イリアス(上)
ホメロス作/呉茂一訳
目 次
第一巻〜第十二巻
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主要人物
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アカイア(ギリシア)方
【アガメムノン】ミュケナイ城主。全ギリシア軍の総帥。アトレウス家の当主。
【メネラオス】アガメムノンの弟。スパルテの王で、ヘレネの前夫。
【アキレウス】テッサリア・プティエの領主でアカイア軍第一の勇士。彼とアガメムノンの抗争が本詩の主題をなす。
【パトロクレエス(愛称パトロクロス)】父メノイティオスの代からアキレウスの家に寄寓、いっしょに育ち親友また介添役をつとめる。
【アイアス】大、小の両人あり、大アイアスはサラミスの領主テラモンの子。大柄で豪傑肌の、アキレウスに次ぐ強剛の勇士、アキレウスの従兄弟に当たる。小アイアスはロクリスの小領主でオイレウスの子、小柄だが足が速い。
【オデュッセウス】イタケ島の領主。智謀すぐれた勇将。『オデュッセイア』の主人公。
【ネストル】半島西海岸の都ピュロスの領主、三代にわたる名将として尊敬される。海神ポセイドンの子ネレウスの息子。
【ディオメデス】アルゴス出の青年武将。父テュデウスはアルゴス王アドラストスの婿で、テバイ攻撃七将の一人として聞こえる。ギリシア陣の花形の一人。
トロイア方
【プリアモス】イリオスの城主でゼウスの子というダルダノスの後裔。父はラオメドン。五十人の息子と五十人の娘をもつといわれる。
【ヘカペ】その正妻でプリュギア王デュマスの娘。
【ヘクトル】プリアモスの嫡長子で、トロイア方第一の勇将。「きらめく兜」とか「武士を殺す」とかよばれる。
アンドロマケ】ヘクトルの妻。間に幼児アステュアナクスがある。ミュシアのテバイの領主エエティオンの娘。
【パリス】ヘクトルの弟で、ヘレネを誘拐し、戦因をつくった「パリスの審判」の張本人
【サルペドンとグラウコス】ともに小アジア、リュキエの領主で従兄弟の間柄。シシュポスの孫の英雄ベレロポンの後裔。サルペドンはゼウスの胤とされ、ともにトロイア方の花形。
【アイネイアス】トロイア方の勇将でトロイア王家の分派に属する。父アンキセスがイダ山中で女神アプロディテの愛をうけ、もうけたといわれる。後に亡国の難をのがれ、イタリアに赴き、ローマ建国の祖になったと伝える(ウェルギリウス『アエネイス』の主人公)
【ヘレネ】もとメネラオスの妻。今はトロイアでパリスと結ばれ、微妙な立場にある。父はゼウスとされ、母レダが白鳥の姿のゼウスを愛して生んだ卵から出たという。アガメムノンの妻クリュタイメストレの姉妹で双子神とも同胞である。
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凡例
本訳文中に≪ ≫で示した個所は、学者によってテクストの純正でないと判断された部分、または異読の部分を表わす。また《》の部分は、訳者が通読理解の便に供して付加したものである。
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疫病と憤怒の次第
【アカイオイ(アカイア勢、ギリシア遠征軍のこと。アルゴス勢、ダナオスの裔《すえ》などとも呼ばれる)のトロイア遠征十年目の出来事、本詩の主題であるアキレウスの憤怒の原因を説く。イリオス(トロイア)の城が陥《おちい》らないので攻めあぐんだアカイア勢は近隣を攻略、クリュセの町からそこの神官の娘クリュセイスを捕えて来る。戦利品分配の末、彼女は総将ミュケナイ王アガメムノンの有に帰する。ところが彼女の父はこれを悲しみギリシア方の陣を訪ね、釈放を求めるが、アガメムノンは乱暴に彼を追いかえす。神官は悲憤して社神アポロンに祈り報復を求めると、銀弓神(アポロン)は悪疫をギリシア陣に送り、兵士らはつぎつぎと倒れてその屍《しかばね》を焼く煙が九日もつづく。十日目にこれを憂えたギリシア方第一の勇士アキレウスが、諸将を集会させる。予言者カルカスの解明で原因を知った彼は、みなと共に少女の返還をアガメムノンにもとめる。不満なアガメムノンは代償にアキレウスが獲た少女プリセイスを奪い取った。アキレウスは憤《いきどお》って自陣にこもり出陣を拒否し、母なる海の女神テティスを呼んで、主神ゼウスにアガメムノンへの報復を乞わせる。ゼウスもついに承諾しギリシア方を敗走させ、アガメムノンに思い知らせることを約束する】
憤り(の一部始終)を歌ってくれ、詩の女神よ、ペレウスの子アキレウス〔ギリシア方第一の勇士〕の呪《のろ》わしいその憤りこそ、数知れぬ苦しみをアカイア勢《ぜい》に与え、またたくさんな雄々しい勇士らの魂を冥府《よみじ》へと送ったものである。そして彼らの屍《しかばね》はといえば、野犬だの、猛禽《もうきん》類の餌食《えじき》にされた。いっぽうその間に(大神)ゼウスの意図は成就されていったのだ。いかにもそれは、最初に武士《もののふ》たちの王であるアトレウスの子(遠征軍の総大将アガメムノン)と勇ましいアキレウスとがけんか別れをして以来のことである。
だがいったい、神々のうちのどのかたが、この二人を向かいあわせて闘わせたのか。レトとゼウスとの御子(アポロン)である。そのゆえは、彼がアガメムノンにたいして立腹され、(アカイア軍の)陣中にひどい悪疫を起こしたので、兵士らはどんどん斃《たお》れていった、そのもとは、アトレウスの子(アガメムノン)が、(アポロンの)神官であるクリュセスを侮辱したからである。すなわちはじめにクリュセスは(アカイア軍に捕えられてる)自分の娘を買い戻したいという考えで、おびただしい身代金を持って、アカイア軍の速い船(の引き上げて置いてある陣地)へ来た。手には遠矢を射る御神アポロンの神聖なしるしの毛総《けふさ》を上につけた黄金の杖をたずさえ、並みいるアカイア軍の大将たちみなみなに懇願した、中にもとりわけ、兵士らの統領であるアトレウス家の二人の王に向かってである。(それで、いうようには)
「アトレウス家のかたがた、またその他の、立派な脛《すね》当てをつけたアカイア勢の殿がたよ、願わくはあなたがたに、オリュンポス山上に宮居《みやい》をかまえたもう神々が、プリアモス〔トロイアの王〕の城市を攻め取ることをお許しのよう、そして無事に故郷へと帰り着かせてくださるように。だが、私の娘は、どうか私に返して、代りにこの身代金を受け取ってくだされ。ゼウスの御子なる、遠矢を射たもうアポロンの神威《しんい》を畏《おそ》れて」
(神官が)こういうと、他のアカイア軍の将たちは、みな声をそろえて賛成をし、彼に敬意を表してきらきらしい身代金を受け取れとすすめたが、アトレウスの子アガメムノンだけは、これにたいそう機嫌をそこね、神官に侮辱を加えて追い返し、暴言を吐《は》いていうよう、
「このうえおまえに、この私が、うつろに刳《く》った船〔船は種々な形容辞を有する。これはその一つ〕のかたわらで、出会わんようにするがいい、現在ぐずぐずしていたり、あとでまたやって来たりしてな。そしたらもう、御神の笏杖《しゃくじょう》とて、総《ふさ》とても、身の護《まも》りにはなるまいから。ともかくあの娘を私は返してはやらんぞ、私らが居城に、故郷からは遠いアルゴスの地にいて、機《はた》を動かし織りつづけ、また私の寝床の世話をして日を送りながら、すっかり彼女《あれ》が年をとらないうちはな。だから、さあ、帰れ、私を怒らせるな、なるべく無事に帰りたいなら」
こういうと、老人はこわくなって、王の言葉に従いはしたが、それから、ごうごうと鳴りとどろく海の渚《なぎさ》へ、黙りこくって歩いてゆくと、人気《ひとけ》のないところへいって、その老人は、アポロン神へと、心をこめて祈りつづけた、髪の美しいレトが生んだ神へ、である。
「私の祈りをお聞きください、銀弓の神よ、クリュセの町一帯をお護りのうえ、神聖なキルラやテネドスを稜威《みいつ》も高くお治めになるスミンテウス(アポロン)よ、かつて私が御神へと、神殿の屋根を葺《ふ》いてさしあげ、また本当に、肥えた牡牛や山羊の腿《もも》の供物を、焼いてまつったことがあるなら、この願いをかなえてくださいませ、ダナオイ勢〔ギリシア勢〕が、御神の矢(の威勢)によって私の涙のつぐないをいたしますよう」
こう祈りながらいった、その言葉を、ポイボス・アポロン〔アポロンの異称の一つ〕が聞かれると、心にはげしい怒りをもやして、オリュンポスの峰々から降りて来られた。両肩には弓と、しっかりと蔽いをつけた箙《やなぐい》とをかけまわしていたので、神様が体を揺すって歩みを運ぶと、ひどく怒っておいでの肩のまわりでたくさんな箭《や》が、ひびきを立てた。御神はさながら夜のように歩を進めておいでだった。それから、船陣から離れたところに御座《みくら》を占めると、矢を引き放たれた。銀づくりの弓からは、恐ろしい轟音が湧き起こった。まず最初には騾馬《らば》や、足の速い犬どもを、矢は襲った。それから今度は兵士ら自身へと、さきの鋭い矢弾《やだま》を御神はつぎつぎに放っておあてなされば、(疫癘《えきれい》の矢に斃《たお》れた兵士の)屍を焼く火は引きもきらずに燃えつづけた。
九日のあいだ、このように御神の箭《や》は、陣中をくまなく襲いつづけた、その十日目に、会議の場へと、武士たちをアキレウスが呼び集めた。というのは、彼の心に(そういう考えを)白い腕の女神ヘレ〔ゼウスの姉妹でその妃〕が、起こさせたからである。つまり女神はダナオイ勢がどんどんと斃れてゆくのを見て、気づかわれたのであった。さて人々が集まって来て、一つところに寄り合ったとき、皆の間に足の速いアキレウスが立ち上がって、こういいかけた。
「アトレウス家の王よ、今はもうわれわれとても、撃退されてしまってからは、故国へ引き返して戻るほかないと思う。もしわれわれが死を万一にも免れたにしろ、まったく戦いと悪疫とがいっしょになって、アカイア軍を負かそうとかかるならば。ともかく、さあ、誰か占い者か、神主か、あるいは夢占いをする者なりにたずねてみよう、夢というのは、ゼウス大神のもとから遣《つか》わされるものなのだから。そしたら彼がどうしてこんなにポイボス・アポロンが激怒されたかいってくれよう、もしやわれわれの祈りについてか、または大贄《おおにえ》につき苦情をお持ちなのか。それで、あるいは仔羊や申し分なく育った(犠牲《いけにえ》)の山羊の脂身を焼いた煙を受けたもうて、悪疫をわが軍から追い払ってくださるつもりはお持ちでないかを」
こうアキレウスはいい終えて腰をおろした。すると皆の間にテストルの子、カルカスが立ち上がった、鳥占師《とりうらし》のうちでもとくに第一人者といわれる者で、現在のこと、未来のこと、また以前にあったことにもよく通じていて、アカイア軍の船隊を自分の占い術によってイリオス〔トロイア〕の奥まで導いて来た。その占いの術はポイボス・アポロンが授けたもうたものだった。その人がいま、みなみなのためを思って、会議の座に立ち、説いていうには、
「おお、アキレウスよ、ゼウスに親愛されているあなたが、遠矢を射たもうアポロンのみことがお腹立ちのゆえを語れと命じられるのだから、私はいおうと思う。だが、あなたはよく気をつけて、誓ってください、本当に心をこめて言葉と腕と、両方で、私を防ぎ護ってくれることを。それというのも、これから私はある人物を怒らすことになると思うからだ、その男とは、アルゴス人《びと》ことごとくを、大層な威勢で従え、アカイア軍も服従している人物である。ところで、国の領主《との》というものが、位の低い人間に腹を立てた場合には、いっそうきびしいのが常なのだ。それでその当日は憤りを強《し》いておさえて過ごそうとても、それをはらしてしまうまでは、ずっと後までも恨みを自分の胸に含んでいるのだ。それゆえ、あなたが無事に護ってくれるよう、思案してください」
これに答えて、足の速いアキレウスがいうようには、
「安心してどんどんと、何でも知っているかぎりの、神のお告げをみな言うがいい。ゼウスがおいつくしみのアポロンにかけて、カルカスよ、いつもきみが祈りをささげて、ダナオイ勢に神託を明かし伝えるのだから、けして私が生きている限り、この眼の黒いあいだは、うつろに刳《く》った船のかたわらで、ダナオイ勢全体の誰一人にも、きみにたいして暴力はふるわせまい。たとえそれがアガメムノンだとしてもだ、その人はいま、アカイア軍じゅう、断然人にこえて大きな威権を誇るものではあるが」
すると、その時はじめて元気を出して、この立派な予言者は口を開いた。
「いや、べつに、御神は祈りのこととか、または大贄《おおにえ》につき、とやかく苦情をお持ちなのではない、あの神官のためにである。その人にアガメムノンが恥辱を与え、娘を返してやりもせず、身の代を受け取ってもやらなかった。そのために遠矢を射る御神は、苦難をわれらに与えたのだし、またこれからも与えられよう。それでなおまだ、あのきらきらした眼の乙女《おとめ》を愛《いと》しい父(神官)に返してやらぬうちは、見苦しいあの悪疫を取り除いてはくださるまい、それも無償《ただ》で、身代金も受け取らずに(返してやって、御神には)聖《きよ》い百牛の大贄をクリュセへと持っていかなければ。そうしたらはじめて、われわれも神意をなだめることができよう」
彼はこういい終えると、腰を下ろした。すると皆に向かってアトレウス家の殿(アガメムノン)が立ち上がった。広大な国を治める王だが、不快の面《おもて》に、胸中ことごとく激しい怒りでいっぱいにまっ黒とさせ、両眼は燃《も》え輝く火さながら、まず第一にカルカスへ向け、禍々《まがまが》しい眼でにらみつけていうようには、
「おまえは悪いお告げばかりを知らせる。これまでかつてうれしいことは、何一ついってくれたためしがない。いつでも、おまえは悪い占いばかりをして喜んでいて、善いお告げなどかつて一度もいっても、しても、くれたことがない。今度もおまえは、ダナオイ勢にご神託を伝えるのだとて、遠矢を射る御神がわが軍に苦難をお与えなさるのは、まったく私が乙女のクリュセイスを抑留して、立派な身の代のものを受け取ることを承知してやらなかった、そのためだという、それは私がぜひとも娘を手もとに置きたいと思っているからだが。本当に私としては、定まる妻〔正式に式をあげて結婚した妻〕のクリュタイメストレよりも好きなくらいなのを。彼女《あれ》に比べて背丈でも手足の姿でも、また気だてといい手の技《わざ》といい、ひけをとるところはないのだ。だが、それほどながらも、返してやることにしよう、そのほうがよいというなら。私としては、つわものどもが死ぬことよりは、無事であるのを望むからだが。それならば私のために、すぐさまにも(代りの)褒美のものを用意してもらいたい、私だけが、アルゴス勢のうちでひとり、何も褒美をもらっていないのでは正当といえないからな。私のもらった褒美がよそへいってしまうのは、皆々もいまよくごらんのとおりなのだ」
それに答えて、今度は足の速い、勇士アキレウスがいうには、
「アトレウスの子よ、あなたは皆以上に地位も高いが、また物欲もいちばんに深い人だ。どうしてあなたに、心のひろいアカイア勢が、褒美を(見つけて)さしあげられよう。もうまったく、どこにも共有の財《たから》がどっさり置いてあるとも聞かない。方々の町から分捕って来た品物はみな、もう分配してしまったのだから、兵士たちからそれをまた返させて、元へ集めるのは面白くない。ともかくあなたは、いまその娘を神様にお返しなさるがいい、そしたら今度はアカイア勢が、三倍にも四倍にも、その償いをすることだろう、もしも将来ゼウス大神が、トロイアの立派な囲壁をもつ城市を攻めおとさせてくださろうなら」
これに答えて、アガメムノンがいうようには、
「神にもたぐえられるアキレウスよ、いかにもきみは勇士だろうが、けしてそんなふうに、だまそうと思ってはならぬ、とうてい私をいいくるめも説きつけもできなかろうから。きみは、自分は褒美をもらっているのに、私は何ももらわずに、おとなしくして坐っていさせようというんだな、それで私に娘を返してやれと命じるのか。それなら褒美を、心の大きいアカイア人《びと》らが、十分前のと引き合うくらいにくれるならよし、もしまた十分よこさん場合は、私が自身で取り立ててやるぞ。きみの分け前なり、アイアス〔アキレウスにつぐ勇士〕のなり、またオデュッセウス〔智謀に富んだ勇将で『オデュッセイア』の主人公〕の分け前なりをとってやる。私にやって来られた男は、さぞ腹を立てることだろうがな。だが、まあそのことは、いずれまた後でゆっくり考えるとして、いまはさあ(娘を送り返しに)黒い船を、かがやく海へとひき下ろさせよう。その中へは漕ぎ手たちをほどよくそろえ、百牛の大贄《おおにえ》も載《の》せてやろう。それから頬の美しい乙女、クリュセイスその人を乗り組ませるのだ。それにはまた誰か一人、相談役の大将が、指揮官として乗ってってくれ。アイアスなり、イドメネウスなり、または貴いオデュッセウスなり、それともきみなりがだな――ペレウスの子の、すべての武士たちの中でも、いちばんと恐ろしい人間だが――われわれのため祭りを執《と》りおこなって、遠矢の御神をなだめまいらすよう」
すると、王を上目づかいににらみながら、足の速いアキレウスが向かっていうよう、
「なんだと、厚顔無恥なうえ、狡猾《こうかつ》にも儲けばかりをねらうのだな、そんなきみのいうことに、どうして進んで、アカイア軍の一人でもが従うものか、遠いところに出かけろとか、敵の武士《さむらい》と奮戦しろと頼んだにしろ。私にしても、けしてトロイア方の槍をあつかう武士たちのせいで、ここへ戦さをしようと来たのではない、格別私が彼らを恨むかどはないから。これまでけして私の牛の群れだとか馬だとかを、彼らがさらっていったことも、また土塊《つちくれ》の沃《ゆた》かに、武士たちを育てあげるプティエ〔アキレウスの故郷〕の郷《さと》で、実った畑を荒らしつくしたこともないのだ、その間には鬱蒼《うっそう》として大層もない山脈《やまなみ》だの、とどろきわたる大海だのがあるのだから。そうではなくて、ただあなたといっしょに従ってきたものなのだ、恥も知らないあなたを、喜ばせようとばかりに。メネラオス〔アガメムノンの弟でスパルテの王。その妃ヘレネがトロイア王プリアモスの子パリスと駆け落ちして、十年にわたるトロイア戦役は始まった〕と、犬(みたいに恥知らずな)顔をしたあなたのため、トロイア人に償わせようと骨折るつもりで。それらのことを、いっさいあなたは顧みもせず、気にもかけないで、今度もまた自分から来て私の褒美を奪い取ろうと脅しつけるとは。それを獲《と》るのに、私も大変苦労をしたし、それで私にアカイア人《びと》の息子たちがくれたものなのに。
第一これまで、いつだってアカイア勢が、トロイア方の、景勝の地に位した城市《まち》を攻めおとした場合に、あなたと同等な報償をもらった覚えはない。しかも激しい合戦のおおかたは、私の腕がやりとげるのだが、いよいよ(獲物の)分配となると、あなたがもらう分け前のほうがずっと大きく、私はわずかをだいじにかかえて、船陣へと帰っていくのだ、戦いつづけて、くたびれたあげくに。だが、今度という今度、私はプティエに帰っていくぞ、舳《へさき》のまがり上がった船を率いて故郷に帰ったほうが、ずっとましだから。もうこんなところで侮辱を受けながら、あなたのために富や財を積みあげてやるつもりはない」
それに答えて今度は武士たちの君アガメムノンがいうようには、
「どんどん勝手に逃げていけ、きみの心が急《せ》き立てるなら。私としても、自分のために、とどまってくれと頼みはしない。私にはまだ他の人たちがついている、大切にもしてくれようというかたがたがな、第一、知謀の御主ゼウス神がだ。きみこそ、ゼウスが護り育てたもう国々の領主のうちでも、いちばんに憎たらしい男だぞ。きみときたらしじゅう争いだとか、合戦だとかを好いている。いかにもきみは剛勇だろうが、それはまず御神の賜物《たまもの》といわねばならない。故郷《くに》へ船なり手下の勢なり引き連れてって、ミュルミドン〔アキレウスの配下であるプティエの兵士らの名称〕らを治めるがいい。きみのことなど私はてんで気にもかけない。恨んでいようと平気の平左だ。ただこれだけは、ぜひとも実行するぞ、ポイボス・アポロンがクリュセイスを私のとこから奪ったように――その娘はこれから私が自分の船で、私の仲間に送らせようが――私としても、自分でこれから陣屋へいって、きみが褒美として受けたブリセイスを、連れて来てやる。それは、どれほど私のほうがきみより力が強いものか、よくよくきみにもわかるようにだ。そうなれば他の大将とても、私と同じにえらぶったり、面と向かって肩を並べたりすることをはばかろうから」
こういうと、ペレウスの子(アキレウス)は、憤《いきどお》ろしさにのどもふさがり、粗毛の生えた胸の奥の心臓は二つにわれて、あれこれと思い惑った、鋭い剣を腰のわきから引き抜いて、大将たちを立ち上がらせ、アガメムノンを斬り殺そうか、それとも憤怒をおしとどめ、いきり立つ胸をおさえたものかと。ちょうどこのようなことを、胸の奥、心の中でとやかく思いはかっていたとき、そして大きな刀を鞘《さや》から抜こうとしかけたおりしも、アテネ女神〔ゼウスの娘で、ギリシア方の最有力な味方〕が大空から降りて来られた。つまり白い腕の女神ヘレがお遣わしになったのである――二人ともを御心にかけ、いとしく思っておいでたもので、ペレウスの子のうしろに来て立ち、亜麻色の髪をひっつかまえた。(その姿は)アキレウスだけには見えたが、他の誰にも見えなかったのだ。アキレウスはびっくりたまげて、うしろを振り返り、すぐとそれがパラス・アテネ〔アテネの別号〕だと悟った、女神の両眼は恐ろしく輝いていたので。そこで(アキレウスは)女神に声をかけ、翼をもった言葉〔人間の言葉の形容。翼が何を意味するかは議論がまちまちながら、言語のもつ不可思議、意思伝達の魔術的なはたらきに出ると推定される〕をいいあげた。
「どうしてまた、やってこられたのです、アイギス〔アイギスは本来は「山羊皮」のことで、山羊の毛深い皮で作った原始的な楯をさすが、ここではゼウスの形容辞〕をお持ちのゼウスの御娘が、アトレウスの子アガメムノンの非道の振舞いをごらんになろうとおっしゃってか。それなら、あなたにいっておきましょう。またこのことはかならず成就されようと思うのですが、彼はまもなく、自分の傲《おご》った心ばえゆえ、いつかそのうち命をなくすことでしょうよ」
それに向かって、今度はまたきらめく眼をした女神アテネがいうには、
「私はおまえの立腹を止めようとして天からやって来たのだ、もし(私の言葉を)きいてくれるならね。私をおよこしなさったのは、白い腕の女神ヘレで、両方ともを御心にかけ、気づかわれてのことなのだから、さあ争いは中止して、剣を手に引き抜くのもやめにしなさい。それよりも口先だけで非難してやるがいい、どうあろうとてもね。それというのも、こうはっきりといっておこう、またこのことはかならず実行されようからね。それでいつかは、おまえも、いまこうむったひどい仕打ちのつぐないとして、この三倍ほども立派な輝く財宝をもらえるだろう。それゆえいまは胸をおさえて、私たちのいうことをきいたがいい」
そこで女神に向かって、足の速いアキレウスが答えていうよう、
「それはもとより、お両神《ふたり》さまのおおせは守らねばなりません、女神よ、よしたとえ、どんなに胸が憤りのため煮え返ろうとも。そのほうが良いことなのですから。神々の命《みこと》を素直に聞くものならば、神々もまたその人の願いを容《い》れてくださるといいます」
こういって、銀づくりの柄《つか》のところに、重々しい手をひかえとめた。それで鞘へと大きな剣を押し戻したのは、アテネの命《みこと》に素直に従ったのである。女神はそのまま、オリュンポスをさしておいでになり、アイギスを保つゼウスの宮へ、他の神々の間へと帰還された。
一方、ペレウスの子(アキレウス)は、それからまたもや、容赦ない言葉でアガメムノンをののしりつづけ、いっこう怒りをおさえようとしなかった。
「あなたは、酒びたしで重たくなった、顔といったら(恥知らずな)犬のよう、心臓は鹿みたい(に臆病)な男だ、まだ一度だって戦さへと、兵士たちといっしょに鎧《よろい》をつけて出かけることも、またアカイア勢の大将たちと、待ち伏せに行くことも、思い切ってできないとは。あなたには、それが命にかかわるように見えるからなのだ。たしかに、アカイア軍の広い陣営にすっこんでいて、自分に楯を突くような人間から、もらった褒美を取り上げるのは、それよりずっとたやすいことだな。国民を食いものにする領主だ、ものの数にもならぬやつらを家来にしているからだろうが、アガメムノンよ、人に侮辱を与えるのも、これがもう最後だぞ。
ともかくはっきりいっておこう、また重い誓いにかけて誓おう、いや、この杖にかけて。これはもはや、葉も枝も生やせまい、一度、山間で木の切り株を離れ、ぐるっとまわりの樹皮や葉を、青銅(の斧)が剥《は》ぎ取ってしまったからには。それを今度はまたアカイア人《びと》の息子らが、裁きをするとき、てのひらに持つならわしになっている、ゼウスの御前で、掟《おきて》を護るつとめの者がだ。それゆえ、(この杖にかけて誓った)誓いは、〔杖が枝葉をつけることがない確実性と同じく〕重大なものといえよう。きっといつかは、アカイア(人《びと》の息子たちが一人残らず、アキレウスがいてくれたら、と考える時が来よう。どんなにあなたが胸を苦しめようとも、何も護りになるものを見つけることはできないだろう、武士《もののふ》を殺すヘクトル〔プリアモス王の長子でトロイア方随一の勇将〕の手にかかって、大勢の者が命を落とし、どんどん倒れていくおりには。それであなたは、心中、腹を立てながら後悔するにちがいない、アカイア軍中第一の勇士をちっとも大切にしなかったことを」
こうアキレウスはいうと、杖を地面に投げつけた。黄金の鋲《びょう》をいくつも打ちつけた杖である。そして自身は腰を下ろした。いっぽう、アガメムノンもこちら側では、依然として腹立ちつづけていた。すると、二人の間に弁舌の巧《うま》いネストル〔ピュロスの領主でアカイア方最年長の老人。弁舌に長じ説教癖あり、好んで自分の昔話をする〕が、勢いよく立ち上がった。声量ゆたかな演説家として、ピュロス勢のかしらである。その人の舌端からは、蜜よりもっと甘くやさしい文句が流れて出る(といわれた)。また彼は、言葉を用いる人間のはや二世代を見送って、いま三代目の人々を支配しているところだった、つまりきわめて神聖なピュロスの郷《さと》で、以前に彼といっしょに大きくなった人々とそれから生まれた人々との二世代を見送ったのだ。そのネストルがいま一同のためをおもんぱかって、会議の席に立ち、みなに向かっていうよう、
「やれやれ、何たることか、大変嘆かわしいことが、アカイア人の国にたいしておこったものだ。まったく(敵方トロイアの王)プリアモスやプリアモスの息子たちが喜ぶだろうな。また他のトロイア人たちも、心で大喜びをすることだろうよ、あなたがた二人がこういがみあっている次第をそっくり聞き伝えたなら。ダナオイ勢の中でも、はかりごとにかけても、戦さにかけても、超えすぐれている二人がだ。まあ(私の言葉に)従いなさい、あなたがたは、二人とも私よりは年も若いのだから。というのも、以前に私は、あなたがたよりも、超えすぐれていた勇士たちと交わりを結んでいたが、彼らはけっして私事を軽んじなどしなかった。いや、まったくあんな待《さむらい》たちは見たことがない。またこれからとて見はすまいよ。ペイリトオス〔テッサリアのラピタイ族の王で、ケンタウロイ(馬人族)と戦ってこれを破った〕とかドリュアスとかいう、兵士たちの統率者、それにカイネウスやエクサディオスや、神にも比すべきポリュペモスや、さらにはアイゲウスの子テセウス〔伝説のアテナイ王。ペイトリオスの親友。多くの英雄伝説の主人公〕など、この男は不死の神々にもたぐえられる人物だった。
その人たちは、この地上に住む人間のうち、とりわけて剛勇無双の者として生い立って、剛勇ならびがなく、また剛勇無双の者どもと戦さをしていた、山間にすまうケンタウロス〔テッサリアの山地に住む原住民で、半人半馬の姿をしている〕たちとであるが、その者どもを手ひどく討《う》ち破ったのだ。しかもこの人々と私は、ピュロスから、遠いアピアの郷から来て、親しく交わりをつづけたものだった。彼らがみずから呼び寄せたのでな。しかも私は、自分ひとりで闘っていった。だが、彼らとは、とうてい現在この地上にいる人間の、誰一人として、闘い合えようとは思えない。それなのに、彼らは私の立てるはかりごとに耳をかし、私の言葉に聞き従ってくれたものだ。
それゆえ、あなたがたもまあ、いうことをききなさい、きくほうが得《とく》なのだから。まあ、あなた(アガメムノン)のほうも、よし権威が優れてはいようと、こなた(アキレウス)から乙女を奪い取ろうとなさるな。アカイア人の息子たちが、はじめにこなたへ褒美にくれた、そのままにしときなさい。またあなたも、ペレウスの子よ、国の主《あるじ》と対抗して争おうなど思ってはならない。それというのも、王笏《おうしゃく》をもつ国の王は、ゼウスが誉れをお授けになったもの、けして他人のおよぶべくもない尊敬を天から頒《わか》ち与えられている。それゆえ、たとえあなたが剛勇のつわもので、生みの母は女神だといっても、こなたのほうが位は上なのだ、もっと多くの人々の支配者なのだから。またアトレウスの子よ、あなたのほうは、その立腹をおさえるがいい、そしたら私が、アキレウスにも怒りを捨てるように頼もう、なにしろ彼はすべてのアカイア人《びと》らにとっても、わざわいな戦さから護ってくれる大きな檣《かきね》なのだから」
これに向かって、アガメムノンが答えていうには、
「いかにもまったく、老人よ、あなたがいわれたことはみな、筋のよくとおったことだ。だが、この男は、他の人々をみな凌《しの》ごうと思っている、誰彼をもみな自分に従わせ、誰彼をもみな支配しようと、すべての者に号令しようと考えてるが、そんなことは、とうてい私はきくわけにはゆくまいだろうさ。たとえば彼を、常住にいたもう神々が、ひとかどの武士となされたといって、それだからとて、すぐ、勝手なことをいってもよいとなさったわけではあるまい」
すると、それをさえぎるように、勇ましいアキレウスは言葉を返して、
「いかさま、臆病著とも、ろくでなしとも、私は呼ばれていいことだろう、もし万事につけて、あなたがいうどんなことにも譲歩しつづけていくとしたら。いや、そんなことは他の者にいいつけたがいい、私はともかく指図を受けないから。もうこのうえは私はけして、あなたなどには従うつもりはいっさいないのだ。もう一ついっておく、よくそれを胸におさめて覚えていろ、腕力では、けして私はあの乙女のために闘うことはしないだろう、あなたとも、他の人とも。それは私にくれた者が、また取っていくのだから。だが、黒塗りの速い船のかたわらに(ある陣屋に)私が持っているすべてのもの、そのいっさいの一つだとて、私の承諾なしに取って持ってくことは許さないぞ。いや、ほんとうに、ちょっとでもやってみろ、すぐ皆にもわからせてやる、すぐさま血が黒々と、槍のまわりに走ろうということを」
かように二人は対抗して、はげしい言葉で争いながら、座を立ちあがり、アカイア勢の船陣のかたわらで開いた会議を解散した。ペレウスの子は陣屋のほうへ、釣合いの取れた船へと、メノイティオスの子(パトロクロス)や、その他、仲間の人々を連れ、出かけていった。一方、アトレウスの子はといえば、速い船を海へと引き下ろさせ、中へと二十人の漕ぎ手を選りすぐって、百牛の大贄を御神のため載せこんでから、美しい頬をしたクリュセイスを連れて来て座らせた。また統率者には、知恵に富んだオデュッセウスが乗っていった。
それから、一行は、船へ乗って渺々《びょうびょう》たる潮路を航《はし》らせていった。一方、アトレウスの子は、兵士たちに、潔斎《みそぎ》をして汚れをすすぎ浄《きよ》めよと命令した。そこでみなみな汚れをすすいで、海へとけがれを投げ入れてから、アポロン神へと、申し分なく立派な、牡牛だの山羊だのの大贄を、荒涼として荒れはてた海の渚《なぎさ》のほとりでたてまつった。その脂身の焼ける匂いは天へと、ぐるぐる煙の輪を描いて上がっていった。
このように人々は陣屋をあげて働いていた、その間もアガメムノンは、さっき初めにアキレウスを脅していった争いをやめようとせず、タルテュビオスとエウリュバテスの二人に命じていった、この二人は彼の伝令使でまた忠実な従者だったものである。
「ペレウスの子アキレウスの陣屋へいってこい。手を取って、美しい頬をしたブリセイスを連れてくるのだ。万一にも渡さなければ、私が自身で大勢の者を率いて出かけ、奪《と》ってこよう。そしたらいっそ、あいつは、ひどい目を見ることだろうが」
このようにきびしい言葉で命じて、(二人を)遣わした。そこで二人は、しぶしぶながらも荒涼として荒れはてた海の渚を進んでいって(アキレウスの部下)ミュルミドン族がいる陣屋や船のある場所へやって来た。そして彼が陣屋のわきの、黒い船のかたわらに坐っているところに出会ったが、もとより二人を見てうれしい顔は見せなかった。一方、二人のほうでも、ちぢみあがって、国の主(アキレウス)を畏《おそ》れ敬って立ちすくみ、何も彼に向かって物をいえず、たずねることもできずにいた。しかしアキレウスは胸のうちでよく事の次第を悟《さと》り知って、二人にむかって声をかけた。
「よく来た、伝令のかたがた、(あなたがたは)ゼウスのお使い、また人間界の知らせを伝える者なのだ。もっと近くに寄りなさい、けして何もあなたがたに悪いところはない、悪いのはアガメムノンだ、彼があなたがた二人を、乙女ブリセイスの引き取りのため、よこしたのだから。では、さあ、ゼウスの裔《すえ》であるパトロクロスよ、乙女を連れ出して来て、このかたがたに連れていくよう渡してあげろ。だが、あなたがた二人も、自身で証人になってくれ、祝福された神々の御前でも、やがて死ぬ人間たちにたいしても、また非道な国王にたいしても。いつかまたきっと、他の人々をあさましい破滅から防ぎ護るために、私の助けが、ぜひとも入用になった場合に備えて。まったく王は、呪われた心でもっていきりたち、前後の思慮もすっかりなくしてしまっているのだ、どうしたら船陣のかたわらでもってアカイア勢が安全に戦えようか、ということも」
こう彼がいうと、パトロクロスは親愛する友の言葉にすぐさま従い、陣屋から美しい頬をしたブリセイスを連れ出して来て、連れていくよう二人に渡した。二人はまた、アカイア軍の船陣へとむかって帰れば、女も、進まぬながらも、伝令使たちといっしょに出かけた。一方、アキレウスは(抑えていた)涙を流すと、すぐ仲間からひとり離れて引き退き、灰色をした海の渚に坐りこんで、涯《はて》しのない海原のうえをながめいった。そして両手をさし伸べて、いとしい母(なる海の女神テティス)に向かい、しきりに祈った。
「母上、あなたが私を、ほんのわずかの間だけ生きているようお産みでしたからには、ともかくも名誉だけは十分私に、オリュンポスにおいでの、高い天に雷をとどろかすゼウス御神も与えてくださるはずでした。ところがいま、大神はまるでちっともだいじにしてはくれなかったのです。まったく私を、アトレウスの子の、広い国を治めるアガメムノンは侮辱したのですから。だって、彼は自分のほうから、私のもらった褒美を奪って、取ってったのです」
こう涙を流していうと、その声を深い海の底で、父である(海の)老神(ネレウス)のわきに坐っていた母の女神が聞きとめた。そこですぐさま、またたくまに灰色の海から、霧のように立ちのぼって出た。そして、アキレウスその人の前に坐り、まだ涙を流している息子の前に坐ると、手で撫《な》でさすってその名を呼び、言葉をかけた。
「私の子よ、何を泣いているの、どういう嘆きがおまえの胸に来たというのかえ、いっておしまい、心にかくしておいてはいけない、私もおまえも、二人ともよくわかるように」
すると母神に向かって、ひどく嘆息しながら、足の速いアキレウスがいうようには、
「わかっているくせに、どうして、それをみなすっかり知ってる母上にお話しすることがありましょう。私たち(アカイア勢)は、エエティオン〔ヘクトルの妻アンドロマケの父で、トロアスのテーベ(テーバイ)の領主。このときアカイア軍に殺された〕の聖い居城のテーベへと押しかけてゆき、城を攻め落してから、獲物はそっくりここへ運んで来ました。それを、アカイア人《びと》の息子たちは、自分らの間でもって、しかるべく分配しまして、アトレウスの子(アガメムノン)へは、美しい頼をしたクリュセイスを選び出して与えたところが、(その父親で)遠矢を射たもうアポロンの神官をつとめるクリュセスが、青銅の帷子《よろい》を着たアカイア勢の遠い船(が引き上げてある)ところへ来て、娘を贖《あがな》いたいというので、たくさんな身の代を持って来ました。手には遠矢を射る御神アポロンの神聖なしるしの毛総《けふさ》を上につけた黄金の杖をたずさえ、並みいるアカイア軍の大将たちみなに懇願しました。とりわけ兵士らの統領であるアトレウス家の二人の王に向かってです。
そのおり、他のアカイア軍の大将たちは、みな声をそろえて賛成し、神官に敬意を表して、きらきらしい償い代を受け取るようすすめましたが、アトレウスの子アガメムノンだけは、これにたいそう機嫌を悪くし、神官に侮辱を加えて追い返しました。老人は腹を立てたまま帰っていった、その祈ることをアポロン神がお聞き入れになりました、もともと大変ひいきにしていたからです。そこでアルゴス勢に向かって御神は禍いの矢をどんどんと放たれたので、兵士たちはつぎからつぎへと死んでいきました。御神の死の矢は、アカイア軍の広い陣営中にくまなくおとずれたのです。それでわれわれのため、事由《ことわけ》をよく心得た占い師が、遠矢の御神の神託を説きあかした。
すぐと私は先に立って神意をなだめまつるようにとすすめたところが、アトレウスの子(アガメムノン)が腹を立てて、いきなり立ち上がると、私を脅かしつけていいました、そのことがいま、実際に遂行されたわけなのです。その娘(クリュセイス)は、速い船に載せて、眼のきらきらしたアカイア人《びと》らがクリュセへと送っていき、御神へも献げ物を持っていきました。またいましがた、伝令たちが(やって来て、私の)陣屋からあの娘、アカイア人の息子たちが私にくれた、あの乙女ブリセイスを、連れていったのです。それゆえ、もし母上がおできならば、自分の息子をかばってください。オリュンポスへいって、ゼウスに頼んでみるのです。もし本当にあなたが御言葉なり所行なりで、ゼウスの心を以前に喜ばせておいたというならば。だってたびたび(まだあなたが)父上の館《やかた》においでだった時分に、得意になっておっしゃるのを聞いたものです。あの黒雲(を寄せる)クロノスの御子(ゼウス)のために、不死である神々のうちあなたが、ただ一人だけ、ひどい辱《はずか》しめを防いであげた、という話を。それはゼウスを、ほかのオリュンポスにおいでの神々が縛りあげようとなさったおりのことでした、ヘレやポセイドンや、またパラス・アテネなどがです。
それをあなたは、女神の身として、出かけていって、ゼウスの縛《いまし》めをこっそりほどいてさしあげ、すぐさま|百腕の怪物《ヘカトンケイロス》を高いオリュンポスへと呼んできました。(その者は)神様がたはブリアレオンと、人間どもはアイガイオンと名づける怪物で、腕力では、自分の父(ウラノス)よりもっと強いという、それがクロノスの子(ゼウス大神)のわきに意気揚々と侍《はべ》っているので、祝福された神々もおじけをふるって、それ以上はもう縛るのもあきらめたというそのおりのことをゼウスにいま、思い出させ、そばに坐ってお膝にすがり、なんとかしてトロイア方の加勢をする気にならせ、アカイア勢を船の艫《とも》や海のほとりへ押しこめてから、どんどん殪《たお》されていくようおはからいを願ってください。誰もかもあの王様の有難味を味わうように、またアトレウスの子の、広大な国を治めるアガメムノンも、自分のひどい思いちがいを悟るようにです、アカイア軍中いちばんの勇士をすこしも重んじなかったことを」
すると、テティスは彼に向かって、涙をさめざめと流しながら答えていうよう、
「まあかわいそうな私の子よ、どうしてまあおまえを育てあげてきたのか、かなしい運命におまえを産みつけながら。できることなら、おまえが船陣のかたわらに、涙も知らず悩みも受けずに坐っていられたらうれしいものを。おまえの寿命はほんの束の間の、けして長くはもたないとわかっているのだから。それがいまでは、誰よりも短命なうえに、また痛ましい目にあおうとは。いかにも不運な身の上に(父上の)館の中で産みつけたものです。ではこの次第を、雷鳴をとどろかすゼウスに話しに、これから自身で、深い雪をいただくオリュンポス山へ出かけましょう、承知してくれるか、ひとつやってみに。
だがおまえは、進みの速い船陣のかたわらに坐り込んだまま、アカイア勢を恨みつづけ、腹を立ててはいても、戦さには全然手を出さないでひかえていなさい。それというのも、ゼウスさまは、ちょうど昨日、オケアノスへ、立派なアイティオブス〔世界の南方の東西両端に住んでいると考えられていた黒人族。オケアノスは世界の周辺をとり巻いていると想像された大河〕たちのところへお出かけなさって、神さまがたもみな、それについておいででした。それでこれから十二日目にオリュンポスへ渡っておいでになろう。そしたらその時、おまえのために、青銅を敷いたゼウスさまのお館へ私が出かけていって、お膝にすがって願ってみましょう、きっと説きつけられるだろうよ」
こういい終えると、女神は去ってしまわれた。アキレウスは、そのままそこに取り残されて、人々が無理矢理に、彼の承知もまたないで奪っていった、美しい帯をしめた女のことで、なお胸中に腹立ちつづけていた。一方、オデュッセウスは、聖い大贄を船に載せてクリュセに到着した。それで一行は、いよいよ深く水をためた入江の中へはいっていくと、帆をまず下ろして、黒塗りの船の中へ収めて置き、それから柱の前の張り綱を引いて帆柱を受け木にたぐりよせるのも、すぐさまにし、船を泊り場へと、櫂《かい》を使って漕ぎ進めた。それから重しの石をいくつも投げこみ、ともづなを固くゆわえつけてから、今度はみなみな乗組員自身が、海の波打ち際へと降り立って、遠矢を射るアポロン神への大贄の牛を降ろせば、クリュセイスも大海を渡ってゆく船から外へ降り立った。それから彼女を祭壇のところへ連れていって、知恵に富んでるオデュッセウスは父神官の手に渡し、彼に向かっていうようには、
「おお、クリュセスよ、私を差し遣わしたのは武士たちの君主《とのさま》アガメムノンだ。娘をあなたのところへ連れてゆき、またポイボス・アポロンに聖い大贄をダナオイ勢のために執《と》りおこなって、神意をなだめまいらせようとてである、いましもアルゴス勢へと、嘆きに満ちた禍いをつかわされたので」
こういって手渡してやれば、神官も喜んでいとしい娘を受け取った。それから人々は、すぐさま御神へと聖い大贄の牛どもを、立派につくり上げた祭壇のまわりに順序よく並べ立たせ、それから手をすすいだうえ定式の割麦を手に取り上げると、みなみなのためクリュセスは両手を差し上げ、大きな声で祈っていうよう、
「お聞きください、銀弓の御神、クリュセの町に護りをめぐらせ、神聖なキルラやテネドスを稜威《みいつ》も高くお治めになる御神よ、まことに、これまで私の祈りをお聞き入れのうえ、私をだいじにしてくださって、アカイア方の兵士たちに大損害をお与えなさいました。そのように、今度もまた何とぞ、私の願いをかなえてくださいませ。いまはもうはやダナオイ方から、このむごたらしい疫病をお払いのけになってください」
こう祈りながらいうと、その願いをポイボス・アポロンはお聞きになった。さて人々は祈願を終わり、定式どおりに割麦を振りかけてから、まずまっ先に犠牲の牛の頭をひき上げ、のどを切り裂き皮を剥いでから、両腿の骨を切って取ると、これへ脂身を二重にかさねて蔽いかぶせ、その上へ生ま肉の片《きれ》を並べておいた。それを今度は年老いた神官(クリュセス)が割った薪にのせて焼き、それへきらきら輝くぶどう酒をそそぎかけた。その人のわきに若者たちが、五叉《いつまた》になった鉄串をささげて立った。
やがて腿肉がよく焼けあがり、みなみなして臓物を味わってから、他の部分をこまかに切り刻んで串のまわりに刺しとおし、念入りにあぶりあげたうえ、全部を火から取りおろした。このようにして仕事が終わり馳走の支度がすっかりできあがると、食事にかかった。申し分ない饗宴には、何一つ望んでたりぬところはなかった。それから今度はもう十分に、飲み物にも食べ物にも満ちたりると、若者たちは混酒器《クラテール》になみなみと酒を注ぎみたし杯を取り、まず神へと注《そそ》ぎまいらせてから、順ぐりに皆の者へ注《つ》いでまわった。こうして一日じゅうアカイア人の若者たちは、アポロンへの頌歌《ほめうた》を美しく歌いつづけ、神意をなだめまいらせようと、遠矢の御神をたたえまつれば、御神もそれをきこしめして心を慰められた。
さて太陽が沈んで暗闇が襲ってきたとき、まさしくそのとき人々は船のともづなのそばで眠りについた。それから早々と明ける、ばら色の指をした暁が現れると、そのおりに人々は、広やかなアカイア勢の陣営に向かって帰っていった。その連中へと遠矢を射るアポロン神は、ありがたい追風《おいて》を送られた。人々は帆柱を立て、上に白い帆を拡げ並べる、その帆のまんなかへ風は吹きこみ、これをふくらませた、また舟底の先、両側には、船の進みにつれて、波が湧き立ち、大きな叫びをたてつづけた。こうして船は波あいを、ひた馳せに馳せ、道程をちぢめていった。さて広やかなアカイア方の陣営にとうとう着くと、みんなして黒塗りの船を陸《おか》へと引きずり上げた、砂浜のうえに高々と。その下には長い枕木をいくつも並べて置き、こうしてから、自分たち自身はめいめい、それぞれの陣屋や船のあるところへ散らばっていった。
一方、あの人、ゼウスの裔《すえ》で、ペレウスの子の、足の速いアキレウスは、依然として、進みの速い船が並べてあるかたわらに坐りこんだまま、腹立ちをやめないでいた。それでまったく、武士《さむらい》に名誉を与える会議の席にも現われず、戦さの雄叫びや合戦やにこがれてはいたのだったが、戦いにも加わらないで、ただ一つところにじっとして、自分の胸を苦しめていた。
さてその日から数えて、ちょうど十二日目の朝になると、ちょうどその日に、オリュンポスへと、永劫《えいごう》においでの神々たちは、皆々いっしょに、ゼウスを先頭に帰って来られた。するとテティスは、自分の息子(アキレウス)の頼みごとを忘れていずに、大海の波をくぐって浮かび出た。それで朝早くから、高い大空のオリュンポスの峰へと登ってゆくと、ゼウス神、あのはるかな空までとどろきわたるクロノスの御子が、ひとりして他の神々から離れ、尾根のたくさんあるオリュンポスの、いちばん高い頂きに坐っておいでなのを見つけ、すぐさま御神の前へすすんで坐るなり、左手で御膝にとりすがり、右の手では御神の顎の下辺をおさえながら、祈願をこめてクロノスの御子、ゼウス大神に申し上げるよう、
「ゼウス父神《ちちがみ》さま、ほんとうにもし私が不死においでの神々のうちで、言葉なりまた所業《はたらき》なりで、いつかお役にたったことがありましたら、この願いばかりはおききくださり、私の息子に誉れを与えてくださいませ、あれはほかの誰よりもいちばん死期が早いと定められている者なのですから。それなのにいま、武士たちの君アガメムノンが恥辱を与えたのです。というのはあれのもらった褒美を、自分が奪っておさえておりますので。それゆえ、あなたさまこそその恥をそそいでやってくださいましょう、オリュンポスにおいでの、智謀の御主ゼウスさま。そして、アカイア勢が私の息子を大切にして、高い誉れを授けるまで、トロイア方に勝利を与えてくださいませ」
こういうと、群雲《むらくも》を寄せるゼウスはそれに何の返事もなさらずに、長いこと無言のまま坐っていた。テティスのほうも、お膝にすがったまま、しっかと取りついていたが、やがてまた繰り返してたずねるようには、
「さあ、今度こそはっきり確かなところを約束すると、ご承知なさってくださるか、さもなくば、ことわってくださいませ。あなたは何もこわいものなしでおいでなのですから、よくよく合点がゆきますように、どれほど私が皆さまの中で、いちばん馬鹿にされている女神《もの》かというのが」
それに向かって、群雲を寄せるゼウスが、すっかり当惑していうようには、
「いかにもまったく厄介な仕事だな、それは。つまりおまえは私をヘレと喧嘩するようけしかけるのだから。彼女《あれ》は私を非難して小言をいうだろうに。それでなくてさえ、しょっちゅう不死である神々の間で私に向かって議論を吹っかけ、戦さでもって私がトロイア方に加勢をしてる、と主張するのだ。ともかくも、おまえはこれからまた下界へ降りていきなさい、ヘレが何か気づいてはならないから。私がよくそのことは心にかけて、うまくゆくよう取りはからおうぞ。では、さあ、どうだね、おまえが十分安心するよう、頭を下げて、うなずいてみせよう。これがつまり、私からの、不死である神々の間における、いちばん大事なしるしというものだから。なぜというと、私が一度頭を下げてうなずいたならば、そのことはもう二度と取り返しがつかず、いつわることも許されず、かならず成就されるのだから」
こういって、漆黒の盾に、クロノスの御子(ゼウス)がご承知のしるしに頭をお下げになると、かぐわしい御髪はふかぶかと、不死である(御神の)頭《こうべ》から垂れてなびく、その勢いはオリュンポスの大峰を、おどろおどろと揺り動かした。
二神《ふたり》はかように相談をきめると別れて、テティスのほうは、閃光を放つオリュンポスから、深い海へと飛んで降り、ゼウスのほうは目分の宮へと帰っていくと、それにたいして神々たちは、みな等しく座を立って、父なる神を迎えた。また誰一人として、ゼウスがこちらへ来るのに、そのまま平気で坐っていずに、みな立ち上がって迎えたものだ。かようにゼウスは、そのおり台座のうえに腰を下ろしたが(妃神の)ヘレは、さっきゼウスが、海の老神《としより》の娘で、銀色の足をしたテティスとこっそり相談していたところを、ちゃんと素早く見ていたもので、すぐと突き刺すような言葉でもって、クロノスの御子ゼウスに向かっていうよう、
「神々の中でも悪がしこいおかた、またあなたは誰かと、密議をこらしておいででした。しょっちゅうあなたは、私のいないところでもって、内緒事をいろいろとおはかりのうえ、裁きをお下しなさるのがお好きですわね。それでいつだって、けしてご自分のほうから、どうお考えかを、進んでいってくださろうとはなさいませんのね」
それに向かって、今度は、人間と神々との御父が答えていうよう、
「ヘレよ、よいか、けして私の思案の一切を知りつくそうなど待ちもうけてはならぬぞ。たとえおん身は妃《きさき》であろうと、それはむつかしいことだろうからな。だが、おん身の耳に入れてもさしつかえないことならば、神々のうち、また人間のうちにも、おん身より先にそれを知る者は、けしてあるまい。しかし私が諸神にもはからずにひとりできめようと思うことは、おん身だとても、それをいちいち問いただしたり、仔細に探ろうなどしてはならぬ」
すると、これにたいして、牝牛の眼〔ヘレはアテネのふくろうと同様、牛のトーテムをもつ種族の守護女神と考えられる。ホメロスではもっぱらギリシア方に味方し、トロイア側を極端に憎悪圧迫するものとなっている〕をした女神ヘレは答えていうよう、
「いとも畏《かしこ》いクロノスの御子よ、まあ何ということをおっしゃいます。まったくほんとに、前々から、あなたを問いただしたり、お探りなどしたことはございません。いつだって、もうしゃあしゃあと、お好きなように、何でもおはかりになっておいでですのに。でも今度は、とても気遣いなんでございますの、胸のうちで、あの海の老神《としより》の娘の、白銀《しろがね》の足をしたテティスが、うまくあなたを説きつけてしまったのではないかと。だって今朝早くに、あの女《ひと》は、あなたのおそばに坐りこんで、お膝にすがっておりましたでしょう。きっとあなたは、あの女《ひと》にかたくお約束のうえ承知しておやりだったと思いますもの、アキレウスに誉れを授けて、アカイア軍の船陣のところで大勢の者を死なせてやろうと」
それに向かって、群雲を寄せるゼウスが答えていうようには、
「へんなことをいうものだ、おん身はいつも私から眼を離すまいと、思ってばっかりいる。だが、どうしたとて、何の役にも立ちはすまいよ、いっそう私の心にうとまれるのが落ちなくらいで。そしたらいっそう、つらい思いをすることだろうが。もしこれが、おまえのいうとおりであるにしても、それならそれが私ののぞみというわけなのだぞ。さればおとなしく坐っていたがよい、私のいうところによく従ってな。さもなくて、私がおまえにこの無敵の腕をふるおうとした場合には、オリュンポスじゅうの神々が集まったとて、とうてい何の役にも立たないのだから」
こういわれれば、牝牛の眼をした女神ヘレも恐れをなして、そのままわき立つ胸を強いておさえ、口をつぐんで坐っておいでだった。されば、ゼウスの宮居においでになるオリュンポスじゅうの神様がたも胸を痛めた。その様子に、有名な工匠《たくみ》であるヘパイストスが、まず先に立って話を始めた。それは自分の母である白い腕の女神ヘレへの心ずくしからであった。
「まったくこれは、ひどい事件になりましょう。辛抱のできないことにです、もしそれこそお二人が人間どものため、このように喧嘩をなさって、神様がたの間でもって大騒動をおこすならば。まったくどんなに立派なご馳走だって、何のたのしみもなくなりましょう、いまわしいことが幅をきかすなら。母上にも私はご忠告いたします。もちろん自身でよく心得ておいででしょうが、ゼウス御父神のご機嫌をよく取り結んで、今後またもやお小言などおおせられぬよう、それで私どもの饗宴をぶちこわしになさらぬようにしてください。だってもしも、オリュンポスにおいでの、いなずまを擲《なげう》つ御神(ゼウス)が(私たちを)この座から突き落とそうとなさったら、それこそ大変、ずっとお偉いかたですからね。それゆえ貴神《あなた》は、ものやわらかなお言葉で、大神へご挨拶なさるがよいこと、そうしたらすぐにオリュンポスの御主《おんあるじ》も私どもをやさしくおあつかいくださいましょう」
こういうなり、突っ立ち上がって、両耳つきの台杯を、いとしい母神の手に渡して、(さらに)いうようには、
「母上、ご辛抱を、まあどんなにお辛かろうと我慢なさいませ。それこそだいじにお思いしている母上が叩かれるところなどをこの眼で見るようなことになりませんよう。そうしたら、どんなに心配しても、とうていお護りすることはできませんもの。オリュンポスの御主は、まったく抵抗しようといっても、厄介な骨の折れるかたですから。そら、いつぞやも、私がしきりに加勢をしようといたしましたら、足をひっとらえて、神々しいお宮の閾《しきい》からほうり出されました。それでまる一日じゅう、空を飛んでいって、太陽がちょうど沈む頃に、レムノス島に落っこちましたが、その時はもうほとほと息も絶えそうでした。それを島に住むシンティエス人たちが、落ちるとすぐに引き取ってくれたのです」
(ヘパイストスが)こういうと、白い腕の女神ヘレは微笑を浮かべて、息子の渡す台杯を手に受け取った。それからまた彼(ヘパイストス)は、他の神々へも、右のほうへと順々に皆へ、酒|和《あ》え瓶から汲み出して甘い新酒《ネクタル》を、注《つ》いでまわれば、ヘパイストスが、はあはあ息を切らしながら御殿の中を飛び歩く様子に、おさえ消せない笑いの声が、祝福された神々のあいだに湧き起こった。
このように、そのおりは一日じゅう、太陽の沈み切るまで饗宴がつづけられて、申し分ないご馳走に、望みの欠けるところもなかった。アポロン神がいつもお持ちの、結構ずくめな大竪琴もその場にあれば、詩歌の女神(ムーサ)たちも現われて美しい声で唱応しながら歌いつづけた。
それからまた今度は、太陽の輝かしい光が沈むと、神々たちはめいめい、自分の家にやすもうと帰っていった。そこには、このとりわけて世に名高い、両脛《りょうすね》のまがったヘパイストスが、めいめいのかたにと、巧みな知恵に工夫をこらして、造ってあげた館《やかた》があるのだった。一方、オリュンポスにおいでの、いなずまを擲《なげう》つ御神ゼウスも臥床《ふしど》におつきになった、そこは、たのしい眠りが襲ってくると、前々からしておやすみになる場所であるが、そこへ上がって御寝《ぎょしん》になると、そのわきに、黄金《こがね》の御座《みくら》のヘレもおやすみなさった。
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夢見、「ボイオティア」あるいは船軍の目録《カタロゴス》
【大神ゼウスは夢をアガメムノンに送って、トロイア方をいま攻撃すれば勝てようと思わせる。王は諸将を招き合議、軍の意気を試そうと、引き揚げを宣言する。浮き足だった全軍が動揺するのを、先頭に立つテルシテスを智将オデュッセウスが仕置きしてやっと制止する。そこで総軍勢を排列させ、パレードが始まる。ギリシア軍各部隊の故国、兵数船数が表示され、ボイオティア地方が初めに立つのでこの名がある。ついでトロイア方のリストがある。この部分は『イリアス』の主体とはちがう由来で、原作はもっと古いが、後で合わされたものと推定される】
かように他の神々も、馬毛の房の兜《かぶと》をかぶった武士たちも一晩じゅう眠っていたが、ゼウスだけは快い眠りを得られないで、胸のうちであれやこれやと、どのようにしてアキレウスの名誉を回復しようか、またどのようにして船陣のかたわらで大勢のアカイア人《びと》を倒したものかと思案していた。それでこのようなのが、いちばんいい策だろうと心中に思いなされた。それはアトレウスの子アガメムノンに、禍いをもたらす凶夢《きょうゆめ》を送って、見させることだった。そこで彼は凶夢を呼んで、それに向かい、翼をもった言葉をかけていうようには、
「さあ行ってこい、凶夢よ、アカイア軍の速い船々のあるところへ行き、アトレウスの子アガメムノンの陣屋にはいって、私の命令するとおりを、いっさいまちがいなく話して聞かせるのだぞ。頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア勢を大急ぎで武装させるようにいいつけろ、いまこそ、トロイア人らの、広い大路をもつ城市《まち》を攻め取ることができようといってな。それというのも、オリュンポスにお邸を持っておいでの不死なる神々が、もうはや意見の対立をなくしたからだ。ヘレ女神が、すべての神々たちに頼み込んで、ぜひとも承知をさせたわけだが、トロイア方は、ひどい難儀にとっつかれたものだぞ、と」
こういうと、夢の神も、ゼウスの言葉を聞くとすぐに出かけていって、またたく間にアカイア軍の速い船々のあるところに着き、アトレウスの子アガメムノンのもとに赴《おもむ》いた。そして彼がいま陣屋で寝ているところに出会った。そのぐるりを、まだかぐわしい睡りが垂れこめていた、その枕もとにいって立ち、ネレウスの息子ネストルの姿をかりたが、この人は、アガメムノンが長老の中でもいちばん尊敬している者であった。その人に姿を似せて、神々しい夢は声をあげ、彼に向かっていうようには、
「睡っておいでなのか、勇猛な心をたもち、馬の馴らし手なる騎士アトレウスの子よ、統帥の任にある武夫《もののふ》として、一晩じゅう、寝こけているのは心得ちがいだ、全軍の生死をつかさどり、山ほど仕事をもっているのだから。それゆえ、さあ、さっそくにも私のいうことを聞きなさい。私はゼウスのもとから遣《つか》わされた使いなのだ。大神は、はるか遠くにおいでだが、たいそうおん身の上を気遣われ、憐れみをかけさせられる。それでおん身に、頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア勢を大急ぎで、武装させよ、と命じられるのだ。いまこそトロイア人らの、広い大路をもつ城市《まち》を攻め取ることができようから。それというのも、オリュンポスにお邸をもっておいでの不死なる神々の間には、もはや意見の対立がなくなったのでな。ヘレ女神が、頼みこんで、神々たちの全部のかたに、ぜひとも承知をさせたわけだが、トロイア方は、とんだ災難に取っつかれたものだ、ゼウスのおかげで。それゆえおん身はしっかり心に覚えていてな、心をとろかす睡りが離れて去ったあとでも、けして忘れてしまってはならんぞ」
こういい終えると(夢は)立ち去ったが、あとにそのままとり残されたアガメムノンは、成就するはずもないことをいろいろ心中に思い返すのだった。すなわち彼はこの日にも、プリアモスの城市を攻め取れようと期待したのだが、愚かにも、ゼウスがたくらんでおいでの所業もまるで悟ってはいなかった。つまりゼウスが、まだまだこれから、トロイア方にもアカイア(ダナオイ)方にも、手ごわいせり合いをいくどもつづけさせて、たくさんな苦しみやら嘆きやらを与えようと、たくらんでおいでなのを。
そこで彼は睡りから覚めたが、神々しいみことの響きが、あたりに籠めていた。それで身をまっすぐに起こすと坐りなおして、条かい肌着を着こんだ、美しく新しいつやつやしいのを。それから大きな外衣を身に引きまわすと、ゆたかに肥えた足もとに、美しいサンダルをはき、肩にはぐるりと、銀の鋲をうった剣を投げかけた。それから先祖から伝わった、永久に朽ちるときのない王笏《おうしゃく》を取ると、それを持ったまま、青銅の帷子《よろい》を着けたアカイア軍の船陣へと出かけていった。
さても暁の女神が、ゼウスやまたその他の不死なる神々に、夜の明けたのを告げようと、高いオリュンポスの峰に登っていった。おりからアガメムノンは、朗々たる声の伝令使たちに命じて、頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア勢を会議へと呼び集めるよう号令させた。そこで彼らが号令すると、人々はみな大急ぎで集まって来た。
心のひろい元老《おとな》たちの、会議の場所として、まず第一に選んだのは、ピュロスの郷《さと》に生まれた領主ネストルの船陣のかたわらで、そこへアガメムノンは長老たちを呼び寄せて、知恵を集める会議を催した。
「聞いてくれ、親しいかたがた、芳香にみちたこの夜のあいだに神々しい夢が私をおとずれたのだ。それは、あの尊いネストルにそっくりだった、姿といい背丈《せたけ》といい、恰好といい。それで枕元に立って、私に話しかけるには、
『睡っているのか、勇猛な心をたもち、馬の馴らし手なる騎士アトレウスの子よ、統帥の任にある武夫として、一晩じゅう寝こけているのは心得ちがいだ、全軍の生死をつかさどり、山ほど仕事をもっているのだから。それゆえ、さあ、さっそくにも私のいうことを聞きなさい、私はゼウスのもとから遣わされた使いなのだ。大神ははるか遠くにおいでだが、たいそうおん身の上を気遣われ、憐れみをかけておられる。それでおん身に、頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア勢を、大急ぎで武装させよ、と命じられるのだ。いまこそトロイア人らの、広い大路を持つ城市《まち》を取ることができようから。それというのもオリュンポスにお邸をもっておいでの不死なる神々の間には、もう意見の対立がなくなったのでな。ヘレ女神が、頼みこんで、神々たちの全部のかたに、ぜひとも承知をさせたわけだが、トロイア方は、とんだ災難に取っつかれたものだ、ゼウスのおかげで。それゆえおん身はしっかり心に覚えていろ』
こういうと夢(の神)は飛んでいってしまって、快い睡りも私を去ったのだ。それゆえ、さあ、皆さんがた、どうにかして、アカイア人の息子たちを、甲冑《かっちゅう》に武装させようではないか。まず最初に私が言葉でもって試してみよう、これは慣例《しきたり》にもそむかないことなのだから。そしてたくさんな橈掛《かいかけ》をもつ船といっしょに逃げて帰るようにすすめてみよう。そのとき、あなたがたは、それぞれ八方から、いろいろいって引きとめてくれ」
いかにも、彼がこういい終わって腰を下ろすと、みなに向かってネストルが立ち上がった。砂浜の多いピュロスの領主だが、一同のためによかれと、会議の座に立ち、説いていうには、
「おお、親しいアルゴス勢の指揮をとり采配をふるうかたがた、もしこの夢の話し手が、アカイア軍中の誰か他の人だったら、私らはそれをうそだといって、むしろ関係せずにひかえていよう。ところが、いま、それを見たのは、アカイア軍中でいちばん高い地位を誇る人物なのだから、さあ、どうにかして、アカイア人の息子たちを武装させようではないか」
こう声をあげていい終わると、会議から先に立って帰っていけば、王笏をたもつ領主《とのさま》がたも、席を立って、兵士たちの牧者(大将)のいうことに従った。それで兵士たちがつぎつぎと押しかけてきた。そのありさまはちょうど、いっぱい団子になった蜜蜂の群れがつぎからつぎと、穴洞《うつろ》をなした岩の中から、ひっきりなしに出てくるようで、それがぶどうの房みたいにかたまって、春に咲く花の上を飛んでまわる、そして、ここにいっぱい飛び交うと思えば、またあちらにも飛んでいる、そのさまにも似ていた。おびただしい兵士の群れが、船の並びから陣屋からと隊伍をなして、深く入りこんだ海のほとりを会議の場へと繰り出してきた。彼らの間に、ゼウスのお使いという「噂」が燃えひろがって、皆々を行けとうながし立てた。
そこでみな集まったが、会衆は動揺してざわめき立ち、人々が腰をおろせば、その足もとに、大地はうめき声を立てた。騒々しい物音である。その人々を九人の伝令使が大声をあげて押し鎮め、「叫ぶのをやめ、ゼウスが護《も》り立てたもう領主《とのさま》がたの言葉を聞け」としきりにいえば、やっとのことで兵士たちも腰を下ろし、めいめいの席にひきとめられて、騷がしい叫びをやめた。そのとき、アガメムノンは、笏杖《しゃくじょう》を取って立ち上がった。それはヘパイストス神の労作になるもので、これをヘパイストスは、まずクロノスの御子ゼウスにたてまつったが、さらにまたゼウスはこれを、アルゴスの殺し手なるお使い神(ヘルメス)に授けられ、ヘルメスは、馬を鞭打つペロプス王〔アトレウスの父でアガメムノンの祖父〕にお与えなされた。それをまた今度は、ペロプスが、兵士たちの統率者なるアトレウスに、そのアトレウスは死にぎわに、羊をたくさんもっていたテュエステス〔アトレウスの弟〕へ伝えた。それをまたさらにテュエステスがアガメムノンに携えるよう伝えわたした。数多くの島々や、アルゴスじゅうを統治するしるしとしてである。その笏杖によりかかって、アガメムノンは、アルゴス勢に話をしかけた。
「おお、親しい勇士たち、武神アレスに仕えるダナオスの後裔たちよ、クロノスの御子なる大神ゼウスは、ひどい迷いに私をおとしいれられた。以前には立派な城壁をもつイリオスを攻めおとしてから帰国させると、固い約束をされ、はっきりご承知くださったのを、今度は意地の悪い偽《にせ》のはかりごとをたくらみなさって、私に不名誉のままアルゴスへ帰還しろとお命じなされるのだ、こうたくさんな兵士たちを失くしたうえはな。こうすることがまず、勢威の他に優れたもうゼウスの御意にかなうらしい。まったく大神こそ数多い城市の塁《とりで》を取り壊したまい、将来もなお崩されよう、そのお力は、たぐいもなく広大なものである。だが、これは、後の世の人々に聞かれても恥ずかしいことだ、かように、かほども優れ、かほども多くのアカイア軍の兵士たちが、徒《いたず》らに埒《らち》もあかない戦さを、それも数の劣った敵軍と戦いつづけてきたというのは。そのうえ、いっこうに、いつ戦いが終わるかの、めどもまったくわからないなど。
そもそもだ、われわれアカイア方とトロイア方とが、かりに堅い誓約を交わして仲直りし、両方とも数を数えることにしたなら、どういうことになるか。トロイア方は、その土地に家を持つ者をすっかり狩り集め、われわれアカイア方は、それぞれ十人組をつくって勢ぞろいをするとして、その十人組のめいめいに、トロイア人を一人ずつ酒の酌《く》み手につけた場合、まだたくさんな十人組が、酌《しゃく》の仕手なるトロイア人を待てないでいよう。それほども私の思うところでは、アカイアの息子たちは、この城市《まち》に住んでいるトロイア人より大勢いるわけなのだ。だが(彼らの)助勢に、たくさんな町々から、槍をふるうつわものどもがやって来て、それが大変私の邪魔をし、景勝の地を占めているイリオスの城を攻めおとそうと心がけても、そうさせないのだ。
ほんとうにもう九年という、ゼウス大神の年月が過ぎ去っていった。ほんとうに船の材も腐りはて、結《ゆわ》い綱もゆるんでしまっている。われわれの妻やがんぜない子供らは、さぞかし待ちかねて、家の中に座っていように、それを目あてとしてわれわれがここへやってきた、その仕事は、てんで少しも成就されてはいないのに。だからさあ、私がこれからいうように、みな従ってやってはどうだ。船に乗り組み、なつかしい故郷へみんな帰っていこうではないか。もはや、広い大路をもつトロイアを攻め取ることはできなかろうから」
こういって、前の相談を聞いていない一般の人大勢のすべてにたいして、胸中にはげしい思いを湧き立たせた。それで会議の座が一様にどよめき立ったありさまは、まさしく海の大波のようであった。イカリア海〔エーゲ海東部のサモス島に近い海域で、よく荒れる海とされていた〕の海面に、東風エウロスと南風ノトスとがいっしょになって、父神ゼウスの群がる雲から吹きすさんで湧き立たせる波、あるいはまた西風ゼフュロスがやってきて、深くしげった麦畑をゆり動かし、ひどい力で襲いかかるのに、麦の穂が一面にかしいでなびく、そのようにも兵士たちの集まり全体がどよめき立ち、ときの声をあげ、船をめがけて駆け寄る兵士たちの足もとからは、砂塵が高く舞い上がった。あるいはまたたがいにののしりあって、船に取りつき、輝く海へ引きずりおろせとひしめいて、船をおろす溝まですっかり掘り清めた。帰国をはやる兵士たちの雄叫びは、高い天まで届いて、船々の下にかってある枕木もはや取り除かれた。
このおりあるいはアルゴス勢が、天命にそむいて、帰国する運びにいたらないとも限らなかった、もしヘレが女神アテネに向かって、こういわなかったら。
「まあなんてことでしょう、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスさまの娘の、アトリュトネ〔アテネの別称〕よ、まったくこうして、なつかしい故郷へとアルゴス勢が、逃げて帰っていいものかしら、大海の広い背中を押し渡って。しかもプリアモス王やトロイアの人たちの自慢のたねに、アルゴス生まれのヘレネを置いていっても。その女のためにアカイア人《びと》が何人も、トロイアで死んだのですのに、なつかしい故国《くに》から遠いところで。さあ、すぐ、青銅の帷子《よろい》を着たアカイア軍の中へはいっていって、あなたの優しい言葉でもって、武士たちを一人一人引きとめなさい、両端の反り曲がった船々を、海へ引き下ろさせてはなりません」
こういうと、きらめく眼をした女神アテネは、いうにやおよぶとさっそくに、オリュンポスの山頂から、さっとばかりに飛んで降りた。またたくうちにアカイア軍の速い船がおいてあるところに着いて、それから知恵にかけてはゼウス神と同様とまでいわれるオデュッセウスが突っ立っているのを見つけた。彼はともかく、漕ぎ座が立派に造られている黒塗りの船にまだ手を着けないでいた、胸にも心にもつらい思いが迫っていたので。そのそば近くにいって立つと、きらきらした眼のアテネは向かっていうよう、
「ゼウスの裔《すえ》でラエルテスの子の、方策に富んでいるオデュッセウスよ、本当にこうして、なつかしい故郷へと、あなたがたがにげ帰っていいものだろうか、そしてプリアモス王やトロイア人《びと》たちの自慢のたねに、アルゴス生まれのヘレネを置いていっても。その女のためにアカイア人《びと》が何人も、トロイアで斃《たお》れたものなのに、なつかしい故国から遠いところで。さあ、すぐアカイア勢の兵士らの中へはいって、遠慮しないで、あなたのやさしい言葉でもって、武士たちを一人一人引きとめなさい、両端の反り曲がった船々を、海へ引き下ろさせてはなりません」
こう女神がいわれると、彼は、声をあげておおせられた女神の言葉を識《し》りわけて、駆けだしながら、上衣を投げすてた。それを、伝令使のエウリュバテスが持っていった。これはイタケ島の生まれで、主人(オデュッセウス)につき従っていた者である。それで彼自身は、アトレウスの子アガメムノンの面前に来ると、その手から先祖伝来の、朽ちるときのない笏杖を渡してもらい、それを持って、青銅の帷子《よろい》を着たアカイア軍の船陣へと出かけていった。
そして、誰でも殿様なりいっぽうの旗頭という人物なりに出会うたび、そのそばに立ち添い、巧みな弁舌で引きとめていった、
「いったい何ということだ、臆病者みたいにこわがってるとは、きみにも似つかわしくないことだ。それよりきみ自身、落ちついて腰をすえ、他の人たちもしっかり落ちつかせろ、きみは、アガメムノンの本心がどうなのかは、けしてはっきりとは知ってないのだからな。いまはきみたちを試しているので、じきに今度はアカイア人の息子らを懲《こ》らしにかかるかも知れん。会議の席で、彼が何といったか、われわれ皆が聞いたのではない。彼が立腹してしまって、アカイア人の息子らをひどい目にあわせねばよいが。ゼウスが護り育てたもう国主たちがはげしく怒ったときには、大変な勢いだから。ともかくその権威はゼウスから出ているもので、知恵をおはかりのゼウス神が彼をいつくしまれるというのだから」
また一般の兵卒などが、大声をあげて叫んでいるのを見かけると、その男を笏杖でどやしつけ、こう叱りつけていった。
「何というやつだ、おとなしく坐っていないか、そして他人のいうことを聞け、おまえよりすぐれた者のいうことをだ。おまえときたら、戦さは下手で勇気はなし、いつだって戦いでも会議のおりでも、物の数にも入れられないではないか。ここにいるアカイア勢の誰でもがみな号令をするわけではけしてない、頭《かしら》がたくさんあるというのは、よくないことだ、首領はただ一人に限ったがよい。国の主君《あるじ》もたった一人、その人に、狡智にたけたクロノスの御子(ゼウス)が王笏と法掟《のりおきて》とを、それをもって政事をおこなうように、授けられた人物だけだ」
こういって彼は牛耳《ぎゅうじ》りながら、陣営中をわたっていった。そこで一同はまたもや会議の場へと、船の並びから、あるいは陣屋から、ひどい物音をたて駆けつけたのは、ちょうど波が、ごうごうと鳴りさわぐ大海の、ひろい浜辺にうちつけて、とどろきわたれば、海原一面響きをかえすときのようだった。
それで大方の人々はみなめいめいの座席に引きとめられて、腰を下ろしたが、ただ一人、テルシテス〔「厚顔な男」というほどの名前〕だけは、言葉に何のつつしみもなく、依然としてわめきつづけていた。この男は役にも立たない、節度も礼もない文句をいっぱいに自分の胸にためこんでいて、それを礼儀も秩序もわきまえずに、王侯《とのさま》がたといい争いをし、アルゴス勢を笑わせようと、思ったことをいつもしゃべくる男だった。彼はまたイリオスの城下へ遠征してきた人々のうち、いちばん醜い男で、がに股にもってきてびっこ、両肩は曲がって胸の前で寄り合っている、しかもその上に乗ってる頭はゆがみ曲がって、それへまばらな頭髪《かみのけ》がぽちぽち生えているだけだった。それがアキレウスをいちばんの目のかたきにし、オデュッセウスにもひどく嫌われていた、この二人に向かっていつもとやかく苦情をいうので。今度もまたもや尊いアガメムノンに向かってはげしくどなり散らし悪態を吐きつづけたので、アカイア勢の人々はみなこの男にひどく腹を立て、心の中で憤慨しているところだった。それが今、大きな叫び声をあげ、アガメムノンをとがめていうには、
