イリアス(下)
ホメロス作/呉茂一訳
目 次
第十三巻〜第二十四巻
解説
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主要人物
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アカイア(ギリシア)方
【アガメムノン】ミュケナイ城主。全ギリシア軍の総帥。アトレウス家の当主。
【メネラオス】アガメムノンの弟。スパルテの王で、ヘレネの前夫。
【アキレウス】テッサリア・プティエの領主でアカイア軍第一の勇士。彼とアガメムノンの抗争が本詩の主題をなす。
【パトロクレエス(愛称パトロクロス)】父メノイティオスの代からアキレウスの家に寄寓、いっしょに育ち親友また介添役をつとめる。
【アイアス】大、小の両人あり、大アイアスはサラミスの領主テラモンの子。大柄で豪傑肌の、アキレウスに次ぐ強剛の勇士、アキレウスの従兄弟に当たる。小アイアスはロクリスの小領主でオイレウスの子、小柄だが足が速い。
【オデュッセウス】イタケ島の領主。智謀すぐれた勇将。『オデュッセイア』の主人公。
【ネストル】半島西海岸の都ピュロスの領主、三代にわたる名将として尊敬される。海神ポセイドンの子ネレウスの息子。
【ディオメデス】アルゴス出の青年武将。父テュデウスはアルゴス王アドラストスの婿で、テバイ攻撃七将の一人として聞こえる。ギリシア陣の花形の一人。
トロイア方
【プリアモス】イリオスの城主でゼウスの子というダルダノスの後裔。父はラオメドン。五十人の息子と五十人の娘をもつといわれる。
【ヘカペ】その正妻でプリュギア王デュマスの娘。
【ヘクトル】プリアモスの嫡長子で、トロイア方第一の勇将。「きらめく兜」とか「武士を殺す」とかよばれる。
アンドロマケ】ヘクトルの妻。間に幼児アステュアナクスがある。ミュシアのテバイの領主エエティオンの娘。
【パリス】ヘクトルの弟で、ヘレネを誘拐し、戦因をつくった「パリスの審判」の張本人
【サルペドンとグラウコス】ともに小アジア、リュキエの領主で従兄弟の間柄。シシュポスの孫の英雄ベレロポンの後裔。サルペドンはゼウスの胤とされ、ともにトロイア方の花形。
【アイネイアス】トロイア方の勇将でトロイア王家の分派に属する。父アンキセスがイダ山中で女神アプロディテの愛をうけ、もうけたといわれる。後に亡国の難をのがれ、イタリアに赴き、ローマ建国の祖になったと伝える(ウェルギリウス『アエネイス』の主人公)
【ヘレネ】もとメネラオスの妻。今はトロイアでパリスと結ばれ、微妙な立場にある。父はゼウスとされ、母レダが白鳥の姿のゼウスを愛して生んだ卵から出たという。アガメムノンの妻クリュタイメストレの姉妹で双子神とも同胞である。
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凡例
本訳文中に≪ ≫で示した個所は、学者によってテクストの純正でないと判断された部分、または異読の部分を表わす。また《》の部分は、訳者が通読理解の便に供して付加したものである。
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船脇で戦いの段
【トロイア方が優勢になったので、ゼウスは安心し、他の仕事へと眼を放した。そのあいだに隙を狙っていた海神ポセイドンはギリシア方を力づけ、大将たちを激励する。クレテ島の王イドメネウスはこれに応じて奮戦、メネラオスやアイアスもこれに倣《なら》う。しかしトロイア方もやがて勢いを取り戻し、ヘクトルを先に立てて応戦する】
さてゼウスは、トロイア勢とヘクトルとを船陣のかたわらまでいかせると、彼らをそのまま船のわきにほうり出して、情け容赦もなく苦しい目やいたましい目にあわせておき、自分自身はまた輝かしい眼を転じて、はるかに、馬を飼うトラキア人《びと》や、身近に寄って戦うミュシア人、あるいは誇りの高い馬乳の飲用者であるヒッペモルゴイ族〔「牝馬(の乳)をしぼる種族」の意でスキュタイ人など、南ロシア地方の遊牧民族をさす〕、また人間のうちとりわけ義を守るアピオイ族の郷々《くにぐに》をごらんなされて、トロイアには、もはやけして輝かしい眼を向けられなかった。というのも、不死である神々のうちで誰かが出張ってきて、トロイア勢にしろ、ダナオイ勢にしろ、加勢しようなどとは、夢にも予期されなかったからだった。
ところが、大地を揺する御神(ポセイダオン)のほうでは、けして盲の見張りをしてはいられなかった。つまり御神は、森に蔽われたサモス〔トラキアの海岸近くにあるサモトラケ島。有名な勝利の女神像が発掘されたところで、ポセイドンの聖地〕のいちばん高い山頂に御座《ござ》なされて、戦さや撃ち合いの様子を見ては、不審に思っておいでだった。そこからは、ゼウスのいるイデの峰々が残らず見渡せ、プリアモスの城市《まち》も、アカイア軍の船陣もくまなく見渡せた。そこ、山頂に海中から出て、御座なされ、アカイア方がトロイア勢に打ち破られてゆくのを憐れと思うにつけ、ゼウス神に対して、けしからぬことと立腹された。
それでさっそくに、切り立ってけわしい山から、大急ぎに足を運んで降りておいでになると、高い山々も森も、ポセイダオンが歩む、その不死の足もとに、震えて揺れた。三度|御足《みあし》を延べて歩まれ、四度目には、目的地であるアイガイにお着きになったが、このところには、世にも名高い社殿が、入江の深みに、とこしえに朽ちることなく、黄金の光まばゆく設けられていた。
そこへおいでになると、神駕《おくるま》のもとに、青銅の足の馬を二頭、飛ぶように速く、黄金のたてがみを生え垂らしたのを軛《くびき》につけ、ご自身は、黄金の帷子《よろい》を着込み、つくりもみごとな黄金の皮の鞭を手に取って、神駕に乗りこみ、波の上を馳《は》せてゆかれた。その足もとには、くさぐさの大魚が、四方のかくれがから出てきて、こおどりするのは、もとよりご主君をよく知りわけてのこと。大海《わたつみ》もまた喜びにみちみちて割れ、道を開けば、馬どもは矢のように飛んでいく。その速いことは、下のほうの車軸の心棒さえ水に濡れないくらいである。よく跳びはねる馬どもは、アカイア軍の船陣へと御神を運んでいった。
ところで、テネドス島と、けわしい岩のインブロス島とのまんなかへんの、深くたたえた水の底に、広やかな洞窟がかくれている。そこに大地を揺するポセイダイオンは神駕《おくるま》を停めて車から馬どもを解き放ち、かぐわしい神糧《アンブロシア》を、馬の飼い葉として投げ与えられ、また馬の足へは、ぐるりに黄金の足枷《あしかせ》の、けしてこわれず、また解けもしないのを、御神のお帰り時まで、しっかりそこへそのまま待っているよう、あてがってから、アカイア方の陣営へと出かけてゆかれた。
その間にもトロイア勢は、一団となって、火焔と同様、また疾風《はやて》の風みたいに、プリアモスの子ヘクトルに従っていった。ひたすら気負いこんで、騒ぎの音も叫びの声もみな一つにして、アカイア方の船々を占領してから、そのかたわらで大将たちを皆殺しにもしたいものと待ち望んでいた。ところが、大地を揺すぶるポセイダオンは、深い海からおいでなさると、体つきといい、よくとおる声といい、カルカスにそっくりそのまま化けこんで、アルゴス勢を激励された。まず手始めには、それでなくてももう意気ごみのすさまじい二人のアイアスに向かっていわれるよう、
「アイアスたちよ、きみら二人でアカイア勢を護ってくれ、武勇をつねに心に忘れず、身ぶるいのする敗走などは念頭になく。それというのも、トロイア軍の負けを知らない腕の力といっても、私はけして恐れはしない、たとえ彼らが大勢、群をなして高い囲壁を乗り越えて来たといっても。そいつらは、皆、脛当てをよろしく着けたアカイア勢が食いとめるだろうからな。ただとりわけて、私が心配するのは、あちらのほうで、何か非常に恐ろしい目にあいはすまいかということなのだ。あちらの、狂気につかれたように、燃える火とでもいう勢いで、ヘクトルが先駆けてくるところではだ、彼《あれ》は、とりわけ神威《みいつ》の大いなゼウスの子だと威張っているが。それゆえきみら二人に、どの神さまかが、こんな心を起こさせてくれたらありがたいがな、自分たちからまず頑強に踏みとどまって、他の者にもそう命令するのだ。そうしたら、たとえどれほど彼が勢いこんで押し寄せようと、進みの速い船々から追いしりぞけられよう、たとえオリュンポスなるゼウス神がご自身で、けしかけられたものにもせよ」
こういって、大地をささえ大地を揺すぶる御神は杖で二人をおたたきなされ、がっしりとした剛勇の気で満ちあふれさせ、手足も軽やかになされた。両足も上のほうの両手もである。それからご自身は、翼の速い隼《はやぶさ》が飛び立とうとする態《さま》をみるよう――その鳥は、山羊さえ通わぬとびぬけて高い岩からはるかに舞い上がって、広野のうえを他の小鳥を追いかけようとかけり立つ。そのように、大地を揺するポセイダオンが、二人のわきから飛び立たれたのに、二人の中でも先にオイレウスの子の(足の)速いアイアスが、それとさとって、テラモンの息子のアイアスに向かっていうよう、
「アイアスよ、さてはどなたか、オリュンポスにお住まいの神々のうちのおひと方が、占い師(カルカス)の姿を仮りて、われわれに、船のかたわらで戦うようにと命じられるのだ。けしてあれは、神託を伝える烏占い師のカルカスではない。足や脛《すね》やの運び工合で、うしろのほうからすぐにそれとわかったのだ。神さまがたというのは、まったく分明なものだな。それで私自身にしても、いっそうこのいとしい胸いっぱいに勇気を覚えて、討って出て戦い合おうと、はやり立っている。下のほうの両方の足、上のほうでは両腕とも張り切ってるぞ」
それに向かって、テラモンの子のアイアスが答えていうよう、
「まったくそのとおり、いまでは私だって、槍をつかんでいるこの天下無敵という腕が張り切っている。それに勇気も湧き立ってきて、下のほうでは両足がもうむずむずとしてきた。それゆえいまは、プリアモスの子ヘクトルと、どれほど彼がひたすらにきおいこんでいようとも、ひとりでも、渡り合おうと熱望しているところなのだ」
このように二人は、御神が彼らの心に打ちこんでくれた戦さへの熱意に喜びながら、かようなことをたがいに語りあった。またこの間に、大地をささえる御神は、後詰《ごづめ》の人数を激励してふるい立たせた。この連中は速い船のかたわらでやっと人心地を取り返したものだった。前にはみじめたらしい疲れのために、手足もすっかりぐったりしきって、胸さえも、トロイア勢が大囲壁を群れをなして乗り越して来るありさまを見るにつけ、切ない思いにふさがり、敵の軍勢をながめては、暗然として涙を流しつづけたのも、禍いをとうていうまく逃れようとは思えなかったからである。しかし大地を揺すぶる御神は、いまがっしりとした隊伍のあいだへはいっていかれて、一同を激励してまわられた。
まず手始めにはテウクロスを、それからレイトスを訪ねて励まし、つぎにはペネレオスの殿、またトアスとデイピュロスと、メリオネス〔イドメネウスの甥で、彼のもっとも忠実な従者〕にアンティロコスなど、戦さの雄叫びをもよおさせる大将たち、この人々を励まし立てて、翼をもった言葉をかけていうよう、
「恥を知りなさい、アルゴスの者として、まだ若い元気な武士が。きみたちをこそ私はあてにしていたのだ、奮戦して、われわれの船陣を無事護ってくれるだろうと。だがもしきみたちがこの残酷な戦いを放棄するなら、いまこそトロイア方にやっつけられる日が見えるというものだ。ああ、何たることか、まったく、たいした不思議をこの眼で見るものだ。恐ろしい。これまでかつて私としては、実現しようなどとは夢にも思わなかったこと、トロイア勢がわれわれの船のところへ押しかけて来ようとは。以前には、すぐに逃げ出す鹿みたいな連中だったのに――林の中で、山犬だとか豹《ひょう》だとか、あるいは狼などの餌食になるもの、何の力もなく、いたずらに逃げまわっているばかり、戦う気などはさらにない、その鹿みたいに、トロイア勢など以前にはアカイア軍の鋭気なり武力なりを、まっ正面から受けて立とうとは、いささかたりと思いもしなかったものだ。
それがいまでは、城から遠く出て来て、中のうつろな船陣のかたわらで戦っている。というのも、みな、指揮する者の卑怯さと、兵士たちの怠慢からだ。その人々は、あの男(アキレウス)と喧嘩をしてから、進みの速い船々をもう防ぎ護ろうという気をなくしてしまって、いまでは船陣中でもどんどん殺されている。だが、たとえまったく、あのアトレウスの子の広大な国の主であるアガメムノンの殿に、まちがいなしに責任があるにしたって――足の速いペレウスの子(アキレウス)に、ひどい侮辱を与えたのだから――それだからといって、けしてわれわれが戦さを放棄していいという道理はない。
それよりすぐにも宥和《ゆうわ》の道を講ずるのがよい。立派な男は、心にかならず和解《なごみ》を心得ているものだ。だがきみたちが、もうこのうえ勇猛果敵の意気を捨てさるならば、けっして褒《ほ》めたことではない。きみたちは特別にみな、全軍中での強豪ぞろいなのだから。つまり私だって、けちくさいやつが戦さを怠けていたというて、格別苦情をいい立てはすまい。きみたちについては、心底からけしからんことと思うのだ。なあ、きみたち、気のやさしいかたがたは、さっそくにも、もっと大変な災難をこの怠慢からつくり出すことだろうよ。だからよくよく、胸のうちにめいめいが、廉恥の心と正義の憤りをしまっておけ、大変な戦さがおっ始まったのだぞ。ヘクトルが、それこそ雄叫びも勇ましく、船々のかたわらで戦ってるのだ、剛の者とて、大門も長い閂鉄《かんぬきがね》も打ち壊したぞ」
このように激励しつづけ、大地をささえる御神は、アカイア勢を奮起させた。二人のアイアスを取り囲んで、幾重もの隊伍ががっしりと構えられた。その堅固さは、たとえアレスがおいであろうと、また兵士たちをそそのかせるアテネなりとて、あなどりはできなかろうほどだった。勇士たちを選りすぐって、槍には槍を、大楯には楯の裾を重ねて垣根をつくり、トロイア勢と、勇ましいヘクトルを待ち受けていた。されば手に持った楯は楯に、兜は兜に、人は人にもたれかかり、馬の房毛の前立てに、きらめく打ち金をうった兜は、うなずくたびに(隣のと)触れあったが、それほどたがいに、すきまもなく立ち添っていた。また槍はといえば、大胆不敵な武士たちの手に振られているのが重なりあうほど、みなひたすらに敵を目ざして戦さへと勢いこんだ。
まず先をかけて攻め立てたのはトロイア方で、ヘクトルが先頭に立ち、一団となり、まっしぐらに勢いこんで、巌頭から転がりおちる岩塊のように突進してくる。その岩は、崖のふちから、水かさの増した冬の河流が押しころがすもの、とてつもない降雨でもって鉄面皮な岩の土台も壊してしまって。空高く跳ね上がりながら、とんでゆき、その岩のため、あたりの森さえとどろき渡ると、石塊は何の邪魔も受けずに、一散に馳《はせ》っていく、その果ては平地に着くが、そうするともう、どんなに急《せ》こうと転がらなくなる。
そのように、ヘクトルも、しばらくの間に、陣屋と船とのあいだを通り抜けて、殺戮《さつりく》をはたらきながら、やすやすと海のふちまでゆけそうな勢いだった。だが、いよいよ、例の堅固に組んだ隊伍に出くわすと、ひどい勢いでぶつかってから立ち止まった。これをむかえたアカイア人の息子たちは、剣をもって、あるいは鋒が二つに割れた槍をもって突き立てながら、手もとから押し返すのに、ヘクトルはたじろぎながら引き退った。だが、あたりに響きわたる大昔声で、トロイア方に呼びかけるよう、
「トロイア勢もリュキア勢も、近くで戦うダルダノイたちも、みな持ちこたえろ、けして長いことは、私を、アカイア勢がささえられはしないだろう。たとえどれほど彼らが、みんなくっつきあって、櫓形《やぐら》となり防ごうとしても。きっと私の槍を恐れて引き退くにちがいあるまい、もし本当にゼウスが私を起たせたもうたのなら、至高至大の御神にまし、はげしくいかずちを鳴らされるヘレの夫の神が」
こういって、誰も彼もの勇気と熱意をふるい立たせた。その中にも、デイポボスは、昂然として体の前に、四方によく釣合いの取れた楯をささげて闊歩して出た。プリアモスの子である。それが足どりも軽々と進み出て、楯にかくれて歩みを運ぶ。そこを狙ってメリオネスがきらめく槍を投げつければ、狙いあやまたず、牡牛の皮の、よく釣合いのとれた楯にあたったが、中へはすこしもはいってゆかずに、それよりずっと以前に槍の穂のつけ根から、長い槍が折れてしまった。デイポボスが牡牛の皮の大楯を、体から前へ離してささげたのは、心中で、武勇すぐれたメリオネスの投げ槍に恐れをなしたからだったが、その勇士は、またもとへ、味方の軍勢へととって返した、二つのことのために、たいそう立腹して。つまり勝負と、折れて砕けた槍とのせいで。それでまた、陣屋のならびやアカイア軍の船並みに添っていって、自分の小屋に残してきた長い槍を取って来ようと出かけていった。
一方、ほかの人々は、戦さをつづけてゆくほどに、消しようもない叫喚の音が湧き上がった。まず手始めに、テラモンの子のテウクロスが討ち取った武士は、槍の達者なインブロスという者で、たくさんな馬の持ち主であるメントルの息子だったが、アカイア人《びと》の息子たちが攻め寄せて来る前には、ペダイオンに住まいして、プリアモス王の脇腹の娘、メデシカステを娶《めと》っていた。だが、ダナオイ勢の、両端の反り返った船々が来ると、またイリオスに還って来て、トロイア人《びと》の間に頭角をあらわし、プリアモスのそばに住まいして、その子たちと同じくらいに大事にされていた。
その男をテラモンの子(テウクロス)が、長い槍で、耳の下を突き刺してから、その槍をまた引き抜いたので、こちらは、トネリコの木みたいに打ち倒れた。その木は遠くからもとりわけはっきり見える丘の頂きにあったのが、青銅(の斧)に切られて、しなやかな葉を地に近寄らせる、その木のように打ち倒れると、体のまわりに、青銅でたくみにかざった物の具が、鳴り渡った。
そこでテウクロスは、その物の具をはぎ取ろうものと、きおいこんで駆け寄ったが、その駆け上るところを狙って、ヘクトルはきらめく槍をほうりつけた。だが、こちらもそれをまともに見てとり、青銅の槍を、ちょっとのところでよけたもので、今度はアクトルの裔《すえ》であるクテアトスの子アンピマコスの胸のところへ槍があたって、物音を立てて打ち倒れる、その身の上に物の具が、からから鳴った。
そこでヘクトルは、突進して、こめかみにしっかとつけた星兜を、気象のひろいアンピマコスの首からはいで取ろうとするのを、アイアスが、こう突き進んで来るヘクトルを目がけ、きらめく槍を突き出したが、全身をおびただしい青銅の物の具で蔽いかくしていたものだから、とうてい肌までは届かなかった。しかしこちらも楯の臍《ほぞ》を突き刺して、ひどい力で押しつけたので、ヘクトルは、屍を両方とも置いて、うしろへ退った。それで、二人の屍をアカイア勢が引っ張って帰った。
アンピマコス(の屍)には、スティキオスと勇ましいメネステウスと、二人のアテナイ勢の大将がつき、アカイア軍の中へと運べば、インブロス(の屍)のほうは、はげしい戦さへの熱意に燃える両アイアスが(運んでいくのは)、ちょうど二匹の獅子が、鋸歯をした犬どもの見張りの隙を狙って、山羊を一匹うばい取り、びっしりと生い繁った木立のあいだを、地面から高々と顎にくわえて運んでいくよう。そのように高々と屍を抱えて、甲冑に身を固めた両アイアスが、その物の具をはいで取った。その上にもオイレウスの子(小アイアス)が頭を首から切って落したのは、アンピマコス(が殺されたの)に憤激したもので、円盤みたいにその首をぐるぐるまわして、軍勢の中へほうりつけると、(その首は)ヘクトルの足もと、すぐ前のところへ、砂塵の中へばったりと落ちた。
このおり、ほんとうに心頭から、ポセイダオンは、自分の孫が恐ろしい斬り合いの中で殪《たお》れたのに、忿《いか》りを発して、アカイア軍の陣営や船々に沿って、ダナオイ勢を励まし立てに出かけていかれて、トロイア方には、禍いを企み出そうとかかられた。まず御神に出くわしたのは、槍を取っては誉れの高いイドメネウスで、いましも手下の見舞いから出てきたところだった。その男は、鋭い青銅(の槍)で膕《ひかがみ》を傷つけられて、戦場からいましがた戻ったばかりのところだった。
仲間の者らがその男を運んできたので、イドメネウスは、医者たちに向かって指図をすませ、陣屋へ帰る途中だった。というのも、また戦さに参加しようと意気ごんでいたものだが、それに向かって大地を揺すぶる御神は、声をアンドライモンの息子のトアスに似せて話しかけた。この大将(トアス)は、プレウロンの全域から、けわしいカリュドンにわたって、アイトリア人《びと》を治め、民から神にもひとしく敬まわれていた。
「イドメネウスよ、クレテ軍の指揮を執られるきみの、以前のあの高言はどこへいってしまったか、アカイアの息子どもがトロイア人《びと》らをおどしていったことは」
それに対して今度は、クレテ勢の大将イドメネウスが向かっていうよう、
「おお、トアスよ、誰一人として、いまのところ咎めを負うべき者はないのだ。もっとも私の知る限りではだがな。われわれはみな、一人のこらず、戦さにかけては心得がある。また誰一人、勇気を失くして臆病風にとりつかれたり、気おくれから苦しい戦さを脱れ出ようなどという者はない。ただこの始末はまったく、とりわけて稜威《みいつ》の高いクロノスの御子の思召しから、かようになったものにちがいない、名誉もなく、アルゴスから遠く離れたこの場所で、アカイア勢が滅びるようにと。だがトアスよ。以前からも、きみはよく戦いにも辛抱してきたし、他人がぐずぐずしているのを見ては、いつも激励してくれたものだ。それゆえいまでも相変らず、誰彼の差別なく、やまずに激励してくれ」
それに答えて、今度は、大地を揺すぶるポセイダオンがいわれるよう、
「イドメネウスよ、もうそんな男は、けしてトロイアから帰国もできず、この土地でこのまま(死んで)、野人のおもちゃになったがいい、このような日に、自分から戦さを怠ける男などは。ともかくさあ、物の具をここへ取ってきなさい、急いだがいい。われわれが二人きりでも、役に立つか立たぬか見せてくれよう。力を合わせてやれば、たとえずいぶん惰弱な者どもだって、相当な働きをする、ましてわれわれ二人ならば、どんなに強い相手とさえ戦うことが十分できよう」
こういうと、御神はまた、武士たちが闘う中を通っていかれた。こちらのイドメネウスはいよいよ、しっかりと造り上げられた陣屋に着くと、立派な甲冑を着こみ、二本の槍をひっつかんで、出てゆく姿はいなびかりにもまごうほど――クロノスの御子が、閃々としてきらめきわたるオリュンポスから、人間界へと象《きざし》を示される、そのいなびかりのきらめきは遠眼にまでもはっきり見られるが――そのように、馳《はせ》ってゆく胸のあたりに青銅の光がきらめきわたった。
その途中で、勇しい介添え役のメリオネスと、まだ陣屋に近いところで出くわしたが、(こちらも同じく)青銅をはめた槍を取りにゆくのへ、声をかけて、剛勇のイドメネウスがいうようには、
「メリオネスよ、モロスの息子で、足も早く、私の仲間のうちでもことに親しいきみが、どうしてまた、戦さや斬り合いをやめてやって来たのだ。それともどこか撃たれでもして、鋭い槍の先がひどくきみを悩ますのか。それとも誰かの使いで、言伝《ことづて》をしに私のところへやってきたか。むろん私自身だって、陣屋にじっと坐っていたくは決してないので、戦うのこそ本望だが」
それに向かって、今度は利口者のメリオネスが、答えていうよう、
「イドメネウスよ、青銅の帷子《よろい》を着こんだクレテ勢の指揮をとるかた、ここへまいりましたのは、もし陣屋に槍が残っていたらば、いただきたいと思ってなのです。前から私が持っていたのは、あの思い上がったデイポボスの楯へとぶつけて、折ってしまったものですから」
それに向かって、クレテ勢の大将なるイドメネウスがいうようには、
「槍がもし望みとあれば、一本でも二十本でも、陣屋の中に見つかるだろう、とてもぴかぴか光る横壁に立てかけたのが。トロイア方の殺された者から奪ってきた槍だ。それというのも私はけして、敵の武士たちから遠く離れて戦さをしようとは思わないからだ。それで私はたくさんな槍をそろえておき、臍《ほぞ》をもった楯や兜や、きらきらと美々しく輝く胸甲など、いくそろえも置いとくわけだが」
それに向かって今度は、利口者のメリオネスが答えていうよう、
「それはもう私にしても、陣屋にも黒塗りの船の中にも、トロイア方からの分捕り品はたくさん置いておりますが、いますぐ使えるのが手近にないだけなので。もちろん、私だって、けして武勇を忘れてしまってはおりません。いつだって、戦いの応酬が始まれば、先手の勢に加わって、武夫《もののふ》に誉れを与える戦さのあいだじゅう立ち働くもの、まあ青銅の帷子を着けたアカイア勢の、他のかたがたに、私の戦いぶりがお目にとまらぬことはあっても、あなたご自身だけはご承知だと思うのですが」
それに向かって今度は、クレテ勢の大将のイドメネウスがいうようには、
「もちろん、きみの働きぶりはよく知っている。それはいうにおよばないことだ。つまりいま、船陣のかたわらにいるわれわれ(アカイア軍の)武勇の者どもが、進撃隊を中から選び出すとしたら――そこでは人の働きが、いちばんわかるものだ、誰が臆病者か、誰が勇気のある男かがだな、はっきりと示される。というのも、臆病な男の顔色は、いろいろに場合場合で変わり、胸のうちの気分さえ、じっとしっかり引きとめてはおかれない、それで右の足だの、左の足だの、いろいろ場所を変えてしゃがんだり、両足で坐ってみたり、いろんな死にざまを考えては、胸のうちで心臓がはげしく鼓動をし、歯の根も合わず、がくがくする。ところが、勇気のある者は、一度武士たちの伏兵隊に加わって坐ったからには、けして顔色を変えたり、やたらに物おじしたりしない。それで、すこしでも早くいたましい斬り合いに加わりたいと祈るばかりなのだ、こうした際に、きみの勇気や膂力をあなどるものは、けしてなかろう。
たとえまたきみが、力戦しているあいだに、矢で射られたり、槍で突かれたりしたとしても、その矢や槍は、かならずきみの後ろ頭だの背中だのにあたることはなく、胸だとか腹だとかにあたることだろう、先手の勢いの混戦のさなかへと、きみが気負って進むところに。ともかく、さあ、このうえここに立ちどまって、がんぜない小童《こわっぱ》みたいに、しゃべっているのはやめにしよう。ひょっと誰かに見つかって、ひどく怒られては大変だ。きみは、陣屋へいって頑丈な槍を取って来るがいい」
こういうと、メリオネスは、足の速い軍神アレスにも劣らないほど、またたくまに陣屋から青銅《をはめた》槍を取って来て、イドメネウスの後を追って、たいそうな意気ごみで、戦場へと出かけていった。その様子は、人間の禍いであるアレス神が戦いへと赴くようで、そのそばには、愛《いと》し子である「潰走《ポボス》」という勇猛果敢に怖れを知らぬ御神――我慢強い戦士をさえ潰《つい》えさせる御神――が従《つ》いていく。この両神は、トラキアから物の具に身を固めて、エピュレや、あるいは意気のさかんなプレギュアイの市人《まちびと》たちのもとへと出かけられたが、両方の言い分は聴かれないで、一方だけに勝利の誉れを授けられた。その神々にも似た姿で、メリオネスとイドメネウスの、二人の武士の頭領たちは、輝く青銅に身を固めて、戦いへと出かけていった。まず先に、メリオネスが話しかけていうには、
「デウカリオンの子(イドメネウス)よ、いったいどの方面の軍勢に参加なさるおつもりですか、全体の戦さの陣の、右手のほうか、まんなかへんか、それとも左翼のほうへですか。どうやらどこでも、あそこ(左翼)ほど、頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア勢が、戦さの捗《はか》がいってないところはないようですから」
それに向かって今度は、クレテ勢の大将イドメネウスが答えるよう、
「船陣の中央あたりには、防禦のために、他の人々がいる、両アイアスとかテウクロスとか、彼はアカイア勢中でも第一の射手と聞こえた者だが、接近戦にも巧者である。この人々が、プリアモスの子ヘクトルを、たとえどんなに彼がはやり立っていようと、また剛勇であろうと、戦さにかけて熱心だろうと、この人々の勇気だの、無敵といわれる腕の力に勝利を得たうえ、船々に火をつけるのは困難なことだろうよ。もしクロノスの御子(ゼウス)がご自身で、焔をあげている燃え木を、速い船々へと投げこまれるのでなかったら。
まあ人間にたいしては、あのテラモンの子の大アイアスは、けしてひけはとるまいからな――やがて死ぬはずの、デメテル女神の穀物粒を食うて生きる人間の身で、青銅(の刃)に斬られ、大きな石のつぶてにも傷つくような人間どもには。いかにも、武士を斬り倒すアキレウスにだって、一騎打ちでは、おそらくひけはとらないだろう、まあ足の速さでは、とうていおよばないとはいうものの。こういうわけだから、われわれ二人を、左翼のほうへ向けてくれ、すこしでも早く、他人《ひと》に誉れをさし出すか、われわれ自身が誉れをうるか、はっきりするように」
こういうと、メリオネスは、足の速いアレスにも劣らない速さで、先頭に立って進み、指図された通りの、軍勢がいるところへ着いた。
さて敵軍は、その勇ましさは燃える火のようなイドメネウスが、自身と介添え役(メリオネス)とともども、巧みをこらした立派な甲冑を着けてきたのを見ると、たがいに励ましあいながら、群集を分け、彼をめがけて、押し寄せて来た。こうして、両方の隊《て》の戦闘が、船々の艫《とも》のところで、みな一様にひき起こされた。それはさながら高い響きを立てて鳴りしきる諸方の風が、渦を巻いてつぎつぎと吹き寄せるとき、砂埃の雲を一面にひどく立てこもらせる、そのように、両軍をいっしょくたにして合戦がはじまり、みな相たがいに、鋭い青銅(の刃)で殺しあおうと、心中に気負いこんだ。
それで人間の破滅である戦いは、めいめいが、肌えを裂こうとさし向ける長い手槍に、さざなみ立って揺れわたれば、輝きわたるたくさんな兜から、また新しく磨きあげた胸甲《むなよろい》から、あるいは燦然《さんぜん》たる大楯から、押し寄せる武士たちの青銅の物の具は目をくらますばかりにきらめき立った。このようにはげしい戦さを見て、なお胸を痛めるどころか、うれしく思う人間は、それこそよっぽど胆の太い男だといわれよう。
つまりクロノスの、偉大な二人の御子は、それぞれ考えが別々で、人間のますらおたちに、ひどい苦悩を、相変らずにもたらしつづけた。ゼウスのほうは、知ってのように、足の速いアキレウスの名誉を増されようとのおつもりから、トロイア方と、ヘクトルのほうを勝たせようと欲せられる。しかし、またまるっきり、アカイア軍を、イリオスの城下で全滅させようとは望まれずに、ただテティスと勇猛な心の息子とに誉れを授けられようとの御心だった。
これに反して、ポセイダオンは、白く波だつ海からこっそり上がってきて、アルゴス勢の中へはいって激励された。というのも、みながトロイア方に討たれていくのを腹にすえかね、またゼウス神をひどく恨んでの振舞いだった。もとより両神ともに、家系も親も同じ一つのものなのだが、ゼウスのほうは、前に生まれて、その知恵分別もいっそう深く広大である。それゆえに、おおっぴらに防ぎ護ってやることは差しひかえられたものの、こっそりと武士の姿に形をかえて、陣営中にいって励まし立てられた。この両神が、かように、それぞれ両方の側へ、きびしい争いやむごたらしい戦いの綱を、絶ち切れも解けもしないよう、引っ張りまわせば、その綱ゆえに、たくさんの兵士たちの膝が萎《な》えくずおれた。
このおりに、もはや白髪《しらが》まじりの年頃ながら、イドメネウスは、ダナオイ方を激励して、トロイア勢に襲いかかり、潰走をひき起こした。すなわちまず討ち車ったのはオトリュオネウスという者で、カペソスから城内へと、それもつい噂を聞いてやって来たのだった。そして、プリアモスの娘のうちでもいちばん容色の美しいカサンドレ〔プリアモスの娘中でも優れて美しく、アポロンの巫女となっていた(という)。後、アガメムノンに伴い、いっしょに殺される〕を、結納なしでもらうという約束をした。結納はなしだが、たいした仕事を果たすというので、つまりトロイアから、アカイア人の息子らを、いやでも応でも追っ払うということで、それで老王プリアモスも承知をして、嫁にやる約束をしたわけだった。男のほうでも、その約束をあてにして戦さをしつづけていた。その人の体を狙って、いまイドメネウスは、きらめく槍を構えてから、反り返って歩いてくるのへ向かって投げると、着こんでいた青銅の胸甲も役には立たず、腹のまんなかへ突き刺さった。地響きうって倒れるのへ、イドメネウスは勝ち誇って声をあげるよう、
「オトリュオネウスよ、まったくおまえを、人間の誰より以上にほめてやるぞ、もしおまえが、ダルダノスの裔《すえ》であるプリアモス王に請け負ったことを本当にそっくり成し遂げたならば。王は自分の娘をくれると約束したが、私らだって、それくらいは約束したうえ、実行するだろうさ、それでアトレウスの子の娘のうちでも、一番の器量よしを、アルゴスから連れ出してきて、おまえの嫁にしてやるだろう、もしもおまえがわれわれと力をあわせて、構えもよろしい城市の、このイリオスを攻めおとしてくれるならばな。だからさあ、ついてこい、海原を押し渡る船の上で、婚礼のことを談合しよう。けしてわれわれだっても、見苦しい縁組み相手ではないのだから」
こういって、足をつかんで、はげしい斬り合いの間を、イドメネウスの殿が引きずっていこうとする。そこを目がけてアシオスが、(自分の)馬車の前に徒歩《かち》立ちとなって、仲間を護り防ごうとやって来た。二頭の馬が(アシオスの)肩のところで、息を吐くのを、介添え役が手綱を取って、しょっちゅう引きとめていた。それでかなたは心に、イドメネウスを撃とうとばかりはやるのを、先がけてこちらのほうから、顎の下の咽喉笛《のどぶえ》を、槍で突いて、青銅(の穂先)をずっぷりと深く突きとおせば、たまらずにどっと倒れる。そのさまは、まるで樫《かし》の本か、白川楊《しらかわやなぎ》か、あるいは丈の高い松の樹でも倒れるときのよう、それを山々の間で、大工の男どもが、砥《と》ぎすました手斧をとって、船材にしようと切り出したものである。そのように、アシオスは(自分の)馬と戦車との前に、長々とのびて身を横たえ、しきりにうなり声をあげては、血みどろになった砂土を握りしめていた。
そこで(彼の)手綱取りはすっかり仰天して、いままでの用心もなくしてしまい、敵兵どもの手を免れて、馬どもをまた引っ返させることさえもできなくなってしまっていた。そのところを戦さに手ごわいアンティロコスが、胴中を狙って槍を突きとおせば、着こんでいた青銅の胸甲も役立たないで、胃の腑のまんなかへと突き立った。そこで男は、はげしい息を吐きながら、囲いのよく造られた戦車の台から転がり落ちる、その馬どもを、度量のひろいネストルの子アンティロコスが、トロイア勢のあいだから、脛当てをよろしく着けたアカイア方へと駆けらせていった。
おりからデイポボスは、アシオスのため憤慨して、イドメネウスのすぐ間近に寄り、きらめく槍を投げつけたが、こちらもそれをまともに見てとって、八方に釣合いのとれた楯のかげに身を隠して、青銅づくりの槍先をかわしおおせた。この楯は、牛の皮を重ねた上に、きらきら光る青銅を渦巻にしてつけ、いつも持っていたものだが、二本の竿が(裏に)ついていた。その陰にいますっかり体をすくめると、青銅の槍が、上を飛んでいった。槍がいま上を飛び越えてゆくのに、楯は乾いた音をたて、叫びあげたが、頑丈な手でほうりつけたかの槍はむだにはならないで、兵士たちの統率者である、ヒッパソスの子のヒュプセノルのみぞおちのもと、肝臓に突き立てば、そのまま膝をくずおれさせた。デイポボスは、大声をあげて、途方もなく得意になりきり、
「もはやけっして、アシオスが仇討ちもされないで、倒れていることはない。きっとあいつは、あのいかめしい門の閉め手の冥王《ハデス》のところへ行くにも、心の中でうれしく思うに相違ない、私がお供をつけてやったから」
こういうと、アルゴス勢は、この広言を聞いてくやしく思った。中にもとりわけアンティロコスは、武勇すぐれた心中を掻き立てられたが、無念には思いながらも、自分の仲間を放置してはおかないで、駆けていって(ヒュプセノルの)まわりを囲み、楯をかざして蔽いかくした。≪その負傷者は、それから二人の信実な仲間である、エキオスの子メキステウスと、勇ましいアラストルが、担《かつ》ぎ上げて、うつろに刳《く》った船々へと、ひどいうめき声を立てているのを、運んでいった≫
イドメネウスは、いっこうにその大勇猛心を制しようとはせず、ただひたすらに、トロイア方の誰彼を、(死の)夜の闇に押しこめるか、さもなければ、自分のほうが殪《たお》れるまで、アカイア軍を破滅から防ぎ護ろうと意気ごんでいた。そのおりから、ゼウスの擁護にあずかるアイシュエテスの愛《いと》し子《ご》であるアルカトオスの殿――この人は、アンキセスの婿として、いちばん年長の娘ヒッポダメイアを妻にしていた。この姫はとりわけて、館《やかた》の内で父親も、母御の君も、心にいとしんでいたものだった。それというのも、同じ年頃の娘たちに、器量でも、仕事の腕でも、心ばえでも、超え優れていた。それでこの姫を、広いというトロイアじゅうでも一番の立派な殿御が妻にしたわけだったが――その殿をいま、ポセイダオンが、イドメネウスに討ち取らせた、きらきらしい眼をまどわせてから、かがやく手足を枷《かせ》でしばって。
それでうしろのほうへ逃げてもゆけず、脇へよけもできないで、ただ柱か、高く葉を繁らせる樹かのように、じっとそのまま突っ立ってるのを、イドメネウスの殿が槍で、胸のまんなかを突き、着ていた青銅の帷子《よろい》を裂いた。これとても、以前は肌から破滅をふせいでいたものだが、この際には、ただ乾いた響きを立てたばかりで、槍の穂先に引っ切れていった。地響きたててどうと倒れる、その心臓に槍はしっかと突き刺さったが、まだぴくぴくと鼓動はつづいて、槍の石突《いしづき》をふるわせていた。それもやがて、いかめしい軍神アレスが、力を抜かせとどめをさしたが。イドメネウスは、大音声をあげ、途方もなく得意になって、
「デイポボスよ、まったくわれわれは、まず同格だといえそうな工合だな、おまえの一人(殺したの)にたいして、三人やっつけてやったのだ。おまえはそれを、たいそう威張っているのだからな。たわけ者め、そんならおまえが自身で、私に面と向かってかかって来るがいい、そしたらゼウスの後裔として、ここに来ているこの私がどんな者かがわかろうからな。まず大神は、いちばん初めにミノスを、クレテ島の守護として儲《もう》けたもうた、それからミノスは、人品すぐれたデウカリオンを息子にもうけ、デウカリオンがこの私を、広やかなクレテ島に、数多くの武士たちの君たるべくもうけたのだ。それをいまこのところへ、たくさんな船が、おまえや、おまえの父御や、その他のトロイア人《びと》への禍いとして、載せてきたのだ」
こういうと、デイポボスは、あれやこれやと思案にくれた。まずうしろへ引き退ってから、意気のさかんなトロイア方の、誰かを仲間に頼んで来たものか、それともひとりきりで立ち向かってみようか、どちらがいいか、思案するうち、まずはこうしたほうが得だろうと考えた。つまりアイネイアスを頼みにいくのだ。すると、その人が群集のいちばんうしろに立っているのが見つかった。平生からアイネイアスは、自分が働きも十分あるのに、尊いプリアモスが、武士のあいだでちっとも重んじてくれないというので、かねがね恨みに思っていたからだった。デイポボスは、その間近にいま行って立ち、翼をもった言葉をかけて、
「アイネイアスよ、トロイア方の相談役でもあるきみが、いまこそ義理の兄弟をぜひとも護ってやらねばならない。すこしでも残念に思うのならばな。さあ、ついてこい、アルカトオスを護ってやろう。むかしから義理の兄として、きみを、小さいころから、屋敷の中で育ててくれた人だ。その恩人を、槍に名を得たイドメネウスが討ち取ったのだ」
こういって、アイネイアスの胸中にはげしい怒りを湧き立たせたので、イドメネウスをめがけ、一途に戦さを心にかけて進んでいったが、イドメネウスとて、年端《としは》もゆかぬ子供みたいに、恐慌にはとらえられずに、これを待ち受ける。その様子は、さながら野猪が山々の間に、自分の武勇をたのんで、勢子《せこ》が大勢、騒々しく群がって押し寄せるのを、待ち受けるように――人気のない淋しいところに、上のほう、背中は一面に毛を逆立て、両眼は火と燃え輝き、牙を磨いて、犬どもにしろ勢子たちにしろ、相手にとって防ぎ戦おうとはやり立っている――そのように、槍に名を得たイドメネウスは、助太刀にと向かって来るアイネイアスを待ち受けて、いっかな退こうとはしなかった。そして仲間に呼びかけて、アスカラポスやアパレウスや、デイピュロスやメリオネス、アンティロコスなど、みな戦いの雄叫びのもよおし手のほうを見やって、この人々を激励しながら、翼をもった言葉をかけて、
「おい、ここへ来て、きみたちも、ひとりっきりの私に加勢してくれ。たいへんに怖い気がするのだ。足の速いアイネイアスが、向かってきて、いまにもかかってこようというのだ。あれは戦さにかけては武士《さむらい》の首を討ち取って大剛の者、そのうえ若さの華をそなえている、それが何よりいちばん大きな力だ。もしわれわれが二人とも、この意気に加えて、同じ年ごろだったら、さっそくにも、あの男なり、私なり、どちらが勝つか、雌雄を決するところなのだが」
こういうと、人々はみな一つ心に意気をあわせて、大楯を肩にもたせかけ、たがいに近く立ち並んだ。その間にあちら側でも、アイネイアスが、デイポボスやパリスや、尊いアゲノルのほうを望んで、味方の者どもに呼びかけた。みな彼とひとしくトロイア方の軍勢の大将である。そのうしろに、兵士たちがつき従うのは、さながら先達である牡羊に、羊の群れがつき従って、牧場から水を飲みに繰り出すかのよう、それに羊飼いも心を喜ばせる、そのように、アイネイアスは、兵士たちの群れが自分自身につき従って来るのを見て、胸のうちの心をたのしませるのだった。
さて、アルカトオス(の屍)を囲む(両軍の)人々は、たがいにすぐと間近に進み寄って、磨いた長柄の槍を持ち突いてかかれば、胸のぐるりの青銅(の胸甲)は、相たがいに狙いを定めて打ちあうのに、恐ろしい響きを立てて鳴りとどろいた。中にもひときわ目立って武者ぶりすぐれた二人の大将、アイネイアスとイドメネウスは、さながら軍神アレスもかくやとばかりに、情け容赦もない青銅(の刃)をもって、相たがいの肌を裂こうとはやり立った。まず先に、アイネイアスが、イドメネウス目がけて槍を投げたが、向こうでもま正面にそれと認めて、青銅の穂先をかわせば、アイネイアスの穂先は、ぶるぶると震えながら、地面の上へ飛んで刺さった。むなしくもたくましい腕からほうり出されたわけである。
イドメネウスのほうは、オイノマオスの腹のまんなかに槍を打ちあて、胸甲のさねのくぼみを切り裂いたので、青銅(の穂先)が臓物《はらわた》を吹きこぼれさすと、砂塵の中に打ち倒れて、掌に土を握りしめた。イドメネウスは、その屍から、影を長くひく槍を引き抜きはしたが、矢や槍などの飛道具に邪魔をされ、美々しいほかの物の具までを、両肩からはぎ取ることはできなかった。つまりこのうえ突き進むのには、足腰がしっかりしていなかったし、また(敵の槍が)かたわらへ避けもできないほどに(飛んできたからだった)。それで、白兵戦でも、無残な最期のときを防ぎよけはしたものの、退却しようにも、戦さのあいだから、もうはや足が早く運んでいってくれなかった。
こうイドメネウスが、(戦車に乗らずに)一歩一歩退るところへ狙いをつけて、デイポボスが、ひらめく槍をほうりつけたのは、まったく、彼にたいして執念ぶかく恨みを抱いていたからだが、このおりもまたあてそこなって、槍を受けたのは、エニュアリオスの息子であるアスカラポスだった。肩を貫いて頑丈な槍がはいったもので、そのまま砂塵の中へ倒れると、掌に土を握りしめた。だが、ひどい勢いで叫びたてる恐ろしい軍神アレスは、まだいっこうに自分の息子が、はげしい合戦のあいだに倒れたのも知らずに、ともかくもオリュンポスの頂きに、黄金色の雲につつまれて、ゼウス神のおんはかりごとにひっくるめられて坐っていれば、そこにはまさしく、他の不死なる神々たちも、戦さに出るのを禁じられて、同様にこもっていられた。
さて、アスカラポス(の屍)を囲む連中は、たがいにすぐと身近く進み寄ったうちに、まずデイポボスが、アスカラポス(の頭)から輝く兜を奪いとったのを、メリオネスは、敏捷《びんしょう》なアレスのように躍りかかって上膊を槍で突いた。その手からは管飾りをつけた四つ角兜《づのかぶと》が、地面に落ちて鳴りとどろいた。メリオネスは、さらにまたもや、禿鷹のように躍りかかると、デイポボスの腕のつけ根のところから頑丈な槍を引き抜いて、また仲間の軍勢がいるあいだへととって返した。こちらは実の弟のポリテスが、両手をのべて(デイポボスの)胴中を抱え、不吉な響きをやまずに立てる戦さの間から、速い馬のおいてあるところへつくまで運び出した。その馬どもは、両軍が闘いあうあたりの後方に、手綱取りや、巧みをこらした車といっしょに待たせておいたもので、その車がいま塁《とりで》に向けて、ひどく苦しみ、うんうんうなっている彼を運んでゆくあいだ、まだ突かれたばかりの腕からは血がしたたっていた。
他のものどもは、なおも戦いつづけるほどに、とうてい消されようもない叫喚の音が湧き上がった。おりからアイネイアスは、カレトルの子のアパレウスに躍りかかって、彼のほうへと向けられていた咽喉笛《のどぶえ》を、鋭い槍で突けば、首が向こうのほうへかしいで垂れる。それといっしょに、大楯も、兜も、ばったり投げ出されて、生命《いのち》をやぶる死がすっかりその身を取りこめた。
一方、アンティロコスは、トオンがうしろを向いたのを目ざとく見ると、跳びかかって斬りつけ、背の血管をそっくり切ってしまった。それは背筋を一つづきにはしって頸筋にまで達しているものだが、それをすっかり切断したので、砂塵の中へあおむけざまに打ち倒れた、両手を恋しい味方のほうへひろげたままで。
アンティロコスは躍り出て、四方にずっと目をくばりながら、その両肩から鎧《よろい》をはいだ。その間にもトロイア勢は、てんでに四方八方から、まわりを囲んで、巧みをこらした幅広の楯をしきりに突いたが、情け容赦もない青銅(の刃)を中まで突っこみ、アンティロコスの柔《やわ》ら肉《じし》を引っ掻きむしりはできなかった。ぐるりにちゃんと、大地を揺すぶるポセイダオンが、たくさんな槍を並べて、ネストルの息子を守護されたので。つまりアンティロコスは、けして敵を離れることはなかったどころか、敵兵の間をぐるぐるまわっていたので、槍の手をじっと休める暇とてもなく、しょっちゅうふるって、あちらこちらとひねりまわしてはいたが、心のうちでは、誰かを狙って投げつけるか、間近によってかかろうか、と身構えていた。
だが、群集をわけ狙って進むその様子に目をつけたのは、アシオスの子のアダマスで、大楯のまんなかを鋭い青銅(の槍)で、近くに進み寄るなり突いたものだが、その鋩《きっさき》から、紺青《こんじょう》の髪をしたポセイダオンが、(アンティロコスの)命をおしんで、力を抜いてしまわれた。
それで、その槍は、そのままそこに、火で尖端を焼きこがした杭《くい》のように、アンティロコスの楯にとどまり、その半分は地上に横たわった。さればあわてて死を遁れようと、仲間たちの群れへ引きさがろうとアダマスの逃げていく後を追いかけて、メリオネスが、槍をもって、隠しどころと臍との中間を突いた。そのところは、いたましい人間にとり、いちばんに軍神《アレス》が手痛いところである。その個所に槍を突き立てたので、そのまま引かれて倒れると、槍を抱えてもがくさまは、さながら牛を、山中で、牛飼いの男が、いやがるのを縄でしばって、むりやりにもひいてゆくようで、そのように、彼は突かれて、身をもがいた。だが、それもたいして長くはなく、メリオネスが、すぐと間近に寄って、肌から槍を引き抜いたまでの話、たちまちその眼に暗闇が蔽いかぶさった。
一方、デイピュロスを、ヘレノスが、大きなトラキア刀で、間近からこめかみを突き、四つ角兜をうちこわしたので、その兜は離れて飛び、地面に落ちたが、闘っていたアカイア方の一人が、足の間をころがってゆくのを拾いあげた。が、デイピュロスの眼には、まっくらな夜の闇が蔽いかかった。
それで、アトレウスの子の、雄叫びも勇ましいメネラオスは、苦悩におそわれ、ヘレノスに向かって、鋭い槍を振りながら肉薄していった。おりからこちらは弓の中柄《ちゅうづか》を引きしぼっていた。それで両方が、ぴったり同じ時分に、一人が鋭さをもつ槍を取って投げようと意気ごめば、いま一人は、弓弦《ゆづる》から矢を射ようとする。それからプリアモスの子(ヘレノス)が、(メネラオスの)胸もとを矢で射て、胸甲の板のくぼみに射あてたが、きびしい矢は、はじかれて落ちた。さながら広い麦打ち庭で、幅広なすくい鍬《くわ》から、黒い皮をした豌豆《えんどう》まめや、団扇豆《はうちわまめ》が、跳びはねるように――吹きしきる風の息吹《いぶき》と、ふるう人の力に乗って。そのように、誉れも高いメネラオスの胸甲から、ずっと遠くにはじき飛ばされて、きびしい征矢《そや》は飛んで落ちた。
一方、こなたの、アトレウスの子の、雄叫びも勇ましいメネラオスは、仇敵《かたき》の手を狙って、よく磨かれた弓を持っているその手を撃てば、青銅の槍は、ずっぷりと手をつらぬいて、弓へまではいったもので、またもとの味方の軍勢の中へ、死の運命を避けようと退っていった、わきに手をだらりと下げ、トネリコの槍を引きずりながら。そこで、気象の大きなアゲノルがその槍を手から引き抜いてやり、手のほうは、よく編みあげた羊の毛房で巻きとめてやった。それはこの兵士たちの統率者のため、介添え役がたずさえていた帯紐である。
またペイサンドロスは、誉れも高いメネラオスを目がけて、一散に進んでいった。その男を、不運なさだめが、死の最期へと、メネラオスよ、きみに討たれるようにと、導いたのだ。二人が、両方からたがいに向かって進んでゆき、いよいよ間近となったときに、メネラオスの狙った槍は、的をはずれて、わきへとそれて飛んでいった。ペイサンドロス(のほうった槍)は、誉れも高いメネラオスの大楯を撃ちあてはしたが、それを刺し貫いて、青銅(の穂)を打ちこみはできなかった。というのも、幅の広い楯にさえぎりとめられ、槍が柄の首から砕けて折れた。男は心中ひそかに喜んで、勝利を期待していたのだが。
そこで、アトレウスの子は、銀の鋲を打った剣を引き抜き、ペイサンドロスに跳りかかると、こちら側でも、楯のかげで、美々しい青銅づくりの斧の、オリーブ樹の、よく磨いた長い柄をとりつけたのを、手に構えた。そして同時に、両方からたがいを目がけて出会ったとき、いかにもかなた(ペイサンドロス)は、馬の房毛をつけた兜の星飾りの先、飾り毛のすぐと根本に打ちこんだが、こちら(メネラオス)は、向かって来る敵の向う額を、鼻のつけ根の上を撃てば、骨はひび割れ、両眼がその足もとに、血みどろのまま、砂塵の中へ、地面に落ちた。それで身をよじり曲げ、倒れたのに、胸もとへ足をかけて、踏みつけながら、物の具をはぎ取り、勝ち誇っていい放つよう、
「まったくな、こんな工合に、速い駒を駆るダナオイ勢の船陣から、おまえたち身のほど知らずの、恐ろしい戦さの音にも飽きるを知らないトロイア人どもは、引き揚げることだろうな。そのほかの、いたずらだとか侮辱とかも、おまえらは事を欠かない。私にしかけたあの悪さなどもな。下等な犬らめ、おまえらは、てんで心に、はげしくいかずちをとどろかすゼウス神のはげしい憤りも恐れなかったのだ。だが、主客の義を守るその御神こそ、いつかは、おまえたちの堅固な城も滅ぼされよう。おまえたちは、私のれっきとした家妻《いえづま》に、たくさんな財宝までも、ずうずうしく運んで逃げたのだからな、妻の手もとで十分だいじにされていながら。そのうえにも今度は、この海原を渡る船々にまで呪われた火を投げこんで、アカイア軍の勇士たちを殺そうとさえ、しきりに望んでいる。
だがそのうち戦さもいつかやめるだろうよ、どんなにおまえらがはやり立とうと。ゼウス父神、いかにもあなたは、他の人間どもや神さまがたより、知恵やおんはかりごとにかけては、ずっとすぐれておいでだ、と世間で申します。でも、こうした万事はみな、あなたさまのお考えからしてのこと。何とまあまったく非道な者をごひいきなさいますことか。トロイア人は、いつも傲《おご》りたかぶって乱暴をはたらき、むごたらしい戦さのひしめきあいにも、けして飽きることのない無残な者どもですのに。何事にも飽満というものがあります。睡りにも、愛欲にも、また楽しい歌にも、申し分なく立派な舞い踊りにも。それらのものには、誰しもがまだ戦争よりは、十分に飽きたりたいと願いましょうに、トロイア人は、戦さに飽きることのない者どもなのです」
こういって、甲冑を、ペイサンドロスの肌から、血みどろなのを、はぎ取って、誉れも高いメネラオスは家来の者に渡してやって、自分自身はまたもや出かけていって、先手の勢の中にまじった。
このおり、彼に向かって、一国の主ピュライメネスの子ハルパリオンが跳びかかってきた。この殿は、愛しい父親に従って、戦さをしにトロイアへ来た者だが、またとふたたび故郷の土を踏むことはなかった。すなわちこのとき、アトレウスの子(メネラオス)の楯のまんなかを、近くに寄って槍で突いたが、とうていそれをずっぷりとおして、青銅を打ちこみはできなかったので、また逆に、仲間の群れへと、死の運命《さだめ》を避けようと、退っていった。八方に目をくばって、誰かが青銅(の刃)で肌えを傷《やぶ》りはすまいかと気遣いながら。
だがその逃げていくのをめがけ、メリオネスが青銅(の鏃《やじり》)をつけた矢を放って、右方の臀《しり》へとあてれば、矢はまっすぐに膀胱のところをつらぬき、骨の下をとおして出た。それでそのまま、その場にへたへた坐りこむと、愛しい仲間の腕に抱かれて、息をとうとう引き取った。その様子は、さながらみみずのように、地面の上にのびて倒れ、そこから黒い血潮が流れ出、地面を濡らした。その人を、意気のさかんなパプラゴネス〔小アジア中部地方の住民〕らが手厚く世話して、戦車の台座に載せこむと、聖いイリオスさして、悲痛の思いで連れていった。その間に加わり、父親も、涙を流しつつ同行したが、もう死んでしまった息子については、どう償《つぐな》いのしようもなかった。
この若者が殺されたのに、パリスはたいそう憤激した。というのも、前から彼と、大勢のパプラゴネス人《びと》のあいだとは、深いゆかりの仲だったから。そのために彼は立腹して、青銅(の鏃)をつけた矢を射て放った。
さてここに、エウケノルという者がいた。占い師ポリュエイドスの息子で、金持でまた勇敢で、コリントスの町に住まいしていたが、呪わしい身の運命をよく知りながら、船へ乗って出かけて来た。というのは、いくどとなく彼に向かって、心得ふかいポリュエイドス老人が予言をして、おまえは苦しい病いにかかって、自分の家で身を果たすか、さもなくばアカイア軍の船のあいだで、トロイア人の手にかかって討たれよう、といった。それが、アカイア軍に取り立てられる従軍免除の献金のつらさと、苦しい病いと両方を、心にいろんな苦しみを受けないために、避けようとはかったのであった。いま、その人の顎と耳との下のところへ矢があたったので、命はたちまちその五体から去ってゆき、いまわしい暗闇が彼をとらえた。
このように、両軍は、燃えさかる火にも似たありさまで戦いつづけた。そのあいだにも、ゼウスの愛しむヘクトルは、船陣の左翼のほうで、味方の兵士たちがアルゴス勢に斬り立てられていることは、いっこうに知らせを受けずに、知らないでいた。それですぐにもアカイア勢が勝利の誉れをうるところだった。それほど、大地をささえ大地を揺すぶる御神が、アルゴス勢を励まし立て、そのうえご自分でも力をこめて防衛されたもので。だが(ヘクトルは)、ダナオイ勢の楯を掲げた武士たちのびっしり列んだ隊伍を、最初に彼が突破して、門と囲壁を踏んではいった、その場所に踏みとどまっていた。そこは、アイアスの船勢と、プロテシラオスの船勢とが、灰色の海の渚に引き上げられて置いてある場所だったが、この上あたりが囲壁の造りがいちばん低くなっているところである。ここへとりわけ、トロイア方は、勢いはげしく集まって、戦闘をつづけていた。
このところで、ボイオトイ勢や、衣を引きずるイオニア勢、ロクロイ勢やプティオイ勢、あるいは世に名の聞こえたエペイオイなどが、やっとのことで、船へと進撃してくるヘクトルをささえていたが、とうてい火焔を見るように勇ましいヘクトルを、味方の陣から追い払うことができなかった。そのへんにはアテナイ勢から選りすぐった武士たちのあいだに大将として、ペテオスの息子メネステウスが指揮をとり、つづいて、ペイダスやスティキオス、勇敢なピアスがつき従う。一方、エペイオイ勢を指揮するのは、ピュレウスの子メゲスや、アシピオンやドラキオスらで、プティオイ勢には、メドンや戦さに手ごわいポダルケスが先頭に立つ。
ところで、このメドンというのは、神々しいオイレウスの脇腹の息子で、(小)アイアスの兄弟だったが、故郷の土地を去ってピュラケに住まいしていた。それはオイレウスの妻として、義理の母となるエリオピスの兄弟を殺害したためだった。またも一人は、ピュラコスの裔《すえ》で、イピクロスの息子だったが、この連中が、意気のさかんなプティオイ人《びと》の先頭に立ち、物の具に身を固めて、船々を防ぎ護り、ボイオトイ勢といっしょになって闘いつづけた。
さてアイアスは、けっしてほんの少しの間も――これはオイレウスの、足の速い息子(小アイアス)のことだが――テラモンの子の(大)アイアスのそばを離れず、さながら休墾田《やすみだ》にいるぶどう酒色の二匹の牛が、しっかり出来た大犂《おおすき》を、心をまったく一つにしてひいてゆくようだった。その牛の肌えには、両方の角の根本《ねもと》のまわりに、汗がいっぱい吹き出してくる、それで、この二匹を分けて隔てるのは、たった一つのよく磨かれた軛《くびき》だけだが、二匹とも一所懸命に畝《うね》を進んで、畑の境のところへ耕しつける。そのように二人は並んで歩きまわり、たがいにごく近よって立ち構えた。
だが、いかにも、テラモンの子(大アイアス)のほうには、大勢の勇敢な兵士たちが手下について、いつなりとも、疲れと汗とが彼の手足を襲ってくると、大きな楯を受け取ってくれたが、意気のさかんなオイレウスの子(小アイアス)には、ロクロイ勢がついて来ていなかった、というのも、白兵戦というものには、彼らはどうにも耐える勇気がもてないのだった。それもつまりは、この人々が、青銅を着せ、馬の房毛をつけた兜も被っていず、輪形のきれいについた皮楯や、トネリコの槍も持っていず、ただ、人も知るように、弓矢とよくねじつけた羊毛の石はじきだけを頼りにして、イリオスまで従軍して来たからである。それで、これらを絶え間もなく打ちこんで、トロイア方の陣列を破壊しようとかかった。
いかにも、このおり、一方は先陣に出て、立派なこしらえの物の具を着こんで、トロイア勢や、青銅の兜を被ったヘクトルと闘うあいだに、こちらは、人目につかずに、うしろから射かけたもので、トロイア勢もはや戦う気力もなくなして、矢のために混乱におちいっていた。
このおりあるいは、みじめなありさまで、船々や陣屋のところから、トロイア勢が風の吹きすさむイリオスへと退却することになったかもしれなかった、もしプリュダマスが、大胆なヘクトルのそばへ来て立ち、こういわなかったら。
「ヘクトル、きみはどうも他人から忠告されたことを受け入れるのが難儀らしいな。いかにも、戦さ仕事には、御神がきみに他人より抜きんでたわざをお授けだった。それできみは、謀議においても他人より卓越した知恵を披瀝《ひれき》しようと望むのだが。しかし、いくらきみだって、けっして万事を自分一人でみないっしょに兼ねることはできないだろう。それというのも、一人の人を、御神が、戦さ仕事に達せしめれば、ほかの人には舞踊のたくみを、また他の人に竪琴や歌うたいの技を授けられ、もう一人の胸中には、はるかにとどろくゼウス神が、すぐれた分別をすえ置かれて、多くの人々が、その徳にあずかるようにと仕向けられるのだ。
それはそうとして、いま私は、最上の策と信ずるところをきみに述べようと思うのだ、四方八方に、きみをとりまいて、戦いの輪が燃えさかっていることだから。だが今は、意気のさかんなトロイア勢も、囲壁《かこい》を踏み越えてからは、物の具を着けたままでぼんやり立っているだけか、または小勢で大勢を相手に、船々のあたりに散らばって闘っているくらいだ。それゆえちょっと引き退いて、主だつ勇士たちをみな、ここへ呼び寄せたまえ。そしたら十分に、あらゆる方策をみなで相談できようではないか、あるいは、ひょっとして御神が、勝利を授けてくださるつもりかどうかを試しに、橈架《かいかけ》のたくさんついた船々へ襲いかかるか、それとも今度は、船のかたわらから、傷手を受けずに引き揚げようかを。それというのも、私としてはまったく心配だからなのだ、もしやアカイア勢が、きのうの負債《おいめ》を返しはすまいか、船のかたわらには、戦さに飽きることを知らない武士がひかえているのだからな、はや、いつまでも戦さから手を引いてはいまいと思われる人物(アキレウス)が」
こうプリュダマスがいうと、その人を傷つけない言い方がヘクトルの気に入ったので、すぐさま戦車から、物の具ぐるみに地面へと跳んで下り、彼に向かって声をあげ、翼をもった言葉をかけていうよう、
「プリュダマスよ、ではきみがそのままここへ、主だった勇士たちを、みな引きとめておいてくれ、その間に私はあちらへ行って、戦さでひと働きやってこようから。それですぐまた帰って来るぞ、みんなによろしく指図しといて」
こういうなり、馳《はし》り去るその様子は、雪をかむった山を見るよう、大声に叫び立て、トロイア勢や来援軍のあいだをわけて飛んでいった。そこで人々は、パントオスの子の愛敬のふかいプリュダマスのところへと、みなみな馳せ参じた、ヘクトルの呼ぶ声を聞きつけたので。
一方、ヘクトルは、デイポボスや、剛勇のヘレノスや、アシオスの子アダマス、ヒュルタコスの息子アシオスなどをたずねさがして、どこかに見つかるまいかと、先駆けの手勢のあいだを歩きまわった。だが、これらの人々は、もうはやぜんぜん無傷だの、命につつがないままでは見つからなかった。ある人々は、アカイア方の船々の艫《とも》のあたりで、アルゴス勢の手にかかって、まったく命を失くして横たわっており、ある人々は、塁《とりで》の囲いに、矢や槍や刀の傷をこうむってかくれていた。
ところですぐに、涙にゆたかな戦さの場《にわ》の左翼のほうで見つかったのは、髪の美しいヘレネの夫である、とうといアレクサンドロス(パリス)だったが、いましも仲間の者たちを激励して、戦いへとうながして立てているところだった。その間近に行って立ち止まり、侮辱的な言葉を浴びせかけて、
「パリス、おまえはけしからんやつだ。姿はひとにすぐれていようと、女狂いの、ごますり男め。いったいどこにデイポボスや剛勇のヘレノスや、アシオスの子アダマス、ヒュルタコスの子のアシオスがいるのだ。どこにいったいオトリュオネウスがいる。いまこそけわしいイリオスも、ぜんぜん助かる見こみがなくなった。いまこそ破滅は間違いなしだ」
それに向かって、今度は、神とも見まごうアレクサンドロスがいうのに、
「ヘクトルよ、あなたは咎《とが》もないものを、いつもしきりにとがめたがるから、いつかは本当に私だって、戦争からいっそ手を引いてしまうつもりなくらいだ。母上とて、私をぜんぜん勇気の欠けた臆病者に産みつけられたわけではない。いまの場合も、あなたが船陣のかたわらで、仲間の者どもを集めて戦さを始められた。そのとき以来、ずっと私はここに構えて、ダナオイ勢と、休む間もなく闘いつづけてきた。あなたがおたずねの味方の人々は、もう殺されてしまったのだ。またデイポボスと、剛勇のヘレノス殿と、この両人は行ってしまったらしい。長い槍に二人とも手のところを突かれたが、クロノスの御子が、殺されるのは防いでくださったのだ。だからさあ、先に立って行きなさい、どこへでも、あなたのお気の向くほうへと。私たちは、一所懸命に、あなたといっしょについていこうし、またけして武勇を欠きはすまいと信じる、われわれの力がつづく限りはな。だが、その力の限りを超えては、どうあせろうとも、戦さのしようもまったくないのだ」
こういって、パリスは、兄上の心をうまく説得した。それから、いちばん激戦でひしめきあいのはげしいところへ出かけていった。ケブリオネスや、人品すぐれたプリュダマスや、あるいはパルケスにオルタイオス、神にも比せられるポリュペテス、パルミュスやアスカニオスや、ヒッポティオンの息子モリュスを囲む人々のあたりへである。この連中は、土塊《つちくれ》の沃《ゆた》かなアスカニエから、この前日の朝、交替に出て来た者だった。それをこのおり、ゼウスが戦いにと起たせたのである。
それで一同は、つらくきびしい諸方の風の煽《あお》りと少しも変らずに進んでいった。それはいま、ゼウス父神のかみなりにつれ、下界へと吹きつけて、恐ろしいとどろきをあげ、潮に交わる。と見れば、中には大変な波が一面に、滔々《とうとう》と鳴りざわめく海のおもてに湧きおこって、弓形に高くうねり上がれば、白い波頭が立つ、前にもずらり、うしろにもずらりと。そのように、トロイア勢は、前にもずらり、うしろにもずらりと肩を組み合い、青銅の金具をきらりときらめかせつつ、指揮を執る大将たちにつき従って進んでいった。
それを率いるヘクトルは、プリアモスの子とて、人間に禍いをするアレスのよう、八方によく釣合いの取れた楯を前に掲げた。牛皮をくまなく張った頑丈なもので、いっぱいに青銅が着せてあった。またこめかみには、輝かしい兜が揺らいでいた。それで四方に足を踏み出し、あるいは、楯にかくれて進んでゆけば、引き退きもしようかと、敵の隊伍を試してみるのであった。だが、それもいっこうに、アカイア勢の胸中なる勇気をくじきはできなかった。そこでまずアイアスが、いちばん先に大股に歩いて出て、いどみかけるよう、
「けしからんやつだ、さあ間近に来い、何でまた何の役にも立たんのに、アルゴス勢をおどそうとするのか。けしてわれわれは、戦術を知らない者ではない。ただゼウスのひどい鞭のために、われわれアカイア軍はひけを取っただけなのだ。どうやら、たしかにおまえの心は船をかすめとる考えらしいが、そんならば、またすぐにも、われわれだとて、防禦するのに十分腕をそろえているのだ。だが、おまえたちの構えも堅固な城市《まち》が、われわれの手にかかって攻めおとされ、劫掠《ごうりゃく》される日のほうが、たぶんずっと早く来よう。それでおまえ自身にとってもずっと間近なことにちがいない、おまえが逃げ落ちながら、ゼウス父神やその他の神々に対し、自分を乗せた、たてがみもみごとな馬どもが、隼《はやぶさ》よりも速く飛べるよう、祈願する日がだな、砦へと、砂塵を巻いて平原を運ばれるおりに」
こう彼がいうおりから、右手のほうへと、一羽の鳥が翔《かけ》っていった、高い空を飛ぶ鷲だったが、この烏占《とりうら》に勇気百倍して、アカイア軍の兵士たちは、いっせいに叫びをあげた。それに応じて、誉れも高いネストルは、
「アイアスよ、でたらめをいう大ぼら吹きが、何ということをいうのか。まったく私が、山羊皮楯《アイギス》をたもつゼウスの御子で、ヘレ女神が産みの母だったら、ありがたかろうに、それでアテネやアポロン神が敬われるのと同じように大切にされたら(ありがたいが)。つまり現在この日が、アルゴス勢のことごとくに、ひどい災難をもたらすほどにだ。その連中のあいだにはいっておまえも殺されていよう、もし生意気に私の長い槍先を待ち受けようなどするならばな。その槍が、おまえの百合みたいな優肌《やさはだ》を引き裂くだろうよ。それでトロイア人《びと》の犬どもや鷙鳥《おおとり》どもを、脂や肉で飽かせることかな、アカイア勢の船陣の傍に倒れて」
こういい放って先頭に立てば、兵士たちもこれにつき従っていく、その物音は恐ろしいほどで、後詰《ごづめ》にひかえる連中もそれにつれて叫び立て、武勇のこころはけして捨てずに、トロイア方の勇士たちが攻めかけるのを待ち構えるのに、両軍からの物音は、高い空まで、ゼウスの輝く光(天)までひびいていった。
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ゼウスをたらしこみの段
【トロイア方の優勢に苛立《いらだ》った女神ヘレは、それを援護するゼウスの眼を、何とかして妨げようと考え、ついに美神アプロディテから恋情の帯を借り出し、それを着けてイダの山上に赴く。ゼウスはその姿を見ると、帯のはたらきで恋情を催し、山上で愛の床に横たわり寝こんでしまう。その間にポセイドンは自由に活動、ギリシア方を盛り返させヘクトルを傷つけさせる。彼はキーリオス城に引き退り、トロイア勢は敗色に蔽われる】
この叫び声を、ネストルは、おりから酒を飲んではいたが、聞き逃がさないで、アスクレピオスの子(マカオン)に向かい、翼をもった言葉をかけるよう、
「考えてくれ、尊いマカオンよ、これはどう処置したものかな、血気さかんな若者どもの叫びがいよいよはげしくなってきた。ともかく、きみは、いまのところは坐ったまま、きらめく酒を飲んでいたまえ。その間に結髪の美しいヘカメデ〔テネドス島の領主アルシノオスの娘〕が、風呂の湯を熱く沸かして、凝り固まった血糊を洗う支度をしよう。私はこれから見張りに出かけて、すぐに話をきいて来ようから」
こういって、陣屋の中に置いてあった、自分の息子の、馬を馴らすトラシュメデスの大楯を取り上げた。青銅づくりの、とてもきらきらしたものだが、息子がさっき、自分の父の大楯を持っていったので。その上に鋭い青銅の穂先をつけた、丈夫な槍を手に取って、陣屋の外に立ち出て見ると、こはいかに、見るも無残なこの仕儀、ごった返して逃げてゆく味方のあとから、トロイア勢は勢いおごって追いかけるのに、アカイア方の囲壁《かこい》も、突き崩されているありさま。さながら音も立てないうねり波に、大海原が湧き立つよう。しかも、ゼウス神の手もとから吹き下ろしてくる風路が、はっきりきまらないうちは、まだこちらのほうに打ち寄せるか、またはあちらへ向かってゆくかもはっきりしない。そのように、この名将の心中は、二つに割れて乱れたまま、あれやこれやと思いまどった。速い駒を駆るダナオイ方の群れの間にはいってゆくか、それとも、兵士たちの統率者なるアトレウスの子アガメムノンのところへ行くか、と。
それでとうとう、思案のあげくに、アトレウスの子のもとへ行くほうが得策だと思いきめた。その間にも両軍は闘いつづけ、たくさんの剣、あるいは二|叉《また》の槍でもって突きかわし、相たがいに殺しあう。そのたびごとに、その肌身には、青銅が鏘々《しょうしょう》という響きをたてた。
さてネストルと、ゼウスの擁護にあずかる君侯《とのさま》がたとは、船のところから戻って来たおり、道中でばったり出会った。みな青銅の刃にやられた連中で、テュデウスの子(ディオメデス)やオデュッセウスや、アトレウスの子アガメムノンなどだった。というのも、戦場からずっと離れている海の渚《なぎさ》に、船々は引き揚げられていたからで、つまりは船をまず先に平地へ引き揚げてから、その艫《とも》のあたりへ囲壁《かこい》を設けたわけだったのだ。
この波打ち際は、いかにも広くはあったけれども、全部の船を中に抱えることはできずに、兵士たちがぎっしりそこへ詰まっていた。それで引き揚げた船は、何列にも並べられて、浜全体の、二つの岬に囲まれている、長い間口をすっかり満たしていた。こういう次第で、その連中は、鬨《とき》の声や戦さの模様をたずねようと、みな槍にもたれながら、うち連れて出て来たものだが、胸のうちはみなひとしく傷心に閉ざされていた。そこへいま、名将のネストルがぶつかった≪そしてアカイア方の人々の胸にある、気をくじけさせた≫。まず彼に向かって声をあげ、アガメムノン王がいうようには、
「おお、ネレウスの子ネストルよ、アカイア軍の大きな誉れであるあなたが、どうして武士たちを殪《たお》す戦さを棄てて、このところへやって来たのか。ほんとうに、あの剛勇のヘクトルのいったことが、真《まこと》になりはすまいか、と私は心配なのだが、――以前に、トロイア人《びと》らの間で、会議の際に、おどかしていったということ、すなわち、船に火をかけて焼き払い、(アカイア方の)兵士たちも殺してしまわぬうちは、けして船のかたわらからイリオスへ向かって帰っては来ないと、こうあの男はいった。それがいよいよ、いまこそみんな実行されるのだ。やれやれ、まったく他の脛当てをよろしく着けたアカイア勢も、アキレウスとそっくり同じに、私にたいしてひどい恨みを抱いているにちがいない。それで、船々の艫のところで、戦うことを望まないのだろう」
それに向かって、今度は、ゲレンの騎士ネストルがいうようには、
「いかにも、それがすっかり実現されてしまったようだ。高空にかみなりをとどろかすゼウス神ご自身が、方針を変えたという兆しもないからな。それというのも、囲壁もすっかり崩されてしまい、われわれがみなそれをあてにして、船々やわれわれ自身の、けして壊れぬ護りだと思っていた甲斐もなく、兵士たちはみな、速やかな船のかたわらで、絶え間なしに、容赦もない戦さをつづけていて、たとえどんなに見張りをしていようと、どちら側からアカイア勢が追い立てられ、逃げ惑おうかも、誰一人わからないのだ。そんなに混乱しきって討ち取られる、その叫喚は天にも達するほどだが、われわれはここで、どんな処置をとったらいいか、よく思案しようではないか、もし分別が役に立つものならば。ともかくも、われわれが戦闘に加わることは、けしてすすめられない、とうてい、負傷している者に戦さはできないから」
それに向かって今度はまた、武士たちの君アガメムノンがいうよう、
「ネストルよ、いかにも、現在、船々の艫のあたりで、戦いがおこなわれてるし、またせっかくこしらえ上げた囲壁も、塹壕も、何の役にも立たなかった。ダナオイ勢はそれを作るのにずいぶん苦労もして、心中では船隊にも、われわれ自身にたいしても、けして壊れることのない防備になろうと期待していたのだが。つまり稜威《みいつ》高しくゼウス神が、まずはかようにお望みなさったものなのにちがいない≪アカイア勢が、名誉を損じて、アルゴスを遠く離れたこの土地で滅びるようにと≫それというのも、私には、(大神が)御心から、ダナオイ勢を護ってくださったときには、すぐそうわかった。それで今度もよくわかるのだ、敵軍には、祝福された神々にもひとしい誉れを授けられて、われわれのほうへは、勇気も力も、萎えさせてしまわれたのが。
だからさあ、私がこれからいおうとするとおりにみな、承知をして、やってくれ。まずいちばん前の、海の近くに引き上げてある船を、残らず引き下ろして、輝く潮へと漕いで入れよう。そして、ずっと沖合に碇《いかり》の石を投げ入れて碇泊させよう、かぐわしい夜がやって来るまで。もし夜になったら、トロイア勢も戦闘を止めるかも知れぬ。そうしたら、全部の船を引き下ろすことができよう。不幸を避けるぶんには、何の抗議も出まいからな。そもそも、不幸を避けようという者が、避けおおせたならば、捕まるのよりは、ずっと良いことだろうから」
それを上目づかいに睨まえながら、はかりごとに富んでいるオデュッセウスがいうようには、
「アトレウスの子よ、何という話を、あなたは、歯並みの墻《かき》からもらすのですか、不吉なことを。まったくあなたが、私たちの王でなく、名誉もなにもない他の軍勢をでも指図されるだったらよろしかったのに。それではこの私らにゼウス神が、若い時分から年をとるまで苦しい戦さを、みんなが残らず死んでしまうまで紡《つむ》ぎつづけてゆくようにと、お定めになったというのですね。こんなふうに、トロイア人らの道幅もひろい城市《まち》をほうっておこう、というつもりなのですか、そのためには、ずいぶんひどい禍いもたくさんうけてきたものなのに。もう黙っていてください、誰か他のアカイアの者がこんな話を聞きでもしたら大変だから。またこのことは、けして誰も口からもらしてはいけない、いやしくも自分の心に時宜にかなったことを述べるだけの分別をもてる者なら、また笏《しゃく》を執る領主《とのさま》がたで、下に従う者どもが、いまあなたの治めるアルゴスの民の数ほど、大勢いるかたがただったら。
私は、さっきあなたがおっしゃった意見を頭から非難したいのだ。まだ戦いも戦さの叫びも相変らずにつづいているのに、橈架《かいかけ》もよい船々を海へ引き下ろせ、と命じられるのだから。そんなことをすれば、なお一段と、トロイア方が、それでなくてさえ優勢なのに、なお優勢になり、それに引き換え、わが軍にはけわしい破滅が振りかかるでしょう。なぜといえば、アカイア勢は、船々が海へ引き降ろされたのを見たら、もう抗戦する気もなくなりましょう。きょろきょろあたりを見まわしてばかり、戦争からもう逃げ出すことでしょう。そうなったら、兵士たちの首領《かしら》であるあなたの意見が、不幸を招くことになります」
それに答えて、今度は武士たちの君アガメムノンがいうようには、
「おお、オデュッセウスよ、いかにもきみは手きびしい非難の言葉で私の心を攻めたてた。しかし私とて別に、アカイア人《びと》の息子らが望まないのに、橈架もよい船々を海へと引きずり下ろすように、命令したわけではない。それならばさあ、誰にもせよ、いまのよりもっとすぐれた思案をいい出してくれる人がいたらば、若い者でも老人でもかまわんが、私にとってうれしいことだ」
その人々の間に立って、雄叫びも勇ましいディオメデスがいうようには、
「手近にその男はいます、長いこと探さなくても。もし皆さんが、そのいうことに従うつもりで、誰も気を悪くして怒ったりなさらないなら――それこそ私が、皆さんの中で年がいちばん若いというので。もちろん私だって、氏素姓といえば、自慢のできる立派な父から生まれたものです。かつて祖先のポルテウスに、三人の人品すぐれた息子がありました。そのうちアグリオスとメラスとは、プレウロンやそびえたつカリュドンに住まいして、三番目の騎士オイネウスが、とりもなおさず、私の父の父親となるもので、兄弟中でもとりわけ武芸に秀でていました。でもその祖父は、そのままそこにとどまっていたのに、親父は故郷を離れてアルゴスに住みつきました。つまりはそれが、ゼウスや他の神さまがたの思召しだったでしょう。それで、アドレストスの娘の一人を嫁にもらって、生活《くらし》もゆたかな館《やかた》に住んでいましたが、小麦の実る畝畑《うねばた》も十分に持ち、家の周囲には植木をならべた果樹園もたくさんあって、羊の群れもたくさんいました。また投げ槍のわざにかけては、アカイア人の誰よりも上手でしたが、こうした話が真実かどうかは、十分聞いておいでのはず。
それゆえ、私の生まれが卑しいものとか、武男を欠くなどとおっしゃって、私のいったことを、ないがしろになどなさいませんよう、もしいうことが宜《ぎ》に適うのでしたら。では、さあ、戦さへ出かけましょう、たとえ怪我していようと止むを得ないこと。その場所で、われわれ自身は、斬り合いや、槍や矢などの飛び道具から身を遠ざけていたらいいでしょう、万一傷の上にも傷を受けないように。だが、他の者どもを激励して繰り出させましょう、もう前々から生命《いのち》を大事にばかりして、引き退って戦さへ出ない人たちをです」
こういえば、一同すっかり感心して耳を傾け、これに従い、武士たちの君アガメムノンを先頭にして、出かけていった。
また高名な、大地を揺する御神〔ポセイドン〕とて、盲目の見張りをされてはいなかった。それで年寄った人物の姿を仮り、一同のあとからついていって、アトレウスの子アガメムノンの右の手をいきなりつかんだ。そして彼に向かって声をあげ、翼をもった言葉をかけるよう、
「アトレウスの子よ、いまこそはたぶん、アキレウスが、呪わしい心の底に、喜んでいることだろうよ、胸のうちでな、アカイア勢が殺されて、敗走するところを見て。それもまったく、あの男には、分別が一かけらもないからだ。さればあいつも、同様に身を滅ぼすがいい、御神のため盲目にされて。だが、けしてあなたにたいしては、神さまがたが、そう完全に立腹されたわけではない。これからでもまだトロイア勢の大将や指揮官たちが、この広い平原を埃にまみれさせることになるかもしれぬ。そうなればあなたも、船や陣屋から、彼らが城へ向かって潰走するのを、自分の眼でみることだろうよ」
こういって、平原の上を駆け向かいながら、大きな叫びをたてられた。さながら九千人あるいは一万人もが、戦争のおり、軍神《アレス》の勝負をつけようと出で合っては叫びをたてる、その叫喚ほど大きい声を、大地を揺する御神は胸のうちから発して、アカイア方の誰も彼もの心中に、大きな力を打ちこまれた、一刻もやむことなしに、戦さをつづけ、闘いあうように。
さて、黄金の御座《みくら》においでのヘレ女神は、いましもオリュンポスの峰に立って、そこから御眼を(四方へ)向けるほどもなく、すぐに目にとめたのは、武士に誉れを与える戦さの場《にわ》のあちらこちらをせかせかと駆けまわっている、ご自分のほんとの兄弟でまた義理の弟にもあたる御神(ポセイドン)の姿だった。心にそれとうれしく思って、ゼウスはと見れば、泉の多いイダの山のいちばん高い頂きに坐っておいでになる。心中で忌々《いまいま》しい方だ、と思うにつけ、牝牛の眼をした女神ヘレは、どうしたら山羊皮楯《アイギス》をたもつゼウスの心を、うまくだましてやれようか、と思案を凝らすうち、どうやらこれが最上の策だろう、と心に思いなされた。それはつまり、自分が十分にお化粧《めかし》をしたうえで、イダの山へ出かけてゆき、うまくいったらゼウスの心を掻き立てて、愛しさに、自分の身のそばに寝たいと望むようにさせ、両方の眉に、また抜け目のない御心に、安楽なあたたかい眠りを注いでやろうというのである。
それでまず奥の間へとおいでになった。それはご自分の愛し子のヘパイストスが、女神のためにお造りになった部屋で、しっかりした扉が両方の柱に取りつけてあり、隠れた閂がついているので、他の神々は開けられないようになっていた。そこへ女神ははいっていって、扉を閉めてから、まず最初に、かぐわしい仙香《アンブロシア》で、惚れ惚れとする肌からすべての汚れを拭い去り、それから今度は、豊かなオリーブ油の、しめやかにかんばしいのを、体に塗りつけられた。それはもう十分に薫香を焚きこめてあるので、揺すぶられるそのたびに、青銅を敷いたゼウスの宮居から、大地へ、また大空へと、芳香が満ちわたった。
かように女神は、美しい肌にも頭髪《かみのけ》にもそれを塗りつけると、今度は髪をくしけずって、それから御手で、きらきらしいいくつもの鬘《かつら》に編み上げ、御頭《おんつむり》から垂れ下がらせた。体にはまた、かぐわしい着衣《おめし》を被《き》られた。それは女神のためにアテネが調えあげ、なめらかに仕上げたもので、中にはたくさん、巧みな刺繍《ぬいとり》模様がつけてあった。それを黄金の留め針で、胸のあたりに穴をあけてとめ、その上には百もの小総《こふさ》をつけた帯をお締めになった。またよく穴をあけた耳たぶには、桑の実形をした瞳《ひとみ》の珠が三粒ついてる耳飾りを取りつけたので、そのあでやかさはたいそう輝くばかり。
そのうえに、女神のうちにも神々しい(御神)は、すっぽりとまあたらしく、きれいな衣《きぬ》をお召しになった、そのまっ白さは日の光のよう。またつやつやしいおみあしには立派な短鞋《あさぐつ》をおはきになり、いよいよすべて身のまわりの支度が滞りなく整うと、奥の間から出かけてゆかれ、さてアプロディテを呼び寄せて、他の神さまがたに見えないところで、こっそりとこうお話しなさった、
「ねえ、まあちょっと、いい娘だから、私のいうことをきいてはくれないかしら。それともいやだっておいいかしらね、心に恨みをもっておいでで――あなたはトロイア勢の味方なのに私はアカイア方だというので」
