、受理のボタンを押した。
「クリフォード」
一瞬、スクリーンは乱雑な色彩に埋まったが、すぐに安定し、髪が薄く鉤鼻で痩《や》せて血色の悪い人物の姿が映しだされた。意地悪そうな顔だった。クリフォードは、いかにも感情を害し義憤に燃えているといったその表情を見て、内心でうめき声をあげた。それはマス・コンプスの財務管理次長補佐ウィルバー・トンプスンだった。慣例、形式主義、その他厳密な手続きを要する一切のことの守護者をもって任じる男だった。
「何で、いわなかったんだ」憤激でとげとげしい声は、炭化タングステンをひく鋸の音のように、クリフォードの神経を逆なでした。「あれを黙っている理由はまったくないじゃないか。わたしのように責任ある立場の者は、せめて諸君たちから少しは協力が期待できると思っていたんだが。こういう態度は誰のためにもならんのだぞ」
「何のことだ?」
「わかっているはずだ。きみの班は重要資材の調達がこの四半期の予算を遙《はる》かに超過していて、しかもSP6級の許可もないのに、B区分の装置をしこたま請求してきた。わたしが質問すると、きみはエドワーズから優先許可を得ているともいわずに、わたしが却下するままにまかせた。今や何もかもめちゃめちゃで、誰も彼もわたしを怒鳴りつけるんだ。わかったか」
「あんたは、質問などしなかった」クリフォードは事務的な口調で訂正した。「ただ、請求には応じられないといっただけだ」
「だが……きみはわたしが却下するのを黙っていた」
「あんたは、そうするほかないといった。それを信じたまでさ」
「特別許可が記録に入っていることは、百も承知だったはずだぞ」トンプスンの眼は、ヒステリーでもおこすかのように、とびだしていた。「それをいうとか、呼び出し番号を知らせるとか、なぜしなかった? 研究計画の総責任者が自分でこれに最優先の格づけをしたなんて、わかるわけがないだろう? いったい、どういうつもりなんだ。わたしを阿呆か何かのように見せようという気か?」
「ぼくがやらなくても、うまくやっているじゃないか」
「いいか、この小ざかしい青二才野郎! きさまが妙な真似をしなければ、この仕事は楽なもんだとでも思っているのか。あの請求に特別許可があるかどうかを確かめる理由は、まったくなかった。それなのに、研究全体が阻害されているといって、わめきちらされる。いったい何でこのわたしが調べなきゃならんのだ」
「それが、あんたの仕事さ」と、クリフォードはあっさりいい、スイッチを切った。
机の上の書類挟みをいくつか選びだし、ドアのほうへ行こうとしたとき、またチャイムが鳴った。彼は大声で悪態をつき、端末装置に戻って、相互回線を形成する回路を閉じることなしに相手が下見できる問い合わせ<Lーを押した。思ったとおり、またトンプスンだった。かんかんに怒っていた。クリフォードはキーを放すと、ゆっくりと廊下に出た。自動販売機室からコーヒーを取ると、前もって二時間だけ予約しておいた映像表示室の一つに行った。この日は会合のためACREに出なければならなかったのだが、来たからには、この機会を最大限に利用しようと思ったのだ。
一時間後、クリフォードはまだ、暗くした部屋の中で制御卓の前に坐り、向かいの壁に光る多次元テンソル方程式の列を、じっと一心に検討していた。この部屋は、ACREのコンピューター集合体におさめられた膨大な図形データの操作と表示を助けるため特別に設計された幾部屋かの一つだった。クリフォードが見ている壁は、いわば一個の巨大なコンピューター表示スクリーンだった。彼が記号パターンに含まれる深遠な意味を探ろうとしている間も、建物の地下深くでは、機械がその他の無数の仕事に従事していた。やがて彼は、コンソールに設けられたマイクロホン格子に命令を伝えるべく頭をちょっとかしげたが、眼は表示から離さずに、ゆっくりと明瞭に発音した。
「現在の映像を保存し、ファイルデルタ2≠ニせよ。スクリーン・モジュラス1、2、3を継続、以下は消去。対称単位ファイ・ゼロ・セブンを回転。微分係数のIベクトルを荷電スピンのマトリックス関数を使って量子化せよ。キーボード2よりI係数を受容、正規化された直交フォーマットでスクリーンに出力」
彼は、命令を機械が翻訳した結果がコンソールに組みこまれた小さな補助スクリーンの一つに出るのを眺め、それを確認してうなずくと、一連の数字をキーボードに手早く打ちこんだ。
「継続せよ」
表示の下部が消え、数秒して新しい記号パターンでふたたび満たされはじめた。じっと見つめるクリフォードは、自然が空間、時間、エネルギー、物質の不思議な相互作用を作りあげる隠れた法則を洞察しようと熱中していた。
一九九〇年代の初頭、カール・メーサンガーというドイツの理論物理学者が、久しく待ち望まれていた統一場の数学理論を導きだし、強い相互作用、弱い相互作用、電磁力、重力といった現象を、相関する一組の方程式で結合した。この理論によれば、これら既知の場はすべて、高位の六次元連続体を伝播する複雑な波動関数がアインシュタイン時空に投影されたものとして表わせる。ドイツ人のメーサンガーは、この連続体を六次元直交座標空間複合体(eine sechsrechtwinkelkoordinatenraumkomplex)と呼ぶことにした。他の国々ではこれを単純にSK空間≠ニ呼び、後には省略されてただのK空間≠ノなった。
したがって、メーサンガーの宇宙は、K波動、すなわち系を決定する六個の座標軸をそれぞれに振動する諸成分が構成する複合振動で満たされていることになる。これらの次元成分は、それぞれ共鳴モード≠ニ呼ばれ、あるK波動関数の性質は、これを構成する共鳴の固有の結合によって決定される。
低次の四個のモードは相対論的時空の次元に対応し、これに対応するK関数は、観測レベルでは、単なる延長≠ニして知覚される。これらは、何もない宇宙の構造を決定する。空間と時間は、各種の粒子や力が定められた役割を演ずるための受身の舞台を提供するだけではなくて、それ自体が客観的にして定量化しうる実体と見なせるのである。こうして、何もない空間も、知覚しうる実体のすべてが取り去られた後に残る存在とだけ考えるわけにはいかなくなった。
高次のモードが加わることは、通常の時空のすべての座標軸に直角な振動成分を意味する。したがって、これら高次モードから生ずる結果は、人間の感覚や観測装置が到達しうる宇宙の空間を占めることはできない。観測可能な宇宙には次元のない点としてのみ現われ、これを規定する固有のK関数に従って互いに相互作用できるだけである。つまり、これらは素粒子として現われるのだ。
量子波動力学による解明の後も、安心感と親近感の故に数十年にわたって固執されてきたモデル、すなわち素粒子を微小で滑らかな何か≠フ球と見なす通俗的な観念も、遂に永遠に葬り去られた。立体性≠ヘ巨視的世界におけるまったくの幻覚でしかないことが、遂に認識されたのである。測定されていた陽子の半径でさえ、K関数の点の空間確率分布を示すものにすぎなかったのだ。
高次と低次の共鳴が共存する場合には、通常空間で知覚される静止状態や定常運動状態の変化に抵抗を示すような実体の階層が生みだされ、これから質量≠ニ呼ばれる量が出現する。五次元の共鳴では小さな質量が生じ、電磁力などの弱い力で相互作用できる。六次元が揃った共鳴では大きな質量が生じ、強い相互作用による能力をもつけ加える。
残る可能性は、高次モードだけが存在し、通常空間には振動成分がまったく存在しない場合である。これから生じる相互作用の点中心は、時空における運動に何らの抵抗も示さず、したがって常に観測可能な最高の速度、つまり光速度で運動する。これらは質量のない素粒子、すなわちおなじみの光子とニュートリノ、それに仮想的な重力量子である。完全に包括的な体系であるメーサンガーの波動方程式は、一九五〇年代から一九八〇年代にかけて各国の無数の実験者が記載した当惑すべき事実の泥沼に対して、普遍的な解釈を与えた。たとえば、強い相互作用を示す素粒子は必ず弱い相互作用の性質をもすべて示すのに、その逆は成立しないらしいのはなぜかを説明した。当然のことながら、強い相互作用を生みだす六次元の共鳴は、その定義からして、存在しうるすべての下位モードをその部分集合として含んでいなければならない。もしそうでなければ、六次元共鳴にはならないのである。この図式は、重い素粒子がいつも強い相互作用を示すのはなぜかも説明している。
理論は、五次元共鳴が小さな質量の素粒子を生じ、強い相互作用を行なうことはできないと予測した。電子やミュー中間子の存在は、それを証明した。その後の考察では、重い素粒子は必ず電荷に関して三つの異なる状態をとることができ、それぞれが質量の僅少な違いを伴うことが示唆された。いかにも、陽子と中性子は、申し分のない実例だった。
もし、それぞれの時間軸成分が反対方向に運動している二つの共鳴の間で相互作用がおこれば(この理論では、それがおこりえない理由はまったくないのである)、二つの時間波動は打ち消しあって、継続時間を持たない新しい実体を生みだす。人間の観測者から見れば、両者は粒子・反粒子の対消滅をおこして、存在しなくなったのである。
一九九〇年代末期に若いカリフォルニア工科大学(CIT)卒業生だったブラッドリー・クリフォードは、メーサンガーの最初の論文の発表に湧きかえる科学界の興奮を身近に体験した。K理論は彼の激しい情熱の対象となり、やがて眠っていた素質が呼びさまされた。学位を取得した頃には、すでにこの理論のいくつかの側面を発展させて重要な貢献をしていた。止まることを知らぬ果しない若さのエネルギーのままに、ますます拡がる人類の知識の先端に挑み、次の山の向こうに何があるかを知りたいという欲望が、彼を駆りたてた。牧歌的な時代だった。やらなければならないことを成しとげるには、一日の時間が、一年の日数が、一生の年月が足りなさすぎた。
だが、くだらない人間たちのくだらない世界の現実が、徐々に侵入してきた。地球の政治経済的状勢は依然として悪化し、純粋な学術的研究の分野もますます厳しい管理と抑制を受けるようになっていた。かつて潤沢だった資金は枯渇しつつあり、必要欠くべからざる装置も手に入らなかった。軍事や防衛の需要が優先するにつれ、選り抜きの才能が、ますます魅力を増す俸給につられて引き抜かれていった。遂には、特別立法のもとに、一国の指導的な科学者たちがどこでいかに研究するかを選択する自由さえもが、もはや許されぬ贅沢《ぜいたく》とされてしまった。
かくして彼は、徴兵も同然な形で、ACREに来たのである……人工衛星搭載のミサイル迎撃用レーザーを制御する方法を改善するために。
だが、彼の肉体や頭脳は徴用したものの、魂まで徴用することはできなかった。ACREのコンピューターや設備は、CITでは夢にも考えられないほどのものだった。ここにいても、精神をはばたかせ、カール・メーサンガーの謎に満ちたK空間の領域に舞いあがることはできた。
ほんの数分ほどに思えたのだが、壁面スクリーンの中央で合図が点滅しはじめ、会合が五分後に始まることを通告していた。
ACREの科学部門最高責任者で副所長でもあるリチャード・エドワーズ教授は、前のテーブルに置いた書類を、じっと見つめた。表紙の文字は、K空間の回転と重力インパルス≠ニあった。テーブルの教授の左側にはウォルター・マッシーが坐り、複雑な式の並んだ本文がほとんど理解できないままに、自分用の控えをぼんやりめくっていた。マッシーの向かい側には、マイルズ・コリガンが椅子にふんぞり返って、獲物を狙うような冷やかな眼でクリフォードを眺め、あらゆる科学者に抱いている軽蔑を隠そうともしなかった。
「この研究所の規則は簡単明瞭だ、クリフォード博士」と、エドワーズは、組んだ指越しに語りはじめた。「ACREに雇用される期間に得られた科学的資料は、何人のものであれ、職務中に生じたと否とを問わず、自動的に機密事項と認定される。いったい、いかなる根拠をもって、この論文の免除と発表許可を申請するのかね?」
クリフォードは無表情に見返し、何もかもに感じている不満を、きょうばかりは見せまいとした。ここに坐って以来、この部屋にみなぎっている審問のような空気が、気にくわなかった。
返事は簡潔なものだった。「学術的興味だけの純粋に科学的な研究です。機密事項は含まれていません」
エドワーズは、明らかにその先が続くことを期待して、待っていた。しばらく沈黙が続いてから、マッシーが落ち着かない様子で足を動かすと、咳払いをした。
マッシーは、マス・コンプスでのクリフォードの直属上司だった。骨の髄まで現実的な実地専門の技術者で、陸軍の管理技術部に十五年間いた間に、理論的問題への興味はあらかたなくしていた。仕事を命ぜられると、上司の判断や動機は自明のこととして、疑うことなく実行した。そういう類いのことには頭を使わないほうがいい、必ず面倒なことになる、というわけだった。彼は機構の末端にあって、自ら求めて個人的自由を集団的安全とひきかえにした共生的生活の中で、自分の持ち場を忠実に務めていた。かつて自分を軍隊の一部と感じていたように、ACREとそれが象徴する体制の一部であると感じていた。それは、自分が必要とする帰属意識を与えてくれた。自分は組織に奉仕し、組織は自分に奉仕する。自分に金を支給し、訓練し、重要な判断を代わってしてくれ、間違ったことをすれば叱りつけ、そうでなければ昇進させてくれる。もし必要とあれば、それが象徴するものを守って戦うために、喜んで命を捧げるつもりだった。
だが、クリフォードは、そういうことがあっても、彼がほんとうはいいやつであることを知っていた。
いまこの瞬間、マッシーは、クリフォードのやり方に、どうも不満だった。論文が公表されるかどうかは知ったことではなかったが、彼の斑の誰かが最善をつくして自分の立場を主張していないように思えるのには、心穏やかでなかった。集団の名誉がかかっているのである。
「ブラッドがいってるのは、この論文の主題はまったく抽象的な理論的概念にしか結びつかんということです。国防の利益と思われるようなことは何もないわけでして」マッシーは、エドワーズからコリガンへ、またエドワーズへと、視線を移した。「いってみれば道楽みたいなもんです……ただ、この男の道楽には、たまたま数学がたっぷり入っているんですが」
「ふむ……」エドワーズは、両手の親指で顎の先をさすりながら、その意見を考慮した。抽象的な理論的概念というものは、怖るべき速さで現実の問題に転化する傾向がある。まったく無害に見える些細な知識の断片が、その他のものと一つのパターンに組みこまれると、途方もない重要性を帯びることがあるものなのだ。敵側はもちろん、秘密に包まれた自国の他の研究機関の中でさえ、何が行なわれているか、わかったものではなかった。大局を把握しているのはワシントンだけなのだ。また、クリフォードの請求に同意すれば、機密解除の許可を求めて向こうにこの件を付託するという、煩雑な手続きに巻きこまれることになるだろう……しかも、ワシントンは、この種の問題に決していい顔はしない。当初から一切を握りつぶせれば、そのほうが遙かにいい。
かといって、あまり早く高圧的な態度に出たのでは、自分のイメージが損なわれるだろう……客観的で公平なように見せねばならない。
「論文にはざっと眼をとおしたがね、クリフォード博士」と彼はいった。「申請を具体的に考えるに当たって、きみの論点を少しはっきりさせてもらうと有益だと思うのだが」彼は両手を拡げると、掌《てのひら》を下にしてテーブルに置いた。「たとえば、きみは素粒子の性質や、それと重力伝達との関係について、驚くべき推論をしている……」彼の顔つきは、クリフォードに、その先を続けろといっていた。
クリフォードは、ため息をついた。ふだんでも、くどくど説明するのは嫌いだった。はじめから無駄とわかっていることを主張しているという意識があるだけに、なおさらだった。しかし、逃げ道はなかった。
「物理学における既知のすべての素粒子は」と彼は説明を始めた。「メーサンガーのK関数によって記述できます。どの粒子も、高次および低次のK共鳴が結合したものです。純粋に高次領域にだけ存在していて、観測可能な宇宙の次元には何らの物理的属性も示さない実体というものが、理論的に可能です。これは、既知のいかなる実験手段によっても観測できません」
「それは、メーサンガーの原論文にはないことだな」とエドワーズがただした。
「はい。新しい知見です」
「きみ自身による貢献かね」
「そうです」
「わかった。続けなさい」エドワーズは、何か手短にメモをとった。
「こうした観測不可能な実体を高次粒子≠サれが存在する領域、つまりK空間の観測不可能な部分集合を高次空間≠ニ命名しました。一方、K空間の残りの部分、つまりわれわれが知覚する時空は低次空間≠ニいうことになります。
高次粒子の間での相互作用は可能です。多くの場合は、新しい高次粒子が生じます。しかし、ある種の相互作用では、最終生成物として完全なK関数、つまり高次共鳴と低次共鳴との観測可能な結合が生じます。つまり、通常の空間で観測できるわけです」クリフォードは一息いれて、相手の反応を見た。その反応はマッシーから返ってきた。
「ということは、われわれに見えるかぎりでは、はじめは粒子がなくて――まったく何もなくて――それから急にパッと現われるってわけだ」
クリフォードは、うなずいた。「そのとおり」
「ふむ……そうか。物質創生だな……ともかくわれわれの宇宙に関してはそうだ。おもしろい」
エドワーズは、また顎をさすりはじめ、クリフォードに先を続けるようにうなずいた。
「通常の粒子はすべて高次空間への延長を持つと考えていいので、高次粒子とも相互作用できます。この場合、二つの結果のうちのどちらかが生じます。
「まず第一は、相互作用による産物にK共鳴、つまり観測可能な素粒子が含まれる場合です。われわれに見えるものは、初めにあったK粒子の観測可能な部分と、後で生じるK生成物の観測可能な部分です。この変化をおこした純然たる高次粒子は、見えないことになります」
マッシーは興味をそそられた顔になってきた。手をあげて、クリフォードがどんどん先へ進もうとするのを、ちょっと止めた。
「ちょい待ち、ブラッド、はっきりさせておこう。K粒子には、見える部分と見えない部分がある。そうだな?」
「そう」
「われわれが知っている素粒子は、全部K粒子だ」
「そう」
「だが、きみは誰にも見えないものを考えた……これを高次粒子≠ニ呼んだ」
「そう」
「そして、二個の高次粒子がいっしょになるとK粒子ができて、K粒子は眼に見えるから、素粒子が急にどこからともなく出てくることになる」
「そう」
「よしきた……」マッシーは、くびをかしげて、しばらく考えをまとめていた。「ところで、この最後のところを、阿呆にもわかるように、おさらいしてくれんか」彼は故意に嫌みをいっているわけではなかった。それが彼一流のいい方なのだった。「高次粒子がK粒子と相互作用して、別のK粒子、場合によっては数個のK粒子を作ることがあります。その場合には、眼に見える原因がないのに、観測可能な素粒子が急に変化をおこすことになります」
「自発事象だ」エドワーズが、ゆっくりうなずきながら、口をはさんだ。「たぶん、放射性核種の崩壊といった現象が説明できるだろう」
クリフォードは、ちょっぴり気分が乗ってきていた。ことによると、やはり時間の無駄ではないのかもしれない。
「まさにそのとおり」と彼は答えた。「これから求められる数字は、量子力学的なトンネル効果、電子のエネルギー準位間の遷移、そのほか原子論的レベルでの一切の確率的現象で観測される振動数と、ぴったり一致します。これによって、これら全部の現象に普遍的な説明ができるのです。これらは今や不可解な現象ではなくて、低次の時空でそう見えるだけなのです」
「ふむ……」エドワーズは、前に置いた論文に、もう一度眼をやった。彼の中の管理者としての部分は、依然としてこの話に早くけりをつけたがっていたが、科学者としての部分は興味をそそられはじめていた。この議論が、いつか別の時に、厳しい現実の命ずるところに従わなくてもよい時にできればよかったのだが。彼はクリフォードのほうを眺めて、その輝く若い限に燃える、訴えるような熱意に、はじめて気がついた。クリフォードは、せいぜい二十代の半ばだろう――ニュートンやアインシュタインが最も脂の乗っていた年頃だ。広く将来の展望をする日が遂に来た時には、この世代は十分にその責任に答えることだろう。
「高次粒子とK粒子が相互作用する時に、二つ目の可能性があるといったが?」
「そうです」とクリフォードは肯定した。「相互作用して高次の実体だけを生ずる場合もあるのです」彼はマッシーのほうを見た。「つまり、高次粒子とK粒子で、高次粒子だけができるのです。はじめにK粒子があって、それから突然何もなしになるわけです」
「素粒子の自発消滅だ」と、エドワーズがつけ加えた。
「これは、たまげた」とマッシー。
「創生と消滅という二つの結果は、対称的なものです」とクリフォード。「おおまかな表現をすれば、素粒子は観測可能な宇宙に有限時間だけ存在するといえます。素粒子は、どこからともなく現われ、しばらく存続し、それから消滅するか、または崩壊して別の素粒子になり、結局はやはり消滅するわけです。ある一個の素粒子が存在する時間の長さは不定ですが、多数個についての統計的平均は正確に計算できます。通常の高エネルギー崩壊過程に関与するような一部のものでは、寿命が極めて短い場合があります。放射性崩壊では数秒から数百万年、陽子や電子のようないわゆる安定な素粒子では数十億年です」
「安定な素粒子が、ほんとうはちっとも安定ではない、というのか?」エドワーズは、驚いて眼を丸くした。「永久的ではないと?」
「はい」
一座の者が情報の流れを噛みしめる間、しばらく沈黙が支配した。エドワーズは考えこんだ風情だった。マイルズ・コリガンは相変わらず黙っていたが、その鋭い眼は何事も見落とさなかった。彼は高価な仕立ての背広の皺《しわ》を伸ばし、時計に眼をやって、退屈してじりじりしているという態度を見せた。次に口を開いたのはマッシーだった。
「ほら、さっきいったように、まるで学術的な代物《しろもの》ですよ。罪のないもんです」彼は掌を上に向けて肩をすくめた。「たぶん今度ばかりは、ワシントンに確認を願い出ないという理由はないでしょう。わたしは許可するのに賛成ですな」
「たぶん≠ナは不十分なのだよ、ウォルト」と、エドワーズがたしなめた。「慎重を要するのだ。何よりも、まずこれ自体の科学的な正確さを確かめる必要がある。中途半端と判明するような理論のために、ワシントンの時間を潰させるわけにはいかんのだ。ACREのイメージも損なわれるというもんだ。今のところでも気になっている点がいくつかある」
マッシーは急に態度を変えた。
「もちろん――おっしゃるとおりです。あれは、ただの思いつきで」
クリフォードは、マッシーが風向きをはかっているだけだということを、そう驚きもせずに見てとった。彼は他の二人が決めることに何でも同調するだろう。
「クリフォード博士」とエドワーズは続けた。「安定な素粒子でも、通常の時空では有限の継続時間しかないといったね」
「はい」
「きみはそれを証明したんだね……厳密に……?」
「はい」
「なるほど……」沈黙。「だが、どうだね、数十年、いやそれどころか数世紀も疑われずにきたものもある物理学の基本法則ときみの主張とが、どうして両立しうるのかね? 陽子の崩壊はバリオン数の保存則を破ることになるし、電子の崩壊は電荷保存則を破ることになるというのは、周知の事実ではないかね? それに、たとえば質量・エネルギーや運動量の保存則はどうなる? 安定な素粒子があっさり現われたり消えたりしたのでは、これはどういうことになるんだね?」
クリフォードには、その口調がわかった。教授の態度は否定的だった。あら探しにかかっている――さしあたりこれ以上の話を進めずにすませ、クリフォードを製図板に追い返す口実になることなら、何でもいいのだった。やや挑戦的な口振りは、感情的反発を誘いだして、議論全体を純粋に理性的なレベルから非理性的レベルに引きずりこみ、意図に反する成り行きをとらせる余地を作るべく、計算されたものだった。
クリフォードは用心深くなった。「さまざまな保存則の破れは、今までにもよく知られています。強い相互作用は記載されたすべての法則に従いますが、電磁相互作用は荷電スピンを保存しません。さらに、弱い相互作用はストレンジネスを保存しませんし、電荷もパリティも個別には保存せず、CとPが合体した積として保存するだけです。一般的には、力が強いほど、それが従うべき法則の数も増えます。このことは、実験的事実として早くから知られていました。近年になって、これがメーサンガー波動関数から必然的に導かれることが、知られたのです。それぞれの保存則は、共鳴の特定の次数と関係を持っています。強い相互作用は関与する次数が大きいので、従う保存則も多くなります。関与する次数が小さくなれば、高い次数に伴う法則に従う必要はなくなります。
「ぼくがここでいっているのは」と、彼は論文のほうを示した。「最も弱い力、つまり重力までも含めて、同じパターンが成立するということです。低次共鳴だけによって決定される重力相互作用のレベルまで下がれば、高次に伴う保存則は、さらに失われます。実をいえば、保存則のすべてが失われるのです」
「なるほど」とエドワーズ。「だが、そうだとすれば、どうして誰かがそのことを発見しなかったのかね。何世紀もの実験で、どうしてそれがわからなかったのだろう。それどころか、彼らはきみがいっていることの正反対を証明しているように思えるのだが」
クリフォードには、エドワーズが口ほどに単純でないことは、よくわかっていた。保存則が普遍的なものではないかもしれないということは、科学者たちが久しく考えつづけていたことなのだ。だが、相手に防御の姿勢を強いるのは、常にその主張を弱めさせる第一歩なのである。それでも、クリフォードは、それにつきあうほかはなかった。
「それは、前にもいったとおり、いわゆる安定な素粒子が極めて長い平均寿命を持っているからなのです。物質の創生や消滅は、少なくとも日常の尺度からいえば、無限小ともいうべき小さな比率でおこります。実験室での観測などでは、まったく測定不可能でしょう。通常の密度の物質でいえば、百億個の粒子について一年につき約一個の消滅という計算になります。これまでに考案された実験では、こんなものはとても見つけられません。宇宙論的な尺度ではじめて観測できるのです――ところが、全銀河を対象に実験を行なった者など、まだ誰もいないのです」
「ふむ……」エドワーズは、考えをまとめようとして、黙りこんだ。マッシーは、事態が流動的であることを察して、洞が峠を決めこんだ。
クリフォードは、先を続けることにした。「あらゆる相互作用は、K空間の回転として表現できます。これは量子力学の対称性やファミリー数保存則を説明するものです。それどころか、すべての保存則は、基本的な一組のK保存関係が単に異なって投影されたものとして導かれます。
「それぞれの回転は、各K座標軸へのエネルギーの再分布をもたらし、それが何らかの種類の力となって現われます。高次空間と通常空間の間での素粒子の遷移(創生や消滅という事象)に対応する特定の回転では、K空間で膨脹する一つの波面を生じ、これが重力的なパルスとして投影されます。つまり、素粒子が創生や消滅をするたびに、重力波が発生するわけです」
ここまでのところ、何も質問は出なかったから、クリフォードは話を続けた。「素粒子は、宇宙のどこにでも、同じ確率で自発的に出現します。この時、微小な重力波が放出されます。計算によれば、数百万立方メートルの空間で一年に一個の素粒子が創生される程度で、まったく勘定不可能な量です――だからこそ、今まで誰も発見できなかったのです。
「一方、素粒子の消滅は、当然のことですが、すでに素粒子が存在している場所でしかおこりません。だから、多数の素粒子が集中している場所では、一定時間のうちに多数の消滅がおこることになります。したがって、重力波の出現率も高くなります。素粒子の数が多いほど、またその集中度が高いほど、すべての重力波を総計した効果は大きくなります。大きな質量の物体のまわりに重力場ができるのは、このためです。これは静的な現象ではまったくなく、多数の重力量子の総和による効果なのです。それが連続≠オて見えるのは、巨視的レベルでのことにすぎません。
「重力は質量そのものと単純に結びついているのではありません。質量は、その中で多数の粒子消滅がおこりうる、空間の大きさを規定するにすぎないのです。重力が生じるのは、粒子消滅からなのです」
「粒子創生でも生じる、といったと思うが」とマッシーが訊ねた。
「そのとおり、だが、それによる寄与は、無視できます。さきほどいったように、粒子創生は、宇宙のいたる所で――一片の物体の中でも銀河系を遙か離れた所でも――同じ確率でおこります。
物質に占められた場所では、消滅に基づく効果のほうが圧倒的に重要になるのです」
「ふむ……」エドワーズは、じっと指関節を見つめながら、別の角度から考えていた。
「そうすると、質量は崩壊してなくなってしまうはずだ。どうして、そうならんのかね?」
「そうなっているんです。ここでも、問題にしている数が、小さな規模や短い時間では測定不可能なほど、小さすぎるのです。一例をあげると、一グラムの水には十の二十三乗個ほどの原子が含まれています。仮に、この原子が毎秒三百万個の速さで消滅したとしても、元の一グラムが跡かたもなく消えうせるには、約百億年かかるでしょう。この崩壊が実験的には観測されなかったことには、何の不思議もありません。惑星の重力場が連続%Iに見えることには、何の不思議もありません。一グラムの水に伴う重力を観測することさえできないのですから、いわんやそれが量子化しているかどうかを知ることなど不可能です。それが観潮できるのは、宇宙論的レベルでだけです。重力が完全に支配するこのレベルでは、実験室で当てはまる保存則も成立しなくなるかもしれません。とにかく、そうならないという実験データはないのです」
「だとすると、宇宙のすべての物体は、いずれ崩壊してしまうことになる」とエドワーズが指摘した。「ずいぶん長い時間が経っているはずだが、それにしては、ずいぶんたくさん残っているように思えるがね」
「たぶん崩壊して消えてしまっているんでしょう」とクリフォード。「それと平行して、宇宙全域で自発創生も進行していることを、忘れないでください。ものすごい広さの空間ですから、ものすごい量の粒子創生がおこることになります」
「銀河や恒星について知られた進化の系列に従って、星間物質から新しい天体が作られるという、連続的過程のことをいっているんだね。新たに創生した素粒子は、使われた星間物質の補給源となる」
「かもしれません」とクリフォードが同意した。
エドワーズは遂にクリフォードを、明確な返答のできない土俵に引きずりこんだわけだった。
彼は、この優位にすかさずつけこんだ。
「だが、それでは、宇宙論に連続創生説を、ある程度まで復活させなければならなくなる。周知のように、この考えは、かなり前から否定されている。圧倒的な証拠が、疑問の余地なくビッグバン説を支持しているんだ」
クリフォードは、腕を大きく拡げて、当惑の身振りをしてみせた。
「知っています。ぼくにいえるのは、計算の結果だけです。天文学著でもないし、宇宙論学者でもありません。実験科学者でさえないのです。ぼくは理論科学者です。ビッグバンを支持する証拠がどれほど決定的かも知りませんし、どこかに別の解釈が可能かどうかも知りません。だからこそ、この論文を公表したいのです。他の分野の専門家の注意を喚起したいのです」
この一連の告白で、エドワーズには、待っていた機会が訪れた。相手につけいる隙が生じたのである。首切り役人が登場する番だった。彼はコリガンのほうに向いた。
「きみの意見はどうだね、マイルズ」
マイルズ・コリガンのACREでの公式の肩書きは連絡指導官だったが、これは監視役の婉曲《えんきよく》な表現だった。エドワーズに責任を負うライン管理者の職階には縛られずに、ワシントンの技術調整局、つまり国防省と政府管掌の各種科学研究センターとの間の合理化された接点をなすペンタゴンの一部局から、直接に命令を受けていた。全国のほとんどすべての科学者の活動は、相互間でも、西側自由主義同盟国との間でも、この局を通して管理・調整されていた。費用負担者が断固として監督・指導の権限を握っていたのである。
彼の仕事は、適切な活動が遅滞なく実行されるべく保証することにあった。少なくとも表向きの部分はそうだった。表向きでない部分とは、ほかならぬ政治的影響を保持すること、すなわちACREの日常の世界で何が行なわれていようとも、彼らは常に、遠くの雲の上にいる指導者たちの雄大な構想の一部であり、かつこれに従属するものであることを、絶えず意識させることだった。彼への訓令は、生産阻害的要因≠ノ注意し、これを探り当て、除去するというものだったが、それは不適切な態度、身のほどを知らぬ意見、そのほか研究所に課せられた目標の円滑な達成を妨害あるいは弱化させる恐れのあるもの一切を含んでいた。コリガンは、疫学者が腸チフスの発生を最初の保菌者まで遡《さかのぼ》る時のような技量と粘り強さをもって、危険な風聞を情報源までたどることができた。魔女狩りを免れるには、いっていいとされていることをいうか、少なくとも、いってはならないことをいわないのが無難だった。ACREの科学者たちは彼のことを統制委員《コミッサール》≠ニ呼んでいた。
気質や経歴からいえば、この仕事は彼にぴったりだった。彼は、ハーヴァードで法律の第一級優等学位を手にした後、ワシントンで悪徳政治家の弁護を担当するという有利な仕事を開業し、これに絶大な手腕を発揮した。数年の間に、多数にのぼるフィクサーや黒幕(彼の価値観にとって意味のある唯一の種類の友人)に一生に及ぶ恩義を売り、やがて彼らの感謝の印は、一生の間におこるかもしれない経済的な心配の一切を、永遠に無用のものにしたのだった。
彼は、一連の隠密な武器取引で最初の百万の財を築いた上院議員の娘と結婚したのだが、この取引には、ビルマやマレーシアの何の疑いも持たない受取人に、船一隻分の不良弾薬を引き渡すことまで含まれていた――少なくともそういう噂だった。しかし、上院議員が関与しているという主張は、細かい法解釈の泥沼にはまりこんで、とうとう立証されずじまいだった。それはマイルズ・コリガンの働きだった。
義父の影響力や適当な縁故を持つ友人の好意によって、彼は野心を進めるのに適切な官職についた。ACREへの任命は、国際政治の舞台にデビューする前の下準備の最終的な段階だった。
まだ男盛りのうちに、ここまで達したのであり、野心満々だった。
彼は獲物をしとめる手筈が整ったのを感じて、主役を交替した。口を開くと、その声は、距離を見定めるコブラの立てる音のように、冷たく威嚇的だった。「わたしはK空間にも、高次空間にも、その他のたわごとにも、興味はない。こういった話が、要約すれば何か国益に役立つことになるというのなら、そのことをいいたまえ。もしそうでないなら、何でわれわれに時間の無駄使いをさせるんだ」
彼は、数多くの敵対的な証人を混乱させ粉砕した冷笑的でまばたきしない眼で、クリフォードを睨《にら》みつけた。その眼は嘲りをたたえ、災いを招く気ならやってみろと挑戦していた。同時に、居丈高に即答を求めていた。クリフォードは、完全に虚をつかれた。
「でも……問題が違うんです。これは……」われながら意外なことに、クリフォードは適当な言葉を思いつかずにまごついていた。その言葉を口にしたとたんに、しくじったと思い、罠にはまったと悟ったが、もう手遅れだった。「われわれは基礎知識の話をして……」
「それがアカどもを殺す役に立つかね」とコリガンが遮《さえぎ》った。
「いや、しかし……」
「アカどもがわれわれを殺すのを止められるかね」
「いや……わかりません……たぶん、いつか……」
「では、なぜこんなものに時間を浪費するんだ。この代物に、どれだけの時間と資材を使ったんだ。自分が給料をもらっている仕事に、どれだけの支障があったか。マッシーは道楽といったが、そんな単純なものじゃあるまい。過去六ヵ月間の君のコンピューター使用量も調べたし、きみがやっているはずの研究計画の目下の状況も当たってみた。どれも予定に達していないじゃないか。
では、コンピューター時間は、何に使ったんだ」
「アインシュタインは、特殊相対論を展開していたときに、原爆のことが頭にあったとは思いませんがね」クリフォードはいい返したが、それはフェイントをかわして、アッパーカットを食いにとびこんだようなものだった。
「アインシュタインだと!」コリガンは、陪審に聞かせるべく、その言葉を繰り返した。「こいつは、自分がアインシュタインの再来だといってるぞ。そうだね、クリフォード博士――自分がアインシュタインと同等だと思っているんだな?」
「そんなことは一言もいっていない。あんたは百も承知のはずだ」クリフォードは、コリガンの顔を、すさまじいとしかいいようのない眼つきで睨み返すほどに立ち直っていた。コリガンの土俵に引きずりこまれていることを自覚してはいたが、なぜかもうどうなってもいい心境だった。
「何か役に立つことにぶつかるかもしれないというだけの理由で、どんな気まぐれをして、どれだけ金がかかっても、のらくら遊ばせておけというんだな。それが西側の安全を守る道というわけか。組織的な職業的客観性などという概念は、おまえたちには何の意味もないのか。この現実に目覚めるまでに、おまえたちやおまえたちがいつも口にする自由を、いつまで守ってやればいいんだ」
エドワーズは居心地悪そうにテーブルを見つめ、マッシーと同じく棄権していた。もうコリガンの独り舞台だった。
「世界は、どこかの哲学者がいうように、誰でも好きなように生きる権利があるなどというユートピアじゃないんだ」とコリガンは続けた。「これは骨肉相食むジャングルだ。強者は生き残り、弱者は負ける。強者のままでいるためには、優先順位が明確でなければならん。おまえの優先順位はでたらめだ。ところが、われわれにその真似をしろといい、それを是認することで犯罪を見逃せといっている」
彼は演出効果を狙って、長く深い呼吸をした。「断じて否だ。エドワーズ教授に対して、これ以上の時間の無駄使いと、資金や資材の悪用の自由裁量権を与える勧告などは、断じてするわけにいかん」
現実には、コリガンは、エドワーズに指図する権限はなかった。しかし、彼はこの言葉を故意に使って、自分がACREに権限は持っていないとしても権力はあることを、それとなく意識させようとしていた。エドワーズは異論を唱えなかった。彼は、自分が昇進してACREの最高責任者かまたはそれに似たものになるか、それともバフィン島北岸の人里離れたミサイル試射場の運営で一生を終わることになるのかは、コリガンが局へ送る報告が大いに関係すると知っていた。
ぺちゃんこにされ、自尊心のかけらまでも剥ぎとられてしまうと、相手は暗示にかかりやすくなり、僅《わず》かな好意のそぶりにも夢中でとびついてくるものだ。歴史を通じて、牢番はこの手管《てくだ》に精通していた。コリガンも心理学はよく知っていた。人間の心の動きは、ちゃんと心得ていた。
彼の口調は心持ちやわらいだ。「きみだけが歩調が狂っているんだ、クリフォード博士。ここにいるわれわれは、みんな一つのチームで、いい仕事をしようと努めている。なぜ、面倒をおこすんだ。適合する努力をしてみれば、人生は思ったほど悪くないことがわかるかもしれんのだ。
「この国や、それが象徴するもの――われわれみんなが信じている生き方――これに酬いる義務があるとは思わんかね? いまこの瞬間にも、世界の半分は向こうに腰を据えて、われわれが一瞬でも気を緩めたら、この惑星の表面から吹きとばそうと待ちかまえている。きみはそこに坐って、手をこまねいているつもりか? 彼らが、指一本あげる必要もなしに、ここに入りこんで来てほしいかね?」コリガンは、われわれすべて同胞≠ニいう口ぶりで、言葉を結んだ。「それとも、チームに加わって、自分の持ち分を果たし、われわれが出ていって、やつらを殺す手助けをしてくれるかね?」
クリフォードは蒼白になった。コリガンと彼のプロパガンダは、気が狂いかけている世界の一切の嫌悪すべきものを要約していた。しかも彼はいま、自分までもそこに徴募するつもりなのだ――世界の初めからこの方針を信じながら、苦しみ、血を流し、死んでいった数百万の愚かな洗脳された隊列の中に。喜んで背中を出す者がいるかぎり、大衆におぶさって甘い汁を吸うコリガンのような男は絶えないだろう。身内に湧き返り、胃袋を焼き、嘔吐のように喉の奥にこみあげてくる怒りを鎮めようとして、クリフォードの声は囁くように低くなった。
「誰かを殺すことなんぞには、まったく興味がないね……あんたのためであろうと、あんたが代表する何のためであろうとだ。ぼくは、あんたの体制のおかげで、ここへ連れてこられたんだ。
帰属意識がないから、狂っているだと。冗談じゃない。あんたの体制が作りだした混乱を収拾するのに、手を貸す義務があるだと。冗談じゃない。そんなたわごとは、阿呆どもに聞かせるんだな」彼は返事も待たずに立ちあがると、ドアのほうへさっと歩いていった。エドワーズとマッシーは、じっとテーブルを見つめたまま、沈黙を続けていた。ブラッドがやけをおこして自滅するのは勝手だが、自分たちがその跳ね返りを受けるつもりは、毛頭ないのだ。
五分後、自室のドアを音を立てて閉めたクリフォードは、まだ体を震わせながら、卓上端末装置のキーボードに、短いコードを叩きこみはじめた。少なくとも、公式の手続きを踏もうとはしたのだ。その結果は、必ずしも意外なものではなかった。だからこそ、前もってデータ・バンクに長いファイルを用意して、いつでも送信できるようにしておいたのだ。
女性の顔がスクリーンに現われた。
「通信センターです。御用件は?」
「直接送信回線が使いたい。行先コードは〇九〇九〇九−七三七八五−二一三一八」
その女性は機械的にコードを打ちはじめたが、それからとまどった様子を見せた。
「三重の〇九は地球外ですが――月面基地です」
「わかっている」
「お気の毒ですが、この回線には五級以上の特別許可が必要です。許可番号をお持ちですか」
この三十分間の口惜しさが、一挙に燃えあがった。
「いいから聞け、そしてこれを記録にとるんだ。絶対の最優先だぞ。ぼくが全責任をとる。大統領の許可が必要だろうが、教皇だろうが、神様だろうが、何でもかまわん。とにかく回線をつなぐんだ!」
「われわれから四・三光年のプロクシマ・ケンタウリには、かなりな大きさの惑星が少なくとも三個あり、その最大のものは質量が太陽の〇・〇〇一八倍、軌道周期は二二七年であります。その少し先の六光年にあるバーナード星は、これまた少なくとも三個の惑星B1、B2、B3を従えており、質量はそれぞれ〇・〇〇一一倍、〇・〇〇〇八倍、〇・〇〇〇三倍、軌道周期は二六年、一二年、一四・三年です。われわれは、このほかにも惑星が存在する可能性は非常に大きいと思っています。これらの惑星系の向こうには、三つだけ例をあげればラランド二一一五A、白鳥座六一、クリューゲル六〇Aなどの恒星があり、やはり惑星を持っていて、これらは疑問の余地なく観測され、主要な特性は正確に測定されました。それどころか、われわれから半径二〇光年以内に、わが太陽以外の恒星に属する惑星が三十個以上知られているのです」
ハインリッヒ・ツィンメルマン教授は、この最後の事実を指摘すると、銀河系の局部恒星群を示した立体模型から振り返り、カメラのほうに向いた。カメラ・トロリーは音もなく滑って、背が高く、一分のすきもない服装をし、痩せぎすの体に銀髪をいただいて威厳を漂わせたこの人物に近づいていった。
「このようにして、月の裏側にあるこのジョリオ・キュリー天文台でのわれわれの研究は、太陽近隣の惑星系についての知識を、はかり知れぬほど増したのであります。もしこの数字が全銀河系にまで拡張できるものなら、そこには数十億の惑星が存在することになります。仮にその千個に一個が、地球と同じような気温とか地表の化学組成とかを持っているとすれば、われわれの知るような生命が出現する可能性のある惑星は、それでも数百万個あるわけです。しかも、すでにおわかりのように、生命の出現とは、かつて想像されていたような十億に一つの偶然事ではありません。オコヤクやスコヴェンセンのような研究者たちの実験が示すように、適切な条件さえ設定されれば、ほとんど必然といってもよいものなのです」彼は脇へ移り、カメラがズームインして模型のクローズアップができるようにしながら、最後の言葉を述べた。「これらの事柄が何を意味するかについては、各人の判断におまかせしましょう。この番組では心をそそられることを見てきましたが、ほんとうの驚きは、これから先に控えているかもしれないのです」
「よし、そこでカット」アーク燈に隠れた暗闇の壁から、フロアディレクターの声がとんだ。
「うまくいった。一服するが、五分後にシーケンス5の初めの部分を撮り直す用意をしろ。ハリーとマイク、どこかへ消えちまうんじゃないぞ――ちょっと打ち合わせがしたいんだ」
照明が暗くなり、あたりからいっせいに人声がおこった。ツィンメルマンのまわりのフロアは、スタッフたちが行き交う雑踏の場と化した。彼は立ち止まって、今までより暗くなった通常の照明に眼が慣れるのを待ってから、撮影スタッフの挨拶に答え、混雑から離れて、ドームの展望窓の所に立った。ハンカチで額を軽くたたきながら、月面の荒涼とした眺めにじっと見入った。
天文台の施設や基地の周辺を特徴づけて散在する雑多な設備や格子の向こうには、月面の真昼の直射光に灼《や》かれて、柔らかくゆるやかに起伏する灰白色の砂塵の砂丘が横たわり、その所々には、岩山や岩塊の真黒な影が点在していた。のっぺりした地平線の上には、無限に拡がるビロードの中に、無数の宝石が輝いていた。ジョリオ・キュリーはこの世のどこにくらべても、最も寂しい人類の居住地なのである。ここでは、絶え間なく送りだされる地球の電子騒音を月の本体が遮る中で、巨人のような電波望遠鏡が、大宇宙の秘密を伝えてくる囁きに耳を傾けていた。巨大な光学望遠鏡は、大気にも妨げられず、地上の先輩たちを挫折させた重量による歪みにもほとんど影響されずに、観測可能な宇宙の最果てを探っていた。ジョリオ・キュリー天文台施設は、遠く離れ、隔絶していたが、そこには自由があった――知識の探究そのものを目指すという、束縛されない科学の最後の砦だった。
背後からの影が、展望窓の横の壁を暗くした。ツィンメルマンが振り返ると、そこにはガス・クレイマーが立っていた。クレイマーは、彼らが制作しているドキュメンタリー番組≪爆発する地平線≫の副プロデューサーだった。彼は教授の肩越しに外の景色をのぞいて、苦い顔をした。
「こんな所にいて、どうして気が変にならんのですかね」と彼は訊ねた。ツィンメルマンは彼の視線を追い、微かな笑みを浮かべて振り返った。
「ああ、きっとびっくりするだろうね。孤独や平安は、非常な刺激にもなるのだよ。すべては、あそこを眺めて何を見るかにかかっている。二人の男と牢格子の話を覚えているかね。時々、地球ではみんな気が変になるのではないか、と思うのだがね」
「星を見るってわけですか?」クレイマーは、にやりとした。「それも文字どおりにね」彼は部屋の向こう側にくびを傾けて見せた。「向こうにコーヒーの用意ができてるが、少しどうです」
ツィンメルマンはハンカチを畳んで、胸ポケットにおさめた。
「せっかくだが。すっかり終わってから、ゆっくり楽しむことにしよう。あとどのくらいだね?」
クレイマーは、手に持っているタイプ印刷の予定表を調べた。
「さてと、太陽がいい位置に来たから、外での撮影が少しあるな……昨日録音した解説につく装置のクローズアップが少し。それで、あなたの出る場面はと……。ああ、これだ――あなたが出るカットはあと一つだけで、このすぐ後にやるやつだ。シーケンス5の最初の部分のやり直しで……ブラックホールからの輻射について話すところですな」
「ああ、なるほど。わかった」
クレイマーは紙挟みを閉じ、ツィンメルマンといっしょに、フロアのほうへ向き直った。
「ひっきりなしのこんな騒ぎが終わって、また研究に戻れたら、きっとほっとなさることでしょうな」と彼はいった。「ここにいる間、実に辛抱づよく協力していただいて。スタッフ一同が感謝していますよ」
「とんでもない」とツィンメルマンが答えた。「喜んで協力させてもらったまでだ。わたしの俸給も含めて、ここにあるものはすべて大衆が金を出している。われわれが何をしているか、またなぜなのかを、絶えず知らされる権利があるというものだ。それに、科学のほんとうの精神を大衆に伝えるのは、少々の時間や労力を費やす価値があることだとは、思わんかな?」
クレイマーは、六ヵ月前に宇宙船航法と推進方法についてのドキュメンタリーを計画した時に、ワシントンで出くわした小役人との間のごたごたを思いだして、苦笑いした。とどのつまり、この企画は諦めたのだった。検閲の後に残ったものは、小学生の教材にもならなかったのである。
「当節は、そういう考え方をしてくれる人が払底していましてね」と彼はいった。「あちらでは、誰も彼も偏執狂になりかけているんですよ」
「十分に想像がつくね」とツィンメルマンは答えながら、傍へどいて、部屋の向こうから叫ぶ指示のままにスポットライトの位置を動かすスタッフに、道を譲った。
次の撮影が行なわれる場所のほうへ、間を縫って歩いていきながら、クレイマーが訊ねた。
「これで、こちらには、どのくらいおいでです?」
「そう、十八ヵ月以上になるかな……時々は地球へも行っておるがね。不思議に聞こえるかもしれんが、あまり不足はないのだよ。わたしの仕事はここにあるのだし、先ほどもいったように、環境は刺激に満ちている。邪魔はされんし、大体において、いかなる干渉もない」
「自分の好きなことができるのは、いいもんでしょうな」とクレイマーは相槌を打った。「すると、薄汚い政治ごとには関わらずにいられるってわけですか」
「うん、そのようだな……だが、初めからそうだったわけでもない。わたしも何年か、政府の科学的なポストにいくつかついていたことがある……もちろん、ドイツで、ヨーロッパ合衆国が結成される以前のことだが、しかし……」ツィンメルマンは、ため息をついた。「政府の援助が、わたしの良心も興味も関与を望まない種類の研究にだけしだいに限定されることが明らかになった時、そこを辞任して国際科学財団に加わったのだ。知ってのとおり、ここはまったく個人の自発的な財源でまかなわれていて、完全に自主独立なのだよ」
「ああ、知ってますよ。ヨーロッパ合衆国が、よく面倒をしかけてこないもんだと思っているんですがね……それとも、あなた方はいうなりにはならないというわけで?」
ツィンメルマンは微笑して、眉を掻いた。
「というよりは、むしろ、わたしも、わたしの持ちあわせている知識も、彼らにはあまり役に立たないと、悟らせた結果ではないかな」クレイマーは、自分が人生を体験すればするほど、謙譲の美徳というものが、たまたま出くわす真に偉大な人物だけに残存していると信じるようになったことを、つくづくと思うのだった。
そのとき、フロアディレクターの増幅された声が部屋中に反響して、会話を中断した。
「ようし、みんな。シーケンス5の撮り直しの配置につけ。きょうはこれで最後だ。うまくやれよ」
人声は消えていき、アーク燈が点《つ》いて、一方の壁にしつらえた背景幕を照らした。背景幕の右手には、明滅する多数の色とりどりの燈や表示スクリーンのついた計器盤やコンソールが並んでいた。ツィンメルマンは、カメラ、マイクブーム、椅子、人間がごった返す中を抜けて、コンソールの前の半円形の照明の中に立った。彼の右に少し離れて、この番組の司会者マーチン・ボレルが、背景幕の前に陣どった。
再びフロアディレクターの声が響いた。「マート――今回は、……人類の知る最も謎に包まれた現象の一つなのです≠ニいい終わってすぐ、左手に歩きはじめる。前回と同じ速さでやれ――そうすれば、きみがちょうど紹介を始める時に、教授がカメラに入ることになる。いいか?」
「よしきた」とボレルが答えた。
「教授」
「何かね?」
「最初に後ろにある装置のことをいう時、カメラがそれをパンできるように、五秒ほど後ろにさがっていただけますか? それからまたマートに近づいて、対話を続けてください」
「いいとも」
「すみません。よし――カメラ、スタート」ボレルは体をのばして、手を肩の近くまであげた姿勢をとった。カチンコが鳴った。「始め」
「ブラックホールは」と、ボレルは、プロの力強くよく響く声で語りはじめた。「物質とエネルギーが跡かたもなく永遠に吸いこまれ、時間そのものが停止する、宇宙の不思議な領域です。われわれは、ブラックホールの歴史を、初期の臆測の段階から今日の確証された現実に至るまでたどってきました。いま科学者たちは、これら謎の天体を支配する変わった物理法則の、途方に暮れるような性質について、信じ難いイメージを描けるようになりました。だが、こうした新しい知識が得られても、思いもかけなかった謎が、次々に現われてきます。ブラックホールは、今なお、またこれからもずっと、人類の知る最も謎に包まれた現象の一つなのです」
ボレルは、背景幕の前を横切って、ゆっくりとツィンメルマンのほうへ歩いていった。
「ブラックホールの物理法則を探る研究者たちがいま当面している謎についての認識を得るために、ジョリオ・キュリーの所長であり、おそらくは今日もっとも著名な天体物理学者の一人、国際科学財団のハインリッヒ・ツィンメルマン教授をご紹介しましょう。
「教授、いま外に見えるあのアンテナは、宇宙にあるブラックホールの周辺から発する放射を集めています。この部屋で、あなたは、コンピューターがその放射から引きだした情報を解析しておられます。そこで何を発見されたか、またどんな新たな疑問を発せざるを得なくなったかを、簡単に話していただけますか」
これまでに、ツィンメルマンは、この演技を三回やらされていた。
「いまこの瞬間に、アンテナは白鳥座]1と呼ばれる連星に向けられています」と彼は答えた。
「連星とは、二個の恒星が極めて接近して存在し、相互の重力で引きあいながら、共通の質量中心のまわりに軌道を描いているものです。多くの連星は、二個の通常の恒星から成り立っていて、それぞれが標準的な分類のどれかに当てはまります。ところが、連星の中には、一方だけが通常の眼に見える星で、第二の天体の見えないものがあります。いわゆる暗い伴星は光を出さず、眼に見えるほうの星に及ぼす重力の影響によってしか突きとめられません。多くの場合、それは、番組の初めのほうに出てきた中性子星だということがわかっています。しかし、いくつかの確証された実例では、伴星である天体が中性子星の段階を通り越してつぶれつづけ、物質の究極的な縮退の状態、つまりブラックホールになっています。白鳥座]1は、まさにその実例なのです」
「いいかえれば、通常の星とブラックホールとが、一つの安定な系を作って、お互いにまわりあっている、というわけですね」と、ボレルが口をはさんだ。
「そうです。しかし、この系は、まったく永久的に安定なわけではありません。おわかりでしょうが、ブラックホールの重力は、恒星の表面からガス状物質を吸引するほど強いのです。したがって、この系は、本質的に三つの部分から成り立っています――つまり眼に見える恒星、ブラックホール、そして前者から後者へ流れだし、両者をまるで臍《へそ》の緒《お》のように繋ぐ恒星物質の紐≠ナす。この紐≠ヘ、その中に含まれる素粒子がエネルギーを得て重力勾配を加速されながら、ブラックホールのまわりを旋回します。やや単純な譬《たと》えでいえば、風呂桶の水が螺旋《らせん》を描いて排水口に入っていくところを想像していただけばいいでしょう」彼は一息いれ、ボレルが次の質問を発するのを待った。
「でも、ぶしつけな質問かもしれませんが、これは科学者に説明の困難な結果をもたらしているんじゃありませんか」
「そうなんです」とツィンメルマンは認めた。「おわかりでしょうが、眼に見える恒星から吸引される物質は極めて高温で、したがって高度に電離しています。つまり、強く荷電した粒子でできているのです。さて、運動する荷電粒子は、電磁放射を生じます。計算によれば、]線の波長域にまで達する広い帯スペクトルの特徴的な放射が、ブラックホールの周囲に暈《かさ》として観測されるはずであることが予想されます。事実、だいたいにおいて予期されたような性格の放射を観測しています。ところが、そのスペクトルやエネルギー分布を厳密に解析してみると、理論と完全には一致しないパターンが現われるのです」
ツィンメルマンは傍へ体を移し、身振りで背後にある計測盤を指した。「ここにある装置は、この種の研究に使われるものです。ここから、受信装置を監視・制御し、コンピューターに指令し、何をしているかを観察することができます。
「長年の観測と測定によって、いくつかのブラックホール連星の特徴を十分な正確さで決定し、それぞれが発する放射パターンを生ずるような数学モデルを厳密に計算できるようになりました」彼は前に進んで、コンソールの上のモニター・スクリーンの一つを指した。「実は、これは白鳥座]1について計算した、理論的分布パターンのグラフです」スクリーンには、文字や記号を付した緑色の波状の線が出た。その線は起伏して、山脈の断面図のように、ピークや谷や平地部を作っていた。
「これが予想される分布であります。ところが、実際に白鳥座]1から受信したデータを解析すると……」彼はボタンに触れて、第二の赤い曲線を呼びだした。「重大な食いちがいのあることがわかります」スクリーンは、彼の言葉を裏書きした。赤い曲線は、緑の曲線と違う形で、それより上の位置を占めていた。緑の曲線がかなり上まで伸びて、両者がほとんど一致しているのは、一ヵ所か二ヵ所だけだった。
「どちらの曲線も、同じスケールで描いてあり、同一の原点から始まっています」とツィンメルマンが解説した。「仮にわれわれのモデルが正しいなら、両者はほぼ同じになるはずです。つまり、実際に測定される放射量は、理論から説明されるものよりも、ずっと大きいのです」
「現実の測定値が、予想される放射量よりも大きい」とボレルが繰り返した。「余分の放射はどこから来たんですか」
「もちろん、それこそわれわれが興味をそそられるところです」とツィンメルマンが答えた。「ごらんのとおり、付近には三つのものしかありません――恒星と、紐≠ニブラックホールです。たとえば恒星や紐≠フような通常の物質についての物理学は、これらを放射源の可能性から除外できるほどによくわかっていると確信します。とすると、ブラックホールそのものが残るだけです。だが、ブラックホールにどうして放射が生じるか。これがわれわれに挑戦している問題なのです。いいですか、一般相対論に基づくわれわれの一切の理論は、何ものといえども――物質も、エネルギーも、放射も、情報も、その他いかなる種類の作用力も――ブラックホールを脱けだすことはできない、と教えています。では、われわれが放射として観測する余分のエネルギーが、ブラックホールから出てくるわけがない。しかし、それが出てくるようなものは、ほかには何もないのです。
「この設問に対する答は、極めて広範囲の影響を及ぼすかもしれません」カメラが、クローズアップのために近づいていった。「ここで質問を発してみましょう。ブラックホールに落ちこんだ物質は、どうなるのか? それが、われわれの知る宇宙から完全に消滅することは、わかっています。論理的にいえば、それ以後、その物質は、われわれ自身の宇宙のどこか別の場所か、それともどこかまったく別の宇宙に存在すると、結論せねばなりません。それ以外の可能性はないように思われます。わたしがいまいったことの意味を、しばらくでも考えていただければ、それとは逆の方向に働いているのかもしれない過程を発見したことに、われわれがなぜ興奮したのかが、わかっていただけるでしょう。現在の理論が不可能と宣言する何かの出来事が、観測されているのです。その底には、物理現象と法則との、目下はほとんどまったく未知であることを認めねばならないような根本的に新しい領域が感じられます。この謎に満ちた領域の中では、われわれが不可能とすることも当たり前の現象にすぎないかもしれないと信ずるに足る、強い理由が存在するのです」
ボレルは、教授の言葉に効果を持たせるべく、数秒間待った。
「まったく興味津々のお話ですし、視聴者の皆さんにとっても、きっとそうだと思います」と、やがて彼はいった。「いまおっしゃったことについて一つ二つうかがいたいことがありますので、この後でそのことに戻りたいと思います。しかし、その前に、この番組を見ておられる方々の中でいくらか専門的素養のある人のために、このわたしたちの後ろに組み立てられてある装置の一つ一つの具体的な機能について、もう少し詳しく説明していただけませんでしょうか」
「ようし。カット」ディレクターの声が再び響いた。「よかった。これにここから先のシーンをつないで、このシーケンスを完成させよう。諸君、これできょうの分は終わりだ。明日の野外撮影の関係者は全員残って、最終スケジュールの打ち合わせに加わってもらいたい。その他の者は、ジョリオ・キュリーでの夜遊びを楽しんでよろしい。ご苦労さん。晩飯にまた会おう」
アーク燈が消され、ツィンメルマンは、演出チームと何分か細かい技術的な点を相談した。それから部屋を出ると、ドーム連絡チューブの一つに入るドアへの道をたどり、チューブを通って隣接する主要ドームに入った。そこからエレベーターに乗り、地下四階で降りると、廊下を通って自分の部屋へ行った。外側の部屋に入ると、そこでは秘書が植木に水をやっているところだった。
「あら、こんにちは」彼女は、肩越しにそばかすのある笑みを浮かべて迎えた。「すっかり終わったの?」
「やあ、マリアンヌ。終わったよ。それほど残念でもないがね」彼は相手がやっていることを眺めた。「これはこれは。あの植物がもうこんなになったのか。きみの指だって、こんなに若々しくはないぞ。重力のせいにちがいない」彼女のデスクの上のメモや書類に何気なく眼をやりながら、「何か変わったことでも?」彼女は額に皺を寄せて思いだそうとした。
「メロウズが連絡してきて、代わりの光電子倍増管をCドームに取りつけたって――あなたが事情は知っているといってたわ。ピエールが具合が悪くなったので、降りてきていまは病室よ。明日の会議には出られないでしょう」
「おやおや。たいしたことがなければいいが」
「大丈夫と思うわ。きっと食あたりよ。先生が、まったく顔色がよくないといってたわ」
「ふんふん」
「それから、この長い通信が来ているわ、あなたを名指しで……ニューメキシコのどこかのクリフォード博士から」
「クリフォード……クリフォードとね……」ツィンメルマンは、ゆっくりくびを振った。「それは何者かね?」
「あら」マリアンヌは、びっくりした様子だった。「てっきりご存じだと思ったのに。ハードコピーを取っておいたわ……これ」彼女は、ぎっしり印刷した分厚い紙の束をトレーから持ちあげて、渡してよこした。「一時間か、もう少し前のことよ」
ツィンメルマンは、数学の方程式や公式で埋まったページを物珍しげにめくっていたが、それから表題を見ようとして表紙を返した。
「ブラッドリー・クリフォード博士」と彼は声を出して読みあげた。「いや。名前を聞いたことがないのは確かだな。しかし、もらっていって、後で見ることにしよう。その前に、ティコのサム・カースンをスクリーンに呼びだしてくれんかね。地球からの到着便の予定を確かめたいんだ」
「合点」と彼女が答えるのを聞きながら、教授はドアをくぐって内側の部屋に入っていった。
一ヵ月ほどは何事もおこらなかった。
それから徹底的に絞りあげられたのである。お歴々の前に連れていかれると、彼らは国家への責務を説教し、同僚や仲間の市民への道徳的責任を思いださせ、将来の経歴で彼が望んでいると決めこんだ事柄について、さんざんいって聞かせた。FBIが何人かやってきて、政治的信条、社会的活動、友人、知人、学生時代の仲間について、何時間にもわたって訊問した。無責任だといい、子供っぽいといい、順応できないでいるのだから、援助しようといった。だが、掛値なしに驚く傍ら、少々がっかりもしたのだが、くびにはならなかったのである。
事態が苦痛に満ちた絶頂に向かって近づいているかに思えた時、一切が突如として中止され、まるで忘れられてしまったかのようになった。誰かがどこかで、手を緩めろと指令を発したかのようだった。何でこうなったのか、クリフォードには想像もつかなかったが、慈悲とか博愛といった時代遅れの心情が原因であるなどとは、瞬時も思わなかった。どこかで異常なことがおこったのは確かだが、どういうわけか彼には知らされなかったのである。だが、そんなことに、あまりくよくよしてはいなかった。ほかの、もっとすばらしいことに、夢中になっていたのである。
エドワーズが定常宇宙論とビッグバンについて語ったことで、宇宙論モデルについてのクリフォードの好奇心は刺激されていた。そこで、この問題についての知識をおさらいすることに夢中だったのである。やがて、数十年にわたって蓄積された観測データの重みは、エドワーズが指摘したようにビッグバンに非常に有利ではあるものの、かなり最近になって発表されたクェーサー理論は、ビッグバン・モデルをこれまで支えていた支柱の一本に重大な脅威を与えているということを発見して、好奇心をそそられたのだった。
それは、宇宙に存在するヘリウム量の問題だった。ビッグバンと定常宇宙論との二つの宇宙論モデルは、どちらも、宇宙にどれだけのヘリウムが存在すべきかを、数学的に予測できた。
広く受けいれられているビッグバンによれば、存在するヘリウムの大部分は、ビッグバンの最初の数分間におこった激しい核反応の段階に生じたものだった。計算によれば、これに伴う過程の結果として、宇宙を構成した原子の十個に一個はヘリウム原子であるはずだった。ビッグバンに続く一二〇億年ほどの間に、恒星の核融合反応からヘリウムが生じるために、この量はいくらか増大する。この頃にはかなり信用を失っていた定常宇宙モデルは、観測されるヘリウムのすべてが、恒星内部で水素原子核の核融合によって生じたと仮定せざるをえなかった。こうした核融合反応が地上の実験室や原子炉で測定され、これが多年にわたって集積された天文学的観測データと結びつけられて、ヘリウムの全宇宙での総生成量を示す数字が求められた。この数字に、定説となっている宇宙の年齢を掛ければ、その答が、全部でどれだけのヘリウムが存在すべきかという推定値である。結果は、原子百個につき約一個だった。
そこで、二つのモデルの妥当性を判定するかなり明確な方法ができたわけだった。ビッグバンは、定常宇宙説の予測するヘリウム量の十倍を予測していた。これを確かめる観測が数多くなされたが、いずれも精度の高いものだった。出てきた結果は、すべて十パーセントのオーダーを示していた。ビッグバンは、どうやらすばらしい成績で合格したように見えた。
少なくとも、日本人のクェーサー理論が公表されて、論点をぼやかしてしまうまでは、そう思えたのである。この理論というのは、クェーサーが放出する異常なエネルギー量が、莫大な量の物質と反物質との対消滅の結果から生ずるとして説明していた。クェーサーは、空前の規模で展開される宇宙的暴力の舞台と見なされた。そこではそれぞれ太陽質量の数十億倍という膨大な量の物質と反物質とが四つに組んで無慈悲な皆殺し戦争を戦い、どちらかの相手が完全に消滅するまで続行すべく運命づけられているのである。いずれは、闘争の廃墟の中から銀河が凝結してくることだろうが、それは生き残ったほうの旗印に基づいて、通常の銀河か、あるいは反銀河になることだろう。
二人の日本人宇宙論学者が提出したこの過程の具体的な機構の中では、副産物として大量のヘリウムが生成するはずだった。これは、宇宙論モデルの問題に新しい光を投げかけたのである。
クェーサーは途方もない距離にあるために、結果としては過去への窓を提供し、何十億年も前におこった出来事の姿を見せてくれているわけだった。仮に日本人の理論が正しいとすれば、天の川銀河系も、いつか宇宙年代の初期の頃におこった破局的なクェーサー的衝突の残骸から生じたことになるだろう。クェーサーは燃えつきても、その残滓は、ヘリウムを含めて今も残っているのである。
とすれば、これが答かもしれない。ことによると、観測されたヘリウム量を説明するのに、ビッグバンという始原の高熱地獄などは必要ないのかもしれない。少なくとも、今では別の解釈が存在していて、検討の必要があるのだ。
いずれこの理論が完全に確証されたとしても、それで定常宇宙モデルが自動的に復権しはしないだろう。何よりもまず、遠距離天文観測が提供した時間の窓が明らかにしたものは、クェーサーの集団から銀河の集団への進化といった進化する宇宙であって、定常宇宙の定義が要求すると思われる、あらゆる年代を通じて概観の変わらない宇宙ではなかった。それどころか、新理論それ自体が、一連の進化を要求しているのである。
だが、クリフォードが関心を持っているのは、ビッグバン対定常宇宙論の結末ではなくて、K空間の回転や素粒子の自発現象という彼自身の理論とビッグバンとの対決だった。エドワーズは、クリフォードの理論がビッグバンと矛盾するという根拠で、懐疑的だった。しかし、ビッグバンが何か他のものに取って代わられるものなら、クリフォードが正しくてもよいわけだった。いまここに、ビッグバンの体系の据えられた土台が、結局は堅固な基盤ではないかもしれないという、ヒントが与えられたのである。それはクリフォードに、残りの支柱の基礎にしてもどれほど確実なものなのかと、考えさせたのである。
結果として定常宇宙論が復活するか否かは、まったく別個の、たいして関係のない問題だった。
クリフォードは、テーブルの縁に肘をつき、インフォネットのスクリーンに映しだされたチェス盤をにらみながら、くびを一方にかしげ、次に反対にかしげた。それまでの四手でねらっていたようにポーンをキングの5に進めれば、黒は一連の駒の交換によって、クリフォードの中央を手薄にできるのだった。とすれば、ポーンを動かすのをまた延期し、まずナイトをピンにして黒の動きを封じるしか……いや、だめだ。黒は最後の一手の時にクイーンの道を開け、クリフォードがビショップを動かそうとする場所を守っていた。くそっ! コンピューターは初めからこちらの動きを読んでいたのだ。彼は、ため息をつき、左のビショップの前を開けて、ルークに加勢させる方法はないかと考えはじめた。
突然、盤面の中央に、裏赤な文字の通報が明滅した。
ヒトヲ無視スルナ!