「アトレウスの子よ、何をまた今度も苦情をいって、欲しがっているのか、あなたの陣屋はみな青銅でいっぱいになり、陣屋の中にいる女たちは大勢で、しかも選《え》り抜きぞろいだ。その女たちはみなわれわれアカイア軍が、まず第一にあなたへと、城市《まち》を攻め取るごとに贈ったものだ。それとも、まだその上に黄金が欲しいというのか、イリオスから、馬の馴らし手であるトロイア人らが、息子の贖《あがな》い金としてたぶんは運んで来るかも知れないものを。それだって、私なり他のアカイア軍の兵士なりが、捕まえて連れて来た者だろう。それとも若い女をお望みか、それを心ゆくまで可愛がろうというので、自分でもって他人に指を触れさせずに押さえておこうと。だが大将として、アカイア人の息子たちを、禍いの中に引っ張りこむのはけしからんことだ。
(だがおまえたちも)意気地なしの、恥さらしだな、もうアカイアの男ではない、女たちだ。さあ故郷へ船をみなもって帰ってしまおう。それでこのかたはそのまま、ここトロイアに置いていこうぜ。褒美を勝手に貪らせてやろうよ、いつかはちっとはわかるようにな、われわれがこのおかたを防ぎ護る何かの役には立ったかどうか。このおかたは、いまだって、アキレウスを侮辱したんだ、自分よりもずっと強い武士《さむらい》だのにな。それも自分で出かけていって、褒美の女を奪いとっておさえているのさ。ところが、アキレウスは全然腹をたてようとしない。まったくのんびりした男だよ。(もし怒ったら)アトレウスの子よ、あなたが人を傷つけるのも、これが最後になるだろうにな」
「テルシテス、言葉づかいもわきまえぬやつだ。いかにもおまえは声の高いおしゃべり屋だが、黙ってすっこんでろ。一人でもって諸侯《とのさま》がたと争いを起こそうなど考えてはならん。ことわっとくが、おまえ以上に下司《げす》な男が、アトレウスの子に連れられてイリオス城下に来た軍中に、またもう一人あろうとは考えない。だから、もうけして大将《とのさま》がたを口の端にかけ、あるいはいろんな非難をあびせ、帰還の話をやりとおそうとしてはならない。いったいわれわれには、この仕事がどうなるものか、はっきりとはわからないのだ、アカイアの息子どもが、はたして首尾よく帰国できるか、それともひどい目にあおうかはな。
おまえはいま兵士たちの統領なるアトレウスの子アガメムノンを非難しつづけて坐っている。ダナオイ方の勇士が、たくさんな財物を彼に与えるといって、それをおまえはとがめ立てしてかれこれしゃべるが、こうはっきりおまえにいっておこう、これはかならず実行されようからな。もしこれから先、二度といまみたいにばからしい振舞いをしているところを見つけたら、きっとおまえをとっつかまえて、身ぐるみ着物をはいでやる。上着も下着も、腰につけた布までもな。さもなきゃ、もうこのオデュッセウスの首が、肩の上に乗ってもいまいし、もはやテレマコスの親父と呼ばれることもなくなるだろうよ。そいでおまえ自身が、町の広場から、恥っさらしな鞭打ちにされ、打ちのめされたあげくに、泣きわめくのを、速い船のあるところへと追っ払ってやるぞ」
こういって、杖を取ると、(テルシテスの)背中だの両肩だのをどやしつけた。彼は痛さに身をすくめ、涙をいっぱいこぼしたが、その背中には血ぶくれになった青あざが、黄金の笏杖に撃たれたもので、もりもりとふくれ上がってきた。そこで彼は気がくじけて坐りこみ、痛さを覚えると、しょうことなしの間抜け顔で、涙をぬぐい取った。そこで並みいる兵士たちはみな、テルシテスをいい笑い者にし、近くに居合わす者と眼まぜをしてから、かようにいいあったものであった。
「いやあまったくな、オデュッセウスも、ずいぶんと立派な働きをやっている。先に立ってすぐれたはかりごとを立てたり、戦さの用意をととのえたりな。だが今度やったこの事件も、アルゴス勢の皆にたいしては、とてもいいみせしめだったよ。こうした悪態を吐《つ》いて(他人を)傷つけたりする悪い男を、会議の場ではしゃべれないようにしてくれたのだから、もうきっと、二度とふたたび、こう思い上がった心根にもせよ、勝手に殿様がたを非難の言葉で、とがめ立てすることはやるまい」
こう大衆はいいあった。さて城を攻めおとすオデュッセウスが、笏杖を手にして立ち上がれば、そのそばにきらめく眼のアテネが、伝令使の姿をかりて、兵士たちに静かにしろ、と号令した。いちばん前にいる者もいちばんうしろの者と同様に、列座のアカイア人の息子たちがみな話を聞いて、その建策を検討することができるようにと。そこでオデュッセウスはみなみなの利益をはかって、会議の座に立って説くようには、
「アトレウスの子の王よ、いまこそアカイア軍の人々はあなたを、世界の全人類にたいして、このうえなく非難に値する者にしたてるつもりなのだ。馬を飼うアルゴスからこの地へ、みんなしてこれから出発しようというとき、ちゃんと誓ったその約束も、完全に実行する意志がないのだから――立派な城壁をめぐらしているイリオスを攻めおとしてから帰還しようという約束を。そこで、まだ年端《としは》もいかない少年か、寡婦になった女みたいにおたがいに、故郷へ帰りたいといって泣き悲しむのだ。いやまったく、こんなところで持ちこたえるというのは、心の疲れる骨折り仕事だ。だってさ、ほんの一月ぐらい妻から離れて、漕ぎ座をたくさんもった船に乗り組むのにさえ、ぐずぐずいうのが世のならわしなのだから――冬のあらしに吹きこめられて、海が荒れさわぐので、帰れない時などにはな。それをいま、われわれはもうこの土地に逗留するのも、はや九年目以上になろうとしている。それだから私だって、アカイア勢が、舳《へさき》の反った船のところで、ぐずぐず苦情をいったにしても、けして不当とは考えない。だが、そうはいっても、長いあいだ滞留しているのに、獲物もなしで帰るというのは、恥ずかしいことだ。
辛抱しろ、仲間たちよ、もうすこしのあいだ待ちなさい、カルカスの予言が本当か、そうでないが、はっきりするまで。というのも、私らは胸にしっかりそれ(予言)を覚えているのだから、おまえがたみんなも証人なんだ、死神がさらっていかなかった人たちならみんながだ。昨日《きのう》か一昨日《おととい》のことみたいだ、アカイア軍の船隊がアウリス〔ボイオティアの港。アカイア軍はここに集まって、トロイアへ出航した〕の浜辺に集まったのは――プリアモスやトロイアの人々に禍いをもたらそうとしてな。で私らのまわりの両側に聖い祭壇を築いて、不死である神々へと、申し分のない百年の大贄《おおにえ》を奉った。そこは美しい鈴懸《プラタナス》の木の下で、東から水がきらきらと流れ出ている場所だった。そのとき偉大な前兆が示されたのだ、背中のまっ赤にいろどられた大蛇、それも恐ろしいほどのが、まさしくオリュンポスの御神(ゼウス)御自身が光明界《このよ》へとお送りになったに違いない。それが祭壇の下から飛び出すと、鈴懸の木へ向かって進んでいった。そこには雀の雛《ひな》の、まだほんのかえりたてのが、いちばん高い木の枝の、葉ぞえにかくれて、かがまっていた、八羽の雛と、それにそれらの母鳥《おやどり》をいれて九羽が。するとその大蛇は、雛子《ひよこ》どもを、可哀そうに、啼き叫ぶのをみな、食ってしまった。それで母鳥が、かわいい子たちを嘆き悲しみ、まわりを飛びまわっていたところを、またもや(蛇が)身をぐるぐるとくねらせて、あちらこちらと啼き叫んでいる鳥の羽根を、とっつかまえた。こうして大蛇が、雀の雛と母鳥自身まで食ってしまったとき、以前にまさしくこの蛇を現わしたもうた御神が、またその姿を見えなくした(つまり、その蛇を、狡智にたけたクロノスの御子が、石にしてしまわれた)ので、これを見る私らは、突っ立ったまま、出来事の奇怪さに、呆然としていたものだ。さてこの恐ろしい異象が、神々への大贄祭にふりかかったおり、カルカスが、それからすぐに、神託を伺ってお告げをするよう、
『なぜおまえがたは黙りこんでしまわれたか、頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア勢よ、われわれにこの大した異象を示されたのは、知謀の御神ゼウスである、成就はたとえ遅くなろうとも、その名声はけっして滅びないことだろう。ちょうどこの蛇が、雀の雛を母鳥ぐるみに食ってしまった、八羽の雛にそれを産んだ母鳥を入れて九羽を』――それと同じに、われわれも同年数を、この土地で戦いに過ごすだろうが、十年目には、この広い大路をもつ城市《まち》を攻め取ることができるだろう。こうカルカスはお告げを解いた。それがいまこそみなそっくり実現されるのだ。だからさあ、誰もかもみんなこのままここに踏みとどまれ、よい脛《すね》当てをつけたアカイアの人々よ、プリアモス王の大きな都を攻めおとすまで」
こういうと、アルゴス勢は高い叫び声をあげた。あたりの船も、アカイア軍の雄叫びに恐ろしい反響をかえして鳴った、尊いオデュッセウスのいうことにみな賛成したので。その人々の間に立って、ゲレンの騎士ネストルがいうようには、
「ええ、あきれたことだ、おまえらの議論ときたら、戦さのことなどてんで何も頭にない小童《こわっぱ》みたいに、ただわめきたてるばかりではないか。いったいどうしてくれるというのだ、前に私らとした取りきめだの契約だのというものを。まったく火の中へでも投げこんでしまうがよかろう、一旦《いったん》武士がした前の決定だのはかりごとだの、また神前に固く誓ったことや、信義のしるしに交わした右手(の約束)なども。なぜというと、私らは要もなく、口先だけで争いあっていて、何の手段も見つけだすことができないのだから――ずいぶん長いこと、このところに来ていながら。
アトレウスの子よ、せめてあなたは、どうか依然として昔どおりに、確乎として揺るがない意見を守って、激しい合戦の間じゅう、アルゴス勢の指揮を執《と》ってください。この男たちは勝手に滅びさせたらいい、一人か二人だ、アカイア軍のうちで違った意見を持ってるというやつは。けして、アルゴスに帰還できる前には、そうしたやつらの意見どおりになることはない。その前にまさしく山羊皮楯《アイギス》を持たれる御神がなさった約束が、真《まこと》でないかどうかが、わからないうちはだ。だってさ、進みの速い船に乗って、われわれアルゴス勢が、トロイア人に、殺戮《さつりく》と死の運命《さだめ》をもたらそうと船出した、そもそもあの日に、あのご威光の他にすぐれるゼウス神が、うなずかれたと信じるからだ。右の方角にあたって、いなずまをひらめかせ、めでたい兆《きざし》を示されたものだ。それゆえ、誰にもせよ、家へ帰ろうなどと急《せ》き立ってはならぬ。トロイア人《びと》の妻(を奪って、それ)といっしょにねられるようにならないうちは、そしてヘレネが駆け落ちしたこと、そのための愁嘆に十分仕返しができないうちには。
もしまた誰かが、やたらに家に帰りたがるなら、立派な漕ぎ座をもった黒塗りの、自分の船に手をかけてみるがいい、そしたら他人よりもまず自分自身が、死の運命にあおうからな。ともかくも王よ、あなたが自分でよく思案し、また、他人の言葉に十分耳をかしてください。私の言葉が、どんなものにせよ、それは、けしてほうり出しておいてはなりますまい。武士《さむらい》たちを、その部族ごと、仲間組ごとに分列させなさい。アガメムノンよ、それで仲間の組は組を助けられるよう、部族は部族を助けるられるようにだ。もしもあなたが、そうさせなさって、またアカイア勢がそれに従い分列したなら、そしたら指揮官のうち、また兵士のうちで、誰が卑怯な弱虫か、誰が勇敢な者か、すぐにわかりましょう。つまりめいめいが、別々に戦さをするわけですから。それにまた、この城市《まち》を攻めおとせない場合にしても、それが神意によるものなのか、あるいはまた武士たちの弱さとか、戦さの心得がないためなのかが、おわかりでしょう」
すると、それに答えて、アガメムノン王がいわれるよう、
「まったく今度もあなたは議論でもって、老人よ、アカイアの息子たちを負かしなさった。ほんとうに、ゼウス父神もアテネもアポロン神もお聞きください、こんなふうに私の相談相手になってくれる人が、十人もアカイア方にいてくれたらなあ。そうしたら、じきに、プリアモス王の城塞《とりで》も、われわれの手にかかって攻め落とされ、劫掠《ごうりゃく》されて屈服したことだろうに。だが、山羊皮楯《アイギス》をお持ちの、クロノスの御子ゼウスがくださったのは苦しみや悩みだ。それで私をろくでもない争いだの喧嘩だのへ、くり返して突っこみたもうばかりなのだ。さっきだっても、私はアキレウスと、ある娘のことで喧嘩をした、たがいにひどい口論を交わしあってな。私がさきに腹を立てたものだ。が、もしわれわれが一つ心になって仕事にかかったならば、そしたらもはや、トロイア人らには、ほんの少しの猶予もなしに、禍いが迫るだろうに。
では、さあ、みな食事に出かけなさい、これから戦さに取りかかろうから。誰も彼もみな、よく槍を磨いておけ。よく楯も調べておくがいい。誰も彼も、よく足の速い馬に飼葉を与えておけ。誰も彼も、よく戦車のぐるりをしらベ、戦いの用意をしろ、一日じゅういまわしい戦さに敵兵と雌雄を決することだろうから。その間は、ほんのつかの間たりとも、息を休めるひまはなかろう、とうとう夜が来て、兵士たちのはげしい勢いを引き分けるまでは。いかにも、誰彼の胸の右左に、体を被う大楯の皮の締め緒も、いっぱいの汗に濡れよう。また長い槍を握る手も、疲れることだろう。誰彼の、よく磨かれた戦車をひく馬も、いっぱいの汗に濡れよう。だがもし私が、誰にもせよ、自分からして戦場を捨て、舳の反った船のかたわらにぐずぐずしているやつを見たなら、そうしたらばもう、そんな男は、野犬だの鷲や鳥の餌食になるのを逃れる道はないと思え」
こういうと、アルゴス勢は高らかに雄叫びをあげた、ちょうど波が、高くそびえる海岸に(鳴りとどろくよう)、南東風がやって来て揺り立てるのに、突き出た巌《いわお》へ(当たって砕ける)ように。だがその巌から波はけしてひこうとせずに、あちらからこちらからと吹きまくる風に押されて来る。さて兵士らは座を立って、大急ぎに、それぞれの船陣へと散っていった。そして陣屋ごとに火をおこし煙をあげ、昼食をしたためた。またそれぞれ、永遠においでの神々に、自分のところの祭壇に祈りをささげ、戦場のはげしい出入りに死をまぬかれるよう、願うのであった。
ところで、武士たちの君アガメムノンは、威光のとりわけ広大なクロノスの御子(ゼウス)に、肥え太って五歳になる一匹の牛を贄《にえ》として献げられた。そして全アカイアの軍勢の元老たち大将たちを呼び寄せた。まず第一にはネストルと(クレテの)イドメネウス王を、それからつづいて両アイアス〔アイアスはトロイア出征軍中に二人おり、一人はサラミスの領主テラモンの子の大アイアス、もう一人はロクリスのオイネウスの子で小アイアスと呼ばれた〕とテュデウスの息子(ディオメデス)を、また六人目には、知恵にかけてはゼウスにも匹敵しようというオデュッセウスを。また先方から(ひとりでに)出向いて来たのは、雄叫びも勇ましいメネラオスで、彼は心中に、自分の兄がどんなに忙しくしているか、よく心得ていたからだった。それから一同、牛のまわりに並んで立ち、撒《ま》き麦を手に取りあげると、アガメムノン王は、みなみなを代表して祈っていうよう、
「いと誉れあり、いと大いなる御神、黒雲を寄せ、高空《たかぞら》にいますゼウスよ、なにとぞその前に太陽が沈み、暗闇が襲ってきませぬように、プリアモスの館の、(煙で)黒ずんだ棟梁をさかさまにくつがえらせて燃えさかる火で扉を焼きつくし、ヘクトルの鎧帷子《よろいかたびら》を、胸のまわりに青銅(の刃)で、ずたずたに切り裂くまえに。また何人《なんぴと》も、ヘクトル(の屍)をめぐって、その僚友たちに、砂塵の中へうつ向けに伏し、土を歯にかみしめさせることができるよう」
こうはいったが、もとよりけして、クロノスの子は彼の願いを、きき入れようとはなさらなかった。それどころか、犠牲は受けたもうたが、ありがたくない苦労のほうは、かえって大きくしてやろう、とされたのだった。
さて一同は祈祷を終わり、撒き麦を振りかける儀式もすますと、まずはじめに牛の首を引きおこして、のどを切り裂き皮をはぎ、両腿の骨を切って取ると、その上に脂身を二重にして蔽いかぶせて隠しこみ、さらにそれらの上に生ま肉の片《きれ》を並べて置いた。それから葉のなくなった薪のきれはしで焼きあげた上、臓物を串にさしつらぬいて、ヘパイストス(の火焔)の上にかざして焼いた。それからこんどは、腿肉が焼けあがって、臓物を皆でわけて食べてから、他の部分を細かに刻んで、串のまわりに刺しとおして、念入りにあぶったうえ、みな残らず火から取り降ろした。それからつぎに仕事がすっかり終わって、馳走の用意が整うと、一同して食事に取りかかったが、申し分のない饗宴に満足のゆかぬところはまったくなかった。このようにして、飲むことにも食うことにも、はや飽き足りた時に、一同に向かってまず先立って話しかけたのは、ゲレンの騎士ネストルだった。
「いと誉れあるアトレウスの子、武士たちの君アガメムノンよ、いまはもうここに集まっているのはよしにしよう。またこれ以上に長く、御神がわれわれの手にお授けなさった、仕事をするのをのばしてはなるまい。だからさあ、伝令使たちに命じて、青銅の帷子《よろい》をつけたアカイア勢の兵士たちに布令《ふれ》てまわらせ、船陣ののこらずから集合させよう。われわれはこのままでいっしょにそろって、アカイア軍の広い陣中を進んでいこう、少しでも早くはげしい戦さをはじめられるように」
こういうと、武士たちの君アガメムノンもいうにやおよぶと賛成して、すぐ、朗々と声のよくとおる伝令使たちに命じ、頭髪を長くのばしたアカイア人らを、戦いへと呼び立てさせた。そこで彼らが命を伝えれば、人々はすみやかに集まってきた。そして、アトレウスの子をとり巻いていた、ゼウスの庇護のもとにある領主《とのさま》がたが、いそいで兵士たちを分列させると、その間をきらめく眼のアテネ女神が、ことさらに尊い山羊皮楯《アイギス》、けして古くなりもせず滅びもしないその楯をかざして進むと、それをとり巻く百の総《ふさ》の、すっかり黄金でできているのが、ひらひらと揺れる――総はどれもみなみごとな織りで、その一つ一つが四頭の牛の値をもつものだった。それを携えて、あちこちとかけずりまわり、アカイア軍の兵士らの間を馳せて、進軍へと励まし立て、その一人一人の胸中に勇気を奮い起こさせて、休むことなく戦さをつづけ、戦い合うように、きおい立たせた。そこでたちまちに、彼らにとっては戦さのほうが、懐かしい故郷の地へ、なかのうつろな船に乗って帰るのよりも、楽しいことと思われてきた。
さながら恐ろしい火が、広大な森を燃やし立てるよう、山々の頂に、遠くからその火明《ほあか》りがはっきり見取られる。そのように押し寄せて来る兵士たちの、数知れぬ青銅(の物の具)からのきらめきが燦然として照りわたり、高空《たかぞら》をとおして天に届いた。
またはさながら飛んでゆく鳥の、おびただしい群れ、それは雁《かり》か、あるいは鶴か、それとも長い頸《くび》をもつ白鳥の群れであろうか、その群れがアシアの郷《さと》の牧原に、カウストリオスの流れの傍で、あちらこちらと飛びまわっては翼をはたいて見得を切るよう。おびただしい叫びをあげて下へ降り立とうとするのに、牧原は一面に鳴りとどろく。そのように兵士たちのおびただしい群れが、船々から陣屋からと、スカマンドロス〔トロアス地方を流れる主な河の一つ〕の平野へと流れこむのに、その足もとの大地は、歩兵たちの足もとから、あるいは(戦車の)馬の蹄《ひづめ》のもとに、恐ろしい響きをあげた。花咲き乱れるスカマンドロスの牧原に立ち並んだ兵士たちの数は、何万とも知れず、季節のめぐりに生《は》え出る木の葉、あるいは花の数ほどあった。
さながら、いっぱい群れてぶんぶんうなる蝿のたぐいが、羊を入れる小屋のあたりに、おびただしく飛び交わすよう――それは春の季節で、濃い乳汁が乳桶をじっとりと濡らす時分のことだが――それほどにもおびただしい、頭髪を長くのばしたアカイア勢がトロイア方に敵対して、木っ端微塵に破ってくれようものと意気込み、平原に並んで立った。
その人々を、さながら散らばった山羊の群れが、牧原でたがいに入りまじったおり、山羊飼いの男たちが、それでも容易に選りわけていくよう、それと同様、兵士たちを統領がたは、そこへまたここへと、戦闘に赴くように、それぞれ分列させて並べた。その間に立つアガメムノン王の、面貌や頭の様子は、いなずまを擲《なげう》つゼウスにそっくり、腰のあたりはアレス神に、胸郭はポセイドンにそっくりで、さながら牛群の中でも、たくましい牡牛が、とびぬけて目につくよう、群がり寄った牛の中でもすぐと知られる、それと同じく、この大事の日にはアトレウスの子(アガメムノン)を、ゼウスは大勢の、ひとに優れた英雄たちの間にあっても、抜群にあらわれるようにされたのだった。
今度はさあいってください、オリュンポスの宮においでの詩神《ムーサ》たちよ、なぜといって、あなたがたは女神であって、その際においでなさり、万事をわきまえておいでになる、ところが私どもは、ただ評判を聞いたばかりで、何一つわきまえてはいないのです、どういう大将方がダナオイ勢を引き連れていったかも、その首領分たちが誰だったかも知っていません。(こう)大勢の人の名は、たとえもし私に舌が十枚、口が十あったとしても、また声がけしてわれたりせず、心が青銅だったにしても、よしオリュンポスにおいでの詩神《ムーサ》たち、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスのお娘たちが、イリオス城下に来た人々を、いちいちみないいきかせてくださらないなら、(その大勢の人々の名を)あげることも語ることもできないでしょう。では船隊の大将たちと船隊の名を、まずこれから残らず述べることとしましょう。
ボイオティア、または船軍の目録《カタロゴス》
さてボイオトイの軍勢を率いたのは、ペネレオスに、レイトスに、アルケラオスとプロトエノルとクロニオス、この人々はヒュリエや岩の多いアウリスや、スコイノスからスコロス、丘のたくさんあるエテオノスやテスペイアからグライア、舞場《まいにわ》のひろいミュカレソスに住まう者である。またハルマの辺からエイレシオンやエリュトライに住む人々、またエレオンやあるいはヒュレ、ペオテンを領する人々で、オカレアやメデオンの要害に拠る城塞《とりで》をたもち、コパイやエウトレシスや、鳩のたくさんいるティスペを領していた。またコロネイアや、牧草に富んだハリアルトスを領する者、プラタイアを、あるいはグリサスを領とする者、あるいは下テーバイの、よく築かれた城塞に拠り、かつは尊いオンケストスなる、ポセイドンの立派な神苑を領する人々、またはぶどうの房のゆたかなアルネを占める者、ミディアや、いとも神聖なニサ、国のいちばん端にあるアンテドンを領する者など、これらの人々をのせあわせて、五十隻の船が出かけてきた、その一隻ごとにボイオトイの若者が百二十人、乗り組んでいた。
さてまたアスプレドンや、ミニュアイ族のオルコメスに住む人々、その指揮官はアスカラボスとイアルメノスで、ともに武神アレスの息子であった。この二人はアステュオケが、アゼウスの子の(父)アクトルの屋敷にいたころ、またつつましやかな乙女の身で、高殿に上っていって、いかめしいアレスのためにもうけた子である、御神は、こっそり乙女に添え臥《ふ》された(と伝えられる)。この手勢には、三十隻の、中のうつろな船々が陣列についていた。
そのつぎのポキス勢には、スケディオスとエピストロポスが大将となった。この人々はナウボロスの子の、心の大きいイピトスの子で、キュパリッソスや岩の多いピュト、世にも神聖なクリサやダリウス、パノペウスを領有していた。あるいはアネモレアやヒュアンポリスのあたりに住居し、または聖《きよ》いケピソスの川のほとりに住み、あるいはケピソスの源流に臨むリライアに居住していた。この人々には四十隻の黒塗りの船がいっしょに従ってきた。そして彼らはポキス軍の船勢を整備して列に就《つ》かせ、ボイオトイ勢の隣の、左側に陣取らせた。
さてロクリス勢の指揮を執るのは、オイレウスの子で、(足の)速いアイアス〔小アイアース〕だった。小柄のほうで、テラモンの子のアイアスほどには背丈がなくずっと小柄で、なりこそ小さく麻の胸甲《むなよろい》を着てはいたが、槍を取ったらヘラス国じゅう、またアカイア勢にもおよぶ者はいなかった。その手にはキュスやオポエイスやカリアロスを牧する者らがつく。こうしてアイアスといっしょについてきたのはロクリス勢の四十隻の黒塗りの船で、この人々は聖いエウボイア島の真向かいにすまいしていた。
またエウボイアを領有して、すさまじい気勢をあげるアバンテスたちは、カルキスやエレトリア、ぶどうの房の豊かにみのるヒスティアイア、あるいは海に臨むケリントスやディオスの嶮しい城塞《とりで》に拠り、またはカリュストスを領有し、ステュラに住みならわした者などで、この人々を率いていたのは、エレペノルという、武神アレスの伴侶《とも》で、カルコドンの子に当たり、意気のさかんなアバンテスらが首領だった。その彼といっしょに、すばしこいアバンテスらが従って来た。うしろ側だけ頭髪を長くしている、名だたる槍の使い手で、とねりこの槍を差しのべ、敵の甲《よろい》を胸のところで突き破ろうと気負い立っていた。彼といっしょに、四十隻の黒塗りの船が従って来た。
またアテナイの、よく築かれた城市《まち》を領する人々、それは心の大きなエレクテウスの邑《さと》である。その人をむかしゼウスの娘アテネ女神が養い育てた、生みの親は、麦を実らす畑土だったそれを(女神が)アテナイへと、ご自分の豊かな社殿にお坐らせになった、その場所で、アテナイ人の若者どもが、めぐって来る年ごとに、牡牛だの子羊だのを女神に献じて祭りをし、神意をなだめまつる習わしである。さてまたこの人々を率いるのは、ペテオスの子の、メネステウスであったが、馬たち(戦車)や楯をもつ武士たちの訓練にかけては、この世にある人間で彼に比肩しようという者は一人もなかった。ただネストルだけが、年もずっと上だったので、ただ一人、彼の競争相手だった。その殿といっしょに五十隻の黒塗りの船が従って来た。
またアイアスはサラミス島から、十二隻の船を率いて来、アテナイ人の船列が陣取るところへ、連れていってひかえさせた。
またアルゴスや、城壁をめぐらしたティリュンスに拠る人々や、ヘルミオネやアシネの、深い入江に臨んだ町をもつ人々、あるいはトロイゼンやエイオナイや、ぶどうの繁ったエピダウロスや、アイギナやマセスを領したアカイアの若者たち、この人々の指揮を取るのは、雄叫びも勇ましいディオメデス〔知恵と武勇に秀でる若武者〕と、ステネロスで、この殿は世に誉れも高いカパネウスの愛しい息子だったが、この人々に三番目としていっしょに、エウリュアロスが加わった、タラオス殿の息子であるメキステウスの息子とて、神にもひとしいつわものだった。この全体を統率するのが、雄叫びも勇ましいディオメデスで、この人々には、八十隻の黒塗りの船が、いっしょについてやって来た。
またミュケナイの、よく築かれた城市《まち》を領する人々、あるいは富んで豊かなコリントスやよく築かれたクレオナイ、またオルネアイや美しいアライテュレエやシオキュンなど、知ってのとおりその昔アドレストスが治めていた地を領する人々、あるいはヒュペレイエとか峻険なゴノエッサとか、ペルレネを領するものや、アイギオンのあたりからアイギアロスの全体にかけて、あるいは広いヘリケのあたりに住居する人々、この人たちの百隻の船を指揮するのは、アトレウスの子アガメムノンである。彼の伴侶《とも》には、(アカイアじゅうで)いちばん多くの、またいちばん優れた兵士が従って来た。その中にして自身は光り輝く青銅(の鎧)を着こなし意気揚々として、すべての英雄たちにも抜きん出た様子はたぐいもなく、また飛び抜けてたくさんな兵士たちを引き連れていた。
また窪みになって、谷間に富むラケダイモンを領する人たち、パリスや、スパルテや、鳩のたくさんすむメッセや、ブリュセイアあるいは美しいアウゲイアイに住居する人々、あるいはアミュクライからヘロスなど海岸にある城市《まち》を領する人々、またラアスやオイテュロスのあたりに拠る人々、この人たちの船勢を引率するのはその弟の、雄叫びも勇ましいメネラオスで、六十隻におよんでいたのを、他から離れたところで戦いの用意をさせた。その間を彼は自身で、わが熱心さに胸をふくらせ、行きつ戻りつ、兵士らを戦いへと励まし立てた。とりわけて心中に、ヘレネが出奔したのと、そのために受けた悲嘆とに、仕返ししようとあせっていたからである。
またピュロスや、美しいアレネ、あるいはアルペイオス河の渡しであるトリュオンやよく築かれたアイピュや、あるいはキュパリッセイエス、アンピゲネイアに住む人々、あるいはプテレオスやヘロスやドリオンに拠る人たち、この邑《むら》でむかし|詩の女神《ムーサイ》たちがトラキアの人タミュリスに出会って、謡いをできなくしたと伝える。彼はその時オイカリエから、その王のエウリュトスのもとを去っていく途中だったが、大威張りで、たとえ山羊皮楯《アイギス》をもつゼウスの娘たちの|詩の女神《ムーサイ》がたと歌いくらべをしたにしろ、負かしてみせると高言した、それで女神たちは立腹なさって、彼を片輪にしてしまい、神がかりの謡いの力を取りあげられ、琴を弾く技も忘れさせてしまったのである。ところで、この人々を率いてきたのはゲレンの騎士ネストルで、九十隻のなかのうつろな船勢が陣列についた。
つぎはキュレネの嶮しい山のもとにあるアイピュトスの墳《つか》のわきの、アルカディエを領する人々で、接近戦を得意にする武士たち。またはペネオスや羊をたくさん持っているオルコメノスに住む人々から、リペやストラティエや風のよく吹くエニスペ、またテゲアや美しいマンティネアを領する人たち、ステュンペロスの住人やパルラシエに拠る人たち、この人々の六十隻の船勢を率いるのは、アンカイオスの子アガペノル王であって、その一つ一つの船中には、大勢のアルカディエの兵士らが乗り組んでいたが、みな戦さの業を心得た者どもだった。≪というのも、つまり武士たちの君アガメムノンが、わざわざ彼らに漕ぎ座の立派に設《しつら》えてある船を、ぶどう酒色の海原を渡っていくよう、与えられたからであった。彼らは元来海の仕事にはなれない者どもなので≫
さてまたブプラシオンなど、聖いエリス州に住んでいる人々、ヒュルミネからミュルシニスを境とし、オレニエの巖や、アレシオンが内に取り囲むかぎりの地域に住む者だが、これを率いる大将には四人があって、そのめいめいに十隻の速い船が従属して、それに大勢のエペイオイ人《びと》が乗り組んでいた。まず一隊《ひとて》はアンピマコスとタルピオスが率いるものだが、この両人はそれぞれクテアトスとエウリュトスの息子たちで、共にアクトルの裔《すえ》に属する。もう一つの(残りの、第三)船隊は、アマリュンケウスが子で剛勇なディオレスが率いるところ。第四の船隊は、神の姿とも見えるポリュクセイノスに引率された。この者はアウゲイアスの子アガステネス王の息子である。
また、ドゥリキオンや神聖なエキナデス列島から来た人々、これらは海の向こうに、エリスと相|対峙《たいじ》する島々だが、この人々を率いるのは、武神アレスにも匹敵しようというメゲス。ピュレウスの子で、ゼウスの愛《いつく》しむ騎士ピュレウスがもうけたものだが、このピュレウスはむかし、父に腹を立てて、ドゥリキオンに移住したのである。彼についてきた黒塗りの船は四十隻におよんでいた。
さてまたオデュッセウスが率いて来たのは、意気のさかんなケパレネスの人々で、イタケ島や葉陰のゆらぐ(森の多い)ネリトスを領する者や、クロキュレイアから岩の多いアイギリプスに住まう者たちに、ザキュントス島を領し、サモス島一帯に拠る人々など、さらには本土を領とし、海向かい(の陸地)に住まう者らまで、この人々を統率するのは、知識においてはゼウスに比肩もしようというオデュッセウスで、彼に伴い十二隻の、舷側を朱でいろどった船々が従って来た。
またアイトロイ人《びと》を率いて来たのは(オイネウスの娘婿)アンドライモンの子トアスで、この人々はプレウロンからオレノスやピュレネ、また海沿いにあるカルキスや巌の多いカリュドンに住居している者たちだが、それというのも、もはや心の広いオイネウスの息子たちはいなくなって、彼自身ももはや世を去り、亜麻色の髪のメレアグロスも死んでいたので、それで彼が万事について、アイトロイ族を治めるよう託されていた、それゆえ、彼について四十隻の黒塗りの船が従って来たのである。
またクレテ人を引率するのは、槍に名を得たイドメネウスで、この人々はクノソスや、城壁をめぐらすゴルテュスからリュクトス、またミレトスや白堊《はくあ》に富んだリュカストスを領する人々、またパイストスやリュティオンなど景勝の地に拠る町々、その他にも百の邑《むら》があるというクレテ島一帯に住む者らだが、これらを統率するのは、いまもいった槍に名を得たイドメネウスと武士をころすエニュアリオスにもたぐえられるメリオネス〔この戦役でもっとも勇敢な英雄の一人〕で、この両人に連れられて、八十隻の黒塗りの船が従って来た。
またトレポレモスは、ヘラクレス〔ゼウスとアルクメネの子で、数々の難業をはたす英雄〕の子として勇敢で丈が高い。この人物がロドス島から九隻の船を率いて来た。これらの気概に富んだロドス島人は、三つの部族に分たれていて、リンドスとイアリュソスと白堊に富んだカメイロスの、ロドス一帯の島にすみならわしていた。この人々を引率するのは槍に名を得たトレポレモスで、アステュオケイアが、豪勇のへラクレスに生んだ子供だが、その娘は、もと彼がエピュレから、セルレイス河のほとりから、ゼウスが護り立てられる若殿ばらの城邑を多数攻めおとしてから、連れ去ったものである。ところでトレポレモスは、立派に造られた館の中で生い立つと、間もなく父方の伯父(リキュムニオス)を殺してしまった。もう年寄りになっていたリキュムニオスとて、軍神アレスの伴侶《とも》である。そこですぐと船を数隻つくらせて、大勢の人々を呼び集め、祖国《くに》を亡命して海上に赴いた。というのも、勇士ヘラクレスの他の息子たちや孫たちが仕返しに押しかけて来たからだった。ところで彼は流浪をつづけ、さまざまな難儀を重ねたあげく、ロドス島に着いた。そこで部族ごとに、従って来た人々を三つに分けて、この島に定住した。それでゼウスのおん恵みにもあずかっていて、神々や人間どもを治《しろ》したもうたクロノスの御子(ゼウス)は、まさしく彼らに莫大な財宝を注ぎ与えられたのだった。
さてまたシュメ島からニレウスが、三隻の釣合いのよく取れた船を率いて来た。ニレウスはアグライエとカロポス殿のもうけた息子である。あの誉れも高いペレウスの子(アキレウス)についで、イリオス城下へ攻め寄せたダナオイの軍勢中でも、いちばんの美男として知られた者だが、力はあまり強くなく、従う手勢もわずかだった。
またニシュロス島やクラパトス島、あるいはカソスの島、またエウリピュロスが都するコスの島やカリュドナイの島々、これらの島人を率いて来たのはペイディッポスとアンティポスで、ヘラクレスの裔《すえ》であるテッサロス殿の二人の息子と知られた。その下に三十隻のなかのうつろな船々が陣にならんだ。
さてそのつぎには、ペラスギコンのアルゴスに住まう人々みな、アロスとかアロペとか、またはトラキスに住む者ども、あるいはプティエや、あるいは女の美しさで知られたヘルラスを領する者らで、ミュルミドネスとかハレネスとかアカイオイとか呼ばれていた。この人々の船五十隻の統領はアキレウスだが、彼らはこのときいまわしい物音のする戦さには心を寄せていなかった、というのも、彼らを戦列につけ率いてゆく人物が、誰一人いなかったからで。足の速く勇ましいアキレウスは、髪の美しい乙女ブリセイスのことで立腹してから、船陣にまだ臥せったままでいるのだった。この乙女は、彼がリュルネソスから、大変な苦労を重ねたあげくに(褒美として)選んでもらい受けたものである。リュルネソスを攻め落とし、テーバイの城壁を抜いたおりのこと、優れた槍の使い手なるミュネスとエピストロポスと、セレピオスの裔《すえ》であるエウエノス殿の息子二人を討ち取ってからのことである。その乙女のため胸を苦しめ、臥していたが、まもなく立ち上がるべき運命《さだめ》にあった。
またピュラケや、デメテル〔古い大地女神、後にはゼウスの姉妹として農事の司神とされた〕の社地がある、花でいっぱいのピュラソスの町や、あるいは羊たちの母(と呼ばれる)イトンを領する人々、また海沿いのアントロンや牧草を臥床《ふしど》とするプテレオスに住む人々、この人たちを、アレスの伴侶《とも》プロテシラオスが、まだ在世の間は支配していた、だが、この当時はもう黒い大地が彼をかくして、その奥方は、両頬を涙に濡らしつ、ピュラケに取り残されてい、館はいまなお半分できたばかりであった。(そのプロテシラオスが)アカイア方で、いの一番に先がけて船から跳んで降りるところを、ダルダノス方の武士《さむらい》が殺したのである。
だが、けして、彼らとて指揮者がいないわけではないが、ただ(亡くなった大将を)慕い悲しんではいた。その人々をいま整備させているのは、アレスの伴侶《とも》ポダルケスといって、ピュラコスの裔で羊をたくさん持っていたイピクロスの息子、気象のひろいプロテシラオスには本当の兄弟、年は下の弟だった。だがアレスの伴侶なるプロテシラオスの殿のほうが、年長でもあり、武勇もすぐれていたもので、兵士たちは、指揮者に事を欠きはしなかったものの、勇ましかった大将を慕い嘆いていたのだ。その人について、四十隻の黒塗りの船が従って来た。
またボイベイスの沼のかたわらの、ペライの町を領する人々、ボイベやグラピュライや、よく築かれたイオルコスに住まう人々、この者どもの、十一隻の船勢を率いてきたのは、アドメトスの愛子《いとしご》のエウメロスだが、この殿はアドメトスへと、女人のうちでも人柄すぐれたアルケスティス〔夫アドメトスのために死し、のち冥王に許されて蘇生する話は有名〕がもうけた子だった。この婦人はペリアス王の娘のうちでも、いちばん容姿《みめ》のうるわしい女《ひと》であった。
さてまたメトネやタウマキエに住まう人々、メリボイアや、磽角《ぎょうかく》のオリゾンを領する人々、この者どもを率いるのは、弓矢の技に心得のふかいピロクテテス〔弓の名手、ヘラクレスの死時にこれを助け、その弓を得た〕で、七隻の船をもって来た。そのおのおのに乗り組んでいる漕ぎ手は五十人、みな弓矢の技に練達したつわものぞろいである。
だがそのピロクテテスは、とある島に身を横たえ、はげしい苦痛に悩んでいた。すなわちいとも聖いレムノス島だが、そこへ彼をアカイア人の息子たちは置いてきたのだ、禍をはかる(凶暴な)水蛇《ヒドラ》にかまれたひどい傷あとに苦しんでるのを。すなわちそこで彼は嘆きながら寝ころんでいたが、ほどなくアルゴス勢は、船陣でこのピロクテテス殿のことを思い出す運命《さだめ》になっていたのである。だが、それでも、首領(ピロクテテス)を慕いはしていたものの、けしてこの人々は指揮者がいないわけではなく、すなわちオイレウスの庶出の息子メドンが統率にあたっていた。レネが城を攻めおとすオイレウスへと産んだ子である。
またトリッケや嶮しい丘に拠るイトメを領する人々、およびオイカリエ王エウリュトスの城市《まち》オイカリエをたもつ人々、この者どもを率いるのは、アスクレピオスの二人の息子の、ともに優れた医師であるポダレイリオスとマカオンで、この二人に従って三十隻の中のうつろな船々が陣にならんだ。
そのつぎはオルメニウスを領する人々、またヒュペレイアの泉、あるいはアステリオンやテイタノスの白く輝く峰々を領する人々など、この者どもを率いてきたのは、エウアイモンの立派な息子エウリュピュロスで、彼に伴って四十隻の黒塗りの船が従って来た。
そのつぎはアルギッサを領する人々、またギュルトネに住む人たち、またオルテや、エロネや、白堊の町オロオッソンなどに住む人々を率いてきたのは、戦さに手ごわいポリュポイテスで、不死なる御神ゼウスがお生みのペイリトオスの息子である。この子はペイリトオスにより、世に名も高いヒッポダメイアがもうけたもので、おりから(ペイリトオスが)粗毛《あらげ》を生やした半馬人《ケンタウロイ》たちを打ちこらしめて、ペリオン山から彼らを追い出し、アイティケスへ追っ払ったその日のことである。(ポリュポイテスは)一人ではなく、いっしょにアレスの伴侶《とも》なるレオンテウスという、カイネウスの子の、気象のすぐれたコロノスの息子と連れ立っていた。この二人に伴い、四十隻の黒塗りの船が従ってきた。
またグネウスは、テッサリアのキュポスから二十二隻の船を率いてきた。この船にはエニエネス人《びと》や戦さに手ごわいペライボイ人《びと》が乗っていたが、この者どもは、冬とあらしのきびしくすさぶドドネ一帯に住まっていた。
また美しいティタレソスの両岸に畑を耕す人々もいた。この河はペネイオスへと清らかな水を注ぎ入れるが、それでも銀の渦を巻くペネイオスとは入りまじらずに、ちょうど油のように、本流の流れのうえを渡ってゆく。というのも、本来恐ろしい誓いのしるし(に用いられる、冥界にある河)ステュクスの支流だからである。
またマグネテスを率いてきたのは、テントレドンの息子プロトオスで、この人々は、ペネイオス(の河口)付近や葉陰のゆらぐペリオン山一帯に住まっていた。この者どもを、足の速いプロトオスが指揮していたが、彼に伴い、四十隻の黒塗りの船が従ってきた。
されば、この人たちがダナオイ勢の将軍や統領といわれていたが、ではその中で、誰がとりわけ他にすぐれた勇士だったか、詩神《ムーサ》よ、どうか私に言ってください、アトレウス家の王たちに従ってきた、武士たちのうちで、また馬の中ではどれがすぐれていたかも。
馬では、はるかに他に超えすぐれていたのは、ペレス王の後裔の持ち馬二頭で、足の速いこの馬をエウメロスが飛鳥のようにはしらせていた。毛色も同じ、年も同じ、水測《みずばか》りを背中にあてても同じ高さの、この二頭はペレイエで銀弓をもつアポロン神が飼育したもの、両方とも牝馬だったが、武神アレスの脅威を載せてゆくかとも思われた。
ひるがえって、武士たちの中でとりわけ卓越していたのは、テラモンの子アイアスだった、それもアキレウスが立腹して(出て来ない)間のことで、彼のほうが(アイアスより)ずっと上手《うわて》であったのだ。馬にしても、誉れの高いペレウスの子(アキレウス)を載せていたのがいちばんだった。
だがいまかれは舳《へさき》の反った、海を渡ってゆく船の間に臥《ふ》して、全軍を統率するアトレウス家のアガメムノンに恨みを抱き、その兵たちは大海の波打ち際に、円盤を投げたり、細身の槍をほうったり、矢を射たりして慰んでいた。馬たちもまた、めいめい自分のひく戦車のわきで、レンゲやしめり地に生える芹《せり》などをついばみながら立っていた。その戦車はといえば、それぞれ持ち主の陣屋の中に、しっかりと蔽いをかけて置かれていた。それで兵士たちも、武神アレスの愛《いと》しむ(自分たちの)大将が出て来ないのを残念に思いながらも、陣中をあちらこちらとぶらついて歩きまわるだけで、戦さには加わらなかった。
さて軍勢が繰り出してゆく様子は、さながら大地がそっくり火に襲われたときのよう。その足もとに地面がうめきを立てるのは、大昔、いなずまを擲《なげう》つ大神ゼウスがテュポエウス〔火山活動の精〕のために立腹されて、地に鞭をあてられた、そのおりのよう。ちょうどそのように、兵士たちの足もとで、彼らの進んでゆくのにつれて、大地がひどいうめきをあげた。それでたちまち、しばらくの間に平原をわたり切ってしまった。
さてトロイア側へは、伝令として風の足をもつ、すみやかな(虹の神)イリスが山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスのもとから、苦悩に充ちた命《みこと》を持ってやって来た。人々はいましも、プリアモス王の宮殿の戸口のところに寄り集まって、若い者も年寄りもみないっしょになり、会議を開いているところだった。そのすぐ間近に来て立ち止まり、足の速いイリスは話しかけた、プリアモスの息子ポリテスに姿を似せて。この人は、足が速いのをたのみとして、トロイア軍の物見の役に、老人アイシュエテスの墳《つか》の小山の頂上にいま腰を下ろして、アカイア軍が船陣からいつ出て来るかと待ち受けているところだったたが、その姿に形を似せて、足の速いイリスが呼びかけるよう、
「おおご老人、いつでもあなたは、きりのないおしゃべりが好きだと見えますね、まるで平和なときのように。だが(現在は)どうしても避けられない戦争が起こっているのです。これまで私も、ずいぶんたびたび、武士たちの戦さにも加わりましたが、けして、このような、またこんなに大きな軍勢は、いままでにまだ見たことがありません。まったくまあ、木の葉の数に、あるいは浜の砂子《まさご》の数ほどたくさんな、おびただしい人数が、平野を横切り、この城へ向かって戦さをしかけに、進んできます。
ヘクトルよ、とりわけてあなたにお頼みするが、かようにしてくれ。プリアモスの大きな都に集まって来た同盟軍はとても大勢いるうえ、大変ひろい地域に散らばっている国々の人の、言葉もそれぞれにちがっているので、それゆえ、めいめい、てんでに自分が指揮をする部族に指揮をしてもらって、自国の民をきちんと並ばせ、分列させたがよろしかろう」
こういうと、ヘクトルは、もとより女神の言葉を聞きわけて、すぐさま会議を解散した。それで一同物の具をとりにかけっていった。城門は残らず開け放たれ、そこから兵士たちが、徒歩の者や戦車を駆る者らが繰り出してゆき、おびただしい物音が湧き上がった。
さてこの城市《まち》のすぐ前に、広い野に往還を離れて、こちら側もあちら側も、遠くあいている、突き立った円丘があった。この丘を人間どもは「茨《いばら》の丘」と呼びならわしてきた。しかし不死なる神々は、ほうぼうを跳《と》んでまわるミュリネの墳《つか》と呼んでおいでだ。そのへんに、このおり、トロイア勢と同盟の諸軍勢とは勢ぞろいをした。トロイア人《びと》らの指揮には、きらめく兜《かぶと》の大ヘクトルがあたっていた。プリアモスの子で、彼のもとには、ずっと多数の、また選《え》りすぐった兵士たちが、槍をかまえて意気ごみつつ戦さの用意をしていた。
さてまたダルダノイの手勢を率いるのは、アンキセスが子の、勇ましいアイネイアスで、尊いアプロディテがアンキセスによって生んだ子である。イダの山のふもとの丘で、女神ながら、人間に添い寝をして。だがアイネイアスはひとりではなく、いっしょにアンテノル〔トロイア方元老の一人。温厚で思慮に富み、ヘレネをアカイア方に返還するようにすすめた〕の二人の息子がつき添っていた。アルケロコスとアカマスと呼ぶ、戦さのわざの全般に熟達した武夫《もののふ》である。
またイダの山の、いちばん下のふもとにある、ゼレイアの町に住んでいる人々は、富みかつ裕《ゆた》かで、アイセポスの黒い河水をいつも飲んでいるトロイア人《びと》だが、この者どもを引率するのは、リュカオンの立派な息子パンダロスとて、弓をアポロン神ご自身から授かったという者であった。
またアドレスティアに住む人々や、アパイソスの邑《むら》やビテュエイア、あるいはデレイエの嶮しい丘を領する人々、この者どもを率いるのは、アドレストスと、麻の胸甲《きょうこう》を着けたアンピオスで、二人ともペルコテの領主メロプスの息子であった。この人は世間の誰より占いの術に長じていたので、自分の息子たちに、武夫《もののふ》を殺す戦さに出かけることをなかなか許してやらなかった。ところが二人は父親のいうことなど、てんで聞こうとせず出かけてきたとは、つまりは黒い死霊の神が連れてきたわけなのだ。
さてまたペルコテやプラクティオスのあたりに住まう人々、またはセストスやアビュドス、あるいは聖いアリスペを領する者たち、この人々をつぎに支配していたのは、ヒュルタコスの子で武士たちの首領《かしら》と聞こえたアシオスとて、アリスペから、栗毛の大きな馬どもが載せてきたものである、セルレエイスの河畔から。
またヒッポトオスは、槍にかけては誉れの高いペラスゴイの部族をあまた率いてきた。この人々は土塊《つちくれ》のふかく沃《ゆた》かなラリサに住居する者どもで、その指揮をするヒッポトオスと武神アレスの伴侶《とも》ピュライオスとは、ペラスゴス王テウタモスの裔《すえ》、レトスの二人の息子である。
さてまたトラキア勢を率いてきたのは、アカマスとペイロオスの殿だが、この者どもは、流れのはげしいヘレスポントス〔ダーダネルス海峡〕が仕切った内側に住居する人々である。
またエウペモスという、槍に名を得たキコネス族の大将は、ケオスの裔《すえ》で、ゼウスが護りたもうトロイゼノスの息子であった。
さてまたピュライクメスは、曲がった弓を引くパイオネス人《びと》を引きつれて、遠方のアミュドンを発《た》ち、流れの幅もひろやかなアクシオス河から来た者だったが、このアクシオスは、このうえもなく清らかな水を田畑に注《そそ》ぎわたす河である。
またパプラゴニアの住民を率いてきたのは、ピュライメネスとて、胆に毛を生やした男、野生の騾馬《らば》の産地と知られるエネタイ族の地を出て来た。この人々はキュトロスをたもち、セサモンのあたりを領とし、パルテニオスの河畔の、クロムナからアイギアロス、高地にあるエリュティノイまで、世に名の聞こえた家々に住居していた。
さてまたハリゾネスの族《やから》をつれてやってきたのは、オディオスとエピストロオスで、ずっと遠いアリュペから来た。その郷《さと》は白銀の産地として世に知られる。またミュシア人を率いるのは、クロミスと、鳥占《とりうら》の術を心得たエンノモスだが、この男は自分の鳥占の力によっても黒い死の運命をまぬかれることはできなかった。すなわち、足の速いアイアコスの裔《すえ》(アキレウス)の手にかかって、河の中で討ち取られた、トロイア勢や他国の兵を彼がどんどん殺していった、その場所でもって。
さてまたポルキュスと、神とも姿の似かようアスカニオスとは、遠くのアスカニエから、合戦に出て闘おうものと気負い立つプリュギア族をひきいて来た。
またマイオネスを指揮していたのは、メストレスとアンティポスという、タライメノスの二人の息子で、ギュガイエの沼(のニンフ)が産んだもの、この両人が、トゥモロス山の下に住まうマイオネスらを率いてきた。
さてまたナステスは、夷《えびす》の言葉を使うカリア人《びと》を指揮していたが、この人々はミレトス(の都)をたもち、プティレスの、たがいに森陰の繁りあう山々や、マイアンドロスの流れからミュカレの嶮しい岬に拠るものである。この人々を、アンピマコスとナステスとが指揮してきた。ナステスとアンピマコスは、ノミオンの立派な息子で、その人は、乙女のように黄金を体につけて戦さに出たいとこがれていたが、他愛ないものだった。その黄金もいっこうにみじめな最期を追い退けてはくれないで、足の速いアイアコスが裔(アキレウス)の手にかかって、河の中で打ちたおされ、その黄金は、勇猛な心をもつアキレウスが持っていってしまった。
またサルペドンとグラウコスは誉れも高いリュキア軍の統率者で、遠くへだたったリュキエを出て、渦《うず》を巻くクサントス河(のほとり)から軍勢を率いてきた。
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誓約、城壁からの視察、パリスとメネラオスの決闘の段
【この戦いの原因をなしたトロイアの王子パリスは、紛争解決のため、スパルテの王メネラオス(ヘレネの先夫で、アガメムノンの弟。パリスがその妻を誘拐してきたので、両国間の争いが始まった)に決闘を申しこむ決意をする。そこで両軍主脳もそれに賛成し、戈《ほこ》を取って首尾を待つこととし、まずアガメムノンとトロイア王プリアモス(パリスの父)とが休戦の誓約を交わす。ヘレネも呼び出され、イリオスの城壁から様子をながめる。決闘がいよいよ開始され、パリスは圧倒されかけるのを、味方である愛の女神アプロディテに助けられ、王宮内で手当てを受ける】
さてすべての部族が、それぞれ引率者といっしょに分列を終わったときに、トロイア方は喚声をあげ、騒々しい物音をたてて進んでいった。その様子は鳥の群れのよう、ちょうど大空のもとにあたって、鶴の群の叫び声が聞こえるように。その鳥がいま冬のあらしと、おそろしい大雨とを逃れ、叫び声を立て|大洋の涯《オケアノス》の流れに向かって翔《かけ》っていくのは、一寸法師《ピュグマイオイ》〔アフリカ中部森林中の背の低い原住民の伝説化〕の人種に殺戮《さつりく》と死をもたらそうとするかのようであった。一方、意気ごみもすさまじいアカイア軍は、ひっそりと物もいわずに進んでいったが、心中には、相たがいに助けあおうときおい立っていた。
さながら山の峰々へかけ、東南風が、牧人たちにはまったくありがたくないが、盗賊には夜より都合がいい靄《もや》を一面に注ぎかけ、見通しは石を投げて届くくらいしかきかない。それほどひどく、いま押し進んでゆく軍勢の足もとから、砂煙が空へと舞い上がった、こうして早々と、平原を横切っていった。
さて両軍が相たがいに進み寄って、いよいよ接近したおりしも、トロイア方の先陣に現われたのは、神とも見まごうアレクサンドロス(パリス)で、豹《ひょう》の毛皮(の循)を肩にかけ、曲った弓を手にたずさえ、それに剣《つるぎ》と、さらには青銅の穂先をつけた二本の槍をふりしごきつつ、アルゴス勢の大将たちに、誰彼の区別もなく、いどみかけて、恐ろしい決戦のうちに、力をつがえて闘いあえ、と呼びあげた。
その様子を見てとったのは、武神アレスの伴侶《とも》であるメネラオスで、兵士の群れの前に出て大股にパリスが闊歩してくるさまに、喜んだのは、さながら獅子が、ちょうど餓《ひも》じく飢えていたおり、大きな獣の屍《しかばね》に出くわしたときのよう。角の生えた牡鹿か、それとも野生の山羊を見つければ、たとえ自分を、速い犬だの血気のさかんな若者どもが追い払おうと骨折っても、がつがつ貪り食ってしまう。それと同様、メネラオスは、神とも見まごうアレクサンドロス(パリス)を目前にまざまざと見て、このけしからぬことをしたやつを懲らしてやろうと思って喜んだ。それですぐ、戦車から物の具もろともに地上へと跳んで降りた。
ところが、神とも見まごうアレクサンドロスは、先陣の間に彼が姿を現わしたのを見てとるなり、いとしい胆《きも》も押しつぶれて、仲間たちの群れの間に、死の運命を避けようと、引き退いた。その様子はちょうど、山あいの渓谷で、人が大蛇を見つけてかたわらへ跳びすさるよう。それで足もとへは、ふるえがとりついて、頬の色も蒼《あお》ざめたまま、引っ返して逃げていく、ちょうどそのように、武者振りもすぐれたトロイア方の群れの中へと、またふたたび、神とも見まごうアレクサンドロスは、アトレウスの子(メネラオス)に怖れをなして、はいってしまった。
それを見てとったヘクトルは、ひどい辱しめの言葉で彼をたしなめていうようには、
「けしからんパリスめ、姿は誰にも劣らぬにしろ、女狂いのごますり男が。まったくおまえは生まれてこないで、それに結婚もしないで死んだらよかった。まったくそれが望ましいことだった、そしたらずっととくだったろう、こんなに他人へ累をおよぼし、疑いの眼で見られるのよりは。まったく頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア勢は、からからと大笑いすることだろう、おまえが立派な様子をしているもので、ひとかどの勇しい大将だろうと思っていたのに、実際はいっこうに胆力も武男も備えていないのを知って。
そうした者であるくせに、大海をゆく船に乗って、海原を押し渡ってゆき、忠実な仲間の者らを寄せ集めては、よその国の人に交わり、容姿の美しい女を連れて来た――遠い国から、槍に名を得た武士たちの嫁だというのを。おまえの父親にとって、また国にも、市民のみなにとっても、大変な禍いのもと、敵にとっては喜びのたね、おまえ自身には恥さらしのもとであるのを。
さあ、ひとつ、おまえが待ち受けて見たらどうだ、アレスの伴侶《とも》というメネラオスを。そしたらきっと、どんな男の匂やかな閨《ねや》の妻を取ってきたのか、合点がいくことだろうよ。とうてい今度は竪琴《たてごと》も美神(アプロディテ)のいろんな賜物《たまもの》だって、防ぎにはなるまいからな、その髪の毛や容姿《なりかたち》とても、砂ぼこりにまみれてしまえば。だがまったく、トロイアの人々は、甲斐性なしだ、さもなくば、もうとっくにおまえは、こんな大きな禍いをしでかしたかどで、石の衣〔石子詰めの刑と同じく、石を投げて殺すのを皮肉にいったもの〕を着せられているだろうに」
これに向かって今度は、神とも見まごうアレクサンドロスがいうようには、
「ヘクトル、いかにもあなたの叱責《おこごと》は、いちいち条理にかなっていて、けして不当なことではない。だが、いつもあなたの心は手斧のように、鋭くて容赦のないものだ、その斧は大工の手に取られて、材木を断ち割ってゆく、大工が技も巧みに船材を切り出してゆくとき、この斧がその手の力をずっと増してやる、そのように、あなたの胸内にある思慮は、遠慮というものを持っていない。どうか黄金のアプロディテのありがたい贈り物のことは、あれこれいってくれるな、まったく神々がくださるところの誉れに満ちた賜物というのは、なおざりにすることを許されないものなのだから。神々がご自身でくださる限りにおいてはな。また欲しいといっても人間がもらうわけにはけしていかないものなのだ。
だが、いまはさあ、もし私が打ち物とって戦さに出るのをあなたがお望みならば、他のトロイア勢と、アカイア方の全軍とを下に坐らせ、そのうえで、私と、武神アレスの伴侶《とも》というあのメネラオスとをまんなかに対峙させて、ヘレネと財宝の全部を的にして果し合いさせてくれ。二人のうちどちらでも、勝利を得て、優者であるのを証《あか》したほうが、よろしく財宝全部を取り、その女を家へ連れていくとしよう。それで他の人々は、仲直りをし、固い誓約を交わしたうえで、あなたがたは土塊《つちくれ》の沃《ゆた》かなトロイアに住んでゆけようし、彼らのほうは馬を育てるアルゴスや、美しい婦女の国アカイアに帰るがいいだろう」
こういうと、その話を聞いてヘクトルも大変喜んで、トロイア勢のまっただなかにはいりこんで、槍の中央をおっ取りながら、その隊列をおさえにかかった。そこで一同が腰をおろして座につくと、彼にたいして、頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア勢が弓を向けて引き放とうとし、矢をつがえて狙っては、石をほうり投げようとしかかるのを、大声あげて高らかに呼ばわったのは、武士たちの君アガメムノンで、
「さしひかえろ、アルゴス勢よ、投げてはいかん、アカイアの若者ども、兜のきらめくヘクトルは、しきりに何かをいいたがっているようだから」
こういうと、人々はみな戦さをやめ、一瞬のうちに、ひっそりと静まり返った。そこでヘクトルが両軍の間に立っていうようには、
「よく聞いてくれ、トロイア側も、脛当《すねあ》てをよろしくつけたアカイア勢も、アレクサンドロスの言い分を、彼のせいでこの争いが起こったのだから。つまりほかのトロイア方の人たちも、アカイア方の者ものこらず、立派な物の具を、実り豊かな大地の上におけというのだ、それで、彼自身と、武神アレスの伴侶《とも》であるメネラオスと、二人きりして、そのまんなかで、ヘレネと財宝全部を的にして決闘しようという。どちら側でも勝利を得て優者であるのを証したほうが、よろしく財宝全部を取り、その女を家へ連れていくがいい、そしたら、われわれ残りの者は仲直りし、固い誓約を交わすとしよう。
こういうと、みな一様にひっそりと鳴りをしずめて黙りこくった。その人々に向かって今度は雄叫びも勇ましいメネラオスもいうようには、
「では私のいうことも聞いてくれ。とりわけて私の胸はつらい思いにせめられているのだ。もうとうにアルゴス勢とトロイア方とが引き分けてよいころだと私は思っているのだ、もはや私らの争いやら、またアレクサンドロスの勝手な手出しやらのため、みな、これまで大変な難儀を受けてきているのだから。さればわれわれ二人のうちで、どちらなりと、死の運命が待ち構えているほうが死んだら、それでいい。他の人々はさっそくにも引き分けて帰ってくれ。
では仔羊をもってきてくれ、大地と日輪とにささげるよう、一匹は白いのを、もう一匹は黒い牡羊を。ゼウス神へは、われわれのほうで他のを持ってこよう。それからプリアモスどのも連れてきてくれ、王が自身で誓いの言葉を言い添えるようにな。王の息子どもというと、みな思いあがった、あてにならん者ばかりだから、もしやゼウスの尊い誓いを、増上慢から破ったりなどしてはならん。いつだって年端のゆかん者どもの心はふわふわしている、だが、それへ年寄りが加わると、将来のことも過去のことも十分によく見定めるので、双方にとりいちばんよいようとりはからえるものなのだ」
こういうと、アカイア側もトロイア側も、いっせいに、いたましい戦いをやめることができるのではと期待して歓声をあげた。そこで戦車を隊伍のところまで下げ、そこから自身みな車から降り立って、甲冑も脱いでひかえた。地面の上に置いてある物の具は、相たがいに近より合って、間にはわずかな空地がまわりにあるばかりだった。さてヘクトルは、城内へ向け二人の伝令使をさし遣わした。さっそくにも仔羊を持ってくるよう、またプリアモスを呼ぶようにと。一方アガメムノン王も、(伝令使)タルテュビオスを遣わして、中のうつろな船のところへ出かけていって、仔羊どもを持ってくるようにと命じた。彼は、もとより異議もなく、尊いアガメムノンのいうとおりに(出かけていった)。
さてまた虹の女神イリスは、白い腕のヘレネへと、使者に立った、夫の姉で、アンテノルの嫁にあたる女《ひと》の姿を借りて。アンテノルの息子であるヘリカイの君に嫁いだ、プリアモスの娘たちのうちで、容姿のいちばん美しいラオディケのようすをして。それでヘレネが広間にいるのを見つけた。ちょうど大きな機《はた》を織っているところで、二幅《ふたはば》の紫紅の布に、いろいろな競り合いの模様を縫いこんでいた、馬を馴らすトロイア人《びと》と、青銅の帷子《よろい》を着たアカイア人《びと》とが、彼女自身のために、武神アレスの掌《て》から受け取る羽目に立ちいたった数多くの闘いである。そのすぐそばにいって立つと、足の速いイリス女神がいうようには、
「こちらへいらっしゃい、愛《いと》しい妹、不思議な神業をごらんのように、馬を馴らすトロイア人《びと》と、青銅の帷子《よろい》を着たアカイア勢とが、これまでは、たがいにむかって、涙をたくさん流させる戦さをしかけていました。平原で、呪われた闘いばかりを望んでいたのに、それがどうでしょう、いまでは黙りこくって坐りこみ、戦さもやんでしまってるのです。みな楯にもたれかかっている、そばには長い手槍が地に突き立っています。そうしてアレクサンドロスと、武神アレスの愛《いと》しむメネラオスとが、長い槍を手に取って、あなたを的に、果し合いをしようというのです。それでどちらか、勝利を得たほうの殿御《とのご》の、いとしい妻と、あなたは呼ばれるはずなのです」
こういって、女神は甘いあこがれごころをヘレネの胸に注ぎこんだ、以前の夫と、都と両親たちへの思いである。それで彼女は、すぐさま白く輝く麻衣をひきかずいたまま、つぶらな涙をこぼしながら、奥の間から駈けり出た。ひとりではなしに、いっしょに二人の腰元がついていった(ピッテウスの娘のアイトレと、牡牛の眼をしたクリュメネとである)。そしてたちまちにしてスカイアの城門〔イリオスの西門をなす主要な門口〕のところへ着いた。
さてプリアモス王やパントオス、あるいはテュモイテスとかランプロスやクリュティオス、または武神アレスの伴侶《とも》であるヒケタオンをとり巻く人々、さらにはとりわけ知恵者ときこえた二人、ウカレゴンとアンテノルと、これらの国の長老たちは、おりからスカイアの城門の上に座を占めていた。いずれも、もとより老年のために戦闘からはもう身を退《ひ》いていたが、森の繁みの樹の上にとまりこんで、きよらかに高い啼き声を放つ蝉みたいな、すぐれた弁舌家ではあった。トロイア人《びと》の指導者たちは、そのように門の櫓《やぐら》に坐っていたが、いましも、ヘレネが櫓のもとにさしかかるのを見てとると、しずかに、相たがいに顔を見かわし、翼をもった言葉をつがえるよう、
「いかにも、トロイアの人たちと、脛当てをよろしく着けたアカイア人《びと》とが、長い年月のあいだ、苦難をあえてなめてきたのも、このような女人のためとならば、けしからぬことともいえない。恐ろしいほどその顔形が、不死である女神たちとそっくりである。だがそれにもせよ、さほどの女であるにしても、船に乗せて帰らせるがよろしかろう。そしてわれわれの子孫にとって、のちのち禍根を残さぬようにせねばならない」
こういいあったが、プリアモスは、ヘレネに声をかけて呼んでいうよう
「いとしい娘よ、ここへ来て、わたしの前に坐るがよい、あなたの前の夫だの、義理の兄弟、友達などをながめられるよう。格別あなたに責任があるわけではない、神々にこそこの責任はあるというもの、神様がたが私にたいして、アカイア人《びと》との涙にみちた闘いを仕掛けられたのだ。それでな、あそこに見える、とても大きな武士《さむらい》の名を教えてくれまいかな、あそこの堂々として丈の高い、アカイア武士は何という者か。いかにも頭《ず》の高さでは、ほかにももっとおおきな男がいくらもあるが、あのように立派な武士は、私としたことが、いまだかつて眼にしたことがない、またあれほど威厳を備えたものはな。国の王たる者らしいが」
それに向かって、女人のうちにも気高く見えるヘレネは言葉を返して、
「お舅《しゅうと》さま、いつもかしこく、もったいないとは存じておりまする。はじめてここへ、ご子息さまに従いまして来ましたおり、夫の閨《ねや》も、知合いの人たちも、年端もいかない娘だの、なつかしい同年輩の友達だの、みな棄てまして、ほんにそのおり、私がみじめな最期を遂げたらば、よかったでございましょうに。でも、それはみな、そのとおりにはゆきませんでした。そのために、いまもなお涙にくれては身をやつれさせておりまする。ところで、いま私におたずねのあったご不審のかど、それをこれから申し上げましょう。あのかたこそ、まさしくアトレウス家の、広い国をお治めのアガメムノン王とて、働きのある国王と、剛勇の槍の使い手とをお兼ねです。それにまた恥さらしな私にとっては、あろうことか義理の兄でございます」
こういうと、老王は彼を見て感嘆したうえ、声をあげていうようには、
「ああ、恵まれたアトレウスの子か、幸運のもとに生まれて、善福の霊に護られているとは。いかにも、それこそその威光の下にしたがうアカイア国の若者たちは数多かろう、私もむかし、ぶどうにゆたかなプリュギア国へ出かけていったことがある。そこでは私が、足掻《あが》きの早い馬を駆るプリュギアの武士たち、オトレウスや神にもひとしいミュグドンに従う者らに会ったが、その数はまったくおびただしいものだった。彼らはちょうどサンガリオスの河畔におりから陣を布いているところだった。私も彼らの助勢に出かけて、皆とひとところに集会していたわけで、それはちょうど、あの丈夫にも劣らぬというアマゾンたちが攻め寄せて来たときのことだ。が、そのおりの人数とても、このきらめく眼のアカイア勢ほど多くはなかった」
今度はつぎにオデュッセウスに眼をとめて、老王はまたたずねるよう、
「ではあの男、あそこにいるのは、いとしい娘よ、いったい何という者か、教えてくれ。背丈は、アトレウスの子アガメムノンより低く見えるが、肩の幅だとか胸のあたりは、見るからにいっそう広いようだ、自分の甲冑は、多くの者を養い育てる大地の上に置いたままにし、彼自身は牡羊みたいに、兵士たちの陣列の間を往来している。まったく私としたら、あの男を毛がびっしりと固まりあった羊にでもたとえよう、銀白の牝羊たちの大群の中をわけて歩く羊だ」
すると、それに向かって、ゼウスから生まれた娘ヘレネが答えるようには、
「あの者はまた、ラエルテスの子で、知恵にゆたかなオデュッセウスと申し、突兀《とつこつ》とした岩地ながら、イタケの郷《さと》に育ちまして、ありとあらゆるたくみいつわり、また抜け目のないはかりごとも心得ている者でございます」
それに向かって、今度は分別の人にすぐれたアンテノルがいうようには、
「奥方よ、いかにもまったく、間違いなしに、いまあなたがおっしゃったとおりである。というのは、以前に尊いオデュッセウスは、このところへも来たことがある。それはあなたのことについて、使節として、武神アレスの伴侶《とも》であるメネラオスと連れだってだが、その人々を私は古い知合いとして家に泊め、館《やかた》に迎えてもてなしたおり、この二人の容姿《なり》や形、抜け目のない思慮などを十分に観察しました。それでいかにも、トロイアの人たちが寄り集まったその中に入りまじると、立っているときは、メネラオスが、幅のひろい肩でもって、立ちまさっていた。だが二人して坐るというと、オデュッセウスのほうが、よけいに立派に見えたものである。
ところが、いよいよ皆に向かって話をしたり、思慮をめぐらす段になると、メネラオスのほうは、すらすらと口早にしゃべっていった。言葉すくなではあるが、はっきりと高い調子で、口数が多くはないにしろ、不確かなまごつきかたはけしてしなかったのだ、年からいうと下ではあったが。ところが、いよいよ知恵にゆたかなオデュッセウスが突っ立ち上がると、立ったまま、下目づかいに地面へと眼を釘づけにして、笏杖《しゃくじょう》はけしてうしろのほうや顔の前やへ振りまわしなどせず、しっかりと握りしめているようすは、ちょっと知恵のたりない人間と思い違いもされかねない、それがいよいよ大音声を胸のうちから放ちはじめて、文句を、冬の日の吹雪のようにはき散らす段になると、そういうおりには、もう誰一人とて人間の身で、オデュッセウスに対抗できる者はなかろう。≪その時には≫オデュッセウスのこうした様子を見たとても、格別あやしむことはなかったものだ」
また三番目に、アイアスを見て、老王がたずねるようには、
「そこにいるもう一人のアカイア武士は、いったい誰か、堂々として丈高く、アルゴス勢の中にいて、背丈や広い肩幅やで、抜群と見える男は」
それに向かって、女人のうちでも気高く見えて、長い衣をひくヘレネが答えるよう、
「あそこにいるのは、巨人といわれるアイアスで、アカイア軍の護りの垣と知られた者、他の側ではイドメネウスが、クレテ軍の中にいて神さまみたいに立っているのを、とり巻いてクレテ勢の隊長たちがその周囲に寄り集まっております。いくたびとなく、軍神アレスの伴侶《とも》であるメネラオスは、あのかた(イドメネウス)を、私どもの館《やかた》へとおよびしてもてなしました、クレテからおいでになるそのたびごとに。ところがいま、こう見渡しますと、きらめく眼をしたアカイア人《びと》の間に、私がよく存じあげて、お名前もお話し申し上げられるようなかたは、おおかたみんな見えながら、ただ二人だけ、兵士たちを統率される大将で見つけられないかたがあります。馬を御するカストルと拳闘に強いポリュデウケスと、私と同じ一人の母から産まれました同腹の兄弟二人でございます。あるいはたのしいラケダイモンから、従軍してきませんでしたか、それとも海原を渡る船に乗って、このところまでは来ましたものの、いまさらに、私にかかっておりますたくさんな辱しめだの、非難だのを恐れまして、また武士たちの戦いに参加するのを望まないものでもございましょう」
こういったが、この二人はもう、生き物を産み出す大地がそのまま、ラケダイモンに、自分たちのなつかしい父祖の土地に、埋めこんでしまっていた。
さて伝令使たちは、城市《まち》を通り抜けて、神々への誠をこめた誓いのしるしを運んで来た、二頭の羊に、心を慰めるぶどう酒、田畑の実りであるものを、山羊皮の袋に入れて。それに輝くばかりの混酒|瓶《がめ》と、金製の杯もいくつか、伝令のイダイオスが持ってきて、老王のそばへ近づき、言葉をかけてうながしたてた。
「お起ちなさい、ラオメドン王の御子よ、馬を訓練させるトロイア人《びと》と、青銅の帷子《よろい》をつけたアカイア勢と、両方の大将たちが、下の野原へ降りていって、誠をこめた誓いの式をなさるように、呼んでおります。一方では、アレクサンドロス(パリス)と、武神アレスの伴侶《とも》なるメネラオスとは、長い槍を手に取って、妻を目あてに闘うはずであります。それでどちら側でも、勝利を得たほうに、女も財宝《たから》もついていくことにしよう、他の者どもは仲直りをし、固い誓いを交わしたうえで、私たちは土塊《つちくれ》の沃《ゆた》かなトロイアに住まってゆき、彼らのほうも、馬を育てるアルゴスや、美しい女の国アカイアに帰ろう、と申すことです」
こういうと、老王は身の毛をよだて、家来の者たちに命令して馬を戦車につながせると、家来たちは、さっそくすなおにいうとおりにした。そこでプリアモス王は馬車に乗りこみ、手綱をうしろのほうへしっかり引けば、そのそばにアンテノルが、とりわけ美々しい二人乗りの戦車に添い乗りして、この二人はアカイアの城門をくぐり、平原へと速い馬車《くるま》をむけていった。
だが、いよいよトロイア勢とアカイア軍との間へ着くと、馬車から、多くのものを養い育てる大地へと降り立って、トロイア勢とアカイア軍とのまんなかへ進んでいった。すると、すぐさま、武士たちの君アガメムノンは突っ立ち上がって、知恵にゆたかなオデュッセウスもこれにつづけば、誉れも高い伝令使たちは、神々への固い誓いの品々をとりそろえてから、酒をまぜる瓶《かめ》にぶどう酒を注《つ》ぎ水を和《あ》えて、それから君主たちの手の上に浄《きよ》めの水を注いだ。
そこでアトレウス家の王(アガメムノン)は手に小刀を、いつも剣の大きな鞘の、わきに添えて帯びてるものを、引き抜いてから、仔羊たちの頭から、毛をいくらかずつ切って取った。それから今度は、伝令使が、トロイア方とアカイア方の大将たちに(その頭の毛を)分けてまわった。
さて一同を代表して、アトレウス家の王は、両手を差し上げ、大声で祈っていうよう、
「ゼウスおん父神《おやがみ》、イダの峰より統治したもう、いと誉れあり、いと大いなる御神、また太陽、万象を見そなわし、万象をきこしめすもの、またもろもろの河川、また大地、また地の下の冥界で、誰にもせよ偽りの誓いをした場合には、命終えたとき、その人間どもを仕置きなされる両柱《ふたはしら》の御神たち〔冥界の王プルトンとその妃ペルセポネ〕、皆様がたがこの誓約の証し手ともなり、誓いを固く守らせてくだされますよう。いまもしメネラオスを、アレクサンドロスが討ち取ったならば、そのおりは、彼が自分でヘレネも、財宝もそっくり、持っているがいい。それでわれわれは海原をわたる船に乗って、故国へ帰ることにしよう。だがもしアレクサンドロスを、亜麻色の髪をしたメネラオスが討ち取ったなら、その場合には、トロイア方が、ヘレネも財宝もそっくり返すこととする、またしかるべき賠償をアルゴス方に支払うものときめよう、それがまた後世の人間たちにもいい伝えられるように。また、もしも、プリアモスやプリアモス王の子息たちが、アレクサンドロスが倒れてからも、まだ償金の支払いを承知しないときには、その場合にはこの私が、そのままここに踏みとどまって、償《つぐな》い代《しろ》取るために、とことんまで戦いをつづけていくつもりである」
こういって仮借のない青銅のない刃《やいば》でもって、仔羊ののどをさいた、そして羊どもが、息も絶え絶えにあえいでいるのを、地面の上におろして置いた。それから人々は酒和《さけあ》えの瓶《かめ》からぶどう酒を、いくつもの杯へと注《つ》ぎわけて汲んで出し、いつまでも滅びることのない神々へと、祈りをささげた。それで、アカイア側の、またトロイア側の人々は、みなこのようにいいかわした。
「ゼウスよ、いと誉れあり、いと大いなる御神、また不死にましますその他の神様がた、どちらの側でも、先にこの誓約を破って害を加えたものは、ちょうどこの(地にそそぐ)酒のように、自分たちの脳味噌を、地面にこぼしますように、自分自身のも、子どもたちのも。またその妻は、他人のものになりますよう」
こうみなはいったが、どうして、とうていクロノスの子(ゼウス)は、みんなの願いを許そうとはされなかった。彼らに向かって、ダルダノスの裔《すえ》プリアモス王も話しかけるよう、