それに答えて、今度はゼウスの御娘のアプロディテがいうようには、
「ヘレさま、総領の女神として、お偉いクロノス神の娘のあなたが、何なりとお考えをおっしゃいまし。わたくしはそれをやりおおす気でいますから。もしその力が私にあって、かつて成就されたことがあるものでしたら」
それに向かって、ずるい企みを胸にかくして、ヘレ女神がいうようには、
「ではねえ、愛情《いとしごころ》と憧憬《あこがれ》とをくださいな――あなたが、誰彼といわず、神さまでも人間でも征服してしまうものを。というのも私はこれから、養いの豊かな大地の果てへ行くところなんですもの、神々たちの生みの親のオケアノスと、テテュス小母さまにお会いしにね。そのお両神《ふたり》が、レイア〔クロノスの妻で、ゼウス兄弟の母〕から私を受け取り、ご自分の屋敷の中で、よくお世話して育ててくださったのですわ、はるかに(かみなりを)とどろかすゼウスさまが、クロノスを、大地と荒涼とした大海の底に押しこめなさったおりに。そのかたがたを訪ねていって、お両神《ふたり》のきりがない争いをやめさせようというのです。だってもう長いこと、おたがいに背中を向けあい、愛情も臥床も遠くへ離しておしまいですの、一度すっかり立腹なさってからは。もしお両神《ふたり》をうまく説きつけ、いとし心をなだめすかして、もとのように、また愛情に結ばれあい、枕を交わすようにさせたら、いつまでもあのお両神《ふたり》から、愛《いと》しいとも、畏《かしこ》いとも、呼ばれましょうよ」
それに向かって、今度は、微笑の好きなアプロディテがいわれるようには、
「仰せをおことわりするなんて、できもしなければ、筋も立たないことですわ。いちばん偉いゼウスさまの腕に抱かれておやすみになるかたですもの」
こういって、胸からみごとに刺繍《ぬいとり》をした皮の帯をほどいて渡した。技巧を凝らしたその中には、ありとある恋の手くだや魅惑やがこめられていて、愛情《いとしごころ》や憧憬《あこがれ》や、甘い口説《くぜつ》の、どんながめつい考えをもつ人の心も蕩《た》らしてしまうということ。それをヘレの手に握らせて、名を呼びあげ、言葉をつぐよう、
「ではさあ、この皮の帯をふところに入れていらっしゃいませ。技巧をこらした中には、何もかもすっかり仕込んでありますから。これできっと何なりとも、あなたが胸にお望みになることを成就させずに、お帰りなさりはしないでしょう」
こういうと、牝牛の眼をした女神ヘレは微笑されて、その皮帯をご自分のふところへとしまわれた。
さてゼウスの娘アプロディテは、自分の家に向かっておいでになる。一方ヘレは、勢いよくオリュンポスの峰を飛び立ってお出かけになり、ピエリエや、景色のいいエマテイエの上を渡り、馬を飼うトラキア人らの、雪を被った山々の、それもいちばん高い峰の上を馳《はせ》っていく――その御足には地面がけしてさわらなかった。それでアトス山の岬から、海のわきたつ海原へと乗り出されて、尊いトアス王の居城のあるレムノス島へお着きになった。この場所で、女神は「死」の兄弟の「睡眠《ヒュプノス》」の神にお会いになって、手に手を取って握りしめ、その名を呼んで話しかけるよう、
「睡眠《ヒュプノス》の神さま、ありとある神々や人間どもを支配なさるあなたは、ほんとに、いつかも頼みをきいてくれたけれど、また今度もぜひお願いするわ。そしたら、私はいついつまでもありがたくお思いしましょうから。それはね、ぜひゼウスさまの、お眉のもとの輝かしい眼をつぶらせてくださいな。私がいまおそばへいって、いとし心に身を臥《ふ》せますから、そしたらすぐね。そのお礼には、黄金づくりの、立派な台座のけして壊れはしないのをさし上げましょう。私の息子の両足の曲ったヘパイストスが用意してこしらえあげてくれましょうから、下には足への足台をつけ、饗宴においでのおりは、つやつやしい足をそれへ載せられましょうよ」
それに向かって、声をあげ、甘い愉《たの》しい睡眠の神が答えるよう、
「ヘレさま、総領の女神さまで、お偉いクロノス神の娘御さま、他のかたでしたら、神々のうちの誰だっても、私はすぐに寝かしつけてみせるのですがね。たとえば世界の涯のオケアノスの河流だって――そこから万物が生成したというのですが。ただ、どうもあのゼウスさま、クロノスの御子だけはね、私もちょっとおそばへ行きもできないし、ましてお寝かせはできないようでして、まあご自身でそうお命じならば別ですけれど。
というのも、ほら、先だっても、あなたさまのお言いつけにそそのかされて、あの日のこと、あの意気のさかんなゼウスの御子(ヘラクレス)が、トロイア人の城市《まち》を攻めおとしたのち、イリオスから船出をしたおりのことです。いかにも私は、山羊皮楯《アイギス》をたもつゼウス神のお心に、甘く愉しく蔽いかぶさり、お寝かせしました。するとあなたは、心中で、ヘラクレスに悪さを企み、海上に、いくども意地悪いはげしい風を吹き起こさせ、とうとう彼を景勝の地を占めるコス島〔小アジア沿岸の西南地方にある〕へと、引き離して連れてっておしまいでした。それでゼウスは、お眼を覚ますと、立腹なさって、お屋敷じゅうの神様がたを手当り次第にほうり出しました――中にもとりわけ私をお探しだったとのこと。それで私を、影も形もなくなるほど、高い空から海へほうりこまれたことでしたでしょう、もしあの神々や人間どもを屈服させる『夜《ニュクス》』が助けてくれませんでしたら。あの女《ひと》のところへ私は逃げていったのでした。そこでゼウスも、まだ怒ってはおいでになったけれど思いとどまったのです。というのも、速い『夜』の気に入らない所業をするのはおつつしみでしたもので。それだのにまたもやこんな厄介ごとまでしとげろとお命じですとは」
それに向かって、今度はまた、牝牛の眼をした女神ヘレがいうようには、
「睡眠《ヒュプノス》の神さま、どうしてまたあなたは、心のうちでそんなことを考えておいでなの。ほんとにまあ、あのはるかにかみなりをとどろかすゼウスさまが、トロイア方に加勢なさると思うのですか、ご自分の子のヘラクレスのためひどくお怒りなさったほどにも。それよりもさ、ね、いいでしょう。そしたら私が、若くてきれいな典雅神女《カリテス》たちの一人を、あなたの奥さんとも呼ばれるように世話してあげるわ、≪あなたが常日頃ほしがっていたパシテエを、よ≫」
こういうと、眠りの神は喜んで、女神に向かい答えていうよう、
「ではさあ、あの(冥府の川)ステュクスの、嘘をつけない流れにかけて誓ってください。一方の手には、生きものをゆたかに養う大地を取り、もう一方の手では、きらきら光る海にさわって、私たち二人の証人として、地の下でクロノスを囲んでおいでの神さまがたが、みなお立ちくださるようにね――本当に、若くてきれいな典雅神女《カリテス》たちの一人パシテエをくださるということを。あの娘を、私は自分でも、もう常日頃からほしいと思っていたものですから」
こういうと、白い腕の女神ヘレも、もとより異論なく承知をし、いわれたとおりに誓いをたてた――奈落《タルタロス》の底においでの、あのティタンと世間でいう神さまがたの名を証人として呼びあげて。さてこのように誓いを立て、誓約の定式をすましてから、両神は、レムノス島やインブロスの町を離れて出かけてゆき、雲霧に姿をかくして、みるみる、行く道程《みちのり》をつづめていった。ほどなく、噴泉《いずみ》にゆたかなイダ(の山)に着くと、野獣らの母と呼ばれるこの山塊の麓にあるレクトンで、はじめて二人は海を離れて陸地の上を進んでいった。その足もとに森の梢は揺らぎわたった。
このところで、眠りの神は、ゼウスの御眼にとまらないように、待っていることとし、とりわけて丈の高い樅《もみ》の木へ上っていった。それはこの時分に、イダの山中でもいちばん高く生えのびて、雲界をも抜き、澄んだ空まで届いていた。その梢に、樅の枝葉にすっかりくるまりこんで、鋭い声で啼く鳥の姿に似せて坐っていた――その鳥を、山中では神々たちはカルキスと呼び、人間どもはキュミンディスと呼んでいた。
またヘレのほうは、またたくまに、そそり立つイダの山はガルガロスの峰へと歩みを進められ、その姿を、群雲《むらくも》を寄せるゼウスがごらんになった。ごらんになると、たちまちに恋情が、抜け目ない《はずの》心に浸透した、ちょうど二人が、初めていとしい思いに結ばれあったころみたいに――そのころは両親の眼をこっそりぬすんで、ちょいちょい閨《ねや》へとはいりこんだものだった。そこで女神の前にいらして、その名を呼んで話しかけるよう、
「ヘレよ、どこへ出かけるつもりでオリュンポスを降りてここへ来たのか、馬どもも見ればいないようだし、乗ろうといって、車もそばにないようだが」
それに向かって、ずるい企みを胸にかくして、ヘレ女神が答えるよう、
「私はこれから、養いゆたかな大地の果てへまいるところでございますの、神さまがたの祖《おや》でおいでのオケアノスと、テテュス小母さまに、お会いしようと。このお両神《ふたり》は、ご自分の屋敷の中で私をよくお世話して育ててくださいましたのですから、そのかたがたを訪ねていって、お両神のきりがない争いをやめさせようって思うんですの。だってもう長いこと、たがいに背中を向けあい、愛情も臥床も遠くへ離しておしまいですの、一度立腹なさってからは。それで、馬たちは、噴泉《いずみ》にゆたかなイダの山の麓の岡に停めてあります、乾いた陸《おか》も、うるおう海も、私を載せてまいりましょうが。でもいま、かように、オリュンポスからここへ来ましたのは、あなたのおためで。もしやあとでもってご立腹なさいましては、と存じたものですから、もしも黙って私が流れのふかいオケアノスのお館へなどまいりましたら」
それに向かって、群雲を寄せるゼウスが答えていわれるよう、
「ヘレよ、あちらへはまた後日になってから出かけていってもいいだろう。それよりもさあ、二人でもって一つ床に臥《ね》て、いとしい思いに愉しみあおうよ。これまでかつて、このように、女神なり、あるいは人間の女なりへの愛情が、胸のうちの私の心をおっ取りこめて、負かしてしまったことはない。≪いや、あのイクシオンの妻となった女(ディア)を思い染めた時も――その女はあとで、神にも劣らぬ知恵者というペイリトオスを産んだけれども――またはあの、くるぶしの美しいアクリシオスの娘ダナエのときも――その女は、あらゆる武士《もののふ》の中でももっとも俊英なペルセウスを産んだのだが――または遠国までも名のとおったポイニクスの娘〔エウロペのこと〕のときも――その女は、ミノスと、神にも比せられるラダマンテュス〔ふつうカドモスの娘とされるディオニュソスの母〕を産んでくれたが、またはそれ、セメレ〔スカマンドロス河の別名〕やアルクメネを、テバイの都で(見そめたさいにも)――この女は、勇猛心をたもつヘラクレスをもうけたし、セメレはまた、人間どもの喜びとして、ディオニュソスを産んだものだ。またあの鬘《かつら》もみごとなデメテル女神とか、誉れも高いレト(女神)を見そめたときでも、あるいはそなた自身と(婚姻をむすんだとき)さえ≫現在ほどには、そなたをいとしく思い、憧憬《あこがれ》ごころが私をとらえたことはなかったものだ」
それに向かって、ずるい企みを胸にかくして、ヘレ女神がいわれるようには、
「いとも畏《かしこ》いクロノスの御子さま、まあ何ということをおっしゃいますの。今、このところで、いとし心にいっしょに臥《ね》ようなどお望みになりますなんて。イダの山のてっぺんなんかで、そんなことをしましたら、すっかり皆に見つかってしまいますわ。どうなりましょう、もし私たちが二人して臥ているところを、神さまがたの誰かしらでも見つけて、皆さまがおいでのところへ行って告げ口をなさったら、もう私としては臥床《ふしど》から起ち上がっても、お館へは金輪際帰れませんわ、不埒な女っていわれましょうから。ですから、もし本当にそうお望みで、そうなさるのがお気に召すというなら、奥御殿がございます。あの愛《いと》しい子ヘパイストスが造ってくれた、ぴったりした扉《と》が扉柱《とばしら》にもついているのがございます。そこへまいって寝《やす》みましょう、さあ床へつくのが御意に召すとのおおせならば」
それに向かって、群雲を寄せるゼウスが答えていわれるよう、
「ヘレよ、かならずともに、神々にしろ人間にしろ、誰かが見ようなどという心配は無用にしろ、それほども大きな雲を、私がまわりに蔽いかぶせよう、金色の雲をだ。そうしたならば、われわれを、太陽神とても見通すことはできまい、その照る光が、ながめる者に、いちばん鋭い、という太陽でも」
こういうより早く、クロノスの御子は、腕の中にお妃を抱き取られた。その足もとにはとうとい大地が新たに萌《も》える嫩草《わかくさ》を生いさせ、露を含んだ蓮華草や、クロッカス、あるいはまたヒヤシンスなど、やさしい花を隙間もなく、土から高く持ち上がらせた。その臥床に身を横たえて、上には、きれいな黄金色の雲をかぶっておいでになると、きらめく露は、しきりに降りそそいだ。
かようにじっと身動きもせず、おん父神は、ガルガロスの絶頂で眠っておいでになった――眠たさといとし心に取りこめられて、妃の神をかき抱いたまま。その間に甘くたのしい睡眠《ねむり》の神は、アカイア軍の船陣へと、大地をささえ大地を揺すぶる御神に言伝てをしに馳《はせ》っていった。そして間近に寄り添って立ち、翼をもった言葉をかけて、
「いまはもう存分に、ポセイダオンさま、ダナオイ方をお助けなさいませ、それで彼らに、ほんのしばしの間でも誉れを投げておやりなさい、まだゼウスさまが眠っておいでの間はね。私がそっと、ふんわりとした眠気をかぶせておきましたから。ヘレさまが、うまくだまして、いとし心に、いっしょに寝かせておしまいですので」
こういうと、彼は人間の、世に名を知られた連中のほうへ、行ってしまったが、この御神を、なおいっそうダナオイ勢へ加勢するよう仕向けたのである。そこでさっそく先陣の手勢の間に駆けつけると、大きな声で励まし立て、
「アルゴス勢よ、また今度も、プリアモスの子ヘクトルに勝利をゆるしておこうというのか、船々を奪い取り、誉れを彼があげるようにと。いや、もうあいつは、そういって威張っているぞ、アキレウスが、うつろに刳《く》った船々のかたわらで、すっかり腹を立ててしまって出て来ないので。だがあの男が出ないといって、そうひどく残念がるにもおよぶまい、もしわれわれ残った連中が、たがいに励ましあって、防御に力をつくすならばだ。だからさあ、いま私がやれというとおりにやってみろ。この陣営にあるかぎりの、いちばんよい、いちばん大きな楯をすぐって、体をおおいかくし、また頭は、十分に光り輝く兜にかくし、両手にはまた、いちばん長い槍を選んで構えたうえで繰り出すのだ。そしたら私が先頭に立ち案内しよう、そうしたらもう、プリアモスの子ヘクトルが、たとえどんなに気負いこもうと、受けこたえもできないにちがいないぞ≪また誰にもせよ、戦さに耐える武勇の者で、肩にもつのが小さい楯なら、それを劣った武士《つわもの》にやり、もっと大きな楯を被るがよかろう≫」
こういえば、みなみな、いかにももっともと、そのいうことに聞き従った。そこで、大将たちは、怪我をしてはいたが、自分の手で兵士たちの支度と整備にとりかかった、テュデウスの子(ディオメデス)や、オデュッセウスや、アトレウスの子アガメムノンなど、陣中へのこらず出かけていって、戦さの道具を取り換えっこさせ、すぐれた者にはすぐれた物の具を、劣った者には劣ったのをと渡してやり、こうして一同、輝く青銅の物の具を肌身に着こんでから、繰り出した。その先頭には大地を揺すぶるポセイダオンが立たれ、薄い長刃の恐ろしい剣をば、頑丈な御手にしっかと握れば、いなびかりともまごうほどのありさまに、このお方とは刃《やいば》を交えようもなく、恐ろしさが兵士たちを抑えとどめることであろう。
一方、こちらのトロイア勢も、誉れ高いヘクトルが兵士たちを整備させて、それから、このうえもない激戦が、漆黒の髪のポセイダオンと、誉れ輝くヘクトルとの二人によって展開されていった。一方がトロイア方の味方をすれば、もう一方はアルゴス方の味方につき、大海もおどろとばかり、アルゴス方の陣屋へ、また船の並びへと打ち寄せれば、みなみな叫喚の声かまびすしく、向かって闘う。大海の波さえも、これほど高くは陸《おか》に向かって叫びをあげはしない、北風の、きびしい息吹に、湧き立って押し寄せる際にも。また燃えさかる火の勢いでも、これほど強いうなりは立てない、山の低間に、森の木立を焼き払おうと起こったときでも。また吹く風とても、高くそびえる槲《かしわ》の木立にこれほどはげしくさけびはしない、それがことさらにひどく猛り狂って鳴り騒ぐおりであっても。それほど高い音をたてて、トロイア方とアカイア方とが、相たがいに攻めかかったので、恐ろしい叫喚の声がとどろき渡った。
さて、アイアスを目がけて、先を越し、誉れも高いヘクトルが槍を投げた、おりから、ちょうどまっすぐに彼のほうを向いたところへ。それで狙いあやまたずに、二本の提げ皮が胸をとり巻き伸びているところへあてた。一つは大楯の緒で、も一つは銀の鋲をうちつけた剣を提げる皮の緒だったが、この二重の皮が、彼の柔《やわ》ら肉《じし》を護ってくれた。それでヘクトルは、自分の投げた速い槍が手からむなしく飛んだのを見て、腹を立て、また仲間の軍勢の中へ、死の運命を免れようと引き退っていく。
その立ち去るところを狙って、テラモンの子の大アイアスが、石塊の――そんなのが速い船のつっかい棒にと、戦いあっている人たちの足もとへんにいくつも転がっていた――その一つを高く持ち上げて、頭のすぐ下、大楯の縁《ふち》を越し、胸にはっしと打ちあて、独楽《こま》のように打ってゆすぶり立てれば、ヘクトルはあたり四方へよろめきまわる。そのさまは、さながら、ゼウス父神のいかずちに撃たれて、槲の樹が根こそぎとなり、うち倒れるよう、その木から恐ろしい硫黄の匂いがたちひろがれば、近くにい合わせこれを眺める人々はもう魂も身に添わない――そのように、剛気のヘクトルもたちまち地上に塵泥《ちりひじ》のうちへ倒れ伏して、手からは槍をほうり出すと、体の上に大楯や兜がばったりと落ち、身のまわりには青銅を飾りつけた物の具が鳴り響いた。
そこでアカイア勢の息子たちは、大声に叫び立てて馳《は》せ寄り、引きずってゆこうと考えて雨霰《あめあられ》と槍を投げたが、その前にトロイア方の大将たちが、まわりをかこんで立ったもので、誰一人、この兵士たちの統率者を傷つけも、槍をあてもできなかった。すなわち、プリュダマスや、アイネイアスや、また尊いアゲノルや、リュキア勢の大将であるサルペドン、人品すぐれたグラウコスなど、その他の人々も、みなみなこれを心配して、ヘクトルの体の前に輪形もよろしい楯をかざすと、仲間の者たちは、手に手にヘクトルを担ぎあげて、修羅場から運び出し、遠い馬車の置いてあるところへ運んだ。その馬どもは、戦闘のおこなわれているうしろの場所に、手綱取りや技巧《たくみ》をこらした車といっしょに待たせてあった。それがいま、はげしくうめきつづけるヘクトルを城市《まち》へと運んでいった。
それでいよいよ渦を巻くクサントス〔トロイアの小河〕の清らかな川の流れの渡しに着くと、この川は、もともとゼウスのお産みになった息子なのだが、この場所で、ヘクトルを馬車から地面へ下ろして水を注ぎかけてやった。すると彼は息を吹きかえして、両眼をみひらいたが、膝をついて坐ったまま、黒々とした血を口から吐くと、そのまま、またうしろへと地上にひっくり返って、両方の眼はまた暗い夜に蔽われたのは、あたった石がまだまだ命を取り拉《ひし》いでいたものである。
さてアルゴス勢は、ヘクトルが向こうへ離れていくのを見ると、いっそう意気ごんでトロイア方に躍りかかり、気負いこんで戦いつづけた。このおりに、とりわけ皆にさきがけて働いたのは、オイレウスの子の速いアイアスで、槍を取って跳びかかると、エノプスの子サトニオスを突き刺した。この武士《さむらい》は、容姿《みめ》うるわしい流れのニンフが、牛を飼うエノプスにと、サトニオエイスの堤のほとりで産んだ兄だった。それをいま槍に名を得たオイレウスの子(小アイアス)が、近くに進んで、脇腹のあたりを突くと、あおむけにうち倒れた。それをとり囲んで、トロイア勢とダナオイ勢とがすさまじい戦闘を展開した。
まず彼を防ぎ護ろうと、パントオスの子で、槍の使い手と知られたプリュダマスが立ち現われ、アレイリュコスの息子というプロトエノルの右肩を突けば、がっしり重い槍の穂は肩をつきぬけはいったもので、そのまま彼は砂塵の中にうち倒れると、掌に土を握りしめた。プリュダマスは、たいそう得意になって、大音声で呼ばい上げ、
「もうこうなったら、意気のさかんなパントオスの子のがっしりとした手からは、槍がむだに飛んで出ることはけっしてあるまい。アルゴス勢の誰かがそれを肌に受け止め、そのまま槍にもたれかかって、冥王の府へ降っていくにちがいなかろう」
こういうと、アルゴス勢は、その大言にみなみな胸を苦しめたが、中でもとりわけアイアスは勇猛心を掻き立てられた。(そのアイアスは)テラモンの子のほうである、すぐそのそばで(彼は)倒れたので。電光石火と、(プリュダマスが)向こうへ退るのを目がけて、輝く槍を投げつけると、プリュダマス自身は、わきのほうへ、つと身を寄せて、黒い死の運命をよけたが、アンテノルの息子アルケロコスがそれを受けた。というのも、つまり、神さまがたが彼の破滅をおはかりだったのだ。その男の、頭と頸とが合わさる部分の、いちばん端の脊椎骨にうちあて、両方の腱を断ち切ったので、その倒れるおりには、頭や口や鼻などが、両方の脛や膝よりずっと先に地面に着いた。そこで今度はアイアスが、人品すぐれたプリュダマスに、呼ばいかけるよう、
「よく考えて、プリュダマスよ、たしかなところをいってくれ。この男は、プロトエノルの代償として殺される値打ちがあるのか。いかにも見たところは、卑しい者でも卑しい生まれでもなさそうで、馬を馴らすアンテノルの弟か子供らしいが、氏素性ではあの男にいちばん近いと見受けたから」
こういったのは、よく識っていたからだったので、トロイア方は無念の思いにとらえられた。この際に、アカマスは、兄のかたえを歩きまわって、ボイオティア人プロマコスを槍で突いた。その男はアルケロコスの両足を持ち、引きずっていこうとしていたものだった。それでアカマスは、たいそうもなく得意になって、大声で呼ばい上げるよう、
「アルゴス者が、口先ばかりで脅し文句をいい飽きないのだな、いかにも、われわればかりに、こうした苦労や悲嘆やがあるわけではなく、いつかはこのように、おまえたちも斬り殺されるときがこよう。よく考えろ、プロマコスは、兄弟の仇が、長いこと報いられずにほっとかれぬよう、私が槍で討ち果たしたから、もう眠っているぞ。そういうわけだから、人はみな、兄弟を自分の館《やかた》に、非業の死からの防護者として残しておき、誇りにするのだ」
こういうと、広言を聞くアルゴス勢は、みなみな無念と思ううちにも、とりわけてペネレオスは勇猛心を揺すぶりたてられ、アカマスをめがけて跳りかかれば、こなたはとうていペネレオスの殿のはげしい気勢を待ち受け切れずに(逃げ出したので)、刺されたのはイリオネウスという、羊をたくさん持っていたポルバスの息子だったが、この男には、ヘルメスがトロイア人《びと》の中で特別にひいきをして、財産を授けてやっていた。
その人物に、イリオネウスを、母親がひとり子としてもうけたものだが、その男をいま、眉の下、眼のおさまるところをめがけて突き刺せば、眼球を押し出してから、槍はずっぷり眼窩《がんか》をつらぬき、後ろ頸までとおって出た。それで両手をひろげて、どうと坐るのを、ペネレオスは鋭い剣を抜き放って、頸筋のまんなかへ切りつけ、地面へ頭を、兜ぐるみにたたき落とした。そして重柄の槍は、なお依然として眼に刺さったままなのを、雛罌粟《ひなげし》の実さながらに捧げ持って、トロイア方に見せびらかし、得意になっていうようには、
「話してくれ、トロイアの人々よ、この立派なイリオネウスの愛しい父御や母上に、館の中でくやんで泣くように。もうアレゲノルの子、プロマコスの奥方だって、愛しい夫の帰ってくるのをうれしく迎えはできないのだから。将来いつかは、トロイアからわれわれアカイアの若武者たちが、船に乗って帰っていくときにもだ」
こういうと、人々はみな手も足も恐ろしいふるえに取りつかれて、どちらへ逃げて峻《けわ》しい破滅を免れようかと、あたりを見まわすばかりだった。
ではさあ、教えてください、オリュンポスにお住まいになる|詩歌の女神《ムーサイ》たち、このおりにいったい誰が、いちばん先に、アカイア方のうちで、血みどろな武者首を揚げて手柄をたてたか、この名も高い大地を揺すぶる御神が、勝敗の地を換えさせたときに。まず第一番は、テラモンの子アイアスで、ギュルティアスの子ヒュルティオスを殪《たお》した。剛気と聞こえたミュソイ勢の大将である。またパルケスとメルメロスをアンティロコスが討ち取れば、メリオネスはモリュスとヒッポティオンを倒し、テウクロスは、プロトオンとペリペテスを討って取る。つづいてアトレウスの子が、兵士たちの統率者ヒュペレノルの横腹へ槍を刺した。青銅の刃は、肌を剖《さ》いて、臓物を溢れさせ、切り裂かれた傷口から、生命が急《せ》き立てられて出てゆくと、暗闇が眼を蔽いかくした。ことさら大勢討ち取ったのは、オイレウスの子の足の速いアイアスで、(敵軍に)ゼウスが敗亡の念を吹きこまれたとき、あわてふためき逃げてゆく敵兵たちを追跡するのに、誰一人彼におよぶ者はなかったからだ。
[#改ページ]
船の傍らでの逆追い撃ちの段
【山上でゼウスは目を覚まし、下界を見ると、トロイア方の総敗北の形勢に驚き、神々を叱りつけて引き退らせ、アポロン神に命じてヘクトルを助けさせる。トロイア勢は勢いを盛り返し、ときの声をあげて船へ迫る。この形勢にパトロクロスはアキレウスに涙ながらに頼みこんで、その武装を借り、部下の兵士らを率いて出陣することを許可させる。その間にギリシア方はアイアスらを先頭に防戦につとめるが、神威をいただくトロイア勢にはおよばず、ヘクトルはついにギリシア方の船に松明を投げ入れ、火をつける】
さてトロイア軍が、逆茂木《さかもぎ》や壕《ほり》を渡って逃げてゆくうちに、大勢の兵士たちが、ダナオイ勢の手にかかって討ち取られたが、それでもなお、中には、怖ろしさに色蒼ざめて、すっかり逃げ腰にはなりながらも、戦車のかたえに踏みとどまって、待ち受ける者がないではなかった。ちょうどこのとき、イダの山の頂きで、黄金《こがね》の御座《みくら》のヘレのかたわらに、ゼウスが目をお覚ましだった。そして突っ立ち上がってトロイア方とアカイア方とに眼《まなこ》をはせると、一方はひたすら追い立てられて逃げるあとからアルゴス勢が群がって追っかけてゆく。その間にポセイダオン神の姿も見える。ヘクトルはというと、平原に倒れ伏していて、周囲に仲間の者どもが坐っている。アカイア勢の中でも名のあるしたたか者に打たれたもので、彼自身は苦しげな息づかいに、意識もさだかではなく、口からは血を吐いていた。この様子を見て、人間どもと神々とのおん父神は、憐れをもよおし、おそろしい顔でヘレを上目づかいににらまえながら、話しかけられ、
「まったくそなたは不埒な企らみをする、けしからんやつだ、ヘレよ、いつわりを設けて、勇ましいヘクトルに戦さをやめさせ、トロイア勢を敗亡させたな。もう知らんぞ、今度もまた、このけしからん悪だくみの報いを、そなたがまっ先に受けようと。そして鞭でしたたかに打たれてもだ。前に天から吊り下げられたのを思い出さないのか、両足には鉄砧《かなしき》を二つくっつけ、手には黄金のけして壊れぬ鎖をかけてやったら、そなたは高い大空と雲の間に吊りさがっていた。それでオリュンポスの高嶺《たかね》においでの神々は憤慨したものだったが、みな、そばへいって解き放してやりはできなかった。そのつもりがあれば、この手をかけてとっつかまえて、閾《しきい》からほうり出してやったろう、息もたえだえになって地に着くまで。そうしてもまだ、気高いヘラクレスのため受けた休む間もない痛心は、私の胸を離れないのだ。その子をそなたは、北風に手伝わせて、颶風《はやて》の風を説得して、荒涼とした海原の上を吹き送らせた、悪企みをしてな、それからとうとう、構えもよろしいコス島まで運んでゆかせた。それを私がそこから救い出して、またふたたび馬を飼うアルゴスへと連れ返したのだ、それもずいぶん苦労をしたうえだったが。そのおりのことをもう一度思い出させてやるかな、もう悪だくみはきっとやめるように。また色仕掛けや添い寝などが、そもそも役に立つか立たぬか悟るようにな、その下心で、神々たちのもとから出て来て私を誘い、私にいっぱい食わせたわけだが」
こういうと、牝牛の眼をした女神ヘレは身ぶるいして、彼に向かって声をあげ、翼をもった言葉をかけて、
「それでは大地も、上なる久方の空も、また落ちて流れるステュクスの水も、このことをご照覧くださいませ、その流れへの誓いこそ、祝福された神々にとって、もっとも大きな、また恐ろしいものですから。またあなたさまの貴いお頭《つむ》にも、私たち二人自身の筋目正しい婚姻《めあい》の床にもかけて、それへの誓いは、私もけしておろそかにはせぬつもりです。けして、私の頼みでもって、大地を揺すぶるポセイダオンが、トロイア方やヘクトルを悩まして、アカイア方へ加勢をなさるわけではなく、なにゆえにか、お心で我慢がならず、なさったのです、船々のかたわらでアカイア勢が難儀してるのをごらんになって、憐れとお思いなさって。でもさようならば、あのかたへも、私がいっそ忠告いたしましょう。黒雲を寄せる御神さま、あなたがそれこそお指図になるとおりの道をお取りのようにと」
こういわれると、人間どもと神々とのおん父神は微笑なさって、ヘレに向かい、翼をもった言葉をかけて答えられるよう、
「いや、まったく、もしそなたもまた、これからのちは、牝牛の眼をしたヘレ女神よ、私と同じ意見を守って、不死である神々の間に位を占めてゆかれるなら、ポセイダオンとても、たとえどんなにちがう思惑《おもわく》を持っているにもせよ、すぐに私やそなたの意見に従い、考え直してくれるだろう――もしいまそなたのいった話が本当のことで、まちがいのないものならばだ。これからさあ、神々の集まっているところへ行って、ここへ来るよう、虹の女神イリスと、名うての射手のアポロンとを呼び出してくれ。イリスのほうは、青銅の帷子《よろい》をつけたアカイア方の兵士たちのあいだへいって、ポセイダオン神にすぐ戦いから手を引いて、自分の館へ帰るようにいいつけるため、またアポロンには、ヘクトルを戦いへと激励させるのだ、まずもういちど勇気を吹き込んで、現在あれの心を悩ましているいろんな苦痛をすっかり忘れさせたうえで。一方アカイア勢へは、臆病な潰走を持ちかけて、退却へと向きを変えさせに。たくさんな橈架《かいかけ》をもつ船の間に逃げこんで殪《たお》れるようにな。
≪ペレウスの子アキレウスのだ、そしたら彼は親友のパトロクロスを立ち上がらせよう。そしてその男を、誉れも高いヘクトルが、槍にかけて、イリオスのすぐ前で殺すことだろう、パトロクロスがたくさんな若者たちを討ち取ったあとで――その中には私の息子の気だかいサルペドンも(数えられるのだ)。そのために憤激して、勇ましいアキレウスがヘクトルを殺すだろう。それからあとは、今度は船陣からの追い返しを、間断なしに私がしょっちゅうとり計らおう、アカイア勢が、そそり立つイリオスを、アテネ女神のはかりごとによって攻めおとすまで≫
それ以前には、けして私は怒りを止めるつもりはないし、不死である神々のうちの誰にしろ、ダナオイ勢に加勢するのを、うっちゃってはおかぬつもりだ――ともかくペレウスの子の願いが十分にかなえられないうちはな。私がいったんこうとうなずいて、約束をしてやったからには。あの日のことだ、私の膝に、女神テティスが取りすがって、城を攻め取るアキレウスに誉れを与えるようにと頼んだおりに」
こういわれると、白い腕の女神ヘレも、いわれたとおりに従って、イダの山々からオリュンポスの高嶺をさして出かけてゆかれた。そして、ちょうど人間の思考というものが、すばやく飛んでいくように、たとえば、広い世界を渡ってきた男が、賢《さか》しい心に、あそこにいたらとか、ここにいたらなど考えて、いろんなものを望みもとめる、そのようにまたたくまにヘレ女神はきおいこんで渡ってゆかれ、たちまちにそそりたつオリュンポスへとお着きになり、ゼウスの宮居に、みな集まっておいでなされる不死の神々たちのあいだへゆかれる。それと見るなり、皆々ひとしく座を立って、杯を献《さ》し、お迎えした。
ところで女神は、他のかたがたはほうっておいて、頬の美しいテミス女神〔掟、慣習の女神〕の杯をお受けになった、というのも、いちばんさきにお出迎えにと駆け寄り、女神に向かって、声をあげ、翼をもった言葉をかけて、
「ヘレさま、何でまたお出ましでしたか、それに大変お取り乱しのご様子で。きっとあなたを、旦那さまのクロノスの御子が、たいそうおどしつけにでもなりましたか」
それに答えて、今度は、白い腕の女神ヘレがいわれるよう、
「それはまあ聞かないでおいてください、テミス女神さま、あなただってご存じですわね、あのひとの気象がいったいどんなものか、傲慢でそっけないのを。それよりあなたが、神さまがたの先に立って、御殿の中でよくゆき届いたお饗宴《さかもり》を始めてください、そうしたら不死である神々が揃っておいでのところで、どんなにひどい所業を、ゼウスがおおせ出されたか、お聞かせしましょうから。それでけして、誰も彼も、同じようには心のうちで、お喜びにはなるまい、と思うのです。人間にしろ神さまにしろね。いまのところは、まあ機嫌よく食事なさっておいでだけれど」
このようにいい終わると、ヘレ女神はお坐りになったが、ゼウスの御殿中においでの神さまがたは、困ったこととお思いだった。女神は、口もとだけに笑いをお浮かべだったが、黒々とした眉のあたり、額にはなおやわらいだ様子を見せずに、(ゼウスに対し)不平顔をして皆々にいわれるよう、
「馬鹿ですわね、私たちは、ゼウスさまを恨んでいきり立つなんて、無考えなことを。それなのにまだ、おそばへいって、言葉でなり力ずくでなり、やめさせようとしきりにやるのですが、あのかたは坐っていて、気にもかけず、構いつけもしないでいて、不死である神々のあいだで、権力でも武力にかけても、ご自分だけが飛び離れていちばんすぐれているのだ、と思っておいでなのですわ。ですから辛抱なさいましね、たとえどんな禍いを、(ゼウスさまが)あなたがたのめいめいにおよこしなさろうにしろ。つい今だって、どうやらアレスさんに災難が持ち上がってるらしいんですの。あの人の息子さんが戦さで死にましたものね、武士《さむらい》たちの中でもいちばん可愛がってるアスカラポスがね、勇猛なアレスさんが自分の子だといっておいでだったけれど」
こういうと、こちらのアレス神は、たくましい両腿をはげしく平手でたたきながら、かきくどいて嘆くよう、
「いまのところは私に腹を立てないでくれ、オリュンポスの宮居においでの神々たち、たとえ私がアカイア方の船陣へいって、殺された子の仇討ちをしたとしても。よしんばゼウスの雷火に撃たれて、死骸といっしょに、血や塵埃にまみれたままで横たわるのが、まさしく私の運命となるにしても」
こういって、すぐさま「恐怖《デイモス》」と「潰走《ポボス》」に命令を下し、戦車に馬をつけさせる一方、自身はたいそう光る物の具を着けた。
このおりに、あるいはもっと手きびしく、また厄介なお腹立ち、あるいはご不興が、ゼウスさまから、不死である神々に向けて、引き起こされたかも知れなかった、もしアテネが、神さまがた一同のため、大変に心配して、玄関を飛び出し、前から坐っておいでになった御座《みくら》を立たれなかったら。それで女神は、アレスの頭から兜を、肩からは楯を奪い取って、青銅の槍も、そのがっしりとした手からもぎ取って突き立ててから、言葉をついで、勢いのはげしいアレス神を叱っていうには、
「気が狂ったの、正気の沙汰ではない、身の破滅ですわよ、まったく耳があっても役に立たず、分別も礼儀もなくしちまって。聞かなかったの、白い腕のヘレさまがおっしゃることを。いましがた、オリュンポス(の御主)のゼウスさまのお手もとからいらしたばかりなんですよ、それともたってお望みなの、自分もさんざんひどい目にあって、よんどころなく辛い思いをしながら、またオリュンポスへと引き取らされ、他のかたがたにも、たいした難儀を起こしてやろうと。だってもうじき、ゼウスさまは意気のさかんなトロイア方もアカイア勢もほうっておいて、オリュンポスへと、私たちへ一騒動もちかけに帰っていらして、咎《とが》のあるのも無い者もいっしょくたにして、順ぐりつかまえるでしょう。それだからいまのところは、ご自分の息子のためでも、立腹をおやめのようにすすめるのです、だってずいぶん、これまでだって、もう腕も力も、息子さん以上の者が殺されていますし、今後とて殺されることでしょうからね。厄介しごくなことですものね、すべての人たちの家系や子孫を護るというのは」
こういって、また座席へと、勢いのはげしいアレス神を坐らせた。その間にも、ヘレ女神は、お屋敷から、アポロンとイリスとを外へ呼び出したが、この女神は、不死である神さまがたのあいだでのお使い番なのだった。そして彼らに向かって声をあげ、よく響く言葉をかけて、
「ゼウスさまが、あなたがた両神《ふたり》に、一刻も早くイダの山へ来るようにとご命令ですよ。それでもしそこへ行って、お目通りをしたならば、どんなことでも、神さまがお命じになり、しろとおっしゃることを果たすようにね」
こうヘレ女神は、いい終えると、また立ち戻って、台座の中へ腰を下ろせば、両神はさっそく飛び立ち、翔《かけ》ってゆかれた。そして野獣どもの母といわれる、噴泉《いずみ》にゆたかなイダの山へ着くと、はるかにかみなりをとどろかすクロノスの御子が、ガルガロス峰のてっぺんに坐っておいでなのを見つけた、あたりは一面にかぐわしい靄《もや》がたなびきめぐっている、その間を両神は進んでゆき、群雲を寄せるゼウスのすぐ御前に立ち出ると、両神を認めて大神はもう腹立ちもどこへやら、愛しい妃神のおおせのままにさっそく来たのにご満悦で、まず初めにはイリスへ向け、翼をもった言葉をかけて、
「さあ行ってこい、速いイリスよ、ポセイダオン神に向かって、かように残りなく伝えろ、けして使いをまちがえてはならんぞ。彼《あれ》にもう戦さや斬り合いから手を引いて、神々たちの集まりへなり、輝く潮の中へなりと赴くように命じるのだ。もしまた私の命令に従わないで、ないがしろになどするときは、よくよくそれから胸のうちで考えるがよかろうとな、いかにも彼《あれ》とて剛勇をうたわれていようが、私が向かっていったらば、とうていかないはすまいだろうと。彼よりは私のほうが、ずっと力もまさっているし、生まれたときとて早いのだから。それなのにあいつはいっこう反省もせず、他の神々はみな恐れはばかるこの私と同格みたいに思っているのだ」
こういわれると、風のように足の速い|虹の女神《イリス》は、さっそくにうけたまわって、イダの連峰を降ってゆき、聖《とうと》いイリオスへと向かっていった。さながら群雲の間から、雪の片《ひら》か霰《あられ》かでも舞い落ちるよう、冷たいのが空から吹きおこす北風のはげしい勢いに追いまくられて――そのように、またたくまに、勢いこんで、速いイリスは飛びわたってゆき、名も高い大地を揺する御神のすぐと間近に立ち止まると、御神に話しかけるよう、
「ちょっとおことづけをいたしに、こちらへうかがいました、大地をささえる黒いお髪《ぐし》の神さま、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウス神のお手もとからでして。つまりもう戦さや斬り合いから手を引いて、神さまがたの集まりへなり、輝く潮の中へなりと、引き取るようとのお言いつけです。もしまた大神さまの命令をお聞き入れなく、ないがしろにでもなさろうなら、あちらさまでも、面と向かって力をつがえ、一手合わせしに、このところへおいでなさろうとのきついおおせで。それゆえ、お仕置きはまずお避けなさるのがよろしかろう、とのこと。もともと、あなたさまより、あちらのほうが、お力もずっとまさっておいでのうえ、お生まれの順も先だから、とおおせになります。それなのに、あなたはいっこう反省なさらず、他の神さまがたはみな恐れはばかるゼウスさまと同格のようにお考えだとね」
それに向かって、たいへん気色《けしき》を損じて、名も高い大地を揺する御神がいわれるよう、
「何ということか、いかにも彼《あれ》は強いだろうが、思い上がったことをいうものだ。同じ位を享《う》けている私を、むりやりに力ずくでおさえようなどと。それというのも、もともと私らは三人兄弟なのだ、クロノスによりレイアがもうけたゼウスと私と、地下にいる者どもを統治するアイデス(プルトン)とだが。それで全世界を三つに分け、めいめいが、それぞれの職分を引き受けることにした。つまり私は、みなで籤《くじ》を引いてから、灰色の海を常住の住居として割りあてられ、アイデスは、おぼろにかすむ幽冥界を、ゼウスは、高いアイテルと雲との中にある久方《ひさかた》の空を引きあてたが、大地と、それからオリュンポスの高嶺とはまだみんなの共有物なのだ。こうした次第ゆえ、私はすこしもゼウスの心に従って暮らすつもりはまったくない(平気なものだ)どれほど彼《あれ》は力が強いというにしろ三つに一つの分け前に満足して、おとなしくしてたらよかろう。腕ずくでなど、私をすっかり臆病者あつかいにし、おどかそうなどしてはならん。娘たちや息子どもでも、乱暴な言葉でもって叱っていたら、まだよかろうにな、自分の産んだ子供らをだ。あいつらならば、ゼウスが、こうと命令したら、是が非でも聴き従うことだろうからな」
それに答えて、今度は風のように足の速い虹の女神がいわれるよう、
「それでは本当に、大地をささえる黒いお髪《ぐし》の神さま、いまのまま、こうそっけもなくまた厳しいお言葉をゼウスさまにお伝えしてよろしいのでしょうか、それともいくらかはお譲りになりましょうか。すぐれたかたの御心は、譲るを知ると申しますうえ、ご存じのように、年長者には、いつも|復讐の女神《エリニュス》たちがお供をして(お守りする)ことですから」
それに向かって、今度は大地を揺すぶるポセイダオンがいわれるよう、
「虹の女神よ、いかにも、いまのそなたの言葉は条理にかなった話だ、また使者にたった者が十分なわきまえを持っているのも、結構なことだけれども、ひとしい分け前、同等な権限を授けられてる私に向かって、腹立ちがましい文句を並べ、叱りつけようなど思われては、いつでも、ひどく不快な気持におそわれずにはいられない。ともかくも、いまのところは、けしからんこととは思うが、譲歩しておくことにしよう。ただし、もう一つほかにいっとくことというのは、これは私が本気でもっておどすことだが、もしもゼウスが、私の意見や、獲物を集めるアテネや≪ヘレやヘルメス、またヘパイストスの望みにそむいて≫高くそびえるイリオスに容赦を加えて、攻めおとすことを望まず、アルゴス勢に大勝利を授けてやるのを拒むというなら、よく覚えていてもらいたいな、私ら二人は、もうなだめようもなく憤慨しようということを」
こういって、大地を揺すぶる御神は、アカイア勢の陣地を去って、海原へと沈みはいられたのに、アカイア方の勇士たちは、御神の立ち去られたのを口惜しく思った。
このときにまた、アポロンに向かって、群雲を寄せるゼウスがいわれるには、
「ではこれから行ってこい、愛しいポイボス(アポロン)よ、青銅の甲冑を着けたヘクトルのもとへな、ちょうどいましがた、大地をささえ大地を揺する御神も、私たちのひどい怒りをはばかって、輝く海へとはいっていったから。(さもないと)ずいぶんとはげしい争いを、他の神々とて経験するところだったが――冥界にいて、クロノス神をとり囲む者どもさえもがだ。だが、こうおさまるのが、結局は私にとっても、彼自身にしても、ずっと都合のいいことだったのだ、怒ったにしろ喧嘩をする前に、私の腕の力にたいして譲歩したのは。さもなければ一汗かかずにはすまなかっただろうからな。
ともかく、そなたは、これから総《ふさ》の飾りがたくさんついてる山羊皮楯《アイギス》を手に取って、はげしくそれを打ち振り、アカイア方の勇士たちを取りひしいで敗亡させるのだ、またとりわけて、遠矢を射る神よ、誉れ輝くヘクトルのため配慮してやれ、それでアカイア軍が敗走して、船々の置いてあるヘレスポントス(の浜辺)に着く、それまでは、あの男に大勇猛心を喚び起こしてやれ。それから先は、私が自身で、どうするか、またどういいつけるか、思案しておくことにしよう。どのようにして、またアカイア勢に、苦戦から一息つかせたらよいかを」
こういわれると、アポロン神は、父神のおおせにもとより異議なく従って、イダの山々から隼《はやぶさ》のようにくだってゆかれた、翼をもった鳥類の中でもいちばんに速い、鳩殺しと呼ばれているその鳥みたいに。そしてプリアモスの勇猛果敢な息子、気高いヘクトルが坐っているところへ行った。いましがた息を吹き返したところで、もう臥てはいず、周囲をかこむ仲間たちもはっきりと見分けがつき、はげしい息づかいも、汗も、しずまっていた、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスのご意向が、彼をまた立たせるときまってからは。それで、間近に寄って立ち添い、遠矢を射る御神が言葉をかけ、
「ヘクトルよ、プリアモスの息子というそなたがまた、どうして他の者から離れたところで、すっかり弱りきって坐っているのか。何かまあ心配ごとでも起こったのか」
それに向かって、息もなおたえだえの様子で、きらめく兜のヘクトルがいうようには、
「あなたはどなたですか。神さまがたの中でもいちばんご親切なかたですが、じきじき私におたずねあるとは。ご存じではないのですか、アカイア勢の船々の舳《へさき》のところで、雄叫びも勇ましいアイアスが、私に向かって大きな石塊を胸へ打ちつけ、勢いはげしい勇猛の気を取りひしいだのです。もうてっきり、私としても、今日こそは死人のあいだの冥王の府へ行くことだろうと覚悟していました。いとしい命も絶えだえだったことですから」
それに向かって、今度は遠矢を射られるアポロン神がいわれるよう、
「さあ元気を出せ、それほどたいした援助者を、クロノスの御子神が、イダの山からお遣わしになったのだから、おまえの介添え役として護衛するよう、黄金の太刀を佩《は》くポイボス・アポロンをだ。そういう私は、以前からおまえ自身も、そびえ立つ城市《まち》も、いっしょに防ぎ護ってきたのだからな。さあ、いまこそ大勢の騎士たちを激励して、中のうつろな船々へと速い馬車を駆ってゆかせろ。その間にも、私が先へ出かけていって、戦車がみな通る路を平らかにし、アカイア軍の勇士たちを敗走させよう」
こういって、兵士たちの統率者(ヘクトル)に、たいそうな気力を吹きこまれた。それはさながら、厩《うまや》に繁がれていた馬が、飼葉桶の麦に食い飽きて、つながれていた紐を振り切り、平野の上を戛々《かつかつ》と蹄を鳴らし駆けてゆくよう、流れのきよらかな河でいつも水を浴びるふだんの習慣により、意気揚々と首を高くもち上げていくその左右に、たてがみが両肩の上を流れて奔《はし》れば、馬は自分の立派な姿を心にたのんで、馬たちがいつもきまってゆく野や牧原へと、颯爽《さっそう》と脚を運ぶ。そのように、いまヘクトルは、すばしこく足や膝やを動かしてゆき、その間も神さまの御声を聞いていて、馬持ちどもを督励していった。
さてアカイア勢は、さながら角の生えた牡鹿か、野生の山羊かを、狩り犬どもや田舎の男たちが追い出していく時のようであった――すなわち、この連中が叫び立てると、それに応じて、それまではけわしい岩や陰くらい森の繁みに隠れていて、それに出くわすこともなかった、たてがみもみごとな牡獅子が一匹、路上へと立ち現われ、一瞬の間にみなを、どれほど勢いこんでいようと、追い返してしまう――そのようにダナオイ勢は群れをなして、相変らずに剣や二|叉《また》の槍で突き立てながら、トロイア方をしばらくは追いかけていったが、いよいよヘクトルが現われて、武士たちの隊伍の間を往来するのを認めたとたんに、みなみな胆をひやして、元気さえ一様に足もとへ沈みこんでしまった。
そのとき、一同に向かって、アンドライモンの息子トアスが話をしかけた、この人はアイトリア勢中第一の勇者で、投げ槍の技も巧みで、近間の戦さも上手、とりわけアカイア方で、若者たちが議論をやって争うおりに、弁舌にかけては彼にまさる者とてはわずかだった。その男がいま一同のためをおもんぱかって、はなしを始め述べるようには、
「何ということか、これはまったくたいそうな不思議を目に見るものだ。というのも、今度もまたもやヘクトルが死の運命を免れて生き返ってきた。もう誰も彼も、心のうちでは、あの男はテラモンの子アイアスの手にかかって死んでしまったと、すっかり思いこんでいたのに。きっと今度もまた、神々のうちのどなたかが、ヘクトルを護って救ったのだ、まったく彼は数知れぬダナオイ人《びと》の膝をくずおれさせたものだけれども、今度もまた同様の仕儀になろうと思うのだ。それというのも、はげしくかみなりをとどろかすゼウス神の御心によらないでは、このようにきおいこんで先駆けには立つまいからだ。ともかくも、さあ、私がいまいうとおりに、みな聴き従ってくれ、われわれ兵士たちはみな、船に向かって引き揚げるよう命令するがいい、だが、陣営中で第一の勇士をもって任じているわれわれ自身は、みんなそろって踏みとどまろう、槍をかかげ持って、あるいは先に彼をむかえて防ぎ止めもできようから。どれほどきおいこんでいようと、たぶんは彼も、ダナオイ勢の群がる中へはいってくるのをはばかるだろう」
こういうと、一同いかにももっともなことと、いうとおりにした。さてアイアスや、イドメネウスの殿をとり巻く連中、あるいはテウクロスやメリオネスや、アレスにも比せられようメゲスなどを囲む人々は、武勇の者を呼び集めて、ヘクトルにつづくトロイア勢を正面から迎えて合戦をはじめる一方、うしろのほうでは、大勢の兵士たちが、アカイア軍の船陣をさして引き揚げていった。
さてトロイア勢は、みな寄り合って攻めかかる、その先頭にはヘクトルが、大股に歩を進めれば、ヘクトルその人の前につき、ポイボス・アポロンが、両肩を雲霧に隠し、勢いはげしく山羊皮楯《アイギス》を手にしてゆかれる。へりには粗毛《あらげ》をつけ、ありありと人目に立つ、恐ろしいこの楯こそ、鍛冶の神ヘパイストスが、ゼウスのおん持ち物に、人間どもの畏怖のために、造ってさしあげたものである、それをいまアポロン神は両手にささげ、兵士たちの先導役をおつとめなさった。
一方、アルゴス勢も、みな寄り合って持ちこたえれば、はげしい雄叫びの声が両軍から湧き上がった。弓弦《ゆづる》からは矢がつづけざまに放たれて飛び、数多くの投げ槍は、大胆不敵な腕により投げつけられた。中には戦さにすばしこい若殿ばらの肌身に突き立ったのもいくつか、おおよそは、あいだの地面に、あくまで肉をもとめながらも、白い肌身に触れるにいたらず、突き立った。
さて山羊皮楯《アイギス》を、ポイボス・アポロンが、ゆるぎも見せず、御手に持っておいでのあいだ、その間は両軍の放つ飛び道具がよくあたって、兵士たちが倒れていった。だが御神が、速い駒を駆るダナオイ勢をまともに見すえて(アイギスを)振りなびかせ、そのうえご自身も大きな声で叫んで、アカイア方の胸の気力を魅《あやか》されると、(彼らは)気負いはげしい武勇のほども忘れてしまった。
それで彼らは、さながら牛どもの群れか、あるいは羊の大群が、ごった返して逃げまどうように――それは二匹の野獣が、まっ暗な夜更けの闇に、いつも指図をする(牧人)がいあわさないとき、不意に襲いかかったもので――そのように、アカイア勢は、勇気をなくして逃げにかかった。というのも、アポロン神が臆病風を吹きこまれて、トロイア方とヘクトルとに、誉れを与えようとなされたからである。
さてこのおりに、ちりぢりに分れて斬り合い、武士は武士を討ち取った中でも、ヘクトルが殺したのは、スティキオスとアルケシラオスとで、その一人は青銅の帷子《よろい》を着けたボイオティア勢の大将、もう一人は、気象のひろいメネステウスの忠実な部下だった。またアイネイアスは、メドンとイアソスとを殺してはいたが、この一方は、気高いオイレウスの脇腹の息子だったメドンで、アイアスの弟にあたるが、その住まいは故郷を離れたピュラケで、それも人を殺したせいだったが、殺されたのはオイレウスが妻としていた(彼にとっては)義理の母のエリオピスの兄弟だった。もう一人のイアソスは、アテナイ人の一方の旗頭とされていた者で、ブコロスの子のスペロスの息子と呼ばれていた。
またメキステウスをプリュダマスが討ち取れば、エキオスをポリテスが、合戦のいちばん先のところで討ち、クロニオスを気高いアゲノルが討ち取った。またデイオコスをパリスが、うしろから肩のつけ根を、先陣の間を逃げてゆくのを槍で突き、青銅の穂先をずっぷり突きとおした。
かように人々が、討った者らの物の具をはぎ取っている間に、アカイア勢は、掘りあげた塹壕や逆茂木に取りかかって、あちこちと逃げまどったうえ、ともかくもよんどころなく囲壁の中へ隠れこんだ。おりからヘクトルは、トロイア勢に向かって大声をあげ、血まみれの獲物などはほうっておいて、船々へ襲いかかれ、と号令した。
「もしまた私が、船陣から遠く離れて、別なところにいるやつを見つけたなら、その場で、そいつが死ぬようにしてやるぞ、またそうなったら、もうその男を、身内の者でも、死んでから火葬にするのも許されまいし、われわれの城市の外で、野犬どもが引き裂くままにほうっておかれるのだ」
こういって、鞭を肩から振り下ろして、馬どもを駆り、トロイア勢を励まし立てれば、みなみなヘクトルにおくれまいと、ののしり合って、戦車をひく馬どもをつらね、恐ろしい物音を立て進んでいった。その先頭にはポイボス・アポロンが、やすやすと、深い壕の堤を足でふみ倒して、壕の中へ投げこんだので、その土でいま、長くて幅も広い道が土手のように壕の中へかけ渡された。その長さといえば、丈夫《ますらお》が力試しに槍を投げるとき、槍が飛んでいく距離ほどあった。
そこを通って、(トロイア方の)兵士たちは、どんどん進んでゆく、先頭にはアポロンがことさら尊い山羊皮楯《アイギス》をかざして、とうとうアカイア軍の囲壁さえ、いとも容易に押し倒したのは、まるで子供が、海のすぐそばで砂遊びをしているよう、子供っぽい習いでもって、その児がいま砂の玩具を作りあげたと思うと、今度はまた足や手で、ふざけてそれをごちゃごちゃにつぶしてしまう。そのように、ポイボス神よ、あなたは、アルゴス勢がたいへんな骨折りと嘆きをもって造ったものを押しつぶしたうえ、彼ら自身には敗亡をもたらした。
このありさまに、アカイア方の人々は、船陣のかたわらに踏みとどまって頽勢をささえようと、たがいに激励しあい、またありとある神々に向かって両手をさし上げ、声高く、てんでに祈りを捧げるのだった。中にもゲレンの騎士ネストルはまた、アカイア軍の目付役として、星に満ちた大空へ手をさしのべて、祈っていうよう、
「ゼウス父神、もしも以前に、小麦に富んだアルゴスの郷《さと》で、誰にしろ、牝牛や羊のふとった腿の脂肉と骨を焼いてたてまつり、帰還のことを祈ったときに、ご嘉納なさってお約束でしたならば、それらのことを思い出されて、オリュンポスにおいでの神さま、無慈悲な(破滅の)日が来ないようお護りください、そして、このように、アカイア勢を、トロイア軍の蹂躙《じゅうりん》にお任せなさいませぬように」
こう祈っていうと、全智の御神ゼウスは、年寄ったネレウスの子の祈りをお聴きになって、大きなかみなりをおたてなされた。
だが、トロイア勢は、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスが、かみなりをたてられたのを聞くにつけ、いっそうはげしくアルゴス方へと攻めかかって、戦闘に気勢を添えた。それで兵士たちは、さながら行く手もはるかな海洋《わたつみ》の大きな波が、いつに限らず風の力があおり立てると、船べりの囲いを越えてはいってくるように――ことさらに、風というのは、波のうねりを高くするので――そのように、トロイア勢は、声高く雄叫びながら、囲壁を踏み越えて、中まで馬車を追いこんで来て、船々の艫《とも》のあたりで、戦いつづけた。二叉の槍をもって白兵戦に、あるいは戦車の上から、あるいは高々と、黒塗りの船々へと乗りこんで、その上から長く尖った刺叉《さすまた》をもって――それはちょうど船々に置いてあった、船いくさ用にはぎつけ合わせた木杭で、先には青銅が嵌《は》めこんであるものだった。
さてパトロクロスは、アカイア方とトロイア勢とが、速い船々のある外側の囲壁のあたりで戦っていた時分には、ちょうど情誼にあついエウリュピュロスの陣屋の中に坐っていて、いろんな話で彼を慰めながら、手ひどい傷に、黒い痛みの癒やし手である膏薬を塗りつけてやっていた。しかしいよいよトロイア軍が、囲壁を越えてなだれこむのを目にし、ダナオイ勢が、叫喚と潰走とに巻きこまれたのをながめると、嘆声を発して、両方の腿を掌で打ちたたき、悲嘆にくれながら、いうようには、
「エウリュピュロスよ、こうなってはもう、あなたに用もあろうけれども、ここにこういすわってはいられなくなった。いよいよ大戦闘が始まったから。それゆえ、あなたのお伽《とぎ》は付添いの者に任せることにし、私としてはアキレウスのところへ急いで帰るほかはない、彼を戦さに出るよううながすために。あるいは私が、神明のご加護により、彼を説きすかして奮激させられぬものでもあるまい、友達の説得というのはまったくいいものだから」
こういい切ると、彼は歩いて出かけた。一方、アカイア勢は、トロイア方の攻撃を、確乎として持ちこたえていったが、そうかといって、兵数では劣っている敵軍を、船陣のあたりから追い退けることもできなかった。一方またトロイア軍のほうでも、ダナオイ勢の隊伍を突破して、陣屋のあるあたり、また船々の置いてあるあたりへ、乱入することもできないでいた。
それはちょうど、船をつくる材木を、熟練した船大工の掌に握られた墨縄《すみなわ》が、ぴったり張られてまっすぐにしきってゆくよう――そのように、両軍の力は、戦さにおいても闘いでも、ぴったりとひとしく張りあっていた。そしてそれぞれ、めいめいの船のあたりで刃を交わしあっていたが、ヘクトルはというと、誉れも高いアイアスめがけて進んでいって、二人でもって一つの船を取り合おうとせめぎ合い、もみ合ったが、どうやっても、一方がもう一方を追っ払って、船に火を放つことも、さりとてもう一方が敵を追いしりぞけもできないでいた。というのも、彼を(船に)近寄らせたのは神力だったのだから。
このおりに誉れ輝くアイアスは、クリュティオスの息子カレトルが、船へ火を運んで来るのへ槍を投げつけ、胸のところへ打ちあてたので、地響きうって倒れれば、手からは燃える薪《たきぎ》が落ちた。ヘクトルは自分の従兄《いとこ》が、黒塗りの船のすぐ前で砂塵の中へ倒れたのを目撃して、トロイア勢やリュキア勢に、大声で呼びかけるよう、
「トロイア勢もリュキア勢も、近間で戦うダルダノイの軍勢も、けして引き退いてはならん、このように戦況が急になったうえは。ともかくも、クリュティオスの息子を助け出してくれ、アカイア方が彼の物の具をはぎ取らないように、船々の寄り合い場所で倒れたのだ」
こういうなり、アイアスめがけて、きらめく槍を投げつけたが、本人にはあたりそこねて、うしろにひかえたマストルの息子リュコプロンという、アイアスの介添え役で、キュテラの者にあたった。この男は、アイアスの手もとに、ことに神聖とされるキュテラ島で人を殺してから、住みついていた者だが、いまその頭へ、耳の上に、鋭い青銅(の穂先)を打ちつけたのだった、アイアスのすぐかたわらに立っていたのへ。それであおむけざまに砂塵の中へ、船の艫から地面へ落ちると、手足はぐったりくずおれたのに、アイアスは身ぶるいして、弟に向かっていうよう、
「おいテウクロス、このとおり、私らの忠実な僚友の、マストルの息子が殺されてしまったぞ。われわれのところへキュテラから来て家にいるのを、親身の親と同じように館の中で大切にしていた、それを気象のひろいヘクトルが殺してしまったのだ。さあ、どこにおまえの矢と弓があるか、すぐに死をもたらすというのを、ポイボス・アポロンがくださったものは」
こういうと、テウクロスは声に応じて馳せつけ、アイアスのそばに来て立った。両手には、引きしぼった弓と、矢を容れる箙《えびら》とをたずさえて、とても速い勢いで、トロイア勢へと矢を放った。そして、たちまち、ペイセノルの名をよく知られた息子、クレイトスに打ちあてたが、これはパントオスの子で人品すぐれたプリュダマスの介添えとして、手綱を手に握っていたのだが、おりから馬車で、さんざん手を焼いていたところだった。というのは、兵士らの隊伍がいちばん混み合っていたところへ馬車を向けていたもので、それもヘクトルやトロイア勢のためを思ってだったけれども、さっそく不幸に見舞われることになったのを、誰一人として防ぎ護ってやれなかった。
すなわち、その後ろ頸に、うなりを立てた矢があたったので、車からばったり落ちると、馬どもは、空の戦車をがらがらひいてうしろのほうへ退っていった。それをさっそく見てとった主君のプリュダマスは、先を越して馬どものまっ正面に立ちはだかり、これをプロティアオンの息子のアステュノオスに引き渡したうえ、主人のほうをよくながめていて、馬車を手近にとめておくよう、くれぐれも命令してから、自身はまたもや先手のあいだに立ちまじって戦いつづけた。
さてテウクロスは、もう一本の矢を、青銅の物の具を着けたヘクトルへと差し向けたので、あるいはこのおり、奮戦するところを射とめて、彼の命を奪えたならば、アカイア勢の船陣のあたりでの戦闘を終らせることもできるところだった。
しかしゼウスの周到なおんはかりごとを、とうていごまかすことはできない。ヘクトルをお護りなされる御神は、テラモンの子のテウクロスの得意な鼻をへし折って、立派な弓のよくねじ合わせた弓弦《ゆづる》を、いましもテウクロスがヘクトルめがけて引き放とうとしたさいに、断ち切っておしまいなされた。それで青銅の重みをもった征矢《そや》は、ほかの方角へとそれて飛び去り、弓は彼の手から落ちてしまった。そこでテウクロスは、身慄いして、兄弟(の大アイアス)にいうよう、
「やれやれ、いやまったく、確かに神霊の力が、私たちの戦さの企みを、何としてでも邪魔しようというつもりらしいぞ。弓といえば、この手からほうり出させ、弓弦はまだ新規にねじったばかりなのに、切られてしまった、ほんのさきほどねじって結《ゆ》わえたばかりであるのを――ひっきりなしに飛び立ってゆく矢にも十分たえられるように」
それに答えて、今度はテラモンの子の大アイアスがいうようには、
「いいや、きみ、そんなら弓だとか、何束もの矢だとかは、そのままほうっておくがいい、神さまがダナオイ勢をやっかんで、めちゃめちゃにしてしまったのだから。それなら今度は、長い柄の槍を手に取って、肩には楯を(ひっかついで)、トロイア勢と戦いつづけ、他の兵士たちも励まして奮起させろ。まったく、たとえひけをとったからといって、そうらくらくとは、敵のやつらに、漕ぎ座を立派につけたと船々を奪《と》らせはしないぞ、さあ、戦闘に気合いを入れよう」
こういうと、テウクロスも、弓を陣屋の中へ置き、今度は両肩のまわりを蔽う、四枚皮を張り重ねた大楯をかつぎ、また勇気に満ちた頭《こうべ》には、こしらえのよい皮兜をしっかと被れば、上についてる馬の尻尾の飾り毛はおそろしげに垂れなびいた。手にはまた、青銅(の穂先)をつけて研ぎすました、丈夫な槍をたずさえて出かけてゆき、駆け足で、さっそくにも大アイアスのわきに並んだ。
さてヘクトルは、テウクロスの弓矢の道具が壊れてしまったのを見ると、大音声をあげて、トロイア勢に呼びかけるよう、
「トロイア勢もリュキア勢も、また近間で戦うダルダノイ族も、雄々しくしたまえ。味方の者ども、勢いはげしい武勇のほどを忘れてはならん、中のうつろな船陣のどこにあっても。私ははっきりこの眼で見たのだ、勇士と聞こえた武士の持つ飛び道具が、ゼウスの御力により破壊されたのを。ゼウス神が人らにお授けのお加護というのは、容易に知られ、あまねく世間に伝わるものだ、誰とかぎらず御神が、他に異なる特別な誉れを授けなされる時にも、また反対に、誰かの人をおとしめられ、お加護を拒絶なさったときでも。それで現在は、アルゴス勢の力を弱らせ、われわれを助けてくださろうとの思召しだから。
さあ、船のかたわらで、みな力を合わせて戦わなければならん。きみたちのうちで、誰にしろ、飛び道具にあたるなり、突かれるなりして、最期のときを迎えるものは、死んだがよいのだ。祖国を護って防戦しながら死を遂げるのは、けして不面目なことではない。それどころか、あとあとまで、そうした人の妻や子たちは、安固に護られようし、家や田畑もそのままに伝えられよう、もしアカイア勢が船を率いて、自分らの故郷へとまた引き揚げていったおりには」
こういって、めいめいの兵士の、勇気と力をあおり立てようとした。一方、こちら側でも、アイアスが、自分たちの仲間の者らを励まし立てて、
「恥を知れよ、アルゴスの人々、いまこそ、ぎりぎり決着のときだ、自滅するか、自身を護って、船隊から災禍《わざわい》を追い払うか、二つに一つの。それともおまえらは、こう望みをかけているのか、たとえきらめく兜のヘクトルに船をみな奪い取られたにしろ、歩いてめいめい自分の故郷へ帰っていけようとでも。ヘクトルが敵の兵士たちを、残らず励まし立てているのが聞こえないか、いよいよ船に火をかけようと気負いこんで。いや、実際に、やつはおまえたちを、踊りに来いと招んでるのではない、戦さをしにだ。私らにとって、これ以上によい分別なり知恵なりはけしてなかろう、敵とじきじき当面して、力をつがえ刃を交えて戦いあうより。ただ一時に、死に果てるか、それとも生きおおせるかを、決着させるほうが、このように漫然と船のかたわらで、自分よりつまらぬはずの男らのために、だらだらと恐ろしい敵対のうちに苦しめられているより、ずっとましだ」
こういって、各自の勇気と力とをあおり立てようとした。このおりに、ヘクトルは、ポキス勢の大将である、ペリメデスの息子スケディオスを討った。またアイアスが、徒歩《かち》組の頭《かしら》で、アンテノルの立派な息子のラオダマスを討ち取れば、プリュダマスは、キュレネの人オトスを殺して物の具をはぎ取ったが、この男はピュレウスの子(メゲス)の部下で、意気のさかんなエペイオイの隊長だった。
それで、メゲスは、これを見るなり、プリュダマスに躍りかかったが、彼はかがんで下へもぐりこみ、のがれていった。それで彼にはあてそこなったが――というのも、アポロン神は、パントオスの息子が、先駆けの戦さの中で、討たれることは許させないので――ともかく、クロイスモスの胸のまんなかを槍で突いた。それで地響き打って倒れると、その両肩から物の具をはいで取った。その間に、彼に向かって、投げ槍の技に熟達しているドロプスが躍りかかった。
この者はランペトスの子で、ラオメドンの子ランポス(ランペトス)がもうけた子供、武士の中でもとりわけすぐれて、気負いはげしい武勇のわざにも通暁していた。この男がそのおり、ピュレウスの子の楯のまんなかを、すぐと間近に進み寄って、槍で突いたが、堅固な胸甲が防いでくれた、くぼみ板で、しっかりたがいに合わさったのを着こんでいたので。この鎧はむかしピュレウスが、セルレイス河ほとりのエピュレから持って来たものだった。(そこで泊まった)懇意なあいだがらの武士たちの君であるエウペテスが、戦争のさい、敵の武士からの護身用にと、贈ってくれた物の具だった。それが、このおりにも、(ピュレウス)の息子の身からも、死の破滅を防いでくれたのであった。
それでメゲスは、(突いてかかった)ドロプスの兜の、青銅を着せ馬の房毛をつけた鉢のとっ先を、鋭さをもつ槍で突いて、その鉢の馬毛のついた角を砕けば、角は地面へ、砂塵の中へばったり落ちた、まだ染めたての真紅の色もあざやかに。それでもしばらくはまだ踏みとどまって闘いつづけ、なお勝てようかと望んでいたが、そのうちに、アレスの伴侶《とも》であるメネラオスが、(メゲスの)加勢にやって来て、気のつかぬまに、槍をもって脇に寄り添い、うしろから(ドロプスの)肩を突くと、槍の穂先は、きおいこんで、なお前方へとはやり立つまま、胸をずっぷり突きとおしたので、たまらずに、うつ向きざまに打ち倒れた。
そこで二人は、青銅をつけた物の具を、ドロプスの肩からはいで取ろうと考えたところへ、ヘクトルが、兄弟たちを誰彼といわず、みな一様に励まし立て、まず第一にはヒケタオンの子の、武勇すぐれたメラニッポスを叱りつけた。この男は、足をくねらす牛の群を、しばらくはペルコテで、敵の軍勢がまだ遠方にいたあいだは飼っていた者だが、ダナオイ勢の両端の反り返った船々がやって来てからは、イリオスに帰って来て、トロイア人《びと》らのあいだに頭角をあらわし、プリアモスの館のかたわらに住まいして、子供にひとしく大切にされていた。その男をいまヘクトルは咎め立てして、名を呼び上げていうようには、
「メラニッポスよ、こんなに手ぬるいことでいいのか。きみにはてんで、従兄《いとこ》が殺されたのも、いっこう気がかりではないというのか。きみには見えないのかね、いったい何を、あいつらが、ドロプスの物の具についてやっているかも。さあ、ついてこい、もはや離れたところからアルゴス勢と闘っていくわけにはいかない、こちらが敵を殺しつくすか、あるいは敵が、そびえたつイリオスを、てっぺんから攻めおとして、市民らを殺すか、きまらぬうちは」
こういって、先頭に立って進めば、かの神にもたぐえられる武士(メラニッポス)もついていった。一方、アルゴス勢へは、テラモンの子の大アイアスが激励して、
「おい味方の者ども、雄々しくやれ、心に恥を忘れるな、はげしい合戦の間にも、相たがいに恥を重んじろ。武士《さむらい》が恥を重んじあうなれば、殺されるより助かる者のほうが多い。ところが、負けて逃げ出すやつらには、何の誉れも救いも、授かるはずがとうていないのだ」
こういうと、人々もみな自分からして、一所懸命、防戦した。そして、彼の言葉を胸におさめて、船々を青銅の槍ぶすまで囲いこんだが、ゼウス神は、これに向かって、トロイア勢を攻めかけさせた。またアンティロコスを、雄叫びも勇ましいメネラオスが督励して、
「アンティロコスよ、アカイア軍中に、きみより年の若い者は他にいないが、きみのように足の速いのも、戦さにかけて勇敢なのも見あたらないが、どうだね、ひとつ、トロイア方の武士にでも、跳び出していって槍をつきつけたら」
こういうと、メネラオスはまたよそへ駆っていったが、アンティロコスは気勢をあおられ、先駆けの中から駆け出ると、あたりを見まわし、きらめく槍を投げつけたので、その勢いにトロイア方は、うしろへ退った、敵の武士が槍を投げたもので。その槍は、けしてむなしくほうられたことにはならず、ヒケタオンの息子の、意気もさかんなメラニッポスが、戦さの場へとやって来る、その胸の乳首のわきにあたったので、地響きうって打ち倒れる体の上に物の具が、からから鳴った。
そこでアンティロコスは、射たれた仔鹿に躍りかかる犬みたいに、跳びかかった――その小鹿が、いつも寝ているかくれがから飛び出したのを猟師の男が狙って撃ち、その手足をぐったりさせた。そのようにもおまえに向かって、メラニッポスよ、戦さに強いアンティロコスが、物の具を分捕ろうというので、駆け寄ったのだ。しかし勇ましいヘクトルは、すばやくこれを眼にとめて、撃ちあうあいだを駆け抜けて、アンティロコスのまっ正面に現われれば、こなたももとより俊敏な戦士とはいえ、こらえきれずに、悪事をはたらいた野獣を見るよう、こそこそと逃げこんだ。さながら(見張りをする)犬や、牝牛につき添っている牛飼いを殺したものの、男たちの群れが集合しないその前に逃げてゆく野獣とそっくり。そんなふうで、ネストルの子が恐れて逃げれば、トロイア勢はヘクトルを先頭に立て、恐ろしいひびきと共に、うめきをたくさんもたらす飛び道其を注ぎかけたが、味方の軍勢が群れているところへ着くと、方向を変えて立ちどまった。
さて、トロイア勢は、生ま肉をくらう獅子の群れを見るように、(アカイア軍の)船辺へと押し寄せていったが、その間にも、ゼウスの指令を刻々と成就していった。その御神こそ彼らにいつも大きな勇気を奮い起こさせ、反対に、アルゴス方の気勢は魅《あや》かし、低めておいて誉れを奪い、トロイア方は励まし立てた。というのも、つまりは、プリアモスの子ヘクトルに誉れを授けられようとの神意からである。船首の反り返った船々に、疲れを知らず、恐ろしく燃えさかる火を投げこませて、テティスの過分な願いを、全面的に叶えてやるために。全智の御神ゼウスは、結局、船が燃えあがる、その火光を御眼に、実際見るのを、待っておいでなのだった。
それで、こうなった後でこんどは、船々のかたわらからトロイア勢の撃退をまた始めさせ、ダナオイ勢に誉れを授けようとの手はずである。こうした思案を心中にして、うつろに刳《く》った船々に向け、プリアモスの子ヘクトルを、それでなくてさえ、もう自分からひどく気負いこんでいるのを、けしかけられたのだ。その荒れ狂うさまといったら、槍をふるうアレス神か、あるいは呪わしい火が、山の間で、深い林の木立の繁みに猛り狂うよう、口の周囲には一面に泡を吹き出し、両眼は爛々《らんらん》として恐ろしげな眉毛のもとに輝けば、ヘクトルが勇をふるって戦うほどに、兜の垂れは、両側のこめかみのへんに、恐ろしい勢いで、揺らぎつづけた≪すなわち、ゼウス神は、高い空から、ご自身が防護者として彼を護り、大勢の武士たちに、ただ一人であたっているのを、健気として誉れを授けられようとしたのだが、もうはや彼の寿命の残りも、わずかの間しかつづかないことに定められていた。というのも、もうすぐと、彼の最期のときを、パラス・アテネが、ペレウスの子の力をかりて、もたらそうとされていたのだったから≫
もとより彼(ヘクトル)は、兵士たちの隊伍に攻めかかって、打ち破ろうと望んで、いちばん人のもみあうところ、立派な物の具の見えるところへ取りついたが、それでもやはり破ることはできなかった、その意気ごみははげしいものだったが。それというのも、みなみなしっかと、櫓《やぐら》のように手を組み合ってささえたからで。さながら高くそびえる巌《いわお》のように、灰色をした海のそば近くに立ち、すさまじく鳴る疾風《はやて》の、はげしい往来《ゆきき》にも、また洶涌《きょうゆう》して、巌に向かって打ち寄せる巨濤《おおなみ》にも、びくともしないその巌のよう、ダナオイ勢は、トロイア方の攻撃にも、しっかと踏みこらえて、くずれなかった。
しかしヘクトルは、火と燃え立って、八方へ、軍勢の中へ駆け入り、打ちこむその様子は、さながら波が、乱れ雲のもとに風に養われて育ち、速い船の中へ、勢い猛ってなだれこむようである。船はすっかり水しぶきに包まれて姿を消し、すさまじく吹く風の力が、帆にこもって鳴りとどろくと、水夫たちの心は恐怖に満たされ、ぶるぶるふるえた――もうちょっとのところで、死ぬ境い目をわけていくのだから。そのように、アカイア軍の兵士らの闘志は、寸断されていた。
その間にもヘクトルは、禍いを企んで、牛群を襲う獅子みたいだった――その牛どもは、大きな沼地の、低間《ひくま》なところにある牧場に、数知れぬほど群れあって草を食《は》んでいる。それへ牛飼いが一人、つき添ってはいるものの、角の曲った牛どもを殺されないよう、野獣と闘うのにはどうしていいかも、まだはっきりとは心得ていないので、あるいは先頭に立つ牛どもといっしょにいったり、いちばん尻の牛どもと同行したり始終する、ところが獅子は、列のまんなかへんに襲いかかって、牛を啖《くら》うのに、牛どもはみな怖れてまどう。そのように、このおりアカイア勢は、ヘクトルの、とはつまり――ゼウス父神のご威光に――とほうもなくおびえたち逃げまどったが、その殺したのはただ一人、ミュケナイから来たペリペテスだけだった。
この男は、たびたびエウリュステウス王の使者として、勇士ヘラクレスのもとへやられたコプレウスの息子だったけれども、父親のほうがずっとつまらぬ人間で、その息子であるペリペテスは、武芸百般のわざにかけ、はるかに父に立ちまさり、足の速さ、戦さの手並み、また知恵分別でも、ミュケナイ武士中、屈指の者といわれていた。
その人が、このおり、ヘクトルに、ひときわ異なる手柄を立てさせた、というのは、ちょうど、(ペリペテスが)引き返そうと振り向いたとき、大楯の縁《へり》にけつまずいた。投げ槍のため身の護りにと、足まで届く大楯を持っていたわけだが、それにかかって足を取られ、あおむけざまに倒れると、兜の垂れが右左に、倒れた者のこめかみのへんで、ひどい音を立てて鳴り立った。それをヘクトルはすばやく見てとり、駆け寄って、すぐそばに立ち、その胸へ槍を突き刺し、親しい僚友《とも》もすぐそばにひかえているのを殺害したが、その人々は、友のため胸をせつなく苦しめながら、助けることもできなかった。彼ら自身が、勇ましいヘクトルを、たいそうもなく怖れていたもので。
それで(アカイア軍は)船々の間にはいりこみ、いちばんはしに引き上げてある船の舳《へさき》を囲いに取ったが、その間にもトロイア勢がなだれこむのに、アルゴス勢は、よんどころなく、いちばん端に置いてある船列から退きはしたものの、そのまま陣屋のあたりに集まって、一団となり踏みとどまり、陣地一帯へちりぢりに逃げこみはしないでいた。というのも、体面を恥じ非難を恐れる心に制止され、しじゅうたがいにとがめあい、励ましあっていたものだから。
また一方には、とりわけて、アカイア軍の目付け役なる、ゲレンの騎士ネストルが、めいめいの親たちの名によっても、一人一人の武士《さむらい》の膝にすがって頼みこんでは、
「おお、味方の者ども、雄々しく振舞うのだぞ、心にしっかと廉恥《れんち》の念をすえておいてな。他人の見る眼もあることだ。それに加えて、めいめい、自分の子供らや家妻や、財産のこと、また両親の上のことも思ってみてくれ、まだ親たちが生きている者も、死んでしまって世にはない者も。彼らに代って、この場合、私が、ここにいあわさぬ人々のために懇願するのだ、断乎として踏みとどまり、けしておくれて逃げ退きなどしないように」
こういって、誰も彼もの、勇気と力をあおり立てた≪この人々の眼から、とほうもないかすみの曇りをアテネ女神が、払いのけたので、みなみな、船陣からも、また残忍な戦いからも、たいそう光明を覚えはじめて、雄叫びも勇ましいヘクトルや、その仲間たちを、ならんでふせいだ、うしろのほうに退っていて、戦闘に加わらなかった人々も、速い船のかたわらにいて戦さをつづけていた人々も、力を合わせて≫
それでもまだ、気象の大いなアイアスは、他のアカイア人の息子たちが退っていったその場所に、立っているだけでは気がすまないで、船々の板子の上を、大股に歩きまわって、あちらこちらと往来し、大きな、船いくさのおりに用いる、木の刺叉《さすまた》を、掌に取って振りまわしつづけた、それは輪でつかねて組み合わせた、先の尖った棒でもって二十二尺もあろうというものだった。
さながら、十分に馬車を駆る技を心得ている男が、たくさんな馬の中から四頭を選び出して、いっしょにつないで軛《くびき》につけ、一鞭あてて、平原から大きな市《まち》へと、衆人の通う公路を駆ってくると、大勢の男も女たちも、それを感心してながめおくる。ところで騎手は、いつもしっかりと危な気もなく、その時々に、一方から他方の馬へと跳んで移るが、馬どもはその間も疾駆してゆく。
そのように、アイアスは、たくさんの速い船の板子の上を、大股に歩きまわって往来するのに、その声は高い空へも届くほどで、ひっきりなしに、恐ろしい大声で叫び立て、ダナオイ勢を激励して、船や陣屋を護らせた。ヘクトルのほうでも、厳重に身を鎧《よろ》ったトロイア方の兵士が群がるあいだに、何もせずにとどまってはいなかった。さながら赤茶けた大鷲が、翼をもった鳥の群れの、河辺に降りてついばむのをめがけて襲いかかるように――それは鵞鳥《がちょう》か、あるいは鶴か、それとも頸の長い白鳥の群れかであろう――そのようにヘクトルは、まっしぐらに青黒い舳の船をめがけて、そのまっ正面へと躍り出れば、ゼウスも彼をうしろから、いとも大いな御手をもって前へと押しやり、兵士たちをも彼といっしょにけしかけて進ませた。
そこでふたたび、惨憺とした戦闘が船陣のかたわらで開始された、それで誰しも、両軍が相対峙して、たゆむことなく戦さをつづけ、疲れることも知らないのだ、と思いもしたろう。それほどきおいこんで闘っていた。そしてこの戦いに臨んでいた両軍の心境とは、このようなものだった、つまりアカイア方は、もうこの災難を免れられようとは、つゆつゆ思わず、破滅ばかりを予期していたし、トロイア方はといえば、心中に、誰彼の別なしに、気負いこんで、船に火をつけて焼き払い、アカイア軍の大将たちを討ちとめようと、めいめいが、心がけていた。
さて、人々が、かようなことをもくろんで、相たがいに立ち向かったとき、ヘクトルは、とある船の艫《とも》に手をかけた。それは海原を渡ってゆく、立派な速くはしる船で、以前はプロテシラオスをトロイアへ運んで来たものだったが、またふたたびもとの故郷へ連れて帰りはできなかった。ところでまさにその船の周囲でもって、いましもアカイア勢とトロイア軍とが白兵戦を演じていた。それで誰しも、遠くに離れていて、矢を射かけられたり、あるいは槍を投げつけられるのを待ってはいず、みなみな、たがいに近くに向かって立ち、心を一つに寄せあって、それこそ鋭い戦斧や、つるはしや、あるいは大きな刀だとか、先が二叉になっている手槍を取って戦いあった。はては立派な剣で、黒い輪を巻いた柄《つか》ごしらえのも、いくつとなく、戦いあう人々の手から、あるいは肩から、地面に打ち落とされて、黒い大地は一面に血を流した。
さてヘクトルは、船の艫をつかまえると、船尾の飾りを両手でつかんで、もう放そうとはせず、トロイア勢に呼びかけるよう、
「火を持って来い、またおまえらもいっしょにみなして、鬨《とき》の声をあげろ、いまこそわれわれに、ゼウス神が、あらゆるものに引き合うほどの幸いな日をくだされたのだ。船々を取る日をな。その船々こそ、このところへ、神々の御心をも待たずにやって来て、われわれにたくさんな禍いを与えたものだ。それも年寄りたちの臆病からだが。彼らは私が、船々の艫のあたりで戦いたいというのをはばんで、私自身を引き止めようとし、兵士たちをも制止したのだ。だが、そのおりにはいかにも、われわれの心を、はるかにかみなりをとどろかすゼウス神も、惑わそうとされたにしろ、現在はご自身からしてわれらを励まし、命じられるのだ」
こういえば、兵士たちは、いっそう気負いこんでアルゴス勢に襲いかかった。それでアイアスさえもう持ち切れずに、飛び道具によんどころなく押しまくられて、少しばかりうしろへ退った、もう討たれようかと思ったもので。それで、釣合いのよく取れた船の板子を棄て、艫にある七尺ばかりの坐台へ行って、その場所に突っ立って、攻めかける敵を待ち受け、しょっちゅう槍で、トロイア勢を、船から追い払っていた、誰にしろ、疲れを知らない(貪欲な)火を持って来るたびごとに。またしじゅうおそろしい声をあげて、ダナオイ勢を励ましては、
「おお、親しいダナオイ族の勇士たち、軍神アレスに仕える者らよ、雄々しくやれ、仲間たち、勢いはげしい武勇のほどを忘れるな、いったいわれわれのうしろに、誰か加勢の兵隊どもがひかえているとでもいうのか、それとももっと丈夫な囲壁《かこい》があって、兵士たちを禍害から護ってくれるとでも。いや、とんでもない。近所に、塁《とりで》をしっかり構えた城などはけっしてないぞ、その民の力でもって、戦さの模様を逆転させ、防御できようなど考えられる城などは。それどころか、われわれはいま、厳重に武装を固めたトロイア人の郷土にあって、海の際まで押し詰められ、故里《ふるさと》からは遠いところに坐っているのだ。されば、われらの腕にこそ救いはあれ、なまやさしい戦さからの逃避などでは、救われないのだ」