食事デキタ!!
モウタクサン!!!
コンナ生活イヤッ!!!!
彼はにやりとして、端末装置を局部オーバーライド<a[ドに切換え、返事を打ちこんだ。
腹ガへッテハ戦ハデキヌ
デモヤッタコトアルカ?
ヨシ――イマ行ク
「それ、ごらんなさい」妻のサラの声が音声格子からたしなめた。「離婚訴訟にコンピューターが召喚されたことってあるかしら」
「共同被告《コア・レスポンデント》≠ニしてかね」
「ばか」
「食事は何だね」
「ビットにバイト、それに同期♂スとかに決まってるでしょ。ああ――それから|加工した《プロセスト》*菜。これでどう?」
「悪くないな」
彼はオーバーライドを取消し、ゲームの目下の盤面を記憶させ、この勝負で一・五ドルのネットワーク時間がかかったことを通知されてから、接続を切った。長らく住み慣れた本や論文の山の中から立ちあがりながら、素粒子の崩壊過程の表がデスクの上の壁から剥がれかけているのをぼんやり目にとめ、いつか何とかしようと、今月になって四度目の決意をした。
サラは、かつてはかなり暮し向きがよかったイギリスの家庭の出だった。父親は、婦人服店の専務取締役の販売補佐から身をおこした。その店は、ヨークシャーとランカシャーにいくつかの工場があり、本店とショールームはロンドンにあった。彼の人生は、不断の労働と全き献身の連続だった。デスクで一日十二時間(しばしばそれ以上)を過ごし、ヨーロッパの空を数百時間にわたって飛びまわった末に、士気衰えた販売部隊と旧式工場の集団とを、精力的かつ巧みに運営される高収益の企業経営に変貌させたのだった。まだ経営が苦しかった初期の段階には、その週の賃金を支払う金を銀行から借りるのに、自分の家を担保として抵当に入れたこともあった。
だが、一種独得な社会主義の重圧に国が疲弊し、生みだすこと自体がますます困難になった富をもっと公平に分配しろと誰もが騒ぎたてる中で、彼の労働の成果は搾《しぼ》りとられ、新しいユートピアを生みだすはずの無料の施しや補助金という坩堝《るつぼ》の中に注ぎこまれたのだった。
サラは、彼の夢の興亡の期間を通じて傍を離れなかったものの、父親の事業には加わらずに、早くから興味を感じていた医学への道を選んだ。昼間はロンドン大学とチャリングクロス病院で勉強し、余分の時間で父親の経営の雑用を手伝った。学業が終わる一年前のこと、両親は友好的に離婚した。母親は、石油産業のスコットランド人重役といっしょになるために北へ向かい、父親は自分の事業の残骸を各省からのハゲタカの争奪にまかせて、自分の取り分を現金化し、グラマーなイタリア人の女相続人を連れ、暖かい気候を求めて南へ向かうのを見たのが最後の別れだった。サラは、カリフォルニアにいる叔母の所へ行き、ここで医学の勉強を続けて、放射線専門医の資格を取った。クリフォードに会ったのは、CITで短期間の核医学再履修コースを取っている時だった。二人は二ヵ月後に結婚した。彼がACREに移ってからは、彼女は地元の病院に職を得て、過に三日間、働いていた。収入は生活のたしになったし、仕事のおかげで退屈したり世帯じみたりせずにすんだ。
彼女がまだ柔らかそうなステーキを盛りつけている時、彼が後ろ側にある調理場のドアから入ってきて、脇腹の肋骨のすぐ下をつねった。
「キヤツ! お料理をしている時に、そんなことをしちゃだめよ――危ないわ。そういえば、いつだってだめよ」
「そういう声を出す時のきみは、おもしろいな」彼は肩越しにのぞきこんだ。「あれ――だまされたぞ」
「だまされたって、どういう意味?」
「用意ができたっていったろう。まだ皿に盛っているところじゃないか。人が真剣に考えているのをあんなふうに邪魔したら、負けていたかもしれんのだぜ」
「結構だわ。代わりにわたしのことを真剣に考えなさい」彼女は皿をテーブルに運んだ。二人は席についた。
「うまそうだ」とクリフォード。「この肉は、どこから来たんだ?」
「もちろん、仔牛からよ。ああ、忘れてたわ。物理学じゃ、そんなことは教えないんだったわね」
「どこで買ったかといってるんだよ、ばかだな」
「いつもの店よ。わたしは、とにかく好みがむずかしいの」
「それはとっくに知ってるさ。きみが結婚した相手を見ろ」
サラは、天井を仰いで、やれやれという顔をした。二人は、しばらく黙って食べていた。やがて彼女がいった。
「あなたが上にいる間に、ジョーンとピートに連絡して、あの劇場の予約のことを聞いたの。金曜日の夜でいいそうよ」
「うむ……わかった」
「ジョージも来るわ。ジョージを覚えている?」
クリフォードは、噛み終わるまで、じっと皿を見つめていた。
「ジョージ? ジョージって誰だ?」彼はちょっと考えた。「ジョーンの兄さんのジョージじゃないだろうな」
「そのジョージよ」
「軍隊にいったやつか。大きくて、黒い髪で……音楽が好きで」
「そんなによく覚えてるとは思わなかったわ」
クリフォードは、また考えこんだ。「どこか外国にいっていると思っていたが」
「そうよ。でも、今は休暇で帰ってきているの。トルコ東部のミサイル基地にいるのよ」
「そいつはいい」クリフォードは、またステーキに取りかかった。「彼はおもしろい男だ。彼に会わなくなってから……もう一年ぐらいになるにちがいない」彼は、それ以上この話題を続けようとはしなかった。サラは真剣な顔で、黙って彼を見つめていた。
やがて彼女は、妙に真面目な声でいった。「ジョーンは、彼が向こうの状勢を話してくれたと、いっていたわ。今では、いつだって臨戦態勢も同然なんですって、四六時中、戦闘斥候が飛行しているし、山は命令一下直ちに発進できる戦車でいっぱいだとか」
「うむ……」
「彼女は心配で居ても立ってもいられないでいるわ、ブラッド。彼は、遠からず最後の対決がくるにちがいないといってるそうよ……世界中で。彼女は出産が近いから、ほんとうに体にさわるわ……」サラは言葉をとぎらせた。何とか安心させてくれないかという様子でクリフォードを見つめつづけたが、彼は黙々と食べているだけだった。「どうなると思う?」
「わからん……」彼は重苦しい気持でもっと何かいわねばならないと意識していたが、サラは自分のことを知りすぎているから、すぐ頭に浮かぶような決まり文句でだまされはしないこともわかっていた。「形勢はあまりよさそうじゃないな」と、やがて彼は認めた。「わが霊感に燃えた尊敬すべき指導者どもは、正義を守ろうというわけだ。ぼくには別の正義があるがね」
クリフォードとサラが話す時には、対話のほとんどは口に出されず、しかも即座に通じ合うのだった。彼は、この少ない言葉の中で、自分に関するかぎり、どんな政治的あるいはイデオロギー的聖戦のためであろうと、一人の人間の命でも代価としては高すぎることを伝えたのである。
予想される彼女の次の質問もし召集されたら軍隊に入るか≠ノついては、答はノーだった。そうしたところで、何も解決はしない。仮に世界の半分が洗脳され、操り人形のようになっているとすれば、それを解決する道は、百年間を逆戻りして彼らを見習うことではない。普遍的な教育、自覚、そして知識だけが、唯一の恒久的な解決を提供するのだ。爆弾、ミサイル、憎悪は、人々に眼に見える脅威を与えて団結させ、苦しみを長びかせるだけなのだ。もし戦争になったら、自分は生きのびる方法を探し、残されたどんな手段によってでも自分を見失わずにいるのだ。守るべき価値のあるもののために闘うには、それが唯一の意味のある方法だろう。
彼女は、かなりの間、彼をじっと見つめていたが、やがて表情を和らげて、苦い笑みを浮かべた。
「それじゃ、どうするの――山へでも行く?」
彼はくびを振って、快活に答えた。「誰もが同じことを思いつくだろう。山の上では、息をすることもできないだろうよ。危険地域だ――西海岸からの放射性降下物のまん真中だ。北半球の風系から完全に脱けださなければだめだ。南へ行くのさ――ジャングルの中のほうが、プライバシーがある」
「いやだ!」サラは顔をしかめた。「いやらしい這いまわる生き物がいるわ……ずるずる滑りまわるのも。嫌いだわ」
「あまり好きなやつはいないさ。だからこそ、そうすべきなんだ。いずれにせよ……」奥にあるインフォネットの内線のチャイムが、彼を遮った。「いったい――誰だろう」
「わたしが出るわ。食べてしまいなさい」サラは立ちあがって、ドアの向こうに消えた。短い対話の一方だけが、こもった声で聞こえてきた。そして、サラが調理場に戻ってきた。
「誰だか、あなたに話したいそうよ。今まで会ったことのない人だわ――カリフォルニアのフィリップス博士とかいう」
「フィリップス?」
「あなたのことを知ってるらしいわ」
クリフォードは、しばらく訝《いぶか》しげにフォークを見つめていたが、やがてそれを皿に置き、ゆっくりと奥の部屋に入っていった。回転椅子に腰をおろし、ぐるりと体をまわしてスクリーンを見た。
向こう側の人物は、ロックオペラの登場人物か、それともエリザベス朝イギリスの再来かと思えた。髪はなだらかな金色の波を打って肩近くまで垂れ、中世的な尖った顎ひげや形を整えた口ひげに伝道者風の縁取りを与えていた。見えている部分の体は、鮮やかなオレンジ色のゆったりした絹のシャツにおさまり、その肩や先の細くなった長い襟には、金糸で凝った模様が刺繍してあった。クリフォードが最初に思いついたのは、てっきりどこかの宗教気違いのお説教に悩まされるのではないかということだった。
「クリフォード博士かね?」と相手は訊ねた。その声には、少なくとも狂信的熱狂の響きはなかった。
「そうだが」
「高等通信研究所のブラッドリー・クリフォード博士だね?」
「まさしく」
「やあ、お初《はつ》に。ぼくの名はフィリップス――バークリー研究所のオーブリー・フィリップス博士。綴りをいったほうがいいな――P、H、I、L、I、P、S、Zだ。ぼくを好きなやつは、たいていオーブと呼んでいるがね。バークリーでは実験のほうをやっている――高エネルギー素粒子物理学のね」
「うむ」クリフォードは、まだ会話の行く方を見定めようとしていたが、どうも雲を掴むような感じだった。音声格子から聞こえてくる声は、スクリーン上の顔とぴったりしなかった。それが画面と同調しているのを見なかったとしたら、別の会話の音声と映像成分とが何かの理由で混線したと思いこむところだった。オーブは、尊大なところは毛ほどもなかったが、自信を持ち、落ち着いて、しかも理性的な口調だった。眼は鋭く、人を見通すかのようだったが、同時にこみあげてくる笑いをおさえているかのように、生き生きとしていた。
「きみが、重力とK空間変換とを結びつけた論文を書いた当人だな」とオーブが確認した。
クリフォードは、椅子に坐りなおした。「そうだ……でも、どうしてそんなことを知っている?」
「われわれがそれを知っていることを、知らないのか?」
「うん、知らない。きみは誰で、バークリーがこれとどういう関係があるんだ?」
オーブは、クリフォードの反応が思っていたとおりだという様子で、ゆっくりと、半ば自分に納得させるかのようにうなずいた。「そうだと思った。この話には、そもそも臭いところがある。きみの名前をつきとめるのに、どれだけ苦労したか、想像がつくまい」
「初めから話してみろよ」とクリフォードが提案した。
「それはすばらしい思いつきだ。そうしようじゃないか」オーブは、ちょっと考えた。「あの論文の一部に、K関数の持続的回転のことが述べてある。あそこで、きみは、異なった回転モードについての安定性と振動数の規準を導いている」
「そのとおりだ。Kスピンの保存から出てくるんだ。それがどうした?」
「きみの計算では、ある種の持続的回転が、高次次元と低次次元の領域の間での連続的遷移という形をとりうることが示されている。通常の空間では、この効果は、粒子が消滅と再出現を繰り返すように見えるだろう。燈が点いたり消えたりするように」
クリフォードはびっくりしたが、半信半疑だった。とりあえずは判断を保留することにした。
「そのとおりだが。でも、まだよくわからない……」
「これを見てくれ」オーブの顔が消え、すぐ代わりに現われたのは、黒地に白く直線や曲線が浮きでた、細い線の不規則なパターンだった。クリフォードには、それが高速電離箱からのコンピューター出力のサンプルであることがわかった。これは高エネルギー粒子間の相互作用の細部を捉えるための通常の手法であり、世界中の実験物理学者が使っていた。オーブの声が先を続けた。
「写真の右下にある、GとHの記号の間の飛跡がわかるか?」
「うん」クリフォードは、いわれた個所を見つけた。それは連続した線ではなくて、微小な白い点が並んでいるものだった。
「それは最高倍率で拡大したオメガ2マイナスの飛跡だ。見たとおり、粒子は軌道に沿った不連続な点として出るだけだ。点と点との間には、まったく何も検出されなかった。運動しながら絶えず消滅と再出現を繰り返したんだ――まさにきみが持続的回転で現われるだろうと予想したものだ。運動量と磁場のベクトルを解析したが、飛跡の点と間隔の比率の測定からすると、ファイ・マイナスのモード3♂転に一致するようだ。Kスピン関数の偶数項は、すべてゼロになる。まさしくきみの理論が予測したとおりだ」
相手がただ者でないことを、クリフォードはすぐに悟った。彼は身を乗りだして、写真をよく調べたが、その間にも頭の中では、このことが何を意味するかを懸命に考えていた。自分の理論的研究から導かれた予測の一部に対する明白な実験的証拠が、眼の前にあるのだ。どうして、こんなことがおこったのか? 自分の研究が、結局は真面目に受けとられたのか――それを検証する実験が現実に実施されるほどに真面目に。もしそうなら、どうして自分に知らされなかったのか?
しばらくして、オーブが訊ねた。「いいかい?」
「いいよ」
オーブの顔が再びスクリーンに現われた。その眼からは、陽気な輝きが消えていた。
「あの写真は、六ヵ月前に、バークリーで撮ったものだ」
クリフォードは、びっくりして、信じられないように相手を見つめた。
「六ヵ月だって! というと、誰かがもう……」
オーブは吹きだしながら、両手を差しあげた。
「落ち着けよ、大丈夫だ。誰もきみの先を越してはいない。この写真は、別のことでちょっと実験をしている時に撮ったものだ。その時には、G−H線の意味が誰にもわからなかった。コンピューターがどこか具合が悪いんだろうと思っていたんだ。きみの論文を、ああ、二週間かそれとも三週間ほど前に読んで、初めて本当の意味がわかった」
クリフォードは、相変わらず途方にくれていた。
「いいか」と彼は苦情をいった。「きみが何者だか、いったいどうなっているんだか、まだ見当もつかないんだ。二週間だか三週間だか前に、何があったんだよ」
オーブはしきりにうなずいて、また片手をあげた。
「わかった、わかった。実は、話はもう少しその前に遡《さかのぼ》るんだ。ぼくは、バークリーで、専門化した物理学者の小さなチームを動かしている。われわれが扱うのはまったく風変わりな仕事で、当節ではこれ以上はできないほどに型破りな研究計画なんだ。ところが、一ヵ月ほど前に、今やっていることを中止して、何か新しい重要な極秘事項について調べてみるようにいわれたんだよ。
きみの書いた論文の写しだが、何も署名がなく、しかも他の人間がつけ加えた注釈やらメモやらがあるものを渡されて、内容のどれかが実験的に検証できるかどうかを知りたいといわれたんだ。それを読んで、何か点検する方法を考えだせるか、というわけだ。ぼくは読んだ」
「なるほど」
「そして……つまり、結果は見てのとおりだ。ぼくのチームの連中の一人が、六ヵ月ほど前にやったことを思いだして、関連に気がついた。保存してあった写真を探しだして、きみの方式に従って検討しなおした――わーお! 大当たりだった。きみの予測を実地に当たってみる必要さえなかった。もう見つかっていたんだ」
クリフォードは黙って聞いていたが、謎は深まるばかりだった。
「それは、すごい。だが、まだよくわからないんだ。どこから……」彼は振り向いて、ドアの所に現われたサラを、何事だというように見つめた。
「デザートは?」と彼女は小声でいった。
「ものは何だい?」
「フルーツ入りのアイスクリーム」
「よそっておいてくれ。もうすぐ終わる」
彼女はうなずき、ウインクして消えた。クリフォードは、スクリーンに向き直った。
「やあ、すまん、オーブ。さっきいいかけていたのは――どこから論文が来たのか、ということなんだが」
「それこそ、ぼくの知りたかったことだ。もちろん論文を書いた当人と話したかったんだが、誰だか聞こうとしても、誰もいおうとはしないんだ。そんなことは関係ないんだ、自分たちを通じて話してくれ、一切が最高機密なんだというばかりだった。ところが、さんざん質問しても――単純なことなんだが――彼らには答が出せないらしかった。そのとき初めて、何もかも臭いなと思ったのさ……ほら――まるで連中は論文を書いたやつと、まるっきり話していないみたいだったんだ」
クリフォードの表情は、いかなる注釈も不要だった。
オーブは続けた。「そこで、好奇心を持ちはじめたんだ。まるでバレルオルガンか何かのように、誰かがハンドルをまわすと曲を奏《かな》ではじめさせられるなんていうのは、我慢ならなかった。
だから、自分でこっそりとほじくりはじめた――手づる、風説、誰かを知ってる誰かを知ってる誰か――そういう類いのやつさ。ともかく、詳しいことは省くが、書類の出どこをたどってきみが仕事をしているACREまで行きついたんだ。あそこにエドワーズという男と、もう一人ジャリットというのがいるのを知っているね?」
「エドワーズは、あそこのナンバー・ツーだが」とクリフォードが確認した。「ジャリットは、彼のボスだ」
「うん、連中がこれに関係してるんだ。どうやら、月の裏側にいる有名なドイツ人から接触を受けたらしい……」
「ツィンメルマンか」
「そうそう、ツィンメルマンだ。彼がどうしてこれを知ることになったかまでは、探りだせなかったが……」
「それはいいんだ。そこまでは、ぼくが知っている」とクリフォード。彼は続けて、にやにやしながら、腹立ちまざれに明らかに不法な経路で(オーブは、この行為を、心から何のためらいもなしに是認する様子だったが)、ツィンメルマンの眼に留まるようにしたことを、手短に説明した。
「それからどうなったんだ?」とクリフォードは訊ねた。
「うん、きみの友人のツィンメルマンの一党は、宇宙背景放射に関係したことで、難問にぶつかっていたらしい」オーブは続いて、ジョリオ・キュリーの天文学者たちが、宇宙全体に拡がっていてどの方向にも完全に一定な背景放射スペクトルの測定に従事していることを説明した。宇宙の起源に関するビッグバン理論には、ビッグバンの初期段階が完全に放射の充満した状態であることが必要である。これに続く膨脹と冷却の中で、放射は物質から分離し、黒体放射のエネルギー分布スペクトルを示しながら、しだいに冷却する背景放射として存在する。このモデルに基づく計算によれば、ビッグバン以後に経過したと考えられる一二〇億年の間に、この背景放射の温度は、絶対温度一五度の近辺にまで下がったはずである。
事実、一九六〇年代以来の測定で、絶対温度三度という等方的な背景放射の存在することが確証された――測定に伴う誤差を考慮すれば、理論値に十分に近い値である。ビッグバン理論の予測と非常によく合うと思われていた。
しかし、地球の大気を通してかなり狭い電波の窓≠ェあるために、これら初期の測定の範囲は、当然ながら三ミリから七〇センチまでの波長帯に限られていた。この範囲に関するかぎり、観測されたエネルギー分布と理想黒体との一致は、十分だった。だが、後になって、まず人工衛星にのせた装置、次いで月に設置した装置から、新しい情報が加わるようになると、理論値との食いちがいはしだいに大きくなっていくことが明らかになった。範囲が拡がるほど、誤差は大きくなった。ビッグバン理論が入念に再吟味されたが、それでも結果は同じに出た――つまり、宇宙背景放射のエネルギー分布は、黒体放射と同じでなければならなかった。ところが、そうはならなかったのだ。それでは、観測された放射は、そもそもビッグバンなどから来たものではないのだろうか? もしそうでないとすれば、どこから来たのだろう?
「その時」とオーブが説明した。「きみの論文が現われたんだ。そこには、宇宙全体を通じて素粒子が自発的に創生・消滅すること、その事象ごとにK波のパルスを発生し、それが通常空間では放射エネルギーとして観測されることが述べられていた。粒子消滅は物質の存在する所に集中していて、局部的な重力現象を生みだす。では、宇宙全体に平均に拡散しておこる粒子創生のほうはどうか? これは、どんな種類の放射を生むのか?」
クリフォードは、オーブの説明に、うっとりと聞きいっていた。
「ここまで来て」と青年は続けた。「ツィンメルマンは興味を感じ、部下の数学者に命じて、きみの方程式から導かれる累積エネルギー分布曲線をコンピューターに計算させたのだ。結果は、古典的なビッグバン・モデルでは説明のつかなかった観測データと、ぴったり一致した。これでツィンメルマンは、小躍りして喜んだ。
「彼は、自分の発見とその意味を、ACREの首脳部に詳しく伝え、同時に理論の他の側面についても検証の試みをすべきだと、強く勧めたのだ。理論の大部分は、基礎的な素粒子現象に関することだったから、ACREはワシントンの要人まで報告し、彼らがそれからバークリーやその他いくつかの場所を引っぱりこんだ。おかげで、ぼくが関係することになり、しかも、さっき見せたように、きみの理論のもう一つの予測がすでに実証されていたことがわかったわけだ。
「それから、こういったことを探りだしているうちに、きみが誰であるかも探りだしたんだ」とオーブは締めくくった。「きみはこの研究計画に加わっていないようだし、そのことを考えれば考えるほど、だんだん腹が立ってきた。誰かがきみに知らせるべきだと思った。そこで連絡をしたわけだ」彼は肩をすくめた。「ひょっとすると、ぶっとばされるかもしれんが、かまうもんか」
無頓着な態度にもかかわらず、オーブの異様な風体の背後には電光石火のように働く頭脳が控えていることが、クリフォードにはしだいにわかってきた。オーブが僅かな事務的説明で片づけた探偵仕事にしてからが、FBIの全員が称賛を惜しまないことだろう。あの数式に埋まった論文の中に秘められた意味を即座に洞察することはおろか、完全に理解できる科学者さえ、この国に何人いることだろうか。六ヵ月ほど前にやったことを思いだして、関連に気がついた℃メがいったい誰であるか、クリフォードは十分に見当がつくように思えたのである。
彼は深く坐り直すと、この情報をしばらく考えてみた。オーブは、いうべきことをいってしまったので、黙って見つめていた。
「確かに臭いな、オーブ」やがて、クリフォードは同意した。「裏で何がおこっているのか、まるで見当がつかんが、ほんとによく連絡してくれた。バークリーのほうは、どうだね? あれだけかい?」
「まあ、そんなところだ。いま、持続的なK回転の例をもっと見つけようと思って、特別な実験を少し準備している。絶えず知らせるようにしようか」
「そうしてくれ。連絡を絶たないようにしよう。ACREのほうで何がわかるか、やってみる」
「われわれが直《じか》に話をしていることは、あまりいわないほうがよかろう。いいね?」
「了解」
「それにしても、やっと話ができて嬉しい。ところで、みんなはきみを何て呼んでいる?」
「ブラッド」
「ブラッドか。よし、ブラッド、また連絡する。さよなら」
「ほんとうに、ありがとう、オーブ」
映像は消えた。クリフォードは、そのまま長いことそれを見つめていたが、やがて調理場からの声が彼を現実に引き戻した。
「デザートの代わりに、フルーツと白いスープはどう?」
「うーん。なぜだ」
「そうなっちゃったのよ」
「感心しないな。グレービーをかけてなら食べる」
「わたしの調理場ではだめよ。フィリップス博士って誰?」
「話せば長いことになる……何か妙なことが始まっているんだ。少しコーヒーを入れてくれたら、話して聞かせる」彼は、放心したようにつけ加えた。「綴りにはZがあるんだ」
「何ですって?」
「フィリップス。P、H、I、L、I、P、S、Z」
彼女は、戻ってきて膜をおろす彼を、不思議そうに見た。
「変わっているのね。どうして終わりにZが来るのかしら」
クリフォードは、この質問をじっと考えた。「もし最初についていたら、誰も発音できないだろう」と、やがて彼はいったのである。
オーブの連絡があってからの数日間、目下の事態を率直に認めさせようとするクリフォードの試みは、ことごとく失敗した。オーブに跳ねかえる危険があることを考えれば、どんな形にせよ公然たる対決は問題外だったから、用心深い質問や慎重な調査以上に出ることのできなかった彼は、沈黙の申し合わせと思えるものに出くわしただけだった。誰も反応を見せなかった。彼のいうことは、誰にも通じなかった。この件について、自分から少しでも情報を提供しようとする者は、一人もいなかった。一度か二度だけ、相手が困惑を隠そうとしたり、異常なあわただしさで話題を変えるのを感じたことがあった。
その時、事態は奇妙にも思いがけない展開を見せたのである。エドワーズの秘書からクリフォードに通話があり、彼とマッシーに、翌日、高級職員食堂で昼食をつきあってほしいというのだった。エドワーズは儀式を厳格に重んずる形式主義者だから、ACREの政治的階層で下級にいる著と交際することは、彼の性格にそぐわなかった。マッシーとは、確かに定期的に食事をしていたが、それは予想されることだった。この二人は、日常の業務の関係から絶えず対話している必要があるのだが、二人とも忙しかったのである。クリフォードのような地位の人間に食事を相伴させる機会などは稀で、めったにあることではなく、そんな時には必ず特別な理由があった――たいていはエドワーズが、何かむずかしい問題を売りこまねばならない時だった。
長い体験から、信頼性は階級の上がるのに反比例すると見なす傾向のあるクリフォードは、うさん臭いものを感じていた。しかし、伝言は招待にふさわしい表現にはなっていたものの、その奥には、無言のうちに出席せよ≠ニいう態度がありありと見えていた。
エドワーズは、話をする間もクリフォードをまともに見ず、手にしたワイングラスに眼を据えて、それをぼんやりと動かし、中の液体をぐるぐる回転させていた。
「きみと相談したかった問題の一つはだね、クリフォード博士、少し前に議論したきみの……その……専門的論文の件なんだが……K空間の回転といったことを論じたものだ」
「その話は、一日か二日前に、ウォルターにしました」とクリフォードは答え、それから辛辣《しんらつ》な口調でつけ加えた。「彼は、あの問題は落着して、再考の余地はないといいました」クリフォードは、オーブに聞いたことから見て、態度の急変がほのめかされているのだとは十分に推察できたものの、この段階で変化がどんな形を取るかは、さっぱり見当がつかなかった。この発言は、彼の状況把握――少なくとも公式の¥況把握に基づいて、これからの会話を自分のペースにひきこもうと企てたものだった。
「うん、知っている」彼は、手にしたグラスをしばらくじっと見つめていた。「だが、その時には、ウォルターは、わたしがワシントンと交していた最近の協議を、十分に知らされていなかったのだ」
「それまでに申し渡されていた方針を伝えただけなんだよ」マッシーは、誘導に忠実に従って、口をはさんだ。「でも、ああはいったが、教授はどうやら裏できみのために手をつくしてくれていたらしいぜ」
クリフォードは、このおべっかを黙殺して、言葉少なに訊ねた。「それで?」
率直なところを見せる必要を感じているらしかった。エドワーズは、掌《てのひら》をテーブルについて、クリフォードを見た。「きみの請求に対するわれわれの態度が少々、何というか、否定的だったことは認める……否定的でありすぎた。その後で考え直して、局にいる一人二人の知人に話してみた……いいかね、内々にだよ」彼は言葉を切って、然るべき反応を待ったが、クリフォードは飲物を少しずつ飲んでいるだけで、何もいわなかった。「向こうでの見解は、きみがいったように、この研究テーマには学術的興味があり、したがってさらに追究すべきだが、直接の軍事的あるいは機密的な内容は含まれていないというものだった。つまり、彼らは、発表することに好意的なのだ……きみの希望のとおり、他の研究機関の関心を惹くためにだ」彼は椅子に深く坐り直して、返事を期待するようにクリフォードを見た。
クリフォードはグラスをゆっくりとテーブルに置き、すぐには答えなかった。オーブがすでに話してくれたことから見て、この問題がワシントンで、一人二人の知人との内々の話どころではなしに議論されたことは、間違いなかった。この研究テーマは、明らかに上層部で大きな波紋をひきおこしたのに、エドワーズは、そうはいっていない。なぜか? 世界的危機が急速に近づいている時期だというのに、大きな科学施設がいくつも着極的に関与しつつあった。軍が関心を、それも非常な関心を示しているのでなければ、そんな状況になるはずはなかった。ところがエドワーズは、こうした事実を認めようとせず、逆に、前の判定を破棄して事を進めようとする口実に、学術的な意味というのを押しだしている。なぜか?
メーンコースの皿を片づけに、ウエートレスがテーブルにやって来た。片づけ終わって向こうへ行くまで、彼らは黙って坐っていた。
「それじゃ、いいんですね」とクリフォード。「もう請求には署名しました。その先をやってくださればいいわけだ」
「それが、そう簡単ではないのだよ」とエドワーズが答えた。クリフォードは、ため息をついた。
何であれ、簡単だったためしはないのだ。「きみの意見の中には、控え目にいってもかなり刺激的なところがあるし、一部には、きみも認めると思うが、まだいささか推論的なところがある。きみにやってほしいのは、もう少し時間を使って、そういう部分に磨きをかけ、もっと具体的な証拠を提出することだ。それに、数学的な部分で、もっと明快に述べるべきだと思う点もいくつかある。そこが改善できれば、論文の発表には何の支障もないと思うよ」
「同じ理由でつっ返されたひには、ワシントンの顔も立たないだろうぜ」とマッシーが補った。「まずこっちで絶対に間違いないようにしておければ、そのほうがずっといいさ」
「それに、これを続けるために必要なACREの設備は何でも自由に使う権限を与えようと思っている」とエドワーズがつけ加えた。「また、きみのやっている研究計画は、誰かに代わらせてもいい……きみに時間が自由に使えるようにな。いいな、ウォルト?」
この最後の質問は、マッシーに向けられたものだった。マッシーは、力をこめてうなずき、体をのりだして、テーブルの端に肘をついた。「いいですよ。ビル・サマーズの仕事がはかどってきているので、もっと仕事をまわさなければならないんです。ちょうどいいところでした」
エドワーズは明らかにやりすぎをしている、とクリフォードは思った。科学的ではあるが、学術的な興味でしかないという点を強調するのはいい。これまで重要と考えてきたことを俄《にわか》に低く評価するのは、それとは別の問題だった。
「コリガンは何といいますかね」クリフォードは、わざと何気ない口調をよそおいながらいった。
「彼のことは心配しなくてもいい」エドワーズは安心させるようにいった。「彼が妨害も干渉もしないことは保証するよ」
エドワーズは彼のかけた鎌にひっかかったのだ。この問題がすでにACRE内部でも、もちろんその上部でも、最高レベルでの協議と合意を経ていることを、はしなくも告白したのである――単なる学術的興味しかない問題に対する態度とはとてもいえないことが、誰にだってわかる。
だから、こうした仕組みは、クリフォードに研究を続行させ、彼のアイデアをなおも吐きださせるための企みだった。だが同時に、こうしたアイデアにすでに重大な関心が払われていることについては、何も知らされないのである。行動は開始されているにもかかわらず、彼は除《の》け者だった。
「いい話じゃないか、ブラッド」とマッシーがいった。「さっそく跳びついていいところだと思うがね」
マッシーは、こうした不真面目さを見抜けないでいるか、それとも方針の線を極めてみごとに演じているか、どちらかだった。クリフォードは、エドワーズに本当のことを告白する最後のチャンスを与えることにした。彼は教授の眼をじっと見つめて、静かな探るような口調でいった。
「何から何まで結構なお話です。しかし、理論というのは、これを支持する何らかの証拠がなくては、たいして役に立たないものです。もしワシントンが先を続けることにそれほど興味を持っており、あなたも自分でおっしゃったほどに興味を感じているとすれば、予測の一部について何らかの検証をしてみることを、まずやってみてはどうでしょう。何もそれほど複雑で時間のかかるものでなくていいのです。適当な実験をする設備を持っている場所は、どこにでもあります。簡単な事柄の一部でも今すぐに証明されれば――あるいは否定されることもありえますが――長い目で見て、たいへんな時間の無駄が省けると思いますが」
こうした提案をしながら、クリフォードは、二人の相手の反応をじっと観察した。一瞬、エドワーズの眼に微かな後ろめたさが掠《かす》めたが、彼はすぐにそれを隠した。一方、マッシーは、教授のほうを振り向いて、肩をすくめた。「いい考えに思えますがね」
この一瞬、クリフォードは、二つのことを知った。第一に、マッシーは陰謀に加わっていない。彼の発言は本心であり、いずれにせよ、もしそういう実験がすでに行なわれていることを知っているのなら、クリフォードの主張をこうして支持することは、彼の立場と矛盾していた。みすみすエドワーズを窮地に陥れることは、しないだろう。第二にエドワーズが実験のことをいわないのは、明らかに偶然ではない。そのことを訂正すべき明白なきっかけが、たったいま与えられたのである。自分は、排除されようとしているのだ。
そしてエドワーズは、クリフォードには十分すぎるほどの確証を提供したのである。「うむ……きみのいうことにも一理ある。理論上の論点が完璧なものになったら、その方向での手筈をつけることを約束しよう。だが、さしあたっては、少なくともワシントンが公式に関係し、発言の機会を持つまでは、そうした処置は……その……少々時機尚早だと思うのだよ」
マッシーは、エドワーズからクリフォードに視線を移し、まるでエドワーズがハンドルでも操作したかのごとく確実に、お定まりの回れ右をやった。
「ほら、ちょっと早すぎるんだよ、ブラッド。おそらく、先にいってワシントンが動きだしてからならな。どうだね?」
最後には、クリフォードも同意した。オーブを巻き添えにすることなしには、何をいおうと方針を変えることはできなかったし、少なくともエドワーズは、やりたいと思っていることのために必要な設備を無制限に使う許可を与えたのである。しかも、やりたくない研究をやらなくてすむのだ。マッシーがいうように、それほど悪くない話だった。どうせ政治にはたいして興味はないのだ――ただ好奇心があるだけだった。官僚主義の不愉快なしがらみが締めつけはじめるのを感じ、これに関わりたくないと思うだけだ……ある限度までは。何といっても、誰にも自尊心はあるのだから。
しばらくは、妨害もなく、自由に研究が続けられた。だが、ACREにあるような設備を使い、他の世俗的な用務に気を散らされることなく、一切の時間を自分の研究に没頭できる生活を夢みていたことは事実だったが、こうしてそれが実現してみると、それは満足にはほど遠いものだった。自分は他の人間たちの野心達成のために利用されているのであり、それが腹立たしかった。
自分の頭脳には利用価値があっても、自分自身はチームに適合しない、というわけだった。
ある朝、クリフォードが自分の部屋の窓際に立って外の景色を眺めながら、頭の中で今日の行動予定のおさらいをしていると、空に急に影が射して、彼は思わず上を見あげた。アメリカ空軍のマークをつけた中型のエアカーが、速度を落として高級職員駐車場の上空に停止し、着陸しようとしているところだった。彼は、乗物が下降を終え、黒っぽい服を着た五、六人の人影が現われ、待機していたリムジンに入り、建物の角を曲がってACRE本部の建物の正面玄関のほうに急いで消えていくのを眺めていた。いま着陸するのを見たエアカーの傍に、すでに何台かが駐車していることにも気づいた。一時間ほど後で、図書館に頼んでおいた何冊かの本を受取りに本部の建物の中を通ると、武装した二人のMPが大会議室のドアの外に立っているのが見えた。
「何をやってるんだ」彼は、後でカフェテリアの一つで食事しながら、年上の数理物理学者の一人ポール・ニューアムに訊ねた。
「ああ、またいつもの秘密会議だろうよ」とニューアム。
「いつもの?」
「ワシントンのお偉方さ。今週いっぱい、盛んに往き来しているんだ。何か大きなことがあるにちがいない。噂ではジャリットが全部に出席しているそうだ。知らなかったのか?」
クリフォードは、手にしたフォークを宙にとめたまま、不愉快そうに眉をひそめた。
「いや、知らなかった」と、彼はゆっくりいった。「で、何をしているんだ」
「まるっきりわからん。ビル・サマーズが探りを入れてみたんだが、如才ない態度で、余計なことを穿鑿《せんさく》するなといわれたそうだ。何をやってるかは知らないが、われわれごときに関係はないようだぜ、ブラッド」ニューアムはコーヒーを飲みはじめたが、何かを思いだしたように、急に顔をあげた。「ただ、エドワーズの秘書がせんだって誰かと飲んでいたときにいったことがある。はて、何といったかな……? 何でもK……K……K何とかいうんだ。その時にはピンとこなかったが」
その二日後、サラは、リザ・クランシーとインフォネットで話をしたといった。彼女は、クリフォードがCITにいた頃の講師の妻で、家族ぐるみの古い友人だった。リザは、夫のバーナードが何かの科学の会議に出席するために、ニューメキシコに出かける予定だといっていた。具体的にどこへ行くのか、また会議の目的が何かについては、あまりちゃんと教えてはくれないのだが、彼女の勘では会合の場所はACREじゃないかというのだった。旧交を暖めたいという熱意と、うまくいけば初めて内情がいくらか聞けるかもしれないという期待とで、クリフォードはその晩さっそくバーナードに連絡した。
「それが……ちょっといいにくいんだよ、ブラッド……」スクリーンに見えるバーナードの顔は、明らかに不安にゆがんでいた。「すごい極秘事項なんだ……わかるだろう? 誤解しないでくれ。きみに再会したいのは、やまやまなんだが……」彼は肩をすくめて、空っぽの掌《てのひら》を見せた。「どんなものか知っているだろう」
「いや、きみの用事を穿鑿《せんさく》しようとは思わない」とクリフォード。「この辺に来るのかどうか、もし来るなら、会って一杯やれるかどうかを知りたかっただけだ」
「ああ、わかってる」バーナードは、困りはてると同時に、どうすることもできない様子だった。
「気持はまことに嬉しいが、実をいうと……だめなんだ。またいつか、そっちへ個人的に旅行した時には、きっと、だが……これは用事で、予定はぎっしり詰まっているんだ」バーナードは急に表情をひきしめて、真剣な顔つきになった。「そっちでハリー・コットリルに会ったら、よろしくいってくれ」それから彼は緊張を緩めた。「さて、もう行かなくちゃ。久しぶりで話ができて嬉しかったよ。いい仕事をしているかね。カリフォルニアに帰ってくることがあったら、寄ってくれ。サラによろしく」
「また会おう」と、クリフォードは状況を甘受して、いらだたしげにターミナルのスイッチを切った。彼は、映像の消えたスクリーンを、しばらくむっつりと見つめていた。
「ハリー・コットリルって誰?」サラが部屋の向こう隅から訊ねた。「そういう名前の人がいたかしら?」
「うん?」クリフォードは振り返り、彼女のほうに向いて坐り直した。「そこが奇妙なんだ。それを考えていたところなんだが……きみは知らないけれども、ぼくは知っている。CITにいた頃につきあっていたやつだ」
「CITですって?」サラは怪訝《けげん》な顔をした。「その人と、どうしてこの辺で会うことになるの? ここに引越したかどうかしたわけ?」
「ぼくの知るかぎりでは、そんなことはない。最後に彼と会ったのはCITだ」
「そんなばかな」サラも、クリフォードと同じく、わけのわからない顔つきになった。「バーナードは、何だってそんなばかなことをいったのかしら?」
「わからん」クリフォードは、ゆっくり考えこみながらいった。「でも、彼は何かを知らせようとしていたのだと思う。このことをいった時、かなり真剣な顔になっていた――わかるだろう――何か強調しようとするように」
「このハリー・コットリルというのは、どういう人なの?」しばらく黙っていたサラが質問した。
「やっぱり物理学者か何か?」
「いや、全然ちがう……彼は生物学者で……シロアリに熱中していた。そういう意味では昆虫学者だった……いつもシロアリのことばかり話していて……」
「虫《バグ》。おおいやだ。気持悪い」
「盗聴器《バグ》だ!」クリフォードは、不意に顔をあげた。「それ[#「それ」に傍点]だよ。バーナードは通話回線が盗聴されているんじゃないかと怖れていたんだ。だから、何もいわなかった」彼は立ちあがり、回転椅子を急になぐりつけて、グルグル回転させた。「畜生め! やつらは、この世界をどうしようっていうんだ」
バーナード・クランシーは、ほんとうにACREにやってきた。クリフォードが会議室の外の廊下を歩いていると、ドアが開いて一団の訪問者たちが案内されて通っていった。その何人かは、高名な数学者や物理学者として見覚えがあった。クランシーは一瞬だけクリフォードと眼を合わせて、ちょっとすまなそうな笑顔で肩をすくめたが、すぐに彼も他の者たちも、コリガンや一群の手先たちに、急いで連れ去られた。彼らは数分以内にACREを立ち去っていった。
「あら、あそこにいるのは間違いなくウォルター・マッシーと奥さんよ、ブラッド」サラの声は、腹ばいになった彼の体を包む熱気と同じ方角から降ってきた。彼は意味不明のことを何か呟き、頭を何センチかあげて、プールを囲む傾斜したタイルの床の手近な部分を見渡した。どこもかしこも、日焼けした腕、脚、体、日除けやいくつかのテーブルで埋まっていた。プールは混雑して騒々しかった。
「むむ……どこだ」しばらくして彼は訊ねた。
「あそこ……」彼女は指差した。「プールからこっちへ歩いてくるところよ。彼女は青いビキニをつけているわ」
「ああ……そうらしいな」彼は頭をタオルに落として、また眼を閉じ、そのことはもう忘れたという様子だった。
「ここに呼びましょうか?」とサラが訊ねるのが聞こえたが、続いて、返事もしないうちに、「こっちよ! シーラ……ウォルター……いらっしゃいな……」彼女は夫のほうに振り向いた。
「こっちを見たわ。ここに来るわよ」
クリフォードは、冷たい液体の雫《しずく》が皮膚に降りかかるのを感じて、身をすくめた。眼を開けると、シーラ・マッシーのビキニの下半部(もちろん飛沫を浴びていた)が、日焼けしたすばらしい腿のてっぺんから彼を見下ろしていた。数秒後、シーラ自身がそこに立ち、水泳帽を取って、真っ黒な髪が滝のように肩にかかるのが眼に入った。ウォルターは、そのすぐ後ろにいた。
「こんにちは」とサラは挨拶し、持物の一部をまとめて場所を空けた。「ここに来て、いっしょにお坐りなさいな」シーラは坐りこみ、サラが差しだした手からタオルを受けとって、体を拭きはじめた。
「ありがとう」と彼女はいった。「こんにちは、みなさん。日光浴を楽しんでいるの?」彼女は上を見あげた。「お坐りなさいよ、ウォルト」
ウォルター・マッシーは、行こうとしていた方角を見ていた。「ちょっと行ってタバコを取ってくる。すぐ戻るから」そういうと、彼はクリフォードの視野から消えた。
女たちが上でお喋りを始めるにつれて、クリフォードは、一方にはシーラのしなやかな動き、一方にはサラの曲線美の体を強く意識し、ことによるとやはりアラビア人が正しかったんじゃないかと、急に思いはじめたのだった。とにかく、ラクダやテントのどこが悪い? 文明が誰に必要なんだ? たぶん、一夫多妻を義務制にすべきかもしれない――そうすれば、みんなが爆弾製造を忘れるかもしれない。おもしろい考えだ。サラが話しかけているのに気がついて、空想は終わった。
「知っていた、ブラッド?」
「うう……。何だい」
「いまシーラがいったこと――ACREでの騒ぎよ」
「騒ぎ?」
「ウォルトは、近い将来に大きな変化がおこるだろうといってるわ」とシーラが説明した。「そこらじゆうの研究グループといっしょになった、何か新しい大計画よ……月面基地とか……カリフォルニアのどこかの人たちとか。そういったことよ」
「おお……」クリフォードは、つまらなそうな口調でいった。「うん――ちょっと聞いたことがある」
「わたしには何もいわなかったわ」とサラ。
「ただの噂さ」と彼は、ぼんやり呟いた。「あまり気にも留めなかったんでね」
「ウォルトは、ただの噂だと思っていないの」とシーラがつけ加えた。「彼は、ACREの最高幹部たちの何人かが、この仕事のための面接を受けているんじゃないかといっているわ……研究の最高幹部たちよ」
「彼もか」クリフォードは、実際より無関心なように見せようとしたが、そういいながらも半ば起きあがらずにはいられなかった。
「そんなことはないと思う……少なくとも、そうだとしても、彼は話してくれなかったわ。計画はすごく秘密にされているの――防諜とかそういったことで。それでも、彼の見るところでは、ACREの上から下まで大規模な編成替えがあるらしいのよ。誰にでも、いろんな形での昇進の可能性があるわ……彼の興味はそこにあるの。変化は利用できるわ」
「いや、誰からもそんなことは聞いていないぞ」とクリフォードは断言し、ひっくり返って空を迎いだ。「誰かに話を聞いたら、そういうよ。それまでは、ただの噂さ」
だが、彼の眼には怒りが燃えていた。今はハレムのことなど考えている時でも場所でもないと、彼は急に悟ったのだった。
「ファイ・プラスのモード3♂転だ。今度も、Kスピン関数の偶数項は、すべてゼロになる。どうだね?」オーブは、奥の部屋のスクリーンからこちらを見つめて、返事を待っていた。
「何の話?」サラが、クリフォードの横に引き寄せた椅子から囁いた。
「バークリーで、別の実験をやっているんだ」と彼が囁き返した。「どうやら、また理論の予測の一つが、そのとおりに出たらしい。すばらしい知らせだ」彼はスクリーンのほうに向いた。
「それはすごいな、オーブ。それじゃ、持続的回転は実在するんだな? モード分布振動数はどうだ?」
「うん、まだテストの数が多くないんで、統計的データには乏しいんだが、今までに得た数字からすると、うまく合いそうだね。絶えず知らせるようにするよ。明日また実験をやる予定なんだ」
「それじゃ、明日また連絡しよう。いいね?」
「いいとも。じゃあな」
「あばよ、オーブ」
クリフォードは、サラの肩に腕をまわして、ターミナルのスイッチを切りながら、何かに駆りたてられたように抱きすくめた。「何もかもうまくいっているぞ」と彼は笑いながらいった。「まだ有名になる望みはあるんだ」彼女は片手をあげて、彼の指を励ますように握りしめた。その口もとは微笑んでいたが、眼はそむけたままだった。クリフォードは、興奮のあまり、シーラ・マッシーとの会話をふと忘れてしまっていたが、サラは忘れていなかったのである。
翌日の晩、オーブがまた連絡してきた。
「おい、吉報だぞ!」彼は、いかにも嬉しそうに知らせた。「きょうまた何回かプラスのテストをやったが、モード分布は予測のとおりだ。データはまだ少ないが、大丈夫そうだ。こちらでは、理論がかなりの程度に確証されたという意見に固まってきている」彼は表情を変えて、眉をひそめた。「ACREも、もうこのことはきみに話しているんだろう?」
クリフォードは、くびを振った。
「だって、いったい……連中は知っているはずだぞ」とオーブ。「われわれはずっとデータを送っているんだ……例のエドワーズという男が最新情報を握っていることは、間違いない。いったい全体、こともあろうに何できみがつんぼさじきに置かれているんだ」
「ぼくに聞かれても困るな、オーブ」と、クリフォードは、うんざりしたように答えた。「たぶん、彼らの体制をどう思っているかを、あまりしょっちゅういってやったせいだろう。だが、連中がどうやろうと、ぼくをお行儀よくさせておくわけにはいかんぞ」
「じゃ、何をくよくよしているんだ。きみは手を切りたがっていた。そして手が切れた。結構なことに思えるがね」
「ただ少しは貢献できるんじゃないかと思っているだけさ」クリフォードは、緻かな皮肉をこめた口調で答えた。「それに、連中がどうやら何もかも捩《ね》じ曲げるんじゃないかと思って、信用できないんだ。連中の頭がどういう働き方をするか……いや、しないか……知ってるだろう。やつらは間違いなく、やってのけるだろうな」
翌日、今度は沈んだ様子で、オーブが連絡してきた。「こっちでは、ありとあらゆる噂が乱れとんでいる――何か新しい極秘研究をする候補者として、人が選抜されているという話だ。今朝、ぼくのボスが、移動の準備をしたほうがいいとほのめかしたが、探りを入れようとすると口をつぐんでしまった」
「ACREでも、似たようなことがおこってる」とクリフォード。「何事だと思う?」
オーブは、苦い顔をした。「何の手がかりもない……一切が政治的で、誰もが機密で神経過敏になっている。それでも、かなり上のほうから計画されたことは間違いない――たぶんワシントンだろう」彼は眉をひそめて、くびを一方にかしげた。「ACREの状況はどうだ? やっぱり配置転換の気配があるかね?」
「そんな様子だな」とクリフォード。「他の所でもそうだと聞いたよ」
「きみは入っているのか?」
「どう思うね?」
オーブは、あきれてものもいえないといった様子で、くびを振った。「ばかばかしい。あの気違いどもは、エンジンなしの車ばかりで、何をしでかそうというんだろう。連中がやっているときみが思っていることと、ぼくが思っていることは、同じかな」
「いわないでくれ、オーブ」とクリフォードは、ため息をつきながらいった。「今は聞きたくないんだ」
回線を切って何分かしてから、クリフォードは、部屋の向こうから見守っているサラのほうに向いた。
「ぼくには頭が二つあるとでもいうのかね」
「わたしには見えないわ」と彼女は答えたが、すぐ真剣な衷情になった。「おお、ブラッド、人間はどうしてこんなに愚劣になれるのかしら」
彼はちょっと考えてから、唸るようにいった。「たぶん、連中は、みんなが同じ方向に行くかぎり、車がどっちへ進もうと、かまわないんだろう」
この時期に深く知りあうようになったオーブは、第一印象として感じたよりもいっそうすばらしかった。彼もクリフォードと同様に、人類の科学知識の蓄積を増加させようとする、やむにやまれぬ衝動で頭がいっぱいであり、そのことに取りつかれているといってもよかった。彼には政治的信条はなかったし、イデオロギー的な観念もほとんどなく、もちろんちゃんとした既成の体系の一部と認定されるようなものはまったく持ちあわせていなかった。知識を利用して普遍的な富と安定を生みだすことこそが、世界の問題の唯一の恒久的解決だという原理を自明のものと承認し、議論の必要もないと考えていた。しかし、彼を駆り立てるものは、人類に対する道義的責任を免れたいという気持ではなく、ひとえに飽くことのない好奇心と、自分の並はずれた創造性を発揮したいという欲求とだった。自分の信条を、聞く気のない者に押しつけることなど、まったく関心がなかった。どうせ最後には彼らもそう考えるようになるのだし、それまで自分が何をしようとしまいと、たいした違いはないのである。
クリフォードと違ってオーブは、純粋科学の利益が政治に従属させられている状況にそれほど動揺はせず、この事態は一時的なものであり、宇宙の長い歴史の中で何事をも変えはしないと考えていた。他人が作りあげた歪んだ世界への彼の対応は、自分が必要とするものをそこから引きだして利用しながらも、その他のことには無関心を守り、大体において影響されることはない、というものだった。人生は、他人の愚行とは無関係に生き抜くものであって、彼らの許可は要しないのである。個人主義者であり、日和見主義者であり、永遠の楽天主義者であるオーブは、自分が選んだ道を確固としてたどり、時勢の方向がたまたま自分のと一致する時にはこれに便乗し、お互いの進路が分かれる場合には、同じくらい気楽に袂《たもと》を分かつのだった。さしあたり、バークリーでの生活は、自分の才能を発展させ磨きあげるのに多大の機会を与えてくれるという点で、好都合だった。明日のことは、誰にもわかりはしないのだ。
ある日、クリフォードが家の二階にある書斎で仕事をしていた時、すべては頂点に達した。彼は二階の端末装置のスクリーンを見つめ、ACREのコンピューターから引きだした一群のテンソル方程式の意味を読みこなしていたが、その時チャイムが鳴って、表示の上に通報が重なり、通話の呼び出しが入っていることを知らせた。彼は悪態をつき、プログラムを一時保留にして、受理のキーに触れた。相手はオーブだったが、今までに見たことがないほどに、怒って取り乱していた。
「今まで、ぼくのボスや、そのまたボスと話していたところだ」オーブは、前置き抜きで報告した。声は怒りに震えていた。「それで、やっと、どうなっているのかわかったんだ」
「おい落ち着けよ、兄弟」とクリフォード。「ボスたちと、どうしたって? わかったといったが、何がおこっているんだ?」
オーブは、やっとのことで気拝を落ち着けたようだった。荒い息づかいが、音声回線を通じて、はっきり聞こえた。やがて、彼は説明した。「ワシントンの傀儡《かいらい》が、ここにもやってきたんだ。ぼくに、別のポストにつけというのさ」
クリフォードは、即座に関連を感知した。彼は眉をひそめて、疑惑に満ちた表情になった。
「どんなポストだ?」
「詳しいことは、はっきりいわなかったが、われわれがきみの理論を証明するために設定した実験を先に進めようと、それも盛大に進めようとしていることは明らかだ。ぼくにチームを作って、その責任者になれと……この仕事を公式に、そして徹底的に指導するように、というんだ」彼は唇を舐《な》めてから訊ねた。「このことは、聞かされているのか……公式に?」
「とんでもない」
「そうだと思った。何もかも、思っていたとおりだ」オーブは、クリフォードがいま聞いたことを考えている間、苦い顔を続けていた
「それは、どこでやることになっているんだ」と、やがてクリフォードが訊ねた。
オーブは肩をすくめて、ため息をついた。「それも、いわないんだ。でも、察するところ、これには大勢の人間が参加するらしい……ありとあらゆる施設からだ。ぼくのような実験素粒子物理の連中ばかりでなくて、一切合財だ――数学の連中、物理の連中、宇宙論の連中……何でもだ。
派手にやらかすつもりだぜ」
「わかった……」クリフォードは、ゆっくりと呟いた。
「でも、わかっているのか、ブラッド……ほんとうに」オーブのひげは、怒りに震えた。「やつらは、こっそりと科学者の強力な大チームを組織して、きみの研究を分析し、徹底的に調べつくそうとしているんだ。だが、きみをその中に加えるどころか、そうやっていることを知らせようともしない。正真正銘の不法行為だ。この次には、誰か手先を使って、そいつが一切のアイデアを出したんだといって、でかでかと宣伝するぜ。きみはやつらの手に乗ろうとはしないから、それで押しのけられたんだ」
クリフォードの当初の平静さはしだいに激しく深い怒りに変わってゆき、それはゆっくりと背筋を伝って全身に拡がっていった。長いこと心の底で感じとっていた状況が、今や白日のもとにさらされたのだった。必死に自制心を働かせながらも、彼は歯をくいしぼって訊ねた。「で、どうする――その仕事をするのか」
オーブは、断固としてくびを振った。「仮に事情を知らなかったとしたら、たぶんやっていただろう――ひどくおもしろそうに聞こえただろうからな――だが、こういう事情だから、きみにもう一度、実情を確かめたかったんだ。やつらは、一切が政治的機密だとか何とかくだらないことをいって、このことはー言も洩らすなといっていたが、糞でもくらえだ。確かめてみて、ほんとうによかった。目下の心境は、まっすぐにやつらの所へ行って、おととい来いといってやりたい気分だ」
十分後に階下の居間へ下りてきて、サラに会話の内容を説明しながらも、クリフォードはまだぶりぶりしていた。
「我慢にも限度がある」と、彼は部屋を行ったり来たりしながら、いきまいた。「今度という今度は、堪忍袋の緒が切れた。明日は真っ先にエドワーズの所へ行って――ジャリットがいれば彼もだが――あの二人に、彼らの仕組みや、結構な企みや、彼らの……ペテンについて、知っていることをぶちまけてやるんだ! やりたけりや、ぼくを放りだすがいい。それでも、やつらの顔を見るだけでも、その甲斐はあるというもんだ……あわてふためくのを見るだけでも」
サラは冷静に天井を見つめながら、彼の足音が止まるまで、椅子の肘掛けを指先で軽く叩いていた。彼がまた自分のほうを見ているのを感ずると、彼女は顔を下げて彼の眼をまともに見、くびをゆっくりと左右に振りながら、絶望とおかしさの入り混じった微笑を浮かべた。
「ねえ、ブラッド、そんなことができないのは、わかっているでしょう。その前に心臓か血管でも破裂させなかったとしての話だけど。とにかく、現実的じゃないわ」
「え? なぜだ」
「だって……」
「だってがどうした」
彼女は、辛抱強いため息を洩らした。「だって、オーブのことを考えるからよ。いい逃れをさせないためには、その情報をどこから聞いたかいわなけりやならないでしょうし、そうすればオーブを巻き添えにすることになるわ。そうしないとすれば、大騒ぎしたあげくに、非難を裏づけるものが何もないことを認めなければならなくなって、それでは、ばかみたいに見えるたけよ。どちらにしても、現実的でないわ」サラはまた、そういう行為によって一時的にはクリフォードの腹の虫が多少おさまることにはなっても、結局は何事も解決しないことを知っていたが、それは口に出さなかった。仮にそうした対決の結果として、遅まきながらこの研究計画の中に正当な地位を与えられることになったとしても、彼は決してそれを受けないだろう――今となっては。
その代価は、彼の自尊心や節操が許さないようなものになることだろう。
「うん……」クリフォードは、しばらくして、口ごもりながらいった。「うん、きみのいうとおりかもしれない」彼は部屋の向こうに歩いていき、窓のところに立って、これからどうするかを決めかねて、長いこと外を見つめていた。サラは何もいわずに、坐ったまま自分の靴の先端を見つめていた。
彼が何をするかは、手にとるようにわかっていたのである。
「そんなことはできん」コリガンは、断固として宣言した。「契約にそう書いてある」
「この期《ご》におよんで、あんなものは紙切れにすぎん」とクリフォードはいい返した。「さっきもいったとおりだ――さっきも」
ジャリットの部屋には、長いテーブルがデスクに直角だ置かれていた――即席の会議や小規模の会合のためだった。ジャリットはデスクに体をのりだして、拳を握りしめたまま前のデスクの上に置いていた。エドワーズとコリガンは、テーブルの一方に並んで坐り、クリフォードは彼らに向かいあって坐っていた。四人とも苦虫を噛みつぶしたような表情だった。
「正式な願いが出ていないから、したがって承認もできん」とエドワーズ。「この問題は、正規の手続きに基づいて検討しなくてはならん」
「正規の手続きなんぞ糞くらえだ」とクリフォード。「辞職したぞ」
「この問題の重大さを十分に理解しているとは思えんな、クリフォード博士」とジャリット。
「これは現場の手続きで決められるような小さな問題ではないんだよ。きみは連邦特別規則の条項によって雇用されたのであって、これには疑問の余地なく、きみには契約を一方的に終結させる権利がないことが述べられている。もちろん、われわれ――全西側世界――が危機に直面していることは、断わるまでもあるまい。われわれは非常事態のもとで生きているのだよ」
「そんなことにした失態は、ぼくには責任のないことだ。とにかく辞職したぞ」
「責任はないかもしれん」とコリガン。「だが、同じことは誰にもいえる。にもかかわらず、きみは、国家をその帰結から守る責任を分かちあうことに、同意したのではなかったのかね?」
「それは、あんたたちの台本にある台詞《せりふ》だ。ぼくは、そんなことをいった覚えはない」
「おお、そうかね」コリガンは、調子がついてくるのを感じた。新しい口下手な証人を痛めつけにかかろうとしてウォーミングアップをする時の、例の懐かしい気分が蘇ってきたのだった。「きみがいっているのは、自分はこの国の法律の上にあるということか? 自分を……」
「ぼくがいっているのは、ぼくは強制買上げの対象ではないということだ」クリフォードは、相手にみなまでいわせずにいった。「ぼくは売物じゃないんだ」
「じゃ、逃げだすわけか。そういっているんだな」コリガンの声は、止めどもなく高くなっていった。「民主主義が窮地に陥るかもしれんのに」
「民主主義について、あんた[#「あんた」に傍点]が何を知ってるというんだ」クリフォードは、自分が感じている軽蔑を隠そうともしなかった。彼の口調は嘲りに近いものだった。
「わたしは、それが述べているところを信じている。それで十分だ」とコリガンはいい返した。
「人間には好きな生き方を選ぶ権利があり、ここへやって来てそれを奪おうとするどんなやつらとでもわたしは戦う……向こうにはそういうやつらが無数に待ちかまえているんだ。望みもしない薄汚いイデオロギーをわたしに[#「わたしに」に傍点]押しつけたり、何を信じろとか信じるなとかいわせるようなことは、誰にもさせん。わたしが自分で決めるんだ。それがわたしの知っている民主主義であり、きみに守る義務があるといっているものだ」
「それじゃ、いいわけだな」クリフォードの声は急に低くなり、囁きとも思えるほどだった。コリガンの叫び声との対照は、ますます鮮明だった。「ぼく[#「ぼく」に傍点]は選んだ。押しっけているのは、あんたたち[#「あんたたち」に傍点]だ」コリガンは蒼白になり、唇を一文字に結んだ。彼がいい返す前に、クリフォードは声を大きくしながら先を続けた。「あんたたちと連中とは、何の違いもない。あんたたちは、みんな月並な妄想のお説教集団さ。どれも同じ世迷い言だ! どうして、みんな家へ帰って、そんなことを忘れてしまえんもんかね。この惑星の庶民たちはもう好きな生き方を選んでいるのに、その内容があんたたちには都合が悪いものだから、聞こうとしないんだ――彼らは、そっとしておいてもらいたいんだよ」
「庶民だと!」コリガンの顔は真紅に変わった。「庶民に何がわかる。何もだ! 何もわかりやせん!」ジャリットとエドワーズは居心地悪そうにそわそわしはじめたが、コリガンは興奮のあまり、それには気づかなかった。「やつらは、ただの阿呆だ」と彼は怒鳴った。「くだらん人生の間に一度だって頭を使いはしない。誰か強い者が立ちあがって教えてやるまでは、自分が何を望んでいるかも知らんのだ。それから群衆として一つの望みを持てば、やつらは初めてエネルギーになり、それこそが肝腎なのだ……」彼は急に口をつぐんで、今度ばかりは口をすべらせたことに気がつき、椅子に坐りこんだ。
「それが民主主義かね」とクリフォード。
ジャリットは大きな咳払いをして、応酬がそれ以上エスカレートしないうちに口をはさんだ。
「もちろん承知だろうがね、クリフォード博士、意志表示したような行動をあくまで取ろうというのなら、きみ自身が蒙《こうむ》る経済的な結果は、極めて重大なことになるのだよ。退職手当も、未払いの休日賃金も、退職年金拠出金も、その他あらゆる未払いの給付も、自動的に没収される」
「当然だね」クリフォードの返事は、皮肉たっぷりなものだった。
「信頼性の格づけのことを考えてみろ」コリガンが、まだぷんぷんしながらいった。「生きて町を歩いている人間の最低になるんだぞ。まるで額にアカ≠ニ書かれるようなもんだ」
「将来、政府機関に就職する可能性はなくなるぞ」とエドワーズ。「それに、政府との契約を認められたどんな組織にもだ。よく考えてみなさい」
「それから、徴兵免除の資格も剥奪される」とジャリット。
「将来の経歴のすべてを危うくすることになるんだ」とエドワーズ。
クリフォードは、三人を次々にゆっくり眺めることによって、見当はずれな長い演説や説明に答えた。
「もうたくさんだ」と彼はいった。「辞職したぞ」
突然、コリガンがまた感情を爆発させた。「科学者ども! おまえたちは、世界が手に入るというのに、花を摘みに行きたがるんだ。わたしのことを[#「わたしのことを」に傍点]妄想だといったな……そういいながら、自分では事実や真実などというたわごとを追いかけているんだ! いいことを教えてやる……それが[#「それが」に傍点]最大の妄想なんだ。客観的な事実などというものはない。事実とは、われわれが事実だと信じたもののことだ。強い意志と鉄のような信念が、事実を作りだす……一億の人間がともに立ちあがって、自分たちの望むことを固く信じれば、そのとおりのことがおこるんだ。強者が世界を作ったのであって、世界が彼らを作ったんじゃない。十分な数の人間がそういえば、真実が真実になる――それがわれわれの住む世界の現実だ。おまえの世界こそ妄想だ。数字……資料……紙切れ……それが人間に何の関係がある? 人間が世の中を動かすんだ。そろそろおまえたちも、自分から進んでお伽の国を卒業し、このことを理解する努力をしてもよさそうなもんだ。おまえたちが今日あるのはわれわれ[#「われわれ」に傍点]のおかげであり、われわれ[#「われわれ」に傍点]がおまえたちを飼っているんだ……おまえたちが存在できるのは、おまえたちの玩具がわれわれ[#「われわれ」に傍点]に役に立つからだ。われわれは、おまえたちの落書のおかげで生きているんじゃないぞ。そのこと[#「そのこと」に傍点]を考えてみろ!」
クリフォードは、ちょっと沈黙を長びかせて、今やジャリットやエドワーズの顔にまざまざと表われている困惑を際立たせた。コリガンから顔をそむけ、もはや話をする対象として考慮にも値しないことを露骨に示しながら、彼は穏やかに締めくくった。「辞職したぞ。これ以上、その理由をうまくいい表わすことはできん」
数時間後、クーガーを駆って谷の中腹を昇る道路を上りながら、ACREに最後の視線を走らせた時、クリフォードは、長いこと意識していなかったことに気がついた。山の空気は清潔で自由の味がしたのである。
サラは、スクリーンに表示された数字を眺めて、悲しそうに唇をすぼめた。しばらくして彼女は端末装置のスイッチを切り、回転椅子をまわして、部屋の向こう側に向いた。
「さて、これからどうなるのかしら」と彼女はいった。「破産だわ」
向かいの壁際の肘掛け椅子に寝そべったクリフォードは、むずかしい顔をして彼女を見た。
「わからん。たぶん、まだ何かの仕事は探せるだろう――大層なものではなくても、少しは金になるものが」
彼女は、趣味のいい室内装飾や快適な家具の置かれた部屋を眺めまわした。
「こうしたものとも、お別れでしょうね」
「そうだな」彼の口ぶりは現実的だった。
彼女は椅子をぐるりと一回転させて、また彼のほうに向いた。
「たぶん、あなたがいったジャングル行きを実行したほうがいいかもしれないわ――二十年ぐらいもいれば、ピーナッツや木の実や生き物にも、慣れるかもね」
彼は無理に笑ってみせた。彼女も笑い返そうとしたが、本当の気持はそれどころではなかった。
その知らせは、青天の霹靂《へきれき》というわけではなかった。彼のやったことに、一言も疑問は呈しなかった。やむにやまれずしたことを、知っていたのである。彼は、彼女が自分の価値観に共感し、それを守るためにどんな犠牲が求められようとも、それを理性的に受けとめてくれると知っていた。長く詳しい説明や言訳は、必要でなかった。
彼女は、ゆっくりしたリズミカルな動作で椅子を左右に振り、指を鼻の先端に当てた。「今度ばかりは、論理的で客観的になりましょうよ。これからどうするか、何かの計画を立てなきゃ」
「立てなきゃならんかね?」
「もちろんだわ。世界の終わりが来たわけじゃないし、まだ解決しなきゃならないことが山ほどあるのよ。さて、まず何をすべきか?」
「酔いつぶれる」
「ほら、客観性はどうしたのよ。それが、何事につけても、アメリカ男性のお定まりの解決法だわ。それでできることといえば、問題を明日にのばすだけ」
「何よりじゃないかね。考えなくてすむ」
「明日も酔いつぶれればの話よ。それに、そんなことは、していられないの。真面目になりましょう。まず手始めに、わたしは病院で週間の常勤に切り換えられるかどうか、やってみるわ。少しは足しになるでしょう」
クリフォードは、彼女が建設的であるべく本気で努力しているのを見て、椅子に坐り直し、態度をがらりと変えた。
「少しどころじゃない。ありがとう」
「それから、どこかに安い家を見つけなければならないわ」と彼女は続けた。「小さなアパートか何か。ハメル・ヒルの近くに、一つ二つすてきなのがあったような気がする。あなたに取りあえずの仕事が見つかれば、最終的にどうするかを決めるまで、やりくりをして、かなりうまくやっていけるでしょう。どう思う?」