「よく聴いてくれ、トロイア方も、脛当てをよろしく着けたアカイア勢も。ではさあ、これから私は風の吹き巻くイリオスへまた帰っていく、どうもとうていこの眼に、自分の愛《いと》しい息子が、武神アレスの伴侶《とも》であるメネラオスと闘いあうのを見ることは、辛抱ができかねようから。ゼウス神がまずおそらくは、そのことを知っておいでだろう、またその他の不死である神様がたがな、二人のどちらのほうに、死の最期が運命できめられているかを」
こういうと、その神にもひとしい人物は、仔羊どもを馬車に載せ、自分自身も乗りこむと、手綱をうしろのほうへ、しっかりと引きのばした。そのすぐそばにはアンテノルが、とりわけ美々しい二人乗りの戦車に添い乗りして、二人はそのまままた元のイリオスヘと帰っていった。さて、プリアモスの子ヘクトルと尊いオデュッセウスは、まずはじめに場所をよく測りわたしてから、今度は籤《くじ》をつくって、青銅で固めた皮の兜に入れ、振ってきめることにした、どちらのほうが先に青銅の槍を投げたものか、を。兵士たちは、その間にも、アカイア方とトロイア方との区別なしに、こう相たがいに、いいかわした。
「ゼウス父祖《おやがみ》、イダの山より治《しろ》しめす、いと誉れあり大いなる御神、二人のうちのどちらでも、こんな所業を両軍のあいだにひきおこした者、その男に、死んでしまって冥王の館のなかへはいらせてください。だが、私たちには、また仲直りの固い誓いを交わさせてくださいまし」
こう人々はいいあった。さてきらめく兜の大ヘクトルが、うしろを向いて籤を振ると、いち早くパリスの籤がとんで出た。そこでみんなは列をつくったままで坐った。そこにはめいめいの、足を高く揚げる馬だの、技巧《たくみ》をこらした物の具だのが置かれてあった。さてそのおりに、両肩へと立派な鎧を、かの気高いアレクサンドロス、髪もみごとなヘレネの夫と聞こえた(パリス)は着こみにかかった。
まず最初にはふくらはぎへと、白銀づくりの踵金具《かかとかなぐ》をとりつけた脛当ての、美々しいものをあてがった、つぎには胸のまわりに、自分の弟のリュカオンの胸甲《むなよろい》を取って着なせば、ぴったりと体に合った。そこで今度は肩のあたりへ、白銀の鋲をうった青銅の剣《つるぎ》を投げかけ、それからつぎには大きくて頑丈な楯を(吊るし)、また男らしい頭《つむり》のうえには、こしらえのよい兜をかぶれば、馬の尾飾りをつけた兜の、上から垂れてなびく立毛はものすごい様子だった。それからがっしりとした槍を取れば、ぴったり掌《てのひら》にはまって見えた。いっぽう、武神の伴侶《とも》なるメネラオスも、これとまったく同じように、物の具を体に着こんだ。
さてこの二人が、めいめいに自分のほうの軍勢の側で武装をすっかり終わると、トロイア勢とアカイア軍とのまんなかへ進み出て来た。その眼光の猛々しさに、眺めるほどの人々はみな呆然として立ちすくんだ、馬を馴らすトロイア人《びと》も、脛当てをよろしく着けたアカイア勢も。それから両人《ふたり》は、前から測ってきめておいた定めの場所で、近寄りあって立ちどまり、長い槍を振りしごいた、たがいに恨みを胸に含んで。
まずはじめにアレクサンドロスが、長い影をひく槍を投げつけ、アトレウスの子(メネラオス)の、四方にひとしく釣合いのよい楯にあてたが、青銅(の穂先)が(楯を)破るにいたらず、その鋩《きっさき》は頑丈な楯の中にささって曲った。そこで今度は二番目に、青銅の槍を手に突き進んだのは、アトレウスの子のメネラオスで、まずゼウスおん父神《ちちがみ》に祈っていうよう、
「ゼウス大神、先に私へ悪事をしかけた、気高いアレクサンドロスにたいして、仕返しをお許しください。そして私の手にかかって果てますように。それを見て、後世の人々までが、友情をささげて迎えてくれる宿の主人へ仇《あだ》をして返すことを、身ぶるいして恐れますように」
こういって高く振り上げ、長い影をひく槍をほうって、プリアモスの子(パリス)の、四方にひとしく釣合いのよい楯にあてると、どっしりと重い槍は、美々しい循をずっぷり突き徹して、さまざまに技巧《たくみ》をこらした胸甲まで貫いてはいり、まっしぐらに脇腹に沿い、肌着を槍は切り裂いたのに、わずかに身をひねってパリスは黒い死の運命を避けたのだった。そこでアトレウスの子は、白銀の鋲を打った剣を抜いて、ふりかざすなり兜の星を丁《ちょう》と撃てば、こはいかに、兜の星の左右に、刃は三つ四つに欠け、こなごなになって手から落ちた。アトレウスの子は高くおめいて、久方の空を仰ぎ見ながら、
「ゼウス父神、神様がたのうちにも、あなたのように無残なかたはまたとありません。まったく、アレクサンドロスに、悪事の報いを思いしらせてやったつもりでしたものを、いまこのとおり、私の剣は掌の中でこわれてしまうし、投げた槍さえ掌から、何の役にも立たないで飛んでってしまい、あいつにあたらなかったとは」
こういうと、踊りかかって、兜についた馬の毛飾りをひっつかまえ、向きを変えて、脛当てをよろしく着けたアカイア勢のほうに引きずっていくと、いろいろな糸でかがった顎紐が、やさしい頸《うなじ》の下辺で首を締めた。この紐はあごの下側をずっととおって、四つ星の兜の締め緒になっていたものである。それで、たぶんは、(この時パリスを)引きずりこんで、たいした名誉をあげることもできたであろう、もしまた例の、ゼウスのおん娘神アプロディテが、眼ざとく見て取り、力をこめて殺した牛の締め紐を、引っ切ってやらなかったら。
それで、がっしりした彼の掌についていったのは、からっぽの兜ばかりだった。そこで勇士(メネラオス)は、この兜を、脛当てをよろしく着けたアカイア勢の間にむかって、よく振りまわしてから投げこんだのを、まめまめしく家来たちが運んでいった。それから彼はまた振り返って、殺してやろうとはやり立ち、青銅の槍を手にして躍りかかったが、アプロディテは、とてもやすやすと、いかにも女神であるのにふさわしく、パリスをさらって、たくさんな靄《もや》にかくしこみ、芳香に満ちた奥の間へつれていって、坐らせておいた。それから自身でまたヘレネを呼び寄せに出かけていって、彼女と高い塔の櫓《やぐら》でゆきあった。そのあたりにはトロイアの婦人たちが大勢いた。
(そこで女神は)手をのばして、この世ならずに美しい薄衣をとり、ゆすぶりながら、羊毛を梳《す》く年老いた姥《うば》の姿に形を変えて、話しかけた。この女は、もとヘレネがラケダイモンに住んでいたころ、彼女に仕えて、羊の毛房を美しくこしらえたりなど、とりわけだいじにしてくれた女であった。その老女に姿を似せ、神々しいアプロディテが声をかけて、
「さあこちらへいらっしゃいませ、アレクサンドロスさまが家へ帰って来るようにと呼んでおいでです。あのかたが奥の間の、渦巻き彫りの御床の中で待っておいでのお姿は、いい男振りとご衣裳とに照り輝いて、ついいましがた、武士《さむらい》と一手合わせしておいでたかたとは思われません。それよりこれから歌舞へ出かけるところか、またはついいま踊りをやめたばかりで、腰かけている人のようです」
こういって、彼女の胸に、はげしい思いをかき立てたが、ヘレネはいましも女神の、とりわけきれいな頸筋から、あだっぽい胸元、さては、きらきら輝く眼を見てとるなり、驚きあきれ、ようやくにして言葉をつぎ、御名を呼んで、
「まあ、ずいぶんひどいおかたですこと、どうして私をこのようにだまくらかそうとなさりたがるのです。それともどこか、もっと遠いどこかの都へ、国柄もすぐれたところへ連れていこうとでもおっしゃいますの、プリュギアか、美しいマイオニアかの、そちらのほうで、誰かまたものを思う人間のうちに、お気に入りができたというので。きっといま尊いアレクサンドロスをメネラオスが負かしてしまって、この憎たらしい私を故郷に連れていこうとかかっているので、それだもので、いま、このところヘ、ずるいたくらみを胸にかくしていらしたのでしょう。
あの人のそばへいって坐っていらっしゃい、神々さまの往還からは引きさがって、今後はけっしておみ足をオリュンポスへはお向けにならずに、しじゅうあの人のために心を痛め、番しておいでになるがよろしいでしょう、ひょっとしてあなたを奥様なり、まあお腰元ぐらいにはしてくれましょうから、それまでね。でも私は、あちらへはまいりません。(そんなことをしたら)けしからん女といわれましょうから、もしあの人の閨《ねや》の世話などいたしましたら。トロイアの女たちは、みんなうしろで、私のことを悪口申すにちがいありません、際限もないつらさに胸はいっぱいですのに」
それにたいして、立腹してから、神々しいアプロディテがいうようには、
「私を怒らしてはいけない、一徹な女だこと、怒ってしまっておまえを捨てたら大変だろう、いま大変に可愛がっているそれだけおまえを憎みでもしたら。それで私がトロイア方とダナオイ勢と、両方の間に立って、ひどい敵意をあおり立てたら、おまえだってみじめな最期を遂げるきりだろうよ」
こういうと、ゼウスから生まれ出たヘレネも、すっかり恐れ入って、輝くほどに純白な衣《きぬ》をかぶって、ものもいわずに出ていったのを、トロイアの女たちはみな気がつかなかった。女神が先へ立って進んだ。
こうして二人が、アレクサンドロスの、とりわけ美々しい館へ着くと、それから腰元たちはさっそくにさまざまな仕事にとりかかった。けれども、女人のなかでも神々しい女《ひと》(ヘレネ)は、高く葺《ふ》かれた奥の間へと進んでいった。彼女のために、笑いをよろこぶアプロディテは台座をとって、アレクサンドロスの真向いに、それを女神が運んでゆき、下へおろすと、そこへヘレネは腰をおろした。山羊皮楯《アイギス》を持つゼウスの御娘ヘレネは、それでも両眼をうしろのほうにそらしたままで、夫を責めていうようには、
「戦さをぬけていらしたのね。ほんとにあなたが私のもとの夫でした剛勇のつわものに討ち取られて、そのままお死にでしたらようございましたのに。まったくのこと、以前だってご自慢なさいましたね、武神アレスの伴侶《とも》というメネラオスより、自分のほうが、力にかけても、手練でも、また槍にかけても優っていると。そんならさあ、いまもう一度、武神アレスの伴侶《とも》メネラオスを、面とむかって一騎打ちへと挑戦しにいらっしゃいませ。でも私としては、おやめになるようおすすめします、それで亜麻色の髪のメネラオスと、力をつがえて闘うことも、無考えな斬り合いも、おやめのようにね、もしひょっとして、あの人のため槍にかかって討ち取られたら大変ですもの」
それに向かって、パリスはいろいろと言葉をかさね、答えていうよう、
「まあ、そんなに、妻よ、意地の悪い非難をならべて、私の心を責めないでくれ。今度はいかにもメネラオスが、アテネ女神の助力によって勝利を得たが、つぎには私があいつを負かそう、私たちにも神様がたが味方についておいでなのだから。だがそれよりも、臥床《ふしど》についていとしい心にたのしみあおう、だってこれまでかつてこのように切ない思いが、私の胸をいっぱいにしたことはないのだ。あの最初におまえを、美しいラケダイモンからさらって来て、海原をわたる船に乗せ、渡っていったそのおりに、クラナエの島で、いとし心により添って寝て契りかわしたその時でさえ、いまのおまえのこの恋しさ、この身をとろかす、切ない心ほどではなかった」
こういって閨へと先に進んでゆけば、奥方もいっしょについていった。
こうして両人《ふたり》は彫り穴をあけた臥床の内でやすんでいた。一方アトレウスの子(メネラオス)は、群集の中を野獣のようにうろつきまわった、もしやあの神とも見まごうアレクサンドロスが見つかりはすいまいかと。だがトロイア方にも、名も高い助けの勢《ぜい》の中にも、誰一人として、そのおり、武神アレスの伴侶《とも》であるメネラオスに、アレクサンドロスを指さし示してやれなかった。まったくもし見かけたなら、親切心から、隠してやりはしなかったろうに。それというのも、皆から、黒い死の運命でもあるかのように、忌み嫌われていたことだから。それでみなに向かって、武士たちの君アガメムノンがいうようには、
「私のいうことを聞け、トロイア人《びと》もダルダノイらも、助けに来た連中も。勝利はまったく武神アレスの伴侶《とも》メネラオスのものときまった。さればおまえたちは、アルゴス生まれのヘレネにあまたの財宝《たから》をいっしょにつけて渡すがいい、また借金を然るべきだけ払って渡せ、それがまた後世の人間たちにもいい伝えられるように」
こうアトレウスの子(アガメムノン)がいえば、他のアカイア勢もみな賛成した。
[#改ページ]
誓約の解消、アガメムノンが全軍検閲の段
【天上ではギリシア方に味方する女神ヘレとアテネが相談して、トロイアを滅ぼすために、和議をとり潰《つぶ》そうと計り、トロイア方の大将パンダロスをそそのかしてメネラオスを矢で射させる、メネラオスは負傷し、ギリシア軍は激昂して和議は解消される。両軍は再び戦戈《せんか》を交えることとなり、アガメムノン王は部隊を督励、検分をしてまわり、合戦がはじまる】
さて神々はゼウスのわきで、黄金をしいた間敷におのおの座につくその間をぬって(青春の女神)ヘベが神酒《ネクタル》を注いでまわると、神々は黄金の杯をとってたがいにさしつさされつしていた、トロイア人らの城市《まち》を見下しながら。ちょうどそのおり、クロノスの御子(ゼウス)は、意地悪くからかうような口調でもって話をしかけて、ヘレ女神を怒らせようとかかるのだった。
「メネラオスの荷担人には、女神の中では二人いるな、アルゴスのヘレと、アラルコメナイのアテネとだ。だが、こう見ると、あなたがたは遠くから坐ったままでながめくだして喜んでいる。ところが、あの笑いを喜ぶアプロディテは、しょっちゅうパリスのそばへ出かけて、彼の身から死の運命を防いでやっている。いまだってそうだ、もう死んでしまうと思ってたのを助け出してやったものさ。だが、何といっても、勝利は武神アレスの伴侶《とも》であるメネラオスのものだ。それで、私らは、この事件をどう片づけたらいいか、相談しようではないか。あるいはもう一度、禍いな戦争や、おそろしい剣戟《けんげき》の音を起こさせるか、それとも両方の間に和睦と友誼とを送りこもうか。またもし、ひょっとして、こうするのが皆々にとり、好ましくうれしいことであるならばだな、まずこのプリアモス王の城市は存立させとき、またもとへ、アルゴス生まれのヘレネを、メネラオスに、連れ帰らせるとしてはどうだ」
こういうと、アテネとヘレとの二人の女神は、いやな顔しふたりでぶつぶついった。二神《ふたり》は前から隣に坐って、トロイア方に禍いをたくらんでいたものだったが、いかにもアテネは黙りこくって、何もいわずに、ただゼウス父神にしぶい顔してみせたのは、はげしい怒りに身を責められているところ。一方、ヘレは、胸の怒りをおさえきれずに、いい放つよう、
「このうえなく畏《かしこ》いクロノスの御子よ、何ということをおっしゃいます。どうしてあなたは、私がずいぶん汗水たらし骨折ってした仕事を、台なしに、成就もさせずにしまわせようとお思いなのです、プリアモスや、その子たちへの禍いとして、兵士たちを寄せ集めるのに、私の馬までくたびれさせたものでしたのを。お好きなようになさいませ、でも、けしてほかの神様がたも、みな賛成とはまいりませんから」
それに向かって、雲を集めるゼウス神が、たいそう機嫌を悪くしていわれるよう、
「妙なことをいう。いったい何で、プリアモスやプリアモスの子たちが、あなたにたいしてそれほど悪いことをしているというのか、そんなにひどくいきり立ち、イリオスのよく築かれた城塞《とりで》を破壊しつくしにかかっているとは。いや、あなたが自分で、(イリオスの)城門や長い塁壁の中へはいって、プリアモスや、プリアモスの子たち、また他のトロイア人らをも、生きたまま啖《くら》いでもしたら、そうしたら胸の怒りを鎮めることができるというのか。やりたいように、やるがよかろう。この争いが、後々で私とあなたと、二人の間でもっての、ひどい喧嘩のもとになってはなるまい。だが、別にあなたにいっておくことがある、それをよく胸に納めて、忘れずにいてもらいたい、いつでも、私がまたぜひともどこかの市《まち》を滅ぼしてしまいたいと思うときには、その市にあなたのひいきの武士《さむらい》たちがどういようとも、けしていささかたりと私の憤りをせきとめようなどしてはならぬ、ほっておくのだぞ。なぜというと、私のほうも、気はいっこうにすすまないのを、すすんであなたに許してあげた。いかにも、太陽のもとに、また星辰《せいしん》をちりばめた大空のもとに、地上に息吹く人間どもの国都はいくらもあるが、その中でもとりわけこの神聖なイリオスは、私のだいじにしている町だ、またプリアモスや、プリアモスのトネリコの槍もよろしいつわものどももだ。それというのも、いまだかつて私の祭壇に、申し分ない供物《くもつ》の馳走や、灌《そそ》ぎ代《しろ》、焼肉の香りを絶やしたことはない。そうしたものを私らは、給与として受けているのだから」
それに向かって、このとき、牡牛の眼をした女神ヘレがこたえていうよう、
「いかにも私は、三つ、とりわけ大切にしている城市を持っております、アルゴスとスパルテと、大路もひろいミュケネと。それをいつでも、あなたが心《しん》そこ憎らしくお思いのとき、滅ぼしつくしてくださいませ。けして私はその邪魔をいたすつもりもなければ、恨みもいたしません。なぜならば、たとえ私がそれを惜しんで、滅ぼされるのを妨げようとしましたとて、どうせ惜しみとおせはできませんから、あなたのほうがずっと強くておいでですもの。それだといっても、私のいたした骨折りとて、実を結ばずに終わってはなりますまい、私とて神であり、またあなたと同じ生まれであるうえ、狡智にたけたクロノスの子たちのうちで、いちばんの総領娘といわれますのも、この氏素姓と、あなたの配偶《つれあい》と呼ばれております両方のためでございます。あなたは不死である神々全部を支配なさっておいでですから。
それゆえともかくこのところはおたがいに、私はあなたへ、あなたも私へと譲りあうことにしましたら、他の不死である神様がたも従ってまいりましょう。ではあなたさま、さっそくにもアテネにいいつけて、トロイア方とアカイア勢との、恐ろしい戦さのさわぎの中へでかけ、トロイア軍からまず先に、誓いを破って、世にとりわけて名の高いアカイア勢に、害を加えにとりかかるように、やってみさせてくださいませ」
こういうと、人間と神々との父神《おやがみ》(ゼウス)も異論をとなえず承知して、すぐさまアテネに向かい、翼をもった言葉で話しかけるよう、
「すぐ大急ぎで、陣屋へと、トロイア方とアカイア勢とのさ中へゆくのだ、それでトロイア軍からまず先に、誓いを破って、世にとりわけて名の高いアカイア勢に、害を加えにかかるよう、させてみなさい」
こういって前々からもう意気こんでいるアテネをそそのかせば(アテネ女神は)すぐ跳び立ってオリュンポスの峰々から降っていった。ちょうどあの、狡知にたけたクロノスの御子(ゼウス)が投げた隕星《いんせい》のように、それは船乗りたちへ、あるいは兵士たちの広やかな陣営への予兆《さきぶれ》としてかがやきわたり、おびただしい火花の尾を大空にまき散らす、その様子と似て、パラス・アテネは、地上へ向かって、とんでゆき、そのまんなかへ駆け降りたのに、これをながめる馬を馴らすトロイア人らも、脛当てをよろしく着けたアカイア軍も同様に、何事かとたまげおそれた。それでたがいに、隣にいあわす者と顔を見合わせて、いいあった。
「まったくこれでは、またもやひどい戦争やおそろしい戦さのおめきが始まることか、それともゼウス神が、両軍の間に友誼をもたらしたまうのだろうか、御神こそは人間界に、戦争の司《つかさ》であるとされておいでだから」
こうアカイア方、またトロイア方の武士《さむらい》たちはいいあったのだ。さてアテネはトロイア方の軍勢の中へはいりこむのに、アンテノルの子、頑丈で誉れも高いラオドコスの姿形を借りた。このたくましい槍武者の姿でもって、神にもひとしいパンダロスが、どこにいるかとたずねてまわった。それで(とうとう)リュカオンの、誉れも高く豪勇な子(パンダロス)が立っているのを見つけたが、彼をはさんで楯を手に持つさむらいたちの列がいくつか並んでいた、アイセポス河の流域から彼に従ってきた者どもである。そのすぐわきへ立ち添って、(女神は)翼をもった言葉をかけていうようには、
「きみまあちょっと、ぼくのたのみをきいてくれんかね、リュカオンの勇猛心をもった息子よ。ひとつメネラオスに、速い矢を思い切って、射かけてみてはどんなものだね。そしたらきっと、トロイアじゅうのみんなから、感謝と栄誉のまとにされよう。とりわけてアレクサンドロス殿からはな。もしも、アトレウスの息子で、武神アレスのいとしむメネラオスが、きみの矢にあたって斃《たお》れ、いたましい火葬の薪に載せられるのを、彼が見たらば。だからさあ、世に誉れも高い、メネラオスを射て取りたまえ。光明に生まれ、弓矢に名を得たアポロン神にお祈りするのだ。もしも故郷へ、音に聞こえたゼレイアの聖《とうと》い町に帰ったなら、初めに生まれた仔羊どもを、名高い大贄《おおにえ》として献上するとな」
こうアテネはいい聞かせて、愚かな男の心を説きつけたので、すぐさま彼は、磨いてある弓の鞘《さや》をはらった。それは野生の山羊、羚羊《かもしか》の角でつくったもの、その羚羊は、以前に彼が自身出かけて、狙い場所に待ち受けていて、岩間から出てくるところを、みぞおちに狙いをつけ、射て取ったものである。胸をはっしと射たもので、獣はあおむけざまに、岩へ倒れた。その角の、頭から十六|束《つか》もの長さに生えていたのを、角みがきの工匠《たくみ》がよくこしらえて二本をくっつけ、すっかりすべこくしたうえで、黄金の鉤《かぎ》をつけ加えた。この弓を、地面にもたせて曲げ、張りあげてから、よく気をつけて下へ置いた。その前へは、えりすぐった手下の家来が、楯を並べておいたのは、アトレウスの子の、武神アレスのいとしむメネラオスが討たれぬうちに、アレスの伴侶《とも》であるアカイアの息子たちが、はやってとび出ないためであった。
そこで彼は箙《やなぐい》の蓋をはずして、翼をもった、」まだ射たことのない矢、黒い疼痛《いたみ》のやどりである翼のついた矢を取り出した。つづいてすぐさま、弓弦《ゆづる》へ、鋭い矢をしっかとつがえて、さて光明に生まれ、弓矢に名高いアポロン神へと祈りをささげた。年の初めの初仔の羊の、世にきこえた大|贄《にえ》を、もしまた故郷の、聖いゼレイアの里に帰ったならば、たてまつろうと約束した。それといっしょに矢はずのくぼみと牛からとった弓弦《ゆづる》とをつかんで引いて、弓弦《ゆづる》を乳に、鉄づくりの鏃《やじり》を弓に近寄らせた。それから大きな弓が、それこそ円くなったころまで引き絞ったとき、弓は鳴り立ち、弦は高い叫びをたて、矢はまっしぐらに、狙いもするどく、群集の中を翔《かけ》ろうものと勢いこんで飛んでいった。
だがきみのことを、メネラオスよ、さきわいたまい不死でおいでの神々が、けして忘れてしまっては、いられなかった。その第一は、ゼウスの娘の、獲物をもたらす女神(アテネ)で、まん前に立ちはだかって、鋭さを持つ矢を防いでやられた。それも肌からほんのわずかのところで払いのけたのは、さながら母親が快い眠りにやすんでいる子供から蝿を追い払ってやるのとそっくり。そしてご自身、今度はその矢を、腹帯の黄金づくりの止め金が合わさったうえ、胸甲《むなよろい》が二重になって重なるところへ、向けてやった。
それで鋭い征矢《そや》は、腹帯のぴったりと合ったところにあたって、さてもくわしく作りあげられた腹帯を押しつらぬいてはいっていくや、さまざまに技をこらした作りの胸甲さえ、突きとおしてから、肌を護るため、投げ槍をさえぎり防ぐ墻《かきね》ともして、何よりもいちばん防禦の役に立っている、銅《かね》の腰帯さえずっぷりと刺し通した。だが、いちばん上の端だけを矢はひっかいたきりだった、丈夫《ますらお》の肌のうえを。だが、それでもじきに、黒々とした血が傷口から流れだした。
さながらマイオニアか、カリアの女が、馬のくつわの頬当て飾りにしようというので真紅の色に象牙を染めるときのように――その頬当ては奥部屋にしまってあるのを、大勢の騎士たちが(自分の馬に)着けようと望むが、それは国主の荘厳たるべくとっておかれるのだ――そのように、メネラオスよ、おん身の恰好のよい両腿や、ふくらはぎだの、下はまた清らかなかかとまでが血にまみれてしまった。
それでこのおり、武士たちの君アガメムノンは身ぶるいした、黒い血が、傷口からどくどく流れ出るのを見たとき。また武神アレスのいとしむメネラオス自身さえ、身ぶるいしたものだ。だが鏃《やじり》を結わえた糸だの鉤《かぎ》だのが、まだ肉の外に出ているのを見ると、元気がふたたび胸内に立ち戻ってくるのを覚えた。
それで(並みいる)皆の間に立って、ふかい溜息を吐きながら、アガメムノンが、メネラオスの手をとってこういえば、それにつれて手下の者らも嘆息した。
「愛する弟よ、まったくきみを死なせようとて、私は誓いの取りきめをしたのか、ただひとりできみをアカイア軍の選手として、トロイア勢と戦わせたとは。それでトロイア方がきみを射あて、固い誓約をふみにじったのだから。だがけしてその誓いや仔羊の血が、効《かい》ないものということはない、また盟《ちか》いのしるしに灌《そそ》いだ純酒や、信義をかけて交わした右手が。なぜとならば、よしたとえすぐには、オリュンポスにおいでのゼウスが、それを実行させない場合でも、遅くはあろうと、いつかはきっと実行させて、大きな補償でつぐなわせるのだ、自分の首で、あるいは妻や子供によって。
それは十分私だって、このことは胸でも頭の中でも心得ている、いつかはかならずその日が来よう、あの聖《とうと》いイリオスの滅びる日が。またプリアモスや、そのプリアモスの、トネリコの槍もよろしいつわものどもも滅び去る日が。高空に住まいしたまい、高御座《たかみくら》しくクロノスの御子ゼウスが、彼らにたいして、おんみずから黒々とした山羊皮楯《アイギス》を、この罪過をおいかりになり、彼らみんなの上に振りかざされるときがこよう。これらのことは、誓いのとおりにならずには、すまないものだ。
だが、それよりも、メネラオスよ、もしひょっとしてきみが死に、この世の運命《さだめ》を果たそうならば、恐ろしい苦しみが、きみのために私を襲うにちがいない。そしたら私は、たいそうひどい咎《とが》めを負って、渇きのはげしいアルゴスへ帰ることになろう。もう間もないうち、アカイア勢は、故郷のことを思い出し(て帰りたがろう)、それでアルゴス生まれのヘレネも、プリアモスやトロイア人《びと》らの自慢の種に、置いていくことになるだろうから。そしてきみは、仕掛けた仕事も果たさないまま、トロイアの地に埋められて畑に骨を腐らすだろうし、思いあがって、好い気になったトロイア人《びと》の誰彼は、誉れも高いメネラオスの盛りあげた墓の塚に駆けあがって、こうした口をききもしよう。
『どうか、こんなふうに、万事につけてアガメムノンの腹立ちが落着したらありがたかろう。今度だって、アカイア勢をここまで遠く連れてきたのが、むだに終わった、このとおりに。それでまた、いとしい故郷へ、空っぽの船を率いて帰っていった、勇敢なメネラオスを置きざりにして』
こんなふうに、いつかは人がいうだろう。そのときは私を、広い大地が口開けて呑んでくれ」
それに向かって、安心さそうと励ましながら、亜麻色の髪のメネラオスがいうようには、
「安心しなさい、またちょっとでもアカイアの兵士たちにおじけをつけてはくれるな。けして急所に、鋭い矢が突き刺さったのではない、そこへはいる前に、いかにも巧みをつくした腹帯が、受けとめてくれたのだ、またその下側にある腹巻や帯しめなど、鍛冶の工匠《たくみ》たちの力をつくして造ったものが」
それに向かって、アガメムノンは答えていうよう、
「まったく、そうあってほしいものだな、愛するメネラオスよ、だが傷口は、医師がよく診察して、塗り薬など塗ってくれよう、それがあるいは、黒々とした疼痛《いたみ》をとめてくれようかも知れぬ」
こういって、神聖な伝令使タルテュビオスに向かっていうには、
「タルテュビオスよ、一刻も早く、マカオンをここへ呼んで来てくれ、あのアスクレピオスの息子という、申し分なく立派な医者を。武神アレスの伴侶《とも》である、アトレウスの子のメネラオスを診《み》てもらうのだ。誰かがあれを矢でもって討ちあてたのだ、トロイア勢かリュキア勢かのうちの、弓矢の術《わざ》をよく心得た、その男には名誉とも、われわれには嘆きともして」
こういうと、これを聞いた伝令使は、もとよりいわれたとおり、さっそくにも、青銅の帷子《よろい》を着けたアカイア軍の、兵士たちが群れている間へいって、マカオン殿はどこかとたずねさがすほどもなく、その人が立っているのを見つけたが、その両脇には楯をもつ武士《さむらい》たちのいく並びかが、がっしりとひかえていた、その人々は、馬の産地の(テッサリアの)トリケから彼に従って来たものどもだった。そのすぐ間近に寄り添って、翼をもった言葉をかけ、いうようには、
「おいでなさい、アスクレピオスの子よ、アガメムノン王が呼んでおいでです、アカイア勢の大将の、武神アレスの伴侶《とも》であるメネラオスを診ていただきたいので。誰かトロイアかリュキアの人で、弓矢の術《わざ》をよく心得た者に矢で射られたのです。彼には名誉と、私たちには嘆きともして」
こういって、彼の胸内に、当然ながらはげしい思いを湧きたたせた。そこで二人して、広やかなアカイア勢の陣営を通りぬけ、群集の間をくぐって、とうとう亜麻色の髪のメネラオスが矢傷を受けて(臥せって)いるところへ到着した。その身のまわりには輪をつくって、いあわした大将たちがのこらず集まっていた。そのまんなかに、この神にもひとしい武士《さむらい》(マカオン)は、つかつかと進み寄って、すぐさま、ぴったりと合わさった腹帯から、矢を引き抜きにかかる、と、さかさまに抜き出されて来る矢の、鋭い鉤がこわれてとれた。そこで、たいそう巧みをこらした腹帯をほどいてから、またその下の、帯皮や腹巻まで、鍛治の工匠《たくみ》らが骨折ってつくったものを取り去ったうえ、それから傷の、鋭い矢がささった場所をしらべて、血を吸いだしてから、そこへ痛み止めの薬草を、心得ぶかく塗りつけた。それはむかし彼の父(アスクレピオス)に、馬人《ケンタウロス》ケイロンが、親愛の心づくしに授けてくれたものだった。
かように皆が、雄叫びも勇ましいメネラオスの手あてをしているうちにも、トロイア方の楯をもつ兵士たちの隊伍がいくつも押し寄せてきた、それで人々はまた物の具を身につけ、はげしい戦さに心を向けた。
このおりに尊いアガメムノンがねぼけ眼《まなこ》をしているところを、あるいは尻ごみしてすくんでいたり、戦いを避けようなどしている様子を、見たものはなかったろう。それどころか、武士に誉れを与える戦さへと、心《しん》からきおいこんで、馬を棄て、青銅で技もたくみに飾りたてた車さえ乗りすてたほどであった。されば馬どもが鼻息あらくいななきたてるのを従士のエウリュメドンが、邪魔にならぬようわきへ引き寄せた。ペイライエウスの裔《すえ》プトレマイオスの息子である。
彼にたいしていろいろ委細に王は指図を授け、大勢の間を号令していくうちに自分の手足が疲れてきたら、すぐさま車をそばへもってくるよう命じておいて、それから自分は徒歩《かち》だちのまま武士《さむらい》たちの陣列をまわって歩いた。そして、速い駒を駆るダナオイの軍勢中に、戦いあおうとはやり立っている者どもを見るたびに、そのそばへいって、言葉をかけ、いっそう激励していうよう、
「アルゴス勢よ、けしてすこしも、はげしい戦さへの意気ごみをゆるめてはならん、けして、ゼウス父神が、嘘つきどもに荷担されることはなかろうから。いやかならず、自分から先に約定を破り誓いを犯した者ども、その者どもの肉づきのよい裸か身を、禿鷹どもが啖《くら》おうぞ。また彼らのいとしむ妻やいとけない子供たちはといえば、われわれがこの城市をおとしいれたうえ、船にのせて連れていくことだろう」
一方、このいまわしい戦さから引きさがっている人々を見つけるごとに、腹を立て、はげしい言葉で叱っていうよう、
「アルゴス人《びと》といわれるおまえらが、掛け声ばかりで、よその非難もいっこうにおそれないのか。なぜこのように、仔鹿みたいにたまげ、うつけた様子をして突っ立ってるか、広い野原をさんざん走って疲れ立ち止まり、それでもう胸内には少しの気力も残っていない鹿みたいに。おまえたちはぼんやりとたまげて突っ立ち、戦いさえ止めているとは。いったいおまえたちは、白く波立つ海の渚《なぎさ》に、舳《へさき》もよろしく船が並んで引き上げられているところへ、トロイア勢がやって来るのを待ってるのかね。もしやクロノスの御子(ゼウス)がおまえたちの上に、擁護の手をかざしてはくださるまいか見ようと思って」
このように彼はいろいろ指図しながら、武士たちの隊伍をずっと渡っていった。やがて群がる軍勢の間をだんだん進むうち、クレテ島から来た軍勢のところへ来ると、おりから勇猛なイドメネウスの側近たちが甲冑に身を固めているさいちゅうだった。このイドメネウスは先手の陣に加わって、その勢いは荒猪さながらに、また(介添え役の)メリオネスはいちばん後詰《ごづめ》の陣列を激励していた。この様子を見て、武士たちの君アガメムノンは大変よろこび、すぐさまイドメネウスに向かって、いそいそとした物言いで話しかけるよう、
「イドメネウスよ、とりわけきみを、速い駒を駆《か》るダナオイ勢の中でも、私はえらいと思ってるのだ、戦闘の陣も、その他の仕事にかけても、あるいは饗宴のおりに、長老たちをもてなすとき、輝く酒をアルゴス勢の大将たちが、酒|和《あ》え瓶《がめ》にいれて水を和《あ》えまぜる時についても。というのは、いかにも頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア人《びと》の中に、他にもまだ自分の分け前だけの酒を飲み干す者はいくらもあろうが、きみの前には、ちょうど私と同様に、いつなりと気の向いたとき飲めるようにと、杯がいつもなみなみといっぱいにして置いてある。されば、さあ、起って戦さに出かけなさい、きみが前から誇るとおりの勇士であるなら」
それに向かって、今度は、クレテ勢の大将のイドメネウスがいうようには、
「アトレウスの子よ、もちろん私は、将来もあなたの信実な僚友でありましょう、初めに約束をし承知をしたとおりに。だがそれよりも、ほかの頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア人たちを激励して、さっそくにも戦さをはじめることにしましょう。トロイア方が誓約を無効にしてしまったからには、彼らへは、また後々で、死と禍いとがくだされましょう、向こうが先に誓ったことを破ったのだから」
こういうと、アトレウスの子は心に喜びを覚えながら、先へ進んでいった。そして群がる軍勢の間をゆくうち、今度は両アイアスのたむろするところへ来ると、二人がいま甲冑をつけているそばに、徒歩《かち》の兵らの雲のような大群がつき従っていた。それはちょうど丘の見晴し台から、山羊を飼う男が、こちらへ向かって来る雲を見るときのよう、勢いよく吹く西風の息吹のもとに、海面をはるかわたってくるのを。遠く離れている者には、海をおおって押し寄せるのが、瀝青《ピッチ》よりもっと黒く眼にうつる、しかもはげしい疾風《はやて》をさえ伴って。それを見るなり(山羊飼いは)身ぶるいして、洞穴へ山羊を追いこんだ。そのように、両アイアスにつき従う若者たち、ゼウスの擁護のもとにある人々の隊伍はぎっしり組み合わさって、戦いの斬り合いの中へと繰り出していく、しかも黒々とした隊伍をなし、楯だの槍だのをすさまじくつき立てながら。
その者どもをながめて、アガメムノンは大いに喜び、彼らに向かって声をあげ、翼をもった言葉をかけた。
「両アイアスよ、青銅の帷子《よろい》を着けたアカイア軍の指揮官であるあなたがた二人を、激励するのは不当なことだから、私は何も指図はしない。だって、あなたがた自身が、ずいぶんと、兵士たちに、力をこめて戦うよう励ましておいでだから。まったくゼウス父神や、アテネや、アポロン神にもかけて、みなめいめいに、あなたほどもすさまじい意気ごみを心に持ってくれたらばな。そしたらすぐと、プリアモス王の城市も、われわれの手に攻めおとされ、劫掠《ごうりゃく》をうけて、降参することだろうに」
こういって、二人はそのままそこへ残しておき、ほかをたずねて歩みを運んだ。そこで出会ったのは、ピュロスから来た人数の頭《かしら》、声高《こわだか》なしゃべり手ネストルである。彼はいましも自分の手下を、戦さへと激励し、送り出していたところで、堂々としたペラゴンやアラストル、あるいはクロミオス、ハイモンの殿、また兵士たちの統率者ビアスなどを取り巻く連中で、先頭には騎士たちを、馬どもや戦車もろとも立ち並ばせ、後詰には勇ましい徒歩《かち》のつわものどもを大勢、戦さのおりの護りの墻《かきね》と引き据えておき、そのまんなかへ手弱な者どもを押しこんだのは、誰も彼もみな否応なしに、闘わそうという計略だった。
まず第一には、戦車の騎士たちに命令して、めいめい自分の馬を抑えておいて、群集の中へはいって混乱させぬようにいいつけ、
「誰にしても、自分の馬術や武勇をたのんで、一人でもってひとに先駆け、トロイア勢と戦さしようとはやり立ってはならぬ。また退却してもいけない。そうすると、あとが手薄になろうから。また自分の戦車に乗ったままで、敵の戦車に手が届こうと思う者は、槍を出して突いたがいい、そうしたほうが、ずっとうまくいくものだ。このようにして昔の人も、城だとが塁壁《とりで》だとかを攻めおとしたものだった、こうした工夫や意気組みを胸中に保持してだ」
こんなふうに、ずっと昔から戦術によく通じていたかの老将は激励していった。それでこの様子を見たアガメムノン王はたいそううれしく思って、彼に向かって声をあげ、翼をもった言葉をかけていうよう、
「おお、ご老人、まったくあなたの胸のうちにある気概ぐらいにも、あなたの膝がついて動け、体力もしっかりしていたらなあ。だが、残酷な老年があなたを悩ましているとは。いっそ誰かほかの人が老いにとりつかれて、あなたをもっと若々しい者どもの仲間に入れたらありがたかろうに」
それに答えて、今度はゲレンの騎士ネストルがいうようには、
「アトレウスの子よ、それは心《しん》から私にしても願っているのだ、むかしあの勇ましいエレウタリオンを私が殺した時のままだったらと。だが、けして神様がたは、人間にすべてのことをいちどきにお与えなされることはないのだ。そのおりに私が若者であったならば、いまでは老いが迫るというが当然のこと。だが、それにしても、騎士たちの間に立ちまじって、はかりごとなり話でなりと激励してやりましょう。それがいわば年寄たちの特権とでもいうものだから。槍などのほうは、もっと若い者どもが振りまわそうからな、私よりずっと年も若く腕力にもずっと自信のある連中が」
こういうと、アトレウスの子は心にうれしく思いながら、その場を立ち去り、今度はペテオスの息子で、馬を鞭打つメネステウスが立っているところへ来た。その左右には戦さの閧《とき》に心構えを忘れないアテナイ人《びと》が群がっていた。またその近くにたたずんでいたのは、知恵にゆたかなオデュッセウスで、そのへん一帯、ケパレニアから来たあなどりがたい人数が列をつくって立ち並んでいた。というのは、まだここまでは戦さの叫びが聞こえてこなかった。馬を馴らすトロイア勢もアカイア軍も、やっといましがた隊伍を動かしはじめたばかり、繰り出しかけたところなので、この人々も、じっと待ち構えて立ちどまっていたのであった。いまにアカイア側の、どこか他の守備の部隊が、押しかけてきて、トロイア方へ攻めかかったら、戦端を開こうと思っていたからである。
この人々を認めるなり、武士たちの君アガメムノンは咎めにかかって、彼らに向かって声をあげ、翼をもった言葉をかけていうよう、
「おお、ゼウスの擁護をうけられた領主ペテオスの息子(メネステウス)よ、それからきみ、いつも悪がしこい策略に長じ、うまい儲けをたくらんでいる(オデュッセウス)よ、なぜきみたちは手をつかねたままたたずんで、ぼんやりと尻ごみして、他の部隊をあてにしてるのか。きみたちならば、当然にまっ先かけて先陣に加わって立ち向かい、身を焼きつけそうな激戦に参加しようと期待されるのに。だってきみらは、われわれが饗宴を開くおりにも、まず第一に招かれる人々である、いつでもわれわれアカイアの者が、長老のため饗宴を催すたびに。そこではしじゅう、あなたがたが好むままに、あぶった肉を喰うなり、蜜の甘さのぶどう酒の杯を飲み干すなりして興じられるのだ。それがいまは、たとえ十隊ものアカイア勢が、あなたがたのすぐ眼の前で、容赦ない刃物を取って闘いあっていても、ただながめるだけで興じていたまうのか」
こういう王を、上目づかいににらまえて、知恵に富んだオデュッセウスがいうよう、
「アトレウスの子よ、何という言葉が、あなたの歯並みの墻《かき》をもれてきたのです〔驚いたときや、意外な、または不当な言葉をとがめるさいの定句〕、どうしてまったく、戦さにかけて不熱心だといわれるのですか。いつだってわれわれアカイア軍は、馬を馴らすトロイア人《びと》らへ、はげしい戦さを仕掛けているのに。もしお望みなら、またそれを心配しておいでなのなら、テレマコスの父親が、馬を馴らすトロイア方の先陣と渡りあう様子を見てください。それなのにあなたは、あんなでたらめをおっしゃるとは」
それに向かって笑いかけながら、アガメムノン王がいった、オデュッセウスが怒っているのを認めると、前の言葉をいいなおして、
「ゼウスの裔《すえ》なるラエルテスの子、オデュッセウスよ、工夫に豊かなきみを、何も私が、格別にとがめだてすることもなければ、激励する必要もありはしない。私もよく知っているのだから、きみが胸の奥には優しい心づくしを持っていてくれること、また私とそっくり意見も同じだということを。だがまあ、もしいま何か悪態をわしがついたならば、その埋め合わせは、いずれあとでするとしよう。そんなことはみな神様がたが、反故《ほご》にしてくださるように」
こういうと、そのままそこに、この人々を置いたまま、よそを訪ねに歩みを進めて、やがてテュデウスの子の、すぐれて意気旺盛なディオメデスが立っているのを認めた。あたりには馬どもや、頑強なつくりの戦車が置かれ、そのわきにはカパネウスの息子ステネロスがたたずんでいた。それを見ると、アガメムノン王はなじりにかかって、彼に向かって声をあげ、翼をもった言葉をかけていうよう、
「やれやれ、勇猛な気象の、馬を馴らすテュデウスの息子ともあるものが、何をぐずぐずためらってる、なぜ戦さの関《せき》〔戦列の間の狭い空間をいうらしい〕を見送ってばかりいるのか。いや、テュデウスなら、好んでこう尻ごみはしてなかった、むしろ親しい仲間よりずっと先に立って、敵と戦うのが常だったと、こう彼が力戦するのを実際に見た人々が聞かせてくれた。私自身は出会ったことも見たことも、それはないがな、抜群の者だったということだ。
もっとも彼は、戦争とは関係なしに、客人としてミュケナイへ来たことはある、神にひとしいポリュネイケスといっしょに、軍勢を集めにだった。そのおり彼らは、テバイの聖い塁《とりで》へ、遠征を企てていたもので、ぜひ名に聞こえた救援部隊を送ってくれと頼みにきたのだ。それでみなも出そうと考え、頼みどおりに承知をするところだったが、ゼウス神が不吉な兆《きざし》を表わされたもので、心変りがしてしまった。
そこで彼らは立ち去って、相当の道程《みちのり》を進んでいった。そしてアソポス河の川葦が深く茂って、草の臥床《ふしど》をつくるところまで来ると、アカイア人《びと》が今度はテバイへとテュデウスを、送ることにした。そこで彼は出かけていってカドモスの都〔テバイのこと。カドモスはテバイ建国の祖〕の者らが大勢、勇敢なエテオクレスの館《やかた》でもって、宴《うたげ》を張っているところに赴いた。しかもそのおりに、馬を駆るテュデウスは、古い主客の縁故もないのに、少しも恐れずに単身、大勢なカドモスの子らに立ち交わったばかりか、かえって腕くらべを一同にたいしていどみかけ、しかもどの競技にもみな容易に勝利を得てしまった。アテネ女神が、そんなにたいした援助者として彼にはついてたわけだった。
そこで馬の乗り手と聞こえたカドモスの市人は腹を立てて、彼が帰ってゆく道筋へ、隙間もなく待ち伏せの手勢を送ってかくしておいた。その五十人もの若者たちの指揮にあたったのは二人で、ハイモンの子マイオンという、不死の神々にもたぐえられる強《ごう》の者、それとアウトポノスの息子でポリュポンテスという手剛《てごわ》い闘士であった。だがテュデウスはこの人々にさえ恥の多い死を遂げさせたものだった。というのは、彼らを皆殺しにして、ただ一人だけ故郷《くに》(テバイ)へ送り帰してやった。つまりマイオンを神々のお告げの兆《きざし》に従って還らせたのだ。アイトリア生まれのテュデウスは、かような勇士であったのに、その生んだ息子というのは、戦さにかけては父より劣った者なのだな、弁舌では立ちまさろうが」
こういったが、それにたいして剛勇のディオメデスは一言も答えなかった、尊敬している国の主《あるじ》の叱言《こごと》にたいし、つつしみぶかさを表わしたわけである。だが、誉れかがやくカパネウスの息子(ステネロス)が、彼に向かっていい返すよう、
「アトレウスの子よ、はっきり本当をいうこともよくおできなのに、嘘をいうのはやめてください。私らはまったく親父などよりずっと上手《うわて》なつもりなのです、七つの門のテバイ城を攻め取ったのも私らですから。それもずっと少ない人数を率いていって、いっそう堅固な城壁にとりかかったもの、神々がお示しなさった前兆とゼウスの擁護をたのんでではありましたが。それにひきかえ、あの人々(親父たちテバイ攻略の七将)は、自分の心の傲《おご》りから身を滅ばしたのです。それゆえ、どうか私らを、父親どもと同列に見てはいただきますまい」
すると、それを上目づかいににらまえて、剛勇のディオメデスがいうようには、
「おい、おまえは黙ってひかえていろ、おれのいうとおりにしてりゃいいんだ。だってな、おれにはちっとも兵士たちの統領アガメムノンを悪く思う筋合いはないからな、脛《すね》当てをよろしく着けたアカイア勢を戦いへと励まし立てておいでというので。なぜならば、もしアカイア軍がトロイア勢を打ち滅ぼして、聖いイリオスを攻め取ったら、このかたもまた高い誉れを受けられよう。その反対に、もしアカイア方が敗けたおりには、ひどい悲嘆におそわれることだろう。だが、それよりもさあ、われわれも、激戦へのはげしい気組みを取り戻そうよ」
こういうなり、戦車から物の具ぐるみに大地へ跳び降りれば、おそろしいとどろきの音が、奮起した勇将の胸のあたりで、鳴り立ったのに、強情我慢の者さえも、こわさに足がすくんでしまった。
さながら轟々《ごうごう》ととどろきわたる渚《なぎさ》に寄せる大海の波が、揺り立てる西風の下に、つぎからつぎと湧きあがるよう、まず初めにはひろい沖に波頭が立つ、それから今度は陸へ寄せてきて砕け、高く鳴りわたる、そして岬の両側へ弧をつくってから頭を高く持ちあげて、潮の泡をはき出す。そのように、この時つぎからつぎへと、ダナオイ勢の隊列は、情け容赦もない戦さへと動いて進めば、それぞれ指揮を執るものが、めいめい自分の部隊に指図を下し、他の者らはただ黙りこくって歩を運ぶ。その様子は、従ってゆくこれほど多い人数が、それぞれ胸に声をかくしていようとは思えないほどで、みな指揮者を恐れ、ものもいわない。その残らずが身につける技をこらした鎧の輝き、それを着こんで、陣列は進んでいった。
一方、トロイア方は、ちょうど羊の群れが、大層な金持の家の中庭に、これから白い乳をしぼられようと、数知れぬほどうろうろしているありさまのよう。それが仔羊どもの声を聞きつけて、ひっきりなしに鳴いている。ちょうどそのように、トロイア勢の喚呼の声が、広々とした陣営じゅうに湧きあがった。それというのも、大勢いる、その皆が一つの言語、一つの音声をもってるのではなく、方々から招《よ》び寄せられて来たもので、言葉がたくさんまざっていた。一方の軍勢を駆り立てるのは武神アレス、他方はまた、きらめく限のアテネ女神、それに「恐怖《デイモス》」だの「潰走《ポボス》」だの、いつも一途《いちず》にきおい立つ「闘争《エリス》」とて、武士たちを殺すアレスの同胞《きょうだい》でまた部下の女神が、それも最初は、たいして高く頭をもたげていなかったのが、いつの間にか、宙天にまで頭を突き上げ、しかも足は地上をわたる、そうした女神が、このおりも、荒々しい闘争《エリス》をまんなかへと打ちこみ、軍勢の間に入りこんで、武士たちの呻吟をいや増しにしていった。
さていよいよ、双方の人数が、一つ場所まで往き着いて出会ったとき、たがいに皮の循をぶつけあい、たがいに槍や、青銅の胸甲《むねあて》を着た武士《つわもの》どもの剛力をつがいあうと見えて、臍《ほぞ》のついた大楯が、相たがいに寄りあえば、おびただしい騒音が湧きおこった。それでこのおりに、殺す者と殺されてゆくつわものどもとの、あるいは悲鳴、あるいは得意気な勝ち名乗りが繰り返され、大地は血潮をただよわせた。さながら、雨風に量を増した冬の谷川が、山間を流れ下って、落合へ来て、深いうつろをなす渓谷で、いくつもの大きな水源からの流れがいっしょに、みなぎる水をぶつけあうよう。そのにぶい物音を、遠くの山あいにいる牧人が聞きつける。そのように、入りまじって戦う両軍から叫びの声や騒ぎの音が起こってきた。
まず筆頭には、アンティロコス〔ピュロスの王ネストルの長男。勇敢で礼節ある若者〕が、トロイア方の鐙武者一人を討ち取った、先頭に加わっては武勇を知られたクリュシオスの子エケポロスを。その様子はといえば、まずはじめに、馬の尾房をつけた兜の星金《ほしがね》を打ちあて、額に槍を突き立てたので、青銅をつけた穂先が骨をつきとおしてはいっていった、そこでその両眼に暗闇が蔽いかぶさり、どっとばかりに、倒れかかったそのさまは、さながら激しい合戦に塔の櫓《やぐら》の崩れるよう。
その倒れたのを、足をつかんで矢弾の間から引きずっていこうとしたのは、カルコドンの子エレペノルとて、意気のさかんなアバンテスらの大将だが、すこしも早くその甲冑をはいで取ろうとしきりにあせる。その突進もつかのまに終わったのは、屍《しかばね》をひいてゆくところを、意気のさかんなアゲノルが見てとって、脇腹の、かがんだ拍子に、楯の横からあらわれ出たところを、青銅の穂先をつけた磨いた木の槍で突き刺したもので、手足はたちまちなえくずれた。かようにして、その体から生命《いのち》は去ったが、彼の屍をさしはさんで、トロイア方とアカイア勢との間に、無残な所業がくりひろげられた。人々は狼どものように、相たがいにおどりかかり、武夫《もののふ》は武夫をつぎからつぎへと殪《たお》していった。
おりから、テラモンの子アイアスは、アンテミオンの息子で、血気の若武者シモエイシオスを討ち取った。この者はもとその母親が、イダの山から下りて来て、シモエイス河の河堤で産んだ子だった。それは羊の番をしようと、両親について来たおりのことである。そのために、みな彼をシモエイシオスと呼びならわしたが、そのいとしい親たちにも彼は養育の恩を返さなかった。それというのも、意気のさかんなアイアスの槍にかかって討ち取られたため、ほんのわずかの間しか彼の寿命はつづかなかったので。
すなわち彼がまっ先かけて進んで来るのを、右の乳の脇をめがけ胸を突いたところ、青銅の槍はまっしぐらに肩をつき抜けはいっていった。それでたまらず彼は砂塵をまいて地面へ倒れた、さながら白川楊のように――それはもと大きな沼地の低いところに生えていたもので、なめらかに、枝がただ梢《こずえ》のところだけに生い繁っていたが、それを戦車づくりの工匠《たくみ》が、とりわけてみごとな二人乗りの戦車用に、曲げて車輪の縁にしようと、火のように輝く鉄の刃で切り、いまでは乾燥させるため河の堤へ、横たえてあったのだが――その様子とそっくりに、アンテミオンの子シモエイシオスを、ゼウスの裔《すえ》なるアイアスは討ち取ったが、彼を目がけて、群集の中を、プリアモスの子で、きらやかな胸甲を着たアンティポスが、鋭い槍を投げつけた。しかしそれは彼にはあたらないで、オデュッセウスの手下の勇士レウコスが、いましも屍を、向こう側へ引きずっていこうとする、腿《もも》のつけ根に突きささった。そこで屍の上へおっかぶさって倒れかかれば、手から屍は落ちた。家来の者が殺されたので、オデュッセウスはすっかり胸に怒りを湧かせ、火と輝く青銅の物の具を身に鎧《よろ》って、先手の陣を走り抜け、すぐそのそばへ進み寄ると、突っ立ったまま、右左に目をくばりつつ、かがやく槍を投げつければ、そのすさまじい勢いに、槍を投げる武士の前からトロイア勢は引き退った。
ほうった武器《えもの》に手ごたえあって、プリアモスの脇腹の息子、デモコオンにあたった。これはアビュドスから(王家の厩《うまや》の)駿馬をおいて馳けつけた者だったが、その男をオデュッセウスは、部下を殺されたもので憤慨して、槍でこめかみを突いたのである。その青銅の穂先が、もみ上げのこちら側から向こうへと突き抜けたので、暗闇が彼の両眼に蔽いかぶさり、どうとばかり響きをうって落ちこむと、その物の具が体の上でからから鳴った。
これにおそれて(トロイア方の)先陣は誉れかがやくヘクトルもろとも引き退れば、アルゴス勢は声高らかに雄叫《おたけ》びあげ、屍を引きずってゆき、さらに先へと押し進んだ。だがペルガモス〔イリオスのアクロポリス〕からこれを見下おろすアポロン神はけしからぬことと、憤《いきどお》ろしく、トロイア方に叫びかけ激励してこういわれた。
「起て、馬を馴らすトロイア人らよ、競《せ》り合いからアルゴス勢に、一寸たりとも退《ひ》くな。けして彼らとてもその肌が石でもなければ、鉄でもない、打たれたり突かれたおりに、皮肉を裂く青銅の刃をささえようほど。いや、それどころか、あのアキレウス、髪の美しい女神テティスの息子さえ戦さには出てないのだ、船が並んでいるかたわらで、胸を悩ます怒りを無理矢理におさえているだけで」
こう城の高みからおそろしい御神はいわれたが、一方、アカイア勢を励まし立てるのはゼウスの娘の、上ない誉れに輝くトリトゲネイア(アテネ)で、手ぬるい者を見かけると、群集の中へ出かけていって、激励した。
おりから、アマリュンケウスの子ディオレウスを、運命の罠《わな》がとらえた。とはつまり、右のふくらはぎの、かかとのすぐそばのところを、ごつごつ尖った石塊《いしくれ》で撃たれた。投げつけたのは、トラキアからの軍勢の侍大将ペイロスという男、アイノスから出てきた者で、インブラソスの子と聞こえた。
腱と骨とを両方とも、その無残な石が、すっかり砕いてしまったもので、彼はあおむけに、両方の手を、なつかしい戦友たちへとひろげたまま、息も絶え絶えとなり、砂塵をあげて打ち倒れた。そこで、石をぶつけた本人のペイロスが駆け寄って、手槍で臍《へそ》のわきを突き刺したので、地面にはらわたがすっかり噴きこぼれ、彼の両眼を暗闇が蔽いかくした。
だがその男の急いで駆けていくところを、アイトリア人《びと》トアスが、槍をとって、乳房の上の胸を打てば、青銅(の穂先)が肺の臓に突き刺さった。そこでトアスは、つかつかとそのそばへ立ち寄り、重たい槍を胸から引っこ抜くなり、鋭い剣を抜き放って、それをいきなり腹の、まんなかにぶちこみ、命を奪い去った。
だがその物の具をはぎ取りはできなかった。というのも、頭のてっぺんに髪を生やしたトラキア人の戦友たちが、手に手に長い槍をかまえまわりを取り囲んで、この男を、いかにも大兵で、力も強く、気象もすぐれた者ながら、味方の陣から追い返した。それで彼もとうとうよんどころなく引き退った。
こうして砂塵の中に、一方はトラキア勢の、他方は青銅の帷子《よろい》を着るエペイオイの指揮者が、たがいに相並んで長々と倒れ伏していた。またその周囲では、なおそれからも、大勢が殺されていった。
このおり、どんな人でも、ここへ出て来て、働くことを軽んじようという者はなかったろう、よし彼が槍にもあたらず、鋭い青銅(の刃)に傷もつけられずに、またパラス・アテネがその手を取って連れ歩いてくれたうえ、矢弾のはげしい勢いを防いでくれたとしても、戦場のまんなかをぐるぐるまわって働くことを。それほどに、トロイア方にも、アカイア側にも、この日の戦さに、砂塵の中へ並びあって、うつ伏せにのび横たわる者が数多くあったのである。
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ディオメデスの武勇の物語
【ギリシア方アルゴスの大将ディオメデスは王の激励をうけ、アテネ女神から勇気を吹きこまれ、戦場を馳駆《ちく》してトロイア方の武士をつぎつぎと倒してゆくうち、パンダロスに出会い彼を討ち取る。ついで女神アプロディテをも傷つけるが、アポロン神に叱咤されて止む。トロイア方を助ける武神アレスも戦場に現われたのを、ディオメデスはアテナ女神の加勢によって負傷させる。トロイア方はリュキアの王サルペドンに責められてパリスの長兄ヘクトルを主に、ギリシア方は勇将アイアスやオデュッセウスがディオメデスを掩護して戦いあう】
このおりにまたテュデウスの子ディオメデスにパラス・アテネが男気と胆力とをお授けなさった。彼がアルゴス勢全体の中にあってもとくにあらわれ、すぐれた誉れをかち得るようにとである。それで彼の兜や大循から、疲れを知らない火焔を燃え上がらせたそのようすは、晩夏の頃の巨星(シリウス星)とそっくりだった。とりわけ世界の涯《はて》の大洋の水に洗われ、いよいよ明るく輝きわたるその星とみまごうばかりな、(物の具からの)焔光を彼の頭や両肩から燃え立たせて、いちばん人のかたまりあっている、戦場のまんなかへと赴かせた。
さてトロイア方にダレスという、富みかつ身分も貴い人物がいた。ヘパイストス神の祭司をつとめて、ペゲウスにイダイオスという二人の息子を持っていたが、ともに戦さの術《わざ》の万般によく達していた。この二人が、いま列を離れ引き返して(ディオメデスの)真向かいに突進して来た。二人が戦車から挑みかかれば、彼のほうは地上を徒歩《かち》立ちで進む。こうしてたがいに、むかいあって寄りあい、いましも間近となったときに、ペゲウスは先がけて、長い影をひく手槍をほうりつければ、その槍の尖った穂先が、テュデウスの子の左の肩の上へと飛んできはしたものの、体にはあたらなかった。こちら、ディオメデスのほうはあとから青銅(の槍)を取って突き進むと、その手を離れた物の具はけしてむだには飛ばずに(ペゲウスの)乳房の間の胸へあたって、彼を馬車から墜落させた。
これを見たイダイオスは、とりわけ技をつくして造った二輪の戦車を捨て跳んで降りたが、さりとて殺された兄弟をかばって立つほど思い切ってはやれなかった。というのも、とうていもうはや、そうでもしたら、彼自身が黒々とした死を遁《のが》れる見こみもなかったところ、ヘパイストス神が彼を護って、夜の闇に蔽いかくし無事に助け出した。それこそすっかり(彼の祭司である)老人が悲嘆にくれてしまわないよう。そこで、意気のさかんなテュデウスの子は、(敵の馬車から)馬を追い出し、なかのうつろな船陣へ牽《ひ》いていくよう、部下の者らに渡してやった。
他方、意気のさかんなトロイア勢は、ダレスの二人の息子の、一人は危うく死ぬのをのがれたが、一人は戦車のそばで殺されたのを見て、誰しもみな胸をかき乱された。そのおりからにきらめく眼のアテネは、勢いはげしいアレス神の手を取って、いいかけるよう、
「アレス、アレス、人類の破滅であり、殺人の血にまみれ、城塞《とりで》の毀《こわ》し手(である戦さの神)よ、どうでしょう、まあ、私たちは、トロイア方とアカイア勢とを闘いあわせて、ほうっておいては。どちら側にゼウス父神さまが勝利の誉れをお授けになろうと、私たち二人は引き退っていることにしましょう。それでゼウスさまのご立腹を避けることにしましたら」
こういって、勢いはげしいアレスを戦いから連れ出して、それから彼を砂の堤の高いスカマンドロスの岸辺に坐らせた。それでトロイア方をダナオイ勢は打ち負かして、大将たちはみなてんでんに、敵の武士を討ち取った。まず第一には、武士たちの君アガメムノンが、ハリゾネスの将領で、巨漢《おおおとこ》のオディオスを戦車の台から突き落とした。つまり彼がまっ先かけて引っ返すその背中へ、両肩のあいだのところに、槍をぐさりと突き立てて、胸へずっぷり打ちこめば、たまらずにどうとばかりに地響きうって倒れると、体の上で物の具がからから鳴り立てた。
またイドメネウスは、マイオネスの族《やから》で、ボロスの息子、パイストスを倒した。土塊《つちくれ》の沃《こ》えたタルネから来た者である。この男が、馬車にいま乗ろうというのを、槍に名高いイドメネウスが、長柄の槍で、右肩を突き刺したので、乗物から倒れて落ちる、その人を、おぞましい闇がおっとりこめた。
その甲冑を、イドメネウスの従者たちがはぎかかれば、ストロピオスの息子で狩りの達者なスカマンドリオスを、アトレウスの子メネラオスも鋭い槍で討ち取った。すぐれた猟師であったものを。それというのも、女神アルテミスおんみずからが、山あいに森がはぐくむ野獣のたぐいを撃つ術を教えられたのである。だがこのおりには、猟矢《さつや》を射たもうアルテミスさえ、また前々から抜群のきこえがあった射撃の術さえ、何のたしにもならなかったという。そうして彼を、アトレウスの子の、槍に名高いメネラオスが、自分の前を逃げてゆくとき、背中を槍で突き刺したので、≪両肩の間のところを、ぐさりとばかり胸板を貫きとおせば≫うつむけにぶっ倒れる体の上で物の具がかたかた鳴った。
またメリオネスは、ペレクロスを討って取った。ハルモンの子テクトンの息子で、手の先でいろんな精緻《せいち》をきわめた器具をつくる技万般を心得ていた者である。これは、技芸の神パラス・アテネの特別なお引立てというべきで、それによってアレクサンドロス(パリス)のために、トロイアの人々全体にとり、また自身にとってもあらゆる不幸の根本になった、釣合いのよくとれた船を作ってやったのも彼だった。こういう禍いをひき起こしたのも、つまりは神々が下される予兆を十分解く術を心得てないためだといえる。この男をメリオネスが追いかけていって、つかまえると、右のほうの尻を槍でぐっさり刺せば、そのままずっぷり槍先がはいって骨をくぐり、膀胱《ぼうこう》のあたりへ出た。それでわっと叫んで、膝をつき倒された男に、死がすっかり蔽いかぶさった。
一方ではペダイオスをメゲスが殺した。これはアンテノルの息子だったが、庶子に生まれはしたものの、気高いテアノが、自分の子供と同様に、夫への義理立てから、大切に養育してきたものだった。それをいま、槍の上手ときこえたピュレウスの子(メゲス)が、近くから来て、首のうしろの腱のところを、鋭い槍でぐっさり刺せば、まっすぐに青銅(の穂先)がはいっていって、舌の根を切り剖《さ》いて、歯並みの上へ出たもので、冷たい青銅《かね》をもろ歯に咬みしめ、砂塵の中へ倒れた。
またエウアイモンの子エウリュピュロスは、勇ましいヒュプセノルを、これは気象のすぐれたドロピオンという、スカマンドロス河神に仕える覡《かんなぎ》として、国じゅうの人々から神のように尊敬されていた人の息子だったが、その男をいまエウアイモンの立派な息子エウリュピロスが、自分のいたすぐ前のところを逃げていくのへ、うしろから追いつくなり、剣でもって跳びかかり肩を撃ち、重い手を切り落した。血まみれになった手は、地面へ落ちる。その男の両眼を、朱紫《あかむらさき》の死と、否応のない運命とが、おっとりこめた。
このように誰も彼《か》も、はげしい合戦のあいだに働いていたが、テュデウスの子(ディオメデス)がいまどちらの側といっしょにいるのか、トロイア方と駆け合ってるか、それともアカイア勢といっしょなのかは、誰にもわからなかったろう。というのは、彼は水かさを増した河のように、平原を馳せまわっていたものだから。その河は冬のあらしの水をあわせて、ひどい早さで流れていって、土手や堤を押し崩していく。ゼウス大神が降らせる雨が勢いよく降りしきって、突然に河があふれてくるのを、しっかり押し固められた土手さえも、これをささえる力は待っていないし、生い繁った果樹園の垣根とても、とうていおさえることはできないのだ。それでおびただしく、若者たちが丹精こめて作った田畑が、洪水のため、荒らされてしまう。そのように、テュデウスの子のために、トロイア方のしっかり組んだ隊列が、いくつも混乱におとしいれられ、人数は多かったものの、その攻撃を受けささえはできなかった。
さて、このディオメデスが、目の前を、味方の陣をかき乱して、野を横ざまに走っていくのを、リュカオンの誉れも高い息子(パンダロス)は見てとるなり、すぐさま彼へと狙いをつけて、曲った弓を引きしぼり、突き進むところを目がけて、右の肩へと矢を射あてた、≪胸甲《むなよろい》の凹んだ板へと。鋭い征矢《そや》は空を切って飛んでゆき≫まっすぐに貫きとおせば、胸甲に血潮がはしって赤く染まった。それに得たりと、大声をあげ、リュカオンの誉れも高い息子が呼ばわるようには、
「さあ立ちたまえ、意気のさかんなトロイアのかたがた、馬を馭し馴らす人々。アカイア軍でいちばんの勇士がいま討たれたのだ、それで、どうやら、きびしい征矢《そや》を、もう長いこと辛抱はしきれないだろうよ、もしリュキアからゼウスの息子の御神(アポロン)が、私を発《た》たせて遣わしたのが真正ならば」
こう得意になって彼はいったが、その速い矢にもディオメデスは参らずに、引き退いて馬どもや戦車のおいてある前までいって立ち止まり、カパネウスの息子であるステネロスに向かっていうよう、
「立ち上がれ、おいきみ、カパネウスの子よ、戦車から降りて来てくれ、私の肩から鋭い征矢《そや》を引き抜いてもらいたいのだ」
こういうと、ステネロスは馬車から地上へ跳んで降り、そばへ立ち寄って、遠い矢をすぐさま、一息に引き抜いたので、血がしなやかな織りの肌着をとおして、勢いよくほとばしり出た。それでこのおりにはまったく、雄叫びも勇ましいディオメデスも祈っていった。
「お聴きください、山羊皮楯《アイギス》をもつゼウスの御子の、アトリュトネ(アテネ)さま、もしもいつか、あなたが私や私の父を心におかけくださいまして、はげしい戦さの間にも、お助けいただいたのならば、今度もまた私におんいとしみをたまいますよう。アテネさま、どうかあの男を投げ槍の届くところへやって来させて、仕上めさせてくださいませ。先手をうって私を射あて、もう長いこと、輝かしい日の光を、私が見てはいられまいなどといって、自慢してるのです」
こう祈っていうと、その願いをパラス・アテネがお聞きになって、爪先から手の先にまで、手足を軽くしてくださった。それで、すぐそばへ来て立ち、翼をもった言葉をかけていうには、
「ディオメデスよ、さあもう安心してトロイア勢と闘うがいい、おまえの胸のうちに、父親ゆずりの、恐れを知らない武勇を入れといてあげたから、あの大循をふるった騎士テュデウスのもってたようなのを。そのうえにも、おまえの眼から、いままではあった靄《もや》のくもりをとってあげたよ、相手が神か、それとも人間かの識別《みわけ》がはっきりつくように。それだから、もし神様がいまここへ、おまえを試しにおいでたときは、けしておまえが、永遠においでの神様がたと、まっ正面から戦いあわないように。だがそれも、他の神様がたのこと、もしゼウスの娘アプロディテが戦さの中へやって来たら、鋭い青銅《かね》で突き刺しておやり」
こう女神はいうと、いってしまった。きらめく眼のアテネである。いっぽう、テュデウスの子は、もう一度先駆けの部隊の中へまじりこんだのは、前々からもうトロイア勢と、戦いあおうと心にはやり立っていたので、このおりといえば、いつもより三倍ものすさまじい意気ごみをもち、さながら獅子の、野原でもって房毛の羊の群れを襲い、囲いの垣を跳び越えてきた、それを牧人がすこし傷を負わせはしたが、殪《たお》しはなかなかできないで、ただ獅子の殺気をあおり立てたきり、いっこうに防ぐこともできない、小舎の陰に隠れこんでいるのに、羊の群れはおいてきぼりにされ、ただこわがってる、それでたがいにくっつきあって、ごった返している間に、獅子は勢いこんで、高い囲い垣根を跳び越していく。それくらいにも勢いこんで、剛勇のディオメデスは、トロイア勢と闘いあった。
そのおりに討ち取ったのは、アステュノオスと、兵士たちの指揮をとるヒュペイロンで、いっぽうは、乳の上を、青銅の穂先をつけた手槍で突いて殪《たお》したもの、またも一人は、大きな剣で、肩のわきの貝殻骨へ切りつけて、頸筋と背から肩を切り離した。だがこの二人はそのままほうっておいて、ディオメデスは、アバスとポリュエイドスへかかっていった。この二人は夢占いを解く老人のエウリュダマスの息子だったが、この二人が出かけて来るおり、老人は夢占いをしなかったか、剛勇のディオメデスが、いまこの二人を仕止めてしまった。
それからクサントスとトオンという、パイノプスの二人の息子へかかっていった。これはともどもまだほんの若者だったが、父親はいまわしい老年に悩まされていて、他にはもう財産を伝えるような子も生まなかった。それをこの時、ディオメデスが討ち取って、二人のものがなしい命を奪い去り、父親へは泣きの涙といたましい物思いとを残してやった。もう戦争から生きて故郷に還ってくるのを迎えることもできないのだ。身寄りの者らが、それで継承著のない財産を分けたという。
そのおり、彼は、ダルダノスの裔《すえ》であるプリアモスの二人の息子、一台の戦車に乗り合わせていたエケンモンとクロミオスとをとっつかまえた。さながらに獅子が、牛の群れの間におどりこんで、仔牛や牝牛たちが、木立のあいだで草を食《は》んでいるところを頸筋をひと撃ちで砕いてしまうように、この両人どもを、馬車から、テュデウスの息子は無理矢理手荒く突きおとして、それから物の具をはぎ取ってから、二匹の馬は自分の部下の者に引き渡して、船陣のほうへ追っていかせた。
かように彼が、武士たちの列のあいだを荒らしまわっているところを、アイネアス〔トロイアの王族アンキセスと女神アプロディテとの子。トロイア滅亡後逃れてイタリアに赴き、ローマ人の祖となったと伝えられる〕が眼にとめて、斬り合いのうち、槍のがやがや群がる間を、もしやどこかに見つかるまいかと、神にもひとしいパンダロスを探してまわった。そしてとうとう、この誉れも高く剛勇の、リュカオンの息子に出会うと、その前へいって立ち止まり、その人に面と向かって言葉をかけ、
「パンダロスよ、どこへいったのだ、きみの弓や、翼をもつ矢や、きみの高い名声は。それにかけては、誰一人とて、ここできみと腕くらべしよう者はいないし、またリュキアでもきみより上手《うわて》だと自慢をする者はないのだ。だからさあ、あの男に矢を射かけてくれ、ゼウスに両手を挙げてお祈りしてから。あそこにいるのが誰にもせよ、武勇をふるって、大変な損害をトロイア方に与えたものだ、多勢の勇士たちの膝をくずおれさせて。もしあれが、どの神様かが、贄《にえ》の御供《ごくう》のかどで立腹されて、トロイア人《びと》を咎められるのでなければな。神のお憤りはきびしいもの、ということだから」
それに向かって、今度はリュカオンの誉れも高い息子がいうよう、
「アイネイアス、青銅の帷子《よろい》を着けたトロイア軍の謀議にあずかる者よ。私は、武勇すぐれたテュデウスの子に、あの男が、すべてにつけて似てると思う、大楯の様子を見ても、管形をした兜のかざりで見分けるにしろ、馬どもを眺めてみてもだ。しかし神様か、そうでないかは、はっきりとはわからない。もしいま私のいう男が、武勇のすぐれたテュデウスの息子にしても、神の助けがないならば、こうまで荒れ狂いはできないはずだ。きっとすぐ近くに、両肩を雲にかくしこんで、誰か神様が立ち添っているにちがいない。そのかたがあの男から、飛んで来た遠い矢を、他へそらしてしまわれたのだ。というのも、ついさっき、私が彼に矢を射かけて、たしかに右の肩へあて、まっすぐに胸甲《むなよろい》のへこんだ板をつきとおした。それで私は、もうあの男は、冥府の王のところへ遣《や》ったと思っていたのに、それにもかかわらず殪せなかったとは、きっと誰か神様が(味方に対し)怒っておいでなのだ。
ところが、ここには、乗っていこうにも、馬どもも居合わせず、戦車もないのだ。もちろん、まあ(親父の)リュカオンの屋敷となれば、十一台の戦車が、それもできたてなのが並んでいる、美々しく初めてこしらえたのがな。両側に布を拡げてかけた、そのわきには、一台ごとに、番《つが》いの馬が、白大麦や鳩麦なんかを食《は》みながら立っているのだが。まったく、私が出かけてくるおり、槍に名を得た老武者のリュカオンは、事もこまかに、堅固な構えの屋敷の中で、いろいろ注意を与えてくれた。はげしい合戦にのぞむ場合は、馬どもと戦車に乗りこんでから、トロイア勢の指揮にあたれと、おしえてくれたが、そのいうことに私は従わなかった。従ってたら、ずっと得したことであろうに。馬を惜しんで、兵士たちが城へ閉じこめられているところでは、いつも十分食いつけている飼葉に事を欠きはしないか、と気づかって、故郷へ残してきた。それで歩いてイリオスへやってきたのだった、弓矢をたのみにしてではあったが。だが、その弓矢が、いまは役に立たない羽目になったのだ。
それというのも、私はもう二人の大将めがけて矢を射かけたもの、テュデウスの子(ディオメデス)と、アトレウスの子(メネラオス)とへ。それで、二人とも、確かに射あてて、血を流させたものであるのに、いっそう奮起させたばかりだった。それゆえ、まったく、曲った弓を私が掛け釘からはずしたときの、前兆《まえうらない》は、凶《わる》い象《きざし》にちがいなかった、なつかしいイリオスへ向け、貴いヘクトルのため一肌ぬごうと、トロイア勢を引率して出発した日、その日に弓を取り下ろしたとき。
もしも私が故郷へ帰れて、この眼に私の郷国《くに》や妻や、棟《むね》を高く葺きあげた大きな屋敷をながめるようになったとき、そのときにすぐさま私の首を、他国の男が斬るがよかろう、もし私がこの弓を、さんざんに折ってから、輝く火のなかへくべなかったならば。まったくついて来ながら、何の役にも立たないのだから」
それに向かって、今度はトロイア勢の大将のアイネイアスが答えるようには、
「まあ、そんなふうにいうのはやめたまえ、まずわれわれ二人が、馬どもや戦車を率いて、あの武士と面と向かって出会ったうえ、打ち物とって試してみないそれ以前は、どうにもしかたがあるまい。それゆえ、さあ私の戦車にあがりなさい、トロスの馬〔ゼウスがガニュメデスの償いに授けた天馬〕とは、どんなものか見てもらおうから。平野のうえを、あちらこちらと風のように追いかけたり、逃げていったりすることも、心得ているのを見てもらおう。この二頭は、われわれ二人を、安全に都城《みやこ》までつれていってくれよう。たとえ、またもう一度、ゼウス神が、テュデウスの子ディオメデスに誉れを授けたまおうとも。だから、さあ、いま、鞭とつやのよい手綱とを受け取りたまえ、私のほうが、闘うために、戦車から下りようから。それともきみが、あの男を引き受けるか、それなら私が戦車のほうの係になろうが」
それに向かって、今度はリュカオンの誉れかがやく息子がいうよう、
「アイネイアスよ、きみが自分で手綱と、自分の馬とをやるがよかろう。いつも馴れている手綱取りにかかったほうが、曲木《まげき》づくりの戦車をらくにひけようからな、もしまたも一度、われわれがテュデウスの子をおそれて逃げる場合にしてもだ。馬がおじけづいて度を失って、きみの声音《こわね》を慕ってばかりで、戦場から戦車を牽いていこうとしないでは困ろう。その間にも、気象すぐれたテュデウスの息子が、われわれめがけ跳りかかって、われわれ自身を殺したうえ、単《ひと》つ蹄《ひづめ》の馬たちを追って、奪ってくようでは大変だ。だから、さあ、きみが自身で、自分の戦車と自分の馬を馳《はし》らすがいい。あの男が向かってきたら、私のほうが、引き受けて、鋭い槍で渡りあおうから」
こう声をかけあってから二人は、技巧《たくみ》をこらした戦車に乗りこみ、きおいこんでテュデウスの子(のいるところ)へと速い馬を向けていった。そのようすを見て、カパネウスの誉れかがやく息子ステネロスは、すぐさまテュデウスの子へ、翼をもった言葉をかけて、いうようには、