こういうなり、ここを先途と、鋭さをもつ槍をもって突き立てた。(こうして)うつろに刳《く》った船々へ、励まし立てるヘクトルの意を迎えて、燃えさかる火を手にトロイア兵が押しかけてくるそのたびごとに、待ち構えているアイアスが長い手槍で突き伏せたもの、船々のすぐまんまえで、近々と刃を交え討った人数は、十二人にもおよんだとか。
[#改ページ]
パトロクロスの物語
【アキレウスの武具を着こんだその友パトロクロス(正名・パトロクレエス)はアキレウスの部下ミュルミドネスの軍勢を率いて出陣する。これに際してアキレウスは、けして深追いしないようにと注意する。彼が出ると、トロイア勢はアキレウスがいよいよ来たかと逃走する。勢いに乗って当るを幸い討ち取るうち、リュキア王サルペドンに出会い決戦、ついに彼を倒した。従弟グラウコスも彼を護って防戦したが、重傷を受け退く。パトロクロスはなおも勝ちに乗じてイリオスの城下へと迫るところを、ヘクトルが出て、アポロン神の手引きにより、パトロクロスを討ち取る。サルペドンはゼウスの子だが、大神も運命の決定には逆らえず、眠りの神と死の神に命じて故郷リュキアに運ばせ、手厚く埋葬させる】
このように両軍は、しっかりした漕ぎ座のついた船を的《まと》に戦いあったが、その間も、パトロクロスは、兵士たちの統領であるアキレウスのかたわらに立って、熱い涙をしきりに流している様子は、まさに黒ずんだ水をたたえる泉のようである。山羊も通わないけわしい岩山から、影も暗い水を吐き出す泉だ。それを見て、足の早い、勇ましいアキレウスは、気の毒がって、彼に向かって声をあげ、翼をもった言葉をかけて、
「どうしてそう涙にくれているのか、パトロクロスよ、がんぜない小娘みたいに。その娘《こ》は、母親について走って、着物にとりすがり、抱き上げてくれといってせがむ、そして、急いでゆくのを引きとめようとし、抱き上げてくれるまで、涙ぐんだ眼でじっと見つめる。その娘みたいに、パトロクロスよ、きみはつぶらな涙をしきりに流すが、何かまたミュルミドンらか、それとも私自身に、いいたいことでもあるのか、あるいはきみがひとりで、プティエから(故郷の様子を)聞きでもしたのか。いかにも、アクトルの息子のメノイティオスはまだ生きながらえているし、アイアコスの子ペレウスも、ミュルミドン族の間に生きているそうだが、もしこの二人が死んでしまったというなら、私らも大変に胸を痛めることだろうが。それともきみは、アルゴス勢のために嘆いているのか、彼らが、うつろに(刳刳《くく》った船々のかたわらで、どんどん討たれてゆくのを、それも彼ら自身の思い上がりのせいでもって」
それに向かって、胸の底から嘆息しながら、騎士パトロクロスがいうよう、
「おお、アキレウスよ、ペレウスの息子の、アカイア軍中にもとりわけて一番の勇士と聞こえるきみは、どうか怒らないでいてくれ。それほどひどい苦境にアカイア勢は追いつめられているのだ、というのも前々から武勇をたたえられて来た人たちが、まったく一人残らず、みな矢傷だの槍の傷、あるいは突き傷を受け、船のところで臥《ね》ているのだ。テュデウスの子で、豪勇のディオメデスが、矢傷を受けて悩んでいれば、槍の名手と聞こえたオデュッセウスも、アガメムノンも、突き傷を受けているし、エウリュピュロスまで、腿のところを矢で射られて臥ている始末だ。その人々へ医者たちが、いろんな薬を用いて傷に手当てをし、治療に骨を折っているのに、アキレウスよ、きみは前から頑固一点張りでもって手のつけようもないとは。
ともかくも、きみが大切に胸へおさめているその怒りが、どうか私にまで移ってはもらいたくないものだ。世に恐ろしいきみの武勇も、遅く生まれた人らにとっては、それからどんな利益を受けられようか、もしもきみが、アルゴス勢の無残な破滅を防いでやらないならば。きみはほんとに情け知らずだ、まったくきみの親父というのは、騎士ペレウスではなく、母親もテティスではなかったのだな、あの青白く光る海や、切り立った巌《いわお》がきみを生んだのだ、それだから、そうも無情な心を持ってるのだな。だが、万一にも、何か神のお告げを、きみが心にはばかっているためとか、あるいはゼウスのもとから、母上が何か神命《みこと》を伝えてきたのでとかいうことなら、それなら私をどうかすぐにも出陣させてくれ、他のミュルミドン族の兵士たちをいっしょにつけて、多少なりとも、ダナオイ勢を助けるよすがになれるかも知れないから。
それから私の肩に、きみの甲冑を着こませてはくれまいか、もしかして私をきみだと思いこみ、トロイア軍が戦さをさしひかえるかも知れない。そしたら現在苦境に立ってるアカイア軍とて、一息つくことができるだろう。たとえちょっとの間でも、戦さからの息ぬきは、息ぬきだ。一息ついて疲れを抜けば、疲れ切っている敵方を、今度は容易に船の並びから、また陣屋の線から、イリオスの城市《まち》へ向け、鬨《とき》をあげて押し返せよう」
こういって頼んだが、ずいぶんと分別を欠いた話だった。というのも、いずれは自分自身に、禍いな死の運命を願い求めることにほかならないのだったから。それに向かって、大変に気色《けしき》を損ねた様子で、足の速いアキレウスがいうよう、
「そいつは困るな、ゼウスの裔《すえ》であるパトロクロスよ、いったい何をいうのだね。べつだんに気にかけるような神託を承わっているのでもなければ、母上かゼウス神のお手もとから、何かの神命《みこと》を伝えてきたというのでもない、ただ、こうした恐ろしい苦しさが、私の胸を襲うだけなのだ。まったくあの男は、同じ身分の私をしぼって、もらった褒美を取り返そうとしたのだから。ただ権力が(私よりも)大きいという理由でもって。それがいま私を恐ろしく苦しめるわけなのだ、胸に痛手を受けてからこのかた。
そら、私に褒美として一度はアカイアの子たちが選り出してくれたあの娘を、しかもそれは、私が自分の槍で、囲壁をしっかりめぐらした城市を攻めおとして得たものなのに、それをまた私の手から、アトレウスの子アガメムノンが取り上げていったのだ、まるで私が世のさげすみを受けている渡り者でもあるかのように。だが、もう以前にすんでしまっていることは、ほうっておこう。それにいつまでも、心中にはげしい憤怒を保《も》ちつづけるわけにもいかない。だがしかし、まえにもいったように、いよいよこの私らの船陣にまで、戦さの雄叫びや撃ち合いがおよんで来る、そのときまでは、この腹立ちがしずまることはないだろう。
ともかくそれゆえきみは、両肩に、世間でも評判の私の甲冑を着こむがいい、そして、戦いを好むミュルミドンたちを、戦さへと連れていきなさい、もし本当にトロイア勢が、黒雲のように群がって、勢いはげしく船々をおっとり囲み、アカイア方は大海の波打ち際へ押しこめられて、ほんのわずかな部分だけしか、いる場所がないというなら。それに引きかえて、トロイア方は、町じゅうがすっかり安心しきって、全体で出かけて来たそうな。それも私の兜の星のきらきらするのが、間近に見えないということを知ってだ。が、そいつらも、さっそくに逃げ帰って、河床を死骸でもっていっぱいに埋めたであろうに、もしアガメムノン王さえ私にたいして友誼にあつく振舞ったなら。ところが、現在は、陣営のあたり一帯に合戦の真最中だ、というのもテュデウスの子ディオメデスの掌中に、投げ槍が躍り狂って、ダナオイ勢を壊滅から守るところも見られず、またいっこうに、アトレウスの子が号令する声も聞こえないからだ、あの憎たらしい顔つきでな。その反対に、武士を殺すヘクトルの、トロイア軍を励まし立てる声が、あたりにとどろき、兵士たちは鬨《とき》の声をあげて、平原をのこらず制圧している、アカイア勢を戦さに打ち破って。
だが、それにしても、パトロクロスよ、船陣を壊滅から防ぐように、精いっぱいにはげしく敵へ襲いかかれ、敵兵どもが、燃えさかる火を放って船々を焼き払い、懐かしい故郷に帰ることができなくしてはならないから。だが、いいか、私がいまいうことの、肝心かなめの大切な点を、しっかりと肝に銘じて忘れないでくれ。それはきみが、大きな栄誉と名声とをダナオイ勢の全体から得てくれるためでもあるのだ、それで皆が、あのひとにすぐれて美しい乙女を帰してくれるよう、そのうえにも、立派な贈り物の数々を、つけてよこすようにもなろうから。
それは、船陣から敵を追い払ったら引き返してこい、ということだ。たとえまた、高くかみなりをとどろかす、ヘレの夫の御神(ゼウス)が、きみに誉れをそのうえにも授けられることがあろうと、けしてきみが、私を離れ自分だけで、戦争好きなトロイア勢と戦いつづけよう、など望んではならない。それはかえって、私の名誉を傷つけることになろう。また戦さや果し合いに気を取られ、心おごって、トロイア勢を討ち取りながら、イリオスまで、軍勢を率いて攻めていってはならない。万が一にも、オリュンポスから、永遠においでの神々のうち何神かが、乗り出されては大変だ。ことに彼らを、遠矢を射るアポロン神はとりわけごひいきなのだからな。それゆえ、船陣に一度、救いの道を開いたなら、すぐにも引き揚げて来て、他の者らに、平原でもって、勝手に斬り合いをさせておくがいい。
≪まったく、ゼウス父神、またアテネ女神やアポロン神よ、トロイア人《びと》のある限り、ひとり残らず死を逃れませんよう、またアルゴス勢とて同様だ、ただわれわれ二人だけが破滅を免れられたらありがたいがな、二人きりで、トロイアの聖《とうと》い(城の)鉢巻〔イリオスの塁壁のこと〕のほどき手になれるように≫」
かように二人は、こんな話をたがいに向かって交わしていった。その間にも、アイアスは、飛び道具に追い立てられて、もはや踏みとどまりもできなくなってきた。というのも、ゼウスの神意も、誇り高いトロイア勢も、うってかかって、彼を屈服させようとするのに、彼のひらめく兜も、横鬢《よこびん》のあたりを撃ちつけられて、恐ろしい反響を立てつづけるし、こしらえのよい兜の星も打たれづめだった。一方、左の肩は、きらきら輝く大楯を、絶え間なしにささえてきたので、くたびれていたが、それでもまだまわりを囲んで矢や槍を打ちつける敵兵たちも、彼を動揺させはできないでいた。しかしながら、しょっちゅう苦しい息づかいに、あえぎつづけるアイアスの体じゅうは、どこもかしこも、びっしょりと、ひどい汗が手足からしたたり流れ、ちょっとの間も息つく暇さえなく、四方八方から、難儀に難儀が積み重なってくるばかり。
さあ今度は、お聞かせください、オリュンポスにお住まいなされる|詩歌の女神《ムーサイ》たちよ、いったいどのようにして最初に火が、アカイア勢の船陣にかかったものかを。
まずヘクトルが、アイアスのトネリコの槍の間近に寄って、大きな剣で、穂先のうしろ螻首《けらくび》のあたりを撃つと、立ちどころに(穂先が)断たれて落ち、テラモンの子アイアスが手にふるう槍は柄ばかりとなって、彼自身からずっと離れたところに、青銅の槍の穂先は、地面へとうなりを立てて舞い落ちれば、アイアスは、誉れも高い心のうちに、これこそ神々の仕業と悟って恐ろしさに戦慄した――高空《たかぞら》にかみなりをとどろかすゼウス神が、(アカイア方の)戦さについての方策を、すっかり徒労に帰せしめたもうて、トロイア方に勝ちを与えようとの御意《みこころ》なのだと。それでアイアスが、飛び道具の来るあたりから後退すると、敵方は、疲れを知らない火を、速い船に投げこんだので、たちまちにして、船一面に消しようもない火焔がひろがった。
このように船の舳《みよし》に火が移ったのを見るとひとしく、アキレウスは、両腿をはたとたたいて、パトロクロスに向かっていうには、
「起ち上がれ、ゼウスの裔《すえ》なるパトロクロス、馬の騎手よ、ほんとうに、船々のあるあたりに、すさまじく燃えさかる火の勢いがはっきり見える。いよいよ船を奪《と》られてしまって、もはや帰還ができなくなってはいけない。さあ、さっそくにも甲冑を着こみなさい、私が兵士たちを集めようから」
こういうと、パトロクロスは、輝く物の具に身を固めた。まず最初には脛当てを取りあげて、ふくらはぎのまわりにあてがった、銀づくりの踝《くるぶし》金具をしっかりつけた立派な品である。そのつぎには胸のまわりに胸鎧《むなよろい》をとって着こんだ、巧みを擬らして、星をたくさんちりばめた、足の速いアイアスが裔の鎧である。そのつぎには、両方の肩へと、白銀の鋲をうった青銅の剣を投げかけたうえ、大きな楯の頑丈なのを(肩から)ひっさげ、また凛々《りり》しげな頭の上には、こしらえのよい皮の兜をしっかと冠ると、兜につけてある馬の尾の毛飾りは上から垂れなびいて、ものすごい様子である。それからつかみとったたくましい二本の槍は、パトロクロスの掌にしっかりと、よくはまった。
だが突き槍は一本も持っていかなかった。というのは誉れも高いアイアコスの後裔の手槍は、ペリオン山のトネリコの樹の槍で、馬人ケイロンが、ペリオンの峰から取って来て、アキレウスの父へ、武士たちを殺す道具に贈ったもので、重たく長く、頑丈で、アカイア勢中、アキレウスのほかには誰一人、振りまわすこともできなかったからだ。また馬はというと、アウトメドンに命令して、さっそく軛《くびき》につけさせたが、この男は、パトロクロスが、武士を斬り殪《たお》すアキレウスのつぎに敬っていた人物で、このうえもなく忠実に戦さのおりには指図に従い、つき添いの役をつとめた。
それでいまも、彼のために、アウトメドンは、軛に番《つが》いの駿馬をつけた。それこそクサントスにバリオスといい、二匹ともに、風の息吹きとひとしくはしってゆく馬、生まれは疾風鳥女《ハルピュイアイ》〔旋風の擬人化と考えられる、女形で翼をもち、二人または三人。ポダグレはその一人〕のポダグレが、北風の神ボレアスにと、極洋《オケアノス》の流れのほとりの牧場にいたとき、産んだものであった。またひかえ馬には、申し分ないペダソスを添わせていった。この馬は、むかしアキレウスが、エエティオンの城市を攻め取ったとき奪って来たものだが、これが、なま身ながら、不死である神馬に添って進んでいった。
さてアキレウスは、出かけていって、ミュルミドン軍の誰も彼も、陣屋をあげて、物の具に身を鎧わせると、みなみな、なま肉をくらった狼たちのように、胆のまわりにはいいようもない猛々しさをめぐらした。角を生やした大鹿を山々のあいだで殪したあげく、さんざん引き裂いて喰い、みなみな頬を血潮でまっ赤に染め――それから一同して群れをなし、黒々とした水をたたえる泉に行って、ほっそりした舌を出し黒い水の表面を舐《な》め、口からは殺した鹿の血糊《ちのり》を吐き出し、腹はいっぱいつまっているが胸にはいっこうゆるぎを知らぬ猛気を保って。それと同じく、ミュルミドンらの指揮を執る将領たちは、足の速いアイアコスの裔(アキレウス)の勇敢な介添え役をとり囲んで勢いよく進んでゆけば、その人々のあいだに軍神アレスの(伴侶《とも》伴侶なるアキレウスは、戦車の馬や楯をもつ武士たちを激励して立っていた。
さて、ゼウスの伴侶であるアキレウスが、トロイアへ率いて来た速い船の数は五十艘で、そのおのおのに五十人ずつの家の子郎党が橈架《かいかけ》についていたが、それへ五人の隊長をもうけておき、それぞれ指図の役を任せたうえで、この全体を大きな力で統率していた。そのうちの一隊の頭《かしら》となって宰領してきたのは、きらめく鎧のメネスティオスというもので、天から降った河水スペルケイオスの(河神の)子だった――ペレウスの娘の美しいポリュドレが、人間の女の身で、疲れを知らぬスペルケイオスといっしょに臥《ね》て、もうけた子である。しかしうわべでは、ペリエレスの子ボロスの児と呼ばれていた、この男が数限りなくおびただしい結納を与えて、(彼女を)公けに妻としたからである。
そのつぎの部隊は、武神アレスの伴侶《とも》エウドロスが宰領していた、この男は処女《おとめ》の子として、歌舞に優れて美しいポリュメレが産んだもの。これはピュラスの娘で、黄金の矢を射るアルテミス神の、騒ぎの音も高い祭の日に、舞唱団《コロス》に歌いつ踊る娘たちのあいだにこの娘を一目見てから恋に落ち、いかめしいアルゴス殺しの御神《ヘルメス》が産ませたものだった、つまり悩みの癒し手というヘルメスがこっそりと高殿へのぼっていって、添い臥《ぶ》しされ、人並みすぐれた走り手の、軽捷《けいしょう》な武士エウドロスを産ませたというわけだった。
だが、いよいよその子が、お産の難儀を助けられる|お産の神《エイレイテュイア》に光明界へ連れ出され、太陽の光を眼に見たとき、この(母となった)娘のほうを、アクトルの子で、武男を謳《うた》われたエケクレスが、(妻として)自分の屋敷へ連れていった、数知れぬほどおびただしい結納を贈ったうえで。また子供のほうは、年老いたピュラスが、大切にみとりながら育てていった、まるで自分の息子でもあるかのように、可愛がって。
また第三の部隊を宰領していたのは武神アレスの伴侶《とも》というペイサンドロスで、マイマロスの子として、ミュルミドンの全軍中でも、槍を取っては並ぶ者のない巧者であった、ペレウスの子の親友(パトロクロス)を除外してのことではあるが。さて四番目の隊《て》の宰領は、年老いた騎士ポイニクス、五番目の隊《て》は、ラエルケスの、申し分なく立派な息子アルキメドンである。
それでいよいよ全軍を、それぞれの部隊の長といっしょに、よく分列して並ばせたうえ、アキレウスは、厳重にいい聞かせて命ずるよう、
「ミュルミドンの人々よ、みなみなけして忘れないでくれ、あの威嚇《おどかし》を。おまえたちが前にトロイア勢をおどしていった文句をだ。私が憤りつづけていたあいだ、みなは私をとがめていったな、『片意地なペレウスの子だ、おまえを母親は胆汁でもって育てたのか、無情にも船陣のかたわらに、手下の者を意《こころ》ならずも引っこんでいさせるとは。いっそ故郷へでも、海原をわたる船を率いて、帰っていこうではないか、そんなにひどい憤怒が、おまえの心に入りこんでしまったからには』こんなふうに、集まっては、しじゅう私を非難していっていたが、いまこそ戦さの大きな仕事が示されたのだ、以前からおまえたちは、それにあこがれていたものだが。それゆえ、この際は、みな大胆不敵な勇気をもって、トロイア方と戦うがいい」
こういって、誰も彼もの、勇気と力を奮い立たせた。それで、主君《とのさま》の言葉を聞くと、一同は隊伍をいっそう固くした、その様子はちょうど高くそびえる建物の囲壁を、石をしっかりつけ合わせて造りあげるようである、諸方から吹く風の強い力を防ぐために。そのように、中臍《なかほぞ》をもつ楯や兜をしっかりと組み合わせれば、大楯は大楯にもたれかかり、兜は兜に、人は人によりかかって、馬の尾房をつけた前立て、それに輝く金の星をつけた大兜は、うなずくたびに触れあったが、それほどたがいに、ぴったりと寄り添っていた。
このいちばん先には、物の具に身を固めた二人の武士、パトロクロスとアウトメドンが、同じ心をひとつに保って、ミュルミドンらの先頭に立ち、戦さをしようときおいこむ。おりからアキレウスは陣屋の中へはいっていって、大櫃《おおひつ》の蓋を開けた。美しく巧みをこらしたこの櫃は、白銀の足をした(母神)テティスが、持っていくようにと船に積んでくれたもので、中にはいっぱいに、いくつもの胴着や風除けの陣羽織りや、羊毛の敷物などがつまっていた。
中にはまた細工を凝らした高杯《たかつき》もしまってあったが、それからは、まだ誰一人、人間の身できらめく赤酒を飲んだこともなく、またゼウス父神以外の御神には、神酒《みき》をそそいだこともなかった。その杯をこのおりに(アキレウスは)櫃から取り出し、まず硫黄の気でいぶして浄《きよ》め、ついで清流の水にそそぐと、彼自身も両手を洗い浄めてから、きらめく酒をそれに注いで満たした。それから囲《かこ》いのまんなかに立って祈祷をささげ、大空を見上げて、赤酒をそそぎまつると、いかずちをとどろかすゼウスも、すぐとおん目をそれに転じたもうた。
「ゼウス神よ、またドドネの、またペラズゴスの、はるかな宮においでになり、寒風すさむドドネをお治めの大神さま――いかにも先日は、お祈りしました私の願いをお聞き入れくださいまして、私の名誉を重んじ、アカイア方の軍勢を、手ひどく痛めつけてくださいましたが、そのように今度はまた、この願いごとをお聴きとどけくださいませ。
といいますのは、私自身は、船々を寄せ集めたこの場所に残っていまして、僚友《とも》に、大勢のミュルミドンらを引き連れて戦さをしに遣わしますが、私と同じように彼へも誉れをお授けください、はるかにかみなりをとどろかすゼウスよ、また彼の胸中にある心気を強め大胆にし、ヘクトルにさえ覚《さと》らせますように。私どもの介添え役が、ただ一人でも戦うことを心得ているか、それとも戦さのひしめきあいへと、私についてゆく時だけ、敵する者もない腕前をふるうものかということを。しかしながら、船陣から闘いや戦さの叫びを遠のけましたら、怪我をしないうちに、さっさと速い船のところまで、引き揚げて来られますように、物の具も無事に、近間で闘う仲間の兵士たちをそっくり連れまして」
こういって彼が祈るのを、全智の御神ゼウスはお聞きになったが、その半分を父神はお許しになったものの、あとの半分はご承知なさらなかった。すなわち、船陣から、闘いや戦さの叫びを、遠のけることはお許しだったが、無事に合戦から(パトロクロスが)帰って来ることは、承知なさらなかったのだ。しかしながらアキレウスは、ゼウス父神に御酒《みき》をそそぎ、祈りを終えると、また陣屋の中へはいってゆき、杯を櫃《ひつ》の中へまた納めておいた。それから陣屋の前へ出て来て、そこに突っ立ち、なおもトロイア勢とアカイア方との恐ろしい戦いを見物しようと考えていた。
一方、気象のひろいパトロクロスといっしょに武装をととのえ終った者どもは、隊伍をつくって、トロイア勢へと意気もさかんに攻めかかっていったが、ぞくぞくと繰り出して出てゆくありさまは、さながら路傍にすむ土蜂のよう。その蜂どもを、ふだんから子供たちが、いつも突っついては、いきり立たせる、路のそばに巣を構えているものを、それで大勢の人までいっしょに災難を受けることになる。その蜂に、旅行者がそばを通りかかって、何の気なしにさわろうものなら、みないっせいに、勇猛心を胸に保って、自分たちの仔《こ》どもらを防ぎ護ろうと、飛び出して来る――そのようなはげしい意気ごみと勇気とを胸にして、この時にミュルミドンらが船腹から操り出せば、消えようもない叫喚の声が湧き起こった。それでパトロクロスは、大音声をあげて、仲間の者どもを励ますよう、
「ミュルミドンらよ、ペレウスの子アキレウスの家の子として、みな雄々しくあれ。味方の人々、きおいはげしい武勇のほどを忘れるなよ、ペレウスの子の誉れを増すように。船のかたわらにあるアルゴス勢中、彼こそは抜群の勇士であり、≪その従者なるわれわれこそ、白兵戦の勇者であると≫それでまたアトレウスの子の、広大な国を治めるアガメムノンも、自分のひどい過ちを思い知るように――アカイア軍中第一の勇士をすこしも大切にしなかったのを」
こういって、誰も彼もの、勇気と力とを励まし立て、みな一団となりトロイア方へ襲いかかれば、あたりの船々も、アカイア勢の雄叫びに、おそろしく鳴りとどろいた。
一方、トロイア方は、メノイティオスの勇敢な息子〔パトロクロス〕がきらきらとした甲冑に身を固めたのをみるなり、誰も彼も気を動顛させ、陣列もどよめき立ち、足の速いペレウスの子が憤りをなげうって、いまこそ仲直りをしたのだろう、と思いこんで、皆めいめいに、どちらへゆけば、切迫した破滅を逃れられようか、と目を八方に走らせた。
さてパトロクロスは、まず最初にきらめく槍を手に取って、まっしぐらに、敵の軍勢がいちばん群れているところのまんなかへほうりつけた。気象のひろいプロテシラオスが乗って来た船の舳《へさき》のあたりである。それはピュライクメスにあたったが、この男はパイオネスの騎馬武者どもを、流れも広やかなアクシオス河のほとりなるアミュドンから率いて来た者だったが、その右肩に槍があたると、彼は高いうめきを上げると、あおむけに、砂塵の中へ倒れこんだのに、まわりにいた仲間のパイオネスらは、みな浮き足だった。というのも、いつも戦さに手柄を立てるその旗頭を、いまパトロクロスが討ち殺して、恐怖心を吹きこんだからである。
こうして船陣から敵を撃退し、燃えさかる火もすっかり消してしまったので、半分焼けた船をそのままそこへ置き去りにして、トロイア勢は、恐ろしい騒がしさで潰走すれば、ダナオイ勢は、うつろに刳《く》った船々の間へと流れこみ、絶えようもない騒ぎの音が湧き上がった。さながら大きな山の、高くそびえ立つ頂きから、いなずまを集めるゼウスが、厚く立ちこめた雲を動かしたてるとき、見渡すかぎりの見晴し台も、尾根の先々も谷ひだも、すっかり現われ、天涯から果てしも知らぬ高空が裂けてとおる。そのようにダナオイ勢は、船陣から燃えさかる火を追い払って、すこしは息をつけたものの、戦いをやめさせるにはいたらなかった。というのも、けしてトロイア勢は、武神アレスの伴侶であるアカイア軍に(攻めたてられて)黒塗りの船々から総崩れになり潰走したわけではなく、まだ抵抗を試みつつも、よんどころなく船陣から退いただけだったので。
おりから、ほうぼうに散ってそれぞれ闘ううちに、主だった大将株の武士《さむらい》が、武士を討ち取ったのには、まず第一にメノイティオスの勇敢な息子(パトロクロス)は、いきなりアレイリュコスの振り向くところへ、磨ぎすました手槍を腿のあたりにほうりつけ、青銅(の穂先)をずっぷり突きとおせば、手槍が骨をうち砕くと、うつむけざまに地面へぶっ倒れた。こちら側では、アレスの伴侶のメネラオスがトアスの胸の、楯のわきからあらわれて出てるところを突き刺し、手足をぐったりさせると、ピュレウスの子(メゲス)は、アンピクロスが、突進してくるのを待ち受け、先を制して手をのばし、足のつけ根の、人間の筋肉がいちばん厚味をもっているところを(突くと)、槍の穂先のまわりに、肉の腱が切れてはじけ、暗闇がその眼を蔽った。
一方、ネストルの息子のうちで、アンティロコスは、アテュムニオス〔リュキア軍の大将〕を、鋭い手槍で突き刺し、脇腹へ青銅づくりの穂をさしとおせば、前のほうへ、どっと倒れた。この兄弟の死に憤激して、マリスが屍の前に立ちふさがり、槍をもって、すぐと身近に進み寄り、アンティロコスに飛びかかったが、それより早く、神とも見まごうトラシュメデスが、その突く前に、(槍を)のばして、あやまたずにすばやく敵の肩を突くと、上膊《うわうで》のもとのつけ根を、尖った穂先が、筋肉から引きはがして、骨までをはずしてしまった。それで地響きうって倒れると、その眼を闇が蔽いかくした。
このようにして、これも二人の兄弟に討ち取られて、冥途へ赴いたのであった――サルペドンの勇敢な手下と聞こえ、かつては多くの人の禍いだった、あのキマイラ〔首は山羊、胴体は獅子、尾は蛇で火を吐く怪獣。アナトリア南方山中に棲むとされた〕、よにも恐ろしい怪物を養っていたアミソダロス〔カリアの領主〕の、槍の上手な二人息子は。またオイレウスの子の(小)アイアスは、おどりかかって、クレオブロスを生捕りにした、もみ合う中でまごまごしているのを。だが、そのままその場で、大きな柄《つか》のある剣を頸筋に切りつけ、生命《いのち》を取ったが、剣は元から先まで血潮をかぶって温かになり、両眼を、紫色の死と、否応なしの運命とが、おっとりこめた。
またペネレオスとリュコンとは、相たがいに駆け寄ったが、投げた槍はいずれも的《まと》にあたらなかった。両方とも見当ちがいに投げつけたので。そこでまたもや、槍を抜いて駆け合ったが、このときリュコンは、敵の、馬毛をつけた兜の星へ突き立てると、柄もとの頸から剣がそっくり折れて飛んだ、一方ペネレオスは、耳の下の頸筋を撃ったところ、刃がすっぽり中へはいって、ただ一枚の皮をのこして、首はわきへぶら下がり、手足はなよなよとくずおれた。またメリオネスは、敏捷に足を運んで、アカマスに追いつき、戦車に乗ろうとするところへ、右肩を突き刺せば、車からころがって落ち、その両眼に昏《くら》いかすみが蔽いかかった。
イドメネウスはといえば、エリュマスの口のあたりを、情け容赦もない青銅(の槍先)で突き刺したので、青銅の槍はずっぷり中へ、脳髄の下のあたりを貫き通したので、白い骨が割れ砕けると、並ぶ歯がぼろぼろと振り落とされ、両眼には血がいっぱいみなぎりわたって、開けひろげた口からも、鼻からも血を噴き出し、黒々とした死の雲が全身におおいかぶさった。
このようにダナオイ方の大将たちは、めいめい敵の将領を討ち取った。そのありさまはちょうど畜獣に害を与える狼どもが、仔羊や仔山羊などに襲いかかるようだった――牧人たちの用意がたりないのをいいことに、群れの中から盗み出して来たものに。そのように、ダナオイ勢がトロイア方に襲いかかると、(トロイア勢は)みな気負いはげしい武勇も忘れて、みっともない騒々しさの潰走に夢中だった。
さて、大アイアスは、そのあいだじゅうも、青銅の甲冑に身を固めたヘクトルに、槍をつけようものとはやっていたが、ヘクトルとても戦さの技には練達の者、幅広の両肩を牛皮づくりの大楯に蔽いかくし、矢羽根の唸りや、投げ槍の音にもよく耳をくばって怠らず、いかにも戦況は勝敗がその地を更《か》えたのを十分認めながらも、決然として踏みとどまり、信頼する味方の手勢を救おうと努めていた。
さながらオリュンポスの峰を離れて中空へと、輝かしい天涯から、一片の雲が出てきたように――それは、ゼウスが疾風《はやて》をおくろうとするときのこと、そのように船々の間から、叫喚の声と潰走とが湧き起これば、もう整然として壕を渡って帰れはしない。ヘクトル《だけ》は、足の速い馬どもが、物の具ぐるみに、難なく(壕を)渡らせたが、置き去りにされたトロイア方の軍兵どもは、否応なしに塹壕にせきとめられ、戦車をひく速い馬にしても、壕のところで、轅《ながえ》の先を打ち砕いて、主人《あるじ》の車をそこへ捨てさせたのも、たくさんあった。
さてパトロクロスは、しきりにダナオイ勢を激励しながら、追跡をつづけてトロイア方に損害を与えにかかれば、敵軍はちりぢりとなり、道々を叫喚と潰走とで満ちみたした。うずまく塵風は高く、群雲のもとに散りひろがる、その間を単《ひと》つ蹄《ひずめ》の馬どもが戦車をひいて、船々の間から、陣屋から、(イリオスの)城市へと一心に、また引き返していった。
パトロクロスは、兵士たちがいちばんひどく湧き立っているところをみて、そちらのほうへ、わめきかけつつ(馬を)向けてゆくと、(敵の武士の)車軸の下に、うつむけざまに乗り物から落っこちる者が相つぎ、戦車の台座はひっくり返る、その間をまっしぐらに、壕の上を、パトロクロスの速い馬どもは跳び越えていった。もともとこれはペレウスへと、神々が贈り物にくださった輝かしい賜物《たまもの》なので、この不死の馬が、なおも先へとはやり立てば、パトロクロスも一心に、ヘクトルをめがけて戦車をはしらせ、討ちとめようとはやった。だが、ヘクトルの乗る馬も同じく駿馬、ヘクトルを載せて遠くへと運んでいった。
人間たちが掟を曲げて不正な裁きをおこない、神々の託宣をもないがしろにし、正義をしりぞけるときには、ゼウス神は人間どもに立腹されて、大雨を降り注ぐ。そのため世界じゅうの河々が、みな水量を増してみなぎりあふれ、河辺の丘さえ、いくつとなく激流のために切りさかれて、(水流は)山々からまっしぐらに、紫をなす海へまで、轟然《ごうぜん》たる響きを立てて流れてゆき、人間どもが耕した田畑を失われさす。そのように洪水に押しまくられるごとく、トロイア勢の馬や車は、地響きを立てて潰走していった。
さてパトロクロスは、先頭に立つ陣列を切り崩すと、あべこべに船陣のほうへと逆に押し戻して、敵兵が(トロイアの)城を目指して逃げ上ろうとはやるのをさえぎって、船陣と河と、高くそびえる囲壁との間に押しこめ、駆け寄っては斬り倒して、大勢の(死んだ味方の)仇討ちを果たしていった。
このおりにまず最初に討ち取ったのは、プロノオスで、大楯のわきからむきだしになった胸へと、きらめく槍をうちあてて、手足を萎《な》えくずおれさせれば、地響きうってうち倒れた。そのつぎにはエノプスの息子テストルをめがけて進むと、敵は、よく磨かれた車駕《くるま》の中に、身をひそめて坐っていたが、彼と見てびっくり仰天、両手から手網をはたと取り落とした。そこを、そばにつと寄り添って、槍を取りなおし、右の顎《あぎと》へ突き立て、まさしく上下の歯の間を貫きとおし、車台の手すり越しに槍をつかんでたぐり寄せる、そのありさまは、誰か人が、海へ突き出た岩礁の上に坐って、いきのよい魚を海原から、麻糸ときらめく青銅《かね》(の鉤《はり》)でもって釣り上げるのに似ていた。そのように、車台からきらめく槍で、大口あいた男を引きずり落として、うつむけに突き落とせば、落ちるなりこと切れた。
それから今度はエリュラオスが駆け寄ったのへ、石塊を取って、頭のまんなかへ打ちあてれば、頑丈な兜の中で、まっ二つに頭蓋がぱっくり割れて裂けると、そのまま地面へうつむけに倒れたその身を、人の命をさんざに砕く死が、とり巻いて押し包んだ。その頃にはエリュマスやアンポテロスやエパルテスや、ダマストルの子トレポレモスや、またエキオスにピュリス、イペウスにエウイッポス、アルゲアスの子ポリュメロスなど、みな残らず、つぎからつぎへ、生類をゆたかに養う大地へと倒していった。
おりから、サルペドンは、腹巻なしに鎧をつけた手下の人々が、メノイティオスの子パトロクロスの手にかかって討たれるのを見ると、神々にもたぐえられるリュキア勢の人々を叱りつけて、呼ばわるよう、
「恥を知れ、リュキアの者ども、どこへ逃げてゆくのか、いまこそ奮戦すべき時だ。さあ見ていろ、私がいまその武士と向かい合うから、どちらがここで勝利を得るかをきめようと。いかにも彼はトロイア勢に、たいそうな被害を与えて、大勢の勇士たちの膝をくずおれさせたが」
こういうなり、乗物から物の具ぐるみに、地面へ跳び下りれば、こちら側のパトロクロスも、これを見ると、車台から跳んで下りた。そのありさまは、鉤爪《かぎつめ》を曲げ、くちばしも碇《いかり》のように反った禿鷹二羽が、高くそびえる巌の上で、はげしく叫びあいながら、闘うよう、そのように両将は、雄叫びもろとも、相たがいにおどりかかった。そのさまを見て、狡智にたけたクロノスの御子(ゼウス)は、憐れをもよおされて、姉妹であり妃でもあるヘレに向かっていわれるようには、
「やれやれ、何ということか、人間のうちでもとりわけて愛《いと》しく思うサルペドンが、メノイティオスの子パトロクロスに討たれることが運命《さだめ》であるとは。私の心はまっ二つに裂けて、あれやこれやと思いまどい、思案するのだ、あの子を、生きているうち、涙にゆたかな戦場からさらっていって、リュキアの肥沃な郷《さと》へ運んでおこうか、それとももうはやあきらめて、メノイティオスの子の手にかかって、討たれさそうか、と」
それに向かって今度は、牝牛の眼をしたヘレ女神が、答えるよう、
「このうえもなく畏《かしこ》いクロノスの御子のあなたが、何ということをおっしゃいますか。死ぬべき人間の身で、もうとっくから死の運命《さだめ》ときめられているものを、いまさらに、おぞましい音《ね》の『死』から、引き離そうとお望みなさいますとは。ええ、そうなさいませ、でも他の神さまがたが、みな賛成とは限りますまい。それにもう一つ申し上げること、それをあなたも、よくよく憶えていてくださいませ。もしサルペドンを、生きているまま、その故郷へおくっておやりとならば、考えてもくださいませ、他の神々もまたそれぞれ今度は、自分の愛しい子供を、はげしい合戦の場から連れ出したいと思うまいものか。それというのも、不死である神々の息子たちにも、プリアモスの大きな城市《まち》をとりあって戦っている者が大勢おります。その神さまがたから、ひどい恨みをおかいになろうわけですから。
そんな次第ゆえ、たとえ愛しくお思いになり、御心にいかさまお嘆きなさいましても、ここのところはこのままに、はげしい合戦のあいだに、メノイティオスの子パトロクロスの手に討たれさせておおきなさいませ。しかしいよいよ息を引き取って、寿命がつきたそのうえでなら、死の神と、やすらかな眠りの神に護衛させ、やがて広やかなリュキアの郷に着くまで、送っておやりがよろしいでしょう、その国で、兄弟たちや身内の者が、(亡骸《なきがら》を)薬膏《くすり》に浸け、墳《つか》を築《つ》いて、墓標を立てて葬らいましょう、それが死んだ人たちへの誉れのお勤めなのですから」
こういえば、人間どもと神々とのおん父神も、返す言葉もなく承知されたが、ただ血みどろな雨のしずくを、大地へと、愛する息子を惜しむ一念から降り注がせた――その子をいましもパトロクロスが、土塊《ちちくれ》の沃《ゆた》かなトロイアに、故郷から遠く離れたところで、討ち果たすものときまっていたのだ。
さて両将《ふたり》はたがいに向かって進んでゆき、いよいよ間近となったときに、そのおりまさしくパトロクロスは、ひろく名を伝えられたトラシュメデスという、サルペドンの殿のすぐれた介添え役と聞こえた者を撃って、下腹のあたりに槍をつけ、手足を萎《な》えくずおれさせた。サルペドンはといえば、おくれて跳び立ち、きらめく槍を(投げはしたが)、パトロクロス自身にはあてそこなって、添え馬ペダソスの右肩を槍で刺したのに、馬は息も絶えだえに、一声高くいななくと、そのまま砂塵の中へうめいて倒れ、命は宙に飛び去った。
添え馬が砂塵の中に倒れたので、あとの二頭はてんてんばらばらに駆け出すと、軛はきしみ出し、手もとの手綱もこんがらかったが、それへも巧みに、槍の名手のアウトメドン〔アキレウスの信用が厚い介添役〕が始末をつけた。肉付きのいい腿のわきから、長い刃の剣を引き抜くなり、手も見せずに、身を寄せて、添え馬(の綱)を切って放したのだ。それで二頭の馬はまっすぐに向かい、引き皮を張って並んで進み、こうして二人はまたもや、命を貪る闘争へと向かいあった。
このおりに、サルペドンはまたもや、きらめく槍の狙いをはずし、パトロクロスの左肩の上を越して、槍の穂先がはしっていったので、その体にはあたらなかった。一方パトロクロスは、うしろから青銅(の槍〉を手に突進したが、ほうられた槍は手を飛んで出た甲斐あって、横隔膜が騒がしく鳴る心臓と合わさるところにあたったもので、(サルペドンが)どっと倒れた。その様子は、さながら樫《かし》の樹が白川柳《しろかわやなぎ》か、あるいは丈の高い松の樹でもあるかのように山々の間で、工匠《たくみ》の男が、とぎすました手斧でもって、船材にと切り出したみたいに、倒れるようであった。
それと同様に、馬どもや戦車のすぐ前に、長々と身を横たえて臥しまろび、しきりにうめきあげながら、血にまみれた砂塵を手に握りしめたところはちょうど、牡牛を獅子が牧に群れるところを襲いかかって打ち殺したよう、赤茶色の、足をくねらす牝牛の中に傲然と構えていた牛、それがいまは獅子の顎にかかって、呻吟しながら命を終える。そのように、パトロクロスの手にかかって、リュキア勢の楯をかまえる大将は、殺されながら、しきりに気負いこんで、親しい友の名を呼びあげ、
「グラウコスよ、数ある武士の中でも、優しい戦士といわれるきみが、いまこそ槍の名手、また大胆不敵な戦士の実を示さねばならない時だ。いまこそはげしい戦さが望まるべきだ、もしきみが俊敏の武夫《もののふ》ならば。まず手始めにはリュキア勢の采配を振る武夫たちを励まし立てろ、八方へ出かけていって、サルペドンを護って闘えと。それから今度は、きみ自身が、私をかばって、青銅(の物の具)を取り奮戦するのだ。さもなければ、この私が、いつまでも絶えることなく、きみにたいする世人の非難、譏《そし》りの種となるであろう、もしアカイア勢が、船々の集まり場所での合戦に、倒れた私の物の具をはいでいったならば。それゆえ、頑強に踏みとどまって、兵士たちを残らず激励してくれ」
こういいおえると、死の終焉《しゅうえん》が、彼の両眼や鼻孔に蔽いかぶさった。パトロクロスは、土足のまま、胸に足をかけ、肌えから槍を引き抜くと、それといっしょに横隔膜までひっついて出て、その人の魂魄をまで槍の穂先ともろともに引き出したのだった。一方ミュルミドンたちは、(サルペドンの)馬どもが主人の殿の車を離れてから、逃げていこうとはやり立ち、鼻息荒く騒ぐのを、そのままそこへおさえ止めた。
さてグラウコスは、(サルペドンの〉叫び声を聞くにつけ、いいようもないはげしい嘆きに胸を襲われ、さりとて友を防ぎ護りもできないので、いっそうに心は急《せ》きたつばかり、片手に上膊《うわうで》をつかんで圧《おさ》えつけたのは、傷口がなお痛んでかなわないためだが、この傷こそテウクロスが、さっき矢で、高くそびえる囲壁から、グラウコスのつめ寄るところを目がけて射たものである、僚友の災難を防ごうとて。それでこのとき、遠矢を射るアポロン神に祈っていうよう、
「お聞きください、神さま、あるいはいまリュキアの肥沃な郷土においでであろうと、またトロイアだろうと、どこからでも嘆願する者の祈りをお聴き入れがおできのことゆえ、現在この私に大難が迫っておりますのを。それというのも、こんなにひどい傷を受けていまして、腕がすっかり、鋭い痛みにつきとおされ、傷口の血さえまだとまりません。そのために肩へも重みがかかった工合で槍をしっかり握ることもできませんし、出かけていって敵のやつらと闘うなどは思いもよらない。その際に、全軍きっての勇将サルペドンが討たれてしまった、ゼウスの御子ともいうのに、神さまがご自分の子も護られないとは。それでせめてはあなたさまなりと、この手ひどい傷を癒してください、苦痛をやわらげ、力を授けて、私が仲間の者どもを激励して、リュキア勢を戦いへとうながし立てもできますように。また私自身も、討ち死を遂げた従兄《いとこ》の屍を護って闘えますよう」
こう一心に祈る言葉を、ポイボス・アポロンはお聞き召されて、即座に痛みをとまらせ、見るも無残な傷口からは、黒い血潮を拭いて乾かし、胸には勇気を打ちこんでおやりになると、グラウコスも、自分の心のうちにそれと覚って喜び勇んだ、大神さまが、こうもさっそく、自分の祈りをお聞き入れくださったのを。それでまず手始めに、リュキア勢の指揮を執る大将たちを励まし立てた、四方八方へ出かけていって、サルペドン(の屍)を防ぎ護って戦うようにと。それからついでトロイア勢の陣取っている場所へ大股に歩みを運んでゆき、パントオスの子のプリュダマスや、勇敢なアゲノルや、アイネイアスや、青銅の物の具を鎧うたヘクトルなどのところへ出かけ、すぐと身近に立ち添って、翼をもった言葉をかけていうようには、
「ヘクトル、いまではほんとに、まるっきり加勢にきた同盟軍を忘れてしまったのか。その人々はきみのために身内の者らとも別れ、故郷を遠く離れたここで、命をどんどんおとしてゆくのに、きみはてんで防ぎ護ろうともしないのだ。いましも、楯をもつリュキア勢の総大将サルペドンが殪《たお》れたのだ。これまでリュキアの国を、正しい掟と自身の威力をもって譲ってきた者、それを軍神アレスが青銅の槍をもってパトロクロスに討ち取らせたのだ。それゆえ皆、友としてそのわきに立ち添い、心にはげしい怒りを燃やして、ミュルミドンらが、物の具をはいで、屍を辱しめなどしないように譲ってくれ。彼らとても、速い船々のかたわらでもって、われわれが槍にかけて討ち果たした大勢のダナオイ方ゆえ、憤激してのことではあるが」
こういうと、トロイアの人々のからだじゅうを、耐え切れない、なだめもできない悲嘆がとらえた。(サルペドンは)彼らにとって他国の人ではあったけれども、平生から城のささえ、護りとされていたから。またそれに加えて大勢の兵士たちを率いて来てくれたうえ、戦さに出ては、自身でたびたび殊勲も立てていたことだから。それで一同、ダナオイ勢を目がけて、まっしぐらにつめ寄った。その先頭にはヘクトルが、サルペドン(の死)に憤激して立ち進むと、こちら側でアカイア勢を励ますのは、勇猛心のメノイティオスの子パトロクロスで、両アイアスの、それでなくてさえきおい立つのに、まず先がけて向かっていうよう、
「両アイアスよ、いまこそきみたち二人が、気を入れて、防禦につとめてくれ、これまできみらが、武士たちの間で現わした働きぶり、あるいはそれ以上の武男を示して。ここに、アカイア方の囲壁を最初に跳り越えた者が倒れている、サルペドンだ。それだから、さあ手に捉《と》って恥辱を与え、甲冑を両肩からはぎ取ってやろう。またその仲間も、誰にもせよ、この屍を防ぎ護って戦う者を、情け容赦もない青銅(の刃)で討って取ろう」
こういうと、みなみな、進んで、一心に防戦に力をつくした。さてこのように両軍それぞれ、両方で隊伍を固め整え、一方ではトロイア勢とリュキア勢、もう一方にはミュルミドン族とアカイア勢と、命の絶えた屍をかこんで、恐ろしい喚声をあげ、決戦へと相向かえば、戦士たちの物の具は高く鳴りひびくおりから、ゼウスははげしい合戦の場へ、呪わしい夜の闇をかけひろげた、愛しい息子(の屍)をめぐる戦いに、呪わしい激闘がおこなわれるようにと。
そこで初めのうちは、トロイア方が、眼のすばしこいアカイア勢を押し返した。というのも、ミュルミドン中でも、けして懦弱《だじゃく》とはあなどれぬ武士、気象のひろいアガクレスの子の、勇敢なエペイゲウスが討たれたからである。この男は、もと景勝の地を占めるプデイオンを領していたが、先ごろ身分のある親戚の者を殺害して、ペレウスと、白銀の足をしたテティスのところへ助けを求めて来ていたのを、両親が、武士を斬り殪すアキレウスにつき添わせて、若駒のよいイリオスへと、トロイア方との戦いによこしたものだった。
それがこのおり、(サルペドンの)屍に手を触れたところへ、誉れ輝くヘクトルが、石塊をとり、その頭へとほうりつけると、頑丈な兜の中で、まっ二つに頭蓋がぱっくりと打ち割れたのに、たまらず屍の上へ、うつ向けに打ち倒れた。その身の周囲をすっぽりと、生命《いのち》を打ちくだく死が押し包んだ。
そこでパトロクロスは、最期を遂げた僚友《とも》のために胸を痛めて、まっしぐらに先陣の間を駆け抜けていった。その様子はさながら、速く飛ぶ隼《はやぶさ》のよう、その勢いには、鶫《つぐみ》も椋鳥《むくどり》も恐れてあわてて逃げる、その鳥のように、一筋にリュキア勢とトロイア方の軍勢を目がけて、あなたは駆けつけたのだ、馬を駆るパトロクロスよ、僚友の死に怒りを激発されて。
そこでいきなり、イタイメネスの息子ステネラオスの頸筋へと、石塊を打ちつけ、頸の腱をそっくりと、その根元から引きちぎった勢いに、(敵の)前衛も誉れかがやくヘクトルも、細身の狩りの投げ槍が届くかぎりほど退却した。その投げ槍は、人が、競技の場で、技倆を試しに、あるいは戦さで、さんざに命をうちくだく敵の軍勢をひかえてほうるのである。その距離ほどを、トロイア勢が引き退ると、アカイア勢は≪それだけを≫押し進んだ。
おりからグラウコスは、楯をもつリュキア勢の大将として、まっ先に引き返して、意気のさかんなパテュクレスを討ち取ったが、これはカルコンの息子で、ヘラスの地に屋敷を構えて、富みかつ栄え、ミュルミドン族の間にも、ことさらに名を知られた者の子だった。それをこの時グラウコスが、突然に向きをかえて向かって来、槍でもって胸のまんなかを突き刺した、彼の後を追っかけてきて、いましも捕まえようとしかけたところを。それで地響きうって倒れると、はげしい悲嘆がアカイア軍の人々をとらえたのは、優れた勇士が倒れたからである。トロイア方は大喜びして、倒れた男の周囲に群がり寄って立ち並べば、アカイア方も武勇を忘れてはいずに、彼らを目がけてはげしくせまった。
このおりにまたメリオネスが、トロイア方の兜武者一騎を討った。ラオゴノスといって、オネトルの勇敢な息子だが、父はイダの山のゼウス(の社)の祭司なもので、神にひとしく郷党からも敬われていた。その息子の、顎と耳の下とのへんを目がけて突き刺せば、たちまち息は手足を離《はな》れて去り、忌まわしい夜の闇が、彼の体をとらえた。一方ではアイネイアスが、メリオネスをめがけて青銅の槍を投げつけ、彼が楯にかくれて大股に進んでくるのへ撃ってやろうとあてこんだが、こちら側でもそれと見てとり、青銅の槍を避けおおせた。つまり、前のほうへ身をかがめたので、長柄の槍はうしろへ飛んで、地面へすっぱり刺さったが、突き立った槍の石突きはまだ上方でぴくぴくふるえていた。≪アイネイアスの槍の穂先は、地面の上へ飛んでからも震えていたほど、さすがのたくましい腕からほうられたのも、むだだったので≫アイネイアスはひどく腹を立て、声をあげていうようには、
「メリオネスよ、おまえがどんなに上手な踊り手だって、私の槍があたりさえしたら、すぐさま、もう金輪際、動けないようにしてくれたろうに」
それに向かって、今度は槍の名手といわれるメリオネスが答えていうよう、
「アイネイアスよ、そりゃむずかしかろうぜ、たとえどんなにおまえが武勇すぐれた者だといっても、防戦のため、おまえに向かって出て来る武士全体の、気勢をすっかりとめてしまうのは。おまえだとて、やはり命死ぬ人間の身だ。私にしても、もしも鋭い青銅(の槍)で、おまえの体のまんなかを狙ってあてたら、立ちどころに、どれほどおまえが武勇を誇り、また腕前をたのんでいようと、誉れを私に挙げさせよう、魂魄《たましい》は、駒に名高い冥府の王のもとにおくって」
こういえば、それをメノイティオスの勇敢な息子(パトロクロス)が聞きとがめて、
「メリオネスよ、なぜきみはそんな文句を並べ立てるのか、武勇のほまれが高いきみがな。おい、トロイア軍は、どう悪口をいわれたって、屍を捨てて退却することはなかろう、その前に、大地が誰かを埋めこむだろうさ。戦さの決着《きめば》といえば腕にあるのだ、論議の決着《きめば》は方策にな。それだから、もうよけいな口をこのうえきかずに、戦うべきだぞ」
こういって、先頭に立って進めば、神にも擬《まが》えられるかの武士(メリオネス)も、いっしょについてゆくのに、両軍の(闘いあう)様子はさながら、木こりの男の立てる響きが、山あいの低間の谿《たに》に湧きあがれば、遠方からもその音がはっきり聞こえる、そのように、広い道を通わす大地から、敵と味方のたがいに打ち合う青銅(の刃)や、こしらえのよい牛皮のたくさんな楯、それが剣で撃たれる音、また二つ叉の槍先で突かれる音が、ごうごうと湧き起こった。
それでもう、たとえ目はしのきく人間でも、貴いサルペドンを、(その人と)見分けはできないほどだった。槍先や血糊や、また塵埃のため、頭から足の先まで、すっかり包まれてしまっていたものだから。それで、敵も味方も、屍のまわりに群がり寄ったありさまは、さながら蝿が、牛小屋の中で、縁《ふち》までいっぱいになった乳桶のまわりに、ぶんぶんとうなり立てるよう――春もさかりの頃、牛の乳が入れ物をじっとり濡らす季節時分に。
そのように、(サルペドンの)屍の周囲に群がり寄ったが、ゼウスはけして、このはげしい合戦の場から、きらめく眼を他へお向けなさらず、一同の上をしじゅうごらんになって、考えこんでおいでだったのだ。とりわけ、いろいろと、どうやってパトロクロスを殺させようか、と思案をめぐらしておいでだった。すぐにも彼を、はげしい合戦の間にこの場で、神にもひとしいサルペドンの屍の上へ、そのまま、誉れかがやくヘクトルに、青銅の刃で切り殺させ、肩から物の具をはぎ取らそうか、それとも、またもっと大勢の者どもに、切迫した苦しい闘いを増してやろうか、と。
とやこう思案するうちに、これこそまずゼウス神の目に一番の上策と見えたものは、ペレウスの子アキレウスの勇敢な介添え役(パトロクロス)に、もう一度トロイア軍を青銅の物の具を鎧うたヘクトルぐるみに、イリオスの城まで押し返させ、大勢の武士を討たせることで、まずその手始めにと、ヘクトルに臆病風をとりつかせた。それで(ヘクトルは)、戦車の台座に上って、退却へと馬を引き向け、他のトロイア兵にも、遁《に》げろとすすめた。これはゼウスの聖《とうと》い秤《はかり》〔事件の成行はみなゼウスの支配下にあり、彼が天秤にかけて計量する〕、おんはかりごとを知りわけた、というべきである。
この時にはもう武勇すぐれたリュキア勢としてもささえきれずに、みないっせいに潰走した、いま主君が胸を打ち挫かれて、累々たる屍の堆積中に臥《ふ》せるのを見たもので。クロノスの子が、はげしい闘いをくり拡げさせたとき、サルペドンの屍の上に、大勢の者が倒れ重なったからだった。
そこでみなみな寄り集まって、サルペドンの両肩からきらきらした青銅の鎧をはぎ取り、それをうつろな船のところへ特っていくよう、メノイティオスの勇敢な息子(パトロクロス)が仲間に渡した。ちょうどそのおり、アポロンに向かって、群雲《むらくも》を寄せるゼウス神がいわれるよう、
「ではさあ、これから、ポイボス神よ、サルペドンを、槍や矢の飛ぶ外へ運び出し、黒々とかたまった血を拭き浄《きよ》めろ、それから彼をずっと遠いところへ連れてゆき、河の流れに浸《つ》けて洗うのだ。そして仙香《アンブロシア》を塗りこめ、不朽の衣をまとわせてから、矢のように速い送り手の「眠り」と「死」との双子の神をいっしょにつけて運んでゆかせろ。そうすればまたたくうちに、両神《ふたり》して彼を連れてゆき、広大なリュキアの国の肥沃な郷《さと》に置くであろう。そこで兄弟たちや身内の者が、この屍を薬膏《くすり》に浸け、墳《つか》を築いて、墓標を立ててとむらうであろう、それが死んだ者どもへの、誉れの勤めであるから」
こういわれると、アポロンも、父神のいわれることに異議なく従って、イダの山を下りてはげしい戦さの響きのなかへ赴き、ただちに貴いサルペドンを抱き上げて、槍や矢の飛び交う外へ、ずっと遠いところへ運んでいって、河の流れに浸して洗い、また仙香《アンブロシア》を塗りこめ、不朽の衣をまとわせてから、矢のように速い送り手の「眠り」と「死」との双子の神をいっしょにつけて運んでゆかせると、両神《ふたり》はさっそく彼を連れてゆき、広大なリュキアの国の、肥沃な郷《さと》に下ろして置いた。
さて、パトロクロスは、馬どもとアウトメドンを激励して、トロイア勢やリュキアの手勢を追跡していったが、わきまえもなく、ひどいまちがいにおちいったものだった。もし彼がペレウスの子の言いつけを守っていたら、まったく、黒い死の、禍いな運命も免れおおせただろうに。だが、どんな場合にも、ゼウスの神慮は、まったく人間どものおもんばかりを超えるものなのだ。≪すなわち彼こそは、武勇をほこる武夫《もののふ》をさえ敗亡させて、容易に勝利を奪い去ったり、時にはご自身から戦いへと、彼らをうながし立てもするのだ≫
このおりに、誰をいちばん初めに、また誰をいちばんしまいに討ち取ったか、パトロクロスよ、いよいよきみを、神々が死へと呼び寄せたときに。まず最初にはアドレストスに、続いてアウトノオスにエケクロスに、それからメガスの子ペリモスとエピストルとメラニッポス、それから今度はエラソスにムリオスと、つづいてピュラルテスなど、この者どもを討たれては、ほかの者とて誰も彼も、逃げ落ちようと心がけた。
このおりあるいは、城門の高くそびえるトロイアを、アカイア方の息子たちが占領もできたであろう、パトロクロスの手によって。それほどはげしく槍をふるってパトロクロスは荒れ狂ったのだ、もしポイボス・アポロンが、堅固な造りの櫓《やぐら》の上に立ちはだかって、パトロクロスの禍いをはかり、トロイア方を助けなかったならば。
三度まで、高くそびえる城壁の角にパトロクロスが攀《よ》じ登ったのを、三度またアポロン神は、不死の御手をもって、燦然たる(パトロクロスの)楯を突きやり、彼の体を押し返してしりぞけたが、いよいよ四度目に、彼が、神霊にも似たすさまじさでかかって来たとき、御神は恐ろしい声を出して彼を叱りつけ、翼をもった言葉をかけて、
「退《すさ》りおろう、ゼウスの裔なるパトロクロスよ、とてもまだおまえの槍で、意気昂然たるトロイア人《びと》らの、この城市《まち》が、攻め落とされる運命《さだめ》にはなっていないぞ。いやアキレウスとて陥《おと》せないのだ、おまえよりずっとすぐれた武士であるのに」
こういわれると、パトロクロスも、はるかにうしろのほうへ引きさがった、遠矢を射たまうアポロン神の憤りをはばかったから。
さてヘクトルは、スカイアの門の内側に、単《ひと》つ蹄《ひづめ》の馬を引きとめて、もういちど乱戦の間に打って出て戦ったものか、それとも兵士たちに呼びかけて、囲壁《かこい》の中へ逃げてかくれるようすすめるか、と思い惑っていたが、ちょうどその思案をしている彼のわきへ、ポイボス・アポロンが寄り添ってお立ちになった。その似せ姿は、まさしく血気ざかりの剛毅な若武者で、アシオスといい、馬を馴らすヘクトルの母方の叔父で、ヘカベのまことの兄弟にあたる、デュマスの息子と見えた。サンガリオスの河畔、プリュギアの国に住まいしていた、この若者の姿を借りて、ゼウスの御子アポロンは(ヘクトルに)話しかけるよう、
「ヘクトルよ、なぜきみは戦さをやめて引っこんでるのだ。きみまでがそれではいけない。もし私のほうがきみより強い者だとありがたいのに。そしたら私はすぐさま、戦さをやめて遁げたというので、きみをひどい目にあわせてやろう。ともかくさあ、パトロクロスへと、力づよい蹄の馬どもを向かわせなさい、あるいはどうにか彼を討ち取れるか、またアポロン神がきみに誉れを授けてくださるか、試してみなさい」
こういい終えると、御神はまた武士たちがはげしく戦いあうなかへと赴かれた。一方、誉れかがやくヘクトルは、武勇を忘れぬケブリオネスに命令して、馬に鞭打ち、合戦の場へと戦車をはしらす。その間にアポロン神は、乱戦の間にはいってゆかれ、アルゴス勢には禍いである混乱を引き起こさせ、トロイア勢とヘクトルには誉れを与えようとされた。
それで、ヘクトルは、他のダナオイ方の武士はほうっておいて殺そうとせず、ただパトロクロス一人を目がけて、力づよい蹄の馬どもをはしらせれば、こちらパトロクロスも、馬車から地上へ跳んで下りた。左手には槍を引っさげ、もう一方の手には、ぎざぎざとして角立った石塊の、手がすっかり蔽いかぶさるくらいのものをつかんで、しっかと足を踏ん張り、ほうりつけたが、そうヘクトルから離れてはいなかったので、投げた石もあたらずにはすまないで、ヘクトルの手綱取りの、世に名も聞こえたプリアモスの脇腹の子のケブリオネスの、馬車の手綱を取っていたその額へ、まっこうに鋭い石があたった。石のため両方の眼球のあたりが押し砕かれ、骨もたまらずに、両方の眼球が(押し出されて)、地面へ、砂塵の中へと、ちょうどその足の前に落っこちたのに、ケブリオネスは、筋斗《とんぼ》を切る軽業師そっくり、立派な造りの戦車台から、どっと落ちると、命は骨を離れていった。それに向かって、嘲弄して、騎士パトロクロスよ、きみはいったな、
「ほほう、まったくとても身軽な男だな。こうらくらくと筋斗《とんぼ》を切るとは。いかにもな、これがまず魚どもがたんと住んでる海だったら、大勢の者に腹いっぱい、この男は食わせたろうにな、船から跳びこんで、牡蠣《かき》でも探して取ってきてさ、たとえどんなに荒天《しけ》の日だろうとも。いまも戦車から、野原へ筋斗を切って落ちたが、まったくトロイア方にも、いい軽業師がいるもんだ」
こういうと、ケブリオネスの殿に向かって、獅子のような勢いでもって進み寄った。牛小舎を荒らしている間に、胸のあたりを撃たれて、自身の猛々しさから身を滅ぼした、そういう獅子みたいに。パトロクロスは、きおいこんでケブリオネスに飛びかかったが、こちらのヘクトルもまた、戦車から地上へ飛んで下りれば、二人はさながら二匹の獅子のように、ケブリオネスを争って闘いあった。その獅子どもは、山の高みで、殺した牡鹿を間にはさんで、両方とも餓えていながら、なお昂然と闘いあう、そのようにケブリオネスをさしはさんで、二人の雄叫びの声のひきおこし手、メノイティオスの子パトロクロスと、誉れかがやくヘクトルとは、情け容赦もない青銅(の刃)で、たがいの肌えを切り剖《さ》こうとはやり立った。こちら側でヘクトルが頭に手をかけ、かけた以上はもう放すまいとすれば、向う側でパトロクロスが足に取りつき、その余のトロイア勢も、ダナオイ方も、ここを先途とはげしい戦さをつづけていった。
さながらそれは、東風と南風とが、たがいに、出あいの深い谷間で、鬱蒼《うっそう》と繁った森を揺り動かそうと、ぶなの木やトネリコの木、あるいは樹皮のうすい山茱萸《やまぐみ》などを吹き競うようである。樹々は、相たがいに長くのび出た枝々を打ちつけあえば、恐ろしい響きがおこって、それらの折れて裂ける騒音が湧いておこる。そのように、トロイア勢とアカイア軍とは、相たがいに跳りかかって切り殺しあい、どちら側も、禍いな敗亡を心にかけるものはなかった。
それで、両軍が彼の屍をとり巻いて争うあいだに、ケブリオネスの周囲には、数多くの鋭い槍が突き立てられ、翼をもった矢が弓弦《ゆづる》から切り放たれ、また数多くの大きな石塊が、楯に打ちつけられた。その間も彼はもう、戦車のこともすっかり忘れて、塵埃の渦まくあいだに、大きな体を、大様にただ横たえていた。
さて太陽が、大空のまんなかをわたって歩みを進めていったその間は、両軍それぞれ相手に向かって、槍や矢がうちかけられて、兵士たちは、相次いで殪《たお》れていった。しかし、太陽がはや降り道につき、牛を放す夕方〔畑仕事をやめる日没時〕近くになると、その時にいよいよ定業《じょうごう》を超えてアカイア勢が優勢を占めて来、ケブリオネスの殿を、飛び交う槍や矢の間からひきずり出し、トロイア勢のわめきもよそに、その両肩から鎧をはぎ取ったが、パトロクロスは、なおもトロイア勢の禍いを企んで、討ってかかった。
それで三度も、恐ろしい喚声をあげながら、敏捷なアレスにも劣らない勢いで、おどりかかって、三度も九人の武士を討ち取ったが、まだ飽きたらずに、四度目にまでも、鬼神にひとしい意気ごみで突進したとき、そのおりにだな、パトロクロスよ、きみの生命《いのち》の終りが示現されたものだ。
というのも、きみに向かって、ポイボス(アポロン)神が、はげしい合戦の間に出会いにゆかれた。すさまじいありさまで、しかも人々の混み合う間を(御神が)進んでゆくのを、こちらはまったく覚らなかった。というのは、厚い雲霧に姿をすっかり蔽いこませて向かって来られ、(パトロクロスの)うしろに来て立ち、背中と幅の広い両肩とを、平手ではったと打ち下ろした。眼はぐるぐるまわってくるめく、またその頭からは被った兜を、ポイボス・アポロンが打ち払えば、四つ角をつけた大兜が、馬どもの足の下へ、からから響きを立てながら転がってゆき、兜の房毛も血と砂塵にまみれてしまった。これ以前には、この馬の尾房を着けた兜が、砂塵にまみれることなど、とうていゆるさるべくもないことだったのを。それは神々しいまでの武夫《もののふ》、すなわちアキレウスの頭や、きよらかな額を護っていた物の具なのだから。それをこのおり、ゼウスがヘクトルに渡してやって、自分の頭に被《かぶ》らせたのは、彼にも自身の破滅の秋《とき》が、近づいたのだ。
それで(パトロクロスの)手の中では、長い影をひく大槍の、重たく太く、先金《さきがね》をつけてがっしりしたのも微塵と折れれば、肩からもまた縁飾りのある楯までが、提げ皮ぐるみに地面へ落ちた。また胸甲も、ゼウスの御子のアポロン神がほどいて取るのに、パトロクロスは、昏迷に気もすずろとなり、輝くまでの手足もぐったり萎《な》えくずおれて、ただ茫然と立ちすくんだ。そのうしろから、鋭い槍を、背中の、両肩のまんなかへんに、間近に寄ってつけたのは、ダルダイノ族の武士《さむらい》、パントオスの子でエウポルボスという、同年輩の者の中でも、槍の技なり、戦車の馬を御する技なり、足の速さにかけてもまた超えすぐれた者だった。そのうえにも、このおりには、二十人もの武士を、戦車から落としたくらいで、それも初めて車に乗りこみ、戦さのわざを学ぼうとて出陣した者ながら、それがいま、いちばん先に、騎士パトロクロスよ、きみに槍をほうりつけたわけだったが、まいらせはできなかった。それでそのまま、トネリコの槍を(刺した)肌から急いで取ると、駆けて戻ると群集の中へまぎれこんだ。パトロクロスは、たとえ手ぶらでいたところで、正面から闘っては、とうてい持ちこたえようがなかったからだ。しかしパトロクロスのほうでも、アポロン神の平手打ちと、この槍傷とに痛めつけられて、死の運命を避けようものと、仲間たちのいる群れのところへ退ろうとした。
だが、ヘクトルは、気象のひろいパトロクロスが、鋭い青銅《かね》の突き傷を受けて、うしろへ引き退ってゆくのを見るなり、隊伍の間を駆け抜けて、そのすぐそばにいって立ち、槍を取って、下腹のあたりを突き、ずっぷりと青銅の穂を刺し通せば、地響きたてて打ち倒れて、アカイア方の兵士たちに、ひどく苦しい思いをさせた。
それはさながら、疲れることを知らない野猪を、格闘のすえ打ち負かしたようなもの――丘の頂きで二匹でもって意気ごみはげしく闘いあったのは、乏しい泉の水を両方ともが、自分で飲もうと意地を張り合ってのこと。はげしく息を吐く野猪を、力奮って獅子が仕止めたのであった。そのように、プリアモスの子ヘクトルは、間近くから槍をふるって、大勢を討ち取ったメノイティオスの勇敢な息子の生命を奪ったが、彼に向かって、得意になって、翼をもった言葉をかけ、
「パトロクロスよ、たしかおまえは、われわれの城市《まち》を攻め落として、トロイアの女どもから自由の日々を奪い去り、船に乗せて、懐かしい故郷へ連れ帰るなど、しきりにほざいていたようだが、馬鹿らしいことだな。その女たちより前に、ヘクトルの駿馬が戦さに出ようと、足を延ばして待ち構えていたのだ。剣を取っては私とても、戦さ好きなトロイア勢中でも抜きん出ている者だ。それが彼女らに、よんどころない悲運の月日を防いでやるのだ。しかしおまえは、このところで、禿鷹《はげたか》が啖《くら》うことだろうさ。まったく気の毒だったな、武勇をいつも誇りとしているアキレウスまで、きみを助けるのに役立たなかったとは。きっときみが出かける際には、ずいぶんたくさん、いすわったままで文句をつけたろうがな。馬を駆るパトロクロスよ、うつろに刳《く》った船のところに、それまではけして帰って来るな、武士を殺すヘクトルの鎧帷子《よろいかたびら》を血みどろにし、胸のまわりに切り裂かないうちは、とでもな。そうたぶんはおまえにいっただろう、そしておまえの愚かな心に、そう覚悟させようとしたのだな」
それに向かって、はやもう息も細々と、騎士パトロクロスよ、きみはいった、
「いまはもうはや、いくらでも、ヘクトルよ、威張るがいい。勝利をおまえに授けたのは、クロノスの御子ゼウスと、アポロン神だ。それで私をやすやすと殪すこともできたのだ。ふたりの神がご自身で私の物の具を肩からはいで取られたのだ。だが、ここらにいる者どもなら、たとえ二十人が束になり、かかってきたとしても、一人残らずその場で命をなくすだろう、私の槍に仕止められて。それゆえ私を殺したのは、呪わしい運命と、レトの御子の神と、人間としてはエウポルボスで、おまえはやっと三人目の殺し手というところだ。だが、もう一つ、そのうえにいっておくことを、よくよくおまえは肝に銘じて覚えていろ。きっと本当に、おまえ自身とて、長くは生きていられまい。もうすぐ間近におまえの死と、容赦もない運命の日が迫っているのだ、誉れも高いアイアコスの裔、アキレウスの手に討たれるようにと」
こういい終えると、末期のいろが、その身にすっかり蔽いひろがり、魂魄《たましい》は体を抜けて飛び去ると、身の運命を悼《いた》み嘆きつつ、雄々しさと若さの華を捨て去って、冥王の府へと赴いた。かように生命《いのち》の絶え切った(屍)に向かって、誉れかがやくヘクトルがいうようには、
「パトロクロスよ、なぜ私に切迫した破滅のことなど予言するのか。誰が知っていよう、あるいはあの髪の美しいテティスの息子アキレウスが、私より先に、この槍に突かれて、命を落とさぬとも限らないのを」
こう声をあげると、足を屍の上に乗せかけて、青銅の槍を傷口から引き抜いた。そしてあおむけざまに、槍から向うへ押しやるなり、すぐその足で、槍をひっさげて、アウトメドンを追いかけていった、足の速いアキレウスの、神ともたぐえられる介添えをである。だが槍をあてようときおいこむ相手の武士は、不死である駿馬たちが、もう遠くへ連れていってしまっていた、(この馬どもは)ペレウスの神々からの賜物なので。
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メネラオスが奮戦の段
【ヘクトルは勝ち誇って、パトロクロスが着ていたアキレウスの甲冑をはぎ取ったうえ、その屍をも運び去ろうとする。メネラオスや両アイアスはこれを防いで大いに戦う。とうとう武具は奪われたが、屍は護りおおせ、メネラオスは奮戦して群がる敵を討ち退け、屍を自陣へ運び返った。アイアスもその後詰をして戻る】
だがアトレウスの子の、軍神アレスの伴侶であるメネラオスにしても、パトロクロスが、トロイア勢のために、合戦の間で討たれたのを見逃しはしなかった。それで先手の軍勢を分け、きらめく青銅の物の具に身を鎧《よろ》って進み寄ったが、パトロクロスの屍のまわりをめぐって歩きまわる様子は、さながら親牛が、はじめて産んだ犢《こうし》のそばに寄り添って、低く啼《な》くようだった。そのように、パトロクロスの周囲を、亜麻色の頭髪《かみ》をしたメネラオスは歩きまわっていた――前方には槍を捧げ持ち、四方によく釣合いのとれた楯を構えて、誰にもせよ向かって来る者があったら、すぐにも殺してやるぞと気負いこんで。しかし一方の、パントオスの子の、トネリコの立派な槍を持った息子(エウポルボス)も、誉れかがやくパトロクロスが倒れたのをほうってはおかずに、屍のわきに行って立ち、アレスの伴侶であるメネラオスに向かっていうには、
「アトレウスの子メネラオスよ、ゼウスの擁護にあずかるきみは、兵士たちの首領《かしら》ではあろうが、屍をそこへ置いて退ってゆけ、血まみれの獲物はこっちへ渡してな。トロイア方にも、音に聞こえた友軍中にも、はげしい合戦のあいだで、私より先にパトロクロスへ槍をつけた者はない。それだから、トロイア勢の中にあって、立派な手柄を私が立てる邪魔をするな、きみを討って、楽しく甘い生命《いのち》まで奪《と》ることにならないようにな」
それに向かって、ひどく機嫌をそこねて、亜麻色の髪のメネラオスがいうよう、
「ゼウス父神よ、とんだことだ、身の程をわきまえずに広言を吐くとは、けしからん。まったく、豹だって、獅子だって、こんなには威張るまい、またあの凶暴な野猪だって。その胸中にあるはげしい気力は、誰よりもはなはだしく、勢いに任せて荒れ狂うというが、このパントオスの、トネリコの立派な槍を構える息子が威張るほどではあるまいに。
いや、まったく、あの勇敢な馬の馴らし手、ヒュペレノルだって、自分の若さを享楽はできなかったぞ。私を罵《ののし》って、ダナオイ方の中でもいちばんけしからん武士だなどと悪口して、私(の攻撃)を受けおおそうとしたものだが、とうてい彼が、無事に自分の足で歩いて帰って、いとしい妻や、大事に思う両親たちを喜ばせた、とは思われない。それとまったく同じに、おまえのそんな威張りかたとて、もしも私に向かってきたら、いまこのところで、取りひしいでくれようがな。だがおまえにまあ、私としては忠告するよ、とっとと退って、大勢いる中へはいってゆけ、私に向かって来などしないで。私に面と向かって刃を合わせ、とんだ痛い目を見ないうちにな。やられてやっと悟る手合いは、愚かなやつだ」
こういったが、相手はいっこう承知せずに、答えていうよう、
「いまこそ、ゼウスの擁護にあずかるメネラオスよ、かならずおまえは、さっき殺した私の兄の仇を討たれるぞ、得意になってしゃべっているがな。まだ造りたての奥殿ふかく、兄嫁を寡婦《やもめ》にしたうえ、両親にもいいようのない泣きの涙をこぼさせるのだから。もしも私がおまえの首と鎧兜を持ち帰って、(父)パントオスや気高い(母)プロンティスに手渡してやったら、まったく彼らの痛ましい嘆きを休めることにもなろう。ともかくもはや、このうえは、一働きして見せずにはおくまい、防ぎおおすか、敗北するか戦さにけじめをつけないではおくものか」
こういって、槍を取り、四方によく釣合いのとれた楯を突いたが、青銅(の穂先)もこれを破り切れず、鋭い穂先が、頑丈な楯の中で曲ってしまった。おくれてあとから進んだアトレウスの子メネラオスは、青銅の槍を先に、ゼウス父神へと祈りをこめて、うしろへ引き退ってゆく相手の、咽喉首のつけ根をふかく突き刺してから、重たい腕に身を任せて、体ぐるみのしかかれば、鋭い穂先は、ずっぷりと、柔かな頸を貫きとおして、向うへ出たのに、地響き打って倒れると、体のうえに物の具が、からから鳴った。
|優雅の神女《カリテス》たちにも劣らないその頭髪《かみのけ》は血にすっかり濡れひたされ、金や銀や糸でかがった垂れ髪の房も同様のありさまとなった。みごとに白い花をつけたオリーブの若木に、突如として、暴風雨《あらし》が襲いかかって、はげしい颶風《はやて》をともない、その木を根こそぎにして、地面へ長く横たわらせる。そのように、パントオスの息子の、堅固なトネリコの槍をもつエウポルボスを、アトレウスの子メネラオスが、討ち取って物の具をはいだ。
さながら獅子の、山あいに生い立ったのが、力をたのんで、牧場に草を食《は》む牛の群れを襲って、中でもとりわけ立派な牝牛をさらってゆき、まず頑丈な歯でもって、牝牛の頸をひっくわえ、砕いてしまう、それから今度は、血潮だの臓物だのを裂き切って、残らずみな啜《すす》りつくすように。獅子をとり巻いて、犬たちや、牛飼い男らが、ずいぶんやかましく叫びたてるが、それも遠くからのこと、すぐ面前に来て向かおうとはしない、みな草色をした恐怖にとらえられているものだから。それと同じく、トロイア勢には、誰一人、大胆にも、誉れも高いメネラオスと相対して戦う勇気を、胸にもっている者はいなかった。
このおりにあるいは、やすやすと、メネラオスは、パントオスの子(エウポルボス)の名高い鎧をとってゆきもできたろう、もしポイボス・アポロンが、意地悪をしなかったら。つまり御神は、敏捷な軍神アレスにもひとしい武士で、キコネス勢の大将メンテスの姿をよそおい、ヘクトルを彼に向かって起たせたのだった。すなわちヘクトルに向かって声をあげ、翼をもった言葉をかけて、
「ヘクトルよ、現在きみは、そのように手の届かないもののあとを追ってはしっているな、心の勇猛な、アイアコスの裔(アキレウス)の馬どもなんかを。だが命死ぬ人間にとっては、あの馬どもは、とうてい馴らすことも、車につないで乗ることも、厄介至極なものどもだ、アキレウス以外の者にはだな。彼《あれ》は不死である女神の子だからまあ別だが。ところが、その間に、アレスの伴侶であるアトレウスの子メネラオスが、パトロクロスの(屍の)まわりを歩いているうち、トロイア方でも随一の勇士というエウポルボスを殺しちまったぞ、あのパントオスの子のはげしい武勇にとどめをさしたのだ」
こういうと、御神はまたもや神ながら、人間の武士が戦いあう中へと出かけてゆかれたが、ヘクトルのほうは、恐ろしい苦悩に、胸をすっかり黒々とおし包まれて、それからほうぼうの部隊の間を、あちらこちらとのぞいて見るうち、すぐに一人は、名高い物の具を、いましもはぎ取られているところ、もう一人は、地面に倒れて臥しているのが目にうつった。突き刺された傷口からは、血がおびただしく流れ出ていた。そこですぐさま、先陣の間を押し分け、きらめく青銅の物の具に身を鎧ったまま、鋭い叫びをあげながら、大神ヘパイストスの、どうあっても消されない火焔の勢いさながらに、ヘクトルは歩いていった。その鋭い叫び声を、アトレウスの子(メネラオス)は聞き逃がしようもなく、胸もふさがれ、器量も大いな自分の心に向かっていうよう、
「やれやれ、私としたことが、もしこの立派な物の具やパトロクロスを置き去りにしていったら、この男は私の仇を討とうと、ここで倒れたものなのだから、ダナオイ方も、誰にしろ、これを見たら、かならずけしからんことと腹を立てよう。だがもし、それを恥じおそれて、ひとりきりで、ヘクトルやトロイア勢と戦いあったら、きっと一人で大勢にとり囲まれるに相違ない、トロイア勢をここへみんな、きらめく兜のヘクトルが、残らず連れて来るだろうから。
だが、どうしてこんなに、私の心はあれこれとあげつらうのか。どんな時でも、人がもし神慮に逆らって、神が大事に思《おぼ》される武士と、進んで戦うときには、すぐと大変な禍いがまわって来て、彼を破滅させるのが常だ。それゆえ、ダナオイ方の誰かが、もしも、私がヘクトルをはばかって、引き退るのを見たところで、けしからんとはいうまいだろう、なにぶんあいつは、神力によって戦さをやっているのだからな。それで、もしどこかに、雄叫びも勇ましいアイアスが見つかったら、二人してまた出かけて来て、奮戦につとめるとしよう、たとえ神意に逆らおうにしてもだ、ペレウスの子アキレウスのために、あるいはこの(パトロクロスの)屍を助けることができるかも知れまい。これがまあ災難中では、いちばんましな方策だろう」
こんなことを、胸のうちであれこれと思案するひまに、もうトロイア勢の隊伍が迫ってきた。その先頭に立つのはヘクトルである。それでこちらも(パトロクロスの)屍はそのままやむなく置き去りにして、うしろのほうへ退却をはじめた、たびたびうしろを振り向きながら、さながらみごとなたてがみをもつ獅子のように。それを番犬どもや男たちが、牛小舎から、槍をいくつも待って来て大声をあげ、追い払おうとする。それでさすがに勇猛な獅子の心も、冷え固まって、庭の囲いから、不承不承に立ち去っていった。
そのように、パトロクロス(の屍)を置き去りにして、亜麻色の頭髪《かみ》のメネラオスは、僚友《とも》の群れているところへ立ち戻ると、また方向を転じて、テラモンの子の大アイアスを探した。ほうぼうへ眼を馳せると、すぐさま、その当人が、全戦線の左翼のほうで、僚友たちを戦いへとうながしたて、督励しているのが眼にとまった。それもポイボス・アポロン神が、アカイア方のみなみなに、神力ほどに恐ろしい恐慌を打ちこんだせいだった。そこで走って彼のかたわらへゆき、すぐそばに立ち、話しかけるよう、
「アイアスよ、こっちへ来てくれ、頼むぞ。討ち死にしたパトロクロスを護って、防戦につとめよう。たとえ屍だけでも、アキレウスのもとへ運んでいくように、まあ裸にはなったがな。その物の具は、いま、きらめく兜のヘクトルが押さえているのだ」
こういって、武勇にはげむアイアスの怒気をあおり立てたので、すぐさま先陣の間を駆け抜けてゆくのに、亜麻色の髪のメネラオスもいっしょに行った。一方、ヘクトルはといえば、パトロクロスから、音に聞こえた甲冑《よろいかぶと》を奪い取ると、今度は鋭い青銅の刃で、両肩から首を切り落そうと、引っ張り上げた、屍のほうは引きずっていって、トロイアの犬どもにくれてやろう、というので。そこへアイアスが、塔ほどもある大楯を抱えて間近に迫ったので、ヘクトルはまた引き退き、僚友たちの間へはいって、戦車の台座に飛び乗り、その立派な物の具を、自身にとってのたいした栄誉とさせるために、城のほうへ持っていこうとした。
それでアイアスは、メノイティオスの子(の屍)を幅の広い大楯で蔽いかくしつつ立ちはだかった。そのありさまは、さながら自分の仔どもをかばって立つ獅子のよう。まだほんの小さな仔どもを連れている獅子が、森の中で、狩りをする男たちにぱったり出会えば、獅子は意気ごみもすさまじく、すっかり上瞼《うわまぶた》を、両眼のかくれるほどに引き下げて(睨みつける)。そのように、アイアスが、パトロクロスの殿を護って立ちはだかると、向う側には、軍神アレスの伴侶なるアトレウスの子メネラオスが、ひどい嘆きを胸中にいよいよ深めつつ立ちつくした。
おりからリュキアから来た武士たちの頭領《かしら》であるヒッポロコスの子グラウコスは、ヘクトルを上目づかいに睨まえながら、はげしい言葉でとがめていうよう、
「ヘクトルよ、外見《みえ》はたいそう立派だが、戦さにかけては、きみもずいぶん不得手《ふえて》なのだな。まったくそんな臆病者のくせにして大した誉れを得ているものだ。だが、いまこそよく思案するがいいぞ、どのようにして、この城なり町なりを無事に護れるかを、たった一人で、イリオスの土地で生まれた者どもだけの力によってだ。もうリュキア勢には一人も、この城を護るために、ダナオイ勢と戦おうという者はいまいからな、まったくこれまでせっかく、敵の軍勢と間断なしにわれわれが戦ってきたのにたいしても、まるっきり感謝も何もされないのだから。
どうしてきみが、(サルペドンよりも)もっと劣った武士を、乱戦の中で無事に護ることができよう、ひどい男だ、きみは、永年の懇意でもあり、また戦友でもあるサルペドンをさえ、アルゴス勢が餌食にし、分捕りにしてなぶるように、ほったらかしてきたとは。あの男は、生きてる間は、ずいぶんときみらの町にも、またきみ自身にも、助けになってきたものなのに。それがいまでは、(その屍から)野犬どもさえ追い払ってやるだけの心組みもないなんて。それだから、もしもいま、リュキア勢のうちに、私に向かって、帰国をすすめる武士があるなら、トロイア方には、厳しい破滅が、いまにも襲いかかるだろうよ。
ほんとうに、いまトロイア勢が、大胆で、びくつかないだけの勇気を持っていたら(幸いだが)――つまり、祖国を守って敵兵どもと一所懸命に力戦苦闘しようというつわものが、胸に抱く勇気をだ。そしたらすぐにもパトロクロスを、イリオスの城内へ引きずりこみもできるだろう。それでもしこの男を、まあもう死んでしまった屍にもしろ、両軍の激戦の間から連れ出し、プリアモス王の大きな都へ引き取っておけば、たぶんすぐに、アルゴス勢は、サルペドンの立派な物の具を返してくれるだろうし、あるいは彼の屍自身も、イリオスへ連れ戻せよう。それほど偉いつわものの介添え人を殺したのだからな、船陣にあるアルゴス勢の、近間で戦う介添え人中でも、とりわけ抜群という勇士をだ。だがきみは、気象の大いなアイアスと、向かいあって立ち、敵兵どもの雄叫びの中で、まともに眼を見る勇気もなくて、いっしょに戦うこともあえてしえなかったのだ、向こうがきみより上手だもので」
こういうと、それを上目づかいににらみつけて、きらめく兜のヘクトルがいうよう、
「グラウコスよ、どうして、そう、きみともあろう人間が、そんなに思い上がった、わきまえのないことをいうのか。やれやれ、これまで私は、土塊《つちくれ》の沃《ゆた》かなリュキアに住まう者の中では、きみがいちばん、特別に思慮分別のある人間だと考えていた。ところが、いまいうことは何だ。まったくそれは、聞いて愛想がつきる文句だ。どんなにアイアスが魁偉《かいい》にしろ、私が彼を持ちこたえられまいなんていうとは。これまでだって、けして私は合戦や戦車の響きなどにあっても、身ぶるいした覚えはないのだ。が、どんなときでも、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスの神慮は、いつもそれ以上に強力なもので、そのかたが勇気にみちた武士をも怯《おび》えさせ、敗亡させたり、容易に勝利を奪い去ったりするものだし、そのうえ時にはご自身して(兵たちを)戦さへと励まし立てもされるのだ。
ともかくもさあ、きみ、ここへ来て、私のわきに立ち、手並みのほどを見てくれ。あるいはきみがいうように、私が一日じゅう怯えてばかりいるか、それとも、誰にもせよ、ダナオイ勢中、たいそうきおいこんで、武勇にはげむ者どもを、死んだパトロクロスの防戦から追い退けてやろうとするかを」
こういって、大声を張り上げ、トロイア方に号令した。
「トロイア勢もリュキアの手勢も、近間で戦うダルダノイらも、雄々しく振舞え、味方の者ども、勢いはげしい武勇のほどを忘れるな、私はいま、誉れも高いアキレウスの物の具を着てこようから。それは剛勇のパトロクロスを討ち取って奪ったものだ」
こう呼ばわると、きらめく兜のヘクトルは、はげしい戦闘の場を立ち去って、はしってゆくまもなく(さっきの)仲間の者らに追いついた。この人々はペレウスの子(アキレウス)の世に名も高い甲冑を、城中へ運んでゆくところだった。それもすぐのことで、ヘクトルは矢のように速い足で追っていったので、たいして遠くへはいっていなかった。そして、涙にゆたかな戦場から遠く離れたところで甲冑を脱ぎ更《か》えた。いままで着ていた自分のものは、聖《とうと》いイリオスへ持っていくようにとトロイア兵たちに手渡して、ペレウスの子アキレウスの、神さびた物の具を身に着こんだ。これは、人も知るように、天上の神々が、彼のいとしい父に贈ったものだが、父はまた年寄ってから、それを自分の息子にやったものだった。さりながら、この息子(アキレウス)は、父親の鎧を着て、老年にいたることはできなかったのだ。