「そのとおりだとも。そういえば、先週、ジェリー・ミクローが、自分の働いている所にいくつか欠員があるといっていた。勤務時間が長くてきつい仕事だけど、給料はいいそうだ……ボーナスもたっぷりで。あそこに就職できれば、しばらくはじっくり考える余裕ができるだろう。考えてみると、結局はこの家をそんなに急いで出る必要はないかもしれないぜ。たぶん、少し切りつめれば……」
戸口のチャイムが鳴った。
サラのほうが近かった。彼女が部屋を出て取次ぎにいっている間、クリフォードは絨毯《じゅうたん》を見つめていた。ドアが開くのをぼんやりと聞きながら、今まで相談していたことを、さらに真剣に考えていた。そのとき、「あらまあ!」というサラのびっくりした声が聞こえ、はっと現実に引き戻された。突然、ドアの外の玄関には嬉しそうな声が大きく反響し、家じゅうに響きわたって、まるで音の太陽が一面に射しこんだかのように、陰鬱な気分を吹きとばした。顔を上げたクリフォードは、オーブの痩せて強靭な姿がドアから入ってくるのを、あっけにとられて眺めていた。
サラは、その後ろのドアの框《かまち》に立って、途方に暮れたように両手を大きく拡げていた。
「クリフォード博士じゃありませんかな?」とオーブはにこやかに呼びかけ、クリフォードの表情を見て、腹をかかえて笑いくずれた。クリフォードがやっと腰を浮かせた時には、もう彼の腕は力強く振り動かされていた。「そろそろ潮時と思ったもんでね」とオーブはいい、振り向いてサラとも握手した。「先へのばす理由は何も思いつかなかった。それで……」彼は肩をすくめた。
クリフォードは茫然として、くびを振った。
「オーブ……いったい全体。とうとうきみに会えたのは嬉しいが……いったい何をしに来たんだね……」
オーブは、また笑いころげた。
「ただ足の向くままに来てみたら、ここがそうだったというわけさ」彼はまわりを見まわした。
「やあ、すごいねぐらじゃないか……すてきだ! わかっているな。あの壁画なんぞ、実にすばらしい……何かぐっとくる感じで。芸術がわかるのは、どっちのほうかな」
「今のうちに楽しんでおいてちょうだい、オーブ」とサラ。「もうすぐ、ここを出なきゃならないかもしれないの。ブラッドは、きょう辞職したのよ」
オーブの顔は恍惚と輝いた。
「まさか!」彼の口振りは、まるで何週間このかた最大の吉報を聞いたかのようだった。「とても信じられん。とうとう、あのACREのやくざ連中に、消えてうせろといってやったわけか。おい、ブラッド、すばらしいじゃないか――まったくすばらしい!」
クリフォードは、不機嫌な顔で彼を見た。
「何がそんなにおもしろいんだ」
「とても信じないだろうな。われわれは同じ結論に到達したのさ――ぼくもバークリーを辞職したんだぞ」
クリフォードは、一瞬、あっけにとられた。相手の言葉が胸におちるにつれて、彼の表情はしだいに微笑に変わっていった。
「ほんとうか。きみも? それはすごい……どうしたんだ」
「また、あの仕事をやらせようとしたんだ――きみに話したやつ――機密の研究計画というやつだ。だが、その頃には、一切がでたらめでどうしようもないから、こんなことには関わりあうまいと決めていた。だから、興味がないといってやったんだ。すると、やつらは腕力に訴えようとして、特別防衛法に基づいてぼくにその仕事をやるように命ずる権限を持っているとぬかすのさ。そんな権限を与えた覚えはない、といってやった。そんなことがあった直後に、ぼくとやつらが袂《たもと》を分かつ時がきたと思ったんだ」
「ブラッドは無一文になったの」とサラ。「何もかも打ち切られたわ――手当もすっかり。まともな職につくこともできないでしょう」
「うん、ぼくもだ」オーブは、にやりとし、肩をすくめて、手を拡げてみせた。「だが、どうにかなるさ。氷の玉を思いだすまでだ」
「氷の玉?」
「今から二百億年後には、世界は大きな氷の玉にすぎなくなる。だから、たいした違いはないのさ。マーフィーが登場する時には、いつも氷の玉のことを考えるんだ」
「マーフィー?」サラは、いちいちまごついていた。
「工学についてのマーフィーの法則さ」とオーブが説明し、期待するように相手を見た。彼女は、くびを振った。
「人間の行為のいかなる分野においても、うまくいかなくなる可能性のあることは……」
「必ず[#「必ず」に傍点]うまくいかなくなる」と、クリフォードが後を続けた。三人は、いっせいに吹きだしていた。
「さて……」クリフォードは、この世が突如として理想郷に変わったわけではないと、まだ自分にのみこませようとしているかのように、くびを振った。「こういう場合の決まり文句は、これは一杯やらずばなるまい≠ニいうんじゃなかったかな。何にするかね? ものがある間は、最大限に活用するさ」
「ライ・アンド・ドライ」とオーブ。「乾杯!」
「ビターレモン入りのウオツカ」とサラ。
「それで、いったいどうして、ここへ来たんだ?」クリフォードは、バーへ歩いていって、飲物を注ぎながら訊ねた。「ちょうどきみに連絡しようとしていたところなんだ」
オーブは肘掛け椅子にだらしなく倒れこんで、脚を前に突きだし、早くものんびりと寛《くつろ》いでいるようだった。
「いい質問だ」彼は初めてそのことに気がついたかのように認めた。彼は考え深げにひげを撫でた。「どうやら、他のことをしようという考えが、ついぞ思い浮かばなかったんだ。何となく当然の行為に思えたんだ」
「あなたは、急に、つまり……姿を現わす癖があるの?」サラは、オーブに向かいあった椅子の肘掛けに腰をかけながら訊ねた。
「そいつも、よく考えてみたことはないが」とオーブ。「そうだな、うん……たぶん、あんたのいうとおりだろう。型にはまらずにすませるには、いい方法だ……」彼は、クリフォードのほうを見た。「そうだ――ここに来たについては、もう一つ立派な理由がある。何をするにつけても、最高の理由だと思っているやつだ」
「それは?」
「そうしたかったからさ」
彼らはまた大笑いした。オーブが居ることだけで、これから何があっても処理できるという、楽天的で確信のある空気が部屋に充満した。最後には何もかも……何とかなって……うまくいくという気分が、急にしてきたのだった。
「それで、これからどこへ行こうとしているんだい」クリフォードは、グラスを運びながら訊ねた。「何か計画でも?」
「何もない」オーブは肩をすくめて、飲物を受けとった。「たぶん、ここへ宝探しに来たんだと思う。きみはどうだ」
「全然。どうやら、われわれは、いっしょに宝探しをすることになりそうだな」
「そのことに乾杯しよう、ブラッド」オーブは、すかさずいった。「乾杯」
「乾杯」
「あなたの道具類はどうしたの、オーブ」とサラが訊ねた。
「道具類?」
「家財道具よ……カリフォルニアのどこだかに住んでいた時の。どこに置いてあるの」
「持物のうち」とオーブは、また肩をすくめた。「動かせないものは、アパートでいっしょの部屋に住んでいた男に、すっかり売りとばした。旅行は身軽なほうがいいからな。残りは二つの鞄に入って、ドアの外にある」
「それがきみの世界かね、オーブ」とクリフォード。
オーブは、腕を大きく振りまわした。「どうして、どうして。全世界は今も向こうにあって、いつなりとぼくが利用するのを待っているのさ。こうしておくかぎり、やつらに取りあげられるおそれはないわけだ。何も太平洋を買わなくたって、水泳は楽しめるんだよ」彼は、ちょっと考えて、つけ加えた。「全自殺者の一二パーセントは、百万ドル以上の持主だということは、知ってるかね。ぼくは、危険を冒さないのさ」
クリフォードは、唇をすぼめた。
「理屈があわんな。きみのやり方では、たいへんな危険を冒すことになるぞ」
「ええ?――どうして」
「だって、それだと、八八パーセントは、百万ドル以下の持主だということになるぜ」クリフォードは、にやにやしながら答えた。「そっちの面から考えてみたまえ」
オーブは大笑いして膝をたたいた。
「気にいった。だが、あまり本気にするなよ――数字《フィギュア》は嘘をつくことがあるからな」
「それに、嘘つきも計算《フィギュア》できるわ」サラは、夫のほうを見ながら口をはさんだ。「ちょうど夕食の仕度をしようとしていたところなの。三人分にしましょう……鶏は嫌いじゃないわね、オーブ」
「そういわれては、いやとはいえないな。このような説得に抗しうる男があろうか」
「まあ、まあ」サラは、心配そうに、ため息をついた。「あなたたち二人は、悩みの種になりそうだわ」
「気にするんじゃないぞ、オーブ」とクリフォード。「もう一杯、飲めよ」
「大問題[#「大問題」に傍点]だわ」とサラはいい、立ちあがって調理場に入っていった。
「それで、彼らにどうすることができたろう?」オーブは、テーブルにのった夕食の残骸の間に肘をついて、掌《てのひら》を上に向けた。「彼らは道路から三マイルの所にいて、草もなくなり、服もすっかりなくなって……これはまったく大問題だ」サラは頬の涙を拭いて、笑いをこらえようと苦労していた。クリフォードは、コーヒーを飲もうとして吹きだし、怪しげな手つきで、カップを皿に戻した。
「それで、どうなったんだ」
「うん、彼らは道路まで歩いて戻らなきゃならなかった……さもなければ、そこに住みついて、アダムとイブからやり直すわけだが、ロビーにはそんなことをしている暇は、まったくなかったんだ」
「何ですって――森の中を歩きとおして?」サラは、信じられないという口調でいった。「何も着ないで」
「ほかにどうしようもないじゃないか」とオーブ。「いまいったように、いつまでも森の中にいるわけには、いかなかったんだ。とにかく、ほんとうに滑稽なのは、そこのところじゃない。道路までたどりついた時、彼らはひょっこり道にとびだしたんだ――そういう茂みや木や何やかやが壁になっていて、彼らがその中に入りこんで反対側に出ると、そこはもう道路の上で、通っている車からはみんな振り返るし……まったく正気の沙汰じゃなかった」オーブは手をあげて、クリフォードとサラの笑い声がひときわ高くなろうとするのをちょっと制止した。「そして、彼らの眼の前には、二人の婦人がいたんだ――そら、中年で、髪を束髪にして、厚いツィードのスカートをはいた例のタイプの婦人たちだ――小学生の一団をひきつれていたから、明らかに教師だった……」
「まさか!」とサラが金切り声をあげた。「嘘でしょう」
「本当さ……」オーブはにやりとしながら、きっぱりとうなずいた。「というわけで、ここに非常に物静かで品のいい二人の善良な婦人がいて、ちゃんとした子供たちを農村の遠足に連れてきていた……」彼は自分でも笑いはじめた。「そこへ突然、茂みが分かれて、ロビーと女の子が、生まれたままの姿で、手を取りあって出てきたんだ……」オーブは一息いれて、その場の情景が眼に浮かぶ余裕を与え、それから急に口調を変えた。「きみだったら何というね? 五秒だけやる。ロビーには、それだけの余裕しかなかったんだ」
「だって……わからん……」クリフォードは困って肩をすくめた。「いったい何を……」
「時間切れだ」とオーブが宣告した。「ロビーが何といったか、わかるかね。頭の回転が速いとは、このことさ……彼は大真面目で、まったく平静な顔つきで、いったもんだ。すみませんが、この辺に空飛ぶ円盤が駐《と》めてあるのを見ませんでしたか。どうも場所を見失ったようで=v
クリフォードとサラは、気違いのように笑いころげた。オーブもそれに加わり、喘《あえ》ぎながらつけ加えた。「おまけに、ロビーは、彼女らがその話を信じたと主張している。彼の話では、その中の一人などは非常に心配して、空軍に連絡してはどうかと勧めたというんだ。もう一人のほうは、彼らがどこから来たか知りたがった。ロビーは、こういった。金星ですが、休日にはいつもここへ来るんです。向こうは雲が多すぎるんでね=v
「きみの作り話だろう」クリフォードは、少し笑いがおさまってからいった。
「断じて、そうじゃない。ときに、もう一人別の男がいて……」
「別の話を始める前に、もう一杯やれよ」とクリフォードが遮った。彼は瓶を取りあげ、それが空っぽなのに気づいて、眉をひそめた。「家には、これだけしかないのか」と彼はサラに訊ねた。
「もっとありましたとも。あなたたち二人で、在庫品はほとんど片づけてしまったようだわ」
「あなたたち?」クリフォードは、非難がましく、彼女に指をつきつけた。「きみだって、そう後れはとっていなかったぞ」彼は両手をしっかりとテーブルについた。「それで決まった。今夜は外へ出て祝賀し、オーブを町に案内するんだ。女は、二階へ行って、人前に出られる恰好をしろ。われわれは、この汚れ物を始末する」
「こんな日が来るとは思わなかったわ」と彼女はいった。「いいわ、そうしましょう。出費の心配は明日すればいいんだもの」
翌日、クリフォードは、胸がむかむかし、体がばらばらになりそうな気分で、眼を覚ました。
十二時過ぎで、サラはもう起きていた。彼は長いことじっと横になりながら、目下《もっか》の苦痛な状態をもたらした陽気な晩の切れ切れな断片を思いだし、自分が過ごした時間を楽しいひとときだと考えるような者がいったいいるだろうかと思い、何かほかのことをするために必要な意志の力を貯えていた。
やがて、半分おきあがると、うめき声をあげて、また枕の上に倒れこみ、もう一度試みて、今度は成功した。しばらくして、ひげを剃り、シャワーを浴び、服を着ると、まだ半ば夢見心地のまま浴室を出て、新しい日(のうちの残された時間)に何が待ち構えていようとも、それと冷静に対決する覚悟で、ゆっくりと階下へ降りていった。
居間に入ると、青い顔のオーブが肘掛け椅子に、生気のない表情で坐っていた。調理場から聞こえてくる雑多な物音は、サラが少なくともまだ目的ある活動をする能力を残していることを物語っていた。クリフォードは、オーブの向かいの肘掛け椅子に倒れこむと、宇宙の意味について彼が行なっている静かな瞑想に加わった。
「なあ……」千年かそこら経った時、オーブがいった。
さらに千年が過ぎていった。
サラが、湯気のたつブラックコーヒーのマグを持って、戸口に現われた。「あら、精力的な二人組の残りが、やっと正気に返ったわね」彼女はクリフォードを見ながらそういい、マグをオーブの動かない手に押しつけた。「いま葬儀屋を呼んで、見積りをさせようと思っていたところよ。でも、ひょっとすると、あなたを医学研究用に売れば、いくらかお金になると思ったの。ちょうど関心を示しそうな人たちを知っているわ」
「怒鳴るんじゃない」
「怒鳴っていないわ。普通に話しているだけよ」
「じゃ、話すな。小声でいえ。電動鋸だって、そんな音は立てないぞ」
「コーヒーを飲む?」
「うむ、ああ……頼む」
サラは部屋を出ていき、調理場でボイラーの鋲打ちを再開した。オーブは、やっと自分の肉体の内部に帰還し、手に握ったマグに眼の焦点を据えた。しばらくは、初めてその存在に気がついたかのように、物珍しげに見つめていたが、やがてそれを唇へ持ちあげて、中味を嬉しそうに啜《すす》った。
「たいした晩だった」彼は、やっと言葉を発した。
「たいした晩だった」クリフォードは同意した。
また沈黙の霊的交わりが続いた。
やがて、オーブが眉をひそめた。「われわれは何を祝っていたんだっけ」
クリフォードは、じっと思いだそうとした。
「思いだせない……待てよ……われわれは辞職したんだ。それだ――われわれは二人とも失業し、二人とも文なしになった。それを祝っていたんだ」
オーブは、ゆっくりとうなずいた。どうやら、内心の疑惑が裏書きされたらしかった。
「そうだと思った。知っているか……本気で考えてみると、これには別の側面があるんだ」オーブは、瞑想の間に啓示された究極の秘密を打ち明けた。「ほんとうは、それほどおもしろいことじゃないんだ」
サラがまた入ってきて、クリフォードにマグを渡し、自分も一つ持って回転椅子に腰をおろした。彼女はそれを飲みながら、カップの縁越しに向こうを眺め、男盛りの強健な男たちの一方から他方へと視線を移した。
「歌いましょうよ」と彼女は提案した。クリフォードは、不機嫌な声で何か卑猥なことをいった。
「ブラッドは歌いたくないんですって。どうやらきょうは、わたしの彼氏には、いつもの元気がないようね。エイヴィスは、臨時の代役を賃貸しするかしら」
「もしするなら、われわれの電話番号を教えておくのを忘れるなよ」とクリフォード。「ぼくが、その仕事を志望するかもしれないからな」
「ばか」
「就職は問題の一部にすぎん」とオーブ。「少なくともきみたちには住む家がある。ぼくは、これからどこへ行くかも決まってないんだ」
サラは椅子を回転させて、オーブに向かいあった。びっくりした顔つきだった。
「どこへも行かなくてもいいのよ。ここにいる気があるかぎり、あの予備の部屋を使えばいいわ。われわれにいわせれば、ここはもうあなたの家でもあるのよ。当然のことだと思っていたのに」
オーブは、めったに見せない当惑した表情で微笑んだ。「もし、それでよければ……」
「いいとも」とクリフォード。「好きなだけ、自分の家のつもりでいろよ。それ以外のことは、思いつきもしなかったよ」
「やあ、ほんとにありがたい」オーブは、はた目にも安心したようだったが、それでもまだ何かを漠然と気にしていた。「だけど、何だよ……自分の負担分も払わないで、そんな好意に甘えるわけにはいかない。ことにきみたち自身も困難を抱えているんだから……」
クリフォードは手をあげた。「いいんだよ、オーブ。きみがほんとうにいいたいのは、就職する必要があるということだ――それなら問題はない。いいね?」
「そう……そうらしいな」
「たぶん、何とかなると思うよ。すぐ町はずれのところに、ちょうどいま欠員のある職場があるんだ。長時間の仕事で……」
「ブラッド」とサラが口をはさんだ。「まさか、そのことを本気で考えてるんじゃないでしょうね。つまり……」彼女はクリフォードからオーブに視線を移し、またクリフォードを見た。「あなたたちは、二人とも優秀な科学者よ。何もかも忘れてしまうというわけにはいかないのよ。それは間違っているし、おまけに一週間以上とは保《も》たないでしょうよ」
「しばらくの間だけさ」とクリフォードは主張した。「よく考えてみる余裕ができるまでだ。場合によって、どこか他の場所にいい仕事が出てくれば、ここから引き移るかもしれん。場合によっては、この国を出ることさえ考えられる」
サラは、くびを振った。前には、困難を乗切るために、ブラッドに一時的な就職をするように勧めたものの、今ではそれが空しい道であることを悟っていた。「あなたたちは、自分がほんとうに進もうと思っている道から出発したほうがいいと思うわ」と彼女は主張した。「それには、ちょっと時間がかかるかもしれないけれど。あなたたちほどの知識と経歴を持っていれば、そんなに苦労しなくても、きっと何かふさわしい仕事が見つかるわよ」
クリフォードは、ため息をつき、どうしたら相手を傷つけずに微妙な点を表現できるか思案するかのように、額の後ろを掻いた。「いいかい、きみ。きみは何もかもすばらしい女だ。しかし、ときどき忘れ物をする傾向があるんだよ。オーブもぼくも、いわば|好ましからざる人物《ペルソナ・ノン・グラータ》≠ニいったものなんだ。科学者としての地位に関するかぎり、これから先、われわれは失格なんだ。ブラックリストに入れられ……除外され……お終いで……一巻の終わりなんだ。思いだしたろう」
「政府が管轄するポストについては、そうよ」彼女は譲らなかった。「でも、科学の全部が政府のものじゃあるまいし、そういえば、この国だって全部が政府のものじゃないわ……今のところはね。彼らの影響が及ばない所をどこか探すのよ」
「たとえば……」
「そうね――国際科学財団じゃどうしていけないの。こういうことには詳しくないけれど、彼らはあなたたちが興味を持つような仕事に、どっさり関係しているんじゃなくて? 当たってみたら、どうなのよ」
「国際科学財団だって」オーブは大きな声で笑った。「ごめん――侮辱するつもりはないんだ。でも、どれだけ多くの科学者が――最高級の科学者が――あの組織に入るチャンスを待っているか、想像がつくかい。あそこは、状況が厳しくなってきた時に誰もが殺到する最初の場所なんだ。何年間にもわたる希望者のリストがあって、しかも彼らは選り好みがやかましいんだ。一マイルもの長さの推薦状を持った連中が、入ろうと行列をして待っているんだ。そうだな、ブラッド」
「フォート・ノックス(アメリカ政府の金塊貯蔵所)の無料配給日のようなもんさ」とクリフォード。
「だって、あなたはもう国際科学財団と深い関係があるのよ。あのツィンメルマン教授と話してみるわけにはいかないの? 彼はどうやら、あなたの研究に相当な感銘を受けたらしいのよ。きっと、やってみる価値はあるわ。何にもならなかったとしても、もともとじゃないの」
「ツィンメルマン!」
オーブはクリフォードを見た。どちらも、眼で、今までどうしてそれを思いつかなかったのかと、訊ねあっていた。それから、クリフォードは椅子に深く坐り直し、顎をさすりはじめた。
「それほど確信は持てないな」と、やがて彼はいった。「ツィンメルマンは、ACREやその他の各地で進んでいる組織全体に関わっているはずだ。こっちにいる仲間が、そういう手筈をつけたことだろう。万に一つのチャンスもあるとは思えないな。どう思うね?」
オーブは、膝に肘をつき、下唇を噛んで、頭の中でこの間題をじっと考えこんでいる様子だった。「そこは違うかもしれんよ」と彼は答えた。「きみはサラに敬意を表すべきだ――彼女は天才だよ。いま考えてみると、ツィンメルマンがそこまで首をつっこんでいるとは、信じられないな。
彼がやったことといえば、きみが送った情報に対して肯定的な返事をしただけだ。彼の立場から見れば、あの論文はACREから来たものであり、したがって、そこへ返事を送ったんだ。ACREの高級幹部に接触したのは、それが当然のことに思えたからだ。それから先におこることには自動的にきみが関与するものと、思っていたことだろう」オーブは顔をあげた。「いいかい、こっちでおこっていることをツィンメルマンがまったく知らないでいるとしても、ぼくは驚かないな。サラの提案を試してみることに賛成だ。彼女のいうとおり、彼がわれわれにうせろといったところで、もともとじゃないか」
クリフォードは、もう納得していた。
「よし」と彼は同意した。「じゃ、どうやって連絡をとる?」オーブは肩をすくめ、くびをインフォネットの端末装置のほうに傾けた。
「通話するさ」
「だが、そう簡単にはいかんぞ。家庭用端末装置からでは、特別許可コードなしじゃ、地球外との通話はできない。コード番号だって知らないんだ」
「ぼくならできると思うよ」とオーブ。「ほら、一時は回線網気違いだったことがあるんだ……ただの興味本位で、システムの裏をかく方法を考えていた。月面接続点から何度かデータを手に入れたもんだ。通信回路に接続するのに、もう一度そいつが使えると思う。なに、かまわないよ――ばれたとしても、通話から探知されるのはきみの番号なんだからな」
「まったくすまん」クリフォードは、言葉もなく、サラの顔を見た。
「何でもないさ」オーブは快活に答えた。「誰が話をするね? きみがやるべきだと思うな。少なくとも、彼はきみの名前を知っている。ぼくの名前などは、きいたこともあるまいな。だから、どうだい」
「わかった。だが、目下のところ、まともに話すことはおろか、きちんと考えることさえ、できそうもないよ。何かありあわせのもので朝飯にしようじゃないか。それから、挑戦してみよう」
「ほら、ごらんなさい」と、サラが当てつけるようにいった。「やっぱり、わたしがいなくちゃだめね」
「わかっているさ。ほかに誰が朝飯をつくる」
「わたしが大金持を見つけて逃げたら、後悔するわよ」といいながら彼女は立ちあがり、ドアのほうへ行った。
「まあ、きっと始末に困るぜ。連中はみんなデブで、禿頭で、五十歳だからな。さあ、食い物を用意するんだ」
一時間後、三人はインフォネットの端末装置を囲んで集まった。オーブが慣れた手つきで素早く確実にキーを打ち、時々手を休めては断続的にスクリーンに現われるコードを調べるのを、クリフォードとサラは黙ってうっとりと眺めていた。これまで三回の試みは失敗だったが、オーブにとってはまだ小手調べにすぎないらしかった。
「ようし! 地球外中継回線に入ったぞ」と、やがてオーブが知らせた。「ここから先は平穏無事のはずだ。タイムアウトの調整を変えたにちがいない。さっきは、それでだめだったんだ」
「この通話で、いくらかかるの」とサラが訊ねた。
オーブは笑い声を立てて、作業を続けた。「きみたちは、一文もかからない。この通話は、バークリーの通話交換集合体を経由しているんだ。純然たる国内通話からそこに入りこんで、発信待合わせ緩衝回路にまざれこむようにつないだんだ。地球外回線に入るには、呼び出し手続きを知っている向こうからのほうが簡単なんだ。発信は向こうの地元からのものとして記録されるから、料金はバークリーが払うことになる。きみたちは、カリフォルニアまでの国内料金請求書を受けとるだけだ」
クリフォードは何かいいかけたが、そのとき急にスクリーンが明るくなって、それを遮《さえぎ》った。
表示面の上端に、短い見出し表示が現われた。
「通じたらしい」とオーブが二人に知らせた。「交替するぞ、ブラッド」彼は、関節のある支持腕に載った端末装置をまわして、スクリーンがクリフォードに向くようにした。数秒すると、スクリーンに男の顔が現われた。
「こちらは月面、ジョリオ・キュリーの国際科学財団です」
「ツィンメルマン教授と話したいんだが」
「そちらは、どなたでしょうか」
「クリフォード。ブラッドリー・クリフォード博士」
「所属はどちらです、クリフォード博士」
「これは私用通話なんだが」
「私用ですって」男は、ちょっと眼を丸くした。一応の敬意を表したのか、うさん臭いと思ったのかは、わからなかった。「ちょっとお待ちください」スクリーンが空白になって、無限の時間が経ったように思えた。やがて、男の姿が再び現われた。その表情からは、何も読みとれなかった。「あいにくですが、クリフォード博士、ツィンメルマン教授は、いま手が離せませんので。伝言をお伝えするか、こちらから連絡するようにいたしますが」
クリフォードは、がっかりした。門前払い――ていのいい門前払いだった。彼は、この数分間のうちに身内に蓄積した緊張を、長い絶望的な吐息とともに吐きだした。
「それじゃ、連絡をいただきたい」彼は気落ちした口調でいった。「こちらのコード番号は記録させる」こういうと、彼はスクリーンを消した。
クリフォードは立ちあがって悪態をつき、肘掛け椅子の背中を拳でなぐりつけた。「畜生め!」
彼は重苦しい息を吐きながら、憤懣やるかたない口調でいった。「やつらは何もかも見通していたんだ。わかっていたさ……初めからわかっていたんだ」ほかの二人は、消えたスクリーンを見つめたままだった。
「さあさあ、どうせもともとだって、いったじゃないの」しばらくして、サラがいった。慰めようとしたのだが、失望の響きは隠せなかった。「少なくとも、やってみるだけの価値はあったわ」
「それにしても、ひどい幻滅だ」さすがのオーブも、苦々しい口調だった。
「返事をくれるかも……」とサラはいいかけたが、その言葉は途中で消えてしまった。
「そして、豚が太平洋を泳ぐかもしれない、か」クリフォードは、部屋の向こう端へ歩いていった。「畜生め!」
サラとオーブは、黙っていた。何もいうことはなかったのだ。
彼らは、またコーヒーを沸かして、それをすっかり飲みつくし、あまり気のない調子で、将来の計画を相談しはじめた。クリフォードは南米のどこかで教鞭をとることを考えていた。オーブは、かねがね、少し南極で暮らしたいと思っていた。サラは、地元での欠員についての意見をまた変えて、やはり一時的な手段としては、そこに就職するのも悪くはないと思っていた。午後遅くなった頃には、みんなも少し元気になって、過ぎ去った時代の話を交換しあっていた。
そのとき、インフォネットのチャイムが鳴った。
クリフォードは、まだ心の奥底にひそかな希望を残していたが、他の二人にはそんな素振りを見せなかったし、自分でもある程度までしか信じていなかった。内面の心理的防御機構が、何かがおこると本気で期待していると認めさせないことによって、それ以上の失望を味わう可能性から彼を守っていた。そこで、通話がかかってきても、感情や興奮を顔に出さずに対処しようと、心の中で決意していたのである。そうすれば、その結果として何を感じようとも、それは少なくとも自分だけのものになるはずだった。にもかかわらず、気がついてみると、スクリーンにとびついたのは彼が真っ先であり、手は本能的に動いて受理≠フキーを押した。
サラとオーブは、後ろにぴったりとくっついていた。
上品な銀髪をいただいた威厳のある容貌が、彼を見つめていた。
「クリフォード博士ですかな?」
「はい」
「それはよかった。初めてお目にかかります。わたしがハインリッヒ・ツィンメルマンです。先ほどは手が離せずに失礼したが、非常に重要な観測の最中でしたのでな。あなたの科学界への驚くべき貢献に敬意を表します。あの論文はすばらしいものでした。わたしの注意を喚起してくださったことを感謝します。
「さて、クリフォード博士、何のご用ですかな?」
10
ACREの大会議室での会合は、二時間以上にもわたって続いていた。中央に据えられた長い長方形のテーブルの周囲には、二十人以上の顔ぶれが揃っていた。テーブルの一方には、技術調整局からの代表や各種の中央官庁の役人が居並び、向かい側に並んだ研究所員を主体とする科学要員の面々と相対していた。一方の端には、エドワーズとコリガンを左右に従えたジャリットが坐り、会合の議長を務めていた。緊張した不機嫌な空気が流れていた。ブルックハーヴェンの原子核物理学者デニス・センチノ博士が、科学者側のほぼ中央の席から、異議を唱えているところだった。
「残念ながら、それは容認できん」と彼はいった。「あなた方が求めていることは、率直にいってよければ、無知としかいいようがない。われわれが論じているのは、まだ誰も理解さえしていない、まったく新しい物理現象の一分野なんですぞ。これは、それがそもそも存在することにわれわれがやっと気づいたばかりの、完全に新しい未踏の領域だ。なるほど、いずれはここから何らかの具体的な応用が出てくるかもしれんが、それがどのくらい先になるものかは、誰にもまったく知るすべはない。われわれにできる唯一のことは、幅広い基礎に立って研究を続け、何がおこるかを待つしかない。何かの計画表に合わせて、まるで……まるで建物か何かを建てる時のように、新発見を生みだすなどということは、とにかくできんのだ」
局側のジョナサン・カマーデンは不満だった。「できない[#「できない」に傍点]、できない[#「できない」に傍点]、できない[#「できない」に傍点]……われわれが聞かされるのはできない≠セけだ。たまには誰かが気分転換に少しは積極的に考えてみて、何かできるかもしれないといってみたらどうなんだ。科学者が他の専門家とどこか違うなどということは、わたしにはわからん。仮にわたしの弁護士に、来月と決まった公判の日取までに弁論の準備ができるかと訊ねれば、彼はできるという。わたしが病気になれば、医者は時間どおりにやってくる。銀行の支店長は、わたしが命じた日付に支払をする。わたしの子供の先生は、学期が始まる前に時間表を作成する。この世の誰もが、時間を、生活のその他の部分と切り離せない現実の一部と認めておる。誰もが期限に間にあわせる。きみたちのどこがそんなに違うんだ」
「違うのは、人間じゃなくて、対象なんだ」研究所員のオリー・ワイルドは、こみあげてくる怒りを隠そうと、必死だった。「レンブラントにきょう、傑作を描けと命ずることはできない。賭博師に勝ってこいというわけにはいかない。こういう事柄は、時期がくればできるのであって、あなた方の都合どおりにはいかんよ」彼は支持を待ようとして、左右を見た。くびが縦に振られて、無言の賛意を示した。
「だが、その時期とは、いつなんだ」とカマーデンが詰問した。
「それを、さっきからわからせようとしているんだ」と、センチノがまた口をはさんだ。「それは誰にもわからない。この段階では、そもそもこれに何か防衛的または軍事的な応用があるかどうかをいうことさえ、誰にもできんのだ……それが何か、いつできるかなどは、問題外だ」
「われわれが知っていることといえば、基礎的理論の初歩だけだ」とワイルドがつけ加えた。
「今までの発言は、極めて消極的に聞こえるといわざるをえない」もう一人の局の人間であるマーク・シンプスンが口を出した。「だが、これは歴史を通じて科学的な頭脳の働き方の特徴なんだ」彼は、テーブルの向こう側からこちらを見ている顔の列を、冷やかに眺めまわした。「科学者は、一九世紀の末になってさえ、空気より重い物体の飛行は不可能だといわなかったか。第二次大戦後になってさえ、人間は月に行けないとか、人工衛星は二〇〇〇年まで実現しないとかいったのは、科学者ではなかったか」
「そんなことをいった者もいるかもしれんが」と、憤懣をこめた声がいった。「それらを誰が[#「誰が」に傍点]実現したと思っているんだ」
シンプスンは、その発言を無視して先へ進んだ。「きょうここでいわれたことは、これと同じことの繰り返しだと思う」彼の言葉は、テーブルの向こう側からの敵意ある視線に迎えられた。
ACREの科学者の一人は、タバコに火をつけ、腹立たしげに箱を眼の前に放りだした。
別の局の男が発言した。「もっと建設的ないい方をしてみよう。わたしは、マークがいまいったことに賛成だ。科学者は、自分の専門分野には熟達しているが、ある種の特徴的な弱点を持っている。その最大のものの一つは、思考や行動を、何らかの体系的かつ客観的な計画に組織する能力が欠如していることだ」
「冗談じゃない……」科学者の一人が、怒りをおさえきれずにいった。「客観的になる能力がないとは、どういう意味だ。科学とは客観的[#「客観的」に傍点]なものだ。自分でも何をいっているのか、わからんのだろう……」
「どうか」と局の男は、片手をあげながらいった。「終わりまでいわせてもらいたい。わたしのいっているのは、特定の目的に向かって計画を立てるための体系的な方法であって、データをまとめるための体系的な方法のことじゃないんだ」
「それが科学のすべてだと思っているのか」先ほどの発言者が、嘲るようにいった。「データをまとめること……数字の表が」
「それ以上のものがあろうと、なかろうと、伝統的な科学の現実は、特定の目標に向かって体系的に計画する方法を生みだしてはこなかった」とシンプスンはいい張った。「わたしが注意を喚起しようとしているのは、他の職業が必要に迫られてそういう技能を発展させ、それに使われる技法は周知のものだという事実だ」彼は、自分の発言内容は自明なものであって、口に出す必要もないのだとでもいうように、懇願するような表情でテーブルを見渡した。「過去数週間の間に、われわれは、まったく合理的と思える目標のリストを作成した。この目標を達成するには、二つのことが必要に思われる――きみたちの専門的知識と、一切を実際的な実行体制にまとめあげるために必要な組織と計画の技能とだ。わたしのいいたいことは、ただ一つ、協力して実行しようということだ」
科学者の一人が、くびを振った。
「そのやり方では、うまくいくまいよ。それができるのは、一つの分野の科学が工学技術の段階にまで発展した時、つまり、それを正確に理解して、応用のためのあらゆる法則を公式化できた時のことだ。だが、われわれはまだ、それにはほど遠いところにいる。基礎研究の初歩的段階にすぎない。この二つは区別しなきゃならん。あなたがいっていることは、われわれの目下の段階にはあてはまらないんだ」
「たぶん、これまで誰も試みたことがないからじゃないかね?」とカマーデン。
「とんでもない」とセンチノが口をはさんだ。「今までいったことが、ちっともわかっていない。問題は……」
「これ以上の技術的な問題に立ち入る前に、この議題の根元をなす其の重要性を、思いおこしてみよう」と、コリガンが、テーブルの端から発言した。「この情報は、厳重にこの場かぎりのものにしてもらいたい。最新の情報資料によれば、中国もアフリカ・アラブ同盟も、われわれの軌道爆撃システムに対して配備されるべき、完全に実用的な人工衛星搭載レーザーを開発したことが確実である。完全な対軌道爆弾の能力を持った彼らは、戦略的均衡の上で、われわれとほぼ対等になったことになる」
「そこで、われわれの直面する状況がいかに重大であるかは、いう必要もあるまい」とジャリットが口をはさんだ。「もちろん、われわれが討議している主題の重要な可能性についても、理解できると思う」
「南朝鮮では労働争議が拡がっている」とコリガンが続けた。「住民に対する徹底的な思想工作が系統的に組織されており、左翼の極めて有効な宣伝の結果、政府は支持を失ってきている」彼は一息入れて、まわりを見まわし、自分の言葉がみんなの胸に落ちるのを待って、先を続けた。
「このパターンは、誰もが前に見たことのあるものだ。あらゆる徴候が、古典的形態でのいわゆる解放戦争の舞台が整ったことを示しているが、世界の世論は先入観を与えられていて、西側が有効に対応することを困難にしている。われわれは、彼らがこの地域で力くらべを仕掛けてくると考えており、それは今から六ヵ月以内だと思っている」
これらの新事実に対して、若干のざわめきがおこった。カマーデンは、それが静まるのを待って、重々しくうなずいた。「これが全般的な状況だ。技術のレベルではわれわれはほぼ対等であり、大衆のレベルではわれわれはしてやられている。そこで、数の優位性は、向こう側にとって有利だということになる」
カマーデンは、それから要約を始めた。「均衡を回復し、維持するためには、技術の分野で重要な前進を遂げねばならないのだ。きみたちは、われわれが科学のまったく新しい側面で大飛躍をやったらしいと語った。過去においてそういうことがおこった場合には、それは必ず新しい――しばしば革命的な――軍事能力を生みだした。それがこの場合にもあてはまるなら、われわれはその結果を早急に必要としている」
コリガンは、うなずいてカマーデンの発言を是認し、シンブスンを指しながらいった。「先ほどマークが指摘したように、今日のわれわれが自由に駆使できるような専門的かつ管理的な技能は、過去には知られていなかった。未完成の科学のアイデアを有用な応用にまで発展させる過程は、指導を欠いたアマチュアの気まぐれや物好きに委ねられていた」いくつか抗議の呟きが洩れたが、彼は気にも留めなかった。「今日のわれわれは、この過程を効果的に指導するに必要な技能と技術を持っている」
「科学者の世界は、その思考において、悲しむべき時代錯誤に陥っていると、わたしには思える」シンプスンは、コリガンの陳述を敷衍《ふえん》していった。「もし彼らが、その視野を適合させて、事実のさらに現実的な評価を可能にしさえすれば、われわれの提案している方策がまったく実行可能であり達成しうるものであることを理解できるだろう。いま説明されたばかりの重大な局面に鑑《かんが》みて、このような初歩的な事柄を、これほどまでに説明しなければならないとは、驚くばかりだ」
ワシントンの側から、賛同の呟きがおこった。それが静まった時、センチノが身をのりだして、助けを求めるようにジャリットのほうを向いた。
「われわれは前にも、人々に新しいアイデアを思いつくように命令するわけにはいかないといった。技術の革命をもたらした過去の発見は、ほとんど例外なく、少数の極めて非凡な個人によって行なわれた。ここにいる人たちが見落としているのは、この点につきるのだ。誰でも勝手につかまえて、非凡になれと命令しても、その人間を非凡にするわけにはいかないんだ」テーブルの向こうからは、無表情な視線が返ってきただけだった。彼は、眼の前にある書類の束に眼を落とし、それを腕いっぱいの所まで押しやった。
「ブラッドリー・クリフォードが書いたものは読んだし、確かに彼の後をたどることはできる。だが、自分でこれをやることは、絶対にできない。わたしは本質的には応用科学者だ。誰か他人が明らかにした法則を使って、それを特定の範囲の問題に適用することはできる。自分が創意に富む思索家でないことは認める。それにはまったく別の種類の頭脳が必要なのだ。クリフォードの研究を、書いてあるかぎりたどることはできる。だが、その次がどうなるかを考えだすことは、絶対にできない。ここにいる、あるいは他の所にいる誰であろうと、わたしに命令して創意を持たせることは、絶対にできんのだ」
「クリフォードが、この計画に加わることが必要だ」と、別の科学者が主張した。「ここにいるわれわれは、チームの中で仕事することはできる。だが、彼のような者が誰か上に立つことが必要だ」
「それにしても、彼はなぜここにいないんだ」と、発言者の隣の男が訊ねた。
「彼は辞職したんだ」とセンチノが答えた。
「知っている。だが、なぜだ」
「それは、この会合には無関係な、別の問題だ」とコリガンが遮《さえぎ》った。「ここではただ、彼は知的な才能はあっても、この計画の機密的な性格のために適合しないのだとだけいっておこう。彼は、好ましからざるイデオロギー的ならびに気質的特性を、明確に示した。一言にしていえば、彼は不安定であり、反抗的であり、第一級の危険人物としてのあらゆる素質を持っているのだ。
実をいえば、彼は保安上の指示を故意かつ公然と無視した」テーブルの科学者側からの表情は、疑わしげだった。それでも、コリガンは、自分の主張を固執した。「われわれが協議している主題は、西側にとっての切札になるかもしれんのだ。クリフォードの如き性向の持主を加えることは、問題外だ。中味をそっくり向こう側に進呈することにもなりかねん」
カマーデンは、コリガンの説明に対する表情を読みとった。
「クリフォードにはそれなりの能力があるが、それはあくまでも彼の狭い領域でのことにすぎん。
彼とてもただの人間であり、スーパーマンではない。絶対不可欠な人間など、この世に存在しないのだ。いったい、専門家の中核集団を設定し、彼と同じように仕事を進めることが、どうしてできないのか。全国とはいわない、たったいまこの部屋にいる才能の数々を見るだけで十分じゃないか……」彼は、このお世辞への反応をちょっと待ったが、これという効果はなかった。「何といったところで、科学者は科学者だ。きみたちはすべて同じ事実に精通し、似たような技量を持っている。なるほど、きみたちはすべて特殊な専門用語を理解すべく訓練されているが、貸借対照表の読み方を知っている会計士以上のものではない……」
「クリフォードは変革者だ」と、科学者の一人が、うんざりしたように主張した。「人を変革者に訓練することはできない。もともと備わっているか、それとも備わっていないかだ」
「きみたちが彼なしではやっていけないというほど、クリフォードに特別なものがあるなどとは認めないぞ」と、コリガンは、とげとげしくいい返した。「手術の前に外科医が病気になれば、病院はいつでも誰か代わりの者を見つけることができる。仮にクリフォードが、ちょっとした新しい理論に出くわさなかったとしても、遅かれ早かれ誰か他の者がそうしていただろう……まだそうなるかもしれん。その誰か他の者というのが北京かどこかにいたとしたら、たいへんなことになるんだぞ」彼は、まるで嫌な味覚でも体験したかのように、顔をしかめた。「それなのに、一日かかって聞かされたのは、へたな言訳ばかりだ」
センチノは深く息を吸い、指の節が白くなるほどに拳を握りしめた。
「人間の頭脳を、一方から原料を入れれば他方から最終生産物が出てくる機械か何かのように考えるわけにはいかないんだ。唯一のやり方は……」
そして議論は、いつまでも……いつまでも……いつまでも続いた。
一方、クリフォードの家では、クリフォードが最近の一連の出来事をツィンメルマンに話し終えるまで、オーブとサラは真剣に見守っていた。ツィンメルマンは、終始、熱心に一口も口をはさまずに耳を傾けていたが、話が進むにつれて、彼の顔はしだいに曇っていった。
「いやはや、クリフォード博士……まことに、何といったらいいか」と彼は答えた。「何から何まで嘆かわしい……ひどい話だ」
クリフォードは、その質問が無礼ではないかと迷ったが、やはり聞いてみることにした。「すると……すると、こんなことは、ご存じなかったんですか」
ツィンメルマンは、一瞬の驚きに、日を丸くした。
「わたしが? とんでもない! こんなことは、まったく知らなかったよ。ここはかなり隔絶しておるし、仕事は十分すぎるほどあって忙しいものでな。ACREに返事をした後は、当然の結果として、研究計画が続いているものと思っておった。どうやら、それでわたしからの返事が届かなかったのだな。定めし無礼なやつと思われたにちがいない。お詫びする。しかし、ACREへのわたしの返事が、あなたのところまで届かないとは、思いもよらなかった。けしからんことだ!」
「それじゃ、その返事を送られてからは、研究計画に何も関与はされなかったのですね」と、姿の見える位置ににじり出ながら、オーブが訊ねた。
「もちろん、政治には関与していない」とツィンメルマン。「だが、科学的な面に関するかぎり、このことを――これほどのものを――わたしが忘れるとは、もちろん思わんだろうね」彼は何となく悪戯《いたずら》っぽい笑みを浮かべ、それはすでに三人が感じている彼への親しみをますます強めたのだった。「忘れるどころではない。その重要性に気がついて以来、わたしのところの天文学者の何人かに、あの論文と関連する観測をやらせている。それどころか、いまこの瞬間にも、チームでこれに取り組んでいるのだ」
「ほんとうですか?」クリフォードは興奮して訊ねた。「何か結果が出ましたか」
「うむ……まだな……」ツィンメルマンは、さしあたって話す用意がある以上に知っている様子だったが、それは隠しだてするというよりは慎重を期しているという感じだった。「あなたが話されたフィリップス博士の実験ほどに決定的な証拠はまだとても得られていないのだが……」彼の眼は、また悪戯っぼく輝いた。「でも、目下、取り組んでいる最中だよ」
「では、これについて、ほかの研究機関との意見交換には、加わっておられないわけですね」とクリフォードが訊ねた。
「さよう、まあそういうところだね」とツィンメルマンは答えた。「われわれには調べる能力のない理論の部分を他の研究施設が検証すべきではないかと、意見はいったが、その後は然るべき権限のある者の手にまかせた。そうした機関のどれかが、こちらのわれわれと何か議論がしたければ、それなりに連絡してくるものと思っておった。報告すべき確実な結果が十分に得られた暁には、意見交換をするつもりだったが、まだその段階にはとても達しておらんものでな」
この通話の目的を、どうやって如才ない形で切りだすかについて、クリフォードが頭を悩ましている間、ちょっと会話がとぎれた。彼が何かいおうとする前に、ツィンメルマンの表情は、鋭い、人の心を見通すようなまなざしに変わったが、その眼は依然としておもしろそうに笑っていた。彼が口をきいた時、その声は静かだったが、不思議な軽快さにあふれていた。「しかし、あなたの当面の問題は、もちろん、これからどうするか、ではないのかな?」
人の心を読むこの発言は、クリフォードの虚をついた。
「え?……はあ……そうなんですが」というのが、彼の精いっぱいの返事だった。
ツィンメルマンは、彼に代わって、その後をしめくくった。「そして、わたしが力になってくれないかと思って、通話してこられた」
これで問題は解決だった。それは言葉になり――終わったのだった。クリフォードは、黙ったまま、うなずいた。オーブとサラが、両側で緊張しているのを感じた。
ツィンメルマンは、長いこと一言も発しないでスクリーンから見つめていたが、その表情から、頭の中は口に出さない一連の可能性を総ざらいしていることがわかった。
「わたしは、守れることが確実でない約束はしないことにしている」と、やがて彼がいった。
「だから、何も約束はしない。これから二十四時間の間は、お宅のターミナルの近くにいてほしい。その間に――これだけは約束するが――わたしか他の誰かが連絡する。今のところ、いえるのはそれだけだ。さっそく、この通話を打ち切って、いま考えていることを当たってみたいと思うが。他にまだ緊急な質問があるかな」
三人は顔を見合わせた。何も質問はなかった。
「ないと思います、教授」とクリフォードが答えた。
「よろしい、それでは、ご機嫌よう。それから忘れないで――必ず一人は家にいるように」
「そうします……それから、重ねてお礼を……重ねて心からのお礼を申しあげます」
「感謝できるような結果になってから、感謝しなさい」とツィンメルマンはいい、それとともにスクリーンは消えた。
「でかしたぞ、オーブ」とクリフォードが叫んだ。「驚いたな――ほんとうにすごいぞ」
「おい、ぼくじやないぞ」とオーブはいい、サラを指差した。「ぼくはボタンを押しただけさ。思いついたのは彼女じゃなかったかな。彼女がやってのけたんだ」
「ありがとう、オーブ。やさしいのね」といいながら、彼女は口を尖らせた。「ごらんなさい、ブラッド、わたしをちっとも評価してくれないじゃない」
「どこでこんなことを覚えたんだい」とオーブが訊ねた。
「あら」と彼女はいった。「ブラッドと結婚したら、家のことでは当てにできないと、すぐにわかるわ」
翌日の午後遅く、クリフォードとオーブがチェスに興じ、サラが本を読んでいたとき、インフォネットのチャイムが鳴った。端末装置のほうへ行こうとあわてたはずみに、二人は間にある盤をひっくり返し、彼らが立ちあがった頃には、サラが応対に出ていた。スクリーンには、四十代半ばほどで明らかに地中海系の黒い髪の男が映り、自宅の一室と思われる場所から話しかけていた。彼の背後の窓の向こうには、広々とした水が見え、その向こう岸には松林が拡がっていた。
「クリフォード夫人ですね」と彼は訊ねた。その声は快活で晴れやかだった。
「はい」
「ああ……ご主人はおいでかな」
「主人は、たったいま、コーヒーテーブルにからまっているところです……」相手はちょっと怪訝《けげん》な顔をしたが、すぐにやりと笑った。「あら、もう大丈夫のようですわ」とサラ。「どうぞ……」
彼女はどいて、クリフォードに場所を譲った。オーブが近づいて、彼女の傍に期待に満ちた様子で立った。
「やあ、見苦しいところをお目にかけてすみません。わたしがブラッドリー・クリフォードです」
「気になさらんでよろしい」と相手はいって、またにやりとした。「わたしのせいで家具を壊すことはないですからな」彼は、それからてきぱきとした口調になった。「わたしの名は、アル・モレリ――アル・モレリ教授。あなたが知りあわれたばかりと聞く人物、つまりハインリッヒ・ツィンメルマンの旧い友人です」
「はい……」
「あなた方は二人だと聞いたが」モレリは、ちょっと眉をひそめた。「そこにフィリップス博士もおられるのではないかな……変わった綴りの名前の?」
「ここにいます」オーブは脇からまわって、クリフォードの隣に立った。
「おや、こんにちは」モレリは、ちょっと考えた。「ハインリッヒから、あなた方二人がやってこられたK物理学の研究については、いくらか聞いている。控え目にいっても、驚くべきもののようだ。とくに重力インパルスの部分は興味深い――実際に検証はされたのかな?」
「そういうわけではないのです」とクリフォードは答えた。「ただ、オーブは、バークリーにいた時に、持続的回転という予測を証明する実験を少しやりました。重力インパルスという結論は、この部分と密接に関係していますから、見込みは十分にあります。いまいえるのは、そんなところです」
モレリは、視線を返しながら、何かに得心がいったように、ゆっくりとうなずいた。
「いや、この場で詳しいことをうかがう必要はない。ハインリッヒが非常に的確な要約をしてくれたし、彼が納得したのなら、わたしにはそれで十分だ」彼は、ちょっと言葉を切り、それから続けた。「わたしが連絡した理由は、お察しだろう。あなた方二人はポストを探していて、見つけるのに苦労しておられると聞いたが。そうですな?」
「ええ、そんなところです」とクリフォードが答えた。
「よろしい。理由は知っている」とモレリ。「それに、あなた方のどちらの行動も、当然のことと思う。たぶんわたしでも同じことをしただろう。それはともかく……わたしは国際科学財団で研究計画を進めている。場所は、マサチューセッツ州サドベリーの重力物理学研究所。お聞きになったことがあるかもしれんが」
「聞いたことがあるかって……もちろんですとも」クリフォードは、びっくりした様子だった。
「重力物理学……」オーブは興味をそそられた様子だった。「それで、とくに重力パルスに興味を持ったんですね」
「そのとおり」とモレリ。「だが、単なる偶発的な興味ではない。ハインリッヒから聞いたところでは、ここでやっている研究に直接的な関連がありそうなのでね」
「どういう直接的な関連です?」とクリフォード。「ぼくの理論の重力的な面に関係することを研究しておられるわけですか。それはすてきだ」
モレリは、片手を上げて、彼を制止した。
「いや、そこまでいうのは、まだ時機尚早だ。さしあたりは、あなた方がサドベリーでの研究に興味を持たれることは確実だ、とだけいっておこう。さて、いうまでもなく、わたしは学問的な話をするだけのために連絡したのではない。われわれの専門分野に十分な能力と経験を持った人をちょうど探していたところだったのだが、ハインリッヒの話を聞けば、あなた方二人はちょうどぴったりだと思う。そのことでお話ができたらと思うのだが。それに、彼がいっていたような困難に直面しておいでなら……」彼は最後までいわなかったが、その表情が雄弁に語っていた。
「さて、どうかね。興味がおありかな?」
「つまり、われわれに国際科学財団に入るチャンスがあるというわけですか」クリフォードは、とても信じられないという口調で訊ねた。
「そんなところだね」
オーブは、見栄も体裁《ていさい》もなく、あっけにとられていた。
「はい」とクリフォードは数秒後に答えた。「われわれは興味があります」それは控え目な表現もいいところだった。
「結構」モレリは、満足げな様子だった。「今から二日後では、いかがかな? それまでに、ここへ来られるかね? 費用や何かのことは心配しないでよろしい――もちろん、往復の飛行機は国際科学財団が持つ」
クリフォードとオーブは顔を見合わせてうなずき、それからサラのほうに向いた。彼女は力をこめてうなずき返した。
「結構だと思います」とクリフォード。「何も問題はありません」
「結構」とモレリは、もう一度いった。「秘書に二人分の席を予約させて、具体的なことを連絡させよう。じゃ、お二人とも木曜日だよ。よい旅をなさるように」
その晩、クリフォードとオーブとサラは、またもや町に出て、お祝いのばか騒ぎをやった。彼らは、国際科学財団の発展のために、ドイツの天文学者たちの健康のために、カール・メーサンガーの霊に、またどこかにいる回線網気違いどもに、乾杯した。だが、クリフォードとオーブが何にもまして乾杯したのは、ある若いイギリス女性の思いもよらぬすばらしい天才に対してだったのである。
11
クリフォードとオーブは、アルバカーキからボストンのローガン空港まで、早朝の弾道シャトルに乗り、離陸から三十分足らずで到着した。この日サラは病院から手が抜けず、ついてくることはできなかった。二人はモレリの秘書ににこやかに迎えられ、国際科学財団のエアモービルでサドベリーまで送ってもらった。
重力物理学研究所は、すばらしく芸術的に配置された機能的な建物の集合からなり、何色もの柔らかな色合いのプラスチックにくるまれて、あたりの松林の褐色やくすんだ緑色に対して、鮮やかだが上品に釣り合いのとれた色彩を点々とちりばめていた。研究所の敷地に接した大きな湖は、離着陸場へ降りてゆきながら眺めると、木々に囲まれた澄んだ空の一部のように見えた。だが、こうしたものよりさらに気持よいのは、針金のフェンスも武装した衛兵もいないことだった。
モレリは頑丈な体つきの精悼な男であり、インフォネットのスクリーンに映っていた映像からも想像されたように、明らかに家名と共に継承した浅黒い肌と濃褐色の服とをしていた。午前中の半ばを過ぎた頃、オーブとクリフォードは、湖に臨む彼の広い居心地のいい部屋に坐って、モレリから、彼やその部下の研究者たちが過去数年間やってきた研究の概略を説明されていた。彼は、一九九〇年代を通じて、素粒子物理学の多くの分野に従事してきたこと、自分の主要な専攻分野は粒子と反粒子の対消滅であることを語った。九〇年代の末頃に、彼は、粒子が自己消滅、つまり反粒子の存在とはまったく無関係な消滅をおこすような実験条件を設定できることを発見して、びっくりしたのだった。どうやってそれを達成したかをモレリがしばらく説明した後になっても、オーブはまだ信じきれない様子だった。
オーブは深い肘掛け椅子にもたれかかって、畏敬の念を隠そうともせずにモレリを見つめた。
「まだよくわからないのですが」と、彼はくびを振りながらいった。「つまり、粒子が反粒子と相互に対消滅をするのではなくて、自分だけで消滅するような条件を、実験室で現実に作りだせるとおっしゃるのですか? そんなことは、聞いたこともありません」
モレリは、いかにもおもしろそうな表情で、デスク越しにこちらを見ていた。「それが、できるのだよ」彼は、さも何でもないようにいった。「毎日のようにやっている。昼食の後で、そのやり方を見せに連れていこう」
「それにしても、信じられません」とオーブは食いさがった。「バークリーでは、誰もそんな話はしていませんでした。読んだこともありません……どういうわけで結果が発表されなかったんです? こういう研究は、もちろん大々的に発表されて然るべきです」
「その頃は、政府管轄の研究計画に従事していたものでね」とモレリが説明した。「研究全体が厳重な機密だった。もちろん、詳細はどこか誰にも手の届かない所に綴じこまれている……彼らのやり口はご存じだろう」
「ところが、この国際科学財団では、同じような研究を続けることができる……連邦の管轄下にないから」と、クリフォードが、窓の下にある椅子から口をはさんだ。「何となく……不思議な気がします」
モレリは唇をすぼめ、眉をあげて、どうやら返事をする前に言葉を選んでいる様子だった。
「さよう……われわれは必ずしも、ここでやっていることを、ことさらに宣伝しないのだよ。それが、この行動に出たときに、最初に覚えたことだった――当節では、干渉されたくなければ、注意を惹《ひ》かないことだ」
「でも、ここには誰でも自由に出入りできますよ」と、クリフォードは、ちょっとびっくりしながらいった。「噂が洩れないとは、驚きですね。つまり……ここで働いている人たちは、どうなんですか。外で誰にも話さないんですか」
モレリは、分別が語ることを許す以上の事実を知っている人間の持つ奇妙な微笑みを浮かべた。
「知ってのとおり、第二次大戦中に、イギリスは時々、絶対に最高機密である情報を普通便で送ったもんだ。とくに、敵がそれを手に入れようとして必死になっていることがわかっている時にはね。妙な話だが、何かが眼の前にあって、隠そうともされていない時には、そのまま通りすぎてしまうものなんだ……とりわけ秘密に対して神経過敏に条件づけされている人間は。われわれは、この種の原理に沿って……非公式にだが……運営されているといってもいいだろう。ここの人間についていえば……」モレリは、詳しくいう必要もないというように、肩をすくめた。「ああ、彼らは、すこぶる賢明だよ。そうでなければ、ここにはいないはずだ」しばらくして、彼は穏やかな口調でつけ加えた。「世界中の国際科学財団の施設で進行している研究の一部を知ったら、驚くと思うよ」
クリフォードは、この話題についてそれ以上の質問は望ましくないという謎を理解した。この会話の主題に戻るべき時だった。
「ここでなさっている実験のことを話しかけておいででしたが」と彼はいった。
「そのとおり」モレリは体をのりだし、眼の前の場所を片づけて腕をのせた。「もう一年というもの、誘導消滅の実験を大規模にやっている。きみたちが着陸した後で通りすぎた建物に――壁の外に大きな貯蔵タンクがあるのに気がついたんじゃないかな――その装置がおさめてあるんだ」
「あの建物全部がですか」とオーブ。
「うん、ひどく大きな機械なんだ。さっきいったように、ここではほんのちょっとした実験室のテストではなくて、大規模な消滅を研究している。とにかく、設備は基本的にはついさっき説明したようなものだ――われわれは物質粒子のビームを反応室に投射し、ここで先ほど説明した原理に誘導されて消滅がおこる。目下の仕事では、この過程に関連する一切のものの勘定をして、この現象の物理学をいっそう明らかにしようとしている。今は、あまり詳しくはいうまい――帰るまでには、自分の眼ですっかり見ることになる」そして、にやりとした。「われわれが秘密保時にいかに神経過敏になっているか、わかるだろう」
「これから、どんなことがわかるんですか」とクリフォード。
「そこが、きみにとって興味がありそうなところなんだよ、ブラッド」とモレリ。「それに、もちろんオーブもだ。いいかね、大規模なテストを始めてから、われわれは異常な発見をした――重力場を人工的に発生させられるんだ!」彼は一息いれて、何かいうことはないかというように、相手を見まわした。
「多数の粒子を消滅させる時には、重力場が検出されるということですか」クリフォードは、ゆっくりと考え深げにいった。関連は誰の眼にも明らかだった。オーブは、しばらく信じられないようにモレリを見つめていたが、それから急にクリフォードのほうに向き直った。
「おい、ブラッド!」と彼は叫んだ。「すごいじゃないか。まさにきみの理論が予想していたとおりだ。確かめる方法があるとは、思ってもいなかった部分だ」彼は身振りで教授のほうを指した。「ところが、彼はもう確かめてしまっているんだ!」
モレリは、さっそくオーブのいっていることを裏書きした。「粒子ビームは、反応室内の極めて小さな空間で消滅をおこさせられる。ビームをかなり高い強度にすると、消滅空間の周囲に、明瞭な重力場が検出される。ちょうど、そこに大きな質量が集中しているかのように……だが、もちろん、そうではない。つまり、この過程は、質量の重力効果をシミュレートするわけだ」
モレリの研究と自分たちのとの関連を悟ったクリフォードとオーブは、茫然としていた。すでにクリフォードは、純粋に理論的な考察によって、粒子の消滅と見えるものが実はK空間における回転、つまり粒子をK空間の観測不能な高次領域に移動させる回転であるという結論を導いていた。この出来事はK波のパルスを発生し、これが通常の低次空間に投射されれば、重力として検出されるのである。多数の消滅が同時におこれば、外見的には連続的な場が生ずることになる。
すでにオーブは、こうしたK回転の決定的な証拠を提出しており、彼の実例は単一の遊離した粒子の持続的回転を示していたが、それは実際には連続的な消滅と再創生の繰り返しだった。もっとも、これは、あまりにも微小だったから、想定されたそこからの重力パルスを検出することは、とても望めなかった。にもかかわらず、理論に対する肯定的な支持を与えたのだ。
そしていまモレリは、まったく別の独立な道筋を追究しながら、莫大な数の消滅をおこさせる方法を発見したのである。確かに、まさに理論から予想されるように、見掛けは一様な重力場がこの過程で発生することが発見された。もちろん、これは単なる偶然の一致ではありえなかった。
ツィンメルマンは、自分の行動を正確に認識していたにちがいなかった。
「障害になっていたのは、理論的側面だ」とモレリは二人に語った。「初めてこの手法を発見した時には、わたしはまったく別のことをやろうとしていた。それは主として偶然の賜《たまもの》だった。
それ以来、われわれはこの国際科学財団でその処理法に改善を加えてきたが、この過程の背景をなすものは、未だにあまりはっきりしていない。どうやって[#「どうやって」に傍点]現象をおこさせるかは知っているが、なぜ[#「なぜ」に傍点]おこるかは、わからないのだ」彼は手を拡げて、率直に肩をすくめてみせた。「たぶん、大部分は試行錯誤と閃《ひらめ》きを伴う推測と、少なからぬ幸運との結果といっていいだろう。ともかく、うまく働いているように思えるのだ」彼はクリフォードからオーブに視線を移し、今では明らかになったことを述べた。「そこで、ハインリッヒが、きみたち二人のやってきたことを話した時、わたしはもちろん興味を感じた……控え目ないい方だが。彼も関連がわかっていて、だからこそわたしに連絡してきたのだ。あとはご存じのとおりだ」
「そこがわからないんですよ」とクリフォード。「ツィンメルマンは、即座に関連を理解したのに、政府の誰一人として――たとえば局の人間ですが――今になってもそれをつきとめられないなんて」
モレリは、顔をしかめてみせた。
「きみのいおうとしていることはわかる」と彼はうなずいた。
クリフォードは、ともかく先を続けた。「連中は、わたしの書いた論文、とくに粒子消滅について述べている個所を、寄ってたかって詳細に分析しています。それに、あなたが国際科学財団に来る前にやった粒子消滅を誘発する研究の記録についての詳細を持っているはずです。それでも、この二つをいっしょにできないなんて……。正気の沙汰とは思えません。国中で数千人もが席を暖めているというのに。一日中何をしているんでしょう」
「やつららしいよ」とオーブが口をはさんだ。
「もっとも、さっきの重力シミュレーションの話は、彼らの記録にないことを、忘れてはいかんよ」とモレリが指摘した。「あれは、ここでやっている研究の中で、初めて出てきたことなんだ。だから、きみの論文が予測している物質消滅と重力パルスとの関連が、現実に実験的に証明されたかもしれないことを示すものは、何一つ持っていないのだよ」
「ええ、でもそうだとしても……」クリフォードは、どうしようもないというように、手を空中で振りまわした。
「同感だ」とモレリはうなずいた。「誰か抜け目のない者がいてもよさそうなものだ。だが……その敏腕家たちがどんなふうに立ちまわるかを、きみたちに指摘する必要は、まったくないと思うがね」彼の口調に含まれる皮肉は、ちょっと微笑を誘った。「ともかく話題をもとに戻すことにして、今まではどうやらわたしばかり話をしてしまったようだ。ここでの適切なポストについてきみたちを面接することになっているのだから、わたしは黙って、きみたちに自分のことや協力してやってきた研究のことについて、もう少し話してもらうことにしよう。もうわたしには、きみたちがここに不足しているものを埋める適切な人材のように思えるのだが、段取りは正式にしておこう。その後で、きみたち二人と個人的に会いたいといっているピーター・ヒューズのところへ、廊下を通って案内することにしよう。彼はサドベリー研究所の所長で、誰にせよ彼と話をせずに採用されることはないんだよ。それがすめば、三人の昼食の用意がしてある」
それから三十分ほど、クリフォードとオーブは、彼ら自身の研究の性格や、モレリの実験との関連性について、詳しく話した。話が進むにつれて、モレリは夢中になった。彼の反応からみて、面接の結果がどうなるかは、ほとんど疑問の余地がなかった。論議の終わり頃には、モレリは、サドベリー研究所を草分けとするような新しい大きな科学の分野に思いをめぐらしていた。
「ある意味では、これは、かつてあったことによく似ているともいえるぞ」真剣な討議が終わると、彼は椅子に深く坐り直しながらいった。
「どういう意味です?」とクリフォード。
「そうだな、一九世紀初頭のヨーロッパのファラデーその他の連中が、磁気と電気との関係を導いた時のことを、考えてみたまえ……」モレリは、クリフォードからオーブへと視線を移してから、説明した。「それまでは、われわれの知る唯一の磁気といえば、天然に生ずる種類のもの、つまり磁鉄鉱のような特定の岩石に現われるものにかぎられていた。さて、われわれは重力について、まさにそれと同じことを初めからやり直しているとは思わないかね」
「それ以前には、磁気を作りだす[#「作りだす」に傍点]ことができなかったという意味ですね」とオーブが答えた。
「それを出したり、消したり、その他どんな形ででも制御することができなかった。それはただ……そこにある[#「そこにある」に傍点]だけだった」
「まさにそのとおり」モレリは、烈しくうなずいた。「それはただ、そこにあるだけだった――物質の塊りと切り離しがたく結びついて。磁力が欲しければ、出かけていって、それを掘りだす。それ以外の方法はなかった」彼は言葉を切って、視線をクリフォードに向けた。「しかし……人人が電流やコイルといったものをいじくりはじめてからは、磁気を人工的に作れること、続いて、それを制御して大きくしたり小さくしたり、思いのままに出したり消したりできることを知ったのだ……」彼は腕を大きく拡げた。「そして、彼らの仕事から電気工学、そして後には電子工学という、科学の大きな分野が生まれた」