「テュデウスの子ディオメデス、私が心に大切に思っている友達よ、たくましそうな武士《さむらい》が二人やって来たぞ、きみと戦いあおうと意気ごんで。ものすさまじい勢いだが、その一人は、弓矢の技《わざ》に練達のパンダロスで、このほうは、リュカオンの息子だ、と威張っているし、もう一人のアイネイアスは、誉れも高いアンキセスの息子に生まれ、母親はアプロディテだと得意気にいう。だから、さあ、戦車へ乗って引き返そうよ、もうこんなに、先陣の間を荒れまわるのはやめてくれ、ひょっとしてきみが愛《かな》しい命をなくしては大変だから」
それを上目ににらみつけて、剛勇のディオメデスがいい放つようには、
「けして逃げるなどとはいうな、そんなこといったって、ききはすまいからな。戦さを避けて逃げまわったり、尻込みしてすくんでいるのは、おれの性に合わないのだから。まだ元気はこのとおり、しっかりしてるんだぞ。それに戦車へ乗るのは気がすすまないから、このままにしておいて、あいつらに面と向かっていこう。びくびくするのは、パラス・アテネがお差し止めだ、あいつらたちを二人ともまた、われわれの手もとから、速い馬が、連れて帰りはできまいよ。まあなあ、いっぽうは逃げおおせるにしても。
だが、まだきみにもひとついっとくことがある、よく胸にしまって覚えていてくれ、もしはかりごとをたくさんお持ちのアテネ女神が、二人とも討ち取るという名誉を授けてくださった場合には、きみはここにいるこの速い馬どもを、そのままここに引きとめておいてくれ、車台の縁《へり》の手すりから手綱を張ってな。それでよく気をつけていて、アイネイアスの戦車へおどりかかって、トロイア側から、脛当てをよろしく着けたアカイア方の陣中へ追っていくのだ。それというのも、あの馬どもは、もとトロスに、はるかに雷をとどろかすゼウス大神がおやりになったその馬の血統なのだ、彼の息子のガニュメデス〔トロスの子で容姿優れ、ゼウスの目にとまって侍童として天界に連れ去られた〕の代償としてな。それだからこそ、曙と太陽とのもとにある馬の中でも、いちばん優れた逸物《いちもつ》なのだが、その胤《たね》を、武士たちの君アンキセス〔アイネイアスの父〕がラオメドン〔トロスの子、プリアモスの父〕から、こっそりと盗み取ったものさ、牝馬を下に宛てがってだな。その腹の仔が屋敷の中で、六頭も彼に産まれたところ、うちの四頭をアンキセスは自分にとっておき、家の厩で育てあげ、あとの二頭をアイネイアスに分けてやったのが、こわさに敵を潰走させるこの馬どもなのだ。もしこいつらを捕まえられたら、たいした名誉を得るものだろうよ」
こう二人は、かような話を交わしあっていたが、その間にも向こうの二人が、早くも間近に、速い馬を馳らせて押し寄せて来た。彼(ディオメデス)に向かって、まず機先を制して、リュカオンの誉れかがやく息子(パンダロス)がいうようには、
「豪胆で武勇にすぐれるディオメデス、誉れも高いテュデウスの子よ、どうもまったく速い矢もおまえをやっつけられなかったようだな、鋭い征矢《そや》が。それなら今度は、も一つ投げ槍で試してやろうよ、あたるかどうかを」
こういうなり、振り動かして、長い影をひく槍を投げつけ、テュデウスの子の大楯にあてた、それをずっぷりと、青銅をはめた穂先は飛んでいって、貫いてから、胸甲にまで達した。そこで彼に向かって、リュカオンの誉れかがやく息子は、大声をあげ叫ぶよう、
「あてられてしまったぞ、おまえは、ずっぷり脇腹をな、だからもうそう長くはもてまい。おれにたいした自慢のたねをくれたもんだよ」
それに向かって、ちっともひるまず、剛勇のディオメデスがいうようには、
「射そこなったぞ、あたっちゃいない。だがな、おまえら二人に、その前には戦いをやめさせんつもりだ、ともかく一人でも殪《たお》されて、あの楯を構える戦士の神、アレスを血に飽かせないうちはな」
こういって槍をほうると、その投げ槍をアテネ女神が、眼の脇の鼻梁へと向けたもうて、まっ白な歯並みをつきとおさせた。それで男の舌を、根本から、磨り減らない青銅(の穂)が断ち切ったうえ、鋩《きっさき》はあごのいちばん下から外へ突き出たもので、たまらずに、戦車から倒れて落ちれば、体の上で物の具がからから鳴った、立派なきらきら輝くものが。脚の速い馬どもも、恐れてわきへさがれば、そのままそこに、その人の魂も意気もくずれて去った。
これにアイネイアスは皮楯と長い手槍を抱えて車から跳び下り、アカイア勢があるいは屍を引きずっていきはすまいかと心配して、屍体のまわりを、獅子みたいに、武勇をたのんで闊歩しまわって、身の前方に、手槍と、四方によく釣合いのとれた楯とを構え、誰にもせよ、自分に向かってやって来るやつを殺してやろうと意気ごんで、怖ろしい声をあげ叫ぶのだった。
そこでテュデウスの子が、石塊《いしくれ》を手に持ち上げたのは、たいした業で、当世の人間だったら、たとえ男が二人してかかっても持つことはできないだろう。それをしかも一人で、楽々と振り上げてから、アイネイアスの腰を目がけて打ちつけた。ちょうど太腿が腰骨へはまってまわる、腰の番《つが》いと世間ではいう場所へである。それで腰の関節を打ち砕いて、そのうえ両方の腱まで切ってしまった。ごつごつした石塊は皮膚を裂き破ったが、かの勇士(アイネイアス)は倒れながらも折り膝の姿勢で体をささえ、頑丈な手先で地面にもたれかかった。しかしその両眼は、黒々とした夜の闇がすっかり蔽いかくした。
それでこのおり、あるいは武士たちの君アイネイアスは死んだかも知れなかった、もしそれ、あのゼウスの御娘アプロディテが目ざとく見つけなかったら。すなわちそのころ牛を飼っていたアンキセスへと、彼を産んだ母親がである。それが自分の愛《いと》しい息子の両脇へ、まっ白な腕をさしめぐらし、彼の身の前方には、きらびやかな衣の、祈りかさねたのをひろげてかくした、投げ槍などへの護りの墻《かき》として――もしや誰か、速い駒を駆るダナオイ勢の一人が来て、青銅(の槍)を胸へ投げつけ、生命を奪いなどせぬようにと。
こうして女神は、自分の愛しい息子を戦場から、そっと連れ出そうとした。いっぽう、カパネウスの息子(ステネロス)は、先刻、雄叫びも勇ましいディオメデスが指図しておいた、あのいろいろなとりきめを忘れずに、自分のほうの単《ひと》つ蹄の馬どもは、戦いのざわめきから離れたところへ、車台のへりの手すりから手綱を張って、引きとめておいてから、アイネイアスの、たてがみもみごとな馬に躍りかかって、トロイア側から、脛当てをよろしく着けたアカイア勢の陣中へと追ってゆき、親しい仲間のデイピュロスに渡してやった。この男を同じ年輩の者の中でも、とりわけて分別心を十分にもっている者と重んじていたもので、うつろに刳《く》った船々のところへ追っていくように。それから勇士(ステネロス)は、自分の戦車に打ち乗ると、光沢《つや》のよい輝く手綱を手に取って、すぐさま、テュデウスの子を目指して、たくましい蹄の馬を勢いこんで馳《はし》らせていった。そのときちょうど、ディオメデスは、キュプリス神〔キュプロス島の主女神アプロディテのこと〕へと、容赦を知らぬ青銅(の刃)をもち、かかっていくところだった、女神がしごく臆病で非力なかたで、戦さにあたって武士たちを指揮するような大神たちの数にはとうていはいらず、もちろん、アテネ女神や、城市を攻め取るエニュオ〔アレスと似た戦を司る女神〕などとは、まるきりちがうことを知っているもので。
それで、いよいよ、大勢の群集の中を追いかけていって、とうとう追いついたとき、そのとき、意気のさかんなテュデウスの子(ディオメデス)は、鋭い手槍を、ぐっとさしのべ、躍りかかって(アプロディテの)なよなよとした手の先を、突き刺せば、すぐさま槍は、|典雅の神女《カリテス》たちが手ずから織ったかぐわしい神衣をとおして、てのひらのつけ根にささり、肌《はだ》にぐさりと孔をあけた。それで御神の不死なる御血が流れ出たが、これは神血《イコール》といって、至福においでの神さまがたの体内を通うものである。それというのも、神々は穀類を召し上がらず、きらきらかがやく御酒も飲まれない、それゆえ血はお持ちでなく、不死の身とお呼ばれになるのだ。
そこで女神は大声あげて叫びたて、ご自分の子(アイネイアス)をほうり出したが、それを両手にポイボス・アポロンが受けられて、もし誰か、速い駒を駆るダナオイ勢の者が来て、青銅の槍を胸板にあて、生命を奪いなどしないように、漆黒の雲でかくしてお護りなさった。そこで女神に向かって声を張りあげ、雄叫びも勇ましいディオメデスがわめくよう、
「ゼウスの娘よ、戦いや斬り合いの場から、おさがりなさい。ほんとにあなたは、かよわい女どもを口先でたぶらかすだけでは、満足していないのか。だがもしあなたが、これからも戦さの場《にわ》にちょいちょい来るなら、きっとそのうち、戦さというだけで身ぶるいをするようになろうよ、遠くからそう聞いただけでも」
こういうと、女神は(痛さに)狂わんばかり立ち去ったが、手ひどくまいっているところを、風の脚をもつ|虹の女神《イリス》がとっつかまえて、傷の痛みに悩まされ、きれいな肌は(血にまみれて)黒ずんでるのを、群集の中から連れ出していった。それから女神は、戦場の右翼のほうに、勢いはげしいアレス神が坐っているのを見つけた、もやい雲に、槍も二頭の速い馬たちも、たくし隠して。それで女神は身を折りかがめてひざまずき、いろいろと頼みこんで、親身の兄弟から、黄金の前立てをつけた馬どもを、乞い求めた。
「愛しい兄上、私を連れていって、馬と戦車を貸してくださいませ、不死である神々の住居がありますオリュンポスへ、往《ゆ》けますように。大変傷が痛むんですの、死ぬはずの人間である武士《さむらい》、テュデウスの子がつけた傷なのですけれど。まったくいまじゃあ、ゼウス父神《おやがみ》さまとさえ戦いかねませんわ」
こう女神がいうと、アレスは女神に、黄金の前飾りをつけた馬を貸してやった。そこで女神は、愛《かな》しい胸をいためながらも、戦車の台座に乗りこむと、そのわきに|虹の女神《イリス》も乗り込んで手綱を手に取り、鞭を振って車を駆れば、二頭の馬はいそいそとはしっていった。それからたちまちにして、神々の御座所なる、けわしいオリュンポスへと着けば、そこで、風の脚をもつ速やかな|虹の女神《イリス》は、馬どもを引き止め、乗物から解き放すそばにかぐわしい神糧《アンブロシア》を投げて与えた。一方、とうとい女神アプロディテは、自分の母であるディオネ〔ヘシオドスの『神統譜』ではオケアノスとテティスの娘。元来は「光明」の義で、古くはゼウスの妃として崇められたらしい〕の膝に倒れかかったので、母神も、ご自分の娘を腕に抱きかかえ、手で撫でさすって、名を呼んで言葉をかけ、いうようには、
「まあ、いったい誰があなたを、こんな目にあわせたのです、可愛い娘をね、どの神さまだえ、こうむちゃくちゃに、まるで何かあなたが大っぴらに悪いことでもしてたみたいに」
すると、今度はそれに答えて、笑いを喜ぶアプロディテがいうようには、
「あのテュデウスの息子で、気象のはげしいディオメデスが怪我させましたの、私が愛《いと》しい息子アイネイアスを、戦場からそっと連れ出そうとしたっていうので。あの子は私にとっては、誰よりずっといちばん可愛いんですもの。つまりもう、この恐ろしい戦さ騒ぎは、トロイア人《びと》とアカイア勢どののものではなくて、ダナオイ方は、もうとっくに、不死である神々とさえ、戦さをしようというのですわ」
それに答えて、今度は、女神のうちでも神々しいディオネがいうようには、
「辛抱してね、私の娘よ、つらいだろうけど、我慢なさいよ。ほんとに、オリュンポスに宮居をかまえる私たち神々でさえ、人間の手に憂き目を見せられる者が大勢いるのですもの、おたがいに、ひどい難儀をかけあってね。アレスだって辛抱しました、オトスと、力の強いエピアルテス〔オトスとエピアルテスはアロエウス(またはポセイドン神)の子で、非常な巨人かつ力持ち。幼児にオッサ山にペリオン山を載せ、天に昇ろうとしたという〕と、アロエウスの子供たちが二人して、頑丈な鎖《くさり》で彼をつないだときには。それで青銅の大瓶の中に、十三カ月間も閉じこめられていたそうです。それであるいは、このおりに滅びてしまいもしかねなかったの、戦さに飽きることのないアレスとてもね。もしも二人の継母にあたる、たいそう器量よしのエエリボイアが、ヘルメスに知らせてくれなかったら。そこでヘルメスは、もうすんでのこと、まいりかけていたアレスをそっと助け出してやりました、ひどい禁錮にまいっていたのをね。
またヘレ女神も忍んだものです、あの方を、アンピトリュオンの力の強い息子さん(ヘラクレス)が、右の乳房のところへ、三つ叉《また》の鉤《かぎ》がついた矢を射こんだときには。そのおりには、あのかたでさえ、我慢のならないほどの痛さを感じたとか。またあの怖ろしい冥府《よみ》の御主《おんあるじ》(アイデス)さえ、他の神さまがたと同様、あの速い征矢《そや》をお忍びになったものです。あのかたを同じ人、つまり山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスの息子(ヘラクレス)が、ピュロスで、死人たちの中においでのところを射かけ、痛い思いをさせたということ、そのためアイデスさまは、ゼウスのお宮があるオリュンポスの高嶺へと、胸を苦しめ、苦痛にさいなまれながら、お出かけなさった。ところで、その矢は、がっしりとしたお肩に刺さりこんでいて、お胸を苦しめていたのを、その上へ、医療の神パイエオン〔後にはアポロンと同一視されたが、ホメロスではまだ同じではない〕が痛み止めの薬を塗りつけ、癒しました。というのも、もともとが、不死身のお体にできてるからです。
ひどい男、大それたことをする人だわね、不埒な所業でやってのけるとは、弓矢でもって、オリュンポスに住まっておいでの神々さえ、悩ませるとは。でも、あなたに、あの男(ディオメデス)をけしかけたのは、きらめく眼をしたアテネです。馬鹿だわね、テュデウスの子は、心中にそれを覚っていないなんて、不死においでの神々と戦おうとする人間は、けして命が長くは保てないということをです。それにまた、戦争から、恐ろしい争い事から帰って来ても、子供たちが膝にもたれて、|父さま《パッパ》なんていうことも、許されますまい。
それだから、テュデウスの子も、どんなに武勇の者であろうとも、あなたより強いかたと、闘いあわないよう、気をつけるのがいいだろうよ。それにあのアドレストスの娘の、人にすぐれて賢いというアイギアレイア〔アルゴス王アドラストスの末娘で、ディオメデスの母の妹にあたる〕が、長いこと泣き悲しんで、家人たちを眠りから覚ましなどすることのないようにもね。さだまった愛しい夫(ディオメデス)、アカイア軍中第一という勇士を慕って、馬を馴らすディオメデスの、気丈な妻ともあるものがです」
こういって、両手でもって、女神の腕から神血《イコール》を拭き取ると、手の傷はなおり、ひどい痛みも、すっかりやわらいでいった。だが、一方、これをながめたアテネとヘレとの両女神は、意地わるく、クロノスの子ゼウス大神に、皮肉な口調でくってかかったが、まず先に小言の音頭をとったのはきらめく眼をした女神アテネで、
「ゼウス父神《おやがみ》さま、もしやちょっと、申し上げることがお気にさわるでございましょうか、ほんとにずいぶんまあ、キュプリスといったら、あるアカイアの女をそそのかしまして、いまたいそうあのかたが愛《いと》しがってるトロイア方といっしょについていかせようとし、そうした長い裳《もすそ》のきれいなアカイア女のある一人を愛撫しているうちに、黄金のブローチにひっかけて、柔かい手をかきむしりましたのですわ」
こういうと、人間たちと神々とのおん父神《おやがみ》は微笑されて、黄金のアプロディテをお呼び寄せになり、おおせられるよう、
「けしてな、私の娘よ、戦さの仕事は、あなたの支配に分け与えられているものではない。だからそなたは、あこがれに満ちた結婚についての仕事に出向くがいい。こうした仕事は、速いアレスやアテネが万事とりしきろうから」
こんなふうに、神さまがたはおたがいに話し合っていたが、こなた、アイネイアスに向かっては、雄叫びも勇ましいディオメデスが躍りかかった、それもアポロン神が、手ずからに(アイネイアスを)かばっておいでなのを承知のうえで。彼はまるきり、偉い神さまさえもおそれないで、ひたすらアイネイアスを打ち殺して、世に聞こえたその物の具をはぎ取ろうと気をあせった。それから三たび、撃ち殺そうと勢いこんで躍りかかるのを、三たび、アポロン神は、その輝かしい大楯を突き返しておやりなさった。が、いよいよ四度目に、神霊とも見られよう勢いで、突き進んだとき、遠矢を射るアポロン神は、恐ろしい声音《こわね》で彼を叱りつけ、いわれるよう、
「よく気をつけろよ、テュデウスの子よ、退っていろ。けして神々たちと同じくらいだなどと思い上がりをしてはならぬ。元来が不死である神々と、地上を歩く人間とは、種族からして同じものではないのだから」
こういうと、テュデウスの子は、すこしうしろへ引き退って、遠矢を射たもうアポロンの憤りを避けようとした。一方、群集から離れたところへ、アポロン神はアイネイアスを連れてゆき、神聖なペルガモスへお置きになった、そこは御神の社が建っているところだ。いかにもそこで、アイネイアスを、レトと、矢を射てそそぐアルテミスとが、広々とした奥殿で療治したうえ、立派な姿に返しておやりだった。
一方、また銀弓をお持ちのアポロン神は、アイネイアスその人とそっくりに、甲冑までそのとおりの幻像をお造りになり、(戦場に置かれたので)その幻像をめぐって、トロイア方と勇ましいアカイア勢とが、おたがいに斬り合いをしていった、胸にかまえた牛皮づくりの、円形《まるがた》の環もみごとな大循や、総《ふさ》つきの粗毛《あらげ》の皮のつくりの楯をめぐって。おりから、勢いはげしいアレスに向かって、ポイボス・アポロンがいわれるよう、
「アレスよ、アレス、人間を害《あや》め損《そこ》ない、血にまみれて、城壁をうちこわすきみが、どうだな、ひとつあの男のところへいって、戦いから引っこませてくれないか、テュデウスの子をさ。あいつは、いまじゃあゼウス父神とさえ戦いかねないだろう。まず初めには、キュプリスの身近に寄って、手のつけ根を突き刺したうえ、それからまたもや私自身にも、神霊とも見違えよう勢いで、かかってきたのだ」
こういうと、ご自身は、ペルガモスの丘の高みに鎮座しておいでになる。一方、禍いのもとアレスは、トロイア方の陣地に出かけて、トラキア勢の大将である、足の速いアカマスの姿を借りて、みなをけしかけ、プリアモス王の、ゼウスの擁護のもとにある息子たちを励まし立てて、
「おお、ゼウスがお守り立ての、プリアモス王の息子さんがた、このうえどこまで、アカイア勢に兵士たちが、殺されるのをほうっておくのです。きっとあの、しっかりとこしらえられている城門のあたりで戦さをするときまでかね。あのかたが倒れているのだ、われわれが尊いヘクトルと同様にも尊敬しているアイネイアスが、気象のひろいアンキセスの息子がだ。だからさあ、みんなして、戦いの騒ぎの中から、勇敢な仲間を救い出そう」
こういって、一人一人の力と勇気をふるい立たせた。このときにまた、サルペドン〔リュキアの領主でゼウスの息子〕は、尊いヘクトルをたいそう非難して、
「ヘクトルよ、きみが前にはふだん持っていた勇気は、いったいどこへ、いってしまったのか、兵卒たちや、助勢などはいなくても、城を保っていけようとでも、思っているのか、ただ一人で、兄弟や義理の兄弟たちだけの力を借りて。だが現在、その人たちの一人さえ、私の目に、姿も影も見せはしないぞ、それどころか、獅子をとり巻く犬どもみたいに、尻ごみしてすくんでいるんだ。それで、まさに応援のために加わったわれわれどもが、いまでは戦ってる始末なのだ。
私だって、加勢のために、ずいぶん遠いところから来ている者だ、リュキアという、ここから遠い渦《うず》を巻くクサントス河のほとりからだぞ。そこに愛しい妻や、まだいたいけな息子も置いてきた、またたくさんな財産もだ、乏しい人々が欲しがるものをな。それにもかかわらず、リュキア勢を励まし立て、また私自身も敵の武士《さむらい》と闘いあおうと心がけている。しかも、ここに私は、何一つとして、アカイア軍が持っていこうとか、連れていきたい、というような物は、持ってはいない。それなのに、きみは、ただ突っ立っているだけで、ほかの人々を励まし立て、踏みとどまって、妻子たちを防ぎ護ろうともさせないとは。
だがまあ、気をつけたがよいぞ、何でもとらまえる麻糸の網にひっかかって、敵の武士たちの捕虜だの餌食《えじき》だのにならないようにな。そうしたらすぐと彼らは、きみたちの、景勝の地を占めている城市《まち》も攻めおとすだろうよ。こうしたことの万事に、夜昼となく、気をくばるのが、当然きみの務めなのだ。遠国まで名の間こえた救援軍の大将たちにもよく頼みこんで、しじゅうしっかりもちこたえ、きびしい非難を遠ざけるようつとめることもな」
このサルペドンがいった言葉は、ヘクトルの胸にこたえた。それですぐさま、戦車から甲冑ぐるみに、地面へ跳んで下りると、鋭い槍を振りまわしながら、陣中を、あらゆるほうへと出かけていって、戦うようにと励まし立て、恐ろしい闘争のさわぎをよび起こした。
そこで皆も引っ返して、アカイア方とまっ正面に向かいあって踏みとどまれば、アルゴス勢もみなひととこに肩をつらねてこれを待ち受け、すこしも恐れてしりぞかない。そのありさまは、さながら風が、とうとい麦打ち庭で、籾殻《もみがら》を載せていくのとそっくり、人々が箕《み》をふるうおり、あの金髪をしたデメテルが、諸方の風の勢いよく吹きつのるのに、実と籾殻とを選りわけるときのことである、それで籾殻の落ちた溜りが、だんだん白さを増してゆく。それと同じに、このおり、アカイア勢は、上がすっかり砂ぼこりで白くなった。それは軍勢の間を、馭者たちが戦車をまわしていくあいだに、馬どもがまたもや入り乱れてひしめくうちに、その足で、青銅を張りめぐらした天空までもと打ち上げられたものである。
それで兵士たちが、腕の力をまっすぐに撃ちつけあう、そのあたり一帯に、夜を、勢いはげしいアレスは蔽いかけた、戦いにトロイア方に加勢しようと、四方八方へ出かけていって。こうして彼は、黄金の剣を帯びるポイボス・アポロンの頼みを遂行していった。アポロン神は、パラス・アテネがいってしまったのを見とどけてから、トロイア方の気勢をあおってくれと、頼みこんだものだった、女神は、人も知るように、ダナオイ勢の味方だったから。それでご自身は、社殿のたいそう裕福な奥の陣からアイネイアスを送り出して、この兵士らの指導者の胸に勇気を打ちこんでやった。
こうしてアイネイアスが仲間の軍勢のあいだに戻れば、彼がまだ生きていて、びくともせずにやってきたうえ、十分元気もあるのを見たので、みなみな喜びあった。だが、何も二人に問いただしはしなかった。というのも、他の仕事がそうさせなかった、銀弓をもつ神(アポロン)や、人間に禍いを与えるアレスや、飽きずに意気ごむ|争いの女神《エリス》やがよび起こす戦さ仕事だ。
一方、こなたでは、大小二人のアイアスやオデュッセウスやディオメデスが、ダナオイ勢を戦いへと励まし立てた。また兵士たち自身も、トロイア勢の武力にも攻撃にも恐れを抱かないで、踏みとどまっていたありさまは雲霧の姿のようだった。それはクロノスの御子(ゼウス)が、風のない日に、高い山々の頂きにかけておく、じっとして動かない雲、北風やその他の、はげしく吹きまくる諸方の風の勢いが眠っているその間じゅう。それでもついには影の黒々とした雲霧を、諸方の風が、音もさやかに吹きつのって、四方へ散らしてしまうのだが、その雲のように、じっと、ダナオイ勢は、トロイア方をしっかりと受けこらえて、引きさがろうとしなかった。その間にも、アトレウスの子(アガメムノン)は、軍勢の間をあちこち歩いて、いろいろ励ますようには、
「おお友達よ、男らしく振舞いたまえ、勇猛の心を持って、はげしい合戦のあいだでは、たがいに恥を重んじたまえ。武士がたがいに恥を重んじあうなれば、殺されるより、つつがなくてすむ者のほうが多いものだ。だが、逃げてしりぞく者は、てんで、何の誉れも救いも、得られはしないぞ」
こういって、すばやく槍をほうりつけて、気象のひろいアイネイアスの仲間の、先頭に立つ武士へあてた、ペルガソスの子デイコオンへ。この男は、先駆けの中にはいって戦うのにも足が速かったのでトロイア人が、プリアモスの息子たち同様に敬意を払っていたものだった。この男の楯へ槍をアガメムノンが打ちあてたところ、楯は投げ槍を防ぎ止められないで、ずっぷりと青銅(の穂先)が突きとおしてはいってゆき、腹帯を貫き、下腹へと突きこんだので、どうとばかり物音たてて打ち倒れる体の上に物の具がからから鳴った。
そのおりに、こちらではアイネイアスが、ダナオイ方の大将級の武士《さむらい》を討って取った。ディオクレスの息子二人で、クレトンと、オルシロコスというもの、父親は景勝の地にあるペレに住まっていて、暮らしも豊かに、アルペイオスの河神の裔《すえ》という家柄だが、この河は、広やかに、ピュロスの人らが住む郷《さと》を流れている、それがオルティロコスを数多くの人たちの君主《とのさま》としてもうけてから、オルティコロスは気象のひろいディオクレスを生み、そのディオクレスが、クレトンとオルシロコスという、戦さの技の万般にも通暁した双子の息子をもうけたわけで、この二人はまだ丁年に達したばかりを、黒塗りの船に乗って、若駒のよいイリオスへと、アルゴス勢に従ってやってきたのである、アトレウスの子アガメムノンとメネラオスとのために敵対をしてやろうというので。だがその二人に、そのままここで、死の終りが蔽いかぶさってしまったのである。
それはちょうど、二匹の獅子が、山脈《やまなみ》の峰々の間《あい》に、ふかい森の繁みのなかで母獅子に育てられて大きくなった、それがいま、牛や肥え太った羊などを取って啖《くら》うと、人々のもうけた畜舎を二匹して荒らしまわったところ、ついには自分ら自身まで人々の手にかかって、鋭い青銅(の刃物)で殺されてしまう、そのように、この二人も、アイネイアスの手にかかって討ち取られ、高く繁った樅《もみ》の木のよう、倒されて地に横たわった。
この二人が討たれたのを、軍神アレスの伴侶《とも》なるメネラオスは憐れと思って、先駆けの隊の間を、輝く青銅の甲冑を着、長い槍をふるいながら、進んでいった。その気勢をアレスがあおり立てたのは、アイネイアスの手にかけて討ち取らそう、との考えだった。が、それを気象のひろいネストルの息子アンティコロスが見て、先駆けの隊をわけて進んでいったのは、この兵士たちの統率者の上に、何かわるいことでも起こって、自分たちの骨折りに大損害をもたらしはすまいかと、なみなみならず恐れたからである。
その間にも二人は、それこそ腕と鋭い穂先の槍とを、たがいに、相対峙《あいたいじ》して差し構え、いで戦わんものとはやり立っていた。そこへアンティコロスが、兵士たちの統率者(メネラオス)の、すぐとわきに添って立つと、アイネイアスも、敏捷《びんしょう》な戦士とはいえ、二人の武士が、おたがいに寄り添い、待ち構えるのを見せられては、踏みとどまりもできなかった。そこで皆で、死者をアカイア側の軍勢の間へ引きずっていき、二人はあわれな兄弟の屍を、手下の者どもの手にゆだねてから、また自身は引っ返して、先陣の手に加わって、戦いつづけた。
この時、二人は、軍神アレスにもひけを取らぬピュライメネスを討ち取った。これは意気もさかんな槍武者ぞろいの、パプラゴネス勢の首領だったが、それをいま、アトレウスの子の、槍に名を得たメネラオスが、立ち止まったのを槍でついて、肩先の貝殻骨にうちあてたもの。一方、アンティロコスは、手綱とりの介添え役、ミュドンを討った。この勇ましいアテュムニオスの息子が、いまや、単《ひと》つ蹄《ひづめ》の馬どもを引き戻しにかかるところを、石塊を投げつけ、肘のまんなかにうちつけたので、象牙で白く(かざられた)手綱は地に落ち、砂塵にまみれた。
それへアンティロコスは跳びかかって、剣をこめかみに打ちこめば、ミュドンは口をあけてあえぎながら、つくりのみごとな戦車の台からころがり落ち、額や肩を先にして、砂塵の中へ、逆立ちに、深い砂地へささったもので、ずいぶんと長いこと、突っ立ったままでいた。それもとうとう、二頭の馬が、蹴とばして、地面へ、砂塵の中へ投げたおした。その馬へアンティロコスが鞭をくれて、アカイア方の陣中へと馳《はし》らせていった。
だが、その様子を、隊伍のあいだにヘクトルが見て取ると、彼らに向かって大声をあげてかかっていった。そのあとにつき、トロイア方のがっしりとした隊列が従い進む。その先頭に立つのは軍神アレスと、エニュオ女神で、女神がまた、闘争に恥を知らぬ|ひしめきあい《キユドイモス》を伴ってゆけば、アレスのほうは、掌《て》に恐ろしい大槍を引っ構えて、ヘクトルの、時には前方、時にはまたしりえのほうへと往来していた。
このさまを見ては、雄叫びも勇ましいディオメデスも身ぶるいして、さながら人が、広々とした野原を往って、流れの早い河のふちへやって来た時のように、――海へと流れこむ水が、水泡《みなわ》をたててぶつぶつと鳴りたぎるのに、どうしていいかもわからずに、途方にくれて、うしろへと跳びすさる、それと同様、テュデウスの子もうしろへさがって、兵士たちにいうようには、
「おお、皆の衆、何とまあまったくあの勇ましいヘクトルは、驚くばかりの立派な槍武者、大胆不敵の戦士ではないか。しかも彼には、しょっちゅう、少なくとも神々のうち誰か一人がついていて、禍いを防いでやっているのだ。いまだって、あのとおりアレスが、人間の男の様子をして、そばについている。だから、トロイア勢のほうへ顔を向けたままで、うしろへ引きさがってゆけ、神さまがたと、力ずくで戦おうなどと、きおいこんではならないぞ」
こういううちに、トロイア勢は、一同の、もうすぐそばへと進んできた。このおりにヘクトルは、戦さの技にも心得のある武者を二人も、討ち殺した。一つの戦車に乗り組んでいたメネステスとアンキアロスとを。だがこの二人が斃《たお》れたのを、テラモンの子の大アイアスが憐れと思って、すぐそのかたわらにいって立ち添い、輝く槍を投げつけて、セラゴスの息子アンピオスに打ちあてた。この男はパイソスの住人とて、家もゆたかに、ひろい牧場を領していたが、その彼を運命が、助太刀をさせようとて、プリアモスとその息子たちのところへ連れてきたのだった。
その人へいまテラモンの子のアイアスが、腹帯めがけて投げつけると、下腹のへんに、長い影をひく大槍が突き刺さったので、地響きうって、打ち倒れた。誉れかがやくアイアスは、物の具をはぎ取ろうと、すぐとそれへ駆け寄った。それにトロイア方もみなぴかぴか光る、鋭い槍を降りそそいだので、大楯にはいっぱい槍が突き刺さった。
それでも彼(アイアス)は、近寄って足で踏んまえ、屍から青銅の槍を引っこ抜いたが、そのうえに、他の立派な物の具を、敵の両肩からはいで取ることはできなかった、投げ道具のためさまたげられたもので。つまり彼は、武者振りもすぐれたトロイア勢の、力づよい援護に恐れをなした。というのも、彼らは大勢よって、勇敢に、槍を構えて立ち向かい、アイアスが丈高く、力も強く、器量もすぐれているにもめげずに、味方の列から追いのけたので、彼もようやくたじろいで、引きしりぞいた。
このように、みな激烈な戦闘をつづけていたが、きびしく容赦を知らない運命は、ヘラクレスの子の、勇敢で、丈も高いトレポレモスを、神にもたぐえられようサルペドンに向かって起たせた。それでこの両人が、相たがいに進み寄って、いよいよ間近になったおり――この両人は、群雲《むらくも》を寄せるゼウス神の、一人は息子、一人は孫だったが――まずトレポレモスが、先をかけて、相手に話をしかけていうよう、
「サルペドンよ、リュキア勢の指揮者だというきみが、ここに来て、小さくなってすっこんでるとは、どういう余儀ない事情があるのだ。戦争にはまだなれないからかね。きみが、山羊皮楯《アイギス》を持たすゼウス神の子だなどいうやつは、嘘をいってるのだな。だってきみは、ああいった連中にはおよばないことがはなはだしい、昔のころの人間の世に、ゼウスから生まれたという人々には。
だがまったく、あの豪勇のヘラクレスは、何という大人物だった、といわれていることか、あの大胆不敵で獅子の勇気をもつ英雄、それが私の父なのだ。彼はその昔、ラオメドンから、約束の馬どもをもらい受けるために、この土地へ来た。たった六隻の船と、いまのよりずっとわずかな手勢を率いて、イリオスの城を攻めおとし、その街々をさびれさせたという。〔ラオメドンは娘を海の怪物から救った者に馬を与える約束をした。しかしヘラクレスがこれを実行しても馬をやらなかったので、彼はトロイアを劫掠し王女を奪って去ったという〕ところがきみときたら、心は臆病で、手下の兵はだんだん減っていく。これできみがリュキアからやってきたとて、トロイア人にとっては、何の防ぎ護りにもならんと思うな。また、よしきみが、たいそう武勇だといっても、かえって私に討ち取られ、黄泉路《よみじ》の門をくぐることだろうよ」
それに向かって、リュキア勢の大将サルペドンがいうには、
「トレポレモスよ、いかにも彼(ヘラクレス)は、とうといイリオスを滅ぼしたが、それはあの誉れも高い丈夫《ますらお》、ラオメドンの無思慮のためだった。すなわち彼は、ヘラクレスのおかげを十分こうむりながら、ひどい言葉で非難を浴びせ、そのうえに、彼がそのために遠方から出かけてきた目的である馬どもを、与えなかったせいである。だが、きみには、はっきり私は受けあっとくが、確かにここで、殺戮《さつりく》と黒い死の運命《さだめ》とが、私の手で、もたらされよう。私の槍に討ち取られて、誉れを私に授けてから、魂は、駒ゆえに名の聞こえた冥王《アイデス》へと引き渡そうよ」
こうサルペドンがいえば、こなたのトレポレモスは、トネリコの槍をふりかざした、と二人の手から同時に、長い木の槍がはしって飛んだ。そこでサルペドンのは、相手の頸筋のまんなかへとあたったもので、痛みをもつその穂先が、ずっぷりとはいっていった。それでその男の両眼には、まっ暗な夜が蔽いかぶさった。一方、トレポレモスはというと、敵の左の腿へ、長い槍をうちあてたので、しきりにはやるその穂先はずっとはいって、骨をわずかにかすめていったが、父神(ゼウス)が、その禍いを防いでやった。
そこで、この神にも比せられるサルペドンを、勇敢な家来たちは、戦場から運び出していったが、みな気ぜわしくしていたので、(その腿に刺さった)長い槍が、ずるずる引きずられて、体に重みをかけていたのに、誰一人とて気づきもしなければ、トネリコの槍を、彼が歩いていけるように、腿から引き抜いたらと、考えおよぶものさえなかった。それほどみなは、世話をするのに、骨を折って戦っていたのだった。
こちら側では、またトレポレモスを、脛当てをよろしく着けたアカイア勢が、戦場から運び出していった。それをあの尊いオデュッセウスが見てとって、辛抱づよい心は持ちながら、胸のうちは恐れにふるえて、それからしばらく心中にまた心の底に、思いまどった。もっと進んで、なおもはげしく鳴りとどろくゼウスの息子(サルペドン)を追いかけていったものか、それとももっと多くのリュキア勢から命を奪ってやったものか、と。
だが、気象のおおきなオデュッセウスにも、ゼウス神の、武勇にすぐれた息子(サルペドン)を、鋭い青銅(の刃物)で討ち取ることは、運命により許されてはいなかった。それゆえアテネ女神は、彼の気概をリュキア勢の大衆へと向かわせた。この際にオデュッセウスは、コイラノスやアラストルにクロミオスに、アルカンドロスにハリオスにノエモンにプリュタニスをも討ち取った。それであるいは、もしもきらめく兜の大ヘクトルが、目ざとくこれを見てとらなかったら、もっと多くのリュキア勢を、とうといオデュッセウスは殺したことだったろう。それで彼(ヘクトル)は、火と輝く青銅の甲冑に身を固めて、ダナオイ勢に恐怖をもたらしつつ、先手の勢の間を進んだ。馳《はし》り寄る彼の姿に、ゼウスの息子サルペドンは喜びながらも、哀れげな言葉をつらねて、
「プリアモスの子(ヘクトル)よ、どうか私をダナオイ勢の捕虜となるよう、臥《ふせ》ったままにしておかずに、防ぎ護ってくれ。そのうえでなら、きみたちの城市の中で命が絶えようともかまわないから。私はともかく、故郷に帰ってなつかしい祖国の土を踏んでから、愛する妻やいとけない息子を喜ばせることは、叶いようもない身なのだから」
こういったが、それにたいして、きらめく兜のヘクトルは、何もいわずに、ただわきを突進していったきりだった。一刻も早くアルゴス勢を撃退して、大勢の敵の命を奪おうものと、一心に願っていたので。その間にも、神にも比せられるサルペドンを、勇ましい家来たちは、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウス神の、とりわけて立派な槲《かしわ》のもとに坐らせたうえ、彼のつねから気に入りの家来である、武勇すぐれたペラゴンが、腿の傷からトネリコの槍を、外へと引き抜いたところ、一時は息が絶えて、その両眼に昏《くろ》い靄《もや》が蔽いかぶさったが、しばらくすると、また息を吹きかえした。あたりに通う北風の勢いが、吹きよせてきて、ほとんどもう絶えかけていた彼の命を、生き返らせたわけだった。
さて、アルゴス勢は、アレスと青銅の甲《よろい》を着けたヘクトルのため押されながらも、いっこう黒塗りの船のほうへ逃げていこうとも、またいっこうに闘いを、二人に向かって仕掛けようともしないで、トロイア方に立ちまじり、アレス神がいるのを認めると、ただしょっちゅう(少しずつ)うしろへと引きすさっていった。
このおりに、プリアモスの子ヘクトルと、青銅のアレス神とが、誰をいちばん初めに、誰をいちばんあとで討ち殪《たお》したか。まず神にも比せられるテウトラスの、つぎには馬に鞭をくれるオレステス、それと槍の上手のトレコスに、アイトリア人《びと》オイノマオスと、さらにはオイノプスの子ヘレノスと、技をつくした立派な腹巻をしたオレスビオスを。この者は、ヒュレ〔ボイオティアの古い町〕に住まいして、ケピソス湖のすぐ畔《ほとり》にいて、財富にたいそう意を用いてきた。その近所には、他のボイオティア人《びと》らが、たいそう肥沃な国土を占めて住まっていた。
さて、白い腕《かいな》をした女神ヘレは、このようにアルゴス勢がつぎつぎとはげしい合戦のあいだに弊れてゆくのを見て、すぐさま、アテネ女神に向かって、翼をもった言葉をかけていうよう、
「まあ、なんていうことでしょうね、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスの娘の、アトリュトネ(アテネ)よ。まったく私たちは、メネラオスと、あてにもならない約束を引き受けたことになるわね、城壁をよろしくめぐらしたイリオスを攻めおとしてから帰国させると。もしこんなに、禍いであるアレスを、猛り狂うままにほっておくとしたらばです。だからさあ、私たちも二人して、勢いはげしい武勇のわざに従うことにいたしましょう」
こういうと、きらめく眼のアテネ女神も何の異存もなく従った。それで女神たちの中でも総領のヘレ女神、偉大なクロノス神の御娘は出かけていって、黄金の前立てをつけた馬の戦車を仕度にかかった。また(その娘の、青春の女神)ヘベは、乗り物の両側に、さっそく円く曲げた車輪をつけた、青銅づくりで、八つの輻《や》が、鉄の軸棒のぐるりについているものである。そのまわりの金物は、けして滅びぬ黄金でもって作られていて、またその上に青銅の外輪がしっかりはまり、見るも驚く立派さだった。
またぐるぐるまわる車輪の臍《ほぞ》は、両側ともに白銀《しろがね》づくりで、車台には、黄金《こがね》と白銀《しろがね》とを飾った皮紐を張りめぐらし、その周囲をさらに二重になった手すりがとり囲んでいた。そこから出てる車の轅《ながえ》は白銀でできている。その尖端に、黄金の立派な軛《くびき》を結わえつけて、中へは黄金づくりの皮紐の美々しいものを投げかけた。その軛の下にヘレ女神は、足の速い馬どもを導いて入れた。争いと戦さの叫びにこがれきっている馬たちである。
またこちらのアテネ女神、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスの御娘は、父神のお宮の敷居に、色とりどりのしなやかな衣《きぬ》を、ひろげて敷いた、それは自身でお作りになり、手ずからに仕上げたもの。それから女神は、群雲《むらくも》を寄せるゼウスの陣羽織を着け、涙にみちた戦いへと、物の具を身によろわれた。また両方の肩へは、たくさんな総《ふさ》のついた、恐ろしい山羊皮楯《アイギス》を投げかけた、そのぐるり四方を「恐怖」が環をなしてとりまいている、中には「闘争」と、さらに「武男」と、さらには身をこごえすくます「追跡」とがあり、中央には、ゴルゴンの首が、恐ろしい怪物の、恐ろしくも身の毛をよだたせるような、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスが下した異兆がついている。
また女神の頭《こうべ》には、両側に角をつけて、四つの星がある黄金づくりの兜をかぶった。百の都の戦士たちを鏤《え》りこんだものである。こうして焔と輝く戦車へと御足を運ばれた、その手にはどっしり重く、頑丈な大槍を取りたもうて――この槍で名だたる勇士たちの群れをさえも、高く貴い父神の御娘が、彼らにたいして憤られる場合には、射ち平らげたものだったが。
さてヘレは、鞭をあげて、さっそく馬どもに触れ合図をすれば、ひとりでに天の門がうなりをあげて開けていった。その番をしているのは、(季節の神女たち)ホライで、広大な大空もオリュンポスも、彼らの差配にまかされている。びっしりと積み重なった群雲をひらくことも、また寄せとざすのもその役なのだ。それで、そちらのほうへ門のあいだを通り抜けて、二神《ふたり》は笞《しもと》をあてた馬を向けていった。そうするうちに、クロノスの御子(ゼウス)が、他の神々から離れて、ひとりでもって、たくさんの尾根をもつオリュンポスの、いちばん高い峰の上に坐っておいでの姿を認めた。そこへ馬車を停めて、白い腕《かいな》の女神ヘレは、クロノスの御子の、至高の御神ゼウスに向かって話しかけ、たずねるようには、
「ゼウス父神さま、アレスがあんなにひどい、むごたらしいことをやっても、ご立腹なさいませんの、どんなにまあたくさんの兵士たちを殺したことか。アカイア勢をですわ。しかも、むやみやたらに、まったくでたらめなやり方で、私の胸を痛ませることを。それなのに、あの神たちは、平気でそれを楽しんでいますのよ、キュプリスや、銀の弓をもつアポロンたちが、あの頭のたりない神さま(アレス)をけしかけまして。あの神《こ》はてんで掟《おきて》さだめも知らないのに。ねえ、ゼウス父神さま、まあちょっと、お怒りになりましょうか、もし私がアレスを、手ひどくたたきあげ、戦さから追っ払ってやりましたら」
それに向かって、群雲を寄せ集めるゼウス神は、答えていうよう、
「そんなら、そうだ、彼《あれ》に、あの獲物をもってくるアテネを立ち向かわせろ、彼女《あれ》はいつでも、アレスを、とてもひどく痛い目にあわせつけているからな」
こういわれると、白い腕の女神ヘレは何の異存もなく従って、また馬に鞭をくれた。二頭の馬は、いそいそとして、大地と星のかがやく大空との間を翔《かけ》っていった。そして、物見台に坐った人が、ぶどう色をした海原をながめやって、はるかにかすんでその両眼に見えるかぎりの、そのくらいの距離《へだたり》を、一跳びにして、神々の、高くいななく馬どもは、走っていった。しかし、とうとうトロイアへ、二つの河の流れるところへ着いたときに――そこでは、シモエイスとスカマンドロスが、流れを混ぜ合わせるところだが、そこへ着くと、白い腕の女神ヘレは馬車をとめて、馬を車台から解き放すと、まわりに靄をいっぱい注ぎかけた。その馬どもの飼葉にと、シモエイス(の河)は、神糧《アンブロシア》を生え出させた。
それから女神たちは、ほろほろと鳴く鳩のように、歩みを運んでいった、アルゴスの武士たちを、防ぎ護ってやろうときおいたって。そしていよいよ、とりわけて大勢、より抜きの勇士らが集まって、馬を馴らす豪の者、ディオメデスをとり囲んでいるところへ着いた。その様子は生肉《なまみ》を啖《くら》う獅子の群れか、あるいは野の猪どもか、その強力はけして馬鹿にできはしない、そうした勇士たちの群れたところにいって立ち、白い腕の女神ヘレは大声あげて、青銅の声をもつという意気のさかんなステントルの姿を借りて――その人は、他人なら五十人分ほども、大きく声がひびいた――さて、いうようには、
「恥を知りなさい、アルゴスのかたがた、ひどい非難の的だな、あなたがたは、見かけはたいそう立派だが。勇ましいアキレウスが、戦場へいつも出てきたその間は、一度だってトロイア勢がダルダノス門から外へ出かけてきたことはなかった、あの男の手ごわい槍をこわがってたものでな。ところがいまでは、城塞《とりで》から遠くへ出て来て、うつろに刳《く》った船のわきで戦さをしているのだ」
こういって、みなみなの勇気をあおって、発憤させた。いっぽう、テュデウスの子のわきに、きらめく眼の女神アテネは飛んでいったが、見ればちょうど、この大将が馬どもや戦車などが置いてあるわきで、パンダロスのため矢で射られた、その傷を冷やしているところだった。というのは、よい円形の楯についた幅の広い提げ緒にすれ、汗で傷がいたんでいた、その痛みのため、手がまいってきたもので、楯の提げ緒を持ち上げて、黒ずんだ血を拭き取っている最中なのだ。そこで女神は、馬をつける軛《くびき》に手をかけて、声をあげていうには、
「まったくテュデウスは、あまり自分とは似ていない子を生んだものだな。テュデウスは、そりゃなりこそ小さかったけれども、武勇のつわものだった。いかにも、私が彼に、戦さをするのも、戦場ではなばなしく腕をふるうのも、許してやらないおりにだって、そうだったのだ。アカイアの人々とわかれて、彼がテバイへ、大勢の、カドモスの城市《まち》に住まう者どもの間へと、使節として来たおりのこと、彼らはテュデウスに、大広間で、心やすく食卓につけとすすめたものだ。ところが彼は、以前とすこしも変わらないたくましい気象をもって、カドモスの城の若殿ばらと競技にいどんで、あらゆる種目で、みな打ち負かした(容易に。それほど私は、彼に対しての後援者であったものだ)。
きみにたいしても、まったく私は、加勢もしているし、防ぎ護ってもいるわけだ。それできみにも、熱心にトロイア勢と闘うようすすめるのだが、どうやらきみの手足には、たびたびの突撃での疲れがはいりこんでしまったか、それとも、もしや、気弱な臆病心にとりつかれたのか。それならば、もうきみは、オイネウスの子の、武勇すぐれたテュデウスの胤《たね》とはいえないぞ」
それに向かって、剛勇のディオメデスが答えていうよう、
「あなたは誰かわかっています、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウス神の御娘神さま。それゆえ、心をこめて、何もかくさず申し上げましょうが、私はけして気弱な臆病心やためらいなどに、とりつかれてるわけではなく、いまでもまだ、あなたがさっきおおせられたお言いつけを忘れずにいるためなのです。さっきあなたは、真幸《まさき》くおいでの神々とは、他のかたなら、面と向かって、闘いあってはならないと、おっしゃいました。だがもしゼウスの御娘のアプロディテが、戦さのところへ出て来たときには、女神を鋭い青銅の槍で、突き刺してやれと、おいいでした。それゆえに、現在私は自身もこうして引き退いておりますし、他のアルゴスからきた人々にも、みなここへ寄り集まってすくんでいろ、といったのです。だって、アレス神が戦さ全体をおさえて支配しておいでなのを、認めましたので」
それに今度は、きらめく眼の女神アテネが答えていうよう、
「テュデウスの子のディオメデスよ、まったくおまえは感心な者だね。だが、おまえならば、それだからって、アレス神をこわがるにはおよばないよ、またほかのどんな不死の神さまだってね。それほどたいした加勢を私がしてあげるのだから。だからさあ、まず手始めに、アレスへと、単《ひと》つ蹄《ひづめ》の馬どもを向かわせて、身近に寄って突いておやり、勢いのはげしいアレスとて遠慮はいらないのだから。あの神《ひと》なんか、猛り狂っていたって、いうことなしの不良だし、両股《ふたまた》膏薬なんだから。あの神《ひと》はついこの間、私やヘレさまに向かって、トロイア勢とは戦さをするが、アルゴス方は護ってやろう、なんていい放って威張っていたくせに、それがいまでは、トロイア側の味方をして、こっちのことはてんで頭にないんだから」
こういうと、ステネロスを戦車から地面へと手でうしろのほうへ引っぱって押し出したので、彼のほうでも大急ぎで跳び下りると、女神は車台へ、勇ましいディオメデスのかたわらへと乗りこめば、きおいこんだその様子に山毛欅《ぶな》の株づくりの車軸は、重みによって、高く鳴ってきしんだ、恐ろしい女神と無双の勇士とを載せていったもので。
さてパラス・アテネは鞭と手綱とを御手に取られると、すぐとまず第一にアレス神へ向け、単つ蹄の馬どもを馳せていかれた。いかにもそのおり、アレスが物の具を剥《は》ぎ取っていたのは、巨漢《おおおとこ》のペリパスという、アイトリア勢きっての勇士で、オケシオスの誉れも高い息子だった。その男を、人殺しの血にまみれ、アレスがいまはいでいたので、アテネは、力の強いアレスに見えないように、冥王《アイデス》の隠れ兜を被りこんだ。
さて、人間の禍いであるアレスは、勇ましいディオメデスが眼にはいると、さきの巨漢ペリパスはそのままそこへ、はじめに殺して命を奪った、その場所にねかしておいて、まっしぐらに、馬を馴らすディオメデスを目がけてやってきた。そしていよいよ両方が相たがいに進み寄って、間近となったときに、まず先がけてアレスが、彼の命を取ろうとしきりにはやって、戦車の軛や手綱ごしに、青銅の槍を突き出した。そこで槍をば、きらめく眼の女神アテネは、手でひっつかんで、わきへ押しのけ、車台の下へ、空をついて走っていかせた。
そしてこんどは、雄叫びも勇ましいディオメデスが、二番手に、青銅の槍を取って突き進むと、パラス・アテネは、その槍を、アレスがいつも腹巻を巻きつけている腹のいちばん下のところへ押し向けてやった。そこへ、それを突きあて傷を負わせて、美しい肌を切り裂いてから、またもとへと槍を引き抜いたので、青銅のアレスも割鐘《われがね》のようにわめいた、さながら九千人か、あるいは一万人の兵士たちが、戦さのおりに、戈《ほこ》をまじえて争いあい、叫びたてるように、大きな音を立て。そのために、アカイア勢も、トロイア勢も、恐れおびえて、足のふるえがとまらなかった、それほどひどいわめき声を、戦いに飽きることのないアレスはあげたのだった。
ちょうど、暑熱のあとで、はげしく吹く風が起こってくるとき、群雲のあいだから、下空の気が黒ずんで見えわたる、そのように、テュデウスの子ディオメデスには、青銅のアレスが群雲を伴って、広い大空へと昇っていくのが眼にうつった。そしてたちまちのあいだに、彼は、神々の御座所である、けわしいオリュンポスの峰に着き、心を痛め苦しみながら、クロノスの御子ゼウスのわきに御座を占めて、傷口から不死である神血《イコール》が流れて出るのをさし示して、うんうんいって泣きべそもろとも、翼をもった言葉をかけ、
「ゼウス父神さま、こんなにひどい仕業を見てもご立腹にはなりませんか。まったくしょっちゅう私たち神々は、おたがいの心柄、人間どものひいきをして、このうえない辛い目にあってばかりきているのです。第一、あなたには皆が不平を持っている、というのは、あなたがあんな無分別な娘、呪われた女〔アテネ女神のこと。ゼウスは単独で頭からアテネを生み出したといわれる〕をお生みになったのですからね、いつも不埒なことばかりたくらんでいる女《もの》をです。それでほかの、オリュンポスにいる神々は、のこらずあなたの指図に従い、主神《あるじ》とお仰ぎしていますのに、彼女《あのこ》だけは、いうことにも、また所業にも、あなたはちっともお叱りなさらずに、ほうっておおきになるのですから。ご自分だけで、こっそりお生みになった娘だというためでしょうが。
いまだって、彼女《あのこ》は、テュデウスの息子の、思い上がってるディオメデスをけしかけて、不死である神々にたいして、さんざ乱暴をはたらかせたものです、まず最初には、キュプリスのそばへ来て、掌《てのひら》のつけ根に傷を負わせてから、今度はまたこの私自身に、神霊みたいな勢いで、かかってきました。でも足が速かったので、私はうまく逃げたのですが、さもなくば長いこと、そのままそこで、恐ろしい屍骸どもに囲まれて、苦しみつづけたことでしょう。また生きてたところで、青銅(の槍)に突かれて腑抜けになっておりましょうよ」
それに向かって、上目づかいににらまえながら、群雲を寄せるゼウスがいわれるよう、
「何だ、両股膏薬のくせに、私のわきに坐りこんで、泣き言などをいうではない。オリュンポスに住んでいる神々のうちで、おまえはいちばん気に入らんやつだ。なぜというと、おまえはいつも喧嘩だとか、戦さとか争いごとばかり好きなうえに、おまえの母親の勢いといったら、おさえることも、さし止めもできないほどだ、ヘレときたらな。私だって、やっとのことで言葉でもって服従させているくらいだから。それゆえ、きっと彼女《あいつ》のさしがねで、おまえもこうした目にあっているのだろう。それにしてもだ、このうえおまえが長く苦しみつづけているのを、我慢しているわけにはいかん。ともかくおまえは私の子だし、私にとおまえの母がもうけた者だ。もし誰か他の神からおまえが生まれて、こんなふうに乱暴を働くなら、それこそもうとっくに、ウラノスの族《やから》〔ティタン族のこと〕より、もっと深い地の底にやられていように」
こういわれて、|医療の神《パイエオン》になおしてやるよう命じられたので、パイエオンは、傷口に痛み止めの葉を塗って≪なおしてやった、それというのも、けして死なないように、生まれついていたからである≫。ちょうどイチジクの汁が、まっ白い乳の液体なのを、せかしたてて凝り固まらすと、まったく見るまに、かきまわす手にくっついてくる、そのようにたちまちの間に、勢いはげしいアレスをなおしてやった。
それから|青春の女神《ヘベ》が彼を沐浴させ、美しい衣を着せつけると、アレスは、クロノスの御子ゼウスのわきに、意気揚々として坐られた。
いっぽう女神たちも、ふたたびゼウス大神の宮居へと、帰ってこられた、アルゴスのヘレと、アラルコメネの女神アテネとは、人間の禍いであるアレスが、武士《さむらい》たちを殺すのを、さし止めたので。
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ヘクトルとアンドロマケの会見の段
【ディオメデスはなおも進んでゆくうち、リュキアの将グラウコス(サルペドンの従弟)に出合い、姓名をたずね名乗りあうと、たがいにむかしは入魂《じっこん》の間の家系とわかる。そこで闘いをやめ贈り物を交換して別れる。一方トロイア勢の支柱とされるプリアモス王の長子ヘクトルは、戦勝をトロイア方の婦人らに神々へと祈らせようと、かつは若妻アンドロマケと訣別のため、イリオスの城中へ引き返す。戦死を覚悟して出かける夫と、両親も兄弟も失った若い妻、幼い子供の別れの場面がつづく。彼はそれから弟パリスを激励し、つれ立って城門を出てゆく】
さて恐ろしい戦さのひびきは、トロイア勢とアカイア軍との手だけにまかされて、いろいろに、そこだの、あるいはあちらだのと、青銅を穂先につけた投げ槍は、あいたがいの胸を目がけて、まっすぐに投げつけられ、シモエイスとクサントスと、二つの流れの間にある平原の上を、戦いは移動してまわった。
まず最初にはアカイア勢の護りの墻《かき》といわれるテラモンの子アイアスがトロイア方の戦列を打ち破って、味方の者たちに光明を与えた。それは(トロイア方の)トラキア勢の間でも並びない勇士を討ち取ったので、エウソロスの息子アカマスとて、性《さが》勇ましく丈も高い武夫《もののふ》だったが、まず先をかけて、馬の尾飾りをつけた兜の星へ打ちあて、その額へ槍を突き立てたもの、骨の中へと青銅の穂先がつきとおってはいれば、たちまちに暗闇が両眼を蔽いかくした。
またアクシュロスを、雄叫びも勇ましいディオメデスが討ち殺した。これはテウトラノスの子で、つくりもよい町アリスベに住まいして生活もゆたかに、世間からも親愛されていた者で、それも街道のかたわらに家をかまえて、人皆と仲よく暮らしていたからだったが、その人々も一人として、このおりに、彼の前に立ち塞がって、いたましい最期を防いでくれず、彼自身と従者のカレシオスと、二人とも命をおとした。この男はちょうどこのとき戦車に従い、馬の手綱を取っていたので、二人とも冥途《あのよ》へやられたのである。
またエウリュアロスは、ドレソスとオペルティオスとを討ち取ってから、アイセポスとペダソスを追っていった。この者たちは、むかしニンフのアバルバレの泉の精が、誉れも高いブコリオンへと生んだ子供だった。そのブコリオンは、器量のすぐれたラオメドンの息子であって、年の順では総領にあたっていたものの、内緒の縁で母親から生まれたのであった。それで、山々の上で羊を飼っているうち、ニンフとまたない仲となり結ばれたが、みごもったニンフはやがて双子を産みおとした。ところがその二人の息子の命と、輝く手足とを、いまメキステウスの子が、くずおれさせ、両肩から物の具まで奪っていった。
またアステュアロスを戦さにもたじろぎを見せぬポリュポイテスが討って取れば、オデュッセウスは青銅の槍で、ペルコテ〔ヘレスポントス海峡の南岸にある町〕から来たピデュテスを、また、テウクロスは、勇ましいアレタオンを討ち果たした。一方、ネストルの子アンティロコスは、輝く槍でアブレロスを、武夫らが男アガメムノンはエラトスを、討って取った。この男は、美しく流れてゆくサトニオエイスの河のほとりにそびえ立つペダソス〔レスボス島に面するアイオリスの港〕に住まいしていた。またレイトスの殿はピュラコスが逃げるのを追い討ち取れば、エウリュピュロスはメランティオスを討ち果たした。
それからまたアドレストスを、雄叫びも勇ましいメネラオスが生捕《いけど》りにした次第はすなわち、その(戦車をひく)二頭の馬が、平野の上をあちこちと逃げまどううち、川柳の枝にからまって、前のまがった二頭立て戦車の、轅《ながえ》のいちばん端を打ち壊し、馬のほうはそのまま城市《しろまち》のほうへと他の人々が恐れまどって逃げていくのにつれて走っていったが、自分は戦車の台座から車輪のわきをころがり落ちてうつむけに、砂塵の中へと投げ出された。そのそばへとアトレウスの子メネラオスが、長い影を曳く槍を手に持ち駆け寄ると、そのときにアドレストスは、敵の膝にとりすがって懇願するようには、
「どうか生捕りにしてください、アトレウスの子よ、そしてあなたが十分ふさわしい身代金を取ってくださるよう。私の父は物持ちなので、財宝もどっさり家にある。青銅でも黄金でも、また大変な労力をかけた鉄にしろ、その中からはかり知れぬほどたくさんな償《つぐな》い代《しろ》を、父はお礼にさしあげましょう、もし私がアカイア勢の船陣に、生きながらえていると聞きましたら」
こういって、メネラオスの胸のうちを、しきりに説得しようと試みた、それでまったく、おおかた彼も、アカイア勢の速い船の置いてあるところへ連れていくよう、自分の従者に引き渡そうとしているところへ、アガメムノンが、その面前に駆けてやって来て、とがめ立てしていうようには、
「なんと気の弱いことか、メネラオスよ、なぜまたきみが、このような人たちのことを心配するのかね。それともきみにたいして、家郷においてトロイア人から、このうえもなく結構な振舞いがされているとでもいうのか。その一人たりとも、われわれの手にかけて、きびしい最期を遂げさせないではおくまいぞ、たとえ母親がその胎内にみごもっている嬰児とて、男の児なら、その子も逃れさせはしない、皆いっしょに、イリオスから死に絶えさせよう、埋葬にもあずからず、跡かたもなしに」
こういってかの殿は、正しいことを説きすすめて、兄弟の気持を変えさせてしまった。それでメネラオスも、身辺から、アドレストスの殿を押しのけると、それをアガメムノン王が脇腹めがけ突き刺したので、ひっくり返ると、アトレウスの子はその胸を足で踏んまえ、トネリコの槍を引っこ抜いた。
さてネストルは大声をあげて、アルゴス勢に呼びかけるよう、
「おお味方の人々、ダナオイ勢の勇士たち、軍神アレスに従う者どもよ、けしていまは誰も、できるだけたくさん獲物を船へ運んでいこうなどというつもりで、物の具を分捕る仕事にかかりきって、後におくれ残ってなどしてはならん。それよりもさあ、敵の武士を討ち取ろう、それからあとで、そんなものは、広い野原じゅう、死んでいる屍から、安心してはぎ取れようから」
こういって、誰も彼もに勇気と力とをふるい起こさせた。このおりに、またもや、トロイア勢は、アレスのいとしむアカイア軍のため臆病風にとりひしがれて、イリオスへと逃げ上ったかもしれなかった――もし、プリアモスの子のヘレノスという、鳥占使《とりうらつかい》の無双の上手が、アイネイアスとヘクトルとのそばに来て、こういわなかったなら。
「アイネイアスとヘクトルよ、いつも骨折り仕事は、トロイア勢やリュキア勢の中でも、いちばんに、あなたがたへと背負わされるというのも、つまりは戦さにかけても、はかりごとにも、万事についてあなたがたがいちばんすぐれておいでのせいだ。それゆえ、このままこのところに踏みとどまり、四方八方へ出かけていって、兵士たちを大門の前に引きとめなさい。またもや皆が怯《おく》れて逃げ出し、女どもの腕の中へ倒れこんで、敵のやつらを喜ばせたりしないうちに。だがもしきみたちが二人して、味方の部隊をすっかり引きとめてくださるなら、私らのほうでも、そのままここに踏みとどまって、ダナオイ勢と闘っていこう、よしどれほど苦しかろうと。ぜひともそうしなければならないのだから。
だが、ヘクトルよ、きみは城へいって来なさい、それから、母上にいいなさい、きみの、またぼくの母にだ。年寄りの女たちを寄せ集めて、城塞《とりで》の丘の上にある、きらめく眼《まなこ》のアテネの社《やしろ》に詣でて、神聖な社殿の扉を鍵で開けさせ、館《やかた》にもっている衣《ころも》のうちで、いちばんに美しく、また大きいので、自分でもいちばん好きだと思っているのを取り出して、垂れ髪もみごとなアテネの(神像の)お膝の上におかけするよう。それからまた、十二匹の仔牛を、それも一歳子でまだ笞《しもと》にも触れたことのないのを、社殿の中で犠牲《いけにえ》にたてまつろうと誓うようにだ――もしも女神がこの町と、トロイア人《びと》の家の妻やいとけない子供を憐れと思し召してくださるなら、何とぞ聖《とうと》いイリオスから、テュデウスの子を遠ざけてくださいますよう、あの荒くれ男の槍の使い手、潰走《かいそう》をひき起こさせる剛勇の武士を、と。まったく彼こそ、アカイア軍中第一の強剛《つわもの》と私は思っているのだ、あの武士たちの頭領だというアキレウスとて、女神から生まれたと人はいってはいるが、けして私らはこれほど恐れはしなかった。ところが、この男の暴れ狂いかたはまったくはげしく、誰一人とて、その気勢に刃向かいもならないのだからな」
こういうと、ヘクトルは、弟の言葉に何の異存もさしはさまず、すぐさま戦車から物の具を着けたまま、地面の上へと跳んで下りると、鋭い槍を打ち振りながら、八方へと陣中を出かけていって、皆々を闘いへと激励し、恐ろしい戦さの響きをよびさましたので、人々もくびすを返してふみとどまり、アカイア軍と向きあって対抗した。そこでアルゴス勢もすこししりぞいて、殺戮《さつりく》を止め、誰やら不死なる神々のうちの一柱《ひとはしら》が、星の群がる大空から、トロイア方の加勢をしに、降りて来られたものか、と思った、かように敵(トロイア勢)が引き返して来たので。
さて、ヘクトルは、大声をあげてトロイア勢を激励するよう、
「きおいたったトロイア勢よ、また遠近に名のとどろいている援軍のかたがた、雄々しくあれ、味方の人らよ、私がこれからイリオスへ出かけて、年寄りの相談役衆や、われわれの妻たちに向かって、神々に祈りをささげ、大贄《おおにえ》を奉ろうと誓約するように、いいつけて来るそのあいだは、勢いはげしい武勇のほどを忘れないでくれ」
こう声をあげていうと、きらめく兜《かぶと》のヘクトルは立ち去った――身の左右に、両かかとや頸筋に、臍金《ほぞがね》を中ほどにつけた大楯の端をぐるりとりまく黒い色をした厚皮をぶつからせながら。
さて、ヒッポロコスの子グラウコス〔サルペドンの従弟で、リュキアの領主。信義ある好もしい勇士〕と、テュデウスの息子(ディオメデス)とは、両方の軍勢のまんなかほどへ、いで闘おうものと気負いこんで、駆け向かった。それでたがいに相手を目ざして進んでゆき、いよいよ間近となったときに、先をかけて、まず雄叫びも勇ましいディオメデスが相手に向かっていうようには、
「そもそもきみはいかなる人か、やがては命死ぬ人間の中で、ならびのない勇者ながら、これまではまだ、武士に誉れを与える戦さの間で、一度も見かけたことがない。だが現在のところでは、きみはともかく剛胆さでは、どんな人よりずっと立ちまさっている。影を長くひく私の槍を待ち受けたという点ではな。だが私の武勇に立ち向かおうという者こそ、不運な親の息子なのだ。だがもしまたきみが、不死である神々のうちの一人で、天を降《くだ》って来られたものなら、私も、天上においでの神様がたと戦おうとは思いもかけない。
なぜというと、まったくあのドリュアスの息子で、剛勇と聞こえたリュコエルゴス〔トラキアのエドネスの王。ディオニュソス信仰に反対し、これを排斥しようとして神罰を受けた〕さえ、長くは命を保てなかったのだから。彼は人も知るよう、天上においでの神さまがたと争いあって、あるときは狂い踊るディオニュソス〔酒や演劇などの神。その信仰は熱狂と乱酔を伴うので、しばしば禁じられたが、庶民の間に多くの信者をえた〕の乳母たちを、神さびたニュサの山脈《やまなみ》じゅう追いまわした。その女たちは、みないっしょに、人殺しのリュコエルゴスの、牛撃ち斧に打ちのめされて、祭の道具を地にとり落とした。それでディオニュソスもおじけをふるって、大海の波あいに沈みかくれたのを、テティスが受け取り、こわがっている御神をふところに抱いてあげた。すなわち、あの男のののしる声に、はげしいふるえが御神にもとりついていたものだったから。それゆえに、あとあとで、安楽の生《よ》を送っておいでの神々も彼を憎まれて、まずクロノスの御子(ゼウス)が彼を盲目にしてしまわれたが、神さまがた残らずの憎しみを受けていたので、それから長くは命を保てなかった。それゆえ私とても、真幸《まさき》くおいでの神さまがたと戦おうとは望まない。だがもしきみが、誰にもせよ、田畑の実りを啖《くろ》うて生きる人間に属する者なら、もうすこし間近に寄りたまえ、いっそう早く最期の涯《きわ》へ行きつくように」
それに向かって、こなたはヒッポロコスの、誉れかがやく息子がいうよう、
「テュデウスの子よ、気性のひろいきみがどうして私の生まれのことを問いただすのか。まことに木々の葉の生《よ》のさまこそ、人間の生死のさまとそっくりそのまま変りがない。木々の葉を、時には風が吹き来たって、地上に敷き散らすが、また一方では、森の木々は繁り栄えて、ほかの葉を生い繁らせ、春の季節がめぐってくる。それと同じく、人間の世も、一方では生まれ出で、一方では亡び失せてゆくものだ。
が、もしきみが、それもまた学び知ろうと望むならば、仔細にわれらの世系《よすじ》を心得られるよう、知る人々も大勢にいることゆえ(お話ししようが)、馬を飼うアルゴスの郷《さと》も奥まったところに、エピュレという町がある。そこにシシュポスといい、人間のうちでも、とりわけて慧敏《けいびん》な者があった〔伝説のアイオロスの子で、エピュレすなわち後のコリントスを建て、巨人アトラスの娘メロペとの間にグラウコスをもうけた。狡猾で死後地獄に落とされ、刑罰として急坂に大きな石を上げることを命じられたという〕。アイオロスの子のシシュポスである。そのもうけた息子がグラウコスで、そのまたグラウコスが、人品すぐれるベレロポンテスを生んだ。ところが、彼に神々は秀麗さと、好もしい男振りとを授けられた。さるほどに彼にたいして、プロイトスが胸中ひそかに禍いをたくらんで、アルゴス人《びと》らの郷国から追い出した。というのも、自分よりベレロポンテスがずっと上手《うわて》であったもので。それもゼウスが彼を(プロイトスの)王笏《おうしゃく》の下に従わせたためだった。
(このプロイトスが彼を追い出した)その原因というのは、プロイトスの妻の、とうといアンテイアが彼に夢中になって、内緒で思いを遂げようとしたが、ベレロポンテスは武勇もすぐれているうえに、志もいたって正しい者だったので、すこしも彼女に従わなかった。そこで女は虚言をもうけて、プロイトス王に向かっていうには、『死んでおしまいなさいませ、プロイトスさま、さもなくば、ベレロポンテスを殺してください。私がいやだと申しますのに、肌をゆるせと迫るのですもの』
こういうと、何たることを聞くものと、怒りが王をとりこめた。それでも殺すことは、さしひかえた。そうするのは、さすが心にはばかったからだが、リュキアへと彼を送りつかわし、たたみ重ねた木の板に、凶々《まがまが》しい符徴《しるし》を刻み込んだものを渡して持ってゆかせた。命を害《そこな》うたくらみを、いろいろ記したものだったが、それを王の舅《しゅうと》に見せるよう、命じてやった、彼が命をおとすようにと。
それから彼はリュキアへと、神々の行きとどいた庇護のもとに赴いたが、さていよいよリュキアへ、クサントス河の流れるところへ着いたとき、広大なリュキアの郷《さと》の領主は彼をこころをこめて大切にもてなし、九日の間、饗応して、九匹の牛を贄《にえ》にほふった。それでとうとう十日目の朝、ばら色の指をさす暁が現われたとき、まさしくそのとき、彼にたずねて、婿のプロイトスの手もとからたずさえて来たものがあったら、その証《あか》しの品を見せるようにと要求した。
こうしてとうとう、婿が与えた、あの邪悪の符徴《しるし》を受けとると、まず初めに、あの恐ろしいキマイラを殺して来いと命令した。この怪物は、神霊のたぐいに属していて、人間界のものではなく、前のほうは獅子、うしろは大蛇、まんなかは牝山羊《めやぎ》の形で、燃えさかる火の恐ろしい勢いを、口からはき出していた。それを彼は、神々の下された異象をたよりにして打ち殺したところ、またつづいて、そのつぎには、名声の遠くひびいているソリュモイ族〔リュキアの原住民といわれる蛮族〕と闘いを命じられた。この戦さこそ、彼が参加したうち、いちばんはげしい、武士たちの戦さだったということである。
三番目にはまた、男にも劣るまいアマゾン〔小アジア北辺の弓術にひいでる女軍遊牧民〕の女軍をうち敗った。ところが、彼が帰ってくるというと、またもや抜け目のない奸計を織りめぐらして、広大なリュキアじゅうから、より抜きの勇士たちを選び出し、伏兵を仕掛けておいた。しかしその人々も、二度と家には帰ってこなかった。というのは、人品すぐれるベレロポンテスが、彼らを皆殺しにしてしまったので。こうして、いよいよ、彼がほんとうに神(ポセイドン)の子である勇士だということを認識すると、国王はそのまま彼を引きとどめて、自分の娘をめあわせようとし、自分のたもつあらゆる威権の、半分を彼に分けて与えた。そこで、リュキアの人々も、他人にこえてとりわけ立派な荘園をえらんで、植わった木といい、田畑といい、申し分ない土地を、彼の所領に提供したものだった。
さてその王女は、武勇のすぐれたベレロポンテスにより三人の子をもうけた。イサンドロスとヒッポロコスとラオダメイアとである。このラオダメイアに、全智の御神ゼウスが添い寝をされて、それから姫は、神ともまごう青銅の物の具つけたサルペドンをもうけたのだ。さりながら、その彼さえも、とうとう、すべての神々たちの憎しみを受けるにいたると、アレイオンの野原をわたり、自分の心を噛みしめながら、世間の人のかようところを避けて通って、ただひとりして迷っていった。
またその息子のイサンドロスは、戦さに飽くことを知らない軍神アレスのため、世に名の聞こえたソリュモイ族と戦っているところを殺され、残る姫(ラオダメイア)はといえば、黄金の手綱を取るアルテミス女神が、立腹されて、殺してしまわれた。
さて、ヒッポロコスが私の生父、彼から私は生まれたものだと号するのだ。それで私をこのトロイアへさしつかわしたが、そのおりに、いろいろ指図を与えて、いつも勇戦して手柄を立て、他人に抜きん出るよう、また親代々の家名を辱《はずか》しめてはならぬ、と教えた――家の先祖は、エピュレでも広大なリュキアでも、無双の勇士といわれていたから。このような世系《よすじ》、また血統こそ、おこがましいが、私のものだ」
こういうと、雄叫びも勇ましいディオメデスは、たいそう喜んで、手に持った長槍を、生き物をゆたかに養う大地にしっかと突き立ててから、心をやわらげるやさしい言葉で、兵士たちの指揮者(グラウコス)に話しかけるよう、
「それでは、きみは、私にとっては、ずっと昔から親代々の懇意な家同士のものだ。というのも、とうといオイネウスはむかし、誉れも高いベレロポンテスを、自分の家に引きとどめて、二十日のあいだ客人としてもてなしたという。それで二人はおたがいに、立派な品を引き出物として贈りっこをした。オイネウスは、真紅に染めた腹帯を贈り、ベレロポンテスは両耳付きの黄金の台杯を贈ったそうだ。その杯を私は現在、出征のさい、自分の家に置いてきたものだが、(父親の)テュデウスを私はいま覚えていない、まだ私のごくおさない時分に親父は出ていったので。アカイアの兵士たちがテバイで討ち死したときのことだ。さればこそ、いまでは私が、きみにたいしてアルゴスの中では、親しい宿の主人をつとめ、リュキアでは、もしも私がそちらの国へ行ったらばきみが主人になってくれよう。だがおたがいの槍は、避けあうことにしよう、乱戦のあいだでさえもな。なぜなら、まだ私には大勢殺す者がいる、トロイア勢の中にも、また遠くまで名声の聞こえている援軍の兵士にしても、神さまがもしおゆるしなら、まだ足で追いつけるようなのがな。またきみにしても、アカイア勢に、討ち取れるなら、殺せる者が大勢いよう。だからわれわれもたがいに物の具を贈りっこしよう、このへんにいる者どもにも、われわれが親代々の懇意な仲を誇っているのがよくわかるように」
かように二人は名乗りあげると、戦車からともども跳んで下りて、たがいに手を取りかわし、古い友誼《よしみ》を温めあった。この際に、またもやクロノスの御子ゼウスが、グラウコスの分別をまどわせたので、彼はテュデウスの子ディオメデスと、そのくれた青銅の物の具の代わりに、黄金のを遣《や》り、九匹の牛の値打ちのものに、百匹の値打ちの品を贈り物にした。
さてヘクトルがスカイアの門と、槲《かしわ》の木〔イリオスの西門の近くにある〕のあるところへ着くと、彼の両脇へと、トロイアの人々の妻たちや娘たちが、駆け寄って来た。そしててんでに、自分の息子たちや兄弟たち、あるいは身内の者や夫のことなどをたずねるのだった。そうすると彼は、多くの女には不祥事がもう起こっていたので、順々に皆に向かって、神々へ祈りを捧げるように命じた。
しかし、とうとうプリアモスの美々しい館へ到着すると――そこには磨き上げた柱廊《ギャレリー》を備えた館の、それ自体の内に、磨いた石づくりの五十の奥部屋が、おたがいに隣りあってつくられていた――ここにはプリアモスの息子たちが、筋目正しく迎えた妻と起き臥しを共にしていた。また娘たちのためには別なところに、中庭のかこい内に、向かいあって、磨かれた石づくりの、十二の部屋の屋根つきのが、これもおたがいに隣りあって建てられてあった。ここにはプリアモスの娘婿たちが、それぞれ、つつましやかな妻といっしょに起き臥ししていた。この場所で、向こうのほうから、気前よくひとに物を遣る(ヘクトルの)母親(ヘカベ)が、プリアモスの娘の中では容姿《みめ》のいちばん美しいラオディケを引きつれてやって来たが、いきなりヘクトルの手に取りすがると、名をよび上げて、かき口説くようには、