さて、ヘクトルのこの振舞いを、はるかな空から、群雲を寄せるゼウス神がごらんになって、神々しいペレウスの子の物の具を身に鎧ったその姿に、頭を揺り動かして、胸のうちにひとりごとされるよう、
「やれやれ、不愉快なことだ、もうすぐ間近に迫った死にも、いっこう気がつかずにいるのか。他の者がみな身ぶるいして恐れるほどの勇士の物の具を着こむなどとは。しかも、その親友で、気だてのやさしい、また剛毅でもある者を、おまえは殺して、筋道も立てずに、その物の具を、頭や肩から奪ったのだ。だが、ともかくいまのところは、大きな力をおまえに与えておいてやろう。その償いには、もう戦場から家に帰ることもできず、(おまえの妻の)アンドロマケが、ペレウスの子の音に聞こえた物の具を、おまえの手から受け取ることもかなわんだろう」
こういって、黒々としたおん眉に、クロノスの御子ゼウスは首を振られた。だが、その甲冑は、ヘクトルの体にぴったりと合い、恐ろしい軍神アレスが、彼の体に憑《の》り移ったので、手足には勇気と力がみなぎりわたって、音に聞こえた加勢の軍の間へと大声に叫びたてながら歩み寄った。その姿は、みなの眼にも、気象の大いなペレウスの子(アキレウス)の甲冑にかがやき立つと映じたほどだった。それからそれぞれ皆のところへ出かけて、言葉をかけて激励した。その面々は、メストレスとグラウコスと、メドンとテルシロコスと、またアステロパイオス、デイセノル、ヒッポトオスなど、さらにポルキュスやクロミオスや、鳥占《とりうら》をするエンノモスら、この人々を激励して、翼をもった言葉をかけ、
「聞いてくれ、近隣の国々に住む、加勢に来てくれた援軍のかたがた、数知れぬ大勢の部族の人々よ、けして私は、ただ多数であることのみを求め、また乞い願って、みなさんがたの国々からこのところへ、めいめいのかたがたに来てもらったわけではない。つまりはトロイア人《びと》の、妻たちや、幼い子供を、戦争好きなアカイア勢から、心をこめて護ってもらおう、というためなのだ。そう思えばこそ、やれ贈り物を、やれ糧食をと、民衆を責め立てて、みなさんがたのめいめいの元気を奮い起こそうとしたわけだ。
それゆえ、いまこそ、皆、一所懸命に、敵に向かって、命をここに果たすなり、まっとうするなり、きめられたがいい。これが戦さの睦《むつ》ごとなのだ〔反語的に戦争のきびしい掟にたとえた〕。それで誰にもせよ、パトロクロスを、よし命の絶えた屍でもかまわないから、アイアスを閉口さして、馬を馴らすトロイア方(の陣営)へ引きずってきたら、獲物の半分は、その男に分けて与えることにしよう、あと半分は私自身がもらうだろうが。またその手柄に、私と同じ誉れを受けよう」
こういうと、一同みなみな、槍を高く構えて、ダナオイ勢を目がけ、猛烈な勢いで攻めかかった。みな胸のうちで、テラモンの子アイアスのところから、屍を引きずり出して来ようと思い望んでだが、まったく大勢の武士が、この屍のあたりで、命をおとした。ちょうどこの時、アイアスは、雄叫びも勇ましいメネラオスに向かっていうよう、
「おいきみ、ゼウスの擁護にあずかるメネラオス、もはやわれわれ二人は、この戦場から、自分《だけでも》帰れようとは期待できない。まったくパトロクロスの屍について、そんなにひどく心配をするというよりも――まあそれは、まもなく、トロイア人の犬どもや大きな鳥どもの腹を肥やすことになろうが――それより私自身の、またきみの首のために、とんだ目を見はしまいかと、とりわけて心配するのだ。いましもヘクトルが、戦さの雲を、何もかにもへ蔽いかぶせ、われわれにも切迫した破滅が、はっきり眼にも見えてるのだから。ともかくもさあ、ダナオイ勢の大将たちに呼びかけろ」
こういうと、雄叫びも勇ましいメネラオスも、何の異議もさしはさまずに、いわれたとおり、ダナオイ勢によく聞こえるように、声を張り上げて呼ばわるには、
「おうい、仲間の者たち、アルゴス勢の指揮官や宰領の人々、またアトレウスの子の、アガメムノンやメネラオスのところで、振舞い酒にあずかるかたがた、またそれぞれ部隊の兵卒たちに指図をするかたがたのこらず、ゼウス神から下された誉れにあずかり、名誉の役についている人々、ともかく、誰でもいいから、自分からやって来てくれ、いまパトロクロスが、トロイアの犬どもの玩具《おもちゃ》にされようというのだぞ。胸にすえかね、憤激しろよ」
こういうのを、鋭くも、オイレウスの息子の、足の速いアイアスが聞きとめて、斬り合うなかをまっ先に、その面前に駆けて来れば、つづいてイドメネウスや、イドメネウスの介添え殺で、武士を殺すエニュアリオス(軍神)にもたぐえられるメリオネスや、そのほかの大将がた、引きつづいて戦闘に参加したアカイア方の大勢の者がはせ参じた――いったい誰が、その全部の名をいちいち述べることができようか。
そこでまず、トロイア方が、さきがけて攻めこんで来た。その先頭にはヘクトルが立ち――さながら天より降った大河が、海へ入る流れ口に、その水流に逆らって大きな波が吼え声を高くあげると、その両側につづく高い水涯《みぎわ》も、潮の打ちつけるままに、とどろき返す――それほど高らかにトロイア勢が、雄叫びもろとも進んで出れば、アカイア方も、メノイティオスの子(の屍)の周囲に、みんなして心を合わせ、青銅づくりの大楯を組んで垣根を作り、立ち並んだ。その人々の輝かしい兜のまわりへ、クロノスの御子ゼウスは、たくさんな靄《もや》の雲をかけめぐらした。以前からかねがね、メノイティオスの子を、けしてお憎しみではなかったから。それはまだ彼が生存して、アイアコスの裔の介添え役をつとめていたころからの話である。それゆえ、いままた彼が、トロイアの犬どもの玩具になぶられるのを憎んで、仲間の人々を、彼の防禦に起たしめられたのであった。
さて、最初のうちは、トロイア方が、眼の敏捷なアカイア勢を押し返した。それで屍を置いてきぼりにし、引き退りはしたものの、その誰一人も、トロイア方は、意気ごみすさまじく、はやり立ちはしながらも、討っては取れなかった。屍をひきずってゆこうとしたものの、アカイア勢が遠のいてたのは、ほんのしばらくだけで、すぐにアイアスが、皆を引き返させた。まったく彼は、ダナオイ方のどの大将より、姿形でも、業《わざ》働きでも、まさっていたのだ、もちろん、誉れも高いペレウスの子(アキレウス)だけは別だが。
それで、まっしぐらに先陣の間を駆けて向かってくる、その猛々《たけだけ》しさは、さながら荒猪が、山々の間で、犬たちや血気さかんな者どもまで、谷間をめぐって、向きをかえ突進してきて、やすやすと、追い散らすごとくである。そのように、誇りも高いテラモンの子、誉れにかがやくアイアスは、トロイア勢の隊伍へと迫り寄って、容易に彼らを追い散らした、それまでパトロクロスの(屍の)周囲に取りついて、何はともあれ、味方の城へひきずってゆき、手柄をたてようとのみ考えていた者どもだが。
ちょうど、ペラズゴイ人《びと》レトスの、誉れに輝く息子ヒッポトオスが、パトロクロスの足を引っ張り、すさまじい合戦の間を、ひいていこうとしていたところだった、かかとのわきの、腱のところを楯の提げ緒でしばりつけて、ヘクトルやトロイアの人たちのため、ひと働きしてやろうと。だが、たちまち彼自身の上に災難が振りかかったのに、誰一人として、助けてはやりたかったろうが、それを防いでやれなかった。
すなわち、テラモンの子が、乱戦の間を突進して来て、すぐと彼の身近に寄って、青銅の頬当てをつけた兜を(槍で)突きとおせば、馬の尾房を飾った兜が、槍の穂先のまわりに割れてはじけた。大きな槍の、しかも厚くて大きな手に、撃たれて裂ければ、脳味噌が、血みどろのまま、傷口から、槍の螻首《けらくび》を伝わって、噴き出してきたので、そのままそこに力も萎《な》えくずおれて、手に持っていた、気象もひろいパトロクロスの足を投げ出して、地面へ横にねかしておくと、自分もそのまま、屍のすぐわきに、うつむけざまに倒れ伏した。(故郷である)土塊《つちくれ》の沃《ゆた》なラリッサから遠いところで、愛する両親へも、養育の恩をかえすこともなく、意気もさかんなアイアスの槍先にかかって討たれ、その一生を、ほんの短いものにしたのであった。
それで今度はヘクトルが、アイアスを目がけてきらめく槍を投げつけると、こちらでもそれをまともに見てとって、青銅の穂先を、ちょっとのところで避けおおせた。だが、スケディオスという、気象の大いなイピトスの息子で、ポキス勢中第一の勇士で、名高いパノペウスに居城を設け、多くの家臣の君として統治していた、その大将の肩の鎖骨のまんなかにあたったもので、青銅づくりの鋭い穂先が、肩の下はずれへ、ずっぷりと突き刺さってとおったのに、地響きをうって倒れると、物の具が、体の上でからから鳴った。
そこで今度はアイアスが、ハイノプスの息子で、勇猛果敢なポルキュスを、ちょうどヒッポトオスの(屍の)まわりを歩いて護るところの、腹のまんなかへ槍をあてれば、胸甲《むなよろい》の合うくぼみの板を切り裂いて、青銅の穂先が臓物を吹っこぼれさすと、砂塵の中に打ち倒れ、掌に土をつかんだ。このありさまにトロイア勢の先陣も、誉れ輝くヘクトルまでも引き退ると、アルゴス勢は高らかに雄叫びをあげて、屍となったポルキュスやヒッポトオスを引きずってゆき、両肩から物の具を取りはずした。
このおりにあるいはトロイア方は、もう一度アレスの伴侶であるアカイア勢に、臆病風から打ち負かされて、イリオスへと逃げのぼったかも知れなかった。そしてアルゴス勢が、ゼウス神のお定めになった天命を超え、自分たちだけの武力と強さとによって、勝利の栄冠を得たでもあろう。だが(これにたいして)アポロン神が、自分で行かれて、アイネイアスを奮起させなさったものだ、エピュトスの子の、伝令使ペリパスの姿を仮《か》りて。この者は、父である老人のかたわらで伝令を勤め、はや長い月日のあいだ、まめまめしく仕えてきたものだが、その姿に似せて、ゼウスの御子アポロンがいわれるよう、
「アイネイアスよ、どうしてまあ、あなたがたでも、神意にそむく場合には、そびえ立つイリオスとて防ぎ護っていけましょう。まったく私も、他国の人々が、自分たちの力や強さ、あるいは武勇とか人数の多さを恃《たの》んでいるのを見てきました、ごくわずかな国民しか持たない場合にさえもです。ところで私どもには、いまゼウス神が、ダナオイ勢にたいして、いっそう勝利を与えてくださろうというおつもりなのです。それなのに、自分のほうから、むやみやたらとこわがって、戦おうともしないのですね」
こういわれると、アイネイアスは、遠矢を射たもうアポロン神を、まともに見つめて、それと覚り、大声をあげ、ヘクトルに呼びかけるよう、
「ヘクトル、それから他のトロイア方や、加勢の部隊の大将たちよ、まったくこれは恥ずべきことだぞ、もしわれわれが、アレスの伴侶であるアカイア勢に、臆病風から打ち負かされて、イリオスへ逃げ上ったなら。だっていまもな、どなたか神さまがたのお一人が、私のすぐわきに来ておっしゃったのだ。いと高く、よろずのことをおはかりのゼウス神は、わが軍の助太刀をしてくださるのだとな。それゆえ、さあ、ダナオイ勢を目がけて、進もう、それであいつらに、安心して討ち死をしたパトロクロスを船陣まで連れていかせてはならんぞ」
こういうなり、先手の勢のずっと前まで跳り出て立ちはだかれば、他の人々もまた引き返し、アカイア勢と相対峙して立った。このおりにまたもアイネイアスは、レイオクリトスを槍で突いた。これはアリスバスの息子で、リュコメデスの勇敢な部下だった。その倒れたのを、アレスの伴侶であるリュコメデスは憐れに思って、すぐそのわきへいって立ち、きらめく槍をほうりつけて、兵士たちの統率者の、ヒッパソスの子、アピサオンのみぞおちの下の、肝臓に打ちあてるなり、たちまち膝をくずおれさせた。この男は、土塊の沃《ゆた》かなパイオニアから来ていた者で、アステロパイオスのつぎに、戦さにおいて手柄を立てた強者《つわもの》だった。
その倒れたのを見て、アレスの伴侶であるアステロパイオスは憐れと思い、ダナオイ勢に槍をつけようと、きおいこんで突進したが、それももはや到底かなわないことだった。というのも、敵方が八方に大楯を連ね、パトロクロスの周囲に立ちふさがって、前へ槍を突き出したのは、アイアスが、皆のところへ出かけていって、いろいろとしきりに激励したからだった。
「誰一人、後方へ、屍を置きざりにして退ってはならん、またアカイア方の何人《なんぴと》も、他人に先駆けをして戦うのはやめ、何よりもまず、屍の周囲をめぐり歩いて防戦し、力をあわせて闘え」
と、こう魁偉なアイアスが指図したので、大地は真紅な血潮でもって濡れ浸しとなり、兵士たちは、相つづいて一つところで、トロイア方も、勢い傲《おご》る加勢の軍も、またダナオイ方も、重なりあって屍の山をなした。≪すなわちダナオイ勢とて、血を流さずには戦っていけなかったが、死人の数はずっと少ないものだった。というのも、しじゅう、たがいに、乱戦の間にあっても、けわしい破滅を防ぎあうよう心がけていたからである≫
このように両軍とも、火焔のごとくに闘いつづけていたが、このおりにはそもそも太陽も月も、けして無事に輝いていたとはいえなかったろう。すなわち靄《もや》が、戦場のうちで、大将たちが、命の絶えたメノイティオスの息子(パトロクロス)をとり巻き、立っていたあたりだけを蔽い尽くしていた。
それで、他のトロイア方や、脛当てをよろしく着けたアカイア勢は、晴天の下で、平気でもって戦さをつづけ、太陽の光はまぶしくあたりを照らして、野も山も、どこにも雲の影とて見えなかったので、みな時々は中休みをして、うめきをともなう飛び道具を、相たがいに避けようものと、ずっと離れて戦っていた。それなのに、まんなかへんにいた者だけは、靄気《もやけ》と斬り合いとに苦悩を味わい、情け容赦もない青銅(の刃)のために、勇士といわれるほどの者らはさいなまれていた。それで二人の武士、誉れも高いつわものと知られた、トラシュメデスとアンティロコスとは、人品すぐれたパトロクロスの討ち死を、まったく知らないでいた、それでまだ生存して、先陣の混雑中でトロイア勢と戦っているとのみ考えていた。
つまりこの二人は、僚友《とも》たちが討ち死したり潰走したりするのを目撃しながらも、それと離れてなおも闘いつづけていた。それも(二人の父親である)ネストルが、黒塗りの船のかたわらから、彼らを励まし戦さへと送ったときに、そういいつけておいたからであった。
さて、これらの人々は、パトロクロスの屍のためのおぞましい争いから、はげしい戦闘を一日じゅうつづけた。疲労のため、また流れる汗に、絶え間もなく苦しめられて、両膝も、ふくらはぎも、下のほう、足の先まで、誰も彼も、腕といい、眼といい、足の速いアイアコスの裔《すえ》(アキレウス)の勇敢な介添え役(パトロクロスの屍)をめぐって、闘いつづけた連中は、まみれつくした。ちょうど人が、大きな牡牛の牛皮を家の者たちに渡してやって、たっぷり油へひたしておいて引きのばさせるときのように。徒弟たちは、渡された皮を手に持って、円く輪をつくり離れて立って引っ張りのばすと、見る間にしめり気がなくなって、大勢して引っ張りあうほど、油が中へ浸《し》みこんでゆき、どこもかしこも、すっかりのびる。
そのように、みなみな屍にとりついて、ここかしこと、わずかな場所で、両軍とも負けじと引っ張りつづけたのだ。めいめい自分の胸のうちでは、トロイア勢はイリオスへひいていこうと、またアカイア勢は、うつろに刳《く》った船へとひいていこうと思っていた。それをめぐって湧き起こされた戦闘の激越さは、兵士たちを駆り立てる軍神アレスやアテネ女神が、これをみたときでも、けして馬鹿にはされまいというほどだった、たとえ御神がたいそう怒っておいでたにしろ。
それほどに、禍いな悪戦苦闘を、この日にゼウス神は、武士たちへ、また馬どもへも、パトロクロス(の屍)のうえ一帯にくりひろげられた。だが、むろんのこと、雄々しいアキレウスは、パトロクロスが討ち死を遂げたことは知らないでいた。いうのは、戦闘が、速い船々のところからずっと離れた、トロイア人《びと》の城壁の下でおこなわれていたからで、それでもう最期を遂げていようなどとは、ぜんぜん予期もせず、まだ生存していて、城門まで押し寄せたうえで、すぐとくびすをかえして戻って来ようと思っていた。パトロクロスが単独で、この城塞をおとしいれようとしようなどとは、ぜんぜん思ってもいなかったので。自分といっしょでさえも、できないはずのことなのだから。〔アキレウスは陥落前に討ち死にするという予言によって〕
それというのも、そのことは、もうたびたび母なる女神テティスから、こっそり聞いて知っていたからで、女神はゼウス大神のおんはかりごとを、普段からよく伝え知らせてくれていたのだ。しかしまったく、この際には、いま現実に起こったほどにひどい禍い(がふりかかろう)とは、母神もいっておかなかった、誰よりいちばん大切な親友が死んでしまったというほどに。
さて両軍は、(パトロクロスの)屍をとり囲んで、研ぎすました槍を持って、情け容赦もなく相たがいにぶつかり合い、それぞれ敵を屠《ほふ》りつづけた。それでこのように、青銅の帷子《よろい》をつけたアカイア勢は、みないいかわした、
「なあ、僚友《なかま》よ、いかにも実際にわれわれが、名誉を保持して、うつろに刳《く》った船のところへ帰ってはいけないらしい。それならここで、このままに、黒い大地が口を開いて、われわれをみな嚥《の》みこんでくれるといいが。そうなるのが、われわれにはずっと得なことだろうさ、もしこの殿(の屍)を、馬を馴らすトロイア人どもに渡して、あいつらの城市へとひいて行かせ、立派な手柄をたてさせるくらいならば」
一方、勢い傲《おご》ったトロイア方でも、このようにみな叫びかわした、
「おい僚友《なかま》よ、たとえわれわれが、この武士《さむらい》のわきで、みな一様に討ち死をする運命にあろうと、かならず一人たりとも、戦さから引き退いてはならんぞ」
こう相たがいにいいかわして、めいめいに勇気を励まし立てた。このように両軍して戦いあうにつけ、鋼鉄のような張りつめた轟音が、青銅《はがね》をなす天界まで、荒漠とした高空《たかぞら》をつらぬいて渡っていった。さてアイアコスの裔(アキレウス)の戦車をひいていた馬どもは、戦場から離れたところにあって啼きつづけていた。まったく、あの手綱取りが、武士を殺すヘクトルに討たれて、砂塵の中に倒れたのを知ってから、ずっとであった。
ディオレスの勇敢な息子、アウトメドンも、ずいぶんと早く鞭をふるって、打ちつづけもした。またいろいろやさしい慰めの言葉をかけたり、さまざまにおどしてみたりもしたけれども、二頭の馬は依然として、広やかなヘレスポントスの海辺にある船陣へ、ふたたび帰ってゆくことも、アカイア軍が戦っているところへ行くのもいやがって承知せず、まるで墓標のように、じっと動かず突っ立ったままでいた。死んでしまった男なり、女人なりの墓土の上に、しるしとして立てられている柱のように。そのように身動きもせず、並みはずれて美しい戦車をひいて、地面へ頭を垂れてたたずみ、瞼《まぶた》からは熱い涙が、いまはもう亡い手綱取りを恋い慕って、低くいななく間にも、土へとこぼれしたたるのに、ふさふさとしたたてがみさえ軛《くびき》の両側にそい、軛につけた箍《たが》の輪から外へとなびき垂れ下がって、土にまみれた。
かように二頭の馬が、あわれげに鳴くのをごらんになって、クロノスの御子(ゼウス)は、燐れをもよおされ、頭を揺すって、心中にひとり言をいわれるよう、
「やれやれ、不憫《ふびん》な馬どもだ、なぜ私らは、おまえたちを、やがて死ぬ命である人間のペレウス殿にやったのか、おまえらは不老不死という者なのに。まったく、定業《さだめ》つたない人間どもにかかわって、苦悩を共に受けさせようとしてなのか。実際にこの地の上に呼吸をし、うごめいている、ありとあらゆる生類《しょうるい》中にも、人間ほど憐れにみじめなものはないのだ。だがともかくも、おまえたちに、技巧《たくみ》をこらした戦車をひかせて、プリアモスの子ヘクトルが乗ってゆくことは、けしてあるまい、それは私が許すまいから。もう(アキレウスの)物の具を持ち、役にも立たない自慢をする、それだけで十分ではないか。それでおまえら二頭には、膝へも、また胸のうちへも、しっかりとした気力を打ちこんでやろう、アウトメドンを、戦場からうつろに刳《く》った船のところまで、無事に連れて帰ってゆけるように。まだもうしばらくトロイア軍に、誉れを与えて殺戮をつづけさせようからな、彼らが板組みの設備《しつらえ》もよい船々のところへ赴《ゆ》くまで、また日が沈んで、聖《とうと》い闇が襲って来るまでは」
こういわれて、二頭の馬に、たくましい力を吹きこまれると、馬どもはたてがみから砂塵を地面へ払いおとして、颯爽《さっそう》として速い戦車を、トロイア勢とアカイア勢との間へと運んでいった。それに乗ってアウトメドンは、僚友《なかま》(パトロクロス)のために胸を痛めながらも戦いつづけ、馬をはしらせて進む様子は、さながら雁の群れを追う禿鷹のよう、トロイア勢のひしめき合う中から、やすやすと遁れ出て来るかと思うと、またやすやすとおびただしい軍勢の中へ追跡して突っこみもした。
だが追撃してはしらせる場合にも、一人も敵を討つことができなかった。というのも、聖い戦車にたったひとりで乗っていたので、槍を取って攻めかかるのと、足の速い駿馬を引きとめるのとを、一人でもってやるのはとうていできないことだったから。それでもやっと、しばらくしてから僚友《なかま》の一人のアルキメドンとて、ハイモンの裔《すえ》でラエルケスの息子にあたる武士が、この様子を眼に認めて、戦車のうしろにいって立ち、アウトメドンにいうようには、
「アウトメドン、いったいどの神さまが、おまえの胸のうちに得にもならない企みを思いつかせて、確かな分別を奪い去ったのか、たった一人でトロイア勢に対抗して、先陣の間で戦うなんて。だがもうおまえの組の僚友《なかま》は殺されてしまった。その物の具は、ヘクトルが自分で両肩につけて得意になっているのだ、アイアコスの裔のものなのに」
それに向かって、今度はまたディオレスの息子アウトメドンがいうよう、
「アルキメドンよ、だがそもそもアカイア勢の中で、他に誰が、この不死である馬どもを、よく制御しまた乗りこなしていけようか、あの、はかりごとでは神々にもひとしかったパトロクロスが、生きてたころと同じようには。ところがいまでは、死と定業《さだめ》とが襲ったものだ。それではきみが、この鞭と、つやつやしい皮の手綱を受け持ってくれ、そしたら私は馬車から降りて、戦さをするから」
こういうと、アルキメドンは、戦さの叫びにすばやく(赴く)戦車に飛び乗り、すぐさま皮の鞭と手綱を両手に取れば、アウトメドンは車から飛んで降りた。その様子を、誉れかがやくヘクトルが見て取るなり、すぐと近所にいあわせたアイネイアスに声をかけて、
「アイネイアス、青銅の帷子《よろい》をつけたトロイア軍の参謀役よ、そら、あすこに、足の速いアイアコスの裔(アキレウス)の二頭の馬がいるぞ、合戦の間に現われ出たが、手綱取りはろくでもないやつらだ、馬を捕まえることも望めるだろう、もしきみが本気でそう思うならな。われわれが二人して突進していったなら、あいつらはとうてい十分武勇をもって対抗して立ち、戦うことはできまいから」
こういうと、アンキセスの雄々しい息子(アイネイアス)は、いわれたとおりに承知して、二人でもってまっしぐらに、よく乾し固めた牛皮の楯を肩にひっかついで進んでいった、青銅がたくさん嵌《は》めこんである楯だった。二人につき従って、クロミオスと、神とも見える姿のアレトスとの二人もいっしょにゆき、それぞれ胸には、敵の二人を討ち取って、高く頸を持ちあげている馬どもをはしらせてくるつもりだったが、たわけ者どもだ、血を流さずに、アウトメドンの手を免れて、また帰って来られるはずにはなっていなかったのだ。さてアウトメドンが、ゼウス父神に祈りをこめると、武勇と力が、黒々とした心肝の上下にくまなくみなぎりわたって、すぐさま信頼する僚友のアルキメドンに向かっていうよう、
「アルキメドンよ、けして馬を、私から離れたところにひかえておかずに、すぐ背中に、二頭の馬の鼻息がかかるくらい、そばに置いといてくれ。私としては、けしてプリアモスの子ヘクトルが、勢いをゆるめることはないと思うから。われわれ二人を殺してしまって、アキレウスのたてがみもみごとな馬どもを自分で御し、アルゴス勢の武士たちの隊伍をいくつも潰走させるか、さもなくば彼自身が、先陣の間でもって討たれるか、しない間は」
こういって、両アイアスと、メネラオスとに呼びかけた、
「アルゴス勢の指揮を執る両アイアスとメネラオスよ、どうかその屍は、(他の)勇士の面々に任せて、屍のまわりに立ちふさがって、敵の武士の隊列(が寄るの)を防がせておき、まだ生きている私ら二人を容赦もない(最期の)時から護ってくれ。こっちのほうへ、涙にゆたかな戦さの間に、ヘクトルやアイネイアスなど、トロイア方の勇士といわれる面々が殺到してきたから。ともかくも、こうしたこともみな神々のお膝もとに置かれているのだ。それゆえ私も槍をほうってやろう、あとの万事は、ゼウスが、どうなりと決めてくださることだろうよ」
こういうなり、よくふりまわして、長い影をひく槍をほうりつけ、アレトスの、八方によく釣合いのとれた楯へ打ちあてると、楯は槍をささえ切れないで、青銅の穂先がずっぷりと中へはいってゆき、下腹へ、腹巻を刺しとおして突っこんだのは、さながら元気のいい若者が、鋭い斧を手に持って、野原に棲《す》む牛の、ふたつの角のうしろ方の頸筋へ撃ちつけ、頸の腱をそっくり切ると、牛は前へ跳び出すなり、どうと倒れる。それとそっくり同じように、アレトスは、前へ駆け出してあおむけに打ち倒れると、なお腸《はらわた》に刺さったまま、鋭くふるえている槍が、手足をくずおれさせた。
一方、ヘクトルは、アウトメドンを目がけて、きらめく槍をほうりつけたが、こちらもそれをまともに見てとって、青銅の槍をたくみに避けた。すぐと前へ身をかがめたので、長柄の槍はうしろのほうへ飛んでいって、地面へすっぱり突き刺さったが、まだ突っ立った槍の石突きは、上のほうでぴくぴく震えていた。それからやっと、その勢いを、剛勇のアレス神が抜いてやった。
それで、ほんとうにこの両人は、剣を抜いて、たがいに身近へ迫り寄り、闘いもしたことだろう、もし両アイアスが、きおいこんだこの二人をへだてなかったならば。すなわち彼らは、ちょうど僚友《なかま》(アウトメドン)のさっきの叫びを聞きつけて混戦の中をかき分けて来たわけだが、その勢いに恐れをなして、ヘクトルやアイネイアスや、神とも見違えられようクロミオスまで、アレトスをそのままそこへ、命を断ち切られたなりに、ほうっておいて、仲間の群れへと引きさがった。そこでアウトメドンは、すばしこいアレスのように、その屍から物の具をはぎ取り、勝ち誇っていい放つには、
「まったくこれで、メノイティオスの子(パトロクロス)が討たれた悲しみを、少しは胸から遣《や》ることができた、いま殺してやったのは、(彼に比べると)だいぶ劣った武士だけれども」
こういって、戦車の中へ、血まみれの分捕り品を取り上げて置き、自分も車台に乗りこんだ、両足も、上のほうの両手も、血にまみれたままで、さながら牡牛を啖《くら》いつくした獅子みたいに。
さてまたふたたび、パトロクロスの(屍の)上には、すさまじい競り合いが、くりひろげられた。無残な、涙にみちた、その闘いは、アテネ女神が起こされたものだった≪天から降って来て、つまりはるかに雷鳴をとどろかすゼウス神が、ダナオイ勢を励まそうというので、お遣わしになったものだが、ここで自分の考えを、変えられたわけである≫。さながら紫紅の虹の橋を、命死ぬべき人間どもへ、ゼウス神が、天涯から架け渡されたよう、それは戦争の、あるいは暖気を奪い去る寒い嵐の兆《きざし》として。この寒い風こそ、地上にいたって、人間どもの耕作の手を止めさせ、家畜の群れを悩ますものだが、そのさまにも似て、女神は、ご自身を真紅の雲にすっかり包ませ、アカイア方の軍勢の間にはいりこんで、誰も彼もを激励していった。
まず手始めには、アトレウスの子の、武勇すぐれたメネラオスを励ましながら言葉をかけた。すぐかたわらにいたからだが、そして自分の姿や、よく透る声をポイニクスに似せていうには、
「メネラオスよ、まったくあなたに皆の譏《そし》りや陰口などが浴びせられようぜ、もしも誇りも高いアキレウスの忠実な僚友を、トロイア方の城壁の下で、脚の速い犬どもが引き裂くようなことになったら、それゆえ、しっかり頑張って、また兵士たちをみな励まし立てろ」
それに向かって今度は、雄叫びも勇ましいメネラオスがいうようには、
「ポイニクス小父《おじ》さん、ずっとむかしに生まれた年寄りの爺さまよ、もしアテネさまが私に力を授けて、飛び道具の勢いを防いでくださりさえしたらなあ。そしたら私も、パトロクロスのかたわらに踏みとどまって、防ぎ戦おうに。まったく彼の討ち死は、ひどい苦痛を私の胸に与えたものだ。だがヘクトルは、火のような恐ろしい威勢を持ってて、青銅(の刃)で相変らず殺戮をつづけているのは、ゼウスが彼に誉れを授けられるためだな」
こういうと、きらめく眼の女神アテネは、うれしく思った。というのは、あらゆる神々のうちでも、いちばん先に、自分に向かってメネラオスが祈願をこめたからだったが、そこで彼の両肩や両方の足に、たくましい力を打ちこんでやり、胸の中には|刺虻の《さしあぶような》大胆さをすえ置いてやられた。この虻というのは、いくたび追っ払われても、まだ人間の皮肉を咬《か》もうと、うるさく追ってくる、人間の血が、虻にはとてもおいしいものなのだ。その虻みたいな大胆さが、メネラオスの心肝の上下を、黒々と満ちわたせば、パトロクロスのかたわらへいって(かばって立ち)きらめく槍をほうりつけた。
ここにトロイア勢の中にエエティオンの息子で、ポデスという者があった。家もゆたかで武勇にすぐれ、市民の中では大切にされていた、ヘクトルからもとりわけて、饗宴《うたげ》の際の親しい仲間だったもので。その男の腹巻へんへと、亜麻色の頭髪のメネラオスは、いましも彼が逃げようと飛び立つところへ、槍を投げつけ、ずっぷりと青銅の穂先を打ちこんだので、地響きうって打ち倒れた。その屍を、アトレウスの子メネラオスは、トロイア勢の足もとから、仲間の軍勢のいるほうへと引っ張っていった。
おりからヘクトルの身近くに立ち添って、アポロン神は彼を励まし立てた。アシオスの子のパイノプスそっくりそのままの姿を装って。この男は、国外で懇意な家の者のうち、いちばん彼と仲良しで、アビュドスに住居をもっていた。その姿を仮り、遠矢を射るアポロンがいわれるようには、
「ヘクトルよ、誰がもうこのうえは、アカイア勢の中に、きみをこわがる者がいようか、ほんとにきみがメネラオスに怖気《おじけ》をふるったものならね。あの男は、もう昔から柔弱武士と評判が高いのだぞ。それが現在、ひとりでもって、トロイア方の足もとから、屍をかついで持っていったのだ、それもきみの忠実な僚友、先陣の間では勇士といわれた、エエティオンの子ポデスを殺してのことなのだぞ」
こういわれると、まっ黒な悲嘆の雲にヘクトルはおし包まれ、先陣の間を、きらめく青銅の物の具を鎧った姿で進んでいった。そのおりしもクロノスの御子ゼウスは、たくさんな総《ふさ》が下がってきらめきわたる山羊皮楯《アイギス》をもって、イダの峰を群雲《むらぐも》にすっかり覆いかくしてから、いなずまを放ち、とても大きないかずちをとどろかせつづけたのは、山羊皮楯《アイギス》をふるってアカイア勢をおびやかし、トロイア方に勝利を与えようとの意《こころ》にちがいない。
まず最初に恐れをなして、潰走の先駆けとなったのは、ボイオティアの人ペネレオスで、どんどんと先へ向かっていったその肩先を槍で突かれたせいであった。ごく表面をかすっただけだったが、ともかく骨まで掻っ裂いたその槍先は、プリュダマスが、すぐそばまで来て投げつけたものだった。一方、ヘクトルも、レイトスのすぐ間近へ寄り、こぶしのつけ根を突き刺して、この気象のひろいアレクトリュオンの息子を、合戦から引き退かせた。つまりもはや槍を手に取って、トロイア勢と戦うこともできなくなったと心中に思ったもので、四方を見まわし、こわごわさがっていった。
おりからちょうどイドメネウスは、ヘクトルがレイトスのうしろから追っていくのへ槍をつけ、胸甲《むなよろい》の胸のへん、乳首の脇に打ちあてたが、長柄の槍が螻首《けらくび》から折れて裂けたので、トロイア方の兵士たちはいっせいに叫びをあげた。それでこちら(のヘクトル)も、デウカリオンの子イドメネウスが、戦車の上に立っているのへ槍を投げつけると、狙いは少し彼をはずれて、メリオネスの従者で馭者の役をも勤めるコイラノスにぶつかった。この男は、景勝の地を占めるリュクトスから、主君について来ていた者だった。(すなわちイドメネウスは)最初のうちは、両端の反りかえった船を離れて徒歩《かち》立ちで(戦車に乗らずに)戦さに出て来た。それでこの際おそらくトロイア方に、たいした気勢を挙げさせたろう、もしコイラノスが、このおりにすばやく、脚の速い馬どもを駆らなかったならば。
つまり彼はイドメネウスにとっては、救いの光として現われ、(彼を戦車に助け上げて)情け容赦もない(最期の)日を防いでやったが、彼自身は、武夫《もののふ》を殺すヘクトルのために、命をおとすことになった。その槍が、顎と耳の下のところにあたったので、槍の尖端が歯の並びを外へ突き落とし、舌のまんなかを断ち切ったので、車台から倒れて落ちると、手綱も地面へほうり出された。その手綱をメリオネスが身をかがめて、地面から自分の手に拾いあげてから、イドメネウスに向かっていうよう、
「さあ鞭を打ちつづけて、速い船のところまでおやりなさい、あなた自身でも、もうはやアカイア方には勝ち味がないのをご存じでしょう」
こういわれると、イドメネウスは、たてがみもみごとな馬に鞭をあてて、うつろに刳《く》った船へと向かった。まったく胸を恐怖心に襲われたので。
また意気のさかんなアイアスやメネラオスとても、ゼウス神が今度はトロイア方に、様子を変えて、勝利を与えるおつもりなのを見てとったので、まず先に、テラモンの子の大アイアスがいい出すようには、
「やれやれ、何たることだ、もはやどんなに愚かな人間でも覚るだろうな、トロイア方を、ゼウス父神が、ご自身でもって、護ってやっておいでだと。敵方の槍は、上手な者でも下手な者でも、誰にしろ投げればみんなあたるのだ。つまりゼウスが、どんなのにしろ、皆まっすぐにしてくださるからだが。それに反してわれわれの投げる槍ときたら、誰のもみな、骨折り甲斐もなく、あたらずにそのまま地面に落ちてしまう。
それだから、さあ、われわれ自身で、最上の策を考えることにしようではないか。たとえば、どういうふうにしてこの(パトロクロスの)屍を引っ張っていくか、あるいはわれわれ自身が無事に帰って、親しい僚友《なかま》たちを喜ばせることができようか、などをな。彼らもたぶんは、こちらをながめて、もうすっかりふさぎこんで、もうこのうえは武夫《もののふ》を殺すヘクトルの、武勇も無敵の腕もささえようがなく、黒塗りの船々へと襲いかかってこようか、と心配しているのだ。それで誰でもよいから、僚友の一人が、さっそくにもペレウスの子(アキレウス)に知らせて来てくれないか。どうやら彼はこのいたましい出来事の報せを受けていないらしいから、親友が討たれて死んだ、ということをな。
だが、どこにも、アカイア方に、誰一人、適当な男を見つけることができないのだ、すっかり靄気《もやけ》に、人間も馬どももいっしょくたに包みかくされているものでな。どうかゼウス父神よ、あなたが、この靄のもとからアカイア勢の息子たちを救い出し、空をはらしてくださいまし、この眼ではっきり見られますよう。どうか光の中で死なせてください」
こういうと、父神も、アイアスが涙を流して祈るのを憐れとお思いなさって、たちまちに雲霧を消散させ、靄気《もやけ》を払っておやりなさると、太陽は輝き出て、戦いのさまがのこらず見え渡った。そのときアイアスは、雄叫びも勇ましいメネラオスに向かっていうには、
「さあメネラオス、ゼウスの擁護にあずかるきみが、よく見渡してくれ、まだあの気象のひろいネストルの息子のアンティロコスが、死なずに生存してると認められるか。もし見つかったら、勇猛果敢なアキレウスのところへ、さっそくにも出かけていって、報告するようにいってくれ、彼の大の親友が討ち死したと」
こういうと雄叫びも勇ましいメネラオスはすぐいわれるままに出かけていった。その様子はさながら牡獅子が、中庭の囲いから出ていくよう、もう番犬どもや、見張りの男たちを騒ぎ立たせるのにも疲れてしまって。その人たちは、夜っぴて不寝番《ねずのばん》をして、牛の中でも肥えて太ったのを、獅子にとらせまいと努めるのに、こちらでは肉の味を慕って、突進してゆくけれども、どうにもいっこうに成功しない、真向こうから投げ槍だの、燃えている松明《たいまつ》だのが、引きも切らずに、大胆な腕にほうられ飛んでくるので。それに恐れをなして、気ははやり立ってはいるが、とうとう獅子も明け方かけて、心をひどく苦しめながら引き返して去ってしまう。
それと同様に、パトロクロスを置いたままで、雄叫びも勇ましいメネラオスは、まったく心ならずも出かけていった。というのも、みじめな敗北を前にして、アカイア勢が、自分を敵の餌食としたまま置いていきはしまいかと、非常に危惧《きぐ》したからだった。それでしきりにメリオネスや、両アイアスに頼んでいうようには、
「アルゴス勢の指揮を執るきみたち、両アイアスに、メリオネスよ、いまこそみんな、このいたましいパトロクロスの、やさしさ親切さを思い出してくれ、誰彼の差別なしに、生きてた時分、おだやかにやさしくしてくれた。それがいまはうって変わって、死の運命《さだめ》に取りつかれたのだ」
こういっておいて、亜麻色の髪のメネラオスは立ち去ってから、四方八方に眼をくばった。その姿は、さながら鷲《わし》のようである、大空のもとを翔《かけ》る鳥類の中でも、とりわけて鋭い眼をもつといわれ、高いところを飛んでいながら、こんもりと繁った木立のかげに臥ている脚の速い兎さえ見逃さないで、その上へ舞い降りると、すぐ引っとらえて命を奪ってしまう。
そのように、ゼウスの擁護にあずかるメネラオスよ、きみは輝かしい眼で、四方八方によく眼をくばって、数多い味方の軍勢の間に、もしやまだネストルの息子(アンティロコス)が、死なずにいるのが見つかろうか、とながめわたした。
そしてすぐさま彼を、全体の戦さの場《にわ》の左のほうに発見した。僚友たちを激励して、戦いへとうながし立てているところだった。そのすぐと間近へ進み寄って、亜麻色の髪のメネラオスがいいかけるようには、
「アンティロコスよ、さあこっちへこい、ゼウスの擁護のもとにあるきみとして、何ともまあくやしい出来事なのだが、このいたましい報せを聞いてくれよ。もっともきみはもう自分でそれをながめているから、とっくにさとっていることとは思うのだが、御神(ゼウス)は、ダナオイ勢に禍いをころがしつけて、トロイア方に勝利をお授けなさるのだ。それにアカイア方随一の勇士が討ち死したぞ、パトロクロスがな。たいした嘆きがダナオイ勢にふりかかったものだ。それゆえきみは、さっそくにもアカイア勢の船陣へと駆けつけて、アキレウスに知らせてくれ、一刻も早く屍を無事に、船のところへ持っていくようにとな、裸身《はだかみ》なのだから。その物の具は、きらめく兜のヘクトルが持っているのだ」
こういうと、アンティロコスは、その話を聞くなり胸もすっかりふさがって、長いことものもいえずに黙りこんだままだった。両方の眼は涙でいっぱいになり、いつもの豊かな声量も、つまってしまった。だが、それでもやはり、メネラオスの言いつけはなおざりにしないで、馳《はせ》っていったが、自分の物の具は、人柄すぐれた扈従《こしょう》のラオドコスに渡していった。この人はいつも主人の身近に、単《ひと》つ蹄《ひづめ》の馬ども(と戦車)を、引きまわす役目の者だった。
さて、しきりに涙を流しながらも、アンティロコスは、戦場から歩みを運んで、ペレウスの子のアキレウスへ、わるい報せをもっていったが、それでもきみは、メネラオスよ、ゼウスの擁護にあずかりながら、やっつけられて苦しんでいる僚友たちを防護するのには、いっこうに気がすすまなかった。つまりそこからアンティロコスがいってしまったので、ピュロスの手勢は、大変困って助けを求めていたのにだ。
それでメネラオスは、勇ましいトラシュメデスをピュロス勢のところへ加勢に送っておいて、自分はまたパトロクロスの殿の(屍の)ところへ戻って来て、両アイアスのそばへ駆けつけ、身近に立って、すぐにこういった、
「さあ、あの男(アンティロコス)は、ちゃんと、速い船々のところへ送り出して来たぞ、足の速いアキレウスを訪ねてゆくようにな。だが今すぐ彼が出てこようとは、どうも思えない、たとえどんなにひどく、雄々しいヘクトルにたいして恨みや怒りを燃やしていようと。それというのも、甲冑なしでは、どうにもトロイア勢と戦うことはできまいからな。そこでわれわれとしては、われわれだけで、最上の策を探すとしようよ、どうやったらこの屍を、無事に引っ張っていけるか、それと、われわれ自身も、どうしたらトロイア勢の攻撃から、死の運命を逃れることができようかを」
それに答えて、今度はテラモンの子の、大アイアスがいうようには、
「きみの話は、みな条理《すじみち》にかなっている、たいそう名高いメネラオスよ。それではこれから、きみがメリオネスといっしょに、さっそくこの屍を担ぎ上げて肩に載せ、合戦の中から運び出してくれ。そしたら後から、われわれが二人でもって、トロイア勢や勇ましいヘクトルと戦いながらついていこう、名前が同じ(アイアスという)ように、心構えも同じに、以前からもはげしい戦闘を、相たがいをあてにして、持ちこたえてきたのだから」
こういうと、先の二人は、屍を腕に抱え、地面から上へ高々と差し上げたので、トロイア方の兵士たちは、うしろのほうで、アカイア方の武士が屍を担いでゆくのをながめて、いっせいに叫びあげた。そして、猟犬のように群れてまっすぐにかかって来た。それは撃たれた猪を目がけて、狩りに出た若者たちに先んじて飛びかかってゆき、しばらくは、引き裂こうときおいこんではしりまわるが、猪のほうも囲まれながら、力をたのんで、猛烈と立ち向かうのに、じりじりとうしろへ退って、今度はてんでんばらばらに恐れて逃げてゆく。
そのように、トロイア勢は、群れをなして、相変わらず、剣だの二叉《ふたまた》の槍だので突き立てながら、しばらくの間は追っかけてきたが、いよいよ両アイアスが向きを変えて、彼らのほうへ向かい、囲まれながらも踏みとどまると、みなみな顔色を変え、誰ひとり、もうそれ以上に突進して、屍を的《まと》に斬りあおうとあえてする者はなかった。
このようにして、一同は(四人がかりで)、力をつくして、戦場から、うつろに刳《く》った船のところまで、屍を運んできた。その間も、戦闘は、両軍間にくりひろげられていった。そのはげしさはまるで、火事のときのようだった。それが人々の住む都に襲いかかって、不意に起こって焔をあげ燃え出す、そして家々が、大きな火明《ほあか》りの中に焼け落ちてゆく間も、風の力に、火はごうごうとうなりをあげる。それと同様、進んでゆく(アイアスたち)へと、馬や車の、あるいは槍を取る武士たちの立てる響きが、絶える間もなく、渡って聞こえた。
彼らはまるで驢馬みたいであった。たくましい力を身につけて荷運びにつとめ、山中から切り立った小径《こみち》を下り、棟木《むなぎ》だとか、大きな船に使う材だとかをひいて下るが、道を急《せ》くほど、気力もおいおいに疲れと汗とに攻め立てられて消耗してゆく。その驢馬みたいに力をつくして、両人がパトロクロスの屍を運んでゆく、そのうしろから両アイアスが、後詰《ごづめ》として防いでいった、ちょうど樹の生い繁った丘の出端が、流れる水をささえるように。それは平野にずっとのび出てつらなり、勢いのはげしい河々の、荒れ狂う流れをさえも、さえぎり止める、そして押し寄せてくる河水を、そっくり平野のほうへと、向きを転じて流してやるので、激しい水の力にも、いっこう破壊されることがないのだ。
それと同じように、両アイアスは、後詰をうけたまわって、トロイア方の攻撃を防いでいったが、敵のほうでもうしろから追っかけてくる。中でも二人の大将、アンキセスの子アイネイアスと、誉れ輝くヘクトルとが攻め立てるのに、こちらのアカイア勢は、さながら鶫《つぐみ》か椋鳥《むくどり》の雲が、小鳥どもに死をもたらす鷹が飛来するのをはるかに見かけたおりに、死にそうな叫びをしきりに立てながら飛んでゆくようだった。アカイア勢の若者たちは、アイネイアスとヘクトルに怖れをなして、しきりに悲鳴をあげて逃走し、戦意をすっかりなくしてしまった。
それでダナオイ勢が潰走してゆく間には、みごとな甲冑や楯などが、いくつとなく、壕のあたりや前後に捨てられ、戦いの休まるときもなかった。
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(アキレウスの)新しい武具こしらえの段
【パトロクロスが討たれた報せを、ネストルの息子アンティロコスがアキレウスの陣屋へと持って来た。彼は身も世もあらず嘆き伏しかつ憤って復仇を誓い、いまはみずから出陣を決心する。しかし武具は奪われてしまったので、母の女神テティスを海底の洞窟から呼び出し、新しい甲冑の調達を求める。女神は息子が今度出陣すれば、かならず戦死は必定なのを知っているので、悲嘆しながら諌めるが、アキレウスの決意は固く、よんどころなく承知して天に昇り、鍛冶の神ヘパイストスに頼んで造ってもらう。トロイア勢は船陣に迫ったが、アキレウスの姿と叫びに恐れをなして引き退る。やがて出来あがった新しい楯や甲《かぶと》やよろいの模様が述べられる。テティスはこれを捧げ持って、オリュンポスの頂から、隼《はやぶさ》のように、飛雪のように、舞い降りて来た】
このように両軍は、燃えさかる火焔のように戦いつづけた。その間にアンティロコスは、アキレウスへと、速い足に報せをもって駆けつけてみると、その人はいま、まっすぐな角をつけた船々の前のところで、胸のうちでいろいろと案じていたが、その心配はまったく、もう実際に起こってしまっていたものだった。(とは知らずに)アキレウスは、腹立たしげに、気象のひろい自分の心に向かっていうよう、
「やれやれ、いったいどうしたことか、なぜまたもや頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア勢が、船々のほうへと、平野を横ぎって、心もそぞろに狼狽して逃げてゆくのだろうか。まったく、不吉な私の気がかりを、神々が、事実《まこと》にしてくださらないとよいけれど。いつか私に母上が、すっかり打ち明けていってくれたことだ、ミュルミドンのなかで、いちばんの勇士が、しかもまだ私の生きているうちに、トロイア勢の手にかかって、太陽の光を見すて(冥界に赴く)だろうと。ではもうたしかに、メノイティオスの武勇にはげむ息子(パトロクロス)は、最期を遂げたのか、まったく仕方のないやつだ、あれほどよくいっておいたのにな。燃えさかる焔を追いしりぞけたら、この船陣へ帰ってこい、けっしてヘクトルと、力をつくして戦ってはならない、とな」
こうアキレウスが、胸のうちで、あれこれと思案をつづけるうちに、誇りも高いネストルの息子(アンティロコス)は、すぐその身近にやって来て、熱い涙をこぼしながら、痛ましいその報せを伝えていうよう、
「まあ何という悲しいことか、勇猛果敢なペレウスの子よ、大変に無念な報せをお聞かせしなければなりません、それがけして起こらなかったらよかったのですが。パトロクロスが討ち死をして倒れ、その屍を争って、物の具もはぎ取られたのを、みんなして闘いあっているところですが、その甲冑はいま、きらめく兜のヘクトルが持ってるのです」
こういうと、悲嘆の黒々とした雲が、彼をすっかり包みこめて、いきなり、両方の手に、すすけた色の灰をつかむと、頭上から振り注いで、秀麗な面《おもて》をすっかりよごし、神仙《ネクタル》の香に匂やかな肌着も、黒いかまどの灰で一面にまみれさせた。そして大きなからだを砂塵の中にまみれさせて、倒れ伏し、われとわが手に頭髪《かみのけ》をかきむしった。召使いの女たちも、もとはアキレウスやパトロクロスが、戦さに勝って獲物として受けた女たちながら、みな胸を痛めて、声高く泣き叫び、あるいは外に走り出て、勇猛果敢なアキレウスをとり囲んでは、みな一様に手でもって胸を打ちたたきつづけるうち、手足も萎《な》えくずおれて(倒れ伏した)。
一方、こちらのほうでは、アンティロコスが、涙をながし、すすり泣きながらも、アキレウスの手をつかんでいたのは、音に聞こえた勇士であるのに、うめきつづけるばかりなので、もしや鋼鉄《はがね》(の刃)を取って、咽喉《のど》を切り剖《さ》きでもしはすまいか、とおそれたからでもあった。それでアキレウスが、恐ろしい悲痛の叫びを発すれば、その音は海底ふかくの、洞穴で年老いた父(海神ネレウス)のわきに坐っていた、母神テティスの耳へ届いた。そこでいきなり、わっとテティスが泣き立てると、姉妹の女神たちことごとくが、彼女のまわりに寄り集まった、海原の深い底いに住まっているネレウスの娘たち(ネレイデス)がひとり残らず。
≪そのなかにはグラウケもいれば、タレイアやキュモドケや、ネサイエにスペイオに、トエに、牝牛の眼をしたハリエもいた、つづいてはキュモトエにアクタイエに、リムノレイアに、またメリテにイアイラとアンピトエとアガウエと、ドトにプロトにペルサにデュナメネに、またデクサメネやアンピノメやカリアネイラや、ドリスやパノペ、さらには世間にたいそう名の聞こえたガラテイアにネメルテスにアプセウデスにカリアナッサと。そこにはまたクリュメネや、イアネイラやイアナッサもいた、マイラとオレイテュイアと、結髪《ゆいがみ》の房もみごとなアマテイアと、そのほか、大海の底いに棲《す》むネレイデスが、残らず集まり寄ったのに≫白銀《しろがね》にかがやく洞穴の中は、彼らでもっていっぱいになった、それがみないっせいに、胸を打って悲しみ嘆くと、テティスが挽歌《かなしみうた》の先頭に立ち(いうようには)、
「聞いてください、姉妹のネレイデスたち、聞いて皆さんがよく理解してくださるように、どんなに私の胸の悩みが深いものか、ということを。まあ何と私はみじめな女か、何とまあ、人並みすぐれた子の母ゆえの、この嘆きか。それが先には、人柄すぐれ、武勇にもひいでた息子を産んで、勇士の中でも無双といわれた、その子はやがて若枝と同じに、すくすく育ちましたのを、広い庭苑の日当りのよい高みに植えた樹のよう、大事に養いあげたうえ、舳《へさき》の反った船に乗せて、イリオスへと送り出してやりました、トロイア勢と戦さをしようということで。その子をもはや、二度とふたたび故郷に帰らせ、ペレウスの屋敷うちへ迎えとりもかないませんとは。それにあの子が、まだ生きて日の光をあおぐあいだも、悩み苦しみとおすというのに、出かけていっても、てんでまったく助けてやりはできないのです。それでもとにかく、愛《いと》しい息子に会いにいってまいりましょう、そして、どんな嘆きが、戦いからは遠ざかっているあの子を襲ったのか、きいてみましょう」
このように声をあげていい終わると、洞穴を出ていった。他のネレイデスもそれといっしょに涙を流しながらついていくのに、彼らのまわりに大海の波は開いて裂けて(道を作った)。それでいよいよ土塊《つちくれ》の沃《ゆた》かなトロイアへ着くと、つぎからつぎへと波打ち際へ上がっていった。そこにはいっぱいミュルミドン勢の船々が引き上げられて置いてある、その中央にアキレウスがいた。それでまたはげしく嘆き呻吟する息子のそばへ、母である女神テティスは行って立ち添い、急に声を放って泣き出すと、自分の息子の頭を胸に抱きかかえて、涙ながらに翼をもった言葉をかけてたずねるよう、
「おまえはどうして泣くのです、何の嘆きがおまえの胸を襲ったのですか、すっかりいって聞かせてね、かくさずに。いつかのことはすっかりと、ゼウスさまのお力で成し遂げられているんではないの、そら、せんだって、おまえが両手をさしのべてお祈りしたとおりに――アカイア勢が、おまえのいないために、みな船の舳のところに閉じこめられて、みじめな仕儀を見るように、って」
それに向かって、はげしくうめきあげながら、足の速いアキレウスがいうよう、
「お母さま、それはいかにもおっしゃるとおり、オリュンポスにおいでの(ゼウス)御神が、実行してくださいました。でもどうしてそれを私が喜べましょう、親友のパトロクロスが討ち死したからには。私が他のどんな僚友《なかま》よりも大切に思い、自分の首と同じように考えていた、その友達を死なせたうえ、甲冑までを、ヘクトルが殺して、はぎ取っていったのです。とほうもなく、目を驚かすくらい立派な物の具でした。それは以前に神さまがたが、ペレウスへと、お祝いの輝かしい贈り物にくださったもので、彼らがあなたを、やがて死ぬ人間の閨《ねや》へと送りこんだときのことです。
まったくあなたは、もとどおりに、海に棲《す》む女神たちといっしょに暮らしをつづけ、ペレウスは、人間である妻を娶《めと》ったらよかったものを。ところが、いまはそれゆえに、あなたさえが、死んでしまった息子のために、数限りもない嘆きを胸に受けるようなことになってしまった。その子をあなたは二度とふたたび故郷に帰らせ、迎えとりもできますまい。このうえとも生きながらえて、人交わりをつづけていくのは、とうてい私の心が許しませんから、もしヘクトルが、何よりもまず私の槍に突き伏せられて、命をおとさない限りは、そしてメノイティオスの子パトロクロスを殺して、(武具を)奪《と》ったその咎めを償わないうちは」
それに向かって、今度はテティスが、涙を流しながら、いうようには、
「まったく、あなたの寿命も、じきになくなることでしょう、あなたがそういうとおりにね。なぜというと、ヘクトルのつぎには、すぐとあなたの最期のときが、待ち構えていることになってるのです」
すると、それにたいそう不機嫌な顔を見せ、足の速いアキレウスがいうよう、
「すぐにも死んでしまいたいのだ、友達が殺されるという間際にさえ、防ぎ護ってやれないことになってたのだから。そのために、あれは、祖国《くに》からとても遠いところで、死んでしまったのです、私が破滅の防ぎ手になってやれなかったばかりに。いまさら、もう懐かしい故郷の土地に帰っていけない以上は、またパトロクロスや、その他の僚友《なかま》たちの救い手にもなれないで、ずいぶん大勢の味方の者どもが、勇敢なヘクトルのために討たれたのに、それなのにただ手をつかねて、船のそばに、甲斐もない畑の重荷とばかりに、坐っている身とあっては――まあ会議の席では、他にいくらも話の上手がいることでしょうが、いざ戦さに出れば、青銅の帷子《よろい》をつけたアカイア勢の中では、他に並ぶ者とてない者なのに。
まったく争いなどというものは、神界からも人間界からもなくなればよいのに。それから腹を立てることもです、こいつがいつも、思慮の十分ある者をさえ、激発していきり立たせるのですけれども。とけて垂れる蜂蜜よりも、ずっと甘い快さで、人間の胸のうちに、煙のようにひろがってゆくものなのです、ちょうど、このあいだ、武士たちの君であるアガメムノンが私を憤激させたように。
でももう以前に、起こってしまったことは、どんなに辛いことでも、やはり、もうかまわずにほっときましょう、せつない心も胸のうちに是非ないものと強いておさえつけ。それでいまこそ私は出かけていきます、愛しい友を殺した男、そのヘクトルと出会うために。死の運命《さだめ》を、私は、いつでも、その時に受け取りましょう、いよいよゼウスなり、また不死である他の神々なりが、その完遂をお望みのときに。どうして、どうして、あの剛勇のヘラクレスだって、死の運命を遁れることはできなかった、クロノスの御子ゼウス御神の最愛の子であったというのに、きまった運命《さだめ》と、ヘレの厄介至極な慣りとが、彼をとうとう屈服させたものでした。〔ヘラクレスは直接には馬人ネッソスの奸計による毒と、欺された彼の妻デイアネイラが、夫の愛を取り戻すため、この毒を夫に用いたため、苦痛と毒を免れるため、自焚して死んだが、もともとヘレの計りごとによる〕
それと同様私だって、もし同様な運命が私を待っているなら、いかにも死んだうえは、身を横たえておりましょう。でも、現在は立派な誉れをあげたいものだ、そして誰なり、トロイアの女やふところひだの深いダルダノイ族の女たちに、両方の手で、柔かな頬の涙をぬぐいながら、絶える間もなく、嘆き泣かせてやりたいものだ、そしたらほんとに、どんなに長く、この私が、戦さをやめて引っこんでいたかが、わかりましょう。それゆえ、どうか私が戦さに出るのをとめないでください、愛情からではありましょうが、おおせを聞きはしますまいから」
それに答えて、今度は銀色の足をした女神テティスがいうようには、
「ええ、ほんとにそれは、おまえ、いかにも立派なことです、現在さんざ苦戦をしている僚友たちを、切迫した破滅から護って防戦するというのは。でもまあ、おまえのみごとな物の具は、トロイア方の間に抑えられているのではないの、青銅づくりの、きらきらしたのは。それはいま、きらめく兜のヘクトルが、自分で両肩に着こんで得意がっているものの、そう長いこと好い気になってはいられますまい、やがては自分自身が間もなく討たれるはずだから。ともかくおまえは、まだけして合戦の混雑へは加わらないでおきなさい、私がここへ帰って来るのを、しかとその眼で見届けないうちは。明朝早くに、太陽の昇るのといっしょにここへ帰って来ますから、立派な甲冑を、ヘパイストスさまのところからもらってきてね」
このように声をあげて(語り終わると)、また愛する息子のところから引き返したが、うしろを向くなり、大海に棲む姉妹たちのネレイデスにいうようには、
「あなたがたは、さあ、これから、大海のふかい奥ふところにもぐっていって、父上のお屋敷へ、海のお老神《としより》に会いにいらして、一部始終を話してあげてくださいましな。私のほうは、高くそびえるオリュンポスへいってきますから、名高い工匠《たくみ》の御神ヘパイストスのところへです。私の息子のために、世にも名高い輝きわたる物の具をくださるつもりはお持ちかどうか、うかがいに」
こういうと、ネレイデスたちは、大海の波の下へと、たちまちに、もぐっていった。一方、こちらの銀色の足をした女神テティスは、オリュンポスを指して、愛しい息子のために、世にうたわれるほど立派な物の具をもらってこようと、出かけていった。
そこで、女神はオリュンポスへと足を運んでいったが、話変わって、アカイア勢はといえば、武士を殺すヘクトルに追われて、恐ろしい喚声をあげながら、船々のおいてあるヘレスポントスまで逃げていった。パトロクロスの屍も、脛当てをよろしく着けたアカイア勢は、飛び道具の間から、ひき出すこともできなかった。その(屍の)ところへ、トロイア方の軍勢や馬どもが、プリアモスの子ヘクトルといっしょに、火焔にもひとしい(ほどの)勢いで迫ってきたからだ。
三度まで、うしろのほうから、誉れ輝くヘクトルは、パトロクロスの足をつかんで、ひきずっていこうときおいこみ、トロイア勢を大きな声で励まし立てた。それを三度とも、両アイアスが、勢いはげしい武勇でもって、パトロクロスの屍から突き放してやった。それでもヘクトルは、相変わらずに武勇をたのんで、あるときは乱戦の間に乗じて突進してゆき、あるときはまた大声で叫び立てつつ踏みとどまって、あとへはてんでいっこう退く気配も見せなかった。
それはさながら、野山に暮らしている牧人たちが、死んだ獣の屍《むくろ》から、赤茶色の獅子を追い払えないようなものである、獅子はひどく飢え餓《かつ》えているのだ。それと同じに、甲冑に身を固めた両アイアスも、プリアモスの子ヘクトルを、その屍からおどかして追っ払いはできなかった。それであるいは、ヘクトルは結局それを引きずっていって、不朽の誉れを得たでもあろうか、もしペレウスの子(アキレウス)のもとへ、風のように足の速い|虹の女神《イリス》が、オリュンポスから使者として駆けつけて来なかったら。それはさっそく物の具に身を固めろとの言いつけで、ゼウスやその他の神々には内緒でもって、ヘレがよこしたものだった。そこでイリスは、アキレウスのすぐと身近に立ち添って、翼をもった言葉をかけ、
「お起ちなさい、ペレウスの子よ、ありとある武士のうちで、いちばんに恐れられているかた、そしてさあ、パトロクロス(の屍)を護って防戦なさい。その人のため、両軍がおたがいに殺しあうはげしい合戦が、いましも船陣の前のところで起こってるのです。味方のほうが、命の絶えた屍を護って防戦すれば、敵方のトロイア勢は、風の吹きまくイリオスへ引っ張っていこうと、きおいこんで押し寄せます。とりわけて、誉れかがやくヘクトルが、ひきずっていこうと意気ごんでいる、そして、(パトロクロスの)頭を柔頸《やわらくび》のところから切り離して、杭《くい》の上に突き刺してやろう、とはやってるのです。だから、さあ、もう臥ていないで、起き上がりなさい。畏《おそ》れる心を、胸に起こすのですね、パトロクロスが、トロイア方の犬どもの玩具《おもちゃ》にされては大変だという気持ちを。あなたのひどい不名誉ですよ、もしあの屍が、ひどい辱しめにでもあって、冥界《あのよ》へいったならば」
それに答えて、今度は足の速く、雄々しいアキレウスがいうようには、
「虹の女神よ、ではいったい、どの神さまが、あなたを使いにおよこしだったのですか」
すると今度は、それに向かって、風のように足の速いイリスがいうよう、
「ヘレさまが私をお遣わしになりましたの、ゼウス神の尊いお妃《きさき》さまのね。それで高い御座《みくら》においでのクロノスの御子も、深雪《みゆき》に蔽われたオリュンポスのあたりにお住まいの、他の不死でおいでの神さまがたも、全然ご存じがないのですわ」
それに向かって、足の速いアキレウスが答えるよう、
「でも、どうやって入りまじっての乱戦のなかへまいれましょう、なにしろ私の物の具は、敵方にとられているのですから。それに大事に思う母だって、自分がここへ帰って来るのを、私がこの眼で、確かに見届けないうちは、武装して出かけてはいけない、といってったのです。母は、ヘパイストス神のお手もとから、立派な物の具をもらってくるのだと、張り切っているのですが、ほかには誰一人とて、音に聞こえる物の具を貸してもらえるような武士《さむらい》は見つかりません。まあテラモンの子のアイアスの大楯ぐらいなものですが、それとても、もう自分自身が、先陣の間にはいりこんで、槍を取ってなぎ伏せながら、死んだパトロクロスを護っていることだろうと思うのです」
それに向かって、今度は、風のように足の速いイリスがいうよう、
「それはもう私たちでもよく知っていますわ、あなたの音に聞こえた物の具を、敵方が持ってったのは。でも、それにしても、塹壕のわきまでいって、トロイア勢に姿を見せておやりなさい、そしたらあるいは、あなたの威勢に怖れをなして、トロイア方とても、戦いをやめて引き退るかも知れますまい。そうすれば、いま苦戦をしているアカイア勢の兵士たちも、一息つけることでしょう。たとえちょっとの間でも、戦さの休みは(立派な)休息なのですものね」
こういうと、足の速いイリス女神は、さっそくにいってしまったが、一方、ゼウスの擁護をうけるアキレウスは立ち上がった。そのたくましい両肩に、アテネ女神が、総《ふさ》のたくさんついた山羊皮楯《アイギス》をかけ、頭のまわりを金色の雲でとり巻き、そのからだじゅうから、女神の中でも貴い女神が、輝きわたる炎の光を燃え立たせた。さながら煙が高く、どこかの町から高い空までのぼっていくように――遠いところの島から空へと。その島をとり囲んで、敵軍が攻め立てるのに、住民たちもみな、自分らの町から戦さをしに出かけて、闘いあうが、太陽の沈むのを待ちかねて、つぎからつぎへと、合図の炬火《のろし》の炎をあげれば、その輝きは高くほとばしって空をも焦がすばかりに、周囲の土地の人々の眼を射るのだ、なんとか船隊を率いて来て、破滅から救ってくれまいか、と訴えるように。
そのように、アキレウスの頭から出る輝きは、高い空へも届くというほどだった。だが、、囲壁《かこい》を出て塹壕のわきへ行き立ってはいたが、母神の固い戒めを守って、アカイア勢の(戦列)中には加わらなかった。しかしそのところに立って、大声をあげると、離れたところからパラス・アテネも声を出されて、トロイア勢にいいようもない大混乱を引き起こさせた。それは、生命《いのち》を奪おうという敵の軍勢に包囲された町から、とつぜん喇叭《らっぱ》が鳴って、そのとどろきが、とても大きく響いていくようだった。そのように、アイアコスの裔《すえ》(アキレウス)の声は高く、とどろきわたったので、敵軍はみな、このアイアコスの裔の、青銅みたいな叫びを聞くと同時に、みなみな胸をざわつかせ、たてがみのみごとな馬さえ、戦車をうしろのほうへとひき返したのは、心中に、これからの苦難を見通したからである。
その手綱を取る馭者たちも、恐ろしい火が炎々とペレウスの子の頭の上に燃えあがるのを見て、たまげたものだが、これこそ、きらめく眼の女神アテネが燃え立たせたものであった。このようにして、三度、塹壕のわきで、雄々しいアキレウスが、大声をあげ叫び立てると、三度またトロイア勢や、音に聞こえる加勢の軍が、大混乱におちいってしまい、そのおり、その場で、選《え》り抜きの勇士が十二人も、味方の戦車や味方の槍に殪《たお》れたのであった。一方、アカイア方はといえば、これに気をよくして、らくらくとパトロクロスを飛び道具の間から引き出し、担架の中に臥《ね》かせると、親しい僚友《なかま》たちが、すすり泣きしながら、これにつき添っていった。その間にまじって、足の速いアキレウスも、熱い涙をしぼりながら従った、信実な友(パトロクロス)が、鋭い青銅(の刃)に切り刻まれて、担架の中に横たわるのを見たのだから。すこし前には馬や戦車といっしょに、戦場へ送り出してやったのに、ふたたび、その帰って来るのを迎えることはできなかったのだ。
さて牝牛の眼をした女神ヘレは、疲れというものを知らずに、まだ沈む気をいっこう見せない太陽神を、オケアノスの流れへと向けてやれば、やがて太陽は没《い》り、勇敢なアカイア軍も、はげしい戦さのひしめきあいや、荒々しい戦闘から、やっとのことで手をひけるようになった。
また、こちらのほうでは、トロイア勢が、ものすさまじい合戦の場から引きさがって、戦車のもとから脚の速い馬どもを解き放したのち、晩餐の支度をする前に、会議の場へと寄り集まった。しかし、みなまっすぐに突っ立ったままで会議をはじめ、誰一人としてあえて腰を下ろそうとする者もなかったのは、誰も彼も恐ろしさにふるえていたからで、それも長らくのこと、いたましい戦さをやめて出て来なかったアキレウスが、現われてきたためだった。
まず一同に先がけて、知恵分別にすぐれている、パントオスの子プリュダマスが話をはじめた。彼だけは、ただ一人、昔も将来も見通していたのだ。同じ夜に生まれたこともあって、ヘクトルの親友でもあった――一方が談話に長じていれば、もう一方のほうは、槍において、はるかに他方を凌駕《りょうが》していた。それがいま、一同のためをはかって、会議の座に立ち、皆に向かっていうようには、
「よく考慮してください、皆さんがた。つまり私がすすめる策というのは、いまはもう船陣のかたわらの平原などにぐずぐずと、輝かしい朝を待っていないで、都城へ引きあげることなのです。城壁からわれわれはずっと離れています。あの男が、アガメムノンに恨みをもっていきり立っていた間は、その間はアカイア勢とて、まずは容易な戦争相手でした。それで私なども、進みの速い船々のかたわらに夜営をして、両端の反りかえった船を分捕りできようと期待もして喜んでいたものですが、いまとなっては、大変に足の速いペレウスの子に非常な危惧《きく》を抱いているのです。
あれはもう心気をひどくたかぶらせていることゆえ、平原にじっとしてるのを承知はしますまい。いまはそのまんなかで、トロイア勢とアカイア勢とが、相対峙して、雌雄《しゆう》を決する最中ですが。彼は、城を目ざし、婦女子を的《まと》に闘うつもりと思われます。ですから、さあ町へ帰りましょう、きっと、そうなることでしょうから。現在のところは、夜が来て、足の速いペレウスの子を、とどまらせてくれました、かぐわしい、ありがたい夜が。しかし、もしわれわれがここにまだ滞留してるのに出会ったら、明朝、物の具を着けて出かけて来たおりに、それこそ十分、彼がどんな男か覚ることでしょう、誰しもです。そしていそいそと、聖《とうと》いイリオスに逃げこむでしょうよ、もし逃げられればですが。でも大勢のトロイア人《びと》は、禿鷹や犬の餌食になることでしょうが、どうか、ぜひとも、そんな話は耳にもしたくないものです。
もし私の勧告を、気づまりなことではありましょうが、きいてくださるならば、今夜はこの会議の場に兵力をおさえておくとしましょう、都のほうは、城壁の櫓《やぐら》や高い門や、それにしっかり閂《かんぬき》をかけて取りつけてある板扉《いたど》の、高くよく磨いた一|対《つい》が、護ってくれましょうから。それで明日になったら、朝早くから、われわれはみな物の具に身を固めて、塁《とりで》の横に立ち並びましょう。そうすれば、あの男には、いっそう辛いことでしょう、もし船陣から出かけて来て、城壁のまわりでもって、われわれと闘いあおうと思うならば。頸筋を高くあげる馬どもを、塁《とりで》の下を追いまわしながら、四方八方へ飽きるまで駆けらせてから、またもとの船陣へと引き返すのが落ちです。城の内までは、とうてい突進してはいる気にはなれますまいしね、攻めおとしはとうていできない。その前に、脚の速い犬どもに喰われてしまうことでしょう」
すると、それを上目づかいににらまえながら、きらめく兜のヘクトルがいうよう、
「プリュダマスよ、きみのいまの建策ときたら、全然私には気に入らないよ、また城内へ戻っていって閉じこもれ、などとすすめるのだから。まったくきみらは、塁《とりで》や櫓の内側に閉じこめられていて、まだ飽きがこないというのかね。以前には、世間の人たちがみなプリアモスの城市《まち》には、黄金《きん》がいっぱい、青銅《からかね》のものもいっぱいあるなんて、誰もかも噂しあっていたものだ。それがいまでは、ほんとうに、屋敷じゅうの立派な宝と積んだ品物が、みななくなってしまっている。まったく、プリュギアや美しいマイオニアへと、家《うち》の財産がたくさん売り払われていった。それもゼウス大神のご機嫌をそこねていたからだったが。いまこそは、狡智にたけたクロノスの御子(ゼウス)は、船々のかたわらで、誉れをあげさせてくださった、アカイア勢を、海辺へと押しこめてだ。そういうおりに、たわけたことをいうやつだ。そんな意見は、もうけして、公けの場所で、いい出してはならんぞ。もちろん誰一人とて、トロイアの者は、賛成すまいからな。第一に私が許さない。
それよりもさあ、みんな、陣営じゅうが、それぞれの部隊にわかれて夕食をとるがいい。だが、番人は、忘れずに立てろ、そして、めいめい(番にあたったら)目を覚ましているのだ。またトロイアの者のうち、自分の財産のことで、並々でなく大変に心を悩ます者があったら、すっかりそれを集めて、皆で費い果たすように町の衆に渡したがいい。それを皆が楽しむほうが、アカイア軍にやるより、ずっとましだから。それで明日は、朝早くから、みな物の具に身を固めたうえ、うつろに刳《く》った船のところで、はげしい戦さを呼び起こそう。もし本当に、勇敢なアキレウスが、船々のかたわらに起ち上がった、ということなら、いっそう彼には辛いだろうさ、もし(戦うという)決心ならばな。ともかく私は、いまわしい響きの戦さから逃げだそうとはせぬ、それどころか、面と向かって立ちはだかろう。あるいは彼がたいした勝利を得るか、それとも私のほうが勝利を得るか(試してみに)。|戦さの神《エニュアリオス》は依怙《えこ》ひいきなしだ、殺そうという男がかえって、殺されたこともある」
こうヘクトルが談じつけると、トロイア人《びと》らは喝采したが、馬鹿なやつらだ。そいつらの知恵分別をパラス・アテネがとってしまった(にちがいない)。禍いをはかろうというヘクトルに賛成して、ためになるはかりごとをすすめたプリュダマスには、一人も賛成しなかった。
さて、それから晩餐をみな陣営じゅうがしたためたが、アカイア勢は、一晩じゅう、パトロクロスを悔《くや》みいたんで嘆きつづけた。その人々の先頭に立ち、ペレウスの子(アキレウス)は、絶え間もない哀号の音頭を取り、武士を殺し慣れた両手を、僚友《とも》の胸の上に置いて、はげしく呻吟して哭《な》いた。そのありさまは、さながらたてがみもみごとな牝獅子のよう〔牝なので、たてがみはおかしいが、詩人の想像上の錯誤であろうか〕、鹿狩りに出た男のために、繁った木立の陰から、こっそり仔どもを取っていかれ、後から帰って来て怒り悲しんでは、いくつもの谷あいを、男の足跡をつけて探してまわる、もしやどこかで見つけはできまいかと。それほどひどい憤怒に彼は取り憑《つ》かれていて、そのようにはげしくうめき立てながら、アキレウスは、ミュルミドンたちの間で、いうようには、
「ああ、何ということか、まったく役にも立たない言葉を、あの日に、はいたものだ、(故郷の)屋敷で、メノイティオスの小父《おじ》上を元気づけようと。きっとまたオポエイスの町〔パトロクロスの故郷〕に、たいした誉れをあげた息子を、連れて来てあげるとな。イリオスを攻めおとし、獲物を分けてもらったうえで、とそう約束したものだが、ゼウス神は、人の思惑などを、けして残らず成就させはなさらないのだ。われわれ二人はいっしょに、同じところの土を血で染める運命を授かっているのだ、まさしくこのトロイアの郷《さと》でな。そしてまた私の帰還を、年とった騎士ペレウスが、屋敷じゅうで祝うことも許されないだろう。母上のテティスだって同じことだ、ここ、このトロイアの土が私を埋めようから。
だが現在のところはな、パトロクロスよ、おまえのあとから私が地下《あのよ》にゆくことになってる以上は、ヘクトルの物の具だの首だのを、ここまで持って来ないうちは、おまえの葬式はしてやるまい、気象のすぐれたおまえを殺した当人だから。そのうえにも、トロイア人《びと》の、すぐれた息子を十二人、火葬にする火の前で、おまえを殺した恨みの返報として、首を切って殺してやろう。それまでは、舳の曲がった船のかたわらに、そのままおまえを臥かしておこう。だがおまえの屍をとり巻いて、トロイアの女たちや、深い胸ふところの衣を着たダルダノイの女たちが、夜昼となく涙を流して哀号をつづけよう。その女たちは、われわれが自分で骨折って、力と長い槍先とにかけ、人間どもの裕福な町々を攻めおとしてから、得て来たものなのだ」
こういうと、勇ましいアキレウスは、手下の人々に命令して、火の上に大きな鼎《かなえ》をすえておかせた、一刻も早くパトロクロスの屍を洗って、血みどろな血糊をすすぎ取ろうというので。そこで、人々は、燃え上がった火に、沐浴《ゆあみ》のための湯沸し釜をすえ、中にいっぱい水を注ぎ入れ、薪をとって下にくべると、鼎《かなえ》の腹を火焔はとり巻き、間もなく水は温められた。それからいよいよ、輝く青銅(の鼎)にはいった水が煮えたぎって来た。そのとき、人々は(その湯で屍を)洗いきよめ、それにオリーブ油を塗りこめ、傷口には、九年の月日を経た膏《あぶら》をいっぱいつめ、臥棺の中に横たえて、こまかい麻の布衣を、首から足の先までずっと覆いかぶせ、上には白い帷子《かたびら》を置いた。こうしてから一晩じゅう足の速いアキレウスをとり巻いて、ミュルミドンたちは、パトロクロスを悼《いた》み嘆いて、弔《とむらい》つづけた。
≪さて、ゼウス神は、妃《きさき》の神で、また姉妹でもあるヘレに向かっていうには、
「牝牛の眼をしたヘレ女神よ、今度もまた思いどおりにやりおおせたな、足の速いアキレウスを起ち上がらせて。まったく、あの頭髪《かみのけ》を長く垂らしたアカイア族というのは、あなた自身から生まれたものらしいな」
それに向かって、今度は、牝牛の眼をしたヘレ女神が答えるよう、
「このうえもなく畏《かしこ》いクロノスの御子(のゼウス)さま、何ということをおっしゃるのです。やがては死ぬ身で、たいした知恵分別をもたない人間でさえも、他人《ひと》にたいして、いろいろはかりごとをするではありませんか。ましてや、どうしてこの私が、女神のうちで、生まれにかけても、またあなたさまの配偶《つれあい》というこの身分にかけても――あなたは、すべての不死である神さまがたの君主《きみ》なのですから――とりわけ高い位を誇るものですのに、恨み重なるトロイア方の、禍いをはかってわるいことがありましょうか」
このように、両神《ふたり》は、おたがいに談合しあったのだった≫
さて、ヘパイストスの屋敷へ、銀色の足をしたテティスはやってきた。けして朽ちない、青銅づくりの宮居であって、星をちりばめ、不死である神々の館《やかた》の中でも、とりわけ目だつこの屋敷は、自分でもって、足の曲がったこの神さまが建築されたものだった。見ればその神さまは、汗を垂らして体をねじ曲げ、しきりに鞴《ふいご》を吹いておいでだった、いましも全部で二十もある鼎《かなえ》(三脚鍋)を鋳ているところで、立派な柱の立ち並んだ大広間の壁に、ぐるりと並べておくためであった。その一つ一つの台の下には、黄金づくりの車輪がついていて、人手を借りずに、神々が集まる席に、簡単に運べる仕掛けになっている。まったく見るのも驚嘆すべきものだったが、まだそこのところまでしか出来上がっていず、技巧《たくみ》をこらした両耳はまだついていなかった。いましもそれに取りかかって、鎖を打っていた際なので、手なれたいつもの工夫《くふう》でもって仕事を進めていたその最中に、彼のすぐ近くに、銀色の足をした女神テティスがやって来た。
その姿をまず認めたのは、ちょうど家から出て来た典雅《カリス》の神女で、この頭髪を結わえたバンドもつやつやしく美しい女神を、世に名の聞こえた曲り足の神(ヘパイストス)が妻にしていた〔ふつうは、アプロディテがヘパイストスの妻とされている〕。そこで神女は、いきなりテティスの手をとると、名前を呼んで話しかけるよう、
「まあ、テティスさま、長い衣をお召しのあなたが、どうして私どもの家にいらしたのですの。ありがたい、うれしいことですわ、これまでちっともおいでくださらないんですもの。さあさあ、おはいりくださいませな、ともかくおもてなしができますように」
こう声を立てて、とうとい女神は、屋敷の内へ案内してから、テティスを台座に腰かけさせた。銀の鋲をたくさん打った、美しくも技巧をこらした椅子で、その下には足を置くよう、足台が置かれていた。それから名高い工匠《たくみ》のヘパイストスを呼んで、話をするよう、
「ヘパイストスさま、ここへ出ていらっしゃいよ、テティスさまが何かあなたにご用ですって」
そこで今度は、世に名の聞こえた曲り足の神さまが、答えていうよう、
「こりゃあまったく、大変な、ありがたいかたが、うちへおいでになったものだ。私を助けてくださったかただもの。遠方へ落っことされて、難儀をしたときのことだ、あの、恥知らずな、おふくろさまの思惑からだが、それも私がちんばだもので、隠しておこうと考えなさってな。そのおりに、もし流れを返すオケアノスの娘さんのエウリュノメと、テティスさまとが、ふところに私を迎えとってくださらなかったら、私はずいぶんと、つらい思いをしたことだったろう。
このお二人のところで、私は、九年の間を、いろんな鍛冶の細工に技巧をつくしていたものさ、ブローチだの、曲がった螺旋《うずまき》留めだの、蕚形《うてな》の飾りだの、ネックレスだのを、中のうつろな洞穴でな。そのぐるりを、極洋《オケアノス》の流れが、ぶつぶつ泡を立てながら、はても知らずに流れているので、他の神々にも、ましてや、やがて死ぬる命の人間にも、誰一人知ってる者はいなかった、ただテティスとエウリュノメと、私を助けてくださったかたがただけが知ってたものだ。そのかたがいま、私らの屋敷に来てくださったのだよ。だから、ぜひとも今度は、十分に命拾いのご恩返しをしなければならないんだ、美しい鬘《かつら》を垂らしたテティスさまにな。だから、これからおまえは、お饗応《もてなし》の支度を立派にしてさしあげろよ、その間に、鞴《ふいご》だの、他の道具類だのをいっさい片づけてこようから」
こういって、鉄砧《かなしき》台から立ち上がった姿は、まったく驚くばかりの巨大さで、それがちんばを引いて、下のほうは、ほっそりした脛をせかせか動かしては、鞴を炉から引き出して片づけ、いままで使っていた道具類も、みな銀づくりの箱の中へ集めて、とりいれてしまった。
それからはスポンジ綿をとって、顔や両方の手や、がっしりとしたたくましげな頸、粗毛《あらげ》の生えた胸などをよく拭ききよめてから、胴着を体につけると、がっしりした杖を手に握って、外へびっこをひきひき出ていった。そして、テティスのいる所までたどりつき、輝く台座に腰をかけると、彼女の手をしっかり握りしめ、名を呼びあげて話しかけるには、
「どうしてまあ、テティスさま、長い衣を着ておいでのあなたが、うちへ来てくださったか。ありがたい、うれしいことだが、これまでは、ちっとも来てくださらなかったのですな。さあ、何なりとご意向をうかがわせてください、どんなことでも、成就してさしあげろと、心が私に命じますからな、もし私が成しとげられるようなこと、また成就されたことのあるものでしたら」
それに向かって、今度はテティスが、涙ながらにいうようには、
「ヘパイストスさま、ほんとうにまあ、オリュンポスには女神たちも大勢おいでになるけど、私ほど、ひどい心配を、胸にいっぱい持っている女神はありますまい。みなさま以上の、そうした悩みを、クロノスの御子のゼウスさまが、私におよこしなさったのです。その原因《もと》はといえば、私を、海に棲む女神たちの中から選んで、人間である、アイアコスの子ペレウスの妻になさったからです。それで私も、とても不本意なのでしたが、夫の閨《ねや》にかしずいたのです。その人はいま、おぞましい老年にとりひしがれて、屋敷の中で臥《ふ》せっていますが、今度はまたほかの苦労を(ゼウスさまが)およこしなさったのです。というのは、もともと一人の息子を私に生ませ、育てあげさせなさったのが、生い立っては勇士の中でも無双といわれ、若枝と同じにすくすく育ちました――ひろい庭園の日当りのよい高みへ植えた樹のように。大事に養いあげたその子を、私は舳の反った船に乗せて、イリオスへと送り出してやりました、トロイア勢と戦さをするためです。その子をもう、二度とふたたび故郷に帰らせ、ペレウスの屋敷内へ、迎え取りもかないませんとは。
あの子が、まだ生きていて、日の光を仰ぐあいだ、悩み苦しみとおすというのに、私には、出かけていって、助けてやりはできないのです。そら、あの娘をですわ、アカイア勢の若者たちが、褒美にあの子へ選り出してくれたあの娘(ブリセイス)を、アガメムノン王が奪い返したのです。そのことのために、あれが胸を苦しめつづけていたおり、トロイア方は、アカイア勢を、船々の舳のへんに閉じこめてしまいました。そこで、アルゴス方の長老たちが、あれを訪ねて来まして、たくさん立派な贈り物まで、並べ立てて頼みこんだのでした。あの子は、自分自身が出ていって、(アカイア勢の)破滅を防いでやることはことわりましたが、パトロクロスに、自分の物の具を着こませて、戦場へと、大勢の兵士たちをつけ、出向かせました。それで一日じゅう、スカイア門のところで、合戦しつづけたのでしたが、あるいはそれこそ、その日のうちに、(イリオスの)城を攻めおとしもできたことでしょう、もしアポロンさまが、大損害を敵に与えたメノイティオスの雄々しい息子(パトロクロス)を、先陣のあいだに討たせて、ヘクトルに誉れをお授けなさらなかったなら。