「これも同じようになると思いますか」クリフォードは、モレリのいうことに耳を傾けていたが、長期にわたる見通しに向かって心がすっかり開けたのは、これが初めてだった。モレリの研究に対する熱中は止めどがなく、その楽天性は果てしがなかった――それは、サドベリーでの研究が、研究者たちに確たる理論的な解釈を欠きながらも、なぜここまで前進したかを、ほぼ確実に説明していた。それは、クリフォードがつい最近去ったばかりの環境に対して、心をそそる対照を見せていた。彼は突如として、国際科学財団の、そしてモレリのチームの一員になりたいという鋭い欲求を自覚した。彼を惹きつけたものは、単なる仕事ではなかった。ここには、仲間になれるような何かがあると感じたのである。
「うん、たぶんなると思うよ」とモレリは二人にいった。「さっきいったように、類似性は極めて近いものだ。重力は、これまでただそこにあるだけで、物質の塊りと切り離しがたく結びついていたのではなかったかね。われわれは、それを天然に生ずる形でしか知らなかった。重力が欲しければ、出かけていって、大きな質量を探すだけだった。それ以外の方法はなかった……少なくとも、今までのところはなかった」
「だが、今では、あなたは自分の重力を人工的に作りだせる」とオーブがその先を続けた。
「そのとおり。われわれは自分の重力を作りだせるし、制御することもできる……しかも、そのために大きな物質の塊りを必要とすることもない。それは、実験室で、かなり容易な操作でできるのだ」とモレリ。「わたしにいわせれば、これは、確実にして現実的な広い工学的応用への洋洋たる道に通ずるものだ。きみたちにはどう見える? 興味があるかね?」
「興味があるかって?」オーブは、適切な言葉を探しながらクリフォードのほうを見、また向き直った。「とにかく、どこから始めればいいか、いってください」
「それ以上につけ加えることは、ありません」とクリフォード。モレリは笑みを浮かべ、制止するように手をあげた。
「そう簡単にいってくれるといいと思うんだが、とにかく面接の結果がどうなるか見ようじゃないか。きみたちが納得させなくてはならないのは、もうわたしじゃなくて、ピーターのほうだよ」
彼はデスクの向かいの壁にかかった時計に眼を走らせた。「そういえば、一、二分で行動をおこさねばならん。だが、出かける前に、ここでの最近の実験について、ちょっとだけ話しておこう――きみたちの食欲をもう少し増進させておくためにな」彼の口調は急に変わり、最後に取っておきの話題を出そうとしているのを感じさせた。二人は直ちに耳をすませた。
「もちろんわれわれは、反応室内での粒子消滅過程が、その過程のおこる空間のまわりに、どうやらアインシュタイン時空の湾曲をもたらすのじゃないかと思っていた。つまり、通常は大きな質量がひきおこす作用によく似ているのだが、これはきみたちにとってはもう初耳というわけじゃないな。ブラッドの理論的研究についてわたしが今までに理解したところでは、それがどうしておこるかがわかる――少なくとも定性的には、という意味だがね」
「あなたが実際にやっているのは、いずれにせよ天然にはおこっている現象を、数十億倍に増幅することだ」とオーブが補足した。
「なかなかうまい表現だ」とモレリ。「きみたちの話が理解できたとすれば、通常の質量の周辺にある重力場は、内部の粒子の微小な一部が絶えず自発消滅する結果として生ずる。いいね?」
「そのとおり」とクリフォード。「質量のうちの極めて微小部分だけが、重力場に何らかの貢献をします。……何なら重力的に活性といってもいい。大部分は、まったく不活性です。これらは空間を占め、体積は持っているものの、重力場には何も貢献していません。さきほどもいったとおり、これが古典的な考え方と決定的に違うところなのです――重力は静的な効果ではなくて、動的な効果だというところが」
モレリはうなずいて、それから明らかにものいいたげなオーブのほうに顔を向けた。オーブは、その議論をひきついでいった。「実は、あなたの実験は、まさにそのことの立派な証明なんです。あなたが効果的に果たしたことは、静的な質量を完全に解体することなんです。反応室の中で消滅する粒子は、重力的に一〇〇パーセント活性な質量と考えることができます。通常の質量と違って、一個残らず過程に参加するのです」
「あなたは、自然がともかくやっていることを、遙かに濃縮した形でやっているだけです」とクリフォードが口をはさんだ。「あなたが数立方センチの中に濃縮している毎秒の消滅数は、通常ならば……さあ、どうなりますか……」彼は肩をすくめて、掌《てのひら》を上に向けてみせた。「山全体か何かの中でおこっているくらいの数になるでしょう」
「そして、その結果、一様な重力場が観測される」とモレリが締めくくった。「うん、それがどうしておこるかがわかるといったのは、そういう意味だったんだ。これはまた、とりわけ、ビーム密度を増したり、狭い容積に集中したりすれば、どうして重力場の強さが増すかも説明する――どちらも、毎秒立方センチ当たりの消滅数を増すことになるんだ。そこで、これから話そうとしている話題に戻ることになる」クリフォードとオーブは、期待に満ちて待った。
モレリは続けた。「最近、われわれは、どこまでやれるものか……アインシュタインの測地線をどこまで曲げられるものかを知るために、極限ぎりぎりまで押し進めている。結果は、まったくすばらしいものだった――まるで予期もしていないものだったのだ。いいかね、諸君、われわれが、やってのけたものは、あまりにも強くて、消滅空間からは何ものも、光でさえも出てこない重力場だったのだよ。このためには、消滅空間を顕微鏡的な大きさにまで押しこめねばならなかったが、確かに効果があった。このレベルでの空間・時間の湾曲は極めて大きくなって、すべてが中心に曲がり戻ってしまうんだ。これを何というね?」
二人の若い科学者は、数秒の間(実際には、もっとずっと長く感じられたのだが)口もきけないほどたまげて相手を見つめ、その頭脳は相手の言葉の意味を把握しようともがいていた。確かに何十年もにわたって広く語られてきたことではあったが、それでも、まったく事務的な口調で、それが実際に現実のものとなり、サドベリーでの日常の研究の一部にすぎないと語られるとなると……。
「ブラックホールだ!」クリフォードは、肝をつぶしていた。「ここで人工的なブラックホールを作ったというんですか……」
「何とまあ」オーブは、ゆっくりと息を吐きだした。「ぼくも、無駄な時間潰しをしていたもんだ……」
モレリは、おかしさをこらえきれずに、笑みを浮かべた。
「きみたちがびっくりすると思ったよ。ここには理論家の腕ききはいないかもしれないが、それでも必ずしも停滞してはいないのだ」彼は二人を眺めまわしてから、うなずいた。「そう、十分な電力を使えば、人工的なブラックホールが作れる。ちっぽけなものだが、本物だ。だが、このブラックホールには、違うところもあるのだ。これを作るのに、途方もない質量は必要ないし、思いのままに出したり消したりもできる。どうだ、これまでにそんなブラックホールを開いたことがあるかね」
この言葉に対して、二人は黙って相手の顔を見つめるばかりだった。彼は何か質問でも出るかと、ちょっと待ったが、すぐには何も出そうもないのを見て、デスクの片隅に設けてあるディスプレイ端末装置のほうに向いた。
「しばらく考えていてもらおうかな」と彼はいった。「そろそろ向こうに行く時間だ。ちょっとビーターに連絡して、都合はどうか開いてみることにしよう」
クリフォードとオーブは、ピーター・ヒューズとの間で、彼らとしては満足がいき手応えのある会見をすませてから、二時間後にモレリと研究所の親睦サービス部で昼食をとっていた。この時分になると、モレリは、重力工学の将来のヴィジョンを生き生きと描きだしはじめ、二人の訪問者は、相手の創意と想像力に富む頭脳からいつ果てるともなく溢《あふ》れだすアイデアの奔流に圧倒され興奮していた。
「人工的な無重量状態ですって?」クリフォードは、茫然として繰り返した。「そんなことが可能だと、ほんとうに思いますか」
「ああ、この段階では確言できんよ」とモレリは素直に認めた。「だが、まあ仮にできたとしよう。輸送の問題には革命がおこるだろう。考えてもみたまえ――大きな荷物を造作もなくどこへでも……世界のいたる所へ……動かせるとなったら。物体を重力ビームにのせて川を越させることが可能だというのに、何で橋やなにかを建造することがあるかね? 道路やレールが誰に必要だろう? こういうものは摩擦を減らすために必要なだけであって、この方法なら摩擦は少しもないのだ――慣性が残るだけだよ」
「十トンの石材でも、片手で動かせるようになりますよ」とオーブが口をはさんだ。「何とたまげたな」
「あまり急いで運ぼうというんでなければな」とモレリ。「たいして加速度はつけられないが、それでも運ぶことはできるな」
「静的な重力場はどうです?」と別な可能性を思いついたクリフォードが訊ねた。「ほら――建築物などを支えるための。それもできると思いますか」
モレリは、テーブルに置いてあるポットから三つの茶碗にコーヒーを注ぎ足しながら、肩をすくめた。
「誰にわかるかね? できないわけがない。誰かができないと証明するまでは、何だって可能だ……違うかね。建築物だって……。そうとも――きっといつか、建築物を支える方法も思いつくだろう」
「やあ、そうなれば、建築学は一変するぞ」とオーブが呟いた。彼は、もっと大きな声で先を続けた。「荷重限界の心配も……負荷応力などを考えることもいらなくなる。思いのままの大きさや形の建物が――ありとあらゆるものが――空高く聳《そび》えさせられる。摩天楼が掘立小屋みたいに見えるようになることだって、夢じゃないぞ。すごいな」
「建物……摩天楼……」モレリは腕を拡げて、彼のヴィジョンは果てしないことを示した。「建物なんぞ小さい小さい。都市を丸ごと考えるんだ。それを空高くまで繋いでいって、今まで夢にも思わなかったようなものを作りあげるのさ。できないわけがないんだ」
「できないわけがない……」クリフォードは、出会ったばかりのこの非凡な人間が持つ自由奔放な夢想が、自分にも感染するのを感じた。思いもよらぬ新しい可能性が心にくりひろげられていくにつれて、彼の夢はモレリの途方もない都市とともに、空高く舞いあがった。
「じゃ、土木はどうです?」と彼はいった。「山々が文字どおりに動かせるかもしれませんよ。惑星全体を刻み直して……」
「山々を動かす? 惑星を刻み直す?」モレリの声は、そのヴィジョンが果てしなく膨らむにつれて、大きく響きわたった。「気宇壮大になれ、ブラッド! 惑星を動かせ! 太陽系を刻み直せ! 知っているかね、あの空の彼方には小惑星があって、今日のレベルでの世界の需要を、これから二万年も賄《まかな》うだけの鉄を含んでいるとされているんだ。もっとも、小さなかけらを運んでくるにも、爆弾一個分が必要だ。それなら、丸ごとそっくり運んできて、すぐ近所でばらせばいいんだ。人口問題? 別の惑星を壊して、そのかけらを、この辺の快適な暖かい太陽公転軌道にのせればいい。それで当分はしのげるだろう。どうやって惑星を壊すか? 答は重力工学だ!まわりに不均衡な重力場を仕掛けて、自転をどんどん速めて、分裂させるんだ。簡単なものさ! もっと先を聞きたいかね」
クリフォードとオーブは、ただ坐って、眼を丸くしているだけだった。いかにも、どれ一つとして、おこりえないものはなかった。ヴィジョンと、それを実行する意志とを持つ人々がいるかぎり、人類の事業の新しい時代は、現実のものになるのだ。そして、ことによると、そのような未来へ向かっての最初の控え目な一歩は、いまこの瞬間に、他ならぬこのサドペリーで、踏みだされているのかもしれなかった。何世紀にもわたって、単なる夢でしかなかった事柄が、彼らのやっていることによって現実のものになるかもしれなかった。
できないわけがないのだ。
昼食が終わると、モレリは、GRASER(強制消滅反応による重力増幅機)を二人に見せておくために、研究所の反対側にある巨大な建物に案内した。彼らは、何の変哲もない部屋が並ぶ区域を通り、そこから廊下や計測実験室の迷路を抜けて、研究計画の中枢部に入った。
金属手すりのついたキャットウォークに立って、窓のないコンクリート壁の大きな部屋を見下ろすと、そこには機械類、電子装置の棚、ケーブル、パイプの組み合わせなどが、所狭しとばかり雑然と詰めこまれていた。中央には、球形の金属製装置が、鉄格子に囲まれ、電気配線を垂らして、混雑の中から聳《そび》え立っていた。直径約一メートルの銀色に輝く管が、球体と巨大で複雑な何かの装置とを繋ぎ、それはまた向こう側の壁を抜けた奥に設けられた大きな装置の一部にすぎないらしかった。五人ほどの技術要員や科学者が、床の上でさまざまな仕事をしていた。モレリは、その管を指して、あたりのこもった物音にかき消されないように、前より大きな声でいった。
「ビームは、隣の部屋にある発生機で作られて加速される。出発物質には水素を使っている。その原料は、ここに入る時に気がついたと思うが、建物の外側にある大きなタンクに貯えられている。あの管は、ビームを粒子消滅室に導くためのものだ。実際には、ビームそのものが通過する管の本体は、直径十五センチしかない。全体としてあれだけの太さになっているのは、主に集束用や制御用のコイルが囲んでいるせいなんだ。粒子消滅室は、あの球内に遮蔽されている。この過程の副産物として、かなりな量の熱や放射が発生するのでね」
「いま、あの中にブラックホールができているんですか」とオーブが訊ねた。モレリは、くびを振った。
「今はそうじゃない。きょうの午後は、ちょっとした校正テストをしているだけだ。来週の火曜日に来られないのが残念だな。その日に実験することになっているんだ」
クリフォードは、手すりに寄りかかって、考えこんでいる様子だった。しばらくして、彼はモレリのほうに向き直った。「さっき、あなたがいった放射のことですがね、アル――それは消滅室の中でおこる損失によるだけのものか、それとも粒子消滅過程そのものから生じるのか、どっちです?」
「もちろん、いくらか損失はある」とモレリは答えた。「その分を計算するのは、まったく簡単だ。だが、確かにそれ以外にもそれでは説明のつかない量が残っていて、粒子消滅過程からきているにちがいないのだよ」
「じゃ、重力効果が発生するだけでなくて、別の放射も生じるわけですね」とクリフォードは念を押した。
モレリは、うなずいて答えた。「そのとおりだ。今朝の話から考えれば、君のK理論から予想されることだな。なぜだね――何を考えている」
クリフォードは、質問が耳に入らない様子で、先を続けた。「ブラックホールになるまで実験を進めたら……その時はどうなりますか」
モレリは、ほほうといった表情で、満足そうにうなずいた。「きみからそのことが出るとは、奇妙な暗合だな。それこそ、われわれが頭を悩ませている問題の一つなんだよ。あの中にブラックホールをこしらえると、ホールそのものから放出される一定の放射束が検出できるんだ。古典的な相対論によれば、そんなことはありえない。ブラックホールからはエネルギーも、放射線も、光も、何ものも脱出できないはずだ。ところが……」モレリは肩をすくめて、腕を大きく拡げた。
「このとおり、疑問の余地はない」
「ホーキング効果かな」とオーブ。一九七〇年代に、ケンブリッジのイギリス人の理論物理学者スティーブン・ホーキングによって初めて提唱された、量子力学的なトンネル効果というアイデアのことだった。この理論は、ブラックホールが結果的には放射を発することになるような仕組みを仮定していた。このためには、ブラックホール近傍のどこかで粒子・反粒子対が自発的に対生成することが必要だった。しばしば、この対の一方の粒子がホールに落ちこみ、もう一方が反対方向に脱出して、遠方の観測者に観測されるのではないか、というのだった。観測される最終結果として、見掛け上はホール自身が粒子の放射束を発していることになるわけである。
「それも考えた」とモレリ。「きみのいうとおりかもしれんが、まだ正否を決定するほどのデータがとれているとは思えんのでね。それもわれわれが追究しようと思っていることの一つだ」彼はクリフォードを見た。「きみの理論だと、どうなるね?」
「ブラックホールのK物理学に本気で取り組んだことはないんですが」と、クリフォードは手すりから向き直って、他の二人と顔をあわせながらいった。「でも、そういわれてみると、おもしろい問題です。K理論によれば、二つの高次領域の関数が相互作用して一つのK関数となる時、一個の粒子が創生されたように見えます」
モレリは、片手をあげて遮《さえぎ》った。「ちょっと待った。高次領域……というのは、通常の時空の外にある高次の存在のことだ。そうだね?」
「そうです」とクリフォード。「一つのK関数は、高次領域と低次領域とにまたがって存在します。さて、あの反応炉の中でおこる大量の粒子消滅からは、高次領域の粒子束が生じる――何なら一種の放射といってもいいが、通常の空間では観測できない。この放射は通常の時空の制約を受けないから、ブラックホールから脱出できる」クリフォードは、一人でうなずいた。「うん。ホールの外側には高次粒子束がある。両者は互いに相互作用してK粒子を発生し、これは観測可能である。われわれに見えるものは、外見上は自発的に出現する粒子であって……ホールから通常の放射が出てくるように見える。さっきもいったとおり、細かい点を計算したことはないんですが、定性的にはこの理論でうまく説明できそうです」
「じゃ、これには二とおりの説明が可能なわけだ」とモレリ。「ホーキング効果とK理論とね」
「そういうわけです」クリフォードは満足そうだった。
「前者は通常の量子確率を含んでいる。後者はそうでなく、代わりに……媒介物としての……高次放射についての議論を含んでいる」
「そうそう」
モレリは、ひどく興味を感じたようだった。「どちらが適合するかが調べられるような何かの実験テストを考えだせたら、ちょっとしたもんだが。何か知恵はないかね」
「むずかしいですね」とクリフォード。「どちらにせよ、観測されるべきものは同じになるでしょう。たぶん、唯一の方法は、それぞれの理論が予想する放射の観測強度を正確に計算することしかないと思います。ホーキング効果については、もう何人もの人がやっています。ぼくに考える時間ができたら、もう一方についても何かの数字が出せると思いますよ。そうなれば、正確な測定をやって、どちらがよく合うかを確かめるだけのことです」
「何か忘れていやしないか」とオーブ。
「何だい?」
「高次放射さ。これが二つの理論の大きな違いだ。きみの理論は、あの装置の中に高次放射の強い線源があるはずだという。もう一つの理論はそうじゃない。じゃ、なぜ直接それを調べないんだ」
クリフォードは、怪訝《けげん》な顔で相手を見た。「どうやって調べるつもりだ。通常の時空には存在しないんだぞ。われわれの宇宙とは、いかなる形ででも相互作用しない。K関数を作る時だけは別だが、それはあたり前の形態のエネルギーとして現われるだけだ。だから、高次放射の存在は、間接的に推論できるだけだ……そのことをずっと話してきたんじゃないか。これに直接の反応を示す装置は、まったく存在しないんだよ」
「そこをいっているのさ」とオーブ。「そういうものが作れると思うんだ」
「作れる?」
「うん、これでもう二日、そのことを考えているんだ。初めてきみに通話した時に見せた写真を覚えているだろう。あれは、高次空間と通常空間との間を連続的に回転して、絶えず消えたり再出現したりしている粒子の飛跡だった」
「うん。それで?」
「だから、回転のモードは、高次放射に影響されるはずなんだ。つまり、観測できる形でわれわれの宇宙と相互作用するわけだ。この原理に基づいた装置が設計できると思うんだよ。基本的には、入射する高次放射が完全なKスピンを持つ粒子の飛跡に及ぼす作用を測定できるような、特殊なタイプの電離箱ということになる。このアイデアを試してみるには、強力な高次粒子源が必要なことはわかっていたんだが」彼は身振りで、下の球形の反応炉のほうを指してみせた。「どうやら、それができたらしいのでね」
クリフォードは、肝をつぶして相手を見つめた。「高次放射検出器か……。冗談だろう」
「冗談なもんか」
「どのくらい時間がかかると思うかね」と、興味をそそられたモレリが、口を出した。
「いつから始めろとおっしゃるかに、かかっていますね」オーブは、恥ずかしげもなく、にやにやしながら答えた。相手の腹を探るなどというのは、性に合わなかったのである。
研究所を出る頃には、もう夕方になっていた。モレリは、二人をローガン空港まで送るエアモービルの待つ離着陸場までついてきた。二人が機内に入る直前に、彼は一人ずつ握手した。
「さて、わたしは、遠まわしにいったりして時間を無駄にはしないことにしている。きみたちには、公式文書や何かが送られることになるだろうが、心配はちっともしていない。きみたちと仕事をする日を楽しみにしているよ。すごいチームができるぞ」
彼らは、クリフォードの家に九時に着いた。サラは、知らせを聞いても、あまり意外な顔はしなかった。彼女はもう外出の支度をすませていた。
12
マサチューセッツ州から戻った翌日、オーブは早くも検出器の設計に関する予備的なメモの作成にかかっていた。その晩は徹夜で仕事し、階上の端末装置にかじりついて、メモや図表を山のように群みあげたが、朝がきても、まだほんの小手調べという顔つきだった。
その同じ朝、サドベリーからの公式の招請状が届き、即座に受諾された。オーブは、午後遅くには、インフォネットを通じて研究所にほど近いコンコードにアパートを見つけ、夕方には荷造りをすませて出発するばかりの態勢だった。
「これが、売るべき家があったり、結婚していたりすることの、困った点の一つなのさ」彼は、戸口でクリフォードやサラに別れを告げながら、にやりと笑った。「いつもいうように、身軽に旅をするのが、性に合っているんだ。きみたちの雑用が片づいたら、東部でまた会おう」
サラは、彼が行ってしまうと、ドアから振り返って、呆れたようにくびを振った。
「何ていう人でしょう」と彼女はクリフォードにいった。「新しい仕事につくのにあんな夢中な人は、初めて会ったわ。何週間も眠らないんじゃないかしら」
「まあ、アルに会ってみることだな」とクリフォード。「あの二人が組んで本格的に始めたら、何がおこることやら。あれがもしライト兄弟だったとしたら、第一次大戦に超音速ジェット機が登場していたことだろうよ」
一ヵ月ちょっとして、クリフォードとサラは、サドベリーにもコンコードにもほど近いマールバロの近郊にあるすてきな家に引っ越した。サラは、前もってマールバロ総合病院にポストを見つけていたし、今度ばかりは何もかも順調にいきそうだった。
クリフォードが研究所に出て、ここでの第一日目の仕事を始めようとした頃には、オーブは早くもモレリを説き伏せて、研究計画を補佐してくれる専任の技術要員や下級科学者のチームを割り当ててもらっていた。そのグループとは、昼前に、非公式な会合の中で顔を合わせた。この会合は、とんとん拍子に進んでいる検出器の設計作業の進捗状況を定期的に点検するために、オーブが組織しているものだった。
「ブラッド、これが仲間だ」とオーブがいい、クリフォードは、テーブルのまわりからとんでくるやあ≠ニいう挨拶にこたえて、うなずいた。「アリス、サンドラ、ペニー、マイク、ジョー、それからアート」オーブが名前をいうと、彼らは一人ずつ身振りでそれに答えた。「諸君、これがブラッドだ――この一ヵ月ぐらいの間、話をしていた男だ。これでチームの全員が揃ったから、仕事にとりかかろう」オーブは、自分の前に置いてあった書類挟みを開いて、行動の重点≠ニ題した書類を抜きだし、その一枚を説明抜きでクリフォードに渡すと、自分の分にざっと日を通した。クリフォードが部屋に入ってまだ一分にしかならないというのに、彼らはもう仕事にかかっていた。これは驚きだった。オーブの熱意が、いつもこんな調子でみんなに乗り移っていくのなら、研究計画が大車輪で進んでいるのも不思議ではなかった。今までクリフォードは、なぜかオーブを有能な指揮者と感じたことはなかった。あの風変わりな外見の裏に、このほかどれだけ多くの思いがけない才能が潜んでいるのだろう。
「ここにモード・ホールド・シンセサイザー≠ニある」とオーブがいった。彼は顔をあげた。
「マイク、どんな具合だ?」
「下の実験室で、基礎回路がブレッドボードに組み立ててあります」ペンドルトン・シャツに緑のジーンズといういでたちの赤毛の青年が、向こうの端から答えた。「高周波端はもっと正確な同調が必要ですし、まだいくつか漏れ漂流キャパシタンスがあって、原因をつきとめなければなりませんが、大丈夫だと思います。あと……そうだな……もう一週間ください」
「次の木曜に再度点検か」とオーブは呟き、書類の欄外にメモを記した。「いいかね?」
「はい」
「モード翻訳ルーチン=Aアリス?」オーブは次の項目を読みあげ、娘たちの一人を探るように見た。
「ちょっとてこずっています」と彼女は答えた。「位相関数の数学的誘導について、もっと知りたいんですが」
「それじゃ、ちょうどぴったりの男が加わったというもんだ」とオーブはいい、クリフォードのほうを眺めた。「ブラッド、解散した後でいっしょに検討してくれるかね」
「いいとも」とクリフォードが答えた。
「インターコンチネンタル・セミコンダクターズ社の特製アナログICチップ」と、オーブは先を続けた。「こいつのことで、少しは運が向いたか、ジョー?」
「だめです」とジョー。「予約リストは六ヵ月先までつまっています。彼らにも、どうしようもないんで」
「ちぇっ!」オーブは、いらいらして、テーブルを指で叩きはじめた。
「でも……がっかりしないでください」とジョーがつけ加えた。「ボストンのジャンク屋で十個ほど見つけて、明日ペニーが買いに出かけるはずです。そのほうが安いし」
「すごいぞ」オーブは、また明るい顔に戻った。「次……ペニー……六十メートルの低損失ケーブル……」
会合は、終始、矢継ぎばやな調子で進められ、四十分足らずしか、かからなかった。それが終わる頃には、クリフォードは完全に雰囲気に溶けこんでいた。クリフォードとオーブが初めてサドベリーを訪れた日、二人が帰ろうとする直前にアルがいったように、これはすごいチームだった。
「ここにいると思ったんで、コーヒーを持ってきましたよ」背後から声がして、クリフォードは、はっとスクリーンから振り返った。ジョーは部屋のドアのすぐ内側に立って、湯気の立つ茶碗を手にしていた。時刻は真夜中の二十分前だった。クリフォードがサドベリーに来てから、三ヵ月たっていた。
「きみは読心術師にちがいないな、ジョー」とクリフォード。「ありがとう、そこに置いてくれ」
彼は、椅子のすぐ隣のテーブルの、紙挟みや書類が雑然と山積みになった間の場所を指した。「どうしたんだね。近頃はきみも眠れないのか」
「例の安定器のサブシステムを点検するのに少々夢中になっていたもんで」といいながら、ジョーは、茶碗の一つを下に置いた。「きょうはオンラインでテストできる最初のチャンスだったんですよ。結果が待ち遠しくてね」
「どんな調子だね」とクリフォードは訊ねた。
「よさそうですよ。今頃は微分補償ができあがった頃だと思います。いまオーブとペニーが下で調整していますが」
「ここでは誰も家に帰らんのかね」クリフォードは、ため息をつきながら訊ねた。「なあ、ジョー、われわれに超過勤務手当が出るとしたら、みんな今頃は隠退できているはずだぞ」
「ああ、そうね……そうだとしても、みんな、これ以外の時間の使い方を忘れちまっているんじゃないですかね」とジョー。「それに、このほうがおもしろいもの」
「今でも好きかね。それはいい」
「野球以上ですよ」とジョー。「あんたのほうはどうです……うまくいってますか」彼はクリフォードの横の空いた椅子に滑りこみ、クリフォードが仕事をしていたスクリーンに出たままになっている、一連の方程式のほうを差した。「たとえば、ここにあるのは何です?」
クリフォードはスクリーンに視線を戻し、椅子にゆったりと坐り直した。「オーブが作っているこの検出器が働けば、高次放射に直《じか》に反応を示す装置が初めてできることになる。直接には知りえない領域でおこる原因の結果としてわれわれの知る宇宙におこる影響を、現実に観測できるようになるんだ。これは極めて重要なことだ」
「ええ、同感ですよ」と、ジョーはうなずきながらいった。「で、あのスクリーンにあるのは何です?」
「さまざまな消滅速度、容積、ビーム出力……といったようなものに対して得られるはずの高次放射のパターンを正確に予想するための、理論的解析の一部だよ」
「ああ、わかった」と、ジョーは、少し考えてみてからいった。「もとになる確実な数字が少しわかれば、検出器を使って予想をテストできるわけだ。オーブの装置の読みが計算どおりのものになれば、理論には非常に確実な根拠ができることになる」
「そのとおり」とクリフォード。「それが先へ進むための唯一のモットーなんだよ、ジョー――絶えず点検せよ≠ニいうのがね。自分の主張に確信を持つには、これがぼくの知る唯一の方法なんだ。それが科学というものさ」
「あんたは、二次放射に関することにも、関係していると思ったんだが」と、ジョーは、自分のコーヒーをゆっくり畷りながらいった。「ホーキング効果とかいう……そうじゃありませんか?」
「そうだよ」とクリフォード。「だが、それはまた別の話だ。粒子消滅過程が、二次効果として、大量の古典的な通常放射を放出することは、もうわかっている。まだはっきりしないのは、それがどうやっておこるかなんだ。古典的な量子力学は、ホーキング効果仮説という形で、一つの解釈を出している。高次粒子の間での二次反応というのが、もう一つの解釈だ。ぼくがやろうとしているのは、仮に高次粒子による解釈が正しいとして、観測されるべきパターンを具体的に導きだそうというわけなんだ。すでにアルは、ホーキング効果による予測がどの程度に有効かを知ろうとして、ブラックホール状態での実験をいくらかやっている。それが、どうもあまりよく合わないんだ」
「ほう」ジョーは、興味を感じた様子だった。
「そうなんだよ」とクリフォード。「量子力学が予想するよりも遙《はる》かに多くの放射が、ホールから検出されたんだ」
「じゃ、もう一つの解釈のほうがうまくいくと思っているんですね」
「まだわからない……モデルの計算が終わるまでは。その時が来れば、それをテストするだけのことだ。これには、オーブの検出器は必要ないんだ。というのは、ここで問題になっているのは通常の放射であって、これは検出器がなくても検出や測定ができるんだよ」
「もう一つのほうはどうです――純粋の一次高次粒子のパターンのほうは」
「これは別問題なんだ」とクリフォード。「これを測定するには、オーブのあの検出器が唯一の手段なんだ。だから、彼が成功するように祈ろうよ」
三ヵ月後、ピーター・ヒューズとアル・モレリは、GRASERの球形反応炉の下に立ち、この目的のために片づけられた床の上に順次組み立てられてきた電子機器の棚、キュービクル、もつれた電線などに取り囲まれていた。それらは、一定の目的をもって設計されたというよりは、でたらめに寄せ集められて奇跡のようにまとまった、がらくた装置の山のように見え、ありとあらゆる要素や部品から成り立っていた。それはオーブが手当たりしだいの材料を使ったり、代用品で間にあわせた結果であって、これも彼の才能の一つであることを、クリフォードは発見したのだった。オーブは、彼らを前にして、クリフォードや他のチームの老たちが真剣に見守る中で、泰然自若として何か最後の指示をコンソールに打ちこんでいた。
「ビームは作動中だ」とモレリがヒューズに説明した。「だから、反応炉では、いま粒子消滅過程が進行している」
「どのくらいの出力なんだ?」とヒューズ。
「ブラックホールだ」とモレリ。
「じゃ、純粋の高次放射でテストするわけか」ヒューズは興味をそそられた様子だったが、同時に、まわりの雑然とした途方もない装置の集合体に、疑わしげな眼を向けた。
「最初の本番テストなんだ」とモレリ。「だからこそ、きみを呼んだんだ」
モレリは、オーブがコンソールから半ば向き直って、ひどく不機嫌な顔をしているのに気がついた。「どうした」とモレリが声をかけた。「だめなのか」
オーブは、今まで操作していた鍵盤の上のスクリーンを差した。「どこかが狂ってるんです。ハードウエアの欠陥か、初期設定ルーチンの不備ですね。回路が切れていて、命令翻訳プログラムに通じていません」彼は深いため息を吐きだして、反対側を向き、落胆した顔を眺めまわした。
「諸君、残念だが、きょうのショーは中止だ。来週これるかね?」
そして一週間後。
「どこかで何かが故障している……と思いたいんだが。システムはどこも悪くないのに、読みはゼロのままだ。ということは、診断テストにひっかからない不明の欠陥があるか、それとも高次波動が存在しないか、ということになる。ブラッドの理論のために、前者であってほしいもんだ」
ヒューズとモレリは、出口のほうへ歩いていった。「いったい、あの寄せ集めをどうやって故障検査するというんだね、アル」とヒューズが小声でいった。「まるで爆撃されたコンピューター工場とコンバインの合の子に見えるがね」
「うん、しかし彼らはあれを六ヵ月で完成したんだし、それも乏しい資金でだ」とモレリが答えた。
「初期故障は当然だ。わたしなら、まだまだあの連中に賭けるよ」
翌日の朝の三時半、オーブは信号処理サブシステムのキュービクルから顔を出して、小さな銀色の物体を意気揚々とみんなに見せた。クリフォード、フィル、アート、サンドラは、何時間にもわたって、いま検出器のまわりに散在している回路図や配線リストを調べてきたために、眼を真っ赤にしていた。
「第三微分への交流信号経路が切れていたんだ」と彼はいった。「診断テストは直流を検査していただけだった。考えてみろ――たった一個のやくざな開放コンデンサーに、これだけ手こずらされるなんて。いいかげん投げだしたくなるぜ」
こうして、その同じ日の遅い時間に、ピーター・ヒューズとアル・モレリは再上演を見物すべく、再びGRASERの建物に戻ってきた。オーブが最後の指令系列を打ちこみ、チームの者たちが待機し、固唾《かたず》をのんで成功を祈りながら見守る中で、今回は主コンソールの表示スクリーンに一連の数字が現われた。オーブは歓喜の叫びをあげて、椅子に坐ったまま振り返り、ヒューズやモレリが立っているほうに向いた。
「そら!」彼はスクリーンを気違いのように指しながら叫んだ。「反応してる! 検出器が反応を示してる! あの読みは、純粋に一〇〇パーセントの高次放射です」
ピーター・ヒューズは、満面に喜悦の笑みをたたえながら、前に進んで、ディスプレイに見入った。
「彼らは、やってのけたぞ、アル!」と彼はモレリを振り向きながら叫んだ。「何ともはや……ほんとうに大当たりを取ったんだ」
モレリは出ていって、信じがたいようにスクリーンを見つめた。
「あれがほんとうの測定値だということは、絶対に確かかね」と彼はオーブにいった。「間違いなく高次放射か。二次反応か何かを間接的に測定しているんじゃないだろうね」
「これほど確かなことは、ありませんよ」オーブは、疑問の余地もないような口調でいった。
「ここに測定されているものは、あそこのブラックホールのまん真中から直《じか》に来ているんです」
いわんとすることがはっきり伝わるように念を押そうとして、彼はさらにつけ加えた。「しかも、あの中からここまで到達するのに、通常の時空の次元などはまったく通らないのです。K空間の高次領域を通ってくるんですよ」
ピーター・ヒューズは、眉をひそめて考えこみながら、じっとスクリーンを眺めていた。やがて、オーブの袖を軽く引くと、眼の前のディスプレイを差した。
「もし、あのデータが、通常の物理学には知られていないK空間の領域を通ってくる高次波動を示すものなら、それを測定するのに、通常の物理学の単位はどれも使えないことになる」
「まったくそのとおりです」とオーブ。
「思ったとおりだ」とヒューズ。「じゃ、そうだとすれば、あの数字は、どういう単位で表わされているんだね」オーブは、彼に向かって相好をくずした。
「われわれが、この目的のために、とくに定義した単位ですよ。純粋な高次現象を測定するために定義された最初の単位です」
「何という単位だね」とヒューズが訊ねた。「まだ名称は考えていないのかね」
「考えてありますとも」オーブは、ますます嬉しそうな顔になった。「ミリオーブですよ――決まってるでしょう」
最初の大きな山は越えた。高次放射の存在が明確に証明されたばかりでなく、それを装置によって検出し測定する手段が発見された。もちろん、こうした成果によって研究チームの意気はあがったが、この新しい知識を活用すべく実験がさらに行なわれるにつれて、クリフォードは、理論面でぶつかった困難にますます苦しんでいた。なるほど、検出器によって、高次放射の存在および性質に関する予測には完全な証明が与えられたが、二次放射(通常の電磁放射)を測定すると、彼の数学モデルにはどこかに欠陥があることが、繰り返し示されるのだった。測定された放射量は、理論が予測するよりも常に遙かに大きく出たのである。ある晩、地元のホテルの一つにあるバーで二人が軽く飲んでいた時、彼はいつの間にかサラにその問題を説明していた。
「ほんとうに知りたいか」彼は坐っていた仕切り席のテーブル越しに、身をのりだしながらいった。サラは、その肘が届く寸前に彼のグラスをさっとどけて、被害を未然に防いだ。「何しろ、ちょっと専門的なんでね……どう説明していいか、あまり自信がないんだ」
「ほんとうに知りたいのよ」と彼女はいった。「何かがうまくいってないことはわかるし、それが何か、少しは知りたいわ。とにかくやってごらんなさい――わたしは興味があるんだから」
クリフォードは腕を前のテーブルの上に組み、ちょっとうつむいていたが、それから顔をあげると、話しはじめた。「前に、K空間、高次空間……といったような話をしたことがあったね。まず最初に、そのことをどこまで理解しているか、いってごらん」
「ご褒美をくれる?」彼女は期待するように訊ねた。
「きょうはないよ。ただテストするだけだ」
「いいわ」と彼女はいい、ちょっと考えた。「わたしの理解するかぎりでは、わたしたちのまわりの世界には、眼に見える以上のものがあるということ。前に、ふつうの世界は一種の影≠フような存在だといわなかった? 何か大きなものの投影≠セといったように思うけど。ちょうど、壁に映った影が、現実の世界の立体的なものの平面の世界に投影したものであるように。そんなふうなことじゃなかった?」
「だいたいは合っている」と、彼はうなずきながらいった。「われわれは空間と時間との中でおこっていることを知覚できる。つまり知ることができるんだが、それは、いずれにせよ、同じものの違った側面なんだ――」
「四つあるんじゃなかった?」と彼女が口をはさんだ。「次元がね」
「そうだ。少なくとも物理学では、ずっと四つの次元を考えてきた。ところが、実はもっとあったんだ……具体的には、六つなんだが」
「そこが、わけのわからないところなのよ」とサラがまた遮《さえぎ》った。「四つなら考えられるわ。でも、六つですって……だめだわ。あとの二つは、どこにあるの?」
「そこが肝腎な点なんだ。高次の次元を知覚することは、誰にもできない[#「できない」に傍点]……知覚によっても、装置によってもだ。それを知るすべはまったくない……ちょうど壁面にいる影の住人≠ェ、自分の平坦な世界の外の上も下も知らないのと同じことだ。彼は、その世界の外へ出られないだけでなく、その外を見ることもできないから、そういう言葉は何の意味も持たないんだ」
サラは手をあげて、彼がその先へ進むのを止め、彼がいったことを反芻《はんすう》しながら飲物を少しずつ飲んでいた。やがて、彼女はグラスを下に置いた。「どこか聞きそこなったのかもしれないけど、もしあなたのいったとおりなら、それがどうしてあなた[#「あなた」に傍点]にはわかるの……高次の次元が。たったいま、誰にもわからない、といったように思うけど」
「うむ……」彼はテーブルの上をじっと見つめた。「問題が専門的になるのは、そこのところなんだ。余分の次元を仮定すれば、素粒子レベルにいたる多くの物理的過程についての計算の辻褄があうようになり、そうでない場合には辻褄があわない、といっただけではだめかね。これで満足できないか?」
「それで満足するしかないとして、それでも、仮定する≠ニいったわね。それじゃだめなんでしょう。そういうことを証明[#「証明」に傍点]できるはずなんじゃないの」
「まったくそのとおり!われわれはそれをやろうとしているんだが、そこで問題にぶつかっているんだよ」
彼女は、拳の上に顎をのせて、またいった。
「なるほど――おもしろいわ。話して」
「いいとも」と彼はいった。この会話が楽しくなりかけていた。「ちょっとゲームをやろう……」
「え? みんなの前で?」
「まじめな詰だよ。ここに平らな世界がある」彼はテーブルの上を指した。「われわれが立体的な三次元の住人であることを忘れて、ついさっきいったように、この宇宙にいる影の住人≠セと想像しよう。さて……」彼は、二人の間に置いてあるグラス敷きの一枚を指した。「これはわれわれの平らな宇宙に存在する物体だ……厚さはまったくない。いいね」
「いいわ」と彼女は答えた。
彼はグラス敷きをとりあげ、それを垂直に立てて、端だけがテーブルに触れるようにした。
「いま回転したので、これはまだ存在はしているが、われわれ影の住人≠ェ知らない次元に完全に入ってしまった。われわれには、この物体がどれだけ見えるだろう?」
「厚さはまったくない、といったわね」と彼女は念を押した。
「そうだ」
彼女は肩をすくめて、指を拡げた。
「少しも見えない。消えてしまったわ」
「まさにそのとおり。テーブルの表面は低次空間……つまり通常の空間だ。上下の次元は高次空間であり、この両者がいっしょになるとK空間になる。わかるかね」
サラの眼には、俄《にわか》に理解の曙光がさした。
「ちょっと待って。その先をいわないで」と、彼女は興奮していった。「自分でいくらか肉づけできるかどうか、やってみるわ。それをただ回転するだけじゃなくて、ずっとぐるぐるまわしていけば、影の住人≠ヘ、それが連続して消えたりまた現われたりするのを見ることになるんじゃない? オーブがバークリーにいた頃、オーブとあなたが夢中で話していたのが、それなんだわ……あなたがK空間回転と呼んでいたものね。彼が見せた写真は、素粒子がそれをやっているところだったんでしょう」
「まったくそのとおり」とクリフォード。「まさにそれをやっていたんだ。しかも、あれは、そういうことが確かに現実に存在するという、最初の具体的な証拠だった」これにはサラは何もつけ加えることがなく、先を聞きたがっている様子だったので、クリフォードは話を続けた。
「さて、ここに二つの物体があって、どちらも完全に高次空間にあるとする……」彼はもう一枚のグラス敷きをとって、前の一枚の横に立て、二枚ともテーブルに垂直に立っている状態にした。
「影の宇宙……つまり通常の宇宙からは、何も見えない。いいね」
「いいわ」とサラが答えた。
「さて、これが衝突して、片方あるいは両方ともが倒れたとする……」彼はその動きをやってみせ、彼女にその先をいわせた。
「わたしたちには、一枚または二枚が、どこからともなく現われるのが見える」と、彼女は即座にいった。「あら、おもしろいわ。もっと話して」
「うん、そのとおりだ。実は、アル・モレリが作った機械というのは、こういったことをやらせるものなんだよ。あの中では、たくさんの粒子が通常空間から高次空間にとばされて……消えるんだ……」
「それで重力ができる」
「そうだ。あれはまた、純然たる高次空間粒子を大量に発生するが、それは検出できない――というか、オーブが検出器を作るまでは、検出できなかったわけだ……」彼は、サラがまた合図をしているのに気づいて、言葉を切った。「うん?」
「あの機械は、どういう仕組みになっているの。あなたは、高次空間にあるものは、知覚によっても、装置によっても、検出できないといったように思うけど、オーブの装置は、それをやってるのと違うの?」
「きみのいうとおりだ」とクリフォード。「だが、これまでは、その手段は知られていなかったんだよ。オーブが発見したのは、回転する粒子――つまりさっききみがいった現われたり消えたりするやつだが――それの集合体を作りだせること、また純粋の高次粒子がこれと相互作用すると、その回転のしかた……つまり回転モード……が変わることなんだ。これをわれわれは高次放射と呼んでいる。オーブは、回転モードの変化を調べて、変化をひきおこす高次放射の一定の性質を測定するんだよ」
「いいわ」と、サラは、ゆっくりいった。「すっかりはわからないけど、およそのところは、のみこめたわ。どこまで聞いたかしら?」
「モレリのGRASERが、高次放射を大量に作りだすということ」
「ああ、そうだわ」と彼女がいった。「じゃ、このアルの機械は、そういう高次粒子とかいうものを放出するけれども、オーブの検出器を使わなければ、それは誰にもわからないわけね。ジョーから聞いたところでは、あなたは検出器が測定するはずのものを計算して、そのとおりに出たということじゃない。すると、何が問題なの」
「そこまでは、何の問題もない」とクリフォード。「ブラックホール状態の数学モデルを作ったんだが、まったくきみのいうとおり、高次放射に関するかぎりは、確かにオーブが検出器を完成させて測定したものとぴったり合ったんだ」
「それで?」
「だが、モデルが予測しているのは、純粋の高次放射だけじゃないんだ。さっきの衝突を思いだしてごらん……」クリフォードは、グラス敷きが衝突して倒れる動きを、もう一度やってみせた。
「高次粒子は、お互いに相互作用して、通常の方法で検出できるような粒子を発生する……つまり、通常の当たり前の放射をだ。だから、モレリのブラックホールの周辺では、どこからともなく発生した当たり前の放射も観測されるはずなんだ」
「ところが、観測されなかった」と彼女はいった。
「観測はされた。だが、パターンや量が違っているんだ。振動数のスペクトルが違うし、モデルから予測されるよりも多いんだ」
サラは、ちょっと期待外れのような顔つきをした。
「それだけのことなの?」と、彼女は眼をまるくした。「つまり、この世の終わりとは思えないんだけど。肝腎かなめの点は証明されたんでしょう。正確な値がそれほど重要なの」
「そうとも」とクリフォード。「第一に、理論が正しいかどうかを確かめる唯一の方法は、数値が理論の予想するとおりになるかどうかなんだ。もしそうならなければ、理解すべきことで理解していないことが、何かあることになる。第二に、ブラックホール周辺の放射を説明するには、K理論をまったく必要としない別のもう一つの解釈が可能なんだ。それはホーキング効果≠ニいって、ただの当たり前の物理学しか使っていない理論だ。どちらの解釈が合っているかを判断するには、数字が合っていなけりやならないんだ。でなければ、判断は不可能だ。いまわれわれは両方の予測をテストしているんだが、どちらも合わないんだ。K理論のほうが実際に測定された数値に近いが、それでも予測している放射量は実際よりも小さい。そこが問題なんだよ」
「でも、あなたのほうが近いといったわね」とサラ。「それだけで、判断には十分じゃないこと」
クリフォードは、くびを振った。
「残念だが、だめだ。誤差が大きすぎる。なぜだかわかるまでは、どちらの理論も間違っているかもしれんし、一方が近いという事実も単なる偶然かもしれんのだ……ましてや正しいという根拠にはならない」彼は、ため息をついた。「いまいったように、数値が合わなきゃならんのだよ」
13
しかし、オーブは、例によって、そんな学問的な枝葉末節には、いっこうに動じなかった。それを考えるのはクリフォードにまかせて、手に入ったばかりのこのおもちゃを完全に自家薬籠中のものとし、またいっそうの改良を加えることに、無我夢中だった。彼はしだいに装置の感度を高める工夫をしてゆき、GRASERが普通に近い出力で運転され、球形反応炉の中にシミュレートされる質量濃度がブラックホールの強度には及びもつかない場合でさえ、粒子消滅によって発生する高次放射のレベルを確実に表示するようになった。
オーブが部屋で仕事をしていると、アリスからの通話がかかった。彼女は、下の反応炉の部屋で、最近つけ加えられたプログラムの手直しをしていたのだった。
「何か変なことがあるのよ、オーブ」彼女は当惑したような顔でいった。「わたしにはわけがわからないの。下りてきて、見てもらえる?」
十五分後、オーブは球形反応炉の傍にある検出器の主コンソールにいる彼女の所へ行って、周囲に雑然と配置されている見慣れた装置に、すばやく視線を走らせた。
「どうしたんだ」と彼は快活に訊ねた。彼女は主モニター・スクリーンに光っている数字の列を指した。あたりがいつになく静かであることに気づいたオーブは、たちまち怪訝《けげん》そうに眉をひそめた。GRASERが運転されていることを示す微かな音が、まったく聞こえなかったのである。
だが、彼が口をきく前に、アリスが説明した。「プログラムを作動させるために、検出器のスイッチを入れる必要があったの。高次放射を測定しているように見えるけれど、GRASERは今朝から停止したままなのよ。どうなっていると思う?」
オーブは、ため息をついて、オペレーターの椅子に腰を下ろした。前夜おそく、彼は、装置の感度をさらに高めようとして、ハードウェアの追加の棚をとりつけ、断続しておこる欠陥をつきとめるのに夜の半分をつぶしてしまったので、そのままテストせずに帰宅したのだった。
「たぶん、ゆうべどこかを狂わせちまったんだろう」と彼は諦らめた口調でいった。「どうやら、また一日がかりで故障を発見することになりそうだな、主コンピューターに繋いで、診断プログラムを呼んだほうがいいだろう」
午後の半ば頃になると、好奇心にかられたサンドラやジョーやアートが集まってきていたが、オーブはまだ当惑していた。「こんなばかなことが。装置には異常ないし、GRASERは運転していないから高次波動をまったく出していないというのに、それでも高次波動が測定されているんだ。GRASERを運転させて、標準の校正ルーチンをいくつか作動させてみよう。どこかで何かが狂ってるんだ」
その夜おそく、クリフォードを含めた全チームがコンソールの前に集まり、オーブが何度も行なってきたテストを繰り返すのを眺めていた。それでも、結果は同じだった。検出されるべき高次波動が存在しないにもかかわらず、高次波動が観測されているのだった。クリフォードは、もし波動が存在しており、GRASERから絶対にこないとすれば、どこか他の所からきているにちがいないという、論理的な見解をとった。それを口にしたとたん、彼は真相に思いあたったのである。五分後、彼は肝をつぶしたアル・モレリを回線に呼びだしていた。相手はバスローブを着て、ひげを剃りかけたところだった。
「検出器は間違いなく反応しているんですよ、アル」と、彼は興奮に声を震わせていった。「でも、あれが反応を示している対象は、GRASERとはまったく関係のないものです。宇宙全体に反応を示してるんですよ」
「宇宙だって? 何の宇宙だね」モレリは面くらった様子だった。「ブラッド、いったいきみは、何をいっているんだ」
「いわゆる[#「いわゆる」に傍点]宇宙ですよ」とクリフォードは叫んだ。「宇宙のどこでも、粒子の遷移が絶えずおこっていますよね。いたる所で、絶えず粒子創生がおこっていると同時に、主として物体の中で粒子消滅がおこっています」
「それは、もちろんだが……」モレリは眼をまるくした。「まさかきみは……」
「まさに、そこをいっているんですよ」と、クリフォードは、烈しくうなずきながらいった。
「その一つ一つの出来事が、GRASER内部でおこっている同様な出来事とまったく同じように、高次波動を発生します。オーブが感度をものすごく高めたので、まさにそこからの読みが記録されているんです。宇宙全体[#「全体」に傍点]からの高次波動のバックグラウンド雑音が記録されているんですよ」
スクリーンに映ったモレリの顔は、あっけにとられた表情を浮かべていた。
彼が筋の通った返事を思いつく前に、クリフォードが先を続けた。「まだあるんです。このバックグラウンドの高次波動雑音が、二次反応によって通常の放射を生みだすということは、十分に考えられます。そうなれば、絶対温度三度というバックグラウンド熱放射には別の解釈が可能になるわけで、ことによると、これを説明するのにビッグバン・モデルを持ちだすことは、もうまったく必要ないかもしれないのです。どうです? すぐにもツィンメルマンに話すべきことが、できたんじゃありませんか」
「何がいいたいんだね――K天文学≠セって?」ピーター・ヒューズは、坐るや否や興奮して立てつづけに喋りまくっているオーブとモレリを、デスク越しに疑わしげに眺めた。「研究計画にもっと金がほしいといっているのなら……」
「まず終わりまで聞いてくれんかね、ピート」とモレリ。「これは、ガリレオ以来の最大の出来事になるかもしれんのだよ。GRASERの建物の中にある例の装置が、宇宙のいたる所から来る高次波動を――恒星、ブラックホール、その他いたる所のあらゆるものからの高次波動を検出しているんだ……」
「それは、わかった」とヒューズが答えた。「だが……」
「あれは、そんなことのために設計されたものじゃなかったんだが、それでも役には立っている」とモレリが続けた。
「そこで、この種の仕事のために特別に設計された装置を開発したらどうでしょう」とオーブが口をはさんだ。「電磁スペクトルの代わりに、高次波動放射、つまり高次光≠ノよって宇宙を観測する装置を」
「でも、まだわからんのだが……」とヒューズがいいかけたが、モレリがまた遮《さえぎ》った。
「われわれは、これまで想像もしなかったような可能性が開けるかもしれんと思っているんだ。ブラッドは、高次波動がK空間をどう伝播するかという解析をやった。まったく度肝を抜かれるようなものだ」
「K空間上の点は、通常空間上の幾何学的な点とは、相関しません」とオーブ。「アインシュタインの点事象とさえもです。K点同士の離れ方と日常の距離≠ニの間には、何も関係はないのです……」
「だから、速度は低次空間から引き継がれない」とモレリ。
「少なくとも、物理的には、どんな意味においてもです」と、オーブが、念を押そうとしていった。ヒューズは、なすすべもなく相手の顔を見くらべていたが、急に、身を守るように両手を顔の前にあげた。
「待った!」と彼は大声をあげた。部星の中は、不意に静まり返った。「いいか、とにかく落ち着いて、よく考えて、それから、いったい何をいっているんだかを、初めから話してくれんか」
オーブとモレリは、互いに探るような表情で、顔を見合わせた。
「きみがやれ」とモレリがいった。
「いや、あなたが」とオーブが答えた。二人は同時に喋りはじめ、ヒューズがまたやめさせた。
結局、オーブが説明を始めた。
「高次波動が、通常空間のある特定の点……たとえばGRASERの反応室の内部のような所で発生するとします。また、その高次波動、少なくともそれが及ぼす作用は、通常空間のどこか別の特定の点で観測できます……」
「たとえば、きみの検出器の中で」とヒューズが、しめくくった。「結構、その先をいいたまえ」
「そのとおりです」とオーブがうなずいた。「だが、その中間におこることの、イメージを描くのは不可能です。高次波動がA点からB点まである特定の速度で移ったといってみても、何の意味も[#「何の意味も」に傍点]ないのです」
「すると、ただおこるだけというのか……」ヒューズは、とまどった表情だった。「AからBまで行かずに、どうしてAからBに移ることができるのかね」
「そこが、ブラッドの解析から出てきた中心点なんだよ」とモレリが補足した。「日常の感覚でAからBへ行くという時には、方向と距離と時間という概念が含まれている。ブラッドの方程式には、同じような役をする変数が確かに入ってはいるが、それはK空間に結びついたものだ……通常の時空に直《じか》に読み替えることは、まったくできないんだ」
オーブは、数秒待ってから、さらに詳しく説明した。「方向、距離、時間というものは、K空間に存在する、総合的な知覚として体験できない量が、通常空間という低次領域に投影されて生じたものにすぎないのです。たとえていえば、二次元の住人が三次元の物体、たとえば球を知覚する唯一の方法は、それを薄片に切り刻んで、その一つ一つのイメージから全体の概念をまとめあげようとするしかないでしょう。それでも、三次元モデルを構成するための十分な知的素養がないために、まったく正確に行なうことは不可能です」
「彼は一つ一つの薄片を連続[#「連続」に傍点]として眺めなければならないだろう」とモレリが口をはさんだ。
「ということは、物体を知覚の系列としてしか感じられないわけだ。いいかえれば不適当な知覚器官を埋め合わせるために、時間という幻想[#「幻想」に傍点]を導入[#「導入」に傍点]しなければならないだろう」
ヒューズは、思わずつりこまれて、興味を感じた顔つきになった。
「じゃ、きみたちのいうのは、われわれがK空間に対してそういう立場にあるというわけか。時間その他は主観的な幻想なのだと」
「其のK空間の観点からいえば、そうなんだ」とモレリが率直にいった。「われわれが知覚する宇宙の概念的モデルというものは、これまでに積みあげられてきた限られた認識の所産なんだ」
「でも、重要な点は、時間、方向、距離という観念が、われわれ[#「われわれ」に傍点]の宇宙の所産であって、真の[#「真の」に傍点]宇宙の現実ではないということです」とオーブ。「いうなれば、K波動は、進化しつつはあるが不完全な頭脳が構成したにすぎないものによって、制約はされないんです。だから、K空間での伝播を考える場合、これらの量は無意味になるのです。光波はK波動の通常空間への投影であり、それが有限の速度を持つのは、投影された低次領域によって制約された結果なんです。純粋の高次波動は低次領域の空間にはまったく投影されず、したがって観測される伝播は制約を受けていないのです」
「オーブのいっていることはだね、ピート、高次波動がたとえばGRASERの中で発生し、それが検出器に捕捉されたとすると、この二つの事象の間の時間のずれはゼロだということなんだ……通常空間にいて、これを二つの事象として記録する観測者にとっての話だがね。伝播は即時なんだ」
ヒューズは、呆れたように二人を見た。彼らが自分の部屋にとびこんできた時の興奮ぶりの理由が、初めてのみこめてきたのである。
「そしてきみたちは、いま宇宙のあらゆる所から高次波動を受けとっているという」と彼はゆっくりいった。「きみたちがいおうとしているんだとわたしが思うことを、きみたちはいおうとしているのかな」
「K天文学ですよ」とオーブ。「それとも、そういいたければ、高次天文学でもいいですが――ええ、それこそまさにわれわれがいおうとしていることです。望遠鏡があれば、恒星だの銀河系だのから情報が得られますが、その大部分は、数百万年も時代遅れです。ところが、高次波動を使えば、いま[#「いま」に傍点]向こうで何がおこっているかについての情報が得られるのです……時間の遅れがまったくなしにですよ。また、同じ理由で、距離も問題にはなりません」
ヒューズは、あっけにとられたように眉をひそめた。
「だが、それでは光より速いことになる」と彼はいった。「ありとあらゆる因果関係のパラドックスを抱えこむことになるぞ。相対論がそう論じている。きみたちのいうことは、不合理だよ」
「違うんだよ、ピート」とモレリが答えた。「われわれは、通常空間の中を[#「の中を」に傍点]高速度で動く物体について論じているんじゃないんだ。そもそも、通常空間の中を[#「の中を」に傍点]動くものの話などしていないんだ。
空間の一点から一点への、即時の……何なら変化[#「変化」に傍点]と考えたらいい。速度≠ェ関係しているなどということは、初めから忘れるんだ」
オーブはこのことをちょっと考えてみてから、モレリのほうへ向き直った。「相対論的な因果関係のパラドックスは、光より速く運動する二人の観測者が、二つの事象の時間間隔どころか、その順序についてさえ合意できないということから発しているんです」
「それが、ここには適用できないというのかね」とヒューズ。
「できないんだよ」とモレリ。「いいか、ピート、パラドックス的な事象が観測可能であるためには、何らかの時間間隔が観測されなければならないんだ。われわれが論じている過程では、変化はゼロ時間でおこり、パラドックス的な事象がおこる可能性はない」彼は肩をすくめた。「パラドックスを検出する方法がない場合には、パラドックスは存在しないんだよ」
「それから、われわれは速度という概念を導入しませんから、加速度の問題もおこりません」とオーブがつけ加えた。「無限の質量を加速するには無限のエネルギーが必要だといった問題――これも消えてなくなります」
ヒューズはびっくりして、眼をぱちくりさせた。しばらくの間、いまいわれたことに適応しようと苦労していたが、やがて口を開いた彼の口調には、もう納得したも同然な響きがあった。
「それで、これからどうなるんだ」と彼は訊ねた。「この先どうすればいいのかね」
「とにかく望遠鏡か何かを作って、空のどこかに向ければいい、というわけにはいかないんです」とオーブが答えた。「今までいったように、高次波動は、どこか特定の方向からやってくるというような、単純な行動はしてくれないんです。われわれが受けとっているバックグラウンド雑音には、あらゆる場所、あらゆる方向をいっしょくたにした情報が含まれています……何もかも、ごちゃ混ぜです」
「それを避けるには、どうするんだね」とヒューズが質問した。
「オーブにも、まだはっきりしてはいない」とモレリ。「しかし、ブラッドとそのことで相談したんだが、ブラッドは情報をコンピューター処理し、特定の目標となる物体、たとえば一つの恒星から来た信号だけを何とか分離する方法があるんではないかと考えている。そうすれば、これからある種の映像を構成することが可能かもしれない……われわれには、まだわからんのだ。ブラッドがその研究を続けている」モレリは一息入れて、しばらく額をさすっていた。「彼らは、あの検出器がGRASERの高次波動よりも外部の高次波動に反応を示しやすくなるように改造する計画を提案した。だが、オーブとわたしとで検討した結果、この日的のための特別な設計に基づいて、新たに初めから出発したほうがずっといいだろうと考えたんだ」
「マークU′沛o器です」とオーブが口をはさんだ。「まさに、この種の研究をめざして建造されるものです。そうすれば、いまあるやつで学んだ知識をすっかり活用し、まだやっていない試みをいくつか加えることもできます」
「そこで、そのことを相談しに来たわけだ」と、モレリが、蛇足をつけ加えた。
「もう一つ装置を建造したいわけだな」と、ヒューズが、その先をひきとった。
モレリとオーブは、顔を見あわせた。
「そのとおり」と二人は声をそろえていった。ヒューズは椅子に深く坐り直し、最悪の予感が的中したとでもいうように、ゆっくりとうなずいていた。
「もっと金がほしいのだとは思っていた」彼は、ちょっと考えた。「わたしの考えをいおう。きみたちは相談をして、必要と思うものの予備的な費用の内訳を作りたまえ。その後で、わたしが納得したら、ジュネーブの国際科学財団本部とそのことで話しあう。これなら文句あるまい」
モレリは、膝に乗せていた書類挟みを開き、タイプされた表や数字に埋まった書類の束を取りだすと、それを相手のほうに向きを変えて、ヒューズの机に押しやった。
「そういう話になるとは思わなかったがね、ピート」と彼はにこりともせずにいった。ヒューズは呆れたように書類を見つめ、それからデスクの向こうから自分を見つめている真剣な顔に眼を移した。
「わかった」と、彼は諦めて、ため息をついた。「いま検討しよう」
一週間後、ヒューズとモレリはジュネーブに飛んだ。その翌週、何が行なわれているか、また将来の可能性はどうかについての予備知識を直《じか》に手に入れるために、国際科学財団本部の三人の理事がサドベリーにやってきた。この問題がジュネーブで討議された数日後、ピーター・ヒューズはモレリを呼んで、吉報を知らせた。「いまジュネーブからモーリスが連絡してきたばかりだ。
すぐチームの者たちに知らせたほうがいい――マークUにオーケーが出たぞ」
まずしなければならないことは、マークUの組み立てに必要な装置の長いリストについて、注文を発することだった。ヒューズとモレリは、オーブが月並でないやり方の才能にいかに恵まれているとはいえ、今度の新しい装置は、一般に認められた慣例に従って設計し建造することを、決めたのだった。こうすれば、拡張や改造や事故点検も容易になるはずだった。部品は簡単に取り換えられるし、供給者による定期点検も利用できて、オーブやその他のサドベリーの科学者が、本来の研究に専念できるわけだった。このやり方では、できあがるまでに時間がかかるだろうが、その後の進み具合は速くなるだろう。それに加えて、それまでの間もマークIでやることはいくらでもあった。これにはまだ改良を加えるべき多大な潜在能力があることは疑問の余地がなく、彼らはそれを理解しかけたばかりにすぎなかった。
だが、ちょうどこの頃、別の戦線では物事が正常に進行していないという最初の徴候が現われはじめていたのである。
「何でしょう、モレリ教授」ボストンにある国務省地方事務所の役人の顔が、スクリーンから無表情に見つめていた。
「あなたが送ってよこした、この照会について聞きたい」と、モレリが、サドベリーの部屋から答えた。「それから、裏についている質問表についてもだ。これは何のためなんだ」
「まったくの慣例的な調査ですよ、教授」役人は人当たりのいい口調で答えた。「記録を最新の状態に保っておくだけのことで」
モレリは、相手の顔に向かって書類を振りまわした。「だが、こんな質問に、何の目的があるんだ。ここで働いている全職員と、彼らが従事している研究計画のリスト……主要な設備の申告と、それが使われている目的……過去二年間に開始された主要な研究計画……いったい、どうなってるんだ。こんなもの、今までに見たこともないぞ」
「たぶん、これまでは、あるべき状態にくらべて、いささか放漫だったかもしれません」と、その顔が答えた。「こうした情報がわれわれの職務に関連するものであり、これを請求する権限を与えられていることは、保証します」
「誰が権限を与えたんだ」と、モレリは、かんかんになっていった。相手の態度が、しだい癇《かん》にさわってきたのである。
「残念ながら、それは明らかにできません。ただ保証を申し上げられるだけでして」
「きみの保証なんぞ、くそくらえだ。たわごとか、自分でも何をいっているかわからないに決まっている。きみのボスに代わってくれ」
「まあまあ……その必要があるとは、とても……」
「ボスにつなげといってるんだ」とモレリは怒鳴った。
「お気の毒ですが、カースン氏は、今はお目にかかれません。しかし、わたしが……」
「じゃ、わたしに連絡するようにいえ」とモレリはいい、スクリーンのスイッチを切った。
モレリは、空白になった表示スクリーンを長い間にらみつけながら、頭の中で、これから何らかのパターンを引きだそうとしていた。この二週間のうちに、こうした探りを入れるような照会が三度も来ていた。ありとあらゆる名もない役所の名もない役人が、サドベリーとそこでやっている研究とに、俄《にわか》に並々ならぬ関心を払いはじめたらしかった。彼にはそれが気にくわなかったのである。
「わかった、アリス、そのグレーの背広を着てカラーとネクタイをつけた男が、クラブできみに話しかけたんだな」とモレリ。彼らは、昼食休みに研究所の外の湖岸で寛ぎ日向ぼっこをしているグループといっしょだった。「それから、どうなった」
「そうね、初めはわたしを引っかけるつもりかと思ったの」と彼女はいった。「ほら、町に遊びに来ているような男がいるでしょう……彼はちょっと場違いにも見えたけど、いろんなやつがいるだろうと思うわ」
「うん、うん……それで?」
「でも、彼がほんとうに関心を持っているのは、わたしなんぞではなくて」と彼女はいった。
「わたしが働いている場所のことだけ。わたしがモレリ教授のところで働いているかとか、教授は重力物理学が専門で、何年か前に粒子に消滅をおこさせる方法を発見したとか。あんな場所で話すにしては妙な話題よ……何気ない口調を装ってはいたけれど、どうもわざとらしく聞こえたわ。わかるでしょう」
「それで、何といったんだね」とモレリが訊ねた。
「そうね、ええ働いているわといったんだけど、それからあなたがまだ同じことをやっているかとか、どのくらい成果が上がっているかとか、聞きはじめたの。それで怪しいと思って――絶対に怪しいと思って――逃げだしたわ。後でラリーが――あそこのバーテンだけれど――その男が一晩じゅう研究所の人間を教えてもらおうとして訊ねまわっていたといったわ。あなたに知らせとかなくちゃと思ったの」