「息子よ、なぜそなたは、けわしい戦さをあとにして、やって来たのです。どうやらきっと、いやらしい名のアカイア勢の息子たちが、都を取ろうと攻め戦って、悩ますのでしょう。そこでそなたは、ここへ来て、塁《とりで》の丘の高みからゼウス神に両手を挙げて祈願しようという考えで、帰って来たのだわね。それなら待っておいで、私がいま蜜の甘さのぶどう酒を持ってくるから。それでまず手始めに、ゼウス父神さまや、その他の神々へとお神酒《みき》をそそぎ、それから今度は、そなた自身も、もし飲むならば、それで元気がつくことでしょう。すっかり疲れた人には、お酒が、たいそう気力を増すものです。そなただって、ほんとに身内の者を防ぎ護って、ずいぶん骨を折ったのだから」
それに答えて、きらめく兜の大ヘクトルがいうよう、
「いや母上、心を甘くとろかせるぶどう酒などは、もって来てくださいますな。そのため手足の力が抜けて、勇気をなくしては大変です。そのうえ、洗いきよめてない手で、ゼウス神に、かがやく酒をそそいでまつるというのは、つつしまねばなりません。またどうあろうと、黒雲を寄せるクロノスの御子に、血潮だの汚れたのを身に浴びている私が、お祈りするのもよくないこと。
それよりあなたが、獲物をもたらすアテネの御社へと、焼物の供御《くご》を携え、年寄りの女たちを寄せ集めてから、お詣《まい》りなさい。それから衣を、それも館にもっている衣のうちで、いちばんに美しく大きいので、ご自分でもいちばん好きだと思っておいでのを取り出して、垂れ髪もみごとなアテネの(神像の)お膝の上におかけなさいませ。またそのうえに、御神へと、十二匹の仔牛を、それも一歳子で、まだ笞《しもと》にも触れたことのないのを、社殿の中で、犠牲《いけにえ》にたてまつろうとお誓いなさいませ。もしも女神がこの町と、トロイア人《びと》の家の妻や、いとけない子供を憐れと思ってくださるなら、何とぞ聖《とうと》いイリオスから、テュデウスの子を遠ざけてくださいますよう、あの荒くれ男の槍の使い手、潰走を引き起こさせる剛勇の武士を、と。
ともかくあなたはこれから、獲物をもたらすアテネのお社へおいでなさいませ、私はパリスを探しにいって来ましょう。彼を呼び出して私のいうことを聞くつもりがあるか、尋ねたいのです。まったく彼を、このまま大地が裂けて、呑みこんでくれるといいのに。オリュンポスにおいでの(ゼウス)神は、トロイアの人々や、気性のひろいプリアモスや、その子たちにとり、大層な禍いのもととしてパリスをお育てなさったものです。もしあれが、|冥王の府《めいど》へ行くのを見られたならば、きっと私も、胸にあるわびしい嘆きもすっかり忘れてしまったような気がしましょうに」
こういったが、ヘカベは、屋敷の中へ歩みを運んで、腰元たちにいいつけると、彼らはすぐに町じゅうから、年功を積んだ女たちを寄せ集めてきた。いっぽう女王は自身で、うつろになった納戸《なんど》へとはいっていったが、そこには、いろいろな、あらゆる巧みをつくしてこしらえた布や衣がしまってあった。シドンの町の女たちの造ったもので、神とも見まごうアレクサンドロス〔パリス〕が、広い海原の上を航海して、自分でシドンから持ってきたものだった。それはまさしく、立派な父をもつヘレネを連れてやって来た船旅のおりのことである。その衣の中から一枚を取りあげて、ヘカベは、アテネ女神への献げ物にと持っていった。それは、中でもいちばんに、こらした技《わざ》の美しさでも、大きさでもすぐれていて、星のように輝きわたり、いちばん奥にしまってあったものであった。彼女がいよいよ出かけてゆくと、大勢の老女たちも、あとを追って急いでいった。
さて、この一行が塁《とりで》の丘の高みにあるアテネの御社に着いたとき、頬の美しいテアノが、彼らのために扉をあけた、キッセスの娘で、馬を馴らすアンテノルの妻だが、彼女をトロイアの人々は、アテネの女祭司にしておいたのである。それから女たちは、いっせいに叫喚の声をあげて、アテネへと両手をあげて祈願をすれば、頬の美しいテアノは(巫女《みこ》として)衣を取りあげ、垂れ髪もみごとなアテネ女神のお膝の上に置きまつって、祈祷とともに、ゼウス大神の御娘にこう願うのだった。
「アテネ女神さま、女神のうちにもあらたかに、城市《まち》をお護りくだされるあなたさまが、何とぞディオメデスの槍をへし折ってくださいまし。また彼自身も、スカイアの門のすぐ前で、うつ向けに倒れて死なせておやりください。そうしましたらいますぐにも、十二匹の牛をお社内で、一年仔の、まだ笞《しもと》にもふれたことのないのを、犠牲《いけにえ》にさしあげましょう、もし貴神《あなた》さまが、この都や、トロイア人《びと》らの家の妻や、いとけない子供をお憐れみくださいますなら」
こう祈っていったが、パラス・アテネは、そっぽを向いておいでだった。さて、このように老女たちが、ゼウス大神の御娘に祈願をこめているあいだに、ヘクトルのほうは、アレクサンドロスの立派な屋敷へと出かけていった。それは彼が自身で、そのころ土塊《つちくれ》の沃《ゆた》かなトロイアでも、大工として腕をいちばん認められていた人々と、いっしょに造りあげたものだった。彼らはアレクサンドロスのため、奥殿や屋敷や広敷などを塁《とりで》の丘へ、プリアモスやヘクトルの住居の近所に造ってくれた。そこへいまゼウスの愛《いと》しむヘクトルははいっていったが、手には、十一尺の長槍を持っていた。槍の前方には、青銅の穂先がきらきら輝き、槍の首には、黄金の箍《たが》がまわっていた。それでパリスが奥殿にいるのに出会った。ちょうど、とりわけて立派な甲冑や大楯や胸甲やの手入れをしているところ、あるいはまがった弓を磨いていた。それでアルゴス生まれのヘレネは、いつもどおりに、腰元たちの間に坐って、召使たちに、世間にもひろく知られた、手芸の仕事をいいつけていた。それでパリスを見つけると、ヘクトルは侮辱的な言葉つきで、とがめていうよう、
「何ということをおまえはするのだ、そのように恨みを心中に含んでいるのは、よろしくないぞ。町の人々は、この城市《まち》や、けわしい塁壁の周囲に戦さをつづけて、どんどん殪《たお》れていっているのだ。それもみなおまえのせいではないか、戦さの叫びや戦いが町をとり囲んで、燃えさかっているのも。おまえだってひとに腹を立てよう、もしも誰かが、忌わしい戦さをやめて、怠けているのを見つけたならば。だからさあ、起《た》ち上がりなさい、すぐにも町が、燃えさかる火に熱せられたら大変だから」
それに向かって今度は、神とも見まがうアレクサンドロスがいうよう、
「ヘクトルよ、あなたの非難はもっともなことで、不当とはいえない。それゆえわけを話そうから、よく気をつけて私の言い分を聞いてくれ。けして私のほうで、トロイアの人々のことを、そんなにひどく怒ったり恨んだりして、奥の間に引きこもったわけではない、むしろ胸のつらさを噛みしめようというつもりだった。だが、いまは、家内が私を、やわらかな言葉でもってなだめ説きつけ、戦さへ向かわせたところなのだ。私自身にしたところで、そうしたほうがよかろうという気がする。勝利というものは、そのときどきで、人から人へ移っていくものだから。それゆえ、も少し待っててください。戦さへの甲冑を着こむから。それとも、先にいきますか、そしたら私はあとから追っかけましょう。追いつけるつもりです」
こういったが、きらめく兜のヘクトルは、それに向かって何もいわなかった。いっぽう、ヘレネは、彼に向かって情のこもったやさしい言葉で話しかけるようには、
「義兄《にい》さま、こう申し上げる私は、恥しらずの牝犬みたいな、禍いをもたらす、恐ろしい女ですのに。ほんとに私をはじめてお母さまがお産みになった、その日のうちに、吹く風のわるいあおりが、すぐさま私を、山あいか、轟々と鳴りとどろく海の波間になり、さらっていったらよかったのに。そうしたら、こうした始末にならないうちに、波が私を押し流したことでしょうから。それともまた、神様がたが、こんなふうにこの禍いがなるものとおきめの上は、それなら私も、もっと立派な武士の妻になりたいものでございました。世間の人の憤りも辱しめもよくわきまえているような武士の。
ところが、うちのひとときたら、いまだってしっかりした心構えもなく、この先だとて、なさそうです。それゆえ、当然その報いを受けようかと思っております。ともかくも、さあ、いまはまずおはいりください、それでこの台座にお掛けなさいませ、お義兄《にい》さま、ほんとにひどい難儀に、お胸を悩ませておいでなのですから、この犬みたいな私のため、またアレクサンドロスのした間違いのために。その私たちには、ゼウスさまが非運をお授けなさったので、後の世の人々にさえ悪名をうたいつがれてまいりましょう」
それに向かって、今度は、きらめく兜のヘクトルが答えていうよう、
「私を坐らせようとしなさるな、ヘレネよ、まあ愛想にもせよ。そうしてはいられないのだ。もうさっきから、私の心は、トロイアの人々を、防ぎ護って(戦おうと)せき立てているのだから。みな私が立ち去ったので、早く戻るよう、たいそう待ちこがれているのです。ともかくあなたは、この男を起ち上がらせてな、自分でも早くするがいい。私がまだこの町の中にいるうちに、追いつけるように。それというのも、私はこれから、家臣たちや、いとしい妻や、まだいとけない息子に会いに、家に帰るつもりなのだ。このさきとて、二度とふたたび、彼らのところへ戻って来られるか、それともじきに、神々が私を、アカイア軍の手にかけて、討たせようかも、わからないことだから」
このように語り終わると、きらめく兜のヘクトルはそこを立ち去り、それからすぐに、構えも立派な自分の屋敷に到着した。しかしその部屋部屋に、白い腕のアンドロマケは見つからなかった。彼女のほうでも、嘆き泣き、涙をこぼしながら、子供と美しい衣を着た腰元をつれ、物見の櫓《やぐら》に立ちつくしていた。ヘクトルも、気高い妻が家の内に見えないもので、出かけようとして閾《しきい》の上に立ち止まり、腰元たちに向かっていうよう、
「おい、さあ召使たち、たしかなところを話してくれ、どちらのほうへ、白い腕のアンドロマケは屋敷を出かけていったのか。あるいは、どこか私の姉妹のところか、それとも美しい衣を着た、弟嫁たちの一人を訪ねていったか、またはアテネさまの御社へでも出かけたか、ちょうどそこでは、垂れ髪も美しい他のトロイアの婦人たちが、かしこい女神の御心をやわらげようと、お祈りしてるところだから」
それに向かって、今度は、忠実な家事取締りの老女がいうには、
「ヘクトルさま、ほんとうのことを話せ、ときつくおっしゃるからには(申しましょうが)、格別にどこかお妹さんがたとか、美しい衣を着た弟御たちのお嫁さまとかの住居へいらしたのではありません。ちょうどそこでは、垂れ髪も美しい他のトロイアの婦人たちが、恐ろしい女神の御心をやわらげようとしているところではありますが。奥方さまは、イリオスの大きな城壁にお出かけでしたので。それというのも、トロイア勢が苦戦におちいっているのに対し、アカイア方はたいそう優勢と聞こえたもので、それこそまあ大急ぎで、城壁へ向けお出かけでした、ええまあまるで気でも狂ったようなご様子で。乳母《ばあや》がお子さまを抱いて、お供いたしてまいりましたが」
こう取締りの女がいうと、ヘクトルは急いで家を駆けて出て、もときた道をもう一度、よく築かれた大通りをわたっていった。そして、大きな都を突っ切って、スカイアの門へと着き、その門をいまくぐりぬけて、下の野原へまさに出ようとするところで、自分の妻の、贈り物をいつもたくさんひとにやるアンドロマケ、気性の大きいエエティオンの娘御が、向うから、彼に向かって馳《はし》って来た。エエティオンとは、以前にはしげった森におおわれたプラコス山のふもとにある、プラコスの下《もと》のテーベに住まいして、キリキアの人々を統治していた領主である。その娘として、彼女は、青銅の甲冑を着けたヘクトルに嫁《とつ》いできた。そのアンドロマケが、このおり、彼に出会ったが、腰元がひとりつき添って、ふところには、まだききわけもない、ほんのがんぜもない嬰児《みどりご》を抱いていた。ヘクトルのいとしい愛児《まなご》、きよらかな天の星にもたぐえられる、その幼児を、ヘクトルはスカマンドリオスと名づけていたが、他の人たちは、アステュアナクス〔「都の君主」というほどの名。ヘクトルの子であるから美称を与えたもの〕と呼びならわした。それはヘクトルが、ただ一人で、イリオスを護りささえていたからだった。
さてこのおりに、ヘクトルは無言のまま、じっと子供に見入って、ほほえみかけると、アンドロマケはそのそばに寄り添って、涙をながしながら、ひしと夫の手に取りすがって、名前を呼んでいうようには、
「まあなんていうかたでしょう、そのお勇ましさが、破滅のもとになるのですわ。それにちっともまだがんぜない嬰児だの、ふしあわせな私のことはかわいそうともお思いなさいませんのね、もうすぐあなたをとられて、寡婦《やもめ》になるでしょうに。だってすぐにも、アカイア軍はいっせいに攻めかかってきて、あなたを殺してしまうでしょうから。あなたを亡くしてしまうくらいなら、私としては地の下へでもはいったほうが得でございましょう。このさき何の慰めとても、他にはあろうはずがありません、あなたが最期をお遂げになったら、悲嘆ばかりで。それに私は、父さまも母さまも、ございませぬ。
ほんに、私どもの父さまは、あの勇ましいアキレウスに討たれました、キリキア人《びと》の、構えもよろしい城市《まち》の、あの高い城門をもつテーベを攻めおとしたおりに。でもあの人は、エエティオンを殺しはしても、物の具までははぎ取りませんでした、それは心にはばかりましたもので。それで巧みをつくした物の具ぐるみに、おん亡骸《なきがら》を焼きおえてから、しるしの墳《つか》を築いてくれました。そのまわりにぐるっと楡《にれ》の木を、山に棲むニンフたち、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスさまの御娘たちが、植えてくれたのでした。また父上の屋敷うちには、もと七人の兄や弟がおりましたのに、それがみな一人のこらず、一日のうちに、冥王《よみ》の館のうちへやられてしまったのです。というのもみんな、足をくねらす牛たちや、まっ白な毛の羊のそばにいたのを、足が速く勇ましいアキレウスが、殺してしまったものですから。
また母さまは、しげった森に蔽われたプラコス山の下で、所領を治めておいででした。というのは、アキレウスが、数知れぬほどの身の代と引き換えに、返してくれたものですから。一度はこちらへ、他のいろんな財宝《たから》といっしょに連れられては来ましたが、父さまのお館においでのところを、また矢を降り注ぐアルテミスさまがお撃ち取りになりました。それゆえ、いまでは、ヘクトルさま、あなたが私の、父さまにも母上さまにも、また兄弟にもなるわけ、それに第一、たのみに思う良人《おっと》でおいでになるのですわ。それゆえどうか憐れと思って、このままいまはこのところに、塁《とりで》におとどまりくださいませ、どうか子供を孤児《みなしご》に、妻をやもめになさいませんよう。兵士たちを、あの野いちじくの樹のそばに、お置きなさいませ、あそこがいちばん城へあがってくるのに楽で、城壁へも攻めかかりやすいところですから。ほんとに、もう三度も、あそこへ敵はやって来て、二人のアイアスをとり巻く勇士たちや、たいそう有名なイドメネウスや、アトレウス家の王たちや、テュデウスの勇ましい息子(ディオメデス)などの仲間が大勢して、攻め入ろうと試みたのです。ひょっとしたら誰か、神占いをよく心得た者が、皆に教えてやったのか、それとももしや、あの人たちが、自分自身の思いつきに、うながされたり、いいつけられたりしたのかもしれません」
それに向かって、今度は、きらめく兜の大ヘクトルがいうよう、
「いかにも、私にしても、そうしたことは、万事十分心にかけているのだよ、おまえ。それにしても、私がとても恥じまたおそれているように、もしも私が、戦さを離れて、わざと逃げかくれでもしているように見えては大変だ。私の心がそれは許さない。もう昔から教わっているのだからな、いつも勇敢に振舞い、トロイア勢の先頭に立って戦うよう、また父上や私自身のために、すぐれた誉れを得てくるようにと。もとより私だって十分によく心得ている、頭だけでなく腹の底からもな。いつかはその日が来よう、この聖《とうと》いイリオスもプリアモスも、そのプリアモスの、トネリコの槍もよろしい兵士たちも、滅び去ろうという日が。
だが、そのトロイアの人々の後々での苦しみとても、それほどには気がかりにはならない、また母上ヘカベの悲嘆や父プリアモス王や、兄弟たちの苦難だって――それは大勢いるし、みな役に立つ者どもだが、やがては敵武者《かたきむしゃ》の手にかかって、塵泥《ちりひじ》の中に倒れ伏そう――だが、それとても、おまえの受ける苦しみほどには、気がかりではない。誰かしらん青銅の惟子《よろい》を着たアカイアの武士が、涙にくれているおまえをむりやり、自由な日々を奪いとり、(奴隷として)連れていこうに。それであるいはアルゴスに住んで他の女の言いつけで、機《はた》を織りもしようか、またおそらくは、メッセイスかヒュペレイエの泉〔前者はラコニアのテラプネに、後者はテッサリアにあるという〕から水を汲みもしようか、ひどい侮辱を身に受けながら、きびしい運命に強制されて。
それにまたいつかは、こういう人もあることだろう、おまえがしきりに涙をこぼしているのを見てな、『あれがもとのヘクトルの妻だぞ、むかしイリオスを囲んで戦さがあったときに馬を馴らすトロイア勢の中でも勇士と聞こえ、手柄をいつもたてた男のだ』こういつかはいう人があり、おまえにいまさらなつらい思いをさせることだろう、隷従の日をふせいでくれる、それほど立派な夫をなくしたというので。だがどうか、その時分にはもう、私は死んでしまっていて、盛り上げた墓土の下にかくれていたいものだ、おまえの叫び声を聞き、おまえが引きずられていくと知る以前に」
こういうと、誉れかがやくヘクトルは、自分の子供に向かって手をさし出したが、子供はかえって、いとしい父親の装いに胆をつぶし、青銅の物の具や、馬の毛を飾った前立てが、兜のいちばんとっ先から、恐ろしげに垂れて揺れるのにおびえてしまって、きちんと帯をした乳母のふところへと、叫び声をたてながら、身を反り返らせた。そこで愛しい父親も、母である奥方も笑い出してしまい、すぐさま頭から、誉れかがやくヘクトルは兜を脱いで、それを地の上に置いたが、とてもまぶしく輝くのをそのままに、彼は自分の愛《いと》し児《ご》にくちづけして、両手にゆすぶりあげ、それからゼウス大神や、そのほかの神々に祈願をこめていうようには、
「ゼウス神や、またその他の神さまがた、どうかここにいるこの私の児にも、私とまったく同じように、トロイアの人々の間に名をあらわし、また同様に武勇もすぐれて、イリオスを力づよく統治してゆけますように、また彼が戦いから帰ってくるのを見て、誰も彼もいいますように、『まったく、この男は親父よりは、ずっと立派な武士だな』と。それで敵の武士を射ち取って、血にまみれた獲物を持ち帰って、母親の心を喜ばせますように」
こういうと、いとしい妻の手の中に、自分の子供を置いてやった。彼女はそれを、薫香のかおりもゆかしいふところに受け、涙ぐみながら笑ってみせた。夫はそれを目にとめて哀れに思い、手をもってなでさすり、名を呼びあげていうようには、
「困った人だな、どうかあまり胸を痛めて嘆くのはやめにしてくれ。だってまだ誰も、私を定まった寿命にはずれて、冥途へ送ろうというのではない。それに死の運命《さだめ》というものは、どんな者でも、人間である以上は、免れることは許されないのだ。臆病者でも勇者でも、いったん初めにこうときまったからには。だからさあ、家に帰って、機《はた》を織るなり、糸巻竿を繰るなりして、おまえ自身が引き受けている仕事をやりなさい。戦さのことは、男たちが、みんなしてやろう、第一番には、この私が引き受けてるのだ、イリオスに生まれた者どもがな」
こう声をあげいい終えると、誉れかがやくヘクトルは、馬毛の飾りをつけた兜を取りあげれば、いとしい妻も、館《やかた》のほうへと歩いていった、いくどもうしろを振り向き振り向き、大粒な涙をこぼしながらも。それから間もなくアンドロマケは、武士をたおすヘクトルの、立派な構えの屋敷に着くと、中へはいって、大勢の腰元たちの出迎えを受けた、その腰元たちの一人として、彼女に会って、哀悼の叫びをあげないものはなかった。つまりこの女たちは、ヘクトルがまだ生きてるうちから、自分の家でくやみをしたというわけだった。というのも、誰もはやヘクトルが、戦いからまたアカイア勢の武勇と腕とを免れおおせて、戻ってこようなどとは、思いもかけなかったからである。
一方、パリスとしても、棟木《むなぎ》の高い館の中にぐずぐずしてはいないで、青銅を精巧にあしらって造りあげた世に名高い甲冑を身に着け終えると、それから町じゅうを横切って、すばしこい足をたのしみにして、走っていった。それはさながら、厩《うまや》につながれていた駿馬が、飼葉桶の麦に食い飽きてから、つながれている紐を振り切って、平原の上を戛々《かつかつ》とひづめを鳴らしてかけっていくよう――意気揚々として首を高く持ち上げ、右左に、たてがみは両方の肩の上に勢いよく流れてはしるのに、馬は自分の輝かしさを心にたのんで、颯爽《さっそう》と行き馴れた野や牧場へと脚を運んでいくようであった。
そのように、プリアモスの子パリスは、ペルガモスの砦の上から、さながら輝きわたる太陽のように、物の具に総身を輝きわたらせながら、下りていった。大声あげて笑いつつ速い足にまかせて進むほどもなく、兄の勇ましいヘクトルに行きあった。今しも彼は、自分の妻と、いとこまやかに語りあった、その場所から引き返そうとするところであった。
そこで彼に向かって、まず先がけて、神とも見まがうアレクサンドロス(パリス)が話しかけるよう、
「兄上、きっとずいぶん急いでおいでのところを、私がぐずぐずしていてお引き止めしたことでしょう、いいつけられたとおりに、ちゃんと来ませんでして」
それに向かって、きらめく兜《かぶと》のヘクトルが答えていうよう、
「おかしなことをおまえはいうな。誰にせよ、ちゃんとした武士ならば、戦さのおりに、おまえの働きを馬鹿にしようとはしないだろう、おまえは武勇のつわものだから。ただ自分の心から、おまえは戦さに加わろうと欲せずに、怠けている。それで私は胸につらい思いをせざるを得ないのだ、おまえについて、トロイアの人々から、いろいろ侮辱的な言葉を聞くものでな。彼らはみな、おまえのおかげで、たいそう苦労をしているのだから。まあともかくもさあ、出かけよう。そうしたことは、いずれ後で何とかつぐなうこともできよう。天上に、常磐《とこわ》においでの神さまがたへと、トロイアの郷《さと》から、脛当てをよろしく着けたアカイア勢を追い払ったうえで、自由を祝う酒|和《あ》え瓶《がめ》を屋敷の中にすえることを、もしもゼウスがいつか私たちにお許しくださるならば」
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ヘクトルとアイアスの決闘、死屍取り片づけの段
【再び戦場へ出たヘクトルは、ギリシア勢に決闘を申し入れ、くじ引きの結果アキレウスにつぐ勇士とされる大アイアスと闘う。たがいに力闘するうち、和議の手段としてトロイア方はパリスに勧めヘレネを戻そうとするが、パリスは聞かず、ただ代償の財宝を増すだけでギリシア方に講和を願うが承知されない。そのうち夜となり戦いは中止、しばらく休んで死者を片づけ埋葬する。この間にアカイア勢は形勢不利と見て(ここに矛盾がある)船陣の周囲に濠を掘り囲壁を設ける】
こういって誉れ輝くヘクトルが、門を駆けて出ると、それといっしょに、弟のアレクサンドロス(パリス)も赴いた。両人とも、心のうちで、打って出て戦さをしようと気負いたっていた。海を渡ってゆく際に、水夫たちが櫂《かい》をつかうのに骨が折れ、疲れのために、手足もぐったりしきったのへ、神さまが待望の風を遣られることがある。そのように、この二人は、トロイア勢が待ち望んでいるところに出て来た。
そのとき二人が討ち取ったうちの一人はアレイトオスの殿の息子で、アルネに屋敷をかまえていたメネスティオスで、棍棒を使うアレイトオスと、牝牛の眼をしたピュロメドゥサがもうけた息子だった。もう一方ではヘクトルが、エイオネウスを、鋭さをもつ槍で、頸《くび》の兜のへりの下を突くと、手足がぐったりと萎《な》えくずれた。また、ヒッポロコスの息子でリュキア勢の大将グラウコスは、イピノオスを長槍で、はげしい競り合いの間に突いた。このデクシオスの息子が、すばやい馬に飛び乗ったところを肩を突いてである。それで彼は馬車から地面へ落ちると、手足がぐったりと萎えた。
さてこの両人がアルゴス勢を、はげしい競り合いのうちに、どんどん殪《たお》してゆくのを、きらめく眼の女神アテネがお認めになると、オリュンポスの峰々から、飛び立ってすぐに聖《とうと》いイリオスへ出向いていかれた。それをまたトロイア軍の勝利をはかっておいでだった、アポロン神が、ペルガモスからごらんになって立ち向かわれた。そして二神はたがいに槲《かしわ》の樹のかたわらで出会ったのである。まず女神に先手をうって、ゼウスの息子のアポロン神が言葉をかけるよう、
「なぜまたあなたは気負いこんで、ゼウス大神の御娘とあるものが、オリュンポスを下りて来たのです。強い望みに駆りたてられたのですか。それこそきっと、ダナオイ勢のために、戦況を立てなおして、逆に勝利を授けてやるおつもりなのでしょうね、トロイア方の死ぬのは、てんで憐れとも思わないで。それよりもまあ私の話を聞いてください。そのほうがずっと得策でしょう。さしあたっては戦さも斬り合いもみなやめにさせましょう、今日のところは。後で十分戦えましょうからね、イリオスの最後を見届けるまでには。この都をすっかり攻め滅ばすのが、あなたがた不死である女神たちの、心からのお望みとあるからには」
それに向かって今度はきらめく眼の女神アテネがいうようには、
「そういたしましょう、遠矢の御神さま、そう私自身も考えて、オリュンポスを下り、トロイア軍やアカイア勢の間へ来たところなのです。ところで、さあ、武士たちの戦さを、どうしてやめさせるおつもりですか」
それに答えて今度は、ゼウスの息子のアポロン神がいわれるよう、
「あの勇ましいヘクトルを立たせましょう、馬の馴らし手の、武勇の男を。まずダナオイ勢のうちから誰か、一人と一人での刃を交《ま》じえ、恐ろしい敵対において闘うよう、一騎打ちへ呼び出させましょう。そうすれば彼らは度胆を抜かれて、青銅の脛当てをつけたアカイア勢が、誰か一人をおし立て、勇ましいヘクトルと戦わせることにするでしょう」
こういうと、きらめく眼の女神アテネも異議なく承知した。この神々のはかりごとを、プリアモスの愛する息子のヘレノスが、胸にさとり知った。その相談をしておいでの二人の神が、よかろうとおっしゃったはかりごとである。そしてヘクトルのそばへ行って立ち、彼に言葉をかけていうようには、
「ヘクトルよ、プリアモスの息子の、あなたはゼウスにもひとしい知恵をお持ちだけれども、まあ、いまは私のいうようになさい、弟ですから。他のトロイアの軍勢や、アカイア軍はみな残らず坐らせておき、そしてあなた自身は、アカイア勢じゅうでいちばんの勇士と、恐ろしい敵対において、力をつがえて戦いあうよう、呼び出させてはいかがでしょう。けして、あなたの運勢では、まだ、最期を遂げはしないはずです。≪そのように私は、永遠においでの神々から聞いたのですから≫」
こういうと、ヘクトルのほうでも、その言葉を聞いて大変喜び、まんなかへ進み出ると、槍の中ほどをひっつかんで、トロイア方の堅陣をおさえ止めた。そこでみな一人残らず腰をおろした。一方ではアガメムノンが、脛当てをよろしく着けたアカイア勢を坐らせると、アテネと、銀弓の御神アポロンも、禿鷹という鳥の姿をかりて、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスおん父神の(聖木である)高くそびえる槲の樹の梢にくだり、兵士たちに興味を抱いて、座を占められた。その陣列が、びっしりとつまって坐りこむと、丸い楯や、たくさんの兜、またはむらがる槍などが、突き出て波をうつありさまは、さながら、いましがた吹きつのってきた西風のために、海面一帯に、さざれ波が流れてわたると、その下に、海が黒ずんで見える、それとまったく同じに、アカイア勢とトロイア勢との隊列が、黒々と野原に座りこんだ。そこでヘクトルが両軍のあいだに出ていうよう、
「私の言葉を聞いてくれ、トロイア人も、脛当てをよろしく着けたアカイア勢も、胸のうちで心が私にすすめることを、これからいおうと思うから。先の誓いを、高空《たかぞら》においてなされるクロノスの御子ゼウスが遂げさせてくださらないで、両軍にたいして悪意を含んだたくらみを、企んでおいでなのだ。あるいはあなたがたが、立派な櫓《やぐら》をたくさん持つトロイアの城をおとしいれるか、あるいは逆に、海原を渡る船のかたわらで、あなたがた自身のほうが潰滅するまで。だが、あなたがたの間には、アカイアの全土から来た勇士らのうちに、いまこのところで、私と闘いあおうと、武勇に駆られて考える者もいよう。そういう武士は、ここへ出てくれ、勇敢なヘクトルの敵手《あいて》として。
それで、こう私は宣言する、ゼウスが私たちのため、その証人となってくださるよう、もし私をその男が、細長い青銅の刃の槍でもって殪《たお》したときは、物の具ははぎ取って、中のうつろな船に持ち帰るがよい。だが、私の屍は、家に返してやってもらいたい、そうしたら、死んだ私(の体)を、トロイアの男たちや、その妻たちが寄り集まり、火葬にしてくれようから。もしまた私がその男を殪したとき、アポロン神が、誉れを私に授けられるときは、物の具をはいで、聖いイリオスへと、持ち帰って、遠矢の御神アポロンの社殿のかべにかけるとしよう。だが、その骸《むくろ》は、しっかりと漕ぎ座をつけた船の陣へ返してやろう。その者を、頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア勢が、薬に浸けて、広いヘレスポントスの海岸に、墳《つか》を築いてやれるように。
そして、いつかは、後の世に生まれた人間たちの誰かしらんが、こういうだろう、橈架《かいかけ》をたくさんつけた船に乗って、ぶどう酒色の海原を渡ってゆくとき、『あれこそ、大昔ここで最期を遂げた武士の墳《つか》だということだ、その昔に、はなばなしく打って出たのを、誉れも高いヘクトルが殺した男のだ』こういつかいう人もあろう、そうしたら、私の誉れが滅びさることはなかろう」
こういうと、みな一様に鳴りをしずめて、ひっそりとなった、拒絶するのは恥と思いながらも、引き受けるのもまたこわかったので。やっと、だいぶたってから、メネラオスが立ち上がって、一同を非難しながら、小言をいった、もっとも心中では溜息をついていたが、
「やれやれ、あなたがたは、大きなことをいっときながら、もうアカイアの男ではなく、女になったのか。まったくこれは末さきざきまで、ひどいがうえにもひどい恥辱になることだろうな、もし誰かが、ダナオイ勢の中から、ヘクトルの相手をしに出てゆかないなら。いっそこのまま、皆がそっくり坐ったまま、めいめいがそのところで、気力もなく誉れもうしなって、水と土とになったらよかろうに。それならば、彼に向かって、私自身が鎧《よろい》を着けて出て行くとしよう。ともかくも、勝負の綱は、上から、永遠においでの神々の手によって、あやつられているのだから」
こう彼はいい放って、みごとな物の具を身に着こんだ。このおり、もしアカイア軍の大将たちが、立ち上がっておさえなかったなら、あるいはきみに、メネラオスよ、一生の終りが、ヘクトルの手によってもたらされたかも知れない、おまえよりずっと勇敢なつわものだから。アトレウスの子で、広大な国を治めるアガメムノン自身もまた、右手を取って、名を呼びあげ、言葉をかけていうよう、
「正気をなくしたのか、ゼウスの擁護を受けるメネラオスよ、だがたとえ気にくわなくても我慢をして、けしてこんな正気の沙汰とは思われないことをしてはならぬ。負けん気から、おまえよりすぐれた武士と闘おうなどと思ってはならない、プリアモスの子ヘクトルと。それは他の者でも尻ごみするのに。アキレウスだって、おまえよりずっと武勇のすぐれた者だが、この男とは、武士に誉れを与える戦さの際に、決闘をすることには、おじけをふるったものだ。たとえ彼が恐怖を知らず、またあくまでも決戦を望むといっても、かならずや喜んで膝をまげたにちがいあるまい――もしはげしい合戦をせずに、恐ろしい一騎打ちから逃れることができたならばだ。ともかくも、手下の部隊の間に行って坐っていたまえ。この男にたいしては、他の相手をアカイア軍が立てるだろうから」
こういって、王は、弟の心をうまく説きつけてしまった。節度にかなった説得に、メネラオスもやっと服従すると、彼の家来の者たちは、大喜びで物の具を彼の肩から脱がしていった。一方ネストルは、立ち上がって、アルゴス勢に向かっていうよう、
「やれやれ、何という大きな心配が、アカイアの国に襲いかかってきたことか。まったく、あの老人の、馬を駆る武士ペレウスも大変嘆くだろう。あの立派な、ミュルミドン勢の相談役、また弁舌家(として有名)だった男は、以前私にたずねたときは、たいそう喜んだが、――自分の屋敷で、アルゴス人(の大将)たちの家系や素姓をみな問いただしたおりだ。そういう者らが、いまはみな、ヘクトルの威勢を怖れて首をすくめると聞いたなら、不死である神々に、自分の手をしきりにさし伸べて、この手足から魂が脱け出して、冥王《よみ》の館のうちへ赴くようにと祈ることだろうよ。いやまったく、ゼウスおん父神やアテネやアポロン神たち、私がもう一度若くなれたらうれしいのに。むかし、流れの早いケラドンのほとりで、ピュロスの勢と、槍の上手なアルカディア勢とが、集まって戦いあった時のように、ペイアの塁壁《とりで》のそばで、イアルダノスの川をさしはさんでのことだった。
さて敵軍からは、エレウタリオンが選手に立った、神とも見えよう武士《さむらい》とて、その両肩にアレイトオスの殿の甲《よろい》を着こんでいた、とうといアレイトオスの物の具だぞ、あだ名を、棍棒つかいの武士と、男たちは呼び、きれいな帯を巻いている女らも、呼びならわしていたあの殿御だ。そのわけは、彼が、弓矢をもち、あるいは長い槍を取って戦うのでなく、鉄製の棍棒でもって敵陣をいつも打ち砕いたから。しかしとうとうその殿を、リュコエルゴス〔アルカディアの領主でアレオスの子という。六巻のリュコエルゴスとは別人〕が奸計で殺した。けっして力ずくではなく、ごく狭い切り通しで、そこでは例の鉄の棍棒だって、身の破滅を防いてくれる役には立たないところだった。すなわち機先を制してリュコエルゴスが手槍で体のまんなかを突けば、あおむけに地面へぶっ倒れた。その物の具をはぎ取ったが、それは青銅のアレス神の賜物だった。それから彼はその甲冑をいつも着こんで、戦さの騒ぎへ出かけていった。だがリュコエルゴスが館のうちで、老人になったとき、愛する従者のエレウタリオンに、着料として贈ってやった、その甲冑をいま一着におよんで、わが軍の武勇のつわもの全体に挑戦したのだ。
ところでみなはひどく恐れて、震えるばかり、誰一人として出かけていって、戦おうという者もいなかったのを、血気にはやる私の心が私を駆ってたたかわせたのだ、それは自身の不敵な心持からだったが、年ではまだ皆のうちでいちばん若かった。それで彼と戦う羽目になったのだ、この私がな。それで、アテネが、誉れを授けてくださったから、まったくあのような、衆に超えて丈も高く、力も強い武士《さむらい》を、討ち取ることもできたのだ。まず大変な巨漢で、長さも幅も、それがぴくぴくしながら臥《ふし》ていたものだ。どうか、そのおりのように若返り、体力もしっかりとありたいものだ。そうしたら、すぐにきらめく兜のヘクトルも、決闘の相手を見つけられたろうに。きみたちは、全アカイアの軍隊に、武勇の大将と聞こえていながら、その中に、自分のほうから、ヘクトルに向かって出会おうほどの、意気込みを持つ者は、一人もいないのか」
こう老人はたしなめた。すると皆で九人の者が、他人より先に立ち上がった。まず立ったのは武士たちの王アガメムノンで、それにつづいてテュデウスの子で、豪勇のディオメデスが立てば、追いかけて、ともに勢いはげしい武勇を身に着けた武士である、両アイアスと、そのつぎにまたイドメネウスと、イドメネウスの介添え役がいっしょに立った。すなわちメリオネスという、武士を殲《ころ》す(軍神)エニュアリオスにもひとしい者だった。そのつぎにはエウアイモンの立派な息子である、エウリュピュロスが立ち上がった。またアンドライモンの子トアスに、尊いオデュッセウスも立ち上がって、みないっせいに、勇敢なヘクトルと闘おうと願うのだった。その人々のあいだに立って、またゲレンの騎士ネストルがいうには、
「ではさあ、みな残らず、籤《くじ》を振ったがいい、誰があたるか(きめるように)。その男こそ、脛当てをよろしく着けたアカイアの人々を喜ばせてくれるだろう。そのうえには、彼自身も、もしはげしい戦いや、恐ろしい殺陣を免れて帰れたならば、自分の心を喜ばせもできることだろう」
こういうと、みなてんでに自分の籤へしるしをつけて、それからアトレウスの子アガメムノンの兜の中へそれを投げこんでから、武士たちは、祈りをあげて、神々に向かって両手をさし上げた。それで、こんなふうに、一同は広大な天を仰いでいうのだった。
「ゼウスおん父神、なにとぞ(この籤が)、アイアスか、テュデウスの息子(ディオメデス)か、さもなくば黄金に富むミュケネの領主ご自身にあたりますよう」
こういいあった。そこでゲレンの騎士ネストルが揺すぶり上げると、まさしくみなの望んだとおりの人物の籤が、兜の中から飛び出した。すなわちアイアスのものだった。それを伝令使が八方へ持ってまわって、群集のあいだを、右のほうへと順ぐりに、アカイア勢の大将たち一同に、見せて歩いた。だが、誰もかも、見分けがつけられないで、ただ自分の籤ではない、というだけだったが、群集の中を八方に持ち歩いてから、とうとうその籤のしるしをつけて兜の中へ投げ入れた当の男、ほかならぬ、誉れかがやくアイアスのところへ来ると、アイアスは籤のしるしを見てそれと認め、心にうれしく思った。それで籤を自分の足のそばの地面へほうり出すと、声をあげて、
「友達よ、いかにもこれは私の籤だ、私自身もそれで心にうれしく思うのだ、きっとあの勇敢なヘクトルに勝てようから。それゆえ、さあ、皆も、これから私が戦さの物の具を身に着けるあいだに、あなたがたも、クロノスの御子の、ゼウス神に祈ってくれ。≪トロイアの者どもには覚られないよう、こっそりと、あなたがたのためにだ、それともはっきり大っぴらにやるか、われわれはいっこうに誰も恐れはしてないのだから。どんな者でも、たとえ(戦さのわざを)心得た者にしても、無理矢理に私を、心にもなく、先から進んで、追っ払うことはできまいぞ。私だって、けっしてそんな心得のない者として、サラミスで生まれ、また成人したつもりではないのだから≫」
こういうと、人々はみなクロノスの御子のゼウス神に祈りをささげた、それで誰もかも、このように、広大な天を仰いでいいあうのだった、
「ゼウスおん父神、イダの山からしろしめされる、至高至大の御神さま、願わくはアイアスに勝利を与えて、輝かしい誉れを、お授けください。もしまた御神が、ヘクトルをとくべつにお慈《いつくし》みになり、そのうえをお気遣いなら、せめては双方に、同等な武勇と誉れとを、お授けくださいませ」
こうみないうのだった。その間にもアイアスは、きらめく青銅(の物の具)を身に鎧《よろ》った。それからいよいよ、すっかり体に甲冑を着こんでしまうと、雲を突くほど巨大な軍神アレスが歩みを進める様子にもそっくりに、駆って出た。アレス神が、兵士たちを引き具して、戦闘へと出かけるとき、クロノスの御子が、生命《いのち》を滅ぼす争いへと、みなをはげしく闘いあわせる、その際のアレス神の姿にも似て、アカイア勢の護りの墻《かき》といわれるアイアスは、雲を突くばかりに突っ立ち上がると、恐ろしい面貌に笑みを浮かべて、長い影をひく大槍を、手にふるいながら、下のほうは大股に、足を運んでいった。
その姿をながめると、アルゴス勢は、いかにも喜んではしゃぐ一方、トロイア方は、誰もかも恐ろしい身ぶるいに、膝もとを襲われた。ヘクトルその人さえも、胸のうちでは、いささかどきどき感じたものの、自分のほうから、試合をいどみかけたものであるから、もうはやとうてい、こわいといって退くことも、兵士たちの群れている中へ逃げこむこともできなかった。
さてアイアスは、はやくも間近に、塔ほどもある大楯を手に、運んでいった。青銅で固めた七枚皮のその楯は、テュキオスが、巧みをつくしてこしらえたものだった。ヒュレに住まいして、楯作りとしては並びない上手といわれたその男が、彼のために、きらきら輝く、七枚の牛皮を重ねた楯を作ってくれたのだ。よく肥って丈夫な牛皮、その上に青銅を打って被せた、その楯を胸もとに抱えて持ち、テラモンの子のアイアスは、ヘクトルのすぐと身近に寄せて来るなり、押っかぶせていうようには、
「ヘクトルよ、一騎打ちをして、いまこそおまえもはっきりと悟ることだろう、ダナオイ勢の軍中にも、武士を殲《ころ》し、獅子の胆《きも》を持つという、あのアキレウスの他にも、まだどれほど武男の大将がひかえているかを。もっとも彼は、海を渡る舳《へさき》の曲った船々のあいだに引きこもって、兵士たちの統率者であるアガメムノンに恨みを抱き、臥《ね》てはいるのだが。われわれだって、このくらいなものだ、おまえと出会うのに何の不足があろうか、そういう者が大勢いるのだ。ともかくもさあ、おまえから試合を始めろ」
それに向かって、今度は、丈高く、きらめく兜のヘクトルがこたえていうよう、
「アイアスよ、ゼウスの裔《すえ》の、テラモンの子であるおまえが、兵士たちの頭領として、つまらない小童《こわっぱ》か、女をでも試すみたいに、戦さの仕事にまるで経験のない者みたいに、私をあしらってはくれるな。それどころか、私は、戦いにも、人を斬るわざにも、十分心得をもってるのだ。あるいは右に、あるいは左に、よく乾かした牛皮の楯を、使いわける道も十分心得ている。それが楯をもつ武士の戦い方というものだ。また脚の速い馬車のひしめきあう中へ、突進してゆく方法も心得ていれば、白兵戦で、殺伐なアレス神への、戦さの舞いもわきまえている。だが、私の望みというのは、おまえほどの剛の者と(戦おう)なら、こっそりと隙《すき》をうかがって撃ったりするのでなしに、おおっぴらに、あたるかどうか、やってみたいのだ」
こういうなり、振りかざして、長い影をひく槍をほうりつけ、アイアスの恐ろしい楯、牛の皮を七枚張った、そのまた上の青銅の板に打ちあてた。その表に、八枚目として張りつけた金《かね》にである。それで六枚もの、重ねた皮を、すり減らない鋭い穂先は、切り裂いてとおっていったが、七枚目の皮のところでとまってしまった。さて、今度は彼に代って、ゼウスの裔《すえ》であるアイアスが長い影をひく槍をほうりつけて、プリアモスの子(ヘクトル)の、四方によく釣合いのとれた楯に打ちあてると、がっしりとした槍は、きらきら光る楯を、ずっと貫きとおして入り、いろいろと巧みをつくして造った胸甲さえ打ち抜いて、まっしぐらに脇腹のところへ出て来た槍は、肌着をさえ、すっぱりとかっ裂いたが、彼もさる者、身をひるがえして、か黒い死を避けおおせた。
それから二人は、両方ともに、双手《もろて》をかけて、長い手槍を引っこ抜きざまに、相たがいを目がけ、さながらに、生肉《なまみ》を啖《くら》う荒獅子か、それともまた野に伏す猪か、その強力はあなどりがたい、それみたように、襲いかかった。プリアモスの子は、そのときに、敵の楯のまんなかを槍で撃ったが、青銅の皮は切り裂けないで、その鋩《きっさき》がひん曲った。それを見たアイアスが、おどりかかって、楯を突くと、ずっぷりと槍の穂先がはいってゆき、(ヘクトルが)きおいこんで寄せるところを突き上げたので、かっ裂いた勢いで、頸筋へと突っかかると、まっ黒な血が噴き出した。
それでもなお、きらめく兜のヘクトルは、闘いを止めようとせず、一足さがって、がっしりとした手に、石塊をひっつかんだ、地面の上にころがっていた黒い石で、でこぼこした大きなのを。それでアイアスの、牛皮を七枚張った、恐ろしい楯のまんなか、臍《ほぞ》のある上を撃つと、青銅の音があたりに響きわたった。今度は代ってアイアスが、それよりずっと大きな石塊を取り上げて、ぐるぐると振りまわしてからほうりつけた、測り知れない手の力をこめて。それで、臼みたような大石を、楯にぶっつけると、それを内側へ押し破って、ヘクトルの膝を傷つけた。だがその楯に押しつけられて、あおむけざまにのびて倒れたところを、すぐさま、アポロン神が、引き起こしてやられた。
それでまったく、剣を取って、たがいに肉薄しあって、突きかかりもしかねないところだった――もし伝令使たち、すなわちゼウス神の、あるいは人間たちの言いつけを伝える人たちが、来なかったならば。その一人はトロイア方から来たイダイオスで、もう一人は青銅の帷子《よろい》を着けたアカイア側のタルテュビオスとて、二人とも十分に分別を持っている者ども、それが両軍のまっただなかに、笏杖《しゃくじょう》をさし出して、まず、分別のあるはかりごとを、よくわきまえている人間である、伝令のイダイオスが、このようにいった。
「もうおやめなさい、若殿がた、闘いも争いごとも、つづけなさるな。あなたがたを二人とも、群雲《むらぐも》を寄せるゼウス御神は、いとしく思っておいでなのだ、双方ともに並びない勇士であるから。それはもうわれわれもみなよく知っていることだ。それにもうすっかり夜になってしまった。夜の指図に従うのもよろしいでしょう」
こういうと、それに向かってテラモンの子の、アイアスが答えるようには、
「イダイオスよ、ヘクトルに、そのとおりをいえ、とすすめるがいい。向うから、戦闘へと、(われわれアカイア方の)大将全体へ挑戦したのだから、彼から先に申し出させろ。そうしたら、私だってすぐにもこの男のいうところに従おうよ」
それにたいして、今度は、丈高くきらめく兜のヘクトルがいうようには、
「アイアスよ、神様はおまえに、大きな体と膂力《りょりょく》と、またわきまえまでお授けなさった。それに槍にかけても、おまえはアカイア勢の中でも、いちばんの腕前だが、いまのところは、もう戦いも勝負争いもやめるとしよう、今日はだぞ。またあとで、神意によって、われわれの優劣がきまり、一方に勝利が授けられるまで闘うとしよう。もうはやすっかり夜になったし、夜の指図に従うのもよいことだから。
それでおまえも、船陣のそばにいるアカイア軍の同勢をよろこばせることができような。とりわけおまえが連れて来た、手下の者や身内の連中をだ。私のほうは、プリアモス王の、広大な城市《しろまち》にひかえている、トロイアの男たちや、衣を引きずるトロイアの女たちを、よろこばせよう。そしたら彼らは、祈祷をささげて、諸神をいっしょに祭った社に出かけていこう。だが、さあ、贈り物を、相たがいに、立派なものを交わすとしよう、アカイア勢や、トロイア方の皆の衆が、こういってくれるように――いかにもこの両将は、命をむさぼる争いのため闘いあったが、またふたたび、友情により結ばれあって、別れを告げた、と」
こう声をあげていうと、銀の鋲を打ちちりばめた剣を取って、鞘《さや》ぐるみに、裁ちのよい提げ皮といっしょにアイアスに渡すと、アイアスのほうでも、深紅の色の美しい帯皮を渡してやった。二人はこのように別れを告げて、こちらはアカイア方の軍勢の中へ赴けば、あちらのヘクトルは、トロイア勢の群がっている中へはいった。このありさまを見る人々は、彼がまず何のつつがもなく生きながらえて、帰って来たのに大喜びをした。アイアスの勇猛さと、抗すべくもない手並みとを、免れて戻って来たもので。それからすぐ、城市《まち》のほうへ連れていった、思いがけずに助かったのを。またこちら側でも、アイアスを、脛当てをよろしく着けたアカイア勢が、勝利と聞いて大喜びをしている、気高いアガメムノンのところへ、つれていった。
さて一同がいよいよアトレウスの子の陣屋の中へはいったとき、皆のために、武士たちの君主《きみ》であるアガメムノンは、一匹の牛を、それも五歳になる牝牛を、稜威《みいつ》のことに高大なクロノスの子にたてまつると、一同してその皮をはぎ、よくこしらえて、すっかり手足をきりわけてから、手ぎわよく細かに刻んで、それからたくさんな金串に刺しとおし、念入りによくあぶりあげたうえ、残らず火から取りおろした。
さてこのようにして仕事を終わり、馳走の仕度がすっかりすむと、みんなして食事にかかった。それで十分な馳走に、望むところのたりないということはなかった。それでアトレウスの子の殿、広大な国を治めるアガメムノンは、頭から腰までの背の肉を、そっくりとアイアスに、褒美として与えた。このようにして、飲むことにも、啖《くら》うことにも、もはや十分満足したとき、一同のために、まず最初には長老のネストルが、先に立ってはかりごとを織りめぐらした。それはもう、以前から彼の意見が、いちばんいいとされていたので、それがいま、一同のためをはかって、会議の座に立っていうようには、
「アトレウスの子や、その他のアカイアじゅうの軍勢の大将たちよ、頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア勢にも、戦死した者が大勢ある。その連中の黒い血潮を、美しい流れのスカマンドロスの川のほとりに、勢いはげしいアレス神が、そそぎ散らし、その魂魄《たましい》は冥途へと下っていった。それゆえ、あなたは、夜が明けたらば、アカイア軍には戦争を一時やめさせるがよろしい。そしてみんなで寄り集まって、このところへ、死んだ者の屍を車に載せて、牛や騾馬《らば》やにひかせ運んでくることにしよう、それから(屍に)火をかけて焼きつくすといたしましょう、船からちょっと離れたところで。われわれがまた故郷へ帰ってゆくときに、めいめいが、(彼らの)子供のところへ、その骨を持って帰れるようにです。
それで、その火葬場の辺には、誰彼の区別なしに、平原から寄せ集めてきたもので、一つの墳《つか》を築くとしましょう。それに寄せかけて、船々やわれわれ自身の護りとして、さっそくにも、高い築地《ついじ》囲いをこしらえよう。その築地のところどころには、しっかりと丈夫に作りつけた門をこしらえ、そこを通じて、馬や戦車の通る道を開くとしよう。またその外側の、すぐと接したところに、塹壕《ざんごう》を深く掘り上げて、敵軍の馬車や兵士たちを、そのぐるりでもって引きとめさせ、武者振りも勇ましいトロイアの軍勢に、すぐとのしかかられないようにしましょう」
こういうと、そこらにひかえた領主たちも、みなこれに賛成の意を表した。
一方ではイリオスの都のなかの城山で、トロイアの人々が集まりを開き、プリアモスの屋敷の戸口のわきで、おそろしく騒ぎたてていた。それに向かって、知恵分別のひとにすぐれたアンテノルが、まず先に立ち、説いていうよう、
「聞いてください、みなさん、トロイアの連中も、ダルダノイも、援軍として来た同盟国のかたがたも。私の胸のうちのこころが、いえと命じる事柄を、いま述べましょうから。さあこれから、アルゴス生まれのヘレネを、財宝もいっしょに彼女につけて、アトレウスの子たちに、連れていくよう渡すとしましょうよ。いま私らは堅い誓いをいつわりだまして、彼らと戦いをしているのですぞ。それゆえ少しの得も、≪こうしなければ、とうていわれわれが得られようとは期待できないのです≫」
いかにもこう彼がいい終えて腰を下ろすと、つづいて立ち上がったのは、気高いアレクサンドロス、すなわち美しい頭髪を結い上げたヘレネの夫だが、その人がいま彼に答えて、翼をもった言葉をかけ、いうようには、
「アンテノルよ、きみがいま説いたことは、てんで私の気に合わないことだ。それよりは、まだましな文句を思いつくこともできるだろうに。だが、もしきみがまじめでもって、そんなことを述べ立てるなら、そのおりこそは、神々がお手ずからに、きみの分別心を失《な》くさせたものというべきだな。ともかく私は、馬を馴らすトロイアの連中に宣言しておく、頭っから、そんな話はまっぴらごめんだ、けっして妻は返さない、だが財宝というならば、アルゴスから私の屋敷へと持ってきたのは、いっさい合財、みんな渡してやるつもりだ。そのうえに、手もとからも、余計につけたしてやってもよろしい」
いかにも、アレクサンドロスが、こういい終えて腰を下ろすと、今度は皆に向かって、ダルダノスの裔《すえ》であるプリアモス王が、起ち上がった。知恵にかけては、神々にもおさおさひけは取るまいという、それがみなのためをよろしくはかって、会議の座に立ち、いうようには、
「聞いてくれ、私の考えを、トロイアの人々も、ダルダノイも、援軍として来ている同盟のかたがたも。私の胸のうちのこころが、いえと私に命ずることを述べ立てようから。いまのところは、城中の者たちが、以前のとおりに晩餐をすませ、それからは見張りのことを忘れずに、めいめいで寝ずの番をしてくれ。そして夜明けになったらば、イダイオスを、中のうつろな船々へと派遣して、アトレウスの子の、アガメムノンとメネラオスとにいわせるとしよう、アレクサンドロスが、いました発言を。彼がこの戦いの張本人なのだからな。それにまたつぎのような、確実な提議を申し出るのだ、もしや彼らが、いまわしい響きに満ちた戦いを、しばらくの間、死者の屍を焼き終えるまで、やめていてはくれまいか、と。あとでまた、神意によってわれわれの優劣がきまり、片一方に勝利が授けられるまで、戦うとしようから」
こういうと、一同はみなそのいうことに耳を傾け、承知をして、それからトロイア勢の陣営中が、その隊ごとに、みな晩餐をしたためたのだった。
さて、夜が明けると同時に、イダイオスは、なかのうつろな船々のところへ出かけ、ダナオイ方の人々、アレス神の家来といわれる者どもが、アガメムノンの船の舳《へさき》のかたわらで、評議をこらしているのに出会った。そこで皆のまんなかに立って、声の大きな伝令使が、彼らに向かっていうようには、
「アトレウス家の殿や、その他の、アカイアじゅうの軍勢の大将がた、プリアモス王や、その他の誉れも高いトロイアのかたがたから、アレクサンドロスの言葉をお伝えしろと命じられて来たのです。もしやそれがあなたがたの意にもかなって、快くご承知もあろうか、というわけでして。彼が戦さの張本人なのですから。つまり財宝《たから》のほうはパリスが中のうつろな船にトロイアへと載せて積んできました――まったく、その前に、彼が死んでしまえばよかったのですが――それらはすっかり返してあげて、その上にも、家にあるものから余分につけたしてもよい、と申します。でも世に名高い、メネラオスの奥方でした婦人のほうは、返すことはおことわりだと申されるのです。もっとも、トロイアの人々は、(返せと)すすめるのですが。
それからまた、このことも申し出るように、といいつけられましたが、もしやあなたがたは、いまわしい響きにみちた戦闘を、しばらくの間、死んだ者の屍を火葬にしてしまうまで、中止してはくれまいか、その後でまた、神意によって私たちの優劣がきまり、片方が勝利を得るまで、戦さをするとしてはどうか、ということです」
こういうと、人々はみな、ひっそりとして、鳴りをしずめた。だが、しばらくたって、ようやくに、雄叫びも勇ましいディオメデスが皆に向かっていうよう、
「けっしていまさら、アレクサンドロスから、財宝などを受けることはない、ヘレネにしてもだ。たとえどんなに愚かな者でも、よく知っていよう、もうトロイアの人々には、破滅の首吊り縄が、結わえつけられていることを」
こういうと、その場に並みいるアカイア人の息子たちは、馬を馴らすディオメデスのいうことに感心して、いっせいに叫び立てた。それでこのとき、アガメムノン王はイダイオスに向かっていうよう、
「イダイオスよ、おまえは直接にアカイアの人たちがいうところを聞いているのだ、どのように皆がそれを判断するものかを。私も意見は同じだ。しかし死骸を火葬にするのは、いっこうさしつかえがないと思う。最期を遂げた人々の屍には、もう恨みなど、すこしも持たないから。もう死んでしまえば、早々にも火で慰めてやるのがいい。その証人はゼウスにまかそう、ヘレ女神の、はげしくとどろく夫の神に」
こういって、彼は笏杖を、ありとあらゆる神々たちに、捧げてみせた。そこでイダイオスが、聖《とうと》いイリオスへと、また引き返すと、トロイアの人々も、ダルダノイ族も、みな一個所に寄り集まって彼を待ち受け、みな集会の座についていた、いつイダイオスが帰って来るかと(待ち受けながら)。そこへ彼はいま帰って来てから、一同のまんなかに立ち、先方からの伝言をいい放った。そこで一同は、たいそう早く身支度をして、屍を運んで来るのと、薪を採ってくるのと、二つの仕事にとりかかった。向う側ではまたアルゴス勢が、漕ぎ座の設けもよい船々から繰り出して、屍を運んで来たり、薪をもとめに往ったりするのに精を出した。
太陽は、いましも新たに、田畑の上へ光を投げかけて、しずかによどむ、水かさの多い、オケアノスの流れから、大空へと昇っていった。そこで両軍から来た人数は、相たがいに出向いて対面したが、そのおりに、みな一々に(屍を)見分けることも容易ではなかった。しかし、水でもって、血みどろな血糊を洗い落して、熱い涙を注ぎながら、車の上に抱えて載せ(寄せ集めたが)、トロイア方は、偉大なプリアモスが泣きわめくのを許さないので、みなひっそりと無言のまま、胸を痛めながら、屍を焼く火の上に積みかさねてから、やがて火を点《つ》け、焼き終えてしまうと、聖いイリオスへと帰っていった。それとまったく同様に、こちら側でも、脛当てをよろしく着けたアカイア勢が、胸を痛めながらも、屍を寄せ集めて、焼く火の上に積みかさねると、やがて火をつけ、焼き終えてから、なかのうつろな船々へ戻っていった。
(そのつぎの日の)朝早くから、まだ夜の引き明け前の、薄暗がりといった時分、その時分に、火葬場のわきに、アカイア勢から選りすぐった兵士たちが寄り集まって、火葬をした場所のあたりに、一つの墳《つか》を、平原からみな無差別に(兵士たちの亡骸を)集め(て焼いた火の)うえに築いていった。それに寄せかけて築地の囲いをつくり、その間にはいくつも高い櫓を設けて、船々や彼ら自身の護りとしたが、そのまた囲壁のところどころに、よくしっかりと取りつけた門をこしらえ、そこを通じて(のみ)、馬車などが通れる道をつくり上げた。また外側には、すぐ接近したところに塹壕を深く掘り下げて、幅も広く、大きな壕《ほり》へ、たくさんな杭《くい》を突き刺しておいた。
このように、頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイアの人々は働きつづけた。神さまがたは、いなずまを擲《なげう》つゼウス神のおそばに座を占めながら、青銅の鎧《よろい》をつけたアカイア人のした大仕事を、びっくりしてながめていた。その神々たちに向かって、まず話の先頭に立ち、大地を揺すぶるポセイダオン神がいわれるようには、
「ゼウス父神よ、そもそも、この涯しのない大地のうえに、人間としてある者で、自分の意中やおもんぱかりを、まだ神々に報告するものがあるだろうか。そらあのとおりに、またもや頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア勢が、船々の護りにするのだといって、囲いの壁を築き上げたうえ、そのぐるりに壕を掘りめぐらしたが、神々には、音に聞こえた大贄《おおにえ》さえいっこうに献げないでいるのを、ご覧ではないのか。まったく、この評判は朝の光がさし渡るかぎりの国々に伝えられよう、それであの、私とポイボス・アポロンとが、骨を折って、ラオメドン王のために、防備として造った城壁〔かつてプリアモスの父ラオメドンのため両神が築いたというイリオスの城壁〕のことは、忘れるだろう」
それにすっかり当惑しきって、群雲《むらぐも》を寄せるゼウスがいうようには、
「やれやれ、まったく、大地を揺すぶり、その勢いも広大な、あなたが何をおいいなのか。神々のうちでも、他の者なら、そのように考えてから、おそれもしよう、というものだが。あなたよりも、腕力にかけても威光にかけても、ずっとつまらない者ならばだ。しかしたしかに、あなたの誉《ほま》れは、朝の光がそそがれる限りの土地に、伝えられるだろう、いいかな、まちがいなく、将来にまた、頭髪《かみのけ》を長くのぱしたアカイアの兵士たちが、船隊を率いて、懐かしい祖国の土地へと立ち去ったら、あの築地固いは、ぶち壊して、海の中へ、そっくり流しこんでしまい、この広大な浜の渚《なぎさ》を、また砂土で蔽ったらよいだろう、アカイア勢のこしらえた大きな囲壁が、あなたの力で、形なしになってしまうように」
かように、神さまがたは、おたがいにこんなことを談合していかれた。その間にも太陽は沈んで、アカイア勢の仕事もすっかりでき上がると、陣営のどこもかしこも、牛を屠《ほふ》って、人々はみな晩餐をとった。おりからに、レムノス島から、ぶどう酒を運んできた船が、浜辺に着いた。何艘ものこれらの船は、イエソン〔アルゴー遠征の指揮者〕の子のエウネオスがよこしたもので、この人物は、ヒュプシピュレが、兵士たちの指導者であるイエソンへともうけた子だった。また別に、アトレウス家のアガメムノンとメネラオスには、六十石もの蜜酒を、イエソンの子が土産にと持って来させた。
その船々から、頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア勢は酒を購《か》って来た。ある人々は青銅を代りにやって、ある人々は輝く鉄を代りとし、あるいは牛の皮で、あるいは生きている牛自体に換えて、あるいは奴隷たちを代りに与えて。このようにして、にぎやかな饗宴を設け、それから一夜《ひとよ》じゅう、頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア人《びと》らが、また城内ではトロイアの人々や、助けに来た同盟の邦々《くにぐに》の者が、宴《うたげ》を張った。だがその夜じゅうを、彼らへと、全智の御神ゼウスは、不吉な禍いをおはかりなさって、すさまじいかみなりをとどろかせた。人々はその物音に色蒼ざめて恐れわななき、酒杯からぶどう酒を大地へそそいで、誰一人として、稜威《みいつ》の広大なクロノスの御子(ゼウス神)にまず神酒《みき》を献じないうちに、杯をあげる者はなかった。それからやっと、みな身を横たえて、眠りが贈る賜物を受けたのだった。
[#改ページ]
戦い行きづまりの段
【オリュンポス山上の雲界にゼウスは諸神を集め、両軍の戦いに介入することを禁じ、トロイアのかたわらにあるイデ山の頂きに座して、トロイア方を引き立てアカイア軍を痛めさせる。ポセイドンやヘレ、アテネなどはギリシア方を助けたがるが、許されない。トロイア勢は城を出て進み、スカマンドロスの川原なる平野に陣営する】
暁がいまサフラン色の衣を着けて、地上にくまなく光をそそぐと、かみなりをとどろかすゼウス神は、尾根のたくさんにあるオリュンポス山の、いちばん高い頂きに、神さまがたの会議をお開きになった。まずご自分から話をはじめると、神さまがたも、みなみなそれに耳を傾けるのだった。
「よく聞いてくれ、私の話を、男神《おがみ》たち、女神《めがみ》たちもみんなでもって。私の胸のうちの気持が、私にいえとうながすところを、いま述べようから。それゆえ、けして、誰にしても、女神であろうと、あるいはまた男神であろうと、私の言葉を、ぶちこわそうなどと試みてはならんぞ。それどころか、一刻も早くこの仕事を遂行できるように、みなでいっしょに承知してもらいたいのだ。もしまた誰にしても、他の神々から離れて一人だけ、自分勝手に、トロイア方にしろ、ダナオイ勢にしろ、どちらかへなり加勢にゆくところを見つけたなら、その神は、打ち打擲《ちょうちゃく》され、面目丸つぶれとなって、オリュンポスへ戻るのが落ちであろう。あるいは、そんな者は、ひっつかまえて、もうろうとかすんでいるタルタロスの、ずっと奥へほうりこむか。そこには大地の下でも、いちばんに深い坑《あな》の牢屋があって、その門は鉄でできてい、閾《しきい》も床も青銅だという、それで天と地とが離れている、その距離だけ、冥途のまた奥底にあるというのだ。そこへ入れられたら、私の力が、どのくらいに、あらゆる神たちの中でも大きなものかを、そのやつも悟ることだろう。さあ誰でも試しにやってみるがいい、そしたら神々たちもみな悟ろうからな。黄金の綱を大空から吊るして、男神《おがみ》たちも、女神《めがみ》たちも、みんなしてつかまるのだ。それでもけしてこの私を、大空から地面へと、引きずりおろしはできまい、このゼウス、最高のおもんぱかりの持ち主は。それどころか、もしも本気で私が同じように、引っ張りあおうと考えたなら、それこそ皆を、大地もろともに、また海ともども、引っ張りあげもできようものだ。綱はそれから、オリンポスの尖った峰にぐるぐる巻きつけて、ゆわえておくとしようから、今度は、何もかもみな、宙ぶらりんになることだろうよ。それくらいに、この私は、神々よりも、人間よりも、超えまさっているのだぞ」
こういわれると、神々たちはみな一様に、ゼウスの言葉に肝をつぶして、鳴りをひそめて静まり返った。それほどはげしく彼は談じつけたものだった。しばらくしてから、ようやく、きらめく眼《まなこ》の女神アテネがいわれるよう、
「まあ私どものおん父神の、クロノスの御子の神さま、最高の王者でおいでの、あなたさまの稜威《みいつ》には、刃向かえないものとは、みなもよく存じております。そうとしましても、私たちはダナオイ方の、槍を取っては武勇の者どもが、いかにも不幸な運命《さだめ》を満たして、殪《たお》れていくのを、哀れと思っているのです。ともかく、いかにも仰《おお》せのとおりに、戦争からは手を引くことにいたしましょう。しかしはかりごとだけは、アルゴス勢に教えこむのをお許しください。それを彼らが役立てて、あなたさまのお憎しみから、みんながみな殪れてしまいませんように」
それに向かって、微笑しながら、群雲《むらくも》を寄せるゼウスがいうには、
「安心しなさい、愛《いと》しい娘のアテネよ、むろん私は本気でもっていっているのではない、悪くあしらうつもりは、いっこう持ってないのだから」
こういうと、ゼウス神は、車駕《くるま》のもとに、青銅の蹄鉄をつけた馬を、二頭繋がせた。速く飛んではしる、黄金のたてがみを垂らした馬どもである。またご自分も、黄金《きん》の鎧を肌にお着けになって、黄金づくりの、こしらえも立派な鞭を手に取って、ご自分の車駕に乗りこみ、鞭を振って馬を駆れば、大地と、星のいっぱい輝いている大空との、あいだのところを、二頭の馬はいそいそとはしっていった。それで間もなくイダの山にお着きになった、泉のたくさんある、野獣たちの母といわれる、その山の頂であるガルガロスの嶺へ。このところにはおん神さまの神苑や、薫香《たきもの》のかおる祭壇があった。この場所に神さまがたや人間どものおん父である神は、馬車を停めて、馬どもを車から解き放し、その上へいっぱいに靄《もや》の気を注ぎかけておき、ご自身は山頂のあたりへ、栄光に輝きながら座をお占めになり、トロイアの人々の城市《しろまち》や、アカイア勢の船陣やを、見おろしなさった。
ちょうどそのころ、頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイアの兵士たちは、陣営中が、みな食事をとるのに忙しく、それをすますと、今度はみな甲冑に身を固めるのだった。また他方では、トロイアの人々が、市《まち》じゅうみな物の具を着け、たとえ数ではアカイア方に劣ろうとも、なお立ち向かって戦いあおうと、意気ごんでいた。子供たちや女房どもを護ろうとて、よんどころない行きがかりからではあったが、このようにして、城門はみな開け放たれ、兵士たちが繰り出してゆくと、徒歩《かち》の軍勢、また馬車を駆る軍勢から、おどろおどろと、たいそうな音の響きが湧き上がった。
さて、いよいよ両軍が相対峙して進んでゆき、一つ場所に行き着くと、たがいに皮の楯をぶつけあい、たがいに槍や、青銅の胸甲《むなよろい》を着た兵士たちの剛力を打ちつけあうのに、臍《ほぞ》をもった数多くの大楯は、たがいにはっしとぶつかりあって、ごうごうという音が湧き上がった。
この際には、殺す者と殺されてゆく兵士たちとの、あるいはうめき声、あるいは得意な勝名乗りが重ねられて、大地は一面、血を流した。まだ朝がたの、とうとい昼間の、日差がましてゆく間は、両軍からの飛び道具、矢や槍がはげしく飛びかって、兵士たちはつぎつぎと殪《たお》れていったが、いよいよ太陽が、天空のまんなかをまたいで立ったとき、まさしくそのときに、おん父神は、黄金づくりの天秤《てんびん》をさしのべられ、その二つの皿に、双方の、馬を馴らすトロイア方と、青銅の帷子《よろい》をつけたアカイア方との、長い苦悩のもととなる、死の運命《さだめ》をお置きなされた。そして秤の、まんなかをつまんでおあげになると、アカイア方の運命の日が、下へさがった。≪アカイア軍の死の運命が、数多くの生物を養い育てる大地へと向かって下り、トロイア方のは、広大な天空さして、あがったのである≫
そこで、ゼウスはご自身でイダの山から、はげしいかみなりをお立てなさって、炎々と燃えさかるいなびかりを、アカイアの軍勢へとお放ちなされば、みなみなこれを見るからに肝をつぶして驚きあきれ、誰もかも、色蒼ざめた恐怖に胸をとりこめられた。
このおりには、イドメネウスも、アガメムノンも、もう踏みとどまりはできなかった。軍神アレスの付添い役といわれる両アイアスさえ持ちこたえられないのに、ただ一人アカイア勢のお目付役の、ゲレンの騎士ネストルだけが踏みとどまっていた。それも好んでとどまったというのではなく、添え馬がまいってしまったためだった。つまりこの脇添えの馬を矢で、結髪も美しいヘレネの夫である、気高いアレクサンドロス〔パリス〕が、馬の頭のとっさきを射たのであった。たてがみが馬のこめかみに生え出している、いちばんはしの場所、そこが第一の急所とされる。
そこを射たので、痛みに馬が苦しんで跳ね上がると、矢はふかく脳中にはいっていったもので、青銅の鏃《やじり》をめぐって(添え馬が)体をよじて反りまがり、ひいてる馬をうろたえさせた。そこでかの老人は、短剣を手に飛びかかって、控え馬を繋いである皮紐を断ち切ろうとするその間にもう、ヘクトルの駿足の馬どもが、両軍の兵士たちのごった返す追跡のあいだに、大胆な乗り手を運んで迫って来た。それでおそらく老人(ネストル)は、もし雄叫《おたけ》びも勇ましいディオメデスが、このさまを鋭く見つけなかったならば、このおりに命をなくしたことだったろう。すなわち彼は、すさまじい叫びをあげて、オデュッセウスをうながし立て、
「ゼウスの後裔であるラエルテスの子の機略に富んでいるオデュッセウスよ、あなたはどこへ逃げてゆくのか、楯を背に投げかけて、乱軍の中を臆病者みたいに逃げてゆくおりに、背中を槍で突き刺されないためか。まあおとまりなさい、老人からあの獰猛《どうもう》な男を追っぱらってやりましょうよ」
こういったが、辛抱づよく勇ましいオデュッセウスは聞こえなかったのか、どんどんと、アカイア軍の、中のうつろな船陣のほうへ走っていってしまった。それで、ディオメデスはたった一人きりだったが、先陣の隊《て》の中にまじって、ネレウスの子(ネストル)の戦車の前へいって立ち、彼に向かって声をあげ、翼をもった言葉をかけて、
「おおご老人よ、まったくあなたを、年の若い武士たちが、ひどく悩ませている、それなのにあなたは、すっかり膂力《りょりょく》もゆるみきって、やっかいな老年に攻めつけられ、そのうえに、どうやら付添い役もしっかりしてなく、馬までがのろいときているようだ。だからさあ私の戦車に乗りなさるがいい、トロスの馬とはどんなものかおわかりになりましょうから。まったく神速に、平野の上を、どちらの方角へなり、追跡するにも、逃げていくにも、馴れたものです、恐怖を敵にもたらすこの馬どもは、アイアスから奪ったものなので。そちらの馬は、二人の介添え役に連れてゆかせ、私たち二人はこの戦車を、馬を馴らすトロイア方へと向けてゆきましょう。私の槍だって、この掌の中にあったなら、どんなに猛り狂うかを、ヘクトルにさえ知らせてやりたいものですから」
こういうと、ゲレンの騎士ネストルとて、何の異議なく承知したので、あちらの、ネストルが(前に乗っていた)馬のほうは、二人の付添い役が引っ張っていった。勇敢なステネロスと、気だてのやさしいエウリュメドンとが。またこちらの二人は、いっしょにディオメデスの戦車に乗って、ネストルが、両手でもって、つやつやしい手綱を握り、馬どもに鞭をあてると、すぐさまヘクトルの間近にやって来た。そして彼が、まっすぐに、こちらをめがけてやって来るのへ、テュデウスの子が槍を投げつけると、いかにもその人にあたりはしなかったが、手綱を取っていた付添い役の、意気のさかんなテバイオスの息子であるエニオペウスに、馬車の手綱を持っていた、その胸の乳頭《ちち》のそばへあたったもので、たまらずに車から落っこちたから、馬どもはわきへそれて、速い足で走った。それで、そのままそこで、彼の息も力も萎《な》えくずれた。自分の馭者の(死んだ)ために、ヘクトルの胸をはげしい嘆きがすっかり包んだ。
だがその場では手下のことを悲しみながらも、倒れたままにほうっておいて、(代わりを勤める)大胆な手綱取りをさがしにいったが、馬どもはそう長らく指図をしてくれる人間なしでいずにすんだ。というのはじきに、イピトスの子の、大胆なアルケプトレモスを見つけ出したので。そこでさっそくこの男を脚の速い馬の車台に乗せこみ、彼の手に手綱を渡してやった。
この際に、もしも人間と神々とのおん父神のゼウスが、すばやくこれを見つけなかったら、あるいは(トロイア方が)壊滅におちいって、手のつけられないような事態が起こったあげく、それこそイリオスの城中へと羊みたいに、みな押しこめられたかも知れなかった。そこで御神は、恐ろしいかみなりをとどろかし、白く輝くいなずまを放って、ディオメデスの馬車のすぐと前へ、地面に投げ落としたので、硫黄が燃えていくのにつれて、そこから恐ろしい火焔が立ちのぼった。そこで二頭の馬どもは、すっかりおじけがついて、車の下にかがまりこみ、ネストルの手もとからは、つやつやしい手綱が、はずれて落ちた。そこで彼は心に恐れを覚えて、ディオメデスに向かっていうよう、
「テュデウスの子よ、さあ今度は、単《ひと》つ蹄《ひづめ》の馬どもを逃走のほうへ向けろ。まったくきみは認めないのかね、ゼウスがくだされる庇護《ひご》がいまは、きみの上にはないというのを。現在は、それこの男に、クロノスの御子のゼウスは、誉れをお授けになるのだぞ、今日のところはな。また後日に、今度は私らにも、それがゼウスの神意とあれば与えられよう。たとえどんなに剛勇のきみだとても、人間の分際では、ゼウスの意図を、ほんの少しでもまげられるものではない。彼はまったくはるかに偉大な神であるから」
それに答えて、今度は雄叫びも勇ましいディオメデスがいうようには、
「いかにも、老人よ、あなたの言葉はそのいちいちが筋目にかなっている。だがこうしたわけで、はげしい痛みが私の胸や心に襲いかかるのだ、ヘクトルはいつか、トロイアの人々が集まったところでこうしゃべるだろう、テュデウスの子は、私がこわいもので逃げ出して船陣まで落ちのびた、と。いつかこう威張っていおう、その時には広い大地が穴をあけて(私を呑みこんで)くれ」
それに答えて今度は、ゲレンの騎士ネストルがいうよう、
「やれやれ、勇猛果故なテュデウスの子が何をいうのか。たとえばきみのことを、ヘクトルが、臆病で勇気がない者だといっても、けしてトロイアの人たちもダルダノイ族も、それに同意はしないだろう。また意気のさかんなトロイアの、楯を持つ武士《さむらい》たちの家の妻だってもだ、その女たちの、まだ若い盛りの恋しい夫を、砂塵の中へきみが殪《たお》したのだからな」