そのために、こうしていま、お膝にもすがりにあがった次第なのです。私の短命な息子のために、楯や兜や、立派な脛当てを、そしてまず第一には胸甲《むなよろい》を造ってやってはくださりますまいか、とお願いしに。と申しますのも、以前からのは、信実な友パトロクロスが、トロイア方に討たれた時、奪われてしまったものですから。それで息子は心痛のあまり、地に倒れ伏しておりますの」
それに答えて、今度は、世間に名高い曲り足の神さま(ヘパイストス)がいわれるよう、
「もうご安心を。おやすいご用で、いっさいご心配は無用にお願いしたいですな。だが、まったく私の力で、いやな響きをもつ死(神)から、息子さんを、きっぱり隠してしまえたら、ありがたいのだが、恐ろしい死の運命が振りかかってくる際にだな。それがこれから、立派な物の具いっさいが、きっと手にはいるということぐらいに、確かだったらな。出来上がったのを、大勢の人間どもが、見たらたまげようほどに、立派な品々だろうがなあ」
こういうと、テティスをそのままそこへ残して、鞴《ふいご》のそばへ戻ってゆき、それをいくつも火の中へ突っこんで、仕事にとりかかれ、と命令した。すると、二十もある鞴が、いっせいに、坩堝《るつぼ》の中へ風を吹きこんで、いろんなふうに力をこめて、息を送り出し、ある時にはヘパイストスが、一所懸命で仕事を進める手伝いをし、時にはまた神さまのお望みどおりに、細工物《さいくもの》をこしらえるのを助けた。その間にも神さまは、火のなかへ、けして腐り減らない青銅や錫《すず》や、高価な金だの銀だのを投げこんでゆき、それから今度は、鉄砧《かなしき》台に、大きな鉄砧をすえておき、一方の手には頑丈な大きな鉄槌《かなづち》を握りしめ、もう一方には、|やっとこ《ヽヽヽヽ》を取った。
こうして、まず最初にこしらえたのは、がっしりした大楯だった。どこからどこまで技巧《たくみ》をこらしたもので、まわりには、ぴかぴかしてる縁《へり》をつけ、三重になって照りかがやくのを、銀づくりの提げ緒で吊るした。円い大小五枚の皮を重ねた楯の上には、たくさんの、みごとな飾りの模様が、巧緻《こうち》をきわめた熟練で、鏤《え》りつけてあった。
まずまんなかの円形には、大地と大空、それから海原と、また疲れを知らない太陽や、満ちわたった月を造った。それから大空をぐるりととり巻く、すべての星座、(たとえば)昴《すばる》の七つ星だの、雨星《あまぼし》だの、強そうなオリオンや、熊の星座――これは世間の人が、北斗星と呼ぶものだが、この星座は同じところをぐるぐるまわって、オリオン(星座)を目のかたきにし、(すべての星座中で)これ一つだけが、極洋《オケアノス》へ浸り沈まない星座である。
さてそのつぎの第二の圏には、物を思う人間たちの二つの都を中に描いた。立派な町である。その中では、いましも婚礼の祝賀と饗宴の催しとがたけなわで、花嫁たちを、奥の間から、光り輝く松明《たいまつ》のもとに連れ出してゆき、都の大路《おおじ》を渡ってゆくのに、たいそうな初婚歌が湧きおこっている。若者たちは、踊り手として、ぐるぐるまわって舞いをすると、そのまんなかには、竪笛《たてぶえ》や、大きな竪琴やが、響きを立てる、そのありさまを、めいめいの家の戸口に立っている婦人たちが感心してながめる光景だった。
一方、市民たちは、広場に集まっていた。いましもそこでは争いごとが持ち上がっていた。それは殺された男にたいする補償のことで、二人の男が、たがいに口論しあうところだった。一方の男は、確かにみな支払いをすませた、と町じゅうの人に触れてまわるのだが、もう一方の男は、何ももらったことはない、と主張する。それで両方が、裁判にかけて決着させようと、いきり立つのに、とり囲む人々は、二つに別れて、それぞれの側を声援する。それをまた伝令使が来て、皆を制止しにかかっている。その一方では長老たちが、神聖な円形の中の、磨いた石の座にすわりこんで、声を張りあげる伝令使たちの笏杖《しゃくじょう》を手に捧げ持っていた(話すときにめいめいが持つきまりなので)、そしてつぎつぎに、この杖を手に受け取って、立ち上がると、かわるがわるに、裁き(についての自分の説)を述べるのだった。そのまんなかには、黄金《きん》の錘《おもり》が二つ置いてあり、みんなの中で、いちばん正しい裁きを述べた者に、授けるきまりとなっているのだった。
もう一方の都は、これを攻める二つの軍隊がさまざまな物の具も燦然《さんぜん》と対峙していた。彼らの軍議は、いまのところ二つに別れて、めいめいが自説を主張する――一方は、城を攻めおとして劫掠《ごうりゃく》しようといい、他方は、この美しい城市《まち》が持っている全部の財宝《たから》を、二分してその半分を(降参させて)出させようというのである。また城内の者どもは、(敵方からの申し出を)承諾しようとせず、不意打ちをかけるために、武装しているところだった。城壁には、愛しい妻や、がんぜない幼児たちが上に登って、防備にあたっているが、その間には、もう老年につかまった男たちも見えた。
こうして、繰り出していった手勢の先頭には、(軍神の)アレスとパラス・アテネがあった。両神ともに黄金《きん》でできていて、黄金《きん》の衣をまとっていた、そして両神とも美しい物の具を身につけられて、まわりのものとはとび離れて人目に立てば、並みの兵士たちは、ずっと小さく見劣りがした。両神は、いよいよ待ち伏せするのに適当と判断した場所に着くと――それは河のほとりの、牛や羊がみな水を飲みに来る場所だった――そこへ、みな、きらきらした青銅(の物の具)を着こんで坐りこんでいた。
それから二人の斥候を出して、兵士らのひそんでいる場所から離れたところに忍んでいさせ、そこで、羊やら、角の曲がった牛たちやらが、見えるのを待ち伏せしていた。間もなく、家畜の群れが現われたが、つき添いの二人の牧人は、笙笛《しょうぶえ》などをもてあそんでいて、いっこうに、こうしたたくらみなどがあろうとは、予想もしていない。こちらでは、遠くからそれと認めて、駆けつけるなり、たちまちに、右や左と区別もなしに牛どもの群れやまっ白い羊のみごとな群れを切り倒したうえ、羊飼いまでを殺しにかかった。
ところで、相手方の軍はというと、集会の広場の前に坐っていたが、牛どもの群れのところで、大騒動が起こったのを聞くと、すぐさま、足を高く揚げる馬どもをはしらせて、駆けつけて来た。そこでそれぞれ隊伍をととのえて、河の堤で戦いあうと、相たがいに青銅の穂先をはめた槍を取っては投げつづける。その場へは|争い《エリス》の女神や、ひしめき合いの神《キュドイモス》、あるいはまた厭《いや》らしい死の運命の女神(ケル)も仲間にはいって、新規に負傷したものやら、無傷のものやら、あるいはもう死に果てた者どもなどをひっつかんで、足をつかまえ、混み合う中をひきずっていく――その両肩にかけた衣類も、人の血で、まっ赤に染まっていた。こう入りまじって戦う様子が、まるで生きてる本物みたいに描かれていた。
またそのつぎ(の第三圏)には、肥沃な畑地の、やわらかに三度も鋤《す》いた、広い新規に開墾した土地が、鏤《きざ》んであった。大勢の農夫がそこで、(犂《すき》につけた)番《つが》いの牛を、絶えずぐるぐるとあちらこちら追いまわしてゆくところである。畑の端まで戻ってくるたびに、一人の男がそれを迎え受けて、蜜を入れて甘くしたぶどう酒をいれた杯を渡してやる、またこちらでも、それをあてにして、みな畝《うね》を鋤いて引き返して来る――遠くはるかな、新墾田《にいはりだ》の境のところまで、一刻も早く戻ろうと考えて。それで畑は、耕すあとから黒ずんでいくが、黄金で鏤《かざ》られながらも、鋤き返された土に見えるのは、まったく大した不思議の腕前だった。
またほかのところには、領主《とのさま》の持ち物である荘園が鏤《きざ》みつけられていた。そこでは人足どもが何人も、鋭い鎌を手にたずさえて、麦を刈っている。それにつれて、畝の間に、刈り穂の束が、つぎつぎと地面へ落とされていくと、一方では、その穂を束ねる役目の男が、繩で、それをまた結わえていった。そこには三人も、穂を束ねる役の者が立ち添い、その後から少年たちが、絶え間なしに、刈り穂を拾っては、腕にかかえて運んでゆき、それを(束ね役に)手渡すのである。その人々の間には、土地の領主が、ものもいわずに杖を持って、楽しげに、畝のかたわらにたたずんでいた。またそこから離れた場所には、伝令使たちが、槲《かしわ》の樹陰で、饗宴の支度をしているところ(が写されていた)。いましも大きな牛を、犠牲にささげてから調理すれば、女たちが寄り集まって、白い麦粉をたくさん、人足たちの食事のために、ふりかけていた。
さらにまた(ほかのところには)、ぶどうの房がいっぱい下がった果樹園があった。その両側にある溝は、瑠璃《るり》色のエナメルで、まわりにはまた錫《すず》でつくった垣根をめぐらし、ただ一筋の小径《こみち》がそこへ通り、ぶどうの房を摘みとるときに、運び手の往来する道になっていた。乙女や若者たちが、苦労も知らぬうぶな心で、蜜の甘さの果物を、編み籠に入れて運んでゆくのに、その人たちの中央に立って、一人の少年が、竪琴の音も高く、心ゆくばかりに弦《いと》を弾じて、リノスの歌を、その伴奏にあわせて、しめやかな低い声できれいにうたっている。すると皆は、それに拍子を合わせて、舞い踊りつつ掛け声をかけ、足を踏み鳴らし、跳んだりはねたりしながら、つき従っていく。
またそのつぎ(の第四の圏)には、まっすぐな角をもつ牝牛の群れを、造りつけてあった。牛たちは、黄金だとか、錫だとかで象《かたど》られていて、鳴きながら、牛小舎から、牧場へと、急いでいくところだった、さらさらと流れる河のほとりへ、揺れさわぐ芦の繁ったところへと。それへ黄金でつくった牧人たちが、四人も、つき添って並んでいくと、九匹もある、脚の速い犬が、従っていく。一方、恐ろしい二匹の獅子が、先頭に進む牛たちの間にいて、高くうなる牡牛を一匹、つかまえていた。牛はひきずられながら、はげしいうめき声を立てる。それを犬どもや若者たちが追いかけてゆくけれども、獅子たちはすでに、大きな牛の皮を引き裂き、はらわたや、黒い血潮をすすっているのに、牧人たちはただ埒《らち》もなく、速い犬を励ましてけしかけるばかりである。犬たちは獅子の間近に迫っているが、噛みつくことはできず、吠えついたり、また逃げて避けたりしてるところが(写されていた)。
またその中へ、世間に名高い曲り足の神は、牧場のさまを造りこんだ。景色のよい谷あいの低いところに、まっ白な毛の羊が群れている牧場や、家畜の小舎や、屋根がついた幄舎《あくしゃ》、また羊の檻《おり》などを。
また世間に名高い曲り足の神は、舞い唱い手の一群を、その中へ造りこまれた。それはまさしく、あの昔からの伝説にある、クノッソス〔クレテ島の都〕の広い街頭に、ダイダロスが、結髪の総《ふさ》も美しいアリアドネのために、こしらえておいたものみたいだった。そこではたくさんな若者たちや、牝牛を(婚資として)持ちこむ乙女たちが、相たがいに、腕のつけ根に手をかけ添えて、踊りつづけている。その娘たちは、こまかい麻の薄衣をまとい、若者たちのほうは、織りのよい胴着を着こんで、塗った脂膏《あぶら》にしっとりと光ってみえる。娘たちがきれいな花環を冠っていれば、若者たちは、黄金づくりの短い剣を、銀でつくった提げ緒から、腰に吊るしていた。
その人々が連れだって、心得のある足どりで、いかにも身軽に飛びまわるさまは、ちょうど陶器工《すえものづくり》が坐ったままで、掌にしっかりついた轆轤《ろくろ》にさわって、うまく回転するか、試しにまわしてみるときのよう。時にはまた、列をつくって、相たがいに駆け寄ってみなどする、この心ゆかしい唱舞《うたまい》の群れを、またとり囲んで、たくさんな見物人の群集が、面白がってこれをながめる。≪その中には、神々しい楽人がひとり、竪琴を手にして歌いあげると≫、二人の軽業師が、一同のまんなかへ出て、(怜人のとる)音頭につれ、ぐるぐると旋回した。
またそのうえには(第五の圏に)、しっかりとこしらえあげた大楯の、いちばん端の縁《へり》のところに、滔々《とうとう》として力強く流れる極洋《オケアノス》の河流があった。
さて、いよいよ、このように大形でまた頑丈な楯をつくりあげると、今度はさらに、火の輝きよりなお燦然とした胸甲を、彼(アキレウス)のためにこしらえてやり、また、がっしりした兜をも造ってやった。こめかみによくしっかとはまるうえに、技術《たくみ》をつくした立派なもので、上には黄金《きん》の前立てがついていた。また彼のために、しなやかな錫《すず》で、腰当てをも、つくってやった。
さて世間に名も高い曲り足の神は、このように、一揃えの物の具をこしらえおわると、それを取り上げて、アキレウスの母である(テティス)女神のすぐ眼前に置いた。そこで女神は、すぐさま、きらきらときらめく物の具を手に、速い隼《はやぶさ》のように、雪をかむったオリュンポスから飛んで下りた。
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憤怒をいまは捨て去るの段
【パトロクロスの屍のそばに泣き伏すままのアキレウスにも朝が訪れた。女神はそのそばに立ち、武具を示す。これを見てアキレウスはかつは怒りかつは喜び、いまはアガメムノンとも仲直りして、出陣にと勢いこむ。その報せに王も悦んでたくさんな報償を約し、多くの所領に加え、自分の娘を与えようという。オデュッセウスもこれに和し、贈り物を持ち来らせ、兵士らは出陣に備えて兵糧を使わせる。しかしアキレウスは復仇の成るまでは、と食事をしない。武装してやがて戦車に乗ると、二頭の神馬は人間の声を出して、アキレウスのために嘆き、その近い死を予言する】
サフラン色の裳《もすそ》をひいた暁が、いましも(世界の涯の)オケアノスの流れを出て、不死である神々たちや、または人間の世に、光明をもたらそうと、昇っていった。そのころにテティスは、ヘパイストスの手もとから、贈り物(の物の具一式)を手にもって、船陣へと行き着いて、見ると自分の愛する息子(アキレウス)は、パトロクロスの屍のわきに倒れ伏して、大きな声で泣き叫んでいた。そして大勢、彼を囲んで僚友《なかま》たちが嘆き悲しんでいる間をわけて、神々しい女神は、息子のかたわらに進み寄り、いきなりその手に取りすがると、名前を呼んで、くどくようには、
「私の子よ、このかた(パトロクロス)は、まあいかにも無念なことながら、このままに臥《ね》かしておくことにしましょう、まったく最初から、神さまがたの御意《おこころ》でもって、討たれたものですから。ともかくおまえは、ヘパイストスさまがくださった、この立派な物の具を受け取りなさい。とてもみごとな、これほどのは、これまで誰も両肩に着けたことがない品々ですから」
こういい終わると、女神は持参した物の具いっさいを、アキレウスの前へ置くと、隅々までも技術《たくみ》をつくしたその物の具は、からからと響きを立てた。それを聞くミュルミドン族の人々は、みな身ぶるいに取り憑かれて、誰一人としてまともに見すえる者もなく、おそれいったが、アキレウスはといえば、かえってこれをながめるなり、いっそうはげしい憤りに胸をうたれて、両方の眼も恐ろしく、眉毛のもとに輝き立ち、閃光をさえ放とうといわんばかりで、両手でもって、神さまのくださった贈り物をささえ持つと、うれしげに見た。それで心ゆくまで、この神業を存分にながめ終わると、すぐ母である女神に向かって、翼をもった言葉をかけて、
「母上、これで武具一式は、神さまがくださったのでそろいました。いかにも不死である神々の仕事にふさわしい立派なもので、やがて死ぬ人間などが造りおおせる品ではありません。ともかくも、ではこれから、この甲冑を着こむことにいたしましょう。ただこの際に、とても気遣いなのは、もしやかれこれする間に、メノイティオスの勇敢な息子(パトロクロスの屍)に蝿どもがついて、青銅(の槍)に突かれた傷口から、中へはいりこんで、うじ虫を湧かし出し、屍をみっともなくしはせぬか、ということです。生命《いのち》はとうに絶えているので、肌がすっかり腐りもしましょうから」
それに向かって、今度は銀色の足をした女神テティスが答えるよう、
「息子よ、けしてそうしたことは、おまえがわざわざ心にかけるにはおよびません。あのかたからは、私が十分に、いやらしい蝿どもなどは追っ払うようにしましょうから。戦さで死んだ人々を啖《くら》いつくすというものどもですけれど。それでたとえば、丸一年の時がたつまで、寝転がされていたにしろ、いつまでもその肌が変わらないどころか、以前よりもっと良くなるくらいでしょう。それゆえおまえは、会議の場へ、アカイア軍の大将たちを呼び集めて、兵士たちの統率者であるアガメムノンにたいしての腹立ちを、もう捨て去ったと宣言したうえ、すぐさっそくにも、戦さへ出るよう身ごしらえして、武勇をしっかり身に奮い起こすのです」
このように語り終わると、たいそうな勇猛心を打ちこんでやり、またパトロクロスにたいしては、鼻の孔から、神香《アンブロシア》と、真紅の神酒《ネクタル》とを、肉がしっかりもつようにと注ぎこんでやった。
一方、こちらの勇ましいアキレウスは、大海の波打ち際にそって歩みを進め、恐ろしい叫びをあげて、アカイア軍の大将たちを立ち上がらせた。ずいぶん長らく、むごたらしい戦さから引き退いていたアキレウスが出て来たので、以前から船々の寄り集まった場所に残っていた連中や、あるいは操縦者として、船々の舵《かじ》を預かっていた人たち、また糧食の配給役として、船のかたわらにいた宰領の面々など、この人々はもとより、そのおりに会議の席へ集まって来た。
さらにはまた二人の、軍神アレスの扈従役《こしょうやく》も、びっこをひきひき歩いて来た。戦さに手ごわいテュデウスの子(ディオメデス)と、勇ましいオデュッセウスの二人だが、ともども槍にもたれて来たのは、まだ傷口が痛んだからだ。それでも、会議の席のいちばん前のところへ行って、腰をおろした。ところで、いちばんあとからやって来たのは、武士たちの君主《きみ》であるアガメムノンで、これとて負傷していた。というのは、はげしい合戦の間に、アンテノルの息子コオンが、青銅の穂先をつけた槍で突いたからだった。さて、いよいよアカイア軍の総勢が寄り集まったとき、一同の間に、足の速いアキレウスが立ち上がって、話をしかけた、
「アトレウスの子(アガメムノン)よ、いったいこれが、少しでもあなたと私の双方にとって、何かの利益をもたらしたろうか、私ら二人が、不愉快な気持を抱いて、娘のことから、命をむしばむ争いに夢中になってきたことが。そんな娘などは、船のところで、アルテミス女神が、矢でもって殺してくださればよかったのにな、リュルネソス〔ブリセイエスの故郷〕を私が攻めおとして、あの娘《こ》を褒美にもらい受けたその日にでも。そうしたら、これほど大勢のアカイア人《びと》が、敵のやつらの手にかけられて、はてしも知らぬ大地を歯で咬みしめないですんだであろうに――私が腹を立てて出ていかなかったために。
それは、ヘクトルや、トロイア方には、得だったが、それに反して、アカイア勢は、私とあなたとの争いを、きっと永く忘れないでいることだろう。だが、もう以前に起こってしまったことは、どんなに不快なことにしろ、ほうっておこう、胸のうちに湧き立つ思いも、余儀ないものとおさえつけておいて。いまではもう、私のほうでは、憤りはまったく捨て去ることにした。しつこくいつまでも怒っていても、何になろうか。ともかくも、さあ、さっそくにも、戦闘へと、頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア勢をうながし立てなさい。トロイア勢に真正面からぶつかってゆき、まだあいつらに、船のかたわらで夜営をする気があるかどうか試してやろう。たぶん、はげしい斬り合いを逃れて、われわれの槍先にかからずに落ちのびられたら、あのやつどもの誰にしても、膝を曲げ(へたばって休める)ことをありがたく思うにちがいない」
こういうと、脛当てをよろしくつけたアカイア勢は、意気のさかんなアキレウスが、憤りを捨てて(出て来たの)に、大喜びをした。そこで、一同に向かって、武士たちの君主《きみ》であるアガメムノンもいうようには、≪そのまま、自分の席からで、皆の中に立ち上がってではなかったが≫
「親しいダナオイ勢の勇士たち、軍神アレスの家来たちよ、立ち上がった者の話を聞くのは、結構なことだ、それに口をはさむのはよろしくない、たとえ弁舌の達者なものでも、(邪魔がはいれば)厄介だから。だが、集まった人々がひどい騒ぎをしている場所では、話を聞くことも、しゃべることも、どうして可能だろうか。声の大きな弁士でも、ずいぶん妨害されるからな。それで、ペレウスの子(アキレウス)に、これから私が返事をするから、席につらなるアルゴス勢の面々も、十分に気をつけて、私のいおうとするところを、めいめいがよく聞きわけてもらいたい。
いかにも、何度となく、この件については、アカイア方(の大将たち)が話をもち出し、非難もしたものだ。だがけして、私がその張本人なのではなくて、張本人はゼウス神と、|運命の女神《モイラ》と、濛々《もうもう》とした霧中をさまよう|復讐の女神《エリニュス》なのだ。そのかたがたが、先だっての会議の席で、私の胸に、ひどい|迷い《アテ》をぶちこんだのだ、あのアキレウスがもらった褒美を、私が自分で取り上げさせた、その日のことだが。それにしても、何を私ができたろうか、神さまというものは、万事を押し通して、意図を遂行なさるのだから。
迷妄《アテ》の女神は、ゼウスの総領娘でもって、誰彼の差別なしに、迷いに引きこまれる、呪わしい女神だ。その足先は、やわらかくて、けして地を踏むことがなく、知っての通りに、人々の頭を踏んでお歩きなさり、人間どもをたぶらかしては、きっとその半分くらいは、がんじがらめになさる。いや、それどころか、先だっては、ゼウス神さえ、たぶらかされた、人間じゅうでも神さまがたの中でも、いちばんお偉いかただというのに。そら、その神をだ、ヘレさまが女の身として、詐謀《たくらみ》をめぐらしてだましたものさ、あの剛勇なヘラクレスを、立派な囲壁《とりで》を引きめぐらしたテバイの町で、アルクメネが産むはずだったその日のこと。いかにもな、ゼウスさまは得意になって、八百万《やおよろず》の神々たちに向かっておいいになるには、『よく聞くがいい、のこらずの男神たちや女神たちも、私の言葉を、それは私の心が、胸のうちでいえと命じることなのだから。今日《こんにち》この日に、お産の難儀を助ける|お産の女神《エイレイテュイア》〔助産の神で、ヘレと同視されることもある〕が、光明界へと、あたりに住まう者どもをみな支配すべき人間を導きいだそう、それこそ、私の血筋をひく、丈夫《ますらお》どもの家系の者だが』
(こう、ゼウス神がいわれると)それに向かって、ヘレ女神が、ずるいたくらみを胸にかくして、おいいのよう、『嘘ばっかりおっしゃって、今度もまたお話の始末はおつけにならないのでしょう。なんならばさあ、誓ってくださいませな、オリュンポスのご主人さま、堅い誓いをね、その家系が、あなたのお血を引いております人たちのうち、今日この日に、女の足のあいだに落ちる者こそ、まさしく、あたりに住まう人々をみな統治する君主《きみ》になろう、ということをですわ』
こういわれたが、ゼウスは少しも、このずるいたくらみを悟らなかった。それでおごそかな誓いをしたが、そのときは、ひどい迷いにとらわれたものだった。そこで、ヘレは、オリュンポスの峰を飛び立って出てゆくと、またたくまに、アカイア国のアルゴスに着いた。そこにおいでの、ペルセウスの子ステネロス〔ヘラクレスの大叔父〕の気高い奥方(の身の上)を知っておいでだったものでな。愛し子をはや懐胎してからいましも七カ月で、まだ月たらずなのもかまわず、すぐ光明界へと子供を引き出し、一方、|お産の女神《エイレイテュイア》を手もとに引きとどめておいて(行かせず)、アルクメネのお産をとめておかせた。
それから自分で、この次第を知らせに、クロノスの御子ゼウスに向かっていうよう、『ゼウス父神さま、ひどいいかずちの(御主《おんあるじ》さま)に、念のため、ちょっと申しあげときましょうが、ただいま、アルゴス人《びと》らの君となるべき立派な人物が生まれましたの、ペルセウスの裔《すえ》で、ステネロスの息子、エウリュステウスと申しますお血筋の者、アルゴス人《びと》の君としても恥ずかしくはございますまい』
こういわれると、ゼウス神は、胸をふかく、鋭い苦悩にさしつらぬかれた。そこですぐさま、迷妄《アテ》の女神の、結いあげた髪のふさもつややかな首をひっつかまえられたのは、心にたいそうお怒りなさったからさ。そしてきつい誓いをお立てなされて、けして今後は、オリュンポスへも、星のきらめく大空へも、またとふたたび、迷妄《アテ》の女神は来させぬ、誰彼の差別なしに迷わせる者だから、とおっしゃって、御手でぐるぐる振りまわしたうえ、星のきらめく大空からほうり出された。ほどなく、(女神は)人間どもの田畑へ着いた。それからのちも、ご自分のいとしい息子(ヘラクレス)をごらんのたびに、嘆いておいでなさったものだ、エウリュステウスにいいつけられた難題のため、不当な仕事に骨を折っているのを見てな。
それと同じく、私にしても、あのたいそうな、きらめく兜のヘクトルが、船々の舳のあたりで、アルゴス勢をどんどん討ってゆくのを見ては、自分から最初に冒《おか》したあの迷妄《まよい》を、とうてい忘れはできなかったのだ。だが、一度迷いにおちいったことを自覚したこのうえは、その償いにも、今度は十分埋め合わせをして、たくさんな補償の品を贈るつもりでいる。それゆえ、あなたも、戦いをしに起ち上がってくれ、そして他の者どもをも奮起させろ。贈り物のいっさいは、私がここへ用意しようからな、昨日あなたの陣屋へいって、勇敢なオデュッセウスが、約束した品々を残らずだ。それに望みとあれば、まあ戦闘へと気は急《せ》こうが、待ってもらいたい、贈り物をいま、家来たちが、私の船から運び出して持ってこようから、あなたの満足なさろうくらいに進上するのを見てくれるように」
それに向かって、足の速いアキレウスが答えていうようには、
「アトレウスの子(アガメムノン)よ、このうえなく誉れの高い、武士たちの君主《きみ》であるあなたが、贈り物をくださろうと思われるなら、よろしいだけ持って来させるなり、または手もとに置かれるなり、されるがよかろう。今はたださっそくにも、戦さを心がけよう。ここであれこれいい立てて時を過ごすのは、無用のこと、それよりもっと大事な仕事が残っている。誰彼となく皆にたいして、またアキレウスが、先手の勢に加わって青銅の槍を手に、トロイア方の陣列を破ってゆくのを見せなくてはならない。そのことをよく皆さんがたも心において、敵の武士と戦ったがいい」
それに向かって、知恵分別に富んでいるオデュッセウスが答えていうには、
「いやまったく、どんなにきみが強いにしても、神にもひとしいアキレウスよ、断食をしたままで、アカイア軍をイリオスに向かわせ、トロイア勢と合戦しろとうながし立てはできますまい。戦さの出入りというものは、いったん武士たちの陣列がぶつかりあって、両方の軍勢に神さまが気勢を吹きこみなさったうえは、短い時間のことではすむまいからな。それゆえ、速い船々のかたわらで、アカイア勢に、飯だの酒だのを詰めこむように命令なさい。それがつまり、気力だとか武勇とかいうものになるのだ。
いったい武士が、まる一日じゅう、太陽の沈むまで、飯もまったく食わないでいては、敵に向かって戦さをするのも不可能だろう。もとより心気では、ただひたむきに、闘いあおうとはやり立つだろうけれども、その間にも知らず知らずに、手足が重くなり、飢えだの渇《かつ》えだのに襲われてきて、進もうにも、膝頭が、いっこういうことを聞かない。ところが、酒にしろ、食い物にしろ、飽きたりるほど十分にとっていたなら、敵方の兵士たちと、たとえ一日じゅう戦いつづけようとも、それこそ腹中にある肝《きも》にしても、勇気に満ち満ち、手足だって、みんなが戦さをやめて引き退るまで、疲れを覚えはしないだろう。
それゆえ、会衆をみな解散させて、食事の用意に取りかかるよう命令なさい。また(アキレウスへの)贈り物の品々を、武士たちの君主《きみ》であるアガメムノンは、集まりの場のまんなかへ、運んでこさせるのがよろしいでしょう、アカイアの人々がみな、じきじきに眼でみるように、また(アキレウスよ)、あなたもみれば心もやわらごうから。それで王にはまた、アルゴス勢の間に起ち立がって、誓言をしてもらいたい、まだこれまでにはけして、あの少女(ブリセイス)の閨《ねや》を訪ねたり、肌に触れたりしたことはない、と。≪まあ、それが、王よ、世間の男女の習わし、というものだが≫
また(アキレウスよ)、あなたのほうでも、胸の底から、心をやわらげるのがよい。そうしたうえで、今度は、あなたのために、陣屋の中で、豊かな馳走を用意するようにしましょう、いささかたりとも、正当な待遇《もてなし》に、あなたが不足を感じなどせぬように。またアトレウスの子よ、あなたも、今後は、何人《なんぴと》のことについても、いっそう正しく振舞っていだだきたい。君主《とのさま》であるかたのほうから、まず仲直りをするというのは、すこしも不当なことではない、こちらが先に手荒な振舞をしたときには」
それに向かって、今度は武士たちの君主《きみ》であるアガメムノンがいうよう、
「うれしく思うぞ、ラエルテスの子(オデュッセウス)よ、いましがた、きみのいった言葉を聞いてな。いかにもきみは、すべてのことを条理にかなって、諄々と述べ立て、いいつくされたからな。それは私も誓言するつもりでいる、私も心からそう望んでいるのだから。また神明に誓って、それらの言葉を破ることはしない。それゆえ、アキレウスも、このままここで待っていてもらいたい、それまではな、まあ戦いたさに気はせくだろうが。またほかの人々も、みな一つところに待っていてくれ、先ほどの贈り物が陣屋から着くまで。そしたら私たちが、堅い誓いを立てあおうから。
またとりわけて、きみ自身にたいして私が頼みもし、指図もしたいと思うのだが、アカイア全土の兵士の中から、とりわけすぐれた若者たちを選び出して、私の船から贈り物にする品々を運ばせてはくれまいか、アキレウスに、昨日贈ろうと約束した品全部をな、それに女たちも連れてきてくれ。またタルテュピオスには、さっそくにも、アカイア軍の広々とした陣営のなかで、牡猪を、ゼウス神と、太陽神とへ、贄《にえ》まつりに献げるよう、支度をさせろ」
それに向かって、足の速いアキレウスが答えていうよう、
「アトレウスの子で、このうえもない誉れをもつ、武士たちの君主《きみ》たるアガメムノンよ、ほかの時でしたらば、それこそ一段と、こうした仕事に骨折らせるのも結構なことでしょう、戦さの合間で、一休みとでもいう場合ならば。それにまた、私の胸に湧き立つ思いが、これほどまでに高揚されていなかったなら。ところが現在は、プリアモスの子のヘクトルが討ち取った者どもは、さんざん切り刻まれたままで、ほうっておかれている、ゼウスが彼に栄誉を与えられたものですから。それで、あなたがたは、いま私らに食事をとれとおすすめだが、私だったら、現在なら、アカイアの兵士たちを、戦さにかかれと命じるでしょう、食事もせずに、ひもじいままで。そして、日が沈むのといっしょに、十二分な夕餉《ゆうげ》の支度にかかるよう命じましょう、損害の仕返しをすませたうえで。それ以前には、まあともかく私の咽喉《のど》には、どんな食物にしろ飲み物にしろ、とうていとおりっこはありますまい、親友を死なせてしまったうえ、いまも陣屋へ、鋭い青銅の刃に、さんざ切り刻まれたまま、臥《ね》かしてあるのだから。玄関に向けて置いてある、その屍をとり囲んで、僚友《なかま》たちがすすり泣きしているのです。だから、いまおっしゃったようなことは、てんで私の考慮にははいる余地がありません、ただ殺戮《さつりく》と血と、武士たちの暗澹とした呻吟のみです」
これに向かって、知恵分別に富んでいるオデュッセウスが返事をするよう、
「いや、ペレウスの息子のアキレウスよ、アカイア軍の中でも抜群の勇士といわれるきみが、もちろんずっと私より武勇もすぐれ、槍にかけても上手なことが、少々どころでないのは十分わかっているが、私のほうでも、またきみよりは、はかりごとだの思いつきでは、多分に先輩格だといえるだろう、きみより年も上のことだし、世間もよけいに見ているからな。それゆえひとつ私のいうことを、我慢して腹におさめといてくれ。戦さの応酬《やりとり》というのは、まったくすぐに、人間どもをげんなりとさせるものだ、その仕事といったら、おおかたは、麦稈《むぎわら》ばかりを青銅の刃が地面に撒《ま》き散らすくせにして、収穫ときたら、ほんのちょっぴりだ、人間どもがする戦争の取締り役をお勤めなさるゼウス神が、秤《はかり》をお決めなされるときには。〔最後の決断、勘定をつけられるとき。戦争は引き合わないもので、できるのは死人ばかり、儲けはわずかである、との意〕
それゆえに、胃袋でもって、アカイア軍が戦死者を悼《いた》もう、などというのは、とんでもないことだ。なぜというと、とても大勢が、つぎからつぎへと、毎日毎日倒れてゆくありさまだから、いったいいつになったら、この仕事(胃袋での哀悼)にきりがつけられよう。それゆえ、人が死んだら、その人をすぐ葬っていかなければならん、心をしいて鬼にしてな、ただ一日その日だけ、涙を流して悼んだうえで。一方、この残酷な戦争を、ともかくも生きのびて残った者は、まず飲食を心がけるのがよろしいのだ、なおいっそう十分に、敵と目ざす者どもと、しじゅうはげしく戦いあえるようにと、けして滅らぬ青銅(の物の具)を身に着けてな。また誰にもせよ、兵士であるものが、格別な督励を待って、ぐずぐずやっていてはならん。これこそ、その催促なのだ、アルゴス勢で、船のかたわらにぐずぐずやってるやつどもは、ひどい目にあわしてくれると。では、さあ、みないっせいに突進してゆき、馬を馴らすトロイア勢に、尖鋭な戦いぶりを示してやろう」
こういうなり、ネストルの息子たちや、ピュレウスの子メゲスや、トアスにメリオネスに、またクレオンの子のリュコメデスやメラニッポスを引きつれて、アガメムノンの陣屋へはいっていった。それから間もなく、話をするに従って、仕事はすぐさま片づけられ、三つ脚の鼎《かなえ》を七つ陣屋の中から運び出したのは、さっき約束したとおりである。それにぴかぴか光る釜を二十個と、十二頭の馬もいっしょに、また引きつづいて、申し分なく手技にすぐれた婦人を七人、そのうえ、八人目としては美しい頬をしたブリセイスを連れ出して来て、その一行の先頭には、オデュッセウスが黄金《きん》の錘《おもり》を、みなで十貫ほど、秤にかけて持ってゆくと、他のアカイア方の若武者たちも、それぞれに贈り物をたずさえて、これにつづいた。
こうして、その品々を、会議の席のまんなかへすえて置くと、アガメムノンは立ち上がった。そして、音声《おんじょう》が神にもおよぶと人にいわれるタルテュビオスが、牡猪を両手に提げて、兵士たちの統率者であるアガメムノンのわきへ立ち並んだとき、アトレウスの子は、両手をもって短刀を引き抜いた。これはふだんからたずさえている長剣の、大きな鞘のわきに並べて吊るしていたものだが、それでまず、猪の頭の毛を切り取ると、ゼウスに向かって両手を挙げて祈りつづけた。その間、アルゴス勢は、ひっそりと音を静めて、そのままそこに、定めのとおり、君王《おうさま》の言葉にきき入りながら坐っていた。
さて、祈祷を終えると、広々とした大空をあおいで、アガメムノンがいうようには、
「いまこそごらんください、まず至高至善の御神ゼウスをはじめとして、大地《ゲー》も、太陽神《ヘリオス》も、また|復讐の女神《エリニュス》たち――地下にあって、誰にしろ偽りの誓いを立てた人間どもに罰を与える神々もまた。私が、乙女ブリセイスに手をつけたなどとは、とんでもないことだ、また臥床《ねどこ》の支度や、その他の勤めなどを求めたこともない。全く手も触れられずに、しじゅう私の陣屋に逗留していたのだ。もしこの誓いが、いささかたりとも偽りならば、それこそ神々が、どれほど多くの苦しみを与えられてもかまわない、人がいったん誓いを立てといて、それにそむいたとき、受けると決めてあるだけのを」
こういうなり、情け容赦もない青銅(の刃)で、牡猪の咽喉を剖《さ》くと、タルテュビオスが、その猪を受け取って、ぐるぐる振りまわしてから、灰色の海の濶然とした深みへと、魚どもの餌食になれと投げこんだ。そのおりにアキレウスは立ち上がって、戦闘をたしなむアルゴス勢の間に立って、いうようには、
「ゼウス父神さま、まったくあなたは大変な迷いを、人間どもにいつもお与えなさいます、さもなくば、けして私の胸のうちに、もう骨の髄からのはげしい憤怒を、アトレウスの子(アガメムノン)が起こさせようとは、またあの娘を、私の不承知を押し切って、無理矢理に連れていこうとも、しなかったでしょう。つまりは、なんとかして、ゼウス神が、大勢のアカイア人《びと》を死なせてやろうと、お考えなさったからのことなのだ。ではさあ、皆も、夕餉《ゆうげ》にと出かけなさい、戦さをそれからしかけるためにも」
このように声をあげていい渡し、早々に集会を解散して立ち去らせた。それで一同はてんでんばらばらに、めいめい自分の船陣へと引き取ったが、一方こちらの、意気さかんなミュルミドン勢たちは、贈られた品物を取り片づけると、それを運んで、神々しいアキレウスの船へと向かった。そしていろんな品物は陣屋の中へすえておき、婦人たちはよろしく坐らせ、馬どもは、誇らかな従者たちが、馬の群れの中へ追いこんでおいた。
おりからブリセイスは、黄金の(美の女神)アプロディテともまごう姿で、パトロクロスが鋭い青銅(の刃)にさんざん切り刻まれている様子を見るなり、そのわきに倒れ伏して、高い声をあげて泣き叫び、両手で胸や、やさしい頸筋、また美しい面差しをかきむしりながら、涙を流して、女神とも見えよう女がいうようには、
「パトロクロスさま、あなたは、みじめな私にとっては、このうえなく大事なかたでしたのに、この陣屋を、私が出てゆきました節には、まだお元気だったのを、いまこうして帰って来ましてお目にかかれば、すっかり息の絶えきったお姿とは、兵士たちの頭領《かしら》ともあおがれましたあなたさまが。ほんとうに私は、つぎからつぎへと、不幸に襲われつづけなのです。父さまや母上さまが、私を妻にとおやりになった、その夫は、都城の前で、鋭い青銅(の刃)に切り殺されるのを、現にこの眼で見たものでした。また私と一つの母から生まれた三人の兄弟たちも、その他身内の人たちも、みなそろって最期の日を迎えたのです。それでもけして、あなたさまは、私の夫を、足の速いアキレウスが討ち取ってから、神聖なミュネスの城市《まち》を攻めおとしたおりにも、私が泣くのをほうっておおきなさらずに、いつかは私を、尊いアキレウスさまの正式な妻にしてくださろう、とおっしゃいました。それで、船へ乗せて、プティエへ連れ帰ったら、ミュルミドンの者らといっしょに、婚礼祝いもしてやろうと。それゆえ、いつもお情け深かった、そのかたの最期を、心から泣いてお悼《いた》みするのです」
こう泣きながら語るのに、女たちは追いかけて悲嘆をつづけた、パトロクロスをうわべに立てて、めいめいが、自分自身の身の悲しさを嘆いたわけだ。さてアキレウスその人のまわりには、アカイア勢の長老たちが集まってきて、食事をとるようにと懇願したが、アキレウスは相も変わらず悲嘆をつづけて、ことわっていうよう、
「お願いだ、もしも私のいうことを、親しい僚友《なかま》の一人として、きいてくれるなら、どうか私に、飲み物や食い物で腹を満たせとすすめないでおいてくれ、いまも私は恐ろしい悲嘆に襲われているのだから。太陽が沈むまでは、どうあろうとも、このままで我慢をつづけていくつもりなのだ」
こういって、他の領主《とのさま》がたを、それぞれにみな引きとらせたが、二人のアトレウスの子(アガメムノンとメネラオス)だけは残っていた。それから尊いオデュッセウスや、ネストルにイドメネウスと、さらに年寄りの騎士ポイニクスも、あとに残って、絶え間もなく悲嘆をつづけるアキレウスを慰めようとしたけれども、アキレウスはいっこうに、血みどろな戦さの顎《あぎと》に躍りこまないうちは、心の慰む様子もなく、むかしのことを思い出しては、しきりにふかく嘆息し、声をあげていうようには、
「ほんとにきみは、不幸な最愛の友よ、私のために何度となく自分でもって、陣屋の中で、うまい馳走も調えてくれたな、すなおに私のいうまま、いつでもアカイア勢が、せきこんで、馬を馴らすトロイア軍に、涙にみちた闘いをしかけようとした場合には。それなのに、現在はもう、さんざ切り刻まれて、きみは倒れ伏している、それを見る私の胸は、食い物も飲み物も、すぐそばにありながら、きみを嘆き悼むこころに、咽喉も通らないのだ、なくなったきみを愛惜せる思いに。まったくこれ以上に、この世であわれな、ひどい不幸はないだろうよ、たとえ父上がなくなられたという知らせが来たとしてもな。いかにも、そのかたは、いまおそらくはプティエで、これほどの息子を連れていかれたことを嘆いて、大粒な涙を流してもおいでだろうが。その私は、いま見も知らないよその郷《くに》で、戦慄に値するヘレネのために、トロイア勢と戦っているところなのだ。≪あるいはまた、スキュロス島で育てられている愛しい息子(ネオプトレモス)が死んだと聞いても、(これほどは悲しむまい)。もしもまだ、神とも見えようネオプトレモスが、生きているとしてのことだが≫
それというのも、これまでは、心中にこう覚悟をきめていたものだった、私のほうが、一人だけ、馬を飼うアルゴスから遠いところで、このままこのトロイアで、生命《いのち》をおとすかもしれぬ、だがきみパトロクロスのほうは、プティエへ戻って、私の息子をやがては黒く塗った速い船に乗せこんで、スキュロスから連れて来たうえ、私のあらゆる財産や召使いたちや、高い屋根の大きな屋敷も、すっかり渡してくれるだろうと。なぜというと、もうその時分は、ペレウスもとっくに死んでしんでしまっているか、さもなくとも、まずやっとこさと、生命《いのち》はもっても、いまわしい老年にさいなまれて、またしじゅう私についてのむごたらしい報せが来るのを待ち構えて嘆いていよう、と思われるのだ、私がこの世を去ったと伝えてくる時をな」
こういって涙を流すと、長老たちも、それにつづいて悲嘆をくり返した、めいめいが故郷の家に置いてきた人々のことを思い起こして。一同がこのように嘆く様子を見て、クロノスの御子(ゼウス大神)は憐れをもよおし、さっそくと、アテネに向かって、翼をもった言葉をかけ、
「私の娘《こ》よ、もう本当に、あなたは、あの勇敢な武士を見限ったのかね。そら、あそこの、まっすぐな舳の船の前のところに、彼は坐りこんでいて、愛する友を悼んで泣き悲しみ、他の人々は、それこそ皆、食事をしに出ていったのに、断食して飯も食わずにいる。だからさあ、出かけていって、あの男に、神酒《ネクタル》や美味な神食《アンブロシア》を、胸の中へしたたらしこんでやれ、飢餓にまた襲われなどせぬようにな」
こういって、もう前々からそうしたがってるアテネをけしかけたので、女神はすぐさま翼が長く声も鋭い隼《はやぶさ》の姿を仮りて、天上から高空を分けて飛んで降りた。一方、アカイアの軍勢は程もなく、陣営をこぞって甲冑に身を固めていった。その間に、女神は、アキレウス(のもとへいって彼)の胸のうちへ、神酒《ネクタル》と、美味な神食《アンブロシア》とをたらしこんだ、ありがたくない飢餓などが彼の体を襲わないようにと。
それから自身は、稜威《みいつ》のわたらぬ隈《くま》とてもない父の御神の、堅固なお宮へ帰ってゆかれる。こちらは(アカイア勢の)兵士たちが、速い船々のかたわらから繰り出してゆく。そのありさまは、さながら、ひっきりなしに、大空から、吹雪の片《ひら》が舞い落ちるようである、冷たいものが、高い空から湧き起こる北風に吹きまくられて。それと同様に、絶え間もなく、輝かしく照り耀《かがや》くたくさんな兜の群れが、船々からぞくぞくと出て来るのに、臍《ほぞ》をもった大楯だの、頑丈な実《さね》を重ねた胸甲だの、トネリコの柄の槍だのが繰り出せば、そのきらめきは天にも届き、あたりの大地もひとしくきらきら笑いさざめいた。また武士たちの足もとからは、轟然たる物音が湧き上がる。そのまっただなかで、勇敢なアキレウスは、甲冑をいま身に着けていった。
≪その歯並みからは、歯がみの音がし、両眼の燃え立つ様子は、さながら火の輝きのよう、またその心臓には、我慢のしようもない苦しさが忍びこむのに、アキレウスは、トロイアの人々への憤怒に燃えて、ヘパイストスが骨折ってこしらえ上げた、神の贈り物である物の具を身に着けた≫
まず初めには、ふくらはぎへと、銀ごしらえの踝《くるぶし》金具をしっかりつけた脛当ての、立派なものをあてがってから、つぎには胸のまわりへ、胸甲を取って着こんだ。そのつぎには両肩へ、銀の鋲をいくつも打った青銅の、両刃《もろは》の剣を投げかけ、つづいて大きな楯のがっしりしたのを手につかめば、その輝きが、遠いところまで、さながら満月のようにきらめきわたった。
あたかも海上をはるかに、燃えあがる火事の火明りが、船乗りたちにも認められるようである。その火は、ずっと高いところの、山の上にぽつねんと孤立した牧人小屋に燃え出したものだが、吹きすさむ風の勢いは、否応なしに水夫たちを、親しい人たちから遠いところへ運んでゆく。それと同様、アキレウスの、みごとな技をつくして飾りをつけた大楯から、その輝きが、高い空まで上っていった。また頭へは、どっしりとした四つ角兜を、取り上げてかぶると、馬の尾の飾りを立てたその兜は、さながら星のようにきらめきわたり、その周囲に、ヘパイストスが(兜の)鉢をぐるりとめぐって、いっぱいに垂れ下がらせた黄金《きん》の小総《おぶさ》が、なびいて揺れた。
さて、このように、勇ましいアキレウスは物の具を着けたが、なおその着工合を、よくぴったりと体にあてはまったか、また駆けるとき、手足の工合はどうかなどと、試してみると、まったく羽根でも生えたように、この兵士らの統率者(アキレウス)を、宙に浮かせるごとくであった。それから今度は、槍立てから、父親譲りの投げ槍を、重くて大きくがっしりしたのを、引き抜いて手に取った。これはまったく他のアカイアの人々には手に合いかね、ただ一人、アキレウスだけが、ふるうことができたものだった。ペリオン山のトネリコの木で造ったこの槍は、もと老馬人《ケンタウロス》のケイロンが、ペリオンの峰から取ってきて、勇士たちを討ち取るようにと、アキレウスの愛する父(ペレウスの婚礼祝い)に贈ったものだった。
また(その戦車を牽く)二頭の馬は、アルキメドンとアルキモスとが、世話をして軛《くびき》につけにかかった。まず立派な胸帯をぐるっとまわし、それから轡《くつわ》を顎に向かって投げかけると、手綱をうしろへ、堅固にくっつけ合わせた乗り台へ向け、ひっぱりつけてアウトメドンに手渡せば、手にきらきら光る鞭をしっかりつかんだアウトメドンは、二頭立ての馬車へと飛び乗る。そのうしろ座には甲冑をよろしく着けたアキレウスが、赫奕《かくやく》として|天空を往く《ヒュペリオン》(太陽)のように、物の具に輝《て》りかがやいて、進んでゆき、自分の父の馬どもに、ものすさまじい音声をあげて励ますよう、
「クサントスにバリオスと、ポダグレの、遠くまで名のとどろいた仔馬たちよ、いいかな、前よりもっと、よく気をつけて、無事に乗り手をダナオイ勢の陣中へと連れ帰ってくれ、十分に戦闘をすませたならばな。けして、パトロクロスを、討ち死したまま、その場所へ置いてきたようにではなく」
すると、それに向かって、軛《くびき》の下から、足をちらちらきらめかす馬クサントスが、言葉をかけた。ぐっと首を低く垂らせば、たてがみはみな、軛のわきを枠《わく》から外へ流れ落ちて、地面にもさわろうばかりである、≪このように、人語を発するようにしたのは、白い腕の女神ヘレだったが≫
「いかにも十分この度とても、無事にお帰りなされましょう、剛毅なアキレウスさま。しかしまったく、ご最期の日は切迫しております。もちろんそれは、私どものせいではないので、あるお偉い神さまと、無情な運命《さだめ》のなすところです。またけして私どもの脚ののろさや怠慢が、トロイア勢に、パトロクロスさまの肩から、物の具をはぎ取らせたわけではなく、神さまがたの中でもいちばんお偉い、あの髪もみごとなレト女神のお子さまが、先陣の間に討ち取り、ヘクトルに誉れをお授けだったので。私どもは、まったく西風の息吹と同じに馳《かけ》りもしましょう、その風脚《かざあし》が、いちばん軽いという風ほども。それにしても、あなたさまには、ひとりの神と男とに、力まかせにお討たれになる定めがきまっておりますので」
こういい終えると、(世界の秩序を護る)|復讐の女神《エリニュス》〔エリニュスは、ふつう復讐の女神とされるが、正しくは宇宙の秩序、道を護って、これを破る者を咎める役。ここでは人間に天機のもれるのを防ごうとした〕らが、(馬が物をいう)声を止めた。それに向かって、たいそう機嫌を悪くして、足の速いアキレウスがいうようには、
「クサントスよ、なぜ私の死などを予言するのか、けしておまえにはふさわしくないことなのに。私とて、もうよくそれは心得ているのだ、この土地で、愛する父や母上からも、遠く離れて死ぬ運命だと。だが、たとえどうあろうとも、トロイア勢を、たっぷりと戦さに飽きたらせて追い立てずには、おかないだろう」
こういうなり、先陣の間へと、雄叫びをあげつつ、単《ひと》つ蹄《ひづめ》の馬どもを向けていった。
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諸神闘いあうの段
【テティス女神との誓約もいまは果たされ、アキレウスにたいする謝罪と報償もすんだので、大神ゼウスは干渉を止め、神々にめいめい勝手にトロイア方なりギリシア(アカイア)方なりへ味方して戦うことを許容された。一方アキレウスは、パトロクロスの仇《あだ》ヘクトルを探ねて戦場を駆けめぐる。それをアポロンは妨げようとして、トロイアの王族アイネイアスを起たせる。彼がアキレウスと向かってすでに危いところをポセイドンが救い出した。アキレウスはついでプリアモスの子ポリュドロスを追いかけ投げ槍で仕止める。これを望見したヘクトルは憤ってアキレウスに向かって立った。その投げた槍をアテネがわきへ外らせる。つぎにヘクトルの危いところを、アポロンが庇護して濃霧をかけて救う。アキレウスはなおも敵を探してトロイア方を倒しながら進んでゆく】
このようにアカイア勢は、舳《へさき》の曲がった船隊のわきで、ペレウスの息子(アキレウス)よ、まだ戦闘に飽きたりないきみをとり囲んで、武装をしていた。こちらのほうではトロイア勢が、野原に突出した丘のあたりで、同じく物の具に身を固める。その頃おい、天上ではゼウス神が、慣例《しきたり》の女神テミスを呼び寄せ、山ひだのたくさんあるオリュンポスの頂きから、会議の席へ、諸神を集めるようにいいつければ、女神は四方へ出かけていって、神々を、ゼウスの宮居へ来るようにと招き寄せた。そこで世界じゅうの河々にも、極洋神オケアノス以外には、来ない川というのはなく、ニンフたちも、美しい森の繁みや、川々の源の泉や、若草の生い繁る牧場などに住むものすべてが、みな群雲《むらくも》を寄せるゼウスの宮居へ集まってきて、磨いた石の広敷《ひろしき》に坐りなさった。この宮居というのも、父神ゼウスのために、ヘパイストス神が巧みな技《わざ》で、工夫をこらして造営したものである。
このようにみんな、ゼウスの御殿に寄り集まった中には、大地を揺すぶる御神ポセイダオンとても、女神の召集を聞き流しにはされないで、海から出て来て間にまじり、まんなかへんに坐りなさると、ゼウスの神慮をおたずねになって、
「どういうわけで、またまた、白く輝く雷電の御神が会議の座へと、諸神を呼び集められたのです、トロイア勢とアカイア軍とについて、何かまた思案なさっておいでなのか。彼らのすぐわきで、闘いや戦さが、燃え立っているからな」
それに向かって、群雲を寄せるゼウスが、おっしゃるよう、
「大地を揺する神よ、あなたはとっくに知っておいでだろう、私が胸に抱いている考えを、何のために、こう皆さんを招集したか。どうも人間どもが、みなどんどんと死んでゆくので、心配だからだ。だが、ともかくも、私としては、オリュンポスの尾根に坐って、待っているとしよう、そこで様子をながめながら、心を慰めようから。ところで、他の神々たちは、みな出かけてくれ、トロイア方とアカイア方との間へいって、めいめい自分の意志によって、どちら側でも好きなほうへ加勢につくがいい。それというのも、もしアキレウスが、たとえ一人でも、トロイア方と戦さをはじめると、もう彼らは、ちょっとの間さえ、足の速いペレウスの子(アキレウス)をささえることができないだろう。まったく、以前だって、彼の姿を見かけると、もうぶるぶるふるえていたくらいだから。いまとなって、親友の死に、恐ろしく憤激している場合は、城壁までも、定業《さだめ》に超えて、破壊しつくしはすまいかと気遣うのだ」
こうクロノスの御子はおっしゃって、絶え間もない戦いを呼び起こされた。そこで神さまがたも、それぞれちがった心をもって、戦さへと出かけてゆかれる。中にもヘレ女神は、船隊の集まっているほうへ、パラス・アテネや、大地を揺すぶるポセイダオンや、お助け神のヘルメスともども、出かけてゆかれた。この神さまは、心底の抜け目のなさでは、ひとにすぐれたお方である。それにヘパイストスまで、力こぶを入れ意気揚々とついてゆくが、ちんばをひくその足もとには、痩せ細った脛《すね》がせかせか動いていた。
またトロイア方へは、きらめく兜の武神アレスや、それといっしょにまだ前髪も切ってない(青年の)アポロン神、それから矢を射かけられるアルテミスに、レト女神〔アポロン、アルテミスの両神の母とされているが、もともと古い小アジア系の大地母神だから、トロイア方につく〕やクサントス(の河神)、微笑のお好きなアプロディテがおいでになった。
さて神々が、やがて死ぬはずの人間どもから、ずっと離れていたあいだは、アカイア勢がたいそう勝ち誇っていた。アキレウスが、長いあいだ苦悩の多い戦いから手を引いていたのが、急に出てきたからであった。反対にトロイア方は、誰彼の差別なしに、恐怖のため、手も足も、ひどい震えに取り憑《つ》かれた――足の速いアキレウスが、きらきらした物の具を着け、人間に禍いをなす軍神アレスとそっくりなのを目にしたからだ。
だがいよいよ、武士たちの群集の中に、オリュンポスの神さまがたがやって来て、兵士たちをそそり立てる。頑強な|争い《エリス》の女神が立ち上がると、アテネも、囲壁《かこい》の外の掘りあげた塹壕のかたわらに立って、雄叫びをあげ、またははげしく鳴りとどろく海辺へ出て、高らかに呼ばいあげる。こちらの側では、軍神アレスが、まっ黒な颶風《はやて》そっくりに、城の砦の頂上から、あるいはまたシモエイスの河畔にある|美し丘《カリコロネ》に駆け上がって、トロイア勢を、気負いするどく励まし立てた。
このように、それぞれ両方の陣営を、真幸《まさき》くおいでの神さまがたが激励して闘わせるうち、神々自身の間でもたいそうな争闘が始まった。人間どもと神々との御父が高空《たかぞら》からひどい勢いでいかずちをとどろかせれば、それに応じて下のほうでもポセイダオンが、はても知れぬ大地を、また山々のそびえる峰を揺るがした。それで、噴泉《いずみ》にゆたかなイダの山の山の尾もみな、いくつもある山嶺も、トロイア人の城市《まち》も、アカイア勢の船々も残らず震動しつづければ、地下においでの、黄泉《よみ》の亡者の主君である冥王《ハデス》さえ恐怖に打たれ、恐れのあまり、王座から飛びあがって叫ばれた。もしや上から、大地を揺するポセイダオンが、地べたをかっ裂き、陰々として、神々にさえも忌《い》み嫌われる恐ろしい冥府《よみ》の館《やかた》が、そっくりと、人間どもや不死でおいでの神さまがたに見えはすまいか、と気遣われたためだった。
それほどひどい物音が、神さまがたが、喧嘩をたがいにやりだしたため、起こったのだった。すなわち、ポセイダオンの尊《みこと》には、面と向かって、ポイボス・アポロンが、翼のついた矢をもって立ちはだかれば、戦さの神エニュアリオス(アレス)にたいしては、きらめく眼の女神アテネが向かって立たれ、ヘレ女神には、黄金の桿《さお》の、騒々しい音をたてるアルテミス、すなわち遠矢の御神(アポロン)の姉である、矢をそそぎかける女神が立ち上がられた。またレトには、しっかりした、たいしたお助け神のヘルメスが立ち向かえば、ヘパイストスには、深く渦まく大河(の精)が、向かって立った、これは神々からはクサントス、人間にはスカマンドロスと呼びならわされる河の神である。
このように、神さまがたが神さまがたへ向かっていかれた間にも、アキレウスは、プリアモスの子ヘクトルに出くわして、一戦を交えたいものと、とりわけて熱望していた。というのも心中に、彼の血をもって、皮楯を取る戦士の御神アレスを飽きたらせようと気負いこんでいたからだった。しかし兵士らをそそのかすアポロン神は、すぐにアイネイアスを、ペレウスの子に向かって起たせ、凛然《りんぜん》たる勇気を彼の胸に打ちこみ、自分の姿や声色を、プリアモスの息子リュカオンとそっくりにした。そして(アイネイアスに向かって)、ゼウスの御子のアポロン神がいわれるよう、
「アイネイアスよ、トロイア方の指揮官であるきみが、以前に、酒宴の際、トロイア勢の大将たちに請《う》け合った、あの大言はどうなったのかね、ペレウスの子のアキレウスと、相対して一騎打ちをやってみせると」
それに向かって今度は、アイネイアスが答えていうには、
「プリアモスの子よ、どうしてそんなに、望んでもいない私を、あの意気のさかんなペレウスの子と相対して、戦えなどとけしかけるのか。それというのも、あの足の速いアキレウスに面と向かっていくにしても、いまが最初ではないのだから。以前にも、あの男は槍を取って、私たちをイダの山から追い払ったものだ、われわれの牛を襲いに来たおりのことだが。そして彼は、リュルネソスや、ペダソスを攻略したのだ。しかしゼウスは、そのおり、私を護ってくださって、胸には勇気を奮い起こさせ、この膝もすばしっこくされた(もので助かったが)、さもなくばまったく、アキレウスやアテネ女神の手にかかって、もうとっくに討たれていたことだろう。女神は彼の前に立って進んでゆかれて、彼に光を授け、青銅の槍を取って、レレゲス族やトロイア方の者どもを殺してしまえと激励しておいでだった。
それゆえ、人間の身として、アキレウスに面と向かって戦うのは不可能なのだ、いつも誰か、神さまがお一人、彼にはつき添っていて、禍いを防いでおやりになるものだから。それでなくてさえ、彼の槍はまっしぐらに飛び、人の肌を、貫かなくてはやまないものだ。しかし、もし神さまが、私らにも、戦さのけじめを公平につけてくださるものなら、けして彼だって、そうやすやすとは勝てまいだろう、たとえ彼の総身が、青銅でつくられているなど威張っていても」
それに向かって今度は、ゼウスの息子のアポロン神が答えられるよう、
「勇士よ、ではさあきみも、永遠においでの神々たちに祈りを捧げるがいい。きみだって、評判では、ゼウスの娘のアプロディテ女神から生まれた、というのだから、あいつのほうが、位が下の女神の子であるわけだ、きみの母親はゼウス神の御娘なのに、アキレウスのは、海の年寄り(ネレウス)の娘なんだから。だからさあ、さっそくにも、けして壊れない青銅(の物の具)を持って来たまえ、けしてあいつに、手きびしい言葉とか威嚇《おどかし》とかで、追っ払われてはならんぞ」
こういって、この兵士たちの統率者(アイネイアス)に、たいそうな気力を吹きこんだので、先陣の間を、きらめく青銅の物の具を着こんで進んでいったが、このようにアンキセスの息子(アイネイアス)が武士たちの群れの間を掻きわけて、ペレウスの子を目がけ突進するのを、白い腕のヘレ女神は見逃しにはせず、仲間の神々を呼び集めて、相談するようには、
「ねえあなたがた、ポセイダオンにアテネさん、お両神《ふたり》も、よく胸のうちで思案してくださいな、この始末はどうつけたものか。アイネイアスが、ごらんのように、きらめく青銅を着こんで、ペレウスの子へ向かってゆきました、そのさし向け人は、ポイボス・アポロンなんです。ですからさあ、私たちが、あいつを即座にうしろのほうへ、追っ払ってやりましょう。それとも、こっちでも、誰かがアキレウスの加勢について、たいそうな力を授けてやり、けして意気では敗《ひ》けを取らないようにしてやりましょうか。神々のうちでも、自分の側についているのは、第一級の偉い神さまがただけれど、以前からトロイア方の味方をして戦さだの合戦だのに助太刀してきた神々たちは、みなろくでなしの腑抜《ふぬ》けばかりだっていうのが、アキレウスにもわかるように。
私たちが、みんなして、オリュンポスから、この戦いの仲間入りをして下りて来たのは、あの子が、今日にも、トロイア勢の中で、ひょんな目を受けぬようにしてやるためなんですから。もっとあとになれば、アキレウスが生まれた際に、運命が紡《つむ》いでよこした麻糸に、そうときまってる限りは、すっかり絡《から》め取られることでしょうが」
それに向かっては今度は、大地を揺すぶるポセイダオンがお答えのよう、
「ヘレよ、分別も捨ててしまって、いきり立つのはおやめなさい、お人柄にもかかわりましょう。私としては、神々を、相たがいに喧嘩させるのは好ましくないと思うのです。〔私らと、他の神さまがたとをです、私らのほうが、ずっと強いのですから〕それより、これから私たちは、邪魔をしないで、高い物見台へ上って、坐っていましょう、戦闘のほうは、人間たちに委《まか》せておいて。それで、もしアレスなりポイボス・アポロンなりが、先に戦さをしかけてくるとか、あるいはアキレウスをおさえつけて、闘うことを許さないような場合には、私たちも、すぐさま彼らにたいして、はげしい闘いを始めましょうよ。そしたら、たちまちに勝敗が決して、彼らは私らの手にかかって、是非なく敗れたすえ、オリュンポスへと逃げ帰り、他の神さまがたのお集まりへ引っこむだろうと思うのです」
こう声をあげていわれると、漆黒の髪をなさった尊《みこと》は先に立って、両側から築きあげてある、神々しい、ヘラクレスの高い囲壁《かこい》の中へ案内なさった。これは彼のために、トロイアの人々とパラス・アテネとが作っておいたもので、例の怪獣〔先にポセイドンがトロイア城塞の破壊を企んだとき、海中から呼び出した、牡牛の姿をした怪獣〕が砂浜から追っかけてきたときに、人がちょっとそこへ逃げこんで(危難を)避けるためのものだった。その場所へ、ポセイダオンや他の神さまがたは腰を下ろして、肩先を(人の目から)隠そうと、周囲にけしてやぶれない雲をひきまわされた。もう一方の側では、|美し丘《カリコロネ》の眉のへんに、弓矢の神のポイボス・アポロンと、城の攻めおとし手といわれるアレス神をとり巻いて、(トロイア方の神々が)坐っておいでになった。
このように、それぞれ別なところに、神々たちは陣取ってから、たがいに計略をめぐらされたが、ひどい苦悩のもとである戦いを始めることには、まだ双方とも、二の足を踏んでいた。そのおり、ゼウス神は、はるかに高い場所にあって、開戦の合図をなされた。
そこで、両軍の兵士たちや、馬や車で、平野がすっかり埋まりつくして、青銅の輝きにきらめきわたると、みないっせいに突っこんでいった。その足もとに、大地は揺れ、かつ鳴りとどろいた。その中でも二人の、抜群と見える勇士が、両方の軍勢のまっただなかに、いざ闘おうときおいこんで向かいあったのは、アンキセスの子アイネイアスと勇ましいアキレウスとであった。まず先に、アイネイアスが、どっしりとした兜をゆるがせ、おびやかすように大股で歩いて出て来た。大きな楯の勢いもものすさまじく、胸の前に捧げて持ち、青銅の槍を打ち振り打ち振りしている。
一方のこちら側からは、ペレウスの子(アキレウス)が、その面前に向かって立ち出た様子は、さながら、悪さを働く獅子のようだった。村じゅうの人間たちが寄り集まって、打ち殺そうと意気ごんでいるところに、獅子がやって来る。だが、いよいよ血気さかんな若者どもが、誰彼となく槍を投げると、大口をあけてそれをよけ、歯のあたり一面に泡を吹き立て、その心臓は猛然たる勇気にあふれて、尻尾でもって肋《あばら》だの両側の臀《しり》などをぴしぴしと打ちすえながら、自身を決闘へと励まし立て、ぎらぎら目を輝かす。と、まっしぐらに、敵をめがけて、力まかせに飛びかかってゆく、誰でもいいから人を打ち殺すか、それとも自身が命をおとすか、試そうと。
そのように、アキレウスは、気力と凛乎《りんこ》とした武勇とに駆り立てられて、意気軒昂たるアイネイアスに当面して戦いにと立ち出て来た。さていよいよ両方からたがいに進み寄って、いよいよ間近となったときに、先がけをして、勇ましく足の速いアキレウスが話しかけるようには、
「アイネイアスよ、どうしておまえは、こんなに仲間の軍勢から遠くへ出かけて来てまで、私と闘おうとするのか。たぶんそれは、馬を馴らすトロイア人らを、プリアモスから王位を受け継ぎ、支配しようと望んでのことだろう。だが、たとえ私を討ち取ったにしろ、それだからといって、プリアモスが(王位を)褒美としておまえの手に渡すことはあるまいよ。彼には大勢の息子がいるうえ、まだ気も確かで、呆《ぼ》けてもいないからな。それともあるいは、トロイアの人々が、他の人よりずっと立派な荘園をでも選んで、植わっている樹といい、田畑といい、すてきなのを、おまえの所領に提供したからか――もし私を殺したら、やろうといって。だが、その仕事を遂行するのは、私の見こんでいるところでは、むずかしそうだな。
いっておくが、前にもたしか、おまえを槍で敗亡させたことがあったぞ。もう覚えていないのか、ちょうどおまえがひとりっきりで、牛どもの世話をしていたのを、イダの山から、牛を捨て、すばしこい足にまかせて、またたくひまに(逃げ出させ)、追っ払ったが、そのおりおまえは、一度も返して闘おうとしなかったな。そこからおまえは、レルネソスに落ちのびたところ、それへも私がまた攻めかかって、アテネやゼウス大神のご加護により、おとしいれて、女どもからは自由の身分を奪い取り(奴隷として)虜《とりこ》にして連れ帰った。しかしおまえは、ゼウスや他の神々に助けられ(て捕まらなかった)。しかし今度は、きっとおまえをお助けにはなるまい、おまえが胸のうちであてこんでいるようにはな。だから私が、早々に仲間のうちへ引き退るがいい、とすすめてやるのだ。私に面と向かって闘おうなどというのはやめてな。何かひどい目を見ないうちにだ。やってから、やっと悟るのは、馬鹿なやつらのすることだぞ」
それに向かって、今度はアイネイアスが、声をあげて答えるよう、
「ペレウスの子よ、けして私を、小童《こわっぱ》みたいに、口先だけでおどかせるものとあてこんではならん。私だって、十分に心得ているのだ、悪口だって、他人をののしるひどい文句を並べることだって。またおまえと私と、双方の身もとにしろ、よくわきまえている、両親のことだってな――やがて死ぬはずの人間の世に、名高い話はかねがね聞いているのだから。いかにも、おまえは、私の親を眼に見たこともなく、また私はおまえの両親に会ったこともない。けれどもおまえは、尊いペレウスの胤《たね》だといわれ、母上は、美しい鬘《かつら》を結《ゆ》った、海のしずくの垂れる女神テティスだそうな。また私のほうは、器量もすぐれたアンキセスの息子として、はばかりながら生まれたもの、母親こそはアプロディテなのだから、まったく今日こそ、この二組のどちらかが、愛する息子(の死)を嘆いて泣くことになろう。けしてこんなに、小童《こわっぱ》みたいな、らちもない言葉をたがいに戦わせるだけで別れて、戦さをやめて帰るわけにはいかないのだから。
だがもしおまえが、われわれの家柄をもっとよくわきまえていようと、委細を訊《き》こうとお望みならば、多くの人も知ってることゆえ、話して聞かそう。さてまず最初に、ダルダノスを、群雲を寄せるゼウスがおもうけになって、彼がダルダニエの都を建てたその頃には、まだ聖《とうと》いイリオスは、物を思う人間どもの城市《まち》として、この平野に築かれてはいず、人々はまだ泉のたくさんにあるイダの山の麓の辺に住まっていた。そのダルダノスが今度は、息子としてエリクトニオス王をもうけなさった、この人こそは、やがては死ぬはずの人間のうちで、いちばん富裕な者だったので、その所有する馬は三千頭にも上り、それを沢地の牧場で飼養していた。みな牝馬で、まだおさなくやさしい仔馬といっしょに飛びまわっていた。その馬どもが草を食っている姿に、|北風の神《ボレアス》が恋着して、漆黒のたてがみをした馬の姿に様子を変えて、添い臥しをした。それで牝馬は受胎をして、十二匹の仔馬を生んだということだ。この仔馬どもは、麦を実らす畑の上を跳びはねるときは、実った麦穂の上を駆っていって、すこしも折り挫《ひし》ぎはしなかったそうだ。また大海の、広い背中を駆けるときは、灰色の海の渚《なぎさ》に、寄せて砕ける波の上を馳せたともいわれる。
ところで、このエリクトニオスは、トロイア人《びと》の王者としてトロスをもうけたが、そのトロスからまた、人品のすぐれた三人の息子が生まれた。イロスとアッサラコスと、神とも見違えられようガニュメデスがこれで、この(最後の)者こそ、やがて死ぬはずの人間のうちで、いちばん美男子だったのを、神さまがたが、ゼウスのために酒の酌人《つぎて》になさろうとして、天上へさらっていかれたのであった――あまりに美しい姿ゆえに、不死でおいでの神さまがたの間に置こうというので。ところでこのイロスはまた息子として、人品すぐれたラオメドンをもうけた、このラオメドンが、つまりティトノスやとプリアモスや、ランポスにグリュティオスに、また軍神アレスの伴侶であるヒケタオンを生んだものだ。一方、アッサラコスはカピュスを、カピュスはまた子にアンキセスを、そのアンキセスがすなわち私の父である。またプリアモスは、勇敢なヘクトルを生んだのだ。
はばかりながら、こうした家柄、また血統から私は出ている者だが、武士《さむらい》たちの武勇というのは、ゼウスによって、神意のままに、あるいは高めも、また弱めもされる。というのは、御神こそ至高至大のものだからである。いや、このようにつまらぬことを、小童《こわっぱ》みたいに、斬り結びあう合戦のまっただなかに立ちはだかって、しゃべくることはやめにしよう。双方とも、なお悪口をいいあうのなら、いくらでもまだいえようし、その分量は、たとえ百の漕ぎ座をもつ船だって、積み切れないほどだろう。だが、人間の舌というのは、よく動く達者なもので、あらゆる種類のいろんな話をたくさん中に仕こんでいるうえ、話す言葉を養う牧場も、あちらこちらと広さに限りのないほどだから、どんなふうにでもものをいえば、それに応じてまた他からもいわれるものだ。
それゆえ、どうしてわれわれ二人が、いま相たがいに面と向かって、女みたいに、いいあったりののしりあったりする要があろう。女どもは、よく腹を立てると、心をむしばむいさかいのために、相たがいに通り道のまんなかへ出て、相手をののしりあう、いろいろと、本当のこと嘘のことを取りまぜて。それも、怒りのために、駆り立てられての所行ではあるが。だが、武勇を一途に心がけるこの私を、言葉によって追い返しはできなかろうよ、青銅の刃によって、面と向かって決戦をしないうちは。それゆえ、さあ、すこしも早く、青銅を嵌《は》めた槍をもって、おたがいに相手を試してみたらどうだ」
こういうなり、どっしりとした槍を、アキレウスの、恐ろしく途方もない大楯へと打ちこめば、その槍先の鋭さに、楯は高いうなりの音を立てた。ペレウスの子も、いささかひるんで、楯を体から、いくらか離して捧げ持った。意気軒昂たるアイネイアスの、長い影をひく槍が、らくらくと楯を突きとおしてはいってこよう、と思ったからだが。他愛もないこと、彼はまるきり覚っていなかったわけだ、神々の賜物《たまもの》である、この世にも尊い武器が、やがては死ぬはずの人間の手によって、そうも容易にやぶられたり負けたりするはずがない、というのを。
このおりにしても、武勇にはげむアイネイアスのどっしりとした槍は、楯を切り裂くにいたらず、神々の贈り物である黄金の板にさえぎり止められた。とはいうものの、二枚の板は突きとおした。しかし残りがなお三枚あった。というのは、曲り足の御神(ヘパイストス)は、五枚の板を張っておかれたからである。その二枚は青銅づくりで、内側の二枚は錫《すず》の張り板、中央の一重だけが黄金であって、そこで、トネリコの槍は止められた。
つづいて今度はアキレウスが、長い影をひく槍を投げにかかり、アイネイアスの、よく四方に釣合いの取れた楯に打ちつけ、外縁《へり》の端《はし》の、青銅のいちばん薄く、また上に張ってある牛の皮も、いちばん薄いところへあてると、ペレウスの子のトネリコの槍は、ずっぷりと突きとおって、そのために楯がぴしりと鳴った。アイネイアスは恐れをなし、体をかがめて、楯を体《たい》から遠くへあげた。槍の身は、それで背中の上を越えて、うしろの地面へ飛んでいって突っ立ったのは、つまり人体を蔽う大楯の円い板を、二枚とも破ったわけである。それでアイネイアスは、危いところで大身の槍を避けて立ちなおったが、すぐ身のそばに突き刺さった槍の怖さに、際限もない苦しさが、両眼に蔽いかぶさった。それと見て、こちらのアキレウスは、きおいこんで、鋭い剣を引き抜くなり、恐ろしい叫びをあげて躍りかかった。それにアイネイアスは、大きな石を手につかんで――これはたいした業《わざ》で、いまどきの人間なら、二人の男がかかっても、持てないほどのを、やすやすと、一人でもって振りまわした。
このおり、もしアイネイアスが、突進して来る敵に、この石を投げつけ、兜なり楯なりに、あるいはそれがあたったにしろ、それで相手を倒すことはできず、今度は彼をペレウスの子が、間近に来たうえ刀でもって打ち果たしたろう――もし大地を揺すぶる御神ポセイダオンが、この様子を目ざとく見つけ、すぐと不死である神々たちの間で、こう話し出さなかったら。
「やれやれ意気のさかんなアイネイアスも気の毒に、まもなくペレウスの子に討たれて、冥府《よみじ》へ降りてゆくことだろう、遠矢を射るアポロンのいうままになっているおかげで。馬鹿な男さ、何一つ無残な最期を防いではくれないのに。だが、どうしていま、この男が、罪もないのに苦難にあうはずがあろう――他人の嘆きのために、用もないのに。そのうえ彼は、広大な天をおさめる神々に、いつも嘉納をうける供物を献げてきた男だ。されば、私たちが、あの男を死の手から救い出してやろうではないか、クロノスの御子(ゼウス)さえも、あるいは立腹されるかも知れないからな、もしアキレウスが、この男を殺してしまったら。それに彼は、死なないですむことに、定業《さだめ》できまっているのだ、ダルダノスの血統に後継がなくなって、絶え失せることがないようにと。クロノスの子は、このダルダノスを、自身と、やがては死ぬはずの人間の女たちとの間に生まれたすべての子供たちの中でも、とりわけ寵愛していたからだ。それにもう以前からゼウスは、プリアモスの家系の者を憎んでいたから、いまからは勇ましいアイネイアスが、トロイアの君主《きみ》になることだろう、また後世に生まれてくるその子孫たちが」
それに向かって今度は、牝牛の眼をしたヘレ女神がいわれるよう、
「大地を揺すぶる神さま、あなたがご自分でよく、胸にたずねてごらんなさいな、アイネイアスを護ってやるか、またはそのまま、まあ勇士ではありましょうが、ほうっておいて、ペレウスの子のアキレウスに討たせたものか。それはもう何度も、私たちは二人して誓いを立てたことですからね。神さまがたも、ずらりと並んでおいでのところで、私とパラス・アテネとが、けしてトロイア方には、禍いの日を防いでやるまいと。たとえトロイアの国じゅうが、はげしく燃え立つ火に焼かれて、燃えつくそうとも、と」
この言葉を聞くとすぐ、大地を揺するポセイダオンは、合戦の間、槍の穂先の群がるなかを通っていって、アイネイアスと、名も高いアキレウスとがいる場所に着いた。そしてすぐさま、ペレウスの子のアキレウスの両眼へと、濃い靄《もや》の気《け》をそそぎかけ、意気のさかんなアイネイアスの楯からは、青銅をよろしく嵌《は》めた(アキレウスの)トネリコの槍を抜いて取り、それをアキレウスの足もとのすぐ前へ置いた。それからアイネイアスを大地から高く引き上げ、宙へ投げれば、勇士たちの隊伍をいくつも、また戦車の群れをいくつも、アイネイアスは御神の手を離れてから飛び越えてゆき、たがいに斬り合いかわす戦場の、いちばんはしのところへ着いた。このところではカウコネス〔トロイア方の同盟軍〕らが、戦さに出ようと支度をしていた。さてそのすぐ間近へ、大地を揺するポセイダオンは進んでいって、彼に向かって声をあげ、翼をもった言葉をかけて、
「アイネイアスよ、神々のうちで、誰がいったいおまえに命令したのか、見境いもなく、意気軒昂たるペレウスの子なんかと、まっ正面から闘えなどと。あの男は、おまえより強くもあるし、神々からもっと可愛がられてもいる者なのに。それゆえ、あいつに出会ったら、すぐ引きさがって、けっしてもう定業《さだめ》に超えて、冥途になど送りこまれないよう気をつけろよ。だが将来、アキレウスが最期を遂げて、死の運命《さだめ》を受けた後では、それこそ今度は、武勇を奮い起こして、先陣に立って戦うがいい、アカイア勢のなかで、他には一人も、おまえを殪《たお》せる者はないはずだから」
こういうと、そのままそこへ置いていった、もう万事をはっきり明かしたので。それから今度は、大急ぎでアキレウスの眼から、靄を散らしてやったところ、こちらはそれから両眼をむいて、きつくあたりを見張ったが、顔を曇らせ、度量の大きな自分の心に向かっていうよう、
「あれあれ、何とたいした不思議を眼に見るものだ、槍は、そら、このとおり地面に刺さっているが、人間のほうはまるっきり、影も形も見えないとは。あいつをめがけて、殺してやろうと、気負いこんで投げつけたのに。きっと、アイネイアスは、不死でおいでの神さまがたに可愛がられていたのだな。あいつの自慢は、全然でたらめなことと思っていたが。だがどうともあれ、このうえあいつは、私とやりあう気は、もう持つまい。いまだって、死を免れたのを喜んでいるくらいだから。それよりもさあ、戦さをたしなむダナオイ勢を励まし立てて、他の誰なりと、トロイア方の武士《さむらい》に、面と向かって腕を試そう」
こういって、隊伍のわきをとんでゆき、勇士たちの一人一人を激励していった。
「けしてもういまは、トロイア勢を、遠くに避けてすくんでいるな、アカイアの勇士たちよ。それよりもさあ、武士は武士へとかかってゆけ、戦うことを一心に心がけて。たとえ私がどれほど武勇にすぐれていたにせよ、これほど大勢の敵に向かって、全体と闘うのは、むずかしい厄介なことだ。まったくたとえ軍神アレスが不死である神にしても、またアテネ女神にしたところで、こんなに大きな合戦の口にかかりあい、片づけるのは、むずかしかろう。だがともかく、私の力のおよぶかぎりは、腕にかけても、また足でなり、気力でなり、けしてすこしもひるみを見せはすまい。そうして絶え間なしに敵の隊伍を襲ったら、トロイア方で、私の槍の間近に来る者で、喜ぶ者は一人もあるまい」
こういって、激励しつづければ、トロイア側でも、誉れ輝くヘクトルが、声をはげまして激励したのは、アキレウスに向かってかかってゆこうと思ったからである、
「トロイアの人々よ、意気軒昂たるきみたちが、ペレウスの子を怖がることはないぞ。私だって、口先だけなら、不死である神さまがたとでも闘いえよう。武器《えもの》を取っては、骨が折れるがな、向こうがずっと上手《うわて》のかたがただから。同様にアキレウスだって、いうことをみな、遂行はできなかろう。実行のできることもあろうが、また、途中でつまずく事柄もあろうというものだ。それゆえ私は、あえて向かってゆくつもりだ、たとえ彼の手が焔《ほのお》のようだとしても。よし彼の手が焔のようで、意気は輝く鋼鉄のごとくにしろ」
こういって激励すれば、並みいるトロイア勢も、槍をあげて立ち向かうほどに、敵も味方も意気ごみはげしく、入り乱れて雄叫びをあげる。おりからヘクトルのそばに来て、ポイボス・アポロンがいわれるよう、
「ヘクトルよ、このうえはいっさいアキレウスと、先陣に出て戦うな、それより味方の軍勢の中へはいって、騒々しい競り合いからはひかえていろ、ひょっとしておまえに彼が槍をあてたり、近くから剣で刺しなどしないようにな」
こういわれると、ヘクトルはまた、武士たちの群れの間に立ち帰った、神さまがおおせになった声を聞くなり、怖気がついてしまったのだ。
さてアキレウスは、トロイア勢のまっただなかへと、心に武勇を抱きしめて、恐ろしい喚声もろとも躍りこむなり、まず第一には、オトリュンテウスの子の、勇敢なイピティオンを討ち取ったが、大勢の兵士たちの指揮官だったこの男は、河の流れのニンフが、城市《まち》のおとし手であるオトリュンテウスに、雪を戴くトモロス山の麗にある、ヒュデという富裕な邑《むら》で生み落した者だった。それがきおいこんで向かって来るのを、勇ましいアキレウスが、槍を取って頭を目がけて撃つと、頭の鉢がそっくり、二つに割れた。それで地響きたてて打ち倒れるのへ、勝ち誇って勇ましいアキレウスが、
「臥《ね》ていろ、オトリュンテウスの子よ、あらゆる武士たちの中でもいちばん手ごわいというおまえも、ここが死に場所なのだぞ。いかにも生まれは、ギュガイエの沼のほとりで、そこにおまえの、親代々の領地もあろうがな、魚がいっぱいいるヒロスの川や、渦を巻くヘルモス河のほとりに」
こう勝ち誇っていう間もなく、彼(イピティオン)の眼に暗闇が蔽いかぶさった。この男をアカイア軍の馬どもが、戦場のいちばんはずれのところで轢《ひ》きつぶしたが、アキレウスはそれにつづいて、デモレオンという、アンテノルの息子で、これも戦いには馴れた武勇の防禦者《ふせぎて》なのを、青銅の頬の金具を取りつけた兜をとおし、こめかみのところを突くと、青銅でつくった兜といえどもささえきれないで、それをさえ打ち貫き、一途にはやる槍の穂先は骨を砕いて、内にある脳味噌をみなひっかきまわし、きおいこんで来たのをそのままに討ち果たした。
それから今度は、ヒッポダマスが、戦車からぱっと跳び下り、自分の前を逃げてゆくところをうしろから背中を槍で突き刺すと、こちらは高くうなりをあげて、生命《いのち》の息を吐き出したのは、さながら牡牛が、ヘリケの御神(ポセイドン)のもとへ、贄《にえ》にとひいてゆかれながら、大きな吼え声をだすようである。若者たちがひいてゆくのに、大地を揺する御神は、彼らをお喜びなされる。それと同様に、このうなりをあげた武士の体を、雄々しい生命《いのち》は去っていった。
それからアキレウスは、槍をつかんで、神とも見えようポリュドロスを追いかけていった。プリアモスのこの息子に、かねがね父王は、戦さに出るのを、まったく禁じていた、というのも、息子たちのうち、彼がいちばん年若なうえ、またいちばんの気に入りだったから。それを足(の速さ)にかけては、誰にもひけを取らなかったので、ちょうどこのおりにも、若気の無分別から、足の速さを見せびらかそう、という考えで、先陣の間を駆けて通って、とうとう愛《かな》しい命までおとす羽目に立ちいたったのだ。
すなわちかたわらを駆け抜けていこうという、彼の背中のまんなかへと、足の速く勇ましいアキレウスが投げ槍を撃ちあてた。ところは腹帯の、黄金づくりの留め金が合わさった上に、胸甲《むなよろい》が二重になって重なっている場所、それさえ、ずっぷりと突きとおして、臍《へそ》のわきまで槍の穂先がくぐって出たのに、一声高くわめき上げ、ひざまずいて身を倒すなり、黒々とした靄の雲が彼を包むと、くずおれながら、臓腑《はらわた》を手で体へとおさえつけた。
ヘクトルは、自分の弟のポリュドロスが、臓腑を手におさえながらも、地面の上へ倒れてゆくのを見てとるなり、双つの眼に靄のかかってくる思いがして、もうこれ以上、遠方にまごまごしているのを我慢しきれず、アキレウスの面前に、鋭い槍をふるいながら立ち現われたそのありさまは、火焔を見るよう。こちらのアキレウスは、それと見るなり、おどり上がって、意気昂然といい放つよう、