「よく話してくれた」とモレリ。「心配しなくていい。何もかも忘れてしまうんだ。だが、何か同じようなことがまたおこったら、すぐに教えてくれ。いいね」
その午後遅く、モレリはヒューズを探しにいった。「わたしが悩まされるだけでもたくさんなのに、今度は若い者たちに手を出しはじめている。いったい、どうなっているんだ」
「お気の毒ですが、ヒューズさん、お力にはなれないと思いますよ」ワシントンの技術調整局の男は義務的に心配そうな顔を見せたが、何となく誠意が感じられなかった。「そういったことに関しては、ほんとうに何も知らないのですよ」
ヒューズは、疑わしげにスクリーンを見つめた。「何もあなたの役所が直接やっているといっているのではない。ただ何かご存じではないかとうかがっているだけです。おたくの局は、こうしたことには、たいてい一枚加わっておられるようなのでね」
「いまも申しあげたようにですね、ヒューズさん、そういう類いのことは何も知らないのですよ」と局の男は答えた。「それでも、調査することは、お約束します。統計的な目的とか何かで……何も後ろ暗いことではなくて……ありとあらゆる情報が必要な部局がたくさんあることは、おわかりいただけますな。そういう者たちの誰かが、いわばちょっと勇み足をしていたとすれば申し訳ないことですし、誰がやったかをつきとめて、いくらか抑制的な影響を及ぼすことが可能なら、もちろんそういたしますとも。どうも、ありがとうございました。失礼ですが、もう一本、通話がかかっているようですので」
一方、研究所のコンピューター集合体の中枢部をおさめた地下の部屋では、コンピューター操作主任が、今しがたデスクに届いたばかりの週間使用解析に、くびをひねっていた。その書類の数字は、このシステムと外界とをインフォネット回線を通じて連結するプリプロセッサーの中で作動する監視プログラムが、どこか不明な外部からサドベリーのデータベースに侵入しようとする不法な企《くわだ》てを、五十七を下らない回数にわたって探知し、失敗させたことを物語っていた。先週も同じだったし、その前の週もそれに近いものだった。どうやら、誰かが、このデータベースにどんな情報や記録が貯蔵されているかを、必死に探りだそうとしているらしかった。
しかし、こうした干渉も煩《わずら》わしさ以上のものではなく、マークUの仕事にはほとんど影響のない程度の苛立《いらだ》ちのたねでしかなかった。ところが、事態はさらに重大な転換を見せたのである。
この研究計画が妨害されているという最初の徴候は、マイクとフィルが必要な装置や部品の詳細なリストを作成し、製造業者との間で技術情報、価格、引き渡し予測についての接触を始めた時に表面化してきた。
「お気の毒ですが」というのが、ミクロマティック・ディヴァイシズ社の販売部長秘書の挨拶だった。「ウィリアムズさんは、いま不在です。伝言がございますか?」
「もう伝言は百回もしたぞ」とマイクは腹立たしげにいった。「これで二日間も彼と話ができないでいるんだ。いつ帰ってくるんだよ」
「はっきりとは申し上げられません」と彼女は答えた。「近頃、とても忙しいので」
「こっちだって同じだよ」とマイクは文句をいった。「この頃、みんなどうかしちまったのか――商売はしたくないのか。いいか、彼に会ったら、連絡するようにいってくれ、至急にだ……昼でも夜でもかまわん。いいな」
「さあ、できるだけ、やってみます」秘書は、あまり楽観的な口ぶりではなかった。「おまかせいただけますか」
「よし」と、マイクは、ため息をつきながら通話を切った。
「ちょっとやってみたいことがある」今まで部屋の奥から眺めていたクリフォードが、憤潰やるかたない声を出した。「もう一度、同じ番号を打ってくれんか」そういいながら前に進むと、インフォネットの端末装置をまわして、相手には部屋の別の方角が見えるようにした。マイクがキーを打ち直し、クリフォードが椅子に滑りこむと、別の女性の顔が現われた。
「ミクロマティック社でございます」
「ロン・ウィリアムズを頼む」とクリフォードが答えた。
「販売部におつなぎします」その直後、マイクと話していた同じ秘書が、クリフォードを見つめていた。彼は同じ名前を繰り返した。
「どちら様でしょうか?」と彼女が訊ねた。
「ニューメキシコのACRE、ウォルター・マッシー」
「ちょっとお待ちください」
一瞬、スクリーンがぼやけたが、またはっきりすると、三十代後半と思われる男の笑顔が現われた。
「ウォル……」と男はいいかけたが、突然びっくりした顔つきになった。「おお……ブラッドリー・クリフォード……しばらく……ACREは、とっくにやめたものと思っていたが」
「そうだ」と、クリフォードは、そっけなくいった。「いまはサドベリーの国際科学財団だ。いったい、これは何の真似だ?」
「何のことだか、いっこうに……」
「しらを切るんじゃない。これで二日間も連絡をとろうとしているのに、門前払いだ。その間じゅう、ずっとそこに坐っていたんじゃないか。何の真似だ」
ウィリアムズは当惑した顔つきになり、弱々しく微笑しようとした。
「ちょっと内線が故障していたもんで」と彼はいった。「迷惑をかけたのなら、申し訳ない。何の用だね」
「一一三七−C型のパルス共振器だ」とクリフォード。「いくらで、いつまでかかる」
「ははあ……さて……ええと……ちょっとむずかしいかもしれないな。あの型は、もう出していないと思う。製造保留の設計モデルとして製作中止になっているんだ。解除されるまでには、かなりかかるかもしれない」
「かなりとは、どのくらいだ」とクリフォードは問い詰めた。「それで、代わりにどんなものがある」
ウィリアムズは、見るからに困惑した様子だった。「わたしには、ほんとうにわからないんだよ」と彼は弁解した。「一切は技術担当の者たちが決めることだ。それ以外の型は、リストから外した」その後の返事も待たずに、彼は急いで先を続けた。「今回はどうもお役に立てそうもないよ。この次には、何とか」
通話を終わってから、クリフォードはマイクに苦い顔を見せた。「何か、ひどくおかしなことになっているぞ。あの会社は、これまでそっけない応対をしたことがない。ふつうは、とても協力的なんだ。彼らが商売をしたくないんじゃないとすれば、どこかの誰かが、何かの理由で、彼らを脅して売らないようにさせているんだ。それが誰だか、目星がついてきたぞ」
「一ヵ月足らず前には、これを宣伝していたのに、今になって、少なくとも十二ヵ月はかかると、ぬかしているんですよ」クリフォードは書類をモレリのデスクに叩きつけると、腹立たしげに窓のほうを向いた。「どこへ行っても同じですよ、アル。何もかも、作っていなかったり、政府に優先予約してあったり、在庫がなかったりです。この変調器を手に入れる唯一の方法は、オーブのいったあのフランスの会社からです。あの線は、何とかなりましたか」
「諦めろ」と、モレリは不機嫌にいった。
「なぜ? 今度は何があったんです」
「輸入許可が必要なのに、それがとれないんだ。拒絶された」
「いったい、どうして? オーブの話では、バークリーで使っていたものは全部フランスから買っていて、何も問題はなかったということですが」
「理由を何もいわんのだ」とモレリ。「ただ頭から断わられただけだ。いずれにせよ、この問題は、もはや机上の空論にすぎん。フランスの会社が協力しないからな」
「どういうことです――協力しないとは」とクリフォードが訊ねた。「彼らは喜んで注文に応じるといっていたはずですが」
「一週間前には、そういっていた」とモレリ。「ところが、昨日話をしてみると、事態は一変しているんだ。ジャックは、予備の在庫を確保しておかなければとか何とか、ぶつぶついっていて、出せるものは一つもないというんだ。在庫調べの間違いで判断を誤ったんだとさ」
「ばかな」とクリフォードは怒鳴った。「連中も脅かされたんだ。あの畜生どもの汚れた手から無事な場所は、世界にないんだろうか。われわれの望みは、そっとしておいてくれというだけなのに」
「でも、どうやら誰かさんは、あなたたちを、そっとしておきたくはないようね」その晩、クリフォードが、最新の出来事を話してきかせると、サラはこういった。「あなたは、いつも、われわれはいつか有名になるだろうといってたわね」
「何もかも幼稚でばかばかしいんだ」と、クリフォードは、ふさいだ様子でいった。「たぶん、体制には勝てないことを、世間に思い知らせようというんだろう。彼らなしでもうまくやっていける様子を見せれば、さっそくそれの妨害にかかるんだ。それで、世間には、謎が通じる。やつらの貧弱な頭の働き方とは、こんなものさ。やれやれ、世界がめちゃめちゃになっているのも、不思議じゃないな」
「国際科学財団に対しても、勝手なことをしないようにと、やんわり謎をかけているんでしょうね」とサラがつけ加えた。「体制があなたに望ましくないという宣告を下したら、あなたはそうなっていなければならないのよ。つまり、追放者を引き受けるというのは、親しい関係を保つやり方じゃないのね」
「うん、たぶんそうだろうな」とクリフォード。「アルも、このいやらしい状況に、すっかり嫌気がさしている。彼があんなにふさぎこんだのを見たことがないよ。まったく、とんでもない話だ」
「じゃ、あなたの雇用契約を再検討することになるのかしら」と、サラは、ためらいながら訊ねた。「だって、研究所全体の仕事に影響が出るでしょう」
「そう思っているとしても、何もいってはきていない」とクリフォード。「でも、彼らを責めるわけにはいかないな」彼は、しばらく、じっと考えこんでいたが、それから急に明るい口調でいった。
「ああ、いうのを忘れていたが、一ついい知らせもあるんだ」
「ほんとうかしら。何なの?」
「ツィンメルマン教授が、近く、地球で二週間の休暇をとるんだ。きょう、アルがそういっていた。どうやらツィンメルマンは、われわれが研究所でやっていることを自分の眼で見るために、一日か二日、サドベリーに来たいと思っているらしいよ。きみは、いつも彼に会いたいといっていたな。ことによると、これがその機会になりそうだよ」
14
スクリーンや、それに付随する電子機器は、研究所の地下室から回収されたものだった。そこは、今となっては目的も定かではない過去の研究計画で使い捨てられた、わけのわからぬ雑多な埃《ほこり》だらけの機材の最後の墓場になっていた。スクリーンの局部制御を司ると同時に研究所のコンピューター集合体の本体に接続するミニコンピューターは、もともとはマールバロ総合病院の人体走査機の一部だった。病院が走査機を最新のシステムに換える決定をした時に廃品処理される予定だったのだが、それがオーブの車の後部座席に乗って、サドペリーにたどりつくことになったのである。制御コンソールは、ぞんざいに切断したアルミニウム薄板のパネル盤が主体になっていて、家庭用インフォネットの端末装置、家庭環境制御ユニットのマイクロプロセッサー、海軍払下品のダブルメモリー・モジュール、ボストンの航海用レーダー製造会社の余剰在庫放出品の中にあった周波数シンセサイザー、趣味のための各種組み立てキットの中の一定の部品といった、思いもよらぬ構成部品がずらりと組みこまれていた。この装置はGRASERに隣接する小部屋にそっくりおさまって、球状反応炉のすぐ横を片づけた広い床に据えつけた検出器の本体を構成する雑多なキヤビネットやラックに、多数のケーブルで連結されていた。
ハインリッヒ・ツィンメルマン教授はスクリーンから数歩離れて立ち、おもしろそうな笑みを唇に微かに浮かべながら、ディスプレイされた映像をじっと見つめ、そこにこめられた難問を機嫌よく受けとめていた。スクリーンの大部分は、何の変哲もない、くすんだ橙色の丸い円盤に占められていて、その中の細かい点や模様は何も見えなかったが、中心部に近つくにつれてやや明るさを増し、ほんのちょっと黄味がかって見えた。円盤の向こうは、一見したところ真っ暗だったか、よく見ると微かにほんのりと血赤色の霞がかかっていて、まったくの暗黒ではなかった。
やがてツィンメルマンはくびを振り、オーブのほうを見た。オーブは、コンソールの前にある金属枠の椅子に坐って、抑えても隠しきれない笑いのこぼれる眼を悪戯《いたずら》っぼく輝かせながら、彼を眺めていた。
「諸君は、何もかも見せてくれたものと思っていたのだが。何かの秘密が、最後まで残っていたらしいね。どうやら降参するしかなさそうだ。これは何かね?」
オーブは、相好をくずしていた。クリフォードとモレリは、教授の後から進み出て、ディスフレイの前に半円形を作った。
「ええ、あなたは天文学者ですから、何かそれにうってつけのものを用意したいと思ったんですよ」とクリフォードが答えた。「さっきお話ししたように、オーブは長い間かかって検出器を改良し、宇宙の高次放射に対する感度を高めてきました。よろしいですね」ツィンメルマンは、うなずいた。クリフォードが続けた。「天然の高次波動の最も強力な発生源は、大きな質量の中で生ずる集中的な粒子消滅です。さて、われわれがいま立っている場所に非常に近い最大の質量は、何だと思いますか」
ツィンメルマンは、しばらくじっと考えこんだ。
「ここに近い……。あそこの球状反応炉を支えている基礎と土台じゃないかな……」彼はクリフォードの表情に眼をやった。「違うか……」
「もっとずっと大きいものです。もう一度どうぞ」
「遙かに段ちがいに大きなものだ」と、モレリもゲームに加わりながら、ヒントを与えた。
「きみらは、まさか……」ツィンメルマンが床のほうを指すと、相手は激励するようにうなずいた。「地球だって?」彼は、たまげて、二人の顔を見まわした。
「ええ、それをごらんになっているんですよ」とクリフォード。「あの映像は、この惑星全体から発する高次波動を処理したデータを、構成したものです」
ツィンメルマンは、自分の見ているものを完全に理解しようとして頭脳を最大限に働かせながら、改めてスクリーンを見つめた。検出器が受けとる高次波動は通常空間を通って届くのではないので、方向を示すどんな性質とも関連づけられないことは知っていた。また、距離という日常の概念に直接対応するものは高次空間になく、検出器に到達する情報は、宇宙のあらゆる場所から発する高次波動の総和であることも知っていた。では、そういうものの中から、どうやって地球の姿が引きだせるのか、またあのスクリーン上の映像は、いったいどんな場所から見たものに相当するのか。
あたかも教授の心に浮かんだ疑問を読みとったかのように、クリフォードは説明を続けた。
「距離はK方程式の中で一定の役割を果たしますが、伝播時間を決定する要素にはなりません。振幅変調係数として入るのです」
「どういう意味かね、クリフォード博士」とツィンメルマン。
「検出器にとらえられた信号の総体は、宇宙の全域から発した成分から構成されています」とクリフォード。「特定の発生源と検出器との距離は、そこから発した高次波動が到達する時間と無関係なのです。つまり、いま[#「いま」に傍点]とらえられている成分は、すべていま[#「いま」に傍点]発生したものです。発生源がGRASERであろうと、銀河系の向こう端の恒星であろうと、まったく違いはありません」
「驚くべきことだ」とツィンメルマン。「では、誰かが、ここから一千光年の所にGRASERを作り、スイッチを入れたとすれば、その事象からの情報は、ここで検出する信号の中に即時に入ってくるわけかな」
「まったくそのとおりです」とクリフォード。「でも、それを観測するには、相当にうまくやる必要があります。いいですか、信号の中には宇宙全域の発生源からの成分が存在していますが、その強度は距離とともに急速に衰えます。方程式の中に優位を占めるのは、近くて大きな発生源、大きな物体なのです。ですから、地球の質量の中から発した成分を選びだして、映像を構成するための土台のデータに使うことは、不可能ではないのです。他の場所から来る信号は、遠ざかるにつれて急速に衰え、やがて実際には無視できる程度のものになります。理論的にいえば、あのスクリーン上の映像を作りだしている信号には、たとえばアンドロメダ星雲から発した成分も含まれてはいますが、実際には数学的な意味で入っているだけであって、値はゼロに近いものです。
お話ししたように、宇宙的なバックグラウンドがあって、それはこういうものの総和なんですが、バックグラウンド雑音の閾値より上に同調させれば除去できます」
「すばらしい」とツィンメルマンはいい、映像を再び見つめた。「ということは、つまり、複合した信号から情報を選びだして、方向性のある映像を投影できるように、何かの方法を開発したんだね」彼はスクリーンを指した。「わたしのいいたいのは、あの映像は、この惑星をある特定の方向から見た一定の面を表わしているのだろうということだが」彼は、眉を寄せて、すまなそうに微笑した。「これが何であるのか、またどちらから見ているのか、まだ見当がつかないでいるんだがね」
「これは、とんでもない大仕事でした」とクリフォード。「高次波動が伝える情報には時間的および空間的なデータが含まれていますが、それは他の因子と錯雑していて、完全に解読することは不可能なのです。膨大なデータの中から、どうやって空間的なデータを抜きだすかを考えつくまでには、だいぶ時間がかかりましたが、それでも……」彼はスクリーンのほうを身振りで示した。「最後には、何とかうまくやれたようです」
「で、われわれは何を見ているのかね」とツィンメルマンが訊ねた。この時、オーブが話に加わった。
「いまは、検出器に対して垂直かつ異方的な平面を、一万六千キロにわたって解像するように調整してあります。これは地球の中心を通る断面です。あまり細かいことは出ていませんがね……」
彼は、肩をすくめた。「何しろ、最初の試みなもんで」
「実は、数字のデータを見ていただけば、地殻、上部マントル、下部マントル、中心核を区別できることが、おわかりでしょう」とクリフォードが説明した。「画面には、あまりよく出ないんですが」
ツィンメルマンは、驚きに口もきけない様子だった。
オーブは彼の当惑した表情を見て、パネル盤のキーを操作しはじめ、スクリーン上の円盤を前の大きさの何分の一かに縮まらせたが、全体としての外見は、それまでと変わらなかった。
「断面を地軸に垂直に回転」彼は、共進会場の見世物師のような口調で唱えた。「いま平面は、北極の直下、北緯八十五度の緯線と一致しています。座席にしっかり掴まって、世界の真中を通過する居ながらの旅のご用意を願います」彼は、慣れた手つきで、キーの操作を始めた。円盤は、ゆっくりと膨れあがり、ほとんどスクリーンいっぱいに肱がったところで停まった。「ここが赤道です」とオーブが説明した。円盤は再び縮まってゆき、遂には橙色の小さな点へと、急速に凝縮していった。「南極」
「もっと気のきいたこともできるよ」と、モレリが、オーブの実演に勢いを得て、つけ加えた。
「ここで受けとっている高次波動の成分の主体は、もちろん地球の質量から来ているものだ。しかし、この質量を定義するマトリックスを計算すれば、それを方程式にフィードバックして、相殺させることができる。すると、他の場所から来る弱い高次波動成分だけが残ることになる。これが分離できれば、あとは増幅して、いま見たのと同じやり方で、これから空間的映像が計算できるのだ。オーブ……」
オーブは合図を受けて、前のに似てはいるが縁から中心までの色の変化がそれほど明瞭でない、別の円盤を呼びだした。
「これは月です」とクリフォードがいった。これは、実演としては極めて印象深い材料だったが、彼はまったくの悪戯《いたずら》心から、努めて事務的な口調をとり続けた。「他の天体についても同じことができますが、われわれがいま持っている設備では、あまり意味がありません。おわかりのように、染みと大差ないものしか見えません。たいした情報は得られないのです」
「マークUができれば、ちょっとしたものが見られますよ」とオーブがつけ加えた。「たとえば、銀河系の中で、近在にあるブラックホールの完全な地図ができると思います――直接にです。いま天文学者がやっているように、伴星への影響を頼りに発見する必要はなくなるでしょう」
「それに、忘れないでくださいよ」とクリフォードが、しめくくった。「われわれが見るこれらの映像は、いまの[#「いまの」に傍点]姿なのです……時間の遅れは一切ありません」
ツィンメルマンは、依然として、黙って彼らを見つめていた。一生のうち、こんな短い時間に、これほど多くの驚くべき事実を明らかにされたことは、未だかつてなかった。彼の心は、いま目撃したばかりの事実が持つ、想像を絶する可能性が繰り拡げられていくヴィジョンに、目まいを感じていた。きっと、海中にいた初期の多細胞生物が初めて視覚を獲得した時も、宇宙に関する認識の進化への衝撃という点では、これほど革命的ではなかっただろう。彼は、科学の新時代の誕生に立ち会っていたのである。
他の者たちは、黙って彼を見ていた。彼が何を考えているかは、わかりすぎるほどわかっていたが、過度の演出や感情に訴えることは、彼らの性分に合わなかったのである。
「驚くべきことだ!」ツィンメルマンは、やっと言葉を発した。その声は囁きに近いものだった。
「驚くべきことだ……」彼は、一切が夢でないことを確かめようとでもするかのように、もう一度スクリーンの映像を見た。しばらくそれをじっと眺めた後で、彼はもう一つ質問を発した。
「詳細な映像……情報が得られるようなものに解像できることは、確信があるのかね。ほんとうに、地球の中心核をのぞきこんで、われわれの足もとにある世界で何がおこっているかを、初めて現実に見ることができるのかね。惑星の内部を……恒星の内部を……見ることができると……」
「それは可能です」とクリフォードがうなずいた。「もっとも、それが確実と思える唯一の方法は、マークUだけです。ここの装置は、この種のことまでは予定していなかったのです」
「驚くべきことだ」と、ツィンメルマンは、また繰り返した。「ここでの研究が進捗しているとは思ったが、これほどまでとは……」彼はスクリーンを身振りで示して、まるでいま見たばかりのことが、まだ信じきれないとでもいうように、くびを振った。「これで何もかも変わるだろう」
「いま見た映像は、もちろん、リアルタイムで処理されたものではない」とモレリが説明した。
「いまこの瞬間に、検出器が実際にとらえたものを見ているわけではない。すでに計算してある映像の再生にすぎん。今のところ、それがこのシステムの大きな問題だ――あれだけの出力を得るのに必要なコンピューター能力の大きさは、途方もないものだ。この二人の男は、ここ数週間というもの、研究所の機械をほとんど独占しているんだ。通常の研究のほとんど全部を、ぎりぎりにまで切りつめねばならなかった」
「K方程式から必要な空間的情報を引きだすのは、うんざりするような仕事です」とクリフォードが説明した。「関係する方程式には無限の解があります。もちろん、それを全部解くわけではありませんし、そうしなければ計算が終わりませんが、求める空間的投影を生ずるのに必要な一連の限定を計算するだけでも、ものすごい仕事になります。平面的な断面だけが唯一可能な種類の解ですが、それでも、たとえば地球のさまざまな断面が特定でき……あらゆる角度や方向をすべて実現できるとしたら。これは、人の度肝を抜くようなものです」
「わたしはもう、一日分としては十分に度肝を抜かれたと思うよ」と、ツィンメルマンは、微笑みながら答えた。「もう、一息ついてもいいかね。それとも、きみたち三人は、まだ切札を隠しているのかな」
モレリは、マークUに必要な構成部品を手に入れるに当たって直面している困難の説明を始めた。問いあわせてきた質問の数々、蔭にまわっての穿鑿《せんさく》、自分たちに向けられた全面的な妨害のことを話すと同時に、それらの背後にある理由についての自分の推測を述べた。ツィンメルマンは、もちろん話のはじめの部分をすでにかなり知っていたから、残りの部分ものみこみが速かった。聞いているうちに、彼の顔は真っ赤になり、怒りがあふれていった。
「ばか者どもが!」モレリが語り終えると、彼は叫んだ。「彼らの予算をそっくり束にして出てくるものより、ここできみたちがやっている研究のほうが遙《はる》かに将来性がある。わたしは神かけて軍国主義者ではないが、それが彼らの望みなら、ここに援助しないで何とするのだ。これから何が生まれるか、彼らにわかっているのだろうか。彼らに説明してみたかね」
モレリは、ゆっくりと、くびを振った。
「連中に腕ずくで入ってきてほしくないんだ」
「きっと、そうするでしょう」と、クリフォードは、俄に憂鬱な口調になっていった。「おわかりでしょう、われわれはこれから何が生まれるか、知っています」
「ところが、われわれは連中のやり方が性に合わない、ときてるんです」と、オーブがしめくくった。
その午後遅く、サラを加えた彼ら一行は、ストーのブーン湖畔にあるモレリの広々とした屋敷に、揃って夕食に行った。モレリの快活で質朴な妻ナンシー・モレリは、客たちの全員とすでに知りあいだったが、ワインソースをかけた仔牛に続いてシュバルツバルト・ケーキ、仕上げにモーゼル・ゴールデン・オクトーベルその他の各種飲料をたっぷりという、すばらしいドイツ料理をふるまってくれた。食事の間、みんなは、月の裏側の生活、サラのマールバロでの仕事、ナンシーのニューヨークでの子供時代の思い出、クリフォードのヨセミテでの岩登りの経験を話しあった。ツィンメルマンとモレリがヨーロッパで過ごした頃の話を交換すると、サラはイングランドのことを話し、オーブはバークリーやそれ以前の時代の陽気な脱線のエピソードで、みんなの腹の皮をよじらせた。男たちは、この日の昼間の話題が(真実のところ、彼らの一人一人にとっては、今なお緊急な課題だったのだが)このような場所柄には絶対に禁句であるという不文律を忠実に遵守し、一度としてそこから逸脱しなかった。
食器類が片づけられ、それからさらに三十分ほど、飲物を手にしてみんながおしゃべりや冗談に興じた後で、ナンシーは、夕日を浴びた湖や周囲の松林を見せようと、サラを表に連れだした。
調理場に通じる裏口のドアが閉まるや否や、暗黙のうちに室内の雰囲気は一変した。誰かが問題を切り出す必要もなかった。みんなが、それを感じていた。最初に発言したのは、ツィンメルマンだった。
「おそらく、この間題に、ジュネーブの国際科学財団本部の注意を喚起することは、考えたんだろうね、アル。障害の一部を回避する一つの方法として、他の国際科学財団の施設で代わりに注文してもらい、それから内部的な移動として資材をサドベリーに送ってもらうことができるかもしれん」
「うん、われわれは、それも考えた」とモレリ。「だが、これはわれわれ自身の問題だ……局地でのな。もしわたしが権力に嫌われたのなら、そのレベルに留めておくべきだと思う。国際科学財団の全体をこれに引きずりこむことは、長い目で見て、益より害のほうが大きいだろう。それに……ブラッドが昼間いったように、われわれが何をもくろんでいるかに彼らが感づいたら、研究所は彼らに占領されてしまうだろう?」彼は飲物を一口飲んでから、グラスを見つめて眉をひそめた。「それどころか、最近おこっていることから見て、彼らがもういくらか感づいているとしても、わたしは驚かんな」
「その意見には同意せずばなるまい」ツィンメルマンは、ため息をつきながらいった。「わたしがきみの立場にいたとしたら、まさに同じ結論に達したことだろう。国際科学財団は、大体において異常なほどの活動の自由を享受してきたし、当然、それを維持することを切望しているだろう。国際科学財団と政府――どの政府でもだが――との関係を傷つけるようなことは、絶対にすべきでない」教授は、自分がいまいったことを反芻《はんすう》し、それからくびを振った。「うん、きみのいうとおりだ。国際科学財団の上層部にすがるわけにはゆかん」
「では、どこに行けばいいんでしょう」とオーブが訊ねた。
「午後からずっと、その問題を考えていたのだよ」とツィンメルマンは答えた。「諸君、きみたちは困難に直面している。これを解決するには、きみたちの称賛すべき理由の少なくとも一部を犠牲にして、われわれを取り囲むおもしろくない現実と――少なくともある程度までは――多少とも妥協する必要があるだろう。このような状況には、前にも出会ったことがある。正直をいって、体制を打ち負かすことはできん。これは、ほんの皮切りなのだよ。事態はもっとひどくなるだろう。きみたちが相手にしている者たちを、見くびってはいかん。彼らの多くは愚かだが、権力を持っている――これは怖るべき組み合わせなのだよ。彼らは、可能ならば、きみたちを抹殺するだろう――肉体的ではなくても、精神的にだ。破壊こそ、彼らの仕事なのだから」
「じゃ、どうしたらいいんですか」
「きみたちの研究に最終的な生殺与奪の権を振る権力が自分たちの力の及ばぬ所にあることを否認しつづけるなら、それはますます大きくなってきみたちを圧殺するだろう。だから、それが存在すること、また無視しても消滅はしないことを、認めねばならん。これが最初の一歩だ。これを認めて初めて、その権力を自分たちの目的に利用できる」
「利用する?」クリフォードは、めんくらっていた。「どういう意味です、利用する≠ニは」
「簡単なことだよ。国家が、資源や財力や絶対の影響力という点で、どれだけの力を持っているかは、もちろんわかっているね。それだけのものがきみたちの研究計画を援助することになったら、どれほどの違いが生ずるか、考えてもみなさい」
「でも、教授、それじゃ逆戻りですよ」とオーブが異議を唱えた。「連中などに助けてもらう必要はありません。ブラッドとぼくが背水の陣を覚悟してあそこをとびだしてからまだいくらもたっていないのです。問題は、われわれが連中とかかわりあいたくないということなんです。これまでは、国際科学財団が一切の資材や何かを提供してくれて、立派にやってきました」
「だが、それこそまさに私がいおうとしていることなのだよ」と、ツィンメルマンは穏やかに答えた。「残念ながら、もうきみたちには選択の余地がないのだ。きみたちが表明してきた心情は、きみたちも体制の側もそれぞれ相手を無視して、別々の道を選ぶと決めていた間は、それでよかった。だが、彼らがきみたちに注目しはじめたうえは、きみたちの側で彼らを無視しつづけることは、災いを招くだけだといわざるをえない。対応せざるをえないのだよ。わたしの提案は、きみたちが政府機関と早晩かかわりを持つようになることは不可避と思えるから、その関与がわれわれの目的に有利であるように努めるということだ」教授は、両手を拡げて、訴えるような身振りをした。「関与は避けられない。そうしなければ、圧力が強まるだけだ。利用しなさい」
クリフォードは、しばらく窓の外を見つめていたが、急に部屋のほうに向き直った。
「理屈としては結構ですが、彼らの態度はもうわかっています。完全に破壊的なのです。おそらく、糞でもくらえといって出ていった二人の男が、その頃に彼らが集めていた大物グループより力があることになっては、面目まるつぶれだと恐れているからでしょう。彼らが急にわれわれを好きになるとは、とても思えません。そうする理由もないのです」
「わたしが役に立つかもしれんと思うのは、そこなのだよ」と、ツィンメルマンは静かにいった。
「知ってのとおり、国際科学財団でのわたしの職務は、政府高官と定期的に接触を保つことが必要であり、多くは永年の親友になっている。国際科学財団に加わる以前でさえ、ヨーロッパ連邦政府のもとでやった研究の場合には、大統領に極めて近いワシントンの要人との緊密な連絡が必要だった」
ツィンメルマンは、一息いれて、自分が述べていることの要点が胸におちるのを待った。三組の眼が、彼を真剣に見つめていた。「こんなことをいって、思いあがっているように聞こえても困るのだが、おそらく、もうわたしのいわんとするところがおわかりだろう。きみらを悩ませた者たちを見て、判断を誤ってはいかん。幸いにも、この国の政治を預かる者の中には、極めて知的で明敏な人物が今でも少しはおるのだよ――そうあってほしいと思うような場所、つまり其の権力が存在するトップの地位にな。きみたちが不運にも出くわした下っ端や威張った小役人が見せるけちくさい横暴などは、どうでもいいのだ。いま、きみたちがここでやっていることに、然るべき者たちの眼を開かせてやれさえすれば……」ツィンメルマンは、その先はいわなかった。
モレリは、新たな尊敬の眼で、彼を見た。たしかに、決着をつけるために残された手段は何らかのかかわりあいを持つことしかないとすれば、これこそがその道だろう。仮に何らかの形でいま以上に世俗的目的への束縛が生じたとしても、それを実現するためには少なくとも今の基礎的研究が続かなければならないのだ。つまり、妨害を受けずに研究が続けられるわけであり、長い目で見てどうなるかは……誰にもわかりはしないのだ。
「それで、どうやるつもりだね」と、モレリがツィンメルマンに訊ねた。
「朝になったら、真っ先に予定を組み直すつもりだよ」とツィンメルマンは答えた。「そうして、面会の約束をとりつけてから、ワシントンに飛ぶことにしよう――すぐにそうできるといいのだが。そこのところは、一任してもらわねばならん。きみたちのほうは……」彼は部屋を見まわして、三人の様子を眺めた。「しばらくの間、科学者であることを忘れねばならん。きみたちみんなが、セールスマンになったつもりでいてほしいのだよ」
クリフォードとオーブは、狐につままれたような気分で、顔を見合わせた。二人は同時に肩をすくめた。
ツィンメルマンは、にやりとした。「まったく簡単なことだよ。準備しなければならないことは……」調理場のドアが閉まる音がして、彼の発言は中断された。女性の笑い声が部屋にとびこんできた。彼は肩越しに後を見た。「おやおや。どうやら、諸君、本日の用談は終わったようだね。朝になってから、すっかりお話ししよう。ああ、お二人とも、やっと戻ってきたね。話のたねも尽きかけていたところだよ。湖はどうだったね」
その晩遅く、クリフォードとサラが車でオーブを家まで送る間に、二人の科学者はサラに、ツィンメルマンのいったことの骨子を説明して聞かせた。
「どうやら、彼はあなたたちのために、何か大きな大砲を持ちこむつもりのようね」二人が話しおわると、彼女はいった。「おもしろくなりそうだわ。彼が、ほんとうに、そんなことをやってのけられると思う?」
「そうだな、アルは、彼が然るべき人間をちゃんと知っている、と思っている」と、オーブが後部座席からいった。「それに、われわれが全世界を敵にまわしていた時でさえ、即座にわれわれを国際科学財団に入れてくれたじゃないか。ぼくは彼を信じるよ。どう思う、ブラッド」
「ずっと前のことだが、初めて彼に通話した時、彼は守る自信のない約束はしないといったろう」とクリフォードは答えた。「ぼくも、彼はそんなことをしないと思う。そんな人間には見えないもの。それこそが、この世界にもっと必要なものなんだよ――上のほうを信頼できることがね。彼はそういうものを持っているし、それこそ彼が今の地位を与えられ、彼が知っているような人間を知っている理由であって、あとの連中はろくでなしの集団さ」彼はしばらく口をつぐんでいたが、やがて彼の顔には、車内の暗闇の中で、喜ばしい期待に満ちた微笑が拡がっていった。
「ああ」と彼は肩越しにいった。「ツィムの大砲が砲撃を開始する時の修羅場を見るのが、待ち遠しいよ。これが、いまわかりかけたような結末になるとしたら、きっと胸がせいせいするだろうな」
「そうね」とサラ。「近頃では、わたしも下っ端や小役人に悩まされていたの。わたしも胸がせいせいするだろうと思うわ」
15
二〇〇五年の世界は、白人種対非白人種という陣容に分極化していたが、この状況は一世紀近くにわたって形成されてきたものだった。
最終的対決へ向かっての結集は、一九八〇年代初期に勢いを増しはじめた。その頃、出現しつつあるアフリカ民族国家の間で、散発的な一連の衝突やクーデターが繰り返される中で、南部の白人政権は遂に壊滅させられ、大陸は反西側・反白人のアフリカ勢力による緊密な同盟に合体していった。一九八五年には、ハルツーム協定によって、このブロックとアラブ国家連邦との間に、俗にアフラブ同盟として知られる関係が固められ、これを契機に西側世界に対する共同の経済攻勢が強化された。この年代の後半に、イスラエルはアフラブ軍に蹂躙《じゅうりん》され、その過程の中で、シナイでは双方の側から戦術核兵器が使用されて、アメリカ地中海艦隊が行動を開始した。この戦争の直接の結果として、アメリカ本土の兵力はキューバを侵略し、これを占領した。
中国は、アフラブ勢力と密接に同盟していた。この時点で東西の重大な対決が回避されたのは、もっぱらモスクワが示した意外に穏健な態度によるものだった。一九九〇年には、ペルシア湾沿岸諸国が中国・アフラブ共同体を支持し、この時期以来、インドの東西国境沿いでは、両側の隣国が主張する領土紛争を口実として、絶え間ない国境での小競りあいや局地戦争が続いた。極東では、オーストラリア、ニュージーランド、日本、南朝鮮、インドネシアが、中国の南方および東方へ向かっての仮借ない膨脹に対抗して、相互防衛協定を結んだ。
この間を通じて、最後の中東戦争の期間に初めて表面化したソ連陣営の中での分裂は、しだいに拡大していった。ヨーロッパ・ロシアは、モスクワ政府が示した先例に従って、西側への理解を増大させる政策に進んでゆき、東部シベリア地方は、中国と歩調を揃えて、強硬なマルクス主義的態度をとりつづけた。一九九六年になると、東部の反逆は中部シベリアに拡大し、中国正規軍が反政府軍と共同してモスクワ軍と交戦した。戦争は一九九九年に頂点に達し、その後はほぼウラル山脈に沿って頻発する小競りあいの形をとって、下火になっていった。シベリアは、ウラジオストックを新しい首都と宣言して、その後は急速にアフラブ・中国共同体との全面的な合体へと進み、その過程の最終的結末は、二〇〇二年に広東において、革新人民共和国大同盟として発表された。
ヨーロッパ・ロシアは、有人科学衛星や月面基地の運営、原子力宇宙船の開発、有人火星探検隊の実現を、ことごとく西側との合同計画として行ない、それが実りある成果を生んだことに力を待て、最終的には一九九六年に成立したヨーロッパ連邦に合体した。二〇〇四年には、アメリカ、オーストラリア連邦、およびこの新しい大ヨーロッパの兵力に対して、統合指揮機関が設置された。こうして、西側自由主義同盟が正式に誕生したのである。
かくして舞台はできあがった。双方とも原子力宇宙船を持ち、恒久的な月面基地を作りあげ、戦略的抑止力の長いリストのうちの最新のもの、すなわち軌道核兵器を配備していた。これは軌道飛行をする核爆弾集合体の群れからなり、地球上のどの地点でも、数分間で攻撃できた。
この時、第一幕が始まったというニュースが、緊張した世界を駆け抜けた。
根元に残っていた火種が再び燃えあがって山火事になるように、南朝鮮にくすぶり続けていた不穏状態が、全土にわたって一気に火を吹いたのだった。暴動、ストライキ、待伏せ、ゲリラ作戦が巧みな計画のもとに蔓延し、全国的な組織に合流して、軍隊は首尾一貫した戦術もとれず、再編成すべき安全な場所もなく、四面楚歌に陥ったのである。ソウルの政府は打倒され、これに代わったいわゆる人民民主会議が政権をとって最初にやった仕事は、未だに戦闘を続けている正規軍のひきつづく圧制から民衆を守るために、援助を要請することだった。北緯三十八度線沿いに集結していた中国の数個師団は即座にこれにこたえ、それから数日のうちに、権力奪取は完了した。
駐留していたオーストラリアと日本の兵力は、かくも広汎な大衆行動の前に無力さを暴露し、これらの事態が展開する速さにまったくなすすべもなく、積極的な役割を何も果たさなかった。
彼らは、重武装した解放軍戦闘部隊の列から冷たい視線を浴びながら、自分たちを日本へ運ぶべく待機している輸送機の前に、悄然と列を作ったのである。
モレリ、クリフォード、オーブ、それにサドベリーのその他の科学者や幹部たちの一団は、研究所のエアモービル駐車場内に確保された離着陸場の前に立って、上空から下降しつつますます大きく膨れあがる点を眺めていた。ツィンメルマンは、彼らの所に一ヵ月いてから、先週のうちに月面に戻ったので、同行してはいなかった。白く塗装されてマサチューセッツ州警察隊≠ニ記された中型のスカイバス三機が、駐車場の一方に並んでいた。その乗員たちは、離着陸場の周囲に、かなりの距離をおいて、研究所敷地内の要所要所や一部の建物の内側にあるドアなどの部署についていた。
点はしだいに拡がって、アメリカ空軍輸送部隊の色と記章をつけた、垂直離着陸特別ジェット機のずんぐりした姿になった。それは速度を緩めて停止し、操縦用コンピューターが着陸用レーダーから最終的な許可を受けとり、操縦士が慣例的な目視点検によって下に障害物のないことを確認するまで、着陸地点の三十メートル上空に浮いていた。それから、ジェット機は滑らかに下降し、停止しながら低くなっていくエンジンの音を立てながら静止した。ドアが開き、短い階段が地面へのびた。
数秒して、平服を着たFBIと思われる二人の男が出てきて、階段の下の両脇に立った。それに続いて、勲章をいっぱい飾った陸軍少将の制服に身を固めた、がっしりした体格の人物が現われた。それは、戦略計画に関する大統領顧問官で高級兵器体系の権威者、ジェラルド・ストレイカーだった。ストレイカーの後には、西側自由主義同盟の統合戦略出撃軍団調整委員会アメリカ代表アーウィン・ドルビー将軍、戦略計画作業委員会のロバート・フラー将軍、北米・地球査察・早期響戒・報復システムの副指揮官ハワード・パーコフスキー将軍が続いた。その次は、ともにペンタゴンに所属する二人の民間人で、一人は軍事通信システム機密保持に関する駐在顧問フランツ・マラー教授、もう一人は軌道核兵器の設計者ハリー・サルツィンガー博士だった。
アメリカ空軍軌道核兵器作戦部次長ハーヴィー・ミラー将軍には三人の空軍副官が続き、さらに人工衛星による潜水艦探知法の改善研究を担当する大統領諮問委員会委員長ジョセフ・ケイン提督をいただく海軍代表団が続いた。海軍のすぐ後について降りたのは、三人の民間人の技術顧問、パトリック・クリアリー(コンピューター工学)、サミュエル・ハットン博士(軍用レーザー)、ウオーレン・キール教授(原子力工学)だった。最後に現われたのは、即座にそれとわかる合衆国国防長官ウィリアム・S・フォーショーの、痩せて禿げかけてはいるが頑健な姿だった。
紹介が終わると、二つのグループはいっしょになって研究所本部の建物に向かった。そこの会議用大講堂におさまると、モレリは彼のチームが今日までに達成した成果を披露することから、当日の日程を開始したのだった。
「きょうここへお招きしたのは、驚天動地ともいうべき科学の新発見に、皆さんの注意を喚起するためであります」と彼はいった。「われわれの見解では、当地で過去二年間に行なわれた研究は、人類の知識におけるおそらく古今未曾有の一大飛躍といえるでしょう」
彼は、期待感が適切なレベルに高まるのを待って、それから先を続けた。「皆さん方はどなたも、われわれの住む宇宙が空間と時間の枠組の中に存在しているという考え方に精通されていることと思います。われわれが知るすべてのもの、われわれが見るすべてのもの、最も強力な望遠鏡によってしか解像できない極めて遠い物体、あるいはさらに原子の中に観測できる微小な事象――これらすべてが、同一の普遍的な枠組の中に存在しています」居ならぶ顔は、無表情に彼を見つめていた。
「いまわれわれの手もとには、この宇宙が遙かに大きな何かの微小部分にすぎないことを示す実際的な理論モデルがあるだけでなく、確固たる実験的証拠さえ手に入れています……単に広さが大きいだけでなく、そこに存在する概念的実体、あるいはその内部でおこる過程を律するまったく新しい領域の物理法則という意味からいっても、遙かに遙かに大きいのであります」そこにいる著たちの何人かが、モレリの話の行く方をおぼろげに感じとるにつれて、目の前に並ぶ顔のいくつかが俄《にわか》に興味を見せはじめた。モレリは、ゆっくりとうなずいた。
「そうです、皆さん。わたしが申し上げているのは、空間と時間の次元を超えたところにある宇宙のまったく新しい領域のことなのです――それは、あまりにも未知であるために、われわれは明らかにされるのを待っている可能性の一部を覗き見たにすぎないのです。しかし、この最初の一瞥でさえ、いま承認されている物理法則のほとんどすべてを根本的に変え、多くの場合にはこれを否定し去るほどの途方もない事実が明らかにされました。今日までにあらゆる装置が明らかにした宇宙のすべては、極めて興味深い広大な超宇宙の微かな影にすぎないことが判明しました。この超宇宙の仕組みについて、少しお話ししてみましょう」
それからモレリは、粒子の消滅や創生の背景をなす理論や、基本的実体がK空間の各次元を遷移するとしてこれらの事象を解釈することを、専門的でない言葉で説明した。彼はK波動の発生について述べ、物理学での既知の力やエネルギー形態のすべてがそれによって解釈できること、さらに進んで重力は物質粒子が徐々に消滅する結果の不連続で動的な現象であるという概念が導かれることを説明した。
「しかし、重力波は、もっと複雑なK波動がわれわれの宇宙に投影されたものにすぎません。超宇宙の中には、いかなる想像をも絶し、通常空間のすべての場所に同時に存在できるという属性を持つ、一種の超波動が存在しています。この超波動は、宇宙のあらゆる物質から――惑星、恒星、さてはその間の虚空からさえ――絶えず生みだされます。しかも、宇宙のどの地点でおこるいかに小さな粒子事象でも、他のすべての地点で、即時に感知されるのです」驚きの呟きが聴衆の間に流れた。モレリはこの機会をとらえて、今まで話したことの実際的な応用に初めて言及した。
「われわれは、ここサドベリーで、宇宙のあらゆる場所から届く波動に反応を示すだけでなく、さらにそれらを処理して意味のある視覚的な映像に変換する装置を組み立てました」彼はここで言葉を切って、この発言の衝撃が効果を表わすのを待ってから、先ほどK理論の基本概念を示す図表を示すのに使った背後の大スクリーンを指した。彼が、前にある演台の手前に設けられた制御を操作すると、スクリーンはたちまち明るくなって、輝く橙黄色の円盤を映しだした。「皆さん、これは地球の中心を通る断面図であります」驚きに息をのむ気配が湧《わ》きおこった。
原子力工学の専門家ウオーレン・キールは、感嘆をおさえかねていた。「それが、地球内部の現実の映像だというのかね」と、彼は信じられないように声をつまらせていった。「あなたたちの装置は、地球全体から来るその波動をとらえて、そこから映像を作りだせるというのか」
室内は、いっせいにおこった発言で騒然となった。モレリは、この機会をとらえて、その場の空気に便乗することにした。「ええ、まさにそのとおりのことが、できるのです。それ以上のこともできます」彼は映像を、同じような外見をした別の円盤に変えた。「これもやはり断面図ですが、これは月のものです」彼は、同じ手続きを芝居がかりで繰り返し、三つ目の円盤を出したが、今度のは中心に向かって顕著に明るくなっていた。「これは、太陽のものです」それに続く騒ぎの中で、彼は論旨が徹底するように声を張りあげた。「これらの映像はどれも、皆さんの坐っている所から百メートル以内にある場所で得られたものであり、どれも情報を得た瞬間の対象物そのままを示しています。後刻、別の建物にご案内して、これらの映像を得たスクリーンをお目にかけましょう。皆さんは、その前に坐って、太陽の中心部を見つめることができるのであります」
それからモレリは、GRASERの仕組みを説明して彼らを熱狂状態にさせ、続いて、重力を人工的に作りだし制御することができると発表して、第二の爆弾を爆発させた。
「これが、ほかの場合であったなら、このこと自体が途方もない成果ということになるでしょう。これは、人頬が百年にもわたって夢みてきたことです。実際には、これは、もっと大きなそれ以上に遙かに途方もないものの単なる副産物として得られたのです」
モレリが話し終わると、四方から興奮や熱狂が湧きおこった。将軍たちの何人かは、今も茫然としており、ウィリアム・フォーショーを囲んで、即席の小会議が始まっていた。モレリは、じっくりと待った。
そして、がやがやした喧騒が静まりはじめると、パトリック・クリアリーが演壇のほうに向き直った。「モレリ教授、あなたが説明なさったことは、明らかにメーサンガーの場の理論を非常に拡張したものだと思いますが」
「そのとおりです」とモレリ。
「驚くべきことは、理論的概念を拡張したばかりか、実験的支持によってこれを証明したことだ」
「そんなことは、どうでもいい」とサミュエル・ハットンが口をはさんだ。「それが、すでに確固とした応用を生みだしている。そのことにわたしは度肝を抜かれているんだ」
「そうだ」とクリアリーも賛成した。「そのことを過小評価するつもりはない」彼はまたモレリのほうを向いた。「教授、わたしが質問しようと思ったことは、こうです。これは、ひょっとすると、われわれみんなが待ち望んでいた、SFに名高いハイパースペース≠ナはないのかと」
モレリは、ちょっと笑みを浮かべた。
「そのことなら、わがチームの理論家にお聞きになったほうがよろしい」と彼はいい、クリフォードがサドベリーの代表団といっしょに坐っている部屋の奥へ向かって叫んだ。「ブラッド、きみの意見はどうだ」
「ハイパースペースにもいろいろあって、どれを考えておられるかによりますね」とクリフォードは答えた。「承認された次元を超える次元が存在しているという意味では、確かにそういえるかもしれません。しかし、即時の恒星旅行か何かを考えておられるとしたら、ご期待にはそえないと思います。もちろん、それはきょうの予定には入っていません」
次に発言したのは、ハリー・サルツィンガー博士だった。
「この即時の伝播という話には、興味がありますな」と彼はいった。「特殊相対論は、もう問題にならないというわけですかな……それとも何か」
「実をいえば、特殊相対論には必ずしも反していないのです」とモレリ。「相対論的物理学がエネルギーの速度に上限を課しているのは、アインシュタイン時空を通じてのことです。高次波動はまったく違った領域に存在するのであって、これには通常の時空の法則は当てはまりません。いわば、アインシュタインの交通巡査は公然たる道路をパトロールするだけであって、高次波動は田野を横断するといったらいいかと思います」
「だが、情報の問題はどうです?」とサルツィンガーは、なおも食いさがった。「もし高次波動が、ここから向こうへゼロ時間で行くものなら、それはゼロ時間で情報を伝えることになる。相対論は、それは不可能だといっていますが」
「それはただ、今日までに知られている情報伝達手段が、必ず古典的時空を通るものだからにすぎません」とモレリ。「しかし、高次波動の場合には、まったくそれに関係ありませんから、問題は生じないのです」
「実をいえば、今の説明よりはもう少しこみいっているんです」と、クリフォードが奥のほうから、また声をあげた。「一部の人々は、ありとあらゆる複雑な因果関係の議論を組み立てて、即時の情報伝達が行なわれれば、ありとあらゆる論理的パラドックスに逢着することを証明しました。この矛盾は、事実の制約ではなくて、むしろ論理や概念の制約に起因するものだというのが、わたし自身の見解です。いま、その間題を追究していますが、同時性についての古い多くの概念が再検討されなければならないという結果になったとしても、わたしは意外とは思いません」
「その波動によって伝達される情報は、どれだけ詳しくなりうるのですか」とケイン提督が訊ねた。
「たった今ごらんになった映像が、ひどく不完全なのは、われわれのところにある装置が、そもそもこんな仕事を想定して設計されておらず、実験室での最初の試みとしての間に合わせのものだからです」とモレリ。「どこまで行けるかは、われわれにもまだわかりません。これも、追究しようとしている主要な課題の一つなのです」
「話を聞いていると、わたしには、ヘルツがやった最初の初歩的な火花間隙の実験が思いおこされる」とクリアリーは、心を動かされた口調でいった。「ところが、それが、ラジオ、テレビ、電子的情報伝達という大きな科学に発展したのだ。あなた方は、ここでやっていることから、どんな技術が生まれるかについて、何か考えているんですか」
モレリは、とくにオーブを相手にとめどもなく議論している重力工学の可能性について、生き生きとした描写を開始した。昼食の間を通じて絶え間ない質問が浴びせかけられたが、それらはすべて肯定的で、想像力に富み、明らかにもっと知りたいという純粋な欲求から発せられたものだった。
「人工重力を集中させ、一種のビームとして遠くへ届かせる方法はあるだろうか」とパーコフスキー将軍が、その中でクリフォードに訊ねた。「標的に当てるといったようなことが?」
「それをいうには、まだ時機尚早ですよ」とクリフォードは答えた。「何を考えているんです?」
「ミサイルの慣性誘導装置を狂わすのに使えないものかと考えていたんだが」とパーコフスキー。「さほど強力なものである必要はないんだがね」
「やあ、そっちは思いつかなかったな」と、テーブルの向こう側で聞いていたアーウィン・ドルビーがいった。「集中させた重力ビームか……仮にそれが可能なら、どのくらい強く、集中できるかだが」
クリフォードが答えようとした時、ロバート・フラーが割りこんできた。「誘導装置をおかしくさせるなぞ、どうでもいいんだ。ビームを強くできるんなら、ミサイルを丸ごと引きずり降ろせばいいじゃないか」
「あるいは、そもそも地上から飛びだすのを、止めればいい」とドルビーがいった。「うん……考えてみると、このほうがいいぞ」
「ことによると、軌道核兵器を引き降ろすことさえ、できるかもしれん」とストレイカー将軍も口をはさんだ。「そうなれば、相当に大きな顔ができるというもんだ」彼は、しばらくそのアイデアを反芻《はんすう》していたが、やがて別のことを思いついた。「それとも、時空を歪めて、永久に宇宙空間へ追放してしまうんだ。どうだ、このアイデアは」
昼食後の最初の時間、訪問客たちはGRASERが働いているところを見学し、四人ずつモニター室に入りこんで、検出器の表示スクリーンの前に、茫然として坐っていた。映像はそれほど鮮明なものではなかったが、それが意味するところを考えただけでも、数分間は口をきけないほどのショックを受けるには十分だったのである。
公開実験が終わると、彼らは会議用講堂に戻って、オーブの話を聞いた。モレリの話は、大部分が事実経過と、目下の水準に到達するまでの発展の説明だった。オーブは、もっぱらその先へ進んで、これから実現するかもしれない事柄の一部に、夢を繰りひろげたのである。
「皆さんがいま見たばかりのGRASERは、強力な高次波動を放出します」と彼はいった。
「つまり、これは送信機であります。皆さんがごらんになった検出器は、受信機です」彼は部屋を見渡して、相手が自分でその先を考えるにまかせた。
「われわれのところには、通信システムの両端があるわけだ」一秒か二秒おいて、誰かが発言した。訪問者たちは、進行に参加し、反応しあっていた――いい徴候だった。
「まったくそのとおりです」と、オーブは、満足げにうなずきながら同意した。「しかし、この通信システムは、今まで夢にも考えられなかったようなものです。これが使用する伝送媒体は、今日の科学に知られているいかなる手段によっても、まったく検出不能です。また、今日の科学に知られているいかなる手段によっても、この伝送媒体に妨害を加えることはまったく不可能です」彼は、それまで使っていた堅苦しい表現を捨てて、別のいい方をした。「これを盗み聞きしたり、これを使って話したりできる者は、この世に他には誰もいないんです」
「完全なスパイ防止だ」と、フランツ・マラーは、強くうなずきながらいった。「完璧な軍事用通信手段……絶対の機密保持だ」
「しかも、妨害もできない」とパーコフスキーが、つけ加えた。「そういうことをいっているんですな、フィリップス博士? 誰にも妨害の方法がない……いや、混信さえおこさせられないと」
「そのとおり」とオーブが答えた。
「それだけ聞けば十分だ」と、パーコフスキーは、笑みを浮かべていった。「このシステムを手に入れるには、どこに署名すればいいかを教えてくれさえすればいい。わたしは納得したぞ」
「だが、それだけではありません」とオーブは続けた。「送信に遅れがないことも、忘れないでください。まあ、考えてもごらんなさい。いま論じているデータ通信能力に、制御機能つまりフィードバックを加えることができたらどうなるかを。さあ、ループに遅延を生じないフィードバック制御方式です――どれだけの距離があってもですよ――これにどんな直接の用途があるかは、どなたにもおわかりのことと思います」彼は再び一息いれて、彼らにそれを考えさせた。一秒か二秒おいて、聴衆から驚きの低い口笛がおこった。一方では、興奮した囁きが拡がった。
「遠距離宇宙探測機だ」と不意に誰かが叫んだ。「すごいぞ。この地球から、リアルタイムでモニターや制御ができる――相互にだ」
「ということは、地球にあるコンピューターが、高速応答処理を必要とする遠隔地での各種の仕事に使えることになる」と別の声がいった。「火星探査車を、こっちにあるPDP64で直《じか》に動かすというのはどうだ。ほんとうとは思えないな!」
「そうです、わたしの頭にあるのは、そういう種類の仕事です」ざわめきが静まった時、オーブはいった。「だが、ちょっとだけ、その先も考えてみようではありませんか。いつの日か、自動操縦の最初の恒星間宇宙船が到着する光景を、この地球上の計画管制センターから……何光年もの遠くでいま現におこっているままを[#「いま現におこっているままを」に傍点]刻一刻と……目撃し、かつ制御する[#「制御する」に傍点]、というようなことはどうでしょうか」彼は、眼を丸くして聞いている、まわりの顔を見渡した。「だって、そうでしょう。そうするための基礎的な技術は、すでに存在しているのです。きょうごらんになったとおり」
彼らが冷静さをとり戻す間も与えずに、オーブは大スクリーンを使って、午前中に見せた高次波動による地球の映像を、また映しだした。
「そして最後に、このことを考えてみてください。この映像は、大小を問わず宇宙のあらゆる物体から多かれ少なかれ放射されている一種の波動から生みだされたものです。そこで、もしこの映像が鮮明になり、これをさらに細部にわたって――たとえば地上の細部を――解像する方法を開発したとしたら、どうなるでしょう。仮に、地上のどの地点でも選んで、好きな場所を即座にクローズアップできたとしたら……あるいは空中の地点を……あるいは地中を……あるいは月面でも……」オーブは、可能性を一つずつゆっくりと繰りひろげ、聴衆の心の中に、それぞれを一瞬だけ、じらすように描きだした。彼らの表情は、すっかり彼の話につりこまれていることを物語っていた。
「こうしたこと、あるいはそれ以上のことが、どこかたとえばアメリカの一地点から、やれるのです」と彼は締めくくった。「これが地球の戦略的バランスに、どんな衝撃を与えることか……。皆さん、考えてもごらんなさい。このレーダーは――もしレーダーといってよければですが――地平線の向こうも、山の向こう側も……地球の向こう側でさえも見通せる≠フです」
オーブの話が終わると、ピーター・ヒューズが十分間を費やしてその日の要点を総括し、最後に力をこめていった。「ご存じのとおり、国際科学財団は、政府の援助や関与から独立して運営する道を選んでおります。しかし、同僚たちが本日ご説明したような事実の極めて重大な性格にかんがみて、この一般原則には明らかに特例を設ける必要があるというのが、われわれの熟慮の末の見解です。これまで説明したような可能性は、わが国ばかりか広く西側世界の将来にとって、直接の影響を及ぼすものです。しかし、この可能性を実現するためには、さらに多大な発展が不可欠であることも明らかです。時間はわれわれの味方ではなく、残された僅かな余裕を有効に利用するためには、この分野の研究が即刻かつ強力に支援されることが絶対の要件です。前進するために、われわれは、国家にしか提供できないほどの規模の援助を必要としているのです」
ウィリアム・フォーショー国防長官は、側近たちと低い声でちょっと相談してから、まだ立っているヒューズのほうに顔をあげた。「皆さん、ありがとう。さしあたり、これ以上の質問はないと思います」彼は、念のために、ワシントン側の者たちの顔を、確かめるように見まわした。
「責任をもって公式の返答をする前に、三十分ほど、われわれだけで若干の相談をさせていただきたいのだが。しばらく、ここにわれわれだけを残していただけないものでしょうか」
「結構ですとも」とヒューズは答えた。彼は部屋の奥にいるサドベリーの所員のほうに顔を向けて、ドアのほうへくびを傾けて見せた。彼らはぞろぞろと出ていき、ヒューズも続いた。外の廊下に出ると、彼らは申しあわせたように幾部屋か離れたコーヒー・ラウンジのほうに歩いていき、待望の休息をとった。四十五分たったが、彼らはまだそこに坐っており、焦燥が目立ちはじめるにつれて会話も途絶えていった。
やがて、オーブが立ちあがると、クリフォードの側へ行った。彼は不機嫌な顔で窓の外を見つめたまま、部屋に入ってから一言も発しないでいたのである。「元気を出せよ、ブラッド。うまくいったじゃないか。そう思わないか」
「うまくいったさ」クリフォードの口ぶりは、人ごとのようだった。
「じゃ、何をくよくよしてるんだよ。まるで腹を立てているようだぜ」
クリフォードは、窓に背を向け、腕を窓敷居にかけると同時に、いらいらしたようなため息をついた。
「ちょっと教えてくれ、オーブ。われわれは、なぜこんなことをしているんだ。そもそも、あの連中は、ここに何しに来たんだ。畜生……ああいうものから遠ざかろうとして、さんざん苦労したんじゃなかったのか。いまわれわれは、もう一度それを元どおりにしようとして気をつかっている。まるで理屈が合わんじゃないか」
「だが、元どおりではないんじゃないか」とオーブが答えた。明らかに、彼にもいくらか迷いがあるのだった。「ツィムがいったように、今度は然るべき人間たちと話しているんだ。今までのままにしておくわけには、いかなかった――それじゃどうにもならなくなっていたんだ。こうすれば、また仕事ができるようになりそうなんだ。悪いことばかりのはずはないさ」
「とにかく、気にくわないんだ。あの連中は信用できないし、信用できない連中とかかわりあいになるのは嫌いなんだ。彼らのやり方は、いやというほど見てきたからな」
オーブは、元気づけるように、彼の肩をたたいた。
「たぶん悪い面を見すぎているんだと思うよ。確かに前はおん出たさ。だが、あの時には、連中はわれわれの味方じゃなかった。それ以来、われわれはずっと自力でやってきた。今だってそれに変わりはないが、同時に彼らも味方にしたんだ。だから、事情はまったく違う、向こうにいるあの連中は、給料を出しあえばマークUの資金を提供することもできるんだぞ。それが肝腎な点だということを、忘れちゃいかんよ」
「そのとおりだが、それでも気にくわないんだ……」クリフォードには、元気を取り戻した様子はなかった。
この時、会議用講堂のドアの外に配置されていた警官の一人がラウンジに入ってきて、ピーター・ヒューズと小声で二言三言話した。ヒューズはうなずいて、緊張した様子で今まで坐っていた椅子から立ちあがり、声を張りあげていった。
「さあ、いよいよらしいぞ。陪審は評決に達したようだ。われわれがみんなで押しかけていくのは適当と思えないから、異議がないようなら、アルとブラッドとオーブだけ連れていくことにする。もちろん、戻ってきたら、ここでみんなに話すよ」
「彼らは話に乗ったと思うか?」ヒューズは、頑丈な体格の警官の後について廊下を歩いていきながら、小声で囁いた。
「もしそうでなければ、IBMにでも就職しますよ」とオーブは快活に答えた。
彼らは会議用講堂に入っていき、お偉方たちに向かいあって坐った。ウィリアム・フォーショーは、ドアが閉まるのを待って話しかけた。
「まず初めに、あなた方がきょう払ってくださった努力に感謝を表明したいと思います。われわれの感銘を表現するには、どんな言葉をもってしても十分ではない。したがって、ただ皆さん、ありがとう≠ニいうに留めておきます」代表団の間からは、これに賛同する呟きが湧きおこった。
フォーショーは続けた。「第二に、ヒューズ氏には、われわれの謝意をジュネーブの国際科学財団本部にお伝え願いたい。われわれは、自主的な科学団体が、国家への義務に応えようとする立場を表明されたことを、深く感謝するものです。さて、本題に移りますが、まず第一に、一つ二つ質問をさせていただきたい……」彼は一息いれて、前に坐っている四人の者たちを、一人ずつゆっくりと眺めた。その眼には謎のような表情があった。
「あなた方には初耳でしょうか」と、やがて彼はいった。「この国の別の所で、同じ理論的研究の線が追究されているという話は。そこでの進展は、きょうここで見せてもらったものには遠く及ばないことを加えねばなりませんが、基本原理は同じです」
誰も口をきかなかった。サドベリーのグループは、ちょっと気まずい表情だった。
「彼らは困難に逢着した」と、ウオーレン・キールが、むしろ沈黙を救おうとして、補足をした。
「計画全体の要《かなめ》だったある不埒者《ふらちもの》が、そこを見捨てて立ち去ってしまったのですな。彼らは、未だに、彼の残した混乱を解きほぐそうとしているところです」
「ACREでのことをいっているんですね」と、クリフォードは静かにいった。彼は、どんな形にせよ、嘘をつくことはできなかったのである。
フォーショーは、当惑した様子だった。「どうしてACREのことを知っているのかな」と彼は訊ねた。周囲から怪訝な表情が集まって、その質問を強調した。
「前にあそこで働いていましたから。わたしがその不埒者です」
続く十五分の間に、一部始終が話された。クリフォードも同僚たちも、すんだことは水に流し、将来のことに専念しようとして、この問題を持ちだすつもりはなかった。だが、質問は執拗だった。クリフォードがどこまで研究全体の要だったか、また混乱が実際にはどうして生じたのかが明らかになるにつれて、国防長官の眼は厳しくなり、その口は一文字にきっと結ばれていった。
「どうやら、誰か間抜けがいたようだな」事情聴取がすっかり終わると、フラー将軍が、考えこみながらいった。その凄味のこもった口調は、その誰かがこの先これ以上の間抜けな行為ができないようにするという意志が、強くうかがわれた。フォーショーは、最初からずっととっていたおびただしいメモを書き終わり、万年筆にキャップをかぶせてポケットにしまいこむと、メモ帳を閉じた。彼は椅子に坐り直し、姿勢を変えたことによって議事のこの部分は終わったことを示しながら、再び科学者たちをじっと見つめた。
「この間題については、さしあたって必要なことは、すっかりうかがったと思います。これからわれわれがとる処置については、この会合の議題ではない。本題に戻りましょう」彼は身をのりだして、テーブルの端に肘をついた。
「皆さん、あなた方は、われわれの支援を要請された。われわれは、全員一致で、可能なあらゆる方法をもってあなた方の研究を促進すべく、全責任を負うことを決定しました。あなた方が可能な最大限の速さで進むために、何が必要かをいっていただきたい。目下のところ、あなた方の最大の問題は何ですか」
モレリが、それに答えた。「現状でのこのシステムの最大の障害は、コンピューターの能力です。午前中にお話ししたとき申しあげたように、あの映像の一つだけを得るのに必要な処理量でさえ、膨大なものです。もとのデータから意味のある情報を引きだすのに、もっとうまい方法を考えだすまでは、われわれの歩みは、まるでカタツムリのようなものです。過去六ヵ月の進捗速度は、何ら基準にはなりません。われわれは今や異なった要求に直面しているのです。これがわれわれの最大の問題です」
「それはもう推察している」とフォーショーはうなずいた。「あなた方が外に出ている間に検討したことの一つです。われわれは、お役に立てると思う。たとえば、BIACを使えるようにしてさしあげるといったら、何といわれるかな」
モレリは、耳を疑うような表情をした。クリフォードとオーブは、あっけにとられていた。ピーター・ヒューズでさえ、一瞬、冷静さを失ったほどだった。
「BIACですって!」モレリは、夢を見ているのでないことを納得しようとするかのように、まばたきした。「それなら、きっと……大丈夫だと……」その声は、後に続く適切な言葉のないままに、消えていった。フォーショーの表情は事務的な様子のままだったが、その眼は笑っていた。
「よろしい」と彼はいった。「それは決まった。実行に移しましょう。さて、モレリ教授、他に障害になりそうなことが何か?」