このように声をあげると、また混乱した追跡の間をぬって、逃げるほうへ単《ひと》つ蹄《ひづめ》の馬どもを向けていった。それを目がけて、トロイア勢やヘクトルが、途方もない物音をたてて、うめきのこもった矢や投げ槍やをほうりつけた。それで遠方から、彼に向かって大声をあげ、丈が高くきらめく兜のヘクトルが呼びかけるよう、
「テュデウスの子よ、とりわけおまえを、速い馬をもつダナオイ勢はだいじにしてきた。宴会の席でも、肉を切りわけるときにも、またたくさんな酒杯の数でもだ。しかし、これから後は、おまえを軽蔑することだろうよ、女と同じ性質《たち》にできているのだからな。逃げていけ、弱虫の人形め、もう私が、われわれの城市《まち》を囲む塁壁《とりで》に、おまえをよじ登らせはしないからな。また女たちを船へ乗せて連れてゆくこともできまいよ。それ以前に死神へおまえを引き渡してやろうからな」
こういえば、テュデウスの子は、あれこれと、二つの道に思いまどった、あるいは馬車を引っ返して、相対峙して戦おうか、(それとも、このまま帰ってゆくか、と)三度も、彼は胸のうちで、また心の底で、あれこれと思案したが、三度まで、イダの峰から、全智の御神ゼウスはかみなりをとどろかせて、戦況がまったく一変してトロイア方の勝ちになろうとの前兆をトロイアの人々に、お与えなさった。そこでヘクトルは、トロイア方に向かって、はるかに響けと大声に叫んでいうよう、
「トロイアの人々も、リュキア勢も、接近戦にたけているダルダノイ族も、勇敢に戦ってくれ。仲間の者ども、勢いのはげしい武勇の心を忘れてはならない。よく私にはわかっているのだ、クロノスの御子(ゼウス神)は、心《しん》からしてわれわれに、勝利と大きな誉れとを、その反対にダナオイ方には、苦難を(与えてやろうと)おきめになったことが。馬鹿なやつらだ、まったく、船陣をとり巻く囲壁《かこい》を、こんな工合にこしらえあげたやつどもは。ひよわくて何の役にも立たないうえ、われわれの攻撃を防ぐこともできはすまい。馬どもでさえ、掘り上げた塹壕のうえを、たやすく跳び越してゆくだろう。だがもし私がいよいよ、うつろに刳《く》った船々のかたわらに着いたら、その際には、燃えさかる火を忘れずに用意してくれ。船々を火で焼き払って、またアルゴス勢自身まで、船のかたわらで煙のために度を失っているところを、皆殺しにしてやりたいから」
こういって、馬どもに向かい、声をかけて励ますようには、
「クサントスと、それからおまえ、ポダグロスと、アイトンに、気高いランポス〔この四匹の馬の名はみな毛色からで、それぞれ狐色、脚白、赤毛、白を示す〕よ、いまこそ私に、これまで世話をしてやった返礼をしてくれろ。あの気象のひろいエエティオンの娘である(私の妻)アンドロマケが、まずいちばん先におまえたちへと、心をなごめる小麦をどっさりと飼葉にやったものだぞ、またぶどう酒まで、気がそちらへ向いたおりには、中へ飲むように混ぜこんでな。しかも私より先にだ、頼み甲斐のある良人《おっと》だと得意がってる私なのに。だからさあ、追っかけてゆけ、大急ぎだぞ、あのネストルの自慢の楯を奪ってやりたいから。それがすっかり黄金づくりだという評判は、いまは天にも達していよう。柄も身も、すべて金だということだ。また馬を馴らすディオメデスの肩からは、ヘパイストス神が骨折って造ったという、技をつくし巧みをこらした胸甲を、奪ってやるのだ。この二品をもし奪ったならば、アカイア勢をこの夜のうちにも、進みの速い船々に乗りこませて(追い返し)も期待できよう」
こう得意になっていい放つと、(それを聞いた)女神ヘレは腹にすえかねて、御座《みくら》の中で身をふるわせ、オリュンポスの高峰をさえ揺り動かした。それからポセイダオンの大神に向かっていわれるよう、
「まあ情けないこと、稜威《みいつ》も広大な、大地を揺すぶる御神さまが、ダナオイ勢がどんどん討たれていくというのに、何の憐れも、心にお覚えなさらないんですの。その人たちは、(お社のある)ヘリケやアイガイで、いつもどっさり、御意に召すようなお供物を献げていますのに。ですから、彼らが勝ちを得るようにご配慮くださいましな。もし私たちダナオイ方に味方をする神々たちが心をきめて、トロイア勢を追いしりぞけ、はるかにとどろくゼウスさまさえ引き止めようと努力したら、もうすぐとその場で、(ゼウスさまでも)イダの山に、ひとりっきりで坐ったまま、困ってしまうことでしょうよ」
それにたいして、大変に当惑しきって、大地を揺るがす御神がいわれるよう、
「ヘレよ、とんでもない、何ということをおっしゃるのか。いや、私としてはそんなつもりにはけしてなりますまいよ、クロノスの子のゼウスにたいして、われわれ他の神々が喧嘩をしかけようなんて。向こうがずっと強いのですから」
このように、神々たちは、こうしたことをおたがいに相談しあっていた。さて、船々からその囲壁《かこい》のあるところまで、塹壕が仕切った内の場所はみな、そこへ押しこめられたアカイア勢の馬車や、楯をもった兵士たちでいっぱいになっていた。彼らを押しこめたのは、勢いの敏捷《びんしょう》な軍神アレスにも似かよっているプリアモスの子のヘクトルで、この誉れは、ゼウス神がお授けになったものだ。それでまったく、よく釣合いのとれた船隊をさえ、燃えさかる火で焼きはらうこともできたであろう、もし女神のヘレが、アガメムノンの心中に、まず自分から大急ぎですぐにもアカイア勢を督励しようという気を起こさせなかったならば。
そこで彼はアカイア勢の陣営と船々とのかたわらへ出かけていって、まず丈長の紫染めの上張りをがっしりとした手におさえつつ、オデュッセウスの、中がとてもひろびろとした黒塗りの船のそばへ行って立ちどまった。その船は、両側にある船陣へもよく声が届くように、テラモンの子のアイアスの陣屋のほうへも、またアキレウスの陣屋にまでも聞こえるように、ちょうどまんなかに位置していた。この二人は、自分の武勇と膂力とをたのんで、よく釣合いのとれた船を、いちばん端のところへ引き揚げていた。それで(アガメムノンは)、ダナオイ勢に聞こえるように声を張り上げて叫んでいった、
「恥を知れ、アルゴスの人々よ。見てくれは立派だが、内実はみっともない恥さらしだ。どこへいったのか、あの威張り文句は、われわれこそ世に並びもない勇士ぞろいだと、レムノス島で、空威張りをして、おまえたちがいいふらしたことは。まっすぐな角の牛どもの肉をたらふく喰らって、杯のふちまで、混酒瓶《クラテール》に酒をなみなみと注ぎ入れて飲みながら、おまえたちの一人一人が、百人か二百人ものトロイア人と、戦闘の際は、面と向かって闘いあおうなどとな。ところが現在は、たった一人のヘクトルにかなわないのだ、すぐにも船を燃えさかる火で焼こうというのに。
ゼウス父神よ、まったくあなたは、これまでにも、勢いの広大な国主たちの、その誰一人でも、これほど愚かな迷いに引き入れて、大きな誉れを彼からお奪いなさったことはないでしょうに。私としては、いつでも、漕ぎ座をたくさんもっている船々を馳《はし》らせて、この土地へ来る道中にも、神さまの立派な祭壇を目にしながら、そのまま黙って通りすごした覚えはないのです。そのたびごとに、牛の脂身とか腿とかを、焼いて献上したものでした。それもまったく、堅固な塁《とりで》をめぐらしたトロイアを攻めおとしたい、という一心からでしたが。ですからゼウスよ、この願いだけはぜひともかなえてくださいませ、私どもの体だけはともかく無事で、命をおとさずに逃げ出せますように。またこんなふうに、トロイア方にアカイア勢が負けるようには、させないでおいてくださいませ」
こういうと父神も、涙を流している彼を見て憐れとお思いなさり、彼の兵士たちが無事で、滅びもしないでいるのをご承知なさってから、ほどなく一羽の鷲《わし》をお遣わしになった。鳥類のうちでもいちばんに確実な(ゼウスの)予兆の告げ手であるその鳥は、蹴爪《けづめ》に脚の速い牝鹿《めじか》の子どもをつかんでいたが、その仔鹿を、ゼウスのたいそう立派な祭壇の脇に落した。そここそアカイアの人々が、あらゆる神託をお告げなさるゼウス神を祭る場所であった。それで人々はみな、この鳥がゼウスのお手もとから来たことをさとったので、一段と猛烈にトロイア方へ襲いかかって、戦闘に一所懸命だった。
このおりにダナオイ方の人数は、もちろん大変多かったが、誰一人として、いち早くテュデウスの子(ディオメデス)の先を越して、速い戦車をさし向け、壕《ほり》を渡って敵に立ち向かい、一騎打ちをした、と誇れる者はなかった。それどころか、ディオメデスはずっと早く、まっ先に、トロイア方の兜武者、プラドモンの子アゲラオスを討ち取った。馬車を返して逃げかかるのへ、うしろのほうから、くるりと体をひねったところを、両肩のあいだのところの背のまんなかへ槍を突き出したもので、ずっぷり先が胸へと突き抜けたのに、そのまま乗り物から倒れて落ちれば、体の上に、物の具がからからと鳴った。
彼につづいてアトレウス家の殿たち、アガメムノンとメネラオスに、それから二人のアイアスなど、凛然《りんぜん》たる武勇を身に具えた者らが集まって来ると、さらにつづいてイドメネウスや、その介添え人のメリオネウスや――この人は武士を殲《ころ》す軍神エニュアリオスにもたとえられる武者だが――その後にもエウアイモンの立派な息子のエウリュピュロスが来、九人目にはテウクロス〔アイアスの異母弟、母はトロイアの王女ヘシオネである〕が、はじきかえる弓を引きしぼりながら、テラモンの子アイアスの大楯のもとに来て立ち添った。このおりにアイアスが、大楯をかたわらへとそっとずらせば、かの武士が隙を狙って、軍勢のうちの一人に矢を射かけてはっしとあてる、そのたびごとに、敵はその場へどうと倒れて息が絶えた、こちらはまた、そのまま幼児が、母親のかげにかくれるのと同様に、アイアスの手もとに引っこむと、彼もまたそのたびごとにきらめく楯で隠してやっていた。
このおりに、誉れも高いテウクロスが、まっ先に討ち取ったのは、トロイア方の誰と誰だったかというと、まず最初にはオルシロコスと、ついではオルメノスにオペレステス、さらにダイトルにクロミオスに、神にもたぐえられようリュコポンテスと、またポリュアイモンの子のアモパオンにメラニッポスとみな全部、つぎからつぎへと、生き物をあまた養う大地へと寄せ倒した。その様子を見て喜んだのは武士たちの君主アガメムノンで、たくましい弓勢《ゆんぜい》でテウクロスが、トロイア方の陣列を殪《たお》してゆくのに、そのそばにいって立ち、親しく言葉をかけていうよう、
「テウクロスよ、きみはじっさいうれしい男だ。テラモンの子で、武士たちの頭領《かしら》ながら、そのように射ちつづけるなら、それでどうやらきみは、ダナオイ勢の救いの光になれぬとも限るまい。また父上テラモンの名誉にもなろうか。おさない時からきみを育てた≪きみが庶子なのに、自分の家へつれてきて、育てたそうだから≫、遠くにいても、そのかたの誉れを高く揚げたがよいぞ。またきみにはっきりいっておこう、
それはかならず実行されるに間違いなしだ。もしも私に、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウス神とアテネとが、堅固に築きあげられたイリオスの城市《まち》を攻めおとすのをお許しだったら、まずいちばんには、私のつぎにきみの手に、戦功第一という褒賞を授けてあげよう。三脚の鼎《かなえ》か、二頭の駿馬《しゅんめ》をそれも戦車をいっしょにつけてか、または女を、きみと一つの臥床《ふしど》に上っていくようなのをな」
それに向かって、誉れも高いテウクロスが、答えていうよう、
「最高の誉れをお持ちのアトレウスの子よ、なぜ、それでなくてもきおいこんでいるこの私を、また激励なさるのです。いやけして、この身に力のある限りはやめますまい。われわれがイリオスへ向けて、敵の軍勢を押し返したとき以来、私は弓矢をもって待ち構えて敵の武士を殪しつづけているのです。まったくもう八本も、細長い鉤目《かぎめ》のついた矢を、いまも放ちましたが、その一つ一つが、戦さにはしこい敵の若武者の肌身に突っ立ったものですが、あの猛り狂う犬めにだけはあてることができないのです」
こういうなり、もう一本、矢を弓弦《ゆづる》から、ヘクトルを目がけて、まっしぐらに射て放った、彼を撃とうと心はやって。それで、ヘクトルにはあてそこなったが、人柄すぐれたゴルギュティオンという、プリアモスの勇ましい息子の胸へ、矢をうちあてた。この子はつまり、アイシュメから嫁《とつ》いで来たその母親、あの容姿も女神にそっくりな、美しいカスティアネイラが生んだものだが、打たれて頭《かしら》を、さながら罌粟《けし》の実が――花園にあって、種子をいっぱいかかえたのが、春の雨に濡れて重たくなって片っぽうにかしげるように、片いっぽうへ、兜の重みに引かされて、ゴルギュティオンは頭を垂れた。
なおテウクロスは、もう一本矢をつがえて、弓弦《ゆづる》から射て放した。ヘクトルをまっすぐ目がけて、射あててやろうと一所懸命にしたものながら、今度もまたあてそこなった。アポロン神がわきへそれさせたからだったが、勇敢なアルケプトレモスという、ヘクトルの戦車の馭者に、闘おうとせき立ったその胸もとの乳のあたりへ射こんだもので、たまらずに車から落ちると、馬どもはわきへそれて速い脚ではしり出した。それで彼のほうは、そのままそこで、息も力もくずれ絶えた。それゆえヘクトルの胸は、馭者のためのはげしい悲嘆にすっかり包まれてしまった。しかし、ともかくその場では、部下の死を悲しみながらもほうっておいて、すぐそばにいた兄弟のケブリオネスを呼び寄せて、馬の手綱を取るように命令した。彼のほうでも、命にしたがい、さっそくに承知をして従えば、ヘクトル自身は、恐ろしい雄叫びをあげながら、ぴかぴか光る戦車から地上へと跳んで下りた。そして恰好な石塊を手につかむと、テウクロスを目がけて詰め寄った、彼を撃とうと意気ごんで。
一方、こちらのほうでも、箙《えびら》から、いましも鋭い征矢《そや》を引き抜いて弓弦《ゆづる》につがえ、それから肩の近くまで引きしぼった、そのところを目がけて今度はヘクトルが、鎖骨が頸筋と胸とをしきりわける、いちばん急所というところへ、自分を射ようと勢いこんでいる(テウクロス)へ向けて、ぎざぎざしてとがった石を打ちつければ、弓弦は断ち切れるし、手も手首からすっかりしびれてしまった。それでも倒れかかるのは、ひざまずいてやっと踏みこたえたが、弓は手からこぼれて落ちた。だが、(彼の兄の)アイアスは、兄弟がやられたのを黙って見てはいないで、すぐ駆け寄ってかばいたて、大きな楯で蔽いかくした。それから彼を、二人の信実な僚友が、体をかがめて、つまりエキオスの子のメキステウスと、勇ましいアラストルとが、うつろな船の並ぶところへと、はげしくうめき立てているのを、二人して運んでいった。
そこでまた、もう一度、トロイア方に、オリュンポスにおいでの神(ゼウス)は気勢をあげさせたので、彼らは深い壕のところまでまっすぐにアカイア勢を押し戻した。その先頭にはヘクトルが、力を誇って得意気に進んでいった。その様子はまるで、よく狩り犬が猪や獅子などを、速い脚で追いかけてゆき、うしろから跳びつくおりに、脇腹や臀《しり》へとかかって、獣が身をくねらすのを待ち受ける、そのようにヘクトルは、頭髪《かみのけ》を長くのばしたアカイア勢を追いかけては、しょっちゅうそのしんがりにいる者を倒してゆくのに、人々はただ逃げては走っていった。しかしながらひたすらに潰走《かいそう》して、ようやっと逆茨木《さかもぎ》と塹壕とのあいだにまで行き着いたとき、大勢の者がトロイア方の手にかかって討たれはしたが、それでも彼らは船陣のかたわらに踏みとどまって持ちこたえ、おたがいに激励しあって、またありとあらゆる神々にたいし両手をさし上げ、声高くてんでに祈りをささげるのであった。
一方ヘクトルは、あちこちと、たてがみもみごとな馬どもを乗りまわしていた、その眼差しはゴルゴンか、人間に禍いをなす軍神アレスかと見えたが、この者ども(アカイア勢)をみて、白い腕の女神ヘレは、憐れと思われ、さっそく翼をもった言葉を、アテネに向かって、かけられるよう、
「あれまあ、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスの娘よ、私たち二人が、このうえとも、ダナオイ方が負けてゆくのを最後までほうっておいていいものかしら。まったくこの連中は、不幸な運命《さだめ》を満たしつくして、わずか一人の男のために、攻め立てられて負けそうですわ。あのプリアモスの子のヘクトルは、もはや支えもできないほど猛り狂って、まったくたくさんな禍いをしでかしたのですもの」
それに向かって、今度は、きらめく眼の女神アテネがいうようには、
「ほんとにまったく、あの男が、命も魂も、なくしたならばありがたかろうに。アルゴス勢の手にかかって、故郷でもって最期を遂げたらば。ところが、私の父神さま(ゼウス)ときたら、けしからんたくらみに夢中になっていらしって、ひどいかたですわ、いつもねじけて、私のつもりを反故《ほご》にばかりなさいますの。もうあのことはいっさいお忘れなんですわ、いくどとなく私が、(ゼウスの)御息子(ヘラクレス)の弱っているのを助けてあげたことなんか、エウリュステウスがいいつけた苦業〔ゼウスの妻ヘレの嫉妬から、ヘラクレスはエウリュステウスの臣下にされ、命がけの冒険を次々に課せられた。いわゆるヘラクレスの十二の功業である〕のために。ほんとにあの子が、天に向かって泣き言を並べたもので、ゼウスさまが私に行って、あれを護って手伝ってやれと、天上からお遺わしになったのですのに。そのおりにもし私がいまの始末を抜け目のない胸のうちにちゃんと悟っていましたら、あの子が(黄泉《よみ》の)門の閉め手の、冥王《ハデス》のところへと、いやらしい冥王の犬〔ケルベロスのことだが、ホメロスには名は出てこない。ふつう口から火を噴き、首が三つあるという〕を連れてくるために派遣されたときに、あの憎悪《ステュクス》の河水のはげしい流れをうまく逃げおおさせはしませんでしたのに。それをいまさらに私をうとんじて、テティスのたくらみを成就させなさろうとは。あの女《ひと》が、ゼウスのお膝に接吻をし、おひげへも手をさしのべてさわって、城市《まち》をおとすアキレウスに、誉れを授けてくださるようにと、願ったものですから。でも将来はきっとまた、きらめく眼の娘(であるこの私)を、愛しいとおっしゃるときがまいりましょう。
ともかくあなたは、すぐとこれから単《ひと》つ蹄《ひづめ》の馬どもを支度させてくださいませ。その間に私は、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスさまのお宮にはいっていって、戦さの用意の、物の具に身を固めてまいりましょうから――もし私たち二人が、戦いのひしめきあいの中に現われたなら、あのプリアモスの子のきらめく兜《かぶと》のヘクトルがどんなに喜ぶことか、見とうございますものね。きっと今度はトロイア方が、いくたりもアカイア勢の船のかたわらに倒れ伏して、犬どもや鷙鳥《おおとり》どもを、脂《あぶら》や肉で飽かせることでございましょう。
こういうと、女神のうちの総領であるヘレ、白い腕の女神ヘレにも、何の異議のあるはずなく、合点して出かけてゆき、黄金の前立てをつけた馬車の用意にかかった。一方、アテネ、すなわち山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスの娘は、しなやかな布の衣を、父神の宮の閾《しきい》にひろげて置いた。色もとりどりな、おん手ずからに巧みをこらして作ったものだ。それから女神は、群雲を寄せるゼウス大神の胴着を着けて、涙にみちた戦いに出ようと、甲冑《よろいかぶと》を身に鎧《よろ》われた。それから火焔のように輝きわたる車へと、歩みを運ばれる、その手には重たくどっしりとした大きな槍を握りしめた。平生、この高く尊い父神のおん娘御が、腹立ちにお思いなされば、名だたる勇士たちの隊伍をさえ、平らげるものである。
さてヘレが鞭をとって手ばやく馬をうながしたてれば、自然とひとりでに、天空の大門の扉がきしんで開いた。それを守るのは|季節の神女《ホライ》といって、大空やオリュンポスの峰をつかさどり、また群がる雲を開いたり、あるいはとざしたりする役目をうけたまわっている女神たち、そのほうへと門を通り抜け、笞《しもと》をあてた馬どもをさし向けていった。
ところがゼウス父神は、イダの峰からこの様子を見て大変にご立腹なさって、さっそくに、黄金の翼をもった虹の女神イリスをことづての役にとうながし立て、
「さあ出かけていって、速いイリスよ(彼らを)引っ返させろ、だがけっして私の目の前には来させるなよ。私たちが諍《いさか》いあうのはよろしくないからな。(ただ、もしいうことをきかないなら)こうとだけは、はっきりいっておこう、またかならずそれは実行されようが、あの両神《ふたり》が馬車につけた馬どもの脚を、ひどい目にあわせてやる、そのうえに両神《ふたり》を車台から突き落とし、馬車もさんざんにこわしてくれよう。そして十年の月日がめぐってこようと、まだその傷がすっかりとはなおるまいよ、雷火で受けたその傷はな、≪そしたらあのきらめく眼の女神も、自分の父と争えばどんな目にあうものかわかるだろう。だがヘレにたいしては、それほどには腹も立たねば憤りもわいてこない、もうふだんから何でも私のいうことを、わやにするのが癖だからな≫」
こういうと、疾風のように速い足の虹の女神は、ことづてに立ち上がって、イダの連峰から、そびえ立つオリュンポスへ到着すると、山ひだの多いオリュンポスの大門のとっさきで、両神に出会い、引きとどめてゼウスの御言《みこと》をいい聞かせるよう、
「どちらへお急ぎです。何をそうやっきになってお二人で企んでおいでで。クロノスの御子(ゼウス)さまが、アルゴス勢に加勢なさるのはお差し止めです。それでこう、クロノスの御子はお脅《おど》しになりますが、きっとそうなさいましょうよ。お両神《ふたり》さまの馬車《くるま》につけてある馬どもの脚をひどい目にあわせてやって、そのうえにもお両神《ふたり》を車台から突き落とし、馬車もさんざんにこわしてやろう。それで十年の月日がめぐってこようと、まだその傷がすっかりとはなおらないだろう、と。雷火で受けようというお傷がです。≪それも、さあ、きらめく眼の女神さまが、自分の父親と争ったら、どんな目にあうものか、おわかりのようにだそうです。でも、ヘレさまには、それほどにはお腹も立たず、お憤りもわいてこないとのこと、もうふだんから、何でもゼウスさまのお言葉をわやにするのが癖だからって。でもまあ、あなたはこのうえなく恐ろしいかたながら、恥知らずの犬ですわね、もしも本気で大胆にもゼウスさまに向かって、すさまじいその大きな槍をおあげになるとしたら≫」
さて、こういうと、足の速い虹の女神は、行ってしまったが、しかしヘレは、アテネ女神に向かい、言葉をかけて、
「まあまあ、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスさまの娘《こ》のあなたと両神《ふたり》でもって、もう私としたことが、ゼウスに向かって、人間どものために、戦うなどということは、やめにしましょうよ。人間なんかは、てんでん勝手に、死んでしまうなり、生きながらえてゆくなり、運に任せておいたらいいわね。それであのかた(ゼウス)が、お胸に思案なさったとおり、適当に、トロイア方にもダナオイ方にも始末をつけていただくとしましょう」
このように声をあげると、またもと来たほうへと、単《ひと》つ蹄の馬どもを引き戻せば、両神《ふたり》のために、|季節の天女《ホライ》たちは、たてがみもみごとな馬どもを(車から)取りはずして、馬どものほうは、神さびてかぐわしい厩《うまや》につなぎとめてから、車駕《くるま》のほうをとてもぴかぴかと光る横手の壁へと、もたせかけておいた。そしてご自身は、黄金づくりの寝椅子の上に、ほかの神さまがたとごいっしょに腰をおかけになった、心中はたいそう苦しみ悩んでおいでだったが。
さてゼウス父神は、イダの峰から、立派な車輪をつけた車駕《くるま》と馬とをオリュンポスへ向けはしらせてゆき、神々たちの御座所へとお帰り着きになった。すると大神のために、世にも名高い、大地を揺すぶる御神(ポセイドン)が、馬を取りはずして、車は車台の上にすえ、きちんと麻の覆いをひろげて掛けた。それで、黄金の御座《みくら》に、はるかにとどろくゼウスご自身がお掛けになると、その足もとで、大きなオリュンポスの山塊が揺れ動いた。二柱《ふたり》の女神、アテネとヘレだけは、ゼウスから離れたところに腰をかけ、御神にたいして何の言葉もいいかけず、たずねもしないでいたけれども、こちらのほうゼウスさまは、心中によくご存じで、声をおかけになるようには、
「なんであなたがたは、そのように胸を痛めているのか、アテネとヘレよ、まさかあなたがたが、武士たちに誉れを与える戦さでもって、トロイア勢を滅ぼし疲れたわけでもあるまい。あれほどひどく憎んでだったが、いずれにしても、私の威勢、また、この腕が敵対をゆるさないかぎりは、オリュンポスにおられる神々が、よしどれほど大勢だろうと、私を負かすことはできなかろう。あなたがただってそのとおり、そうする以前に、立派な手足に震えがとりついたものだった、戦いの場や、戦争の残忍な所業を眼に見るその前にだ。それで、こういっておこう、またその言葉はかならず実現されようが、一度もう雷火に撃たれた以上、またとふたたび、もうけしてあなたがたの車駕に乗って、オリュンポスへ帰って来ることはできなかろうよ、不死である神々たちの御座所へは」
こういわれると、アテネとヘレとは、ぶつくさつぶやいて、くっつきあって坐っていたが、トロイア勢にたいしてまだ禍いを企んでいた。ことにアテネは、黙りこくって何もいわずにひかえていたけれども、ゼウス父神にしかめっ面を見せて、猛烈な憤りにとらえられている。一方のヘレは、胸の瞋恚《いかり》をおさえ切れないで、口を開いて話しかけるよう、
「このうえなく畏《かしこ》いクロノスの御子神さま、何ということをおっしゃいますの。もちろん、私たちにしても存じております、あなたのお力には対抗できないということを。それでもなお私たちは、ダナオイ方の槍を取っては剛の者らが、まったく不幸な運命《さだめ》を満たして殪《たお》れてゆくのを、悼《いた》み嘆かずにはいられません。ともかく、それでも、おおせのとおりに、戦いからは手を引きましょう。でもはかりごとだけは、アルゴス勢に教えてやろうと思うのですの、何か役に立つようなのを。彼らがみんな、あなたさまから憎まれたために、殪れてしまいませんようにね」
それに向かって、群雲《むらくも》を寄せるゼウス神がお答えのようには、
「いかにも、朝がたから、もしお望みならごらんに入れよう、牝牛の眼をしたヘレ女神よ、一段と威勢の広大なクロノスの子が、アルゴス方の、槍を取っては剛の者どもの、おびただしい軍勢を滅ぼすところをな。もとよりけして、あの剛勇のヘクトルが、その前に戦闘から引き退ることはあるまい、船々のそばで、足の速いペレウスの子(アキレウス)が、また蹶起《けっき》しないうちには。≪その日というのは、船々の舳《へさき》のあたりで、アカイア勢が、最期を遂げたパトロクロスの屍を取り囲んで、恐ろしい窮地におちいってから、戦うという時である。≫これが私の託宣なのだ。あなたのことなどは私はすこしも意に介しない。たとえあなたが怒っていようと、あるいはあなたが、大地や大海原やのいちばん下の、イアペトスやクロノスなどがいる冥界のいちばん底へ投げこまれようとだ。そこはもう、ヒュペリオン〔太陽神の別号〕なる太陽神の、光明とても、また吹く風とて楽しめない。ただもう深いタルタロスがとり巻くところだ。たとえあなたが、迷ったあげく、そこへ到着しようとも、またしかめっ面しようとも、いっこう私は気にかけないつもりだ、あなたよりもっと厚顔無恥な者はないから」
こういわれると、それに向かって、白い腕のヘレは、何もいわずに(ひかえて)おいでだった。こうするうちに、オケアノスへと、輝きわたる太陽の光も沈んで、麦をみのらす田畑の上へと、(神々は)黒い夜を引きずってきたが、この日の暮れは、トロイア方には迷惑ながら、アカイア勢にとっては、三度も神に願かけしようほどにもありがたい、まっ暗闇の夜が来たのであった。
さてこちらでは、誉れ輝くヘクトルが、トロイア側の会議を開いた、皆をつれていったのは、渦を巻く流れのほとりの、船陣からは離れたところで、屍などのまったく見えない打ちひらけた場所だった。そこで人々は馬車から地上に下り立って、ゼウスの慈《いつくし》むヘクトルが説く言葉に耳を傾けた。彼は手の中に、十一尺もの槍を持っていた。その槍の青銅の穂先は、前のほうにきらきらと輝いて、黄金の箍《たが》が、螻首《けらくび》の柄をめぐっていた。その槍に体をもたせて、トロイアの人々に言葉をかけていうようには、
「私の言葉をよく聞いてくれ、トロイアの人たちも、ダルダノイたちも、加勢の軍の人たちも。いまにも私は期待していたのだ、船勢も、アカイア勢も滅しつくして、風の吹きすさむイリオスへは、その後でまた帰ってゆこうと。ところが、その先に暗闇がきた。それが何よりもいま、アルゴス勢やその船々を、海の波打ち際で無事に護ってやったのだ。しかし、ともかくいまのところは、黒い夜の望みに従って、それぞれ晩餐の支度にかかるとしよう。まず、たてがみのみごとな馬どもを車駕《くるま》の下から解き放して、その馬どものそばには飼葉を投げてやれ、そして城塞《とりで》から牛どもや、勢いのいい羊たちを、さっそくにも連れて来るがいい。そのうえに心をやわらげるぶどう酒も調達してきてくれ、納戸《なんど》から穀類もだ、それからどっさりと薪《たきぎ》も取り寄せたまえ。こうして私らが、はやくから生まれてくる暁まで、一夜じゅう、火をおびただしく燃やしつづけるのだ、その輝きが空へ届くように。万一にも夜中に、髪の毛を長くのばしたアカイア勢が、大海の広い背《せな》へと、大挙して逃れ出るなどしてはならないから。まったくのところ、邪魔も受けないで、いい気になって船に乗っていかせはしない。それどころか、誰にも彼にも、こっちの矢弾《やだま》を故郷へいってかみしめさせようぞ。船へと駆けて上がる際に、弓矢でもってか、それとも尖《さき》の鋭い鑓《やり》でもってか、突かれたうえで。そうしたらほかの者どもも、馬を馴らすトロイアの人々にたいして、涙にゆたかな戦いをしかけることをはばかるだろうから。
そして、ゼウスの慈しまれる伝令使たちに、市《まち》じゅうへふれまわさせろ、やっと大人になりたての少年たちや、こめかみの白っぽくなった老人たちに、市《まち》をめぐって、神力で建造された囲壁《かこい》の櫓《やぐら》で見張りをするようにと。またかよわい女房どもは、それぞれ自分の家に引き籠って大きな火を燃やし立てるがいい。またしっかりした番人を置くのだ、みなが出かけた留守に伏勢《ふせぜい》が城内へ忍びこまないように。
このとおりに、心の大きなトロイアの人々よ、私のすすめるようにしなさい。≪それで、機宜にかなったはかりごとは、まずこのようなものとして、明朝のことは、また馬を馴らすトロイアの人たちと相談しよう。≫ゼウスや、その他の神々たちに祈りながら、私が待ち望むのは、この場所から、黒塗りの船にのせて、死神たちが連れこんだ犬どもを追っぱらうことだ。だが、それはともかくとして、夜の間は、われわれ自身を護らなければならん。それで夜が明けたら、朝早くから、物の具に身を固めて、うつろに刳《く》った船々のところではげしい戦さを開始しよう。そうしたらあるいは、私をあのテュデウスの子の剛勇のディオメデスが、船陣から(イリオスの)城下まで押し返すか、それとも私があいつを、青銅(の槍)で殪してから、血にまみれた甲冑を分捕ってくるか、わかるだろう。
〔この後の≪ ≫の二つの部分は、どちらかが選んで用いられた。アリスタルコスは前のほうを、ゼノドトスは後のほうをよしとした、と伝えられる〕
≪明日になったら、彼の武勇も見きわめられよう、飛びかかって来る私の槍をこらえることができるかどうか。だがたぶんは、手傷を受けて先陣のあいだに、倒れ伏すことだろうが、その周囲には、大勢の僚友《とも》たちが(同様に倒れていて≫
≪明日になって太陽がのぼっていったならば。まったく私が、それほど確かに、いつまでも不死の身でいて、年もとらず、またアテネやアポロン神がお受けのくらいに、皆から賞め敬われたならば、ありがたかろうに≫
いま、この日が、きっとアルゴス勢に禍いをもたらすにちがいない、そのくらいも確かに」
こうヘクトルが述べ立てると、トロイアの人々は喜んで、騒ぎ立てた。それから彼らは、軛《くびき》の下から汗ばんでいた馬どもを解き放して、皮の紐でめいめい自分の車駕《くるま》のわきにつなぎとめておいて、城塞《とりで》から、牛だの、元気のよい羊だのを、さっそくにも連れて来た。また心をやわらげるぶどう酒も支度したうえ、納戸からは穀類をもち出してこさせ、その上にたくさん薪も集め寄せた。
≪こうして、不死である神々へ、申し分のない大贄《おおにえ》の供御《くご》をたてまつったのである≫その焼く香りを、平原から、高い空にまで、吹き寄せる諸方の風が運んでいった、≪甘い香りを。だがそれをけして、まさきくおいでの神々たちはお受けにならず、彼らの祈りを聞き入れもなさらなかった。みな大変に、聖《とうと》いイリオスもプリアモスも、そのプリアモスのトネリコの槍もよろしい兵士たちをまで、お僧みだったもので≫
さて、彼らは意気揚々と、戦さの関《せき》のあったところに、一夜じゅう、陣取っていた、火をおびただしく燃やし立てて。それはさながら、天空に輝きわたる月のまわりに、星の姿がとりわけてはっきりとあらわれるときのようだった。高い上空に風もとだえたおりのこと、見渡すかぎりの高い見晴しの丘も、尾根のさきざきも、また谷のひだまで、くまなくすっかり顕れ、天頂から、はても知れぬ高空が裂け開かれて(中がよく伺えるのに)、空ものこらず見え渡れば、牧人も心に喜びとする。その星の数ほども、船陣とクサントス河の流れのあいだに、トロイア勢の燃やし立てる火が、イリオスの丘の前方に眺められた。平原に燃えわたる篝火《かがりび》の、数は一千、その一つ一つのかたわらには、五十人ずつもの兵士が、炎々たる焔の輝きに坐っていた。また馬どもは、白い大麦や小麦を飼葉にもらって、車駕のわきに立っていながら、立派な御座《みくら》の暁(の女神)を待ち構えていた。
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アキレウスへ向け使節の派遣、懇願する段
【ギリシア方の敗色でアガメムノンも後悔し、会議を開いて相談、アキレウスの出陣を求めに、使節としてオデュッセウスを正使にディオメデスと、アキレウスを世話したポイニクス老人を付け、彼の陣屋へ赴かせる。宥和《ゆうわ》のためにはたくさんな財宝に加え、少女ブリセイスも返すというが、アキレウスの怒りは解けず、聞き入れない。ポイニクスは昔英雄
メレアグロスが同様に憤怒を解かず、後で損した話をするが効がない】
このようにトロイア方は見張りをしていた。一方アカイア勢は、身もすくむ潰走《かいそう》をもたらす、途方もなくひどい恐慌にとらえられて、勇士らはみな、こらえようもない悲しみにひしがれきっていた。そのありさまは、トラキアから吹いてくる北風《ボレアス》と西風《ゼフュロス》とが、魚のたくさん棲んでいる海原を揺り立てるようだった。この二つの風が突然に襲って来ると、まっ黒な波が、みるみるうちに頭をもたげて、岸辺にどっさり海藻を吐き出す、そのようにアカイア勢の胸中で、心は千々に乱れるのだった。
さてアトレウスの子(アガメムノン)は、はげしい嘆きに胸をうちひしがれて、行ったり来たりしていたが、声が大きくよくとおる伝令使たちにいいつけて、武士たちを、名指しで、それぞれ会議へと召集させた。しかし呼ぶにも、大声は出すなとおしえておいて、自分から先頭に立って骨折っていた。さて一同が会議の席へ、心痛しながらも坐ったときに、アガメムノンは立ち上がった、涙を流しながら、黒い水を吐く泉のように。山羊も通わない岩崖《いわがけ》から黒ずんだ水をほとばしらせている、(そのように涙を流しつつ)深く嘆息しながら、アルゴス勢らに向かっていった。
「おお、親しいアルゴス勢の指導者ならびに大将がた、クロノスの御子の、偉大なゼウス神は、私をひどい迷いのとりこになさった。まったく意地悪なかただ、あのときには、立派な塁壁《とりで》をめぐらしたイリオスを攻めおとしてから帰国させると約束なさった。そうたしかに承諾しておきながら、今度は性《しょう》の悪い詐欺をたくらみなさって、このようにたくさんな兵士たちを失くしたからにはアルゴスへ戻れ、とおっしゃるのだ。≪まったくこれこそ、稜威《みいつ》のとりわけ広大なゼウス神の御意にちがいあるまい、まったくのこと、これまでもたくさんな国城を破壊されたが、これから先もきっと壊されることだろう、その神力こそたぐいなく広大なものだ。≫ともかく、私がいまいうとおりに、皆もよくききわけてくれないだろうか。みなさんがたも、船を率いて、なつかしい故郷へと引き揚げよう。もう私らが、道幅の広いトロイアを攻め取ることもできないだろうから」
こういうと、一同はみな鳴りをしずめてひっそりとした。しばらくのあいだアカイア人の息子たちは愁《うれ》いにとざされて黙っていたが、ようやくのことで、雄叫びも勇ましいディオメデスが皆の間でいうには、
「アトレウスの子よ、まず第一に、あなたがそんなに思慮のたりないことをいわれるからには、この会議の場であなたと議論をするようになりますが、それはまずこうした席では許されてるので、けっしてお怒りなさらないよう願います。はじめにあなたは、ダナオイ勢のなかで、私の戦いぶりを非難なさって、戦さに弱く勇気もないとおっしゃいました。これについては、アルゴスの若者どもも、年寄たちも、みな十分に知っております。だがあなたには、狡智にたけたクロノスの御子(ゼウス神)は、半分だけしかくださらなかった。つまり王笏《おうしゃく》によって、万人に超え尊敬されるようにはなさったが、勇気は授けてくださらなかったのです、それがいちばんだいじなものですが。
とんでもないことだ、あなたは本気で、アカイア軍の息子たちが戦さに弱く、勇気もない、と思っておいでなのですか。おおせのとおりとして、またもしあなたの心が、帰国しようとしきりにはやり立つならば、どうぞ帰っておいでなさい。道は開けているし、ミュケナイから従ってきたたくさんの船もまた海辺に近く並んでいます。だが他の者ども、頭髪《かみのけ》を長く垂らしたアカイア勢は踏みとどまって、じっさいにトロイアを攻めおとすまで戦いましょう。いや彼らにしても、いっそこの船を率いて、なつかしい祖国《くに》へ逃げ帰るがいいだろう。それでも私ら二人、私とステネロスとは、イリオスの最期を見届けるまで戦いましょう、私たちはみな御神の指図によって来ているのですから」
こういうと、アカイア軍の息子たちはみな、馬を馴らすディオメデスの話しぶりに感心しきって喝采した。さて今度は騎士ネストルが彼らに向かい、立ち上がっていうようには、
「テュデウスの子(ディオメデス)よ、戦争の時でも抜群にきみは強いが、会議のおりにも同年輩の者のあいだでは、おまえはいちばんすぐれているな。アカイア勢のなかには、誰一人として、おまえの言葉を馬鹿にしようとか、逆らおうなどいう者はない、だがまだ話の終りにまではいたらなかった。いかにもおまえは年も若い、私の息子の、それもいちばん年下のと同年輩といってもよいほどだ。だが分別のある忠告を、順序の正しい仕方でもって、アルゴス勢の君主《とのさま》がたに、いってくれた。だがな、この私が、きみよりはずっと年かさでもあることだから、あえて口をさしはさんで、すっかり話にけじめをつけよう。私の言葉を、誰一人として、たとえアガメムノン王であろうとも、なおざりにはすまいから。まったく仲間組にも掟《おきて》にもはずれた者、家屋敷からも追われた者にちがいなかろうよ、おそろしい味方同士の闘い合いを好くようなやつは。だがいまのところは、まっ暗な夜のすすめを聞いて、夕餉《ゆうげ》の支度にかかるとしよう。そして各自に、囲壁《かこい》の中側、掘りあげた塹壕に沿って、夜警の者らを選んで配置しろ。
若者どもへの私の指図はこれだけとして、そのつぎにはアトレウスの子よ、あなたがこの先頭に立たれるがいい、いちばん位が高いのだから。そして長老《としより》たちへ、馳走を分け与えなさい、それが当然のことなので、恥ではない。あなたの陣屋には酒がいっぱいある、アカイア軍の船々が毎日のようにトラキアから海上を運んで来たものだ。饗応《もてなし》のことはあなたの受持ちだ、大勢の者を支配なさるかたなのだから。大勢の者を集めたときには、いちばんよい策略をすすめる人物のいうことに従われるのがよい。アカイア軍の全体がいまこそ何よりもすぐれた、しっかりした策謀を必要としているのだ。いまや敵軍が、船陣のすぐそばで、火をいっぱいに燃やしているのだから。誰がいったい、そんなことを喜ぼうか。今夜こそ、わが軍が無事安寧か破滅かを決めるときになろうよ」
こういうと、人々はみな、彼の言葉に耳を傾けて、うなずきあった。そして見張りの番にあたった者は物の具をつけて走り出ていって、ネストルの子の、兵士たちの隊長であるトラシュメデスや、あるいは(軍神)アレスの息子たちの、アスカラポスやイアルメノスや、メリオネス、アパレウス、デイピュロスらを囲んで立ち、あるいはクレイオンの子の勇ましいリュコメデスをとり囲んで(見張りに立った)。この張り番の頭領《かしら》は七人いた。そのめいめいに百人ずつの若者どもが、柄の長い槍を手に手にとってつき進んで、塹壕と囲壁とのまんなかへんに行き、座を構えた。そしてその場所に篝火《かがりび》を燃やし、それぞれ夕餉の仕度をした。
一方、アトレウスの子(アガメムノン)は、アカイア軍の長老たちを自分の陣屋に寄せ集めて、その手もとへ真心のこもった料理の品々を並べておけば、人々は、眼の前に調理して出された馳走へ手をさし出した。さて、飲みものにも食らう肉にも、もう十分に飽きたりたとき、まず第一に長老のネストルが一同の前に、はかりごとを織りめぐらした。前々からも、彼の意見はいちばんすぐれているとされていた。その人がいま、みんなのためをはかり、会議の席に立ち上がっていうには、
「このうえなく高い誉れをうけるアトレウスの子の、武士たちの君主《きみ》、アガメムノンよ、あなたの命令どおりに私はとどまろうし、いわれるとおりに始めるだろう。それというのも、あなたは大勢の兵士たちの君主として、ゼウスがあなたに、彼らのためしじゅうはかりごとを立てるようにと、王笏も掟も授けられたのだから。さればこそ、あなたは他人以上に、十分いいたいことをいうとともに、耳も傾け、他人の望みも、心から皆のためをはかって述べるよう心がけているものなら、かなえてやらねばならないだろう。何にせよ、始まったことは、みなあなたによって決定されたのだ、だがともかく私が、いちばんの上策と思うところを述べるとしよう。
なぜといって、あのとき以来、ほかにこれ以上のすぐれた策を思いつく者はないだろうから、この私の考え以上のものをな、以前にしろ現在にしろ。あのとき以来だ、ゼウスの裔《すえ》(であるアガメムノン)よ、あなたが乙女ブリセイスを奪い取ろうと、われわれの思惑には耳をかさずに、アキレウスのいきどおりにもかまわず、彼の陣へ出かけたあのとき以来だ。そのおりは、ずいぶん私もやめるようにと説いたのだが、あなたは自分のおごった心にうち負かされ、すぐれた勇士で、不死(の神々)さえも敬う者(アキレウス)をはずかしめたのだ。(一度与えた)褒美の品を取り上げたのだから。だが、いまからでも、どうにかして彼の心をなだめ、引き戻せないか、みんなでよく相談しようではないか、気に入りそうな贈り物を与えるなり、情誼《じょうぎ》をつくした言いわけをするなりして」
それに向かって、今度は、兵士たちの君主アガメムノンがいうようには、
「長老よ、あなたが私の愚かさをけなしつけたのも、もっともである。迷いであった、それは私だって否定はしない。いかにもたくさんな兵士たちに、あの勇士は匹敵しよう、ゼウス神が心にかけてひいきなさっておいでならば。まさしく現在に、この武士(ヘクトル)に誉れを与えてアカイア勢をやぶらせたように。だが、ともかくも、呪わしい思いにつかれて誤ちをおかした以上は、その埋め合わせに、今度は数もしれぬほどの償《つぐな》い代《しろ》をさし出すつもりだ。それゆえこれから、あなたがた一同の目の前で、比べものもないほど立派な贈り物をかぞえ上げてみよう、まだ火にかけたことのない鼎《かなえ》を七つと、黄金の錘《おもり》を十個、照り輝く釜を二十個と、さらにまた、十二頭の駿馬を、それもがっしりとした、競走で優勝した馬どもである。単《ひと》つ蹄のこの馬どもが、もって来てくれた(たくさんな)褒美の品々、それほど多くをもらった男は、けっして獲物に事を欠かず、このうえなく貴重な黄金を所持しないはずはなかろう。その上には、七人の、すぐれた手技《てわざ》を心得た女たちもつけようレスボスの女で、私自身で、形勝の位置を占めたレスボスを攻め取ったおりに、選《え》りすぐった婦人たちの中でも器量で立ちまさったものたち、その女たちを贈ってやろう。その中には、あの以前に、私が奪ってきたブリセイスもいよう。そのうえ堅い誓いをしていうが、けして私はあの娘《こ》の閨《ねや》にはいったこともなく、語らいをしたこともないのだ。男にしろ女にしろ、それが世間の習いなのだが。
この品々をみんなすぐさま届けてやろう。そのうえもしまた神々が、プリアモスの偉大な城市《まち》(トロイア)を攻めおとすのを許されるなら、分捕り品をわれわれアカイア勢が分け合うときに、その仲間にも加わって、船々を、青銅や黄金《こがね》の器で満たしてから帰るがよかろう。またトロイアの女の中から、二十人ほどを自身で選ばせよう。アルゴス生まれのヘレネについで、他《ひと》にすぐれて器量がいい女たちを。そして田畑のとりわけて豊かなアカイイスのアルゴスに戻ったうえは、オレステスにひとしい誉れを授けて、私の婿にもしよう、その子はいちばん後で生まれ、ぜいたくに育ったものだが。ところで私には三人の娘がある、木組みもみごとな屋敷のなかに、クリュソテミスとラオディケと、イピアナッサと。この三人のなかの誰でもあなたが望む姫を、結納《ゆいのう》をもらわずに正式の妻として、(アキレウスの父)ペレウスの屋敷へつれてゆかせよう、そのうえ私は、嫁入りに持参のものをどっさりとつけてやろう、これまでに人が、嫁入りをする娘に持たせてやったこともないほどたくさんにだ。
まず引き出として贈る立派な構えの城市《まち》は七つで、すなわちガルダミュレにエノペに、牧草に富むヒレと、いかにも聖《とうと》いペライに、それに深い牧場のアンテイアに、美しいアイペイアと、ぶどうのしげるペダソスである。これらはみな海に近く、砂丘の多いピュロスの境近くに位置して、その住民たちは、たくさんな仔羊や、牝牛を持っている。そして彼らは、アキレウスを神とも崇めて、貢《みつ》ぎ税をささげようし、またその主催のもとにただしく掟を守ってゆくだろう。以上の約束を、もし彼が立腹をやわらげてくれるなら、遂行しようと思う。だからまあアキレウスも折れて出たほうがよかろう。いかにも冥府の王は無情であり、妥協をしないから、それだからこそあらゆる神々のうちで、人からいちばん嫌われているのだ。それゆえ彼も私のいうことをきいたがよい、私の王権はいっそう貴く、年からいっても、はばかりながら私のほうが、年上なのだから」
そのとき彼に、ゲレンの騎士ネストルが答えていうよう、
「誉れも高いアトレウスの子、兵士たちの君であるアガメムノンよ、アキレウスの殿に贈られるという品々は、けしてありふれたつまらないものではない、それではさあ、(使者の)名を呼びあげ、せかせて、一刻も早く、ペレウスの子アキレウスの陣屋へ向かわせましょう。では私がいま選ぶから、そうしたらその人たちも承知をしてくれ。まず筆頭には、ゼウスの庇護にあずかるポイニクスを先頭にして、そのつぎには大アイアスと勇敢なオデュッセウスとだ。伝令には、オディオスとエウリュバテスをついてゆかせよう。では手を浄《きよ》める水を持って来て、言葉をつつしむように命じてくれ、クロノスの御子ゼウスに、みなでお慈悲をと祈ろうから」
こういうと、その言葉はあたりにいる人々を喜ばせた。すぐさま、伝令使らは水をもってきて手に注ぎかけた。小姓たちは混酒器《クラテール》を飲料でもって、杯のふちまでいっぱいに満たしてから、酒杯をとり、型のとおりに儀式をすまして、順ぐりに皆の者へついでまわった。さて、神々へ酒をそそぎ、心ゆくまで十分に飲み終ったとき、一同は、アトレウスの子アガメムノンの陣屋から出かけていった。ゲレンの騎士ネストルは、めいめいに目くばせしながら、その人々へいろいろと指図をした。とりわけオデュッセウスには念を入れて、人柄の立派なペレウスの子(アキレウス)を説きつけるよう手をつくせ、といった。
さて二人は、滔々《とうとう》と鳴りとどろく海の渚《なぎさ》に沿って進んでいった。大地をささえ大地を揺すぶる大神(ポセイドン)に、アイアコスの裔《すえ》である(アキレウス)の誇らかな気象を、たやすく説得できますようにと、しきりに祈りながら。それからミュルミドンたちの陣営や船々のあるところに着いてみると、その人(アキレウス)はいま、音も高く、慰みに竪琴をかき鳴らしていた。美しい飾りのついた琴の上には、銀の琴柱《ことじ》がおいてある。それは、以前にエエティオンの都を滅ぼしたとき得た品だった。その琴に心を慰めながら、武士たちの誉れの歌をうたっていた。その真向いにはただ一人、パトロクロスが、ひっそりとしてひかえ、アイアコスの裔(アキレウス)がいつ歌いやむかと、待ちかまえていた。そこへ二人が進んでいった。その先頭には尊いオデュッセウスが立って、その人の面前で立ちどまると、アキレウスは、はっとして、手にした琴もそのままに突っ立ち上がり、坐っていた席を離れた。パトロクロスも同じ様子で、二人の姿を認めると立ち上がった。そして、二人に手を差しのべながら、足の速いアキレウスがいうよう、
「よく来てくれた。じっさいあなたがたは、親友として迎えられよう、ずいぶん待ちこがれていたぞ、私がたとえ不機嫌だといって、きみらはアカイアの人々のなかでもいちばんの親友だから」
こう声をかけて、陣営へと、尊いアキレウスが案内していって、彼らを寝椅子の紅紫《むらさき》染めの敷物の上に腰をかけさせ、それから気ぜわしそうに、手近にひかえたパトロクロスに声をかけるよう、
「さあ、メノイティオスの子よ、大きめの混酒器《クラテール》をすえておき、一段ときつい酒をこしらえてくれ、みなさんがたにそれぞれ杯をさし上げてな。いま、この屋根の下においでなのは、とりわけ懇意なかたがただから」
こういうと、パトロクロスは親しい僚友《とも》の言いつけどおりにした。それから彼は、肉切り台を炉の光の届くところに持ち出させて、そこへ羊と、肥えふとった山羊の背肉を並べておき、その上に、太らせた豚の後腰肉《うしろこしみ》の十分に脂ののったのを置くと、アウトメドンがそれをささえ、アキレウスが切りさいてゆく間もなく、十分こまかに刻むと、それを焼串にさす、一方では神とも見えよう武士のメノイティオスの子が、火を大きく燃やし立てた。それから火がおおかた燃えつくし、炎が衰えかけたとき、その火の燠《おき》を布《し》き拡げて、さっきの串をかけ渡した、そして、五徳《ごとく》から串を取り上げ、聖《とうと》い塩を肉にふりかけてから、十分に焼け上がったとき、木の盆にそれを盛りつけた。一方、パトロクロスはパンを取り、四脚のみごとな籠へそれぞれわけて分配すると、アキレウスは肉を取りわけ、そして自分は、気高いオデュッセウスの差し向いに、反対側の壁のところに座を占めて、自分の友のパトロクロスに神々へ贄《にえ》をまつるように命じたので、彼は供物の肉を火に投げ入れた。さて一同は眼の前に調理して出された馳走へ手をさし出した。飲むものにも、肉を食うのにも、もう十分に満足したとき、アイアスはポイニクスに合図をした。それをオデュッセウスが見てとって、杯に酒をいっぱいついで、アキレウスにさしていうよう、
「ありがとう、アキレウスよ、アトレウスの子アガメムノンの陣屋にいても、あるいはいまこの場所に来た場合にも、われわれは、立派な馳走には不足を感ぜずにすむのだな。馳走になりたいと思う食物は、十分に持っておいでだから。しかしいま私らの気にかかるのは、うまい料理のことではなくて、わが軍がきわめて重大な危機に直面していることだ。ゼウスの庇護をこうむっている君、アキレウスよ、それで私らは心を痛めているのだ。つまり、座席のしつらえもよい船々が無事でいようか、壊滅するかさえ、わからないのだ、もしあなたが防禦《まもり》に立ってくれないかぎりは。
それというのも、船陣や囲壁《かこい》からすぐ近くに、勝ち誇っているトロイア勢や、遠国にも評判の高い加勢の軍が、夜警を置いて、陣中のいたるところにおびただしい火を燃やしているのを、もう私らには制止することもできないのだ。それで(敵は)ほどなく黒塗りの船隊に襲いかかろうと考えている。そのうえクロノスの御子ゼウス神でさえ、彼らにたいして吉兆を示し、右手のほうにかみなりをとどろかせるので、ヘクトルはこれにつけこんで意気ごみもすさまじく、神意をたのんで猛然とたけり立っては、人間だろうと神々だろうと少しの見さかいもつけずに、恐ろしい狂気のとりこになっているのだ。そして一刻も早く、輝かしい暁が来るようにと待ち望んでいる。それというのも、彼は、船々の艫《とも》の飾りの先を切りとって、船そのものは燃えさかる火で焼き払おうときおい立ち、そのうえにもアカイア勢が船のかたわらで、煙にまかれて右往左往するのを、なぎ倒そうとはやっているのだ。だからこそ私らは、心中におそろしく気遣うのだ。あるいは神々が彼のこの揚言《ようげん》を、実現させてやられはすまいか、私らは、もうこのトロイアで、馬を飼うアルゴスからは遠くはなれて、死ぬ運命なのではないかと。
だからさあ、立ち上がってくれ、たとえ遅くても、アカイアの若者たちが、トロイア方の進撃の音に悩まされるのを、救おうという意志があるならば。あなたにしても、後々になって後悔をすることがあろう。いったん凶事が起こってからでは、つぐないをする道はまったくないのだから。それゆえその前に十分支えてくれ、ダナオイ勢を禍いの日から防ぎ護るように。まったくのこと、あなたを父上ペレウスがいましめられたというではないか、プティエからアガメムノンのために、あなたを送り出されたその当日に。
『わが子よ、武勇は、神意にさえ適うならば、アテネとヘレとが授けてくださるだろう。だがおまえとしては、たかぶる心を胸のうちに、しっかりとおさえていなさい、人の和をはかるのこそいちばんよいことだ。禍いをひき起こすいさかいからは、手をひくのだぞ、おまえがいっそうアルゴス勢の若者や長老がたから、大切にされるためには』
こう老人がいましめられたのを忘れてしまったか。それゆえ、いまからでも思いとどまり、胸を苦しめる瞋《いか》りを捨てなさい。そのうえアガメムノンは、あなたが瞋りを止めるならば、その引換えに、これほどの品々をよこすというのだ。まあちょっと聞いてくれ、私があなたに数えあげて見せるから、あのアガメムノンが、陣屋の中でよこすといった品々をみな。まず初めには、まだ火に掛けたことのない鼎《かなえ》を七つと、黄金の錘を十個、照り輝く釜を二十個と、そのうえまた駿馬を十二頭、それもがっしりとした、競走で優勝した馬どもである。アガメムノンのこの馬どもが競走で得た褒美の品々、それほど多くの賞品をもらった男は、けして獲物に事を欠く者とも、世にも尊い黄金を所持していない者ともいわれないだろう。そのうえにまた七人の、すぐれた手技《てわざ》を心得た女もつけよう。レスボスの女であって、彼が自身で、形勝の位置を占めたレスボスを攻め取ったおりに、選《え》りすぐった、婦人たちの中でも器量で立ちまさったものばかり、しかもその中には、あの以前に自分で奪っていった、ブリセイスもいるはずだ、そのうえ堅い誓いをかけていうには、けして彼は、あの娘《こ》の閨にはいりもせず、語らいをしたこともないそうだ。男だろうと、女だろうと、それが世間の習いなのではあるが。
この品々をすぐさまみな届けてこよう。そのうえもしまた神々が、プリアモスの大いな城市《まち》(イリオス)を攻めおとすのを許してくださったら、分捕り品をわれわれアカイア勢が分け合うとき、その仲間に加わって、青銅や黄金《こがね》の器で、いっぱいにして帰るがよかろう。またトロイアの女どもから、二十人ほどを自分で選ぶがいい、アルゴス生まれのヘレネのつぎに、ひとにも超えて器量のいい女たちを。そして田畑のとりわけ豊饒な、アカイイスのアルゴスに戻ったうえは、オレステスと同等の名誉を受け、王の婿になられよう、その王子(オレステス)は遅く生まれて、贅《ぜい》をつくして育てられたものだが。ところで王には三人の娘がある、木組みもみごとな屋敷の中に、クリュソテミスとラオディケとイピアナッサと、この三人のうちの誰でも、望みの姫を、結納をもらわずに、正式の妻として、ペレウスの屋敷へ連れてゆかすといわれる、またその上にも持参の物をどっさりつけて、これまで人が、嫁入りする娘に持たせてやったことのないほど、たくさんにだ。
まず土産に持たせる立派な構えの城市《まち》は七つで、すなわちカルダミュレにエノペに、牧草に富むヒレと、いかにも聖《とうと》いペライと、それに深い牧場のアンテイアに、美しいアイペイアと、ぶどうのしげるペダソスとである。これらはみな海に近く、砂丘の多いピュロスの境近くに位置して、住民たちはたくさんな仔羊や牝牛を持っている、そして彼らはあなたを神とも崇《あが》めて、貢ぎ税をささげようし、またあなたの主権のもとにただしく掟を守ってゆくだろう。
以上の約束を、あなたが立腹をやわらげてくれるなら、実行しようといわれるのだ。たとえあなたがアトレウスの子アガメムノンを、彼自身もその贈り物も、心《しん》からいっそう憎むにしても、それでもせめてその他のアカイアじゅうの兵士たち全体が、みな苦しんでいるのを憐れんでくれ、あなたを神ともみなは尊敬しているのだから。まったくあなたはたいした手柄をたてられよう、いまこそヘクトルを殪《たお》せるのだから。あれは呪われた狂気につかれて、この土地へ船が運んできたダナオイ勢に、誰一人として自分にかなう者はいまいと思って、それこそそば近くまで、やって来てるのだから」
それにたいして、足の速いアキレウスが答えるよう、
「ゼウスの裔《すえ》であるラエルテスの子、工夫に富んでいるオデュッセウスよ、きっぱりというべきことはいわねばなるまい、私が実際考えていて、また実行するはずのことを。だからもう、かわるがわるそばに来て誘いかけるのはやめにしてくれ。あの男は、冥途の門と同じくらいに、私にとってはいやらしいのだ。胸にかくしている考えと言うことがちがっているというような男だからな。ともかく私は、自分が最上の策だと思うところを話しておこう。アトレウスの子のアガメムノンが私を説得できようなどとは、思いもよらない、また他のダナオイ人にしてもだ。いくら私が休む間もなく敵軍と渡りあったところで、いっこうにありがたがられもしなかったのだ。うしろにひかえていようと、一所懸命で戦いあおうとも、誰だっても分け前は同じだし、また臆病者も、武勇にすぐれた者も、わけへだてなく同じ値打ちに評価される。怠けていても、たくさんの手柄を立てても、死んでしまえばみな同じことだ。
私はいつでも自分の命を投げ出して戦ってきたが、かえって心に苦痛を受けたばかりで、何の得にもなっていない。ちょうど、まだ羽根も生えていない雛鳥のために、親鳥が見つけ次第に餌をみな運んでやって、自分自身はやつれていくように、そのように、私もまた幾夜も一睡もしないで明かしたうえに、昼は昼で血みどろな日を、朝から晩まで戦いつづけた。実際に私が船を率いて攻略した人々の町は十二にもなる。陸戦でも、この地味の肥沃なトロイアで、十一にのぼるだろう。それらのどの町からも、私はたくさんに立派な財宝を分捕ってきて、しかも残らずみなアトレウスの子のアガメムノンに渡してやった。それをあいつはうしろにいて待ち受け、遠い船のかたわらで、いつも受け取ってから、少々は分配もするが、だいたいは自分で取るのだ。
ところで他の大将や領主たちへ分配した褒賞の品々は、そのままみなの手もとにあるが、アカイア軍のなかで私だけからは奪い取って、気に入ったその仮妻《かりづま》を抑えているのだ。その女とせいぜい夜を楽しむがいい。だがこのうえ、アルゴス勢がトロイア方と戦ってゆく必要がどこにあるのだ、まったく美しい頭髪《かみのけ》のヘレネのためではないか。それなら物を思う〔意味の曖昧な語〕人間の中で、妻を愛するのはアトレウスの子の二人だけだというのか。まったくたとえ勇敢で、分別盛りな男といっても、自分の妻はいとおしく愛《かな》しいだろう、それはまさしく私にしろ、槍で奪い取った女だけれども、あれを心底からいとしく思っているのと同じだ。それゆえ、いまさらに私の手から、褒美にくれたあの娘を奪い取ってだましたからには、それ以上に、もう惑《まど》わしに来ないでくれ、たねは知れている、承知はしないつもりだ。
だからオデュッセウスよ、彼もあなたやほかの領主と相談して、燃えさかる火から船陣を防禦《ぼうぎょ》するように思案したがいい。いやはや、私の力を借りないでも、ずいぶんたくさん骨折り仕事がやれたものだ。たとえばそれ、防壁を築きあげて、そのまわりに幅のひろい大きな壕をめぐらし、その中には杭を打ちこんでいる。だがそれでさえも、武士を殲《ころ》すヘクトルの、武勇をおさえきれはしないのだ。しかし、私がアカイア勢といっしょに戦っていたあいだは、ヘクトルなどは城壁を遠くはなれて戦おうなど思いもよらず、スカイアの門や槲《かしわ》の木のところまでしか出てこなかった。そこのところでいつか、彼はただ一人私を待ち受けたが、かろうじて私の刃をのがれたものだ。
だが私はもうヘクトルと戦う気持などつゆほどもないから、明日にでも、ゼウスやすべての神々に贄《にえ》を献げたうえで、自分の船隊に十分荷物をつみこんで、海へと引きおろそう。そのときこそごらんになろうよ、あなたがもしもその気でいて、注意をはらうなら、朝早く、魚のおよぐヘレスポントスに、私の船が帆を馳せてゆくのを。私の部下が乗り組んで一心に漕ぎつづけるのだ。そして名も高い大地を揺する大神(ポセイドン)が、よい船旅をさずけてくださるなら、三日目には地味の肥沃なプティエに着けるであろう。
その土地には、ここへ出かけてくるおりに、置いてきた物がたくさんある。それにまた、ここからも、黄金だの青銅だの、または美しい帯締めをした婦女《おんな》たちだの、灰色の鋼鉄だの、わけてくれたものはみな持ってゆこう。だが手柄の褒美は、くれた者が無法を吹きかけて奪い返した。あのアガメムノン王、アトレウスの子、その人がだ。だから彼に、いま私がいうとおりに、みなはっきりと公言してくれ。またもしこのうえダナオイ勢の誰彼をあれがだまそうとするならば、他のアカイア人たちも腹を立て刃向かうがいいのだ。いつだって恥知らずの皮をかぶった男だから。だが彼が犬みたいな性根でも、まさか私に面と向かって会いはできまい。
またこれからどんな相談を持ちかけても、私は乗ってやるまいし、協力もしてやらん、私をぺてんにかけて、ひどい目にあわせたのだから。もう二度と口車に乗せはさせないぞ。これで十分なのだ。せいぜい勝手にするがいいさ、全智の御神ゼウスが、あいつの分別心は取り上げてしまわれたのだから。またあれの贈り物など、まっぴらごめんだ。毛一筋ほどにも気にはかけない、たとえ現在彼が持ち合わすものすべての十倍、二十倍もたくさんによこしたにしろ、いやなことだ。またどこか他から取りこんだにしろ、オルコメノス〔ボイオティアの古都で、かつて強盛を誇り、ミニュアスの宝庫をもって名高かった〕に納まる貢《みつ》ぎや、≪エジプトのテバイの富――あの家ごとにとてもたくさん財宝を貯蔵していて、百の城戸《きど》がそなわり、そのめいめいを二百人ずつもの武士《さむらい》が、たくさんな馬や車を率いてもって出てゆくという、その都だとても≫または浜の砂粒、往来の塵埃ほどたくさんによこしたにしろ、それでもまだアガメムノンは、私を納得させることはできまい、私に断腸の思いをさせた傲慢無礼のつぐないをするまでは。
あのアトレウスの子アガメムノンの娘なんかは、嫁にはもらわない。たとえその器量は黄金のアプロディテにも引けを取らず、その手技《てわざ》では、きらめく眼のアテネと肩を並べようとも、けして嫁にはしない。誰なり他のアカイアの男を選んだらよかろう。あの男に似つかわしく、私より位の高い者をだ。もし神々が無事に私を護ってくださって、故郷に帰り着けたなら、きっと親父のペレウスが、自分でもってよい嫁を探してくれるだろうから。ヘラスじゅうに〔ここにいうヘラスは、後世と異なり、プティエと共にテッサリアの南部地方〕、プティエじゅうに、アカイアの娘が大勢いる。城市《まち》や保塁《とりで》を所持している立派な国主たちの娘たちもだ。その中から、誰なりと好きな者を正式の妻にするとしよう。あそこにいたころ、私は雄々しい心に、ふさわしい配偶《つれあい》をもとめて、正式の妻として、老人ペレウスが貯えた身代を楽しみながら暮らそうと、ずいぶん急《せ》き立ったこともあった。私としては、場所がらもよい城市《まち》のイリオスが貯えていると人がいう、その全部でさえも、命には換えられないから。そのむかし平和な時分に、アカイアの兵士たちが来る以前から、彼らが持っていたものにしろ、またあの射手《いて》の御神ポイボス・アポロンの、岩ばかりのピュト〔この段、デルポイ(ピュト)の社殿、宝庫を述べて注目に値する。デルポイはすでに前ミュケナイ時代から宗教上の中心地だった〕で、石の閾《しきい》の蔵《くら》中に、しっかり囲いこんである全部の財宝《たから》をくれるにしても。
なぜといって、牛や太った羊などは、また掠奪しても来られようし、三脚の鼎や、栗毛の馬も、何頭でも買い求めることができようが、武士《ますらお》の生命《いのち》というものは、一度歯並みの墻《かき》から外へ出れば、またと呼び戻す道はなく、掠奪することも買い求めることもできないのだ。つまり、私の母の女神、銀色の足のテティスがいわれるには、二筋に分れた運命が、最期の際《きわ》へと私を導いていくだろうとだ。もしこのまま踏みとどまって、トロイア人の城市《まち》を的《まと》に戦うならば、帰郷のときを失う代りに、不滅の誉れをかち得るだろう。もしまた故郷《くに》へ戻って、なつかしい祖国の土を踏むときには、すぐれた名誉は失せる代りに、私の寿命は≪長くあろうし、早急には最期の際にいたりはすまいと。≫
それだから、私は他の人々にもすすめたく思うのだ、とうてい、あなたがたにしても、そびえ立つイリオスの城の最期を見届けられまい、だから故郷へ帰るがいいと。はるかにとどろくゼウス神は、トロイアの人々の上に、力強いご加護を与えられて、兵士たちの意気もあがっているのだから。あなたがたはこれから帰って、アカイア軍の大将たちにはっきりと私の返事を伝えてくれ、それが長老たちの役目だから、胸のうちでもう少しましな別の工夫をこらしたほうがよいと。船々も、アカイア軍の兵士たちも、うつろに刳《く》った船のかたわらに、無事にいられるような工夫をだ。ともかくいまのこのはかりごとは、私がひどく怒って承知しないので、何の役にも立つまいから。ところでポイニクスは、そのまま私のところにとどまって、寝ていったらよかろう、もしまた彼がその気になったら、明日にでもいっしょに船へ乗りこんで、なつかしい故郷へついてくるように。だが無理矢理に、連れていこうとはすまいが」
こういうと、みなは一様に鳴りをひそめて静まり返った、その話しぶりに胆をつぶして。それほど彼ははげしくことわりつけたのだ。
しばらくしてやっと、年老いた馬の乗り手ポイニクスが語りはじめた、はらはらと涙をこぼして。アカイア軍の船勢のためにたいそう心配していたものだから。
「もしも、誉れに輝くアキレウスよ、憤怒に身を任せたうえは、帰国のことを本気で考え、速やかな船を、焼きつくす猛火から、護ってやるのは、もうはやいやだというならば、愛しい子供よ、どうしていまさらあなたと別れて、この地へひとりで残っていようか。年老いた騎士ペレウスは、プティエからアガメムノンのもとへあなたを遣ったあの日に、私をあなたにつけて寄こされた、あなたは、武士が高い誉れをかちえる場所である、むごたらしい戦場にも、会議の席にも、いっこうに心得のない、ほんの少年だったのですから。それゆえ父上は私をつけて、それらをすっかり教えこませたのだった、話術にもたけ、行動においても練達の士となるようにと。
だから、いまさら、いとしい子供よ、あなたにおくれて居残るなどとは、とんでもないことだ、たとえ神様が、わざわざ自身から、私に老年の皮をぬがせて、血気ざかりの若者にしてくださろうともです。その昔、私が初めて、父親であるオルメノスの子のアミュントルといさかいを避けて、器量の美しい婦人がたくさんいるヘラスを棄てたころのように。私の父は、頭髪《かみのけ》の美しい妾《めかけ》のことで、たいそう私に腹を立てた。というのは、父がその女を可愛がって、私の母である正式の妻を辱しめたものですから、母はいつも私の膝にすがって、その妾を手に入れるようにと頼んでいました、そしたら女が年寄などはきらいになろうというわけで。私は納得して、そのようにした。ところが親父はすぐに気づいて、復讐女神《エリニュス》らを呼び下ろし、さんざん私を呪ったのです、この後けして自分の膝に私から生まれた愛《いと》しい孫を坐らせることがないように、と。それで、神々たち、地の下のゼウス神と、おそれおおいペルセポネイアとが、その呪いを実現させました。
そこで私は父親を鋭い青銅の刃で殺してしまおうとも考えたが、誰か、不死である神々のお一方《ひとかた》が、この怒りを押しとどめて、私の心に、国人たちの噂だの、多くの人の咎《とが》めや譏《そし》りを思いめぐらさせたのでした、アカイアの人々のあいだで、父殺しと呼ばれないようにと。
そのころ私は、胸のうちで、父親が怒っているのに、屋敷の中にぐずぐずいすわっている気などてんでなかったのだが、実際に、身内の者や親族の者どもが寄ってたかって、しきりに私を口説きつけ、屋敷の中にそのまま閉じこめてしまったのです。そして何匹も、太った羊や、脚をくねらす角《つの》のまがった牛どもを屠殺《とさつ》しました。また何匹もの、脂の十分にのった牡豚が、毛を焼かれるために、ヘパイストスの焔のうえに臥《ね》かされたものでした。また年老いた父の瀬戸物の壺からは、酒がたくさん飲みほされた。九晩のあいだは、みんなが私のまわりにつき添って夜をすごした。たがいに交代して見張りをしながら、一度も火を絶やさないでいた。あるいはちゃんと垣根をめぐらした中庭に面する柱廊下《アイトウサ》に、あるいは、奥の間の扉の前の、前室の中に火を燃やしたてて。
だが、とうとう十日目の夜がやってきたとき、闇にまぎれて私は、頑丈にとりつけてある奥の間の戸を打ちこわして抜け出した、中庭の垣根も容易に跳り越え、難なく見張りの男たちや召使の女たちの眼をくらましてだ。それから今度は広大なヘラスじゅうを逃げてまわり、とうとう地味の肥沃な、羊の群れの母といわれるプティエに来てペレウスの殿を頼ったのです。すると殿は快く私をむかえ、ねんごろにもてなしてくれた、まるで親父が自分の子供を愛《いと》しむように――ただ一人の、遅く生まれた、たくさんな身上《しんじょう》への、跡取り息子にたいするように。そのうえ私を物持ちにして、たくさんな部民を分け与えてくれた、それで私はプティエの国境に住み、ドロペスの人々を治めてきた。
それからあなたを、心底《しんそこ》から可愛がって、こんなにも大きく育てたのだ、神にも似通うアキレウスよ。それであなたは、他の人とでは饗応《もてなし》にも出かけたがらず、屋敷うちでの馳走のおりにも、手を出そうともしなかったものだ。それこそ私があなたを膝の上に坐らせて、料理の肉をまず切り裂いて食べさせ、杯もさしつけてあげないうちは。こんなふうだから厄介な子供の習いで、私の肌着の胸のところに、ぶどう酒を口からこぼして濡らしたことも幾度だったか。このようにしてあなたのためにはずいぶんと骨も折り、苦労もしてきた、つまりは神々が、私自身には子供を授けてくださらないと思っていたので。それゆえ、神にも似たアキレウスよ、あなたを自分の子供とも考えて、こう思いたいわけなのだ、いつかは、恐ろしい災難から、私を護ってくれるだろうと。
それゆえ、アキレウスよ、高慢な憤激はおさえつけてくれ、けして情味に欠けた心を持ってはなるまい。神々ご自身でさえも折れて忍耐されることもあるのだ、その稜威《みいつ》も位も、力さえはるかに人にまさるものだが。その神々にすら、薫香《たきもの》だの、心をこめた誓願や、あるいは飲み物、またはあぶった肉の供物《くもつ》をそなえて、人間どもは祈っては、宥和《ゆうわ》をもとめまつるのがならわしだ、過ちとか罪とかを犯した場合には。なぜならば、祈願《リタイ》の女神たち〔リタイは、ふつう人間のあいだの懇願で、その擬人、神格化〕は、ゼウス大神の御娘《おんむすめ》ではあるが、足がびっこで、皺がより、両眼ともやぶにらみでおいでなために、それ、|迷妄の女神《アテ》のうしろから、ついてまわっては、世話をやかれるわけだそうな。ところがアテのほうは、力も強く、足も達者で、したがってずっと先に、姉妹《きょうだい》たち(リタイ)を置きざりにして駆《かけ》ってゆき、あらゆる土地でその先を越して、人間どもに禍いをするのだ。それで祈願《リタイ》はあとから出かけてゆき、後始末をつけてまわるというわけなのだ。
されば、もし人間が、そば近くにおいでなされたこのゼウス神の御娘たちを、畏《おそ》れてうやまうものならば、その人に大きな利益《りやく》を授け、祈りも聞き入れられるのが常である。だがこの神たちを侮辱し軽蔑して、そっけなく追い返すような者にたいしては、女神らが、クロノスの御子ゼウスのお手もとへおいでなさって、その人間に迷妄《アテ》がとりつき、過ちをしでかして、報復をうけさせるようにと頼みこまれる。それゆえあなたも、アキレウスよ、このゼウスの御娘たちに無礼を働かないように振舞いなさい。誰でも立派な人間ならば、心をおさえて我慢をするものだ、というのも、もしアトレウスの子が、進物もよこさず、またあとから贈るとも全然いってこないのならば、それで相も変らずはげしく腹を立てているのなら、私だって、たとえどんなに皆が望んでいようと、けしてあなたにたいし、憤怒を捨ててアルゴス勢を援助しろなどとはすすめはしない。だがいまは、すぐにもたくさんの物をよこすといううえ、あとのこともいろいろと約束して、大将がたまで頼みの使いに、それもアカイア軍の総勢から、あなたにとっては、アルゴス人の中でもいちばん仲のよい者を選んで、送ってよこされたのではないか。したがって、その人々の言い分や足労やを、ないがしろにしてはいけない。前には立腹しても、べつに非難を愛けるかどはなかった。
だが、昔の英雄たちの武勲《いさおし》の物語にも、聞き伝えるところによると、たとえどんなにはげしい腹立ちにとらわれようとも、彼らですら贈り物には心をやわらげ、なだめる言葉に耳をかしたということだ。その出来事を一つ一つ、私はずっと前から知っている。けして耳新しい話ではないが、その次第を、仲のよいあなたがたみなに話して聞かそう。
クレテスと勇猛なアイトロイ〔クレテスは、メレアグロスの母アルタイエの一族。アイトロイは、メレアグロスらが属するカリュドン一帯の住民〕とが、カリュドンの都をはさんで戦い合っては、おたがいに殺戮《さつりく》をつづけていた、アイトロイは美しいカリュドンを防ぎまもり、クレテスはまた戦いで攻めおとそうとはやり立っていた。それというのも、一同の上に、黄金の御座《みくら》のアルテミス神が、お腹立ちから禍いをくだされたためであった。つまり御神への初穂のまつりを、畑の斜面で、オイネウスがしなかったために。他の神には大贄の供御《くご》をさし上げながら、ただ一柱だけ、ゼウス大神の御娘(アルテミス)には奉らなかった、忘れたのか、それとも思いつかなかったかして。それで大きな咎《とが》を犯したものだ。