「近くに来たな、私の胸にひどい痛手を負わせた男が、何より大事に思っていた親友を殺したやつだ、もうこのうえは、戦さの場《にわ》のどこでなり、相たがいに、すくみ隠れはできないことだ」
こういい放って、上目づかいに睨みつけ、勇ましいヘクトルに声をかけるよう、
「もっとそばへ来い、少しも早く、破滅の極みにゆかせてやれるように」
それに向かって、たじろぎもせず、きらめく兜のヘクトルがいい放つよう、
「ペレウスの子よ、けして私を、文句でもって、小童《こわっぱ》みたように、おどしつけられようなどと思ってはならんぞ。私だって十分に罵詈讒謗《ばりざんぼう》でも、雑言《ぞうごん》だって、いおうと思えば、いくらもいえる。いかにもおまえは武勇の者だし、私のほうがずっと劣るのも、心得てはいる。だが、このことだって、まったく神さまがたのお膝もとに委《まか》されているのだ。あるいは私が劣っていようと、おまえを槍で撃ちとめて、生命《いのち》を奪えるかもしれぬとな。私の投げる槍だって、その穂先は鋭いのだから」
こういうなり、よく振り上げて、槍をほうったが、それはアテネが、吹く風に乗せ、誉れも高いアキレウスから、逆に元へと向けて返した。それで勇ましいヘクトルの手もとに帰って、そのまま槍は足の前へ落ちた。一方こちらのアキレウスは、殺してやろうとしきりにはやって、恐ろしい叫びといっしょに、気負いこんで躍りかかった。だが、その人(ヘクトル)を、すばやくアポロン神が、神のこととて、容易にさらってゆき、靄の気に蔽いかくした。それから三度も、足の速い、勇ましいアキレウスは躍りかかって、青銅の槍をもって、三度まで、深く立ちこめる靄を突いた。だが、いよいよ四度目に、鬼にも、さも異ならない様子で、駆け寄るなり、はげしく叱咤しながらも、翼をもった言葉をかけ、
「また今度も死を免れおおせたな、犬めが、まったく、もうすぐ身近に禍いが迫ったのに。今度もまたポイボス・アポロンが助けたのか、だがきっと、将来おまえに出会ったおりは、かならず|かた《ヽヽ》をつけてくれるぞ、もし私にも、神々のうちで、どの神さまかが、後ろ楯しておいでならばな。いまのところは、またトロイア方の誰なりと、ほかの出会ったやつへかかるとしよう」
こういって、ドリュオプスの頸のまんなかを槍で突けば、足もとのすぐ先に打ち倒れた。それをその場にほうっておいて、今度はデムコスという、ピレトルの勇敢な大男を、膝のところへ槍を突き刺して、生命を奪った。そのつぎには、ラオゴノスとダルダノスという、ビアスの二人の息子、その二人へ、突きかかって、馬車から地上へ突き落した。一方は槍を打ちあてて、もう一方はそばへ寄り、刀で突き刺してである。
またアラストルの子のトロスが、アキレウスの膝へ取りすがろうと、(生命乞いに)向かってきたが――もしや自分を赦してくれはすまいかと思って――生捕りにして、同じ年頃なのを憐れんで、殺さずに放してくれよう、などとは愚かなこと、けしてきくはずもないのを覚らなかったのだ。こちらはとうてい、甘い心情《こころ》や、やさしい気立ての武士ではなく、一途に殺意をもっていたのだから。それで、両手をもって膝に取りついて、懇願しようとするところを、短剣を引き抜いて、肝臓へと突き刺せば、そのまま肝が、傷の口からすべり出て、そこから湧いた黒い血が、まとった衣のふところへいっぱいになり、暗闇が彼の両眼を蔽いかくした。そのつぎには、ムリオスのそばへ寄って、槍でもって耳のあたりを突くと、そのままに耳を貫いて、向こうの耳から、青銅の穂先が出た。そのつぎはアゲノルの子のエケクロスの、頭のまんなかを、柄《つか》のついた剣でもって撃ちすえたので、剣はすっかり血に浸ってなまぬるくなり、その両眼を、赤紫の死と、否応もない運命とが取りこめた。
それから今度はデウカリオンを、肘の筋肉がつき合っている、そのところへ、腕を貫いて、青銅を嵌《は》めた槍先で突きとおすと、そのままに、腕に錘《おもり》をかけられて立ち止まった、すぐ目の前に死を見つめて。それを刀で頸へ斬りつけると、兜ぐるみに首をそっくり、遠くへ投げ飛ばした。それでもまだ脊椎から髄が湧き出て、身体は地面に長々とのびて倒れた。
それから今度はペイレスの息子の、誉れも高いリグモスのあとを追っていった。この男は、地味の肥沃《ひよく》なトラキアから来ていた者だが、その胴中へ槍を投げると、青銅の穂先が胃の腑に刺さって、戦車から倒れて落ちた。つづいて介添え役のアレイトオスが、馬どもを向けなおしたその背中を、鋭い槍で突き刺して、車から押し落とせば、馬どもは狼狽して駆けっていった。
さながら、谷あいを、恐ろしい勢いで燃えわたる火のよう。山はもう乾ききっている、その深い森が燃えてゆくと、八方へ風が焔を追いまくって、渦を巻かせる、そのように、アキレウスは八方へ槍をひっさげて、鬼神のように、敵の者を殺しながら、荒れ狂った。黒い大地は血を流した。さながら人が、まっ白な大麦の粒を、立派な構えの麦打ち庭で、踏み分けさせようというつもりで、額の広い牡牛たちを、軛《くびき》につける時のように――それで見る見る、高いうなりをあげる牛どもの足でもって、麦が細かに輓《ひ》かれてゆく。そのように、単《ひと》つ蹄《ひづめ》の馬どもが、数知れぬ屍や楯やをいっしょに踏みしだいてゆくのに、車の軸も下のほう一帯が、血に塗りたくられ、車体をとり巻く手すりまでもが、馬どもの蹄にあたって、あるいは車の金輪から、跳ね返る血のしぶきにうたれた。そのあいだも、ペレウスの子は、一途に誉れをあげようとばかりはやって、無敵の両手を血糊でまみれさせつづけた。
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河畔の戦い
【トロイア勢を追ってゆくアキレウスは、とうとう渦巻くクサントス(スカマンドロスに同じ)河の岸に着いたが、なおも殺戮をやめない。トロイア方は二手に分れ、一隊は平原の方へと逃げてゆき、一隊はイリオスの城市《まち》に向かい逃走する。そして河の中へ火に追われるイナゴのように飛びこむのであった。それを追ってアキレウスも水中に跳りこみ、殺戮をつづけ、河流は屍でいっぱいになってもまだやめないので、河神もたまりかね、とうとう水を溢れさせ彼を溺れさせようとする。これを見たヘレ女神は火神ヘパイストスを呼び寄せ、河を鎮めさせる。河神もはげしい火の勢いに煮え立つ河水に閉口して、謝罪し引っこむ。と、アキレウスはイリオスに向かって進む。アポロンはなおも引きのばしを図って、アゲノルをやり、その勢いを外《そ》らせる】
さて、いよいよ兵士たちが、美しい流れのクサントス河の渡しに到着したとき(この、渦を巻いている河は、不死であるゼウス神の息子とされていたものだが)、この場所でアキレウスは、敵の軍勢を二つに断ち切って、一方は城市《まち》の方角へ、平原をまっしぐらに、追いまくっていった。それはまさしく、昨日、誉れにかがやくヘクトルが、すさまじい勢いで暴れたおりに、アカイア方が、生きた心地もなく潰走していった場所だったが、そのほうへと兵士たちは、ひたすらに逃げのびようと押し寄せていったが、その目の前に、ヘレ女神が、彼らの邪魔をしようと、ひどい靄《もや》を深くこもらせたのだった。また(トロイア方の)兵士たちの、他の半分は、銀色の渦を巻いている深い河にとりこめられて、ひどい響きを立てるとともに、河の中へおちこむと、急流もそれにこだまして鳴り響いた。また両岸の堤も、あたりへ鳴りとどろき、兵士らは、悲鳴をあげて、あちらへ、またこちらへと、渦巻きのあいだを、身をくねらせて、泳ぎまわった。
その姿は、ちょうど燃える火の勢いにあおり立てられて、イナゴの群れが、あちこちへと飛び交うようであった、(火に焼かれるのを)避けようとして、河のほうへと。しかし、火の手が、不意にまた燃え起こって、すこしもたゆまず燃えかかるので、イナゴはあわてて逃げまどい、水面へとばたばた落ちる。それと同様に、アキレウスのため、深い渦を巻くクサントスの河流は、入りまじった、人だの馬だのの、混乱した物音に、満たされつくした。
おりからゼウスの後裔《こうえい》であるアキレウスは、槍をそのままに、堤の上の柳の木に立てかけておき、鬼神もかくや、という勢いで、身を跳らせた。剣だけを手にたずさえて、凶暴な所業をはたらこうと、胸のうちで計画してだった。そして、つぎからつぎと、手当たり次第に斬りつけて進んでゆくと、刀に撃たれた人々の無残なうめき声が、つづいて湧き起こり、水面は血でまっ赤になっていった。
さながら、大きな胴体をした海豚《いるか》に襲われて、ほかの魚どもが、あちこちへと逃げまどったあげくに、よい港をかたちづくっている入江の奥へ、いっぱいにはいりこんでいくように、トロイア方の兵士たちは、この恐ろしい河の流れに沿った一帯の、水涯《みぎわ》にある崖のかげにかがまりこんだ。こちらのアキレウスは、やがて殺戮《さつりく》に手がつかえてきたので、殺されたメノイティオスの子のパトロクロスの代償にと、十二人の青年たちを生け捕りにして、寄せ集めた。仔鹿のように、胆《きも》も身に添わず、ただ茫然としているその青年たちを、河の外へ連れ出してから、適当に裁断した皮の紐で、両手をうしろに縛りあげた。この紐というのも、青年たち自身が、丈夫な織りの肌着の上に締めていたものだった。この青年たちを僚友《なかま》たちに引き渡して、中のうつろな船へ連れていかせて後、ふたたび引き返してきて、また猛烈な勢いで殺しの仕事にかかっていった。
おりからばったり行きあたったのは、ダルダノスの裔《すえ》にあたるプリアモスの息子で、リュカオンという若者、ちょうどこの時、河のほとりから逃げて来たところだった。この子は以前にアキレウスが、父親プリアモスの果樹園で捕まえて、無理矢理に引っ張っていった青年だった。ちょうど夜襲をおこなった際の出来事で、おりから彼(リュカオン)は、戦車の台の手すりを作ろうと、鋭い青銅(の刃物)をもって、野いちじくの樹の若枝を何本か切り取っているところだった。そこへ降って湧いた災難として、意外なことに、アキレウスが襲いかかってきたのである。
このおりには、恰好の位置にあるレムノス島へ、船に載せて連れていって、売ったのを、イエソンの子(エウネオス)が買い受けて代を払った。そこからまた、懇意の間柄であるインブロス島人、エエティオンが買い取り、たくさんな金を渡して、聖《とうと》いアリスペに送ってやった。そこからこっそり逃げ出して、父プリアモスの館へと帰って来たのだった。それから十一日のあいだは、一族や仲間の人々といっしょに過ごして、レムノス島から戻って以来、どうにか心を慰めることができた。ところが十二日目に、運命は、ふたたびアキレウスの手に彼を引き渡したものだが、この男こそ、今度は、いやがる者を無理矢理にも、冥王《よみ》の府《くに》に送りこもうということになっていたのである。
いまその青年を、足の速く勇敢なアキレウスが見つけたわけだが、見ればまったく身一つの、兜も楯も着けてはいずに、槍さえも持っていないのは、それらの物の具をそっくり地面へ投げ棄ててきたからだった。これも河から逃げ出した際に、ひどい汗に悩まされたのと、疲れのために、下の膝がまいってしまったためだった。これを認めると、アキレウスは、もちろん変に思って不快を感じ、気象のひろい心にひとりごとしていうよう、
「おやおや、これはまったく、不思議なことをこの眼に見るものだ、それではほんとうに、私が殺したトロイアの人々は、濛気《もうき》に包まれているという冥途から、殺されてもまた生き返って来るのだろうか、まったく、この男のとおりにだ。こいつだって、神聖なレムノス島に売られていったはずなのに、情け容赦も知らない日を免れて、また戻って来たというのは、波白く潮《うしお》づく大海《おおうみ》さえも、この男の障害にはならなかったのか。ともかくも、このうえは、さあ、われわれの槍先の鋭さを味わわせてくれよう、またもう一度あの世から帰って来られるか、十分心に見きわめがつけられるようにな。それとも彼を、生き物を生む大地が引きとめておくだろうか、剛勇の者をさえ、地下に引きとめておくからには」
こうアキレウスが、立ちどまって思案をするうち、こちらの(リュカオン)は、気もすずろに近くへ駆け寄り、アキレウスの膝にすがって救命を願おうとした。一途に恐ろしい死と、まっ黒な凶運とをどうにか逃れおおせたいと考えてだが、雄々しいアキレウスは、長い槍を振りかざして、突き刺そうと気負いこむ。その手の下をかいくぐって、身をかがめ、膝へ取りすがるのに、槍はリュカオンの背中の上を走っていって向うのほうの地面へ突っ立った、人間の肌にふれ、その血に飽こうとはやりながらも。この次第にリュカオンは、一方の手でアキレウスの膝をつかまえ懇願をつづける間も、もう一方の手で研ぎすました槍の柄をつかんで、もう放したら大変と、彼に向かって声をあげ、翼をもった言葉をかけて、
「お膝にすがってお願いいたします、アキレウスさま、どうか私に、(懇願者への憚《はばか》り)に免じ、神をおそれ、憐れみをおかけください。ゼウスが庇護をお与えになるあなたのところへ、(同じくゼウスが保護する)畏《かしこ》い懇願者同然の者として、まいった私です。というのも、この私は、あなたのお手もとで、デメテル女神(がお授け)の穀物を、いただいていたのですから〔一飯の因縁と同じく、その家で食事をすれば、家人と認められたことになる。ゼウスの任務の一つは、神の名の下に膝にすがり祭壇による祈願者を護ることだった〕。それは場所柄もよい果樹園で、私をお捕えなさった日のことです。それから私を、親父だの身内の者たちから引き離して、連れてゆかれ、神聖なレムノス島へお売り渡しになりました、百匹の牛と引き換えにして。
それからのちに、今度は三倍の値段でやっと買い戻されたものなのです。それでこの朝でもって、イリオスへ帰って来てから、やっと十二日目になったばかりで、苦労をさんざんなめたあげくに、いままたあなたの御手に引き渡されるとは、まったく何という呪わしい運命か。またもやあなたに私をお委せなされるとは、どうやらゼウスおん父神のお憎しみが、かかっているにちがいありません。まったく短命に私を母親の、アルテス老人の娘にあたる、ラオトエは生みつけたものです、そのアルテスは、戦争好きなレレゲス族の支配者として、サトニオエイスの川岸にそそり立つ都ペダソスを領しております。その娘を、プリアモスが、大勢の他の女たちといっしょに妻にいたしましたが、その母から生まれた私ども二人を、いまあなたは、二人ながらに、首を切ろうとなさるのです。
さっきは、先陣の兵士たちといっしょに、神とも見られるポリュドロスを、鋭い槍で突いて、お討ち果たしなさったうえに、今度はまたもや、まさしくこのところで、私が生命《いのち》をとられることになりましょう、もうあなたの手を逃れられようとは期待できませんから、こう出会ったのも、神さまのなされたことですし。ただひとこと申しあげるのを、どうかよく心にとめてお聞きください、私を殺そうとは、なにとぞなさらないでください、ヘクトルと同じ胎《はら》の子ではないのですから。いかにもあれは、心のやさしく、しかも剛勇であるあなたの親友を、殺した者ですが」
このように、プリアモスの、誉れも高い息子は、言葉をつくして懇願したものの、聞いたのは、まったく情け容赦もないことばだった。
「馬鹿なやつだな、けして私に、身代金などとかりそめにも口にして弁じ立てるな。まあパトロクロスが、まだ最期を遂げるにいたらなかったその間は、トロイアの人々に、たまには情けをかけてやるのも、胸にちっとは好ましく思えもした、いまよりはな。それで大勢を(殺さないで)生捕りにしては、売ってやったものだ。だが、もういまとなっては、たとえ一人でも、死を免れる者がありえようはずはない、イリオスの前面で、かりそめにも、私の手に、神が与えてくださるトロイア人には。ことにプリアモスの子という者なら、なおさらだ。
だから、なあ、いい子だ、おまえも死ね。なぜ、そんなに泣いて悲しむのか。パトロクロスだって、死んでしまったではないか、おまえよりずっと武勇もすぐれていたのに。どうだ、おまえの見るとおりに、この私だって、どれほどか、姿も美《きよ》く、丈も並みすぐれていよう、そのうえ立派な勇士を父親にもち、産みの母は女神でさえあるというのに、それなのに、その私でさえ、また死と、如何ともなしがたい運命とが身に迫っているのだ。いつかは来るのだ、明け方か夕べか、また真昼時かは知らず、誰かが私の生命を戦さのあいだに奪おうという時が。その男が、槍を投げつけてか、または弦《つる》から矢を放ってあてようかは知らないが」
こういうと、たちまち、リュカオンの膝はくずおれ、かなしい心も、そのままにつぶれはて、つかんだ槍を思わず放すと、両手をぱっとさしひろげて、尻もちをついたところへ、鋭い剣を引き抜くなり、アキレウスは、(リュカオンの)頸筋のわきの、貝殻骨のへんへふかく突きとおして、柄までも中へと、両刃《もろは》の剣《つるぎ》を埋めこんだので、そのままに、こちらは前へ、うつむきに地面へ長くのびて倒れると、そこから黒い血が噴き出して、地面を一面にぬらしていった。その男の足をつかんで、アキレウスは、河の中へ、流れに載せて持っていかせに、ほうりこむと、勝ち誇って、彼に向かい翼をもった言葉をかけるようには、
「さあ、このところで、魚どもといっしょに臥《ね》ているがいい。やつらがおまえの傷口から血を、気楽に舐《な》めてくれるだろう。またおまえの母親だって、お棺の中におまえを臥かして、泣き悼《いた》みもできなかろうが、その代りにはスカマンドロス(河)が、渦を巻きながら、大海のふところふかくへ運んでいってくれるだろう。その波のあいだを飛びはねながら、どの魚かが、黒いさざ波のもとから、ついと浮き上がってきて、リュカオンの白い脂身を啖《くら》っていこう。どんどん死んでいくがいい、おまえたちが、ひたすら逃げに逃げるのを、私が追ってなぎ倒してゆき、とうとうしまいに、イリオスの聖《とうと》い城市に行き着くまで。
銀色の渦を巻いている、きれいな流れのこの河だって、けしておまえたちの防ぎ護りにはなるまいよ、いかにもな、長いあいだ、たくさんな牡牛を犠牲《いけにえ》にささげてもきたし、単つ蹄の馬も大勢、生きたまま、渦の中へ、贄《にえ》として投げこんできたことだろうが。そんなことにもかかわらずに、おまえたちは、のろわしい死を遂げていくだろう、パトロクロスを殺した咎《とが》め、またアカイア勢を、私の留守に、速い船々のかたわらのところで殺していって、さんざん悩ました、その罪を、すっかり償いきるまではな」
これを耳にすると、河(の神)は、いっそう胸に憤りを覚えて、心のうちでいろいろと、どうやって勇ましいアキレウスの乱暴をやめさせ、トロイアの人々を破滅から救い出せようか、と思案しつづけた。その間にもペレウスの子(アキレウス)は、長い影をひく槍をもって、打ち殺そうと気負いこんで、アステロパイオスに躍りかかった。この若者はペレゴンの息子だったが、このペレゴンこそ広やかに流れとよむアクシオス河(神)へと、アケッサメノスの娘のうちでいちばん年長の、ペリボイアが産んだ子で、つまり彼女と、深く渦を巻くこの河(アクシオス)の神が契りを交わした結果なのだ。
この若者にアキレウスは跳びかかったが、こちら側も河から出て対戦した。二本の槍を手に持って向かって立つ、その胸中に、クサントス河が勇気をわき立たせてやった。つまりアキレウスが流れの中で、むやみやたらに斬り殺し、何の憐れみもかけてやらなかった、それらの惨殺された若者たちのためにすっかり腹を立てていたからである。そこでこの両人が、たがいに向かって進んでゆき、いよいよもう間近となったときに、相手に向かって、先を越して、足の速く勇ましいアキレウスがいうようには、
「いったいおまえは人間界のどういう者で、どこから来たのか、大胆にも私に向かってこようとは。不運な親の子供だな、私の武勇に刃向かおうなどという者は」
それに向かって、今度はペレゴンの、誉れも高い息子が声をかけて、
「器量のすぐれて大きなペレウスの子よ、どうして私の生まれなどをおたずねなさるのか。私は、遠く離れているパイオニアの、肥沃な郷《さと》から来た者で、長い槍をたずさえたパイオニア勢を引き連れて、来てから今日でちょうど十一日目の朝を迎えたのだ。イリオスに着いてこのかたである。ところで、私の生まれはといえば、広やかに流れるアクシオス河に出ている、このうえもなく清らかな水を地上へ注ぐあのアクシオス河だ。その河が、槍の上手と世に聞こえたペレゴンをもうけ、彼がさらに私を生んだ、ということだ。ともかくも、さあ、戦いあおう、誉れも高いアキレウスよ」
こう居丈高にいい放てば、勇敢なアキレウスは、ペリオン山からのトネリコの槍を振りかざした。こちらの勇士アステロパイオスも、二本の槍をいちどきに両方の手でほうったのは、両手利きだったからである。それで、一方の槍は(アキレウスの)楯にあたったが、それを奥まで刺し貫いて、楯を切り裂きはしなかった、ヘパイストスの贈り物なので、黄金の板が防ぎとめたのだった。もう一方は、アキレウスの右手の肘へと宙を飛んで来、肌を引っ掻いていったもので、まっ黒な血がほとばしり出た。槍はしかも、そのまま彼の身の上を飛び越してゆき、大地へ突っ立った、人肉をたっぷりあくまで味わおうと、あせってはいたものの。
つづいて今度はアキレウスが、まっすぐに飛ぶトネリコの槍を、打ち殺そうものときおいこんで、アステロパイオスめがけて投げつけた。だが、アステロパイオスの体にはあてそこなって、高くそびえる河岸にあたると、岸の堤にトネリコの槍が半分ほどもうずまって刺さった。ペレウスの子(アキレウス)は、そこで腰から鋭い剣を引き抜くなり、きおいこんでおどりかかった。アステロパイオスは、アキレウスのトネリコの槍を、崖から、がっしりした手で抜きにかかったが、できなかった。
三度も、抜いて取ろうと、しきりにあせって揺すぶったが、三度とも、力が抜けてしまった。そこで四度目には、アイアコスの子孫のものであるトネリコの槍を、押し曲げて、折って取ろうと、心中で思うところを、それより早く、アキレウスが近寄って、剣でもって生命《いのち》を奪ったのだ。腹の、臍《へそ》のわきに打ちこんだので、臓物がすっかりこぼれ出て、地面に流れると、あえいでいる彼の眼を、暗闇が蔽い隠した。アキレウスは、その胸に跳びあがって、物の具を体からはぎ取ると、勝ち誇っていい放つようには、
「こうやって臥《ね》ているがいい。稜威《みいつ》の大いなクロノスの子ゼウスの子孫と争いあうのは、難儀なことと思い知ったか、たとえおまえが河神から生まれた者にもせよ。流れの幅も広い河から、おまえは血筋をひいているといったが、この私だって、はばかりながら、血統は、大神ゼウスから出ているのだ。私を産んだ父親は、大勢のミュルミドンたちの君と知られている、アイアコスの子のペレウスだ。そのアイアコスはゼウスの胤《たね》だから、大海へ流れてはいる河(の神)よりゼウスのほうが強大である。それだけまたゼウスの血統の者は、河神の子孫より強いのだ。
いかにも、もしそれが何かの護りになるというなら、おまえのわきには大きな河が流れているが、クロノスの御子ゼウスとは、とうてい闘うことはできない。そのゼウスには、あの広大なアケロイオスだって、また深く流れるオケアノスの、たいした力だって、対抗はできないのだ。その水から、世界じゅうのすべての河々、またすべての海、あらゆる泉や深い井戸も、流れを引くのだというが、そのオケアノスさえ、大神ゼウスの恐ろしいかみなりには、怖れをなすのだ、大空からゼウスが霹靂《へきれき》をくだされる時には」
こういって、崖から青銅の槍を引き抜いて取ると、その男はそのままそこへ、かなしい命を奪ってから、砂の上に倒れ伏したまま、ほうっておいたのを、黒い水がきて濡らしていった。そのまわりへ、うなぎだの魚どもが、寄ってたかって、腎臓のへんの脂身をつついては、だんだんと引きちぎって、啖《く》っていった。
ところで、アキレウスのほうは、騎馬武者のパイオネス勢を追っかけていった。この手の部隊は、渦を巻く河のほとりで、自分たちの大将が、はげしく闘いあううちに、ペレウスの子の腕前と剣によって、力まかせに討ち取られたのを見て、もはやすっかり恐慌におちいって、まだ逃げまどっていた。その間へ突っこんで、テルシロコスやミュドンやアステュピュロスや、ムネソスとかトラシオスとか、アイニオスとかオペレステスとかいう連中を討ち取った。それでたぶんは、もっと大勢のパイオネス勢を、足の速いアキレウスは殺してしまったことだったろう、もし深く渦巻くこの河が、腹を立てて、人間の男に似せて、深い渦の底から声を出していわなかったら、
「おお、アキレウスよ、人間どもの中で、とりわけ力もすぐれて強く、ひどい所業をおまえが働きつづけるのも、しじゅう、神々たちが、みずからすすんで、いつもおまえを護るからだ。それにしても、たとえクロノスの御子ゼウスが、トロイア勢をことごとく殺しつくすのを許されたにしろ、私のところからはともかく追い出したうえで、平野でもって、むごい所業を働くがいい。まったく死骸でいっぱいになってるため、清らかだった私の流れも、はやどうやっても、輝く海へと河の水を注ぎこむことさえできなくなってるのだ、死骸でつまってせき止められてな。それなのにおまえはやたら滅法に、殺しつづけていくとは。だからさあ、もうやめにしてくれ、私はたまげているのだぞ、兵士たちの頭《かしら》だとおまえはいうが」
それに向かって、足の速いアキレウスが、答えていうようには、
「では、そのようにしましょう、ゼウスの庇護し養われるスカマンドロスよ、あなたのいわれるとおりに。でも、分を忘れて傲《おご》りたかぶるトロイア勢を倒してゆくことは、けしてやめますまい、あいつらを城市《まち》へ追いこんで、ヘクトルと相対して、決戦を一度試みないうちは。むこうが私を殪《たお》すにしろ、または私が彼を殪すにしろ」
こういうと、鬼神ともまごうすさまじい勢いで、トロイア方へと襲いかかっていった。そのおり、深い渦を巻く河(のクサントス河神)が、アポロン神に向かっていうには、
「やれやれ、銀の弓をもつ神で、ゼウスの息子というあなたが、クロノスの御子(ゼウス)のはかりごとを、守らなかったのですな。先ほども、ずいぶんいろいろと、トロイア方の味方をして防ぎ護ってやれとお命じだったのに――夕日が遅く沈んでいって、土塊《つちくれ》の沃《ゆた》かな田畑を蔭らすまでのところは」
こういううちにも、槍の使い手として高名なアキレウスは、崖から突き進んで、河のまんなかへ跳びこんだので、それへと河は大きなうねりをあげてはげしく押し寄せ、河流の全体を上へ下へと湧き立たせた。そして、アキレウスが殺した者どもの屍が、おびただしく河の中につまっていたのを押し流して、牡牛のような吼え声を立てながら、河の外の陸地へとほうり出す一方、まだ生存している者らは、美しい流れの中に、深々と大きな渦を巻く間に、安全に隠しておいてやった。
一方、アキレウスのまわりへは、恐ろしい波を湧き立たせれば、流れる水が楯にぶつかり、押し上げるのに、足もとさえ、しかと踏みしめられないので、アキレウスは両手でもって、よく繁った楡《にれ》の大木にとりすがると、その木さえが、そのまま根こそぎとなって、崖をそっくり切り崩した。楡はいっぱいに繁った枝葉でもって、清らかな流れを押しとめ、中にそっくり落ちこむと、河そのものに橋を架けわたしたようになった。そこでアキレウスは怖れをなし、渦巻の中から飛び出すと、野原をすばしっこい足どりで、飛んでいこうと急いだ。が、その大神は、勇敢なアキレウスの奮闘を抑えとめ、トロイア方を破滅から救ってやろうという考えで、まだいっこうにやめようとせず、アキレウスへと、黒いうねりをあげて襲いかかっていった。
しかし、ペレウスの子(アキレウス)は、もうその時、投げ槍の力の届く限りほど、遠くへ飛んで去っていた。飛ぶ鳥のたぐいのうちでも、いちばんに速く、力もある狩猟をする鳥、黒い鷲の翔《かけ》っていくような(速さで)、身をひるがえして進めば、胸のあたりの青銅(の甲《よろい》)が、ものすさまじく鳴り響いた。そして体をかわして、水流をよけて逃げようとするのを、後ろから、大きなとどろきを立てながら河流が追いかけてゆく。その様子は、ちょうど掘割を作る男が(それを完成して)、暗く水をたたえる泉から、植木だの庭だのの間をとおして、水の流れを引いてくる時のよう。手に鍬《くわ》を持ち、いま掘割の水仕切りを取りはずしていくと、流れ出てくる水の勢いに、底にある小石さえ一つのこらず、みな転がされてゆく。こうして水流は迅速に流れ下り、坂になった場所では、音を立てて落ち、水を引いてゆく男をさえ追い越してしまう。
そのように、ひっきりなしにアキレウスを目がけて、流れる波が追いついていった、なにぶんにも、飛ぶように速く走りはしたものの、神さまは人間より上手《うわて》であるから。それでとうとう、足の速く勇敢なアキレウスが踏みとどまり、立ち向かって闘おうかとふるい立って、広い大空をしろしめされる神々もみな、自分を逃避させようとお考えかを、確かめようとするたびごとに、天から降った大河の、大きな波が、アキレウスの肩をめがけて、上から落ちかかった。アキレウスも、心中に困惑しながら、高く足で飛び上がると、河ははげしい勢いで下を流れてゆくが、膝はだんだんと疲れてくる一方、足もとの砂もますます削《そ》がれてゆくのに、ペレウスの子は、広い大空を仰いで嘆息するよう、
「ゼウス父神さま、神さまがたのうち、誰一人として、私を憐れみ、河から護ろうとしてくださらないとは――あとあとならば、どんな目にあわされようとかまいませんが。大空においでの神々のうち、ほかのどなたが悪いなど、べつに申すのではありません、ただ愛しい母上が、私に嘘をついてだましておいでだったのです。胸甲《むなよろい》を着けたトロイア人らの、城壁の下で、私は、アポロン神の勢いのいい速い矢にあたって討ち死しよう、とおっしゃったのですから。そんならいっそ、ヘクトルが私を殺してしまったらよろしかったのに、この土地に育った者の中では、いちばん強いというのですから。そうしたら、殺したのも勇士なら、殺されたのも勇士です。ところがいま、私ときたら、大河に取りこめられて、みじめな死を遂げるという運命を負わされている、冬の暴風雨《あらし》に、山あいの早瀬を渡ろうとして、押し流された豚飼いの小童《こわっぱ》みたいに」
こういうと、もうさっそく、ポセイダオンとアテネとの両神が、アキレウスのすぐ身近にやって来て立ち、武士の姿に形をかりて、二人でもって手に手をとり、言葉をかけて安心させたが、まず先に話をしはじめたのは、大地を揺する御神ポセイダオンで、
「ペレウスの子よ、べつに、そうたいして怖がったり恐れたりすることはないぞ。私たちのような強大な神たちが、神々の中からおまえの加勢についているのだから、私とパラス・アテネの両神《ふたり》がな、それにこれは、ゼウスも十分ご承知のうえのことなのだ。河(の神)などに、おまえは殺《や》られるはずのものではないのだから。それゆえ、こいつもじきにやめるだろう、それはおまえも自身で見ることだろうが。ところで、おまえにしかとおしえておくことがある、よくそれに従うがよいぞ。すなわち、イリオスの、世界に名高い塁壁へ、トロイアの兵士たちを閉じこめないうちは、残忍な戦闘から手を引かないでおけ、みな逃げていこうからな。それでおまえは、ヘクトルの命を奪ったら、船陣へ引き返すのだぞ。われわれがおまえに誉れを得させるはずだから」
こういい終えると、両神は、不死である神々たちの間へと帰ってゆかれたのだが、一方、こちらではアキレウスは、神さまがたの指図にすっかり激励されて力を得、平野へと向かった。そこらあたりは、まだ一面にあふれた水に満たされ、また切り殺された若者たちの、美々しい物の具だとか、屍などがいっぱい漂っていた。その間を、アキレウスは、流れに向かって突進するのに、膝頭は高く飛んで、広々と流れてゆく河も、それをさえぎることができない。アテネ女神が、たいそうな力を打ちこんでやられたからである。
だが、スカマンドロスのほうも、いっこうに力をとめようとせずに、なお一段と、アキレウスにたいして腹を立てつづけ、流れる波を逆巻き立てて、高々と水を巻きあげ、大声でシモエイス河に向かって呼びかけるよう、
「愛する弟よ、この男の勢いを、われわれが二人がかりで、おさえとめてやろうよ、すぐにもプリアモス王の大きな都を、攻めおとしかねないからな。トロイア勢は、斬り合いにも踏みこたえられないだろう。だから至急に助けに来てくれ、ほうぼうの泉の水で流れをすっかり充たすのだ、全部の早瀬をうながしたててな。大きな波を湧き起こらせ、木だの岩だのから、はげしい物音をださせろ、あの乱暴なやつをおさえちまうように。そら、いまだって、あのようにのさばって、神々とさえ同等だと思い上がっている。だがな、断言するが、腕力だって、男ぶりだって、立派な物の具だって、身の護りにはできなかろうぜ、いずれはみな洪水の下に、泥ですっかり蔽いかくされて、埋まることだろうから。それであいつ自身は、砂土でひっくるんで、まわりにいっぱい数知れぬほど小石を注ぎかけてやろう、そしたらアカイア勢だって、あいつの骨の寄せ集めようもわかるまい。それほどたくさんに、あいつへは泥をかぶせてやろうぜ、ちょうどそのままに、この場所が、あいつの墓に仕立てられたら、アカイア勢だとて、葬式をする際に、何も墳《つか》を築いてやる要はなかろうものさ」
こういうと、すさまじい勢いで巻き返して、高々と持ち上がり、アキレウスに襲いかかれば、泡や血潮や、屍ぐるみに鳴りさわいで、天から降った大河の波は、洶涌《きょうゆう》して空中へ昇り、いまにもペレウスの子を取りこめようとする気配。ヘレ女神は、アキレウスのためにたいそうご心配なされて、大きな声をおあげになって、アキレウスが、深く渦を巻くその大河のために押し流されたら大変と、すぐさま、自分の愛子《いとしご》のヘパイストスに言葉をかけなさるよう、
「起《た》ってください、私の息子の曲り足さん、あなたの喧嘩相手にね、あの渦を巻くクサントス河がちょうどよかろうって、私たち、見立てたんです。だからさっそくにも加勢に出かけて、焔をいっぱい燃え立たせてくださいな。私のほうでも、これから行って、西風と晴天をもたらす南風とに、海のほうから、はげしい疾風《はやて》を起こしてもらうから。そしたら、その風が、禍いな焔を運んでって、トロイア方の頭数だの、物の具だのを焼きつくしましょう。あなたはクサントスの岸辺に沿って樹を燃やしてゆき、河を焔で包むのです。それからけして、甘い言葉や脅迫などで追っ払われてはいけませんよ。それから、いよいよ私が大きな声を出して呼びかけるまでは、あなたの気勢をおさえとめないでね。そしてその時に、はてしもなく燃える火をおさえるのですよ」
こういうと、ヘパイストスは、はげしく燃える火を焚きはじめた。まず最初には、火が野原で燃えだして、たくさんの屍を焼いていった、ちょうどその野中には、さきほどアキレウスが殺しておいた屍がいっぱいあったから。それで平野がすっかり乾ききると、きらきら光る水(の流れ)もとまってしまった。ちょうど秋の初めに、北風が、新規に水を引いた畑の土を、たちまちのあいだに干してしまうように、それで耕作者もみな喜ぶ。そのように、平野をすっかり乾かしきって、屍をみな焼きつくしてから、今度はまぶしく輝く焔を、河へと向けた。
それで楡の樹も燃え出せば、川柳も、柳の木立も、蓮華草の原も、またアシやスゲのくさむらも燃えていった、この美しい河の流れを囲んで、いっぱいに生えていた草や木までが。また渦まく流れの下に住んでいるうなぎどもや魚たちまで、苦しみあがいて、あちらでもこちらでも、美しい流れの下で、策略に富んだヘパイストスの火の勢いに責めさいなまれて、引っくり返ってもがいていた。それで、力の強い河までが、焼き立てられる苦しさに、とうとう名を呼んで、話しかけるよう、
「ヘパイストスさん、神々のうちにも、誰一人として、あなたと張り合えるかたはありはしません、私だって、現にこう火で焼き立てるあなたとは、喧嘩しようとは思いませんな。争いはやめてください、トロイア人たちを、すぐにでも、勇ましいアキレウスが、市《まち》から追い出したらよかろうさ。喧嘩とか、助太刀なんてえのは、まっぴらごめんだ」
こう火に焼かれながらいう間も、美しい流れは、ぶつぶつ煮え返っていた、ちょうど釜が、強い火の力に急《せ》き立てられて、内側で沸き立つように。そのように、この河の美しい流れは火に焦がされて、水が沸き立ち、先へ流れてゆく気もなくしてしまって、流れがとまったというのも、策略に富んだヘパイストスの火気が、力ずくで攻め立てたためであった。そこで、河神はヘレ女神に向かって、しきりに懇願しながら、翼をもった言葉をつらねて、
「ヘレさま、なぜあなたの息子さんは、私の流れを、格別に、苦しめようとお思いなのですか、けして私にはそんな罪はありませんのに、トロイア方の加勢をしている他のいろんな河以上には。ともかくも、本当にもう、あなたがそうお命じになるなら、私はやめにしましょうから、このかたにもやめさせてください。私はそのうえに、こうもお誓いします、これからのち、けしてトロイア人のために、禍いの日を防いではやりますまい。たとえば、トロイアじゅうが、勢いのさかんな火にすっかり燃やされ、焼け落ちようともです、またその燃やし手が、軍神アレスの伴侶であるアカイアの息子たちだとしても」
そこで、こういうのを聞くと、白い腕の女神ヘレも、すぐに、ご自分の愛子《いとしご》のヘパイストスに向かって声をかけて、
「ヘパイストス、もうやめてください、世に名も高い私の子供よ。ともかく不死である神さまを、そのように、死ぬべき人間たちのためにひどい目にあわせるのは、よくありませんから」
こういわれると、ヘパイストスは、恐ろしく燃えたつ火を消しとめたので、やがては波が、美しい流れをふたたび勢いよく下りはじめた。
ところで、クサントス河の気勢がかようにくじかれると、それで両神《ふたり》は争いをやめた。というのも、ヘレが、怒ってはいたものの、引きとめたからだった。しかし、他の神さまがたの間では、厄介な喧嘩が、たいへんな勢いでおっぱじまった。つまり神さまがたの心中で、はげしい気組みが、二手にわかれてあがったためだったが、たいそうな物音を立てて、両方の組がぶつかり合うと、広い大地もごうごうと鳴り渡り、一帯の大空も、一面に喇叭《らっぱ》のように響きとどろく。その様子をゼウス神は、オリュンポス山に御座《みくら》をすえてお認めになると、胸のうちでひとり悦に入ってお笑いだった。
この際にはもう、神さまがたも、長らくは引き離れてお立ちではなく、まずアレス神が先に立って、皮の楯を裂く御神とて、第一番にアテネへと、青銅の槍をたずさえて飛びかかってゆき、悪口雑言を浴びせていうよう、
「いったいなぜまた、犬にたかる蝿みたいな(女神よ)、あなたは神々を、こう喧嘩させあわせるんだ。大胆不敵な女だな、たいそうな意気ごみにでも動かされてかね。いったい全体、あなたはもう忘れてしまったのか、テュデウスの子のディオメデスをけしかけてこの私を突いて傷を負わせたのを。それにあなた自身が、効き目のあらたかな槍を手に取って、私をめがけて突っこんだうえ、美しいこの肌を、掻《か》っ裂いたことを。それゆえ今度は、あなたに、前にやっただけの所業の償いをさせるつもりなんだぞ」
こういうなり、総《ふさ》のいっぱいについた山羊皮楯《アイギス》を突いたが、恐ろしいこの楯こそ、ゼウス大神の雷霆《いかずち》といえども、破りはできないものだった。それへと、人殺しの血にまみれたアレスが、長い槍を突っこんだが、女神はうしろに引きさがって、しっかりした手で石をつかんだ。それは野原に横たわっていた大きな石で、黒くごつごつしていた。むかしの人たちが、州境のしるしの石としてすえたものてある。それを意気ごみのすさまじいアレス神の、頸筋へぶつけると、(その打撃にこちらは)手足の力が抜けて、ぐったりとなった。それで二町ほどもの長さにわたって倒れ伏し、髪の毛は砂まみれになって、物の具があたりに鳴りとどろくのに、パラス・アテネは笑い出して、アレスに向かい、得意な顔で、翼をもった言葉をかけるよう、
「お馬鹿さんだわね、あなたは、てんで考えてもみなかったのね、どのくらい私のほうがあなたより強いか。私と力くらべをしようなんて。これでどうやら、お母さまの、お恨みやお腹立ちをつぐなえることでしょうよ。もうたいそうなお憤りで、あなたをひどい目にあわせようと考えておいでだったもの、アカイア勢をあなたが見捨てて、思い上がったトロイア方に加勢をいつもしているもので」
こういい終えると、うしろを向いて、輝く眼をそらしたが、ひっきりなしにうめいているアレスの手をとって、ゼウスの御娘の、アプロディテが連れていこうとしていた。ところが、その様子を、白い腕の女神ヘレが見つけたもので、すぐとアテネに向かい、翼をもった言葉をかけ、
「まあ、いやだわね、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウス神の娘のアトリュトネさん、また今度もですわ、あの犬蝿(みたいにいやな女神)が、アレスを、はげしい合戦のひしめきあいから、連れていこうとしているのよ。追っておいで」
こういうと、アテネは、いそいそとして追っかけていった。そして追いつくと、胸のところを、しっかりした手で突っこんでやると、アプロディテは、そのままそこに、膝も心もすっかりくずれて、(アレスと)両神《ふたり》ながら、生物をゆたかに養う大地の上に、のびて倒れた。女神はそこで勝ち誇って、翼をもった言葉をかけて、
「トロイア方の加勢をしようという者たちが、みんなこんなふうだと、ありがたいけれどもねえ、胸甲《むなよろい》をつけたアカイア勢と闘うときに。このくらいに勇気もあり、気も確かだったらねえ、ちょうどアプロディテが、アレスの加勢をしに来たくらいによ、私の勢いに刃向かうつもりでさ。そしたら、もうとうのむかしに、戦争も片づいたでしょうに、イリオスの堅固な構えの城市《まち》も攻めおとしてしまって」
こういうと、白い腕の女神ヘレは、にっこりとお笑いになった。一方では、アポロン神に向かって、大地を揺すぶる御神(ポセイドン)がいわれるよう、
「ポイボスよ、なぜまったく、私らは離れているのかな、他の者どもはもう闘いを始めたのに、外聞がわるいぞ。それにいっそう恥ずかしいことだよ、もしわれわれが闘わないで、オリュンポスへ、青銅を敷きつめたゼウスの宮居へ帰ったとしたら。だからさあ、おまえからやれ、おまえのほうが年下だし、私のように先に生まれて、ものもよけいに知ってるはずのものが、先に手出しをするというのは、みっともないからな。
馬鹿者だよ、おまえは、まったく、なんて愚かな心を持っているのか、それでむかしのこともすっかり忘れてしまったんだな。そら、イリオスの近隣で、私らが前に、ひどい目をみさせられたのを。神々のうちで、私ら二人が、あの傲慢なラオメドンへと、ゼウスのもとから派遣されて、一年間だけきまった駄賃で奉公したものだった。それであいつは、指図を与えて仕事をさせた。私のほうは、トロイア人のために、都城を囲む塁《とりで》の壁を築いてやったものさ。広々として、とても立派なやつだった、けっして城が落ちないようにな。
またポイボス(アポロン)、おまえのほうは、足をくねらして歩く、角の曲がった牛どもを、谷ひだがたくさんあり、森の繁ったイダの山の尾根のあいだで、ずっと飼わされていた。それでいよいよ、季節のめぐりが、駄賃の支払い期限を持ちきたした時、その時にラオメドンは、とんでもないやつだ、駄賃をまるっきり、私ら二人へ、何としてもよこさないばかりか、逆に脅かしつけたものだ。つまりあいつは、私らの両足や両手をさえ縛りあげて、遠方にある島々へ私らを売り渡す、などいっておどしたうえ、二人とも、両耳を、青銅の刃《やいば》で削《そ》いでやるなどと、威張っていった。そこで私らはまたもとへと帰って来たが、その払われなかった約束の駄賃のことでは、腹を立て、胸に恨みを抱いていたものだ。その国人《くにびと》にたいしておまえは、いまでは好意を示してやって、私らといっしょに力をあわせて、傲慢なトロイア人を、子供やつつましやかな妻もろともに、みじめなざまで屈伏させ、絶え滅びさせようとは思わないんだな」
それに向かって、今度は遠矢を射る神さまのアポロンがいわれるよう、
「大地を揺すぶるあなたにしても、けして私が十分なわきまえをもつとはおっしゃりますまい、もしあのみじめな人間どものために、私があなたと闘いあおうものならば。彼らは元来が、木の葉と同じように、ある時は畑の果実を啖《くら》って、たいそうな勢いで栄えもしますが、また時節が来れば、まるではかなく滅んでゆくものです。それゆえ、さっそくにも、喧嘩などはやめにして、あいつらは勝手に斬り合わせるがいいでしょう」
このように声をあげていうなり、引き返したのは、もともと父上の実弟である神に手向かって、喧嘩するのを恥じていたからだった。そのアポロンを、実の姉である、野獣どもの司《つかさ》の女神(アルテミス)が、たいそう非難をして、
「まあ、逃げていくの、ほんとに、遠矢を射るあなたが、ポセイダオンに勝ちをすっかり譲ってしまって、抵抗もしないで、得意にならせるなんて。馬鹿らしいったらないかたね、何のために弓をお持ちなの、てんで役にも立てないなら。≪もうこれからは、御父神《おとうさま》のお屋敷じゅうで、以前のようには、あなたの自慢は聞きませんからね。不死である神々の間でもって、ポセイダオンに面と向かって、あなたが奮戦したなんてえのは≫」
こういったが、遠矢を射るアポロン神は、何もそれに返事をしなかった。しかしゼウスのかしこいお妃神《きさきがみ》《ヘレ》は立腹なさって、矢を射る女神(アルテミス)を、とがめ立てする言葉でもって、叱っていうようには、
「どうしてまたあなたがいま、恥知らずな犬さん、私に逆らって、立ち向かおうなどという気を起こしたの。だが、腕くらべの相手には、私はちょっと手ごわいだろうよ、弓矢を持っておいでにしても。まあゼウスさまが、あなたを、(人間の)女たちにたいしては牝獅子としておき、誰でも勝手にとり殺すのもお許しだけれど。でもまあ、山の中で、野獣でも殺してるほうが、利口だろうわね、野山に棲む鹿などをね、自分より強い者と力ずくで争おうってのよりは。でも、もし戦さの稽古がしたいってお望みならば、どれほど私のほうが上手《うわて》なものか、よくわかるように、やったらどう、私と力くらべをしようって限りは」
こういうと、左手で、(アルテミスの)両手のつけ根をひっつかまえ、右の手で、(アルテミス)の肩から弓を取り上げると、その弓で、耳のわきを、にやにや笑いながら、あちらこちらと避けようと顔をそむけるのもかまわず撃ちつければ、速い矢羽根が飛びしきった。それに涙ぐんで、横ざまにアルテミスは逃げていった、その様子は、鳩のよう。ちょうど隼《はやぶさ》に追われて、うつろになった岩の裂け目に飛びこんだ鳩、だが、まだ捕まる運命ではなかったらしい。その鳩みたいに、涙をこぼして逃げ去ったが、弓はその場に残していった。一方、レト女神に向かっては、お使い神の、アルゴスの殺し手(ヘルメス神)が話しかけるよう、
「レトさま、私はあなたとはけして闘うつもりはありません、群雲を寄せるゼウスさまのお配偶《つれあい》と、喧嘩しあうのは、厄介なことですからね。ですから、どうか、いくらでも、不死である神々たちの間で、自慢なさってください、はげしい力ずくの争いで、私を負かしてやったって」
こういったので、レト女神は、あちこちに散乱していた曲がった弓矢を、拾い集めていった。それから自分の娘の弓をもって、帰ってゆかれたが、アルテミスのほうは、オリュンポスの、ゼウス神の、青銅を敷きつめた宮居へと赴いた。涙ぐみながら父神の膝もとに、乙女である神がくずおれて坐ると、身のまわりには、かぐわしい衣が揺れ動いた。それを手もとにお引き寄せになって、父神であるクロノスの御子(ゼウス)は、やさしく笑ってたずねるよう、
「天にいる神々のうち、誰がまあおまえを、そんな目にあわせたのか。愛しい娘を、こうも無茶苦茶にな、まるでおまえがおおっぴらに、何か悪いことでもしたかのように」
それに向かって、今度は、立派な冠をつけ、騒々しい音をたてる女神(アルテミス)がいわれるよう、
「あなたの奥さまが叩いたんですの、お父さま、白い腕のヘレ女神が。あのかたがもとで、不死である神さまがたにも、争いだとか喧嘩だとかも起こるのですわ」
かように、両神《ふたり》は、こんな話をたがいに交わしあっていた。ところで、ポイボス・アポロン神は、聖《とうと》いイリオスへはいってゆかれた。よく造りあげられているその城市《まち》の、囲壁《かこい》のことが気になったからである。ダナオイ勢が、その日のうちにも、定業《さだめ》を超えて、攻め取りはしまいかと思ったのだ。
またほかの、永遠においでの神さまがたは、オリュンポスへと向かってゆかれた中には、憤っている者もあれば、たいそう得意になって威張る者もある。それがみな、黒雲を寄せる父神の、わきに腰をすえた。一方では、アキレウスが、トロイア勢を、いっしょくたに、彼ら自身も単つ蹄の馬どもも殺していった。それはまさしく都が炎上するときのこと、煙がひろい大空へと登っていくよう――神々の憤りが火を出させたのだ、そして皆に苦労をかけ、多くの人々に嘆きをもたらす。それと同じく、アキレウスは、トロイアの人々に、苦労と嘆きとを与えたのだった。
さて老王プリアモスは、聖《とうと》い城の櫓《やぐら》に上がってたたずんでいたところ、ものすさまじいアキレウスの大きな姿が眼にうつった。彼のために、トロイア勢はすっかり圧倒され、混乱して敗亡してくる。それなのに何一つ、これを防ぎ護る手立てとてない。そこで王は、嘆声を放つとすぐ、櫓から地上へ降って、城壁のかたわらにいる、音に聞こえた城の門番たちを励ますよう、
「開けひろげて、城門の扉を手でおさえていろ、城に向かって兵士たちが、潰走《かいそう》して逃げ帰って来るまでだ。まったくアキレウスは、もう間近なところまで追っかけて来て、いまにも無残な仕事を始めるだろう。だが、みなが囲壁の中へ逃げこんで、息をつくようになったら、またもとのよう、しっかりと取りつけられた門の戸板を閉めるのだぞ。あの呪わしい男が、囲壁の中へはいりこんでは大変だからな」
こういうと、皆して寄ってたかって、門を開け、閂《かんぬき》を取りはずせば、両方の扉は開け放されて、光を入れた。一方、アポロン神は、アキレウスに向かって走り出しなさった、トロイア勢を破滅から防ぎ護ってやろうというので。兵士らのほうは、一目散に城と高い囲壁とを目がけて、咽喉も渇きに干からびたうえ、埃にもさんざんまみれたさまで、平原をどんどん逃げてゆくと、こちらではアキレウスが、はげしい勢いで槍を使って、頑強な物狂おしさにしじゅう心をうちまかせ、誉れをあげようと意気ごんでいた。
あるいはこのおりに、城門のそびえ立つトロイアを、アカイア軍が攻めおとしたかもしれない、もしポイボス・アポロンが、勇ましいアゲノルを奮起させなかったならば。この者は、アンテノルの息子として、誉れも高く、剛勇のつわものだった。その胸中に御神は勇気を打ちこんでやり、自分から出かけていって、彼のわきにある、槲《かしわ》の木に倚《よ》りかかって立たれたのは、死のきびしい手から護ってやろうとのおつもりで、ふかい靄気《もやけ》にお体を蔽いかくさせていた。そこでアゲノルは、城を攻めおとすアキレウスを眼に認めると、立ちどまって待ち構えたが、心はさまざまに乱れてさわいだ。そこで不快を覚え、意気のさかんな自分の心に向かっていうよう、
「やれやれ、私としたことが、たとえ剛勇のアキレウスを怖れて逃げるにしても、他の者どもが心も宙に慌てて逃げてゆく方角へいっては、結局あいつは私を取っ捕まえ、臆病者として斬り殺すだろう。だがもし私が、皆の者はペレウスの子のアキレウスを怖がって、ごった返して逃げるままにほうっておき、自分のほうは、城壁を離れて他の方角へ、イレイオンの野のほうへ逃げていったら、あるいは無事にイダの山の端へ着き、麓の木立に隠れこむこともできるかもしれない。そうしたら、夕方を待って、河の水を一浴びしたうえ、汗をすっかりしずめてから、イリオスに向かって帰ったらいいだろう。
だが、まったく、なぜこんなことを、私の心は話しかけて来たのだろうか。その間にも、城下を難れて、野原のほうへゆくところを見つけられて、あの速い足にまかせ追いかけて来て、つかまったら大変だ。それこそもう、死の運命を免れることはできなかろう。だって、あいつは、世界じゅうの人間に超えて、とても剛勇な男なのだから。
だがな、もしも城塞《とりで》の前でもって、あいつと正面から立ち向かったら(どんなものだろう)、そりゃあいかにも、あいつの肌身とても、鋭い青銅《かね》で傷つけられないはずのものでもなかろうし、生命だって一つきり持ちはすまい。世間の噂では、不死身でもない、ということだ。ただ、クロノスの御子のゼウスが、かれに誉れを与えておいでなのだ」
こういって、身を引きすくめて構えをしつつ、アキレウスを待っていた。その胸には雄々しい心が、アキレウスに戦さをしかけ、闘いあおうと躍り立っていた。さながら豹《ひょう》が、深い木立の繁みのあいだから、狩猟をする男の、まっ正面に出て来るよう、それで犬どもの吠える声を耳にしても、すこしも、臆《おく》れもしなければ、逃げ出そうともしない。先手をうって、猟師のほうから、突くなり、槍を投げるなりしても、また刃に身を刺しとおされても、獰猛《どうもう》な気はいっこうひるもうとしない、とっ組み合って、いよいよ仕止められないうちは。
そのように、誉れも高いアンテノルの勇ましい息子アゲノルは、アキレウスの腕前を試してみるまでは、いっこう逃げようともしなかった。そして、八方によく釣合いの取れた楯を、体の前に捧げ持って、アキレウスその人に、じっと槍の狙いをつけ、大声で叫び立てるよう、
「そりゃいかにも、心の中で、とても期待していただろう、誉れかがやくアキレウスよ、いよいよ今日は、武者ぶりもすぐれたトロイア人たちの城市《まち》を攻めおとせようと。馬鹿なやつだよ、おまえは。まだ山ほどもあるいろんな苦労を、そこへゆくまでには、しなければなるまいからな。第一、城の中には、われわれみたいな、勇敢なつわものどもが、大勢まだひかえているのだ。それがいずれも、愛する親たちや妻子らをうしろにかばい、イリオスを護って立っているのだ。それゆえ、おまえも、この場所で、とうとう最期を遂げるだろう、それほど恐ろしく、大胆不敵な戦士ながら」
こういって、鋭い槍を、力強い腕からほうりつけると、狙いたがわず、アキレウスの膝の下の、向う脛にぶつかって、新規に作られた、錫の金具の脛当てが、恐ろしい音をたてて、あたりに響きわたった。しかし青銅の穂先は、あたったところから、またはじき返されて、中へはとおっていかなかった。なにぶんにも神さまの贈り物なので、それが防いだのだった。
つづいて、ペレウスの子(アキレウス)も、神とも見えようアゲノル目がけて突進したが、アポロン神が、手柄を彼には立てさせずに、靄気《もやけ》にアゲノルを押しつつんで、そこから彼を拉し去り、戦場から無事にらくらくと送り出して帰してやった。他方ではアキレウスを、はかりごとで欺いて、トロイア勢から遠くへ行かせた。というのは、つまり遠矢の御神(アポロン)が、アゲノルとそっくりな姿をして、アキレウスのすぐ前へ現われたもので、すぐ駆け出してつかまえようと跳びかかったからだ。
こうして彼のあとを追いかけていって、小麦のみのる野原を横ぎり、深く渦を巻くスカマンドロス河のほうへと、追いつめていった。しかしこれも、アポロンのする欺瞞《あやかし》で、彼をだまして、いますぐにも、自分の足の力で追いつけるだろうと思わせたものだった。その間に、他のトロイア勢は、どんどん逃げてゆき、重なりあって城中へと帰り着いて、胸をなでおろした。だが、町の中は逃げこんだ者でいっぱいになり、誰一人として、城や囲壁の外側で、たがいを待ち合わせて、誰が首尾よく逃げこめたか、あるいは戦いで討たれたかを、あえて知ろうとつとめる者もなかった。いやしくも足か膝かを頼りにできる者はみな残らず一様に、大急ぎで城の中へとなだれこんだのである。
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ヘクトル討ち死にを遂げる段
【一方ヘクトルはアポロン神に助けられ、仲間ともども城市《まち》に戻ったが、城門のところで踏み止まる。それを塁壁からながめる老王や王妃ヘカベは涙とともに入城を勧めるが、肯《き》かない。そのうちついにアキレウスは城下に迫った。それと見てヘクトルは急に恐怖におそわれ、城をめぐって三回逃げ走る。彼の死は運命で定められていた。アポロンはついに去り、アテネ女神の詐謀《はかりごと》で彼はひとりでアキレウスに向かい、ついに彼の槍に倒れる。その屍を彼は戦車の後ろに結びつけ、平原を船陣へと引きずっていった。老父母は悲嘆にくれ、妻アンドロマケはこれを望見して気を失い倒れ伏した】
このように、トロイア勢は砦の中へと、仔鹿のように怖がって逃げこみ、汗をしずめて休んでから、堅固なつくりの狭間《はざま》壁にもたれかかって、酒を飲み、渇きをいやしていた。その間にアカイア方は、楯を肩にかけつらねて、囲壁の近くへ進んで来たが、呪われた運命は、ヘクトルだけを、そのままそこへ釘づけにして、イリオスの口の、スカイア門のすぐ前にとどまらせておいた。一方では、ペレウスの子(アキレウス)に向かって、ポイボス・アポロンがいわれるよう、
「どうして私を、ペレウスの子よ、速い足で、追いかけて来るのか、おまえはまさしく死ぬはずの人間なのに、不死である神の私を。ではどうやら私が神であることを悟っていないらしいな、おまえはあまりにはげしくいきり立っているものだから。それとも、もうトロイア勢をやっつける気はなくしたのか、先ほど潰走させたものだが。そらごらん、あいつらはもう砦の中へ逃げこんでしまった、それなのにおまえはここへ寄り道したとは。だが、けして殺しはできなかろうよ、私は死ぬはずにはなってないのだから」
それに向かって、足の速いアキレウスが、大変腹を立てていうよう、
「私をたぶらかしたんですね、遠矢の神よ、神々のうちでいちばんに呪わしいあなたが、今度はここへ、囲壁から私をそらして連れて来たのだ。まったく、まだ大勢の者を、イリオスの中へ逃げこむまえに、大地を歯で咬みしめさせてやれただろうに。それを、いまこうして、大きな誉れを奪い取ったばかりでなく、やすやすと助けてやられたというのも、あとで復讐されるのを、ちっとも怖く思われないからだな。だが、もしも私にその力がありさえしたら、仕返しをしてあげるでしょうに」
こういうなり、城市《まち》のほうへと、昂然として歩みを進めていった。大急ぎで、ちょうど車をひいて競技に勝った馬みたいに、平野の上を大股で、身も軽々と駆ってゆく馬、それと同じに、アキレウスはすばしこく、足と膝とを動かしつづけた。
その姿を、まっ先に眼で認めたのは、老王のプリアモスだった、野原の上を、さながら星のように、輝きわたりつつ、駆って来るのを。その星こそ、夏の末ごろ、空に現われて、たくさんな星屑《ほしくず》の間でも、ことさらに目立って、光芒を夜の暗闇に照り輝かせる――世間の人々からは、またの名をオリオンの犬と呼ばれ、いちばんに光の強い星ではあるが、禍いの表徴《しるし》とされ、みじめな人間どもに、ひどい熱病の気をもたらすのである。
そのように、馳《はし》ってくるアキレウスの胸のまわりに、青銅が照り輝くのに、老王は嘆声を発すると、高く両手を突き出して、頭を手で打ち叩き、愛する息子に頼みこみながら叫んだ。けれども、こちらのヘクトルのほうは、スカイア門のすぐ前で、アキレウスと決戦しようと、ただ一心に、きおいこんで立っていたのだった。それへ向かって、老王は手をさしのばして、哀しげに呼びかけるよう、
「ヘクトル、どうか頼むから、あの男を待ちつづけるのはやめてくれ、愛する息子よ、しかもただ一人で、他の者らとは引き離れて。ペレウスの子の手にかかって、すぐにも討たれて最期を遂げてはたいへんだぞ、あいつのほうが、ずっと上手《うわて》なのだから、情け知らずで。まったく私があいつを愛するくらい、神々も彼を可愛《かわい》がってくださる〔反語で、アキレウスを憎悪して「戦死させてくれたら」との意〕と、ありがたいのに。そしたら、すぐにも、犬どもや禿鷹などが寄ってたかって、あいつの倒れているのを啖《くら》おうから、この胸の奥底からも、この恐ろしい悲嘆がなくなるだろうに。あいつは私からも、大勢の、しかも立派な息子たちを、奪い取ったのだ、殺したり、遠いところにある島々へ売り飛ばしなどして。
ついいましがたも、二人の息子、リュカオンとポリュドロスとの姿が、城中へ逃げこんで来たトロイア勢の中には見えない。あの二人は、婦人の中でもとりわけて位の高いラオトエが、産んでくれた子供らだ。もしあの子らが、戦場のどこかに生きながらえているならば、あとで、青銅や黄金をやって、引替えに返してもらうこともできよう、うちにはたくさんあるからな。それも、世に名の聞こえたアルテス老人が娘(ラオトエ)につけてよこした物なのだから。もしまたとうに死んでしまって、もう冥王の府にいるものなら、いかにも二人の親である母親と私の胸には辛《つら》いことだが、他の人々にとってはその苦しみも、そんなに長くはつづくまい、もしおまえさえ、アキレウスの手にかかって死なずにいるなら。
だから、さあ、息子よ、囲壁の中へはいってくれ、トロイアの人々や女たちを安心させるように、そしてペレウスの子に、たいそうな手柄を立てさせないためにも。自分自身にしたところで、かなしい生命をとられてはなるまい。さらには、この不幸な私を憐れんでくれ、まだ気もしっかりしているのに、運つたなくも、クロノスの子のおん父神が、老いの閾《しきい》にさしかかってから、悲惨な運命《さだめ》のもとに、滅ぼそうとされるのだ、たくさんな不幸を眼に見たうえで。息子たちは、どんどん殺され、娘たちは引きずっていかれてしまい、部屋々々は荒らしつくされ、がんぜない幼児らさえ、恐ろしい敵対のうちに、大地へと投げつけられるのを。また嫁たちは、アカイア人の呪われた手に、引っ張っていかれるのだ。
その最後には、この私自身を、生ま身を啖《くら》う犬どもが、戸口のいちばんはしのところで、引き裂くだろう、鋭い青銅の刃物で、誰かが私を、突くなり撃つなりして、この体から生命を奪ってしまったあとで。その犬どもは、私が前から、屋敷の中で門番として、食卓のそばで飼ってきたものだが、それが私の血をすすってから、心をすっかり狂わして、玄関先に臥ていることだろう。いかにも、若い者なら、何もかも見てくれがよい。戦いで討ち死をし、鋭い青銅《はもの》に切り裂かれて横たわっていようと、死んでしまえば、万事みな清らかなのだ、見るもののすべてが。ところがどうだ、白髪《しらが》の首、白髪のひげの、殺された老人の隠しどころを、犬どもが寄ってたかって辱しめ穢《けが》すとなれば、これ以上に、みじめな人間にとって、嘆かわしいことはあるまい」
こう老王はいうと、灰色の毛を手でつかんで、頭から引きむしったが、それでもヘクトルの心を説きつけはできなかった。また今度は母御前が、ほかのほうから、涙を流し、胸をはだけて片方の手に乳房をさし上げながらも、嘆きくどいた、そして彼に向かって、涙を流しながら、翼をもった言葉をかけるよう、
「ヘクトル、私の子なら、この乳房に免じて、憐れと思っておくれ。それを思い出して、愛《いと》しい子よ、敵の武士を防ぐにしても、囲壁の中にいてにしておくれ。先頭にいて、あの男に敵対するのはやめにしてね、あれは無法な男だもの。万一にもあれがおまえを殺したら、もう私にしても、寝棺に置いて、可愛い息子のおまえを嘆きもできないだろう、産みの母であるのに。またたくさんな贈り物と替えた嫁御だって。それどころかおまえを、私たちからずっと離れた、アルゴス勢の船のかたわらで、速い犬どもが食いつくすでしょうに」
このように、二人は声をそろえて、泣き叫びながら、愛しい子に、いろいろと呼びかけては頼みこんだが、どうにもヘクトルの心を説きつけはできなかった。それどころか、そのままに、物すさまじい勢いでアキレウスが間近へ来るのを待ち構えていた。その様子は、さながら、山中に棲む大蛇が、洞《ほこら》の口で人を待ち受けるのにも似ていた。はげしい毒を胎《はら》に含んで、ひどい怒りに身を占められると、孔のぐるりにとぐろを巻いて、凶暴な眼つきでじっと人を見つめる。そのように、ヘクトルは、依然として不屈な勇気をもって、すさろうとはせず、囲壁から突き出ている櫓《やぐら》の下に、輝かしい楯をもたせかけていたが、ふと顔を曇らせて、われとわが気象もひろい心に向かっていうようには、
「ああ、私としたことが、もしこの門と囲壁の中へはいっていったら、まっ先にプリュダマスが非難の言葉を浴びせかけよう。彼はさっきも、トロイア勢を、城塞《とりで》のほうへ率いていけ、と私にすすめたのだ。この呪われた夜のあいだに、勇ましいアキレウスが起ち上がったときだった。それに私は従わなかった。まったく、そうしたら、ずっと得だったものを。だがもう、兵士たちを、私自身の思い上がった気持から殺させたうえは、トロイアの人々にも、裳《もすそ》を引きずる女たちにも、合わす顔がない、あるいは誰か、私よりずっと臆病な者までが、こういってそしりはすまいか(とおそれるもので)。『ヘクトルは、自分の力をたのんだあげく、兵士たちを殺させたのだ』と。
こう皆、いうだろう。それくらいなら、私もアキレウスと一騎打ちをしたほうが、ずっとましだろう。彼を首尾よく殪《たお》して帰るか、それともあるいは、祖国を護って、名誉を全うしながらも、彼の手にかかって死ぬか(はわからないが)。もしまた私が臍《ほぞ》をもった大楯を下にすえて置いて、がっしりとした兜も脱ぎ、槍は囲壁に立てかけておいて、身一つで、誉れも高いアキレウスの面前に出かけていったら、そして、ヘレネも、また財宝まで、彼女に添えて渡すと約束したら――そっくり、アレクサンドロス(パリス)が、うつろに刳《く》った船々に載せて、トロイアへ持ってきたのをみな返したら――彼女《あれ》が戦さの原因なのだから、アトレウスの子たちに連れていくように渡してやろうし、またアカイア軍には、そのほかに、この城市《まち》にしまってあるかぎりの宝を、そっくり二つに分けて、(その半分を)やるといったら(どうだろう)。
また一方、トロイアの人々にも、そのあとで、老人《おとな》たちから誓いをさせるのだ、何も隠さずに、そっくりきれいに二つに分けて、(半分を)出すと≪このなつかしい城市が、中にしまってある財物を、みな残らず≫。だが、どうして、こんなことを、私の心が相談しかけてくるのだろう。あるいは私が頼みにいっても、かれは私に憐れみをかけてもくれず、(ゼウスの庇護のもとにあるべき願人《がんにん》として)はばかることもてんでなしに、武器も持たずに女同然なのもかまわず(抵抗もできないのに)、殺しかねないだろう、物の具もすっかり脱いできたのを。
いまとなっては、もうどうあろうと、槲《かしわ》の木や岩からなど〔人間の起源からなど、長々しく説得をはかるの意〕、くだくだしく、あの男と話をしあうことは不可能だ、処女と青年とのようには。それより一刻も早く駆け向かって、闘うほうが、まさっている。どちらのほうに、オリュンポスにおいでのゼウスが、誉れをお授けくださろうか、私らにもはっきりするように」
こう待ち構えながら思案する、その間にこちらのアキレウスは、もうその間近にやって来た、その姿はエニュアリオスそっくり、きらめく兜の軍神《いくさがみ》である。右の肩にふるうのは、ペリオン山からのトネリコの槍で、そのものすごさに、あたりには青銅(の物の具)が燦爛《さんらん》として、さながら燃えさかる火か、さしのぼってゆく太陽の輝きにも似ていた。
それを一目見るなり、ヘクトルは身ぶるいに取り憑《つ》かれて、もうそのままそこにじっとしてはいられなくなり、門をうしろに捨てて逃げて走り出すと、ペレウスの子(アキレウス)は、飛ぶような足の速さをたのみにして、おどりかかった。その様子は、さながら鳥類のうちでいちばんに身軽だという隼《はやぶさ》が、山の間でやすやすと、ほろほろ鳴く鳩を目がけて翔《かけ》ってゆくようである。こちらの鳥はおびえきって、ひたすら逃げにかかる、それを近くに迫って、鋭く叫び立てながら、なおしきりにかかってゆくのは、つかまえようと意気ごんでいるのだ。
そのようにいきおいこんで、(アキレウスが)まっしぐらにおどりかかれば、ヘクトルは、トロイアの城の囲壁の下を、足をせわしく運んでひたすら逃げた。こうして二人は、物見《ものみ》のわきや、風に鳴るいちじくの樹のそばを通って、いつも囲壁の下はずれを、二輪車が通る小径《こみち》に沿い走りつづけ、清らかに流れる二つの泉のところへ着いた。ここは渦を巻くスカマンドロスの、二つの源泉が湧き出ているところで、その一方は温かい湯が流れ出るため、あたり一面に川のおもてから、まるで燃える火のように、煙が立っていた。もう一方は、夏でもなお、冷たい霰《あられ》か、あるいは雪か、それとも氷のような冷たい水を吐き出すもので、この場所へは泉の間近に、広やかな洗濯場が設けられていた。立派な石造りで、いつもトロイアの人々の美しい妻や娘たちが、アカイア軍が遠征して来たその前の、平和な時分には、つやのよい衣をすすぎにきたものだった。
そのわきを、いま二人はかけっていった、一方は逃げ、他方はそれをあとから追って。前へ逃げてゆくのが勇士なれば、それを追う者はなおずっと剛勇な者なので、その速いこと。それというのも、ここに賭けられているのは、犠牲の獣だとか牛皮の楯とかいう、人が徒歩競走の際に出す(ありふれた)賞品ではなく、馬を馴らすヘクトルの命を目あてに駆けているからだった。
さながら、賞品をよく得てくる、単《ひと》つ蹄《ひづめ》の馬たちが、コースのはてにある(しるしの)柱を、目にも止まらず、駆けめぐってくるよう。それには、たいそうな賞品が、鼎《かなえ》だとか、婦人とかが、差し出されているのだ、世を去った貴人を葬う催しなので。そのように敏捷な足どりで、二人は三度も、プリアモスの都城(イリオス)をぐるぐるとまわって走る、それを神々たちは(天界から)みなおそろいでながめておいでだった。まず先に、皆にむかって話をはじめたのは、人間と神々との父であるゼウス神で、
「やれやれ、まったく好もしい武士が、囲壁のまわりを追いかけられているのを、この眼に見るものだ、私の胸は、ヘクトルのために、悲しんで嘆いている。あれはいつも私へと、どっさり牛の腿肉を焼いて献げてくれたものな、山ひだのたくさんあるイダの峰や、時にはまた(イリオスの)城山でな。それをいま、勇ましいアキレウスが、プリアモスの城塞《とりで》をめぐって、すばやい足で追っかけているのだ。だからさあ、皆も、よく思案してくれ、彼を死から救い出してやろうか、それともはや、ペレウスの子アキレウスに彼を討たせたものかを、勇士ではあるけれども」
それに向かって今度は、きらめく眼の女神アテネがいわれるようには、
「まあ、白くひらめくいなずまの、黒雲を寄せるおん父神、なにをおおせになります、死ぬはずの人間として、もうとっくに、死の運命《さだめ》にきまっておりますものを。それをまた、おぞましい嘆きの声の『死』から、解き放してやろうとお望みなのですか。そうなさいませ、でもほかの神さまが、けしてみな賛成とはまいりますまい」
それに答えて、群雲を寄せるゼウス神がいわれるようには、
「安心しなさい、愛する娘のトリトゲネイア〔アテネの異称〕よ、けして心《しん》から本気でいうのではないから、おまえに意地悪をするつもりはないのだ。それこそおまえの好きなようにやったらよかろう、遠慮はいらないよ」
こういって、それでなくてさえ熱心なアテネをけしかけたので、すぐに女神は、オリュンポスの峰々から飛び立って、下りておいでだった。
さて足の速いアキレウスは、ヘクトルを、はげしい勢いで追い立てていった、そのさまはさながら、山の間で、鹿《か》の仔《こ》の小鹿《おじか》を、犬が追うよう。隠れ家から、それを駆り立てて、谷の角や谷あいを抜けてゆく、たとえヘクトルが繁みの下へかがまりこんで、ちょっとのあいだ犬の目をくらまそうとしても、嗅ぎ出して見つけるまでは、ひっきりなしに足跡をつけてゆくのだ。
それと同様に、ヘクトルは、足の速いアキレウスの目を逃れることができなかった。それで、何度となく、ダルダノスの門にむかって、堅固に築かれている囲壁に立つ櫓の下へ、駆けこもうとして跳び立ったが――あるいは味方の者が、飛び道具を浴びせかけて、助けてくれるかもしれないと考えて――だが、そのたびごとに、アキレウスがあらかじめ先まわりをして、平野のほうへ追い落とし、自分は城塞《とりで》の側に寄り添って、かけっていった。ちょうど夢の中で、逃げてゆく者を追いかけても、(けして捕えは)できないように。一方は逃げ切ろうとしても、どうにも逃げ切れない、追うほうも追いつけない、そのように、一方はいくら駆けてもつかまえることができず、もう一方も、逃げ切れないでいた。
だが、もしアポロンが、これを最後のぎりぎり(な援助)として、彼のすぐそばに出会いに来て、勇気を起こさせ、足をすばしこく運ばせてやらなかったなら、どうしてヘクトルは、死の運命を、こうまでうまく免れていけたろうか。また勇ましいアキレウスも、味方の兵士たちに向かって、頭を振っておさえ止め、誰か、自分以外の者が、(ヘクトルに槍を)あてて手柄を立て、自分がおくれを取らないようにと、ヘクトルに鋭い武器《えもの》を投げつけるのを許さなかった。
しかしいよいよ四度目に、噴泉のところへ二人が来たとき、ちょうどその際に、父神は、黄金でできている秤《はかり》をさし上げて、その皿に、二つの、長い苦悩のもとである、死の運命《さだめ》をお置きになった、一方にはアキレウスの、もう一方へは馬を馴らすヘクトルの(死の運命)である。そして、天秤《てんびん》のまんなかをとって、上へあげると、ヘクトルの死ぬべき運命の日がさがって、冥王の府へ向かったもので、ポイボス・アポロンも(よんどころなく)ヘクトルのそばを離れた。一方、ペレウスの子のところへは、きらめく眼の女神アテネがやって来て、すぐ間近に立ち添い、翼をもった言葉をかけ、いうようには、
「いまこそいよいよ、ゼウスがお愛《いと》しみになる、誉れも高いアキレウスよ、私たちが二人でもって、たいした誉れをアカイア方にもたらせようと期待しているのです、ヘクトルを打ち殺して、船陣へもっていけようから。今度はもう、どうあろうと、私たちの手を逃げおおせるのは不可能なのです。たとえば、あの遠矢を射るアポロン神が、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウス父神の御前に出て、身を転ばせ、どんなにいろいろ骨折って(お願い)したってね。それゆえおまえは、いま立ちどまって、一息おつきなさい、私があの人《ひと》(ヘクトル)のところへ行って、おまえと一騎打ちをしに向かって来るよう説得しましょうから」
こうアテネがいうと、アキレウスは、心中に喜んで、女神の言葉に従った。そして、青銅の細い刃をつけたトネリコの槍の柄にもたれて、たたずんでいた。女神はそこでアキレウスのそばを離れ、勇ましいヘクトルに行き会ったが、その姿も、よくとおる声も、弟のデイポボスにそっくり似せ、ヘクトルのすぐ身近に立ち添って、翼をもった言葉をかけ、
「兄上、まったくずいぶんひどく、足の速いアキレウスは、あなたを追いこんできますね、プリアモスの城市のまわりを、速い足にまかせて追いかけまわして。でもさあ、いまは二人で立ちどまって、彼を待ち受け、防ぎ戦おうではありませんか」
それに向かって今度は、丈が高く、きらめく兜(を被った)ヘクトルがいうよう、
「デイポボスよ、まったくきみは、兄弟じゅうでも、以前から一番の仲良しだった、ヘカベとプリアモスとの(同腹の)息子たちの中でもだ。しかし、いまでは、なおいっそう、心中できみを大切に思っているつもりだ、仔細を眼でこうと認めてくれて、わざわざ私のために思い切って、囲壁から出て来てくれたのだものな、他の人らは、(囲壁の)中にとどまっているのに」
それに向かって、今度はきらめく眼の女神アテネがいわれるよう、
「兄上、ずいぶんと、お父さまも母さまも、つぎつぎと、私の前にひざまずいてお頼みでした。仲間の者らもまわりに立って、出てゆくなと頼むのです。それほどみながみな、恐ろしがって震えている次第です。でも私の胸のうちは、つらい悲嘆にさいなまれていたのでした。さあいまこそ一所懸命に、力をつくして闘いましょう、投げ槍などは、いっこうに物おしみをしないで。私たちにもよくわかるようにです、そもそもアキレウスが私たちを殺してから、血まみれな獲物をもって、中のうつろな船のところへ帰ってゆけるか、それともあるいは、あなたの槍に討ち取られようかが」
こういってから、さらに悪賢くも、アテネが先頭に立ち、向かっていかせた。さて、両方からたがいを目がけて進み寄り、いよいよ間近となったとき、先がけて、まず丈が高く、きらめく兜のヘクトルがいうようには、
「ペレウスの子よ、もはやおまえから、こわがって逃げたりはしない。これまで三度も、プリアモスの大きな城市《まち》をめぐって走り、おまえのやって来るのを受けとめる勇気がなかった。だがいまは変わって私の心が、おまえに向かって、一騎打ちをいどませるのだ、討つか、それとも討たれるかはわからないが。ともかくも、さあ、ここへ出て、神々を証《あかし》に招ぶとしよう、神々こそは、最上の立会い人にも、取り決めの監督者にもなってくれようから。つまり、私はけしておまえに、ひどい侮辱を加えないつもりだ、たとえゼウスが私に、持ちこたえる力を授けられて、おまえの命をとることができた場合にも。その際でも、世に名高いおまえの物の具をはぎ取ったうえは、アキレウスよ、屍はアカイア方に返して渡そうから、おまえのほうでも、そうしてくれ」
こういうのを、上目づかいに睨みつけて、足の速いアキレウスがいうよう、
「ヘクトルよ、けして、いくら憎んでも飽きたりないおまえが、取り決めなどとは、おこがましい。ちょうど獅子と人間とのあいだに固い誓いなどありようがなく、また狼と仔羊とが、仲良く心を一つに合わせはけしてできずに、いつもたがいに害心を抱いて、相手の不幸をはかるよう、おまえと私とが仲好くするなど、とうてい不可能なこと。また私らのあいだには、誓言も成り立つまい、まず一方が討ち取られて、楯を構えた戦士であるアレス神を、血潮でもって飽かせないうちは。(それゆえ)身に覚えのある限りの、あらゆる武技《わざ》を働かせるがいい。いまこそ自分が、槍をとって剛勇の武士、大胆不敵な戦士であるのを証《あか》すべきだぞ。もうおまえには、のがれる道は一つとしてないのだ。すぐにもおまえを、パラス・アテネが、私の槍に討たせてくれよう。いまこそ何もかも、みないっしょくたに償《つぐな》うのだ。私の友達への悲嘆も、おまえが槍で荒れ狂って殺した人々の命も」
こういって、長い影をひく槍を振りあげ、ほうりつけると、それをまともに見きわめて、誉れ輝くヘクトルは、横に身をかわした。すなわち先によく見てとって腰を下げたので、青銅の槍は飛び越えてゆき、うしろの大地へ突き刺さった。それをパラス・アテネが、すばやく抜き取り、兵士らの統率者なるヘクトルの目をかすめて、アキレウスにまた返してやった。そこで、ヘクトルは、人品すぐれたペレウスの子に向かっていうよう、
「あてそこなったな、どうやらおまえは、神々にも姿の似通うアキレウスよ、ゼウス神から私の死期を教わってたのではないようだな、さっきはそういったが。そうではなくて、口の達者な、話で人を釣るといったやつだったのだな。それで自分を私に恐れさせて、防戦する勇気もなくさせようって考えだろうが、私の逃げてゆくその背中へ、槍を突き立てようったってだめだぞ。それよりまっすぐに、攻めかかってゆく私の胸へ、打ちこむのがよかろう、もしそれが神慮とならばな。では今度は、私の槍を避けて見せろ、青銅のを。まったくそれを、おまえの肌へ、そっくり受けてくれたらよいのに。そしたらトロイア勢も、ずっと気楽に戦さができよう、もしおまえが最期を遂げたならば。おまえが、皆にとっては最大の禍いなのだから」
こういって、長い影をひく槍を振り上げ、ほうりつけて、ペレウスの子の楯のまんなかへ、あやまたずに打ちあてたが、楯から遠くへ、槍がすべって飛んでいってしまった。自分のせっかく投げた飛び道具が、手からむなしく出ていったのにヘクトルは腹を立てた。それで、しょげ返って立っていたが、手もとには、他にはもうトネリコの槍がないので、大声をあげて、白い楯をもつデイポボスに呼びかけ、長い柄の槍をもらおうとした。ところがその姿は、近所には見あたらなかった。これにヘクトルは、心のうちで次第を覚って、声を放つよう、
「やれやれ、かならずこれは神々が、私を死へと呼ばれたのだ。あの勇士であるデイポボスが、すぐわきにひかえていると、私としては思っていたのに、見れば囲壁の中にいるとは。私をすっかりアテネがだまかしたにちがいない。いまこそいよいよ禍いな死が、すぐと間近に迫ってきて、すこしの猶予も許されない。さてはとうから、ゼウス神も、ゼウスの御子の遠矢の神(アポロン)も、こうなることをお望みだったのか、以前にはみな熱心に護ってくださったのに。今度は私を、死の運命《さだめ》が襲おうというのだ。だが、けして、いずれ死ぬにもせよ、そうやすやすと、誉れをけがして討たれたくはない、せめてはひとかどの働きを立て、後の世にまで名を残したいものだ」
こう声をあげていうなり、鋭い剣を抜き放った、それは前から脇腹のもとに提げていたので、大きくて頑丈な太刀だったが、それをかざして、身をすくめると、高い空を飛ぶ鷲さながらに、おどりかかった。まっ黒な雲の群がる間を抜け、地上を目がけて舞い下りるその鷲は、やわやわとした仔羊か、それとも兎の、野兎をさらっていこうというものだ。その鷲のようにヘクトルは、鋭い剣をふるいながら跳びかかっていった。
こちらのアキレウスもまた突き進んだ、心ははげしい意気にみちみちて、前には立派な、技巧《たくみ》をこらした楯を掲げて胸を蔽えば、四つの角をつけた兜は、きらきらとして頭上に垂れ、美々しい黄金づくりの、垂れている総毛がまわりになびいて揺れた。これらはみな、ヘパイストスが鉢のまわりに、隙間もないほどいっぱいにつけたものである。さながら夕方の闇を、多くの星々のあいだに渡ってゆく、かの星のように。太白星と呼ばれて、大空に位する星屑の中でも、いちばんにきらやかな星である。その星みたいに、アキレウスが、右手のうちにふるう槍の、研ぎすまされて鋭い穂先は光を放っていた、勇敢なヘクトルへと禍いをたくらんで。
そして、どこがいちばん突きよさそうかと、みごとなその体をながめてゆくうちに、他のところは全部、先ほど剛勇のパトロクロスを討ち取ったおりに、はいで奪った青銅の美々しい物の具に蔽われていたが、ただ鎖骨が肩から咽喉を分けるところだけがあらわれていた。それは喉笛といって、生命をなくすのにいちばん早い急所と知られている。そこを目がけて槍を、向うからきおいこんでかかるのへ向け、勇ましいアキレウスが突っこむと、その穂の先がずっぷりと、柔かい咽喉を貫いて向うへとおった。それでも重い青銅をつけたトネリコの槍のことで、気管を切断しなかったので、言葉を発して、応答の物をいうのには、さしさわりがなかった。それで砂塵の中へ倒れたのへ向かって、勇敢なアキレウスが、勝ち誇っていうようには、
「ヘクトル、どうやらおまえは、パトロクロスの鎧をはぎ取ってるとき、無事ですむだろうと思っていたらしいな、その場にいない私をちっともおそれないで。馬鹿な男だ。たとえ離れているにせよ、彼の助太刀には、おまえよりずっと上手《うわて》の、この私が、うつろに刳《く》った船々のかたわらに、あとへひかえていたのだ。その武士《つわもの》がいま、おまえの膝を萎《な》えさせて(殪《たお》し)たのだぞ。おまえのほうは、犬どもや猛烏どもが寄ってたかって、さんざん引き裂き辱しめようが、彼のためには、アカイア軍が、ちゃんと葬いをしてやるだろう」
それに向かって、息もはや細々として、きらめく兜のヘクトルがいうよう、