「そうですね……一、二の製造業者とうまくいっていません。わたしの推測では、どうやらあなたの力が及びそうな数名の人たちが、われわれに対して必要以上に協力的でないように思えるのですが」
「具体的にうかがえますかな?」
モレリは、持ってきた書類挟みから手書きの書類を抜きだすと、単調な声で細目を読みあげはじめた。七番目までいったとき、怒りに顔を真っ赤にしたフォーショーは、それを遮《さえぎ》った。
「お待ちなさい」彼は、ペンを再びとりだし、メモ帳を開きながらいった。「もう一度、初めからやり直していただけませんかな。事実がほしいのです」
「ウェストン・カーター・マグネティック社のジョンスンさんから通話です」と、モレリの秘書が、外側の部屋からいった。「どうしましょうか」
「繋いでくれ」とモレリが叫び返した。彼は、いままで湖を眺めていた窓際から向き直り、まだ鼻歌を歌いながらデスクに戻って、インフォネットのスクリーンの前に坐った。数秒たってから、ウェストン・カーター・マグネティック社の販売担当重役クリフ・ジョンスンの顔が現われた。
「アル」と、彼はさっそく、にこやかな顔でいった。「元気かね。邪魔をしたのでなければいいんだが。実は、いい知らせがあるんだ」
「いい知らせなら、いつでも歓迎だよ」とモレリ。「いってみろ」
「きみがほしいといっていた例の特殊変圧器のことだが――二週間のうちに届けられるよ」彼は、困った質問をされはしないかと思ってでもいるように、やや心配そうな様子で待っていたが、モレリはこう答えただけだった。「それは、すばらしい。きょう、誰か、こっちの者に、注文書を届けさせよう」
「いいよ、アル」とジョンスン。「ボストン支店から販売員を行かせて、受けとらせるから。そうすれば、技術的な明細も点検できる。そんなところで間違いなど、したくないからね」
「じゃ、そうしたまえ」と、モレリは肩をすくめた。「こっちは、それでいいよ」
「結構。もし何か少しでも問題があったら、わたしに直《じか》に連絡してくれ。いいね」
「よし。じゃ、またな」
モレリは通話を切り、立ちあがって、窓際へ歩いていき、また湖を眺めはじめた。まだ十時にもなっていないというのに、この種の通話は、今朝、これで三つ目だった。驚いたもんだ、とモレリは思った。
「きょう、シーラ・マッシーから手紙が来たわ」一週間ほどたったある晩、クリフォードが夕食をとっているとき、サラがいった。
「脚のすてきなシーラか……どんな様子だい」
「脚のことは忘れないのね。元気よ。書いてきたことに興味があるだろうと思ったの」
「ぼくが?」クリフォードは食べるのをちょっとやめて、怪訝《けげん》そうな顔をした。「なぜ興味があるんだい」
「聞いてごらんなさいよ」サラは、手にした便箋《びんせん》を開きながらいった。手紙の途中から、声を出して読みはじめた。「ウォルターも、やっと、かなりの昇進をしました……=v
「それは、でかした」とクリフォードが口をはさんだ。
「黙って聞きなさい。どこまで読んだかしら……。ウォルターも、やっと、かなりの昇進をしました。実をいえば、ACREでは、誰も彼もが異動になっているようです。それというのも、ここでは、今までにないほどの大変な大異動があったのです……=vサラは顔をあげて、クリフォードが明らかな興味をおこして自分を見つめているのを見てとった。彼女は先を続けた。「ウォルターは、裏に何があるのか、よくは知らないのですが、蔭にすごい悶着があったのだという、もっぱらの噂だといっています。彼は、大勢のお偉方が、何かの処理の仕方のことで――例によって何やら機密らしいんですが――ワシントンから大目玉を食ったんだと思っています。ジャリットは――覚えていると思いますが、研究所の大ボスです――いなくなりましたが、どこにいったのかは誰にもよくわからないのです。エドワーズ教授が昇格して、その役につきました。コリガンといったかしら、例の自信屋も、やはりいなくなりました。ウォルターは、エドワーズがワシントンを動かして、彼を放りだすように要求したのだと思っています。噂によれば、バフィン島のどこかにあるミサイル試射場だか何だかに転属させられたようです=vサラは手紙を置いて、クリフォードのほうをじっと見た。彼は、天を仰いで、声高らかに笑った。
「これで、何一つ不足のない完璧な一週間になったというもんだ」彼は、口がきけるようになってから、そういった。「うん、これはいい。オーブに話したら、何というだろう」彼はまた笑いはじめた。
「ツィンメルマンが大砲を持ちだすといったのは、やっぱり本気だったのね」サラは、くすくす笑った。「たいしたものじゃない」
「大砲だって?」とクリフォードは笑った。「あの下っ端たちは大砲でやられたんじゃないよ。ツィムの友達連中は、やつらを絨毯《じゅうたん》爆撃したのさ」
16
コンピューターによる音声識別は、一九七〇年代初期の頃に、初歩的な形で始まった。その後、間もなく、スタンフォード研究所で行なわれた実験は、言語能力に関連する電気的な脳波の一部を解読し、人間の脳から機械に直《じか》に情報を入力するのにこれを利用できることを証明した。この方法は、言葉が実際に発声されなくても、頭脳が特定の言葉を思い浮かべると、脳内にその言葉に特有のパターンを持った神経活動が誘発されることを利用したものだった。あるパターンを識別すると、それをコンピューターの記憶に貯えられたものと照合し(人間のオペレーターは、それぞれ独自のパターンのセットを、あらかじめ登録するのである)、機械語に翻訳する。続いて、コンピューターまたは制御すべき何かの操作が、機械語による命令で決定されることになる。八〇年代初期になると、このタイプの試験的な機械は、世界中の実験室にかなり多く現われたが、初めはどれも極めて限られた独自の命令語彙しか持っておらず、概していえば閉∞開∞上∞下∞左∞右≠ニいったようなものだった。だが、語彙数は増えていった……。
これら初期の研究は、次の三十年間に現われはじめた発展に道を開いた。脳のその他の中心、たとえば視覚、意志、抽象的な構想力に関係するものも、コンピューター処理のためのデータおよび指令情報の直接的な源泉として利用された。後になると、逆の過程、すなわち脳が機械から通常の知覚経路とは無関係にデータを吸収する技術が加えられた。
これらの帰着したものが生体相互作用コンピューター=iBIAC)だったが、これはコンピューター工学における最新の語であると同時に、おそらく、人間と機械とのコミュニケーションの究極の姿を示すものだった。BIACは、高速度の人間の脳と超高速度のエレクトロニクスとの結合に絶えざる障害となっていた、苛立たしいほど遅い通行の隘路《あいろ》を取り除いた。たとえば、簡単な数学の計算なら頭の中に数秒で組み立てることができるし、それが機械に入った後は、演算は数マイクロ秒を要するだけだろう。だが、文字を一つずつこつこつと機械に打ちこんで問題を設定し、結果を表示スクリーンから読みとるのに要する時間は、相対的には天文学的なものだった。それは、まるで郵便でチェスをやるようなものだったのである。
だが、BIACは、単にデータや命令を機械に送りこむのを速めるだけではない。機械がまったく新しい入力データを受けいれることを可能にするのだ。古典的なコンピューターは、入力情報の一つ一つが数字またはコード化した形で明確に述べられていることを要求したのに対して、適応学習技術の最新の進歩を組みこまれているBIACは、一般化された概念(オペレーターの頭脳に浮かんだ概念)に反応することができ、それを自動的に内部処理に適した形に変換する。
したがって、これは、オペレーターの生来の能力が超計算能力を持つように延長する役割をし、そのフィードバック機構は、紙に書かれた単なる記号には及びもつかない形で、複雑な現象への直接の知覚的直観を呼びおこすのである。
自転車に乗るときの力学は複雑な一連の微分方程式として表わすことができ、その解は乗り手に、一定の条件(速度、道路の曲がり、乗り手の体重、等々)にぶつかった時に落ちないようにするにはどうしたらよいかを、間違いなく教えることになる。しかし、小さな子供は、そんなことを心配しはしない。子供はただ(ある程度の練習さえ積んでいれば)なすべきことを感じて[#「感じて」に傍点]、それを実行するだけである。BIACのオペレーターは、これに似た形で、課題の問を感じ[#「感じ」に傍点]、進む[#「進む」に傍点]ことができるのだ。これは、クリフォードのK関数の解を扱うには、理想的な手段だった。
BIACは、ほんの僅かだけ建造され、そのすべてが厳重な機密保持のもとで、政府の評価試験を受けていた。したがって、これから建造される三基のうちの一基をサドベリーに使わせるという提案は、研究所の仕事に付与された重要性の度合を、これ以上は考えられないほどの説得力をもって示していた。それにしても、この機械が使えるようになるまでには、三ヵ月かかるのだった。
BIACの機密性がもたらす問題を、この期間のうちに解決しなければならなかった。最後の手段としては、GRASERや検出器を解体して、他の場所に移すことも可能だったが、その作業の規模は怖るべきものになりそうだった。最後に、ピーター・ヒューズが、一つの取り決めを提案した。それは、この種の状況に対して規定された要件には満たなかったか、特例を認められたのだった。GRASERの建物には改造が施され、正面のドアと、内側からしか操作できない裏手の非常口とを除いて、すべての入口が封鎖された。この計画に直接関係のない器材や人員は、研究所の他の施設に移転することになった。そして、最後に、この建物への出入りは、特別に指定された少数の人間に厳重に制限され、その規則が遵守されることを保証するために、州響察の二人の警官が昼夜を問わずドアに配置されることになった。
クリフォードは、こうした事態を、来るべきものの前兆とみて、不安を増大させた。しかし、生活に思いがけない変化がおこって、彼はやがて他のことで頭がいっぱいになり、そんなことを思いわずらっている暇はなくなったのである。彼は、ボルチモアにある海軍の設備評価研究施設に六週間行かされて、そこにすでに設置されている機械を使って、BIACの操作の特訓を受けることになった。オーブは、マークUの細部の設計や準備に忙殺されていて、よそへ出かける暇はまったくなかったから、サドベリーに残った。彼の番は、後まわしだった。
ボルチモアに到着して最初の二日間は、坐ったまま一連の講義や個人指導を受けた。それは、BIACの操作について、ある程度の基本概念を与えるとともに、他の者たちが開発した技術からの予備的な恩恵の若干について講習するためのものだった。
「BIACは、それが存在していることを忘れるのに慣れた時、初めて威力を発揮するようになる」と、教官の一人はいった。「ピアノを習うようなつもりで扱うんだ。つまり、もっぱら正確さを念頭におけば、スピードは自然についてくる。ピアノが巧く弾けるようになれば、手がひとりでに動いていき、自分はゆっくり坐って音楽を楽しめるようになる。BIACだって同じことだ」
やがて、クリフォードは、コンピューター室に隣接する小部屋の一つに入って、オペレーターの操作卓の前に坐り、一人の教官が初めて彼の頭に軽量の頭蓋着装具をつけた。二人は、三十分ほどかかって、機械をクリフォードの脳波パターンに合わせて校正したが、それから教官は命令ストリングを打ちこむと、椅子に深く腰掛け直した。
「よし」と教官はいった。「作動開始だ。まかせるぞ、ブラッド」
その途端、不気味な感覚で頭の中が満たされるような感じがした。それは、まるで、傍に底知れぬ深い裂け目がぽっかりと口を開け、その縁に危うくも立っているような感じだった。前に、大電波望遠鏡のパラボラアンテナの中心に立ったことがあったが、ありったけの声をはりあげて叫んでも、その音は散らされて微かな反響しか聞こえないという体験は、忘れられるものではなかった。いま彼は、同種の体験をしていたが、この場合は思考がもぎとられていくのだった。
それから、混乱が、どっと逆流してきた――数字、形、パターン、色……捩《ねじ》れ、曲がり、渦巻き、混合……膨らみ、縮み……直線、曲線……彼の意識は、頭の中で万華鏡のように渦巻く思考の中に突入していった。その時、それは急に消えた。
彼はまわりを見まわし、目をぱちくりさせた。海軍の教官のボブが、彼の顔を見ながら、にやにやしていた。
「大丈夫。スイッチを切っただけだ」と彼はいった。「たまげたかね」
「ああなると知っていたんだね」気が落ち着くと、クリフォードはいった。「あれは、いったい何だい」
「誰でも最初はああなる」とボブ。「たった二秒のことだったが……それでも、機械の感じがつかめる。いいかね、BIACは、精神過程に対して巨大なフィードバック・システムのように働くんだ――ただし、ループの中で増幅しながらだがね。きみの頭を掠《かす》める漠然とした観念を拾いあげ、それを外挿して厳密に定義された定量的なものに翻訳し、まともに投げ返してくる。もしぼんやりしていて、何かくず≠与えてしまうと、スーパーくず≠ェ戻ってくる。そう思う間もなく、BIACは、それをまたきみの頭から拾いあげて、同じ処理を繰り返し、スーパー・スーパーくず≠ノして戻してくるんだ。あっという間に、巨大な正フィードバック効果が蓄積する。BIACの連中は、これをがらくたループ≠ニ呼んでいるがね」
「それはいいが」とクリフォード。「いったい、どうすればいいんだ」
「精神集中することを覚えて、集中しつづけることだ」とボブ。「こいつを誘発するのは、雑多なとりとめのない思考なんだ……集中する対象がとくに何もない時に、頭の中を駆けめぐっているようなやつだ。これを抑えることを覚えなきゃならんのだ」
「いうは易しだよ」とクリフォードは呟き、それから途方にくれたように肩をすくめた。「でも、どこから始めたらいいんだ」ボブは陽気に笑った。
「よし」と彼はいった。「稽古《けいこ》のために、何か易しい練習をすることから始めよう。ふつうの単純な算術をやってみよう。運算しようとする数字を頭に浮かべ、これと、やりたいと思う運算とに意識を集中して、ほかのことは一切忘れるんだ。もう一度スイッチを入れるから、その前にそれを頭にしっかり固定しろ。いいかね」
「何でもいいのか」クリフォードは肩をすくめた。「いいよ」彼は、頭の中で4と5の数字を選び、それを掛けあわせることにして、どうなるかを待った。ボブがキーをたたいたと気がつく前に、また混乱の渦が襲ってきた。
「ちょっと意地悪をやったんだ」とボブが白状した。「入るのにいちばんいいチャンスは、たいてい問題が頭の中に明確に設定された時なんだ。もう一度やってみるかね」
「もちろん」
それから三度がらくたループ≠経験してから、クリフォードは、何か前とは違うものを感じた。ほんの一瞬だけ、それは現われた。20という数字の概念が頭の中で爆発し、他の一切のものを意識から払いのけるほどの明確さと迫力とで焼きつけられたのだった。この僅かな瞬間のこの単純な数字ほど鮮明に感じたものは、一生の間にかつてなかったことだった。それからまたがらくたループ≠ェ戻ってきてそれをかき消してしまった。彼は、しばらく茫然として、坐っていた。
「今度は感じたか」ボブの声が彼を現実にひき戻した。
「そうらしい。少なくとも、ちょっとだけは」
「それはいい」と、ボブは、生徒を励ますようにいった。「成功したという意識のショックで気をそらされて、駄目になっちまったのさ。しかし、それは乗り切れるようになる。抵抗しようと思うな――ただ楽にして成り行きにまかせるんだ。もう一度やってみるかね」
一時間後、ボブは問題を出した。「二七三・五六かける一九八・七一は?」
クリフォードは、操作卓を見つめながら数字を頭に浮かべ、ほとんど即座に答えた。「五四三五九・一〇七六」
「すごいぞ、ブラッド。初回は、こんなところでよかろう。これで昼食休みにして、ビールでも飲みにいくか」
一週間後、クリフォードは、初等力学の問題、それも数字的な関連だけでなくて形、空間、運動の概念を含む状況の処理を学んでいた。腕があがるにつれて、多体衝突の力学的な概念モデルを作りあげ、関与する変数の数値をどれでも即座に求められるようになった。そればかりか、ただ意志を働かせるだけで、架空実験を、どんな角度からでも、好きなように変化をつけて、何回でも繰り返すことができた。荷重の運動につれて力学的構造の応力パターンが変わるのを感じ=A電気回路の中の電流の動きを網目状のガラス管の中の液体のように、見る≠アとができた。
四週間目の終わりには、幼児の塗り絵帳の迷路を指でたどるほどの的確さで、テンソル解析の解に到達することができた。
BIACの適応学習システムは、彼独自の思考方法にますます適合していき、望ましい結果を得るのに使ったルーチンを自動的に記憶した。時間がたつにつれて、これらのルーチンはさらに一貫した手順に繋ぎあわされ、初めから組み立て直す必要なしに、ただちに呼びだせるようになった。こうして、機械は、各種の問題解決の実際的な手続きの部分をますます自動化し、彼が問題解決の戦略を導きだすという創造的な仕事に自由に専念できるようにした。こうして、機械は、先へ進むにつれて独自のプログラミングを確立し、進行の過程の中で、その蓄積を拡大し改善していった。一九八〇年代から一九九〇年代にかけての分配コンピューター方式における並列プログラミングをも含めて、古典的な意味でのプログラミングにはもうあまり意味がなくなっていたのである。
クリフォードは、一個の立方体を心に措いた。一つの頂点の方角から、それを見おろしているところを想像した。その図形を心の中に確立してから眼を開くと、その鮮明な映像がBIACの図形スクリーンに映しだされていた。まずまずの出来だった――頂点の一つがちょっとぎざぎざで、線が所々でちょっと曲がってはいたが……まずまずだった。そう思っている間にも、彼の頭脳の意識下の部分が視覚からの合図を受けて、表示された映像の不完全さを、それとなく消去していった。
「少し色をつけてごらんなさい」とアギーが勧めた。彼女は図形の教官で、クリフォードは教育課程の最後の部分を受けているところだった。彼は心の中で相対する面に赤と青と線を選び、その意識を一つに統合してから、それまでに身につけた技巧を使って、それを眼の前の映像に投射した。中空の立方体はたちまち充実した塊りになり――着色した。
「結構」とアギーがいった。「じゃ、回転させてごらんなさい」
クリフォードは、ちょっと迷い、バイオリンクが不安定になりはじめる前兆の微かな動揺を感じたが、それが制御を失って正フィードバックになる前に、巧みにくいとめた。今では、この対応はまったくの反射作用になっていた。彼は再び緊張を解いて、立方体の頂点の一つを持ちあげようとしたが、反対側の頂点を支点にして一体となって回転する代わりに、映像は歪んで、プラスチック粘土のように流動してしまった。彼は思わず短い笑い声をあげて、はみ出した色を立方体の中に戻し、BIACに図形を固定するように命令を発すると、体を楽にして椅子に深く腰掛け直した。
「どこかで失敗したらしい」と彼はいった。「どうすればいい?」
「これが固体だという観念が抜けちゃったのよ」とアギーが説明した。「でも、そうでなかったとしても、最初から仮想の外力で回転させようとするのは、かなりむずかしいわ。そうしようとしたんじゃない?」
「ええ?」クリフォードは、びっくりした。「どうしてわかる」
「ああ……」彼女は笑みを浮かべて、何かを投げ捨てるようなしぐさをした。「そういうことは、自然にわかるようになるものよ。さあ、今度やる時には、立方体をほんとうに動かそうと思わないことね。それが固定されていて、あなたがそのまわりを歩くと思いなさい……これが建物で、あなたがホバージェットに乗ってでもいるように。いいわね。そういうふうにやれば、固体であることや、そのほかの関係する概念は、無意識のうちに自然にうまくいくわ。さあ、それじゃ、固定を解除して、もう一度まわしてごらんなさい」
三日後の夕方、一日の真剣な訓練が終わった後で、アギーは、暇な時間に一人で楽しむために作ったアニメ漫画によるゲームを、クリフォードに見せた。この漫画がふつうと違うところは、スクリーンに展開する事件の画面が、競技者によって相互作用的に刻一刻と変えられることだった。
クリフォードの鼠は、アギーの黒白斑の猫にぴったり迫られながら、幅木《はばき》に沿って床を逃げた。
彼は本能的に速度と距離を読みとりBIACの反応を通して、自分の鼠が二・三七秒の余裕を残してかろうじて逃げきることを感じた。階段の下の角をまわるため、鼠のスピードをちょっと落とし、それから安全な穴がある場所へ向かっての最後の直線コースを、全速力で駆けさせた。
突然、彼は鼠を急停止させた。鼠穴への入口は、頑丈そうな南京錠がいっぱいついた小さなドアで塞がれているのだった。
「やあ、卑怯だぞ!」と、クリフォードは憤然として怒鳴った。「そんな手はないよ」
「誰が決めたの?」とアギーは笑った。「やっちゃいけないという規則はないわ」
「畜生!」クリフォードは、猫が今までいた場所に跳びかかる直前に、鼠を急いで逃げさせた。
それを猫の背後にすり抜けさせると、猫はすぐに身を翻して後を追った。彼は、一瞬、当惑して逃げ道を探したが、そのとき突然の霊感が閃いて、幅木に第二の鼠穴を開けると、鼠をすばやくそこへ跳びこませた。
「そんなの狡いわ?」とアギーが金切り声をあげた。「家の状態を変えるなんて」
「できないという規則はないぞ」とクリフォードは、やり返した。「ぼくの勝ちだ」
「とんでもない。引き分けよ」
頭蓋着装具を外し、操作卓のスイッチを切って、一日の予定を終わりながらも、二人はまだ笑っていた。
「ねえ、アギー」と、彼は、くびを振りながらいった。「これはまったく途方もない機械だ。こんなものが実現するとは、夢にも思わなかったよ」
「これはまだ初歩的なものよ」と彼女は答えた。「いつか、想像もつかないような、ありとあらゆる応用が、これから出てくると思うわ……」彼女は、漠然とスクリーンのほうを身振りで示した。「たとえば、あんなものから、まったく新しい芸術形態が生まれたとしても、意外とは思わないわ。台本作家の心の中を直《じか》に知ることができるのなら、その心の中にあるものを演ずるために、俳優を雇う必要が、どうしてあるの?」彼女は肩をすくめて、クリフォードのほうを横目で見た。「わたしのいう意味がわかる?」
「人間の頭脳から映画を作るのか」彼は、あっけにとられて、彼女を見た。
「できないわけがないでしょう」と、彼女はあっさりいった。
できないわけがない。この言葉は、前にどこかで聞いたことがあるのを、彼は思いだした。
ボルチモアで最後に見せられたものは、BIACが人間同士の意志交換の媒体として機能できるということだった。二人以上のオペレーターが同時に、この機械と相互作用すれば、コンピューターを共通の通訳ないしは通信交換所として、人間同士の間で思考パターンを交換できる。それ以上に驚くべきことは、これらのオペレーターが互いに近くにいなければならないという理由はとくにないという事実であって、ボルチモアの機械を、カリフォルニアにある空軍の別のBIACと連結し、五千キロ離れたオペレーターを結んで、この種の実験が何度も行なわれていた。
クリフォードにとっては、ボルチモアに来てから見たものの中で、これが最も驚倒すべきものに思えた。ボストンに帰る途中で、彼はずっとそのことを考えていた。
サドベリーに戻ってみると、研究所がもらったBIACの据えつけは大いに進捗しており、マークUの建造も始まっていた。しかし、後者の工事が完了するのには遙《はる》かに時間がかかる予定だったから、BIACを使ってK関数を解析するための予備的な経験を積むとりあえずの措置として、新しいコンピューターは、現在のマークIとオンラインに接続された。
彼は、山のようなデータをかきわけて方程式の空間的な解を拾いだし、それを操作し、視覚的なディスプレイとして映しだすことを、徐々に覚えた。自分でも驚いたのは、地球の内部であろうが、その表面に沿ってであろうが、視点を思いのままに移動≠ウせられることだった。マークIの解像力は依然として貧弱で、意味のあるような細部はあまり識別できなかったが、山脈、大陸の輪郭、海溝といった顕著な地理的特徴の一部を識別することには成功した。月面の眺望の一部も何とかものにしたが、この場合には大きなクレーターとか環状山に囲まれた平原とかのおぼろげな輪郭が、何とか判別できた。それは何となく、即座にあちこちに移動できる遠隔テレビ宇宙探測棟からの送信を眺めているような気分だった――マークUで実現できそうなことのじれったいような先触れだったのである。
ある晩、マールバロの行きつけのバーで軽く飲みながら、クリフォードはオーブやモレリにボルチモアでの体験を話して聞かせた。オーブは、マークUについての当面の仕事をやっとチームの他の者たちにまかせられる段階になっていて、自分も翌週からBIACの教習を受けにいく手筈になっていた。当然ながら彼は、海軍で何が待ちもうけているかを知ることに、関心を持っていた。
「すると、ボルチモアのこの男と、カリフォルニアのどこかにいる別の男とが、回線で結んだBIACのそれぞれに繋がると、二人は頭の中にあることを交換できるというのか」オーブはたまげて、ビールの向こうから相手を見つめた。「これは驚いた」
「まさか冗談だろう、ブラッド」とモレリ。
「ほんとうですよ」と、クリフォードは、力をこめてうなずいた。「彼らがやっているところを、この眼で見たんです。片方が紙に書いてある数字のリストを読むと、相手がその数字をいうとか……映像を送ることもできますよ――片方が二人とも知っている顔を思い浮かべると、相手がそれは誰だというとか……そういったことです」
「何やら、一種のテレパシーのように聞こえるな」とモレリ。「そういったことにくびをつっこむ暇がなかったが」
「でも、ほんとうは違うんですよ」とクリフォード。「その言葉がふつうに使われている意味ではね」
「どういうことだね」とモレリ。
「つまり、ふつうは超常現象……既知の科学を超えた事柄としていわれているんです。でも、これはそんなものじゃありません――すべてわれわれに知られた、理解できる事実に基づいているんです」
「それでも、同じ結果が得られるわけだ」とオーブが口をはさんだ。
「そこがいいたいんだよ」とクリフォード。「これは、歴史を通じて繰り返しおこってきたことの、もう一つの実例にすぎないんだ」二組の眼が、ぽかんとして彼を見つめていた。
「われわれは毎日のように」と彼は説明した。「五百年前の人たちが夢想はしても魔法としか思わなかった事柄が現実のものになっていることを、当然のことと心得ている。われわれは空を飛ぶことができる。魔法の鏡をのぞいて、他の場所でおこる出来事を眺めることができる……世界中の人たちと話をすることさえできる……」クリフォードは、表情豊かに手を拡げてみせた。
「われわれはこうしたことを実現したが、そのために使った方法は、遠い昔の人間には想像もつかないものだった」
「うん、同感だ」と、オーブがうなずきながらいった。「彼らは、エレクトロニクスのようなものは、知らなかったんだからな」
「そう、そこがいいたいんだ」とクリフォード。「彼らが空飛ぶことを空想し、空中浮揚について語ったのは、その夢を実現するためにどんな技術が必要かが、その頃にはわからなかったからなんだ」
「よし、それは賛成だ」とモレリ。「きみがいうのは、人々は何らかの魔法が必要だと思ったので、テレパシーを空想する間違いをしたというんだな。彼らが語っていたような結果がこうしてほんとうに実現しはじめてみると、それには魔法など何も必要はなくて、ただ二基のBIACが必要なだけだった、というわけだ」
「まさにそうなんですよ、アル」とクリフォード。「何か超常的なものについて語るというのは、今のところ[#「今のところ」に傍点]十分に理解できないでいるものを論じる手段にすぎないんです。ここで重要なものは、今のところ≠ニいう言葉です。最後には、夢は正常なものの一部になるんです。いま、インフォネットで遠い距離を隔てて話すことに、不思議さを感じる者は、誰もいません。そして、この話も実は少しもそれと違わないんですよ。通例のインフォネット端末装置の代わりに、BIACを使って話すということ以外は」
「なるほど……どうやら、オーソドックスな科学からは、あまりはみだしていないようだ」オーブは、しばらく考えていた末に、こういった。「どうやら、それがわれわれのやる一切のことの目的らしいな――パラドックスをオーソドックスに変えるということが」
17
ジョリオ・キュリーにいる国際科学財団の天文学者たちは、ツィンメルマンを通じて、サドベリーでの進展の最新情報を提供されていた。K理論が絶対温度三度の宇宙背景放射に関して観測された分布をみごとに説明したことに刺激されて、彼らのグループはこの新理論に照らして別の未解決の問題を再評価しはじめた。これからK保存則という新体系が定式化され、まず第一に、白鳥座]1ブラックホール近辺から発する通常放射の量が古典量子論の予測より大きいのはなぜかということが、説明できるようになった。
この新しい保存則の主要な点は、次のようなものである。粒子が消滅したり、物質がブラックホールに落ちこんだりする時のように、物質=エネルギーが通常空間から消え≠ト完全に高次空間にだけ存在するようになる時には、これと同等の量のエネルギーが通常空間のどこかに再出現しなければならない。計算によれば、この帰還エネルギー≠フ分布パターンは、初めに粒子消滅がおこった場所のすぐ近くで最大の強度を示すが、指数関数的に減少しながら無限遠にまで達する。このことから、物質がたとえば白鳥座]1とかモレリのGRASERとかで消滅する時、この事象の直接の結果として、エネルギーが宇宙のいたる所に即時に再出現するという、驚くべき結論が導かれる。したがってマサチューセッツのGRASERで一グラムの物質が消滅した結果、たとえばアンドロメダ銀河内のどこかに現われる帰還エネルギーの量は、観測不能なほどの想像を絶するような小さなものであるが、それでも少なくとも数学的には、そこに出現するのである。
これは実はクリフォードの高次波動伝播の法則を別な形で述べたものであって、この法則は、粒子創生あるいは粒子消滅の事象から生じた高次放射は即時にあらゆる空間にわたって現われるが、その強度は距離とともに急激に減少することを述べていた。事実、この二つの過程を記述した方程式は、数学的に同等であることが、やがて証明されたのである。天文学者たちがやったことは、高次粒子の相互作用の過程で空間の各点に生ずる通常放射の量を計算することだった。この量を宇宙の全域にわたって積分すると、その結果は、これだけの空間を通じて生みだされたエネルギーの総量は、最初に消滅した量に等しいことを示していた。そこで新しい保存則の誕生となったわけである。
この結果は幸いなことだったのである。GRASERの中で維持されている質量消滅の速度は、最大の水爆が達成するよりも遙かに大きなものだった。しかし、これに見あうエネルギーのうち、ごく小部分だけが反応炉内の通常空間に放出され、残りは数十億立方光年の空間に分散するのである。もしそうでなかったとしたら、スイッチを入れたとたんに、マサチューセッツは地図から抹殺されていたことだろう。
こうして、帰還エネルギーのパターンによって、観測される白鳥座]1からの放射は説明された。クリフォードは、月面の科学者たちが導きだした方程式を検討して、彼らが周辺の宇宙空間に分布する物質を考慮した項を含めていることを発見した――彼自身が問題を処理した時には、この項は無視していたのだった。彼は、より包括的なこの方程式を使って、GRASERの中の人工ブラックホールから予期される放射を計算し直した――それまで、この量は、彼自身の予測とも、古典量子論およびホーキング効果に基づいた予測とも、矛盾していた。今回は、ぴったりだった。どうやら、K理論は、着々と地歩を固めているようだった。
こうした試みを通じて、クリフォードは、ジョリオ・キュリーの天文学者や宇宙論学者たちと正式の協力関係を発展させ、彼らは手をたずさえて、クリフォードがACRE時代以来あまり突っこんで考えてはいなかった理論の深い内容の一部を探究しはじめたのだった。日本人のクェーサー・モデルからすれば、クェーサーは途方もない規模で大量の物質消滅が進行する舞台であることは、明らかだった。新しい保存則に従えば、消滅している質量と同等のエネルギーが通常空間に戻るはずであり、その大部分はクェーサーの周辺に集中すると同時に、残りがいたるところに広く散布されて然るべきだった。したがって、そのいたるところ≠ノ、遠くのクェーサーに帰因して粒子創生による絶え間ないバックグラウンド放射が存在するはずだった。一方、宇宙全体に散在する通常の物体やブラックホールの内部でおこる消滅も、保存則に従って、このバックグラウンド放射に寄与しているだろう。つまり、質量が消滅するのには、三つの機構が知られていた――クェーサー、ブラックホール、そして主として物体の内部で生ずる自発消滅だった。一方、粒子創生の機構として知られているものは一つあった――普遍的なバックグラウンドとしての自発創生である。そこで、根本的な設問は、この二つが釣りあっているかどうかだった。
これを知ることが重要なのは、時空自体の構造そのものが――クリフォードのK関数の低次領域の側面が――方程式に入ってくるからだった。この二つの量のうちの一方が、保存則を破ることなしに、もう一方より大きくなることも可能だった――ただし、宇宙の大きさがそれを埋めあわせ、一定の平均密度を維持すればである。つまり、クェーサーが多数存在する宇宙では、それが意味する大量の粒子消滅量は、帰還エネルギーだけで釣りあいの機構を保つには大きすぎるので、その過剰の量を収容するためには、空間そのものが拡大することになるだろう。宇宙の膨脹はK理論からただちに導かれるものであり、宇宙の初期にあったクェーサー形成時代の結果としてもたらされたものだった。
では、宇宙は今も膨脹しているのか? 誰にもわからないのだ。なぜなら、その事実を語るデータのすべては――たとえば遠くの銀河の赤方偏移は――何百万年もの過去からのものなのである。あの彼方には、今でも[#「今でも」に傍点]クェーサーがあるのか? これまた、同じ理由で、誰にもわからないのだ。釣りあっているかどうかは調べられるだろうか?一定の広さの宇宙の中に、どれだけのブラックホールがあるだろうか? 誰にもわからない。だが、オーブやモレリが熱烈に待ち望んでいる新しい科学、K天文学は、これらの設問にすべて答える手段を約束していた。
宇宙論学者たちを夢中にさせたのは――また彼らと話すうちにクリフォードにも感染しはじめたのは――新しい革命的な宇宙論モデルの可能性だった。さしあたってはまったく仮説的なものにすぎなかったが、月面の誰かが、こう提案したのである。仮に、いまは[#「いまは」に傍点]クェーサーが存在していないとすれば、またその結果として膨脹が止まったとすれば、また釣りあいの中で粒子創生のほうが優勢になったとすれば、クェーサー形成の新しい時代が生まれるかもしれない、というのだった。これは、クェーサー形成と膨脹の時期と、銀河生成の時期とが交替する……永遠に……という宇宙論の新しいイメージを導入した。こうして、もし実証できるなら、定常宇宙モデルやビッグバン・モデルに取って代わるべき、宇宙の継続的な波動モデル≠ニいう考えが生まれたのだった。このモデルは、ビッグバンの特徴をなし多くの指導的な物理学者が未だに少し不安を感じている物理法則の特異点を必要とせず、また定常宇宙が必要としながら観測で明白に否定されたように、宇宙が常に同じ外観を保つことも必要としなかった。
総体的に見て、胸のときめくような多くの研究が、早くもマークUの完成を、手ぐすねひいて待ちかまえていたのである。
だが、マークUが完成に近づき、サブシステムの最初のテストが始まるのと平行して、世界の出来事はこの計画にますます暗い影をおとしはじめた。南米の反西側政策が強化されてパナマ運河を閉鎖しようとしており、ウラル山脈での国境戦争は、戦車の大群や地上攻撃機の使用が通例という様相にまでエスカレートしていた。長く続いていたビルマの内戦は、革命勢力が不安定な統一戦線を達成して国土を制圧し、右翼政府軍の疲れきった残存勢力が隣国インドに支援を求めて退却するに及んで消滅した。やがて、中国とアフラブが積年の主張を復活させるに及んで、インドそれ自体に対する東西両側面からの国境での圧力が再開された。制裁と封鎖で系統的に締めあげられ、経済的無能力と飢饉の状態にあった香港は、抵抗もなしに接収された。三日もしないうちに、中国は台湾の領有権を宣言した。
「うん、不愉快なことは、わかっているさ、ブラッド。だが、それが世の中というものなんだよ」と、モレリが、デスクの向こう側からいった。「まあ、せいぜい一日つぶれるだけだろう。チームの二、三人に手伝ってもらえよ」
「しかし……」クリフォードは、モレリがよこした用紙の束を振りまわした。「何ですか、このたわごとは。ぼくには余分な時間なんか一日もないんです……」彼は下を向いて、最初にある別表を見た。「貸付主要設備一覧……購買予定内訳……借方累積維持費……」彼は、訴えるように顔をあげた。「今までは、こんなことはなかった。不意にどうしようっていうんです?」
モレリは、ため息をついて、鼻の横を掻いた。
「たぶんワシントンは、彼らがここに機材をどっさり注ぎこんで、たっぷり金をかけたことに、われわれの注意を喚起しようとしているんだろう。おそらく、その結果についてはあまり聞いていないという、謎なんだろうさ……連中の遠まわしなやり口は知っているだろう」
「こんなことをしたって、結果を生み出す役には立ちませんよ」とクリフォードは、憤懣やるかたない口ぶりだった。「時間を浪費するばかりです」彼は、ちょっと口をつぐんで、それから続けた。「それに、結果を聞いていないなんて、誰にいえるんです。二次放射の問題を解決しました……宇宙背景放射の問題も解決ずみです……新しいK保存則も提起しました。これが結果というもんです」
「わかっているよ」と、モレリは、手をあげながらいった。「だが、それは彼ら[#「彼ら」に傍点]が結果と呼ぶものじゃないんだ。覚えているだろう、われわれは超通信や超レーダー、その他ありとあらゆる超何とかを売りつけたんだぞ。彼らは、それを見たがって、待っているんだ」
「ああ、冗談じゃない……」
「きみのいいたいことは、わかっているよ、ブラッド。だが、それはいうな」モレリは、話は終わりだという仕草で、両手を振りおろした。「彼らは曲を聞こうとして金を払っているんだから、われわれも演奏せずばなるまいよ。要求されたとおりに記入して、それも手短にやるんだ、いいね? さっきいったように、誰かに応援を頼めば、きっと半日で片づくさ」
「官僚どもめ!」ドアを閉め、廊下を歩いていきながら、クリフォードは憤然としていた。どうやら、ワシントンは、クェーサーの分布や宇宙の波動モデルは、たいしてお気に召さないのだった。
「すまんが、来週の木曜日だ」GRASERの建物から出て、研究所の構内を歩いていきながら、ピーター・ヒューズがモレリにいった。「彼らは、選択の余地をまったく与えてくれんのだ」
「木曜日だって?」モレリは、自信なげな顔つきだった。「ブラッドが、かんかんになって怒るぞ。木曜日は、まる一日使って、BIACとマークUとのインターフェースを点検する予定でいるんだ」
「じゃ、それを延期するしかないよ」とヒューズ。「すまんな、アル、ワシントンのわが友人たちは強硬なんだ」
「だが、冗談じゃない……」とモレリ。「何だって進度点検会議を……それもまる一日使って。
あのチームは、自分の進度を点検する力を完全に持っているし、そんなものは三十分でできるんだ。先週、ブラッドとオーブは、四時間も使って、例のワシントンへの進度報告を作ったというのに。あれじゃ満足できないとでもいうのか」
ヒューズは、歩きながら両腕を前に大きく拡げて、深いため息をついた。「わからんよ、アル。十分に詳しくないというんだ。誰かをここへよこして、計画全体をすっかり点検する必要があるというんだ……上から下までな。さっきいったとおりだ――これに選択の余地はないのだよ」
モレリは、心配そうに、くびを振った。
「ブラッドは、かんかんになって怒るぞ」と彼は繰り返した。
「オーブは気にしていないんだ」と、その晩遅くクリフォードは、サラに話した。「彼に興味があるのは、マークUができあがって、動きだし、それを維持する経費が入ってきさえすればいいんだ。あんなばかげたことに時間の無駄使いをすべきじゃないが、とにかく連中を黙らしておくのに必要なだけの作り事を何でも提供しつづけるべきだといっている」
「でも、あなたには、それができないのね」とサラは、質問というよりは、事実を述べるといった口ぶりだった。彼はゆっくりとくびを振り、この数ヵ月の間で初めて本気に心配をしている様子だった。
「うん、できない。だますのは好きじゃない。だが、それだけじゃないんだ。ACREが、また覆いかぶさってきているんだよ……ぼくには、それが感じられる」
18
「いいえ、まじめな話よ、オーブ。昨日、病院で医者の一人が話してくれたわ――応急手当とか、負傷者搬出とか、放射性降下物や放射性障害に対する予防措置とか。いま、その教育課程の細目を作っているところなの。三ヵ月以内に、国内の全部の学校や、一ヵ所に二十人以上の使用人を働かせている全部の会社で、それが義務づけられるようになるのよ。まあ、見ていてごらんなさい」サラは、食堂のテーブルに、三人分の食事の用意をしながらいった。オーブは、調理場の朝食用カウンターの椅子に危なっかしく坐って、コカコーラを罐から飲みながら、彼女を眺めていた。
「ボーイスカウトに逆戻りかね。きっと、シャツにつけるバッジもくれるんだろうな」
「冗談ごとじゃないのよ。事態がひどくなっている証拠だわ。きょうの午後、ニュースで聞いたけど、カルカッタのすぐ近くのどこかにある兵器工場で、誰かが戦術核兵器を爆発させたそうよ。二千人近くが死んだんですって。そんなことをするなんて、どういう人なんでしょうね」
「うん、聞いたよ。狂信的な連中だな。当節は、流行になっているらしい」
サラは、ナプキンを置いて、時計を見た。「六時二十五分だわ。もうブラッドが戻ってきていていい時刻なのにな。彼は何をしていたんですって?」
「アルや、ワシントンから来て仕事をせかそうとしている何人かに、つかまっているんだ。ぼくは、何とか逃げたがね」
「あらまあ。それじゃ、たぶん、またご機嫌ななめだわ」彼女は後ろにさがってテーブルの出来映えを眺め、それから調理場にまわって、音を立てているビーフストロガノフの鍋を点検した。
「この頃とても不機嫌なのよ、オーブ。そんなに、ひどいことになっているの?」
オーブは椅子の上で彼女のほうに向きを変え、ひげの奥でちょっと口をへの字に結んだ。
「うん、彼はそのことでひどく頭にきているんじゃないかな。ツィムのところの学者連中と何か理論的なことに取り組んでいて、マークUが動きだした今はなおさら、それに掛かりきりになりたがっている。あいにく、お偉方たちは、武器ができるのを待ちきれなくなっている。勘定の大部分を払っているんだから、分け前も大きいのが当然と心得ているんだ」
「それでも、あなたは気にならないの?」
「ぼくが?」オーブは肩をすくめた。「ぼくなら調子を合わせていけると思うよ。物事がうまくいくために、時々ちょっとした思いつきをしなきゃならないとしても、そんなものは何でもないさ。自分のやりたいことも、ちゃんとやるからな。ブラッドの困るところは、潔癖すぎることなんだ。自分の思いどおりにやるか、それともやらないかなんだよ。そら、例の信念……科学が政治に命令するか、それともその逆かという……あれを固く信じているんだ。事態が彼の目から見て間違った方向に行きそうになると、それに加担することを拒否するんだ」オーブは、また肩をすくめて、ため息をついた。「氷の球を思いだせばいいんだがね」
「また落ち着きがなくなってきているとは思わない」サラは心配そうに訊ねた。
「落ち着きがないだって? また辞職するということかい」
「ええ」
オーブは、しばらく口をすぼめていた。「そうだな……正直にいうと、事態がもっとひどくなれば……たぶんね」
「それでこそわたしのブラッドだわ」サラは諦めた口調だったが、恨みがましいところはまったくなかった。「ただ、この家が好きになりかけているのよ。まあいいわ、ルツ書の中には何と書いてあったっけ……我は汝のゆくところへ往かん……=v
「何だって?」
「何でもないわ。ほら――その罐をよこしなさいな」
「すまん。あのね……」
そのとき家鳴り震動して、玄関のドアの閉まる雷のような音が、階段から反響した。大きな足音が階下から聞こえてきた。
「ああ、神よ」とオーブが囁いた。
「あなたなの?」とサラが声をかけた。返事はなかった。
一分ほどすると、クリフォードが、苦い顔をして、食堂の戸口に現われた。彼は口の中でおざなりの挨拶を呟くと、足を踏みならしながらバーのところへ行き、スコッチをなみなみと注ぎはじめた。サラは調理場から出てきて、彼のすぐ後ろに立った。彼がグラスを手にして振り返ると、サラは手を腰に当て、唇を期待するようにつきだして、目の前に立っていた。彼は、しばらく苦い顔で見ていたが、やがて苛立《いらだ》たしげなため息をついてから、にやりと笑うと、軽くキスをした。
「やあ」
「機嫌を直しなさいよ」というと、彼女はまた調理場へ戻っていった。
オーブが、配膳用ハッチから、にやにやした顔をのぞかせた。「何とまあ……これを皆にいいふらしたら、どうなるかな」
「マクドナルドで食事する羽目になりたくなければ、何もいわないことだ」クリフォードは、バーのほうにくびを傾けた。「何か飲むか」
「乾杯。ライ・アンド・ドライだ」
クリフォードは、皿が出てくるのを見ながら、もう一度バーのほうへ行った。オーブは食堂のほうへまわって、食事をカウンターからテーブルに移した。ちょっと間を置いて、サラが続いた。
「ぼくの鋭い感覚によれば、何か難問が生じたな」と、オーブが坐りながらいった。
「彼らのいうとおりに計画を運営しろというんだよ――計画予定表による公式のスケジュール、定期的な進度報告、ワシントンからの駐在連絡指導官。一切合財だ。きっとそうなると思っていた」
「なるほど……」オーブは、冷静な態度を装うべく努めた。「たぶん、連中は、頭金を払ったんだから、少しは納品が……少なくとも納品予定ぐらいは……あってもいいと思っているんだろう」
「約束したものは全部渡してやるが、難行苦業はごめんだ。そういう仕事のやり方は、ぼくにはできない」
「あの人たちの身にもなってごらんなさいよ、ブラッド」とサラ。「何の保証もなしに、たくさんのお金を出しているのよ。あなたの興味があることに資金を提供するのが彼らの義務だといっているように、聞こえなくもないわ。どこかで妥協しなくちゃ」
クリフォードは、また苛立ちはじめていた。
「やつらの身になるって……なぜ、ぼくだけがいつも、やつらの身にならなけりやならないんだ。なぜ、ぼくの身になってみられないんだ。やつらの管理科学と称するものには、みんなが頭にきているんだ。流れ作業のオモチャのアヒルじゃあるまいし、人間の思考を管理はできないということが、いつになったらわかるんだ。渡すということは、とっくに明言している。それで十分じゃないか」
オーブは冷静さを失いはじめていた。「きみにはわかっている、ぼくにもわかっている、アルにもわかっている、サラにもわかっている。しかし、連中にはわかっていないかもしれんし、少なくとも、それで十分だとは思っていないんだ。もっとしっかり説得する必要があるだけのことかもしれん。ツィムがいつもいっていたように――ほら――売りこむ必要があるのさ」
クリフォードは、その話に乗ろうとはしなかった。「それでやってきて、どうなったか、見てみろ。いずれにせよ、ぼくはセールスマンじゃないし、なろうとも思わん。ぼくは科学者なんだ。そんなことをしても別の難行苦業にすぎない。われわれが、なぜそうしなきゃならないんだ」
ちょっと沈黙があってから、オーブが訊ねた。「それじゃ、きみが最後には連中に勝手にしやがれという羽目になるとして、その先はどうだ。どうなるにせよ、前回とは違うぞ。結局のところ、われわれは今じゃ国際科学財団で働いているんだ。職場がなくなるわけじゃない」
「それはそうだ」とクリフォードが答えた。「だが、それでも、やつらがBIACをとりあげることはできる……それに、やつらが金を出した他の機材もだ」オーブは食べるのをやめて、あっけにとられたように、クリフォードをじっと見つめた。
「冗談だろう。そんなことをするだろうか」
「そうするといって、もう脅かしている。それで黙らされたんだ。やつらはピーター・ヒューズを窮地に追いつめた――協力するか、オモチャを取りあげるか、だといってな。やつらはジュネーブにも手をのばしていて、ピーターが協力しないということになれば、立場が悪くなるだろう。それで、アルも動きがとれなくなった。彼はわれわれの味方だが、今は手も足も出ない。方針を伝えることしかできないんだ」
オーブは考えこんだ。
「じゃ、協力するしかない」と、やがて彼はいった。「そうすれば、研究は続く。そうしなければ、研究は続かない」彼は二人の顔を見くらべた。「議論もへちまもない。決めるべきことはないんだ」
サラは何もいわなかった。クリフォードの考え方は、よく知っていたのである。
「それじゃだめだ」と、クリフォードは、くびを振りながら、ゆっくり答えた。その眼は異様な光を帯びていた。「われわれが屈伏しているかぎり、事態はいつまでたっても変わらない。ここだけのことをいってるんじゃない――どこでもだ。世界中が気が狂っている。この事態をほんとうに解決する方法を見つける力のある人たち自身が、みんな強制されて、事態を悪くするのに一役買っている。そして、その強制をしているやつらは、事態を理解すらしていないんだ」彼は訴えるようにオーブを見た。「第二次大戦中にあったナチスドイツでの出来事の映画を見たことがあるか。ヨーロッパにいた科学の最高の頭脳の何人かが、無頼漢たちの手で、奴隷労働のようにこき使われたんだ。たしかに、まだそこまでひどくなってはいないが、このままではそうなる。それに手を貸すようなことは、何もしたくない。ところが、きみがやれといっているのは、そういうことなんだぞ」
「だから辞職するというのか」とオーブが、軽く口をはさんだ。「それがどうした。どうでもいいじゃないか。世の中は、どっちみち動いていくんだ。きみが損をするだけさ」
「何かが変わらねばならん」クリフォードは、放心したような口調でいった。まるで相手がそこにいないかのように、遠くを見つめていた。「ただ一発で、これに止めを刺さねばならない……このひどい事態に……永遠に……」
「きみが[#「きみが」に傍点]変えるというのか」とオーブは笑った。「何をするんだ――大統領にでも立候補するか。仮に当選できたとしても、期待外れだろうぜ。彼だって、いま手詰まりで弱っているようだ」
クリフォードが聞いていないのを見て、オーブは笑いをひっこめた。クリフォードの心は、遠い彼方をさまよっているらしかった。
「わからん……」長い時間がたったように思えた頃、彼はそういった。しかし、あの異様な光は、まだその眼に燃えていたのである。
その晩おそく、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番を聞きながら、寛いでコーヒーを飲んでいた時、夕食以来ほとんど一言も口をきかなかったクリフォードが、急にオーブのほうに向き直った。「一週間ほど前に、アルと話していた時のことを覚えているか……粒子消滅をおこさせるためにGRASERで使われている方法についてだ。きみは、同じ原理を使って、通常空間のどの位置に帰還エネルギーが出現するかを制御できるかもしれないといったな」
「覚えている。それが何か」
「つまり、きみは帰還エネルギーを一点に集中できると考えているわけだ……無限遠にまで拡がってしまうのではなくて」
「たぶんな。なぜだ」オーブは、拾い読みしていた雑誌を下に置いて、怪訝《けげん》な顔をした。クリフォードは、その質問を黙殺した。
「それをやるには、何が必要だ」
「どういう意味だ――実験みたいなことをするのにか」
「うん」
オーブは、ちょっと考えた。「そうだな、どうしても必要なハードウェアは、もうすっかり揃っていると思う……それが違った機能を果たすようにするだけだ。たぶん変調装置制御コンピューターと監視プロセッサーをプログラミングし直して……それに前部の装置を配線し直せば、それで十分なはずだ」
「それにどのくらいかかると思う」
オーブは急に、ぎょっとした顔つきになった。「おい――やってみるつもりじゃないんだろうな。危険かもしれんのだぞ。何がおこるか誰にもわからんのだ。サドベリーの真中に穴を開けてしまうかもしれん」
「ビームをぎりぎり最低の出力にしておけば大丈夫だ。事実を確かめたいだけだよ。粒子消滅速度は数キロワットまで下げられるはずだぞ」
「アルが、うんというまい」とオーブ。「この理論には、まだ空白が多すぎる。仮に、きみやツィムのところの連中が考えついていない不均衡があって、空間積分が一様でなかったとしてみろ。入れたものより出てくるもののほうが、ずっと多いことになるかもしれんのだぞ」オーブは心配そうな顔つきだった。「それにしても、帰還エネルギーをどこに集中しようと思っているんだ」
「あの実験室の中さ。積分が一様であることは保証するよ」
「実験室の中だって。冗談じゃない。アルは絶対に聞きいれまい。ピーターは、最大級の心臓発作をおこすぞ」
「だから、彼らには断わらずにやるんだ。うんと穏密に準備をして、いつか夜おそくなってから、いつもの居残りのようなふりをして実験するんだ。どうした――もうぼくを信用しないのか」クリフォードは、人の悪い態度で、にやにやしていた。「冒険好きなのはきみのほうだと思っていたんだがな。元気を出せよ」
オーブは、クリフォードが気でも狂ったのではないかというように見つめた。このやりとりを聞いていたサラに懇願するような視線を向け、両手を拡げた。
「このイギリス女というやつのせいにちがいない。彼は、とうとういかれちまった。ブラッド、はっきりいっておくぞ。どんなことがあろうと、ある晩おそくきみといっしょに悪党か何かのように実験室にしのびこんで、こんな実験をやるなどということは、絶対にしないからな」
四週間後、真夜中のおよそ一時間前に、クリフォードの車が、サドベリー研究所のGRASERの建物の前に止まった。二人の姿が車から現われ、正面ドアにいる警官に証明書を見せると、構内に消えていった。明け方の三時になると、GRASERに動力を供給する巨大な発電機が低い音をたて、球状反応炉のまわりに配置された装置の列は、明滅する燈りの集合に包まれた。熱センサーや放射線検出器や電離カウンターや光電子倍増管が、球状反応炉から十メートルくらい離れた壁際を片づけて、そこに直径三メートルほどの円周を措いて並べられていた。クリフオードとオーブは、制御パネルの所に坐って、並んだ装置の後ろ側からこの円周に相対していた。
オーブは、ビーム管から僅《わず》かな粒子流が反応炉に入るように、GRASERのパラメーターを調節した。それから、粒子消滅変調器のスイッチを入れた。パネルの両側にある表示スクリーンの読みは、球状反応炉の内部で微小な反応がおこっていることを確認した。粒子は空間から消滅し、高次波動に変換されて即時に宇宙のいたる所に伝播され、さらに二次反応によってエネルギーとして再出現しているのだった。ここまでは、平常どおりのGRASERの実験だった。
クリフォードがうなずいた。彼らは二人がかりで、昼の間にこのシステムに組みこんだ特別なプログラムのシーケンスを打ちこみはじめた。別の改変された変調器に一つずつスイッチが入って動作出力に到達し、帰還エネルギーを圧縮して、内側が空っぽの円周の中央部を中心とする球の中へ押しこみ、その大きさをどんどん縮めていった。通常ならば全宇宙にわたって無限小に近い希薄さで分布されるエネルギーは、今やビーチボールよりも大きくない空間の中に集中されていた。
スクリーンは、装置が放射線を検出していることを示した。カウンターは、空気分子が電離していることを記録した。赤外線スキャナーは、温度の上昇を表示した。オーブがビーム出力を心持ち上げると、熱した空気の上昇による対流で、塵の粒子が、実験室の床を円周の中心に向かって動きはじめた。二人の肌には、ひやりとした微風が感じられた。
出力が上がると、灼熱した光が現われ、上昇する気流のために上に引き伸ばされながら、輝く火柱となって揺らめいた。外側は暗赤色に燃えていたが、内部に向かって明るいオレンジ色に変わっていき、中心部は眩《まばゆ》い黄色に光った。クリフォードとオーブは、それにうっとりと見とれていた。二人は、これまで誰も見たことのないものを目撃しているのだった。十メートルほど離れた場所に由来するエネルギーが、空中に突如として出現し、しかも、その間を隔てる空間を、空間や時間の次元を超越して存在する領域を通って通過しているのだった。
しばらくして、記録装置がすべてを記録したことを確認したクリフォードは、うなずいて手をあげた。「これでいい。これ以上に上げるのはよそう」
「切ってもいいか」
「うん。これで何とか間にあう」
オーブは、システムに運転停止の手順を施していった。円周の中心からは光が消え、巨大な機械が一つ一つ静かになり、最後の光の列が消えていくにつれて、しだいに静寂が深まっていった。
オーブは深く坐り直して、額の汗を拭いた。
「ふう」と彼はいった。「よし、納得したぞ――空間積分は一様だ。こういうきみが、セールスマンじゃないなぞといっていたんだからな。何ともはや」彼は、くびを振った。
「おいおい、それほど危険ではなかったことは、きみにだってわかっているくせに」とクリフォードが、からかった。「仮に一様でなかったとすれば、出力を上げるずっと前に、検出器が過剰の分を探知していたことだろう。ほんとうは、危険はなかったのさ」
「よし、きみの勝ちだ。われわれは帰還エネルギーが集中できることを証明した。これから、どうなる」
突然、クリフォードの笑顔が消え、真剣な様子になった。「明日、二人でアルとピーターに話して、よく説明する。ここまで来れば、大目玉をくったってかまわん。この件は、たちまち、彼ら二人にはとても手に負えないことになるんだからな。ピーターにしてほしいのは、ワシントンに連絡をとって、フォーショーや彼の子分たちとの会合を、できるだけ早く取りつけることなんだ」彼は体を伸ばして、オーブの肩をたたいた。「きみはいつも、ぼくがセールスマンにならなければならんといっているな。いいとも――ぼくは、というよりわれわれは、気の遠くなるようなでかいセールスをやることになるぞ。われわれが売りつけようとしているほどのものを持ってペンタゴンに入っていったセールスマンが、今までにあったか。やつらは爆弾が欲しいんだと? やつらが夢にも思っていなかったような、でかい爆弾をくれてやるさ」
19
クリフォードは、大きな長円形の会議テーブルの端に立って、にこりともせずに注目している顔を見まわした。国防長官は、両側に居並ぶ軍の領袖、技術顧問、大統領補佐官、国防計画立案者といった面々を従えて、向こうの端に坐っていた。オーブはクリフォードに近い端に坐り、その横にはモレリとピーター・ヒューズがいた。
「長い演説は私の性に合わない」とクリフォードが話しはじめた。彼の態度は、いつになくぶっきらぼうで無遠慮だった。「きょう、わたしがここに立っている理由は、基本的にいえば、正気の沙汰ではなくなった価値体系を後生大事に守っている社会に対して、抗議するためである。歴史を通じて、人類の最大の敵は二つあった――無知と盲信だ。それ以外の困難は、実際問題としてすべてこれから派生するのである。この敵と闘うために人類が開発した最大の武器は科学、すなわち知識の獲得と活用だった。ところが、時が移るにつれて、科学は人類の困難の解決にではなく、その拡大のためにますます使われてきている。科学はしだいにわれわれの最も卑しい本能に奉仕させられているのである」
彼は一息いれ、制止されることを半ば予期しながら、部屋を見まわした。しかし、あっけにとられて見つめる顔はいくつか目についたものの、全員が度肝をぬかれて意見も出ない様子だったので、彼は先を続けた。「わたしは科学者だ。わたしは憎悪と不信に引き裂かれた世界に生きているが、こういう世界を作りあげることに、わたしは何の関与もしなかったし、その理由にも興味はない。こうした事態は、わたしの知らない、しかもわたしの代理だと主張する人間たちが作りあげたものだ。いまその同じ人間たちが、彼らに対する義務として、わたしに自分の生活を放棄させる権利があると思いこんでいる。立場を明確にするためにいっておくが、わたしはそんな義務を認めたことは一度もないのだ」
クリフォードが立っている目の前のテーブルでは、モレリが汗ばんだ掌を揉みあわせていた。
その隣ではピーター・ヒューズが、身をすくめて、息をひそめていた。クリフォードのこの冒頭の発言は、部屋中に、はっと息をのむ気配を誘いだした。ここに集まった者たちは、公式の席上でこれほどずけずけいわれることに馴れていなかったが、それでもクリフォードの有無をいわせぬ平静さと威厳、彼の奥底のどこからか溢れてくる目的への確信には、いいたいことをこらえて最後まで聞こうとさせるような何かがあった。彼らは、何かどえらいことに向かって雰囲気が高まっていくのを感じていた。
中断で望ましい効果が生じたのを見て、クリフォードは先を続けた。「一六世紀および一七世紀におけるヨーロッパの科学ルネッサンスの中で、人間は、事実と空想、真実と虚偽、現実と夢想を区別する方法を、初めて発見した。本物の知識からは創意が……産業が……知的自由が……豊かさが生まれた。ヨーロッパは類いまれな文明を作りあげた。この国はこれと同じ伝統の上に築かれたのであり、われわれの社会はこれと同じ原理に基礎をおくべきものなのだ」彼は再び一息いれ、眼の前に並ぶ顔をじっと見ながらも、自分の眼に浮かんだ咎《とが》めるような光を隠そうともしなかった。
モレリは、オーブに不満そうに囁いた。「彼は、どういうつもりなんだ――われわれ全員を国外追放にする気か」
「自分のやっていることは心得ている……と思いますよ」とオーブが小声でいった。
クリフォードは、これに一顧も与えずに、先を続けた。「だが、伝統は継承されなかった。ルネッサンスの期待は果たされなかった。以前からの無知と偏見は、今も姿を変えて残っている。それらは今も同じ力を持ち、人間の心に恐怖と疑惑をひきおこしている。前は宗教的恐怖だった。今は政治的恐怖だ。何も変わってはいない。獲得され全人類への遺産になるはずだった知識は邪悪な目的に悪用されて、他の世界はヨーロッパの先例をたどることを許されなかった」
クリフォードが一息いれて、前のテーブルにあるコップから水を飲む間も、口をきく者は一人もいなかった。フォーショーは探るような眼で彼を見つめていたが、どうやら、この途方もない演説の行きつく先を見きわめるまでは、判断を保留するつもりらしかった。クリフォードはコップを下に置き、再び彼らのほうに向いた。
「歴史の教訓によれば、こちらが与えなければ、相手は遅かれ早かれそれを取る。このことの道徳性はどうでもいい――これが事実なのだ。この教訓が、今また繰り返されようとしている。世界はまたもや、暴力では解決できない問題を解決しようとして、暴力と暴力でぶつかりあう寸前にある。これを解決できるのは、知恵と理解だけなのにだ。
「事態をこのようにしたのが、この部屋にいる誰でもないことは理解している。諸君が代表する政府がしたのでもない。諸君たちは、数世紀にわたる不始末の結果をひき継いだだけであり、時間を遡《さかのぼ》って過去を変えるわけにはいかないのだ。いずれにせよ、別の道があったかもしれないなどと思ってみても、今では手遅れなのだ。われわれは、これから逃れられないのである。
「現状のままでは、人類は袋小路に入りこんでしまっていると、わたしは確信している。世界は、過去百年にわたって断続的に存在してきた軍事工学的な手詰まりによって、身動きがとれなくなっている。歴史は、この手詰まりが理性的かつ文明的な手段によって打開されると期待することの無益さを証明した。だが、これが存在しつづけるかぎり、世界が意味のある進歩をすることはないのだ」
クリフォードは、結論に入ろうとして、部屋を歩きまわりはじめた。「いいかえれば、手詰まりがおこってしまったいま、これを避けることはもう手遅れであり、それが消滅してはくれないことも痛切な現実である。第三次大戦といえども何事も解決はしない。ちょうど一九一四−一八年の時のように、双方とも疲弊して停滞状態に陥るのが関の山であり、五十年もしないうちに同じ状況が最初から繰り返されるだろう」
クリフォードは長い中断をとって、自分の言葉がみんなの心にしみとおるのを待ち、それから深く息を吸った。
「とすれば、これに代わる唯一の手段は、この手詰まりを粉砕すること――完全に、決定的に、最終的に、永遠に粉砕することだ! それが、ここに提案することである」
驚愕の囁きが部屋に流れた。彼らの顔には、訝《いぶか》りつつも好奇心を誘われた表情が拡がった。
「今日までは、手詰まり状態が続いていること自体のために、そのような代わりの手段を考える余地は一切なかった。だが、いまわたしは、これまでに夢想されたどれよりも強力な武器――諸君のミサイルや水爆の影をうすくさせ、この手詰まり状態を最終的に終わらせるような武器を、提供できるのである」
彼は、自分の言葉が効果を表わす余裕をおいて、それからまた先を続けた。
「誤解のないようにいうが、わたしがこんなことをするのは、愛国心、義務、イデオロギー、信条、その他のいかなる幻想に基づくものでもない。この行動が、科学に自由と尊厳の地位を回復し、人類を精神的破滅に追い立てる頚木《くびき》を最終的にかなぐり捨てるチャンスを与える、唯一の手段だからだ。集団的狂気の治療法が最高の狂気であろうとは、皮肉な天の配剤だと、わたしには思えるのだ。
「諸君、きみたちは、西側世界の覆滅を誓う国家と民族の同盟からもたらされている脅威に反撃する義務を、繰り返し主張した。諸君に付与された権力に基づいて、わたしにそれへの関与を強要した。よろしい――それならそうしたまえ。その脅威を永久に除去する手段を、諸君に与えよう。今回は、一切を終わらせるのだ。わたしが関与するには、この道しかない」彼は聴衆を見まわし、最後にその視線をフォーショーに向けた。「これが条件だ。先を続けようかね」
フォーショーはその視線を受けとめ、長いこと指でテーブルをたたいてから返事をした。
「そうするしかあるまいな、クリフォード博士」と、やがて彼は静かにいった。
「いいものを出すのが、身のためだぞ」と、彼の右手の三つ目の席に坐っていた、苦虫を噛みつぶしたような赤ら顔の空軍の将軍がいった。
クリフォードは前に進むと、テーブルに置いた書類挟みから、それぞれ三十センチ四方くらいで光沢のあるカラーのコンピューター・プリントを抜きだした。彼は上の一枚をさしあげ、誰にもその暗橙色の画面が見えるようにした。そこには、黒を背景にして、ぼやけた不規則な大きさの長方形が、いくつも上に突き出ていた。
「ニューヨーク市のスカイラインだ」と、彼は簡潔にいった。その紙をオーブに渡し、テーブルを回覧するように合図した。これに続いて、一連の見なれた構造物、地形、その他のいろいろなものが示され、彼はそれをまわす前に一つ一つの名称をいった。その中には、ジブラルタルの岩、テーブル山、ダーダネルス海峡の断面、ロンドン、パリ、北京、ボンベイ、シドニーの都市の輪郭、地球の海底地殻を形成する厚さ一三〇キロの太平洋プレートが年間七センチの速度でマリアナ諸島の下のマントルの中へ潜りこんでいる図、南極海の大氷山、三千マイルの上空にある米露合作のコスモスX宇宙ステーションを示す斑点が含まれていた。
興奮と驚きが高まりはじめた。
「これらの映像は、一枚残らず、サドベリーで、新しいマークUシステムを使って得られたものだ」とクリフォード。「また、これらの実例も、さらに改善が可能である。いったん正確な座標が計算されれば、それらは記憶されて、いつでも即座に呼びだせる。目標識別や射撃管制のことはそれくらいにしよう。さて、兵器の本体についてだが」
クリフォードは、目の前の顔を見まわしてから、先を続けた。
「諸君は、これらの映像が作られる原理の中に、新しい種類の波動のことが含まれていたことを、覚えているかもしれない――どんな物体の中にも発生し、即時に通常の空間全体に伝播するという波動のことだ。最近の実験で、その同じ原理を使って、エネルギーを一ヵ所から他の場所へ送ることに成功した……少なくとも諸君はそう理解してくれればいい。そして、これらの映像を作製するために任意の場所から情報を選んだのと同じ方法によって、そのエネルギーを送りこむ場所を正確に選択できる。