箭《や》を射る女神は、この手落ちに立腹なさって、野生の荒々しい豪猪《あらいのしし》、まっ白い牙《きば》をむいたのをさし向けられた。それが例によってオイネウスの畝畑《あぜはた》に、ひどい悪事《いたずら》をしてまわった。何本も、その猪は丈の高い樹々を引き抜いては、根こそぎに地面に倒した。また林檎畑では、植えた木を花ごと抜いた。そいつをオイネウスの息子であるメレアグロスが、諸方の国々、町々から、狩倉へと、武士どもや犬どもを寄せ集めて、やっと殺した。わずかばかりの人数では、とうていかたづけられなかったであろう。それほどの大猪だったから、大勢の者を痛ましい火葬へと送ったものだ。しかし女神はその獲物《えもの》をめぐって猪の首と粗毛《あらげ》の生えた皮のことで、クレテスと意気のさかんなアイトロイとのあいだに、大層な騒ぎや喧嘩を起こさせた。
さて軍神アレスの伴侶《とも》であるメレアグロスが戦場に出ているあいだは、敵方のクレテスの旗色が悪く、数ばかりは大勢だったが、自分の町の城壁の外へ出て、持ちこたえさえできなかった。ところがメレアグロスを憤怒がとらえた、どんなに思慮の深い人間にでも、胸中を煮えくりかえさすような憤怒が。すなわち彼は、自分の母のアルタイエに腹を立てて〔猪の首と毛皮のことで喧嘩をし、メレアグロスは母の兄弟プレクシッポスとトクセウスを殺した。それを知った母はメレアグロスをのろって彼の死を神々に祈る。それを聞いて彼は母に腹を立てたのである〕、恋いもとめた妻の美しいクレオパトラのそばでばかり、(戦さに出ないで)日を送るようになった。彼女はエウエノスの子の、美しいくるぶしをしたマルペッサと、イダスとのあいだの娘で、父イダスは、当時この世界に住む人間のうち、いちばん強く、美しいくるぶしの乙女のためにポイボス・アポロン神にさえ手向かって、弓矢を取ったという者だった。その間に生まれた娘を、その頃に屋敷うちで、父母があだ名して、ハルキュオネと呼んでいたのは、母親が、遠矢を射られるポイポス・アポロン神にさらわれたとき、雌翡翠《ハルキュオン》の運命の、悲しい嘆きに泣いたからである。
この妻のそばに臥して、胸を責め立てる憤りに思い乱れていたというのも、母親が彼に向かってかけた呪いに、すっかり立腹したためだった。つまり母親は、自分の兄弟が殺されたのをしきりに嘆いて、神々に祈りつづけた。そして養いゆたかな大地をいくども両手でたたきながら、冥府王《ハデス》と、世にも恐ろしいペルセポネイア〔ハデスの妃〕の名をよびつづけ、膝を折って地面に坐った。そのふところを涙でぐっしょりと濡らして、息子に死を与えるよう、と祈っているのを、闇の底から、朦気《もうき》の中を歩いておいでの、復讐女神《エリニュス》が、容赦ない心でもってお聞きになった。
ところでいま、城門のあたりは大騒ぎで、櫓《やぐら》をめがけて敵軍が襲撃する音がどっとわき上がった。アイトロイの長老たちは、選りぬきの神官たちを使いによこして、皆で彼に頼みつづけた、外へ出てきて防いでくれといって、たくさんな贈り物を約束した。すなわち美しいカリュドンの平野のうちでも地味のこえて、とりわけてよい場所を二百町歩ほど選んでとれ、といってきたのだ、その半分はぶどう畑で、また半分は何も植えてない畑を、取りなさいと。そしてまた、年寄った騎士オイネウスもくり返して頼んだ、棟《むね》を高く葺いた奥殿の閾《しきい》に立って、閂《かんぬき》のかかった板戸を何度もゆすぶりながら、息子にひざまずいてまでも。またいくたびも姉妹たちや、母親さえ懇願したけれども、ますます彼は片意地にはねつけた。また大勢の友達の中でも、ことに仲のよい気のあった人々が来て頼みこんでも、まるきり彼の心を動かすことができなかったという。それでとうとう奥殿へまで、はげしく矢が突き刺さって、櫓には敵のクレテスがよじ登って、大きな市《まち》に火をつけだした。
このときに、とうとうメレアグロスに向かって、美しい帯を結んだ奥方が、涙ながらに懇願して、攻めおとされた都に住む人たちが、どんなにひどい目にあうかと、惨禍の数々をくわしく話して聞かせたものだ。男たちは皆殺しにされ、塁《とりで》も市も灰塵に帰して、子供らや帯をふかく結んだ婦人たちは、他所者《よそもの》に引き立てられていくだろうと。この残酷な行為を聞くにしたがって、メレアグロスの心もようやく激してき、とうとう立ち上がって、美しくきらびやかな甲冑を身に着けた。このようにして自分の気持についに負け、アイトロイ人らのために、禍いの日を防いてやったが、もうあのたくさんな、すばらしい贈り物はもらえずに、ただで災禍をふせいだ、というわけだった。
だからあなたも、そうした心は、けして持ってはなるまい、またそういう時に、ひょっとして魔にさされてはなりませんぞ、ええ、あなたは。もし船々に火がついたとしたら、防ぐのはますますむずかしくなろう、だから贈り物が約束されてあるうちに、出てゆくがよい、アカイア勢は、あなたを神と同じくらいに崇《あが》めようから。もし贈り物がなくなったあとで、武士を殲《ころ》す戦いに加わるのなら、そのときになって、いくら防戦しようとも、同じ誉れをうけられはしないのだ」
それに向かって、足の速いアキレウスは答えていうよう、
「ポイニクスよ、ゼウスの庇護をうける年寄の爺さま、私はそんな誉れをほしくはない。ゼウスの授けられた運命《さだめ》によって、もう十分に誉れは受けたと思っているから。曲った舳《へさき》の船のそばで、この胸に呼吸《いき》のあるかぎり、この膝のたつかぎり、その運命《さだめ》を受けていくつもりだ。だがほかにあなたにいうことがある、よくそれを覚えていてくれ。もう嘆いたり泣き言を並べたりして、アトレウスの子アガメムノンへの忠義立てから、私の心をこれ以上に乱してくれるな。あなたがあいつに心をつくす筋合いは、少しもないのに、そのために好意をもってる私から、うとまれるようなことがあってはならない。それより私といっしょに、私を煩わす人間を、累《わずら》わせるのがいいことだろう。≪私と同じように王となって、私の名誉を半分うけるがよい。≫ではこの人たちが、返事は伝えてくれようから、あなたはそのままここにのこっていて、柔らかい臥床《ふしど》にやすむがいい。そして暁の光がさしそめたら、故郷をさして帰ったものか、踏みとどまるか、相談をしよう」
こういってから、彼はパトロクロスに無言のまま目くばせをして合図をし、ポイニクスのために、しっかりとした臥床の用意を命じた。他の(使節の)人たちが、すぐにも彼の陣屋から帰ろうと思いつくように。それに向かって一同へ、テラモンの子の、神にもひとしいアイアスが話しかけるよう、
「ゼウスの裔《すえ》の、ラエルテスの子、機略に富んだオデュッセウスよ、さあ出かけよう。どうやら今日のこの訪問では、使いの目的は遂げられそうにもない。こうなってはさっそくこの顛末をダナオイ勢に伝えてやるのが大切なことだ。良い話ではないのだが、いまごろはみな期待をかけて待っていようから。だがアキレウスは、胸のうちで高邁な彼の心を鬼にして、強情にも、けして思い返そうとはしない。私たちが、他人はとてもおよばないほど、彼を大切にもてなしてきた、その朋輩の友誼さえ少しも考えないとは、無情な男だ。世間には、兄弟を殺した人からさえ、また死んでしまった自分の子にたいしてさえ、償金を受け取っては、ゆるしてやったためしもたくさんある。その殺人者がたくさんの償金を払い、そのまま郷国《くに》にとどまれば、殺されたほうも償金を受け取って、無念の思いを押ししずめ、胸をおさえて差しひかえる。だが神々はあなたの胸に、それもたった一人の乙女のことで、容赦を知らない悪心を置かれたものだ。だが私らはいま、七人も選りぬきのよい女をさし出し、そのうえたくさんな品物をつけたすのだから、あなたも折れて心をやわらげ、あなたの家の客にたいして会釈をしてくれ。ダナオイ勢も大勢いる間から(選ばれて)、私らはいまこの屋根の下に来ているうえに、だれよりもあなたを心にかけて大切にも、親身にも、思っているのだ、すべてのアカイア勢の中でもとりわけな」
それにたいして足の速いアキレウスが答えていうよう、
「アイアスよ、ゼウスの裔の、テラモンの子で兵士たちの統率者である、あなたは何もかも私の考えどおりに話してくれたようだ。それでも私の心は、怒りでふくれ上がった、あの時のことを思い出すたびに――アルゴス勢の面前で、アトレウスの子が、私を侮辱し暴言を吐いた、あの時のことを――まるで卑しい野良犬同然に(私をあしらい)。ともかくも、あなたがたは帰っていって、返事の向きを伝えたがいい。私は血みどろな戦いに出る気は全然ない、心の賢《さか》しいプリアモス王の子の、勇ましいヘクトルが、それこそ私の部下のミュルミドンらの陣営と船のあたりに、アルゴス勢を倒しながらやってきて、船を火で黒こげにしてしまうまでは。だがさすがのヘクトルも、この私の陣屋と黒塗りの船のかたわらでは、どれほどまだ戦いに飽きたりなくても、手をひくだろうと考えるがな」
こういうと、(使節の)一同は、それぞれ両耳のついた台杯をとりあげ、神々を祭ってから、オデュッセウスを先頭にして、船の並びに沿って引き上げていった。一方、パトロクロスは、朋輩や侍女たちを指図して、ポイニクスのために、大急ぎでしっかりした臥床の用意をさせた。女たちは言いつけどおりに臥床を敷き、羊の毛房や綴《つづ》れ布や、こまかい麻の織布を敷いた。ここにその老人は身を横にして輝かしい暁のくるのを待った。
一方アキレウスは、しっかりと組み立てられた陣屋の奥で、眠りについた。そのそばには、彼が以前にレスボスから連れてきた女、ポルバスの娘で頬の美しいディオメデが添い寝をした。その向う側にはパトロクロスが床についたが、そのそばには結んだ帯も美しいイピスが臥た。勇ましいアキレウスが、エニュエウスの居城であるけわしいスキュロスをおとしてから、彼に与えた女である。
さて(さきの使節の)人々が、アトレウスの子の陣屋に帰り着くと、アカイアの兵士たちは、黄金の杯をとって、彼らを迎えた。あちらこちらに立ち上がって、杯をさしながらたずねる中でも、まず先頭をきって武士たちの君アガメムノンがこう問いただすよう、
「いってくれ、アカイア勢の大きな誉れの、尊敬すべきオデュッセウスよ。アキレウスは、燃えさかる火をわれわれの船から、撃退してくれるつもりがあるのか、それともことわったか、まだ憤りが気象のはげしい彼の心をおさえていて」
それに答えてこんどは、辛抱づよく勇敢なオデュッセウスがいうよう、
「最高の栄誉をもたれるアトレウスの子、武士たちの君アガメムノンよ、あの男はいっこうに憤怒をやわらげようともせず、かえって、いっそうはげしくいきり立って、あなたの言葉も贈り物も受けつけません。あなたが自分で、アルゴス勢の間でもって、どうやって船陣やアカイア方の軍勢を無事に護るか、思案をしろ、と申すのです。それで彼自身は、暁の光がさし始めたら、すぐにも漕ぎ座もよい、舳の曲った船々を、海へと牽き下ろそう、と脅かしました。そればかりか、他の人々にも、船に乗って故郷へ帰れと勧めたい、と申すのです。けしてあなたたちが聳《そそ》り立つイリオス城の最期を見届けられはすまい。それというのも、はるかにとどろくゼウス神は、イリオス城を大変心におかけになって、敵軍の士気もあがっている、とこういうのです。ここにいる人たちも私の言葉を保証しましょう、いっしょに行ったアイアスと二人の伝令たちと、二人とも分別のある人々ですが。だがポイニクス老人は、そのままあちらで泊まりました。明日の朝、望みとならば、船に乗ってなつかしい故国《くに》へついてくるようにと、アキレウスがすすめたもので。しかしけっして彼を無理に連れてはまいりますまい」
こういうと、いあわす人々はみなひっそりと静まりかえった。(彼の話に胆をつぶして。それほどはげしく談じつけたので)長いあいだアカイアの人々は、悲しみに言葉もなくしていたが、雄叫びも勇ましいディオメデスが、やっとのことでいうようには、
「最高の栄誉をたもつアトレウスの子、武士たちの君アガメムノンよ、あの誉れも高いペレウスの子に、たくさんの贈り物をやってまで、頼まなければよかったのです。あの男はそれでなくても傲慢だのに、現在あなたはいっそうひどく傲慢にしてしまいました。しかしともかくあの男にはかまわないで、出ていこうがとどまっていようが、ほっておきましょう。あの男の胸のうちにある心が彼を奮い立たせ、神が彼を駆りたてなされば、いつでもまた戦争に出てきましょう。だから、さあ、このところは、皆さん、私のいうとおりになさいませんか。まず今は愛しい心を、食べ物や飲み物で十分に満足させてから、床につくといたしましょう。それがまた力や勇気になるのですから。だが、美しいばら色の指をした曙が、光を射しそめたならば、アトレウスの子よ、さっそく兵士や馬どもをうながしたてて、船陣の前へ向けてください、そしてあなた自身も先陣に加わって戦うように」
こういうと、なみいる領主たちも、馬を馴らすディオメデスの言葉にみな賛成をした。そしてその場は、そのまま(神々へ)神酒《みき》を献じたのち、めいめいの陣屋へ帰り、そこに身を横たえてから、眠りの遣《おく》る賜物を受けたのであった。
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ドローン(討ち取り)の段
【アガメムノン王は弟のメネラオスともども将卒を督励し、壕のところで守りを固めさせる。その夜のうちにオデュッセウスは冒険好きのディオメデスを誘って、ひそかにトロイア方の陣営を襲いに出かける。途中で敵方から偵察にやって来たドローンに出会い、彼を片付けてからなおも進んでトロイア陣へ忍び入り、トラキア王レソスの宿舎を襲って彼を殺したうえ、厩から駿馬を盗んで帰陣する】
全アカイアの軍勢の、ほかの大将たちは、船のわきで、夜どおしおだやかな眠りに身をまかせ、正体もなく寝《やす》んでいたが、ただひとり、兵士たちの統率者である、アトレウスの子アガメムノンだけは、こころよい眠りに身をゆだねず、胸のうちであれこれ思案をつづけた。その様子は、あの髪美しいヘレ女神の夫であるゼウス神がいなずまをひらめかせ、名状しがたいほどのはげしい豪雨や霰《あられ》や、あるいは雪を、降らそうと支度されるときのよう。それは田畑に吹雪《ふぶき》が散りしくときか、またははげしい合戦の巨大な顎《あぎと》をおかまえのときだが、そんな様子で、アガメムノンは胸の底から、いくどもうめきたて、心のうちで、ふるえおののいていた。
いましも、はるかにトロイアの平原を見わたせば、おびただしい篝《かが》り火《び》が、イリオスの城塞《とりで》の前に燃えさかっていて、竪笛《たてぶえ》や笙《しょう》のひびき、また軍勢のざわめきの音が聞こえてくる。それから眼を転じてアカイア軍の船陣や兵士たちのほうをながめて、彼は何度も頭髪を引きむしっては、高い天においでのゼウスを恨んで、雄々しい心にはげしくうめきつづけていた。そして結局、これがいちばんよい思案と心に考えたのは、つまり、武士のうちで、最初にまずネレウスの子のネストルを訪ねていって、ダナオイ方の総勢のため、何か災難よけのすぐれたはかりごとを、いっしょに考え出すように頼むことである。そこで起き上がって、まず胸のまわりに胴着を着こみ、つやつやしい足もとには、美しい短鞋《あさぐつ》を結わえつけた、それから今度は身のまわりに赤茶けた色の大きな獅子の皮を被ったが、それは足まで届くものだった、それから槍をつかんでいった。
ちょうどそれと同様に、メネラオスも慄《ふる》えにつかれていた、彼もまた瞼《まぶた》のうえに眠りの宿るおりもなく、アルゴス勢がひどい損害をうけはしないか、と気遣っていた、自分のために、はるばると海路をこえ、勇ましい戦いを心に描いて、トロイアまでやってきたのに。そこで彼はまず幅のひろい背中に、斑《まだら》のついた豹《ひょう》の皮を羽織って、つぎには青銅づくりの冠りものを取り上げて頭につけ、がっしりとした手に槍をとった。そして自分の兄を起こそうとして出かけてゆく、全アルゴス軍の総大将で、故国《くに》の人からは神のように敬われている兄(アガメムノン)を。さてその人と、船の舳《へさき》のところでぱったり出会った。両肩に美々しい物の具をつけた姿の兄(アガメムノン)も、来かかるこちらのメネラオスを認めると、大変うれしげな様子に見えたが、まず先に、こちら側から、雄叫びも勇ましいメネラオスが言葉をかけていうようには、
「兄上、なぜそのような武装しておいでです。味方のうちの誰かを、トロイア方へ債祭にでもお出しでしょうか。でもずいぶんと心配です、誰か一人でも、そんな仕事を引き受けようという者がありましょうか。ただ一人で出かけていって、敵軍の偵察を、しかもかぐわしい夜の間に、やってこようというのは、よほど腹のすわった大胆不敵な男でしょうから」
それにたいして、アガメムノン王が答えていうよう、
「私にもあなたにも、よい策略が入用なのだ、ゼウスの庇護をうけるメネラオスよ、ゼウスのお考えが変わったのだから、アルゴス勢と船々とを、無事に防ぎ護ってくれそうな、何か上手な工夫がいる。たぶんゼウスはヘクトルの献げる贄《にえ》に、よけいに心をお向けなさったのだ。なぜなら、これまで一人の男が、一日のあいだに、これほどのひどい仕業を、大胆不敵にもやりおおせたのは、見たことも、聞いた覚えもかつてないのだ――ゼウスが慈《いつくし》みのヘクトルが、女神の子でも、男神の子でもない身であるのに、助けもかりずに、アカイア軍へ仕掛けたほどには。そしてアルゴス勢にたいして、あとあとまでずっと影響を与えるような仕業を働いたが、まったく、ひどい損害をアカイア軍に与えたものだ。それはとにかく、さあ、これから船の並びに沿って、速く走っていき、アイアスとイドメネウスを呼び出しなさい。私のほうは、尊いネストルのところへ行って、起きるように頼んでみよう、夜衛たちの、神聖な部隊を訪ねていって、命令してはくれまいかと。あの男のいうことなら、いちばんよくきくはずだから。あれの息子が夜番の指図役なのだ、彼と、イドメネウスの介添え役のメリオネスと、この二人を、われわれはとりわけ頼りにしてきたことゆえ」
すると、これに答えて、雄叫びも勇ましいメネラオスがいうようには、
「では、その命令なり勧告というのは、どういうことですか。そのまま向うで、皆といっしょにお出でを待ったものでしょうか。それとも、よく命令を伝えたうえ、また走って戻りましょうか」
それに向かって武士たちの君アガメムノンがいうには、
「そのまま待っていてくれ。たがいに出かけていって、ひょっと行きちがってはいけないから。陣営のなかに、通り道はたくさんあることだし。だが、どこでもいいから行った先々で、呼ばわりあげ、眼を覚ますよう命令してくれ。武士たちの誰も彼もを、父親からの血筋によって名を呼びあげて、のこらず皆に栄誉を与え、けっして自分がたかぶらないよう。つまりわれわれ自身が骨折ろうではないか。そんな工合にゼウスは、われわれが生まれたときから、重い厄介な役目をさずけられたのだから」
こういって十分な指図を与えてから、弟を送り出したが、それから彼は、兵士たちの統率者であるネストルのところへいった。そしてほどなく、陣屋と黒い船とのかたわらの、柔かな臥床《ふしど》の中に、ネストルをみつけた。その側には精巧をきわめた物の具と丸い楯と二本の槍や、輝かしい四つ星のついた兜が、置いてあった。かたわらにはきらびやかな腰帯もある。この老人が、武士を滅ぼす戦いへと部下を率いて出で立つ時には、老いたりといえ、まだ惨めに衰えてはいなかったので、いつもそれを身に巻く習慣だった。そこでいまネストルは、片肘をついて半身を起こしながら、頭をもたげて、アトレウスの子に返事をし、言葉をかけてたずねるよう、
「どなたかな、そこにいるのは。他の人が寝ている時分に一人で暗闇の夜をおかして、船の間や陣中を抜けてきたかたは。騾馬《らば》をでも探しているのか、それとも仲間でも探すのか。声を出しなさい。ものもいわずにこちらへ向かって来るではない。何の用なのだ」
そのとき、これに答えて武士たちの君アガメムノンがいうようには、
「おお、ネレウスの子のネストルよ、アカイア軍の大きな誉れであるあなたは、よく知ってるだろう。ここにいるのはアトレウスの子のアガメムノンだ。この私を、ゼウス神は、誰より以上に、絶え間ない労苦に巻きこまれさせたものだ、この胸に息がかよい、この足腰がわが身をささえているかぎりはな。つまり、こうして歩きまわるというのも、気持のよい眠りが私の瞼に宿らず、戦争のことと、アカイア軍の災難とを、気に病んでいるからだ。ダナオイ方の形勢がおそろしく心配になって、気持さえもう上の空に、あれこれと思い惑っては、心臓まで胸から外へ跳び出そうとし、つややかな膝も、がくがく震えているのだ。だがもし何とかしてもらえるなら、あなたもまだ寝ついていないのだから、ひとつこれから、夜衛たちのいるところへ検《しら》べに出かけようではないか。もしや皆、疲れと眠さに襲われてすっかりのびて眠りこけ、見張りをまったく忘れていないか、たずねてみようよ。敵方の兵士らだって、そばにいるのだ、ひょっとして夜陰に乗じ、攻撃をしかけようと狙っているかも知れないから」
すると、それに答えて、ゲレンの騎士ネストルがいうよう、
「最高の名誉をお持ちのアトレウスの子、武士たちの君アガメムノンよ、まさかにヘクトルの思い通りに、全智の御神であるゼウスが、彼がいま望んでいることをすっかり、果たされるわけはありますまい。だが、私の考えでは、もしアキレウスが、あの残酷な怒りをおさえて、自分の気待を変えたならば、これよりももっとひどい心配事に、ヘクトルも悩むことでしょう。ともかくあなたについてゆこうが、ついでに他の者らも起こすことにしましょう。槍に名を得たテュデウスの子か、それとも、あるいはオデュッセウスか、または足の速い(小)アイアスか、あるいはピュレウスの勇ましい息子(メゲス)なども。だが、それより誰か出かけていって、あの二人を呼んできてはくれないだろうか、神にひとしい(大)アイアスと、イドメネウスの殿の二人を。この二人の船隊は、いちばん遠くに配置されていて、近くにはいないから。それにつけても、メネラオスは、仲好しでもあり、尊敬もしてはいるが、けしからぬ者だ。こういうとお怒りだろうが、かくさずいおう、このように寝こんでいて、あなた一人に骨折り仕事を委せておくとは。いまこそ彼が、大将たちのあいだを頼んでまわり、骨を折らねばならない時だのに。もう制止がきかない瀬戸際まできているのだから」
それに向かって、今度はまた武士たちの君アガメムノンがいうようには、
「まあご老人、いつかまた他の機会に咎《とが》めだてはうかがいましょう。彼はときには投げやりで、骨折り事に気がはいらないことも多いが、それも億劫《おっくう》に思うためとか、思慮のたりないせいではなく、私のほうをながめては、遠慮して立ち上がるのを待っているのだ。だが今度は、私よりずっと前に眼をさましていて、私のほうへ訪ねて来たのを、それを私が、いまも話に出た連中を呼びにやったところなのだ。それでは出かけよう、見張りにやった仲間たちと、門の手前で出会うだろうから。そこに集合しているように、と命じておいたのだ」
するとそれに答えて、ゲレンの騎士ネストルがいうよう、
「そういうわけなら、アルゴス勢も彼を恨みはせず、その命令にそむきもいたしますまい、指示をうけた場合も、命令を受けたときにも」
こういってから、彼は胸のまわりに胴着を着こみ、つやつやした足の下には美々しい短鞋《あさぐつ》を結わえつけた、また深紅に染めた外套を両肩のところで留め金でとめて羽織った。それは二重になって幅が広く、一面にいっぱい毛が生えていた。それから鋭い青銅を尖端に嵌《は》めた、頑丈な槍を手にとり、青銅の帷子《よろい》を着こんだアカイア軍の船陣を通っていった。そしてまず手始めに、その知恵がゼウスにもおよぼうというオデュッセウスへ、ゲレンの騎士ネストルは声をかけ、眠りから呼びさましたところ、その叫び声が、すぐに届いたので、オデュッセウスは陣屋の外へ立ち現われ、彼らに向かって、話をしかけていうようには、
「なぜこのように、かぐわしい夜だというのに、陣営を抜け、ただ一人で船のあいだをぶらついておいでなのです、何か火急の用件でも起こったのか」
すると、それに答えて、ゲレンの騎士ネストルがいうよう、
「ゼウスの裔《すえ》の、ラエルテスの子、機略に富んでいるオデュッセウスよ、まあとがめるな。大変な難儀がアカイア軍に迫っているのだ、とにかく随《つ》いて来てくれ、他の者らも起こそうから。≪引き揚げたものか、戦争をつづけたものかをきめる相談相手になる人々を、起こそうから≫」
こういえば、かの知謀にゆたかなオデュッセウスは陣屋へいって、両肩に技巧をこらした大楯を担いで、皆といっしょに出かけていった。さて一同は、テュデウスの子のディオメデスのところへ行くと、彼が陣屋の外で、武装したまま、横になっているのに出会った。その両側には家の子らが眠っていて、頭の下には楯を敷き、そばには槍がまっすぐに石突きを下に突き立てられてい、青銅の穂は遠くまで、父神ゼウスのいなずまのように輝いていた。だが英雄は眠っていて、その下には野牛の皮を敷きつめ、頭のところには、美しい毛氈《もうせん》がのべてあった、そのそばへゆき、ゲレンの騎士ネストルは、土足をかけて揺り動かして眼を覚まさせ、叱りつけて激励した。
「眼を覚ませ、テュデウスの息子よ、なぜ一晩じゅう寝こんでいるのだ。知らないのか、おまえは、トロイア軍が、平野の中へ突き出た丘に、味方の船のすぐ間近に、陣取ってるのだ、もう両軍を隔てる場所はわずかなのだぞ」
こういうと、彼は眠りから覚めてとび起き、ネストルに、翼をもった言葉をかけて、
「まったくあなたは、いよいよ元気なかたですね、ご老人よ、骨折り仕事もてんでおやめにならないとは。もっと若いアカイア人の息子たちが他にいないとでもいうのですか、これから四方八方へ出かけていって、領主たちを一人一人起こしてこようという者どもが。まったくあなたは手がつけられない」
それに向かって、今度はゲレンの騎士ネストルがいうようには、
「いかにも、息子よ、おまえの言葉はいちいちもっともだ。いや私には立派な子どもが何人もいる、また兵士どもも大勢いて、その誰でもが、出かけていって呼び起こしてくれよう。だが、アカイア軍には危急の事態が迫っているのだ。いまこそまったく、われわれみなが、剃刀《かみそり》の刃にかかっているも同然、アカイア軍が無残な破滅におちいるか、それとも生きながらえるかの瀬戸際なのだから。さあ、出かけていって、足の速いアイアスと、ピュレウスの息子(メゲス)を起こしてきてくれ、おまえは私より若いのだから、もし気の毒と思ってくれるなら」
こういうと、ディオメデスは、両方の肩に赤茶色の大きな獅子の皮の、足までたっぷり届くのをひっかけて、手には槍をとった。そして英雄は出かけていき、その人たちをかしこから起こして連れてきた。
さて一同が、夜衛の者らの集まっているところへ行き仲間にはいると、警備の指揮をとる人たちは、寝こんでいずに、眼を覚まして、しかも物の具に身をかためて坐っているのが認められた。そのありさまは、ちょうど犬どもが、中庭で羊の群れをかこんで骨の折れる見張り番をしているようだった。荒々しい野獣が、森をくぐって、山々のあいだをやって来るのを聞きつける。そんな犬どものように、不吉な夜を見張りつづけて、こころよい眠りは、この人々の眉根から消え失せていた。それもひとえに、トロイア軍が往来する物音を聞くたびに、そちらのほうの平原へと身を構えていたからだった。その様子を見て、老人は大いによろこび、言葉をかけて元気づけ、彼らに向かって声をあげて、翼をもった言葉をかけ、
「これからもそんな調子で、親しい子らよ、見張りつづけろ、けして眠気にとらえられるな、われわれの敵を喜ばせないように」
こういって、塹壕を抜け出してゆくと、その後に、相談相手に呼び出されたアルゴス勢の大将たちもついていった。それといっしょにメリオネスや、ネストルの立派な息子(アンティロコス)も出かけていった。さて、掘りあげた塹壕を渡り、外へ出てから、何もない野天へいって、みな腰をおろした。そこからたくさんの屍が倒れている地帯がはっきり見渡せた。その場所こそは、夜がすべてを蔽いかくしたときに、勇猛なヘクトルがアルゴス軍を殺傷するのをやめて引き上げた地点であった。その場所に腰をおろして、たがいに言葉をかわしあったが、まず一同の先に立ち、ゲレンの騎士ネストルが話をはじめた、
「おお仲間の人たちよ、どうだな、それこそ大胆に、自分の気力だけをたのんで、意気のさかんなトロイア方の陣中へ出かけようという者は、誰かいないか。そして、いちばん端にいる敵の部隊の誰かなりとらえてくるか、トロイア方の兵士の間に流布している噂を聞いてくるのだ。あいつらが、どんな謀議を内々でこらしているか、このままここで、城から離れて、船のかたわらに陣取っているつもりなのか、それとも、アカイア軍をさんざん敗ったからは、城内へ引き上げるつもりなのか。こういったことを残らず探ったうえで、またわれわれのところへ無事に帰って来るなら、その男の誉れこそは、この天下、人間世界中にとどろきわたろうし、また褒美も立派なのを得られよう。つまり、船団を率いて来ているほどの大将がたは、のこらずそれぞれ彼に黒い牝山羊を、それも仔羊を抱えたやつを贈るだろうから。それとくらべられる身代は、他にはないだろう。またいつも、饗宴の席にも、祝いのおりの馳走の宴にも、招待されようしな」
こういうと、一同全部、固唾《かたず》をのんで静まりかえった。その人々に向かって、雄叫びも勇ましいディオメデスがいうよう、
「ネストルよ、私の勇気と、誇らかな意気ごみとが私をうながして、近くにある敵陣へ、しのびこめと奮い立たせる。ところで誰か、もう一人一緒に来てくれたら、心丈夫でもありますし、大胆にもなれようと思うのです。二人でいっしょに出かけてゆけば、たがいにすばやく様子をうかがい、都合のいいよう工夫ができる、だが一人では、たとえ気がついても、とかく不行届きで、計略も、手薄なものになりがちですから」
こういうと、大勢の者が、ディオメデスについていこうと申しでた、そのうちには二人のアイアスがあった、二人ともに軍神アレスの従者である。それにメリオネスも志願すれば、ネストルの息子もとくに頼んで志願をする。アトレウスの子の、槍の名手のメネラオスも参加を望めば、辛抱づよいオデュッセウスもトロイア軍の陣中に潜行したいと望んで出た、というのも、心に、いつも冒険を好んでいたので。その人々のあいだに立って武士たちの君アガメムノンがいうようには、
「テュデウスの子のディオメデスよ、おまえはよくよく私の気に入った者だ。では誰なりと、望みの者を仲間に選ぶがよかろう、志願者中での最適任者を。行きたがるのは大勢いるから。心中に遠慮をして、適当なものを置いていったり、また家柄を見て、こちらのほうが位が高いなど考え、情誼に負けて、不適任者を採用してはなるまい」
こういったのも、つまりは亜麻色の髪のメネラオスのために心配したからだった。その人々にたいし、ふたたび雄叫びもいさましいディオメデスがいうよう、
「もし本当にあなたがたが、私に自分で連れをえらべといわれるならば、どうして神々しいオデュッセウスを忘れることができましょう。彼の心は、どんな骨折り仕事にも、ことのほか熱心でして、とくに雄々しいしい気象のうえに、パラス・アテネのお気に入りです。このかたがついて来るなら、たとえ燃えさかる火の中からでも、二人とも無事に戻れましょう、ひとにすぐれた分別をお持ちですから」
それに向かって、今度は辛抱づよく勇敢なオデュッセウスがいうようには、
「テュデウスの子よ、まあそんなに私を褒めも咎めもしてくれるな、それはもう十分によく知っているアルゴスの人々の間で、あなたは話しているのだから。それよりも、さあ出かけよう、夜もはや相当|更《ふ》けて、暁も近いぞ。星々も、あのようにめぐりを進めて、おおかた夜は過ぎかけている、その三分の二は終わってしまい、三分の一だけが残るばかりだ」
こういって、二人は恐ろしい物の具に身をかためた。まずテュデウスの子ディオメデスには、戦いには退くことを知らないトラシュメデスが、両刃《もろば》の鋭い短剣と――自分のは船のところに置いてきたので――楯とを貸してやった。そして頭のぐるりには、牡牛の皮でつくった兜をかぶった。それには金属《かね》の鉢もなければ、飾り毛もなく、皮烏帽子《カタイテュクス》と呼ばれるもので、血気さかんな若者の頭を護るのに用いられていた。一方、メリオネスは、オデュッセウスに弓とあわせて箙《えびら》と剣とを渡してやった。そして頭には、皮でつくった兜を冠せた。その兜の内側にはたくさんな皮の紐が、頑丈にひきまわしてあり、外側にはまた輝く牙の猪の、白い牙が隙間なしに、こちら側にも向こう側にも、きれいに工合よく植えこまれて、まんなかにはまた毛皮がつけてあった。
これは以前に、エレオン〔ボイオティアの町〕から、オルメノスの子アミュントルの用心堅固な屋敷に忍びこんで、アウトリュコスが盗んできたものだった。それをスカンディア〔ラコニア海岸のキュテラ島にある町〕に送って、キュテラのアンピダマスに与えたのを、アンピダマスがモロスに土産として与え、それを今度は自分の子のメリオネスに、被るようにと渡してやった、それが、とうとうこのとき、オデュッセウスの頭上に置かれ、しっかりはまったわけであった。
さて二人は、恐ろしい物の具を身につけてしまうと、大将たちを全部そこに残して、出発した。この二人のために、パラス・アテネが、道のすぐかたわらの右手のほうに、五位鷺《ごいさぎ》をおよこしだった。暗い夜の間をとおして、二人の目にははっきり見えなかったが、鳴き叫ぶのを聞きつけたとき、その鳥占《とりうら》にオデュッセウスは喜んで、アテネ女神に祈るようには、
「お聞きください、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウス神の御娘よ、いつも、あらゆる骨折りごとにつけて、私を助けてくださいまして、身の進退もあなたさまにはすべて分明でしょうけれども、いまこそアテネよ、恵みをお垂れください。トロイア軍を悩ませるほど大きな手柄をたてましたうえ、橈架《かいかけ》もよい船へと私を、無事に帰り着かせてくださいませ」
それにつづいて、また雄叫びも勇ましいディオメデスも祈っていうよう、
「お聞きください、今度は私の祈りも、ゼウスの御子のアテネ女神よ、どうかいっしょに来てくださいませ、そのむかし私の父の勇ましいテュデウスと、いっしょにテバイへいらしたように。彼がアカイア勢の先ぶれの使者に立ったときのことです。青銅の帷子《よろい》を着たアカイア勢とは、アソポスの流れのそばで別れまして、その後に、カドモスの市人《まちびと》たちのところへと、和議の提議をもってゆきましたが、その帰り道に、あなたのお助けで、とても残酷な仕事をやり遂げたのです。あのときのように、いまこそすすんで私のそばにおいでになって、お護りください。私としては御神へ、一歳仔の牝牛の、額もひろく、まだ訓練もしていない、軛《くびき》の下にまだつけられたこともないのを、奉納しましょう。しかもその角のぐるりに、黄金《きん》をきせて捧げましょうから」
こう二人が祈っていったのを、パラス・アテネはお聞きになった。さて彼らは、ゼウスの娘アテネ女神に祈りをささげ終わると、出かけていった。その様子は、さながら二頭の獅子をみるように、闇夜をおかし、殺戮《さつりく》のなかを、屍のあいだを、物の具と黒い血潮のあいだをぬって、進んでいった。
だが、どうして、ヘクトルとても、ことに勇み立つトロイア軍を眠らせておくことはせずに、主な大将たちと、トロイア方の引率者また統治者といわれる者らを残らず呼び集めた。そして皆が集まったところで緊密な会議を開いていうようには、
「誰か、この仕事を引きうけて、やり遂げる者はいまいか、莫大な褒美をやるから。その報酬は十分に満足のいくはずのものだ。まず褒美としては戦車を一台、それに頸を高くもちあげた馬を二頭、それもアカイア勢の速い船々のそばにいる中で最上の馬を、誰でも大胆にやった者に与えよう。しかもその男自身の名誉にもなる仕事だぞ、それはすなわち、進みの速い船団のすぐそばまでいって、情勢を探り出してくる役目なのだ。以前のとおりに、速い船を、皆で見張っているのか、それともわれわれに手ひどく敗かされたために、すっかりまいって、もう逃げ出すことを、皆で寄って相談しているか、また恐ろしい疲れにうちのめされて、夜じゅう見張りする気力もなくしてしまっているかを」
こういうと、人々はみな固唾をのんで、黙りこくった。さて、トロイア軍に、神聖な伝令の役をつとめるエウメデスの息子で、ドロンという男がいた。金持で、青銅持ちの、姿こそは見苦しいが、足はすばしっこい男だった。彼は五人の姉妹のあいだの一人息子だったが、それがこのとき、トロイアの人たちとヘクトルに向かっていうよう、
「ヘクトルよ、私の勇気と誇らかな意気ごみとが私をうながし、進みの速い船々の間近にいって、探り出すようにすすめるのです。ですからさあ、その笏杖を挙げて、誓ってくださいませ、本当に、その馬どもや、青銅で飾った戦車などをくださいますか、人品すぐれたペレウスの子の乗用の戦車をです。私はけして役に立たない偵察はしてきますまい、また見こみちがいもいたしますまい。というのは、一目散に敵陣へと、アガメムノンの船のところへ着くまで、どんどんと進んでゆきます。おおかたそこで、主だった大将たちが相談してるに違いありませんから。逃げ出したものか、戦さをつづけようかといって」
こういえば、ヘクトルは笏杖を手に取り上げて、彼に誓っていうようには、
「いまこそゼウスがご自身から、証《あか》してください、高らかにとどろくヘレの夫の神さま。けしてその馬へは、トロイア方の他の者を乗らせはすまい。ただ、おまえだけが、いつまでもしじゅうそれを誇りにすることだろう」
こういって、空しい誓言をつけ加えて、その男を激励した。するとすぐさま、ドロンは、肩のまわりに曲った弓を投げかけてから、外側には灰色の毛の狼の皮をまとって、頭には鼬《いたち》の皮の烏帽子《えぼし》をかぶり、鋭い槍を手にたずさえて、さて、味方を離れて敵の船陣へと出かけていった。だがその船陣からまた戻ってきて、ヘクトルに報告することはできなかった。
ともあれ、いよいよ、味方の車馬や兵士の群れやをあとにして、一心不乱に道を急いで歩いてゆくうち、ゼウスの裔なるオデュッセウスが、進んでくるその姿を認めて、ディオメデスに向かっていうよう、
「ディオメデスよ、誰か敵陣のほうから来る男があるぞ、われわれの船陣へ様子を探りに来るものか、それとも息の絶えはてた屍から(物の具を)はぎとりにきたかは知らんが、さしあたりこの原のところで、私らのそばを、ちょっとばかりやりすごそう。それから不意に跳りかかって、あっという間に、あいつをとっつかまえてやるとしようよ。もし足が速くて、われわれから逃げのびたにしろ、そのときは、船のほうへ船のほうへと追いこんでいくことになる。だから、槍で突っかけて、うっかり城塞《とりで》のほうへと逃げのびないようにするのだ」
こう二人はいいあって、通り道から横へそれ、屍のあいだに身を伏せると、ほどもなくドロンは、不用心にも急いでわきを駆け抜けたが、ちょうど騾馬《らば》が一息で、畑を鋤《す》く距離ほどだけ隔ったときに――それも騾馬というのは深い耕地を、木のつけ合わせた鋤をひくのには、牛よりもずっと役に立つのだが――二人がいきなり駆け寄ったので、男はその物音を聞きつけて立ちどまった。というのは、トロイア軍からヘクトルの気がまた変わって、その指図により、仲間の者が、呼び戻しに来たのかと、心のうちで思ったからだった。
だがいましも、もう少しそば近くまで寄って来たとき二人が敵の武士《さむらい》なのに気がつくと、足をかぎりに一目散に逃げようとすれば、二人は急いで、後から追って駆けだしていった。その様子はさながら、ぎざぎざした歯の、猟にも十分経験のある二匹の犬が、若鹿か、あるいは野兎を追いかけて、一心不乱に樹の繁みを駆け抜けると、獣はうめきながら先へ先へとはしる、ちょうどそのように、テュデウスの子と、城市《まち》をおとすオデュッセウスは、軍勢からその男を切りはなして、一心不乱に追いかけていった。
だがまさに、船のほうへと逃げていって、見張りの者の群れにはいってゆこうというとき、そのときアテネが気力をテュデウスの子に打ちこんで、青銅の甲冑を着けたアカイア勢の誰かが先に彼を仕止めて、彼が二番手にならないようおはかりだった。そこで槍を手に持ちとびかかった剛勇のディオメデスがいうようには、
「こら待て、さもないと槍で突くぞ、おまえが、私の手からけわしい破滅をそう長いあいだ免れることができるはずはないのだ」
こういって、槍を投げたが、わざと男にはあてなかった。よく磨かれた槍の穂先は右のほうへ肩をかすめて飛んでゆき、地面にささったもので、男はたまげて立ちどまった。膝をわなわなとふるわせ、歯の根も合わず、顔はおそろしさにまっ青になっていた。そこへ二人は息を切らして追いついて、手をかけてつかまえた、すると男は涙をこぼしていうよう、
「生け捕りにしてください、自分で身代金を払いますから。家には青銅も、また黄金も、たくさんの人手が要る鉄もあります、その中から数え切れないほどの償金を、父はあなたにさし上げましょう、もし私が生きながらえて、アカイア軍の船陣にいると聞けば」
それに答えて、知恵のゆたかなオデュッセウスがいうようには、「安心しろ、けして死ぬことなど気にかけるにはおよばぬ、それよりもこのことをはっきりいって教えてくれ。どうして味方の陣からアカイア軍の船陣に向かってたった一人で、ほかの人間が寝ている時分に暗闇の夜をやってきたのか。息の絶え果てた屍のどれかを、はごうとしてきたのか。それともおまえをヘクトルが、うつろに刳《く》った船のところへ、仔細に偵察しろと遣わしたのか、それとも自分でやってきたのか」
それに答えて今度はドロンが、足もとの膝もふるえて、
「たくさんなでたらめをいって、ヘクトルが私の心を誘惑し、とんでもない方向へ引きこんだのです。というのも、勇ましいペレウスの子のアキレウスの単《ひと》つ蹄《ひづめ》の馬どもを、青銅で精巧に飾り立てた戦車といっしょにくれるとうまく約束してから、足の速い闇夜をおかして、敵軍の兵士たちのすぐそばまでいって、偵察して来い、と命じたのです。速い船々を以前のとおりに皆で見張っているか、それともわれわれの手にかかって打ち負かされ、逃げ出そうと、皆で寄って相談しているか、それでもう恐ろしい疲れにうちのめされて、夜の見張りもする気が失せたか、を」
それにたいして笑いかけながら、知恵にゆたかなオデュッセウスがいうようには、
「いやまったくおまえはたいした褒美をもらおうとしたものだな、勇猛果敢なアイアコスの裔(アキレウス)の馬を望んだとは。死ぬはずの人間どもが、そいつらを馴らしたり、車をひかせたりするのは、よほど骨が折れよう、不死である神の母から生まれたアキレウスだけは、ともかく別だが。それよりもまず、私にはっきりと教えてくれ、ここへ来るとき、どこでおまえは、兵士たちの統率者であるヘクトルに別れたのか、どこに彼の戦さの道具は置いてあるのか、馬どもはどこにいるのか、ほかのトロイア方の張り番所や寝所は、どうなっているのか。彼らはひそかに、どんな謀議をこらしているのか、このまま城から遠くはなれて、あの場所、つまり船のかたわらに、とどまっているつもりなのか、それともアカイア軍を破ったからは、城市《まち》へ引き上げていくつもりか」
それに向かって今度は、エウメデスの息子のドロンがいうよう、
「はい、ではこれから私が、いちいちはっきり申し上げます。ヘクトルは、いつも相談の相手をつとめる者たちといっしょに、聖《とうと》いイロスの墳《つか》の付近で、会議を開いているところです、騒ぎの音から離れたところで。でも、殿さまがおたずねの張り番などは、何も格別、陣営に、護衛も見張りもつけてはありません。もとよりトロイア方の焚く篝火《かがりび》は、たくさんありますが、みなやむをえずに、眼を覚ましあって、見張りをするように励まし合っているわけですが、諸国から呼び寄せられた救援軍のほうは、トロイアの人々に、見張りのことはまかせてしまって、ぐっすり眠っております。べつに彼らは、妻子が間近に住んでるのではないものですから」
それに向かって、知恵にゆたかなオデュッセウスが答えていうよう、
「ではどうだ、その者どもは、馬を馴らすトロイア勢と、入れまじって眠っているのか、それとも別か、よくわかるようにくわしく申せ」
それに答えて今度は、エウメデスの息子のドロンがいうよう、
「はい、ではこれから私が、いちいちそれもはっきりと申し上げましょう。まず海寄りには、カレスの軍勢と、曲った弓をもつパイオネス、そのつぎにはレレゲスにカウコネスに、勇敢なペラスゴイ勢がおります。またテュンブレ寄りにはリュキア勢や、すぐれた兵士のミュソイたち、騎馬で戦うプリュギア勢や、馬の毛を兜につけたメイオネスが占めております。
しかし、いったいなぜそんなことを、いちいちお聞きですか。もし本当にトロイア方の陣中に忍び入ろうとお望みなら、そこのところに新しく来たトラキア勢が、いちばん端に、他から離れて陣取っています。その王はレソスと申し、エイオネウスの息子ですが、そのお持ちの馬こそ、私が見たもののうちいちばん立派な、たいした逸物《いちもつ》です。しかも雪より白い毛並みに、はしれば風と同じほどな速さでもって、車駕《くるま》といえば、黄金《きん》や白銀《ぎん》で立派に飾りつけられてい、武具一式も黄金づくりの、目をみはらせるばかり、すばらしいのを持ってきました。それはまったく、死ぬはずの人間などが身につけるには、もったいないくらいのもので、不死である神々さまにこそ、似つかわしいでございましょう。ともかくもこれから私を、進みの速い船のところへ連れていくか、それとも容赦なく縄で縛って、そのままここへ残していってくださいませ。お二人で出かけていらして、私の申したことが事実にちゃんと合っているか、それともちがうか、調べてごらんなさいまし」
それを上目づかいに睨んで、剛勇のディオメデスがいうようには、
「ドロンよ、よい知らせを教えてくれたが、私の手に一度はいったからは、もうけして逃げようなどとは思うな。なぜなら、もしおまえをいま解きはなして返そうものなら、きっとあとあとになり、様子をくわしく探ろうとか、あるいはたがいに力をふるって戦おうなどと、アカイア軍の速い船へとやって来るだろう。だがもし私の手にかかって命をここにおとしてしまえば、もはやおまえが、アルゴス勢に迷惑をかけることはあるまい」
こういうなり、その男が、頑丈な手を彼の顎《あぎと》へとさしのべて、すがりつこうとするのを、剣を抜いて躍りかかって、頸筋のまんなかを打ち、つけ根の腱を両方とも切り離すと、まだ物をいってるうちに、男の首は、砂塵の中にころげ落ちた。その頭から鼬《いたち》の皮の兜をはがし、また狼の皮や反らせて張った弓や槍など、みな取り上げると、勇敢なオデュッセウスは、それを獲物の司《つかさ》アテネへと、手に高々とさし上げながら、祈願をこめて呼びかけるよう、
「これらの物をお納めくださいませ、オリュンポスにおいでの、あらゆる不死の神々のうち、まず第一にお助けをこそ願いましたので。それで今度もまたどうか、トラキア勢の武士たちの、馬どもや寝所のある場所へご案内ください」
こういうと、自分から高々とそれを捧げて、川柳の繁みの上へ置き、それへすぐわかるように、目印として、葦の葉やよく繁った川柳の小枝を、折りあつめて載せておいた――進みの速い闇夜をおかして、かえってくるときに、見逃さないようにである。それから二人はなおも進んで、物の具と血糊とにみちみちた場所を通って、ほどもなくトラキア勢の兵士たちの、部隊へとたどりついた。まだ敵勢は、疲れきって、ぐったりとして寝入っていた。立派な物の具をそれぞれ自分のわきに、順序よく三筋に並べておいて、めいめいのかたわらには一番《ひとつがい》の馬が立っていた。(大将の)レソスはそのまんなかに眠っていたが、そのかたわらには、駿足の馬が、戦車のへりのいちばんはしから、皮紐で繋いであった。その姿をオデュッセウスがまず認めると、ディオメデスにさし示して、
「そら、ディオメデスよ、あれが例の男、あれがその馬だよ、さっき殺したドロンが話して聞かせた者どもなのだ。さあひとつ、出かけていって、たくましい武勇を現わしてくれ。どうにもおまえが、物の具をつけながら、だらしなく突っ立っているという法はないから、馬でも解けよ。それとも、おまえのほうが兵隊どもをやっつけてくれるか、そしたら私が馬は引きうけようが」
こういうと、きらめく眼の女神アテネが、ディオメデスに勇猛心を吹きこんだので、彼はあたるをさいわいこなたかなたと切りまくった。それで、剣に打たれる者らの無残なうめきが湧き上がって、大地は血潮で紅《くれない》に染まった。そのありさまは、ちょうど獅子が、番人のいない家畜の群れを襲いかけて、山羊の群れ、あるいは羊の群れに、害意をもって跳りかかる、そのように、テュデウスの子はトラキア勢の兵士らへとかかってゆき、十二人まで殺していった。一方、知恵のゆたかなオデュッセウスは、テュデウスの子がそばへ寄って剣で殺した兵士の屍を、いちいちうしろのほうから足をつかまえて曳きずり出した。というのは、心のうちで思案をして、たてがみのみごとな馬が、つまずかずにやすやすと、外へ出られるようにと、また屍の上を踏んで歩いて、脅《おび》えてはなるまいと考えてそうしたのである。これらの馬は、まだ屍には慣れていないので。
だが、いよいよテュデウスの子は、十三人目の男として、王のところまでやって来て、おりからはげしくあえいでいたその人のたのしい命《いのち》を奪い去った。凶《わる》い夢が、王の枕に立ったためだったが、≪その凶い夢こそ、その夜に、オイネウスの後裔なるディオメデスよ、アテネ女神のたくらみによるものだったのだ≫その間に、辛抱づよいオデュッセウスは単つ蹄の馬どもを解いて、皮紐でいっしょにつなぎ合わせてから、弓でたたいて脅かしつけ、陣中からつれ出していったが、王の精巧をこらした戦車の、きらきら光る皮鞭を、その手に取ろうとは思わなかった。そしてこのとき、口笛を吹いて、勇敢なディオメデスに合図を送った。
ところが、ディオメデスはそのまま踏みとどまって、いろいろと考えつづけていた。何か大胆不敵なことをしてやろう、ひとつ戦車でも奪ってやるか、見れば立派な物の具が載っかってるが、その轅《ながえ》を取って引き出そうか、それとも担ぎ上げて運び出すか、それよりも、なお大勢のトラキア勢の命をとろうか、と。このように思い惑っているおりから、アテネ女神が、すぐそばに来て立ちどまり、勇敢なディオメデスにいうようには、
「さあさあ、帰りのことを考えなさい、豪胆なテュデウスの子よ、うつろに刳《く》った船陣まで、追い立てられて、逃げ帰るのではよくないから。ひょっとして、また、他の神さまでも来て、トロイア勢を呼び起こしてはいけないだろう」
こういうと、ディオメデスは女神の声を識りわけて、すぐさま馬にまたがって乗ると、オデュッセウスが弓で打つのに、馬どもは、アカイア軍の速やかな船陣さして駆っていった。
しかし、銀弓の神アポロンとて、けして盲目《めくら》の見張りをしていたわけではない。アテネ女神が、テュデウスの子の世話をやくのを見つけると、女神にたいして腹を立て、トロイア方の軍勢へとはいりこみ、トラキア勢の指揮をとるヒッポコオンを呼び起こした。レソスの立派な従弟《いとこ》にあたる、その男が眠りからはね起きて見ると、はや駿足の馬どもが立っていた場所は空になり、兵士らさえ無残にも朱《あけ》にそまってあえいでいるのに、一声あっとうめくと共に、親しい友の名を呼ばわった。それからトロイア軍が、相たがいに呼びかわして集まる叫びの声や、いいようもない騒ぎの音がわきおこった。そして(アカイア方の)武士たちが、うつろな船へ帰るまえに、やりおおせた惨憺たる所業を見て胆をつぶした。
それから二人は、さっきちょうど、ヘクトルの斥候を殺した場所にやってきた。そこでゼウスがおんいとしみのオデュッセウスが、駿馬の手綱を引きしめると、テュデウスの子は地面に跳び降りて、血にまみれた物の具を、オデュッセウスの手に渡してから、また馬に乗って、鞭をあてた。二匹の馬は逆らわずに、命令《いいつけ》のまま馳《はせ》っていった、≪うつろに刳《く》った船々へと――そこへ行くのが、馬どもにも好ましかったので≫するとネストルがまずいちばんさきに、物音を聞きつけて、声をあげるよう、
「おい、仲間の者たち、アルゴス勢の指揮をとり、采配を振る人々よ、私の言葉はまちがっているかな、それとも本当だろうか、いわずにいられない気持だが。足の速い馬どもの、蹄の音が耳にひびくのだ。もしあれが、オデュッセウスと剛勇のディオメデスが、トロイア軍の陣地から単つ蹄の馬どもを、こんなに早く、はしらせてくる音だといいが。だが恐しく気にかかるぞ、アルゴス勢の中でも、選り抜きの武勇の者が、ひょんな目にあったのではないか、トロイア方がああ大騒ぎをしているのは」
こういい切らないうちに、二人はもう姿を現わし、さっそく地面へ降りたつと、人々はみな喜び勇んで右手をさしのべ、また慶祝の言葉で迎えた。まず最初にゲレンの騎士ネストルがたずねるよう、
「さあいってくれ、アカイア軍の大きな誉れの、音に聞こえるオデュッセウスよ、あなたがたが、どのようにしてこの馬どもを奪ってきたか、トロイア方の軍勢の中にはいりこんでか、それとも誰か神さまにでも出会って、もらったものか、恐しく太陽の光の矢にも似かよった神さまから。いつも私はトロイア軍と合戦しているし、これまでも船のかたわらで、けっしてぐずぐずしていたことはないと思う、年老いた武士だがな。それでもかつて、これほどの馬は見かけたこともないし、会ったこともない。だから、誰か神さまが、あなたがたに出会って、それをくれたにちがいなかろう。あなたがたは二人とも、群雲を寄せるゼウス神にも、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウスの御娘、きらめく眼のアテネにもお気に入りだから」
それに向かって、知恵に富んでるオデュッセウスが答えていうよう、
「おお、ネレウスの子のネストルよ、あなたはアカイア方の大いなる誉れだが、いかにも神さまならば、御心のまま、ずいぶん容易に、これより立派な馬をさえ、授けてくだされましょうな、われわれよりもずっと力のすぐれた方たちですから。だが、ここにいる、このおたずねの馬どもは、ご老人よ、トラキアからまだ着きたての、その持ち主を、勇ましいディオメデスが、そのほか十二人の立派な武士といっしょくたに、殺したものです。十三人目としては斥候の男を、船陣の近くでつかまえましたが、そいつはむろん、わが軍の様子を探りに、ヘクトルやその他の高邁《こうまい》なトロイア人らが、さし遣わした者なのでした」
こういって、塹壕の上を、からからと笑いながら、単つ蹄の馬どもを追い渡していった。他のアカイア勢も喜び勇んでついてゆくうち、一同はやがてテュデウスの子の丈夫に造った陣屋に着き、馬どもを、上手に裁《た》たれた皮紐で、飼葉小屋に繋ぎとめた。そこにはディオメデスの前からもっていた駿馬たちが、蜜の甘さの麦粒を食《は》みながら、たたずんでいた。いっぽう、オデュッセウスは、アテネへのお供え物にしつらえさそうと、ドロンからはいだ血まみれの物の具を、船の艫《とも》に置いた。そして二人とも、自分自身は海へはいって、たいへんな汗みずくを肌元から洗い落すと、いとしい心はさっぱりとよみがえってきた。それから磨きあげた浴槽にはいって風呂を使い、体を浄《きよ》めた。さて二人は、風呂から出て、ゆたかなオリーブ油を体に塗ると、昼餉《ひるげ》の座につき、いっぱいはいった混酒瓶《クラテール》から、アテネ女神へと、蜜の甘さのぶどう酒を献げ、汲んではそそいだ。
[#改ページ]
アガメムノンが武勇をふるう段
【夜が明けるとアガメムノンは武具を身に着け、出かけて士卒をはげまし敵将を討ち取るあいだに、コオンのため腿を突かれ負傷して退く。代って出たディオメデス、オデュッセウスや、医術に長じたマカオンらも負傷した。ギリシア方の動揺をはるかに認めたアキレウスは、親友パトロクロスをやって様子を見させる。憂色の濃い名将ネストルは、パトロクロスに出会うと、アキレウスの出陣を頼み、それが不可能なら、せめて代りにパトロクロスを部下の兵ともども、救援に遣わすよう、と申し入れる】
いま暁の女神は闇から、誇りも高いティトメスのかたわらから、不死である神々と人間たちに光をもたらそうと、起き上がった。そのときゼウスは、闘争《エリス》の女神を、アカイア軍の速い船へと派遣してやった。厳《きび》しい女神は、戦争の表徴《しるし》を両手にささげ持って、オデュッセウスの、大きなうつろな黒塗りの船のところに立ちどまった。それはその船が、ちょうど全陣営のまんなかにあったもので、両側に声が届くようにと考えたからである。いっぽうは、テラモンの子アイアスの陣屋のほうまで、もういっぽうはアキレウスの陣屋まで聞こえるように。
この二人は、それぞれ自分の武勇と膂力《りょりょく》とをたのみにして、よく釣合いのとれた船々を、いちばん端に上げておいた。そこへ来て、女神は大きな恐ろしい音声《おんじょう》で鬨の声をあげ、アカイア軍の人々の胸の一つ一つに、絶え間なしに戦さをつづけ、闘い合うようにとの、はげしい気合いをかけてやった。すると彼らには、たちまち戦争のほうが、中のうつろな船に乗って、なつかしい故郷に帰るよりも、楽しいことになった。
さてアトレウスの子(アガメムノン)は大声あげて、アルゴス勢に武器を取れと命じ、自身もきらめく青銅の帷子《よろい》を着た。まず最初には脛《すね》へ、白銀のくるぶし金具をしっかりつけた立派な脛当てをあてがってから、その次には胸のまわりへ、胸甲《むなよろい》をとって着た。これは以前に(キュプロスの王)キニュレスが友好のしるしにと贈ったもので、アカイア勢がトロイアへ、船を連ねて遠征するとの噂が高く、キュプロス島まで伝わって、彼の耳にはいったときに、機嫌を取り結ぼうと贈ってよこしたものであった。
そのおもてには、十本の黒ずんだ群青《ぐんじょう》の条《すじ》と、十二本の黄金の条と、二十本の錫《すず》の条とがはいっていて、青色のうわばみが、首筋に向かって両側から、三匹ずつ身をもち上げている様子は、まったく虹のようだった。あのクロノスの子(ゼウス)が雲の間に、言葉をもつ人間どもへ、前兆としてお示しなされる虹のように。また両肩には剣を投げかけたが、それには黄金の鋲が、いくつもまばゆくきらめいていた。一方、これにかぶせる鞘といえば、白銀づくりで、黄金の吊り金具がつけてある。それから体を蔽うばかりの、巧みをきわめた、ものものしい大楯を取り上げた。そのみごとな楯のおもてには、青銅の十本の輪がめぐっていた。またそれには、錫でつくったまっ白な二十の臍《ほぞ》と、中ほどには黒い群青の臍がついていた。
楯の尖端にはこれをめぐって、見るもすさまじいゴルゴンの首が、おそろしい眼つきをしている。そのへりには「恐怖」だの、「潰走」だのの模様がついてい、はしからはまた白銀づくりの提げ皮が垂れていた。しかも上には群青の大蛇が、とぐろを巻いてる迫持《せりもち》があって、その大蛇は、一つの頸から生えた三つの頭を、両側へとくねらせていた。また頭《かしら》には、両側に角が生え、四つの星のついている馬の尾飾りの兜を被ると、上から垂れてなびく立毛がものすごかった。それから、穂先に青銅を嵌《は》めた、二本の見るからに手ごわい槍を取れば、鋭い穂先からは青銅が、はるか遠くの空まで輝き渡った。そしてアテネとヘレ(女神)が、黄金にゆたかなミュケネの王アガメムノンに、誉れを与えるしるしにと、かみなりをとどろかせた。
そのとき、大将たちは、それぞれ自分の馭者に、もういちど、順序よく壕のそばに馬をつないでおくように命じておき、自分は徒歩《かち》で、物の具に身を固めてから、駆けつけると、明け方早くも、消しようもない雄叫びの声が、湧き上がった。そして馭者よりもずっとさきに、壕のところで戦列を整えれば、馭者たちは少し遅れてやってきた。その間にクロノスの御子は、いまわしい動乱を掻き立てて、高い空から、血にびしょぬれた露のしずくを降らせた。またこれから、勇ましい兵士らを、しかも大勢、冥王の府へ送ろうとしていたからである。
話変わってこちら側では、トロイア勢が、野原の高みに、丈の高いヘクトルや、人柄のすぐれたプリュダマス、あるいはトロイア人全体に神のごとくに敬われていたアイネイアス、それから三人のアンテノルの息子たち、すなわちポリュボスと、勇ましいアゲノルと、不死である神にも比すべき若武者のアカマスとをとり囲んでいた。
その先陣の中に立って、ヘクトルが、釣合いのよい楯を持った姿は、さながら雲の間から、妖《あや》しい星〔天狼星シリウスを指す〕がぎらぎらと輝きわたって姿をみせたり、影くらい雲のあいだに隠れたりするにも似ていた。そのようにヘクトルは、先陣の隊の間に現われたり、しんがりの手勢をはげましたりして、体にはくまなく青銅の物の具をまとい、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウス父神のいなずまのように、ひらめきわたった。
さて両軍は、さながら麦を刈る人々が、両端からたがいに向かい合って進み、小麦や大麦の畝《あぜ》を刈っていくように、刈られた束はひっきりなしに落ちつづける。そのように、トロイア方とアカイア方とは、たがいに追撃し、切り合って、どちらもおそろしい敗走は思わなかった。戦いは、両軍ともほぼ互角で、人々はみな狼のように躍りかかった。それをながめて、たくさんな嘆きをもたらす闘争《エリス》の女神は喜んでいた、諸神のうちでただ一人だけ、この戦闘にいあわせたので。他の神々はこの場には臨まれなかった、めいめいが、オリュンポスの山ひだにお建てになった、立派な館《やかた》の大広間に静かに坐っておいでだった。
≪だがみな一様に、黒雲を寄せるクロノスの御子を非難していた、それはトロイア方に、誉れを授けてやろうと企んでおいでだったもので。しかし、それには少しもかまわずに、おん父神はこっそりと遠くへ出かけ、他の神々から離れたところで、栄光にかがやき満ちて喜悦のさまに、坐っておいでになった、トロイア人らの城市《まち》やアカイア勢の船の群れ、または青銅のきらめく光、殺す者や殺される者どもを見下ろしながら≫
さて、まだ朝がたのうち、聖《とうと》い日差しが増していく間は、両軍からの飛び道具が、はげしく飛び交い、兵士たちはどんどん殪《たお》れていった。だがいよいよ木こりの男が、山あいの森の中で、昼食をしたためる時刻になって――すなわち樹を切りつづけて両手はくたびれ、気分もうんざりし、楽しい食事のことが心をとらえてはなさなくなる――そういう時分に、ダナオイ勢は、戦列ごとに、おたがいにはげまし合って自分たちの武勇によって、敵の堅陣を破ったのである。その中でもアガメムノンは、まっ先に跳りかかって、武士を一人、ビエノルという兵士たちの統率者を、つづいてまたその馭者のオイレウスを、もろともに討ち取った。その男が馬車からとび降り、向かって立ち、まっしぐらにきおいこんでかかるところを、鋭い槍で額を突いた。それで、青銅の重い甲《かぶと》の鉢巻さえ、槍先を止められずに、甲と骨とを突きとおして槍がはいってゆくと、きおいこんでかかるのを仕止めたもので、内にある脳味噌はみなとび散った。
それで武士たちの君アガメムノンは、その男らの鎧をそっくりはぎとって、胸をむきだしにしたまま、その場にほうっておいて、今度は、イソスとアンティポスとを殺してはごうとかかったが、この二人はともにプリアモスの息子で、本腹と妾腹のがいっしょに一つの車に乗って来た。妾腹のイソスが手綱をとり、もう一人の、音に聞こえたアンティポスがそのそばに乗っていた。この二人はむかしイダの山のふもとの丘で、羊を飼っていたところを、アキレウスが二人を捕えて、かずらの若枝でしばっておき、身代金を取って放してやったことがあった。それをこのときは、アトレウスの子の、広大な国を治めるアガメムノンが、一人は乳房のうえの、胸のあたりを槍で貫き、もう一人のアンティポスは、耳のわきを剣で刺して、馬から落した。
それから急いで、この二人の美しい物の具をはぎとった、というのも、以前にイダの山から駿足のアキレウスが連れて来たおり、遠い船のかたわらで、この男どもを認めてから、(プリアモスの子供と)心得ていたので。そのありさまは、さながら牡獅子が、すばしこい牝鹿のおさない仔らを、やすやすと強い歯牙にかけて、かみ砕くのにも似ていた。ねぐらを襲って、仔鹿のかよわい命を奪い去るのだ。母鹿がたとえ近くにいあわせても、母親自身の足がひどくふるえて、子供を守ることができない。力のある野獣の襲撃をおそれて、たちまちのうちに、立てこんだ樹の繁みや体の中を汗を流しながら全速力で、走って逃げる。そのように、トロイア方の誰一人として、この両人の死を防ぐこともできず、自分らまでが、アルゴス勢に圧倒されて潰走《かいそう》した。
それから今度は、ペイサンドロスと、戦争に手ごわいヒッポロコスとの、心のさかしいアンティマコスの息子たち二人を捕えた。彼らの父親は、とりわけアレクサンドロス〔パリス〕から、立派な贈り物として黄金をもらい、ヘレネを金髪のメネラオスに返すのに、反対した者である。この男の二人の息子が一つの戦車に乗って、駿馬をいっしょに駆っていたのを、アガメムノン王が捕えた。すると二人の手から輝く手綱がすべりおち、馬どもはひしめき合った。アトレウスの子が面前に獅子さながらに立ちはだかると、二人は車上から懇願していうよう、
「生捕りにしてください、アトレウスの子よ、それで適当な身代金をとってください。アンティマコスの屋敷にはたくさんの財宝がしまってあります。青銅や黄金や、それに人手のかかった鉄などの中から、あなたさまへと、父は数えきれないほどの身の代を、さしあげるでしょう、もし私らが生きながらえて、アカイア方の船陣にいると聞きましたら」
二人は泣き叫びながら、王に言葉をつくして慈悲を乞い、頼みこんだが、無慈悲な返事を聞かされた、
「もし本当におまえらが、心のさかしいアンティマコスの息子たちなら、以前に彼はトロイア人の会議の席で、メネラオスと、神にもたぐえられようオデュッセウスが、交渉にやって来たのを、その場で殺して、アカイアへ帰してやらないようにすすめたそうだな、だからいまこそ自分の父の非道の罪を償《つぐな》うがよい」
こういうなり、ペイサンドロスの胸のへんを槍で刺し貫いて、馬車から地面へ落したもので、うつむけに地上へ倒れ伏した。そこでヒッポロコスが、跳び上がって逃げ出すところを、地面へ撃ち倒した。両手を剣で切りおとし、頸《うなじ》をたたき切ってほうり出し、丸太のように群集の間を転がってゆかせた。それからこの二人を棄てておいて、戦列がいちばんもみ合っている場所へと跳りこめば、他の脛当てをよろしく着けたアカイア勢も、つづいて突進した。徒歩《かち》の兵士は、たまらず逃げ出す徒歩の兵士を切り倒し、騎士は騎士を撃つ、その勢いに、一面の平原からは、はげしくとどろく馬の蹄が打ち上げる砂ぼこりが舞い上がった。
このように青銅の刃《やいば》で斬り結ぶ、そのあいだにも、アガメムノン王は敵を仕止めながら、アルゴス勢を激励して、追いかけていった。そのありさまは、さながら荒れ狂う火が、樹の繁った森を襲って、渦巻く風が八方へ火を運んでゆく、それで木立は、はげしく迫る火焔に追いまくられて、根こそぎに倒れていく。ちょうどそのように、アトレウスの子、アガメムノンの手にかかって、送げゆくトロイア方の兵士が何人も殺されたので、頸《うなじ》をあげた馬がたくさん、空《から》の車をひいて戦場を駆けていった、人品のすぐれた手綱の主を慕って、だがその人は、地面に倒れ伏していた、妻よりも禿鷹を喜ばしそうな姿で。
だがヘクトルだけは、矢弾《やだま》や石の届くところから、砂塵や兵士らの殺戮や流血や喧騒から、ゼウスがそっと遠ざけておかれた。一方、アトレウスの子はダナオイ勢を励ましながら追撃してゆき、敵勢が、大昔のダルダノスの子イロスの墳《つか》のわきをかすめて馳《はせ》り、都城をめざして平野のまんなかを横切って、野いちじくの樹のかたわらを急いでゆくと、アトレウスの子は雄叫びをあげながら、絶え間なく追跡していった。その無敵の両手は、返り血をあびて汚れていた。
しかし間もなくスカイア門の、大槲《おおかしわ》の樹のところに着くと、そこに敵勢は立ちどまって、たがいに待ち合わせた。だが別の部隊はまだ、さながら牛の群れのように、平野の中を逃げまどっていた、その牛の群れを、夜の闇にやって来た牡獅子が残らず追い散らしたが、一匹だけには、むごい破滅がふりかかった。獅子はたくましい歯で、まずくわえてその咽喉笛をかみ切り、それから血も臓物もすすりつくす。そのように、アトレウスの子のアガメムノン王は、いつもいちばん後陣にいる者から切り進めば、敵兵はただひた逃げに逃げのびてゆく。なかにはうつむけに、あるいはあおむけに、アトレウスの子の手にかかって、馬車から落ちる者は引きも切らず、手あたり次第に槍をふるって荒れまわった。しかしいままさに城市のもとの、けわしい塁壁《とりで》の下に着こうというとき、そのとき、人間たちと神々のおん父神ゼウスは大空から降っておいでになり、泉の多いイダの峰のあいだに、座を占められた、御手にはいなずまをもち、黄金の翼をもつ|虹の女神《イリス》を呼び寄せ、急いで使いにゆくようにと、
「さあ、速い虹よ、行ってヘクトルに命じてくるのだ、兵士たちの統率者であるアガメムノンが、先陣のへんで武士たちを討ち取り討ち取り、荒れ狂うのが見えるあいだ、そのあいだはヘクトルも引き退っていて、他の武士たちに敵軍とはげしく渡りあい闘うようにすすめなさい。だがもしアガメムノンが槍で突かれるか、矢に射られるかして、戦車へ身を避《よ》けたらば、そのときこそ、私が彼に、敵軍を殲滅する武力を授けてやろう、板組みの設けもよい船のところへ彼が着くまで、また太陽が沈んで聖い夜が襲ってくるまでは」
こういわれると、風のように足の速いイリスは、さっそくにおおせのとおり、イダの山を下りていってイリオスの都へ来ると、心のさかしいプリアモスの息子の、勇敢なヘクトルが、馬どもや堅固な造りの車の並ぶあいだにたたずんでいる姿を見つけた。その間近に立って、足の速いイリスがいいかけるよう、
「プリアモスの子の、ヘクトルよ、あなたは、知恵では、ゼウスにも比べられよう、いまそのゼウスが、私を使いによこして、あなたにこうお告げになるのだ、兵士らの統率者であるアガメムノンが、先陣のへんで、兵士どもを切り捨てながら荒れ狂ってる姿があなたに見えるあいだ、そのあいだは戦いから引き退っているがいい、それで他の者たちに、敵とはげしく合戦して、斬り合うようにおすすめなさい。だがもし彼が槍で突かれるとか、矢に射られるとかして、王が身を戦車に避けたならば、そのときこそ、あなたに敵を討ち平らげる武力をお授けなされましょう、板組みの設けもよい船のところへあなたが着くまで、また太陽が沈んで、聖い夜が襲ってくるまでは」
こういい終えると、足の速い|虹の女神《イリス》は去った。ヘクトルは乗り物から甲冑を着たまま地上へ跳び下り、鋭い槍をふるいながら、軍中をくまなく往来して、戦闘へと兵士たちを激励し、恐ろしい合戦をやりはじめた。そこでみなも引き返して、アカイア軍と相対峙して踏み止まれば、こちら側でもアルゴス勢が、陣列を引き固めて立ち、このようにして対戦の機はととのい、たがいににらみ合って立った中に、先制してアガメムノンが躍り出たのは、皆にさきがけて戦おうというつもりだ。
さておっしゃってくださいませ、オリュンポスにおいでの詩神《ムーサイ》たちよ、いちばん先にアガメムノンに向かって来たのは誰だったか、トロイア勢の間から、また音に聞こえた加勢の部隊の中から。
それこそはイピダマスという者で、アンテノルの子として武勇の強者《つわもの》だった、羊の群れの母と呼ばれるトラキアの、地味もゆたかな郷《さと》に生まれて、幼時を母方の祖父キッセスの屋敷で育った。このキッセスの娘が、頬の美しいテアノである。やがて輝かしい青春の盛りに達したとき、彼をそのまま土地に引きとめようというので、祖父は自分の娘を嫁に与えてやった。そこで結婚したばかりのときに、アカイア人の噂に引かれて、密房《おくのま》を出て、十二艘の、舳の曲った船を率いてトロイアにやって来た。その連れて来た釣合いのよい船々は、ペルコテの港へ置いて、自分は徒歩《かち》で、イリオスまでやってきたのだった。それがこのとき、アトレウスの子アガメムノンに向かってきたのだ。
さて両人がたがいに進みよって、いよいよ間近に迫ったとき、たがいに投げた槍のうちアトレウスの子の投げ槍は、狙いが狂って、わきへそれたが、イピダマスは、アガメムノンの胸甲の下、帯のところを突き刺したうえ、重い手を心に恃《たの》んで、のしかかった。しかし、きらびやかな腰帯は貫けずに、そのずっと手前で、槍の穂先が、銀の金具にぶつかって、鉛のように曲ってしまった。その槍を手でつかんで、広大な国を治めるアガメムノンは、牡獅子のように勢いこんで、自分のほうへと槍を引っ張り寄せ、敵の手からもぎ取るなり、イピダマスの頸筋を刀ではっしと打てば、その五体は崩れて落ちた。
このようにして彼はそのままそこに倒れ、青銅の眠りを眠った、あわれや、恋いもとめた妻からは遠くはなれ、ただトロイアの市人を助けようとして。彼はその嫡妻からは、もう喜びも得られなかったが、たくさんの物を結納に贈ってやった、最初には百匹の牛をやり、そのうえ山羊や羊をとりまぜて千匹もを約束した、その牧場には数限りなくいたもので。その男をこのときに、アトレウスの子アガメムノンが殺してはぎとり、その美々しい武具を持って、アカイア勢の中に引き返そうとした。
そのときに、抜群の勇士とされたコオンが、それを認めた。彼はアンテノルの長男だったが、弟が討たれたのを見ると、はげしい悲しみに両眼を蔽いかくされた。そこですぐさま隊伍を抜け出し、槍を手に、尊げなアガメムノンの気づかないまに、脇へ寄って行き、肘の下の腕の中ほどを突き刺せば、ずっぷりと、輝く穂先が中へはいった。そのときに、武士たちの君アガメムノンは驚いて総毛立ったが、なお合戦から身を退こうとせず、風に気勢を増した槍をひっとらえるなり、コオンにとびかかった。
おりから彼は、同腹の、父も同じのイピダマスの足をつかんで引きずっていこうときおいこみ、仲間の大将たちに呼びかけていた。そして群集の間を引きずっていくところを、アガメムノンが、臍《ほぞ》のついた大楯の陰から、磨いた青銅の槍先で突きとおせば、(コオンの)四肢は崩れた。そこでそばへ近寄り、その首を、イピダマスの上に重ねて切り落した。このようにして、アンテノルの二人の息子は、アガメムノン王の手にかかって、最期を遂げ、冥王の館へはいったのである。
さてそれからも、アガメムノンは、他の武士たちの隊伍の間を、槍や刀あるいは巨大な石塊《いしくれ》をもって撃ってまわったが、その間も傷口からは、血潮が生ま温かく流れ出ていた。そのうち、徐々に乾いて血が止むと、きりきり疼《うず》く痛みが、アトレウスの子の身を苛《さいな》みはじめた、ちょうど産褥《さんじょく》にある女を、鋭い痛みの矢が刺すように。それはお産の神の、エイレイテュイアイという、ヘレの御娘たち、恐ろしい疼きの陣痛の司《つかさ》たちが、およこしなされる、そのような、鋭い疼きがアトレウスの子の身を苛んだので、戦車へとび乗ると、馭者に向かって、中のうつろな船々へと馬を遣るように命じた、心にたいそう苦しみを覚えたもので。それから四辺《あたり》にひびく大音声で、ダナオイ勢に呼びかけるよう、
「おい、仲間の者ども、アルゴス勢の指導者たちや、統領たちよ、さあこれから、海を渡る船隊を、厄介な攻撃から護ってくれ。知謀の御神ゼウスは、いま私に、トロイア軍と一日じゅう戦うのを許されないから」
こういうあいだにも馭者が、中のうつろな船々へ向けて、たてがみもみごとな馬に鞭をあてれば、二頭の馬はおとなしくいわれたとおりに駆っていった。その胸は泡にまみれ、下一面は砂塵を浴びて汚れながらも、痛みに悩む主君を、戦場から離れたところへ運んでいった。
さてヘクトルは、アガメムノンが引き返していくのを見ると、トロイア軍やリュキア勢を大声で激励した、
「トロイア勢もリュキアの勢も、近くに寄って戦うダルダノイらも、雄々しくあれ、仲間たちの勢いはげしい戦陣の武勇を忘れるなよ。敵方での最強の勇士は去った。クロノスの子ゼウスは私に大きな栄誉を与えられたのだ。さあまっすぐに、勇ましいアカイア勢へと単つ蹄の馬どもを駆ってゆけ、高い栄光を得るために」