「お願いだ、おまえの命と、その膝と、おまえの両親とによって、頼むから、どうか、私を犬どもが、アカイア軍の船のかたわらで、裂いて啖《く》うままにはしてくれるな。それよりもおまえは、青銅や黄金の器などをいっぱいに、償《つぐの》い代《しろ》(償金)として受け取ってくれ、きっと私の父や母がよこすだろうから。そしてこの体は、家へ送り返してくれ、死んでから、トロイアの男たちやその妻どもが、私を火葬にしてくれるように」
こういうのを、上目づかいに睨みつけて、足の速いアキレウスが、向かっていうよう、
「何だと、犬めが、膝だとか、両親だとかを頼りにして、頼みこもうなど。まったくこの私自身を、なんとか、気勢だの憤慨だのが駆り立てて、おまえを、生きたまま切り裂いて、肉を啖《く》わせてくれたらよいのに。それだけのことをおまえはやってのけたのだぞ。それゆえ、誰にしろ、おまえの首から、犬どもを追っ払おうなどというのは、てんで不可能なことだ、またたとえ、いまの、十倍、あるいは二十倍ほどもたくさん償い代を、ここへ運んで来て積み上げようと、またそのうえにもまだ(くれようと)約束したって、さらにまた、たとえダルダノスの裔《すえ》のプリアモスが、おまえの体の重さだけ、黄金を測って、代りに出すといおうとてもだ。そこまでしても、けして、おまえの母御が、自分の産んだそのおまえを、寝棺にすえて、泣き悲しむことはできまい。かわりに犬どもや、鷙烏《おおとり》どもが、おまえをすっかり啖《くら》いつくそう」
それに向かって、死に絶えながら、兜のきらめくヘクトルがいうようには、
「いかにも、おまえを面と向かってながめれば、十分よくわかる、とうていおまえは、説きつけようもない人間だと。まったくおまえの胸のうちにある心臓は、鋼鉄でできてるのだろう。それならよくよく気をつけるがいい、神々の憤りを、私のせいでこうむらないようにな、パリスとポイボス・アポロンとが、いつかおまえを、たとえどんなに強い武士《さむらい》だろうと、スカイアの門のところで、討ち取ろうという、その日に」
こういい終わると、彼の身を、一期《いちご》の終りがすっかりとつつみ去った。その魂魄《たましい》は、五体から抜け出て飛び去り、冥途へと、身の運命《さだめ》を悼《いた》み哭《な》きながら、雄々しさと若さの華を捨てていった。このように、死にきった者に向かって、勇ましいアキレウスがいうようには、
「死んでしまえ、私だって、その時には死の運命《さだめ》を受け取ろうよ、まったくいつだって、ゼウスやその他の不死である神々たちが、それを果たされようと望むときには」
こういって、屍から青銅の槍を引き抜いて取ると、それをはなれたところに置いて、彼の両肩から血にまみれた鎧をはぎ取りにかかった。そこへ他のアカイア勢の人々も駆けつけてとり囲み、みなヘクトルの体形《からだかたち》や、驚くばかりに立派な姿をつくづくとながめた。だが、彼のわきに来て立った者に、みな一人として、(武器《えもの》を取って)突き刺さない人間はなく、たがいに隣に立つ者と顔を見合わせて、こういうのであった、
「ほう、やれやれ、まったくヘクトルも、手をかけて持ち扱うにも、ずっとやさしくなったものだ、燃えさかる火を船陣にかけたときよりは」
こう皆たがいにいい合っては、脇へ立って刺しつらぬいた。さて物の具をすっかりはぎ取ると、足の速く、勇ましいアキレウスは、アカイア勢の間に立って、翼をもった言葉をかけ、
「おい仲間の、アルゴス勢の指揮官や大将たち、とうとうこの男を、神々が討ち取らせてくださったからには――まったく、他の皆を寄せ集めても、まだ足らんほど、たくさんの悪事を働いたやつだが――さあ、皆でもって武器を取り、城を囲んで攻めかかろう、トロイア方がいったいどんな意向でいるかを、なおさら知るためにも。この男が殪《たお》れたからには、もう城町を見捨てきるつもりでいるのか、それともなお踏みとどまっている決心なのか、ヘクトルはもはやいなくなったにせよ。
だがまったく、どういうわけで私の心はこんなことをいい出したものだろう。パトロクロスの屍は、まだ船のかたわらに、号泣のくやみもされず、葬式も出されないで、横たわっているというのに。彼をけして忘れることはあるまい、いやしくもこの私が、生存者たちのあいだにある限りは、またこの膝がしっかりと立ってるあいだは。世間の人は、死んでから冥途へ行くと、すべての記憶をなくすというが、それでも私だけは、あの世へいってもまだ愛する友のことを忘れないでいよう。ではさあ、いまは|勝利の歌《パイアン》をうたいながら、アカイアの若者たちよ、うつろに刳《く》った船のところに帰るとして、この男を引っ張っていこう。≪たいそうな栄誉をかち得たのだ、雄々しいヘクトルを討ち取って。町じゅうのトロイア人が、神へのように、彼に向かって祈りささげていた者だから≫」
こういって、彼は雄々しいヘクトルにたいし、乱暴な辱しめを加える所業を考え出し、両方の足のうしろ側に、かかとの上から足のつけ根へかけて、腱〔いわゆるアキレス腱である。この命名のいわれは、アキレウスのこの行為のためとも、一説には、幼児の折、母神テティスが、彼を不死にしようとして霊火に投じた際、この場所を持ち、それでこの所だけが傷つけられる急所として残った、ともいう。しかしパリスの矢が当たったのは踵ではないので、この説は後代のものであろう〕のところに穴をあけ、それへ牛の皮で作った細い紐を結わえつけて、戦車の台の後部へ繋ぎ、頭《かしら》は引きずられるままに放任した。それから戦車の上に乗りこんで、世に名の聞こえた物の具をもそれへ載せ、鞭を一振りあて、走らせれば、二頭の馬はいそいそとして駆け出した。それで、引きずられてゆくものからは、砂煙が舞い上がって、漆黒だった頭髪《かみのけ》も、両側に垂れて下がれば、以前には様子のよかった頭もすっかり、砂埃にまみれてしまった。このおりには、ゼウスも彼を仇敵の手に引き渡して、自分の祖国の土で、汚辱にゆだねさせといたのであった。
このようにして、ヘクトルの頭は、すっかり砂埃にまみれていた。それをながめる母親は、頭髪をむしって、つやのよい被布《ヴェール》を遠くへかなぐり捨て、息子の姿をながめやっては、はげしく泣き叫んだ。父王もまた痛ましくうめき声をたてるのに、あたりに居合わす人々もみな、町じゅうが号泣と悲しいうめき声とにとりこめられた。それはほとんど、この小丘の多いイリオスの城市《まち》全体が、そっくり火にくべられて焼亡するのと、そっくりな様子だった。町の人々は、当然ながら、老王がダルダノスの門から、ただ一心に出てゆこうときおい立ってもがくのを、やっとのことでおさえとめたのだった。そのプリアモスは、泥土の中に身を転々ところばせて、並みいる人々に頼みつづけた、
「そんなことはしないでくれ、親しい者らよ、私を一人でゆかせてくれ。皆が心配してくれるのはもっともだが、城を出て、アカイア軍の船のところまでゆくのだ。あいつに頼んでみるのだから、無法で、ひどい乱暴を働く男だけれども、あるいは、ひょっとして、私の年をはばかって、この年老いた身を憐れんでくれるかもしれまいから。あれだって、私とほぼ同年輩の、父親をもっているはずだ、ペレウスをな。それが彼を生み養い、トロイア人《びと》の不幸のもとになるように育て上げ、とりわけてこの私に、他の誰にたいしても以上に、苦痛を与えたのだ。それほど大勢の私の息子を、あいつは殺してしまった、まだみな若盛りでいたものを。だが、それも悲嘆のもとにはせよ、その皆を足し合わせても、このヘクトル一人ほどには哭《な》き悲しみはしないのだ、やがてはこのはげしい悲嘆が、私を冥途へつれていくだろうが。あのヘクトルを哭く嘆きがだ。まったく彼が私の腕に抱かれて死んでくれたら、そしたら二人でもって、思う存分に泣き叫び、涙を流して慰めとしように――私自身と、それからあの子を産んだ薄幸な母親(ヘカベ)との二人でもって」
こう泣きながら(プリアモスが)いうと、町の人々も、これに和して悼《いた》みつづけた。またトロイアの女たちにたいしては、ヘカベが、はげしく休むまもない哀悼の先がけに立って、
「まあおまえ、私はなんとみじめな女《もの》か、こうした恐ろしい目にあって、どうしてまだ生きてゆけよう、おまえがもう死んでしまったのに。おまえはまったく、夜昼となく、私にとっては、町じゅうへの自慢だった。また国じゅうのトロイア人《びと》らも、トロイアの女たちも、みなおまえをたのみにして、神さまみたいにおまえを取り扱った、というのも、生きておいでの間は、皆にとっても、おまえはたいした自慢のたねだったから。それを今度はまた、うって変わって、死と定命《さだめ》とが、おまえに襲いかかったとは」
こう泣きながら、つづいていったが、ヘクトルの奥方は、まだいっこうに(この凶報を)知らないでいた。というのは、誰もはっきりとした報せをもっていかなかったからである。それで彼女は、屋根の高い屋敷の奥で、いまもなお織機《はた》を織っていたのである、二幅の紫色の大布に、色とりどりな花の模様を縫い取りして。
そして屋敷じゅうの、美しく鬘《かつら》を結んだ腰元たちにいいつけて、火の上に大きな、三脚の鼎《かなえ》をすえて置かせ、ヘクトルが戦場から戻って来たらば、すぐにも熱い湯が使えるようにと、支度をさせていた。何も知らずに、その夫は、とうてい沐浴《ゆあみ》どころではなく、きらめく眼のアテネが、アキレウスの手にかからせ、討たせた、とは思いも寄らなかったのだ。それがいま、城の櫓のほうから、号泣の声、悲嘆の叫びを聞きつけると、手足はふるえわなないて、持ってた筬《おさ》を地にとり落とした。それから今度は、美しく鬘《かつら》を結った腰元たちに向かっていうよう、
「さあおいで、二人だけついてきておくれ、いったい何事が起こったのか、見てこようから。うやうやしいお姑《しゅうと》さまのお声が聞こえました、それで私としたことが、まあ心臓が、口のところまでおどりさわぐの。それに下の膝までががくがくと、堅くこわばって、きっと何が悪いことが、プリアモスさまのお子さまがたに迫ったのだわ。そんな話が、私の耳には、けしてはいらなければ、うれしいのに。でも、とても心配でしようがないのよ、大胆なヘクトルさまを、勇ましいアキレウスが、たった一人だけ城塞《とりで》から切り離して、平野のほうへ追いかけてゆかないかと思って。それでほんとに、あのかたを支配していた、あのおいたわしい勇敢さに、とどめを刺しはしまいかと。いつだって、武士《さむらい》たちが大勢いる、その間にひかえているのはお嫌いなさって、きっと皆に先駆けをし、武勇の点では、どんなかたにも負けまいとなさるのですもの」
こういうなり、屋敷の中から、まるでディオニュソスに憑《つ》かれた信女(マイナス)のように、心臓をわくわく躍るままにして駆け出していくと、そのあとには、腰元たちがつき添っていった。それからやっと、物見の櫓の、武士たちがかたまって寄り合っているところへ着くと、立ちどまって囲壁の上から、まじまじとあたりを見まわし、城塞の前から引きずられてゆく、その人の姿を眼にみとめた。脚の速い馬どもが、それをがむしゃらに、アカイア軍のうつろな船のほうへと引っ張ってゆく。そのところを見るなり、まっ黒な夜が、その両眼に蔽いかぶさり、うしろのほうへどっと倒れると、そのまましばらく息がとまった。
頭からは、つやつやしい被《かぶ》り布を遠くへ投げ出し、額にした鉢巻も、上の被《かぶ》りものも、編みあげた髪抑えから領巾《ひれ》の布まで遠くへ飛んだ。それらはあの(婚礼の)日に、はじめて彼女を、きらめく兜のヘクトルが、数知れぬほどたくさんな結納の品々に代えて、(父王)エエティオンの屋敷から連れてきたおりに、黄金のアプロディテがくださったものである。(このように倒れたアンドロマケを)とり囲んで、夫の姉妹や、弟嫁たちが大勢寄り添って、みなの間に抱きかかえた。それからややして、息を吹き返すと、やがて正気を取り戻してから、湧き上がる悲嘆にくれながら、トロイアの女たちの間でいうよう、
「ヘクトルさま、私は不運な女ですわ、もともと一つの運命に、私たち二人は生まれたのでした。あなたはトロイアの郷《さと》で、プリアモスさまのお館《やかた》に、私のほうは、森の繁ったプラコスの山の麓の、テバイで、エエティオンの館の中に。その父さまが、幼い私をお育て上げになりました。悲運な娘の、不仕合せなお父さま、ほんに子供をお持ちにならなければ、よかったものを。
それがいまでは、あなたは、大地の隠す、その下の冥王の府へお出かけなさって、私を呪われた嘆きのうちに、寡婦《やもめ》としてお屋敷に置きざりになさいますのね。子供もまだほんの赤児で、それをあなたと私と、不運な者同士が産みましたもの、それもこう、ヘクトルさま、おなくなりでは、とてもこの子の助けにもお成りになれませぬ。またこの子もあなたを(お助けできませんのね)。
≪それというのも、たとえアカイア軍との、涙にみちた戦いを免れたにしましても、のちのちまで、厄介事や煩いが、それこそしじゅうあの子につきまといましょう、よその人間が来て、畑地をあれから奪うでしょうから。それに孤児《みなしご》の日々《くらし》は、すっかり仲間はずれにあの子をしましょう、何かにつけて首をうなだれ、二つの頬をいつも涙に濡らして。また暮らしにさしつかえては、(屋敷町へ)上がって来て、父親のむかしの仲間の人たちを訪ね、ひとりの人の外套を引っ張ったり、もうひとりの衣の裾を引いたりして、いろんな人の憐れみにすがり、誰かがちょっと差し出した杯を受けては、唇を濡らしましょうが、上顎までは、とても濡らせますまい。
それで両親とも栄えている子が、饗宴《さかもり》の座から、あの子を突き出して、手でもってさんざん打ちたたいたうえ、とがめ立てしていうでもありましょう、こら、出てうせろ、おまえの親父は、私らの馳走の席にはいないんだから、と。それであの子は、涙ながらに、寡婦《やもめ》である母親のところへ戻ってまいりましょう≫アステュアナクスは。以前には、自分の父親の膝に乗って、骨の髄ばかりや、羊の太った脂身だけを食べていましたのに。そしてまた、睡気に襲われれば、がんぜない遊びごとをやめて、乳母の腕に抱かれて戻り、やわらかな褥《しとね》にくるまって、ぜいたくを思う存分つくしまして、寝床の中でいつも寝ておりましたのに。
それがいまでは、愛する父をなくしたうえは、アステュアナクスと、トロイアの人々からあだ名を呼ばれた、あの子はさんざん苦労をなめることでしょう。あなたはおひとりで、皆のために城門も、長い囲壁もお護りでした。そのあなたは、いまでは、端の曲がった船々のところで、ご両親さまからも離され、うねりくねるうじどもが、喰いつくすのでしょう、犬どもを飽かしたうえで、しかも裸のままおかれて。それなのに、家の中には、女たちの手で作られた、しなやかな、つやつやしい衣がたくさんしまってあります。いっそこんな、何の役にも立たないのは、みな燃えさかる火ですっかり焼いてしまいましょう、もう(ご遺骸に)掛けもできないのですから。それでせめては、トロイアの男たちや女たちへの、聞こえのたしにはなりますように」
こういって哭けば、それに声をあわせて、女たちも嘆きつづけた。
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パトロクロスの送葬と弔いの競技
【アキレウスは自陣に帰り、部下のミュルミドン勢を集合させ、パトロクロスの哀悼を命ずる。その夜はパトロクロスの屍のわきに倒れ伏して哀号《あいごう》した。夜中にその幽霊が現われてアキレウスにその近い死を予言し、自分の火葬と二人の骨をいっしょに埋葬することを頼む。夜が明けるとアガメムノン王は人々に命じて山から薪を切り出させこれを積み上げ、これへパトロクロスの屍を載せ火を点じた。夜から朝へ、また一日じゅう火は燃えつづけ、夕方やっと火勢が鎮まった。一方ヘクトルの屍は火に投ずるのを許されず、陣屋のかたわらに放置されていた。これを見た神々は彼を憐れみ、ゼウスの命でアポロンとアプロディテがこれを護り、傷つけられないよう保護しておいた。葬儀のあとで、アキレウスは諸将を集合させ、定式どおり盛大な追悼の競技会を催し、多くの賞品をこれに供えた】
このようにして、トロイア方は町をこぞって嘆きつづけた。一方アカイア勢は、船陣のあるヘレスポントスまで帰ってくると、それぞれ自分の船へと散っていったが、アキレウスは、部下のミュルミドン勢だけを解散させずに引き止めておき、戦さをたしなむ部下にいうよう、
「速い馬を駆るミュルミドンたちよ、忠実な仲間の者ども、車の下から単つ蹄の馬どもを解いてはいけない。馬どもをつれ、戦車を駆って、パトロクロスのそばへゆき哀悼の叫びを挙げよう、それが死者への礼であるから。そして、思う存分、いたましい哀号《あいごう》をあげおわったら、みな馬を解き放って、このところで夕餉《ゆうげ》をとることにしよう」
こういうと、皆いっしょに声をあげて哭《な》く。その先頭にはアキレウスが立ち、一同は屍をまわって三度、たてがみの美しい馬を駆りながら、嘆きつづけた。その人々の中に立って、テティスは泣き叫びたさの願いをそそった。こうして、つづく砂浜も、兵士たちの物の具も、涙でもってしとどに濡れた。それほどみなは亡くなった「潰走をもたらす者」(パトロクロス)を慕った。やむ間もない哀号の音頭をとるのは、ペレウスの子アキレウスで、武士たちを殺したその両手を、親友の胸の上に置いていうよう、
「喜んでくれ、パトロクロス、たとえいまは、冥府《よみのくに》にいようとも。以前きみと約束したこと、それをすっかり果たすのだ。ヘクトルをここへ引きずってきて、肉を犬らに啖《く》わせてやろうし、トロイア人の姿形もよい息子どもを十二人、きみを焼く火の前で斬り殺そう、きみを討たれた恨みを晴らしてやるため」
こういって、雄々しいヘクトルに、無残な所業を加えようとした。そして、砂塵の中へうつむけにして、メノイティオスの子パトロクロスの臥床《ふしど》のわきに、長く寝かせた。人々は、それぞれ青銅づくりのきらめく物の具をみな脱ぎ捨て、高くいななく馬どもを車から解き、足の速いアイアコスの裔《すえ》(アキレウス)の船のかたわらに、数え切れないほどの人々が、腰をおろした。彼はその人々に、心ゆくまで法事の馳走を供した。たくさんの立派な牛が、鉄の刃に咽喉を剖《さ》かれて、体をもがき、たくさんの羊や、啼き声を出す山羊も屠《ほふ》られ、歯を光らす猪《いのしし》もたくさん、脂がのってよく太ったのが、ヘパイストスの焔の上に、身を横たえて焼かれている。すると屍をめぐって四方に血が、杯で何杯も汲みあげるほど流された。
さてアカイア軍の大将たちは、親友のためおさまらぬ胸を、やっとなだめすかして、足の速いペレウスの子アキレウスを伴って、アガメムノンのところへ向かった。一行がいよいよアガメムノンの陣屋に着くとすぐ、声も朗々たる伝令使たちに命令して、火の上に大きな三脚の鼎《かなえ》をすえて置かせた。ペレウスの子を何とかして説きつけ、血みどろな身の血糊を洗い落させるためである。だがこっちはがんとして聞き入れず、そのうえにも誓っていうよう、
「いやだ、神々のうちでも至高至善というゼウスにかけても、パトロクロスを火葬にして、墓土を積み、鬢《びん》の髪を剃らないうちに、そそぎの水を頭にかけるというのは、許されないことだ。それというのも、世にながらえている間に、これほどの悲嘆が二度と私の胸を襲うことは、もうあるまいから。だがいまはいやいやながらでも、食事を思うことにしましょう。そして夜が明けたら、武士たちの君アガメムノンよ、みなを督励して、薪を集めさせ、また死んだ者が、朦朧《もうろう》とした冥界へ下るときに、もってゆくのに適当なだけの品を調えさせてください。そうしてすこしも早く視界からこの男を、疲れを知らない火が焼きつくして、兵士たちがまた勤めに帰ることができるように」
こういうと、人々はみなその言葉に耳を傾け、承知をして、大急ぎでそれぞれ晩餐の支度を調え、食事にかかり、十分な饗応に満ちたりないところはなかった。こうして飲み物にも食べ物にも飽きたりたとき、みなはそれぞれ自分の陣屋へと、寝《やす》むために帰っていったが、ペレウスの子アキレウスだけは、とうとうと高く鳴りさわぐ海の渚に倒れ伏して、大勢のミュルミドンらの間にいて、はげしく呻吟しつづけた。さえぎるもののない場所なので、浜辺には波がしきりに砕けて散った。
やがて眠りが彼をとらえたとき――胸から悲しみを除き去り、甘くやさしく覆いかぶさって――というのも、風の吹きまくイリオスへとヘクトルを追い駆けて、輝かしいその五体を、たいそう疲れ切らせていたからだが。するとたちまち、痛ましいパトロクロスの亡霊が立ち現われた。もとの身と、何もかも、丈といい、きよらかな面差《おもざし》といい、声といい、そっくりそのままで、しかも肌には同じ衣をまとっていた。そしてアキレウスの枕もとに立ち、彼に向かって話しかけるよう、
「寝ておいでか、私のことはすっかり忘れて、アキレウスよ。私の生きている間は、心にかけていてくれたが、死んでしまったうえではな。だが一刻も早く、私を葬ってくれ。そして冥府《よみ》の門をくぐらせてくれ。亡霊どもが遠くから私を邪魔してはいらせないのだ。疲れた亡者の幽霊どもが、どうあっても私が|三途の川《アケロン》を渡って、仲間にはいるのを許してくれない。だから空しく、戸口も広い冥王《ハデス》の館の前をうろついているが、せめてはその手を握らせてくれ、哭きながら頼むのだから。一度私に火をかけたらば、もう二度とは冥府《よみ》の境から、戻ってはこれないのだから。もはや生きて私ら二人が、仲間の者たちから離れ、いっしょに坐って相談しあうこともできない、もうこのおぞましい死の運命が私を見込んだ上は。そう生まれた時からきまっていたのだ。そしてあなた自身にも、神にもたぐうアキレウスよ、決められているのだ、裕福なトロイア人らの、城壁の下で死ぬという運命が。
だがもう一ついいたいことがある、きいてくれるなら頼んでおきたい。つまり、けして私の骨を、あなたの骨から離さずに、いっしょに置いてくれ、アキレウスよ、ちょうど、私ら二人があなたの屋敷で育ったとおりに。むかしまだ年端もゆかない私を、いまわしい人殺しの科《とが》で、メノイティオス〔パトロクロスの父〕がオポエイスから、あなたがたのところに連れてきたときから。それは私が、アンピダマスの息子を、思いがけずに、ただ賽《さい》のことから立腹して、分別もなく殺したときだった。そのとき騎士ペレウスは、私を屋敷の中に迎えとって、ねんごろに養い育て、あなたの介添え役に任じてくれた。だからまたそのように、二人の骨は、一つの櫃《ひつ》に納め入れてくれ、黄金づくりで、両耳のある、母上がくださったのへ」
それに向かって、足の速いアキレウスが答えるよう、
「どうやってここへ、私のだいじに思っているきみが、来てくれたのか。しかも、いちいち私に指図するために。ともかく私は、何でもすっかりきみのいうとおりに、指図に従って実行するつもりだ。だがもう少し近くに寄れ、たとえしばらくでも、おたがいに身を投げかけあって、思う存分痛ましい嘆きに胸を慰めたいから」
こういって、愛《かな》しい腕をさしのべたが、つかまえはできなかった。亡霊は、かすかな叫びを立てて、煙のように地の下へいってしまった。それに驚いて、アキレウスは跳ね起きると、両の手をはたとたたいて、嘆息しながらいうようには、
「ああ、あわれなこと、冥王《ハデス》の館へいっても、心気はまったくなくなっているが、まだ魂とか亡霊とかいうものが、何かしらあるとみえる。というのも一晩じゅう、いたましいパトロクロスの魂が、私のところへやって来て立ち、あるいは嘆き、また泣き言を述べて、私にいちいち指図していったが、驚くほど、もとの姿そのままだった」
こういって、人々に、哀号の思いをつのらせた。このように、いたましい屍を囲んで、嘆きつづける人たちの上に、ばら色の指をさす暁が、立ち現われた。おりからアガメムノン王は、荷を負う騾馬《らば》や兵士たちを、八方の陣屋から駆り集めて、薪《たきぎ》を取りに向かわせた。その監督には、立派な武士で、愛敬ふかいイドメネウスの介添え役の、メリオネスがあてられた。みなは、それぞれ薪を切る手斧を手にたずさえて、よく編んだ縄をもって出かけていった。その列の先には、騾馬が進んでゆき、はるかな道を、あるいは上りまた下り、または折れ、または斜めに進んでいった。
そしていよいよ泉の多いイダの山の端まで来るとすぐさま、高く葉ぞえを拡げた槲《かしわ》の木を、広刃の青銅(の斧)で、せっせと伐りにかかると、木はつぎつぎに、大きな響きをたてて、倒れていった。それを今度は断ち割って、アカイア勢が、荷役の馬のうしろに積むと、騾馬どもは大地を足でしっかと踏まえ、繁った木立を分けながら、平原をさして進んでいった。また愛敬ふかいイドメネウスの介添え役のメリオネスがいいつけると、木こりらがみな丸木を運び出し、海沿いに順ぐりに、並べておろした。そこへアキレウスが、パトロクロスのため、また自分のために、大きな墳《つか》をこしらえるよう囲っておいたものである。
さて、おびただしい薪を四方へ投げ下ろしてから、人々はそのままそこに集まって、坐って待つほどもなく、アキレウスは、すぐに戦さをたしなむミュルミドンらに命令して、青銅の物の具を着けさせ、めいめい戦車の下に、番《つが》いの馬を繁がせた。人々は立ち上がって、物の具を身に着け、脇乗りの武士も馭者もいっしょに、戦車の台に乗りこんだ。その先頭にはまず戦車の連中、うしろには数も知れないほど大勢な徒歩《かち》の群集がつづいて進んだ。その中央に、扈従《こしょう》の者らが、髪の毛ですっかり屍を蔽いかくして、パトロクロスを運んでいった。その髪は、みながめいめい、切り取って、投げかけたものだ。そのうしろには、勇敢なアキレウスが心も重く、パトロクロスの頭を捧げて従っていった、気高い友を、冥府《よみじ》へおくってゆくので。
さてアキレウスが、みなに指示しておいたところへ着くと、人々は柩《ひつぎ》をおろして、すぐさま屍の上に、心ゆくまで薪を積んだ。そのとき足の速いアキレウスは、また別なことを思いついて、火葬の場から離れたところに立ち、亜麻色の髪を切り取った。この髪は故郷のスペルケイオス河〔テッサリア南部の河流。河流は「青年を育てる者」として、成年に達したとき、垂れ髪の毛を切ってこれに捧げる〕に捧げようと、ふさふさのばしていたものだった。そして、胸をつまらせて、ぶどう酒色の海原の上をながめわたして、いうようには、
「スペルケイオス河よ、その甲斐もなく、あなたに父のペレウスは祈ったものだ。あの愛しい故郷《ふるさと》の地まで、もしも私が帰りついたら、あなたにこの髪を切って捧げ、尊い|百牛の贄《ヘカトンベ》を奉ろうと。また五、六匹の牡羊を、川のほとりで、その場を去らず犠牲《いけにえ》にして、河の源泉に血をそそごうと。そこにはあなたの神苑と、薫香のかおる祭壇がある。そう老父は誓ったけれど、その考えをあなたは、実現させなかった。いまとなっては、もう懐かしい故郷へも帰れないことだから、せめてはパトロクロスに、この髪を持っていくように渡してやりたい」
こういい終わると、髪の毛を、愛する友の手のなかに置き、いあわす人々に哀号の思いをつのらせた。そしておそらくは、人々の嘆きのうちに、輝く日が沈んだことだったろう、もしアキレウスが大急ぎで、アガメムノンのわきに立って、こういわなかったなら。
「アトレウスの子よ、アカイア軍の兵士たちは、あなたのいわれることにいちばんよく従いましょう。哀悼にふけるのもよいことですが、いまははや、火葬の場から解散して、食事の用意をするように命じてください。こちらのことは、死人にいちばん縁故の深い、私どもがはからいますから、大将がただけ、ここにとどまっていてください」
武士たちの君アガメムノンは、これを聞くとただちに兵士たちを、釣合いのとれた船々へと、分散させた。そして、このところには縁故の者だけが残って、薪を積み重ねてゆき、こちら側もあちら側も、百尺ずつの焼場を造った。それからその積み木のいちばん上に、胸を痛めながら、屍を置いた。また焼場の前では何匹も、脂ののった羊だの、足を巻く角の曲がった牛だのが、皮をはがれ、こしらえあげられると、その全部から、気象のひろいアキレウスが脂身を取り、屍に被せて、頭から足もとまですっかり包んで、その周囲には、赤裸の獣を積み重ねた。
そして中には、蜂蜜と、油のはいった両耳の瓶を並べて置き、臥床《ふしど》にもたせかけた。そしてはげしく呻吟しながら、四頭の項《うなじ》を高くあげる馬を、きおいこんで焼場へと追いこんだ。またパトロクロスには、食卓のかたわらで飼っていた犬が九匹いたのを、二匹まで斬り殺して、焼場の中に投げこみ、そのうえ十二人の、気象のひろいトロイア人の凛々《りり》しい息子を、青銅の刃で殺した。実に残酷な所業を考えついたものだ。そして鋼鉄《はがね》のような火の勢いを、焼きつくせとばかりにあおって、さて彼は一声高く嘆声をあげ、愛する友の名を呼んでいうようには、
「喜んでくれ、パトロクロス、よし冥王《ハデス》の館にいようと。以前きみに約束したことを、それをすっかり実行したのだ。十二人もの、気象のひろいトロイア人の凛々しい息子を、残らずきみといっしょに、火が貪るのだ。だがプリアモスの子のヘクトルだけは、けっして火に焼かせずに、犬に啖《く》わせよう」
こう居丈高にいいはしたが、犬どもはその屍にかかろうとせず、ゼウスの御娘のアプロディテが、昼となく夜となく、犬どもを寄せつけずに、ばらの香りの神々しい香油を塗って、さんざん引きまわされても、傷がつかないようにした。そのうえポイボス・アポロンが、黒雲を大空から地面までずっと引き下ろして、ヘクトルの屍が通ってゆく場所をすっかり蔽いかくした、まだその時のいたらぬうちに、日の勢いが、肌のまわりに照りつけて、手足と筋肉とを乾燥させないようにである。
だが、死に果てたパトロクロスを焼く火は、まだつけられなかった。そのとき、足の速く雄々しいアキレウスは、また別なことを思いついて、焼場から離れたところにたたずんで、二つの風に祈りを捧げた、北風《ボレアス》と西風《ゼピュロス》とに。そして立派な供物を約束したうえ、何度も黄金の杯で神酒《みき》を献げながら、吹き起こせ、と祈りつづけた、一刻も早く屍が、火に燃え上がって、薪も早く焼けおちるようにと。|虹の女神《イリス》は、この祈りを聞くとすぐさま、知らせを持って風の神を訪ねていった。おりから風の神たちは、はげしく吹きまくる西風の屋敷の中で、みないっしょに饗宴の席に着いていた。そこへ駆けて来た|虹の女神《イリス》が、石の閾《しきい》のうえに立ちどまるのを、一同が眼にすると立ち上がって、それぞれ自分の席へと女神を招いたが、イリスのほうは、腰を下ろすのもことわって、話しかけるよう、
「坐るどころか、これからまだ極洋《オケアノス》の流れまで行くところなんですもの、黒面人《アイティオペス》の国へね。そこではいま、不死の神々たちに、百牛の贄をまつっているので、私もいっしょに供物を頂戴しにですわ。ところで、アキレウスが、北風さまと騒がしい西風さまに、お出でを願っているのです、焼場の火を燃え上がらせてくださるようにと。立派な供物を約束申しあげましてね。その焼場には、あのパトロクロスが臥かされていて、アカイア勢がみんなして、悼み嘆いておりますの」
|虹の女神《イリス》はこういうと立ち去ったが、風の神たちも、群雲を前に駆り立てながら、たいそうな響きをたてて立ち上がった。そしてたちまち海原へと吹き巻きながら進んでいくと、高鳴る息吹のもとに、大波が湧き起こった。やがて両神は土塊《つちくれ》の沃《ゆた》かなトロイアに着いて、積み上げた薪の上に落ちかかれば、恐ろしく燃えたつ焔がはげしく咆哮した。一晩じゅう、風は音高らかに吹きすさんで、屍を焼く火の焔を、めらめらと燃え上がらせた。そして一晩じゅう、足の速いアキレウスは、黄金づくりの混酒瓶《クラテール》から、両耳付きの酒杯をとって、ぶどう酒を汲んでは地面にそそいで、大地をしとどに濡らしながら、いたましいパトロクロスの亡魂を呼びつづけた。その様子はちょうど、結婚したての自分の息子を失った父親が、その息子の骨を焼きながら悼んで哭くよう。そのように、アキレウスは、親友の骨を焼きながら悼み嘆いて、はげしくうめき立てながら、焼く火のかたわらをのたうちまわった。
さて暁《あけ》の明星が地上一面に、光明を告げ知らそうと、さし昇る頃、それにつづいてサフラン色の衣を着た暁が、海原の上に光をさしかける、その時分になってようやく火勢は衰え、焔もとうとう消えしずまった。風の神たちは、またトラキアの海を渡って、自分の家へ帰っていった。その道すがらに、海ははげしくうねりをたて、咆哮した。ペレウスの子のアキレウスは、火葬場から他のところへ退いて、疲れきって倒れ伏すと、甘い睡りが彼に襲いかかった。だが他の者たちは、アトレウスの子アガメムノンの周囲に寄り集まったので、その人々のざわめきや騒ぎの音が、アキレウスの目を覚まさせた。そこで身を起こして坐り直し、彼らに向かって話しかけるよう、
「アトレウスの子と、それからアカイアじゅうの軍勢の大将たちよ、まず第一にきらめく酒で、火葬場の火を、すっかり消してください。それがすんだら、メノイティオスの子パトロクロスの遺骨を、よく見分けて拾い集めましょう。はっきり区別がつけてあるはずです。というのは、彼のは、薪のまんなかに臥かしてあって、他の者は、離れたはじのところで焼きましたから、馬も人もいっしょにして。それで、彼の遺骨は、黄金の器に入れ、脂身を二重に被せておきましょう、私自身がやがて冥途にゆくときまで。墓所も、私としては、あまり大仰《おおぎょう》でないものを、造るようにお願いしたい、体裁さえ悪くなければ、あとになってアカイア勢がそれをひろげて、いっそう高く築《つ》きあげられるように――私の死後も、橈架《かいかけ》をたくさんつけた船のかたわらに、生き残っているかたがたにお願いします」
こういうと、一同は、足の速いアキレウスの言葉に従って、まず最初に、燃えたつ焔をきらめく酒で、火勢のおよんだかぎりの場所を、すっかり消してしずめたが、その下には焼いた灰が、深くつもった。人々は哭く哭く優しい友の、まっ白な骨を拾い集めて、黄金の器に入れ、脂身を二重に被せて、陣屋の中に据えておき、麻の布でこれを包んだ。そして墓所のために、円形に土地を仕切って、土台の石を焼場のまわりにすえ、それから地面に土を運んできて盛り上げ、墓所を積み終えてから、みな帰途につこうとした。しかしアキレウスは人々をそこに引きとめて、広い集会所に坐らせ、船陣から競技のための賞品を運んでこさせた。釜だの三脚の鼎《かなえ》だの、何頭もの馬や騾馬や、勢いのいい何頭もの牛や、あるいは美しい帯をした女たちや灰色の鋼鉄《はがね》のものなどを。
まず、足の速い戦車競走に加わる者へは、立派な賞品として、手の技に熟練した申し分のない女たちを、連れていくように提供した。また一等賞には、耳形の飾りがついた鼎の、二升あまりもはいるものを、またそのつぎの二等賞には褒美として、まだ馴らされていない六歳駒で、騾馬の仔をみごもっているのを、また三等賞には、まだ火にかけたことのない立派な釜の、四合ほどもはいる、まだそっくりそのまま光っているのを。また四等賞に提供したのは、二本の黄金の延べ棒で、それから五等の者へは、把手《とって》が二つついている、まだ火にあてたことのない手鍋を置いた。それから立ち上がって、アルゴス勢の面々に向かっていうよう、
「アトレウスの子や、その他の脛当てをよろしく着けたアカイアの人々よ、これらの賞品が、戦車の競走に出る人たちを待ちながら、競技の場に並べてある。もしこれがいま、他人の葬儀のために、アカイア勢が競技をするのなら、私こそがまっ先に(勝利を得て)それをもらって、陣屋へ持って帰ったろうに。ご承知のように、私の馬は、世に並びもない逸物で、不死の身であるうえ、ポセイドン神が、私の父のペレウスにくださったのを、また私へとくれたものだ。だが私や私の単つ蹄の馬たちは、この勝負には加わるまい、あれほど誉れの高い馭者(パトロクロス)をなくしたことだから。その人は、この二頭の馬を何度となく、やさしくきらめく水できよめてから、潤う油をたてがみへそそいでくれたものだ。その人をいま、二頭の馬はじっと立ってくやんでいる。たてがみを地に低く垂らして、馬どもは胸を痛めて立ちつくしている。だが他のかたがたは、陣営の全部のこらず競技の用意にかかってくれ、アカイア勢中、馬を馭するのに、あるいは丈夫な造りの車を駆るのに、自信をもっている人々は」
こうペレウスの子がいえば、速い馬をもつ騎士たちが集まってきた。まずいち早く立ち上がったのは、武士たちの君エウメロスで、アドメトスの愛する息子の、騎馬の術には抜群の者である。それにつづいて、テュデウスの子で、剛勇のディオメデスも立ち、トロスの馬を軛《くびき》につけたが、これは先にアイネイアスから奪ってきたものだ。だがアイネイアス自身はアポロンが救い出された。
それにつづいて立ったのは、アトレウスの子で亜麻色の髪のメネラオスで、ゼウス神の後裔だが、二頭の駿馬を軛の下に引き入れた、それはアガメムノンの持ち馬のアイテと自分の馬ポダグロスとである。この牝馬アイテは、アンキセス〔アイネイアスの父とは別人〕の子エケポロスがアガメムノンに献げたもので、つまり風の吹き巻くイリオスへはついてゆかずに、故郷にとどまり楽をしようというわけだった。というのもゼウスが彼に大した財産を与えられて、場所も広いシキュオンに住まっていたので。いまメネラオスは競走へときおいたっているその馬を、軛につけた。
四番目にはアンティロコスが、たてがみもみごとな馬の支度をすませた、この男はネレウスの裔《すえ》で、気象のすぐれた領主であるネストルの、立派な息子であった。そしてピュロス産の馬どもが、敏捷な足でその戦車を運んでいった。すると父親は息子のそばにやってきて、そのためよかれと思って、いって聞かせた、もう息子も十分心得ているのに。
「アンティロコスよ、おまえはまだ年は若いが、ゼウスとポセイドンとが可愛がってくださって、あらゆる馬術を授けられた。だからいまさらおまえに教える要はあるまい。目的の柱をまわる術も心得ていることだが、ただ馬どもの速力がいちばんおそいので、おまえは厄介なことになるかもしれない。他のかたがたの馬は、もっと速い。だが彼らにしても、格別自分で、おまえよりすぐれた思案を案じ出せるというわけではない。
だから、愛する息子よ、あらゆる知恵をしぼり出して働かすがいい、競技の賞品がするりと逃げていかないようにな。木こりでさえも、馬鹿力より知恵を働かすほうが、ずっとよい仕事をする。また舵《かじ》取りは、知恵を働かせて、ぶどう酒色の海の上を、風にどれほどもまれていようと、速い船を正しくはしらせてゆくものだ。それだから、知恵によって、馭者だって、他の馭者にたちまさることができる。だが自分の馬や戦車に自信をもって驕慢におちいっている手合いは、分別もなく、あちらこちらと、大まわりをして(目標の)柱をまわろう。それで馬どもは進路をはずれて迷って走り、制御もできなくなる。だが、たとえ馬は劣るにせよ、何が有利かを心得た者は、いつも目標に眼をそそいで、その近くをまわり、また最初に牛皮でつくった手綱を引いた方向を念頭に置いて、馬をしっかり馭しながら、前にいく戦車を狙うのだ。
ところで目あての柱を、はっきりといって聞かすから、見逃してはならんぞ。一本の枯木が立っている、地面の上から一間ほどの槲の樹か、それとも松かだが、雨の季節にも腐らずにいる。その両側には白い石が二つ、道の交叉する辻のところに、もたせかけて立てられてある。そのあたりは、平らな馬車道だ。その塚印は、誰かむかしに亡くなった人の墓でもあろうか、それともむかしの人がなにかの目あての柱にしていたものか。それをいま、足の速い勇敢なアキレウスが、競走の目標にしたのだ。
だからおまえは、そのすぐそばをかすめて、車や馬を走らせて、自分の体を、きれいに編んだ車台の中で、馬たちの左側へそっと曲げるのだ。一方右側の馬を励ましながら鞭をあて、手綱を十分に手から繰り出す、その反対に、左側の馬には、標柱《はしら》をかすめて行かせろ、それも造りのよい車輪の轂《こしき》が、柱の端に付くか付かぬかぐらいにだな。しかしかたわらにすえてある石には触れないよう、十分気をつけて行けよ。かりそめにも馬を傷つけたり、車を毀したりしないようにな。そんなことをすると、ひとには喜ばれようが、自分自身は世間の笑い草になろうから。だから息子よ、よくわきまえて、十分用心をしたがいいぞ。そして、もしもおまえが、標柱にくっついて馬を攻めてゆき、駆け抜けられたら、もうあとから追いつく者も追い抜く者もないだろう。たとえば誰かがうしろから、あのアドレストスの駿馬の、尊いアレイオン号〔ポセイドン神と女怪メドゥサとの子といわれる。神速で、テバイ攻城戦にも主人のアルゴス王アドラストスを災禍より救った〕を駆って来ようとも、神から血をひくというその馬とてもだ、またはラオメドンの、土地の産では一等の駿馬というのが駆けてこようとも」
こういうと、ネレウスの子のネストルは、また自分の席に帰って坐った、自分の息子に必要なことを全部教えたので。
さて、メリオネスが、五人目にたてがみも美わしい馬どもを支度させると、一同は戦車に乗りこみ、さて籤引きにとりかかった。アキレウスが振ると、ネストルの息子のアンティロコスの籤がまず飛び出した。そのつぎにあたったのはエウメロスで、それにつづいて、アトレウスの子の、槍に名高いメネラオスで、そのつぎは、メリオネスが車を駆る番、そして最後はテュデウスの子で、一番の勇士であるディオメデスが馬を馭する番にあたった。さて皆が一列に並ぶと、アキレウスは、平原のはるか向うにある標柱を指し示して、そのわきへ自分の父親の介添え役、神とも見えようポイニクスを審判に立たせた、よく駆け工合を心にとめて、確かなことを知らせるようにと。
さて一同は、いっせいに馬の背中に鞭を振り上げ、手綱をとってはたきつけて、ここぞとばかり声を励まし激励すると、馬どもはたちまちに平原を横切って、船陣もまたたくうちに遠くの方へゆき、胸のへんには砂塵が、雲か颶風《はやて》かと見まごうばかりに舞い上がって、たてがみが風の息吹につれてなびけば、戦車は、あるときは多くの生物を豊かに養う大地の上に触れて進み、あるときは宙に高く跳り上がった。馭者は車台の中に立って、それぞれ勝ちたさの一心に胸をおどらせる。めいめい、自分の馬を呼び立てれば、馬どももまた埃を浴びながら、野面《のづら》を駆っていった。
だがとうとう、駿馬が最後の走路にはいって、ふたたび灰色の海を目ざして帰って来たとき、それぞれの馬の優劣が見えてきた。みな急《せ》きこんで追いこみにかかったところ、ペレスの孫エウメロスの馬どもが、足もすばやく先頭をきっていた。それにつづいてぬきん出たのは、ディオメデスの牡馬どもだ。それはトロスの馬の血統だが、たいして離れていずに、すれすれに追い迫って、いまにも前の車に乗り上げるかとも思われたほどだった。その鼻息が、エウメロスの背中や広い肩にまで熱くかかるほど、彼の体にまるで頭を押しつけるように、馬を走らせていったので。
それゆえ、もしテュデウスの息子のディオメデスをポイボス・アポロン神が憎く思って、その手から輝く鞭をたたき落としてしまわなかったならば、あるいは追い越すか、判定不能になったであろう。そこでディオメデスは怒りのあまり、眼に涙があふれた、エウメロスの牝馬をみれば、いっそう速く疾駆していくのに、自分の馬は励ますものもなく走るため、速力が落ちてきたので。だが、アポロンが、テュデウスの子ディオメデスにいたずらしたのを、アテネ女神がすぐに見つけて、さっそく兵士たちの統率者(ディオメデス)のもとへ駆け寄り、皮鞭をその手に渡して、馬どもへは力を打ちこんでやった。
また女神は怒りを含んで、アドメトスの子エウメロスを追いかけると、馬車の軛をこわしたので、牝馬はそれぞれ左右に別れて駆けた、すると轅《ながえ》は地面にほうり出されて、主人の体も車上から車輪のそばへと転がり落ち、両肘や口、鼻まで皮をすりむき、眉の上の額のところに負傷した。それで眼は涙でいっぱいになり、元気のよい声も咽喉につまった。テュデウスの子のディオメデスは単つ蹄の馬を脇によけて走らせ、他の車をずっと引き離して進んだ。これはアテネ女神が、馬どもに力を打ちこみ、彼自身に栄誉を授けられたからだった。それにつづいて亜麻色の髪のメネラオスが、車を駆ったが、アンティロコスは、親父の馬に向かって呼ばわるよう、
「さあ駆けこめ、おまえたちも、力の限り早くひいてけ。いや何も、あの馬どもと競走しろとはいわない、あのはげしい気象のテュデウスの子の馬とはな。あれへはアテネが、速さを打ちこまれ、彼自身には誉れを授けなさったのだから。だが、アトレウスの子メネラオスの馬どもに追いつくのだ、すぐにな。遅れるなよ、あのアイテが牝馬の分際で、おまえらを物笑いの種にしないように。なぜ遅れるのだ、おまえたち駿馬が。はっきりといっておくぞ、そしていったとおりに実行する。もうけして、兵士たちの統率者であるネストルのところで、おまえたちは世話になれないぞ、もしおまえらが怠けていて、つまらぬ褒美しか取れなかったら、すぐにも鋭い青銅の刃で殺してやるから。だから全速力で追いつくのだ。他のことは、私が自分で考え、工夫するから。道の狭くなるところで横へ突っこめ。そしたら彼はもう逃げられないだろう」
こういうと、馬どもは主人の叱責をおそれて、しばらくの間を一段と急いで駆った。間もなく戦さに手ごわいアンティロコスは、窪んだ道の狭くなっているところを見つけた。それは土が崩れて、暴風雨の水がそこに集まって道をすっかり毀し、一帯の地を低くしていた。そこへメネラオスは、衝突を避けようと車を走らせていった。だがアンティロコスが単つ蹄の馬どもをわきへそらせて、道の外へと向けてゆき、少しはずして追いかけていくと、アトレウスの子のメネラオスはびっくりして、アンティロコスへ大声で呼びかけるよう、
「アンティロコス、無分別な追い方だぞ、馬をひかえろ、道は狭いのだ。すぐにももっと広いところで、追い越せるはずだ。車をぶつけて、両方ともぶちこわさぬように気をつけろ」
こういったがアンティロコスは、耳にはいらぬように、なおいっそうきおいこんで、鞭をならして馬を走らせた。ちょうど肩から投げた円盤が飛ぶ距離ほど、それは、好い若者が、盛りの力を試してみようと、精いっぱいに投げた距離だが、そのくらい駆け進んだとき、メネラオスが自分から、馬を駆るのをひかえたもので、アトレウスの子の牝馬はうしろへたじたじとさがった。なぜなら、道の途中で、単つ蹄の馬どもがぶつかり合って、みごとな編みの車台を共にひっくり返し、ひたすら勝利をあせったあげく、自分たちも砂塵の中に落ちこむのではないかと気遣ったので。しかし、亜麻色の髪のメネラオスは怒っていうよう、
「アンティロコスよ、おまえほどいまいましいやつはまたとないぞ、勝手に行け。アカイア勢が、おまえのことを利発者などいったのは、大間違いだった。だが、どうあろうとも、誓言なしに、褒美を取ってはいかせないからな」
こういって、声を張り上げ馬どもに呼びかけるよう、
「引き退るにはおよばないぞ、辛かろうが立ち止まるな、あの馬どもはおまえたちより、いずれは先に足も膝も参るだろう、二頭とも、もう若さはとうになくした馬みたいだから」
こういうと、馬どもは主人の叱責をおそれて、なお一段と速力を出して駆り、間もなく前の戦車に接近してきた。
さてアルゴスの人々は、集会所に坐って競走の様子をながめていた。すると馬どもがまた埃を浴びながら、平原を駆ってきた。まっ先に馬を見分けた者は、クレテ勢の大将のイドメネウスだった。彼は人々の集りからはなれて、誰よりも高いところの、見張り台に坐っていた。それでまだ大分遠かったが、ディオメデスの叱咤する声を聞きつけ、すぐに彼だと覚った。そして先頭を切っている馬の特徴を見分けた。その馬というのは、体じゅうがみな栗毛で、ただ額に月のようにまんまるな、白い星のしるしがついていた。そこで彼はすっくと立ち上がると、アルゴス勢に話しかけるよう、
「おお親しいアルゴス勢の指揮をとり、采配を振るかたがた、私ひとりにだけ馬がはっきり見えるのだろうか、それともあなたがたにもかな。どうやら別な馬が、先に出たように見えるが、ちがった馭者が現われてきた。行きにはともかく先に出ていたが、さっきのエウメロスの牝馬どもは、どうやら野面のどこかでやられたらしい。標柱《はしら》をまっ先にまわるところは、見きわめたのだが、いまはどこにも見当たらない。八方に眼をくばって、トロイアの平野をはるかに見渡すのだが。
あるいは手綱が、馭者の手からはずれたもので、うまく標柱に車をつけていかれなくなり、まわりこむときにやりそこなったか。そこでたぶんほうり出されて、車もすっかりこわれてしまい、馬は猛り狂って、道から遠く走っていったものかな。だが、あれ、あなたがたも立ち上がって、よく見てくれ。どうも私には十分見分けがつきにくいぞ。あの武士はたしかに生まれがアイトリアの者で、アルゴス勢を率いる大将の、馬を馴らすテュデウスの子で、剛勇のディオメデスらしいが」
それを口ぎたなくののしったのは、オイレウスの子の、足の速いアイアスで、
「イドメネウスよ、さっきから何をでたらめいうのか、あの馬どもはまだ遠方を、足を高くあげて広い野原を走っているのに。おまえはアルゴス勢の中でもたいして若いほうでもなし、また頭についているおまえの眼が、特別よく利くわけでもなかろう。それなのにしじゅうでたらめばかりをほざく。だが大ぼら吹きはためにならんぞ、おまえにまさる勇士は、たくさんいるのだ。あの先をかけている馬どもは、さっきと同じ牝馬で、エウメロスのだ。そして彼自身が手綱を取って、駆ってくるのだ」
それに向かって、立腹しながら、クレテ軍の大将がいうようには、
「アイアスよ、おまえは喧嘩は大の得意だが、脳たりんで、強情で、何かにつけても他のアルゴス人《びと》に劣るやつだよ。それならば来い、ひとつ二人で鼎《かなえ》を賭けてやるとしよう、釜でもよいがな。審判には、アトレウスの子アガメムノンを、二人で頼もう。どちらの馬が先に来るか、負けてから、はっきりわかろうがな」
こういうと、すぐさまオイレウスの子の、速いアイアスもいきり立って、ひどい言葉でいい返そうとやりかかった。そしておそらく、二人の喧嘩は、はてしなく発展したろう、もしアキレウスが自分から立ち上がって、こう話さなかったら。
「いや、もうこのうえ、たがいに罵詈雑言《ばりぞうごん》でやり合うのはよせ。アイアスもイドメネウスも悪口はみっともないぞ。こんなまねを他人がやったら、きみたちだって、よくは思うまい。それよりもさあ、集りの席に坐って、きみたちも競馬の様子をよく見ていろ。すぐにその馬どもが、ここへ勝負を競って駆けつけるだろう。そしたら皆も、アルゴス人の馬どもをよく見分けられよう、どれが先頭か、どれが二番か」
こういっているうちに、テュデウスの子が、全速力で突進してきた、鞭を絶え間なく、肩から振り下げ振り下げ、馬を駆れば、馬のほうでも高々と足をあげて、みるみる行程をつづめていった。絶え間もなく手綱取りに、砂塵の粒が振りかかると、黄金と錫ですっかり飾り立てた戦車は、足の速い馬にひかれて、つづいて駆っていったが、こまかい砂のあいだに残る車の轍《わだち》も、そう深くは残らない、それほど速く二頭の馬は走っていった。
そしてようやく皆が集まっているまんなかに来てとまると、汗がどっと吹き出して、馬どもの頭《こうべ》や胸から地面へ落ちた。ディオメデスは、ぴかぴか光る戦車から地上に飛び下り、手の鞭を軛へ立てかけると、勇ましいステネロスが猶予もなく、すぐに駆けよって、賞品を受け取り、意気軒昂たる仲間の者どもに引き渡した――女たちだの、耳つきの鼎などを、待っていくようにと。そして自分は馬を解き放した。
これにつづいて、ネレウスの裔《すえ》のアンティロコスが、馬を駆って来た。速力でより、詐謀でもって、メネラオスを追い越したのだ。それでもメネラオスは速い馬を駆って間近に迫った。その隔たりは馬と車輪との間隔くらいで、平原をこえて、車台ごと主人を乗せ、力いっぱいひいてゆく馬の、その尻尾の毛の尖端が車の輪鉄《わがね》にもうさわっている。
そのぐらいの間隔だけ、メネラオスは、人品すぐれたアンティロコスに遅れていた。だが初めは、円盤のとどく距離ほど遅れていたのを、少しのあいだに追いついて来た。というのもアガメムノンの持ち馬の、たてがみも美しいアイテのつよい気性がたかぶってきたものだから。そして、もし双方とも、もう少し先まで競走をつづけたならば、先の車を追い越して、問題なしに勝負をつけたことだったろう。
一方、雄々しいイドメネウスの介添え役のメリオネスは、名の聞こえたメネラオスから、槍の飛ぶ距離だけ遅れていた。たてがみの美しいその馬どもは、足がいちばんにぶくて、その上に彼自身も、戦車の駆り方がいちばん不得手だったからだ。またアドメトスの息子エウメロスは皆のしんがりに立ち、遠くのほうから馬を駆りながら、立派な車を引きずってきた。それをながめて、足の速いアキレウスは気の毒に思い、アルゴスの人々の間に立って、翼をもった言葉をかけて、
「いちばん立派な人物がしんがりについて、単《ひと》つ(蹄《ひづめ》の馬どもを駆って来る。だが、どうだな、彼にふさわしいように二等の褒美をやろうではないか。しかし一等賞は、テュデウスの子に取らせよう」
こういうと、誰もみな彼のすすめに賛成した。それでたぶん彼に褒美の馬を与えたことだったろう、アカイア勢がみな賛成したのだから。だが気象のひろいネストルの息子のアンティロコスが立ち上がって、ペレウスの子アキレウスに、自分の権利を主張し、
「おお、アキレウスよ、もしその言葉を実行なされば、私は憤慨しますよ。あなたは私の賞品を取り上げようとなさるのですから。彼の腕は確かなのに、戦車と速い馬とが、ひどい目にあったのだ、とお考えなのですか。それなら彼は、不死である神々に祈願すべきでした。そしたら、いちばん後から馬を駆らずにすんだでしょうに。彼があなたのお気に入りで、気の毒がられるのでしたら、陣屋にまだどっさり黄金もお持ちでしょうし、青銅も羊もおありでしょう、また侍女たちや、単つ蹄の馬どももおありのはず、その中から取ってきてあとでおやりなさい、もっと大した褒美でも、いや、いますぐにでもかまいません。そうすれば、アカイアの人々があなたを褒めそやすでしょう。でもこの牝馬はやりますまい、これを取ろうという人間は、誰でも、腕ずくで私と闘ってみたらよろしいでしょう」
こういうと、足の速い、勇ましいアキレウスは微笑を浮かべた。もともと親しい仲間だからアンティロコスの言葉に興を覚えて、彼に向かって翼をもった言葉をかけて答えるよう、
「アンティロコスよ、私に、家から別のものを持って来て、エウメロスに贈れというのなら、そのとおりにしよう。彼には胸甲《むなよろい》をやろう、アステロパイオスからとったものだ、青銅づくりで、周囲を光った錫の注ぎこみの輪がとり巻いている。彼にとってもたいした値打ちの品となるだろうよ」
こういうと、気に入りの部下アウトメドンに、陣屋から持ってくるように命令した。彼は出かけて運んで来て、エウメロスに手渡すと、こちらも大喜びで受け取った。
その時、人々の間で立ち上がったのは、ひどくアンティロコスに腹を立ててるメネラオスで、胸をさんざん苦しめていた。伝令使がその手に証《しるし》の杖を授けて、アルゴス勢に静かにしろといい渡すと、神とも見えよう武士(メネラオス)がいうようには、
「アンティロコスよ、以前には分別者と知られたおまえが、何ということをしでかしたのだ。私の手並みにけちをつけて、ずっと遅い自分の馬を先手に突っこみ、私の馬におくれをとらせた。さあ、アルゴス勢の指揮をとり、采配を振るかたがた、両人の間に、依怙《えこ》ひいきのない裁きをつけてください。青銅の帷子《よろい》を着けたアカイア勢に、『メネラオスは、アンティロコスに嘘偽りを押しつけて、牝馬を持っていってしまった、自分の馬がずっと劣っていたくせに、自分の地位や勢力が上だというので』などという者が一人もないよう。
いやそれよりいっそ、私自身で裁きをつけよう、ダナオイ方の誰一人として、私をとがめはすまいと思う、まっすぐな裁きなのだから。アンティロコスよ、さあここへ来い、ゼウスの擁護にあずかるおまえが、掟どおりにおまえの馬と戦車とのすぐ前に立ち、さっき馬を駆ってきた細身の鞭を手に取れ。そして馬どもに手をかけて、大地をささえ大地を揺する大神に誓っていえ、毛頭、わざと私の車を欺いて、邪魔したのではなかったと」
それにたいして、今度は賢《さと》いアンティロコスがいうようには、
「まあ我慢してください、私はあなたよりも、ずっと年下ですし、メネラオスさま、あなたはお年も上なら、技倆《うで》も上のことゆえ、若い者の身の程知らずがどういうものかは、もうとうにご承知でしょう。分別はせっかちで、思慮もごく頼りないものなのです。だからどうか胸をおさえてくださいまし、私のもらったこの牝馬は、私のほうから差し上げましょう、またもし別に私の家から、もっと大きな物をお望みならば、すぐにも取りよせて差し上げようと存じています、さきざきまで、ゼウスの護るあなたの不興をこうむったうえ、神々へまで罪を犯したことになりませんよう」
こういうと、気象もひろいネストルの息子のアンティロコスは、馬を連れ出してきて、メネラオスの手に渡したもので、彼の胸も、やわらいできた。たとえばちょうど、畝畑《うねばたけ》を一面に繁って実った麦の穂を、すっかり露が濡らすように、それと同様にメネラオスよ、あなたの心は、胸のうちで濡れてやわらいだ。そして、彼に向かって声をあげて、翼をもった言葉をかけ、
「アンティロコスよ、さっきは腹を立てたが、いまは自分から譲ってやろう。おまえは以前から、軽はずみでも無考えでもなかったのに、さっきだけ、若気のいたりでわきまえを忘れたのだな。これから先は、もう目上のものをだまそうなどとは思わぬがよい。アカイア勢の他の者なら、こうすぐに私をなだめはできないのだが。だがずいぶんとおまえは、私のために難儀もしたし、たいそう苦労もしてくれたうえ、おまえの立派な父上や兄弟たちも、同様に働いてくれたことだ。それゆえおまえの頼みは、きくとしよう、そしてその馬も、私のものではあるが、やるとしよう。そうすれば、ここにいる人々もみな、私の心が、けっして傲《おご》りたかぶっている、情け知らずの者ではない、とわかってくれよう」
こういって、アンティロコスの家来のノエモンに馬を渡して連れていかせ、自分はぴかぴか光る釜をもらった。メリオネスは四番目に着いたので、二本の黄金《きん》の錘《おもり》を取った。さて五番目の賞があとに残った、把手《とって》が二つついた器であったが、それをアキレウスは持っていって、アルゴス勢の集まる間を通り抜けると、ネストルのところに来て、かたわらに立っていうようには、
「さあ、あなたにもこれを、ご老人よ、宝物に差し上げよう、パトロクロスの葬式の記念として。もうあの男を、アルゴス勢の間に見ることはできないのだから。この賞品は、競技をしなくても差し上げるのだ。あなたは拳闘も相撲もされまいし、槍投げの競技に加わるでなし、また徒競走もなさるまい。辛い無残な老いが、もうあなたをおさえていることだから」
こういって、その手に渡すと、こちらもうれしくそれを受け取り、彼に向かって声をあげて、翼をもった言葉をかけ、
「いかにも、息子よ、いまいわれたのは、いちいちもっともなことだ。というのも、もう体がしっかりとせず、足もそうだ、腕さえも、両方の肩から軽々とは振りまわせない。もう一度あの時分のように若返って、力もしっかりしていたらよいのにな、むかしアマリュンケウス王をエペイオイ族がブプラシオンに葬ったときぐらいに。その息子たちが、王を弔う競技の会を催したが、そのとき、誰一人として私にかなう者はなかった。エペイオイ人にも、ピュロスの人々自身にも、また意気軒昂たるアイトロイの間にも、いなかったのだ。拳闘では、エノプスの息子クリュトメデスを私が負かし、相撲では、向かって立ったプレウロン生まれの、アンカイオスを打ち負かした。また徒競走では、したたか者のイピクロスを追い越して勝ち、槍投げでは、ピュレウスやポリュドロスを超えて遠くへほうったものだ。
ただ戦車の競走では、アクトルの二人の息子が私を負かした≪いちばん大きな賞品が、まだそのままそこに残っていたものだから、私の勝利をねたんで、衆をたのみ追い抜いたのだ≫承知のとおりに、あれは双子だ、だから一人はしじゅう手綱を取っていた。一方がしじゅう手綱を取ると、一方が手に鞭を取って馬を励まし立てた。むかしは私もこんなだったが、いまとなっては、こうしたことは若い者らに譲るとしよう。私としてはうとましい老いに従うほかはないだろう。だがあの当時は、英雄たちの間でも私は抜群の者だった。
ともかく、きみの親友を、競技をやって葬うがいい。私は喜んでこれを受けよう、私の情けをいつでもきみが憶えているのを、私も心にうれしく思うぞ。またアカイア勢の間で、私が当然うけるはずの名誉を、心にかけてくれたことにたいして、神々がその報いにと、きみに心ゆくまでお慈《いつく》しみを与えられるように」
ペレウスの子アキレウスはネレウスの子ネストルのこの礼をすっかり聞き終えると、たくさんのアカイア勢の中を引き返していった。そして今度は、骨の折れる拳闘戦への賞品を持ち出させた。それは仕事にねばりづよい騾馬《らば》で、六歳馬の、まだ初心《うぶ》な、馴らすのにいちばん厄介なものを、競技場の中に繁がせた。それから負けたほうのためにも、両耳付きの酒杯を置いた。そして立ち上がって、アルゴスの人々の間でいうようには、
「アトレウスの子や、その他の脛当てをよろしく着けたアカイアの人々よ、この賞品をかけて、ことに勇猛な武士二人に、拳闘でしっかり撃ち合ってもらおう。アポロン神から耐久力を授かっていて、それをアカイア人の全体が認めた者は、仕事にねばりづよい騾馬を率いて、陣屋へめでたく帰ったがいい。一方、また敗れた者には、両耳付きの酒杯を持たせてやろう」
こういうと、すぐさま一人の、上背のある隆々たる武士が立ち上がった。拳闘が得意な、パノペウスの子のエペイオスで、仕事にねばりづよい騾馬に手を掛けて声をあげるよう、
「さあここへ出ろ、両耳付きの酒杯を取りたい者は。この騾馬を、私以外のアカイア勢に、誰一人として拳闘に勝ち、連れていく者はあるまい。はばかりながら私は無敵だ。戦闘で私がおくれをとるのだけではたりない、とでもいうのか。あらゆる仕事に一人で、みな熟達しようなどとは、とうてい思いもよらぬことだ。はっきりといっておこう、そしてそのとおりにやり遂げるぞ、相手の肌を破り、骨をくだいてやるから。ここにいあわす身内の者は、そのまま待っているがいい、私の腕にかかった者を、いずれは運び出すのだから」
こういうと、皆はすっかり鳴りをひそめて、静まりかえった。それに向かって立ち上がったのは、ただ一人、エウリュアロスという、神とも見えよう武士で、タラオスの子メキステウス殿の息子であった。この殿はむかし戦争で殪《たお》れたオイディプス〔『戦争で殪れたオイディプス』は同王の別伝として注目すべき句。ふつうはオイディプスが自分の出生の秘密を知ってから放浪の旅に出て、息子が跡を継ぐとなっているが、この伝ではずっと王位にあり、戦死をする〕の葬式のために、テバイに行き、そこでカドモスの裔《すえ》(テバイの市民)を全部、打ち破った者だった。その息子を、槍に名高いテュデウスの息子の、ディオメデスが世話をしてやり、しきりに勝たせたがって、いろいろと激励の言葉をかけた。まず褌《まわし》を締めさせてやり、今度は野生の牛の皮をよくきって作った帯を渡してやった。
さて両人は褌を着けて、競技場のまんなかに進み出て、相対峙して腕を構え、頑丈な手でがっぷりとぶつかり合った。そしてはげしくこぶしをふるって闘ううち、その顎からは恐ろしい歯がみの音がし、からだじゅうから汗がしたたり落ちた。突然に勇ましいエペイオスが躍りかかって、様子をうかがう相手の頬げたを撃つと、長くはこらえていられず、どっとばかりにみごとな手足はくずれて倒れた。
さながら北風に荒れる波の間で、魚どもが藻草の多い岸に跳ね上がり、それを黒い怒濤がたちまち呑みこむ、そのように彼は撃たれて跳ね上がった。が気象の大きなエペイオスは、両腕で彼を抱えて起こしてやった。彼のまわりを親しい友人たちがとり囲んで、両足を引きずりながら人の輪の中から連れ出したが、彼はべっとりした血を口から吐き、首を片方に傾けたきりで、意識も朦朧としていた。友達は彼を仲間の席に坐らせてから、彼ら自身で出かけていって、両耳付きの酒杯をもらってきた。
さて、ペレウスの子アキレウスは、すぐさま三番目の競技の賞を、ダナオイ勢によく見えるように、すえて置かせた。骨の折れる相撲のために。その勝利者へは、火の上にかける三脚の大きな鼎《かなえ》を出した、アカイア人が、十二頭の牛に値踏みしたものだ。また負けた者へは、一人の女を、まんなかにすえて置かせた。この女は、いろんな手技《てわざ》に堪能で、四頭の牛と値踏みされていた。そして立ち上がって、アルゴス人らの間でいうよう、
「さあ出てくれ、二人だけ、この競技をやってみようという武士《さむらい》は」
こういうと、すぐに、テラモンの子の大アイアスが身を起こしたが、それにつづいて知恵に富み、奸計に敏《さと》いオデュッセウスも、立ち上がった。二人は、褌《まわし》をつけて、競技場のまんなかへと進み出て、たがいに相手を頑丈な手で抱きかかえて、がっきと組んだ。さながら棟《むね》の梁《うつばり》のように、それを名のある工匠《たくみ》が、高くそびえる屋根の下で、組み含わせて、風の力を避けようとする。するとたがいの背筋はきしみを立て、大胆な腕につかまれしっかとおさえこまれて、汗はだらだらと流れ落ち、脇腹にも両肩にも、ほうぼうにみみず腫れが、まっ赤に腫れ上がったが、二人は終始力んで、造りのみごとな鼎を的《まと》に、勝利を得ようと気負いたった。
だがオデュッセウスは相手を倒して地面に着けることはできず、アイアスも、オデュッセウスの剛力が持ちこたえたので、負かせなかった。それでとうとう、脛当てをよろしく着けたアカイアの人々があきてきたとき、とうとうテラモンの子大アイアスは相手にいうよう、
「ゼウスの裔であるラエルテスの子の機略に富んでいるオデュッセウスよ、私を持ち上げてみろ、それとも私が持ち上げるか、その先はみなゼウス任せだ」
こういって持ち上げようとしたが、オデュッセウスはたくらみを忘れていずに、うしろのほうから、|ひかがみ《ヽヽヽヽ》を狙って打ち、腱の力を抜いてから、あおむけにひっくり返し、その胸の上にオデュッセウスも倒れると、人々はこれを見て、目をみはった。今度は辛抱づよい、勇敢なオデュッセウスが持ち上げようとて、地面からちょっとばかり動かしたが、持ち上げるにはいたらずに、足がらみをかけた、すると二人とも地面へどっと落ち、たがいに間近に転がり伏して、砂塵にまみれて肌を汚した。そこであるいは三度目に、またもや跳りかかって組み合ったであろう、もしアキレウス自身が立ってとめなかったら。
「もう組合いはやめにしろ、ひどいことをして身を痛めるな、両方とも勝ったのだ、二人とも、同じ褒美を持って帰るがいい、他のアカイア人たちが競技に参加できるように」
こういうと、二人はその言葉を聞き入れてこれに従い、砂塵をよく体から落として、胴着を着込んだ。
ペレウスの子アキレウスは、またさっそくに、徒競走の賞品として、飾りのついた白銀の混酒瓶《クラテール》をすえて置いた。これは六合入りで、技巧のすぐれたシドン人の立派な細工だったから、みごとさではこの世界じゅうでも並びのないものであった。それをポイニニアの商人が、はるかに霞む海原の上を運んできて港に揚げ、トアス王への贈り物にしたが、イアソンの子エウネオスが、またパトロクロスへ、プリアモスの息子リュカオンの身《み》の代《しろ》として、渡したものであった。
その壷をいまアキレウスが、自分の友のための競技の賞品として、徒競走の優勝者へと、すえておいた。また二等賞には、大きな、脂身がついて太った牡牛を出し、最後の者には黄金の錘《おもり》半斤を置いた。そして立ち上がって、アルゴス人らの間でいうよう、
「さあ出てくれ、この競技をやろうという武士は」
こういうと、即座に立ち上がったのはオイレウスの子の速いアイアスと、智謀にゆたかなオデュッセウスで、これにつづいて立ったネストルの息子アンティロコスは、競走で若者らをみな負かしていた。さて皆が一列に並ぶと、アキレウスは目標を指示した。人々は出発点から全速力で走っていった。まもなくオイレウスの子アイアスが先へ出て、勇ましいオデュッセウスがあとにつづいた、ごく接近して。さながら帯もみごとな婦人の胸に、機織竿《はたおりざお》がくっついているようである。それをいとも巧みに手で引っ張り、胸の近くに引き寄せておいて、縦糸《たていと》の間をくぐらせ、糸巻枠の間を通してゆく。
それほどに接近して、オデュッセウスは駆けていった。前の者のうしろで舞い上がった砂が、まだしずまらないうちに、その足跡をまた踏んでいく。勇ましいオデュッセウスは、しじゅう速く走ったもので、彼の吐く息が、アイアスの後頭部へとかかった。そのありさまに、アカイア人はみな喚声を上げ、勝とうと焦るのを応援して、その努力を励まし立てたのだ。だがいよいよ最後のコースにさしかかると、オデュッセウスは、心の中できらめく眼のアテネ女神に祈っていうよう、
「どうか女神よ、私の足に力を授けてくださいませ」
こう祈ると、その言葉をパラス・アテネはお聞き入れになり、彼の手足を、両足も両手も、軽やかにしてくださった。それにいよいよ、もうすぐ決勝点に突っこもうというところで、走っていたアイアスが足をすべらせた。アテネの邪魔によってだが、そこには、吼え声の高い牛どもを殺したはらわたがこぼれていたのだ。パトロクロスのためにと、足の速いアキレウスがさきに殺した牛の。それで牛の汚物が、アイアスの口にも鼻にもいっぱいつまった。
それゆえに、あの混酒瓶《クラテール》は、我慢が強く勇敢なオデュッセウスが、一着として持っていった。一方、牡牛をもらった誉れも高いアイアスは、野生の牛の、角を手に握って立ったまま、汚物を口から吐き出しながら、アルゴス人たちの間でいうよう、
「やれやれ、私の足を遅らせたのは、例の女神だぞ。むかしから、いつもいつも母親みたいに、オデュッセウスのそばに、ひっついていて力を貸すのだ」
こういったが、その様子にみんなそろって面白そうに彼を笑った。一方、アンティロコスは苦笑しながら、びりっこへの褒美を持って帰った。そしてアルゴス人らの間で話をするよう、
「親しいかたがた、もうとうにご承知ずみのことをいうわけですが、相変わらず不死である神さまがたは、古い時代の人間ほど大切になさるのです。というのも、アイアスは私より少しばかり年上ですし、こちらのかたは、前の時代、つまり一時代前の人間でして、生きのいいお年寄と人に呼ばれておいでのかたで、アカイアの人間には、徒競争で負かすのは、アキレウス以外の方では、ちと骨折りです」
こういって、足の速いペレウスの子に華をもたせた。それに向かってアキレウスは言葉を列《つら》ね、答えていうよう、
「アンティロコスよ、けしておまえの褒め言葉を無駄にはすまいよ、もう半斤だけ、私は黄金の錘《おもり》をたすとしよう」
こういって彼の手に置いてやれば、喜んでもらっていった。さてつぎに、ペレウスの子のアキレウスは、長い影をひく手槍と、楯と、四角な兜とを、競技場に持ってきて、すえておかせた。これはサルペドンの物の具で、パトロクロスがとってきたものだった。そして立ち上がって、アルゴスの人々の間で宣言するよう、
「いちばんすぐれた勇士が、二人出てきて、これを的《まと》に、勝負をしてくれ。物の具を身につけて、肌身を切る青銅を取り、集まっている人々の前に進み出て、一騎打ちを試みるのだ。どちらでも先に腕を伸ばし、相手のみごとな肌を撃って、物の具を貫きとおし、はらわたに触れ、黒い血を流させた者、その人に、私はこの銀金具を打った剣を贈るとしよう、アステロパイオスから奪った、みごとなトラキア製のものだ。またこの物の具は、両人の共有物にして持っていくがいい。その上にも二人のために、立派な馳走を陣屋の中に、用意させよう」
こういうと、その時、テラモンの子の大アイアスが起ち、またテュデウスの子で剛勇のディオメデスも立ち上がった。そして二人は、それぞれ群集の反対側で武装をして、まんなかへ進み出て、闘志満々と立ち向かうその眼光のすさまじさに、アカイア勢はみな驚きの目をみはった。
さてたがいに進んでゆき、いよいよ間近となったとき、三度たがいにおどりかかり、三度身近に突っこんでいった。その時、アイアスは、相手のもった、四方によく釣合いのとれた楯を刺したが、内側で胸の鎧がさえぎったので、肌身には届かなかった。今度はテュデウスの子が、大きな楯の上越しに狙いをつけ、絶え間なくきらめく槍の穂先で頸を刺そうとした。そのときとうとう、アカイア人たちは、アイアスのために心配して、試合をやめて、公平に褒美を分けろと叫び上げた。だが英雄のアキレウスは、テュデウスの子に、かの大きな剣を、鞘ぐるみと、また裁ちのよい提げ緒とを、添えて渡してやった。
つぎにはペレウスの子アキレウスが、坩堝《るつぼ》から出たままの、鉄塊をすえて置いた。これはむかし、強力のエエティオンが投げていたものなのを、足の速い勇ましいアキレウスが彼を殺して、この塊を他の財宝といっしょに、船に積みこんで運んできたものである。そして立ち上がって、アルゴス人らの間で宣言するよう、
「さあ出てくれ、この競技をやってみようという武士たちは。勝った男は、たとえその肥沃な持ち畑が町からずっと離れていても、九年のあいだは、この塊で十分用がたりるはずだ。なぜならば、牛飼いにしろ百姓にしろ、鉄に困って町へ出かける必要はなく、手もとで十分用がたりるだろうから」
こういうと、すぐさま戦さに手ごわいポリュポイテスが起ち上がると、また力の強い、神とも見えようレオンテウスも立ち上がった〔二人ともテッサリアのラピタイの将〕。すると、テラモンの子のアイアスと、勇ましいエペイオスも立ち上がって、一列に並んだ。まず勇ましいエペイオスが鉄塊をとり、ぐるぐるまわしてほうると、アカイア人らは皆笑った。
つづいて今度は、アレスの胤《たね》であるレオンテウスがほうった。三度目に替ってこれをほうったのは、テラモンの子アイアスで、頑丈な手で投げると、皆の標記《しるし》の上を越した。だが、いよいよ鉄塊を、戦さに手ごわいポリュポイテスが手に取って、まるで牛飼い男がほうり杖を飛ばして、その杖が旋回しながら牛の群れの間を飛びぬけていくかのように、はるか遠方、競技場の向うまで投げたもので、人々は叫びをあげた。そこで、剛勇のポリュポイテスの部下の者らは立ち上がって、主君が得た賞品を、中のうつろな船へと運んでいった。
つぎには、弓の射手のために紫色の鉄《くろがね》をすえた。すなわち十個の両刃《もろは》の斧《おの》と、十個の片刃の斧である。そして遠くの浜の砂地の上に紺色の舳《へさき》の船の檣《ほばしら》を立てさせた。そこから、ほろほろと啼《な》く鳩を、足に細い糸を結わえて飛ばせ、それを目がけて矢を射ろと命じた、
「誰でも、あのほろほろ啼く鳩を射たなら、両刃の斧を全部取って、家へ持って帰るがいい。また鳥は一応射ちそこなったが、糸にはあてたという者へは、その男は腕が劣るわけだから、片刃の斧だけをやるとしよう」
こういうと、すぐ剛勇のテウクロスが起ち上がり、イドメネウスの勇敢な介添え役のメリオネスも立ち上がった。そして、青銅をつけた皮の兜に籤を入れ、よく振ると、まず先にテウクロスが籤にあたった。そこですぐさま力をしぼって、矢を放ったが、そのときとくにアポロン神に、初児《ういご》の仔羊の名にしおう大贄《おおにえ》を捧げようとは誓わなかった。それでアポロン神がおしまれたので、矢は烏にはあたらなかった。だが鳥の足を結わえた細い糸にあたったもので、その細糸を鋭い征矢《そや》がはったりと断ち切った。それから鳩が大空へ向け翔《かけ》ってゆけば、細い紐は地面に向かってたらりと垂れ下がった。アカイア人はこれをみて騒ぎ立てた。
そこでメリオネスが、テウクロスの手から弓を急いで引き取った。相手が狙っている間に、彼は矢をもうさっきから構えていたのだ。そしてすぐさま、遠矢を射るアポロン神に、初児の仔羊の、たいそうな大贄を捧げよう、と誓いを立てた。そして高く、雲界にほろほろと啼く鳩をじっと見つめて、輪を描いて飛ぶ翼の下の、まんなかを狙って矢を放つと、矢はぶっつりと貫きとおして、ふたたび地上へと返って来て、メリオネスの足もとに突き立った。いっぽう烏は、紺青色の舳の船の檣《ほばしら》に降りてとまろうとして、項《うなじ》をだらりと垂れたまま、堅い羽交いを締めあわせたが、たちまちその体から生命は飛び去り、檣から遠くはなれて落っこちたのに、人々はこれをながめて讃嘆した。そこでメリオネスは十個の両刃の斧を全部取った、テウクロスは片刃の斧を、中のうつろな船々へと運んでいった。
さてそのつぎは、ペレウスの子アキレウスが、長い影をひく槍と、それからまだ火にあてたことのない掛け釜で、花の模様がちりばめてあり、牛一頭の値打ちのものを、競技場に運ばせておくと、槍の投げ手が立ち上がった。まず、アトレウスの子の、広大な国をおさめるアガメムノンが起ち上がれば、イドメネウスの勇敢な介添え役のメリオネスも起ち上がった。その人々に向かって、足の速い、勇ましいアキレウスがいうよう、
「アトレウスの子よ、われわれ皆は、どれほどあなたが衆人にすぐれているか、力においても投げ業でも、第一人者であることは、よく承知している。だからあなたが、この褒美の品を受け取り、うつろな船へお帰りください。槍のほうは、もしあなたに異存がなければ、メリオネスにやりましょう。私としてはそうおすすめしますが」
こういうと、武士たちの君であるアガメムノンも、もとより異存のあるはずはなく、メリオネスに青銅の槍を渡した。それから王は、伝令使のタルテュビオスに、とりわけ立派な賞品を持たせていった。
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ヘクトルの屍を贖《あがな》い受けの段
【やがて競技会も終わり、将卒は各自の陣屋に引きとった。アキレウスはなおも悲嘆をやめず、ヘクトルを憎んで、その屍を車につけたまま、パトロクロスの墓のまわりを、三度も引きまわしたが、アポロン神がこれを護って傷害を防いでやった。しかし天上の神々はアキレウスのおこないを否とし、屍を父母の許へ帰させることに議決、母のテティスを呼び息子を説得させる一方、プリアモス王へも夢の使いを送って、単身アキレウスを訪ねて息子の屍を請い受けさせることにした。神夢に老王は人々の止めるのを肯《き》かず、車に金銀財宝を積んで夜中アカイア軍の陣営へ向け出発する。途中で守護のヘルメス神に送られ、ひそかにアキレウスの陣へはいり対面する。母神の説得に心を和げたアキレウスは、彼を慰め快く屍を浄めたうえで車に載せ送り返す。心配した王の一家は哀号の中にヘクトルの屍を迎えるとこれを囲んでつぎつぎと悼《いた》みを述べ、ついで薪を切り出し、葬儀をおこなう】
さて、葬いの競技会も終わって、兵士たちは、それぞれ自分の速い船のあるところへと、ちりぢりに向かっていった。そして皆、晩餐の用意をし、たのしい眠りにつこうと心がけていたが、アキレウスだけは、親友のことを思い出しては、ひたすらに哭《な》きつづけ、どんな人をも征服するという睡眠さえも、てんで寄せつけないで、あちらこちらと身を転がして≪パトロクロスの、生前の頃の男らしさや、卓越した武勇を、ひたすらになつかしみ、悼みつづけた。あるいは二人で、いっしょに苦労をして成しとげたたくさんな仕事や、受けた難儀や、武士たちとのいくつもの戦い、辛い海路を旅してきたことなど、いろんなことを思い出しては、涙をいっぱい流しつづけた≫〕
ある時は横腹を下にして臥《ね》てみたり、時にはまたあおむけになってみたり、今度はまたうつむいて臥たと思うと、すっくと立ち上がって、渚《なぎさ》に沿ってぐるぐると歩きまわったりするうち、朝の光が潮の上から砂丘へと、射しはじめたのに気づいた。
そこでアキレウスは、戦車の軛《くびき》に、速い馬をつなぎ入れてから、ヘクトルの屍を、車のうしろに結わえつけてひいてゆき、三度までも、なくなったパトロクロスの墳《つか》のまわりを引きずってまわり、それからやっと陣屋へはいって、休んだ。そしてヘクトルを、砂ぼこりの中に、うつむけに臥かしたままほうっておいたが、アポロン神は、死んでしまっているとはいえ、立派な人物だったその肌身を、気の毒と思いなさって、黄金の山羊皮楯《アイギス》でそっくりまわりを蔽いかくして、あらゆる汚辱から護っておやりだった。引きずりまわされても、肌が破れて傷つかないように。
こんな工合に、憤激のおもむくままに、アキレウスは、雄々しいヘクトルにひどい所業を加えつづけていた。その様子を天からご覧になって、真幸《まさき》くおいでの神々たちは不憫《ふびん》に思いなさり、偵察の上手なアルゴスの殺し手(ヘルメス神)に、屍を盗んでこい、とすすめたのだった。この際に、他の神さまがたはみな賛成したが、ヘレとポセイダオンと、きらめく眼の娘神(アテネ)とは、どうにも承知しようとせずに、依然として、最初に、聖《とうと》いイリオスやプリアモスと、その城市《まち》の人々が、アレクサンドロス(パリス)の犯したとがめのために蒙ったのと同様な、憎しみを持ちつづけているのだった。
≪そのパリスが、むかし三人の女神たちが、彼の家の庭先へ来られたときに、二人をけなして、これらの苦難のもととなった好色へと彼を引きこんだ、その女神(アプロディテ)を褒めあげたからである≫
だが、とうとうその日から、十二日目の朝明けが来たとき、不死である神々の間でもって、ポイボス・アポロンがいわれるようには、
「情けない方々です、あなたがた神々たちは、それに破壊主義で。ヘクトルが犠牲《いけにえ》の腿《もも》を一度もあなたがたに焼いてさしあげなかった、とでもいうのですか、申し分ない牛だとか羊だとかを(もらったことがないって)。それなのにいま、彼が屍になっているのも、無事に守ってやり、彼の妻や母親や、また自分の子や父親のプリアモスや、町の人たちに見せてやろうとも、考えておやりになれないのですね。その人々は、すぐにも彼を火葬にして、よろしく葬いを出してやるでしょうに。
それをあなたがた神々たちは、かえってあの呪わしいアキレウスに加勢しようとお思いとは。あの男は心にわきまえというものがなく、胸のうちの思案さえが、折れて譲ることを知りません、獅子みたいにただ凶暴なばかり――あの大きな腕力と猛々しい気勢に駆られて、ご馳走にありつこうとの考えから、人間の飼う羊を襲う、あの獅子同然。そのようにアキレウスは、憐れみの心をなくしてしまい、また虔《つつ》しみさえ≪なくしています、人間に大きな害悪を、あるいは利益を与える虔しみまでも≫
世間には、いくらも、アキレウスより、もっと大切な者をなくした人さえあるはずです、たとえば同じ母親から生まれた兄弟だとかを。それでもくやんで泣き、涙を流してしまえば、それでともかくも、思いをやるという次第で、というのも、運命《モイライ》(の女神たち)は人間どもに、耐え忍ぶこころを与えたからです。それなのに、あの男ばかりは、雄々しいヘクトルの愛《かな》しい生命《いのち》を奪いとったうえに、戦車のうしろに結わえつけて、親友の墳《つか》のまわりを引きずっていくのですから、まったくどうにも立派とも結構ともいえますまい。たとえどんな勇士だといっても、彼にたいして、われわれが、けしからんと腹を立てないようにすべきでしょうか。本当に感覚もない土塊《つちくれ》(にひとしい屍)を、怒りにまかせて、凌辱しているのですから」
それに向かって、白い腕の女神ヘレが、立腹をしていうよう、
「それはまあ貴神《あなた》のおいいのことももっともでしょうよ、銀弓の神さま、もし本当にアキレウスとヘクトルとを、同等の地位にあるとお思いならね。ところがヘクトルは、死ぬはずの人間で、また人間の女の乳房で育った者です。それにひきかえ、アキレウスは女神の子で、しかもこの私自身がその女神を養育したうえ、夫のペレウスに、正式の妻として嫁入らせたものです。それに彼(ペレウス)のほうも、不死である神々たちからとりわけて愛顧を受け、神さまがたも、みな二人の婚礼の宴に列席しました。その中であなたは竪琴をもってご馳走にあずかったのに、なんてまあいつも不信な、悪いやつらの仲間なんですのね」