「これが何を意味するかを、考えてみたまえ。熱核爆発の場合には、実際にエネルギーに転換される核物質の量は数分の一パーセントのオーダーという微小なものであるが、それでも結果は激烈なものになる。いま話している過程の場合には、有効な転換効率は一〇〇パーセントに近い。必要な出力を発生できる中央反応炉があれば、地球上のいかなる地点、あるいはその外に対しても、即座に未曾有の破壊力が集中できるのである」
彼に向けられた敵意ある視線は、この頃になると、度肝をぬかれて茫然とし眼を丸くした顔つきに変わっていた。彼が一息ついた時には、部屋はまったく静まり返っていた。
「しかも、その目標をいかなる手段で攻撃しているかは、今日の世界に存在するいかなる監視または防御システムによろうとも、探知はまったく不可能である。いま述べている攻撃システムに対して、妨害または対抗できる方法は一つもない。迎撃は不可能である。攻撃兵器としては、ICBMも軌道核兵器も、破城槌も同然に時代遅れとなった」
がやがやという騒ぎが、いっせいにおこった。フォーショーは手を振ってそれを静めた。「きみがいうのは、たった一つのセンターから、地球上のどこでも爆撃できると……敵にどうやって攻撃されたかさえ悟らせずに……誰にもそれを止める方法はまったくなく……」彼の顔は、信じかねる表情だった。「どこからともなく現われる超爆弾だと……」
ヒューズは、話がのみこめてくると、肝をつぶしてモレリを見た。「われわれは何をやらかそうとしているんだ」彼は、興奮であたりが騒がしくなる中で訊ねた。「ブラッドは気でも狂ったのか」
「初めてこれを聞いた時」モレリは、茫然としてくびを振りながらいった。「あの二人が何かでかいことを企んでいるのは知っていたが……こんなこととは……」
「わたしがいっているのは、まったくそういうことだ」クリフォードは、騒ぎに負けないように声を張りあげた。「どこからともなく地球上のどの場所でも爆撃≠キるというだけではない……消滅させるのだ! それに、地球の上空もだ……わが国から千五百キロ以内にあるものを何でも消してしまえるのだ……しかも、相手側は、それを止めることはおろか、われわれがどういう手段でやっているのかさえ、知るすべはない。彼らの兵器も、その数量も、いまや物の数ではない。これが今の手詰まり状態を粉砕する方法だ。未来永劫にわたって粉砕してしまえる方法なのだ!」
部屋の中の混乱がどうやら静まってきた時、フォーショーが質問した。「クリフォード博士、いま聞いた話は途方もないことのように思える。そんな装置が現実に作れるという、自信はあるのかね」
「絶対の自信がある」
「これが建造できないという本質的な理由はないのだね」
「ない」クリフォードは、腕組みをし、泰然自若として立っていた。
「建造には何が必要かね」とフォーショーが訊ねた。
「エネルギー集中のための大動力源、それも核融合炉が望ましい。サドベリーのGRASERより強力な改良型によって維持されるブラックホールに供給するための、物質ビーム発生装置がいる。個別の目標位置探索や射撃統制のためには、マークUより大きく優秀な検出装置が必要だ。
マークV検知システムには、十分なデータ処理と制御のために、並列稼動する三基のBIACが要求されるだろう」
「期間は」とフォーショー。
クリフォードは、明らかにその質問を予期していた。彼は迷うことなく答えたのである。「金に糸目をつけないなら、システムは一年で使用可能になると思う」
サドベリーの四人の科学者はワシントンに一泊し、翌朝、新たな質問に答えるべく、ペンタゴンに戻っていった。そのあと彼らがマサチューセッツに帰ってから、大統領が特別に召集した諮問委員会が提案を検討し、クリフォードが用意した報告書を吟味した。十日後、彼らはワシントンに呼び戻されて委員会に出席し、提案を繰り返し、さらに質問に答えた。その午後は、大統領との会見だった。
合衆国大統領アレクサンダー・ジョージ・シャーマンは、ホワイトハウスの会議室に設けられたテーブルの席から立ちあがると、窓のほうへ歩いていった。彼はそこに長いこと立って、外の景色をじっと眺めながら、この十日間に知ったことを、もう一度、頭の中で整理していた。背後にはサドベリーからの四人の訪問者、副大統領ドナルド・レイズ、国防長官ウィリアム・フォーショー、国務長官メルヴィン・チェンバーズが、テーブルを囲む席についたまま、黙って控えていた。やがて大統領は、くるりと向き直ると、そこに立ったままで、主として国際科学財団の四人を相手に部屋の中に向かって語りかけた。
「最近の情報報告や戦略予測は、必ずしも楽観を許さない。主導権は徐々にではあるが確実に東側の手に移りつつあり、決定的な局面がくれば全面戦争となることは不可避である。全面的な世界戦争を回避する唯一の道は、西側が一連の外交的、領土的、政治的な譲歩を認めることしかない」
「それも序の口にすぎない」とチェンバーズ。「ひとたびそういう前例を作れば、圧力はますます増大するばかりだ。西側は、徐々にまったくの無能力に陥れられるか、あるいは早晩、今よりも悪条件のもとに雌雄を決することを余儀なくされることになる」
「では、長期的解決とは、とてもいえない」とヒューズ。
「そのとおり」とチェンバーズが、うなずいた。「宥和政策は論外だ」
「わたしはいま決断を迫られている」と、シャーマンが彼らにいった。「わたしの前には、三つの選択がある。第一の道は――いま、力が多少とも均衡しているうちに、大々的な先制攻撃を加えることだ。それがもたらす帰結は、最終的な結末がどうなるにせよ、世界にとって破局的なものになり、それはわたしがここでいちいち説明するまでもないはずだ。第二の道は――わたしには何もできない。一切を目下の成り行きのままに続けさせるわけだが、この場合には、われわれの理解するような自由な民主主義が終末を迎えることは、ほぼ確実である」彼はテーブルのほうへ一歩近づいた。「わたしにできる第三のことは、現実のものとなるのに一年間を要するこの新兵器に、一切を賭けることだ。だが、世界はわれわれに都合よく進行を止めてはくれないだろう。これに賭けるとするならば、その一年が終わって成果を収穫する前に何かの抑制がきかなくなる危険を冒したくないのは当然である。すなわち、相手側が要求するいかなる譲歩にも応ぜざるをえまい。その一年間が終わった時、仮に賭が報いられず、兵器が失敗だとわかれば、わたしは世界状勢全体をわれわれにとって回復不能なまでに不利に導き、しかもそれを弁明すべき根拠は何もないことになるだろう。もしそうなれば、その後の事態は、急坂を転げ落ちるように悪化するだろう」彼は自分の席に戻り、腰をおろして、他の者たちを冷静に眺めた。
「第三の選択は大きな賭のように聞こえるのだが。わたしがこれを採用することを正当づける、どんな根拠があるのかね」
しばらく沈黙が続いた。居並ぶ顔は、厳しい表情でテーブルを見つめていた。やがて、クリフォードが、穏やかな口調で答を提供した。「それによって失うべきものは何もない」
「なぜかね、クリフォード博士」とシャーマンが訊ねた。
「兵器は、役に立つか、それとも立たないかだ」とクリフォードは答えた。「もし役に立つなら、使用されるか、それともされないかだ。もし使用されるなら、成功するか、それとも失敗するかだ」彼はテーブルを見まわした。「これらの陳述から到達する論理的帰結は、失うべきものは何もないということだ。仮に、それが役に立たないか、あるいは使用されないとすれば、結果は第二の選択と違いはない。仮に、使用されて失敗したとすれば、結果は、最悪のケースである第一の選択より悪くはならない。いずれにせよ、長い目でみて西側の負けになる……。これに代わるべき唯一の道は、兵器が使用されて成功することであり、この可能性を生みだす唯一の道は、第三の選択をすることだ」
クリフォードや同僚たちは、大統領と属僚が協議する間、ワシントンに一泊した。翌日はホワイトハウスに戻って、再び会議室でシャーマン、レイズ、フォーショー、チェンバーズと会った。
「決定はゴー≠セ」とシャーマンが告げた。「諸君には、必要なあらゆる設備、資材、人員、資金、その他の手段について、最高の優先順位が与えられる。この計画のコード名はジェリコ≠セ。行動はただちに開始される。昨日話したように、われわれは来年ぐらいの時期に不愉快な決断を強いられるかもしれん。したがって、われわれの西側同盟国には、理由を知らせる必要がある」
国際科学財団の科学者たちがホワイトハウスを出ないうちから、大統領顧問官の中には早くも新兵器にJ爆弾≠ニ命名した者がいた。
その晩ボストンに帰る機上でのクリフォードは、凄みのある満足感に満たされていた。オーブは、いつになく沈んで、黙りがちだった。
「どうした」とクリフォードが訊ねた。「きみがいつも望んでいたことじゃないか――無制限の政府資金と資材だぞ。どうして嬉しがらないんだよ」
20
公式に承認され、最高の優先順位を与えられると、ジェリコは怖るべき速さで動きはじめた。
この計画の本拠はブラナーモントという場所で、アパラチア山脈の地下の岩盤を二キロ近くの深さにわたってコンクリートと鋼鉄で各階に区分した複合施設であり、もともとは要人のための自給自足・耐爆の緊急避難センターおよび通信・司令本部として設計され、建設されたものだった。
ここにあって、必要ならブラナーモントを何十年間も機能しつづけさせるように設計されていた熱核動力炉は、濃縮された物質の怖るべきビームを新しい反応炉に注ぎこむ役をするように改造された。発電機や原子炉の一つ上にある階では、特別に模様がえされ最高機密区域として立入を禁止された中で、マークVの射撃管制・指令システムが、徐々に形をなしてきていた。その上の階には、西側同盟諸国の全地球査察・防衛・攻撃・反撃システムのネットワークや、統合指令センターや、作戦室と連結された総合的戦略指令中枢センターが設置されていた。
初めの数ヵ月の間に台湾が進攻され占領されたが、西側からは型どおりの抗議と非難が行なわれたほかは、何の敵対行動もなかった。インド国境で一連の大規模な戦闘があった後、西側の支持と介入を求める訴えが出されたが、決定的な応答は何もおこらなかった。こうした無気力あるいは無関心の表明に勢いを得て、この国内部での破壊活動と扇動活動はさらに激しくなったが、それは自国政府やその友人たちが唱えるイデオロギーの裏に無能と裏切りしかないのを見た人民の間に多くの共鳴者を得た。ジェリコが開始されて六ヵ月後には、インド全土は激しい内戦の渦中にあった。前方を圧迫され、後方を攪乱された国境の部隊は、西部はインダス川流域に、東部はカルカッタに後退した。予期されたとおり、今や戦争は圧制下にあるインド人民解放のための闘争≠ニなり、一九九二年のスローガンが、再び世界中で叫ばれるようになった。インドの諸都市に対する空襲が日常茶飯事となった。カルカッタは包囲するレーザー攻城砲列のもとに炎上した。ボンベイ、マドラスその他いくつかの港は、機雷や潜水艦で封鎖された。飢餓と病気で数十万人が倒れた。西側は何もしなかった。
ジェリコで働くことを志願し許可された研究所の科学者たちが、サドベリーに別れを告げる日がきた。彼らは家族とともにブラナーモント複合施設の居住区域に移ったが、そこには学校、医療、休養、娯楽、そのほか現代の生活に不可欠なすべてのものが整っていた。彼らは、ブラナーモントが要求する規律、厳しい機密保持手段、社会との隔絶といったものを、自分たちの生活の日常的な要素として受けいれるようになった。彼らはそれだけで独立したミニ社会となり、古今を通じて最大の秘密の管理を任されるとともに、電子的に監視される幅五キロの周縁地帯、周囲の丘の緑の間を亡霊のように掠めて移動する海兵隊やレーンジャー部隊、進入道路を射程におさめる塹壕、音もなく上空を捜索するレーダー・ビームなどによって、外界の好奇の眼や耳から遮断されていた。
クリフォードとオーブの役割は、いつの間にか入れ替わっていた。かつて熱中とエネルギーの権化だったオーブは控え目で不安げになり、自分たちの生活に侵入し、今や全生活を占領してしまったこの機械を恐れていた。クリフォードは疲れを知らぬ推進力となり、この計画の主導権を担って、ますます苛酷になるスケジュールに合わせるべく、断固たる決意のもとに、何であれ誰であれ容赦しなかった。それまでの自分、かつての主張は、いま彼にとりついた飽くことを知らぬ新しい神の前に、犠牲とされてしまったようだった。
ブラナーモント複合施設の大部分は、巨大な氷山のようにアパラチア山脈にある先カンブリア期の基盤岩に深く没し、その先端だけが地上に突き出していた。空中からこの先端を見れば、屋根の急な家、シャレー、共用の建物などが群がりながらも、注意深く釣りあいを保って配置された樹木、茂み、小道、芝生によって隔てられ、所々に装飾的な池や花壇が設けられていて、まるでみごとに計画された超近代的な村落のように見えた。これらは、この施設の性格を偽装するためというよりは、住民の集団に対して地下に潜む現実の厳しさを和らげるとともに、彼らが必要とする心理的な寛ぎにいくらかでも役立てようとするためのものだった。通過を阻止する周縁の防備、外の道路から鋼鉄扉に守られた地下に通じる傾斜路、異常に大きなアンテナ、絶えず往き交う道路輸送などには、たとえ駆けだしの写真解読者でもすぐに気がつくのである――もっとも、これらも、施設の其の目的については何も語らないのであるが。
ブラナーモントに来て数ヵ月たったある夕方のこと、オーブとサラは、いわゆる村≠フ中の木蔭になった一角で、木々の間を散歩しながら、吹きはじめた秋の涼風が丘から運んでくる香りと爽やかさを楽しんでいた。これが他の機会、他の場所であったなら、まるで夢の国のようなたたずまいだった。現実には、二人の気分は重く、緊張していた。
「どうして、こんなことになってしまったのかしら、オーブ」何分かの沈黙が続いた後で、サラがいった。
「うむ。何だって?」
「あなたと、わたしと、ブラッド……わたしたちのことよ。わたしたちにおこったことよ。いえ、違うのよ……何がおこったかは、わかっているわ……でも、どうしてこうなったのかは、今でもよくわからないの」
「うん……いっている意味はわかるよ」昔の情熱的なオーブは、影をひそめていた。
「きょうは昼の間、ずっとそのことを考えていたの」彼女は、放心したように石を蹴りながらいった。「前とは何もかも違ってしまったわ。あなたが初めてニューメキシコにあったわたしたちの家にとびこんできた時のことを覚えている?……ブラッドがACREを辞職した日よ。もう今では、あの頃に笑っていたような笑い方はしなくなったわね……あなたとブラッドは毎晩のように酔っぱらって……みんなで外へ出かけて。覚えている?」
「覚えている」
「あの三人は、どうなったのかしら」
オーブは、相手を傷つけもせず嘘でもない返事を思いつこうとして、ゆっくり歩いている足の先の地面を見つめた。
「たぶん……いつかは大人になる必要があったのさ」
「でも、大人になるかどうかの問題じゃないでしょ? わたしたちは、いつだって大人だったわ。それも、そんなに前のことじゃない。やっぱり変わったのよ。ブラッドは変わってしまった。もう、わたしたちの知っていたブラッドじゃないわ。そして、彼が変わったことで、わたしたちも変わったのよ。彼のことならわかっているつもりだったけど、やっぱりわからないわ。彼がどうして急に変わったのか、わたしにはわからないの」
二人は立ちどまって、今まで来た道が行きついた池の向こうを眺めた。向こう側のシャレーのポーチで、誰かが揺り椅子に腰かけ、それをゆっくり揺すっていた。ポップミュージックの旋律が、水面を漂ってきた。
「彼は、自分が信じる生き方を守るために、自分にできる唯一のことをやっているんだと思うよ」とオーブ。「少なくとも、彼はそう思っている」
「でも、これは、彼が信じていることじゃないわ。前は、こんなことには、一切かかわりあおうとしなかったのよ。死んだほうがましだと思ったでしょう。人間一人の命は、世界中の正義を一まとめにしたよりも大きいんだと、いつもいっていたわ。それがわたしの知っているブラッドよ。ところが今は……」彼女は片腕を伸ばして、周囲の状況を示した。「これですもの。目に入る何もかもが、何百万という人たちを殺すだけの目的で作られている巨大な怖ろしい機械の一部なのよ。しかも、それはブラッドが一人でやったことだわ」彼女は片手を唇に当てて、指の節を噛んだ。
「うん、わかっている」と、オーブが静かにいった。「さあ、歩こう。寒くなってきた」
二人は歩いていき、別れ道に来ると、茂みの間からバーと社交クラブの所在を示している、暖かい家庭的な燈りのほうへ進む道をとった。
「あなたは、どうなの」と彼女が訊ねた。「あなたも、こんなことが楽しいようには見えないのに、それでも大きな役割を果たしているわね。なぜなの、オーブ。なぜ、これに巻きこまれる道を選んだの」
「なぜ、さっさとやめないか?」
「そういってよければ」
彼は、ちょっと頭をかいて、顔をしかめた。
「そうだな……たぶん、もう選択の余地はあまりないんだと思う。ジェリコに参加するという書類に署名した時、期間は不定だといわれた。仮に、もうこの計画で働きたくないと思ったとしても、いま知っている知識を持ったままで、外の町なかを歩かせてくれるとは思えんのだよ。だから……」彼は肩をすくめた。「そのまま進んだほうがましかもしれないんだ。少なくとも、多忙でいられる。さもなければ、きっと気が変になっているだろう」
二人は、クラブハウスの前で、また立ちどまった。開いた窓から、ブラナーモントの地元の海兵隊コンボの演奏するダンス音楽が流れていた。
「ほんとに、それだけの理由なの?」と彼女が訊ねた。オーブは、しばらく考えた。
「そうでもない。ほかにも理由があるんだ……口でいうのはちょっとむずかしいんだがね。ぼくはただ、今でもどこか底のほうに昔のブラッドがいるのを感ずるんだよ。彼がジェリコを実際に使わせるとは、どうも思えないんだよ。あれだけ勇ましそうなことをいう裏に、何となくでかいはったりがあるような気がするんだ……ぼくにも話していないことを、何か考えているんじゃないかとね。バークリーでの出来事を彼に内証で知らせていた頃、彼は一度だってぼくを巻き添えにしなかった……しかも、その頃は、まだお互いによく知ってもいなかったんだ。しかし、そもそもの初めから、彼は信頼できる男のような気がした――ぼくのいう意味がわかるかい。彼は信頼できると思ったし、そのとおりだった。どうかしてると思うかもしれないが、今でもそう思っているんだよ」
「あなたがそういってくれるのを、どれほど聞きたかったか、わかってもらえるかしら」昔の笑顔が彼女の顔を微かに明るくした。「さあ――中に入りましょう。一杯おごらせてあげるわ。それに、いい子にしていたら、ダンスの相手もつとめさせてあげる」
21
ジェリコが計画されて一年と一ヵ月が過ぎた。岩盤の胎内には今や胎児が完全に育って、核の心臓をたくましく鼓動させていた。ワシントンからは、空飛ぶミニ艦隊が、その誕生に立ちあうための父親たちを連れて、ブラナーモントに集まってきた。
実をいえば、J爆弾の試射は、すでに何度も成功裡に行なわれていた。これは少なくとも公開で行なわれる最初のものだったのである。
モレリは、予備行動として、ペンタゴンの役人や陸海空軍高級将校の代表団を、この複合施設の最下階にある立入禁止区域のガイド付き参観に連れていった。彼は二重システムになった核融合炉や発電設備を見せた。これは、外部の動力源から切り離されても、ブラナーモントのすべての機械を数年間は維持できる能力を持っていたが、通常の状況下では必要な電力は全国配電網から賄《まかな》うのだった。J反応炉の粒子消滅室にビームとして供給される物質の量は、実は小さなものなのだ、と彼は説明した。これだけの莫大な電力が必要なのは、兵器の照準が十分に正確になるように、高次空間を通じて送る帰還エネルギーを変調し、制御し、集中する技術のためなのだった。
彼らは、ずらりと並んだ加速器や巨大な電磁石を視察した。この中でビームが発生し、コイルや冷却管の複雑な外装に取り囲まれた伝送管を通って、球形の1反応炉の本体に入り、ここで、彼らの理解を超える力によって、なぜか宇宙そのものから押しだされるのである。一行は厳粛な気分になっていった。この男たちは、大量破壊のための組織的技術という残酷な現実に日々直面して無感覚になっていたが、四方に見る事物の其の意味が彼らの理解力に滲《にじ》みわたるにつれて、怖れと不安を感じはじめていた。
最後に彼らは、この怖ろしい集合体を統制し指図する頭脳≠見た――それは、三基の巨大なBIACが(機能が巨大なという意味であって、それぞれの機械は、高さ二メートル足らずの二つの箱を占領しているにすぎなかった)数百の雑多な従属処理装置や居並ぶキュービクルに入った副次的電子機器を統轄する、コンピューター室だった。
この集合体を構成するすべての構成要素やサブシステムの操作は、最終的には、単に制御室≠ニ呼ばれる単一の中枢から制御されていた。ここには、巨大な機械の各部から来たデータチャンネルや制御通信路が、立ち並ぶ計器パネルやモニター・スクリーンに最終的に集められ、BIACとの間の指令インターフェイスが設けられていた。ここからは、システム操作のあらゆる側面(原子炉や発電機の制御、ビーム変調、目標識別と位置決定、射撃統制指示)が、たった二人のオペレーターの手で行なわれるのだった。制御室も、またそれと同時に兵器システムの中枢部も、非常の際には内側から閉鎖することができた。したがって、ブラナーモント複合施設の他の部分がどうなろうとも、ジェリコの活動は妨げられないように保証されていたのである。
制御室への通路になっている高い回廊からは、西側自由主義同盟の新たな作戦室となった作戦司令室が、一望のもとに見おろせた。通信用コンソールが並んで、厚い絨毯《じゅうたん》を敷き手術室のように清潔で明るく照明された道具立ての中で、巨大な壁面表示スクリーンが地球全体の状況を映しだしていた。それは、軌道および地上の監視システムのネットワーク、相互に連結した二十カ国のレーダーおよび早期警報システム、シベリアのツンドラやゴビ砂漠の上を高空飛行する無線操縦機、スピッツベルゲンからロス海に至るまで点々と配備された船舶からの入力を総合してディスプレイしたものだった。見かけは穏やかで平静なこのたたずまいの中から、西側列強の軍事機構が数分間のうちに解き放たれるのだ。ワシントンから来た者たち、またヨーロッパ、ロシア、オーストラリア、日本の政府から派遣された見学者たちは、ジェリコの最終産物の性能を見るために、遂にここに集合したのである。
クリフォードとオーブは制御室の中の配置につき、モレリが訪問客に付き添って残った。モレリが作戦司令室で利用できる各種の設備の説明をしている間に、二人はシステムの慣例的な点検操作を行なった。すべて異常なしだった。
予定表の第一項目は、マークV検知システムの解像力を実演し、それが目標の記録に使えることを見せるものだった。同時にそれは、観客に、オペレーターと機械とがBIACによる相互作用を通じてダイナミックなリアルタイム制御を行なうことの意味を直感させることにもなった。
「ここでちょっと、先ほど説明したことの一部を要約すれば、宇宙のあらゆる物体は高次放射を発生し、それは即時に空間のあらゆる場所に出現します」モレリは、目の前に並んで聞きいっている者たちの奥のほうまで声が通るように、大きな声をはりあげた。「いまこの瞬間にも、この部屋には高次放射が充満しています――それは地球、太陽、木星、われわれの銀河系のすべての星、宇宙のすべての銀河系から発生する放射です」彼は、ゆっくりと向きを変えて、まわりで聞き惚れている表情を観察した。
「大小、遠近を問わずあらゆる物体から発せられるこの高次放射には、先ほど見た装置を使って測定可能な反応をおこさせることができます。この放射は、強度は発生源から遠ざかるにつれて急激に減少しますが、通常空間の離れた二点を即時に移動して情報を伝え、これから発生源の物体についての一定の特性を再構成することができます。それぞれの発生源からの情報量も、発生源が遠くなるほど、少なくなります。
「つまり、検出器は、理論的には宇宙のすべての物体からの高次波動による情報を同時に受けとるわけですが、実際には、かなり近い距離以外の遠方から来る量は……目下のわれわれの技術水準でいえば数十万キロより遠くのものは……非常に少量であって、無視することができます。これには例外があります――たとえば、太陽その他いくつかの天体は、距離にくらべて異常に明るく′ゥえます――しかし、概していえば、いまいったことが当てはまります。ここまでで何か質問は?」
「一つだけあります」発言者は、ヨーロッパ合衆国空軍少将の制服を着た、背が高く浅黒い男だった。「わたしの記憶に間違いなければ、先ほどのあなたの話では、このどこにでも存在する高次放射が、たしか二次相互作用≠ニかいわれた過程によって、通常のバックグラウンド・エネルギーを発生するということだったが。このバックグラウンドが、地球上でさえも測定不能なほど小さいのは、天文学的な尺度では、地球は極めて小さいからだと」
「ええ、そのとおりです」
「よろしい。では、そうだとすると、他のもっとずっと質量の大きい天体の近くでは、もっと大きなバックグラウンド放射量が……容易に測定できるほどのものが観察できることになるのですか」
「まったくそのとおりですし、実際にもそうなります」とモレリは答えた。「事実、宇宙空間にあるブラックホールは、極めて強い放射にとり囲まれています。これは古典的な物理学では説明できなかったもので、K理論がそもそも認められるようになった根拠の一つでした」
「わかりました。ありがとう」
それ以外に質問はなかったから、モレリは講義を続けた。「そこで、検知システムは、実際にはもっぱら近い空間の領域にある物体から発する高次波動に反応を示すことになります。さて、われわれは、極めて高度のコンピューター処理技術によって、これが伝える情報の中から、複合した高次波動シグナルの一部を選びだせるだけのデータを引きだすことができます……もし必要なら、全体のシグナルを発している全空間のうち、どの部分でも選んで拡大することができます。一定の限度内なら、その部分は、いくらでも大きく、または小さく取ることが可能です。しかも、引きだした情報を使って、関係する方程式の空間的な解を求めることができ、それから選んだ物体の内部的および外部的な視覚的映像が構成されます」
「別の質問ですが、モレリ教授」と、後ろのほうから声があがった。
「はい?」
「あなたがいわれた限度とは? どの範囲の大きさの物体が解像できますか」
「小さいほうについていえば、物体が遠くなるほど精度は悪くなります……それに、われわれが実際に見ているものは、物体とその周囲との質量密度の差であることを忘れないように。光学的に作られた映像とは違うので、通常の視覚的なコントラストとか細部とかは見えません。われわれに見えるのは、密度のコントラストなのです。
「そこで、質問へのお答ですが――仮にあなたが二二口径の鉛の弾丸を飲んだとすれば、一・五キロ先に立っていたとしても、それを検知できます。地球の向こう側、たとえばインド洋南部にある物体についていえば、仮にそれが空気中に立つ鋼鉄塊とすれば、そうですね、六メートルないし八メートルの大きさまでは見分けられます。ですから、タンクを識別できるわけですね。
「さて、大きなほうについていえば、検知システム自体の有効距離、つまり感度の制約があるだけです……遠くの場所からのシグナルは弱くなるからです。しかし、先ほどもいったように、遠方にも強力な放射体がいくつかあります。一年ほど前、われわれは太陽のような物体の映像を作ることから出発しました――細部は映らず染みのように見えるだけのものでしたが――これは初期の検知システムを使ってのことでした。ここにあるものは、それよりずっと優秀ですが、たぶんわれわれは他のことで手いっぱいで、その先を実験する余裕はないだろうと思います」
兵器としてはともかく、少なくとも監視手段としてのこのシステムが持つ全能力を、聞き手の何人かが初めて理解するにつれて、興味をそそられたささやきがおこった。
「さて、今まで話してきたものの一部を見てみましょう」とモレリ。彼は身振りで、壁面の巨大スクリーンの一つを示した。「このスクリーンは、制御室にあるBIACの主モニター表示の従属制御装置と連結しています。ここには、BIACオペレーターが自分のコンソールに映しだすものを拡大した映像が出ます。準備はいいかね、ブラッド」この最後の言葉は、制御室のモニター・スクリーンで進行を見守っているクリフォードに向けられたものだった。
「準備よし」クリフォードの声が、司令室の上の拡声装置から聞こえた。主表示スクリーンの下部に一方に寄せて設けられた補助スクリーンには、上の部屋にいる二人のオペレーターが映っていた。
「それでは、ここで、公開実験のほうはブラッドリー・クリフォードに引き継ぎましょう」とモレリが一同に告げた。「ブラッド、まかせるぞ。自分で自由に解説してくれ。いいね」
「了解」ほとんど同時に、主表示スクリーンが明るくなって、ぼんやりしてはいるが紛れもない船の輪郭を映しだした。それは、スクリーンのほぼ中ほどを占め、横正面を見せていた。船体は明らかに、水を示す朦朧とした靄《もや》の中に浮かんでいた。「わたしはアルが話している間、数分間にわたって、この船を追尾していた」とクリフォードの声が告げた。「ここは、北大西洋東部、アゾレス諸島とビスケー湾の間だ。正確な位置を知りたければ、西経一五度三六分、北緯四二度一〇分で、針路は二六一度、速度三五ノット。外形から見て、明らかに非常に大きな航空母艦であり、今週この海域で行なわれている演習に参加中のものであることは、ほぼ間違いない。注意すれば、左手の末端から時々小さな点が上昇するのが見える。これは、いまこの瞬間に発進しつつある飛行機だ……そら、いま一機が出た」
性能については十分に聞かされていたにもかかわらず、聴衆からは驚きの声がいっせいにあがった。
「ちょっと近づいてみると……」船の形は見る見る大きくなった。「内部構造の細かいところが、どうやら識別できる。とくに中央部から船尾へかけての明るい部分に注目してほしい。これは船体の中で最も密度の高い部分、つまりエンジンおよび推進装置だ。また、中央の機関室の内部に、髪の毛のようなものが、ほんの微かに見えると思う。この船が原子力船で、これが原子炉内の燃料棒であることは、まず間違いない。それから、なお前方の数個の区画中にある点々に注意されたい――おそらく、船の兵器室にある兵器の一部としての核弾頭が含む核分裂物質と思われる」
五千キロ離れた外洋を航行中の船の内部を現実に眺められるということが観客に与える効果は、圧倒的なものだった。彼らは一人残らず、ただ立ちあがって目をみはり、辻褄《つじつま》の合う言葉も口にできないでいた。クリフォードの事務的なゆっくりした話し方さえ、なぜかその効果を強めるだけのようだった。
「もう一機、飛行機が飛びたった。今度は後を追ってみよう」拡大されたために、先ほどの点より大きくなった淡橙色の指状のものが、航空母艦の船首から飛びたった。飛行機がクローズアップされると、船は見る間にスクリーンの下端に消えた。あらゆる角度から映されていくにつれて、機体は空中で回転するように見えたが、最後に拡大されると、とがった機首と三角翼が見えてきた。
「この場合も、エンジンは、機体の他の部分より明瞭に見える」とクリフォード。「また、スクリーンには出ないが、BIACを通してわたしには、尾部から後方に伸びた、やや黒ずんだ円錐形が見える。これは密度の低い排気によるものである。そのパターンに含まれるデータから、エンジンの稼動温度が計算でき、どんな機種かが、かなり正確に推測できる」彼は、まだ上昇している飛行機をしばらく眺めさせてから、また話を続けた。
「今や非常な高速に達している目標を、うまく着実に追尾していることに、お気づきだろう。そちらからではわからないと思うが、これは、ここにいる二人のどちらも継続的に関与しているわけではなく、まったく自動的に行なわれているのである。この目標機を追うことに決めた時、わたしはBIACに対して、すでに知っている手続きルーチンを使って、自動的に追尾せよという命令を発した。いまこの瞬間には、わたしも、ここにいる同僚のオーブリー・フィリップスも、機械とはまったく何の相互作用も意志疎通もしていない。だが、このとおり目標は追尾され、忠実にディスプレイされている」
クリフォードの解説には熱がこもりはじめ、口調はやや興奮を帯びてきた。「それどころか、このシステムは、何千という個別の独立した物体を、有効範囲以内ならどこにある物体でも、同時に自動的に追う能力を持っている。それだけでなく、その物体のどれかが、コース上の何かあらかじめ定められた地点に到達したら、わたしに知らせるように、機械に指示することもできる――たとえば、いま見ている飛行機は、フランス海岸に向かって飛んでいる。もしそれが海岸から一六〇キロ以内に入ったら、その時は知らせるようにという指示もできる。その時がくるまでは、機械が必要な作業を全部やり、わたしはそのことを何も考える必要はない。同様に、全面的な監視ルーチンを命令し、いまスクリーンに映っているようなわたしが前もって指示した特定の物体だけでなく、フランスの空域に入るすべての飛行機その他の物体を通告させるようにもできる。どちらの場合にせよ、ただ通告するだけでなく、目標を自動的に消滅させるようなプログラミングもできる。このシステムが追尾し識別することが可能な、他のすべての目標についても同じである。
「以上のことから、この機械の監視および照準能力は、一人の人間の頭脳が同時にたどれる事象の数などにはまったく限定されないことが、おわかりだろう。機械は、わたしが与える一般的な基準に基づいて、大部分の判断を自分で下すことができる。いうなれば、この機械の性能は、一連隊分の幕僚の働きに匹敵する」
続いてクリフォードは、場所とか地球各地での出来事とかの映像を次々に映しだし、その中にはいま説明した自動処理能力の実例もいくつか含まれていた。実演の最後は、二つのアメリカの宇宙船が軌道上で予定されたドッキング操作をしているところをキャッチすることだった。これが主表示スクリーンに映されている間に、隣のスクリーンには、宇宙船の一方に搭載されたテレビカメラが撮影し通常回線で送信した同じ作業の通常の映像が映しだされていた。その違いは、通常の映像を得るには、カメラが上の事件の現場になければならないのに対して、Jスコープ≠ノはその必要がないことだった。
ここで、説明役は再びモレリにまわってきた。
「この兵器の誘導能力については、このくらいにしておきましょう。さて、兵器自身の性能はいったいどうであるかを、見ることにします。
「高次放射は二次効果をひきおこします――これは通常の放射エネルギーとして、ありとあらゆる物体のまわりに、暈《かさ》になって存在します。多くの物体では、この二次放射は極めて小さいため、とても測定にはかからず、数学的な抽象概念として存在するだけですが……存在することは事実です」長いこと話に聞いてきた兵器の実演を見る瞬間が刻々と近づくにつれて、みんなの顔は緊張し、期待に満ちていた。
モレリは続けた。「J反応炉の中では、通常物体の中でおこることが、途方もなく増幅されることになります。この過程で二次エネルギーが発生して暈《かさ》を生じ、その強度は反応炉の近傍で最大になりますが、外のほうへも拡がり……しだいに弱まりながら……全空間に及びます。ここで忘れてならない重要なことは……」彼は、印象を強めるために、ちょっと一息いれた。「二次エネルギーは、反応炉の周囲で最も密度が高いとはいえ、その量は[#「その量は」に傍点]全体のごく一部にすぎないということです――」
「そこがよくわからんのですよ、教授」聞き手の一人が口をはさんだ。「そこを説明してもらえませんかな」
「熱の場合を考えてください」とモレリ。「赤熱した針は高温ではありますが、たいした量の熱は含んでいません。発電所のボイラーの中の水は、それほど熱くはありませんが、遙かに大量の[#「大量の」に傍点]熱を含んでいます。これと同じに考えると、反応炉近辺のエネルギーは強度が大きい……高温≠ナすが、何十億立方光年という空間に分布する低温≠フエネルギーをすべて合計すれば、その量[#「その量」に傍点]は遙《はる》かに大きいわけです。あるいは、温度≠フことは忘れましょう。反応炉が生みだす大部分の――文字どおり大部分の――エネルギーは、空間に希薄に拡がっています……それをすっかり加えあわせるわけです。これでわかりますか」
「ありがとう、わかりました」
「よろしい」モレリは深く息を吸いこんだ。「いま説明した状況は、集中システムを作動させずに反応炉を運転させたときに当てはまります。集中システムが加わると、これだけのエネルギーを空間全体に拡がらせずに、特定の小さな個所に集中させることができます。そのイメージを描くには、反応炉内で消滅した質量が等価のエネルギーに転換し、即時に別の場所に出現すると考えればいいでしょう。結果は、水爆がどこからともなく忽然《こつぜん》と出現するのと、同じことになります。大きな違いは、質量転換の比率が水爆の場合より遙かに高くなるので、桁違いに大きな破壊力が実現できることです……もっとも、その必要はあまりないのですが」
モレリは振り向いて、何かを予期するように主表示スクリーンを見上げた。数十対の眼がそれを追って、緊張し……待った。
今度は、スクリーンは、通常のテレビ送信を映しだしていた。荒涼とした北極圏の雪原、わびしい岩の海岸線、入江、浮氷塊を高々度から見下ろした空からの眺めで、中景には起伏のある鋸歯のような山脈が見えていた。誰かの声が、拡声器から聞こえてきた。
「フォックストロット・ファイブからブルーバード・コントロールへ。高度十五キロ、予定針路上、目標距離三十五キロ、方位百六十度。全システム異常なし」
別の声が答えた。
「ブルーバード・コントロール。定刻ぴったりだ、フォックストロット・ファイブ。針路をそのままとって、ベーカー・ツー計画に従って行動せよ――繰り返す、ベーカー・ツーだ。レッドソックスからの報告では、いま放送本番中だ。受信状態良好。秒読みは予定通り。確認せよ」
「フォックストロット・ファイブ、確認する。了解――ベーカー・ツー」
「いま見えているのは、カナダ極北のサマーセット島に陸軍試射場として指定されている地域だ」とクリフォードの声が告げた。「映像は、目標地域から離れて飛んでいる空軍のRB6から送られている。目標は、いま画面中央にある山群の中央に近い高いピークだ。目標ピークの真上ちょっと右手に、空を背景に小さな赤い斑点がかろうじて見えると思う。あれが目標識別のための標識用大気球だ。
「こちらでは、反応炉のビーム加圧装置を作動させてある。いま、ビームをJ反応炉に入れるところだ……」数秒間の中断があった。「諸君のいる場所の少し下では、いまビームの発射が始まり、宇宙全域にわたってエネルギーを送りだしている。目標の空間座標は、射撃統制コンピューターの中で働いているプログラムに、すでに組みこんである。今からすべきことは、集中用変調器を作動させて、帰還エネルギーをどれか特定の地点に向けるだけだ。わたしがそうしたとたん、射撃統制プログラムが後を引き継いで、集中されたエネルギーを与えられた座標に向ける」
彼はしばらく間をおき、緊張感を高まらせた。「いま、十秒後に集中システムが自動的に自己始動して、射撃統制プログラムに従属するように仕組んでいるところだ……開始!」数字の表示が、目標の映像に重なって現われ、秒を読みはじめた。
九[#「九」に傍点]……八[#「八」に傍点]……七[#「七」に傍点]……。
「これから後は、わたしは何もしていないことに、注意されたい。作業はすべて自動的に行なわれる」
三[#「三」に傍点]……二[#「二」に傍点]……一[#「一」に傍点]……。
部屋中が、いっせいに息をのんだ。山脈の中央部がまるごと、目も眩むばかりの閃光とともに瞬時に消滅したのである。閃光のあった個所に出現した擾乱《じょうらん》の中から、火の玉がゆっくりと膨れあがる例の不吉な姿が、空に立ち昇っていった。捩《ねじ》れ渦巻く火と蒸気の柱が雲を突き抜けて空高く聳《そび》え、湧きかえる天蓋《てんがい》のように拡がって、周囲の地形をかき消しはじめた。
「おい、あれは何だ」と、フォックストロット・ファイブの声が叫んだ。
「知るもんか」と、回線の別の声が答えた。「地上爆発にちがいない。レーダーには何も映らなかったからな」
「無駄口をたたくな、フォックストロット・ファイブ。まだ生きているじゃないか」
「了解」
それからの三十分間、クリフォードは、地球の高い軌道を十年以上もまわっていたシャトルの補助推進ロケットの燃え殻を含めて、他の一連の用意された目標に対して実演を行なった。どの場合も、結末は最初の時と同じく劇的なものだった。シャトルの補助推進ロケットに対する実演では、ジェリコの破壊力が、熱核爆発から生ずる最低のものより遙かに低いレベルにも抑えうることが示された。それは、TNT百トン以下に相当するエネルギーで蒸発したのである。
フィナーレとして、クリフォードは、別々のスクリーンに五つの異なった目標の映像を出したが、その位置は北極の何百キロにもわたる氷原の上に散在していた。次に彼は、あらかじめの手筈どおりに、軌道核兵器に模した軌道上の宇宙船から北米大陸の各所に向けて、十個の模擬弾頭が発射されると知らせた。模擬攻撃が開始されると、弾頭の弾道は、正規の追尾網に接続された別のスクリーンに映しだされた。
「射撃統制コンピューターには、地上の目標の座標が与えられてある」と彼はいった。「同時に、いま監視システムによって自動的に追尾されている接近中のミサイルについても、時々刻々の位置を絶えず知らせてある。わたしがいまやろうとしていることは、集中システムを始動させ、射撃統制ルーチンが各々の目標に対して順次照準をつけるようにセットすることだ。各目標に対しては、一きっかり百万分の一秒ずつ発射することになる。集中システムは十秒後に始動する……開始!」
秒読みは、今ではもうすっかり見慣れた方式で刻まれていった。
ゼロ[#「ゼロ」に傍点]が映った瞬間、五つの目標は一度に爆発した。それと同時に、攻撃してくるミサイル集団の軌跡もいっせいに消えた。あっけない幕切れだった。
茫然とした沈黙が部屋に流れた。蒼白な顔は、このことの真意がやっとのみこめはじめたことを物語っていた。五つの不吉なキノコ雲がまだスクリーン上に拡がっている時、今も平静で感情を欠くクリフォードの声が、再び響いた。
「いま見たばかりのことを総括させてもらおう。最後の実演では、J反応炉は低出力でしか稼動しておらず、目標ごとの照射時間は一マイクロ秒だった。中程度の出力で、もっと長く照射すれば、大都市を消すこともまったく可能だ。簡単な計算でわかることだが、射撃統制プログラムに適切な座標を与えれば、システムを酷使することなしに、選んだ百ヵ所の敵の都市を、僅か百分の一秒ちょっとで完全に潰滅させることができる」
スクリーンが一つ一つ消され、機械が停止させられている間、一言の言葉も発せられなかった。
クリフォードが制御室から現われ、高い回廊から、沈黙のまま上に向いた顔を見下ろした。彼の頬は一年以上にもわたる絶え間ない仕事の緊張にこけ、眼は睡眠不足で黒く隈取られていた。
「諸君は、わたしの知識と才能を、戦争を終わらせるために活用することを要求した」と彼はいった。「これがそれだ」
それ以外は何もいわなかった。何もいう必要はなかったのである。
22
東側同盟は、十二ヵ月近くにわたる挑発のエスカレートによって西側の意向を探ったあげく、インドでの彼らの画策を妨害しようとする真剣な努力はされないものと確信した。当初はいわゆる人民の蜂起を擁護するという口実のもとに国境で戦っていたアフラブと中国の兵力は、侵略する正規軍という役割をしだいにとりはじめた。インド国内の対立する市民の党派は、内輪もめを忘れて団結し、共通の脅威に立ち向かおうとしたが、その頃には国内の凝集力は急速に低下していた。
アフラブ軍は、北西の平原を完全に占領し、ボンベイから三百キロにすぎないカチャワル半島を占領すべく、南方に進出した。東部では、中国軍はマハナジ州の三角洲に到達し、ラックナウとカンプルを攻略すべく、ガンジス川流域を進撃した。こうして、デリーは、連絡の主動脈を二つとも断たれたまま、しだいに閉じてくる挟撃作戦の二つの顎の間に、危険な状態で取り残され、潜在的な救援力が亜大陸の南半部に圧迫されるにつれて、ますます孤立していった。
この頃には、西側が配備した軍事衛星は、それぞれ少なくとも二個の敵側の衛星にマークされていた。東側ブロックの戦略的計算では、均衡が破れることによって西側は全面的な衝突を考慮することさえできなくなるはずであり、インドでの事態はそれを裏書きしているように思えた。
ウラジオストック政府は、シベリアとロシアの再統一への行動にのりだすことを宣言し、モスクワ体制を代表者として否認した。ヨーロッパロシア軍とシベリア軍とがウラル山脈の西側で新たな激しさをもって衝突した時、ヨーロッパには敗北的な気分が漂った。アフラブ軍は、イラクから、北方のコーカシアを攻撃した。アメリカ軍とヨーロッパ軍は、東部トルコから反撃した。
世界は緊張した。
合衆国大統領であり、西側自由主義同盟の受託者でもあるアレクサンダー・ジョージ・シャーマンは、大統領書斎と隣合わせの居間で、満足げにウィスキーを味わい、暖炉に面した肘掛け椅子の豪華な皮の背もたれに頭を埋めた。向かいに坐っている来客をグラス越しに眺める眼は、アトラスのような重荷の影を宿していた。それでも、その眼の表情は穏やかで落ち着いており、成熟と一千年の英知からくる思いやりに和らげられていた。
「われわれに向けられた挑発によって、J爆弾を無制限に使用することは明快に正当づけられるかもしれぬ」と彼はいった。「仮にわたしが命令を出せば、敵を一時間以内に完壁かつ徹底的に粉砕できることは確信している。しかし、現下の緊張ばかりではなくて、明日になって世界が平静に振り返ってみる時のことをも考えねばならないのだ」
ブラッドリー・クリフォードは、自分の飲物を味わいながら、一言も発せずに相手を見つめていた。
「われわれを衝動的に行動させようとする感情は、今はそれがいかに強いものに思えようとも、すぐに忘れられてしまうだろう」とシャーマンは続けた。「歴史は、状況がどうであれ、この種の兵器を無差別に使用することを、決して許さないだろう。西側が、これまで支援すると主張してきたすべてのものの擁護者として生き残るためには、戦時といえども所信を守らねばならない。このような手段によって市民の大量無差別虐殺をひきおこしたり、防御の手段のない方法によって気違いじみた大量破壊を行なうことは、許せないし、許してはならない」
「しかし、手詰まり状態は打開せねばならない」とクリフォードが、やっと答えた。「不均衡をもたらすことなしには、手詰まり状態が永遠に続くだろう」
「そう、わたしも同感だ。この際、東側に、いかなる意味にせよ、対等の資格を認めることは、愚かなことだろう。きみの兵器のおかげで、われわれは思うがままの条件を命令することができるのだ。わたしの本意は、事態は極めて明白であるからして、それを証明するために、全世界に大破壊をひきおこす必要はあるまいということだ。このことで同盟国と協議したが、彼らも同意見だった。ヨーロッパ、オーストラリア、日本は同じ意見だ。ロシア人は、徹底的に爆弾を使うという意見だが、少数で否決された」
「もちろん、承知している」とクリフォード。「しかし、それに代わるべきものとして、何を考えておられるのか――何か名目だけの実物教育でも」
シャーマンは、明らかにそういう提案を予期していたらしく、ゆっくりとくびを振った。「うむ……違う。その可能性も検討したが、それでも危険すぎるという結論に達したのだ。いいかね、クリフォード博士、われわれが相手にしている者たちは、何というか、予測不能なのだよ、東側世界の多くは、西側世界が経験したような順応の期間を経ずに、石器時代からいきなり二一世紀に突入した――ところが、西側の場合でさえ、この過渡期は、容易なものではなかった。彼らの指導者の多くは、今なお政治家というよりは部族民として思考し、反応している。国連が崩壊したのはそのためであり、過去二十年以上にわたって、いかなる形の合理的な交渉も不可能だったのもそのためだ。
「だが、いまこの人々は、今日知られている最も高性能の兵器体系の莫大な集積をかかえている――もちろん、この最新のものは別としてだが。この爆弾が秘めている意味を完全に理解するには、わがほうの専門家にとってさえ、長い時間が必要だった。実物教育を考える際の問題は、敵方がまず行動し、後で考えるかもしれないということだ。彼らは、これをはったりと見て、手札を見せろと要求するかもしれぬ。もしそうなれば、彼らを得心させる前に、わがほうは多数の死傷者を出す結果にもなりかねないし、そのことこそ、わたしがここでこうして、できるものなら防ぎたいと思っていることなのだ。J爆弾が、彼らの企てる何事をも無効にするように思えることは否定しないが、まだそれを現実に証明したわけではない。そのことにもっと確信が持てるまでは、よりいっそうの保証として、彼らの意表をつくという要素を保ちつづけねばならない。早まってこの有利さを台なしにするのは、愚かなことだろう」
クリフォードは、また自分の飲物を味わいながら、ゆっくりうなずいた。こうした発言は、それほど意外なものではなかった。次に何をいうかもわかっているつもりだったが、口を出さないことに決めた。
大統領は身をのりだして、肘を椅子の肘掛けにのせた。「わたしが訊ねたいのは、J爆弾を選択的ではあるが全面的な奇襲攻撃に使用する可能性があるかということだ。相手方の攻撃能力、とくにわれわれの領土に対して報復を加える手段を、ただ一度の電撃的な攻撃で壊滅させたい。何よりもまず彼らの軌道核兵器システム、大陸間弾道弾陣地、ミサイル潜水艦を、相手がわけがわからずにいるうちに、いきなり全滅させることが仮にできれば、彼らがいかに無分別に行動したとしても、まったく問題にならなくなるだろう。何か思いきったことがやれる立場ではなくなるからだ。
「その後で、彼らに分別がつけば、すべては終わりになり、攻撃を受けたのは純粋に軍事的な目標だけだったことになるだろう。もし、これでも彼らが信じようとしなければ、われわれに対して攻撃的行動をとっているすべての地上兵力を、彼らが納得するまで攻撃しつづけるだけだ。この場合も、目標は軍事的なものに限定する。市民の大量|殺戮《さつりく》は行なわれないし、われわれの住民や都市には何の危険もないから、時間はいくらでもかけることができるわけだ」彼は深く坐りなおして、返事を待った。
「それには何の問題もない」というのが、クリフォードの答のすべてだった。彼の口ぶりでは、世界の半分の軍事力を破壊することが、害虫駆除か何かのように簡単に聞こえた。
「簡単だというのかね?」シャーマンは、自分の年齢の半ばにも満たないこの青年を、現代戦の兵器製造者が提供する一切の悪魔の道具で武装した数十億の狂信者に独力で立ち向かう大役を事もなげに引き受けたこの青年を、感動と驚嘆の入り混じった不思議な心境で見つめながら、微かな笑みを禁じえなかった。
「大言壮語をするつもりはない」クリフォードは、まじめな態度でいった。「あの機械の性能は心得ているし、いま要求されたことは、その能力の範囲内に十分に入るということだ。今までわたしの約束したことで、そのとおりにならなかったことがあったか」
「いや、なかったし、これからもないと思っているよ。きみは、初めからできないとわかっていることを約束するような人間じゃない。では――それが可能だという前提で、先へ進んでいいのだね」
「結構」
シャーマンは、科学者の口調に妙な抑揚があるのを感じた。
「いま述べたような線に沿った戦略計画の実行に協力するというのだね」彼は念を押そうとしていった。
「そうはいっていない」と、クリフォードは穏やかに答えた。「それが可能だという前提で事を運んでくれて結構だといったのだ」
シャーマンは、急に怪訝《けげん》な顔つきになって相手を眺め、しばらく胸の内で、いま交わしたばかりの会話をおさらいしてみた。率然として、微かな疑念が湧いてきたのである。
「お互いに誤解のないようにしておきたいな、クリフォード博士。はっきりいって、何を保証してくれているのかね」
「前からお約束しているとおりのこと――この世界を破滅に陥れている力の手詰まり状態に終止符を打つことだ」
「して、きみは、はっきりいってそれをどうやって達成できると思っているのかね」
クリフォードがまばたきもせずに見つめ返している間、長い時間がたったように思えた。「これ以上に率直にはなれないほどだと、申しあげておく」囁きに近い声は、毅然たる態度に力を添えているかに思えた。
二人は互いに見つめあい、一瞬、百万言を費やしても表現できないような、いわく言いがたい了解が、両者の間に通じた。シャーマンは、相手の澄みきった凝視を受けとめながら、その背後にある非凡な頭脳が明かそうとしない目的を、直感的に推測しようとした。誰もが予想さえしなかった時間と空間の不思議な領域の法則を理解し征服した頭脳を相手にして、これを問いただしたり命令したりする権利を自分に与えたのは、運命の悪戯にすぎないのだということを、痛いほどに意識していた。その頭脳の深遠な働きを誤りなく判定することなど、自分にできるだろうか? 彼の本能は、職務が要求する客観性と慎重さとを相手にして、長いこと格闘していた。
「これをまったく使用しないという決定をすることもできる」と、やがて彼はいった。
「それでは、あなたは、一年前の賭から何の収穫も得ないことになる」
また長い沈黙が続いた。暖炉のマントルの上の時計の音、エアコンの低い音が、はっきり聞きとれるほどだった。低空を飛ぶ乗物の爆音が、窓の外の暗闇から聞こえてきた。
「仮定的な質問をさせてもらおう」と大統領がいった。「仮にJ爆弾を好きなように使用することをまかされ、必要と思う何らかの手段で自分が明示した目的を達成しようとする場合に、きみの考える状況の中には、わが国や同盟国の市民の生命が不必要に失われるとか、他の手段なら避けられる死傷者を生ずるとかいったことが含まれているのかね」
「いや」
「敵対的な交戦国の住民に対する何らかの無差別使用が伴うのかね」
「いや」
シャーマンは、大きく息を吸いこむと、グラスを小さなサイドテーブルに置いた。
「わたしがこれからいうことを選挙民が聞いたとしたら、一議に及ばずわたしをこの職務からたたきだすだろうな」と彼はいった。「いまほのめかされたことの説明を求めようとは思わない。それを聞いたことさえ忘れるつもりだ」
クリフォードは無表情のまま、何もいわなかった。大統領は、しばらく考えてから、先を続けた。
「今晩かなり早く、北部インドにいる中国軍とアフラブ軍が、ある特定の重要地域に、限定された規模で核兵器を使いはじめたという報告が入った。インド軍も同種の報復を行なっている。放置しておけば、これが拡大しエスカレートすることは間違いない。
「わたしと同盟国首脳との間では、三時間たらず前に、侵略軍にすべての戦線で敵対行動を中止し、直ちに承認された国境線に撤退することを要求する共同最後通告を発することが合意された。この最後通告が拒否されることはまず間違いないから、その場合にはただちに先ほど述べたような制限付戦略の第一段階――彼らの核報復手段をJ爆弾で同時に攻撃すること――を発動するつもりでいる。
「さて、先ほどの仮定的な状況に戻るとして、仮にきみが想定するような形でこの兵器の使用をまかされるとして、わたしが考えを変えねばならない理由が何かあるかね。同盟国政府に、予定された最後通告にわたしが署名したことの確認を伝えてはならない理由が何かあるかね」
「まったくない」とクリフォードが答えた。「それどころか、そういう状況であるなら、あなたがそうすることが重要だ」
23
[#ここから3字下げ][#ここから太字]
革新人民共和国大同盟の
代表者たちに対する最後通告
[#ここまで太字][#ここで字下げ終わり]
この通告の対象たる国際的共同体は、多年にわたり企てられてきた国内的破壊活動および公然たる侵犯の一連の行為を通じて、政治、軍事、経済のいかなる面においても当該共同体の目的の支持、ないしはそれの奉ずるイデオロギー的な信条を容認する意志を有せざることを表明した諸国家の内政に、再三にわたる厚顔な干渉を行なった。これらの行為は、当該共同体の公然たる目標、すなわち各国の自由に選出された代表と政府の意志あるいは政策を顧慮することなしに、世界の人民、民族、国家のすべてに支配的地位を確立することを目的として行なわれたものである。
共同体国家との間に理性的な対話を確立し、すべての国家の平和的共存を達成すべく行なわれた、自由国家政府による再三の努力は、敵意と増大する挑発とによって迎えられた。インドおよびロシアの領土に加えられつつある武力侵犯は、この挑発が自由世界にとって容認しがたい程度にまで拡大したことを示す証左である。
よって、われわれ、西側自由主義諸国同盟の署名国政府に任命された代表は、次の要求を通告するものである。
[#ここから1字下げ]
1 この通告の対象たる同盟に加わる全国家の軍隊は、すべての戦線における軍事的行動を即時停止すること。
2 右の1に述べた軍隊は、すべての人員、兵器、軍用品と資材を、国際的に承認された適切な国境に、完全に撤収すること。
3 香港、台湾、南朝鮮に非合法に擁立された政権は解体され、国際的に管理される自由な選挙によって、新政府が樹立されること。
4 東側および西側諸国の同盟の双方の代表からなる国際機関を召集し、すべての戦略兵器体系の開発および配備を制限し、最終的には完全廃棄する道を追求すること。
[#ここで字下げ終わり]
われわれはまた、この要求に対する公式受諾が、二〇〇七年十一月二十七日、ワシントン地方時の正午十二時までに得られない場合には、革新人民共和国大同盟に含まれるすべての国家と、西側自由主義諸国同盟協定の署名国との間には、戦争状態が存在するものと見なすことを、ここに通告するものである。
[#ここから3字下げ]
アメリカ合衆国大統領
アレクサンダー・ジョージ・シャーマン
ヨーロッパ合衆国大統領
ヴォルフガング・クレッセンハウエル
カナダ共和国大統領
マクスウェル・ジェームズ・ドミニック
ユーロロシア共和国大統領
ユーリ・ヨシフ・サシュカホフ
オーストラリア・ニュージーランド連邦首相
マーティン・クレイグ=ウィルスン
マレーシア・インドネシア連邦大統領
シミル・クン・ヨー・サン
日本国首相
ヤシロ・ミツオ
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから地付き]
二〇〇七年十一月二十五日正午十二時ワシントンにて手交
[#ここで地付き終わり]
オーブは、傍らのコンソールの上に置いてある最後通告の写しを、もう一度、見つめた。二日を経た今になっても、その眼にはまだ茫然として信じられない表情が漂い、何か神秘的な力が、その言葉に秘められた怖るべき内容を奇蹟的に変えてくれないものかとでも思っているように、何度もその文書に戻っていくのだった。今やすべての望みも潰《つい》え、胸の奥に横たわる重苦しい気分に圧倒されていた。いろいろなことがあったが、結局は、やはりこういうことになったのだ。
これまでずっと、そんなことはないと固く信じていたことが、おころうとしているのだ。裏切られ、混乱し、苦い気分だった。
少し離れた場所では、制御室のもう一つのオペレーター席に坐ったクリフォードが、BIACを通じて射撃統制プログラムを更新することに熱中していた。二人の足下、ブラナーモントの底深くでは、オーブの憎悪の対象となった怖るべき機械が始動態勢に入り、発電機が低い音を立て、ビームが入って、出力をいっぱいに上げ、その破壊力が解き放たれるのを待っていた。最後通告の期限が切れるまでには、あと数分しか残っていなかった。
過去四十八時間にわたって、オーブとクリフォードは交代で、通告の期限が終わらないうちに奇襲攻撃をされる可能性に備えて、絶えず警戒を続けていた。しかし、地球上での活動のパターンには、何の変化もおこらなかった。最後通告への応答は皆無だった。前線からの報告では、戦闘は衰えることなく続いていた。
オーブはクリフォードに合図し、行動が開始される前に制御室の外へ出て最後の一休みをする間、しばらく一人だけで番をしていてほしいという意志を伝えた。クリフォードがうなずいて承知すると、オーブは頭蓋着装具を外し、ほっとして凝った手足を伸ばして、コンソールから立ちあがると、通路の回廊へ出ていき、立ち止まって手摺りに寄りかかり、作戦指令室を見下ろした。
目の前の光景は、平静な雰囲気、統制のとれた能率、円滑な組織を見せて、宇宙計画の管制センターかと思えるようなものだった……圧倒的な数の軍服がいなければのことだったが。通信の部署には、すべて要員がついていた。表示スクリーンには、スイッチが入れられていた。当直のオペレーターはすべて割り当てられた部署で繰り返し訓練された任務を果たす一方、一群の高級将校が部屋の各所で進行の監督に当たっていた。一方の側には、常時スイッチを入れっぱなしにしたコンソールの前で、側近者たちに半円状に囲まれた中心にシャーマン大統領、ドナルド・レイズ副大統領、フォーショー国防長官が立って、最後通告への応答が最後の瞬間に行なわれることに備えていた。その光景は、死刑囚の刑を執行する前に、最後の土壇場での執行猶予を待って待機する昔の刑務所所長のことを、オーブに不気味に連想させた。人類に下された死刑宣告には、執行猶予があろうとは思えなかった。
もっと早くからこの仕事から手を引くと宣言しなかったのはなぜだろうと、彼はまた自問した。
どうして辞職しなかったのか。かつて友と呼んだ男を心の奥底で信じつづけて、手遅れになっただけのことだろうか。それとも、今では単なる動物的な生存本能にすぎないのだろうか。下の犠牲の祭壇で儀式を執《と》り行なっている祭司たちのように、自分たちの仕える新しい神の力だけが、来るべき神の怒りから自分たちを守ってくれるという、意識下の知識に盲従しているだけなのだろうか。それにしても、運命がまだ明らかにしないページに何が書かれてあるにせよ、もう逆戻りはできないのだ。この段階で逃げだすことは、災厄を大きくすることにしか役立たないだろう。
彼は指令室の向こう側の壁の上にとりつけてある時計を見つめ、その右端の窓に秒が容赦なく流れていくのを見た。抑制しがたい氷の指が背筋を撫で、吐き気がこみあげてきた。もう三分もない。部署につく時間だった。彼は振り向くと制御室に入っていった。
クリフォードは、オーブが入ってくるのを待つかのように、入口のほうを見ていた。オーブはのろのろと坐りこみ、BIACの装着具をつけはじめた。
「オーブ」クリフォードの声は囁きに近いものだったが、それでも緊迫した異様な響きがこもっていた。オーブは顔をあげ、真剣な表情に気づいた。クリフォードは彼のほうに身をのりだしながらも、同時に腕を伸ばして自分のパネルのキーを押さえ、制御室と下の指令室との間の音声および視覚の接触を遮断していた。
「オーブ、きみが考えているのとは違うんだ」と、クリフォードは早口で囁いた。「いま説明している暇はない。だが、きみやサラの行動が始めから終わりまで完全に自然であることが重要だったんだ。ここでは、誰にも絶えず監視の眼が光っていた。誰かが自分の役割を忠実に果たさないという危険を冒すわけにはいかなかったんだよ」
オーブは当惑して、くびを振りかけたが、その時クリフォードは時計に眼をやり、手で黙るように合図した。
「行動が始まった時、何もいわずに、いわれたとおりやってほしいんだ。きみがどう感じているかは知っている。だが、心配しなくてもいい。信じてくれ」
オーブは、夢を見ているような心地で、眼を茫然と見開き、口をぽかんと開けたまま黙ってうなずいた。何か筋の通った口がきけるようになる間も与えずに、クリフォードの頭の上の補助スクリーンがついた。
「やあ、制御室。一次回線が不通になった。故障を点検する間、予備回線に切りかえてくれ」下にいるオペレーターの一人の顔が、表示スクリーンからいった。クリフォードは、押さえていたキーを離した。
「すまん、わたしの不注意だ」と彼はいった。「スイッチに触ってしまったらしい。これでどうだ」
オペレーターの顔は、ちょっとスクリーンの横を見た。
「いいぞ。予備回路解除」今は二人してのぞいていた顔の一つがひっこんだ。もう一人は、まだしばらく二人を見つめていたが、それからどうやら納得したらしく、横を向いて別の仕事を始めた。
オーブは、質問を思いつきかけたが、その時、別の声が制御室の入口の上にあるスピーカーから入ってきた。「攻撃開始時刻まで、あと三十秒。最後通告には、未だに応答なし」
それから後は、質問を考える時間はなくなっていた。
「兵器の発射システムの状態を報告せよ」下の管理デッキからの作戦総合調整官の声が命じた。
「射撃統制シーケンス、攻撃第一段階の始動完了」とクリフォード。「命令を待つ」
「了解。待機せよ」
「待機する」
連合軍統合司令部最高司令官のカーローム将軍が、まだ開放回路コンソールの傍に立っている大統領に近づいた。
「現在の永続命令の確認を要請します」と彼はいった。シャーマンは、うなずいた。
「変更なし」
カーロームは、後ろに控えていた副官のほうに向いた。
「全部隊への命令を確認。全戦略部隊は、武装警戒状態を維持せよ。攻撃を受けた場合には必要に応じて防御するが、それ以外には攻撃的敵対行動に入るな」副官は復唱してから、コンソールのオペレーターのところへ歩いていき、西側の陸海空軍の全地球指揮系統に命令を伝えた。
十秒。
通信装置のまわりの緊張した厳しい顔は、いっせいに大統領を見つめていた。彼の眼はオペレーターの頭上に見えるスクリーンに釘づけとなり、舌は無意識のうちに乾いた唇をしきりになめていた。何もおこらなかった。
ゼロ秒。依然として何もおこらなかった。
「最後通告の期限終了」カーロームが公式に報告した。「第一段階開始の許可を要請します」シャーマンは、深く長い息を吸いこむと、空白のスクリーンからやっと振り向いた。四囲はまったくの静寂に包まれていた。
「開始したまえ、将軍」と彼は指示した。
カーロームは命令を副官に伝え、副官はそれを作戦総合調整官に伝えた。総合調整官は、制御室に通じる回線を作動させた。
「作戦開始が承認された。攻撃第一段階を実行せよ」
「開始する」とクリフォードが答えた。「攻撃第一段階を実行」それに続いたものは、現実にはあっけないものだった。一、二秒して、クリフォードの声が、平静な口調で報告した。
「第一段階完了」
それ以上のことは何もおこらなかった。全世界に散らばる無数の追尾点から入ってくる情報は、彼らを取り囲む表示スクリーン上に、状況を物語っていた。クリフォードが発言した二つの時刻の間に、敵側によって配備された軌道核兵器、対衛星レーザー衛星のすべてが消滅したのである。
西側諸国が直接攻撃にさらされるという当面の危険は完全に取り除かれた。しかし、それほどさし迫ってはいなくとも、潜水艦、地上、空中から発射されるミサイルという、やはり怖るべき危険が、まだ残されていた。次には、これを始末しなければならなかった。
緊張は、やや緩みはじめた。最悪の事態はなくなったのだ。勝利は確実だった。地球の向こう側のここと同じような場所で、いまこの瞬間におこっているであろう混乱と驚愕を思ってほくそえむ笑顔が、あちこちでこぼれはじめた。
「第二段階を開始させてよろしいですか」カーロームが大統領に訊ねた。「ミサイル潜水艦とミサイル発射基地ですが」
「開始したまえ」と、シャーマンが答えた。命令は作戦総合調整官に達し、彼はパネルのほうに向いた。彼は俄に眉をひそめ、怪訝な顔をした。目の前のボタンを何度も押しはじめた。彼のちょっと前に坐っていた助手が振り返り、呟きながら、自分のコンソールを差して当惑の身振りをした。
「どうした」と、レイズ副大統領の鋭い声がとんだ。
「よくわかりません」総合調整官は、途方にくれた表情だった。「制御室との連絡が途絶えました。一次回線は切れています。予備回線も切れました。補助システムも応答なしです」彼はパネルのマイクロホン格子に向かって呼びかけた。「制御室、制御室。連絡が完全に切れたが、聞こえるか。応答しろ」彼は他のスイッチをめちゃめちゃに動かして、もう一度試みた。応答はなかった。
「故障だろう」と誰かがいった。
「ありえない。三重の冗長回路なんだぞ。何だかおかしい」
低い唸り、続いて重い物体が固いものにぶつかる鈍い響きが、頭上から聞こえてきた。顔がいっせいに上を見上げた。回廊の向こう側の壁で重い鋼鉄扉が閉じ、制御室を閉鎖していた。四方から、憤然とした声があがった。
「いったい、どうしたんだ」
「誰か、頭がいかれたんだ」
「大変だ! 何もかも、めちゃめちゃだ」