こういって、あらゆる者に気勢と武勇とをあおり立てた。そのありさまは、猟に来た男が白い牙を剥《む》く犬どもを、野生の牡猪やあるいは獅子にでもけしかけるようであった。ちょうどそのように、プリアモスの子ヘクトルは、意気のさかんなトロイア勢を、アカイア軍へと唆《そそ》り立てた、人間をほろぼすアレスみたいに。彼自身は先陣に加わって、堂々と歩みを進め、吹きまくる疾風のように乱戦の中に突っこんだ、吹きおろしては紫色の大海原を揺すり立てる風みたいに。
ゼウスが彼に誉れを与えられたいま、誰を最初に、誰を最後に、プリアモスの子ヘクトルは討ち取ったか。まず最初にはアサイオスに、アウトノオスに、またオピテスに、クリュティオスの子ドロプスに、オペルティオスにアゲラオス、またアイシュムノスにオロスと、それから戦闘では手ごわいヒッポノオスと、これらのダナオイ方の大将たちを討ち取って、それからさらに大勢の兵士たちを殪《たお》す様子は、さながら西風《にし》が、晴天をもたらす南風の寄せた群雲を衝《つ》き、奥ぶかい疾風《はやて》を駆って追い払うようである。それでおびただしく波がうねって盛り上がり転んでゆくと、飛沫《しぶき》が高く、あちらこちらと吹きまわる風の勢いのままに、とび散って消える、そのように敵兵たちの命がたくさん、ヘクトルのために失われた。
このときあるいはアカイア勢は破滅に襲われて、手もつけられない始末となり、潰走して船陣に逃げこんだかも知れなかった、もし、テュデウスの子ディオメデスに向かって、オデュッセウスがこう叫ばなかったなら。
「テュデウスの子よ、どうしてきみは、勢いはげしい武勇を忘れてしまったのか。さあ、ここへ来て私のそばに立つのだ。もし船々を、きらめく兜のヘクトルが占領したら、われわれはまったく世間の非難の的となるだろう」
それに向かって、剛勇のディオメデスが答えるよう、
「いかにも私は、踏みとどまって、持ちこたえましょう、でも、私らが役に立つのもわずかの間のことでしょうよ、群雲を寄せるゼウス神は、きっと私らよりもトロイア方に、優勢を与えようとのおつもりですから」
こういうなり、テュンブライオスの左の乳のへんを、槍で撃って、車から地面へ突きおとすと、もう一方のオデュッセウスも、神とも見えようモリオンという、この主人の介添え役を討ち取ったが、この者どもはもう戦う力をなくした者なので、そのままそこにほうっておき、二人はそれから乱戦の中に討ち入って暴れまわった。それはさながら、二匹の猪が、勢いもはげしく猟犬の群れの中に突っこむように。そのように引っ返して突進し、トロイア軍を討ち取ったので、アカイア勢は勇敢なヘクトルをやっとのがれる努力のうちに一息つけてありがたがった。
このとき彼らは、一台の戦車といっしょに、その国人の中でも優れた武士《さむらい》を二人討ち取った。それは、ペルコテのメロプスの二人の息子で、その父親は万人に超えて占いの術に長じていた。それで、自分の子供に、武士たちを破滅させる戦争に出かけることを許さなかったのに、二人はいっこういうことを聞かないで、出てきてしまった。というのも、黒い死の運命が彼らを連れ出したからだった。この者どもから、テュデウスの子の、槍に名を得たディオメデスが、生命《いのち》と息を奪い去って、世に知られた物の具をはぎ取ると、オデュッセウスはヒッポダモスとヒュペイロコスとを討って取った。
このとき、クロノスの子は、イダ山から(戦さの模様を)見下ろされて、両軍に互角の戦さをくりひろげさせ、兵士たちはみな相たがいに、敵を殪していった。いましもテュデウスの息子ディオメデスは、パイオンの子の、アガストロポスの殿をば、長い槍で腰のあたりを突きさしたが、馬で逃げようとしても、自分の馬が近くにいなかった。まったく不覚な誤ちをおかしたもので、彼は介添え役に、馬どもを離れたところにひかえさせておき、徒歩のままで、先陣の中を突進したため、とうとう愛しい命を失ったのだった。だがヘクトルは、戦列越しに、目ざとくもこれを認めて、そのほうへと大声で叫びながら押し寄せれば、トロイア方の部隊もこれに続いてきた。その姿を見て身ぶるいしたのは、雄叫びも勇ましいディオメデスで、すぐさま、そばにいるオデュッセウスに呼びかけていうようには、
「それ、われわれのほうへ厄介なやつが向かってくるぞ、豪勇なヘクトルが。だが、さあ、踏みとどまって、持ちこたえ撃退しましょう」
こういうなり、長い影をひく投げ槍を振りまわして、投げつけると、十分構えて、頭のほうにつけた狙いはあやまたずに、兜の先へ撃ちあたったが、穂先の青銅《かね》は、青銅にあたって横にそれ、きれいな肌には届かなかった。ポイボス・アポロンの賜物である、四つ角《づの》のついた丸兜が、さえぎり止めたからであった。そこでヘクトルはとびすさって群集の中にまじると、踏みこたえ、片膝をついて、強い腕で大地に身をささえたが、その眼を黒々とした闇が覆った。だがテュデウスの子が、投げ槍の飛んだあとを追って、地面に突き刺さったところを探しまわり、先陣の間を遠くまで往った間、その間にヘクトルは一息ついて、また戦車に飛び乗ると、味方の陣の中に駆けこみ、黒い死の手を逃れた。それへ向かって、槍を手にして追い迫りながら、剛勇のディオメデスがいうよう、
「また今度も死を逃れたのか、犬めが。まったくすぐ身近へまで禍いが迫ったものを。今度もまたポイボス・アポロンが助けてくれたのだな、その神へと、投げ槍の響きの中へはいるときは、祈るのにちがいない。だが、今度おまえに出会ったときは、かならず片をつけてくれるぞ、もし私をいずれかの神が助人《すけっと》についていてくださるなら。いまのところは、ともかくほかの、出会ったやつをやっつけてやろう」
こういうなり、槍に名を得たパイオンの子の物の具をはいだ。そのすきに、髪の美しいヘレネの夫であるアレクサンドロス〔パリス〕が、兵士たちの統率者のテュデウスの子ディオメデスに、弓を向けて狙いを定めた。ちょうどいま、ディオメデスが、その昔この国の長老だった、ダルダノスの子イロスの、墳《つか》の上にすえてある石碑にもたれかかりながら、勇ましいアガストロポスのきらびやかな胸甲をはいでたところで、肩からは大楯を、それに重い兜もはぎ取っていた。そこを狙って、弓の弓束《ゆづか》をひきしぼって射れば、その矢は彼の手からいたずらには飛んで出ず、右のほうの足の甲にあたってから、突き抜けた矢は勢いあまって地面に突き刺さった。パリスは喜んで、笑いながら、隠れていた場所からおどり上がって、勝ち誇って放言するよう、
「あたったぞ、むだな矢は放ちはしない。だが、おまえのどてっ腹の底に射ちあてて、命を奪《と》ってやれたら、なおよかったのに。そうしたらば、トロイア軍も、災難から一息つけただろうに、まるでメエメエと鳴く山羊どもが、獅子を怖れるみたいに、おまえをいつも怖れているから」
それに向かって、いささかもひるまず、剛勇のディオメデスが、
「弓使いの、汚らわしい悪口屋め、角弓なんかを自慢にしてる女たらしが。もしも、おまえと物の具を取って、力をつがえ一騎打ちをやったら、その弓も、たくさんな矢も、何の役にも立つまいに。いまだって私の足の甲を、ちょっとばかり引っ掻いたと、やくたいもなく自慢してるが、何のこれしき、女か馬鹿な小童《こわっぱ》にでも、打たれたぐらいのものにすぎない。|ろく《ヽヽ》でもない弱虫の矢など、いっこうこたえはしないぞ。もしあべこべに、私が射たならほんのかすかにさわったのでも、矢の勢いが鋭いから、たちまち生命《いのち》を奪うだろうよ。それでそいつの妻は、嘆いて頬を引っ掻きむしり、子供たちは孤児となり、自分自身は大地を朱《あけ》に染めて腐れてゆくだろうにな、女たちよりたくさんな鷙烏《おおとり》どもにとり囲まれて」
こういううちに、槍に名を得たオデュッセウスが、そばへやって来て前へまわれば、ディオメデスはうしろに坐って、速い矢を足の甲から引き抜いたので、ひどい痛みが身を貫いて疼《うず》きわたった。そこで戦車に飛び乗って、馭者にいいつけ、うつろに刳《く》った船々へと馬を馳《はせ》た、心をたいそう苦しめながら。
さて、槍に名を得たオデュッセウスは、ただ一人とり残された。そばにはアルゴス勢は、誰一人としてもういなかった。みな逃げ帰ってしまったので、困惑しきって、気象のすぐれた自分の心に向かっていうようには、
「やれやれ、私はどうしたものか、もし大勢に恐れをなして逃げ出したら、ひどい恥辱だ。だがもし一人でもって(敵軍に)とり囲まれたら、いっそうひどい災難だろう、他のダナオイ方はみな、クロノスの御子が逃げ帰らせたのだな。それにしても、なぜこんなことを心のうちで、くどくど議論しているのか。よくわかっているはずなのに、戦さを避けて、逃げだすやつは臆病者だ、戦いで武勲《てがら》をたてようと思うならば、断乎として踏みとどまらねばならないと。斬るにせよ、また斬られるにせよ」
このように、とつおいつ心のうちで思案しているあいだ、その間に、トロイア方の楯持ち武者の戦列が向かって来て、まんなかに彼をとり囲んだが、これこそ自分たちのまんなかに禍いをとり囲んだというものだった。その様子はさながら、大猪をとり囲んで、血気さかんな若者たちや犬どもがひしめきあうよう。その猪は、深い木立の中から出て来て、ひん曲った顎のあいだの、まっ白な牙を砥ぎすます、それを囲んで、みなみな突進しようとすれば、下から牙を咬みならす恐ろしい音が聞こえるので、みんなそのまま、じっと待ち受ける。そのとおりに、このときゼウスのいとしむオデュッセウスをとり巻いて、トロイア勢はきおいかかろうとした。
オデュッセウスはまず最初に、勇ましいデイオピテスに躍りかかって、鋭い槍の一撃で、肩の下を突きとおした。それから今度はトオンとエンノモスとを討ち取り、そのつぎにはケルシダマスが馬車から飛び降り突っこんでくるところを、槍で、臍《ほぞ》のある大楯の下の切りこみへんを突き刺せば、彼は砂塵の中に倒れて、てのひらで土を掻きむしった。その者どもはそのままにほうっておいて、今度はヒッパソスの子カロプスを槍で突き刺した。この男は金持と知られたソコスの実の兄弟なので、そこで弟を救おうと、神とも見えよう武士《さむらい》のソコスが出て来て、彼のすぐかたわらへ行って立ちどまり、呼びかけるよう、
「誉れも高いオデュッセウスよ、策略にも働きにも、たいそうみなに崇められている、おまえは、今日こそヒッパソスの子ら二人に向かって高言しようがな、かほどの勇者を、二人ともに討ち取って、物の具を奪うのだから。だがあるいは、私の槍に突かれて、命を亡くすかもしれぬぞ」
こういうなり、八方に釣合いのよくとれた円楯を刺せば、美々しい楯を貫いて頑丈な槍がはいり、技巧《たくみ》をこらした胸甲まで突きとおして、しっかと刺さり、脇腹の肉をそっくりそぎ取ったが、それでもなおパラス・アテネが、その槍をこの武士の内臓までは、はいらせなかった。オデュッセウスは、その傷がけして命取りではなかったと覚るとすぐ、うしろへ引き退って、ソコスに向かいいうようには、
「やれ笑止な、けわしい破滅がすぐにもおまえにふりかかるのだぞ。いかにもおまえは、トロイア軍に私が抗戦できないようにしたが、私も、いまこの場所で、きっとおまえに最期と黒い死の運命《さだめ》を、今日この日に与えてやるぞ、私の槍に打ちたおされて、自慢の種となったうえに、魂は、名高い馬の持ち主の冥王のもとへ行かせてやるから」
こういうと、ソコスは身をひるがえして逃げようと、大股に引き返してゆく、そのうしろを向いた背筋の、両肩の間へ、ぐさりとばかり槍を突き立て、胸板をずっぷり貫きとおすと、彼は地響きたてて打ち倒れた。気高いオデュッセウスは勝ち誇っていうよう、
「おい、ソコス、心のさかしい、馬を馴らすヒッパソスの子よ、先におまえを死の最期がとっつかまえたな。それを避けもできなかったとは、やれやれ気の毒な。まったくおまえの親父も母親も、死にぎわにおまえの瞼を閉じてはやれまい、その代りには生肉《なまみ》を啖《くら》う鷙烏《おおとり》どもが、とり巻くだろう、翼をびっしりと打ち掛けてな。だが私のほうは、死んだら立派なアカイアの人々が葬式をしてくれるだろう」
こういいながら、心の勇猛なソコスの頑丈で重たい槍を、自分の肌から、また臍のついた大楯から引き抜くと、抜きとった個所から血がほとばしり出て、気力をみるみる弱めていった。意気のさかんなトロイア勢は、オデュッセウスの血を見るなり、みな一度にわっと押し寄せ、群れをなして、彼のもとへと向かってきた。そこでオデュッセウスは、うしろに退《さが》って、仲間の者へよびかけた。三度つづけて、人間の咽喉の許す限りを呼ばい上げると、三度つづけてその叫び声を、アレスの伴侶《とも》であるメネラオスが聞きつけて、即座に、すぐと間近にいたアイアスにむかっていうよう、
「アイアス、ゼウスの裔であるテラモンの子よ、兵士たちの頭領の君、どこか近くで、辛抱づよい心をもったオデュッセウスの叫びが聞こえる。どうやら、トロイア勢が、彼がひとりきりなのをとり囲んでいるらしいぞ、はげしい合戦のあいだに、トロイア勢が他の連中から切り離したので。さあ敵の軍勢の中へ打って入ろう、防いでやったほうがいいから。もしやトロイア勢の間でたった一人になって、ひどい目にあいはすまいかと、心配なのだ、勇士だけれども。それでダナオイ勢にひどい無念の思いをさせはすまいかと」
こういって、メネラオスが先に立てば、神とも見えようアイアスもそれに続いてゆくうちに、とうとうゼウスのいとしむオデュッセウスを見つけた。彼をかこんで、トロイア勢の群がる姿は、さながら山あいで赤茶けた豺《やまいぬ》どもが、角を生やした手負いの鹿に襲いかかるのとそっくり。初めに人が、弓弦《ゆづる》から矢を射あてたものだ。その鹿は、脚にまかせてどんどん逃げて、やっと逃げのびはしたが、それも血が温かく膝のまっすぐに立つあいだで、とうとうしまいに速い矢のためにすっかり力がつきはてれば、生肉《なまみ》を啖《くら》う豺どもが、山あいに寄り集まって、陰の暗い森のあいだで、喰い裂きにかかる。そこへ神さまの手引きで、凶暴な牡獅子が現われると、豺どもは恐れて逃げ散り、今度は獅子がそれを喰いにかかるのだ。その様子をみるように、このとき、知謀にゆたかな、心のさかしいオデュッセウスをとり囲んで、大勢の勇敢なトロイア勢が攻めかかれば、勇士は槍をおっとって、めまぐるしく活躍して、容赦もない日を防ぎまわった。そのうちにアイアスが塔ほどもある大楯をもち、間近に寄って並んで立つと、トロイア方は恐怖にうたれ、てんでんばらばら散っていった。そこで勇士の手を取って、アレスの伴侶《とも》なるメネラオスが、合戦の間を縫って引き出すと、介添えの者が馬車を間近に進め寄せた。
一方アイアスは、トロイア方に襲いかかって、プリアモスの妾腹の子、ドリュクロスを殺し、ついでバンドコスに傷を負わせ、またリュサンドロスやピュラソスやピュラルテスを突き刺した。その様子は、さながら河水がみなぎりわたって、平地へと溢れ出るようである。山から降《くだ》った冬の流れが、ゼウスの降《ふ》らせる雨に勢いを得て、たくさんな槲《かしわ》の木や、たくさんな松の木を枯らして倒し、川の中へ運んでいき、おびただしい泥土や塵芥を海へ投げこむ、それと同じように、このとき平原を、誉れ輝くアイアスは、人馬を斬りまくって、荒れ狂って進んだが、ヘクトルはいっこうにそれを知らないでいた、彼はそのとき全軍の左翼のほうのスカマンドロスの河堤で戦っていたから。その河畔では、他のところより、とりわけ大勢の武士たちの頭《かしら》が、倒れて落ちて、鎮めようもない叫喚が、偉大なネストルや、アレスの伴侶《とも》であるイドメネウスを囲んで湧き上がった。
いっぽう、ヘクトルも彼らと刃を交えて、槍や馬車やをあやつって恐ろしい働きをし、若者どもの戦列を荒らしていった。だが、勇敢なアカイア勢も、その行く手から、けして引き退りはしなかったろう、もし、髪の美しいヘレネの夫であるアレクサンドロスが、兵士たちの統率者であるマカオンの右の肩に、三つ鉤《かぎ》の征矢《そや》を射あてて、その奮戦を妨げなかったら。すなわち、武勇をきそうアカイア軍も、もしひょっとして戦況が逆転したらば、彼が捕まりはしないかと、ひどく恐れた。それでこのときに、イドメネウスが、気高いネストルに声をかけるよう、
「アカイア軍の大きな誉れであるネレウスの子のネストルよ、さあ、車に乗りこんで、かたわらにマカオンを載せていってください。そして一刻も早く、単《ひと》つ蹄《ひづめ》の馬どもを船へ向かわせてください。医者というのは、矢を抜き取ったり、痛みどめの薬を塗ったりする役で、大勢の兵士たちにも匹敵する大事な人ですから」
こういうと、ゲレンの騎士ネストルは、すぐ承知をして、さっそく自分の馬車に乗りこむと、自分のそばに、貴い医者のアスクレピオスの息子であるマカオンを載せていった。そして、馬どもに鞭をくれると、番《つが》いの馬は勇み立って、うつろに刳《く》った船のところへ、自分の心の望む場所へと、駆っていった。
さてケブリオネスは、トロイア軍がどよめき立っているのを見てとると、ヘクトルのそばに来て、彼に向かって話しかけるよう、
「ヘクトルよ、われわれ二人は、いまわしい響きにみちた戦場の端のところで、ダナオイ勢と戦いあっています。だが他のトロイア勢は、馬も人間もいっしょくたにざわめいてるようだ。よく私には見分けがつくが、テラモンの子アイアスが騒ぎを起こしているので、あいつは肩に幅広な楯を担いでいるから。ともかく私らもあちらのほうへ、戦車を向けてゆきましょう。あそこではとりわけ騎馬の武者も、徒歩《かち》の兵も、みなひどい競《せ》り合いをつづけ、たがいに戮《ころ》しあっていて、消しようのない叫喚の音が、天に届くほど湧き起こっていますから」
こういって、たてがみもみごとな馬を、鞭の音も高らかに打てば、馬どもはその動きを早くもさとって、勢いよく駆け出し、速い車をトロイア勢とアカイア軍とが戦っているほうへと、たくさんな屍や楯を踏みしだいて進んでいった。車の軸は下のほう全体が、返り血を浴びて赤く染まり、車体をとり巻く手すりもまた、馬どもの蹄に打たれて、あるいは車の金輪から、跳ね返る血のしぶきにまみれていた。ヘクトルは、人々の混みあう中にはいりこもうと、はやりたち、躍りかかって突き破ろうとし、ダナオイ勢に不吉な戦さの騒ぎをもたらしながら、ほとんど槍の手を休める暇もなかった。だが、他の手勢の隊伍へは、槍や剣や、または大きな石の塊を投げて、くり返し攻めたてたが、テラモンの子アイアスとだけは、合戦をひかえていた。≪というのも、ゼウスは、ヘクトルが自分より優ったものと戦うのをよく思われないので≫
さて高い御座《みくら》においでの父神は、(このときに)アイアスの胸へ恐怖心を吹きこまれた、そこで彼は、愕然として突っ立ち上がると、うしろに牛の七枚皮の楯を投げて、ふるえながら、混戦のさまを野獣のように横眼ににらんで、少しずつ、膝と膝とを交替に引き下げながらすさっていった。その姿は、さながら赤茶けた牡獅子を、牛のはいっている囲いの中から、田舎住まいの男たちや犬どもが、やっとのこと追い払った時のようである。人々は夜っぴて不寝番をして、牛の中でもよく肥えたのを獅子に取ってゆかせまいとする、獅子はまた肉が欲しくてたまらず、一気に前へ進もうとするが、いっこうに成功しない。その面前には、大胆な腕から、投げ槍がいくどもつぎからつぎへと投げつけられるし、燃えさかる松明《たいまつ》さえ飛んでくるので、気ばかりはやりながらもそれがこわさに、暁かけてとうとう獅子も早々に引き返してゆく、さんざん心を傷めながら。それと同様に、アイアスはこのとき、トロイア勢の前から、心に苦しく思いながらも、しぶしぶ引き返していった。アカイア勢の船陣を気遣ったので。
そのさまはさながら、畑のわきをゆく驢馬が子供たちをなめてかかって、追っても動こうとしないよう。それを打つのに、もう何度も棍棒がまわりで折れてしまった。それでもまだ、よく繁った畑にはいりこみ、生えている麦を喰い荒らすので、子供たちが懸命に棍棒で打ちのめすが、その力もてんで用をなさない。だが飼葉に食い飽きたところを、骨折ってやっと追い出した。そのようにも、このとき、テラモンの子の大アイアスを、意気のさかんなトロイア勢や、寄り集まった大勢の友軍たちが、研いだ槍で大楯のまんなかを絶えず突きながら、追いかけていった。
アイアスのほうも、いくたびか気負いはげしい防戦を思っては、またもやくびすを返して、馬を馴らすトロイア方の戦列をおさえ止めようとした。ともかくも、進みの速い船のところへ敵がたどりつかないように防ぎとめて、自分はトロイア勢とアカイア勢との中ほどに立ち、ふみとどまって荒れ廻った。大胆な敵の手から投げられる槍のいくつかは、あるいは彼の大楯に、なお先へと望みながら刺さってとまり、あるいはまた白い肌えに触れないうちに、あくまでも肉を(刺そうと)あこがれながら、中間の地面に突き刺さったのもたくさんあった。
おりから、この様子を見てとったエウアイモンの誉れも高い息子エウリュピュロスは、引きも切らずに飛ぶ投げ槍に、アイアスが閉口しているのを見ると、そのかたわらへ行って並んで立ち、輝く槍をほうりつけて、兵士たちの統率者である、パウシオスの子アピサオンのみぞおちの下、肝臓に打ちあてて、たちまちその手足を崩れさせた。エウリュピュロスはすぐとびかかって、その肩から物の具をはぎとろうとした。
その姿をいま見てとったのは、神とも見えようアレクサンドロスで、アピサオンの物の具をはぎ取ろうとするエウリュピュロスへ、弓を向けて引きしぼると、右の腿に矢を射あてた、あいにく、その矢の葦の軸が割れて、太腿に重みをかけた。そこで死の運命を避けようと、味方の群れへ退りながら、あたりにひびく大音声で、ダナオイ勢に叫びかけるよう、
「おい仲間の者たち、アルゴス勢を指揮するかたがた、また統領たち、くびすを返して踏みとどまり、アイアスのために容赦ない日をふせいでください。投げ槍に攻め立てられて、いまわしい響きにみちた戦いから、どうやら無事に逃げられそうもないから。さあ、テラモンの子の大アイアスを取り巻いて、まっすぐに敵を迎えて立ってください」
こうエウリュピュロスが、撃たれていながら叫ぶと、味方の部隊がそのそばに駆け寄って立ち、大楯を肩にもたせ、手槍をふりかざすと、アイアスも皆の前へやって来て、向きを返して敵に向かって立ち止まった、仲間の連中のところへ来たので。
このようにして両軍ともに、燃えさかる焔のように戦い合ったが、一方ではネストルを戦場から、ネレウス家の馬どもが、汗をながして運んでゆき、また兵士たちの統率者であるマカオンも運ばれていった、その姿を、足の速く気高いアキレウスがふと眼にとめた、というのも、彼はその時、広々とした胴の間《ま》をもつ船の舳《みよし》に立って、人々のはげしい労苦や、涙にみちた潰走の様子を眺めていたからである。そこですぐさま、親友のパトロクロスにむかって、船のかたわらから声をかけて呼ぶと、こちらは陣屋の中でそれを聞きつけ、軍神アレスの姿《なり》そっくりで外へ出て来た、これこそ彼の禍いの初めだったが。まず初めに、メノイティオスの、武勇にすぐれた子パトロクロスがいうようには、
「なぜ私を呼んだのです、アキレウスよ、私に何の用があるのですか」
それに向かって、足の速いアキレウスが答えていうよう、
「気高いメノイティオスの子、私の心の喜びであるパトロクロスよ、いまこそアカイアの人々が私の膝もとに来て、しきりに懇願することと思うのだ、もう我慢できないほど、大事の瀬戸際に来てるのだから。ともかくも、さあ出かけていって、ゼウスのいとしむパトロクロスよ、ネストルにたずねてきてくれ、あの戦場から負傷して連れて来られたのは、誰なのかと。どうやらうしろ姿を見たところは、アスクレピオスの息子のマカオンにそっくりだったが、しかし当人の顔が見えない間に、のせた馬車が一目散に、私のわきを全速力で駆け抜けていってしまった」
こういうと、パトロクロスは、仲の好い友達の言葉に従い、陣屋の並んだアカイア軍の船陣のわきを駆けていった。
さて先の一行が、ネレウスの子ネストルの陣屋へ着くと、人々は自分で車から降り、生き物をゆたかに養う大地へと降り立った。馬どもは、世話役のエウリュメドンが、老人の車から解き放した。それから一同、肌着の汗を、海の渚のほとりに立って、吹きぬける風にさらして冷やし、それから今度は陣屋へはいって、倚《よ》り椅子に身をもたせたが、彼らのために混粥《まぜがゆ》を、美しく鬘《かつら》を結ったヘカメデがつくってくれた。この女は、テネドス島をアキレウスが攻略したとき、老人がもらった女で、度量のひろいアルシノオスの娘だったが、それをアカイア勢が、謀議においては万人に優れたことの褒美として、ネストルに選《え》り出してくれたものだ。
その女が、彼らのため、まず初めに四足の机を運んで来た。みごとな、紺青《こんじょう》で脚を飾って、よく磨きこんだ机だったが、その上に青銅の筐《はこ》をのせ、中には玉葱《たまねぎ》や酒に添える通しものや、あるいは黄色い蜜を入れ、聖い大麦の碾割《ひきわり》も添えてあった。そしてひとしお立派な高杯《たかつき》をそばに並べた。これは老人が国もとから持って来たもので、黄金の鋲がいくつもとりつけてあり、それに四つの把手《とって》がついている――そのめいめいの両側には黄金づくりの二羽の鳩が止まっていて、また下のほうには台座が二つつけてあった。その杯がいっぱいのときは、他の者なら食卓から動かすのさえ骨が折れるのを、ネストルは、年寄とはいえ、らくらくと持ち上げた。
いまその器へ、皆のために、女神にも似たその女が、プラムノスの酒で混粥《まぜがゆ》をつくり、山羊のチーズを青銅のおろしですって、白い麦粒を上にふりかけ、混粥の用意を万端調えてから、飲むようにと、すすめて出した。さて二人はこれを飲み干し、ひりひりする咽喉《のど》の渇きをしずめてから、たがいに話を交わし、物語りに心を慰め合っていた。そのとき、神とも見えよう武士《さむらい》のパトロクロスが、戸口に来て立った。その姿を見るなり、老人はきらびやかな台座から身を起こすと、手をとって内へ案内し、腰をおろすようにすすめたけれども、パトロクロスは辞退しつづけていうようには、
「坐る暇はありません、ゼウスがお護りのご老人よ、おおせにはそむきますが、負傷をして連れて来られたかたは、どなたかたずねて来いと、いいつけたのが、こわもてのする、おっかない人間ですから。でも自分でもうわかりました、兵士たちの統率者であるマカオン様が見えますから。ではこれから、アキレウスへその話をしに、知らせに帰ってまいりましょう。よくご存じですから、ゼウスがお護り立てのご老人よ、あの人がどんな男か。恐ろしい人間で、すぐにも咎《とが》のない者でもとがめましょう」
それに向かって、今度はゲレンの騎士ネストルが答えるよう、
「なぜまたこんなにアキレウスが、アカイア人の息子のことを心配するのか、まったく、何人ぐらい矢や槍のため怪我したかなど。彼は、味方の陣営がどれほど打撃をうけているかを、少しも知ってはいないのだ。名だたる者は、みな矢や槍に手傷を負って船に臥《ね》ている。あのテュデウスの子の、剛勇のディオメデスも負傷していれば、槍に名を得たオデュッセウスも、またアガメムノンも傷つけられ、エウリュピュロスさえ腿のあたりを矢に射られて怪我している。そのうえに、この男は弦からの矢に射られたのを、私がいましがた戦場から連れ出して来たばかりなのだ。だがアキレウスは、武勇の者とありながら、ダナオイ勢を気にかけも、憐れみもしない。
いったい彼は待っているのか、速い船々が海の近くで、アルゴス勢が防戦するそのかいもなく、燃えさかる火に焼けてしまうまで。またわれわれ自身もつぎからつぎと、殪《たお》れてゆくのを。いまでは私の膂力《りょりょく》も、むかしこのぴんぴんした手や足に寵っていたほどではない。いまいちど若返って、体がしっかりしたらありがたかろうに。ちょうどあのエリス人と私らが、牛追いのことから争いを起こした時分のようにな。あのとき私はイテュモネウスを殺したものだ、あの勇ましいヒュペイロコスの子で、エリスに住まっていた男だが。仕返しに奪った牛の群れを私が追っていこうとすると、あれは自分の牛を護って、先陣で戦ううちに、私の手から投げつけられた槍にあたって倒れ伏した。それであたりにいあわす田舎者らは胆を冷やした。
それから私らは、あたりの牧場から山ほど分捕り品を狩り集めた、五十以上の牛の群れと、同じくらいの羊の群れに、同じくらいの豚の群れ、同じくらいの牧場に拡がる山羊の群れなど。また栗毛の馬は百五十頭にもおよぶほど、しかもそのすべてが牝馬で、その何頭かには仔馬がついていたものだ。その獲物を私らは夜どおしかけて、ネレウスの所領のピュロスの里へ、城内に向けて追い入れたので、ネレウスは大喜びだった。私がやっと戦争に出たばかりなのに、たくさんの獲物をとってきたので。
そして翌日、暁の光の射すといっしょに、伝令使が大声で呼ばわって、聖いエリスの地に貸してある者は集まれ、といった。その声に応じて、ピュロス市民の主だった者が集まってきて、獲物をよろしく分配した。というのは、私らピュロスの市民は数が少なく、いつもエリス人にひどい目にあわされていたので、大勢の者がエペイオイ〔エリス州の住民〕に貸しがあったわけである。それというのも、ずっと以前に、かの豪勇のヘラクレスが来て私らをひどい目にあわせ、名だたる者はみなそのときに殪《たお》れたからだ。父ネレウスにしても、十二人の骨柄すぐれた息子たちをもっていたのに、私一人を残して他は、みな残らずそのおり殺されてしまった。だからこそ青銅の帷子《よろい》をつけたエペイオイは思い上がって、私らを非道にあしらい、勝手なことをたくらみつづけていたのだ。
こういうわけで、かの老人(ネレウス)は、牛の群れと、たくさんな羊の群れから、三百頭を選りすぐって、牧人ぐるみに分け前として取った。というのも、父は聖いエリスに大きな貸しがあったからだ。つまり以前に、四頭立ての競走に賞を得ていた馬を、車といっしょに(オリュンピアの)競技場へさしつかわした。それは(賞品の)鼎《かなえ》を目あてに競走させるつもりだったが、武士たちの君のアウゲイアス(エリス王)が、馬をそのまま引きとめて奪い取り、馬のことで心痛している馭者だけを返してよこした。そのときの彼らの言葉や所業のために、老人は立腹していたのだ。だからこそ、とてもたくさん自分が取って、残りを市《まち》じゅうへ渡し、分配させた、貸した分とひとしいだけをもらえないで、すごすご帰る者のないようにと。
そこで私らは、いちいちそうとりはからって、城市《まち》のあちらこちらで神々へ贄《にえ》を献げたが、敵の者らは三日目に勢ぞろいして、人数も大勢単つ蹄の馬どももいっしょに、私らの市へ殺到して来た。モリオネの二人の息子〔アウゲイアスの弟にあたるアクトルの息子たち〕も、敵軍に参加して攻めて来た、まだ子供だったので、勢いはげしい武勇のわざを十分にはわきまえていなかったが。
さてここに、トリュオエッサという城市《まち》がある、けわしい丘に拠《よ》り、はるかなアルペイオス河畔の、砂丘のつづくピュロスのはずれに位置する、その町を、一挙に攻略しようときおいこんで、敵が包囲しはじめた。だが平原を一気に渡り切ったとき、アテネ女神がオリュンポスから駆けつけて、夜半に私らのところへ知らせに来てくださって、武装をせよと警告なさった。また女神がピュロスじゅうから呼び集めた者らも、いやいやどころか、戦さをしようと張り切っていた。だがネレウスは、私には物の具をつけて出るのを許してくれず、私の馬を隠してしまった。私などはまだいっこうに戦さの業《わざ》をわきまえていない、と思っていたので。
それはともかく、味方の軍の騎馬武者の間で、しかも徒歩《かち》ではあったが、私はひときわすぐれて見えた、アテネがそういうふうに戦争を導かれたからである。ここに、アレネの町の近くで海に注ぐ、ミニュエイオスという河がある。そこで私ら、ピュロスの騎馬武者どもが、夜の明けるのを待ち構えていると、そこへ歩兵の軍勢も押し寄せて来た。そこから私らはひた押しに押しかけ、物の具に身を固めて、まっしぐらに真昼ごろ、アルペイオスの聖い流れのそばに着いた。この土地で、稜威《みいつ》すぐれるゼウスへとみごとな贄《にえ》を献げたものだ。そして牡牛をアルペイオス〔河の名だが、ここでは河神をさす〕に、ポセイドンにも牡牛を、さらにきらめく眼の女神アテネへは群れからの牝牛をまつった。こうしてから軍勢は隊伍のままで夕餉《ゆうげ》をしたため、めいめい武装をとかず、河の流れのほとりで眠りについた。その間にも、意気のさかんなエペイオイらは、いましも一気に攻略しようときおい立って、城をとり囲んでいた。だがそれよりも早く、アレスの偉大な所業が彼らに示されたのだ。すなわち輝く太陽が空へと昇り出るやいなや、私らはみな、ゼウスとアテネとに祈願をこめて、戦闘を開始した。
いよいよ、ピュロス勢とエペイオイとのもみ合いとなったとき、まっ先に敵の武者を殪《たお》したのは私であった。そして単つ蹄の馬どもを奪って帰った。その武者はムリオスという武勇の者で、アウゲイアスの婿《むこ》にあたり、総領娘で、金髪のアガメデの夫だったが、この女は広い大地が育てるかぎりの、薬草をみな心得ていた。その男が向かってくるのを、私が青銅を嵌《は》めた手槍ではっしと打つと、男は砂塵の中にどうと倒れた。私は彼の戦車に飛び乗り、先手の間に立ち並ぶと、意気のさかんなエペイオイらも怖れて、あちこちと逃げまどった、騎馬軍の大将で、戦さにも名だたる者が討たれるのを見たものだから。
その間にも私は、まっ黒なつむじ風を見るように、敵に襲いかかって、五十台の戦車を奪いとり、それぞれの車の両側には二人の武者が私の槍に討ちとられて、地面を歯でかみしめたものさ。そして、アクトルの孫の、モリオネ兄弟をさえ殪《たお》すことができただろうに、もしこの二人を、父である、はるかに知ろし、大地を揺すぶる御神(ポセイドン)が、深い靄《もや》にかくして、戦場から救い出されなかったなら。このときゼウス神は、ピュロス人の手に大きな力をお授けだった。そのころまで、私らは広々とした平原をわたり、敵の者らを殺しながら、また美々しい物の具を奪取しながら、追いかけていって、とうとう小麦に豊かなブプラシオンへ馬を乗り入れた。そしてオレニエの岩から、アレイシオンと呼ばれる丘のところへいったが、その土地でアテネが、私らの軍勢を引き返させた。そこで、私は最後に武者を討ち取り、そのままあとに置いてきた。アカイア勢はブプラシオンからピュロスへと速い馬を引き返したが、誰も彼も、神々の中ではゼウスに、人間ではネストルに感謝したものだ。
武士たちの間でもって、以前には私は実にこれほどの者だった。それなのに、アキレウスはただひとりで、自分の武勇を楽しむつもりなのか。だがきっと、いつかは彼も、軍隊がすっかり滅びてしまったら、ひどく後悔して泣くだろうよ。なあ、きみ、おまえにメノイティオスがたしかにこういったっけな。あの日、おまえをプティエからアガメムノンのもとへと送ったときに、私と、気高いオデュッセウスと、この二人がうちにいあわせ、屋敷の内で彼が何といったか、すっかり聞いていたのだ。
私らは生き物をゆたかに養うアカイアじゅうから、兵士たちを寄せ集めるため、ペレウスの、すぐれた構えの屋敷へ着いたわけだが、その際に、屋敷の内でメノイティオス殿にも出会った。それからおまえや、かたわらにいたアキレウスをも見かけた。そして年をとられた騎士ペレウスは、牝牛の肥えた腿肉を、かみなりをとどろかすゼウス神へと、広前の庭で焼いていられた。黄金の杯を手に持ち、ちょうどそのとき、赤くきらめくぶどう酒を、煙をあげる聖い贄にそそいでいたが、おまえたち二人は、牛の肉を片づけるのに忙しかった。そのとき私らが、広間の扉口《とぐち》に立ち現われた。するとアキレウスは、驚いて飛び上がり、腕をつかんで私らを案内して、腰をおろせとすすめたうえ、来客のおりの作法に従って、馳走のものをよろしく並べた。
ややあってから、食べ物もまた飲む物も、十分にたのしんだ時、私がまず話の口火を切って、おまえたちに従軍するようすすめたものだ。おまえたち二人はすっかり乗り気で、親御たちが何くれとなく指図を与えた。まずペレウス老人が、自分の息子のアキレウスに向かい、しじゅう勇ましく戦って抜群の手柄を立てろといいつければ、アクトルの息子メノイティオスも、こういいつけた。
『わが子よ、生れつきや氏素姓では、いかにもアキレウス殿がまさっていよう。だが年からいえば、おまえが上、また力ではあちらに遠くおよばぬけれど、理にかなったことを申し上げ、またやさしく諌め、手引きをしてさしあげろ、お聴きなされば、何よりだから』
こう老人はいいつけたのを、おまえは忘れているそうな。だがいまでもはげしい気象のアキレウスに、そういってはどうだ、聞くかも知れない。誰が知ろうか、あるいはおまえが神助によってうまく説きつけ彼の心を動かせまいか。朋輩の説得は、ありがたいものというから。だがもし、アキレウスが、神のお告げを心中にはばかってるとか、ゼウスの神命《みこと》を、(彼に)尊い母上が知らせた、とでもいうのなら、せめてはおまえに他のミュルミドン勢をつけ従わせて、出陣させるようにしてくれ、そうしたら、おまえが、ダナオイ勢の救いの光明となれもしようから。それからおまえに、あの立派な物の具を貸して、戦場へ着て出させるよう。そうしたらトロイア人《びと》も、アキレウスかと思いちがえて、戦場から退却しよう。そうなればいままでいたぶられていたアカイア軍の、アレスの子らも一息つけよう。短くても、戦さの休みは休みだ。それで疲れを抜けば、疲れた敵を今度は容易に、船手から、また陣屋の列から、城内へと押し返せよう」
こういって、パトロクロスの胸中に元気を湧き立たせたので、彼はかけって、アイアコスの裔《すえ》であるアキレウスの船陣へと向かっていった。しかし、ちょうど、神々しいオデュッセウスの船陣のところまでパトロクロスが駆けて来たとき――この場所でいつも会議や裁判が、おこなわれる習慣なので、神々への祭壇もここに設けてあったが――ここで彼は、手傷を負ったエウリュピュロスにゆきあった。ゼウスの裔であるエウアイモンの子エウリュピュロスは、腿のあたりを矢に射られて、戦場からびっこをひきひき抜けて来たが、その両肩や頭からは汗がいっぱい流れ、そのうえにむごたらしい傷口からは黒い血潮が、どくどく湧き出ていた。だが気象はまだしっかりしていた。それを見るなり、メノイティオスの勇ましい息子は哀れに思って、心痛に耐《こら》え切れず、翼をもった言葉をかけていうようには、
「ああ気の毒に、ダナオイ勢の指揮をとり采配をふる方々は。こんな風に親しい身内や祖国の土地から遠く離れて、トロイアの里で(あなたたちの)白い脂身で、速い犬を喰い飽かさせようとは。だが、さあ、これだけ教えてください、ゼウスがお護りのエウリュピュロスよ、いったいまだアカイア勢は、巨人のようなヘクトルをささえきれるでしょうか、それともあの男の槍にかかって、あえなく潰滅しそうですか」
それに向かって、こちらのエウリュピュロスは怪我しながらもいい返すよう、
「ゼウスの裔であるパトロクロスよ、てんでもうアカイア軍には、何の護りもありますまい。ただ黒塗りの船のところで殪れるだけです。というのも、以前に抜群の勇士といわれたかたがたが、みな残らず、矢に射られたり、傷ついたりして、船の中で枕を並べて臥《ね》ている始末で、それもトロイア軍の手にかかってのことですから、彼らの気勢は上がるばかりです。それはともかく、あなたは私を助けて、黒い船まで連れていって、腿からこの矢をえぐり出し、そこからまた黒い血潮をぬるま湯で洗ったうえ、よく効く痛みどめを塗りつけてください。それはあなたがアキレウスから教わったもので、そのかたは、馬人《ケンタウロイ》のうちでもいちばんに正義を守るケイロンに、習ったという噂ですから。というのも医者は、ポダレイリオスとマカオンの二人きりなのに、一人は陣屋の中に手傷を負って、自分がかえって立派な医者を必要とするありさまで臥ている始末。もう一人は、平原で、トロイア軍のはげしい戦意《アレス》をささえているので、だめなのです」
それに向かって、今度はメノイティオスの勇ましい息子、パトロクロスがいうようには、
「どうしてそんな仕事がやれましょう、どうしましょうか、ユウリュピュロスさま。いま私は、はげしい気象のアキレウスへ、アカイア軍の目付役の、ゲレンの騎士ネストルがいい渡したことを、伝えにいくところですから。とはいうものの、困っておいでのあなたを、見棄ててもおけません」
こういうと、みぞおちの下を抱えて、兵士たちの統率者を、陣屋へと連れてゆけば、介添え役が迎えとって、牛の皮を地面に敷いた、その上へ長く臥かせて剣を取り、腿から鋭く尖った矢をえぐり出し、そこから流れ出る黒血を、ぬるま湯で洗いきよめ、その上へ痛みをとり去る苦い草の根を、両手でよくもみつぶして擦りつけると、その草の根が痛みをすっかり鎮めてくれた、そして傷口は乾き、血も止まった。
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船を囲む囲壁で戦いの段
【トロイア方はヘクトルを先に勢いに乗じて、ギリシア勢の船陣まで押し寄せてくる。リュキアの王サルペドンは囲壁についた物見の塔を打ち毀し、ヘクトルはとうとう壁の一部を突き破って、陣地の内へ軍を率いてどっと繰りこむ】
このように陣屋の中で、メノイティオスの強い息子は、矢傷を受けたエウリュピュロスの治療にかかっていたが、その間もアルゴス勢とトロイア勢とは、入り乱れて戦いつづけていた。それにしても、もうダナオイ側の塹壕も、その上の幅広い囲壁《かこい》も、このうえ敵をささえるはずにはなっていなかった。この囲壁はアカイア勢のために、速い船々やおびただしい分捕り品を内に囲み入れて護ってくれるように、周囲に壕《ほり》を引きめぐらしていたが、神々への立派な大贄祭《おおにえまつり》も執りおこなってはいなかった。つまり、不死である神々の意《こころ》にそむいて造築されたものだったから、けしてそう長いことしっかり立ってはいなかった。
これはずっとあとの話だが、ヘクトルがまだ死なず、アキレウスが依然として怒りを収めず、プリアモス王の城市《まち》が攻めおとされないでいたあいだは、アカイア軍のこの大囲壁も、しっかりしていた。だがトロイア方の中でも、勇士といわれた人々がみな死んでしまい、アルゴス方でも大勢が死んで、プリアモスの城市も十年目にとうとう攻めおとされ、アルゴス勢は船に乗って、なつかしい故郷へ向かったとき、まさにそのおり、ポセイダオンとアポロンとは、川々の力を導き入れて、この囲壁を破壊しようという謀略《たくらみ》をめぐらした。つまり、イデの山々から出て、海へと流れてゆく川々、レソスにヘプタポロスに、カレソスにロディオスに、あるいはグレニコスやアイセポスや、聖《とうと》いスカマンドロスやシモエイス――そこはたくさんな牛皮の楯や兜が、さらには神にもたぐえられる武士《さむらい》たちが、塵泥の中に倒れ伏した場所だが――これらの川々の水の流れ口をみな一つところに寄せ集めて、ポイボス・アポロンは、九日の間、囲壁に向け河流を放つと、ゼウス神も、絶え間なしに雨を降りつづかせた。すこしでも早くこの囲壁を、海中へ流しこもうという考えだったのだ。
また大地を揺する御神(ポセイドン)も、三叉《みつまた》の矛をみずから両手にたずさえて先導に立ち、アカイア勢が苦労してこしらえあげた、材木や石でつくった土台を、残らず波に渡してやって、流れのはげしいヘレスポントス沿い一帯を、平らにならしてしまった。こうしてふたたび、広々とした浜辺に、囲壁を取りこわしてから砂土を覆いかけ、一方、川々は、以前に清らかな水をはしらせていた、そのむかしの河床へと流れを向け返してやった。
こんな工合に、あとあとでは、ポセイダオンとアポロンとが処置するはずにはなっていたが、この当時は、しっかり築き上げられた囲壁の両側に、戦さのはげしい物音や叫び声が立ち盛《さか》って、櫓《やぐら》の丸太は投げつける(石の)ため鳴り立つなかに、アルゴス勢はゼウスの鞭に打ちひしがれ、ただヘクトルを、この豪勇の、潰走をもたらす者をこわがって、うつろに刳《く》った船々のわきに、押しこめられて逼塞《ひっそく》していた。
その反対に、彼のほうでは、以前と同様に、つむじ風のように荒れ狂っていた。さながら多くの犬だの狩人の男たちにとり囲まれた荒れ猪か、あるいは勢子たちに囲まれた獅子のように。勢子たちは塁《とりで》の櫓みたいにたがいに体を張って対峙《たいじ》して立ち、ひっきりなしに槍を手に手に投げつけるのに、獣の、誇らかにも剛《きつ》い心は、ひるむどころか、恐れずに向かってゆき、ついには剛毅さのために、身を亡ぼすかのように。だが(そのおりは)、あちこちとたびたび体をねじって、勢子たちの列に襲いかかり、その向かっていくところみな、どの方角でも、勢子の列がうしろへすさった。
こうして、ヘクトルは人混みの中を歩きまわって、味方の者どもに、壕を押し渡って進むように励まし頼んだが、自分の馬どもさえ――駿足の名馬だったが――渡ってゆく勇気はなく、壕のとっ先まで出かかると、立ち止まって、しきりにいなないた。幅の広い壕がすっかり馬をおびえさせたものと見えた。まったく、その濠は、跳び越すのも、渡っていくのも容易でなかった。というのも、壕全体をめぐって、両側ともが切り立った崖をなして蔽いかぶさり、その上には鋭い棒杭が、いっぱい取りつけてあったから。それはアカイア人《びと》の息子たちが、敵兵からの護りに備えて隙間もないほどに立てたもので、そこへはおそらく馬とても、立派な戦車をひきながらでは、容易にははいっていけなかったろう。それを徒歩《かち》のつわものどもは、なんとか突破しようとはやり立っていた。ちょうどそのとき、プリュダマス〔トロイアの長老パントオスの子で、ヘクトルと同夜に生まれ、知将として知られた。ポリュダマスに同じ〕が、大胆なヘクトルのそばへ来ていうようには、
「ヘクトルも、他のトロイア勢の、また救援軍の大将たちも、聞いてくれ、無謀というものだぞ、壕を横切って、速い戦車を駆っていこうとするのは。この壕を渡っていくのは、ずいぶん厄介なことだ。というのも中には鋭い杭が突き立っている。そのすぐ向いにはアカイア軍の囲壁があるので、そこではとうてい車から降りるのも、戦うのも、戦車に乗っている者には、できないことだ。狭いところで、やられるおそれが多分にあろう。つまりだ、もしも高空にいかずちをとどろかすゼウス神が彼らにたいして害意を抱いて、まったく滅ぼしてやろうとなさり、トロイア方に加勢しようとおはかりなら別だが――まったく私とて、すぐにもアカイア勢が、名も残さずアルゴスから遠く離れたこの土地で滅びるようにと望んでいるが――だが万一にも、敵が巻き返して反撃が成功したならば、船から追われて、われわれはこの塹壕に落ちこむことになろう。そうなったらもう一人も、立ち直ったアカイア勢に(妨げられて)城中へと戻ってこられる者はないだろう。それゆえ、さあ皆さんがたも、私のいうとおりにしたらどうか。馬車は介添え役に渡して、壕のわきに引きとめておかせ、私ら自身は徒歩《かち》立ちとなり、物の具に身を固めて、みないっしょに固まって、ヘクトルについていったら。そうすれば、アカイア勢とて、踏みとどまりはできますまい、もし本当に破滅の首吊り縄が、結わえつけられているなら」
こうプリュダマスがいうと、そのおだやかな話しぶりに、ヘクトルはわが意を得たりと、すぐ車から、物の具ぐるみ、地上へとんでおりれば、ほかのトロイア方の大将たちも、車の上にとどまってはいず、勇ましいヘクトルを見ならって、みな戦車から飛びおりた。それからめいめい、自分の手綱とりにいいつけて、戦車をそのまま塹壕のわきに、よろしくととのえて引きとめて置かせ、それから一同、離れ難れに別れてから、それぞれ十分に身ごしらえして、五つの部隊に整然とわかれ、指揮者をえらび、その下に進んでいった。
まずヘクトルと、人品すぐれたプリュダマスに従う一隊は、いちばん人数も多く、手だれの者がそろっていたので、囲壁《かこい》を打ち破り、うつろな船々のかたわらで戦おうと、とりわけきおいこんでいた。この隊には、また三番|頭《がしら》としてケブリオネス〔ヘクトルの兄弟で、時に馭者もつとめた〕がついていったので、ヘクトルは、戦車のほうには、他の、ケブリオネスに劣った者をつき添わせておいた。
もう一つの部隊は、パリスとアルカトオスとアゲノルが指揮を取り、三番目の部隊には、ヘレノスと、神とも見まごうデイポボスの、プリアモスの二人の息子が大将となり、第三将にはアシオスの殿が加わった。ヒュルタコスの子アシオスといって、アリスベから、戦車につけた赤茶毛の大きな馬が、二頭してセルレイスの河畔から、載せて来た者である。四番目の隊を率いていくのは、アンキセスの立派な息子アイネイアスで、彼といっしょにアンテノルの二人の息子、アルケロコスとアカマスと、戦さのわざの全般をよく心得た者どもが付き従った。
またサルペドンは、音に間こえた加勢の部隊の指揮を取って、その補佐にグラウコスと、軍神アレスの伴侶《とも》なるアステロパイオスとを選んだのは、この二人が、とび抜けて皆の中では自分につづく武勇の者と見えたからだが、もとより彼は全軍に卓越する抜群の勇士だった。さて一同は、相たがいに、たくみにはいだ皮楯をぴったりと並べあわせ、まっしぐらに、ダナオイ勢を目がけて押し寄せたので、敵勢もはや支えきれず、黒く塗った船のところで潰滅しようとしていた。
このとき、他のトロイア方の人々や、遠くまで音に聞こえた加勢の軍の人々は、申し分のないプリュダマスの意見を聞いて従ったが、武士たちの頭領《かしら》であるアシオスは、そのままそこに、馬車だの、介添え役の手綱取りだのを置いていくのはいやだといって、そういうものをみな引き連れて、速い船のところまで追っていったとは、愚かな者だ。無残な死の運命をうまく逃れおおせて、馬や車を引き具し、得意になって船陣からまた、風のよく吹くイリオスへ還って来られるはずではなかったのだから。
それというのも、その前に、いまわしい名の死の運命が、彼を、デウカリオンの誇りも高い息子イドメネウスの槍先にかけ、蔽いかくしてしまったから。すなわち船が置いてある左翼のほうへ赴いたところ、その方面はいつもアカイア勢が、馬や戦車をひきつれて帰ってくる場所だったが、そこへいま、彼が馬と戦車とを馳せていくと、まだその大門は、大扉が閉まっていず、長い閂《かんぬき》もかけてなくて、番人たちは扉を開け放したままで、もし誰なりと仲間の者が戦さから逃げて来たら、船のあるほうへ助け入れてやろうと、待ち構えていた。そこへ真一文字にかかろうときおいこんで馬を向ければ、人々もはげしくわめきながら、突き進んだ。もはやアカイア勢もささえ切れずに、黒塗りの船のあたりで潰滅すると踏んだわけだった。
愚かな者どもだ。門のところで出会ったのは二人の勇士で、槍をとっては誉れの高いラピタイ族の、意気もさかんな息子たちの、一人はペイリトオスの子で、剛勇のポリュポイテス、もう一人は、人間の禍いであるアレス神にもたぐえられるレオンテウス。この二人がいまいうように、そびえ立つ門の前のまっ正面に突っ立っていた。さながら山あいで梢を高くかかげる槲《かしわ》の木立が、大きな根をずっと一面張りひろげ、吹く風にも雨降りにも、年がら年じゅう、びくともせずに立っている、そのようにこの二人は、自分の腕と力とをたのみにして、向かって来る大男のアシオスを待ちもうけ、びくともせず逃げないでいた。
さて(トロイア方の)兵士たちは、まっしぐらに、よく築かれた囲壁《かこい》に向かって、乾した牛の皮楯を高くかかげながら、大きな鬨《とき》の声をあげて、アシオスの殿やイアメノスやオレステスや、あるいはアシオスの子のアダマスやトオン、またオイノマオスを中にして、押し寄せていった。こちらのほうでは、ラピタイ族が、脛当てをよろしく着けたアカイア勢を、囲壁の中で船を護って防戦するよう、しばらくは励ましていたが、いよいよトロイア勢が、囲壁をめがけて押し寄せるのを見かけると、ダナオイ勢はわめき叫んで逃げ出した。そのありさまに、二人はたまらず外へ飛び出していって、門の前に立ち、戦いつづけた。その様子はさながら、野生の猪が、山々の間にいて、狩人たちや犬どもが、かまびすしく群がって来るのを待ち受けるようだった。誰かが槍で仕止めてしまうまでは、はすかいに飛び交いながら、まわりにある木々をへし折り、根っこの株を砕いて、低間《ひくま》のあたりに、牙鳴りの音がとどろかす。
そのように、まっ正面から打ちつけられる両人の胸のあたりで、輝く青銅(の鎧)は鳴りひびいた。(囲壁の上)にいる兵士たちや、自分の膂力をたのみとして、いかにもはげしく二人は戦いつづけた。囲壁の上の兵士らは、石塊をとって、よく築かれた囲壁の上から投げ下ろした。それはさながら吹雪《ふぶき》のように、地上へと落ちていった。くろずんだ雲の群れを渦巻かせては吹きつのる風にあおられ、生き物をゆたかに養う大地の上へ隙間もなく降りしきる雪の片《ひら》――そのように兵士たちの手から、凶器《えもの》が投げつけられた、アカイア方からも、またトロイア方からも。大きな丸石に打たれ、兜だの臍金《ほぞがね》をつけた大楯は、一面に乾いたひびきを立てて鳴った。
ちょうどこのとき、ヒュルタコスの子のアシオスは、ふかい嘆声を放つと、両腿をはたとたたいて、憤慨のあまりいい放つよう、
「ゼウス父神《おやがみ》様、まったくあなたは嘘がお好きでおいでなさる。実のところ私は、アカイア方の武士たちが、われわれの武勇や、天下無敵の腕前を、ささえられようなどとは、思ってもいませんでした。それなのに、あいつらは現在、まるで胴《ほこら》中にちらちら動く土蜂か蜜蜂のよう。けわしい道のわきにすみかを作り、巣を取ろうという男たちが来ても、いっこううつろになっている家を立ち退こうとせず、子供たちのため踏みとどまって防ぎつづける。それと同様、この二人は塁《とりで》の門から、いっこう退《ひ》こうと思わないのです、相手を殺すか、殺されるか、しないうちは」
こういったが、彼の主張も、ゼウスの心を動かさなかった、というのも、ゼウスはヘクトルのほうに誉れを授けるつもりだったから。≪他の人々も、てんでに、自分の受け持った門のところで戦っていたが、いちいちそれを神さまみたいに話していくのは厄介なこと、というのも、石造りのこの囲壁をめぐって、どこもかしこも恐《おろ》ろしい火の勢いが熾《さか》っていたからで、アルゴス勢は、胸を痛めながらも、さし迫った必要から、船陣の防禦にあたると、神々のあいだでも、ダナオイ方に、戦さの加勢をしていたかたがたは、みな心痛の極みにあった≫一方ではラピタイ族の人々が、敵を相手に、戦さをつづけ奮闘していた。
このおりにまた、ペイリトオスの子で、剛勇のポリュポイテスが槍をもって、ダマソスの青銅の頬当てのついた兜を撃てば、その青銅の兜とてもささえきれずに、ずっぷりと青銅の槍の穂先が、骨を突き破ったもので、中にある脳味噌はみなすっかりかきまわされて、きおいこんだまま、(ダマソスは)そのところに討ち死した。
それから今度はピュロンとオルメノスとを討ち取った。一方、アレスの伴侶《とも》なるレオンテウスは、アンティマコスの息子のヒッポマコスの、腹帯のあたりを狙って槍で突き刺し、さらに鞘からの鋭い剣を抜き放って、まず手始めにアンティパテスを目がけ、群集のあいだを突進して、身近に寄ってたたき切れば、相手はあおむけざまに地面へとぶっ倒れた。そのつぎにはメノンとイアメノスという工合に、つぎからつぎへ、みな同様に、生き物をゆたかに養う大地へと倒していった。
さて人々が、この者どもから、きらきら輝く物の具をはぎ取っているうちにトロイア方でも、プリュダマスとヘクトルに従っていた若者たち、いちばん人数も多く、腕利きもそろった連中は、とりわけて囲壁を打ち破り、船々に火を放とうときおいこんでいたのではあるが、それがまた塹壕のそばに突っ立ったままで、どうしたものかと思い惑っていた。
というのは、(囲壁を)突き破って通ろうときおいこむ彼らに向かって、鳥が一羽とんで来たからである。高空《たかぞら》を翔《かけ》る鷲《わし》で、兵士たちの行く手を左のほうにさえぎって、爪にはまっ赤な色をした、まだ生きていて、もがきあえいでいる巨大な蛇をつかまえていた。その蛇がなおもけして闘いを忘れないで、つかまえている鷲の、頸の脇胸のところを、体をうしろに反り返らせて咬んだもので、鷲はその痛さに苦しみもだえ、群集のまっただなかへと、蛇を放して落としてよこした。それで自分のほうは、一声啼きたて、吹く風につれ飛び去ってしまった。
トロイア方の兵士たちは、山羊皮楯《アイギス》をお持ちのゼウス神(がお遣わし)の異兆と知られる、色もあやしい蛇が、皆の中へ落ちたのを見ると、身ぶるいしてこわがった。ちょうどそのとき、プリュダマスは、大胆なヘクトルのそばへいっていうようには、
「ヘクトルよ、しょっちゅうきみは、どういうわけか、会議の席で、私がためになる意見を述べても、小言をいうのがきまりだが。それはもちろん、一般のつまらぬ者が変わった主張をとなえるのは、けして当を得ていない、会議においても、戦さの際にも、きみの威権を増すように(するのが当然のことだから)。いままた、私が最上の方策だと信ずるところを述べようというのだが、ダナオイ勢と船々を的にして戦いに出かけるのは、やめにしたらどうか。
それというも、きっとこんなふうな結末になろうかと気づかうからなのだ、もしこの兆《きざし》が本当ならばだ。つまりいましがた、トロイア勢が突進しようときおいこんだおりもおり、鳥が飛んで来た、あの高空を飛ぶ鷲だが、兵士たちの行く手を左のほうにさえぎりながら。それは蹴爪《けづめ》にまっ赤な色の巨大な蛇をつかまえていた、まだ生きているのを。だが、馴れたすみかに行き着く前に、放してしまい、持っていって、自分の子たちにやることはできなかった。それと同様、私らも、たとえこの門やアカイア勢の囲壁だのを、大変な力を出して打ち破ったにしろ、それでアカイア勢が引き退ったにしろ、やがてはこの同じ道を、私らが、算を乱して、船のわきから退いていくことだろうな――大勢のトロイア人《びと》をうっちゃって――その者たちは、アカイア勢が船々を防ぎ譲って、青銅の刃で切り倒すだろうから。たぶん、このように陰陽師《おんみょうじ》は占《うら》解きをしよう、もしも心にはっきりと予兆の知識を心得ている者ならば。そして諸人もこれに従うことであろうよ」
すると、これを上目づかいににらまえて、きらめく兜のヘクトルがいうようには、
「プリュダマスよ、きみがいまいった話ときたら、とうていどうしても私の気に入りようのないものだ。これよりもう少しましな、違った意見をきみは考えつけるはずなのに。だがほんとうに、正気でもってそんな話をすすめるのなら、それはまったく、神さまがたが、わざわざきみの頭を狂わしておしまいなさったにちがいない、雷鳴をいたくとどろかすゼヴス神のおはかりごとを忘れてしまえとすすめるのだから。そのご神慮は以前にご自身から、約束も、ご承知もくださったものなのだ。ところがきみは、翼の長い鳥どもが示す兆《きざし》に頼れと命じるのだが、そんなものは少しも私は意に介しもしなければ、かまいもつけない。よしんば右手の、東のほうへ、太陽の昇るほうへと飛んでいこうが、または左の、おぼろに暮れる西へ往こうと。
われわれは、ゼウス大神の、おはかりごとに従おうではないか、彼こそあらゆる死ぬべき人間たち、また不死である神々をも統治されるかたなのだから。いちばんよい烏占《とりうら》は、ただ一つきり、祖国を防ぎ護ることだ。どうしてきみは戦さだの、斬り合いだのを恐れるのか。なぜといって、よしんばわれわれ他の者どもがアルゴス勢の船のところで、みな殺されていっても、きみが死ぬという心配はすこしもない。きみには斬り合いに耐える勇気がなく、戦さ好きでもないのだから。だが、もしきみがわざと斬り合いを逃避したり、また他の者までいろいろいって説きすかし、戦さから引き退かせでもするようなら、すぐさま私の槍に突き刺されて命をおとすことだろうよ」
こういって先頭に立てば、みなみな恐ろしい喚声をあげ、かれの後につづいた、いかずちを転ずるゼウスもこれに加えて、イデの山々から疾風《はやて》を吹き起こされた。その風がまっしぐらに船々をめがけ、砂塵を運んでいったのは、アカイア方の分別をあやかしつけ、トロイア勢とヘクトルに誉れを与えようというもの。こうしたゼウスの異象をたのみ、またおのれの膂力をたのんで、トロイア勢は、アカイア方の大囲壁を打ち破ろうとかかったのだった。
まず囲壁にある櫓《やぐら》から横木を抜き取り、狭間《はざま》壁を引きずり落とし、突き出た柱を挺子《てこ》を用いて持ち上げにかかったが、これらはアカイア軍が、いちばん先に、櫓の土台のささえとして、地面の中へ入れておいたものだ。それを彼らは引き抜いて、アカイア軍の囲壁を壊しにかかったものだが、ダナオイ勢も、いっこうに通り道から退却しようとはせずに、牛皮の楯で狭間壁の割れ目をふさいで、そのあいだから、囲壁の下へやってくる敵兵を撃ちつづけた。
さて二人のアイアスは、みなを激励しながら櫓の上を八方に往来していた、アカイア勢の勇気をあおり立てようとして、あるいは優しくなだめすかし、誰かが戦さをすっかりやめて怠けているのを見た場合には、厳しい言葉でとがめもした。
「おい、おまえたち、アルゴス勢の中で、誰がとりわけ働きがあり、誰が中ぐらい、誰が劣っているといっても、けして皆が、戦さのおりに、同じように手柄を立てるわけにはいかない、けれどもいまこそ、どんな者でも、それぞれにやる仕事があるのだ。それはもうおまえたちが自身で十分まず知っていよう。けして誰もうしろへ、船のほうなど向いていてはならん、こうして励まし手の言葉を聞いたうえは。それよりも前へ、たがいに激励しながら進んでいけ、オリュンポスにおいでのいなずまを擲《なげう》つゼウス神が、この攻撃をしりぞけて、敵軍を城のところまで追い返させてくださろうかも知れないから」
このように両アイアスは叫びかけて、アカイア勢を戦いへと励まし立てた。石つぶてはさながら吹雪の片がひっきりなしに舞い落ちるよう。冬の日に、全智の御神ゼウスが、人間どもに、御神のしるしの矢羽根を下されて、御意を告げ知らそうと、雪降りをもよおし立たれ、風をすっかり眠らせて、絶え間もなく降り注がれる。それでついには、そびえ立つ山々のいただきや、突き出た尾根のさきざき、または蓮華草のしげった野原や、人々の耕したゆたかな畑まで一面に蔽ってしまう、また灰色をした海の上にさえ入江や渚に降りつもる、ゼウスの時化《しけ》がはげしく来ると。そのように、両側から、兵士たちの投げる石つぶては、絶え間なしに、一方では(アカイア方から)トロイア勢へ、他方ではトロイア側からアカイア勢へと飛び交い、囲壁の上は、どこもかしこも、轟々たる物音に湧き立っていた。
だがこのおりとても、トロイア勢や誉れも高いヘクトルだって、囲壁の門や長い閂棒《かんぬきぼう》を押し破りはできなかったろう、もし全智の御神ゼウスが、ご自分の子のサルペドンを、角の曲った牛群を襲う獅子みたいに、アルゴス勢へと立ち上がらせなかったならば。
そこで彼(サルペドン)は、八方に釣合いのよく取れた立派な楯――青銅造りの、鍛冶が打って、すっかり打ち上げた楯を、手にとった。内側には、牛の皮を隙間なしに縫い合わせ、黄金の棹《さお》でぐるりをすっかり、輪に添って固定させてある、その楯をいまサルペドンは前にかざし、二本の槍を振りながら、山あいに育った獅子みたいに出かけていった。それはもう長いあいだ肉の味に飢えきっていて、いま昂然たる勇猛心に駆り立てられ、羊の群れに手出しをしようと、厳重な構えの家に押し入って来た獅子さながらであった。たとえその場所で、羊飼いの男どもが、犬を何匹も連れ、槍を構えて、羊をだいじに護っているのを見つけようと、手出しもしないで、羊小屋から追っ払われようなどとは思いもよらず、こちらから跳びかかって羊を奪《と》るか、さもなくば自分のほうが、いちばん先に、すばしこい手から投げられた槍にあたって討たれるか、そのどちらかだと気負いたつ。そのように、このとき神にもたぐえられるサルペドンを勇気がうながしたてて囲壁に迫らせ、狭間《はざま》壁を押し破ろうとさせた。そこで彼は、(従弟なる)ヒッポロコスの子グラウコスに向かっていうよう、
「グラウコスよ、いったいどういうわけで、われわれ二人が、リュキアの国で特別な名誉を与えられているのか、座席でも肉分けでも、またひとよりよけいな杯の数でも。どういうわけで誰もかもみなわれわれを神にひとしく仰ぐのか。それにクサントス河の堤のほとりに、広大な荘園さえも授かっているとは、果樹だとか麦をみのらす畑だとかのみごとな園を。そのためにも、いまこそわれわれは、リュキア勢の先陣に加わり、しっかと立って、身をこがす合戦にも飛びこんでいかなければならぬ、隙間もなく甲冑を身に着けたリュキア勢の、誰も彼もが、こういってくれるように、
『いかにも、リュキアの国を統治せられるわれわれの領主《とのさま》がたは、立派な名誉をおうけのかただ、肥えた羊の肉、またよりぬきの蜜の甘さの御酒を聞こし召されるのもいたずらではない、あのとおりに、力量《ちから》もすぐれ、リュキアの軍の先陣に立ちまじって戦っておいでだ』と。
なあ、優しい友よ、もし私らが、今度の戦さを逃げおおせたら、いつまでも、それこそ年も寄らず、死にもせずに、いられようというのならば、あるいは自分も先陣に加わって戦いなどせず、またきみをおくって、武士に誉れを与える合戦に、出しもしないだろう。ところが、事実は、いやおうなしに、数知れぬほどの死の運命がわれわれをおっ取り巻いて、人間の身の、とうていこれを逃げも防ぎもしようがないのだ。それゆえ、さあ出かけよう、誰か他人に自慢をさせるか、それともひとがわれわれに(誉れを与える)かだ」
こういうと、グラウコスとて、もとより何の異議もなく承知して、二人はそれからまっすぐに、リュキア勢の大軍を率いて進んでいった。その姿を見て、ペテオスの息子メネステウスが身ぶるいしたのは、いかにもそれが自分のいる櫓に向かって禍いを運んでくるようだったからである。そこで彼は、アカイア勢の櫓沿いに、目をくばって、大将たちのうち、誰か一人ぐらいは、味方の難儀を防いでくれる者はないか、とたずねるうちに、戦さにあきることのない両アイアスが、まだ踏んばっているのが見つかった。またその近くに、いましがた陣屋から来たテウクロス〔大アイアースの同父異母弟、弓の名手〕まで見えたものの、叫んでみてもとうてい声が届くどころではなかった。それほどはげしい物音に、雄叫びの声は天までもとどいたほど。打ちつけられる楯の響き、馬の尾飾りの兜の音や、門の扉の鳴る音――その扉はみなしっかり閉ざされているのへ、軍勢が押しかけて来ては、むりやりにも押し破ってはいりこもうとするのだった。そこですぐさま、アイアスのところへ伝令使のトオテスを遣《おく》り出そうというので、
「勇ましいトオテスよ、駆けていって、アイアスを呼んで来てくれ、なるべくなら二人ともな。それが何よりもいちばん結構なことなのだ、すぐにもここへ、けわしい破滅が持ちこまれようというところだから。リュキア勢の大将たちが、勢いはげしく攻めて来ている。以前からでも、はげしい合戦に、たいそうな働きぶりを見せていたやつらだ。もしまた、そちらのほうでも闘いや骨の折れる仕事が起こっているなら、ともかくも、テラモンの子の勇敢なアイアス一人でも来てもらいたい、それにテウクロスも、いっしょに来てくれろとな、弓の上手だから」
こういうと、それを聞く伝令使とて、もとより異議なく承知して、青銅の帷子《よろい》をつけたアカイア軍の囲壁に沿って馳《はせ》ってゆき、両アイアスのそばへいって立ちどまると、さっそくにも話しかけるよう、
「両アイアスさま、青銅の帷子を着たアルゴス勢の指揮者であるあなたがたに、ゼウスの擁護にあずかるペテオスの愛しい息子が、あちらへおいでを願われるのです。少しの間でも苦しい戦さの手助けをしていただきたいので、なるべくならお二人ともです。それが何よりいちばんに結構なことでございましょう、いますぐにもあちらへ、けわしい破滅が持ちこまれようというところですから。リュキア勢の大将たちが、勢いはげしく攻めて来たので。以前からでもはげしい合戦に、たいそうな働きぶりを見せていましたが。もしまたこちらでも、戦闘や厄介な仕事が起こっていましたら、ともかくも、テラモンの子の勇敢なアイアスさまお一人でもどうか。それにテウクロスさまも、いっしょに来てくださいますよう、弓の上手ですから」
こういうと、テラモンの子の大アイアスは何の異議もいわずに承知して、すぐとオイレウスの子(のアイアス)に向かって、翼をもった言葉をかけ、
「アイアスよ、あなたと、剛勇のリュコメデスとの二人が、そのままここに踏みとどまって、ダナオイ勢を奮戦するよう励ましてくれ。そのあいだに私はあちらへいって、向こうの戦さの加勢をして来ようから。それでじきまたこちらへ帰って来よう、向うを十分防いでやったら」
こう声をかけて、テラモンの子アイアスが出かけると、その兄弟で父も同じテウクロスもこれといっしょに行った。また二人について、パンディオンが、テウクロスの曲った弓を持っていった。それで一同は、器量の大いなメネステウスのいる櫓へ着くと、囲壁の内側を進んでいって、(敵軍に)圧迫されている人たちのところへついた。おりからに真っ黒な颶風《ぐふう》をみるように、敵の軍勢ともども、狭間壁へと押し寄せたのは、堂々としたリュキア勢の指揮を執る大将たちで、双方が、相対峙してぶつかりあい戦おうとすると、雄叫びの声が湧き起こった。
まず手始めに、テラモンの子のアイアスが打ち取った武者というのは、サルペドンの手下の武士、意気のさかんなエピクレスで、ごつごつとがった大理石の塊をぶつけて(倒した)、その石塊は、囲壁の内側の狭間壁のわきに転がっていたもので、近ごろの人間ならば、血気さかんな若者でも、両手だけでは容易には持ち上げられまい。それを(アイアスは)高々と差し上げてからぶっつけたので、四つ星のある兜を打ち砕いて、頭蓋の骨をみないっしょくたに、押しつぶしてしまった。それで男は、筋斗《とんぼ》を切る軽業師《かるわざし》みたいに、高い櫓の上から落ちて、生命は骨を離れ去った。
またテウクロスは、ヒッポロコスの子の剛勇のグラウコスが、高くそびえる囲壁をめがけて駆け寄るとき、上膊がむき出しになって見えたところを矢で射ちあて、戦さから引き退かせた。そこで(グラウコスが)人目につかずに、またうしろへと囲壁から跳び退ったのは、アカイア方の兵士がもしや自分の射たれたのを見て、いいはやして、自慢をしないようにと思ったからだ。
かようにグラウコスがいってしまったのを認めると、サルペドンは、この事態に胸をふさがれた。それでもまだいっこうに戦意はひるまず、テストルの子のアルクマオンを、槍で狙って仕止めてから、槍の穂先を引き抜いたので、敵は槍につき随って、うつ向けざまに落っこちると、体のあたりに、青銅で飾った甲冑がからから鳴った。そこでサルペドンは、頑丈な手で狭間壁をひっつかみ、力まかせにもぎ取れば、そっくりそのへん一帯がちぎれて落ち、囲壁の上のところが丸出しとなって、大勢の兵士の通れる道ができたのだった。
そこを目がけて、いちどきに、アイアスとテウクロスとが狙って射ち、一人は矢で胸のあたりを、人間の体をおおう大楯の、てらてら光る負い皮を射あてたが、ゼウスは自分の息子の死を防がれた。アイアスのほうは、とびかかってサルペドンの楯を突いたが、ずっぷりとは槍先がはいっていかずに、きおいこんだその気勢をくじいただけ。それでちょっと狭間壁から退りはしたものの、けしてすっかり断念するどころでないのは、ひたすら誉れをあげようと願っているからだった。それでうしろを振りむいて、神ともたぐえられるリュキア勢を激励するようには、
「おお、リュキア勢よ、なぜこのように勢いはげしい戦さへの熱意をゆるめるのか。たとえどれほどこの私が剛毅だろうと、ただ一人で囲壁を破って船陣への道を開くというのは、つらい骨の折れることだ。それゆえ、さあ、おまえたちも進撃してくれ、大勢でやるほど、仕事もはかがゆくものだから」
こういえば、兵士たちも君公《とのさま》の叱責を恥じおそれて、はかりごとを立てる主君をとり巻き、いっそうはげしい気勢をあげると、かなたのアルゴス勢のほうでも、囲壁の内側で隊伍をますます固めるほどに、いよいよ大競り合いが両軍の間におっ始まった。それというのも、勇猛なリュキア軍も、ダナオイ方の囲壁を破って、船陣のところまで行く道を開けられなかったのと同様、ダナオイ方の槍を取るつわものどもも、一度もう接近してしまってからは、リュキア勢を囲壁から撃退することはできなかった。
それはあたかも、土地境いのことで二人の男が争い合うおりのよう。手には測量の桿《さお》を持って、いっしょに共有してきた畑を、わずかな地面のことについて、等分にしろといってあらそう、それみたいに、両軍は狭間壁を境界として(戦いあい)、その上を越してたがいに、胸のまわりを覆う牛皮の、円形をした楯や、毛皮でつくった軽い楯を突き刺しあった。それで容赦もない青銅の刃で手傷を負ったものも大勢あり、あるいは合戦の間に、うしろを向いて、背中が裸に出たところを突かれたり、あるいは楯ぐるみに、そのままずっぷり刺しとおされた者も大勢あった。
いたるところ、城の櫓も狭間壁も、戦う人々の血潮でもって、トロイア側とアカイア側との両方から、血しぶきを浴びせられた。それでもまだ(トロイア側は)、アカイア勢を潰走におとしいれることはできず、(両方が)支えあっている様子は、ちょうどまじめな手間かせぎの女が、手に秤《はかり》をささえて、羊の毛を分けて(皿へ載せ)、分銅をかけるような工合だった。
そのように、戦い合う両軍の勝敗の見こみは等分だったが、それもまったく、ゼウスがひとに異なる立派な栄誉を、プリアモスの子ヘクトルに授けられたのより前まで、彼こそ、まっさきかけて、アカイア軍の囲壁を跳んで入った。それであたりにひびく大音声で、トロイア軍に呼びかけるよう、
「奮起しろ、馬を馴らすトロイアのつわものども、アルゴス勢の囲壁を破り、皆して船々に、はげしく燃える火をつけろ」
こうはげまし立てていえば、人々はみな聴き耳を立ててこれに従い、まっしぐらに一団となって囲壁にかかった。それからつぎには、みんなしててんでに、先の尖った棒杭を持ち、迫持《せりもち》の上へと登っていったが、ヘクトルは、大きな石を手あたりしだいにつかんで、引っ提げていく、それは城門の前に立っていたもので、尻は分厚く、頭のほうはとんがっていた。世のつねの人間ならば、特別に強い男が二人がかりでも容易なことでは、地面から、梃子《てこ》を使っても揚げられまい、いまの世の人間ならば。だが、それを一人でらくらくと、ひっさげていった。≪というのも、その石を彼のために、狡智にたけたクロノスの御子が軽くしてやられたからだった≫
さながら、羊飼いが、らくらくと、牡羊の毛の刈り取ったのを、片方の手につかんで持ってゆくように、そのように、ヘクトルは石を持ち上げて、門の扉板のまっ正面へと運んでいった。それは、しっかりとぴったりはまった二枚扉つきの、見上げるほどに高い門を閉ざしているもので、内側には、二本の閂が、たがいちがいになってこれを護り、それへ錠前が一つ取りつけられていた。その扉のすぐそばへいって立ち、十分に足を開いて、ぶつける石のききめがいっそう大きいようにと、よく踏ん張って、まんなかへとぶっつけた。それで両方の扉の枢《とぼそ》が壊れ、石が自分の重さで内へと落ちこめば、大門はあたりに高いうめきを挙げたが、閂とてももうささえきれずに、扉板もてんでんばらばら、投げつけた石の勢いで砕けて飛んだ。そのところを、誉れかがやくヘクトルが、速くすぎる夜にもたぐえられる面持ちをして、かけってはいれば、恐ろしい青銅の、肌につけた(帷子《よろい》は)輝き、手には二本の投げ槍をたずさえていた。とうてい神々以外には、このおりに大門へと躍りこむヘクトルに出くわして、引きとめられる者はなかったろう、その両眼は火と燃えていた。
さてヘクトルは群がる味方を振り返って、トロイア勢を激励し、囲壁を越えて進めと号令すれば、みなみなその督励に従って、たちまちあるいは壁を踏み越え、あるいは堅固な構えの門をくぐって、なだれこむのに、ダナオイ勢はうつろに刳《く》った船々へと潰走して、絶えようもない騒ぎの音が湧き上がった。