それに向かって、群雲を寄せるゼウスが、返答していわれるよう、
「ヘレよ、いかんぞまったく、そう頭ごなしに神ともある方々にどなりつけては。それはもちろん(二人の)受ける栄誉、位というものは同一ではないだろう。だがヘクトルだって、イリオスに住む人間どもの中では、神々からいちばん気に入られていた男だ。たとえばこの私にしたってそうだった、好もしい供物《くもつ》をくれるのを、けして忘れはしないでいたからな。それで私の祭壇は、いつだって、申し分のない馳走だとか、奉献の酒や、腿肉を焼く香りなどを、欠いたためしはなかったのだ、それがわれわれにたいしての、栄えある献げ物と定められているのだから。
だがともかく、(ヘクトルの屍を)盗むというのは、やめにしよう、アキレウスに見つからないで、勇ましいヘクトル(の屍)を盗むというのは、とうていだめだから。だってしじゅう、夜昼の区別なしに、母親(のテティス女神)がそばにくっついているんだものな。それよりも、誰かが出かけていって、テティスを、私のすぐそばへと、呼んで来てはくれまいか。そしたら、しかといい聞かそうからな、まずアキレウスにたいして、プリアモスから、賠償のものをたくさん取って、ヘクトルを渡してやるようにしろと」
こういわれると、疾風《はやて》のように速い足の虹の女神イリスは、おおせを伝えに立ち上がって、さてサモスの島と、けわしい岩山のインブロス島とのまんなかあたりの、黒々とした海原に走りこむと、その勢いに水がうめきをたてた。それから女神は、鉛の錘《おもり》のように、海底めがけて進んでいった。その錘というのは、原野にすむ牡牛の角に嵌《は》めこまれて、食いしん坊な魚どもに、死の運命《さだめ》をもたらすものである。
そしてテティスを、広々とした空洞《うつろ》な窟《いわや》の中に見つけた。あたりにはほかの海の女神たちが、大勢寄り集まって坐っていた。そのまんなかに、テティスは、ひとに超えて誉れの高い、自分の息子の悲運を嘆いて哭きつづけていた、その子はやがて祖国《くに》から遠いところで、土塊《つちくれ》の沃《ゆた》かなトロイアで死んでしまうはずなので。さてそのすぐそばに寄り添って、足の速いイリスは言葉をかけ、
「お立ちなさい、テティスさま、永遠に滅びないおはかりごとをお立ての、ゼウスさまが、お呼びですから」
それに向かって、今度は銀色の足をした女神テティスが答えるよう、
「どうしてまた、あの大神さまが、私をお召しなのでしょう。私としては、不死である神さまがたの間に立ちまじるのは、気がひけますが。際限もない辛い思いに、胸がいっぱいなのですもの。でも参るとしましょう、何にせよ、大神のおおせを、あだにしてはいけますまい」
こう声に立ていいおえると、神々しい女神は、漆黒の被りものを手にとったが、それよりもっと黒い衣は、どこにもなかったであろう。それから出かけてゆくと、その前に立って、風のように足の速いイリスが案内をする。行く手には海の湧き立つ波が、右左へと分れて道を開く。その間を浜辺へと、海中から浮かび上がって、大急ぎに天をさして登ってゆけば、そこにははるかにとどろくクロノスの御子(ゼウス)がおいでになり、あたりには、その他の永遠に滅びることなく、真幸《まさき》くおいでの、よろずの神々たちが、みな一ところに集まって、座についておいでだった。
そこでテティスは、ゼウス父神のおそばへ、アテネ女神から座席を譲られて腰を下ろせば、ヘレが黄金の立派な杯をその手に持たせ、言葉をかけて元気づけると、テティスが杯を乾《ほ》してから、差し出した。とこうするうち、一同に向かって、人間と神々との御父(なるゼウス)は、話をおはじめになって、
「おいでだったな、オリュンポスへ、テティス女神よ、たいそう悩んでいるな。一刻も忘れられぬ嘆きを胸のうちに抱いておいでのことは、私も存じている。だが、それにしても、いいたいことがあって、ここへ呼んだわけなのだ。まったくもう九日間も、悶着が神々のあいだに起こっているのだ。ヘクトルの屍と、城を攻め取るアキレウスとについてだが。(ある神々は)偵察の上手なアルゴスの殺し手(ヘルメス神)に、その屍を盗んでやれ、とうながすのだ。しかし私としては、(自分から屍を返してやるという)栄誉を、アキレウスに持たせてやるつもりなのだ。あなたの尊敬と友情とを、後々まで大切に保っておいてな。
それで、すぐにも戦場へ行って、あなたの息子にいいつけてくれ、神々は不愉快に感じているとな。ことに、すべての神々のうちでも、とりわけ私が腹を立てていると。それもかれが、狂いたった激情のあまりに、ヘクトル(の屍)を、舳《へさき》の曲がった船々のそばに、引きとめておいて返さないことをだ。それゆえ、彼がもし私をおそれているならば、どうにかしてヘクトルを返してやれ、とな。そうすれば、一方で、気象のひろいプリアモスのもとへも、イリスを送りつかわして、愛する息子(の屍)を贖《あがな》いに、アカイア軍の船陣へ出かけるように、命じさせよう。アキレウスのところに、十分その心をやわらげるだけの贈り物をたずさえて」
こうおおせられると、銀色の足をした女神テティスは、畏《かしこ》まってうけたまわり、オリュンポスの峰々から、一気に飛び立って降りて来られ、自分の息子の陣屋へ着いて、見るとアキレウスははげしく嘆き悲しんでいる。それをとり囲んで親しい仲間(家来)の者どもが、みな精を出して立ち働き、朝食の用意にとりかかっていた。それで、大きな、粗毛《あらげ》のいっぱい生えた牡羊が、陣屋の中で、犠牲《いけにえ》として殺してあった。そこで母親である女神は、アキレウスのすぐ近くにいって坐ると、手をかけてなでさすりながら、名を呼んで話しかけるよう、
「私の子よ、いつまでいったい嘆き悲しんで、悩みつづけ、食事のことも、臥《ね》ることもすっかり忘れて、自分の胸をむしばませているのです。ほんとに女の人と、愛情の中に交わるのは、いいことなのに。それというのも、おまえの生命《いのち》はもう長いことはないようだし、すぐ間近に最期の時、手きびしい死の運命が、迫っているのだから。それゆえ、私のいうことを、すぐにも聞きわけておくれ。ゼウスさまからのお使いで来たのですよ。神さまがたは、不愉快に思っておいでだ、とおっしゃるのです、ことに不死である神々全体のうちでも、とりわけご自身が、たいそうご立腹ですって。それというのも、おまえが狂おしい憤りのあまりに、ヘクトルを舳の曲がった船々のかたわらに引きとめておいて、返してやらないからなのです。ですから、さあ、もう返しておやりなさい、その代わりに屍の身代金を受け取ってね」
これに向かって、足の速いアキレウスが、答えていうようには、
「そうしましょう、誰にしろ、償《つぐな》いの身の代を持ってきたら、屍を渡してやります。もし本当に心底《しんそこ》からすすんで、オリュンポスの神さま(ゼウス)がそうお命じなさるのなら」
このように、船々の寄合い場所で、母親の女神と、その息子とは相談しあった。さて、虹の女神イリスを、クロノスの子ゼウスは、聖いイリオスへ行くように催促して、
「さあ行って来い、速いイリスよ、オリュンポスの上のご座所を出て、気象のひろいプリアモスのところへ、イリオスの城中へ、命令しにだ。愛する息子(の屍)をもらい受けに、アカイア軍の船陣へ出かけるようにと。アキレウスにやる、心をやわらげるような、たくさんの贈り物をたずさえてな。それもひとりで、ほかに誰もトロイアの人間を供に連れないでだ。ただ伝令として、誰か年輩の者を、ついて行かせる、向うまで、騾馬と丈夫な四輪の荷車を馭してゆくために。それから帰りに、勇ましいアキレウスに殺された息子の屍を、城中へと運んで来るためにな。
またプリアモスには、けして死ぬことや、また恐ろしい目(にあおうか)など気遣う要はないといえ。たいした護衛をいっしょにつけてやろうから、あのアルゴスの殺し手(ヘルメス神)をだ。それで、ヘルメスが、彼を連れて、アキレウスの手もとまで案内するだろう。いったん、アキレウスの陣屋の中へ、連れこんでしまえば、彼自身も殺そうなどとはせぬばかりか、他の者らをもみな制止することだろう。もとよりアキレウスとて、愚かな者でも分別のない者でも、間違いをするような男でもない、十分にただしく、祈願者への遠慮会釈というものを、心得ていようから」
こういわれると、疾風《はやて》のように速い足をもつイリスは、お使いにと立ち上がって、たちまちプリアモスの居城へと着いた。見ればいましも、わめき声や泣き声のするまっ最中で、息子たちは父親をとり囲んで、中土間の内にみなして坐りこみ、涙で衣をぬらしていた。老人はそのまんなかにいて、上衣をすっぽりと頭からかぶってくるまりこみ、あたりには、転々と身を反転させながら、自分の手で、体のまわりにかき集めた、たくさんな塵や埃が、年老いた自分の頭や頸筋にも(かけられていた)。また屋敷じゅうで、プリアモスの娘たちや、息子の嫁たちが、死に果てた人を憶い出しては、哭きつづけていた、どれほど多くの、また勇ましい男たちが、アルゴス勢の手にかかって、命をなくしたり、討たれたりしたかを。
さてゼウスのお使い(虹の女神)が、プリアモスの身辺に立ち添って、声を低くして言葉をかけると、たちまちに身ぶるいが、彼の五体をひっとらえた。
「元気を出しなさい、ダルダノスの裔《すえ》のプリアモスよ、けして心におそれることはないのだ。もとより私は、何もおまえに、不吉なことをたくらもうとして、ここへ来たのではないから。それどころか、よいお告げをもって、知らせにきた、ゼウスさまのお使いなのだ。大神は、おまえのことを遠くの空から、大変にお気遣《きづか》いくださって、可哀そうに思っておいでだ。それでオリュンポスにおいでになって、おまえに、雄々しいヘクトルを贖い戻しにゆけとお命じなのです、アキレウスの心をやわらげるような、たくさんな贈り物を持っていって。でもひとりでですよ、他には誰も、トロイアの人間はお供につれないで、ただ伝令として、誰か年輩の者をつれていらっしゃい、向うまで騾馬と、丈夫な車輪をつけた四輪の荷車を馭してゆくために、それから帰りに、勇ましいアキレウスが打ち果たした、彼(ヘクトル)の屍を、城中へと運んで来るために。
またおまえは、けして死ぬことや、また恐ろしい目(にあおうか)などと、気遣う要はないのです。たいした護衛をゼウスさまが、いっしょにつけてくださいましょうから。あの、アルゴスの殺し手(ヘルメス神)をですよ。それで、あのかたが、おまえを連れて、アキレウスの手もとまで、案内するでしょう。それからいったん、もうアキレウスの陣屋の中へ、連れこんだ以上は、彼自身だって、殺そうなどとはしますまい。そればかりか、他の人たちもみな制止してくれましょう。もとよりアキレウスだって、愚か者でも分別のない者でも、間違いをしでかすような男でもありません。十分に正しく、祈願者への遠慮会釈というものを、心得ていましょうから」
こういい終わると、足の速いイリス女神は、いってしまった。一方、プリアモスは、すぐに息子たちに命じて、丈夫な車輪をつけた騾馬の車の用意をさせ、荷の積み台をしっかり荷車の上に、結わえつけさせると、自分は奥の間へとはいっていった。広々とした、杉の木造りの、屋根の高い納戸《なんど》の間には、立派な宝物がいっぱいにしまってあった。そこへ王妃のヘカベを呼び寄せて、声をあげていうようには、
「気の毒とは思うがな、いまゼウスさまのお手もとから、オリュンポスのお使いがみえて、愛しい息子(の屍)を贖《あがな》い戻しに、アカイア軍の船陣へ行け、とのお指図なのだ、アキレウスのところへ、彼の心をやわらげるような、たくさんの贈り物を持っていってな。だからさあ、私に聞かせてくれ、おまえの考えでは、これがどう見えるか。私は、是が非でも、あそこへ、アカイア軍の広々とした陣中へと、船のところまで行きたいと、気負いこんでも急き立ってもいるわけなのだが」
こういうと、王妃は声を立てて泣き崩れ、言葉を返すよう、
「まあいったい、何をおおせです、どこへ、いつもの知恵や分別はとんでいってしまったのです。以前から、他国の者から、また治めておいでの、自国《くに》の者にも有名でした、そのお知恵は。どうしてまた、アカイア勢の船陣へなど、ひとりで行こうとお望みなのでしょう、多勢の、しかも立派な息子たちを殺して、物の具をはぎ取ったその男の、眼の前に出ていこうなどとは、まったく、あなたの心臓は、鋼鉄《はがね》でできているのでしょうか。
万一にも、あなたをつかまえて、たしかにそれと、眼に認めましたら、あの男(アキレウス)は、野蛮で信義もわきまえない者のことゆえ、あなたを憐れむとか、(祈願者として)敬意を払うなどとは、とても思いもよりません。そんなことをなさるより、いまは大広間にひとりで坐って哭いて悼《いた》むことにいたしましょう。むかし、他人ならずこの私が、あれを産みましたおりに、どうにも動かせませぬ運命が、あの子へと、このような糸を紡いだものでございましょう、足のすばやい犬どもを食い飽かさせるという。しかも自分の親たちから遠いところで、情け知らずな男の手もとで。その男の胆《きも》のまんなかへ、いっそ私はしっかりととりついてでも、食ってやりたいもの。そうしたら、私の子供が受けた所業の、仇討ちもできましょうに。なにも臆病に逃げるのを殺したのではなく、トロイアの男たちや、深い衣の褶《ひだ》をもつトロイアの女たちを護って立って、逃げ隠れなど、いっこう思いもしないのを、殺したのですから」
それに向かって今度は、神のような姿に見える老王のプリアモスが、いうようには、
「もう私は行くつもりなのだから、けして引きとめてはくれるな。どうせ私は承知すまいから。おまえ自身が、屋敷の中での、悪い前兆になどなっては困る。それというのも、(行けと)私にすすめたのが、人間世界の誰か他の者だったら、たとえば、犠牲《いけにえ》を見て占いをする、占い師とか、祭司とかいう者だったら、私らはそれを根も葉もないでたらめとして、かかりあうのを避けもしたろう。ところが、いまのは、私が自分で現実に、神さまの神命《みこと》を聞き、目のあたりに(お姿を)見たのだから、行こうと思うのだ。(イリスのいった)そのことはけして実《じつ》のない言葉ではなかろう。もしまた私の運命が、青銅の帷子《よろい》を着けたアカイア勢の、船のかたわらで死んでしまうというものなら、それこそ私の望むところだ、すぐアキレウスに殺してもらおう、愛しい息子をこの腕に抱いて、思う存分に嘆いたうえで」
こういって、たくさんな櫃《ひつ》の、美しい蓋を開けて、中から十二枚の、このうえもなくみごとな幅広な布と、十二枚の一重仕立ての外衣と、そのうえにまた同じ数の敷物とを取り出し、また同じ数だけの、まっ白な頭巾《ヴェール》と、同数の胴着《キトーン》とを取り出させた。≪また秤《はかり》にかけて、黄金の錘《おもり》を、みなで十斤だけはからせて取り寄せ≫そのうえにも、ぴかぴか光る三脚の鼎《かなえ》を二つと、四つの釜と、それにとりわけて美しい酒杯は、むかし国外へ所用で出かけたおり、トラキア人が贈ったところの、たいそう値打ちのある宝物だったが、それさえ老王はおしがって座敷へ残しておこうとは考えなかった。何よりもいちばんに愛する息子(の屍)を、その代償に、返してもらおう、と望んでいたので。それで王は、トロイアの人々を柱の間から残らず追い出して、侮辱的な言葉でもって叱りつけ、
「みな出ていってしまえ、ろくなことは何一つせぬ恥さらしどもが。おまえたちの家には、何もくやむことがないのか、厄介をかけて、ここへ来るとは。それとも何か儲かったとでもいうのか。クロノスの御子のゼウスが、苦悩を私に与えられて、いちばんすぐれた息子を、殺してしまわれたので。だがおまえたちにしてもすぐ悟るだろう、ヘクトルがもう最期を遂げてしまったからには、アカイア勢にとって、前よりもずっと、おまえたちを殺すのが、容易になったということを。だが私はともかく、この城市《まち》が攻めおとされ、劫掠《ごうりゃく》されるところを、この眼でもって実際に見るようにならないうちに、冥王《ハデス》の館へ赴《い》ってしまいたいものだ」
こういうなり、杖をふるって人々を追い出したので、みな外へと、老王のけわしく急き立てるままに、出ていった。一方、王は、自分の息子たちに呼びかけて、小言をいいながら、ヘレノスやパリスや、勇敢なアガトンや、またパンモンや、アンティポノスや、雄叫びも勇ましいポリテスや、デイポボス、ヒッポトオス、さらに勇敢なアガウオスなど九人の息子を、その老人は、大声で呼びつけて命ずるよう、
「大急ぎだぞ、人前へは出せぬろくでなしどもが。おまえらは、みんなそっくり、ヘクトルの身代りに立って、速い船のかたわらで、殺されていたらよかったのに。何という、このうえない不幸な者か、この私は。広いトロイアの国じゅうに、またとない立派な子供を、大勢持っていたのに、現在では、一人もそれが残っていない。あの神にもくらべられるメストルも、馬に大喜びをするトロイロスも、ことにヘクトルまで――人間のあいだにあっては神にもひとしく、やがて死ぬ身にきまっている人の子ではなく、神さまの子だろうといわれていたが――そういう子供らは、みな軍神アレスに奪い取られ、ろくでなしどもだけが、そっくりと残ったものだ。ごますりどもだの、踊りの上手で、舞いの拍子をとるのには比類ない巧者だが、自国の民の羊や山羊を、奪い取る連中ばかりだ。まったく、さっさと車の用意を、一刻も早くしてくれないか。それからこれらを、そっくり積みこむのだぞ、私らが向うへ道を進められるように」
こういうと、みな父上の命令に恐れをなして、しっかりした輪をつけた、騾馬のひく四輪車を、台から取り上げて下へおろすと、美しいまだ造りたてのへ、荷の積み台を載せて縛りつけ、また掛け釘から、騾馬用の軛《くびき》をはずして、車につけた。それは山毛欅《ぶな》の木材で作ってあって、臍《ほぞ》を持っていて、手綱《たづな》掛けも上手に取りつけてあった。その後には、軛といっしょに、一丈あまりもある軛縛りを持ち出してきた。
そして軛をしっかりと、よく磨き上げた軸木にすえて、轅《ながえ》のいちばんはしのところに置くと、つづいて輪形を留め木の上に嵌《は》めこみ、それぞれ三度ずつ、臍木《ほぞぎ》に縄を巻きつけてから、つぎに今度は順ぐりに縛りつけてゆき、曲がった鉤《かぎ》の下を通した。それがすむと、奥の間から、よく磨きあげた荷車へ、数限りもない財宝を、いとしいヘクトルの贖い代にと、運んで積み上げ、さて丈夫な蹄の、馬具をつけて働く騾馬どもを、軛の中へ入れてつないだ、プリアモス王へと、以前にミュシアの人々がくれた立派な土産物である。またプリアモス王の乗馬としては、二頭の馬も、軛につけて支度させた。この馬どもは、老王がかねてから自分用に、よく磨かれた厩の中に育ててきたものだった。
このように二人は、高くそびえる館の中で、馬の支度をさせていた。すなわちプリアモスと伝令使とで、いずれも、手ぬかりのないおもんぱかりを胸に持っていた。そのすぐ身近に、ヘカベがやってきた。ひどく心を苦しめながらも、右の手には、心をなごめ、やわらげるぶどう酒を金の杯に入れて捧げて持って、まず神々に神酒《みき》をまつる儀式をすませて、それから出かけるよう(との気づかいである)。それで、馬どものすぐ前に立ち、名を呼んで話しかけるようには、
「さあ、ゼウス父神《おやがみ》さまにお神酒をたてまつって、敵の陣中から無事に帰って来られるように、お祈りなさいませ。どうしても船陣へ出かけようというおつもりなのでしたら、もとより私としては望ましく思いませんけれど。ともかくも、それなら、あなたから、イダの山においでの、黒雲を寄せるクロノスの御子さまにお祈りを、トロイアじゅうをみそなわしておいでの神さまに。
そして、鳥占《とりうら》をお願いなさいませ、速い知らせ手として、大神さま自身もいちばんお慈《いつく》しみのうえ、鳥類中でもその力がいちばん大きいという鳥を右手へ(くださるようにと)。つまりはあなたが、ご自身の眼でその象《きざし》を見て、それをたのみに安心して、速い駒を駆るダナオイ勢の船陣へお出かけなされますように。またもし、はるかにとどろくゼウスさまが、お使い烏を(見せて)くださらないのでしたら、その場合は、とうてい私としては、アルゴス勢の船陣へお出かけは、まあどれほどお望みにせよ、賛成しておすすめはいたしかねます」
それに向かって、神とも見えよう姿のプリアモス王が答えていうよう、
「おお妃よ、けして私にしろ、あなたのそういう申し出を、無視はすまい、ゼウス神に向かって両手を差しのべ祈るというのは、結構なことだ、きっとお憐みをくだされよう」
こういうと老王は、家事取締りの侍女をうながし立てて、清浄無垢な水を手にそそぐようにと命令すれば、侍女は王のかたわらに、手洗い盤と水差しとを、いっしょの手に持って、捧げて立った。それから手をすすぎ清めると、今度は台付きの杯を王妃の手から受け取って、庭囲いのまんなかに立って祈願をこめながら、ぶどう酒を地にそそいで、大空をふりあおぎつ、声をあげて、言葉をつぐよう、
「ゼウス大神さま、イダの峰よりしろしたもう、いと誉れあり、いと大いなる御神、どうか願わくは、アキレウスのもとへまいりましたら、(あれが私を)親身に憐れと思ってくれますよう。それには鳥占をお送りくださいませ、速い知らせ手として大神さまご自身も、いちばんにお愛《いと》しみあり、鳥類中でも、力がいちばん大きいというその鳥を右手の方に(お示しを)。つまりは私が、自分の眼でその象《きざし》を見て、それをたのみに安心して、速い駒を駆るダナオイ勢の、船陣へもゆけますように」
こう祈っていった彼の言葉を、全智の御神ゼウスは聞かれて、すぐと鷲をお遣わしになった。このうえなく確かな占い鳥、それは黒ずんだ狩猟の上手で、黒斑《くろふ》の鷲とも呼ばれているものである。その両翼を右左へとひろげわたせば、金持長者の、高い屋根をもつ奥殿にはいる戸口の、しっかりと閂《かんぬき》を取りつけた扉ほども幅があった。その鷲が、右手のほうへ、町を横切って翔《かけ》ってゆくと見えたので、一同はこれをあおいでながめ、おおいに喜んで、誰も彼もみな、心の温まる感を覚えた。
そこで老王は、大急ぎに急き立って、磨き上げた戦車の台に乗りこむと、玄関先から、音の高く鳴りひびく柱廊下を駆って出れば、その前方には、騾馬どもが、四つ車輪のある荷車を牽いていった。馭者として立っているのは、心の賢《さと》いイダイオスで、そのあとから進む馬車には、老王が自身で手綱を取り、鞭をふるって、またたくうちに街路をくだってゆくと、身内の者どもがみな、まるで死ににゆく人を送るみたいに、しきりに嘆き悲しんで、あとにつづいた。こうして一同は、城門をくだって、平原までゆき着くと、そこからみな引き返して、イリオスへ戻っていった、息子たちも、娘婿たちもである。だが、この両人が平原に立ち現われたのを、はるかにいかずちをとどろかせるゼウス神は見逃がされずに、老王の様子を見て憐れみをかけられ、すぐと愛する御子、ヘルメスに向かっていわれるよう、
「ヘルメスよ、おまえはいつも、人間の武士を仲間に連れ立ってゆくのが好きで、誰でもかまわず仲間にした人間のいうことを聞くが、ではさあ、出かけていって、プリアモスを、アカイア軍の、うつろに刳《く》った船のところへ案内してやれ。ペレウスの子の陣屋へ着くまでは、誰一人、他のダナオイ方の人間に見つかりも、気づかれも、しないようにな」
こういわれると、お使い神の、アルゴスの殺し手(ヘルメス)もさっそくにうけたまわって、すぐとそれから、足もとに、美しい短鞋《あさぐつ》をはいた、黄金づくりの、神々しいものであって、水の上も、涯《はて》しを知らぬ陸《おか》の上も、さっと吹く風につれて、御神を運んでゆく鞋である。そのうえに杖をとったが、これは、好き勝手な人間の眼をまどわし(て眠らせ)たり、また逆に、眠っているのを覚まさせたりする道具だった。これを両手に捧げもって、力づよいアルゴスの殺し手なる神さまは飛行してゆき、たちまちにトロイアとヘレスポントスに到着すると、土地の領主の公子《わかとの》風の姿になって、進んでいった。うっすらと、ひげがまだ生えたての、若さの華がとりわけて匂やかな、青年の姿で。
さて一行は、イロス〔トロイア王家の祖ダルダノスの子〕の大きな墳《つか》のかたわらをかすめて、車を走らせていってから、騾馬の車と馬車とを、(スカマンドロス)河のほとりで引き止めた。馬どもに水を飲まそうとしてだが、またいよいよ夕闇が地上を襲ってきたためでもあった。おりから、近くへやってきたへルメスを、伝令使が見て気がつき、プリアモスに向かって声をあげ、いうようには、
「ダルダノスの後裔(の王)よ、気をつけなさい、用心のいる事柄が起こりました。男が見えます。じきに私らはさんざんな目にあわされるでしょう。ですから、さあ、馬車を駆って、早く逃げましょう。それともあの男の膝にすがりついて、頼んで見ますか、燐れみをかけてくれるだろうか、と」
こういうと、老人の心は萎《な》えくずれて、はげしい怖れにとらえられ、曲がった手足の、毛もまっすぐにすくんで逆立ち、胆もつぶれて茫然と立っていた。それへ、お助けの神さまご自身が近くに進み寄って、老王の手をとり、たずねかけて向かっていうよう、
「どちらへ、お爺さま、このように馬や騾馬どもを急がせて、おいでになるのですか、かぐわしい夜中を、他の人たちは眠っているときに。あのすさまじい意気ごみのアカイア勢も、あなたは怖くないのですか、敵意を抱いて悪事をたくらむ者どもが近くにいますのに。そいつがもし一人でも、速い夜の闇をおかして、このようにたくさんな財宝を持っておいでのところを見たら、まあどうなさるおつもりですか。あなたご自身だって若くはないし、お供のこの方だって、もし先方がかかってきたら、その男を追っ払うには、年をとりすぎています。だが、私はけして害を加えもしませんし、他の者からあなたを護ってさしあげましょう、親父みたいな気がしますので」
それに答えて、こんどは神とも見える老王プリアモスがいうよう、
「まずそういった次第なのです、お若いかた、おっしゃるとおりでして。だが、まだどなたか神さまのうちには、擁護の御手をかざしてくださるかたがあるので、このように立派な旅のおかたに、引き合わせてもいただけたのですな。さいさきよく、たとえばまったく、あなたみたいに、風采も姿も申し分ない、そのうえ機転もおききなのは、立派なご両親をお持ちなのでしょう」
それに向かって、今度はお使い神の、アルゴスの殺し手(ヘルメス神)がいわれるよう、
「いかにも、さようにおっしゃることは、ご老人よ、みな筋目にかなっております。ところで、さあ、この次第を、はっきりいって聞かせてください。まったくこんなにたくさん、立派な財宝を、どこかへ持っておいでのところでしょうか、他国においでのかたの手もとへ、それが無事に残っているようにと。それとももう、皆さまが、聖いイリオスを、怖気をふるって、見捨てておいでなのですか。あんなにすぐれた勇士(ヘクトル)が、おなくなりなので。ご子息のことですが、アカイア軍との戦いにちっともひけを取りませんでしたのに」
それにたいして、今度は神とも見える老王プリアモスが答えるよう、
「いったいあなたは、どなたですか、立派なかただが、ご両親は、何とおっしゃるのです、いかにも私の、運命《さだめ》つたない息子の身の上を、程よくいってくださったとは」
それに向かって、今度はお使い神の、アルゴスの殺し手がいわれるよう、
「私を試すおつもりですね、ご老人よ、勇敢なヘクトルのことをおたずねとは。あの方を私は、ずいぶんたびたび、武士に誉れを与える戦さの合間に、この眼で見ております。船陣へ押し寄せて来て、アルゴス勢を鋭い青銅《はもの》で斬りまくり、お討ちでしたおりにも、私どもは、感心しながら立ちつくしておりました。アキレウスが、アトレウスの子(アガメムノン)に恨みを抱いて、私らに出陣を許しませんでしたので。
私はそのおかたの介添え役で、丈夫な造りの同じ船に乗ってまいった者、ミュルミドンの族《やから》の生まれ。父の名はポリュクトルといって、裕福だとまあ申せましょうが、ちょうどあなたさまと同じぐらいの老人でして、息子が六人手もとにおります。私はその七番目の息子でして、兄弟じゅうで籤《くじ》を引きましたら、私があたって従軍いたし、ただいま船の置場から、この野原へ来たばかりの者です。と申すのは、明朝早くから、眼をきらめかすアカイア勢は、城市《まち》を囲んで戦闘に取りかかりましょう、皆じっと坐っているのに耐えきれず、アカイア軍の大将たちも、はやる者どもを、戦闘からもう制止しきれませんもので」
それに今度は、神とも見えよう老王の、プリアモスが、答えていうよう、
「もしも本当にペレウスの子アキレウスの介添え役でおいでならば、さあ、すっかり本当のことを話してください。まだ私の息子が、船々のかたわらに臥かされているか、それとも、もうアキレウスが、手や足もみなばらばらにして、自分の犬どもにくれてやったか、どうかを」
それに向かって今度は、お使い神、アルゴスの殺し手が、いわれるよう、
「ご老人よ、いやけしてあのかたに限って、犬どもや野鳥なども、食いにかかったことがなく、まだもとどおりの姿で、アキレウスの船のかたわらの、陣屋の中に臥かされています。もう置いたままで、十二日目の朝だというのに、すこしも膚肉《はだにく》の腐れも起こらず、うじ虫も着いていません、戦さで死んだ人間には(みなとり着いて)食うものなのですが。まったく、アキレウスは毎日それを、自分の親友の墳《つか》をめぐって、輝かしい朝の光のさすたびごとに、おかまいなしに引きずってまわるのですが、けしてみっともない様子にはならないのです。ご自身でいって、ご覧なさったら、きっとびっくりなさいましょう。その寝姿のみずみずしさ、血糊もすっかりふき取られて、少しもいやらしく見えません。突かれた傷口も、みなすっかり口がふさがっております、ずいぶんと大勢寄って、体に刃物を突き刺したのですが。それほどにも、つまり、真幸《まさき》くおいでの神さまがたは、屍となってからも、勇ましいご子息にたいしてご心配くださる――というのも、たいそう心《しん》からお慈《いつく》しみだからなのです」
こういわれると、老王はうれしく思って、言葉を返していうようには、
「お若いかた、いかにも不死である神さまがたに、掟にかなったご供物をたてまつるのは、けっこうなことだ。私の息子だって、オリュンポスにおいでの神さまがたを、館《やかた》の中でも、けして忘れたことはなかった。それゆえに、いま死の運命におちたときでも、思い出してくださったものと見えます。ともかく、ではさあ、このみごとな杯を、私の手から受け取ったうえ、私の身を護衛もし、また神々の擁護のもとに、ペレウスの子の陣屋へ着くまで案内をしてくださるまいか」
それに向かって今度は、お使いの神、アルゴスの殺し手がいわれるよう、
「私を試してみるおつもりですね、ご老人は。でもそれはいただきかねましょう、アキレウスさまに内緒で、贈り物を取れとおっしゃっても。主人のものをかすめて取るのは、私として、とりわけ心におそれ、かつ、つつしんでいることなのです。後々で災難が、振りかかってはいけませんから。でも、あなたをお送りするのなら、私は世間に名高いアルゴスへでも、お供しましょう。ちゃんと筋道立てて、速い船へお乗せするなり、徒歩《かち》でお供をするなりしたら、誰一人、このお供をあなどって、戦さをしかける人間は、ありますまい」
こういうなり、大層なお助けの神さま(ヘルメス)は、馬車の上に飛び乗って、すぐさま皮の鞭と手綱とを、両手に取り上げ、馬どもや、騾馬どもに、つよい気力を、吹きこんでやられた。それからいよいよ、船囲いの櫓《やぐら》が並んで壕《ほり》のあるところへ着くと、ちょうど守衛の兵士たちは、晩餐の支度をいましもやっていたが、その人々へのこらず眠りを、お使い神のアルゴスの殺し手はそそぎかけてから、閂《かんぬき》を押し戻して、門の扉を開け放つと、その中へプリアモスと、車に積んだ立派な進物とを、導き入れた。
それでとうとう、ペレウスの子アキレウスの陣屋の構えに到着した。高くそびえているこの小屋は、ミュルミドンの一族が、主君のためにと、樅《もみ》の木を伐《き》り出してこしらえたもので、その屋根は、牧場から柔毛《にこげ》のよう(にやわらかい)葺《ふ》き萱《がや》を刈り集めてきて、葺き上げてあった。そのまわりに、主君のために、びっしりと杭《くい》を並べて、広い中庭囲いをこしらえ上げ、出入り口の扉にはただ一本の、樅材の閂《かんぬき》があるだけだった。しかしこれを閉めるのは、アカイアの人間が三人がかりでやっとでき、開けるのにも、ほかの者なら、この扉の大きな締め木を引きはずすのに、三人はかかったものを、アキレウスはひとりでもって動かしていた。
だが、このおりには、大層なお助けの神ヘルメスが、老王のために扉を開けて、足の速いペレウスの子への、立派な進物(を積んだ車)を運び入れると、馬車から地上へ飛び降りて、声をかけいわれるよう、
「老人よ、実はここまで案内してきたこの私は、不死である神ヘルメスだが、おまえのために、父上が私を護衛につけられたのである。ところで、もう私はここから引き返そう。アキレウスの眼の前には出てゆくまい、このように、不死である神として、目のあたりに、死すべき人間をひいきするのは、他の恨みをかうことであろうから。それゆえおまえははいっていって、ペレウスの子の膝に取りすがり、彼の父や、髪の美しい母上や、また息子を枷《かせ》に、いろいろと頼んでみたらよいだろう、彼の心を揺すぶり立てるようにして」
こう声をかけると、ヘルメスは、そのままに高くそびえるオリュンポスへと立ち去った。プリアモス王は、馬車から地上へ飛んで降りたが、イダイオスは、そのままそこへ残しておいた。馬どもや騾馬どもを、引き止めながら待っていさせたわけである。一方、老王は、まっすぐに陣屋を目指して進んでいった。そこは普段に、ゼウスがいつくしまれるアキレウスの居場所となっていた。それではいるとすぐにその人が見え、少し離れて、家来の衆が坐っていた。勇士のアウトメドンと、軍神アレスの伴侶《とも》であるアルキモスとが二人きりで、主君のかたわらに侍して、せっせと世話をしていた。いましも食事が、食べるもの、飲むものもみな、すんだばかりのところとて、食卓がまだ置いたままだった。
その人たちにも、はいってくるおりに気づかれないまま、丈の高いプリアモスは、アキレウスのそば近くに立ち、両手を差しのべてその膝をとらえ、武士を(数知れず)ころした、恐ろしい、その手に接吻した――大勢の自分の息子も討たせたその手に。それはさながら、禍いな心の迷いが人をとらえて、そのために故郷でひとかどの者を殺害するにいたる、(その人が)見も知らぬ他人の国にはしっていって、裕福な長者の屋敷へはいってゆけば、その姿を見る人はあきれてたまげる。それと同様に、アキレウスは、神とも見ちがえられようプリアモスを目の前に見てたまげはてれば、従者たちもみな驚きあきれ、たがいに眼と眼を見交わすばかりだった。その中にもプリアモスは、アキレウスに向かって、祈願をこめた言葉をかけて、
「父上のことを思い出してください、神々にもたぐえれるアキレウスよ、ちょうど私と同じ年輩の、おぞましい老年の閾《しきい》にさしかかっておいでの父上を。その御身の上も、あるいは周囲《まわり》に住まう近隣の者どもが、攻め悩ましておりましょうか、禍いや災難を防いでくれようという者は一人もいなくて。それだって、父上としては、あなたが生きておいでと聞くなら、心のうちに喜んで、毎日を、いつかは愛する息子がトロイアから、帰って来るのを迎えることができようと、待ち望んでお過ごしになりましょう。
ところが私は、何という不運な者か、広大なトロイアの国で、他人《ひと》に超えて立派な子供をもうけたにもかかわらず、あろうことか、一人さえもう残っていません。アカイア勢が攻め寄せて来たおりには、五十人ほどもいましたうちの、十九人までは、一つの胎《はら》〔正妻ヘカベを指す〕から生まれたもの、他の息子たちは、いずれもみな館の中で、他の女どもがもうけたものです。その大方は、意気ごみもすさまじい軍神(アレス)が、膝をくずおれさせました。なかでもとりわけて大切な息子、その身一つで都を防ぎ護ってくれたヘクトルを、あなたは、つい先頃、お討ちなさった。その子のために、いま私は、アカイア軍の船陣を訪ねてまいったのです、お手もとから贖い戻したいと存じ、たくさんな身の代物を運んで来まして。
それゆえ何とぞ神々をお畏《かしこ》みあり、アキレウスよ、また父上のことを心に思って、この身に不憫《ふびん》をおかけのほどを。私こそ、ひとしお憐れな者ですから。まったくこの世に生まれた人が、まだけして、したこともない我慢さえいたしたもの、息子を討ったその武士の、口もとにまで手をさしのべて」
こういって、アキレウスに、自分の父のことを思って、哭き嘆きたい心を起こした。そこでこちらも、老人の手にさわって、そっと向うに押しやったが、そのまま二人は、てんでの思いにしずんだ。――一方は武士を殺すヘクトルをしのんで、アキレウスの足もとに、うずくまったまましきりに哭けば、アキレウスも自分の父を、あるときはまたパトロクロスを、思い起こして嘆きつづけるのに、その哭き声が家じゅうに湧いて上がった。
さて勇ましいアキレウスは、思う存分に泣きあかして、≪腹の底からも、手足の節々からも、悲嘆のこころがぬけて落ちると≫すぐさま椅子から起き上がって、老王の手をとって立ち上がらせ、白くなった彼の頭髪《かみのけ》や、同様にまっ白なひげに憐れを覚えて、王に向かって声をあげ、翼をもった言葉をかけていうよう、
「ああ、気の毒なかただ、まったくひどい不幸をどっさりと心に耐え忍んできたものだな、よくまあ一人で、思い切って、アカイア軍の船陣にまでやっておいでだった。そのうえに大勢の、しかも立派な息子たちを殺してはいだその男の、眼の前に現われるとは、あなたの心臓は鋼鉄《はがね》づくりなのであろうか。ともかくも、さあこの椅子にお坐りなさい。苦悩はまずしばらくのあいだ、たとえどれほどきびしかろうとも、胸のうちに伏せておくことにしよう。身をこおらせる哭き哀しみも、結局は何の役にも立たないのだから。つまりは、このように神々が、みじめたらしい人間どもへと、運命の糸を紡いでおかれたのだからな、胸を苦しめ悩みつつ生きてゆくようにと。しかも神々自身は、何の苦労も持ちはしないのだ。
いうところでは、ゼウスの宮の広敷《ひろしき》には二つの瓶《かめ》が置いてあって、それには人間どもに下される遣わし物が容れてある。その一つにはありとあらゆる禍い、いま一つには幸福《さいわい》がだ。そしていかずちを擲《なげう》つゼウスが、この二つをまぜておよこしなさった人間は、時にはいかにも不幸にあおうが、他の時にはまた仕合せな目もみよう。だが、禍いなほうばかりをよこされた者は、他人からあなどりいたぶられるようにときめられたのだ。そういう者は、しじゅうひどい牛の飢えに追いまわされて、とうとい地《つち》の上をさまよい、神々はもちろんのこと、人間からも大事にされずに、うろついて歩く。そんな工合に神々は、ペレウスにも、幸と不幸を遣わされた。彼は生まれた時から、富においても、幸福でも、この世のすべての人間に超えすぐれて、ミュルミドンらを君としておさめ、そのうえにもまた死ぬはずの人間の身でありながら、女神を妻に下されたのだ。
その彼にさえ、神さまは、禍いをつけ加えられた。というのは王位を継ぐはずの血筋の子供が、屋敷じゅうに(他には)誰も生まれてこず、ただ一人生まれた子の私は、まったく早死して、年をとってゆく父親を世話することもできないのだ。このように、故郷を遠く離れたトロイアに引きとめられ、あなたやあなたの息子たちを苦しめて日を過ごすのだから。
またあなたにしても、老人よ、以前には栄えておいでだったと聞いている。上《かみ》はマカルの住居だったというレスボス島から、陸《みち》の奥《く》はプリュギアまで、一方では涯しも知れないヘレスポントスが区切りをつけるすべての土地に、富において、またよい子持ちとして、あなた以上の人間は見られなかったと。ところが、いったん、現在のこの禍い(戦争)を、天上の神々がよこされてからは、もうしじゅう、城市《まち》をとり囲んで、戦争だの、殺戮だののことばかりだ。それでもまず耐え忍んで、やむをえないものと考え、心中にあまり嘆き悲しまないのがいい。こういうわけだから、いまさら勇ましかった息子(ヘクトル)のために痛心されても、何の役に立とう、また生き返らせもできないうちに、他の禍いが、振りかかろうやもわかるまい」
それに答えて今度は、神とも見えよう老王のプリアモスが、いうようには、
「どうか私に腰かけさせようとは、してくださるな、ゼウスの庇護をお受けの(アキレウスどの)、ヘクトルがまだ陣屋の中にほうっておかれている間は。それよりも、できるだけ早く、この眼でじきじき見られるように、返してくださり、あなたにしても≪持って来たたくさんな≫身の代の品々を受け取ってはくださいませんか、≪それであなたは、その品々をお受けなさって、故郷へとお帰りなされましょう、私をいったんお赦しのうえは、私自身生きながらえて、太陽の光を仰げるように≫」
それを上目づかいに睨みつけて、足の速いアキレウスがいうよう、
「いまさらもう私を怒らせないようにしろ、老人よ、こちらのほうで、ヘクトルを返してやろうと考えているのだから。それもゼウスのお手もとから、お使いの役に、私の産みの母親、あの海の年寄り(ネレウス)の娘(テティス)がやって来たのだ。またあなたについても、プリアモスよ、十分にわきまえているのだ、はっきりと私にもわかっている、どの神さまかが、アカイア軍の速い船のところまで、案内して来られたのだと。いかにも死ぬはずの人間の身で、まさかにこの陣中まで大胆に来る者はありますまい、どんなに血気の男だって。ことに見張りの者の眼を逃れようはずもなし、容易なことで私らの軍勢の陣屋の扉の閂は開けられないはずだ。それゆえ、現在これ以上に、苦しんでいる私の胸を、揺すぶり立てはしないほうがよい。万一にも、老人よ、陣屋の中で、祈願者として来た、あなたをまで、私が手にかけて、ゼウスの神命《みこと》にそむいてはならないから」
こういうと、老王も恐れをなして、その言葉にきき従った。さてぺレウスの子は、陣屋の外へ、牡獅子のように飛び出していったが、一人ではなく、いっしょにつき従っていったお供の二人は、介添え役のアウトメドンの殿とアルキモスとで、両人ともアキレウスが家来のなかでは、死んでしまったパトロクロスのつぎに、重んじていた人たちだった。それから皆で、軛の下から、馬どもや騾馬どもやを解き放したうえ、老王に従ってきた、呼び手の伝令使を屋内へ連れこんで、椅子に腰をおろさせる一方、しっかりした輪の箍《たが》をつけた荷車から、ヘクトルの屍の身代りであるたくさんな賠償の品々を、おろしにかかった。しかし二枚の布と、きれいに縫い上げた胴着とだけを車の上に残したのは、それで屍をしっかり包んで引き渡し、持って帰らせる考えだったわけである。
それから侍女たちを呼び出して、プリアモスの目に触れないように、隠れたところへ持っていって、屍を浄《きよ》め膏油《あぶら》を塗っておくように命令した。それは万一にも、彼が息子の姿を見て心を痛め憤りをおさえ切れなくなってはまずく、またアキレウスのほうでも、(その様子に)胸を掻き乱されて老人を殺害でもし、ゼウスの神命にそむいては大変だからであった。さてヘクトルを、侍女たちが洗い浄めて、膏油を塗り終えると、その身にすっかりきれいな衣《きぬ》と胴着とを被せて包み、アキレウス自身が手を貸し、抱き上げて臥床に寝かせた。それを介添え役たちが担ぎ上げて、よく磨き上げた荷車へ載せこむと、アキレウスはそのとき高くうめき声をたて、愛する友の名前を呼んで、
「けして私を恨みに思ってくれるな、パトロクロスよ、いかにも冥王の府にきみがいて、雄々しいヘクトルを、愛する父に私が返してやったと聞いたにしても。それにはけして恥辱とならぬだけの身の代を取ってのうえなのだから。それを今度はきみへと、また私が、十分にふさわしいだけ分けようから」
こういうと、陣屋の中へ、勇ましいアキレウスは帰っていった。そして、以前にそこから立ち上がった、もとの寝椅子、立派な技巧《たくみ》をこらしたのへまた腰を下ろし、向かいの壁の下にいるプリアモスへ言葉をかけて、
「さあ、もうご子息はちゃんとお返ししてあります、老人よ、お望みどおりに。いまは臥床に臥かしてありますから、朝の光が射しはじめたら、あなたがたご自身で、連れておいでのとき、見られましょう。
それでいまはまず夕餉《ゆうげ》をとるとしましょう。あの美しい頭髪《かみのけ》のニオベ〔ふつうタンタロスの娘とされ、オリコメノス(またはテバイ)の王アンピオンに嫁ぎ、多くの子を持ったが、子の多いのを誇り、アポロンとアルテミスの二神しか子を持たないレトをそしった〕だって、十二人の子供たちを、屋敷の中でなくしたという、その際にも食事は、忘れなかった。その中の六人は娘で、六人はまた若い盛りの息子だった。その息子らをアポロン神が、銀弓からの矢で殺された、ニオベにたいし立腹されてだ。また娘のほうは、矢をそそがれるアルテミス女神が(お殺しだった)、というわけは、美しい頬のレト女神に(ニオベが)自分をくらべたせいで、つまり女神は二人の子だけしか持たれないのに、自分は大勢子供を産んだ、と自慢したためだった。それで(レトの子である)二柱の神が、ただ二人で、皆を殺してしまわれたのです。
その子供らは、九日のあいだ、殺されたままほうっておかれ、誰一人として葬る者もいなかったので、その里人を、クロノスの子(ゼウス神)が、石にしました。そこで子供らを、十日目になって、天上においでの神々が葬られたそうだが、そのニオベさえ、涙を流してくたびれきっては、食事のことを思ったものです。≪いまではそれが、人里離れた山中の巌の中に、つまりシピュロス山に、アケロイオスの河畔を逍遥するニンフたちの臥処《ふしど》があるという、その場所に石と化してまで、神々のおくられた苦難をかこつという話です≫
それゆえ、さあ、私たちも、尊い老人よ、食事のことに心を向けましょう。それから今度は、愛する息子を哭き嘆くのがいいでしょう、イリオスへ連れていったうえで。いかにも思う存分に涙をおこぼしなされようが」
こういうなり、つと立ち上がって、足の速いアキレウスが、まっ白な羊の咽喉《のど》を切り剖《さ》くと、従者たちはその皮をはぎ、きまりどおりにちゃんとこしらえあげてから、手際よくこまかに肉を切りちぎって、串のまわりに刺し貫き、念入りによくあぶりあげてから、全部を火から取り下ろした。その間に、アウトメドンが、麺麭《パン》のたぐいを、美しい籠に入れて、食卓へそれぞれ分けて出すと、アキレウスは肉を切って皆に分けた。それから一同、眼の前によく調理して出された馳走へと手を差し出して(食事をした)。
このようにして、やがて飲むものにも食べるものにも十分に飽きたりると、ダルダノスの裔《すえ》であるプリアモスは、つくづくとアキレウスを見て、その体つきといい、様子といい、いかにも神さながらであるのに感嘆した。また他方ではアキレウスも、ダルダノスの裔プリアモスの、気高い姿を見るにつけて、またその言葉を聞くにつけ、(その尊さに)感心したのであった。このようにして、相たがいに、思う存分見交わしてから、まず先に神とも見えよう老王のプリアモスが話し出すようには、
「では早々にも、ゼウスの庇護を受けられるあなたが、私を床につかせてください、さっそくにも休息を取って、たのしい眠りを味わえますように。というのも、あなたの手にかかって、私の息子が生命《いのち》をなくしましてからというもの、まだ一度も、この眼が眉の下にあって、閉じられた夜はなかったばかりか、しじゅう泣き明かしてすごし、数知れぬわずらいに思い悩んでは、中庭囲いの泥土《どろつち》に身を転ばせていたのです、それがいまやっと食事もとり、きらきらした酒も咽喉を通したもので。まったくこれまでは、何一つ食べていませんでした」
こういうと、アキレウスは従臣たちや侍女に命じて、二人の客の臥床を、柱廊下に用意させた。まず中にはみごとな蒲団の、紫色のを入れこんで、上にはずっと掛け布を敷かせ、やわらかい毛の上掛けを覆いかけるように支度を命ずると、侍女たちは松明《たいまつ》を手に捧げ持って、広間から出かけてゆき、またたく間に、せっせと働いて、二つの臥床をつくり終えた。そのとき、(プリアモス)に向かって言葉も鋭く、足の速いアキレウスがいうようには、
「ではこの部屋の外でお寝《やす》みなさるがいい、老人よ、もしひょっとしてアカイア方の参謀格の誰かでも、ここへはいって来るといけないから。その連中は、きまったことではあるが、しょっちゅう来ては、(私と)相談をするならわしなのだ。もしその一人が、このまっくらな夜中にでも、あなたを見つけたら、すぐさま兵士たちの統率者であるアガメムノンに知らせるだろう。そしたらあるいは、屍を引き渡すのに、何かの遅滞が起こらないとも限るまいから。ところで、さあ、このことを私に、はっきりいって聞かせてくれ、何日ほど、勇ましいヘクトルの葬式をとりおこなうには、かけるおつもりか。そのあいだは、私自身も差しひかえようし、兵士たちも引き止めておこうから」
それに向かって、今度は神とも見えよう老王の、プリアモスが答えていうよう、
「もし本当に、勇ましいヘクトルの葬儀を無事にすまさせてくださるお考えなら、こうでもしてくださいましたら、アキレウスよ、どれほど感謝いたしましょうか。ご存じのように、私らは城塞《とりで》の中に閉じこめられておりますが、薪は遠くの山の中から取ってくるものゆえ、トロイアの人々は、大変にそれを怖がっているのです。それゆえ九日の間、亡骸《なきがら》を屋敷の中で哀悼しつづけ、十日目に土へ埋葬し、また町の人々を饗応《もてなし》に招待してから、十一日目にその埋めた上に墳《つか》を築《つ》いて盛り上げましょう。それから十二日目に、どうしてもやむをえなければ、戦端をまた開くといたしましょうか」
それに向かって今度は、足の速く、勇敢なアキレウスがいうよう、
「では、そうさせましょう、プリアモス老人よ、おっしゃるとおりに。つまりお申し入れのその日数だけ、その間は、戦争を差し止めさせておくとしましょう」
このように言葉をかけて、老人がけして心中に恐れを抱かないようにと、右の掌《て》の、手首をしっかり握りしめた。それから両人は、そのままに、屋敷の前広間に、身を横たえて寝《やす》んだ、伝令使とプリアモスと、二人とも、抜け目のない思慮を胸にもつ者どもである。またアキレウスは、しっかりと造られた陣屋の奥に眠っていたが、そのかたわらには、美しい頬をしたブリセイスが添い臥しをした。
それで他の神々たちも、馬の尾の房《ふさ》をつけた兜を被る武士たちも、やすらかな眠りにすっかり打ち負かされたが、たいそうなお助け神のヘルメスだけは眠りに取り憑かれずに、心のうちで、あれこれと思案しつづけた、どうしたらばプリアモス王を、船陣から、聖い門の番人たちにも見つからないで、逃げ帰らせようかと。そこで、彼の枕辺に立ち添って、彼に向かって言葉をかけていうようには、
「老人よ、あなたはちっとも禍いなどは気にかけないのか、敵の者どものあいだで、このように寝ておいでとは、いくらアキレウスが許してくれたから、といっても。いまのところは、たくさんなものを遣られたので、愛する息子の屍も贖《あがな》い戻すことができたが、もしもあなたが生捕りになったとしたら、その買い戻しには、三倍ほども、あとに遺っている息子たちが、身の代に支払わねばならないだろう、もしアトレウスの子のアガメムノンや、アカイア方の人々みんなに、気づかれた場合には」
こういわれて、老王はにわかに恐怖を覚えて、伝令使を揺り起こした。それから二人のために、ヘルメスは馬や騾馬どもを軛につなぎ、早々に、自分でその車を駆って、アカイア軍の陣中を走らせたが、誰一人として、それに気がつく者はなかった。しかしとうとう、不死であるゼウス神の子息である、美しい流れの河のほとり、渦を巻くクサントス河の渡しへ着くと、そのときにヘルメスは、そびえ立つオリュンポスの山をさして別れてゆき、サフラン色の衣を着けた朝明けがいま、地上にくまなく光を投げかけるのに、二人は都をさして、悲嘆の声やうめきやをあげながら、馬どもを走らせ、また騾馬どもは屍を運んでいった。だが、誰一人として、城市《まち》の男たちにも、美しい帯を締めた女たちにも、気がつく者はいなかった。
それを最初に眼に見てとったのは、カサンドレであった。黄金のアプロディテ女神とも似通った乙女であるのに、城山(ペルガモン)の上に登っていたので、愛する父が戦車の台座に立っているのを、町へお布令《ふれ》を伝える伝令使の男もろとも気が付いた。もちろん、騾馬のひく車の中で、寝棺にはいった人もいっしょにである。それで、かくと見るより、もうわっと哭き出して、町じゅうへと叫びかけた。
「ごらんなさい、出て来て、トロイアの男たちも、女の人たちも、ヘクトルを。もし一度でも、あのかたが戦争から生き還って来たのを見て、よろこんだことがあるなら。都にしても、国じゅうの者にとっても、大変なよろこびでしたものを」
こういうと、もう誰一人として、町の中に、そのまま家に引っこんでいる男も女もいなかった、誰彼の差別なしに、みなおさえきれない悲しみに襲われたからである。そして城門のかたわらに出かけて、屍をひいて来る王を出迎えたが、その先頭には、(ヘクトルの)愛しい妻と、母親の王妃とが、造りのよい車輪をつけた荷車へ駆け寄るなり、その人の頭に手をかけて、髪をむしって泣き悲しんだ。それを囲んで立っていた群集もまた、泣き叫んで、あるいはまったく、まる一日じゅう、太陽が西へ没《い》るまで、こうやって、城門の前で、涙を流してヘクトルを、悼み嘆きつづけたかも知れなかった、もし戦車の台座から、老王が、人々に向かって、こう呼びかけなかったら。
「さあどいてくれ、騾馬の車が通れるように。いずれはあとで、思う存分泣けるだろうから。屋敷へ連れ帰ったうえで」
こういうと、人々は、道を開けて、荷車を通してやった。それで二人は、名高い(プリアモスの)王宮の中へ車をひき入れると、ヘクトルの屍を、立派な彫りのある臥床の上に横たえて、挽歌をうたう歌唱者をそばに坐らせた。こうして、彼らが哀悼の歌をうたうと、そのあとについて、女たちが悲しみの叫びをあげた。その人々の哀号の先頭に立って白い腕のアンドロマケが、武士たちを殺す(といわれた)ヘクトルの、頭《かしら》を腕にささえながら、泣いてかこつようには、
「私の夫よ、あなたはまだお若いのに、もうこの世をお去りになって、私を寡婦《やもめ》として屋敷の中にお残しとは。子供さえまだほんの嬰児《みどりご》、産みの親のあなたも私も、こう不運な身の上では、この子とても大人にまでは、とうていなれますまい。その前にこの城市《まち》が、根本《ねもと》からすっかり壊しつくされましょう。まったくその護り手であるあなたが、おなくなりですもの。これまで都を護りとおして、甲斐甲斐しい妻たちや、ほんの幼い子供らをささえておいででしたのに。
女たちとて、やがては間もなく、うつろに刳《く》った船に載せられまして、運ばれてゆくことになりましょう、私もいっしょにですわ。それから坊や、おまえも、私自身について来て、その土地で、いやしい仕事をさせられましょう、情け容赦もない主人のために、苦労を重ねながら。それとも誰か、アカイアの武士が、おまえの手をつかまえて、櫓の上から投げ落とすかも知れない、きっと自分の兄弟とか、父親か、それとも息子なりを、ヘクトルに殺されたので、それを恨んで。まったくずいぶんと大勢のアカイアの人々が、ヘクトルの手にかかって、涯《はて》も知らない大地を、歯に咬みしめたことですから。けしておまえの父上は、むごたらしい斬り合いの場で、やさしいかたではなかったのです。それだけ町じゅうの人々が悼んで泣いてくれるのですし、いいようもない泣きの涙を、ご両親さまにもお流させすることか。
ヘクトルさま、でもいちばんに、ひどい苦悩は、私のものです。といいますのも、おかくれのおり、臥床から、手をさしのべてくださりもせず、かけがえのない大事な言葉を聞かせてもくださらなかった。それさえあったら、夜も昼も、いついつまでも思い出しては涙にくれもできましたでしょうに」
こういって泣き叫べば、女たちは、そのあとにつき、哀悼のわめきをあげた。つづいて今度はヘカベが、女たちへのはげしい嘆きの音頭を取って、
「ヘクトル、すべての息子たちの中でも、私の心にいちばん大事な、そのおまえは、生きてくれた間でも、神さまがたからお慈しみを受けてはいたが、こうして死んだ身の上にまで、お気遣いをしてくださるとは。いかにも私の息子たちは、他にも何人も、足の速いアキレウスに捕まえられて、売られもしました、うらわびしい海のかなたの、サモス島や、インブロスや、火山の煙がたちこめるレムノス島などへ。しかし、あなたの生命《いのち》を、研ぎすました青銅の刃で奪い取ってからは、ずいぶん何度も、あなたが殺した親友の、パトロクロスの墳《つか》のまわりを、引きずりまわしたということ、それでも彼を、生き返らせはできなかったのね。ところが見れば、みずみずしいほどの様子、声をかけたら(返事をしそうな)、この屋敷の中に臥ておいでのところは、まるで銀の弓をもつアポロンさまが、ご自身やさしい矢を射かけて、お殺しなさった者みたいなようです」
こういって、泣き叫んでは、おさえきれない哀号の叫びをそそり立てるのだった。そのつぎには、三人目に、ヘレネが、女たちへの悲嘆の叫びの音頭をとって、
「ヘクトルさま、私の心にしては、義理の兄弟じゅうでも、とりわけて大事なおかた、いかにも私の夫は、神とも見えましょうアレクサンドロス(パリス)でございます、その人が、私をこのトロイアへ連れてまいったものながら、それ以前に、死ねたらほんとにようございました。それもいまではもうはや、これで二十年のむかしになります、故郷を捨て、あちらをたって来ましてから。その間にもけしてあなたさまからは、一度もひどい言葉や意地悪なおおせなど、うかがったことがないばかりか、もし誰にせよ、屋敷の中で、他のかたが、義理の兄弟にしろ、小姑《こじゅうと》にしろ、または立派な衣《きぬ》をお召しになった兄弟の嫁にしろ、または義理のあるお姑《かあ》さまなどが――お舅《しゅうと》さまは、父上同様に、いつもやさしいかたですけれど――もし私をおとがめにでもなったときは、きっとあなたが、日頃のやさしいお心持ちやら、ものやわらかなお言葉やらで、なだめすかしては、取りつくろってくださいました。それだけに、もう辛い心で、あなたさまのことを、また運命《さだめ》つたない私の身を、嘆くのです。もうほかには誰も、この広いトロイアじゅうに、やさしい方も親しい人もひとりもいないで、皆が皆、私を憎み嫌うのですから」
こういって嘆くのに、数知れぬほどの町の人たちも、つづいて呻吟した。それについで、老王プリアモスは、一同に向かって言葉をかけ、
「ではこれから、トロイアの人々よ、薪を城市へと運んできてくれ。だがけして、アルゴス勢が、隙間もなしに待ち伏せしていよう、などと心配することはいらない。アキレウスが、黒く塗った船陣から、私を送り出したときに、こう約束してくれたのだから。十二日目の朝になるまで、それまでは、いっさい手出しをして悩ますことはせぬ、と」
こういえば、一同みな車に、牛や騾馬どもを軛へつかせて、それからすぐと、城市の前へ寄り集まった。こうして、十日の間、みんなでもって、たくさんな薪を運んで来たが、いよいよ十日目の、世の人々に光明をもたらす暁が現われ出たとき、まさしくそのとき、人々は勇敢だったヘクトルを、涙ながらに野辺送りして、積み上げた薪の、いちばん上に屍を置き、火をそれへ投じた。それから(つぎの朝)まだきに生まれて、薔薇《ばら》の指をさす暁が、立ち現われたとき、そのおりからに、音に聞こえたヘクトルの、火葬場のまわりに、兵士たちは寄り集まった。
それで人々が群がって集まり、一ところに集合したとき、まず最初に、まだ燃えていた焔を、きらめく酒で消し止めた。すっかりと、火の勢いのおよんだ限りに酒をそそいで。それから今度は、白くなった骨を、兄弟たちや、仲のよかった僚友《とも》たちが、すすり泣きして、拾い集めていった。両頬からは、大粒な涙をいっぱいこぼしながら、それで、その骨などは、取り集めて、黄金の筐《はこ》に収められ、手ざわりのよい紫色の衣を、すっかり蔽いかぶせた。それからすぐに、ひろくうつろに掘りあげた穴に沈めて、その上から、隙間なくいっぱいに、大きな石を敷きつめたうえ、見る見るうちに土を盛り上げ、墳《つか》を築《つ》いた。まわりの四方には見張り番を置いて、脛当てをよろしく着けたアカイア勢が、(万事がとどこおりなく)すむ前に、押しかけてこないようにと(見張らせておいて)。
さてこのように奥津城《おくつき》を築きあげてしまうと、人々は城内へ帰っていったが、そのうえで、みな寄り集まり、ゼウスの擁護にあずかる国主、プリアモス王の屋敷でもって、とりわけて立派な馳走にあずかり、心ゆくまでの饗応《もてなし》を受けた。このようにして、人々は、馬を馴らすへクトルの葬式を執りおこなっていったのだった。(完)
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解説
一 上代ギリシア口誦詩について
『イリアス』と『オデュッセイア』との二大叙事詩編は、最古の西洋文学なるのみならず、全世界に現代完全に伝わる文学作品としても、たんに最古というだけでなく、スケールの雄大さや叙述の巧み、構想の多趣多様、人生観照の深さ等々においても、他に比類を見ないといえよう。しかし現代とはいろんな点で様相をまったく異にする古代の、しかもギリシアという特異な地域のことであるから、これを読むにも理解するにも、若干の予備知識がなくてはならない。
その第一はこれが近世の文学作品のように、一個人の作者の創造によるのではなく、幾世代となく語り伝えられた、いわゆる口誦詩を、ここに仮りにホメロスと呼ばれるところの優れた吟遊詩人《ラプソードス》が、まとめあげ、完成したということである。
口誦詩 oral poetry とは、要するに書かれたテクストを有せず、もしくは書いたテクストに頼らないで、もっぱら、あるいは主として、口伝によって伝承され生命を維持してゆく文学(詩)をいうので、日本にも古くから現代まで、これに属すると考えてよいものが認められる。たとえば古い時代では『古事記』とか諸地方の『風土記』のうちに、また『日本書紀』の中核をなしたと推定される史伝などに、また『万葉集』中の古い歌や『のりと』『さいばら』などにもこの類《たぐい》が見られよう。
中世では『平家物語』や、同一項に属する『源平|盛衰《じょうすい》記』、あるいは『太平記』などがこのカテゴリーに入ろう。近代としては、記述されたテクストが時には併存しても、講談とか落語、琴歌(盲人の間ではたしかに)、浪花節の類にこの趣が多く見出される。また本土以外でも、アイヌ族の『ユーカラ』、琉球の『おもろ草紙』はともにその一種と考えられるし、ユーゴスラビアをはじめ西アジアから中央アジアにかけての南部草原地帯に居住する種々な遊牧民族などに、もっぱらこの伝承法、その手法による英雄歌謡の存在が、ミルマン・ペリーらの研究でも確認されている。
古代ギリシアでも、すでに有史前をはるかなミュケーネ文化の盛時に、おそらくもうこの類の英雄歌謡や祭儀歌が存したという可能性は、相当強く推定される。同年代にもうエジプトでは、神話、宗教詩、讃歌などが実際に存在していた。ギリシアではオリュンポスの神々への信仰が、そのあるものについてはいわゆるミュケーネ文書(B型線文字による)中に認められる(ことにピュロス文書に、また全体的には成立時期がも少し下がるが)。またこれら文書中には、ホメロスらの英雄詩がもつ格律の基礎となるべき律動を有するものが見られると主張する学者もある。また『イリアス』の成立は、ほぼ前八世紀前葉と多くの学者によって推定されるが、その用語や叙述の中には、同年代のイオニアあるいはギリシア本土の風俗や状況、言語などよりずっと古い、すなわちミュケーネ期、または亜ミュケーネ期に属するものが明らかに識別される場合がよくある。つまりずっと古い時代の歌謡を含む、というわけだが、これについてはまた後段でも触れるであろう。
口誦詩はその性質上テクストがかならずしも固定せず、はなはだしくは口誦の都度《つど》に、それほどでなくても演者の好みや創案、場合によっては聴衆の求めに応じて、少しずつ変改が加えられもし、一般に流動的といわれる。ホメロスのテクストに異動が多いのも、一つにはこれに基づくが、その成立自体についても種々な説が提出される理由でもある。つまりこの主張による一通りの歌謡ができあがってからも、あるいはできあがるのに、いろいろな操作を経て、あるいは拡大され、変改を加えられ、追加などされ、首尾一貫した叙事詩編にまとめ上げられた、それがすなわち現存する『イリアス』というわけである。
二 題材について
それならばその主題とするところは何であるか。これは英雄歌謡と呼ばれるように、上代ギリシア伝説に現われる英雄の物語ながら、ホメロスがこの両詩編で扱ったのは、いずれもその中のトロイア戦役(紀元前千二百年頃)に関する挿話を主とし、いわゆる「トロイア詩圏《キュクロス》」に属する。トロイアは小アジア西北端の、黒海への入口を扼《やく》するダーダネルス海峡(昔のヘレスポントス)に臨む地方で、普通トロアスと呼ばれる。ここに紀元前二千年代から栄えた城市イリオス(後にイリオン、ローマではイリウム)があり、景勝の地を占める丘上に城壁をめぐらしていた。シュリーマンの発掘でその実在が証明された城市であるが、どういう種族がこの遠征当時この地に占拠していたかは、まだ確認されていない。おそらくはギリシア(アカイオイ)民族とは違って、付近の島嶼《とうしょ》、あるいは近くの小アジア、クレテ島などと同一か、あるいは違うか、またその辺は学者間でもいろいろである。
『イリアス』中に現われるトロイア方の将士の名前も、だいたいギリシア語名だが、若干は非ギリシア系の名もある。風俗などにも異なる点がいろいろ見出される。一方ギリシア人は一般にアカイオイ(アカイア人としておく)と呼ばれ、時には詩中でタナオスの裔《すえ》(タナオイ)とかアルゴス勢(アルゲイオイ)とかいわれるが、これが主としてギリシア民族(多少とも混血があろう)であることは、先に記したミュケーネ、ピュロス、テバイその他彼らの主要城市に出る文書が、ギリシア語の古形によることからも確実視される。もっともこの古語は後代ギリシア文字でなく、上記のB型線文字(linear B)で記されてい、従ってその解読はかならずしも確定的ではないが、相互推論により要項については十分な信憑《しんぴょう》性をもつとされる。
ミュケーネ時代の盛期はほぼ前十四世紀を頂上とし、前後二、三百年の間にわたろう。アカイオイが南下してギリシア半島に入ったのは、前二千年を少し下る頃と推定され、おそらく一度にではなく、相当長い期間にわたったであろう。テッサリアからペロポネソス半島にわたって、先住民族(主として小アジア種族系で、ペラスゴイとかレレゲスとか呼ばれたものがこれにあたろう。文化度は進んでいたので、ギリシア人はことに文化財については彼らに負うところが多かった。また種々な程度の混血がおこなわれたと推定される)を征服し、時にはこれを隷従させ、あるいは駆逐し、あるいはこれと融合した。こうしてギリシアの地形に従って生じた多くの小国家は、おおむね中央に城市をもち、これを統治の根拠としたので、都市国家の形態をなしたが、もちろん古い時代ではこれも確然とはせず、一方では農牧が、一方では防衛や攻撃のための武士の組織が、国家経営の中心をなした。それに加えて古代国家の常として、神々への奉仕と祭祀、占筮《せんぜい》予言を司《つかさど》る神官祭司の一族が大きな勢力を有したらしい。彼らは従って同じく支配階級として領主や豪族らと密接な関係に立っていた。また彼らは多くの最高神やその他有力な神々(その部族の保護神)の子孫と誇称するのを常とした。
中でもいちばん有力な都城はアルゴス地方の、海岸からやや遠いが見晴らしの利く丘地を占めるミュケーネで、前十三世紀前後には宗主権をほとんど全ギリシアに及ぼしたらしい。例のB型線文字が全土に大差なくおこなわれた様子なのも(流布範囲は極めて限られていたと考えられる)、一つにはこうした政治情勢に関連しよう。ミュケーネ文化・時代の名称もそこから出ているわけだが、これも本来はクレテ島のミノア文化によるもので、もとは優勢なその文化的政治経済的な影響下にはじめて発達したに違いなく、芸術的な稟質《りんしつ》ではクレテ島に及ばないところが多い。しかしいったん収得してからはかえってこれを凌駕《りょうが》し、ついには前千四百年頃クレテ島を征服した形跡がある。現にこの時期以後はクレテ島クノッソスの都城内でも、本土と同じくギリシア語(アカイオイ古方言)で文書を記した。つまり王宮の主人がギリシア系に変わったのであった。
ミュケーネ以外では、テバイや由緒《ゆいしょ》の古いオルコメノス、またアテナイ、北はテッサリアのイオルコス、西はカリュドン、ピュロスなどが地方の中心をなし、有力な領主家がそれぞれ占拠していたらしい。後代の系図を見ると、これらの王家は相互に関連していたが、半ばは真実かもしれない。またギリシア神話伝説の主体もこのミュケーネ時代後期から以降、混乱期の二、三百年間にだいたいでき上がったもので、それゆえこれらの都城がその中心をなしている。たとえばミユケーネはアルゴス地方の要《かなめ》をなし、その他に海岸近く、ティリュンス、アルネ、後のアルゴス、いくぶん入ってミデアなどの諸城を控え、北へ進めばシキュオンからコリントスへ出る。これらの町はペルセウスやヘラクレスらの英雄伝に、またエジプトに関連をもつダナオスやイオなどの物語に現われる。一方ヘラクレスはオルコメノス、テバイにも深いつながりをもつが、例のオイディプス関係の説話にはあまりつながりをもたないようである。ギリシア上代の英雄伝を主題とする口誦の民族叙事詩編は、これらの諸地方をめぐって、とりわけトロイア遠征にかかわるものと、テバイ関連の詩歌が大きな部分を占めていた。前者を「トロイア詩圏《キュクロス》」、後者を「テバイ詩圏《キュクロス》」と呼び、ヘラクレス、メレアグロス、メランプスらの英雄《へロス》、アルゴ遠征などの物語詩がこれに加わる。
三 「トロイア詩圏《キュクロス》」の叙事詩群
そのうちギリシア軍のトロイア遠征にまつわる一団は、とりわけ数が多いのと、内容も変化に富み哀切な挿話を多く有することで卓越している。しかしその成立年代は、現在その名が伝えられているものでは、ホメロスの両詩以外は前七世紀以降に属し、彼以前に存在したと見られるものは残っていない。ところが、ホメロスの詩中には、しばしばそれらの存在が既定のこととして述べられてい、オイディプスやヘラクレス、メレアグロスらの英雄伝説もたびたび言及されているので、彼以前にもうそれらの説話が、多数に口誦詩形をもって歌い継がれていたことを推定させる。トロイア詩圏そのものについても同様で、現に『オデュッセイア』の中で、パイエケス族の宴会の折に「木馬の段」の吟誦が叙べられ、またオデュッセウスの館での求婚者らの遊宴には、伶人《れいじん》ペミオスが遠征軍の大将たちの「帰国《ノストイ》の段」を歌ったとされ、つまり遠征の一部始終が、いくつもの段にわけて、もうこの時代に吟遊詩人によって歌われていたことが知られる。
もっともここに現われる吟誦者《アオイドス》は、竪琴を掻き鳴らして歌い上げるので、実際のホメロス以下の時代の習俗だった吟誦者の、長い杖を取り、ただ声を上げ朗誦するとは著しく違っていたらしいのがわかる。おそらく豪奢なミュケーネ王朝の饗宴に、ととのった設備の下での歌い手と、乱世の後ようやくととのいかけまだ十分なゆとりももたぬ世の吟誦者とには、種々な相違もあったであろう。ただ音楽に欠けたところを、後代の吟遊詩人《ラブソドス》は、詩術の巧みや緩急自在の律動、また勇壮に、あるいは悲痛のまたは鮮麗な描写や叙述の美をもって、十二分に補いえたであろう。
さて後代でこの「トロイア詩圏《キュクロス》」に含まれるとされた叙事詩篇には次の数編が数えられる。
1 『キュプリア』Kypria(十一巻)発端から『イリアス』の事件まで。
2 『イリアス』Ilias(二十四巻)
3 『アイティオピス』Aithiokis(五巻)さらにアマゾンの女王ペンテシレイアやエチオピアの黒人王メムノンの出陣からアキレウスに討たれること、ついで彼自身もパリスの矢に倒れ、その武具をオデュッセウスとアイアスが争うことなど。
4 『小イリアス』Ilias Mikra(四巻)その後陥落に至るまでの種々な事件で、アイアスの発狂、ピロクテテスの召喚、アキレウスの子ネオプトレモスの来会、オデュッセウスらがアテネ女神像パラディオンを盗んで来ること、木馬の計などを含む。
5 『イリオスの落城』Iliou Persis(二巻)木馬の製造から城内への引き入れ、神官ラオコーンのこと、夜中襲撃と落城、殺戮《さつりく》、トロイアの滅亡。
6 『ノストイ(帰国の諸物語)』Nostoi(五巻)ギリシア方諸大将の帰国の次第、あるいは死にまた殺され、難船し、無事帰国したのはネストル、ディオメデス、イドメネウスらだけ。
7 『オデュッセイア』Odysseia(二十四巻)
8 『テレゴノス物語』Telegoneia(二巻)オデュッセウスがキルケとの間に設けた息子が、生長して父を訪ね、誤ってこれを殺害する。
これらの大部分はホメロス以後の作で、内容も穴埋め的なのが多く、詩としても大分に落ちる。現在は梗概とごく小断片が伝わるだけだが、おそらくホメロス以前の伝統、形態とはそれほどかかわりがなかったろうと想像される。従って彼以前の英雄歌謡の実際については、この両詩から、その内容から、推察するほか途がない、といってよかろう。
四 『イリアス』について
その荒筋については、本詩各巻頭に掲げたもので十分であろう。ただトロイア遠征の由来その他、『イリアス』発端までの経緯、つまり『キュプリア』の内容を、予備知識としてごく簡単に述べておこう。もちろんこれは史実に遠い、神話的な伝説で、しかも相当若い時代の作りごとには違いないが、一般にはこう思いなされていた。まず『イリアス』はアキレウスの憤怒《メーニス》の物語と呼ばれるように、アカイア軍中第一の勇士と歌われる彼と、全軍の総帥たるミュケーネ王アガメムノンとの抗論に発するが、元来の原因は、アキレウスの父ペレウスと海の女神テティスとの婚礼、その祝宴にオリュンポスなる神々があげて列席したときに起こった。
もともとゼウスはテティスに気があったのを、予言によってテティスの子は必ず父を凌《しの》ぐ大豪の者であろうというのに恐れ、人間であるペレウスに嫁《とつ》がせたのであった。それがこの宴会にひとり、争いの女神エリスだけは招待されなかったもので、これを恨んだ女神は、ヘスペリデスの黄金の林檎《りんご》に、「女神のうちもっとも美しい方に」と刻んで、宴会場に投げ入れた。そこでゼウスの妃であるヘラと、気の強いアテネと、愛と美の女神アプロディテとの間にいさかいが起こり、閉口したゼウス大神は判定をトロイアの王子パリスに委ねた。パリスはプリアモス王の息子だが、生まれたとき予言に将来必ず国に大きな災禍をもたらそう、とあったので、イデ山中に棄てられた。それを牧人に拾われて育ち、丘|間《あい》で羊を牧《か》っていたところを、今ゼウスからこの禍いな任務を授けられたのであった。
三女神はそれぞれ得意な賄賂を約束、パリスを籠絡《ろうらく》して自分に勝ちを宣言させようとした。ところが若気の至りで、パリスは世界一の美女というアプロディテに林檎を与え、その手引きでギリシアに渡り、スパルタの王妃へレネを誘惑してトロイアヘ連れ帰る。そこで夫のメネラオスは大いに憤って返還を迫ったが拒絶され、兄のミュケーネ王アガメムノンを総帥とし、ギリシア中の勇士を募って千艘の船隊に十万の兵を乗せ、ボイオティア州アウリスの浜を出発して、トロイアヘと押しかけた。そこの浜辺に船をあげて陣を設け、イリオスの城へと攻めかかったが、こちらも近隣の国々から援軍を募って手強《てごわ》く防戦する。すでに九年を経たがまだ落城しないので、さすがのアカイア勢も攻めあぐみ、近在の町村を劫掠して廻り、いまその戦利品を将卒のあいだで分配した。そこには無理も非道も伴なったであろうし、対立や強者の横暴やも免れなかったろう。総帥アガメムノンと、これを抑えようとする若々しい勇士アキレウスの正義感が衝突する、そこにこの悲劇の発端がおかれた。アキレウスの退陣とギリシア方の敗色と(それにもかかわらず武勇談がつづくのは、聴衆の要求に応ぜざるを得ない歌い手の弱味であろう)、彼の再出陣と。最後が敵将ヘクトルの死と、その屍の返還で終わるのは、あるいは原詩(ホメロス以前の)の末尾ではなかったかも知れない。本来はアキレウスの死(編中にたびたび予告されている)に終わったろうと推定されるが、それを含みに残して、怨敵《おんてき》との宥和《ゆうわ》に、人間の世の哀《かな》しさに終わらせたのは、いかにも詩人中の詩人ホメロスにふさわしい、とも考えられる。
五 ホメロス問題の諸相
この両詩の成立についての諸問題、制作年代(むしろ成立時期というべきか)、作者について、あるいは両詩が同一作者の手になるか、また単一な作者をもつか、その言語、詩律、そこに歌われる世界がいかなる時代、いかなる性格を示すかなど、これに関する論争、研究は古来無数というくらい多趣多様である。ことにアレクサンドリア時代(前三世紀)から、両詩を違った作者に帰しようという見解が(Chorizontesと呼ばれる)、かなり有力でもあった。現代でもペイジ教授をはじめこの説を採《と》る学者も多い。それは内容、ことに宗教思想や倫理思想、美意識の相違などと共に、外形の修辞法や詩のリズム、格律、また用語や文法のきわめてデリケートなニュアンスにも及んでいるが、だいたいにおいて両詩の間に、五十年ないしは百年の隔たりがあろうと推定する。前者を紀元前八世紀の前半とすれば、後半または終わりというわけである。そしてへシオドスの主作品をこの両詩の中間におこうとする見解も時に見られる。
従って前者『イリアス』の作者をホメロスとすれば、『オデュッセイア』の作者は同じくおそらくイオニア人でも、多少とも派や出所を異にする詩人であろうと想定する(ペイジ教授)。これは一つには古来あるホメロスの生伝が、ほとんどまったく信憑性に欠けるのに基づくもので、その生地もエーゲ海をめぐる十以上の都邑《とゆう》によって争われている。おそらくはスミュルナあたりの、イオニアとアイオリスとの境界といわれるものの、これも使用するいわゆる叙事詩方言が、イオニア方言の古形にアイオリス的な語形や成句の諸要素を交えるのに出ているもので、この「方言」がすでに彼以前に早く成立していたとすれば(例えばへシオドスの場合のごとく)、根拠とするには不十分である。これらについては私見もあるが、ここでは述べない。ともかく彼がイオニア生まれなこと、その子孫か門弟かが、同海岸のキオス島に残り、これを中心に数世紀間吟遊詩人として活動したことは、諸伝承や史実によって認定されよう。ただ彼が一部伝説のように盲人だったとは信じがたく、これはホメロス風讃歌の一、デロスのアポロンヘの作者が盲人だったこと、また吟遊詩人に盲人が多かった(ホメロスの詩中にも現われるように)ためと思考される。日本でも平家法師や琴の検校など、演者に盲人が多く見られるのは、人の知るごとくである。
六 ホメロスの伝承について
彼(としておく)の両詩が、どのようにして後代に、また現代まで伝わったかは、多くの読者が関心をもつことであろう。まずその制作、あるいは成立は口誦詩として、書かれたテクストの有無は論外といえる。両詩編中に見出されるいろんな矛盾撞着、二様の語り口の併存、テクストの不確定などの問題中には、この口誦詩の本質によるところが多いと考えられる。もっともこのような長編ものが、はたして暗記だけで「正しく」伝えられるか、を疑う学者もないではない。そしてちょうどこの時代、あるいはいま少し古い時代は、古代ギリシアで新しいアルファベット式表音文字成立の時期にあたる。それゆえこの詩人、ホメロスが初めて文字を使って、口誦詩である自作品を「固定化」した、そこではじめて叙事詩の伝承が成文化されたと考えるのが、多くの欧米の学説である(西洋式の考え方)。
しかし本当に彼によってテクストに固定され、そのテクストで朗誦が現実にいくたびとなく繰り返された(祭儀や饗宴のたびに)とするならば、テクスト中の矛盾や重複やはおそらくとり除かれたに違いない。それにまだテクストは判然と確定されたものではなかったろうから、必ず後継者によっても訂正が加えられたであろう。従ってテクストは本格的に書き下ろされたのではなく、文字の使用もまた一般的ではなく、使用された場合でもメモ風な簡単なもので、主体は口誦による伝達だったと考えてよかろう。そして祭儀の朗誦などでは、長い詩の部分が場合に応じ、聴衆の好みに応じ、吟誦されたと見るのが妥当である。
それならばテクストはいつ書写されたか。その最初はいま測り難いが、通説のようにペイシストラトス、またはその子の時代(前六世紀後半)に、アテナイで、ホメロスの吟誦が国家的な祭典にとり入れられ、テクストの検定が要求されたとき、と見るのが、現存するテクスト中のアッティカ方言形の混在とも照応して、適当と考えられる。さもなければ何ゆえに古イオニア方言を主とする地の文章に、アテナイの語形が混ったか、説明が困難である。これはサッポーやピンダロス、またへシオドスなど、方言形による古代詩の伝承に照らしても推測されることである。
それでもアテナイ以外の諸地方には、種々な異伝が残存したに違いない、詩句の異読はきわめて多かったらしい。それらを統一したのは、アレクサンドリアの学者アリスタルコス(前二世紀の中葉)で、彼は諸国からホメロスの多くのテクストを集め、以前の学者たちの説も参考にして、彼の正しいと信ずる校訂本を作った。これが現代まで伝わるホメロスの流布本 Vulgata の原形とされる。その注訳もこれらの学者を主とし、ローマ時代の初めに集成された。これが古注釈 Scholia Veteraである。現存するテクストは東ローマ帝国に伝えたものを、『イリアス』については十世紀末にビザンティンで書写された古写本 Venetus A, 454(ヴェネチアのサン・マルコ寺院書庫所蔵)を最良とし、多数の古写本を校合して作られているが、この中には前三世紀からのパピルス断片(エジプトから多数出土)も含まれる。いま行なわれるのは、多くの学者が協力し、校合作製したので、だいたい無難である。
なおホメロスの詩の特異点を二、三あげると、由来が口誦詩の習いとして、一定のあるいは、ほとんど同様な一種のきまり文句を多くもつこと、わが国の古歌の枕ことばと似たところのある事物についての一定の形容句がいろいろと出来ていることなどがある。前者はたとえば「声をあげ、翼をもった言葉をかけて」とか、二人の決闘者が「互いに進み寄り、すでに間近となったとき」などいうたぐい、後者は「早く生まれて、ばら(色)の指をもつ暁の(女神)」とか、「雲を集め雷を転ずる(とどろかす)」ゼウス神、「黒いいろの、釣り合いのとれた」船、「ぶどう(酒)色の」また「灰白色の海」などで、共に朗誦者の語り易さを増し、聴者に事物や英雄などの明らかなイメジをもたらし、印象を強める働きをもつ。中には元来「聖《とうと》い」とか「神々しい」という意のdios《ディオス》のように、やたらに人や物に使われるため、形容力の低下を来たし、たんに埋め言葉と近くなったものもある。「尊い豚飼い」、つまらぬ弱い「神々しい」武士などもある。
一方ホメロスの使用する言語も、大体は古い形のイオニア方言による古代ギリシア語だが、これもその生成発展史にもとづく種々な要素を含み、ことにあるいは有史前ミュケーネ時代末の歌謡に由来するかも知れないアカイア方言らしい語形や、中間のアイオリス方言の要素、綜合収録時期と関連するらしいアテナイ方言形、後期イオニア方言形なども多少認められる。その多くは叙事詩特有の格律、長短々六脚律への便宜にもとづくことが多いのも当然のことながら、大きな特色をなしている。(訳者)