その時、総合調整官からちょっと離れた監視ステーションにいたオペレーターの一人が、騒ぎたてた。
「発電室、加速器、J反応炉、変調器室、コンピューター室への連絡口が、全部閉鎖されたぞ。
システム全体が閉鎖され、局部制御は、制御室からの無効指令で働かなくなっている」
「いったい、何をいっているんだ」とレイズが詰問した。総合調整官は椅子にぐったりとなって、掌を上に向けた。
「システム全体が、上にいるあの二人に制御されているんですよ」彼は回廊のほうを差した。
「入っていくことはできませんし、彼らは何もいってきません。機械のどの部分にも近寄れません」
「じゃ……いったい……何ができるんだ」
「何も」
「機械の電源を切るとか何とかできんのか」
「何にもなりませんよ。何年でも稼動できる独自の発電所を持っているんですから。そこに入ることもできないんです」
レイズは向き直った。騒いでいる大統領の側近者たちの前に立ちはだかった。シャーマン自身は、この状況を、他の者より冷静に……不自然なほど冷静に……受けとめているようだった。彼の反応、というよりどうやら反応がないことで、副大統領の混乱は深まるばかりだった。
「さっぱり、わけがわからん」とレイズ。「アレックス、どうするつもりだ」
「いま聞いたろう」とシャーマンが答えた。「どうやら、どうすることもできないようだ。だから、どこかのご婦人がいったとおりにするしかあるまいよ――どうしても免れられないものなら、騒がずに楽しめ、とね」
幕僚たちと協議し、表示スクリーンに入ってくる報告を詳しく検討していたカーロームが、口をはさんだ。「失礼します。状況の最新評価を報告してよろしいですか。敵の人工衛星の全部が潰滅したわけではありません。戦略爆撃システムと軌道レーザーは排除されましたが、宇宙発射ミサイルによってわれわれ自身の人工衛星を迎撃する能力は、まだ手つかずに残っています。どうやら、この先、J攻撃に頼るわけにはいかないようですから、通常防衛力に独自行動の準備をするように、待機させることを提案します」
「よろしい」とシャーマンは同意した。「これから先は、通常作戦と見なそう。貴下に全軍の総指揮権を与える。自分の判断で行動しなさい」
カーロームは幕僚たちに一連の短い指示を発し、彼らはそれを西側防衛軍の司令官たちへの命令に読みかえるべく散っていった。数分後に、敵の生き残った衛星からミサイルの一斉射撃がおこった。シベリアから南アフリカにかけて、地上からの発射が探知されたが、それは大陸間弾道弾ではなくて、西側の無傷の衛星陣に対する攻撃に加わって上昇する迎撃ミサイルであることがわかった。攻撃の波が目標に近づくにつれて、それに対抗するために、軌道レーザーや防御用ミサイルが動員された。
次の十五分間に、消耗のパターンは明らかになった。敵のミサイルは目標に到達しなかった。
どんな計算やシミュレーションでも、スクリーンに示されるような撃墜率を西側の防御システムが達成することは、最も有利な仮定のもとでさえ不可能であることを示していた。何か他の要素が加わったのだ。その何かはJ兵器以外にありえなかったが、そうなると二人の科学者が中に閉じこもったことは、ますます不可解だった。
その時、新たな説明不可能な傾向が、報告から明らかになった。味方の軌道核兵器やレーザー衛星が、ひどい損害を受けたのである。敵のミサイルは目標に到達しなかったのに、目標は消滅させられたのだった。カーロームは、突如として真相に思いあたった。
「上にいるあの二人の気違いどもだ!」と、彼は真っ赤になって、怒鳴った。「やつらは、味方の[#「味方の」に傍点]人工衛星を片づけているんだ」
一時間後に状況は明らかになった。双方とも軌道核兵器システムを完全に失い、軌道から戦略攻撃を行なう手段は残されていなかった。しかし、東側は最初の急速な一撃で自分のシステムを失っていたから、均衡を回復しようとして、その時はまだ無傷だった西側の軌道核兵器に対し対衛星ミサイルを繰り出さざるをえなくなった。このため、西側は対ミサイル用ミサイルの多くを発射して、これに応ぜざるをえなかった。
この結果、攻撃の波に応戦していない東側には、対ミサイル用ミサイルが豊富に残っているのに対して、西側はそうでなかった……少なくとも防御態勢を再配備する余裕ができるまでは。この状況の意味が、そこにいる将校たちにも、徐々にのみこめてきた。カーロームは、心配げにシャーマンに説明した。
「防御態勢を再組織するまでは、われわれは全く無防備です。ミサイル防御システムは底をついてしまったので、潜水艦や大陸間弾道弾での古典的な攻撃を有効にくいとめる手段は、さしあたり何もありません。まずいことに、相手側はミサイル防御システムを発射する理由がなかったので、われわれの反撃が成功する可能性は、あまり大きくありません。連中もばかではありませんから、この状況は彼らも百も承知にちがいありません。仮にわたしが彼らの立場だったら、いま徹底的な攻撃をかけます」
やがて、彼の憂慮には十分な根拠のあることが立証された。指令室の全面にわたって報告が入りはじめたのである。
「ノバスコシア南方五百キロの海中から十六発のミサイル一斉発射。上昇して西へ転回中」
「東部太平洋の四ヵ所からミサイル発射。第一次コース表示は合衆国西部を指向」
「シベリア北部に大量発射の映像、極を経て北方に進行中。シベリア中部から西方のヨーロッパへ向けて発射」
「アルジェリアおよびチュニジアの海岸地域にミサイル上昇、北方地中海方面に進行中」
最大の壁面表示スクーリンに映しだされた巨大な世界地図の上に、赤い軌跡が点々と現われはじめた。見ている者たちの不安はしだいにつのり、恐慌状態に近かった。シャーマンがそれまで見せていた平静な態度にも、遂に限界がきた。彼は、地図の上に伸びはじめた赤の細い線を茫然と見つめ、その心は、いま自分に要求されているものを受けいれることを拒んでいた。線は不規則な円弧を描いて集合しはじめ、北米大陸に三方から、ヨーロッパに南と東から、またオーストラリアには北から迫りつつあった。円弧は、じれったいほどゆっくりだが、容赦なしに集中していた。
「第一次推算では、最初のミサイルは四・五分で着弾」と、誰かの声が知らせた。「発射地、大西洋西部。着弾地、ニューヨーク地域。スペインへの着弾は四・九分後と推定。イタリア、五分後。イギリス諸島、五・三分後。他のデータは着信中」
カーロームとフォーショーは期待するように大統領のほうを向いたが、シャーマンは、ただ凝然と突っ立ったまま、ぼんやりとした眼で、くびを弱々しく左右に振るだけだった。
「これは全面攻撃だ」と、しばらくしてカーロームがいった。「全面報復を命令すべきです……いま」シャーマンは、のろのろと椅子に腰をおろした。顔は、血の気を失っていた。額には汗が光っていた。
「今となって、何の益がある」彼は息が詰まりそうな声で囁いた。「何も変えることはできん。
まったくの無益な蛮行だ……何の目的もない……」
「やむをえません」とフォーショーが冷酷にいった。「それが代価です」
シャーマンは、両手で顔を覆った。黙ってくびを振り、身動きしなくなった。突然、レイズが前へ出て、断固とした口調で宣言した。
「大統領は一時的に能力を喪失し、職務が遂行できなくなったことを宣告する。したがって、わたしが大統領の権限を引き継ぎ、その決定に対しては、全責任を負うものである。カーローム将軍、ただちに全面的な報復攻撃に入るよう、命令したまえ」
カーロームは一瞬ためらったが、すぐ幕僚たちに向かってうなずいた。三十秒以内に、西側世界の戦略ミサイルが、根こそぎ、轟音とともに舞い上がった。頭上の地図では、一群の鮮緑色の点が、それまでの状況につけ加わった。違いといえば、今や目標の国々の国境に迫った長い赤の軌跡は、ほとんど抗抵を受けないだろうということだった。
「第一次着弾推定は、ニューヨークと確定。着弾時刻、三二秒後。他に確定された目標、ワシントン、ボルチモア、ボストン、フィラデルフィア、モントリオール、オッタワ。西海岸では、ロサンゼルスとサンフランシスコが確定。後続ミサイルの弾道は計算中。数個の弾頭に分離するものと推定」
「防御態勢は、どうかね」とレイズがカーロームに訊ねた。
「ありったけのものを発射しています。配備されたミサイルの大半は、局地の迎撃を目的としてプログラミングされていません。それは軌道防御システムが引き受けることになっていたからです」
「現状を報告しろ」とレイズが叫んだ。
「先ほどニューヨークに向かっていると報告された物体は囮《おとり》でした。迎撃ミサイルは斉射で使い切っています。地域防御司令官は、予備ミサイルでは迎撃に不足だと報告しています。着弾修正時刻、四三秒後」
「やられたか……」と誰かがいった。
「着弾は、南欧の目標に最初に予想される被爆時刻と一致」と報告は続いた。「別の囮のために、前の推算時刻は不確実」
「もう、そっちはいい」とレイズが怒鳴った。「ニューヨークを狙っているやつの状況をいえ」
「目標まで、あと二三秒……二〇秒……一五秒……消失[#「消失」に傍点]!」
「いったい……やっつけたというのか」レイズは、わけのわからない顔をした。
「違います。近くに防御ミサイルは、ありませんでした。まるで、ただ……消えてしまったようで」今やまったく途方にくれた口調の声が、また聞こえてきた。「ヨーロッパ南部への着弾予測は、目下の推算から削除。到来ミサイルの軌道消滅……ワシントン、ボルチモア、フィラデルフィアへの確定は取り消し……」声は、ますます、わけがわからないという口ぶりになっていった。
「先ほどの西海岸に対する確定も取り消し……」
地図上の各所では、伸びていた赤の線が、いくらかでも目標に近づくやいなや停止していた。
まるで北米海岸に沿って、見えない手がそれを消しているかのようだった。ヨーロッパ、オーストラリア、日本の近辺でも、同じようなことがおこっていた。攻撃の波は、ひとまとめに拭い去られていた。
「きみの防衛部隊がやっているんではないのか」と、レイズが、信じられない顔つきで訊ねた。
「彼らは、残りの全部を発射してしまいました」と、同じく茫然とした様子のカーロームが答えた。「西側全部を合わせても、使えるミサイルが一握り以上に残っていたとは、思えませんな」
「J爆弾でやられているんだ」と、突然、フォーショーが大声をあげた。「あの連中のやっていることがわからんか。共産軍のミサイルを、一度にそっくり誘いだしたんだ。そして、いまはそれをJ爆弾で消滅させている」
「全部のミサイルではない」とカーロームが注意した。「攻撃用ミサイルだけだ。対ミサイル用ミサイルはまだ使っていないことを忘れるな」
間もなく、赤い線の網の目は、すっかり動かなくなり、最後の弾頭が蒸発するまでに到達した限度を示していた。国境線を越え、西側同盟国の領土内に入ったものは、一つもなかった。今や緑の軌道だけが残って動いており、じりじりと仮借なく、目的地に向かって進んでいた。もう、同盟国やアメリカの哨戒潜水艦から発射された先頭のミサイルは、すぐ近くまで迫っていた。
この頃にはシャーマンも絶望から立ち直り、再び議事に加わっていた。「これで、今後長期にわたって、われわれの安全を脅かすものはなくなった」彼はカーロームのほうを向いた。「いま行なっている攻撃は、もう何の意味もない。停止させねばならん。ただちに遠隔操作により、全弾頭の機能停止を命じなさい」
カーロームは、一瞬びっくりした様子だったが、すぐに異議を述べはじめた。
「しかし、もう失うべきものは、何もないのです。こんな機会は二度と……」
「あの兵器は、もっぱら抑止力としてのみ計画され、建造された。もう、誰かの使用を抑止すべき必要はまったくないのだ。命令したまえ」
カーロームは命令した。世界中の多数の指令センターから送信が送られ、世界で最も高度の大破壊装置を、自由落下する多数の無害な金属塊に変えた。
緑の触手はなおも伸びて、東側世界を囲むとげだらけの帯となって凝縮していった。それは、少し前の状況が主客転倒して再現したものだった。赤い点が雲のように現われはじめ、敵地の海岸や国境を縁どった。
「ミサイル迎撃ミサイルが出てきた」他の者たちと同様に、今では緊張も緩んで単なる第三者的な傍観者になったカーロームがいった。「連中は、あの弾頭が機能停止されていることなど、知る由もないんだからな」
相手側の発射した迎撃ミサイルの弾幕が作るディスプレイは、まったくの壮観だった。ブラナーモントで楽しむ見物人たちは、椅子に反《そ》りかえって、世界の向こう側に渦巻いているにちがいない狼狽を想像していた。無数の個別軌道が一つに溶けあうにつれて、東側ブロック全体は、鮮やかな血のように赤い帯で囲まれた。動きうるすべてのものが、空に打ちあげられたらしかった。
その時、J爆弾が再び活動を開始したのである。
迎撃ミサイルの群れは、組織的に破壊され抹殺された。西側からの攻撃ミサイル群は、ある程度の近さにまで、近寄らされた――つまり、迎撃ミサイルの最後の一機にいたるまで誘いよせるための囮としてだった。それがすむと、こちらも全滅させられた。味方の攻撃力が破壊されるのを見ても、もう驚きや怒りの反応はおこらなかった。作戦指令室にいる見物人たちは、クリフォードやオーブが明らかにしつつある構想の傀儡《かいらい》にすぎない立場に、早くも甘んじていた。彼らは誰も、まるで物理的に紐で操られてでもいたかのように、割り当てられた役割を指示どおり間違いなく確実に演じてしまったのである。
カーロームは、最後に散在する迎撃ミサイルが片づけられ、緑の攻撃の線が最終的に停止するのを眺めていた。
「連中は、これをどう受けとっているだろうな」と彼はいった。「自分たちの迎撃ミサイルが一つも届いていないことは、知っているだろう。食いとめたのは、絶対に連中の力ではないんだからな」
そして、すべては終わった。四十年の歳月と世界の財政や産業や才能の最良の部分とを費やして計画・建造された戦争機械のすべてが、一時間足らずで地球上から抹殺されたのだった。両陣営とも、人間のいる目標には一つも有効な攻撃をかけられなかったし、わかっているかぎりでは、死傷者は一人もいなかった。
シャーマンは、立ったまま、今は動きのない表示スクリーンを、長いこと見つめていた。それは、この一時間の気も狂わんばかりの一瞬一瞬におこった出来事の記録を、忠実に保存していた。
彼の顔には驚嘆の表情が――あたかも彼だけが一切の出来事の深い意味を汲みとることができるかのような、畏れと崇敬の入り混じったものが、浮かんでいた。部屋全体は沈黙に包まれ、誰も可能とは思っていなかった執行猶予の安堵と甘美な味とを噛みしめていた。
突然、通信コンソールのオペレーターが、目の前のスクリーンに現われはじめた言葉に、身をのりだした。彼はそれをしばらく読んでいたが、それからカーロームのほうを見た。
「最後通告への回答です」と彼はいった。
カーロームは歩み寄ると、肩ごしにそれを見た。それから将軍は振り返った。「北京は、インドおよびロシアにおける即時停戦を命じた。同時に、われわれが突きつけた要求のすべてに、無条件で同意している」一瞬、公式の職務を忘れた彼は、皮肉たっぷりにつけ加えたのである。
「全くな――連中も肝がつぶれるほど怖ろしかったにちがいないぞ」
24
翌日の午後、ホワイトハウスで召集された会合は、いまだに茫然とした困惑の雰囲気に包まれていた。それに輪をかけたのは、大統領の非公式な会議室のテーブルを囲む人々が直面するただでさえ前例のない状況に、まったく新たな思いもよらぬ難問が加わったことだった。
ドナルド・レイズ副大統領は、椅子から身をのりだし、理解も信じることもできない様子で、ウィリアム・フォーショーを見つめた。
「すまんがね、ビル、よくのみこめないんだ」と彼はいった。「もう一度いってみてくれんかな」
「わたしがいったのは」と国防長官は答えた。「彼らが、全地球的な核戦争を行なう能力を、世界から完全に除去しただけではない、ということだ。少なくともこれから百年間は、いかなる種類の[#「いかなる種類の」に傍点]戦略的軍事行動も、全面的かつ完全に不可能にしてしまったんだ。彼らは、東西の政治的な力の均衡という構造そのものを粉砕してしまった」
「わたしも、そう聞いたように思った。ところで、それを説明してもらえんかな」
フォーショーは、過去二十四時間の大半にわたる酷使に皺のよった額を、うんざりしたように手でさすった。
「まいったな、これはちょっと専門的なことになるんだ。パット、もう一度やってくれんか」
コンピューター工学に関する大統領顧問官パトリック・クリアリーが、向こう端からうなずいて、咳払いをした。
「昨日、彼らがブラナーモントの制御室から出てくる前に最後にやったのは、監視BIAC……これがその他の全部を制御する主コンピューターなんだが……これに組みこんだプログラムの極めて複雑なシステムを始動させることだった。そもそも、こんなプログラムがシステムの中に存在することさえ、知っていたのはクリフォード博士だけだった。彼は、自分や仲間の者たちがサドベリーからブラナーモントに移動する前から、これを組み立てはじめていたんだ」
「あれが今もあそこで動いているというのか……あの代物が今でも生きていると」
「まったく、そのとおり。あれを停めることは誰にもできない……だが、その話は、ちょっと後にしよう。初めから話すのがいいだろう」
レイズは、クリアリーが話を続けるのを聞くべく、椅子に坐り直した。「彼らのやった最初のことは、J爆弾の有効距離を制限することだった。爆弾はまだ機能を保っているが、受けいれる目標の座標は、北米および同盟諸国の領土内と、海岸および国境から八〇キロ以内に限定されている」彼は混乱した表情の顔を一つ二つ見つけ、急いで説明した。「つまり、実質的には、純粋な防御的兵器としてしか使えないわけだ。世界の他の場所から、いかなる形の攻撃があっても――陸と海と空とを問わず、通常兵器だろうが核兵器だろうがだが――それは少しでも近づく前に、完璧に粉砕されてしまう。だが、その有効距離は相手側の本国にまでは拡張できないから、この兵器は攻撃用としての価値はまったくない。これを使って攻撃することはできないのだ」
「宇宙兵器は?」とカーローム将軍が訊ねた。
「J爆弾は、すべての友好諸国の領土の上空百六十キロまでの範囲には発射できる。だから、仮に東側が本気で労力や費用を注ぎこむつもりなら、新しい軌道核兵器システムをそっくり再建することもできる……もっとも、何かをわれわれに落とそうとしたとたんに、それは空から吹きとばされることになる。彼らがそんな手間をかけるとは、どうも思えんのだがね」
シャーマン大統領が手をあげて、そこでクリアリーの話を遮《さえぎ》った。
「そこのところで、よくわからんことがあるのだが」と彼はいった。「われわれは、必要とあれば、防衛のために爆弾を発射できるという話だったな。われわれ≠ニは、具体的に誰のことをいっているのかね。このシステムの仕組みを完全に理解していると思えるのは、クリフォードとフィリップスの二人だけだし、彼らはここにあまり長居はしないような気がするんだがね。他に誰が操作できるというんだね」
「彼らは、そのことの始末もつけていった」とクリアリーが答えた。「システムに特別なプログラムが組みこまれた今では、BIACの熟練したオペレーターなら誰でも、これを操作するための訓練ができる。データを入力するだけでいいんだ。どんな構造で、内部がどう繋がっているかを知る必要はないんだ」
「それどころか」とフォーショーがつけ加えた。「わたしの理解するところでは、あの二人は、最初のオペレーターのチームを訓練するだけという条件で、ブラナーモントに八週間だけ滞在してもいいと申し出ている。その後は、行ってしまうんだ」
「どこへだね」とシャーマンが訊ねた。
「それはいわなかった。国際科学財団に戻って、何かやりたいことを続けるんだろう」
出席者の大半にとっては依然として驚きだったが、シャーマンは、一切が途方もないジョークだったとでも思っているように、微笑しただけだった。彼が事態を何か楽しくも無頓着な態度で……まるでおもしろがって……迎えているように見えることは、会議が始まって以来、みんなの当惑のもとだった。
「わかった」とレイズは認めた。「どうやら彼らは、ブラナーモントの機械を防御専用に封じこんでしまったようだな。だが、われわれの防衛政策は、今なお有効な攻撃手段を必要としている」彼はテーブルを見渡して、賛成を得ようとした。「わたしの提案はこうだ。ブラナーモントは使えないことになったから、別の科学者チームを、たぶんACREのスタッフでも中核として編成し、別の機械を建造することを考えるんだ。何しろ、ブラナーモントでの設計データはそのまま使えるんだから、それほどむずかしいことではあるまい」
クリアリーは、口をすぼめて、くびを振った。
「そうはいくまいと思うよ、ドン。いいかね、これと同じ原理に基づいて建造した機械には、どれも心臓部に、J反応炉の中に鎮座した人工ブラックホールがあることになる。それは高次放射の強力な放射源になるんだ。付近の空間領域で燈台のように目立つことだろう」
「それが何だというんだ」
「ブラナーモントの監視機構は、それをたちまち探知するだろう。このシステムは、高次空間で、眠ることのない……いわば監視者の役割を果たすようにプログラミングされているんだ。この種の現象と認定したものに対しては、自動的に攻撃することになるだろう。つまり、われわれが別のJ爆弾を建造したとすれば、スイッチを入れたとたんに、ブラナーモントがそれを空高く吹きとばすだろうということだ」
レイズは、肝をつぶして彼を見つめた。
「ここで……われわれの自国の中でか。ここに機械を建造して、作動させれば、この地球から吹きとばされるというのか」
「まさに、そういうことだ」
レイズは、しばらく考えこんだが、その顔は徐々に苦虫を噛みつぶしたようになっていった。
彼は再び顔をあげた。
「だが、それは正気の沙汰じゃないぞ。われわれはまったくの無防備じゃないか。あちらさんが同じ技術を思いついたとしたら、どうなるんだ。彼らのシステムには、こんな気違いじみたプログラミングは何もついていないだろう。彼らはこちらのわれわれをあの世へ吹きとばせるのに、われわれは反撃するためのスイッチを入れる立場にもないとは」
クリアリーは、レイズがいい終わらないうちに、またくびを振っていた。
「そうじゃない。ブラナーモントは、彼らが作動させようとするブラックホールも、やはり攻撃するんだ。彼らがこの機械を建造したところで、使用することはできない」
「しかし……」レイズは、またわけがわからなくなっていた。「しかし、きみは、たしか、ブラナーモントが西側世界の外に対しては攻撃しないといったはずだが。北京がネヴァダ砂漠かどこかにJ爆弾を設置すると思っているんじゃあるまいな……われわれにやっつけてくれとでもいうように」
「彼らは相当に抜け目なく考えていたんだよ」とクリアリーが答えた。「というより、クリフォードがだな。いいかね、システムに課せられた目標座標の範囲に関する制限は、オペレーター・インターフェイス・プログラムを通じての攻撃命令に対してだけであって、監視プログラムを通じての攻撃命令には適用されないんだ。だから、オペレーターが、たとえばモンゴルにある目標を攻撃しようとしても、システムはまったく働かない。だが、誰かがモンゴルにJ爆弾を設置して、スイッチを入れたとしたら、それは自動的に爆破される。まったくみごとなもんだ。われわれも新しい機械を建造できないし、彼らも新しい機械は建造できない」
「それどころか、よく考えてみると、一切が極めて巧妙にしくまれている」とフォーショーが口をはさんだ。「今となっては、われわれのK技術を機密の帳に包んでおくことは問題外だ。世界のどこかで、誰かが――どこかの研究所とか、都市の真中の大学とかで――まったく何も知らずに同じ原理に出くわして、サドベリーに建造されたGRASERと同じような装置を作ったとすれば、ブラナーモントはそれを攻撃することだろう。われわれは、すべての事実を、詳細にわたって、それも早急に発表しなければならんのだ」
「外交上のルートを通じての連絡や、すべてのニュースメディアのための予備的な声明書を、いま用意しているところだ」と、シャーマンの隣に坐っている国務長官が、彼らに伝えた。「もうそろそろできる頃だが」
レイズは、こうしたことを頭の中でこねくり返しながら、腹立ちまざれのため息をついた。確かに西側は世界で唯一のJ爆弾を持っているのだが、それは国際的な影響力を加えたり、譲歩をひきだしたりするための道具としては、まったく無価値なのだ。それが外部からの命令に従うのは、西側が物理的に攻撃された時か……それとも規定の地理的境界の内部に対してだけ(結局は同じことだが)なのである。ブラナーモントが機能しつづけるかぎり、抜け道はないのだ。
「どうして、ただスイッチを切ってしまわんのか、もう一度いってくれ」と、やがて彼はいった。
「そうするわけにいかないからだ」と、クリアリーが率直にいった。
「だって――ずっと閉鎖したままではおれないはずだぞ。どんな機械だって整備が必要だ。定期的な点検をするためだけでも、遅かれ早かれ、誰かが入っていく必要が……」彼はクリアリーの表情に気づいた。「だめか……。なぜだ。整備が必要ないというんじゃあるまいな」
「ああ、その点はきみのいうとおりだよ。ただし、閉鎖などされてはいないんだ……まさにその理由でな。そうしたければ、今でも、どの部分にでも入っていける」
「ほんとうか」
「ほんとうだ」
「じゃ、わたしがその通りのことをやって、中にいる間に然るべき電線をすっかり抜いてしまうということが、どうしてできないんだ」
「なぜなら……」クリアリーの声は、極めて冷静になった。「もしそんなことをしたら、合衆国を現実的な戦力としては世界の舞台から完全に抹殺することになるからだ」
「それは……どういうことだ。さっぱりわからんが」
クリアリーは深く息を吸って、前のテーブルに両手をしっかりとついた。
「あのシステムのすべての重要なコンポーネントには電力調整器がついていて、電源が切られても数秒間は電力線に電圧を維持し、回路が機能しつづけるようになっているんだ。これにはセンサー回路もついていて、電源電圧の低下を探知すると、自動的にコンピューターの制御を電力低下ルーチンに切り換える。このルーチンが最初に果たす機能は、J爆弾の特別射撃統制シーケンスを作動させることだ。その結果は、ホワイトハウス、ペンタゴン、また国内の主要な軍事基地と軍事施設のまさに全部を吹きとばすことだ。つまり、あれをいじくるわけにはいかんのだよ」
レイズは、度肝をぬかれて、相手を見つめた。
「そんなばかな」
「それが事実なんだよ」
レイズは、会話に理性的な要素を注入することを訴えるように、シャーマンのほうを向いた。
「アレックス、彼らをこのままにはできないぞ。二人とも気違いだ」
シャーマンは肩をすくめた。
「わたしにどうしろというんだね」
「冗談じゃない、きみは大統領だぞ。大統領の権限を使え。機械を武装解除するよう命令しろ」
「無意味だよ、ドン。くたばれといった公然たる侮辱を受けて、大統領のイメージを傷つけるわけにはいかんよ。彼らは従うまい」
「それなら、銃殺するといえ」
「それも無駄だろう。いいかね――彼らは従わないだろうし、他の者では誰もわからないんだ。忘れろ」
レイズは、テーブルの端から端までを、狂ったように見まわした。
「いったい、どうしてこれが忘れられるか」と彼は怒鳴った。「あの気違い機械のどこかが故障したら、いまこの瞬間にも、この場から吹きとばされるかもしれんのだ。これが忘れられるくらいなら、ベッドの中のコブラでも……」彼はクリアリーを見た。「機械の電源システムが故障することを、どうやって防ぐんだ。いったい、ただの故障と誰かが電源を切ったのとを、機械がどうやって見分けるんだ」
「現実にそんなことがおこる怖れはほとんどゼロに近いから、忘れたっていいんだ」クリアリーは、泰然とした口調でいった。「ブラナーモントの一切は、厳密に軍事的な規格に基づいて設計・建造されている。技術には隅々まで、既知の最新の信頼性工学、三重冗長度、自己検査といった手法が採用されている。サブシステムはどれも三重決定方式になっているし、少なくとも予備が一つはあって、故障が発見されれば自動的にスイッチが入る。仮に外部の電源が何らかの理由で切れたとしても、内蔵された発電設備が、必要とあれば何年でも作動をつづけさせるのだ。とてもおこりえないものまで含めて、どんな組み合わせの部品の故障でも、最悪の修理期間よりも遙《はる》かに長く許容できるのだ」彼は、これらの言明を誰もがのみこめるように一息いれて、また続けた。
「つまり、仮に故障が実際におこり、常識がそうせよと命ずるなら、その故障は修理しなければならないし、それもしっかり修理しなければならない……そこらをいじくりまわすことなしにだ」
「これも、すでに着手していることの一つだ」とフォーショー。「システムのあらゆる局面に関与した製造業者や請負人と協議して、高度に訓練された整備技術者の恒久的なチームを編成し、ブラナーモントの現地に常住させられるようにしている。それまでの期間を埋めるために、応急チームはすでに配備してある」
「要約すれば、このシステムは、事実上フェイルセイフも同然であり、また改変不能だということだ」とクリアリーがしめくくった。
続いて、カーローム将軍が発言した。「しかし、まだ攻撃兵器の問題は解決されておらん。それにしても、そもそもの初めからJ爆弾でなければならないと、どうして仮定する必要があるんだ。何しろ、これができる前だって、結構うまくやっていたんだからな。また通常の軌道核兵器やミサイル抑止力を構成することを妨げるものは何もないんだ。それには多大の出費を強いられるだろうが……必要とあれば、やらねばならんのだ」
「どうも、それを妨げるものがあるようだよ」クリアリーは、すまなそうな口調になっていた。
「いいかね、ブラナーモントの監視プログラムは、高度の性能を持っているんだ。攻撃隊形の特性や弾道を識別して、たとえば通常の弾道飛行中の航空機、宇宙船の打ち上げ、人工衛星の軌道などと、攻撃用ミサイルとを区別できる。もちろん、新たな抑止システムを打ち上げることは、向こう側も同様にできるが、誰かがそれを使おうとしたとたんに、監視機構を発動させることになる。昨日、何がおこったか、見ただろう。仮にどちらかが相手に打撃を加えようとして、どんな種類の攻撃用ミサイルを発射しても、向こうへ届くものは一つもないことになる」
「じゃ、また前世紀に逆戻りだ」とカーロームが不満そうにいった。「またB52を製造しはじめなきゃならんわけだ」
「さあ、それが気違い沙汰だということは知っているはずだ」とフォーショーが応じた。「第一に、今日の通常防衛力を相手にしたのでは、そうした古典的攻撃には一つの勝ちめもない。まるで騎兵隊で機関銃を攻撃するようなもんだ。また、第二に、東側の絶対的な数の優位を考えれば、彼らと一九三九−四五年型のいかなる全面戦争を行なうことも、とうてい考えられない。それは自殺行為だ」
「では、有翼ミサイルは」とカーロームが提案した。フォーショーはクリアリーを見た。クリアリーは、くびを振った。
「考えてみれば、わかることだ」とクリアリー。「有翼ミサイルは、低価格、大量生産用の兵器で、大量に使用して防衛力を圧倒するためのものだ。集中攻撃の形状を識別するのは容易であり、J爆弾はそれを数分間で片づけてしまうだろう。仮にそのパターンを隠そうとして少しずつ発射すれば、通常の防衛力でも簡単に狙い撃ちできるだろう。可能性はないな」
「じゃ、生物兵器は」とカーローム。「ガス……細菌……ウイルス……何でもいい……」
「制御不能だし、予測不能だ」とフォーショー。「その線は何年も前に放棄したし、向こう側だってそうだ。地球全体を全滅させたのでは、どちらの側にとっても何の益もないからな。それが復活されるとは思えん――百万年先でもな」
まわりでのやりとりを聞いているうちに、シャーマンの視野は徐々に拡がってゆき、クリフォードがやったことの深い意味を悟りはじめていた。今朝早く、最後にクリフォードに会ってから初めて、科学者の疲れた眼の奥に燃えていた勝利の輝きの理由がわかってきたのだった。その時には、シャーマンはまだ体験したばかりの事態の推移にやや衝撃を受けていたが、心の奥底では興奮し狂喜して、提供された救済と好機を土台にして、新しい正気の世界の再建にすぐにもとりかかろうと勇みたっていた。すべての人間がまさに同じ思いに燃え、勢いづいているという以外の可能性は、夢にも思いつかなかった。
いま彼は、自分が世間慣れし経験を積んでいるにもかかわらず、幼稚だったことに気がついていた。あの科学者だけが、天職にふさわしく、真の現実を見、理解していたのだった。彼は人類が一千年にもわたって口にしてきた言葉を聞き、生涯にわたる条件づけと紋切り型の泥沼におぼれている者たちの声に耳を傾けていた。それは学ぶことのない偏狭な世界だったのだ。
こうして耳を傾け、眼が開けていくにつれて、彼はあの科学者が張りめぐらした網の目の完璧さに眼をみはる思いだった。発せられるすべての質問には答が用意されていた。逃げ道を探そうとして人間の頭が思いつくすべての抜け道は封じられていた。すべての異論は先を越して解決されていた。実にみごとなまでの完璧さだった。
ドナルド・レイズは椅子にくずれおち、手をテーブルに打ちおろして、完全な敗北を認めた。
そして、フォーショーが、状況を総括した。「東側は、核と否とを問わず、西側に対するいかなる攻撃行動においても、成功を期待することはできない。J爆弾がそれを阻止するからだ。われわれは、彼らに対して、J爆弾での攻撃はもちろん、いかなる形でのミサイル攻撃をすることもできない。もしそうすれば、J爆弾がそれを阻止するからだ。もしやりたければ、旧式な兵器で攻撃することはできるが、そんなことはしない。前より悪い結果になることは明らかだからだ。
「東側には、この手詰まり状態を打開する方法はまったくない。われわれのほうはこれを打開することができるが、それは機械のスイッチを切ろうとする以外にない。しかし、われわれはそれもしないだろう。もしそうすれば、わが兵力のすべてを全滅させたも同然のことになり、いずれにせよ攻撃の手段は何も残らないからだ。また、機械にスイッチが入っているかぎり、別のJ爆弾を建造することは、誰にもできない」
「そして、機械が自分で任務解除をするまで……一一一年後のことだが……この状態は続くだろう」とクリアリーがしめくくった。
部屋には厳粛な沈黙が流れた。
「あの山の下に鎮座しているんだ」と、しばらくして、レイズが、いまいましげにいった。「自分でスイッチを切ることもないし、われわれがスイッチを切ることもできん。まるで……」彼は適当な言葉を探そうとした。「まるで、例の映画に出てくる怪物のようだ……終末兵器というやつだ……もっとも、これは桁違いに大がかりなやつだが」
「違うよ、ドン」と、シャーマンが、穏やかにいった。「終末兵器とは、世界の終わりを約束するはずのものだ。わたしが見るところでは、これは正に反対のことをすると思うんだがね」
「さて、世界の終わりの反対といえば、世界の始まりのことだろう」とフォーショーが独り言をいった。「何といったかな……創世記か……」
「では、それで決まった」とシャーマン。「創世記機械だ」彼は円陣を作って並んだ顔を、ゆっくりと眺めまわした。「きみたちは、一人残らず、肝腎な点を見落としているとは思わんかね。まだ誰も質問していないが、今までのものに代わる戦略は明らかじゃないか。昨日、危うくおこりそうになった事態の後では、われわれが語るべきことは、これしかないのだ」
彼の訴えるようなまなざしを迎えたのは、当惑した顔だった。
「きみたちは誰も、あまりにも長いこと恐怖のもとで生きてきたので、もうそれが存在しないという事実に眼が開けないでいるのだ」と彼はいった。「記憶のかぎりミサイルや爆弾と同居してきたものだから、それなしに暮らしていくということが理解できないのだよ。もう終わったんだ。それがわからんのかね。われわれには、もうそれが必要ないのだよ――ただの一発もだ。この五十年間というもの、西側が望んでいると表向き主張していたことが、何もかもおこったのだよ。今や、あれだけの軍事予算で、何か建設的なことができるかもしれんとは、思わんのかね」
彼は立ちあがり、会議での自分の役割は終わったことを明確にした。ドアに向かう前に、彼は発言をしめくくった。「これから長い静かな散歩をするつもりだ。きみたちはここに残って、この世界の人民がどうやって互いに共存する方法を見つけるかを、話しはじめなさい。きみたちには初めてのことかもしれないが、どうしてそれを達成するかを、どうあっても考えださねばならないのだ。もう選択の余地は残されていないのだよ」
25
怖ろしい悪夢から覚めて、静かな夜明けと美しい鳥の囀《さえず》りがあるだけだと知るように、世界は恐怖が去ったことを徐々に実感していった。そして、今や自由に息づくことのできる世界からは、新しい英知が生まれてきた。
北京、ウラジオストック、ベイルート、カイロ、ケープタウンからは、政治家や将軍や科学者からなる代表団がブラナーモントにやってきて、理性の最終的勝利を具現する機械を感嘆して眺めた。アメリカ陸軍のBIACオペレーターたちは、彼らの前で、宣言された予言の真実であることを実演してみせた。彼らは、巨大な破壊の雷撃を、西側の領土の望むままの所へ、またその周縁を防衛するために、的確に命中させることができた。カナダの北極地帯にあたる北部の無人地域、オーストラリアの砂漠、ヨーロッパやアメリカの沖合の水域に用意された一連の標的を使って、それを証明した。しかし、東側が試射に使うことを同意したサハラや、ゴビや、シベリア最北部の特定の地点にまで達するように兵器の射程を拡げようとすると、コンピューターはいうことをきかなくなるのだった。それ以上の証明を求めようとする者は、誰もいなかった。両陣営とも、ただちに数十億ドルの支出に及んでまで、このシステムが要求するそれ以外の部分を確かめる気はないようだった。いずれにせよ、予言の一部についてはまったく何の疑問も抱かれず、危険を冒そうとする者はいなかったのである。また、そればかりでなく、時がたつにつれて、このシステムをだます方法を何とか考えつこうとする欲求も、下火になっていった。もっと注意を払うべき緊急な課題が世界に生じてくるにつれて、そういったことはもう大して重要には思えなくなったのである。
ブラナーモントを可能にした新しい物理学の詳細については、もちろん世界中に公表され、クリフォードは、各国から来た科学者の集会で、この主題についての一連の講演をすることに忙殺された。彼は、この中で、ブラナーモントの監視装置についての最終的な情報を明らかにした。
それまでは、いわずにいたことだった。
近傍の空間領域に強力な高次放射源を探知したらただちに攻撃するようにプログラミングされた自動監視システムは、距離三十万キロ以内の目標に対してしか機能しないというのだった。この半径外にある場所でなら、K工学も危険なしに開発・利用ができるのである。
仮に侵略を企てる者が、ブラナーモントの有効距離外から地上の目標を攻撃あるいは脅かす目的でJ爆弾を宇宙船に乗せたとしても、無駄に終わるだろうと彼は説明した。そうした宇宙船上にある目標探知システムは、他の高次放射源が存在を許されていないために孤立した燈台≠ノ等しいブラナーモント自身の唯一の強力な放射源を、はっきり見る≠アとができよう。だが、この燈台は、複雑なK空間における単なる数学的虚構として探知されるだけであって、これを通常の三次元空間における目標の座標に関連づけるのに必要な方程式の解は、与えないだろう。つまり、ブラナーモントは、こうした手段では破壊できないのである。J爆弾の射撃統制システムを通常空間の選ばれた目標に正確に照準できるためには、あらかじめ一連の空間的映像を解像することによって求められた、既知の位置に基づく座標系に対して修正されていることが必要である。だが、これらの映像を求めるためには、このシステムが、通常物体を、その内部でおこる自発粒子消滅から生じる低レベルの放射によって識別できなければならない。これは三十万キロを超えた距離からでは不可能であり、したがって仮想的な宇宙船搭載のJ爆弾は、ブラナーモントにとっても、そのほか地球上のどこにある目標候補地にとっても、現実の脅威とはならないのである。
クリフォードは、いつか技術が進歩して、こうした制約が克服される日が来るだろうという見解を持っていたが、その頃には、そもそもこうした制約が課せられた根拠は、とっくに消滅していることだろう。それまでは、科学者たちはこの新しい物理学の研究を、月面上の実験室で、太陽系内の他のいたる所で、あるいはいつの日かそのさらに彼方で、続けることができるのだ。しかし、これから一一一年間は、この種の活動に関するかぎり、地球は隔離されるのである。それは残念なことではあるが、小さな代償であるように思えたのだ。
26
ティコ基地から来た機首の短い不恰好な月面輸送機は、月の裏側のジョリオ・キュリーにある天体観測施設の上空に停止し、星をちりばめたビロードのような空に浮かんだ。下界の乾ききった平原では、ドームやパラボラアンテナの集団の中にあって地下の着陸場を覆っていた大きな鋼鉄のシャッターが早くも開かれて、暖かな黄色い光を明るく放ち、灰色の砂塵の寒々とした単調さを和らげていた。航空管制プロセッサーと地上のコンピューターとの対話が終わると、機体は静かに下降し、地表から姿を消した。
機体が着陸場におさまり、シャッターが閉じて、内部に空気が満たされると、やっと出現した音のある世界の中にエンジンの響きも消えないうちに、早くも連絡用タラップが伸びてきて、機体の出口に接続した。気閘《きこう》が開くと、少人数の新来者たちがぞろぞろとタラップを降り、送迎用控室に入っていった。
ハインリッヒ・ツィンメルマン教授は、嬉しげに笑顔をほころばせながら前へ出て、近づいてくる三人の若い客を迎えた。
「旅はどうだったね」彼は一人一人と心のこもった握手を交しながら訊ねた。「面倒なことは、なかったろうね」
「ゆっくりできました」とクリフォードが答えた。彼の顔にはまた肉がつき、生き生きとした健康な色をとり戻していた。眼は、昔と同じように明るく輝いていた。
「もう、こっちが気にいりはじめてますよ」とオーブ。
「して、あなたはどうかな」ツィンメルマンは、サラのほうを向いて訊ねた。「この月面での生活を楽しめそうかね」
「どうでもいいんです」と彼女は微笑んだ。「主人がまたわたしのものになってくれたことがまだ夢のような気がしているところですもの」
ツィンメルマンは微笑を浮かべると、振り返って一行を控室の奥のドアのほうへ案内した。
「まずバーのありかを教えて、いっしょに歓迎の乾杯をしなくては……ともかく優先順位のけじめはつけておかんとな。荷物や何かのことは心配せんでもよろしい。ちゃんと手配してある。その後で宿舎に案内するから、身じまいするなり、落ち着くなり、休養するなり、好きなようにしたらよろしい。後刻、よかったら二三〇〇時に大食堂で、いっしょに食事をしたい……まだ地方時間に慣れていないかもしれんが、今から三時間ちょっとということだ。その後で、基地や天文台を見てまわるお供をしよう。お断わりしておくが、地下は少々ごみごみしているから、新来者は最初のうちよくまごつくが、そのうちにきっと慣れるだろう」
彼は立ち止まると、それまでの曲がりくねった道が行きついた出入口に掲げてある表示を見おろした。
「おやおや――ここは通れないようだ。このトンネルは、修理中で一時使用禁止になっている」
彼は、ため息をついた。「ちょっと戻って、上の地上連絡チューブから隣のドームに入らねばなるまい。すまんことをした……こちらへ……」
チューブの出入用気閘から出てドームに入ると、ツィンメルマンは、外壁に設けられた展望窓に一同を連れていった。そこからは、地上建造物が拡がる基地の一方の境界が見えた。教授は、その向こうの砂塵と岩が露出した土地を指した。
「あそこがきみたちの仕事場になる。もう測量はすんで、新しい実験室を収容する三つの新設ドームの予備設計が完了している。手はじめとしてはどれも地下五階まで伸ばして、もちろん施設の本体と連結する。新しいGRASERは、いちばん大きなドームの下に建造する……あの大きなクレーターとあの岩の一群とのほぼ中間になる……BIACや関連設備は、五十メートルほど左隣のドームに置く。三つめのドームは、実をいうと、さしあたりは倉庫に使うだけだ。後で拡張用の場所が必要になった時に使えるようにな」
「申し分ありません」と、クリフォードは、うっとりとしていった。「ここで先生のチームに入れていただけるのが楽しみです」
「わたしこそ、きみたちがチームに加わってくれるのが楽しみだよ」とツィンメルマン。「それから、喜んでもらえると思うが、本部はもう確定契約にサインしていて、建設資材の最初の積荷は二ヵ月以内に届くはずだ」
五分後、再び地下に戻った彼らは、基地のバーと非公式な社交センターを兼ねた部屋の隅にあるテーブルに腰を落ち着けた。そこは暖かい親しみのある雰囲気で、有線放送によるバックグラウンド・ミュージックや、先に来ていた十数人の人たちの話し声が、その気分を強めていた。ツィンメルマンは、飲物の小さな盆を手にして坐り、それを一同に配りながら、あたりを見まわした。
「今は紹介などしないでおこう。後で、その時間は、いくらでもある」彼は、深く坐り直すと、グラスをあげた。「さて、諸君、何に乾杯しようか。協力が成果をあげるように、というところかな……」
一同は、それに唱和した。
「一つ忠告しておこう」みんなが飲みはじめた時、彼はいった。「順応するまでの期間は、アルコールは過ごさぬほうがいい。ここでは、重力が奇妙なことをやらかすのでな……たぶん飲む前から頭が軽いせいだろう……文字どおりにな」
クリフォードは笑いだした。「やあ――すっかり忘れるところだった――アルとナンシーがよろしくといっていました。アルは、身辺整理に手間どってわれわれといっしょに出発できなかったのは残念だが、来月に出発する準備は完了したといっています」
「うん、知っている」ツィンメルマンは、微笑してうなずいた。「ナンシーの説得がたいへんだったようだね」
「ああ、彼女は大丈夫ですよ」とオーブが口をはさんだ。「おまけに、サラがいっしょなんですから。二人は気が合っているんですよ。彼女はただ、あの湖の傍での生活がすっかり気にいっているんです。それだけのことですよ」
「アルは、SFの領域に首をつっこんでいますよ」とクリフォードがいった。ツィンメルマンは、天を仰いで嘆息した。
「おやおや。今度は何だね」
「高次空間を通してエネルギーを送るというアイデアで夢中なんです。いつかそれが、太陽系のどこへでも必要な所へエネルギーを送る手段になると思っています。遠く離れた宇宙空間にある巨大な人工ブラックホールを供給源とする超配電網という構想なんですよ」
「やれやれ……」
「いつかは、これが宇宙船に動力を供給する唯一の手段になるだろうともいっています」とオーブがつけ加えた。「どこへ行こうと好きなだけエネルギーを送ってもらえるというのに、何でそれを持ち歩く必要があるんだとね」
「はて、アルが合流したら、さぞ楽しいことだろう」ツィンメルマンは、にやりとした。「着いたとたんに、そこら中のものを片っ端から模様替えしないように願いたいものだが。きみはどうだね、ブラッド。新しい実験室の恰好がつきかけるまで、何をするつもりかね。それまでに、しばらくはかかると思うがね」
「ああ、することは、いくらでもあると思いますよ。ほら、一年間の空自を埋めあわせなければなりませんからね……例の……」彼は皮肉な微笑を浮かべた。「くだらんことにかかずらっていたものですから。主としてやりたいことは、先生やここの天文学者たちとの間で中断したままになっている仕事を続けることです。彼らは、前に議論しかけていた例の波動モデルに取り組もうとして、手ぐすねひいています。ご承知のように、この一年間に大量の観測が行なわれていますから、第一にやらねばならないのは、仲間に入って遅れをとり戻すことです」彼は一息いれて、ちょっと考えた。「実は、三つめのドームを計画しているとうかがってから、ずっと考えていたんですが……宇宙論的なKデータを研究するには、特殊な遠距離探知システムを建造する必要があります――いわばK望遠鏡といったものです。あのドームの使い道について、さしあたり特に計画がなければ、これを据えつけるには、きっとあそこが最適だと思いますがね」
ツィンメルマンは鼻をかきながら、茶目つ気たっぷりに、にやりとした。
「実をいうと、まったくここだけの話だが、それこそわたしが考えていたことなんだよ。ただ、わたしはまだ……その、何というか……そのことをジュネーブに話しているわけじゃないんだがね」彼は急いでつけ加えた。「もっとも、彼らがそれをいい考えだと認めることは間違いないよ。ただ、この問題を提起する前に現実にドームができあがっているほうが好都合じゃないかと思うんだよ。問題が単純になる。わかるだろう……」
「わかりすぎますわ」とサラ。「三人の共謀者が結託していることぐらいは……わたしは何という所に来てしまったのかしら」
オーブは、先ほどから一分ぐらいも遠くのほうを見つめていた。彼は突然われに帰ると、くびを一方に曲げ、何ともいえない表情で彼らを眺めた。
「ねえ、ぼくもこの何ヵ月か、時々考えていたことがあるんだ。GRASERの変調器が粒子消滅をおこさせる方法についてなんだがね」
他の者たちは彼の顔を見つめて、先を続けるのを待っていた。
「つまり、アルの採用する方法は、すべてのものを空間の一点に集中することだ」と彼は続けた。
「これが強烈な時空の歪みを生じ、擬似重力効果を作りだす……これが極限までいけばブラックホールになる。この種の現象は彼がそもそも研究していたことだから、彼がこの方式をとったことは理屈に合っている。サドベリーは重力物理学研究所なんだからな」
「いいぞ」とクリフォード。「アルの方式は理屈に合っている。それは結構だ。それがどうした」
「アルのやり方は、彼の目的にとっては確かに十分だったが、これには別のやり方もあると思うんだ。変調器や粒子消滅の分布パターンを、一定の大きさの空間を包みこむように設定することが可能だと思うんだ……そうすれば、重力の強さは、ブラックホールの周辺や内部などとひどく違ったものになるだろう。つまり、集中した粒子ビームの消滅ではなくて……物質の塊り……物体の消滅がおこせるんだ」
「何のためにそれが必要なんだ」と、クリフォードが当惑した表情で訊ねた。
「ああ、理由はいくらでもあるさ……そうだな、たとえば、さっき話していたような新しいドームの下に孔を掘るのが速くて簡単になる。必要のない岩は、すっかり高次空間へとばしちまえばいいんだ。だが、そんなことはどうでもいい。ぼくが考えているのは、もっと別のことだ」
「たとえば?」
オーブの表情は、心持ち真剣さを加えた。
「いいか、これは型破りに聞こえるかもしれんが、可能でないという理由はないんだ。J爆弾の照準変調器は、選定した目標地点に高次放射を集束するだろう。これも、一点にではなくて、空間に拡がる分布パターンにすることが可能だと思うんだ……消滅変調器と同じように」
クリフォードは、眉をひそめてツィンメルマンのほうに視線を走らせ、またオーブを見た。
「何がいいたいのか、まだわからん」
「この両方を同期させるんだよ」と、オーブは、興奮して身振りを加えながら、叫んだ。「そうすれば、ただ大量のエネルギーを集中させるんではなくて、形のある物体を投射できることになる。物体を空間内のある場所で消滅させ、同時に別の場所で、それをそのまま再構成すればいいんだ。そこをいいたいんだよ」
「気違いじみている」とクリフォード。「アルのSFでさえひどいものなのに。こいつは科学の夢物語だ」
「可能でないという理由はまったくないんだぞ」とオーブはいいはった。彼は訴えるようにサラを見た。彼女は肩をすくめて顔をしかめた。
「わたしに聞いてもだめよ。気違いじみているように思えるわ」
「気違いじみてなんぞいるものか」オーブは、語気を強めて断言した。「いいか、可能なんだ」
「こんなことはいいたくないが」とツィンメルマンが口をはさんだ。「過去において、きみの卓抜な発明の才の実例はいくつか拝見したが、いま開いたことは、いささか現実離れしているようだね。すまんが、仮にわたしに投資を期待して近づいたとしても、これに自分の金を注ぎこもうなどとは、夢にも思わんことだろう」
「アルコールのせいだよ」とクリフォード。「もう重力の影響が出ているんだ」
「気にするんじゃないわよ、オーブ」とサラが慰めるようにいった。「考えを変えたわ。この二人が束になって反対するのなら、わたしはあなたの味方よ。可能だと信じるわ」
「ほれ見ろ」とオーブ。彼は、ひげの生えた額を、昂然《こうぜん》と突きだした。「もう、一人は、宗旨変えしたじゃないか。いいか――これは可能なんだ」
「やれやれ」ツィンメルマンは手をあげて、議論をしずめた。「今から仲たがいをしたのでは仕方がない。いずれはきっとわかることだ」それでも、彼の眼は、信じないながらも楽しそうにきらめいていた。「しかし、さしあたっては、諸君がもう一杯飲むことを主張するぞ」
[#改ページ]
エピローグ
ボルノス・カレンスキーは、座席に深々と腰をおろして眼を閉じながら、これから新しい住み家となるべき場所で自分や家族たちを待ち受けている生活に思いをはせた。そこでは、ありあまるほどの土地がありながら、住民が少ないので、食物は栽培し、土そのものから育った新鮮な食物を食べるのだ。それから家畜を飼い、自由に歩きまわらせる……銀色の流れを首飾りのように掛けながら遠い山々から波打って続く広々とした丘の太陽に溢れた草原の上を。その山がまたすばらしいのだ。それに、その森の木々の大きさときたら!
彼は、入植仲介人が上映したホロムーヴィーグラムの中で、それを十分に見た。そして、現地政府は新しい入植者を招くことに熱心で、全家族の運賃の半額を負担したばかりか、土地購入額の何と七十パーセントを補助し、新家屋の建築や機械その他の設備を準備するのに必要なだけの融資を、二十年間、無利子で承認したのだった。彼は貯金で八百ヘクタール以上の土地を買ったが、それでも不時のための備えを十分に残すことができた。コンピューター化され、プラスチック化され、集団化された清潔な都市の中で閉所恐怖症を味わうことも、もう終わりなのだ……飾りたてた人々の退屈をまざらわすための最後の空しい試みとして企てられる派手なパーティーを渡り歩くことも、もう終わりなのだ……大競技場に何千何万と詰めこまれて絶叫する人々の集団ヒステリーも、もう終わりなのだ……薬の力で眠り、再び薬の力で眼を覚まし、その間もすべてを薬の力を借りて行なう生活も、もう終わりなのだ。
ボルノス・カレンスキーは、健康な生き方へ、まともな激しい労働へ、かつてはそれを望むすべての人々の権利だった満足感へ――彼がいつも夢みていた生活へと、戻っていくのだった。
C層三号客室の広い空間に突如として響きわたった声が、彼を夢想から引き戻した。
「こんにちは、皆さん、再び船長からご報告申しあげます」
「昼食をなさっている間に速力はしだいに増え、かなりの距離を通過しました。今では地球から三万キロ以上の所に来ていますが、この間はずっと通常の重力駆動加速をしていましたので、動いている感覚は受けられなかったことと思います。
「木星からの動力ビームはわれわれをずっと追って、船上のブースターを充電していましたが、今では重力勾配がずっと下がって、フィリップス駆動に切り換えられる空域に入りました。シリウス系への転移は一秒間を要するだけですが、この過程で軽い目まいをおこすことがありますので、乗客の皆さんは席につかれることを強くおすすめします。船客係の諸君も、それぞれの部署でただちに席に着くように。
フィリップス駆動を終わった時、船客の皆さんは、各船室前方の展望スクリーンにシリウスA星をごらんいただけます。伴星のシリウスB星は、われわれの正常空間への再突入地点からでは部分食の状態にありますが、スクリーンを少し暗めにすれば、主星の上のちょっと右寄りに見えるはずです。
さて、当操縦センターは、しばらく非常に多忙になりますので、これでお別れしなければなりません。楽しい旅をなさいますように。次のご報告の時には、現在の地点から八・七光年の所に達しているはずです。目下の状況では、惑星ミランダへは定刻、すなわち再突入から八時間後に到着の予定です。
「以上です。ありがとうございました」
船室の各所に光る標示は、次のように知らせていた。
[#ここから3字下げ][#ここから太字]
間もなくフィリップス駆動に切り換え――
ご着席ください
[#ここまで太字][#ここで字下げ終わり]
「どうして、あんな変な名前をつけたの」彼の隣の席から十歳のティーナ・カレンスキーが聞いた。
「ああ、さてな」彼は、そちらを向いて相手を見おろしながら答えた。「あれは、ずっと昔――おまえが生まれるずっと前に死んだ、たいへんに有名な科学者の名前なんだよ」
「どうしてその人の名前をつけたの。その人が発明したの」
「ちょっと違うな。これのもとになる理屈をはじめて見つけた人なんだ。こういうことができることを、実験というもので確かめたんだ」
「おまえは、どこまでばかなんだよ」十二歳になる兄が、隣の席から、軽蔑したようにいった。
「オーブリー・フィリップスのことなら、誰だって知ってるさ。ブラッドリー・クリフォードの友達だったんだぞ――あの世界でいちばん有名な科学者のな」
「もちろん、クリフォードのことなら知ってるわよ」ティーナは、負けずにやり返した。「世界中の人がみんな気違いになるのを防いだのよ。そうでしょ、ママ」この最後の質問は、兄の向こう側に坐っているマリア・カレンスキーに向けられたものだった。
「そう、そのとおりですよ。今はそのくらいにしておきなさい。あのスクリーンにうつっている、あなたの太陽を見てごらん。今度あれが見られるのは、ずっと先のことかもしれないのよ」
ティーナは、いわれたことを、じっと考えた。
「じゃ、ミランダには、太陽はないの」彼女は、その怖ろしい意味に気がつきかけながら訊ねた。
「いいえ、もちろんありますとも。ただ、それは別の太陽なのよ」
「こいつは、ばかなんだよ」
「そんなことをいうんじゃありません」
突然、スクリーンの映像がちらついたかと思うと、それは一変した。画面の中央を占めていた太陽は、隅のほうに寄っていた。一瞬前までそこにあったものより、大きくて明るかった。それに、背景の星も、微妙に変化していた。一キロ半もある宇宙船の船室の四方から、おお≠ニかああ≠ニかいう声が、いっせいにあがった。
「頭が変な気分よ」とティーナ。「どうなったの」
「何も心配ないのよ」と母親が答えた。「あそこをごらんなさい。あれが、あなたの新しい太陽よ」
ティーナは、スクリーンの新しい映像に、しばらくじっと眼を凝らしていたが、結局は、彼女の年頃につきものの反駁《はんばく》の余地のない論理に基づいて、太陽はやっぱり太陽だという否定すべくもない結論に到達した……彼女の関心は他のことに移り、また父親のほうに顔を向けた。
「ブラッドリー・クリフォードは、どうやって、みんなが気違いになるのを防いだの」
ボルノスは、ため息をつき、微笑し、額をさすった。
「ああ、そうだな、それはちょっと説明がむずかしいな。彼は、それまでになかったほどの、どえらいペテンと思われることを仕組んだのさ」
「ペテンって何?」
「今度の学校で、すっかり教えてくれますよ」母親が遮《さえぎ》った。「パパは、いま静かにしていたいのよ。ほら――注意が消えたわ。もうすぐ下でまた映画をやるわよ。見にいったらどう」
二人の子供は座席の間をくぐり抜け、通路を通って消えた。ボルノスが深く坐り直して、また空想を続けようとした時、妻が訊ねた。「ほんとに何から何までペテンだったのかしら」
「何から何までじゃない。J爆弾は、当時の西側同盟国の領土内にある場所に対してだけ発射できることになっていた……完全に防衛的な兵器だったわけだ。それは確かにほんとうだった。彼らは、シベリアのような場所に設けた試射の標的に向かって発射しようとしたが、機械はいうことをきかなかった」
「じゃ、それ以外のことは?」
「そうだな」と、彼は顎を撫でながらいった。「それは謎だ。もし電源を切ればあの機械はアメリカの各地を消滅させるし、地球上の誰かが同じような機械を作ればそれも消滅させられると、一世紀以上にわたって誰もが信じてきた。だが、これは世界が再軍備するのを阻止するためのハッタリにすぎなかったという者も、たくさんいるんだ。もしそうだったとしても、その役割は十分に果たされたんだ……」
彼女は、しばらく一人で考えていた。「どう考えても、それはクリフォードに想像されるような人柄にはそぐわないわね……つまり……大勢の人たちを殺すかもしれないような大仕掛けなワナを仕組むなんて……しかも、たぶん罪のない人たちを。まるで彼らしく思えないわ」
「だからこそ、大勢の者が、そこのところはペテンだったと信じているのさ。ともかく、この話にはそもそもインチキくさいところがあるんだ。あの機械が自分で任務解除をした日にブラナーモントの現場に立ち会った人たちは、自分たちが知ったことを何も話そうとはしていない。これだけの年月を経て自分からスイッチを切る前に、機械が何かをプリントアウトしたことは間違いないんだが……」
「どちらにせよ、今さらどうでもいいことだわ」と妻は断言した。「肝腎なのは、東側にも西側にも、わざわざ労力やお金をかけてまでそれを確かめようとする気はなかったということよ。彼らは[#「彼らは」に傍点]、信じろといわれたことを信じ、しろといわれたことをした。そこ[#「そこ」に傍点]が大事なところね」
「まったくそのとおりだ」と彼は心から賛成した。「もう、どっちでもいいのさ。どこまでがほんとうで、どこまでがそうじゃないかというのは、今となっては誰にも確かめられないことだろうな」
[#改ページ]
「ユーレカ」の復活
大野万紀
本書は『星を継ぐもの』『ガニメデの優しい巨人』につづく、J・P・ホーガンの邦訳三冊目の長編だが、シリーズとなっている前二作とはいささか趣を異にする、独立した作品である。
SFがサイエンス・フィクションの略であるとは、もうずいぶん昔から断言できなくなってきた。にもかかわらず、サイエンス[#「サイエンス」に傍点]・フィクションだというSFがある。昔風な空想科学小説という呼び名がぴったりする一群である。ハードSF≠ニいう呼び名にはいろいろ議論があって、正確にはどうかわからないが、普通の使い方であればこれをハードSFと呼んでもかまわないだろう。
本書はそういうSFの一|集合《セット》の中でもさらに極端な部分集合《サブ・セット》に属する、発明・発見テーマ≠フ作品である。これはかつては非常に繁栄したが、現代ではほぼ絶滅したと信じられている、あの偉大な古代種族の直系の子孫なのだ。短編では細々と生き残っていた。また、その血は他の進化した種族の中にも確かに受け継がれてはいたのだが、まさかこれほど堂々と復活するとは思っていなかった。よくぞがんばったという感じである。
ヒューゴー賞の名を今に残すヒューゴー・ガーンズバックは、この発明・発見≠フ物語こそをSFと(正確にはサイエンティフィクションと)命名した。彼の創刊した世界最初のSF雑誌<アメージング>の第一号で、彼は「科学的なファクトと予言的なビジョンが混じり合った、魅力的なロマンス」をサイエンティフィクションと名付け、それは「常にためになるものであり、知識を口あたりのよい形にして供給するものだ」といっている。実際には、必ずしもこのような科学啓蒙的、予言的な作品が主流となったわけではない。しかし、今世紀初めの科学・技術革命の中で、SFはまず第一に、未来の新発明を予見しようとしたのである。
本書は、天才科学者のただ一つの新発見とその科学的・技術的発展にほとんどそのエネルギーのすべてを費やして書かれている点で、「ためになる」かどうかは別としても、このガーンズバック的SFの定義に合致している。もちろん、現代のSFであるから、科学者の社会との関わり方とか、そのモラル的な側面にも重点が置かれている。だがしかし、それは現代においてかの発明・発見物語を復活しようとするとき、必然的に生じる、避けられない問題であるともいえるのだ。この点に言及がなかったとしたら、おそらく読むに耐えないものとなっていただろう。だが本書の本当のテーマは、あくまでも新発見の科学理論とその応用≠サのものにあるのだ。
ホーガンが創作した新発見の理論は、一種の統一場理論で、その核心は、重力場をも含めて記述したところにある。その重力の考え方はかなりユニークなもので、実際の科学理論にこれにヒントを与えたようなものがあるのかどうか、筆者は知らない。おそらく数学的・理論的根拠は何もない架空のものにすぎないのだろう(しかし多次元の空間によって重力場をも幾何学化する試みは実際になされており、たとえば十六次元の時空を考える理論がある)。重要なのは、この架空理論ひとつから、後はわりあい自然なスペキュレーションによって、まるで魔法のように意表をつく成果が次々と現われてくることだ。現代科学の常識に反するビッグ・バン理論の否定まで、当然の帰結として出てくるのだから、まったく驚かされる。
これを擬似科学にすぎないといって退けることはたやすい。まるで科学解説書のような記述があちこちに見られるが、根本の理論が創作なのだから、すべて意味のないものではある。しかしそれが嘘だとわかっていても、宇宙の謎が目の前で解明されるのを見るとき、センス・オブ・ワンダーを感じないSFファンがいるだろうか。おまけに現代の最先端の科学理論は難解で、しろうとの目にはそれが正しいのかどうかわからなくなっている。わかるのは、それが公認されたものかどうかということだけなのだ。だとしたら、知的カタルシスを与えてくれるアイデアが、実際は未公認な現実の仮説であっても、作家が考えた架空のものであっても、どれほどの違いがあるというのか。もちろんSFと現実を混同してはならないが、未知の世界を切り開いていく時に感じる感動は、現実の科学と変わらないはずのものなのだ。
これこそ発明・発見テーマ≠ェ、SFのメイン・テーマからは外れたものの、幾多の名作の中でサブ・テーマとして生き続けてきた理由でもある。
とはいえ、現代のように科学が複雑化し、社会との関係も単純でなくなった時代に、かつてのスーパー科学者たちが住みにくくなったことは確かだ。科学者も組織の一員にすぎず、自宅の裏庭で宇宙船をつくるなどということはできなくなった。そう信じられてきた。
また、事実そうである。本書でも、科学者と組織との葛藤が大きなテーマになっている。にもかかわらず、とりわけ七〇年代の末あたりから、新しい時代が始まろうとしているかのように思える。再び科学が個人の手に届く時代。あるいはそういう方向性が常に求められる時代。裏庭で作った熱気球やハンググライダーで人々が空を飛び、能力的にはかつての大型コンピュータに匹敵するコンピュータをマイコン少年が手づくりする時代。本書の背景には、そういう新しい科学の時代である現代が反映しているのだ。おそらく十数年前なら、決して書かれなかった作品だといえるだろう。発明・発見テーマ≠ェこのような形で復活し得た理由はきっとそのあたりにあると思っていいだろう。
それにしても昔は簡単だった。リチャード・シートンやリチャード・アーコットといったかつてのSFのスーパー科学者たちは、読者を煙に巻くのに、これほどこみ入った理論を必要としなかった。<]金属>で十分だった。今では、同じスペオペ効果≠実現するのに、これほどの書き込みが必要なのである。そして、それがあまり違和感なく読めるということは、われわれの住んでいる現実そのものが、かつてのSF世界としだいに接近していることを示しているのではないだろうか。
ともあれ、本書は、架空ではあるが大変に現代物理学的なリアリティのある理論を基に、そこからあの昔なつかしい超発明、超兵器を導き出すスーパー科学者の物語である。過去の同僚たちと違い、彼には組織と政治の中にいる故の、悩みや苦しみがある。しかし、本質的には単なる[#「単なる」に傍点]発明・発見SFであるということが、積極的な利点となって、本書を壮快な読み物としているのだ。
そこには純粋な発見の喜び「ユーレカ」がある。ハードSFが、|難しい《ハード》SFだとお思いの読者には、ひょっとしたら本書の科学解説的部分は読みやすいといえないかもしれない。飛ばして読んでもさしつかえないだろう。だが、その部分に本書のエッセンスがあることを忘れないでいただきたい。別に理解する必要はないのだ。何だかわからないが、一所懸命考えているのだな、で十分。だまされる喜びを味わってほしいものだ。そうしてこそ、あの超兵器創世記機械≠フ作動する際の、胸のすくようなスペクタクルが、心から楽しめるというものだ。
作者、J・P・ホーガンについては、『星を継ぐもの』の解説に詳しい。最近聞いた話では、日本での評判が大変いいのに、ずいぶん感謝し、喜んでいるとのことだ。さすがは技術大国、ニッポンというところだろうか。